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フェルメールは、同じオランダのレンブラント、イタリアのカラヴァッジョ、フランドルのルーベンス、スペインのベラスケスなどとともに、バロック絵画を代表する画家の1人である。また、レンブラントやハルスと並ぶ17世紀オランダ黄金時代の代表画家である。
生涯のほとんどを故郷デルフトで過ごした。最も初期の作品の一つ『マリアとマルタの家のキリスト』(1654年-55年頃)に見られるように、彼は初め物語画家として出発したが、やがて1656年の年記のある『取り持ち女』の頃から風俗画家へと転向していく。現存する作品点数は、研究者によって異同はあるものの、32から37点と少ない。このほか記録にのみ残っている作品が少なくとも10点はある。
1632年にデルフトに生まれる。同年10月31日にデルフトで洗礼を受けた。本業の絹織物職人を勤める傍ら、パブと宿屋を営んでいた父レイニエル・ヤンスゾーン・フォスは(後に姓をフォスからファン・デル・メールに変えている)、ヨハネス誕生の前年に画家中心のギルドである聖ルカ組合に画商として登録されている。ヨハネスの本名のファン・デルフトは「デルフトの」という意味で、彼がアムステルダム在住の同姓同名の人物と間違えられないように付け加えたものである。父親の姓フォス (Vos) は英語のきつね (Fox) を意味するものだった。父がなぜファン・デル・メールに改姓したのか、またヨハネスがなぜそれを短縮して「フェルメール」としたのかは分かっていない。10年後の1641年には現在フェルメールの家として知られるメーヘレンを購入し、転居した。
フェルメールは、1653年4月5日、カタリーナ・ボルネスという女性と結婚したが、彼の父に借金があったことや、彼がカルヴァン派のプロテスタントであるのに対して、カタリーナはカトリックであったことなどから、当初カタリーナの母マーリア・ティンスにこの結婚を反対された。デルフトの画家レオナールト・ブラーメルが結婚立会人を務めている。
この8か月後に聖ルカ組合に親方画家として登録されているが、当時親方画家として活動するには6年の下積みが必要だったため、これ以前に誰かの弟子として修業を積んだはずだが、師事した人物については不明。カレル・ファブリティウスとの説もあるが、確証がない。なお修業地はデルフト以外の場所だった模様。新婚当初はメーヘレンにて生活していたが、しばらくしてカタリーナの実家で大変裕福な母親とともに暮らしを始めている。この理由はよく分からないが、カレル・ファブリティウスも命を落とし、作品の大半を焼失させた1654年の大規模な弾薬庫の爆発事故が原因とする説がある。彼らの間には15人の子供が生まれたが、4人は夭折(ようせつ)した。それでも13人の大家族であり、画業では養うことができなかったため、裕福な義母マーリアに頼らざるを得なかったと思われる。
父親の死後、1655年に実家の家業を継いで、パブ兼宿屋でもあったメーヘレンの経営に乗り出している。こういった収入やパトロン、先述の大変裕福だった義母などのおかげで、当時純金と同じほど高価だったラピスラズリを原料とするウルトラマリンを惜しげもなく絵に使用できた。また、この年の9月20日ピーテル・デ・ホーホが聖ルカ組合に加入したことで、彼との親密な付き合いが始まった。この2人はのちに「デルフト派」と呼ばれるようになる。他のオランダの都市に比べて、この時代のデルフトの美術品・工芸品は、よりエレガントな傾向があるが、それはデルフトの上品な顧客層やオランダ総督を務めたオラニエ=ナッサウ家の宮廷があるデン・ハーグに近く、宮廷関係の顧客の好みが作風に反映されていたからで、フェルメールやデ・ホーホも洗練された画風の静寂な作品を描いている。
1657年から彼は生涯最大のパトロンであり、デルフトの醸造業者で投資家でもあるピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンに恵まれた。このパトロンはフェルメールを支え続け、彼の作品を20点所持していた。彼の援助があったからこそ、仕事をじっくり丁寧にこなすことができ、年間2、3作という寡作でも問題なかったと考えられる。
1662年から2年間聖ルカ組合の理事を務め、また1669年からも2年間同じ役職に就いている。2度にわたって画家の組合である聖ルカ組合の理事に選出されるのは大変珍しいことであり、生前から画家として高い評価を受けていたことが窺われる。
レンブラントの時代は好景気に沸いていたが、1670年代になると、画家兼美術商である彼にとって冬の時代が始まった。第3次英蘭戦争が勃発したことでオランダの国土は荒れ、経済が低迷していったことや、彼とは違った画風をとる若手画家の台頭によって彼自身の人気が低迷していったことが原因である。追い打ちをかけるように、この頃にファン・ライフェンも亡くなった。さらに、戦争によって彼の義母はかつてほど裕福でなくなり、オランダの絵画市場も大打撃を受けた。戦争勃発以降、彼の作品は1点も売れなくなり、市民社会の流行の移り変わりの激しさにも見舞われることになった。この打撃によって、オランダの画家数は17世紀半頃と17世紀末を比べると4分の1にまで減少している。
フェルメールの11人の子供のうち、8人が未成年であったため(当時の未成年は25歳未満を指した)、大量に抱えた負債をなんとかしようと必死で駆け回ったが、とうとう首が回らなくなった。そして、1675年にデルフトで死去した(死因不明)。12月16日に埋葬されたとの記録があるが、正確な死亡日は分かっていない。42歳、または43歳没。
同郷同年生まれの織物商であり博物学者としても知られるアントニ・ファン・レーウェンフックが死後の遺産管財人となった。
フェルメールの死後、妻カタリーナには一家を背負う責任がのしかかったが、結局破産し、過酷な生活を送る羽目となった。しかし、カタリーナの母マーリアはフェルメールの莫大な負債から孫たちを守るためにその遺産を直接孫たちに手渡したため、カタリーナの生活を改善してやることはできなかった。1680年にはマーリアも死去し、フェルメールの死後12年経った1687年、56歳でカタリーナも死去した。
聖ルカ組合の理事に選出されていたことからも明らかなように、生前は画家として高い評価を得ていた。死後20年以上たった1696年の競売でも彼の作品は高値が付けられている。
しかしながら、18世紀に入った途端、フェルメールの名は急速に忘れられていった。この理由として、あまりに寡作だったこと、それらが個人コレクションだったため公開されていなかったこと、芸術アカデミーの影響でその画風や主だった主題が軽視されていたことが挙げられる。もっとも、18世紀においても、ジョシュア・レノルズは、オランダを旅した際の報告において、彼について言及している。
19世紀のフランスにおいて、ついに再び脚光を浴びることとなる。それまでのフランス画壇においては、絵画は理想的に描くもの、非日常的なものという考えが支配的であったが、それらの考えに反旗を翻し、民衆の日常生活を理想化せずに描くギュスターヴ・クールベやジャン=フランソワ・ミレーが現れたのである。この新しい絵画の潮流が後の印象派誕生へつながることとなった。このような時代背景の中で、写実主義を基本とした17世紀オランダ絵画が人気を獲得し、フェルメールが再び高い評価と人気を勝ち得ることとなった。
1866年にフランス人研究家トレ・ビュルガー(英語版)が美術雑誌「ガゼット・デ・ボザール」に著した論文が、フェルメールに関する初の本格的なモノグラフである。当時フェルメールに関する文献資料は少なく、トレ・ビュルガーは自らをフェルメールの「発見者」として位置付けた。しかし、実際にはフェルメールの評価は生前から高く、完全に「忘れられた画家」だったわけではない。トレは研究者であっただけでなくコレクターで画商であったため、フェルメール「再発見」のシナリオによって利益を得ようとしたのではないかと言う研究者もいる。
その後、マルセル・プルーストやポール・クローデルといった文学者などから高い評価を得た。
フェルメールのモチーフはこれまで検討されていないが、当時出島からオランダにもたらされ、評判を呼んだ日本の着物と見える衣裳の人物像が5点ほど見える。オランダ絵画の黄金時代を花開かせた商人の経済力には、当時、世界的に注目を受けていた石見銀山で産出した銀が、出島からオランダにもたらされ莫大な利益を生んでいたことも関係している。
トレ・ビュルガーがフェルメールの作品として認定した絵画は70点以上にのぼる。これらの作品の多くは、その後の研究によって別人の作であることが明らかになり、次々と作品リストから取り除かれていった。20世紀に入ると、このような動きと逆行するようにフェルメールの贋作が現れてくる。中でも最大のスキャンダルといわれるのがハン・ファン・メーヘレンによる一連の贋作事件である。
この事件は1945年ナチス・ドイツの国家元帥ヘルマン・ゲーリングの妻エミー・ゲーリングの居城からフェルメールの作品とされていた『キリストと悔恨の女』(実際には贋作)が押収されたことに端を発する。売却経路の追及によって、メーヘレンが逮捕された。オランダの至宝を敵国に売り渡した売国奴としてである。ところが、メーヘレンはこの作品は自らが描いた贋作であると告白したのである。さらに多数のフェルメールの贋作を世に送り出しており、その中には『エマオのキリスト』も含まれていると言うのである。『エマオのキリスト』は、1938年にロッテルダムのボイマンス美術館が購入したものであり、購入額の54万ギルダーはオランダ絵画としては過去最高額であった。当初メーヘレンの告白が受け入れられなかったため、彼は法廷で衆人環視の中、贋作を作ってみせたという。『エマオのキリスト』は、現在でもボイマンス美術館の一画に展示されている。
シュルレアリストとして有名な画家サルバドール・ダリは、フェルメールを絶賛しており、自ら『テーブルとして使われるフェルメールの亡霊』(1934年、ダリ美術館)、『フェルメールの「レースを編む女」に関する偏執狂的=批判的習作』(1955年、グッゲンハイム美術館)など、フェルメールをモチーフにした作品を描いている。
ダリは著書の中で、歴史的芸術家達を技術、構成など項目別に採点しており、レオナルド・ダ・ヴィンチやパブロ・ピカソなど名だたる天才の中でも、フェルメールに最高点をつけている。独創性において1点減点する以外はすべて満点をつけた。
1970年代以降、フェルメールの作品はたびたび盗難に遭った。
1971年、アムステルダム国立美術館所蔵の『恋文』が、ブリュッセルで行われた展覧会への貸し出し中に盗難に遭った。程なく犯人は逮捕されたが、盗難の際に木枠からカンバスをナイフで切り出し、丸めて持ち歩いたため、周辺部の絵具が剥離してしまい、作品は深刻なダメージを蒙った。
1974年2月23日、『ギターを弾く女』がロンドンの美術館であるケンウッド・ハウスから盗まれている。この作品と引き換えに、無期懲役刑に処せられているIRA暫定派のテロリスト、プライス姉妹をロンドンの刑務所から北アイルランドの刑務所に移送せよとの要求が犯人から突きつけられた。
さらに5週間後の4月26日には、ダブリン郊外の私邸ラスボロー・ハウスからフェルメールの『手紙を書く婦人と召使』を始めとした19点の絵画が盗まれた。こちらの犯人からは、同じくプライス姉妹の北アイルランド移送と、50万ポンドの身代金の要求があった。
イギリス政府はいずれの要求にも応じなかったものの、『手紙を書く婦人と召使』などケンウッド・ハウスから盗まれた絵画は、翌週5月4日に、別件で逮捕されたIRAメンバーの宿泊先から無事保護された。さらに『ギターを弾く女』も盗難から2か月半後の5月6日、スコットランドヤードに対しロンドン市内の墓地に置かれているという匿名の電話があり、無事保護された。
ラスボロー・ハウスの『手紙を書く婦人と召使』は1986年にも盗まれたが、7年後の1993年に、おとり捜査によって犯人グループが逮捕され、作品は取り戻されている。
1990年3月18日の深夜1時過ぎ、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館にボストン市警の警察官を名乗る2人組が現れて警備員を拘束、フェルメールの『合奏』を始め、レンブラントの『ガリラヤの海の嵐』、ドガ、マネの作品など計13点を強奪の上、逃走した。被害総額は当時の価値で2億ドルとも3億ドルともいわれ、史上最大の美術品盗難事件となってしまった。これらの絵画は依然として発見されていない。
人物など作品の中心をなす部分は精密に描き込まれた濃厚な描写になっているのに対し、周辺の事物はあっさりとした描写になっており、生々しい筆のタッチを見ることができる。この対比によって、見る者の視点を主題に集中させ、画面に緊張感を与えている。『レースを編む女』の糸くずの固まり、『ヴァージナルの前に立つ女』の床の模様などが典型的な例として挙げられる。また、その絵の意味を寓意する画中画が描かれた作品が多い。
フェルメールは、描画の参考とするためカメラ・オブスクラを用いていたという説がある。
彼の用いた遠近法については、NHK制作のドキュメンタリー(ハイビジョンスペシャル)「フェルメール盗難事件」にて別の研究成果が紹介された。まず、絵の一部に消失点となる点を決め、そこに小さな鋲(びょう)のようなものを打つ。次に、それにひもを結びつけてひっぱる。このとき、このひもにチョークを塗り、大工道具の墨壺(すみつぼ)のような原理で直線を引く。この線と実際の絵を比較すると、窓やテーブルの角のラインが一致している。フェルメールの17の作品において鋲を打っていたと思われる場所に小さな穴があいていることからもこの手法がとられていた可能性は高い。
少女の髪や耳飾りが窓から差し込む光を反射して輝くところを明るい絵具の点で表現しており、この技法はポワンティエ (pointillé) と呼ばれ、フェルメールの作品における特徴の1つとされる。
フェルメールの絵に使用される鮮やかな青は「フェルメール・ブルー」と呼ばれる(天然ではラピスラズリに含まれるウルトラマリンという顔料に由来)。
フェルメールからインスピレーションを受けたアーティストは多い。たとえば料理写真家のエイミー・ツイガーはフェルメールが描いた乳母の優雅さにインスピレーションを受けた。彼女の作風は、特に『窓辺の読書少女』の「絨毯とカーテン」を思わせる。 | [
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] | ヨハネス・フェルメールは、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の画家で、バロック期を代表する画家の1人である。映像のような写実的な手法と綿密な空間構成そして光による巧みな質感表現を特徴とする。フェルメール(Vermeer)の通称で広く知られる。本名ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト。 | {{redirect|フェルメール|小惑星|フェルメール (小惑星)|サッカー選手|ケネト・フェルメール}}{{Expand English|Johannes Vermeer|date=2022-01}}
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{{Infobox 芸術家
| name = ヨハネス・フェルメール<br/>{{Lang|nl|Johannes Vermeer}}
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| caption = 『[[取り持ち女 (フェルメールの絵画)|取り持ち女]]』(1656年)の左端の人物。この人物をフェルメールの自画像とする説がある。詳細は『[[取り持ち女 (フェルメールの絵画)|取り持ち女]]』を参照。
| birthname = {{Lang|nl|Jan van der Meer van Delft}}
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[[ファイル:Vermeer autograph.png|thumb|180px|フェルメールのサイン]]
[[ファイル:デルフトにある、フェルメールとその家族がかつて住んでいた住居の外壁に埋め込まれたプレート(現在はみやげ物屋) Pcs34560 IMG6711.jpg|thumb|180px|[[デルフト]]に現存する居住跡を示すプレート]]
'''ヨハネス・フェルメール'''({{Lang|nl|Johannes Vermeer}} {{IPA-nl|joːˈɦɑnəs vərˈmeːr|lang}}, [[1632年]][[10月31日]]? - [[1675年]][[12月15日]]?)は、[[ネーデルラント連邦共和国]]([[オランダ]])の[[画家]]で、[[バロック|バロック期]]を代表する画家の1人である。映像のような写実的な手法と綿密な空間構成そして光による巧みな質感表現を特徴とする。'''フェルメール'''(Vermeer)の通称で広く知られる。本名'''ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト''' ({{Lang|nl|Jan van der Meer van Delft}})。
== 概要 ==
フェルメールは、同じ[[オランダ]]の[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]、[[イタリア]]の[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジョ]]、[[フランドル]]の[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]、[[スペイン]]の[[ディエゴ・ベラスケス|ベラスケス]]などとともに、[[バロック絵画]]を代表する画家の1人である。また、レンブラントや[[フランス・ハルス|ハルス]]と並ぶ17世紀[[オランダ黄金時代の絵画|オランダ黄金時代]]の代表画家である{{R|Kotobank}}。
生涯のほとんどを故郷[[デルフト]]で過ごした。最も初期の作品の一つ『マリアとマルタの家のキリスト』(1654年-55年頃)に見られるように、彼は初め物語画家として出発したが、やがて[[1656年]]の年記のある『[[取り持ち女 (フェルメールの絵画)|取り持ち女]]』の頃から[[風俗画|風俗画家]]へと転向していく。現存する作品点数は、研究者によって異同はあるものの、32から37点と少ない。このほか記録にのみ残っている作品が少なくとも10点はある。
== 生涯 ==
=== 出生 ===
[[1632年]]にデルフトに生まれる。同年[[10月31日]]にデルフトで洗礼を受けた{{R|Kotobank}}。本業の絹織物職人を勤める傍ら、パブと宿屋を営んでいた父レイニエル・ヤンスゾーン・フォスは(後に姓をフォスからファン・デル・メールに変えている)、ヨハネス誕生の前年に画家中心の[[ギルド]]である聖ルカ組合に[[画商]]として登録されている。ヨハネスの本名のファン・デルフトは「[[デルフト]]の」という意味で、彼が[[アムステルダム]]在住の同姓同名の人物と間違えられないように付け加えたものである。父親の姓フォス (Vos) は英語の[[キツネ|きつね]] ({{lang|en|Fox}}) を意味するものだった。父がなぜファン・デル・メールに改姓したのか、またヨハネスがなぜそれを短縮して「フェルメール」としたのかは分かっていない。10年後の[[1641年]]には現在フェルメールの家として知られる[[メーヘレン]]を購入し、転居した。
=== 結婚と画家としての出発 ===
フェルメールは、[[1653年]][[4月5日]]、カタリーナ・ボルネスという女性と結婚したが{{R|Kotobank}}、彼の父に借金があったことや、彼が[[カルヴァン派]]の[[プロテスタント]]であるのに対して、カタリーナは[[カトリック教会|カトリック]]であったことなどから、当初カタリーナの母{{ill2|マーリア・ティンス|en|Maria Thins}}にこの結婚を反対された。デルフトの画家[[レオナールト・ブラーメル]]が結婚立会人を務めている。
この8か月後に聖ルカ組合に親方画家として登録されているが{{R|Kotobank}}、当時親方画家として活動するには6年の下積みが必要だったため、これ以前に誰かの弟子として修業を積んだはずだが、師事した人物については不明。[[カレル・ファブリティウス]]との説もあるが、確証がない{{R|Kotobank}}。なお修業地はデルフト以外の場所だった模様。新婚当初はメーヘレンにて生活していたが、しばらくしてカタリーナの実家で大変裕福な母親とともに暮らしを始めている。この理由はよく分からないが、カレル・ファブリティウスも命を落とし、作品の大半を焼失させた[[1654年]]の大規模な弾薬庫の爆発事故が原因とする説がある。彼らの間には15人の子供が生まれたが、4人は夭折(ようせつ)した。それでも13人の大家族であり、画業では養うことができなかったため、裕福な義母マーリアに頼らざるを得なかったと思われる。
=== 全盛期 ===
[[ファイル:Guild of Saint Luke.jpg|right|300px|thumb|[[聖ルカ組合]](1730年頃、銅版画)]]
父親の死後、[[1655年]]に実家の家業を継いで{{R|Kotobank}}、パブ兼宿屋でもあったメーヘレンの経営に乗り出している。こういった収入や[[パトロン]]、先述の大変裕福だった義母などのおかげで、当時純金と同じほど高価だった[[ラピスラズリ]]を原料とする[[ウルトラマリン]]を惜しげもなく絵に使用できた。また、この年の[[9月20日]][[ピーテル・デ・ホーホ]]が聖ルカ組合に加入したことで、彼との親密な付き合いが始まった。この2人はのちに「[[デルフト派]]」と呼ばれるようになる{{R|Kotobank}}。他のオランダの都市に比べて、この時代のデルフトの美術品・工芸品は、よりエレガントな傾向があるが、それはデルフトの上品な顧客層や[[オランダ総督]]を務めた[[オラニエ=ナッサウ家]]の宮廷がある[[デン・ハーグ]]に近く、宮廷関係の顧客の好みが作風に反映されていたからで、フェルメールやデ・ホーホも洗練された画風の静寂な作品を描いている。
[[1657年]]から彼は生涯最大のパトロンであり、デルフトの[[醸造業]]者で投資家でもあるピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンに恵まれた。このパトロンはフェルメールを支え続け、彼の作品を20点所持していた。彼の援助があったからこそ、仕事をじっくり丁寧にこなすことができ、年間2、3作という寡作でも問題なかったと考えられる。
[[1662年]]から2年間[[聖ルカ組合]]の理事を務め、また[[1669年]]からも2年間同じ役職に就いている{{R|Kotobank}}。2度にわたって画家の組合である聖ルカ組合の理事に選出されるのは大変珍しいことであり、生前から画家として高い評価を受けていたことが窺われる。
=== 不遇の時代 ===
レンブラントの時代は好景気に沸いていたが、1670年代になると、画家兼美術商である彼にとって冬の時代が始まった。[[第3次英蘭戦争]]が勃発したことでオランダの国土は荒れ、経済が低迷していったことや、彼とは違った画風をとる若手画家の台頭によって彼自身の人気が低迷していったことが原因である。追い打ちをかけるように、この頃にファン・ライフェンも亡くなった。さらに、戦争によって彼の義母はかつてほど裕福でなくなり、オランダの絵画市場も大打撃を受けた。戦争勃発以降、彼の作品は1点も売れなくなり、市民社会の流行の移り変わりの激しさにも見舞われることになった。この打撃によって、オランダの画家数は17世紀半頃と17世紀末を比べると4分の1にまで減少している。
=== 死去 ===
フェルメールの11人の子供のうち、8人が未成年であったため(当時の未成年は25歳未満を指した)、大量に抱えた負債をなんとかしようと必死で駆け回ったが、とうとう首が回らなくなった。そして、[[1675年]]にデルフトで死去した(死因不明)。[[12月16日]]に埋葬されたとの記録があるが{{R|Kotobank}}、正確な死亡日は分かっていない。42歳、または43歳没。
同郷同年生まれの織物商であり[[博物学者]]としても知られる[[アントニ・ファン・レーウェンフック]]が死後の遺産管財人となった。
フェルメールの死後、妻カタリーナには一家を背負う責任がのしかかったが、結局破産し、過酷な生活を送る羽目となった。しかし、カタリーナの母マーリアはフェルメールの莫大な負債から孫たちを守るためにその遺産を直接孫たちに手渡したため、カタリーナの生活を改善してやることはできなかった。[[1680年]]にはマーリアも死去し、フェルメールの死後12年経った[[1687年]]、56歳でカタリーナも死去した。
== 後世 ==
=== 「忘れられた画家」と「再発見」 ===
聖ルカ組合の理事に選出されていたことからも明らかなように、生前は画家として高い評価を得ていた。死後20年以上たった[[1696年]]の競売でも彼の作品は高値が付けられている。
しかしながら、18世紀に入った途端、フェルメールの名は急速に忘れられていった。この理由として、あまりに寡作だったこと、それらが個人コレクションだったため公開されていなかったこと、[[芸術アカデミー]]の影響でその画風や主だった主題が軽視されていたことが挙げられる。もっとも、18世紀においても、[[ジョシュア・レノルズ]]は、オランダを旅した際の報告において、彼について言及している。
19世紀のフランスにおいて、ついに再び脚光を浴びることとなる。それまでのフランス画壇においては、絵画は理想的に描くもの、非日常的なものという考えが支配的であったが、それらの考えに反旗を翻し、民衆の日常生活を理想化せずに描く[[ギュスターヴ・クールベ]]や[[ジャン=フランソワ・ミレー]]が現れたのである。この新しい絵画の潮流が後の[[印象派]]誕生へつながることとなった。このような時代背景の中で、[[写実主義]]を基本とした17世紀オランダ絵画が人気を獲得し、フェルメールが再び高い評価と人気を勝ち得ることとなった。
[[1866年]]にフランス人研究家{{仮リンク|トレ・ビュルガー|en|Théophile Thoré-Bürger}}が美術雑誌「ガゼット・デ・ボザール」に著した論文が、フェルメールに関する初の本格的な[[モノグラフ]]である。当時フェルメールに関する文献資料は少なく、トレ・ビュルガーは自らをフェルメールの「発見者」として位置付けた。しかし、実際にはフェルメールの評価は生前から高く、完全に「忘れられた画家」だったわけではない。トレは研究者であっただけでなくコレクターで[[画商]]であったため、フェルメール「再発見」のシナリオによって利益を得ようとしたのではないかと言う{{誰範囲|研究者もいる|date=2021年9月}}。
その後、[[マルセル・プルースト]]や[[ポール・クローデル]]といった文学者などから高い評価を得た。
フェルメールのモチーフはこれまで検討されていないが、当時[[出島]]からオランダにもたらされ、評判を呼んだ日本の[[着物]]と見える衣裳の人物像が5点ほど見える。[[オランダ黄金時代の絵画|オランダ絵画の黄金時代]]を花開かせた商人の経済力には、当時、世界的に注目を受けていた[[石見銀山]]で産出した[[銀]]が、出島からオランダにもたらされ莫大な利益を生んでいたことも関係している。
=== 贋作(がんさく)事件 ===
{{main|ハン・ファン・メーヘレン}}
トレ・ビュルガーがフェルメールの作品として認定した絵画は70点以上にのぼる。これらの作品の多くは、その後の研究によって別人の作であることが明らかになり、次々と作品リストから取り除かれていった。20世紀に入ると、このような動きと逆行するようにフェルメールの[[贋作]]が現れてくる。中でも最大のスキャンダルといわれるのが[[ハン・ファン・メーヘレン]]による一連の贋作事件である。
この事件は[[1945年]][[ナチス・ドイツ]]の[[国家元帥]][[ヘルマン・ゲーリング]]の妻[[エミー・ゲーリング]]の居城からフェルメールの作品とされていた『キリストと悔恨の女』(実際には贋作)が押収されたことに端を発する。売却経路の追及によって、メーヘレンが逮捕された。オランダの至宝を敵国に売り渡した[[売国奴]]としてである。ところが、メーヘレンはこの作品は自らが描いた贋作であると告白したのである。さらに多数のフェルメールの贋作を世に送り出しており、その中には『エマオのキリスト』も含まれていると言うのである。『エマオのキリスト』は、[[1938年]]に[[ロッテルダム]]の[[ボイマンス美術館]]が購入したものであり、購入額の54万[[ギルダー]]はオランダ絵画としては過去最高額であった。当初メーヘレンの告白が受け入れられなかったため、彼は法廷で衆人環視の中、贋作を作ってみせたという。『エマオのキリスト』は、現在でもボイマンス美術館の一画に展示されている。
=== フェルメールとダリ ===
[[シュルレアリスム|シュルレアリスト]]として有名な画家[[サルバドール・ダリ]]は、フェルメールを絶賛しており、自ら『テーブルとして使われるフェルメールの亡霊』([[1934年]]、ダリ美術館)、『フェルメールの「レースを編む女」に関する偏執狂的=批判的習作』([[1955年]]、[[グッゲンハイム美術館]])など、フェルメールをモチーフにした作品を描いている。
ダリは著書の中で、歴史的芸術家達を技術、構成など項目別に採点しており、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]や[[パブロ・ピカソ]]など名だたる天才の中でも、フェルメールに最高点をつけている。独創性において1点減点する以外はすべて満点をつけた。
=== 盗難事件 ===
[[ファイル:Vermeer,_Johannes_-_The_Loveletter.jpg|200px|thumb|right|『恋文』]]
[[1970年代]]以降、フェルメールの作品はたびたび盗難に遭った。
[[1971年]]、[[アムステルダム国立美術館]]所蔵の『[[恋文]]』が、[[ブリュッセル]]で行われた展覧会への貸し出し中に盗難に遭った。程なく犯人は逮捕されたが、盗難の際に木枠から[[カンバス]]を[[ナイフ]]で切り出し、丸めて持ち歩いたため、周辺部の絵具が剥離してしまい、作品は深刻なダメージを蒙った。
[[1974年]][[2月23日]]、『ギターを弾く女』が[[ロンドン]]の美術館である[[ケンウッド・ハウス]]から盗まれている。この作品と引き換えに、無期懲役刑に処せられている[[IRA暫定派]]の[[テロリスト]]、プライス姉妹をロンドンの[[刑務所]]から[[北アイルランド]]の刑務所に移送せよとの要求が犯人から突きつけられた。
さらに5週間後の[[4月26日]]には、[[ダブリン]]郊外の私邸ラスボロー・ハウスからフェルメールの『[[手紙を書く婦人と召使]]』を始めとした19点の絵画が盗まれた。こちらの犯人からは、同じくプライス姉妹の北アイルランド移送と、50万[[スターリング・ポンド|ポンド]]の身代金の要求があった。
イギリス政府はいずれの要求にも応じなかったものの、『手紙を書く婦人と召使』などケンウッド・ハウスから盗まれた絵画は、翌週5月4日に、別件で逮捕されたIRAメンバーの宿泊先から無事保護された。さらに『ギターを弾く女』も盗難から2か月半後の5月6日、[[スコットランドヤード]]に対しロンドン市内の墓地に置かれているという匿名の電話があり、無事保護された。
ラスボロー・ハウスの『手紙を書く婦人と召使』は[[1986年]]にも盗まれたが、7年後の[[1993年]]に、[[おとり捜査]]によって犯人グループが逮捕され、作品は取り戻されている。
[[1990年]][[3月18日]]の深夜1時過ぎ、[[ボストン]]の[[イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館]]にボストン市警の警察官を名乗る2人組が現れて警備員を拘束、フェルメールの『[[合奏 (フェルメールの絵画)|合奏]]』を始め、レンブラントの『[[ガリラヤの海の嵐]]』、[[エドガー・ドガ|ドガ]]、[[エドゥアール・マネ|マネ]]の作品など計13点を強奪の上、逃走した。被害総額は当時の価値で2億ドルとも3億ドルともいわれ、史上最大の美術品盗難事件となってしまった。これらの絵画は依然として発見されていない。
== 作品 ==
{{Main|フェルメールの作品}}
=== 技法 ===
人物など作品の中心をなす部分は精密に描き込まれた濃厚な描写になっているのに対し、周辺の事物はあっさりとした描写になっており、生々しい筆のタッチを見ることができる。この対比によって、見る者の視点を主題に集中させ、画面に緊張感を与えている。『[[レースを編む女]]』の糸くずの固まり、『[[ヴァージナルの前に立つ女]]』の床の模様などが典型的な例として挙げられる。また、その絵の意味を寓意する画中画が描かれた作品が多い。
フェルメールは、描画の参考とするため[[カメラ・オブスクラ]]を用いていたという説がある{{R|Kotobank}}{{Sfnp|フィリップ・ステッドマン|2010|p={{要ページ番号|date=2021年11月12日 (金) 18:59 (UTC)}}}}。
彼の用いた[[遠近法]]については、[[日本放送協会|NHK]]制作の[[ドキュメンタリー]]([[ハイビジョンスペシャル]])「フェルメール盗難事件」<ref>{{Cite episode|url=https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009010657_00000|series=ハイビジョンスペシャル|serieslink=ハイビジョン特集|title=フェルメール盗難事件 ~解き明かされた名画の謎~|network=[[日本放送協会|NHK]]|station=[[NHKデジタル衛星ハイビジョン]]|airdate=2001-06-03|accessdate=2021-11-13|df=ja}}</ref>にて別の研究成果が紹介された。まず、絵の一部に消失点となる点を決め、そこに小さな鋲(びょう)のようなものを打つ。次に、それにひもを結びつけてひっぱる。このとき、このひもにチョークを塗り、大工道具の[[墨壺]](すみつぼ)のような原理で直線を引く。この線と実際の絵を比較すると、窓やテーブルの角のラインが一致している。フェルメールの17の作品において鋲を打っていたと思われる場所に小さな穴があいていることからもこの手法がとられていた可能性は高い。
少女の髪や耳飾りが窓から差し込む光を反射して輝くところを明るい絵具の点で表現しており、この技法は[[ポワンティエ]] ({{lang|fr|pointillé}}) と呼ばれ、フェルメールの作品における特徴の1つとされる。
フェルメールの絵に使用される鮮やかな青は「'''[[群青色|フェルメール・ブルー]]'''」と呼ばれる(天然では[[ラピスラズリ]]に含まれる[[ウルトラマリン]]という顔料に由来)。
フェルメールからインスピレーションを受けたアーティストは多い。たとえば料理写真家のエイミー・ツイガーはフェルメールが描いた乳母の優雅さにインスピレーションを受けた。彼女の作風は、特に『窓辺の読書少女』の「絨毯とカーテン」を思わせる。
=== 初期の物語画 ===
<gallery>
Johannes (Jan) Vermeer - Christ in the House of Martha and Mary - Google Art Project.jpg|{{small|『マリアとマルタの家のキリスト』1654年 - 1655年頃。[[スコットランド国立美術館]]([[エディンバラ]])。}}
Jan Vermeer van Delft 002.jpg|{{small|『[[取り持ち女 (フェルメールの絵画)|取り持ち女]]』1656年。[[アルテ・マイスター絵画館]]([[ドレスデン]])。}}
Vermeer saint praxedis.jpg|{{small|『[[聖プラクセディス]]』}}
Vermeer - Diana en haar nimfen.jpg|{{small|『[[ディアナとニンフたち]]』}}
</gallery>
=== 風俗画 ===
<gallery>
Johannes Vermeer - De melkmeid.jpg|{{small|『[[牛乳を注ぐ女]]』1658年 - 1660年頃。 [[アムステルダム国立美術館]]。}}
Jan Vermeer van Delft 018.jpg|{{small|『[[紳士とワインを飲む女]]』1658年頃。[[絵画館 (ベルリン)|絵画館]]([[ベルリン]])。}}
Jan Vermeer van Delft 023.jpg|{{small|『[[兵士と笑う女]]』1658年頃。[[フリック・コレクション]]([[ニューヨーク]])。}}
Jan Vermeer van Delft - Brieflezend meisje bij het venster (ca. 1657-59).jpg|{{small|『[[窓辺で手紙を読む女]]』1659年頃。アルテ・マイスター絵画館(ドレスデン)。}}
Johannes Vermeer - Lady at the Virginal with a Gentleman, 'The Music Lesson' - Google Art Project.jpg|{{small|『[[音楽の稽古]]』1662年 - 1665年頃。[[ロイヤル・コレクション]]([[バッキンガム宮殿]])。}}
Jan Vermeer van Delft - Young Woman with a Pearl Necklace - Google Art Project.jpg|{{small|『[[真珠の首飾りの女]]』 1663年 - 1665年。絵画館(ベルリン)。}}
Vermeer A Lady Writing.jpg|{{small|『[[手紙を書く女]]』1665年 - 1666年頃。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])。}}
Johannes Vermeer (1632-1675) - The Girl With The Pearl Earring (1665).jpg|{{small|『[[真珠の耳飾りの少女]]』1665年頃。[[マウリッツハイス美術館]]([[ハーグ]])。}}
Johannes Vermeer - The Geographer - Google Art Project.jpg|{{small|『[[地理学者 (フェルメールの絵画)|地理学者]]』1669年頃。[[シュテーデル美術館]]([[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]])。}}
Jan Vermeer van Delft - Lady Standing at a Virginal - National Gallery, London.jpg|{{small|『[[ヴァージナルの前に立つ女]]』1673年 - 1675年頃。[[ナショナルギャラリー (ロンドン)|ナショナルギャラリー]]([[ロンドン]])。}}
</gallery>
=== 都市景観画 ===
<gallery>
Jan Vermeer van Delft 025.jpg|{{small|『小路』1658年頃。アムステルダム国立美術館。}}
Vermeer-view-of-delft.jpg|{{small|『[[デルフト眺望]]』1660年 - 1661年頃。マウリッツハイス美術館(ハーグ)。}}
</gallery>
== 出典 ==
{{Reflist|refs=
<ref name="Kotobank">{{Cite Kotobank|フェルメール|encyclopedia=[[日本大百科全書]](ニッポニカ), [[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典, 百科事典[[マイペディア]], 精選版 [[日本国語大辞典]], デジタル[[大辞泉]], [[世界大百科事典]] 第2版|accessdate=2021-11-27}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
{{ページ番号|section=1|date=2021年11月12日 (金) 18:59 (UTC)}}
=== 単行本 ===
* {{Cite book|和書 |author=赤瀬川原平 |authorlink=赤瀬川原平 |title=赤瀬川原平の名画探険 フェルメールの眼 |publisher=[[講談社]] |date=1998 |ISBN=978-4-06-209012-4}}
* {{Cite book|和書|author=尾崎彰宏|authorlink=尾崎彰宏|title=西洋絵画の巨匠5 フェルメール|publisher=[[小学館]]|date=2006|ISBN=978-4-09-675105-3}}
* {{Cite book|和書|author=木村泰司|title=名画の言い分 巨匠たちの迷宮|publisher=[[集英社]]|date=2009|ISBN=978-4-08-781421-7}}
* {{Cite book|和書|author=朽木ゆり子|authorlink=朽木ゆり子|title=フェルメール 全点踏破の旅|series=[[集英社新書]]|publisher=集英社|edition=ヴィジュアル版|date=2006|ISBN=978-4-08-720358-5}}
* {{Cite book|和書|author=小林頼子|authorlink=小林頼子|title=フェルメール論 -神話解体の試み-|publisher=[[八坂書房]]|edition=改訂版|date=2008-07|ISBN=978-4-89694-913-1}}
** 抜粋版『フェルメール -作品と生涯-』 [[角川ソフィア文庫]](改訂版)、2018年10月、ISBN 978-4-04-400442-2
** 解説『フェルメール作品集』 [[東京美術]]、2018年、ISBN 978-4-8087-1130-6
* {{Cite book|和書|author=星野知子|authorlink=星野知子|title=フェルメールとオランダの旅|publisher=[[小学館]]|date=2000|ISBN=4-09-606053-4}}
* {{Cite book|和書|author=林綾野|title=フェルメールの食卓|publisher=[[講談社]]|date=2011|ISBN=978-4-06-217046-8}}
* {{Cite book|和書|author=フィリップ・ステッドマン|title=フェルメールのカメラ|translator=鈴木 光太郎|publisher=[[新曜社]]|date=2010|origdate=2001|ISBN=9784788512078|ref=harv}}
=== その他 ===
* {{Cite journal|和書|journal=[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ 詩と批評]]|title=特集フェルメール|volume=2008年8月号|publisher=[[青土社]]|ISBN=978-4-7917-0181-0}}
== 関連項目 ==
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2,341 | 松井秀喜 | 松井 秀喜(まつい ひでき、1974年6月12日 - )は、石川県能美郡根上町(現:能美市)出身の元プロ野球選手(外野手、右投左打)。
現役引退後はMLBのニューヨーク・ヤンキースでGM特別アドバイザーを務める。愛称は「GODZILLA」または「ゴジラ松井」。
1990年代から2000年代の球界を代表する打者で、日本プロ野球(以下:NPB)では読売ジャイアンツ、メジャーリーグベースボール(以下:MLB)ではニューヨーク・ヤンキースなどで活躍した。2009年のニューヨーク・ヤンキース時代にワールドシリーズ優勝を経験している。同年、アジア人初のワールドシリーズMVPを受賞した。2013年には国民栄誉賞を受賞した。
1974年6月12日に、瑠璃教会二代目司教である父・昌雄と母・さえ子の二男として生まれる。生まれたときの体重は3,960グラムであった。
3歳で自宅近くの保育園に入園。「保育園史上最大の園児」と言われた。当時の保育園の先生は「8歳ぐらいに見えました」と語っている。
体格が一際大きかったため、根上町立浜小学校1年生の時に3年生以上で構成される軟式野球チーム「根上少年野球クラブ」に、当時5年生であった兄が所属していた縁で特別に入団させてもらったが、まだ幼すぎて監督の指示などが理解できず、入団1週間で指導者の方から、両親に「(チームに入るのは)もう少し待ってほしい」と言われたようで野球を辞めてしまった。4年生の時に父から再入団を勧められるが、幼少時のショックは大きく、拒否している。
しかし、野球に打ち込む3歳上の兄に触発され、小学5年生の夏休みに再び軟式野球チームに入り、本格的に野球を始めた。自分を辞めさせた指導者から代替わりしていたことから、その後任の指導者の勧誘に応じた。その頃から、既にプロ野球選手を夢見ていた。
元々は右打ちであったが、あまりにも打球を飛ばすために野球仲間であった兄とその友人が松井を打てなくする目的で「尊敬する掛布雅之選手(松井は当時は阪神ファンだった)と同じ左」で打つように強引に勧められ、左打ちに変更した。これが運命の左打ち転向であった。なお、松井が掛布を敬愛しているのは論を俟たないが、2021年時点では松井自身も掛布から認められる人間となり、大型新人を見た掛布に「清原和博や松井のようだ」と手本にされるほどとなった。
小学3年からは町の少年柔道教室にも通い始める。能美郡大会で優勝、石川県大会では3位に入り、国体強化選手にも選ばれていた。松井は「野球よりも注目されていたんです。立ってよし、寝てよし。石川県では結構、強かったんですよ」と自慢している。
柔道の他に、わんぱく相撲大会でも活躍していた。
これらスポーツでの活躍のほか、実家のピアノも演奏する。
中学校への進学にあたって、柔道を続けるか悩むこともあったが、能美市立根上中学校に進学して野球に専念するようになった。根上中学校には野球部があるものの、柔道部がなかった(当初は、野球での部活動の後に柔道場へ通う案も提示されたが、取り組む種目を一本にして集中したいという本人の希望もあったため)ということが野球への道を選択した大きな決め手となった。
中学入学時で身長は170cm、体重は95kgに達していた。中学時代は捕手をつとめ、2年夏から投手に転向した。
通算打率は6割を超え、3試合連続本塁打も放ったことがある。3年生になると飛距離は130mにも達し、軟球を割ることもしばしばあった。代わりのボール代だけでも半年間で10万円を超えることになったという。
その一方で、中学1年の時には能美郡相撲大会に出場し、個人戦で優勝。根上中野球部でも「関取」「相撲取り」などのあだ名で呼ばれていた。
当時の根上中学校教諭で野球部のコーチでもあった高桑充裕は多くの松井の野球の師の中でも特に厳しかったことで知られており、アッパースイングだった松井に王貞治を手本にしたダウンスイングを指導したり、試合で敬遠されたためにバットを投げて相手を睨みつけるなど怒りの感情を露わにした当時の松井を、試合中でも激しく殴打し諌めたというエピソードがある。松井は後に、高桑の体罰が無ければ今の自分はいなかったと回顧している。
その高桑は星稜高校野球部を卒業したことからのちの松井の先輩であり、同校の監督であった山下智茂の教え子の1人でもあった。箕島対星稜延長18回では高桑が1年生ながらもその試合で二塁手として途中出場を果たしている。
中学時代から衛星放送でMLBの試合を熱心に見るようになった。その当時に憧れていた球団は、当時ホセ・カンセコ、マーク・マグワイアらを擁して黄金期を迎え、後に松井自身が入団することになるオークランド・アスレチックスであったという。
高校は星稜高校に入学。既に松井の実力を高く評価していた星稜高校監督の山下からの熱烈な勧誘や、中学野球部監督やコーチの高桑らに薦められ、また、根上中学校から星稜に進学した先輩と相談した結果、星稜に進学することに決めた。
「野球は大学までやらせてもらえれば」という程度だったが、高校時代に打者として注目を浴びるにつれて、高校を卒業してプロ入りする思いが強まっていったという。
当初太り過ぎていたため入部は保留されていたが、地道なランニングによる減量で入部に漕ぎ付けて事無きを得た。
ちなみに星稜高校出身のプロ野球選手では2021年に島内宏明がプロ野球で打点王の打撃タイトルをとるまでは松井が最後の打撃タイトルの獲得者と言われており、引き合いに出されることもある。
投手として入部したが、練習初日のブルペンで投球練習ですぐに監督に「投手以外だったらどこを守りたい?」と尋ねられ実質投手失格を言い渡される。しかしその前に行った打撃練習では、3年生を含んだチームメンバーで自分だけフェンス越えの打球を放っており「先輩は真面目に飛ばそうとしてないのではないのか」「ひょっとしたら後で怒られるのではないか」と不安になったという。その後野手(一塁手)に転向。その後、三塁手に転向する。星稜高校の入学式前から野球部の練習に参加し、他校との練習試合では「4番・三塁手」で出場してヒットを放った。
1年生から4番打者を務め(5番は3年生の村松有人だった)「北陸の怪童」「星稜恐怖の1年生4番」として徐々に野球関係者の間に知られていき、高校球児たちを紹介する専門雑誌にも注目選手として高校1年生時点で当時高校3年生でドラフト指名候補と言われた内之倉隆志(鹿児島実業高)、鈴木尚典(横浜高)、山本保司(関東一高)等と並んで紹介されており、本塁打もこの頃から推定飛距離で140mを超すものもあった。
ただ、夏の選手権では初戦(2回戦)の対日大鶴ヶ丘高校戦で難波俊明投手に3打数0安打で押さえ込まれチームは初戦敗退し、「甲子園は怖いところです」というコメントを残している。しかしながら、対戦した難波投手は打ち取ったものの、第3打席の外野の最も深い場所へ大飛球を飛ばされ、「あの(難しい)球をあそこまで飛ばすのか」と、松井の怪物の片鱗を見たと後にコメントしている。
秋季では北信越大会準決勝で上田佳範を擁した松商学園高校に敗れ、選抜出場を逃す。
高校2年の夏の選手権の初戦(2回戦)の市立沼津高校戦では、松井の走塁で市沼津をかき回し接戦に勝利。3回戦の竜ヶ崎第一高校戦でライトスタンドに甲子園初本塁打を記録した。準々決勝では松商学園高校に勝利して北信越大会の借りを返す。準決勝では夏の選手権で優勝した大阪桐蔭高校に1‐7で敗退した。
夏休みに部内で体力測定を行った際、背筋力250kg、バーベル上げ150kgと、関係者曰く「清原和博以来の数値」を出した。
新チームでは監督の山下にキャプテンに指名される。星稜では毎年キャプテンは部員による投票によって選んでいたが、山下が松井の統率力や影響力を高く評価していたため、特例として任命したのだという。
秋の明治神宮大会では帝京相手に全6打席中4敬遠をされたが優勝している。
また、高校生選抜チームに2年生としては後に巨人で同僚になる三澤興一(帝京高)と共に選出され、1年先輩で後にプロ入りした髙木大成(桐蔭学園高)・大野倫(沖縄水産高)・萩原誠(大阪桐蔭高)等にその怪物ぶりを賞賛されている。大野は雑誌のインタビューで「星稜の松井は怪物」と答え、萩原はこの年の高校生打者のドラフトの目玉とされていたが、「自分のホームランなんて松井に比べたら大したものではない」とのコメントを残している。
高校3年の春の選抜では、阪神甲子園球場のラッキーゾーンが撤去されて大会本塁打数が激減したにもかかわらず、「僕には関係ありません」という言葉通りに、開幕試合である初戦の宮古高校戦で2打席連続本塁打、1試合7打点、2試合連続本塁打と、当時の大会記録を記録した。2回戦で堀越高校のエース・山本幸正から難しいカーブを本塁打したのを長嶋茂雄が見ていたのがきっかけで巨人入りしたという話もある。しかし、準々決勝の天理高校戦では本塁打は出ず、自らのエラーもありチームは敗退した。しかしながら観戦していたプロ野球各球団のスカウトたちからは元木大介(上宮高)、内之倉隆志(鹿児島実業高)、萩原誠(大阪桐蔭高)等の前年・前々年に甲子園を騒がせたスラッガーたちと比較しても松井のほうがずっと打者としては素材が上であると評価され、「清原和博に匹敵する」「清原和博クラスの逸材」とまで言い切るスカウトも複数いて、松井の存在は一躍全国規模で知られるようになっていった。
夏の選手権では2回戦の明徳義塾高校戦で敗退。この試合で松井が明徳義塾先発投手の河野和洋から受けた5打席連続敬遠は、高野連が急遽記者会見を開くなど、社会問題にまで発展した。明徳義塾監督の馬淵史郎は試合後、「(星稜の練習を見て)高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた」とコメントしている。最後になる秋の国体では監督が出したホームランのサインに応えホームランを打っている。松井はプロ野球引退後に「そのあとプロ野球のジャイアンツに入った時に『彼があの甲子園で5回敬遠されたバッターなんだ』ということを、やっぱり成績で示さなくちゃいけないっていうことは、心の中でどっかにあったと思うんですよね」とその後の自分の心構えに影響した旨を語っている。
高校通算打率は.450、本塁打は60本。夏の県大会では、当時としては石川の1大会の最高記録となる4本塁打を三大会連続で記録している。高校通算60号はべにばな国体決勝の尽誠学園戦の第4打席、高校最終打席で記録しチームを優勝に導いている。
ちなみに、「柵越えしたものがホームラン」という松井のこだわりから、ランニングホームランは数に含まれていない。ライナー性の弾道で甲子園球場のバックスクリーンに運ぶ並外れたパワーや、打撃練習であまりにも柵越えを連発するため練習場のライトフェンス後方に特別のネットが取り付けられるなど、桁外れの話題性から「20年に1人の怪物」と言われていた。
9月には大韓民国・ソウル で行われた日米韓3国親善高校野球大会に日本代表の一員として出場した。
松井は米国側からも大きな注目を集めており、同大会に米国代表として出場していたトリー・ハンターは、「まず驚いたのは彼は高校生なのにあり得ないくらい大勢のマスコミを引き連れていたことだ。当時ボクは16歳でマツイは17歳。その高校生を巡ってロックスターを取り囲むような騒ぎになるなんて、一体どんな怪物?だと思っていた。それがマツイだったんだよ」と語っている。
その年のドラフト会議の目玉となった松井には報道陣が殺到し、11月になると星稜高校の校門前に毎日多くの記者やカメラマンが待機するようになった。「このままドラフト本番を迎えれば、えらい騒ぎになる」との声が地元で上がり始め、ドラフト前には異例の「報道規制」が敷かれた。
ドラフト会議前には憧れの球団である阪神タイガースの他は、準地元である中日ドラゴンズに加え読売ジャイアンツ、福岡ダイエーホークスまでを希望に絞り、その他の球団から指名された場合は駒澤大学へ進学することを示唆していた。
1992年11月21日に行われたプロ野球ドラフト会議では前述の4球団から1位指名を受け、抽選の結果交渉権を獲得した巨人に入団。契約金は1億2000万円。年俸は720万円。背番号は「55」。
13シーズンぶりに巨人監督に復帰した長嶋茂雄が、中日ドラゴンズ、阪神タイガース、福岡ダイエーホークスとの抽選の末、松井の交渉権を引き当てた。
当時の松井は本心では阪神入りを熱望しており、ラジオで交渉権が巨人に決まったことを知ると、記者会見で複雑な表情を浮かべ、「阪神に行きたい、という希望がありましたから。まだ整理もついていないけどその気持ちも次第に薄れていくと思う」と語った。
だが、その後、長嶋から直接電話を受けて感銘を受け、すんなり巨人入りを決めた。阪神ファンである彼の気を引くために、長嶋は監督就任会見の前に旧知の記者に「星稜高校の松井秀喜選手が大いに注目されていますが、監督はどうお考えですか?」と質問するよう頼んでおき、「ほしいですね、この手で是非育ててみたい逸材です」と答えた。これを自宅のテレビで見た松井父子は興奮し、巨人入りの意思が高まったという。
なお、この年のドラフト会議で、当初巨人フロントは松井ではなく三菱自動車京都の伊藤智仁を指名する予定だったが、長嶋が松井の獲得を熱望したため松井指名に切り替えている(なお、その伊藤智仁は野村克也が率いていたヤクルトスワローズから1位指名されて入団する)。
入団会見で他の新人選手が抱負として憧れの選手名や具体的な成績目標を述べる中、松井は「サッカー(Jリーグ)や相撲(若貴ブーム)に小さな子供たちの関心が傾きつつあります。その中で僕はその子供たちに夢を与え、球場に直接見に来てもらえるような選手になれるよう頑張ります」と述べた。
1993年、プロ初のキャンプでは150メートル級の場外弾を連発。キャンプ2日目にはフリー打撃で13本の柵越えを放ち、「こんな高校生、見たことがない」とコーチに言わしめた。
高校時代は三塁手であったが、長嶋が外野手へとコンバートさせた。
2月28日のオープン戦でプロ初打席を迎え、当時ヤクルトに所属していた一つ上の石井一久と対戦するもカーブで三振となり、その時は焦りや恐怖を感じたという。
その後もプロの投球の速球に手こずり、三振と凡打の山を築く。オープン戦は53打数5安打、打率.094に終わり、20三振は全体トップだった。
4月7日に長嶋から二軍落ちを通告され、公式戦開幕は二軍で迎えた。二軍落ちを通告された際には、「落としたことを後悔させるように頑張る」と語った。
その宣言通り、イースタン・リーグの開幕戦で松井と同期新人のヤクルトスワローズに入団した伊藤からホームランを放つなど12試合で.375、4本塁打の活躍を見せ、5月1日のヤクルト戦(東京ドーム)で「7番・左翼手」として一軍デビューを果たした。
初打席は西村龍次からセカンドゴロ。2打席目には同じく西村からライトフェンス直撃の二塁打を放ち、初安打初打点を記録。
翌日の試合の東京ドームの対ヤクルト戦では、9回裏に高津臣吾から内角の直球をライトスタンド中段に運びプロ入り初本塁打。興奮の余り、試合後ロッカールームから引き揚げる際、足元はスリッパのまま「打っちゃった」と喜びを露わにした。
その後は各球団のマークに遭い、6月には二軍に降格するが、7月のフレッシュオールスターに出場して優秀選手賞を獲得し、8月下旬に再び一軍に昇格すると、当初は無安打が続いたが、8月31日からの10試合で6本塁打を放つなど、セ・リーグ高卒ルーキー新記録となる11本塁打を放った(パ・リーグの高卒ルーキー記録は1986年の清原和博による31本塁打)。
オフの契約更改では1060万円増の1900万円でサイン。目標の2000万円には届かず、会見では渋い表情を見せた。
1994年4月9日に行われた広島東洋カープとの開幕戦で2本塁打を記録し、4月には自身初の月間MVPを受賞した。
同年のオールスターゲームではセ・リーグ史上最年少で4番を打った。
中日ドラゴンズとのリーグ優勝を賭けたシーズン最終戦「10.8決戦」でも本塁打を放つなどチームのリーグ制覇に貢献。
迎えた日本シリーズでは西武ライオンズを破りチームは日本一、自身も2年目で20本塁打を記録した。
1995年には22本塁打を放ち、初のベストナインを受賞。
8月24日の横浜ベイスターズ戦でレギュラーシーズンでは初の4番を任された。
ヤクルトが最高勝率・マジック1で迎えた9月30日に明治神宮野球場で行われた試合では9回裏二死で打席に立ち、その年の最優秀バッテリー賞を受賞するテリー・ブロス及び古田敦也にセンターフライに仕留められた。
この年のオフには、苦手な内角球を克服するために、身体に当たりそうな極端な内角球を打つ練習を行った。その甲斐あって、翌年から成績が飛躍的に向上することになる。後に、松井はこのシーズンオフが野球人生のターニングポイントだったと回想している。
1996年は自身初の開幕4番スタートだったが、5月からは落合博満が4番に返り咲き、松井は3番に戻った。
その後チームの上昇と共に成績も上昇し、夏場には7月、8月と2か月連続で月間MVPを獲得するなど、大逆転優勝に大きく貢献。初のセ・リーグMVPを受賞した。これは当時としては最年少記録であった。
リーグ最終戦まで山崎武司、大豊泰昭と本塁打王を争っていたが、山崎に1本リードされて迎えた10月8日シーズン最終戦の中日戦では長嶋の配慮で自身初の1番打者として出場したが、4打席すべてで敬遠されてタイトルを逃した(結果は山崎が39本で本塁打王に輝いた)。観客席の巨人ファンからは罵声が飛び交ったが、松井自身は「しょうがない。タイトルを取れなかったのは、悔しいけど、(高校時代の)五打席連続敬遠の方が悔しかった」と、比較的サバサバした様子だった。
それでも、22歳での38本塁打は王貞治に並ぶ年齢別最多本塁打記録。また、同一投手からのシーズン最多本塁打のタイ記録の7本塁打を斎藤隆から放った。この年の斎藤隆との対戦成績は25打数7安打で、安打のすべてが本塁打であった。
最終的に130試合に出場し、打率3割1分4厘、38本塁打、99打点の成績を残した。
この年は日米野球に出場し、敬遠されたことでも話題になった。なお、この時の松井の敬遠以降は日米野球では日本の打者が敬遠されることは長らくなく、2014年に松田宣浩がされるまでなかったという。
契約更改では倍増の1億6000万円で一発サインした。高卒選手ではイチローと並ぶ史上最短(当時)の入団4年目で1億円プレーヤーの仲間入りを果たした。
1997年には西武ライオンズの清原和博がFAの権利を用いて、巨人に入団し、清原とのコンビは「MK砲」と呼ばれた。
4月27日の広島戦で通算100本塁打を達成。4月は好調で10本塁打を放つ好スタートを切った。
最終的に打率は3割をわずかに下回ったが、37本塁打を放った。しかし、ドゥエイン・ホージーとの本塁打王争いに1本差で敗れ、史上初めて2年連続して1本差で本塁打王のタイトルを逃すことになった。打点は初めて大台を突破する103打点を挙げるが、これもルイス・ロペスに及ばず無冠に終わった。
1998年は春季キャンプ中に左膝を痛め、「左膝軟骨損傷」と診断された。膝の不安を抱える中で開幕から4番に座ったが、初本塁打は11試合目まで遅れ、その間には32打席無安打というプロ生活最大のスランプにも悩まされた。
4月は打率.190、2本塁打に終わり、5月2日には清原和博に4番の座を奪われた。
膝の痛みが和らいだ5月10日に久々の第3号本塁打を放つと、その後の12試合で9本塁打して月間MVPを受賞するなど本来の調子を取り戻した。
その後は順調に打ち続け、7月28日のヤクルト戦で通算150本塁打を達成。最終的には34本塁打、100打点で自身初のタイトルとなる本塁打王、打点王、最高出塁率のタイトルを獲得。巨人で本塁打王と打点王の両方獲得は、1977年の王貞治以来21年ぶりの快挙であった。
一方で、左膝の故障は現役を通じて古傷として松井を悩ませ、周囲の筋肉を鍛えることでだましだましプレーを続けたが、その影響は右膝にも及ぶようになった。
1999年は前年の日米野球でサミー・ソーサからアドバイスを受け、シーズン前に広角に打つことを意識したフォームに改造。
6月5日の横浜戦から6月10日の中日戦まで5試合連続本塁打を記録する。9月21日の阪神戦では通算200本塁打を達成。
7月のオールスター第1戦では4試合連続本塁打(新記録)を放ったが、第3戦で代打出場した際にわき腹を痛め、7月30日の広島戦で遂に先発メンバーから外れた。この時点で現役最多だった連続フルイニング出場が574試合(当時歴代3位)で止まる。
長嶋が松井に負担のかからない形で連続試合出場記録を尊重することを決め、以後8月中旬までは記録のために1イニングだけ守備固めとして出場する。
このケガの影響が響いてロベルト・ペタジーニと2本差で本塁打王を逃すことになるが自己最高の42本塁打を記録。日本人のシーズン40本塁打は1989年の落合博満以来10年ぶり、巨人では1977年の王貞治以来22年ぶりの快挙であった。
シーズン終了直後の10月24日には、ヤンキー・スタジアムで初めてMLBの試合(ALCS第2戦)を生観戦している。この経験は強く心に刻まれ、後のMLB挑戦を決断する要因の一つにもなった。
2000年は開幕から4番打者を務め、以後日本シリーズ、日米野球なども含めて、他の打者に4番を譲ることはなかった。
右小指をグリップにかける打法に変えたことで、あまり強くバットを握らずにリラックスして構えられるようになったことで打撃は凄味を増し、シーズン半ばまでは三冠王を狙える勢いで打ち続けた。
7月12日の広島戦で通算1000本安打を達成。最終的に135試合全イニングで4番打者を務め、いずれも自己最高の打率3割1分6厘、42本塁打、108打点を記録。シーズン全試合4番出場は巨人では1950年の川上哲治以来50年ぶりの記録だった。本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVP、日本シリーズMVP、ゴールデングラブ賞を受賞し、巨人の日本一の立役者となった。
なお、この年の日本シリーズMVP受賞によって川上哲治、大下弘、福本豊、トーマス・オマリー、古田敦也に次ぐ史上6人目の「レギュラーシーズン、オールスター戦、日本シリーズにおけるMVP獲得者」となった。プロ野球界に最も貢献した人物に贈られる正力松太郎賞も初受賞した。
同年の日米野球では、MLB選抜であるボビー・コックスに「ゴジラはいいねえ。バットスイングが速い」と称賛された。この時点では「大リーグなんて、そんな」とMLB挑戦に否定的だったが、「野球をやっていて、大リーグを全然考えないと言ったら、うそになるかもしれません」と2年後のFA移籍に含みを持たせた。
11月21日には石川県県民栄誉賞を受賞した。
契約更改では、松井のMLB移籍を危惧した球団側が8年総額56億円という破格の長期大型契約を持ちかけたが、松井は「一年一年が勝負という気持ちでプレーしたい」として単年契約にこだわり、球界最高(当時)の年俸5億円でサインした。
2001年4月12日の中日戦に1000試合目の出場で通算250本塁打を達成。5月3日の中日戦で当時史上5人目の1000試合連続試合出場を達成。5月5日から8月13日までセ・リーグ歴代1位の65試合連続出塁を達成する。
9月27日、広島カープ戦で自身初の1試合3本塁打(3打数連続)を記録するなど9月は打撃好調で月間MVPを受賞した。
この年、初の首位打者のタイトルを獲得したが、全イニング出場での首位打者は王貞治、イチローに次ぐ史上3人目の快挙となった。
一方で、本塁打数はなかなか伸びず、20号本塁打を放ったのは8月7日であった。8月まで年間30本に届かないペースで推移していたが、9月にようやく量産体制に入ると、自身初の1試合3本塁打を含む月間11本塁打と巻き返したが、最終的な本数は36本とやや数を落とした。本塁打王のタイトルは当時本塁打王争いをしていたペタジーニに再び奪還される。
この年の松井は、打球が上がらずにホームランが出ないという悩みに悩まされていた。この年の打撃について、松井は後に「あの年首位打者を取ったけど、打撃は最後まで狂ったままだった」と語っている。
FA権獲得が翌年に迫る中、下交渉では球団から5年総額50億円の大型複数年契約を提示されたが、これを断り当時プロ野球史上最高額となる年俸6億1000万円(後に、佐々木主浩が更新)で単年契約した。契約更改後の会見では、来期にFA権を行使することを明言し、「このまま巨人に残るか、アメリカに行ってみるか二者択一になる」と語った。
2002年は開幕前、巨人がビジター用ユニフォームの胸ロゴを「TOKYO」から「YOMIURI」に変更したことについて、「なぜ巨人の伝統を大事にしないのかなぁ」と松井がコメントしたとスポーツ報知が報じ、オーナーの渡邉恒雄が激怒するという騒動があった。記事を執筆した記者の広岡勲(後の松井の専属広報)が巨人担当を外れることで事態は収拾した。
「日本一」「三冠王」の2つを目標に掲げて10年目のシーズンをスタート。開幕後間もない4月13日にFA権を取得。
7月9日に黒田博樹から通算300号本塁打を放つ。28歳0か月での到達は王貞治の27歳3か月に次ぐ史上2番目の年少記録であり、1200試合目での達成は史上6番目の速さであった。
また、8月1日には4番打者としての連続出場を363試合に伸ばし、石井浩郎の記録を抜き当時の単独1位(後に、金本知憲が更新)となった。
オールスターゲーム前までは、前年同様打球が上がらず76試合で18本塁打だったが、後半戦は64試合で32本塁打という驚異のペースで打ち続け、自己最多を更新する、史上8人目の50本塁打を記録する(平成時代の日本人唯一)。
セ・リーグでは1985年のランディ・バース以来17年ぶり、日本人では1986年の落合博満以来16年ぶり、巨人では同じく1977年の王貞治以来の25年ぶりの快挙となり、2022年に村上宗隆が達成するまで長らく「最後の日本プロ野球での日本人選手による50本塁打達成者」となっていた。ペタジーニに9本差をつけた50本目の本塁打は2002年の本拠地最終戦の対ヤクルト戦(東京ドーム)で記録。
7・8月と2か月連続で月間MVPを受賞。9月7日の広島戦でプロ野球新記録となる5年連続100得点を記録した。
シーズン終盤までは打率3割5分台を維持し、三冠王目前だったが、シーズン終盤に調子を落とし、首位打者争いで福留孝介にタイトルを譲った。
打率、本塁打、出塁率では自己最高の成績で、本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVPを獲得した。
なお、巨人では2002年以降、2020年に岡本和真が本塁打王になるまでの18年間にわたって、日本人選手で本塁打王を獲得する選手は現れなかった。また、巨人の日本人左打者の40本塁打以上の選手及び打点王は2010年に阿部慎之助が44本塁打を記録、2012年に打点王を獲得するまで現れなかった。
レギュラーシーズン終了後の10月11日には監督の原と、16日には球団代表の土井とそれぞれ会談。前監督の長嶋とも長時間会談し、残留を要請されたが、結論は日本シリーズ後に持ち越した。
10月18日には、ニューヨーク・タイムズ紙でニューヨーク・ヤンキースが松井の獲得を狙っていることが報じられた。
西武ライオンズとの日本シリーズでは、松井の安打数は4本に留まったが、チームは1990年の西武以来12年ぶりで球団(巨人として)初の4連勝のストレート勝ち(4勝0敗)で西武を下し、日本一の栄冠に輝いた。なお2012年にMLBで引退したため、この日本シリーズが自身にとって現役時代最後の日本シリーズ出場となった。
11月1日にFA権を行使してMLBへの挑戦を表明した。「最後の最後まで悩んで苦しかった。何を言っても裏切り者と言われるかもしれないが、いつか『松井、行ってよかったな』と言われるよう頑張りたい。決断した以上は命を懸ける」と決意を語った。
松井はFA宣言をするときに自らを「裏切り者」と発言し、松井の危惧の通り、裏切り者だと考えるジャイアンツファンは一定数存在したが、日本球界全体では松井の成功を祈っていた。むしろ彼がそれだけプロ野球ファンのことを考えている証左だとする賞賛の声や、移籍決断に至るまでの彼の苦悩に対して同情する声は決して少なくないばかりか逆に多かった。
球団関係者は沈痛な面持ちで「球界の財産である松井選手のアメリカ(MLB)への流出を防ぐことができず、応援してくださるファン皆さんには何とお詫びしたらいいか......」と、まるで不祥事でも起こしたようなコメントを残した。
MLB球団との交渉にあたって、当初は代理人無しで交渉に臨む予定だったが、MLBの契約内容の複雑さを知った松井は方針を転換し、ジェイソン・ジアンビの代理人としてニューヨーク・ヤンキースと大型契約を締結した実績があるアーン・テレムを代理人に選定した。テレムには「ヤンキースとだけ集中して交渉してほしい。ヤンキースがダメだったら次のことを考えよう」と伝え、ヤンキースへの入団を熱望した。
2002年12月19日にニューヨーク・ヤンキースと総額2100万ドル(当時約25億4100万円)の3年契約に合意。ニューヨークの新聞各紙は「ゴジラがブロンクスにやってくる」という大見出しをつけた。
2003年1月14日にニューヨーク市内のホテルで行われた入団会見には、約300人の報道陣に加え、球団社長のランディ・レバイン(英語版)、監督のジョー・トーリ、ロジャー・クレメンス、ニューヨーク市長のマイケル・ブルームバーグらも出席した。
松井は「ヤンキースはメジャーの中でも素晴らしい伝統がある。素晴らしいプレーヤーがたくさん在籍した球団。自分の中でも一番刺激があるチームで自分の力を存分に発揮したかった」と語った。
巨人からFA権を行使して移籍したのは1994年の駒田徳広(横浜へ移籍)以来2人目であった。海外FAは巨人史上初。ヤンキース史上初のアジア人打者(日本人で初めてヤンキースとメジャー契約したのは投手である伊良部秀輝)である。
3月31日、公式戦開幕試合のトロント・ブルージェイズ戦に5番レフトで先発出場し、初回にロイ・ハラデイから左翼前への適時打を放ち、初打席・初安打・初打点を記録。
4月8日の本拠地開幕戦、ミネソタ・ツインズ戦では前打者のバーニー・ウィリアムスが敬遠された後の打席で2-3からジョー・メイズの145km/hの高速チェンジアップをライトスタンドに叩き込む、メジャー初本塁打となる満塁本塁打を放つ。
4月12日にはメジャー初のサヨナラ安打を放つ。
7月に行われたMLBオールスターゲームにファン投票のア・リーグ外野手部門で3位に入り初出場を果たした。日本人では1995年の野茂英雄、2001年のイチロー、佐々木主浩に続く4人目のオールスターゲーム出場となった。しかし、日本からの組織票に助けられた形での選出で、現地メディアでは批判が起こり、試合ではスタメン出場を果たし1安打を放ったものの、ブーイングを浴びせられた。また、スター選手とのバット交換用に日本から24本のバットを取り寄せたが、誰にも声をかけることができず、全て持ち帰った。
7月17日に行われたオールスターゲーム出場後の後半開幕戦のクリーブランド・インディアンス戦でデビッド・リスキー(英語版)の146km/hの速球を右中間スタンドに運び、日本人メジャーリーガー初のサヨナラ本塁打を放った。
ヤンキースの新人としては67年ぶり3人目の100打点以上を記録した(1926年のトニー・ラゼリ、1943年のビリー・ジョンソン(英語版))。
地区シリーズではポストシーズン日本人初の本塁打を放った。
ボストン・レッドソックスとのリーグ優勝決定シリーズ第7戦では、8回裏にホルヘ・ポサダの適時打で同点のホームを踏んだ際に大きく跳び上がり、全身で喜びを表した。
フロリダ・マーリンズとのワールドシリーズ第2戦では、ワールドシリーズでの日本人初本塁打を放った。
レギュラーシーズンでは雨天引き分けによる再試合があったため、新人かつヤンキースの選手としては21世紀になって初めてシーズン163試合に出場した選手となった。しかし、本塁打数はわずか16本と、期待外れの結果に終わった。
それでも、得点圏打率はチーム最高の.335、打点は主砲のジェイソン・ジアンビに1差となるチーム2位の106打点を叩き出し、勝負強さを発揮した。
シーズン通算で打率.287、16本塁打、106打点をあげたがア・リーグ新人王には選ばれなかった。打率.287、17本塁打、73打点、21盗塁を記録したロイヤルズのアンヘル・ベローアがア・リーグ新人王を獲得した。これに対して当時ヤンキースオーナーのジョージ・スタインブレナーは「酷い不正」「全米野球記者協会、そして何年もの間彼らが球界に貢献してくれたことについて、私は多大な敬意を持っている。その一方で、ヒデキ・マツイに対して酷い不正が行われたと確信している」と声明文を出している。
2004年は前年16本塁打に終わったことを反省し、オフに大幅な筋肉増量に取り組んだ。そのため松井の身体、特に上半身は一回り大きくなった。
それが功を奏し、重心の位置を下げてスタンスを広めにしたことにより、左方向への本塁打が増加。スプリングトレーニングでは本塁打と打点のチーム2冠王に輝いた。
東京ドームで行われたタンパベイ・デビルレイズとの日本開幕戦に先立って開催されたヤンキースと巨人の親善試合では凱旋本塁打を放つ。デビルレイズとの開幕2連戦では「2番・左翼」でフル出場し、2戦目には日本のファンの前で第1号本塁打を放った。
本土開幕戦以降は61打席本塁打なしであったが、4月24日のレッドソックス戦では、観戦に訪れた両親が見守る中で第2号本塁打を放ち、NPB・MLB通算350本塁打を達成。その後は前年より大幅に速いペースで本塁打を量産し、6月4日には、前年より41試合早い53試合目で10号本塁打に到達。5月最終週には二度目の週間MVPも受賞した。
6月19日、20日のロサンゼルス・ドジャース戦ではメジャー移籍後初の2試合連続本塁打を放った。前半戦だけで前年を上回る17本塁打に到達。オールスターゲームにはファン投票外野手部門での選出こそ逃したが、最終投票で120万票を集めて選出され、2年連続で出場を果たした。トーリ監督からはホームランダービーへの参加を打診されたが、「僕が出たらビールの缶が飛んでくる」と辞退した。
球宴明けの7月15日にはNPB・MLB通算1500試合連続出場に達した。8月7日のトロント・ブルージェイズ戦でMLB移籍後初の2打席連続本塁打を放った。15日のシアトル・マリナーズ戦で前年のワールドシリーズ以来の4番に座ると、シーズン後半には4番打者に定着した。
9月30日のツインズ戦で日本人選手初の3試合連続本塁打を放った。最終的には当時の日本人メジャーリーガー史上最多で前年のほぼ倍にあたる31本塁打と同最高のOPS.912を記録した。この31本塁打、OP.912は2021年に大谷翔平が上回るまでの17年間にわたって日本人では最多であった。打率こそわずかに3割を下回ったが、三部門全てで前年を上回る好成績を残した。
ポストシーズンでは打棒が爆発し、11試合で51打数21安打、打率.412、3本塁打、13打点、OPS1.221を記録。
前年に引き続いての対戦となったレッドソックスとのア・リーグチャンピオンシップシリーズではリーグチャンピオンシップシリーズ史上最多タイとなる14安打、28塁打を記録。第3戦には、これまた最多タイの1試合5安打、5得点を記録するなど絶好調であったが、チームは先に3連勝しながらまさかの4連敗を喫し、ワールドシリーズ出場は逃した。
オフには徹底した筋力強化に取り組み、大幅な体重増(103kg→110kg)を遂げた。
2005年の開幕前は本塁打王のタイトル獲得にも意欲を見せていたが、4月9日から5月29日にかけて46試合、202打席連続本塁打なしという不調に陥った。
誕生日の6月12日には右足首を捻挫し、途中交代するアクシデントもあったものの、DHでの出場も挟んで粘り強く出場を続けた。20日には自身3度目の週間MVPを受賞し(6試合で打率.455、3本塁打、10打点)、6月は全試合で出塁を記録して月間打率.398、6本塁打、23打点、OPS1.165と好調であったが、翌月の球宴出場は逃した。
7月28日には、アーニー・バンクスを抜いてメジャーデビューから425試合連続出場の新記録を樹立。3年連続で全試合出場を果たすと共に、メジャーでの自己最高となる打率.305、116打点を記録。打率と打点で前年を越える成績を残したことに満足感を示したものの、本塁打の減少については来年の課題にすることを誓った。
9月8日にはNPB/MLB通算400本塁打を達成し、9月と10月は打率.348、3本塁打、OPS.932と好調を維持してチームの地区優勝に貢献。しかしロサンゼルス・エンゼルスとのディビジョンシリーズで2勝3敗で敗退し、松井自身も20打数4安打の打率.200と抑え込まれた。敗退が決まった第5戦では、5打席全てに走者を置きながらいずれも凡退し、8残塁に終わった。
ポストシーズンのシリーズ突破がかかった試合で5打席全てに走者を置いて凡退した打者は、1986年のワールドシリーズ第6戦でのビル・バックナーに次いでメジャー史上2人目であった。試合後のインタビューでは、「僕がチャンスで打てていれば、試合の結果は変わっていた」と悔しさを滲ませた。
この年限りで3年契約が切れるため、開幕前には総額3150万ドルの3年契約を提示されていたが、シーズン終了後に改めて交渉に臨むことを決め、オフに交渉を再開。途中交渉が難航し、最終的にはヤンキースと4年総額5200万ドル(当時のレートで約61億8800万円)で契約延長。「最高に幸せです」とコメントし、高評価での契約延長に満足感を示した。
GMのブライアン・キャッシュマンが「松井はグラウンドでの才能だけでなく、日本のファンをひきつける力がある」と述べたように、ビジネス面での貢献度も評価された形となった。
2006年は開幕前に行われたワールド・ベースボール・クラシックの出場を辞退してシーズンに備えた。
しかしスプリングトレーニングで古傷の左ひざ痛が再発したり、持病の花粉症に悩まされるなど、万全とは言えない状態であり、本人も「正直よくない」と不安を漏らしていたが、開幕戦で1本塁打を含む4安打を放ち、幸先の良いスタートを切る。
4月18日にはデビュー以来500試合連続出場を達成。
5月11日に本拠地ヤンキー・スタジアムで行われたレッドソックス戦の1回表、マーク・ロレッタの放った浅めのフライを滑り込んでキャッチしようとした際にグラブが芝生にひっかかり左手首を故障。そのまま途中交代した。
1イニング守備に就かずに交代したため、巨人時代の1993年8月22日から続いていた連続試合出場記録が「1768」で途切れた。
ニューヨーク市内のコロンビア大メディカルセンター病院で即日の検査を行った結果、左手首(橈骨)骨折と診断。翌朝に手術が行われ、故障者リスト入りする。
チームメイトに与えたショックも大きく、デレク・ジーターは「松井の代わりなんて誰もいない」と語った。
8月17日には98日ぶりにベンチ入りし、30日にはフリー打撃を再開した。9月12日のデビルレイズ戦に8番・指名打者で124日ぶりに先発出場。満員の観衆からスタンディングオベーションで迎えられ、4打数4安打の活躍で復活を遂げた。
復帰後は14試合で打率.430を記録するなど好調で、最終的には51試合の出場ながら打率.302を記録した。チームも9年連続で地区優勝を果たしたが、デトロイト・タイガースとのディビジョンシリーズでは16打数4安打、0本塁打、打点1と目立った活躍が出来ず、チームも2年連続でディビジョンシリーズ敗退となった。
2007年2月に著書『不動心』(新潮新書)を刊行し、30万部を超えるベストセラーとなった。
開幕から4試合目の4月7日、ボルチモア・オリオールズ戦の2回の第1打席目に捕ゴロで一塁へ走った際、左太股に一瞬つったような違和感を訴える。その後2イニングはストレッチなどで様子を見ながら守備に就いていたが、太股の張りが消えないため、4回の第2打席目の直前で首脳陣は代打を告げ、そのままベンチ裏に退き、翌日故障者リスト入りする。MRI(磁気共鳴画像装置)診断の結果、左太股の軽い肉離れが判明。
故障は順調に回復、故障者リストの期限が切れる4月23日に出場選手登録され、同日のデビルレイズ戦へ16日ぶりにスタメン復帰となった。
5月6日、本拠地でのマリナーズ戦で日本人メジャーリーガー2人目となるNPB・MLB通算2000本安打を達成。日本から駆けつけた名球会会長の金田正一の目の前での快挙達成であり、名球会入りを果たした。当初は外野手の失策と記録されたが、後に二塁打に訂正され、直後判定に両チーム乱闘が起こった。
6月は打率.252、3本塁打、OPS.706と打撃不振に陥り、6月26日には地元紙から他4選手と共に、勝てない直接の原因として名指しされた。
7月に入ると一転して打撃好調で打ちまくり、出場28試合で打率.345、28打点、OPS1.145の成績。長打率.735、13本塁打、31得点はリーグトップだった。8月2日には、7月のリーグ月間MVPに選出された。
8月5日、ヤンキースタジアムでのカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャー通算100本塁打を達成。
終盤からプレーオフにかけて右膝の故障に苦しみ、9月は打率.185、2本塁打、OPS.689を喫した。チームは3年連続でディビジョンシリーズ敗退、松井も4戦で打率.182(11打数2安打)に終わった。
シーズン成績は25本塁打・103打点と一定の数字を残し、打点を多く叩き出すため、ゲームのキャラクターのように打点をパクパク呑み込んでいく連想から、この年にはチーム内で「パックマン」という愛称がついた。
しかしながら、本人はオフのインタビューで「今季は失敗しかなかった。話になりませんよ」と振り返り、怪我や要所での凡退を繰り返したことに悔しさを滲ませた。シーズン終了後の11月14日にニューヨークの病院で右膝の軟骨を除去する内視鏡手術を受ける。
2008年3月26日に富山県出身の25歳日本人女性とアメリカ合衆国ニューヨーク市内で挙式。翌日に新婦の似顔絵と共に記者会見を行い、結婚を報告した。相手が元会社員で一般人のため、プライバシーを考慮して、顔写真や氏名は公表していない。
レギュラーシーズンでは監督の交代もあり、開幕前はレギュラーが確約されなかった。
開幕は「8番・指名打者」からのスタートとなったが、序盤は打撃が好調で打順も上がり、一時は打率.337で首位打者に立ち、4月から5月にかけては自己最長となる19試合連続安打を放った。
また、この年のオールスターゲームは同年限りで閉場する地元ヤンキースタジアムで行われる最後のオールスターゲームということもあり、松井も「こんな舞台は二度とない。出られれば一生の思い出になると思う」と出場を熱望し、地元の石川県の公式サイト上でファン投票の呼びかけが行われたが落選した。
6月になっても好調を持続させ、首位打者争いをしていたが、6月18日の試合前、突然古傷の左膝に痛みが走り、患部に溜まった水を抜く治療を受けた後、監督のジョー・ジラルディとGMのブライアン・キャッシュマンの意向で6月27日に故障者リスト入りした。オフに手術した右膝を無意識にかばい、左足に負担が掛かっていたことが原因だった。
持ち上がった手術の話に関しては、7月17日の段階では「(手術を)球団に勧められれば受け入れる 」との考えを示していた。しかし、2日後にキャッシュマンから手術を勧められた際には態度を一転させ、2時間もの説得にもかかわらず手術を拒否した。その後、2か月に渡る治療・リハビリののち、8月19日のブルージェイズ戦から復帰、主に「7番・指名打者」として出場を続けたが、万全には程遠く打撃は低迷。
チームのプレーオフ進出も困難になった9月後半からは再び控えに回り、21日のヤンキー・スタジアム最終試合の先発出場を最後にシーズンを終えた。
9月22日に左膝の内視鏡手術に踏み切った。
最終的に打率は3割を下回る.294、安打数は99、本塁打も一桁の9本と寂しい成績に終わった。
2009年は「3割30本100打点」「4盗塁」を個人成績での目標に掲げてスタート。
膝のリハビリを最優先したために、調整が遅れてしまい、スプリングトレーニングでも序盤は不振が続いたが、故障のため離脱したアレックス・ロドリゲスに替わって4番打者を務め、4月4日には、新ヤンキー・スタジアムの杮落としに花を添える本塁打を放つ等、4本塁打を放った。
開幕戦では4番・指名打者として出場し、7回には恩師である長嶋茂雄の通算444号を超えるNPB・MLB通算445号となる2点本塁打を放った。
しかし打撃の調子はなかなか上がらず、5月以降も膝の腫れや太もも痛などの怪我が断続的に発生した。ロドリゲスの復帰後は、打順が5番や7番に下がり、休養を入れながらの指名打者としての起用が続いた。
また、2009年は完全に指名打者としての登録になったため、指名打者制のないナ・リーグの本拠地球場(ブッシュ・スタジアム)で行われるオールスターのファン投票にはノミネートされなかった。
5月下旬には守備練習を再開。5月27日のテキサス・レンジャーズ戦では、NPB・MLB通算450号となる6号本塁打を含む2打席連続を放った。
しかしその後、18打席連続無安打を記録するなど打撃不振が続き、指名打者制が採用されないナ・リーグ本拠地でのインターリーグ(交流戦)では全試合で先発を外れた。
交流戦期間中の6月17日には阪神タイガースが松井の獲得に向けた調査を進めていることが明らかになり、松井本人は「ありがたい」とコメントし、他にも巨人やオリックス、さらには独立リーグの石川ミリオンスターズが松井の獲得に意欲を見せていると報じられたが、「それと日本に戻るという話は別問題」と語り、MLBで現役生活を最後までやり抜くことを強調した。
7月20日のオリオールズ戦では、2003年以来6年ぶり2本目のサヨナラ本塁打を放ち、7月は打率.293、5本塁打、OPS.967と好調を続けたが、直後から13打席連続無安打に陥った。
8月13日のマリナーズ戦では2本塁打を含む4安打5打点と爆発したが、直後に左ひざの状態が悪化してシーズン初の連続欠場となった。
しかし復帰後の8月21日のレッドソックス戦にて3点本塁打を2本放つなどして自己最高の一試合7打点を記録。2日後のレッドソックス戦でも2本塁打を放つ活躍を見せた。こうして8月は中旬から比較的好調を維持して打率.281、8本塁打、25打点、OPS.918という成績を残し、勝負強い打撃を見せた選手に贈られる「クラッチ・パフォーマー賞」を贈られた。
9月19日のマリナーズ戦で26号本塁打を放ち、ドン・ベイラーを抜いて指名打者での年間最多本塁打の球団記録を更新。MLB移籍後2番目に多い28本塁打を放ち、チーム3位の90打点を叩き出す勝負強さで3年ぶりの地区優勝に貢献した。
レギュラーシーズン全日程終了後、「明らかに打率が低いのは反省点。(28本塁打は)よくも悪くもない」と総括した。また、4年ぶりに1度も故障者リストに入らなかったことを喜んだ。
米国のスポーツ専門誌「スポーティング・ニューズ」が選定するア・リーグ・オールスターメンバーにも指名打者部門で選出された。
ポストシーズンには主として「5番・指名打者」として出場。ミネソタ・ツインズとのディビジョンシリーズ第1戦では、試合を決定付ける2点本塁打を放った。ロサンゼルス・エンゼルスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは初戦で2打点と活躍したものの、第4戦・6戦では無安打とやや調子を落とし、打順も6番に下がったが、チームは4勝2敗でエンゼルスを下し、メジャー1年目の2003年以来6年ぶりにワールドシリーズへと駒を進めた。
迎えた前年の覇者フィラデルフィア・フィリーズとのワールドシリーズでは5番に復帰し、持ち前の勝負強さを存分に発揮した。
初戦は1安打のみに終ったが、第2戦では1-1の同点で迎えた6回裏に、ペドロ・マルティネスから決勝本塁打を放った。
フィリーズの本拠地シチズンズ・バンク・パークで行われた第3〜5戦は、指名打者が使えないため代打での出場となった。第3戦では2試合連続となる本塁打を放ち、第5戦でも左前打を放つなど、わずかな出番ながらも結果を出した。
ヤンキースの3勝2敗で本拠地に戻った第6戦では先発に復帰し、2回にペドロ・マルティネスから先制の2点本塁打を放つと、3回には中前適時打、5回にも右中間を破る適時二塁打で2打点ずつを加え、ワールドシリーズ・タイ記録となる1試合6打点を記録し、スタジアムのファンからは「MVP!」の大歓声が沸き起こった。
9年ぶりの世界一に貢献し、13打数8安打3本塁打8打点、打率.615、OPS2.027で日本人選手初、フルタイムの指名打者としても初めてとなるワールドシリーズMVPに選出された。また、「日本シリーズMVPとワールドシリーズMVPを共に受賞した初の選手」となった。
ヤンキースとの契約満了に伴い、11月9日にFAとなり、ヤンキースは松井との残留交渉は行わなかった。
2009年12月16日にロサンゼルス・エンゼルスと年俸600万ドルの1年契約を結び、エンゼルス初の日本人野手となった(投手では長谷川滋利が過去に在籍)。監督のマイク・ソーシアが直々に守備復帰の機会を確約してくれたことがエンゼルス入団の決め手となったという。赤いユニホームから日本のマスコミには『赤ゴジラ』と呼ばれるようになった。
2010年の序盤は4番打者を務め、シーズンを通して前年同様指名打者での出場を主とし、わずか18試合ながら2008年6月以来となる左翼守備にも就いた。
自身4度目となる開幕戦ホームランを記録するなど序盤は打撃好調で、4月13日には移籍後初めてヤンキースタジアムでの古巣ヤンキース戦に臨んだ。
試合前に行われたワールドシリーズ優勝記念リングの贈呈式では、観客からスタンディングオベーションで迎えられ、かつての同僚が一斉に松井に駆け寄って熱い抱擁を交わす場面もあった。この時、松井に贈呈されたチャンピオンリングは偽物であったが、これはジーターがいたずらで仕込んだもので試合後に本物が渡されるまで松井は気付かなかった。
4月26日のインディアンス戦ではMLB通算1000本安打を達成し、その後の打席でMLB通算500三振を喫した。
6月26日のコロラド・ロッキーズ戦では満塁本塁打を放ち、MLB通算150号を達成。
後半戦は打率.309、11本塁打、37打点、リーグ5位のOPS.955を記録し、最終的に打率.274、21本塁打、84打点、チームトップのOPS.820を残した。
しかし5月は打率.184にOPS.545、7月は打率.228にOPS.708、8月は打率.304にOPS.938、9月は打率.347にOPS1.024と、月によって調子の波が激しく、さらにシーズンを通して、右投手に対しては打率.287にOPS.861と例年並みの数値を残したものの、左投手に対して打率.234にOPS.687と低迷。
7月以降は相手先発が左投手の際の起用を見送られることが多くなり、チーム成績の低迷もあって、若手の起用が増えたことから守備に就く機会もなくなった。前半戦は、松井に追い出される形でレンジャーズに移籍したブラディミール・ゲレーロが絶好調だったため、地元メディアやファンからはゲレーロと比較される形で批判を受けた。
オールスターゲームは地元エンゼルスタジアムでの開催だったが、ファン投票の指名打者部門はゲレーロに230万票以上の大差を付けられた2位に終わり、「チャンスがあればと思っていたけど、仕方ない」と語った。
後半戦に入ると、一部メディアから「戦力外となる可能性がある」とも報じられ、8月8日のタイガース戦では、相手投手が右投手であるにもかかわらずスタメン落ちし、ショックのあまり報道陣を避け、食堂にこもってテレビを見続けたという。
その後は打撃の調子が上がっていたが、9月8日のインディアンス戦では、新人時代の1993年以来17年ぶりに代打の代打を送られる屈辱も味わった。
シーズン終了後、エンゼルスGMのトニー・リーギンスからは「こんなに調子の波が激しいとは思わなかった」と厳しい評価が下された。11月2日に1年契約が満了しFAとなり、翌日エンゼルスは同月6日が期限となっていた独占交渉期間中に翌年の契約を提示しないと表明した。
2010年12月14日にオークランド・アスレチックスと年俸425万ドル(当時のレートで3億5700万円)で1年契約を結ぶ。入団会見では「先頭を切ってみんなを引っ張っていけるようなプレーをしたい」と意欲を口にした。
松井にはアスレチックス以外にも数球団が関心を示しているとされていたが、正式なオファーを行ったのはアスレチックスのみであった。
2011年のスプリングトレーニング中は寝違えと花粉症に悩まされて一時別メニュー調整となり、3月21日の夜には宿舎で転倒し、翌日には顔面傷だらけで球場に現れるという一幕もあった。
オープン戦は過去3年では最多の22試合に出場したが、打率.169、1本塁打、2打点、OPS.486と低調な成績だった。
開幕は「5番・DH」で迎え、4月3日のマリナーズ戦でシーズン初安打となる二塁打を放ちNPB/MLB通算2500本安打を達成。2000本安打達成時と同じく、イチローの前で記録を達成することとなった。
5月3日のレンジャーズ戦では2年ぶりのサヨナラ本塁打を放ち、「今日のようなプレーで、(東日本大震災で)被災した方に少しでも元気を届けられれば」と語った。
ところが、その後は不振に陥り、5月には月間打率.197と低迷。対戦チームの先発が左投手の試合では先発を外されることが多くなっていたが、6月に入ると、右投手相手でも先発を外れることが増えた。これについて、松井は「スランプを脱するには、試合に出る必要がある」と歯がゆさを滲ませていた。地元のテレビ局からは、DH制の無い交流戦が始まる6月21日までに出場機会を与えても復調しなければ、解雇すべきだという厳しい報道がなされた。
しかし、6月9日に監督のボブ・ゲレンが解任され、ボブ・メルビンが監督代行に就任して以降は相手投手の左右に関わらず、主に「3番・DH」で先発起用されるようになる。メルビンは、マリナーズ監督時代から松井の進塁打を打つ能力や四球を選ぶセンスを評価していたという。
監督交代後初の試合となった6月10日のホワイトソックス戦で左腕のマーク・バーリーから5月3日のサヨナラ弾以来となる4号本塁打を放つと、6月17日のロイヤルズ戦でNPB・MLB通算499号となる6号本塁打を放つまで、7試合で打率.304、3本塁打と復調の兆しを見せた。
21日のメッツ戦ではDHが使えないため、移籍後初めて外野守備に就いた。
しかし、その後は再び調子を落とし、前半戦終了時点での打率は.209だった。本塁打も長らく出ていなかったが、7月20日のタイガース戦で第7号本塁打を放ち、NPB・MLB通算500本塁打を達成(巨人時代の10年間で332本、メジャー9年目で168本)。王手をかけた時点では記録に関心を示していなかった松井だが、1か月以上も足踏みしたことについては「ちょっと時間がかかりすぎた感じ」と語った。
試合後にはNPBに復帰せずMLBで現役を終える考えであることを口にした。
前半戦終了後は打ちまくり7月25日には6年ぶりとなる7月第3週の週間MVPを受賞。7月は打率.365、3本塁打、OPS.997を残し、チーム月間MVPを受賞した。前半戦終了時点で.209だった打率は.274まで上昇したがシーズン終盤再び調子を落とし.251に落ちた。
9月10日のレンジャーズ戦でNPB・MLB通算505本塁打となる第12号本塁打を放ち、日本人通算本塁打で歴代単独7位となった。
シーズン終了直前の9月26日には、報道陣に対して「またゼロからやり直すだけ」と来シーズンへの意気込みを語ったが、一方で「どこからも必要とされなければ、引退するしかない」という心境も吐露した。
後半戦は打率.295、6本塁打、OPS.779と、前半戦からは大きく数字を上げたが、シーズン通算では打率.251、12本塁打、チーム2位の72打点、OPS.698と100試合以上出場ではプロ入り後ワーストとなる成績でシーズンを終えた。
また、2008年以降では最多となる27試合で守備に就き、打者に不利な球場として知られる本拠地オー・ドットコー・コロシアムでは打率.234、4本塁打、OPS.663と低調な成績に終わったが、ロードでは打率.267、8本塁打、OPS.729を残した。
シーズン最終戦終了後のインタビューでは「体調という意味では凄く良いシーズンだったけど、いい結果は出なかった。納得いったところなんてない」と語った。
10月31日にフリーエージェントとなった。このオフにはなかなか契約先が見つからず、結局プロ入り後初めて所属球団未定のまま越年することとなった。
2012年は年明けから古巣ヤンキースやロサンゼルス・ドジャース、ミルウォーキー・ブルワーズなど様々な球団が浮上したが正式な契約には至らず、プロ入り後初めて無所属のままで開幕を迎えた。
2012年4月30日にタンパベイ・レイズとマイナー契約を結んだことが発表された。5月1日にはマイナー契約としては異例の入団記者会見を行った。
AAA級ダーラム・ブルズでは13試合で打率.170、0本塁打と調子が上がらなかったが、主力選手に故障者が相次いだチーム事情もあり、29日にメジャー昇格。
背番号については、「55」は主力投手のマット・ムーアが付けていたため、「35」を付けることになり、プロ入り後初めて背番号が変わることになった。
昇格当日のホワイトソックス戦でフィリップ・ハンバーから1号2点本塁打、更に、6月1日のオリオールズ戦で陳偉殷から、観客席最上段に飛び込む2号2点本塁打を放ったが、それ以降は本塁打なし。結果的に、この本塁打が現役最後の本塁打(MLB通算175号、NPB・MLB通算507号)となった。
長打も、6月9日のマーリンズ戦での二塁打を最後に出なくなった。それでも監督のジョー・マドンは復調を信じ、また、エバン・ロンゴリアら主力が依然故障ということもあり、6月の時点で出ていたという戦力外の話については、「100打席打った結果で判断する」ことを決め、先発での起用を続けた。
6月には一塁の守備練習をしたり、大量ビハインド場面で投手としての救援登板を自ら志願する場面もあったが、外野手や指名打者、代打以外での出場機会はなかった。
7月1日のタイガース戦では、3打数2安打と活躍したものの、4番右翼で先発出場した翌日7月2日ヤンキース戦の右翼守備で、打球の目測を誤って落球した上、ファウルを追った際に左太もも裏を痛め、一度も打席に立つことなく途中交代を言い渡され、それ以降、出場機会は激減した。
結果的に、7月1日の第3打席が現役最後の安打(MLB通算1253本目、NPB・MLB通算2643本目)、7月2日が4番スタメンとして出場した現役最後の試合となった。
7月下旬に入ると、打席に立つ度に本拠地トロピカーナ・フィールドのファンから大きなブーイングが起こるようになった。
結局、7月19日のインディアンズ戦がスタメンで守備に就いた最後の試合(6番ライト)、7月22日のマリナーズ戦がスタメンとして出場した最後の試合(6番指名打者)、7月23日のマリナーズ戦が現役最後の出場試合(代打、ショートフライ)となった。
出場機会のなかった7月24日のオリオールズ戦試合後にマドン監督からDFAを通告され、翌25日に球団から正式にDFAが発表された。
8月1日には自由契約となり、他球団からのオファーを待ったが、ポストシーズン出場のための移籍期限となる8月31日までに獲得に動く球団はなかった。
結局、現役最終年となるこのシーズンは、出場34試合で打率.147、2本塁打、7打点、OPS.435という過去最低の成績に終わった。退団後は去就について「何も決めていない」としていた。
2012年12月27日にニューヨーク市内のホテルで緊急記者会見を開き、2012年シーズン限りで現役を引退することを表明した。
引退を決断した理由として、「命がけでプレーし、メジャーで力を発揮するという気持ちで10年間やってきたが結果が出なくなった」と述べ、NPB復帰を選択しなかったことについては「10年前の日本での自分の活躍を想像するファンの期待に応える自信を持てなかった」と説明した。一番思い出に残っていることは「たくさんある」としながらも、「長嶋監督と二人で素振りした時間」を挙げた。
自身の引退後については「ゆっくりしながら今後のことを考えたい」という姿勢を示した。同日、巨人オーナーの白石興二郎は松井を将来的に巨人の監督として迎え入れたい意向を示し、既にヤンキースへのコーチ留学を打診したことを明らかにした。
松井の引退を受け、数多くの球界関係者が談話を発表した。松井の恩師である長嶋茂雄は「現代で最高のホームランバッター」と賛辞を送った。内閣官房長官の菅義偉や外務大臣の岸田文雄といった政府要人からも引退を惜しむコメントが寄せられた。
松井の引退は日本国内での速報から間もなくして各国でも報じられ、メディアやファンから引退を惜しむ声が相次いだ。
ヤンキースでチームメイトだったデレク・ジーターは球団の公式サイト上で「ヒデキは特別な存在」と惜別の言葉を贈り、ヤンキースオーナーのハル・スタインブレナーも「ヤンキースの成功に大きく貢献し、常にヤンキースファミリーの一員として愛されるだろう」と称えた。ヤンキース時代の監督のジョー・トーリは「松井の監督だったことを誇りに思う」と称えた。
また、CBSスポーツの記者のジョン・ヘイマンは「松井はヤンキースで最も人間的に優れた人物の1人で、誰からも愛された」と賞賛し、YESネットワークの記者のジャック・カリーは「松井は私が取材した選手の中でも最高級の振る舞いをする選手だった」と絶賛した。ニューヨーク・タイムズ紙は2ページにわたって松井の引退に関する記事を掲載した。
2013年3月上旬に長男が誕生したことを明かす。
2013年(平成25年)4月1日の午後には、内閣官房長官の菅義偉(当時)が記者会見で、日本政府が国民栄誉賞を長嶋茂雄と同時に授与する方向で検討していることを明らかにし、16日に国民栄誉賞の授与が正式に決定された。
同年5月5日、東京ドームで行われた読売ジャイアンツ対広島東洋カープ戦の前に松井の引退セレモニーと国民栄誉賞授与式が行われ、内閣総理大臣の安倍晋三(当時)から国民栄誉賞が授与された。その後の始球式で松井は巨人時代のユニフォームを着用し、長嶋を打者、巨人監督の原辰徳を捕手、安倍を審判に迎えて始球式を行った。
2013年5月30日にはニューヨーク・ヤンキースが、チームの開幕戦からちょうど55試合目のホームゲーム(雨天延期などのため、セレモニー当日は55試合目とはならなかった)となる7月28日のサンディエゴ・パドレス戦で引退セレモニーを行うことを発表した。
7月からはヤンキース傘下のショートA級スタテンアイランドで打撃投手を務めた。7月16日には、NHK BS1のMLBオールスターゲーム中継で、現地のシティ・フィールドからゲスト解説を務めた。
7月28日にニューヨーク・ヤンキースと1日限定のマイナー契約を結び、この日のレイズ戦の試合前にヤンキー・スタジアムのグラウンド上で引退セレモニーを行った。この日、松井はヤンキースの一員として野球選手の生涯を終えた。
9月22日には同シーズン限りで引退するマリアノ・リベラの引退セレモニーに出席した。
2014年2月1日から13日まで読売ジャイアンツの春季キャンプで臨時コーチを務めた後、2月19日から3月4日までニューヨーク・ヤンキースのスプリングトレーニングでゲストコーチを務めた。
5月24日にはクーパーズタウンで行われるアメリカ野球殿堂の記念試合にヤンキースの代表として出場。本塁打競争にも参加し、記念試合ではスティーブ・エイベリーから本塁打を打つなど3打数1安打1打点の活躍を見せた。6月22日にはヤンキースのオールド・タイマーズ・デーに出席し、記念試合では試合途中から投手として登板もした。
8月25日、ヤンキース時代の恩師であり、背番号「6」がヤンキースの永久欠番に認定されたジョー・トーリの記念セレモニーに出席。また、9月7日には盟友デレク・ジーターの引退セレモニーに出席。同年のヤンキースタジアムでの最終戦となった9月25日には、NHK BS1での中継内でヤンキースタジアムからゲスト解説を行った。試合はジーターのサヨナラタイムリーでヤンキースが劇的な勝利を収めた。
2015年2月3日・4日の2日間にわたって古巣の巨人軍宮崎キャンプを視察。また2月5日から7日まで沖縄県宜野湾でDeNAのキャンプを視察した。
3月11日にヤンキースGM特別アドバイザーに就任した(契約期間は1年)。キャンプ地のフロリダ州-タンパでブライアン・キャッシュマンGM同席のもと、記者会見を行い、「ヤンキースでは素晴らしい時間を過ごした。今度は若い選手の力になれるように頑張っていきたい。僕にとっても大きなチャレンジ」と抱負を語った。
同月21日には東京ドームで行われたオープン戦の巨人対北海道日本ハムファイターズ戦でデレク・ジーターと共に始球式を行った。試合後には同球場で東日本大震災の被災地の小中学生を支援する慈善イベント「トモダチ チャリティー ベースボールゲーム」に参加。チャリティーイベントの最後に行われたヒッティングチャレンジでは「せっかくこれだけのお客さんが集まってくれたので、僕が打ちます」と自ら打席に立ち、小宮山悟氏が投じた5球目を右翼スタンドへ放り込んだ。
2016年もヤンキースGM特別アドバイザーとして活動した。4月5日にはヤンキースとアストロズの試合にて日本人としては史上初となるヤンキースタジアムでの始球式を行った。
2017年1月上旬に次男が誕生したことを明かした。ヤンキースGM特別アドバイザーとして活動を継続した。
2018年1月15日、野球殿堂博物館は、2018年度の野球殿堂競技者表彰プレーヤー部門の顕彰者として松井を選出したことを発表した。なお、松井は野茂英雄(2014年度)の45歳4か月を更新する43歳7か月での最年少野球殿堂顕彰者となった。候補1年目での表彰者が二人選出されるのはこれが初の事例である。
また、この年はアメリカ野球殿堂の殿堂入り候補資格も得たが、1月24日に行われた記者投票では4票の獲得(得票率0.9%)にとどまり、1年目で殿堂入りの資格を喪失した。ヤンキースGM特別アドバイザーとして活動を継続した。
2018年8月5日に始まった第100回全国高等学校野球選手権記念大会の開幕試合、星稜(石川)-藤蔭(大分)に先立ち、奇しくも当星稜高校のOBとして松井が始球式に登場した。投球はワンバウンドとなり、松井は頭を抱えて苦笑いを浮かべた。
なお、この時の朝日放送テレビでのテレビ中継には星稜高校野球部名誉監督の山下智茂が解説者として出演しており、松井の始球式を見届けている。
始球式終了後の松井は開幕戦を終始ネット裏で観戦し、結果9-4のスコアで星稜が勝利した直後、松井は直立不動の姿勢で星稜高校の校歌を歌唱した。さらに、松井の隣席にはかつて星稜高校同期生のチームメイトで、現・朝日新聞記者の福角元伸が座っており、母校勝利時に松井自ら笑顔で福角記者へ「オイ、歌うぞ!」と校歌斉唱を催促していた。
2021年7月4日、古巣であるエンゼルスに所属する大谷翔平がシーズン第31本目の本塁打を放ち、松井が記録した日本人では最多のMLBシーズン本塁打数に並んだ。直後に松井は大谷へメッセージを送り、大谷を絶賛し応援する形で次のように語った。
さらに、その3日後となる同年7月7日には大谷が第32本塁打を記録して日本人では単独首位となった(当時点ではMLBの同シーズン内で最多の本塁打数でもあり、またオールスターゲーム前に32本塁打以上かつ12盗塁以上の達成はMLB史上初の記録でもあった)。
その際にも松井は大谷へ同様の祝福メッセージを送った。そのメッセージを受けた大谷は、「(松井を)子どもの頃からすごい見ていたので、光栄だなと思います。」「素直に嬉しいですし、(松井が)わざわざコメントしていただけるのも嬉しいです。まだまだ打てるように期待に応えられるように頑張りたい。」などと語った。
2021年(令和3年)7月23日、国立競技場(オリンピックスタジアム)で行われた2020年東京オリンピックの開会式で、松井は長嶋茂雄と王貞治とともに聖火ランナーを務めた。
3人は野村忠宏(柔道で五輪三連覇)と吉田沙保里(レスリングで五輪三連覇)から聖火を受け取り、松井は恩師である長嶋の背中を支えて2人でともに歩いた。最後に王が聖火を高々と掲げ、松井が受け取って、次のランナーである医師と看護師のペアへ手渡した。
松井は開会式終了後にテレビ出演し、「監督が受け取られて、長嶋さんが受け取られて、そのあとはとにかく無事に長嶋さんをエスコートする。最後、次の方に無事に渡せましたので。たくさんの長嶋さんのファンの方、王さんのファンの方に喜んでいただけたのなら、私もうれしいです」と語った。
「ニューヨーク・ポスト」は、「野球がオリンピックに戻ってきた。元ヤンキースのスターを起用した」「松井が今も鋭いスイングをするのか考えたファンがいることを想像するのはたやすい。2009年のワールドシリーズではMVPに選ばれ人格者としても知られている」などと報じた。
なお、野球がオリンピック競技に採用されたのは2008年北京オリンピック以来13年ぶりのことであった。次回の2024年パリオリンピックでは削除されることが決定しており、以降もオリンピックへの復活は予定されていない。
同五輪の聖火リレーの最終ランナーは、テニス選手の大坂なおみが務めた。しかし、アメリカのメディア「デイリー・ビースト」によると、当初は松井が最終ランナーの大役を務める予定だったと報じられている。
同誌によれば、東京オリンピック組織委員会の会長であった森喜朗は「松井は純粋な日本人であり、日本とアメリカにおける野球のチャンピオンで、闘志を具現化した存在」として松井を推薦していた。また森は聖火リレーの演出の締めくくりとなる聖火台への点火方法について「(松井の愛称でもある)ゴジラが炎を吐いて、大釜に点火するのは面白いだろう」と話していた。森の意向は当時「神の声」であり、松井の最終ランナー案は実質的に決定していた。
なお、森は松井と同じ石川県根上町(現・能美市)の出身で、小学校も松井と同じであった。森は松井の後援会会長を務め、2001年には松井へ「日本プロスポーツ大賞・内閣総理大臣賞」を授与している。
しかし、森は2021年2月に女性差別発言を行ったとして批判され、会長を辞任した。これに伴って松井案は廃止となり、実際の最終ランナーは大坂へ変更されたという。
NPB・MLB通算で507本の本塁打を打った。巨人時代は、日本野球界を代表する長距離打者で、10年間で332本塁打を放った。高校卒業から10シーズンでの本塁打数は、王貞治の356本に次ぐ歴代2位で、300本以上打った打者は王と松井の2人だけである。3割を超える打率を維持しながら、本塁打・打点で常にリーグトップクラスの成績を残し、OPSでも、通算4000打数以上の選手では王貞治に次いで歴代2位となる通算.996。
MLB移籍後は、勝負強さが魅力の中距離打者として活躍した。タイトル争いをする程の数値は残せなかったものの、アジア人選手としてMLBシーズン31本塁打は大谷翔平に次ぐ歴代2位(通算175本塁打は日本人歴代1位)、シーズン192安打はイチローに次ぐ歴代2位(通算1253安打もイチローに次ぐ歴代2位)、長打率・OPSでは通算記録で歴代1位となっている。 アジア人選手では、松井と大谷の2選手しか達成していないMLBシーズン30本塁打以上(40本塁打以上は大谷のみ)と、日本人選手唯一の5度のシーズン20本塁打以上を記録している。2007年(5年目)にはアジア人史上初となるMLB通算100本塁打、2010年(8年目)には150本塁打を達成。MLBで通算100本以上の本塁打を打っている日本人選手は松井(175本塁打)、イチロー(117本塁打)、大谷(現役)の3選手だけである。現役最終年となる2012年には2本の本塁打を放ち、MLB通算175本塁打で現役引退した。
打撃については「楽に、なおかつ正確にスイングする」、「ゆっくり、ボールを見極める間合いをつかむ」、「左の軸足から、踏み出す右足にスムーズに体重移動する」、「(時速)140キロのボールを130キロぐらいに見えるぐらいボールをゆっくり見る」などということを挙げている。
NPB時代は狭い東京ドームを本拠地にしていたが、広いナゴヤドームや甲子園球場でも本塁打を量産していた。一方、日本球界時代のある時期、明治神宮野球場での試合で左翼ポール際を狙うことが多かった松井はオールスターの際にベンチで会った古田敦也に「松井...志が低いよ」と苦言を呈されたことがある。
MLB移籍前は「メジャーでもホームランバッターでありたい」と語っていたが、MLB移籍以降は本塁打が減り、自らを「メジャーでは中距離打者」と評すことが多くなった。各種データからも、強打者から巧打者への変身が見て取れる。NPB時代は5度のOPS1.000超えを果たしたが、MLB移籍後は2004年の.912が最高であり、長打率も2004年と2009年を除いて.500を切っている。MLBでの本塁打減少については、朝日新聞紙上の上原浩治との対談において、「ボールが飛ばない」とNPB/MLBのボールの質の違い(MLBで使用される球はNPBで使用される球より格段に飛ばないとされる)に言及している。また、NPBよりも外に広いストライクゾーンと、本人曰く「見たこともないボール」という打者の手元で微妙に変化しながら外角に落ちる球(ムービング・ファストボール)にも苦しめられた。そして、「最大の問題」として、右利きの左打者であるため左手で打球を押し込む力がどうしても弱くなってしまうことを挙げ、「メジャーでホームランを打つためには外角の球を逆方向に打てる技術とパワーが必要。そのためには左手の押し込みがきちっとできないとダメなんです」と語っている。これらの要因が重なって、ホームラン数はNPB時代に比べて大きく減少した。事実、右投げ左打ちが長打に恵まれにくい状況があることは記事になることがあるほどの根拠であった。
井端弘和が2021年9月に公開した動画ではパワーランキング日本人OB部門1位を獲得した。
MLB2年目以降は、NPB時代のようにボールを前で捉えるのではなく、出来るだけ体に近付けてから確実にバットの芯で捉えるスタイルへと切り替えた。また、ウェートトレーニングなどでも左手を重点的に鍛え、左手で箸を持つなどの努力を重ねた。外角のボールに対しては、「打てないボールは、打たなくていい」と割り切ると共に、レフト側に強く打ち返すという気持ちを持つことで、次第に克服していった。こうしてMLBに適応していった松井だが、ボールを体に近付けてから打つスタイルに変えたことで飛距離が出にくくなり、NPB時代のような圧倒的な本塁打数を記録することはなくなった。本塁打よりも、最もチームの勝利に直結する打点にこだわるようになり、MLB在籍9年間で4度も100打点以上を記録している。元MLBコラムニストのラリー・ロッカは「松井はゲームに勝つために必要なさまざまな武器をもっている。それはホームランを40本打つよりも重要なことだ」と評価している。
現役時代は、度々本塁打へのこだわりを滲ませる発言もしており、2009年開幕前には、打率よりも本塁打にこだわる本来の姿に戻ることを明言していた。同年は本塁打にこだわる姿勢に戻り、MLB7年目にして16.3打数に1本という自己最高の本塁打率(リーグ7位)を記録し、プレーオフでも4本塁打を放つ活躍を見せた。これは、MLB在籍期間が長くなり、MLBの投手が投げる球の軌道にも慣れ、再び体の前でボールを捉えることが出来るようになってきたからだという。しかし、翌2010年は衰えを見せ、本塁打数・本塁打率共に悪化。2011年は、怪我で長期離脱した2006年と2008年を除いて、MLB移籍後最低であった2003年の16本を下回る12本に終わり、2012年は、MLB昇格後7打席で2本塁打を放ち意地を見せたものの、戦力外通告を受けるまでの96打席で本塁打が出なかった。
ヤンキース時代は、左打者にホームランが出やすいヤンキー・スタジアムを本拠地としていたが、球場に関係なく本塁打を放っていた。2009年は28本塁打のうちヤンキー・スタジアムで放ったのは半分以下の13本塁打で、残りの15本塁打はビジターで放った。前述のように、右投左打の打者であることから「どうしても左手が弱い」と自己分析しており、左方向へ流し打つ打球はあまり伸びがない。ヤンキース時代7年間で放った140本塁打のうち、左方向への本塁打は10本にも達しない。不調時には打球が上がらずに、内野ゴロが増える傾向にある。日本時代の2001年や2002年の前半も打球が上がらずに苦しんだ経験がある。最新のセイバーメトリクスなどを扱う米国の大手記録サイトFangraphs によれば、シンキングファストボールに苦しんだ2003年のGB/FB(全ゴロ数÷全フライ数)は2.30に達し、全打球に占めるゴロの割合は54.7パーセントに達した。一方で、フライの割合は23.8パーセントに過ぎなかった。これはゴロが多いことで知られるイチローとほぼ同じ数字であった。しかし、メジャーに対応した翌年からは打球が上がることが多くなりフライ性の割合が増え、GB/FBも0.89〜1.36の範囲で推移している。
打率についてもNPB時代の通算打率は3割を超え、2001年には首位打者のタイトルも獲得している。MLBでも2005年に打率.305を記録、この年はイチローの打率を上回った。それ以外の年も2008年までは3割前後の打率を残している。選球眼に優れており、打席ではしっかりとボールを見極め、無闇に早打ちはしない。早いカウントでのボール球に手を出すことは少なく、2ストライクに追い込まれても簡単にはあきらめない。三振の数もあまり多くない。「全ての打者に共通するのは打率」という意識を持っており、本塁打数よりも打率を調子・相性の判断基準にしている。特に苦手としているコースが無いことも安定した打率を残せる要因であったが、2009年は外角球の打率が大幅に低下し、ヒットゾーンが限られたコースに狭まった。また、引っ張る打球の率が上昇し、いわゆるプルヒッターとしての度合いが強まった。そのため、夏場以降は相手チームから右方向への打球に備えた守備シフトを敷かれるようになった。2009年はそれまで得意にしてきた速球に対する成績も低下し、外角球への対応と併せて打率低下の要因になったと見られている。
基本的にスロースターターであり、4月、5月は低打率に苦しむこともあったが、後半戦には調子を上げた。MLBでの通算成績も、4月、5月のOPSは.700台であり、6月以降は.800を超えている。特に、7月は通算打率.309、OPS.916と得意にしている。
左打者ではあるが、対左投手も苦にしないことで知られた。MLB1年目の2003年は、対右投手と対左投手の打率は共に.287であり、翌2004年こそ対右投手が.314、25本塁打、対左投手が.265、6本塁打とバラつきが目立ったが、2005年は対右投手が.281、15本塁打の成績だったのに対し、対左投手では.354、8本塁打と打ち込んだ。2009年も左投手から本塁打を量産し、左打者としてはプリンス・フィルダーと並んで両リーグ最多タイとなる13本塁打を左投手から放った。しかし、2010年は対左投手の打率が低迷し、シーズン後半は相手先発が左投手の時はベンチを温めることが多くなった。2011年は対右投手の4本塁打、OPS.654に対し、対左投手は8本塁打、OPS.795と再び強さを発揮した。MLB10年間の通算では、対右投手は3534打席で打率.281、119本塁打、OPS.831、対左投手は1532打席で打率.284、56本塁打、OPS.802となっている。
投手との相性については「相手との相性は考えない。投手によって、ある程度狙い球を絞って打席に入るだけ」と語っている。対戦する投手を「どんな球種を持っているか」、「何を使って空振りさせようとしてくるか」、「どういう感じで術中にはめようとしてくるか」といった大枠でタイプ分けし、球種の代表的な使い手として知られる有力投手や対戦機会の多い投手に当てはめて対戦に臨んでいたという。「いわゆる魔球と言われるような緩い球速で変化の大きい変化球よりも、カッター系やシンカー系といったムーヴィング・ファスト系の芯を外す球種の方が厄介」と述べており、こうしたムーヴィングファスト系の球種を操ったペドロ・マルティネスとロイ・ハラデイを『最高の投手』として挙げている。
NPB時代には、石井一久を苦手にしていた。1999年には遠山奬志に13打数無安打に抑えられたが、翌2000年に遠山から本塁打を含む3安打を放つと、2001年以降は逆に打ち込んだように、努力・工夫を積み重ねて苦手投手を克服する忍耐強さを持っている。
MLBに在籍した10年間で計782人の投手と対戦したが、30打席以上対戦している投手は24人である。その中で対戦成績のOPSが1.000を超えている投手は、デレク・ロウ(1.213)、ヨハン・サンタナ(1.189)、ジェレミー・ボンダーマン(1.118)、バートロ・コローン(1.033)、エドウィン・ジャクソン(1.009)の5人である。それ以外では、ジェームズ・シールズ(26打席で1.542)、ダグ・ウェクター(24打席で1.378)、ブロンソン・アローヨ(23打席で1.379)、ブライアン・タレット(21打席で1.521)と特に相性がいい。逆に分が悪いのがジェレッド・ウィーバー(.454)、ブルース・チェン(.502)、スコット・カズミアー(.531)、ジェレミー・ガスリー(.552)である。それ以外では、B.J.ライアン(24打席で.439)、グスタボ・チャシーン(24打席で.426)、スコット・ショーエンワイス(21打席で.267)と特に相性が悪い。また、全投手中最多の69回対戦しているボストン・レッドソックスのナックルボーラー、ティム・ウェイクフィールドに対しても苦手意識を持っていた。ウェイクフィールドに対しては、通算62打数13安打の打率.210、OPS.645であり、「あの球は打てない。だって、あんな球を投げられる投手がいないんだから、練習のしようがないんだもの」と感服している。
また、MLB初安打を放った相手であり、「最高の投手」と敬意を払ったロイ・ハラデイとはウェイクフィールドに次いで2番目に多い67回の対戦があり、63打数14安打の打率.222ながら、ジェームズ・シールズと並んで全投手中最多の4本塁打を放っている。以前はハラデイを大の苦手にしていたが、晩年は苦手を克服した。対戦機会が多いハラデイに対しても、対戦する時は狙い球を絞るようにしているという。
打撃妨害での出塁が一般的な打者に比べて多い。2010年は4度の打撃妨害を受けたが、これはMLB全体でカール・クロフォード(5度)に次いで2番目に多い数字だった。
打撃フォームは毎年微妙に変えていた。プロ初年度はグリップを低くして構えていたが、1年程で首の付け根の高さに修正。30本以上の本塁打を量産しだした1996年頃は、投手に対してバットを垂直に立たせた状態。50本で本塁打王を獲得した2002年には、それまでより少しバットを傾けて腰のねじりも大きくなっていた。メジャー移籍後もこの習慣は続き、左手首の骨折から復帰した2007年以降はがに股に立って尻を突き出したようになり、2010年からは左方向へ打つことを意識するために、グリップを首の付け根より高く構えて外角の球でも体の近くでミートするようにしていた。
2桁盗塁を記録したことはないが、100m走のタイムは11秒台を記録したこともあり、MLBの中でも遅い方ではなく、ヤンキース移籍当初は一塁到達まで4.15秒と左打者としては平均のタイムだった。晩年は相次ぐ脚の故障により満足な走塁を行うことが難しくなったため、走塁と守備について一部より「三流」という声も上がった。一方で両膝を痛めた晩年でも、全力疾走は怠らなかったため、ヤンキースの選手曰く「ポサダよりは速い」と言われた。
走塁中のアクシデントを防ぐために、日頃から足の爪の手入れを熱心に行っていた。
アマチュア時代は捕手や投手を務めていたこともあったが、高校入学後は内野手に固定され、最終的に三塁手を務めた。本人としては三塁手にこだわりがあったが、プロ入り直後に外野手へのコンバートを命じられる。新人時の1993年は左翼だったが、翌年のオープン戦で新外国人のダン・グラッデンとヘンリー・コトーの守備と肩がまずかったこともあり、開幕直前の4月2日から右翼に転向して定着し、シェーン・マックが抜けた1997年から中堅手として固定された。2000年から2002年まで3年連続でゴールデングラブ賞を獲得した。巨人時代もある時期までは三塁手復帰を熱望し、再コンバートが度々話題となったが、実現しなかった。1998年にはJA全農Go・Go賞・強肩賞を受賞するなど、日本時代は肩は強い方であると言われてきたが、ヤンキース移籍後は「しっかりとした姿勢から投げる時は力強い送球を見せるものの、安定したツールを持つ中で唯一の弱点」と評されるようになったことに加え、ヤンキース移籍後は中堅のレギュラーにバーニー・ウィリアムスがいたため、主に左翼手として起用されるようになった。2011年シーズンまでの9年間で、左翼手として609試合、中堅手として77試合、右翼手として7試合に先発出場している。メインの守備位置である左翼では5163.1イニングで24失策、守備率.983、Range Factor(RF、9イニング当たりのアウト達成数)2.05、補殺39という数字を残している。メジャー移籍後は左翼手へのコンバートもあり、最初の2年間は苦戦したが、それ以降は多くの守備指標を向上させた(詳細は後述)。メジャー移籍後は巨人時代とは打って変わって守備でも派手なプレーをするようになり日本時代の関係者を驚かせたが、本人は人工芝の東京ドームでは無理なプレーができなかっただけであり、日本でも甲子園や広島市民球場では同じようなプレーをしていたつもりだと説明した。
2007年以降、ヤンキースが守備重視の方針を掲げたこともあり、故障がちになった松井に代わって、ジョニー・デイモンが左翼手のレギュラーとして起用されることが増えたため、指名打者での出場が増えた。2008年6月に左膝を痛めてからは指名打者専任となっており、同年6月16日のアストロズ戦で左翼を守ったのが、ヤンキース時代では最後の守備機会となった。一時は一塁手へのコンバート案も出されたが、ヤンキースGMのブライアン・キャッシュマンに却下された。特に2009年はプロ入り後初めて一度も守備に就く機会がなく、2010年4月8日の対ミネソタ・ツインズ戦で2年ぶりの公式戦守備に就いた。
守備に関する技術では、2004年に『スポーティング・ニュース』誌の記事で捕球後の送球を絶賛された。補殺数はリーグの左翼手の中でも多いほうであり、本人は本塁での補殺を「外野手として最高の見せ場」と捉えている。セイバーメトリクスのシンクタンク「Hardball Times」が各外野手の送球をKill+(補殺ポイント)、Hold+(走者を先の塁に進ませなかったポイント)、Runs/200(200イニングあたりに防がれた失点数)などの各数値により総合的に評価した「Best Outfield Arms」では、MLBの正左翼手30人中6位と上位にランクインした。
一方で、守備範囲などを含めた総合守備指標では評価が低かった。ミッチェル・リクトマンが考案し、現在米国で最も広範に用いられている守備指標の1つ「UZR(Ultimate Zone Rating)」(同一シーズンの同一リーグにおいて同一ポジションにおける平均的な選手と比較し、失点をどのくらい防いだかを示す指標)は通算で-77.3(左翼で-65.5、中堅で-10.6、右翼で-1.2)という低い数値を喫し、ESPN記者のロブ・ネイヤーがUZRを基準に選んだ2000年代のワーストグラブ(左翼手)に選出されてしまった。守備防御点でも外野手として通算-27、左翼手として通算-18と平均を下回った。
上述のUZRやDRSのように比較的ポピュラーな総合守備指標では通算で平均を大きく下回る数値を喫したが、守備指標によっては意外な結果も表れることもあった。例えば、「Baseball Musings」のDavid Pintoが考案した「PMR(Probabilistic Model of Range)」によると、2007年は好守で知られるカール・クロフォードと大差がなく、正左翼手の中ではトップクラスという分析結果が出た。
連続試合出場は、2006年の故障で記録が途切れるまで、NPBで1250試合、MLBで518試合(MLBでデビュー以来518試合連続出場は、日本人選手としては歴代1位)、日米通算1768試合を数えた。2005年には「本塁打より、むしろ連続試合出場」と話すなど、連続試合出場には並々ならぬこだわりを持ち、「遠いところからわざわざ来てくれるファンのために」という考えによって休養日にも代打や代走、守備交代でわずかな時間でも出場し、2006年の骨折まで記録を維持した。しかし、地元ニューヨークのメディアからは「記録より、疲れた時には休んだ方がチームのためになる」と、連続試合出場に懐疑的な声が上がったこともあり、監督のジョー・トーリも「連続試合出場記録を途切らせて悪者にはなりたくないからな」と発言したこともある。このように、連続試合出場に並々ならぬこだわりを持っていたが、2006年の骨折直後には、「心の中で怯える自分がいた」と記録がいつか途切れるかもしれないことに大きなプレッシャーを感じていたことを明かした。それと同時に、連続出場をサポートしてくれたトーリ監督に感謝の意を示した。
打撃についてはメジャー移籍後も概ね高い評価を受けている。フリーエージェント(FA)移籍の際、MLB機構とMLB選手会の労使協定に基づいて選手評価の資料として使われるPLAYER RANKINGS評価(米大リーグ公認の記録専門会社「エライアス」が過去2年間の成績を独自の算出方法で計算して得点を付けたもの)では、2003-2004シーズン、2005-2006シーズンのいずれもイチローらを抑えて日本人打者ではトップの評価であった。その全てで「A」ランクの高評価を受けており、ア・リーグ全体での一塁手・外野手・指名打者部門での順位は7位(2003-2004)、14位(2005-2006)、16位(2007-2008)であった。
塁打、四球、盗塁などを点数化し、選手個人の得点生産能力を測る指標である「XR(extrapolated runs)」では、NPB在籍10年ながらNPB歴代10位につけている。しかし、渡米直前3年間と渡米後の1打席当たりXRを比較すると、リーグのレベルの違いが影響し、実に35パーセントダウンしている。攻撃力を評価する指標OPS(出塁率+長打率)は、MLB在籍7年間で通算.852を記録しており、総合打撃指標「XR27」(XRの改良版)は同7年間で6.28を記録した。これはいずれも日本人メジャーリーガーの中ではトップの数値である。
近年、普及しつつある打撃・走塁・守備を組み合わせた総合的指標「WAR」(Wins Above Replacement。同じポジションの控え選手に比べて上積みした勝利数)では、+21.3を記録している。なお、WARの守備評価については、その精度を巡る議論も続いている(詳しくはWAR (野球)を参照)。たとえば、「Baseball-Reference.com」版WARでは、通算+18.6となっている。2004年に記録したキャリアハイの+4.6はリーグ10位の数字だった。
2008年2月21日、スポーツ専門誌『スポーティング・ニューズ』は、「成績の割りに高年俸を得ていると思われる選手」のワースト5をカテゴリ別に発表した。その中で、前年度までの契約期間が2年以下である「契約期間の短い打者」の部門で松井が2位にランクインした(1位はJ・D・ドリュー)。同誌は年俸800万ドル以上の選手のうち、前年度以前から複数年契約を結んでいる86人を抽出し、100万ドルあたりで何勝に貢献したかを査定した。その結果、松井は過去2シーズンで0.9勝分しか貢献できていないとされた(平均は1.4勝分)。同誌は、「松井はかつて『鉄人』だった」としながらも、近年は度重なる故障により出場試合数が減少していることを指摘した。
張本勲は自著『最強打撃力』(ベースボール・マガジン新書発行)において、「松井はまだ自分自身のボールを捉えるポイントを掴んでおらず、小細工でごまかしているところがある。だから好調時は素晴らしい働きをするものの、調子を崩すとなかなか抜け出せない」と指摘した。例えば2005年の開幕4試合で3本のホームランを放った後、202打席ホームランなし、という事実からそれが裏付けられる。さらに、「松井にとって自己最高の成績を残した2002年の50本を打ったときでも、私から見るとポイントを掴んでいなかった」と記している。王貞治は「アメリカで30本以上のホームランを打ったんだから、素晴らしいと思う。日本の野球界で50本打ったことと、アメリカで30本打ったことを比較する必要なんかない」「本数も中身も図抜けてすごいホームランを打っていた」と称賛した。
各種の人気調査などでは常に上位にランクインしてきたが、2005年以降は相次ぐ故障やそれに伴う成績低迷、WBC辞退などの影響で陰りが見えつつあった。中央調査社が実施している「人気スポーツ」調査における「最も好きなスポーツ選手」の項目では、2003年、2004年に2年連続で2位以下に圧倒的な差を付けた1位となったが、故障に苦しんだその後は支持率が下降し、2009年には4位に下がった。バンダイが実施している「お子さまの憧れのスポーツ選手は?」では2004年に1位であったが、2009年には圏外であった。
他選手や監督などからの評価は軒並み高い。長嶋茂雄は松井の現役引退発表後に「現代で最高のホームランバッター」と評した。原辰徳は「強い精神力、頑健な体、そして類いまれなパワーに対しては度肝を抜かれた」と印象を語った。阿部慎之助は「体も大きいし打球の飛距離も群を抜いていた。重圧を見せずに黙々とプレーする姿勢に超一流選手としてのあるべき姿を見た」、上原浩治は「裏表がなく、人間的にも野球選手としても、あの人以上の選手はいないと思う」と、実力だけでなく人間性にも敬意を示している。佐々木主浩は「雰囲気があったし、対戦しても怖かった。他の打者とは違う、特別クラスの選手」と評したが、巨人時代の松井にとって佐々木は大の苦手投手だった。清原和博は「松井以上のパワーヒッターはどこにもいなかった」と語り、負けていても全ての打席を同じ集中力で立てるため数字として残るとも評価していた。金本知憲は2001年のインタビューで「(松井君は)目標ですね。ライバルじゃないです。彼はすごい。あのスイングといい、当たりの強さといい、あいつにはかなわん」と脱帽していた。辛口で知られる野村克也はON砲以降の巨人の4番打者で松井を最も高く評価している他、「監督として指導したかった」とも語っている。また、残した数字は松井より高いイチローや落合博満がマスコミ嫌いで通したのに対して、松井は常にどのマスコミにも分け隔てなく対応していることも高く評価しており、「人格的にも素晴らしい」「将来は監督になれる器だ」と絶賛している。
元チームメイトでヤンキース主将のデレク・ジーターは、「マツイはお気に入りの選手。いいスイングをしているし、好調時は手がつけられない」「彼が考えているのはチームが勝つこと。まさしくプロだ」と語っていた。同じくアレックス・ロドリゲスは「ヒデキは野球をよく知っている。打つだけではなく走塁などのレベルも高い」と評価し、アンディ・ペティットは「マッティ(松井の愛称)は出会ったときからずっと勝負強い選手であり続けた。とにかく勝負強いんだ」と絶賛した。ボビー・アブレイユは「マツイは本当に好人物で、プロフェッショナル」と松井の人柄を高く評価し、トリー・ハンターは、自身のブログで「マツイは日本の伝説の“ゴジラ”。打撃のバランスが素晴らしく、滑らかで、無理のないスイングをする。そして、左投手とチャンスにとても強い」と絶賛した。2002年に松井を獲得するように進言したヤンキースのスカウトのジョン・コックスは、同年50本塁打を放った松井の打撃だけでなく守備にも注目し、「松井は野球をよく知っていて、メンタルミスをしない」と評価していた。
実家は、祖母・松井瑠璃寿が設立した宗教法人「瑠璃教会」である。初代司教である瑠璃寿、そして二代目司教である父・昌雄の存在は、秀喜の人格形成に大きな影響を与えた。
「子供も大人と同じように一人前に扱う」という瑠璃教会の方針から、「ひでさん」と呼ばれて育てられた。小学3年生の時に父から贈られた「努力できることが才能である」という言葉を大切にしており、父がその言葉を筆で書いた紙を長く、勉強机の前に張っていたという。試合や練習、取材の対応からプライベートの過ごし方に至るまで、グラウンド外でも若手の手本となる選手である。松井ほど人間的に素晴らしい選手はいないとも言われる。松井は自身の性格について、「けっこう冷めているところがあるんです、何ごとにも! 物事に動じない? うん、よく言えばねっ(笑)。だからいつもボケッとしているんですよ(笑)。一人でいるのが好きなんです。」 と評している。基本的に温厚な性格で、野球以外の場で怒ることは少ない。ヤンキースのチームメイトであったCC・サバシアは、「松井は普段は大人しいけど、でもとてもいいヤツだよ」と人間性を高く評価している。
本人いわく「他人の悪口を言わない」ということが松井の信条の一つである。中学2年生時の家族との夕食の際、松井が何気なく友人の悪口を言ったところ、父が箸をおいて「他人の悪口を言うような醜いことはするな。ここで二度とそんなことはしない、と約束しなさい」と注意した。松井は「父との約束ですから、あれ以来他人の悪口を言ったことはありません」と語った。
グラブやスパイクなど、野球用具をとても大事に扱っている。特にグラブは毎日磨いており、松井本人は、「野球を始めたときからずっとしています」と話している。ジョー・トーリも、「彼ほど道具に対してリスペクトを持っている選手は見たことがない」といい、松井の人間性を高く評価している。ヤンキース用具係のルー・カクーザは、他の選手が平気で帽子やグラブを放り投げることに対し、いつも帽子とグラブを丁寧に並べてから準備体操に入る松井を見て、「マツイは素晴らしい。いつまでもあの気持ちを忘れないでほしい。ほかの選手も見習ってほしいよ」と称賛している。道具を大切にする姿勢については、“道具を大切にしなさい”という子どもの頃の教えを忠実に守っており、グラブ磨きは「僕の野球の原点」だと語っている。また、「一本のバット、一つのグラブは、いろいろな人の苦労によって出来上がっている」ことを強く意識しており、用具作りに携わった人々への感謝の気持ちを常に抱いている。
本業の野球以外にもCM撮影やTV出演など激務にもかかわらず、練習後にファンにサインをねだられても断らず、記者への対応も丁寧である。こうした振る舞いから、2005年度の小学校、2006年度の中学校の道徳副読本に登場、甲子園で5連続敬遠四球を受けた時の対応など、「誠実さ」「明朗さ」が取り上げられた。
星稜高校時代、「居眠りしても死角になるから」という理由で窓際の一番前の席が教室での「指定席」となっていたが、山下は「(松井の)授業態度はよかった」と打ち明けている。野球部の練習が大変で、通学に時間もかかるため、授業で全てを覚えようと心掛けていたため、成績も良好であった。野球部の活動以外での欠席は1日もなかった。星稜高校の卒業式では、野球部での活躍が評価され、星稜高校を経営する学校法人稲置学園から「総長賞」を贈られた。
父の影響で元々は阪神タイガースのファンであった。
高校時代、日本選抜に選ばれアメリカで試合を行っている間は、ロサンゼルス在住の日本人一家の元にホームステイしており、メジャーリーグの試合にも観戦に連れて行ってもらっていた。交流は現在でも続いており時々スポーツニュースでも放送されている。松井は一家の主人のことをアメリカのお父さんと呼び慕っている。
松井の中で一番印象に残っている巨人の4番打者は落合博満であり、2000年に初めて4番に定着しチームも優勝を果たした時に松井は報知新聞の手記に「あの人は4番らしかった。雰囲気を持っていた。自分の世界があったんだ。チームが苦しい時に矢面に立っていた。いわば風除け。それが信頼感にもつながった。」と書いている。
長嶋茂雄はドラフトで松井の入団が決まったところから、三年間で松井を球界を代表する選手に育てるための「1000日計画」を立ち上げた。東京ドームの試合ならドーム内練習場で、遠征先ならホテルの長嶋の部屋で、松井に素振りをさせ付きっ切りで指導をしていたという。その場で長嶋はスイングの音で、松井のスイングの良し悪しを判断していたとのこと。敢えてプレッシャーのかからないように松井を下位打線で気楽に打たせて実戦経験を積ませる配慮もしたという。
赤木ひろこの著書「ひでさん 松井秀喜ができたわけ」には、青年期までの松井の統率力には、ずば抜けたものがあったことが記されている。小学校時はクラスのいじめられっ子が松井の後ろに隠れただけで問題は解決し、5年生のリトルリーグの際、新たに赴任した監督が既にキャプテンは決定済みだったにもかかわらずそれを白紙にし「松井君には統率力があるから、頼む」と言わしめるほどの存在感を見せ、中学校時代には「松井君さえ味方につければこのクラスは大丈夫」と担任教師に評価されたほどで、星稜高校では前述されているとおり、山下監督により部員間投票の慣例を覆し、山下から直にキャプテンに指名された。
以上のように、真面目な性格であるが、遅刻魔としても有名である。2004年のオールスター戦でも遅刻し、ア・リーグ32選手中最後に球場入りしている。巨人時代から、遅刻するとなぜか本塁打を打つことが多い。2009年のワールドシリーズ第2戦の試合前には渋滞に巻き込まれて集合時間に30分遅刻したが、試合では決勝ホームランを放った。デレク・ジーターは「俺も明日から遅れてくるさ。まあ、本塁打を打ってくれるなら、毎日遅刻しても気にしないよ」と冗談交じりに語った。米メディアでも、松井が遅刻すると何故かホームランを打つ「ジンクス」が報道された。一方で、松井本人は「遅刻したつもりないんで、わからない(笑)」「え、反省?昔からしてない」と冗談混じりに応えている。なお、巨人在籍時の遅刻はたまにしかなかったとも言われ、その理由として集合時間30分前に全選手が揃う「ジャイアンツタイム」と呼ばれる時刻に遅れたことが遅刻ととられたという証言がある。
3・4歳頃からピアノを習い始めて、小学校4年生で兄と「マイ・ウェイ」を連弾するほどの腕前で、モーツァルトを愛聴していたこともあり、「根上のモーツァルト」と称された。現在もクラシック音楽を好んで聴くが、巨人入団後はピアノを弾く機会がなくなり、現在は弾けなくなっている。
巨人在籍当時から花粉症を患っている。MLB移籍後は4月から5月にかけて調子を落とすことが多く、特に2010年は遠征時の打率が非常に低くなっているが(同年4・5月の打率は本拠地では.278なのに対し、遠征では.165と1割以上低い)、これについても花粉症の影響が指摘されることがある。実際2005年には、本人自らメディアに「花粉症がつらかったんです」と語り、序盤の不調の原因が花粉症だったことを認めている。シーズン中の睡眠時間は7時間。視力は両目とも1.5。足のサイズは29。
引退後の2014年春季キャンプで巨人の臨時コーチを務めた際は右打ちでノックを行ったが空振りが目立ち、どん詰まりでバットが折れる事態まで発生し、ノックが不得手であることが露呈した。ノックの名手として知られる高代延博によれば、すごい打者でもノックができないことはよくあり、スイングの問題ではなくトスがうまく上げられないためであるという。また、通常は左打ちの松井が右打ちでノックをしていたのは、本人が「右でないとトスを上げられない」ためであったという。
公の場で英語を話すことはあまりなく、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)直後の2011年3月19日に、当時所属していたアスレチックスの公式サイトで被災者支援を呼びかける30秒にわたるメッセージを読み上げた際など数少ない。球団のイベント等で英語を読み上げるときも「流暢ではないので単語をひとつひとつはっきりと発音した」と謙遜している。インタビューなどの公式の場では、専属通訳のロヘリオ・カーロンを通して受け答えをしている。メジャー移籍時は中学2年生の英語教科書「ニューホライズン」を持参して渡米したというエピソードもある。
難しい英語でない限り日常会話に問題がなくなる程度に英語力が上達してからは、チームメイトとの会話も英語で行っていた。ヤンキース時代のチームメイトのCC・サバシアは、松井の英語力について「松井はいい英語を話すよ。こちらの言っていることは全て理解しているし、会話するには十分だ。」と評している。ニューヨークの記者によると、松井のリスニング能力には「不自由を感じたことはない。こちらの話していることは十分に理解している」という。英語力が上達してからも通訳を通して受け答えをしていた理由については「僕の拙い英語で万が一、誤解が生まれると困るから」と語っている他、「(カーロン通訳の)仕事を奪ってはかわいそうだからね」とも語っている。現役引退後もニューヨークで週に数回英語のレッスンを受けているという。2014年に外国特派員で行われた記者会見では、「英語が得意ではない」との理由から、スピーチ、質疑応答を全て通訳を介して行っている。
ニックネームは「ゴジラ」。初めてマスコミ陣営が松井に対して「ゴジラ」の愛称を用いたのは、当時星稜高校3年生になる1992年の春の選抜大会前のことであった。名付け親は日刊スポーツ記者で高校野球を担当していた赤星(現姓・福永)美佐子で、「下半身が大きくて犬歯が特徴的」という理由で「ゴジラ」の名前を付けたと語っている。当初、松井は「ゴジラなんて勘弁して下さいよ。もっと可愛いニックネームはないんですか?」と不満気だったが、名付け親の赤星は「あら、ゴジラだってカワイイじゃない?私は似合ってると思うのよ」と一蹴。ちなみに、高校2年生の秋に選ばれたオールジャパンのチーム内では、既に「怪獣」というあだ名が付けられていた。赤星の言からすれば容姿から発想されたこのニックネームは、結果的には、松井の打撃成績が築かれていく中で、その破壊力にぴったりのものとして広く定着していく。
これ以降、甲子園大会での活躍で全国に「ゴジラ松井」の愛称が一気に知れ渡ることになる。その後も、街を歩いていた時に子供達から「あっ、ゴジラがいるぞ!」と声をかけられたことで、松井自身「もうゴジラでいいや」と、そのあだ名を快く受け入れられるようになった。巨人入団直後には、某スポーツ紙で「ゴジラは嫌だ。新しいニックネームを募集中」とも報道されたが、松井は「それは全く違う。野球ファンの皆さんに『ゴジラ』で親しまれているなら、僕は大歓迎」と自身の著書に記している。また、打席に入る際のBGMにも「ゴジラのテーマ」を使用していたが、20代半ば頃にはクイーンの「ウィー・アー・ザ・チャンピオンズ」に変更している。渡米後も、「アメリカ人も覚えやすいから良いんじゃないですか」と語っており、現在では自らの愛称を気に入っている様子である。
2002年の映画『ゴジラ×メカゴジラ』、2009年の缶コーヒー「キリン ファイア」のテレビCMでは本物のゴジラと共演をした。米国へ移ってからも「ゴジラ」の愛称はヤンキースファンに受け入れられ、ヤンキースタジアムで松井がホームランかタイムリーヒットを打つと、ゴジラの咆哮音が流された。また、ヤンキース移籍直後の2003年にはブルー・オイスター・カルトの「ゴジラ」を入場曲に使用した。英語では、ニックネームを名前の間に挟むのが通例のため、『ヒデキ・ガッズィーラ・マッツーイ(Hideki "Godzilla" Matsui)』と呼ばれることもある。ヤンキースの公式サイトにあったファンフォーラムでは「mats」、または好機に強いことから「Clutchzilla」と呼ばれ、ヤンキースのチームメイトは「mats」と呼ぶことが多かったが、2008年からヤンキース監督に就任したジョー・ジラルディやアンディ・ペティットは「matty」、巨人時代の監督の原辰徳は「ゴジ」と呼んでいた。先述のように、2007年にはチーム内で「パックマン」という渾名を付けられたことがある。エンゼルスでは、トリー・ハンターが「ザ・クワイエット・アサシン(静かな殺し屋)」という新ニックネームを命名した。
インターネット掲示板「2ちゃんねる」の一部では、松井のことを「にしこり」と表現している。これは、松井を最も少ない文字数で表現した顔文字である。元々は「にっこり」であったが、改良を加えられて「にしこり」に落ち着いた。松井は記者からこのことを教えられ、「何これ、オレ?」「へえー、面白いじゃん。誰が考えたんだろうね」とほほ笑んだ。
背番号は巨人・ヤンキース・エンゼルス・アスレチックス在籍時代には一貫して55番をつけていた。巨人に入団当時、本人は高校時代につけていた5を希望していたが、当時は在籍していた岡崎郁が着用していた。岡崎引退後に5番を譲ってくれると思っていたものの、FA移籍した清原が着けることになった時には非常にガッカリしたことを述懐している。たまたま55が空いていたため55になったという説もある。巨人時代に年間最多本塁打55本を打った同球団OBでの王貞治の記録に肖って付けられてたというのは「新聞社のやらせ」と本人が否定している。ヤンキースに移籍した時には「背番号は何番でもいい」という発言をしていたが、前年までヤンキースに在籍し背番号55をつけていたラミロ・メンドーサがレッドソックスに移籍したため、ヤンキースでも55番をつけることができた。
松井が入団した当時の日本プロ野球にはほかに55番をつけた主力打者として大豊泰昭(中日)がおり、二人の活躍とともにそれまで背番号としては格下視されていた55番の価値を上げるとともに、互いに左打ちで長距離打者であったことから55番イコール左打ちのパワーヒッターというイメージが強まった。
松井がヤンキースへ移籍した後の巨人では2008年シーズン終了時まで誰も55番をつける選手が現れず、事実上準永久欠番扱いになっていた。しかし2009年シーズンから2008年度ドラフト会議で巨人に1巡目で指名された大田泰示がつけることになった。この際、実績皆無の高卒新人に55番を継承させることについては、「松井に失礼」だという非難の声も上がった。その後大田はほとんど成績を残せず、2014年に44番に変更し、2015年以降しばらくの間は誰も55番を背負っていなかったが、2021年のオフに秋広優人が背番号を68番から55番に変更することを発表した。
エンゼルス移籍時は、在籍中のショーン・オサリバンが背番号55をつけていたが、背番号を譲られることとなり、ヤンキースでは2010年シーズンは背番号55は名誉番号として1年間欠番とされた。
2012年にタンパベイ・レイズへ移籍、5月29日にメジャーリーグ登録された際には、レイズの若手有望株であるマット・ムーアが背番号55をつけていたため、松井は空き番号(22、25、35、44、66、88など)の中からを背番号35を選択。翌年にムーアが初選出された2013年のMLBオールスターゲームのテレビ中継で解説を務めた際には、当時ムーアから背番号を譲る話を受けていたが断ったことを明かした。35を選んだ理由については「空いていたから。5番も残したかった。一番の理由は師匠(長嶋茂雄)の番号を一ついただいた。年齢を重ねても素晴らしい数字を残した(ヤンキース時代のチームメイトの)マイク・ムシーナにあやかれるようにしたいというのも一つ」と語った。
金沢カレーとしてチェーン展開するゴーゴーカレーは創業者・社長の宮森宏和が同じ石川県出身で、松井が満塁打を放ったことに刺激を受けて起業を決意したということもあり、松井を応援。店名のゴーゴーは背番号の55に由来している。松井が現役時代にホームランを打った日にトッピング券配布のサービスを行っていた。レイズで35番に変わった後も何事もなかったように(HP等でもそのことには触れず)トッピング券配布サービスを継続した。
独身時代はアダルトビデオ(AV)鑑賞が趣味であることを公言していた。AV鑑賞は本人曰く「松井流ストレス解消」で、多忙な中にあっても「月に数本」のペースでAV鑑賞に勤しんできた。好みのジャンルは「ストーリーのしっかりした単体もの」で、特に浅倉舞や有賀美穂を好んでいた。巨人在籍中は東京スポーツが松井のスクープを連発していたが、これは東スポの記者が松井に頻繁にAVを差し入れしていたためとされている。2007年には東京スポーツとソフト・オン・デマンドが共催した『AV OPEN』の特別審査員も務めるなど、業界との関係も深い。2007年後半以降「AV封印」を度々口にするようになり、2008年の結婚に伴い「保有していた1000本を超えるAVコレクションを全て処分した」と語っている。しかし、2010年には報道陣に対して、AV鑑賞を再開していることを示唆した。また、アメリカではしばしば55,000本のコレクションを所有していると報じられている。
大好物は寿司、焼肉、コーヒー。高校時代から練習帰りに地元の焼肉店へ通っており、当時からその大食漢ぶりは周囲を驚かせていた。現在も記者との会食やバーベキューパーティーを欠かさない。故郷・石川の名産品であるカニも好物の1つで、アメリカでもシーフードで有名なボルチモアに遠征で訪れる際には頻繁にカニ料理を食べに行っている。メジャー移籍後は日本食を中心に、韓国料理、中華料理、インド料理、タイ料理など、アジア料理の店を順番に通っていた。「スポーツ選手は食べるのも仕事」と語っており、熱心に美味しいレストランを探し続けた結果、今では全米各都市のレストランリストが頭の中に入っている。しかし、結婚後は外食が減り、自宅があるニューヨークでは妻の手料理中心の生活をしている。スプリングトレーニングで滞在するタンパでは、タイ料理やベトナム料理、中華料理を中心に外食することが多いが、滞在先のコンドミニアムでは、石川県産コシヒカリを主食にしている。ヤンキース時代は、ヤンキー・スタジアムで試合がある時は必ず、妻が握ったおにぎりを持参していた。なお、日本時代は酒は付き合いでビール1杯程度とほとんど飲まなかったが、渡米してからワインセラーを購入し、シーズン中でも赤ワインを嗜むワイン通となっている。
打席に入る際の登場曲は、主に友人でもある布袋寅泰の「BATTLE WITHOUT HONOR OR HUMANITY」を使用していたが、他にはレッド・ツェッペリンの「移民の歌」、ビートルズ、井上陽水、奥田民生、AC/DCの楽曲も使用していた。
読書家で知られ、試合前や雨の日には、よく読書をしている。オフに入ると他チームのプレーオフも見ずに読書に耽るほどである。野球選手を引退したら、本に関わる仕事をしたいとも語っている。
一番好きな作家は三島由紀夫。三島作品は全て読んでおり、特に「午後の曳航」が好きだという。歴史上の人物で傾倒しているのは空海で、関連の書籍を多く読んでいるという。著書『告白』の中では、最澄より空海に惹かれる所以を切々と語っている。
元相撲少年ということもあって、大の大相撲ファンである。貴乃花光司(元横綱・貴乃花)とは現役時代に同じ施設でトレーニングに励んでいた間柄。高見盛の隠れファンでもある。八百長メール問題が発覚した際には、「一相撲ファンとして残念」とコメントを出した。また、石川県出身の同郷ということもあり、大鳴戸親方とも親しい。
1997年の重油流出事故では100万の義援金を寄付。2004年12月26日に発生したインドネシア・スマトラ島沖地震の際には義援金として5000万円を、2007年3月25日に発生した能登半島地震の際には1000万円を寄付した。ジャイアンツ時代から天災やテロでの被災者・被災地等へ一度に数千万円の義援金を寄付している。ベトナムの孤児として暮らす20人ほどの子供たちに対しても、経済的里親として支援金を送っている。2011年3月に発生した東北地方太平洋沖地震では5000万円以上の義援金を寄付すると共に、MLBの公式サイトに英語で被災地への支援を呼び掛ける動画メッセージを掲載した。
「マスコミと良好な関係を築けないようでは、どんなに成績を挙げても選手として失格だ」と自ら話すよう、専属広報の広岡勲や、サンケイスポーツ記者の阿見俊輔をはじめとする各スポーツ紙の記者などマスコミとの関係は親密で、ヤンキース移籍後も毎試合後に会見を行い、記者たちの質問にも真摯に答える。延長などで時間が遅くなってしまった場合、取材を優先してユニフォームのまま会見を受けることもある。雑誌や写真週刊誌の取材も、分け隔てなく受ける。シーズン終了後に、番記者や通訳らをメンバーに加えて行われる「草野球」は毎年の恒例行事であり、松井本人も楽しみにしているイベントである。その際、松井は投手を務めるため、変化球の練習を密かに行っている。投手としての松井は、推定120km/hの直球とカーブを投じる。なお打席に立つ際にはハンディキャップとして、上述の小学生時代に振り返って右打席でバットを振る。記者と食事、キャッチボールを行うことも多く、度々記事になっている。遠征先でも、チームバスに同乗せずに報道陣のマイカーで球場に向かうことがある。また、記者とのバーベキューパーティーも毎年の恒例行事であり、他にも常日頃から焼肉、ステーキ、しゃぶしゃぶなどで記者との親睦を深めている。
日本テレビアナウンサーの河村亮とは野球選手と取材するアナウンサーとの間柄で知り合い、"新潟県出身""石川県出身"と言う同じ日本海側で、ざっくばらんに腹を割って話せる仲でプライベートで交流が有る。
松井が深刻な打撃不振に苦しんでいたメジャー1年目の2003年6月2日には、報道陣が「バーベキューでもやって落ち込んでいる松井を励まそう」と遠征先のシンシナティでバーベキューパーティーを開催した。かつてないほど落ち込んでいた松井だったが、このバーベキューにより気分転換に成功。その3日後、26試合119打席ぶりの4号本塁打を含む4安打3打点と大爆発し、スランプを脱した。この出来事は「リメンバー、シンシナティ」として松井の心に深く刻まれ、その後は打撃不振に陥った時でも暗さを表に出すことなく乗り越えられるようになった。
食事を共にした記者に対し、「たまにはいい記事かけよ」、「皆、もう僕の守備のこと悪く書けないね」と発言したというエピソードがある。「メディアの後ろに、ファンがいる」という考えを巨人時代から持っており、ニューヨークの地元記者からの信頼も厚い。ロバート・ホワイティングによれば、松井は初年度のキャンプにおいて、地元NYメディアの番記者たちを食事に招待したが、このようなことをする選手はヤンキースの長い歴史の中でも初めてだったという。しかもその折、松井は自ら所蔵するアダルトビデオを記者たちにプレゼントした。そのこともあり、先述の打撃不振の際にも、地元メディアの反応は比較的穏やかだったという。こうして、初年度オフには、全米野球記者協会(Baseball Writers' Association of America)NY支部が取材に最も協力的だった選手を表彰する「グッドガイ賞」にも輝いている。
このように、報道陣からの評判はすこぶる良かった松井であるが、二者択一の問いに対しては「どちらとも言えない」という曖昧な答えを返すことが多く、記者を悩ますこともあった。
唯一の高卒同期入団である村田善則とは、ともに現役を退いた後も食事に出かけるなど親しい関係である。
上原浩治も関係は悪くなく、殊に共に巨人を退団して以降は良好である。松井にとって上原は「弟のような存在」であり、メジャー移籍後も電話やメールで連絡を取り合っている。オフには一緒に食事にも出掛けることもある。2009年に上原がヤンキースと同地区のボルチモア・オリオールズに移籍が決まると、「おめでとう、対戦するのが本当に楽しみ」と、自分のことのように喜んだ。上原にとっても松井は特別な存在であり、オリオールズ入団後は「一番興味のある打者は松井さん」と強く意識し、対戦を心待ちにしていた。シーズンでは上原が右ひじの怪我のため途中で離脱するまでに、6度対戦し無安打に終った。
巨人時代に共に第一線で活躍した清水隆行や高橋由伸は松井に対して強い尊敬心と信頼感を寄せていたと松井の引退後に語っており、同時にチームメイトからの信頼も絶大だったと語っている。由伸は、松井と初めて出会ったのは大学生時代にドラフトで巨人入りを決めた後であり、とても一つ上に見えなかったと発言しており、パワーの次元が違う、自分とは年々差がついていたと思うとも発言している。また、堂々としていて動じないためそういう風になりたいと思っていたと発言している。
メジャーリーグでは、同い年でヤンキースの主将であるデレク・ジーターとの交流が数多く知られていた。独身時代にはジーターと同じマンションに住んでおり、初めて出会った2003年2月以来、食事を共にしたり、ときには自宅でのホームパーティーに参加したりするなどして親睦を深めてきた。選手として、天才肌ではなく努力でのし上がったジーターに自らと似た境遇を感じ、尊敬の念を抱いているといい、「ジーターともっと話したい」という理由から英会話を熱心に勉強するようになった。「同い年だけど、ジーターのリーダーシップには感心する」と語っており、主将を務めるジーターをサポートする役割を果たしたいという思いが強かった。ジーターも個人の記録よりもチームの勝利を最優先にプレーするという点で松井と共通している為、松井を高く評価しており、2005年シーズン開幕前には、同シーズン限りで3年契約が切れる松井に対し、「一緒に黄金時代を築きたい」という思いを込めて松井の残留を熱望したという。2006年に松井が骨折で戦線を離脱した際には、「彼の代わりは存在しない」と発言し、早期復帰を願った。2009年のワールドシリーズで松井がMVPを獲得した際にも、ジーターは松井の活躍を誰よりも喜び、松井も「勝てない時代もチームを引っ張ってきた彼には特別な思いがある」と語った。ジーターは、松井に教わった「トシヨリ」という言葉を様々な場面で好んで使っている。
2009年からヤンキースに加入したマーク・テシェイラはキャッチボールのパートナーであり、毎日試合前にキャッチボールを行っていた。ヤンキースのみならずメジャーリーグを代表するスーパースターであるアレックス・ロドリゲスのステロイド使用が発覚した際には、「残念ではあるが、過去はどうしようもない。大切なのはこれから」だとし、ロドリゲスに対する見方は変わらないと語った。
野球以外の著名人とは幅広い交友関係を持つ。特にギタリストの布袋寅泰との親交は深く、自身の登場曲にも布袋の楽曲を使用している。また、作家の伊集院静との関係は特別なものがあり、シーズン中にもかかわらずニューヨークで行われた伊集院の出版会見に出席したことがある。伊集院は松井の人柄を高く評価しており、「松井秀喜はアメリカに送り出した『もっとも美しい日本人!』」と著作の帯に記している。既に1995年のプロ野球aiによるインタビューの中で、松井は最近読んだ面白い本として、伊集院の「受け月」を挙げているが、1999年に新潮社が松井に対談の企画を持ちかけたところ、松井は作品を愛読していた伊集院を相手に指名した。伊集院は驚いたが、若いスターの野球選手と会うと失望することが多かったため躊躇した。しかし実際に対談を行なって、逆に松井の人柄に惚れ込み、現在に至る交友関係が始まった。
KAT-TUNの亀梨和也、キャスターの草野仁、歌舞伎役者の松本幸四郎、女優の松たか子、歌手の大友康平らとは公私にわたって親交がある。
俳優のリチャード・ギアとは旧知の仲である。会った時はいつも英語で談笑をしている。ヤンキース往年の名捕手ヨギ・ベラは、良き相談相手であった。2011年9月19日には、映画『マネーボール』でオークランド・アスレチックスのビリー・ビーンGMを演じたブラッド・ピットとプレミア試写会で初対面。「とてもクールだったよ(ピット)」「素晴らしい人だった(松井)」とお互いを褒め合った。
また独身時代は原田徳子、草野満代、松たか子、早坂好恵、酒井美紀、戸田菜穂らとの交際や滝川クリステルとの「お見合い」も報じられた。特に、パリへの旅行が報道されるなど、戸田とは親密な仲であり、2005年に父・松井昌雄が結婚を示唆したことで、結婚間近とも言われたが、翌年破局に終わった。交際発覚後も報道陣に対し松井が曖昧なコメントを繰り返したことに対し、戸田は「松井さんは守ってくれなかった」と不信感を募らせていったという。
第85代・第86代内閣総理大臣・森喜朗は松井の実家の隣の集落出身(森によると実家同士が500mの距離)で、同じ能美市立浜小学校の卒業生でもある。森は松井の後援会名誉会長を務めており、ニューヨークまで激励に訪れることもある。
2006年の大晦日にオーケストラ・アンサンブル金沢の演奏による松井応援歌「栄光(ひかり)の道」(宮川彬良作曲、詞は一般公募による)が初演された。オーケストラ・アンサンブル金沢の音楽監督・岩城宏之の企画によるもので、岩城は同年5月に松井へエールを送っていた。岩城は同年6月に逝去したため、生前に出した最後の手紙となった。
2007年までヤンキース監督を務めたジョー・トーリは松井の入団当初、松井を「ブンブン振り回すホームランバッター」という印象だったが、シーズンが終わる頃には「場面に応じたバッティングが出来る頭のいい選手だ」と評価した。松井はルーキーイヤーのトーリの気遣いに感謝していると語っている。入団1年目の2003年5月には松井が全く打てない時期があり、ニューヨークの新聞やオーナーのジョージ・スタインブレナーがこぞって松井を批判する中でもトーリは松井を擁護し続け、「打てなくても気にするな。守備や進塁打でも立派に貢献しているよ」と励ましの言葉をかけた。松井は後に、スランプ脱出のきっかけをくれたのがトーリであり、トーリを信頼していたからこそアドバイスを受け入れることが出来たと語っている。なお、トーリは松井のことを「マツ」と呼んでいる。
松井はトーリについて、自らが寄せる信頼を繰り返し語っていた。トーリもまた、契約更改時に「世界中の金を集めてでもヤンキースは松井と契約すべきだ」との賛辞を送っていた。さらに「松井はウチで最も頼れる男なんだ。彼にはいつだって責任感とかキャプテンシーを要求するよ」と断言し、ジーターと並ぶチームの精神的柱になるように求めていた。
松井のチームの勝利を最優先する献身的な姿勢については、トーリも「日本では50本塁打を打つスーパースターだったのに、こちらでは何でも嫌がらずにやってくれる」と賞賛している。
2007年限りでトーリがヤンキースの監督を退き、ドジャースに移ってからも、信頼関係が揺らぐことはなかった。2008、2009年は対戦機会がなかったが、エンゼルスに移籍した2010年3月のオープン戦で久々に対面。その後も、ドジャースとの対戦の際には挨拶を交わしている。同年11月、松井がニューヨークで行われたトーリ主催の慈善基金パーティーに出席した際、トーリは「マツイがどのチームに行っても応援できる」と語った。
2012年に松井が現役引退を発表すると、トーリは「彼の監督だったことを誇りに思う」とコメントした。
1990年代中盤以降、松井とイチローはタイプが全く違う選手だが、強打・巧打のそれぞれでずば抜けた実力を持つ2人は同じ時期に日本に在籍しメジャーリーグでもプレーをしていたため、ことあるごとに比較の対象となった。ワールドシリーズMVPを受賞した翌日の朝日新聞「天声人語」は、「イチロー選手がカミソリなら、ゴジラはナタの切れ味だろうか」と評した。同日の産経新聞「産経抄」は、2人を「記録のイチロー」「記憶の松井」として対比した。漫画家のやくみつるは「クールなイチローは現代風ヒーロー。素朴な感じの松井は、長嶋さんや王さんのような昔の選手を思い出させる」と分析している。しかし、松井自身はイチローと比較され続けることについて、「正直、何とも思っていません。比較するのは2人以外のメディアやファンで、自分がコントロールできることではない。僕自身も、自分をイチローさんと比べることはしませんから」と語っている。
1歳年上のイチローは中学時代には既に松井の名前を知っていたという。1990年6月24日に星稜高校のグラウンドで行われた愛工大名電との練習試合で2人は初めて顔を合わせた。その時に一塁ベース上で会話をしたことをイチローは覚えていた。イチローは「一人、でかい選手がいて、振りがすごく速い。それが松井君でした」と語っている。松井は「イチローさんの打撃はうまかった。左へ右へきれいに打ち分けていたなあ」と述懐している。翌年に愛工大名電の合宿所で再び顔を合わせた際には、風呂で偶然一緒になり、その後2人きりで将来のプロ入りについての会話をしている。松井はこの時のことは鮮明に覚えているという。共に高校野球界で頭抜けた存在だった2人は、当時から既に互いを意識していた。
1996年のオールスターゲーム第2戦では、9回裏二死走者なし、打者松井の場面で全パの仰木彬監督がイチローをマウンドに送ったが、全セ監督の野村克也は松井に代打高津臣吾を送ったため、両者の対戦は実現しなかった。松井は「野村(監督)さんに『どうする』と聞かれたんで『どっちでもいいです』と答えたら、『なら代われ』と言われた」とコメント。また、「仰木さんの遊び心が出たんでしょうけど、自分が監督ならやらないと思う。野手には野手、投手には投手の役割がありますから」と語っている。
日本時代は異なるリーグに所属していたため、交流する機会はほとんどなかったが、マリナーズと同じアメリカンリーグに所属するヤンキースに移籍後は、対戦の際にしばしば松井の方からイチローへ挨拶に赴いていた。2003年5月7日のマリナーズ対ヤンキース戦では、4回一死三塁(走者は松井)の場面で、フェンス手前への大飛球をキャッチしたイチローが、本塁へノーバウンドの大返球をみせた。到底間に合わないタイミングであったが、イチローは「松井を刺せばネタになるでしょ。100パーセント意識しましたよ」と語った。同年のオールスター戦では、試合前にはイチローから「一緒にやろうよ」と声をかけられ、2人でキャッチボールを行った。シーズンオフには、テレビ番組の企画で2時間にも及ぶ対談を行っている。しかし、2005年を最後に、両者の接触はほとんどなくなった。このことを巡って、2006年のWBC前後には、複数のタブロイド紙や週刊誌などでWBC出場辞退の経緯を巡る「イチローの陰謀」説や2人の不仲説が伝えられた。ニューヨーク・タイムズ紙は2009年に松井の去就問題を特集した記事の中で、「松井はイチローと友達ではないので、マリナーズで共にプレーすることを望まないだろう」と述べた。2009年12月に松井のエンゼルス入団が決まると、途絶えていた両者の交流も復活。イチローは「ウェルかめ to west Division」「バディを鍛えてお互いがんばろうぜ!」と、独特の言い回しで同地区への移籍を歓迎した。同地区に所属することになった2010年、オープン戦で5年ぶりの会話が実現した。シーズン中にも松井とイチローが試合前に談笑する様子が報じられている。
2004年には、イチローは松井の印象について「愛嬌のある雰囲気というか、プレーそれぞれに憎めなさがある」と語っていた。一方で、「松井とイチローという2人は、考え方もやり方も対極にあると思っている」とも語っている。
2009年9月にイチローが史上初の9年連続200本安打を達成した際には、松井は「球をバットの芯でとらえる技術は大リーグでもトップクラス」、「イチローさんは常にファンを魅了することを意識しているのがすごい」とイチローを賞賛するコメントを出した。
2012年7月、イチローがヤンキースに電撃移籍した折には、アメリカでも二人の比較論が盛んに交わされた。イチローのヤンキース入りについて松井は、「ヤンキースは常に戦力を厚くしようとしている。驚き?それはなかった」とコメントした。一方イチローは「ヤンキースで長く過ごしていたこと自体が、松井の選手としてのみならず人間としての偉大さを示している」と、ヤンキースの先輩に対して最大限の賛辞を送った。
2012年12月、松井が現役引退を発表すると、イチローは「中学生の時から存在を知る唯一のプロ野球選手がユニホームを脱ぐことが、ただただ寂しい」と感傷的なコメントを出した。
実務としてはマイナーリーグ全カテゴリの巡回コーチであり、直接の打撃指導をしながらその傍らでルーキーリーグなら1A、3Aならメジャーのように、上のカテゴリでも活躍できるであろう打者を見抜いてそれぞれの監督に進言する役もこなしていた。そうしてメジャー昇格を果たした選手の中にはアーロン・ジャッジ、ゲーリー・サンチェスらがいる。
ワールド・ベースボール・クラシックには、2大会連続で日本代表としての出場が期待されたが、いずれも辞退している。
2005年オフ、翌年3月に開催される第1回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の4番打者としての出場要請を受けた。
11月27日の段階では、「何も考えていません」と答えていたが、29日の段階では、「みんなが『WBCに出てください』という感じになれば、そりゃ、出ますよ」と発言するなど、前向きな姿勢を示すようになっていた。しかし、12月2日、監督の王貞治から正式に出場要請を受けた後は「(4番や主将など)そういうふうに言ってくれるのは光栄ですが、それ以上のことは言えません」として返答は保留した。7日には、ヤンキースのキャッシュマンGMが松井のWBC出場を容認する意向を示したと報じられたが、松井本人は慎重な姿勢を崩さなかった。その後、1次候補選手に名前が入るという情報を知らされると、「返事してないのに、俺の名前を入れちゃうわけ!?」と困惑しきりであった。さらに3日後の11日には、「(WBCに)出たくない」という松井の本音が報じられた。
14日にはヤンキースへの貢献を優先することと、商業主義が見え隠れするWBCの開催に賛同しかねたことを主な理由として出場辞退の意向を固めた。さらに、一部メディアではヤンキースのキャッシュマンGMからWBC欠場を要請する“親書”が届けられていたことが報じられた。しかし、地元紙ニューヨーク・デーリーニューズの報道によると、ヤ軍がWBC事務局に不参加を要請した選手は年齢や故障が理由とされた先発投手マイク・ムシーナ、捕手ホルヘ・ポサダなど4名のみであり、松井への不参加要請などはなく、一部メディアの虚報であることが明らかになった。約2週間後には、ヤンキースのスモール球団代表もそのような文書の存在を否定した。この“親書”報道について、2008年にキャッシュマンGM自身も「まったくのデタラメ」だと語っている。また、一部報道による、「イチローに騙された」といった類いの、根拠に乏しい憶測が書きたてられることもあった。このような過程による松井の出場辞退に関して、日本ばかりでなく米国、メジャーリーグ選手会やWBC関係者からも大きく批判の声が上がった。
王側は尚も松井の参加を模索し続けたが、結局出場要請から約1か月後となる12月26日、正式にWBC辞退を表明した。その際には、「王貞治殿」と宛名を書いた便箋15枚の手紙を記者を通じて王の元へ送り、辞退の理由を説明した。熟慮を重ねた結果としての苦渋の決断であることや、返答まで1か月近くもかかってしまったことへの謝罪の言葉などを綴ったという。
大会期間中、松井は日本代表の試合をテレビ観戦していた。しかし、既にWBC辞退とそこに至るまで二転三転した経緯から、松井への批判が強まり、バッシングの様相も呈した。米国の全国紙USAトゥデイは、紙上で「WBCでイチローは勝利し、松井は“ルーザー(負け犬)”になってしまったようだ」と評した。このことを振り返って、松井の広報を担当する広岡勲は、後に自らの広報戦略の失敗を認めている。
また、同年4月14日付け『フライデー』誌上のインタビューでは、辞退の理由を「この時期にベストパフォーマンスを見せられる自信がない」とした上で、次回大会以降も開催時期が変わらないようであれば出場は難しいとの見解を明らかにした。
2006年の年末には、テレビ東京系列『日経スペシャル カンブリア宮殿』内の企画でサッカー元日本代表の三浦知良と対談した際、WBC辞退について、「サッカーに比べると野球はまだナショナリズムが弱いスポーツ。それが強くなっていった時、チャンスがあればやりたいし、国の誇りを感じられるんじゃないかと思う」と話した。
3年後の2009年シーズン開幕前には、『Number』誌上のインタビューにおいて、「あのときはあのときの事情があったから。決して後悔はしていません。」と語っている。
2008年シーズン中盤から予定されていた左膝の手術を9月22日まで引き伸ばした時点で、WBC出場の可能性は無くなったとされた。しかし、オフには翌2009年の第2回WBC出場が取りざたされ、前回大会直後は第2回大会への出場にも消極的であった松井本人も意欲を見せたと報じられた。しかし、ヤンキースは手術明けの松井に対して出場許可を出さない方針を打ち出したこともあり、手術した左膝の回復を優先させるため、として11月末には辞退の意向を明らかにした。辞退の際には、監督の原辰徳に直接電話をかけ、「申し訳ない気持ちで一杯」であったという。それでもなお、原は暫定ロースター登録締め切りまで松井の参加を待ち続けたが、膝の回復が間に合わなかったとの理由で、翌年1月16日になって正式に招集を断念した。
専属広報の広岡勲によると、松井が出場を希望したのは、大型契約を結んだばかりで、ヤンキースでじっくりキャンプを過ごしたかった前回とは違い、今回は年齢的に日本代表として戦える最後のチャンスという意識が強かったためだという。また、今回は膝の手術と所属チームの反対という理由が存在し、広岡が国内の空気や流れを読んで、タイミングを図って辞退を発表したため、前回のようなバッシングは起こらなかった。日本の二連覇が決まると、松井は「日本の野球が、それだけ世界に通用するということだと思う」とのコメントを発表した。
『Number』誌上のインタビューでは、身体の状態が万全でなかったことが辞退の直接の理由となったことを改めて明言。さらに、4年後の第3回大会には、年齢的な理由から出場の可能性が低いことを認め、「それは仕方ない。(WBCには)縁がなかったということでね。」と語っている。
日本代表の監督に就任した山本浩二が2012年10月10日の就任会見でメジャーリーガーの代表入りについて問われた際、「ダル、イチロー、青木、黒田...。そういう選手が軸になるわけやから。松井もブランクはあるけど、練習はやっていると聞いている。大リーグ経験者には当然出てほしい。松井の動向は気にしている? そうだね。松井もイチローも、それだけの実績を残している選手は、力強いものを持っている」と述べていたが、7月にレイズを戦力外となって以来、久しく実戦から離れていることがネックとなり、11月6日に招集見送りが決まった。結局、松井は現役中に選手としてWBCに一回も出ることはなかった。
かつて中央競馬に「ヨバンマツイ」なる競走馬が在籍していた。2006年10月1日に中京競馬場で行われたレースで安藤勝己騎乗で中央競馬での初勝利を挙げ、その時の馬番は4番だった。
学生時代、松山ホステス殺害事件の犯人で整形手術をして逃亡中だった福田和子が石川県根上町の和菓子屋の内縁の座にいた際、松井は客としてよく菓子を買いに来て福田和子と会っていたエピソードがある。福田和子逮捕後のインタビューでは「とても綺麗で優しいおばさんという印象だった」と語っている。
※歴代記録はMLBの記録を含めているため参考記録。
2007年12月時点で、売り上げは33万部を超えた。「不動心」というタイトルについて松井は、2006年の怪我の療養中に長嶋茂雄に会った際、2つあった候補の中から「不動心」を選んでもらったという。その時に長嶋は、特に何も語らず「これ」と一言述べただけですぐに決められたという。
番組はすべてニッポン放送で放送している。 | [
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"text": "松井 秀喜(まつい ひでき、1974年6月12日 - )は、石川県能美郡根上町(現:能美市)出身の元プロ野球選手(外野手、右投左打)。",
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"text": "現役引退後はMLBのニューヨーク・ヤンキースでGM特別アドバイザーを務める。愛称は「GODZILLA」または「ゴジラ松井」。",
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"text": "1990年代から2000年代の球界を代表する打者で、日本プロ野球(以下:NPB)では読売ジャイアンツ、メジャーリーグベースボール(以下:MLB)ではニューヨーク・ヤンキースなどで活躍した。2009年のニューヨーク・ヤンキース時代にワールドシリーズ優勝を経験している。同年、アジア人初のワールドシリーズMVPを受賞した。2013年には国民栄誉賞を受賞した。",
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"text": "1974年6月12日に、瑠璃教会二代目司教である父・昌雄と母・さえ子の二男として生まれる。生まれたときの体重は3,960グラムであった。",
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"text": "3歳で自宅近くの保育園に入園。「保育園史上最大の園児」と言われた。当時の保育園の先生は「8歳ぐらいに見えました」と語っている。",
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"text": "体格が一際大きかったため、根上町立浜小学校1年生の時に3年生以上で構成される軟式野球チーム「根上少年野球クラブ」に、当時5年生であった兄が所属していた縁で特別に入団させてもらったが、まだ幼すぎて監督の指示などが理解できず、入団1週間で指導者の方から、両親に「(チームに入るのは)もう少し待ってほしい」と言われたようで野球を辞めてしまった。4年生の時に父から再入団を勧められるが、幼少時のショックは大きく、拒否している。",
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"text": "元々は右打ちであったが、あまりにも打球を飛ばすために野球仲間であった兄とその友人が松井を打てなくする目的で「尊敬する掛布雅之選手(松井は当時は阪神ファンだった)と同じ左」で打つように強引に勧められ、左打ちに変更した。これが運命の左打ち転向であった。なお、松井が掛布を敬愛しているのは論を俟たないが、2021年時点では松井自身も掛布から認められる人間となり、大型新人を見た掛布に「清原和博や松井のようだ」と手本にされるほどとなった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "小学3年からは町の少年柔道教室にも通い始める。能美郡大会で優勝、石川県大会では3位に入り、国体強化選手にも選ばれていた。松井は「野球よりも注目されていたんです。立ってよし、寝てよし。石川県では結構、強かったんですよ」と自慢している。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "柔道の他に、わんぱく相撲大会でも活躍していた。",
"title": "経歴"
},
{
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"tag": "p",
"text": "これらスポーツでの活躍のほか、実家のピアノも演奏する。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "中学校への進学にあたって、柔道を続けるか悩むこともあったが、能美市立根上中学校に進学して野球に専念するようになった。根上中学校には野球部があるものの、柔道部がなかった(当初は、野球での部活動の後に柔道場へ通う案も提示されたが、取り組む種目を一本にして集中したいという本人の希望もあったため)ということが野球への道を選択した大きな決め手となった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "中学入学時で身長は170cm、体重は95kgに達していた。中学時代は捕手をつとめ、2年夏から投手に転向した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "通算打率は6割を超え、3試合連続本塁打も放ったことがある。3年生になると飛距離は130mにも達し、軟球を割ることもしばしばあった。代わりのボール代だけでも半年間で10万円を超えることになったという。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "その一方で、中学1年の時には能美郡相撲大会に出場し、個人戦で優勝。根上中野球部でも「関取」「相撲取り」などのあだ名で呼ばれていた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "当時の根上中学校教諭で野球部のコーチでもあった高桑充裕は多くの松井の野球の師の中でも特に厳しかったことで知られており、アッパースイングだった松井に王貞治を手本にしたダウンスイングを指導したり、試合で敬遠されたためにバットを投げて相手を睨みつけるなど怒りの感情を露わにした当時の松井を、試合中でも激しく殴打し諌めたというエピソードがある。松井は後に、高桑の体罰が無ければ今の自分はいなかったと回顧している。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "その高桑は星稜高校野球部を卒業したことからのちの松井の先輩であり、同校の監督であった山下智茂の教え子の1人でもあった。箕島対星稜延長18回では高桑が1年生ながらもその試合で二塁手として途中出場を果たしている。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "中学時代から衛星放送でMLBの試合を熱心に見るようになった。その当時に憧れていた球団は、当時ホセ・カンセコ、マーク・マグワイアらを擁して黄金期を迎え、後に松井自身が入団することになるオークランド・アスレチックスであったという。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "高校は星稜高校に入学。既に松井の実力を高く評価していた星稜高校監督の山下からの熱烈な勧誘や、中学野球部監督やコーチの高桑らに薦められ、また、根上中学校から星稜に進学した先輩と相談した結果、星稜に進学することに決めた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "「野球は大学までやらせてもらえれば」という程度だったが、高校時代に打者として注目を浴びるにつれて、高校を卒業してプロ入りする思いが強まっていったという。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "当初太り過ぎていたため入部は保留されていたが、地道なランニングによる減量で入部に漕ぎ付けて事無きを得た。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ちなみに星稜高校出身のプロ野球選手では2021年に島内宏明がプロ野球で打点王の打撃タイトルをとるまでは松井が最後の打撃タイトルの獲得者と言われており、引き合いに出されることもある。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "投手として入部したが、練習初日のブルペンで投球練習ですぐに監督に「投手以外だったらどこを守りたい?」と尋ねられ実質投手失格を言い渡される。しかしその前に行った打撃練習では、3年生を含んだチームメンバーで自分だけフェンス越えの打球を放っており「先輩は真面目に飛ばそうとしてないのではないのか」「ひょっとしたら後で怒られるのではないか」と不安になったという。その後野手(一塁手)に転向。その後、三塁手に転向する。星稜高校の入学式前から野球部の練習に参加し、他校との練習試合では「4番・三塁手」で出場してヒットを放った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1年生から4番打者を務め(5番は3年生の村松有人だった)「北陸の怪童」「星稜恐怖の1年生4番」として徐々に野球関係者の間に知られていき、高校球児たちを紹介する専門雑誌にも注目選手として高校1年生時点で当時高校3年生でドラフト指名候補と言われた内之倉隆志(鹿児島実業高)、鈴木尚典(横浜高)、山本保司(関東一高)等と並んで紹介されており、本塁打もこの頃から推定飛距離で140mを超すものもあった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "ただ、夏の選手権では初戦(2回戦)の対日大鶴ヶ丘高校戦で難波俊明投手に3打数0安打で押さえ込まれチームは初戦敗退し、「甲子園は怖いところです」というコメントを残している。しかしながら、対戦した難波投手は打ち取ったものの、第3打席の外野の最も深い場所へ大飛球を飛ばされ、「あの(難しい)球をあそこまで飛ばすのか」と、松井の怪物の片鱗を見たと後にコメントしている。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "秋季では北信越大会準決勝で上田佳範を擁した松商学園高校に敗れ、選抜出場を逃す。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "高校2年の夏の選手権の初戦(2回戦)の市立沼津高校戦では、松井の走塁で市沼津をかき回し接戦に勝利。3回戦の竜ヶ崎第一高校戦でライトスタンドに甲子園初本塁打を記録した。準々決勝では松商学園高校に勝利して北信越大会の借りを返す。準決勝では夏の選手権で優勝した大阪桐蔭高校に1‐7で敗退した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "夏休みに部内で体力測定を行った際、背筋力250kg、バーベル上げ150kgと、関係者曰く「清原和博以来の数値」を出した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "新チームでは監督の山下にキャプテンに指名される。星稜では毎年キャプテンは部員による投票によって選んでいたが、山下が松井の統率力や影響力を高く評価していたため、特例として任命したのだという。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "秋の明治神宮大会では帝京相手に全6打席中4敬遠をされたが優勝している。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "また、高校生選抜チームに2年生としては後に巨人で同僚になる三澤興一(帝京高)と共に選出され、1年先輩で後にプロ入りした髙木大成(桐蔭学園高)・大野倫(沖縄水産高)・萩原誠(大阪桐蔭高)等にその怪物ぶりを賞賛されている。大野は雑誌のインタビューで「星稜の松井は怪物」と答え、萩原はこの年の高校生打者のドラフトの目玉とされていたが、「自分のホームランなんて松井に比べたら大したものではない」とのコメントを残している。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "高校3年の春の選抜では、阪神甲子園球場のラッキーゾーンが撤去されて大会本塁打数が激減したにもかかわらず、「僕には関係ありません」という言葉通りに、開幕試合である初戦の宮古高校戦で2打席連続本塁打、1試合7打点、2試合連続本塁打と、当時の大会記録を記録した。2回戦で堀越高校のエース・山本幸正から難しいカーブを本塁打したのを長嶋茂雄が見ていたのがきっかけで巨人入りしたという話もある。しかし、準々決勝の天理高校戦では本塁打は出ず、自らのエラーもありチームは敗退した。しかしながら観戦していたプロ野球各球団のスカウトたちからは元木大介(上宮高)、内之倉隆志(鹿児島実業高)、萩原誠(大阪桐蔭高)等の前年・前々年に甲子園を騒がせたスラッガーたちと比較しても松井のほうがずっと打者としては素材が上であると評価され、「清原和博に匹敵する」「清原和博クラスの逸材」とまで言い切るスカウトも複数いて、松井の存在は一躍全国規模で知られるようになっていった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "夏の選手権では2回戦の明徳義塾高校戦で敗退。この試合で松井が明徳義塾先発投手の河野和洋から受けた5打席連続敬遠は、高野連が急遽記者会見を開くなど、社会問題にまで発展した。明徳義塾監督の馬淵史郎は試合後、「(星稜の練習を見て)高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた」とコメントしている。最後になる秋の国体では監督が出したホームランのサインに応えホームランを打っている。松井はプロ野球引退後に「そのあとプロ野球のジャイアンツに入った時に『彼があの甲子園で5回敬遠されたバッターなんだ』ということを、やっぱり成績で示さなくちゃいけないっていうことは、心の中でどっかにあったと思うんですよね」とその後の自分の心構えに影響した旨を語っている。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "高校通算打率は.450、本塁打は60本。夏の県大会では、当時としては石川の1大会の最高記録となる4本塁打を三大会連続で記録している。高校通算60号はべにばな国体決勝の尽誠学園戦の第4打席、高校最終打席で記録しチームを優勝に導いている。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "ちなみに、「柵越えしたものがホームラン」という松井のこだわりから、ランニングホームランは数に含まれていない。ライナー性の弾道で甲子園球場のバックスクリーンに運ぶ並外れたパワーや、打撃練習であまりにも柵越えを連発するため練習場のライトフェンス後方に特別のネットが取り付けられるなど、桁外れの話題性から「20年に1人の怪物」と言われていた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "9月には大韓民国・ソウル で行われた日米韓3国親善高校野球大会に日本代表の一員として出場した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "松井は米国側からも大きな注目を集めており、同大会に米国代表として出場していたトリー・ハンターは、「まず驚いたのは彼は高校生なのにあり得ないくらい大勢のマスコミを引き連れていたことだ。当時ボクは16歳でマツイは17歳。その高校生を巡ってロックスターを取り囲むような騒ぎになるなんて、一体どんな怪物?だと思っていた。それがマツイだったんだよ」と語っている。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "その年のドラフト会議の目玉となった松井には報道陣が殺到し、11月になると星稜高校の校門前に毎日多くの記者やカメラマンが待機するようになった。「このままドラフト本番を迎えれば、えらい騒ぎになる」との声が地元で上がり始め、ドラフト前には異例の「報道規制」が敷かれた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 38,
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"text": "ドラフト会議前には憧れの球団である阪神タイガースの他は、準地元である中日ドラゴンズに加え読売ジャイアンツ、福岡ダイエーホークスまでを希望に絞り、その他の球団から指名された場合は駒澤大学へ進学することを示唆していた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1992年11月21日に行われたプロ野球ドラフト会議では前述の4球団から1位指名を受け、抽選の結果交渉権を獲得した巨人に入団。契約金は1億2000万円。年俸は720万円。背番号は「55」。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "13シーズンぶりに巨人監督に復帰した長嶋茂雄が、中日ドラゴンズ、阪神タイガース、福岡ダイエーホークスとの抽選の末、松井の交渉権を引き当てた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "当時の松井は本心では阪神入りを熱望しており、ラジオで交渉権が巨人に決まったことを知ると、記者会見で複雑な表情を浮かべ、「阪神に行きたい、という希望がありましたから。まだ整理もついていないけどその気持ちも次第に薄れていくと思う」と語った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "だが、その後、長嶋から直接電話を受けて感銘を受け、すんなり巨人入りを決めた。阪神ファンである彼の気を引くために、長嶋は監督就任会見の前に旧知の記者に「星稜高校の松井秀喜選手が大いに注目されていますが、監督はどうお考えですか?」と質問するよう頼んでおき、「ほしいですね、この手で是非育ててみたい逸材です」と答えた。これを自宅のテレビで見た松井父子は興奮し、巨人入りの意思が高まったという。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "なお、この年のドラフト会議で、当初巨人フロントは松井ではなく三菱自動車京都の伊藤智仁を指名する予定だったが、長嶋が松井の獲得を熱望したため松井指名に切り替えている(なお、その伊藤智仁は野村克也が率いていたヤクルトスワローズから1位指名されて入団する)。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "入団会見で他の新人選手が抱負として憧れの選手名や具体的な成績目標を述べる中、松井は「サッカー(Jリーグ)や相撲(若貴ブーム)に小さな子供たちの関心が傾きつつあります。その中で僕はその子供たちに夢を与え、球場に直接見に来てもらえるような選手になれるよう頑張ります」と述べた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1993年、プロ初のキャンプでは150メートル級の場外弾を連発。キャンプ2日目にはフリー打撃で13本の柵越えを放ち、「こんな高校生、見たことがない」とコーチに言わしめた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "高校時代は三塁手であったが、長嶋が外野手へとコンバートさせた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2月28日のオープン戦でプロ初打席を迎え、当時ヤクルトに所属していた一つ上の石井一久と対戦するもカーブで三振となり、その時は焦りや恐怖を感じたという。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "その後もプロの投球の速球に手こずり、三振と凡打の山を築く。オープン戦は53打数5安打、打率.094に終わり、20三振は全体トップだった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "4月7日に長嶋から二軍落ちを通告され、公式戦開幕は二軍で迎えた。二軍落ちを通告された際には、「落としたことを後悔させるように頑張る」と語った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "その宣言通り、イースタン・リーグの開幕戦で松井と同期新人のヤクルトスワローズに入団した伊藤からホームランを放つなど12試合で.375、4本塁打の活躍を見せ、5月1日のヤクルト戦(東京ドーム)で「7番・左翼手」として一軍デビューを果たした。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "初打席は西村龍次からセカンドゴロ。2打席目には同じく西村からライトフェンス直撃の二塁打を放ち、初安打初打点を記録。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "翌日の試合の東京ドームの対ヤクルト戦では、9回裏に高津臣吾から内角の直球をライトスタンド中段に運びプロ入り初本塁打。興奮の余り、試合後ロッカールームから引き揚げる際、足元はスリッパのまま「打っちゃった」と喜びを露わにした。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "その後は各球団のマークに遭い、6月には二軍に降格するが、7月のフレッシュオールスターに出場して優秀選手賞を獲得し、8月下旬に再び一軍に昇格すると、当初は無安打が続いたが、8月31日からの10試合で6本塁打を放つなど、セ・リーグ高卒ルーキー新記録となる11本塁打を放った(パ・リーグの高卒ルーキー記録は1986年の清原和博による31本塁打)。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "オフの契約更改では1060万円増の1900万円でサイン。目標の2000万円には届かず、会見では渋い表情を見せた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "1994年4月9日に行われた広島東洋カープとの開幕戦で2本塁打を記録し、4月には自身初の月間MVPを受賞した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "同年のオールスターゲームではセ・リーグ史上最年少で4番を打った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "中日ドラゴンズとのリーグ優勝を賭けたシーズン最終戦「10.8決戦」でも本塁打を放つなどチームのリーグ制覇に貢献。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "迎えた日本シリーズでは西武ライオンズを破りチームは日本一、自身も2年目で20本塁打を記録した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "1995年には22本塁打を放ち、初のベストナインを受賞。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "8月24日の横浜ベイスターズ戦でレギュラーシーズンでは初の4番を任された。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "ヤクルトが最高勝率・マジック1で迎えた9月30日に明治神宮野球場で行われた試合では9回裏二死で打席に立ち、その年の最優秀バッテリー賞を受賞するテリー・ブロス及び古田敦也にセンターフライに仕留められた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "この年のオフには、苦手な内角球を克服するために、身体に当たりそうな極端な内角球を打つ練習を行った。その甲斐あって、翌年から成績が飛躍的に向上することになる。後に、松井はこのシーズンオフが野球人生のターニングポイントだったと回想している。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "1996年は自身初の開幕4番スタートだったが、5月からは落合博満が4番に返り咲き、松井は3番に戻った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "その後チームの上昇と共に成績も上昇し、夏場には7月、8月と2か月連続で月間MVPを獲得するなど、大逆転優勝に大きく貢献。初のセ・リーグMVPを受賞した。これは当時としては最年少記録であった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "リーグ最終戦まで山崎武司、大豊泰昭と本塁打王を争っていたが、山崎に1本リードされて迎えた10月8日シーズン最終戦の中日戦では長嶋の配慮で自身初の1番打者として出場したが、4打席すべてで敬遠されてタイトルを逃した(結果は山崎が39本で本塁打王に輝いた)。観客席の巨人ファンからは罵声が飛び交ったが、松井自身は「しょうがない。タイトルを取れなかったのは、悔しいけど、(高校時代の)五打席連続敬遠の方が悔しかった」と、比較的サバサバした様子だった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "それでも、22歳での38本塁打は王貞治に並ぶ年齢別最多本塁打記録。また、同一投手からのシーズン最多本塁打のタイ記録の7本塁打を斎藤隆から放った。この年の斎藤隆との対戦成績は25打数7安打で、安打のすべてが本塁打であった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "最終的に130試合に出場し、打率3割1分4厘、38本塁打、99打点の成績を残した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "この年は日米野球に出場し、敬遠されたことでも話題になった。なお、この時の松井の敬遠以降は日米野球では日本の打者が敬遠されることは長らくなく、2014年に松田宣浩がされるまでなかったという。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "契約更改では倍増の1億6000万円で一発サインした。高卒選手ではイチローと並ぶ史上最短(当時)の入団4年目で1億円プレーヤーの仲間入りを果たした。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "1997年には西武ライオンズの清原和博がFAの権利を用いて、巨人に入団し、清原とのコンビは「MK砲」と呼ばれた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "4月27日の広島戦で通算100本塁打を達成。4月は好調で10本塁打を放つ好スタートを切った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "最終的に打率は3割をわずかに下回ったが、37本塁打を放った。しかし、ドゥエイン・ホージーとの本塁打王争いに1本差で敗れ、史上初めて2年連続して1本差で本塁打王のタイトルを逃すことになった。打点は初めて大台を突破する103打点を挙げるが、これもルイス・ロペスに及ばず無冠に終わった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "1998年は春季キャンプ中に左膝を痛め、「左膝軟骨損傷」と診断された。膝の不安を抱える中で開幕から4番に座ったが、初本塁打は11試合目まで遅れ、その間には32打席無安打というプロ生活最大のスランプにも悩まされた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "4月は打率.190、2本塁打に終わり、5月2日には清原和博に4番の座を奪われた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "膝の痛みが和らいだ5月10日に久々の第3号本塁打を放つと、その後の12試合で9本塁打して月間MVPを受賞するなど本来の調子を取り戻した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "その後は順調に打ち続け、7月28日のヤクルト戦で通算150本塁打を達成。最終的には34本塁打、100打点で自身初のタイトルとなる本塁打王、打点王、最高出塁率のタイトルを獲得。巨人で本塁打王と打点王の両方獲得は、1977年の王貞治以来21年ぶりの快挙であった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "一方で、左膝の故障は現役を通じて古傷として松井を悩ませ、周囲の筋肉を鍛えることでだましだましプレーを続けたが、その影響は右膝にも及ぶようになった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "1999年は前年の日米野球でサミー・ソーサからアドバイスを受け、シーズン前に広角に打つことを意識したフォームに改造。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "6月5日の横浜戦から6月10日の中日戦まで5試合連続本塁打を記録する。9月21日の阪神戦では通算200本塁打を達成。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "7月のオールスター第1戦では4試合連続本塁打(新記録)を放ったが、第3戦で代打出場した際にわき腹を痛め、7月30日の広島戦で遂に先発メンバーから外れた。この時点で現役最多だった連続フルイニング出場が574試合(当時歴代3位)で止まる。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "長嶋が松井に負担のかからない形で連続試合出場記録を尊重することを決め、以後8月中旬までは記録のために1イニングだけ守備固めとして出場する。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "このケガの影響が響いてロベルト・ペタジーニと2本差で本塁打王を逃すことになるが自己最高の42本塁打を記録。日本人のシーズン40本塁打は1989年の落合博満以来10年ぶり、巨人では1977年の王貞治以来22年ぶりの快挙であった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "シーズン終了直後の10月24日には、ヤンキー・スタジアムで初めてMLBの試合(ALCS第2戦)を生観戦している。この経験は強く心に刻まれ、後のMLB挑戦を決断する要因の一つにもなった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "2000年は開幕から4番打者を務め、以後日本シリーズ、日米野球なども含めて、他の打者に4番を譲ることはなかった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "右小指をグリップにかける打法に変えたことで、あまり強くバットを握らずにリラックスして構えられるようになったことで打撃は凄味を増し、シーズン半ばまでは三冠王を狙える勢いで打ち続けた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "7月12日の広島戦で通算1000本安打を達成。最終的に135試合全イニングで4番打者を務め、いずれも自己最高の打率3割1分6厘、42本塁打、108打点を記録。シーズン全試合4番出場は巨人では1950年の川上哲治以来50年ぶりの記録だった。本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVP、日本シリーズMVP、ゴールデングラブ賞を受賞し、巨人の日本一の立役者となった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "なお、この年の日本シリーズMVP受賞によって川上哲治、大下弘、福本豊、トーマス・オマリー、古田敦也に次ぐ史上6人目の「レギュラーシーズン、オールスター戦、日本シリーズにおけるMVP獲得者」となった。プロ野球界に最も貢献した人物に贈られる正力松太郎賞も初受賞した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "同年の日米野球では、MLB選抜であるボビー・コックスに「ゴジラはいいねえ。バットスイングが速い」と称賛された。この時点では「大リーグなんて、そんな」とMLB挑戦に否定的だったが、「野球をやっていて、大リーグを全然考えないと言ったら、うそになるかもしれません」と2年後のFA移籍に含みを持たせた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "11月21日には石川県県民栄誉賞を受賞した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "契約更改では、松井のMLB移籍を危惧した球団側が8年総額56億円という破格の長期大型契約を持ちかけたが、松井は「一年一年が勝負という気持ちでプレーしたい」として単年契約にこだわり、球界最高(当時)の年俸5億円でサインした。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "2001年4月12日の中日戦に1000試合目の出場で通算250本塁打を達成。5月3日の中日戦で当時史上5人目の1000試合連続試合出場を達成。5月5日から8月13日までセ・リーグ歴代1位の65試合連続出塁を達成する。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "9月27日、広島カープ戦で自身初の1試合3本塁打(3打数連続)を記録するなど9月は打撃好調で月間MVPを受賞した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "この年、初の首位打者のタイトルを獲得したが、全イニング出場での首位打者は王貞治、イチローに次ぐ史上3人目の快挙となった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "一方で、本塁打数はなかなか伸びず、20号本塁打を放ったのは8月7日であった。8月まで年間30本に届かないペースで推移していたが、9月にようやく量産体制に入ると、自身初の1試合3本塁打を含む月間11本塁打と巻き返したが、最終的な本数は36本とやや数を落とした。本塁打王のタイトルは当時本塁打王争いをしていたペタジーニに再び奪還される。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "この年の松井は、打球が上がらずにホームランが出ないという悩みに悩まされていた。この年の打撃について、松井は後に「あの年首位打者を取ったけど、打撃は最後まで狂ったままだった」と語っている。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "FA権獲得が翌年に迫る中、下交渉では球団から5年総額50億円の大型複数年契約を提示されたが、これを断り当時プロ野球史上最高額となる年俸6億1000万円(後に、佐々木主浩が更新)で単年契約した。契約更改後の会見では、来期にFA権を行使することを明言し、「このまま巨人に残るか、アメリカに行ってみるか二者択一になる」と語った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "2002年は開幕前、巨人がビジター用ユニフォームの胸ロゴを「TOKYO」から「YOMIURI」に変更したことについて、「なぜ巨人の伝統を大事にしないのかなぁ」と松井がコメントしたとスポーツ報知が報じ、オーナーの渡邉恒雄が激怒するという騒動があった。記事を執筆した記者の広岡勲(後の松井の専属広報)が巨人担当を外れることで事態は収拾した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "「日本一」「三冠王」の2つを目標に掲げて10年目のシーズンをスタート。開幕後間もない4月13日にFA権を取得。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "7月9日に黒田博樹から通算300号本塁打を放つ。28歳0か月での到達は王貞治の27歳3か月に次ぐ史上2番目の年少記録であり、1200試合目での達成は史上6番目の速さであった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "また、8月1日には4番打者としての連続出場を363試合に伸ばし、石井浩郎の記録を抜き当時の単独1位(後に、金本知憲が更新)となった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "オールスターゲーム前までは、前年同様打球が上がらず76試合で18本塁打だったが、後半戦は64試合で32本塁打という驚異のペースで打ち続け、自己最多を更新する、史上8人目の50本塁打を記録する(平成時代の日本人唯一)。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "セ・リーグでは1985年のランディ・バース以来17年ぶり、日本人では1986年の落合博満以来16年ぶり、巨人では同じく1977年の王貞治以来の25年ぶりの快挙となり、2022年に村上宗隆が達成するまで長らく「最後の日本プロ野球での日本人選手による50本塁打達成者」となっていた。ペタジーニに9本差をつけた50本目の本塁打は2002年の本拠地最終戦の対ヤクルト戦(東京ドーム)で記録。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "7・8月と2か月連続で月間MVPを受賞。9月7日の広島戦でプロ野球新記録となる5年連続100得点を記録した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "シーズン終盤までは打率3割5分台を維持し、三冠王目前だったが、シーズン終盤に調子を落とし、首位打者争いで福留孝介にタイトルを譲った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "打率、本塁打、出塁率では自己最高の成績で、本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVPを獲得した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "なお、巨人では2002年以降、2020年に岡本和真が本塁打王になるまでの18年間にわたって、日本人選手で本塁打王を獲得する選手は現れなかった。また、巨人の日本人左打者の40本塁打以上の選手及び打点王は2010年に阿部慎之助が44本塁打を記録、2012年に打点王を獲得するまで現れなかった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "レギュラーシーズン終了後の10月11日には監督の原と、16日には球団代表の土井とそれぞれ会談。前監督の長嶋とも長時間会談し、残留を要請されたが、結論は日本シリーズ後に持ち越した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "10月18日には、ニューヨーク・タイムズ紙でニューヨーク・ヤンキースが松井の獲得を狙っていることが報じられた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "西武ライオンズとの日本シリーズでは、松井の安打数は4本に留まったが、チームは1990年の西武以来12年ぶりで球団(巨人として)初の4連勝のストレート勝ち(4勝0敗)で西武を下し、日本一の栄冠に輝いた。なお2012年にMLBで引退したため、この日本シリーズが自身にとって現役時代最後の日本シリーズ出場となった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "11月1日にFA権を行使してMLBへの挑戦を表明した。「最後の最後まで悩んで苦しかった。何を言っても裏切り者と言われるかもしれないが、いつか『松井、行ってよかったな』と言われるよう頑張りたい。決断した以上は命を懸ける」と決意を語った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "松井はFA宣言をするときに自らを「裏切り者」と発言し、松井の危惧の通り、裏切り者だと考えるジャイアンツファンは一定数存在したが、日本球界全体では松井の成功を祈っていた。むしろ彼がそれだけプロ野球ファンのことを考えている証左だとする賞賛の声や、移籍決断に至るまでの彼の苦悩に対して同情する声は決して少なくないばかりか逆に多かった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "球団関係者は沈痛な面持ちで「球界の財産である松井選手のアメリカ(MLB)への流出を防ぐことができず、応援してくださるファン皆さんには何とお詫びしたらいいか......」と、まるで不祥事でも起こしたようなコメントを残した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "MLB球団との交渉にあたって、当初は代理人無しで交渉に臨む予定だったが、MLBの契約内容の複雑さを知った松井は方針を転換し、ジェイソン・ジアンビの代理人としてニューヨーク・ヤンキースと大型契約を締結した実績があるアーン・テレムを代理人に選定した。テレムには「ヤンキースとだけ集中して交渉してほしい。ヤンキースがダメだったら次のことを考えよう」と伝え、ヤンキースへの入団を熱望した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "2002年12月19日にニューヨーク・ヤンキースと総額2100万ドル(当時約25億4100万円)の3年契約に合意。ニューヨークの新聞各紙は「ゴジラがブロンクスにやってくる」という大見出しをつけた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "2003年1月14日にニューヨーク市内のホテルで行われた入団会見には、約300人の報道陣に加え、球団社長のランディ・レバイン(英語版)、監督のジョー・トーリ、ロジャー・クレメンス、ニューヨーク市長のマイケル・ブルームバーグらも出席した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "松井は「ヤンキースはメジャーの中でも素晴らしい伝統がある。素晴らしいプレーヤーがたくさん在籍した球団。自分の中でも一番刺激があるチームで自分の力を存分に発揮したかった」と語った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "巨人からFA権を行使して移籍したのは1994年の駒田徳広(横浜へ移籍)以来2人目であった。海外FAは巨人史上初。ヤンキース史上初のアジア人打者(日本人で初めてヤンキースとメジャー契約したのは投手である伊良部秀輝)である。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "3月31日、公式戦開幕試合のトロント・ブルージェイズ戦に5番レフトで先発出場し、初回にロイ・ハラデイから左翼前への適時打を放ち、初打席・初安打・初打点を記録。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "4月8日の本拠地開幕戦、ミネソタ・ツインズ戦では前打者のバーニー・ウィリアムスが敬遠された後の打席で2-3からジョー・メイズの145km/hの高速チェンジアップをライトスタンドに叩き込む、メジャー初本塁打となる満塁本塁打を放つ。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "4月12日にはメジャー初のサヨナラ安打を放つ。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "7月に行われたMLBオールスターゲームにファン投票のア・リーグ外野手部門で3位に入り初出場を果たした。日本人では1995年の野茂英雄、2001年のイチロー、佐々木主浩に続く4人目のオールスターゲーム出場となった。しかし、日本からの組織票に助けられた形での選出で、現地メディアでは批判が起こり、試合ではスタメン出場を果たし1安打を放ったものの、ブーイングを浴びせられた。また、スター選手とのバット交換用に日本から24本のバットを取り寄せたが、誰にも声をかけることができず、全て持ち帰った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "7月17日に行われたオールスターゲーム出場後の後半開幕戦のクリーブランド・インディアンス戦でデビッド・リスキー(英語版)の146km/hの速球を右中間スタンドに運び、日本人メジャーリーガー初のサヨナラ本塁打を放った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "ヤンキースの新人としては67年ぶり3人目の100打点以上を記録した(1926年のトニー・ラゼリ、1943年のビリー・ジョンソン(英語版))。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "地区シリーズではポストシーズン日本人初の本塁打を放った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "ボストン・レッドソックスとのリーグ優勝決定シリーズ第7戦では、8回裏にホルヘ・ポサダの適時打で同点のホームを踏んだ際に大きく跳び上がり、全身で喜びを表した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "フロリダ・マーリンズとのワールドシリーズ第2戦では、ワールドシリーズでの日本人初本塁打を放った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "レギュラーシーズンでは雨天引き分けによる再試合があったため、新人かつヤンキースの選手としては21世紀になって初めてシーズン163試合に出場した選手となった。しかし、本塁打数はわずか16本と、期待外れの結果に終わった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "それでも、得点圏打率はチーム最高の.335、打点は主砲のジェイソン・ジアンビに1差となるチーム2位の106打点を叩き出し、勝負強さを発揮した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "シーズン通算で打率.287、16本塁打、106打点をあげたがア・リーグ新人王には選ばれなかった。打率.287、17本塁打、73打点、21盗塁を記録したロイヤルズのアンヘル・ベローアがア・リーグ新人王を獲得した。これに対して当時ヤンキースオーナーのジョージ・スタインブレナーは「酷い不正」「全米野球記者協会、そして何年もの間彼らが球界に貢献してくれたことについて、私は多大な敬意を持っている。その一方で、ヒデキ・マツイに対して酷い不正が行われたと確信している」と声明文を出している。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "2004年は前年16本塁打に終わったことを反省し、オフに大幅な筋肉増量に取り組んだ。そのため松井の身体、特に上半身は一回り大きくなった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "それが功を奏し、重心の位置を下げてスタンスを広めにしたことにより、左方向への本塁打が増加。スプリングトレーニングでは本塁打と打点のチーム2冠王に輝いた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "東京ドームで行われたタンパベイ・デビルレイズとの日本開幕戦に先立って開催されたヤンキースと巨人の親善試合では凱旋本塁打を放つ。デビルレイズとの開幕2連戦では「2番・左翼」でフル出場し、2戦目には日本のファンの前で第1号本塁打を放った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "本土開幕戦以降は61打席本塁打なしであったが、4月24日のレッドソックス戦では、観戦に訪れた両親が見守る中で第2号本塁打を放ち、NPB・MLB通算350本塁打を達成。その後は前年より大幅に速いペースで本塁打を量産し、6月4日には、前年より41試合早い53試合目で10号本塁打に到達。5月最終週には二度目の週間MVPも受賞した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "6月19日、20日のロサンゼルス・ドジャース戦ではメジャー移籍後初の2試合連続本塁打を放った。前半戦だけで前年を上回る17本塁打に到達。オールスターゲームにはファン投票外野手部門での選出こそ逃したが、最終投票で120万票を集めて選出され、2年連続で出場を果たした。トーリ監督からはホームランダービーへの参加を打診されたが、「僕が出たらビールの缶が飛んでくる」と辞退した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "球宴明けの7月15日にはNPB・MLB通算1500試合連続出場に達した。8月7日のトロント・ブルージェイズ戦でMLB移籍後初の2打席連続本塁打を放った。15日のシアトル・マリナーズ戦で前年のワールドシリーズ以来の4番に座ると、シーズン後半には4番打者に定着した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "9月30日のツインズ戦で日本人選手初の3試合連続本塁打を放った。最終的には当時の日本人メジャーリーガー史上最多で前年のほぼ倍にあたる31本塁打と同最高のOPS.912を記録した。この31本塁打、OP.912は2021年に大谷翔平が上回るまでの17年間にわたって日本人では最多であった。打率こそわずかに3割を下回ったが、三部門全てで前年を上回る好成績を残した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "ポストシーズンでは打棒が爆発し、11試合で51打数21安打、打率.412、3本塁打、13打点、OPS1.221を記録。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "前年に引き続いての対戦となったレッドソックスとのア・リーグチャンピオンシップシリーズではリーグチャンピオンシップシリーズ史上最多タイとなる14安打、28塁打を記録。第3戦には、これまた最多タイの1試合5安打、5得点を記録するなど絶好調であったが、チームは先に3連勝しながらまさかの4連敗を喫し、ワールドシリーズ出場は逃した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "オフには徹底した筋力強化に取り組み、大幅な体重増(103kg→110kg)を遂げた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "2005年の開幕前は本塁打王のタイトル獲得にも意欲を見せていたが、4月9日から5月29日にかけて46試合、202打席連続本塁打なしという不調に陥った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "誕生日の6月12日には右足首を捻挫し、途中交代するアクシデントもあったものの、DHでの出場も挟んで粘り強く出場を続けた。20日には自身3度目の週間MVPを受賞し(6試合で打率.455、3本塁打、10打点)、6月は全試合で出塁を記録して月間打率.398、6本塁打、23打点、OPS1.165と好調であったが、翌月の球宴出場は逃した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "7月28日には、アーニー・バンクスを抜いてメジャーデビューから425試合連続出場の新記録を樹立。3年連続で全試合出場を果たすと共に、メジャーでの自己最高となる打率.305、116打点を記録。打率と打点で前年を越える成績を残したことに満足感を示したものの、本塁打の減少については来年の課題にすることを誓った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "9月8日にはNPB/MLB通算400本塁打を達成し、9月と10月は打率.348、3本塁打、OPS.932と好調を維持してチームの地区優勝に貢献。しかしロサンゼルス・エンゼルスとのディビジョンシリーズで2勝3敗で敗退し、松井自身も20打数4安打の打率.200と抑え込まれた。敗退が決まった第5戦では、5打席全てに走者を置きながらいずれも凡退し、8残塁に終わった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "ポストシーズンのシリーズ突破がかかった試合で5打席全てに走者を置いて凡退した打者は、1986年のワールドシリーズ第6戦でのビル・バックナーに次いでメジャー史上2人目であった。試合後のインタビューでは、「僕がチャンスで打てていれば、試合の結果は変わっていた」と悔しさを滲ませた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "この年限りで3年契約が切れるため、開幕前には総額3150万ドルの3年契約を提示されていたが、シーズン終了後に改めて交渉に臨むことを決め、オフに交渉を再開。途中交渉が難航し、最終的にはヤンキースと4年総額5200万ドル(当時のレートで約61億8800万円)で契約延長。「最高に幸せです」とコメントし、高評価での契約延長に満足感を示した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "GMのブライアン・キャッシュマンが「松井はグラウンドでの才能だけでなく、日本のファンをひきつける力がある」と述べたように、ビジネス面での貢献度も評価された形となった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "2006年は開幕前に行われたワールド・ベースボール・クラシックの出場を辞退してシーズンに備えた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "しかしスプリングトレーニングで古傷の左ひざ痛が再発したり、持病の花粉症に悩まされるなど、万全とは言えない状態であり、本人も「正直よくない」と不安を漏らしていたが、開幕戦で1本塁打を含む4安打を放ち、幸先の良いスタートを切る。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "4月18日にはデビュー以来500試合連続出場を達成。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "5月11日に本拠地ヤンキー・スタジアムで行われたレッドソックス戦の1回表、マーク・ロレッタの放った浅めのフライを滑り込んでキャッチしようとした際にグラブが芝生にひっかかり左手首を故障。そのまま途中交代した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "1イニング守備に就かずに交代したため、巨人時代の1993年8月22日から続いていた連続試合出場記録が「1768」で途切れた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "ニューヨーク市内のコロンビア大メディカルセンター病院で即日の検査を行った結果、左手首(橈骨)骨折と診断。翌朝に手術が行われ、故障者リスト入りする。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "チームメイトに与えたショックも大きく、デレク・ジーターは「松井の代わりなんて誰もいない」と語った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "8月17日には98日ぶりにベンチ入りし、30日にはフリー打撃を再開した。9月12日のデビルレイズ戦に8番・指名打者で124日ぶりに先発出場。満員の観衆からスタンディングオベーションで迎えられ、4打数4安打の活躍で復活を遂げた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "復帰後は14試合で打率.430を記録するなど好調で、最終的には51試合の出場ながら打率.302を記録した。チームも9年連続で地区優勝を果たしたが、デトロイト・タイガースとのディビジョンシリーズでは16打数4安打、0本塁打、打点1と目立った活躍が出来ず、チームも2年連続でディビジョンシリーズ敗退となった。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 156,
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"text": "2007年2月に著書『不動心』(新潮新書)を刊行し、30万部を超えるベストセラーとなった。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "開幕から4試合目の4月7日、ボルチモア・オリオールズ戦の2回の第1打席目に捕ゴロで一塁へ走った際、左太股に一瞬つったような違和感を訴える。その後2イニングはストレッチなどで様子を見ながら守備に就いていたが、太股の張りが消えないため、4回の第2打席目の直前で首脳陣は代打を告げ、そのままベンチ裏に退き、翌日故障者リスト入りする。MRI(磁気共鳴画像装置)診断の結果、左太股の軽い肉離れが判明。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "故障は順調に回復、故障者リストの期限が切れる4月23日に出場選手登録され、同日のデビルレイズ戦へ16日ぶりにスタメン復帰となった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "5月6日、本拠地でのマリナーズ戦で日本人メジャーリーガー2人目となるNPB・MLB通算2000本安打を達成。日本から駆けつけた名球会会長の金田正一の目の前での快挙達成であり、名球会入りを果たした。当初は外野手の失策と記録されたが、後に二塁打に訂正され、直後判定に両チーム乱闘が起こった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "6月は打率.252、3本塁打、OPS.706と打撃不振に陥り、6月26日には地元紙から他4選手と共に、勝てない直接の原因として名指しされた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "7月に入ると一転して打撃好調で打ちまくり、出場28試合で打率.345、28打点、OPS1.145の成績。長打率.735、13本塁打、31得点はリーグトップだった。8月2日には、7月のリーグ月間MVPに選出された。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "8月5日、ヤンキースタジアムでのカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャー通算100本塁打を達成。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 163,
"tag": "p",
"text": "終盤からプレーオフにかけて右膝の故障に苦しみ、9月は打率.185、2本塁打、OPS.689を喫した。チームは3年連続でディビジョンシリーズ敗退、松井も4戦で打率.182(11打数2安打)に終わった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 164,
"tag": "p",
"text": "シーズン成績は25本塁打・103打点と一定の数字を残し、打点を多く叩き出すため、ゲームのキャラクターのように打点をパクパク呑み込んでいく連想から、この年にはチーム内で「パックマン」という愛称がついた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 165,
"tag": "p",
"text": "しかしながら、本人はオフのインタビューで「今季は失敗しかなかった。話になりませんよ」と振り返り、怪我や要所での凡退を繰り返したことに悔しさを滲ませた。シーズン終了後の11月14日にニューヨークの病院で右膝の軟骨を除去する内視鏡手術を受ける。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 166,
"tag": "p",
"text": "2008年3月26日に富山県出身の25歳日本人女性とアメリカ合衆国ニューヨーク市内で挙式。翌日に新婦の似顔絵と共に記者会見を行い、結婚を報告した。相手が元会社員で一般人のため、プライバシーを考慮して、顔写真や氏名は公表していない。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 167,
"tag": "p",
"text": "レギュラーシーズンでは監督の交代もあり、開幕前はレギュラーが確約されなかった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 168,
"tag": "p",
"text": "開幕は「8番・指名打者」からのスタートとなったが、序盤は打撃が好調で打順も上がり、一時は打率.337で首位打者に立ち、4月から5月にかけては自己最長となる19試合連続安打を放った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 169,
"tag": "p",
"text": "また、この年のオールスターゲームは同年限りで閉場する地元ヤンキースタジアムで行われる最後のオールスターゲームということもあり、松井も「こんな舞台は二度とない。出られれば一生の思い出になると思う」と出場を熱望し、地元の石川県の公式サイト上でファン投票の呼びかけが行われたが落選した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 170,
"tag": "p",
"text": "6月になっても好調を持続させ、首位打者争いをしていたが、6月18日の試合前、突然古傷の左膝に痛みが走り、患部に溜まった水を抜く治療を受けた後、監督のジョー・ジラルディとGMのブライアン・キャッシュマンの意向で6月27日に故障者リスト入りした。オフに手術した右膝を無意識にかばい、左足に負担が掛かっていたことが原因だった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 171,
"tag": "p",
"text": "持ち上がった手術の話に関しては、7月17日の段階では「(手術を)球団に勧められれば受け入れる 」との考えを示していた。しかし、2日後にキャッシュマンから手術を勧められた際には態度を一転させ、2時間もの説得にもかかわらず手術を拒否した。その後、2か月に渡る治療・リハビリののち、8月19日のブルージェイズ戦から復帰、主に「7番・指名打者」として出場を続けたが、万全には程遠く打撃は低迷。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 172,
"tag": "p",
"text": "チームのプレーオフ進出も困難になった9月後半からは再び控えに回り、21日のヤンキー・スタジアム最終試合の先発出場を最後にシーズンを終えた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 173,
"tag": "p",
"text": "9月22日に左膝の内視鏡手術に踏み切った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 174,
"tag": "p",
"text": "最終的に打率は3割を下回る.294、安打数は99、本塁打も一桁の9本と寂しい成績に終わった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 175,
"tag": "p",
"text": "2009年は「3割30本100打点」「4盗塁」を個人成績での目標に掲げてスタート。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 176,
"tag": "p",
"text": "膝のリハビリを最優先したために、調整が遅れてしまい、スプリングトレーニングでも序盤は不振が続いたが、故障のため離脱したアレックス・ロドリゲスに替わって4番打者を務め、4月4日には、新ヤンキー・スタジアムの杮落としに花を添える本塁打を放つ等、4本塁打を放った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 177,
"tag": "p",
"text": "開幕戦では4番・指名打者として出場し、7回には恩師である長嶋茂雄の通算444号を超えるNPB・MLB通算445号となる2点本塁打を放った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 178,
"tag": "p",
"text": "しかし打撃の調子はなかなか上がらず、5月以降も膝の腫れや太もも痛などの怪我が断続的に発生した。ロドリゲスの復帰後は、打順が5番や7番に下がり、休養を入れながらの指名打者としての起用が続いた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 179,
"tag": "p",
"text": "また、2009年は完全に指名打者としての登録になったため、指名打者制のないナ・リーグの本拠地球場(ブッシュ・スタジアム)で行われるオールスターのファン投票にはノミネートされなかった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 180,
"tag": "p",
"text": "5月下旬には守備練習を再開。5月27日のテキサス・レンジャーズ戦では、NPB・MLB通算450号となる6号本塁打を含む2打席連続を放った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 181,
"tag": "p",
"text": "しかしその後、18打席連続無安打を記録するなど打撃不振が続き、指名打者制が採用されないナ・リーグ本拠地でのインターリーグ(交流戦)では全試合で先発を外れた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 182,
"tag": "p",
"text": "交流戦期間中の6月17日には阪神タイガースが松井の獲得に向けた調査を進めていることが明らかになり、松井本人は「ありがたい」とコメントし、他にも巨人やオリックス、さらには独立リーグの石川ミリオンスターズが松井の獲得に意欲を見せていると報じられたが、「それと日本に戻るという話は別問題」と語り、MLBで現役生活を最後までやり抜くことを強調した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 183,
"tag": "p",
"text": "7月20日のオリオールズ戦では、2003年以来6年ぶり2本目のサヨナラ本塁打を放ち、7月は打率.293、5本塁打、OPS.967と好調を続けたが、直後から13打席連続無安打に陥った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 184,
"tag": "p",
"text": "8月13日のマリナーズ戦では2本塁打を含む4安打5打点と爆発したが、直後に左ひざの状態が悪化してシーズン初の連続欠場となった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 185,
"tag": "p",
"text": "しかし復帰後の8月21日のレッドソックス戦にて3点本塁打を2本放つなどして自己最高の一試合7打点を記録。2日後のレッドソックス戦でも2本塁打を放つ活躍を見せた。こうして8月は中旬から比較的好調を維持して打率.281、8本塁打、25打点、OPS.918という成績を残し、勝負強い打撃を見せた選手に贈られる「クラッチ・パフォーマー賞」を贈られた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 186,
"tag": "p",
"text": "9月19日のマリナーズ戦で26号本塁打を放ち、ドン・ベイラーを抜いて指名打者での年間最多本塁打の球団記録を更新。MLB移籍後2番目に多い28本塁打を放ち、チーム3位の90打点を叩き出す勝負強さで3年ぶりの地区優勝に貢献した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 187,
"tag": "p",
"text": "レギュラーシーズン全日程終了後、「明らかに打率が低いのは反省点。(28本塁打は)よくも悪くもない」と総括した。また、4年ぶりに1度も故障者リストに入らなかったことを喜んだ。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 188,
"tag": "p",
"text": "米国のスポーツ専門誌「スポーティング・ニューズ」が選定するア・リーグ・オールスターメンバーにも指名打者部門で選出された。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 189,
"tag": "p",
"text": "ポストシーズンには主として「5番・指名打者」として出場。ミネソタ・ツインズとのディビジョンシリーズ第1戦では、試合を決定付ける2点本塁打を放った。ロサンゼルス・エンゼルスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは初戦で2打点と活躍したものの、第4戦・6戦では無安打とやや調子を落とし、打順も6番に下がったが、チームは4勝2敗でエンゼルスを下し、メジャー1年目の2003年以来6年ぶりにワールドシリーズへと駒を進めた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 190,
"tag": "p",
"text": "迎えた前年の覇者フィラデルフィア・フィリーズとのワールドシリーズでは5番に復帰し、持ち前の勝負強さを存分に発揮した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 191,
"tag": "p",
"text": "初戦は1安打のみに終ったが、第2戦では1-1の同点で迎えた6回裏に、ペドロ・マルティネスから決勝本塁打を放った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 192,
"tag": "p",
"text": "フィリーズの本拠地シチズンズ・バンク・パークで行われた第3〜5戦は、指名打者が使えないため代打での出場となった。第3戦では2試合連続となる本塁打を放ち、第5戦でも左前打を放つなど、わずかな出番ながらも結果を出した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 193,
"tag": "p",
"text": "ヤンキースの3勝2敗で本拠地に戻った第6戦では先発に復帰し、2回にペドロ・マルティネスから先制の2点本塁打を放つと、3回には中前適時打、5回にも右中間を破る適時二塁打で2打点ずつを加え、ワールドシリーズ・タイ記録となる1試合6打点を記録し、スタジアムのファンからは「MVP!」の大歓声が沸き起こった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 194,
"tag": "p",
"text": "9年ぶりの世界一に貢献し、13打数8安打3本塁打8打点、打率.615、OPS2.027で日本人選手初、フルタイムの指名打者としても初めてとなるワールドシリーズMVPに選出された。また、「日本シリーズMVPとワールドシリーズMVPを共に受賞した初の選手」となった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 195,
"tag": "p",
"text": "ヤンキースとの契約満了に伴い、11月9日にFAとなり、ヤンキースは松井との残留交渉は行わなかった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 196,
"tag": "p",
"text": "2009年12月16日にロサンゼルス・エンゼルスと年俸600万ドルの1年契約を結び、エンゼルス初の日本人野手となった(投手では長谷川滋利が過去に在籍)。監督のマイク・ソーシアが直々に守備復帰の機会を確約してくれたことがエンゼルス入団の決め手となったという。赤いユニホームから日本のマスコミには『赤ゴジラ』と呼ばれるようになった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 197,
"tag": "p",
"text": "2010年の序盤は4番打者を務め、シーズンを通して前年同様指名打者での出場を主とし、わずか18試合ながら2008年6月以来となる左翼守備にも就いた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 198,
"tag": "p",
"text": "自身4度目となる開幕戦ホームランを記録するなど序盤は打撃好調で、4月13日には移籍後初めてヤンキースタジアムでの古巣ヤンキース戦に臨んだ。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 199,
"tag": "p",
"text": "試合前に行われたワールドシリーズ優勝記念リングの贈呈式では、観客からスタンディングオベーションで迎えられ、かつての同僚が一斉に松井に駆け寄って熱い抱擁を交わす場面もあった。この時、松井に贈呈されたチャンピオンリングは偽物であったが、これはジーターがいたずらで仕込んだもので試合後に本物が渡されるまで松井は気付かなかった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 200,
"tag": "p",
"text": "4月26日のインディアンス戦ではMLB通算1000本安打を達成し、その後の打席でMLB通算500三振を喫した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 201,
"tag": "p",
"text": "6月26日のコロラド・ロッキーズ戦では満塁本塁打を放ち、MLB通算150号を達成。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 202,
"tag": "p",
"text": "後半戦は打率.309、11本塁打、37打点、リーグ5位のOPS.955を記録し、最終的に打率.274、21本塁打、84打点、チームトップのOPS.820を残した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 203,
"tag": "p",
"text": "しかし5月は打率.184にOPS.545、7月は打率.228にOPS.708、8月は打率.304にOPS.938、9月は打率.347にOPS1.024と、月によって調子の波が激しく、さらにシーズンを通して、右投手に対しては打率.287にOPS.861と例年並みの数値を残したものの、左投手に対して打率.234にOPS.687と低迷。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 204,
"tag": "p",
"text": "7月以降は相手先発が左投手の際の起用を見送られることが多くなり、チーム成績の低迷もあって、若手の起用が増えたことから守備に就く機会もなくなった。前半戦は、松井に追い出される形でレンジャーズに移籍したブラディミール・ゲレーロが絶好調だったため、地元メディアやファンからはゲレーロと比較される形で批判を受けた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 205,
"tag": "p",
"text": "オールスターゲームは地元エンゼルスタジアムでの開催だったが、ファン投票の指名打者部門はゲレーロに230万票以上の大差を付けられた2位に終わり、「チャンスがあればと思っていたけど、仕方ない」と語った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 206,
"tag": "p",
"text": "後半戦に入ると、一部メディアから「戦力外となる可能性がある」とも報じられ、8月8日のタイガース戦では、相手投手が右投手であるにもかかわらずスタメン落ちし、ショックのあまり報道陣を避け、食堂にこもってテレビを見続けたという。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 207,
"tag": "p",
"text": "その後は打撃の調子が上がっていたが、9月8日のインディアンス戦では、新人時代の1993年以来17年ぶりに代打の代打を送られる屈辱も味わった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 208,
"tag": "p",
"text": "シーズン終了後、エンゼルスGMのトニー・リーギンスからは「こんなに調子の波が激しいとは思わなかった」と厳しい評価が下された。11月2日に1年契約が満了しFAとなり、翌日エンゼルスは同月6日が期限となっていた独占交渉期間中に翌年の契約を提示しないと表明した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 209,
"tag": "p",
"text": "2010年12月14日にオークランド・アスレチックスと年俸425万ドル(当時のレートで3億5700万円)で1年契約を結ぶ。入団会見では「先頭を切ってみんなを引っ張っていけるようなプレーをしたい」と意欲を口にした。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 210,
"tag": "p",
"text": "松井にはアスレチックス以外にも数球団が関心を示しているとされていたが、正式なオファーを行ったのはアスレチックスのみであった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 211,
"tag": "p",
"text": "2011年のスプリングトレーニング中は寝違えと花粉症に悩まされて一時別メニュー調整となり、3月21日の夜には宿舎で転倒し、翌日には顔面傷だらけで球場に現れるという一幕もあった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 212,
"tag": "p",
"text": "オープン戦は過去3年では最多の22試合に出場したが、打率.169、1本塁打、2打点、OPS.486と低調な成績だった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 213,
"tag": "p",
"text": "開幕は「5番・DH」で迎え、4月3日のマリナーズ戦でシーズン初安打となる二塁打を放ちNPB/MLB通算2500本安打を達成。2000本安打達成時と同じく、イチローの前で記録を達成することとなった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 214,
"tag": "p",
"text": "5月3日のレンジャーズ戦では2年ぶりのサヨナラ本塁打を放ち、「今日のようなプレーで、(東日本大震災で)被災した方に少しでも元気を届けられれば」と語った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 215,
"tag": "p",
"text": "ところが、その後は不振に陥り、5月には月間打率.197と低迷。対戦チームの先発が左投手の試合では先発を外されることが多くなっていたが、6月に入ると、右投手相手でも先発を外れることが増えた。これについて、松井は「スランプを脱するには、試合に出る必要がある」と歯がゆさを滲ませていた。地元のテレビ局からは、DH制の無い交流戦が始まる6月21日までに出場機会を与えても復調しなければ、解雇すべきだという厳しい報道がなされた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 216,
"tag": "p",
"text": "しかし、6月9日に監督のボブ・ゲレンが解任され、ボブ・メルビンが監督代行に就任して以降は相手投手の左右に関わらず、主に「3番・DH」で先発起用されるようになる。メルビンは、マリナーズ監督時代から松井の進塁打を打つ能力や四球を選ぶセンスを評価していたという。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 217,
"tag": "p",
"text": "監督交代後初の試合となった6月10日のホワイトソックス戦で左腕のマーク・バーリーから5月3日のサヨナラ弾以来となる4号本塁打を放つと、6月17日のロイヤルズ戦でNPB・MLB通算499号となる6号本塁打を放つまで、7試合で打率.304、3本塁打と復調の兆しを見せた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 218,
"tag": "p",
"text": "21日のメッツ戦ではDHが使えないため、移籍後初めて外野守備に就いた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 219,
"tag": "p",
"text": "しかし、その後は再び調子を落とし、前半戦終了時点での打率は.209だった。本塁打も長らく出ていなかったが、7月20日のタイガース戦で第7号本塁打を放ち、NPB・MLB通算500本塁打を達成(巨人時代の10年間で332本、メジャー9年目で168本)。王手をかけた時点では記録に関心を示していなかった松井だが、1か月以上も足踏みしたことについては「ちょっと時間がかかりすぎた感じ」と語った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 220,
"tag": "p",
"text": "試合後にはNPBに復帰せずMLBで現役を終える考えであることを口にした。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 221,
"tag": "p",
"text": "前半戦終了後は打ちまくり7月25日には6年ぶりとなる7月第3週の週間MVPを受賞。7月は打率.365、3本塁打、OPS.997を残し、チーム月間MVPを受賞した。前半戦終了時点で.209だった打率は.274まで上昇したがシーズン終盤再び調子を落とし.251に落ちた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 222,
"tag": "p",
"text": "9月10日のレンジャーズ戦でNPB・MLB通算505本塁打となる第12号本塁打を放ち、日本人通算本塁打で歴代単独7位となった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 223,
"tag": "p",
"text": "シーズン終了直前の9月26日には、報道陣に対して「またゼロからやり直すだけ」と来シーズンへの意気込みを語ったが、一方で「どこからも必要とされなければ、引退するしかない」という心境も吐露した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 224,
"tag": "p",
"text": "後半戦は打率.295、6本塁打、OPS.779と、前半戦からは大きく数字を上げたが、シーズン通算では打率.251、12本塁打、チーム2位の72打点、OPS.698と100試合以上出場ではプロ入り後ワーストとなる成績でシーズンを終えた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 225,
"tag": "p",
"text": "また、2008年以降では最多となる27試合で守備に就き、打者に不利な球場として知られる本拠地オー・ドットコー・コロシアムでは打率.234、4本塁打、OPS.663と低調な成績に終わったが、ロードでは打率.267、8本塁打、OPS.729を残した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 226,
"tag": "p",
"text": "シーズン最終戦終了後のインタビューでは「体調という意味では凄く良いシーズンだったけど、いい結果は出なかった。納得いったところなんてない」と語った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 227,
"tag": "p",
"text": "10月31日にフリーエージェントとなった。このオフにはなかなか契約先が見つからず、結局プロ入り後初めて所属球団未定のまま越年することとなった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 228,
"tag": "p",
"text": "2012年は年明けから古巣ヤンキースやロサンゼルス・ドジャース、ミルウォーキー・ブルワーズなど様々な球団が浮上したが正式な契約には至らず、プロ入り後初めて無所属のままで開幕を迎えた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 229,
"tag": "p",
"text": "2012年4月30日にタンパベイ・レイズとマイナー契約を結んだことが発表された。5月1日にはマイナー契約としては異例の入団記者会見を行った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 230,
"tag": "p",
"text": "AAA級ダーラム・ブルズでは13試合で打率.170、0本塁打と調子が上がらなかったが、主力選手に故障者が相次いだチーム事情もあり、29日にメジャー昇格。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 231,
"tag": "p",
"text": "背番号については、「55」は主力投手のマット・ムーアが付けていたため、「35」を付けることになり、プロ入り後初めて背番号が変わることになった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 232,
"tag": "p",
"text": "昇格当日のホワイトソックス戦でフィリップ・ハンバーから1号2点本塁打、更に、6月1日のオリオールズ戦で陳偉殷から、観客席最上段に飛び込む2号2点本塁打を放ったが、それ以降は本塁打なし。結果的に、この本塁打が現役最後の本塁打(MLB通算175号、NPB・MLB通算507号)となった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 233,
"tag": "p",
"text": "長打も、6月9日のマーリンズ戦での二塁打を最後に出なくなった。それでも監督のジョー・マドンは復調を信じ、また、エバン・ロンゴリアら主力が依然故障ということもあり、6月の時点で出ていたという戦力外の話については、「100打席打った結果で判断する」ことを決め、先発での起用を続けた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 234,
"tag": "p",
"text": "6月には一塁の守備練習をしたり、大量ビハインド場面で投手としての救援登板を自ら志願する場面もあったが、外野手や指名打者、代打以外での出場機会はなかった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 235,
"tag": "p",
"text": "7月1日のタイガース戦では、3打数2安打と活躍したものの、4番右翼で先発出場した翌日7月2日ヤンキース戦の右翼守備で、打球の目測を誤って落球した上、ファウルを追った際に左太もも裏を痛め、一度も打席に立つことなく途中交代を言い渡され、それ以降、出場機会は激減した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 236,
"tag": "p",
"text": "結果的に、7月1日の第3打席が現役最後の安打(MLB通算1253本目、NPB・MLB通算2643本目)、7月2日が4番スタメンとして出場した現役最後の試合となった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 237,
"tag": "p",
"text": "7月下旬に入ると、打席に立つ度に本拠地トロピカーナ・フィールドのファンから大きなブーイングが起こるようになった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 238,
"tag": "p",
"text": "結局、7月19日のインディアンズ戦がスタメンで守備に就いた最後の試合(6番ライト)、7月22日のマリナーズ戦がスタメンとして出場した最後の試合(6番指名打者)、7月23日のマリナーズ戦が現役最後の出場試合(代打、ショートフライ)となった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 239,
"tag": "p",
"text": "出場機会のなかった7月24日のオリオールズ戦試合後にマドン監督からDFAを通告され、翌25日に球団から正式にDFAが発表された。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 240,
"tag": "p",
"text": "8月1日には自由契約となり、他球団からのオファーを待ったが、ポストシーズン出場のための移籍期限となる8月31日までに獲得に動く球団はなかった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 241,
"tag": "p",
"text": "結局、現役最終年となるこのシーズンは、出場34試合で打率.147、2本塁打、7打点、OPS.435という過去最低の成績に終わった。退団後は去就について「何も決めていない」としていた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 242,
"tag": "p",
"text": "2012年12月27日にニューヨーク市内のホテルで緊急記者会見を開き、2012年シーズン限りで現役を引退することを表明した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 243,
"tag": "p",
"text": "引退を決断した理由として、「命がけでプレーし、メジャーで力を発揮するという気持ちで10年間やってきたが結果が出なくなった」と述べ、NPB復帰を選択しなかったことについては「10年前の日本での自分の活躍を想像するファンの期待に応える自信を持てなかった」と説明した。一番思い出に残っていることは「たくさんある」としながらも、「長嶋監督と二人で素振りした時間」を挙げた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 244,
"tag": "p",
"text": "自身の引退後については「ゆっくりしながら今後のことを考えたい」という姿勢を示した。同日、巨人オーナーの白石興二郎は松井を将来的に巨人の監督として迎え入れたい意向を示し、既にヤンキースへのコーチ留学を打診したことを明らかにした。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 245,
"tag": "p",
"text": "松井の引退を受け、数多くの球界関係者が談話を発表した。松井の恩師である長嶋茂雄は「現代で最高のホームランバッター」と賛辞を送った。内閣官房長官の菅義偉や外務大臣の岸田文雄といった政府要人からも引退を惜しむコメントが寄せられた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 246,
"tag": "p",
"text": "松井の引退は日本国内での速報から間もなくして各国でも報じられ、メディアやファンから引退を惜しむ声が相次いだ。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 247,
"tag": "p",
"text": "ヤンキースでチームメイトだったデレク・ジーターは球団の公式サイト上で「ヒデキは特別な存在」と惜別の言葉を贈り、ヤンキースオーナーのハル・スタインブレナーも「ヤンキースの成功に大きく貢献し、常にヤンキースファミリーの一員として愛されるだろう」と称えた。ヤンキース時代の監督のジョー・トーリは「松井の監督だったことを誇りに思う」と称えた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 248,
"tag": "p",
"text": "また、CBSスポーツの記者のジョン・ヘイマンは「松井はヤンキースで最も人間的に優れた人物の1人で、誰からも愛された」と賞賛し、YESネットワークの記者のジャック・カリーは「松井は私が取材した選手の中でも最高級の振る舞いをする選手だった」と絶賛した。ニューヨーク・タイムズ紙は2ページにわたって松井の引退に関する記事を掲載した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 249,
"tag": "p",
"text": "2013年3月上旬に長男が誕生したことを明かす。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 250,
"tag": "p",
"text": "2013年(平成25年)4月1日の午後には、内閣官房長官の菅義偉(当時)が記者会見で、日本政府が国民栄誉賞を長嶋茂雄と同時に授与する方向で検討していることを明らかにし、16日に国民栄誉賞の授与が正式に決定された。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 251,
"tag": "p",
"text": "同年5月5日、東京ドームで行われた読売ジャイアンツ対広島東洋カープ戦の前に松井の引退セレモニーと国民栄誉賞授与式が行われ、内閣総理大臣の安倍晋三(当時)から国民栄誉賞が授与された。その後の始球式で松井は巨人時代のユニフォームを着用し、長嶋を打者、巨人監督の原辰徳を捕手、安倍を審判に迎えて始球式を行った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 252,
"tag": "p",
"text": "2013年5月30日にはニューヨーク・ヤンキースが、チームの開幕戦からちょうど55試合目のホームゲーム(雨天延期などのため、セレモニー当日は55試合目とはならなかった)となる7月28日のサンディエゴ・パドレス戦で引退セレモニーを行うことを発表した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 253,
"tag": "p",
"text": "7月からはヤンキース傘下のショートA級スタテンアイランドで打撃投手を務めた。7月16日には、NHK BS1のMLBオールスターゲーム中継で、現地のシティ・フィールドからゲスト解説を務めた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 254,
"tag": "p",
"text": "7月28日にニューヨーク・ヤンキースと1日限定のマイナー契約を結び、この日のレイズ戦の試合前にヤンキー・スタジアムのグラウンド上で引退セレモニーを行った。この日、松井はヤンキースの一員として野球選手の生涯を終えた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 255,
"tag": "p",
"text": "9月22日には同シーズン限りで引退するマリアノ・リベラの引退セレモニーに出席した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 256,
"tag": "p",
"text": "2014年2月1日から13日まで読売ジャイアンツの春季キャンプで臨時コーチを務めた後、2月19日から3月4日までニューヨーク・ヤンキースのスプリングトレーニングでゲストコーチを務めた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 257,
"tag": "p",
"text": "5月24日にはクーパーズタウンで行われるアメリカ野球殿堂の記念試合にヤンキースの代表として出場。本塁打競争にも参加し、記念試合ではスティーブ・エイベリーから本塁打を打つなど3打数1安打1打点の活躍を見せた。6月22日にはヤンキースのオールド・タイマーズ・デーに出席し、記念試合では試合途中から投手として登板もした。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 258,
"tag": "p",
"text": "8月25日、ヤンキース時代の恩師であり、背番号「6」がヤンキースの永久欠番に認定されたジョー・トーリの記念セレモニーに出席。また、9月7日には盟友デレク・ジーターの引退セレモニーに出席。同年のヤンキースタジアムでの最終戦となった9月25日には、NHK BS1での中継内でヤンキースタジアムからゲスト解説を行った。試合はジーターのサヨナラタイムリーでヤンキースが劇的な勝利を収めた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 259,
"tag": "p",
"text": "2015年2月3日・4日の2日間にわたって古巣の巨人軍宮崎キャンプを視察。また2月5日から7日まで沖縄県宜野湾でDeNAのキャンプを視察した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 260,
"tag": "p",
"text": "3月11日にヤンキースGM特別アドバイザーに就任した(契約期間は1年)。キャンプ地のフロリダ州-タンパでブライアン・キャッシュマンGM同席のもと、記者会見を行い、「ヤンキースでは素晴らしい時間を過ごした。今度は若い選手の力になれるように頑張っていきたい。僕にとっても大きなチャレンジ」と抱負を語った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 261,
"tag": "p",
"text": "同月21日には東京ドームで行われたオープン戦の巨人対北海道日本ハムファイターズ戦でデレク・ジーターと共に始球式を行った。試合後には同球場で東日本大震災の被災地の小中学生を支援する慈善イベント「トモダチ チャリティー ベースボールゲーム」に参加。チャリティーイベントの最後に行われたヒッティングチャレンジでは「せっかくこれだけのお客さんが集まってくれたので、僕が打ちます」と自ら打席に立ち、小宮山悟氏が投じた5球目を右翼スタンドへ放り込んだ。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 262,
"tag": "p",
"text": "2016年もヤンキースGM特別アドバイザーとして活動した。4月5日にはヤンキースとアストロズの試合にて日本人としては史上初となるヤンキースタジアムでの始球式を行った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 263,
"tag": "p",
"text": "2017年1月上旬に次男が誕生したことを明かした。ヤンキースGM特別アドバイザーとして活動を継続した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 264,
"tag": "p",
"text": "2018年1月15日、野球殿堂博物館は、2018年度の野球殿堂競技者表彰プレーヤー部門の顕彰者として松井を選出したことを発表した。なお、松井は野茂英雄(2014年度)の45歳4か月を更新する43歳7か月での最年少野球殿堂顕彰者となった。候補1年目での表彰者が二人選出されるのはこれが初の事例である。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 265,
"tag": "p",
"text": "また、この年はアメリカ野球殿堂の殿堂入り候補資格も得たが、1月24日に行われた記者投票では4票の獲得(得票率0.9%)にとどまり、1年目で殿堂入りの資格を喪失した。ヤンキースGM特別アドバイザーとして活動を継続した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 266,
"tag": "p",
"text": "2018年8月5日に始まった第100回全国高等学校野球選手権記念大会の開幕試合、星稜(石川)-藤蔭(大分)に先立ち、奇しくも当星稜高校のOBとして松井が始球式に登場した。投球はワンバウンドとなり、松井は頭を抱えて苦笑いを浮かべた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 267,
"tag": "p",
"text": "なお、この時の朝日放送テレビでのテレビ中継には星稜高校野球部名誉監督の山下智茂が解説者として出演しており、松井の始球式を見届けている。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 268,
"tag": "p",
"text": "始球式終了後の松井は開幕戦を終始ネット裏で観戦し、結果9-4のスコアで星稜が勝利した直後、松井は直立不動の姿勢で星稜高校の校歌を歌唱した。さらに、松井の隣席にはかつて星稜高校同期生のチームメイトで、現・朝日新聞記者の福角元伸が座っており、母校勝利時に松井自ら笑顔で福角記者へ「オイ、歌うぞ!」と校歌斉唱を催促していた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 269,
"tag": "p",
"text": "2021年7月4日、古巣であるエンゼルスに所属する大谷翔平がシーズン第31本目の本塁打を放ち、松井が記録した日本人では最多のMLBシーズン本塁打数に並んだ。直後に松井は大谷へメッセージを送り、大谷を絶賛し応援する形で次のように語った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 270,
"tag": "p",
"text": "さらに、その3日後となる同年7月7日には大谷が第32本塁打を記録して日本人では単独首位となった(当時点ではMLBの同シーズン内で最多の本塁打数でもあり、またオールスターゲーム前に32本塁打以上かつ12盗塁以上の達成はMLB史上初の記録でもあった)。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 271,
"tag": "p",
"text": "その際にも松井は大谷へ同様の祝福メッセージを送った。そのメッセージを受けた大谷は、「(松井を)子どもの頃からすごい見ていたので、光栄だなと思います。」「素直に嬉しいですし、(松井が)わざわざコメントしていただけるのも嬉しいです。まだまだ打てるように期待に応えられるように頑張りたい。」などと語った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 272,
"tag": "p",
"text": "2021年(令和3年)7月23日、国立競技場(オリンピックスタジアム)で行われた2020年東京オリンピックの開会式で、松井は長嶋茂雄と王貞治とともに聖火ランナーを務めた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 273,
"tag": "p",
"text": "3人は野村忠宏(柔道で五輪三連覇)と吉田沙保里(レスリングで五輪三連覇)から聖火を受け取り、松井は恩師である長嶋の背中を支えて2人でともに歩いた。最後に王が聖火を高々と掲げ、松井が受け取って、次のランナーである医師と看護師のペアへ手渡した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 274,
"tag": "p",
"text": "松井は開会式終了後にテレビ出演し、「監督が受け取られて、長嶋さんが受け取られて、そのあとはとにかく無事に長嶋さんをエスコートする。最後、次の方に無事に渡せましたので。たくさんの長嶋さんのファンの方、王さんのファンの方に喜んでいただけたのなら、私もうれしいです」と語った。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 275,
"tag": "p",
"text": "「ニューヨーク・ポスト」は、「野球がオリンピックに戻ってきた。元ヤンキースのスターを起用した」「松井が今も鋭いスイングをするのか考えたファンがいることを想像するのはたやすい。2009年のワールドシリーズではMVPに選ばれ人格者としても知られている」などと報じた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 276,
"tag": "p",
"text": "なお、野球がオリンピック競技に採用されたのは2008年北京オリンピック以来13年ぶりのことであった。次回の2024年パリオリンピックでは削除されることが決定しており、以降もオリンピックへの復活は予定されていない。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 277,
"tag": "p",
"text": "同五輪の聖火リレーの最終ランナーは、テニス選手の大坂なおみが務めた。しかし、アメリカのメディア「デイリー・ビースト」によると、当初は松井が最終ランナーの大役を務める予定だったと報じられている。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 278,
"tag": "p",
"text": "同誌によれば、東京オリンピック組織委員会の会長であった森喜朗は「松井は純粋な日本人であり、日本とアメリカにおける野球のチャンピオンで、闘志を具現化した存在」として松井を推薦していた。また森は聖火リレーの演出の締めくくりとなる聖火台への点火方法について「(松井の愛称でもある)ゴジラが炎を吐いて、大釜に点火するのは面白いだろう」と話していた。森の意向は当時「神の声」であり、松井の最終ランナー案は実質的に決定していた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 279,
"tag": "p",
"text": "なお、森は松井と同じ石川県根上町(現・能美市)の出身で、小学校も松井と同じであった。森は松井の後援会会長を務め、2001年には松井へ「日本プロスポーツ大賞・内閣総理大臣賞」を授与している。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 280,
"tag": "p",
"text": "しかし、森は2021年2月に女性差別発言を行ったとして批判され、会長を辞任した。これに伴って松井案は廃止となり、実際の最終ランナーは大坂へ変更されたという。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 281,
"tag": "p",
"text": "NPB・MLB通算で507本の本塁打を打った。巨人時代は、日本野球界を代表する長距離打者で、10年間で332本塁打を放った。高校卒業から10シーズンでの本塁打数は、王貞治の356本に次ぐ歴代2位で、300本以上打った打者は王と松井の2人だけである。3割を超える打率を維持しながら、本塁打・打点で常にリーグトップクラスの成績を残し、OPSでも、通算4000打数以上の選手では王貞治に次いで歴代2位となる通算.996。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 282,
"tag": "p",
"text": "MLB移籍後は、勝負強さが魅力の中距離打者として活躍した。タイトル争いをする程の数値は残せなかったものの、アジア人選手としてMLBシーズン31本塁打は大谷翔平に次ぐ歴代2位(通算175本塁打は日本人歴代1位)、シーズン192安打はイチローに次ぐ歴代2位(通算1253安打もイチローに次ぐ歴代2位)、長打率・OPSでは通算記録で歴代1位となっている。 アジア人選手では、松井と大谷の2選手しか達成していないMLBシーズン30本塁打以上(40本塁打以上は大谷のみ)と、日本人選手唯一の5度のシーズン20本塁打以上を記録している。2007年(5年目)にはアジア人史上初となるMLB通算100本塁打、2010年(8年目)には150本塁打を達成。MLBで通算100本以上の本塁打を打っている日本人選手は松井(175本塁打)、イチロー(117本塁打)、大谷(現役)の3選手だけである。現役最終年となる2012年には2本の本塁打を放ち、MLB通算175本塁打で現役引退した。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 283,
"tag": "p",
"text": "打撃については「楽に、なおかつ正確にスイングする」、「ゆっくり、ボールを見極める間合いをつかむ」、「左の軸足から、踏み出す右足にスムーズに体重移動する」、「(時速)140キロのボールを130キロぐらいに見えるぐらいボールをゆっくり見る」などということを挙げている。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 284,
"tag": "p",
"text": "NPB時代は狭い東京ドームを本拠地にしていたが、広いナゴヤドームや甲子園球場でも本塁打を量産していた。一方、日本球界時代のある時期、明治神宮野球場での試合で左翼ポール際を狙うことが多かった松井はオールスターの際にベンチで会った古田敦也に「松井...志が低いよ」と苦言を呈されたことがある。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 285,
"tag": "p",
"text": "MLB移籍前は「メジャーでもホームランバッターでありたい」と語っていたが、MLB移籍以降は本塁打が減り、自らを「メジャーでは中距離打者」と評すことが多くなった。各種データからも、強打者から巧打者への変身が見て取れる。NPB時代は5度のOPS1.000超えを果たしたが、MLB移籍後は2004年の.912が最高であり、長打率も2004年と2009年を除いて.500を切っている。MLBでの本塁打減少については、朝日新聞紙上の上原浩治との対談において、「ボールが飛ばない」とNPB/MLBのボールの質の違い(MLBで使用される球はNPBで使用される球より格段に飛ばないとされる)に言及している。また、NPBよりも外に広いストライクゾーンと、本人曰く「見たこともないボール」という打者の手元で微妙に変化しながら外角に落ちる球(ムービング・ファストボール)にも苦しめられた。そして、「最大の問題」として、右利きの左打者であるため左手で打球を押し込む力がどうしても弱くなってしまうことを挙げ、「メジャーでホームランを打つためには外角の球を逆方向に打てる技術とパワーが必要。そのためには左手の押し込みがきちっとできないとダメなんです」と語っている。これらの要因が重なって、ホームラン数はNPB時代に比べて大きく減少した。事実、右投げ左打ちが長打に恵まれにくい状況があることは記事になることがあるほどの根拠であった。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 286,
"tag": "p",
"text": "井端弘和が2021年9月に公開した動画ではパワーランキング日本人OB部門1位を獲得した。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 287,
"tag": "p",
"text": "MLB2年目以降は、NPB時代のようにボールを前で捉えるのではなく、出来るだけ体に近付けてから確実にバットの芯で捉えるスタイルへと切り替えた。また、ウェートトレーニングなどでも左手を重点的に鍛え、左手で箸を持つなどの努力を重ねた。外角のボールに対しては、「打てないボールは、打たなくていい」と割り切ると共に、レフト側に強く打ち返すという気持ちを持つことで、次第に克服していった。こうしてMLBに適応していった松井だが、ボールを体に近付けてから打つスタイルに変えたことで飛距離が出にくくなり、NPB時代のような圧倒的な本塁打数を記録することはなくなった。本塁打よりも、最もチームの勝利に直結する打点にこだわるようになり、MLB在籍9年間で4度も100打点以上を記録している。元MLBコラムニストのラリー・ロッカは「松井はゲームに勝つために必要なさまざまな武器をもっている。それはホームランを40本打つよりも重要なことだ」と評価している。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 288,
"tag": "p",
"text": "現役時代は、度々本塁打へのこだわりを滲ませる発言もしており、2009年開幕前には、打率よりも本塁打にこだわる本来の姿に戻ることを明言していた。同年は本塁打にこだわる姿勢に戻り、MLB7年目にして16.3打数に1本という自己最高の本塁打率(リーグ7位)を記録し、プレーオフでも4本塁打を放つ活躍を見せた。これは、MLB在籍期間が長くなり、MLBの投手が投げる球の軌道にも慣れ、再び体の前でボールを捉えることが出来るようになってきたからだという。しかし、翌2010年は衰えを見せ、本塁打数・本塁打率共に悪化。2011年は、怪我で長期離脱した2006年と2008年を除いて、MLB移籍後最低であった2003年の16本を下回る12本に終わり、2012年は、MLB昇格後7打席で2本塁打を放ち意地を見せたものの、戦力外通告を受けるまでの96打席で本塁打が出なかった。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 289,
"tag": "p",
"text": "ヤンキース時代は、左打者にホームランが出やすいヤンキー・スタジアムを本拠地としていたが、球場に関係なく本塁打を放っていた。2009年は28本塁打のうちヤンキー・スタジアムで放ったのは半分以下の13本塁打で、残りの15本塁打はビジターで放った。前述のように、右投左打の打者であることから「どうしても左手が弱い」と自己分析しており、左方向へ流し打つ打球はあまり伸びがない。ヤンキース時代7年間で放った140本塁打のうち、左方向への本塁打は10本にも達しない。不調時には打球が上がらずに、内野ゴロが増える傾向にある。日本時代の2001年や2002年の前半も打球が上がらずに苦しんだ経験がある。最新のセイバーメトリクスなどを扱う米国の大手記録サイトFangraphs によれば、シンキングファストボールに苦しんだ2003年のGB/FB(全ゴロ数÷全フライ数)は2.30に達し、全打球に占めるゴロの割合は54.7パーセントに達した。一方で、フライの割合は23.8パーセントに過ぎなかった。これはゴロが多いことで知られるイチローとほぼ同じ数字であった。しかし、メジャーに対応した翌年からは打球が上がることが多くなりフライ性の割合が増え、GB/FBも0.89〜1.36の範囲で推移している。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 290,
"tag": "p",
"text": "打率についてもNPB時代の通算打率は3割を超え、2001年には首位打者のタイトルも獲得している。MLBでも2005年に打率.305を記録、この年はイチローの打率を上回った。それ以外の年も2008年までは3割前後の打率を残している。選球眼に優れており、打席ではしっかりとボールを見極め、無闇に早打ちはしない。早いカウントでのボール球に手を出すことは少なく、2ストライクに追い込まれても簡単にはあきらめない。三振の数もあまり多くない。「全ての打者に共通するのは打率」という意識を持っており、本塁打数よりも打率を調子・相性の判断基準にしている。特に苦手としているコースが無いことも安定した打率を残せる要因であったが、2009年は外角球の打率が大幅に低下し、ヒットゾーンが限られたコースに狭まった。また、引っ張る打球の率が上昇し、いわゆるプルヒッターとしての度合いが強まった。そのため、夏場以降は相手チームから右方向への打球に備えた守備シフトを敷かれるようになった。2009年はそれまで得意にしてきた速球に対する成績も低下し、外角球への対応と併せて打率低下の要因になったと見られている。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 291,
"tag": "p",
"text": "基本的にスロースターターであり、4月、5月は低打率に苦しむこともあったが、後半戦には調子を上げた。MLBでの通算成績も、4月、5月のOPSは.700台であり、6月以降は.800を超えている。特に、7月は通算打率.309、OPS.916と得意にしている。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 292,
"tag": "p",
"text": "左打者ではあるが、対左投手も苦にしないことで知られた。MLB1年目の2003年は、対右投手と対左投手の打率は共に.287であり、翌2004年こそ対右投手が.314、25本塁打、対左投手が.265、6本塁打とバラつきが目立ったが、2005年は対右投手が.281、15本塁打の成績だったのに対し、対左投手では.354、8本塁打と打ち込んだ。2009年も左投手から本塁打を量産し、左打者としてはプリンス・フィルダーと並んで両リーグ最多タイとなる13本塁打を左投手から放った。しかし、2010年は対左投手の打率が低迷し、シーズン後半は相手先発が左投手の時はベンチを温めることが多くなった。2011年は対右投手の4本塁打、OPS.654に対し、対左投手は8本塁打、OPS.795と再び強さを発揮した。MLB10年間の通算では、対右投手は3534打席で打率.281、119本塁打、OPS.831、対左投手は1532打席で打率.284、56本塁打、OPS.802となっている。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 293,
"tag": "p",
"text": "投手との相性については「相手との相性は考えない。投手によって、ある程度狙い球を絞って打席に入るだけ」と語っている。対戦する投手を「どんな球種を持っているか」、「何を使って空振りさせようとしてくるか」、「どういう感じで術中にはめようとしてくるか」といった大枠でタイプ分けし、球種の代表的な使い手として知られる有力投手や対戦機会の多い投手に当てはめて対戦に臨んでいたという。「いわゆる魔球と言われるような緩い球速で変化の大きい変化球よりも、カッター系やシンカー系といったムーヴィング・ファスト系の芯を外す球種の方が厄介」と述べており、こうしたムーヴィングファスト系の球種を操ったペドロ・マルティネスとロイ・ハラデイを『最高の投手』として挙げている。",
"title": "選手としての特徴"
},
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"paragraph_id": 294,
"tag": "p",
"text": "NPB時代には、石井一久を苦手にしていた。1999年には遠山奬志に13打数無安打に抑えられたが、翌2000年に遠山から本塁打を含む3安打を放つと、2001年以降は逆に打ち込んだように、努力・工夫を積み重ねて苦手投手を克服する忍耐強さを持っている。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 295,
"tag": "p",
"text": "MLBに在籍した10年間で計782人の投手と対戦したが、30打席以上対戦している投手は24人である。その中で対戦成績のOPSが1.000を超えている投手は、デレク・ロウ(1.213)、ヨハン・サンタナ(1.189)、ジェレミー・ボンダーマン(1.118)、バートロ・コローン(1.033)、エドウィン・ジャクソン(1.009)の5人である。それ以外では、ジェームズ・シールズ(26打席で1.542)、ダグ・ウェクター(24打席で1.378)、ブロンソン・アローヨ(23打席で1.379)、ブライアン・タレット(21打席で1.521)と特に相性がいい。逆に分が悪いのがジェレッド・ウィーバー(.454)、ブルース・チェン(.502)、スコット・カズミアー(.531)、ジェレミー・ガスリー(.552)である。それ以外では、B.J.ライアン(24打席で.439)、グスタボ・チャシーン(24打席で.426)、スコット・ショーエンワイス(21打席で.267)と特に相性が悪い。また、全投手中最多の69回対戦しているボストン・レッドソックスのナックルボーラー、ティム・ウェイクフィールドに対しても苦手意識を持っていた。ウェイクフィールドに対しては、通算62打数13安打の打率.210、OPS.645であり、「あの球は打てない。だって、あんな球を投げられる投手がいないんだから、練習のしようがないんだもの」と感服している。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 296,
"tag": "p",
"text": "また、MLB初安打を放った相手であり、「最高の投手」と敬意を払ったロイ・ハラデイとはウェイクフィールドに次いで2番目に多い67回の対戦があり、63打数14安打の打率.222ながら、ジェームズ・シールズと並んで全投手中最多の4本塁打を放っている。以前はハラデイを大の苦手にしていたが、晩年は苦手を克服した。対戦機会が多いハラデイに対しても、対戦する時は狙い球を絞るようにしているという。",
"title": "選手としての特徴"
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"paragraph_id": 297,
"tag": "p",
"text": "打撃妨害での出塁が一般的な打者に比べて多い。2010年は4度の打撃妨害を受けたが、これはMLB全体でカール・クロフォード(5度)に次いで2番目に多い数字だった。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 298,
"tag": "p",
"text": "打撃フォームは毎年微妙に変えていた。プロ初年度はグリップを低くして構えていたが、1年程で首の付け根の高さに修正。30本以上の本塁打を量産しだした1996年頃は、投手に対してバットを垂直に立たせた状態。50本で本塁打王を獲得した2002年には、それまでより少しバットを傾けて腰のねじりも大きくなっていた。メジャー移籍後もこの習慣は続き、左手首の骨折から復帰した2007年以降はがに股に立って尻を突き出したようになり、2010年からは左方向へ打つことを意識するために、グリップを首の付け根より高く構えて外角の球でも体の近くでミートするようにしていた。",
"title": "選手としての特徴"
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"paragraph_id": 299,
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"text": "2桁盗塁を記録したことはないが、100m走のタイムは11秒台を記録したこともあり、MLBの中でも遅い方ではなく、ヤンキース移籍当初は一塁到達まで4.15秒と左打者としては平均のタイムだった。晩年は相次ぐ脚の故障により満足な走塁を行うことが難しくなったため、走塁と守備について一部より「三流」という声も上がった。一方で両膝を痛めた晩年でも、全力疾走は怠らなかったため、ヤンキースの選手曰く「ポサダよりは速い」と言われた。",
"title": "選手としての特徴"
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"paragraph_id": 300,
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"text": "走塁中のアクシデントを防ぐために、日頃から足の爪の手入れを熱心に行っていた。",
"title": "選手としての特徴"
},
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"paragraph_id": 301,
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"text": "アマチュア時代は捕手や投手を務めていたこともあったが、高校入学後は内野手に固定され、最終的に三塁手を務めた。本人としては三塁手にこだわりがあったが、プロ入り直後に外野手へのコンバートを命じられる。新人時の1993年は左翼だったが、翌年のオープン戦で新外国人のダン・グラッデンとヘンリー・コトーの守備と肩がまずかったこともあり、開幕直前の4月2日から右翼に転向して定着し、シェーン・マックが抜けた1997年から中堅手として固定された。2000年から2002年まで3年連続でゴールデングラブ賞を獲得した。巨人時代もある時期までは三塁手復帰を熱望し、再コンバートが度々話題となったが、実現しなかった。1998年にはJA全農Go・Go賞・強肩賞を受賞するなど、日本時代は肩は強い方であると言われてきたが、ヤンキース移籍後は「しっかりとした姿勢から投げる時は力強い送球を見せるものの、安定したツールを持つ中で唯一の弱点」と評されるようになったことに加え、ヤンキース移籍後は中堅のレギュラーにバーニー・ウィリアムスがいたため、主に左翼手として起用されるようになった。2011年シーズンまでの9年間で、左翼手として609試合、中堅手として77試合、右翼手として7試合に先発出場している。メインの守備位置である左翼では5163.1イニングで24失策、守備率.983、Range Factor(RF、9イニング当たりのアウト達成数)2.05、補殺39という数字を残している。メジャー移籍後は左翼手へのコンバートもあり、最初の2年間は苦戦したが、それ以降は多くの守備指標を向上させた(詳細は後述)。メジャー移籍後は巨人時代とは打って変わって守備でも派手なプレーをするようになり日本時代の関係者を驚かせたが、本人は人工芝の東京ドームでは無理なプレーができなかっただけであり、日本でも甲子園や広島市民球場では同じようなプレーをしていたつもりだと説明した。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 302,
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"text": "2007年以降、ヤンキースが守備重視の方針を掲げたこともあり、故障がちになった松井に代わって、ジョニー・デイモンが左翼手のレギュラーとして起用されることが増えたため、指名打者での出場が増えた。2008年6月に左膝を痛めてからは指名打者専任となっており、同年6月16日のアストロズ戦で左翼を守ったのが、ヤンキース時代では最後の守備機会となった。一時は一塁手へのコンバート案も出されたが、ヤンキースGMのブライアン・キャッシュマンに却下された。特に2009年はプロ入り後初めて一度も守備に就く機会がなく、2010年4月8日の対ミネソタ・ツインズ戦で2年ぶりの公式戦守備に就いた。",
"title": "選手としての特徴"
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"paragraph_id": 303,
"tag": "p",
"text": "守備に関する技術では、2004年に『スポーティング・ニュース』誌の記事で捕球後の送球を絶賛された。補殺数はリーグの左翼手の中でも多いほうであり、本人は本塁での補殺を「外野手として最高の見せ場」と捉えている。セイバーメトリクスのシンクタンク「Hardball Times」が各外野手の送球をKill+(補殺ポイント)、Hold+(走者を先の塁に進ませなかったポイント)、Runs/200(200イニングあたりに防がれた失点数)などの各数値により総合的に評価した「Best Outfield Arms」では、MLBの正左翼手30人中6位と上位にランクインした。",
"title": "選手としての特徴"
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"paragraph_id": 304,
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"text": "一方で、守備範囲などを含めた総合守備指標では評価が低かった。ミッチェル・リクトマンが考案し、現在米国で最も広範に用いられている守備指標の1つ「UZR(Ultimate Zone Rating)」(同一シーズンの同一リーグにおいて同一ポジションにおける平均的な選手と比較し、失点をどのくらい防いだかを示す指標)は通算で-77.3(左翼で-65.5、中堅で-10.6、右翼で-1.2)という低い数値を喫し、ESPN記者のロブ・ネイヤーがUZRを基準に選んだ2000年代のワーストグラブ(左翼手)に選出されてしまった。守備防御点でも外野手として通算-27、左翼手として通算-18と平均を下回った。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 305,
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"text": "上述のUZRやDRSのように比較的ポピュラーな総合守備指標では通算で平均を大きく下回る数値を喫したが、守備指標によっては意外な結果も表れることもあった。例えば、「Baseball Musings」のDavid Pintoが考案した「PMR(Probabilistic Model of Range)」によると、2007年は好守で知られるカール・クロフォードと大差がなく、正左翼手の中ではトップクラスという分析結果が出た。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 306,
"tag": "p",
"text": "連続試合出場は、2006年の故障で記録が途切れるまで、NPBで1250試合、MLBで518試合(MLBでデビュー以来518試合連続出場は、日本人選手としては歴代1位)、日米通算1768試合を数えた。2005年には「本塁打より、むしろ連続試合出場」と話すなど、連続試合出場には並々ならぬこだわりを持ち、「遠いところからわざわざ来てくれるファンのために」という考えによって休養日にも代打や代走、守備交代でわずかな時間でも出場し、2006年の骨折まで記録を維持した。しかし、地元ニューヨークのメディアからは「記録より、疲れた時には休んだ方がチームのためになる」と、連続試合出場に懐疑的な声が上がったこともあり、監督のジョー・トーリも「連続試合出場記録を途切らせて悪者にはなりたくないからな」と発言したこともある。このように、連続試合出場に並々ならぬこだわりを持っていたが、2006年の骨折直後には、「心の中で怯える自分がいた」と記録がいつか途切れるかもしれないことに大きなプレッシャーを感じていたことを明かした。それと同時に、連続出場をサポートしてくれたトーリ監督に感謝の意を示した。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 307,
"tag": "p",
"text": "打撃についてはメジャー移籍後も概ね高い評価を受けている。フリーエージェント(FA)移籍の際、MLB機構とMLB選手会の労使協定に基づいて選手評価の資料として使われるPLAYER RANKINGS評価(米大リーグ公認の記録専門会社「エライアス」が過去2年間の成績を独自の算出方法で計算して得点を付けたもの)では、2003-2004シーズン、2005-2006シーズンのいずれもイチローらを抑えて日本人打者ではトップの評価であった。その全てで「A」ランクの高評価を受けており、ア・リーグ全体での一塁手・外野手・指名打者部門での順位は7位(2003-2004)、14位(2005-2006)、16位(2007-2008)であった。",
"title": "選手としての特徴"
},
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"paragraph_id": 308,
"tag": "p",
"text": "塁打、四球、盗塁などを点数化し、選手個人の得点生産能力を測る指標である「XR(extrapolated runs)」では、NPB在籍10年ながらNPB歴代10位につけている。しかし、渡米直前3年間と渡米後の1打席当たりXRを比較すると、リーグのレベルの違いが影響し、実に35パーセントダウンしている。攻撃力を評価する指標OPS(出塁率+長打率)は、MLB在籍7年間で通算.852を記録しており、総合打撃指標「XR27」(XRの改良版)は同7年間で6.28を記録した。これはいずれも日本人メジャーリーガーの中ではトップの数値である。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 309,
"tag": "p",
"text": "近年、普及しつつある打撃・走塁・守備を組み合わせた総合的指標「WAR」(Wins Above Replacement。同じポジションの控え選手に比べて上積みした勝利数)では、+21.3を記録している。なお、WARの守備評価については、その精度を巡る議論も続いている(詳しくはWAR (野球)を参照)。たとえば、「Baseball-Reference.com」版WARでは、通算+18.6となっている。2004年に記録したキャリアハイの+4.6はリーグ10位の数字だった。",
"title": "選手としての特徴"
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"paragraph_id": 310,
"tag": "p",
"text": "2008年2月21日、スポーツ専門誌『スポーティング・ニューズ』は、「成績の割りに高年俸を得ていると思われる選手」のワースト5をカテゴリ別に発表した。その中で、前年度までの契約期間が2年以下である「契約期間の短い打者」の部門で松井が2位にランクインした(1位はJ・D・ドリュー)。同誌は年俸800万ドル以上の選手のうち、前年度以前から複数年契約を結んでいる86人を抽出し、100万ドルあたりで何勝に貢献したかを査定した。その結果、松井は過去2シーズンで0.9勝分しか貢献できていないとされた(平均は1.4勝分)。同誌は、「松井はかつて『鉄人』だった」としながらも、近年は度重なる故障により出場試合数が減少していることを指摘した。",
"title": "選手としての特徴"
},
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"paragraph_id": 311,
"tag": "p",
"text": "張本勲は自著『最強打撃力』(ベースボール・マガジン新書発行)において、「松井はまだ自分自身のボールを捉えるポイントを掴んでおらず、小細工でごまかしているところがある。だから好調時は素晴らしい働きをするものの、調子を崩すとなかなか抜け出せない」と指摘した。例えば2005年の開幕4試合で3本のホームランを放った後、202打席ホームランなし、という事実からそれが裏付けられる。さらに、「松井にとって自己最高の成績を残した2002年の50本を打ったときでも、私から見るとポイントを掴んでいなかった」と記している。王貞治は「アメリカで30本以上のホームランを打ったんだから、素晴らしいと思う。日本の野球界で50本打ったことと、アメリカで30本打ったことを比較する必要なんかない」「本数も中身も図抜けてすごいホームランを打っていた」と称賛した。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 312,
"tag": "p",
"text": "各種の人気調査などでは常に上位にランクインしてきたが、2005年以降は相次ぐ故障やそれに伴う成績低迷、WBC辞退などの影響で陰りが見えつつあった。中央調査社が実施している「人気スポーツ」調査における「最も好きなスポーツ選手」の項目では、2003年、2004年に2年連続で2位以下に圧倒的な差を付けた1位となったが、故障に苦しんだその後は支持率が下降し、2009年には4位に下がった。バンダイが実施している「お子さまの憧れのスポーツ選手は?」では2004年に1位であったが、2009年には圏外であった。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 313,
"tag": "p",
"text": "他選手や監督などからの評価は軒並み高い。長嶋茂雄は松井の現役引退発表後に「現代で最高のホームランバッター」と評した。原辰徳は「強い精神力、頑健な体、そして類いまれなパワーに対しては度肝を抜かれた」と印象を語った。阿部慎之助は「体も大きいし打球の飛距離も群を抜いていた。重圧を見せずに黙々とプレーする姿勢に超一流選手としてのあるべき姿を見た」、上原浩治は「裏表がなく、人間的にも野球選手としても、あの人以上の選手はいないと思う」と、実力だけでなく人間性にも敬意を示している。佐々木主浩は「雰囲気があったし、対戦しても怖かった。他の打者とは違う、特別クラスの選手」と評したが、巨人時代の松井にとって佐々木は大の苦手投手だった。清原和博は「松井以上のパワーヒッターはどこにもいなかった」と語り、負けていても全ての打席を同じ集中力で立てるため数字として残るとも評価していた。金本知憲は2001年のインタビューで「(松井君は)目標ですね。ライバルじゃないです。彼はすごい。あのスイングといい、当たりの強さといい、あいつにはかなわん」と脱帽していた。辛口で知られる野村克也はON砲以降の巨人の4番打者で松井を最も高く評価している他、「監督として指導したかった」とも語っている。また、残した数字は松井より高いイチローや落合博満がマスコミ嫌いで通したのに対して、松井は常にどのマスコミにも分け隔てなく対応していることも高く評価しており、「人格的にも素晴らしい」「将来は監督になれる器だ」と絶賛している。",
"title": "選手としての特徴"
},
{
"paragraph_id": 314,
"tag": "p",
"text": "元チームメイトでヤンキース主将のデレク・ジーターは、「マツイはお気に入りの選手。いいスイングをしているし、好調時は手がつけられない」「彼が考えているのはチームが勝つこと。まさしくプロだ」と語っていた。同じくアレックス・ロドリゲスは「ヒデキは野球をよく知っている。打つだけではなく走塁などのレベルも高い」と評価し、アンディ・ペティットは「マッティ(松井の愛称)は出会ったときからずっと勝負強い選手であり続けた。とにかく勝負強いんだ」と絶賛した。ボビー・アブレイユは「マツイは本当に好人物で、プロフェッショナル」と松井の人柄を高く評価し、トリー・ハンターは、自身のブログで「マツイは日本の伝説の“ゴジラ”。打撃のバランスが素晴らしく、滑らかで、無理のないスイングをする。そして、左投手とチャンスにとても強い」と絶賛した。2002年に松井を獲得するように進言したヤンキースのスカウトのジョン・コックスは、同年50本塁打を放った松井の打撃だけでなく守備にも注目し、「松井は野球をよく知っていて、メンタルミスをしない」と評価していた。",
"title": "選手としての特徴"
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{
"paragraph_id": 315,
"tag": "p",
"text": "実家は、祖母・松井瑠璃寿が設立した宗教法人「瑠璃教会」である。初代司教である瑠璃寿、そして二代目司教である父・昌雄の存在は、秀喜の人格形成に大きな影響を与えた。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 316,
"tag": "p",
"text": "「子供も大人と同じように一人前に扱う」という瑠璃教会の方針から、「ひでさん」と呼ばれて育てられた。小学3年生の時に父から贈られた「努力できることが才能である」という言葉を大切にしており、父がその言葉を筆で書いた紙を長く、勉強机の前に張っていたという。試合や練習、取材の対応からプライベートの過ごし方に至るまで、グラウンド外でも若手の手本となる選手である。松井ほど人間的に素晴らしい選手はいないとも言われる。松井は自身の性格について、「けっこう冷めているところがあるんです、何ごとにも! 物事に動じない? うん、よく言えばねっ(笑)。だからいつもボケッとしているんですよ(笑)。一人でいるのが好きなんです。」 と評している。基本的に温厚な性格で、野球以外の場で怒ることは少ない。ヤンキースのチームメイトであったCC・サバシアは、「松井は普段は大人しいけど、でもとてもいいヤツだよ」と人間性を高く評価している。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 317,
"tag": "p",
"text": "本人いわく「他人の悪口を言わない」ということが松井の信条の一つである。中学2年生時の家族との夕食の際、松井が何気なく友人の悪口を言ったところ、父が箸をおいて「他人の悪口を言うような醜いことはするな。ここで二度とそんなことはしない、と約束しなさい」と注意した。松井は「父との約束ですから、あれ以来他人の悪口を言ったことはありません」と語った。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 318,
"tag": "p",
"text": "グラブやスパイクなど、野球用具をとても大事に扱っている。特にグラブは毎日磨いており、松井本人は、「野球を始めたときからずっとしています」と話している。ジョー・トーリも、「彼ほど道具に対してリスペクトを持っている選手は見たことがない」といい、松井の人間性を高く評価している。ヤンキース用具係のルー・カクーザは、他の選手が平気で帽子やグラブを放り投げることに対し、いつも帽子とグラブを丁寧に並べてから準備体操に入る松井を見て、「マツイは素晴らしい。いつまでもあの気持ちを忘れないでほしい。ほかの選手も見習ってほしいよ」と称賛している。道具を大切にする姿勢については、“道具を大切にしなさい”という子どもの頃の教えを忠実に守っており、グラブ磨きは「僕の野球の原点」だと語っている。また、「一本のバット、一つのグラブは、いろいろな人の苦労によって出来上がっている」ことを強く意識しており、用具作りに携わった人々への感謝の気持ちを常に抱いている。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 319,
"tag": "p",
"text": "本業の野球以外にもCM撮影やTV出演など激務にもかかわらず、練習後にファンにサインをねだられても断らず、記者への対応も丁寧である。こうした振る舞いから、2005年度の小学校、2006年度の中学校の道徳副読本に登場、甲子園で5連続敬遠四球を受けた時の対応など、「誠実さ」「明朗さ」が取り上げられた。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 320,
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"text": "星稜高校時代、「居眠りしても死角になるから」という理由で窓際の一番前の席が教室での「指定席」となっていたが、山下は「(松井の)授業態度はよかった」と打ち明けている。野球部の練習が大変で、通学に時間もかかるため、授業で全てを覚えようと心掛けていたため、成績も良好であった。野球部の活動以外での欠席は1日もなかった。星稜高校の卒業式では、野球部での活躍が評価され、星稜高校を経営する学校法人稲置学園から「総長賞」を贈られた。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 321,
"tag": "p",
"text": "父の影響で元々は阪神タイガースのファンであった。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 322,
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"text": "高校時代、日本選抜に選ばれアメリカで試合を行っている間は、ロサンゼルス在住の日本人一家の元にホームステイしており、メジャーリーグの試合にも観戦に連れて行ってもらっていた。交流は現在でも続いており時々スポーツニュースでも放送されている。松井は一家の主人のことをアメリカのお父さんと呼び慕っている。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 323,
"tag": "p",
"text": "松井の中で一番印象に残っている巨人の4番打者は落合博満であり、2000年に初めて4番に定着しチームも優勝を果たした時に松井は報知新聞の手記に「あの人は4番らしかった。雰囲気を持っていた。自分の世界があったんだ。チームが苦しい時に矢面に立っていた。いわば風除け。それが信頼感にもつながった。」と書いている。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 324,
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"text": "長嶋茂雄はドラフトで松井の入団が決まったところから、三年間で松井を球界を代表する選手に育てるための「1000日計画」を立ち上げた。東京ドームの試合ならドーム内練習場で、遠征先ならホテルの長嶋の部屋で、松井に素振りをさせ付きっ切りで指導をしていたという。その場で長嶋はスイングの音で、松井のスイングの良し悪しを判断していたとのこと。敢えてプレッシャーのかからないように松井を下位打線で気楽に打たせて実戦経験を積ませる配慮もしたという。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 325,
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"text": "赤木ひろこの著書「ひでさん 松井秀喜ができたわけ」には、青年期までの松井の統率力には、ずば抜けたものがあったことが記されている。小学校時はクラスのいじめられっ子が松井の後ろに隠れただけで問題は解決し、5年生のリトルリーグの際、新たに赴任した監督が既にキャプテンは決定済みだったにもかかわらずそれを白紙にし「松井君には統率力があるから、頼む」と言わしめるほどの存在感を見せ、中学校時代には「松井君さえ味方につければこのクラスは大丈夫」と担任教師に評価されたほどで、星稜高校では前述されているとおり、山下監督により部員間投票の慣例を覆し、山下から直にキャプテンに指名された。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 326,
"tag": "p",
"text": "以上のように、真面目な性格であるが、遅刻魔としても有名である。2004年のオールスター戦でも遅刻し、ア・リーグ32選手中最後に球場入りしている。巨人時代から、遅刻するとなぜか本塁打を打つことが多い。2009年のワールドシリーズ第2戦の試合前には渋滞に巻き込まれて集合時間に30分遅刻したが、試合では決勝ホームランを放った。デレク・ジーターは「俺も明日から遅れてくるさ。まあ、本塁打を打ってくれるなら、毎日遅刻しても気にしないよ」と冗談交じりに語った。米メディアでも、松井が遅刻すると何故かホームランを打つ「ジンクス」が報道された。一方で、松井本人は「遅刻したつもりないんで、わからない(笑)」「え、反省?昔からしてない」と冗談混じりに応えている。なお、巨人在籍時の遅刻はたまにしかなかったとも言われ、その理由として集合時間30分前に全選手が揃う「ジャイアンツタイム」と呼ばれる時刻に遅れたことが遅刻ととられたという証言がある。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 327,
"tag": "p",
"text": "3・4歳頃からピアノを習い始めて、小学校4年生で兄と「マイ・ウェイ」を連弾するほどの腕前で、モーツァルトを愛聴していたこともあり、「根上のモーツァルト」と称された。現在もクラシック音楽を好んで聴くが、巨人入団後はピアノを弾く機会がなくなり、現在は弾けなくなっている。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 328,
"tag": "p",
"text": "巨人在籍当時から花粉症を患っている。MLB移籍後は4月から5月にかけて調子を落とすことが多く、特に2010年は遠征時の打率が非常に低くなっているが(同年4・5月の打率は本拠地では.278なのに対し、遠征では.165と1割以上低い)、これについても花粉症の影響が指摘されることがある。実際2005年には、本人自らメディアに「花粉症がつらかったんです」と語り、序盤の不調の原因が花粉症だったことを認めている。シーズン中の睡眠時間は7時間。視力は両目とも1.5。足のサイズは29。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 329,
"tag": "p",
"text": "引退後の2014年春季キャンプで巨人の臨時コーチを務めた際は右打ちでノックを行ったが空振りが目立ち、どん詰まりでバットが折れる事態まで発生し、ノックが不得手であることが露呈した。ノックの名手として知られる高代延博によれば、すごい打者でもノックができないことはよくあり、スイングの問題ではなくトスがうまく上げられないためであるという。また、通常は左打ちの松井が右打ちでノックをしていたのは、本人が「右でないとトスを上げられない」ためであったという。",
"title": "特筆"
},
{
"paragraph_id": 330,
"tag": "p",
"text": "公の場で英語を話すことはあまりなく、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)直後の2011年3月19日に、当時所属していたアスレチックスの公式サイトで被災者支援を呼びかける30秒にわたるメッセージを読み上げた際など数少ない。球団のイベント等で英語を読み上げるときも「流暢ではないので単語をひとつひとつはっきりと発音した」と謙遜している。インタビューなどの公式の場では、専属通訳のロヘリオ・カーロンを通して受け答えをしている。メジャー移籍時は中学2年生の英語教科書「ニューホライズン」を持参して渡米したというエピソードもある。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 331,
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"text": "難しい英語でない限り日常会話に問題がなくなる程度に英語力が上達してからは、チームメイトとの会話も英語で行っていた。ヤンキース時代のチームメイトのCC・サバシアは、松井の英語力について「松井はいい英語を話すよ。こちらの言っていることは全て理解しているし、会話するには十分だ。」と評している。ニューヨークの記者によると、松井のリスニング能力には「不自由を感じたことはない。こちらの話していることは十分に理解している」という。英語力が上達してからも通訳を通して受け答えをしていた理由については「僕の拙い英語で万が一、誤解が生まれると困るから」と語っている他、「(カーロン通訳の)仕事を奪ってはかわいそうだからね」とも語っている。現役引退後もニューヨークで週に数回英語のレッスンを受けているという。2014年に外国特派員で行われた記者会見では、「英語が得意ではない」との理由から、スピーチ、質疑応答を全て通訳を介して行っている。",
"title": "特筆"
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"text": "ニックネームは「ゴジラ」。初めてマスコミ陣営が松井に対して「ゴジラ」の愛称を用いたのは、当時星稜高校3年生になる1992年の春の選抜大会前のことであった。名付け親は日刊スポーツ記者で高校野球を担当していた赤星(現姓・福永)美佐子で、「下半身が大きくて犬歯が特徴的」という理由で「ゴジラ」の名前を付けたと語っている。当初、松井は「ゴジラなんて勘弁して下さいよ。もっと可愛いニックネームはないんですか?」と不満気だったが、名付け親の赤星は「あら、ゴジラだってカワイイじゃない?私は似合ってると思うのよ」と一蹴。ちなみに、高校2年生の秋に選ばれたオールジャパンのチーム内では、既に「怪獣」というあだ名が付けられていた。赤星の言からすれば容姿から発想されたこのニックネームは、結果的には、松井の打撃成績が築かれていく中で、その破壊力にぴったりのものとして広く定着していく。",
"title": "特筆"
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"text": "これ以降、甲子園大会での活躍で全国に「ゴジラ松井」の愛称が一気に知れ渡ることになる。その後も、街を歩いていた時に子供達から「あっ、ゴジラがいるぞ!」と声をかけられたことで、松井自身「もうゴジラでいいや」と、そのあだ名を快く受け入れられるようになった。巨人入団直後には、某スポーツ紙で「ゴジラは嫌だ。新しいニックネームを募集中」とも報道されたが、松井は「それは全く違う。野球ファンの皆さんに『ゴジラ』で親しまれているなら、僕は大歓迎」と自身の著書に記している。また、打席に入る際のBGMにも「ゴジラのテーマ」を使用していたが、20代半ば頃にはクイーンの「ウィー・アー・ザ・チャンピオンズ」に変更している。渡米後も、「アメリカ人も覚えやすいから良いんじゃないですか」と語っており、現在では自らの愛称を気に入っている様子である。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 334,
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"text": "2002年の映画『ゴジラ×メカゴジラ』、2009年の缶コーヒー「キリン ファイア」のテレビCMでは本物のゴジラと共演をした。米国へ移ってからも「ゴジラ」の愛称はヤンキースファンに受け入れられ、ヤンキースタジアムで松井がホームランかタイムリーヒットを打つと、ゴジラの咆哮音が流された。また、ヤンキース移籍直後の2003年にはブルー・オイスター・カルトの「ゴジラ」を入場曲に使用した。英語では、ニックネームを名前の間に挟むのが通例のため、『ヒデキ・ガッズィーラ・マッツーイ(Hideki \"Godzilla\" Matsui)』と呼ばれることもある。ヤンキースの公式サイトにあったファンフォーラムでは「mats」、または好機に強いことから「Clutchzilla」と呼ばれ、ヤンキースのチームメイトは「mats」と呼ぶことが多かったが、2008年からヤンキース監督に就任したジョー・ジラルディやアンディ・ペティットは「matty」、巨人時代の監督の原辰徳は「ゴジ」と呼んでいた。先述のように、2007年にはチーム内で「パックマン」という渾名を付けられたことがある。エンゼルスでは、トリー・ハンターが「ザ・クワイエット・アサシン(静かな殺し屋)」という新ニックネームを命名した。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 335,
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"text": "インターネット掲示板「2ちゃんねる」の一部では、松井のことを「にしこり」と表現している。これは、松井を最も少ない文字数で表現した顔文字である。元々は「にっこり」であったが、改良を加えられて「にしこり」に落ち着いた。松井は記者からこのことを教えられ、「何これ、オレ?」「へえー、面白いじゃん。誰が考えたんだろうね」とほほ笑んだ。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 336,
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"text": "背番号は巨人・ヤンキース・エンゼルス・アスレチックス在籍時代には一貫して55番をつけていた。巨人に入団当時、本人は高校時代につけていた5を希望していたが、当時は在籍していた岡崎郁が着用していた。岡崎引退後に5番を譲ってくれると思っていたものの、FA移籍した清原が着けることになった時には非常にガッカリしたことを述懐している。たまたま55が空いていたため55になったという説もある。巨人時代に年間最多本塁打55本を打った同球団OBでの王貞治の記録に肖って付けられてたというのは「新聞社のやらせ」と本人が否定している。ヤンキースに移籍した時には「背番号は何番でもいい」という発言をしていたが、前年までヤンキースに在籍し背番号55をつけていたラミロ・メンドーサがレッドソックスに移籍したため、ヤンキースでも55番をつけることができた。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 337,
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"text": "松井が入団した当時の日本プロ野球にはほかに55番をつけた主力打者として大豊泰昭(中日)がおり、二人の活躍とともにそれまで背番号としては格下視されていた55番の価値を上げるとともに、互いに左打ちで長距離打者であったことから55番イコール左打ちのパワーヒッターというイメージが強まった。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 338,
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"text": "松井がヤンキースへ移籍した後の巨人では2008年シーズン終了時まで誰も55番をつける選手が現れず、事実上準永久欠番扱いになっていた。しかし2009年シーズンから2008年度ドラフト会議で巨人に1巡目で指名された大田泰示がつけることになった。この際、実績皆無の高卒新人に55番を継承させることについては、「松井に失礼」だという非難の声も上がった。その後大田はほとんど成績を残せず、2014年に44番に変更し、2015年以降しばらくの間は誰も55番を背負っていなかったが、2021年のオフに秋広優人が背番号を68番から55番に変更することを発表した。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 339,
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"text": "エンゼルス移籍時は、在籍中のショーン・オサリバンが背番号55をつけていたが、背番号を譲られることとなり、ヤンキースでは2010年シーズンは背番号55は名誉番号として1年間欠番とされた。",
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"paragraph_id": 340,
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"text": "2012年にタンパベイ・レイズへ移籍、5月29日にメジャーリーグ登録された際には、レイズの若手有望株であるマット・ムーアが背番号55をつけていたため、松井は空き番号(22、25、35、44、66、88など)の中からを背番号35を選択。翌年にムーアが初選出された2013年のMLBオールスターゲームのテレビ中継で解説を務めた際には、当時ムーアから背番号を譲る話を受けていたが断ったことを明かした。35を選んだ理由については「空いていたから。5番も残したかった。一番の理由は師匠(長嶋茂雄)の番号を一ついただいた。年齢を重ねても素晴らしい数字を残した(ヤンキース時代のチームメイトの)マイク・ムシーナにあやかれるようにしたいというのも一つ」と語った。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 341,
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"text": "金沢カレーとしてチェーン展開するゴーゴーカレーは創業者・社長の宮森宏和が同じ石川県出身で、松井が満塁打を放ったことに刺激を受けて起業を決意したということもあり、松井を応援。店名のゴーゴーは背番号の55に由来している。松井が現役時代にホームランを打った日にトッピング券配布のサービスを行っていた。レイズで35番に変わった後も何事もなかったように(HP等でもそのことには触れず)トッピング券配布サービスを継続した。",
"title": "特筆"
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"text": "独身時代はアダルトビデオ(AV)鑑賞が趣味であることを公言していた。AV鑑賞は本人曰く「松井流ストレス解消」で、多忙な中にあっても「月に数本」のペースでAV鑑賞に勤しんできた。好みのジャンルは「ストーリーのしっかりした単体もの」で、特に浅倉舞や有賀美穂を好んでいた。巨人在籍中は東京スポーツが松井のスクープを連発していたが、これは東スポの記者が松井に頻繁にAVを差し入れしていたためとされている。2007年には東京スポーツとソフト・オン・デマンドが共催した『AV OPEN』の特別審査員も務めるなど、業界との関係も深い。2007年後半以降「AV封印」を度々口にするようになり、2008年の結婚に伴い「保有していた1000本を超えるAVコレクションを全て処分した」と語っている。しかし、2010年には報道陣に対して、AV鑑賞を再開していることを示唆した。また、アメリカではしばしば55,000本のコレクションを所有していると報じられている。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 343,
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"text": "大好物は寿司、焼肉、コーヒー。高校時代から練習帰りに地元の焼肉店へ通っており、当時からその大食漢ぶりは周囲を驚かせていた。現在も記者との会食やバーベキューパーティーを欠かさない。故郷・石川の名産品であるカニも好物の1つで、アメリカでもシーフードで有名なボルチモアに遠征で訪れる際には頻繁にカニ料理を食べに行っている。メジャー移籍後は日本食を中心に、韓国料理、中華料理、インド料理、タイ料理など、アジア料理の店を順番に通っていた。「スポーツ選手は食べるのも仕事」と語っており、熱心に美味しいレストランを探し続けた結果、今では全米各都市のレストランリストが頭の中に入っている。しかし、結婚後は外食が減り、自宅があるニューヨークでは妻の手料理中心の生活をしている。スプリングトレーニングで滞在するタンパでは、タイ料理やベトナム料理、中華料理を中心に外食することが多いが、滞在先のコンドミニアムでは、石川県産コシヒカリを主食にしている。ヤンキース時代は、ヤンキー・スタジアムで試合がある時は必ず、妻が握ったおにぎりを持参していた。なお、日本時代は酒は付き合いでビール1杯程度とほとんど飲まなかったが、渡米してからワインセラーを購入し、シーズン中でも赤ワインを嗜むワイン通となっている。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 344,
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"text": "打席に入る際の登場曲は、主に友人でもある布袋寅泰の「BATTLE WITHOUT HONOR OR HUMANITY」を使用していたが、他にはレッド・ツェッペリンの「移民の歌」、ビートルズ、井上陽水、奥田民生、AC/DCの楽曲も使用していた。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 345,
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"text": "読書家で知られ、試合前や雨の日には、よく読書をしている。オフに入ると他チームのプレーオフも見ずに読書に耽るほどである。野球選手を引退したら、本に関わる仕事をしたいとも語っている。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 346,
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"text": "一番好きな作家は三島由紀夫。三島作品は全て読んでおり、特に「午後の曳航」が好きだという。歴史上の人物で傾倒しているのは空海で、関連の書籍を多く読んでいるという。著書『告白』の中では、最澄より空海に惹かれる所以を切々と語っている。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 347,
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"text": "元相撲少年ということもあって、大の大相撲ファンである。貴乃花光司(元横綱・貴乃花)とは現役時代に同じ施設でトレーニングに励んでいた間柄。高見盛の隠れファンでもある。八百長メール問題が発覚した際には、「一相撲ファンとして残念」とコメントを出した。また、石川県出身の同郷ということもあり、大鳴戸親方とも親しい。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 348,
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"text": "1997年の重油流出事故では100万の義援金を寄付。2004年12月26日に発生したインドネシア・スマトラ島沖地震の際には義援金として5000万円を、2007年3月25日に発生した能登半島地震の際には1000万円を寄付した。ジャイアンツ時代から天災やテロでの被災者・被災地等へ一度に数千万円の義援金を寄付している。ベトナムの孤児として暮らす20人ほどの子供たちに対しても、経済的里親として支援金を送っている。2011年3月に発生した東北地方太平洋沖地震では5000万円以上の義援金を寄付すると共に、MLBの公式サイトに英語で被災地への支援を呼び掛ける動画メッセージを掲載した。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 349,
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"text": "「マスコミと良好な関係を築けないようでは、どんなに成績を挙げても選手として失格だ」と自ら話すよう、専属広報の広岡勲や、サンケイスポーツ記者の阿見俊輔をはじめとする各スポーツ紙の記者などマスコミとの関係は親密で、ヤンキース移籍後も毎試合後に会見を行い、記者たちの質問にも真摯に答える。延長などで時間が遅くなってしまった場合、取材を優先してユニフォームのまま会見を受けることもある。雑誌や写真週刊誌の取材も、分け隔てなく受ける。シーズン終了後に、番記者や通訳らをメンバーに加えて行われる「草野球」は毎年の恒例行事であり、松井本人も楽しみにしているイベントである。その際、松井は投手を務めるため、変化球の練習を密かに行っている。投手としての松井は、推定120km/hの直球とカーブを投じる。なお打席に立つ際にはハンディキャップとして、上述の小学生時代に振り返って右打席でバットを振る。記者と食事、キャッチボールを行うことも多く、度々記事になっている。遠征先でも、チームバスに同乗せずに報道陣のマイカーで球場に向かうことがある。また、記者とのバーベキューパーティーも毎年の恒例行事であり、他にも常日頃から焼肉、ステーキ、しゃぶしゃぶなどで記者との親睦を深めている。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 350,
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"text": "日本テレビアナウンサーの河村亮とは野球選手と取材するアナウンサーとの間柄で知り合い、\"新潟県出身\"\"石川県出身\"と言う同じ日本海側で、ざっくばらんに腹を割って話せる仲でプライベートで交流が有る。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 351,
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"text": "松井が深刻な打撃不振に苦しんでいたメジャー1年目の2003年6月2日には、報道陣が「バーベキューでもやって落ち込んでいる松井を励まそう」と遠征先のシンシナティでバーベキューパーティーを開催した。かつてないほど落ち込んでいた松井だったが、このバーベキューにより気分転換に成功。その3日後、26試合119打席ぶりの4号本塁打を含む4安打3打点と大爆発し、スランプを脱した。この出来事は「リメンバー、シンシナティ」として松井の心に深く刻まれ、その後は打撃不振に陥った時でも暗さを表に出すことなく乗り越えられるようになった。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 352,
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"text": "食事を共にした記者に対し、「たまにはいい記事かけよ」、「皆、もう僕の守備のこと悪く書けないね」と発言したというエピソードがある。「メディアの後ろに、ファンがいる」という考えを巨人時代から持っており、ニューヨークの地元記者からの信頼も厚い。ロバート・ホワイティングによれば、松井は初年度のキャンプにおいて、地元NYメディアの番記者たちを食事に招待したが、このようなことをする選手はヤンキースの長い歴史の中でも初めてだったという。しかもその折、松井は自ら所蔵するアダルトビデオを記者たちにプレゼントした。そのこともあり、先述の打撃不振の際にも、地元メディアの反応は比較的穏やかだったという。こうして、初年度オフには、全米野球記者協会(Baseball Writers' Association of America)NY支部が取材に最も協力的だった選手を表彰する「グッドガイ賞」にも輝いている。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 353,
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"text": "このように、報道陣からの評判はすこぶる良かった松井であるが、二者択一の問いに対しては「どちらとも言えない」という曖昧な答えを返すことが多く、記者を悩ますこともあった。",
"title": "特筆"
},
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"paragraph_id": 354,
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"text": "唯一の高卒同期入団である村田善則とは、ともに現役を退いた後も食事に出かけるなど親しい関係である。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 355,
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"text": "上原浩治も関係は悪くなく、殊に共に巨人を退団して以降は良好である。松井にとって上原は「弟のような存在」であり、メジャー移籍後も電話やメールで連絡を取り合っている。オフには一緒に食事にも出掛けることもある。2009年に上原がヤンキースと同地区のボルチモア・オリオールズに移籍が決まると、「おめでとう、対戦するのが本当に楽しみ」と、自分のことのように喜んだ。上原にとっても松井は特別な存在であり、オリオールズ入団後は「一番興味のある打者は松井さん」と強く意識し、対戦を心待ちにしていた。シーズンでは上原が右ひじの怪我のため途中で離脱するまでに、6度対戦し無安打に終った。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 356,
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"text": "巨人時代に共に第一線で活躍した清水隆行や高橋由伸は松井に対して強い尊敬心と信頼感を寄せていたと松井の引退後に語っており、同時にチームメイトからの信頼も絶大だったと語っている。由伸は、松井と初めて出会ったのは大学生時代にドラフトで巨人入りを決めた後であり、とても一つ上に見えなかったと発言しており、パワーの次元が違う、自分とは年々差がついていたと思うとも発言している。また、堂々としていて動じないためそういう風になりたいと思っていたと発言している。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 357,
"tag": "p",
"text": "メジャーリーグでは、同い年でヤンキースの主将であるデレク・ジーターとの交流が数多く知られていた。独身時代にはジーターと同じマンションに住んでおり、初めて出会った2003年2月以来、食事を共にしたり、ときには自宅でのホームパーティーに参加したりするなどして親睦を深めてきた。選手として、天才肌ではなく努力でのし上がったジーターに自らと似た境遇を感じ、尊敬の念を抱いているといい、「ジーターともっと話したい」という理由から英会話を熱心に勉強するようになった。「同い年だけど、ジーターのリーダーシップには感心する」と語っており、主将を務めるジーターをサポートする役割を果たしたいという思いが強かった。ジーターも個人の記録よりもチームの勝利を最優先にプレーするという点で松井と共通している為、松井を高く評価しており、2005年シーズン開幕前には、同シーズン限りで3年契約が切れる松井に対し、「一緒に黄金時代を築きたい」という思いを込めて松井の残留を熱望したという。2006年に松井が骨折で戦線を離脱した際には、「彼の代わりは存在しない」と発言し、早期復帰を願った。2009年のワールドシリーズで松井がMVPを獲得した際にも、ジーターは松井の活躍を誰よりも喜び、松井も「勝てない時代もチームを引っ張ってきた彼には特別な思いがある」と語った。ジーターは、松井に教わった「トシヨリ」という言葉を様々な場面で好んで使っている。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 358,
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"text": "2009年からヤンキースに加入したマーク・テシェイラはキャッチボールのパートナーであり、毎日試合前にキャッチボールを行っていた。ヤンキースのみならずメジャーリーグを代表するスーパースターであるアレックス・ロドリゲスのステロイド使用が発覚した際には、「残念ではあるが、過去はどうしようもない。大切なのはこれから」だとし、ロドリゲスに対する見方は変わらないと語った。",
"title": "特筆"
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"text": "野球以外の著名人とは幅広い交友関係を持つ。特にギタリストの布袋寅泰との親交は深く、自身の登場曲にも布袋の楽曲を使用している。また、作家の伊集院静との関係は特別なものがあり、シーズン中にもかかわらずニューヨークで行われた伊集院の出版会見に出席したことがある。伊集院は松井の人柄を高く評価しており、「松井秀喜はアメリカに送り出した『もっとも美しい日本人!』」と著作の帯に記している。既に1995年のプロ野球aiによるインタビューの中で、松井は最近読んだ面白い本として、伊集院の「受け月」を挙げているが、1999年に新潮社が松井に対談の企画を持ちかけたところ、松井は作品を愛読していた伊集院を相手に指名した。伊集院は驚いたが、若いスターの野球選手と会うと失望することが多かったため躊躇した。しかし実際に対談を行なって、逆に松井の人柄に惚れ込み、現在に至る交友関係が始まった。",
"title": "特筆"
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"text": "KAT-TUNの亀梨和也、キャスターの草野仁、歌舞伎役者の松本幸四郎、女優の松たか子、歌手の大友康平らとは公私にわたって親交がある。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 361,
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"text": "俳優のリチャード・ギアとは旧知の仲である。会った時はいつも英語で談笑をしている。ヤンキース往年の名捕手ヨギ・ベラは、良き相談相手であった。2011年9月19日には、映画『マネーボール』でオークランド・アスレチックスのビリー・ビーンGMを演じたブラッド・ピットとプレミア試写会で初対面。「とてもクールだったよ(ピット)」「素晴らしい人だった(松井)」とお互いを褒め合った。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 362,
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"text": "また独身時代は原田徳子、草野満代、松たか子、早坂好恵、酒井美紀、戸田菜穂らとの交際や滝川クリステルとの「お見合い」も報じられた。特に、パリへの旅行が報道されるなど、戸田とは親密な仲であり、2005年に父・松井昌雄が結婚を示唆したことで、結婚間近とも言われたが、翌年破局に終わった。交際発覚後も報道陣に対し松井が曖昧なコメントを繰り返したことに対し、戸田は「松井さんは守ってくれなかった」と不信感を募らせていったという。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 363,
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"text": "第85代・第86代内閣総理大臣・森喜朗は松井の実家の隣の集落出身(森によると実家同士が500mの距離)で、同じ能美市立浜小学校の卒業生でもある。森は松井の後援会名誉会長を務めており、ニューヨークまで激励に訪れることもある。",
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"paragraph_id": 364,
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"text": "2006年の大晦日にオーケストラ・アンサンブル金沢の演奏による松井応援歌「栄光(ひかり)の道」(宮川彬良作曲、詞は一般公募による)が初演された。オーケストラ・アンサンブル金沢の音楽監督・岩城宏之の企画によるもので、岩城は同年5月に松井へエールを送っていた。岩城は同年6月に逝去したため、生前に出した最後の手紙となった。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 365,
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"text": "2007年までヤンキース監督を務めたジョー・トーリは松井の入団当初、松井を「ブンブン振り回すホームランバッター」という印象だったが、シーズンが終わる頃には「場面に応じたバッティングが出来る頭のいい選手だ」と評価した。松井はルーキーイヤーのトーリの気遣いに感謝していると語っている。入団1年目の2003年5月には松井が全く打てない時期があり、ニューヨークの新聞やオーナーのジョージ・スタインブレナーがこぞって松井を批判する中でもトーリは松井を擁護し続け、「打てなくても気にするな。守備や進塁打でも立派に貢献しているよ」と励ましの言葉をかけた。松井は後に、スランプ脱出のきっかけをくれたのがトーリであり、トーリを信頼していたからこそアドバイスを受け入れることが出来たと語っている。なお、トーリは松井のことを「マツ」と呼んでいる。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 366,
"tag": "p",
"text": "松井はトーリについて、自らが寄せる信頼を繰り返し語っていた。トーリもまた、契約更改時に「世界中の金を集めてでもヤンキースは松井と契約すべきだ」との賛辞を送っていた。さらに「松井はウチで最も頼れる男なんだ。彼にはいつだって責任感とかキャプテンシーを要求するよ」と断言し、ジーターと並ぶチームの精神的柱になるように求めていた。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 367,
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"text": "松井のチームの勝利を最優先する献身的な姿勢については、トーリも「日本では50本塁打を打つスーパースターだったのに、こちらでは何でも嫌がらずにやってくれる」と賞賛している。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 368,
"tag": "p",
"text": "2007年限りでトーリがヤンキースの監督を退き、ドジャースに移ってからも、信頼関係が揺らぐことはなかった。2008、2009年は対戦機会がなかったが、エンゼルスに移籍した2010年3月のオープン戦で久々に対面。その後も、ドジャースとの対戦の際には挨拶を交わしている。同年11月、松井がニューヨークで行われたトーリ主催の慈善基金パーティーに出席した際、トーリは「マツイがどのチームに行っても応援できる」と語った。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 369,
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"text": "2012年に松井が現役引退を発表すると、トーリは「彼の監督だったことを誇りに思う」とコメントした。",
"title": "特筆"
},
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"paragraph_id": 370,
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"text": "1990年代中盤以降、松井とイチローはタイプが全く違う選手だが、強打・巧打のそれぞれでずば抜けた実力を持つ2人は同じ時期に日本に在籍しメジャーリーグでもプレーをしていたため、ことあるごとに比較の対象となった。ワールドシリーズMVPを受賞した翌日の朝日新聞「天声人語」は、「イチロー選手がカミソリなら、ゴジラはナタの切れ味だろうか」と評した。同日の産経新聞「産経抄」は、2人を「記録のイチロー」「記憶の松井」として対比した。漫画家のやくみつるは「クールなイチローは現代風ヒーロー。素朴な感じの松井は、長嶋さんや王さんのような昔の選手を思い出させる」と分析している。しかし、松井自身はイチローと比較され続けることについて、「正直、何とも思っていません。比較するのは2人以外のメディアやファンで、自分がコントロールできることではない。僕自身も、自分をイチローさんと比べることはしませんから」と語っている。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 371,
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"text": "1歳年上のイチローは中学時代には既に松井の名前を知っていたという。1990年6月24日に星稜高校のグラウンドで行われた愛工大名電との練習試合で2人は初めて顔を合わせた。その時に一塁ベース上で会話をしたことをイチローは覚えていた。イチローは「一人、でかい選手がいて、振りがすごく速い。それが松井君でした」と語っている。松井は「イチローさんの打撃はうまかった。左へ右へきれいに打ち分けていたなあ」と述懐している。翌年に愛工大名電の合宿所で再び顔を合わせた際には、風呂で偶然一緒になり、その後2人きりで将来のプロ入りについての会話をしている。松井はこの時のことは鮮明に覚えているという。共に高校野球界で頭抜けた存在だった2人は、当時から既に互いを意識していた。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 372,
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"text": "1996年のオールスターゲーム第2戦では、9回裏二死走者なし、打者松井の場面で全パの仰木彬監督がイチローをマウンドに送ったが、全セ監督の野村克也は松井に代打高津臣吾を送ったため、両者の対戦は実現しなかった。松井は「野村(監督)さんに『どうする』と聞かれたんで『どっちでもいいです』と答えたら、『なら代われ』と言われた」とコメント。また、「仰木さんの遊び心が出たんでしょうけど、自分が監督ならやらないと思う。野手には野手、投手には投手の役割がありますから」と語っている。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 373,
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"text": "日本時代は異なるリーグに所属していたため、交流する機会はほとんどなかったが、マリナーズと同じアメリカンリーグに所属するヤンキースに移籍後は、対戦の際にしばしば松井の方からイチローへ挨拶に赴いていた。2003年5月7日のマリナーズ対ヤンキース戦では、4回一死三塁(走者は松井)の場面で、フェンス手前への大飛球をキャッチしたイチローが、本塁へノーバウンドの大返球をみせた。到底間に合わないタイミングであったが、イチローは「松井を刺せばネタになるでしょ。100パーセント意識しましたよ」と語った。同年のオールスター戦では、試合前にはイチローから「一緒にやろうよ」と声をかけられ、2人でキャッチボールを行った。シーズンオフには、テレビ番組の企画で2時間にも及ぶ対談を行っている。しかし、2005年を最後に、両者の接触はほとんどなくなった。このことを巡って、2006年のWBC前後には、複数のタブロイド紙や週刊誌などでWBC出場辞退の経緯を巡る「イチローの陰謀」説や2人の不仲説が伝えられた。ニューヨーク・タイムズ紙は2009年に松井の去就問題を特集した記事の中で、「松井はイチローと友達ではないので、マリナーズで共にプレーすることを望まないだろう」と述べた。2009年12月に松井のエンゼルス入団が決まると、途絶えていた両者の交流も復活。イチローは「ウェルかめ to west Division」「バディを鍛えてお互いがんばろうぜ!」と、独特の言い回しで同地区への移籍を歓迎した。同地区に所属することになった2010年、オープン戦で5年ぶりの会話が実現した。シーズン中にも松井とイチローが試合前に談笑する様子が報じられている。",
"title": "特筆"
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"text": "2004年には、イチローは松井の印象について「愛嬌のある雰囲気というか、プレーそれぞれに憎めなさがある」と語っていた。一方で、「松井とイチローという2人は、考え方もやり方も対極にあると思っている」とも語っている。",
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"text": "2009年9月にイチローが史上初の9年連続200本安打を達成した際には、松井は「球をバットの芯でとらえる技術は大リーグでもトップクラス」、「イチローさんは常にファンを魅了することを意識しているのがすごい」とイチローを賞賛するコメントを出した。",
"title": "特筆"
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"text": "2012年7月、イチローがヤンキースに電撃移籍した折には、アメリカでも二人の比較論が盛んに交わされた。イチローのヤンキース入りについて松井は、「ヤンキースは常に戦力を厚くしようとしている。驚き?それはなかった」とコメントした。一方イチローは「ヤンキースで長く過ごしていたこと自体が、松井の選手としてのみならず人間としての偉大さを示している」と、ヤンキースの先輩に対して最大限の賛辞を送った。",
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"text": "2012年12月、松井が現役引退を発表すると、イチローは「中学生の時から存在を知る唯一のプロ野球選手がユニホームを脱ぐことが、ただただ寂しい」と感傷的なコメントを出した。",
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"text": "実務としてはマイナーリーグ全カテゴリの巡回コーチであり、直接の打撃指導をしながらその傍らでルーキーリーグなら1A、3Aならメジャーのように、上のカテゴリでも活躍できるであろう打者を見抜いてそれぞれの監督に進言する役もこなしていた。そうしてメジャー昇格を果たした選手の中にはアーロン・ジャッジ、ゲーリー・サンチェスらがいる。",
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"text": "ワールド・ベースボール・クラシックには、2大会連続で日本代表としての出場が期待されたが、いずれも辞退している。",
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"text": "2005年オフ、翌年3月に開催される第1回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の4番打者としての出場要請を受けた。",
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"text": "11月27日の段階では、「何も考えていません」と答えていたが、29日の段階では、「みんなが『WBCに出てください』という感じになれば、そりゃ、出ますよ」と発言するなど、前向きな姿勢を示すようになっていた。しかし、12月2日、監督の王貞治から正式に出場要請を受けた後は「(4番や主将など)そういうふうに言ってくれるのは光栄ですが、それ以上のことは言えません」として返答は保留した。7日には、ヤンキースのキャッシュマンGMが松井のWBC出場を容認する意向を示したと報じられたが、松井本人は慎重な姿勢を崩さなかった。その後、1次候補選手に名前が入るという情報を知らされると、「返事してないのに、俺の名前を入れちゃうわけ!?」と困惑しきりであった。さらに3日後の11日には、「(WBCに)出たくない」という松井の本音が報じられた。",
"title": "特筆"
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"text": "14日にはヤンキースへの貢献を優先することと、商業主義が見え隠れするWBCの開催に賛同しかねたことを主な理由として出場辞退の意向を固めた。さらに、一部メディアではヤンキースのキャッシュマンGMからWBC欠場を要請する“親書”が届けられていたことが報じられた。しかし、地元紙ニューヨーク・デーリーニューズの報道によると、ヤ軍がWBC事務局に不参加を要請した選手は年齢や故障が理由とされた先発投手マイク・ムシーナ、捕手ホルヘ・ポサダなど4名のみであり、松井への不参加要請などはなく、一部メディアの虚報であることが明らかになった。約2週間後には、ヤンキースのスモール球団代表もそのような文書の存在を否定した。この“親書”報道について、2008年にキャッシュマンGM自身も「まったくのデタラメ」だと語っている。また、一部報道による、「イチローに騙された」といった類いの、根拠に乏しい憶測が書きたてられることもあった。このような過程による松井の出場辞退に関して、日本ばかりでなく米国、メジャーリーグ選手会やWBC関係者からも大きく批判の声が上がった。",
"title": "特筆"
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"text": "王側は尚も松井の参加を模索し続けたが、結局出場要請から約1か月後となる12月26日、正式にWBC辞退を表明した。その際には、「王貞治殿」と宛名を書いた便箋15枚の手紙を記者を通じて王の元へ送り、辞退の理由を説明した。熟慮を重ねた結果としての苦渋の決断であることや、返答まで1か月近くもかかってしまったことへの謝罪の言葉などを綴ったという。",
"title": "特筆"
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"text": "大会期間中、松井は日本代表の試合をテレビ観戦していた。しかし、既にWBC辞退とそこに至るまで二転三転した経緯から、松井への批判が強まり、バッシングの様相も呈した。米国の全国紙USAトゥデイは、紙上で「WBCでイチローは勝利し、松井は“ルーザー(負け犬)”になってしまったようだ」と評した。このことを振り返って、松井の広報を担当する広岡勲は、後に自らの広報戦略の失敗を認めている。",
"title": "特筆"
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"text": "また、同年4月14日付け『フライデー』誌上のインタビューでは、辞退の理由を「この時期にベストパフォーマンスを見せられる自信がない」とした上で、次回大会以降も開催時期が変わらないようであれば出場は難しいとの見解を明らかにした。",
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"text": "2006年の年末には、テレビ東京系列『日経スペシャル カンブリア宮殿』内の企画でサッカー元日本代表の三浦知良と対談した際、WBC辞退について、「サッカーに比べると野球はまだナショナリズムが弱いスポーツ。それが強くなっていった時、チャンスがあればやりたいし、国の誇りを感じられるんじゃないかと思う」と話した。",
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"text": "3年後の2009年シーズン開幕前には、『Number』誌上のインタビューにおいて、「あのときはあのときの事情があったから。決して後悔はしていません。」と語っている。",
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"text": "2008年シーズン中盤から予定されていた左膝の手術を9月22日まで引き伸ばした時点で、WBC出場の可能性は無くなったとされた。しかし、オフには翌2009年の第2回WBC出場が取りざたされ、前回大会直後は第2回大会への出場にも消極的であった松井本人も意欲を見せたと報じられた。しかし、ヤンキースは手術明けの松井に対して出場許可を出さない方針を打ち出したこともあり、手術した左膝の回復を優先させるため、として11月末には辞退の意向を明らかにした。辞退の際には、監督の原辰徳に直接電話をかけ、「申し訳ない気持ちで一杯」であったという。それでもなお、原は暫定ロースター登録締め切りまで松井の参加を待ち続けたが、膝の回復が間に合わなかったとの理由で、翌年1月16日になって正式に招集を断念した。",
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"text": "専属広報の広岡勲によると、松井が出場を希望したのは、大型契約を結んだばかりで、ヤンキースでじっくりキャンプを過ごしたかった前回とは違い、今回は年齢的に日本代表として戦える最後のチャンスという意識が強かったためだという。また、今回は膝の手術と所属チームの反対という理由が存在し、広岡が国内の空気や流れを読んで、タイミングを図って辞退を発表したため、前回のようなバッシングは起こらなかった。日本の二連覇が決まると、松井は「日本の野球が、それだけ世界に通用するということだと思う」とのコメントを発表した。",
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"text": "『Number』誌上のインタビューでは、身体の状態が万全でなかったことが辞退の直接の理由となったことを改めて明言。さらに、4年後の第3回大会には、年齢的な理由から出場の可能性が低いことを認め、「それは仕方ない。(WBCには)縁がなかったということでね。」と語っている。",
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"text": "日本代表の監督に就任した山本浩二が2012年10月10日の就任会見でメジャーリーガーの代表入りについて問われた際、「ダル、イチロー、青木、黒田...。そういう選手が軸になるわけやから。松井もブランクはあるけど、練習はやっていると聞いている。大リーグ経験者には当然出てほしい。松井の動向は気にしている? そうだね。松井もイチローも、それだけの実績を残している選手は、力強いものを持っている」と述べていたが、7月にレイズを戦力外となって以来、久しく実戦から離れていることがネックとなり、11月6日に招集見送りが決まった。結局、松井は現役中に選手としてWBCに一回も出ることはなかった。",
"title": "特筆"
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"paragraph_id": 392,
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"text": "かつて中央競馬に「ヨバンマツイ」なる競走馬が在籍していた。2006年10月1日に中京競馬場で行われたレースで安藤勝己騎乗で中央競馬での初勝利を挙げ、その時の馬番は4番だった。",
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"text": "学生時代、松山ホステス殺害事件の犯人で整形手術をして逃亡中だった福田和子が石川県根上町の和菓子屋の内縁の座にいた際、松井は客としてよく菓子を買いに来て福田和子と会っていたエピソードがある。福田和子逮捕後のインタビューでは「とても綺麗で優しいおばさんという印象だった」と語っている。",
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"text": "※歴代記録はMLBの記録を含めているため参考記録。",
"title": "詳細情報"
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"text": "2007年12月時点で、売り上げは33万部を超えた。「不動心」というタイトルについて松井は、2006年の怪我の療養中に長嶋茂雄に会った際、2つあった候補の中から「不動心」を選んでもらったという。その時に長嶋は、特に何も語らず「これ」と一言述べただけですぐに決められたという。",
"title": "関連情報"
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{
"paragraph_id": 396,
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"text": "番組はすべてニッポン放送で放送している。",
"title": "関連情報"
}
] | 松井 秀喜は、石川県能美郡根上町出身の元プロ野球選手(外野手、右投左打)。 現役引退後はMLBのニューヨーク・ヤンキースでGM特別アドバイザーを務める。愛称は「GODZILLA」または「ゴジラ松井」。 1990年代から2000年代の球界を代表する打者で、日本プロ野球では読売ジャイアンツ、メジャーリーグベースボールではニューヨーク・ヤンキースなどで活躍した。2009年のニューヨーク・ヤンキース時代にワールドシリーズ優勝を経験している。同年、アジア人初のワールドシリーズMVPを受賞した。2013年には国民栄誉賞を受賞した。 | {{Infobox baseball player
| 選手名 = 松井 秀喜
| 所属球団 =
| 役職 =
| 背番号 =
| 画像 = Hideki Matsui in USA-7.jpg
| 画像説明 = [[ニューヨーク・ヤンキース]]選手時代(2007年)
| 国籍 = {{JPN}}
| 出身地 = [[石川県]][[能美郡]][[根上町]]<br />(現:[[能美市]])
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1974|6|12}}
| 身長 = {{フィートとcm (身長用変換)|6|2}}
| 体重 = {{ポンドとkg (体重用変換)|230}}
| 利き腕 = 右
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| 守備位置 = [[外野手]]、[[指名打者]]
| プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1992}}
| ドラフト順位 = ドラフト1位
| 初出場 = NPB / 1993年5月1日<br />MLB / 2003年3月31日
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| 年俸 =
| 経歴 =
* [[星稜中学校・高等学校|星稜高等学校]]
* [[読売ジャイアンツ]] (1993 - 2002)
* [[ニューヨーク・ヤンキース]] (2003 - 2009)
* [[ロサンゼルス・エンゼルス|ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム]] (2010)
* [[オークランド・アスレチックス]] (2011)
* [[タンパベイ・レイズ]] (2012)
| 選出国 = 日本
| 選出年 = {{by|2018年}}
| 得票率 = 91.3%(368票中336票)
| 選出方法 = 競技者表彰(プレーヤー部門)
}}
[[ファイル:Hideki Matsui of sain.jpg|thumb|250px|自筆サイン]]
'''松井 秀喜'''(まつい ひでき、[[1974年]][[6月12日]] - )は、[[石川県]][[能美郡]][[根上町]](現:[[能美市]])出身の元[[プロ野球選手]]([[外野手]]、右投左打)。
現役引退後は[[メジャーリーグベースボール|MLB]]の[[ニューヨーク・ヤンキース]]で[[ゼネラルマネージャー#スポーツにおけるゼネラルマネージャー|GM]]特別アドバイザーを務める。愛称は「'''[[ゴジラ (架空の怪獣)|GODZILLA]]'''」または「'''ゴジラ松井'''」。
[[1990年代]]から[[2000年代]]の球界を代表する打者で、[[日本プロ野球]](以下:NPB)では[[読売ジャイアンツ]]、[[メジャーリーグベースボール]](以下:MLB)では[[ニューヨーク・ヤンキース]]などで活躍した。2009年のニューヨーク・ヤンキース時代に[[ワールドシリーズ]]優勝を経験している。同年、[[アジア人]]初の[[ワールドシリーズMVP]]を受賞した。2013年には[[国民栄誉賞]]を受賞した。
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
1974年6月12日に、[[瑠璃教会]]二代目[[司教]]である父・[[松井昌雄|昌雄]]<ref>{{Cite web |url=https://www.zakzak.co.jp/spo/news/170629/spo1706290019-n1.html |title=NYに住む孫は息子と同じ思いやりの子 保育園では友達と英語で会話…早くも“バイリンガル” (1/2ページ) |publisher=zakzak |date=2017-06-29 |accessdate=2020-12-19}}</ref>と母・さえ子の二男として生まれる。生まれたときの[[体重]]は3,960グラムであった<ref name="nikkan0303">[https://web.archive.org/web/20030411005414/http://www.nikkansports.com/shuppan/int/int-0303.html 日刊スポーツ出版社・身がわりインタビュー 松井秀喜選手] nikkansports.com</ref>。
3歳で自宅近くの[[保育園]]に入園。「保育園史上最大の園児」と言われた。当時の保育園の先生は「8歳ぐらいに見えました」と語っている<ref>広岡(2002)p17</ref>。
=== 小学時代 ===
==== 少年野球チームへ ====
体格が一際大きかったため、[[根上町]]立浜[[小学校]]1年生の時に3年生以上で構成される[[軟式野球]][[チーム]]「根上少年野球クラブ」に、当時5年生であった兄が所属していた縁で特別に入団させてもらったが、まだ幼すぎて監督の指示などが理解できず、入団1週間で指導者の方から、両親に「(チームに入るのは)もう少し待ってほしい」と言われたようで野球を辞めてしまった<ref name="hutori">[https://logmi.jp/business/articles/323775 松井秀喜氏が振り返る“野球人生”初の挫折 今でも忘れない、チームを辞めさせられた悔しさ・寂しさ] logmi Biz 2020年11月23日に開催 (2023年1月19日閲覧)</ref>。4年生の時に父から再入団を勧められるが、幼少時のショックは大きく、拒否している<ref name="asahi20021102">朝日新聞,「日本一、MVP受賞そして… 巨人・松井、新たな一歩 プロ野球」,2002年11月2日朝刊</ref>。
しかし、野球に打ち込む3歳上の兄に触発され、小学5年生の[[夏休み]]に再び軟式野球チームに入り、本格的に野球を始めた。自分を辞めさせた指導者から代替わりしていたことから、その後任の指導者の勧誘に応じた<ref name="hutori"/>。その頃から、既にプロ[[野球選手]]を夢見ていた{{R|nikkan0303}}。
==== 左打ちへの転向 ====
元々は右打ちであったが、あまりにも打球を飛ばすために野球仲間であった兄とその友人が松井を打てなくする目的で「尊敬する[[掛布雅之]]選手(松井は当時は[[阪神ファン]]だった)と同じ左」で打つように強引に勧められ、左打ちに変更した{{Efn|兄は左投左打である。}}{{Efn|掛布も右利き(後に左利き)の左打ちである。}}<ref>{{Cite web2 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/06/22/kiji/20230622s00041000577000c.html |title=松井秀喜氏 兄に言われて“左打者転向”エピソードは「半分本当」あの大打者に憧れて… |website=スポニチAnnex |publisher=スポーツニッポン新聞社 |date=2023-06-22 |accessdate=2023-06-22}}</ref>。これが運命の左打ち転向であった。なお、松井が掛布を敬愛しているのは論を俟たないが、2021年時点では松井自身も掛布から認められる人間となり、大型新人を見た掛布に「[[清原和博]]や松井のようだ」と手本にされるほどとなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/tigers/2021/03/23/0014173183.shtml |title=阪神・掛布HLT 佐藤輝は清原、松井級!「修正能力や対応能力感じる」 |publisher=デイリースポーツ online |date=2021-03-23 |accessdate=2022-02-20}}</ref>。
==== 野球以外での活躍 ====
小学3年からは町の少年[[柔道]]教室にも通い始める。能美郡大会で優勝、石川県大会では3位に入り、国体強化選手にも選ばれていた。松井は「野球よりも注目されていたんです。立ってよし、寝てよし。石川県では結構、強かったんですよ」と自慢している<ref name="sanspo20040108">阿見俊輔(2004-02-08)[https://web.archive.org/web/20040208200706/http://www.sanspo.com/mlb/top/mt200401/mt2004010802.html 松井秀、チームメートに乱闘用柔道伝授],SANSPO.COM,2010年9月7日閲覧</ref>。
柔道の他に、わんぱく[[相撲]]大会でも活躍していた<ref name="sponichi20100709">(2010-07-09),[https://megalodon.jp/2010-0907-0545-31/www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/07/09/25.html かつては“相撲少年”松井も憂い「国技なのに…」],Sponichi Annex,2010年9月7日閲覧</ref>。
これらスポーツでの活躍のほか、実家の[[ピアノ]]も[[演奏]]する。
=== 中学時代 ===
==== 野球への専念 ====
[[中学校]]への進学にあたって、柔道を続けるか悩むこともあったが、[[能美市立根上中学校]]に進学して野球に専念するようになった。根上中学校には野球部があるものの、柔道部がなかった(当初は、野球での部活動の後に柔道場へ通う案も提示されたが、取り組む種目を一本にして集中したいという本人の希望もあったため)ということが野球への道を選択した大きな決め手となった。
==== 中学時代の実力 ====
中学入学時で身長は170cm、体重は95kgに達していた。中学時代は[[捕手]]をつとめ、2年夏から[[投手]]に転向した<ref>赤木(2002)p102</ref>。
通算打率は6割を超え、3試合連続本塁打も放ったことがある。3年生になると飛距離は130mにも達し、軟球を割ることもしばしばあった。代わりのボール代だけでも半年間で10万円を超えることになったという<ref>赤木(2002)p107</ref>。
その一方で、中学1年の時には能美郡相撲大会に出場し、個人戦で優勝。根上中野球部でも「関取」「相撲取り」などのあだ名で呼ばれていた{{R|sponichi20100709}}。
==== 髙桑監督の指導 ====
当時の根上中学校教諭で野球部の[[コーチ]]でもあった高桑充裕{{Efn|髙桑は現在人事異動で能美市職員となっている。}}は多くの松井の野球の師の中でも特に厳しかったことで知られており、[[打撃 (野球)#スイングに関する用語|アッパースイング]]だった松井に[[王貞治]]を手本にしたダウンスイングを指導したり、試合で敬遠されたためにバットを投げて相手を睨みつけるなど怒りの感情を露わにした当時の松井を、試合中でも激しく殴打し諌めたというエピソードがある。松井は後に、高桑の体罰が無ければ今の自分はいなかったと回顧している<ref>松井「不動心」新潮新書</ref>。
その高桑は[[星稜中学校・高等学校|星稜高校]]野球部を卒業したことからのちの松井の先輩であり、同校の監督であった[[山下智茂]]の教え子の1人でもあった。[[箕島対星稜延長18回]]では高桑が1年生ながらもその試合で二塁手として途中出場を果たしている。
==== メジャーリーグへの憧れ ====
中学時代から[[衛星放送]]でMLBの試合を熱心に見るようになった。その当時に憧れていた球団は、当時[[ホセ・カンセコ]]、[[マーク・マグワイア]]らを擁して黄金期を迎え、後に松井自身が入団することになる[[オークランド・アスレチックス]]であったという<ref name="hochi20101213">[https://megalodon.jp/2010-1216-0012-43/hochi.yomiuri.co.jp/mlb/news/20101213-OHT1T00235.htm 松井が初めて買ったメジャーの帽子は憧れのA's], スポーツ報知(2010-12-14), 2010年12月16日閲覧</ref>。
=== 高校時代 ===
==== 星稜高校進学へ ====
[[File:星稜高校 黄白色 (26521960514).jpg|thumb|松井秀喜の星稜高校野球部ユニフォーム([[甲子園歴史館]]にて展示)]]
高校は[[星稜中学校・高等学校|星稜高校]]に入学。既に松井の実力を高く評価していた星稜高校監督の山下からの熱烈な勧誘や、中学野球部監督やコーチの高桑らに薦められ、また、根上中学校から星稜に進学した先輩と相談した結果、星稜に進学することに決めた。
「野球は大学までやらせてもらえれば」という程度だったが、高校時代に打者として注目を集めるにつれて、高校を卒業してプロ入りする思いが強まっていったという。
当初太り過ぎていたため入部は保留されていたが、地道なランニングによる減量で入部に漕ぎ付けて事無きを得た。
ちなみに星稜高校出身のプロ野球選手では2021年に[[島内宏明]]がプロ野球で打点王の打撃タイトルをとるまでは松井が最後の打撃タイトルの獲得者と言われており、引き合いに出されることもある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/baseball/2021/12/15/0014918395.shtml |title=楽天・島内「打点王になっちゃいましたね」「基本的に適当にやっていました」 |publisher=デイリースポーツ online |date=2021-12-15 |accessdate=2022-08-19}}</ref>。
==== 高校1年生、恐怖の1年生4番 ====
投手として入部したが、練習初日のブルペンで投球練習ですぐに監督に「投手以外だったらどこを守りたい?」と尋ねられ実質投手失格を言い渡される。しかしその前に行った打撃練習では、3年生を含んだチームメンバーで自分だけフェンス越えの打球を放っており「先輩は真面目に飛ばそうとしてないのではないのか」「ひょっとしたら後で怒られるのではないか」と不安になったという。その後野手([[一塁手]])に転向。その後、[[三塁手]]に転向する。星稜高校の[[入学式]]前から野球部の練習に参加し、他校との練習試合では「4番・三塁手」で出場してヒットを放った。
1年生から4番打者を務め(5番は3年生の[[村松有人]]だった)'''「北陸の怪童」「星稜恐怖の1年生4番」'''として徐々に野球関係者の間に知られていき、高校球児たちを紹介する専門雑誌にも注目選手として高校1年生時点で当時高校3年生でドラフト指名候補と言われた[[内之倉隆志]]([[鹿児島実業高等学校|鹿児島実業高]])、[[鈴木尚典]]([[横浜中学校・高等学校|横浜高]])、[[山本保司]]([[関東第一高等学校|関東一高]])等と並んで紹介されており、本塁打もこの頃から推定飛距離で140mを超すものもあった。
ただ、[[第72回全国高等学校野球選手権大会|夏の選手権]]では初戦(2回戦)の対[[日本大学鶴ヶ丘高等学校|日大鶴ヶ丘高校]]戦で難波俊明投手に3打数0安打で押さえ込まれチームは初戦敗退し、「甲子園は怖いところです」というコメントを残している<ref name="tokushu1">[https://www.jiji.com/jc/v2?id=091103matsu_hideki_03 特集 松井秀喜【1】高校1年から4番打者]. 時事ドットコム(2009年11月3日付). 2012年1月14日閲覧</ref>。しかしながら、対戦した難波投手は打ち取ったものの、第3打席の外野の最も深い場所へ大飛球を飛ばされ、「あの(難しい)球をあそこまで飛ばすのか」と、松井の怪物の片鱗を見たと後にコメントしている。
秋季では[[北信越地区高等学校野球大会|北信越大会]]準決勝で[[上田佳範]]を擁した[[松商学園高等学校|松商学園高校]]に敗れ、[[第63回選抜高等学校野球大会|選抜]]出場を逃す。
==== 高校2年生 ====
高校2年の[[第73回全国高等学校野球選手権大会|夏の選手権]]の初戦(2回戦)の[[沼津市立沼津高等学校・中等部|市立沼津高校]]戦では、松井の走塁で市沼津をかき回し接戦に勝利。3回戦の[[茨城県立竜ヶ崎第一高等学校・附属中学校|竜ヶ崎第一高校]]戦でライトスタンドに甲子園初本塁打を記録した{{R|tokushu1}}。準々決勝では松商学園高校に勝利して北信越大会の借りを返す。準決勝では夏の選手権で優勝した[[大阪桐蔭中学校・高等学校|大阪桐蔭高校]]に1‐7で敗退した。
夏休みに部内で体力測定を行った際、背筋力250kg、バーベル上げ150kgと、関係者曰く「[[清原和博]]以来の数値」を出した。
新チームでは監督の山下にキャプテンに指名される。星稜では毎年キャプテンは部員による投票によって選んでいたが、山下が松井の統率力や影響力を高く評価していたため、特例として任命したのだという<ref>赤木(2002)p138</ref>。
秋の[[第22回明治神宮野球大会|明治神宮大会]]では帝京相手に全6打席中4敬遠をされたが優勝している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/sports/koshien/ano_natsu/special/02.html |title=連載「あの夏」特別編 ページ2 明徳義塾×星稜 - 高校野球 |publisher=朝日新聞デジタル |date= |accessdate=2021-05-04}}</ref>。
また、高校生選抜チームに2年生としては後に巨人で同僚になる[[三澤興一]]([[帝京中学校・高等学校|帝京高]])と共に選出され、1年先輩で後にプロ入りした[[髙木大成]]([[桐蔭学園中学校・高等学校|桐蔭学園高]])・[[大野倫]]([[沖縄水産高校|沖縄水産高]])・[[萩原誠]]([[大阪桐蔭高校|大阪桐蔭高]])等にその怪物ぶりを賞賛されている。大野は雑誌のインタビューで「星稜の松井は怪物」と答え、萩原はこの年の高校生打者のドラフトの目玉とされていたが、「自分のホームランなんて松井に比べたら大したものではない」とのコメントを残している。
==== 高校3年生、5打席連続敬遠 ====
高校3年の[[第64回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]では、[[阪神甲子園球場]]の[[ラッキーゾーン]]が撤去されて大会本塁打数が激減したにもかかわらず、「僕には関係ありません」という言葉通りに{{R|tokushu1}}、開幕試合である初戦の[[岩手県立宮古高等学校|宮古高校]]戦で2打席連続本塁打、1試合7打点、2試合連続本塁打と、当時の大会記録を記録した。2回戦で[[堀越高等学校|堀越高校]]のエース・[[山本幸正]]から難しい[[カーブ (球種)|カーブ]]を本塁打したのを[[長嶋茂雄]]が見ていたのがきっかけで巨人入りしたという話もある<ref>赤木(2002)p147</ref>。しかし、準々決勝の[[天理高等学校|天理高校]]戦では本塁打は出ず、自らのエラーもありチームは敗退した。しかしながら観戦していたプロ野球各球団のスカウトたちからは[[元木大介]]([[上宮高等学校|上宮高]])、[[内之倉隆志]](鹿児島実業高)、[[萩原誠]](大阪桐蔭高)等の前年・前々年に甲子園を騒がせたスラッガーたちと比較しても松井のほうがずっと打者としては素材が上であると評価され、「[[清原和博]]に匹敵する」「[[清原和博]]クラスの逸材」とまで言い切るスカウトも複数いて、松井の存在は一躍全国規模で知られるようになっていった。
[[第74回全国高等学校野球選手権大会|夏の選手権]]では2回戦の[[明徳義塾中学校・高等学校|明徳義塾高校]]戦で敗退。この試合で松井が明徳義塾先発投手の[[河野和洋]]から受けた'''[[松井秀喜5打席連続敬遠|5打席連続敬遠]]'''は、[[日本高等学校野球連盟|高野連]]が急遽記者会見を開くなど、[[社会問題]]にまで発展した。明徳義塾監督の[[馬淵史郎]]は試合後、「(星稜の練習を見て)高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた」とコメントしている。最後になる秋の国体では監督が出したホームランのサインに応えホームランを打っている<ref>[https://vk.sportsbull.jp/koshien/articles/ASLBN5VWQLBNPTIL00V.html 松井に本塁打サイン24回、全部実現 星稜恩師が秘話]</ref>。松井はプロ野球引退後に「そのあとプロ野球のジャイアンツに入った時に『彼があの甲子園で5回敬遠されたバッターなんだ』ということを、やっぱり成績で示さなくちゃいけないっていうことは、心の中でどっかにあったと思うんですよね」とその後の自分の心構えに影響した旨を語っている<ref name="hutori"/>。
==== 高校通算成績 ====
高校通算打率は.450、本塁打は60本。夏の県大会では、当時としては石川の1大会の最高記録となる4本塁打を三大会連続で記録している{{Efn|なお、この記録は2018年に同じ星稜高校の南保良太郎が5本塁打を打って記録を塗り替えている<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20180726/ddl/k17/050/237000c |title=石川大会 決勝 星稜、圧倒のV 記録づくし、松井秀喜さん超えも /石川 |publisher=毎日新聞 |date=2018-07-26 |accessdate=2021-05-04}}</ref>。}}。高校通算60号は[[第47回国民体育大会高等学校野球競技|べにばな国体]]決勝の[[尽誠学園高等学校|尽誠学園]]戦の第4打席、高校最終打席で記録しチームを優勝に導いている。
ちなみに、「柵越えしたものがホームラン」という松井のこだわりから、ランニングホームランは数に含まれていない。ライナー性の弾道で甲子園球場のバックスクリーンに運ぶ並外れたパワーや、打撃練習であまりにも柵越えを連発するため練習場のライトフェンス後方に特別のネットが取り付けられるなど、桁外れの話題性から「20年に1人の怪物」と言われていた。
==== 日米韓親善高校野球大会 ====
9月には[[大韓民国]]・[[ソウル特別市|ソウル]] で行われた日米韓3国親善高校野球大会に日本代表の一員として出場した<ref>[[朝日新聞]],「選手18人決まる 日米韓3国親善高校野球大会」,1992年8月26日朝刊</ref>。
松井は米国側からも大きな注目を集めており、同大会に米国代表として出場していた[[トリー・ハンター]]は、「まず驚いたのは彼は高校生なのにあり得ないくらい大勢のマスコミを引き連れていたことだ。当時ボクは16歳でマツイは17歳。その高校生を巡ってロックスターを取り囲むような騒ぎになるなんて、一体どんな怪物?だと思っていた。それがマツイだったんだよ」と語っている<ref>鉄矢多美子,[http://www5.nikkansports.com/baseball/mlb/tetsuya/94348.html ハンター「18年目の巡り会い」でアゲアゲ],nikkansports.com,2010/08/11閲覧</ref>。
==== ドラフト前 ====
その年のドラフト会議の目玉となった松井には報道陣が殺到し、11月になると星稜高校の校門前に毎日多くの記者やカメラマンが待機するようになった。「このままドラフト本番を迎えれば、えらい騒ぎになる」との声が地元で上がり始め、ドラフト前には異例の「報道規制」が敷かれた<ref>朝日新聞,「地元報道陣が「協定」 星稜・松井選手、きょうドラフト」,1992年11月21日朝刊</ref>。
ドラフト会議前には憧れの球団である[[阪神タイガース]]の他は、準地元である[[中日ドラゴンズ]]に加え[[読売ジャイアンツ]]、[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]までを希望に絞り、その他の球団から指名された場合は[[駒澤大学]]へ進学することを示唆していた<ref name="tokushu3">[https://www.jiji.com/jc/v2?id=091103matsu_hideki_03 特集 松井秀喜【3】第二次長嶋政権の中心選手へ]. 時事ドットコム(2009年11月3日付)</ref>。
=== 巨人時代 ===
==== 巨人入団へ ====
{{by|1992年}}11月21日に行われた[[1992年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|プロ野球ドラフト会議]]では前述の4球団から1位指名を受け、抽選の結果交渉権を獲得した巨人に入団。契約金は1億2000万円。年俸は720万円。[[野球の背番号|背番号]]は「'''55'''」。
13シーズンぶりに巨人監督に復帰した[[長嶋茂雄]]が、[[中日ドラゴンズ]]、[[阪神タイガース]]、[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]との抽選の末、松井の交渉権を引き当てた。
当時の松井は本心では阪神入りを熱望しており、ラジオで交渉権が巨人に決まったことを知ると、記者会見で複雑な表情を浮かべ、「阪神に行きたい、という希望がありましたから。まだ整理もついていないけどその気持ちも次第に薄れていくと思う」と語った<ref>朝日新聞大阪版,「阪神熱望」の松井は複雑 92年のプロ野球ドラフト 」,1992年11月21日夕刊</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20081216015501/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_08november/KFullNormal20081119159.html “残りものには福”伝説健在!長嶋監督、松井秀喜当てる Sponichi Annex 日めくりプロ野球]</ref>。
==== 長嶋からのラブコール ====
だが、その後、長嶋から直接[[電話]]を受けて感銘を受け、すんなり巨人入りを決めた。[[阪神ファン]]である彼の気を引くために、長嶋は監督就任会見の前に旧知の記者に「星稜高校の松井秀喜選手が大いに注目されていますが、監督はどうお考えですか?」と質問するよう頼んでおき、「ほしいですね、この手で是非育ててみたい逸材です」と答えた。これを自宅のテレビで見た松井父子は興奮し、巨人入りの意思が高まったという<ref>[[児玉光雄]]著 『松井秀喜に学ぶ壁をブチ破る「心の持ち方」』 東邦出版</ref>。
なお、この年のドラフト会議で、当初巨人フロントは松井ではなく[[三菱自動車京都ダイヤフェニックス|三菱自動車京都]]の[[伊藤智仁]]を指名する予定だったが、長嶋が松井の獲得を熱望したため松井指名に切り替えている{{R|tokushu3}}(なお、その伊藤智仁は[[野村克也]]が率いていた[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]から1位指名されて入団する)。
==== 野球業界全体を支えるという抱負 ====
入団会見で他の新人選手が抱負として憧れの選手名や具体的な成績目標を述べる中、松井は「[[サッカー]]([[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]])や[[大相撲|相撲]]([[花田虎上|若]][[貴乃花光司|貴]]ブーム)に小さな子供たちの関心が傾きつつあります。その中で僕はその子供たちに夢を与え、球場に直接見に来てもらえるような選手になれるよう頑張ります」と述べた<ref>[http://www.hideki.co.jp/sentiment.html 松井秀喜ベースボールミュージアム - MATSUI HIDEKI BASEBALL MUSEUM]</ref>。
==== 巨人1年目 ====
'''{{by|1993年}}'''、プロ初のキャンプでは150メートル級の場外弾を連発。キャンプ2日目にはフリー打撃で13本の柵越えを放ち、「こんな高校生、見たことがない」とコーチに言わしめた<ref>朝日新聞,「松井秀喜さん 巨人選手(ひと)」,1993年2月13日朝刊</ref>。
高校時代は[[三塁手]]であったが、長嶋が[[外野手]]へとコンバートさせた。
===== プロ初打席 =====
2月28日の[[オープン戦]]でプロ初打席を迎え、当時ヤクルトに所属していた一つ上の石井一久と対戦するもカーブで三振となり、その時は焦りや恐怖を感じたという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/24/kiji/K20130924006674380.html |title=西武・石井 今季限りで現役引退 松井も恐れた日米通算182勝 |publisher=スポーツニッポン |date=2013-09-24 |accessdate=2021-05-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/825926 |title=オコエ瑠偉と松井秀喜の共通点とは。高卒ルーキーなら“フルスイング”! |publisher=Number Web |date=2016-06-24 |accessdate=2021-05-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20180222-J2HUQOZSKVLMPIFHTXCKRZMLZ4/4/ |title=サンスポと歩んだ松井氏の野球人生「肝心なのは試合で結果を出すこと」 |publisher=サンケイスポーツ |date=2018-02-22 |accessdate=2021-05-04}}</ref>。
その後もプロの投球の速球に手こずり<ref>朝日新聞,「体力気力は一人前、怪獣松井選手の一軍前夜(リポート・プロ野球)」,1993年5月4日朝刊</ref>、[[三振]]と凡打の山を築く。オープン戦は53打数5安打、打率.094に終わり、20三振は全体トップだった<ref>広岡(2002)p94</ref>。
===== 二軍落ちと一軍復帰 =====
4月7日に長嶋から二軍落ちを通告され、公式戦開幕は二軍で迎えた。二軍落ちを通告された際には、「落としたことを後悔させるように頑張る」と語った{{R|asahi20021102}}。
その宣言通り、[[イースタン・リーグ]]の開幕戦で松井と同期新人の[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]に入団した伊藤から本塁打を放つなど12試合で打率.375、4本塁打と活躍し、5月1日のヤクルト戦([[東京ドーム]])で「7番・[[左翼手]]」として一軍デビューを果たした。
===== プロ初安打と初本塁打 =====
初打席は[[西村龍次]]からセカンドゴロ。2打席目には同じく西村からライトフェンス直撃の二塁打を放ち、初安打初打点を記録。
翌日の試合の東京ドームの対ヤクルト戦では、9回裏に[[高津臣吾]]から内角の直球をライトスタンド中段に運びプロ入り初[[本塁打]]<ref>{{Cite news |url=https://www.daily.co.jp/baseball/2023/04/28/0016291707.shtml |title=巨人 ゴジラ・松井秀喜氏が5月3日に10年ぶり始球式 |newspaper=デイリースポーツ online |publisher=株式会社デイリースポーツ |date=2023-04-28 |accessdate=2023-04-29}}</ref>。興奮の余り、試合後ロッカールームから引き揚げる際、足元はスリッパのまま「打っちゃった」と喜びを露わにした{{R|asahi20021102}}。
その後は各球団のマークに遭い、6月には二軍に降格するが、7月のフレッシュオールスターに出場して優秀選手賞を獲得し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/07/15/kiji/20180715s00001000057000c.html |title=地方開催で野球の魅力を拡散 フレッシュ球宴の功績 近年の野球のライバルは… |publisher=スポーツニッポン |date=2018-07-15 |accessdate=2021-05-04}}</ref>、8月下旬に再び一軍に昇格すると、当初は無安打が続いたが、8月31日からの10試合で6本塁打を放つなど、'''[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]高卒ルーキー新記録となる11本塁打'''を放った([[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]の高卒ルーキー記録は1986年の清原和博による31本塁打<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2021/07/10/kiji/20210710s00001173541000c.html 清原和博氏 阪神・佐藤輝は「確実に僕の記録抜く」 新人最多31本塁打の日本記録更新を予言]</ref>)。
オフの契約更改では1060万円増の1900万円でサイン。目標の2000万円には届かず、会見では渋い表情を見せた<ref>朝日新聞,「『しょうがない』巨人松井、一発サイン 目標の2000万円に届かず」,1993年12月4日朝刊</ref>。
==== 巨人2年目 ====
'''{{by|1994年}}'''4月9日に行われた[[広島東洋カープ]]との開幕戦で2本塁打を記録し、4月には自身初の[[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]を受賞した。
[[1994年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|同年のオールスターゲーム]]では'''セ・リーグ史上最年少で4番'''を打った。
[[中日ドラゴンズ]]とのリーグ優勝を賭けたシーズン最終戦「[[10.8決戦]]」でも本塁打を放つなどチームのリーグ制覇に貢献。
迎えた[[1994年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]を破りチームは日本一、自身も2年目で20本塁打を記録した。
==== 巨人3年目 ====
'''{{by|1995年}}'''には22本塁打を放ち、初の[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]を受賞。
8月24日の[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]戦でレギュラーシーズンでは初の4番を任された。
ヤクルトが最高勝率・マジック1で迎えた9月30日に[[明治神宮野球場]]で行われた試合では9回裏二死で打席に立ち、その年の[[最優秀バッテリー賞]]を受賞する[[テリー・ブロス]]及び[[古田敦也]]にセンターフライに仕留められた。
この年のオフには、苦手な内角球を克服するために、身体に当たりそうな極端な内角球を打つ練習を行った。その甲斐あって、翌年から成績が飛躍的に向上することになる。後に、松井はこのシーズンオフが野球人生のターニングポイントだったと回想している<ref name="shincho20070208">[http://www.shinchosha.co.jp/wadainohon/610201/interview.html 松井秀喜 『不動心』|新潮社] [[週刊新潮]] 2007年2月8日号 特別インタビュー</ref>。
==== 巨人4年目 ====
'''{{by|1996年}}'''は自身初の開幕4番スタートだったが、5月からは[[落合博満]]が4番に返り咲き、松井は3番に戻った。
その後チームの上昇と共に成績も上昇し、夏場には7月、8月と2か月連続で月間MVPを獲得するなど、[[メークドラマ|大逆転優勝]]に大きく貢献。初のセ・リーグ[[最優秀選手 (野球)|MVP]]を受賞した。これは当時としては最年少記録であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/baseball/2021/12/16/0014919048.shtml |title=ヤクルト・村上がMVP 史上最年少&ゴジラに並ぶ高卒4年目 さらなる伝説へ「まだまだ進化」 |publisher=デイリースポーツ online |date=2021-12-16 |accessdate=2022-04-15}}</ref>。
リーグ最終戦まで[[山﨑武司]]、[[大豊泰昭]]と[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]を争っていたが、山崎に1本リードされて迎えた10月8日シーズン最終戦の中日戦では長嶋の配慮で自身初の1番打者として出場したが、4打席すべてで[[故意四球|敬遠]]されてタイトルを逃した(結果は山崎が39本で本塁打王に輝いた)。観客席の巨人ファンからは罵声が飛び交ったが、松井自身は「しょうがない。タイトルを取れなかったのは、悔しいけど、(高校時代の)[[松井秀喜5打席連続敬遠|五打席連続敬遠]]の方が悔しかった」と、比較的サバサバした様子だった<ref>[https://web.archive.org/web/20111011141813/http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1110/kiji/K20111008001768850.html 【10月8日】1996年(平8) もう一つの「10・8」 松井秀喜 4連続敬遠で1本届かず]. スポニチ(2011年10月8日). 2012年1月12日閲覧</ref>。
それでも、'''22歳での38本塁打は[[王貞治]]に並ぶ年齢別最多本塁打'''記録。また、同一投手からのシーズン最多本塁打のタイ記録の7本塁打を[[斎藤隆 (野球)|斎藤隆]]から放った。この年の斎藤隆との対戦成績は25打数7安打で、安打のすべてが本塁打であった。
最終的に130試合に出場し、打率.314、38本塁打、99打点の成績を残した。
この年は日米野球に出場し、敬遠されたことでも話題になった<ref>http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09november/KFullNormal20091101242.html</ref>。なお、この時の松井の敬遠以降は日米野球では日本の打者が敬遠されることは長らくなく、2014年に[[松田宣浩]]がされるまでなかったという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/11/15/kiji/K20141115009288120.html |title=侍1号の松田「びっくりした」 96年松井以来の日本打者敬遠 |publisher=スポーツニッポン |date=2014-11-15 |accessdate=2021-05-04}}</ref>。
契約更改では倍増の1億6000万円で一発サインした。高卒選手では[[イチロー]]と並ぶ史上最短(当時)の入団4年目で1億円プレーヤーの仲間入りを果たした<ref>朝日新聞,「巨人の松井、倍増1億6000万円 契約更改、一発サイン プロ野球」1996年12月26日朝刊</ref>。
==== 巨人5年目 ====
'''{{by|1997年}}'''には[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]の[[清原和博]]がFAの権利を用いて、巨人に入団し、清原とのコンビは「[[MK砲]]」と呼ばれた。
4月27日の広島戦で通算100本塁打を達成。4月は好調で10本塁打を放つ好スタートを切った。
最終的に打率は3割をわずかに下回ったが、37本塁打を放った。しかし、[[ドゥエイン・ホージー]]との本塁打王争いに1本差で敗れ、史上初めて2年連続して1本差で本塁打王のタイトルを逃すことになった。打点は初めて大台を突破する103打点を挙げるが、これも[[ルイス・ロペス (1964年生の内野手)|ルイス・ロペス]]に及ばず無冠に終わった。
==== 巨人6年目 ====
===== 左膝の故障 =====
'''{{by|1998年}}'''は春季キャンプ中に左膝を痛め<ref>朝日新聞,「巨人の松井、左ひざ痛でキャンプリタイア プロ野球」,1998年2月15日朝刊</ref>、「左膝[[軟骨]]損傷」と診断された。膝の不安を抱える中で開幕から4番に座ったが、初本塁打は11試合目まで遅れ、その間には32打席無安打というプロ生活最大のスランプにも悩まされた。
4月は打率.190、2本塁打に終わり、5月2日には清原和博に4番の座を奪われた。
膝の痛みが和らいだ5月10日に久々の第3号本塁打を放つと、その後の12試合で9本塁打して月間MVPを受賞するなど本来の調子を取り戻した。
===== 本塁打王、打点王、最高出塁率 =====
その後は順調に打ち続け、7月28日のヤクルト戦で通算150本塁打を達成。最終的には34本塁打、100打点で自身初のタイトルとなる本塁打王、[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]、[[最高出塁率 (日本プロ野球)|最高出塁率]]のタイトルを獲得。巨人で本塁打王と打点王の両方獲得は、1977年の王貞治以来21年ぶりの快挙であった。
一方で、左膝の故障は現役を通じて古傷として松井を悩ませ、周囲の筋肉を鍛えることでだましだましプレーを続けたが、その影響は右膝にも及ぶようになった<ref>[https://www.jiji.com/jc/v2?id=091103matsu_hideki_14 特集 松井秀喜 ひざとの闘い、続く] 時事通信</ref>。
==== 巨人7年目 ====
'''{{by|1999年}}'''は前年の[[日米野球]]で[[サミー・ソーサ]]からアドバイスを受け、シーズン前に広角に打つことを意識したフォームに改造<ref>朝日新聞,「プロ野球・巨人松井「新打法」完成度 ソーサ直伝のフォーム改造」,1999年3月29日朝刊</ref>。
6月5日の横浜戦から6月10日の中日戦まで5試合連続本塁打を記録する。9月21日の阪神戦では通算200本塁打を達成。
7月のオールスター第1戦では4試合連続本塁打(新記録)を放ったが、第3戦で代打出場した際にわき腹を痛め、7月30日の広島戦で遂に先発メンバーから外れた。この時点で現役最多だった連続フルイニング出場が574試合(当時歴代3位)で止まる。
長嶋が松井に負担のかからない形で連続試合出場記録を尊重することを決め<ref>朝日新聞,「記録と屈辱、松井は揺れる プロ野球(EYE 西村欣也)」,1999年8月3日朝刊</ref>、以後8月中旬までは記録のために1イニングだけ守備固めとして出場する。
このケガの影響が響いて[[ロベルト・ペタジーニ]]と2本差で本塁打王を逃すことになるが自己最高の42本塁打を記録。日本人のシーズン40本塁打は1989年の落合博満以来10年ぶり、巨人では1977年の王貞治以来22年ぶりの快挙であった。
===== メジャーリーグを初観戦 =====
シーズン終了直後の10月24日には、[[ヤンキー・スタジアム (1923年)|ヤンキー・スタジアム]]で初めてMLBの試合([[1999年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|ALCS]]第2戦)を生観戦している。この経験は強く心に刻まれ、後のMLB挑戦を決断する要因の一つにもなった<ref>[https://megalodon.jp/2009-0721-0154-21/www.sanspo.com/mlb/news/090720/mla0907200503002-n1.htm 松井秀、コーン氏の前でいいとこ見せられず] SANSPO.COM(2009年7月20日)</ref>。
==== 巨人8年目 ====
'''{{by|2000年}}'''は開幕から4番打者を務め、以後日本シリーズ、日米野球なども含めて、他の打者に4番を譲ることはなかった。
右小指をグリップにかける打法に変えたことで、あまり強くバットを握らずにリラックスして構えられるようになったことで打撃は凄味を増し、シーズン半ばまでは三冠王を狙える勢いで打ち続けた<ref>朝日新聞,「松井秀喜 プロ野球・巨人(関谷亜矢子の戦士のほっとタイム)」,2000年7月11日夕刊</ref>。
7月12日の広島戦で通算1000本安打を達成。最終的に135試合全イニングで4番打者を務め、いずれも自己最高の打率.316、42本塁打、108打点を記録。シーズン全試合4番出場は巨人では{{by|1950年}}の川上哲治以来50年ぶりの記録だった。本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVP、日本シリーズMVP、ゴールデングラブ賞を受賞し、巨人の日本一の立役者となった。
なお、この年の日本シリーズMVP受賞によって川上哲治、[[大下弘]]、[[福本豊]]、[[トーマス・オマリー]]、[[古田敦也]]に次ぐ史上6人目の「レギュラーシーズン、オールスター戦、日本シリーズにおけるMVP獲得者」となった。プロ野球界に最も貢献した人物に贈られる[[正力松太郎賞]]も初受賞した<ref>朝日新聞,「正力賞に巨人の松井秀喜外野手 プロ野球」,2000年11月1日朝刊</ref>。
同年の[[日米野球]]では、MLB選抜である[[ボビー・コックス]]に「ゴジラはいいねえ。バットスイングが速い」と称賛された。この時点では「大リーグなんて、そんな」とMLB挑戦に否定的だったが、「野球をやっていて、大リーグを全然考えないと言ったら、うそになるかもしれません」と2年後のFA移籍に含みを持たせた<ref>朝日新聞,「日本の4番、メジャー意識(EYE 西村欣也)」,2000年11月7日朝刊</ref>。
11月21日には[[石川県]]県民栄誉賞を受賞した<ref>朝日新聞石川版,「県民栄誉賞第1号に巨人・松井秀喜選手」,2000年10月22日朝刊</ref>。
契約更改では、松井のMLB移籍を危惧した球団側が8年総額56億円という破格の長期大型契約を持ちかけたが<ref name="asahi20011225">朝日新聞,「『安定』拒む松井(EYE 西村欣也)」,2001年12月25日朝刊</ref>、松井は「一年一年が勝負という気持ちでプレーしたい」として単年契約にこだわり、球界最高(当時)の年俸5億円でサインした<ref>朝日新聞,「巨人の松井秀喜、5億円1年契約 プロ野球界の最高給 」,2000年12月26日朝刊</ref>。
==== 巨人9年目 ====
'''{{by|2001年}}'''4月12日の中日戦に1000試合目の出場で通算250本塁打を達成。5月3日の中日戦で当時史上5人目の1000試合連続試合出場を達成<ref>朝日新聞,「松井、1000試合連続出場 巨人2-1中日 プロ野球6回戦」,2001年5月4日朝刊</ref>。5月5日から8月13日までセ・リーグ歴代1位の65試合連続出塁を達成する。
9月27日、広島カープ戦で自身初の1試合3本塁打(3打数連続)<ref>[http://www.sanspo.com/mlb/japanese/matsui-h/profile.html 松井秀喜]</ref>を記録するなど9月は打撃好調で月間MVPを受賞した。
この年、初の[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]のタイトルを獲得したが、全イニング出場での首位打者は王貞治、イチローに次ぐ史上3人目の快挙となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/386390/ |title=西武・秋山 王会長、イチロー、ゴジラ超える 初の2年連続フルイニング&首位打者 |publisher=西日本スポーツ |date=2018-01-14 |accessdate=2022-01-23}}</ref>。
一方で、本塁打数はなかなか伸びず、20号本塁打を放ったのは8月7日であった。8月まで年間30本に届かないペースで推移していたが、9月にようやく量産体制に入ると、自身初の1試合3本塁打を含む月間11本塁打と巻き返したが、最終的な本数は36本とやや数を落とした。本塁打王のタイトルは当時本塁打王争いをしていたペタジーニに再び奪還される。
この年の松井は、打球が上がらずに本塁打が出ないという悩みに悩まされていた。この年の打撃について、松井は後に「あの年首位打者を取ったけど、打撃は最後まで狂ったままだった」と語っている<ref>[https://web.archive.org/web/20061005050417/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20041023.htm 松井通信 2004年10月23日 まだ野球したい スタジアムでロッカー整理],北國新聞</ref>。
[[フリーエージェント (プロスポーツ)|FA]]権獲得が翌年に迫る中、下交渉では球団から5年総額50億円の大型複数年契約を提示されたが{{R|asahi20011225}}、これを断り当時プロ野球史上最高額となる年俸6億1000万円(後に、佐々木主浩が更新)で単年契約した。契約更改後の会見では、来期にFA権を行使することを明言し、「このまま巨人に残るか、アメリカに行ってみるか二者択一になる」と語った<ref>朝日新聞,「巨人の松井「来オフFA宣言」 史上最高、6億1千万円 プロ野球」,2001年12月26日朝刊</ref>。
==== 巨人10年目(最終年) ====
'''{{by|2002年}}'''は開幕前、巨人がビジター用ユニフォームの胸ロゴを「TOKYO」から「YOMIURI」に変更したことについて、「なぜ巨人の伝統を大事にしないのかなぁ」と松井がコメントしたと[[スポーツ報知]]が報じ、オーナーの[[渡邉恒雄]]が激怒するという騒動があった。記事を執筆した記者の[[広岡勲]](後の松井の専属広報)が巨人担当を外れることで事態は収拾した<ref name="cyzo">大熊信(2011-12-18). [https://www.cyzo.com/2011/12/post_9318_entry.html もう、テレビで野球は見れないのか? "独裁運営"ナベツネに殺された「巨人戦中継」]. 日刊サイゾー. 2012年1月12日閲覧</ref>。
「日本一」「三冠王」の2つを目標に掲げて10年目のシーズンをスタート<ref>朝日新聞,「頂に立つ松井の決断 プロ野球(EYE 西村欣也)」,2002年7月30日朝刊</ref>。開幕後間もない4月13日にFA権を取得。
7月9日に[[黒田博樹]]から通算300号本塁打を放つ。28歳0か月での到達は王貞治の27歳3か月に次ぐ史上2番目の年少記録であり、1200試合目での達成は史上6番目の速さであった<ref>朝日新聞,「巨人の松井が通算300本塁打 プロ野球」,2002年7月10日朝刊</ref>。
また、8月1日には4番打者としての連続出場を363試合に伸ばし、[[石井浩郎]]の記録を抜き当時の単独1位(後に、[[金本知憲]]が更新)となった。
===== 50本塁打 =====
オールスターゲーム前までは、前年同様打球が上がらず76試合で18本塁打だったが、後半戦は64試合で32本塁打という驚異のペースで打ち続け、自己最多を更新する、'''史上8人目の50本塁打'''を記録する(平成時代の日本人唯一)。
セ・リーグでは1985年の[[ランディ・バース]]以来17年ぶり、日本人では1986年の[[落合博満]]以来16年ぶり、巨人では同じく1977年の王貞治以来の25年ぶりの快挙となり、2022年に[[村上宗隆]]が達成するまで長らく「最後の[[日本野球機構|日本プロ野球]]での日本人選手による50本塁打達成者」となっていた。ペタジーニに9本差をつけた50本目の本塁打は2002年の本拠地最終戦の対ヤクルト戦(東京ドーム)で記録{{Efn|打たれた相手投手の[[五十嵐亮太]]は全球ストレートを投じていたが、引退後に出演した[[マサNOTE]]にて「(メジャー挑戦の噂があった)松井さんと勝負するなら真っすぐで三振に仕留めて終わらせようと思っていた」と明かしている。}}。
7・8月と2か月連続で月間MVPを受賞。9月7日の広島戦でプロ野球新記録となる5年連続100[[得点]]を記録した。
シーズン終盤までは打率3割5分台を維持し、[[三冠 (野球)|三冠王]]目前だったが、シーズン終盤に調子を落とし、首位打者争いで[[福留孝介]]にタイトルを譲った。
打率、本塁打、出塁率では自己最高の成績で、本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVP{{Efn|有効投票数201のうち、1位票が200票、2位票が1票であり、リーグ史上4人目(6例目)の満票選出を僅差で逃した<ref>{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/award/2002/voting_mvp.html |title=2002年度 表彰選手 投票結果(最優秀選手) |publisher=日本野球機構 |accessdate=2021-11-23}}</ref>。なお、後年、フリーライターの宮脇広久がこの2位票を投じた記者であることを明かしており、先輩記者やデスクに叱られながらも、松井ではなく[[阿部慎之助]]に投じた1位票は「当時の私なりの価値観に従って投票した」と語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.zakzak.co.jp/article/20191129-5KTP6USWOVIQHDMMUQXW5XXCQQ/ |title=【編集局から】2002年のセMVP投票、松井に入れず…記者投票で“やらかした”過去 |website=zakzak:夕刊フジ公式サイト |date=2019-11-29 |author=宮脇広久 |accessdate=2023-11-28}}</ref>。}}を獲得した。
なお、巨人では2002年以降、2020年に[[岡本和真]]が本塁打王になるまでの18年間にわたって、日本人選手で本塁打王を獲得する選手は現れなかった。また、巨人の日本人左打者の40本塁打以上の選手及び打点王は2010年に[[阿部慎之助]]が44本塁打を記録、2012年に打点王を獲得するまで現れなかった。
===== 巨人残留か、MLB挑戦か =====
レギュラーシーズン終了後の10月11日には監督の原と<ref>朝日新聞,「巨人・松井に「残留を」原監督が要請 プロ野球」,2002年10月13日朝刊</ref>、16日には球団代表の土井とそれぞれ会談<ref>朝日新聞,「松井に「残留を」、巨人代表が要請 プロ野球」,2002年10月17日朝刊</ref>。前監督の長嶋とも長時間会談し{{R|asahi20021102}}、残留を要請されたが、結論は日本シリーズ後に持ち越した。
10月18日には、[[ニューヨーク・タイムズ]]紙で[[ニューヨーク・ヤンキース]]が松井の獲得を狙っていることが報じられた<ref>朝日新聞,「「巨人の松井を狙う」 大リーグ・ヤンキース、来季補強で米紙報道」,2002年10月19日</ref>。
[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]との[[2002年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では、松井の安打数は4本に留まったが、チームは1990年の西武以来12年ぶりで球団(巨人として)初の4連勝のストレート勝ち(4勝0敗)で西武を下し、日本一の栄冠に輝いた。なお2012年にMLBで引退したため、この日本シリーズが自身にとって現役時代最後の日本シリーズ出場となった。
===== MLB挑戦を表明 =====
11月1日にFA権を行使してMLBへの挑戦を表明した。「最後の最後まで悩んで苦しかった。何を言っても裏切り者と言われるかもしれないが、いつか『松井、行ってよかったな』と言われるよう頑張りたい。決断した以上は命を懸ける」と決意を語った<ref>朝日新聞,「巨人の松井秀喜選手がFA宣言、米大リーグ挑戦 プロ野球」,2002年11月1日夕刊</ref>。
松井はFA宣言をするときに自らを「裏切り者」と発言し、松井の危惧の通り、裏切り者だと考えるジャイアンツファンは一定数存在したが、日本球界全体では松井の成功を祈っていた。むしろ彼がそれだけプロ野球ファンのことを考えている証左だとする賞賛の声や、移籍決断に至るまでの彼の苦悩に対して同情する声は決して少なくないばかりか逆に多かった{{R|asahi20021102}}<ref>朝日新聞,[大リーグ挑戦、松井は『裏切り』じゃない」,2009年11月2日朝刊</ref><ref>朝日新聞名古屋版,「巨人・松井選手の大リーグ挑戦に名古屋関係者もエール」,2002年11月2日朝刊</ref><ref>朝日新聞大阪版,「星稜監督「予感あり」 巨人の松井選手が大リーグ入り表明」,2002年11月2日朝刊</ref>。
球団関係者は沈痛な面持ちで「球界の財産である松井選手のアメリカ(MLB)への流出を防ぐことができず、応援してくださるファン皆さんには何とお詫びしたらいいか……」と、まるで不祥事でも起こしたようなコメントを残した。
MLB球団との交渉にあたって、当初は代理人無しで交渉に臨む予定だったが、MLBの契約内容の複雑さを知った松井は方針を転換し、[[ジェイソン・ジアンビ]]の代理人として[[ニューヨーク・ヤンキース]]と大型契約を締結した実績がある[[アーン・テレム]]を代理人に選定した<ref>[https://megalodon.jp/2011-1226-1500-06/www.toonippo.co.jp/tokushuu/danmen/danmen2002/1219_1.html 松井、敏腕代理人により念願のヤンキース入り/松井の夢かなえた代理人]. 東奥新報(2002年12月19日付). 2011年12月26日閲覧</ref>。テレムには「ヤンキースとだけ集中して交渉してほしい。ヤンキースがダメだったら次のことを考えよう」と伝え、ヤンキースへの入団を熱望した。
=== ヤンキース時代 ===
[[ファイル:Hideki Matsui in USA-8.jpg|thumb|ヤンキース時代(2007年)]]
{{External media |video1=[https://www.youtube.com/watch?v=DHBPBxXTenE MIN@NYY: Matsui hits a grand slam in the fifth(MLB.comによる動画)]}}
==== ヤンキース1年目 ====
2002年12月19日に[[ニューヨーク・ヤンキース]]と総額2100万ドル(当時約25億4100万円)の3年契約に合意。[[ニューヨーク]]の新聞各紙は「[[ゴジラ]]が[[ブロンクス区|ブロンクス]]にやってくる」という大見出しをつけた。
'''{{by|2003年}}'''1月14日にニューヨーク市内のホテルで行われた入団会見には、約300人の報道陣に加え、球団社長の{{仮リンク|ランディ・レバイン|en|Randy Levine}}、監督の[[ジョー・トーリ]]、[[ロジャー・クレメンス]]、ニューヨーク市長の[[マイケル・ブルームバーグ]]らも出席した<ref>[https://megalodon.jp/2012-0114-0302-27/sportiva.shueisha.co.jp/clm/mlb/2012/01/14/post_26/ 【今日は何の日?】松井秀喜がヤンキース入団会見]. sportiva(2012年1月14日付). 2012年1月14日閲覧</ref>。
松井は「ヤンキースはメジャーの中でも素晴らしい伝統がある。素晴らしいプレーヤーがたくさん在籍した球団。自分の中でも一番刺激があるチームで自分の力を存分に発揮したかった」と語った<ref>[https://web.archive.org/web/20090422164637/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_08december/KFullNormal20081201193.html 破格の25億円!松井秀喜、念願のヤンキース入り決定!],スポーツニッポン,2009年10月21日閲覧</ref>。
巨人からFA権を行使して移籍したのは1994年の[[駒田徳広]](横浜へ移籍)以来2人目であった。海外FAは巨人史上初。ヤンキース史上初のアジア人打者(日本人で初めてヤンキースとメジャー契約したのは投手である[[伊良部秀輝]])である。
===== メジャー初打席・初安打 =====
3月31日、公式戦開幕試合の[[トロント・ブルージェイズ]]戦に5番レフトで先発出場し、初回に[[ロイ・ハラデイ]]から左翼前への適時打を放ち、初打席・初安打・初打点を記録。
===== メジャー初本塁打 =====
4月8日の本拠地開幕戦、[[ミネソタ・ツインズ]]戦では前打者の[[バーニー・ウィリアムス]]が敬遠された後の打席で2-3から[[ジョー・メイズ]]の145km/hの高速チェンジアップをライトスタンドに叩き込む、メジャー初本塁打となる満塁本塁打を放つ。
4月12日にはメジャー初の[[サヨナラ安打]]を放つ。
===== MLBオールスターゲーム出場 =====
7月に行われた[[2003年のMLBオールスターゲーム|MLBオールスターゲーム]]にファン投票のア・リーグ外野手部門で3位に入り初出場を果たした。日本人では1995年の[[野茂英雄]]、2001年の[[イチロー]]、[[佐々木主浩]]に続く4人目のオールスターゲーム出場となった。しかし、日本からの[[組織票]]に助けられた{{要出典|date=2021年7月}}形での選出で、現地メディアでは批判が起こり、試合ではスタメン出場を果たし1安打を放ったものの、ブーイングを浴びせられた<ref>http://mlb.mlb.com/video/play.jsp?content_id=9912291&c_id=mlb</ref>。また、スター選手とのバット交換用に日本から24本のバットを取り寄せたが、誰にも声をかけることができず、全て持ち帰った<ref>田代学、阿見俊輔、河野聖,[https://web.archive.org/web/20040217021218/http://www.sanspo.com/mlb/top/mt200307/mt2003071701.html 松井、夢舞台で感動ヒット], SANSPO.COM (2003/07/15)</ref>。
===== シーズン後半 =====
7月17日に行われたオールスターゲーム出場後の後半開幕戦の[[クリーブランド・ガーディアンズ|クリーブランド・インディアンス]]戦で{{仮リンク|デビッド・リスキー|en|David Riske}}の146km/hの速球を右中間スタンドに運び、日本人メジャーリーガー初のサヨナラ本塁打を放った。
ヤンキースの新人としては67年ぶり3人目の100打点以上を記録した(1926年の[[トニー・ラゼリ]]、1943年の{{仮リンク|ビリー・ジョンソン (野球)|label=ビリー・ジョンソン|en|Billy Johnson (baseball)}})。
===== ポストシーズン =====
地区シリーズではポストシーズン日本人初の本塁打を放った。
[[ボストン・レッドソックス]]との[[2003年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグ優勝決定シリーズ]]第7戦では、8回裏に[[ホルヘ・ポサダ]]の適時打で同点のホームを踏んだ際に大きく跳び上がり、全身で喜びを表した。
[[マイアミ・マーリンズ|フロリダ・マーリンズ]]との[[2003年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]第2戦では、[[ワールドシリーズ]]での日本人初本塁打を放った。
レギュラーシーズンでは雨天引き分けによる再試合があったため、新人かつヤンキースの選手としては21世紀になって初めてシーズン163試合に出場した選手となった。しかし、本塁打数はわずか16本と、期待外れの結果に終わった。
それでも、[[得点圏打率]]はチーム最高の.335、打点は主砲の[[ジェイソン・ジアンビ]]に1差となるチーム2位の106打点を叩き出し、勝負強さを発揮した。
シーズン通算で打率.287、16本塁打、106打点を挙げたがア・リーグ[[最優秀新人選手賞 (MLB)|新人王]]には選ばれなかった。打率.287、17本塁打、73打点、21盗塁を記録したロイヤルズの[[アンヘル・ベローア]]がア・リーグ新人王を獲得した。これに対して当時ヤンキースオーナーの[[ジョージ・スタインブレナー]]は「酷い不正」「全米野球記者協会、そして何年もの間彼らが球界に貢献してくれたことについて、私は多大な敬意を持っている。その一方で、ヒデキ・マツイに対して酷い不正が行われたと確信している」と声明文を出している<ref>{{Cite web|和書|url=https://full-count.jp/2020/05/12/post771156/ |title=新人王逃した03年の松井秀喜氏 ヤ軍オーナー"異例"の記者批判は「正しかった」? |publisher=Full-Count |date=2020-05-12 |accessdate=2022-08-24}}</ref>。
==== ヤンキース2年目 ====
'''{{by|2004年}}'''は前年16本塁打に終わったことを反省し、オフに大幅な筋肉増量に取り組んだ。そのため松井の身体、特に上半身は一回り大きくなった<ref>[https://web.archive.org/web/20061005043257/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20040222.htm 松井通信 2004年2月22日 本塁打量産へ「大きく」進化 上半身さらに厚く],北國新聞</ref>。
それが功を奏し、重心の位置を下げてスタンスを広めにしたことにより<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/04season/japangame/column/hara04.html 愛弟子・松井秀喜に託す夢とは? 原辰徳 独占インタビュー] {{Wayback |url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/04season/japangame/column/hara04.html |date=20050307232948 }} スポーツナビ,2009年8月18日閲覧</ref>、左方向への本塁打が増加。[[スプリングトレーニング]]では本塁打と打点のチーム2冠王に輝いた<ref>[https://web.archive.org/web/20061005043901/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20040326.htm 松井通信 2004年3月26日 4試合連続打点で締め 松井、絶好調で日本へ],北國新聞</ref>。
東京ドームで行われた[[タンパベイ・レイズ|タンパベイ・デビルレイズ]]との日本開幕戦に先立って開催されたヤンキースと巨人の親善試合では凱旋本塁打を放つ。デビルレイズとの開幕2連戦では「2番・左翼」でフル出場し、2戦目には日本のファンの前で第1号本塁打を放った。
本土開幕戦以降は61打席本塁打なしであったが、4月24日のレッドソックス戦では、観戦に訪れた両親が見守る中で第2号本塁打を放ち、NPB・MLB通算350本塁打を達成。その後は前年より大幅に速いペースで本塁打を量産し、6月4日には、前年より41試合早い53試合目で10号本塁打に到達。5月最終週には二度目の週間MVPも受賞した。
6月19日、20日の[[ロサンゼルス・ドジャース]]戦ではメジャー移籍後初の2試合連続本塁打を放った。前半戦だけで前年を上回る17本塁打に到達。[[2004年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]にはファン投票外野手部門での選出こそ逃したが、[[オールスターゲーム最終投票|最終投票]]で120万票を集めて選出され、2年連続で出場を果たした。トーリ監督からはホームランダービーへの参加を打診されたが、「僕が出たらビールの缶が飛んでくる」と辞退した<ref>[https://web.archive.org/web/20090522130222/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20040713.htm 松井通信 2004年7月13日 ホームラン競争を辞退 米球宴前夜祭 「僕が出たらビール缶飛んでくる」],北國新聞</ref>。
球宴明けの7月15日にはNPB・MLB通算1500試合連続出場に達した。8月7日の[[トロント・ブルージェイズ]]戦でMLB移籍後初の2打席連続本塁打を放った。15日の[[シアトル・マリナーズ]]戦で前年のワールドシリーズ以来の4番に座ると、シーズン後半には4番打者に定着した。
===== 日本人最多本塁打と最高OPSを達成 =====
9月30日のツインズ戦で日本人選手初の3試合連続本塁打を放った。最終的には当時の'''日本人メジャーリーガー史上最多'''で前年のほぼ倍にあたる'''31本塁打と同最高のOPS.912'''を記録した。この31本塁打、OP.912は[[2021年]]に[[大谷翔平]]が上回るまでの17年間にわたって日本人では最多であった。打率こそわずかに3割を下回ったが、三部門全てで前年を上回る好成績を残した。
ポストシーズンでは打棒が爆発し、11試合で51打数21安打、打率.412、3本塁打、13打点、OPS1.221を記録。
前年に引き続いての対戦となったレッドソックスとの[[2004年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|ア・リーグチャンピオンシップシリーズ]]ではリーグチャンピオンシップシリーズ史上最多タイとなる14安打、28塁打を記録。第3戦には、これまた最多タイの1試合5安打、5得点を記録するなど絶好調であったが、チームは先に3連勝しながらまさかの4連敗を喫し、ワールドシリーズ出場は逃した。
オフには徹底した筋力強化に取り組み、大幅な体重増(103kg→110kg)を遂げた<ref>[https://web.archive.org/web/20050216081127/http://www.sanspo.com/mlb/top/mt200502/mt2005021601.html 松井秀NY入り-7キロ増で3年目は“メカゴジラ”] SANSPO.COM(2005年2月16日)</ref>。
==== ヤンキース3年目 ====
'''{{by|2005年}}'''の開幕前は[[最多本塁打 (MLB)|本塁打王]]のタイトル獲得にも意欲を見せていたが<ref>[https://web.archive.org/web/20050406222630/http://www.sanspo.com/mlb/top/mt200504/mt2005040401.html “三度目の正直”松井秀、開幕へタイトル争いの決意] SANSPO.COM(2005年4月4日)</ref>、4月9日から5月29日にかけて46試合、202打席連続本塁打なしという不調に陥った。
誕生日の6月12日には右足首を捻挫し、途中交代するアクシデントもあったものの、DHでの出場も挟んで粘り強く出場を続けた。20日には自身3度目の週間MVPを受賞し(6試合で打率.455、3本塁打、10打点)<ref>[https://web.archive.org/web/20061005045650/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20050621.htm 松井通信 2005年6月21日 3試合ぶり8号 週間MVP自ら祝砲 連続試合安打自己タイ「11」] 北國新聞</ref>、6月は全試合で出塁を記録して月間打率.398、6本塁打、23打点、OPS1.165と好調であったが、翌月の球宴出場は逃した。
7月28日には、[[アーニー・バンクス]]を抜いてメジャーデビューから425試合連続出場の新記録を樹立<ref>[https://web.archive.org/web/20061005041635/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20050729.htm 松井通信 2005年7月29日 大リーグデビューから連続出場425試合 新記録] 北國新聞</ref>。3年連続で全試合出場を果たすと共に、メジャーでの自己最高となる打率.305、116打点を記録。打率と打点で前年を越える成績を残したことに満足感を示したものの、本塁打の減少については翌年の課題にすることを誓った<ref>[https://web.archive.org/web/20061005045405/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20051003.htm 松井通信 2005年10月3日 堂々 初の3割台 3年連続全試合出場] 北國新聞</ref>。
9月8日にはNPB/MLB通算400本塁打を達成し、9月と10月は打率.348、3本塁打、OPS.932と好調を維持してチームの地区優勝に貢献。しかし[[ロサンゼルス・エンゼルス]]との[[2005年のアメリカンリーグディビジョンシリーズ|ディビジョンシリーズ]]で2勝3敗で敗退し、松井自身も20打数4安打の打率.200と抑え込まれた。敗退が決まった第5戦では、5打席全てに走者を置きながらいずれも凡退し、8残塁に終わった。
ポストシーズンのシリーズ突破がかかった試合で5打席全てに走者を置いて凡退した打者は、[[1986年のワールドシリーズ]]第6戦での[[ビル・バックナー]]に次いでメジャー史上2人目であった<ref>[http://insider.espn.go.com/espn/news/story?id=2187089&univLogin02=stateChanged&action=login&appRedirect=http%3a%2f%2finsider.espn.go.com%2fespn%2fnews%2fstory%3fid%3d2187089%26univLogin02%3dstateChanged Elias Says ...]. ESPN.com(英語). 2012年1月18日閲覧</ref>。試合後のインタビューでは、「僕がチャンスで打てていれば、試合の結果は変わっていた」と悔しさを滲ませた<ref>Kepner, Tyler(2005-10-11). [http://www.nytimes.com/2005/10/11/sports/baseball/11yanks.html?pagewanted=print For Fifth Year in Row, Yanks Have Hit Wall]. The New York Times(英語). 2012年1月18日閲覧</ref>。
この年限りで3年契約が切れるため、開幕前には総額3150万ドルの3年契約を提示されていたが、シーズン終了後に改めて交渉に臨むことを決め、オフに交渉を再開。途中交渉が難航し、最終的にはヤンキースと4年総額5200万ドル(当時のレートで約61億8800万円)で[[契約]]延長。「最高に幸せです」とコメントし、高評価での契約延長に満足感を示した。
GMの[[ブライアン・キャッシュマン]]が「松井はグラウンドでの才能だけでなく、日本のファンをひきつける力がある」と述べたように、ビジネス面での貢献度も評価された形となった<ref name="pit">[https://web.archive.org/web/20061005045759/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20051117.htm 松井通信 2005年11月17日 「またプレーでき幸せ」 NYで会見] 北國新聞</ref>。
==== ヤンキース4年目 ====
{{Wikinews|松井秀喜選手左手首骨折、連続試合出場途切れる}}
'''{{by|2006年}}'''は開幕前に行われた[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|ワールド・ベースボール・クラシック]]の出場を辞退してシーズンに備えた。
しかし[[スプリングトレーニング]]で古傷の左膝痛が再発したり、持病の[[花粉症]]に悩まされるなど、万全とは言えない状態であり、本人も「正直よくない」と不安を漏らしていたが<ref>[https://web.archive.org/web/20061005040606/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20060331.htm 松井通信 2006年3月31日 無安打、振るわず 開幕に不安「正直よくない」],北國新聞</ref>、開幕戦で1本塁打を含む4安打を放ち、幸先の良いスタートを切る。
4月18日にはデビュー以来500試合連続出場を達成。
===== 左手首の骨折 =====
5月11日に本拠地ヤンキー・スタジアムで行われたレッドソックス戦の1回表、[[マーク・ロレッタ]]の放った浅めのフライを滑り込んでキャッチしようとした際にグラブが芝生にひっかかり左手首を故障。そのまま途中交代した。
1イニング守備に就かずに交代したため、巨人時代の1993年8月22日から続いていた連続試合出場記録が「1768」で途切れた。
ニューヨーク市内のコロンビア大メディカルセンター病院で即日の検査を行った結果、左手首([[橈骨]])骨折と診断。翌朝に手術が行われ、[[故障者リスト]]入りする。
チームメイトに与えたショックも大きく、[[デレク・ジーター]]は「松井の代わりなんて誰もいない」と語った<ref>[http://www.nytimes.com/2006/05/12/sports/baseball/12yanks.html?_r=0 A Broken Wrist Ends Matsui's Streak] NEW YORK TIMES 2012年12月29日閲覧</ref>。
===== 骨折からの復帰 =====
8月17日には98日ぶりにベンチ入りし、30日にはフリー打撃を再開した。9月12日のデビルレイズ戦に8番・[[指名打者]]で124日ぶりに先発出場。満員の観衆から[[スタンディングオベーション]]で迎えられ、4打数4安打の活躍で復活を遂げた<ref>[http://usatoday30.usatoday.com/sports/baseball/games/2006-09-13-yankees-devilrays_x.htm Matsui collects four hits in return, Abreu leads charge in Yanks' rout of D-Rays] USATODAY.com 2012年12月29日閲覧</ref>。
復帰後は14試合で打率.430を記録するなど好調で、最終的には51試合の出場ながら打率.302を記録した。チームも9年連続で地区優勝を果たしたが、[[デトロイト・タイガース]]との[[2006年のアメリカンリーグディビジョンシリーズ|ディビジョンシリーズ]]では16打数4安打、0本塁打、打点1と目立った活躍が出来ず、チームも2年連続でディビジョンシリーズ敗退となった。
==== ヤンキース5年目 ====
'''{{by|2007年}}'''2月に著書『不動心』(新潮新書)を刊行し、30万部を超えるベストセラーとなった。
開幕から4試合目の4月7日、[[ボルチモア・オリオールズ]]戦の2回の第1打席目に捕ゴロで一塁へ走った際、左太股に一瞬つったような違和感を訴える。その後2イニングはストレッチなどで様子を見ながら守備に就いていたが、太股の張りが消えないため、4回の第2打席目の直前で首脳陣は代打を告げ、そのままベンチ裏に退き、翌日故障者リスト入りする。[[核磁気共鳴画像法|MRI(磁気共鳴画像装置)]]診断の結果、左太股の軽い[[肉離れ]]が判明。
故障は順調に回復、故障者リストの期限が切れる4月23日に出場選手登録され、同日のデビルレイズ戦へ16日ぶりにスタメン復帰となった。
5月6日、本拠地でのマリナーズ戦で日本人メジャーリーガー2人目となるNPB・MLB通算2000本安打を達成。日本から駆けつけた[[日本プロ野球名球会|名球会]]会長の[[金田正一]]の目の前での快挙達成であり、名球会入りを果たした。当初は外野手の失策と記録されたが、後に二塁打に訂正され、直後判定に両チーム乱闘が起こった。
6月は打率.252、3本塁打、OPS.706と打撃不振に陥り、6月26日には地元紙から他4選手と共に、勝てない直接の原因として名指しされた<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/column/200707/at00013784.html]{{リンク切れ|date=2020年2月|bot=InternetArchiveBot}} 松井秀、揺らぎ始めた評価(1/2)不振でメディアから戦犯の一人に] スポーツナビ(2007年7月5日)</ref>。
7月に入ると一転して打撃好調で打ちまくり、出場28試合で打率.345、28打点、OPS1.145の成績。長打率.735、13本塁打{{Efn|月間13本塁打は、2023年現在、[[大谷翔平]]に次ぐ日本人のMLB月間2位の記録である。}}、31得点はリーグトップだった。8月2日には、7月のリーグ[[プレイヤー・オブ・ザ・マンス|月間MVP]]に選出された。
8月5日、ヤンキースタジアムでの[[カンザスシティ・ロイヤルズ]]戦でメジャー通算100本塁打を達成。
終盤からプレーオフにかけて右膝の故障に苦しみ、9月は打率.185、2本塁打、OPS.689を喫した。チームは3年連続でディビジョンシリーズ敗退、松井も4戦で打率.182(11打数2安打)に終わった。
シーズン成績は25本塁打・103打点と一定の数字を残し、打点を多く叩き出すため、ゲームのキャラクターのように打点をパクパク呑み込んでいく連想から、この年にはチーム内で「[[パックマン]]」という愛称がついた<ref>[https://megalodon.jp/2009-0320-1544-20/www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/matsui/list/200708/CK2007082002042523.html 打点パクパク 松井秀の別名 ゴジラ→パックマン] [[中日新聞]](2007年8月20日)</ref>。
しかしながら、本人はオフのインタビューで「今季は失敗しかなかった。話になりませんよ」と振り返り、怪我や要所での凡退を繰り返したことに悔しさを滲ませた<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/mlb/news/20071021-OHT1T00029.htm 松井秀「今季は失敗しかなかった」…独占インタビュー] {{Wayback |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/mlb/news/20071021-OHT1T00029.htm |date=20071023073801 }} 報知新聞</ref>。シーズン終了後の11月14日にニューヨークの病院で右膝の軟骨を除去する[[内視鏡手術]]を受ける。
==== ヤンキース6年目 ====
===== 結婚 =====
[[ファイル:Hideki Matsui in USA-6.jpg|thumb|280px|ヤンキース時代(2008年)]]
'''{{by|2008年}}'''3月26日に[[富山県]]出身の25歳日本人女性と[[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク|ニューヨーク市]]内で挙式。翌日に新婦の似顔絵と共に記者会見を行い、結婚を報告した。相手が元会社員で一般人のため、プライバシーを考慮して、顔写真や氏名は公表していない<ref>『[http://hochi.yomiuri.co.jp/mlb/news/20080327-OHT1T00121.htm 松井秀喜が結婚記者会見] {{webarchive |url=https://archive.is/20120712072323/http://hochi.yomiuri.co.jp/mlb/news/20080327-OHT1T00121.htm |date=2012年7月12日}}』 [[スポーツ報知]] 2008年3月27日閲覧</ref><ref>日刊スポーツ 2008年3月28日付東京版1面</ref>。
===== 不遇のシーズン =====
レギュラーシーズンでは監督の交代もあり、開幕前はレギュラーが確約されなかった。
開幕は「8番・指名打者」からのスタートとなったが、序盤は打撃が好調で打順も上がり、一時は打率.337で首位打者に立ち、4月から5月にかけては自己最長となる19試合連続安打を放った。
また、この年の[[2008年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]は同年限りで閉場する地元[[ヤンキー・スタジアム (1923年)|ヤンキースタジアム]]で行われる最後のオールスターゲームということもあり、松井も「こんな舞台は二度とない。出られれば一生の思い出になると思う」と出場を熱望し、地元の[[石川県]]の公式サイト上でファン投票の呼びかけが行われた<ref>[https://megalodon.jp/2009-0321-1524-28/www.sponichi.co.jp/baseball/news/2008/06/16/20.html 石川県民お願い!松井秀に球宴投票して] Sponichi Annex(2008年6月16日)</ref>が落選した。
6月になっても好調を持続させ、首位打者争いをしていたが、6月18日の試合前、突然古傷の左膝に痛みが走り、患部に溜まった水を抜く治療を受けた後、監督の[[ジョー・ジラルディ]]とGMのブライアン・キャッシュマンの意向で6月27日に故障者リスト入りした。オフに手術した右膝を無意識にかばい、左足に負担が掛かっていたことが原因だった。
持ち上がった手術の話に関しては、7月17日の段階では「(手術を)球団に勧められれば受け入れる 」との考えを示していた<ref>[https://megalodon.jp/2008-0723-1655-03/sankei.jp.msn.com/sports/mlb/080717/mlb0807171726005-n1.htm 松井秀、今季中の手術を「勧められれば受け入れる」] MSN産経ニュース(2008年7月17日)</ref>。しかし、2日後にキャッシュマンから手術を勧められた際には態度を一転させ、2時間もの説得にもかかわらず手術を拒否した<ref>[https://megalodon.jp/2008-0723-1647-25/www.daily.co.jp/mlb/2008/07/22/0001256119.shtml 松井秀、手術拒否…今季中の復帰目指す] [[デイリースポーツ]]online(2008年7月22日)</ref>。その後、2か月に渡る治療・リハビリののち、8月19日のブルージェイズ戦から復帰、主に「7番・指名打者」として出場を続けたが、万全には程遠く打撃は低迷。
チームのプレーオフ進出も困難になった9月後半からは再び控えに回り、21日の[[ヤンキー・スタジアム (1923年)|ヤンキー・スタジアム]]最終試合の先発出場を最後にシーズンを終えた。
9月22日に左膝の[[内視鏡手術]]に踏み切った。
最終的に打率は3割を下回る.294、安打数は99、本塁打も一桁の9本と寂しい成績に終わった。
==== ヤンキース7年目(最終年) ====
[[画像:Hideki Matsui World Series parade 2009.jpg|thumb|280px|2009年のワールドシリーズ優勝記念パレードにて]]
'''{{by|2009年}}'''は「3割30本100打点」<ref>[https://megalodon.jp/2009-0609-2026-59/www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/matsui/list/200901/CK2009010602000171.html 「超」 松井 決意 3割30本100打点] 中日新聞(2009年1月6日)</ref>「4盗塁」<ref>[https://web.archive.org/web/20090421122649/http://www.sanspo.com/mlb/news/090205/mla0902050500000-n1.htm 松井秀、今季最大目標「4盗塁」で復活だ!] SANSPO.COM(2009年2月5日)</ref>を個人成績での目標に掲げてスタート。
膝のリハビリを最優先したために、調整が遅れてしまい、スプリングトレーニングでも序盤は不振が続いたが、故障のため離脱した[[アレックス・ロドリゲス]]に替わって4番打者を務め、4月4日には、新[[ヤンキー・スタジアム]]の杮落としに花を添える本塁打を放つ等、4本塁打を放った。
開幕戦では4番・指名打者として出場し、7回には恩師である[[長嶋茂雄]]の通算444号を超えるNPB・MLB通算445号となる2点本塁打を放った。
しかし打撃の調子はなかなか上がらず、5月以降も膝の腫れや太もも痛などの怪我が断続的に発生した。ロドリゲスの復帰後は、打順が5番や7番に下がり、休養を入れながらの指名打者としての起用が続いた。
また、2009年は完全に指名打者としての登録になったため、指名打者制のないナ・リーグの本拠地球場([[ブッシュ・スタジアム]])で行われるオールスターのファン投票にはノミネートされなかった。
5月下旬には守備練習を再開。5月27日の[[テキサス・レンジャーズ]]戦では、NPB・MLB通算450号となる6号本塁打を含む2打席連続を放った。
しかしその後、18打席連続無安打を記録するなど打撃不振が続き、指名打者制が採用されないナ・リーグ本拠地での[[インターリーグ]](交流戦)では全試合で先発を外れた。
交流戦期間中の6月17日には[[阪神タイガース]]が松井の獲得に向けた調査を進めていることが明らかになり、松井本人は「ありがたい」とコメントし、他にも巨人やオリックス、さらには独立リーグの[[石川ミリオンスターズ]]が松井の獲得に意欲を見せていると報じられたが、「それと日本に戻るという話は別問題」と語り、MLBで現役生活を最後までやり抜くことを強調した<ref>[https://web.archive.org/web/20090627103630/http://www.sanspo.com/mlb/news/090624/mla0906240502002-n2.htm 完全復活へ!松井秀、メジャーで「やり抜く」] SANSPO.COM(2009年6月24日)</ref>。
7月20日のオリオールズ戦では、2003年以来6年ぶり2本目のサヨナラ本塁打を放ち、7月は打率.293、5本塁打、OPS.967と好調を続けたが、直後から13打席連続無安打に陥った。
8月13日のマリナーズ戦では2本塁打を含む4安打5打点と爆発したが、直後に左膝の状態が悪化してシーズン初の連続欠場となった。
しかし復帰後の8月21日のレッドソックス戦にて3点本塁打を2本放つなどして自己最高の一試合7打点を記録。2日後のレッドソックス戦でも2本塁打を放つ活躍を見せた。こうして8月は中旬から比較的好調を維持して打率.281、8本塁打、25打点、OPS.918という成績を残し、勝負強い打撃を見せた選手に贈られる「[[クラッチ・パフォーマー賞]]」を贈られた<ref>[https://megalodon.jp/2009-0912-1338-36/www.sanspo.com/mlb/news/090910/mla0909100925008-n1.htm 松井秀、8月の受賞に「うれしい」],SANSPO.COM(2009年9月9日付),2009年9月12日閲覧</ref>。
9月19日のマリナーズ戦で26号本塁打を放ち、[[ドン・ベイラー]]を抜いて指名打者での年間最多本塁打の球団記録を更新。MLB移籍後2番目に多い28本塁打を放ち、チーム3位の90打点を叩き出す勝負強さで3年ぶりの地区優勝に貢献した。
レギュラーシーズン全日程終了後、「明らかに打率が低いのは反省点。(28本塁打は)よくも悪くもない」と総括した。また、4年ぶりに1度も故障者リストに入らなかったことを喜んだ<ref>[https://megalodon.jp/2009-1006-2329-50/www.sanspo.com/mlb/news/091006/mla0910060503003-n1.htm 【ゴジラトーク】明らかに打率低い。反省点],SANSPO.COM,2009/10/06</ref>。
米国のスポーツ専門誌「[[スポーティング・ニューズ]]」が選定するア・リーグ・オールスターメンバーにも指名打者部門で選出された<ref>[http://www.sportingnews.com/mlb/article/2009-10-22/sporting-news-2009-american-league-all-stars Sporting News' 2009 American League All-Stars],Sporting News(英語),2009/10/22</ref>。
ポストシーズンには主として「5番・指名打者」として出場。ミネソタ・ツインズとの[[2009年のアメリカンリーグディビジョンシリーズ|ディビジョンシリーズ]]第1戦では、試合を決定付ける2点本塁打を放った<ref>[https://web.archive.org/web/20091126022603/http://www.sanspo.com/mlb/news/091008/mla0910080949009-n1.htm 松井秀、PO通算7本目の本塁打!ヤ軍先勝],SANSPO.COM,2009/10/08</ref>。ロサンゼルス・エンゼルスとの[[2009年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では初戦で2打点と活躍したものの、第4戦・6戦では無安打とやや調子を落とし、打順も6番に下がったが<ref name="2009ps">[http://sports.espn.go.com/mlb/players/gamelog?playerId=5372 Hideki Matsui Stats, News, Photos - New York Yankees - ESPN]</ref>、チームは4勝2敗でエンゼルスを下し、メジャー1年目の2003年以来6年ぶりに[[ワールドシリーズ]]へと駒を進めた。
===== ワールドシリーズMVP =====
迎えた前年の覇者[[フィラデルフィア・フィリーズ]]との[[2009年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では5番に復帰し、持ち前の勝負強さを存分に発揮した。
初戦は1安打のみに終わったが、第2戦では1-1の同点で迎えた6回裏に、[[ペドロ・マルティネス]]から決勝本塁打を放った<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=200910/2009103000474 松井秀が決勝本塁打=ヤンキース雪辱、1勝1敗に-ワールドシリーズ],時事ドットコム,2009/10/30</ref>。
フィリーズの本拠地[[シチズンズ・バンク・パーク]]で行われた第3〜5戦は、[[指名打者]]が使えないため[[代打]]での出場となった。第3戦では2試合連続となる本塁打を放ち、第5戦でも左前打を放つなど、わずかな出番ながらも結果を出した{{R|2009ps}}。
ヤンキースの3勝2敗で本拠地に戻った第6戦では先発に復帰し、2回に[[ペドロ・マルティネス]]から先制の2点本塁打を放つと、3回には中前適時打、5回にも右中間を破る適時二塁打で2打点ずつを加え、ワールドシリーズ・タイ記録となる1試合6打点を記録し、スタジアムのファンからは「MVP!」の大歓声が沸き起こった。
9年ぶりの世界一に貢献し、13打数8安打3本塁打8打点、打率.615、OPS2.027で'''日本人選手初、フルタイムの指名打者としても初めてとなる[[ワールドシリーズ最優秀選手賞|ワールドシリーズMVP]]に選出された'''<ref>[https://web.archive.org/web/20091108092429/http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20091105054.html 人生最良の日!松井秀、悲願達成にMVP!],Sponichi Annex,2009/11/05</ref>。また、「日本シリーズMVPとワールドシリーズMVPを共に受賞した初の選手」となった<ref>{{Cite news |title=松井秀喜氏、最年少43歳7か月で殿堂入り |newspaper=スポーツ報知 |date=2018-1-16 |last=山崎 |first=智 |url=https://hochi.news/articles/20180116-OHT1T50011.html?page=1 |accessdate=2021-8-3}}</ref>。
===== ヤンキースからの放出 =====
ヤンキースとの契約満了に伴い、11月9日に[[フリーエージェント (プロスポーツ)#メジャーリーグベースボール|FA]]となり<ref>Ronald Blum,[https://web.archive.org/web/20091113125019/http://news.yahoo.com/s/ap/20091110/ap_on_sp_ba_ne/bbo_baseball_rdp Hideki Matsui, Johnny Damon become free agents],Yahoo!News(英語),2009/11/09</ref>、ヤンキースは松井との残留交渉は行わなかった<ref>[https://web.archive.org/web/20100213122815/http://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20091209-574035.html 松井去就問題は越年の可能性大],nikkansports.com,2009年12月24日閲覧</ref>。
=== エンゼルス時代 ===
2009年12月16日に[[ロサンゼルス・エンゼルス]]と年俸600万ドルの1年契約を結び、エンゼルス初の日本人野手となった(投手では[[長谷川滋利]]が過去に在籍)。監督の[[マイク・ソーシア]]が直々に守備復帰の機会を確約してくれたことがエンゼルス入団の決め手となったという<ref>萱津節(2009-12-17). [https://web.archive.org/web/20091219190839/http://www.yomiuri.co.jp/sports/mlb/news/20091217-OYT1T01603.htm 監督が「守備」確約…松井代理人、経緯明かす],読売新聞,2009年12月24日閲覧</ref>。赤いユニホームから日本のマスコミには『'''[[赤ゴジラ]]'''』と呼ばれるようになった。
[[ファイル:Matsui greeted by Yankees 4-13-10.jpg|thumb|280px|2010年のヤンキースタジアムでの開幕戦、チャンピオンズリング授与式で元同僚から祝福を受ける松井]]
'''{{by|2010年}}'''の序盤は4番打者を務め、シーズンを通して前年同様指名打者での出場を主とし、わずか18試合ながら2008年6月以来となる左翼守備にも就いた。
自身4度目となる開幕戦での本塁打を記録するなど序盤は打撃好調で<ref>[https://web.archive.org/web/20100409135115/http://www.yomiuri.co.jp/sports/mlb/news/20100406-OYT1T00439.htm 松井が移籍1号、開幕戦で4の2],読売新聞,2010年4月9日閲覧</ref>、4月13日には移籍後初めて[[ヤンキースタジアム]]での古巣ヤンキース戦に臨んだ。
試合前に行われたワールドシリーズ優勝記念リングの贈呈式では、観客からスタンディングオベーションで迎えられ、かつての同僚が一斉に松井に駆け寄って熱い抱擁を交わす場面もあった<ref>杉浦大介(2010-04-14), [http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/2010/text/201004140007-spnavi.html 松井秀がニューヨークに凱旋 万雷の拍手の中で手にしたチャンピオンリング] {{Wayback |url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/2010/text/201004140007-spnavi.html |date=20100420075703 }}, スポーツナビ, 2010年10月14日閲覧</ref>。この時、松井に贈呈されたチャンピオンリングは偽物であったが、これはジーターがいたずらで仕込んだもので試合後に本物が渡されるまで松井は気付かなかった。
4月26日のインディアンス戦ではMLB通算1000本安打を達成し、その後の打席でMLB通算500三振を喫した<ref>{{Cite news |title=松井秀、大リーグ通算1000安打達成 |date=2010-04-27 |url=http://www.yomiuri.co.jp/sports/mlb/news/20100427-OYT1T00632.htm |accessdate=2010-04-27 |publisher=[[読売新聞社]] |work=YOMIURI ONLINE |publication-date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100430135759/http://www.yomiuri.co.jp/sports/mlb/news/20100427-OYT1T00632.htm |archivedate=2010年4月30日}}</ref>。
6月26日の[[コロラド・ロッキーズ]]戦では満塁本塁打を放ち、MLB通算150号を達成。
後半戦は打率.309、11本塁打、37打点、リーグ5位のOPS.955を記録し、最終的に打率.274、21本塁打、84打点、チームトップのOPS.820を残した。
しかし5月は打率.184にOPS.545、7月は打率.228にOPS.708、8月は打率.304にOPS.938、9月は打率.347にOPS1.024と、月によって調子の波が激しく、さらにシーズンを通して、右投手に対しては打率.287にOPS.861と例年並みの数値を残したものの、左投手に対して打率.234にOPS.687と低迷。
7月以降は相手先発が左投手の際の起用を見送られることが多くなり、チーム成績の低迷もあって、若手の起用が増えたことから守備に就く機会もなくなった。前半戦は、松井に追い出される形でレンジャーズに移籍した[[ブラディミール・ゲレーロ]]が絶好調だったため、地元メディアやファンからはゲレーロと比較される形で批判を受けた<ref>[http://www.jsports.co.jp/press/article/N2010070220125901.html 【MLB西海岸情報】絶好調ゲレーロと比較され苦しい立場の松井]. J Sports. 2011年10月24日閲覧</ref>。
オールスターゲームは地元[[エンゼルスタジアム]]での開催だったが、ファン投票の指名打者部門はゲレーロに230万票以上の大差を付けられた2位に終わり、「チャンスがあればと思っていたけど、仕方ない」と語った<ref>[https://megalodon.jp/2011-1024-0415-51/hochi.yomiuri.co.jp/mlb/news/20100706-OHT1T00010.htm 松井、球宴落選もサバサバ「この成績じゃ」]. スポーツ報知. 2011年10月24日閲覧</ref>。
後半戦に入ると、一部メディアから「戦力外となる可能性がある」とも報じられ<ref>[http://www.asahi.com/sports/update/0911/TKY201009110137.html 「松井、構想外の可能性」大リーグ公式サイト] アサヒコム</ref><ref>[http://mlb.mlb.com/mlb/fantasy/wsfb/news/index.jsp?player_id=425686 Fantasy Baseball News & Updates] MLB.com</ref>、8月8日のタイガース戦では、相手投手が右投手であるにもかかわらずスタメン落ちし、ショックのあまり報道陣を避け、食堂にこもってテレビを見続けたという<ref>阿部太郎(2010-10-06), [https://megalodon.jp/2010-1006-0848-01/www.chunichi.co.jp/chuspo/article/mlb/news/CK2010100602000089.html 松井 本紙独占インタビュー 来季は指名打者に専念], 中日スポーツ, 2010年10月14日閲覧</ref>。
その後は打撃の調子が上がっていたが、9月8日のインディアンス戦では、新人時代の1993年以来17年ぶりに代打の代打を送られる屈辱も味わった<ref>[https://web.archive.org/web/20101124094734/http://sankei.jp.msn.com/sports/mlb/100909/mlb1009091632018-n1.htm 新人時代以来の屈辱 松井秀に代打の代打], MSN産経ニュース, 2010年10月14日閲覧</ref>。
シーズン終了後、エンゼルスGMの[[トニー・リーギンス]]からは「こんなに調子の波が激しいとは思わなかった」と厳しい評価が下された<ref>[https://web.archive.org/web/20100918092555/http://www.sanspo.com/mlb/news/100915/mla1009150504006-n1.htm 松井秀は期待外れ…エ軍GMバッサリ]、サンケイスポーツ、2010年9月15日発行、同日閲覧。</ref>。11月2日に1年契約が満了しFAとなり、翌日エンゼルスは同月6日が期限となっていた独占交渉期間中に翌年の契約を提示しないと表明した<ref>[https://web.archive.org/web/20111222135602/http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010110401000137.html 松井秀に条件提示せず 他球団とも交渉可能に] 共同通信2010年11月4日</ref>。
=== アスレチックス時代 ===
[[画像:Hideki Matsui 2011.jpg|thumb|right|アスレチックス時代(2011年)]]
2010年12月14日に[[オークランド・アスレチックス]]と年俸425万ドル(当時のレートで3億5700万円)で1年契約を結ぶ{{R|hochi20101213}}。入団会見では「先頭を切ってみんなを引っ張っていけるようなプレーをしたい」と意欲を口にした<ref>共同通信(2010-12-15), [https://megalodon.jp/2011-0325-0208-27/sankei.jp.msn.com/region/news/110113/hkd11011303160004-n1.htm アスレチックス松井、会見で「先頭切って引っ張る」 年俸3億5700万円にダウン 背番号「55」], MSN産経ニュース, 2011年3月25日閲覧</ref>。
松井にはアスレチックス以外にも数球団が関心を示しているとされていたが、正式なオファーを行ったのはアスレチックスのみであった<ref>Tyler Kepner(2011-03-10), [http://www.nytimes.com/2011/03/10/sports/baseball/10kepner.html?_r=2 Matsui Gives the A’s Some Slugging and Celebrity], New York Times(英語), 2011年3月25日閲覧</ref>。
'''{{by|2011年}}'''のスプリングトレーニング中は[[寝違え]]と[[花粉症]]に悩まされて一時別メニュー調整となり<ref>[https://megalodon.jp/2011-0325-0159-15/www.sanspo.com/mlb/news/110323/mla1103230504003-n1.htm 松井秀、花粉症&寝違え…二重苦で別メニュー], SANSPO.COM, 2011年3月25日閲覧</ref>、3月21日の夜には宿舎で転倒し、翌日には顔面傷だらけで球場に現れるという一幕もあった<ref>共同通信(2011-03-23), [https://megalodon.jp/2011-0325-0151-14/www.sanspo.com/mlb/news/110323/mla1103230936008-n1.htm 泣き面に蜂の松井秀「受け身取りたかった」], SANSPO.COM, 2011年3月25日閲覧</ref>。
オープン戦は過去3年では最多の22試合に出場したが、打率.169、1本塁打、2打点、OPS.486と低調な成績だった<ref>笹森倫(2011-03-31), [https://megalodon.jp/2011-0331-1917-34/www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20110331/bbl1103311126000-n1.htm 松井4の1でOP戦締め 対戦のクルーンはマイナー降格], ZAKZAK, 2011年3月31日閲覧</ref>。
開幕は「5番・DH」で迎え、4月3日のマリナーズ戦でシーズン初安打となる二塁打を放ちNPB/MLB通算2500本安打を達成。2000本安打達成時と同じく、[[イチロー]]の前で記録を達成することとなった。
5月3日のレンジャーズ戦では2年ぶりのサヨナラ本塁打を放ち、「今日のようなプレーで、([[東日本大震災]]で)被災した方に少しでも元気を届けられれば」と語った<ref>[https://megalodon.jp/2011-1023-2047-39/www.sanspo.com/mlb/news/110503/mla1105030842003-n2.htm 松井秀、サヨナラ本塁打「非常にうれしい」]. SANSPO.COM. 2011年10月23日閲覧</ref>。
ところが、その後は不振に陥り、5月には月間打率.197と低迷。対戦チームの先発が左投手の試合では先発を外されることが多くなっていたが、6月に入ると、右投手相手でも先発を外れることが増えた。これについて、松井は「スランプを脱するには、試合に出る必要がある」と歯がゆさを滲ませていた<ref>Lee, Jane(2011-06-01). [http://mlb.mlb.com/news/article.jsp?ymd=20110601&content_id=19880558¬ebook_id=19881434&vkey=notebook_oak&c_id=oak Slumping Matsui out of A's lineup again]. MLB.com(英語). 2011年10月18日閲覧</ref>。地元のテレビ局からは、DH制の無い交流戦が始まる6月21日までに出場機会を与えても復調しなければ、解雇すべきだという厳しい報道がなされた<ref>[https://web.archive.org/web/20110625063425/http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/06/03/kiji/K20110603000946050.html ア軍地元局 松井の起用法提案“チャンス与えダメなら解雇”] スポニチ、2011年6月3日付け</ref>。
しかし、6月9日に監督の[[ボブ・ゲレン]]が解任され、[[ボブ・メルビン]]が監督代行に就任して以降は相手投手の左右に関わらず、主に「3番・DH」で先発起用されるようになる。メルビンは、マリナーズ監督時代から松井の進塁打を打つ能力や[[四球]]を選ぶセンスを評価していたという<ref>[https://megalodon.jp/2011-1023-2123-36/www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20110628/bbl1106281604008-n1.htm “窓際”松井を完全再生!ア軍指揮官の「人心掌握術」とは?]. ZAKZAK. 2011年10月23日閲覧</ref>。
監督交代後初の試合となった6月10日のホワイトソックス戦で左腕の[[マーク・バーリー]]から5月3日のサヨナラ弾以来となる4号本塁打を放つと<ref>[https://megalodon.jp/2011-1023-2052-52/www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20110610/bbl1106101620011-n1.htm 松井4号2ラン!新監督にアピール「新しいスタート」]. ZAKZAK. 2011年10月23日閲覧</ref>、6月17日のロイヤルズ戦でNPB・MLB通算499号となる6号本塁打を放つまで、7試合で打率.304、3本塁打と復調の兆しを見せた<ref name="499gou">[https://megalodon.jp/2011-1023-2057-03/www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20110617/bbl1106171229003-n1.htm 松井“夏本番”6号ソロ弾! 日米500号あと「1」]. ZAKZAK. 2011年10月23日閲覧</ref>。
21日のメッツ戦ではDHが使えないため、移籍後初めて外野守備に就いた<ref>[http://espn.go.com/mlb/boxscore?gameId=310621121 Oakland Athletics vs. New York Mets - Box Score - June 21, 2011] ESPN.com(英語). 2011年10月23日閲覧</ref>。
しかし、その後は再び調子を落とし、前半戦終了時点での打率は.209だった。本塁打も長らく出ていなかったが、7月20日のタイガース戦で第7号本塁打を放ち、NPB・MLB通算500本塁打を達成(巨人時代の10年間で332本、メジャー9年目で168本)。王手をかけた時点では記録に関心を示していなかった松井だが{{R|499gou}}、1か月以上も足踏みしたことについては「ちょっと時間がかかりすぎた感じ」と語った<ref>[https://megalodon.jp/2011-1023-2111-09/www.sanspo.com/mlb/news/110721/mla1107210958005-n1.htm 松井秀が日米通算500本塁打を達成]. SANSPO.COM. 2011年10月23日閲覧</ref>。
試合後にはNPBに復帰せずMLBで現役を終える考えであることを口にした<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/07/22/kiji/K20110722001257790.html 松井が日米通算500号で生涯メジャーを宣言] Sponichi Annex、2011年7月22日。</ref>。
前半戦終了後は打ちまくり7月25日には6年ぶりとなる7月第3週の週間MVPを受賞。7月は打率.365、3本塁打、OPS.997を残し、チーム月間MVPを受賞した。前半戦終了時点で.209だった打率は.274まで上昇したがシーズン終盤再び調子を落とし.251に落ちた。
9月10日のレンジャーズ戦でNPB・MLB通算505本塁打となる第12号本塁打を放ち、日本人通算本塁打で歴代単独7位となった。
シーズン終了直前の9月26日には、報道陣に対して「またゼロからやり直すだけ」と来シーズンへの意気込みを語ったが、一方で「どこからも必要とされなければ、引退するしかない」という心境も吐露した<ref>[https://megalodon.jp/2011-1023-2132-20/www.sanspo.com/mlb/news/110926/mla1109261113019-n1.htm 松井秀「必要とされなければ、引退しかない」]. SANSPO.COM 2011年10月23日閲覧</ref>。
後半戦は打率.295、6本塁打、OPS.779と、前半戦からは大きく数字を上げたが、シーズン通算では打率.251、12本塁打、チーム2位の72打点、OPS.698と100試合以上出場ではプロ入り後ワーストとなる成績でシーズンを終えた。
また、2008年以降では最多となる27試合で守備に就き、打者に不利な球場として知られる本拠地[[オー・ドットコー・コロシアム]]では打率.234、4本塁打、OPS.663と低調な成績に終わったが、ロードでは打率.267、8本塁打、OPS.729を残した<ref name="2011split">[http://www.baseball-reference.com/players/split.cgi?id=matsuhi01&year=2011&t=b Hideki Matsui 2011 Batting Splits]. Baseball-Reference.com(英語). 2011年10月23日閲覧</ref>。
シーズン最終戦終了後のインタビューでは「体調という意味では凄く良いシーズンだったけど、いい結果は出なかった。納得いったところなんてない」と語った<ref>[https://web.archive.org/web/20111003122618/http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/10/01/kiji/K20111001001734630.html 松井 メジャー10年目への本音「もう1000万ドルの選手じゃない」] スポニチ、2011年10月1日。</ref>。
==== 所属未定のままのシーズン終了 ====
10月31日に[[フリーエージェント (プロスポーツ)#メジャーリーグベースボール|フリーエージェント]]となった。このオフにはなかなか契約先が見つからず<ref>[https://www.asagei.com/4089 プロ野球「キャンプ地獄耳」(2)連絡を入れずに激怒させた] アサヒ芸能、2012年3月10日</ref>、結局プロ入り後初めて所属球団未定のまま越年することとなった。
'''{{by|2012年}}'''は年明けから古巣ヤンキースや[[ロサンゼルス・ドジャース]]、[[ミルウォーキー・ブルワーズ]]<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1502-51/hochi.yomiuri.co.jp/mlb/news/20120125-OHT1T00275.htm 松井、移籍先絞った!ブルワーズ、ドジャース、ヤンキースの3球団!!] 報知新聞、2012年1月25日</ref>など様々な球団が浮上したが正式な契約には至らず、プロ入り後初めて無所属のままで開幕を迎えた。
=== レイズ時代 ===
==== マイナー契約 ====
[[画像:Hideki Matsui on July 24, 2012.jpg|thumb|レイズ時代(2012年)]]
2012年4月30日に[[タンパベイ・レイズ]]とマイナー契約を結んだことが発表された<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1437-45/www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/04/30/kiji/K20120430003158150.html 松井 レイズとマイナー契約!1日に入団会見へ] スポニチ、2012年4月30日。</ref>。5月1日にはマイナー契約としては異例の入団記者会見を行った<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1438-58/www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/05/01/kiji/K20120501003157170.html 松井レイズ入り発表 マイナー契約異例の本拠入団会見も] スポニチ、2012年5月1日。</ref><ref>[https://megalodon.jp/2012-0502-0150-31/www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/f-bb-tp2-20120502-943744.html 松井「チームの力に」/会見一問一答] 日刊スポーツ、2012年5月2日。</ref>。
==== メジャーリーグへ復帰 ====
AAA級[[ダーラム・ブルズ]]では13試合で打率.170、0本塁打と調子が上がらなかったが、主力選手に故障者が相次いだチーム事情もあり、29日にメジャー昇格。
背番号については、「55」は主力投手の[[マット・ムーア (野球)|マット・ムーア]]が付けていたため、「'''35'''」を付けることになり、プロ入り後初めて背番号が変わることになった。
==== 現役最後の本塁打 ====
昇格当日のホワイトソックス戦で[[フィリップ・ハンバー]]から1号2点本塁打、更に、6月1日のオリオールズ戦で[[陳偉殷]]から、観客席最上段に飛び込む2号2点本塁打を放ったが、それ以降は本塁打なし。結果的に、この本塁打が現役最後の本塁打(MLB通算175号、NPB・MLB通算507号)となった。
==== 現役最後の長打 ====
長打も、6月9日のマーリンズ戦での二塁打を最後に出なくなった。それでも監督の[[ジョー・マドン]]は復調を信じ、また、[[エバン・ロンゴリア]]ら主力が依然故障ということもあり、6月の時点で出ていたという戦力外の話については、「100打席打った結果で判断する」ことを決め<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1439-48/www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/07/26/kiji/K20120726003762990.html 松井 早い段階から戦力外検討 100打席がリミットだった] スポーツニッポン 2012年7月26日</ref>、先発での起用を続けた。
6月には一塁の守備練習をしたり<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1440-23/www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20120610-965107.html 松井不出場も連日の一塁守備練習] 日刊スポーツ、2012年6月10日。</ref>、大量ビハインド場面で投手としての救援登板を自ら志願する場面もあったが<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1440-43/www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20120627-973705.html 「カーブ自信」松井がピッチャー志願] 日刊スポーツ、2012年6月27日。</ref>、外野手や指名打者、代打以外での出場機会はなかった。
==== 現役最後の安打 ====
7月1日のタイガース戦では、3打数2安打と活躍したものの、4番右翼で先発出場した翌日7月2日ヤンキース戦の右翼守備で、打球の目測を誤って落球した上、ファウルを追った際に左太もも裏を痛め、一度も打席に立つことなく途中交代を言い渡され<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1440-05/www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20120704-977451.html 松井壊された 太もも裏に痛み打席立てず] 日刊スポーツ 2012年7月4日</ref>、それ以降、出場機会は激減した。
結果的に、7月1日の第3打席が現役最後の安打(MLB通算1253本目、NPB・MLB通算2643本目)、7月2日が4番スタメンとして出場した現役最後の試合となった。
7月下旬に入ると、打席に立つ度に本拠地[[トロピカーナ・フィールド]]のファンから大きなブーイングが起こるようになった<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1440-59/www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20120722-987393.html 松井凡退で大ブーイング] 日刊スポーツ 2012年7月22日</ref>。
==== 現役最後の出場 ====
結局、7月19日のインディアンズ戦がスタメンで守備に就いた最後の試合(6番ライト)、7月22日のマリナーズ戦がスタメンとして出場した最後の試合(6番指名打者)、7月23日のマリナーズ戦が現役最後の出場試合(代打、ショートフライ)となった。
==== DFA ====
出場機会のなかった7月24日のオリオールズ戦試合後にマドン監督からDFAを通告され、翌25日に球団から正式に[[戦力外通告#メジャーリーグ|DFA]]が発表された<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1441-34/www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/f-bb-tp2-20120726-989274.html 松井に戦力外通告 フロリダへ戻る] 日刊スポーツ 2012年7月26日</ref>。
8月1日には自由契約となり<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1441-51/www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/f-bb-tp2-20120802-993664.html 松井が自由契約に 他球団と交渉へ] 日刊スポーツ 2012年8月2日。</ref>、他球団からのオファーを待ったが、ポストシーズン出場のための移籍期限となる8月31日までに獲得に動く球団はなかった<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1442-08/www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/09/02/kiji/K20120902004021800.html 獲得動きなし…松井、「浪人」確定で早過ぎるオフ突入] スポーツニッポン 2012年9月2日</ref>。
結局、現役最終年となるこのシーズンは、出場34試合で打率.147、2本塁打、7打点、OPS.435という過去最低の成績に終わった。退団後は去就について「何も決めていない」としていた<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1442-24/sankei.jp.msn.com/sports/news/120814/mlb12081418240009-n1.htm 松井秀NYで独占キャッチ!初めて去就語る「まだ何も…」] 産経新聞 2012年8月14日</ref><ref>[https://archive.fo/20130104020149/http://sankei.jp.msn.com/sports/news/120814/mlb12081418240009-n1.htm 【MLB】松井秀NYで独占キャッチ!初めて去就語る「まだ何も…」+(1-3ページ) - MSN産経ニュース]</ref>。
=== 引退を表明 ===
2012年12月27日にニューヨーク市内のホテルで緊急記者会見を開き、2012年シーズン限りで現役を引退することを表明した<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1443-00/www.chunichi.co.jp/s/chuspo/article/2012122801000613.html 松井が引退表明、プロ20年に幕「結果振るわなかった」] 中日スポーツ 2012年12月28日閲覧</ref>。
引退を決断した理由として、「命がけでプレーし、メジャーで力を発揮するという気持ちで10年間やってきたが結果が出なくなった」と述べ、NPB復帰を選択しなかったことについては「10年前の日本での自分の活躍を想像するファンの期待に応える自信を持てなかった」と説明した<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1443-16/www3.nhk.or.jp/news/html/20121228/t10014491941000.html 松井秀喜選手 現役引退を表明 NHKニュース] 2012年12月28日閲覧</ref>。一番思い出に残っていることは「たくさんある」としながらも、「長嶋監督と二人で素振りした時間」を挙げた<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1443-31/www.yomiuri.co.jp/sports/mlb/news/20121228-OYT1T00469.htm?from=top メジャー、僕自身は後悔していない…松井] YOMIURI ONLINE(読売新聞)2012年12月28日閲覧</ref>。
自身の引退後については「ゆっくりしながら今後のことを考えたい」という姿勢を示した<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1443-46/www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/12/28/kiji/K20121228004867940.html 松井 今後は白紙「引退という言葉は使いたくない。草野球の予定あるし」] スポーツニッポン 2012年12月28日閲覧</ref>。同日、巨人オーナーの[[白石興二郎]]は松井を将来的に巨人の[[プロ野球監督|監督]]として迎え入れたい意向を示し、既にヤンキースへのコーチ留学を打診したことを明らかにした<ref>{{Cite news |title=松井監督へ巨人動いた!ヤンキースへのコーチ留学打診 |newspaper=スポーツ報知 |date=2012-12-29 |accessdate=2012-12-29 |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20121229-OHT1T00050.htm |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131112041602/http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20121229-OHT1T00050.htm |archivedate=2013-11-12}}</ref>。
==== 引退表明への反響 ====
松井の引退を受け、数多くの球界関係者が談話を発表した<ref name="zakzak20121228">[https://megalodon.jp/2012-1228-2002-28/www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20121228/bbl1212281501014-n1.htm 王会長、トーリ氏、阿部が… 松井引退を惜しむ] ZAKZAK 2012年12月28日閲覧</ref>。松井の恩師である[[長嶋茂雄]]は「現代で最高のホームランバッター」と賛辞を送った<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1444-03/sankei.jp.msn.com/sports/news/121228/mlb12122812360009-n1.htm 【松井引退】巨人・長嶋終身名誉監督「現代で最高のホームランバッター」] MSN産経ニュース 2012年12月28日閲覧</ref>。[[内閣官房長官]]の[[菅義偉]]や[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]の[[岸田文雄]]といった政府要人からも引退を惜しむコメントが寄せられた<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1444-35/sankei.jp.msn.com/politics/news/121228/plc12122812110014-n1.htm 【松井引退】「まだまだやれるんじゃないか」 菅官房長官、引退惜しむ - MSN産経ニュース] 2012年12月28日閲覧</ref><ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1508-52/sankei.jp.msn.com/sports/news/121228/mlb12122810580005-n1.htm 【松井引退】「プロ野球ファンの1人として大変寂しい」 岸田外相] MSN産経ニュース 2012年12月28日閲覧</ref>。
松井の引退は日本国内での速報から間もなくして各国でも報じられ、メディアやファンから引退を惜しむ声が相次いだ<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1444-50/www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20121228/bbl1212281213012-n1.htm 米メディア、ファンからも惜しむ声続々 「野球の神様は松井を決して忘れない」 - スポーツ - ZAKZAK] 2012年12月28日閲覧</ref>。
ヤンキースでチームメイトだった[[デレク・ジーター]]は球団の公式サイト上で「ヒデキは特別な存在」と惜別の言葉を贈り、ヤンキースオーナーの[[ハル・スタインブレナー]]も「ヤンキースの成功に大きく貢献し、常にヤンキースファミリーの一員として愛されるだろう」と称えた<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1445-07/jp.reuters.com/article/sportsNews/idJPTYE8BQ05M20121228 松井が引退表明、ジーター「ヒデキは特別な存在」] ロイター 2012年12月28日閲覧</ref>。ヤンキース時代の監督の[[ジョー・トーリ]]は「松井の監督だったことを誇りに思う」と称えた{{R|zakzak20121228}}。
また、[[CBSスポーツ]]の記者のジョン・ヘイマンは「松井はヤンキースで最も人間的に優れた人物の1人で、誰からも愛された」と賞賛し<ref>{{Twitter status|JonHeymanCBS|284392006313193472}}</ref>、[[YESネットワーク]]の記者のジャック・カリーは「松井は私が取材した選手の中でも最高級の振る舞いをする選手だった」と絶賛した<ref>{{Twitter status|JackCurryYES|284363583243034624}}</ref>。[[ニューヨーク・タイムズ]]紙は2ページにわたって松井の引退に関する記事を掲載した<ref>[https://megalodon.jp/2012-1230-0016-17/www.yomiuri.co.jp/sports/mlb/news/20121229-OYT1T00515.htm?from=ylist 松井引退、2ページにわたり掲載…NYタイムズ] YOMIURI ONLINE(読売新聞)2012年12月29日閲覧</ref>。
=== 引退後 ===
==== 私生活 ====
{{by|2013年}}3月上旬に[[長男]]が誕生したことを明かす<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130314-1097550.html 松井秀喜氏に長男誕生「元気に退院」] 日刊スポーツ、2013年3月14日。</ref>。
==== 国民栄誉賞の受賞 ====
[[2013年]]([[2013年の日本|平成25年]])4月1日の午後には、[[内閣官房長官]]の[[菅義偉]](当時)が記者会見で、日本政府が[[国民栄誉賞]]を[[長嶋茂雄]]と同時に授与する方向で検討していることを明らかにし<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20130401/gia13040116090004-n1.html 長嶋茂雄、松井秀喜両氏に国民栄誉賞] {{Wayback |url=http://www.sanspo.com/baseball/news/20130401/gia13040116090004-n1.html |date=20130404005557 }} - サンケイスポーツ 2013年4月1日</ref><ref>[http://www.sankeibiz.jp/macro/news/130401/mca1304011657015-n1.htm 長嶋茂雄、松井秀喜氏に国民栄誉賞 政府方針 (1/2ページ)] {{Wayback |url=http://www.sankeibiz.jp/macro/news/130401/mca1304011657015-n1.htm |date=20130406233105 }} - SankeiBiz 2013年4月1日</ref><ref>[http://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/201304/01_p.html 内閣官房長官記者会見(平成25年4月1日(月)午後)] - 首相官邸 2013年4月1日</ref>、16日に国民栄誉賞の授与が正式に決定された<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS1600H_W3A410C1000000/ 長嶋・松井氏の国民栄誉賞、東京ドーム5月に授賞式] - 日本経済新聞 2013年4月16日</ref>。
同年5月5日、[[東京ドーム]]で行われた読売ジャイアンツ対[[広島東洋カープ]]戦の前に松井の[[引退]]セレモニーと[[国民栄誉賞]]授与式が行われ、[[内閣総理大臣]]の[[安倍晋三]](当時)から国民栄誉賞が授与された<ref>{{Cite web|和書|date=2013年5月6日 |url=http://japanese.joins.com/article/239/171239.html |title=安倍首相、国民栄誉賞授与“野球場ショー” |publisher=中央日報 |accessdate=2020-10-06}}</ref>。その後の始球式で松井は巨人時代のユニフォームを着用し、長嶋を打者、巨人監督の[[原辰徳]]を捕手、安倍を審判に迎えて始球式を行った<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/05/kiji/K20130505005743330.html 松井氏引退式 ドームに立つことは「もう2度と許されないと…」] - スポーツニッポン 2013年5月5日</ref>。
==== 引退セレモニー ====
2013年5月30日には[[ニューヨーク・ヤンキース]]が、チームの[[開幕戦]]からちょうど55試合目のホームゲーム(雨天延期などのため、セレモニー当日は55試合目とはならなかった)となる7月28日の[[サンディエゴ・パドレス]]戦で引退セレモニーを行うことを発表した<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20130601-1136171.html 松井氏 引退式でヤ軍の一員として復帰] 日刊スポーツ、2013年6月1日。</ref>。
7月からはヤンキース傘下のショートA級[[スタテンアイランド・ヤンキース|スタテンアイランド]]で[[打撃投手]]を務めた<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20130708-1154010.html 松井氏が1Aで打撃投手 今後も継続] 日刊スポーツ、2013年7月8日。</ref>。7月16日には、[[NHK BS1]]の[[2013年のMLBオールスターゲーム|MLBオールスターゲーム]]中継で、現地の[[シティ・フィールド]]からゲスト解説を務めた<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20130718-1159316.html 松井氏、リベラに贈る初解説/MLB球宴] 日刊スポーツ、2013年7月18日。</ref>。
7月28日にニューヨーク・ヤンキースと1日限定のマイナー契約を結び、この日のレイズ戦の試合前に[[ヤンキー・スタジアム]]のグラウンド上で引退セレモニーを行った。この日、松井はヤンキースの一員として[[野球選手]]の生涯を終えた<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/f-bb-tp2-20130729-1164678.html 松井氏引退式 1日限りでヤ軍と契約] 日刊スポーツ、2013年7月29日。</ref><ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20130729/mlb13072905070005-n1.html 松井氏、ヤ軍1日復帰「人生で忘れられない一瞬」] {{Wayback |url=http://www.sanspo.com/baseball/news/20130729/mlb13072905070005-n1.html |date=20130731225318 }}SANSPO.COM、2013年7月29日。</ref>。
9月22日には同シーズン限りで引退する[[マリアノ・リベラ]]の引退セレモニーに出席した<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/24/kiji/K20130924006675540.html 松井氏も来た!リベラ引退セレモニーに「きょうはマリアノの日」] スポニチアネックス、2013年9月24日。</ref>。
==== コーチ就任 ====
{{by|2014年}}2月1日から13日まで[[読売ジャイアンツ]]の春季キャンプで臨時[[コーチ]]を務めた後<ref>[http://www.giants.jp/G/gnews/news_397968.html OBの松井秀喜氏が宮崎キャンプで臨時コーチに就任] 読売巨人軍公式サイト、2014年1月16日。</ref>、2月19日から3月4日までニューヨーク・ヤンキースのスプリングトレーニングでゲストコーチを務めた<ref>[http://www.nydailynews.com/sports/baseball/yankees/yankees-insider-godzill-pinstripes-article-1.1622004 Hideki Matsui returns to Yankees' spring training as special guest instructor] New York DailyNEWS.com、2014年2月20日。</ref>。
5月24日には[[クーパーズタウン]]で行われる[[アメリカ野球殿堂]]の記念試合にヤンキースの代表として出場<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/f-bb-tp2-20140402-1279136.html 松井秀喜氏ら名選手30人が記念試合出場へ] 日刊スポーツ、2014年4月2日。</ref><ref>[http://baseballhall.org/news/press-releases/pedro-martinez-hideki-matsui-jim-thome-among-30-big-league-heroes-appear-hall Pedro Martinez, Hideki Matsui, Jim Thome among 30 Big League Heroes to Appear at Hall of Fame Classic] NATIONAL BASEBALL HALL OF FAME AND MUSEUM Press Releases、2014年4月28日。</ref>。本塁打競争にも参加し<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/05/26/kiji/K20140526008236420.html 松井氏 「ゼロで終わる」固辞も…本塁打競争で2発] Sponichi Annex、2014年5月26日。</ref>、記念試合では[[スティーブ・エイベリー]]から本塁打を打つなど3打数1安打1打点の活躍を見せた<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20140526-1307113.html ゴジラパワー健在!松井氏OB戦で特大弾] 日刊スポーツ、2014年5月26日。</ref>。6月22日にはヤンキースのオールド・タイマーズ・デーに出席し、記念試合では試合途中から投手として登板もした<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/f-bb-tp2-20140623-1322335.html 松井秀喜氏OBイベントで投手「記念に」] 日刊スポーツ。2014年6月23日。</ref>。
8月25日、ヤンキース時代の恩師であり、背番号「6」がヤンキースの永久欠番に認定された[[ジョー・トーリ]]の記念セレモニーに出席<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK00015_U4A820C1000000/ ヤンキース、トーリ氏の永久欠番祝う 松井氏らが式典出席] 日本経済新聞、2014年8月24日。</ref>。また、9月7日には盟友[[デレク・ジーター]]の引退セレモニーに出席<ref>[http://www.hochi.co.jp/baseball/mlb/20140908-OHT1T50225.html 松井氏、ジーター引退セレモニーで握手とハグ] {{Wayback |url=http://www.hochi.co.jp/baseball/mlb/20140908-OHT1T50225.html |date=20150518102813 }} スポーツ報知、2014年9月9日。</ref>。同年のヤンキースタジアムでの最終戦となった9月25日には、NHK BS1での中継内でヤンキースタジアムからゲスト解説を行った。試合はジーターのサヨナラ適時打でヤンキースが劇的な勝利を収めた<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/09/26/kiji/K20140926008996840.html 松井秀喜氏 親友劇打に驚きなし「それをやるのがデレク・ジーター」] スポニチアネックス、2014年9月26日。</ref>。
{{by|2015年}}2月3日・4日の2日間にわたって古巣の巨人軍[[宮崎]]キャンプを視察。また2月5日から7日まで[[沖縄県]][[宜野湾]]で[[横浜DeNAベイスターズ|DeNA]]のキャンプを視察した。
==== アドバイザー就任 ====
3月11日にヤンキースGM特別アドバイザーに就任した(契約期間は1年)<ref>[http://cf-origin-bitisle-www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/1445474.html 松井氏ヤ軍フロント入り!GM特別アドバイザー就任] 日刊スポーツ、2015年3月11日。</ref>。キャンプ地のフロリダ州-タンパでブライアン・キャッシュマンGM同席のもと、記者会見を行い、「ヤンキースでは素晴らしい時間を過ごした。今度は若い選手の力になれるように頑張っていきたい。僕にとっても大きなチャレンジ」と抱負を語った。
同月21日には東京ドームで行われたオープン戦の巨人対[[北海道日本ハムファイターズ]]戦でデレク・ジーターと共に始球式を行った<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/1449953.html 松井氏とジーター氏が始球式 ともにノーバン] 日刊スポーツ、2015年3月21日。</ref>。試合後には同球場で東日本大震災の被災地の小中学生を支援する慈善イベント「トモダチ チャリティー ベースボールゲーム」<ref>[http://support-our-kids.org/2with55/index.html 東日本大震災被災児童自立支援プロジェクト トモダチ チャリティー ベースボールゲーム] {{Wayback |url=http://support-our-kids.org/2with55/index.html |date=20150322023431 }} Support Our Kids。</ref>に参加。チャリティーイベントの最後に行われたヒッティングチャレンジでは「せっかくこれだけのお客さんが集まってくれたので、僕が打ちます」と自ら[[打席]]に立ち、[[小宮山悟]]氏が投じた5球目を右翼スタンドへ放り込んだ<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/1450316.html 監督ゴジラ代打1号「ボクが打ちます」震災支援イベント] 日刊スポーツ、2015年3月21日。</ref>。
{{by|2016年}}もヤンキースGM特別アドバイザーとして活動した。4月5日にはヤンキースとアストロズの試合にて日本人としては史上初となるヤンキースタジアムでの始球式を行った。
{{by|2017年}}1月上旬に次男が誕生したことを明かした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/1770811.html |title=松井秀喜氏に次男誕生「日々元気にしております」 |accessdate=2017-01-28 |date=2017-01-27 |work=日刊スポーツ}}。</ref>。ヤンキースGM特別アドバイザーとして活動を継続した。
==== 野球殿堂への顕彰 ====
{{by|2018年}}1月15日、[[野球殿堂博物館 (日本)|野球殿堂博物館]]は、2018年度の[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]競技者表彰プレーヤー部門の顕彰者として松井を選出したことを発表した<ref>{{Cite press release |和書 |title=平成30年 野球殿堂入り発表 松井氏、金本氏、原氏、瀧氏が殿堂入り |publisher=野球殿堂博物館 |date=2018-01-15 |url=http://i.baseball-museum.or.jp/baseball_hallo/news/halloffame2018_02.html |accessdate=2018-01-15}}</ref>。なお、松井は[[野茂英雄]](2014年度)の45歳4か月を更新する43歳7か月での最年少野球殿堂顕彰者となった<ref>{{Cite news |title=松井秀喜、金本監督、原辰徳、滝正男4氏が殿堂入り |newspaper=ニッカンスポーツ・コム |date=2018-1-15 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201801140000524.html |accessdate=2018-1-15 |agency=日刊スポーツ新聞社}}</ref>。候補1年目での表彰者が二人選出されるのはこれが初の事例である。
また、この年は[[アメリカ野球殿堂]]の殿堂入り候補資格も得たが、1月24日に行われた記者投票では4票の獲得(得票率0.9%)にとどまり、1年目で殿堂入りの資格を喪失した。ヤンキースGM特別アドバイザーとして活動を継続した。
==== 第100回甲子園大会での始球式 ====
2018年8月5日に始まった[[第100回全国高等学校野球選手権記念大会]]の開幕試合、[[星稜中学校・高等学校|星稜]]([[石川県|石川]])-[[藤蔭高等学校|藤蔭]]([[全国高等学校野球選手権大分大会|大分]])に先立ち、奇しくも当星稜高校のOBとして松井が始球式に登場した。投球はワンバウンドとなり、松井は頭を抱えて苦笑いを浮かべた<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASL852TGGL85UTQP00S.html 松井秀喜さん「甲子園の魔物に襲われた」始球式ワンバン](朝日新聞・2018年8月5日掲載)</ref>。
なお、この時の[[朝日放送テレビ]]でのテレビ中継には星稜高校野球部名誉監督の山下智茂が解説者として出演しており、松井の始球式を見届けている<ref>[https://hochi.news/articles/20180805-OHT1T50120.html?page=1 【甲子園】星稜・山下名誉監督、教え子・松井秀喜さんの始球式に「体が震えてます」](スポーツ報知・2018年8月5日掲載)</ref>。
始球式終了後の松井は開幕戦を終始ネット裏で観戦し、結果9-4のスコアで星稜が勝利した直後、松井は直立不動の姿勢で星稜高校の校歌を歌唱した<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/08/06/kiji/20180805s00001002454000c.html 松井氏 始球式に母校・星稜勝って校歌熱唱「これ以上ない一日」](スポニチ・2018年8月6日掲載)</ref>。さらに、松井の隣席にはかつて星稜高校同期生のチームメイトで、現・[[朝日新聞]]記者の[[福角元伸]]が座っており、母校勝利時に松井自ら笑顔で福角記者へ「オイ、歌うぞ!」と校歌斉唱を催促していた<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASL8774VKL87UTQP03H.html 松井秀喜さん「おい!歌うぞ」 同期も驚いた校歌斉唱](朝日新聞、構成・福角元伸 2018年8月8日掲載)</ref>。
==== 大谷翔平への賛辞 ====
===== 松井に並んだ大谷へ =====
2021年7月4日、古巣であるエンゼルスに所属する[[大谷翔平]]がシーズン第31本目の本塁打を放ち、松井が記録した日本人では最多のMLB[[シーズン (スポーツ)|シーズン]]本塁打数に並んだ。直後に松井は大谷へメッセージを送り、大谷を絶賛し応援する形で次のように語った<ref>{{Cite web|和書|title=松井秀喜氏「大谷選手は唯一無二の存在です」日本人最多31号 「とうとう日本人が長距離打者」 |url=https://hochi.news/articles/20210706-OHT1T51007.html?page=1 |website=スポーツ報知 |date=2021-07-06 |accessdate=2021-07-20 |language=ja}}</ref>。
* 「大谷選手の驚異的なホームランのペースに、ただただ感嘆しております。彼が持っていた素質に加えて、バッティングへの探究心やトレーニングが、メジャーリーグ屈指の長距離打者に成長させたのではないかと思っております。」
* 「私が[[ニューヨーク・ヤンキース|ヤンキース]]でプレーしていた時には、[[ジェイソン・ジアンビ|ジェイソン・ジオンビー]]選手や[[ゲイリー・シェフィールド|ゲーリー・シェフィールド]]選手、[[アレックス・ロドリゲス]]選手らに囲まれていましたが、彼たちのパワーに圧倒され、私は『ここで[[打者#用語|長距離打者]]になるのは難しい』と感じていました。しかし、今の大谷選手は完全にそちら側の選手になっています。」
* 「私にメジャーリーグにおいて長距離打者であってほしいと願っていた野球ファンの方々は、私のその姿を残念な気持ちで見られていたと思いますが、今の大谷選手を見て、とうとう日本人がメジャーリーグでも長距離打者となり、スッキリされているのではないでしょうか。」
* 「また、彼はそれだけにとどまらず、素晴らしい[[投手|ピッチャー]]でもあります。野球の長い歴史の常識を変えた、唯一無二の存在です。これからますます、大谷選手を応援されるファンの方々や、彼のようになりたいと思う少年たちが増えると思います。」
* 「今後もファンの方々や少年たちの夢を背負い、躍動される姿を、私も一野球ファンとして期待しております。」
===== 松井を超えた大谷へ =====
さらに、その3日後となる同年7月7日には大谷が第32本塁打を記録して日本人では単独首位となった(当時点ではMLBの同[[シーズン (スポーツ)|シーズン]]内で最多の本塁打数でもあり、また[[MLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]前に32本塁打以上かつ12[[盗塁]]以上の達成はMLB史上初の記録でもあった)<ref>{{Cite web|和書|title=大谷翔平32号 ユニコーンがゴジラ超え シーズン60発ペースをキープ |url=https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/202107080000431.html |website=日刊スポーツ |date=2021-07-08 |accessdate=2021-07-20 |language=ja}}</ref>。
その際にも松井は大谷へ同様の祝福メッセージを送った。そのメッセージを受けた大谷は、「(松井を)子どもの頃からすごい見ていたので、光栄だなと思います。」「素直に嬉しいですし、(松井が)わざわざコメントしていただけるのも嬉しいです。まだまだ打てるように期待に応えられるように頑張りたい。」などと語った<ref>{{Cite web|和書|title=大谷翔平、日本人最多32号に「光栄」 松井秀喜からの祝福に「まだまだ打てるように」 |url=https://full-count.jp/2021/07/08/post1106454/ |website=Full-Count |date=2021-07-08 |accessdate=2021-07-20 |language=ja}}</ref>。
==== 東京オリンピックの聖火リレーに登場 ====
2021年([[2021年の日本|令和3年]])7月23日、[[国立競技場]](オリンピックスタジアム)で行われた[[2020年東京オリンピック]]の開会式で、松井は[[長嶋茂雄]]と[[王貞治]]とともに[[聖火ランナー]]を務めた。
3人は[[野村忠宏]]([[柔道]]で[[近代オリンピック|五輪]]三連覇)と[[吉田沙保里]]([[レスリング]]で五輪三連覇)から聖火を受け取り、松井は恩師である長嶋の背中を支えて2人でともに歩いた。最後に王が聖火を高々と掲げ、松井が受け取って、次のランナーである[[医師]]と[[看護師]]のペアへ手渡した<ref name="hochi20210724">{{Cite web|和書|title=松井秀喜氏「長嶋さん、王さんのファンの方に喜んでいただけたのならうれしい」聖火ランナー振り返る |url=https://hochi.news/articles/20210724-OHT1T51031.html?page=1 |website=スポーツ報知 |date=2021-07-24 |accessdate=2021-08-08 |language=ja}}</ref>。
松井は開会式終了後にテレビ出演し、「監督が受け取られて、長嶋さんが受け取られて、そのあとはとにかく無事に長嶋さんをエスコートする。最後、次の方に無事に渡せましたので。たくさんの長嶋さんのファンの方、王さんのファンの方に喜んでいただけたのなら、私もうれしいです」と語った{{R|hochi20210724}}。
「[[ニューヨーク・ポスト]]」は、「野球がオリンピックに戻ってきた。元[[ニューヨーク・ヤンキース|ヤンキース]]のスターを起用した」「松井が今も鋭いスイングをするのか考えたファンがいることを想像するのはたやすい。[[2009年のワールドシリーズ]]ではMVPに選ばれ人格者としても知られている」などと報じた<ref>{{Cite web|和書|title=松井秀喜氏の五輪聖火ランナーにNYメディアも興奮 「元ヤンキースのスターを起用」 |url=https://full-count.jp/2021/07/24/post1112865/ |website=Full-Count |date=2021-07-24 |accessdate=2021-08-08 |language=ja}}</ref>。
なお、野球がオリンピック競技に採用されたのは[[2008年北京オリンピック]]以来13年ぶりのことであった。次回の[[2024年パリオリンピック]]では削除されることが決定しており、以降もオリンピックへの復活は予定されていない。
===== 幻の聖火リレー最終ランナー案 =====
同五輪の[[聖火リレー]]の最終ランナーは、[[テニス]]選手の[[大坂なおみ]]が務めた<ref>{{Cite web|和書|title=大坂なおみが聖火最終点火者 選ばれた理由に橋本会長、そして多様性 |url=https://www.asahi.com/articles/ASP7R758VP7RUTQP03R.html |website=朝日新聞デジタル |date=2021-07-23 |accessdate=2021-08-08 |language=ja}}</ref>。しかし、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のメディア「[[デイリー・ビースト]]」によると、当初は松井が最終ランナーの大役を務める予定だったと報じられている<ref name="dailybeast20210803">{{Cite news |title=Olympic Boss Wanted Flame Lit by ‘Pure Japanese’ Ex-Yankee Player, Not Osaka |url=https://www.thedailybeast.com/olympic-boss-yoshiro-mori-wanted-flame-lit-by-pure-ex-yankee-hideki-matsui-not-naomi-osaka |work=The Daily Beast |date=2021-08-03 |accessdate=2021-08-08 |language=en |first=Jake |last=Adelstein}}</ref><ref name="flash20210804">{{Cite web|和書|title=松井秀喜、聖火ランナー最終走者に内定していた…米国で報道された「ゴジラ計画」 |url=https://smart-flash.jp/sports/152980/ |website=Smart FLASH/スマフラ[光文社週刊誌] |date=2021-08-04 |accessdate=2021-08-08 |language=ja}}</ref>。
同誌によれば、[[東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会|東京オリンピック組織委員会]]の会長であった[[森喜朗]]は「松井は純粋な日本人であり、日本とアメリカにおける野球のチャンピオンで、闘志を具現化した存在」として松井を推薦していた。また森は聖火リレーの演出の締めくくりとなる[[聖火台]]への点火方法について「(松井の愛称でもある)[[ゴジラ (架空の怪獣)|ゴジラ]]が炎を吐いて、大釜に点火するのは面白いだろう」と話していた。森の意向は当時「神の声」であり、松井の最終ランナー案は実質的に決定していた{{R|dailybeast20210803|flash20210804}}。
なお、森は松井と同じ[[石川県]][[根上町]](現・[[能美市]])の出身で、小学校も松井と同じであった。森は松井の後援会会長を務め、2001年には松井へ「[[日本プロスポーツ大賞]]・内閣総理大臣賞」を授与している{{R|flash20210804}}。
しかし、森は2021年2月に[[女性差別]]発言を行ったとして批判され、会長を辞任した<ref>{{Cite web|和書|title=【全文】森喜朗会長が辞任表明、女性蔑視発言は「解釈の仕方」「意図的な報道あった」 |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/85567 |website=東京新聞 |date=2021-02-12 |accessdate=2021-08-08 |language=ja}}</ref>。これに伴って松井案は廃止となり、実際の最終ランナーは大坂へ変更されたという{{R|dailybeast20210803|flash20210804}}。
== 選手としての特徴 ==
=== 打撃 ===
[[ファイル:Hideki Matsui in USA-2.jpg|thumb|スイングする松井(2008年)]]
NPB・MLB通算で507本の本塁打を打った。[[読売ジャイアンツ|巨人]]時代は、日本野球界を代表する長距離打者で、10年間で332本塁打を放った。[[高等学校|高校]]卒業から10シーズンでの本塁打数は、[[王貞治]]の356本に次ぐ歴代2位で、300本以上打った打者は王と松井の2人だけである。3割を超える打率を維持しながら、本塁打・打点で常にリーグトップクラスの成績を残し、[[OPS (野球)|OPS]]でも、通算4000打数以上の選手では王貞治に次いで歴代2位となる通算.996。
MLB移籍後は、勝負強さが魅力の中距離打者として活躍した。タイトル争いをする程の数値は残せなかったものの、アジア人選手としてMLBシーズン31本塁打は[[大谷翔平]]に次ぐ歴代2位(通算175本塁打は日本人歴代1位)、シーズン192安打は[[イチロー]]に次ぐ歴代2位(通算1253安打もイチローに次ぐ歴代2位)、長打率・OPSでは通算記録で歴代1位となっている。
アジア人選手では、松井と大谷の2選手しか達成していないMLBシーズン30本塁打以上(40本塁打以上は大谷のみ)と、日本人選手唯一の5度のシーズン20本塁打以上を記録している。2007年(5年目)にはアジア人史上初となるMLB通算100本塁打、2010年(8年目)には150本塁打を達成。MLBで通算100本以上の本塁打を打っている日本人選手は松井(175本塁打)、イチロー(117本塁打)、大谷(現役)の3選手だけである。現役最終年となる2012年には2本の本塁打を放ち、MLB通算175本塁打で現役引退した。
打撃については「楽に、なおかつ正確にスイングする」、「ゆっくり、ボールを見極める間合いをつかむ」、「左の軸足から、踏み出す右足にスムーズに体重移動する」、「([[時速]])140キロのボールを130キロぐらいに見えるぐらいボールをゆっくり見る」などということを挙げている<ref name="mlbgyao">[https://web.archive.org/web/20130911151930/http://gyao.yahoo.co.jp/mlb/columnplayers/0003-0001/ ヤンキースと五本の矢 松井秀喜引退「やってみなけりゃ分からない」] MLB.jpコラム、2013年7月28日。</ref>。
NPB時代は狭い[[東京ドーム]]を本拠地にしていたが、広い[[ナゴヤドーム]]や[[甲子園球場]]でも本塁打を量産していた。一方、日本球界時代のある時期、[[明治神宮野球場]]での試合で左翼ポール際を狙うことが多かった松井はオールスターの際にベンチで会った[[古田敦也]]に「松井…志が低いよ」と苦言を呈されたことがある<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=o-lymAZadK4 “良いストレート”って何?斉藤&五十嵐&古田の答えは…【ピッチャーズバイブル】] フルタの方程式【古田敦也 公式チャンネル】 2021/08/27 (2021年8月30日閲覧)</ref>。
MLB移籍前は「メジャーでもホームランバッターでありたい」と語っていたが、MLB移籍以降は本塁打が減り、自らを「メジャーでは中距離打者」と評すことが多くなった<ref>[http://sports.jp.msn.com/feature/columns/mlb/columns/4/2004/20040102-489.html 【回想-海を渡った男たち】松井秀喜、メジャー1年目の収穫]{{リンク切れ|date=2020年2月 |bot=InternetArchiveBot }} MSNスポーツ(2004年1月2日)</ref>。各種データからも、強打者から巧打者への変身が見て取れる<ref>[http://www.sanspo.com/mlb/news/090120/mld0901201109000-n1.htm 【記録で読むMLB】松井秀、強打者から巧打者へ]{{リンク切れ|date=2020年2月 |bot=InternetArchiveBot }} SANSPO.COM(2009年1月20日)</ref>。NPB時代は5度のOPS1.000超えを果たしたが、MLB移籍後は2004年の.912が最高であり、[[長打率]]も2004年と2009年を除いて.500を切っている。MLBでの本塁打減少については、[[朝日新聞]]紙上の[[上原浩治]]との対談において、「ボールが飛ばない」とNPB/MLBのボールの質の違い(MLBで使用される球はNPBで使用される球より格段に飛ばないとされる)に言及している<ref>朝日新聞 2009年1月1日付</ref>。また、NPBよりも外に広いストライクゾーンと、本人曰く「見たこともないボール」という打者の手元で微妙に変化しながら外角に落ちる球([[速球#ムービング・ファストボール|ムービング・ファストボール]])にも苦しめられた<ref name="getsports20091105">2009年11月5日放送,[[テレビ朝日]]「[[GET SPORTS]]」内でのインタビューより</ref>。そして、「最大の問題」として、右利きの左打者であるため左手で打球を押し込む力がどうしても弱くなってしまうことを挙げ、「メジャーでホームランを打つためには外角の球を逆方向に打てる技術とパワーが必要。そのためには左手の押し込みがきちっとできないとダメなんです」と語っている<ref name="number20090831">鷲田康(2009-08-31). [http://number.bunshun.jp/articles/-/13661 中島裕之の“飛ばさない技術”。~天才的打撃の神髄~]. Number Web. 2011年10月24日閲覧</ref>。これらの要因が重なって、ホームラン数はNPB時代に比べて大きく減少した。事実、右投げ左打ちが長打に恵まれにくい状況があることは記事になることがあるほどの根拠であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/baseball/carp/2022/08/18/0015565565.shtml |title=右投げ左打ち好打者・秋山流真逆の打法 |publisher=デイリースポーツ online |date=2022-08-18 |accessdate=2022-08-18}}</ref>。
[[井端弘和]]が2021年9月に公開した動画ではパワーランキング日本人OB部門1位を獲得した<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=l48-oaFLm7s 【井端が金属バットを使ってもかなわない選手とは!?】OB・現役パワーランキング!] 【イバTV】井端弘和公式チャンネル (2021年9月29日閲覧)</ref>。
[[画像:Matsui Spring Training.jpg|thumb|left|スプリングトレーニングでの松井(2006年)]]
MLB2年目以降は、NPB時代のようにボールを前で捉えるのではなく、出来るだけ体に近付けてから確実にバットの芯で捉えるスタイルへと切り替えた。また、ウェートトレーニングなどでも左手を重点的に鍛え、左手で箸を持つなどの努力を重ねた{{R|number20090831}}。外角のボールに対しては、「打てないボールは、打たなくていい」と割り切ると共に、レフト側に強く打ち返すという気持ちを持つことで、次第に克服していった{{R|shincho20070208}}。こうしてMLBに適応していった松井だが、ボールを体に近付けてから打つスタイルに変えたことで飛距離が出にくくなり、NPB時代のような圧倒的な本塁打数を記録することはなくなった。本塁打よりも、最もチームの勝利に直結する[[打点]]にこだわるようになり、MLB在籍9年間で4度も100打点以上を記録している。元MLBコラムニストのラリー・ロッカは「松井はゲームに勝つために必要なさまざまな武器をもっている。それはホームランを40本打つよりも重要なことだ」と評価している<ref>[https://web.archive.org/web/20061117135438/http://www.zakzak.co.jp/spo/2006_10/s2006102310.html 4番・松井で常勝軍団へ【Godzilla SOS】FOXテレビが来季予想オーダー、3番ジーターとで最適] [[ZAKZAK]](2006年10月23日)</ref>。
現役時代は、度々本塁打へのこだわりを滲ませる発言もしており<ref>[https://web.archive.org/web/20090604181650/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20031108.htm 松井通信 2003年11月8日 本塁打、米で「王」目指す 【ゴジラが見た大リーグ・5】] 北國新聞</ref>、2009年開幕前には、打率よりも本塁打にこだわる本来の姿に戻ることを明言していた<ref>[https://web.archive.org/web/20100825072036/http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/baseball/matsui/news/20090126-OHT1T00105.htm 松井、ホームラン量産宣言] [[スポーツ報知]](2009年1月26日)</ref>。同年は本塁打にこだわる姿勢に戻り、MLB7年目にして16.3打数に1本という自己最高の本塁打率(リーグ7位)を記録し、プレーオフでも4本塁打を放つ活躍を見せた。これは、MLB在籍期間が長くなり、MLBの投手が投げる球の軌道にも慣れ、再び体の前でボールを捉えることが出来るようになってきたからだという{{R|getsports20091105}}。しかし、翌2010年は衰えを見せ、本塁打数・本塁打率共に悪化。2011年は、怪我で長期離脱した2006年と2008年を除いて、MLB移籍後最低であった2003年の16本を下回る12本に終わり、2012年は、MLB昇格後7打席で2本塁打を放ち意地を見せたものの、戦力外通告を受けるまでの96打席で本塁打が出なかった。
ヤンキース時代は、左打者に本塁打が出やすい[[ヤンキー・スタジアム]]を本拠地としていたが、球場に関係なく本塁打を放っていた。2009年は28本塁打のうちヤンキー・スタジアムで放ったのは半分以下の13本塁打で、残りの15本塁打はビジターで放った<ref name="2009splits">[http://www.baseball-reference.com/players/split.cgi?n1=matsuhi01&year=2009&t=b Hideki Matsui 2009 Batting Splits - Baseball-Reference.com]</ref>。前述のように、右投左打の打者であることから「どうしても左手が弱い」と自己分析しており{{R|shincho20070208}}、左方向へ流し打つ打球はあまり伸びがない。ヤンキース時代7年間で放った140本塁打のうち、左方向への本塁打は10本にも達しない<ref>[http://www.sanspo.com/mlb/news/091101/mla0911011800009-n1.htm 松井秀、左への一発に「不思議な感じ」] {{Wayback |url=http://www.sanspo.com/mlb/news/091101/mla0911011800009-n1.htm |date=20091104011204 }},SANSPO.COM,2009/11/01</ref>。不調時には打球が上がらずに、内野ゴロが増える傾向にある。日本時代の2001年や2002年の前半も打球が上がらずに苦しんだ経験がある。最新の[[セイバーメトリクス]]などを扱う米国の大手記録サイトFangraphs [http://www.fangraphs.com/statss.aspx?playerid=1659&position=DH/OF] によれば、シンキングファストボールに苦しんだ2003年のGB/FB(全ゴロ数÷全フライ数)は2.30に達し、全打球に占めるゴロの割合は54.7パーセントに達した。一方で、フライの割合は23.8パーセントに過ぎなかった。これはゴロが多いことで知られる[[イチロー]]とほぼ同じ数字であった。しかし、メジャーに対応した翌年からは打球が上がることが多くなりフライ性の割合が増え、GB/FBも0.89〜1.36の範囲で推移している。
[[ファイル:Hideki Matsui in USA-3.jpg|thumb|280px|打席に立つ松井(2008年)]]
打率についてもNPB時代の通算[[打率]]は3割を超え、2001年には[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]のタイトルも獲得している。MLBでも2005年に打率.305を記録、この年はイチローの打率を上回った。それ以外の年も2008年までは3割前後の打率を残している。[[選球眼]]に優れており、打席ではしっかりとボールを見極め、無闇に早打ちはしない。早いカウントでのボール球に手を出すことは少なく、2ストライクに追い込まれても簡単にはあきらめない<ref name="s10">田口有史 「松井秀喜[ヤンキース#55] 打撃はまだまだ衰えていない?」 『月刊スラッガー』2009年10月号、日本スポーツ企画出版社、2009年、雑誌15509-10、56-57頁。</ref>。三振の数もあまり多くない。「全ての打者に共通するのは打率」という意識を持っており、本塁打数よりも打率を調子・相性の判断基準にしている<ref>[[すぽると!]]でのインタビューより</ref><ref>[https://megalodon.jp/2009-0818-0228-43/www.sanspo.com/mlb/news/090713/mla0907130504000-n1.htm GODZILLA in USA(2009年7月13日)] SANSPO.COM, 2009年8月18日閲覧</ref>。特に苦手としているコースが無いことも安定した打率を残せる要因であったが、2009年は外角球の打率が大幅に低下し、ヒットゾーンが限られたコースに狭まった{{R|s10}}。また、引っ張る打球の率が上昇し、いわゆるプルヒッターとしての度合いが強まった。そのため、夏場以降は相手チームから右方向への打球に備えた守備シフトを敷かれるようになった<ref>[https://megalodon.jp/2009-0901-0053-55/www.daily.co.jp/mlb/godzilla_topics/2009/08/31/0002295016.shtml 松井秀4タコ“秀喜シフト”にやられた] デイリースポーツonline 2009年8月31日, 2009年9月1日閲覧</ref>。2009年はそれまで得意にしてきた速球に対する成績も低下し、外角球への対応と併せて打率低下の要因になったと見られている{{R|s10}}。
基本的にスロースターターであり、4月、5月は低打率に苦しむこともあったが、後半戦には調子を上げた。MLBでの通算成績も、4月、5月の[[OPS (野球)|OPS]]は.700台であり、6月以降は.800を超えている。特に、7月は通算[[打率]].309、OPS.916と得意にしている<ref name="careersplits">[http://www.baseball-reference.com/players/split.cgi?id=matsuhi01&year=Career&t=b Hideki Matsui Career Batting Splits]. Baseball-Reference.com(英語). 2011年10月23日閲覧</ref>。
左打者ではあるが、対左投手も苦にしないことで知られた。MLB1年目の2003年は、対右投手と対左投手の打率は共に.287であり、翌2004年こそ対右投手が.314、25本塁打、対左投手が.265、6本塁打とバラつきが目立ったが<ref>[http://sports.jp.msn.com/feature/columns/mlb/columns/9/2004/20041118-889.html 【日本人メジャー通知表】ヤンキース松井秀喜篇]{{リンク切れ|date=2020年2月 |bot=InternetArchiveBot }} MSN スポーツ</ref>、2005年は対右投手が.281、15本塁打の成績だったのに対し、対左投手では.354、8本塁打と打ち込んだ<ref>[http://sports.espn.go.com/mlb/players/splits?playerId=5372&type=batting&year=2005 Hideki Matsui Stas(2005)] ESPN</ref>。2009年も左投手から本塁打を量産し、左打者としては[[プリンス・フィルダー]]と並んで両リーグ最多タイとなる13本塁打を左投手から放った{{R|2009splits}}。しかし、2010年は対左投手の打率が低迷し、シーズン後半は相手先発が左投手の時はベンチを温めることが多くなった。2011年は対右投手の4本塁打、OPS.654に対し、対左投手は8本塁打、OPS.795と再び強さを発揮した{{R|2011split}}。MLB10年間の通算では、対右投手は3534打席で打率.281、119本塁打、OPS.831、対左投手は1532打席で打率.284、56本塁打、OPS.802となっている{{R|careersplits}}。
[[ファイル:Hideki Matsui in USA-4.jpg|thumb|left|280px|打球を見つめる松井(2008年)]]
投手との相性については「相手との相性は考えない。投手によって、ある程度狙い球を絞って打席に入るだけ」と語っている<ref>[https://megalodon.jp/2009-0321-1642-39/www.sponichi.co.jp/baseball/special/matsui_h/mlb200806/KFullNormal20080606027.html 松井秀 57打席連続無三振! 打率も首位] Sponichi Annex(2008年6月6日)</ref>。対戦する投手を「どんな球種を持っているか」、「何を使って空振りさせようとしてくるか」、「どういう感じで術中にはめようとしてくるか」といった大枠でタイプ分けし、球種の代表的な使い手として知られる有力投手や対戦機会の多い投手に当てはめて対戦に臨んでいたという<ref name="mlbbb">{{Cite book |和書 |author=池田哲雄 |title=メジャー・リーグ変化球バイブル |year=2010 |publisher=ベースボール・マガジン社 |pages=79-81頁 |id=ISBN 978-4-583-61678-0}}</ref>。「いわゆる[[魔球]]と言われるような緩い球速で変化の大きい変化球よりも、[[カット・ファスト・ボール|カッター]]系や[[速球#ツーシーム・ファストボール|シンカー]]系といった[[速球#ムービング・ファストボール|ムーヴィング・ファスト]]系の芯を外す球種の方が厄介」と述べており{{R|mlbbb}}、こうしたムーヴィングファスト系の球種を操った[[ペドロ・マルティネス]]と[[ロイ・ハラデイ]]を『最高の投手』として挙げている{{R|mlbgyao|mlbbb}}。
NPB時代には、[[石井一久]]を苦手にしていた<ref>[https://www.ninomiyasports.com/archives/11095 巨人・松井秀喜の、“進化する怪物”<後編>] [[二宮清純]]「ノンフィクション・シアター・傑作選」</ref>。1999年には[[遠山奬志]]に13打数無安打に抑えられたが、翌2000年に遠山から本塁打を含む3安打を放つと、2001年以降は逆に打ち込んだように、努力・工夫を積み重ねて苦手投手を克服する忍耐強さを持っている<ref>[[岡部充代]] 「遠山奬志が語る 僕と松井君の5年戦争」 『2002プロ野球総決算 SOME MOMENTS いくつかの瞬間』[[週刊ベースボール]]別冊冬季号、[[ベースボール・マガジン社]]、雑誌20449-12/25、41-43頁。</ref>。
MLBに在籍した10年間で計782人の投手と対戦したが、30打席以上対戦している投手は24人である。その中で対戦成績の[[OPS (野球)|OPS]]が1.000を超えている投手は、[[デレク・ロウ]](1.213)、[[ヨハン・サンタナ]](1.189)、[[ジェレミー・ボンダーマン]](1.118)、[[バートロ・コローン]](1.033)、[[エドウィン・ジャクソン]](1.009)の5人である。それ以外では、[[ジェームズ・シールズ]](26打席で1.542)、[[ダグ・ウェクター]](24打席で1.378)、[[ブロンソン・アローヨ]](23打席で1.379)、[[ブライアン・タレット]](21打席で1.521)と特に相性がいい。逆に分が悪いのが[[ジェレッド・ウィーバー]](.454)、[[ブルース・チェン]](.502)、[[スコット・カズミアー]](.531)、[[ジェレミー・ガスリー]](.552)である。それ以外では、[[B.J.ライアン]](24打席で.439)、[[グスタボ・チャシーン]](24打席で.426)、[[スコット・ショーエンワイス]](21打席で.267)と特に相性が悪い<ref name="vspitchers">[http://www.baseball-reference.com/play-index/b-pvb.cgi?n1=matsuhi01#choice=&throws=&year_game=career&opp_id=&orderby=PA&orderbyb=Name&minPA2=0&minPA=0&orderbydir=DESC&orderbydirb=ASC&n1=matsuhi01&as=batter Hideki Matsui vs. Pitchers]</ref>。また、全投手中最多の69回対戦している[[ボストン・レッドソックス]]の[[ナックルボール|ナックル]]ボーラー、[[ティム・ウェイクフィールド]]に対しても苦手意識を持っていた。ウェイクフィールドに対しては、通算62打数13安打の打率.210、OPS.645であり、「あの球は打てない。だって、あんな球を投げられる投手がいないんだから、練習のしようがないんだもの」と感服している<ref>[https://www.asahi.com/sports/column/TKY200812230002.html 吉田えりのナックル 新たな命こめた「彼女」] [[朝日新聞]](2008年12月26日)</ref>。
また、MLB初安打を放った相手であり、「最高の投手」と敬意を払ったロイ・ハラデイとはウェイクフィールドに次いで2番目に多い67回の対戦があり、63打数14安打の打率.222ながら、ジェームズ・シールズと並んで全投手中最多の4本塁打を放っている。以前はハラデイを大の苦手にしていたが、晩年は苦手を克服した<ref>{{Cite news |title=松井秀“元天敵”から弾丸12号ソロ |newspaper=デイリースポーツ |date=2009-07-05 |url=http://www.daily.co.jp/mlb/godzilla_topics/2009/07/05/0002094361.shtml |accessdate=2011-02-12}}{{リンク切れ|date=2020年2月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。対戦機会が多いハラデイに対しても、対戦する時は狙い球を絞るようにしているという<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/sports/feature/matsui/ma20060503_01.htm 剛腕ハラデーに“片思い” : 松井が燃える] {{Wayback |url=http://www.yomiuri.co.jp/sports/feature/matsui/ma20060503_01.htm |date=20070505005926}} [[読売新聞]](2006年5月3日)</ref>。
[[打撃妨害]]での出塁が一般的な打者に比べて多い。2010年は4度の打撃妨害を受けたが、これはMLB全体で[[カール・クロフォード]](5度)に次いで2番目に多い数字だった<ref>[https://web.archive.org/web/20100916174318/http://www.sanspo.com/mlb/news/100913/mla1009131024005-n1.htm 松井秀、打撃妨害で先制点「ラッキー」], SANSPO.COM, 2010年10月14日閲覧</ref>。
[[打撃フォーム]]は毎年微妙に変えていた<ref>[https://www.jiji.com/jc/v2?id=091103matsu_hideki_08 特集 松井秀喜【8】FA権取得、海を渡る決意]. 時事ドットコム(2009年11月3日閲覧). 2012年1月14日閲覧</ref>。プロ初年度はグリップを低くして構えていたが、1年程で首の付け根の高さに修正。30本以上の本塁打を量産しだした1996年頃は、投手に対してバットを垂直に立たせた状態。50本で[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]を獲得した2002年には、それまでより少しバットを傾けて腰のねじりも大きくなっていた。メジャー移籍後もこの習慣は続き、左手首の骨折から復帰した2007年以降はがに股に立って尻を突き出したようになり、2010年からは左方向へ打つことを意識するために、グリップを首の付け根より高く構えて外角の球でも体の近くでミートするようにしていた。
=== 走塁 ===
2桁盗塁を記録したことはないが、100m走のタイムは11秒台を記録したこともあり、MLBの中でも遅い方ではなく<ref>[https://web.archive.org/web/20061005044230/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20030303.htm 松井通信 2003年3月3日 技ありの内野安打 第1打席に左腕から] 北國新聞</ref>、[[ヤンキース]]移籍当初は一塁到達まで4.15秒と左打者としては平均のタイムだった<ref name="sr200312">二人の松井 徹底検証 松井秀喜の1年目 スカウティング・レポート 『月刊スラッガー』2003年12月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-12、24-27頁。</ref>。晩年は相次ぐ脚の故障により満足な走塁を行うことが難しくなったため、走塁と守備について一部より「三流」という声も上がった<ref>[http://npn.co.jp/article/detail/33307260/ 苦境に追い込まれている松井秀喜] 内外タイムス(2008年2月20日)</ref>。一方で両膝を痛めた晩年でも、全力疾走は怠らなかったため、ヤンキースの選手曰く「[[ホルヘ・ポサダ|ポサダ]]よりは速い」と言われた<ref>(2009-07-28)[http://www.sanspo.com/mlb/news/090728/mla0907281205009-n1.htm 松井秀が激走!ヤ軍ナイン「ポサダよりは速い」] {{Wayback |url=http://www.sanspo.com/mlb/news/090728/mla0907281205009-n1.htm |date=20090731122656 }},SANSPO.COM</ref>。
走塁中のアクシデントを防ぐために、日頃から足の爪の手入れを熱心に行っていた<ref>[https://megalodon.jp/2009-0818-0224-02/www.sanspo.com/mlb/news/090724/mla0907240500000-n1.htm GODZILLA in USA(24日)] SANSPO.COM,8月18日閲覧</ref>。
=== 守備 ===
[[ファイル:Matsuiinoutfield.JPG|thumb|280px|左翼守備に着く松井(2007年)]]
アマチュア時代は捕手や投手を務めていたこともあったが<ref>本人によると、高校には投手として入ったらしい</ref>、[[高等学校|高校]]入学後は内野手に固定され、最終的に[[三塁手]]を務めた。本人としては三塁手にこだわりがあったが、プロ入り直後に[[外野手]]へのコンバートを命じられる。新人時の1993年は左翼だったが、翌年のオープン戦で新外国人のダン・グラッデンとヘンリー・コトーの守備と肩がまずかったこともあり、開幕直前の4月2日から右翼に転向して定着し、シェーン・マックが抜けた1997年から[[中堅手]]として固定された。2000年から2002年まで3年連続で[[ゴールデングラブ賞]]を獲得した。[[読売ジャイアンツ|巨人]]時代もある時期までは三塁手復帰を熱望し、再コンバートが度々話題となったが、実現しなかった。1998年には[[JA全農Go・Go賞]]・強肩賞を受賞するなど、日本時代は肩は強い方であると言われてきたが、ヤンキース移籍後は「しっかりとした姿勢から投げる時は力強い送球を見せるものの、安定したツールを持つ中で唯一の弱点」と評されるようになったことに加え{{R|sr200312}}<ref>2004日本開幕戦観戦ガイドブック『月刊スラッガー』2004年4月号付録、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-4、2頁。</ref>、ヤンキース移籍後は中堅のレギュラーに[[バーニー・ウィリアムス]]がいたため、主に左翼手として起用されるようになった。2011年シーズンまでの9年間で、左翼手として609試合、中堅手として77試合、右翼手として7試合に先発出場している。メインの守備位置である左翼では5163.1イニングで24[[失策]]、[[守備率]].983、[[守備率#アウト寄与率・レンジファクター|Range Factor]](RF、9イニング当たりのアウト達成数)2.05、[[補殺]]39という数字を残している。メジャー移籍後は左翼手へのコンバートもあり、最初の2年間は苦戦したが、それ以降は多くの守備指標を向上させた(詳細は後述)。メジャー移籍後は巨人時代とは打って変わって守備でも派手なプレーをするようになり日本時代の関係者を驚かせたが、本人は人工芝の東京ドームでは無理なプレーができなかっただけであり、日本でも甲子園や広島市民球場では同じようなプレーをしていたつもりだと説明した。
2007年以降、ヤンキースが守備重視の方針を掲げたこともあり、故障がちになった松井に代わって、[[ジョニー・デイモン]]が左翼手のレギュラーとして起用されることが増えたため<ref>[https://megalodon.jp/2009-0606-1937-54/www.nikkansports.com/baseball/mlb/p-bb-tp2-20071206-291923.html ジラルディ監督守備重視、松井は控え!?] nikkansports.com(2007年12月6日)</ref>、指名打者での出場が増えた。2008年6月に左膝を痛めてからは指名打者専任となっており、同年6月16日のアストロズ戦で左翼を守ったのが、ヤンキース時代では最後の守備機会となった。一時は[[一塁手]]へのコンバート案も出されたが、ヤンキースGMのブライアン・キャッシュマンに却下された<ref>[https://web.archive.org/web/20081209074754/http://www.sanspo.com/mlb/news/081106/mla0811060503002-n1.htm ヤ軍、ジアンビ放出…松井秀、来季DH] SANSPO.COM(2008年11月6日)</ref>。特に2009年はプロ入り後初めて一度も守備に就く機会がなく、2010年4月8日の対[[ミネソタ・ツインズ]]戦で2年ぶりの公式戦守備に就いた<ref>共同通信(2010-04-10)[https://megalodon.jp/2011-0325-0233-50/www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/matsui/list/201004/CK2010041002000181.html 2年ぶり守備!松井秀「9回守れて良かった」],中日スポーツ,2011年3月25日閲覧</ref>。
[[File:Matsui catching fly ball.jpg|thumb|right|200px|フライを捕球する松井]]
守備に関する技術では、2004年に『スポーティング・ニュース』誌の記事で捕球後の送球を絶賛された<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/04season/players/matsui/column/200405/at00000705.html 松井秀喜の守備に見る「基礎力」の重要性 (2/2) 梅田香子の『松井秀喜 メジャー交友録 2004』 VOL.5] {{Wayback |url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/04season/players/matsui/column/200405/at00000705.html |date=20040804102654 }} スポーツナビ</ref>。[[補殺]]数はリーグの左翼手の中でも多いほうであり、本人は本塁での補殺を「外野手として最高の見せ場」と捉えている<ref>(2010-05-07)[https://megalodon.jp/2010-0820-1548-07/www.sanspo.com/mlb/news/100507/mla1005070505006-n2.htm 松井秀、2年ぶり補殺&爆破予告で緊迫],SANSPO.COM,2010年8月20日閲覧</ref>。セイバーメトリクスの[[シンクタンク]]「[http://www.hardballtimes.com/ Hardball Times]」が各外野手の送球をKill+(補殺ポイント)、Hold+(走者を先の塁に進ませなかったポイント)、Runs/200(200イニングあたりに防がれた失点数)などの各数値により総合的に評価した「Best Outfield Arms」では、MLBの正左翼手30人中6位と上位にランクインした<ref>John Walsh,01/07/08,[http://www.hardballtimes.com/main/article/best-outfield-arms-of-2007/ Best outfield arms of 2007],Hardball Times(英語),2009年9月17日閲覧</ref>。
一方で、守備範囲などを含めた総合守備指標では評価が低かった。[[ミッチェル・リクトマン]]が考案し、現在米国で最も広範に用いられている守備指標の1つ「[[アルティメット・ゾーン・レーティング|UZR]](Ultimate Zone Rating)」(同一シーズンの同一リーグにおいて同一ポジションにおける平均的な選手と比較し、失点をどのくらい防いだかを示す指標)は通算で-77.3(左翼で-65.5、中堅で-10.6、右翼で-1.2)という低い数値を喫し、[[ESPN]]記者の[[ロブ・ネイヤー]]がUZRを基準に選んだ2000年代のワーストグラブ(左翼手)に選出されてしまった<ref>Rob Neyer,[http://sports.espn.go.com/mlb/columns/story?columnist=neyer_rob&id=4761290&campaign=rss&source=MLBHeadlines Gold Glovers of the decade],ESPN(英語),2009/12/21</ref>。[[守備防御点]]でも外野手として通算-27、左翼手として通算-18と平均を下回った<ref>[http://www.fangraphs.com/statss.aspx?playerid=1659&position=DH/OF Hideki Matsui » Statistics » Batting | FanGraphs Baseball]</ref>。
上述のUZRやDRSのように比較的ポピュラーな総合守備指標では通算で平均を大きく下回る数値を喫したが、守備指標によっては意外な結果も表れることもあった。例えば、「[http://baseballmusings.com/ Baseball Musings]」のDavid Pintoが考案した「PMR(Probabilistic Model of Range)」によると、2007年は好守で知られる[[カール・クロフォード]]と大差がなく、正左翼手の中ではトップクラスという分析結果が出た<ref>[http://www.baseballmusings.com/archives/023979.php Probabilistic Model of Range, Leftfielders, 2007],Baseball Musings(英語),2009年9月17日閲覧</ref>。
=== 連続試合出場 ===
連続試合出場は、2006年の故障で記録が途切れるまで、NPBで1250試合、MLBで518試合(MLBでデビュー以来518試合連続出場は、日本人選手としては歴代1位)、日米通算1768試合を数えた。2005年には「本塁打より、むしろ連続試合出場」と話す<ref>[https://web.archive.org/web/20050525083806/http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/05season/players/matsui/column/200505/at00004826.html W松井にみるニューヨーク・メディアの変容(1/2) 梅田香子の『メジャー交友録 2005』 VOL.14] スポーツナビ</ref>など、連続試合出場には並々ならぬこだわりを持ち、「遠いところからわざわざ来てくれるファンのために」という考えによって休養日にも[[代打]]や[[代走]]、守備交代でわずかな時間でも出場し、2006年の[[骨折]]まで記録を維持した。しかし、地元ニューヨークのメディアからは「記録より、疲れた時には休んだ方がチームのためになる」と、連続試合出場に懐疑的な声が上がったこともあり、監督の[[ジョー・トーリ]]も「連続試合出場記録を途切らせて悪者にはなりたくないからな」と発言したこともある<ref>[https://web.archive.org/web/20030829003115/http://www.sponichi.co.jp/usa/kiji/2003/08/26/01.html 夏バテ…松井にスタメン危機!] Sponichi Annex(2003年8月26日)</ref>。このように、連続試合出場に並々ならぬこだわりを持っていたが、2006年の骨折直後には、「心の中で怯える自分がいた」と記録がいつか途切れるかもしれないことに大きなプレッシャーを感じていたことを明かした。それと同時に、連続出場をサポートしてくれたトーリ監督に感謝の意を示した<ref>[https://web.archive.org/web/20061005040834/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20060518.htm 松井通信 2006年5月18日記録ストップに「おびえる自分がいた」 連続出場の心境吐露],北國新聞</ref>。
=== 評価 ===
[[ファイル:Hideki Matsui in USA-9.jpg|thumb|280px|本塁打を放ち三塁ベースを回った松井(2008年)]]
打撃についてはメジャー移籍後も概ね高い評価を受けている。フリーエージェント(FA)移籍の際、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]機構と[[メジャーリーグ選手会|MLB選手会]]の労使協定に基づいて選手評価の資料として使われるPLAYER RANKINGS評価(米大リーグ公認の記録専門会社「エライアス」が過去2年間の成績を独自の算出方法で計算して得点を付けたもの)では、2003-2004シーズン<ref>[http://mlb.mlb.com/news/article.jsp?ymd=20041103&content_id=909593&vkey=news_mlb&fext=.jsp&c_id=null AL player rankings] MLB.com(2004年11月30日)</ref>、2005-2006シーズン<ref>[http://www.usatoday.com/sports/baseball/2006-10-31-elias-rankings.htm Final 2005-06 Elias player rankings] USAトゥデイ(2006年10月31日)</ref>のいずれも[[イチロー]]らを抑えて日本人打者ではトップの評価であった。その全てで「A」ランクの高評価を受けており、ア・リーグ全体での[[一塁手]]・[[外野手]]・[[指名打者]]部門での順位は7位(2003-2004)、14位(2005-2006)、16位(2007-2008)であった。
[[塁打]]、[[四球]]、[[盗塁]]などを点数化し、選手個人の得点生産能力を測る指標である「XR(extrapolated runs)」{{Efn|XR=0.50×単打+0.72×二塁打+1.04×三塁打+1.44×本塁打+0.34×(四球+死球-故意四球)+0.25×故意四球+0.18×盗塁-0.32×盗塁死-0.090×(打数-安打-三振)-0.098×三振-0.37×併殺打+0.37×犠飛+0.04×犠打}}では、[[日本野球機構|NPB]]在籍10年ながらNPB歴代10位につけている。しかし、渡米直前3年間と渡米後の1打席当たりXRを比較すると、リーグのレベルの違いが影響し、実に35パーセントダウンしている<ref>[http://www.zakzak.co.jp/tsui-sat/tsui/20070317_02.htm 2・松井&イチローは超一流か【米国で成績大幅ダウン】] ZAKZAK(2007年3月17日)</ref>。攻撃力を評価する指標[[OPS (野球)|OPS]]([[出塁率]]+[[長打率]])は、MLB在籍7年間で通算.852を記録しており、総合打撃指標「XR27」(XRの改良版){{Efn|XR27=XR×27÷(打数-安打+盗塁死+併殺打+犠打+犠飛)}}は同7年間で6.28を記録した。これはいずれも日本人メジャーリーガーの中ではトップの数値である。
近年、普及しつつある打撃・走塁・守備を組み合わせた総合的指標「[[WAR (野球)|WAR]]」(Wins Above Replacement。同じポジションの控え選手に比べて上積みした勝利数)では、+21.3を記録している<ref>{{Cite news |title=日本人大リーガーの“成功度”を米記者が回答 “貢献度”歴代10傑は? |url=https://full-count.jp/2017/02/26/post58698/2/ |date=2017-02-26 |accessdate=2018-10-27 |language=ja-JP |work=Full-Count }}</ref>。なお、WARの守備評価については、その精度を巡る議論も続いている(詳しくは[[WAR (野球)]]を参照)<ref>Simon, Mark(2011-09-02). [http://espn.go.com/blog/new-york/yankees/post/_/id/22911/grandersons-defense-not-easily-evaluated s Granderson good, bad or ugly in CF?]. ESPN New York.com(英語). 2011年10月25日閲覧</ref><ref>Jordan, JT(2010-04-11). [http://www.hardballtimes.com/main/blog_article/a-quick-comparison-of-uzr-and-plus-minus/ A Quick Comparison of UZR and Plus/Minus]. The Hardball Times(英語). 2011年10月25日閲覧</ref>。たとえば、「Baseball-Reference.com」版WARでは、通算+18.6となっている。2004年に記録したキャリアハイの+4.6はリーグ10位の数字だった<ref>[http://www.baseball-reference.com/players/m/matsuhi01.shtml Hideki Matsui Statistics and History - Baseball-Reference.com]</ref>。
2008年2月21日、スポーツ専門誌『スポーティング・ニューズ』は、「成績の割りに高年俸を得ていると思われる選手」のワースト5をカテゴリ別に発表した。その中で、前年度までの契約期間が2年以下である「契約期間の短い打者」の部門で松井が2位にランクインした(1位は[[J・D・ドリュー]])。同誌は年俸800万ドル以上の選手のうち、前年度以前から複数年契約を結んでいる86人を抽出し、100万ドルあたりで何勝に貢献したかを査定した。その結果、松井は過去2シーズンで0.9勝分しか貢献できていないとされた(平均は1.4勝分)。同誌は、「松井はかつて『[[鉄人]]』だった」としながらも、近年は度重なる故障により出場試合数が減少していることを指摘した<ref>[http://www.sportingnews.com/yourturn/viewtopic.php?t=356056 Overpaying a player once is OK, as long as you learn from it] SportingNews.com(2008年2月21日)</ref>。
[[張本勲]]は自著『最強打撃力』([[ベースボール・マガジン社|ベースボール・マガジン新書]]発行)において、「松井はまだ自分自身のボールを捉えるポイントを掴んでおらず、小細工でごまかしているところがある。だから好調時は素晴らしい働きをするものの、調子を崩すとなかなか抜け出せない」と指摘した。例えば2005年の開幕4試合で3本のホームランを放った後、202打席ホームランなし、という事実からそれが裏付けられる。さらに、「松井にとって自己最高の成績を残した2002年の50本を打ったときでも、私から見るとポイントを掴んでいなかった」と記している。[[王貞治]]は「アメリカで30本以上のホームランを打ったんだから、素晴らしいと思う。日本の野球界で50本打ったことと、アメリカで30本打ったことを比較する必要なんかない」{{R|number813}}「本数も中身も図抜けてすごいホームランを打っていた」<ref name="number813">[[Sports Graphic Number]] 813号</ref>と称賛した。
各種の人気調査などでは常に上位にランクインしてきたが、2005年以降は相次ぐ故障やそれに伴う成績低迷、[[#WBC辞退|WBC辞退]]などの影響で陰りが見えつつあった。[[中央調査社]]が実施している「人気スポーツ」調査における「最も好きなスポーツ選手」の項目では、2003年、2004年に2年連続で2位以下に圧倒的な差を付けた1位となったが、故障に苦しんだその後は支持率が下降し、2009年には4位に下がった<ref>[http://www.crs.or.jp/pdf/sports09.pdf (第17回)「人気スポーツ」調査(調査結果の概要)] {{Wayback |url=http://www.crs.or.jp/pdf/sports09.pdf |date=20090806141549 }} 社団法人 中央調査社(2009年7月)</ref>。[[バンダイ]]が実施している「お子さまの憧れのスポーツ選手は?」では2004年に1位<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bandai.co.jp/kodomo/question107.html |title=バンダイこどもアンケート 2004年 |date= |accessdate=2009年7月30日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100714210126/http://www.bandai.co.jp/kodomo/question107.html |archivedate=2010年7月14日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>であったが、2009年には圏外であった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bandai.co.jp/kodomo/question167.html |title=バンダイこどもアンケート 2009年 |date= |accessdate=2009年7月30日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090731112410/http://www.bandai.co.jp/kodomo/question167.html |archivedate=2009年7月31日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>。
他選手や監督などからの評価は軒並み高い。[[長嶋茂雄]]は松井の現役引退発表後に「現代で最高のホームランバッター」と評した。[[原辰徳]]は「強い精神力、頑健な体、そして類いまれなパワーに対しては度肝を抜かれた」と印象を語った。[[阿部慎之助]]は「体も大きいし打球の飛距離も群を抜いていた。重圧を見せずに黙々とプレーする姿勢に超一流選手としてのあるべき姿を見た」、[[上原浩治]]は「裏表がなく、人間的にも野球選手としても、あの人以上の選手はいないと思う」と、実力だけでなく人間性にも敬意を示している<ref>[https://megalodon.jp/2012-1229-2355-46/www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20121229-1065696.html 上原「松井さん引退を撤回して下さい」] nikkansports.com 2012年12月29日閲覧</ref>{{R|zakzak20121228}}。[[佐々木主浩]]は「雰囲気があったし、対戦しても怖かった。他の打者とは違う、特別クラスの選手」と評した<ref>[https://megalodon.jp/2012-1230-0001-54/www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20121229-1065699.html 佐々木氏「対戦しても怖かった」] nikkansports.com 2012年12月29日閲覧</ref>が、巨人時代の松井にとって佐々木は大の苦手投手だった。清原和博は「松井以上のパワーヒッターはどこにもいなかった」と語り<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-2248-45/www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/f-bb-tp2-20121228-1065499.html (cache) 清原氏「超えるコンビいない」/松井引退] nikkansports.com</ref>、負けていても全ての打席を同じ集中力で立てるため数字として残るとも評価していた<ref>{{Cite interview|和書|title=新春!テリー伊藤スクープ対談!「清原和博」が号泣激白(1) 人目を気にしながらひとり飯… |date=2015-1-13 |url=https://www.asagei.com/excerpt/30835/ |subject=清原和博 |interviewer=テリー伊藤 |journal=週刊アサヒ芸能 |accessdate=2022-10-18}}</ref>。[[金本知憲]]は2001年のインタビューで「(松井君は)目標ですね。ライバルじゃないです。彼はすごい。あのスイングといい、当たりの強さといい、あいつにはかなわん」と脱帽していた<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-2237-33/www.asahi.com/paper/sports/column/hottime/010313.html 今年は「3割・40本・30盗塁」目指す]</ref>。辛口で知られる[[野村克也]]は[[ON砲]]以降の巨人の4番打者で松井を最も高く評価している{{R|オレとO・N}}他、「監督として指導したかった」とも語っている<ref>著書「私とプロ野球」</ref>。また、残した数字は松井より高いイチローや落合博満がマスコミ嫌いで通したのに対して、松井は常にどのマスコミにも分け隔てなく対応していることも高く評価しており、「人格的にも素晴らしい」「将来は監督になれる器だ」と絶賛している<ref name="オレとO・N">著書「オレとO・N」</ref>。
元チームメイトで[[ニューヨーク・ヤンキース|ヤンキース]]主将の[[デレク・ジーター]]は、「マツイはお気に入りの選手。いいスイングをしているし、好調時は手がつけられない」「彼が考えているのはチームが勝つこと。まさしくプロだ」と語っていた<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=200908/2009082400553 ジーター「マツイはお気に入り」=米大リーグ],時事ドットコム(2009年8月24日),2009年9月1日閲覧</ref><ref name="jeter">[https://megalodon.jp/2009-1110-0146-17/baseball.yahoo.co.jp/mlb/headlines/20091106-00000000-mai-base <松井秀喜>ジーター認める存在に…「彼はまさしくプロだ」],毎日新聞,2009/11/10</ref>。同じく[[アレックス・ロドリゲス]]は「ヒデキは野球をよく知っている。打つだけではなく走塁などのレベルも高い」と評価し<ref>[https://megalodon.jp/2009-0901-0134-01/www.sanspo.com/mlb/news/090518/mla0905180504006-n1.htm 松井秀喜とAロッド、尊敬しあう2人],SANSPO.COM(2009年5月18日),2009年9月1日閲覧</ref>、[[アンディ・ペティット]]は「マッティ(松井の愛称)は出会ったときからずっと勝負強い選手であり続けた。とにかく勝負強いんだ」と絶賛した<ref>[https://megalodon.jp/2009-1109-1721-28/baseball.yahoo.co.jp/mlb/headlines/20091105-00000220-ism-base 【MLB】J.ジラルディ監督、「マツイの存在は大きかった」],Yahoo!スポーツ,2009/11/05</ref>。[[ボビー・アブレイユ]]は「マツイは本当に好人物で、プロフェッショナル」と松井の人柄を高く評価し<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201002/2010022500304 エンゼルスの松井秀、元同僚と再会=米大リーグ],時事通信,2010/02/25</ref>、[[トリー・ハンター]]は、自身のブログで「マツイは日本の伝説の“ゴジラ”。打撃のバランスが素晴らしく、滑らかで、無理のないスイングをする。そして、左投手とチャンスにとても強い」と絶賛した<ref>[http://toriihunter.mlblogs.com/archives/2010/02/hangin_with_hideki_and_friends.html Hangin' with Hideki and friends],Trii Stroies,2010/02</ref>。2002年に松井を獲得するように進言したヤンキースのスカウトのジョン・コックスは、同年50本塁打を放った松井の打撃だけでなく守備にも注目し、「松井は野球をよく知っていて、メンタルミスをしない」と評価していた<ref>{{Cite journal |和書 |author=奥田秀樹 |title=メジャー球団の戦略 |journal=週刊ベースボール |issue=2013年2月11日・18日合併号 |page=13 |publisher=ベースボール・マガジン社 |id=雑誌20443-2/11・18}}</ref>。
== 特筆 ==
=== 人物 ===
実家は、祖母・松井瑠璃寿が設立した宗教法人「[[瑠璃教会]]」である。初代司教である瑠璃寿、そして二代目司教である父・[[松井昌雄|昌雄]]の存在は、秀喜の人格形成に大きな影響を与えた。
「子供も大人と同じように一人前に扱う」という瑠璃教会の方針から、「ひでさん」と呼ばれて育てられた<ref>赤木(2002)p9</ref>。小学3年生の時に父から贈られた「努力できることが才能である」という言葉を大切にしており、父がその言葉を筆で書いた紙を長く、勉強机の前に張っていたという{{R|asahi20021102}}。試合や練習、取材の対応からプライベートの過ごし方に至るまで、グラウンド外でも若手の手本となる選手である。松井ほど人間的に素晴らしい選手はいないとも言われる{{R|npn20081121}}。松井は自身の性格について、「けっこう冷めているところがあるんです、何ごとにも! 物事に動じない? うん、よく言えばねっ(笑)。だからいつもボケッとしているんですよ(笑)。一人でいるのが好きなんです。」 と評している。基本的に温厚な性格で、野球以外の場で怒ることは少ない{{R|nikkan0303}}。ヤンキースのチームメイトであった[[CC・サバシア]]は、「松井は普段は大人しいけど、でもとてもいいヤツだよ」と人間性を高く評価している<ref name="slugger200907">杉浦大介 「CC・サバシア[ヤンキース] ニューヨークに舞い降りた怪物」 『月刊スラッガー』2009年7月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-7、13頁。</ref>。
本人いわく「他人の悪口を言わない」ということが松井の信条の一つである。中学2年生時の家族との夕食の際、松井が何気なく友人の悪口を言ったところ、父が箸をおいて「他人の悪口を言うような醜いことはするな。ここで二度とそんなことはしない、と約束しなさい」と注意した。松井は「父との約束ですから、あれ以来他人の悪口を言ったことはありません」と語った<ref>[https://web.archive.org/web/20040121022030/http://www.aleph.to/message/2004/01/vt19.html 松井秀喜-人気の真実とは? 15年間悪口を言わなかったスター]</ref>。
[[グラブ (野球)|グラブ]]や[[スパイクシューズ|スパイク]]など、野球用具をとても大事に扱っている。特にグラブは毎日磨いており、松井本人は、「野球を始めたときからずっとしています」と話している。[[ジョー・トーリ]]も、「彼ほど道具に対してリスペクトを持っている選手は見たことがない」といい、松井の人間性を高く評価している<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/column/200703/at00012581.html “Do the little thing”な松井秀喜の姿勢] {{Wayback |url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/column/200703/at00012581.html |date=20070324025441 }} スポーツナビ(2007年3月14日)</ref>。ヤンキース用具係のルー・カクーザは、他の選手が平気で帽子やグラブを放り投げることに対し、いつも帽子とグラブを丁寧に並べてから準備体操に入る松井を見て、「マツイは素晴らしい。いつまでもあの気持ちを忘れないでほしい。ほかの選手も見習ってほしいよ」と称賛している<ref>広岡(2005)p.98-99</ref>。道具を大切にする姿勢については、“道具を大切にしなさい”という子どもの頃の教えを忠実に守っており、グラブ磨きは「僕の野球の原点」だと語っている。また、「一本の[[バット (野球)|バット]]、一つのグラブは、いろいろな人の苦労によって出来上がっている」ことを強く意識しており、用具作りに携わった人々への感謝の気持ちを常に抱いている<ref>[https://web.archive.org/web/20050508003552/http://www.hokuriku.chunichi.co.jp/matsui/ism/2004/14.html 北陸中日新聞挑戦 松井秀喜検証 ヒデキイズム 2004年5月27日掲載]</ref>。
本業の野球以外にもCM撮影やTV出演など激務にもかかわらず、練習後にファンにサインをねだられても断らず、記者への対応も丁寧である。こうした振る舞いから、2005年度の小学校、2006年度の中学校の道徳副読本に登場、甲子園で5連続敬遠四球を受けた時の対応など、「誠実さ」「明朗さ」が取り上げられた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.gakuto.co.jp/jundotoku/mokugi06.html |title=学校図書株式会社 小学校 道徳 |date= |accessdate=2009年12月23日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091030165905/http://www.gakuto.co.jp/jundotoku/mokugi06.html |archivedate=2009年10月30日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>。
星稜高校時代、「居眠りしても死角になるから」という理由で窓際の一番前の席が教室での「指定席」となっていたが、山下は「(松井の)授業態度はよかった」と打ち明けている。野球部の練習が大変で、通学に時間もかかるため、授業で全てを覚えようと心掛けていたため、[[成績評価|成績]]も良好であった。野球部の活動以外での欠席は1日もなかった{{R|asahi20021102}}。星稜高校の卒業式では、野球部での活躍が評価され、星稜高校を経営する[[学校法人稲置学園]]から「総長賞」を贈られた<ref>朝日新聞,「ジャイアンツの松井選手が高校卒業」,1993年3月8日夕刊</ref>。
父の影響で元々は[[阪神タイガース]]のファンであった{{R|nikkan0303}}<ref>赤木(2002)p30</ref>。
高校時代、日本選抜に選ばれアメリカで試合を行っている間は、ロサンゼルス在住の日本人一家の元にホームステイしており、メジャーリーグの試合にも観戦に連れて行ってもらっていた。交流は現在でも続いており時々スポーツニュースでも放送されている。松井は一家の主人のことをアメリカのお父さんと呼び慕っている<ref>[https://web.archive.org/web/20091223072450/http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20091222022.html 松井秀「米国の父」に話していた本当の気持ち],スポーツニッポン,2009/12/24閲覧</ref>。
松井の中で一番印象に残っている巨人の4番打者は[[落合博満]]であり、2000年に初めて4番に定着しチームも優勝を果たした時に松井は報知新聞の手記に「あの人は4番らしかった。雰囲気を持っていた。自分の世界があったんだ。チームが苦しい時に矢面に立っていた。いわば風除け。それが信頼感にもつながった。」と書いている<ref>広岡勲 「松井秀喜-ゴジラパワーの秘密」 (火の鳥人物文庫) より</ref>。
長嶋茂雄はドラフトで松井の入団が決まったところから、3年間で松井を球界を代表する選手に育てるための「1000日計画」を立ち上げた<ref>[https://megalodon.jp/2009-0320-2310-28/www.sponichi.co.jp/baseball/special/matsui_h/mlb200902/KFullNormal20090208100.html ゴジラ松井も長嶋さんと師弟特訓] Sponichi Annex(2009年2月8日)</ref>。東京ドームの試合ならドーム内練習場で、遠征先ならホテルの長嶋の部屋で、松井に素振りをさせ付きっ切りで指導をしていたという。その場で長嶋はスイングの音で、松井のスイングの良し悪しを判断していたとのこと{{R|shincho20070208}}。敢えてプレッシャーのかからないように松井を下位打線で気楽に打たせて実戦経験を積ませる配慮もしたという<ref>{{Cite news |url=https://www.daily.co.jp/opinion-d/2022/08/15/0015557037.shtml |title=【野球】巨人の新4番・中田翔は、若き主砲・岡本和復活の起爆剤となるのか |newspaper=デイリースポーツ online |publisher=株式会社デイリースポーツ |date=2022-08-15 |accessdate=2023-03-22}}</ref>。
赤木ひろこの著書「ひでさん 松井秀喜ができたわけ」には、青年期までの松井の統率力には、ずば抜けたものがあったことが記されている。小学校時はクラスのいじめられっ子が松井の後ろに隠れただけで問題は解決し、5年生のリトルリーグの際、新たに赴任した監督が既にキャプテンは決定済みだったにもかかわらずそれを白紙にし「松井君には統率力があるから、頼む」と言わしめるほどの存在感を見せ<ref>赤木(2002)p86</ref>、中学校時代には「松井君さえ味方につければこのクラスは大丈夫」と担任教師に評価されたほどで<ref>赤木(2002)p104</ref>、星稜高校では前述されているとおり、山下監督により部員間投票の慣例を覆し、山下から直にキャプテンに指名された。
以上のように、真面目な性格であるが、遅刻魔としても有名である。2004年のオールスター戦でも遅刻し、ア・リーグ32選手中最後に球場入りしている<ref>[https://web.archive.org/web/20040714183210/http://www.zakzak.co.jp/spo/2004_07/s2004071401.html 大物の証明!?松井秀大遅刻、やっぱり出た“得意技” ミーティング間に合わず] ZAKZAK(2004年7月14日)</ref>。巨人時代から、遅刻するとなぜか本塁打を打つことが多い<ref>[http://www.sanspo.com/mlb/news/090509/mla0905090503003-n1.htm GODZILLA in USA(9日)] {{Wayback |url=http://www.sanspo.com/mlb/news/090509/mla0905090503003-n1.htm |date=20090515113818 }} SANSPO.COM(2009年5月9日)</ref>。[[2009年のワールドシリーズ]]第2戦の試合前には[[渋滞]]に巻き込まれて集合時間に30分遅刻したが、試合では決勝ホームランを放った。[[デレク・ジーター]]は「俺も明日から遅れてくるさ。まあ、本塁打を打ってくれるなら、毎日遅刻しても気にしないよ」と冗談交じりに語った<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2009103000563 ジーター「本塁打なら遅刻もOK」=ワールドシリーズ],時事ドットコム,2009/10/30</ref>。米メディアでも、松井が遅刻すると何故かホームランを打つ「ジンクス」が報道された<ref>Gordon Edes,[http://sports.yahoo.com/mlb/news?slug=ge-matsui102909&prov=yhoo&type=lgns Matsui is again Martinez’s nemesis],Yahoo! Sports(英語),2009/10/30</ref>。一方で、松井本人は「遅刻したつもりないんで、わからない(笑)」「え、反省?昔からしてない」と冗談混じりに応えている<ref>[http://www.zakzak.co.jp/sports/mlb/news/20091030/mlb0910301613000-n2.htm 30分遅刻は吉兆だった?! ゴジラ値千金の決勝弾] {{Wayback |url=http://www.zakzak.co.jp/sports/mlb/news/20091030/mlb0910301613000-n2.htm |date=20091102082624 }},ZAKZAK,2009/10/30</ref>。なお、巨人在籍時の遅刻はたまにしかなかったとも言われ、その理由として集合時間30分前に全選手が揃う「ジャイアンツタイム」と呼ばれる時刻に遅れたことが遅刻ととられたという証言がある<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20130505_186024.html 松井秀喜氏の遅刻伝説 実際は「たまにしかしてない」証言も] NEWSポストセブン 2013年5月5日</ref>。
3・4歳頃から[[ピアノ]]を習い始めて、小学校4年生で兄と「[[マイ・ウェイ]]」を[[連弾]]するほどの腕前で、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]を愛聴していたこともあり、「根上のモーツァルト」と称された。現在も[[クラシック音楽]]を好んで聴くが、巨人入団後はピアノを弾く機会がなくなり、現在は弾けなくなっている<ref name="godzilla20030715">[https://web.archive.org/web/20101123154541/http://hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20030715.htm 松井通信 2003年7月15日 「びっくり」 全選手会見、正装1人だけ] [[北國新聞]]</ref><ref>[http://www.sanspo.com/mlb/top/mt200607/mt2006070901.html 松井秀は「根上のモーツァルト」!自宅でクラシックな“癒しトレ”]{{リンク切れ|date=2020年2月 |bot=InternetArchiveBot }}[[サンケイスポーツ]]</ref>。
巨人在籍当時から[[花粉症]]を患っている<ref>[https://web.archive.org/web/20100501000146/http://www.sanspo.com/mlb/news/100119/mla1001190503001-n1.htm 今度はサボテン!松井秀「花粉、気になる」] - sanspo.com・2010年1月19日</ref>。MLB移籍後は4月から5月にかけて調子を落とすことが多く、特に2010年は遠征時の打率が非常に低くなっているが(同年4・5月の打率は本拠地では.278なのに対し、遠征では.165と1割以上低い)、これについても花粉症の影響が指摘されることがある<ref>[[東京スポーツ]]・2010年6月6日付 3面</ref>。実際2005年には、本人自らメディアに「花粉症がつらかったんです」と語り、序盤の不調の原因が花粉症だったことを認めている<ref>[http://kozo.weblogs.jp/kozo/2005/12/post_0a58.html 帰国後の松井秀喜選手が本音を語った!] {{Wayback |url=http://kozo.weblogs.jp/kozo/2005/12/post_0a58.html |date=20120114235727 }} - 野球小僧編集部ログ・2005年12月14日</ref>。シーズン中の睡眠時間は7時間。[[視力]]は両目とも1.5。足のサイズは29{{R|date}}。
引退後の2014年春季キャンプで巨人の臨時コーチを務めた際は右打ちで[[ノック (野球)|ノック]]を行ったが空振りが目立ち、どん詰まりでバットが折れる事態まで発生し、ノックが不得手であることが露呈した。ノックの名手として知られる[[高代延博]]によれば、すごい打者でもノックができないことはよくあり、スイングの問題ではなくトスがうまく上げられないためであるという。また、通常は左打ちの松井が右打ちでノックをしていたのは、本人が「右でないとトスを上げられない」ためであったという<ref>[https://www.daily.co.jp/opinion-d/2014/02/07/0006687516.shtml なぜ松井秀喜氏はノックで空振りするのか] Daily Sports Online 2014年2月7日</ref>。
==== 英語力 ====
公の場で英語を話すことはあまりなく、[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])直後の2011年3月19日に、当時所属していたアスレチックスの公式サイトで被災者支援を呼びかける30秒にわたるメッセージを読み上げた際<ref>[http://mlb.mlb.com/video/play.jsp?content_id=13227543 Baseball Video Highlights & Clips | Matsui asks fans to help in wake of tragedy in Japan - Video | MLB.com: Multimedia]</ref>など数少ない。球団のイベント等で英語を読み上げるときも「流暢ではないので単語をひとつひとつはっきりと発音した」と謙遜している<ref>[https://megalodon.jp/2009-0530-1811-01/www.sanspo.com/mlb/news/090525/mla0905250502002-n1.htm GODZILLA in USA(25日)] SANSPO.COM(2009年5月25日)</ref>。インタビューなどの公式の場では、専属通訳の[[ロヘリオ・カーロン]]を通して受け答えをしている<ref>[https://web.archive.org/web/20101123174709/http://hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20030405.htm 素直で心強い相棒 通訳のカーロンさん],北國新聞,2003/04/05</ref>。メジャー移籍時は中学2年生の英語教科書「[[NEW HORIZON (東京書籍)|ニューホライズン]]」を持参して渡米したというエピソードもある<ref>[https://www.asagei.com/11636 引退・松井秀喜(2)「複数の拠点を転々として…」 | アサ芸プラス]</ref>。
難しい英語でない限り日常会話に問題がなくなる程度に英語力が上達してからは、チームメイトとの会話も英語で行っていた<ref name="tnyt">[http://www.nytimes.com/2014/03/04/sports/baseball/yankees-want-no-room-for-misinterpretation.html?partner=rss&emc=rss&_r=1 Yankees Want No Room for Misinterpretation] The New York Times、2014年3月4日。</ref>。ヤンキース時代のチームメイトの[[CC・サバシア]]は、松井の英語力について「松井はいい英語を話すよ。こちらの言っていることは全て理解しているし、会話するには十分だ。」と評している{{R|slugger200907}}。ニューヨークの記者によると、松井のリスニング能力には「不自由を感じたことはない。こちらの話していることは十分に理解している」という{{R|zakzak20050820}}。英語力が上達してからも通訳を通して受け答えをしていた理由については「僕の拙い英語で万が一、誤解が生まれると困るから」と語っている他、「(カーロン通訳の)仕事を奪ってはかわいそうだからね」とも語っている<ref>[https://megalodon.jp/2009-1109-0333-12/www.sanspo.com/mlb/news/091106/mla0911060953018-n1.htm 松井秀、英語ペラペラも通訳入れるのは…],SANSPO.COM(2009/11/06)</ref>。現役引退後もニューヨークで週に数回英語のレッスンを受けているという{{R|tnyt}}。2014年に外国特派員で行われた記者会見では、「英語が得意ではない」との理由から、スピーチ、質疑応答を全て通訳を介して行っている。
==== 愛称 ====
ニックネームは「'''[[ゴジラ (架空の怪獣)|ゴジラ]]'''」{{R|FCGMG}}。初めてマスコミ陣営が松井に対して「ゴジラ」の愛称を用いたのは、当時星稜高校3年生になる1992年の春の選抜大会前のことであった。名付け親は[[日刊スポーツ]]記者で[[高校野球]]を担当していた赤星(現姓・福永)美佐子<ref>[https://thepage.jp/detail/20180803-00000002-wordleafs 松井秀喜がゴジラと呼ばれた日──。100回目の甲子園に命名者が語る真実] {{Wayback |url=https://thepage.jp/detail/20180803-00000002-wordleafs |date=20180808043424 }}THE PAGE,2018年08月04日記事</ref>で、「下半身が大きくて[[犬歯]]が特徴的」という理由で「ゴジラ」の名前を付けたと語っている<ref name="godzilla">(2010-08-17)[https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/f-bb-tp2-20100816-666681.html 松井が「ゴジラ」名付けの母に会う] nikkansports.com,2010年8月20日閲覧</ref>。当初、松井は「ゴジラなんて勘弁して下さいよ。もっと可愛いニックネームはないんですか?」と不満気だったが、名付け親の赤星は「あら、ゴジラだってカワイイじゃない?私は似合ってると思うのよ」と一蹴<ref>広岡(2002)p70</ref><ref name="「ゴジラの青春」p192より">「ゴジラの青春」p192より</ref>。ちなみに、高校2年生の秋に選ばれたオールジャパンのチーム内では、既に「[[怪獣]]」というあだ名が付けられていた{{Efn|1991年夏の選手権大会後、同メンバーで松井の1年先輩だった、[[谷口功一 (野球)|谷口功一]](当時・[[天理高等学校|天理高校]])や[[萩原誠]](当時・[[大阪桐蔭中学校・高等学校|大阪桐蔭高校]])等からも「怪獣」と名付け呼ばれている。}}{{R|「ゴジラの青春」p192より}}<ref>広岡(2002)p71</ref>。赤星の言からすれば容姿から発想されたこのニックネームは、結果的には、松井の打撃成績が築かれていく中で、その破壊力にぴったりのものとして広く定着していく。
これ以降、甲子園大会での活躍で全国に「'''ゴジラ松井'''」の愛称が一気に知れ渡ることになる。その後も、街を歩いていた時に子供達から「あっ、ゴジラがいるぞ!」と声をかけられたことで、松井自身「もうゴジラでいいや」と、そのあだ名を快く受け入れられるようになった。巨人入団直後には、某スポーツ紙で「ゴジラは嫌だ。新しいニックネームを募集中」とも報道されたが、松井は「それは全く違う。野球ファンの皆さんに『ゴジラ』で親しまれているなら、僕は大歓迎」と自身の著書に記している<ref>「ゴジラの青春」p193より</ref>。また、打席に入る際のBGMにも「ゴジラのテーマ」を使用していたが、20代半ば頃には[[クイーン (バンド)|クイーン]]の「[[ウィー・アー・ザ・チャンピオンズ]]」に変更している。渡米後も、「アメリカ人も覚えやすいから良いんじゃないですか」と語っており、現在では自らの愛称を気に入っている様子である{{R|godzilla}}。
2002年の映画『[[ゴジラ×メカゴジラ]]』{{R|FCGMG}}、2009年の缶コーヒー「キリン ファイア」のテレビCMでは本物のゴジラと共演をした<ref>[http://news24.jp/entertainment/news/167590.html “ゴジラ”松井秀喜、炎の中でゴジラと夢の共演] {{Wayback |url=http://news24.jp/entertainment/news/167590.html |date=20090928235549 }} [http://news24.jp/ 日本テレビNEWS24] 2009年8月24日</ref>。米国へ移ってからも「ゴジラ」の愛称はヤンキースファンに受け入れられ、[[ヤンキースタジアム]]で松井が本塁打か適時打を打つと、ゴジラの咆哮音が流された。また、ヤンキース移籍直後の2003年には[[ブルー・オイスター・カルト]]の「[[ゴジラ (ブルー・オイスター・カルトの曲)|ゴジラ]]」を入場曲に使用した<ref>{{Cite web |url=http://www.nydailynews.com/archives/sports/godzilla-takes-collar-debut-article-1.673448 |title=GODZILLA TAKES COLLAR IN DEBUT |accessdate=2015-02-11 |last=McCarron |first=Anthony |date=2003-02-25 |publisher=[[デイリーニューズ (ニューヨーク)|NY Daily News]] |language=英語}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/matsui_h/mlb201004/KFullNormal20100406048.html |title=松井、新天地開幕戦で「毎打席本塁打」宣言! |accessdate=2015-02-11 |date=2010-04-06 |work=Sponichi Annex |publisher=スポーツニッポン}}</ref>。英語では、ニックネームを名前の間に挟むのが通例のため、『ヒデキ・ガッズィーラ・マッツーイ(''Hideki "Godzilla" Matsui'')』と呼ばれることもある。ヤンキースの公式サイトにあったファンフォーラムでは「mats」、または好機に強いことから「Clutchzilla」と呼ばれ<ref>[http://yankeefan.blogspot.com/archives/2004_08_01_yankeefan_archive.html Replacement Level Yankees Weblog]</ref>、ヤンキースのチームメイトは「mats」と呼ぶことが多かったが、2008年からヤンキース監督に就任した[[ジョー・ジラルディ]]や[[アンディ・ペティット]]は「matty」、巨人時代の監督の原辰徳は「ゴジ」と呼んでいた。先述のように、2007年にはチーム内で「パックマン」という渾名を付けられたことがある。エンゼルスでは、[[トリー・ハンター]]が「ザ・クワイエット・アサシン(静かな殺し屋)」という新ニックネームを命名した<ref>米沢秀明,[http://www.zakzak.co.jp/sports/mlb/news/20100301/mlb1003011252000-n2.htm ゴジラ改め「静かな殺し屋」 松井秀に新ニックネーム] {{Wayback |url=http://www.zakzak.co.jp/sports/mlb/news/20100301/mlb1003011252000-n2.htm |date=20100304085222 }}ZAKZAK,2010/03/01</ref>。
インターネット掲示板「[[2ちゃんねる]]」の一部では、松井のことを「'''にしこり'''」と表現している。これは、松井を最も少ない文字数で表現した[[顔文字]]である。元々は「にっこり」であったが、改良を加えられて「にしこり」に落ち着いた。松井は記者からこのことを教えられ、「何これ、オレ?」「へえー、面白いじゃん。誰が考えたんだろうね」とほほ笑んだ<ref>[https://web.archive.org/web/20060103074026/http://www.zakzak.co.jp/spo/2006_01/s2006010103.html 松井の見る夢…目標ないが少しでもいいプレーヤーに],ZAKZAK,2006/01/01</ref>。
==== 背番号 ====
[[ファイル:Matsui Hideki back.JPG|thumb|220px|ヤンキースでの背番号55<br />(2006年)]]
背番号は巨人・ヤンキース・エンゼルス・アスレチックス在籍時代には一貫して55番をつけていた。巨人に入団当時、本人は高校時代につけていた5を希望していたが、当時は在籍していた[[岡崎郁]]が着用していた。岡崎引退後に5番を譲ってくれると思っていたものの、FA移籍した清原が着けることになった時には非常にガッカリしたことを述懐している<ref name="tospo202005">[https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/191201 松井秀喜氏 本当は「背番号5」が欲しかった] 東京スポーツ、2020年5月5日</ref>。{{要出典範囲|たまたま55が空いていたため55になったという説もある|date=2020-05}}。巨人時代に年間最多本塁打55本を打った同球団OBでの[[王貞治]]の記録に肖って付けられてたというのは「新聞社のやらせ」と本人が否定している{{R|tospo202005}}。ヤンキースに移籍した時には「背番号は何番でもいい」という発言をしていたが、前年までヤンキースに在籍し背番号55をつけていた[[ラミロ・メンドーサ]]がレッドソックスに移籍したため、ヤンキースでも55番をつけることができた。
松井が入団した当時の日本プロ野球にはほかに55番をつけた主力打者として[[大豊泰昭]]([[中日ドラゴンズ|中日]]){{Efn|大豊は台湾出身で、背番号は台湾で英雄とされている王貞治の年間最多本塁打55本の記録に肖ったもの。}}がおり、二人の活躍とともにそれまで背番号としては格下視されていた55番の価値を上げるとともに、互いに左打ちで長距離打者であったことから'''55番イコール左打ちのパワーヒッター'''というイメージが強まった{{Efn|その後、同じく左打者の[[嶋重宣]]([[広島東洋カープ|広島]])が55番を付けて首位打者を獲得し「[[赤ゴジラ]]」と呼ばれ大ブレイクした例や、近年では[[横浜DeNAベイスターズ|横浜]]に入団した当初の[[筒香嘉智]]や[[オリックス・バファローズ|オリックス]]の[[T-岡田]]、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]の[[村上宗隆]]が55番を付けた例などがある。}}。
松井がヤンキースへ移籍した後の巨人では2008年シーズン終了時まで誰も55番をつける選手が現れず、事実上[[準永久欠番]]扱いになっていた。しかし2009年シーズンから[[2008年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|2008年度ドラフト会議]]で巨人に1巡目で指名された[[大田泰示]]がつけることになった。この際、実績皆無の高卒新人に55番を継承させることについては、「松井に失礼」だという非難の声も上がった<ref>[https://megalodon.jp/2009-0320-2306-08/www.zakzak.co.jp/spo/200812/s2008120107.html 松井に失礼“背信”GにOB怒…新人・大田の「55」] ZAKZAK</ref>。その後大田はほとんど成績を残せず、2014年に44番に変更し、2015年以降しばらくの間は誰も55番を背負っていなかったが、2021年のオフに[[秋広優人]]が背番号を68番から55番に変更することを発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202112160000277.html |title=背番号55継承「メガゴジラ」誕生!巨人秋広優人「いずれは本塁打王を」 |publisher=日刊スポーツ |date=2021-12-16 |accessdate=2022-03-02}}</ref>。
エンゼルス移籍時は、在籍中の[[ショーン・オサリバン (野球)|ショーン・オサリバン]]が背番号55をつけていたが、背番号を譲られることとなり、ヤンキースでは2010年シーズンは背番号55は名誉番号として1年間欠番とされた。
2012年に[[タンパベイ・レイズ]]へ移籍、5月29日にメジャーリーグ登録された際には、レイズの若手有望株である[[マット・ムーア (野球)|マット・ムーア]]が背番号55をつけていたため、松井は空き番号(22、25、35、44、66、88など)の中からを背番号35を選択。翌年にムーアが初選出された[[2013年のMLBオールスターゲーム]]のテレビ中継で解説を務めた際には、当時ムーアから背番号を譲る話を受けていたが断ったことを明かした。35を選んだ理由については「空いていたから。5番も残したかった。一番の理由は師匠([[長嶋茂雄]])の番号を一ついただいた。年齢を重ねても素晴らしい数字を残した(ヤンキース時代のチームメイトの)[[マイク・ムシーナ]]にあやかれるようにしたいというのも一つ」と語った<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/mlb/news/20120529-OHT1T00242.htm 松井、メジャー昇格!長嶋さんと合体の背番号「35」] {{Wayback |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/mlb/news/20120529-OHT1T00242.htm |date=20120530111401 }} スポーツ報知 2012年5月30日閲覧</ref><ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/f-bb-tp2-20120530-959389.html 松井、背番35は「師匠の番号を一つ」] 日刊スポーツ、2012年5月30日。</ref>。
金沢カレーとしてチェーン展開する[[ゴーゴーカレーグループ|ゴーゴーカレー]]は創業者・社長の宮森宏和が同じ石川県出身で、松井が満塁打を放ったことに刺激を受けて起業を決意したということもあり、松井を応援。店名のゴーゴーは背番号の55に由来している。松井が現役時代に本塁打を打った日にトッピング券配布のサービスを行っていた。レイズで35番に変わった後も何事もなかったように(HP等でもそのことには触れず)トッピング券配布サービスを継続した。
==== 趣味・好物 ====
独身時代は[[アダルトビデオ]](AV)鑑賞が[[趣味]]であることを公言していた。AV鑑賞は本人曰く「松井流ストレス解消」で、多忙な中にあっても「月に数本」のペースでAV鑑賞に勤しんできた<ref>東京スポーツ,「"男の趣味"が大ウケ「ナイスガイだ」知られざる一面知り感激」2002年11月11日付</ref>。好みのジャンルは「ストーリーのしっかりした単体もの」で、特に[[浅倉舞]]や[[有賀美穂]]を好んでいた<ref>[http://www.tokyo-sports.co.jp/blogwrighter-note/22 ハダカの松井秀喜(1)] 東京スポーツ電子版 2013年6月17日</ref><ref>[[東京スポーツ]]・2008年3月28日付</ref>。巨人在籍中は[[東京スポーツ]]が松井のスクープを連発していたが、これは東スポの記者が松井に頻繁にAVを差し入れしていたためとされている。2007年には[[東京スポーツ]]と[[ソフト・オン・デマンド]]が共催した『[[AV OPEN〜あなたが決める!セルアダルトビデオ日本一決定戦〜|AV OPEN]]』の特別審査員も務めるなど、業界との関係も深い。2007年後半以降「AV封印」を度々口にするようになり<ref>東京スポーツ・2008年1月20日付</ref>、2008年の結婚に伴い「保有していた1000本を超えるAVコレクションを全て処分した」と語っている<ref>[[東京スポーツ]]・2008年4月22日付 1面</ref>。しかし、2010年には報道陣に対して、AV鑑賞を再開していることを示唆した<ref>[[東京スポーツ]]・2010年1月16日付 1面</ref>。また、アメリカではしばしば55,000本のコレクションを所有していると報じられている<ref>[http://www.gq.com/sports/guides/201204/baseball-mlb-2012-package FINALLY BASEBALL IS FUN AGAIN][[GQ JAPAN|GQ Magazine]] 2012年4月号</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20030422082526/http://www.time.com/time/asia/2003/heroes/hideki_matsui.html Hideki Matsui Godzilla Vs. the Americans] TIME ASIA 2003年3月10日号</ref>。
大好物は[[寿司]]<ref name="date">[http://www.hideki.co.jp/profile.html 松井秀喜ベースボールミュージアム - MATSUI HIDEKI BASEBALL MUSEUM 身体データ]</ref>、[[焼肉]]、[[コーヒー]]<ref>[https://megalodon.jp/2009-0818-0215-11/www.sanspo.com/mlb/news/090816/mla0908160502000-n1.htm GODZILLA in USA(16日)] SANSPO.COM,2009年8月18日閲覧</ref>。高校時代から練習帰りに地元の焼肉店へ通っており、当時からその大食漢ぶりは周囲を驚かせていた。現在も記者との会食やバーベキューパーティーを欠かさない。故郷・[[石川県|石川]]の名産品である[[カニ]]も好物の1つで、アメリカでも[[シーフード]]で有名な[[ボルチモア]]に遠征で訪れる際には頻繁にカニ料理を食べに行っている<ref>道上宗雅(2003-09-19), [https://web.archive.org/web/20061005041234/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20030919.htm 打点量産、秘密は… ボルティモア特産「カニ」に満足げ], 北國新聞, 2011年4月1日閲覧</ref>。メジャー移籍後は[[日本料理|日本食]]を中心に、[[朝鮮料理|韓国料理]]、[[中華料理]]、[[インド料理]]、[[タイ料理]]など、アジア料理の店を順番に通っていた<ref>[http://www.athlete-bank.jp/column/2008/1210_33.php ゴジラ松井、ニューヨーク物語 第5回 お気に入りの場所] {{Wayback |url=http://www.athlete-bank.jp/column/2008/1210_33.php |date=20090406111533 }} WEBスポーツマガジン・アスリートバンク</ref>。「スポーツ選手は食べるのも仕事」と語っており、熱心に美味しいレストランを探し続けた結果、今では全米各都市のレストランリストが頭の中に入っている<ref>[https://web.archive.org/web/20070702133519/http://www.sanspo.com/mlb/top/mt200705/mt2007053000.html 松井秀“喜”べない135m弾…ヤ軍4連敗で最下位に転落], SANSPO.COM(2007-05-28), 2011年4月1日閲覧</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20100526113244/http://www.sanspo.com/mlb/news/091220/mla0912201101003-n1.htm 【松井秀喜世界一までの2486日(23)】] , SANSPO.COM(2009-12-20), 2011年4月1日閲覧</ref>。しかし、結婚後は外食が減り、自宅があるニューヨークでは妻の手料理中心の生活をしている<ref>瀬戸口仁(2008-05-20), [https://megalodon.jp/2011-0401-0129-56/allabout.co.jp/gm/gc/212445/ 松井秀喜ほど周囲に気を遣う人間はいない], All About, 2011年4月1日閲覧</ref>。スプリングトレーニングで滞在する[[タンパ]]では、タイ料理や[[ベトナム料理]]、中華料理を中心に外食することが多いが、滞在先の[[コンドミニアム]]では、石川県産[[コシヒカリ]]を主食にしている{{R|wbc1}}。ヤンキース時代は、[[ヤンキー・スタジアム]]で試合がある時は必ず、妻が握った[[おにぎり]]を持参していた<ref>[https://megalodon.jp/2009-0818-0220-32/www.sanspo.com/mlb/news/090727/mla0907270501000-n1.htm GODZILLA in USA(27日)] SANSPO.COM,2009年8月18日閲覧</ref>。なお、日本時代は酒は付き合いでビール1杯程度とほとんど飲まなかったが、渡米してから[[ワインセラー]]を購入し、シーズン中でも[[赤ワイン]]を嗜むワイン通となっている<ref>[https://megalodon.jp/2009-0901-0049-02/www.sanspo.com/mlb/news/090828/mla0908280505007-n1.htm GODZILLA in USA (28日)],SANSPO.COM(2009年8月28日),2009年9月1日閲覧</ref><ref>松井&井川共通点イッパイ…遅刻魔、大物O型、独身 [[夕刊フジ]](2006年11月30日),2012年5月8日閲覧</ref>。
打席に入る際の登場曲は、主に友人でもある[[布袋寅泰]]の「[[BATTLE WITHOUT HONOR OR HUMANITY]]」を使用していたが、他には[[レッド・ツェッペリン]]の「[[移民の歌]]」、[[ビートルズ]]<ref>[https://web.archive.org/web/20061005051209/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20030524.htm 松井通信 2003年5月24日 ビートルズの足跡に自分の未来を重ね合わせる],北國新聞</ref>、[[井上陽水]]、[[奥田民生]]<ref>[https://web.archive.org/web/20081229092241/http://www.oricon.co.jp/news/music/43514/ 陽水&民生「にじむ虹」が松井テーマ曲に],2007/04/14</ref>、[[AC/DC]]の楽曲も使用していた。
読書家で知られ、試合前や雨の日には、よく読書をしている。オフに入ると他チームのプレーオフも見ずに読書に耽るほどである<ref>[https://web.archive.org/web/20071023073801/http://hochi.yomiuri.co.jp/mlb/news/20071021-OHT1T00029.htm 2007年オフ松井秀喜独占インタビュー] [[スポーツ報知|報知新聞]]</ref>。野球選手を引退したら、本に関わる仕事をしたいとも語っている<ref>[[伊集院静]]『ねむりねこ』</ref>。
一番好きな作家は[[三島由紀夫]]。三島作品は全て読んでおり、特に「[[午後の曳航]]」が好きだという<ref name="zakzak20091015">[https://megalodon.jp/2010-1022-0325-34/www.zakzak.co.jp/sports/mlb/news/20091015/mlb0910151623001-n1.htm 松井一問一答「最大の努力していれば動揺などしない」],ZAKZAK(2009.10.15)</ref>。歴史上の人物で傾倒しているのは[[空海]]で、関連の書籍を多く読んでいるという。著書『告白』の中では、[[最澄]]より[[空海]]に惹かれる所以を切々と語っている。
元相撲少年ということもあって、大の[[大相撲]]ファンである。[[貴乃花光司]](元横綱・貴乃花)とは現役時代に同じ施設でトレーニングに励んでいた間柄。[[高見盛精彦|高見盛]]の隠れファンでもある。[[八百長]]メール問題が発覚した際には、「一相撲ファンとして残念」とコメントを出した<ref>[https://megalodon.jp/2011-0401-0148-11/hochi.yomiuri.co.jp/mlb/news/20110203-OHT1T00277.htm アスレチックス・松井、八百長メール問題に「ファンだから残念」], スポーツ報知(2011-02-03), 2011年4月1日閲覧</ref>。また、石川県出身の同郷ということもあり、[[出島武春|大鳴戸親方]]とも親しい。
==== 慈善活動 ====
1997年の[[ナホトカ号重油流出事故|重油流出事故]]では100万の義援金を寄付<ref>朝日新聞,「巨人の松井秀喜外野手、重油流出事故で百万円の義援金 プロ野球」,1997年1月25日朝刊</ref>。2004年12月26日に発生した[[インドネシア]]・[[スマトラ島沖地震]]の際には義援金として5000万円を<ref name="nikkansports20050107">[https://web.archive.org/web/20050109051831/http://www.nikkansports.com/ns/baseball/mlb/p-bb-tp2-050107-0016.html 松井、日本人個人最高額の5000万円寄付] nikkansports.com(2005年1月7日)</ref>、2007年3月25日に発生した[[能登半島地震]]の際には1000万円を寄付した<ref>[https://megalodon.jp/2009-0320-2311-51/www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/matsui/list/200703/CK2007032902004500.html 松井選手に感謝状 義援金で県共同募金会] 中日新聞(2007年3月29日)</ref>。ジャイアンツ時代から天災やテロでの被災者・被災地等へ一度に数千万円の義援金を寄付している。ベトナムの孤児として暮らす20人ほどの子供たちに対しても、経済的里親として支援金を送っている{{R|nikkansports20050107}}。2011年3月に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]では5000万円以上の義援金を寄付すると共に、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]の公式サイトに英語で被災地への支援を呼び掛ける動画メッセージを掲載した<ref>[https://megalodon.jp/2011-0321-0210-38/www.sanspo.com/mlb/news/110320/mla1103200503001-n2.htm 松井秀、義援金&HPでは英語で呼びかけ]</ref><ref>[http://mlb.mlb.com/video/play.jsp?content_id=13227543 (動画)Matsui's message to A's fan], MLB.com(英語), 2010年</ref>。
=== 交友関係 ===
==== 記者・マスコミ ====
「マスコミと良好な関係を築けないようでは、どんなに成績を挙げても選手として失格だ」と自ら話すよう<ref>2014年8月18日 産経新聞コラム</ref>、専属広報の[[広岡勲]]や、[[サンケイスポーツ]]記者の阿見俊輔<ref>[https://web.archive.org/web/20050210041841/http://www.sanspo.com/mlb/top/mt200302/mt2003021702.html 【サンスポ40周年】松井のアーチは日本の元気] SANSPO.COM(2003年2月17日)</ref>をはじめとする各スポーツ紙の記者など[[報道機関|マスコミ]]との関係は親密で、ヤンキース移籍後も毎試合後に会見を行い、記者たちの質問にも真摯に答える。延長などで時間が遅くなってしまった場合、取材を優先してユニフォームのまま会見を受けることもある。雑誌や写真週刊誌の取材も、分け隔てなく受ける<ref>[http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=33154 【イチローと松井秀の生態学】(2)ファン、マスコミ対応] {{Wayback |url=http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=33154 |date=20090610184859 }} [[ゲンダイネット]](2009年6月9日)</ref>。シーズン終了後に、番記者や通訳らをメンバーに加えて行われる「草野球」は毎年の恒例行事であり、松井本人も楽しみにしているイベントである。その際、松井は投手を務めるため、変化球の練習を密かに行っている<ref>[https://web.archive.org/web/20060707025343/http://www.zakzak.co.jp/spo/2006_07/s2006070412.html 松井辞める!? 条件付きの投手「引退」宣言] ZAKZAK(2006年7月4日)</ref>。投手としての松井は、推定120km/hの直球と[[カーブ (球種)|カーブ]]を投じる{{R|pit}}。なお打席に立つ際にはハンディキャップとして、上述の小学生時代に振り返って右打席でバットを振る。記者と食事、キャッチボールを行うことも多く、度々記事になっている。遠征先でも、チームバスに同乗せずに報道陣のマイカーで球場に向かうことがある<ref>[https://web.archive.org/web/20040829034707/http://www.nikkansports.com/ns/baseball/mlb/p-bb-tp2-040829-0009.html 松井予感的中25号!「やっぱり打てた」] nikkansports.com(2004年8月29日)</ref>。また、記者との[[バーベキュー]]パーティーも毎年の恒例行事であり<ref>http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2006/03/26/15.html{{リンク切れ|date=2009年7月}}</ref>、他にも常日頃から[[焼肉]]<ref>[https://web.archive.org/web/20050525102224/http://www.sanspo.com/mlb/top/mt200505/mt2005051402.html 松井秀、つかの間の移動休日に焼肉を堪能] SANSPO.COM(2005年5月14日)</ref>、[[ステーキ]]<ref name="hokkoku20030322">[https://web.archive.org/web/20090629072406/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20030322.htm 松井通信 2003年3月22日 日本の報道陣対ヤ軍職員 「北陸の怪童」は投ゴロ] 北國新聞</ref>、[[しゃぶしゃぶ]]<ref>[https://web.archive.org/web/20061005040609/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20060304.htm 松井通信 2006年3月4日 情報通松井は貪欲 日本のニュースもしっかりチェック] 北國新聞</ref>などで記者との親睦を深めている。
日本テレビアナウンサーの[[河村亮]]とは野球選手と取材するアナウンサーとの間柄で知り合い、"新潟県出身""石川県出身"と言う同じ日本海側で、ざっくばらんに腹を割って話せる仲でプライベートで交流が有る<ref>2022年8月27日・28日放送分の日本テレビ『[[24時間テレビ 愛は地球を救う|24時間テレビ 愛は地球を救う45~会いたい!~]]』にて、松井自ら公表。</ref>。
松井が深刻な打撃不振に苦しんでいたメジャー1年目の2003年6月2日には、報道陣が「バーベキューでもやって落ち込んでいる松井を励まそう」と遠征先の[[シンシナティ]]でバーベキューパーティーを開催した。かつてないほど落ち込んでいた松井だったが、このバーベキューにより気分転換に成功。その3日後、26試合119打席ぶりの4号本塁打を含む4安打3打点と大爆発し、スランプを脱した。この出来事は「リメンバー、シンシナティ」として松井の心に深く刻まれ、その後は打撃不振に陥った時でも暗さを表に出すことなく乗り越えられるようになった<ref>[https://megalodon.jp/2009-1203-2010-04/www.sanspo.com/mlb/news/091203/mla0912031940014-n1.htm 【MLBコラム】ゴジラ復活の呪文 【松井秀喜世界一までの2486日】(7)] ,SANSPO.COM(2009-12-03),2010年10月22日閲覧</ref>。
食事を共にした記者に対し、「たまにはいい記事かけよ」<ref>[https://web.archive.org/web/20040410180943/http://www.yomiuri.co.jp/hochi/matsui/godzilla/9.htm 連載・あの日のゴジラ 7番降格で生まれた指揮官との絆] スポーツ報知(2004年4月10日)</ref>、「皆、もう僕の守備のこと悪く書けないね」{{R|hokkoku20030322}}と発言したというエピソードがある。「メディアの後ろに、ファンがいる」という考えを巨人時代から持っており、ニューヨークの地元記者からの信頼も厚い。[[ロバート・ホワイティング]]によれば、松井は初年度のキャンプにおいて、地元NYメディアの番記者たちを食事に招待したが、このようなことをする選手はヤンキースの長い歴史の中でも初めてだったという。しかもその折、松井は自ら所蔵するアダルトビデオを記者たちにプレゼントした。そのこともあり、先述の打撃不振の際にも、地元メディアの反応は比較的穏やかだったという<ref>[http://www.yukan-fuji.com/archives/2007/06/post_9837.html 「最も好かれる日本人メジャーリーガーは、やっぱり松井」][[ロバート・ホワイティング]]<span>サクラと星条旗</span> 夕刊フジ(2007年6月30日)</ref>。こうして、初年度オフには、全米野球記者協会(Baseball Writers' Association of America)NY支部が取材に最も協力的だった選手を表彰する「グッドガイ賞」にも輝いている<ref>[https://web.archive.org/web/20040204133123/http://www.major.jp/news/news.php?id=2004012707 松井、「グッドガイ賞」を受賞] MAJOR.JP(2004年1月27日)</ref>。
このように、報道陣からの評判はすこぶる良かった松井であるが、二者択一の問いに対しては「どちらとも言えない」という曖昧な答えを返すことが多く、記者を悩ますこともあった<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-2028-40/www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20121228/bbl1212281211011-n1.htm (cache) 【編集局から】記者泣かせだった?松井秀喜外野手] ZAKZAK 2012年12月28日閲覧</ref>。
==== チームメイト ====
唯一の高卒同期入団である[[村田善則]]とは、ともに現役を退いた後も食事に出かけるなど親しい関係である<ref>{{Cite news |url=https://www.sanspo.com/article/20181116-COPES3V5UNKPVKB4JUEPPAG36A/ |newspaper=サンケイスポーツ |date=2018-11-16 |title=松井コーチ、巨人同期入団「親友」村田コーチとふぐ料理に舌鼓 |accessdate=2019-08-03}}</ref>。
[[上原浩治]]も関係は悪くなく、殊に共に巨人を退団して以降は良好である<ref>{{Cite news |url=https://www.daily.co.jp/baseball/2019/09/23/0012726291.shtml |title=松井秀喜氏「何で辞めたの?俺は辞めさせられたんだよ」引退の上原浩治氏に直球質問 |newspaper=デイリースポーツ online |publisher=株式会社デイリースポーツ |date=2019-09-23 |accessdate=2022-12-22}}</ref>。松井にとって上原は「弟のような存在」であり、メジャー移籍後も電話やメールで連絡を取り合っている。オフには一緒に食事にも出掛けることもある<ref>[https://web.archive.org/web/20050207013357/http://www.yomiuri.co.jp/hochi/major/feb/o20050205_10.htm 松井、上原メジャー「今は無理」] スポーツ報知(2005年2月5日)</ref>。2009年に上原がヤンキースと同地区の[[ボルチモア・オリオールズ]]に移籍が決まると、「おめでとう、対戦するのが本当に楽しみ」と、自分のことのように喜んだ<ref>[https://megalodon.jp/2009-0321-1554-34/hochi.yomiuri.co.jp/feature/baseball/matsui/news/20090108-OHT1T00094.htm 松井「対戦するのが本当に楽しみ」…上原に太鼓判] スポーツ報知(2009年1月8日)</ref>。上原にとっても松井は特別な存在であり、オリオールズ入団後は「一番興味のある打者は松井さん」と強く意識し、対戦を心待ちにしていた<ref>[https://web.archive.org/web/20090426033757/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/uehara/mlb200904/KFullNormal20090402129.html 上原4・8“元・巨人対決”でデビュー] [[スポーツニッポン]](2009年4月2日)</ref>。シーズンでは上原が右肘の怪我のため途中で離脱するまでに、6度対戦し無安打に終わった。
巨人時代に共に第一線で活躍した[[清水隆行]]や[[高橋由伸]]は松井に対して強い尊敬心と信頼感を寄せていたと松井の引退後に語っており、同時にチームメイトからの信頼も絶大だったと語っている<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/baseball/npb/2013/columndtl/201305020003-spnavi?page=1 高橋由・清水が語る松井秀喜“強さ”の秘密] Yahoo内部サイトSports naviにおける[ベースボール・タイムズ]より(2013年5月3日)</ref>。由伸は、松井と初めて出会ったのは大学生時代にドラフトで巨人入りを決めた後であり、とても一つ上に見えなかったと発言しており、パワーの次元が違う、自分とは年々差がついていたと思うとも発言している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/01/03/kiji/K20130103004900450.html |title=高橋由伸 縮まらなかった松井との距離「次元が違うというのかな」 |publisher=スポーツニッポン |date=2013-01-03 |accessdate=2021-05-04}}</ref>。また、堂々としていて動じないためそういう風になりたいと思っていたと発言している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20151123-NVJNDVLD7VMGFLMC6YIZOURUEY/ |title=由伸監督「(松井氏は)どんなことにも動じない…僕もなりたい」 現役時代を振り返る |publisher=サンケイスポーツ |date=2015-11-23 |accessdate=2021-05-04}}</ref>。
[[ファイル:A's vs Yanks 4406402 Derek Jeter and Hideki Matsui.jpg|thumb|280px|ジーター(右)とハイタッチを交わす松井(2006年)]]
メジャーリーグでは、同い年でヤンキースの主将である[[デレク・ジーター]]との交流が数多く知られていた。独身時代にはジーターと同じマンションに住んでおり<ref>[https://web.archive.org/web/20051126055001/http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/headlines/20051120-00000000-spnavi-spo.html NYの貴公子、松井秀の残留に大喜び!] スポーツナビ(2005年11月20日)</ref>、初めて出会った2003年2月以来、食事を共にしたり、ときには自宅でのホームパーティーに参加したりするなどして親睦を深めてきた<ref name="sportsnavi20051120">[https://web.archive.org/web/20050227034557/http://www.sanspo.com/mlb/top/mt200502/mt2005022601.html 一緒に黄金時代を…主将ジーターが松井秀に残留要請] SANSPO.COM(2005年2月26日)</ref>。選手として、天才肌ではなく努力でのし上がったジーターに自らと似た境遇を感じ、尊敬の念を抱いているといい、「ジーターともっと話したい」という理由から英会話を熱心に勉強するようになった<ref name="zakzak20050820">[https://web.archive.org/web/20051113220604/http://www.zakzak.co.jp/spo/2005_08/s2005082003.html 松井、微妙な英語…「いい勉強法ないかな」 「ジーターと話したい」] ZAKZAK(2005年8月20日)</ref>。「同い年だけど、ジーターのリーダーシップには感心する」と語っており、主将を務めるジーターをサポートする役割を果たしたいという思いが強かった<ref>[https://web.archive.org/web/20060313104033/http://www.sanspo.com/mlb/top/mt200602/mt2006021601.html ゴジラが決意の渡米!世界一奪回へ「ジーター支えたい」] SANSPO.COM(2006年2月16日)</ref>。ジーターも個人の記録よりもチームの勝利を最優先にプレーするという点で松井と共通している為、松井を高く評価しており{{R|jeter}}、2005年シーズン開幕前には、同シーズン限りで3年契約が切れる松井に対し、「一緒に黄金時代を築きたい」という思いを込めて松井の残留を熱望したという{{R|sportsnavi20051120}}。2006年に松井が骨折で戦線を離脱した際には、「彼の代わりは存在しない」と発言し、早期復帰を願った<ref>[http://www.nytimes.com/2006/05/12/sports/baseball/12yanks.html A Broken Wrist Ends Matsui's Streak],New York Times(英語),2006/05/12</ref>。[[2009年のワールドシリーズ]]で松井がMVPを獲得した際にも、ジーターは松井の活躍を誰よりも喜び、松井も「勝てない時代もチームを引っ張ってきた彼には特別な思いがある」と語った{{R|jeter}}。ジーターは、松井に教わった「トシヨリ」という言葉を様々な場面で好んで使っている。
2009年からヤンキースに加入した[[マーク・テシェイラ]]は[[キャッチボール]]のパートナーであり、毎日試合前にキャッチボールを行っていた<ref>[https://megalodon.jp/2009-1116-1904-32/www.sanspo.com/mlb/news/091102/mla0911020530007-n1.htm GODZILLA IN USA(2日)],SANSPO.COM,2009/11/02</ref>。ヤンキースのみならずメジャーリーグを代表するスーパースターである[[アレックス・ロドリゲス]]のステロイド使用が発覚した際には、「残念ではあるが、過去はどうしようもない。大切なのはこれから」だとし、ロドリゲスに対する見方は変わらないと語った<ref>[https://megalodon.jp/2009-0321-1615-02/www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20090217029.html 松井秀 Aロッドの薬物使用に「大切なのはこれから」] Sponichi Annex(2009年2月17日)</ref>。
==== その他 ====
野球以外の著名人とは幅広い交友関係を持つ。特に[[ギタリスト]]の[[布袋寅泰]]との親交は深く<ref>[https://www.hotei.com/blog/2008/05/nyvol2.html NY通信 vol.2 - HOTEI official BLOG / 布袋寅泰 公式ブログ]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20100416071038/http://www.sanspo.com/geino/news/091106/gnj0911060519018-n1.htm 布袋寅泰、松井秀に祝福の一文「勇気与えた」],SANSPO.COM,2009/11/06</ref>、自身の登場曲にも布袋の楽曲を使用している<ref>[http://www.excite.co.jp/music/news/story/39215/ 布袋の曲が、2年連続で松井のテーマ曲に決定!!],エキサイトミュージック,2006/04/10</ref>。また、作家の[[伊集院静]]との関係は特別なものがあり、シーズン中にもかかわらず[[ニューヨーク]]で行われた伊集院の出版会見に出席したことがある。伊集院は松井の人柄を高く評価しており、「松井秀喜はアメリカに送り出した『もっとも美しい日本人!』」と著作の帯に記している<ref>[https://web.archive.org/web/20070526002016/http://www.zakzak.co.jp/spo/2007_04/s2007040913.html メジャー変えた松井の「謙譲」伊集院静氏が松井本出版 人柄伝えようと4年かけ執筆、松井はべた褒めに「恥ずかしい」] ZAKZAK(2007年4月19日)</ref>。既に1995年の[[プロ野球ai]]によるインタビューの中で、松井は最近読んだ面白い本として、伊集院の「受け月」を挙げている{{R|nikkan0303}}が、1999年に新潮社が松井に対談の企画を持ちかけたところ、松井は作品を愛読していた伊集院を相手に指名した。伊集院は驚いたが、若いスターの野球選手と会うと失望することが多かったため躊躇した。しかし実際に対談を行なって、逆に松井の人柄に惚れ込み、現在に至る交友関係が始まった<ref>[http://www.ijuin-shizuka.com/tachi/t_nemuri.htm 勇気ある若者たち 伊集院静]</ref>。
[[KAT-TUN]]の[[亀梨和也]]<ref>[https://megalodon.jp/2009-1109-1725-41/www.sanspo.com/geino/news/091106/gng0911060516000-n1.htm 亀梨和也、松井秀を祝福「誇りに思う」],SANSPO.COM,2009/11/06</ref>、キャスターの[[草野仁]]<ref name="kusano">[https://megalodon.jp/2009-1109-1724-55/www.sanspo.com/geino/news/091106/gnj0911060507011-n1.htm 草野仁、松井秀の「爆発宣言」明かした!] ,SANSPO.COM,2009/11/06</ref>、[[歌舞伎]]役者の[[松本白鸚 (2代目)|松本幸四郎]]{{R|kusano}}、女優の[[松たか子]]{{R|kusano}}、歌手の[[大友康平]]<ref>[https://megalodon.jp/2009-1109-1727-09/www.sanspo.com/geino/news/091106/gnj0911060517016-n1.htm 大友康平、松井秀MVPに「神様のご褒美」],SANSPO.COM,2009/11/06</ref>らとは公私にわたって親交がある。
俳優の[[リチャード・ギア]]とは旧知の仲である。会った時はいつも英語で談笑をしている<ref>[http://www.sanspo.com/mlb/news/090628/mla0906281246014-n1.htm 松井秀、旧知のリチャード・ギアと英語で談笑] {{Wayback |url=http://www.sanspo.com/mlb/news/090628/mla0906281246014-n1.htm |date=20090701031537 }} SANSPO.COM(2009年6月28日)</ref>。ヤンキース往年の名捕手[[ヨギ・ベラ]]は、良き相談相手であった{{R|zakzak20091015}}。2011年9月19日には、映画『[[マネーボール (映画)|マネーボール]]』で[[オークランド・アスレチックス]]の[[ビリー・ビーン]]GMを演じた[[ブラッド・ピット]]とプレミア試写会で初対面。「とてもクールだったよ(ピット)」「素晴らしい人だった(松井)」とお互いを褒め合った<ref>[https://megalodon.jp/2011-1023-2137-17/www.cinematoday.jp/page/N0035513 ブラピ、松井秀喜選手をベタ褒め!「いやあ、とてもクールだったよ」]. シネマトゥデイ. 2011年10月23日閲覧</ref>。
また独身時代は[[原田徳子]]<ref name="narinari20080404">[https://web.archive.org/web/20080409220336/http://www.narinari.com/Nd/2008049170.html 新婚ホヤホヤの松井秀喜選手、「25歳新妻」の素顔と交際エピソード。] Narinari.com(2008年4月4日)</ref>、[[草野満代]]{{Efn|草野はNHK入局後の最初の配属勤務地が[[NHK金沢放送局|金沢放送局]]で、星稜高校1年生の松井を取材した経験があり、プロ入り前から面識を持っていた。}}、[[松たか子]]<ref>週刊女性 2006年7月11日発売号</ref>、[[早坂好恵]]{{R|narinari20080404}}、[[酒井美紀]]{{R|narinari20080404}}、[[戸田菜穂]]{{R|narinari20080404}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20060703050309/http://www.zakzak.co.jp/spo/2005_11/s2005112207.html |title=松井結婚!?女優・戸田菜穂交際ゴジラパパ激白 |publisher=ZAKZAK |date=2005-11-22 |accessdate=2021-05-04}}</ref>らとの交際や[[滝川クリステル]]との「お見合い」も報じられた<ref>週刊文春 2019年8月29日号</ref>。特に、[[パリ]]への旅行が報道されるなど、戸田とは親密な仲であり、2005年に父・[[松井昌雄]]が結婚を示唆<ref>[https://web.archive.org/web/20051124075629/http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2005/11/23/01.html 松井熱愛 父も結婚の可能性示唆] Sponichi Annex(2005年11月23日)</ref>したことで、結婚間近とも言われたが、翌年破局に終わった。交際発覚後も報道陣に対し松井が曖昧なコメントを繰り返したことに対し、戸田は「松井さんは守ってくれなかった」と不信感を募らせていったという<ref>[https://web.archive.org/web/20090420233104/http://www.zakzak.co.jp/gei/2006_06/g2006061503.html 戸田菜穂「守ってくれなかった」松井フラれた!?] ZAKZAK(2006年6月15日)</ref>。
第85代・第86代[[内閣総理大臣]]・[[森喜朗]]は松井の実家の隣の集落出身(森によると実家同士が500mの距離)で、同じ[[能美市立浜小学校]]の卒業生でもある。森は松井の後援会名誉会長を務めており、ニューヨークまで激励に訪れることもある<ref>[https://megalodon.jp/2009-1110-0207-53/www.sanspo.com/shakai/news/091106/sha0911060503005-n2.htm 森元首相、松井秀MVPに「でかした」] ,SANSPO.COM,2009/11/06</ref>。
2006年の大晦日に[[オーケストラ・アンサンブル金沢]]の演奏による松井応援歌「[[栄光の道|栄光(ひかり)の道]]」([[宮川彬良]]作曲、詞は一般公募による)が初演された。オーケストラ・アンサンブル金沢の音楽監督・[[岩城宏之]]の企画によるもので、岩城は同年5月に松井へエールを送っていた。岩城は同年6月に逝去したため、生前に出した最後の手紙となった。
=== ジョー・トーリとの信頼関係 ===
2007年までヤンキース監督を務めた[[ジョー・トーリ]]は松井の入団当初、松井を「ブンブン振り回すホームランバッター」という印象だったが、シーズンが終わる頃には「場面に応じたバッティングが出来る頭のいい選手だ」と評価した。松井はルーキーイヤーのトーリの気遣いに感謝していると語っている<ref>著書 松井秀喜スピリットより</ref>。入団1年目の2003年5月には松井が全く打てない時期があり、ニューヨークの新聞やオーナーの[[ジョージ・スタインブレナー]]がこぞって松井を批判する中でもトーリは松井を擁護し続け、「打てなくても気にするな。守備や進塁打でも立派に貢献しているよ」と励ましの言葉をかけた<ref>[https://www.jiji.com/jc/v2?id=091103matsu_hideki_11 松井救ったトーリ監督の言葉],時事通信,2010年11月12日閲覧</ref>。松井は後に、スランプ脱出のきっかけをくれたのがトーリであり、トーリを信頼していたからこそアドバイスを受け入れることが出来たと語っている。なお、トーリは松井のことを「マツ」と呼んでいる。
松井はトーリについて、自らが寄せる信頼を繰り返し語っていた<ref>[https://megalodon.jp/2009-0320-2130-58/sankei.jp.msn.com/sports/mlb/071020/mlb0710201115004-n1.htm 松井秀、退任のトーリ監督に感謝] MSN産経ニュース(2007年10月20日)</ref>。トーリもまた、契約更改時に「世界中の金を集めてでもヤンキースは松井と契約すべきだ」との賛辞を送っていた。さらに「松井はウチで最も頼れる男なんだ。彼にはいつだって責任感とかキャプテンシーを要求するよ」と断言し、ジーターと並ぶチームの精神的柱になるように求めていた。
松井のチームの勝利を最優先する献身的な姿勢については、トーリも「日本では50本塁打を打つスーパースターだったのに、こちらでは何でも嫌がらずにやってくれる」と賞賛している<ref name="npn20081121">[https://npn.co.jp/article/detail/66391663/ 野球 原ジャパンに3つの不安] [[リアルスポーツ|内外タイムス]](2008年11月21日)</ref>。
2007年限りでトーリがヤンキースの監督を退き、[[ロサンゼルス・ドジャース|ドジャース]]に移ってからも、信頼関係が揺らぐことはなかった。2008、2009年は対戦機会がなかったが、エンゼルスに移籍した2010年3月のオープン戦で久々に対面。その後も、ドジャースとの対戦の際には挨拶を交わしている。同年11月、松井がニューヨークで行われたトーリ主催の慈善基金パーティーに出席した際、トーリは「マツイがどのチームに行っても応援できる」と語った<ref>共同通信,[https://web.archive.org/web/20101113104850/http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20101112040.html 元同僚ジーターも松井応援「希望通りになってほしい」],Sponichi Annex,2010年11月12日閲覧</ref>。
2012年に松井が現役引退を発表すると、トーリは「彼の監督だったことを誇りに思う」とコメントした{{R|zakzak20121228}}。
=== イチローとの関係 ===
[[1990年代]]中盤以降、松井と[[イチロー]]はタイプが全く違う選手だが、強打・巧打のそれぞれでずば抜けた実力を持つ2人は同じ時期に日本に在籍しメジャーリーグでもプレーをしていたため、ことあるごとに比較の対象となった<ref>[https://megalodon.jp/2009-1109-1739-30/www.sanspo.com/mlb/news/091108/mla0911080503003-n1.htm 松井秀、外野復帰「一時も薄れたことはない」 (1/2ページ)],SANSPO.COM,2009/11/08</ref>。ワールドシリーズMVPを受賞した翌日の[[朝日新聞]]「[[天声人語]]」は、「イチロー選手が[[剃刀|カミソリ]]なら、ゴジラは[[鉈|ナタ]]の切れ味だろうか」と評した<ref>[https://megalodon.jp/2009-1109-1731-19/www.asahi.com/paper/column20091106.html 天声人語 2009年11月6日(金)付],asahi.com</ref>。同日の[[産経新聞]]「産経抄」は、2人を「記録のイチロー」「記憶の松井」として対比した<ref>[https://megalodon.jp/2009-1109-1736-55/sankei.jp.msn.com/sports/mlb/091106/mlb0911060311000-n1.htm 【産経抄】「記録のイチロー」「記憶の松井」],MSN産経ニュース,2009/11/06</ref>。漫画家の[[やくみつる]]は「クールなイチローは現代風ヒーロー。素朴な感じの松井は、長嶋さんや王さんのような昔の選手を思い出させる」と分析している<ref name="1996ns">朝日新聞,「イチローと松井、22歳対決に期待 プロ野球日本シリーズあす開幕」,1996年10月18日夕刊</ref>。しかし、松井自身はイチローと比較され続けることについて、「正直、何とも思っていません。比較するのは2人以外のメディアやファンで、自分がコントロールできることではない。僕自身も、自分をイチローさんと比べることはしませんから」と語っている<ref>[https://megalodon.jp/2009-1109-1741-04/www.sanspo.com/mlb/news/091108/mla0911080503003-n2.htm 松井秀、外野復帰「一時も薄れたことはない」 (2/2ページ)],MSN産経ニュース,2009/11/08</ref>。
1歳年上のイチローは中学時代には既に松井の名前を知っていたという<ref name="ichiro">[https://megalodon.jp/2012-1229-2350-17/sankei.jp.msn.com/sports/news/121229/mlb12122906310000-n1.htm ただただ寂しい…イチロー、松井秀は「僕とまったく違う思考」] MSN産経ニュース 2012年12月29日閲覧</ref>。1990年6月24日に星稜高校のグラウンドで行われた[[愛知工業大学名電中学校・高等学校|愛工大名電]]との練習試合で2人は初めて顔を合わせた。その時に一塁ベース上で会話をしたことをイチローは覚えていた。イチローは「一人、でかい選手がいて、振りがすごく速い。それが松井君でした」と語っている。松井は「イチローさんの打撃はうまかった。左へ右へきれいに打ち分けていたなあ」と述懐している{{R|1996ns}}。翌年に愛工大名電の合宿所で再び顔を合わせた際には、風呂で偶然一緒になり、その後2人きりで将来のプロ入りについての会話をしている。松井はこの時のことは鮮明に覚えているという。共に高校野球界で頭抜けた存在だった2人は、当時から既に互いを意識していた<ref>[https://web.archive.org/web/20061005050425/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20041003.htm 松井通信 2004年10月3日 松井とイチロー 2人きり「密談」],北國新聞</ref>。
[[1996年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1996年のオールスターゲーム]]第2戦では、9回裏二死走者なし、打者松井の場面で[[パシフィック・リーグ|全パ]]の[[仰木彬]]監督が[[イチロー]]をマウンドに送ったが、[[セントラル・リーグ|全セ]]監督の[[野村克也]]は松井に代打[[高津臣吾]]を送ったため、両者の対戦は実現しなかった。松井は「野村(監督)さんに『どうする』と聞かれたんで『どっちでもいいです』と答えたら、『なら代われ』と言われた」とコメント。また、「仰木さんの遊び心が出たんでしょうけど、自分が監督ならやらないと思う。野手には野手、投手には投手の役割がありますから」と語っている<ref>(2010-06-23)[https://megalodon.jp/2010-0820-1837-58/www.sanspo.com/mlb/news/100623/mla1006230503002-n2.htm 米が注目「ゴジVsイチ幻の対決」特集予定],SANSPO.COM,2010年8月20日閲覧</ref>。
日本時代は異なるリーグに所属していたため、交流する機会はほとんどなかったが、マリナーズと同じ[[アメリカンリーグ]]に所属するヤンキースに移籍後は、対戦の際にしばしば松井の方からイチローへ挨拶に赴いていた。2003年5月7日のマリナーズ対ヤンキース戦では、4回一死三塁(走者は松井)の場面で、フェンス手前への大飛球をキャッチしたイチローが、本塁へノーバウンドの大返球をみせた。到底間に合わないタイミングであったが、イチローは「松井を刺せばネタになるでしょ。100パーセント意識しましたよ」と語った<ref>「ICHIRO YEAR BY YEAR 2001-2009」 『月刊スラッガー』2009年10月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-10、16頁。</ref>。同年の[[2003年のMLBオールスターゲーム|オールスター戦]]では、試合前にはイチローから「一緒にやろうよ」と声をかけられ、2人でキャッチボールを行った<ref>[https://web.archive.org/web/20061005042523/http://www.hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20030716.htm 北國新聞 2003年7月16日 球宴初球ヒット 「思い切り詰まった」と苦笑い],北國新聞</ref>。シーズンオフには、テレビ番組の企画で2時間にも及ぶ対談を行っている。しかし、2005年を最後に、両者の接触はほとんどなくなった。このことを巡って、[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|2006年のWBC]]前後には、複数の[[タブロイド]]紙や[[週刊誌]]などでWBC出場辞退の経緯を巡る「イチローの陰謀」説や2人の不仲説が伝えられた<ref>[[週刊アサヒ芸能]],2006年4月20日号</ref><ref>[http://gendai.net/?m=view&c=010&no=17316 イチローに抜け駆けされ悪者にされた松井秀] {{Wayback |url=http://gendai.net/?m=view&c=010&no=17316 |date=20090311232437 }},ゲンダイネット(2006年1月18日掲載)</ref><ref>[[江尻良文]],2008/10/17,「ラストチャンス…松井WBC出場に意欲あり情報浮上」,夕刊フジ</ref><ref>[https://megalodon.jp/2009-0917-2340-59/npn.co.jp/article/detail/11295251/ 大リーグ イチローと松井秀喜 浅からぬ因縁],[[リアルスポーツ|内外タイムス]],2009年4月17日付</ref>。[[ニューヨーク・タイムズ]]紙は2009年に松井の去就問題を特集した記事の中で、「松井はイチローと友達ではないので、マリナーズで共にプレーすることを望まないだろう」と述べた<ref>Jack Curry,08/25/09,[http://www.nytimes.com/2009/08/25/sports/baseball/25yankees.html As Matsui Slows Down, He Hopes to Stay Put],New York Times(英語),2009年9月18日閲覧</ref>。2009年12月に松井のエンゼルス入団が決まると、途絶えていた両者の交流も復活。イチローは「[[ウェルかめ]] to west Division」「バディを鍛えてお互いがんばろうぜ!」と、独特の言い回しで同地区への移籍を歓迎した<ref>[https://web.archive.org/web/20091220153851/http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2009/12/18/07.html ウェルかめ」!?“イチ流”エールで松井秀を歓迎!],スポーツニッポン,2009年12月24日閲覧</ref>。同地区に所属することになった2010年、オープン戦で5年ぶりの会話が実現した<ref>阿部太郎(2010-07-19)[http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/mlb/news/CK2010071902000101.html 松井とイチローがツライ握手!? 松井は欠場、イチローは4連敗]{{リンク切れ|date=2020年2月 |bot=InternetArchiveBot }},中日スポーツ,2010年8月20日閲覧</ref>。シーズン中にも松井とイチローが試合前に談笑する様子が報じられている<ref>(2010-07-18)[https://megalodon.jp/2010-0820-1820-41/www.sanspo.com/mlb/news/100718/mla1007181450009-n1.htm イチローと松井秀が談笑「元気なことを確認」],SANSPO.COM,2010年8月20日閲覧</ref>。
2004年には、イチローは松井の印象について「愛嬌のある雰囲気というか、プレーそれぞれに憎めなさがある」と語っていた<ref>木本大志,2004/05/10,[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/04season/column/200405/at00000564.html イチローと松井、メジャーリーガーと認められた2人] {{Wayback |url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/04season/column/200405/at00000564.html |date=20070103215850 }},スポーツナビ,2009年9月17日閲覧</ref>。一方で、「松井とイチローという2人は、考え方もやり方も対極にあると思っている」とも語っている<ref>[http://www3.nikkansports.com/baseball/mlb/ichiro/2004/ichiro-rensai2.html イチロー大記録への軌跡 マスコミ嫌い今は違う、でも松井とは対極],nikkansports.com,2009年12月24日閲覧</ref>。
2009年9月にイチローが史上初の9年連続200本安打を達成した際には、松井は「球をバットの芯でとらえる技術は大リーグでもトップクラス」、「イチローさんは常にファンを魅了することを意識しているのがすごい」とイチローを賞賛するコメントを出した<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=200909/2009091400560 イチローの安定感に敬服=「大きなけがもない」と松井秀-米大リーグ],時事ドットコム,2009年9月14日)</ref>。
2012年7月、イチローがヤンキースに電撃移籍した折には、アメリカでも二人の比較論が盛んに交わされた<ref>[http://sankei.jp.msn.com/sports/news/120726/mlb12072618180016-n1.htm NYで「比較論」真っ盛り イチローと松井] {{Wayback |url=http://sankei.jp.msn.com/sports/news/120726/mlb12072618180016-n1.htm |date=20121113162919 }},産経新聞,2012年7月26日)</ref>。イチローのヤンキース入りについて松井は、「ヤンキースは常に戦力を厚くしようとしている。驚き?それはなかった」とコメントした<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20120725/mlb12072514030018-n1.html 松井秀、イチロー移籍に「驚きはなかった」] {{Wayback |url=http://www.sanspo.com/baseball/news/20120725/mlb12072514030018-n1.html |date=20121029011149 }},サンスポ,2012年7月25日)</ref>。一方イチローは「ヤンキースで長く過ごしていたこと自体が、松井の選手としてのみならず人間としての偉大さを示している」と、ヤンキースの先輩に対して最大限の賛辞を送った<ref>[https://web.archive.org/web/20120728160827/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120726-00000213-mlbjp-base イチローが松井に言及、「ヤンキースでの活躍が魅力証明」] ,MLB.jp,2012年7月26日)</ref>。
2012年12月、松井が現役引退を発表すると、イチローは「中学生の時から存在を知る唯一のプロ野球選手がユニホームを脱ぐことが、ただただ寂しい」と感傷的なコメントを出した{{R|ichiro}}<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-2256-53/www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/f-bb-tp2-20121228-1065529.html イチロー「ただただ寂しい」/松井引退] nikkansports.com 2012年12月28日閲覧</ref>。
=== ヤンキースGM特別アドバイザー ===
実務としてはマイナーリーグ全カテゴリの巡回コーチであり、直接の打撃指導をしながらその傍らでルーキーリーグなら1A、3Aならメジャーのように、上のカテゴリでも活躍できるであろう打者を見抜いてそれぞれの監督に進言する役もこなしていた。そうしてメジャー昇格を果たした選手の中には[[アーロン・ジャッジ]]、[[ゲーリー・サンチェス]]らがいる<ref>{{Cite web|和書|title=ヤンキース復権の陰に松井秀喜氏の“育成”手腕あり |url=https://bunshun.jp/articles/-/7415 |website=文春オンライン |date=2018-05-18 |accessdate=2021-07-13 |first=神田 |last=洋}}</ref>。
=== WBC辞退 ===
[[ワールド・ベースボール・クラシック]]には、2大会連続で日本代表としての出場が期待されたが、いずれも辞退している。
==== 第1回大会 ====
2005年オフ、翌年3月に開催される第1回ワールド・ベースボール・クラシック[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|日本代表]]の4番打者としての出場要請を受けた。
11月27日の段階では、「何も考えていません」と答えていたが<ref>[https://web.archive.org/web/20060318125335/http://www.sanspo.com/baseball/top/bt200511/bt2005112902.html “主将の座”で口説く!王監督がゴジラにWBC出場要請へ] SANSPO.COM(2005年11月29日)</ref>、29日の段階では、「みんなが『WBCに出てください』という感じになれば、そりゃ、出ますよ」と発言する<ref>http://www.yomiuri.co.jp/hochi/major/nov/o20051129_10.htm{{リンク切れ|date=2009年7月}}</ref>など、前向きな姿勢を示すようになっていた。しかし、12月2日、監督の[[王貞治]]から正式に出場要請を受けた後は「(4番や主将など)そういうふうに言ってくれるのは光栄ですが、それ以上のことは言えません」として返答は保留した<ref name="sanspo20051227">[https://web.archive.org/web/20051228040010/http://www.sanspo.com/mlb/top/mt200512/mt2005122701.html 松井秀、WBC出場辞退!「ヤ軍で世界一を目指したい」] SANSPO.COM(2005年12月27日)</ref>。7日には、ヤンキースのキャッシュマンGMが松井のWBC出場を容認する意向を示したと報じられたが、松井本人は慎重な姿勢を崩さなかった<ref>[https://www.narinari.com/Nd/2005125308.html ヤンキース、松井秀喜外野手のWBC出場を容認。] Narinari.com(2005年12月7日)</ref>。その後、1次候補選手に名前が入るという情報{{Efn|実際は外野手1名分を空席にしたままで発表された。}}を知らされると、「返事してないのに、俺の名前を入れちゃうわけ!?」と困惑しきりであった<ref>[https://web.archive.org/web/20051211063806/http://www.zakzak.co.jp/spo/2005_12/s2005120909.html 松井ミュージアムに日テレの鼻息 WBC放映権「ぜひ出場を」] ZAKZAK(2005年12月9日)</ref>。さらに3日後の11日には、「(WBCに)出たくない」という松井の本音が報じられた<ref>[https://web.archive.org/web/20051212054301/http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2005/12/11/10.html 松井秀“WBC出場”へプレッシャー?] Sponichi Annex(2005年12月11日)</ref>。
14日にはヤンキースへの貢献を優先することと、商業主義が見え隠れするWBCの開催に賛同しかねたことを主な理由として出場辞退の意向を固めた<ref>[https://web.archive.org/web/20051215084425/http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2005/12/14/01.html 松井秀WBC辞退へ…趣旨に疑問] Sponichi Annex(2005年12月14日)</ref>。さらに、一部メディアではヤンキースのキャッシュマンGMからWBC欠場を要請する“親書”が届けられていたことが報じられた<ref>[https://web.archive.org/web/20051216115955/http://www.sanspo.com/mlb/top/mt200512/mt2005121501.html 松井秀WBCやっぱりダメ!!ヤ軍から親書“出ないでくれ”] SANSPO.COM(2005年12月15日)</ref>。しかし、地元紙[[デイリーニューズ (ニューヨーク)|ニューヨーク・デーリーニューズ]]の報道によると、ヤ軍がWBC事務局に不参加を要請した選手は年齢や故障が理由とされた先発投手[[マイク・ムシーナ]]、捕手[[ホルヘ・ポサダ]]など4名のみであり、松井への不参加要請などはなく、一部メディアの虚報であることが明らかになった<ref>[https://web.archive.org/web/20051217133150/http://www.nikkansports.com/ns/baseball/mlb/p-bb-tp2-051215-0005.html 松井の名前なし!ヤ軍WBC不参加要請] nikkansports.com(2005年12月15日)</ref>。約2週間後には、ヤンキースのスモール球団代表もそのような文書の存在を否定した<ref>http://sports.livedoor.com/baseball/major/detail?id=2367381{{リンク切れ|date=2009年7月}}</ref>。この“親書”報道について、2008年にキャッシュマンGM自身も「まったくのデタラメ」だと語っている<ref>[https://megalodon.jp/2008-1114-1404-37/www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20081114-429301.html WBCダメ!ヤ軍GM松井出場を完全否定] nikkansports.com(2008年11月14日)</ref>。また、一部報道による、「イチローに騙された」といった類いの、根拠に乏しい憶測が書きたてられることもあった。このような過程による松井の出場辞退に関して、日本ばかりでなく米国、メジャーリーグ選手会やWBC関係者からも大きく批判の声が上がった<ref>[https://web.archive.org/web/20060110171556/http://chuspo.chunichi.co.jp/00/ichiro/20060105/spon____ichiro__000.shtml WBC不参加のゴジラを選手会チクリ 米紙が特集で掲載] 中日スポーツ(2006年1月5日)</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20120118084440/http://sports.livedoor.com/article/detail-2810178.html ラソーダ氏、松井、井口を痛烈批判] [[livedoor]]スポーツ(2006年1月11日)</ref>。
王側は尚も松井の参加を模索し続けたが、結局出場要請から約1か月後となる12月26日、正式にWBC辞退を表明した。その際には、「王貞治[[殿]]」と宛名を書いた便箋15枚の手紙を記者を通じて王の元へ送り、辞退の理由を説明した。熟慮を重ねた結果としての苦渋の決断であることや、返答まで1か月近くもかかってしまったことへの謝罪の言葉などを綴ったという{{R|sanspo20051227}}。
大会期間中、松井は日本代表の試合をテレビ観戦していた<ref name="wbc1">[https://web.archive.org/web/20101123153614/http://hokkoku.co.jp/_today/godzilla/tsuusin/godzilla20060313.htm 松井通信 2006年3月13日 10打席ぶり安打。でも不満「まだ調整段階」表情さえず。WBCはテレビ観戦「楽しみにしている」] 北國新聞</ref>。しかし、既にWBC辞退とそこに至るまで二転三転した経緯から、松井への批判が強まり、バッシングの様相も呈した。米国の全国紙[[USAトゥデイ]]は、紙上で「WBCで[[イチロー]]は勝利し、松井は“ルーザー(負け犬)”になってしまったようだ」<ref>2006年3月27日付け</ref>と評した。このことを振り返って、松井の広報を担当する[[広岡勲]]は、後に自らの広報戦略の失敗を認めている<ref>広岡勲『ヤンキース流広報術』第4章 [[日本経済新聞社]]</ref><ref name="zakzak20081227">[https://web.archive.org/web/20090614180322/http://www.zakzak.co.jp/spo/200812/s2008122719_all.html WBC、松井の本音は「出場」だった…広岡勲氏(上) 真相直撃インタビュー「気になるあの人、あの話題」] ZAKZAK(2008年12月27日)</ref>。
また、同年4月14日付け『[[フライデー (雑誌)|フライデー]]』誌上のインタビューでは、辞退の理由を「この時期にベストパフォーマンスを見せられる自信がない」とした上で、次回大会以降も開催時期が変わらないようであれば出場は難しいとの見解を明らかにした。
2006年の年末には、[[テレビ東京]]系列『[[日経スペシャル カンブリア宮殿]]』内の企画で[[サッカー]]元[[サッカー日本代表|日本代表]]の[[三浦知良]]と対談した際、WBC辞退について、「サッカーに比べると野球はまだ[[ナショナリズム]]が弱いスポーツ。それが強くなっていった時、チャンスがあればやりたいし、国の誇りを感じられるんじゃないかと思う」と話した<ref>[https://web.archive.org/web/20070109221707/http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2006/12/24/05.html 松井秀&カズ 10年後も現役!] Sponichi Annex(2006年12月24日)</ref>。
3年後の2009年シーズン開幕前には、『Number』誌上のインタビューにおいて、「あのときはあのときの事情があったから。決して後悔はしていません。」と語っている<ref name="number_2">[https://megalodon.jp/2011-0325-0320-20/number.bunshun.jp/articles/-/12324?sess=8fa484918f20cfc8119a356bac9a8e64 松井秀喜 「危機感は常に持っている」 【連載最終回】[7年目の決意]] MLBコラム - Number Web</ref>。
==== 第2回大会 ====
2008年シーズン中盤から予定されていた左膝の手術を9月22日まで引き伸ばした時点で、WBC出場の可能性は無くなったとされた<ref>[https://megalodon.jp/2009-0320-1512-57/www.sanspo.com/mlb/news/080923/mla0809230430005-n2.htm 松井秀「来年は気持ちも体も一新して」] SANSPO.COM(2008年9月23日)</ref>。しかし、オフには翌2009年の第2回WBC出場が取りざたされ、前回大会直後は第2回大会への出場にも消極的であった松井本人も意欲を見せたと報じられた<ref>[https://megalodon.jp/2009-0320-1515-11/hochi.yomiuri.co.jp/feature/baseball/matsui/news/20081115-OHT1T00250.htm 松井激白 WBC「出たい」…GM「絶対無理」も左ひざ順調] スポーツ報知(2008年11月15日)</ref>。しかし、ヤンキースは手術明けの松井に対して出場許可を出さない方針を打ち出した<ref>[https://web.archive.org/web/20110329071426/http://www.yomiuri.co.jp/sports/feature/matsui/ma20081126_01.htm 松井秀、WBC辞退] 読売新聞(2008年11月26日)</ref>こともあり、手術した左膝の回復を優先させるため、として11月末には辞退の意向を明らかにした。辞退の際には、監督の[[原辰徳]]に直接電話をかけ、「申し訳ない気持ちで一杯」であったという<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/baseball/20081016-4822204/news/20081127-OHT1T00003.htm 松井秀WBC辞退…原監督に直接電話「申し訳ない気持ちでいっぱい」] {{Wayback |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/baseball/20081016-4822204/news/20081127-OHT1T00003.htm |date=20090304053037 }} スポーツ報知(2008年10月16日)</ref>。それでもなお、原は暫定ロースター登録締め切りまで松井の参加を待ち続けたが、膝の回復が間に合わなかったとの理由で、翌年1月16日になって正式に招集を断念した<ref>{{Cite news |title=WBC原監督決めた「松井抜きで戦う」 |newspaper=日刊スポーツ |date=2009-01-17 |url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20090117-450891.html |accessdate=2011-02-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110329064223/http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20090117-450891.html |archivedate=2011年3月29日 |deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。
専属広報の[[広岡勲]]によると、松井が出場を希望したのは、大型契約を結んだばかりで、ヤンキースでじっくりキャンプを過ごしたかった前回とは違い、今回は年齢的に日本代表として戦える最後のチャンスという意識が強かったためだという。また、今回は膝の手術と所属チームの反対という理由が存在し、広岡が国内の空気や流れを読んで、タイミングを図って辞退を発表したため、前回のようなバッシングは起こらなかった{{R|zakzak20081227}}。日本の二連覇が決まると、松井は「日本の野球が、それだけ世界に通用するということだと思う」とのコメントを発表した<ref>[https://web.archive.org/web/20090328085450/http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20090325019.html 松井秀が、上原が…侍ジャパンに祝福の声] Sponichi Annex(2009年3月25日)</ref>。
『Number』誌上のインタビューでは、身体の状態が万全でなかったことが辞退の直接の理由となったことを改めて明言。さらに、4年後の[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック|第3回大会]]には、年齢的な理由から出場の可能性が低いことを認め、「それは仕方ない。(WBCには)縁がなかったということでね。」と語っている{{R|number_2}}。
==== 第3回大会 ====
日本代表の監督に就任した[[山本浩二]]が2012年10月10日の就任会見でメジャーリーガーの代表入りについて問われた際、「ダル、イチロー、青木、黒田…。そういう選手が軸になるわけやから。松井もブランクはあるけど、練習はやっていると聞いている。大リーグ経験者には当然出てほしい。松井の動向は気にしている? そうだね。松井もイチローも、それだけの実績を残している選手は、力強いものを持っている」と述べていたが<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1433-38/hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20121010-OHT1T00300.htm 侍ジャパンに松井!浩二監督、3連覇へ「出てほしい」] スポーツ報知([[ウェブ魚拓]]、2012年12月28日) 2016年5月20日閲覧</ref>、7月にレイズを戦力外となって以来、久しく実戦から離れていることがネックとなり、11月6日に招集見送りが決まった<ref>[https://megalodon.jp/2012-1228-1433-16/hochi.yomiuri.co.jp/feature/baseball/20081016-4822204/news/20121105-OHT1T00269.htm 松井は招集見送り ブランクがネックに…WBC] スポーツ報知</ref>。結局、松井は現役中に選手としてWBCに一回も出ることはなかった。
=== その他 ===
かつて[[中央競馬]]に「ヨバンマツイ」なる競走馬が在籍していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://db.sp.netkeiba.com/horse/2002102033/ |title=ヨバンマツイ |publisher=株式会社ネットドリーマーズ |website=netkeiba.com |date= |accessdate=2019-10-10}}</ref>。2006年10月1日に[[中京競馬場]]で行われたレースで[[安藤勝己]]騎乗で中央競馬での初勝利を挙げ、その時の馬番は'''4番'''だった。
学生時代、[[松山ホステス殺害事件]]の犯人で整形手術をして逃亡中だった[[福田和子]]が石川県根上町の和菓子屋の内縁の座にいた際、松井は客としてよく菓子を買いに来て福田和子と会っていたエピソードがある。福田和子逮捕後のインタビューでは「とても綺麗で優しいおばさんという印象だった」と語っている<ref>[https://megalodon.jp/2012-0118-1746-48/www.at-s.com/sbsradio/program/love/2010/07/729.html GOGOワイドらぶらじ]. SBSラジオ. 2012年1月18日閲覧</ref>。
== 詳細情報 ==
=== 年度別打撃成績 ===
{| {{年度別打撃成績|リーグ=プロ野球チーム一覧}}
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1993}}
|rowspan="10" style="text-align:center;white-space:nowrap;"|[[読売ジャイアンツ|巨人]]
|57||203||184||27||41||9||0||11||83||27||1||0||0||0||17||0||2||50||1||.223||.296||.451||.747
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1994}}
||'''130'''||569||503||70||148||23||4||20||239||66||6||3||1||4||57||1||4||101||12||.294||.368||.475||.843
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1995}}
|'''131'''||569||501||76||142||31||1||22||241||80||9||7||2||2||62||1||2|||93||12||.283||.363||.481||.845
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1996}}
|'''130'''||569||487||'''97'''||153||34||1||38||'''303'''||99||7||2||0||7||71||1||4||98||5||.314||.401||.622||1.023
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1997}}
|135||596||484||93||144||18||0||37||273||103||9||3||0||6||'''100'''||10||6||84||5||.298||.419||.564||.984
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1998}}
|135||603||487||'''103'''||142||24||3||'''34'''||274||'''100'''||3||5||0||4||'''104'''||2||'''8'''||101||7||.292||.'''421'''||'''.563'''||'''.984'''
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1999}}
|'''135'''||573||471||100||143||24||2||42||297||95||0||4||0||6||93||3||2||99||3||.304||.416||.631||1.047
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2000}}
|135||590||474||'''116'''||150||32||1||'''42'''||'''310'''||'''108'''||5||2||0||'''7'''||'''106'''||5||2||108||1||.316||.'''438'''||'''.654'''||'''1.092'''
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2001}}
|'''140'''||611||481||'''107'''||160||23||3||36||'''297'''||104||3||3||0||7||120||6||3||96||9||'''.333'''||.463||.617||1.081
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2002}}
|'''140'''||623||500||'''112'''||167||27||1||'''50'''||'''346'''||'''107'''||3||4||0||3||'''114'''||'''17'''||6||104||4||.334||.'''461'''||'''.692'''||'''1.153'''
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2003}}
|rowspan="7" style="text-align:center;"|[[ニューヨーク・ヤンキース|NYY]]
|'''163'''||695||623||82||179||42||1||16||271||106||2||2||0||6||63||5||3||86||25||.287||.353||.435||.788
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2004}}
|'''162'''||680||584||109||174||34||2||31||305||108||3||0||0||5||88||2||3||103||11||.298||.390||.522||.912
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2005}}
|'''162'''||703||629||108||192||45||3||23||312||116||2||2||0||8||63||7||3||78||16||.305||.367||.496||.863
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2006}}
|51||201||172||32||52||9||0||8||85||29||1||0||0||2||27||2||0||23||6||.302||.393||.494||.887
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2007}}
|143||633||547||100||156||28||4||25||267||103||4||2||0||10||73||2||3||73||9||.285||.367||.488||.855
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2008}}
|93||378||337||43||99||17||0||9||143||45||0||0||0||0||38||6||3||47||10||.294||.370||.424||.795
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2009}}
|142||526||456||62||125||21||1||28||232||90||0||1||0||2||64||1||4||75||4||.274||.367||.509||.876
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2010}}
|style="text-align:center;"|[[ロサンゼルス・エンゼルス|LAA]]
|145||554||482||55||132||24||1||21||221||84||0||1||0||4||67||6||1||98||10||.274||.361||.459||.820
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2011}}
|style="text-align:center;"|[[オークランド・アスレチックス|OAK]]
|141||583||517||58||130||28||0||12||194||72||1||1||0||9||56||3||1||84||10||.251||.321||.375||.696
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2012}}
|style="text-align:center;"|[[タンパベイ・レイズ|TB]]
|34||103||95||7||14||1||0||2||21||7||0||0||0||0||8||1||0||22||5||.147||.214||.221||.435
|-
!colspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[日本プロ野球|NPB]]:10年
|1268||5506||4572||901||1390||245||16||332||2663||889||46||33||3||46||844||46||39||934||59||.304||.413||.582||.996
|-
!colspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[メジャーリーグベースボール|MLB]]:10年
|1236||5056||4442||656||1253||249||12||175||2051||760||13||9||0||46||547||35||21||689||106||.282||.360||.462||.822
|}
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高
=== 年度別打撃成績所属リーグ内順位 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size: small;"
|-style="line-height:1.25em;"
! 年<br /><br />度 !! [[年齢|年<br /><br />齢]] !! 機<br /><br />構 !! リ<br />|<br />グ !! 打<br /><br />率 !! 本<br />塁<br />打 !! 打<br /><br />点 !! 盗<br /><br />塁 !! 安<br /><br />打 !! 出<br />塁<br />率
|-
|1993|| 19 ||rowspan="10"| NPB ||rowspan="10"| [[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]
| - || - || - || - || - || -
|-
|1994|| 20 || - || 9位 || - || - || 6位 || -
|-
|1995|| 21 || - || 5位 || 4位 || 10位 || 6位 || -
|-
|1996|| 22 || 7位 || style="background:silver;" | 2位 || 4位 || - || 6位 || 7位
|-
|1997|| 23 || - || style="background:silver;" | 2位 || style="background:silver;" | 2位 || - || 10位 || style="background:silver;" | 2位
|-
|1998|| 24 || - || style="background:gold;" | 1位 || style="background:gold;" | 1位 || - || 8位 || style="background:gold;" | 1位
|-
|1999|| 25 || 9位 || style="background:silver;" | 2位 || 5位 || - || - || style="background:#cc9966;" | 3位
|-
|2000|| 26 || style="background:#cc9966;" | 3位 || style="background:gold;" | 1位 || style="background:gold;" | 1位 || - || 9位 || style="background:gold;" | 1位
|-
|2001|| 27 || style="background:gold;" | 1位 || style="background:silver;" | 2位 || style="background:#cc9966;" | 3位 || - || 5位 || style="background:silver;" | 2位
|-
|2002|| 28 || style="background:silver;" | 2位 || style="background:gold;" | 1位 || style="background:gold;" | 1位 || - || style="background:#cc9966;" | 3位 || style="background:gold;" | 1位
|-
|2003|| 29 ||rowspan="10"|MLB||rowspan="10"| [[アメリカンリーグ|ア・リーグ]]
| - || - || 10位 || - || - || -
|-
|2004|| 30 || - || - || 10位 || - || - || 10位
|-
|2005|| 31 || 7位 || - || 8位 || - || 9位 || -
|-
|2006|| 32 || - || - || - || - || - || -
|-
|2007|| 33 || - || - || - || - || - || -
|-
|2008|| 34 || - || - || - || - || - || -
|-
|2009|| 35 || - || - || - || - || - || -
|-
|2010|| 36 || - || - || - || - || - || -
|-
|2011|| 37 || - || - || - || - || - || -
|-
|2012|| 38 || - || - || - || - || - || -
|}
* - は10位未満(打率、出塁率は規定打席未到達の場合も-と表記)
* NPBに於ける打撃タイトルは、首位打者、最多本塁打、最多打点、最多盗塁、最多安打、最高出塁率
* MLBに於ける打撃タイトルは、首位打者、最多本塁打、最多打点、最多盗塁
=== MLBポストシーズン打撃成績 ===
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small;"
|-style="line-height:1.25em;"
![[年度|年<br /><br />度]]!!style="width:6%;"|球<br /><br />団!![[試合|試<br /><br />合]]!![[打席|打<br /><br />席]]!![[打数|打<br /><br />数]]!![[得点 (野球)|得<br /><br />点]]!![[安打|安<br /><br />打]]!![[二塁打|二<br />塁<br />打]]!![[三塁打|三<br />塁<br />打]]!![[本塁打|本<br />塁<br />打]]!![[塁打|塁<br /><br />打]]!![[打点|打<br /><br />点]]!![[盗塁|盗<br /><br />塁]]!![[盗塁|盗<br />塁<br />死]]!![[犠牲バント|犠<br /><br />打]]!![[犠牲フライ|犠<br /><br />飛]]!![[四球|四<br /><br />球]]!![[故意四球|敬<br /><br />遠]]!![[死球|死<br /><br />球]]!![[三振|三<br /><br />振]]!![[併殺|併<br />殺<br />打]]!![[打率|打<br /><br />率]]!![[出塁率|出<br />塁<br />率]]!![[長打率|長<br />打<br />率]]!![[OPS (野球)|O<br />P<br />S]]
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2003}}
|rowspan="6" style="text-align:center;"|[[ニューヨーク・ヤンキース|NYY]]
|17||72||64||6||18||4||0||2||28||11||0||0||0||1||6||0||0||8||2||.291||.347||.438||.785
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2004}}
|11||57||51||12||21||7||1||3||39||13||0||0||0||1||5||1||0||8||0||.412||.456||.765||1.221
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2005}}
|5||22||20||4||4||1||0||1||8||1||0||0||0||0||2||0||0||3||2||.200||.273||.400||.673
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2006}}
|4||16||16||1||4||1||0||0||6||1||0||0||0||0||0||0||0||2||0||.250||.250||.313||.563
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2007}}
|4||16||11||1||2||0||0||0||2||0||0||0||0||0||5||1||0||2||0||.182
|.438||.182||.619
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2009}}
|15||52||43||5||15||2||0||4||23||13||0||0||0||0||9||0||0||10||8
|.349||.462||.674||1.136
|-
!colspan="2"|出場:6回
|56||235||205||32||64||15||1||10||111||39||0||0||0||2||27||2||1||33||12||.312||.391||.541||.933
|}
=== 年度別守備成績 ===
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small;"
!rowspan="2"|年<br />度!!rowspan="2"|球<br />団!!colspan="6"|[[左翼手|左翼手(LF)]]!!colspan="6"|[[中堅手|中堅手(CF)]]!!colspan="6"|[[右翼手|右翼手(RF)]]
|-style="line-height:1.25em;"
!試<br /><br />合!![[刺殺|刺<br /><br />殺]]!![[補殺|補<br /><br />殺]]!![[失策|失<br /><br />策]]!![[併殺|併<br /><br />殺]]!![[守備率|守<br />備<br />率]]!!試<br /><br />合!!刺<br /><br />殺!!補<br /><br />殺!!失<br /><br />策!!併<br /><br />殺!!守<br />備<br />率!!試<br /><br />合!!刺<br /><br />殺!!補<br /><br />殺!!失<br /><br />策!!併<br /><br />殺!!守<br />備<br />率
|-
|style="text-align:center;"|2003
|rowspan="6" style="text-align: center; white-space:nowrap;"|NYY
|118||210||11||'''7'''||'''3'''||.969||46||110||2||1||1||.991||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|2004
|'''160'''||'''303'''||8||'''7'''||2||.978||3||2||4||0||0||1.000||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|2005
|115||219||7||3||1||.987||28||54||0||0||0||1.000||4||6||0||0||0||1.000
|-
|style="text-align:center;"|2006
|36||82||1||1||1||.988||colspan="6" style="text-align:center;"|-||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|2007
|112||213||6||3||9||.986||colspan="6" style="text-align:center;"|-||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|2008
|21||40||2||1||1||.977||colspan="6" style="text-align:center;"|-||3||2||0||0||0||1.000
|-
|style="text-align:center;"|2010
|rowspan="1" style="text-align: center; white-space:nowrap;"|LAA
|18||16||1||0||0||1.000||colspan="6" style="text-align:center;"|-||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|2011
|rowspan="1" style="text-align: center; white-space:nowrap;"|OAK
|27||53||3||1||2||.982||colspan="6" style="text-align:center;"|-||colspan="6" style="text-align:center;"|-
|-
|style="text-align:center;"|2012
|rowspan="1" style="text-align: center; white-space:nowrap;"|TB
|9||6||0||0||0||1.000||colspan="6" style="text-align:center;"|-||6||8||0||0||0||1.000
|-
!colspan="2"|通算
|616||1142||39||23||10||.981||77||168||2||1||1||.994||13||16||0||0||0||1.000
|}
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高
=== タイトル ===
; NPB
* [[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]:1回(2001年) ※史上3人目のフルイニング出場での獲得
* [[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]:3回(1998年、2000年、2002年)
* [[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]:3回(1998年、2000年、2002年)
* [[最高出塁率 (日本プロ野球)|最高出塁率]]:3回(1998年、2000年、2002年)
=== 表彰 ===
; NPB
* [[最優秀選手 (日本プロ野球)|最優秀選手]]:3回(1996年、2000年、2002年)
* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:8回(1995年 - 2002年) ※外野手部門を8年連続は歴代2位タイ(他に[[山本浩二]]、[[秋山幸二]])で、山本と並ぶセ・リーグ最長
* [[ゴールデングラブ賞]]:3回(2000年 - 2002年)
* [[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]競技者表彰(2018年)
* [[正力松太郎賞]]:1回(2000年)※選手として表彰
* [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:7回(1994年4月、1996年7月・8月、1998年5月、2001年9月、2002年7月・8月)
* 最優秀[[JCB・MEP賞]]:5回(1994年、1996年、1997年、2000年、2002年)
* 優秀JCB・MEP賞:1回(1998年)
* [[JA全農Go・Go賞]](強肩賞):1回(1998年9月)
* [[IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞]]:4回(1996年 - 1998年、2000年)
* [[ゴールデンスピリット賞]]:1回(1999年)
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]MVP:3回([[1995年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1995年]] 第2戦、[[1998年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1998年]] 第2戦、[[1999年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1999年]] 第1戦)
* [[出身地別東西対抗戦]]優秀選手:2回(1999年、2001年)
* [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]MVP:1回([[2000年の日本シリーズ|2000年]])
* [[東京ドーム#東京ドームMVP賞|東京ドームMVP]]:3回(1996年、1997年、2002年)
* [[ヤナセ]]・ジャイアンツMVP賞:4回(1996年、1998年、2000年、2001年)
; MLB
* [[ワールドシリーズ最優秀選手賞|ワールドシリーズMVP]]:1回([[2009年のワールドシリーズ|2009年]])
* [[プレイヤー・オブ・ザ・マンス|月間MVP]]:1回(2007年7月)
* 週間MVP:4回(2003年6月、2004年5月、2005年6月、2011年7月)
* [[ルーキー・オブ・ザ・マンス|月間新人MVP]]:1回(2003年6月)
* [[インターリーグ]]首位打者:1回(2003年)
* クラッチ・パフォーマー賞:1回(2009年8月)
* [[:en:Baseball Digest|Baseball Digest]] ルーキーオールスターチーム(2003年)<ref>[http://www.baseball-reference.com/bullpen/Baseball_Digest_Rookie_All-Star_Teams Baseball Digest Rookie All-Star Teams] BR Bullpen 2015年9月16日閲覧。</ref>
; その他表彰
* グッドガイ賞:1回(2003年)※全米野球記者協会(BBWAA)のニューヨーク支部が取材対象である選手の人柄を評価する賞<ref>[http://www.47news.jp/CN/200311/CN2003110601000054.html 「グッドガイ賞」に松井 日本人では吉井以来2人目] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20111222140147/http://www.47news.jp/CN/200311/CN2003110601000054.html |date=2011年12月22日}},47NEWS(2003年11月6日付),2009年9月12日閲覧</ref>
* [[日本プロスポーツ大賞]]・内閣総理大臣杯
** 大賞:2回(2000年、2003年)
** 殊勲賞:1回(2002年)
* [[報知プロスポーツ大賞]]:3回(1996年、2000年、2002年)
* [[毎日スポーツ人賞]]:3回(2002年、2003年、2009年)※2002年はファン賞、2003年は国際賞、2009年は特別賞での受賞
* [[新語・流行語大賞]] 特別賞(2003年、「Godzilla」)
* [[ナンバーMVP賞]](2003年)
* 在[[ニューヨーク]]日本[[総領事館]]在外公館長表彰<ref>[http://mainichi.jp/select/wadai/news/20091114dde041050008000c.html 米大リーグ:「誇り胸に闘い続ける」 ヤンキース・松井秀選手に在外公館長表彰] {{Wayback |url=http://mainichi.jp/select/wadai/news/20091114dde041050008000c.html |date=20091117054320 }},毎日新聞,2009/11/14</ref>(2009年)
* [[ビートたけしのエンターテインメント賞]]
** 50周年特別賞(2009年)
** 特別賞(2012年)
* [[ビッグスポーツ賞]]特別功労賞(2013年)
* [[根上町|根上町民栄誉賞]](1998年)
* [[能美市|能美市市民栄誉賞]](2014年)※受賞者第1号
* [[石川県|石川県県民栄誉賞]](2000年)※受賞者第1号
* [[国民栄誉賞]](2013年)
* プライド・オブ・ザ・ヤンキース(2016年)※ヤンキースがチームに貢献したOBの功績を称える賞
=== 記録 ===
; NPB記録
* 通算本塁打:332(1993年 - 2002年) ※実働10年間、歴代34位
* 年間最高出塁率:.463(2001年) ※読売ジャイアンツ球団記録
* 年間最多塁打:346(2002年) ※読売ジャイアンツ球団記録
* フルイニング連続試合出場:574(1995年5月30日 - 1999年7月22日) ※読売ジャイアンツ球団記録
* 7年連続シーズン30本塁打以上(1996年 - 2002年) ※歴代4位タイ
* 5年連続シーズン100得点以上(1998年 - 2002年) ※日本プロ野球記録
* 5試合連続本塁打(1999年6月5日 - 6月10日)
* 65試合連続[[出塁]](2001年5月5日 - 8月3日) ※セ・リーグ記録。
* 1250試合連続出場(1993年8月22日 - 2002年10月11日) ※歴代3位。読売ジャイアンツ球団記録
* 通算[[長打率]]:.582(1993年 - 2002年) ※歴代3位
* 通算四球数:844(1993年 - 2002年) ※実働10年間にも関わらず歴代31位
* リーグ外野手[[守備率#アウト寄与率・レンジファクター|レンジファクター(RF/G)]]1位:1回(2000年:2.11)<ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/14049 過去20年で最高の外野手は誰だ?~記録で見る真実の「守備力」~] プロ野球 - Number Web、2016年3月17日閲覧。</ref>
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:9回(1994年 - 2002年)
* オールスターゲーム3試合連続本塁打([[2001年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|2001年]]) ※史上初。[[中村紀洋]]と同時に達成。
* 4試合での[[日本シリーズ]]5四球([[2002年の日本シリーズ|2002年]]) ※[[山内一弘|山内和弘]]と並んでシリーズタイ記録
* レギュラーシーズン、日本シリーズ、オールスターゲームでMVP選出 ※[[川上哲治]]、[[大下弘]]、[[福本豊]]、[[トーマス・オマリー]]、[[古田敦也]]に次いで史上6人目(後に[[内川聖一]]、[[阿部慎之助]]が達成)
* リーグ最多得点:3年連続5回 ※ともに[[王貞治]]に次ぐセ・リーグ歴代2位
; MLB記録
* シーズン新人最多出場:163(2003年)
* デビューからの最多連続試合出場:518試合(2003年3月31日 - 2006年5月10日)
* ワールドシリーズ1試合最多打点:6(2009年第6戦) ※タイ記録
* [[リーグチャンピオンシップシリーズ]]最多安打:14(2004年) ※タイ記録
* リーグチャンピオンシップシリーズ最多二塁打:6(2004年)
* リーグチャンピオンシップシリーズ最多塁打:28(2004年) ※タイ記録
* リーグチャンピオンシップシリーズ1試合最多安打:5(2004年第3戦) ※タイ記録
* リーグチャンピオンシップシリーズ1試合最多得点:5(2004年第3戦) ※タイ記録
* [[MLBオールスターゲーム]]選出:2回(2003年、2004年)
; NPB/MLB通算記録
※歴代記録はMLBの記録を含めているため参考記録。
* 通算[[試合#野球|試合]]数 歴代13位 2504試合
* 通算[[打席]]数 歴代6位 10562打席
* 通算[[打数]] 歴代6位 9014打数
* 通算[[得点]]数 歴代4位 1557
* 通算[[安打]]数 歴代6位 2643
* 通算[[二塁打]]数 歴代4位 494
* 通算[[本塁打]]数 歴代7位 507本
* 通算[[塁打]]数 歴代5位 4714
* 通算[[打点]]数 歴代5位 1649打点
* 通算[[長打]]数 歴代3位 1029
* 通算[[三振]]数 歴代12位タイ 1623
* 通算[[四球]]数 歴代3位 1391
* 通算[[犠飛]]数 歴代5位 92
* 通算満塁本塁打数 歴代9位タイ 12本
* 通算サヨナラ本塁打数 歴代4位タイ 8本
* NPB/MLB通算1768試合連続出場(1993年8月22日 - 2006年5月11日) ※これを超える記録はNPBで[[衣笠祥雄]]、[[鳥谷敬]]、MLBで[[カル・リプケン・ジュニア]]、[[ルー・ゲーリッグ]]のみ
* NPB/MLB通算2000安打(2007年5月6日)
* NPB/MLB通算2500安打(2011年4月4日)
; NPB初記録
* 初出場・初先発出場:1993年5月1日、対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]2回戦([[東京ドーム]])、7番・[[左翼手]]で先発出場
* 初打席:同上、2回裏に[[西村龍次]]から二ゴロ
* 初安打・初打点:同上、5回裏に西村龍次から右翼フェンス直撃適時二塁打
* 初本塁打:1993年5月2日、対ヤクルトスワローズ2回戦(東京ドーム)、9回裏に[[高津臣吾]]から右越2ラン
; NPB節目の記録
* 100本塁打:1997年4月27日、対[[広島東洋カープ]]6回戦(東京ドーム)、5回裏に[[山﨑健]]から右越同点2ラン ※史上188人目
* 150本塁打:1998年7月28日、対ヤクルトスワローズ21回戦([[明治神宮野球場]])、8回表に[[川崎憲次郎]]から右越ソロ ※史上107人目
* 200本塁打:1999年9月21日、対[[阪神タイガース]]25回戦(東京ドーム)、3回裏に[[舩木聖士]]から右越2ラン ※史上71人目(841試合での達成は歴代11位)
* 1000安打:2000年7月12日、対広島東洋カープ16回戦([[札幌市円山球場]])、4回裏に[[澤崎俊和]]から右翼線へエンタイトル二塁打 ※史上202人目
* 1000試合出場:2001年4月12日、対中日ドラゴンズ2回戦(ナゴヤドーム)、4番・[[中堅手]]で先発出場 ※史上366人目
* 250本塁打:同上、5回表に[[メルビン・バンチ]]から右越同点ソロ ※史上41人目
* 300本塁打:2002年7月9日、対広島東洋カープ15回戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])、9回表に[[黒田博樹]]から右中間へソロ ※史上27人目
=== 背番号 ===
* '''55'''(1993年 - 2011年)
* '''35'''(2012年)
== 関連情報 ==
=== 著書 ===
==== 単著 ====
* 『ゴジラの青春』([[学習研究社]]、1994年、ISBN 978-4054003934)
* 『語る:大リーグ1年目の真実』([[朝日新聞社]]、2003年12月、ISBN 4022578904)
** 『大リーグの真実』(『語る:大リーグ1年目の真実』の改題、[[朝日文庫]]、2005年4月、ISBN 4022614641)
* 『僕のメジャー日記』([[文藝春秋]]、2004年3月、ISBN 416365710X)
* 『不動心』([[新潮新書]]、2007年、ISBN 978-4106102011)
2007年12月時点で、売り上げは33万部を超えた<ref>[https://web.archive.org/web/20071231085402/http://www.tokyo-np.co.jp/tochu/article/mlb/news/CK2007123002076190.html ゴジラはベストセラー作家-。不動心はスポーツ本異例の33万部] 東京中日スポーツ(2007年12月30日)</ref>。「不動心」というタイトルについて松井は、2006年の怪我の療養中に長嶋茂雄に会った際、2つあった候補の中から「不動心」を選んでもらったという。その時に長嶋は、特に何も語らず「これ」と一言述べただけですぐに決められたという{{要出典|date=2009年3月}}。
* 『告白』([[PHP研究所]]、2007年、ISBN 978-4569696607)
** 『壁を打ち破る100%思考法』(『告白』の改題、[[PHP文庫]]、2011年4月、ISBN 9784569676463)
* 『信念を貫く』([[新潮新書]]、2010年、ISBN 978-4106103551)
* 『エキストラ・イニングス――僕の野球論』([[文藝春秋]]、2015年、ISBN 978-4163942087)
==== 共著 ====
* ([[松井昌雄]])『翔ぶ:今日より明日』([[実業之日本社]]、2004年7月、ISBN 4408017256)
* ([[ビートたけし]])『野球小僧:少年たけしと少年マツイ』(ぴあ、2004年9月、ISBN 483560959X)
* (松井昌雄)『父から学んだこと、息子に教えられたこと』(実業之日本社、2007年7月、ISBN 9784408008172)
=== 連載 ===
* 松井秀喜 エキストライニングズ([[中日新聞]]/[[西日本新聞]]/[[スポーツニッポン]]他、2013年3月 - 2014年11月)※隔週木曜掲載
=== 関連書籍 ===
* 『巨人軍の救世主55松井秀喜』(松井秀喜を愛する担当記者グループ 編、ラインブックス、1993年4月、ISBN 4847011740)
** 『松井秀喜王者の伝説』(2000年9月、ISBN 4898090621)
* 『松井秀喜:星とバットと』([[松下茂典]]著、東京書籍、1994年)
* 『松井秀喜物語:少年時代から今日までの、すべてを明かす』([[広岡勲]]文、[[学習研究社]](学研のノンフィクション)、1998年6月、ISBN 4052009908)
* 『松井秀喜:ゴジラパワーの秘密』([[広岡勲]]著、[[講談社]](火の鳥人物文庫)、2002年3月、ISBN 4062712067)
* 『松井秀喜物語:愛猫ナナとたどったホームラン・ロード』([[高橋功一郎]]漫画、市田実プロット、[[てんとう虫コミックススペシャル]]、2002年11月、ISBN 4091497527)
* 『ひでさん:松井秀喜運命の糸をたどって』(赤城ひろ子著、[[光文社]]、2002年12月、ISBN 4334973698/[[講談社文庫]]、ISBN 9784062762663)
* 『心が変われば:山下智茂・松井秀喜を創った男』(松下茂典著、[[朝日新聞社]]、2003年9月、ISBN 402257853X)
* 『松井秀喜僕には夢がある』(広岡勲著、[[学習研究社]]、2004年3月、ISBN 4054020038)
* 『松井秀喜:メジャーにかがやく55番』(2004年4月刊)
* 『松井秀喜メジャー物語:ゴジラ・松井は世界の頂点を目指す!』(2005年4月刊)
* 『松井秀喜:大リーグの真実』(2005年4月刊)
* 『松井秀喜:日本を飛び出しメジャー・リーグで大活躍する野球選手』(2005年7月刊)
* 『ヒデキマツイ』(朝田武蔵著、日本経済新聞社、2005年12月、ISBN 4532165520)
* 『松井秀喜55の言葉』(松下茂典著、[[東京書籍]]、2006年6月、ISBN 448779921X)
* 『松井秀喜バイオグラフィ』(広岡勲著、ディック・ベルチャー訳、オフィスルリ監修、IBCパブリッシング (やさしい英語を聴いて読むIBCオーディオブックス)、2008年7月、ISBN 9784896848144)
* 『巨人軍5000勝の記憶』([[読売新聞社]]、[[ベースボールマガジン社]]、2007年) p. 78 他多数 ISBN 9784583100296
* 『松井秀喜に学ぶ壁をブチ破る「心の持ち方」』([[児玉光雄]]著、[[東邦出版]]、2008年3月、ISBN 9784809406904)
* 『七割の憂鬱:松井秀喜とは何か』([[村松友視]]著、小学館、2009年3月、ISBN 9784093878500)
* 『イチローvs松井秀喜:相容れぬ2人の生き様』([[古内義明]]著、[[小学館101新書]]、2010年4月、ISBN 4098250780)
* 『松井秀喜困難を乗り越える言葉』(「松井秀喜困難を乗り越える言葉」編纂委員会編、[[ぴあ]]、2010年7月、ISBN 9784835617657)
* 『松井秀喜あきらめない心:夢の頂点へ』(広岡勲著、[[学研教育出版]]、2010年7月、ISBN 9784052032691)
* 『松井秀喜:夢への扉を開け!』(ベースボールマガジン社編、ベースボール・マガジン社(スポーツスーパースター伝 1)、2010年8月、ISBN 9784583102665)
* 『松井秀喜試練を力に変えて:5打席連続敬遠20年目の真実』(ベースボール・マガジン社、2012年7月、ISBN 9784583104867)
* 『ありがとう松井秀喜:全試合、全507ホームランDATA完全収録』([[北國新聞社]](『[[月刊北國アクタス]]』臨時増刊))、2013年1月、ISBN 9784833019187)
* 『松井秀喜の言葉』(鷲田康著、[[廣済堂出版]]、2013年3月、ISBN 9784331517130)
* 『松井秀喜の言葉力』([[週刊ベースボール]]編、ベースボール・マガジン社、2013年3月、ISBN 9784583105444)
* 『逆風に立つ:松井秀喜の美しい生き方』([[伊集院静]]著、角川書店(角川グループパブリッシング)、2013年3月、ISBN 9784041104477)
* 『松井秀喜:献身力:逆境を力に変えて』(古内義明著、[[大和書房]]、2013年4月、ISBN 9784479793809)
* 『MLBに挑んだ7人のサムライ:イチロー/松井秀喜/黒田博樹/ダルビッシュ有/上原浩治/田沢純一/松坂大輔』(杉浦大介著、楓書店、2014年4月、ISBN 9784861138225)
: 他多数。
=== 関連映像 ===
* 『ホームラン神話』(VHS、1996年11月21日)
* 『松井秀喜2000 〜最強の4番打者〜』(VHS、2000年11月5日)
* 『GLORIOUS 松井秀喜〜10years of homerun memories〜』(CD、2002年12月4日)
* 『松井秀喜 完全版 〜夢と感動をありがとう』(DVD、2002年12月11日)
* 『ライジング・サンズ 2』(DVD、2003年12月17日)
=== 関連楽曲 ===
* 「はばたけメジャーリーガー」<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/03/11/kiji/K20130311005365860.html 藤圭子の育ての親「…夢は夜ひらく」の石坂まさをさん死去]、[[スポーツニッポン|スポニチアネックス]]、2013年3月11日 6時0分。</ref>
** プロデュース:[[石坂まさを]]、作詞:平博、作曲:さいとう聖子、歌:たけし&りよ。2003年発売。
* 「[[翔け世界の頂点へ〜松井秀喜応援歌〜]]」([[たぁ〜た〜ず|父2]])(CD、2006年9月27日)
* 公式応援歌「[[栄光の道|栄光(ひかり)の道]]」(CD、2007年3月1日)
=== 出演 ===
==== ドキュメンタリー ====
* BSジャパン開局15周年特別企画 松井秀喜カリブを行く([[BSテレビ東京|BSジャパン]]、2015年1月3日)<ref>[https://www.bs-tvtokyo.co.jp/official/matsuicarib/ BSジャパン開局15周年特別企画 松井秀喜カリブを行く(BSジャパン)]、2014年12月23日閲覧</ref>
* 独占!長嶋茂雄の真実〜父と娘の40年物語〜([[TBSテレビ|TBS]]、2015年1月3日)
* [[池上彰]]×松井秀喜 in キューバ([[テレビ東京]]系、2020年5月6日)
==== 映画 ====
* 『[[ゴジラ×メカゴジラ]]』(2002年) - 本人役で出演。
==== 配信映画 ====
* Shohei Ohtani - Beyond the Dream([[Disney+]]・[[ESPN+]]、2023年配信)<ref>{{Cite web|和書|title=大谷翔平ドキュメンタリー配信 「ディズニー+」来月17日から |url=https://nordot.app/1084348306660311822 |website=共同通信 |date=2023-10-10 |access-date=2023-11-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/547342 |title=大谷翔平ドキュメンタリーの予告解禁!松井秀喜、ダルビッシュ有、栗山英樹ら出演 |website=映画ナタリー |publisher=ナターシャ |date=2023-11-01 |accessdate=2023-11-01}}</ref> - [[大谷翔平]]のドキュメンタリー。日本語版ナレーションも担当<ref>{{Cite news|和書|title=大谷翔平選手のドキュメンタリー映画 ペドロ・マルティネスと松井秀喜がナレーション |newspaper=映画.com |date=2023-11-10 |url=https://eiga.com/news/20231110/1/ |accessdate=2023-11-10}}</ref>。
==== ラジオ ====
番組はすべて[[ニッポン放送]]で放送している。
* [[松井秀喜 ワールドチャンピオンへの道]]
* 独占大リーグ情報・GO!GO!松井秀喜(本人のプレーのみを紹介)
* [[コマツ・メジャーショウアップ]](本人がタイトルコール及び提供読みをしている)
==== CM ====
* [[ソニー・コンピュータエンタテインメント]] 『{{仮リンク|MLB 2003|en|MLB 2003}}』(2003年)
* [[日本航空]](2003年) - 国内線機材の[[ボーイング747-400]]と[[エアバスA300]]にスペシャルマーキング「松井ジェット」として写真が使われた。
* [[2006 FIFAワールドカップ]][[サッカー日本代表|日本代表]]応援CM(2006年)
* [[アサヒビール]]「スーパードライ」
* [[エヌ・ティ・ティ・ドコモ北陸|NTTDoCoMo北陸]]
* [[大塚製薬]]「[[オロナミンCドリンク|オロナミンCロイヤルポリス]]」
* [[花王]]「[[ヘルシア|ヘルシアコーヒー]]」(2014年)
* [[カゴメ]]
* [[IDOM|ガリバー]]
* [[キッコーマン]]「赤だれ」「黒だれ」
* [[キリンビバレッジ]]「[[FIRE (コーヒー)|FIRE]]」
* [[小松製作所|コマツ]] - 地元の石川県発祥及び父・昌雄が以前勤めていたという縁からCMキャラクターに。[[ヤンキー・スタジアム (1923年)|ヤンキースタジアム]]で放ったメジャー第1号本塁打がコマツの看板近くに球が飛んだため、広告効果が倍増した。
* [[サントリー]]「マグナムドライ」
* [[東芝]]
* [[久光製薬]]「エアーサロンパスEX」
* [[ミサワホーム]] - 兄・利喜がミサワに勤務していることから出演。[[吹石一恵]]と共演もあり。
* [[ミズノ]]
* [[明治安田生命]]
* [[吉野家]]
* [[バイク王&カンパニー]]「バイク王」(2015年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20150728-a012/ |title=松井秀喜がバイク王の新CMに登場 - 「ボールを見極める眼力」に注目 |accessdate=2015-07-28 |date=2015-07-28 |publisher=マイナビニュース}}</ref>
: 他多数
=== 漫画 ===
* 『[[ドカベン プロ野球編]]』 オールスター戦、日本シリーズでも登場。
* 『[[かっとばせ!キヨハラくん]]』 主要選手の一人。
* 『[[ゴーゴー!ゴジラッ!!マツイくん]]』 主人公。
* 『[[マツイ日記は知っている!]]』 主人公。
* 『実録スポーツヒーロー列伝 松井秀喜物語』 1999年のマガジンで掲載された、松井の半生を描いた前後編の読み切り漫画。
* 『まんが人物館』 松井秀喜(2005年、小学館) 生誕から大リーグでのチームの最初の敗退までを漫画で追ったもの。巻末には松井のインタビューも収録されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
※「赤木(2002)」「広岡(2002)」「広岡(2005)」は[[#参考文献]]の文献名を略した表記
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|23em
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<ref name="FCGMG">{{Cite book|和書|title=ゴジラ×メカゴジラ |date=2002-12-30 |publisher=[[朝日ソノラマ]] |series=[[ファンタスティックコレクション]] |page=79 |chapter=ゴジラ×メカゴジラ用語辞典 |isbn=4-257-03668-0}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* [[広岡勲]]「松井秀喜 - ゴジラパワーの秘密」[[講談社]](2002年)ISBN 4-06-271206-7
* [[赤木ひろこ]]「ひでさん - 松井秀喜ができたわけ」講談社(2002年)ISBN 4-334-97369-8
* 広岡勲「松井秀喜メジャー物語:ゴジラ・松井は世界の頂点を目指す!」[[学研プラス]](2005年)ISBN 4-05-202317-X
== 関連項目 ==
* [[瑠璃教会]]
* [[松井秀喜ベースボールミュージアム]](瑠璃教会傘下のオフィスルリが運営)
* [[松井秀喜5打席連続敬遠]]
* [[石川県出身の人物一覧]]
* [[読売ジャイアンツの選手一覧]]
* [[読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧]]
* [[メジャーリーグベースボールの選手一覧 M]]
* [[日本出身のメジャーリーグベースボール選手一覧]]
* [[日本人のメジャーリーグベースボール選手が獲得したタイトル・表彰一覧]]
* [[マツイ日記は知っている!]]
* [[ゴーゴー!ゴジラッ!!マツイくん]]
* [[奥さまは魔女 (テレビドラマ)|奥さまは魔女 -Bewitched in Tokyo-]] - [[2004年]]に放送された[[TBSテレビ]][[ジャパン・ニュース・ネットワーク|系列]]の連続ドラマ。2004年1月期の[[金曜ドラマ (TBS)|金曜ドラマ]]として放送された後、同年12月21日には続編となるスペシャルドラマも放送された。なお主人公の松井ありさ・譲二夫妻の苗字は松井秀喜から由来している。
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Hideki Matsui}}
{{NPB|51253887|松井秀喜}}
* {{MLBstats |mlb=425686 |espn=5372 |br=m/matsuhi01 |fangraphs=1659 |cube=hideki-matsui |brm=matsui001hid}}
* [https://www.hideki.co.jp/ 松井秀喜・ベースボールミュージアム] - 石川県にある松井秀喜の私設資料館
* [https://www.jiji.com/jc/v2?id=091103matsu_hideki 特集 松井秀喜] 時事ドットコム
* {{TVer talent|t022c2f}}
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== 形式言語の構文木 ==
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== 例 ==
[[画像:EnglishSyntaxTreeSample1.png|英語の構文木の例]]
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== 関連項目 ==
* [[抽象構文木]]
* [[生成文法]]
* [[依存文法]]
* [[句構造文法]]
* [[句構造規則]]
* [[Xバー理論]]
* [[構成素]]
{{DEFAULTSORT:こうふんき}}
[[Category:自然言語処理]]
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[[Category:数学に関する記事]]
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2,345 | ジョン・マッカーシー | ジョン・マッカーシー(John McCarthy, 1927年9月4日 - 2011年10月24日)は、アメリカ合衆国の計算機科学者で認知科学者。マービン・ミンスキーとならぶ初期の人工知能研究の第一人者。1955年に提出した提案書で初めて「人工知能」(Artificial Intelligence)という用語を使用した。また、ALGOL言語の設計に触発され、LISPというプログラミング言語を開発し、タイムシェアリングの概念を一般化させた。
1927年9月4日、マサチューセッツ州ボストンにてアイルランドからの移民の父とリトアニア系ユダヤ人移民の母との間に生まれる。世界恐慌のころは住居を転々としていたが、父が労働組合(Amalgamated Clothing Workers)に職を得て、ロサンゼルスに定住する。都市を中心に活動する共産主義者だった両親の影響を受け、アメリカ共産党細胞にも入党したこともあったものの、プラハの春で幻滅してからは保守的な共和党支持者に転向していた。
幼き頃に読んだミハイル・イリーンの著書「十万の質問」から科学に興味を持ち始める。非常に聡明であり、ロサンゼルスの高校を2年早く卒業した。特に、数学が得意で、十代のころ近所のカリフォルニア工科大学で使っていた教科書を入手して、独学で大学レベルの数学を学んでいた。その結果、1944年にカリフォルニア工科大学に入学し、数学については最初の2年間を飛び級で進級した。
マッカーシーは、体育の授業に出席しなかった。そのため、カリフォルニア工科大学から追い出された。そこで、アメリカ陸軍で兵役を積んで、再入学を認めてもらい、1948年に数学の学士号を得て卒業した。カリフォルニア工科大学で講演を行ったジョン・フォン・ノイマンから将来の方向性について影響を受け、ノイマンと対面して助言も受けた。卒業後もカリフォルニア工科大学で学び続けていたが、プリンストン大学に移ってソロモン・レフシェッツに師事し、1951年に数学のPh.D.を得た。
マッカーシーは、3回結婚している。2度目の結婚相手ベラ・ワトソンはプログラマだが、登山家でもあった。しかし、1978年に女性だけの登山隊でアンナプルナ登頂を目指していた際、滑落して死亡した。3人目のキャロリン・タルコットは、スタンフォード大学の計算機科学者で、後にSRIインターナショナルにて勤務した。また、マッカーシーは、自ら無神論者を自認していた。
2011年10月24日、死去。84歳没。
卒業後はプリンストン大学で短期間勤めた後、1955年にダートマス大学で助教授となり、マサチューセッツ工科大学に移り、1962年にはスタンフォード大学で教授となった。その後は2000年に引退するまでスタンフォード大学に勤務し、その後も名誉教授としてとどまった。マサチューセッツ工科大学に勤めていたころには既に学生から愛情をこめて「アンクル・ジョン」と呼ばれていた。また、ハッカー文化で有名なMITのテック鉄道模型クラブ(英語版)(TRMC)のメンバーでもあった。
マッカーシーは人工知能のために数理論理学を使って知識を表現することに尽力した。1956年、人工知能(AI)に関する世界初の国際会議を主催。この会議に参加したマービン・ミンスキーもAI研究者となり、1959年にはMITでマッカーシーに合流した。1956年秋、マッカーシーはMITの研究奨学金を得た。その後ALGOL設計委員会の委員を務めている。ALGOLはその後主流となる様々な新たな要素をプログラミング言語にもたらし、大きな影響を及ぼした。1958年にはadvice takerを提案し、それが後の質問応答システムや論理プログラミングに影響を与えることとなった。1959年、LISPにおける問題を解決する手段として「ガベージコレクション」技法を発明。ラムダ計算に基づくLISPは、1960年に発表されると、AIアプリケーションのためのプログラミング言語として使われはじめた。彼はMITでProject MACの創設に関わったが、1962年にスタンフォード大学で職を得てMITを離れた。スタンフォード大学ではProject MACのライバルとなるスタンフォード人工知能研究所の設立に関与した。
1961年、マッカーシーはMITの100周年記念式典でのスピーチで、タイムシェアリングシステムの技術によって(水道や電力のように)コンピュータの能力や特定のアプリケーションを販売するビジネスモデルを生み出すかもしれないと述べた。このいわゆる「コンピュータユーティリティ」という考え方は1960年代後半には非常に人気となったが、当時のハードウェアもソフトウェアも通信技術も未熟であったために1970年代中ごろには消えていった。しかし、21世紀になるとこの考え方はアプリケーションサービスプロバイダにはじまり、グリッド・コンピューティングを経てクラウドコンピューティングへと昇華し再浮上してきている。同僚のレスター・アーネストはロサンゼルス・タイムズ紙で「ジョンがタイムシェアリングシステムを開発しなければ、インターネットの発展はもっと遅れていただろう。タイムシェアリングは様々な呼称で呼ばれてきた。サーバと呼ばれるようになり、今ではクラウドコンピューティングと呼ばれているが、それらはジョンが始めたタイムシェアリングそのものだ」と述べている。
マッカーシーの指導でアラン・コトックが開発したチェスプログラムは1966年、ソビエト連邦が開発したチェスプログラムと史上初のコンピュータ同士で対戦した。結果はマッカーシー側の2敗2分だった。
1969年には、パトリック・ヘイズと共に人工知能の分野で常に議論の対象となるフレーム問題を提唱する。
1978年から1986年にかけて、非単調論理におけるサーカムスクリプション(英語版)の手法を開発。
1982年、「スペースファウンテン」と呼ばれる軌道エレベータの一種を考案した。
ジョン・マッカーシーはしばしばネットニュース上で世界情勢についてコメントした。彼の考え方は自身の持続可能性(Sustainability)に関するWebページでも部分的にわかる。それは、「人の物質的な進歩が望ましく、持続可能であることを示すため」のページである。彼は真面目な読書家で楽天主義者であり、言論の自由の忠実な支持者だった。ネットニュースでは特にrec.arts.booksでの発言が多く、同カテゴリのサンフランシスコ周辺の読者の(今で言う)オフ会に参加したこともある。
2001年には短編小説「ロボットと赤ちゃん」"The Robot and the Baby"を発表している。これは、ロボットが感情を持てるかという問題をコミカルに扱ったもので、今後インターネットやソーシャル・ネットワーキングがさらに重要になってくるだろうという予測を交えて書かれている。 | [
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"text": "マッカーシーは人工知能のために数理論理学を使って知識を表現することに尽力した。1956年、人工知能(AI)に関する世界初の国際会議を主催。この会議に参加したマービン・ミンスキーもAI研究者となり、1959年にはMITでマッカーシーに合流した。1956年秋、マッカーシーはMITの研究奨学金を得た。その後ALGOL設計委員会の委員を務めている。ALGOLはその後主流となる様々な新たな要素をプログラミング言語にもたらし、大きな影響を及ぼした。1958年にはadvice takerを提案し、それが後の質問応答システムや論理プログラミングに影響を与えることとなった。1959年、LISPにおける問題を解決する手段として「ガベージコレクション」技法を発明。ラムダ計算に基づくLISPは、1960年に発表されると、AIアプリケーションのためのプログラミング言語として使われはじめた。彼はMITでProject MACの創設に関わったが、1962年にスタンフォード大学で職を得てMITを離れた。スタンフォード大学ではProject MACのライバルとなるスタンフォード人工知能研究所の設立に関与した。",
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] | ジョン・マッカーシーは、アメリカ合衆国の計算機科学者で認知科学者。マービン・ミンスキーとならぶ初期の人工知能研究の第一人者。1955年に提出した提案書で初めて「人工知能」という用語を使用した。また、ALGOL言語の設計に触発され、LISPというプログラミング言語を開発し、タイムシェアリングの概念を一般化させた。 | {{Other people|人工知能研究者}}
{{Infobox Scientist
| name = ジョン・マッカーシー
| image = John McCarthy Stanford.jpg
| image_size= 200px
| caption = あるカンファレンスでのジョン・マッカーシー (2006)
| birth_date = {{生年月日と年齢|1927|9|4|no}}
| birth_place = [[マサチューセッツ州]][[ボストン]]
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1927|9|4|2011|10|24}}
| death_place = [[カリフォルニア州]]スタンフォード
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| work_institution = [[スタンフォード大学]]、[[マサチューセッツ工科大学]]、[[ダートマス大学]]、[[プリンストン大学]]
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| known_for = 人工知能、[[LISP]]、{{仮リンク|サーカムスクリプション|en|Circumscription (logic)}}、{{仮リンク|状況計算|en|Situation calculus}}
| prizes = [[チューリング賞]](1971)<br/> [[京都賞先端技術部門]](1988)<br/>[[アメリカ国家科学賞]](1990)<br/> [[ベンジャミン・フランクリン・メダル (フランクリン協会)|ベンジャミン・フランクリン・メダル]](2003)
| religion = [[無神論]]<ref>{{Cite web| last=McCarthy | first=John | title=Commentary on World, US, and scientific affairs | url= http://www-formal.stanford.edu/jmc/commentary.html | accessdate=2008-02-01 | date=2007-03-07 | quote=By the way I'm an atheist. }}</ref>
}}
'''ジョン・マッカーシー'''(John McCarthy, [[1927年]][[9月4日]] - [[2011年]][[10月24日]]<ref>{{Cite journal | last1 = Lifschitz | first1 = V. | title = John McCarthy (1927–2011) | doi = 10.1038/480040a | journal = Nature | volume = 480 | issue = 7375 | pages = 40–46 | year = 2011 | pmid = 22129718| pmc = }}</ref><ref>{{Cite news|last=Miller |first=Stephen |title=McCarthy, a Founder of Artificial Intelligence, Dies at 84 |url= http://online.wsj.com/article/SB10001424052970203911804576653530510986612.html |accessdate=2011-10-26 |newspaper=Wall Street Journal |date=October 26, 2011 }}</ref><ref>{{Cite news|last=Myers |first=Andrew |title=Stanford's John McCarthy, seminal figure of artificial intelligence, dies at 84 |url= http://news.stanford.edu/news/2011/october/john-mccarthy-obit-102511.html |accessdate=2011-10-26 |newspaper=Stanford University News |date=October 25, 2011 }}</ref><ref>Biggs, John (October 24, 2011). [http://techcrunch.com/2011/10/24/creator-of-lisp-john-mccarthy-dead-at-84/ "Creator of Lisp, John McCarthy, Dead at 84"]. [[TechCrunch]].</ref><ref>Cifaldi, Frank (October 24, 2011). [http://www.gamasutra.com/view/news/38088/Artificial_Intelligence_Pioneer_John_McCarthy_Dies.php "Artificial Intelligence Pioneer John McCarthy Dies"]. Gamasutra.</ref><ref>{{Cite news|last = Thomson |first = Iain |title = Father of Lisp and AI John McCarthy has died |newspaper = The Register |location = San Francisco |date = 24 October 2011 |url = http://www.theregister.co.uk/2011/10/24/father_lisp_ai_john_mccarthy_dies/ }}</ref>)は、[[アメリカ合衆国]]の[[計算機科学]]者で[[認知科学]]者。[[マービン・ミンスキー]]とならぶ初期の[[人工知能]]研究の第一人者。1955年に提出した提案書で初めて「人工知能」(Artificial Intelligence)という用語を使用した。また、[[ALGOL]]言語の設計に触発され、[[LISP]]というプログラミング言語を開発し、[[タイムシェアリングシステム|タイムシェアリング]]の概念を一般化させた。
== 学生時代までと私生活 ==
1927年9月4日、[[マサチューセッツ州]][[ボストン]]にてアイルランドからの移民の父とリトアニア系ユダヤ人移民の母との間に生まれる<ref>{{Cite book|last=Shasha |first= Dennis |last2= Lazere |first2=Cathy |year=1998 |title=Out of Their Minds: The Lives and Discoveries of 15 Great Computer Scientists |publisher=Springer |page=23 |url= https://books.google.co.jp/books?id=-0tDZX3z-8UC&pg=PA23&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&f=false }}</ref>。[[世界恐慌]]のころは住居を転々としていたが、父が労働組合([[:en:Amalgamated Clothing Workers of Ameria|Amalgamated Clothing Workers]])に職を得て、[[ロサンゼルス]]に定住する。都市を中心に活動する[[共産主義]]者だった両親<ref>[http://wbb.forum.impressrd.jp/feature/20071212/515 連載:インターネット・サイエンスの歴史人物館(12)ジョン・マッカーシー | WBB Forum] インプレスR&D</ref>の影響を受け、[[アメリカ共産党]][[細胞 (政党)|細胞]]にも入党したこともあったものの<ref>[http://www.nytimes.com/2011/10/26/science/26mccarthy.html John McCarthy, 84, Dies; Computer Design Pioneer]</ref><ref>[http://ai.stanford.edu/~nilsson/John_McCarthy.pdf John McCarthy, 1927-2011 - Stanford AI Lab]</ref>、[[プラハの春]]で幻滅してからは[[保守]]的な[[共和党 (アメリカ)|共和党]]支持者に[[転向]]していた<ref>{{cite web | url=https://web.stanford.edu/~learnest/jmc/ | title=Biographies of John McCarthy | publisher=Stanford University | accessdate=2017-11-29 | author=Earnest, Les}}</ref>。
幼き頃に読んだ[[ミハイル・イリーン]]の著書「十万の質問」から科学に興味を持ち始める<ref>{{PDFlink|[https://archive.computerhistory.org/resources/access/text/2012/10/102658149-05-01-acc.pdf Oral History of John McCarthy]}} - Computer History Museum</ref>。非常に聡明であり、ロサンゼルスの高校を2年早く卒業した<ref name="LATObit">Woo, Elaine (October 28, 2011). [http://www.latimes.com/news/obituaries/la-me-john-mccarthy-20111027,0,7137805.story John McCarthy dies at 84; the father of artificial intelligence]. ''[[ロサンゼルス・タイムズ|Los Angeles Times]]''.</ref>。特に、[[数学]]が得意で、十代のころ近所の[[カリフォルニア工科大学]]で使っていた教科書を入手して、独学で大学レベルの数学を学んでいた。その結果、1944年にカリフォルニア工科大学に入学し、数学については最初の2年間を飛び級で進級した<ref name="HayesMorgenstern">{{Cite journal|last = Hayes |first = Patrick J. |last2 = Morgenstern |first2 = Leora |title = On John McCarthy's 80th Birthday, in Honor of his Contributions |journal = [[アメリカ人工知能学会|AI Magazine]] |volume = 28 |issue = 4 |pages = 93–102 |publisher = [[アメリカ人工知能学会|Association for the Advancement of Artificial Intelligence]] |year = 2007 |url = http://www.aaai.org/ojs/index.php/aimagazine/article/view/2063/2057 |accessdate = 2010-11-24}}</ref>。
マッカーシーは、[[体育]]の授業に出席しなかった。そのため、カリフォルニア工科大学から追い出された{{要出典|date=2012年1月}}。そこで、[[アメリカ陸軍]]で兵役を積んで、再入学を認めてもらい、1948年に数学の学士号を得て卒業した。カリフォルニア工科大学で講演を行った[[ジョン・フォン・ノイマン]]から将来の方向性について影響を受け、ノイマンと対面して助言も受けた<ref>{{cite web|url=https://ethw.org/Oral-History:John_McCarthy|title=Oral-History:John McCarthy|publisher=Indiana University and IEEE History Center|accessdate=2019-03-24}}</ref>。卒業後もカリフォルニア工科大学で学び続けていたが、[[プリンストン大学]]に移って[[ソロモン・レフシェッツ]]に師事し、1951年に数学のPh.D.を得た。
マッカーシーは、3回結婚している。2度目の結婚相手ベラ・ワトソンはプログラマだが、[[登山]]家でもあった。しかし、1978年に女性だけの登山隊で[[アンナプルナ]]登頂を目指していた際、滑落して死亡した。3人目のキャロリン・タルコットは、スタンフォード大学の計算機科学者で、後に[[SRIインターナショナル]]にて勤務した<ref>{{Cite news|title=John McCarthy, 84, Dies; Computer Design Pioneer |url= http://www.nytimes.com/2011/10/26/science/26mccarthy.html |newspaper=[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]] |date=October 25, 2011 |first=John |last=Markoff }}</ref><ref>{{Cite web |title=Biography of Carolyn Talcott |url=http://blackforest.stanford.edu/clt/bio.html |publisher=Stanford.edu |accessdate=2012-0811 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131202231926/http://blackforest.stanford.edu/clt/bio.html |archivedate=2013年12月2日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。また、マッカーシーは、自ら無神論者を自認していた<ref>{{Cite web| title = About John McCarthy | url = http://www-formal.stanford.edu/jmc/personal.html | accessdate = 2012-07-27}}</ref>。
2011年10月24日、死去。84歳没<ref>[http://jp.techcrunch.com/archives/20111024creator-of-lisp-john-mccarthy-dead-at-84/ Lispの創案者、ジョン・マッカーシー逝去(84歳)] TechCrunch Tokyo 2011年10月25日閲覧</ref><ref>[https://japan.cnet.com/article/35009728/ Lispの父J・マッカーシー氏、死去 - CNET Japan]</ref><ref>[http://engineering.stanford.edu/news/stanfords-john-mccarthy-seminal-figure-of-artificial-intelligence-is-dead-at-84 Stanford’s John McCarthy, Seminal Figure of Artificial Intelligence is Dead at 84 | Stanford Engineering]</ref>。
== 計算機科学における経歴 ==
卒業後はプリンストン大学で短期間勤めた後、1955年に[[ダートマス大学]]で助教授となり、[[マサチューセッツ工科大学]]に移り、1962年には[[スタンフォード大学]]で[[教授]]となった。その後は2000年に引退するまでスタンフォード大学に勤務し、その後も名誉教授としてとどまった。[[マサチューセッツ工科大学]]に勤めていたころには既に学生から愛情をこめて「アンクル・ジョン」と呼ばれていた<ref>{{Citation|url= https://www.usenix.org/legacy/publications/login/2010-10/openpdfs/bookreviews1010.pdf |format=PDF |title=Hackers, Heroes of the Computer Revolution |author=Steven Levy |page=34 |publisher=Gutenberg.org }}</ref>。また、[[ハッカー文化]]で有名なMITの{{仮リンク|テック鉄道模型クラブ|en|Tech Model Railroad Club}}(TRMC)のメンバーでもあった。
マッカーシーは人工知能のために[[数理論理学]]を使って知識を表現することに尽力した。1956年、人工知能(AI)に関する世界初の国際会議を主催。この会議に参加した[[マービン・ミンスキー]]もAI研究者となり、1959年にはMITでマッカーシーに合流した<ref name="LATObit" />。1956年秋、マッカーシーはMITの研究奨学金を得た。その後[[ALGOL]]設計委員会の委員を務めている。ALGOLはその後主流となる様々な新たな要素をプログラミング言語にもたらし、大きな影響を及ぼした。1958年には[[:en:Advice taker|advice taker]]を提案し、それが後の質問応答システムや[[論理プログラミング]]に影響を与えることとなった。1959年、LISPにおける問題を解決する手段として「[[ガベージコレクション]]」技法を発明<ref>{{Cite web|url= https://doi.org/10.1145/367177.367199 |title=Recursive functions of symbolic expressions and their computation by machine |date=April 1960 |publisher=Communications of the ACM |volume=3 |issue=4 |accessdate=2009-03-29 }}</ref><ref>{{Cite web|url= http://jmc.stanford.edu/articles/recursive/recursive.pdf |title=Recursive functions of symbolic expressions and their computation by machine, Part I |accessdate=2022-02-16 }}</ref>。[[ラムダ計算]]に基づく[[LISP]]は、1960年に発表されると<ref>{{Cite journal|title=Recursive Functions of Symbolic Expressions and Their Computation by Machine |last=McCarthy |first=John |journal=CACM |volume=3 |issue=4 |pages=184–195 |url= http://portal.acm.org/citation.cfm?id=367199 |doi=10.1145/367177.367199 |year=1960 }}</ref>、AIアプリケーションのためのプログラミング言語として使われはじめた。彼はMITで[[Project MAC]]の創設に関わったが、[[1962年]]に[[スタンフォード大学]]で職を得てMITを離れた。スタンフォード大学ではProject MACのライバルとなる[[スタンフォード人工知能研究所]]の設立に関与した。
[[1961年]]、マッカーシーはMITの100周年記念式典でのスピーチで、[[タイムシェアリングシステム]]の技術によって([[水道]]や[[電力]]のように)コンピュータの能力や特定のアプリケーションを販売するビジネスモデルを生み出すかもしれないと述べた。このいわゆる「コンピュータユーティリティ」という考え方は1960年代後半には非常に人気となったが、当時のハードウェアもソフトウェアも通信技術も未熟であったために1970年代中ごろには消えていった。しかし、21世紀になるとこの考え方は[[アプリケーションサービスプロバイダ]]にはじまり、[[グリッド・コンピューティング]]を経て[[クラウドコンピューティング]]へと昇華し再浮上してきている。同僚のレスター・アーネストは[[ロサンゼルス・タイムズ]]紙で「ジョンがタイムシェアリングシステムを開発しなければ、インターネットの発展はもっと遅れていただろう。タイムシェアリングは様々な呼称で呼ばれてきた。サーバと呼ばれるようになり、今ではクラウドコンピューティングと呼ばれているが、それらはジョンが始めたタイムシェアリングそのものだ」と述べている<ref name="LATObit" />。
マッカーシーの指導で[[アラン・コトック]]が開発した[[チェス]]プログラム<ref>{{Cite thesis |author=Kotok, Alan |year=1962 |title=A chess playing program for the IBM 7090 computer |url=https://hdl.handle.net/1721.1/17406 |issue=Massachusetts Institute of Technology |hdl=1721.1/17406}}</ref>は1966年、[[ソビエト連邦]]が開発したチェスプログラムと史上初のコンピュータ同士で対戦した。結果はマッカーシー側の2敗2分だった。
[[1969年]]には、パトリック・ヘイズと共に人工知能の分野で常に議論の対象となる[[フレーム問題]]を提唱する。
1978年から1986年にかけて、[[非単調論理]]における{{仮リンク|サーカムスクリプション|en|Circumscription (logic)}}の手法を開発。
1982年、「[[スペースファウンテン]]」と呼ばれる[[軌道エレベータ]]の一種を考案した<ref>McCarthy, John (August 1, 1994). [https://groups.google.com/g/sci.space.tech/c/lxXD4mwuK9E?hl=en&pli=1 "Re: SPACE BRIDGE SHORT"]. Posting in [[ニュースグループ|Usenet newsgroup]]: sci.space.tech.</ref>。
ジョン・マッカーシーはしばしば[[ネットニュース]]上で世界情勢についてコメントした。彼の考え方は自身の持続可能性(Sustainability)に関するWebページ<ref>McCarthy, John (February 4, 1995). [http://www-formal.stanford.edu/jmc/progress/ "Progress and its sustainability"]. formal.stanford.edu.</ref>でも部分的にわかる。それは、「人の物質的な進歩が望ましく、持続可能であることを示すため」のページである。彼は真面目な読書家で楽天主義者であり、言論の自由の忠実な支持者だった。ネットニュースでは特にrec.arts.booksでの発言が多く、同カテゴリのサンフランシスコ周辺の読者の(今で言う)オフ会に参加したこともある。
2001年には短編小説「ロボットと赤ちゃん」"The Robot and the Baby"を発表している<ref>{{Cite book |title=ロボット・アップライジング AIロボット反乱SF傑作選 - アレステア・レナルズ/コリイ・ドクトロウ 他/D・H・ウィルソン/J・J・アダムズ 編/中原尚哉 他訳|東京創元社 |url=http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488772055 |language=ja}}</ref><ref name="baby">McCarthy, John (June 28, 2001). [http://www-formal.stanford.edu/jmc/robotandbaby/robotandbaby.html "The Robot and the Baby"]. formal.stanford.edu.</ref>。これは、ロボットが感情を持てるかという問題をコミカルに扱ったもので、今後インターネットや[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|ソーシャル・ネットワーキング]]がさらに重要になってくるだろうという予測を交えて書かれている<ref>Thomson, Cask J. (October 26, 2011). [http://wordswithmeaning.org/2011/10/the-death-of-true-tech-innovators-d-ritchie-j-mccarthy-yet-the-death-of-steve-jobs-overshadows-all/ "The Death of TRUE Tech Innovators D. Ritchie & J. McCarthy – Yet the Death of Steve Jobs Overshadows All."]. WordsWithMeaning blog.<!-- https://webcitation.org/632iLmdFe--></ref>。
== 受賞歴 ==
* 1971年: [[チューリング賞]] ([[Association for Computing Machinery]])
* 1988年: [[京都賞先端技術部門]]
* 1990年: [[アメリカ国家科学賞]]<ref>[http://www.nsf.gov/od/nms/recip_details.cfm?recip_id=233 National Science Foundation]</ref>
* 1999年: [[コンピュータ歴史博物館]]フェロー
* 2003年: [[ベンジャミン・フランクリン・メダル (フランクリン協会)|ベンジャミン・フランクリン・メダル]]
* 2011年: [[IEEE]] Intelligent Systems の人工知能の殿堂入り<ref>{{Cite journal | doi = 10.1109/MIS.2011.64 | title = AI's Hall of Fame | url = http://www.computer.org/cms/Computer.org/ComputingNow/homepage/2011/0811/rW_IS_AIsHallofFame.pdf| journal = IEEE Intelligent Systems| publisher = [[IEEE Computer Society]]| volume = 26 | issue = 4 | pages = 5–15 | year = 2011 | pmid = | pmc = }}</ref><ref>{{Cite news|url= http://www.digitaljournal.com/pr/399442 |title=IEEE Computer Society Magazine Honors Artificial Intelligence Leaders |newspaper=DigitalJournal.com |date=2011-08-24 |accessdate=2011-09-18 }} Press release source: ''PRWeb'' (Vocus).</ref>
== 主な著作 ==
* 1959. [http://www-formal.stanford.edu/jmc/mcc59.html Programs with Common Sense]. In ''Proceedings of the Teddington Conference on the Mechanization of Thought Processes'', 756-91. London: Her Majesty's Stationery Office.
* 1960. [http://www-formal.stanford.edu/jmc/recursive.html Recursive functions of symbolic expressions and their computation by machine]. ''Communications of the ACM'' 3(4):184-195.
* 1963a A basis for a mathematical theory of computation. In ''Computer Programming and formal systems''. North-Holland.
* 1963b. Situations, actions, and causal laws. Technical report, Stanford University.
* Hayes, P. J. との共著 1969. [http://www-formal.stanford.edu/jmc/mcchay69.pdf Some philosophical problems from the standpoint of artificial intelligence]. In Meltzer, B., and Michie, D., eds., ''Machine Intelligence'' 4. Edinburgh: Edinburgh University Press. 463-502.
* 1977. Epistemological problems of artificial intelligence. In ''IJCAI'', 1038-1044.
* 1980. Circumscription: A form of non-monotonic reasoning. ''Artificial Intelligence'' 13(1-2):23-79.
* 1986. Applications of circumscription to common sense reasoning. ''Artificial Intelligence'' 28(1):89-116.
* 1990. Generality in artificial intelligence. In Lifschitz, V., ed., ''Formalizing Common Sense''. Ablex. 226-236.
* 1993. Notes on formalizing context. In ''IJCAI'', 555-562.
* Buvac, S. との共著 1997. Formalizing context: Expanded notes. In Aliseda, A.; van Glabbeek, R.; and Westerstahl, D., eds., ''Computing Natural Language''. Stanford University. Also available as Stanford Technical Note STAN-CS-TN-94-13.
* 1998. Elaboration tolerance. In ''Working Papers of the Fourth International Symposium on Logical formalizations of Commonsense Reasoning'', Commonsense-1998.
* Costello, T. との共著 1999. Useful counterfactuals. ''[[スウェーデン王立科学アカデミー|Electronic Transactions on Artificial Intelligence]]'' 3(A):51-76
* 2002. Actions and other events in situation calculus. In Fensel, D.; Giunchiglia, F.; McGuinness, D.; and Williams, M., eds., ''Proceedings of KR-2002'', 615-628.
== 出典 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* Philip J. Hilts, ''Scientific Temperaments: Three Lives in Contemporary Science'', Simon and Schuster, 1982. Lengthy profiles of John McCarthy, physicist Robert R. Wilson and geneticist Mark Ptashne.
* Pamela McCorduck, ''Machines Who Think: a personal inquiry into the history and prospects of artificial intelligence'', 1979, second edition 2004.
* Pamela Weintraub, ed., ''The Omni Interviews'', New York: Ticknor and Fields, 1984. Collected interviews originally published in ''Omni'' magazine; contains an interview with McCarthy.
== 関連項目 ==
* [[フレーム問題]]
* [[マッカーシーの91関数]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|John McCarthy (computer scientist)}}
* [http://www-formal.stanford.edu/jmc/ McCarthy's Stanford home page].
* [http://www.informatik.uni-trier.de/~ley/db/indices/a-tree/m/McCarthy:John.html List of publications] from the [[:en:DBLP|DBLP Bibliography Server]]
* {{MathGenealogy|id=22145 |title=John McCarthy}}
* [http://aigp.eecs.umich.edu/researcher/show/259 John McCarthy] at the [http://aigp.eecs.umich.edu/about AI Genealogy Project]
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2,346 | アポロ11号 | アポロ11号(アポロ11ごう、英: Apollo 11)は、史上初めて人類による月面着陸に成功したアポロ宇宙船、およびそのミッションの名称である。
アポロ11号は2人の人間を世界で最初に月に着陸させた宇宙飛行であった。ニール・アームストロング船長とバズ・オルドリン月着陸船操縦士の2名のアメリカ人が、1969年7月20日20時17分(UTC=協定世界時)にアポロ月着陸船「イーグル」号を月に着陸させた。アームストロングは7月21日の2時56分15秒(UTC)に月面に降り立った最初の人物となり、その19分後にオルドリンがアームストロングに続いた。二人は約2時間15分をともに船外で過ごし、47.5ポンド(21.5キログラム)の月物質を地球に持ち帰るために採取した。2人が月面にいる間、マイケル・コリンズ司令船操縦士はひとり月周回軌道上で司令船「コロンビア」号を飛行させた。アームストロングとオルドリンは21時間半を月面で過ごしたあと、月周回軌道上で再び「コロンビア」に合流した。
アポロ11号は、7月16日13時32分(UTC)にフロリダ州メリット島にあるケネディ宇宙センターからサターンV型ロケットで打ち上げられ、NASAのアポロ計画の5番目の有人ミッションとなった。アポロ宇宙船は次の3つの部分(モジュール)から構成される。3人の宇宙飛行士が乗り込める船室を備え、唯一地球に帰還する部分である司令船(CM)と、推進力、電力、酸素、水を供給して司令船を支援する機械船(SM)、そして月に着陸するための下降段と、月を離陸して再び月周回軌道まで宇宙飛行士を送り届けるための上昇段の二段式になっている月着陸船(LM)である。
アポロ11号はサターンVの第三段の推力で月に向かう軌道に乗り、宇宙船をサターンVから切り離したあと、およそ3日間かけて旅し、月軌道に入った。アームストロングとオルドリンは月着陸船「イーグル」に移乗し、静かの海に軟着陸した。2人は「イーグル」の上昇段を使用して月面を離陸し、司令船「コロンビア」で待つコリンズと再び合流した。「イーグル」を投棄したあと、宇宙飛行士たちは司令船を地球へ帰還する軌道に乗せる操作を行い、エンジンを噴射して月軌道を離脱した。3人は8日間以上の宇宙飛行を終えて、7月24日に地球に帰還し、太平洋に着水 (splashdown) した。
アームストロングが月面に最初の一歩を踏み下ろす場面は、テレビジョン放送を通じて全世界に向けて生中継された。日本でもテレビ中継は注目を集め、月面作業の中継時の平均視聴率は82%に達した(ビデオリサーチ調べ)。アームストロングはこの出来事について「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」と述べた。アポロ11号は実質的に宇宙開発競争を終わらせ、1961年に故ジョン・F・ケネディ大統領が掲げた「この60年代が終わるまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させる」という国家目標を見事に達成した。
1950年代後半から1960年代前半にかけて、アメリカ合衆国(米国)は地政学的な競争相手のソビエト連邦(ソ連)と冷戦の最中にあった。1957年10月4日、ソ連は世界初の人工衛星となるスプートニク1号を打ち上げた。この出し抜けの打ち上げ成功でソ連は世界中を驚かせ、人々の不安を煽り、想像力をかき立てた。ソ連には大陸間の距離を越えて核兵器を打ち込める能力があることを証明して見せ、米国の主張する軍事・経済・技術的優位を試したのである。これにより、突如としてスプートニク・ショックが起こり、宇宙開発競争の端緒が開かれた。
ソ連によるスプートニクの挑戦に対して、米国のドワイト・D・アイゼンハワー大統領は国家航空宇宙局(NASA)を創設し、人を地球周回軌道に乗せることを目指すマーキュリー計画に着手した。しかし、1961年4月12日にソ連のコスモノート(宇宙飛行士)、ユーリイ・ガガーリンが世界で最初に宇宙を飛行し、初めて軌道上で地球を周回した人物となったことにより、スプートニク・ショックで傷ついたアメリカ人の自尊心に追い打ちをかける形となった。ソ連に遅れることおよそ1か月、1961年5月5日にアラン・シェパードが約15分間の弾道飛行の旅を成し遂げ、初めて宇宙を飛行したアメリカ人となった。シェパードは大西洋から回収されたあと、アイゼンハワーの後任のジョン・F・ケネディ大統領から祝いの電話を受けた。
ケネディは、他国に優越せんとすることは合衆国の国民的関心の中にあって、米国の国力に対する認識は少なくとも現実(の国力)と同程度に重要であると信じていた。それゆえに、宇宙探査の分野においてソ連が(米国よりも)先進的であることは耐えがたいことであった。ケネディは、合衆国は競争しなければならないと固く決心し、勝機を最大化する試練を探し求めた。
当時、ソ連は米国よりも優れたブースターロケットを有していたため、ケネディは米国がソ連と対等の立場で競争を始められるよう、既存世代のロケットの最大出力を超える試練を要求した。たとえそれが軍事上、経済上、科学上の理由で妥当なものとして認められなかったとしても、壮大な見世物であった。ケネディは自身の顧問と専門家に相談した結果、そのような事業計画を選択した。1961年5月25日、ケネディは "Urgent National Needs" (至急の国家的要請)に関して合衆国議会で次のように演説した。
人間を月に着陸させるための取り組みには、すでにアポロ計画(Project Apollo)という名前がつけられていた。直接上昇方式と地球軌道ランデブーの両方にかかわる月軌道ランデブーは、早期にあったきわめて重大な決定事項であった。宇宙空間におけるランデブーとは、2機の宇宙船が宇宙空間を航行して落ち合う軌道操縦のことである。1962年7月11日、NASA長官のジェームズ・ウェッブは月軌道ランデブー方式を用いることに決定したと発表した。その結果、はるかに小さいロケットと3つのモジュールから成るアポロ宇宙船とでアポロ計画は進められることになった。この方法を選択したことは、アポロ宇宙船が(当時開発中だった)サターンV型ロケットで打ち上げられるであろうことを意味した。
アポロ計画に要求される技術および技巧はジェミニ計画で開発されたものである。アポロ計画は、1967年1月27日にアポロ1号が火災事故に遭い、3名の宇宙飛行士が亡くなったことと、それに関する調査のため、不意に中断された。1968年10月にアポロ7号が地球周回軌道上で司令船の評価を行い、同年12月にアポロ8号がそれを月周回軌道上で試験した。1969年3月にアポロ9号が地球軌道上で月着陸船の調子を試し、同年5月にアポロ10号が月軌道上で予行演習を実施した。こうして1969年7月までに、アポロ11号が月面に到達する最終段階までに必要な準備がすべて整った。
ソ連は米国と宇宙開発競争を繰り広げたが、米国のサターンVに匹敵するN-1ロケットの開発の度重なる失敗によって初期の優位は失われていた。それでもソ連は米国に打ち勝とうとして無人探査機を飛ばし、月物質を地球に持ち帰ること(サンプルリターン)を試みた。アポロ11号の打ち上げの3日前にあたる7月13日、ソ連はルナ15号を打ち上げ、アポロ11号よりも先に月軌道に到達させた。しかし、月面へ降下する間に探査機が機能不全に陥り、危難の海に激突した。そのときの衝撃はアポロ11号が月面に設置した地震計に詳細に記録された。アームストロングとオルドリンが月面を離陸して地球への帰路につくおよそ2時間前のことであった。イングランドにあるナフィールド電波天文学研究所の電波望遠鏡が月へ降下中のルナ15号から伝送された信号を記録しており、それらはアポロ11号の40周年記念にあたる2009年7月に公表された。
当初は、船長にニール・アームストロングを、司令船操縦士(CMP)にジム・ラヴェルを、月着陸船操縦士(LMP)にバズ・オルドリンを、それぞれアポロ9号の予備搭乗員として割り当てることが1967年11月20日に公式に発表された。ラヴェルとオルドリンは以前、ジェミニ12号の搭乗員として一緒に飛行したことがあった。月着陸船(LM)の設計と製造に遅れが生じたため、アポロ8号とアポロ9号は正規搭乗員および予備搭乗員が交代させられ、アームストロング船長以下の搭乗員はアポロ8号の予備搭乗員になった。通常の搭乗員ローテーション計画に基づけば、アームストロングは当時アポロ11号の船長になるものと予想されていた。
ところが、うち1人が変更されることになった。アポロ8号に正規搭乗員として乗り組む予定だったマイケル・コリンズが両脚に故障を抱え始めたためである。医師からは5番目と6番目の椎骨間の骨の成長に問題があると診断され、外科手術を要するほどの容態であった。そのため、ラヴェルがコリンズに代わってアポロ8号の搭乗員になり、コリンズは故障から回復すると司令船操縦士としてアームストロング船長以下の搭乗員に加わった。その間、フレッド・ヘイズが月着陸船操縦士として、オルドリンが司令船操縦士として、それぞれアポロ8号の予備搭乗員を務めた。搭乗員全員が先に宇宙飛行を経験したことのあるベテラン飛行士で編成されたのは、アメリカの宇宙開発史上、アポロ10号に次いでこれが2度目のことだった。以後、全員がベテラン飛行士で編成される3度目の機会は1988年のSTS-26まで訪れることはなかった。
一部では、オルドリンはともに働くことに難があると思われていたため、飛行乗組員の運用責任者だったスレイトンはアームストロングにオルドリンをラヴェルと交代させる選択肢を用意した。アームストロングはオルドリンと働くことに何も問題を抱えていなかったが、与えられた選択肢について日が暮れるまで熟考した。アームストロングが考えたところでは、ラヴェルは船長として彼独自のミッションを指揮してもらうのが当然であるとの結論に至った(結局、ラヴェルはアポロ13号の船長を務めた)。
アポロ11号の正規搭乗員は、アポロ12号の搭乗員に特徴的にみられたような、親密で積極的な仲間意識を持っていなかった。代わりに、気立てのいい仕事上の関係を築いた。とりわけアームストロングは周知のごとくよそよそしかったが、コリンズも自身を孤独が好きだと思っており、もっと個人的な関係を創出しようとしてきたオルドリンをはねつけていたことを告白した。オルドリンとコリンズはアポロ11号の乗組員について「親しげなよそ者たち("amiable strangers")」だったと記している。ただし、アームストロングはこの人物評価に同意せず、「私が接した乗組員は皆一緒にとてもよく働いた」と述べた。
予備搭乗員の構成は、ラヴェルが船長、アンダースが司令船操縦士、ヘイズが月着陸船操縦士だった。このうち、アンダースとラヴェルはアポロ8号で一緒に飛行したことがあった。ところが、1969年前半にアンダースは同年8月に実施される国家航空宇宙会議(英語版)との仕事を引き受け、その日をもって宇宙飛行士を引退することを発表した。その時点で、万が一アポロ11号が予定されていた7月の打ち上げより遅れてアンダースを任用できなくなった場合に備えて、ケン・マッティングリーを地上支援員から異動させ、予備の司令船操縦士としてアンダースと並行して訓練を受けさせることにした。ラヴェル、ヘイズ、マッティングリーの3名は、のちにアポロ13号の正規搭乗員として配属されることになった。
マーキュリー計画とジェミニ計画の頃は、各ミッションに正規搭乗員と予備搭乗員の2つの枠があったが、アポロ計画では地上支援員(support crew)として知られる3つ目の枠が追加された。地上支援員は飛行計画、チェックリスト、ミッションごとのグランドルール(行動規範)を維持し、何かしらの変更があったときにそれを正規搭乗員および予備搭乗員に確実に知らせる任務を担っていた。また、正規搭乗員と予備搭乗員がシミュレータ内に訓練に来たときに練習して習得することに集中できるよう、特に緊急事態用の手順も開発した。アポロ11号では、ケン・マッティングリー、ロナルド・エヴァンス、ビル・ポーグが地上支援員を構成していた。
宇宙船通信担当官(Capsule communicators、CAPCOM)は、テキサス州ヒューストンにあるミッション管制センター(英語版)の宇宙飛行士で、搭乗員と直接交信する唯一の人物であった。アポロ11号では、チャールズ・デューク、ロナルド・エヴァンス、ブルース・マッカンドレス2世、ジェームズ・ラヴェル、ウィリアム・アンダース、ケン・マッティングリー、フレッド・ヘイズ、ドン・L・リンド(英語版)、オーウェン・K・ギャリオット、ハリソン・シュミットがCAPCOMを務めた。
以下の4名の飛行主任(flight directors)が交替勤務でこのミッションを支えた。
アポロ11号のミッション徽章(英語版)はコリンズが「アメリカ合衆国による平和的な月面着陸」を象徴することを願ってデザインした。ラヴェルの提案で、コリンズはアメリカ合衆国の国鳥であるハクトウワシを象徴に選んだ。シミュレータ・インストラクターのトム・ウィルソンは、彼らの平和的な任務を表すオリーブの枝を配置してはどうかと提案した。そこで、くちばしに平和の象徴であるオリーブの枝をくわえたワシが描かれた。また、コリンズは遠くに地球を望みつつ月を背景に加えた。この図案の中の日光は差してくる方向が正しくなく、地球の影は左ではなくもっと下の方に描かれるべきだった。アームストロング、オルドリン、コリンズは、ワシと月を自然のままの色で彩り、円周を青色と金色で縁取ることに決めた。アームストロングが "eleven" 表記では非英語話者に理解されにくいのではないかと懸念したので、 "Apollo 11" とアラビア数字表記になった。また、アポロ11号の搭乗員たちは自分たちの名前を徽章に記載しないことに決め、徽章は「月面着陸に向けて働いた“みんな”を代表する」ものとなった。
有人宇宙船センターのイラストレーターが図案を作品に仕上げ、それからNASAの役人たちに承認を求めるために送付された。ところが、その図案は却下された。有人宇宙船センター長のボブ・ギルルース(英語版)は、このワシの鉤爪が「あまりに好戦的すぎる」と感じたのであった。いくらかの議論があったあと、オリーブの枝をくちばしから足の爪に移すことで巧みに爪を隠すことにした。1971年にアイゼンハワーの1ドル硬貨が発行されたときには、硬貨の裏面にこの図案のワシが使用された。アポロ11号のミッションから10年後にあたる1979年に発行された小さなアンソニーの1ドル硬貨にも、この徽章の図案が使用された。
アポロ10号の搭乗員が自分たちの搭乗するアポロ宇宙船を「チャーリー・ブラウン(Charlie Brown)」および「スヌーピー(Snoopy)」と名付けたことがあって、広報担当のジュリアン・シアー(英語版)は、当時有人宇宙船センターでアポロ計画室の室長を務めていたジョージ・M・ロウ(英語版)に、アポロ11号の搭乗員が自分たちのアポロ宇宙船を命名する際はもう少し真面目な名前をつけるようにしてはもらえないだろうかと提案した。NASAの計画の初期段階において、アポロ11号の司令船は「スノーコーン(Snowcone)」(「かき氷」の意)、同じく月着陸船は「ヘイスタック(Haystack)」(「干し草積み」の意)という名で呼ばれており、内外の伝達で使用されていた。
アポロ11号の月着陸船はミッション徽章で中心的な役割を演じたモチーフにちなんで「イーグル(Eagle)」(「ワシ」の意)と命名された。シアーの提案で、司令船は「コロンビア(Columbia)」と命名された。その由来はジュール・ヴェルヌの1865年発表の小説『地球から月へ』に登場する、(アポロ同様フロリダから)宇宙船を発射するための巨大な大砲「コロンビアード」で、アメリカ合衆国を象徴的に擬人化した伝統的な女性名「コロンビア」にもちなんでいる。また、コリンズは1976年に出版した自著の中で、「コロンビア」はクリストファー・コロンブスに関連していたと述べている。
アポロ11号の宇宙飛行士は、個人趣向キット(Personal Preference Kits、PPK:ミッションに持っていきたい個人的に意義深い記念の品々)を入れた小さな袋を所持していた。重さにして0.5ポンド(0.23キログラム)の5つの個人的な記念品(PPK)がアポロ11号に持ち込まれた。
ニール・アームストロングが月着陸船に持ち込んだのは、ライト兄弟が初めて空を飛んだ1903年のライトフライヤー号の左のプロペラから取った木片と、その翼から取った布切れ、そして当初ディーク・スレイトンがアポロ1号の搭乗員の配偶者たちからもらった、ダイヤモンドが散りばめられた宇宙飛行士の階級章(英語版)だった。この階級章はアポロ1号で飛行し、ミッション後にスレイトンに与えられるはずだったが、発射台での悲惨な火災事故とあとに続いた葬儀を受けて、配偶者たちがスレイトンに渡したもので、アームストロングはそれを持ってアポロ11号に乗船した。
NASAのアポロ着陸候補地選定委員会(Apollo Site Selection Board、ASSB)は1968年2月8日、5つの有力な着陸候補地を発表した。それらはルナ・オービター計画の5機の無人探査機が撮影した月面の高解像度写真、ならびにサーベイヤー計画で得られた月の表面の状態に関する情報に基づき、2年間かけて行われた価値ある調査の結果であった。地上に設置されたどんなに優れた望遠鏡でも、アポロ計画に要求される解像度で月面の特徴を解像することはできなかった。宇宙船が消費する推進剤の量を最小限に抑えることが要求されたため、着陸地点は月の赤道に近い場所でなければならなかった。さらに、機動的な飛行を最小限度に留めるために障害物のない開けた場所であることが求められ、着陸用レーダーのタスクを簡素化するために平坦であることが同時に求められた。科学的な価値は考慮に入れられなかった。
地球上で撮影された写真から有望そうに思えた領域は、そのほとんどがまったく許容できない場所であることがわかった。当初の要件はクレーターのない緩やかな場所だったが、そのような場所はひとつも見つからなかった。結局、5つの地点が候補地として検討された。地点1と地点2は静かの海に、地点3は中央の入江に、地点4と地点5は嵐の大洋にあった。最終候補地の選定は以下の7つの基準に基づいて行われた。
このうち太陽の角度に関する要件は特に制限的で、これによって打ち上げ日は1か月につき1日にまで制限されることとなった。宇宙飛行士が体験することになる温度の極値を制限するため、夜明けの直後に着陸することになった。ASSBは地点2を着陸予定地点に選出し、地点3と地点5は打ち上げ日が遅れた場合の予備の地点に選ばれた。1969年5月、アポロ10号の月着陸船は地点2から15キロ以内を飛行し、地点2は着陸予定地として容認できると報告した。
アポロ11号の搭乗員が発表されたあとの最初の記者会見で、記者から尋ねられた最初の質問が「あなた方の中で最初に月面に足を踏み出すのはどなたでしょうか?」であった。スレイトンは記者に「それはまだ決まっていない」と答え、アームストロングは「個々人の願望に基づいて決めることはない」と付け加えた。
退出チェックリストの初期の版のひとつでは、月着陸船操縦士は司令船操縦士よりも先に船を降りることになっており、以前のミッションで行われてきたことと一致していた。船長は一度も宇宙遊泳をしないことになっていた。記者たちは1969年の前半、最初に月面を歩行するのはオルドリンになりそうだと書いたが、ジョージ・ミラー(英語版)副長官は記者に彼(船長)もまた最初(の1人)になるだろうと伝えた。当のオルドリンは、文民であるという理由でアームストロングが最初に月面を踏むだろうと聞いて激怒した。オルドリンはほかの月着陸船操縦士らに自分こそが最初の1人になるべきだと説得を試みたが、ロビー活動のようなものだと感づいた彼らは皮肉っぽく応じた。部局間の対立を止めようとして、スレイトンはオルドリンにアームストロングが船長なのだから最初の一人は彼になるだろうと伝えた。1969年4月14日の記者会見で、その決定が発表された。
オルドリンは何十年間も、この最終決定は大方、月着陸船のハッチの位置で決まったものだと信じていた。なぜならば、宇宙飛行士は宇宙服を着ており宇宙船の中はとても狭いため、宇宙船からうまく脱出することは難しかったからである。搭乗員の受けた模擬演習ではオルドリンが最初に宇宙船を出ていたのだが、オルドリンは脱出を試みる際に演習設備を壊してしまった。この出来事は、ミッション計画立案者が決断を下すのに十分な事由であった。オルドリンとアームストロングは春の終わりごろまでこの決定に関して知らされずにいた。スレイトンは、「彼が同意すれば、君に最初に宇宙船を降りてもらう計画だ」とアームストロングに伝え、アームストロングは「ええ、それがいい方法です」と答えた。
メディアは、船長の特権を利用して最初に宇宙船を降りる役を射止めたとしてアームストロングを非難した。クリス・クラフト(英語版)が2001年に出した自叙伝の中で明かしたところでは、ギルルース、スレイトン、ロウおよびクラフトの四者間で協議を行い、オルドリンが最初に月面を歩くことにはならないことを確認したという。彼らは、最初に月面を歩く人物はチャールズ・リンドバーグのように冷静沈着な人物であるべきだと主張した。そして、飛行計画を変更する決定が下され、船長であるアームストロングが最初に宇宙船から月面に降り立つこととなった。
月着陸船LM-5の上昇段は1969年1月8日にケネディ宇宙センターに到着し、その4日後には下降段が、1月23日には司令・機械船CM-107がそれぞれ到着した。LM-5とアポロ10号のLM-4との間にはいくつかの違いがあった。LM-5には月面で船外活動中に宇宙飛行士との通信を円滑に行うためのVHF無線アンテナ、軽量化された上昇用エンジン、熱防護が強化された着陸装置、初期アポロ科学実験パッケージ(英語版)(Early Apollo Scientific Experiments Package、EASEP)として知られる科学実験装置一式が備えられていた。司令船の構成で唯一変更されたのは、前面ハッチからいくつか断熱材が取り除かれた点であった。司令船と機械船は1月29日に連結され、4月14日にO&Cビルディングからロケット組立棟に移された。
サターンV AS-506の第三段S-IVBは1月18日に到着し、続いて第二段S-IIが2月6日に、第一段S-ICが2月20日に、サターンV飛行制御装置(英語版)が2月27日に到着した。まだアポロ10号が月へ向かっている最中であった5月20日の1230(12時30分)、組み上がった重さ5,443-メトリックトン (5,357-ロングトン; 6,000-ショートトン)のサターンV型ロケットがクローラー・トランスポーターの上に載せられ、第39発射場の39A発射台に向けてロケット組立棟を出発した。カウントダウンのテストは6月26日に開始され、7月2日に終了した。7月15日の夜、発射施設が投光照明に照らされ、クローラー・トランスポーターが移動式整備塔(英語版)を駐機場まで運んで戻した。発射当日の早朝には、第二段S-IIと第三段S-IVBの各燃料タンクが液体水素で満たされた。燃料の注入は発射の3時間前までに完了した。発射運用はATOLLと呼ばれるプログラミング言語で書かれた43のプログラムで一部が自動化されていた。
搭乗員は0400(4時00分)すぎにスレイトンに起こされ、シャワーを浴び、髭を剃り、スレイトンおよび予備搭乗員と一緒にNASAの宇宙飛行前の伝統的な朝食となっているステーキと卵料理を食べた。そして、宇宙服を着用し、純酸素の呼吸を始めた。0630(6時30分)に搭乗員は第39発射施設に向かった。発射時刻の約3時間10分前にヘイズは「コロンビア」の船内に入り、6時54分に技術者とともにアームストロングが左の乗組員用の寝椅子につくのを手助けした。5分後にコリンズが加わり、自分の所定の位置である右の乗組員用の寝椅子についた。最後にオルドリンが乗船し、中央の寝椅子についた。ヘイズは発射の約2時間10分前に宇宙船から降りた。飛行士の搭乗を手伝ったクルー(クローズアウトクルー)がハッチを密閉すると、船室はパージ(圧縮空気を排気)され、与圧された。クローズアウトクルーは発射の約1時間前に発射施設を離れた。発射の3分20秒前からはカウントダウンが自動化された。450人以上の人員が発射管制室内の制御盤の前に陣取っていた。
推定で100万人の観衆が発射場の近辺の幹線道路や海岸からアポロ11号の打ち上げを見ていた。観衆の中には、アメリカ陸軍参謀総長のウィリアム・ウェストモーランド大将、4名の閣僚、19名の州知事(英語版)、40名の市長(英語版)、60名の大使、200名の合衆国議会議員などのお偉方もいた。スピロ・アグニュー副大統領はリンドン・ジョンソン前大統領およびレディ・バード・ジョンソン同夫人とともに打ち上げの様子を眺めた。現地には約3,500人の報道関係者が集まった。そのうちのおよそ3分の2はアメリカ国内から、残りはその他の55の国々から来ていた。打ち上げは33か国でテレビ中継され、アメリカ国内だけでも視聴者は推定で2,500万人に上った。さらに世界中で数百万の人々がラジオ放送を聴いていた。リチャード・ニクソン大統領は、NASAの連絡担当官だったアポロ宇宙飛行士のフランク・ボーマンとともに、ホワイトハウスの執務室から打ち上げの様子を見守った。
1969年7月16日13:32:00 UTC(午前9時32分00秒 EDT)、サターンV AS-506はアポロ11号を搭載して、ケネディ宇宙センターの39A発射台から発射された。発射の12分後には、高度98.9海里(183.2キロ)から100.4海里(185.9キロ)の辺りで、地球を周回する軌道に入った。地球を一周半したあと、第三段エンジンS-IVBを点火、16:22:13(UTC)に月遷移軌道投入(Trans-lunar injection、TLI)し、宇宙船は月へと向かう軌道に乗せられた。それから約30分後、左側の操縦席についたコリンズ司令船操縦士の操作で、トランスポジション、ドッキング、エクストラクション(英語版)と呼ばれる一連の動作を実行した。すなわち、使い切った第三段ロケットS-IVBから司令・機械船(CSM)を切り離し、船の向きを反転させて、第三段に取りつけられた状態の月着陸船(LM)とドッキングし、ロケットから着陸船を取り出した。その後、合体した宇宙船は月に向かう針路をとる一方、他方の第三段は月を通過する弾道を描くように飛行した。これは第三段ロケットがアポロ宇宙船や地球や月に衝突するのを回避するために取られた措置であった。月の周りを通過することで生じたスリングショット効果により、第三段S-IVBは太陽周回軌道に入った。
7月19日17:21:50(UTC)にアポロ11号は月の裏側を通過して機械船の推進エンジンを点火し、月周回軌道に入った。続いて、月を30周するうち、飛行士たちはサビンD(英語版)クレーターから南西に約12マイル(19キロ)の辺りに位置する静かの海南部の着陸地点の過ぎゆく景色を目にした。この着陸地点はある程度あらかじめ選定されていたのだが、それは無人探査機レインジャー8号とサーベイヤー5号による先行調査や、月周回衛星ルナ・オービターが撮影した月面写真により、その比較的平坦で滑らかな地形が着陸や船外活動(EVA)を行うのに大きな支障はないだろうと判断されたためであった。着陸予定地点はサーベイヤー5号の着陸地点から南東に25キロほど、レインジャー8号の衝突地点から68キロの辺りにあった。
7月20日12:52:00(UTC)にアームストロングとオルドリンは着陸船「イーグル」に乗り込み、月への降下に向けた最終準備に取りかかった。17:44:00に「イーグル」は司令船「コロンビア」から切り離された。「コロンビア」に1人残ったコリンズは、機体をゆっくりと爪先回転(ピルエット)させる着陸船「イーグル」に損傷がないこと、ならびに着陸装置が正常に展開されたことを確認した。アームストロングは "The Eagle has wings!" (「イーグル」には翼がある!)と叫んだ。
降下を開始してしばらくすると、アームストロングとオルドリンは月面上の目標地点を通り過ぎるのが2、3秒早いことに気づき、射程領域(ダウンレンジ)がやや長いようだと地上に報告した。つまり、このままでは着陸目標よりも西に数マイル先の地点に着陸してしまうことを示していた。「イーグル」はあまりにも速く飛びすぎていたのである。その原因は高い質量集中(英語版)にあって宇宙船の軌道が変化したのではないかと考えられた。飛行主任のジーン・クランツは、ドッキングトンネル内の余分な空気圧が原因ではないかと推論した。あるいは、機体の損傷チェック時に行われた「イーグル」の爪先回転飛行が原因となった可能性も考えられた。
降下のためのエンジン噴射に入る5分前、月面から高度6,000フィート(1,800メートル)で、着陸船の航法・誘導コンピュータ(LM guidance computer、LGC)が予期しない警報 "1201" と "1202" を幾度か発し、飛行士の注意を逸らせた。そのとき、ミッション管制センター内にいたコンピュータ技師のジャック・ガーマン(英語版)は、誘導官(Guidance Officer)のスティーブ・ベイルズ(英語版)にそのまま降下を続けても安全であることを告げ、飛行士たちにも中継して伝えられた。これらの警報は "executive overflows" (実行オーバーフロー)を示しており、誘導コンピュータが過負荷状態にあって要求されたすべてのタスクの処理をリアルタイムで完了できず、そのうちのいくつかを遅延させなければならない状態にあることを意味していた。マサチューセッツ工科大学チャールズ・スターク・ドレイパー研究所でアポロ飛行コンピュータのプログラミング責任者(Director of Apollo Flight Computer Programming)を務めたマーガレット・ハミルトンは、当時を思い出して次のように語った。
ミッション中には、司令船とのランデブー用のレーダーのスイッチが誤った位置にあり、月着陸船のコンピュータにランデブー用レーダーと着陸用レーダーの両方から送られてきたデータを同時に処理させようとしたことが原因だと診断された。ソフトウェア技師のドン・アイルズは、2005年の誘導制御会議(Guidance and Control Conference)で発表した論文の中で、この問題は以前アポロ5号で最初の無人月着陸船をテストしている最中に見られたハードウェア設計上の欠陥に原因があると結論づけた。(緊急時着陸中止という万が一の事態に備えて)ランデブー用レーダーをオンにしておくことはコンピュータとは関係ないはずだったが、無作為なハードウェアの電源の入れ方次第では、ランデブーレーダーシステムの2つの部品の間に生じる電気的位相の不整合により、コンピュータに対して固定型アンテナが2つのポジションの間を前後にディザリングするように見えることがある。ランデブー用レーダーがインボランタリカウンタを更新すると、余分な疑似サイクルスチールにより、コンピュータは警告を発する。
アームストロングが再び窓の外に目をやると、コンピュータがはじき出した着陸目標が直径300フィート(91メートル)ほどもあるクレーターのすぐ北と東の巨岩がいくつも転がっている領域にあるのが見えたため、アームストロングは操縦を半自動に切り替えた。アームストロングはその岩石原の手前に着陸すればそこから地質試料を採取しに行けるかもしれないと考えたが、宇宙船の水平方向速度が速すぎたためできなかった。降下している間、オルドリンはずっと、着陸船の操縦で多忙なアームストロングに航法データを読み上げ続けた。月面からの高度107フィート(33メートル)まで降下したとき、アームストロングは推進剤の供給が徐々に減少してきていることを知り、最初の着陸候補地点に着陸することに決めた。
アームストロングは開けた月面の一画を見つけ、機動的に宇宙船をそちらへ向かわせた。だんだんと近づいて行くと、高度250フィート(76メートル)のところで、その新しく決めた着陸地点にクレーターがあることを発見した。アームストロングはクレーターを視界にはっきりととらえながら、別の一画の平地を見つけた。高度100フィート(30メートル)まで来て、推進剤の量は残りわずか90秒分まで減っていた。さらに、着陸船のエンジンによって巻き上げられた月の砂塵が、宇宙船の動きを決定するアームストロングの判断力を鈍らせた。もうもうと立ち込める砂塵の中から突き出たいくつもの大きな岩に焦点を絞ることで、アームストロングは降下中の宇宙船の速度を判断することができた。
着陸の直前、「イーグル」の脚部から吊り下がっていた、長さ67インチ(170センチ)の探針のうちの少なくとも1本が月面に接地したことを示すライトが点灯した。それを知ったオルドリンは「着地灯、点灯!」と声に出して確認した。技師たちは、着陸時にエンジンを噴射させたまま月面に接近しすぎると排気ガスの圧力(背圧)でエンジンが吹き飛ぶかもしれないと危惧していたため、アームストロングはただちにエンジンを切ることになっていたが、忘れてしまった。3秒後に「イーグル」が着陸し、アームストロングはエンジンを切った。オルドリンは即座に「OK、エンジン停止。ACA解放」と言葉を発し、それを受けてアームストロングは「ACA解放了解。自動」と復唱した。続けてオルドリンは「モード制御、両方とも自動。下降段エンジンの指令重複、オフ。エンジンアーム、オフ。413に接続」と確認した。
ACAとは、姿勢制御装置(attitude control assembly)のことで、具体的には月着陸船の操縦桿のことである。その出力は着陸船の誘導コンピュータ(LGC)に伝えられ、姿勢制御システム(reaction control system、RCS)にエンジン噴射の命令を出す。「解放」とは、中央のポジションから動かされていた操縦桿が(車の方向指示器のように)バネの力で元の中央のポジションに戻されたことを意味する。LGCのアドレス413は、月着陸船が着陸したことを示す変数を含んでいた。
「イーグル」は7月20日、日曜日の20:17:40(UTC)に25秒分の燃料を残して着陸した。アポロ11号は後継のミッションよりも残りの燃料が少ない状態で着陸し、飛行士たちは早い段階から燃料残量警告表示に直面することになった。これはのちに、燃料タンク内で推進剤が想定以上に大きく揺れ動き(スロッシング)、燃料計の値が実際よりも少なく表示されていた結果であることが分かった。そのため、次回以降のミッションでは、これを抑える抑流板がタンク内に追加設置されることになった。
アームストロングは、オルドリンが「エンジンアームはオフ」と言って、着陸後のチェックリストをつける作業が一通り完了したのを確認して、CAPCOMのチャールズ・デュークに "Houston, Tranquility Base here. The Eagle has landed." (「ヒューストン、こちら静かの基地。鷲は舞い降りた」)と言葉を発した。アームストロングがコールサインを「イーグル」から予行演習にはなかった「静かの基地(Tranquility Base)」に変更したことで、着陸を完遂して成功したことが強調されて聴取者たちに伝えられた。それを聞いたデュークは、ミッション管制センターにいた人たちの安堵の気持ちを表し、 "Roger, Twan— Tranquility, we copy you on the ground. You got a bunch of guys about to turn blue. We're breathing again. Thanks a lot." (「了解、トゥワン......トゥランキリティ(「静か」の意)。月面にいる君たちの声、よく聞こえるよ。君らのおかげでたくさんの奴らが真っ青になりそうだった。ため息をついている。どうもありがとう」)と、一瞬言い淀みながらも応答した。
着陸から2時間半後、船外活動の準備を始める前に、オルドリンは次のように地球に無線連絡した。
そのあと彼は、私的に聖餐式を行った。この当時NASAは、アポロ8号の宇宙飛行士が月を周回中に聖書の創世記の一節を朗読したことに反対していた無神論者のマダリン・マレー・オヘア(英語版)と係争中で、オヘアはNASAに対し、宇宙飛行士は宇宙にいる間は宗教的活動を放送することを控えるべきだと要求していた。それゆえ、オルドリンは月で聖餐式を行うことに直接言及することを差し控える選択をした。オルドリンはテキサス州ウェブスター(英語版)にある長老派教会の長老で、聖餐用具は同教会の牧師であるディーン・ウッドラフが用意していた。ウェブスターの長老派教会は、このとき月で使用された聖餐杯を所有しており、毎年7月20日にもっとも近い日曜日を「月の晩餐の日」として記念行事を行っている。
この任務のスケジュールでは、宇宙飛行士は5時間の睡眠時間で着陸のあとに続く作業を行うことが求められていたが、眠れないだろうと思った2人は早くに船外活動の準備を始めることを選択した。
船外活動の準備は20日23:43に始まった。準備は2時間で済むはずのところ、3時間半と想定よりも長くかかった。地球上での訓練中には、必要とされるものはすべて前もってきちんと並べられていたが、月では、チェックリスト、食料の入った小包、用具のほかにも多くのものが船室内にあった。アームストロングとオルドリンの外に出る準備が整うと、「イーグル」は減圧された。02:39:33にハッチが開いた。初め、アームストロングは船外活動用の生命維持装置(英語版)(PLSS)を身に着けたままハッチを通り抜けようとする際にいくぶん苦労を要した。アポロ宇宙飛行士たちの心拍数は月着陸船のハッチを出入りするときに最高値を記録することがよくあった。02:51にアームストロングは月面へと降り始めた。胸の位置にある遠隔操作ユニット(RCU)のせいで、アームストロングは自分の足元が見えなかった。9段のはしごを降りながら、アームストロングはDの字型のリングを引いて、「イーグル」の側面に折り畳まれていたモジュール装置格納アセンブリ(Modular Equipment Stowage Assembly、MESA:器具収納部)を展開してテレビカメラを起動した。
アポロ11号では、放送用のテレビジョン規格と互換性のない低速度走査テレビジョンが使用されたため、一度特殊なモニタに映像を表示させておき、そのモニタの映像を従来型のテレビカメラで撮影することで本放送されたが、その画質は著しく低減されることとなった。テレビジョン信号はアメリカのゴールドストーンで受信されていたが、オーストラリアのキャンベラ近郊にあるハニーサックル・クリーク追跡基地(英語版)が受信した信号のほうが忠実度が高くて鮮明だった。数分後、通信の中継基地は、より感度が良好なオーストラリアのパークス電波望遠鏡に切り替えられた。幾多の技術的困難と天候不順があったにもかかわらず、史上初の月面での船外活動をとらえた、ぼんやりとした白黒の映像が地球上で受信され、世界中の少なくとも6億人の人々に向けて放送された。この放送形式のビデオの複製物は保存されており、広く入手することが可能だが、低速度走査テレビカメラで撮影されて月から伝送された元の高画質の録画映像(英語版)は、NASAの日常業務で磁気テープを再利用しているうちに誤って破損されてしまったようである。
アームストロングは、はしごにかけたまま、月着陸船の下降段につけられていた(西半球と東半球の)2つの地球の図と銘刻、および3名の飛行士とニクソン大統領の署名が描かれた記念銘板(英語版)を除幕した。記念銘板には次の文章が刻印されていた。
月の表面の塵について「とてもきめの細かい」「ほとんど粉のよう」と説明したあと、着陸から6時間半が経とうとしていた02:56:15にアームストロングは「イーグル」の脚を支えている皿の上に降り立ち、次のように宣言した。
アームストロングは "That's one small step for a man" (「男にとっては小さな一歩」)と言うつもりでいたが、通信音声では "a" という単語は聞き取りにくかったこともあって、当初、単語 "a" は生放送を視聴していた人の大多数には伝わっていなかった。のちにこの名文句について尋ねられたとき、アームストロングは "for a man" と言ったと思っていたと述べており、後年発行されたこの句の活字版には、角括弧付きで "a" が含められていた。ある解釈では、 "a" は欠落していたと主張され、彼は訛りによって "for a" の2単語を連続して不明瞭に発音したのだと説明されている。別の解釈では、パークス天文台付近の嵐をその一因とし、地球につないだ映像と音声の断続的性質で "a" の欠落を説明している。より最近のテープ音声のデジタル解析では、 "a" は発言されたかもしれないが、空電のせいでよく聞き取れなかったことが明らかになったと主張されている。
月面に足を踏み入れてからおよそ7分後、アームストロングは細長い棒で土壌サンプルを採取して試料袋に詰め、袋を畳み、右腿のポケットに押し込んだ。これは、万が一緊急時に飛行士たちが船外活動を断念して着陸船に戻らなければならなくなった場合でも、多少なりとも月の土壌を地球に持ち帰れるよう保証するための作戦行動(緊急採集)だった。土壌サンプルの採取が完了して12分後、アームストロングはMESAからテレビカメラを取り外し、月面のパノラマ映像を撮影してから、三脚の上にカメラを載せた。テレビカメラのケーブルには一部に巻きつけられていたときの癖が残っていたため、船外活動中はずっと、それが螺旋状に曲がりくねったところに足を引っかけてつまづくおそれがあった。さらに、ハッセルブラッド製カメラを手に持ったり、アームストロングの宇宙服(アポロ/スカイラブ A7L(英語版))にかけたりして、月面の写真撮影が遂行された。追ってオルドリンがアームストロングに続いて月面に降り立ち、月面の風景について、簡潔な言い方で "magnificent desolation" (荘厳なる荒涼)と表現した。
アームストロングは、地球の6分の1しかない月の重力の中を移動するのは「ひょっとしたら地上での模擬訓練よりもよほど簡単かもしれない......歩き回るのにまったく何の問題もない」と述べた。そこにオルドリンも加わって、両足で踏み切るカンガルー跳びなど、さまざまな歩き方を試した。すると、背中に生命維持装置を背負っているために上体が後ろに反る傾向はあるものの、バランスを取るには大した問題もなく、慣れてくると、むしろ大股で歩くのがよいことが分かった。ただし、移動する際は常に6、7歩先のことを予想して歩く必要があったり、粒の細かい土の部分はかなり滑りやすかったりしたので、注意を要した。また、太陽の照っているところから「イーグル」の影に入ったときには、宇宙服の中の温度はまったく変化がなかったが、ヘルメットの内部は日光で温められていたため、影に入ると冷たく感じられたとオルドリンは報告した。MESAは安定した作業環境を提供することができず、また「イーグル」の影に隠れていたため、作業はいくぶん遅れることになった。2人が作業しているうちに月面を歩いたことで、灰色の砂埃が巻き上げられ、宇宙服の外皮を汚してしまった。
2人はアメリカ合衆国の国旗を含む一組の旗(英語版)を月面上のテレビカメラにはっきりと写るところに立てた。オルドリンはこのときを思い出して「私が月面でしなければならなかったすべての仕事のうち、もっとも順調に運びたかったことは国旗の掲揚でした」と語った。ところが、繰り出し式の伸縮する棒が月面に刺す際に縮んでしまうことに悪戦苦闘し、旗竿は固い月の表面に2インチ(5センチ)ほどしか押しつけられなかった。オルドリンはテレビの視聴者の目の前で旗が倒れてしまいやしないかと心配しながらも、旗に向かってウエストポイント(陸軍士官学校)式の敬礼を行った。そして、オルドリンが星条旗とアームストロングを被写体にした写真を撮るはずだった次の瞬間に、電話無線伝送を通じてリチャード・ニクソン大統領が飛行士たちに話しかけてきた。のちにニクソンはこの交信を「かつてホワイトハウスからかけられた中でももっとも歴史的な通話」と呼んだ。ニクソンは当初、通話中に読み上げる長い演説文を用意していたが、当時NASAの連絡担当官でホワイトハウスにいたフランク・ボーマンは通話を手短に済ませるよう大統領を説得した。
二人の飛行士は、月震を観測する受動型地震計実験装置(PSEP)と月レーザー測距実験用の再帰反射器(LRRR)を含む、初期アポロ科学実験パッケージ(EASEP)を展開した。その際、オルドリンが2本のコアサンプル(英語版)を集めている間に、アームストロングは着陸船から196フィート(60メートル)歩いて、リトル・ウェスト・クレーター(英語版)の周縁部でスナップ写真を撮った。アームストロングは岩石ハンマーを使用してコアサンプル採取用のチューブを打った。アポロ11号でハンマーが使われたのはこのときだけだったが、6インチ(15センチ)よりも深く貫通させることはできなかった。2人はスコップや伸張式の鋏を使って岩石試料を採集した。月面での活動の多くは想定よりも長引いたため、2人は割り当てられていた34分間の活動時間の中ごろで、採集した試料について文書に記載する手を止めなくてはならなかった。荷崩れしないように、オルドリンは採集した岩石を入れた箱に6キログラム(13ポンド)の土をシャベルですくって入れた。採集された地質試料には玄武岩と角礫岩の2種類の岩石が含まれていたことがわかった。また、採集した岩石試料からは、新種の鉱物としてアーマルコライト、トランキリティアイト、パイロクスフェロアイト(英語版)の3種が発見された。このうち、アーマルコライト(Armalcolite)はアームストロング(Arm)、オルドリン(al)、コリンズ(col)の3名の宇宙飛行士の名にちなんでいる。これらの鉱物はすべて、のちに地球上でも見つかっている。
ミッション管制センターは暗号的な言葉を使用して、アームストロングに代謝率が高めであることを警告し、作業のペースを落とすように伝えた。彼は時間切れになるまで月面を素早く移動しては次から次へと任務をこなしていた。月面を歩行している間は、2人の飛行士の代謝率はおおむね予想されていた値よりも低かったため、管制センターは両飛行士に15分間の活動延長を許可した。2010年のインタビューで、アームストロングは、当時NASAが最初の月面歩行の時間と距離に制限をかけていたことを明かした。その理由は、月面で作業する間に飛行士たちの発する熱を下げるために、背中に備えられた生命維持装置がどの程度の量の冷却水を消費するかについて、経験に基づく裏付けが取れていなかったことによるものだった。
予定されていた船外活動をすべて消化すると、まずオルドリンが先に「イーグル」に戻った。採集した岩石や撮影したフィルムなどを収めた箱は重量が21.55キログラム(47.5ポンド)に上り、月装備運搬装置(Lunar Equipment Conveyor、LEC)と呼ばれるフラットケーブル滑車装置で引っぱり上げたが、ハッチから船内に入れるのには若干苦労した。この方法は効率的でないことが証明されたため、後継のミッションでは機材や試料は手で持って船に荷揚げするようになった。アームストロングは宇宙服の袖のポケットに入っている記念品の袋を月面に残すのを忘れないようにとオルドリンに念を押し、オルドリンは月面に袋を放り投げた。それから、アームストロングははしごの3段目まで一気にジャンプして飛び乗り、はしごを上って船内に入った。船内の生命維持システムに移ったあと、月周回軌道まで帰るための「イーグル」上昇段の明かりをつけ、宇宙服の船外活動用生命維持装置、月面靴、空のハッセルブラッド製カメラなど、不要になった機材を放り捨てて、21日05:01にハッチを閉め、船内を与圧し、2人はようやく月面で初めての睡眠についた。
ニクソン大統領のスピーチライターだったウィリアム・サファイアは、最悪の事態として、万一アポロ11号の宇宙飛行士たちが月で遭難した場合を想定して、大統領がテレビ演説で読み上げるIn Event of Moon Disaster (月で災難の場合)と題した追悼文を用意していた。その不測の事態に対応するための計画は、セイファイアからニクソンの大統領首席補佐官だったH・R・ハルデマンに渡されたメモが発端だった。そのメモには、もしアポロ11号が不慮の事態に見舞われ、ニクソン政権がそれに対する反応を求められるかもしれなかった状況を想定して、セイファイアが作成した追悼の言葉の原案が示されていた。その計画によれば、ミッション管制センターが月着陸船との「交信を絶つ」と、聖職者が海葬になぞらえた公的儀式で「彼らの魂を深い淵の底に委ねる」手はずだった。用意された原稿の最後の一行では、ルパート・ブルックが第一次世界大戦期に詠んだ詩『兵士(英語版)』にそれとなく言及している。
オルドリンは船内で作業しているとき、月面から離陸するために使用する上昇用エンジンを作動させる回路ブレーカーのスイッチを誤って壊してしまった。このことで、船のエンジンの点火が妨げられ、彼らは月面に取り残されてしまう懸念があった。幸いにも、フェルトペンの先でスイッチを作動させることができたが、もしもそれがうまくいかなければ、上昇用エンジンを点火するために着陸船の電気回路は構成し直されていたかもしれなかった。
21時間半以上を月面で過ごした2人は、科学観測機器のほか、1967年1月に訓練中の火災事故で犠牲になった3名の飛行士(ロジャー・チャフィー、ガス・グリソム、エドワード・ホワイト)を追悼してアポロ1号のミッションパッチを、また古くから平和の象徴とされてきたオリーブの枝を模した金のレプリカの入った記念袋を、そして地球からのメッセージを収めたシリコンディスクを月面に残してきた。ディスクには、アメリカのアイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソンの歴代大統領からの親善声明文(英語版)や世界73か国の指導者たちから寄せられたメッセージが収録されていたほか、アメリカ合衆国議会の代表者たち、NASAの設立に尽力した上下両院の4つの委員会のメンバー、およびNASAの歴代長官の名前の一覧も記録されていた。
およそ7時間の睡眠ののち、アームストロングとオルドリンはヒューストンからの目覚ましによって起こされ、帰還飛行の準備を始めるよう指示された。2時間半後の21日17:54:00(UTC)に2人は「イーグル」の上昇段エンジンを点火して月を離陸し、コリンズが搭乗している月周回軌道上の司令船「コロンビア」を目指した。月面離陸時に「イーグル」の上昇段から撮影された映像には、月面に残された下降段から25フィート(8メートル)ほど離れた場所に立てられた星条旗が、上昇段エンジンの噴射で激しくはためく様子がとらえられていた。オルドリンはちょうど旗がぐらついて倒れるのを目撃し、「上昇を始めたとき、私はコンピュータの操作に集中し、ニールは姿勢指示器を注視していたが、私は旗が倒れるのを長い間見ていられた」と報告した。そのため、以後のアポロミッションでは、上昇段エンジンの噴射で吹き飛ばされることのないように、星条旗は着陸船から離れた位置に立てられることになった。
単独で月を周回する飛行を続けていた間、コリンズはまったく寂しさを感じることはなかった。「アダム以来、そのような孤独を知る者はいない」といわれているが、コリンズはそれを使命の一部だと強く感じていた。コリンズは自叙伝の中で、「この冒険は3人の男で構成されたものであり、3番手の私も、ほかの2人のいずれかと同様になくてはならないものなのだと思う」と記している。月を周回する「コロンビア」が月の裏側を飛行して、地球との無線連絡ができない48分間の間にコリンズが感じたのは、不安でも孤独でもなく、むしろ「意識、予感、満足、自信、歓喜に近い感覚」であったと綴っている。
コリンズの最初の任務のひとつに、月面上の月着陸船の位置を特定することがあった。どこを探せばよいかの見当をつけるために、ミッション管制センターはコリンズに月着陸船は目標地点から4マイル(6.4キロ)ほど離れた辺りに着陸したようだと無線で伝えた。コリンズは着陸地点と思しき辺りの上空を通過するたびに月着陸船を見つけようとしたが、不可能だった。初めて月の裏側を飛んだとき、コリンズは燃料電池によって生成された余分な水を捨てたり、アームストロングとオルドリンの帰りを迎えるために船室を整理整頓するなど、船内の環境整備活動を行った。
3周目の周回で月の裏側に入る直前に、ミッション管制センターはコリンズに冷却液の温度に問題があると知らせた。冷却しすぎるようなことがあれば、「コロンビア」の部品が凍結してしまうかもしれなかった。ミッション管制センターは、手動制御に切り替えたうえで、環境制御システム故障時の手順17(Environmental Control System Malfunction Procedure 17)を実施するよう、コリンズに助言した。ところが、コリンズはその代わりとして、問題を引き起こしているシステムのスイッチを自動から手動に入れて、また自動に戻し、冷却剤の温度を注視しながらも、日課となっていた通常の管理保全作業を続行した。「コロンビア」が再び月の表側に出たときには、問題は解決したと報告することができた。それから次の2、3周は、月の裏側で過ごす時間が「ほっとする」("relaxing")時間だったとコリンズは記している。アームストロングとオルドリンがすべての船外活動を終えてからは、コリンズは来たるべきランデブーに備えて睡眠休憩をとることができた。「コロンビア」が「イーグル」を迎え入れる飛行計画に応じて、コリンズは一定の不測の事態に備えて「コロンビア」を「イーグル」のところまで降下させられるような準備ができていた。
7月21日21:24(UTC)に「イーグル」は「コロンビア」とランデブーし、21:35に2機はドッキングした。「イーグル」の上昇段は23:41に月周回軌道に投棄された。アポロ12号の飛行の直前には、「イーグル」は依然として軌道上に留まっているようであることが確認されたが、のちに出されたNASAの報告書には、「イーグル」は軌道が次第に減衰した結果、月面の「不確かな場所」("uncertain location")に衝突したのだろうと記されている。
7月22日04:56(UTC)にアポロ11号は機械船の推進エンジンを2分半噴射して月周回軌道を離れ、同日05:30(UTC)に月の裏側で地球帰還軌道に乗り (TEI(英語版))、地球への帰路に就いた。
7月23日、着水前の最後の夜に、3名の宇宙飛行士はテレビ放送で次のようにコメントした。最初にコリンズが、
と述べ、続いてオルドリンが、
と加え、最後にアームストロングが、
と締めくくった。
地球への帰還に際して、グアムの追跡基地で装置の軸受が故障したことで、もしかすると地球帰還時の連絡に関して最後の一部分の受信が妨げられていた可能性があった。定期的な修復作業では与えられた時間内に作業を終えるのは不可能だったが、基地の主任だったチャールズ・フォースには10歳になる息子グレッグがいて、軸受箱の中にその小さな手を入れてグリスを塗ってもらって急場をしのいだ。お手柄のグレッグはのちにアームストロングから感謝された。
6月5日、カール・J・セイバーリック(英語版)大佐指揮下の航空母艦ホーネットが、5月26日にアポロ10号を回収した姉妹艦のヘリコプター揚陸艦プリンストンに代わって、アポロ11号の主回収船(primary recovery ship、PRS)に選ばれた。当時、ホーネットは母港であるカリフォルニア州ロングビーチにあった。7月5日に真珠湾に到着したホーネットは、アポロ宇宙船の回収任務を専門とするHS-4のSH-3 シーキング数機、水中爆破班(英語版)アポロ特派部隊(UDT Detachment Apollo)の専門ダイバーたち、NASAの回収班35人およびメディア関係者約120人を乗船させた。空間を確保するため、ホーネットの艦載機の多くはロングビーチに残してきていた。訓練用のボイラープレート(英語版)(ダミーの宇宙船)を含む、特殊な回収用機材も積み込まれた。
7月12日、アポロ11号がまだ発射台にあったころにホーネットは中部太平洋の回収海域(北緯10度36分 東経172度24分 / 北緯10.600度 東経172.400度 / 10.600; 172.400付近)に向けて真珠湾を出港した。ニクソン大統領、ボーマン連絡担当官、ウィリアム・P・ロジャース(英語版)国務長官、ヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当補佐官からなる大統領一行は、エアフォースワンでジョンストン環礁まで飛び、そこで指揮艦アーリントン艦上のマリーンワンに乗り込んだ。大統領一行は艦上で一夜を過ごしたあと、数時間の式典のためにマリーンワンでホーネットまで飛んだ。ホーネット艦上に到着すると、大統領一行は、ホーネットの艦上輸送機でパゴパゴから飛来していたアメリカ太平洋軍最高司令官のジョン・S・マケイン・ジュニア大将とNASA長官のトマス・O・ペイン(英語版)からあいさつを受けた。
当時、気象衛星はまだ一般的なものではなかったが、アメリカ空軍のハンク・ブランドリ大尉は最高機密である偵察衛星の画像にアクセスすることができた。その衛星画像から暴風雨前線がアポロ宇宙船の回収海域に向かっていることが分かった。視界不良はこのミッションにとって深刻な脅威であった。もしヘリコプターが「コロンビア」の位置を特定できなければ、宇宙船と搭乗員、および月の石などの貴重な貨物が失われてしまうおそれがあった。ブランドリは、要保全許可(required security clearance)を有していた真珠湾の艦隊気象センターの司令官、海軍のウィラード・S・ヒューストン・ジュニア大将に警報を発した。彼らの勧告に基づき、太平洋・有人宇宙船回収部隊(Manned Spaceflight Recovery Forces, Pacific)の司令官、ドナルド・C・デイヴィス(英語版)少将はNASAに回収海域を変更するよう忠告した。これにより、新たな回収海域が指定され、元の回収海域から北東に215海里(398キロメートル)の辺りで回収されることになった。
回収海域の変更は飛行計画にも影響を及ぼした。異なるシーケンスのコンピュータ・プログラムが使用されていたが、その1つは以前に試用されたことがなかった。従来の入力では、P64の次にP67が続いていたが、スキップアウトされた部分の再入力は、P65を用いて一旦終了したうえで、P66でスキップ部分を入力する方法が採られていた。この場合、それらは再入力部を展開していたが、実際にはスキップアウトしていなかったため、P66は呼び出されず、代わりにP65が直接P67を導いた。搭乗員も、P67を入力した場合、フルリフト(頭が下になる)姿勢にならないとの警告を受けていた。飛行士たちは最初のプログラムの指令で6.5標準重力加速度 (64 m/s)の加速度を受け、2番目のプログラムで6.0標準重力加速度 (59 m/s)の加速度を体感させられることとなった。
7月24日の夜明け前、ホーネットから4機のシーキング・ヘリコプターと3機の艦上早期警戒機E-1が発進した。うち2機のE-1は "air boss"(空中指揮機)に指定され、3機目は通信中継機として行動した。2機のシーキングはダイバーたちと回収用機材を輸送した。3機目は写真撮影機材を、4機目は除染を担当するスイマーと航空医官を、それぞれ輸送した。16:44(UTC、現地時間05:44)に「コロンビア」の減速用パラシュート(英語版)が開いたのをヘリコプターが確認した。7分後に「コロンビア」は船体を力強く水面に叩きつけられ、ウェーク島の東方2,660キロ(1,440海里)、ジョンストン環礁の南方380キロ(210海里)、ホーネットからの距離わずか24キロ(13海里)の地点(北緯13度19分 西経169度9分 / 北緯13.317度 西経169.150度 / 13.317; -169.150)に着水した。着水 (splashdown) 時に「コロンビア」は上下逆さまに落下したが、飛行士たちが作動させた浮力袋によって10分以内に立て直された。上空でホバリングする海軍のヘリコプターから下りてきたダイバーが、船が漂流することのないように「コロンビア」に海錨を取りつけた。別のダイバーらは船を安定させるために「コロンビア」に浮揚環管を取りつけ、宇宙飛行士たちを下船させるためのボートを船の横につけた。
ダイバーらは宇宙飛行士たちに生物隔離服(biological isolation garment、BIG)を渡し、救命ボートに乗るのを補助した。月面から病原体を持ち帰る可能性はごくわずかだと考えられたが、NASAは念のため回収現場で予防措置をとった。宇宙飛行士たちは次亜塩素酸ナトリウム製剤を使用して身体を擦り拭かれ、「コロンビア」は船体に付着しているかもしれない月の塵をベタダインを使って拭き取られた。宇宙飛行士たちはウインチで引き揚げられ、回収ヘリコプターに乗せられた。ホーネット艦上の隔離施設に到着するまでの間、宇宙飛行士たちは生物隔離服を着用させられた。除染物質を積んだボートは故意に沈められた。
ヘリコプターは17:53(UTC)にホーネット艦上に着地したあと、そのままエレベーターで格納庫へと下ろされ、そこで宇宙飛行士たちは移動式隔離施設(英語版)(Mobile Quarantine Facility、MQF)まで30フィート(9.1メートル)歩いて施設内に入り、地球ベースで21日分の検疫期間が開始されることになった。この措置は、後続のアポロ12号とアポロ14号の2つのミッションでも実施されたが、のちに月に生命が存在しないことが証明されると、検疫措置は取りやめになった。ニクソン大統領は地球に帰還した宇宙飛行士たちを歓迎し、「君たちが成し遂げたことのおかげで、世界はこれまでになく一層親密になった」と伝えた。
ニクソンが出発したあと、ホーネットは重量5米トン(4.5トン)の「コロンビア」に近づいて舷側に寄せ、艦のクレーンを使って船を引き揚げ、台車(英語版)に載せてMQFの隣まで運び込んだ。そして、「コロンビア」は伸縮可能なトンネルでMQFと接続され、月試料、フィルム、データテープおよびその他の積み荷が取り出された。ホーネットが真珠湾に帰港すると、そこでMQFはC-141に載せられて有人宇宙船センターまで空輸された。7月28日10:00(UTC)に宇宙飛行士たちは月試料受入研究所(Lunar Receiving Laboratory)に到着した。一方、「コロンビア」は不活性化のためにフォード島に運ばれ、火工品類が安全に処理された。その後、ヒッカム空軍基地に運ばれ、そこからC-133でヒューストンに空輸されて7月30日に月試料受入研究所に到着した。
7月16日にNASAが発布した一連の規定、地球外暴露法(英語版)に従い、検疫試験計画が成文化され、宇宙飛行士たちの検疫が続けられた。しかし、3週間の隔離(まず最初にアポロ宇宙船内で、次にホーネット艦上のMQF内で、最後に有人宇宙船センターの月試料受入研究所内で)を経て、宇宙飛行士たちに完全健康証明書が与えられた。1969年8月10日にアトランタで、逆汚染に関する庁間委員会(Interagency Committee on Back Contamination)の会合が開かれ、宇宙飛行士たち、飛行士の検疫に従事した者たち(NASAの医官ウィリアム・カーペンティア(英語版)とMQFプロジェクト技師ジョン・ヒラサキ(英語版))、およびコロンビア号自体の隔離がようやく解かれた。宇宙船から取り外せる備品は、月試料が研究用に公開されるまでの間、隔離されたままだった。
8月13日、ニューヨークとシカゴで、推計600万人の見物客を脇に見ながら、紙吹雪の舞う中、名誉ある盛大な祝賀パレードが挙行され、3人は歓迎と祝福を受けた。同日の晩にはロサンゼルスのセンチュリー・プラザ・ホテル(英語版)で、合衆国議会議員、44州の知事、合衆国最高裁判所長官、83か国の大使らが出席して、今回の飛行を記念する公式晩餐会 (state dinner) が開かれた。その席上で、ニクソン大統領とアグニュー副大統領から各宇宙飛行士の栄誉を称えて大統領自由勲章が授与された。
1969年9月16日、3人の飛行士は合衆国議会上下両院合同会議の開会前にスピーチし、月面に持って行った2枚の星条旗のうちの片方を下院に、もう片方を上院に贈呈した。アポロ11号によって月に持ち込まれたアメリカ領サモアの旗は、アメリカ領サモアの首都パゴパゴにあるジーン・P・ヘイドン博物館(英語版)に展示されている。
この祝賀行事は38日間に及ぶ世界周遊の旅の始まりであった。この旅行中に3人の宇宙飛行士は22か国を歴訪し、多くの国々の指導者たちを表敬訪問した。旅は9月29日から11月5日まで続いた。多くの国では、人類史上初の月面着陸の栄誉を称える雑誌の特集が組まれたり、アポロ11号の記念切手や記念硬貨が発行されたりした。
人間が月面を歩き、安全に地球に帰還したことで、その8年前に設定されたケネディの目標は達成された。アポロ11号が着陸したとき、ミッション管制センターではケネディの演説が画面に映し出され、"TASK ACCOMPLISHED, July 1969"(「1969年7月、任務達成」)の文字が表示された。アポロ11号の成功によってアメリカ合衆国がほかの国々よりも技術的に優位にあることが証明された。アポロ11号の成功をもって、アメリカは宇宙開発競争に勝利したのである。
それにともなって、英語には新しいフレーズが浸透した。アポロ11号にかけて "If they can send a man to the Moon, why can't they..." (「もしも彼らが人を月に送ることができるなら、なぜ彼らは...できないのか」転じて「人類に人を月に送り込む英知があるのなら、どんな問題だって解決できるさ」の意)という文句がよく使われる言い習わしとなった。アームストロングが月面で発した名言も、数え切れないほど多くのパロディを派生させた。
任務を達成したことが盛大に祝われた一方で、公民権を剥奪されたアメリカの人々はこれをアメリカの格差の象徴と見ていた。それはアポロ11号の打ち上げ前日にケネディ宇宙センターの外側で抗議する人たちがいたことに裏付けられた。ただし、だからといって彼らがそのことに畏敬の念を抱いていないわけではなかった。抗議の行進を主導したラルフ・アバナシー(英語版)はアポロ11号のあまりに壮観な打ち上げに魅了され、抗議活動で何を言おうとしていたかを忘れてしまった。アポロ計画に費やす金があるなら、どうしてそれを地球上の人間の世話をするために使わないのかと思った市民らは、人種的および金銭的な不平等に不満を募らせた。ギル・スコット・ヘロンによる "Whitey on the Moon" (「白んぼは月に行く」の意)と題された詩は、宇宙開発競争で際立たせられたアメリカ合衆国における人種的不平等(英語版)を物語っている。この詩の歌い出しは次のようなものであった。
A rat done bit my sister Nell. (with Whitey on the moon) Her face and arms began to swell. (and Whitey’s on the moon) I can’t pay no doctor bill. (but Whitey’s on the moon) Ten years from now I’ll be paying still. (while Whitey’s on the moon)
鼠が姉/妹ネルに噛み付いた (白んぼは月に行くというのに) 彼女の顔と両腕が腫れ始めた (それでも白んぼは月に行く) 俺らは医療費なんて払えない (だけど白んぼは月に行く) 十年後も支払ってるだろうさ (白んぼが月に行く間に)
世界の人口の20パーセントの人々が、人類が初めて月面を歩く瞬間を見ていたと言われている。アポロ11号は世界中の関心を集めたが、後続のアポロ・ミッションは国民の関心をつかむことはなかった。このことは複雑さの変化で説明できそうである。人間を月に着陸させることは理解しやすい目標であったのに対し、月質学(月の地質学)は平均的な人にとってあまりにも抽象的すぎたのであった。また、ケネディの掲げた人類を月に着陸させる目標がすでに達成されてしまったこともその一因となった。目的が明確に定義されていたことはアポロ計画がその目標を達成する助けとなったが、目標が達成されたあととなっては、月飛行ミッションを継続する正当な理由を説明することが難しくなった。
ほとんどのアメリカ人が宇宙探査で国家的目標を達成したことに誇りを持っていたころ、1960年代後半に一度だけ実施されたギャラップ調査(世論調査)では、アメリカ人の大多数が宇宙開発を「あまりしない」よりも「もっとする」ことを支持していたことが示された。しかし、1973年になるころには、59パーセントの人々が宇宙探査にかける費用を削減すべきだと回答するまでになった。米国とソ連がデタントの時代に入ると、宇宙開発競争は終わりを迎え、冷戦の緊張も緩和されていった。このころはちょうどインフレーションが始まった時期でもあり、支出を削減するよう政府に圧力がかけられた。宇宙計画が経費節減から救われたのは、それが何か偉大なことを成し遂げた数少ない政府の事業のひとつだったためである。抜本的に削減すれば、行政管理予算局の副局長だったキャスパー・ワインバーガーに「我々にとっての絶好の時期が遅れている」とのメッセージを送ることになるかもしれないとして警戒された。
アポロ11号ミッションのあと、ソ連の当局者らは人間を月に着陸させるのは危険で不必要なことだったと発言した。当時ソ連は無人探査機を使って月の試料を回収しようとしていた。ただし、ソ連は公には月着陸競争の存在を否定しており、そのような試みがなかったことを示していた。ソ連の科学者ムスチスラフ・ケルディシュは1969年7月に「我々は大規模な衛星システムの開発にすべてを注力しているところだ」と語った。月に人間を送り込もうとしていたが、技術的困難のために実現しなかったとソ連が明らかにしたのは1989年のことだった。ソ連の一般の人々の反応は複雑なものであった。ソ連政府が(アポロ11号の)月面着陸に関する情報の公開を制限したことも人々の反応に影響を及ぼした。ソ連の民衆の一部はアポロの月面着陸に何ら関心を示さず、別の一部にはそのことに怒りを覚える者もいた。
地球に帰還した司令船「コロンビア」はアメリカの49州の州都と首都コロンビア特別区およびアラスカ州アンカレッジで巡回展示された。その後、1971年にスミソニアン協会に移管され、ワシントンD.C.にある国立航空宇宙博物館(National Air and Space Museum、NASM)で展示された。「コロンビア」が展示された場所は同博物館のジェファーソン・ドライブ入口正面にある中央のMilestones of Flight展示ホールで、メインホールにはほかに、ライトフライヤー号、スピリットオブセントルイス号、ベルX-1、ノースアメリカンX-15、マーキュリー宇宙船・フレンドシップ7号など、アメリカの航空宇宙史を開拓してきた機体が展示されている。
2017年に「コロンビア」はバージニア州シャンティリーにあるスティーブン・F・ウドバー=ハジー・センター(英語版)のメアリー・ベイカー・エンゲン修復用格納庫(NASM Mary Baker Engen Restoration Hangar)に移され、アポロ11号の月面着陸50周年を記念して4都市で開催されるDestination Moon: The Apollo 11 Mission(目的地・月:アポロ11号の使命)と題した巡回展に向けて準備が進められた。この巡回展は、2017年10月14日から2018年3月18日までスペースセンター・ヒューストンにて、2018年4月14日から同年9月3日までセントルイス科学センター(英語版)にて、2018年9月29日から2019年2月18日までピッツバーグのハインツ歴史センター(英語版)にて、2019年3月16日から同年9月2日までシアトルの航空博物館(英語版)にて、それぞれ開催される。
アームストロングとオルドリンの宇宙服は40年間、同博物館内のApollo to the Moonコーナーに展示されていた が、2018年12月3日をもって同展示コーナーは永久に閉鎖され、それに代わる新しい展示コーナーが2022年にオープンする予定である。アームストロングの宇宙服は2019年7月にアポロ11号が50周年を迎えるのに合わせて特別展示されることが企画されている。隔離施設、浮揚環管、転覆した船体の立て直しに用いられた浮力球は、バージニア州シャンティリーのワシントン・ダレス国際空港に近いスミソニアン協会のスティーブン・F・ウドバー=ハジー・センターの別館にあり、月着陸船の試験機とともに展示されている。
月着陸船「イーグル」の下降段は月面に残されたままである。2009年、ルナー・リコネサンス・オービター(Lunar Reconnaissance Orbiter、LRO)が、歴代のアポロ宇宙船の着陸地点を、月着陸船の下降段、科学観測機器、宇宙飛行士の足跡などを見分けられるほど十分に高い解像度で、初めて画像化することに成功した。上昇段の遺物は、投棄されて月に衝突したあと、月の表面の不明な場所にあると推定されている。場所が不確かである理由は、「イーグル」上昇段は投棄されたあとに追跡されていなかったこと、そして月の重力場が十分に一様ではないために、少々時間を置いたあとでは宇宙船の軌道が予測不可能になってしまうことによる。
2012年3月、Amazonの創業者ジェフ・ベゾスから資金提供を受けた専門家チームによって、アポロ11号を宇宙へと打ち上げたサターンVのS-IC段からF-1エンジンの場所が突き止められ、実際に先進的な走査型超音波探知機を用いて大西洋の海底で5基のエンジンが発見された。そして、5基のうち2基の部品が引き揚げられた。2013年7月、そのうちの1基のエンジンの錆びついた表面の下にシリアルナンバーが記載されているのを管理人が発見し、NASAはそれがアポロ11号の打ち上げで使われたものであることを確認した。エンジンは修復された後、シアトルのミュージアム・オブ・フライト(英語版)に寄贈され一般公開されている。
アポロ11号の月遷移投入に能力を発揮したサターンVの第三段S-IVBは、地球の公転軌道に近い、太陽周回軌道上に留まっている。
アポロの月の石のおもな保管場所は、テキサス州ヒューストンのジョンソン宇宙センター内の月試料実験室施設(英語版)にある。安全に保管するために、ニューメキシコ州ラスクルーセス近郊のホワイトサンズ試験施設(英語版)にも、より小規模なコレクションが収蔵されている。月の石のほとんどは湿気ないように窒素の中に保存されている。取り扱う際は直接手で触れないように、特殊な用具が使われる。世界中の100以上の研究実験室がこの試料に関する研究を実施しており、毎年およそ500点の試料が用意され、研究者に発送されている。
1969年11月にニクソンは、135か国とアメリカ合衆国の50州および属領、ならびに国際連合に贈呈するアポロ11号月試料展示品(英語版)を約250点作るよう、NASAに依頼した。各展示品にはアポロ11号が持ち帰った月の塵が含まれていた。米粒程度の大きさの粒子は月の土の4つの小片で、重さは約50ミリグラムあり、アメリカ合衆国の50セント硬貨と同じくらいの大きさの透明なアクリル製のバッジに覆われていた。このアクリル製のバッジによって月の塵の粒子は拡大されて見えるようになっている。アポロ11号の月試料展示品は1970年にニクソンより親善の品として贈呈された。
受動的地震実験(Passive Seismic Experiment、PSE)の実験装置は、1969年8月25日に地上局からの指令アップリンクが使えなくなるまで運用された。ダウンリンクは1969年12月14日に途絶えた。2018年時点で、月レーザー測距実験(Lunar Laser Ranging experiment)は運用が続けられている。
2009年7月15日にLife.comは、同誌の写真家だったラルフ・モース(英語版)がアポロ11号の打ち上げに先立って撮影した宇宙飛行士の未公表写真をウェブ上の写真ギャラリーで公開した。2009年7月16日から24日まで、NASAはアポロ11号ミッションで流れた本物の音声を40年前の月飛行の実時間に合わせてストリーミング配信した。さらに、当時のビデオフィルムの復元作業が進められており、重要な場面を集めた予告編が公開されている。2010年7月、アポロ11号が月へ降下して着陸するまでの間に宇宙から地球に伝送されたミッション管制センターの音声録音とフィルム映像が再同調され、初めて公開された。ジョン・F・ケネディ大統領図書館・博物館(英語版)は、アポロ11号が打ち上げられてから月に着陸するまでの交信記録を再放送するAdobe Flashウェブサイトを立ち上げた。
2009年7月20日、アポロ11号の搭乗員だったアームストロング、オルドリン、コリンズの3名は、ホワイトハウスでバラク・オバマ大統領と面会した。オバマは「私たちが話しているように、向こうで空を見上げる別世代の子どもたちが、次なるアームストロング、コリンズ、オルドリンになろうとすることを期待しています」と述べ、「彼らが(月への)旅路につきたいとき、彼らのためにNASAがそこを目指していることを確実にしておきたい」と加えた。2009年8月7日、合衆国議会の法令により、アメリカで文民に贈られる最高位の賞である議会黄金勲章がこの3名の宇宙飛行士に授与された。この法案は、フロリダ州選出の上院議員ビル・ネルソンと、同じくフロリダ州選出の下院議員アラン・グレイソン(英語版)に支持されたものだった。
イギリスの科学者グループは、40周年記念行事の一環として行われたインタビューで、月面着陸の意義に反応して次のように答えた。
2015年6月10日、アメリカ合衆国のビル・ポージー(英語版)議員(共和党・フロリダ州選出)は、合衆国議会下院の第114会期にて、合衆国造幣局に対し、アポロ11号ミッションの50周年を記念して、金、銀および被覆金属を使用した記念硬貨をデザインして発行するよう指示する決議案(H.R. 2726)を提出した。2019年1月24日、合衆国造幣局は公式ウェブサイト上で記念硬貨を一般に公開した。
アポロ11号の月面着陸は人類史にとって輝かしい成果を残したが、その一方で、これがねつ造であったとする主張がある。この陰謀論を信じる者は世界中に数多く存在しており、ねつ造であったと実証を試みるウェブサイトも数多くある。彼らが唱える主張は以下の通りである。
これらの主張は、科学者によって反証されており、誤りであることが明らかになっている。 | [
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"text": "アポロ11号(アポロ11ごう、英: Apollo 11)は、史上初めて人類による月面着陸に成功したアポロ宇宙船、およびそのミッションの名称である。",
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"text": "アポロ11号は2人の人間を世界で最初に月に着陸させた宇宙飛行であった。ニール・アームストロング船長とバズ・オルドリン月着陸船操縦士の2名のアメリカ人が、1969年7月20日20時17分(UTC=協定世界時)にアポロ月着陸船「イーグル」号を月に着陸させた。アームストロングは7月21日の2時56分15秒(UTC)に月面に降り立った最初の人物となり、その19分後にオルドリンがアームストロングに続いた。二人は約2時間15分をともに船外で過ごし、47.5ポンド(21.5キログラム)の月物質を地球に持ち帰るために採取した。2人が月面にいる間、マイケル・コリンズ司令船操縦士はひとり月周回軌道上で司令船「コロンビア」号を飛行させた。アームストロングとオルドリンは21時間半を月面で過ごしたあと、月周回軌道上で再び「コロンビア」に合流した。",
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"text": "アポロ11号は、7月16日13時32分(UTC)にフロリダ州メリット島にあるケネディ宇宙センターからサターンV型ロケットで打ち上げられ、NASAのアポロ計画の5番目の有人ミッションとなった。アポロ宇宙船は次の3つの部分(モジュール)から構成される。3人の宇宙飛行士が乗り込める船室を備え、唯一地球に帰還する部分である司令船(CM)と、推進力、電力、酸素、水を供給して司令船を支援する機械船(SM)、そして月に着陸するための下降段と、月を離陸して再び月周回軌道まで宇宙飛行士を送り届けるための上昇段の二段式になっている月着陸船(LM)である。",
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"text": "アポロ11号はサターンVの第三段の推力で月に向かう軌道に乗り、宇宙船をサターンVから切り離したあと、およそ3日間かけて旅し、月軌道に入った。アームストロングとオルドリンは月着陸船「イーグル」に移乗し、静かの海に軟着陸した。2人は「イーグル」の上昇段を使用して月面を離陸し、司令船「コロンビア」で待つコリンズと再び合流した。「イーグル」を投棄したあと、宇宙飛行士たちは司令船を地球へ帰還する軌道に乗せる操作を行い、エンジンを噴射して月軌道を離脱した。3人は8日間以上の宇宙飛行を終えて、7月24日に地球に帰還し、太平洋に着水 (splashdown) した。",
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"text": "アームストロングが月面に最初の一歩を踏み下ろす場面は、テレビジョン放送を通じて全世界に向けて生中継された。日本でもテレビ中継は注目を集め、月面作業の中継時の平均視聴率は82%に達した(ビデオリサーチ調べ)。アームストロングはこの出来事について「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」と述べた。アポロ11号は実質的に宇宙開発競争を終わらせ、1961年に故ジョン・F・ケネディ大統領が掲げた「この60年代が終わるまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させる」という国家目標を見事に達成した。",
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"text": "1950年代後半から1960年代前半にかけて、アメリカ合衆国(米国)は地政学的な競争相手のソビエト連邦(ソ連)と冷戦の最中にあった。1957年10月4日、ソ連は世界初の人工衛星となるスプートニク1号を打ち上げた。この出し抜けの打ち上げ成功でソ連は世界中を驚かせ、人々の不安を煽り、想像力をかき立てた。ソ連には大陸間の距離を越えて核兵器を打ち込める能力があることを証明して見せ、米国の主張する軍事・経済・技術的優位を試したのである。これにより、突如としてスプートニク・ショックが起こり、宇宙開発競争の端緒が開かれた。",
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"text": "ソ連によるスプートニクの挑戦に対して、米国のドワイト・D・アイゼンハワー大統領は国家航空宇宙局(NASA)を創設し、人を地球周回軌道に乗せることを目指すマーキュリー計画に着手した。しかし、1961年4月12日にソ連のコスモノート(宇宙飛行士)、ユーリイ・ガガーリンが世界で最初に宇宙を飛行し、初めて軌道上で地球を周回した人物となったことにより、スプートニク・ショックで傷ついたアメリカ人の自尊心に追い打ちをかける形となった。ソ連に遅れることおよそ1か月、1961年5月5日にアラン・シェパードが約15分間の弾道飛行の旅を成し遂げ、初めて宇宙を飛行したアメリカ人となった。シェパードは大西洋から回収されたあと、アイゼンハワーの後任のジョン・F・ケネディ大統領から祝いの電話を受けた。",
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"text": "ケネディは、他国に優越せんとすることは合衆国の国民的関心の中にあって、米国の国力に対する認識は少なくとも現実(の国力)と同程度に重要であると信じていた。それゆえに、宇宙探査の分野においてソ連が(米国よりも)先進的であることは耐えがたいことであった。ケネディは、合衆国は競争しなければならないと固く決心し、勝機を最大化する試練を探し求めた。",
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"text": "当時、ソ連は米国よりも優れたブースターロケットを有していたため、ケネディは米国がソ連と対等の立場で競争を始められるよう、既存世代のロケットの最大出力を超える試練を要求した。たとえそれが軍事上、経済上、科学上の理由で妥当なものとして認められなかったとしても、壮大な見世物であった。ケネディは自身の顧問と専門家に相談した結果、そのような事業計画を選択した。1961年5月25日、ケネディは \"Urgent National Needs\" (至急の国家的要請)に関して合衆国議会で次のように演説した。",
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"text": "人間を月に着陸させるための取り組みには、すでにアポロ計画(Project Apollo)という名前がつけられていた。直接上昇方式と地球軌道ランデブーの両方にかかわる月軌道ランデブーは、早期にあったきわめて重大な決定事項であった。宇宙空間におけるランデブーとは、2機の宇宙船が宇宙空間を航行して落ち合う軌道操縦のことである。1962年7月11日、NASA長官のジェームズ・ウェッブは月軌道ランデブー方式を用いることに決定したと発表した。その結果、はるかに小さいロケットと3つのモジュールから成るアポロ宇宙船とでアポロ計画は進められることになった。この方法を選択したことは、アポロ宇宙船が(当時開発中だった)サターンV型ロケットで打ち上げられるであろうことを意味した。",
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"text": "アポロ計画に要求される技術および技巧はジェミニ計画で開発されたものである。アポロ計画は、1967年1月27日にアポロ1号が火災事故に遭い、3名の宇宙飛行士が亡くなったことと、それに関する調査のため、不意に中断された。1968年10月にアポロ7号が地球周回軌道上で司令船の評価を行い、同年12月にアポロ8号がそれを月周回軌道上で試験した。1969年3月にアポロ9号が地球軌道上で月着陸船の調子を試し、同年5月にアポロ10号が月軌道上で予行演習を実施した。こうして1969年7月までに、アポロ11号が月面に到達する最終段階までに必要な準備がすべて整った。",
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"tag": "p",
"text": "ソ連は米国と宇宙開発競争を繰り広げたが、米国のサターンVに匹敵するN-1ロケットの開発の度重なる失敗によって初期の優位は失われていた。それでもソ連は米国に打ち勝とうとして無人探査機を飛ばし、月物質を地球に持ち帰ること(サンプルリターン)を試みた。アポロ11号の打ち上げの3日前にあたる7月13日、ソ連はルナ15号を打ち上げ、アポロ11号よりも先に月軌道に到達させた。しかし、月面へ降下する間に探査機が機能不全に陥り、危難の海に激突した。そのときの衝撃はアポロ11号が月面に設置した地震計に詳細に記録された。アームストロングとオルドリンが月面を離陸して地球への帰路につくおよそ2時間前のことであった。イングランドにあるナフィールド電波天文学研究所の電波望遠鏡が月へ降下中のルナ15号から伝送された信号を記録しており、それらはアポロ11号の40周年記念にあたる2009年7月に公表された。",
"title": "背景"
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"text": "当初は、船長にニール・アームストロングを、司令船操縦士(CMP)にジム・ラヴェルを、月着陸船操縦士(LMP)にバズ・オルドリンを、それぞれアポロ9号の予備搭乗員として割り当てることが1967年11月20日に公式に発表された。ラヴェルとオルドリンは以前、ジェミニ12号の搭乗員として一緒に飛行したことがあった。月着陸船(LM)の設計と製造に遅れが生じたため、アポロ8号とアポロ9号は正規搭乗員および予備搭乗員が交代させられ、アームストロング船長以下の搭乗員はアポロ8号の予備搭乗員になった。通常の搭乗員ローテーション計画に基づけば、アームストロングは当時アポロ11号の船長になるものと予想されていた。",
"title": "人員"
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"text": "ところが、うち1人が変更されることになった。アポロ8号に正規搭乗員として乗り組む予定だったマイケル・コリンズが両脚に故障を抱え始めたためである。医師からは5番目と6番目の椎骨間の骨の成長に問題があると診断され、外科手術を要するほどの容態であった。そのため、ラヴェルがコリンズに代わってアポロ8号の搭乗員になり、コリンズは故障から回復すると司令船操縦士としてアームストロング船長以下の搭乗員に加わった。その間、フレッド・ヘイズが月着陸船操縦士として、オルドリンが司令船操縦士として、それぞれアポロ8号の予備搭乗員を務めた。搭乗員全員が先に宇宙飛行を経験したことのあるベテラン飛行士で編成されたのは、アメリカの宇宙開発史上、アポロ10号に次いでこれが2度目のことだった。以後、全員がベテラン飛行士で編成される3度目の機会は1988年のSTS-26まで訪れることはなかった。",
"title": "人員"
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"text": "一部では、オルドリンはともに働くことに難があると思われていたため、飛行乗組員の運用責任者だったスレイトンはアームストロングにオルドリンをラヴェルと交代させる選択肢を用意した。アームストロングはオルドリンと働くことに何も問題を抱えていなかったが、与えられた選択肢について日が暮れるまで熟考した。アームストロングが考えたところでは、ラヴェルは船長として彼独自のミッションを指揮してもらうのが当然であるとの結論に至った(結局、ラヴェルはアポロ13号の船長を務めた)。",
"title": "人員"
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"text": "アポロ11号の正規搭乗員は、アポロ12号の搭乗員に特徴的にみられたような、親密で積極的な仲間意識を持っていなかった。代わりに、気立てのいい仕事上の関係を築いた。とりわけアームストロングは周知のごとくよそよそしかったが、コリンズも自身を孤独が好きだと思っており、もっと個人的な関係を創出しようとしてきたオルドリンをはねつけていたことを告白した。オルドリンとコリンズはアポロ11号の乗組員について「親しげなよそ者たち(\"amiable strangers\")」だったと記している。ただし、アームストロングはこの人物評価に同意せず、「私が接した乗組員は皆一緒にとてもよく働いた」と述べた。",
"title": "人員"
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{
"paragraph_id": 16,
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"text": "予備搭乗員の構成は、ラヴェルが船長、アンダースが司令船操縦士、ヘイズが月着陸船操縦士だった。このうち、アンダースとラヴェルはアポロ8号で一緒に飛行したことがあった。ところが、1969年前半にアンダースは同年8月に実施される国家航空宇宙会議(英語版)との仕事を引き受け、その日をもって宇宙飛行士を引退することを発表した。その時点で、万が一アポロ11号が予定されていた7月の打ち上げより遅れてアンダースを任用できなくなった場合に備えて、ケン・マッティングリーを地上支援員から異動させ、予備の司令船操縦士としてアンダースと並行して訓練を受けさせることにした。ラヴェル、ヘイズ、マッティングリーの3名は、のちにアポロ13号の正規搭乗員として配属されることになった。",
"title": "人員"
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"text": "マーキュリー計画とジェミニ計画の頃は、各ミッションに正規搭乗員と予備搭乗員の2つの枠があったが、アポロ計画では地上支援員(support crew)として知られる3つ目の枠が追加された。地上支援員は飛行計画、チェックリスト、ミッションごとのグランドルール(行動規範)を維持し、何かしらの変更があったときにそれを正規搭乗員および予備搭乗員に確実に知らせる任務を担っていた。また、正規搭乗員と予備搭乗員がシミュレータ内に訓練に来たときに練習して習得することに集中できるよう、特に緊急事態用の手順も開発した。アポロ11号では、ケン・マッティングリー、ロナルド・エヴァンス、ビル・ポーグが地上支援員を構成していた。",
"title": "人員"
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"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "宇宙船通信担当官(Capsule communicators、CAPCOM)は、テキサス州ヒューストンにあるミッション管制センター(英語版)の宇宙飛行士で、搭乗員と直接交信する唯一の人物であった。アポロ11号では、チャールズ・デューク、ロナルド・エヴァンス、ブルース・マッカンドレス2世、ジェームズ・ラヴェル、ウィリアム・アンダース、ケン・マッティングリー、フレッド・ヘイズ、ドン・L・リンド(英語版)、オーウェン・K・ギャリオット、ハリソン・シュミットがCAPCOMを務めた。",
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"text": "以下の4名の飛行主任(flight directors)が交替勤務でこのミッションを支えた。",
"title": "人員"
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"paragraph_id": 20,
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"text": "アポロ11号のミッション徽章(英語版)はコリンズが「アメリカ合衆国による平和的な月面着陸」を象徴することを願ってデザインした。ラヴェルの提案で、コリンズはアメリカ合衆国の国鳥であるハクトウワシを象徴に選んだ。シミュレータ・インストラクターのトム・ウィルソンは、彼らの平和的な任務を表すオリーブの枝を配置してはどうかと提案した。そこで、くちばしに平和の象徴であるオリーブの枝をくわえたワシが描かれた。また、コリンズは遠くに地球を望みつつ月を背景に加えた。この図案の中の日光は差してくる方向が正しくなく、地球の影は左ではなくもっと下の方に描かれるべきだった。アームストロング、オルドリン、コリンズは、ワシと月を自然のままの色で彩り、円周を青色と金色で縁取ることに決めた。アームストロングが \"eleven\" 表記では非英語話者に理解されにくいのではないかと懸念したので、 \"Apollo 11\" とアラビア数字表記になった。また、アポロ11号の搭乗員たちは自分たちの名前を徽章に記載しないことに決め、徽章は「月面着陸に向けて働いた“みんな”を代表する」ものとなった。",
"title": "準備"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "有人宇宙船センターのイラストレーターが図案を作品に仕上げ、それからNASAの役人たちに承認を求めるために送付された。ところが、その図案は却下された。有人宇宙船センター長のボブ・ギルルース(英語版)は、このワシの鉤爪が「あまりに好戦的すぎる」と感じたのであった。いくらかの議論があったあと、オリーブの枝をくちばしから足の爪に移すことで巧みに爪を隠すことにした。1971年にアイゼンハワーの1ドル硬貨が発行されたときには、硬貨の裏面にこの図案のワシが使用された。アポロ11号のミッションから10年後にあたる1979年に発行された小さなアンソニーの1ドル硬貨にも、この徽章の図案が使用された。",
"title": "準備"
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{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "アポロ10号の搭乗員が自分たちの搭乗するアポロ宇宙船を「チャーリー・ブラウン(Charlie Brown)」および「スヌーピー(Snoopy)」と名付けたことがあって、広報担当のジュリアン・シアー(英語版)は、当時有人宇宙船センターでアポロ計画室の室長を務めていたジョージ・M・ロウ(英語版)に、アポロ11号の搭乗員が自分たちのアポロ宇宙船を命名する際はもう少し真面目な名前をつけるようにしてはもらえないだろうかと提案した。NASAの計画の初期段階において、アポロ11号の司令船は「スノーコーン(Snowcone)」(「かき氷」の意)、同じく月着陸船は「ヘイスタック(Haystack)」(「干し草積み」の意)という名で呼ばれており、内外の伝達で使用されていた。",
"title": "準備"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "アポロ11号の月着陸船はミッション徽章で中心的な役割を演じたモチーフにちなんで「イーグル(Eagle)」(「ワシ」の意)と命名された。シアーの提案で、司令船は「コロンビア(Columbia)」と命名された。その由来はジュール・ヴェルヌの1865年発表の小説『地球から月へ』に登場する、(アポロ同様フロリダから)宇宙船を発射するための巨大な大砲「コロンビアード」で、アメリカ合衆国を象徴的に擬人化した伝統的な女性名「コロンビア」にもちなんでいる。また、コリンズは1976年に出版した自著の中で、「コロンビア」はクリストファー・コロンブスに関連していたと述べている。",
"title": "準備"
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{
"paragraph_id": 24,
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"text": "アポロ11号の宇宙飛行士は、個人趣向キット(Personal Preference Kits、PPK:ミッションに持っていきたい個人的に意義深い記念の品々)を入れた小さな袋を所持していた。重さにして0.5ポンド(0.23キログラム)の5つの個人的な記念品(PPK)がアポロ11号に持ち込まれた。",
"title": "準備"
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{
"paragraph_id": 25,
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"text": "ニール・アームストロングが月着陸船に持ち込んだのは、ライト兄弟が初めて空を飛んだ1903年のライトフライヤー号の左のプロペラから取った木片と、その翼から取った布切れ、そして当初ディーク・スレイトンがアポロ1号の搭乗員の配偶者たちからもらった、ダイヤモンドが散りばめられた宇宙飛行士の階級章(英語版)だった。この階級章はアポロ1号で飛行し、ミッション後にスレイトンに与えられるはずだったが、発射台での悲惨な火災事故とあとに続いた葬儀を受けて、配偶者たちがスレイトンに渡したもので、アームストロングはそれを持ってアポロ11号に乗船した。",
"title": "準備"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "NASAのアポロ着陸候補地選定委員会(Apollo Site Selection Board、ASSB)は1968年2月8日、5つの有力な着陸候補地を発表した。それらはルナ・オービター計画の5機の無人探査機が撮影した月面の高解像度写真、ならびにサーベイヤー計画で得られた月の表面の状態に関する情報に基づき、2年間かけて行われた価値ある調査の結果であった。地上に設置されたどんなに優れた望遠鏡でも、アポロ計画に要求される解像度で月面の特徴を解像することはできなかった。宇宙船が消費する推進剤の量を最小限に抑えることが要求されたため、着陸地点は月の赤道に近い場所でなければならなかった。さらに、機動的な飛行を最小限度に留めるために障害物のない開けた場所であることが求められ、着陸用レーダーのタスクを簡素化するために平坦であることが同時に求められた。科学的な価値は考慮に入れられなかった。",
"title": "準備"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "地球上で撮影された写真から有望そうに思えた領域は、そのほとんどがまったく許容できない場所であることがわかった。当初の要件はクレーターのない緩やかな場所だったが、そのような場所はひとつも見つからなかった。結局、5つの地点が候補地として検討された。地点1と地点2は静かの海に、地点3は中央の入江に、地点4と地点5は嵐の大洋にあった。最終候補地の選定は以下の7つの基準に基づいて行われた。",
"title": "準備"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "このうち太陽の角度に関する要件は特に制限的で、これによって打ち上げ日は1か月につき1日にまで制限されることとなった。宇宙飛行士が体験することになる温度の極値を制限するため、夜明けの直後に着陸することになった。ASSBは地点2を着陸予定地点に選出し、地点3と地点5は打ち上げ日が遅れた場合の予備の地点に選ばれた。1969年5月、アポロ10号の月着陸船は地点2から15キロ以内を飛行し、地点2は着陸予定地として容認できると報告した。",
"title": "準備"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "アポロ11号の搭乗員が発表されたあとの最初の記者会見で、記者から尋ねられた最初の質問が「あなた方の中で最初に月面に足を踏み出すのはどなたでしょうか?」であった。スレイトンは記者に「それはまだ決まっていない」と答え、アームストロングは「個々人の願望に基づいて決めることはない」と付け加えた。",
"title": "準備"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "退出チェックリストの初期の版のひとつでは、月着陸船操縦士は司令船操縦士よりも先に船を降りることになっており、以前のミッションで行われてきたことと一致していた。船長は一度も宇宙遊泳をしないことになっていた。記者たちは1969年の前半、最初に月面を歩行するのはオルドリンになりそうだと書いたが、ジョージ・ミラー(英語版)副長官は記者に彼(船長)もまた最初(の1人)になるだろうと伝えた。当のオルドリンは、文民であるという理由でアームストロングが最初に月面を踏むだろうと聞いて激怒した。オルドリンはほかの月着陸船操縦士らに自分こそが最初の1人になるべきだと説得を試みたが、ロビー活動のようなものだと感づいた彼らは皮肉っぽく応じた。部局間の対立を止めようとして、スレイトンはオルドリンにアームストロングが船長なのだから最初の一人は彼になるだろうと伝えた。1969年4月14日の記者会見で、その決定が発表された。",
"title": "準備"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "オルドリンは何十年間も、この最終決定は大方、月着陸船のハッチの位置で決まったものだと信じていた。なぜならば、宇宙飛行士は宇宙服を着ており宇宙船の中はとても狭いため、宇宙船からうまく脱出することは難しかったからである。搭乗員の受けた模擬演習ではオルドリンが最初に宇宙船を出ていたのだが、オルドリンは脱出を試みる際に演習設備を壊してしまった。この出来事は、ミッション計画立案者が決断を下すのに十分な事由であった。オルドリンとアームストロングは春の終わりごろまでこの決定に関して知らされずにいた。スレイトンは、「彼が同意すれば、君に最初に宇宙船を降りてもらう計画だ」とアームストロングに伝え、アームストロングは「ええ、それがいい方法です」と答えた。",
"title": "準備"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "メディアは、船長の特権を利用して最初に宇宙船を降りる役を射止めたとしてアームストロングを非難した。クリス・クラフト(英語版)が2001年に出した自叙伝の中で明かしたところでは、ギルルース、スレイトン、ロウおよびクラフトの四者間で協議を行い、オルドリンが最初に月面を歩くことにはならないことを確認したという。彼らは、最初に月面を歩く人物はチャールズ・リンドバーグのように冷静沈着な人物であるべきだと主張した。そして、飛行計画を変更する決定が下され、船長であるアームストロングが最初に宇宙船から月面に降り立つこととなった。",
"title": "準備"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "月着陸船LM-5の上昇段は1969年1月8日にケネディ宇宙センターに到着し、その4日後には下降段が、1月23日には司令・機械船CM-107がそれぞれ到着した。LM-5とアポロ10号のLM-4との間にはいくつかの違いがあった。LM-5には月面で船外活動中に宇宙飛行士との通信を円滑に行うためのVHF無線アンテナ、軽量化された上昇用エンジン、熱防護が強化された着陸装置、初期アポロ科学実験パッケージ(英語版)(Early Apollo Scientific Experiments Package、EASEP)として知られる科学実験装置一式が備えられていた。司令船の構成で唯一変更されたのは、前面ハッチからいくつか断熱材が取り除かれた点であった。司令船と機械船は1月29日に連結され、4月14日にO&Cビルディングからロケット組立棟に移された。",
"title": "準備"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "サターンV AS-506の第三段S-IVBは1月18日に到着し、続いて第二段S-IIが2月6日に、第一段S-ICが2月20日に、サターンV飛行制御装置(英語版)が2月27日に到着した。まだアポロ10号が月へ向かっている最中であった5月20日の1230(12時30分)、組み上がった重さ5,443-メトリックトン (5,357-ロングトン; 6,000-ショートトン)のサターンV型ロケットがクローラー・トランスポーターの上に載せられ、第39発射場の39A発射台に向けてロケット組立棟を出発した。カウントダウンのテストは6月26日に開始され、7月2日に終了した。7月15日の夜、発射施設が投光照明に照らされ、クローラー・トランスポーターが移動式整備塔(英語版)を駐機場まで運んで戻した。発射当日の早朝には、第二段S-IIと第三段S-IVBの各燃料タンクが液体水素で満たされた。燃料の注入は発射の3時間前までに完了した。発射運用はATOLLと呼ばれるプログラミング言語で書かれた43のプログラムで一部が自動化されていた。",
"title": "準備"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "搭乗員は0400(4時00分)すぎにスレイトンに起こされ、シャワーを浴び、髭を剃り、スレイトンおよび予備搭乗員と一緒にNASAの宇宙飛行前の伝統的な朝食となっているステーキと卵料理を食べた。そして、宇宙服を着用し、純酸素の呼吸を始めた。0630(6時30分)に搭乗員は第39発射施設に向かった。発射時刻の約3時間10分前にヘイズは「コロンビア」の船内に入り、6時54分に技術者とともにアームストロングが左の乗組員用の寝椅子につくのを手助けした。5分後にコリンズが加わり、自分の所定の位置である右の乗組員用の寝椅子についた。最後にオルドリンが乗船し、中央の寝椅子についた。ヘイズは発射の約2時間10分前に宇宙船から降りた。飛行士の搭乗を手伝ったクルー(クローズアウトクルー)がハッチを密閉すると、船室はパージ(圧縮空気を排気)され、与圧された。クローズアウトクルーは発射の約1時間前に発射施設を離れた。発射の3分20秒前からはカウントダウンが自動化された。450人以上の人員が発射管制室内の制御盤の前に陣取っていた。",
"title": "準備"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "推定で100万人の観衆が発射場の近辺の幹線道路や海岸からアポロ11号の打ち上げを見ていた。観衆の中には、アメリカ陸軍参謀総長のウィリアム・ウェストモーランド大将、4名の閣僚、19名の州知事(英語版)、40名の市長(英語版)、60名の大使、200名の合衆国議会議員などのお偉方もいた。スピロ・アグニュー副大統領はリンドン・ジョンソン前大統領およびレディ・バード・ジョンソン同夫人とともに打ち上げの様子を眺めた。現地には約3,500人の報道関係者が集まった。そのうちのおよそ3分の2はアメリカ国内から、残りはその他の55の国々から来ていた。打ち上げは33か国でテレビ中継され、アメリカ国内だけでも視聴者は推定で2,500万人に上った。さらに世界中で数百万の人々がラジオ放送を聴いていた。リチャード・ニクソン大統領は、NASAの連絡担当官だったアポロ宇宙飛行士のフランク・ボーマンとともに、ホワイトハウスの執務室から打ち上げの様子を見守った。",
"title": "ミッション"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1969年7月16日13:32:00 UTC(午前9時32分00秒 EDT)、サターンV AS-506はアポロ11号を搭載して、ケネディ宇宙センターの39A発射台から発射された。発射の12分後には、高度98.9海里(183.2キロ)から100.4海里(185.9キロ)の辺りで、地球を周回する軌道に入った。地球を一周半したあと、第三段エンジンS-IVBを点火、16:22:13(UTC)に月遷移軌道投入(Trans-lunar injection、TLI)し、宇宙船は月へと向かう軌道に乗せられた。それから約30分後、左側の操縦席についたコリンズ司令船操縦士の操作で、トランスポジション、ドッキング、エクストラクション(英語版)と呼ばれる一連の動作を実行した。すなわち、使い切った第三段ロケットS-IVBから司令・機械船(CSM)を切り離し、船の向きを反転させて、第三段に取りつけられた状態の月着陸船(LM)とドッキングし、ロケットから着陸船を取り出した。その後、合体した宇宙船は月に向かう針路をとる一方、他方の第三段は月を通過する弾道を描くように飛行した。これは第三段ロケットがアポロ宇宙船や地球や月に衝突するのを回避するために取られた措置であった。月の周りを通過することで生じたスリングショット効果により、第三段S-IVBは太陽周回軌道に入った。",
"title": "ミッション"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "7月19日17:21:50(UTC)にアポロ11号は月の裏側を通過して機械船の推進エンジンを点火し、月周回軌道に入った。続いて、月を30周するうち、飛行士たちはサビンD(英語版)クレーターから南西に約12マイル(19キロ)の辺りに位置する静かの海南部の着陸地点の過ぎゆく景色を目にした。この着陸地点はある程度あらかじめ選定されていたのだが、それは無人探査機レインジャー8号とサーベイヤー5号による先行調査や、月周回衛星ルナ・オービターが撮影した月面写真により、その比較的平坦で滑らかな地形が着陸や船外活動(EVA)を行うのに大きな支障はないだろうと判断されたためであった。着陸予定地点はサーベイヤー5号の着陸地点から南東に25キロほど、レインジャー8号の衝突地点から68キロの辺りにあった。",
"title": "ミッション"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "7月20日12:52:00(UTC)にアームストロングとオルドリンは着陸船「イーグル」に乗り込み、月への降下に向けた最終準備に取りかかった。17:44:00に「イーグル」は司令船「コロンビア」から切り離された。「コロンビア」に1人残ったコリンズは、機体をゆっくりと爪先回転(ピルエット)させる着陸船「イーグル」に損傷がないこと、ならびに着陸装置が正常に展開されたことを確認した。アームストロングは \"The Eagle has wings!\" (「イーグル」には翼がある!)と叫んだ。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "降下を開始してしばらくすると、アームストロングとオルドリンは月面上の目標地点を通り過ぎるのが2、3秒早いことに気づき、射程領域(ダウンレンジ)がやや長いようだと地上に報告した。つまり、このままでは着陸目標よりも西に数マイル先の地点に着陸してしまうことを示していた。「イーグル」はあまりにも速く飛びすぎていたのである。その原因は高い質量集中(英語版)にあって宇宙船の軌道が変化したのではないかと考えられた。飛行主任のジーン・クランツは、ドッキングトンネル内の余分な空気圧が原因ではないかと推論した。あるいは、機体の損傷チェック時に行われた「イーグル」の爪先回転飛行が原因となった可能性も考えられた。",
"title": "ミッション"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "降下のためのエンジン噴射に入る5分前、月面から高度6,000フィート(1,800メートル)で、着陸船の航法・誘導コンピュータ(LM guidance computer、LGC)が予期しない警報 \"1201\" と \"1202\" を幾度か発し、飛行士の注意を逸らせた。そのとき、ミッション管制センター内にいたコンピュータ技師のジャック・ガーマン(英語版)は、誘導官(Guidance Officer)のスティーブ・ベイルズ(英語版)にそのまま降下を続けても安全であることを告げ、飛行士たちにも中継して伝えられた。これらの警報は \"executive overflows\" (実行オーバーフロー)を示しており、誘導コンピュータが過負荷状態にあって要求されたすべてのタスクの処理をリアルタイムで完了できず、そのうちのいくつかを遅延させなければならない状態にあることを意味していた。マサチューセッツ工科大学チャールズ・スターク・ドレイパー研究所でアポロ飛行コンピュータのプログラミング責任者(Director of Apollo Flight Computer Programming)を務めたマーガレット・ハミルトンは、当時を思い出して次のように語った。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ミッション中には、司令船とのランデブー用のレーダーのスイッチが誤った位置にあり、月着陸船のコンピュータにランデブー用レーダーと着陸用レーダーの両方から送られてきたデータを同時に処理させようとしたことが原因だと診断された。ソフトウェア技師のドン・アイルズは、2005年の誘導制御会議(Guidance and Control Conference)で発表した論文の中で、この問題は以前アポロ5号で最初の無人月着陸船をテストしている最中に見られたハードウェア設計上の欠陥に原因があると結論づけた。(緊急時着陸中止という万が一の事態に備えて)ランデブー用レーダーをオンにしておくことはコンピュータとは関係ないはずだったが、無作為なハードウェアの電源の入れ方次第では、ランデブーレーダーシステムの2つの部品の間に生じる電気的位相の不整合により、コンピュータに対して固定型アンテナが2つのポジションの間を前後にディザリングするように見えることがある。ランデブー用レーダーがインボランタリカウンタを更新すると、余分な疑似サイクルスチールにより、コンピュータは警告を発する。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "アームストロングが再び窓の外に目をやると、コンピュータがはじき出した着陸目標が直径300フィート(91メートル)ほどもあるクレーターのすぐ北と東の巨岩がいくつも転がっている領域にあるのが見えたため、アームストロングは操縦を半自動に切り替えた。アームストロングはその岩石原の手前に着陸すればそこから地質試料を採取しに行けるかもしれないと考えたが、宇宙船の水平方向速度が速すぎたためできなかった。降下している間、オルドリンはずっと、着陸船の操縦で多忙なアームストロングに航法データを読み上げ続けた。月面からの高度107フィート(33メートル)まで降下したとき、アームストロングは推進剤の供給が徐々に減少してきていることを知り、最初の着陸候補地点に着陸することに決めた。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "アームストロングは開けた月面の一画を見つけ、機動的に宇宙船をそちらへ向かわせた。だんだんと近づいて行くと、高度250フィート(76メートル)のところで、その新しく決めた着陸地点にクレーターがあることを発見した。アームストロングはクレーターを視界にはっきりととらえながら、別の一画の平地を見つけた。高度100フィート(30メートル)まで来て、推進剤の量は残りわずか90秒分まで減っていた。さらに、着陸船のエンジンによって巻き上げられた月の砂塵が、宇宙船の動きを決定するアームストロングの判断力を鈍らせた。もうもうと立ち込める砂塵の中から突き出たいくつもの大きな岩に焦点を絞ることで、アームストロングは降下中の宇宙船の速度を判断することができた。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "着陸の直前、「イーグル」の脚部から吊り下がっていた、長さ67インチ(170センチ)の探針のうちの少なくとも1本が月面に接地したことを示すライトが点灯した。それを知ったオルドリンは「着地灯、点灯!」と声に出して確認した。技師たちは、着陸時にエンジンを噴射させたまま月面に接近しすぎると排気ガスの圧力(背圧)でエンジンが吹き飛ぶかもしれないと危惧していたため、アームストロングはただちにエンジンを切ることになっていたが、忘れてしまった。3秒後に「イーグル」が着陸し、アームストロングはエンジンを切った。オルドリンは即座に「OK、エンジン停止。ACA解放」と言葉を発し、それを受けてアームストロングは「ACA解放了解。自動」と復唱した。続けてオルドリンは「モード制御、両方とも自動。下降段エンジンの指令重複、オフ。エンジンアーム、オフ。413に接続」と確認した。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ACAとは、姿勢制御装置(attitude control assembly)のことで、具体的には月着陸船の操縦桿のことである。その出力は着陸船の誘導コンピュータ(LGC)に伝えられ、姿勢制御システム(reaction control system、RCS)にエンジン噴射の命令を出す。「解放」とは、中央のポジションから動かされていた操縦桿が(車の方向指示器のように)バネの力で元の中央のポジションに戻されたことを意味する。LGCのアドレス413は、月着陸船が着陸したことを示す変数を含んでいた。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "「イーグル」は7月20日、日曜日の20:17:40(UTC)に25秒分の燃料を残して着陸した。アポロ11号は後継のミッションよりも残りの燃料が少ない状態で着陸し、飛行士たちは早い段階から燃料残量警告表示に直面することになった。これはのちに、燃料タンク内で推進剤が想定以上に大きく揺れ動き(スロッシング)、燃料計の値が実際よりも少なく表示されていた結果であることが分かった。そのため、次回以降のミッションでは、これを抑える抑流板がタンク内に追加設置されることになった。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "アームストロングは、オルドリンが「エンジンアームはオフ」と言って、着陸後のチェックリストをつける作業が一通り完了したのを確認して、CAPCOMのチャールズ・デュークに \"Houston, Tranquility Base here. The Eagle has landed.\" (「ヒューストン、こちら静かの基地。鷲は舞い降りた」)と言葉を発した。アームストロングがコールサインを「イーグル」から予行演習にはなかった「静かの基地(Tranquility Base)」に変更したことで、着陸を完遂して成功したことが強調されて聴取者たちに伝えられた。それを聞いたデュークは、ミッション管制センターにいた人たちの安堵の気持ちを表し、 \"Roger, Twan— Tranquility, we copy you on the ground. You got a bunch of guys about to turn blue. We're breathing again. Thanks a lot.\" (「了解、トゥワン......トゥランキリティ(「静か」の意)。月面にいる君たちの声、よく聞こえるよ。君らのおかげでたくさんの奴らが真っ青になりそうだった。ため息をついている。どうもありがとう」)と、一瞬言い淀みながらも応答した。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "着陸から2時間半後、船外活動の準備を始める前に、オルドリンは次のように地球に無線連絡した。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "そのあと彼は、私的に聖餐式を行った。この当時NASAは、アポロ8号の宇宙飛行士が月を周回中に聖書の創世記の一節を朗読したことに反対していた無神論者のマダリン・マレー・オヘア(英語版)と係争中で、オヘアはNASAに対し、宇宙飛行士は宇宙にいる間は宗教的活動を放送することを控えるべきだと要求していた。それゆえ、オルドリンは月で聖餐式を行うことに直接言及することを差し控える選択をした。オルドリンはテキサス州ウェブスター(英語版)にある長老派教会の長老で、聖餐用具は同教会の牧師であるディーン・ウッドラフが用意していた。ウェブスターの長老派教会は、このとき月で使用された聖餐杯を所有しており、毎年7月20日にもっとも近い日曜日を「月の晩餐の日」として記念行事を行っている。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "この任務のスケジュールでは、宇宙飛行士は5時間の睡眠時間で着陸のあとに続く作業を行うことが求められていたが、眠れないだろうと思った2人は早くに船外活動の準備を始めることを選択した。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "船外活動の準備は20日23:43に始まった。準備は2時間で済むはずのところ、3時間半と想定よりも長くかかった。地球上での訓練中には、必要とされるものはすべて前もってきちんと並べられていたが、月では、チェックリスト、食料の入った小包、用具のほかにも多くのものが船室内にあった。アームストロングとオルドリンの外に出る準備が整うと、「イーグル」は減圧された。02:39:33にハッチが開いた。初め、アームストロングは船外活動用の生命維持装置(英語版)(PLSS)を身に着けたままハッチを通り抜けようとする際にいくぶん苦労を要した。アポロ宇宙飛行士たちの心拍数は月着陸船のハッチを出入りするときに最高値を記録することがよくあった。02:51にアームストロングは月面へと降り始めた。胸の位置にある遠隔操作ユニット(RCU)のせいで、アームストロングは自分の足元が見えなかった。9段のはしごを降りながら、アームストロングはDの字型のリングを引いて、「イーグル」の側面に折り畳まれていたモジュール装置格納アセンブリ(Modular Equipment Stowage Assembly、MESA:器具収納部)を展開してテレビカメラを起動した。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "アポロ11号では、放送用のテレビジョン規格と互換性のない低速度走査テレビジョンが使用されたため、一度特殊なモニタに映像を表示させておき、そのモニタの映像を従来型のテレビカメラで撮影することで本放送されたが、その画質は著しく低減されることとなった。テレビジョン信号はアメリカのゴールドストーンで受信されていたが、オーストラリアのキャンベラ近郊にあるハニーサックル・クリーク追跡基地(英語版)が受信した信号のほうが忠実度が高くて鮮明だった。数分後、通信の中継基地は、より感度が良好なオーストラリアのパークス電波望遠鏡に切り替えられた。幾多の技術的困難と天候不順があったにもかかわらず、史上初の月面での船外活動をとらえた、ぼんやりとした白黒の映像が地球上で受信され、世界中の少なくとも6億人の人々に向けて放送された。この放送形式のビデオの複製物は保存されており、広く入手することが可能だが、低速度走査テレビカメラで撮影されて月から伝送された元の高画質の録画映像(英語版)は、NASAの日常業務で磁気テープを再利用しているうちに誤って破損されてしまったようである。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "アームストロングは、はしごにかけたまま、月着陸船の下降段につけられていた(西半球と東半球の)2つの地球の図と銘刻、および3名の飛行士とニクソン大統領の署名が描かれた記念銘板(英語版)を除幕した。記念銘板には次の文章が刻印されていた。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "月の表面の塵について「とてもきめの細かい」「ほとんど粉のよう」と説明したあと、着陸から6時間半が経とうとしていた02:56:15にアームストロングは「イーグル」の脚を支えている皿の上に降り立ち、次のように宣言した。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "アームストロングは \"That's one small step for a man\" (「男にとっては小さな一歩」)と言うつもりでいたが、通信音声では \"a\" という単語は聞き取りにくかったこともあって、当初、単語 \"a\" は生放送を視聴していた人の大多数には伝わっていなかった。のちにこの名文句について尋ねられたとき、アームストロングは \"for a man\" と言ったと思っていたと述べており、後年発行されたこの句の活字版には、角括弧付きで \"a\" が含められていた。ある解釈では、 \"a\" は欠落していたと主張され、彼は訛りによって \"for a\" の2単語を連続して不明瞭に発音したのだと説明されている。別の解釈では、パークス天文台付近の嵐をその一因とし、地球につないだ映像と音声の断続的性質で \"a\" の欠落を説明している。より最近のテープ音声のデジタル解析では、 \"a\" は発言されたかもしれないが、空電のせいでよく聞き取れなかったことが明らかになったと主張されている。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "月面に足を踏み入れてからおよそ7分後、アームストロングは細長い棒で土壌サンプルを採取して試料袋に詰め、袋を畳み、右腿のポケットに押し込んだ。これは、万が一緊急時に飛行士たちが船外活動を断念して着陸船に戻らなければならなくなった場合でも、多少なりとも月の土壌を地球に持ち帰れるよう保証するための作戦行動(緊急採集)だった。土壌サンプルの採取が完了して12分後、アームストロングはMESAからテレビカメラを取り外し、月面のパノラマ映像を撮影してから、三脚の上にカメラを載せた。テレビカメラのケーブルには一部に巻きつけられていたときの癖が残っていたため、船外活動中はずっと、それが螺旋状に曲がりくねったところに足を引っかけてつまづくおそれがあった。さらに、ハッセルブラッド製カメラを手に持ったり、アームストロングの宇宙服(アポロ/スカイラブ A7L(英語版))にかけたりして、月面の写真撮影が遂行された。追ってオルドリンがアームストロングに続いて月面に降り立ち、月面の風景について、簡潔な言い方で \"magnificent desolation\" (荘厳なる荒涼)と表現した。",
"title": "ミッション"
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{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "アームストロングは、地球の6分の1しかない月の重力の中を移動するのは「ひょっとしたら地上での模擬訓練よりもよほど簡単かもしれない......歩き回るのにまったく何の問題もない」と述べた。そこにオルドリンも加わって、両足で踏み切るカンガルー跳びなど、さまざまな歩き方を試した。すると、背中に生命維持装置を背負っているために上体が後ろに反る傾向はあるものの、バランスを取るには大した問題もなく、慣れてくると、むしろ大股で歩くのがよいことが分かった。ただし、移動する際は常に6、7歩先のことを予想して歩く必要があったり、粒の細かい土の部分はかなり滑りやすかったりしたので、注意を要した。また、太陽の照っているところから「イーグル」の影に入ったときには、宇宙服の中の温度はまったく変化がなかったが、ヘルメットの内部は日光で温められていたため、影に入ると冷たく感じられたとオルドリンは報告した。MESAは安定した作業環境を提供することができず、また「イーグル」の影に隠れていたため、作業はいくぶん遅れることになった。2人が作業しているうちに月面を歩いたことで、灰色の砂埃が巻き上げられ、宇宙服の外皮を汚してしまった。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2人はアメリカ合衆国の国旗を含む一組の旗(英語版)を月面上のテレビカメラにはっきりと写るところに立てた。オルドリンはこのときを思い出して「私が月面でしなければならなかったすべての仕事のうち、もっとも順調に運びたかったことは国旗の掲揚でした」と語った。ところが、繰り出し式の伸縮する棒が月面に刺す際に縮んでしまうことに悪戦苦闘し、旗竿は固い月の表面に2インチ(5センチ)ほどしか押しつけられなかった。オルドリンはテレビの視聴者の目の前で旗が倒れてしまいやしないかと心配しながらも、旗に向かってウエストポイント(陸軍士官学校)式の敬礼を行った。そして、オルドリンが星条旗とアームストロングを被写体にした写真を撮るはずだった次の瞬間に、電話無線伝送を通じてリチャード・ニクソン大統領が飛行士たちに話しかけてきた。のちにニクソンはこの交信を「かつてホワイトハウスからかけられた中でももっとも歴史的な通話」と呼んだ。ニクソンは当初、通話中に読み上げる長い演説文を用意していたが、当時NASAの連絡担当官でホワイトハウスにいたフランク・ボーマンは通話を手短に済ませるよう大統領を説得した。",
"title": "ミッション"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "二人の飛行士は、月震を観測する受動型地震計実験装置(PSEP)と月レーザー測距実験用の再帰反射器(LRRR)を含む、初期アポロ科学実験パッケージ(EASEP)を展開した。その際、オルドリンが2本のコアサンプル(英語版)を集めている間に、アームストロングは着陸船から196フィート(60メートル)歩いて、リトル・ウェスト・クレーター(英語版)の周縁部でスナップ写真を撮った。アームストロングは岩石ハンマーを使用してコアサンプル採取用のチューブを打った。アポロ11号でハンマーが使われたのはこのときだけだったが、6インチ(15センチ)よりも深く貫通させることはできなかった。2人はスコップや伸張式の鋏を使って岩石試料を採集した。月面での活動の多くは想定よりも長引いたため、2人は割り当てられていた34分間の活動時間の中ごろで、採集した試料について文書に記載する手を止めなくてはならなかった。荷崩れしないように、オルドリンは採集した岩石を入れた箱に6キログラム(13ポンド)の土をシャベルですくって入れた。採集された地質試料には玄武岩と角礫岩の2種類の岩石が含まれていたことがわかった。また、採集した岩石試料からは、新種の鉱物としてアーマルコライト、トランキリティアイト、パイロクスフェロアイト(英語版)の3種が発見された。このうち、アーマルコライト(Armalcolite)はアームストロング(Arm)、オルドリン(al)、コリンズ(col)の3名の宇宙飛行士の名にちなんでいる。これらの鉱物はすべて、のちに地球上でも見つかっている。",
"title": "ミッション"
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "ミッション管制センターは暗号的な言葉を使用して、アームストロングに代謝率が高めであることを警告し、作業のペースを落とすように伝えた。彼は時間切れになるまで月面を素早く移動しては次から次へと任務をこなしていた。月面を歩行している間は、2人の飛行士の代謝率はおおむね予想されていた値よりも低かったため、管制センターは両飛行士に15分間の活動延長を許可した。2010年のインタビューで、アームストロングは、当時NASAが最初の月面歩行の時間と距離に制限をかけていたことを明かした。その理由は、月面で作業する間に飛行士たちの発する熱を下げるために、背中に備えられた生命維持装置がどの程度の量の冷却水を消費するかについて、経験に基づく裏付けが取れていなかったことによるものだった。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "予定されていた船外活動をすべて消化すると、まずオルドリンが先に「イーグル」に戻った。採集した岩石や撮影したフィルムなどを収めた箱は重量が21.55キログラム(47.5ポンド)に上り、月装備運搬装置(Lunar Equipment Conveyor、LEC)と呼ばれるフラットケーブル滑車装置で引っぱり上げたが、ハッチから船内に入れるのには若干苦労した。この方法は効率的でないことが証明されたため、後継のミッションでは機材や試料は手で持って船に荷揚げするようになった。アームストロングは宇宙服の袖のポケットに入っている記念品の袋を月面に残すのを忘れないようにとオルドリンに念を押し、オルドリンは月面に袋を放り投げた。それから、アームストロングははしごの3段目まで一気にジャンプして飛び乗り、はしごを上って船内に入った。船内の生命維持システムに移ったあと、月周回軌道まで帰るための「イーグル」上昇段の明かりをつけ、宇宙服の船外活動用生命維持装置、月面靴、空のハッセルブラッド製カメラなど、不要になった機材を放り捨てて、21日05:01にハッチを閉め、船内を与圧し、2人はようやく月面で初めての睡眠についた。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "ニクソン大統領のスピーチライターだったウィリアム・サファイアは、最悪の事態として、万一アポロ11号の宇宙飛行士たちが月で遭難した場合を想定して、大統領がテレビ演説で読み上げるIn Event of Moon Disaster (月で災難の場合)と題した追悼文を用意していた。その不測の事態に対応するための計画は、セイファイアからニクソンの大統領首席補佐官だったH・R・ハルデマンに渡されたメモが発端だった。そのメモには、もしアポロ11号が不慮の事態に見舞われ、ニクソン政権がそれに対する反応を求められるかもしれなかった状況を想定して、セイファイアが作成した追悼の言葉の原案が示されていた。その計画によれば、ミッション管制センターが月着陸船との「交信を絶つ」と、聖職者が海葬になぞらえた公的儀式で「彼らの魂を深い淵の底に委ねる」手はずだった。用意された原稿の最後の一行では、ルパート・ブルックが第一次世界大戦期に詠んだ詩『兵士(英語版)』にそれとなく言及している。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "オルドリンは船内で作業しているとき、月面から離陸するために使用する上昇用エンジンを作動させる回路ブレーカーのスイッチを誤って壊してしまった。このことで、船のエンジンの点火が妨げられ、彼らは月面に取り残されてしまう懸念があった。幸いにも、フェルトペンの先でスイッチを作動させることができたが、もしもそれがうまくいかなければ、上昇用エンジンを点火するために着陸船の電気回路は構成し直されていたかもしれなかった。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "21時間半以上を月面で過ごした2人は、科学観測機器のほか、1967年1月に訓練中の火災事故で犠牲になった3名の飛行士(ロジャー・チャフィー、ガス・グリソム、エドワード・ホワイト)を追悼してアポロ1号のミッションパッチを、また古くから平和の象徴とされてきたオリーブの枝を模した金のレプリカの入った記念袋を、そして地球からのメッセージを収めたシリコンディスクを月面に残してきた。ディスクには、アメリカのアイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソンの歴代大統領からの親善声明文(英語版)や世界73か国の指導者たちから寄せられたメッセージが収録されていたほか、アメリカ合衆国議会の代表者たち、NASAの設立に尽力した上下両院の4つの委員会のメンバー、およびNASAの歴代長官の名前の一覧も記録されていた。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "およそ7時間の睡眠ののち、アームストロングとオルドリンはヒューストンからの目覚ましによって起こされ、帰還飛行の準備を始めるよう指示された。2時間半後の21日17:54:00(UTC)に2人は「イーグル」の上昇段エンジンを点火して月を離陸し、コリンズが搭乗している月周回軌道上の司令船「コロンビア」を目指した。月面離陸時に「イーグル」の上昇段から撮影された映像には、月面に残された下降段から25フィート(8メートル)ほど離れた場所に立てられた星条旗が、上昇段エンジンの噴射で激しくはためく様子がとらえられていた。オルドリンはちょうど旗がぐらついて倒れるのを目撃し、「上昇を始めたとき、私はコンピュータの操作に集中し、ニールは姿勢指示器を注視していたが、私は旗が倒れるのを長い間見ていられた」と報告した。そのため、以後のアポロミッションでは、上昇段エンジンの噴射で吹き飛ばされることのないように、星条旗は着陸船から離れた位置に立てられることになった。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "単独で月を周回する飛行を続けていた間、コリンズはまったく寂しさを感じることはなかった。「アダム以来、そのような孤独を知る者はいない」といわれているが、コリンズはそれを使命の一部だと強く感じていた。コリンズは自叙伝の中で、「この冒険は3人の男で構成されたものであり、3番手の私も、ほかの2人のいずれかと同様になくてはならないものなのだと思う」と記している。月を周回する「コロンビア」が月の裏側を飛行して、地球との無線連絡ができない48分間の間にコリンズが感じたのは、不安でも孤独でもなく、むしろ「意識、予感、満足、自信、歓喜に近い感覚」であったと綴っている。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "コリンズの最初の任務のひとつに、月面上の月着陸船の位置を特定することがあった。どこを探せばよいかの見当をつけるために、ミッション管制センターはコリンズに月着陸船は目標地点から4マイル(6.4キロ)ほど離れた辺りに着陸したようだと無線で伝えた。コリンズは着陸地点と思しき辺りの上空を通過するたびに月着陸船を見つけようとしたが、不可能だった。初めて月の裏側を飛んだとき、コリンズは燃料電池によって生成された余分な水を捨てたり、アームストロングとオルドリンの帰りを迎えるために船室を整理整頓するなど、船内の環境整備活動を行った。",
"title": "ミッション"
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{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "3周目の周回で月の裏側に入る直前に、ミッション管制センターはコリンズに冷却液の温度に問題があると知らせた。冷却しすぎるようなことがあれば、「コロンビア」の部品が凍結してしまうかもしれなかった。ミッション管制センターは、手動制御に切り替えたうえで、環境制御システム故障時の手順17(Environmental Control System Malfunction Procedure 17)を実施するよう、コリンズに助言した。ところが、コリンズはその代わりとして、問題を引き起こしているシステムのスイッチを自動から手動に入れて、また自動に戻し、冷却剤の温度を注視しながらも、日課となっていた通常の管理保全作業を続行した。「コロンビア」が再び月の表側に出たときには、問題は解決したと報告することができた。それから次の2、3周は、月の裏側で過ごす時間が「ほっとする」(\"relaxing\")時間だったとコリンズは記している。アームストロングとオルドリンがすべての船外活動を終えてからは、コリンズは来たるべきランデブーに備えて睡眠休憩をとることができた。「コロンビア」が「イーグル」を迎え入れる飛行計画に応じて、コリンズは一定の不測の事態に備えて「コロンビア」を「イーグル」のところまで降下させられるような準備ができていた。",
"title": "ミッション"
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{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "7月21日21:24(UTC)に「イーグル」は「コロンビア」とランデブーし、21:35に2機はドッキングした。「イーグル」の上昇段は23:41に月周回軌道に投棄された。アポロ12号の飛行の直前には、「イーグル」は依然として軌道上に留まっているようであることが確認されたが、のちに出されたNASAの報告書には、「イーグル」は軌道が次第に減衰した結果、月面の「不確かな場所」(\"uncertain location\")に衝突したのだろうと記されている。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "7月22日04:56(UTC)にアポロ11号は機械船の推進エンジンを2分半噴射して月周回軌道を離れ、同日05:30(UTC)に月の裏側で地球帰還軌道に乗り (TEI(英語版))、地球への帰路に就いた。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "7月23日、着水前の最後の夜に、3名の宇宙飛行士はテレビ放送で次のようにコメントした。最初にコリンズが、",
"title": "ミッション"
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"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "と述べ、続いてオルドリンが、",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "と加え、最後にアームストロングが、",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "と締めくくった。",
"title": "ミッション"
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{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "地球への帰還に際して、グアムの追跡基地で装置の軸受が故障したことで、もしかすると地球帰還時の連絡に関して最後の一部分の受信が妨げられていた可能性があった。定期的な修復作業では与えられた時間内に作業を終えるのは不可能だったが、基地の主任だったチャールズ・フォースには10歳になる息子グレッグがいて、軸受箱の中にその小さな手を入れてグリスを塗ってもらって急場をしのいだ。お手柄のグレッグはのちにアームストロングから感謝された。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "6月5日、カール・J・セイバーリック(英語版)大佐指揮下の航空母艦ホーネットが、5月26日にアポロ10号を回収した姉妹艦のヘリコプター揚陸艦プリンストンに代わって、アポロ11号の主回収船(primary recovery ship、PRS)に選ばれた。当時、ホーネットは母港であるカリフォルニア州ロングビーチにあった。7月5日に真珠湾に到着したホーネットは、アポロ宇宙船の回収任務を専門とするHS-4のSH-3 シーキング数機、水中爆破班(英語版)アポロ特派部隊(UDT Detachment Apollo)の専門ダイバーたち、NASAの回収班35人およびメディア関係者約120人を乗船させた。空間を確保するため、ホーネットの艦載機の多くはロングビーチに残してきていた。訓練用のボイラープレート(英語版)(ダミーの宇宙船)を含む、特殊な回収用機材も積み込まれた。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "7月12日、アポロ11号がまだ発射台にあったころにホーネットは中部太平洋の回収海域(北緯10度36分 東経172度24分 / 北緯10.600度 東経172.400度 / 10.600; 172.400付近)に向けて真珠湾を出港した。ニクソン大統領、ボーマン連絡担当官、ウィリアム・P・ロジャース(英語版)国務長官、ヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当補佐官からなる大統領一行は、エアフォースワンでジョンストン環礁まで飛び、そこで指揮艦アーリントン艦上のマリーンワンに乗り込んだ。大統領一行は艦上で一夜を過ごしたあと、数時間の式典のためにマリーンワンでホーネットまで飛んだ。ホーネット艦上に到着すると、大統領一行は、ホーネットの艦上輸送機でパゴパゴから飛来していたアメリカ太平洋軍最高司令官のジョン・S・マケイン・ジュニア大将とNASA長官のトマス・O・ペイン(英語版)からあいさつを受けた。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "当時、気象衛星はまだ一般的なものではなかったが、アメリカ空軍のハンク・ブランドリ大尉は最高機密である偵察衛星の画像にアクセスすることができた。その衛星画像から暴風雨前線がアポロ宇宙船の回収海域に向かっていることが分かった。視界不良はこのミッションにとって深刻な脅威であった。もしヘリコプターが「コロンビア」の位置を特定できなければ、宇宙船と搭乗員、および月の石などの貴重な貨物が失われてしまうおそれがあった。ブランドリは、要保全許可(required security clearance)を有していた真珠湾の艦隊気象センターの司令官、海軍のウィラード・S・ヒューストン・ジュニア大将に警報を発した。彼らの勧告に基づき、太平洋・有人宇宙船回収部隊(Manned Spaceflight Recovery Forces, Pacific)の司令官、ドナルド・C・デイヴィス(英語版)少将はNASAに回収海域を変更するよう忠告した。これにより、新たな回収海域が指定され、元の回収海域から北東に215海里(398キロメートル)の辺りで回収されることになった。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "回収海域の変更は飛行計画にも影響を及ぼした。異なるシーケンスのコンピュータ・プログラムが使用されていたが、その1つは以前に試用されたことがなかった。従来の入力では、P64の次にP67が続いていたが、スキップアウトされた部分の再入力は、P65を用いて一旦終了したうえで、P66でスキップ部分を入力する方法が採られていた。この場合、それらは再入力部を展開していたが、実際にはスキップアウトしていなかったため、P66は呼び出されず、代わりにP65が直接P67を導いた。搭乗員も、P67を入力した場合、フルリフト(頭が下になる)姿勢にならないとの警告を受けていた。飛行士たちは最初のプログラムの指令で6.5標準重力加速度 (64 m/s)の加速度を受け、2番目のプログラムで6.0標準重力加速度 (59 m/s)の加速度を体感させられることとなった。",
"title": "ミッション"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "7月24日の夜明け前、ホーネットから4機のシーキング・ヘリコプターと3機の艦上早期警戒機E-1が発進した。うち2機のE-1は \"air boss\"(空中指揮機)に指定され、3機目は通信中継機として行動した。2機のシーキングはダイバーたちと回収用機材を輸送した。3機目は写真撮影機材を、4機目は除染を担当するスイマーと航空医官を、それぞれ輸送した。16:44(UTC、現地時間05:44)に「コロンビア」の減速用パラシュート(英語版)が開いたのをヘリコプターが確認した。7分後に「コロンビア」は船体を力強く水面に叩きつけられ、ウェーク島の東方2,660キロ(1,440海里)、ジョンストン環礁の南方380キロ(210海里)、ホーネットからの距離わずか24キロ(13海里)の地点(北緯13度19分 西経169度9分 / 北緯13.317度 西経169.150度 / 13.317; -169.150)に着水した。着水 (splashdown) 時に「コロンビア」は上下逆さまに落下したが、飛行士たちが作動させた浮力袋によって10分以内に立て直された。上空でホバリングする海軍のヘリコプターから下りてきたダイバーが、船が漂流することのないように「コロンビア」に海錨を取りつけた。別のダイバーらは船を安定させるために「コロンビア」に浮揚環管を取りつけ、宇宙飛行士たちを下船させるためのボートを船の横につけた。",
"title": "ミッション"
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"text": "ダイバーらは宇宙飛行士たちに生物隔離服(biological isolation garment、BIG)を渡し、救命ボートに乗るのを補助した。月面から病原体を持ち帰る可能性はごくわずかだと考えられたが、NASAは念のため回収現場で予防措置をとった。宇宙飛行士たちは次亜塩素酸ナトリウム製剤を使用して身体を擦り拭かれ、「コロンビア」は船体に付着しているかもしれない月の塵をベタダインを使って拭き取られた。宇宙飛行士たちはウインチで引き揚げられ、回収ヘリコプターに乗せられた。ホーネット艦上の隔離施設に到着するまでの間、宇宙飛行士たちは生物隔離服を着用させられた。除染物質を積んだボートは故意に沈められた。",
"title": "ミッション"
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"text": "ヘリコプターは17:53(UTC)にホーネット艦上に着地したあと、そのままエレベーターで格納庫へと下ろされ、そこで宇宙飛行士たちは移動式隔離施設(英語版)(Mobile Quarantine Facility、MQF)まで30フィート(9.1メートル)歩いて施設内に入り、地球ベースで21日分の検疫期間が開始されることになった。この措置は、後続のアポロ12号とアポロ14号の2つのミッションでも実施されたが、のちに月に生命が存在しないことが証明されると、検疫措置は取りやめになった。ニクソン大統領は地球に帰還した宇宙飛行士たちを歓迎し、「君たちが成し遂げたことのおかげで、世界はこれまでになく一層親密になった」と伝えた。",
"title": "ミッション"
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"text": "ニクソンが出発したあと、ホーネットは重量5米トン(4.5トン)の「コロンビア」に近づいて舷側に寄せ、艦のクレーンを使って船を引き揚げ、台車(英語版)に載せてMQFの隣まで運び込んだ。そして、「コロンビア」は伸縮可能なトンネルでMQFと接続され、月試料、フィルム、データテープおよびその他の積み荷が取り出された。ホーネットが真珠湾に帰港すると、そこでMQFはC-141に載せられて有人宇宙船センターまで空輸された。7月28日10:00(UTC)に宇宙飛行士たちは月試料受入研究所(Lunar Receiving Laboratory)に到着した。一方、「コロンビア」は不活性化のためにフォード島に運ばれ、火工品類が安全に処理された。その後、ヒッカム空軍基地に運ばれ、そこからC-133でヒューストンに空輸されて7月30日に月試料受入研究所に到着した。",
"title": "ミッション"
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"text": "7月16日にNASAが発布した一連の規定、地球外暴露法(英語版)に従い、検疫試験計画が成文化され、宇宙飛行士たちの検疫が続けられた。しかし、3週間の隔離(まず最初にアポロ宇宙船内で、次にホーネット艦上のMQF内で、最後に有人宇宙船センターの月試料受入研究所内で)を経て、宇宙飛行士たちに完全健康証明書が与えられた。1969年8月10日にアトランタで、逆汚染に関する庁間委員会(Interagency Committee on Back Contamination)の会合が開かれ、宇宙飛行士たち、飛行士の検疫に従事した者たち(NASAの医官ウィリアム・カーペンティア(英語版)とMQFプロジェクト技師ジョン・ヒラサキ(英語版))、およびコロンビア号自体の隔離がようやく解かれた。宇宙船から取り外せる備品は、月試料が研究用に公開されるまでの間、隔離されたままだった。",
"title": "ミッション"
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"paragraph_id": 86,
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"text": "8月13日、ニューヨークとシカゴで、推計600万人の見物客を脇に見ながら、紙吹雪の舞う中、名誉ある盛大な祝賀パレードが挙行され、3人は歓迎と祝福を受けた。同日の晩にはロサンゼルスのセンチュリー・プラザ・ホテル(英語版)で、合衆国議会議員、44州の知事、合衆国最高裁判所長官、83か国の大使らが出席して、今回の飛行を記念する公式晩餐会 (state dinner) が開かれた。その席上で、ニクソン大統領とアグニュー副大統領から各宇宙飛行士の栄誉を称えて大統領自由勲章が授与された。",
"title": "ミッション"
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"text": "1969年9月16日、3人の飛行士は合衆国議会上下両院合同会議の開会前にスピーチし、月面に持って行った2枚の星条旗のうちの片方を下院に、もう片方を上院に贈呈した。アポロ11号によって月に持ち込まれたアメリカ領サモアの旗は、アメリカ領サモアの首都パゴパゴにあるジーン・P・ヘイドン博物館(英語版)に展示されている。",
"title": "ミッション"
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"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "この祝賀行事は38日間に及ぶ世界周遊の旅の始まりであった。この旅行中に3人の宇宙飛行士は22か国を歴訪し、多くの国々の指導者たちを表敬訪問した。旅は9月29日から11月5日まで続いた。多くの国では、人類史上初の月面着陸の栄誉を称える雑誌の特集が組まれたり、アポロ11号の記念切手や記念硬貨が発行されたりした。",
"title": "ミッション"
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"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "人間が月面を歩き、安全に地球に帰還したことで、その8年前に設定されたケネディの目標は達成された。アポロ11号が着陸したとき、ミッション管制センターではケネディの演説が画面に映し出され、\"TASK ACCOMPLISHED, July 1969\"(「1969年7月、任務達成」)の文字が表示された。アポロ11号の成功によってアメリカ合衆国がほかの国々よりも技術的に優位にあることが証明された。アポロ11号の成功をもって、アメリカは宇宙開発競争に勝利したのである。",
"title": "遺産"
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"text": "それにともなって、英語には新しいフレーズが浸透した。アポロ11号にかけて \"If they can send a man to the Moon, why can't they...\" (「もしも彼らが人を月に送ることができるなら、なぜ彼らは...できないのか」転じて「人類に人を月に送り込む英知があるのなら、どんな問題だって解決できるさ」の意)という文句がよく使われる言い習わしとなった。アームストロングが月面で発した名言も、数え切れないほど多くのパロディを派生させた。",
"title": "遺産"
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"paragraph_id": 91,
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"text": "任務を達成したことが盛大に祝われた一方で、公民権を剥奪されたアメリカの人々はこれをアメリカの格差の象徴と見ていた。それはアポロ11号の打ち上げ前日にケネディ宇宙センターの外側で抗議する人たちがいたことに裏付けられた。ただし、だからといって彼らがそのことに畏敬の念を抱いていないわけではなかった。抗議の行進を主導したラルフ・アバナシー(英語版)はアポロ11号のあまりに壮観な打ち上げに魅了され、抗議活動で何を言おうとしていたかを忘れてしまった。アポロ計画に費やす金があるなら、どうしてそれを地球上の人間の世話をするために使わないのかと思った市民らは、人種的および金銭的な不平等に不満を募らせた。ギル・スコット・ヘロンによる \"Whitey on the Moon\" (「白んぼは月に行く」の意)と題された詩は、宇宙開発競争で際立たせられたアメリカ合衆国における人種的不平等(英語版)を物語っている。この詩の歌い出しは次のようなものであった。",
"title": "遺産"
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{
"paragraph_id": 92,
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"text": "A rat done bit my sister Nell. (with Whitey on the moon) Her face and arms began to swell. (and Whitey’s on the moon) I can’t pay no doctor bill. (but Whitey’s on the moon) Ten years from now I’ll be paying still. (while Whitey’s on the moon)",
"title": "遺産"
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{
"paragraph_id": 93,
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"text": "鼠が姉/妹ネルに噛み付いた (白んぼは月に行くというのに) 彼女の顔と両腕が腫れ始めた (それでも白んぼは月に行く) 俺らは医療費なんて払えない (だけど白んぼは月に行く) 十年後も支払ってるだろうさ (白んぼが月に行く間に)",
"title": "遺産"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "世界の人口の20パーセントの人々が、人類が初めて月面を歩く瞬間を見ていたと言われている。アポロ11号は世界中の関心を集めたが、後続のアポロ・ミッションは国民の関心をつかむことはなかった。このことは複雑さの変化で説明できそうである。人間を月に着陸させることは理解しやすい目標であったのに対し、月質学(月の地質学)は平均的な人にとってあまりにも抽象的すぎたのであった。また、ケネディの掲げた人類を月に着陸させる目標がすでに達成されてしまったこともその一因となった。目的が明確に定義されていたことはアポロ計画がその目標を達成する助けとなったが、目標が達成されたあととなっては、月飛行ミッションを継続する正当な理由を説明することが難しくなった。",
"title": "遺産"
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"text": "ほとんどのアメリカ人が宇宙探査で国家的目標を達成したことに誇りを持っていたころ、1960年代後半に一度だけ実施されたギャラップ調査(世論調査)では、アメリカ人の大多数が宇宙開発を「あまりしない」よりも「もっとする」ことを支持していたことが示された。しかし、1973年になるころには、59パーセントの人々が宇宙探査にかける費用を削減すべきだと回答するまでになった。米国とソ連がデタントの時代に入ると、宇宙開発競争は終わりを迎え、冷戦の緊張も緩和されていった。このころはちょうどインフレーションが始まった時期でもあり、支出を削減するよう政府に圧力がかけられた。宇宙計画が経費節減から救われたのは、それが何か偉大なことを成し遂げた数少ない政府の事業のひとつだったためである。抜本的に削減すれば、行政管理予算局の副局長だったキャスパー・ワインバーガーに「我々にとっての絶好の時期が遅れている」とのメッセージを送ることになるかもしれないとして警戒された。",
"title": "遺産"
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"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "アポロ11号ミッションのあと、ソ連の当局者らは人間を月に着陸させるのは危険で不必要なことだったと発言した。当時ソ連は無人探査機を使って月の試料を回収しようとしていた。ただし、ソ連は公には月着陸競争の存在を否定しており、そのような試みがなかったことを示していた。ソ連の科学者ムスチスラフ・ケルディシュは1969年7月に「我々は大規模な衛星システムの開発にすべてを注力しているところだ」と語った。月に人間を送り込もうとしていたが、技術的困難のために実現しなかったとソ連が明らかにしたのは1989年のことだった。ソ連の一般の人々の反応は複雑なものであった。ソ連政府が(アポロ11号の)月面着陸に関する情報の公開を制限したことも人々の反応に影響を及ぼした。ソ連の民衆の一部はアポロの月面着陸に何ら関心を示さず、別の一部にはそのことに怒りを覚える者もいた。",
"title": "遺産"
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"paragraph_id": 97,
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"text": "地球に帰還した司令船「コロンビア」はアメリカの49州の州都と首都コロンビア特別区およびアラスカ州アンカレッジで巡回展示された。その後、1971年にスミソニアン協会に移管され、ワシントンD.C.にある国立航空宇宙博物館(National Air and Space Museum、NASM)で展示された。「コロンビア」が展示された場所は同博物館のジェファーソン・ドライブ入口正面にある中央のMilestones of Flight展示ホールで、メインホールにはほかに、ライトフライヤー号、スピリットオブセントルイス号、ベルX-1、ノースアメリカンX-15、マーキュリー宇宙船・フレンドシップ7号など、アメリカの航空宇宙史を開拓してきた機体が展示されている。",
"title": "遺産"
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"paragraph_id": 98,
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"text": "2017年に「コロンビア」はバージニア州シャンティリーにあるスティーブン・F・ウドバー=ハジー・センター(英語版)のメアリー・ベイカー・エンゲン修復用格納庫(NASM Mary Baker Engen Restoration Hangar)に移され、アポロ11号の月面着陸50周年を記念して4都市で開催されるDestination Moon: The Apollo 11 Mission(目的地・月:アポロ11号の使命)と題した巡回展に向けて準備が進められた。この巡回展は、2017年10月14日から2018年3月18日までスペースセンター・ヒューストンにて、2018年4月14日から同年9月3日までセントルイス科学センター(英語版)にて、2018年9月29日から2019年2月18日までピッツバーグのハインツ歴史センター(英語版)にて、2019年3月16日から同年9月2日までシアトルの航空博物館(英語版)にて、それぞれ開催される。",
"title": "遺産"
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{
"paragraph_id": 99,
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"text": "アームストロングとオルドリンの宇宙服は40年間、同博物館内のApollo to the Moonコーナーに展示されていた が、2018年12月3日をもって同展示コーナーは永久に閉鎖され、それに代わる新しい展示コーナーが2022年にオープンする予定である。アームストロングの宇宙服は2019年7月にアポロ11号が50周年を迎えるのに合わせて特別展示されることが企画されている。隔離施設、浮揚環管、転覆した船体の立て直しに用いられた浮力球は、バージニア州シャンティリーのワシントン・ダレス国際空港に近いスミソニアン協会のスティーブン・F・ウドバー=ハジー・センターの別館にあり、月着陸船の試験機とともに展示されている。",
"title": "遺産"
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"paragraph_id": 100,
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"text": "月着陸船「イーグル」の下降段は月面に残されたままである。2009年、ルナー・リコネサンス・オービター(Lunar Reconnaissance Orbiter、LRO)が、歴代のアポロ宇宙船の着陸地点を、月着陸船の下降段、科学観測機器、宇宙飛行士の足跡などを見分けられるほど十分に高い解像度で、初めて画像化することに成功した。上昇段の遺物は、投棄されて月に衝突したあと、月の表面の不明な場所にあると推定されている。場所が不確かである理由は、「イーグル」上昇段は投棄されたあとに追跡されていなかったこと、そして月の重力場が十分に一様ではないために、少々時間を置いたあとでは宇宙船の軌道が予測不可能になってしまうことによる。",
"title": "遺産"
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"paragraph_id": 101,
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"text": "2012年3月、Amazonの創業者ジェフ・ベゾスから資金提供を受けた専門家チームによって、アポロ11号を宇宙へと打ち上げたサターンVのS-IC段からF-1エンジンの場所が突き止められ、実際に先進的な走査型超音波探知機を用いて大西洋の海底で5基のエンジンが発見された。そして、5基のうち2基の部品が引き揚げられた。2013年7月、そのうちの1基のエンジンの錆びついた表面の下にシリアルナンバーが記載されているのを管理人が発見し、NASAはそれがアポロ11号の打ち上げで使われたものであることを確認した。エンジンは修復された後、シアトルのミュージアム・オブ・フライト(英語版)に寄贈され一般公開されている。",
"title": "遺産"
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"paragraph_id": 102,
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"text": "アポロ11号の月遷移投入に能力を発揮したサターンVの第三段S-IVBは、地球の公転軌道に近い、太陽周回軌道上に留まっている。",
"title": "遺産"
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"paragraph_id": 103,
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"text": "アポロの月の石のおもな保管場所は、テキサス州ヒューストンのジョンソン宇宙センター内の月試料実験室施設(英語版)にある。安全に保管するために、ニューメキシコ州ラスクルーセス近郊のホワイトサンズ試験施設(英語版)にも、より小規模なコレクションが収蔵されている。月の石のほとんどは湿気ないように窒素の中に保存されている。取り扱う際は直接手で触れないように、特殊な用具が使われる。世界中の100以上の研究実験室がこの試料に関する研究を実施しており、毎年およそ500点の試料が用意され、研究者に発送されている。",
"title": "遺産"
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{
"paragraph_id": 104,
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"text": "1969年11月にニクソンは、135か国とアメリカ合衆国の50州および属領、ならびに国際連合に贈呈するアポロ11号月試料展示品(英語版)を約250点作るよう、NASAに依頼した。各展示品にはアポロ11号が持ち帰った月の塵が含まれていた。米粒程度の大きさの粒子は月の土の4つの小片で、重さは約50ミリグラムあり、アメリカ合衆国の50セント硬貨と同じくらいの大きさの透明なアクリル製のバッジに覆われていた。このアクリル製のバッジによって月の塵の粒子は拡大されて見えるようになっている。アポロ11号の月試料展示品は1970年にニクソンより親善の品として贈呈された。",
"title": "遺産"
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{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "受動的地震実験(Passive Seismic Experiment、PSE)の実験装置は、1969年8月25日に地上局からの指令アップリンクが使えなくなるまで運用された。ダウンリンクは1969年12月14日に途絶えた。2018年時点で、月レーザー測距実験(Lunar Laser Ranging experiment)は運用が続けられている。",
"title": "遺産"
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{
"paragraph_id": 106,
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"text": "2009年7月15日にLife.comは、同誌の写真家だったラルフ・モース(英語版)がアポロ11号の打ち上げに先立って撮影した宇宙飛行士の未公表写真をウェブ上の写真ギャラリーで公開した。2009年7月16日から24日まで、NASAはアポロ11号ミッションで流れた本物の音声を40年前の月飛行の実時間に合わせてストリーミング配信した。さらに、当時のビデオフィルムの復元作業が進められており、重要な場面を集めた予告編が公開されている。2010年7月、アポロ11号が月へ降下して着陸するまでの間に宇宙から地球に伝送されたミッション管制センターの音声録音とフィルム映像が再同調され、初めて公開された。ジョン・F・ケネディ大統領図書館・博物館(英語版)は、アポロ11号が打ち上げられてから月に着陸するまでの交信記録を再放送するAdobe Flashウェブサイトを立ち上げた。",
"title": "遺産"
},
{
"paragraph_id": 107,
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"text": "2009年7月20日、アポロ11号の搭乗員だったアームストロング、オルドリン、コリンズの3名は、ホワイトハウスでバラク・オバマ大統領と面会した。オバマは「私たちが話しているように、向こうで空を見上げる別世代の子どもたちが、次なるアームストロング、コリンズ、オルドリンになろうとすることを期待しています」と述べ、「彼らが(月への)旅路につきたいとき、彼らのためにNASAがそこを目指していることを確実にしておきたい」と加えた。2009年8月7日、合衆国議会の法令により、アメリカで文民に贈られる最高位の賞である議会黄金勲章がこの3名の宇宙飛行士に授与された。この法案は、フロリダ州選出の上院議員ビル・ネルソンと、同じくフロリダ州選出の下院議員アラン・グレイソン(英語版)に支持されたものだった。",
"title": "遺産"
},
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"paragraph_id": 108,
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"text": "イギリスの科学者グループは、40周年記念行事の一環として行われたインタビューで、月面着陸の意義に反応して次のように答えた。",
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"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "2015年6月10日、アメリカ合衆国のビル・ポージー(英語版)議員(共和党・フロリダ州選出)は、合衆国議会下院の第114会期にて、合衆国造幣局に対し、アポロ11号ミッションの50周年を記念して、金、銀および被覆金属を使用した記念硬貨をデザインして発行するよう指示する決議案(H.R. 2726)を提出した。2019年1月24日、合衆国造幣局は公式ウェブサイト上で記念硬貨を一般に公開した。",
"title": "遺産"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "アポロ11号の月面着陸は人類史にとって輝かしい成果を残したが、その一方で、これがねつ造であったとする主張がある。この陰謀論を信じる者は世界中に数多く存在しており、ねつ造であったと実証を試みるウェブサイトも数多くある。彼らが唱える主張は以下の通りである。",
"title": "陰謀論"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "これらの主張は、科学者によって反証されており、誤りであることが明らかになっている。",
"title": "陰謀論"
}
] | アポロ11号は、史上初めて人類による月面着陸に成功したアポロ宇宙船、およびそのミッションの名称である。 | {{Infobox spaceflight
| name = アポロ11号
| image = Aldrin Apollo 11 original.jpg
| image_caption = [[月面]]上で[[船外活動]]中にポーズを取る[[バズ・オルドリン]]。ヘルメットのバイザーには、この写真を撮影した[[ニール・アームストロング]]の姿が反射して映り込んでいる。
| insignia = Apollo_11_insignia.png
| insignia_alt = 周囲を青色と金色で縁取った円の内側に、地球を背景にして月の上で翼を広げながらオリーブの枝を掴んでいるワシを表した徽章。
| insignia_caption = ミッション徽章
| mission_type = 有人月面着陸
| operator = [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]
| COSPAR_ID = {{Unbulleted list
|CSM: 1969-059A
|LM: 1969-059C
}}
| SATCAT = {{Unbulleted list
|CSM: 4039
|LM: 4041
}}
| mission_duration = 8日と3時間18分35秒
| spacecraft = {{Unbulleted list
|[[アポロ司令・機械船|Apollo CSM]]-107
|[[アポロ月着陸船|Apollo LM]]-5
}}
| manufacturer = {{Unbulleted list
|CSM: [[ロックウェル・インターナショナル|North American Rockwell]]
|LM: [[グラマン|Grumman]]
}}
| launch_mass = {{convert|100756|lb|kg}}
| landing_mass = {{convert|10873|lb|kg}}
| launch_date = {{start date|1969|7|16|13|32|0|Z}}
| launch_rocket = [[サターンV]] SA-506
| launch_site = [[ケネディ宇宙センター]] [[ケネディ宇宙センター第39発射施設|LC-39A]]
| landing_date = {{end date|1969|7|24|16|50|35|Z}}
| landing_site = 北太平洋<br/>{{Coord|13|19|N|169|9|W|type:event|name=アポロ11号着水地点}}
| recovery_by = [[ホーネット (CV-12)|USS Hornet]]
| orbit_epoch = 1969年7月19日21:44 UTC<ref name="orbit">{{cite web |url=http://airandspace.si.edu/explore-and-learn/topics/apollo/as11/a11sum.htm |title=Apollo 11 Mission Summary |publisher=Smithsonian National Air and Space Museum |work=The Apollo Program |accessdate=September 7, 2013 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130829082429/http://airandspace.si.edu/explore-and-learn/topics/apollo/as11/a11sum.htm |archivedate=August 29, 2013 |df=mdy}}</ref>
| orbit_reference = [[月周回軌道]]
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| apsis = selene
| interplanetary =
{{Infobox spaceflight/IP
|type = orbiter
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|component = [[アポロ司令・機械船|司令・機械船]]
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{{Infobox spaceflight/IP
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| docking =
{{Infobox spaceflight/Dock
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{{Infobox spaceflight/Dock
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| crew_size = 3名
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|[[ニール・アームストロング]]
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| crew_callsign = {{Unbulleted list
|CSM: ''Columbia''
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}}
| crew_photo = apollo_11.jpg
| crew_photo_caption = 左から:[[ニール・アームストロング|アームストロング]]、[[マイケル・コリンズ (宇宙飛行士)|コリンズ]]、[[バズ・オルドリン|オルドリン]]
| crew_photo_alt = 宇宙服を着用したままヘルメットを脱いで、大きな月の写真の前に座る3名の宇宙飛行士。
| previous_mission = [[アポロ10号]]
| next_mission = [[アポロ12号]]
| programme = [[アポロ計画]]
}}
'''アポロ11号'''(アポロ11ごう、{{lang-en-short|Apollo 11}})は、史上初めて[[ヒト|人類]]による[[月面着陸]]に成功した[[アポロ宇宙船]]、およびその[[アポロ計画の一覧|ミッション]]の名称である。
== 概略 ==
アポロ11号は2人の人間を世界で最初に[[月]]に[[月面着陸|着陸]]させた[[有人宇宙飛行|宇宙飛行]]であった。[[ニール・アームストロング]]船長と[[バズ・オルドリン]]月着陸船操縦士の2名のアメリカ人が、1969年7月20日20時17分(UTC=[[協定世界時]])に[[アポロ月着陸船]]「イーグル」号を月に着陸させた。アームストロングは7月21日の2時56分15秒(UTC)に月面に降り立った最初の人物となり、その19分後にオルドリンがアームストロングに続いた。二人は約2時間15分をともに船外で過ごし、47.5ポンド(21.5キログラム)の月物質を地球に持ち帰るために採取した。2人が月面にいる間、[[マイケル・コリンズ (宇宙飛行士)|マイケル・コリンズ]]司令船操縦士はひとり月周回軌道上で[[アポロ司令・機械船|司令船]]「コロンビア」号を飛行させた。アームストロングとオルドリンは21時間半を月面で過ごしたあと、月周回軌道上で再び「コロンビア」に合流した。
アポロ11号は、7月16日13時32分(UTC){{sfn|毎日新聞社|1969|p=10}}に[[フロリダ州]][[メリット島]]にある[[ケネディ宇宙センター]]から[[サターンV]]型ロケットで打ち上げられ、NASAの[[アポロ計画]]の5番目の有人ミッションとなった。[[アポロ宇宙船]]は次の3つの部分(モジュール)から構成される。3人の宇宙飛行士が乗り込める船室を備え、唯一地球に帰還する部分である[[アポロ司令・機械船#司令船|司令船]](CM)と、推進力、電力、酸素、水を供給して司令船を支援する[[アポロ司令・機械船#司令船|機械船]](SM)、そして月に着陸するための下降段と、月を離陸して再び月周回軌道まで宇宙飛行士を送り届けるための上昇段の二段式になっている[[アポロ月着陸船|月着陸船]](LM)である{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|pp=72–77}}。
{{main2|アポロ宇宙船の技術的詳細|アポロ宇宙船}}
アポロ11号はサターンVの第三段の推力で[[月遷移軌道|月に向かう軌道]]に乗り、宇宙船をサターンVから切り離したあと、およそ3日間かけて旅し、[[月周回軌道|月軌道]]に入った。アームストロングとオルドリンは月着陸船「イーグル」に移乗し、[[静かの海]]に軟着陸した。2人は「イーグル」の上昇段を使用して月面を離陸し、司令船「コロンビア」で待つコリンズと再び合流した。「イーグル」を投棄したあと、宇宙飛行士たちは司令船を地球へ帰還する軌道に乗せる操作を行い、エンジンを噴射して月軌道を離脱した。3人は8日間以上の宇宙飛行を終えて、7月24日に地球に帰還し、太平洋に[[着水]]{{enlink|splashdown}}した。
アームストロングが月面に最初の一歩を踏み下ろす場面は、テレビジョン放送を通じて全世界に向けて生中継された。日本でもテレビ中継は注目を集め、月面作業の中継時の平均視聴率は82%に達した(ビデオリサーチ調べ)<ref>青鉛筆『朝日新聞』昭和44年(1969年)11月26日朝刊、12版、15面</ref>。アームストロングはこの出来事について「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」と述べた<ref name="ALSJ 4" />。アポロ11号は実質的に[[宇宙開発競争]]を終わらせ、1961年に故[[ジョン・F・ケネディ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が掲げた「この60年代が終わるまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させる」<!-- 1961年5月25日の[[一般教書演説|上下両院合同会議における演説]]でケネディ大統領が表明した[[施政方針演説|施政方針]] -->という国家目標を見事に達成した<ref>{{Cite news |url=http://archives.cnn.com/2001/TECH/space/05/25/kennedy.moon/ |title=Man on the Moon: Kennedy speech ignited the dream |publisher=CNN |last=Stenger |first=Richard |date=May 25, 2001 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100606035837/http://archives.cnn.com/2001/TECH/space/05/25/kennedy.moon/ |archivedate=June 6, 2010|access-date=December 30, 2018}}</ref>。
== 背景 ==
1950年代後半から1960年代前半にかけて、アメリカ合衆国(米国)は地政学的な競争相手の[[ソビエト連邦]](ソ連)と[[冷戦]]の最中にあった{{sfn|Logsdon|1976|p=134}}。1957年10月4日、ソ連は世界初の[[人工衛星]]となる[[スプートニク1号]]を打ち上げた。この出し抜けの打ち上げ成功でソ連は世界中を驚かせ、人々の不安を煽り、想像力をかき立てた。ソ連には大陸間の距離を越えて核兵器を打ち込める能力があることを証明して見せ、米国の主張する軍事・経済・技術的優位を試したのである{{sfn|Logsdon|1976|pp=13–15}}。これにより、突如として[[スプートニク・ショック]]が起こり、[[宇宙開発競争]]の端緒が開かれた{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|p=1}}。
ソ連によるスプートニクの挑戦に対して、米国の[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]大統領は[[アメリカ航空宇宙局|国家航空宇宙局]](NASA)を創設し、人を[[地球周回軌道]]に乗せることを目指す{{sfn|Swenson|Grimwood|Alexander|1966|p=134}}[[マーキュリー計画]]に着手した{{sfn|Swenson|Grimwood|Alexander|1966|pp=101–106}}。しかし、1961年4月12日にソ連の[[宇宙飛行士|コスモノート]](宇宙飛行士)、[[ユーリイ・ガガーリン]]が世界で最初に宇宙を飛行し、初めて軌道上で地球を周回した人物となった{{sfn|Swenson|Grimwood|Alexander|1966|pp=332–333}}ことにより、スプートニク・ショックで傷ついたアメリカ人の自尊心に追い打ちをかける形となった{{sfn|Swenson|Grimwood|Alexander|1966|p=342}}。ソ連に遅れることおよそ1か月、1961年5月5日に[[アラン・シェパード]]が約15分間の[[弾道飛行]]の旅を成し遂げ、初めて宇宙を飛行したアメリカ人となった。シェパードは大西洋から回収されたあと、アイゼンハワーの後任の[[ジョン・F・ケネディ]]大統領から祝いの電話を受けた{{sfn|Logsdon|1976|p=121}}。
ケネディは、他国に優越せんとすることは合衆国の国民的関心の中にあって、米国の国力に対する認識は少なくとも現実(の国力)と同程度に重要であると信じていた。それゆえに、宇宙探査の分野においてソ連が(米国よりも)先進的であることは耐えがたいことであった。ケネディは、合衆国は競争しなければならないと固く決心し、勝機を最大化する試練を探し求めた{{sfn|Logsdon|1976|p=134}}。
当時、ソ連は米国よりも優れた[[ブースター|ブースターロケット]]を有していたため、ケネディは米国がソ連と対等の立場で競争を始められるよう、既存世代のロケットの最大出力を超える試練を要求した。たとえそれが軍事上、経済上、科学上の理由で妥当なものとして認められなかったとしても、壮大な見世物であった。ケネディは自身の顧問と専門家に相談した結果、そのような事業計画を選択した{{sfn|Logsdon|1976|pp=112–117}}。1961年5月25日、ケネディは "Urgent National Needs" (至急の国家的要請)に関して[[アメリカ合衆国議会|合衆国議会]]で次のように演説した。
{{quote|私は、この[[1960年代|60年代]]が終わるまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標を達成することに我が国民が真剣に取り組むべきであると信ずるものであります。これ以上人類に強い印象を与える宇宙事業計画はこの時代にただのひとつも存在せず、それが長期に及ぶ宇宙の探査のために重要であることもまたとないことでしょう。そして、完遂するためにこれほど困難をともない、費用のかかるプロジェクトもそうないことでしょう。我々はしかるべき月宇宙船の開発を加速するつもりです。我々は、これまでに開発されたいずれのものよりもはるかに大型で、それらの代わりとなる液体および固体の燃料ブースターを一定の優れた成果が得られるまで開発するつもりです。我々は、その他のエンジン開発および無人探査、我が国民が決して見落とすことのないことには、この大胆な宇宙飛行を最初に行う者が生還すること、そのひとつの目的のために特に重要である探査に充てる追加的な基金を提案します。しかし、本当の意味で、ただ一人の人間が月に行くのではありません。我々がこの判断を肯定すれば、全国民が月に行ったも同然です。と申しますのも、彼を月に送り込むには我々皆が働かなければならないからです。<ref>{{cite web |url=https://www.nasa.gov/vision/space/features/jfk_speech_text.html |title=Excerpt: 'Special Message to the Congress on Urgent National Needs' |publisher=NASA |access-date=September 16, 2018|date=May 25, 1961 }}</ref>|第35代アメリカ合衆国大統領 ジョン・F・ケネディ|1961年5月25日、上下両院合同会議における演説より|}}
人間を月に着陸させるための取り組みには、すでに[[アポロ計画]](Project Apollo)という名前がつけられていた{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|p=15}}。[[直接上昇]]方式と[[地球軌道ランデブー]]の両方にかかわる[[月軌道ランデブー]]は、早期にあったきわめて重大な決定事項であった。宇宙空間における[[ランデブー (宇宙開発)|ランデブー]]とは、2機の宇宙船が宇宙空間を航行して落ち合う[[軌道マヌーバ|軌道操縦]]のことである。1962年7月11日、NASA長官のジェームズ・ウェッブは月軌道ランデブー方式を用いることに決定したと発表した。その結果、はるかに小さいロケット<ref>{{cite web|url=https://www.nasa.gov/centers/langley/news/factsheets/Rendezvous.html|title=The Rendezvous That Was Almost Missed: Lunar Orbit Rendezvous and the Apollo Program|date=December 1992|access-date=December 26, 2018|publisher=NASA|work=NASA Langley Research Center Office of Public Affairs}}</ref>{{sfn|Swenson|Grimwood|Alexander|1966|pp=85–86}}と3つのモジュールから成る[[アポロ宇宙船]]とでアポロ計画は進められることになった。この方法を選択したことは、アポロ宇宙船が(当時開発中だった)[[サターンV]]型ロケットで打ち上げられるであろうことを意味した{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|pp=48–49}}。
アポロ計画に要求される技術および技巧は[[ジェミニ計画]]で開発されたものである{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|pp=181–182, 205–208}}。アポロ計画は、1967年1月27日に[[アポロ1号]]が火災事故に遭い、3名の宇宙飛行士が亡くなったことと、それに関する調査のため、不意に中断された{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|pp=214–218}}。1968年10月に[[アポロ7号]]が地球周回軌道上で司令船の評価を行い{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|pp=265–272}}、同年12月に[[アポロ8号]]がそれを月周回軌道上で試験した{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|pp=274–284}}。1969年3月に[[アポロ9号]]が地球軌道上で月着陸船の調子を試し{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|pp=292–300}}、同年5月に[[アポロ10号]]が月軌道上で予行演習を実施した。こうして1969年7月までに、アポロ11号が月面に到達する最終段階までに必要な準備がすべて整った{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|pp=303–312}}。
ソ連は米国と宇宙開発競争を繰り広げたが、米国のサターンVに匹敵する[[N-1]]ロケットの開発の度重なる失敗によって初期の優位は失われていた<ref>{{cite web |url=http://ocw.mit.edu/courses/science-technology-and-society/sts-471j-engineering-apollo-the-moon-project-as-a-complex-system-spring-2007/readings/soviet_mand_lunr.pdf |title=The Soviet Manned Lunar Program |last=Lindroos |first=Marcus |work=MIT OpenCourseWare |publisher=[[Massachusetts Institute of Technology]] |format=PDF |accessdate=October 4, 2011}}</ref>。それでもソ連は米国に打ち勝とうとして[[無人探査機]]を飛ばし、月物質を地球に持ち帰ること([[サンプルリターン]])を試みた。アポロ11号の打ち上げの3日前にあたる7月13日、ソ連は[[ルナ15号]]を打ち上げ、アポロ11号よりも先に月軌道に到達させた。しかし、月面へ降下する間に探査機が機能不全に陥り、[[危難の海]]に激突した。そのときの衝撃はアポロ11号が月面に設置した地震計に詳細に記録された{{sfn|シェパード|スレイトン|1994|p=347}}。アームストロングとオルドリンが月面を離陸して地球への帰路につくおよそ2時間前のことであった。イングランドにある[[ジョドレルバンク天文台|ナフィールド電波天文学研究所]]の電波望遠鏡が月へ降下中のルナ15号から伝送された信号を記録しており、それらはアポロ11号の40周年記念にあたる2009年7月に公表された<ref>{{cite news |title=Recording tracks Russia's Moon gatecrash attempt |first=Jonathan |last=Brown |url=https://www.independent.co.uk/news/science/recording-tracks-russias-moon-gatecrash-attempt-1730851.html |work=[[The Independent]] |location=London |date=July 3, 2009 |accessdate=January 10, 2011}}</ref>。
== 人員 ==
=== 正規搭乗員 ===
{{Spaceflight crew
|terminology = 宇宙飛行士
|position1 = 船長
|crew1_up = [[ニール・アームストロング|ニール・A・アームストロング]]
|flights1_up = 最後にして2
|position2 = 司令船操縦士
|crew2_up = [[マイケル・コリンズ (宇宙飛行士)|マイケル・コリンズ]]
|flights2_up = 最後にして2
|position3 = 月着陸船操縦士
|crew3_up = [[バズ・オルドリン|エドウィン・E・オルドリンJr.]]
|flights3_up = 最後にして2
}}
当初は、船長に[[ニール・アームストロング]]を、司令船操縦士(CMP)に[[ジム・ラヴェル]]を、月着陸船操縦士(LMP)に[[バズ・オルドリン]]を、それぞれアポロ9号の予備搭乗員として割り当てることが1967年11月20日に公式に発表された{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|p=374}}。ラヴェルとオルドリンは以前、[[ジェミニ12号]]の搭乗員として一緒に飛行したことがあった。月着陸船(LM)の設計と製造に遅れが生じたため、アポロ8号とアポロ9号は正規搭乗員および予備搭乗員が交代させられ、アームストロング船長以下の搭乗員はアポロ8号の予備搭乗員になった。通常の搭乗員ローテーション計画に基づけば、アームストロングは当時アポロ11号の船長になるものと予想されていた{{sfn|Hansen|2005|pp=312–313}}。
ところが、うち1人が変更されることになった。アポロ8号に正規搭乗員として乗り組む予定だった[[マイケル・コリンズ (宇宙飛行士)|マイケル・コリンズ]]が両脚に故障を抱え始めたためである{{sfn|アームストロング|コリンズ|オルドリンJr.|1973|p=52}}。医師からは[[椎間板ヘルニア|5番目と6番目の椎骨間の骨の成長]]に問題があると診断され、外科手術を要するほどの容態であった{{sfn|Collins|2001|pp=288–289}}。そのため、ラヴェルがコリンズに代わってアポロ8号の搭乗員になり、コリンズは故障から回復すると司令船操縦士としてアームストロング船長以下の搭乗員に加わった。その間、[[フレッド・ヘイズ]]が月着陸船操縦士として、オルドリンが司令船操縦士として、それぞれアポロ8号の予備搭乗員を務めた{{sfn|Cunningham|2010|p=109}}。搭乗員全員が先に宇宙飛行を経験したことのあるベテラン飛行士で編成されたのは、アメリカの宇宙開発史上、[[アポロ10号]]に次いで{{sfn|Orloff|2000|p=72}}これが2度目のことだった{{sfn|Orloff|2000|p=90}}。以後、全員がベテラン飛行士で編成される3度目の機会は1988年の[[STS-26]]まで訪れることはなかった{{sfn|Orloff|2000|p=90}}。
一部では、オルドリンはともに働くことに難があると思われていたため、飛行乗組員の運用責任者だった[[ドナルド・スレイトン|スレイトン]]はアームストロングにオルドリンをラヴェルと交代させる選択肢を用意した。アームストロングはオルドリンと働くことに何も問題を抱えていなかったが、与えられた選択肢について日が暮れるまで熟考した。アームストロングが考えたところでは、ラヴェルは船長として彼独自のミッションを指揮してもらうのが当然であるとの結論に至った(結局、ラヴェルは[[アポロ13号]]の船長を務めた){{sfn|Hansen|2005|pp=338–339}}。
アポロ11号の正規搭乗員は、[[アポロ12号]]の搭乗員に特徴的にみられたような、親密で積極的な仲間意識を持っていなかった。代わりに、気立てのいい仕事上の関係を築いた。とりわけアームストロングは周知のごとくよそよそしかったが、コリンズも自身を孤独が好きだと思っており、もっと個人的な関係を創出しようとしてきたオルドリンをはねつけていたことを告白した{{sfn|Collins|2001|pp=434–435}}。オルドリンとコリンズはアポロ11号の乗組員について「親しげなよそ者たち("amiable strangers"){{sfn|ハンセン|2007|p=68}}」だったと記している{{sfn|Hansen|2005|p=359}}。ただし、アームストロングはこの人物評価に同意せず、「私が接した乗組員は皆一緒にとてもよく働いた」と述べた{{sfn|Hansen|2005|p=359}}。
=== 予備搭乗員 ===
{{Spaceflight crew
|terminology = 宇宙飛行士
|position1 = 船長
|crew1_up = [[ジム・ラヴェル|ジェームズ・A・ラヴェルJr.]]
|position2 = 司令船操縦士
|crew2_up = [[ウィリアム・アンダース|ウィリアム・A・アンダース]]
|position3 = 月着陸船操縦士
|crew3_up = [[フレッド・ヘイズ|フレッド・W・ヘイズJr.]]
}}
予備搭乗員の構成は、ラヴェルが船長、アンダースが司令船操縦士、ヘイズが月着陸船操縦士だった。このうち、アンダースとラヴェルはアポロ8号で一緒に飛行したことがあった{{sfn|Orloff|2000|p=90}}。ところが、1969年前半にアンダースは同年8月に実施される{{仮リンク|国家宇宙会議|en|National Space Council|label=国家航空宇宙会議}}との仕事を引き受け、その日をもって宇宙飛行士を引退することを発表した。その時点で、万が一アポロ11号が予定されていた7月の打ち上げより遅れてアンダースを任用できなくなった場合に備えて、[[ケン・マッティングリー]]を地上支援員から異動させ、予備の司令船操縦士としてアンダースと並行して訓練を受けさせることにした。ラヴェル、ヘイズ、マッティングリーの3名は、のちに[[アポロ13号]]の正規搭乗員として配属されることになった{{sfn|Slayton|Cassutt|1994|p=237}}。
=== 地上支援員 ===
マーキュリー計画とジェミニ計画の頃は、各ミッションに正規搭乗員と予備搭乗員の2つの枠があったが、アポロ計画では地上支援員(support crew)として知られる3つ目の枠が追加された。地上支援員は飛行計画、チェックリスト、ミッションごとのグランドルール(行動規範)を維持し、何かしらの変更があったときにそれを正規搭乗員および予備搭乗員に確実に知らせる任務を担っていた。また、正規搭乗員と予備搭乗員がシミュレータ内に訓練に来たときに練習して習得することに集中できるよう、特に緊急事態用の手順も開発した{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|p=261}}。アポロ11号では、[[ケン・マッティングリー]]、[[ロナルド・エヴァンス]]、[[ウイリアム・ポーグ|ビル・ポーグ]]が地上支援員を構成していた{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|p=375}}。
=== 宇宙船通信担当官 ===
[[File:Duke, Lovell and Haise at the Apollo 11 Capcom, Johnson Space Center, Houston, Texas - 19690720.jpg|thumb|飛行中のアポロ11号と交信するCAPCOMの[[チャールズ・デューク]]と[[ジム・ラヴェル|ジェームズ・ラヴェル]]、[[フレッド・ヘイズ]]]]
[[宇宙船通信担当官]](Capsule communicators、CAPCOM)は、テキサス州ヒューストンにある{{仮リンク|クリストファー・C・クラフト・ジュニア・ミッションコントロールセンター|en|Christopher C. Kraft Jr. Mission Control Center|label=ミッション管制センター}}の宇宙飛行士で、搭乗員と直接交信する唯一の人物であった{{sfn|Kranz|2000|p=27}}。アポロ11号では、[[チャールズ・デューク]]、[[ロナルド・エヴァンス]]、[[ブルース・マッカンドレス2世]]、[[ジム・ラヴェル|ジェームズ・ラヴェル]]、[[ウィリアム・アンダース]]、[[ケン・マッティングリー]]、[[フレッド・ヘイズ]]、{{仮リンク|ドン・リンド|en|Don L. Lind|label=ドン・L・リンド}}、[[オーウェン・ギャリオット|オーウェン・K・ギャリオット]]、[[ハリソン・シュミット]]がCAPCOMを務めた{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|p=375}}。
=== 飛行主任 ===
以下の4名の飛行主任(flight directors)が交替勤務でこのミッションを支えた{{sfn|Orloff|2000|p=272}}{{sfn|Kranz|2000|pp=230, 236, 273, 320}}。
* {{仮リンク|クリフォード・チャールズワース|en|Clifford E. Charlesworth|label=クリフォード・E・チャールズワース}}(緑チーム) - 打ち上げおよび[[船外活動]](EVA)担当
* {{仮リンク|ジェラルド・グリフィン|en|Gerald D. Griffin|label=ジェラルド・D・グリフィン}}(金チーム)
* [[ジーン・クランツ]](白チーム) - 月面着陸担当
* {{仮リンク|グリン・ルーネイ|en|Glynn Lunney}}(黒チーム) - 月面離陸担当
== 準備 ==
=== 徽章 ===
[[File:Apollo_11_insignia.png|thumb|アポロ11号の徽章]]
アポロ11号の{{仮リンク|ミッションパッチ|en|Mission patch|label=ミッション徽章}}はコリンズが「アメリカ合衆国による平和的な月面着陸」を象徴することを願ってデザインした。ラヴェルの提案で、コリンズはアメリカ合衆国の[[国鳥]]である[[ハクトウワシ]]を象徴に選んだ。シミュレータ・インストラクターのトム・ウィルソンは、彼らの平和的な任務を表す[[オリーブの枝]]を配置してはどうかと提案した。そこで、くちばしに平和の象徴であるオリーブの枝をくわえたワシが描かれた{{sfn|アームストロング|コリンズ|オルドリンJr.|1973|p=128}}。また、コリンズは遠くに地球を望みつつ月を背景に加えた。この図案の中の日光は差してくる方向が正しくなく、地球の影は左ではなくもっと下の方に描かれるべきだった。アームストロング、オルドリン、コリンズは、ワシと月を自然のままの色で彩り、円周を青色と金色で縁取ることに決めた。アームストロングが "eleven" 表記では非英語話者に理解されにくいのではないかと懸念したので、 "Apollo 11" とアラビア数字表記になった{{sfn|Collins|2001|pp=332–334}}。また、アポロ11号の搭乗員たちは自分たちの名前を徽章に記載しないことに決め<ref group="注">徽章内には宇宙飛行士名を入れるのが以前からの通例となっており、これはその後のアポロや[[スカイラブ計画]]、[[スペースシャトル計画]]などでも行われているため、今回は異例の措置となった。</ref>、徽章は「月面着陸に向けて働いた“みんな”を代表する」ものとなった{{sfn|Collins|2001|p=332}}。
[[ジョンソン宇宙センター|有人宇宙船センター]]のイラストレーターが図案を作品に仕上げ、それからNASAの役人たちに承認を求めるために送付された{{sfn|Collins|2001|pp=332–334}}。ところが、その図案は却下された。有人宇宙船センター長の{{仮リンク|ロバート・R・ギルルース|en|Robert R. Gilruth|label=ボブ・ギルルース}}は、このワシの鉤爪が「あまりに好戦的すぎる」と感じたのであった{{sfn|アームストロング|コリンズ|オルドリンJr.|1973|p=128}}{{sfn|Collins|2001|p=333}}。いくらかの議論があったあと、オリーブの枝をくちばしから足の爪に移すことで巧みに爪を隠すことにした{{sfn|Collins|2001|p=333}}。1971年に[[1ドル硬貨 (アメリカ合衆国)#アイゼンハワー・ダラー(1971年〜1978年)|アイゼンハワーの1ドル硬貨]]が発行されたときには、硬貨の裏面にこの図案のワシが使用された<ref>{{cite web |url=http://coinsite.com/CoinSite-PF/pparticles/$1eisen.asp |title=1971–78 Dollar Eisenhower |work=CoinSite |publisher=ROKO Design Group, Inc. |date=1994 |accessdate=July 20, 2009}}</ref>。アポロ11号のミッションから10年後にあたる1979年に発行された小さな[[1ドル硬貨 (アメリカ合衆国)#アンソニー・ダラー(1979年〜1981年、1999年)|アンソニーの1ドル硬貨]]にも、この徽章の図案が使用された<ref>{{cite web |title=Susan B. Anthony Dollar – 1979–1999 |url=http://www.usmint.gov/historianscorner/?action=coinDetail&id=347 |publisher=United States Mint |accessdate=August 12, 2014 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140811123227/https://www.usmint.gov/historianscorner/?action=coinDetail&id=347 |archivedate=August 11, 2014}}</ref>。
=== コールサイン ===
アポロ10号の搭乗員が自分たちの搭乗するアポロ宇宙船を「[[チャーリー・ブラウン (ピーナッツ)|チャーリー・ブラウン]]''(Charlie Brown)''」および「[[スヌーピー]]''(Snoopy)''」と名付けたこと{{sfn|アームストロング|コリンズ|オルドリンJr.|1973|pp=232-233}}があって、広報担当の{{仮リンク|ジュリアン・シアー|en|Julian Scheer}}は、当時[[ジョンソン宇宙センター|有人宇宙船センター]]でアポロ計画室の室長を務めていた{{仮リンク|ジョージ・ロウ|en|George Low|label=ジョージ・M・ロウ}}に、アポロ11号の搭乗員が自分たちのアポロ宇宙船を命名する際はもう少し真面目な名前をつけるようにしてはもらえないだろうかと提案した。NASAの計画の初期段階において、アポロ11号の司令船は「スノーコーン''(Snowcone)''」(「かき氷」の意)、同じく月着陸船は「ヘイスタック''(Haystack)''」(「干し草積み」の意)という名で呼ばれており、内外の伝達で使用されていた{{sfn|Marshall Space Flight Center|1969|p=8}}。
アポロ11号の月着陸船はミッション徽章で中心的な役割を演じたモチーフにちなんで「イーグル''(Eagle)''」(「[[鷲|ワシ]]」の意)と命名された。シアーの提案で、司令船は「コロンビア''(Columbia)''」と命名された。その由来は[[ジュール・ヴェルヌ]]の1865年発表の小説『[[月世界旅行|地球から月へ]]』に登場する、(アポロ同様フロリダから)宇宙船を発射するための巨大な大砲「[[コロンビヤード砲#小説におけるコロンビヤード砲|コロンビアード]]」で、アメリカ合衆国を象徴的に擬人化した伝統的な女性名「[[コロンビア (古名)|コロンビア]]」にもちなんでいる{{sfn|Collins|2001|pp=334–335}}{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|p=331}}。また、コリンズは1976年に出版した自著の中で、「コロンビア」は[[クリストファー・コロンブス]]に関連していたと述べている{{sfn|Collins|1994|p=116}}。
=== 記念品 ===
[[File:Apollo 11 Flown Silver Robbins Medallion (SN-416).jpg|thumb|アポロ11号と共に宇宙を飛行した銀の{{仮リンク|NASAのジェミニ・アポロ宇宙飛行記念メダル|en|NASA space-flown Gemini and Apollo medallions|label=ロビンス・メダル}}]]
アポロ11号の宇宙飛行士は、個人趣向キット(Personal Preference Kits、PPK:ミッションに持っていきたい個人的に意義深い記念の品々)を入れた小さな袋を所持していた<ref>{{cite web |url=https://airandspace.si.edu/collection-objects/kit-pilots-personal-preference-apollo-11 |title=Kit, Pilot's Personal Preference, Apollo 11 |publisher=National Air and Space Museum |access-date=October 11, 2018 }}</ref>。重さにして0.5ポンド(0.23キログラム)の5つの個人的な記念品(PPK){{efn2|うち3つ(宇宙飛行士1人につき1つ)が打ち上げ前に「コロンビア」に、2つが「イーグル」に積み込まれた。}}がアポロ11号に持ち込まれた<ref>{{cite web |url=http://spaceflownartifacts.com/flown_ppks.html |publisher=Space flown collectible artifacts |title=Personal Preference Kits (PPKs) |access-date=December 24, 2018 }}</ref>。
ニール・アームストロングが月着陸船に持ち込んだのは、[[ライト兄弟]]が初めて空を飛んだ1903年の[[ライトフライヤー号]]の左のプロペラから取った木片と、その翼から取った布切れ{{sfn|Hansen|2005|p=527}}{{sfn|アームストロング|コリンズ|オルドリンJr.|1973|p=127}}、そして当初[[ドナルド・スレイトン|ディーク・スレイトン]]がアポロ1号の搭乗員の配偶者たちからもらった、ダイヤモンドが散りばめられた{{仮リンク|合衆国宇宙飛行士バッジ|en|United States Astronaut Badge|label=宇宙飛行士の階級章}}だった。この階級章はアポロ1号で飛行し、ミッション後にスレイトンに与えられるはずだったが、発射台での悲惨な火災事故とあとに続いた葬儀を受けて、配偶者たちがスレイトンに渡したもので、アームストロングはそれを持ってアポロ11号に乗船した{{sfn|Slayton|Cassutt|1994|pp=191–192}}。
=== 着陸候補地の選定 ===
[[File:Lunar site selection globe.jpg|thumb|right|アポロ11号が着陸できる見込みのある地点を示した月面図。地点2が選ばれた。]]
NASAのアポロ着陸候補地選定委員会(Apollo Site Selection Board、ASSB)は1968年2月8日、5つの有力な着陸候補地を発表した。それらは[[ルナ・オービター計画]]の5機の無人探査機が撮影した月面の高解像度写真、ならびに[[サーベイヤー計画]]で得られた月の表面の状態に関する情報に基づき、2年間かけて行われた価値ある調査の結果であった<ref name="Site Selection">{{cite web |url=https://www.nasa.gov/feature/50-years-ago-lunar-landing-sites-selected |title=50 Years Ago: Lunar Landing Sites Selected |publisher=NASA |access-date=September 22, 2018|date=February 8, 2018 }}</ref>。地上に設置されたどんなに優れた望遠鏡でも、アポロ計画に要求される解像度で月面の特徴を解像することはできなかった{{sfn|Cortright|1975|p=79}}。宇宙船が消費する推進剤の量を最小限に抑えることが要求されたため、着陸地点は月の赤道に近い場所でなければならなかった。さらに、機動的な飛行を最小限度に留めるために障害物のない開けた場所であることが求められ、着陸用レーダーのタスクを簡素化するために平坦であることが同時に求められた。科学的な価値は考慮に入れられなかった{{sfn|Harland|1999|p=19}}。
地球上で撮影された写真から有望そうに思えた領域は、そのほとんどがまったく許容できない場所であることがわかった。当初の要件はクレーターのない緩やかな場所だったが、そのような場所はひとつも見つからなかった{{sfn|Cortright|1975|pp=98–99}}。結局、5つの地点が候補地として検討された。地点1と地点2は[[静かの海]]に、地点3は[[中央の入江]]に、地点4と地点5は[[嵐の大洋]]にあった<ref name="Site Selection" />。最終候補地の選定は以下の7つの基準に基づいて行われた<ref name="Site Selection" />。
* 比較的にクレーターの少ない、滑らかな場所であること。
* 進入路について、広い丘、高い崖または深いクレーターが原因となって、着陸用レーダーを混乱させ、計器の数値を読み誤らせるおそれのないこと。
* 最小限の量の推進剤で到達可能であること。
* 打ち上げ時の秒読みの遅れを許容できること。
* 自由帰還軌道(月に向かう進路上で問題が発生したとしても、エンジンの噴射を一切することなく、そのまま月の周囲に沿って惰性飛行して安全に地球に帰還する軌道)を取れること。
* 着陸進入時に良好な視界を保てること。つまり、太陽が常に月着陸船の後方7度から20度の間の方向にあること。
* 着陸する領域において一般斜面が2度未満の傾斜であること。
このうち太陽の角度に関する要件は特に制限的で、これによって打ち上げ日は1か月につき1日にまで制限されることとなった<ref name="Site Selection" />。宇宙飛行士が体験することになる温度の極値を制限するため、夜明けの直後に着陸することになった{{sfn|Collins|1994|p=7}}。ASSBは地点2を着陸予定地点に選出し、地点3と地点5は打ち上げ日が遅れた場合の予備の地点に選ばれた。1969年5月、アポロ10号の月着陸船は地点2から15キロ以内を飛行し、地点2は着陸予定地として容認できると報告した{{sfn|Cappellari|1972|p=976}}<ref>{{cite web|url=https://airandspace.si.edu/explore-and-learn/topics/apollo/apollo-program/orbital-missions/apollo10-facts.cfm|title=Apollo 10|publisher=National Air and Space Museum|access-date=December 26, 2018}}</ref>。
=== 最初の一歩の決定 ===
アポロ11号の搭乗員が発表されたあとの最初の記者会見で、記者から尋ねられた最初の質問が「あなた方の中で最初に月面に足を踏み出すのはどなたでしょうか?」であった{{sfn|Chaikin|1994|p=148}}{{sfn|Hansen|2005|p=360}}。スレイトンは記者に「それはまだ決まっていない」と答え、アームストロングは「個々人の願望に基づいて決めることはない」と付け加えた{{sfn|Chaikin|1994|p=148}}。
退出チェックリストの初期の版のひとつでは、月着陸船操縦士は司令船操縦士よりも先に船を降りることになっており、以前のミッションで行われてきたことと一致していた{{sfn|Collins|2001|p=347}}。船長は一度も宇宙遊泳をしないことになっていた{{sfn|Aldrin|Abraham|2016|pp=57–58}}。記者たちは1969年の前半、最初に月面を歩行するのはオルドリンになりそうだと書いたが、{{仮リンク|ジョージ・ミラー (NASA)|en|George Mueller (NASA)|label=ジョージ・ミラー}}副長官は記者に彼(船長)もまた最初(の1人)になるだろうと伝えた。当のオルドリンは、文民であるという理由でアームストロングが最初に月面を踏むだろうと聞いて激怒した。オルドリンはほかの月着陸船操縦士らに自分こそが最初の1人になるべきだと説得を試みたが、ロビー活動のようなものだと感づいた彼らは皮肉っぽく応じた。部局間の対立を止めようとして、スレイトンはオルドリンにアームストロングが船長なのだから最初の一人は彼になるだろうと伝えた。1969年4月14日の記者会見で、その決定が発表された{{sfn|Hansen|2005|pp=363–365}}。
オルドリンは何十年間も、この最終決定は大方、月着陸船のハッチの位置で決まったものだと信じていた。なぜならば、宇宙飛行士は宇宙服を着ており宇宙船の中はとても狭いため、宇宙船からうまく脱出することは難しかったからである。搭乗員の受けた模擬演習ではオルドリンが最初に宇宙船を出ていたのだが、オルドリンは脱出を試みる際に演習設備を壊してしまった。この出来事は、ミッション計画立案者が決断を下すのに十分な事由であった。オルドリンとアームストロングは春の終わりごろまでこの決定に関して知らされずにいた{{sfn|Chaikin|1994|p=149}}。スレイトンは、「彼が同意すれば、君に最初に宇宙船を降りてもらう計画だ」とアームストロングに伝え、アームストロングは「ええ、それがいい方法です」と答えた{{sfn|Chaikin|1994|p=150}}。
メディアは、船長の特権を利用して最初に宇宙船を降りる役を射止めたとしてアームストロングを非難した{{sfn|Schefter|1999|p=281}}。{{仮リンク|クリストファー・C・クラフト・ジュニア|en|Christopher C. Kraft Jr.|label=クリス・クラフト}}が2001年に出した自叙伝の中で明かしたところでは、ギルルース、スレイトン、ロウおよびクラフトの四者間で協議を行い、オルドリンが最初に月面を歩くことにはならないことを確認したという。彼らは、最初に月面を歩く人物は[[チャールズ・リンドバーグ]]のように冷静沈着な人物であるべきだと主張した。そして、飛行計画を変更する決定が下され、船長であるアームストロングが最初に宇宙船から月面に降り立つこととなった{{sfn|Hansen|2005|pp=371–372}}。
=== 発射準備 ===
[[File:Apollo 11 Saturn V SN SA506 (69-HC-620).jpg|thumb|left|[[スペースシャトル組立棟|ロケット組立棟]]から[[ケネディ宇宙センター第39発射施設|第39発射施設]]へと搬出される、宇宙船アポロ11号を搭載したサターンV型ロケット SA-506]]
月着陸船LM-5の上昇段は1969年1月8日に[[ケネディ宇宙センター]]に到着し、その4日後には下降段が、1月23日には司令・機械船CM-107がそれぞれ到着した<ref name="Mission Overview">{{cite web |title=Apollo 11 Mission Overview |publisher=NASA |url=https://www.nasa.gov/mission_pages/apollo/missions/apollo11.html |first= Sarah |last=Loff |access-date=September 22, 2018|date=April 17, 2015 }}</ref>。LM-5とアポロ10号のLM-4との間にはいくつかの違いがあった。LM-5には月面で船外活動中に宇宙飛行士との通信を円滑に行うためのVHF無線アンテナ、軽量化された上昇用エンジン、熱防護が強化された着陸装置、{{仮リンク|アポロ月面実験パッケージ|en|Apollo Lunar Surface Experiments Package|label=初期アポロ科学実験パッケージ}}(Early Apollo Scientific Experiments Package、EASEP)として知られる科学実験装置一式が備えられていた。司令船の構成で唯一変更されたのは、前面ハッチからいくつか断熱材が取り除かれた点であった{{sfn|Benson|Faherty|1978|p=472}}<ref>{{cite web |url=https://airandspace.si.edu/exhibitions/apollo-to-the-moon/online/science/scientific-experiments.cfm |title=Scientific Experiments |publisher=National Air and Space Museum |access-date=September 22, 2018}}</ref>。司令船と機械船は1月29日に連結され、4月14日に[[ニール・アームストロング・オペレーション・アンド・チェックアウト・ビルディング|O&Cビルディング]]から[[スペースシャトル組立棟|ロケット組立棟]]に移された<ref name="Mission Overview" />。
サターンV AS-506の第三段[[S-IVB]]は1月18日に到着し、続いて第二段[[S-II]]が2月6日に、第一段[[S-IC]]が2月20日に、{{仮リンク|サターンV飛行制御装置|en|Saturn V instrument unit}}が2月27日に到着した。まだアポロ10号が月へ向かっている最中であった5月20日の1230<!-- これは[[軍事時間]]の表記法であり、誤記ではありません。 -->(12時30分)、組み上がった重さ{{convert|5443|t|adj=on}}のサターンV型ロケットが[[クローラー・トランスポーター]]の上に載せられ、[[ケネディ宇宙センター第39発射施設|第39発射場]]の39A発射台に向けてロケット組立棟を出発した。カウントダウンのテストは6月26日に開始され、7月2日に終了した。7月15日の夜、発射施設が投光照明に照らされ、クローラー・トランスポーターが{{仮リンク|整備構造物|en|Service structure|label=移動式整備塔}}を駐機場まで運んで戻した<ref name="Mission Overview" />。発射当日の早朝には、第二段S-IIと第三段S-IVBの各燃料タンクが[[液体水素]]で満たされた{{sfn|Benson|Faherty|1978|p=474}}。燃料の注入は発射の3時間前までに完了した{{sfn|Benson|Faherty|1978|p=475}}。発射運用はATOLLと呼ばれるプログラミング言語で書かれた43のプログラムで一部が自動化されていた{{sfn|Benson|Faherty|1978|pp=355–356}}。
搭乗員は0400(4時00分)すぎにスレイトンに起こされ、シャワーを浴び、髭を剃り、スレイトンおよび予備搭乗員と一緒にNASAの宇宙飛行前の伝統的な朝食となっている[[ステーキ・アンド・エッグ|ステーキと卵料理]]を食べた。そして、宇宙服を着用し、純酸素の呼吸を始めた。0630(6時30分)に搭乗員は第39発射施設に向かった{{sfn|Collins|2001|pp=355–357}}。発射時刻の約3時間10分前にヘイズは「コロンビア」の船内に入り、6時54分に技術者とともにアームストロングが左の乗組員用の寝椅子<!-- the left hand couch -->につくのを手助けした。5分後にコリンズが加わり、自分の所定の位置である右の乗組員用の寝椅子<!-- the right hand couch -->についた。最後にオルドリンが乗船し、中央の寝椅子<!-- the center couch -->についた{{sfn|Benson|Faherty|1978|p=475}}。ヘイズは発射の約2時間10分前に宇宙船から降りた<ref>{{cite web |url=https://history.nasa.gov/afj/ap11fj/01launch.html |title=Apollo 11 Flight Journal – Day 1, Part 1: Launch |publisher=NASA |access-date=October 11, 2018 }}</ref>。飛行士の搭乗を手伝ったクルー(クローズアウトクルー)がハッチを密閉すると、船室はパージ(圧縮空気を排気)され、与圧された。クローズアウトクルーは発射の約1時間前に発射施設を離れた。発射の3分20秒前からはカウントダウンが自動化された{{sfn|Benson|Faherty|1978|p=475}}。450人以上の人員が[[発射管制センター|発射管制室]]内の制御盤の前に陣取っていた{{sfn|Benson|Faherty|1978|p=474}}。
== ミッション ==
=== 発射と月軌道までの飛行 ===
[[File:Apollo 11 Saturn V lifting off on July 16, 1969.jpg|thumb|right|1969年7月16日午前9時32分(米国東部夏時間)、ニール・アームストロング、マイケル・コリンズ、バズ・オルドリンの3名の宇宙飛行士を乗せたアポロ11号を搭載して、ケネディ宇宙センターの39A発射台から飛び立つサターンV]]
推定で100万人の観衆が発射場の近辺の幹線道路や海岸からアポロ11号の打ち上げを見ていた{{sfn|アームストロング|コリンズ|オルドリンJr.|1973|p=55}}。観衆の中には、[[アメリカ陸軍参謀総長]]の[[ウィリアム・ウェストモーランド]]大将、4名の[[アメリカ合衆国大統領顧問団|閣僚]]、19名の{{仮リンク|州知事 (アメリカ合衆国)|en|Governor (United States)|label=州知事}}、40名の{{仮リンク|アメリカ合衆国における市長職|en|Mayoralty in the United States|label=市長}}、60名の[[大使]]、200名の合衆国議会議員などのお偉方もいた。[[スピロ・アグニュー]][[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]は[[リンドン・ジョンソン]]前大統領および[[レディ・バード・ジョンソン]]同夫人とともに打ち上げの様子を眺めた{{sfn|Benson|Faherty|1978|p=474}}{{sfn|Bilstein|1980|pp=369–370}}。現地には約3,500人の報道関係者が集まった{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|p=338}}。そのうちのおよそ3分の2はアメリカ国内から、残りはその他の55の国々から来ていた。打ち上げは33か国でテレビ中継され、アメリカ国内だけでも視聴者は推定で2,500万人に上った。さらに世界中で数百万の人々がラジオ放送を聴いていた{{sfn|Benson|Faherty|1978|p=474}}{{sfn|Bilstein|1980|pp=369–370}}。[[リチャード・ニクソン]]大統領は、NASAの連絡担当官だったアポロ宇宙飛行士の[[フランク・ボーマン]]とともに、[[ホワイトハウス]]の執務室から打ち上げの様子を見守った<ref>{{cite web |title=President Richard Nixon's Daily Diary |url=https://www.nixonlibrary.gov/sites/default/files/virtuallibrary/documents/PDD/1969/013%20July%2016-31%201969.pdf |publisher=Richard Nixon Presidential Library |accessdate=September 3, 2018 |page=2 |date=July 16, 1969}}</ref>。
1969年7月16日13:32:00 UTC(午前9時32分00秒 [[東部夏時間|EDT]])、[[サターンV]] AS-506はアポロ11号を搭載して、[[ケネディ宇宙センター]]の[[ケネディ宇宙センター第39発射施設|39A発射台]]から発射された{{sfn|毎日新聞社|1969|p=10}}<ref>{{cite web |url=https://www.nasa.gov/mission_pages/apollo/missions/apollo11.html |title=Apollo 11 Mission Overview |publisher=NASA|date=April 17, 2015 |accessdate=February 17, 2019 }}</ref>。発射の12分後には、高度98.9海里(183.2キロ)から100.4海里(185.9キロ)の辺りで、地球を周回する軌道に入った。地球を一周半したあと、第三段エンジンS-IVBを点火{{sfn|毎日新聞社|1969|p=15}}、16:22:13(UTC)に[[月遷移軌道|月遷移軌道投入]]<!-- 参考:{{sfn|アームストロング|コリンズ|オルドリンJr.|1973|pp=47, 109}}には「月軌道突入噴射」とある。 -->(Trans-lunar injection、TLI)し、宇宙船は月へと向かう軌道に乗せられた。それから約30分後、左側の操縦席についたコリンズ司令船操縦士の操作で、{{仮リンク|トランスポジション、ドッキング、エクストラクション|en|Transposition, docking, and extraction}}と呼ばれる一連の動作を実行した。すなわち、使い切った第三段ロケットS-IVBから司令・機械船(CSM)を切り離し{{sfn|毎日新聞社|1969|p=16}}、船の向きを反転させて、第三段に取りつけられた状態の月着陸船(LM)と[[宇宙機のドッキングおよび係留|ドッキング]]し、ロケットから着陸船を取り出した{{sfn|アームストロング|コリンズ|オルドリンJr.|1973|pp=104-105}}。その後、合体した宇宙船は月に向かう針路をとる一方、他方の第三段は月を通過する弾道を描くように飛行した{{sfn|Orloff|2000|p=106}}{{sfn|Collins|2001|pp=374–375}}。これは第三段ロケットがアポロ宇宙船や地球や月に衝突するのを回避するために取られた措置であった。月の周りを通過することで生じた[[スイングバイ|スリングショット効果]]により、第三段S-IVBは[[太陽周回軌道]]に入った{{sfn|Marshall Space Flight Center|1969|p=7}}。
7月19日17:21:50(UTC)にアポロ11号は月の裏側を通過して[[アポロ司令・機械船#機械船|機械船]]の推進エンジンを点火し、[[月周回軌道]]に入った{{sfn|Orloff|2000|p=106}}。続いて、月を30周するうち、飛行士たちは{{仮リンク|コリンズ (クレーター)|en|Collins (crater)|label=サビンD}}クレーターから南西に約12マイル(19キロ)の辺りに位置する[[静かの海]]南部の着陸地点の過ぎゆく景色を目にした。この着陸地点はある程度あらかじめ選定されていたのだが、それは無人探査機[[レインジャー8号]]と[[サーベイヤー5号]]による先行調査や、月周回衛星[[ルナ・オービター計画|ルナ・オービター]]が撮影した月面写真により、その比較的平坦で滑らかな地形が着陸や[[船外活動]](EVA)を行うのに大きな支障はないだろうと判断されたためであった<ref>{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/A11_PressKit.pdf |title=Apollo 11 Lunar Landing Mission |date=July 6, 1969 |publisher=NASA |location=Washington, D.C. |type=Press kit |format=PDF |id=Release No: 69-83K |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。着陸予定地点はサーベイヤー5号の着陸地点から南東に25キロほど、レインジャー8号の衝突地点から68キロの辺りにあった{{sfn|Manned Spacecraft Center|1969|p=130}}。
=== 月への降下 ===
[[File:Apollo 11 CSM photographed from Lunar Module (AS11-37-5445).jpg|thumb|left|着陸船「イーグル」から撮影された月周回軌道上の司令船「コロンビア」]]
7月20日12:52:00(UTC)にアームストロングとオルドリンは着陸船「イーグル」に乗り込み、月への降下に向けた最終準備に取りかかった{{sfn|Orloff|2000|p=106}}。17:44:00に「イーグル」は司令船「コロンビア」から切り離された。「コロンビア」に1人残ったコリンズは、機体をゆっくりと爪先回転(ピルエット)させる着陸船「イーグル」に損傷がないこと、ならびに着陸装置が正常に展開されたことを確認した{{sfn|Manned Spacecraft Center|1969|p=9}}{{sfn|Collins|Aldrin|1975|p=209}}。アームストロングは "The ''Eagle'' has wings!" (「イーグル」には翼がある!)と叫んだ{{sfn|Collins|Aldrin|1975|p=209}}。
降下を開始してしばらくすると、アームストロングとオルドリンは月面上の目標地点を通り過ぎるのが2、3秒早いことに気づき、射程領域(ダウンレンジ)がやや長いようだと地上に報告した{{sfn|チェイキン|1999|p=283}}。つまり、このままでは着陸目標よりも西に数マイル先の地点に着陸してしまうことを示していた。「イーグル」はあまりにも速く飛びすぎていたのである。その原因は高い{{仮リンク|質量集中 (天文学)|en|Mass concentration (astronomy)|label=質量集中}}にあって宇宙船の軌道が変化したのではないかと考えられた。飛行主任のジーン・クランツは、ドッキングトンネル内の余分な空気圧が原因ではないかと推論した。あるいは、機体の損傷チェック時に行われた「イーグル」の爪先回転飛行が原因となった可能性も考えられた{{sfn|Mindell|2008|pp=220–221}}{{sfn|Manned Spacecraft Center|1969|p=82}}。
降下のためのエンジン噴射に入る5分前、月面から高度6,000フィート(1,800メートル)で{{sfn|シェパード|スレイトン|1994|p=26}}、[[アポロ誘導コンピュータ|着陸船の航法・誘導コンピュータ]](LM guidance computer、LGC)が予期しない警報 "1201" と "1202" を幾度か発し{{sfn|ビゾニー|2009|pp=45-46}}{{sfn|シェパード|スレイトン|1994|pp=26, 29}}、飛行士の注意を逸らせた。そのとき、ミッション管制センター内にいたコンピュータ技師の{{仮リンク|ジャック・ガーマン|en|Jack Garman}}は、誘導官(Guidance Officer)の{{仮リンク|スティーブ・ベイルズ|en|Steve Bales}}にそのまま降下を続けても安全であることを告げ、飛行士たちにも中継して伝えられた{{sfn|チェイキン|1999|pp=286–287}}。これらの警報は "executive overflows" (実行オーバーフロー)を示しており、誘導コンピュータが過負荷状態にあって{{sfn|シェパード|スレイトン|1994|pp=26–27}}要求されたすべてのタスクの処理をリアルタイムで完了できず、そのうちのいくつかを遅延させなければならない状態にあることを意味していた{{sfn|Collins|Aldrin|1975|pp=210–212}}{{sfn|Hamilton|Hackler|2008|pp=34–43}}。[[マサチューセッツ工科大学]][[チャールズ・スターク・ドレイパー研究所]]でアポロ飛行コンピュータのプログラミング責任者(Director of Apollo Flight Computer Programming)を務めた[[マーガレット・ハミルトン (科学者)|マーガレット・ハミルトン]]は、当時を思い出して次のように語った。
[[File:Apollo 11 Lunar Module Eagle in landing configuration in lunar orbit from the Command and Service Module Columbia.jpg|thumb|right|「コロンビア」から撮影された[[月周回軌道]]上の「イーグル」]]
{{quote|アポロ11号のその問題に関してコンピュータを責めることは、火災を発見して消防に通報する人を責めるようなものです。実際、コンピュータはエラー状態を認識する以上のことをするようにプログラムされていました。ソフトウェアには回復プログラム一式が組み込まれていたのです。ソフトウェアの動作としては、この場合、優先度の低いタスクを除外して、より重要なものを再構築することでした。コンピュータは、もう少しのところで(着陸の)中止を強制したというよりも、むしろ中止を阻止したといえます。もしもコンピュータがこの問題を認識できずに回復動作をとらなかったら、アポロ11号の月への着陸が上手くいったかどうか、疑わしいと思います。<ref>{{cite magazine |last=Hamilton |first=Margaret H. |authorlink=マーガレット・ハミルトン (科学者) |date=March 1, 1971 |p=13 |title=Computer Got Loaded |journal=Datamation |type=Letter |issn=0011-6963}}</ref>}}
ミッション中には、司令船とのランデブー用のレーダーのスイッチが誤った位置にあり、月着陸船のコンピュータにランデブー用レーダーと着陸用レーダーの両方から送られてきたデータを同時に処理させようとしたことが原因だと診断された{{sfn|Manned Spacecraft Center|1969|pp=190–192}}<ref>{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.1201-fm.html |title=Apollo 11: 25 Years Later |last=Martin |first=Fred H. |date=July 1994 |work=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。ソフトウェア技師のドン・アイルズは、2005年の誘導制御会議(Guidance and Control Conference)で発表した論文の中で、この問題は以前[[アポロ5号]]で最初の無人月着陸船をテストしている最中に見られたハードウェア設計上の欠陥に原因があると結論づけた。(緊急時着陸中止という万が一の事態に備えて)ランデブー用レーダーをオンにしておくことはコンピュータとは関係ないはずだったが、無作為なハードウェアの電源の入れ方次第では、ランデブーレーダーシステムの2つの部品の間に生じる電気的位相の不整合により、コンピュータに対して固定型アンテナが2つのポジションの間を前後に[[ディザリング]]するように見えることがある。ランデブー用レーダーがインボランタリカウンタを更新すると、余分な疑似[[サイクルスチール]]により、コンピュータは警告を発する<ref>{{cite web |url=http://klabs.org/history/apollo_11_alarms/eyles_2004/eyles_2004.htm |title=Tales from the Lunar Module Guidance Computer |last=Eyles |first=Don |date=February 6, 2004 |work=27th annual Guidance and Control Conference |publisher={{仮リンク|アメリカ宇宙航行学会|en|American Astronautical Society|label=American Astronautical Society}} |location=Breckenridge, Colorado |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。
=== 着陸 ===
[[File:Apollo 11 Landing Site & West Crater.png|thumb|アポロ11号の着陸地点(左)とウエスト・クレーター(右)の相対的位置]]
アームストロングが再び窓の外に目をやると、コンピュータがはじき出した着陸目標が直径300フィート(91メートル)ほどもあるクレーター{{efn2|後に{{仮リンク|ウエスト (月のクレーター)|en|West (lunar crater)|label=ウエスト}}と命名された。}}のすぐ北と東の巨岩がいくつも転がっている領域にあるのが見えたため、アームストロングは操縦を半自動<!-- {{sfn|毎日新聞社|1969|p=102}}など、書籍によっては「手動」とあるが、それは正確ではない。 -->に切り替えた{{sfn|Chaikin|1994|p=196}}{{sfn|Mindell|2008|pp=195–197}}。アームストロングはその岩石原の手前に着陸すればそこから地質試料を採取しに行けるかもしれないと考えたが、宇宙船の水平方向速度が速すぎたためできなかった{{sfn|チェイキン|1999|pp=288–289}}。降下している間、オルドリンはずっと、着陸船の操縦で多忙なアームストロングに航法データを読み上げ続けた{{sfn|シェパード|スレイトン|1994|p=31, 32}}。月面からの高度107フィート(33メートル)まで降下したとき、アームストロングは推進剤の供給が徐々に減少してきていることを知り、最初の着陸候補地点に着陸することに決めた{{sfn|Chaikin|1994|p=197}}。
アームストロングは開けた月面の一画を見つけ、機動的に宇宙船をそちらへ向かわせた。だんだんと近づいて行くと、高度250フィート(76メートル)のところで、その新しく決めた着陸地点にクレーターがあることを発見した。アームストロングはクレーターを視界にはっきりととらえながら、別の一画の平地を見つけた。高度100フィート(30メートル)まで来て、推進剤の量は残りわずか90秒分まで減っていた。さらに、着陸船のエンジンによって巻き上げられた月の砂塵が、宇宙船の動きを決定するアームストロングの判断力を鈍らせた。もうもうと立ち込める砂塵の中から突き出たいくつもの大きな岩に焦点を絞ることで、アームストロングは降下中の宇宙船の速度を判断することができた{{sfn|Chaikin|1994|pp=198–199}}。
着陸の直前、「イーグル」の脚部から吊り下がっていた、長さ67インチ(170センチ)の探針のうちの少なくとも1本が月面に接地したことを示すライトが点灯した。それを知ったオルドリンは「着地灯、点灯!」と声に出して確認した{{sfn|シェパード|スレイトン|1994|p=36}}。技師たちは、着陸時にエンジンを噴射させたまま月面に接近しすぎると排気ガスの圧力(背圧)でエンジンが吹き飛ぶかもしれないと危惧していたため、アームストロングはただちにエンジンを切ることになっていたが、忘れてしまった{{sfn|チェイキン|1999|p=293}}。3秒後に「イーグル」が着陸し、アームストロングはエンジンを切った{{sfn|Chaikin|1994|p=199}}。オルドリンは即座に「OK、エンジン停止。ACA解放」と言葉を発し、それを受けてアームストロングは「ACA解放了解。自動」と復唱した。続けてオルドリンは「モード制御、両方とも自動。下降段エンジンの指令重複、オフ。エンジンアーム、オフ。413に接続」と確認した{{sfn|Mindell|2008|p=226}}。
[[File:AP11 FINAL APPROACH.ogv|thumb|left|1969年7月20日、月面に着陸。]]
ACAとは、[[姿勢制御装置]](attitude control assembly)のことで、具体的には月着陸船の操縦桿のことである。その出力は着陸船の誘導コンピュータ(LGC)に伝えられ、[[姿勢制御システム]](reaction control system、RCS)にエンジン噴射の命令を出す。「解放」とは、中央のポジションから動かされていた操縦桿が(車の方向指示器のように)バネの力で元の中央のポジションに戻されたことを意味する。LGCのアドレス413は、月着陸船が着陸したことを示す変数を含んでいた<ref name="ALSJ 1"/>。
「イーグル」は7月20日、日曜日の20:17:40(UTC)に25秒分の燃料を残して着陸した<ref name="ALSJ 1" />。アポロ11号は後継のミッションよりも残りの燃料が少ない状態で着陸し、飛行士たちは早い段階から燃料残量警告表示に直面することになった。これはのちに、燃料タンク内で推進剤が想定以上に大きく揺れ動き([[スロッシング]])、燃料計の値が実際よりも少なく表示されていた結果であることが分かった。そのため、次回以降のミッションでは、これを抑える抑流板がタンク内に追加設置されることになった<ref name="ALSJ 1" />。
アームストロングは、オルドリンが「エンジンアームはオフ」と言って、着陸後のチェックリストをつける作業が一通り完了したのを確認して、CAPCOMのチャールズ・デュークに "Houston, Tranquility Base here. The ''Eagle'' has landed." (「ヒューストン、こちら[[静かの基地]]<!-- 注:《静かの海》基地{{sfn|毎日新聞社|1969|pp=108}}{{sfn|チェイキン|1999|p=293}}ではない。 -->。鷲は舞い降りた」){{sfn|ビゾニー|2009|p=51}}と言葉を発した。アームストロングがコールサインを「イーグル」から予行演習にはなかった「静かの基地(Tranquility Base)」に変更したことで、着陸を完遂して成功したことが強調されて聴取者たちに伝えられた<ref>{{cite AV media |type=TV production |title=Failure is Not an Option |publisher=The History Channel |date=August 24, 2003 |oclc=54435670}}</ref>。それを聞いたデュークは、ミッション管制センターにいた人たちの安堵の気持ちを表し、 "Roger, Twan— Tranquility, we copy you on the ground. You got a bunch of guys about to turn blue. We're breathing again. Thanks a lot." (「了解、トゥワン……トゥランキリティ(「静か」の意)。月面にいる君たちの声、よく聞こえるよ。君らのおかげでたくさんの奴らが真っ青になりそうだった。ため息をついている。どうもありがとう」)と、一瞬言い淀みながらも応答した<ref name="ALSJ 1">{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.landing.html |title=The First Lunar Landing |date=1995 |editor-last= Jones |editor-first=Eric M. |work=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=June 13, 2013}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.bbc.co.uk/archive/moonlandings/7630.shtml?all=2&id=7630 |title=James May speaks to Charles Duke |date=2009 |publisher=BBC Archives |accessdate=June 7, 2009}}</ref>。
[[File:A New Look at the Apollo 11 Landing Site.ogv|thumb|[[ルナー・リコネサンス・オービター|LRO]]から撮影された写真とステレオ画像数値標高モデルを用いて三次元画像化されたアポロ11号の着陸地点]]
着陸から2時間半後、船外活動の準備を始める前に、オルドリンは次のように地球に無線連絡した。
{{quote|こちらは月着陸船操縦士です。この機会を借りて、私はこの放送を聞いている人々に対し、誰であろうと、またどこにいようと、しばらくの間手を止めて、この数時間に起こったできごとについて熟慮し、それぞれの方法で感謝をしてほしいと願います。<ref>{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.postland.html |title=Post-landing Activities |date=1995 |editor-last=Jones |editor-first=Eric M. |work=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=June 13, 2013}}</ref>{{sfn|毎日新聞社|1969|p=112}}}}
そのあと彼は、私的に[[聖餐式]]を行った{{sfn|アームストロング|コリンズ|オルドリンJr.|1973|pp=284-285}}。この当時NASAは、[[アポロ8号での創世記の朗読|アポロ8号の宇宙飛行士が月を周回中に聖書の創世記の一節を朗読したこと]]に反対していた無神論者の{{仮リンク|マダリン・マレー・オヘア|en|Madalyn Murray O'Hair}}と係争中で、オヘアはNASAに対し、宇宙飛行士は宇宙にいる間は宗教的活動を放送することを控えるべきだと要求していた。それゆえ、オルドリンは月で聖餐式を行うことに直接言及することを差し控える選択をした。オルドリンはテキサス州{{仮リンク|ウェブスター (テキサス州)|en|Webster, Texas|label=ウェブスター}}にある[[長老派教会]]の長老で、聖餐用具は同教会の牧師であるディーン・ウッドラフが用意していた。ウェブスターの長老派教会は、このとき月で使用された聖餐杯を所有しており、毎年7月20日にもっとも近い日曜日を「月の晩餐の日」として記念行事を行っている{{sfn|Chaikin|1994|pp=204, 623}}。
この任務のスケジュールでは、宇宙飛行士は5時間の睡眠時間で着陸のあとに続く作業を行うことが求められていたが、眠れないだろうと思った2人は早くに船外活動の準備を始めることを選択した{{sfn|Manned Spacecraft Center|1969|pp=21–22}}。
=== 月面での活動 ===
[[File:As11-40-5886.jpg|thumb|left|オルドリンが撮影したアームストロングの写真。月面滞在中はほとんどアームストロングがカメラを持っていたので、月面上の彼自身の姿が写ったものとしては、数少ない写真の一つ。]]
船外活動の準備は20日23:43に始まった{{sfn|Orloff|2000|p=107}}。準備は2時間で済むはずのところ、3時間半と想定よりも長くかかった<ref name="ALSJ 3" />。地球上での訓練中には、必要とされるものはすべて前もってきちんと並べられていたが、月では、チェックリスト、食料の入った小包、用具のほかにも多くのものが船室内にあった{{sfn|Manned Spacecraft Center|1969|p=22}}。アームストロングとオルドリンの外に出る準備が整うと、「イーグル」は減圧された{{sfn|Cortright|1975|p=215}}。02:39:33にハッチが開いた{{sfn|Orloff|2000|p=107}}。初め、アームストロングは{{仮リンク|主生命維持システム|en|Primary Life Support System|label=船外活動用の生命維持装置}}(PLSS)を身に着けたままハッチを通り抜けようとする際にいくぶん苦労を要した<ref name="ALSJ 3">{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.summary.html |title=First Steps |date=1995 |editor1-last=Jones |editor1-first=Eric M. |editor2-last=Glover |editor2-first=Ken |work=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=September 23, 2006}}</ref>。アポロ宇宙飛行士たちの心拍数は月着陸船のハッチを出入りするときに最高値を記録することがよくあった{{sfn|Waligora|Horrigan|1975|pp=115–120}}。02:51にアームストロングは月面へと降り始めた。胸の位置にある遠隔操作ユニット(RCU)のせいで、アームストロングは自分の足元が見えなかった。9段のはしごを降りながら、アームストロングはDの字型のリングを引いて、「イーグル」の側面に折り畳まれていたモジュール装置格納アセンブリ(Modular Equipment Stowage Assembly、MESA:器具収納部)を展開してテレビカメラを起動した<ref name="ALSJ 4">{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.step.html |title=One Small Step |date=1995 |editor-last=Jones |editor-first=Eric M. |work=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=June 13, 2013}}</ref><ref>{{cite news |title=Neil Armstrong, first man to step on the Moon, dies at 82 |first=Paul |last=Duggan |url=https://www.washingtonpost.com/national/health-science/neil-armstrong-first-man-to-step-on-the-moon-dies-at-82/2012/08/25/7091c8bc-412d-11e0-a16f-4c3fe0fd37f0_story.html |newspaper=[[The Washington Post]] |date=August 25, 2012 |accessdate=May 25, 2013}}</ref>。
アポロ11号では、放送用のテレビジョン規格と互換性のない[[低速度走査テレビジョン]]が使用されたため、一度特殊なモニタに映像を表示させておき、そのモニタの映像を従来型のテレビカメラで撮影することで本放送されたが、その画質は著しく低減されることとなった<ref name="Blunder 5">{{cite news |title=One giant blunder for mankind: how NASA lost Moon pictures |last=Macey |first=Richard |url=http://www.smh.com.au/news/national/one-giant-blunder-for-mankind-how-nasa-lost-moon-pictures/2006/08/04/1154198328978.html |newspaper=[[The Sydney Morning Herald]] |location=Sydney |date=August 5, 2006 |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。テレビジョン信号はアメリカの[[ゴールドストーン深宇宙通信施設|ゴールドストーン]]で受信されていたが、オーストラリアの[[キャンベラ]]近郊にある{{仮リンク|ハニーサックル・クリーク追跡基地|en|Honeysuckle Creek Tracking Station}}が受信した信号のほうが[[Hi-Fi|忠実度が高く]]て鮮明だった。数分後、通信の中継基地は、より感度が良好なオーストラリアの[[パークス天文台|パークス電波望遠鏡]]に切り替えられた{{sfn|Sarkissian|2001|p=287}}。幾多の技術的困難と天候不順があったにもかかわらず、史上初の月面での船外活動をとらえた、ぼんやりとした白黒の映像が地球上で受信され、世界中の少なくとも6億人の人々に向けて放送された{{sfn|Sarkissian|2001|p=287}}。この放送形式のビデオの複製物は保存されており、広く入手することが可能だが、{{仮リンク|アポロ11号の紛失したテープ|en|Apollo 11 missing tapes|label=低速度走査テレビカメラで撮影されて月から伝送された元の高画質の録画映像}}は、NASAの日常業務で磁気テープを再利用しているうちに誤って破損されてしまったようである<ref name="Blunder 5" />。
[[File:Apollo 11 plaque closeup on Moon.jpg|right|thumb|「イーグル」のはしごに残された、月面着陸を記念する銘板]]
{{Listen|pos=right|filename=Frase de Neil Armstrong.ogg|title=これは…小さな一歩だが…<br/>That's one small step ...|description=|format=[[Ogg]]}}
アームストロングは、はしごにかけたまま、月着陸船の下降段につけられていた(西半球と東半球の)2つの地球の図と銘刻、および3名の飛行士とニクソン大統領の署名が描かれた{{仮リンク|月の記念銘板|en|Lunar plaque|label=記念銘板}}を除幕した。記念銘板には次の文章が刻印されていた。
{{quote|Here men from the planet Earth first set foot upon the Moon, July 1969 A.D. We came in peace for all mankind.<ref name="ALSJ 4" />(西暦一九六九年七月、惑星地球より来たる人類、ここ月面に降り立つ。我ら全人類の平和のために来たれり。{{sfn|ハンセン|2007|p=298}})}}
月の表面の塵について「とてもきめの細かい」「ほとんど粉のよう」と説明したあと<ref name="ALSJ 4" />、着陸から6時間半が経とうとしていた02:56:15にアームストロングは「イーグル」の脚を支えている皿の上に降り立ち、次のように宣言した。
{{quote|'''これは人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な跳躍だ。'''{{sfn|ハンセン|2007|p=284}}<br/>''That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind.''{{sfn|Orloff|2000|p=108}}<ref>{{cite web |url=http://www.nasa.gov/audience/forstudents/5-8/features/F_Apollo_35th_Anniversary.html |title=Apollo Moon Landing – 35th Anniversary |date=July 15, 2004 |editor-last=Canright |editor-first=Shelley |work=NASA Education |publisher=NASA |accessdate=June 13, 2013}}</ref>}}
{{see also|{{節リンク|ニール・アームストロング|月面への第一歩}}}}
アームストロングは "That's one small step for a man" (「男にとっては小さな一歩」)と言うつもりでいたが、通信音声では "a" という単語は聞き取りにくかったこともあって、当初、単語 "a" は生放送を視聴していた人の大多数には伝わっていなかった。のちにこの名文句について尋ねられたとき、アームストロングは "for a man" と言ったと思っていたと述べており、後年発行されたこの句の活字版には、角括弧付きで "a" が含められていた。ある解釈では、 "a" は欠落していたと主張され、彼は訛りによって "for a" の2単語を連続して不明瞭に発音したのだと説明されている。別の解釈では、パークス天文台付近の嵐をその一因とし、地球につないだ映像と音声の断続的性質で "a" の欠落を説明している。より最近のテープ音声のデジタル解析では、 "a" は発言されたかもしれないが、空電{{efn2|空電とは、雷などの大気中の放電によって生じる電磁波で、ラジオなどの受信機の雑音の原因となる。}}のせいでよく聞き取れなかったことが明らかになったと主張されている<ref>{{snopes | link = http://www.snopes.com/quotes/onesmall.asp | title = One Small Step}}</ref><ref>{{Cite news |title=Armstrong 'got Moon quote right' |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/5398560.stm |date=October 2, 2006 |publisher=[[BBC News]] |location=London |accessdate=June 13, 2013}}</ref><ref>{{cite news |title=Armstrong's 'poetic' slip on Moon |first=Pallab |last=Ghosh |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/8081817.stm |date=June 3, 2009 |publisher=BBC News |location=London |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。
月面に足を踏み入れてからおよそ7分後、アームストロングは細長い棒で土壌サンプルを採取して試料袋に詰め、袋を畳み、右腿のポケットに押し込んだ。これは、万が一緊急時に飛行士たちが船外活動を断念して着陸船に戻らなければならなくなった場合でも、多少なりとも月の土壌を地球に持ち帰れるよう保証するための作戦行動(緊急採集{{sfn|毎日新聞社|1969|pp=132-133}})だった<ref>{{cite web |url=http://curator.jsc.nasa.gov/lunar/lsc/10010.pdf |title=Lunar Sample Compendium: Contingency Soil (10010) |last=Meyer |first=Charles |date=2009 |work=Astromaterials Research & Exploration Science |publisher=NASA |format=PDF |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。土壌サンプルの採取が完了して12分後{{sfn|Orloff|2000|p=108}}、アームストロングはMESAからテレビカメラを取り外し、月面のパノラマ映像を撮影してから、三脚の上にカメラを載せた<ref name="ALSJ 3" />。テレビカメラのケーブルには一部に巻きつけられていたときの癖が残っていたため、船外活動中はずっと、それが螺旋状に曲がりくねったところに足を引っかけてつまづくおそれがあった。さらに、[[ハッセルブラッド]]製カメラを手に持ったり、アームストロングの宇宙服({{仮リンク|アポロ/スカイラブ A7L|en|Apollo/Skylab A7L}})にかけたりして、月面の写真撮影が遂行された{{sfn|Manned Spacecraft Center|1969|p=23}}。追ってオルドリンがアームストロングに続いて月面に降り立ち、月面の風景について、簡潔な言い方で "magnificent desolation" (荘厳なる荒涼)と表現した<ref name="ALSJ 4" />。
アームストロングは、地球の6分の1しかない[[月の重力場|月の重力]]の中を移動するのは「ひょっとしたら地上での模擬訓練よりもよほど簡単かもしれない……歩き回るのにまったく何の問題もない」と述べた<ref name="ALSJ 4"/>。そこにオルドリンも加わって、両足で踏み切るカンガルー跳びなど、さまざまな歩き方を試した。すると、背中に生命維持装置を背負っているために上体が後ろに反る傾向はあるものの、バランスを取るには大した問題もなく、慣れてくると、むしろ大股で歩くのがよいことが分かった。ただし、移動する際は常に6、7歩先のことを予想して歩く必要があったり、粒の細かい土の部分はかなり滑りやすかったりしたので、注意を要した。また、太陽の照っているところから「イーグル」の影に入ったときには、宇宙服の中の温度はまったく変化がなかったが、ヘルメットの内部は日光で温められていたため、影に入ると冷たく感じられたとオルドリンは報告した<ref name="ALSJ 4"/>。MESAは安定した作業環境を提供することができず、また「イーグル」の影に隠れていたため、作業はいくぶん遅れることになった。2人が作業しているうちに月面を歩いたことで、灰色の砂埃が巻き上げられ、宇宙服の外皮を汚してしまった{{sfn|Manned Spacecraft Center|1969|p=23}}。
[[File:Buzz salutes the U.S. Flag.jpg|thumb|left|月面に立てた星条旗に敬礼するオルドリン]]
2人は[[アメリカ合衆国の国旗]]を含む{{仮リンク|ルナ・フラッグ・アセンブリ|en|Lunar Flag Assembly|label=一組の旗}}を月面上のテレビカメラにはっきりと写るところに立てた。オルドリンはこのときを思い出して「私が月面でしなければならなかったすべての仕事のうち、もっとも順調に運びたかったことは国旗の掲揚でした」と語った<ref name="theattic">{{cite web |title=A Flag on the Moon |url=https://www.theattic.space/home-page-blogs/2018/9/27/4j6861bez3j568c31rzj7lynevmtpt |website=The Attic |accessdate=October 1, 2018}}</ref>。ところが、繰り出し式の伸縮する棒<!-- 伸縮する三脚の脚のような感じのもの -->が月面に刺す際に縮んでしまうことに悪戦苦闘し、旗竿は固い月の表面に2インチ(5センチ)ほどしか押しつけられなかった。オルドリンはテレビの視聴者の目の前で旗が倒れてしまいやしないかと心配しながらも、旗に向かってウエストポイント(陸軍士官学校)式の敬礼を行った<ref name="theattic" />。そして、オルドリンが星条旗とアームストロングを被写体にした写真を撮るはずだった次の瞬間に、電話無線伝送を通じてリチャード・ニクソン大統領が飛行士たちに話しかけてきた。のちにニクソンはこの交信を「かつてホワイトハウスからかけられた中でももっとも歴史的な通話」と呼んだ<ref>{{cite web |url=https://www.archives.gov/exhibits/american_originals/apollo11.html |title=Exhibit: Apollo 11 and Nixon |date=March 1996 |work=American Originals |publisher=[[National Archives and Records Administration]] |location=Washington, D.C. |accessdate=April 13, 2008}}</ref>。ニクソンは当初、通話中に読み上げる長い演説文を用意していたが、当時NASAの連絡担当官でホワイトハウスにいたフランク・ボーマンは通話を手短に済ませるよう大統領を説得した{{sfn|Borman|Serling|1988|pp=237–238}}。
{{quote|'''ニクソン:''' やあ、ニール、バズ。私はホワイトハウスの執務室から電話で君たちに話しかけています。そして、これはきっとこれまでにかけられた中でもっとも歴史的な通話になることでしょう。君たちの成し遂げたことがどれほど私たち皆の誇りに思うことか、言葉では言い表せないほどです。すべてのアメリカ人にとって、今日は生涯でもっとも誇るべき日となることでしょう。そして、世界中の人々もアメリカ国民とともに、これが何と素晴らしい偉業であることかを認めるだろうと私は確信しています。君たちが成し遂げたことで、天空は人間世界の一部となりました。そして、君たちが静かの海から私たちに呼びかけてくれたことで、私たちは地球に平和と静寂をもたらす努力をさらに強くしなくてはならないと奮い立たされます。全人類史の中でかけがえのないこの一瞬に、この地球上のすべての人々は真に一体となります。ひとつには、君たちが成し遂げたことに対する誇り、そしてひとつには、君たちが無事地球に帰還するようにとの祈りであります。
'''アームストロング:''' ありがとうございます、大統領閣下。合衆国のみならず、平和を愛するすべての国の人々、そして興味や好奇心、未来への展望を持つ人々を代表して、私たちがここにいることは誠に光栄かつ名誉なことです。今日ここにいられることを光栄に存じます。<ref>{{cite web |url=https://www.presidency.ucsb.edu/documents/telephone-conversation-with-the-apollo-11-astronauts-the-moon |title=Richard Nixon: Telephone Conversation With the Apollo 11 Astronauts on the Moon |publisher=UC Santa Barbara |work=The American Presidency Project |access-date=October 26, 2018}}</ref>|||}}
[[File:Apollo 11 bootprint.jpg|thumb|right|月の[[レゴリス]]の特性を調べる実験の一環で付けられたオルドリンの靴跡]]
二人の飛行士は、[[月震]]を観測する受動型地震計実験装置(PSEP)と[[月レーザー測距実験]]用の[[リトロリフレクター|再帰反射器]](LRRR)を含む、[[アポロ月面実験パッケージ|初期アポロ科学実験パッケージ]](EASEP)を展開した<ref name="EASEP Deployment and Closeout" />。その際、オルドリンが2本の{{仮リンク|コアサンプル|en|Core sample}}を集めている間に、アームストロングは着陸船から196フィート(60メートル)歩いて、{{仮リンク|リトルウェスト (月のクレーター)|en|Little West (lunar crater)|label=リトル・ウェスト・クレーター}}の周縁部でスナップ写真を撮った。アームストロングは[[岩石ハンマー]]を使用してコアサンプル採取用のチューブを打った。アポロ11号でハンマーが使われたのはこのときだけだったが、6インチ(15センチ)よりも深く貫通させることはできなかった。2人はスコップや伸張式の鋏を使って岩石試料を採集した。月面での活動の多くは想定よりも長引いたため、2人は割り当てられていた34分間の活動時間の中ごろで、採集した試料について文書に記載する手を止めなくてはならなかった。荷崩れしないように、オルドリンは採集した岩石を入れた箱に6キログラム(13ポンド)の土をシャベルですくって入れた{{sfn|Harland|1999|pp=28–29}}。採集された地質試料には[[玄武岩]]と[[角礫岩]]の2種類の岩石が含まれていたことがわかった<ref>{{cite web|url=https://www.lpi.usra.edu/lunar/missions/apollo/apollo_11/samples/|title=Lunar Sample Overview|publisher=Lunar and Planetary Institute|access-date=December 28, 2018}}</ref>。また、採集した岩石試料からは、新種の鉱物として[[アーマルコライト]]、[[トランキリティアイト]]、{{仮リンク|パイロクスフェロアイト|en|Pyroxferroite}}の3種が発見された。このうち、アーマルコライト(Armalcolite)はアームストロング(Arm)、オルドリン(al)、コリンズ(col)の3名の宇宙飛行士の名にちなんでいる。これらの鉱物はすべて、のちに地球上でも見つかっている<ref>{{cite web |url=https://www.sciencedaily.com/releases/2012/01/120115223636.htm |title=Moon-walk mineral discovered in Western Australia |publisher=ScienceDaily |author=University of Western Australia |date=January 17, 2012 |access-date=September 24, 2018}}</ref>。
ミッション管制センターは暗号的な言葉を使用して、アームストロングに代謝率が高めであることを警告し、作業のペースを落とすように伝えた。彼は時間切れになるまで月面を素早く移動しては次から次へと任務をこなしていた。月面を歩行している間は、2人の飛行士の代謝率はおおむね予想されていた値よりも低かったため、管制センターは両飛行士に15分間の活動延長を許可した<ref name="EASEP Deployment and Closeout">{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.clsout.html |title=EASEP Deployment and Closeout |editor-last=Jones |editor-first=Eric M. |date=1995 |work=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=June 13, 2013}}</ref>{{sfn|毎日新聞社|1969|p=144}}。2010年のインタビューで、アームストロングは、当時NASAが最初の月面歩行の時間と距離に制限をかけていたことを明かした。その理由は、月面で作業する間に飛行士たちの発する熱を下げるために、背中に備えられた生命維持装置がどの程度の量の冷却水を消費するかについて、経験に基づく裏付けが取れていなかったことによるものだった<ref>{{cite web |url=http://www.space.com/10469-neil-armstrong-explains-famous-apollo-11-moonwalk.html |title=Neil Armstrong Explains His Famous Apollo 11 Moonwalk |date=December 10, 2010 |work=space.com |publisher=TechMediaNetwork, Inc. |location=New York |accessdate=May 25, 2013}}</ref>。
=== 月からの上昇 ===
予定されていた船外活動をすべて消化すると、まずオルドリンが先に「イーグル」に戻った。採集した岩石や撮影したフィルムなどを収めた箱は重量が21.55キログラム(47.5ポンド)に上り、月装備運搬装置(Lunar Equipment Conveyor、LEC)と呼ばれるフラットケーブル滑車装置で引っぱり上げたが、ハッチから船内に入れるのには若干苦労した。この方法は効率的でないことが証明されたため、後継のミッションでは機材や試料は手で持って船に荷揚げするようになった<ref name="ALSJ 3" />。アームストロングは宇宙服の袖のポケットに入っている記念品の袋を月面に残すのを忘れないようにとオルドリンに念を押し、オルドリンは月面に袋を放り投げた{{sfn|ハンセン|2007|p=321}}。それから、アームストロングははしごの3段目まで一気にジャンプして飛び乗り、はしごを上って船内に入った。船内の生命維持システムに移ったあと、月周回軌道まで帰るための「イーグル」上昇段の明かりをつけ、宇宙服の船外活動用生命維持装置、月面靴、空のハッセルブラッド製カメラなど、不要になった機材を放り捨てて、21日05:01にハッチを閉め、船内を与圧し、2人はようやく月面で初めての睡眠についた<ref name="ALSJ 6">{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.posteva.html |title=Trying to Rest |editor-last=Jones |editor-first=Eric M. |date=1995 |work=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。
[[File:Aldrin Looks Back at Tranquility Base - GPN-2000-001102.jpg|thumb|受動型地震計実験装置(写真中央)の隣に立つオルドリン(同左)と「イーグル」(同右奥)]]
ニクソン大統領のスピーチライターだった[[ウィリアム・サファイア]]は、最悪の事態として、万一アポロ11号の宇宙飛行士たちが月で遭難した場合を想定して、大統領がテレビ演説で読み上げる''In Event of Moon Disaster'' (月で災難の場合)と題した追悼文を用意していた<ref>{{cite web |url=http://www.thesmokinggun.com/documents/crime/white-house-lost-space-scenarios |title=White House 'Lost In Space' Scenarios |date=August 8, 2005 |work=The Smoking Gun |location=New York |accessdate=May 25, 2013}} Scanned copy of the "In Event of Moon Disaster" memo.</ref>。その不測の事態に対応するための計画は、セイファイアからニクソンの[[アメリカ合衆国大統領首席補佐官|大統領首席補佐官]]だった[[ハリー・ロビンス・ハルデマン|H・R・ハルデマン]]に渡されたメモが発端だった。そのメモには、もしアポロ11号が不慮の事態に見舞われ、ニクソン政権がそれに対する反応を求められるかもしれなかった状況を想定して、セイファイアが作成した追悼の言葉の原案が示されていた<ref>{{cite news |title=The Story of a Tragedy That Was Not to Be |first=Jim |last=Mann |url=http://articles.latimes.com/1999/jul/07/news/mn-53678 |work=[[Los Angeles Times]] |date=July 7, 1999 |accessdate=May 25, 2013}}</ref><ref name="safire">{{cite news |title=Essay; Disaster Never Came |first=William |last=Safire |url=https://www.nytimes.com/1999/07/12/opinion/essay-disaster-never-came.html |work=[[The New York Times]] |date=July 12, 1999 |accessdate=May 25, 2013}}</ref>。その計画によれば、ミッション管制センターが月着陸船との「交信を絶つ」と、聖職者が[[海葬]]になぞらえた公的儀式で「彼らの魂を深い淵の底に委ねる」手はずだった。用意された原稿の最後の一行では、[[ルパート・ブルック]]が第一次世界大戦期に詠んだ詩『{{仮リンク|兵士 (詩)|en|The Soldier (poem)|label=兵士}}』にそれとなく言及している<ref name="safire"/>。
オルドリンは船内で作業しているとき、月面から離陸するために使用する上昇用エンジンを作動させる[[遮断器|回路ブレーカー]]のスイッチを誤って壊してしまった。このことで、船のエンジンの点火が妨げられ、彼らは月面に取り残されてしまう懸念があった。幸いにも、フェルトペンの先でスイッチを作動させることができたが、もしもそれがうまくいかなければ、上昇用エンジンを点火するために着陸船の電気回路は構成し直されていたかもしれなかった<ref name="ALSJ 6" />。
21時間半以上を月面で過ごした2人は、科学観測機器のほか、1967年1月に訓練中の火災事故で犠牲になった3名の飛行士([[ロジャー・チャフィー]]、[[ガス・グリソム]]、[[エドワード・ホワイト]])を追悼して[[アポロ1号]]のミッションパッチを、また古くから平和の象徴とされてきたオリーブの枝を模した金のレプリカの入った記念袋を、そして地球からのメッセージを収めたシリコンディスクを月面に残してきた。ディスクには、アメリカのアイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソンの歴代大統領からの{{仮リンク|アポロ11号の親善メッセージ|en|Apollo 11 goodwill messages|label=親善声明文}}や世界73か国の指導者たちから寄せられたメッセージが収録されていたほか、アメリカ合衆国議会の代表者たち、NASAの設立に尽力した上下両院の4つの委員会のメンバー、および[[NASA長官|NASAの歴代長官]]の名前の一覧も記録されていた<ref>{{cite press release |title=Apollo 11 Goodwill Messages |date=July 13, 1969 |publisher=NASA |location=Washington, D.C. |url=https://history.nasa.gov/ap11-35ann/goodwill/Apollo_11_material.pdf |format=PDF |id=Release No: 69-83F |accessdate=June 14, 2013}}</ref>。
[[File:Apollo 11 photo map.svg|thumb|right|着陸地点と写真の撮影場所を示した地図]]
およそ7時間の睡眠ののち、アームストロングとオルドリンはヒューストンからの目覚ましによって起こされ、帰還飛行の準備を始めるよう指示された。2時間半後の21日17:54:00(UTC)に2人は「イーグル」の上昇段エンジンを点火して月を離陸し、コリンズが搭乗している月周回軌道上の司令船「コロンビア」を目指した{{sfn|Orloff|2000|p=108}}。月面離陸時に「イーグル」の上昇段から撮影された映像には、月面に残された下降段から25フィート(8メートル)ほど離れた場所に立てられた星条旗が、上昇段エンジンの噴射で激しくはためく様子がとらえられていた。オルドリンはちょうど旗がぐらついて倒れるのを目撃し、「上昇を始めたとき、私はコンピュータの操作に集中し、ニールは[[姿勢指示器]]を注視していたが、私は旗が倒れるのを長い間見ていられた」と報告した{{sfn|Collins|Aldrin|1975|p=219}}。そのため、以後のアポロミッションでは、上昇段エンジンの噴射で吹き飛ばされることのないように、星条旗は着陸船から離れた位置に立てられることになった<ref>{{cite news |newspaper=The Daily Telegraph |url=https://www.telegraph.co.uk/news/science/space/9439047/American-flags-still-standing-on-the-Moon-say-scientists.html |date=June 30, 2012 |title=American flags still standing on the Moon, say scientists |access-date=September 24, 2018}}</ref>。
=== 月軌道上の「コロンビア」 ===
単独で月を周回する飛行を続けていた間、コリンズはまったく寂しさを感じることはなかった。「[[アダム]]以来、そのような孤独を知る者はいない」といわれているが{{sfn|Collins|2001|p=402}}、コリンズはそれを使命の一部だと強く感じていた。コリンズは自叙伝の中で、「この冒険は3人の男で構成されたものであり、3番手の私も、ほかの2人のいずれかと同様になくてはならないものなのだと思う」と記している{{sfn|Collins|2001|p=402}}。月を周回する「コロンビア」が月の裏側を飛行して、地球との無線連絡ができない48分間の間にコリンズが感じたのは、不安でも孤独でもなく、むしろ「意識、予感、満足、自信、歓喜に近い感覚」であったと綴っている{{sfn|Collins|2001|p=402}}。
コリンズの最初の任務のひとつに、月面上の月着陸船の位置を特定することがあった。どこを探せばよいかの見当をつけるために、ミッション管制センターはコリンズに月着陸船は目標地点から4マイル(6.4キロ)ほど離れた辺りに着陸したようだと無線で伝えた。コリンズは着陸地点と思しき辺りの上空を通過するたびに月着陸船を見つけようとしたが、不可能だった。初めて月の裏側を飛んだとき、コリンズは[[燃料電池]]によって生成された余分な水を捨てたり、アームストロングとオルドリンの帰りを迎えるために船室を整理整頓するなど、船内の環境整備活動を行った{{sfn|Collins|2001|pp=401–407}}。
3周目の周回で月の裏側に入る直前に、ミッション管制センターはコリンズに冷却液の温度に問題があると知らせた。冷却しすぎるようなことがあれば、「コロンビア」の部品が凍結してしまうかもしれなかった。ミッション管制センターは、手動制御に切り替えたうえで、環境制御システム故障時の手順17(Environmental Control System Malfunction Procedure 17)を実施するよう、コリンズに助言した。ところが、コリンズはその代わりとして、問題を引き起こしているシステムのスイッチを自動から手動に入れて、また自動に戻し、冷却剤の温度を注視しながらも、日課となっていた通常の管理保全作業を続行した。「コロンビア」が再び月の表側に出たときには、問題は解決したと報告することができた。それから次の2、3周は、月の裏側で過ごす時間が「ほっとする」("relaxing")時間だったとコリンズは記している。アームストロングとオルドリンがすべての船外活動を終えてからは、コリンズは来たるべきランデブーに備えて睡眠休憩をとることができた。「コロンビア」が「イーグル」を迎え入れる飛行計画に応じて、コリンズは一定の不測の事態に備えて「コロンビア」を「イーグル」のところまで降下させられるような準備ができていた{{sfn|Collins|2001|pp=406–408, 410}}。
=== 帰還 ===
[[File:Apollo 11 lunar module.jpg|thumb|right|司令船「コロンビア」に接近してくる「イーグル」の上昇段]]
7月21日21:24(UTC)に「イーグル」は「コロンビア」とランデブーし、21:35に2機はドッキングした。「イーグル」の上昇段は23:41に月周回軌道に投棄された{{sfn|Orloff|2000|p=109}}。[[アポロ12号]]の飛行の直前には、「イーグル」は依然として軌道上に留まっているようであることが確認されたが、のちに出されたNASAの報告書には、「イーグル」は軌道が次第に減衰した結果、月面の「不確かな場所」("uncertain location")に衝突したのだろうと記されている<ref>{{cite web |url=http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/lunar/apollo_tables.html |title=Apollo Tables |last=Williams |first=David R. |work=[[National Space Science Data Center]] |publisher=NASA |accessdate=September 23, 2006 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061001125211/http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/lunar/apollo_tables.html |archivedate=October 1, 2006}}</ref>。
7月22日04:56(UTC)にアポロ11号は機械船の推進エンジンを2分半噴射して{{sfn|ハンセン|2007|p=362}}月周回軌道を離れ{{sfn|毎日新聞社|1969|p=160}}、同日05:30(UTC)に月の裏側で地球帰還軌道に乗り ({{仮リンク|地球帰還軌道投入|en|Trans-Earth injection|label=TEI}}){{sfn|毎日新聞社|1969|p=173}}、地球への帰路に就いた。
7月23日、着水前の最後の夜に、3名の宇宙飛行士はテレビ放送で次のようにコメントした{{sfn|アームストロング|コリンズ|オルドリンJr.|1973|pp=385-387}}。最初にコリンズが、
{{quote|……我々を軌道に乗せたサターンV型ロケットは信じられないほど複雑な機械ですが、すべての部品は完璧に動作してくれました……我々は常に、この装置が正しく作動してくれることを確信していました。これはすべて、多くの人々が流した血と汗と涙によってのみ、可能になったことです……今皆様が目にしているのは私たち3人だけですが、水面下では何千、何万もの人たちによって支えられているのです。そして私は、それらすべての人々に申し上げたいです。「心からありがとう」と。{{sfn|Collins|Aldrin|1975|p=222}}}}
と述べ{{sfn|ハンセン|2007|pp=365-366}}、続いてオルドリンが、
{{quote|この飛行は、月に送られる使命を帯びた3人の男の奮闘以上に、政府と企業のチームの努力にとどまらず、さらには一国のすべての国民の努力さえも超えて、非常に大勢の方々のご尽力によって成し遂げられました。これは、未知なるものを探求する全人類の飽くなき好奇心を象徴しているのだと、私たちは感じています……個人的には、ここ数日のあの月での出来事を回想するとき、聖歌の一節が心に浮かんで参ります。《私はあなたの指の業なる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これを御心にとめられるのですか》{{sfn|Collins|Aldrin|1975|p=222}}<ref>{{Bibleverse|Psalm|8:3–4|KJV}}</ref>}}
と加え{{sfn|ハンセン|2007|p=367}}、最後にアームストロングが、
{{quote|この飛行に対して責任を担ってきたのは、まず第一に、この取り組みに先立つ科学の歴史とそれを築き上げてきた偉人たち、次いで、自らの意思を通じてこれを成し遂げたいという願いを表明したアメリカ国民、そして、国民の意思に従い、それを履行した四代にわたる政権と連邦議会、さらに、我々の宇宙船やサターンロケット、司令船「コロンビア」、月着陸船「イーグル」、そして月面における小さな宇宙船とも言うべき宇宙服と生命維持装置、{{仮リンク|船外活動ユニット|en|Extravehicular Mobility Unit}}などを作り上げた政府機関や企業のチームなどです。我々は、この宇宙船を設計し、建造し、試験し、飛行させるために心血を注ぎ、持てる限りの能力を発揮してくれたすべてのアメリカ人に対し、特別の感謝を捧げたく存じます。我々は今夜、それらの方々に対して特別の感謝の言葉を申し上げるとともに、今夜この放送を見聞きしている人々に神の祝福があらんことを祈ります。アポロ11号より、おやすみなさい。{{sfn|Collins|Aldrin|1975|p=222}} }}
と締めくくった{{sfn|ハンセン|2007|p=368}}。
地球への帰還に際して、グアムの追跡基地で装置の軸受が故障したことで、もしかすると地球帰還時の連絡に関して最後の一部分の受信が妨げられていた可能性があった。定期的な修復作業では与えられた時間内に作業を終えるのは不可能だったが、基地の主任だったチャールズ・フォースには10歳になる息子グレッグがいて、軸受箱の中にその小さな手を入れてグリスを塗ってもらって急場をしのいだ。お手柄のグレッグはのちにアームストロングから感謝された<ref>{{cite news |title=The 10-year-old who helped Apollo 11, 40 years later |last=Rodriguez |first=Rachel |url=https://edition.cnn.com/2009/TECH/space/07/20/apollo11.irpt/index.html |work=CNN |date=July 20, 2009 |accessdate=January 10, 2011}}</ref>。
=== 着水と検疫 ===
[[File:Splashdown 3.jpg|thumb|洋上に浮かぶコロンビア号と飛行士たちの下船を助ける海軍のダイバーら]]
6月5日、{{仮リンク|カール・J・セイバーリック|en|Carl J. Seiberlich}}大佐指揮下の[[航空母艦]][[ホーネット (CV-12)|ホーネット]]が、5月26日にアポロ10号を回収した姉妹艦の[[ヘリコプター揚陸艦]][[プリンストン (CV-37)|プリンストン]]に代わって、アポロ11号の主回収船(primary recovery ship、PRS)に選ばれた。当時、ホーネットは母港であるカリフォルニア州[[ロングビーチ (カリフォルニア州)|ロングビーチ]]にあった。7月5日に[[真珠湾]]に到着したホーネットは、アポロ宇宙船の回収任務を専門とする[[第4ヘリコプター海上戦闘飛行隊 (アメリカ海軍)|HS-4]]の[[SH-3 シーキング]]数機、{{仮リンク|水中爆破班|en|Underwater Demolition Team}}アポロ特派部隊(UDT Detachment Apollo)の専門ダイバーたち、NASAの回収班35人およびメディア関係者約120人を乗船させた。空間を確保するため、ホーネットの艦載機の多くはロングビーチに残してきていた。訓練用の{{仮リンク|ボイラープレート (宇宙船)|en|Boilerplate (spaceflight)|label=ボイラープレート}}(ダミーの宇宙船)を含む、特殊な回収用機材も積み込まれた{{sfn|Carmichael|2010|pp=38–43, 71–72}}。
7月12日、アポロ11号がまだ発射台にあったころにホーネットは中部太平洋の回収海域({{Coord|10|36|N|172|24|E|display=inline}}付近<ref>{{cite web |url=https://history.nasa.gov/alsj/a11/A11_PressKit.pdf |title=Press Kit – Apollo 11 Lunar Landing Mission |publisher=NASA |p=57 |date=July 6, 1969 |access-date=October 11, 2018 }}</ref>)に向けて真珠湾を出港した{{sfn|Carmichael|2010|p=85}}。ニクソン大統領、ボーマン連絡担当官、{{仮リンク|ウィリアム・P・ロジャース|en|William P. Rogers}}[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]、[[ヘンリー・キッシンジャー]][[国家安全保障問題担当大統領補佐官|国家安全保障担当補佐官]]からなる大統領一行は、[[エアフォースワン]]で[[ジョンストン島|ジョンストン環礁]]まで飛び、そこで[[指揮艦]][[サイパン (空母)|アーリントン]]艦上の[[マリーンワン]]に乗り込んだ。大統領一行は艦上で一夜を過ごしたあと、数時間の式典のためにマリーンワンでホーネットまで飛んだ。ホーネット艦上に到着すると、大統領一行は、ホーネットの艦上輸送機で[[パゴパゴ (アメリカ領サモア)|パゴパゴ]]から飛来していた[[アメリカインド太平洋軍|アメリカ太平洋軍]]最高司令官の[[ジョン・S・マケイン・ジュニア]]大将と[[NASA長官]]の{{仮リンク|トマス・O・ペイン|en|Thomas O. Paine}}からあいさつを受けた{{sfn|Carmichael|2010|pp=107–108, 145–146}}。
当時、気象衛星はまだ一般的なものではなかったが、アメリカ空軍のハンク・ブランドリ大尉は最高機密である偵察衛星の画像にアクセスすることができた{{sfn|ハンセン|2007|pp=368-369}}。その衛星画像から暴風雨前線がアポロ宇宙船の回収海域に向かっていることが分かった。視界不良はこのミッションにとって深刻な脅威であった。もしヘリコプターが「コロンビア」の位置を特定できなければ、宇宙船と搭乗員、および月の石などの貴重な貨物が失われてしまうおそれがあった。ブランドリは、要保全許可{{efn2|機密情報の取扱許可}}(required security clearance)を有していた真珠湾の[[合同台風警報センター|艦隊気象センター]]の司令官、海軍のウィラード・S・ヒューストン・ジュニア大将に警報を発した。彼らの勧告に基づき、太平洋・有人宇宙船回収部隊(Manned Spaceflight Recovery Forces, Pacific)の司令官、{{仮リンク|ドナルド・C・デイヴィス|en|Donald C. Davis}}少将はNASAに回収海域を変更するよう忠告した{{sfn|ハンセン|2007|p=369}}。これにより、新たな回収海域が指定され{{sfn|Carmichael|2010|pp=136–137, 144–145}}、元の回収海域から北東に215海里(398キロメートル)の辺りで回収されることになった<ref name="ALSJ Re-entry" />。
回収海域の変更は飛行計画にも影響を及ぼした。異なるシーケンスのコンピュータ・プログラムが使用されていたが、その1つは以前に試用されたことがなかった。従来の入力では、P64の次にP67が続いていたが、スキップアウトされた部分の再入力は、P65を用いて一旦終了したうえで、P66でスキップ部分を入力する方法が採られていた。この場合、それらは再入力部を展開していたが、実際にはスキップアウトしていなかったため、P66は呼び出されず、代わりにP65が直接P67を導いた。搭乗員も、P67を入力した場合、フルリフト(頭が下になる)姿勢にならないとの警告を受けていた<ref name="ALSJ Re-entry">{{cite web |url=https://history.nasa.gov/afj/ap11fj/26day9-reentry.html |work=Apollo 11 Flight Journal |title=Day 9: Re-entry and Splashdown |publisher=NASA |editor-first1=W. David |editor-last1=Woods |editor-first2=Kenneth D. |editor-last2=MacTaggart |editor-first3=Frank |editor-last3=O'Brien |access-date=September 27, 2018}}</ref>。飛行士たちは最初のプログラムの指令で{{convert2|6.5|g0}}の加速度を受け、2番目のプログラムで{{convert2|6.0|g0}}の加速度を体感させられることとなった{{sfn| Manned Spacecraft Center|1969|p=28}}。
7月24日の夜明け前、ホーネットから4機のシーキング・ヘリコプターと3機の艦上早期警戒機[[E-1 (航空機)|E-1]]が発進した。うち2機のE-1は "air boss"(空中指揮機)に指定され、3機目は通信中継機として行動した。2機のシーキングはダイバーたちと回収用機材を輸送した。3機目は写真撮影機材を、4機目は除染を担当するスイマーと航空医官を、それぞれ輸送した{{sfn|Manned Spacecraft Center|1969|pp=169–170}}。16:44(UTC、現地時間05:44)に「コロンビア」の{{仮リンク|減速用パラシュート|en|Drogue parachute}}が開いたのをヘリコプターが確認した。7分後に「コロンビア」は船体を力強く水面に叩きつけられ、[[ウェーク島]]の東方2,660キロ(1,440海里)、ジョンストン環礁の南方380キロ(210海里)、ホーネットからの距離わずか24キロ(13海里)の地点({{Coord|13|19|N|169|9|W|display=inline}}{{sfn| Manned Spacecraft Center|1969|p=170}})に着水した<!-- 無出典の記述(現在、出典元を探しています!ご存じの方は出典の追加にご協力願います):このとき、[[日本航空]]の国際線旅客機の運行乗務員が、[[ミッドウェー諸島]]付近にて大気圏内を2000km/hで落下中のアポロ11号を目撃した。撮影に夢中で、客室への放送は忘れたという。 -->{{sfn|Orloff|2000|p=109}}<ref name="ALSJ Re-entry" />。[[着水]]{{enlink|splashdown}}時に「コロンビア」は上下逆さまに落下したが、飛行士たちが作動させた浮力袋によって10分以内に立て直された{{sfn| Manned Spacecraft Center|1969|pp=164–167}}。上空でホバリングする海軍のヘリコプターから下りてきたダイバーが、船が漂流することのないように「コロンビア」に[[海錨]]を取りつけた{{sfn|Carmichael|2010|pp=184–185}}。別のダイバーらは船を安定させるために「コロンビア」に浮揚環管を取りつけ、宇宙飛行士たちを下船させるためのボートを船の横につけた{{sfn|Carmichael|2010|pp=186–188}}。
[[File:President Nixon welcomes the Apollo 11 astronauts aboard the U.S.S. Hornet.jpg|thumb|left|地球に帰還した後、[[検疫]]のために隔離施設に収容されるアポロ11号の搭乗員と、彼らを訪問するニクソン大統領]]
ダイバーらは宇宙飛行士たちに生物隔離服(biological isolation garment、BIG)を渡し、救命ボートに乗るのを補助した。月面から[[病原体]]を持ち帰る可能性はごくわずかだと考えられたが、NASAは念のため回収現場で予防措置をとった。宇宙飛行士たちは[[次亜塩素酸ナトリウム]]製剤を使用して身体を擦り拭かれ、「コロンビア」は船体に付着しているかもしれない月の塵を[[ポビドンヨード|ベタダイン]]を使って拭き取られた。宇宙飛行士たちはウインチで引き揚げられ、回収ヘリコプターに乗せられた。ホーネット艦上の隔離施設に到着するまでの間、宇宙飛行士たちは生物隔離服を着用させられた。除染物質を積んだボートは故意に沈められた{{sfn| Manned Spacecraft Center|1969|pp=164–167}}。
ヘリコプターは17:53(UTC)にホーネット艦上に着地したあと、そのままエレベーターで格納庫へと下ろされ、そこで宇宙飛行士たちは{{仮リンク|移動式隔離施設|en|Mobile Quarantine Facility}}(Mobile Quarantine Facility、MQF)まで30フィート(9.1メートル)歩いて施設内に入り、地球ベースで21日分の[[検疫]]期間が開始されることになった{{sfn|Carmichael|2010|pp=199–200}}。この措置は、後続のアポロ12号と[[アポロ14号]]の2つのミッションでも実施されたが、のちに月に生命が存在しないことが証明されると、検疫措置は取りやめになった<ref>{{cite web |url=http://airandspace.si.edu/exhibitions/apollo-to-the-moon/online/a11.jh.3.html |archive-url=https://archive.is/20130815101507/http://airandspace.si.edu/exhibitions/apollo-to-the-moon/online/a11.jh.3.html |dead-url=yes |archive-date=August 15, 2013 |title=After Splashdown |date=July 1999 |work=Apollo to the Moon |publisher=National Air and Space Museum |location=Washington, D.C. |accessdate=August 15, 2013}}</ref>。ニクソン大統領は地球に帰還した宇宙飛行士たちを歓迎し、「君たちが成し遂げたことのおかげで、世界はこれまでになく一層親密になった」と伝えた<ref>{{cite web |url=https://www.presidency.ucsb.edu/documents/remarks-apollo-11-astronauts-aboard-the-uss-hornet-following-completion-their-lunar |access-date=November 19, 2018 |title=Remarks to Apollo 11 Astronauts Aboard the U.S.S. Hornet Following Completion of Their Lunar Mission |work=The American Presidency Project |publisher=UC Santa Barbara|date=July 24, 1969}}</ref>。
ニクソンが出発したあと、ホーネットは重量5米トン(4.5トン)の「コロンビア」に近づいて舷側に寄せ、艦のクレーンを使って船を引き揚げ、{{仮リンク|ドリー (トレーラー)|en|Dolly (trailer)|label=台車}}に載せてMQFの隣まで運び込んだ。そして、「コロンビア」は伸縮可能なトンネルでMQFと接続され、月試料、フィルム、データテープおよびその他の積み荷が取り出された。ホーネットが真珠湾に帰港すると、そこでMQFは[[C-141 (航空機)|C-141]]に載せられて有人宇宙船センターまで空輸された。7月28日10:00(UTC)に宇宙飛行士たちは[[月試料研究所|月試料受入研究所]](Lunar Receiving Laboratory)に到着した。一方、「コロンビア」は不活性化のために[[フォード島]]に運ばれ、火工品類が安全に処理された。その後、[[ヒッカム空軍基地]]に運ばれ、そこから[[C-133 (航空機)|C-133]]でヒューストンに空輸されて7月30日に月試料受入研究所に到着した{{sfn| Manned Spacecraft Center|1969|pp=166, 171–173}}。
7月16日にNASAが発布した一連の規定<ref>Extra-Terrestrial Exposure, 34 [[連邦官報|Fed. Reg.]] 11975 (July 16, 1969), ''codified at'' [[連邦航空規定|14 C.F.R.]] pt. [https://books.google.com/books?id=7rU5AAAAIAAJ&pg=PA94 1200]</ref>、{{仮リンク|地球外暴露法|en|Extra-Terrestrial Exposure Law}}に従い、検疫試験計画が成文化され、宇宙飛行士たちの検疫が続けられた。しかし、3週間の隔離(まず最初にアポロ宇宙船内で、次にホーネット艦上のMQF内で、最後に有人宇宙船センターの月試料受入研究所内で)を経て、宇宙飛行士たちに完全健康証明書が与えられた<ref>{{cite web |url=http://www.nasaexplores.com/extras/apollo11/hirasaki.html |archive-url=https://archive.is/20060319184027/http://www.nasaexplores.com/extras/apollo11/hirasaki.html |dead-url=yes |archive-date=March 19, 2006 |title=A Front Row Seat For History |date=July 15, 2004 |work=NASAexplores |publisher=NASA |accessdate=June 14, 2013}}</ref>。1969年8月10日にアトランタで、逆汚染に関する庁間委員会(Interagency Committee on Back Contamination)の会合が開かれ、宇宙飛行士たち、飛行士の検疫に従事した者たち(NASAの医官{{仮リンク|ウィリアム・カーペンティア|en|William Carpentier}}とMQFプロジェクト技師{{仮リンク|ジョン・ヒラサキ|en|John Hirasaki}}){{sfn|Carmichael|2010|p=118}}、およびコロンビア号自体の隔離がようやく解かれた。宇宙船から取り外せる備品は、月試料が研究用に公開されるまでの間、隔離されたままだった{{sfn|Ertel|Newkirk|Brooks|1978|p=312}}。
=== 祝賀 ===
[[File:Apollo 11 ticker tape parade 1.jpg|thumb|ニューヨーク市での祝賀パレードの様子]]
8月13日、ニューヨークとシカゴで、推計600万人の見物客を脇に見ながら、紙吹雪の舞う中、名誉ある盛大な祝賀パレードが挙行され、3人は歓迎と祝福を受けた<ref name="LADinner">{{cite web |title=Richard Nixon: Remarks at a Dinner in Los Angeles Honoring the Apollo 11 Astronauts |url=https://www.presidency.ucsb.edu/documents/remarks-dinner-los-angeles-honoring-the-apollo-11-astronauts |website=The American Presidency Project |accessdate=October 24, 2017 |date=August 13, 1969}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.newspapers.com/clip/27531303/the_evening_sun/|title=President Offers Toast to 'Three Brave Men'|newspaper=The Evening Sun|date=August 14, 1969|page=1|location=Baltimore, Maryland|via=Newspapers.com|agency=Associated Press}}</ref>。同日の晩にはロサンゼルスの{{仮リンク|センチュリー・プラザ・ホテル|en|The Century Plaza Hotel}}で、合衆国議会議員、44州の知事、[[アメリカ合衆国最高裁判所長官|合衆国最高裁判所長官]]、83か国の大使らが出席して、今回の飛行を記念する公式晩餐会{{enlink|state dinner}}が開かれた<ref name=LADinner/>。その席上で、ニクソン大統領とアグニュー副大統領から各宇宙飛行士の栄誉を称えて[[大統領自由勲章]]が授与された<ref name="LADinner" /><ref>{{cite news|url=https://www.newspapers.com/clip/27531557/the_honolulu_advertiser/|title=Astronauts Awed by the Acclaim|newspaper=The Honolulu Advertiser|location=Honolulu, Hawaii|page=1|date=August 14, 1969|last1=Smith|first1=Merriman|agency=UPI|via=Newspapers.com}}</ref>。
1969年9月16日、3人の飛行士は[[アメリカ合衆国議会合同会議|合衆国議会上下両院合同会議]]の開会前にスピーチし、月面に持って行った2枚の星条旗のうちの片方を[[アメリカ合衆国下院|下院]]に、もう片方を[[アメリカ合衆国上院|上院]]に贈呈した<ref>{{cite web |url=http://history.house.gov/HistoricalHighlight/Detail/35693 |title=The Apollo 11 Crew Members Appear Before a Joint Meeting of Congress|access-date=March 3, 2018 |publisher=United States House of Representatives}}</ref>。アポロ11号によって月に持ち込まれた[[アメリカ領サモアの旗]]は、アメリカ領サモアの首都[[パゴパゴ (アメリカ領サモア)|パゴパゴ]]にある{{仮リンク|ジーン・P・ヘイドン博物館|en|Jean P. Haydon Museum}}に展示されている<ref>{{cite web |url=http://www.fodors.com/world/australia-and-the-pacific/american-samoa/things-to-do/sights/reviews/jean-p-haydon-museum-584573 |title=Jean P. Haydon Museum |publisher=Fodor's Travel |accessdate=March 5, 2018}}</ref>。
この祝賀行事は38日間に及ぶ世界周遊の旅の始まりであった。この旅行中に3人の宇宙飛行士は22か国を歴訪{{refnest|group=注|旅程《ワシントンD.C./米国(9月29日)–メキシコシティ/メキシコ(9月29日-30日)–ボゴタ/コロンビア(9月30日-10月1日)–ブラジリア/ブラジル(10月1日)–ブエノスアイレス/アルゼンチン(10月1日-2日)–リオデジャネイロ/ブラジル(10月2日-4日)–ラス・パルマス/カナリア諸島(10月4日-6日)–マドリード/スペイン(10月6日-8日)–パリ/フランス(10月8日-9日)–アムステルダム/オランダ(10月9日)–ブリュッセル/ベルギー(10月9日-10日)–オスロ/ノルウェー(10月10日-12日)–ケルンとボンとベルリン/西ドイツ(10月12日-14日)–ロンドン/英国(10月14日-15日)–ローマ/イタリア(10月15日-18日)–ベオグラード/ユーゴスラビア(10月18日-20日)–アンカラ/トルコ(10月20日-22日)–キンシャサ/ザイール(10月22日-24日)–テヘラン/イラン(10月24日-26日)–ボンベイ/インド(10月26日-27日)–ダッカ/東パキスタン(10月27日-28日)–バンコク/タイ(10月28日-31日)–パース/オーストラリア(10月31日)–シドニー/オーストラリア(10月31日-11月2日)–アガナ/グアム(11月2日-3日)–ソウル/韓国(11月3日-4日)–東京/日本(11月4日-5日)–アラスカ州アンカレッジ・エルメンドルフ空軍基地/米国(11月5日)…(それから間隔を空けて)…オタワとモントリオール/カナダ(12月2日-3日)》<ref>{{cite web|url=https://history.nasa.gov/SP-4223/ch10.htm|title=SP-4223 "Before This Decade Is Out..." Chapter 10 Geneva B. BARNES (1933- )|work=NASA History Office|date=August 5, 2004|accessdate=February 11, 2019}}</ref>}}し、多くの国々の指導者たちを表敬訪問した<ref name="Apollo 11 Crew Starts World Tour">{{cite news|url=https://www.newspapers.com/clip/27494178/the_logan_daily_news/|title=Apollo 11 Crew Starts World Tour|agency=Associated Press|date=September 29, 1969|page=1|location=Logan, Ohio|newspaper=Logan Daily News|via=Newspapers.com}}</ref>。旅は9月29日から11月5日まで続いた<ref name="Apollo 11 Crew Starts World Tour"/><ref>{{cite news|url=https://www.newspapers.com/clip/27529119/the_los_angeles_times/|title=Japan's Sato Gives Medals to Apollo Crew|newspaper=Los Angeles Times|date=November 5, 1969|page=20|location=Los Angeles, California|via=Newspapers.com}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.newspapers.com/clip/27529322/the_sydney_morning_herald/|title=Australia Welcomes Apollo 11 Heroes|date=November 1, 1969|newspaper=The Sydney Morning Herald|location=Sydney, New South Wales|page=1|via=Newspapers.com}}</ref>。多くの国では、人類史上初の[[月面着陸]]の栄誉を称える雑誌の特集が組まれたり、アポロ11号の記念切手や記念硬貨が発行されたりした<ref>{{cite web |url=http://www.lunarhall.org/missions/apollo/11.html |title=Lunar Missions: Apollo 11 |date=2008 |website=Lunar Hall of Fame |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081024222503/http://www.lunarhall.org/missions/apollo/11.html |archivedate=October 24, 2008 |deadurl=yes |accessdate=June 9, 2014}}</ref>。
== 遺産 ==
=== 文化的意義 ===
人間が月面を歩き、安全に地球に帰還したことで、その8年前に設定されたケネディの目標は達成された。アポロ11号が着陸したとき、ミッション管制センターではケネディの演説が画面に映し出され、"TASK ACCOMPLISHED, July 1969"(「1969年7月、任務達成」)の文字が表示された<ref name=Launius />。アポロ11号の成功によってアメリカ合衆国がほかの国々よりも技術的に優位にあることが証明された<ref name=Launius>{{cite web|url=https://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/Apollomon/Apollo.html|title=Project Apollo: A Retrospective Analysis|last1=Launius|first1=Roger D.|access-date=January 2, 2019}}</ref>。アポロ11号の成功をもって、アメリカは宇宙開発競争に勝利したのである{{sfn|Chaikin|2007|page=57}}{{sfn|Schefter|1999|p=288}}。
それにともなって、英語には新しいフレーズが浸透した。アポロ11号にかけて "If they can send a man to the Moon, why can't they..." (「もしも彼らが人を月に送ることができるなら、なぜ彼らは...できないのか」転じて「人類に人を月に送り込む英知があるのなら、どんな問題だって解決できるさ」の意)という文句がよく使われる言い習わしとなった<ref>{{cite news |newspaper=Washington Post |title=We Put a Man on the Moon, So Why Can’t We...? |first=David |last=Beard |first2=Nick |last2=Kirkpatrick |date=July 17, 2014 |url=https://www.washingtonpost.com/news/post-nation/wp/2014/07/17/we-put-a-man-on-the-moon-so-why-cant-we/?noredirect=on&utm_term=.5d9dc2d89089 |access-date=January 4, 2018 }}</ref>。アームストロングが月面で発した名言も、数え切れないほど多くのパロディを派生させた{{sfn|Chaikin|2007|page=57}}。
任務を達成したことが盛大に祝われた一方で、公民権を剥奪されたアメリカの人々はこれをアメリカの格差の象徴と見ていた。それはアポロ11号の打ち上げ前日にケネディ宇宙センターの外側で抗議する人たちがいたことに裏付けられた{{sfn|Schefter|1999|p=283}}。ただし、だからといって彼らがそのことに畏敬の念を抱いていないわけではなかった。抗議の行進を主導した{{仮リンク|ラルフ・アバナシー|en|Ralph Abernathy}}はアポロ11号のあまりに壮観な打ち上げに魅了され、抗議活動で何を言おうとしていたかを忘れてしまった{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|p=338}}。アポロ計画に費やす金があるなら、どうしてそれを地球上の人間の世話をするために使わないのかと思った市民らは、人種的および金銭的な不平等に不満を募らせた。[[ギル・スコット・ヘロン]]による "Whitey on the Moon" (「白んぼは月に行く」{{efn2|「白んぼ」とは黒人が白人を指して呼ぶ蔑称(差別用語)。}}の意)と題された詩は、宇宙開発競争で際立たせられた{{仮リンク|アメリカ合衆国における人種的不平等|en|Racial inequality in the United States}}を物語っている{{sfn|Chaikin|2007|p=57}}<ref>{{cite web|url=https://www.theatlantic.com/technology/archive/2011/05/gil-scott-herons-poem-whitey-on-the-moon/239622/|title=Gil Scott-Heron's Poem, 'Whitey on the Moon'|last1=Madrigal|first1=Alexis C.|date=May 28, 2011|access-date=January 3, 2019|publisher=The Atlantic}}</ref><ref name=whitey>{{cite web|url=https://www.huffingtonpost.com/matthis-chiroux/whitey-on-the-moon-again_b_1188220.html|title=Whitey on the Moon, Again?|date=March 11, 2012|last1=Chiroux|first1=Matthis|publisher=Huffington Post|access-date=January 3, 2019}}</ref>。この詩の歌い出しは次のようなものであった。
{{col-float}}
{{Poemquote|A rat done bit my sister Nell.
(with Whitey on the moon)
Her face and arms began to swell.
(and Whitey’s on the moon)
I can’t pay no doctor bill.
(but Whitey’s on the moon)
Ten years from now I’ll be paying still.
(while Whitey’s on the moon)<ref name=whitey />}}
{{col-float-break}}
{{Poemquote|鼠が姉/妹ネルに噛み付いた
(白んぼは月に行くというのに)
彼女の顔と両腕が腫れ始めた
(それでも白んぼは月に行く)
俺らは医療費なんて払えない
(だけど白んぼは月に行く)
十年後も支払ってるだろうさ
(白んぼが月に行く間に)}}
{{col-float-end}}
世界の人口の20パーセントの人々が、人類が初めて月面を歩く瞬間を見ていたと言われている。アポロ11号は世界中の関心を集めたが、後続のアポロ・ミッションは国民の関心をつかむことはなかった<ref name=Launius />。このことは複雑さの変化で説明できそうである。人間を月に着陸させることは理解しやすい目標であったのに対し、月質学(月の地質学)は平均的な人にとってあまりにも抽象的すぎたのであった。また、ケネディの掲げた人類を月に着陸させる目標がすでに達成されてしまったこともその一因となった{{sfn|Chaikin|2007|p=58}}。目的が明確に定義されていたことはアポロ計画がその目標を達成する助けとなったが、目標が達成されたあととなっては、月飛行ミッションを継続する正当な理由を説明することが難しくなった<ref>{{cite journal|url=https://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/SP-4214/ch14-7.html|title=Where No Man Has Gone Before: A History of Apollo Lunar Exploration Missions|journal=NASA Special Publication|volume=494|pages=420|last1=Compton|first1=William David|bibcode=1989NASSP.494..420C|year=1989}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.history.com/topics/space-exploration/apollo-11|title=Apollo 11|publisher=History|date=August 23, 2018|access-date=January 3, 2019}}</ref>。
ほとんどのアメリカ人が宇宙探査で国家的目標を達成したことに誇りを持っていたころ、1960年代後半に一度だけ実施された[[ギャラップ (企業)|ギャラップ調査]](世論調査)では、アメリカ人の大多数が宇宙開発を「あまりしない」よりも「もっとする」ことを支持していたことが示された。しかし、1973年になるころには、59パーセントの人々が宇宙探査にかける費用を削減すべきだと回答するまでになった。米国とソ連が[[デタント]]の時代に入ると、宇宙開発競争は終わりを迎え、冷戦の緊張も緩和されていった。このころはちょうど[[インフレーション]]が始まった時期でもあり、支出を削減するよう政府に圧力がかけられた。宇宙計画が経費節減から救われたのは、それが何か偉大なことを成し遂げた数少ない政府の事業のひとつだったためである。抜本的に削減すれば、[[アメリカ合衆国行政管理予算局|行政管理予算局]]の副局長だった[[キャスパー・ワインバーガー]]に「我々にとっての絶好の時期が遅れている」とのメッセージを送ることになるかもしれないとして警戒された{{sfn|McCurdy|1997|pp=106–107}}。
アポロ11号ミッションのあと、ソ連の当局者らは人間を月に着陸させるのは危険で不必要なことだったと発言した。当時ソ連は無人探査機を使って月の試料を回収しようとしていた。ただし、ソ連は公には月着陸競争の存在を否定しており、そのような試みがなかったことを示していた{{sfn|Chaikin|1994|p=631}}。ソ連の科学者[[ムスチスラフ・ケルディシュ]]は1969年7月に「我々は大規模な衛星システムの開発にすべてを注力しているところだ」と語った。月に人間を送り込もうとしていたが、技術的困難のために実現しなかったとソ連が明らかにしたのは1989年のことだった<ref>{{cite news|url=https://www.nytimes.com/1989/12/18/us/russians-finally-admit-they-lost-race-to-moon.html|title=Russians Finally Admit They Lost Race to Moon|last1=Wilford|first1=John Noble|date=December 18, 1989|newspaper=The New York Times}}</ref>。ソ連の一般の人々の反応は複雑なものであった。ソ連政府が(アポロ11号の)月面着陸に関する情報の公開を制限したことも人々の反応に影響を及ぼした。ソ連の民衆の一部はアポロの月面着陸に何ら関心を示さず、別の一部にはそのことに怒りを覚える者もいた<ref>{{cite web|url=https://www.scientificamerican.com/article/apollo-moon-khrushchev/|title=The Moon Landing through Soviet Eyes: A Q&A with Sergei Khrushchev, son of former premier Nikita Khrushchev|publisher=Scientific American|date=July 16, 2009|access-date=January 7, 2019|last1=Das|first1=Saswato R.}}</ref>。
=== 宇宙船 ===
[[File:Apollo 11 Columbia.png|thumb|left|[[国立航空宇宙博物館]]の Milestones of Flight 展示ホールに展示されたコロンビア号]][[File:Apollo 11 Mobile Quarantine Facility at the Steven F Udvar-Hazy Center in 2009.jpg|thumb|right|[[スティーブン・F・ウドバー=ハジー・センター]]に展示されているアポロ11号の移動式隔離施設(2009年)]]
[[ファイル:Recovered_F-1_Engine_parts_.jpg|サムネイル|ミュージアム・オブ・フライトで展示されているF-1エンジン。]]
地球に帰還した司令船「コロンビア」はアメリカの49州の州都と首都[[ワシントンD.C.|コロンビア特別区]]およびアラスカ州[[アンカレッジ]]で巡回展示された<ref>{{cite web |title=The Last Time the Command Module ''Columbia'' Toured |date=February 25, 2017 |first=Allan |last=Needell |url=https://airandspace.si.edu/stories/editorial/last-time-command-module-columbia-toured |publisher=National Air and Space Museum |access-date=November 9, 2018 }}</ref>。その後、1971年に[[スミソニアン協会]]に移管され、ワシントンD.C.にある[[国立航空宇宙博物館]](National Air and Space Museum、NASM)で展示された<ref>{{cite web |url=https://airandspace.si.edu/collection-objects/command-module-apollo-11 |title=Apollo 11 Command Module Columbia |access-date=November 9, 2018|publisher=National Air and Space Museum}}</ref>。「コロンビア」が展示された場所は同博物館のジェファーソン・ドライブ入口正面にある中央のMilestones of Flight展示ホールで、メインホールにはほかに、[[ライトフライヤー号]]、[[スピリットオブセントルイス号]]、[[X-1 (航空機)|ベルX-1]]、[[X-15 (航空機)|ノースアメリカンX-15]]、[[マーキュリー計画|マーキュリー宇宙船]]・[[マーキュリー・アトラス6号|フレンドシップ7号]]など、アメリカの航空宇宙史を開拓してきた機体が展示されている<ref>{{cite web |url=https://airandspace.si.edu/about/history/museum-dc |title=Museum in DC |publisher=National Air and Space Museum |access-date=September 25, 2018|date=May 3, 2016 }}</ref>。
2017年に「コロンビア」はバージニア州シャンティリーにある{{仮リンク|スティーブン・F・ウドバー=ハジー・センター|en|Steven F. Udvar-Hazy Center}}のメアリー・ベイカー・エンゲン修復用格納庫(NASM Mary Baker Engen Restoration Hangar)に移され、アポロ11号の月面着陸50周年を記念して4都市で開催される''Destination Moon: The Apollo 11 Mission''(目的地・月:アポロ11号の使命)と題した巡回展に向けて準備が進められた。この巡回展は、2017年10月14日から2018年3月18日まで[[スペースセンター・ヒューストン]]にて、2018年4月14日から同年9月3日まで{{仮リンク|セントルイス科学センター|en|Saint Louis Science Center}}にて、2018年9月29日から2019年2月18日まで[[ピッツバーグ]]の{{仮リンク|ハインツ歴史センター|en|Heinz History Center}}にて、2019年3月16日から同年9月2日まで[[シアトル]]の{{仮リンク|航空博物館|en|Museum of Flight}}にて、それぞれ開催される<ref>{{cite web |title=Apollo 11 Command Module Columbia |url=https://airandspace.si.edu/collection-objects/command-module-apollo-11 |publisher=National Air and Space Museum |accessdate=August 27, 2017|date=March 21, 2016 }}</ref><ref>{{cite magazine |url=http://www.airspacemag.com/daily-planet/apollo-11-artifacts-go-tour-180962247/#vdLWIR4Sfofhv24g.99 |title=Apollo 11 Moonship To Go On Tour |first=Rebecca |last=Maksel |magazine=Air and Space Magazine |date=February 22, 2017 |accessdate=August 27, 2017}}</ref>。
アームストロングとオルドリンの宇宙服は40年間、同博物館内のApollo to the Moonコーナーに展示されていた<ref>{{cite web |url=https://airandspace.si.edu/exhibitions/apollo-moon |title=Apollo to the Moon |publisher=National Air and Space Museum |access-date=September 25, 2018|date=March 20, 2003 }}</ref> が、2018年12月3日をもって同展示コーナーは永久に閉鎖され、それに代わる新しい展示コーナーが2022年にオープンする予定である。アームストロングの宇宙服は2019年7月にアポロ11号が50周年を迎えるのに合わせて特別展示されることが企画されている<ref>{{cite web |url=http://www.collectspace.com/news/news-113018a-nasm-apollo-moon-closure.html |title='Apollo to the Moon' no more: Air and Space Museum closes gallery |publisher=collectSPACE |access-date=December 16, 2018 }}</ref>。隔離施設、浮揚環管、転覆した船体の立て直しに用いられた浮力球は、バージニア州シャンティリーの[[ワシントン・ダレス国際空港]]に近いスミソニアン協会のスティーブン・F・ウドバー=ハジー・センターの別館にあり、月着陸船の試験機とともに展示されている<ref>{{cite web |url=https://airandspace.si.edu/collection-objects/mobile-quarantine-facility |title=Mobile Quarantine Facility |publisher=National Air and Space Museum |access-date=September 30, 2018|date=March 20, 2016 }}</ref><ref>{{cite web |url=https://airandspace.si.edu/collection-objects/flotation-collar-apollo-11 |title=Apollo 11 Flotation Collar |publisher=National Air and Space Museum |access-date=September 30, 2018|date=March 20, 2016 }}</ref><ref>{{cite web |url=https://airandspace.si.edu/newsroom/press-releases/national-air-and-space-museum-moves-apollo-artifact-future-home |title=National Air and Space Museum Moves Apollo Artifact to Future Home |publisher=National Air and Space Museum |access-date=September 25, 2018|date=September 15, 2015 }}</ref>。
月着陸船「イーグル」の下降段は月面に残されたままである。2009年、[[ルナー・リコネサンス・オービター]](Lunar Reconnaissance Orbiter、LRO)が、歴代のアポロ宇宙船の着陸地点を、月着陸船の下降段、科学観測機器、宇宙飛行士の足跡などを見分けられるほど十分に高い解像度で、初めて画像化することに成功した<ref>{{cite web |url=https://www.nasa.gov/mission_pages/LRO/multimedia/lroimages/apollosites.html |title=LRO Sees Apollo Landing Sites |publisher=NASA |access-date=September 25, 2018|date=July 17, 2009 }}</ref>。上昇段の遺物は、投棄されて月に衝突したあと、月の表面の不明な場所にあると推定されている。場所が不確かである理由は、「イーグル」上昇段は投棄されたあとに追跡されていなかったこと、そして月の重力場が十分に一様ではないために、少々時間を置いたあとでは宇宙船の軌道が予測不可能になってしまうことによる<ref>{{cite web |url=https://airandspace.si.edu/explore-and-learn/topics/apollo/apollo-program/spacecraft/location/lm.cfm?dom=pscau |title=Location of Apollo Lunar Modules |publisher=National Air and Space Museum |access-date=September 24, 2018}}</ref>。
2012年3月、[[Amazon.com|Amazon]]の創業者[[ジェフ・ベゾス]]から資金提供を受けた専門家チームによって、アポロ11号を宇宙へと打ち上げたサターンVの[[S-IC]]段から[[F-1ロケットエンジン|F-1エンジン]]の場所が突き止められ、実際に先進的な走査型超音波探知機を用いて大西洋の海底で5基のエンジンが発見された<ref>{{cite news |title=Amazon boss Jeff Bezos 'finds Apollo 11 Moon engines' |url=https://www.bbc.co.uk/news/world-us-canada-17544565 |work=BBC News |location=London |date=March 28, 2012 |accessdate=June 14, 2013}}</ref>。そして、5基のうち2基の部品が引き揚げられた。2013年7月、そのうちの1基のエンジンの錆びついた表面の下にシリアルナンバーが記載されているのを管理人が発見し、NASAはそれがアポロ11号の打ち上げで使われたものであることを確認した<ref>{{cite news |url=https://www.washingtonpost.com/news/innovations/wp/2013/07/19/bezos-expeditions-retrieves-and-identifies-apollo-11-engine-5-nasa-confirms-identity/ |title=Bezos Expeditions retrieves and identifies Apollo 11 engine #5, NASA confirms identity |last=Kolawole |first=Emi |date=July 19, 2013 |accessdate=February 13, 2017|work=The Washington Post}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.newspapers.com/clip/26447397/albuquerque_journal/|title=Apollo 11 engine find confirmed|newspaper=Albuquerque Journal|date=July 21, 2013|page=5|via=Newspapers.com|location=Albuquerque, New Mexico}}</ref>。エンジンは修復された後、シアトルの{{仮リンク|ミュージアム・オブ・フライト|en|Museum of Flight}}に寄贈され一般公開されている。
アポロ11号の月遷移投入に能力を発揮したサターンVの第三段[[S-IVB]]は、地球の公転軌道に近い、太陽周回軌道上に留まっている<ref>{{cite web |url=https://nssdc.gsfc.nasa.gov/nmc/spacecraftDisplay.do?id=1969-059B |title=Apollo 11 SIVB NSSDCA/COSPAR ID: 1969-059B |archive-url=https://web.archive.org/web/20170219055609/https://nssdc.gsfc.nasa.gov/nmc/spacecraftDisplay.do?id=1969-059B |archive-date=February 19, 2017 |publisher=NASA|access-date=December 30, 2018}}</ref>。
=== 月の石 ===
アポロの月の石のおもな保管場所は、テキサス州[[ヒューストン]]のジョンソン宇宙センター内の{{仮リンク|月試料実験室施設|en|Lunar Sample Laboratory Facility}}にある。安全に保管するために、ニューメキシコ州[[ラスクルーセス]]近郊の{{仮リンク|ホワイトサンズ試験施設|en|White Sands Test Facility}}にも、より小規模なコレクションが収蔵されている。月の石のほとんどは湿気ないように窒素の中に保存されている。取り扱う際は直接手で触れないように、特殊な用具が使われる。世界中の100以上の研究実験室がこの試料に関する研究を実施しており、毎年およそ500点の試料が用意され、研究者に発送されている<ref>{{cite web |url=https://curator.jsc.nasa.gov/lunar/lun-fac.cfm |title=Lunar Sample Laboratory Facility |publisher=NASA |access-date=September 25, 2018}}</ref><ref>{{cite news |url=https://world.wng.org/2016/09/the_mystery_of_the_missing_moon_rocks |title=The mystery of the missing Moon rocks |publisher=World |first=Kristen |last=Flavin |date=September 10, 2016 |access-date=September 25, 2018}}</ref>。
1969年11月にニクソンは、135か国とアメリカ合衆国の50州および属領、ならびに国際連合に贈呈する{{仮リンク|アポロ11号月試料展示品|en|Apollo 11 lunar sample display}}を約250点作るよう、NASAに依頼した。各展示品にはアポロ11号が持ち帰った月の塵が含まれていた。米粒程度の大きさの粒子は月の土の4つの小片で、重さは約50ミリグラムあり、[[50セント硬貨 (アメリカ合衆国)|アメリカ合衆国の50セント硬貨]]と同じくらいの大きさの透明なアクリル製のバッジに覆われていた。このアクリル製のバッジによって月の塵の粒子は拡大されて見えるようになっている。アポロ11号の月試料展示品は1970年にニクソンより親善の品として贈呈された<ref>{{cite web |url=http://www.collectspace.com/resources/moonrocks_apollo11.html |title=Where today are the Apollo 11 goodwill lunar sample displays? |first1=Robert |last1=Pearlman |authorlink=Robert Pearlman |publisher=collectSPACE |accessdate=November 2, 2012}}</ref><ref>''Earth'' magazine, March 2011, pp. 42–51</ref>。
受動的地震実験(Passive Seismic Experiment、PSE)の実験装置は、1969年8月25日に地上局からの指令アップリンクが使えなくなるまで運用された。ダウンリンクは1969年12月14日に途絶えた{{sfn|Bates|Lauderdale|Kernaghan|1979|pp=2-3, 4-32}}。2018年時点で、[[月レーザー測距実験]](Lunar Laser Ranging experiment)は運用が続けられている<ref>{{cite news |url=https://www.palmbeachpost.com/news/report-humans-have-left-500-000-pounds-trash-the-moon/8UcB7ECGVXSLyMWrdhqk1L/ |title=Report: Humans have left 500,000 pounds of 'trash' on the Moon |newspaper=Palm Beach Post |date=March 5, 2018 |first=Chelsea |last=Todaro |access-date=September 27, 2018}}</ref>。
=== 40周年記念行事 ===
[[File:Apollo 11 Command Module in Hangar.jpg|thumb|left|メアリー・ベイカー・エンゲン修復用格納庫で修理中の「コロンビア」]]
2009年7月15日に[[ライフ (雑誌)|Life.com]]は、同誌の写真家だった{{仮リンク|ラルフ・モース|en|Ralph Morse}}がアポロ11号の打ち上げに先立って撮影した宇宙飛行士の未公表写真をウェブ上の写真ギャラリーで公開した<ref>{{cite news |url=http://life.time.com/history/photos-up-close-with-apollo-11/#1 |title=LIFE: Up Close With Apollo 11 |work=[[ライフ (雑誌)|Life]] |accessdate=June 14, 2013 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130521161407/https://life.time.com/history/photos-up-close-with-apollo-11/ |archivedate=May 21, 2013}}</ref>。2009年7月16日から24日まで、NASAはアポロ11号ミッションで流れた本物の音声を40年前の月飛行の実時間に合わせてストリーミング配信した<ref>{{cite web |url=http://www.nasa.gov/mission_pages/apollo/40th/apollo11_audio.html |title=Apollo 11 Onboard Audio |work=Apollo 40th Anniversary |publisher=NASA |accessdate=June 14, 2013|date=July 26, 2013 }}</ref>。さらに、当時のビデオフィルムの復元作業が進められており、重要な場面を集めた予告編が公開されている<ref>{{cite web |url=http://www.nasa.gov/multimedia/hd/apollo11_hdpage.html |title=Apollo 11 Partial Restoration HD Videos (Downloads) |editor-last=Garner |editor-first=Robert |publisher=NASA |accessdate=June 14, 2013|date=March 16, 2015 }}</ref>。2010年7月、アポロ11号が月へ降下して着陸するまでの間に宇宙から地球に伝送されたミッション管制センターの音声録音とフィルム映像が再同調され、初めて公開された<ref>{{Cite news |title=Sound restored to mission control film shot during Apollo 11 Moon landing |first=Christopher |last=Riley |url=https://www.theguardian.com/science/blog/2010/jul/20/sound-apollo-11-moon-landing |work=[[The Guardian]] |location=London |date=July 20, 2010 |accessdate=July 11, 2013}}</ref>。{{仮リンク|ジョン・F・ケネディ大統領図書館・博物館|en|John F. Kennedy Presidential Library and Museum}}は、アポロ11号が打ち上げられてから月に着陸するまでの交信記録を再放送する[[Adobe Flash]]ウェブサイトを立ち上げた<ref>{{cite web |url=http://wechoosethemoon.org/|archive-url=https://web.archive.org/web/20090617230719/http://wechoosethemoon.org/|dead-url=yes|archive-date=June 17, 2009 |title=We Choose the Moon |publisher=[[ジョン・F・ケネディ大統領図書館・博物館|John F. Kennedy Presidential Library and Museum]] |accessdate=July 19, 2009}}</ref>。
2009年7月20日、アポロ11号の搭乗員だったアームストロング、オルドリン、コリンズの3名は、ホワイトハウスで[[バラク・オバマ]]大統領と面会した<ref>{{cite web |url=http://www.nasa.gov/multimedia/imagegallery/image_feature_1422.html |title=Apollo 11 Crew Meets With President Obama |date=July 20, 2009 |work=Image of the Day Gallery |publisher=NASA |accessdate=June 9, 2014}}</ref>。オバマは「私たちが話しているように、向こうで空を見上げる別世代の子どもたちが、次なるアームストロング、コリンズ、オルドリンになろうとすることを期待しています」と述べ、「彼らが(月への)旅路につきたいとき、彼らのためにNASAがそこを目指していることを確実にしておきたい」と加えた<ref>{{cite news |url=https://www.nytimes.com/2009/07/21/science/space/21obama.html |work=The New York Times |first=Jeff |last=Zeleny |title=Obama Hails Apollo Crew From a Lens of Childhood |date=July 21, 2009}}</ref>。2009年8月7日、合衆国議会の法令により、アメリカで文民に贈られる最高位の賞である[[議会名誉黄金勲章|議会黄金勲章]]がこの3名の宇宙飛行士に授与された。この法案は、フロリダ州選出の上院議員[[ビル・ネルソン]]と、同じくフロリダ州選出の下院議員{{仮リンク|アラン・グレイソン|en|Alan Grayson}}に支持されたものだった<ref>{{cite web |url=http://www.opencongress.org/bill/111-s951/text |title=Text of S.951 as Engrossed in Senate: New Frontier Congressional Gold Medal Act – U.S. Congress – OpenCongress |publisher=OpenCongress.org |accessdate=June 14, 2013 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121103063854/https://www.opencongress.org/bill/111-s951/text |archivedate=November 3, 2012}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.opencongress.org/bill/111-h2245/text |title=Text of H.R.2245 as Enrolled Bill: New Frontier Congressional Gold Medal Act – U.S. Congress – OpenCongress |publisher=OpenCongress.org |accessdate=June 14, 2013 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121103064013/https://www.opencongress.org/bill/111-h2245/text |archivedate=November 3, 2012}}</ref>。
イギリスの科学者グループは、40周年記念行事の一環として行われたインタビューで、月面着陸の意義に反応して次のように答えた。
{{quote|(月面着陸は)危険を冒しながらも、技術的に素晴らしい方法で実行されました……今日のリスク回避的世界{{sfn|ビゾニー|2009|loc=§4 リスクの要素}}にあっては、あれは想像もつかないことだったように思います……アポロ計画は今までに人類が達成した中でもっとも偉大な技術的業績だと言ってよいでしょう……アポロ以後、アームストロング、オルドリンと彼らの後に続いたほかの10名の宇宙飛行士たちが生み出したような興奮に近いものがありません<ref>{{Cite news |title=Moon landings: British scientists salute space heroes |url=https://www.telegraph.co.uk/science/space/5848707/Moon-landings-British-scientists-salute-space-heroes.html |work=[[The Daily Telegraph]] |location=London |date=July 17, 2009 |accessdate=June 14, 2013 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130308224145/https://www.telegraph.co.uk/science/space/5848707/Moon-landings-British-scientists-salute-space-heroes.html |archivedate=March 8, 2013 |df=mdy}}</ref>。|||}}
=== 50周年記念行事 ===
{{see also|{{仮リンク|アポロ11号50周年記念硬貨|en|Apollo 11 Fiftieth Anniversary commemorative coins}}}}
2015年6月10日、アメリカ合衆国の{{仮リンク|ビル・ポージー|en|Bill Posey}}議員(共和党・フロリダ州選出)は、[[アメリカ合衆国下院|合衆国議会下院]]の第114会期にて、[[アメリカ合衆国造幣局|合衆国造幣局]]に対し、アポロ11号ミッションの50周年を記念して、金、銀および被覆金属を使用した記念硬貨をデザインして発行するよう指示する決議案(H.R. 2726)を提出した。2019年1月24日、合衆国造幣局は公式ウェブサイト上で記念硬貨を一般に公開した<ref>{{USPL|114|282}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.usmint.gov/learn/coin-and-medal-programs/commemorative-coins/apollo-11-50th-anniversary|title=Apollo 11 50th Anniversary Commemorative Coin Program|website=United States Mint|access-date=February 1, 2019}}</ref>。
== 陰謀論 ==
{{main|アポロ計画陰謀論}}
アポロ11号の月面着陸は人類史にとって輝かしい成果を残したが、その一方で、これがねつ造であったとする主張がある。この[[陰謀論]]を信じる者は世界中に数多く存在しており、ねつ造であったと実証を試みるウェブサイトも数多くある。彼らが唱える主張は以下の通りである{{efn2|下記に記す主張はアポロ計画陰謀論のごく一部であり、下記以外にも無数にある。詳しくは当該記事を参照。}}。
*アポロ11号の月面着陸は嘘であり、その様子とされる映像や[[写真]]は、[[ハリウッド]]の[[スタジオ]]で撮影された。
*[[NASA]]にはアポロのような途方もない計画を成功させる技術的ノウハウはなかった。
*[[宇宙飛行士]]だったら[[宇宙線]]で焼かれて死んでいるはずなので、月面に着陸していたとしてもそれは人間ではなかった。
*月面着陸には[[宇宙人]]が関与しており、宇宙飛行士らが発見した[[月]]の[[文明]]と共に隠ぺいされた。
*月面での活動の様子とされる写真やビデオ映像におかしな点がいくつもある。
これらの主張は、[[科学者]]によって[[反証]]されており、誤りであることが明らかになっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3234496|title=月面着陸はうそ? アポロ11号を取り巻く陰謀論|date=2019-07-12|publisher=AFP通信|accessdate=2020-05-04}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
{{Include-NASA}}
== 参考文献 ==
=== 洋書 ===
{{refbegin|30em}}
* {{cite book2 |df=ja |last1=Aldrin|first1=Buzz|author-link=バズ・オルドリン|last2=Abraham|first2=Ken|publisher=National Geographic|isbn=978-1-4262-1649-7|title=No Dream is Too High: Life Lessons from a Man who Walked on the Moon|location=Washington D.C.|year=2016|oclc=1023166907}}
* {{cite report |df=ja |last=Bates |first=James R. |last2=Lauderdale |first2=W. W. |last3=Kernaghan |first3=Harold |title=ALSEP Termination Report |date=April 1979 |publisher=NASA |location=Washington, DC |id=1036 |url=https://nssdc.gsfc.nasa.gov/misc/documents/b32116.pdf |format=PDF}}
* {{cite book2 |df=ja |last=Benson |first=Charles D. |last2=Faherty |first2=William B. |title=Moonport: A History of Apollo Launch Facilities and Operations |date=1978 |id=SP-4204 |publisher=NASA |location=Washington, DC |url=https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19790003956.pdf |format=PDF}}
* {{cite book2 |df=ja |last=Bilstein |first=Roger E. |title=Stages to Saturn: A Technological History of the Apollo/Saturn Launch Vehicle |year=1980 |publisher=NASA |id=SP-4206 |series=NASA History Series |url=https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19970009949.pdf |format=PDF}}
* {{cite book2 |df=ja |last1=Borman |first1=Frank |author-link=フランク・ボーマン |last2=Serling |first2=Robert J. |title=Countdown: An Autobiography |date=1988 |publisher=Silver Arrow |location=New York |isbn=978-0-688-07929-1 |oclc=937625026}}
* {{cite book2 |df=ja |last1=Brooks |first1=Courtney G. |last2=Grimwood |first2=James M. |last3=Swenson |first3=Loyd S. Jr. |title=Chariots for Apollo: A History of Manned Lunar Spacecraft |url=https://history.nasa.gov/SP-4205/cover.html |accessdate=July 20, 2010 |series=NASA History Series |date=1979 |publisher=Scientific and Technical Information Branch, NASA |location=Washington, D.C. |isbn=978-0-486-46756-6 |oclc=4664449 |lccn=79001042 |id=SP-4205}}
* {{cite journal2 |df=ja |last=Cappellari |first=J.O. Jr. |title=Where on the Moon? An Apollo Systems Engineering Problem |journal=Bell System Technical Journal |volume=51 |issue=5 |pages=955–1126 |date=May–June 1972 |issn=0005-8580 |doi=10.1002/j.1538-7305.1972.tb02642.x |oclc=17779623}}
* {{cite book2 |df=ja |last1=Carmichael |first1=Scott W. |title=Moon Men Return: USS ''Hornet'' and the Recovery of the Apollo 11 Astronauts |date=2010 |publisher=Naval Institute Press |location=Annapolis, Maryland |isbn=978-1-59114-110-5 |oclc=562772897}}
* {{cite book2 |df=ja |last=Chaikin |first=Andrew |title=A Man on the Moon: The Triumphant Story Of The Apollo Space Program |date=1994 |publisher=Penguin Group |location=New York |isbn=978-0-14-027201-7 |oclc=890357362}}
* {{cite book2 |df=ja |last1=Chaikin |first1=Andrew |contribution=Live from the Moon: The Societal Impact of Apollo |url=https://history.nasa.gov/sp4801.pdf |format=PDF |title=Societal Impact of Spaceflight |editor-first1=Steven J. |editor-last1=Dick |editor-first2=Roger D. |editor-last2=Launius |publisher=NASA |location=Washington, D.C. |year=2007 |id=SP-4801 |oclc=175218028}}
* {{cite book2 |df=ja |last1=Collins |first1=Michael |authorlink1=マイケル・コリンズ (宇宙飛行士) |last2=Aldrin |first2=Edwin E. Jr. |authorlink2=バズ・オルドリン |editor-last=Cortright |editor-first=Edgar M |contribution=The Eagle Has landed |pp=203–224 |title=Apollo Expeditions to the Moon |url=http://www.hq.nasa.gov/pao/History/SP-350/cover.html |accessdate=June 13, 2013 |date=1975 |publisher=NASA |location=Washington, D.C. |oclc=1623434 |id=SP-350}}
* {{cite book |last=Collins |first=Michael |authorlink=マイケル・コリンズ (宇宙飛行士) |origyear=1974 |date=2001 |title=Carrying the Fire: An Astronaut's Journeys |publisher=Cooper Square Press |location=New York |isbn=978-0-8154-1028-7 |lccn=2001017080 |oclc=45755963 |ref=harv}}
* {{cite book2 |df=ja |last=Collins|first=Michael |authorlink=マイケル・コリンズ (宇宙飛行士) |origyear=1976 |date=1994 |title=Flying to the Moon: An Astronauts Story |publisher=Square Fish |isbn=9780374423568 |location=New York |oclc=29388756}}
* {{cite book2 |df=ja |last=Cortright |first=Edgar M |editor-last=Cortright |editor-first=Edgar M |title=Apollo Expeditions to the Moon |contribution=Scouting the Moon |pp=79–102 |url=http://www.hq.nasa.gov/pao/History/SP-350/cover.html |accessdate=June 13, 2013 |date=1975 |publisher=NASA |location=Washington, D.C. |oclc=1623434 |id=SP-350}}
* {{cite book2 |df=ja |last=Cunningham |first=Walter |author-link=ウォルター・カニンガム |year=2010 |isbn=978-1-876963-24-8 |title=The All-American Boys|orig-year=1977 |publisher=ipicturebooks |oclc=713908039}}
* {{cite web2 |df=ja |last1=Ertel |first1=Ivan D. |last2=Newkirk |first2=Roland W. |last3=Brooks |first3=Courtney G. |title=The Apollo Spacecraft – A Chronology. Vol. IV. Part 3 (1969 3rd quarter) |url=https://history.nasa.gov/SP-4009/v4p3e.htm |id=SP-4009 |location=Washington, D.C. |publisher=NASA |accessdate=2017-10-24 |year=1978}}
* {{cite journal2 |df=ja |last1=Hamilton |first1=Margaret H. |author-link=マーガレット・ハミルトン (科学者) |last2=Hackler |first2=William R. |date=December 2008 |title=Universal Systems Language: Lessons Learned from Apollo |volume=41 |issue=12 |pages=34–43 |journal=Computer |issn=0018-9162 |doi=10.1109/MC.2008.541}}
* {{cite book2 |df=ja |last=Hansen |first=James R. |title=First Man: The Life of Neil A. Armstrong |date=2005 |publisher=Simon & Schuster |location=New York |isbn=978-0-7432-5631-5 |lccn=2005049992 |oclc=937302502}}
* {{cite book2 |df=ja |last=Harland |first=David |title=Exploring the Moon: The Apollo Expeditions |location=London ; New York |publisher=Springer |date=1999 |isbn=978-1-85233-099-6 |oclc=982158259}}
* {{cite book2 |df=ja |last=Kranz |first=Gene |title=Failure Is Not An Option |year=2000 |publisher=Simon & Schuster |location=New York |isbn=978-0-7432-0079-0 |oclc=829406416}}
* {{cite book2 |df=ja |last=Logsdon |first=John M. |title=The Decision to Go to the Moon: Project Apollo and the National Interest |location=Chicago |publisher=University of Chicago Press |year=1976 |oclc=849992795}}
* {{cite book |df=ja |author=Manned Spacecraft Center |title=Apollo 11 Mission Report |url=https://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11MIssionReport_1971015566.pdf |format=PDF |accessdate=July 10, 2013 |date=November 1969 |work=[[ジョンソン宇宙センター|Manned Spacecraft Center]], Mission Evaluation Team |publisher=NASA |location=Houston, Texas |oclc=10970862 |id=SP-238 |ref=harv}}
* {{cite book2 |df=ja |author=Marshall Space Flight Center |author-link=マーシャル宇宙飛行センター |title=Technical Information Summary, Apollo-11 (AS-506) Apollo Saturn V Space Vehicle |date=June 1969 |publisher=NASA |location=Huntsville, Alabama |id=Document ID: 19700011707; Accession Number: 70N21012; Report Number: NASA-TM-X-62812; S&E-ASTR-S-101-69 |url=https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19700011707.pdf |format=PDF |accessdate=June 12, 2013}}
* {{cite book |last=McCurdy |first=Howard E. |title=Space and the American Imagination |location=Washington, D.C. |publisher=Smithsonian Institution Press |year=1997 |isbn=978-1-56098-764-2 |oclc=36186250 |ref=harv }}
* {{cite book2 |df=ja |last=Mindell |first=David A. |title=Digital Apollo: Human and Machine in Spaceflight |date=2008 |publisher=MIT Press |location=Cambridge, Massachusetts |isbn=978-0-262-13497-2 |lccn=2007032255 |oclc=751829782}}
* {{cite book2 |df=ja |last=Orloff |first=Richard W. |title=Apollo by the Numbers: A Statistical Reference |url=https://history.nasa.gov/SP-4029/SP-4029.htm |accessdate=2013-06-12 |series=NASA History Series |year=2000 |publisher=NASA History Division, Office of Policy and Plans |location=Washington, D.C. |isbn=978-0-16-050631-4 |lccn=00061677 |id=SP-2000-4029 |oclc=829406439}}
* {{cite journal2 |df=ja |last=Sarkissian |first=John M. |title=On Eagle's Wings: The Parkes Observatory's Support of the Apollo 11 Mission |date=2001 |journal=Publications of the Astronomical Society of Australia |volume=18 |issue=3 |pages=287–310 |doi=10.1071/AS01038 |accessdate=May 24, 2013 |url=http://www.parkes.atnf.csiro.au/news_events/apollo11/tv_broadcasts.html |bibcode=2001PASA...18..287S |doi-access=free}}
* {{cite book2 |df=ja |last1=Schefter|first1=James|title=The Race: The Uncensored Story of How America Beat Russia to the Moon|isbn=978-0-385-49253-9|date=July 1999|publisher=Doubleday|location=New York}}
* {{cite book2 |df=ja |last1=Slayton |first1=Donald K. "Deke" |authorlink1=ドナルド・スレイトン |last2=Cassutt |first2=Michael |title=Deke! U.S. Manned Space: From Mercury to the Shuttle |date=1994 |publisher=Forge |location=New York |isbn=978-0-312-85503-1 |oclc=29845663 |lccn=94002463}}
* {{cite book2 |df=ja |last1=Swenson |first1=Loyd S. Jr. |first2=James M. |last2=Grimwood |first3=Charles C. |last3=Alexander |title=This New Ocean: A History of Project Mercury |url=http://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/SP-4201/cover.htm |accessdate=June 28, 2007 |series=The NASA History Series |year=1966 |publisher=National Aeronautics and Space Administration |location=Washington, DC |oclc=569889 |id=SP-4201}}
* {{cite book2 |df=ja |last1=Waligora |first1=J.M. |last2=Horrigan |first2=D.J. |editor-last1=Johnston |editor-first1=Richard S. |editor-last2=Dietlein |editor-first2=Lawrence F. |editor-last3=Berry |editor-first3=Charles A. |title=Biomedical Results of Apollo |url=https://history.nasa.gov/SP-368/sp368.htm |accessdate=February 14, 2017 |date=1975 |publisher=NASA |location=Washington, D.C. |id=SP-368 |contribution=Chapter 4: Metabolism and Heat Dissipation During Apollo EVA Periods}}
{{refend}}
=== 和書 ===
* {{cite book |和書 |editor=[[毎日新聞社]] |date=1969-08-05 |title=人類が月を歩いた アポロ11号の全記録 |publisher=毎日新聞社 |id={{全国書誌番号|69001968}} |ref={{SfnRef|毎日新聞社|1969}} }}<!-- 内容は主にアポロ11号(宇宙船)とヒューストン(管制室)の交信記録。 -->
* {{cite book |和書 |last1=アームストロング |first1=ニール |last2=コリンズ |first2=マイケル |last3=オルドリンJr.
|first3=エドウィン・E |authorlink1=ニール・アームストロング |authorlink2=マイケル・コリンズ (宇宙飛行士) |authorlink3=バズ・オルドリン |others=[[日下実男]](訳)、[[アーサー・C・クラーク]](解説) |date=1973-09-30 |title=アポロ11号全記録 大いなる一歩 |publisher=[[早川書房]] |id={{全国書誌番号|69003532}} |ref=harv }}<!-- 出来事の背景・歴史の解説から飛行士の生い立ち、家族など、関係者の動向・反応まで事細かに記述されている。 -->
* {{cite book |和書 |last1=シェパード |first1=アラン |authorlink1=アラン・シェパード |last2=スレイトン |first2=ディーク |authorlink2=ドナルド・スレイトン |others=[[菊谷匡祐]](訳) |year=1994 |title=ムーン・ショット 月をめざした男たち |publisher=[[集英社]] |isbn=4-08-773198-7 |ref=harv }}
* {{cite book |和書 |last1=チェイキン |first1=アンドルー |others=[[亀井よし子]](訳) |year=1999 |title=人類、月に立つ〈上〉 |publisher=[[日本放送出版協会]] |isbn=4-14-080444-0 |ref=harv }}
* {{cite book |和書 |last=ハンセン |first=ジェイムズ・R |others=[[日暮雅通]]・[[水谷淳 (翻訳家)|水谷淳]](訳) |year=2007 |title=ファーストマン ニール・アームストロングの人生〈下〉 |publisher=[[SBクリエイティブ|SoftBank Creative]] |isbn=978-4-7973-3667-2 |ref=harv }}<!-- 元NASA歴史学者のハンセン氏によるニール・アームストロングの伝記の下巻。歴史家の書だけあって、巻末には豊富な典拠が記載されている。 -->
* {{cite book |和書 |last=ビゾニー |first=ピアーズ |others=[[日暮雅通]](訳) |year=2009 |title=アポロ11号 月面着陸から現代へ |publisher=[[河出書房新社]] |isbn=978-4-309-25228-5 |ref=harv }}
== 外部リンク ==
{{commonscat}}
{{ウィキポータルリンク|宇宙開発}}
* {{en icon}}[https://www.nasa.gov/mission_pages/apollo/apollo-11.html Apollo 11] - NASAホームページ上のミッション紹介。
* {{en icon}}[https://history.nasa.gov/afj/ap11fj/index.html The Apollo 11 Flight Journal] - 「生きた文書」として更新が続けられている、NASA本部の歴史課が公開している詳細な飛行記録。
* {{en icon}}[https://history.nasa.gov/alsj/ The Apollo Lunar Surface Journal] - 上に同じく歴史課が公開している、アポロ11号を含むアポロ有人月面活動の記録。
* [https://amview.japan.usembassy.gov/account-of-apollo-11-lunar-landing-mission/ アポロ11号月面着陸ミッションの記録] - アメリカン・ビュー(駐日アメリカ大使館公式マガジン)
* [https://amview.japan.usembassy.gov/50th-anniversary-of-the-first-moon-landing/ 人類初「月面着陸」から50年] - アメリカン・ビュー(駐日アメリカ大使館公式マガジン)
* {{Wayback|url=http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/apollo_11.html |title=アポロ11号 |date=20081007190431}} - JAXA宇宙情報センターの項目
* [https://www.apollomaniacs.com/apollo/ Apollo Maniacs(アポロ マニアックス)] - アポロに関する情報が豊富な個人ウェブサイト
* {{en icon}}[https://apolloinrealtime.org/11/ Apollo 11 in Real-time] - 月面着陸50周年を記念してアポロ11号のミッションをリアルタイムで体験できるウェブサイト
* {{NHK放送史|D0009043968_00000|特別番組 月に立つ宇宙飛行士}}
* {{NHK放送史|D0009030090_00000|アポロ11号 月面着陸}}
{{アポロ計画}}
{{月探査機}}
{{月}}
{{NASA space program}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:あほろ11こう}}
[[Category:アポロ計画|11こう]]
[[Category:1969年の宇宙飛行]]
[[Category:1969年のアメリカ合衆国]]
[[Category:1969年7月]]
[[Category:天文学に関する記事]] | 2003-02-19T01:34:08Z | 2023-11-14T07:07:18Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9D%E3%83%AD11%E5%8F%B7 |
2,347 | 日本プロサッカーリーグ | 日本プロサッカーリーグ(にほんプロサッカーリーグ、英: Japan Professional Football League)は、日本のプロサッカーリーグ。略称はJリーグ(ジェイリーグ、英: J.LEAGUE)。
主催団体は公益財団法人日本サッカー協会(JFA)、公益社団法人日本プロサッカーリーグ。主管団体はJリーグに加盟する各クラブ。加盟するには参加カテゴリーに対応した単年のみ有効のクラブライセンスが必要である。
1993年に10クラブで開始し、1998年までは1部のみの「Jリーグ」として最大で18クラブによって開催された。1999年から「Jリーグ ディビジョン1」(現:J1リーグ/J1)と「Jリーグ ディビジョン2」(現:J2リーグ/J2)の2部制に移行、2014年に「J3リーグ」(J3)が創設され3部制に移行した。J3リーグは日本サッカーのリーグ構成上、アマチュア最高峰の日本フットボールリーグ(JFL)と同格と位置付けられており、J1・J2とJ3とではリーグエンブレムや参加要件等様々な点で差別化されている。
2023年シーズン開始時点で、日本国内の41都道府県に本拠地を置く60クラブ(J1:18、J2:22、J3:20)が参加、また、JFLなどのカテゴリーに属するJリーグ百年構想クラブが11クラブ認定されている。リーグ構成については日本サッカーのリーグ構成 (1種)を参照。
J1リーグにおける年間最終順位上位3クラブは、同年度の天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会優勝クラブとともに、翌年度のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)出場権を与えられる(J1上位3クラブと天皇杯優勝クラブが重複した場合は、J1の4位に出場権が与えられる)。AFCチャンピオンズリーグにおける日本のサッカークラブも参照。
Jリーグでは、次の3つの理念を掲げている。
また、次の内容の活動方針を掲げている。
この活動方針は、Jリーグの3つの理念を実現するための方法とみなせる。
Jリーグでは地域密着の観点の方針としてクラブ名称を原則として、「地名+愛称」としており、運営母体となった企業名等は発足当初から原則排除している。ただし、リーグ開幕前に行われた1992Jリーグヤマザキナビスコカップならびに開幕当初の一部報道、並びに日本サッカー協会に登記した正式チーム名では、「読売ヴェルディ」(ヴェルディ川崎)、「三菱浦和レッドダイヤモンズ」(浦和レッドダイヤモンズ)、「パナソニックガンバ大阪」(ガンバ大阪)、「日産FC横浜マリノス」(横浜マリノス)といった運営母体の企業名を含めた表記を行っていた事例もある。
このことについて、Jリーグ初期のころ、初代チェアマン・川渕三郎と、企業名重視を訴えた読売新聞主筆・読売巨人軍会長などを歴任した渡邉恒雄が対立した「川渕・渡邉論争」という問題が起きた。渡邊は「Jリーグの理念は空疎だ」として、企業名を排除し、地域名を重視するのは現実離れしていると主張したもので、実際1993年の読売新聞系メディアではヴェルディ川崎を「読売ヴェルディ(川崎)」と企業名を出して報道していた。
川淵は、2023年12月5日に東京都内で開催された講演の中で「当時は地域に根差すのは空疎と言われた。日本の人ほとんどが『地域に根差したスポーツクラブ』って何ぞやと思っていた」と振り返った上で、「地域性を重視した決断だった」ことを明らかにしている。
その後、スポーツ報知の取材で、早ければ2024年度のリーグ戦から、企業名をチーム名に入れることを認める方向で最終調整していることが分かった。Jリーグは日本における他のスポーツリーグのプロ化をするにあたってのモデルになるなど、地域社会に必要な存在となるが、クラブ経営はコロナによる収入減や助っ人外国人枠の変化などによる負担増など、費用対効果の課題が残るとされており、チーム名に企業・団体名を入れることによって、絶大な宣伝効果が表れ、資金確保の期待にもつながるといわれている。一部では出資が制限されている外資系企業がクラブスポンサーにつくことも容認することも報じられている。この報道について、Jリーグでは、「本件は、実行委員会や理事会でも全く検討されていない内容であり、事実無根です。」と否定した上で「Jリーグでは、Jリーグ規約にて「チーム名および呼称には地域名(ホームタウン)が含まれているものとする」と定めており、今後も地域と一体となったクラブづくり、サッカーの普及、振興につとめてまいります。」とコメントしている。
日本におけるサッカー競技は、アマチュア主体の全国リーグである日本サッカーリーグ(JSL)が1965年に創設され、1968年の日本代表のメキシコ五輪銅メダル獲得もあり、一時的に人気を得たが、その後の日本代表の成績不振もあり、長らく観客動員は低迷した。1980年代にプロ化を視野に入れた読売クラブ×日産自動車は観客を集めたものの、総じて日本リーグの人気は停滞し、マスメディアにも大きく扱われるほどの存在ではなかった。JSLや日本サッカー協会(JFA)ではその様な状況を打破しようと、1982年からリーグ主導の試合開催から、各チームが試合を主催する「自主運営」に移行したり、1984年には釜本邦茂の後ろ向きヌードポスター『格闘技宣言。』、1985年には明石家さんまの上半身裸のポスターを製作するなど、人気回復に向け模索を続けていたが上手くいかなかった。日本サッカーのプロ化としては、1968年に日本代表がメキシコ五輪で銅メダルを獲得した後、当時の日本蹴球協会(日本サッカー協会)会長・野津謙が将来の"プロ化導入"を目指して読売新聞社社主の正力松太郎にプロサッカーチームの創設を依頼したり、1977年にドイツブンデスリーガで、日本人初のプロサッカー選手となった奥寺康彦が、1986年に帰国し古河電工に復帰する際、森健兒が導入したスペシャル・ライセンス・プレーヤー制度により奥寺、木村和司を始め、翌年からはJSLの多くの選手がプロになっていた。また1986 FIFAワールドカップ・アジア予選で、ワールドカップ出場まであと一歩まで迫りながら、韓国代表に敗れ出場を逃した日本代表の森孝慈日本代表監督が、「(プロ化を先んじていた)韓国に追いつくには日本にもプロを作るしかない」と訴え、長沼健サッカー協会専務理事に自身のプロコーチとしての契約を要求したが拒否され辞任したことがあった。
1980年代後半は、プロとアマチュアの選手が混在し、サッカー協会はプロ選手を認めているのにもかかわらず、リーグはアマチュア、日本代表の試合もアマチュア基準に合わせるという歪な状態が続いた。
このような流れを受け、翌1988年3月にJSL総務主事・森健兒、JSL事務局長・木之本興三を中心として設置した「JSL第一次活性化委員会」が、実質的な「Jリーグ」のスタートと見られる 。Jリーグ公式サイトの「Jリーグの歴史」、J.League x JFA公式サイトの「サッカーで振り返る平成史」でも、この1988年3月「JSL活性化委員会」設置をその始まりに置いている。『サッカー批評』は「JSL第一次活性化委員会」を"実質的なプロ化検討委員会の創設"と評している。「JSL第一次活性化委員会」は、6回目の1988年7月21日に、森が「現状改革を進めながら、トップリーグを商業ベースによる事業化を志向した『スペシャルリーグ』(プロリーグ)にすることを検討する」という結論を出し、最終報告書をまとめて日本サッカー協会の理事会に提出した。1988年8月に森の後任として川淵三郎がJSL総務主事となり、同年10月に川淵が「JSL第二次活性化委員会」を設置。サッカー協会内部では“JSLの活性化”では意見が一致し、長沼健や岡野俊一郎ら幹部の中には本音ではリーグをプロ化したいと考える者もいたが、ペレのいた北米リーグが失敗した例もあり、まだまだ“リーグのプロ化”に対しては親会社から出向してきた当時の1部リーグに所属する実業団チーム出身の役員達を中心に「プロ化は時期尚早」や「プロ野球の球団ですら赤字経営なのに、サッカーではまともに採算が取れる訳がない」などの意見が「JSL評議委員会」で大勢を占めた。実業団チームのほとんどは、サッカーを福利厚生の一環と考え「プロ」という言葉に反発を感じる人は少なくなかった。川淵は「活性化委員会」の議論をJSLではなく、日本サッカー協会(JFA)に移さなければ何も始まらないと判断し、翌1989年6月に「JSL第二次活性化委員会」を解散させ、日本サッカー協会の副会長になっていた長沼健に要請し、JFA内に「プロリーグ検討委員会」が設置された。保守的な日本サッカー協会理事会の承認を得るために「検討」という文字が付いていたが、実際には関係者の間では、既にプロリーグの発足は既定の方針として固まっていた。やりようによってはプロリーグが出来るという段階まで来たのはこの「プロリーグ検討委員会」が設置されたときである。プロリーグ構想は具現化され、1991年7月1日、新プロリーグの正式名称を「日本プロサッカーリーグ」とし、愛称を「Jリーグ」とすることを発表、日本初のプロサッカーリーグの「日本プロサッカーリーグ」(Jリーグ)が発足した。「Jリーグ」という呼称は、博報堂が提出した複数の案の中から川淵が気に入り採用に至ったもの。博報堂は「釜本のポスター」からJSLと接点を持っていたが、当時は会社のビジネスではなく、個人のネットワークを生かした手伝い程度の物で、電通がペレの引退興行を始め、サッカー協会に深く入り込んでいて入る余地はなかった。しかしプロサッカーリーグに関しては電通は「実現性が乏しい」と判断していたといわれる。Jリーグを博報堂が手掛けることになったのは長沼副会長からのリンクといわれる。
1986年6月のメキシコワールドカップ開催中の会見で、FIFAの第7代会長・ジョアン・アヴェランジェから、1998年か2002年をアジアでのFIFAワールドカップ最初の開催地として日本が念頭にあるような示唆を得て、1989年11月、正式にFIFAに2002 FIFAワールドカップ日本開催の意思を伝える。日本がワールドカップを開催するにふさわしい国であることを証明するためにも、FIFAの要求を満たすスタジアムの建設などの他、日本代表のワールドカップ初出場を念頭に置いた強化とそれに伴うプロリーグ創設、成功が不可欠となった。ワールドカップはオリンピックとは違い、全国展開のため、拠点拠点にFIFAの要求を満たすスタジアムを造らねばならず、ワールドカップの招致とプロリーグ創設を結び付けた。サッカー協会内の慎重論から川淵らを後押しした長沼は、「プロリーグの成功とワールドカップ誘致は、車の車輪であると認識した。同時並行で推進しなければ、片方がつまずけば両方ころぶ。幸いバブル経済の余韻が残っていた時期に、Jリーグのスタートが間に合った」と述べている。また、あれほど弱かった日本代表が、Jリーグ開始前に突然強くなったこともJリーグ人気を後押しした。Jリーグが創設されると川淵がJリーグチェアマンとして、日本代表の強化委員長としてマスメディアに盛んに露出し脚光を浴びたため、Jリーグは川淵が作ったかのようにイメージが付いた。プロリーグの創設は、日本のサッカーを盛んにしたい、強くしたいという多くの人たちの長年の仕事の積み上げにより作られたものではあるが、最後の一歩は川淵のバイタリティ、強引さが大きな原動力になった事も事実ではある。しかし、森健兒と木之本興三は、不毛状態が続いた日本サッカーリーグ時代から長きに渡りプロ化を考え、その運営に携わっていて、川淵は日本サッカーに絶望し、一時サッカー界から離れていた時期があり、後から入って来た川淵に手柄を取られたようで面白くなかった。川淵は最初にプロリーグの話を聞いたときも「バカじゃないか」と思ったと話しており、森の後任でJSL総務主事に抜擢された際も、木之本から「プロ化する気持ちがないなら来ないで」と言われたほどで、森は「プロ化の道筋をつけてから川淵さんにバトンタッチした」と述べている。特に木之本にとって川淵は古河電工でのかつての上司でもあり、当初の関係は悪くはなかったが、2002 FIFAワールドカップ後、読売新聞に次期チェアマン候補として木之本の名前が出ると、急に木之本と川淵の関係が悪くなった。川淵の後任チェアマンには鈴木昌が就任したが、木之本は「公平な立場でなければならないチェアマンにクラブ出身の社長はまだ早い」と反対したら、鈴木と川淵からJリーグ専務理事・JFA常任理事と、Jリーグ映像他、Jリーグ関連の子会社の社長を解雇され、Jリーグ及びJFAから追い出された。森、木之本の二人と川淵の間に確執が生まれ、この恨みからか『日刊ゲンダイ』などのマスメディアで川淵を批判した。
1992年には前哨戦として、ヤマザキナビスコ(現・ヤマザキビスケット)をスポンサーとし第1回のJリーグヤマザキナビスコカップが開催された。
Jリーグ加盟の要件には、スタジアム・経営状況・チーム運営状況などの項目が定められている。チーム運営については、実際にJリーグの試合に参加するチームそのもののみならず、育成組織(下部組織)によるクラブユースチームの運営義務なども規定されている。2013年シーズンよりJリーグクラブライセンス制度が発足し、Jリーグへの加盟可否・加盟可能なディビジョンについての判断を行う制度が更新された。
また2006年から、Jリーグ加盟の基準を満たしているか近い将来満たせそうと判断されたクラブを「Jリーグ準加盟」と認定することを定め、J3発足後の2014年以降は代わって「Jリーグ百年構想クラブ」と呼称するものとしている。
クラブのカテゴリ並びに掲載順序は2023年シーズンのクラブ編成 に基づく全60クラブの一覧順による。ホームスタジアムについては2023年時点でJリーグコーポレートサイトにおいて示されているスタジアム について記す。複数の資料で記述にぶれがあるものについては、Jリーグ公式サイトのクラブガイドの記述に基づき、スタジアム名称は命名権によるものとした(命名権の取り扱いについては各スタジアムの記事を参照)。
Jリーグ未加盟クラブのうち2023シーズンJ3クラブライセンスが交付されたクラブ(Jリーグ百年構想クラブを含む)。
Jリーグ百年構想クラブのうちJ3クラブライセンスが交付されたクラブについては前述。
1998年にJ1参入決定戦を実施。1999年からはJ1・J2の2部制への移行に伴い、入替制度を導入した。2012年以降はJ2と下部リーグ(2012年は日本フットボールリーグ(JFL)、2013年のポストシーズン以降はJ3)との入替制度も導入された。
※2023年11月25日現在
Jリーグ各クラブに対しては、Jリーグ規約第122条〔収入の配分〕ならびにJリーグ配分金規程に基づき、(公財)日本プロサッカーリーグの得た事業(付随事業、公衆送信権、その他の事業、パートナー契約)による収益の一部を各クラブに「配分金」として分配している。以下の5種類がある。
なお、この配分金の構造については、リーグの成長促進を目的として2023年度以降見直されることになっており、特にカテゴリー間の定額配分金の配分比率を5-6倍程度まで段階的に拡大させることが言及されると共に、同一カテゴリー内の配分方法も均等配分中心から競技成績やファン増加等の成果に応じた傾斜配分中心へ段階的にシフトすることが明らかにされている。
Jリーグでは各クラブが不正行為や選手・観客のトラブルなどがあった場合に以下の順で制裁処置をとる場合がある。制裁措置についてはJリーグ規約第141条から第143条に定めがあり、裁定委員会もしくは関連する専門委員会の調査結果を踏まえて、チェアマンが最終的な制裁措置の判断を下すとされている。
制裁措置はクラブ、及びクラブに所属する個人に対して行われ、以下のような段階が設けられている。
※中立地開催・無観客試合・没収試合・強制降格は2014年から設けられた。
リーグ戦は基本的に試合は毎週土曜日または日曜日に開催している。スケジュールの都合で週2試合とする必要がある場合には水曜日に試合を行うことがあるほか、祝日の配列の関係で変則的な試合間隔となるケースもある。
土曜日・日曜日に開催される試合は基本的にデイマッチであるが、各節数試合はテレビ中継に配慮する形でナイトマッチでも行われることがあるほか、夏期(おおむね6月下旬から9月上旬にかけて)のJ1・J2の試合は原則としてナイトマッチで開催される。また、祝祭日以外の平日に開催される試合は原則としてナイトマッチで開催されている(2022年度まで照明設備を必須としていなかったJ3を含め、かつては施設の都合等で平日の開催でもデイマッチを行う事があった。)。
なお、最終節は基本的に全試合の開催日と試合開始時間を統一している。
2008年以降、日本代表の試合のある日は原則として、JリーグカップおよびJ2の試合は組まれない(この間、J1は日本代表に選出されている選手の強化期間としているため、リーグ戦の試合自体が組まれない)。また、試合予定が未定の分で、日本代表の試合が予定されている場合は土曜、日曜両方で開催できるように対応している。
試合日程については、概ね1月中旬に、各クラブのホームゲーム開幕節の試合日程・対戦組み合わせ・試合会場のみを先行で発表し、1月末もしくは2月上旬に残り全試合の詳細な試合日程・組み合わせ・試合会場、並びに前半戦(概ね8月下旬まで J1リーグが2シーズン制となる年は、第1ステージの17試合分のみ)の試合開始時間を、6月下旬または7月初めに後半戦(概ね9月以後 J1リーグの2シーズン制となる年の第2ステージ17試合についても同様であるが、第2ステージの開始時期によっては前倒しとなる場合あり)の試合開始時間について発表される。
その他、同一都道府県・市区町村を本拠地とするクラブが複数ある場合は、極力同じ節にホームゲームを開催しないように日程を調整している(2011年の場合はJ1のさいたま市、神奈川県、静岡県、大阪府、J2の東京都、神奈川県が該当)。ただし、初期の頃は横浜市の2チームが同じ日にホームゲームをしたことがあった。2011年にもJ1のさいたまと大阪、J2の東京都、さらにJ1・J2それぞれ2クラブずつの神奈川県の2チームが同じ節にホームゲームをする場合があるが、このときでもやむをえない場合を除き原則として、どちらかが土曜日、もう一方は日曜日の開催 とするように配慮されている。
なお、2012年から2016年までJ1とJ2の開催日が分けられていたこと、及びキックオフ時間がずらされていたが、これは当時Jリーグ中継を担当していたスカパー!のチャンネル数や放送時間の制約によるものであったことが、2016年のJリーグとDAZNの契約記者会見の際に明らかにされており、現在は土曜か日曜のどちらを開催日にするかはクラブ側に委ねられているという。
アウェイゲームは原則3試合以上連続しないこととなっているが、日程の兼ね合いやその他イベントの影響 などでアウェイゲームが3試合以上連続することもある。特に降雪地では気候的理由もあって開幕直後はアウェイゲームが続くことが多い。
2010年8月8日、J1およびJ2のリーグ戦における通算のべ入場者数が1億人に到達した。なお、カップ戦やオールスターゲームなどの公式試合を含めた通算のべ入場者は、2009年3月に1億人を突破している。
なお、イギリスのサッカー専門誌『World Soccer』が2009年8月号で掲載した統計によると、世界各国のサッカーリーグで平均入場者数が最も多いのはブンデスリーガの38,975人であり、J1リーグは19,278人(2008年シーズン)で第6位に位置している。
1993年から1996年までは「ミズノ」が全クラブのユニフォーム・サプライヤー(供給メーカー)を一括して受け持っていた。ただ、その契約はリーグ戦のみの契約だったので、天皇杯やJリーグカップなどのカップ戦では各クラブが個別にユニフォームメーカー等と契約して、カップ戦用のユニフォームを着用していた。全面的にミズノと契約したクラブの場合、チームや年度によってリーグ戦と全く同一の場合と、他社契約時と同様にデザインを変えていた場合とがあった。またリーグ戦とカップ戦(チームによってはJリーグカップ・天皇杯など大会ごとにも)でユニフォームスポンサーが異なることもあった他、天皇杯や海外のクラブとの試合などでは、当時変動背番号制だったリーグ戦では存在しなかった17番以上の背番号や、選手名を入れたユニフォームがあった。
1997年にはこれまでの「ミズノ」に加えて、「アンブロ」・「アディダス」・「プーマ」(ヴェルディ川崎は自主制作という形で「ナイキ」)が新たなユニフォーム・サプライヤー(これもリーグ戦限定)として加わり、1998年からは事前にJリーグとユニフォーム・サプライヤー契約を結んでいるユニフォームメーカーなどに限って、各クラブがユニフォームメーカーなどの各社と個別の契約を締結することができるようになった。
3rdユニフォームは横浜FMと名古屋がJリーグでは2001年になって初めて採用したが、現在ではその年のACLに参戦をするクラブを中心に数クラブが導入している。また、Jリーグ事務局長の事前承認があれば、「ユニフォーム使用計画」に定めるユニフォームとは異なるユニフォームを着用することができる。なお、Jリーグ年間王者のクラブは、金色のJリーグロゴマークをチャンピオンマークとして翌シーズン、ユニフォームの袖にJリーグのロゴに代えて付けることができる。
国内公式戦(リーグ、リーグカップ、天皇杯)では、ユニフォームの前面胸部と、背番号上部、左袖、トランクスにそれぞれスポンサー広告を付けることが認められている。2016年からは背番号下部、2018年からは前面鎖骨部(左側および右側)に関してもスポンサーを付けることが認められたが、これ以前にもFC東京とガンバ大阪が背番号下部のところに広告を入れた事例がある。
視認性の確保(特にカラーユニバーサルデザインの観点から)を目的として、2021年シーズンからユニフォームに用いる背番号・選手名表記のフォント及び配色がJリーグ全体で統一された。統一フォントはカールスバーグのビジュアルデザインなどを手がけたデンマークのコントラプンクト社が制作したオリジナルフォントの「J.LEAGUE KICK」(ジェイリーグ・キック)で、フォントで使用可能な色も白・青・赤・黒・黄の5色に指定された。
1993年から1996年までは試合ごとに付ける番号が違う変動背番号制であったが、1997年からはシーズン開幕前やクラブ加入時点で決定される固定背番号制へと変更された。
2004年には欠番の解禁など規約が一部改定されたことで特定の番号(12が多い)をクラブ公式にサポーターズナンバーとし欠番とするクラブが出てきた。
2018年5月30日、Jリーグの理事会が開催され、シーズン途中の背番号変更が可能となり、同日から適用された。初適用者は当時ヴィッセル神戸の三田啓貴で、8から7へ変更となった。
2023年シーズン現在の主な規約内容は以下の通り。
なお、変動背番号制であった1996年にはG大阪の今藤幸治がGKの番号である1以外の2から11までの背番号を付けた事がある。
固定背番号導入当初、天皇杯では、Jリーグへの届け出とは別に背番号を登録したため、リーグ戦と異なる背番号を着用した例がある。
Jリーグの試合では、Jリーグの公式ロゴマークが入っているJリーグ公認の試合球(公式試合球)が使用されている。なお、1993年の開幕戦でヘニー・マイヤー(V川崎)が決めたJリーグ第1号ゴールの試合球はJリーグ事務局のチェアマン室に、ガラスケースに入れて保存されている。
製造は全てアディダス、提供は全てモルテン。
日本サッカー協会に登録された1級審判員の中から推薦、決定されJリーグ担当審判員となる。2021年シーズンの場合、主審担当者が59名、副審担当者が99名。この中には日本サッカー協会の認定したプロフェッショナルレフェリー (PR) がおり、審判員としての報酬のみで生計を立てている。
2020年シーズンからJ1全試合においてビデオ・アシスタント・レフェリー (VAR) が導入されることが決まっていた ものの、新型コロナウイルスの影響により実施が見送られた。しかし、その後2021年からVARの導入が決まった。
毎試合、Jリーグの試合会場にはJリーグフラッグと対戦する両クラブのフラッグ(旗)が掲げられる。フラッグのデザインは自クラブのクラブカラーを基調とし、自クラブのロゴタイプやエンブレムが入っていることが一般的である。また、Jリーグ旗の横や下などにFIFAのフェアプレーフラッグが掲げられている場合があるほか、選手が入場する際には必ずスターティングメンバーのサインが入ったJリーグのフェアプレーフラッグを先頭にしてピッチへ入場する。なお、リーグ戦で使用されるJリーグフラッグは2種類あり、通常の試合会場では主に無地のフラッグが使われている。
特に規約では規定されていないものの、リーグ戦では一部クラブ除き選手入場時にアンセムが流れる。1993年のJリーグ開幕時、Jリーグ公式テーマソング「J'S THEME(Jのテーマ)」をTUBEのギタリスト春畑道哉が制作し、開幕のオープニングセレモニーで演奏した。Jリーグに関するイベントやスタジアムなどで使用されている。また、岸利至の作曲によるJリーグの公式アンセム「THE GLORY」も存在し、一部のクラブでアンセムとして使用しているが、多くのクラブがクラブオリジナルのアンセムを作成し、入場時に流している。
なお、Jリーグ開幕30周年の企画として、2023年5月15日のJリーグ開幕30周年を迎えるのを機に、RADWIMPSが、新しいアンセムを制作することになった。
ルヴァンカップは専用のアンセム(作曲:☆Taku Takahashi)を使用する。
Jリーグに所属するクラブはアカデミー(下部組織、Jリーグの用語では「育成組織」)をもつことを義務つけている。アカデミーはJFAに世代別のチームとして登録され(日本サッカー協会チーム登録種別を参照)、Jリーグの主催する各大会やJFA主催大会などに出場する。
Jリーグ(リーグ戦)の公式スポンサーはJ1の試合会場で広告看板を掲示できるほか、新聞や雑誌、放送媒体の広告でJリーグのロゴマークとともに「(企業名)はJリーグの○○パートナーです」、あるいは「(企業名)はJリーグを応援しています」のクレジットを掲載できる。また、各所属クラスに関係なく、試合前後の時間やハーフタイム中に試合会場の電光掲示板や場内放送で企業名を読み上げられる。
2011年度までの協賛カテゴリーは「オフィシャルスポンサー」と、それ以外のスポンサー(用具サプライヤー、90度システム広告スポンサーなど)とに区分されていたが、2012年度から原則として「○○パートナー」に呼称を統一させており、スポンサー・サプライヤーのカテゴリーをよりわかりやすく細分化している。
Jリーグは2021年4月6日に行われた実行委員会後の記者会見で、リーグの将来像を議論する「リプランニング推進チーム」を2021年4月1日付で創設したことを明らかにした。専務理事の木村正明が中心となって推進するもので、以下の項目について実現可能性の模索、前提となる研究分析を検討していくことが示されている。
このうち、「リーグ構造の見直し」に関しては、2014年の時点でJ1・J2・J3の合計クラブ数の上限を60と設定していることを明らかにし、J3クラブが20クラブに達した時点で以降の形をどのようにするかを検討する内容で2021年9月末までに結論を出す意向であることを明らかにしており、一部メディアが報じた、J1リーグよりも上位に位置するいわゆる「プレミアリーグ」を設置する構想 については、意見としてはあるものの「一切議題には入っていない」と否定している。
また、『上場も考慮した資本流動性の研究』の一環として、「株式異動に関わるルール・規則」については、2022年2月28日にオンラインで行われたJリーグ理事会で決議され、2022年3月1日付で改定された。この改定では、現状不可能であるサッカークラブの株式上場がJリーグの新しい成長戦略として挙げられ、資本力のある投資家を呼び込み、クラブの経営管理体制を強化するといったJリーグ自体の発展に加え、価値の向上に反映させていくことが目的とされる一方で、インテグリティの観点によって、サッカークラブの株式保有の禁止対象について、再定義させることになったもの。また、15%未満の保有株式が移行した場合に、Jリーグへの報告義務は廃止となるが、敵対的買収や反社会的勢力などの不適切な株主への対策の一環として、15%以上保有する大口の株主の場合はJリーグの方で審査を行うことになった。
2022年11月15日に、Jリーグは、新たな成長戦略として「58クラブが、それぞれの地域で輝く」と「トップ層が、ナショナル(グローバル)コンテンツとして輝く」という2つの成長テーマを掲げ、その上で、「配分金構造の見直し」と「リーグ組織のガバナンス改革」という、2つの「成長戦略を実現するための構造改革」を行うことを明らかにした。「成果創出を後押しし、高みへの挑戦を促す新たな配分ルールへ」を目的とした「配分金構造の見直し」に関しては、「カテゴリー間の配分比率の見直し」と「同一カテゴリー内の配分方法の見直し」を掲げ、また、「リーグ組織のガバナンス改革」に関しては、「より質の高い議論とスピーディーな意思決定を実現する会議のあり方へ」を目的とした「会議等の意思決定構造の見直し」として「理事会の見直し」と「実行委員会の見直し」を掲げ、そして、「クラブの成果創出を実現できる執行体制の強化」を目的とした「リーグ執行機関の組織構造の見直し」として「執行役員の新設」と「変動報酬制の導入」、それに、「経営会議の新設」を掲げている。 | [
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"text": "Jリーグでは、次の3つの理念を掲げている。",
"title": "理念と活動方針"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "また、次の内容の活動方針を掲げている。",
"title": "理念と活動方針"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "この活動方針は、Jリーグの3つの理念を実現するための方法とみなせる。",
"title": "理念と活動方針"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "Jリーグでは地域密着の観点の方針としてクラブ名称を原則として、「地名+愛称」としており、運営母体となった企業名等は発足当初から原則排除している。ただし、リーグ開幕前に行われた1992Jリーグヤマザキナビスコカップならびに開幕当初の一部報道、並びに日本サッカー協会に登記した正式チーム名では、「読売ヴェルディ」(ヴェルディ川崎)、「三菱浦和レッドダイヤモンズ」(浦和レッドダイヤモンズ)、「パナソニックガンバ大阪」(ガンバ大阪)、「日産FC横浜マリノス」(横浜マリノス)といった運営母体の企業名を含めた表記を行っていた事例もある。",
"title": "理念と活動方針"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "このことについて、Jリーグ初期のころ、初代チェアマン・川渕三郎と、企業名重視を訴えた読売新聞主筆・読売巨人軍会長などを歴任した渡邉恒雄が対立した「川渕・渡邉論争」という問題が起きた。渡邊は「Jリーグの理念は空疎だ」として、企業名を排除し、地域名を重視するのは現実離れしていると主張したもので、実際1993年の読売新聞系メディアではヴェルディ川崎を「読売ヴェルディ(川崎)」と企業名を出して報道していた。",
"title": "理念と活動方針"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "川淵は、2023年12月5日に東京都内で開催された講演の中で「当時は地域に根差すのは空疎と言われた。日本の人ほとんどが『地域に根差したスポーツクラブ』って何ぞやと思っていた」と振り返った上で、「地域性を重視した決断だった」ことを明らかにしている。",
"title": "理念と活動方針"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "その後、スポーツ報知の取材で、早ければ2024年度のリーグ戦から、企業名をチーム名に入れることを認める方向で最終調整していることが分かった。Jリーグは日本における他のスポーツリーグのプロ化をするにあたってのモデルになるなど、地域社会に必要な存在となるが、クラブ経営はコロナによる収入減や助っ人外国人枠の変化などによる負担増など、費用対効果の課題が残るとされており、チーム名に企業・団体名を入れることによって、絶大な宣伝効果が表れ、資金確保の期待にもつながるといわれている。一部では出資が制限されている外資系企業がクラブスポンサーにつくことも容認することも報じられている。この報道について、Jリーグでは、「本件は、実行委員会や理事会でも全く検討されていない内容であり、事実無根です。」と否定した上で「Jリーグでは、Jリーグ規約にて「チーム名および呼称には地域名(ホームタウン)が含まれているものとする」と定めており、今後も地域と一体となったクラブづくり、サッカーの普及、振興につとめてまいります。」とコメントしている。",
"title": "理念と活動方針"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "日本におけるサッカー競技は、アマチュア主体の全国リーグである日本サッカーリーグ(JSL)が1965年に創設され、1968年の日本代表のメキシコ五輪銅メダル獲得もあり、一時的に人気を得たが、その後の日本代表の成績不振もあり、長らく観客動員は低迷した。1980年代にプロ化を視野に入れた読売クラブ×日産自動車は観客を集めたものの、総じて日本リーグの人気は停滞し、マスメディアにも大きく扱われるほどの存在ではなかった。JSLや日本サッカー協会(JFA)ではその様な状況を打破しようと、1982年からリーグ主導の試合開催から、各チームが試合を主催する「自主運営」に移行したり、1984年には釜本邦茂の後ろ向きヌードポスター『格闘技宣言。』、1985年には明石家さんまの上半身裸のポスターを製作するなど、人気回復に向け模索を続けていたが上手くいかなかった。日本サッカーのプロ化としては、1968年に日本代表がメキシコ五輪で銅メダルを獲得した後、当時の日本蹴球協会(日本サッカー協会)会長・野津謙が将来の\"プロ化導入\"を目指して読売新聞社社主の正力松太郎にプロサッカーチームの創設を依頼したり、1977年にドイツブンデスリーガで、日本人初のプロサッカー選手となった奥寺康彦が、1986年に帰国し古河電工に復帰する際、森健兒が導入したスペシャル・ライセンス・プレーヤー制度により奥寺、木村和司を始め、翌年からはJSLの多くの選手がプロになっていた。また1986 FIFAワールドカップ・アジア予選で、ワールドカップ出場まであと一歩まで迫りながら、韓国代表に敗れ出場を逃した日本代表の森孝慈日本代表監督が、「(プロ化を先んじていた)韓国に追いつくには日本にもプロを作るしかない」と訴え、長沼健サッカー協会専務理事に自身のプロコーチとしての契約を要求したが拒否され辞任したことがあった。",
"title": "設立経緯"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1980年代後半は、プロとアマチュアの選手が混在し、サッカー協会はプロ選手を認めているのにもかかわらず、リーグはアマチュア、日本代表の試合もアマチュア基準に合わせるという歪な状態が続いた。",
"title": "設立経緯"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "このような流れを受け、翌1988年3月にJSL総務主事・森健兒、JSL事務局長・木之本興三を中心として設置した「JSL第一次活性化委員会」が、実質的な「Jリーグ」のスタートと見られる 。Jリーグ公式サイトの「Jリーグの歴史」、J.League x JFA公式サイトの「サッカーで振り返る平成史」でも、この1988年3月「JSL活性化委員会」設置をその始まりに置いている。『サッカー批評』は「JSL第一次活性化委員会」を\"実質的なプロ化検討委員会の創設\"と評している。「JSL第一次活性化委員会」は、6回目の1988年7月21日に、森が「現状改革を進めながら、トップリーグを商業ベースによる事業化を志向した『スペシャルリーグ』(プロリーグ)にすることを検討する」という結論を出し、最終報告書をまとめて日本サッカー協会の理事会に提出した。1988年8月に森の後任として川淵三郎がJSL総務主事となり、同年10月に川淵が「JSL第二次活性化委員会」を設置。サッカー協会内部では“JSLの活性化”では意見が一致し、長沼健や岡野俊一郎ら幹部の中には本音ではリーグをプロ化したいと考える者もいたが、ペレのいた北米リーグが失敗した例もあり、まだまだ“リーグのプロ化”に対しては親会社から出向してきた当時の1部リーグに所属する実業団チーム出身の役員達を中心に「プロ化は時期尚早」や「プロ野球の球団ですら赤字経営なのに、サッカーではまともに採算が取れる訳がない」などの意見が「JSL評議委員会」で大勢を占めた。実業団チームのほとんどは、サッカーを福利厚生の一環と考え「プロ」という言葉に反発を感じる人は少なくなかった。川淵は「活性化委員会」の議論をJSLではなく、日本サッカー協会(JFA)に移さなければ何も始まらないと判断し、翌1989年6月に「JSL第二次活性化委員会」を解散させ、日本サッカー協会の副会長になっていた長沼健に要請し、JFA内に「プロリーグ検討委員会」が設置された。保守的な日本サッカー協会理事会の承認を得るために「検討」という文字が付いていたが、実際には関係者の間では、既にプロリーグの発足は既定の方針として固まっていた。やりようによってはプロリーグが出来るという段階まで来たのはこの「プロリーグ検討委員会」が設置されたときである。プロリーグ構想は具現化され、1991年7月1日、新プロリーグの正式名称を「日本プロサッカーリーグ」とし、愛称を「Jリーグ」とすることを発表、日本初のプロサッカーリーグの「日本プロサッカーリーグ」(Jリーグ)が発足した。「Jリーグ」という呼称は、博報堂が提出した複数の案の中から川淵が気に入り採用に至ったもの。博報堂は「釜本のポスター」からJSLと接点を持っていたが、当時は会社のビジネスではなく、個人のネットワークを生かした手伝い程度の物で、電通がペレの引退興行を始め、サッカー協会に深く入り込んでいて入る余地はなかった。しかしプロサッカーリーグに関しては電通は「実現性が乏しい」と判断していたといわれる。Jリーグを博報堂が手掛けることになったのは長沼副会長からのリンクといわれる。",
"title": "設立経緯"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "1986年6月のメキシコワールドカップ開催中の会見で、FIFAの第7代会長・ジョアン・アヴェランジェから、1998年か2002年をアジアでのFIFAワールドカップ最初の開催地として日本が念頭にあるような示唆を得て、1989年11月、正式にFIFAに2002 FIFAワールドカップ日本開催の意思を伝える。日本がワールドカップを開催するにふさわしい国であることを証明するためにも、FIFAの要求を満たすスタジアムの建設などの他、日本代表のワールドカップ初出場を念頭に置いた強化とそれに伴うプロリーグ創設、成功が不可欠となった。ワールドカップはオリンピックとは違い、全国展開のため、拠点拠点にFIFAの要求を満たすスタジアムを造らねばならず、ワールドカップの招致とプロリーグ創設を結び付けた。サッカー協会内の慎重論から川淵らを後押しした長沼は、「プロリーグの成功とワールドカップ誘致は、車の車輪であると認識した。同時並行で推進しなければ、片方がつまずけば両方ころぶ。幸いバブル経済の余韻が残っていた時期に、Jリーグのスタートが間に合った」と述べている。また、あれほど弱かった日本代表が、Jリーグ開始前に突然強くなったこともJリーグ人気を後押しした。Jリーグが創設されると川淵がJリーグチェアマンとして、日本代表の強化委員長としてマスメディアに盛んに露出し脚光を浴びたため、Jリーグは川淵が作ったかのようにイメージが付いた。プロリーグの創設は、日本のサッカーを盛んにしたい、強くしたいという多くの人たちの長年の仕事の積み上げにより作られたものではあるが、最後の一歩は川淵のバイタリティ、強引さが大きな原動力になった事も事実ではある。しかし、森健兒と木之本興三は、不毛状態が続いた日本サッカーリーグ時代から長きに渡りプロ化を考え、その運営に携わっていて、川淵は日本サッカーに絶望し、一時サッカー界から離れていた時期があり、後から入って来た川淵に手柄を取られたようで面白くなかった。川淵は最初にプロリーグの話を聞いたときも「バカじゃないか」と思ったと話しており、森の後任でJSL総務主事に抜擢された際も、木之本から「プロ化する気持ちがないなら来ないで」と言われたほどで、森は「プロ化の道筋をつけてから川淵さんにバトンタッチした」と述べている。特に木之本にとって川淵は古河電工でのかつての上司でもあり、当初の関係は悪くはなかったが、2002 FIFAワールドカップ後、読売新聞に次期チェアマン候補として木之本の名前が出ると、急に木之本と川淵の関係が悪くなった。川淵の後任チェアマンには鈴木昌が就任したが、木之本は「公平な立場でなければならないチェアマンにクラブ出身の社長はまだ早い」と反対したら、鈴木と川淵からJリーグ専務理事・JFA常任理事と、Jリーグ映像他、Jリーグ関連の子会社の社長を解雇され、Jリーグ及びJFAから追い出された。森、木之本の二人と川淵の間に確執が生まれ、この恨みからか『日刊ゲンダイ』などのマスメディアで川淵を批判した。",
"title": "設立経緯"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "1992年には前哨戦として、ヤマザキナビスコ(現・ヤマザキビスケット)をスポンサーとし第1回のJリーグヤマザキナビスコカップが開催された。",
"title": "設立経緯"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "Jリーグ加盟の要件には、スタジアム・経営状況・チーム運営状況などの項目が定められている。チーム運営については、実際にJリーグの試合に参加するチームそのもののみならず、育成組織(下部組織)によるクラブユースチームの運営義務なども規定されている。2013年シーズンよりJリーグクラブライセンス制度が発足し、Jリーグへの加盟可否・加盟可能なディビジョンについての判断を行う制度が更新された。",
"title": "クラブ一覧"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "また2006年から、Jリーグ加盟の基準を満たしているか近い将来満たせそうと判断されたクラブを「Jリーグ準加盟」と認定することを定め、J3発足後の2014年以降は代わって「Jリーグ百年構想クラブ」と呼称するものとしている。",
"title": "クラブ一覧"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "クラブのカテゴリ並びに掲載順序は2023年シーズンのクラブ編成 に基づく全60クラブの一覧順による。ホームスタジアムについては2023年時点でJリーグコーポレートサイトにおいて示されているスタジアム について記す。複数の資料で記述にぶれがあるものについては、Jリーグ公式サイトのクラブガイドの記述に基づき、スタジアム名称は命名権によるものとした(命名権の取り扱いについては各スタジアムの記事を参照)。",
"title": "クラブ一覧"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "Jリーグ未加盟クラブのうち2023シーズンJ3クラブライセンスが交付されたクラブ(Jリーグ百年構想クラブを含む)。",
"title": "クラブ一覧"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "Jリーグ百年構想クラブのうちJ3クラブライセンスが交付されたクラブについては前述。",
"title": "クラブ一覧"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1998年にJ1参入決定戦を実施。1999年からはJ1・J2の2部制への移行に伴い、入替制度を導入した。2012年以降はJ2と下部リーグ(2012年は日本フットボールリーグ(JFL)、2013年のポストシーズン以降はJ3)との入替制度も導入された。",
"title": "クラブ一覧"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "※2023年11月25日現在",
"title": "通算成績"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "Jリーグ各クラブに対しては、Jリーグ規約第122条〔収入の配分〕ならびにJリーグ配分金規程に基づき、(公財)日本プロサッカーリーグの得た事業(付随事業、公衆送信権、その他の事業、パートナー契約)による収益の一部を各クラブに「配分金」として分配している。以下の5種類がある。",
"title": "配分金"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "なお、この配分金の構造については、リーグの成長促進を目的として2023年度以降見直されることになっており、特にカテゴリー間の定額配分金の配分比率を5-6倍程度まで段階的に拡大させることが言及されると共に、同一カテゴリー内の配分方法も均等配分中心から競技成績やファン増加等の成果に応じた傾斜配分中心へ段階的にシフトすることが明らかにされている。",
"title": "配分金"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "Jリーグでは各クラブが不正行為や選手・観客のトラブルなどがあった場合に以下の順で制裁処置をとる場合がある。制裁措置についてはJリーグ規約第141条から第143条に定めがあり、裁定委員会もしくは関連する専門委員会の調査結果を踏まえて、チェアマンが最終的な制裁措置の判断を下すとされている。",
"title": "懲罰"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "制裁措置はクラブ、及びクラブに所属する個人に対して行われ、以下のような段階が設けられている。",
"title": "懲罰"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "※中立地開催・無観客試合・没収試合・強制降格は2014年から設けられた。",
"title": "懲罰"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "リーグ戦は基本的に試合は毎週土曜日または日曜日に開催している。スケジュールの都合で週2試合とする必要がある場合には水曜日に試合を行うことがあるほか、祝日の配列の関係で変則的な試合間隔となるケースもある。",
"title": "開催日時"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "土曜日・日曜日に開催される試合は基本的にデイマッチであるが、各節数試合はテレビ中継に配慮する形でナイトマッチでも行われることがあるほか、夏期(おおむね6月下旬から9月上旬にかけて)のJ1・J2の試合は原則としてナイトマッチで開催される。また、祝祭日以外の平日に開催される試合は原則としてナイトマッチで開催されている(2022年度まで照明設備を必須としていなかったJ3を含め、かつては施設の都合等で平日の開催でもデイマッチを行う事があった。)。",
"title": "開催日時"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "なお、最終節は基本的に全試合の開催日と試合開始時間を統一している。",
"title": "開催日時"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2008年以降、日本代表の試合のある日は原則として、JリーグカップおよびJ2の試合は組まれない(この間、J1は日本代表に選出されている選手の強化期間としているため、リーグ戦の試合自体が組まれない)。また、試合予定が未定の分で、日本代表の試合が予定されている場合は土曜、日曜両方で開催できるように対応している。",
"title": "開催日時"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "試合日程については、概ね1月中旬に、各クラブのホームゲーム開幕節の試合日程・対戦組み合わせ・試合会場のみを先行で発表し、1月末もしくは2月上旬に残り全試合の詳細な試合日程・組み合わせ・試合会場、並びに前半戦(概ね8月下旬まで J1リーグが2シーズン制となる年は、第1ステージの17試合分のみ)の試合開始時間を、6月下旬または7月初めに後半戦(概ね9月以後 J1リーグの2シーズン制となる年の第2ステージ17試合についても同様であるが、第2ステージの開始時期によっては前倒しとなる場合あり)の試合開始時間について発表される。",
"title": "開催日時"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "その他、同一都道府県・市区町村を本拠地とするクラブが複数ある場合は、極力同じ節にホームゲームを開催しないように日程を調整している(2011年の場合はJ1のさいたま市、神奈川県、静岡県、大阪府、J2の東京都、神奈川県が該当)。ただし、初期の頃は横浜市の2チームが同じ日にホームゲームをしたことがあった。2011年にもJ1のさいたまと大阪、J2の東京都、さらにJ1・J2それぞれ2クラブずつの神奈川県の2チームが同じ節にホームゲームをする場合があるが、このときでもやむをえない場合を除き原則として、どちらかが土曜日、もう一方は日曜日の開催 とするように配慮されている。",
"title": "開催日時"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "なお、2012年から2016年までJ1とJ2の開催日が分けられていたこと、及びキックオフ時間がずらされていたが、これは当時Jリーグ中継を担当していたスカパー!のチャンネル数や放送時間の制約によるものであったことが、2016年のJリーグとDAZNの契約記者会見の際に明らかにされており、現在は土曜か日曜のどちらを開催日にするかはクラブ側に委ねられているという。",
"title": "開催日時"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "アウェイゲームは原則3試合以上連続しないこととなっているが、日程の兼ね合いやその他イベントの影響 などでアウェイゲームが3試合以上連続することもある。特に降雪地では気候的理由もあって開幕直後はアウェイゲームが続くことが多い。",
"title": "開催日時"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2010年8月8日、J1およびJ2のリーグ戦における通算のべ入場者数が1億人に到達した。なお、カップ戦やオールスターゲームなどの公式試合を含めた通算のべ入場者は、2009年3月に1億人を突破している。",
"title": "試合入場者数"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "なお、イギリスのサッカー専門誌『World Soccer』が2009年8月号で掲載した統計によると、世界各国のサッカーリーグで平均入場者数が最も多いのはブンデスリーガの38,975人であり、J1リーグは19,278人(2008年シーズン)で第6位に位置している。",
"title": "試合入場者数"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1993年から1996年までは「ミズノ」が全クラブのユニフォーム・サプライヤー(供給メーカー)を一括して受け持っていた。ただ、その契約はリーグ戦のみの契約だったので、天皇杯やJリーグカップなどのカップ戦では各クラブが個別にユニフォームメーカー等と契約して、カップ戦用のユニフォームを着用していた。全面的にミズノと契約したクラブの場合、チームや年度によってリーグ戦と全く同一の場合と、他社契約時と同様にデザインを変えていた場合とがあった。またリーグ戦とカップ戦(チームによってはJリーグカップ・天皇杯など大会ごとにも)でユニフォームスポンサーが異なることもあった他、天皇杯や海外のクラブとの試合などでは、当時変動背番号制だったリーグ戦では存在しなかった17番以上の背番号や、選手名を入れたユニフォームがあった。",
"title": "ユニフォーム"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1997年にはこれまでの「ミズノ」に加えて、「アンブロ」・「アディダス」・「プーマ」(ヴェルディ川崎は自主制作という形で「ナイキ」)が新たなユニフォーム・サプライヤー(これもリーグ戦限定)として加わり、1998年からは事前にJリーグとユニフォーム・サプライヤー契約を結んでいるユニフォームメーカーなどに限って、各クラブがユニフォームメーカーなどの各社と個別の契約を締結することができるようになった。",
"title": "ユニフォーム"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "3rdユニフォームは横浜FMと名古屋がJリーグでは2001年になって初めて採用したが、現在ではその年のACLに参戦をするクラブを中心に数クラブが導入している。また、Jリーグ事務局長の事前承認があれば、「ユニフォーム使用計画」に定めるユニフォームとは異なるユニフォームを着用することができる。なお、Jリーグ年間王者のクラブは、金色のJリーグロゴマークをチャンピオンマークとして翌シーズン、ユニフォームの袖にJリーグのロゴに代えて付けることができる。",
"title": "ユニフォーム"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "国内公式戦(リーグ、リーグカップ、天皇杯)では、ユニフォームの前面胸部と、背番号上部、左袖、トランクスにそれぞれスポンサー広告を付けることが認められている。2016年からは背番号下部、2018年からは前面鎖骨部(左側および右側)に関してもスポンサーを付けることが認められたが、これ以前にもFC東京とガンバ大阪が背番号下部のところに広告を入れた事例がある。",
"title": "ユニフォーム"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "視認性の確保(特にカラーユニバーサルデザインの観点から)を目的として、2021年シーズンからユニフォームに用いる背番号・選手名表記のフォント及び配色がJリーグ全体で統一された。統一フォントはカールスバーグのビジュアルデザインなどを手がけたデンマークのコントラプンクト社が制作したオリジナルフォントの「J.LEAGUE KICK」(ジェイリーグ・キック)で、フォントで使用可能な色も白・青・赤・黒・黄の5色に指定された。",
"title": "ユニフォーム"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1993年から1996年までは試合ごとに付ける番号が違う変動背番号制であったが、1997年からはシーズン開幕前やクラブ加入時点で決定される固定背番号制へと変更された。",
"title": "ユニフォーム"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2004年には欠番の解禁など規約が一部改定されたことで特定の番号(12が多い)をクラブ公式にサポーターズナンバーとし欠番とするクラブが出てきた。",
"title": "ユニフォーム"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2018年5月30日、Jリーグの理事会が開催され、シーズン途中の背番号変更が可能となり、同日から適用された。初適用者は当時ヴィッセル神戸の三田啓貴で、8から7へ変更となった。",
"title": "ユニフォーム"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2023年シーズン現在の主な規約内容は以下の通り。",
"title": "ユニフォーム"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "なお、変動背番号制であった1996年にはG大阪の今藤幸治がGKの番号である1以外の2から11までの背番号を付けた事がある。",
"title": "ユニフォーム"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "固定背番号導入当初、天皇杯では、Jリーグへの届け出とは別に背番号を登録したため、リーグ戦と異なる背番号を着用した例がある。",
"title": "ユニフォーム"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "Jリーグの試合では、Jリーグの公式ロゴマークが入っているJリーグ公認の試合球(公式試合球)が使用されている。なお、1993年の開幕戦でヘニー・マイヤー(V川崎)が決めたJリーグ第1号ゴールの試合球はJリーグ事務局のチェアマン室に、ガラスケースに入れて保存されている。",
"title": "公式試合球"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "製造は全てアディダス、提供は全てモルテン。",
"title": "公式試合球"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "日本サッカー協会に登録された1級審判員の中から推薦、決定されJリーグ担当審判員となる。2021年シーズンの場合、主審担当者が59名、副審担当者が99名。この中には日本サッカー協会の認定したプロフェッショナルレフェリー (PR) がおり、審判員としての報酬のみで生計を立てている。",
"title": "審判員"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2020年シーズンからJ1全試合においてビデオ・アシスタント・レフェリー (VAR) が導入されることが決まっていた ものの、新型コロナウイルスの影響により実施が見送られた。しかし、その後2021年からVARの導入が決まった。",
"title": "審判員"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "毎試合、Jリーグの試合会場にはJリーグフラッグと対戦する両クラブのフラッグ(旗)が掲げられる。フラッグのデザインは自クラブのクラブカラーを基調とし、自クラブのロゴタイプやエンブレムが入っていることが一般的である。また、Jリーグ旗の横や下などにFIFAのフェアプレーフラッグが掲げられている場合があるほか、選手が入場する際には必ずスターティングメンバーのサインが入ったJリーグのフェアプレーフラッグを先頭にしてピッチへ入場する。なお、リーグ戦で使用されるJリーグフラッグは2種類あり、通常の試合会場では主に無地のフラッグが使われている。",
"title": "フラッグ"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "特に規約では規定されていないものの、リーグ戦では一部クラブ除き選手入場時にアンセムが流れる。1993年のJリーグ開幕時、Jリーグ公式テーマソング「J'S THEME(Jのテーマ)」をTUBEのギタリスト春畑道哉が制作し、開幕のオープニングセレモニーで演奏した。Jリーグに関するイベントやスタジアムなどで使用されている。また、岸利至の作曲によるJリーグの公式アンセム「THE GLORY」も存在し、一部のクラブでアンセムとして使用しているが、多くのクラブがクラブオリジナルのアンセムを作成し、入場時に流している。",
"title": "音楽"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "なお、Jリーグ開幕30周年の企画として、2023年5月15日のJリーグ開幕30周年を迎えるのを機に、RADWIMPSが、新しいアンセムを制作することになった。",
"title": "音楽"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ルヴァンカップは専用のアンセム(作曲:☆Taku Takahashi)を使用する。",
"title": "音楽"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "Jリーグに所属するクラブはアカデミー(下部組織、Jリーグの用語では「育成組織」)をもつことを義務つけている。アカデミーはJFAに世代別のチームとして登録され(日本サッカー協会チーム登録種別を参照)、Jリーグの主催する各大会やJFA主催大会などに出場する。",
"title": "アカデミー"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "Jリーグ(リーグ戦)の公式スポンサーはJ1の試合会場で広告看板を掲示できるほか、新聞や雑誌、放送媒体の広告でJリーグのロゴマークとともに「(企業名)はJリーグの○○パートナーです」、あるいは「(企業名)はJリーグを応援しています」のクレジットを掲載できる。また、各所属クラスに関係なく、試合前後の時間やハーフタイム中に試合会場の電光掲示板や場内放送で企業名を読み上げられる。",
"title": "協賛団体"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "2011年度までの協賛カテゴリーは「オフィシャルスポンサー」と、それ以外のスポンサー(用具サプライヤー、90度システム広告スポンサーなど)とに区分されていたが、2012年度から原則として「○○パートナー」に呼称を統一させており、スポンサー・サプライヤーのカテゴリーをよりわかりやすく細分化している。",
"title": "協賛団体"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "Jリーグは2021年4月6日に行われた実行委員会後の記者会見で、リーグの将来像を議論する「リプランニング推進チーム」を2021年4月1日付で創設したことを明らかにした。専務理事の木村正明が中心となって推進するもので、以下の項目について実現可能性の模索、前提となる研究分析を検討していくことが示されている。",
"title": "今後"
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{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "このうち、「リーグ構造の見直し」に関しては、2014年の時点でJ1・J2・J3の合計クラブ数の上限を60と設定していることを明らかにし、J3クラブが20クラブに達した時点で以降の形をどのようにするかを検討する内容で2021年9月末までに結論を出す意向であることを明らかにしており、一部メディアが報じた、J1リーグよりも上位に位置するいわゆる「プレミアリーグ」を設置する構想 については、意見としてはあるものの「一切議題には入っていない」と否定している。",
"title": "今後"
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{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "また、『上場も考慮した資本流動性の研究』の一環として、「株式異動に関わるルール・規則」については、2022年2月28日にオンラインで行われたJリーグ理事会で決議され、2022年3月1日付で改定された。この改定では、現状不可能であるサッカークラブの株式上場がJリーグの新しい成長戦略として挙げられ、資本力のある投資家を呼び込み、クラブの経営管理体制を強化するといったJリーグ自体の発展に加え、価値の向上に反映させていくことが目的とされる一方で、インテグリティの観点によって、サッカークラブの株式保有の禁止対象について、再定義させることになったもの。また、15%未満の保有株式が移行した場合に、Jリーグへの報告義務は廃止となるが、敵対的買収や反社会的勢力などの不適切な株主への対策の一環として、15%以上保有する大口の株主の場合はJリーグの方で審査を行うことになった。",
"title": "今後"
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"text": "2022年11月15日に、Jリーグは、新たな成長戦略として「58クラブが、それぞれの地域で輝く」と「トップ層が、ナショナル(グローバル)コンテンツとして輝く」という2つの成長テーマを掲げ、その上で、「配分金構造の見直し」と「リーグ組織のガバナンス改革」という、2つの「成長戦略を実現するための構造改革」を行うことを明らかにした。「成果創出を後押しし、高みへの挑戦を促す新たな配分ルールへ」を目的とした「配分金構造の見直し」に関しては、「カテゴリー間の配分比率の見直し」と「同一カテゴリー内の配分方法の見直し」を掲げ、また、「リーグ組織のガバナンス改革」に関しては、「より質の高い議論とスピーディーな意思決定を実現する会議のあり方へ」を目的とした「会議等の意思決定構造の見直し」として「理事会の見直し」と「実行委員会の見直し」を掲げ、そして、「クラブの成果創出を実現できる執行体制の強化」を目的とした「リーグ執行機関の組織構造の見直し」として「執行役員の新設」と「変動報酬制の導入」、それに、「経営会議の新設」を掲げている。",
"title": "今後"
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] | 日本プロサッカーリーグは、日本のプロサッカーリーグ。略称はJリーグ。 | {{For|運営組織|日本プロサッカーリーグ (法人)}}
{{Redirect|Jリーグ|運営組織の関連会社|Jリーグ (企業)}}
{{スポーツリーグ
|title = 明治安田Jリーグ<br />Meiji Yasuda J.League
|current_season = 2023年のJリーグ
|upcoming_season = <!-- 内部リンクしてはならない。新シーズン開始時にcurrent_seasonと共に更新。 -->
|logo = J new logo.png
|pixels = 150
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|formerly = [[日本サッカーリーグ]](JSL)
|replaced =
|sport = サッカー
|founded = 1991年11月
|ceo = {{Flagicon|JPN}} [[野々村芳和]]([[Jリーグチェアマン|チェアマン]])
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|motto =
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|champion = [[2023年のJ1リーグ|J1]]:[[ヴィッセル神戸]] <br />[[2023年のJ2リーグ|J2]]:[[FC町田ゼルビア]]<br />[[2023年のJ3リーグ|J3]]:[[愛媛FC]]
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|qualification = [[Jリーグクラブライセンス制度|Jリーグクラブ<br/>ライセンス制度]]参照
|tv = 特記事項参照
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|domestic_cup = [[Jリーグカップ|JリーグYBCルヴァンカップ]]
|website = [https://www.jleague.jp/ Jリーグ.jp]
|footnotes = インターネット配信業者[[DAZN]]が一次放映権を保有しており、インターネット配信を行うほか、Jリーグが各テレビ局に映像提供を行っている。
}}
'''日本プロサッカーリーグ'''(にほんプロサッカーリーグ、{{lang-en-short|Japan Professional Football League}})は、[[日本]]の[[プロフェッショナル (サッカー)|プロサッカー]][[リーグ戦|リーグ]]。略称は'''Jリーグ'''{{Efn|リーグの定める「用語集(ターミノロジー)」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/aboutj/terminology/|title=用語集(ターミノロジー)|publisher=日本プロサッカーリーグ|accessdate=2020-01-07}}</ref> では、「Jリーグ」の語を含め、日本語表記において「J」を全角の「J」を用いることと定めているが、Wikipediaにおいては[[Wikipedia:表記ガイド|表記ガイド]]に基づき半角で表記する。}}(ジェイリーグ、{{lang-en-short|J.LEAGUE}})。
== 概説 ==
主催団体は[[日本サッカー協会|公益財団法人日本サッカー協会]](JFA)、[[日本プロサッカーリーグ (法人)|公益社団法人日本プロサッカーリーグ]]。主管団体はJリーグに加盟する各クラブ。加盟するには参加カテゴリーに対応した単年のみ有効の[[Jリーグクラブライセンス制度|クラブライセンス]]が必要である。
1993年に10クラブで開始し{{Efn|リーグカップはその前年の1992年から始まっている}}、1998年までは1部のみの「Jリーグ」として最大で18クラブによって開催された。1999年から「Jリーグ ディビジョン1」(現:[[J1リーグ]]/J1)と「Jリーグ ディビジョン2」(現:[[J2リーグ]]/J2){{Efn|2014年度までJ1・J2のリーグ戦の呼称についてはJリーグ定款でそれぞれ「Jリーグ ディビジョン1」「Jリーグ ディビジョン2」と表記されていたが、2015年よりそれぞれ「J1リーグ」「J2リーグ」に改める。なおJ3については、初年度の2014年から正式な呼称として「J3リーグ」を採用している<ref name="タイトルパートナー">[http://www.j-league.or.jp/release/000/00006256.html 明治安田生命保険相互会社とJリーグタイトルパートナー契約を締結](日本プロサッカーリーグ2014年12月16日 12月17日閲覧)</ref>。}}の2部制に移行、2014年に「[[J3リーグ]]」(J3)が創設され3部制に移行した。J3リーグは[[日本サッカーのリーグ構成 (1種)|日本サッカーのリーグ構成]]上、アマチュア最高峰の[[日本フットボールリーグ]](JFL)と同格と位置付けられており、J1・J2とJ3とではリーグエンブレム{{Efn|2022年12月20日より、J1・J2のリーグエンブレムと同様のデザインに統一された。<ref name ="タイトルパートナー契約更新">[https://aboutj.jleague.jp/corporate/release/25804/明治安田生命とのタイトルパートナー契約更新について](日本プロサッカーリーグ2022年12月20日)</ref>。}}や参加要件等様々な点で差別化されている。
2023年シーズン開始時点で、日本国内の41都道府県に本拠地を置く60クラブ(J1:18、J2:22、J3:20)が参加<ref group="注釈">2016年から2020年まではこれと別にJ3に参加するJ1クラブのU-23チームが3チーム存在した。</ref>、また、JFLなどのカテゴリーに属する[[Jリーグ百年構想クラブ]]が11クラブ認定されている。リーグ構成については[[日本サッカーのリーグ構成 (1種)]]を参照。
J1リーグにおける年間最終順位上位3クラブは、同年度の[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会]]優勝クラブとともに、翌年度の[[AFCチャンピオンズリーグ]](ACL)出場権を与えられる(J1上位3クラブと天皇杯優勝クラブが重複した場合は、J1の4位に出場権が与えられる)。[[AFCチャンピオンズリーグにおける日本のサッカークラブ]]も参照。
== 理念と活動方針 ==
Jリーグでは、次の3つの理念を掲げている<ref name="about-j">{{Cite web|和書|url=http://www.jleague.jp/aboutj/ |publisher=Jリーグ.jp |title=About Jリーグ |accessdate=2017-03-21}}</ref>。
* 日本サッカーの水準向上およびサッカーの普及促進
* 豊かな[[スポーツ]]の振興および国民の心身の健全な発達への寄与
* 国際社会における交流および親善への貢献
また、次の内容の活動方針を掲げている<ref name="about-j" />。
# フェアで魅力的な試合の開催
# [[スタジアム]]環境の確立
# 地域交流の推進
# [[フットサル]]の普及
# サッカー以外の[[スポーツ]]の推進
# [[障害者スポーツ|障がい者スポーツ]]の推進
この活動方針は、Jリーグの3つの理念を実現するための方法とみなせる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nippon.com/ja/currents/d00076/ |publisher=nippon.com |author=忠鉢信一 |title=スポーツの自立を目指して Jリーグ20年 |date=2013-04-11 |accessdate=2017-03-21}}</ref>。
=== クラブ名称表記 ===
Jリーグでは地域密着の観点の方針としてクラブ名称を原則として、「地名+愛称」としており、運営母体となった企業名等は発足当初から原則排除している。ただし、リーグ開幕前に行われた[[1992年のJリーグカップ|1992Jリーグヤマザキナビスコカップ]]ならびに開幕当初の一部報道、並びに日本サッカー協会に登記した正式チーム名では、「読売ヴェルディ」([[ヴェルディ川崎]])、「三菱浦和レッドダイヤモンズ」([[浦和レッドダイヤモンズ]])、「パナソニックガンバ大阪」([[ガンバ大阪]])、「日産FC横浜マリノス」([[横浜F・マリノス|横浜マリノス]])といった運営母体の企業名を含めた表記を行っていた事例もある。
このことについて、Jリーグ初期のころ、初代チェアマン・川渕三郎と、企業名重視を訴えた[[読売新聞]]主筆・[[読売巨人軍]]会長などを歴任した[[渡邉恒雄]]が対立した「川渕・渡邉論争」という問題が起きた。渡邊は「Jリーグの理念は空疎だ」として、企業名を排除し、地域名を重視するのは現実離れしていると主張したもので、実際[[1993年]]の読売新聞系メディアではヴェルディ川崎を「読売ヴェルディ(川崎)」と企業名を出して報道していた<ref>[https://www.kobe-np.co.jp/column/seihei/202305/0016355956.shtml 神戸新聞・正平調](2023年5月16日)</ref>。
川淵は、2023年12月5日に東京都内で開催された講演の中で「当時は地域に根差すのは空疎と言われた。日本の人ほとんどが『地域に根差したスポーツクラブ』って何ぞやと思っていた」と振り返った上で、「地域性を重視した決断だった」ことを明らかにしている<ref name="hochi_20231213"/>。
その後、[[スポーツ報知]]の取材で、早ければ[[2024年]]度のリーグ戦から、企業名をチーム名に入れることを認める方向で最終調整していることが分かった<ref name="hochi_20231213">[https://hochi.news/articles/20231212-OHT1T51143.html?page=1 来季からJリーグクラブ名称に企業名「解禁」へ 発足から30年 収入増へ改革実施 19日にも正式決定](スポーツ報知)</ref>。Jリーグは日本における他のスポーツリーグのプロ化をするにあたってのモデルになるなど、地域社会に必要な存在となるが、クラブ経営はコロナによる収入減や助っ人外国人枠の変化などによる負担増など、費用対効果の課題が残るとされており、チーム名に企業・団体名を入れることによって、絶大な宣伝効果が表れ、資金確保の期待にもつながるといわれている<ref name="hochi_20231213"/>。一部では出資が制限されている外資系企業がクラブスポンサーにつくことも容認することも報じられている<ref name="hochi_20231213"/>。この報道について、Jリーグでは、「本件は、実行委員会や理事会でも全く検討されていない内容であり、事実無根です。」と否定した上で「Jリーグでは、Jリーグ規約にて「チーム名および呼称には地域名(ホームタウン)が含まれているものとする」と定めており、今後も地域と一体となったクラブづくり、サッカーの普及、振興につとめてまいります。」とコメントしている<ref>{{Cite web |url= https://aboutj.jleague.jp/corporate/release/26520/|title= 一部報道について|publisher= 日本プロサッカーリーグ|date= 2023-12-13|accessdate=2023-12-13}}</ref>。
== 設立経緯 ==
{{See also|オリジナル10#選定の経緯}}
日本におけるサッカー競技は、アマチュア主体の全国リーグである[[日本サッカーリーグ]](JSL)が[[1965年]]に創設され{{Refnest|group="出典"|{{R|jfa|jsl|naganuma|ogura|moriken|web-japan|ramos}}}}、[[1968年]]の[[サッカー日本代表|日本代表]]の[[1968年メキシコシティーオリンピックのサッカー競技|メキシコ五輪銅メダル獲得]]もあり、一時的に人気を得たが{{Refnest|group="出典"|{{R|naganuma|ogura|web-japan|okano|morichin|nikkanlegend}}}}、その後の日本代表の成績不振もあり、長らく観客動員は低迷した{{Refnest|group="出典"|{{R|naganuma|ogura|web-japan|morichin|kirin|kimura|takahasi}}}}。[[1980年代]]にプロ化を視野に入れた[[読売サッカークラブ|読売クラブ]]×[[日産自動車サッカー部|日産自動車]]は観客を集めたものの{{Refnest|group="出典"|{{R|jsl|ramos|sergio|kamamoto}}}}、総じて日本リーグの人気は停滞し、[[マスメディア]]にも大きく扱われるほどの存在ではなかった{{Refnest|group="出典"|{{R|kamamoto|tajima|kinomoto}}}}。JSLや[[日本サッカー協会]](JFA)ではその様な状況を打破しようと、[[1982年]]からリーグ主導の試合開催から、各チームが試合を主催する「自主運営」に移行したり{{R|sasaki}}、[[1984年]]には[[釜本邦茂]]の後ろ向きヌードポスター『格闘技宣言。』{{Refnest|group="出典"|{{R|digest07220|時代の証言者52|日本サッカー狂会128|平塚34}}}}、[[1985年]]には[[明石家さんま]]の上半身裸のポスターを製作するなど{{Refnest|group="出典"|{{R|日本サッカー狂会128|マネジメント31}}}}、人気回復に向け模索を続けていたが上手くいかなかった{{Refnest|group="出典"|{{R|ogura|web-japan|kirin|tajima|時代の証言者52|kawabuchi|マネジメント11|Jリーグ群像9}}}}。日本サッカーのプロ化としては、1968年に日本代表がメキシコ五輪で銅メダルを獲得した後、当時の日本蹴球協会([[日本サッカー協会]])会長・[[野津謙]]が将来の"プロ化導入"を目指して[[読売新聞社]][[社主]]の[[正力松太郎]]にプロサッカーチームの創設を依頼したり{{R|verdy}}、[[1977年]]に[[ドイツ]][[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]で、日本人初のプロサッカー選手となった[[奥寺康彦]]が、[[1986年]]に帰国し[[古河電気工業サッカー部|古河電工]]に復帰する際、[[森健兒]]が導入した[[スペシャル・ライセンス・プレーヤー]]制度{{Refnest|group="出典"|{{R|moriken|web-japan|okano|kinomoto|Jリーグ創造記69|Jリーグ群像9}}}}により奥寺、[[木村和司]]を始め{{Refnest|group="出典"|{{R|jfa|moriken|okano|kimura|okudera|j-history}}}}、翌年からはJSLの多くの選手がプロになっていた{{Refnest|group="出典"|{{R|naganuma|ogura|moriken|日本サッカー狂会128|kawabuchi|okudera|日本サッカー史229|75年史51}}}}。また[[1986 FIFAワールドカップ・アジア予選]]で、[[FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]出場まであと一歩まで迫りながら、[[サッカー大韓民国代表|韓国代表]]に敗れ出場を逃した日本代表の[[森孝慈]]日本代表監督が、「[[Kリーグクラシック|(プロ化を先んじていた)韓国]]に追いつくには日本にもプロを作るしかない」と訴え、[[長沼健]]サッカー協会専務理事に自身のプロコーチとしての契約を要求したが拒否され辞任したことがあった{{Refnest|group="出典"|{{R|morichin|日本サッカー狂会128|日本サッカー史229|平塚134|75年史126}}}}。
1980年代後半は、プロとアマチュアの選手が混在し、サッカー協会はプロ選手を認めているのにもかかわらず、リーグはアマチュア、日本代表の試合もアマチュア基準に合わせるという歪な状態が続いた{{Refnest|group="出典"|{{R|jsl|kazu|ninomiya|平塚126|虹を掴む84|75年史258}}}}。
このような流れを受け<!---<ref name="web-japan"/><ref name="naganuma"/><ref name="ogura"/>{{Sfn|平塚|pp=126-131}}--->、翌[[1988年]]3月にJSL総務主事・[[森健兒]]、JSL事務局長・[[木之本興三]]を中心として設置した「JSL第一次活性化委員会」{{efn|「活性化委員会」の提唱は[[森健兒]]{{Refnest|group="出典"|{{R|kawabuchi|Jリーグ群像9}}}}。設置時の名称は「JSL活性化委員会」である。現在これを「JSL第一次活性化委員会」と呼ぶのは、川淵が森の後、総務主事に就任し、森らに倣い再開させたものを「第二次活性化委員会」と名付けたため、森が総務主事だった時代に開催されたものを後に「"第一次"活性化委員会」と分けて呼ぶようになった<ref>{{Citation|和書|author=「フットボールサミット」議会|date=2010-11-19|title=フットボールサミット第1回|publisher=カンゼン|pages=172-179}}</ref>。「第一次活性化委員会」のメンバーは、森健兒、木之本興三の他、森と木之本が、[[石井義信]]、[[森孝慈]]、[[小倉純二]]、村田忠男([[日本サッカー協会|JFA]])、浅野誠也([[読売サッカークラブ|読売]])、[[杉山隆一]]、[[佐々木一樹]]{{R|sasaki}}の7人を選んだ{{Refnest|group="出典"|{{R|虹を掴む19|Jリーグ創世記154}}}}。委員長には森健兒が就くのが自然だったが、森は名古屋転勤で忙し過ぎたためとバランスや企業説明を考え、森が小倉純二を委員長に指名した{{Refnest|group="出典"|{{R|ogura|マネジメント11|Jリーグ群像9}}}}。「活性化委員会」は、短期間に6回の会合をもち、日本リーグの現状分析、他国のプロリーグの調査、日本にプロリーグをつくる可能性を模索した{{R|75年史51}}。}}が、実質的な「Jリーグ」のスタートと見られる
{{Refnest|group="出典"|{{R|jfa|naganuma|ogura|moriken|web-japan|okano|kamamoto|tajima|kinomoto|kawabuchi}}}}{{Refnest|group="出典"|{{R|時代の証言者52|日本サッカー狂会128|Jリーグ群像9|Jリーグ創造記69|75年史51|虹を掴む84|nakamura|平塚6|日本サッカー史240|Jリーグの経済学16}}}}。Jリーグ公式サイトの「Jリーグの歴史」、J.League x JFA公式サイトの「サッカーで振り返る平成史」でも、この1988年3月「JSL活性化委員会」設置をその始まりに置いている{{R|j-history}}。『[[サッカー批評]]』は「JSL第一次活性化委員会」を"実質的なプロ化検討委員会の創設"と評している{{R|批評56_100}}。「JSL第一次活性化委員会」は、6回目の1988年7月21日に、森が「現状改革を進めながら、トップリーグを商業ベースによる事業化を志向した『スペシャルリーグ』{{R|kawabuchi}}(プロリーグ)にすることを検討する」という結論を出し、最終報告書をまとめて日本サッカー協会の理事会に提出した{{Refnest|group="出典"|{{R|sasaki|日本サッカー狂会128|Jリーグ群像9|虹を掴む84|75年史258|平塚6|Jリーグ創世記154}}}}{{efn|この10ヵ月後にまとめられた「第二次活性化委員会」の報告書もこれを踏襲し、これがほとんどそのままJリーグの骨格となる{{R|平塚184}}。}}。1988年8月に森の後任として[[川淵三郎]]がJSL総務主事となり{{Refnest|group="出典"|{{R|moriken|kinomoto|kawabuchi|pia}}}}、同年10月に川淵が「JSL第二次活性化委員会」{{efn|「第二次活性化委員会」のメンバーは、森健兒、木之本興三を含む、「第一次活性化委員会」と同じメンバー9人と、プロ化に乗り気でないチームの実行委員・阿部豊([[日本鋼管サッカー部|NKK]])、有村宏三郎([[ヤンマーディーゼルサッカー部|ヤンマー]])、泉信一郎([[全日空横浜サッカークラブ|全日空]])に、川淵を加えた13人で{{Refnest|group="出典"|{{R|sasaki|虹を掴む84|平塚190}}}}、「第二次活性化委員会」でも委員長には引き続き川淵が小倉純二を指名した{{Refnest|group="出典"|{{R|ogura|マネジメント31|平塚190}}}}。「第二次活性化委員会」は「第一次活性化委員会」が出した結論をさらに検討させた{{Refnest|group="出典"|{{R|jfa|ogura|75年史258}}}}。川淵は、当時の日本リーグのレベルが低いばかりでなく、アンフェアなプレーが横行していたこともあり、当初はリーグのプロ化には反対だった{{Refnest|group="出典"|{{R|ogura|75年史258}}}}。しかし「活性化委員会の真剣な議論に参加しているうちに、根本的な改革が必要であることを思い知り"失うものは何もない"とプロ化推進に傾いていった{{Refnest|group="出典"|{{R|kawabuchi|75年史258}}}}。「第二次活性化委員会」は1988年10月3日から翌1989年3月13日まで8回の会合を開き「1992年スペシャルリーグ・スタート」という提案を出して解散、以後の検討をJFAの「プロリーグ検討委員会」に委ねた{{Refnest|group="出典"|{{R|jfa|75年史258}}}}。}}を設置{{Refnest|group="出典"|{{R|kawabuchi|j-history}}}}<!---川淵らが中心となって[[国立霞ヶ丘陸上競技場]]で開催する[[1989年]][[2月26日]]のJSLの後期リーグ開幕戦を無料招待試合し満員にする計画を立てたが<ref name="sponichi201410"/>{{sfnm|1a1=平塚|1pp=163-192|2a1=日本サッカー狂会|2pp=128-132}}、半分の入りで落胆し、それまでプロ化に懐疑的だった川淵自身が「俺自身が意識を変えないといけない」と決意するに至った<ref name="kawabuchi"/><ref>{{Citation|和書|title=週刊サッカーマガジン 別冊 春季号「まるごとJリーグ完全版〜栄光の記憶15年〜」|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|page=115}}</ref>。--->。サッカー協会内部では“JSLの活性化”では意見が一致し、[[長沼健]]や[[岡野俊一郎]]ら幹部の中には本音ではリーグをプロ化したいと考える者もいたが{{R|Jリーグ創造記69}}、[[ペレ]]のいた[[北米サッカーリーグ|北米リーグ]]が失敗した例もあり{{Refnest|group="出典"|{{R|時代の証言者52|平塚141}}}}、まだまだ“リーグのプロ化”に対しては親会社から出向してきた当時の1部リーグに所属する実業団チーム出身の役員達を中心に「プロ化は時期尚早」や「プロ野球の球団ですら赤字経営なのに、サッカーではまともに採算が取れる訳がない」などの意見が「JSL評議委員会」{{efn|「JSL評議委員会」は、JSLの最高議決機関。主に加盟チームが自ら選出した評議員で構成されていた。親会社で立場のある取締役クラスの人が選出されることが多く、会社の意向を尊重する傾向があった{{R|kawabuchi}}。「第一次活性化委員会」~「第二次活性化委員会」のメンバーは、各チームを実質的に切り回していた人たちではあったが、親会社に戻れば会社の経営方針に直接タッチできる役職には就いていなかった{{R|虹を掴む84}}。「JSL評議委員会」の議長は[[日産自動車]]副社長の細川泰嗣。他のメンバーも各チームの代表者であり、親会社での地位は「活性化委員会」のメンバーよりはるかに上だった{{R|虹を掴む84}}。}}で大勢を占めた{{Refnest|group="出典"|{{R|Jリーグ完全版|大住後藤220}}}}。実業団チームのほとんどは、サッカーを[[福利厚生]]の一環と考え「プロ」という言葉に反発を感じる人は少なくなかった{{R|kawabuchi}}。川淵は「活性化委員会」の議論をJSLではなく、日本サッカー協会(JFA)に移さなければ何も始まらないと判断し{{Refnest|group="出典"|{{R|kawabuchi|Jリーグ群像9|虹を掴む84|マネジメント32}}}}、翌[[1989年]]6月に「JSL第二次活性化委員会」を解散させ、日本サッカー協会の副会長になっていた[[長沼健]]に要請し{{Refnest|group="出典"|{{R|kawabuchi|Jリーグ群像9|虹を掴む84|75年史51|マネジメント32}}}}、JFA内に「プロリーグ検討委員会」{{efn|JFA内に「プロ対策本部」(本部長は長沼健)が作られ{{Refnest|group="出典"|{{R|jfa|kawabuchi|75年史51}}}}、1990年10月、その中に「プロリーグ検討委員会」(委員長は川淵三郎)が設置された{{Refnest|group="出典"|{{R|jfa|kawabuchi|pia}}}}。「プロリーグ検討委員会」は1991年1月まで6回の会合を重ね、リーグ参加条件の決定、当該団体への参加意思確認とヒアリング、アドバイザーボードの開催などを行う{{Refnest|group="出典"|{{R|kawabuchi|75年史51|pia}}}}。}}が設置された{{Refnest|group="出典"|{{R|jfa|kawabuchi|j-history|75年史258|pia}}}}。保守的な日本サッカー協会理事会の承認を得るために「検討」という文字が付いていたが、実際には関係者の間では、既にプロリーグの発足は既定の方針として固まっていた{{sfn|日本サッカー史|pp=240-241}}。やりようによってはプロリーグが出来るという段階まで来たのはこの「プロリーグ検討委員会」が設置されたときである{{R|75年史51}}。プロリーグ構想は具現化され{{Refnest|group="出典"|{{R|kawabuchi|平塚190}}}}、1991年7月1日、新プロリーグの正式名称を「日本プロサッカーリーグ」とし、愛称を「Jリーグ」とすることを発表{{R|75年史258}}、日本初のプロサッカーリーグの「'''日本プロサッカーリーグ'''」(Jリーグ)が発足した{{Efn|1991年11月1日、新リーグが「社団法人日本プロサッカーリーグ」として法人化されることが決定した{{Refnest|group="出典"|{{R|75年史258|プロ制度構築27}}}}。}}。「Jリーグ」という呼称は、[[博報堂]]が提出した複数の案{{efn|「Jリーグ」という名称の提案は、当初 Jipang League(ジパング・リーグ)の略称として提案された{{R|プロ制度構築27}}。}}の中から川淵が気に入り採用に至ったもの{{Refnest|group="出典"|{{R|sasaki|マネジメント55|ugaya}}}}。博報堂は「釜本のポスター」からJSLと接点を持っていたが{{Refnest|group="出典"|{{R|digest07220|マネジメント35|Jリーグの経済学19}}}}、当時は会社のビジネスではなく、個人のネットワークを生かした手伝い程度の物で{{R|digest07220}}、[[電通]]が[[ペレ]]の引退興行を始め{{R|濱口57}}、サッカー協会に深く入り込んでいて入る余地はなかった{{Refnest|group="出典"|{{R|Jリーグの経済学19|濱口57}}}}。しかしプロサッカーリーグに関しては電通は「実現性が乏しい」と判断していたといわれる{{Refnest|group="出典"|{{R|マネジメント35|虹を掴む35}}}}。Jリーグを博報堂が手掛けることになったのは長沼副会長からのリンクといわれる<ref>[https://web.archive.org/web/20080608185315/http://www.sports-soken.com/blog/archives/2008/06/post_317.html 長沼健さん、ご逝去 (スポーツ総合研究所 広瀬一郎Blog) ](Internet Archive)</ref>。
[[1986年]]6月の[[1986 FIFAワールドカップ|メキシコワールドカップ]]開催中の会見で{{Refnest|group="出典"|{{R|ogura|平塚167}}}}、[[FIFA]]の第7代会長・[[ジョアン・アヴェランジェ]]から、[[1998 FIFAワールドカップ|1998年]]か[[2002 FIFAワールドカップ|2002年]]をアジアでの[[FIFAワールドカップ]]最初の開催地として日本が念頭にあるような示唆を得て{{Refnest|group="出典"|{{R|ogura|平塚167|田崎143|濱口109|仮野58}}}}、1989年11月、正式にFIFAに[[2002 FIFAワールドカップ]]日本開催の意思を伝える{{Refnest|group="出典"|{{R|jfa|ogura|時代の証言者52}}}}。日本がワールドカップを開催するにふさわしい国であることを証明するためにも、FIFAの要求を満たすスタジアムの建設などの他、日本代表のワールドカップ初出場を念頭に置いた強化{{efn|未出場の国がワールドカップのホスト国となった先例はなかった。}}とそれに伴うプロリーグ創設、成功が不可欠となった{{Refnest|group="出典"|{{R|ogura|sergio|平塚167|75年史18|濱口109}}}}。ワールドカップは[[近代オリンピック|オリンピック]]とは違い、全国展開のため、拠点拠点にFIFAの要求を満たすスタジアムを造らねばならず{{R|75年史51}}<!---<ref name="ogura"/><ref>{{Cite book|和書|author=後藤健生|authorlink=後藤健生|year=2010|title=ワールドカップは誰のものか―FIFAの戦略と政略|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4-16-660754-9|pages=67-70}}</ref>--->、ワールドカップの招致とプロリーグ創設を結び付けた{{Refnest|group="出典"|{{R|ogura|kawabuchi|仮野58|75年史18}}}}。サッカー協会内の慎重論から川淵らを後押しした長沼は{{Refnest|group="出典"|{{R|時代の証言者52|kawabuchi|75年史51|仮野58}}}}、「プロリーグの成功とワールドカップ誘致は、車の車輪であると認識した。同時並行で推進しなければ、片方がつまずけば両方ころぶ。幸い[[バブル景気|バブル経済]]の余韻が残っていた時期に、Jリーグのスタートが間に合った」と述べている{{R|時代の証言者52}}。また、あれほど弱かった日本代表が、Jリーグ開始前に突然強くなったこともJリーグ人気を後押しした{{Refnest|group="出典"|{{R|jfa|ramos|kirin|kazu|hashiratani|fukuda|ueda|dailyshincho|濱口118}}}}。Jリーグが創設されると川淵が[[Jリーグチェアマン]]として、日本代表の強化委員長としてマスメディアに盛んに露出し脚光を浴びたため、Jリーグは川淵が作ったかのようにイメージが付いた{{Refnest|group="出典"|{{R|ogura|kinomoto|kawabuchi}}}}。プロリーグの創設は、日本のサッカーを盛んにしたい、強くしたいという多くの人たちの長年の仕事の積み上げにより作られたものではあるが{{Refnest|group="出典"|{{R|jfa|jsl|naganuma|ogura|moriken|ramos|kinomoto|sergio|kawabuchi|nakamura}}}}、最後の一歩は川淵のバイタリティ、強引さが大きな原動力になった事も事実ではある<!-- <ref>{{Cite web|author=|date=2015-4-23|url=https://www.cyzo.com/2015/04/post_21613_entry.html|title=武田修宏「Jリーグ批判」に見る、物言えぬチェアマンと“無責任”幹部の暴走ぶり|work=[[サイゾー|日刊サイゾー]]|publisher=株式会社サイゾー|accessdate=2017-07-06}}</ref> -->。しかし、[[森健兒]]と[[木之本興三]]は、不毛状態が続いた[[日本サッカーリーグ]]時代から長きに渡りプロ化を考え、その運営に携わっていて{{Refnest|group="出典"|{{R|kawabuchi|moriken|kinomoto|sergio|批評56_100|gendai0607|平塚61|虹を掴む60|Jリーグ群像9}}}}、川淵は日本サッカーに絶望し{{R|gendai0607}}、一時サッカー界から離れていた時期があり{{R|gendai0607}}、後から入って来た川淵に手柄を取られたようで面白くなかった{{R|日本サッカー狂会128}}。川淵は最初にプロリーグの話を聞いたときも「バカじゃないか」と思ったと話しており{{R|Jリーグの経済学16}}、森の後任でJSL総務主事に抜擢された際も、木之本から「プロ化する気持ちがないなら来ないで」と言われたほどで{{R|gendai0607}}、森は「プロ化の道筋をつけてから川淵さんにバトンタッチした」と述べている{{R|gendai07}}。特に木之本にとって川淵は[[古河電気工業サッカー部|古河電工]]でのかつての上司でもあり、当初の関係は悪くはなかったが{{R|gendai0607}}、[[2002 FIFAワールドカップ]]後、[[読売新聞]]に次期[[Jリーグチェアマン|チェアマン]]候補として木之本の名前が出ると、急に木之本と川淵の関係が悪くなった{{Refnest|group="出典"|{{R|kinomoto|matsubara|wpost060811}}}}。川淵の後任チェアマンには[[鈴木昌 (経営者)|鈴木昌]]が就任したが、木之本は「公平な立場でなければならないチェアマンにクラブ出身の社長はまだ早い」と反対したら、鈴木と川淵からJリーグ専務理事・JFA常任理事と、<!---不明瞭な給与取得をしたと<ref name="kinomoto"/><ref name="gendai2006_1112"/>--->Jリーグ映像他、Jリーグ関連の子会社の社長を解雇され、Jリーグ及びJFAから追い出された{{Refnest|group="出典"|{{R|kinomoto|sergio|wpost060811}}}}。森、木之本の二人と川淵の間に確執が生まれ{{Refnest|group="出典"|{{R|sergio|kinomoto|wpost060811}}}}、この恨みからか『[[日刊ゲンダイ]]』などのマスメディアで川淵を批判した{{Refnest|group="出典"|{{R|moriken|sergio|kinomoto|gendai0607|wpost060811|gendai07}}}}。
[[1992年]]には前哨戦として、ヤマザキナビスコ(現・[[ヤマザキビスケット]])を[[スポンサー]]とし第1回の[[Jリーグカップ|Jリーグヤマザキナビスコカップ]]が開催された。
== 沿革 ==
* [[1988年]]
** [[3月]]、JSLによって日本サッカーリーグ事務局内に第一次JSL活性化委員会が組織される{{R|j-history}}。
** [[7月]]、第一次JSL活性化委員会による第一回報告書が日本サッカー協会へ提出される。
** [[8月]]、[[川淵三郎]]がJSLの総務主事に就任する。
** [[10月]]、第二次JSL活性化委員会が組織される。
* [[1989年]]
** [[6月]]、第二次JSL活性化委員会による最終報告書が日本サッカー協会へ提出される。
* [[1990年]]
** 3月、ホームタウン制、ホームスタジアムの確保、拠出金などJリーグ参加条件の詳細が決定される。
** [[6月]]、日本サッカーリーグ参加クラブへJリーグ参加の要請が行われ、20団体からプロリーグ参加希望の返答。
** 8月、プロリーグ検討委員会が組織される。
* [[1991年]]
** [[2月]]、発足時に加盟する10クラブが発表される([[オリジナル10]]参照)。
** 3月、プロリーグ設立準備室が組織され、川淵が室長に就任。
** 7月、プロサッカーリーグ設立の報道発表。正式名称、ロゴマークなどが発表される。
** [[11月]] 、「社団法人 日本プロサッカーリーグ」設立。初代チェアマンに川淵が就任。
* [[1992年]]
** [[3月29日]]の最終節限りで日本サッカーリーグ(JSL)は廃止。
** [[5月]]、Jリーグ開幕時に参加する10クラブのユニフォームなどが「Jリーグ・プレスプレビュー」で報道発表される。
* [[1993年のJリーグ|1993年]]
** [[4月]]、Jリーグ規約施行。
** [[5月15日]]、「サントリーシリーズ」開幕で'''初年度のリーグ戦開始'''([[1993年Jリーグ開幕節]] 参照)。[[横浜マリノス]] VS ヴェルディ川崎の[[神奈川ダービー]]で幕を開ける。
* [[1994年のJリーグ|1994年]]
** {{Fb team Bellmare H}}、{{Fb team Jubilo}}が加盟。
* [[1995年のJリーグ|1995年]]
** 勝点制を導入。
** {{Fb team Cerezo}}、{{Fb team Reysol}}が加盟。
* [[1996年のJリーグ|1996年]]
** [[マルチボールシステム]]を導入。
** {{Fb team Avispa}}、{{Fb team Purple Sanga}}が加盟。
** このシーズンはクラブ数の増加に伴う試合数の増加により、2ステージ制およびチャンピオンシップを実施せず、通年の勝ち点で年間優勝を決定。
** 3月、「[[Jリーグ百年構想]]」をキーワードとした広報活動が開始される。
* [[1997年のJリーグ|1997年]]
** {{Fb team Vissel}}が加盟。
**4回戦総当たりを2回戦総当たりへ変更し、再び前期後期制およびチャンピオンシップを実施。
* [[1998年のJリーグ|1998年]]
** {{Fb team Consadole2015}}が加盟。
** [[J1参入決定戦]]を実施。
* [[1999年のJリーグ|1999年]]
** 2月、{{Fb team Flugels}}と{{Fb team Marinos}}とが合併し、新たに{{Fb team F Marinos}}としてJ1に参加。
** 3月、[[J1リーグ|ディビジョン1]](J1、16クラブ)と[[J2リーグ|ディビジョン2]](J2、10クラブ)の2部制に移行。{{Fb team Vegalta}}、{{Fb team Montedio}}、{{Fb team Ardija}}、{{Fb team FC Tokyo}}、{{Fb team Frontale}}、{{Fb team Ventforet}}、{{Fb team Albirex}}、{{Fb team Sagan}}、{{Fb team Trinita}}が加盟。
** [[PK戦]]を廃止、引き分け制を導入。延長を含め120分以内に勝敗が決しない場合は引き分け。
* [[2000年のJリーグ|2000年]]
** {{Fb team Hollyhock}}が加盟。
* [[2001年のJリーグ|2001年]]
** {{Fb team Yokohama FC}}が加盟。
* [[2002年のJリーグ|2002年]]
** J2での延長戦を廃止。
** 7月、2代目チェアマンに[[鈴木昌 (経営者)|鈴木昌]]が就任。
** Jリーグアカデミー・サポートセンターが発足。
* [[2003年のJリーグ|2003年]]
** J1での延長戦を廃止。
* [[2004年のJリーグ|2004年]]
** [[J1・J2入れ替え戦]]を導入。
* [[2005年のJリーグ|2005年]]
** J1の所属クラブ数が増加(16クラブ→18クラブ)。
** {{Fb team Vortis}}、{{Fb team Thespa-k}}が加盟。
** J1を1ステージ制へ移行。[[Jリーグチャンピオンシップ]]を廃止。
* [[2006年のJリーグ|2006年]]
** {{Fb team Ehime FC}}が加盟。
** 7月、3代目チェアマンに[[鬼武健二]]が就任。
* [[2007年のJリーグ|2007年]]
* [[2008年のJリーグ|2008年]]
** {{Fb team Roasso}}、{{Fb team FC Gifu}}が加盟。
* [[2009年のJリーグ|2009年]]
** {{Fb team Tochigi SC}}、{{Fb team Kataller}}、{{Fb team Fagiano}}が加盟。
** J1・J2入れ替え戦を廃止。
** [[Jサテライトリーグ]]を廃止。
* [[2010年のJリーグ|2010年]]
** {{Fb team Giravanz}}が加盟。
** 7月、4代目チェアマンに[[大東和美]]が就任。
* [[2011年のJリーグ|2011年]]
** {{Fb team Gainare}}が加盟。
* [[2012年のJリーグ|2012年]]
** [[4月1日]]、「[[公益法人|公益社団法人]] 日本プロサッカーリーグ」に移行<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.j-league.or.jp/release/000/00004419.html|title=「公益社団法人」への移行について|publisher=日本プロサッカーリーグ}}</ref>。
** {{Fb team Zelvia}}、{{Fb team Yamaga}}が加盟。
** [[J1昇格プレーオフ]]を導入。
** [[J2・J3入れ替え戦|J2・JFL間での入れ替え制度]]を導入。
** [[タイ・プレミアリーグ]]、[[ベトナムサッカーリーグ]]、[[ミャンマーサッカーリーグ]]とパートナーシップ協定を締結。
* [[2013年のJリーグ|2013年]]
** [[Jリーグクラブライセンス制度]]を導入。
** {{Fb team V-Varen}}が加盟、{{Fb team Zelvia}}が正会員資格喪失。
** [[月間MVP (日本プロサッカーリーグ)|Jリーグ月間MVP]]を新設。
** [[Jリーグマスコット総選挙]]を新設。
** [[カンボジア・リーグ]]<ref>{{Cite web|和書|publisher=日本プロサッカーリーグ|url=http://www.j-league.or.jp/release/000/00005093.html|title=カンボジアリーグとのパートナーシップ協定締結について|accessdate=2013-06-06}}</ref>、[[Sリーグ]]([[シンガポール]])<ref>{{Cite web|和書|publisher=日本プロサッカーリーグ|url=http://www.j-league.or.jp/release/000/00005119.html|title=シンガポールリーグとのパートナーシップ協定締結について|accessdate=2013-06-06}}</ref> とパートナーシップ協定を締結。
* [[2014年のJリーグ|2014年]]
** 2月、5代目チェアマンに[[村井満]]が就任。
** 3部にあたる下部リーグ・[[J3リーグ]](J3、11クラブ+{{Fb team JLeague U22}}の計12クラブ/チーム)<ref name="j20131217">{{Cite press release|和書|url=http://www.j-league.or.jp/release/000/00005554.html|title=2014Jリーグ クラブ編成|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2013-12-17|accessdate=2013-12-17}}</ref>。を新設。J3リーグ独自の「タイトルパートナー」(特別協賛)として[[明治安田生命保険]]と契約を締結し、名称を「明治安田生命J3リーグ」に制定。
** {{Fb team Kamatamare}} (J2)、{{Fb team Parceiro}}、{{Fb team SC Sagamihara}}、{{Fb team Zweigen}}、{{Fb team Blaublitz}}、{{Fb team FC Ryukyu}}、{{Fb team YSCC}}、{{Fb team MYFC}}、{{Fb team Fukushima Utd}}、{{Fb team Grulla}}(以上J3)が新規加盟。{{Fb team Zelvia}}が再加盟。
** J3発足に伴いJ2・JFL間での入れ替え制度を廃止。
** [[インドネシア・スーパーリーグ]]<ref>{{Cite web|和書|publisher=日本プロサッカーリーグ|url=http://www.j-league.or.jp/release/000/00005607.html|title=インドネシアスーパーリーグとのパートナーシップ協定締結について|accessdate=2014-01-27}}</ref> とパートナーシップ協定を締結。
* [[2015年のJリーグ|2015年]]
** スポンサーカテゴリーに「タイトルパートナー」を新設し、明治安田生命保険相互会社と契約を締結。リーグ全体の総称を「明治安田生命Jリーグ」({{lang-en-short|''MEIJI YASUDA J.LEAGUE''}})<ref group="注釈">ロゴ等で用いられている表記は「'''明治安田生命 J.LEAGUE'''」</ref>、また各カテゴリーごとのタイトルも「明治安田生命J(1・2・3)リーグ」に統一。
** J1を11年ぶりに2ステージ制へ移行。ステージ優勝クラブと年間勝点1位、2位、3位の最大5クラブが出場できるJリーグチャンピオンシップを復活させる。
** {{Fb team Renofa}}が加盟。
**[[バニシング・スプレー]]の使用を開始。
** [[Jリーグ・DAZN ニューイヤーカップ|ニューイヤーカップ]]を新設。
** [[イランサッカーリーグ]]<ref>{{Cite web|和書|publisher=日本プロサッカーリーグ|url=http://www.j-league.or.jp/release/000/00006292.html|title=イラン・プロフェッショナル・フットボールリーグとのパートナーシップ協定締結について|accessdate=2015-01-26}}</ref>、[[マレーシアサッカーリーグ|マレーシア・スーパーリーグ]]<ref>{{Cite web|和書|publisher=日本プロサッカーリーグ|url=http://www.jleague.jp/release/post-33489/|title=マレーシア・スーパー・リーグとのパートナーシップ協定締結について|accessdate=2015-02-08}}</ref>、[[カタール・スターズリーグ]]<ref>{{Cite web|和書|publisher=日本プロサッカーリーグ|url=http://www.jleague.jp/release/post-35402/|title=カタール・スターズリーグとのパートナーシップ協定締結について|accessdate=2015-06-09}}</ref> とパートナーシップ協定を締結。
* [[2016年のJリーグ|2016年]]
** {{Fb team Kagoshima Utd}}が加盟。{{Fb team JLeague U22}}が活動終了し、{{Fb team FC Tokyo U-23}}・{{Fb team Gamba U-23}}・{{Fb team Cerezo U-23}}がJ3に参加。
** [[Jサテライトリーグ]]が7年ぶりに復活。
** 3月、[[日本トップリーグ連携機構]]へ加盟<ref>{{Cite press release|和書|url=https://japantopleague.jp/archives/1158|title=JTLにJリーグが加盟、9競技13団体に|publisher=日本トップリーグ連携機構|date=2016-03-29|accessdate=2016-03-30}}</ref>。
** [[Aリーグ]]([[オーストラリア]])と戦略的連携協定を締結<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jleague.jp/release/post-42963/|title=オーストラリア・Aリーグとの戦略的連携協定の締結について|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2016-05-02|accessdate=2016-05-02}}</ref>。
** 7月20日、イギリスの大手動画配信会社[[パフォーム・グループ]]と2017年から2026年まで10年間の放映権を契約。
* [[2017年のJリーグ|2017年]]
** {{Fb team Azul Claro}}が加盟。
** J1を3年ぶりに1ステージ制へ移行。Jリーグチャンピオンシップおよび[[J2・J3入れ替え戦]]を廃止。
** [[プリメーラ・ディビシオン|ラ・リーガ]]([[スペイン]])と戦略的連携協定を締結<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jleague.jp/release/post-49285/|title=スペイン ラ・リーガとの戦略的連携協定の締結について|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2017-06-22|accessdate=2017-06-22}}</ref>。
* [[2018年のJリーグ|2018年]]
** J1昇格プレーオフを廃止し、[[J1参入プレーオフ]]を導入。
* [[2019年のJリーグ|2019年]]
** {{Fb team Vanraure}}が加盟。
* [[2020年のJリーグ|2020年]]
** {{Fb team FC Imabari}}が加盟。
** 3月2日、2020年3月3日付で一般社団法人[[日本野球機構]]([[NPB]])と共同による[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]対策連絡会議を設置し、専門家チームを置くことを発表。
** 6月、{{Fb team FC Tokyo U-23}}がJ3リーグ参加辞退および活動終了<ref>{{Cite web|和書|title=2020シーズンJ3リーグへの参加辞退について|FC東京オフィシャルホームページ |url=http://www.fctokyo.co.jp/news/11257 |website=www.fctokyo.co.jp |access-date=2023-02-24 |language=ja}}</ref>。
* [[2021年のJリーグ|2021年]]
** {{Fb team Tegevajaro}}が加盟。
** {{Fb team Gamba U-23}}・{{Fb team Cerezo U-23}}が活動終了。
* [[2022年のJリーグ|2022年]]
** {{Fb team Iwaki FC}}が加盟。
* [[2023年のJリーグ|2023年]]
** {{Fb team Nara Club}}・{{Fb team FC Osaka}}が加盟。
** J1参入プレーオフを廃止し、J1昇格プレーオフが復活。
** [[J3・JFL入れ替え戦|J3・JFL間での入れ替え制度]]を導入。
* [[2024年のJリーグ|2024年]]
** リーグ全体の総称を「明治安田生命Jリーグ」から「明治安田Jリーグ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/sp/news/article/26789/ |title=2024Jリーグ 大会方式等の変更点について |access-date=2023年12月20日 |publisher=Jリーグ}}</ref>」へ変更({{lang-en-short|''MEIJI YASUDA J.LEAGUE''}})<ref group="注釈">ロゴ等で用いられている表記は「'''明治安田 J.LEAGUE'''」</ref>、また各カテゴリーごとのタイトルも「明治安田J(1・2・3)リーグ」へと変更。
** この年から全カテゴリーのクラブ数を20へと統一し、[[J1リーグ|J1]]が18クラブから20クラブへ2クラブ増、[[J2リーグ|J2]]が22クラブから20クラブへ2クラブ減となる。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/news/article/24260/ |title=2024シーズン以降のリーグ構造・大会方式について |access-date=2023年2月17日 |publisher=Jリーグ}}</ref>
** [[J2昇格プレーオフ]]を導入。
== クラブ一覧 ==
=== 加盟要件 ===
{{main|Jリーグクラブライセンス制度|Jリーグ百年構想クラブ}}
Jリーグ加盟の要件には、スタジアム・経営状況・チーム運営状況などの項目が定められている。チーム運営については、実際にJリーグの試合に参加するチームそのもののみならず、育成組織([[下部組織]])によるクラブユースチームの運営義務なども規定されている。2013年シーズンより[[Jリーグクラブライセンス制度]]が発足し、Jリーグへの加盟可否・加盟可能なディビジョンについての判断を行う制度が更新された。
また2006年から、Jリーグ加盟の基準を満たしているか近い将来満たせそうと判断されたクラブを「[[Jリーグ準加盟制度|Jリーグ準加盟]]」と認定することを定め、J3発足後の2014年以降は代わって「[[Jリーグ百年構想クラブ]]」と呼称するものとしている。
=== 正会員クラブ ===
クラブのカテゴリ並びに掲載順序は2024年シーズンのクラブ編成<ref>{{Cite press release|和書|url=https://aboutj.jleague.jp/corporate/release/25808/|title=2023 Jリーグ クラブ編成|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2022-12-20|accessdate=2023-02-17}}</ref> に基づく全60クラブの一覧順による<!-- 必ずしも地方公共団体コード順ではない -->。ホームスタジアムについては2024年時点でJリーグコーポレートサイトにおいて示されているスタジアム<ref>{{Cite web|和書|url=https://aboutj.jleague.jp/corporate/stadium/list/|title=スタジアム情報一覧|website=日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)組織・経営情報 |accessdate=2023-02-17}}</ref> について記す。複数の資料で記述にぶれがあるものについては、Jリーグ公式サイトのクラブガイドの記述に基づき、スタジアム名称は命名権によるものとした(命名権の取り扱いについては各スタジアムの記事を参照)。
{|class="sortable wikitable" style="font-size: small;"
!地域!!クラブ名<br />(呼称)!!活動区域 / ホームタウン<br />(ホームスタジアム)!!{{abbr|Cat.|2023年シーズンのカテゴリ}}!!{{abbr|加盟|加盟年度}}
|-
![[北海道]]
|[[北海道コンサドーレ札幌]]<br />''HOKKAIDO Consadole SAPPORO''
|[[北海道]] / [[札幌市]]を中心とする全道<br />([[札幌ドーム]]〈札幌市[[豊平区]]〉)
| align="center" |J1
| align="center" |1998年
|-
! rowspan="7" |[[東北地方|東北]]
|[[ヴァンラーレ八戸]]<br />''Vanraure HACHINOHE''
|[[青森県]] / [[八戸市]]ほか3市11町2村{{Efn|[[八戸市]]、[[十和田市]]、[[五戸町]]、[[三戸町]]、[[田子町]]、[[南部町 (青森県)|南部町]]、[[おいらせ町]]、[[階上町]]、[[新郷村]]、[[三沢市]]、[[七戸町]]、[[六戸町]]、[[東北町]]、[[野辺地町]]、[[横浜町]]、[[六ヶ所村]]}}<br />([[八戸市多賀多目的運動場|プライフーズスタジアム]]〈八戸市〉)
| align="center" |J3
| align="center" |2019年
|-
|[[いわてグルージャ盛岡]]<br />''IWATE Grulla MORIOKA''
|[[岩手県]] / 岩手県全県14市15町4村{{Efn|[[盛岡市]]、[[北上市]]、[[宮古市]]、[[大船渡市]]、[[花巻市]]、[[久慈市]]、[[遠野市]]、[[一関市]]、[[陸前高田市]]、[[釜石市]]、[[二戸市]]、[[八幡平市]]、[[奥州市]]、[[滝沢市]]、[[雫石町]]、[[葛巻町]]、[[岩手町]]、[[紫波町]]、[[矢巾町]]、[[西和賀町]]、[[金ケ崎町]]、[[平泉町]]、[[住田町]]、[[大槌町]]、[[山田町]]、[[岩泉町]]、[[田野畑村]]、[[普代村]]、[[軽米町]]、[[野田村]]、[[九戸村]]、[[洋野町]]、[[一戸町]]}}<br />([[盛岡南公園球技場|いわぎんスタジアム]]〈盛岡市〉)
| align="center" |J3
| align="center" |2014年
|-
|[[ベガルタ仙台]]<br />''Vegalta SENDAI''
|[[宮城県]] / [[仙台市]]を中心とする全県<br />([[仙台スタジアム|ユアテックスタジアム仙台]]〈仙台市[[泉区 (仙台市)|泉区]]〉)
| align="center" |J2
| align="center" |1999年
|-
|[[ブラウブリッツ秋田]]<br />''Blaublitz AKITA''
|[[秋田県]] / [[秋田市]]ほか5市{{Efn|[[秋田市]]、[[由利本荘市]]、[[にかほ市]]、[[男鹿市]]、[[潟上市]]}} を中心とする全県<br />([[秋田市八橋運動公園陸上競技場|ソユースタジアム]]〈秋田市〉)
| align="center" |J2
| align="center" |2014年
|-
|[[モンテディオ山形]]<br />''Montedio YAMAGATA''
|[[山形県]] / [[山形市]]、[[天童市]]、[[鶴岡市]]を中心とする全県<br />([[山形県総合運動公園陸上競技場|NDソフトスタジアム山形]]〈天童市〉)
| align="center" |J2
| align="center" |1999年
|-
|[[福島ユナイテッドFC]]<br />''FUKUSHIMA United FC''
|[[福島県]] / [[福島市]]ほか3市3町{{Efn|[[福島市]]、[[会津若松市]]、[[伊達市 (福島県)|伊達市]]、[[国見町]]、[[桑折町]]、[[川俣町]]}}を中心とする全県<br />([[福島県営あづま陸上競技場|とうほう・みんなのスタジアム]]〈福島市〉)
| align="center" |J3
| align="center" |2014年
|-
|[[いわきFC]]<br />''IWAKI FC''
|福島県 / [[いわき市]]ほか1市6町2村{{Efn|[[いわき市]]、[[広野町]]、[[楢葉町]]、[[富岡町]]、[[川内村]]、[[大熊町]]、[[双葉町]]、[[葛尾村]]、[[浪江町]]}}<br />([[いわきグリーンフィールド]]([[21世紀の森公園]]いわき市))
| align="center" |J2
| align="center" |2022年
|-
!rowspan="18"|[[関東地方|関東]]
|[[鹿島アントラーズ]]<br />''KASHIMA Antlers''
|[[茨城県]] / [[鹿嶋市]]ほか5市{{Efn|[[鹿嶋市]]、[[神栖市]]、[[潮来市]]、[[鉾田市]]、[[行方市]]}}<br />([[茨城県立カシマサッカースタジアム]]〈鹿嶋市〉)
| align="center" |J1
| align="center" |1991年
|-
|[[水戸ホーリーホック]]<br />''MITO Hollyhock''
|茨城県 / [[水戸市]]ほか10市4町1村{{Efn|[[水戸市]]、[[日立市]]、[[ひたちなか市]]、[[笠間市]]、[[那珂市]]、[[小美玉市]]、[[常陸太田市]]、[[北茨城市]]、[[常陸大宮市]]、[[高萩市]]、[[茨城町]]、[[城里町]]、[[大洗町]]、[[大子町]]、[[東海村]]}}<br />([[水戸市立競技場|ケーズデンキスタジアム水戸]]〈水戸市〉)
| align="center" |J2
| align="center" |2000年
|-
|[[栃木SC]]<br />''TOCHIGI SC''
|[[栃木県]] / [[宇都宮市]]<br />([[栃木県グリーンスタジアム]]〈宇都宮市〉)
| align="center" |J2
| align="center" |2009年
|-
|[[ザスパクサツ群馬|ザスパ群馬]]<br />''Thespa GUNMA''
|[[群馬県]] / [[草津町]]、[[前橋市]]を中心とする全県<br />([[群馬県立敷島公園県営陸上競技場|正田醤油スタジアム群馬]]〈前橋市〉)
| align="center" |J2
| align="center" |2005年
|-
|[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]]<br />''URAWA Reds''
|[[埼玉県]] / [[さいたま市]]<br />([[埼玉スタジアム2002]]〈さいたま市[[緑区 (さいたま市)|緑区]]〉)
| align="center" |J1
| align="center" |1991年
|-
|[[大宮アルディージャ]]<br />''OMIYA Ardija''
|埼玉県 / さいたま市<br />([[さいたま市大宮公園サッカー場|NACK5スタジアム大宮]]〈さいたま市[[大宮区]]〉)
| align="center" |J3
| align="center" |1999年
|-
|[[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフユナイテッド千葉]]<br />''JEF United CHIBA''
|[[千葉県]] / [[千葉市]]、[[市原市]]<br />([[フクダ電子アリーナ]]〈千葉市[[中央区 (千葉市)|中央区]]〉)
| align="center" |J2
| align="center" |1991年
|-
|[[柏レイソル]]<br />''KASHIWA Reysol''
|千葉県 / [[柏市]]<br />([[日立柏サッカー場|三協フロンテア柏スタジアム]]〈柏市〉)
| align="center" |J1
| align="center" |1995年
|-
|[[FC東京]]<br />''F.C. TOKYO''
|[[東京都]] / 東京都<br />([[東京スタジアム (多目的スタジアム)|味の素スタジアム]]〈[[調布市]]〉)
| align="center" |J1
| align="center" |1999年
|-
|[[東京ヴェルディ1969|東京ヴェルディ]]<br />''TOKYO Verdy''
|東京都 / 東京都<br />(味の素スタジアム〈調布市〉)
| align="center" |J1
| align="center" |1991年
|-
|[[FC町田ゼルビア]]<br />''FC MACHIDA Zelvia''
|東京都 / [[町田市]]<br />([[町田市立陸上競技場|町田GIONスタジアム]]〈町田市〉)
| align="center" |J1
| align="center" |2012年<br />{{Efn|2013年に退会し2014年に再加盟。}}
|-
|[[川崎フロンターレ]]<br />''KAWASAKI Frontale''
|[[神奈川県]] / [[川崎市]]<br />([[等々力陸上競技場]]〈川崎市[[中原区]]〉)
| align="center" |J1
| align="center" |1999年
|-
|[[横浜F・マリノス]]<br />''YOKOHAMA F. Marinos''
|神奈川県 / [[横浜市]]、[[横須賀市]]、[[大和市]]<br />([[横浜国際総合競技場|日産スタジアム]]〈横浜市[[港北区]]〉
| align="center" |J1
| align="center" |1991年
|-
|[[横浜FC]]<br />''YOKOHAMA FC''
|神奈川県 / 横浜市<br />([[三ツ沢公園球技場|ニッパツ三ツ沢球技場]]〈横浜市[[神奈川区]]〉)
| align="center" |J2
| align="center" |2001年
|-
|[[横浜スポーツ&カルチャークラブ|Y.S.C.C.横浜]]<br />''Y.S.C.C. YOKOHAMA''
|神奈川県 / 横浜市<br />(ニッパツ三ツ沢球技場〈横浜市神奈川区〉)
| align="center" |J3
| align="center" |2014年
|-
|[[湘南ベルマーレ]]<br />''SHONAN Bellmare''
|神奈川県 / [[平塚市]]ほか8市11町{{Efn|[[平塚市]]、[[厚木市]]、[[伊勢原市]]、[[小田原市]]、[[茅ヶ崎市]]、[[秦野市]]、[[平塚市]]、[[藤沢市]]、[[大磯町]]、[[寒川町]]、[[二宮町]]、[[鎌倉市]]、[[南足柄市]]、[[大井町]]、[[開成町]]、[[中井町]]、[[箱根町]]、[[松田町]]、[[真鶴町]]、[[山北町]]、[[湯河原町]]}}<br />([[平塚競技場|レモンガススタジアム平塚]]〈平塚市〉)
| align="center" |J1
| align="center" |1994年
|-
|[[SC相模原]]<br />''S.C. SAGAMIHARA''
|神奈川県 / [[相模原市]]ほか4市1町{{Efn|[[相模原市]]、[[海老名市]]、[[座間市]]、[[綾瀬市]]、[[愛川町]]}}<br />([[相模原麻溝公園競技場|相模原ギオンスタジアム]]〈相模原市[[南区 (相模原市)|南区]]〉)
| align="center" |J3
| align="center" |2014年
|-
|[[ヴァンフォーレ甲府]]<br />''Ventforet KOFU''
|[[山梨県]] / [[甲府市]]、[[韮崎市]]を中心とする全県<br />([[山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場|JIT リサイクルインク スタジアム]]〈甲府市〉)
| align="center" |J2
| align="center" |1999年
|-
!rowspan="5"|[[北信越地方|北信越]]
|[[松本山雅FC]]<br />''MATSUMOTO Yamaga F.C.''
|長野県 / [[松本市]]ほか4市3町4村{{Efn|[[松本市]]、[[安曇野市]]、[[山形村]]、[[塩尻市]]、[[大町市]]、[[池田町 (長野県)|池田町]]、[[生坂村]]、[[箕輪町]]、[[朝日村]]、[[高森町 (長野県)|高森町]]、[[麻績村]]}}<br />([[長野県松本平広域公園総合球技場|サンプロ アルウィン]]〈松本市〉)
| align="center" |J3
| align="center" |2012年
|-
|[[AC長野パルセイロ]]<br />''AC NAGANO Parceiro''
|[[長野県]] / [[長野市]]ほか6市5町5村{{Efn|[[長野市]]、[[須坂市]]、[[中野市]]、[[飯山市]]、[[千曲市]]、[[坂城町]]、[[小布施町]]、[[高山村 (長野県)|高山村]]、[[山ノ内町]]、[[木島平村]]、[[野沢温泉村]]、[[信濃町 (代表的なトピック)|信濃町]]、[[飯綱町]]、[[小川村]]、[[栄村]]、[[佐久市]]}}<br />([[南長野運動公園総合球技場|長野Uスタジアム]]〈長野市〉)
| align="center" |J3
| align="center" |2014年
|-
|[[アルビレックス新潟]]<br />''Albirex NIIGATA''
|[[新潟県]] / 新潟県全県20市6町4村{{Efn|[[新潟市]]、[[聖籠町]]、[[長岡市]]、[[三条市]]、[[柏崎市]]、[[新発田市]]、[[小千谷市]]、[[加茂市]]、[[十日町市]]、[[見附市]]、[[村上市]]、[[燕市]]、[[糸魚川市]]、[[妙高市]]、[[五泉市]]、[[上越市]]、[[阿賀野市]]、[[佐渡市]]、[[魚沼市]]、[[南魚沼市]]、[[胎内市]]、[[弥彦村]]、[[田上町]]、[[阿賀町]]、[[出雲崎町]]、[[湯沢町]]、[[津南町]]、[[刈羽村]]、[[関川村]]、[[粟島浦村]]}}<br />([[新潟スタジアム|デンカビッグスワンスタジアム]]〈新潟市[[中央区 (新潟市)|中央区]]〉)
| align="center" |J1
| align="center" |1999年
|-
|[[カターレ富山]]<br />''Kataller TOYAMA''
|[[富山県]] / [[富山市]]を中心とする全県<br />([[富山県総合運動公園陸上競技場]]〈富山市〉)
| align="center" |J3
| align="center" |2009年
|-
|[[ツエーゲン金沢]]<br />''Zweigen KANAZAWA''
|[[石川県]] / [[金沢市]]ほか3市2町{{Efn|[[金沢市]]、[[野々市市]]、[[かほく市]]、[[津幡町]]、[[内灘町]]}} を中心とする全県<br />([[石川県西部緑地公園陸上競技場]]〈金沢市〉)
| align="center" |J3
| align="center" |2014年
|-
!rowspan="6"|[[東海地方|東海]]
|[[清水エスパルス]]<br />''SHIMIZU S-Pulse''
|[[静岡県]] / [[静岡市]]<br />([[静岡市清水日本平運動公園球技場|IAIスタジアム日本平]]〈静岡市[[清水区]]〉)
| align="center" |J2
| align="center" |1991年
|-
|[[ジュビロ磐田]]<br />''Júbilo IWATA''
|静岡県 / [[磐田市]]ほか7市1町{{Efn|[[御前崎市]]、[[菊川市]]、[[掛川市]]、[[袋井市]]、[[森町 (静岡県)|森町]]、[[磐田市]]、[[浜松市]]、[[湖西市]]}}<br />([[ヤマハスタジアム]]〈磐田市〉)
| align="center" |J1
| align="center" |1994年
|-
|[[藤枝MYFC]]<br />''FUJIEDA MYFC''
|静岡県 / [[藤枝市]]ほか4市2町{{Efn|[[藤枝市]]、[[島田市]]、[[焼津市]]、[[牧之原市]]、[[吉田町]]、[[川根本町]]}}<br />([[藤枝総合運動公園サッカー場]]〈藤枝市〉)
| align="center" |J2
| align="center" |2014年
|-
|[[アスルクラロ沼津]]<br />''Azul claro NUMAZU''
|静岡県 / [[沼津市]]<br />([[愛鷹広域公園多目的競技場]]〈沼津市〉)
| align="center" |J3
| align="center" |2017年
|-
|[[名古屋グランパスエイト|名古屋グランパス]]<br />''NAGOYA Grampus''
|[[愛知県]] / [[名古屋市]]、[[豊田市]]、[[みよし市]]を中心とする全県<br />([[豊田スタジアム]]〈豊田市〉)
| align="center" |J1
| align="center" |1991年
|-
|[[FC岐阜]]<br />''FC GIFU''
|[[岐阜県]] / [[岐阜市]]を中心とする全県<br />([[岐阜メモリアルセンター長良川競技場]]〈岐阜市〉)
| align="center" |J3
| align="center" |2008年
|-
!rowspan="6"|[[近畿地方|近畿]]
|[[京都サンガF.C.]]<br />''KYOTO Sanga F.C.''
|[[京都府]] / [[京都市]]ほか15市3町{{Efn|[[京都市]]、[[宇治市]]、[[城陽市]]、[[京田辺市]]、[[向日市]]、[[長岡京市]]、[[木津川市]]、[[亀岡市]]、[[南丹市]]、[[京丹波町]]、[[福知山市]]、[[舞鶴市]]、[[綾部市]]、[[八幡市]]、[[宮津市]]、[[大山崎町]]、[[久御山町]]、[[京丹後市]]}}<br />([[サンガスタジアム by KYOCERA]]〈[[亀岡市]]〉)
| align="center" |J1
| align="center" |1996年
|-
|[[ガンバ大阪]]<br />''Gamba OSAKA''
|[[大阪府]] / [[吹田市]]ほか7市{{Efn|[[吹田市]]、[[茨木市]]、[[高槻市]]、[[豊中市]]、[[池田市]]、[[摂津市]]、[[箕面市]]}}<br />([[市立吹田サッカースタジアム|パナソニックスタジアム吹田]]〈吹田市〉)
| align="center" |J1
| align="center" |1991年
|-
|[[セレッソ大阪]]<br />''Cerezo OSAKA''
|大阪府 / [[大阪市]]、[[堺市]]<br />([[長居球技場|ヨドコウ桜スタジアム]]〈大阪市[[東住吉区]]〉)
| align="center" |J1
| align="center" |1995年
|-
|[[FC大阪]]<br />''FC OSAKA''
|大阪府 / [[東大阪市]]<br />([[東大阪市花園ラグビー場]](東大阪市))
| align="center" |J3
| align="center" |2023年
|-
|[[ヴィッセル神戸]]<br />''Vissel KOBE''
|[[兵庫県]] / [[神戸市]]<br />([[御崎公園球技場|ノエビアスタジアム神戸]]〈神戸市[[兵庫区]]〉)
| align="center" |J1
| align="center" |1997年
|-
|[[奈良クラブ]]<br />''NARA Club''
|[[奈良県]] / [[奈良市]]、[[三郷町]]を中心とする全県<br />([[奈良市鴻ノ池陸上競技場|ロートフィールド奈良]]〈奈良市〉)
| align="center" |J3
| align="center" |2023年
|-
!rowspan="4"|[[中国地方|中国]]
|[[ガイナーレ鳥取]]<br />''Gainare TOTTORI''
|[[鳥取県]] / [[鳥取市]]ほか4市{{Efn|[[鳥取市]]、[[倉吉市]]、[[米子市]]、[[境港市]]}} を中心とする全県<br />([[鳥取市営サッカー場|Axisバードスタジアム]]〈鳥取市〉)
| align="center" |J3
| align="center" |2011年
|-
|[[ファジアーノ岡山FC|ファジアーノ岡山]]<br />''Fagiano OKAYAMA''
|[[岡山県]] / [[岡山市]]、[[倉敷市]]、[[津山市]]を中心とする全県<br />([[岡山県総合グラウンド陸上競技場|シティライトスタジアム]]〈岡山市[[北区 (岡山市)|北区]]〉)
| align="center" |J2
| align="center" |2009年
|-
|[[サンフレッチェ広島F.C|サンフレッチェ広島]]<br />''Sanfrecce HIROSHIMA''
|[[広島県]] / [[広島市]]<br />([[広島広域公園陸上競技場|エディオンスタジアム広島]]〈広島市[[安佐南区]]〉)
| align="center" |J1
| align="center" |1991年
|-
|[[レノファ山口FC]]<br />''Renofa YAMAGUCHI FC''
|[[山口県]] / 山口県全県13市6町{{Efn|[[山口市]]、[[下関市]]、[[山陽小野田市]]、[[宇部市]]、[[防府市]]、[[周南市]]、[[美祢市]]、[[萩市]]、[[下松市]]、[[岩国市]]、[[光市]]、[[長門市]]、[[柳井市]]、[[周防大島町]]、[[和木町]]、[[上関町]]、[[田布施町]]、[[平生町]]、[[阿武町]]}}<br />([[維新百年記念公園陸上競技場|維新みらいふスタジアム]]〈[[山口市]]〉)
| align="center" |J2
| align="center" |2015年
|-
!rowspan="4"|[[四国地方|四国]]
|[[カマタマーレ讃岐]]<br />''Kamatamare SANUKI''
|[[香川県]] / [[高松市]]、[[丸亀市]]を中心とする全県<br />([[香川県立丸亀競技場|Pikaraスタジアム]]〈丸亀市〉)
| align="center" |J3
| align="center" |2014年
|-
|[[徳島ヴォルティス]]<br />''TOKUSHIMA Vortis''
|[[徳島県]] / [[徳島市]]ほか6市4町{{Efn|[[徳島市]]、[[鳴門市]]、[[美馬市]]、[[吉野川市]]、[[小松島市]]、[[阿南市]]、[[松茂町]]、[[板野町]]、[[藍住町]]、[[北島町]]}} を中心とする全県<br />([[徳島県鳴門総合運動公園陸上競技場|鳴門・大塚スポーツパークポカリスエットスタジアム]]〈[[鳴門市]]〉)
| align="center" |J2
| align="center" |2005年
|-
|[[愛媛FC]]<br />''EHIME FC''
|[[愛媛県]] / [[松山市]]を中心とする全県<br />([[愛媛県総合運動公園陸上競技場|ニンジニアスタジアム]]〈松山市〉)
| align="center" |J2
| align="center" |2006年
|-
|[[FC今治]]<br />''FC IMABARI''
|愛媛県 / [[今治市]]<br />([[今治里山スタジアム]]〈今治市〉)
| align="center" |J3
| align="center" |2020年
|-
!rowspan="9"|[[九州地方|九州]]
|[[アビスパ福岡]]<br />''Avispa FUKUOKA''
|[[福岡県]] / [[福岡市]]<br />([[東平尾公園博多の森球技場|ベスト電器スタジアム]]〈福岡市[[博多区]]〉)
| align="center" |J1
| align="center" |1996年
|-
|[[ギラヴァンツ北九州]]<br />''Giravanz KITAKYUSHU''
|福岡県 / [[北九州市]]<br />([[ミクニワールドスタジアム北九州]]〈北九州市[[小倉北区]]〉)
| align="center" |J3
| align="center" |2010年
|-
|[[サガン鳥栖]]<br />''Sagan TOSU''
|[[佐賀県]] / [[鳥栖市]]<br />([[鳥栖スタジアム|駅前不動産スタジアム]]〈鳥栖市〉)
| align="center" |J1
| align="center" |1999年
|-
|[[V・ファーレン長崎]]<br />''V Varen NAGASAKI''
|[[長崎県]] / [[長崎市]]、[[諫早市]]を中心とする全県<br />([[長崎県立総合運動公園陸上競技場|トランスコスモススタジアム長崎]]〈諫早市〉)
| align="center" |J2
| align="center" |2013年
|-
|[[ロアッソ熊本]]<br />''Roasso KUMAMOTO''
|[[熊本県]] / [[熊本市]]<br />([[熊本県民総合運動公園陸上競技場|えがお健康スタジアム]]〈熊本市[[東区 (熊本市)|東区]]〉)
| align="center" |J2
| align="center" |2008年
|-
|[[大分トリニータ]]<br />''OITA Trinita''
|[[大分県]] / [[大分市]]、[[別府市]]、[[佐伯市]]を中心とする全県<br />([[大分スポーツ公園総合競技場|レゾナックドーム大分]]〈大分市〉)
| align="center" |J2
| align="center" |1999年
|-
|[[テゲバジャーロ宮崎]]<br />''Tegevajaro MIYAZAKI''
|[[宮崎県]] / [[宮崎市]]、[[新富町]]、[[西都市]]<br />([[ユニリーバスタジアム新富]]〈[[児湯郡]]新富町〉)
| align="center" |J3
| align="center" |2021年
|-
|[[鹿児島ユナイテッドFC]]<br />''KAGOSHIMA United FC''
|[[鹿児島県]] / [[鹿児島市]]<br />([[鹿児島県立鴨池陸上競技場|白波スタジアム]]〈鹿児島市〉)
| align="center" |J2
| align="center" |2016年
|-
|[[FC琉球]]<br />''FC RYUKYU''
|[[沖縄県]] / [[沖縄市]]を中心とする全県<br />([[沖縄県総合運動公園陸上競技場|タピック県総ひやごんスタジアム]]〈沖縄市〉)
| align="center" |J3
| align="center" |2014年
|}
=== J3クラブライセンスが交付されたクラブ ===
Jリーグ未加盟クラブのうち2023シーズンJ3クラブライセンスが交付されたクラブ(Jリーグ百年構想クラブを含む)。
{|class="sortable wikitable" style="font-size: small;"
! !!クラブ名!!活動区域 / ホームタウン<br />(ホームスタジアム)!!カテゴリ!!百年構想クラブ<br />承認年度!!百年構想クラブ<br />脱退年
|-
![[東北]]
|[[ラインメール青森FC|ラインメール青森]]<br />''ReinMeer AOMORI''
|青森県 / [[青森市]]<br />([[新青森県総合運動公園#陸上競技場|カクヒログループアスレチックスタジアム]]〈青森市〉)
| align="center" |JFL
| align="center" |2019年
| align="center" |2023年
|-
![[東海]]
|[[ヴィアティン三重]]<br />''Veertien MIE''
|[[三重県]] / [[桑名市]]ほか2市5町{{Efn|[[桑名市]]、[[東員町]]、[[いなべ市]]、[[木曽岬町]]、[[朝日町 (三重県)|朝日町]]、[[川越町]]、[[菰野町]]}}<br />([[東員町スポーツ公園陸上競技場|朝日ガスエナジー東員スタジアム]]〈[[東員町]]〉)
| align="center" |JFL
| align="center" |2020年
| align="center" |2023年
|-
![[四国]]
|[[高知ユナイテッドSC]]<br />''KOCHI United SC''
|[[高知県]] / [[高知市]]を中心とする全県<br />([[高知県立春野総合運動公園陸上競技場]]〈高知市〉)
| align="center" |JFL
| align="center" |2022年
| align="center" |2023年
|-
![[九州]]
|[[ヴェルスパ大分]]<br />''Verspah OITA''
|大分県 / [[別府市]]、[[由布市]]
| align="center" |JFL
| align="center" |2021年
| align="center" |2023年
|}
=== Jリーグ百年構想クラブ ===
Jリーグ百年構想クラブのうちJ3クラブライセンスが交付されたクラブについては前述。
{|class="sortable wikitable" style="font-size: small;"
! !!クラブ名!!活動区域 / ホームタウン<br />(ホームスタジアム)!!カテゴリ!!承認年度
|-
!rowspan="4"|[[関東地方|関東]]
|[[VONDS市原]]<br />''VONDS ICHIHARA''
|千葉県 / [[市原市]]<br/ >([[市原緑地運動公園臨海競技場|ゼットエーオリプリスタジアム]]〈市原市〉)
| rowspan="3" align="center" |[[関東サッカーリーグ|関東]]1部
| rowspan="2" align="center" |2020年
|-
|[[南葛SC]]<br />''NANKATSU SC''
|東京都 / [[葛飾区]]
|-
|[[東京23フットボールクラブ]]<br />''TOKYO 23 Football Club''
|東京都 / [[江戸川区]]<br />([[江戸川区陸上競技場]]〈江戸川区〉)
| align="center" |2022年
|-
|[[Criacao Shinjuku|クリアソン新宿]]<br />''Criacao SHINJUKU''
|東京都 / [[新宿区]]
| rowspan="5" align="center" |JFL
| align="center" |2021年
|}
=== 過去にJリーグ正会員であったクラブ ===
{| class="wikitable sortable" style="font-size: small;"
!クラブ名!!活動区域 / ホームタウン<br />(ホームスタジアム)!!加盟期間
|-
|[[横浜フリューゲルス]]<br />''YOKOHAMA Flügels''
|神奈川県 / 横浜市、<small>長崎県、熊本県、鹿児島県</small><ref group="注釈" name="横浜F">1992年から1995年に「特別活動地域」として九州地方の3県をホームタウンとほぼ同権限の地域と位置づけた。</ref><br />([[三ツ沢公園球技場]]、[[横浜国際総合競技場]]、<small>[[長崎県立総合運動公園陸上競技場]]<ref group="注釈" name="横浜F"/>、[[熊本市水前寺競技場]]<ref group="注釈" name="横浜F"/>、[[鹿児島県立鴨池陸上競技場]]<ref group="注釈" name="横浜F"/></small>)
| align="center" |1991-1998年
|}
=== 過去にJリーグ準会員、準加盟、百年構想クラブであったクラブ ===
{|class="sortable wikitable" style="font-size: small;"
!クラブ名!!活動区域 / ホームタウン<br />(ホームスタジアム)!!承認期間
|-
|[[鳥栖フューチャーズ]]<br />''TOSU Futures''
|佐賀県 / 鳥栖市<br />([[鳥栖スタジアム]]〈鳥栖市〉)
| align="center" |1994-1996年
|-
|[[本田技研工業フットボールクラブ|浜松F.C]]<br />''HAMAMATSU F.C''
|静岡県 / [[浜松市]]<br />([[ホンダ都田サッカー場|本田技研都田サッカー場]]〈浜松市[[北区 (浜松市)|北区]]〉)
| align="center" |1997年
|-
|[[tonan前橋]]<br />''Tonan MAEBASHI''
|群馬県 / [[前橋市]]<br />([[前橋総合運動公園陸上競技・サッカー場]]〈前橋市〉)
| align="center" |2013-2019年
|-
|[[東京武蔵野シティFC]]<br />''TOKYO MUSASHINO City FC''
|東京都 / [[武蔵野市]]<br />([[武蔵野陸上競技場]]〈武蔵野市〉)
| align="center" |2016-2020年
|-
|[[鈴鹿ポイントゲッターズ]]<br />''SUZUKA Point Getters''
|三重県 / [[鈴鹿市]]
| align="center" |2021-2022年
|-
|[[Cobaltore女川|コバルトーレ女川]]<br />''Cobaltore ONAGAWA''
|宮城県 / [[女川町]]<br />([[女川スタジアム]]〈女川町〉)
| align="center" |2022年
|-
|[[沖縄SV]]<br />''OKINAWA SV''
|沖縄県 / [[豊見城市]]、[[うるま市]]、[[沖縄市]]を中心とする全県
| align="center" |2022-2023年
|-
|[[栃木シティFC]]<br />''TOCHIGI City Football Club''
|栃木県 / [[栃木市]]<br/ >([[CITY FOOTBALL STATION]]〈栃木市〉)
| align="center" |2014年-2023年
|}
=== クラブ数の推移と昇降格制度 ===
1998年にJ1参入決定戦を実施。1999年からはJ1・J2の2部制への移行に伴い、入替制度を導入した。2012年以降はJ2と下部リーグ(2012年は[[日本フットボールリーグ]](JFL)、2013年のポストシーズン以降はJ3)との入替制度も導入された。
* 実際に適用されたケースはないが、2012年の[[Jリーグクラブライセンス制度]]導入までは、Jリーグによる審査でJ1昇格の権利を得たJ2クラブがJ1の規格に満たしていなければJ1昇格が取り消され、J1の16位からJ2降格も取り消される可能性があった。
* 2012年のポストシーズン(2013年の参入)以降は、J1・J2・J3のリーグに参入するには、クラブライセンス制度により当該リーグないしそれより上のライセンスを取得している」ことが要件となる。
* 消化できた試合数がその年に予定されていたJ1・J2・J3リーグ全体の試合数の75%に満たない場合や、所属カテゴリでその年に予定されていた総試合数の50%に満たないクラブが発生した場合は、大会は不成立となり昇格・降格は行われないが、2022シーズン終了時点で実際に適用されたシーズンはない。
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
|+
! rowspan="2"|年度
! rowspan="2"|総数
! colspan="2"|J1!!JFL!!rowspan="2"|備考
|-
!{{Abbr|数|クラブ数}}!!JFL降格!!style="width:6.4em"|Jリーグ参入
|-
!1993
| align="center" |'''10'''
| align="center" |10|| rowspan="5" align=center|降格<br />制度<br />なし||平塚 / 磐田|| rowspan="5" |JFLは[[ジャパンフットボールリーグ|旧JFL]]
|-
!1994
| align="center" |'''12'''
| align="center" |12||C大阪 / 柏
|-
!1995
| align="center" |'''14'''
| align="center" |14||福岡 / 京都
|-
!1996
| align="center" |'''16'''
| align="center" |16||神戸
|-
!1997
| align="center" |'''17'''
| align="center" |17||札幌
|}
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
|+
! rowspan="2" |年度
! rowspan="2" |総数
! colspan="2" |J1!!colspan="3"|J2!!JFL!!rowspan="2"|備考
|-
!{{Abbr|数|クラブ数}}!!J2降格!!J1昇格!!{{Abbr|数|クラブ数}}!!JFL降格!!Jリーグ参入
|-
!1998
| align="center" |'''18'''
| align="center" |18||札幌||align=center colspan="3" |-||9クラブ{{Efn|仙台・山形・大宮・FC東京・川崎・甲府・新潟・鳥栖・大分の9クラブ。}}||[[J1参入決定戦]]実施<br />横浜Fと横浜Mとの合併により1クラブ減
|-
!1999
| align="center" |'''26'''
| rowspan="6" align="center" |16||浦和 / 平塚||川崎 / FC東京|| align="center" |10
| rowspan="13" align=center|降格<br />制度<br />なし||水戸||rowspan="5"|自動入替2クラブ
|-
!2000
| align="center" |'''27'''
|京都 / 川崎||札幌 / 浦和|| align="center" |11||横浜FC
|-
!2001
| align="center" rowspan="4" |'''28'''
|福岡 / C大阪||京都 / 仙台|| rowspan="5" align="center" |12|| align="center" |-
|-
!2002
|広島 / 札幌||大分 / C大阪|| align="center" |-
|-
!2003
|仙台 / 京都||新潟 / 広島|| align="center" |-
|-
!2004
| ||川崎 / 大宮 ||徳島 / 草津||[[J1・J2入れ替え戦]]の導入
|-
!2005
| align="center" |'''30'''
| rowspan="8" align="center" |18||柏<sup>†</sup> / 東京V / 神戸||京都 / 福岡 / 甲府<sup>†</sup>||愛媛||rowspan="4"|自動入替2クラブ+[[J1・J2入れ替え戦]]
|-
!2006
| align="center" rowspan="2" |'''31'''
|福岡<sup>†</sup> / C大阪 / 京都||横浜FC / 柏 / 神戸<sup>†</sup>|| rowspan="2" align="center" |13|| align="center" |-
|-
!2007
|広島<sup>†</sup> / 甲府 / 横浜FC||札幌 / 東京V / 京都<sup>†</sup>||熊本 / 岐阜
|-
!2008
| align="center" |'''33'''
| 東京V / 札幌||広島 / 山形
| align="center" |15
|栃木 / 富山 / 岡山
|-
!2009
| align="center" |'''36'''
|柏 / 大分 / 千葉||仙台 / C大阪 / 湘南|| align="center" |18||北九州||rowspan="3"|自動入替3クラブ
|-
!2010
| align="center" |'''37'''
|FC東京 / 京都 / 湘南||柏 / 甲府 / 福岡|| align="center" |19||鳥取
|-
!2011
| align="center" |'''38'''
|甲府 / 福岡 / 山形||FC東京 / 鳥栖 / 札幌|| align="center" |20||町田 / 松本
|-
!2012
| align="center" |'''40'''
|神戸 / G大阪 / 札幌||甲府 / 湘南 / 大分|| align="center" |22||町田||長崎||[[J1昇格プレーオフ]]開始
|}
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|+
! rowspan="2" |年度
! rowspan="2" |総数
! colspan="2" |J1!!colspan="3"|J2!! colspan="3" |J3!!JFL!!rowspan="2"|備考
|-
!{{Abbr|数|クラブ数}}!!J2降格!!J1昇格!!{{Abbr|数|クラブ数}}!!J3降格!!J2昇格!!{{Abbr|数|クラブ数}}
!JFL降格!!Jリーグ参入
|-
!2013
| align="center" |'''40'''
| rowspan="8" align="center" |18||湘南 / 磐田 / 大分||G大阪 / 神戸 / 徳島|| rowspan="11" align="center" |22||鳥取|| colspan="3" align=center|-||讃岐<br />10クラブ<ref group="注釈">JFLから9クラブ(秋田・福島・町田・相模原・YS横浜・長野・金沢・藤枝・琉球)、[[地域リーグ (サッカー)|地域リーグ]]([[東北社会人サッカーリーグ|東北リーグ]])から1クラブ(盛岡)。</ref>
|讃岐は[[J2・J3入れ替え戦#2013年|J2・JFL入れ替え戦]]の結果<br />10クラブはJFLからJ3への参入
|-
!2014
| align="center" |'''51'''
|大宮 / C大阪 / 徳島||湘南 / 松本 / 山形|| 富山||金沢 || align="center" |11
| rowspan="9" align="center" |降格<br />制度<br />なし||山口||[[J2・J3入れ替え戦]]の導入
|-
!2015
| align="center" |'''52'''
|松本 / 清水 / 山形||大宮 / 磐田 / 福岡||大分<sup>†</sup> / 栃木||山口 / 町田<sup>†</sup>|| align="center" |12||鹿児島||
|-
!2016
| align="center" |'''53'''
|名古屋 / 湘南 / 福岡||札幌 / 清水 / C大阪|| 北九州||大分 || align="center" |13||沼津||
|-
!2017
| align="center" rowspan="2" |'''54'''
|甲府 / 新潟 / 大宮||湘南 / 長崎 / 名古屋||群馬||栃木|| rowspan="2" align="center" |14|| align="center" |-||J2・J3入れ替え戦を廃止
|-
!2018
| 柏 / 長崎||松本 / 大分 ||熊本 / 讃岐||琉球 / 鹿児島||八戸||[[J1参入プレーオフ]]開始
|-
!2019
| align="center" |'''55'''
| 松本 / 磐田||柏 / 横浜FC ||鹿児島 / 岐阜||北九州 / 群馬|| align="center" |15||今治||
|-
!2020
| align="center" |'''56'''
| align="center" |-||徳島 / 福岡 || align="center" |-||秋田 / 相模原
| align="center" |16||宮崎||降格無し<br />J1参入プレーオフなし
|-
!2021
| align="center" |'''57'''
| align="center" |20||徳島 / 大分 / 仙台 / 横浜FC||磐田 / 京都||相模原 / 愛媛 / 北九州 / 松本||熊本 / 岩手|| align="center" |15||いわき||J1参入プレーオフなし
|-
!2022
| align="center" |'''58'''
| rowspan="2" align="center" |18|| 清水 / 磐田||新潟 / 横浜FC ||琉球 / 岩手||いわき / 藤枝|| align="center" |18||奈良 / FC大阪||
|-
!2023
|rowspan="2" align="center"|'''60'''||横浜FC||町田 / 磐田 / 東京V||大宮 / 金沢||愛媛 / 鹿児島||rowspan="2" align="center"|20||colspan="2" align="center" |-||J1昇格プレーオフ復活<br />[[J3・JFL入れ替え戦]]の導入
|-
!2024
|rowspan="1" align="center" |20|| || ||rowspan="1" align="center" |20|| || || || ||[[J2昇格プレーオフ]]開始
|}
* 「†」を付したクラブは入替戦の結果による昇降格。
== 通算成績 ==
{{main|Jリーグに所属するクラブの年度別成績一覧}}
;J1リーグ戦
{{main|J1リーグ#統計}}
;J2リーグ戦
{{main|J2リーグ#統計}}
;J3リーグ戦
{{main|J3リーグ#統計}}
;タイトル獲得クラブ一覧
* Jリーグ発足以降に主なタイトルを獲得したクラブのみ掲載。
**[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]については、Jリーグ所属クラブが参加するようになった[[第72回天皇杯全日本サッカー選手権大会|1992年度の第72回大会]]以降の戦績について記す<ref group="注釈">天皇杯の公式記録で、Jリーグクラブについては、前身のクラブからの通算としている。この場合、最多獲得クラブは浦和の8回(前身の[[三菱重工業サッカー部|三菱重工]]時代に4回獲得)となる。</ref>。
**[[Jリーグカップ]]については、Jリーグ発足前年の[[1992年のJリーグカップ|1992年大会]]を含む。
* J2・J3の年間優勝および2ステージ時代のJ1ステージ優勝は含めない。
* 詳細な情報については各クラブ・大会の項目を参照。
{|class="sortable wikitable" style="font-size:smaller; text-align:right"
!class="unsortable"|クラブ名
![[J1リーグ|J<br />/<br />J1]]
![[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|{{縦書き|天皇杯}}]]
![[Jリーグカップ|{{縦書き|Jリーグ杯}}]]
![[スーパーカップ (日本サッカー)|{{縦書き|スーパー杯}}]]
![[Jリーグチャンピオンシップ#サントリーカップ・96Jリーグチャンピオン・ファイナル|96<br />J<br />C]]
!{{縦書き|国内計}}
![[FIFAクラブワールドカップ|{{縦書き|CWC}}]]
![[AFCチャンピオンズリーグ|{{縦書き|ACL}}]]
![[Jリーグカップ/コパ・スダメリカーナ王者決定戦|{{縦書き|J/コパ杯}}]]
![[アジアカップウィナーズカップ|{{縦書き|ACWC}}]]
![[アジアスーパーカップ|{{縦書き|ASC}}]]
![[A3チャンピオンズカップ|{{縦書き|A3CC}}]]
![[パンパシフィックチャンピオンシップ|{{縦書き|PPC}}]]
![[トヨタプレミアカップ|{{縦書き|TPC}}]]
![[サンワバンクカップ|{{縦書き|SBC}}]]
!{{縦書き|国際計}}
!{{縦書き|合計}}
|-
|align=left|[[鹿島アントラーズ]]||'''8'''||'''5'''||'''6'''||'''6'''||0||'''25'''||0||1||'''2'''||0||0||'''1'''||0||0||0||'''4'''||'''29'''
|-
|align=left|[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]]||1||4||2||2||0||9||0||'''3'''||1||0||0||0||0||0||0||'''4'''||13
|-
|align=left|[[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフユナイテッド千葉]]||0||0||2||0||0||2||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||2
|-
|align=left|[[柏レイソル]]||1||1||2||1||0||5||0||0||1||0||0||0||0||0||0||1||6
|-
|align=left|[[FC東京]]||0||1||3||0||0||4||0||0||1||0||0||0||0||0||0||1||5
|-
|align=left|[[東京ヴェルディ1969|東京ヴェルディ]]||2||2||3||3||0||10||0||0||0||0||0||0||0||0||'''1'''||1||11
|-
|align=left|[[川崎フロンターレ]]||4||2||1||2||0||9||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||8
|-
|align=left|[[横浜F・マリノス]]||5||2||1||1||0||9||0||0||0||'''1'''||0||0||0||0||0||1||10
|-
|align=left|[[横浜フリューゲルス]]||0||2||0||0||0||2||0||0||0||'''1'''||'''1'''||0||0||0||0||2||4
|-
|align=left|[[湘南ベルマーレ]]||0||1||1||0||0||2||0||0||0||'''1'''||0||0||0||0||0||1||3
|-
|align=left|[[ヴァンフォーレ甲府]]||0||1||0||0||0||1||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||1
|-
|align=left|[[清水エスパルス]]||0||1||1||2||0||4||0||0||0||'''1'''||0||0||0||0||0||1||5
|-
|align=left|[[ジュビロ磐田]]||3||1||2||3||0||9||0||1||1||0||'''1'''||0||0||0||0||3||12
|-
|align=left|[[名古屋グランパスエイト|名古屋グランパス]]||1||2||1||2||'''1'''||7||0||0||0||0||0||0||0||'''1'''||'''1'''||2||9
|-
|align=left|[[京都サンガF.C.]]||0||1||0||0||0||1||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||1
|-
|align=left|[[ガンバ大阪]]||2||4||2||2||0||10||0||1||0||0||0||0||'''1'''||0||0||2||12
|-
|align=left|[[セレッソ大阪]]||0||1||1||1||0||3||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||3
|-
|align=left|[[ヴィッセル神戸]]||1||1||0||1||0||3||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||3
|-
|align=left|[[サンフレッチェ広島F.C|サンフレッチェ広島]]||3||0||1||4||0||8||0||0||0||0||0||0||0||'''1'''||0||1||9
|-
|align=left|[[アビスパ福岡]]||0||0||1||0||0||1||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||1
|-
|align=left|[[大分トリニータ]]||0||0||1||0||0||1||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||1
|}
※2023年11月25日現在<ref name="j-history"/><ref>{{Cite web|和書|url=http://web.gekisaka.jp/datadisp/detail?id=2543|title=J1歴代優勝クラブ|website=ゲキサカ|accessdate=2022-02-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://web.gekisaka.jp/datadisp/detail/?id=2545|title=ルヴァン杯 歴代優勝クラブ|website=ゲキサカ|accessdate=2022-02-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/soccer/jleague/jcup/jcup-record.html|title=ルヴァン杯 歴代優勝|website=日刊スポーツ|accessdate=2022-02-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://web.gekisaka.jp/datadisp/detail/?id=2544|title=天皇杯 歴代優勝クラブ|website=ゲキサカ|accessdate=2022-02-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://web.gekisaka.jp/datadisp/detail?id=2546|title=富士ゼロックススーパー杯 歴代優勝クラブ|website=ゲキサカ|accessdate=2022-02-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://data.j-league.or.jp/SFMS01/|title=日程・結果|work=J.League Data Site|accessdate=2017-05-08}}から各大会を検索</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/acl/2016/history/|title=大会の歴史|publisher=日本プロサッカーリーグ|accessdate=2017-05-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jfa.jp/match/suruga_2018/history.html|title=歴代優勝チーム|work=[[スルガ銀行チャンピオンシップ2018]]|publisher=日本サッカー協会|accessdate=2022-02-12}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.rsssf.com/tablesa/as2.html|title=Asian Cup Winners' Cup|publisher=[[Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation|RSSSF]]|accessdate=2017-05-11}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.rsssf.com/tablesa/assup.html|title=Asian Super Cup|publisher=[[Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation|RSSSF]]|accessdate=2017-05-11}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.rsssf.com/tablesa/a3eastasia.html|title=East Asian Champions Cup|publisher=[[Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation|RSSSF]]|accessdate=2017-05-11}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.rsssf.com/tabless/sanwabank97.html|title=Sanwa Bank Cup 1994-1997|publisher=[[Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation|RSSSF]]|accessdate=2017-05-11}}</ref>
== 表彰 ==
{{Main|Jリーグアウォーズ}}
== 配分金 ==
Jリーグ各クラブに対しては、Jリーグ規約第122条〔収入の配分〕ならびにJリーグ配分金規程<ref>{{Cite web|和書|url=https://aboutj.jleague.jp/corporate/wp-content/themes/j_corp/assets/pdf/015_2022final.pdf|title=Jリーグ配分金規程(2022/1/1 改正)|website=日本プロサッカーリーグ 組織・経営情報|accessdate=2022-11-19}}</ref> に基づき、(公財)日本プロサッカーリーグの得た事業(付随事業、公衆送信権、その他の事業、パートナー契約)による収益の一部を各クラブに「配分金」として分配している。以下の5種類がある。
; 事業協力配分金
: J1リーグおよびJ2リーグに所属するJクラブに対して支給されるもの。
; toto交付金
: [[スポーツ振興投票の実施等に関する法律]]第4条に基づく[[スポーツ振興くじ|スポーツ振興投票]]の対象試合の計画的かつ安定的な開催の確保に資するため、独立行政法人[[日本スポーツ振興センター]]からJリーグに支払われる支援経費を原資として、全てのJクラブに対して支給されるもの。
: 「事業協力配分金」と併せてクラブの所属ディビジョンごとに定額(均等配分金)となっており、2021年度時点ではJ1クラブに3億5千万円、J2クラブに1億5千万円、J3クラブに3千万円が配分されることが明らかになっている<ref name="release20201013">{{Cite press release|和書|url=https://aboutj.jleague.jp/corporate/release/388/|title=2021年度配分金について|publisher=公益財団法人日本プロサッカーリーグ|date=2020-10-13|accessdate=2022-11-19}}</ref>。
; 理念強化配分金
: 前シーズンのJ1リーグ戦の年間順位1位から4位のJクラブに対して最長3年間にわたって支給されるもの。2017年度より支給開始されており、DAZNと結んだ10年2100億円超の放送権料が原資と報じられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/1776842.html|title=J1優勝15・5億円 理念強化配分金の詳細発表|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2019-07-16}}</ref>。金額については後述。2020年・2021年は配分が停止された<ref name="release20201013"/>。
: 年度毎に理念強化配分金活用計画書における理念強化配分金の活用計画の審査・承認を受ける必要あり。
; 降格救済配分金
: J1からJ2に、およびJ2からJ3にそれぞれ降格した各Jクラブに対して支給されるもの。均等配分金の激変緩和措置として行われる。
: 2021年時点では降格1年目に降格前所属リーグの均等配分金額の80%を、降格2年目は60%を受け取れるよう、以下のように配分される<ref name="release20201013"/>。
:* J1→J2:1年目1億3千万円、2年目6千万円
:* J2→J3:1年目9千万円、2年目6千万円
; ACLサポート配分金
: 支給年度の[[AFCチャンピオンズリーグ]] (ACL) に参加した各Jクラブに対してその遠征費等について一定割合を補助するもの。
: 2021年度出場クラブは1クラブ当たり1億円<ref name="release20201013"/>(2020年までは2千万円)。
{| class="wikitable"
|+理念強化配分金の支給額(2019年まで)
!順位!!理念強化配分金!!内訳
|-
!年間1位
|15億5000万円||1年目5.5億円、2年目5億円、3年目5億円の計15.5億円{{Efn|2017年と2018年の成績による支給分は1年目10億円、2年目4億円、3年目1.5億円}}
|-
!年間2位
|7億円||1年目2.5億円、2年目2.5億円、3年目2億円の計7億円{{Efn|2017年と2018年の成績による支給分は1年目4億円、2年目2億円、3年目1億円}}
|-
!年間3位
|3億5000万円||1年目2億円、2年目1.5億円の計3.5億円
|-
!年間4位
|1億8000万円||1年目1.8億円
|}
なお、この配分金の構造については、リーグの成長促進を目的として2023年度以降見直されることになっており、特にカテゴリー間の定額配分金の配分比率を5-6倍程度まで段階的に拡大させることが言及されると共に、同一カテゴリー内の配分方法も均等配分中心から競技成績やファン増加等の成果に応じた傾斜配分中心へ段階的にシフトすることが明らかにされている<ref>{{Cite press release|和書|url=https://aboutj.jleague.jp/corporate/release/25712/|title=Jリーグ新たな成長戦略とリーグ組織の構造改革について|publisher=公益財団法人日本プロサッカーリーグ|date=2020-10-13|accessdate=2022-11-19}}</ref>。
== 懲罰 ==
Jリーグでは各クラブが不正行為や選手・観客のトラブルなどがあった場合に以下の順で制裁処置をとる場合がある。制裁措置についてはJリーグ規約第141条から第143条に定めがあり、裁定委員会もしくは関連する専門委員会の調査結果を踏まえて、チェアマンが最終的な制裁措置の判断を下すとされている。
制裁措置はクラブ、及びクラブに所属する個人に対して行われ、以下のような段階が設けられている。
;クラブに対する制裁
:# [[譴責|けん責]]
:# 制裁金(最大1億円)
:# 中立地での試合の開催
:# [[無観客試合]]の開催
:# [[没収試合|試合の没収]](得点を3対0として試合を没収)
:# [[勝ち点|勝点]]減(最大15点)
:# (リーグカップ戦における)出場権剥奪
:# 下位ディビジョンへの強制降格
:# 除名
※中立地開催・無観客試合・没収試合・強制降格は2014年から設けられた。
;個人に対する制裁
:# けん責
:# 制裁金(最大5,000万円)
:# 出場資格停止(無期限または最大1年以内の期限付き出場停止)
:# 公式試合に関わる職務の停止(一定期間、無期限または永久的な公式試合に関わる職務の全部または一部の停止)
== 開催日時 ==
リーグ戦は基本的に試合は毎週[[土曜日]]または[[日曜日]]に開催している。スケジュールの都合で週2試合とする必要がある場合には[[水曜日]]に試合を行うことがあるほか、[[日本の祝日|祝日]]の配列の関係で変則的な試合間隔となるケースもある。
土曜日・日曜日に開催される試合は基本的に[[デーゲーム|デイマッチ]]であるが、各節数試合はテレビ中継に配慮する形で[[ナイター|ナイトマッチ]]でも行われることがあるほか、夏期(おおむね6月下旬から9月上旬にかけて)のJ1・J2の試合は原則としてナイトマッチで開催される。また、祝祭日以外の平日に開催される試合は原則としてナイトマッチで開催されている(2022年度まで照明設備を必須としていなかったJ3を含め、かつては施設の都合等で平日の開催でもデイマッチを行う事があった。)。
なお、最終節は基本的に全試合の開催日と試合開始時間を統一している。
2008年以降、日本代表の試合のある日は原則として、JリーグカップおよびJ2の試合は組まれない(この間、J1は日本代表に選出されている選手の強化期間としているため、リーグ戦の試合自体が組まれない)。また、試合予定が未定の分で、日本代表の試合が予定されている場合は土曜、日曜両方で開催できるように対応している。
試合日程については、概ね1月中旬に、各クラブのホームゲーム開幕節の試合日程・対戦組み合わせ・試合会場のみを先行で発表し、1月末もしくは2月上旬に残り全試合の詳細な試合日程・組み合わせ・試合会場、並びに前半戦(概ね8月下旬まで J1リーグが[[2シーズン制]]となる年は、第1ステージの17試合分のみ)の試合開始時間を、6月下旬または7月初めに後半戦(概ね9月以後 J1リーグの2シーズン制となる年の第2ステージ17試合についても同様であるが、第2ステージの開始時期によっては前倒しとなる場合あり)の試合開始時間について発表される<ref>参考として、{{Cite press release|和書|url=http://www.jleague.jp/release/article-00006267/|title=2015 Jリーグ 日程発表について|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2014-12-25|accessdate=2016-01-26}}</ref>。
; J1
:* 1部制だった時代(1993年から1998年)も含めて、1993年から2000年までは基本的に土曜日に開催されていた。ただし、1993年から1995年の2ステージ制だった時代は試合数の問題から平日(主に水曜日)にも開催されていた。
:* 2001年以降は[[スポーツ振興くじ]](toto)の導入に伴い、J2と共に土曜日を中心とする開催になった。
:* 2002年、テレビ中継などの日程調整も考慮し、土曜日開催を基本としつつ、原則として1節のうち2試合を日曜日に開催する分散型が採用された。
:* 2012年以後は原則土曜日開催に固定したが、[[AFCチャンピオンズリーグ]]に参加するクラブについては、週の中間(火曜・水曜)に試合をすることを考慮して、週末の試合を金曜日や日曜日に組んだり、アウェーゲームを国外で行う場合を配慮して別の週の水曜に開催する例もある。国際Aマッチ期間は試合が開催されない。
:* 2018年度からは、DAZNと協力し年間10節程度、各節1-3試合程度を「'''フライデーナイトJリーグ'''」として金曜日に適宜開催する。通称「'''金J'''」(きんジェイ)。
:** 金曜日に開催する事で他の試合との被りを避けて試合の注目度を挙げるのが目的である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/fnj/ |title=週末にサッカー観戦ができないすべての人へ。 |access-date=2022-12-25}}</ref>。来場者プレゼントやイベントを開催して新規層を開拓するのも特徴であり、デートや仕事帰り、学校帰りの人に気軽にスタジアムに来てほしい狙いもある。
:** ロゴも[[金色]]で『FRIDAY NIGHT J.LEAGUE』と差別化されていて、ソーシャルメディア上では「#金J」のタグが用いられる。
; J2
:* 1999年から2000年の2年間は基本的に日曜日に開催するのが中心だったが、1か月に1-2回程度は木曜日にも開催されていた。
:* 2001年以降はtotoの導入に伴い、J1と共に土曜日を中心とする開催になった(一部は日曜日に開催)。
:* 2012年以降は原則日曜日開催。J1の大半の試合が日曜日開催となる週は土曜日開催となることがある。水曜日開催が行われる週もある。国際Aマッチ期間も、日本代表戦と重複しない範囲で調整しながら試合を開催する(ただし2002年と2010年のワールドカップ期間は試合を行わなかった)。
; J3
:* 基本的に原則日曜日の開催に固定している。
:* 2022年度まではJ3クラブのスタジアム基準で現在照明設備が必須とされていなかったことから、夏季にもデイマッチが行われた試合がいくつかあった(本拠地に照明設備があるクラブのホームゲームはナイトマッチも開催される)。
:* 毎年8月から9月は、天皇杯の都道府県予選(J3は都道府県予選から出場)、並びに[[国民体育大会サッカー競技|国体]]ブロック予選(ミニ国体)が行われるため、3週間から1か月程度のインターバルがある。なおこれについては2017年以降、天皇杯の制度改革によって多少見直されている。
その他、同一都道府県・市区町村を本拠地とするクラブが複数ある場合は、極力同じ節にホームゲームを開催しないように日程を調整している([[2011年]]の場合はJ1の[[さいたま市]]、[[神奈川県]]、[[静岡県]]、[[大阪府]]、J2の[[東京都]]、神奈川県が該当)。ただし、初期の頃は横浜市の2チームが同じ日にホームゲームをしたことがあった<ref group="注釈">このときは横浜Mが三ツ沢、横浜Fは九州への「遠征」、あるいは国立での開催などがあった。</ref>。[[2011年]]にもJ1のさいたまと大阪、J2の東京都、さらにJ1・J2それぞれ2クラブずつの神奈川県の2チームが同じ節にホームゲームをする場合があるが、このときでもやむをえない場合を除き原則として、どちらかが土曜日、もう一方は日曜日の開催<ref group="注釈">[[ゴールデンウィーク]]・[[お盆]]等年数回の平日に行われる場合でも、どちらかが火曜日、もう一方は水曜日。</ref> とするように配慮されている。
なお、2012年から2016年までJ1とJ2の開催日が分けられていたこと、及びキックオフ時間がずらされていたが、これは当時[[Jリーグ中継]]を担当していた[[スカパー!]]のチャンネル数や放送時間の制約によるものであったことが、2016年のJリーグとDAZNの契約記者会見の際に明らかにされており、現在は土曜か日曜のどちらを開催日にするかはクラブ側に委ねられているという<ref>{{Cite news|author=田丸英生|url=https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20160720/470341.html|title=Jリーグと『DAZN』の契約で「サッカーがお茶の間から街に出て行くサービスに」|newspaper=サッカーキング|date=2016-07-20|accessdate=2019-01-13}}</ref>。
アウェイゲームは原則3試合以上連続しないこととなっているが、日程の兼ね合いやその他イベントの影響<ref group="注釈">ラグビーワールドカップの影響で8連続アウェイゲームとなった2019年のFC東京など。</ref> などでアウェイゲームが3試合以上連続することもある。特に降雪地では気候的理由もあって開幕直後はアウェイゲームが続くことが多い<ref group="注釈">開幕から4連続アウェイゲームとなった2021年の秋田など。</ref>。
== 試合入場者数 ==
=== 歴代入場者数 ===
{|
|style="vertical-align:top;"|
{|class="wikitable" style="text-align:center;"
|+歴代試合入場者数一覧<ref>{{Cite web|和書|url=https://data.j-league.or.jp/SFTD12/|title=年度別入場者数推移|publisher=日本プロサッカーリーグ|accessdate=2020-4-10
}}</ref>(単位:人)
!年度!!J1!!J2!!J3
|-
|1993年||3,235,750|| rowspan="6" |-|| rowspan="21" |-
|-
|1994年||5,173,817
|-
|1995年||6,159,691
|-
|1996年||3,204,807
|-
|1997年||2,755,698
|-
|1998年||3,666,496
|-
|1999年||2,798,005||style="text-align:right"|827,217
|-
|2000年||2,655,553||1,340,820
|-
|2001年||3,971,415||1,505,722
|-
|2002年||3,928,215||1,806,392
|-
|2003年||4,164,229||2,084,185
|-
|2004年||4,551,695||1,904,172
|-
|2005年||5,742,233||1,975,340
|-
|2006年||5,597,408||1,998,688
|-
|2007年||5,838,771||2,034,543
|-
|2008年||5,875,865||2,227,570
|-
|2009年||5,809,516||2,903,607
|-
|2010年||5,638,894||2,290,082
|-
|2011年||4,833,782||2,440,695
|-
|2012年||5,375,300||2,681,881
|-
|2013年||5,271,047||3,079,181
|-
|2014年||5,275,387||3,043,948||444,966
|-
|2015年||5,447,602||3,162,194||569,016
|-
|2016年|||5,498,222|||3,221,653|||709,640
|-
|2017年|||5,778,178|||3,219,936|||710,621
|-
|2018年|||5,833,538|||3,256,416|||677,657
|-
|2019年|||6,349,681|||3,315,234|||733,032
|}
|style="vertical-align:top;"|
{|class="wikitable" style="text-align:center;"
|+歴代年齢構成分布一覧<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/aboutj/spectator-survey/|title=観戦者調査|publisher=日本プロサッカーリーグ|accessdate=2013-05-10}}</ref>(単位:パーセント)
!年度!!11 -<br />18歳{{Efn|10歳以下は調査対象外となっている。}}!!19 -<br />22歳!!23 -<br />29歳!!30 -<br />39歳!!40 -<br />49歳!!50 -<br />59歳{{Efn|2009年までは、60歳以上の区分はなく、50歳以上に合わせて集計されていた。}}!!60歳<br />以上
|-
|rowspan="2"|2000年||12.6||11.2||26.0||27.5||14.3||colspan="2"|8.2
|-
|colspan="7"|{{bar|r|2|5}}{{bar|c|2|2}}{{bar|y|5|2}}{{bar|g|5|5}}{{bar|b|2|9}}{{bar|m|1|6}}
|-
|rowspan="2"|2001年||12.0||11.4||26.2||28.9||13.2||colspan="2"|8.3
|-
|colspan="7"|{{bar|r|2|4}}{{bar|c|2|3}}{{bar|y|5|2}}{{bar|g|5|8}}{{bar|b|2|6}}{{bar|m|1|7}}
|-
|rowspan="2"|2002年||10.8||13.0||26.7||26.9||13.7||colspan="2"|8.8
|-
|colspan="7"|{{bar|r|2|2}}{{bar|c|2|6}}{{bar|y|5|3}}{{bar|g|5|4}}{{bar|b|2|7}}{{bar|m|1|8}}
|-
|rowspan="2"|2003年||10.9||9.0||20.8||32.1||17.8||colspan="2"|9.4
|-
|colspan="7"|{{bar|r|2|2}}{{bar|c|1|8}}{{bar|y|4|2}}{{bar|g|6|4}}{{bar|b|3|6}}{{bar|m|1|9}}
|-
|rowspan="2"|2004年||8.0||7.3||19.2||34.1||19.9||colspan="2"|11.5
|-
|colspan="7"|{{bar|r|1|6}}{{bar|c|1|5}}{{bar|y|3|8}}{{bar|g|6|8}}{{bar|b|3|9}}{{bar|m|2|3}}
|-
|rowspan="2"|2005年||8.0||6.7||17.5||33.9||21.2||colspan="2"|12.8
|-
|colspan="7"|{{bar|r|1|6}}{{bar|c|1|3}}{{bar|y|3|5}}{{bar|g|6|7}}{{bar|b|4|2}}{{bar|m|2|6}}
|-
|rowspan="2"|2006年||7.4||7.1||16.3||33.7||21.8||colspan="2"|13.7
|-
|colspan="7"|{{bar|r|1|5}}{{bar|c|1|4}}{{bar|y|3|3}}{{bar|g|6|7}}{{bar|b|4|4}}{{bar|m|2|7}}
|-
|rowspan="2"|2007年||6.3||7.1||15.9||33.0||23.6||colspan="2"|14.2
|-
|colspan="7"|{{bar|r|1|3}}{{bar|c|1|4}}{{bar|y|3|2}}{{bar|g|6|6}}{{bar|b|4|7}}{{bar|m|2|8}}
|-
|rowspan="2"|2008年||5.9||6.8||14.3||31.3||25.5||colspan="2"|16.2
|-
|colspan="7"|{{bar|r|1|2}}{{bar|c|1|4}}{{bar|y|2|9}}{{bar|g|6|3}}{{bar|b|5|1}}{{bar|m|3|2}}
|-
|rowspan="2"|2009年||6.8||6.8||14.8||29.8||24.9||colspan="2"|16.9
|-
|colspan="7"|{{bar|r|1|4}}{{bar|c|1|4}}{{bar|y|3|0}}{{bar|g|6|0}}{{bar|b|5|0}}{{bar|m|3|4}}
|-
|rowspan="2"|2010年||5.9||6.1||14.1||29.4||26.3||11.7||6.5
|-
|colspan="7"|{{bar|r|1|2}}{{bar|c|1|2}}{{bar|y|2|9}}{{bar|g|5|8}}{{bar|b|5|3}}{{bar|m|2|3}}{{bar|c|1|3}}
|-
|rowspan="2"|2011年||7.0||5.7||13.1||27.5||26.7||12.6||7.5
|-
|colspan="7"|{{bar|r|1|4}}{{bar|c|1|1}}{{bar|y|2|6}}{{bar|g|5|5}}{{bar|b|5|3}}{{bar|m|2|5}}{{bar|c|1|5}}
|-
|rowspan="2"|2012年||6.5||6.2||12.5||26.4||27.0||13.7||7.7
|-
|colspan="7"|{{bar|r|1|3}}{{bar|c|1|2}}{{bar|y|2|5}}{{bar|g|5|3}}{{bar|b|5|4}}{{bar|m|2|7}}{{bar|c|1|5}}
|-
|rowspan="2"|2013年||6.7||6.5||11.8||23.6||28.4||14.8||8.2
|-
|colspan="7"|{{bar|r|1|3}}{{bar|c|1|3}}{{bar|y|2|4}}{{bar|g|4|7}}{{bar|b|5|7}}{{bar|m|3|0}}{{bar|c|1|6}}
|-
|rowspan="2"|2014年||6.3||5.8||12.0||22.0||28.4||16.0||9.5
|-
|colspan="7"|{{bar|r|1|3}}{{bar|c|1|2}}{{bar|y|2|4}}{{bar|g|4|4}}{{bar|b|5|7}}{{bar|m|3|2}}{{bar|c|1|9}}
|-
|rowspan="2"|2015年||5.4||5.5||11.6||21.1||29.1||17.2||10.1
|-
|colspan="7"|{{bar|r|1|1}}{{bar|c|1|1}}{{bar|y|2|3}}{{bar|g|4|2}}{{bar|b|5|8}}{{bar|m|3|4}}{{bar|c|2|0}}
|-
|rowspan="2"|2016年||5.8||5.5||10.8||19.7||28.7||18.5||11.0
|-
|colspan="7"|{{bar|r|1|2}}{{bar|c|1|1}}{{bar|y|2|2}}{{bar|g|4|0}}{{bar|b|5|8}}{{bar|m|3|7}}{{bar|c|2|2}}
|-
|rowspan="2"|2017年||6.6||6.3||10.7||17.5||28.8||18.9||11.4
|-
|colspan="7"|{{bar|r|1|3}}{{bar|c|1|3}}{{bar|y|2|2}}{{bar|g|3|5}}{{bar|b|5|8}}{{bar|m|3|4}}{{bar|c|2|3}}
|-
|rowspan="2"|2018年||6.5||6.0||11.1||17.3||27.3||19.6||12.1
|-
|colspan="7"|{{bar|r|1|3}}{{bar|c|1|2}}{{bar|y|2|2}}{{bar|g|3|5}}{{bar|b|5|5}}{{bar|m|4|0}}{{bar|c|2|4}}
|-
|rowspan="2"|2019年||5.8||5.5||10.8||16.8||26.9||20.5||13.7
|-
|colspan="7"|{{bar|r|1|2}}{{bar|c|1|1}}{{bar|y|2|2}}{{bar|g|3|4}}{{bar|b|5|4}}{{bar|m|4|1}}{{bar|c|2|7}}
|}
|}
2010年8月8日、J1およびJ2のリーグ戦における通算のべ入場者数が1億人に到達した。なお、カップ戦やオールスターゲームなどの公式試合を含めた通算のべ入場者は、2009年3月に1億人を突破している。
なお、イギリスのサッカー専門誌『[[ワールドサッカー (雑誌)|World Soccer]]』が2009年8月号で掲載した統計によると、世界各国のサッカーリーグで平均入場者数が最も多いのは[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]の38,975人であり、J1リーグは19,278人(2008年シーズン)で第6位に位置している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZZO03794780Y0A300C1000000/|author=大住良之|title=J1の入場者数は世界で第6位|publisher=日本経済新聞|accessdate=2013-05-10}}</ref>。
=== スタジアム別入場者数(2019年シーズン終了時点) ===
* 掲載順はリーグ戦ホームゲームの1試合あたり平均入場者数の多いクラブ順による(以下の入場者数にカップ戦及びプレーオフの数値は含めない)。
* '''ホームスタジアムの略称、所属ディビジョン、入場者数<ref>{{Cite web|和書|url=https://data.j-league.or.jp/SFTD14/|title=通算データ - クラブ別入場者数|publisher=日本プロサッカーリーグ|accessdate=2020-04-11}}</ref> は、2019年シーズン終了時点のもの'''(ホームゲーム数:J1が17試合、J2が21試合、J3が17試合)。
* ホームスタジアムが複数登録されている場合は、座席数が大きいものから記載(ただし本拠登録されていてもJリーグ主催公式試合が行われなかった場合は除外)。
* 招待券比率は、2019年シーズン中<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/docs/aboutj/funsurvey-2019.pdf|title=2018 Jリーグ スタジアム観戦者調査 サマリーレポート|p=61|format=PDF|publisher=日本プロサッカーリーグ|accessdate=2020-04-11}}</ref> に各クラブ毎の特定のホームゲーム開催日にJリーグが行ったスタジアム観戦者調査(アンケート)の集計結果による(必ずしもシーズン全体の傾向を示しているわけではない)。なお、同調査ではJ3クラブの招待券比率を公表していないため、J3クラブについては割愛する。
* 入場料収入<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jleague.jp/docs/aboutj/club-h30kaiji_3.pdf|title=クラブ経営状況、2018年度(平成30年度)Jクラブ個別情報開示資料|publisher=日本プロサッカーリーグ|accessdate=2020-04-11}}</ref> は、各クラブの2018年(平成30年)度決算の数値(ホームゲーム数:J1が17試合、J2が21試合、J3が17試合)。
{|class="wikitable sortable" style="text-align:right; font-size:smaller;"
! !!クラブ<br />所属!!スタジアム略称<br />(所在地)!!座席数<br />(席)!!平均入場者数<br />(人)!!総入場者数<br />(人)!!招待券比率<br />([[パーセント|%]])!!入場料収入<br />(百万[[円 (通貨)|円]])!!class="unsortable"|画像
|- style="background-color:#ffdfff"
!1
|style="text-align:center"|[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和]]<br />'''J1'''
|style="text-align:center"|[[埼玉スタジアム2002|埼玉]]<br />([[さいたま市]])
|63,770||'''34,184'''||581,135||3.6||1,923
|[[ファイル:Saitamastadium070303.jpg|none|100px]]
|- style="background-color:#ffdfff"
!2
|style="text-align:center"|[[FC東京]]<br />'''J1'''
|style="text-align:center"|[[東京スタジアム (多目的スタジアム)|味スタ]]<br />([[調布市]])
|49,970||'''31,540'''||536,187||10.1||947
|[[ファイル:Ajinomoto Stadium 10th anniversary.jpg|none|100px]]
|- style="background-color:#ffdfff"
!3
|style="text-align:center"|[[ガンバ大阪|G大阪]]<br />'''J1'''
|style="text-align:center"|[[市立吹田サッカースタジアム|パナスタ]]<br />([[吹田市]])
|39,694||'''27,708'''||471,034||7.9||1,152
|[[ファイル:Municipal Suita Stadium.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#ffdfff"
!rowspan="2"|4
|rowspan="2" style="text-align:center"|[[名古屋グランパスエイト|名古屋]]<br />'''J1'''
|style="text-align:center"|[[豊田スタジアム|豊田ス]]<br />([[豊田市]])
|40,000||rowspan="2"|'''27,612'''||rowspan="2"|469,397||rowspan="2"|14.6||rowspan="2"|936
|[[ファイル:Toyota sta 0313 2.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#ffdfff"
|style="text-align:center"|[[名古屋市瑞穂公園陸上競技場|パロ瑞穂]]<br />([[名古屋市]])
|20,000
|[[ファイル:Mizuho Stadium 1.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#ffdfff"
!rowspan="2"|5
|rowspan="2" style="text-align:center"|[[横浜F・マリノス|横浜FM]]<br />'''J1'''
|style="text-align:center"|[[横浜国際総合競技場|日産ス]]<br />([[横浜市]])
|72,372||rowspan="2"|'''27,010'''||rowspan="2"|459,168||rowspan="2"|5.2||rowspan="2"|1,127
|[[ファイル:Nissan Stadium 20101123.jpg|none|100px]]
|- style="background-color:#ffdfff"
|style="text-align:center"|[[三ツ沢公園球技場|ニッパツ]]<br />([[横浜市]])
|15,454
|[[ファイル:20140823 Yokohama F・Marinos.jpg|none|100px]]
|- style="background-color:#ffdfff"
!6
|style="text-align:center"|[[川崎フロンターレ|川崎]]<br />'''J1'''
|style="text-align:center"|[[等々力陸上競技場|等々力]]<br />([[川崎市]])
|26,827||'''23,272'''||395,619||8.7||975
|[[ファイル:Kawasaki Frontale 2008.11.23.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#ffdfff"
!7
|style="text-align:center"|[[セレッソ大阪|C大阪]]<br />'''J1'''
|style="text-align:center"|[[長居陸上競技場|ヤンマー]]<br />([[大阪市]])
|47,000||'''21,518'''||365,810||14.9||618
|[[ファイル:NagaiStadium-from-backstand.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#ffdfff"
!8
|style="text-align:center"|[[ヴィッセル神戸|神戸]]<br />'''J1'''
|style="text-align:center"|[[御崎公園球技場|ノエスタ]]<br />([[神戸市]])
|30,132||'''21,491'''||365,349||10.3||840
|[[ファイル:Inside View of Kobe Wing Stadium.jpg|none|100px]]
|- style="background-color:#ffdfff"
!9
|style="text-align:center"|[[鹿島アントラーズ|鹿島]]<br />'''J1'''
|style="text-align:center"|[[茨城県立カシマサッカースタジアム|カシマ]]<br />([[鹿嶋市]])
|40,728||'''21,491'''||365,349||10.3||840
|[[File:Kashima Stadium 1.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#ffdfff"
!10
|style="text-align:center"|[[北海道コンサドーレ札幌|札幌]]<br />'''J1'''
|style="text-align:center"|[[札幌ドーム|札幌ド]]<br />([[札幌市]])
|41,484||'''18,768'''||319,053||6.5||636
|[[ファイル:Sapporodome201108171.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#ffdfff"
!11
|style="text-align:center"|[[松本山雅FC|松本]]<br />'''J1'''
|style="text-align:center"|[[長野県松本平広域公園総合球技場|サンアル]]<br />([[松本市]])
|20,396||'''17,416'''||296,079||7.0||503
|[[ファイル:ALWIN7.jpg|none|100px]]
|- style="background-color:#ffdfff"
!12
|style="text-align:center"|[[大分トリニータ|大分]]<br />'''J1'''
|style="text-align:center"|[[大分スポーツ公園総合競技場|昭和電ド]]<br />([[大分市]])
|40,000||'''15,347'''||260,893||6.8||254
|[[ファイル:Ooita Stadium20090514.jpg|none|100px]]
|- style="background-color:#ffdfff"
!13
|style="text-align:center"|[[ジュビロ磐田|磐田]]<br />'''J1'''
|style="text-align:center"|[[ヤマハスタジアム|ヤマハ]]<br />([[磐田市]])
|15,165||'''15,277{{Efn|平均入場者数がスタジアムの収容人数を上回るのは、[[静岡県小笠山総合運動公園スタジアム|エコパ]]での開催分があるため}}'''||259,709||10.0||638
|[[ファイル:Yamahastafium05161.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#ffdfff"
!14
|style="text-align:center"|[[サガン鳥栖|鳥栖]]<br />'''J1'''
|style="text-align:center"|[[鳥栖スタジアム|駅スタ]]<br />([[鳥栖市]])
|24,490||'''15,050'''||255,845||4.6||678
|[[ファイル:Tosu Stadium 20110508a.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#ffdfff"
!15
|style="text-align:center"|[[清水エスパルス|清水]]<br />'''J1'''
|style="text-align:center"|[[静岡市清水日本平運動公園球技場|アイスタ]]<br />([[静岡市]])
|20,281||'''15,043'''||255,735||16.7||582
|[[ファイル:20180811 S-PLUS.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#ffdfff"
!16
|style="text-align:center"|[[ベガルタ仙台|仙台]]<br />'''J1'''
|style="text-align:center"|[[仙台スタジアム|ユアスタ]]<br />([[仙台市]])
|19,694||'''14,971'''||254,503||13.0||608
|[[ファイル:Sendaistadium2.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#9eff9e"
!17
|style="text-align:center"|[[アルビレックス新潟|新潟]]<br />J2
|style="text-align:center"|[[新潟スタジアム|デンカS]]<br />([[新潟市]])
|42,300||'''14,497'''||304,445||14.9||507
|[[ファイル:Bigswan080628.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#ffdfff"
!18
|style="text-align:center"|[[サンフレッチェ広島F.C|広島]]<br />'''J1'''
|style="text-align:center"|[[広島広域公園陸上競技場|Eスタ]]<br />([[広島市]])
|50,000|||'''13,886'''||236,063||11.3||500
|[[ファイル:Bigarch050423.jpg|none|100px]]
|- style="background-color:#ffdfff"
!19
|style="text-align:center"|[[湘南ベルマーレ|湘南]]<br />'''J1'''
|style="text-align:center"|[[平塚競技場|BMWス]]<br />([[平塚市]])
|15,690||'''12,848'''||218,424||7.6||480
|[[ファイル:Shonan-BMW Stadium.jpg|none|100px]]
|- style="background-color:#9eff9e"
!20
|style="text-align:center"|[[ジェフユナイテッド市原・千葉|千葉]]<br />J2
|style="text-align:center"|[[フクダ電子アリーナ|フクアリ]]<br />([[千葉市]])
|18,500||'''9,701'''||203,725||14.2||332
|[[ファイル:Fukuda Denshi Arena (2008).jpg|none|100px]]
|- style="background-color:#9eff9e"
!21
|style="text-align:center"|[[大宮アルディージャ|大宮]]<br />J2
|style="text-align:center"|[[さいたま市大宮公園サッカー場|NACK]]<br />([[さいたま市]])
|15,600||'''9,478'''||199,040||7.3||339
|[[ファイル:Omiya Ardija Supporter 2010.10.24.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#9eff9e"
!22
|style="text-align:center"|[[柏レイソル|柏]]<br />J2
|style="text-align:center"|[[日立柏サッカー場|三協F柏]]<br />([[柏市]])
|15,349||'''9,471'''||198,887||6.8||449
|[[ファイル:Kashiwa20130303-1.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#9eff9e"
!23
|style="text-align:center"|[[ファジアーノ岡山FC|岡山]]<br />J2
|style="text-align:center"|[[岡山県総合グラウンド陸上競技場|Cスタ]]<br />([[岡山市]])
|20,000||'''9,444'''||198,331||3.2||176
|[[ファイル:Fagiano Okayama Supporter 2011.05.04.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#9eff9e"
!24
|style="text-align:center"|[[モンテディオ山形|山形]]<br />J2
|style="text-align:center"|[[山形県総合運動公園陸上競技場|NDスタ]]<br />([[天童市]])
|21,292||'''8,289'''||174,064||11.6||178
|[[ファイル:NDsoftstadium20090628.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#9eff9e"
!25
|style="text-align:center"|[[ヴァンフォーレ甲府|甲府]]<br />J2
|style="text-align:center"|[[山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場|中銀スタ]]<br />([[甲府市]])
|17,000||'''8,273'''||173,742||15.9||297
|[[ファイル:Kose Sportspark Stadium 2007-05-03.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#9eff9e"
!26
|style="text-align:center"|[[京都サンガF.C.|京都]]<br />J2
|style="text-align:center"|[[京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場|たけびし]]<br />([[京都市]])
|20,588||'''7,850'''||164,845||18.8||173
|[[ファイル:Nishikyogoku130908-2.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#9eff9e"
!27
|style="text-align:center"|[[V・ファーレン長崎|長崎]]<br />J2
|style="text-align:center"|[[長崎県立総合運動公園陸上競技場|トラスタ]]<br />([[諫早市]])
|20,246||'''7,737'''||162,476||10.3||407
|[[ファイル:Nagasaki Athletic Stadium2.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#9eff9e"
!28
|style="text-align:center"|[[横浜FC]]<br />J2
|style="text-align:center"|[[三ツ沢公園球技場|ニッパツ]]<br />([[横浜市]])
|15,454||'''7,061'''||148,280||10.6||167
|[[ファイル:YokohamaFC-20180624.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#9eff9e"
!29
|style="text-align:center"|[[アビスパ福岡|福岡]]<br />J2
|style="text-align:center"|[[東平尾公園博多の森球技場|レベスタ]]<br />([[福岡市]])
|22,563||'''6,983'''||146,639||34.6||174
|[[ファイル:Level5 Stadium 03.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#9eff9e"
!30
|style="text-align:center"|[[FC岐阜|岐阜]]<br />J2
|style="text-align:center"|[[岐阜メモリアルセンター長良川競技場|長良川]]<br />([[岐阜市]])
|20,000||'''6,644'''||139,526||24.4||131
|[[ファイル:Nagaragawa Stadium 5.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#9eff9e"
!31
|style="text-align:center"|[[水戸ホーリーホック|水戸]]<br />J2
|style="text-align:center"|[[水戸市立競技場|Ksスタ]]<br />([[水戸市]])
|12,000||'''6,087'''||127,824||15.7||84
|[[ファイル:Ksdenkistadium10050501.jpg|none|100px]]
|- style="background-color:#99ffff"
!32
|style="text-align:center"|[[ギラヴァンツ北九州|北九州]]<br />J3
|style="text-align:center"|[[ミクニワールドスタジアム北九州|ミクスタ]]<br />([[北九州市]])
|15,066||'''6,049'''||102,831|| - ||107
|[[ファイル:Mikuni World stadium1.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#9eff9e"
!33
|style="text-align:center"|[[鹿児島ユナイテッドFC|鹿児島]]<br />J2
|style="text-align:center"|[[鹿児島県立鴨池陸上競技場|白波スタ]]<br />([[鹿児島市]])
|12,571||'''5,785'''||121,493||12.1||27
|[[ファイル:Kamoike kyougijyou 2.jpg|none|100px]]
|- style="background-color:#9eff9e"
!34
|style="text-align:center"|[[徳島ヴォルティス|徳島]]<br />J2
|style="text-align:center"|[[徳島県鳴門総合運動公園陸上競技場|鳴門大塚]]<br />([[鳴門市]])
|16,599||'''5,736'''||120,460||7.0||135
|[[ファイル:Naruto Athletic 3.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#9eff9e"
!35
|style="text-align:center"|[[レノファ山口FC|山口]]<br />J2
|style="text-align:center"|[[維新百年記念公園陸上競技場|みらスタ]]<br />([[山口市]])
|15,115||'''5,653'''||118,718||9.9||212
|[[ファイル:Ishin Memorial Park Stadium infield.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#99ffff"
!36
|style="text-align:center"|[[ロアッソ熊本|熊本]]<br />J3
|style="text-align:center"|[[熊本県民総合運動公園陸上競技場|えがおS]]<br />([[熊本市]])
|32,000||'''5,533'''||94,065||| - ||106
|[[ファイル:Kkwing20060513.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#9eff9e"
!37
|style="text-align:center"|[[東京ヴェルディ1969|東京V]]<br />J2
|style="text-align:center"|[[東京スタジアム (多目的スタジアム)|味スタ]]<br />([[調布市]])
|49,970||'''5,371'''||112,789||9.1||178
|[[ファイル:Toyko Verdy 20130613.jpg|none|100px]]
|- style="background-color:#9eff9e"
!38
|style="text-align:center"|[[ツエーゲン金沢|金沢]]<br />J2
|style="text-align:center"|[[石川県西部緑地公園陸上競技場|石川西部]]<br />([[金沢市]])
|20,261||'''5,209'''||109,386||15.2||69
|[[ファイル:Ishikawa seiburyokuchi stadium.jpg|none|100px]]
|- style="background-color:#9eff9e"
!39
|style="text-align:center"|[[栃木SC|栃木]]<br />J2
|style="text-align:center"|[[栃木県グリーンスタジアム|栃木グ]]<br />([[宇都宮市]])
|15,589||'''5,148'''||108,105||13.9||115
|[[ファイル:Tochigi_Green_20110417.jpg|none|100px]]
|- style="background-color:#9eff9e"
!40
|style="text-align:center"|[[FC琉球|琉球]]<br />J2
|style="text-align:center"|[[沖縄県総合運動公園陸上競技場|タピスタ]]<br />([[沖縄市]])
|10,189||'''4,953'''||104,009||24.2||10
|[[ファイル:Okinawa Athletic Stadium.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#9eff9e"
!41
|style="text-align:center"|[[FC町田ゼルビア|町田]]<br />J2
|style="text-align:center"|[[町田市立陸上競技場|町田]]<br />([[町田市]])
|16,033||'''4,718'''||99,077||8.7||108
|[[ファイル:Machidashiriku2018-1.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#9eff9e"
!42
|style="text-align:center"|[[愛媛FC|愛媛]]<br />J2
|style="text-align:center"|[[愛媛県総合運動公園陸上競技場|ニンスタ]]<br />([[松山市]])
|21,401||'''3,780'''||79,373||26.4||56
|[[ファイル:EhimePreParkStadium130811-3.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#99ffff"
!43
|style="text-align:center"|[[ザスパクサツ群馬|群馬]]<br />J3
|style="text-align:center"|[[群馬県立敷島公園県営陸上競技場|正田スタ]]<br />([[前橋市]])
|15,253||'''3,594'''||61,098|| - ||43
|[[ファイル:Shikishima rikujo 1.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#99ffff"
!44
|style="text-align:center"|[[AC長野パルセイロ|長野]]<br />J3
|style="text-align:center"|[[南長野運動公園総合球技場|長野U]]<br />([[長野市]])
|15,491||'''3,000'''||51,006|| - ||46
|[[ファイル:Minaminagano-15032203.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#99ffff"
!45
|style="text-align:center"|[[SC相模原|相模原]]<br />J3
|style="text-align:center"|[[相模原麻溝公園競技場|ギオンス]]<br />([[相模原市]])
|15,300||'''2,879'''||48,940|| - ||35
|[[ファイル:Asamizopark-4.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#99ffff"
!46
|style="text-align:center"|[[カターレ富山|富山]]<br />J3
|style="text-align:center"|[[富山県総合運動公園陸上競技場|富山]]<br />([[富山市]])
|25,250||'''2,737'''||46,535|| - ||28
|[[ファイル:20140506 Kataller Toyama.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#99ffff"
!47
|style="text-align:center"|[[アスルクラロ沼津|沼津]]<br />J3
|style="text-align:center"|[[愛鷹広域公園多目的競技場|愛鷹]]<br />([[沼津市]])
|5,104||'''2,470'''||41,992|| - ||16
|[[ファイル:Ashitaka Stadium 2.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#99ffff"
!48
|style="text-align:center"|[[ガイナーレ鳥取|鳥取]]<br />J3
|style="text-align:center"|[[鳥取市営サッカー場|とりスタ]]<br />([[鳥取市]])
|16,033||'''2,229'''||37,889|| - ||34
|[[ファイル:Tottori-bird131006-2.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#99ffff"
!49
|style="text-align:center"|[[カマタマーレ讃岐|讃岐]]<br />J3
|style="text-align:center"|[[香川県立丸亀競技場|ピカスタ]]<br />([[丸亀市]])
|30,099||'''2,112'''||35,906|| - ||74
|[[ファイル:Kamatamale Sanuki Supporters.jpg|none|100px]]
|- style="background-color:#99ffff"
!50
|style="text-align:center"|[[ヴァンラーレ八戸|八戸]]<br />J3
|style="text-align:center"|[[八戸市多賀多目的運動場|ダイスタ]]<br />([[八戸市]])
|5,124||'''1,760'''||29,919|| - ||7
|[[ファイル:Hachinoher-taga_stadium1.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#99ffff"
!51
|style="text-align:center"|[[藤枝MYFC|藤枝]]<br />J3
|style="text-align:center"|[[藤枝総合運動公園サッカー場|藤枝サ]]<br />([[藤枝市]])
|13,000||'''1,740'''||29,581|| - ||8
|[[ファイル:Fujieda football Stadium1.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#99ffff"
!52
|style="text-align:center"|[[ブラウブリッツ秋田|秋田]]<br />J3
|style="text-align:center"|[[秋田市八橋運動公園陸上競技場|ソユスタ]]<br />([[秋田市]])
|18,528||'''1,576'''||26,793|| - ||20
|[[ファイル:Field_of_Akita_Municipal_Yabase_Athletic_Stadium_20190414.jpg|none|100px]]
|- style="background-color:#99ffff"
!53
|style="text-align:center"|[[いわてグルージャ盛岡|盛岡]]<br />J3
|style="text-align:center"|[[盛岡南公園球技場|いわスタ]]<br />([[盛岡市]])
|4,946||'''1,368'''||23,249|| - ||9
|[[ファイル:Moriokaminami.jpg|none|100px]]
|- style="background-color:#99ffff"
!54
|style="text-align:center"|[[福島ユナイテッドFC|福島]]<br />J3
|style="text-align:center"|[[福島県営あづま陸上競技場|とうスタ]]<br />([[福島市]])
|21,000||'''1,242'''||21,115|| - ||12
|[[ファイル:Fukushima azuma1.JPG|none|100px]]
|- style="background-color:#99ffff"
!55
|style="text-align:center"|[[横浜スポーツ&カルチャークラブ|YS横浜]]<br />J3
|style="text-align:center"|[[三ツ沢公園球技場|ニッパツ]]<br />([[横浜市]])
|15,454||'''1,095'''||18,617|| - ||14
|[[ファイル:Mitsuzawa1.jpg|none|100px]]
|}
== ユニフォーム ==
1993年から1996年までは「[[ミズノ]]」が全クラブのユニフォーム・サプライヤー(供給メーカー)を一括して受け持っていた。ただ、その契約はリーグ戦のみの契約だったので、天皇杯やJリーグカップなどのカップ戦では各クラブが個別にユニフォームメーカー等と契約して、カップ戦用のユニフォームを着用していた。全面的にミズノと契約したクラブの場合、チームや年度によってリーグ戦と全く同一の場合と、他社契約時と同様にデザインを変えていた場合とがあった。またリーグ戦とカップ戦(チームによってはJリーグカップ・[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]など大会ごとにも)でユニフォームスポンサーが異なることもあった他、天皇杯や海外のクラブとの試合などでは、当時変動背番号制だったリーグ戦では存在しなかった17番以上の背番号や、選手名を入れたユニフォームがあった。
1997年にはこれまでの「ミズノ」に加えて、「[[アンブロ]]」・「[[アディダス]]」・「[[プーマ]]」(ヴェルディ川崎は自主制作という形で「[[ナイキ]]」)が新たなユニフォーム・サプライヤー(これもリーグ戦限定)として加わり、1998年からは事前にJリーグとユニフォーム・サプライヤー契約を結んでいるユニフォームメーカーなどに限って、各クラブがユニフォームメーカーなどの各社と個別の契約を締結することができるようになった<ref>{{Citation|和書|author=中山淳|title=Jクラブ歴代ユニフォーム完全カタログ 西日本編|publisher=えい出版社|page=170}}</ref>。
3rdユニフォームは横浜FMと名古屋がJリーグでは2001年になって初めて採用したが、現在ではその年のACLに参戦をするクラブを中心に数クラブが導入している。また、Jリーグ事務局長の事前承認があれば、「ユニフォーム使用計画」に定めるユニフォームとは異なるユニフォームを着用することができる。なお、Jリーグ年間王者のクラブは、金色のJリーグロゴマークをチャンピオンマークとして翌シーズン、ユニフォームの袖にJリーグのロゴに代えて付けることができる。
国内公式戦(リーグ、リーグカップ、天皇杯)では、ユニフォームの前面胸部と、背番号上部、左袖、トランクスにそれぞれスポンサー広告を付けることが認められている。[[2016年]]からは背番号下部、[[2018年]]からは前面鎖骨部(左側および右側)に関してもスポンサーを付けることが認められたが、これ以前にも[[FC東京]]と[[ガンバ大阪]]が背番号下部のところに広告を入れた事例がある<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/1579754.html|title=スポンサー募集! Jリーグユニ背面下部の広告解禁|newspaper=日刊スポーツ|date=2015-12-15|accessdate=2015-12-23}}</ref>。
視認性の確保(特に[[カラーユニバーサルデザイン]]の観点から)を目的として、2021年シーズンからユニフォームに用いる背番号・選手名表記の[[フォント]]及び配色がJリーグ全体で統一された<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jleague.jp/release/post-64450/|title=Jリーグオフィシャルネーム&ナンバー導入について ~2021シーズンから全クラブの選手番号・選手名の書体統一を決定~|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2020-09-15|accessdate=2020-10-13}}</ref>。統一フォントは[[カールスバーグ]]のビジュアルデザインなどを手がけたデンマークのコントラプンクト社が制作したオリジナルフォントの「J.LEAGUE KICK」(ジェイリーグ・キック)で、フォントで使用可能な色も白・青・赤・黒・黄の5色に指定された。
=== 2023シーズンユニフォーム・サプライヤー ===
{|class="wikitable" style="font-size:small;"
! rowspan="2" |サプライヤー!! colspan="3" |使用クラブ
|-
!J1
!J2
!J3
|-
|[[アシックス]]||神戸
| -
|今治
|-
|[[アディダス]]||横浜FM / 新潟
|仙台 / 町田
|松本
|-
|[[アスレタ]]||-
|秋田 / 栃木 / 東京V
| -
|-
|[[アドミラルフットウェア|アドミラル]]|| -
|磐田
| -
|-
|[[アンダーアーマー]]||-
|いわき / 大宮
| -
|-
|[[アンブロ]]|| -
|長崎
| -
|-
|[[ケルメ (ブランド)|ケレメ]]||-
|群馬
|岩手
|-
|ゴル||-
|藤枝
|相模原
|-
|[[ゴールドウイン]]||-
| -
|富山
|-
|サッカージャンキー||-
|水戸
|鳥取
|-
|スクアドラ|| -
| -
|奈良
|-
|[[sfida|スフィーダ]]||-
| -
|琉球
|-
|[[ナイキ]]||鹿島 / 浦和 / 広島
| -
| -
|-
|[[ニューバランス]]||FC東京 / 鳥栖
| -
| -
|-
|[[ヒュンメル]]||G大阪
|千葉 / 金沢
|八戸 / 福島
|-
|[[フィンタ]]||-
|山口
| -
|-
|[[プーマ]]||川崎 / 横浜FC / 京都 / C大阪
|清水 / 熊本 / 大分
| -
|-
|[[ペナルティ (スポーツ用品)|ペナルティ]]||湘南
|山形 / 岡山
|長野 / 沼津 / 北九州
|-
|ボネーラ||-
| -
|YS横浜 / FC大阪
|-
|[[ミズノ]]||札幌 / 名古屋
|甲府 / 徳島
|愛媛
|-
|[[ヨネックス]]||柏 / 福岡
| -
|宮崎
|-
|ラッツォーリ||-
| -
|岐阜
|-
|なし{{Efn|name="angua"|特定ブランドとのサプライヤー契約では無く、株式会社Jリーグ、[[三菱商事ファッション]]株式会社が共同で取り組むユニフォーム協働制作プロジェクトANGUA。なお初の同プロジェクト製作のユニフォーム使用クラブとなる<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.kufc.co.jp/information/65961/ |title=2021シーズン トップチームユニフォームについて|publisher=鹿児島ユナイテッドFC|date=2021-01-18|accessdate=2021-01-19}}</ref>。}}||-
| -
|讃岐 / 鹿児島
|}
=== 背番号 ===
1993年から1996年までは試合ごとに付ける番号が違う変動[[サッカーの背番号|背番号]]制であったが、1997年からはシーズン開幕前やクラブ加入時点で決定される固定背番号制へと変更された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.soccertalk.jp/content/1997/02/no180.html|title=No.180 Jリーグも固定番号制に|work=サッカーの話をしよう [[大住良之]]オフィシャルアーカイブサイト|date=1997-2-17|accessdate=2012-5-2}}</ref>。
2004年には欠番の解禁など規約が一部改定されたことで特定の番号('''12'''が多い)をクラブ公式にサポーターズナンバーとし欠番とするクラブが出てきた。
[[2018年]][[5月30日]]、Jリーグの理事会が開催され、シーズン途中の背番号変更が可能となり、同日から適用された<ref>[https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2018/05/30/kiji/20180530s00002179249000c.html Jリーグ背番号変更が可能に スポニチ2018年5月30日]</ref>。初適用者は当時[[ヴィッセル神戸]]の[[三田啓貴]]で、'''8'''から'''7'''へ変更となった。
2023年シーズン現在の主な規約内容は以下の通り。
* 背番号'''0'''は不可。
* 背番号'''1'''は[[ゴールキーパー (サッカー)|ゴールキーパー]]、背番号'''2'''から'''11'''まではフィールドプレーヤーが付けなければならない。
* 背番号'''12'''以降は、'''99'''まではポジションとは無関係に自由に付けることができる。
なお、変動背番号制であった1996年にはG大阪の[[今藤幸治]]がGKの番号である'''1'''以外の'''2'''から'''11'''までの背番号を付けた事がある。
固定背番号導入当初、天皇杯では、Jリーグへの届け出とは別に背番号を登録したため、リーグ戦と異なる背番号を着用した例がある。
== 公式試合球 ==
Jリーグの試合では、Jリーグの公式ロゴマークが入っているJリーグ公認の[[サッカーボール|試合球]](公式試合球)が使用されている。なお、1993年の開幕戦で[[ヘニー・マイヤー]](V川崎)が決めたJリーグ第1号ゴールの試合球はJリーグ事務局のチェアマン室に、ガラスケースに入れて保存されている<ref>{{Citation|和書|title=週刊サッカーマガジン 2003年5月27日号|publisher=ベースボール・マガジン社}}</ref>。
製造は全て[[アディダス]]、提供は全て[[モルテン]]。
{|class="wikitable" style="text-align:center"
!年度!!公式試合球
|-
|1993年
| rowspan="2" |[[エトルスコ・ユニコ]]
|-
| rowspan="2" |1994年
|-
| rowspan="4" |[[クエストラ]]
|-
|1995年
|-
|1996年
|-
|1997年
|-
|1998年
| rowspan="3" |[[トリコロール (サッカー)|トリコロール]]
|-
|1999年
|-
|2000年
|-
|2001年
|ガマラダ
|-
|2002年
| rowspan="2" |[[フィーバーノヴァ]]
|-
|2003年
|-
|2004年
| rowspan="2" |[[ロテイロ]]
|-
|2005年
|-
|2006年
| rowspan="2" |[[チームガイスト]]
|-
|2007年
|-
|2008年
|チームガイストII
|-
|2009年
|テラパス
|-
|2010年
|[[ジャブラニ]]
|-
|2011年
|[[ジャブラニ#スピードセル|スピードセル]]
|-
|2012年
|[[タンゴ12]]<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.j-league.or.jp/release/000/00004272.html|title=2012Jリーグ公式試合球として“TANGO 12(タンゴ12)”を使用|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2011-12-19|accessdate=2011-12-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111220151146/http://www.j-league.or.jp/release/000/00004272.html|archivedate=2011年12月20日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>
|-
|2013年
|[[タンゴ12#カフサ|カフサ]]<br/>[[タンゴ12#タンゴ12コトホギ|タンゴ12コトホギ]]<ref>Jリーグ20周年記念試合球として、5月から1ヶ月弱の期間限定で使用された。</ref>
|-
|2014年
|[[ブラズーカ]]<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.j-league.or.jp/release/000/00005538.html|title=2014Jリーグ公式試合球として『brazuca(ブラズーカ)』を使用|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2013-12-09|accessdate=2013-12-09}}</ref>
|-
|2015年
|コネクト15<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.j-league.or.jp/release/000/00006237.html|title=2015Jリーグ公式試合球として『コネクト15』を使用|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2014-12-09|accessdate=2014-12-17}}</ref>
|-
|2016年
|エレホタ<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jleague.jp/release/post-41006/|title=2016Jリーグ公式試合球として『ERREJOTA(エレホタ)』を使用 2016Jリーグヤマザキナビスコカップ 特別デザイン試合球を使用|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2015-12-15|accessdate=2016-01-06}}</ref>
|-
|2017年
|クラサバ<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jleague.jp/release/post-47381/|title=2017Jリーグ公式試合球として『クラサバ(KRASAVA)』を使用|publisher=公益社団法人日本プロサッカーリーグ|date=2016-12-13|accessdate=2016-12-14}}</ref>
|-
|2018年
|[[テルスター18]]<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jleague.jp/news/article/10907/|title=2018Jリーグ公式試合球として『テルスター18(TELSTAR18)』を使用 2018JリーグYBCルヴァンカップ 特別デザイン試合球を使用【Jリーグ】|publisher=公益社団法人日本プロサッカーリーグ|date=2017-12-12|accessdate=2023-04-14}}</ref>
|-
|2019年
|コネクト19<ref>[https://www.jleague.jp/sp/news/article/13556/ 2019Jリーグ公式試合球として『コネクト19(CONEXT19)』を使用 2019JリーグYBCルヴァンカップ 特別デザイン試合球を使用] 公益社団法人日本プロサッカーリーグ 2018年12月12日</ref>
|-
|2020年
|ツバサ<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jleague.jp/news/article/16116/|title=2020明治安田生命Jリーグ公式試合球として『ツバサ(TSUBASA)』を使用 2020JリーグYBCルヴァンカップ 特別デザイン試合球を使用|publisher=公益社団法人日本プロサッカーリーグ|date=2019-12-10|accessdate=2019-12-23}}</ref>
|-
|2021年
|コネクト21<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jleague.jp/news/article/18703/|title=2021明治安田生命Jリーグ公式試合球として『CONEXT21(コネクト21)』を使用 2021JリーグYBCルヴァンカップでは特別デザイン試合球を使用【Jリーグ】|publisher=公益社団法人日本プロサッカーリーグ|date=2020-12-15|accessdate=2021-02-05}}</ref>
|-
|2022年
|コネクト21<ref>{{Cite web|和書|title=2022明治安田生命Jリーグ、2022JリーグYBCルヴァンカップ 公式試合球として『コネクト21(CONEXT21) 』を使用【Jリーグ】:Jリーグ.jp |url=https://www.jleague.jp/news/article/21394/ |website=Jリーグ.jp(日本プロサッカーリーグ) |accessdate=2022-02-16 |language=ja}}</ref> → [[アル・リフラ]]<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jleague.jp/news/article/22367/|title=2022明治安田生命Jリーグ、2022JリーグYBCルヴァンカップ 公式試合球として『アル・リフラ(AL RIHLA)』を5月21日より使用【Jリーグ】|publisher=公益社団法人日本プロサッカーリーグ|date=2022-05-16|accessdate=2022-06-06}}</ref>
|-
|2023年
|[[オーシャンズ (サッカー)|オーシャンズ]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://aboutj.jleague.jp/corporate/release/25941/|title= 2023明治安田生命Jリーグ、2023JリーグYBCルヴァンカップ公式試合球として 『オーシャンズ(OCEAUNZ) 』を使用|publisher= 日本プロサッカーリーグ|date= 2023-01-24|accessdate=2023-01-25}}</ref><br/>[[オーシャンズ (サッカー)#コトホギ30|コトホギ30]]<ref>{{Cite press release|title=Jリーグ30周年記念試合球 『KOTOHOGI 30(コトホギ 30)』~30周年記念マッチより1か月間 2023明治安田生命Jリーグ公式試合球に~|publisher=公益社団法人日本プロサッカーリーグ|date=2023-04-12|url=https://www.jleague.jp/news/article/24974/|和書|accessdate=2023-04-12}}</ref>
|}
== 指導者資格 ==
* 第1種チーム(トップ)の監督は[[日本サッカー協会指導者ライセンス|日本サッカー協会公認S級指導者ライセンス]]を保持している者が指導すること。
* 第1種チーム(サテライト)は同A級(以上)指導者ライセンス保持者、第2種以下は同B級(以上)ライセンス保持者が監督を務めることが出来る。
== 審判員 ==
日本サッカー協会に登録された[[審判員 (サッカー)#1級審判員|1級審判員]]の中から推薦、決定されJリーグ担当審判員となる。2021年シーズンの場合、主審担当者が59名、副審担当者が99名<ref>{{Cite press release|和書|url=https://aboutj.jleague.jp/corporate/release/883/|title=2021Jーグ担当審判員決定|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2021-01-28|accessdate=2021-12-23}}</ref>。この中には日本サッカー協会の認定した[[プロフェッショナルレフェリー]] (PR) がおり、審判員としての報酬のみで生計を立てている。
2020年シーズンからJ1全試合において[[ビデオ・アシスタント・レフェリー]] (VAR) が導入されることが決まっていた<ref>{{Cite press release|和書|title=2020シーズンのビデオアシスタントレフェリー導入試合について|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2019-09-24|url=https://www.jleague.jp/release/post-60611/|accessdate=2019-10-01}}</ref> ものの、新型コロナウイルスの影響により実施が見送られた。しかし、その後2021年からVARの導入が決まった<ref>{{Cite press release|和書|title= 2021・2022シーズンのビデオアシスタントレフェリー導入試合について【Jリーグ】|url=https://www.jleague.jp/sp/news/article/18408/?utm_source=twitter&utm_medium=social |publisher=日本プロサッカーリーグ |date= 2020-11-17 |accessdate=2021-12-23 }}</ref>。
== フラッグ ==
毎試合、Jリーグの試合会場にはJリーグフラッグと対戦する両クラブのフラッグ(旗)が掲げられる。フラッグのデザインは自クラブのクラブカラーを基調とし、自クラブの[[ロゴタイプ]]や[[エンブレム]]が入っていることが一般的である。また、Jリーグ旗の横や下などにFIFAのフェアプレーフラッグが掲げられている場合があるほか、選手が入場する際には必ずスターティングメンバーのサインが入ったJリーグのフェアプレーフラッグを先頭にしてピッチへ入場する。なお、リーグ戦で使用されるJリーグフラッグは2種類あり、通常の試合会場では主に無地のフラッグが使われている。
# 背景は「白」を基調とした無地の柄で中央部にJリーグの公式ロゴマークが入ったタイプ。
# 背景は左側から黒で縁取られた「緑」「白」「赤」を基調としたイタリア国旗風の柄で中央部にJリーグの公式ロゴマークが入ったタイプ。
== 音楽 ==
特に規約では規定されていない{{Efn|Jリーグの試合実施要項<ref>{{PDFlink|[https://www.jleague.jp/docs/aboutj/regulation/2018/18.pdf 2018明治安田生命J1・J2・J3リーグ戦試合実施要項]}} - 日本プロサッカーリーグ、2018年12月10日閲覧。</ref> 第4条第2項で「ホームクラブは、試合の前後およびハーフタイムに、次の各号の事項を行うことができる」とあり(第3号に「音楽放送」の記述あり)、必ずしも義務づけられているわけではない。}}ものの、リーグ戦では一部クラブ除き選手入場時に[[アンセム]]が流れる。1993年のJリーグ開幕時、Jリーグ公式テーマソング「J'S THEME(Jのテーマ)」をTUBEのギタリスト春畑道哉が制作し、開幕のオープニングセレモニーで演奏した。Jリーグに関するイベントやスタジアムなどで使用されている。また、[[岸利至]]の作曲によるJリーグの公式アンセム「THE GLORY」も存在し、一部のクラブでアンセムとして使用しているが、多くのクラブがクラブオリジナルのアンセムを作成し、入場時に流している。
なお、Jリーグ開幕30周年の企画として、2023年5月15日のJリーグ開幕30周年を迎えるのを機に、[[RADWIMPS]]が、新しいアンセムを制作することになった<ref name="J_20230216">{{Cite web|和書|url= https://aboutj.jleague.jp/corporate/release/26021/|title= Jリーグ30周年記念企画 RADWIMPSがJリーグの新たな“アンセム”を制作|publisher= 日本プロサッカーリーグ|date= 2023-02-16|accessdate=2023-02-16}}</ref>。
ルヴァンカップは専用のアンセム(作曲:[[☆Taku Takahashi]])を使用する。
{|class="wikitable" style="text-align:center"
! !!年度!!曲名!!作詞!!作曲!!編曲
|-
|rowspan="2"|公式テーマソング|| rowspan="2" |1993年||[[J'S THEME]]|| rowspan="3" |-||rowspan="2"|[[春畑道哉]]([[TUBE]])||
|-
||J'S BALLAD||
|-
|rowspan="2"|公式アンセム||2003年||THE'GLORY||[[岸利至]]||岸利至
|-
||2023年||大団円 feat.ZORN||[[野田洋次郎]]、[[ZORN]]||野田洋次郎||
|-
|公式ソング||2003年||[[飛躍]]||[[安岡優]]||[[村上てつや]]||[[小西貴雄]]
|}
== スローガン ==
{|class="wikitable"
!年度!!スローガン
|-
|1999年|| rowspan="6" |'''Join!'''
|-
|2000年
|-
|2001年
|-
|2002年
|-
|2003年
|-
|2004年
|-
|2005年|| rowspan="2" |'''Amazing,J.'''
|-
|2006年
|-
|2007年||'''Will Be 見せたい未来がある。'''
|-
|2008年||'''Will Be クラブサッカーの世界水準へ。'''
|-
|2009年||'''「SHOUT! for SHOOT!」声、枯れるまで。体、果てるまで。'''
|-
|2010年||'''極上のライブエンターテイメント'''
|-
|2011年|| rowspan="5" |'''明日のために 今、走る'''<br />'''チカラをひとつに。-TEAM AS ONE-'''(東日本大震災復興支援スローガン)
|-
|2012年
|-
|2013年
|-
|2014年
|-
|2015年
|-
|2016年 ||'''チカラをひとつに。-TEAM AS ONE-がんばろう熊本・九州'''(熊本地震復興支援スローガン)
|-
|2017年
|'''チカラをひとつに。-TEAM AS ONE-'''(震災復興支援活動を一本化)
|-
|2018年
|
|-
|2019年
|
|-
|2020年
|
|-
|2021年
|
|-
|2022年
|'''UNITE AS 1 -Going Forward-'''
|-
|2023年
|'''よっしゃ いこ!'''(Jリーグ30周年メッセージ)
|}
== アカデミー ==
{{main|日本プロサッカーリーグ (法人)#育成活動}}
Jリーグに所属するクラブはアカデミー([[下部組織]]、Jリーグの用語では「育成組織」)をもつことを義務つけている。アカデミーはJFAに世代別のチームとして登録され([[日本サッカー協会チーム登録種別]]を参照)、Jリーグの主催する各大会やJFA主催大会などに出場する。
== マスコットキャラクター ==
=== Jリーグ ===
; Mr. ピッチ
* 読み方は「ミスター・ピッチ」。
* 1991年11月1日生まれ、出身地は不明。
* 血液型はJ型。
* 身長は180センチメートル、スリーサイズは上から200・200・200センチメートル、全身を緑の芝生におおわれているのが特徴。
* 好きな色はグリーン。好きな言葉は「地球は青かった」、「石の上にも三年 芝の上にも百年」。
* 趣味はガーデニング。
* 「Jリーグ百年構想メッセンジャー」として、現在は各地で毎年行われている「ファミリーJoinデイズ」や「Jリーグオールスターサッカー」を始め、積極的に様々なイベントなどに出演している。また、各地の試合会場において、試合の前後やハーフタイム中に電光掲示板などで彼の出演しているビデオ映像を目にすることができる。なお、「百年構想」をPRしているポスターや雑誌の広告などでも、彼がモデルを務めている。
; Jリーグキング(J-boy)
{{main|Jリーグキング}}
=== Jリーグクラブ ===
{{main|スポーツのマスコットキャラクター一覧#Jリーグ}}
== 協賛団体 ==
Jリーグ(リーグ戦)の公式スポンサーはJ1の試合会場で広告看板を掲示できるほか、新聞や雑誌、放送媒体の広告でJリーグのロゴマークとともに'''「(企業名)はJリーグの○○パートナーです」'''、あるいは'''「(企業名)はJリーグを応援しています」'''のクレジットを掲載できる。また、各所属クラスに関係なく、試合前後の時間やハーフタイム中に試合会場の電光掲示板や場内放送で企業名を読み上げられる。
2011年度までの協賛カテゴリーは「オフィシャルスポンサー」と、それ以外のスポンサー(用具サプライヤー、90度システム広告スポンサーなど)とに区分されていたが、2012年度から原則として「○○パートナー」に呼称を統一させており、スポンサー・サプライヤーのカテゴリーをよりわかりやすく細分化している。
;全ディビジョン共通
*オフィシャルパートナーの広告設置に関しては、Jリーグ規約<ref name="Jリーグ規約">{{PDFlink|[http://www.j-league.or.jp/aboutj/document/2014kiyakukitei/02.pdf J リーグ規約(平成26年1月21日改正)]}} - 日本プロサッカーリーグ</ref> 第35条(27ページ)に「スタジアムにはJリーグが指定する位置にJリーグ、並びにJリーグオフィシャルパートナーの企業・団体が所定サイズ・及び枚数の広告[[看板]]([[幕]])を設置・掲出できるスペースを確保しなければならない」とする取り決めによるものである。
*[[日本スポーツ振興センター]](WINNER・toto・BIG、[[2001年]]より)、[[DAZN]]([[2017年]]より)のトップパートナー<ref group="注釈" name="トップパートナー">2011年までのオフィシャルスポンサーに当たるリーグ戦最上位スポンサーカテゴリー(なお2015年度からは明治安田生命保険がJリーグ全体のタイトルパートナー(特別協賛)に就任するため、スポンサーカテゴリーとしてはタイトルパートナーが最上級、トップパートナーはその次のクラスに当たる)。</ref> 以外の形でリーグ戦を協賛する企業の広告横断幕が基本的にバックスタンドの最前列の箇所に設置されている<ref group="注釈" name="J3">J3に関しては2014年度にJ3独自のオフィシャルパートナーがあった名残で、日本スポーツ振興センター、スカパーJSAT、アディダスジャパンの広告はバックスタンド最前列に2枚ずつ張り付けてある</ref>。なお一部のスポンサーは[[Jリーグカップ]]にも広告看板を掲出する場合<ref group="注釈">2014年予選ではコカコーラ、コナミ(ウイニングイレブン)、東京エレクトロンの3社。</ref> もある。
*2008年から2013年まで、メインスタンドから見て左側(原則としてホームゴール裏)にオフィシャルサプライヤー([[コンタクトレンズ]]等提供)の[[ジョンソン・エンド・ジョンソン]]の小型広告が設置されていた。現在はJ1リーグに限り、メインスタンドから見て両ゴール裏にリーグのタイトルロゴとスポーツくじ(WINNER<ref>2022年8月まではtoto・BIG</ref>)の小型広告がそれぞれ設置されている。
*2015年度より、Jリーグ全体(J3含む)の「トップパートナー」よりさらに最上級のスポンサーカテゴリーとして「タイトルパートナー」が制定され、明治安田生命保険が就任することになり<ref name="タイトルパートナー"/>、リーグの正式な名称が「明治安田生命J(1・2・3)リーグ」となった。
; J1
* 1993年から1995年の2ステージ制時代は、そのステージの冠スポンサー(1st・[[サントリー]]、2nd・[[三菱UFJニコス|日本信販]])の広告看板がバックスタンドとゴール裏のそれぞれ最前列<ref group="注釈" name="陸上競技場の設置個所">陸上競技場の場合は、バックスタンドはトラック部分、ゴール裏はフィールド競技が行われる箇所に設置</ref> に2枚ずつの合計4枚、他のオフィシャルスポンサー団体は1枚ずつ掲出されていた。それ以後は原則バックスタンドに各社2枚ずつ掲出されている。2015年2ndステージからは1stステージよりトップパートナーが1社増加したため、両サイドの外側にトップパートナーの広告が1枚ずつはみ出る形になり、ランダムに2社の広告が1枚ずつはみ出している(球技専用が多い)場合がある<ref group="注釈">陸上競技場は場所によってバックスタンド一列で掲示する場合もある</ref>。
* 2005年から2014年までJ1の各節1試合ごとに電動式回転広告板を導入していた。ただ、導入される試合は各節注目の試合に設置される場合が多い。また、2008年からはこれと併用する形でJ1の各節1試合ごとに[[三菱電機]]社製の電光広告板(オーロラリボンビジョン)を導入した。主に、NHK-BSの中継対象試合を中心に運用されている。2015年からは回転広告板を廃止した代わりに、電光広告板を使用する試合は1節に2試合に増加した。
* 2015年からは、タイトル協賛である明治安田生命の広告を6枚(うち、長方形の通常サイズ4枚を両コーナーとハーフライン付近に各2枚ずつ、コーナー部分に同社商品の正方形の広告が2枚)設置されている(J2・J3も同様)。またJ1ではこれとは別に90度システムの広告幕2枚(各ゴール裏1枚ずつ)を設置している。
; J2
* J2ではJリーグの公式スポンサーの広告看板は2007年まで掲出されなかった(各クラブごとの公式スポンサーの看板がかかっている)が、1996年から1998年の[[ジャパンフットボールリーグ]]でJリーグ準会員だったチームのホームゲーム開催時にはゴール裏部分に各1枚ずつのJリーグ公式スポンサーの広告看板が掲出されていた。なお、2008年から大会名の看板の横に小さめに公式スポンサーの広告が1枚にまとめて載るようになった。
; J3
* 2014年は、J1・J2とは別の独自の協賛スポンサーが制定されており、各会場のバックスタンド最前列<ref group="注釈" name="陸上競技場の設置個所"/>に、タイトル協賛の明治安田生命が4枚、他のJ3公式スポンサーからは2枚ずつの広告看板(横断幕)が設置されていた<ref group="注釈" name="J3"/>。2014年のJ3のスポンサーのうち、[[日本航空]]以外の各社はJ1・J2の何らかの公式スポンサーを兼務していたが、2015年度からはJ1・J2を含めて統一したスポンサー体系にすることになり、J2同様、大会名の看板の横に公式スポンサーを1枚にまとめて載せるようになった(なお2014年はJ3公式スポンサー団体を除いたJ1・J2のスポンサー団体の広告は設置しなかった)。
; Jリーグカップ
* 大会創設時より[[ヤマザキビスケット|ヤマザキナビスコ→ヤマザキビスケット]]の企業ロゴ、および同社商品の広告看板([[ルヴァン (クラッカー)|ルヴァン]]、[[チップスター]]他)が設置されている。なお創設当初からの最初の3年(1992年から1994年)は、予選リーグの試合(1994年は1・2回戦)に限って、ナビスコの広告と一緒に、通常ゴール裏に設置される各クラブ個別の協賛スポンサーの看板を置いていた。
; スポンサースペシャルデー&スペシャルマッチ
* 1996年にこれまでのステージスポンサーの制度が廃止されてから数年間に渡って、Jリーグでは公式スポンサー企業が特定の節・試合を対象としてスポンサースペシャルデー、ないしはスペシャルマッチを開催した。試合会場ではスペシャルデーのスポンサー企業がキャンペーンプロモーションを展開した。
=== 協賛団体一覧 ===
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!協賛カテゴリー種別!!契約開始年度!!協賛団体名
|-
|タイトルパートナー||2015年||[[明治安田生命保険|明治安田生命]]<ref group="注釈">2014年度はJリーグ全体のトップパートナーであるとともに、J3リーグのタイトルパートナー(特別協賛)であったが、2015年度はJリーグ全体のタイトルパートナーに昇格させた([[Jリーグチャンピオンシップ]]を含む。トップパートナー契約は2019年まで兼任)。</ref>
|-
|オフィシャルブロードキャスティングパートナー||2017年||[[DAZN]]<ref name="smart stadium"/><ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jleague.jp/release/post-47842/|title=Jリーグオフィシャルブロードキャスティングパートナー決定|publisher=公益社団法人日本プロサッカーリーグ|date=2017-01-25|accessdate=2017-01-29}}</ref>
|-
|rowspan="6"|トップパートナー<ref group="注釈" name="トップパートナー" />||2005年||[[アイデム]]
|-
|rowspan="2"|2015年||[[ホテルルートイン|ルートインホテルズ]]
|-
|[[イオン (企業)|イオン]]
|-
|2017年||[[NTTドコモ]]<ref name="smart stadium">{{Cite press release|和書|url= https://www.jleague.jp/release/post-44312/|title=Jリーグ、DAZN、NTTグループ 「スマートスタジアム事業」協業契約締結 ~スタジアム・ホームタウンのICT化で、日本のスポーツ界に新たな感動と体験を~|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2016-7-20}}</ref><ref name=technology>{{Cite press release|和書|url=https://www.jleague.jp/release/post-49414/|title=2017年Jリーグトップパートナー&オフィシャルテクノロジーパートナー契約決定|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2017-6-30}}</ref>
|-
|2018年||[[コナミデジタルエンタテインメント]]<ref group="注釈">1999年から2014年まで以来のトップパートナー復帰</ref>
|-
|2019年||[[いちご (不動産業)|いちご]]
|-
|[[Jリーグカップ|リーグカップ]]パートナー||1992年||[[ヤマザキビスケット]]<ref group="注釈">2016年8月までの社名は「ヤマザキナビスコ」。</ref>
|-
|[[スーパーカップ (日本サッカー)|スーパーカップ]]パートナー||1994年||[[富士フイルムビジネスイノベーション]]<ref group="注釈">2021年3月までの社名は「富士ゼロックス」。</ref>
|-
|rowspan="2"|オフィシャルエクイップメントパートナー||1993年||[[モルテン]]<ref group="注釈" name="J3_2014">2014年J3リーグのオフィシャルスポンサーも務めた。</ref>
|-
|2005年||[[アディダス]]<ref group="注釈" name="J3_2014" />
|-
|スポーツ振興パートナー||2001年||style="text-align:left"|[[日本スポーツ振興センター]]([[スポーツ振興くじ|スポーツくじ〔WINNER・toto・BIG〕]])
|-
|オフィシャルチケッティングパートナー||2012年||[[ぴあ]]([[チケットぴあ]])
|-
|オフィシャルECプラットフォームパートナー||rowspan="2"|2017年||[[楽天グループ]]<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jleague.jp/release/post-48707/|title=JリーグオフィシャルECプラットフォームパートナー決定|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2017-4-24}}</ref>
|-
|オフィシャルテクノロジーパートナー||[[日本電信電話|NTTグループ]]<ref name="smart stadium"/><ref name="technology"/>
|-
|rowspan="8"|サポーティングカンパニー||2003年||[[朝日新聞社]]
|-
|2015年||[[ヤフー (企業)|Yahoo! JAPAN]]<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jleague.jp/release/post-40500/|title=2015年Jリーグサポーティングカンパニー契約決定|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2015-11-24}}</ref>
|-
|2017年||[[デロイト トウシュ トーマツ|デロイトトーマツ]](ファイナンシャルアドバイザリー/[[デロイトトーマツコンサルティング|コンサルティング]])<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jleague.jp/release/post-49017/|title=2017年Jリーグサポーティングカンパニー契約決定|publisher=公益社団法人日本プロサッカーリーグ|date=2017-05-25|accessdate=2017-06-05}}</ref>
|-
|rowspan="3"|2021年||[[データスタジアム]]
|-
|[[IMAGICA GROUP]]/イマジカ・ライヴ
|-
|[[LINE (企業)|LINE]]
|-
|rowspan="2"|2022年|||[[サントリー#健康食品事業|サントリーウエルネス]]
|-
|[[TikTok]]<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jleague.jp/release/2022年jリーグサポーティングカンパニー契約決定/|title=2022年Jリーグサポーティングカンパニー契約決定|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2022-04-11|accessdate=2022-04-28}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jleague.jp/release/%ef%bc%92%ef%bc%90%ef%bc%92%ef%bc%93%e5%b9%b4%ef%bd%8a%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%82%b0%e3%82%b5%e3%83%9d%e3%83%bc%e3%83%86%e3%82%a3%e3%83%b3%e3%82%b0%e3%82%ab%e3%83%b3%e3%83%91%e3%83%8b%e3%83%bc%e5%a5%91/ |title=2023年Jリーグサポーティングカンパニー契約(更新)|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2023-04-06|accessdate=2023-04-12}}</ref>
|-
|スポーツ振興くじ販売代理||2023年||[[楽天グループ]](楽天toto)
|-
|マーケティングパートナー||2014年||[[電通]]<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jleague.jp/release/article-00005560/|title=株式会社電通と「Jリーグ マーケティングパートナー」契約に基本合意|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2013-12-17|accessdate=2022-04-28}}</ref>
|}
=== 過去の協賛団体一覧 ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!協賛カテゴリー種別!!契約期間!!協賛団体名
|-
|rowspan="2"|ステージスポンサー<ref group="注釈">公式スポンサー兼務</ref>||rowspan="2"|1993年 - 1995年||[[サントリー]](第1ステージ・チャンピオンシップ<ref group="注釈">1997年から2004年のチャンピオンシップにおいても冠スポンサーとなっている</ref>)
|-
|[[三菱UFJニコス|日本信販(NICOSカード)]](第2ステージ)
|-
|rowspan="34"|オフィシャルスポンサー(1993年 - 2011年)<br />→トップパートナー(2012年 - )<ref group="注釈" name="トップパートナー"></ref>||rowspan="5"|1993年 - 1995年||[[岡三証券グループ|岡三証券]]
|-
|[[資生堂]]
|-
|[[日清製粉]]
|-
|[[ボブソン]]
|-
|[[ミズノ]]
|-
|1996年 - 1997年||[[アンブロ]]
|-
|1994年 - 1998年||[[日本生命保険|日本生命]]
|-
|1996年 - 1998年||[[第一勧業銀行]]
|-
|1993年 - 1999年||[[小学館]]
|-
|1999年 - 2001年||[[コダック#日本法人|日本コダック]]
|-
|rowspan="2"|2000年 - 2001年||[[光通信 (企業)|光通信]]
|-
|[[家庭教師のトライ|トライグループ(家庭教師のトライ)]]
|-
|1999年 - 2003年||[[武富士]]
|-
|1993年 - 2004年||[[ローソン|ダイエーコンビニエンスシステムズ→ローソン]]<ref group="注釈">この期間中、関連会社の[[ローソンチケット]]がJリーグオフィシャルチケットステーションの業務を担当していた。</ref>
|-
|rowspan="2"|1993年 - 2007年||サントリー
|-
|日本信販→三菱UFJニコス(NICOSカード)
|-
|1994年 - 2007年||[[ジャパンエナジー|ジャパンエナジー(JOMO)]]
|-
|rowspan="2"|2005年 - 2007年||[[平和 (パチンコ)|平和]]<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.j-league.or.jp/release/000/00000478.html|title=【2005-2007 Jリーグオフィシャルスポンサー】|date=2004-12-21|publisher=日本プロサッカーリーグ}}</ref>
|-
|[[新生フィナンシャル|GEコンシューマー・ファイナンス(GE Money)]]<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.j-league.or.jp/release/000/00000655.html|title=GEコンシューマー・ファイナンス株式会社がJリーグオフィシャルスポンサーに決定|publisher=日本プロサッカーリーグ}}</ref>
|-
|rowspan="3"|2008年 - 2010年||[[マイラン|マイラン製薬]]
|-
|[[レオパレス21]]
|-
|[[プレナス]]
|-
|2011年||[[東京エレクトロン]]
|-
|2011年 - 2013年||[[日本マクドナルド]]
|-
|1993年 - 2014年||[[カルビー]]
|-
|2009年 - 2015年||[[日本コカ・コーラ]]
|-
|2012年 - 2015年||[[ジェーシービー]]
|-
|rowspan="2"|2015年 - 2016年||[[コロプラ]]
|-
|[[ECC総合教育機関|ECC]]
|-
|2016年 - 2018年||[[タグ・ホイヤー]]
|-
|1996年 - 2019年||[[キヤノン]]/[[キヤノンマーケティングジャパン|キヤノン販売→キヤノンマーケティングジャパン]]
|-
|2014年 - 2019年||明治安田生命
|-
|2017年 - 2020年||[[マスターカード]]<ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S14583981.html 「マスターカード」契約解除 Jリーグスポンサー、今季途中で サッカー] 朝日新聞デジタル, 2020年8月12日</ref>
|-
|2016年 - 2022年||[[エレクトロニック・アーツ]]([[EAスポーツ]])
|-
|rowspan="4"|90°システム広告スポンサー<ref group="注釈">2012年をもって廃止。</ref>||2002年 - 2007年||サントリー
|-
|2008年 - 2009年||ジャパンエナジー(JOMO)
|-
|2004年 - 2010年||[[NTTコミュニケーションズ]]([[OCN]])
|-
|2009年 - 2012年||日本コカ・コーラ<ref group="注釈">2015年まで掲出は継続。</ref>
|-
|百年構想パートナー||2003年 - 2022年||朝日新聞社
|-
|[[サンワバンクカップ|ワールドチャレンジ]]スポンサー||1994年 - 1997年||[[三和銀行]]
|-
|rowspan="3"|[[Jリーグオールスターサッカー|オールスターサッカー]]スポンサー||1993年 - 1998年||日本コダック
|-
|1999年 - 2001年||[[たらみ]]
|-
|2002年 - 2007年||ジャパンエナジー(JOMO)
|-
|[[JOMO CUP Jリーグドリームマッチ|ドリームマッチ]]スポンサー||1995年 - 2001年||ジャパンエナジー(JOMO)
|-
|rowspan="2"|ネットワークパートナー||rowspan="2"|2002年 - 2010年||[[東日本電信電話]]
|-
|[[西日本電信電話]]
|-
|オフィシャルサプライヤー||2008年 - 2013年||[[ジョンソン・エンド・ジョンソン]] ビジョンケア カンパニー
|-
|オフィシャルタイムキーパー||2019年 - 2020年||タグ・ホイヤー
|-
|フェアプレーパートナー||2012年 - 2014年||東京エレクトロン
|-
|オフィシャルVAR・フェアプレーパートナー||2020年||[https://oa-top.co.jp/ トップ]<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jleague.jp/sp/news/article/16595/|title=2020年JリーグオフィシャルVAR・フェアプレーパートナー契約決定【Jリーグ】|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2020-01-31}}</ref>
|-
|アソシエイト<ref group="注釈">アソシエイトとは、Jリーグ・アンダー22選抜チームと、それが出場するJ3リーグをサポートするための協賛カテゴリーである</ref><ref name="アソシエイト">{{Cite press release|和書|url=http://www.jleague.jp/release/post-33477/|title=Jリーグ - 2015年Jリーグアソシエイト契約決定|publisher=日本プロサッカーリーグ|date=2015-01-30|accessdate=2015-01-31}}</ref>||2015年||style="text-align:left"|[[日本航空]]<ref name="アソシエイト" /><ref group="注釈" name="J3_2014"/>
|-
|rowspan="2"|アライアンスマーケティングパートナー||rowspan="2"|1993年 - 2013年||[[博報堂DYメディアパートナーズ]]
|-
|[[博報堂]]
|-
|オフィシャルブロードキャスティングパートナー||2007年 - 2016年||[[スカパーJSAT]]
|-
|J2サポーティングカンパニー||2002年 - 2003年||[[大日本印刷]]
|-
!colspan="3"|※[[2014年のJ3リーグ]]に設定されていた独自の協賛スポンサーについては[[J3リーグ#協賛団体]]参照。
|}
== 海外の提携リーグ ==
* [[タイ・プレミアリーグ]](2012年2月、パートナーシップ協定締結)
* [[ベトナムサッカーリーグ]](2012年8月、パートナーシップ協定締結)
* [[ミャンマーサッカーリーグ]](同上)
* [[カンボジア・リーグ]](2013年5月、パートナーシップ協定締結)
* [[Sリーグ]](2013年6月、パートナーシップ協定締結)
* [[インドネシア・スーパーリーグ]](2014年1月、パートナーシップ協定締結)
* [[イランサッカーリーグ]](2015年1月 - 2017年、パートナーシップ協定締結)
* [[マレーシアサッカーリーグ|マレーシア・スーパーリーグ]](2015年2月、パートナーシップ協定締結)
* [[カタール・スターズリーグ]](2015年5月、パートナーシップ協定締結)
* [[Aリーグ]](2016年5月、戦略的連携協定締結)
* [[プリメーラ・ディビシオン|ラ・リーガ]](2017年6月、戦略的連携協定締結)
== 今後 ==
{{Main2|シーズン移行の議論|Jリーグ秋春制}}
Jリーグは[[2021年]][[4月6日]]に行われた実行委員会後の記者会見で、リーグの将来像を議論する「リプランニング推進チーム」を2021年4月1日付で創設したことを明らかにした<ref name="gekisaka20210406">{{Cite web|和書|url=https://web.gekisaka.jp/news/detail/?328287-328287-fl|title=東京23区の新スタ構想も! Jリーグが「リプランニング推進チーム」発足、10テーマを議論へ|website=ゲキサカ|date=2021-04-06|accessdate=2021-04-06}}</ref>。専務理事の[[木村正明]]が中心となって推進するもので、以下の項目について実現可能性の模索、前提となる研究分析を検討していくことが示されている。
;選択と集中の意思決定が必要だが、実現可能性を模索したいもの
:* 視聴拡大のための体制強化
:* リーグ内組織の最適化による、さらなる価値向上(人材リソースの最適化)
:* toC戦略の確実な実行(来場者に対する伝える中身・伝える方法)
:* クラブ&企業マッチング機能の充実
:* [[東京都区部|23区]]スタジアム(ロンドンの[[ウェンブリー・スタジアム]]のような、中立地として使えるスタジアムを整備する構想)
;思想レベルの意識転換が必要で、前提となる研究分析を継続するもの
:* 傾斜配分割合の増加
:* [[命名権|ネーミングライツ]]解禁(クラブ名に企業名称を容認するか否か)
:* [[上場]]解禁(クロスオーナーシップとの整合性)
:* ホームタウン規制緩和(特に東京都内での他クラブによるイベントの可能性)
:* リーグ構造の見直し
このうち、「リーグ構造の見直し」に関しては、2014年の時点でJ1・J2・J3の合計クラブ数の上限を60と設定していることを明らかにし、J3クラブが20クラブに達した時点で以降の形をどのようにするかを検討する内容で2021年9月末までに結論を出す意向であることを明らかにしており{{R|gekisaka20210406}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/sports/soccer/20210826-OYT1T50081/|title=【独自】Jリーグのクラブ数、上限を60に…競技レベル維持へ拡大路線見直し|accessdate=2021-08-28|date=2021-08-26|publisher=読売新聞}}</ref>、一部メディアが報じた、J1リーグよりも上位に位置するいわゆる「プレミアリーグ」を設置する構想<ref>{{Cite news|url=https://hochi.news/articles/20210330-OHT1T50003.html|title=Jリーグ、プレミア化 最上位リーグ新設、外国人枠撤廃など検討「推進チーム」たち上げ|newspaper=スポーツ報知|date=2021-03-30|accessdate=2021-04-06}}</ref> については、意見としてはあるものの「一切議題には入っていない」と否定している{{R|gekisaka20210406}}。
また、『上場も考慮した資本流動性の研究』の一環として、「株式異動に関わるルール・規則」については、2022年2月28日にオンラインで行われたJリーグ理事会で決議され、2022年3月1日付で改定された<ref name="Jリーグ_20220228">{{Cite web|和書|url= https://www.jleague.jp/news/article/21897/|title= ~上場も考慮した資本流動性の研究~株式異動に関わるルール・規則の改定について|publisher= Jリーグ|date= 2022-02-28|accessdate=2022-03-01}}</ref><ref name="nikkei_20220228">{{Cite news |和書|title= Jリーグ、クラブの株式上場解禁 コロナ苦境加味し緩和|newspaper= 日本経済新聞|date= 2022-02-28|author= 共同通信|url= https://www.nikkei.com/article/DGXZQOKC28CFV0Y2A220C2000000/|accessdate=2022-03-01}}</ref>。この改定では、現状不可能であるサッカークラブの株式上場がJリーグの新しい成長戦略として挙げられ、資本力のある投資家を呼び込み、クラブの経営管理体制を強化するといったJリーグ自体の発展に加え、価値の向上に反映させていくことが目的とされる一方で、[[インテグリティ]]の観点によって、サッカークラブの株式保有の禁止対象について、再定義させることになったもの<ref name="Jリーグ_20220228"/>。また、15%未満の保有株式が移行した場合に、Jリーグへの報告義務は廃止となるが、敵対的買収や反社会的勢力などの不適切な株主への対策の一環として、15%以上保有する大口の株主の場合はJリーグの方で審査を行うことになった<ref name="nikkei_20220228"/>。
2022年11月15日に、Jリーグは、新たな成長戦略として「58クラブが、それぞれの地域で輝く」と「トップ層が、ナショナル(グローバル)コンテンツとして輝く」という2つの成長テーマを掲げ、その上で、「配分金構造の見直し」と「リーグ組織のガバナンス改革」という、2つの「成長戦略を実現するための構造改革」を行うことを明らかにした<ref name="J_20221115">{{Cite news |和書|title= Jリーグ新たな成長戦略とリーグ組織の構造改革について|newspaper= 公益社団法人日本プロサッカーリーグ|date= 2022-11-15|author= |url= https://www.jleague.jp/release/%ef%bd%8a%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%82%b0%e6%96%b0%e3%81%9f%e3%81%aa%e6%88%90%e9%95%b7%e6%88%a6%e7%95%a5%e3%81%a8%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%82%b0%e7%b5%84%e7%b9%94%e3%81%ae%e6%a7%8b%e9%80%a0%e6%94%b9%e9%9d%a9/|access-date=2022-11-15}}</ref>。「成果創出を後押しし、高みへの挑戦を促す新たな配分ルールへ」を目的とした「配分金構造の見直し」に関しては、「カテゴリー間の配分比率の見直し」と「同一カテゴリー内の配分方法の見直し」を掲げ、また、「リーグ組織のガバナンス改革」に関しては、「より質の高い議論とスピーディーな意思決定を実現する会議のあり方へ」を目的とした「会議等の意思決定構造の見直し」として「理事会の見直し」と「実行委員会の見直し」を掲げ、そして、「クラブの成果創出を実現できる執行体制の強化」を目的とした「リーグ執行機関の組織構造の見直し」として「執行役員の新設」と「変動報酬制の導入」、それに、「経営会議の新設」を掲げている<ref name="J_20221115"/>。
== 関連項目 ==
* [[日本サッカーのリーグ構成 (1種)]]
* [[ファミリーJoinデイズ]]
* [[譲渡試合]]
* [[プレシーズンマッチ]]
* [[日本のダービーマッチ]]
* [[地域密着]]
* [[ホームタウン]]
* [[プロフェッショナル (サッカー)]]
* [[日本のサッカー選手一覧]]
* [[日本プロサッカー選手会]]
* [[特別指定選手]]
* [[社員選手]]
* [[レンタル移籍]]
* [[外国人枠 (サッカー)]]
* [[日本国外のリーグに所属する日本人サッカー選手一覧]]
* [[スポーツ振興くじ]](toto、サッカーくじ)
* {{Prefix|Jリーグ}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|2
|refs=
<ref name="j-history">[https://web.archive.org/web/20150501211355/http://www.jleague.jp/aboutj/history/ Jリーグの歴史](Internet Archive) Jリーグ、[http://www.jfa.jp/about_jfa/heisei_history/ J.League x JFA サッカーで振り返る平成史と未来への展望 - 日本サッカーの歴史] J.League x JFA</ref>
<ref name="jfa">[http://www.jfa.jp/about_jfa/history/#1990 沿革・歴史JFA|公益財団法人日本サッカー協会]</ref>
<ref name="jsl">[http://www.vivasoccer.net/guest/chujo/note37.htm 日本リーグの錦の御旗 - 牛木素吉郎&ビバ!サッカー研究会 公式サイト]、[http://blog.goo.ne.jp/s-ushiki/e/bb531e884e773d58eaa10d6812f771a7 日本サッカー・リーグ50年(11) - 牛木素吉郎のビバ!スポーツ時評]、[http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=277 多くの困難を乗越えて日本サッカーリーグ開幕|賀川サッカーライブラリー]</ref>
<ref name="naganuma">[https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009250193_00000 長沼健 NHK人物録]、[http://blog.goo.ne.jp/s-ushiki/e/04c37677285299b8826ddb1ab47f88e1 日本サッカーリーグの創設(上)]、[http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=788 オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(下)]、[http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=2056 人の話を聞き、人を働かせ、自らも労をいとわぬ気配りの名手。日本サッカーの大功労者、長沼健さんを偲んで]、[https://archive.fo/20130423072659/http://archive.sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/toyotacup/2004/column/200412/at00003273.html トヨタカップを呼んだ男たち 第5回 長沼健](Internet Archive){{Cite book|和書|year=2003|title=[[サッカー批評]]issue20 - 改革を進める日本サッカー協会|volume=|publisher=[[双葉社]]|pages=36-37}}([https://web.archive.org/web/20031009044855/http://www01.sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/other/column/200309/0912hihy_04.html Web版サッカー批評(Vol.11) -スポーツナビ2003年9月12日])(Internet Archive)</ref>
<ref name="okano">{{Cite web|和書|author= |date=2020–11 |url=http://www.lbsoccer.org/wplb/wp-content/uploads/2020/11/aeaf66f61bcf373273cc899974f1246e-2.pdf |format=PDF |title=私のサッカー人生 岡野俊一郎さんインタビュー 『自分で自分を強くする』 |publisher=[[東京大学運動会ア式蹴球部|東大LB会]] |pages=42–47 |accessdate=2023-07-30}}{{Cite book|和書|author=|year=1992|title=サッカーファン・ブック '92-'93|chapter=岡野俊一郎インタビュー|publisher=[[日本出版社]]|isbn=4-89048-317-9|pages=65-77}}</ref>
<ref name="ogura">[http://akagane-k.sakura.ne.jp/a-club/kouenkai/back_number/402report.html 夢があるから強くなる ~日本サッカーの国際化を支えて40年~. 講師: 公益財団法人 日本サッカー協会名誉会長 小倉純二氏]、[http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/412_3.html 情報紙『有鄰』No.412 P3 - 有隣堂]</ref>
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<ref name="gendai07">{{Cite book|和書|author=|date=2007年4月10日~4月28日|title=日刊ゲンダイ|chapter=連載 森健兒 いま沈黙を破る(全15回)|volume=|publisher=株式会社日刊現代}}『いま沈黙を破る(11)』2007年4月24日付、31頁</ref>
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== 外部リンク ==
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2,348 | 国立競技場 (法人) | 法人としての国立競技場(こくりつきょうぎじょう)は、国立競技場法(昭和33年3月27日法律第20号) 第2条の規定に基づいて設立された文部省(現・文部科学省)所管の特殊法人で、1958年(昭和33年)から1986年(昭和61年)までの間、国立霞ヶ丘競技場・国立代々木競技場を管理・運営していた。1986年に日本学校健康会と合併して日本体育・学校健康センターが新たに設立され、現在の独立行政法人日本スポーツ振興センター (JSC) の前身となった。
「国立競技場」の名称は、霞ヶ丘競技場の中心施設であった国立霞ヶ丘競技場陸上競技場の通称としても用いられ、さらには霞ヶ丘競技場・代々木競技場の総称としても用いられた。2019年に竣工した国立競技場は通称・略称ではなく正式な名称となっている。
日本スポーツ振興センターが運営するスポーツ施設全般については「日本スポーツ振興センター#運営施設」を参照。
「その設置する体育施設を適切かつ効率的に運営し、体育の普及振興を図り、もつて国民の心身の健全な発達に寄与すること」を目的に、1958年(昭和33年)10月1日に設立された。資本金は「競技場の設立の際現に国の有する別表に掲げる不動産及び政令で定めるその他の財産の価格の合計額に相当する金額」とされ、その別表に記された資産は土地4筆(東京都新宿区霞ヶ丘町10-1~同10-4)と同地に所在する「鉄筋コンクリート造四階建競技場」1棟(=国立霞ヶ丘競技場陸上競技場)の資産合計額とされた。
(施設としての)国立競技場は1964年の東京オリンピックの競技会場として建設された。現在でも各国立競技場にはオリンピックマークと"Tokyo 1964" を合わせたエンブレムが残っており、東京オリンピックの会場であったことを偲ばせている。国立競技場で開催された競技は以下の通り。
国立競技場は首都東京にある上に立地も良いことなどから、各種競技の全国大会の決勝などに使用されることが多い。競技者からみれば、これらの施設は憧れの的である。そのため、国立競技場は「聖地」と呼ばれる。また国立競技場でプレーした経験のある競技者といえば、各競技で相当レベルの高い部類に入る選手ということもできる。
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"text": "かつては中原久和(1990年就任) ら。近年は、田屋三夫、大和一光、武本紀夫、小菅司、斉藤孝博 らが場長を務めてきた。",
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] | 法人としての国立競技場(こくりつきょうぎじょう)は、国立競技場法(昭和33年3月27日法律第20号) 第2条の規定に基づいて設立された文部省(現・文部科学省)所管の特殊法人で、1958年(昭和33年)から1986年(昭和61年)までの間、国立霞ヶ丘競技場・国立代々木競技場を管理・運営していた。1986年に日本学校健康会と合併して日本体育・学校健康センターが新たに設立され、現在の独立行政法人日本スポーツ振興センター (JSC) の前身となった。 「国立競技場」の名称は、霞ヶ丘競技場の中心施設であった国立霞ヶ丘競技場陸上競技場の通称としても用いられ、さらには霞ヶ丘競技場・代々木競技場の総称としても用いられた。2019年に竣工した国立競技場は通称・略称ではなく正式な名称となっている。 | [[File:Jingu gaien air.jpg|thumb|航空写真に見る国立霞ヶ丘競技場付近。神宮球場なども至近にある。案内図は、[[:ファイル:Jingu gaien air2.jpg]]。]]
[[File:Jingu gaien-1.JPG|thumb|新国立競技場建設に向けて解体前の国立競技場(2014年4月12日撮影)]]
[[File:Jingu gaien-2.JPG|thumb|新国立競技場建設に向け解体中の国立競技場(2015年4月6日撮影)]]
[[法人]]としての'''国立競技場'''(こくりつきょうぎじょう)は、'''国立競技場法'''(昭和33年3月27日法律第20号)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/02819580327020.htm|title=第028回国会 制定法律の一覧 法律第二十号(昭三三・三・二七)|website=[[衆議院]]|accessdate=2020-01-16}}</ref> 第2条の規定に基づいて設立された[[文部省]](現・[[文部科学省]])所管の[[特殊法人]]で、[[1958年]]([[昭和]]33年)から[[1986年]](昭和61年)までの間、[[国立霞ヶ丘競技場]]・[[国立代々木競技場]]を管理・運営していた。1986年に日本学校健康会と合併して日本体育・学校健康センターが新たに設立され、現在の[[独立行政法人]][[日本スポーツ振興センター]] (JSC) の前身となった。
「国立競技場」の名称は、霞ヶ丘競技場の中心施設であった[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]の通称としても用いられ<ref name="law">{{Cite web|和書|url=https://www.jpnsport.go.jp/anzen/kankobutuichiran/tabid/1799/Default.aspx |title=災害共済給付関係法令集 令和元年度版 |author=日本スポーツ振興センター |work=I 基本法令 > 独立行政法人日本スポーツ振興センター業務方法書 |page=70 |date=2019-11 |accessdate=2019-12-24}}</ref>、さらには霞ヶ丘競技場・代々木競技場の総称としても用いられた<ref name="law"/>。2019年に竣工した[[国立競技場]]は通称・略称ではなく正式な名称となっている。
{{Indent|日本スポーツ振興センターが運営するスポーツ施設全般については「[[日本スポーツ振興センター#運営施設]]」を参照。}}
== 概要 ==
「その設置する体育施設を適切かつ効率的に運営し、体育の普及振興を図り、もつて国民の心身の健全な発達に寄与すること」を目的に、1958年(昭和33年)10月1日に設立された。資本金は「競技場の設立の際現に国の有する別表に掲げる不動産及び政令で定めるその他の財産の価格の合計額に相当する金額」とされ、その別表に記された資産は土地4筆(東京都[[新宿区]][[霞ヶ丘町]]10-1~同10-4)と同地に所在する「鉄筋コンクリート造四階建競技場」1棟(=[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]])の資産合計額とされた。
(施設としての)国立競技場は[[1964年]]の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]の競技会場として建設された。現在でも各国立競技場にはオリンピックマークと"Tokyo 1964" を合わせたエンブレムが残っており、東京オリンピックの会場であったことを偲ばせている。国立競技場で開催された競技は以下の通り。
* メインスタジアム([[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]])- [[陸上競技|陸上]]、[[サッカー]](決勝戦、3位決定戦)、[[馬術]](大賞典障害飛越)
** [[秩父宮ラグビー場]] - サッカー
* 代々木会場([[国立代々木競技場]])
** 第一体育館 - [[水泳]]
** 第二体育館 - [[バスケットボール]]
国立競技場は首都東京にある上に立地も良いことなどから、各種競技の全国大会の決勝などに使用されることが多い。競技者からみれば、これらの施設は憧れの的である。そのため、国立競技場は「聖地」と呼ばれる。また国立競技場でプレーした経験のある競技者といえば、各競技で相当レベルの高い部類に入る選手ということもできる。
== 歴代の場長 ==
かつては中原久和(1990年就任)<ref>[http://www.jpnsport.go.jp/kokuritu/Portals/0/kokuritu/kohosi2014/2014-34.pdf#page=3 国立競技場OB 中原久和氏に聞く〜明治神宮外苑競技場から1964年東京オリンピックまでの思い出〜] 広報紙「国立競技場」2014.3・4(Vol.602)</ref> ら。近年は、田屋三夫<ref>[http://www.jpnsport.go.jp/kokuritu/sisetu/kankou//tabid/208/Default.aspx 新年のあいさつ 国立競技場長 田屋 三夫] 「国立競技場」 2010年1月号</ref>、大和一光<ref>[http://www.jpnsport.go.jp/kokuritu/sisetu/kankou//tabid/398/Default.aspx 年頭のあいさつ] 「国立競技場」 2012年1月号</ref>、武本紀夫<ref>[http://www.jpnsport.go.jp/kokuritu/Portals/0/kokuritu/kohosi2013/%E5%BA%83%E5%A0%B1%E8%AA%8C2013.5-6.pdf#page=3 国立競技場長 就任の挨拶] 「国立競技場」 2013年5・6月号</ref>、小菅司<ref>[http://www.jpnsport.go.jp/kokuritu/Portals/0/kokuritu/kohosi2014/2015.03.pdf#page=3 頁] 「国立競技場」 2015年3月号</ref>、斉藤孝博<ref>[http://t.pia.jp/feature/sports/sayonaragoods/designaward.jsp SAYONARA国立競技場FINAL "FOR THE FUTURE" MEMORIAL GOODS DESIGN AWARD 2015]</ref> らが場長を務めてきた。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://www.jpnsport.go.jp/ 日本スポーツ振興センター]
* [https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/02819580327020.htm 国立競技場法] - 衆議院
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:こくりつきようきしよう}}
[[Category:かつて存在した日本の特殊法人]]
[[Category:1964年東京オリンピック]]
[[Category:日本の競技場|歴]] | 2003-02-19T02:30:06Z | 2023-11-16T23:21:05Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E7%AB%B6%E6%8A%80%E5%A0%B4_(%E6%B3%95%E4%BA%BA) |
2,349 | ツクダオリジナル | 株式会社ツクダオリジナルは、かつて存在した日本の玩具メーカーである。
ツクダグループの内の1社であり、本社は母体の「株式会社ツクダ」と同じく、東京都台東区橋場一丁目36番10号に所在した自社ビル(ツクダグループビル)内にあった。
本稿ではツクダグループについても記述する。
1974年に「株式会社ツクダ」の製造部門が独立し、東京都台東区に設立された。オセロやルービックキューブ、スライムなどのロングセラー商品を抱えていた。そのほかに、エアー圧縮型水鉄砲「エアーウォーターガン」シリーズやシャボン玉遊びができるワンダーシャボン、ままごと遊び商品など男児・女児向けのホビー分野の商品を販売していた。
株式会社ツクダの経営不振からツクダグループを離れ、幾度かの社名変更や吸収合併を経て、現在はバンダイナムコグループのメガハウスの一事業部に引き継がれている。
2011年 元社長の佃義範は無機ELメーカー東方EL電子工業株式会社を創業し、代表取締役社長に就任。
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] | 株式会社ツクダオリジナルは、かつて存在した日本の玩具メーカーである。 ツクダグループの内の1社であり、本社は母体の「株式会社ツクダ」と同じく、東京都台東区橋場一丁目36番10号に所在した自社ビル(ツクダグループビル)内にあった。 本稿ではツクダグループについても記述する。 | {{出典の明記|date=2023年1月11日 (水) 03:30 (UTC)}}
'''株式会社ツクダオリジナル'''は、かつて存在した[[日本]]の玩具メーカーである。
ツクダグループの内の1社であり、本社は母体の「株式会社ツクダ」と同じく、[[東京都]][[台東区]][[橋場]]一丁目36番10号に所在した自社ビル(ツクダグループビル)内にあった。
本稿ではツクダグループについても記述する。
== 概要 ==
[[1974年]]に「株式会社ツクダ」の製造部門が独立し、東京都台東区に設立された。[[オセロ (ボードゲーム)|オセロ]]や[[ルービックキューブ]]、[[スライム]]などのロングセラー商品を抱えていた。そのほかに、エアー圧縮型水鉄砲「エアーウォーターガン」シリーズや[[シャボン玉]]遊びができるワンダーシャボン、ままごと遊び商品など男児・女児向けのホビー分野の商品を販売していた。
株式会社ツクダの経営不振からツクダグループを離れ、幾度かの社名変更や[[合併 (企業)#吸収合併・新設合併|吸収合併]]を経て、現在は[[バンダイナムコグループ]]の[[メガハウス]]の一事業部に引き継がれている。
== 歴史・沿革 ==
* [[1973年]] - 株式会社ツクダがオセロを発売。累計2千万個販売。
* [[1974年]] - ツクダが製造部門を独立させ、株式会社ツクダオリジナルを設立。創業者は佃光雄、資本金500万円。
* [[1977年]] - オセロ世界大会を開催。
* [[1978年]] - [[スライム]]が大ヒットする。累計1200万個販売。
* [[1980年]] - 世界でヒットしたルービックキューブを発売。累計800万個販売。
* [[1981年]] - 東京都台東区のツクダグループビル内に「日本玩具資料館」を開設。2004年に閉館。
* [[1983年]] - [[セガ]]の[[SC-3000|SC]]・[[SG-1000|SG]]シリーズ互換機「[[オセロマルチビジョン]]」を発売。
* [[1991年]] - 「ファーストママ」シリーズ、「エアーウォーターガン」シリーズを発売。
* [[2001年]] - 二足歩行ロボット「PINO」、ワンダーシャボンを発売。
* [[2002年]][[7月16日]] - ツクダの経営不振を受け、[[バンダイ]]の完全子会社になる。のちツクダは[[2003年]][[4月3日]]、[[民事再生法|民事再生]]手続開始を申し立て倒産。会社は清算された。
* 2003年[[3月31日]] - ツクダオリジナル出身の玩具メーカーの和久井威が創業した株式会社ワクイコーポレーションからの営業譲渡を受け、株式会社[[パルボックス]]に改称。
** 以後の歴史は「パルボックス」及び「メガハウス」の項を参照。
== 現在==
[[2011年]] 元社長の佃義範は無機ELメーカー東方EL電子工業株式会社を創業し、代表取締役社長に就任。
== 主な製品 ==
* [[オセロ (ボードゲーム)|オセロ]]
* PINO DX
* ブレインバトル
* エアーウォーターガン
* ファーストママシリーズ
* スライム
* ギャック
* およげゆ太郎
* オセロマルチビジョン
* くるくる回転寿司ごっこ
* シーモンキー
* スマートボール
* 速球王
* チクタクパニック
* パワーシューター
* マミーポコちゃん
* ワンダーシャボン
* BANKENガオガオ
* マジックスネーク
* アンバランス
* [[バトルドーム|アメリカン・バトルドーム]]
* [[ルービックキューブ]]
* [[ミルクモウモウ]]
* {{仮リンク|キャベッジパッチキッズ|en|Cabbage Patch Kids}}
他。
== ツクダグループ ==
* '''ツクダ'''
** [[玩具]]の卸販売を行う専門[[問屋]]。[[1935年]]に創業された「'''ツクダ屋商店'''」が源流で、[[1950年]]に「'''株式会社ツクダヤ'''」として法人化される。その後、「'''ツクダ'''」へ社名を変更するが、[[2003年]]に倒産。
* '''ツクダオリジナル'''
** 本項にて取り上げている企業。かつてのツクダ製造部門。
* '''ツクダアイデアル'''
** ツクダグループが[[フィギュア|フィギュアモデル]]市場に新規参入する際、設立した企業{{要出典|date=2023年10月|title=ツクダアイデアルは70年代には存在しておりフィギュア参入が理由だと時代が合わない}}。『[[センチメンタルグラフティ]]』や『[[同級生 (ゲーム)|同級生シリーズ]]』などの[[ギャルゲー]]や[[アダルトゲーム]]のヒロインフィギュアを多く手掛けていた。
* '''[[ツクダホビー]]'''
** [[ボードゲーム]]・[[プラモデル]]・フィギュアなどを販売。[[2002年]]度末に倒産し、事業はツクダに吸収され、後に清算された。本社は、本項のツクダオリジナルと同じく、東京都台東区橋場に所在したが後に同区元浅草へ移転。
* '''ツクダシナジー'''
** [[PCゲーム]]事業を手掛ける企業。[[1997年]]の設立当初から親会社のツクダが経営不振で、同業者との商戦も熾烈だったことから早々に業績が悪化し、設立からわずか5年ほどで倒産。かつては、[[エンターブレイン]]刊の[[パソコン雑誌|パソコン情報誌]]『[[テックウィンDVD|テックウィン]]』のPCゲーム業界の最新情報コーナーに数ヶ月間連載していた。本社は、ツクダオリジナルと同所にあった時期があるが倒産時には台東区内の別の地区へ移転。
* '''日本玩具資料館'''
** 日本で昭和初期以降に製造された玩具や、アメリカなどへの輸出向け玩具を収蔵していた。[[2004年]]に閉館し、収蔵品は[[おもちゃのまちバンダイミュージアム|バンダイミュージアム]]に引き継がれた。
== 関連項目 ==
* [[クローバー (玩具メーカー)|クローバー]] - ツクダの社員が独立し、1973年に創業した玩具メーカー。
== 外部リンク ==
* [https://www.megahouse.co.jp/megatoy/ メガハウス第4事業部(megatoy-メガトイ)]
* {{Wayback |url=http://tsy.co.jp/ |title=ツクダシナジー |date=20010405033032 }}
* {{Mediaarts-db}}
{{オセロ (ボードゲーム)}}
{{DEFAULTSORT:つくたおりしなる}}
[[Category:ツクダオリジナル|*]]
[[Category:20世紀の日本の設立]]
[[Category:1974年設立の企業]]
[[Category:2003年廃止の企業]]
[[Category:オセロ]]
[[Category:台東区の歴史]]
[[Category:台東区の企業|廃つくたおりしなる]]
[[Category:かつて存在した日本の玩具メーカー]]
[[Category:かつて存在した東京都の企業]] | 2003-02-19T02:45:26Z | 2023-10-25T03:09:10Z | false | false | false | [
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"Template:Wayback",
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"Template:オセロ (ボードゲーム)",
"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%AF%E3%83%80%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%83%8A%E3%83%AB |
2,350 | 電子マネー | 電子マネー(でんしマネー)とは、非接触ICカード活用した日本の決済の形態の一種である。
Suicaや楽天Edyに代表される非接触ICカードによる電子決済手段の一種である。取引ごとに決済情報をやりとりするクレジットカードとは異なり、あらかじめ現金や預金と引換えに電子的貨幣価値を引き落としておき、経済活動の際に同貨幣価値のやりとりを通じて代価を支払うストアドバリュー型となる。
電子マネーとICプリペイドカードの語句の違いは曖昧である。ただし電子マネーには後払い式のものもある。
英語の区分は以下の通り。
日本では原則として、金券やプリペイドカード等と同様に、資金決済に関する法律が適用される。通信手段を用いるサーバー型の電子マネーも規制の対象である。
交通系電子マネーは電子マネーと交通機関乗車カードを兼ねる。交通機関定期券としての単独利用や記念カードも含まれるため他と単純比較はできない。
大半がFeliCa規格である。2000年代までは日本国内でICカードといえばもっぱらFeliCaを指し、海外の電子決済で普及していたNFC TypeA/Bは読み取り機もあまり存在しなかった。(ガラパゴス化#非接触ICカードも参照)
FeliCaを使用していても、物理的な互換性はあるが、交通系ICカードを除くとシステムの互換性は図られていない事が多い。
※カッコ内は前年同月比。
有効期限を設定しているものがある。すなわち、現金をチャージするなどして電子マネー化しても、その後利用せずに一定の期間を経過するとその価値が滅失すると言うことである。参考までに、民法における債権の消滅時効は10年間である。
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] | 電子マネー(でんしマネー)とは、非接触ICカード活用した日本の決済の形態の一種である。 | {{otheruseslist|専ら事業者集中管理型の支払い・決済手段([[電子決済]])の一種|[[公共交通機関]]を利用する際に[[運賃]]などとして利用するもの|乗車カード|デジタルな通貨である電子マネーの[[暗号通貨]]、[[仮想通貨]]、[[中央銀行発行デジタル通貨]](CBDC)など|デジタル通貨}}
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2021年3月
| 更新 = 2021年3月
| 独自研究 = 2023年8月
| 参照方法 = 2023年8月
}}
[[ファイル:Ainokaze Toyama Railway uozu station Suica.JPG|サムネイル|駅の改札口にて電子マネー機能付き乗車カード ([[Suica]]) を使用する場面]]
'''電子マネー'''(でんしマネー)とは、[[非接触ICカード]]を活用した[[日本]]の決済の形態の一種である。
== 概要 ==
[[Suica]]や[[楽天Edy]]に代表される[[非接触ICカード]]による[[電子決済]]手段の一種である。取引ごとに決済情報をやりとりする[[クレジットカード]]とは異なり、あらかじめ現金や預金と引換えに電子的貨幣価値を引き落としておき、経済活動の際に同貨幣価値のやりとりを通じて代価を支払うストアドバリュー型となる<ref name="soumushou">[https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h27/html/nc121150.html 総務省|平成27年版 情報通信白書|電子マネーの普及]、2021年07月07日閲覧。</ref>。
電子マネーとIC[[プリペイドカード]]の語句の違いは曖昧である。ただし電子マネーには後払い式のものもある<ref>[https://www.smbc-card.com/prepaid/topics/money.jsp 電子マネーとは?プリペイドカードと電子マネーはどう違う?|プリペイドカードなら三井住友VISAカード]</ref>。
[[英語]]の区分は以下の通り。
*[[:en:Electronic_money|electronic money]] - 「電子マネー」の直訳に当たるが指すものは全く別概念であり、[[紙幣]]や[[硬貨]]を持たない[[デジタル通貨]]、[[暗号通貨]]の[[ビットコイン]]や[[中央銀行発行デジタル通貨]]などの新しい形態の電子的なマネタリーシステム([[:en:Monetary_system|monetary system]])を意味する。
* [[:en:Electronic_payment|electronic payment]] - [[電子決済]]。[[クレジットカード]]や[[デビットカード]](「電子マネー」より歴史は古い)、[[ペイパル]]など。
* [[:en:Stored-value_card|stored value card]] - [[プリペイドカード]]。
** smart card for making electronic payments - [[ICカード]]。
* [[:en:Mobile_payment|mobile payment]] - [[モバイル決済]]。
* contactless - カードでもモバイルでも[[非接触型決済|非接触型(決済)]]を指す。
== 代表例 ==
{{main|交通系ICカード|Category:電子マネー}}
日本では原則として、[[金券]]や[[プリペイドカード]]等と同様に、[[資金決済に関する法律]]が適用される。通信手段を用いるサーバー型の電子マネーも規制の対象である。
交通系電子マネーは電子マネーと交通機関乗車カードを兼ねる。交通機関定期券としての単独利用や記念カードも含まれるため他と単純比較はできない。
大半が[[FeliCa]]規格である。[[2000年代]]までは日本国内でICカードといえばもっぱら[[FeliCa]]を指し、海外の電子決済で普及していたNFC TypeA/Bは読み取り機もあまり存在しなかった<ref>https://www.jtua.or.jp/wp/wp-content/uploads/2020/03/202003_01cashless.pdf</ref>。([[ガラパゴス化#非接触ICカード]]も参照)
FeliCaを使用していても、物理的な互換性はあるが、[[交通系ICカード]]を除くとシステムの互換性は図られていない事が多い。
===2022年の発行枚数・会員数(少額決済方式)===
<ref>{{Cite book |和書 |year=2022 |title=月刊 消費者信用(2022年9月号) |publisher=[[金融財政事情研究会]] |page=35 |id= |isbn= |quote= }}</ref>
# {{Color box|#036|前払|#FFF}} {{Color box|PaleGreen|専業}} [[楽天Edy]]:1億4,840万枚 (6.8%)
# {{Color box|#036|前払|#FFF}} {{Color box|PaleGreen|流通系}} [[WAON]]:9,281万枚 (5.4%)
# {{Color box|#036|前払|#FFF}} {{Color box|PaleGreen|交通系}} [[Suica電子マネー|Suica]]:8,926万枚 (5.0%)
# {{Color box|#036|前払|#FFF}} {{Color box|PaleGreen|流通系}} [[nanaco]]:7,620万枚 (3.4%)
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# {{Color box|#036|前払|#FFF}} {{Color box|PaleGreen|交通系}} [[PASMO]]:4,121万枚 (2.4%)
# {{Color box|#036|前払|#FFF}} {{Color box|PaleGreen|交通系}} [[ICOCA電子マネー|ICOCA]]:2,667万枚 (5.9%)
# {{Color box|#036|後払|LightSalmon}} {{Color box|PaleGreen|クレカ}} [[QUICPay]]:2,255.4万枚 (21.2%)
# {{Color box|#036|前払|#FFF}} {{Color box|PaleGreen|流通系}} [[majica]]:1,763万枚 (22.4%)
# {{Color box|#036|前払|#FFF}} {{Color box|PaleGreen|交通系}} [[manaca]]:817.9万枚 (7.1%)
# {{Color box|#036|前払|#FFF}} {{Color box|PaleGreen|交通系}} [[nimoca]]:486万枚 (5.4%)
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# {{Color box|#036|後払|LightSalmon}} {{Color box|PaleGreen|交通系}} [[PiTaPa]]:333万枚 (△0.8%)
# {{Color box|#036|前払|#FFF}} {{Color box|PaleGreen|交通系}} [[Kitaca]]:196万枚 (6.5%)
# {{Color box|#036|前払|#FFF}} {{Color box|PaleGreen|交通系}} [[はやかけん]]:176万枚 (6.6%)
※カッコ内は前年同月比。
有効期限を設定しているものがある。すなわち、現金をチャージするなどして電子マネー化しても、その後利用せずに一定の期間を経過するとその価値が滅失すると言うことである。参考までに、[[民法]]における[[債権]]の[[消滅時効]]は10年間である。
<!--
== 実装例 ==
大半は
以下には、代表的なものを記す。
=== FeliCa ===
; [[おサイフケータイ]]にも対応
* [[楽天Edy]]
* [[Suica]](Kitaca・PASMO・TOICA・manaca・ICOCA・SUGOCA・nimoca・はやかけんと相互利用可能)
* [[WAON]]
* [[nanaco]]
* [[PASMO]]
; カード型のみ
* [[Kitaca]]
* [[TOICA]]
* [[manaca]]
* [[ICOCA]]
* [[SUGOCA]]
* [[nimoca]] ([[めじろんnimoca]]・でんでんnimoca・ICAS nimoca・nagasaki nimoca)
* [[はやかけん]]
{{see also|交通系ICカード全国相互利用サービス}}
; その他
(前述の交通系ICカード全国相互利用サービス対応カード等や後述のPiTaPaとは電子マネーの互換性なし)
* [[SAPICA]]
* [[IruCa]]
* [[ICい〜カード]]
* [[熊本地域振興ICカード]]
* [[CoGCa]]
* [[ライフコーポレーション#LaCuCa|LaCuCa]]
* [[ドトールコーヒーショップ#ポイントカード|ドトール・バリューカード]]
* マチカ~machica~(愛媛県松山市中心部「マチペイ」加盟店。アプリ版も存在する。[https://machica.jp/ ※公式サイト])
=== ヨーロッパ・アジア ===
2010年代には[[Swish (電子決済)|Swish]]や[[Alipay]]に代表されるように、デビットカード的に銀行口座と紐ついた非接触型の[[モバイル決済]]が主流となっている。
* {{GBR}}
** [[モンデックス]]は、既に2001年に米[[マスターカード]]インターナショナルに買収済み。
* {{GER}}
** [[ゲルトカルテ]]は、単なる[[デビットカード]]を意味する言葉。
* {{FRA}}
** {{仮リンク|モネオ|en|Moneo}}は、1999年から2015年まで存在した単なる[[デビットカード]]の事。
[[乗車カード#各国の乗車カード一覧|乗車カード]]や[[モバイル決済]]サービスを参照。
どれも乗車カードやモバイル決済の為コメント化
* {{HKG}}
** [[八達通|オクトパス]](八達通卡有限公司)
* {{TWN}}
** [[悠遊カード|悠遊卡(Easycard)]](悠遊卡股份有限公司)
** [[一カー通|一卡通(iPass)]](一卡通股份有限公司)
** [[icash|icash(愛金卡)]](愛金卡股份有限公司)
** [[HappyCash|HappyCash(有錢卡)]](遠鑫電子票證公司)
: {{seealso|台湾の電子マネー一覧}}
* {{CHN}}
** [[Alipay]]([[アリババグループ]])は、[[モバイル決済]]サービス。
** [[WeChat Pay]]([[テンセント]])は、[[モバイル決済]]サービス。
* {{KOR}}
** [[Tマネー]](株式会社 韓国スマートカード)
** [[レールプラス]]([[韓国鉄道公社]])
** {{仮リンク|cash bee|ko|캐시비}}(eB CARD)
*{{PRK}}
** [[ナレカード]]<ref group="注">「商品やサービスの代金を支払う際に利用できる電子支払い手段」(説明書より)</ref>({{仮リンク|朝鮮貿易銀行|en|Foreign Trade Bank of the Democratic People's Republic of Korea}})
* {{THA}}
** [[ラビット・カード]]
=== アフリカ ===
* {{flagicon|ソマリランド}} [[ソマリランド]]
** [[ZAAD]]({{仮リンク|Telesom|en|Telesom}})は、[[モバイル決済]]サービス。
{{hidden end}}
単なるクレジットカードなのでコメント化
{{hidden begin
|title = ポストペイ(後払い)式
|titlestyle = background:Khaki
}}
; おサイフケータイにも対応
* [[ID (クレジット決済サービス)|iD]]
* [[QUICPay]]
; カード型のみ
* [[PiTaPa]] (交通利用のみSuica・Kitaca・PASMO・TOICA・manaca・ICOCA・SUGOCA・nimoca・はやかけんと相互利用可能)
* [[MasterCardコンタクトレス]]
; その他
* [[Speedpass]] - 小型キーホルダー型(筒型)、2020年12月末に終了予定
** [[Speedpass#Speedpass+|Speedpass+]] - 2019年6月に新規受付・再発行を終了
* [[EneJet#商品・サービス|EneKey]] - 小型キーホルダー型(板型)の形状。東燃ゼネラルとENEOSの統合の後、ブランドもENEOSへ統一された結果、Speedpassは置き換えられてEneKeyに統合される方向である<ref group="注">当分の間は、Speedpass、EneKeyのいずれも対応ガソリンスタンドで使用できる。</ref>。
* [[Shell EasyPay]] - 小型キーホルダー状の特殊形状
{{hidden end}}
単にクレジットカード・デビットカード・プリペイドカードを列挙しているだけなのでコメント化
; クレジットカード・デビットカード・プリペイドカード
* [[Visa|Visaのタッチ決済]] - 日本では銀行系のクレジットカード・デビッドカードを中心にサービスを提供している。カード本体に直接NFCを搭載する形態が主流であり、Google PayによるVisaのタッチ決済は三菱UFJ銀行など特定の金融機関が発行するデビッドカードのみ対応となっている。日本国内で発行されるVISAブランドのカードは、[[Apple Pay]]によるVisaのタッチ決済には非対応である。
* AmericanExpress Contactless - [[Apple Pay]]に対応するAmericanExpressブランドのカードを[[iPhone]]または[[Apple Watch]]に追加することで利用可能となる。カードタイプは、クレジットカード (プロパーカード) の新規申し込みと更新カードのみ対応している。
* JCB Contactless - 旧「J/Speedy」。[[Apple Pay]]に対応するJCBブランドのカードを[[iPhone]]または[[Apple Watch]]に追加することで利用可能となる。カードタイプは、JCBとジャックスのみが希望者へ発行している。 が、現実は中国大陸のみしか使えず日本では普及させない方針。
単なる[[ギフトカード]]なので、コメント化
=== 電子ギフト券 ===
* amazonギフト券
* iTunes カード
* Google Play カード
* LINEプリペイドカード
* [[ウェブマネー|WebMoney]]
* nanacoギフト
* Apple Music Card
* [[ビットキャッシュ]]
* [[ニンテンドーポイント]]
* 楽天ポイントギフトカード
* [[クオカード]]
* Vプリカギフト
=== 磁気ストライプカード型 ===
{{main|プリペイドカード}}
{| class="wikitable"
|-
! カード名称 !! 発行元 !! 備考
|-
| d CARD PREPAID|| [[NTTドコモ]]、[[三井住友カード]] || [[マスターカード]]加盟店・iD加盟店で決済可。dポイントカード、iD(プリペイド型)を兼ねる。
|-
| [[au WALLET]] || [[KDDI]]、[[ウェブマネー]] || マスターカード加盟店で決済可。
|-
| ソフトバンクカード || [[ソフトバンクペイメントサービス]] || [[Visa]]加盟店で決済可。Tポイントカードを兼ねるがTマネーは利用不可。
|-
| JTB 旅プリカ || [[JTB|ジェイティービー]] || 日本国内の[[ジェーシービー]]加盟店で決済可。グループ店舗での旅行代金決済またはトラベルポイント加盟店の利用に対して、同グループのトラベルポイントが付与される。
|-
| [[スターバックス#スターバックスカード|スターバックスカード]] || [[スターバックス]] || ICチップ型(おサイフケータイ、モバイルケース型)もある。種類が豊富であり、期間限定で発行するカードや条件を満たしたもののみ入手できるもののほか、地域限定のものもある。
|-
| [[ココカラファインヘルスケア|ココカラクラブカード]] || [[ココカラファインヘルスケア]]、[[クレディセゾン]] || Visa加盟店で決済可。
|-
| アクアカード || [[コメリキャピタル]] || [[ジェーシービー]]加盟店で決済可。
|-
| [[Ponta|おさいふPonta]] || [[ローソン]] || ジェーシービー加盟店で決済可。
|-
| [[Tポイント|Tマネー]] || [[カルチュア・コンビニエンス・クラブ]] <br /> (TSUTAYA) || 後述の韓国のTマネーとは無関係。[[ファミリーマート]]発行分など、対応したTポイントカードが必要。
|-
| majica || [[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]] ||ドン・キホーテ及びmajica加盟店で決済可。
|-
| 西友ショッピングカード || [[西友]] ||
|-
| [[uniko]] || [[UCS]] || [[ユニー]]運営のショッピングセンターや[[ファミリーマート]]で利用可能
|-
| [[MiiCA]] || [[日専連ライフサービス]] || [[コープ東北サンネット事業連合]]加盟の各[[生活協同組合]]の店舗が順次導入予定のプリペイドカード。[[2017年]]3月時点では、[[みやぎ生活協同組合]]が先行導入済で、他の組合も順次導入予定。
|-
| RARAプリカ || [[アークスグループ|アークス]] ||
|-
| BiMO || [[マルエー]] ||
|-
| 鎌倉屋Kカード || 鎌倉屋 ||
|-
| mamaca || [[ママーストアー]] ||
|-
| フィールさくらカード || [[フィールコーポレーション]] ||
|-
| ぎゅーとらコロカカード || [[ぎゅーとら]] ||
|-
| リバティハートカード || リバティ長岡 ||
|-
| ミヨカ || [[イズミヤ]] ||
|-
| めいかマネー || ゆきひろ ||
|-
| スマイルカード || [[フレスタ_(スーパーマーケット)|フレスタ]] ||
|-
| エフカ || [[フジ・カードサービス]] ||
|-
| ゆめか・ゆめピット || [[ゆめカード]] || 前者は磁気ストライプカード式だが、後者はICカード型モバイル決済。
|-
| [[サンリブ#くらしらくカード・masaca!!|masaca!!]] || [[サンリブ]] ||
|-
| EZOマネー(EZOCA) || リージョナルマーケティング ||
|-
| ハッピーカード || [[新生堂薬局]] ||
|-
| Bibica || [[大賀薬局]] ||
|-
| マリカ || [[サンキュードラッグ]] ||
|-
| レッドロブスターカード || [[レッドロブスター#日本法人|レッドロブスタージャパン]] ||
|-
| 肉マイレージカード || [[ペッパーフードサービス]] ||
|-
| けんバリューカード || [[エムグラントフードサービス]] <br/> ウィザード ||
|-
| [[ふらんす亭]]プレミアムカード || フードデザイン ||
|-
| 道とん堀カード || [[道とん堀]] ||
|-
| [[丸亀製麺]]カード || [[トリドール]] || 新規発行およびポイント付与は、2016年3月31日終了。使用期限は2017年3月31日まで。
|-
| MAiSEN CARD || [[サントリー#外食・中食事業|井筒まい泉]] ||
|-
| いい菜プレミアムカード || ゼストクック ||
|-
| モスカード || [[モスバーガー]] ||
|-
| [[フレッシュネスバーガー#店舗|フレッシュネスカード]] || [[フレッシュネスバーガー]] ||
|-
| サブクラブカード || [[サブウェイ#日本|サブウェイ]] ||
|-
| [[ミスタードーナツ#プリペイドカード|ミスタードーナツカード]] || [[ダスキン]] ||
|-
| DEAN&DELUCA MEMBER'S CARD || [[ディーン・アンド・デルーカ]] ||
|-
| タリーズカード || [[タリーズコーヒージャパン]] ||
|-
| プレシャスカード || [[UCC上島珈琲]] ||
|-
| カフェ・ド・クリエカード || [[ポッカクリエイト]] ||
|-
| NISHIMURA CARD || [[神戸にしむら珈琲店|にしむらコーヒーサービス]] ||
|-
| WORLD COFFEE CARD || ワールドコーヒー ||
|-
| TC CARD || トラベルカフェ ||
|-
| FADICA || [[極東ファディ]] ||
|-
| ちょこっとカード || [[生活協同組合コープさっぽろ|コープさっぽろ]] ||
|-
| CooCa || [[ゼンショーホールディングス]] ||
|}
多くは[[コンビニエンスストア]]などで、端末を操作して発券したシートやサンプルカードを、レジに持ちこんで専用シート・[[レシート]]にコード番号を記す形で渡されたり、[[金融機関]]などで決済後に[[電子メール]]でコード番号が送られる形態で売られている([[プリペイド]]またはポストペイド)。一部には[[プリペイドカード]]の物もある。一般に、受け取ったコードを[[パーソナルコンピュータ|PC]]や[[携帯電話]]などでオンライン入力してポイントに交換し、使用する。
コードなどは入力せずに金融機関・コンビニ決済またはレジなどで直接チャージするタイプのものもある。
* [[ウェブマネー|WebMoney]](株式会社ウェブマネー)カードタイプ([[POSAカード]]を含む)およびMasterCardプリペイドカードも存在
* [[Tポイント#Tマネー|Tマネー]](株式会社[[Tマネー (日本の企業)|Tマネー]])一部の[[Tポイント]]カードに付加されている
* [[BitCash]]([[ビットキャッシュ]]株式会社)カードタイプも存在
サービス終了
* Digi-Coin(三菱UFJニコス株式会社)2020年3月31日サービス終了
* [[ネットキャッシュ|NET CASH]]([[NTTカードソリューション]])カードタイプも存在
* ちょコムeマネー(旧[[電子マネーちょコム]])([[NTTコミュニケーションズ]])
単なる[[デビットカード]]
* [[オフラインデビット]](J-Debit)
単なる[[プリペイドカード]]
* [[KDDIスーパーワールドカード|エーカ]](@ca、[[KDDI]])2008年9月30日サービス終了
* C-CHECK、GAMECHECK(株式会社[[メタップスペイメント]])
* おさいぽ([[GMOペパボ]]株式会社)
これは[[デジタル通貨]]
* [[モリタポ]](有限会社[[未来検索ブラジル]])
ゲーム課金システム
* [[PASELI]]([[コナミデジタルエンタテインメント]])カードタイプも存在
詳細不明
* セキュリティマネー、G-MONEY、エコチップ(グレートインフォメーション株式会社)
* NetRideCash([[ラッセル (企業)|株式会社ラッセル]])WebMoneyへの等価ポイント交換が可能
* e-wallet(株式会社イーウォレット)
「汎用マネー」の定義が不明なうえ、「専用マネー」は仮想通貨のことか
これらの汎用マネーの他、[[オンラインゲーム]]や[[音楽配信]]のサイトで使える専用マネーが売られている。
電子決済サービスの事を言っているのか、プリペイドカードの事を言っているのか不明・混同している為、一旦コメント化
== 特徴 ==
=== 利点 ===
電子マネーの使用は、紙幣と硬貨の使用によるわずらわしさ([[釣り銭]]のやり取りなど)から買い物客や店員を解放し、決済の迅速化・確実性の向上が期待できる。さらに、[[プリペイドカード]]や[[キャッシュカード]]と連携、[[携帯機器]]を利用したシステムの運用によって、家計を一元管理することも可能となってきている。ネットでの支払い手段としても使用でき、紙幣・硬貨をひったくる犯罪の減少も期待できる。さらに[[認証]]手段の導入により、紛失時の経済的損失の防止も可能である。[[FeliCa]]で展開されているように電子マネー機能を提供する機器に相乗りする形で[[ポイントサービス]]などの他のサービス形態が提供されることもあり、応用分野も期待される。
既存の店舗などが、電子マネーの新規性を活用し販促ツールとして導入する場合もある。ビットワレットやNTTカードソリューションが企業向けの販促ソリューションとして電子マネーを活用している。Quoカードや図書カードに比べ普及は進んでいないが、発送コストやユーザ管理が容易なため、徐々にではあるが活用が進んでいる。
=== 欠点 ===
{{Anchors|電子マネーの紛失等のリスク}}
; 紛失等のリスク : 前述に一部述べたとおり、電子マネーといえども、その利用のための実体としては非接触型決済の[[ICカード]](IC搭載の[[携帯機器]]等を含む)や、その他のプリペイドカード類が必要であり<ref group="注">(ただし、サーバー型仮想マネーはこの限りではない)</ref>、これらに紛失・盗難や不正使用(横領、詐欺など)が起きた場合には、電子マネーの価値の逸失のほか様々な経済的損失が生じうる。この点は、貨幣経済における貨幣・紙幣についても紛失・盗難などによる価値の逸失があるのと同様だが、電子マネーに依存した生活スタイルだとリスクの分散ができず、より影響が大きくなる。ただし、電子マネーに関しては情報技術によりそのICカード類や利用アカウント(利用権)に対して名義を登録することが可能な場合があり、その場合には、電子マネーの提供事業者によっては、紛失・盗難時に本人確認を伴う届け出により、利用停止措置、電子マネーの再発行を受け付ける場合がある。なお、再発行の場合にも、ICカード類の再発行手数料や事務手数料に関しある程度の負担を求める事業者が殆どである。なお、破損等の障害(読取不良等)が発生した場合は、電子マネーの取扱事業者により対応が異なる。'''不正使用'''(横領、詐欺など)が起きた場合には、事業者は原則として'''対応しない'''。再発行手順の詳細は各電子マネーの記事を参照のこと。
; 利用形態別の紛失リスク : 以下は価値再発行が行われる場合に'''限る'''。
:;プリペイド式
:: 最大で、チャージ済みの価値全額を逸失する。
:: 利用停止措置も申し出から直ちには実施がされない。紛失・盗難時点から起算しある程度の期間は、価値は保護されない。事業者によっては申し出から24時間程度掛かる場合もある<ref name=":0">{{Cite web|title=「nanacoを紛失したらすぐ止められない」Twitterで拡散 → セブン「残高の停止は翌日以降、オートチャージは即時停止」|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1902/01/news137.html|website=ねとらぼ|accessdate=2019-02-03|language=ja}}</ref>
:; プリペイド式でオートチャージ設定
:: 最大で、チャージ済みの価値全額 + 紛失・盗難から利用停止までの日数分のチャージ上限設定額を逸失する可能性がある。
:: プリペイド部分は利用停止措置も申し出から直ちには実施がされない。紛失・盗難時点から起算しある程度の期間は、価値は保護されない。事業者によっては申し出から24時間程度掛かる場合もある<ref name=":0" />。
::[[オートチャージ]]設定は申し出後に利用停止措置が行われる<ref name=":0" />。あるいは自ら設定解除可能。
:: ポストペイ型と異なり、不正利用による損失は補償されない場合が殆ど。
:; ポストペイ型 : [[クレジットカード]]に紐付け決済のものが多く、事業者ごとに対応は異なるが、クレジットカードに準拠して、届出から60日前までさかのぼって不正利用による損失を補償するものもある。ただし、スマートフォンの'''[[Google Pay]]'''に登録したクレジットカードが、当該スマートフォンの盗難、紛失などにより不正使用された場合は、'''補償の対象外となる'''<ref>各カードの「Google Payトークンサービス」モバイルペイメント規定。例として[[ゆめカード]]では、「同規定」第4章第15条[https://www.youmecard.jp/service/googlepay_agree.html]。JCB [[QUICPay]]/JCB Contactless等では、「同規定」第4章第15条[https://www.jcb.co.jp/ordercard/add/google-pay/terms.html]など。</ref><ref group="注">また、ポストペイ型電子マネーの範疇からは外れるが、スマートフォンに登録できる「スマホデビット」カード等の多くは、同様に「Google Payトークンサービス」モバイルペイメント規定が適用され同様に補償の対象外となる。各銀行ごとのバーチャルデビットサービス規定のうち、「Google Payトークンサービス」モバイルペイメント規定を参照のこと。</ref>。
{{節スタブ}}
{{Anchors|電子マネーの有事のリスク}}
; 災害時、有事におけるリスク : 電子マネー、仮想通貨、乗車ICカードなどは[[電子技術]]およびデジタル[[通信工学|通信技術]]に基づいているため電源の供給およびデジタル通信手段の確保はほぼ不可欠であり、大規模災害ほか有事により停電や通信障害といったインフラ不全が発生した場合<ref>自然災害に限らず、運営団体の不手際やテロ、事故によるネットワークの破損などにより、平時でも普遍的に発生しうる。</ref>、電子マネーはそれが復旧するまでは機能せず、その価値を行使できなくなる。<ref>{{Cite news|title=災害時に弱いキャッシュレス社会、現金が重要に。セイコーマートの事例より(久保田博幸) - Yahoo!ニュース|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/kubotahiroyuki/20180908-00096089|accessdate=2018-09-13|language=ja-JP|work=Yahoo!ニュース 個人}}</ref>もっとも、現代の[[商行為|商取引]]全般において、[[銀行]]など[[金融機関]]を含めて[[銀行のオンラインシステム]]、[[勘定系システム]]など[[電子商取引]]に大きく依存している事実には差異がないため、大規模な停電や通信障害が発生した場合、これらの主幹システムにおける決済、勘定および為替業務でも大きな取引制限を強いられる。認められるのは災害時特例として本人確認を簡素化した限定的な預金引き出しなどに過ぎず、その他は[[現金]]などの直接の遣り取りが必要となる。また、電子マネーは[[預金]]には該当せず、[[銀行]]や[[信用金庫]]の預金に適用される[[預金保険]]は、電子マネーには適用されない。そのため発行企業が[[倒産]]した場合には、その価値の一部又は全部を失う[[リスク]]が存在する。供託金を供託している事業者による電子マネーについては、経営破綻時に財務省から供託金の分配を受けられる場合がある(詳細は[[プリペイドカード]]を参照)。
-->
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* David Chaum, "Blind Signatures for Untraceable Payments", Advances in Cryptology: Proceedings of CRYPTO '82, pp.199-203, 1982.
* 日本銀行決済機構局、決済システム等に関する調査論文 最近の電子マネーの動向について、2008年8月
== 関連項目 ==
* [[退蔵益]]
* [[非接触型決済]]
* [[QR・バーコード決済]](いわゆるスマホ決済)
* [[ポストペイ型電子マネー]]
* [[キャッシュカード]]
* [[クレジットカード (日本)]]
* [[デビットカード]]
* [[プリペイドカード]]
* [[電子決済]]
* [[自由貨幣]]
* [[仮想通貨]]
* [[企業通貨]]
* [[マイクロペイメント]]
* [[暗号通貨]]
* [[デジタル通貨]]
* [[キャッシュアウト]]
== 外部リンク ==
* {{NHK放送史|D0009030345_00000|電子マネーカード 普及(2007年)}}
* {{NHK for School clip|D0005311328_00000|電子マネーのしくみ}}
* {{Kotobank|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}
{{Normdaten}}
{{電子マネー}}
{{デフォルトソート:てんしまね}}
[[Category:電子決済]]
[[Category:電子マネー|*]]<!--例外-->
[[Category:コンピュータの利用]]
[[Category:情報システム]] | 2003-02-19T02:47:00Z | 2023-10-25T03:58:07Z | false | false | false | [
"Template:Main",
"Template:Color box",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite book",
"Template:NHK放送史",
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"Template:NHK for School clip",
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"Template:Normdaten",
"Template:電子マネー",
"Template:複数の問題"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90%E3%83%9E%E3%83%8D%E3%83%BC |
2,352 | ウルトラマンタロウ |
『ウルトラマンタロウ』は、1973年4月6日から1974年4月5日までTBS系で毎週金曜19:00 - 19:30に全53話が放送された、TBSと円谷プロダクションが製作した特撮テレビドラマとその劇中に登場するヒーローの名前である。
タイトルロゴは「ウルトラマンT」、「T」に「タロウ」のルビがある。
ボクサー志望の青年・東光太郎()が、長い船旅の末に巨大タンカーで日本に帰国。
港を襲った超獣オイルドリンカーを撃退した勇気と行動力を見込まれ、光太郎は宇宙科学警備隊ZAT()に入隊。光太郎は、自分が埋めたチグリスフラワーの球根を媒体に出現した怪獣アストロモンスに対し、小型戦闘機スーパースワローに搭乗して立ち向かうが、アストロモンスの攻撃を受けて爆発の炎に包まれてしまった。
光太郎は死線をさまようが、ウルトラ5兄弟によってウルトラの国に運び込まれ、彼らとウルトラの母に導かれてウルトラマンタロウと合体。こうして、ウルトラ6番目の弟が誕生した。
地球に帰還した光太郎は、左腕に装着したウルトラバッジを掲げてタロウに変身し、怪獣や宇宙人と戦う。
「ウルトラマンシリーズ」第5作目にして、『帰ってきたウルトラマン(以下、帰マン)』や『ウルトラマンA』に続く第2期ウルトラシリーズ第3作目。『ファイヤーマン』(日本テレビ)や『ジャンボーグA』(毎日放送)同様、「円谷プロ創立10周年記念番組」として制作された。
本作品の大きな特徴として、それまでは神秘的存在として描かれていたウルトラマンに、親しみやすい印象を付加している点が挙げられる。その最たる例が、主人公の「タロウ」という名称である(詳細は後述)。それまでのウルトラマンシリーズに比べ、同じ円谷作品の『快獣ブースカ』(1966年・日本テレビ)で見られたようなおとぎ話や寓話などを題材としたエンターテインメント性を重視したストーリーが多く見られる。
本作品ではウルトラの母の存在が初めて明らかにされ、「ウルトラ兄弟」の概念に加えて文字通り「ウルトラファミリー」の構想を付加した結果、ホームドラマ的な作風が濃くなっている。
主題歌がそのまま特撮場面の挿入歌となっており、2クール以降はエレクトーン演奏を用いた主題歌のインストゥルメンタル版も使用されている。
前作の『ウルトラマンA』同様、本編撮影は主に東京映画撮影所で撮影され、特撮は東宝撮影所のNo.3・5ステージや東京美術センターのオープンスペースで撮影されていたが、第3クールから最終話までは仙川スタジオで撮影された。
特撮作品としての本分もおざなりにされていない。躍動感のある戦闘アクション、当時としては精巧に制作された秘密基地や戦闘機などの各種プロップやミニチュアセット、光線技に見られる光学合成などは、円熟された特撮の妙味を醸し出している。
それまでのウルトラマンシリーズは、オープニング映像にキャラクターのシルエット映像が使用されていた。しかし、本作品はZATのメカニック紹介映像(主にそれぞれが格納庫から現れて基地から発進する様子)となっている。
放送話数が全53話と昭和ウルトラシリーズの中では最多となっている。また、第2期ウルトラシリーズの中で本作品のみが4月に放送を終了したが、この理由には「次作『ウルトラマンレオ』の企画難航によって本作品を1話分追加撮影した」「4月から放送開始する他の特撮ヒーロー番組と競合する編成を避けるためだった」という2説が存在する。
本作品の企画は、『ウルトラマンA』放送中の1972年10月ごろからスタートしている。TBS側からは『ウルトラマンA』が息切れしたため、ウルトラシリーズは1年間休止する案や『ウルトラマンA』で終了させようとの声もあった。
「ウルトラマン・シリーズ第5弾!! ウルトラマンスター」「特撮空想科学シリーズ ウルトラジャック」「特撮空想怪獣シリーズ ウルトラマンジャック」の3冊の企画書が作成され(内容は同一)、タイトルは「ウルトラマンジャック」が選ばれた。しかし、「ジャック」が当時世界的に大きな問題となっていたハイジャックを連想させるという事情から負のイメージを避けるために正式決定直前に取り止めとなった。この「ジャック」が西洋のおとぎ話の主人公の名前としてよく使用される名前だったことや熊谷健が「ジャック」が長すぎると感じていたことから、それに対応する「ジャック」の意味合いを和風な名称に置き換えた日本の名称として満田かずほがタイトル会議で「○○太郎」にちなむ「タロウ」と名付けられたという。
基本的には、ウルトラマンタロウとZATの活躍を描いている。
第8話以降、児童(東光太郎を兄のように慕う白鳥健一少年の友達や同級生)の抱えるエピソードに、奇怪な事件およびその主犯となる怪獣とZATの闘いが交差したものが多くなっていき、ZATの事件解決に終始している作品はほとんどない。これは第2期ウルトラシリーズの特徴といえるが、本作品で最も顕著に表れている。
メイン脚本家の田口成光は本作品を結果論として『ウルトラマンA』の変遷を受けた上での「皮膚感覚」を強く意識しており、ファンタジー色とファミリー性が強い昭和のおとぎ話である「ネオメルヘン(ネオファンタジー)」と捉えた作品世界となっている。そのため、「ネオメルヘン」という要素は宇宙怪獣の怪奇設定やヒーローのミステリアスなイメージといった前提条件により、各エピソードがリアル方向に触れすぎないようにするためのバランサーとなっており、演出や設定も陽性の方向へ流れるように誘導していたものと思われる。
前半の敵は怪獣のみで、本作品の怪獣は前作『ウルトラマンA』の「超獣(怪獣を超える存在)」の設定を覆し、「超獣を超える怪獣」であると設定されていた。第1話では超獣オイルドリンカーが怪獣アストロモンスに捕食されるシーンが存在し、この「超獣よりもさらに強い怪獣」をアピールしていた。企画案では超常能力を持った宇宙怪獣の登場が想定されており、初期に登場した怪獣にも反映されている。また、実在の生物をモチーフとした怪獣が多いのも初期の特色である。怪獣の生態が細かく設定されている回が多く、この点も本作品のストーリーにおける特徴の1つとなっている。
第27話でのメフィラス星人(二代目)の登場を皮切りに宇宙人も多く登場するようになり、終盤では独特で奇抜な怪獣が多く登場するようになった。なお、タロウやZATが怪獣、とりわけ人類と対立する意思を持たないものの生存権を尊重する描写も多く、回が進むごとに顕著になっている。
第29・30話に改造巨大ヤプールが登場するなど過去の人気怪獣が多く登場したが、これはTBSでは10月は翌春の新番組を決定させる時期のためだからである。
『ウルトラマンA』や『ミラーマン』(1971年・フジテレビ)でブルマァクから発売された怪獣ソフトビニール人形が不振だったため、本作品の怪獣はほとんど商品化されていない。しかし、『ウルトラマンA』のタックファルコンや『ミラーマン』のジャンボフェニックスなどのメカ類は好調だったため、本作品はメカ類を売り出すことに注力しており、前述のようなオープニングになった。さらに、オープニングのみの登場メカや本編未登場のメカなども商品化され、どれも子供受けする派手なデザインとなっていた。
また、「ウルトラ兄弟セット」や「ウルトラファミリーセット」などの形式で、過去のウルトラマンソフトビニール人形がセット売りされた。こうしたヒーローやメカ重視の潮流の中で怪獣のデザインは商品化を前提としないため、『帰ってきたウルトラマン』初期のように売れる怪獣をデザインするという縛りから解放され、自由なデザインの怪獣が生まれるようになった。
他の第2期ウルトラシリーズとは異なり(各作品の路線変更については各記事を参照)、放映延長に当たっての番組強化に関する文書が作成されず、第19話でタロウがウルトラの母からキングブレスレットを授かったり、第27話から宇宙人が登場したり、レギュラー俳優の交代などはあったが、制作方針に関わるような路線変更がなかった。しかし、それまでのウルトラシリーズと異なり、コミカルなストーリーが多くなるなど作風に顕著な変化が見られたため、旧作ファンには本作品を否定する向きもあった。
『ファンタスティックコレクションNo.10 空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマンPARTII』(1978年・朝日ソノラマ)のp.27によると、児童雑誌の人気投票では常に首位になるほどの人気作だった。そして、同書は本作品についてまっすぐな批判を行っているが、この部分が後に『ファンタスティックコレクション 不滅のヒーロー ウルトラマン白書』として採録され、重版の度に同じ文章が再掲載され続けてしまった。この時期のウルトラマン再評価ブームは、第1期ウルトラ原体験世代(本作品を含めた第2期ウルトラの視聴を卒業していた)が担い、1979年の再編集劇場映画『ウルトラマン』がすべて後年の海外映画祭受賞などで名声を博した実相寺昭雄監督作品で統一されるなど、大人の映画ファンが見ても楽しめるという点に力点が置かれたこともあり、とりわけ手酷かったタロウ批判については後発世代からの反発も多い。
後発のウルトラマンシリーズ出演者が、幼少時に見ていた作品として本作品を挙げている。萩原佐代子(『ウルトラマン80』の星涼子 / ユリアン役)はリアルタイムで、原田隼人(『ウルトラマンX』の三日月マモル役)と石黒英雄(『ウルトラマンオーブ』の主人公クレナイ・ガイ役)は再放送で本作品を見ていた。また、杉浦太陽(『ウルトラマンコスモス』の主人公・春野ムサシ役)と宮野真守(映画『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』以降のウルトラマンゼロの声)は、幼少時はタロウが好きだったと語っている(杉浦は七夕の短冊に「タロウになりたい」と書いたこともあると自身のブログで明かしている)。
『ウルトラマンマックス』以降のシリーズに参加している脚本家・小林雄次は本作品の第1話を評価しており、『ウルトラマンマックス』第1話執筆時の参考にしている。
ウルトラの父とウルトラの母の実子。ウルトラセブンの実母(故人)がウルトラの母の姉であるため、セブンとは従兄弟(セブンがタロウの従兄)だが、この設定は現在では使用されていない。孤児でウルトラの父と母に養育されたウルトラマンAは義兄、ウルトラマンタイガは実子に当たる。また、主題歌の歌詞では「ウルトラマンNo.6」と呼ばれている。光の国では「タロウ」という名前は「勇気を持ち正義を愛する者」という意味が込められている(命名したウルトラの父は後に地球にも同じ名前があると知ったという)。企画書では「11の技を持つヒーロー」とされている。
ウルトラ兄弟が集結した第33・34話で「兄に頼りがち」や「増長しやすい」と演出されているが、これは第33・34話のみのことである。
エースの後を受けて地球防衛の任務に就き、地球では宇宙科学警備隊ZATの東光太郎と一体化して超獣以上の力を持つ怪獣や宇宙人と戦う。空に飛び立つ時の掛け声が第22話までは短く低めだったが、第23話からやや長く高めになっている(第5話でセブンが空に飛び立つ時の掛け声の流用)。また、光太郎のボクサーとしての資質が変身後も引き継がれている。他のウルトラマンとは異なり、必殺技の名前を呼びながら使用し、戦闘時は無言で戦うことが多い。胸のタロウプロテクターは、セブンのプロテクター同様にあらゆる攻撃から身を守る。また、セブンのような真紅の体はスーパーボディと呼ばれ、全身にストリウムエネルギーが流れている。
巨大化カットに登場している白い円環は、ミルクのクラウンのイメージである。
頭部のウルトラホーンは超戦士の証と言われ、それを証明するかのように他のウルトラ兄弟を超えた能力を誇る。例を挙げると以下の通り。
第53話でウルトラバッジをウルトラの母に返し、光太郎としてバルキー星人を倒した後、光太郎の姿のまま旅立っていった。
後の『ウルトラマンメビウス』では、
と新たに設定された。
光太郎がタロウと合体前、緑のおばさんの姿に変身したウルトラの母からお守りとして授けられた変身アイテム。光太郎は持ち歩かず、常に隊員服の左肩の袖側面に装着しているため、変身は常に隊員服姿で行われており、私服での変身は第40話での1回だけであった。
ウルトラスチール製で光波エネルギー吸収装置(3つのポール)、エネルギー電導チューブ、ウルトラダイオード、エネルギー増幅回路、ウルトラルビー、テレパシー受信器が備わっている。光波エネルギー吸収装置には電気エネルギー、太陽エネルギー、ウルトラエネルギーが蓄えられており、光太郎からの変身テレパシーを受信することでバッジの中央に流れ出して変身エネルギーとなり、光太郎をタロウに変身させる。
前半ではエースのウルトラリング同様、変身のタイミングが訪れるとウルトラルビーが一瞬光って光太郎に変身を促していたが、後半ではこのプロセスが見られなくなった。
前述の通り、光太郎は第53話でウルトラバッジを空の彼方に投げてウルトラの母に返している。
ウルトラバッジを右手に持ち、両腕を左右に開いて、額に当ててから天にかざして「タロウー!」と叫んで変身する。このパターンが基本だが、変身ポーズを省略したことも何度かあった。また、第43話ではモットクレロンが飛ばしてきたと思われる大根を左手に持ち、そのままバッジを持った右手と頭上でクロスするという珍妙な変身場面もあった。
学年誌での設定に基づくが、すべてが現在も活かされているとは限らない。
デザインは井口昭彦。セブンの姿をベースとし、セブン同様、額のビームランプと大きな突起を持つ。ウルトラホーンはウルトラの父の角が好評であったことから取り入れられた。デザイン画では、耳の後ろから後頭部にかけて段差が存在し、最初期に作られたスーツには画稿どおりの段差があったが、以降の造型では省略されている。胸にはカラータイマーを備えている。
マスクの原型は、『ゴジラ』などの石膏班スタッフだった照井栄が開米プロの依頼を受けて製作した。照井によれば「頭(マスク)が大きいので170センチ以上あるスーツアクターを入れてほしい」とプロデューサーの熊谷に伝えたとのこと。
姿が似ていることから俳優・京本政樹が、本作品の第40話と『ウルトラマンレオ』第1話のセブンの着ぐるみは、タロウの着ぐるみを改造して使用されたため、その名残で耳が付いていないと著書『京本政樹のHERO考証学』(1992年、バンダイ)で述べている。だが、昭和末期に発行された円谷プロファンクラブ会報誌に「アトラクション用セブンに電飾をした物」と記述されている。
初期のスーツは、スーツアクターの身長に合わせるための暫定的処理として、スーツの膝部分に繋ぎ目があった。中期からは目の全体が黄色に変更され、スーツの赤も濃くなり、繋ぎ目もなくなった。後期からは以前よりも胸の筋肉が強調していると思われ、カラータイマーや目の電飾などの発光用電池が左脇に内蔵された。
『ウルトラマンメビウス』以降の作品では主に石丸博也が声を充てている。本項では特に記載がなければ石丸が声を担当。
ZAT()とは、"Zariba of All Territory"の略で、地球外からの侵略行為に立ち向かう宇宙科学警備隊である。
本部はニューヨークの国連本部内に存在し、支部はアメリカ、アルゼンチン(南米)、フランス(フランス)、南アフリカ連邦(アフリカ)、日本(極東)、北極の6ヵ所にある。
後述のようにアットホームな雰囲気を見せ、ユーモラスな作戦を展開するが、戦闘力と知力を兼ね備えた精鋭であり、コスモリキッド、再生前のデッパラス、シェルター、ムルロア、ベムスター(改造)、ベロクロン二世(改造)、ドロボン、バルキー星人といった強敵を撃破する実績をあげている。単独の巨大怪獣撃破数は、ウルトラシリーズの歴代防衛チームの中で科学特捜隊(10体)に次ぐ戦果を挙げている。また、他の防衛チームでしばしば見られた隊員同士の対立の構図がほとんどなく、基地の司令室で飲食したり、将棋を指しているところが描かれたり、市民と草野球やバレーボールに興じたりと、明るくアットホームな雰囲気が貫かれた。
極東支部も各国と連携をとりながら、作戦行動を行っている。宇宙ステーションも複数存在する。
既述の通り、隊員の交代が多いが、同時に劇中の世界がこれまでのウルトラシリーズに比べて広がっている。第13話でZATが九州で演習を行う時、宇宙ステーションに転勤した西田隊員が連絡係として再登場。さらに第27話では、マンダリン草を探すために世界各地のZAT隊員が登場、航空機ドラゴンには通常のZAT制服とは異なる隊員が搭乗していたり、ZAT基地にも森山隊員の他に多くの女性隊員が勤務していた。さらに、第40話では木星にも宇宙ステーションが確認されている。放映開始時における一般男性隊員の苗字は、主人公である東を始め、西田・南原・北島と方角にちなんで命名されている。
また、第5話には地球警備隊が登場しているが、ZATとの詳しい関係性は不明。劇中では極東支部所属の戦力として、空母を含む艦隊が登場した。また、キングトータスとクイントータスが棲息していたオロン島を管理下に置いている。
ZAT極東支部の一番の特徴は豊富な作戦である。個々の怪獣の特性を見極め、それぞれに対応する作戦を編み出して遂行していく。失敗も多いが、発想は実に柔軟である。
書籍『ウルトラ超兵器大図鑑』では、独自のSF的考証(本書注意書きより)でそれらの兵器はヤプール大戦中のTACの時代に盛んに行われた異星の技術研究から生まれたものであり、コンドル1号やスーパースワローの穴の開いた両翼は「重力制御コイル」という装備が搭載されているためと解説されている。
隊員たちは半年に一度、体力テストで審査される。これは科学的知識はもちろん、常に隊員たちが強靭な肉体を要求されるためである。ただし、隊長と副隊長は体力よりも指揮能力が問われるため、この審査は免除されている。
ZAT極東支部の所在地は、東京都千代田区霞ヶ関1丁目1番地1号にある。
円盤状の基地本体部と、地下に置かれた各メカの格納庫、本体部と格納庫を繋ぐシャフト状のタワー部で構成されている。本体部には、隊員たちの司令室をはじめ、コンピューター制御室、応接室、兵器開発区、居住区、情報区、発進ゲートなどがあり、各航空戦力はタワー内部の回転式エレベーターで本体部までリフトアップされる。緊急事態の際は、本体部が底面からジェット噴射を行い空飛ぶ円盤として機能し、危機を回避することが可能(下部タワー部分は地下へ格納される)。この機能は本来、地下格納庫から直接発進するアンドロメダの打ち上げを妨げないためのものと思われるが、第1話と第10話で怪獣に襲われた際にのみ使用された。
この基地の隣には、事務セクションのオフィスビルも存在する。
一般市民による本部の見学は可能だが、その際には1週間前までには申し出て怪獣や宇宙人が変身・憑依していないかのチェックを受けなければならない。
ZATの装備品(航空機、車両、隊員服、武器など)には、曲線、曲面を多用したラインと、先端部に設けられた球状の突起といったデザイン上の一貫した特徴がある。
白のラインが入った赤と紺の明るいイメージの配色のユニフォームで、上下セパレートタイプのつなぎ式。高い耐久・耐熱・耐寒性・防弾機能を持つが、光太郎の隊員服は激戦でボロボロになることが何度もあった。また、女性隊員の隊員服は赤と紺だけでなく、白も取り入れたミニスカートのワンピースタイプである。朝日奈隊長の物のみ、胸のラインが黒となっている。
各機の青い部分は初期はメタリックブルーであったが、後半は濃紺となった。
以下は独自の作戦の例である。日用品などをモチーフとしたユーモラスな印象の作戦が多く、ZATの特色を出している。
光太郎役に篠田が起用されたのは、彼が新たなウルトラマンシリーズの主役にふさわしいと考えたプロデューサー・橋本洋二の意向であり、撮影現場の雰囲気を知ってもらうための措置として『ウルトラマンA』第20話に篠田一郎役でゲスト出演させている。篠田はオーディションで選ばれたが、松平健も光太郎役のオーディションを受けていた。本作品への出演が決定した篠田は『ウルトラマンA』第20話出演時に北斗星司役の高峰圭二が白いマフラーを巻いているのを見て自分も使用したくなり、本作品の撮影でもマフラーを使用することになった。本作品の本放送時にはNHKの『天下堂々』でも主演を務めたため、終盤は出番の少ない回が存在する。
名古屋は『帰ってきたウルトラマン』でナレーションを担当。篠田同様、名古屋は橋本の指名で、副隊長を設定して名古屋を口説き落としたという。名古屋も多忙だったため、最初から「毎回は出演できないと思うがそれで良ければ」という契約で、第1 - 8、10、35、51、53話(最終回)の計12回しか登場していない。第51話以降はナレーションも担当している。また名古屋は他のインタビューでは「私の子供が、ヒーローものを見ている世代だったので、子供に喜んでもらおうと、いわば、プレゼントみたいな気持ちで、引き受けました」とも語っている。
東野は第50話の撮影終了後にスキーで脚を骨折して入院したため、三谷が新登場(三谷も『帰ってきたウルトラマン』第22話でゲスト出演している)。東野は第49話や第50話でのアフレコにも参加しておらず、代わりに沢が声を担当。
三ツ木は主演作『白獅子仮面』の撮影がクランクアップした後に本作品に臨んだものの、『だいこんの花』『国盗り物語』のレギュラーが入ったため、スケジュール調整が不可能になり降板。光太郎役の候補だった。
西島は所属事務所の方針で歌手に転向し、同じTBSの『ぎんざNOW』にレギュラー出演が決定したため、第35話を最後に降板。
あさかは本作品がデビュー作だが、当時の事務所との契約に従い第16話で降板したため、第20話から小野に交代。
瑳川は『ウルトラマンA』で竜隊長を演じた。急病のために事実上降板し、第51話の予告から名古屋が代理を務めた。当初の台本(第2話)のスタッフ欄には、『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』でナレーションを務めた浦野光の名が記載されていた。
白鳥船長役には、企画時は『ウルトラQ』で関デスクを演じた田島義文がキャスティング候補に挙がっていた。
タロウのスーツアクターの長沢寛は、長身のスーツアクターを起用したいという要望から、同時期『ファイヤーマン』に扮していた西条満が、同じ事務所に所属していた長沢を推薦した。西条は、激しいアクションシーンなど一部のシーンでタロウに扮している。
※すべてノンクレジット
助監督の中に、後に小説家となる打海文三がいる。
いずれも「ウルトラマンスター」「ウルトラジャック」「ウルトラマンジャック」の企画書に掲載されている。
東京レコード(AMONレーベル、ディスコメイトの前身・販売元はビクター音楽産業)からEPが発売。初版約30万枚という当時としては高い売り上げを残した。
上述のように、本作品のBGMは白井多美雄(ノンクレジット)が選曲しており、中には流用されたものが存在。
第11話と第15話で使用された「舞踏組曲 笛吹き地蔵」は、1964年にバレエ用に日暮が作曲。
フランスのライブラリー音楽提供レーベルのMontparnasse2000からの音源が、第24話で使用されたのを皮切りに第40話、第43話、第46話、第48話で使用。
『東宝チャンピオンまつり』にてテレビ版を劇場用にブローアップ再編集した作品が3シーズンにわたって公開された。なお次作『ウルトラマンレオ』は『チャンピオンまつり』では公開されなかったので、「ウルトラシリーズ」が同企画で公開されるのはこれが最後、さらに円谷プロ作品が同企画で公開されるのもこれが最後である。
創立60周年を記念しセレクト上映。Part2は2023年12月1日に公開。同時上映は『空想特撮シリーズ ウルトラマン 4Kディスカバリー「生命のものがたり」』を先行上映。
いずれにもウルトラマンタロウが登場する。
小学館が権利を持っており、学年誌や『週刊少年サンデー』に掲載された。高学年向けの学年誌には特撮の解説が掲載された。 | [
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"text": "『ウルトラマンタロウ』は、1973年4月6日から1974年4月5日までTBS系で毎週金曜19:00 - 19:30に全53話が放送された、TBSと円谷プロダクションが製作した特撮テレビドラマとその劇中に登場するヒーローの名前である。",
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"text": "タイトルロゴは「ウルトラマンT」、「T」に「タロウ」のルビがある。",
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"text": "港を襲った超獣オイルドリンカーを撃退した勇気と行動力を見込まれ、光太郎は宇宙科学警備隊ZAT()に入隊。光太郎は、自分が埋めたチグリスフラワーの球根を媒体に出現した怪獣アストロモンスに対し、小型戦闘機スーパースワローに搭乗して立ち向かうが、アストロモンスの攻撃を受けて爆発の炎に包まれてしまった。",
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"text": "「ウルトラマンシリーズ」第5作目にして、『帰ってきたウルトラマン(以下、帰マン)』や『ウルトラマンA』に続く第2期ウルトラシリーズ第3作目。『ファイヤーマン』(日本テレビ)や『ジャンボーグA』(毎日放送)同様、「円谷プロ創立10周年記念番組」として制作された。",
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"text": "本作品の大きな特徴として、それまでは神秘的存在として描かれていたウルトラマンに、親しみやすい印象を付加している点が挙げられる。その最たる例が、主人公の「タロウ」という名称である(詳細は後述)。それまでのウルトラマンシリーズに比べ、同じ円谷作品の『快獣ブースカ』(1966年・日本テレビ)で見られたようなおとぎ話や寓話などを題材としたエンターテインメント性を重視したストーリーが多く見られる。",
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"text": "本作品ではウルトラの母の存在が初めて明らかにされ、「ウルトラ兄弟」の概念に加えて文字通り「ウルトラファミリー」の構想を付加した結果、ホームドラマ的な作風が濃くなっている。",
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"text": "主題歌がそのまま特撮場面の挿入歌となっており、2クール以降はエレクトーン演奏を用いた主題歌のインストゥルメンタル版も使用されている。",
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"text": "前作の『ウルトラマンA』同様、本編撮影は主に東京映画撮影所で撮影され、特撮は東宝撮影所のNo.3・5ステージや東京美術センターのオープンスペースで撮影されていたが、第3クールから最終話までは仙川スタジオで撮影された。",
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"text": "特撮作品としての本分もおざなりにされていない。躍動感のある戦闘アクション、当時としては精巧に制作された秘密基地や戦闘機などの各種プロップやミニチュアセット、光線技に見られる光学合成などは、円熟された特撮の妙味を醸し出している。",
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"text": "それまでのウルトラマンシリーズは、オープニング映像にキャラクターのシルエット映像が使用されていた。しかし、本作品はZATのメカニック紹介映像(主にそれぞれが格納庫から現れて基地から発進する様子)となっている。",
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"text": "放送話数が全53話と昭和ウルトラシリーズの中では最多となっている。また、第2期ウルトラシリーズの中で本作品のみが4月に放送を終了したが、この理由には「次作『ウルトラマンレオ』の企画難航によって本作品を1話分追加撮影した」「4月から放送開始する他の特撮ヒーロー番組と競合する編成を避けるためだった」という2説が存在する。",
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"text": "本作品の企画は、『ウルトラマンA』放送中の1972年10月ごろからスタートしている。TBS側からは『ウルトラマンA』が息切れしたため、ウルトラシリーズは1年間休止する案や『ウルトラマンA』で終了させようとの声もあった。",
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"text": "「ウルトラマン・シリーズ第5弾!! ウルトラマンスター」「特撮空想科学シリーズ ウルトラジャック」「特撮空想怪獣シリーズ ウルトラマンジャック」の3冊の企画書が作成され(内容は同一)、タイトルは「ウルトラマンジャック」が選ばれた。しかし、「ジャック」が当時世界的に大きな問題となっていたハイジャックを連想させるという事情から負のイメージを避けるために正式決定直前に取り止めとなった。この「ジャック」が西洋のおとぎ話の主人公の名前としてよく使用される名前だったことや熊谷健が「ジャック」が長すぎると感じていたことから、それに対応する「ジャック」の意味合いを和風な名称に置き換えた日本の名称として満田かずほがタイトル会議で「○○太郎」にちなむ「タロウ」と名付けられたという。",
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"text": "基本的には、ウルトラマンタロウとZATの活躍を描いている。",
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"text": "第8話以降、児童(東光太郎を兄のように慕う白鳥健一少年の友達や同級生)の抱えるエピソードに、奇怪な事件およびその主犯となる怪獣とZATの闘いが交差したものが多くなっていき、ZATの事件解決に終始している作品はほとんどない。これは第2期ウルトラシリーズの特徴といえるが、本作品で最も顕著に表れている。",
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"text": "メイン脚本家の田口成光は本作品を結果論として『ウルトラマンA』の変遷を受けた上での「皮膚感覚」を強く意識しており、ファンタジー色とファミリー性が強い昭和のおとぎ話である「ネオメルヘン(ネオファンタジー)」と捉えた作品世界となっている。そのため、「ネオメルヘン」という要素は宇宙怪獣の怪奇設定やヒーローのミステリアスなイメージといった前提条件により、各エピソードがリアル方向に触れすぎないようにするためのバランサーとなっており、演出や設定も陽性の方向へ流れるように誘導していたものと思われる。",
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"text": "前半の敵は怪獣のみで、本作品の怪獣は前作『ウルトラマンA』の「超獣(怪獣を超える存在)」の設定を覆し、「超獣を超える怪獣」であると設定されていた。第1話では超獣オイルドリンカーが怪獣アストロモンスに捕食されるシーンが存在し、この「超獣よりもさらに強い怪獣」をアピールしていた。企画案では超常能力を持った宇宙怪獣の登場が想定されており、初期に登場した怪獣にも反映されている。また、実在の生物をモチーフとした怪獣が多いのも初期の特色である。怪獣の生態が細かく設定されている回が多く、この点も本作品のストーリーにおける特徴の1つとなっている。",
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"text": "第27話でのメフィラス星人(二代目)の登場を皮切りに宇宙人も多く登場するようになり、終盤では独特で奇抜な怪獣が多く登場するようになった。なお、タロウやZATが怪獣、とりわけ人類と対立する意思を持たないものの生存権を尊重する描写も多く、回が進むごとに顕著になっている。",
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"text": "第29・30話に改造巨大ヤプールが登場するなど過去の人気怪獣が多く登場したが、これはTBSでは10月は翌春の新番組を決定させる時期のためだからである。",
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"text": "『ウルトラマンA』や『ミラーマン』(1971年・フジテレビ)でブルマァクから発売された怪獣ソフトビニール人形が不振だったため、本作品の怪獣はほとんど商品化されていない。しかし、『ウルトラマンA』のタックファルコンや『ミラーマン』のジャンボフェニックスなどのメカ類は好調だったため、本作品はメカ類を売り出すことに注力しており、前述のようなオープニングになった。さらに、オープニングのみの登場メカや本編未登場のメカなども商品化され、どれも子供受けする派手なデザインとなっていた。",
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"text": "また、「ウルトラ兄弟セット」や「ウルトラファミリーセット」などの形式で、過去のウルトラマンソフトビニール人形がセット売りされた。こうしたヒーローやメカ重視の潮流の中で怪獣のデザインは商品化を前提としないため、『帰ってきたウルトラマン』初期のように売れる怪獣をデザインするという縛りから解放され、自由なデザインの怪獣が生まれるようになった。",
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"text": "他の第2期ウルトラシリーズとは異なり(各作品の路線変更については各記事を参照)、放映延長に当たっての番組強化に関する文書が作成されず、第19話でタロウがウルトラの母からキングブレスレットを授かったり、第27話から宇宙人が登場したり、レギュラー俳優の交代などはあったが、制作方針に関わるような路線変更がなかった。しかし、それまでのウルトラシリーズと異なり、コミカルなストーリーが多くなるなど作風に顕著な変化が見られたため、旧作ファンには本作品を否定する向きもあった。",
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "頭部のウルトラホーンは超戦士の証と言われ、それを証明するかのように他のウルトラ兄弟を超えた能力を誇る。例を挙げると以下の通り。",
"title": "ウルトラマンタロウ"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "第53話でウルトラバッジをウルトラの母に返し、光太郎としてバルキー星人を倒した後、光太郎の姿のまま旅立っていった。",
"title": "ウルトラマンタロウ"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "後の『ウルトラマンメビウス』では、",
"title": "ウルトラマンタロウ"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "と新たに設定された。",
"title": "ウルトラマンタロウ"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "光太郎がタロウと合体前、緑のおばさんの姿に変身したウルトラの母からお守りとして授けられた変身アイテム。光太郎は持ち歩かず、常に隊員服の左肩の袖側面に装着しているため、変身は常に隊員服姿で行われており、私服での変身は第40話での1回だけであった。",
"title": "ウルトラマンタロウ"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ウルトラスチール製で光波エネルギー吸収装置(3つのポール)、エネルギー電導チューブ、ウルトラダイオード、エネルギー増幅回路、ウルトラルビー、テレパシー受信器が備わっている。光波エネルギー吸収装置には電気エネルギー、太陽エネルギー、ウルトラエネルギーが蓄えられており、光太郎からの変身テレパシーを受信することでバッジの中央に流れ出して変身エネルギーとなり、光太郎をタロウに変身させる。",
"title": "ウルトラマンタロウ"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "前半ではエースのウルトラリング同様、変身のタイミングが訪れるとウルトラルビーが一瞬光って光太郎に変身を促していたが、後半ではこのプロセスが見られなくなった。",
"title": "ウルトラマンタロウ"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "前述の通り、光太郎は第53話でウルトラバッジを空の彼方に投げてウルトラの母に返している。",
"title": "ウルトラマンタロウ"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ウルトラバッジを右手に持ち、両腕を左右に開いて、額に当ててから天にかざして「タロウー!」と叫んで変身する。このパターンが基本だが、変身ポーズを省略したことも何度かあった。また、第43話ではモットクレロンが飛ばしてきたと思われる大根を左手に持ち、そのままバッジを持った右手と頭上でクロスするという珍妙な変身場面もあった。",
"title": "ウルトラマンタロウ"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "学年誌での設定に基づくが、すべてが現在も活かされているとは限らない。",
"title": "ウルトラマンタロウ"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "デザインは井口昭彦。セブンの姿をベースとし、セブン同様、額のビームランプと大きな突起を持つ。ウルトラホーンはウルトラの父の角が好評であったことから取り入れられた。デザイン画では、耳の後ろから後頭部にかけて段差が存在し、最初期に作られたスーツには画稿どおりの段差があったが、以降の造型では省略されている。胸にはカラータイマーを備えている。",
"title": "ウルトラマンタロウ"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "マスクの原型は、『ゴジラ』などの石膏班スタッフだった照井栄が開米プロの依頼を受けて製作した。照井によれば「頭(マスク)が大きいので170センチ以上あるスーツアクターを入れてほしい」とプロデューサーの熊谷に伝えたとのこと。",
"title": "ウルトラマンタロウ"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "姿が似ていることから俳優・京本政樹が、本作品の第40話と『ウルトラマンレオ』第1話のセブンの着ぐるみは、タロウの着ぐるみを改造して使用されたため、その名残で耳が付いていないと著書『京本政樹のHERO考証学』(1992年、バンダイ)で述べている。だが、昭和末期に発行された円谷プロファンクラブ会報誌に「アトラクション用セブンに電飾をした物」と記述されている。",
"title": "ウルトラマンタロウ"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "初期のスーツは、スーツアクターの身長に合わせるための暫定的処理として、スーツの膝部分に繋ぎ目があった。中期からは目の全体が黄色に変更され、スーツの赤も濃くなり、繋ぎ目もなくなった。後期からは以前よりも胸の筋肉が強調していると思われ、カラータイマーや目の電飾などの発光用電池が左脇に内蔵された。",
"title": "ウルトラマンタロウ"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "『ウルトラマンメビウス』以降の作品では主に石丸博也が声を充てている。本項では特に記載がなければ石丸が声を担当。",
"title": "ウルトラマンタロウ"
},
{
"paragraph_id": 48,
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"text": "ZAT()とは、\"Zariba of All Territory\"の略で、地球外からの侵略行為に立ち向かう宇宙科学警備隊である。",
"title": "ZAT"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "本部はニューヨークの国連本部内に存在し、支部はアメリカ、アルゼンチン(南米)、フランス(フランス)、南アフリカ連邦(アフリカ)、日本(極東)、北極の6ヵ所にある。",
"title": "ZAT"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "後述のようにアットホームな雰囲気を見せ、ユーモラスな作戦を展開するが、戦闘力と知力を兼ね備えた精鋭であり、コスモリキッド、再生前のデッパラス、シェルター、ムルロア、ベムスター(改造)、ベロクロン二世(改造)、ドロボン、バルキー星人といった強敵を撃破する実績をあげている。単独の巨大怪獣撃破数は、ウルトラシリーズの歴代防衛チームの中で科学特捜隊(10体)に次ぐ戦果を挙げている。また、他の防衛チームでしばしば見られた隊員同士の対立の構図がほとんどなく、基地の司令室で飲食したり、将棋を指しているところが描かれたり、市民と草野球やバレーボールに興じたりと、明るくアットホームな雰囲気が貫かれた。",
"title": "ZAT"
},
{
"paragraph_id": 51,
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"text": "極東支部も各国と連携をとりながら、作戦行動を行っている。宇宙ステーションも複数存在する。",
"title": "ZAT"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "既述の通り、隊員の交代が多いが、同時に劇中の世界がこれまでのウルトラシリーズに比べて広がっている。第13話でZATが九州で演習を行う時、宇宙ステーションに転勤した西田隊員が連絡係として再登場。さらに第27話では、マンダリン草を探すために世界各地のZAT隊員が登場、航空機ドラゴンには通常のZAT制服とは異なる隊員が搭乗していたり、ZAT基地にも森山隊員の他に多くの女性隊員が勤務していた。さらに、第40話では木星にも宇宙ステーションが確認されている。放映開始時における一般男性隊員の苗字は、主人公である東を始め、西田・南原・北島と方角にちなんで命名されている。",
"title": "ZAT"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "また、第5話には地球警備隊が登場しているが、ZATとの詳しい関係性は不明。劇中では極東支部所属の戦力として、空母を含む艦隊が登場した。また、キングトータスとクイントータスが棲息していたオロン島を管理下に置いている。",
"title": "ZAT"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "ZAT極東支部の一番の特徴は豊富な作戦である。個々の怪獣の特性を見極め、それぞれに対応する作戦を編み出して遂行していく。失敗も多いが、発想は実に柔軟である。",
"title": "ZAT"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "書籍『ウルトラ超兵器大図鑑』では、独自のSF的考証(本書注意書きより)でそれらの兵器はヤプール大戦中のTACの時代に盛んに行われた異星の技術研究から生まれたものであり、コンドル1号やスーパースワローの穴の開いた両翼は「重力制御コイル」という装備が搭載されているためと解説されている。",
"title": "ZAT"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "隊員たちは半年に一度、体力テストで審査される。これは科学的知識はもちろん、常に隊員たちが強靭な肉体を要求されるためである。ただし、隊長と副隊長は体力よりも指揮能力が問われるため、この審査は免除されている。",
"title": "ZAT"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ZAT極東支部の所在地は、東京都千代田区霞ヶ関1丁目1番地1号にある。",
"title": "ZAT"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "円盤状の基地本体部と、地下に置かれた各メカの格納庫、本体部と格納庫を繋ぐシャフト状のタワー部で構成されている。本体部には、隊員たちの司令室をはじめ、コンピューター制御室、応接室、兵器開発区、居住区、情報区、発進ゲートなどがあり、各航空戦力はタワー内部の回転式エレベーターで本体部までリフトアップされる。緊急事態の際は、本体部が底面からジェット噴射を行い空飛ぶ円盤として機能し、危機を回避することが可能(下部タワー部分は地下へ格納される)。この機能は本来、地下格納庫から直接発進するアンドロメダの打ち上げを妨げないためのものと思われるが、第1話と第10話で怪獣に襲われた際にのみ使用された。",
"title": "ZAT"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "この基地の隣には、事務セクションのオフィスビルも存在する。",
"title": "ZAT"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "一般市民による本部の見学は可能だが、その際には1週間前までには申し出て怪獣や宇宙人が変身・憑依していないかのチェックを受けなければならない。",
"title": "ZAT"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "ZATの装備品(航空機、車両、隊員服、武器など)には、曲線、曲面を多用したラインと、先端部に設けられた球状の突起といったデザイン上の一貫した特徴がある。",
"title": "ZAT"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "白のラインが入った赤と紺の明るいイメージの配色のユニフォームで、上下セパレートタイプのつなぎ式。高い耐久・耐熱・耐寒性・防弾機能を持つが、光太郎の隊員服は激戦でボロボロになることが何度もあった。また、女性隊員の隊員服は赤と紺だけでなく、白も取り入れたミニスカートのワンピースタイプである。朝日奈隊長の物のみ、胸のラインが黒となっている。",
"title": "ZAT"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "各機の青い部分は初期はメタリックブルーであったが、後半は濃紺となった。",
"title": "ZAT"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "以下は独自の作戦の例である。日用品などをモチーフとしたユーモラスな印象の作戦が多く、ZATの特色を出している。",
"title": "ZAT"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "光太郎役に篠田が起用されたのは、彼が新たなウルトラマンシリーズの主役にふさわしいと考えたプロデューサー・橋本洋二の意向であり、撮影現場の雰囲気を知ってもらうための措置として『ウルトラマンA』第20話に篠田一郎役でゲスト出演させている。篠田はオーディションで選ばれたが、松平健も光太郎役のオーディションを受けていた。本作品への出演が決定した篠田は『ウルトラマンA』第20話出演時に北斗星司役の高峰圭二が白いマフラーを巻いているのを見て自分も使用したくなり、本作品の撮影でもマフラーを使用することになった。本作品の本放送時にはNHKの『天下堂々』でも主演を務めたため、終盤は出番の少ない回が存在する。",
"title": "出演者"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "名古屋は『帰ってきたウルトラマン』でナレーションを担当。篠田同様、名古屋は橋本の指名で、副隊長を設定して名古屋を口説き落としたという。名古屋も多忙だったため、最初から「毎回は出演できないと思うがそれで良ければ」という契約で、第1 - 8、10、35、51、53話(最終回)の計12回しか登場していない。第51話以降はナレーションも担当している。また名古屋は他のインタビューでは「私の子供が、ヒーローものを見ている世代だったので、子供に喜んでもらおうと、いわば、プレゼントみたいな気持ちで、引き受けました」とも語っている。",
"title": "出演者"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "東野は第50話の撮影終了後にスキーで脚を骨折して入院したため、三谷が新登場(三谷も『帰ってきたウルトラマン』第22話でゲスト出演している)。東野は第49話や第50話でのアフレコにも参加しておらず、代わりに沢が声を担当。",
"title": "出演者"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "三ツ木は主演作『白獅子仮面』の撮影がクランクアップした後に本作品に臨んだものの、『だいこんの花』『国盗り物語』のレギュラーが入ったため、スケジュール調整が不可能になり降板。光太郎役の候補だった。",
"title": "出演者"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "西島は所属事務所の方針で歌手に転向し、同じTBSの『ぎんざNOW』にレギュラー出演が決定したため、第35話を最後に降板。",
"title": "出演者"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "あさかは本作品がデビュー作だが、当時の事務所との契約に従い第16話で降板したため、第20話から小野に交代。",
"title": "出演者"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "瑳川は『ウルトラマンA』で竜隊長を演じた。急病のために事実上降板し、第51話の予告から名古屋が代理を務めた。当初の台本(第2話)のスタッフ欄には、『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』でナレーションを務めた浦野光の名が記載されていた。",
"title": "出演者"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "白鳥船長役には、企画時は『ウルトラQ』で関デスクを演じた田島義文がキャスティング候補に挙がっていた。",
"title": "出演者"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "タロウのスーツアクターの長沢寛は、長身のスーツアクターを起用したいという要望から、同時期『ファイヤーマン』に扮していた西条満が、同じ事務所に所属していた長沢を推薦した。西条は、激しいアクションシーンなど一部のシーンでタロウに扮している。",
"title": "出演者"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "※すべてノンクレジット",
"title": "出演者"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "助監督の中に、後に小説家となる打海文三がいる。",
"title": "スタッフ"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "いずれも「ウルトラマンスター」「ウルトラジャック」「ウルトラマンジャック」の企画書に掲載されている。",
"title": "サンプルストーリー"
},
{
"paragraph_id": 77,
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"text": "東京レコード(AMONレーベル、ディスコメイトの前身・販売元はビクター音楽産業)からEPが発売。初版約30万枚という当時としては高い売り上げを残した。",
"title": "音楽"
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{
"paragraph_id": 78,
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"text": "上述のように、本作品のBGMは白井多美雄(ノンクレジット)が選曲しており、中には流用されたものが存在。",
"title": "音楽"
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"paragraph_id": 79,
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"text": "第11話と第15話で使用された「舞踏組曲 笛吹き地蔵」は、1964年にバレエ用に日暮が作曲。",
"title": "音楽"
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{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "フランスのライブラリー音楽提供レーベルのMontparnasse2000からの音源が、第24話で使用されたのを皮切りに第40話、第43話、第46話、第48話で使用。",
"title": "音楽"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "『東宝チャンピオンまつり』にてテレビ版を劇場用にブローアップ再編集した作品が3シーズンにわたって公開された。なお次作『ウルトラマンレオ』は『チャンピオンまつり』では公開されなかったので、「ウルトラシリーズ」が同企画で公開されるのはこれが最後、さらに円谷プロ作品が同企画で公開されるのもこれが最後である。",
"title": "他媒体展開"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "創立60周年を記念しセレクト上映。Part2は2023年12月1日に公開。同時上映は『空想特撮シリーズ ウルトラマン 4Kディスカバリー「生命のものがたり」』を先行上映。",
"title": "他媒体展開"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "いずれにもウルトラマンタロウが登場する。",
"title": "他媒体展開"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "小学館が権利を持っており、学年誌や『週刊少年サンデー』に掲載された。高学年向けの学年誌には特撮の解説が掲載された。",
"title": "他媒体展開"
}
] | 『ウルトラマンタロウ』は、1973年4月6日から1974年4月5日までTBS系で毎週金曜19:00 - 19:30に全53話が放送された、TBSと円谷プロダクションが製作した特撮テレビドラマとその劇中に登場するヒーローの名前である。 タイトルロゴは「ウルトラマンT」、「T」に「タロウ」のルビがある。 | {{半保護}}
{{Pathnav|ウルトラシリーズ|frame=1}}
{{参照方法|date=2013年11月}}
{{昭和第2期ウルトラシリーズ}}
{{基礎情報 テレビ番組
| 番組名 = ウルトラマンタロウ
| 画像 =
| 画像説明 =
| ジャンル =
| 放送時間 = 金曜 19:00 - 19:30
| 放送分 = 30
| 放送枠 =
| 放送期間 = [[1973年]][[4月6日]] - [[1974年]][[4月5日]]
| 放送回数 = 53
| 放送国 = {{JPN}}
| 企画 =
| 製作総指揮 =
| 監督 = [[山際永三]] ほか
| 演出 =
| 原作 =
| 脚本 = [[田口成光]] ほか
| プロデューサー = {{Plainlist|
* [[熊谷健]]
* [[橋本洋二 (プロデューサー)|橋本洋二]]
}}
| 出演者 = {{Plainlist|
* [[篠田三郎]]
* [[名古屋章]]
* [[東野英心|東野孝彦]]
* [[三谷昇]]
* [[三ツ木清隆]]
* [[木村豊幸]]
* [[津村鷹志|津村秀祐]]
* [[西島明彦]]
* [[松谷紀代子]]
* [[朝加真由美|あさかまゆみ]]
* [[小野恵子]]
* [[斎藤信也]]
* [[ペギー葉山]] ほか
}}
| ナレーター = {{Plainlist|
* [[瑳川哲朗]]
* 名古屋章
}}
| 音声 = モノラル放送
| 字幕 =
| データ放送 =
| OPテーマ = 「ウルトラマンタロウ」
| EDテーマ =
| 時代設定 =
| 外部リンク =
| 外部リンク名 =
| 特記事項 =
}}
『'''ウルトラマンタロウ'''』は、[[1973年]][[4月6日]]から[[1974年]][[4月5日]]まで[[TBSテレビ|TBS]][[ジャパン・ニュース・ネットワーク|系]]で毎週金曜19:00 - 19:30に全53話が放送された、TBSと[[円谷プロダクション]]が製作した[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビドラマ]]とその劇中に登場するヒーローの名前である。
タイトルロゴは「ウルトラマンT」、「T」に「タロウ」のルビがある。
== 物語 ==
[[ボクサー (スポーツ)|ボクサー]]志望の青年・{{読み仮名|東光太郎|ひがし こうたろう}}が、長い船旅の末に巨大タンカーで日本に帰国。
港を襲った超獣[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#オイル超獣 オイルドリンカー|オイルドリンカー]]を撃退した勇気と行動力を見込まれ、光太郎は宇宙科学警備隊{{読み仮名|ZAT|ザット}}に入隊{{efn|name="ストーリー"|サンプルストーリーでは、物語開始の時点でZAT隊員として活躍している{{R|企画書}}。}}。光太郎は、自分が埋めたチグリスフラワーの球根を媒体に出現した怪獣[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#宇宙大怪獣 アストロモンス|アストロモンス]]に対し、小型戦闘機スーパースワローに搭乗して立ち向かうが、アストロモンスの攻撃を受けて爆発の炎に包まれてしまった。
光太郎は死線をさまようが{{efn|name="瀕死"|劇中のナレーションでもそう語られるが、書籍によっては「命を失った」と解説されている{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|ウルトラ兄弟|1979|p=105}}<ref>「ウルトラマン大百科」([[勁文社]]・1978年)p.235</ref><ref>「続・ウルトラマン大百科」(勁文社・1979年)p.50、73</ref>{{Sfn|タロウタロウタロウ|1999|p=202}}{{R|決定版ウルトラマン大集合}}{{Sfn|OFM VOL.7|2005|p=6|loc=「宇宙怪獣に立ち向かう宇宙科学警備隊ZAT」}}{{Sfn|UPM vol.11|2020|pp=6,13,26}}}}。}}、ウルトラ5兄弟によって[[ウルトラの国]]に運び込まれ、彼らと[[ウルトラの母]]に導かれてウルトラマンタロウと合体{{efn|name="誕生"|劇中の描写ではウルトラの母が光太郎にウルトラの命を授けたことでタロウが誕生しており(変身後のセリフや掛け声も光太郎役の篠田三郎が担当)、企画時からも光太郎がウルトラマンの力を得る設定だった{{Refnest|group="出典"|{{R|白書90|タロウ197326|企画書}}}}。田口成光は脚本執筆時、タロウ誕生を曖昧なものとして描いた{{R|オール・ザットタロウ88}}。}}。こうして、ウルトラ6番目の弟が誕生した。
地球に帰還した光太郎は、左腕に装着したウルトラバッジを掲げてタロウに変身し、怪獣や宇宙人と戦う。
== 作品概要 ==
「'''[[ウルトラシリーズ|ウルトラマンシリーズ]]'''」第5作目{{efn|後年の書籍類では「ウルトラシリーズ第6作目」と解説されているが{{Full|date=2022年6月}}、スタッフはあくまで「ウルトラマンシリーズ第5作目」として制作{{Refnest|group="出典"|{{R|白書90|タロウ197326|企画書|オール・ザットタロウ98}}}}。}}にして、『[[帰ってきたウルトラマン]](以下、帰マン)』や『[[ウルトラマンA]]』に続く第2期ウルトラシリーズ第3作目。『[[ファイヤーマン]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])や『[[ジャンボーグA]]』([[毎日放送]])同様、「円谷プロ創立10周年記念番組」として制作された。
本作品の大きな特徴として、それまでは神秘的存在として描かれていたウルトラマンに、親しみやすい印象を付加している点が挙げられる。その最たる例が、主人公の「'''タロウ'''」という名称である(詳細は後述)。それまでのウルトラマンシリーズに比べ、同じ円谷作品の『[[快獣ブースカ]]』([[1966年]]・日本テレビ)で見られたようなおとぎ話{{efn|name="a"}}や寓話などを題材としたエンターテインメント性を重視したストーリーが多く見られる{{R|特撮全史}}。
本作品では[[ウルトラの母]]の存在が初めて明らかにされ、「[[ウルトラ兄弟]]」の概念に加えて文字通り「ウルトラファミリー」の構想を付加した結果、ホームドラマ的な作風が濃くなっている{{efn|熊谷健が師事していた[[小津安二郎]]作品を意識したもの。}}。
主題歌がそのまま特撮場面の挿入歌となっており、2クール以降は[[エレクトーン]]演奏を用いた主題歌の[[器楽曲|インストゥルメンタル]]版も使用されている{{efn|この「主題歌の特撮場面への挿入」は、『ウルトラマンレオ』にも引き継がれる。}}。
前作の『ウルトラマンA』同様、本編撮影は主に東京映画撮影所で撮影され、特撮は東宝撮影所のNo.3・5ステージや東京美術センターのオープンスペースで撮影されていたが、第3クールから最終話までは仙川スタジオで撮影された{{R|特撮全史|UPM vol.114}}。
特撮作品としての本分もおざなりにされていない。躍動感のある戦闘アクション、当時としては精巧に制作された秘密基地や戦闘機などの各種プロップやミニチュアセット、光線技に見られる[[光学合成]]などは、円熟された特撮の妙味を醸し出している。
それまでのウルトラマンシリーズは、オープニング映像にキャラクターのシルエット映像が使用されていた。しかし、本作品はZATのメカニック紹介映像(主にそれぞれが格納庫から現れて基地から発進する様子)となっている{{efn|この「防衛チームのメカニック紹介」パターンは『ウルトラマンレオ』でも用いられ、以後のウルトラマンシリーズでは前述のシルエット映像パターン同様、オープニング映像の基本フォーマットとして踏襲されている(『[[ウルトラマン80]]』ではウルトラマンシリーズとして初めて採用されたエンディング映像で使用されている)。}}。
放送話数が全53話と昭和ウルトラシリーズの中では最多となっている{{efn|平成ウルトラシリーズを含めると全65話の『[[ウルトラマンコスモス]]』に次ぐ。}}。また、第2期ウルトラシリーズの中で本作品のみが4月に放送を終了したが、この理由には「次作『[[ウルトラマンレオ]]』の企画難航によって本作品を1話分追加撮影した」<ref>「心にウルトラマンレオ」(辰巳出版・[[2001年]])p.16</ref>「4月から放送開始する他の特撮ヒーロー番組と競合する編成を避けるためだった」{{Sfn|タロウ1973|2007|p=88}}という2説が存在する。
=== 企画意図 ===
本作品の企画は、『ウルトラマンA』放送中の1972年10月ごろからスタートしている{{R|DVD25|UPM vol.114}}。TBS側からは『ウルトラマンA』が息切れしたため、ウルトラシリーズは1年間休止する案や『ウルトラマンA』で終了させようとの声もあった{{Refnest|group="出典"|{{R|タロウタロウタロウ21|OFM VOL.731|TVMAGA超8100|UPM vol.114|UPM vol.1132}}}}。
「'''ウルトラマン・シリーズ第5弾!! ウルトラマンスター'''」「'''特撮空想科学シリーズ ウルトラジャック'''」「'''特撮空想怪獣シリーズ ウルトラマンジャック'''」の3冊の企画書が作成され(内容は同一{{efn|ヒーローの能力、防衛チームの組織概要とメカニック、登場人物紹介、サンプルストーリーなど{{R|企画書}}。}})、タイトルは「ウルトラマンジャック」が選ばれた。しかし、「ジャック」が当時世界的に大きな問題となっていた[[ハイジャック]]を連想させるという事情から負のイメージを避けるために正式決定直前に取り止めとなった<ref>『懐かしのヒーロー ウルトラマン99の謎』([[二見書房]]・1993年)p.32</ref>{{R|UPM vol.114}}{{efn|後に「ジャック」は、『帰ってきたウルトラマン』の主役ウルトラマンの正式名称と設定された。}}。この「ジャック」が西洋のおとぎ話{{efn|name="a"|「日本版[[アラビアン・ナイト]]を志向した」という{{Refnest|group="出典"|{{R|DVD25|タロウタロウタロウ21}}{{Sfn|タロウタロウタロウ|1999|p=22|loc=「現代のおとぎ話として」}}}}。事実、劇中でアラビアンナイトに関係のある言葉が使用されている。}}の主人公の名前としてよく使用される名前だったことや熊谷健が「ジャック」が長すぎると感じていたことから、それに対応する「ジャック」の意味合いを和風な名称に置き換えた日本の名称として満田かずほがタイトル会議で「○○太郎」にちなむ「タロウ」と名付けられたという{{R|TVMAGA超8100|UPM vol.114|HISTORICA26}}{{efn|もっとも、企画段階でTBSのプロデューサー・橋本洋二から、小学館の『よいこ』編集部の福島征英に次回作のネーミングについて相談があり、福島は知恵を借りようと社内にアイディアを募って聞いて廻ったところ、とある女性アルバイトから「男の子だったらタロウ」というコメントを得て、『ウルトラタロウ』が候補の中に挙げられていたという{{Sfn|DVD8|2005|p=9|loc=「『DVDウルトラマンタロウ』ここを見逃すな! シーン・セレクション#9 ウルトラファミリー確率の軌跡 / ファミリー路線の誕生から確立まで」}}。}}{{R|OFM VOL.731|TVMAGA超8100}}。
=== 構成 ===
基本的には、ウルトラマンタロウとZATの活躍を描いている。
第8話以降、児童(東光太郎を兄のように慕う白鳥健一少年の友達や同級生)の抱えるエピソードに、奇怪な事件およびその主犯となる怪獣とZATの闘いが交差したものが多くなっていき、ZATの事件解決に終始している作品はほとんどない{{efn|終盤では光太郎や他の隊員たちはBパートに入ってから出番が増える回が存在する。}}。これは第2期ウルトラシリーズの特徴といえるが、本作品で最も顕著に表れている。
メイン脚本家の田口成光は本作品を結果論として『ウルトラマンA』の変遷を受けた上での「皮膚感覚」を強く意識しており、ファンタジー色とファミリー性が強い昭和のおとぎ話である「ネオメルヘン(ネオファンタジー{{R|TVMAGA超8100}})」と捉えた作品世界となっている{{R|TVMAGA超8100|特撮全史|HISTORICA26}}{{efn|ただし、熊谷健はファミリーの方を重視しており、ファンタジーはそこまで意識していなかったという{{R|TVMAGA超8100}}。}}。そのため、「ネオメルヘン」という要素は宇宙怪獣の怪奇設定やヒーローのミステリアスなイメージといった前提条件により、各エピソードがリアル方向に触れすぎないようにするためのバランサーとなっており、演出や設定も陽性の方向へ流れるように誘導していたものと思われる{{R|UPM vol.114}}。
=== 怪獣 ===
前半の敵は怪獣のみで、本作品の怪獣は前作『ウルトラマンA』の「[[ウルトラマンA#超獣の概念|超獣]](怪獣を超える存在)」の設定を覆し、「超獣を超える怪獣」であると設定されていた。第1話では超獣オイルドリンカーが怪獣アストロモンスに捕食されるシーンが存在し、この「超獣よりもさらに強い怪獣」をアピールしていた。企画案では超常能力を持った宇宙怪獣の登場が想定されており{{R|白書90|UPM vol.114}}、初期に登場した怪獣にも反映されている。また、実在の生物をモチーフとした怪獣が多いのも初期の特色である。怪獣の生態が細かく設定されている回が多く、この点も本作品のストーリーにおける特徴の1つとなっている。
第27話での[[メフィラス星人#『ウルトラマンタロウ』に登場するメフィラス星人|メフィラス星人(二代目)]]の登場を皮切りに宇宙人も多く登場するようになり、終盤では独特で奇抜な怪獣が多く登場するようになった。なお、タロウやZATが怪獣、とりわけ人類と対立する意思を持たないものの生存権を尊重する描写も多く、回が進むごとに顕著になっている{{efn|「子供が怪獣が殺されるのを見て夜寝られなくなった」と投書が寄せられた{{Sfn|タロウタロウタロウ|1999|p=105|loc=「STUFF INTERVIEW 石堂淑朗」}}。}}{{efn|こうした傾向は、平成に入ってから『[[ウルトラマンガイア]]』や『ウルトラマンコスモス』に受け継がれた。こうした作風は、『ウルトラマンティガ』でマドカ・ダイゴを演じた[[長野博]]も『長野博withウルトラマンティガ』のロングインタビューで高く評価している{{Full|date=2021年1月}}。}}。
第29・30話に[[ヤプール人#『ウルトラマンタロウ』に登場する巨大ヤプール|改造巨大ヤプール]]が登場するなど過去の人気怪獣が多く登場したが、これはTBSでは10月は翌春の新番組を決定させる時期のためだからである{{R|特撮全史}}。
=== 玩具展開 ===
『ウルトラマンA』や『[[ミラーマン]]』([[1971年]]・[[フジテレビジョン|フジテレビ]])で[[ブルマァク]]から発売された怪獣ソフトビニール人形が不振だったため、本作品の怪獣はほとんど商品化されていない。しかし、『ウルトラマンA』のタックファルコンや『ミラーマン』のジャンボフェニックスなどのメカ類は好調だったため、本作品はメカ類を売り出すことに注力しており、前述のようなオープニングになった。さらに、オープニングのみの登場メカや本編未登場のメカなども商品化され、どれも子供受けする派手なデザインとなっていた。
また、「ウルトラ兄弟セット」や「ウルトラファミリーセット」などの形式で、過去のウルトラマンソフトビニール人形がセット売りされた。こうしたヒーローやメカ重視の潮流の中で怪獣のデザインは商品化を前提としないため、『帰ってきたウルトラマン』初期のように売れる怪獣をデザインするという縛りから解放され、自由なデザインの怪獣が生まれるようになった。
=== 評価・反響 ===
他の第2期ウルトラシリーズとは異なり(各作品の路線変更については各記事を参照)、放映延長に当たっての番組強化に関する文書が作成されず、第19話でタロウがウルトラの母からキングブレスレットを授かったり、第27話から宇宙人が登場したり、レギュラー俳優の交代などはあったが、制作方針に関わるような路線変更がなかった。しかし、それまでのウルトラシリーズと異なり、コミカルなストーリーが多くなるなど作風に顕著な変化が見られたため{{efn|深沢はシリアスな話を意図的に避けたという<ref>デジタルウルトラプロジェクト版DVD第13巻の特典映像「拝啓、ウルトラマンタロウ」</ref>。}}、旧作ファンには本作品を否定する向きもあった{{R|白書90}}。
『ファンタスティックコレクションNo.10 空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマンPARTII』([[1978年]]・[[朝日ソノラマ]])のp.27によると、児童雑誌の人気投票では常に首位になるほどの人気作だった。そして、同書は本作品についてまっすぐな批判を行っているが、この部分が後に『ファンタスティックコレクション 不滅のヒーロー ウルトラマン白書』として採録され、重版の度に同じ文章が再掲載され続けてしまった。この時期のウルトラマン再評価ブームは、第1期ウルトラ原体験世代(本作品を含めた第2期ウルトラの視聴を卒業していた)が担い、[[1979年]]の再編集劇場映画『ウルトラマン』がすべて後年の海外映画祭受賞などで名声を博した[[実相寺昭雄]]監督作品で統一されるなど、大人の映画ファンが見ても楽しめるという点に力点が置かれたこともあり、とりわけ手酷かったタロウ批判については後発世代からの反発も多い{{要出典|date=2019-07}}。
後発のウルトラマンシリーズ出演者が、幼少時に見ていた作品として本作品を挙げている。[[萩原佐代子]](『[[ウルトラマン80]]』の星涼子 / ユリアン役)はリアルタイムで<ref>『ウルトラマン OFFICIAL DATA FILE』No.61-31。</ref>、[[原田隼人]](『[[ウルトラマンX]]』の三日月マモル役)<ref>[[円谷プロダクション|円谷プロ]]ファンクラブ会報誌No.39-3。</ref>と[[石黒英雄]](『[[ウルトラマンオーブ]]』の主人公クレナイ・ガイ役)は再放送で本作品を見ていた。また、[[杉浦太陽]](『[[ウルトラマンコスモス]]』の主人公・春野ムサシ役)と[[宮野真守]](映画『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』以降の[[ウルトラマンゼロ]]の声)<ref>『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』のDVD-BOXの特典映像でのインタビュー</ref>は、幼少時はタロウが好きだったと語っている(杉浦は七夕の短冊に「タロウになりたい」と書いたこともあると自身のブログで明かしている<ref>[https://ameblo.jp/sunsuntaiyo/theme-10012374543.html メッサ質問に答え太陽(Q&A)] - 杉浦太陽オフィシャルブログ『太陽のメッサ○○食べ太陽』</ref>)。
『[[ウルトラマンマックス]]』以降のシリーズに参加している脚本家・[[小林雄次]]は本作品の第1話を評価しており、『ウルトラマンマックス』第1話執筆時の参考にしている<ref>『ウルトラマンギンガS』のDVD第1巻封入の作品解説書</ref>。
== ウルトラマンタロウ ==
{{キャラスペック
|名称=ウルトラマンタロウ
|身長=53{{nbsp}}[[メートル|m]]{{Refnest|group="出典"|name="TAROU"|{{R|怪獣大全集|タロウ超全集10|UPM vol.116}}{{Sfn|完全超百科|2004|p=37}}{{Sfn|全ウルトラマン|2018|p=30}}{{Sfn|全戦士超ファイル|2020|p=28}}}}
|体重=5万5,000{{nbsp}}[[トン|t]]{{R|group="出典"|TAROU}}
|走行速度={{Plainlist|
* [[マッハ数|マッハ]]1{{R|UPM vol.116}}
* 時速1,240{{nbsp}}[[キロメートル|km]]{{R|タロウ超全集13}}
}}
|飛行速度=マッハ20{{Refnest|group="出典"|{{R|タロウ超全集13|UPM vol.116}}{{Sfn|全戦士超ファイル|2020|p=28}}}}
|水中速度=160{{nbsp}}[[ノット|kt]]{{R|UPM vol.116}}
|地中速度=マッハ6{{Sfn|DVD-BOX|2013|p=4|loc=「キャラクター&メカニック紹介 ウルトラマンタロウ」}}
|ジャンプ力=600{{nbsp}}m{{R|タロウ超全集13|UPM vol.116}}
|年齢=1万2千歳{{R|タロウ超全集10|UPM vol.116}}{{efn|{{要出典範囲|放映当時の設定は1万8千歳|date=2019年10月}}。}}
}}
* 職業:宇宙警備隊支部長、宇宙警備隊の筆頭教官
* 趣味:体操<ref> 株式会社雪書房 編「ウルトラの国ひみつ百科」 『ウルトラ怪獣全百科』小学館〈コロタン文庫30〉、1978年10月10日、332頁。</ref>
* 嫌いなもの:[[まんじゅう]]、[[いじめ|弱い者いじめ]]{{efn|まんじゅうの次に大嫌いだという<ref>オリジナルビデオ『[[ウルトラスーパーファイト]]』 10. 「さすらいのウルトラマンタロウ」より</ref>。}}
[[ウルトラの父]]と[[ウルトラの母]]の実子。[[ウルトラセブン (キャラクター)|ウルトラセブン]]の実母(故人)がウルトラの母の姉であるため、セブンとは従兄弟(セブンがタロウの従兄)だが、この設定は現在では使用されていない{{sfn|オール・ザットタロウ|2016|p=86|loc=「ウルトラマンタロウスペシャルインタビュー 満田禾斉」}}。孤児でウルトラの父と母に養育された[[ウルトラマンA]]は義兄{{refnest|「ウルトラファミリーひみつ大かいぼう」、『小学三年生』1979年8月号、p.71{{Sfn|学年誌|2017|p=115}}}}、[[ウルトラマンタイガ]]は実子に当たる{{R|m7820190418}}。また、主題歌の歌詞では「'''ウルトラマンNo.6'''」と呼ばれている{{efn|ウルトラシリーズの主役ヒーローとしては5人目だが、ゾフィーを加えたウルトラ6兄弟の6人目としての扱い。『ウルトラマンギンガ』第5話で自己紹介する時にウルトラマンNo.6と名乗り、『ウルトラマンタイガ』第15話でトレギアからNo.6と呼ばれている。}}。光の国では「タロウ」という名前は「勇気を持ち正義を愛する者」という意味が込められている(命名したウルトラの父は後に地球にも同じ名前があると知ったという{{refnest|「ウルトラマンタロウ ひみつ大特集」、『小学二年生』1973年5月号、p.71{{Sfn|学年誌|2017|p=67}}}})。企画書では「11の技を持つヒーロー」とされている<ref>「帰ってきた帰ってきたウルトラマン 検証 第2次ウルトラブーム」(辰巳出版)〈タツミムック・1999年〉p.163</ref>{{efn|先述の企画段階での名称「ウルトラマンジャック」は、それに由来する(トランプのJ→11→ジャック)。}}。
ウルトラ兄弟が集結した第33・34話で「兄に頼りがち」や「増長しやすい」と演出されているが、これは第33・34話のみのことである。
エースの後を受けて地球防衛の任務に就き、地球では宇宙科学警備隊ZATの'''東光太郎'''と一体化{{efn|name="誕生"}}して超獣以上の力を持つ怪獣や宇宙人と戦う。空に飛び立つ時の掛け声が第22話までは短く低めだったが、第23話からやや長く高めになっている(第5話でセブンが空に飛び立つ時の掛け声の流用)。また、光太郎のボクサーとしての資質が変身後も引き継がれている。{{独自研究範囲|他のウルトラマンとは異なり、必殺技の名前を呼びながら使用し{{efn|劇中ではウルトラの母がマザー光線、ゾフィーがウルトラフロストを名前を呼びながら使用している。また、『帰ってきたウルトラマン』第51話(最終回)でジャックがウルトラハリケーン、『ウルトラマンA』第6話と第10話でエースがウルトラギロチンとウルトラナイフの名前を呼んで使用している。}}、戦闘時は無言で戦うことが多い。|date=2022年6月}}胸のタロウプロテクターは、セブンのプロテクター同様にあらゆる攻撃から身を守る。また、セブンのような真紅の体はスーパーボディと呼ばれ、全身にストリウムエネルギーが流れている。
巨大化カットに登場している白い円環は、ミルクのクラウンのイメージである{{R|オール・ザットタロウ88|UPM vol.112}}。
頭部のウルトラホーンは超戦士の証と言われ{{efn|ウルトラの父から受け継いだものという設定もある。幼少時はこの角は小さく、『ウルトラマン物語』で語られたエピソードを経て現在の大きさになったとされる。}}、それを証明するかのように他のウルトラ兄弟を超えた能力を誇る。例を挙げると以下の通り。
* ウルトラダイナマイトなどで体がバラバラになっても、ウルトラ心臓{{Sfn|タロウ超全集|1991|p=90|loc=「タロウ ウルトラ心臓の秘密」}}{{R|画報上}}が無傷なら再生可能。
* 第10話でデッパラスの牙が腹部を貫通しても怯まなかった。
* 戦闘中にカラータイマーが点滅することが少なく{{efn|想像以上の大きなダメージを受けると、カラータイマーが点滅していなくても身体が青白く発光しながら消滅する<ref>ビデオ『ウルトラ必殺技大百科 ウルトラマンタロウ編』</ref>。}}、戦闘終了後に点滅することが何度かあった{{efn|ほとんどが、第1話のカラータイマーが点滅している映像を流用している時もあった。第41話や第42話では、戦闘開始からさほど経たないうちにカラータイマーが点滅していた。}}。
** また、第29・30話のように他のウルトラ兄弟ならカラータイマーが点滅するであろう大ダメージを受けたにもかかわらず、カラータイマーが点滅しなかった。
* 腕力はウルトラ兄弟の中で一番のパワーを誇る{{efn|『決定版ウルトラ兄弟』では、「兄弟ナンバー1の力と肉体がほこりだ!」と記載されている{{R|ウルトラ兄弟15}}。また、『決定版 ウルトラヒーロー ナンバーワン超百科』では16万トン([[ゾフィー (ウルトラシリーズ)|ゾフィー]]も同位)であり、「たいていの怪獣をらくにもちあげることができるんだ」と記載されている{{R|NO1}}。}}。<!--Wikipedia的に特撮ヒーロー含むフィクション作品において「資料Aの記述は資料Bと矛盾しているから間違っている」と主張するのは基本タブーです。例えばアストロモンスの出身地は資料によって「宇宙」と「東京湾」の2つがありますが、Wikipediaの「ウルトラマンタロウの登場怪獣」ではどっちが正しいかと議論をするのではなく、それぞれが書いてある出典を脚注を使って付けてあります。-->
* 映画『[[ウルトラマン物語]]』ではウルトラ5兄弟のエネルギーをウルトラホーンに吸収して超ウルトラ戦士(スーパーウルトラマン)にパワーアップし、6兄弟が束になっても苦戦したグランドキングを圧倒した。
第53話でウルトラバッジをウルトラの母に返し{{efn|name=バッジ}}、光太郎として[[バルキー星人]]を倒した後、光太郎の姿のまま旅立っていった{{efn|name=客演}}{{efn|name="最終回"|田口は本作品を人間として始まらせて人間として終わらせたい思いがあったと同時に、第2期ウルトラシリーズが本作品で終了すると考えていたため、ウルトラの国に帰らないラストにした{{Sfn|DVD13|2005|p=6|loc=「『DVDウルトラマンタロウ』ここを見逃すな! シーン・セレクション#14 ウルトラマンタロウが遺したもの / 感動のエンディング」}}{{R|オール・ザットタロウ88}}。}}。
後の『[[ウルトラマンメビウス]]』では、
* 物語開始([[ウルトラマンメビウス#ウルトラマンメビウス|ウルトラマンメビウス]]が地球防衛に就く)20年前=[[1986年]]に光の国に帰還し、現在は[[宇宙警備隊]]の筆頭教官として後進の指導に当たっており、メビウスも教え子の1人である
と新たに設定された{{Refnest|group="出典"|{{R|教官|パンフレット|ムービーガイドブック|メビウス8|メビウス&兄弟超全集|ひみつ図鑑|アーカイブドキュメント53}}}}。
=== ウルトラバッジ ===
光太郎がタロウと合体前、[[学童擁護員|緑のおばさん]]の姿に変身したウルトラの母からお守りとして授けられた変身アイテム{{efn|企画書のサンプルストーリーではウルトラ兄弟から授けられた{{R|企画書}}。}}。光太郎は持ち歩かず、常に隊員服の左肩の袖側面に装着している{{efn|撮影時は、小さく開いた2つの穴に金具を引っかけるように装着{{R|タロウタロウタロウ39}}。}}ため、変身は常に隊員服姿で行われており、私服での変身は第40話での1回だけであった。
ウルトラスチール製で光波エネルギー吸収装置(3つのポール)、エネルギー電導チューブ、ウルトラダイオード、エネルギー増幅回路、ウルトラルビー、テレパシー受信器が備わっている{{R|別冊てれびくん}}。光波エネルギー吸収装置には電気エネルギー、太陽エネルギー、ウルトラエネルギーが蓄えられており、光太郎からの変身テレパシーを受信することでバッジの中央に流れ出して変身エネルギーとなり、光太郎をタロウに変身させる{{R|決定版ウルトラマン大集合}}。
前半ではエースのウルトラリング同様、変身のタイミングが訪れるとウルトラルビーが一瞬光って光太郎に変身を促していたが、後半ではこのプロセスが見られなくなった。
前述の通り、光太郎は第53話でウルトラバッジを空の彼方に投げてウルトラの母に返している{{efn|name="バッジ"}}{{efn|内山のコミック版『ウルトラマンレオ』客演時には本作品の第53話での設定が継承されているが、光太郎はウルトラバッジなしでタロウに変身している。詳細は[[マグマ星人#漫画版]]を参照。}}。
* 台本を含め、「ウルトラバッ'''ヂ'''」と表記されることもある。
* デザインはウルトラの国を意識している{{R|企画書}}。
* 企画段階では「ウルトラの心臓を守る」という意味も込め、光太郎の左胸のちょうど心臓の真上の部分に装着することになっていたが{{R|別冊てれびくん|企画書}}、{{要出典範囲|篠田が実際に着用したところ、バッジがかなり大きくて演技の立ち振る舞いに不便であると指摘したために変更された|date=2020-10-20}}。
* 撮影終了後は篠田に贈呈された{{R|UPM vol.1118}}。
=== 変身方法 ===
ウルトラバッジを右手に持ち、両腕を左右に開いて、額に当てて{{efn|篠田は「悪に勝つ」と願いを込めていた{{R|オール・ザットタロウ79|UPM vol.1118}}。}}から天にかざして「タロウー!」と叫んで変身する{{efn|名前を叫ぶ描写は第10話から。当初は気合や、無言でバッジを掲げるだけだった。この一連の動きは、篠田の考案によるもの{{Refnest|group="出典"|{{R|タロウタロウタロウ39|オール・ザットタロウ79|UPM vol.1118}}}}。なお、ヒーロー名を叫んで変身するパターンは、後発のウルトラヒーローに引き継がれている。}}。このパターンが基本だが、変身ポーズを省略したことも何度かあった。また、第43話ではモットクレロンが飛ばしてきたと思われる大根を左手に持ち、そのままバッジを持った右手と頭上でクロスするという珍妙な変身場面もあった。
=== 技 ===
; ストリウム光線{{R|必殺技SG24|UPM vol.118}}
: タロウが最も多用した必殺光線。
: 開いた右手を頭上に翳し、同時に左手を腰に当てる。両手に重ねてスパークを起こし、腰に添えて大気中の宇宙エネルギーを全身に吸収する。そして、右手に上げた左手を重ねてT字型に構えて左手全体から発射する{{R|必殺技SG24}}。場合によっては、いきなりT字型のポーズを取る。
: 当初は技の発動時に「ストリウム光線!」と声を発しており、エネルギー充填時に身体が虹色に光っていたが、第23話を最後に見られなくなった{{efn|第23話以降は掛け声がなかったが、掛け声のみ第42話から再び使用されている。}}。当時の雑誌設定には技の上達によって光らなくなったと解説されていたが、『ウルトラマンメビウス』以降の作品ではこれらの描写が復活した。
: 他のウルトラ戦士の光線技と違い、連射が可能。Aのメタリウム光線の倍以上の破壊力を持つと言われ{{R|超技56}}、ウルトラ戦士の中でもトップクラスの威力を誇る{{R|怪獣大全集}}<ref>1995年発売の『ウルトラマングレート大研究』のビデオ</ref>{{efn|『ウルトラマンメビウス』第29話では、メビウスのメビュームシュートはインペライザーの左肩を破壊する程度だったが、タロウのストリウム光線はインペライザーの上半身を完全に破壊した。}}。
: 内山の漫画版『ウルトラマンレオ』では、レオのエネルギーを借りて左側に反対の構えで並んだ彼と2人同時に放つ'''ダブルストリウム光線'''を用い、[[マグマ星人#漫画版|ウルトラキラーゴルゴ]]を倒している。
: 『[[ウルトラマンタイガ#映画|劇場版 ウルトラマンタイガ ニュージェネクライマックス]]』では、グリムドに憑依されていたことから闇のエネルギーが加わり、光線の色が変化した{{R|タイガ超全集61}}。タイガのストリウムブラスターとぶつかり合った。
:; ネオストリウム光線{{R|超技56|UPM vol.118}}
:: ストリウム光線の強化版。腕をX字形に組んで発射する{{R|超技56}}{{efn|書籍『ウルトラマン白書』では、名称を'''ストリウム光線B型'''と記載している{{Sfn|白書|1982|p=70}}。}}。テンペラー星人を倒した。
; アロー光線{{R|超技59|UPM vol.118}}
: ウルトラホーンのわきからエネルギーをくさび形光線{{Sfn|完全超百科|2004|p=38}}にして飛ばす。素早く繰り出せるので、繋ぎ技として使う。[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#わんぱく宇宙人 ピッコロ|ピッコロ]]と[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#うろこ怪獣 メモール|メモール]]に使用。
; ブルーレーザー{{R|超技57|UPM vol.118}}
: ウルトラホーンから放つ青い破壊熱線{{Sfn|完全超百科|2004|p=38}}。別名'''ホーンレーザー'''{{R|超技57|タイガ超全集61}}。[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#噴煙怪獣 ボルケラー|ボルケラー]]の口から引き出した胃袋、[[タイラント (ウルトラ怪獣)|タイラント]]の鞭、[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#なめくじ怪獣 ジレンマ|ジレンマ]]の舌を焼き切った。
: 『劇場版 ウルトラマンタイガ ニュージェネクライマックス』では、グリムドに憑依されていたことから光線の色が赤く変化した。ロッソとブルを一撃で瞬殺した。
; シューティングビーム{{R|超技58|UPM vol.118}}
: 両手先から放つエネルギー光線。[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#ねこ舌星人 グロスト|グロスト]]や、[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#エフェクト宇宙人 ミラクル星人|ミラクル星人]]のビー玉で凍った[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#緑色宇宙人 テロリスト星人|テロリスト星人]]を倒したが、[[テンペラー星人#『ウルトラマンタロウ』に登場するテンペラー星人|テンペラー星人]]には無効だった破壊光線タイプ{{R|超技58}}(爆発タイプ{{R|UPM vol.118}})と、[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#らくがき怪獣 ゴンゴロス|ゴンゴロス]]と[[グランドキング]]に大ダメージを与えた麻痺光線タイプ{{R|超技58}}(麻痺タイプ{{R|UPM vol.118}})が存在。
; ハンドビーム{{R|超技59|UPM vol.118}}(スカーレットビーム{{R|超技59}})
: 手先にエネルギーを集中させ、断続的に放つ赤い破壊光弾{{Sfn|完全超百科|2004|p=38}}。第16話で[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#笛吹き怪獣 オカリヤン|オカリヤン]]を倒した。
; フット光線{{R|超技57|UPM vol.118}}
: ジャンプして、スワローキックのポーズで両足から赤色光線を撃ち出す。第23話で[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#蜃気楼怪獣 ロードラ|ロードラ]]の首と腕を跳ね飛ばしたが、すぐに再生されてしまったために通用しなかった。
; クロス光線{{R|超技59|UPM vol.118}}
: 腕をクロスさせて高速回転し、周囲にエネルギー波を放射する。第37話で[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#醜悪星人 メドウーサ星人|メドウーサ星人]]に憑依された森山隊員のスーパースワローを墜落させた。
; 反重力光線{{R|超技57|UPM vol.118}}
: 第8話で[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#大蛙怪獣 トンダイル|トンダイル]]が沼の底に蓄えていた球体を浮かび上がらせた腕から放射する反重力。
; タロウカッター{{R|超技59|UPM vol.118}}
: 腕を十字に組んで発射する、2連の三日月型のカッター光線{{Sfn|完全超百科|2004|p=38}}。一度に2発発射され、敵を切り裂いて戻ってくる{{R|必殺技SG234}}。第34話でテンペラー星人の両手を切り飛ばした。
; ビーム手裏剣{{R|超技59|UPM vol.118}}
: 右手に破壊エネルギーを集中させ、手裏剣状ビーム{{Sfn|完全超百科|2004|p=38}}を作り出して投げつける。第47話で[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#宇宙怪獣 ゴルゴザウルス二世|ゴルゴザウルス二世]]を倒した。
; ワイプレーザー{{R|超技57|UPM vol.118}}
: 第7話で[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#大ガニ怪獣 ガンザ|ガンザ]]の泡攻撃で泡まみれになった時に使った光線。帯状の光線で全身を包み、泡を洗い流した。
; 成長停止能力{{R|超技57}}(成長停止光線{{R|UPM vol.118}})
: 第7話でガンザの腹から生まれた子蟹に当てた光線。巨大化しないよう、成長を停止させた。
; リライブ光線{{Refnest|group="出典"|{{R|怪獣大全集|超技58|UPM vol.118}}}}
: 生命エネルギーの治癒能力や活性化を有する光線。トンダイルに捕らえられた人々の意識を回復させ、負傷した[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#鳥怪獣 フライングライドロン|フライングライドロン]]の子怪獣の羽根を治癒し、壊れた[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#アンドロイド聖子|アンドロイド聖子]]を宇宙の星に再生するなど、活躍の場が多かった。
; アイ・ビーム{{R|超技58|UPM vol.118}}(ウルトラスコープ{{R|超技58}}){{efn|書籍『ウルトラマン白書』では、名称を'''透視光線'''と記載している{{Sfn|白書|1982|p=71}}。}}
: 両目から透視光線を放ち{{R|必殺技SG234}}、隠れた敵を探し出したり、怪獣の体内を透視する。イエローガスに隠れた[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#食葉怪獣 ケムジラ|ケムジラ]]、姿を消したゴルゴザウルス二世を発見したほか、空気を溜め込んで膨らんだ[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#木枯し怪獣 グロン|グロン]]の体内を透視して体内で空気が渦巻いているのを確認したり、ゴンゴロスの本体の核を発見した。
; タロウバリヤー{{R|超技64|UPM vol.118}}
: 体の周囲にエネルギービームで{{Sfn|完全超百科|2004|p=40}}光の壁を発生させて攻撃を防ぐ。バリヤーを出したまま多少は前進または後退することも可能で、[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#狐火怪獣 ミエゴン|ミエゴン]]の火炎をしばらく防いだあと、突然解除することで敵のバランスを崩し、その隙にスワローキックを決めた。『[[ウルトラマンギンガ]]』ではダークルギエルの光線を防ぐ際に使用したが、ギンガに自身のエネルギーを与えたことに加え、ルギエルが光線を重ねてきたために破られた。
; プッシュリターン光線{{R|超技57|UPM vol.118}}
: 半球状の光線バリヤー。敵の攻撃を防ぐだけでなく、バリヤーを前に押し出すことも可能。アリンドウの蟻酸とボルケラーのガスを押し出した。
; タロウスパウト{{R|超技65|UPM vol.118}}(タロウハリケーン{{R|超技65}})
: 「タロウスパウト!」の叫びとともに、体を高速スピンさせて竜巻を発生させる。第23話でロードラを竜巻に巻き込んで吹き飛ばし、空中で爆破させた。
; ウルトラシャワー{{R|超技67|UPM vol.118}}{{efn|書籍『ウルトラマン白書』では、名称を'''ウルトラ水流'''と記載している{{Sfn|白書|1982|p=71}}。}}
: 両手先から水流や消火液を噴射する。第19話と第28話で火災を鎮火したほか{{efn|後者はガス状であることから、ウルトラマンAと同じ「消化フォッグ」と呼称された文献{{Full|date=2013年10月}}も存在する。}}、第41話では落書きから生まれたゴンゴロスの体を濡らして手で拭き消した。第9話では[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#大羽蟻怪獣 アリンドウ|アリンドウ]]にも浴びせている。
; ウルトラフリーザー{{R|超技64|UPM vol.118}}
: 「ウルトラフリーザー!」の掛け声とともに、熱エネルギーをマイナス変換させて両手先から放射する絶対零度のエネルギー。[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#液体大怪獣 コスモリキッド|コスモリキッド]]と[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#再生怪獣 ライブキング|ライブキング]]を2体同時に凍らせたほか、[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#冬眠怪獣 ゲラン|ゲラン]]も凍らせている(この時はガス状だった)。
; タロウファイヤー{{R|超技65|UPM vol.118}}
: 体内の熱エネルギーを火炎に変換させて、両手から放射する。1000メートル以上の射程を誇る。第31話で[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#お化けキノコ|お化けキノコ]]を焼き払った(小さいキノコが1本だけ残っており、これが[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#きのこ怪獣 マシュラ|マシュラ]]になった)。
; ウルトラダイナマイト{{Refnest|group="出典"|{{R|怪獣大全集|超技66|タイガ超全集61|UPM vol.118}}}}
: タロウ単体では最大の破壊力を誇る必殺技<ref>{{Cite web|和書|title=登場ヒーロー{{!}}ウルトラマンタロウ|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/anime/ulden2012/sp/chara/index.html|work=ウルトラマン列伝|accessdate=2022-2-20}}<!--更新日は確認できませんでした。--></ref>。自分の体に体内エネルギー{{R|必殺技SG234}}を充満・放出させ、自らを燃え上がらせて[[爆弾]]にして相手に突っ込んでいく自爆技。相手もろとも大爆発したあと、タロウは自身の再生能力(上述のようにウルトラ心臓が無事なら再生できる)で復活する。
: 本編では自分の優しさを踏みにじった[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#目つぶし星人 カタン星人|カタン星人]]を倒す際に使ったが、再生に成功しても多大なエネルギーを消耗して寿命を縮めるために封印した。しかし、『ウルトラマンメビウス』第30話で[[ウルトラマンメビウスの登場怪獣#無双鉄神 インペライザー|インペライザー]]を倒すため、『ザ・ウルトラマンメビウス』でも[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#目つぶし星人 カタン星人|カタン星人]]の別個体を倒すため、封印を破った。1回使用しただけでタロウの寿命が20年短くなるという<ref>『週刊 ウルトラマン OFFICIAL DATA FILE』No.71-4</ref>。
: 映画『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』では応用し、[[ウルトラマンベリアル]]によって奪われたプラズマスパークの残された最後の光を命懸けで守り、ウルトラマン、ウルトラセブン、ウルトラマンメビウスに後を託した。
: 『ウルトラマンメビウス』では爆発の際の肉片を見せないように爆発を派手にし、木っ端微塵になるように演出されている{{Sfn|アーカイブ・ドキュメント|2007|p=75|loc=「ウルトラマンメビウス白書 [[鈴木健二 (特撮監督)|鈴木健二]]」}}。
: 『劇場版 ウルトラマンタイガ ニュージェネクライマックス』ではグリムドに放つが、肉体の再構成時にグリムドに憑依された。闇墜ち状態で放った際には炎の色が紫に変化し{{R|タイガ超全集61}}、タイガのウルトラダイナマイトとぶつかり合い、最初はタイガを圧倒したが彼の仲間たちの協力によって逆転、正気に戻った。
; タロウジャンファイヤー{{R|超技67}}(ファイヤーダッシュ{{R|超技67|UPM vol.118}})
: タロウの体に充満させた熱エネルギーを放射して一気に飛ばし、灼熱の火炎で敵の体を焼き尽くす能力。ストリウム光線の通じないアリンドウにウルトラシャワーを浴びせてからこれを使って倒した。
; スワローキック{{R|超技61|UPM vol.119}}
: 空中回転して落下重力で強化した両足で放つキック技。変身直後や格闘戦で頻繁に用いられる。そのまま両足で挟むバージョンもある。ミエゴンを倒した。
; ウルトラキック{{R|超技61|UPM vol.119}}
: 全エネルギーを足に集中し、集中的に敵の弱点に浴びせるスピーディなキック。ムルロアの頭部を蹴り飛ばしたほか、映画『ウルトラマン物語』ではウルトラ5兄弟のエネルギーを吸収して「スーパーウルトラマン」と化した状態から、右足を赤熱化させた「スーパーウルトラキック」を、グランドキングに放っている。
; 空中キック{{R|超技61|UPM vol.119}}
: 空中に飛び上がった後、横向きになって回転の勢いを利用して両足で繰り出すドロップキック{{R|必殺技SG234}}。ゴンゴロスに対して使用し、地面に叩きつけた。
; ひざ蹴り{{R|超技63}}(膝蹴り{{R|UPM vol.119}})
: 敵の腹部や脇などの柔らかい部分をめがけ、強烈なひざ蹴りを何度も打ち込む技。パンドラやムルロアなどに繰り出し、骨や内臓にダメージを与えた。
; アトミックパンチ{{R|超技62|UPM vol.119}}
: 強靭な肉体をいかしたパンチ攻撃。「タロウ爆弾パンチ」の別名を持つ{{R|必殺技SG234}}。[[原子爆弾]](爆弾100個分{{Sfn|完全超百科|2004|p=38}})と同じ威力を持つと言われ、[[メフィラス星人#『ウルトラマンタロウ』に登場するメフィラス星人|メフィラス星人(二代目)]]の腹に大穴を開けたほど。巨大化の勢いで飛行しながらアトミックパンチを放つ'''フライングアトミックパンチ'''{{R|超技62|UPM vol.119}}もあり、オカリヤンにダメージを与えた。
; 急降下パンチ{{R|超技62|UPM vol.119}}
: 空高くジャンプした後、両手の拳を握り合わせて相手の頭に叩きつけるパンチ。高所から落下する勢いをプラスすることで、破壊力を増大させる。メドウーサ星人の頭部に叩きつけて、多大なダメージを与えた。
; ウルトラチョップ{{R|超技63|UPM vol.119}}
: 主に相手の急所めがけて打ち込む手刀技で、一撃で巨大な隕石を真っ二つにする。
; ハンドナイフ{{R|超技63|UPM vol.119}}
: 空高くジャンプした後に繰り出す手刀技。[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#不死身怪獣 リンドン|リンドン]]の首を切断した。
; 脳天割りチョップ{{R|超技63|UPM vol.119}}
: 相手の頭上から打ち込む強烈なチョップ。マシュラやベムスター(改造)に浴びせた他、「首投げ」で大地に叩きつけたゴンゴロスに連続で叩き込んでダメージを与えた。
; ウルトラパワー{{R|超技67|UPM vol.119}}
: 全体内エネルギーを放出{{Sfn|完全超百科|2004|p=39}}させて全身を虹色に光り輝かせ、一瞬のうちに超パワーを発揮する。再生エレキングの角を引き抜いた。
; ウルトラパワー{{R|超技63|UPM vol.119}}
: 上記とは別の技。第50話で球状になったガラキングを、バレーボールのサーブのように右腕で力一杯叩きつけ、宇宙空間に追いやった。
; ウルトラスウィング{{R|超技60|UPM vol.119}}
: 倒れた相手の体を掴み、大きく振り回してから遠くの地面に叩きつける大技。アストロモンス、ジレンマ、パンドラ、マシュラ、タイラント、サメクジラなどを放り投げた。
; ウルトラスロー{{R|超技60|UPM vol.119}}
: 敵の尻尾を掴んで何度も大きく振り回して1000メートル先へ投げ飛ばすウルトラスウィングの応用技{{R|必殺技SG234}}。第45話でメモールを宇宙に投げ飛ばした。また、ボルケラーを頭上に担ぎ上げたまま高速回転し、その勢いを利用して宇宙空間に放り投げた技もある。
; 首投げ{{R|超技60|UPM vol.119}}
: 相手の首を締めつけ、敵が怯んだ隙に力いっぱい一本背負いで地面に叩き落とす技。[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#大亀怪獣 クイントータス|クイントータス]]などに繰り出した。同様に相手の腕や腰などを掴んで引き倒す技もあり、こちらもコスモリキッドをはじめとする多くの敵に使用した。
; 背負い投げ{{R|超技60|UPM vol.119}}
: 相手を背負うように高く担ぎ上げ、一気に地面に投げ落とす強力な投げ技。シェルターなどを投げ飛ばしたが、ガンザを投げようとした際は掴んだハサミが取れて失敗に終わっている。また、相手を両肩に担いで放り投げる技もある。
; 巴投げ{{R|超技60|UPM vol.119}}
: 相手の体をつかんだまま後ろに倒れ込み、両脚で相手の腹部を蹴り上げ、後ろに投げ飛ばす大技。アストロモンスやジレンマ、トンダイル、ムルロア、サボテンダー(改造)、マシュラ、ゲラン、メモール、ベロン、ガラキング、ドロボン、サメクジラなどに放った。
; 岩石落とし{{R|超技60|UPM vol.119}}
: 相手を頭上高くまで担ぎ上げ、体を回転させることで勢いを付けて素早く投げ落とす荒技。変身すると同時に、ベロンを担ぎ上げて投げ飛ばした。
; ウルトラリフター{{R|超技60|UPM vol.119}}
: 頭上に担ぎ上げた相手を遠方へ放り投げた技。サボテンダー(改造)やゲランなど、多くの怪獣に使用した他、ZATのAZ1974が取りつけられたムルロアを投げ飛ばして空中で爆発させたこともある。
; ウルトラ念力{{R|超技64|UPM vol.118}}
: 強力な念力を放つ。第14話で[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#えんま怪獣 エンマーゴ|エンマーゴ]]の剣で首を切り落とされ、上述の自己再生能力とお地蔵様の加護で復活したタロウが念力を放ち、油断しているエンマーゴの首をはねた。『ウルトラマンギンガ』では、スパークドールズの姿でも使用できる数少ない能力の1つである。
; トゥインクルウェイ{{R|超技59|UPM vol.116}}
: 腕をクロスさせて放射するエネルギーで、タロウをウルトラの国に導く道を生み出す。映画『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』でメビウスやダイナも使用。
; ウルトラ6重合体{{Sfn|超技全書|1990|p=99}}{{R|UPM vol.1111}}(ウルトラオーバーラッピング、ウルトラ・シックス・イン・ワン{{R|必殺技SG234}})
: タロウを基本体としたウルトラ5兄弟との合体。ウルトラタワー内部の「正義の炎」を通り抜けるために使用。『ウルトラマン物語』ではウルトラホーンに6兄弟のエネルギーを集めることで合体を果たし、スーパーウルトラマン{{efn|第25話の合体にスーパーウルトラマンに近い状態として{{R|完全ガイド}}。}}となった。
; ボール作戦{{R|超技65|UPM vol.116}}
: 少年が持っていたウルトラマンボール(投げると2つに割れてパラシュートが出てくる玩具のボール)を利用した戦法。ミクロ化してボールの中に隠れ、それを少年に投げてもらうことで敵に接近。敵の眼前でボールから飛び出して敵の体内に侵入し、巨大化して内部から粉砕する。ダミーのテンペラー星人を倒した。本物との戦いではウルトラ6兄弟全員がボールの中に入り、少年たちに投げてもらうことで6人全員が敵に接近してからの登場に成功した。
; 塩漬け作戦{{R|超技66|UPM vol.118}}
: 塩の入った巨大な樽を出現させ、そこに[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#食いしん坊怪獣 モットクレロン|モットクレロン]]を押し込んで塩もみすることで、養分を塩に吸い取らせて元の小さな怪獣に戻した。
; 餅つき作戦{{R|UPM vol.118}}
: 巨大な杵を出現させ、[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#うす怪獣 モチロン|モチロン]]を臼として餅を搗いて戦意を喪失させた。
; 豆まき作戦{{R|UPM vol.118}}
: 節分の豆が入った升を出現させ、[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#きさらぎ星人 オニバンバ|オニバンバ]]に豆を投げつけてダメージを与えた。
; ウルトラリバース{{R|UPM vol.1111}}
: 光太郎の状態で人間と一時的に一体化する。ウルトラ6兄弟共通の特殊能力。
; ヒーロー光線(本編未使用){{R|必殺技SG140}}
: 額のビームランプから放つ溶解光線{{R|タロウ超全集91|必殺技SG140}}。企画書での設定ではエネルギーを激しく消耗する{{R|企画書}}。内山まもるの漫画作品では幾度か使用している。
; ガッツニードル(本編未使用){{R|必殺技SG140}}
: 拳から放つ、針状の連射光線{{R|タロウ超全集91|必殺技SG140}}。
; ウルトラ噴流(本編未使用){{R|必殺技SG140}}
: 両手を合わせ、6色の煙を噴射する{{R|タロウ超全集91|必殺技SG140}}。
; ダッシュワープ(本編未使用){{R|必殺技SG140}}
: 惑星から惑星に瞬間移動する{{R|タロウ超全集91|必殺技SG140}}。
==== 他作品への出演時に見せる能力 ====
; コスモミラクル光線{{R|UPM vol.1111}}
: 『ウルトラマン物語』で使用。ウルトラ6兄弟の力をウルトラホーンに集め、普通状態の数十倍の戦闘力を持つ{{R|完全ガイド}}スーパーウルトラマンになったタロウが放った宇宙最強の光線。
; タロウショット{{Sfn|超技全書|1990|p=106|loc=「幼い頃のタロウ」}}{{R|UPM vol.116}}
: 『ウルトラマン物語』で少年時代に見せた、両腕をL字型に組んで発射する光線。岩石を砕くほどの破壊力しかない。一部資料では「ワイドショット」と表記される{{Sfn|ウルトラ怪獣大全集|1984|p=99|loc=「タロウの特訓!」}}。成長に伴い、ストリウム光線を習得したために使用しなくなった。
; トリプルスピンビーム{{R|超技97}}
: 映画『[[ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団]]』で使用した、ウルトラマンやセブンとの合体技。「トリプルスピンビーム!」と叫んで肩を組んで回転しながら、敵のエネルギーを中和させるアンチエネルギー波を放つ。怪獣帝王[[ゴモラ (ウルトラ怪獣)|ゴモラ]]のキャッチビームを無力化した。
; ウルトラフラッシャー{{R|超技97}}
: 『ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団』で使用。「ウルトラフラッシャー!」と叫び、ウルトラマンのスペシウム光線やセブンのエメリウム光線とともに、ストリウム光線を同時に撃つ合体技。トリプルスピンビームで無力化したキャッチビームを破壊し、中に閉じ込められていたハヌマーンを救出した。
; 必殺光線一斉発射{{R|超技97}}
: 複数のウルトラ戦士が光線技を一斉に発射する。
: 『ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団』ではゾフィー、セブン、ジャック、エースの光線とともにストリウム光線を放ち{{R|超技97}}、ゴモラを攻撃した。
: 映画『[[ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国]]』ではデルストの大群を倒した{{Sfn|ゼロTHE MOVIE超全集|2011|pp=46-47}}。
; ウルトラチャージ{{R|必殺技SG234}}
: 映画『[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]]』で使用した、緑色の光エネルギーを他のウルトラ戦士に分け与える能力。Uキラーザウルス・ネオと戦うメビウスやウルトラ兄弟の救援に現れた際、両腕からウルトラマンとセブンのカラータイマーに向けて放って回復させた。
; 三日月状光弾(名称不明)
: 右手から放つ三日月状光弾。OV『[[ウルトラマンメビウス外伝 ゴーストリバース]]』で牽制技として使用。
; スーパーウルトラダイナマイト{{R|タイガ超全集68}}
: 『[[ウルトラギャラクシーファイト|ウルトラギャラクシーファイト ニュージェネレーションヒーローズ]]』で使用した、ウルトラダークキラーを倒した技。ウルトラ5兄弟からエネルギーを分け与えられ、パワーアップした状態で使用。
=== 装備・道具 ===
; タロウブレスレット{{R|UPM vol.119}}{{efn|企画書「ウルトラマンスター」や「ウルトラマンジャック」では2つのブレスレットを所有しているとの記述が存在し、「ウルトラマンジャック」や番組資料「ウルトラマンジャック(仮題)」では両腕にブレスレットをはめたデザイン画が掲載されている{{Refnest|group="出典"|{{R|企画書|タロウ197326|オール・ザットタロウ98}}}}。「ウルトラジャック」でのみブレスレットを所有しておらず、その代わりとなる能力ウルトラポケット(右手で佐々木小次郎が剣を抜くようなアクションをこなすと、右肩から爪先まで伸びたストライプから武器が出現する)の記述が存在{{R|企画書}}。}}
: タロウが左腕に嵌めている、ウルトラハードスチールでできた<ref>『週刊 ウルトラマン OFFICIAL DATA FILE』No.83-3</ref>攻撃機能を持つ小型ブレスレット。コスモリキッドに対して使用した小型で両刃の鋭い槍・'''ブレスレットランサー'''{{R|超技69|UPM vol.119}}('''ウルトラランサー'''{{Sfn|白書|1982|p=70}}{{R|怪獣大全集}})に変化する他、オカリヤンの口を封じるために使用されたリング状の光線・'''セット光線'''{{R|超技69|UPM vol.119}}(リング光線{{Sfn|完全超百科|2004|p=40}}){{efn|1989年に発売されたビデオ『ウルトラビッグファイト増刊号1 ウルトラファミリー大集合』(SVS-24)では、名称を'''ウルトラジャマー'''として紹介している。}}を放つ。劇中では2度使用されている。ブレスレットを変化させたのがランサーのみであったため、「タロウブレスレットは一度しか使用されていない」とする文献{{R|画報上}}もある。
: 『ウルトラマンレオ』第34話に客演したウルトラマンジャックは、ウルトラブレスレットではなくこのタロウブレスレットを装着していた。
; キングブレスレット{{R|UPM vol.119}}
: 直径:1.6メートル 厚さ:55センチメートル 重量:3.5トン
: 第19話でウルトラの母から授かった、ダイヤモンドの1000倍の硬度を持つウルトラ・メタリックガード超合金製のブレスレット。宇宙科学技術局が開発した{{R|タロウ超全集95}}。本体部のサークルクロスに、太陽エネルギーを吸収する王冠状のクラウントップやその中央のエネルギーコントロール装置であるウルトラ・パワーダイヤ、エネルギー放出機のウルトラ・バルブスターなどの様々なメカが搭載されている{{R|タロウ超全集95}}。
: タロウのテレパシーを感知して変形させることで口輪やマジックハンド、水の入った[[バケツ]]に姿を変える他、ブレスレットリライブ光線やドライヤー光線を放ったり、タロウバリヤーを発動するなど数々の能力を持つ。
: 後のシリーズ客演時には一度も使用されていないが、映画『[[大決戦!超ウルトラ8兄弟]]』の初期プロット「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟2」では使用している{{R|超8}}。
: 本来はゾフィーが対バードン戦で使用する予定だったとも言われている{{R|タロウ超全集95}}。
:; 口輪作戦{{R|超技68|UPM vol.119}}
:: ブレスレットを巨大化させて[[バードン (ウルトラ怪獣)|バードン]]の嘴にはめ、締め付けて火炎攻撃を封じた。グロンの口を塞いだこともある。
:; 放電能力{{R|超技68|UPM vol.119}}
:: ブレスレットを敵に投げつけて、敵に命中すると同時に大電流を流す。バードンに数回ダメージを与えて撤退させた。
:; 分身作戦{{R|超技68|UPM vol.119}}
:: ブレスレットの力で2体に分身する。飛行しながらバードンに使用し、撹乱させて大熊山に激突させて倒した。
:; 再生能力{{R|超技68|UPM vol.119}}
:: ブレスレットからリング状のリライブ光線を放ち、ハンターに殺されたチンペを生き返らせた。また、[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#カンガルー怪獣 パンドラ|パンドラ]]の傷も癒した。
:; タロウバリヤー{{R|超技68|UPM vol.119}}
:: 上記の技とは異なり、ブレスレットから半球状のバリヤーを発生させる。メフィラス星人(二代目)の「アイリスレイ」を防いだ。
:; ウルトラチェーン{{R|超技68|UPM vol.119}}
:: ブレスレットの力でロープを金属の鎖に変え、電流を流す。再生エレキングの弱点の角に絡めた縄を鎖に変え、全身のパワーを全開させる「ウルトラパワー」で角を引き抜いた。
:; 毒素消去能力{{R|超技68|UPM vol.119}}
:: ブレスレットから放射する解毒光線。マシュラの毒でキノコ人間にされた人々を元に戻した。
:; ドライヤー光線{{R|超技68|UPM vol.119}}
:: ブレスレットから放射する高熱エネルギー{{Sfn|完全超百科|2004|p=40}}。熱に弱いマシュラを倒した。
:; ウルトラ解凍{{R|超技68|UPM vol.119}}
:: ブレスレットから高熱を発し、氷を溶かす。グロストに凍らされたタロウを解凍した。
:; クリスマスツリー{{R|超技68|UPM vol.119}}
:: ブレスレットの念力波{{Sfn|完全超百科|2004|p=40}}で東京タワーに飾りをつけてクリスマスツリーに変えた。第38話で使用。
:; ウルトラランス{{R|超技68|UPM vol.119}}
:: 別名・タロウランス{{R|怪獣大全集}}。ブレスレットの力で{{efn|タロウ自身の念力<ref>CD-ROMソフト『ウルトラマン図鑑2』([[講談社]]・1997年)の『ウルトラマンタロウ』「基本設定・特殊能力」の「ウルトラランス」解説文p.1.</ref>や特殊能力<ref>『ウルトラマン大辞典』([[中経出版]]・2001年)p.59.</ref>で光の槍に変化させたと解説した資料も存在する。}}、タイラントから奪った鞭を光の槍に変えて投げつけて突き倒した。
:; サクラ{{R|超技68|UPM vol.119}}
:: ブレスレットの念力波{{Sfn|完全超百科|2004|p=40}}で開花した桜の枝を作り出した。第41話で使用。
:; バケツ{{R|超技68|UPM vol.119}}
:: ブレスレットが変形した、水の入った青いバケツ。酔っ払って暴れる[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#酔っぱらい怪獣 ベロン|ベロン]]に水をかけて酔いを醒ました。
:: このバケツは[[2006年]]に発売されたウルトラ超合金のタロウ、[[2013年]]に発売された[[ULTRA-ACT]]のウルトラの母におまけとして付属{{efn|ウルトラの母の場合は別売りのタロウに使用するおまけとして。}}。
:; マジックハンド{{R|超技68|UPM vol.119}}
:: ブレスレットが変形したマジックハンド。[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#歌好き怪獣 オルフィ|オルフィ]]のへその中に隠れた[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#宇宙怪人 カーン星人|カーン星人]]をつまみ出した。
; ウルトラベル{{R|UPM vol.1111}}
: 厳密に言えばタロウの装備ではないが、[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#宇宙大怪獣 ムルロア|ムルロア]]との戦いで使われた。ウルトラの国のウルトラタワーに収められている奇跡の鐘。無限のエネルギーを秘め、鳴らすことで神秘の力を発揮する。ウルトラ長老が作り上げたもので、3万年前に[[エンペラ星人]]の怪獣軍団がウルトラの国を襲った際、ウルトラベルの奇跡で撃退したと言われている。ウルトラタワーの「正義の炎」に守られているため、タロウはウルトラ兄弟と合体してスーパーウルトラマンになってベルを入手。ムルロアの吐き出したアトミックフォッグに覆い尽くされた地球をベルの奇跡で黒煙を打ち払った。ゲーム『ウルトラマン Fighting Evolution Rebirth』では敵を小さくしたり、相手の体力を減らすといった効果もある。
=== 生い立ち ===
学年誌での設定に基づく{{Sfn|ウルトラ博物館|2003|p=33-45|loc=「ウルトラ五兄弟が教えるウルトラマンタロウのおいたち」}}が、すべてが現在も活かされているとは限らない。
; 誕生
: 誕生時は元気な大きい赤ん坊で、その大きな泣き声にウルトラの父もウルトラの母も驚いた。光の国では子供の成長が早いが、タロウの場合は顕著だった。生後2週間で歩けるようになり、さらに1カ月後には喋れるようにもなった。イタズラ好きでウルトラの父にゲンコツされるとすぐに泣き出した。
; 子供時代
: 従兄のセブンとはよく一緒に遊んでいて、セブンとは歳が3,000歳しか違わなかったためにいい遊び相手だった。タロウは力が強くて少し乱暴な子で、心配したウルトラの父が宇宙から善良な怪獣(ラビドッグではない。永岡書店ピコピコブックス14『激闘!ウルトラ大怪獣』(円谷プロ監修・竹内博構成)の用語集では「ドックン」とあり、タロウの訓練相手でもあった)を連れて来て育てさせると、タロウはこれをとてもかわいがり、これがきっかけで優しい子供になった。遊びが大好きで空中公園のガキ大将でもあり、他の子供たちにも人気があった。8歳の時、12トンもある石を持ち上げたことがある。
; 学生時代
: 約3,000年前、学校に入学。ウルトラの父と母の実子とあって勉強と体操が得意で、勉強を皆に教えてやったこともあり、子供オリンピックの飛行競争で優勝経験がある(地球にはこのころ、遠足で一度訪れている)。学科は平均して成績優秀で特にロボット学と宇宙怪獣学を得意とし、合計点は750点。また、一番に卒業している。この時の校長はゾフィーだった。
; 卒業後
: 技を磨くため、様々な惑星を訪れては凶悪怪獣と戦った。L・P星雲で体重が200万トンもある嫌われ者の怪獣デスガドンを倒し、[[アンドロメダ星雲]]で怪獣ダイヤキングを捕らえて宇宙墓場に連れていった。
; 現在
: プラズマ核融合装置にいた時、怪獣ギロンガを倒した。その活躍を見ていたゾフィーからウルトラ6番目の弟に選ばれ、地球に派遣されることになった。そして、テレビシリーズの展開に繋がっていき、現在に至る。
=== デザイン・造型 ===
デザインは[[井口昭彦]]{{R|白書90|UPM vol.114}}。セブンの姿をベースとし{{efn|M78星雲のウルトラ族には、[[ウルトラマン#ウルトラマン|ウルトラマン]]や[[ゾフィー (ウルトラシリーズ)|ゾフィー]]のような銀色を基調としたシルバー族、セブンのように赤色を基調とするレッド族の2パターンがあるとの雑誌での設定があり、タロウはレッド族に属する。}}、セブン同様、額のビームランプと大きな突起を持つ。ウルトラホーンはウルトラの父の角が好評であったことから取り入れられた{{R|白書90|UPM vol.114}}。デザイン画では、耳の後ろから後頭部にかけて段差が存在し、最初期に作られたスーツには画稿どおりの段差があったが、以降の造型では省略されている{{sfn|オール・ザットタロウ|2016|pp=101、147}}。胸には[[カラータイマー]]を備えている。
マスクの原型は、『[[ゴジラ]]』などの石膏班スタッフだった照井栄が[[開米栄三|開米プロ]]の依頼を受けて製作した。照井によれば「頭(マスク)が大きいので170センチ以上あるスーツアクターを入れてほしい」とプロデューサーの熊谷に伝えたとのこと<ref>{{Cite book|和書 |date =2016-08-27 |publisher =[[洋泉社]] |title =別冊[[映画秘宝]] 特撮秘宝 |volume =Vol.4 |page=113 |isbn=978-4-8003-1005-7}}</ref>。
姿が似ていることから俳優・[[京本政樹]]が、本作品の第40話と『ウルトラマンレオ』第1話のセブンの着ぐるみは、タロウの着ぐるみを改造して使用されたため、その名残で耳が付いていないと著書『京本政樹のHERO考証学』(1992年、[[バンダイ]]){{要ページ番号|date=2021年7月}}で述べている。だが、昭和末期に発行された円谷プロファンクラブ会報誌{{要ページ番号|date=2021年7月}}に「アトラクション用セブンに電飾をした物」と記述されている。
初期のスーツは、スーツアクターの身長に合わせるための暫定的処理として、スーツの膝部分に繋ぎ目があった{{R|UPM vol.116}}。中期からは目の全体が黄色に変更され、スーツの赤も濃くなり、繋ぎ目もなくなった{{R|UPM vol.116}}。後期からは以前よりも胸の筋肉が強調していると思われ、カラータイマーや目の電飾などの発光用電池が左脇に内蔵された{{R|UPM vol.116}}。
=== 関連する能力を持つ戦士 ===
; [[ウルトラマンギンガS#ウルトラマンギンガストリウム|ウルトラマンギンガストリウム]]
: ウルトラマンギンガは、ウルトラ6兄弟の力を宿したストリウムブレスでこの形態に変身する。
; [[ウルトラマンオーブ#形態|ウルトラマンオーブ バーンマイト]]
; ウルトラマンオーブ ストリウムギャラクシー
; [[ウルトラマンR/B#形態(ロッソ)|ウルトラマンロッソ フレイム]]
; [[ウルトラマンR/B#形態(ブル)|ウルトラマンブル フレイム]]
=== 他作品での活躍 ===
『ウルトラマンメビウス』以降の作品では主に[[石丸博也]]が声を充てている。本項では特に記載がなければ石丸が声を担当。
; 映画『[[新世紀ウルトラマン伝説]]』
:* 声:なし
: 他のウルトラ戦士とともに、天空魔と戦った。
:
; 映画『[[新世紀2003ウルトラマン伝説 THE KING'S JUBILEE]]』
:* 声:なし
: 他のウルトラ戦士とともに、[[ウルトラマンキング]]の誕生日を祝福。
:
; 『[[ウルトラマンメビウス]]』
: 第1話(イメージのみ)、第24話、第29・30話、第50話、[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟|劇場版]]、OV『[[ウルトラマンメビウス外伝 ゴーストリバース]]』に登場。
: 本作品の最終回(第53話)で人間・東光太郎として生きることを選び、その後も地球での生活を続けていたが、上述のように物語開始=メビウスが地球防衛に就く20年前(1986年)に[[ヤプール人|ヤプール]]を封印した[[ウルトラマン#ウルトラマン|ウルトラマン]]、セブン、[[帰ってきたウルトラマン#帰ってきたウルトラマン(ウルトラマンジャック)|ウルトラマンジャック]]、[[ウルトラマンA#ウルトラマンA|ウルトラマンA]]の4兄弟に代わって光の国に帰還{{Refnest|group="出典"|{{R|教官|パンフレット|ムービーガイドブック|メビウス8| メビウス&兄弟超全集|ひみつ図鑑|アーカイブドキュメント53}}}}。セブンの後を継いで宇宙警備隊の筆頭教官に就任し、後進の指導に当たっている{{efn|劇場版の企画段階では、「光太郎の姿で水族館の学芸員としての日々を送っている」という設定で登場予定だったが、篠田が出演しなかったために設定変更された<ref>『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』のDVD封入の作品解説書「ULTRMAN MEBIUS & ULTRA BROTHERS GUIDE BOOK」<!--ページ数表記なし--></ref>。なお、脚本を担当した[[長谷川圭一]]は、本作品の第53話での設定が活かされていると考えていなかったため、件の4兄弟同様の設定(変身能力を失って地球での生活を余儀なくされた)で登場予定だった可能性が高い。}}。メビウスも教え子の1人であり、タロウも彼同様に地球での戦いを通して大きく成長を遂げた。また、件の4兄弟やゾフィーとともにウルトラ兄弟の中でも伝説的存在とされる「'''ウルトラ6兄弟'''」の1人にカウントされている<ref>「ウルトラマンメビウス超全集」p60「ウルトラマンメビウス大辞泉 / ウルトラ6兄弟」</ref><ref>『ウルトラマンメビウス外伝 ゴーストリバース』STAGE.1封入の作品解説書<!--ページ数表記なし--></ref>。
: 劇場版ではUキラーザウルス・ネオ出現時、ゾフィーとともに登場。メビウスや件の4兄弟にエネルギーを分け与え、Uキラーザウルス・ネオと戦った。第24話でヤプール復活を察知してメビウスの救援に向かおうとしたが、ゾフィーによって制止を受ける。
: 第29・30話で地球に迫る脅威を察知したウルトラの父からの命により、メビウスが来たるべき戦いのための力を蓄えるまでの間、代わりに再び地球防衛に就くこととなった。しかし、メビウスがGUYSの思いを受けて[[ウルトラマンメビウスの登場怪獣#無双鉄神 インペライザー|インペライザー]]を倒したのを見て彼らの絆と成長を認め、メビウスに引き続き地球で戦うことを許した。
: 第50話では件の4兄弟、レオとアストラ、ウルトラマン80と協力し、[[エンペラ星人]]の力で太陽を覆い尽くしていた黒点を消滅させた。
: 『ゴーストリバース』では、[[怪獣墓場]]にてエース、メビウス、ウルトラマンヒカリとともに、復活した暗黒四天王(ヤプールの怨念が乗り移ったメビウスキラー、デスレム、グローザム、アーマードメフィラス)と戦い、エンペラ星人復活を阻止した。
: 着ぐるみは新規造型{{Sfn|アーカイブ・ドキュメント|2007|p=85|loc=「メビウス世界の匠たち CHAPTER3 造型」}}。マスクの造型には[[ウルトラマンマックス]]でのノウハウが取り入れられており、マックスでは実現できなかった目の真ん中に覗き穴を開けた形状での発光が可能となっている<ref>{{Cite book|和書 |editor = [[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]編集部|others = [[円谷プロダクション]] 監修 |date = 2006-10-30 |title = [[ウルトラマンマックス]] マックス!マックス!マックス!怪獣大画報 |series = [[ファンタスティックコレクション]] |publisher = [[朝日ソノラマ]] |page = 67 |chapter = Design! Design! Design! [[丸山浩 (デザイナー)|丸山浩]]編 |isbn = 4-257-03735-0}}</ref>。
: 第29話はゾフィーが登場する予定だったが、ゾフィーの立場が確定していなかったためにタロウに変更された{{R|メビウス8}}{{Sfn|アーカイブ・ドキュメント|2007|p=68|loc=「ウルトラマンメビウス白書 [[佐野智樹]]」}}。
: また、本作品での「宇宙警備隊の筆頭教官として後進の指導に当たっている」「ウルトラ6兄弟の1人にカウントされている」という設定は以降の作品にも継承されている{{Refnest|group="出典"|<ref>「てれびくんデラックス 愛蔵版 大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE 超全集」(小学館・2009年)p29「ウルトラマンタロウ」</ref><ref>「大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE Visual File」(角川書店・2010年)p33、34</ref>{{Sfn|タイガ超全集|2020|p=36|loc=「ウルトラマンタロウ」}}}}。
:
; 映画『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』
: [[ウルトラマンベリアル]]復活時、(返り討ちにされたが)宇宙警備隊訓練生を率いて真っ先に立ち向かった。ベリアルの攻撃からウルトラの父とウルトラの母を庇い、ベリアルがプラズマスパークタワーからエネルギーコアを奪った後、残されたわずかな光をウルトラダイナマイトの応用技で守りながら凍結した{{efn|その光はウルトラマン、セブン、メビウスがベリアルに立ち向かう時に託されている。}}。そして、[[ウルトラマンゼロ]]がベリアルを倒してエネルギーコアを取り戻したことで復活した。
:
; 映画『[[ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国]]』
: アナザースペースに旅立つゼロに他のウルトラ戦士とともにエネルギーを与えた後、光の国を襲撃したダークロプス軍団を迎え撃つ。
:
; 『[[ウルトラマンギンガ]]』
:* 声:石丸博也 / [[松本健太]](少年時代)
: レギュラーキャラとして登場。他のウルトラ戦士とともにスパークドールズにされたが、辛うじて自我を残しており、降星町で出会った礼堂ヒカルたちをサポートする。会話やある程度動くことができる他、ウルトラ念力やテレポートを駆使する。自身が元の姿に戻れないことを「早く大きくなりたーい」と嘆く{{efn|台詞はED後のミニコーナー「スパークドールズ劇場」(第1 - 6話まで)ではオチに使われることがしばしばで、タロウ不在でもオチ担当としてネタにされている。第6話では、回想シーンに幼少期のタロウが登場している。第2部(第7 - 10話)では「次もレッツ・ウルトライブだ!」のセリフで締めている。}}、力尽きた際に布団で寝たり正座で卓袱台の前に座るといった一面を見せるなど、コミカルな一面も見せる。
: 第11話(最終回)で、降星町の人々の手に出現したギンガライトスパークの力で復活し、ダークルギエルと戦った。自身の敗北と引き換えに光をギンガに分け与え、ダークスパークの力で人形に戻されるが、復活したギンガによってルギエルが倒された後は、怪獣たちやギンガとともに宇宙に帰っていった。
:
; 『[[ウルトラマンギンガS]]』
: 『ウルトラマンギンガ』第11話のダークルギエルとの戦いの後、宇宙をスパークドールズの状態で彷徨っていた。『ウルトラマンギンガS』の前日譚である『[[ウルトラマン列伝|新ウルトラマン列伝]]』第54話で地球の新たな危機をギンガからのウルトラサインで知り、ウルトラ5兄弟から力を授かった上で地球に向かう。
: 『ウルトラマンギンガS』第3話で負傷を押して戦おうとするヒカルの前に現れ、ウルトラ6兄弟の力を[[ウルトラマンギンガS#登場アイテム・その他用語|ストリウムブレス]]という形で授けた。[[ウルトラマンギンガS#ウルトラマンギンガストリウム|ギンガストリウム]]が使用できるタロウの技はストリウム光線とブルーレーザーで、ストリウム光線が6兄弟の技の中で最も使用頻度が高い。ストリウムブレスに変身後もヒカルやショウ / ウルトラマンビクトリーと何度も会話し、2人を激励する。
: ビクトルギエルを倒した後、「君が呼べばいつでも助けに来る」とヒカルに告げて再び宇宙の彼方に去っていった。
: 後日譚である『[[劇場版 ウルトラマンギンガS 決戦!ウルトラ10勇士!!]]』では登場していないが、ゼロからその存在について言及されている{{efn|ゼロにヒカルやショウのことを話していた。}}。
;
; 『[[ウルトラマンオーブ]]』
: 直接登場していないが、かつてマガグランドキングを封印していた。第2話でマガグランドキングがウルトラマンオーブに倒された際、タロウの力はフュージョンカードとしてクレナイ・ガイの手に渡った。第3話以降、オーブがバーンマイトに変身する時にイメージとして登場。
: 最終回(第25話)では他のウルトラ戦士とともに、フュージョンカードの絵柄で実体化(タロウ本人が登場したわけではない)。彼らやオーブとともに、ストリウム光線でマガタノオロチに止めを刺した。
:
; 『[[ウルトラマンジード]]』
: 第1話と劇場版に登場。
: 第1話では他の兄弟やゼロ、宇宙警備隊訓練生とともにベリアルと戦った。劇場版ではジャグラス ジャグラーの回想にのみ登場し、宇宙警備隊訓練生とともにギルバリスと戦った。
: この他、ウルトラマンジード ロイヤルマスターが第17話でブラザーズシールド、第18話でストリウムフラッシャーを使用した際にそれぞれ、イメージとして登場。
:
; 『[[ウルトラマンR/B]]』
: タロウ本人は登場していないが、火のエレメントを宿したタロウクリスタルが登場。湊カツミがウルトラマンロッソ フレイム、湊イサミがウルトラマンブル フレイムに変身する際や、2人がウルトラマンルーブに合身する際にそれぞれ、イメージとして登場。
:
; 『[[ウルトラマンタイガ]]』
: 第0話、第1話、第13話(イメージのみ)、第16話、[[ウルトラマンタイガ#映画|劇場版]]に登場。作品のメインヴィランである[[ウルトラマントレギア]]とは若いころからの親友であったことが判明する。
: 第0話では、ウルトラ兄弟(件の4兄弟とレオ)と怪獣兵器の戦い、メビウスとメカザムの交流、ゼロとカイザーダークネスの戦い{{efn|それぞれ映画『[[ウルトラマンサーガ]]』、『ゴーストリバース』、『[[ウルトラゼロファイト]]』の映像を流用。}}をタイガに見せ、ウルトラマンとしての心得を説いた。
: 第1話ではウルトラマントレギアと交戦。
: 第16話ではタイガの回想に登場。タイガにトレギアとともに共同開発したタイガスパークを授け、仲間とは何かを説いた。
: 劇場版では宇宙遺跡ボルヘスでトレギアと再会するが、既にトレギアからグリムドが離れていることを知って地球に駆けつける。タイガたちと戦うグリムドにウルトラダイナマイトを放つが、逆にそれを利用したグリムドに憑依されて闇に堕ちてしまう。タイガたちに襲いかかるが、タイガの放ったウルトラダイナマイトで正気に戻り、タイガにニュージェネレーションヒーローズの力を集めるように指示する。
; 『[[ウルトラギャラクシーファイト]]』
:; 『ウルトラギャラクシーファイト ニュージェネレーションヒーローズ』
:: ニュージェネレーションヒーローズに対してウルトラ6兄弟を代表する形で接しており、「頼もしい仲間が増えた」と彼らに期待を寄せた。また、ニュージェネレーションヒーローズとウルトラダークキラーとの決戦時、彼らの力をギンガストリウムに集めるように指示した。
:; 『ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀』
::* 声:石丸博也 / [[森久保祥太郎]](若き日のタロウ<ref>{{Cite web|和書|title=ULTRA GALAXY FIGHT THE ABUSOLUTE CONSPIRACY 【公式】『ウルトラギャラクシーファイト 大いなる陰謀』|url=https://m-78.jp/galaxy-fight/tac/|publisher=円谷プロダクション|accessdate=2020-10-23}}</ref>)
:: 悪に堕ちる前のトレギアとの交流が描かれる。
:; 『ウルトラギャラクシーファイト 運命の衝突』
::* 声:森久保祥太郎<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/471646|title=「ウルトラギャラクシーファイト」にウルトラフォース参戦、PVや声優発表|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-03-29|accessdate=2022-03-29}}</ref>{{efn|本作から過去作で石丸が演じていた時系列のタロウも森久保が演じるようになった。}}
:
; 『[[ウルトラマンZ]]』
: 第6話で回想に登場。ベリアルとの戦いでベリアルの左肩を負傷させていたことが明かされた(映像は新撮)。
: この他、タロウメダルが登場。ウルトラマンゼットがベータスマッシュに変身する際、イメージとして登場。
== 主な登場人物 ==
=== ZAT隊員 ===
; {{読み仮名|東 光太郎|ひがし こうたろう}}
: 本作品の主人公で、22歳{{Refnest|group="出典"|{{R|タロウ超全集30|企画書|UPM vol.1113}}}}の明るく活発な好青年。正義感が強く、生身で怪獣に飛びかかるというやや無鉄砲で破天荒な行動を見せる。
: 世界中を旅した後、白鳥船長のタンカーに便乗して日本に帰国。[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#オイル超獣 オイルドリンカー|オイルドリンカー]]や[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#宇宙大怪獣 アストロモンス|アストロモンス]]に立ち向かった勇気と行動力を評価されてZATに入隊後{{efn|name="ストーリー"}}、アストロモンスの攻撃によって瀕死の重傷を負ってしまったが{{efn|name="瀕死"}}、[[ウルトラの母]]とウルトラ5兄弟の導きでウルトラの国に運ばれてウルトラマンタロウと一体化して復活する{{efn|name="誕生"}}。
: 普段は恩人でもある白鳥船長の家に下宿しており、白鳥船長の子・さおりや健一とは本当の家族同然に仲がよく、健一からは兄のように慕われている。また、その明るく子供好きな性格でZATの仲間たちとも良好な人間関係を築き上げ、事件の渦中で知り合った子供たちとも心を通わせる。
: 元々はボクサー志望だったため、ZATに入隊後もボクシングジムに通い、朝のロードワークを欠かさず行っていた。第10話では、減量に耐えながら臨んだ日本アマチュア新人王戦で見事にKO勝ちした{{efn|ただし、以降はボクシング関係の描写が存在しない。「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟2」ではボクサーとして稼いでいた{{R|超8}}。}}。ボクシングは自分のため、最後の最後まで戦い抜くためにやっている{{efn|前者は第3話でボクシングジムのオーナー、後者は第10話でさおりからボクシングをやっている理由を尋ねられた際の発言。}}。
: 第53話で白鳥船長を失って心が荒んだ健一に真の勇気を示すと同時に、自身もタロウの力に頼らずに生きることを決意。ウルトラバッジをウルトラの母に返し{{efn|name="バッジ"}}、タロウに変身せずに[[バルキー星人]]を倒した後、ZATを退任して[[銀座]]の雑踏の中に消えていった{{efn|name=客演}}{{efn|name="最終回"}}。
: 『ウルトラマンメビウス』以降の作品にタロウが登場しているが、篠田が出演していないために光太郎は登場していないと同時にその後についても説明されていない。本放送終了後、学年誌ではウルトラバッジの返還時にタロウと分離していたと解説されていた{{refnest|「ウルトラファミリーひみつ大かいぼう」、『小学三年生』1979年8月号、p.68{{Sfn|学年誌|2017|p=112}}}}。
: 「ザ・ウルトラマンメビウス」{{efn|『メビウス』のテレビシリーズのDVDに封入されている、同作の前史となる書き下ろしイラストノベル。}}によると、物語開始=メビウスが地球防衛に就く20年前に[[ヤプール人|ヤプール]]を封印したウルトラ4兄弟に代わってタロウとして光の国に帰還している{{efn|その際、モロボシ・ダン=セブンは地球に留まることを予見しており、ウルトラの母から預かってきたウルトラバッジを光太郎に渡している。}}。しかし、「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟2」では光の国に帰還したのはタロウだけであり、光太郎はハヤタ=ウルトラマンからウルトラバッジ(ウルトラの母から預かってきた)を受け取って分離していた設定だった{{efn|児童養護施設「ウルトラの家」を経営しており、同施設の子供たちを置いていけなかったため、タロウとの分離を決意した{{R|超8}}。}}{{R|超8}}。
:* 企画書では姓の読みが'''あずま'''だった{{R|企画書|UPM vol.114}}。
:
; {{読み仮名|朝日奈 勇太郎|あさひな ゆうたろう}}
: 年齢42歳{{Refnest|group="出典"|name="ZAT"|{{R|タロウ超全集30|企画書|UPM vol.1114}}}}。ZAT極東支部の隊長{{R|UPM vol.1114}}。
: 第1話で光太郎の勇気と行動力を見込み、ZATに入隊させた。また、白鳥船長とは親友であり、これが縁で光太郎に白鳥家への下宿を命じた。
: 前夜に何を食べたかで出動メンバーを決めたり、第3話でコショウ1トンを使って光太郎を救出するなど、ユニークさも多く見せた。その一方、第5話では怪獣撃退を優先する地球警備隊のスミス長官とZATの鮫島参謀に真っ向から刃向かってイニシアチブを奪ったり、第35話では「女児が欲しがる物は何か」というところからカタン星人の罠を見破るなど洞察力に優れる一面が見せたこともあった。
: 様々な任務を抱えていたため、現場はおろか第9話以降は極東支部の作戦室にも姿をあまり見せなかった{{efn|作中において合計12回しか登場していない。}}。
: 男性隊員のユニフォームは胸のラインが赤に白の縁取りが施されているが、朝日奈(隊長)のみ黒に金(後に白)の縁取りである。
: 第19話で[[バードン (ウルトラ怪獣)|バードン]]の各地の被害によって、上層部との会議で厳しい叱責を受けていた{{efn|[[バードン (ウルトラ怪獣)|バードン]]がタロウとゾフィーを倒した後、肉類を主体に襲撃して被害が拡大したことが発端し、隊長の辞任をほのめかす発言もしており、本編中のセリフに明らかにその発言がある。}}。
: 第53話で光太郎が再び旅立っていく際、握手を交わして送り出した。
:* 企画書での名は{{読み仮名|'''橘 勇'''|たちばな いさむ}}{{R|企画書}}。
; {{読み仮名|荒垣 修平|あらがき しゅうへい}}
: 年齢29歳{{R|group="出典"|ZAT}}。朝日奈隊長に代わり、現場で部隊の実質的な指揮を執ることが多いZAT極東支部の副隊長{{R|UPM vol.1114}}。
: 鷹揚で懐の広い人物であり、的確な命令を下す判断力とそれらに裏打ちされた厚い人望を持つが、時折冗談を言ったりかわいらしい一面も見せる。髭を生やしていたり、第8話から[[サングラス]]をかけていたりした時期もあった。大食漢であり、それは第2話の作戦会議中に[[おにぎり]]と[[カレーライス]]を一緒に食べるほど。第50話を最後に宇宙ステーションに転任し、極東支部を離れた。第53話で光太郎と隊員たちとの別れ際、「荒垣さんにもよろしく」と存在に触れられていた。
: 第33・34話では、[[ウルトラマン#ウルトラマン|ウルトラマン]]が身体を借りた。
; {{読み仮名|二谷 一美|にたに かずみ}}
: 第51話から登場。宇宙ステーション勤務になった荒垣に代わって、極東支部に赴任してきた新副隊長{{R|UPM vol.1114}}。
: 涙もろく負けず嫌いで、第52話では副隊長は免除される隊員の体力テストを受けて若い隊員たちに威厳を見せつけようとひたすらマラソンやベンチプレスのトレーニングに勤しんでいる。
: わずか3話の登場だったが、第52話では[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#泥棒怪獣 ドロボン|ドロボン]]を倒す活躍をしており、隊長と副隊長の中では唯一スカイホエール、コンドル1号、スーパースワローの3機すべてに搭乗している(朝日奈と荒垣はスーパースワローのみ搭乗していない)。主にスーパースワローを指揮官機として好んで搭乗する。
; {{読み仮名|北島 哲也|きたじま てつや}}
: 年齢27歳{{R|group="出典"|ZAT}}。隊員のリーダー的存在で、副隊長の次に作戦指揮権がある{{R|UPM vol.1114}}。情報分析と、それに基づく兵器やマシンの開発を担当{{R|UPM vol.1114}}。
: 弁当は忘れても釣り道具は忘れたことがないほどの、大の釣り好き。兄弟がいるらしく、本人は長男だという。普段は東京都内のアパートで独り暮らしをしている。
: 第33・34話では、[[ウルトラセブン (キャラクター)|ウルトラセブン]]が身体を借りた。
:* 企画書では光太郎のライバル的存在として設定されていた{{R|企画書}}。
; {{読み仮名|南原 忠男|なんばら ただお}}
: 年齢22歳{{R|group="出典"|ZAT}}。九州・宮崎県出身{{R|UPM vol.1114}}。「太陽の子」を自称しており、それは伊達ではない明るい性格のムードメーカー。戦闘機の操縦や射撃の腕は一流{{R|UPM vol.1114}}。パトロールなどでは光太郎とコンビを組むことが多い。
: 実家に母親・たかがいる。また、第51話では許嫁の珠子と結婚した{{efn|他の作品でも隊員の婚約者が登場することはあったものの、劇中で明確に結婚のシーンが描かれたのは彼が初めてである。また、木村も撮影終了後に結婚している。}}。
: 第33・34話では、[[帰ってきたウルトラマン#帰ってきたウルトラマン(ウルトラマンジャック)|ウルトラマンジャック]]が身体を借りた。
; {{読み仮名|西田 次郎|にしだ じろう}}
: 年齢19歳{{R|group="出典"|ZAT}}。放電作戦が得意な若手隊員{{R|UPM vol.1114}}。一応は、第1話で入隊した光太郎の先輩であるが、年齢が自分より上の光太郎を兄貴分として慕っている。
: 第8話で宇宙ステーションV9に転任するが、第13話ではナビゲーターとして再登場。
; {{読み仮名|上野 孝|うえの たかし}}
: 年齢18歳{{R|タロウ超全集30|UPM vol.1114}}。第8話から登場し、西田隊員に代わって極東支部に赴任してきた最年少の隊員。
: 西田とは異なり、正真正銘の光太郎の後輩に当たるため、本人も光太郎のことを良き先輩(兄貴分)として慕っていた。第25話で[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#宇宙大怪獣 ムルロア|ムルロア]]をAZ1974で撃退する活躍を見せる。第35話をもって登場しなくなる。
: 第33・34話では[[ウルトラマンA#ウルトラマンA|ウルトラマンA]]が身体を借りた。
; {{読み仮名|森山 いずみ|もりやま いずみ}}
: 年齢18歳{{R|group="出典"|ZAT}}。ZAT極東支部の女性隊員。気配りがよい女性で、お茶やアイス、ガムを隊員に用意したりする。
: 主にオペレーション業務を担当し、情報処理が得意だが、戦闘機の操縦や白兵戦の腕も一級品{{R|UPM vol.1114}}。初めての実戦参加は第8話だが、その戦闘能力の高さは朝日奈をも驚かせ、以後は男性隊員の白兵戦を上空から支援するためにスカイホエールを駆ることも多い。
: 第11話では、光太郎の頼みで留守のさおりの代わりに白鳥家に泊まって家事を務めている。第38話で光太郎との婚礼を夢見ているという描写がある。
=== 白鳥家 ===
; {{読み仮名|白鳥 潔|しらとり きよし}}
: 年齢42歳{{R|企画書}}。第1話のみ登場。光太郎が日本に帰国する時に乗船した、大型タンカー「日日丸」の船長{{R|UPM vol.1112}}。白鳥姉弟の父親でもある。普段は世界を航海しているため、家にいないことが多い(第7話では[[ペルシャ]]に滞在)。妻は既に他界している。
: 臨時乗組員だった光太郎を正式雇用するつもりだったが{{R|UPM vol.1112}}、光太郎がこれを辞退したため、実現しなかった。朝日奈隊長とは親友であり、このことが縁で光太郎が白鳥家に下宿することとなる。
: 光太郎を日本に送り届けてから1年後となる第53話で、帰国途中に三浦半島沖で[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#海獣 サメクジラ|サメクジラ]]に殺された。
; {{読み仮名|白鳥 さおり|しらとり さおり}}
: 18歳→19歳{{Sfn|タロウタロウタロウ|1999|p=44|loc=「光太郎と健一の友情 ―年齢差を越えた名コンビ― / 誰がために戦う」}}。白鳥船長の長女である女子大生{{R|UPM vol.1112}}。弟の健一や居候の光太郎と3人で暮らし、母が既に他界しているため、家事をしっかり切り盛りする女性。ソフトボール経験があり、運動神経がいい。
: 光太郎に深い想いを寄せているが、光太郎が他の女性といることに対してヤキモチを焼いたり、森山隊員に対してライバル心を抱いたことがないなど、人間ができているような節がある。
: 第53話で光太郎が再び旅立っていったため、光太郎と結ばれることはなかった。
:* 企画時の名は'''かおり'''{{R|企画書}}。
; {{読み仮名|白鳥 健一|しらとり けんいち}}
: 白鳥船長の長男にして、さおりの弟でもある明朗快活で勇敢な小学5年生{{R|UPM vol.1112}}。
: 光太郎とタロウに憧れ、光太郎を兄のように慕っており、第28話では光太郎に頼まれて[[エレキング#『ウルトラマンタロウ』に登場するエレキング|エレキング(再生)]]捜索に協力している。光太郎との繋がりで、ZATの隊員たちとも親交がある。
: 成績はいいと言えないが、テストで85点を取ったことがある(第31話)。第27話では少年野球チーム・旭丘トパーズに所属している描写が描かれた。
: 家庭環境を憂鬱に思ったことはなく、潔が船長であることを誇りにしている。第53話で潔がサメクジラに殺されて心が荒んでしまったが、自分の力で困難に立ち向かう真の勇気を光太郎から教えられ、強く生きていく決意をした。
: 光太郎がタロウであることを確定的に知った、唯一の人物でもある。
: 演じた[[斎藤信也]]が実際に変声期だったため、次第に声が変わっていった。
:* 『大決戦!超ウルトラ8兄弟』の初期プロット『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟2』では、成人して登場していた{{R|超8}}。
=== その他 ===
; スミス長官
: 第5話に登場。地球警備隊・極東支部の長官{{R|UPM vol.1112}}。オロン島が彼が統括する区域にあることや、怪獣が産卵・繁殖して数が増えれば危険であること、船舶が既に撃沈されていることなどを理由にトータス夫妻への殲滅命令をZATに命令するも、全く聞き入れずに生かそうと主張するZATに「被害が出たら全責任はZATに負ってもらう」と怒り、「もうZATには頼まない」とZATの作戦を逆手に取った上で攻撃艦隊を差し向ける。そして、トータス夫妻がオロン島に戻ったのを見計らって総攻撃し、オロン島を沈没させた。
; 鮫島参謀
: 第5話に登場。腰巾着のようにZATにトータス夫妻攻撃を命じたが、反発して長官を怒らせたことに対して朝日奈を激しく非難。
; 大谷博士
: 第33・34話に登場。ZATに協力した宇宙権威の第一人者で、以前から[[テンペラー星人#『ウルトラマンタロウ』に登場するテンペラー星人|テンペラー星人]]の存在を認知していた。栄一という息子がいる。[[ゾフィー (ウルトラシリーズ)|ゾフィー]]に身体を借りられた。
; {{読み仮名|南原 たか|なんばら たか}}
: 第13話と第51話に登場。宮崎に住む南原隊員の母親。彼女の明るくハイテンションな性格は、忠男にも受け継がれている。タロウのことを「タロウさん」と呼んでいた。近眼であり、メガネをかけないと何も見えない。第51話で忠男の許嫁・珠子を連れて上京した。
== ZAT ==
{{読み仮名|'''ZAT'''|ザット}}とは、"'''Z'''ariba of '''A'''ll '''T'''erritory"{{efn|"zariba"は東アフリカなどで見られる、[[イバラ]]でできた畜産用の柵のことで、意訳すれば「地球すべての防御壁」といった意味。元は、『帰ってきたウルトラマン』のMAT以降の「防衛隊の名はアルファベット3文字」という慣例に従って単に語感のよさから命名されたもので、正式名や意味は後付け設定である。}}{{efn|'''Z'''ariba of '''A'''ll '''T'''erestrialの略という説もある{{Sfn|タロウタロウタロウ|1999|p=62|loc=「宇宙科学警備隊ZATとは? 【そのバック・グラウンド】」}}。}}の略で、地球外からの侵略行為に立ち向かう宇宙科学警備隊である{{R|UPM vol.1112}}。
本部は[[ニューヨーク]]の国連本部内に存在し、支部は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[アルゼンチン]](南米)、[[フランス]](フランス)、[[南アフリカ連邦]](アフリカ)、[[日本]](極東)、[[北極]]の6ヵ所にある。
後述のようにアットホームな雰囲気を見せ、ユーモラスな作戦を展開するが、戦闘力と知力を兼ね備えた精鋭であり、[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#液体大怪獣 コスモリキッド|コスモリキッド]]、再生前の[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#海象怪獣 デッパラス|デッパラス]]、[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#虫歯怪獣 シェルター|シェルター]]、[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#宇宙大怪獣 ムルロア|ムルロア]]、[[ベムスター#『ウルトラマンタロウ』に登場するベムスター|ベムスター(改造)]]、[[ベロクロン#『ウルトラマンタロウ』に登場するベロクロン|ベロクロン二世(改造)]]、[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#泥棒怪獣 ドロボン|ドロボン]]、[[バルキー星人]]といった強敵を撃破する実績をあげている。単独の巨大怪獣撃破数は、ウルトラシリーズの歴代防衛チームの中で[[ウルトラマン#科学特捜隊|科学特捜隊]](10体)に次ぐ戦果を挙げている。また、他の防衛チームでしばしば見られた隊員同士の対立の構図がほとんどなく、基地の司令室で飲食したり、将棋を指しているところが描かれたり、市民と草野球やバレーボールに興じたりと、明るくアットホームな雰囲気が貫かれた。
極東支部も各国と連携をとりながら、作戦行動を行っている。宇宙ステーションも複数存在する。
既述の通り、隊員の交代が多いが、同時に劇中の世界がこれまでのウルトラシリーズに比べて広がっている。第13話でZATが九州で演習を行う時、宇宙ステーションに転勤した西田隊員が連絡係として再登場。さらに第27話では、マンダリン草を探すために世界各地のZAT隊員が登場、航空機ドラゴンには通常のZAT制服とは異なる隊員が搭乗していたり、ZAT基地にも森山隊員の他に多くの女性隊員が勤務していた。さらに、第40話では木星にも宇宙ステーションが確認されている。放映開始時における一般男性隊員の苗字は、主人公である東を始め、西田・南原・北島と方角にちなんで命名されている。
また、第5話には地球警備隊が登場しているが、ZATとの詳しい関係性は不明。劇中では極東支部所属の戦力として、[[空母]]を含む艦隊が登場した。また、[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#大亀怪獣 キングトータス|キングトータス]]と[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#大亀怪獣 クイントータス|クイントータス]]が棲息していたオロン島を管理下{{efn|劇中では「領土」と呼ばれている。}}に置いている。
ZAT極東支部の一番の特徴は豊富な作戦である。個々の怪獣の特性を見極め、それぞれに対応する作戦を編み出して遂行していく。失敗も多いが、発想は実に柔軟である。
書籍『ウルトラ超兵器大図鑑』では、独自のSF的考証(本書注意書きより)でそれらの兵器はヤプール大戦中のTACの時代に盛んに行われた異星の技術研究から生まれたものであり、コンドル1号やスーパースワローの穴の開いた両翼は「重力制御コイル」という装備が搭載されているためと解説されている。
隊員たちは半年に一度、体力テストで審査される。これは科学的知識はもちろん、常に隊員たちが強靭な肉体を要求されるためである。ただし、隊長と副隊長は体力よりも指揮能力が問われるため、この審査は免除されている。
* 企画書や、放送開始前に作成されたマーチャンダイジング契約のための資料「ウルトラマンジャック(仮題)」では名称が宇宙科学警備隊としか記載されておらず{{R|企画書}}、3番目の企画書「ウルトラマンジャック」や「ジャック(仮題)」では「'''JAC'''」のロゴが掲載されている{{Refnest|group="出典"|{{R|企画書|タロウ197326|オール・ザットタロウ98}}}}。
=== 極東支部基地 ===
ZAT極東支部の所在地は、[[東京都]][[千代田区]][[霞ヶ関]]1丁目1番地1号にある{{R|企画書}}{{efn|現実世界におけるこの番地には、[[中央合同庁舎第6号館]](法務検察合同庁舎)がある。}}。
円盤状の基地本体部と、地下に置かれた各メカの格納庫、本体部と格納庫を繋ぐシャフト状のタワー部で構成されている。本体部には、隊員たちの司令室をはじめ、コンピューター制御室、応接室、兵器開発区、居住区、情報区、発進ゲートなどがあり、各航空戦力はタワー内部の回転式エレベーターで本体部までリフトアップされる。緊急事態の際は、本体部が底面からジェット噴射を行い空飛ぶ円盤として機能し、危機を回避することが可能(下部タワー部分は地下へ格納される)。この機能は本来、地下格納庫から直接発進するアンドロメダの打ち上げを妨げないためのものと思われるが{{Sfn|タロウタロウタロウ|1999|pp=74-75|loc=「ZAT基地」}}、第1話と第10話で怪獣に襲われた際にのみ使用された。
この基地の隣には、事務セクションのオフィスビルも存在する。
一般市民による本部の見学は可能だが、その際には1週間前までには申し出て怪獣や宇宙人が変身・憑依していないかのチェックを受けなければならない。
* デザインは鈴木儀雄が担当{{R|UPM vol.1230}}。企画時には宇宙科学警備隊という設定であったため、本体部が緊急時に離陸するのは宇宙ステーションを意識したものとなっている{{R|UPM vol.1230}}。
* 司令室のセットは『ウルトラマンA』のTACの改造で、追加パーツなどでさらに派手な方向性に展開された{{R|UPM vol.3729}}。
=== 装備 ===
ZATの装備品(航空機、車両、隊員服、武器など)には、曲線、曲面を多用したラインと、先端部に設けられた球状の突起といったデザイン上の一貫した特徴がある。
==== 隊員服 ====
白のラインが入った赤と紺の明るいイメージの配色のユニフォームで{{R|UPM vol.0331}}、上下セパレートタイプのつなぎ式。高い耐久・耐熱・耐寒性・防弾機能を持つが、光太郎の隊員服は激戦でボロボロになることが何度もあった。また、女性隊員の隊員服は赤と紺だけでなく、白も取り入れたミニスカートのワンピースタイプである{{R|UPM vol.0331}}。朝日奈隊長の物のみ、胸のラインが黒となっている{{R|マガジンVOL.232|UPM vol.1115}}。
* 娯楽作品であることを強調するために玩具的なイメージでデザインされたが、機能性がやや希薄になってしまった{{Sfn|新大全集|1994|p=93}}。また、布地には硬めのジャージが使用された{{Sfn|新大全集|1994|p=93}}。
==== 銃器類・特殊装備 ====
; ZATヘルメット{{R|UPM vol.1115}}
: 耐熱、耐圧性に優れており、頑丈なバイザーが装備されているほか、高性能通信機が内蔵されている。
:* 『[[緊急指令10-4・10-10]]』の電波特捜隊のヘルメットが改造されたものである{{Sfn|新大全集|1994|p=93}}。当初は、耳カバーの下部にアンテナが取り付けられていたが、撮影開始時にNGとなった{{Sfn|新大全集|1994|p=93}}。
; ZATシーバー{{R|UPM vol.1115}}
: 隊員たちが常に左腕に装備している腕時計型通信機で、非番の隊員もこれを使って本部との定時連絡を行っている。
:{{機動兵器
|名称=ZATガン
|全長=0.31{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1115}}
|重量=1,8{{nbsp}}[[キログラム|kg]]{{R|UPM vol.1115}}
}}
; ZATガン{{R|UPM vol.1115}}
: ZAT隊員が携帯する拳銃。小型ながら人間大宇宙人を一撃で爆破させるなど強力な破壊力を誇り{{R|マガジンVOL.232}}、スカイホエールなどの航空機が撃墜された後の地上戦など全編を通して活躍した。エネルギータンクを大容量化したことによって、攻撃の持続力がアップしたが、その反面銃身の重さが増加している。先端のカートリッジの付け替えによって実弾やレーザー光線、ガスなどの機能切り替えが可能だが、第6話ではレーザー光線でジレンマ、第17話では実弾でケムジラを巨大化させてしまっている。
:* 後に『[[プロレスの星 アステカイザー]]』に流用された{{Sfn|新大全集|1994|p=94}}。
; 携行用無反動砲
: 第2・3話で使用した先端の大型ミサイルを発射する単発式の大型無反動銃で、発射時の衝撃が体にかからない。別名・ZATブラスター{{R|マガジンVOL.232|UPM vol.1115}}。
; 大型機関砲{{R|UPM vol.1115}}
: 1秒に100発の弾丸を速射する大口径マシンガン。
; スーパーナパーム(火炎放射器{{R|UPM vol.1115}})
: 肩に背負った点火剤入りの燃料タンクと併用する[[火炎放射器]]で、長時間放射できる。第1話・3話で使用。
; X線レーダー
: 第2話で登場した電子装備。地上に設置した小型[[パラボラアンテナ]]から[[X線]]を放射し目標内部を透視する。ライブキングに飲み込まれた光太郎を探知した。
; ZAT探知機
: 第6話でジレンマの追跡に使用した装置。
; ZATマイティ{{R|UPM vol.1115}}
: 殺虫ガスだけでなく火炎放射、遠方への熱湯の噴射も可能。第9話でビルに巣食っていた大蟻を駆除するために使われたが、ノズルを溶かされてしまう。第14話で同じモデルの機関銃タイプが確認できる。
; [[地雷]]
: 第14話でエンマーゴ攻撃のために仕掛けた。
; ZAT手榴弾{{R|UPM vol.1115}}
: 第19話でバードンに対して使用した小型手榴弾。
; ZATバズーカ{{R|UPM vol.1115}}
: 第22話のパンドラ攻撃時に登場したバズーカ砲。大型だが、軽量で扱いやすくできている。
; [[王水]]銃{{R|UPM vol.1115}}
: 第23話で使用された大型王水銃。ロードラに対し、塩酸と硝酸の混合液である王水で攻撃したが、ロードラの逆襲によって逆に王水銃自体が溶けてしまい作戦は失敗した。
; トロン爆弾
: 第24話に登場した新型爆弾で、ヨーロッパの某国が開発した物であってZATの装備ではない。「人類終末兵器」と呼ばれるほどの凄まじい威力を持っており、実験の標的となったムルロア星は一撃で破壊された。しかし、この実験によってムルロア星の生物が突然変異を起こし、怪獣[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#宇宙大怪獣 ムルロア|ムルロア]]が誕生してしまった。
; AZ1974
: 第25話に登場した特殊爆弾。威力は絶大だが、未完成のために遠隔起爆などはまだできない。
; スプレー銃{{R|UPM vol.1115}}
: 第26話に登場した特殊銃。特殊な液体を噴射してムカデンダーが吐く糸を溶かした。
; 植物トランシーバー
: 第31話で登場した装置。植物の放つ電波を人語に翻訳する機能を持つ。
; ZATベル
: 第36話に登場した防犯用の装備。地面に落ちると大きな金属音を出す。
; ZAT特殊ガン{{R|UPM vol.1115}}
: 第42話に登場した銃。光太郎の後輩・島田がこれを使ってアンドロイド聖子を撃った。
==== 航空機 ====
各機の青い部分は初期はメタリックブルーであったが、後半は濃紺となった{{R|夢のかけら56}}。
* コクピットは、『帰ってきたウルトラマン』のマットアローのものの改造、大型機は『ウルトラマンA』のタックファルコンのものを流用している{{R|TVMAGA超8100}}。
:{{機動兵器
|名称=スカイホエール
|全長=60{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|全幅=54{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|全高=20{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|重量=50{{nbsp}}t{{R|UPM vol.1116}}
|最高速度=マッハ3.3{{R|UPM vol.1116}}
|乗員=6名{{R|UPM vol.1116}}
}}
; スカイホエール{{R|UPM vol.1116}}
: 「空飛ぶ鯨」の異名を持つ主力大型戦闘機で、前線では指揮・管制を司る移動司令室にもなる。また、兵器の空輸や偵察といった任務にも使われる多用途機である。下記の作戦に使われる装置は大抵この機で空輸され、2段の水平尾翼が外見上の大きな特徴となっている。大気圏離脱・突入と宇宙空間での航行、さらに垂直離着陸も可能で、機内の化学部分析室の合成機で即座に薬品調合や白酒の合成も行う{{R|マガジン202042}}。主武装はベロクロン二世(改造)を倒した機首のレーザービーム砲、両主翼下部にぶら下げている箱形のミサイル{{R|マガジン202042}} / ナパーム弾ランチャー、クレーン、この他にも機体下部より各種オプション兵装、装置などが格納可能という特長から、様々な作戦や作戦後の攻撃などの要になっている。
:* デザインの原型となった、コンドル2号が存在した{{Sfn|タロウ1973|2007|p=18|loc=「ZAT・メカニック(1)」}}。
:{{機動兵器
|名称=コンドル1号
|全長=20{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116|夢のかけら125}}
|全幅=23{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|全高=9{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|重量=22{{nbsp}}t{{R|UPM vol.1116}}
|最高速度=マッハ8.8{{R|UPM vol.1116|夢のかけら125}}
|乗員=2名{{R|UPM vol.1116}}
}}
; コンドル1号{{R|UPM vol.1116}}
: 主力高速戦闘機。劇中では「コンドル」と呼称される{{R|夢のかけら125}}。スカイホエールとペアでの出撃が多く、折り畳み可能のリング状の主翼が特徴的。偵察用カメラと高性能レーダーを搭載し、高度2万メートルまで飛行可能なため偵察任務にもよく使用されたが、大気圏離脱および宇宙空間の航行は不可能。自爆機能もあり、主力武装は機首のレーザー砲と主翼中央に付いているZATミサイル{{R|マガジン202042}}。この他にも作戦のために胴体下部にもオプション装備が可能。尾翼上部のミニコンドルは分離して自立飛行が可能(劇中未使用){{R|マガジン202042}}。
: 第37話では、2機登場している{{R|夢のかけら125}}。
:* 企画時は劇中と同様に「コンドル」という名称であった{{R|U168}}。
:* 主翼のカーブは、蒸気でベニヤを曲げて固めている{{R|U168}}。大、中、小の3種類のミニチュアのうち、木製の中サイズのものは、特撮監督の[[原口智生]]がベニヤや[[バルサ]]を削り出して修復している{{R|U168|夢のかけら56}}。初期はメタリックブルーであったが、約3回以上塗り直された後、円谷プロの倉庫に廃棄されかかっていた中サイズのミニチュアは濃紺になっていたといい、修復時に再度メタリックブルーに塗り直された{{R|U168}}。
:{{Clear}}
:{{機動兵器
|名称=スーパースワロー
|全長=19{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|全幅=17{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|全高=8{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|重量=22{{nbsp}}t{{要出典|date=2023年8月}}
|最高速度={{Plainlist|
* マッハ9.1{{R|UPM vol.1116}}
* マッハ1.1{{Sfn|白書|1982|p=160}}
}}
|乗員=1名{{R|UPM vol.1116}}
}}
; スーパースワロー{{R|UPM vol.1116}}
: 旋回性能に優れ、小回りのきく高性能小型戦闘機。長時間強力噴射できるロケットモーターで大気圏離脱や宇宙空間の航行、宙返りや背面飛行などアクロバティックな飛行も可能。固定武装は機体下部についているミサイル{{R|マガジン202042}}。
:{{Clear}}
:{{機動兵器
|名称=ドラゴン
|全長=12{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|乗員=2名{{R|UPM vol.1116}}
}}
; ドラゴン{{R|UPM vol.1116}}
: 第27話に登場した小型高速ヘリコプター。球状のボディのコクピットからの視界が広いため、主に捜索や偵察に使われた。機体上部の3枚のローターで上昇し、ジェットエンジンによる推力追加が可能{{R|マガジン202042}}。フロートが付いていて海上着水も可能。
:* ミニチュアは、『ウルトラマンレオ』の「マック特殊ヘリコプター」にリペイントされて使用された。
:* 当初のデザイン画は近未来的なデザインだった{{Sfn|タロウ1973|2007|p=20|loc=「ZAT・メカニック(2)」}}。
:{{機動兵器
|名称=アンドロメダ
|全長=167{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|全幅=32{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|乗員=8名{{R|UPM vol.1116}}
}}
; アンドロメダ{{R|UPM vol.1116|マガジンVOL.325}}
: 船体の周囲に3基のロケットエンジンを配置し、[[光子]]力エネルギーで飛ぶ宇宙航行用大型ロケット。ハイパーミサイル、プラズマミサイル、宇宙魚雷など多彩な武装を持ち、恒星間航行も可能。オープニング映像にのみ登場。
:{{Clear}}
:{{機動兵器
|名称=マゼラン
|全長=6.7{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|乗員=2名{{R|UPM vol.1116}}
}}
; マゼラン{{R|UPM vol.1116|マガジンVOL.324}}
: アンドロメダに搭載されている小型宇宙戦闘円盤。惑星調査のための小型着陸艇としての役割を持ち、宇宙戦闘機としても使用可能。玩具は発売されたが、オープニング映像にも未登場で、スチール写真のみの紹介となっている{{efn|{{独自研究範囲|一応、第42話ラストのアンドロイド聖子のその後の話で似たような円盤が写っているが、「マゼラン」とは呼ばれておらず、ZATのメカなのかも明言されていない。|date=2022年6月}}}}。
:{{Clear}}
==== 車両・潜航艇 ====
:{{機動兵器
|名称=ウルフ777
|全長=6.1{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|全幅=1.8{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|全高=1.86{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|最高速度=300{{nbsp}}km以上{{R|UPM vol.1116}}
|乗員=5名{{R|UPM vol.1116}}
}}
; ウルフ{{読み仮名|777|スリーセブン}}{{R|UPM vol.1116}}
: 地上攻撃用車両で、「動く要塞」とも称される{{R|マガジンVOL.232}}。単体での地上攻撃も可能な本車は、強力なウルフエンジンと原子力エンジンの併用により最高時速300キロメートル以上での走行も可能。車輪を倒すことでホバークラフトエンジンによる湖上や海上での走行が可能。超低温や高熱にも耐える車体{{R|マガジンVOL.232}}はバードンの火炎には耐えたが、メモールの火炎には焼かれてしまった。武装はウルフミサイル、ベータ光線砲{{R|マガジンVOL.232}}、機関砲、ウルフカッター。ラビットパンダと同じく放電装置を持っている。また高性能レーダーも搭載されており、パトロールにも用いられていた。
:* 撮影用車両は、3代目[[トヨタ・クラウン]]2ドアハードトップ(MS51型、前期型・基本グレード)がベース{{R|マガジンVOL.232}}。後年、『[[プロレスの星 アステカイザー]]』の敵組織・ブラックミストの車両「サタン・バット号」として黒色塗装を施されて流用されている<ref>{{Cite book|和書 |others = 監修 金田益実|date = 1998-05-30|title = [[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]SPECIAL ’70年代特撮ヒーロー全集 |publisher = [[朝日ソノラマ]] |page=181 |isbn = 4-257-03533-1 }}</ref>。
:{{機動兵器
|名称=ラビットパンダ
|全長=3.8{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|全幅=1.51{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|全高=2.75{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|乗員=2名{{R|UPM vol.1116}}
}}
; ラビットパンダ{{R|UPM vol.1116}}
: 小型特捜車。フロントノーズに高性能レーダーを装備するなど主にパトロール用車両やベースキャンプとして使われた。その奇抜でかわいらしいデザインらしからぬ強固な装甲を誇り、対怪獣用レーザー砲、バズーカ砲も搭載されているなど戦闘車両としても威力を発揮した{{R|マガジンVOL.232}}。強力な放電装置を搭載しており、電気を車体に流すことで敵の触手攻撃などを防ぐ{{R|マガジンVOL.232}}。
:* 撮影用車両は、[[ホンダ・バモス|バモスホンダ]]がベース{{R|マガジンVOL.232|夢のかけら125}}。
:* ミニチュアは大中小3種類存在する{{R|夢のかけら60}}。
:{{Clear}}
; ZAT専用車{{R|UPM vol.1116}}
: 宇宙人の追跡や偵察に使用される。武装はない。第26話から登場し、緑の[[三菱・ギャラン|三菱・コルトギャラン]]4ドアセダンが第34話まで使用されたが、テンペラー星人に破壊されたため、第35話以降は赤の[[三菱・ランサー]]が登場した。第29話では光太郎が帰宅時に搭乗。
:{{機動兵器
|名称=ベルミダーII世
|全長=23{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|全幅=5.6{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|全高=8{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|最高速度={{Plainlist|
* 90{{nbsp}}km/h(地上){{R|UPM vol.1116}}
* 60{{nbsp}}km/h(地中){{R|UPM vol.1116}}
}}
|乗員=4名{{R|UPM vol.1116}}
}}
; ベルミダーII世
: 『ウルトラマン』のペルシダーの後継車である[[地底戦車|地底戦闘タンク]]。第8話に登場。先端に装備された2基のドリルはダイヤの1万倍の硬さを誇る。ドリルは逆回転も可能。スカイホエールに搭載され現場に輸送される。他惑星でも活動可能とされる{{Sfn|白書|1982|p=161}}{{R|マガジンVOL.232}}。本編での武装は6連装式地底ミサイルだったが、オープニング映像では2基の大型ドリルミサイルが装備されている。
: なお、劇中の荒垣副隊長からは「'''ペ'''ルミダー2号」と呼ばれていた。書籍によっては、「ペルミダーII世」と記述している{{R|UPM vol.1116}}。
:{{Clear}}
; ZATバギー{{Sfn|タロウタロウタロウ|1999|p=79|loc=「ZATバギー」}}
: 第話と第13話で登場。移動用らしく戦闘には参加していない。
; オートバイ{{R|UPM vol.1116}}
: メモール戦で光太郎が搭乗したオフロードバイク。ジャンプ力が高い。
:{{機動兵器
|名称=アイアンフィッシュ
|全長=46{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|全幅=17{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|全高=31{{nbsp}}m{{R|UPM vol.1116}}
|最高速度={{Plainlist|
* 40ノット(水上){{R|UPM vol.1116}}
* 35ノット(水中){{R|UPM vol.1116}}
}}
|乗員=10名{{R|UPM vol.1116}}
}}
; アイアンフィッシュ{{R|UPM vol.1116}}
: 高性能研究用原子力潜航艇。ZAT唯一の水中戦力で深海魚のような姿をしている。武装は左右両舷に搭載されたスーパープラズマミサイルと、上部の超高圧放電装置。本部基地の地下格納庫に格納されている。水深2万メートルまで潜航可能。
: オープニング映像にのみ登場。玩具も発売されているが、本編には登場しなかった。
:{{Clear}}
==== 宇宙ステーション ====
; 宇宙ステーションV9
: 第8話で西田の転任先として名前のみが語られた。『ウルトラマンレオ』にも同名の宇宙ステーションが登場している。
; ZATステーションNo.S1009{{R|UPM vol.1116|マガジンVOL.327}}
: 第13話に登場。西田が赴任しており、九州で演習を行うZATの地上部隊を宇宙からサポートした。V9との関係は不明。
; ZAT第1ステーション{{R|UPM vol.1116}}
: 第29話に登場。月の軌道上を周回するZATの宇宙ステーションの一つで、ZAT本部の隊員たちとも親交があった佐野隊長が勤務していたが、ベムスター(改造)に奇襲され、ZAT本部からの救助も間に合わず丸呑みされてしまった。
=== 作戦リスト ===
以下は独自の作戦の例である。日用品などをモチーフとしたユーモラスな印象の作戦が多く、ZATの特色を出している。
; 電気ショック作戦
: [[ウルトラマンタロウの登場怪獣#宇宙大怪獣 アストロモンス|アストロモンス]]にスカイホエールから送電線を打ち込んで放電して電圧を上げたが、暴れだしたために無効だった。
; 放電作戦
: 川の中に電気を流し、生物を追い出す作戦。[[多摩川]]に潜む[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#液体大怪獣 コスモリキッド|コスモリキッド]]を追い出すことに成功した。西田の得意の作戦。
; 高圧パイプ作戦
: [[ウルトラマンタロウの登場怪獣#再生怪獣 ライブキング|ライブキング]]に飲み込まれた光太郎と健一の愛犬ポチを救うため、ライブキングの腹にコンドルから高圧パイプを打ち込んで穴を開ける作戦。穴を開けることには成功したが、肝心の光太郎やポチが出てこないうちにパイプを引き抜かれ、さらに腹に飲み込まれていたコスモリキッドが出てきてしまい失敗に終わった。
; コショウ作戦
: 朝日奈隊長が発案。ライブキングに飲み込まれた光太郎とポチを救うためにスカイホエールから1トンの[[コショウ]]をばら撒き、ライブキングに[[くしゃみ]]をさせて光太郎らを吐き出させる作戦。作戦は成功し、ライブキングはくしゃみとともに光太郎らを吐き出した。朝日奈は「(コショウ購入の)払いはZATでツケておけ」と準備中の電話でやり取りしていた。
; パンチ弾作戦
: 初の2対1の闘いで劣勢なタロウを救うべく、瞬時に敵を倒すために考案された作戦。タロウがこれを察し、ウルトラフリーザーでコスモリキッドとライブキングを凍結させた後、コスモリキッドをトゲ付き鉄球で砕いて倒した。
; バスケット作戦
: 朝日奈が、光太郎に差し入れられた弁当の入れ物となったカゴを見て発案。卵を取り戻したものの、自分たちで持てない[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#大亀怪獣 キングトータス|キングトータス]]と[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#大亀怪獣 クイントータス|クイントータス]]の代わりに卵を運ぶ。当初はトータス夫妻に口に銜えてカゴを運ばせようとしたが、代わりにスカイホエールでカゴをオロン島まで輸送した。しかし、トータス夫妻を生かすというZATの方針に激怒していた地球警備隊・極東支部のスミス長官から逆手に取られ、攻撃艦隊のオロン島総攻撃で島ごと沈没させられた挙句、ケガをしたトータス夫妻が凶暴化して日本に逆襲したことによって大失敗に終わった。
; 中和作戦
: [[ウルトラマンタロウの登場怪獣#なめくじ怪獣 ジレンマ|ジレンマ]]の吐き出す強力な酸に対し、スーパー[[アルカリ]]液を使用。タロウにかけられた[[酸]]を[[中和]]し、その抵抗力をもたらした。
; 蟻殲滅作戦
: ビルに潜むアリの大群をスカイホエールが[[ギ酸|蟻酸]]で誘き出し、コンドルが高圧電流(となっているが劇中では火炎放射にしか見えない)で焼き払う。しかし、作戦は失敗し、アリは合体して[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#大羽蟻怪獣 アリンドウ|アリンドウ]]が生まれてしまった。
; ミラー作戦
: 鏡に映った自分に反応する[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#海象怪獣 デッパラス|デッパラス]]に対し、各戦闘機が巨大な鏡をぶら下げて怪獣を埋立地に誘導。そこにある落とし穴に落としたところをミサイルの集中攻撃で倒した。しかし、一晩で再生し、再生後は作戦が通じなくなった。
; 虫歯治療作戦
: 水中ロケットが口に挟まってしまった[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#虫歯怪獣 シェルター|シェルター]]のためにスカイホエールがクレーンで水中ロケットを引き抜こうとしたが、間違ってシェルターの歯を抜いてしまい凶暴化。シェルターは最後にその水中ロケットで爆死した。
; 地雷作戦
: 頑丈な鎧で武装されている[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#えんま怪獣 エンマーゴ|エンマーゴ]]を、[[地雷]]で攻撃した。
; スプレー作戦
: 姿が見えない[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#狐火怪獣 ミエゴン|ミエゴン]]にスプレーガスを噴射し、色をつけて姿を明確にした。
; 手錠作戦
: 苦戦するタロウを援護するために[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#笛吹き怪獣 オカリヤン|オカリヤン]]の首と左手にスカイホエールとコンドルが強大な手錠をかけ、動きを封じた。
; トリモチ作戦
: [[チューインガム|風船ガム]]が顔にくっつくことをヒントに荒垣副隊長が考え出した作戦。[[バードン (ウルトラ怪獣)|バードン]]に大量のトリモチをかぶせて動きを封じようとしたが、[[行水]]をした直後で体が濡れていたため、しっかりくっつかず中途半端に終わった。
; 引っぺがし作戦
: 東京ニュータウンの地下に眠る怪獣を地上に引きずり出すため、地表面を覆うコンクリートを剥がす作戦。スカイホエールから地上へ巨大アンカーを打ち込み、引き剥がすことに成功する。地下にいたのは[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#蝉怪獣 キングゼミラ|キングゼミラ]]だった。
; ネット作戦
: 寿命が1週間のセミを保護するためキングゼミラに虫かご代わりにネットを放ち、命を保護した。しかし、[[日本のニュータウン|ニュータウン]]の住民がそのあまりにも凄まじい鳴き声に我慢できずに怒りを爆発させて、ネットを燃やしてしまった。
; ZATハリネズミ作戦
: 無数の時限ミサイルを[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#蜃気楼怪獣 ロードラ|ロードラ]]の体に次々打ち込み、ハリネズミのようにしてからいっせいに爆発させる。しかし、ロードラにはまったく効かなかった。
; 王水作戦
: ミサイルなどが効かず、車を溶かし続けるロードラを[[王水]]で逆に溶かす作戦。結局はロードラの反撃で放射器を溶かされて失敗した。
; AZ1974作戦
: 狭い範囲にのみ有効ながら水爆の3倍の威力を誇るという新型爆弾「AZ1974爆弾」を使った作戦。しかし発射装置や起爆装置などが完成しておらず、ムルロアの襲撃の関係でそれらを取り付ける時間も無かった。このため、発案者の上野隊員自らスカイホエールから怪獣に飛び移って時限爆弾ごと直接体にセットするという決死の作戦として実行することとなったが、作戦は見事に成功し、[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#宇宙大怪獣 ムルロア|ムルロア]]は粉々に砕け散った。
; 首吊り作戦
: スカイホエールとコンドルの間にチェーンを張って弱ってきた[[ムカデンダー]]の首に巻きつけて締め付けたが、怪獣は首と胴体を分離してこれを逃れた。
; アミアミ作戦
: [[メフィラス星人#『ウルトラマンタロウ』に登場するメフィラス星人|メフィラス星人(二代目)]]を生け捕りにするため、網を放った。原始的ながら逆に斬新な作戦だったが、破壊光線で破られて失敗した。
; 真っ二つ作戦
: 過去に現れた[[ベムスター]]を分析してウルトラブレスレットと同じ威力を持つ回転ノコギリを開発し、スカイホエールに装備して[[ベムスター#『ウルトラマンタロウ』に登場するベムスター|ベムスター(改造)]]に対抗する作戦。回転ノコギリはビルを真っ二つにする威力を発揮したが、ベムスターは[[ヤプール人#『ウルトラマンタロウ』に登場する巨大ヤプール|巨大ヤプール(改造)]]に強化されており、ノコギリが破壊されて失敗に終わった。
; エネルギー爆弾作戦
: ベムスター(改造)の腹の口がエネルギー吸収口であることを利用し、2種の爆弾を腹に打ち込んで内部で化学反応させ、その爆発で倒した。
; 薬品作戦
: 兵器が効かないお化けキノコ([[ウルトラマンタロウの登場怪獣#きのこ怪獣 マシュラ|マシュラ]]の素)を特殊薬品で攻撃したが、キノコの毒素と混ざった薬品が強力な毒液として変化、これを逆用され失敗に終わる。
; ベル作戦
: 失明したタロウに[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#目つぶし星人 カタン星人|カタン星人]]の位置を知らせるため、星人の首にベルをつけた。これでタロウに星人の位置を看破させ、撃破に貢献した。
; 白酒作戦
: 酒が大好きな[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#酔っぱらい怪獣 ベロン|ベロン]]を酔い潰すために、スカイホエール内で合成した[[白酒 (日本酒)|白酒]]を呑ませたが、飲みすぎてしまい、逆に泥酔して暴れ出した。
== 出演者 ==
=== レギュラー・セミレギュラー ===
* 東光太郎:[[篠田三郎]]
* 朝日奈勇太郎:[[名古屋章]](第1 - 8、10、35、51、53話)
* 荒垣修平:[[東野英心|東野孝彦]](第1 - 34、36 - 50話)
* 北島哲也:[[津村鷹志|津村秀祐]]
* 南原忠男:[[木村豊幸]]
* 西田次郎:[[三ツ木清隆]](第1 - 7、13話)
* 森山いずみ:[[松谷紀代子]](第1 - 19、21 - 42、44 - 53話)
* 上野孝:[[西島明彦]](第8 - 30、33 - 35話)
* 二谷一美:[[三谷昇]](第51 - 53話)
* 白鳥健一:[[斎藤信也]](第1 - 12、14- 33、38、40、43、47、53話)
* 白鳥さおり:[[朝加真由美|あさかまゆみ]](第1 - 12、14 - 16話)、[[小野恵子]](第20 - 53話)
* 緑のおばさん / ウルトラの母:[[ペギー葉山]](第1、3、19、20、24、53話)
* ナレーター:[[瑳川哲朗]](第1 - 50話、53話予告)、[[名古屋章]](第51 - 53話)
==== キャスティング ====
光太郎役に篠田が起用されたのは、彼が新たなウルトラマンシリーズの主役にふさわしいと考えたプロデューサー・橋本洋二の意向であり、撮影現場の雰囲気を知ってもらうための措置として『ウルトラマンA』第20話に篠田一郎役でゲスト出演させている{{R|DVD25}}。篠田はオーディションで選ばれたが、[[松平健]]も光太郎役のオーディションを受けていた{{Refnest|group="出典"|<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/20050217/dup.htm DUP、DVD「ウルトラマンタロウ」を5月から発売]</ref>{{R|DVD25|UPM vol.1118}}}}。本作品への出演が決定した篠田は『ウルトラマンA』第20話出演時に北斗星司役の[[高峰圭二]]が白いマフラーを巻いているのを見て自分も使用したくなり、本作品の撮影でもマフラーを使用することになった{{Refnest|group="出典"|{{R|タロウタロウタロウ39|DVD25|オール・ザットタロウ79}}}}。本作品の本放送時には[[日本放送協会|NHK]]の『[[天下堂々]]』でも主演を務めたため、終盤は出番の少ない回が存在する。
名古屋は『帰ってきたウルトラマン』でナレーションを担当。篠田同様、名古屋は橋本の指名で、副隊長を設定して名古屋を口説き落としたという{{R|TVMAGA超8100}}。名古屋も多忙だったため、最初から「毎回は出演できないと思うがそれで良ければ」という契約で、第1 - 8、10、35、51、53話(最終回)の計12回しか登場していない。第51話以降はナレーションも担当している。また名古屋は他のインタビューでは「私の子供が、ヒーローものを見ている世代だったので、子供に喜んでもらおうと、いわば、プレゼントみたいな気持ちで、引き受けました」とも語っている{{Sfn|大全集II|1987|p=245|loc=ウルトラシリーズSTAFF・CASTインタビュー}}。
東野は第50話の撮影終了後にスキーで脚を骨折して入院したため{{Sfn|タロウタロウタロウ|1999|p=71|loc=「CAST INTERVIEW 東野英心」}}、三谷が新登場(三谷も『帰ってきたウルトラマン』第22話でゲスト出演している)。東野は第49話や第50話でのアフレコにも参加しておらず、代わりに沢が声を担当。
三ツ木は主演作『[[白獅子仮面]]』の撮影がクランクアップした後に本作品に臨んだものの、『[[だいこんの花]]』『[[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]]』のレギュラーが入ったため、スケジュール調整が不可能になり降板。光太郎役の候補だった{{R|タロウ197326}}。
西島は所属事務所の方針で歌手に転向し、同じTBSの『[[ぎんざNOW]]』にレギュラー出演が決定したため{{Sfn|タロウタロウタロウ|1999|p=198|loc=「CAST INTERVIEW 西島明彦」}}、第35話を最後に降板。
あさかは本作品がデビュー作だが、当時の事務所との契約に従い第16話で降板したため{{Sfn|タロウタロウタロウ|1999|p=174|loc=「CAST INTERVIEW 朝加真由美」}}、第20話から小野に交代。
瑳川は『ウルトラマンA』で竜隊長を演じた。急病のために事実上降板し、第51話の予告から名古屋が代理を務めた{{efn|第52話は次回予告と次作『ウルトラマンレオ』の開始予告ナレーション、第53話は『レオ』の開始予告ナレーションのみ。}}。当初の台本(第2話)のスタッフ欄には、『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』でナレーションを務めた[[浦野光]]の名が記載されていた{{R|オール・ザットタロウ142}}。
白鳥船長役には、企画時は『[[ウルトラQ]]』で関デスクを演じた[[田島義文]]がキャスティング候補に挙がっていた{{R|企画書|UPM vol.114}}。
タロウのスーツアクターの長沢寛は、長身のスーツアクターを起用したいという要望から、同時期『[[ファイヤーマン]]』に扮していた[[西条満 (スーツアクター)|西条満]]が、同じ事務所に所属していた長沢を推薦した。西条は、激しいアクションシーンなど一部のシーンでタロウに扮している{{R|hiho.5}}。
=== 主なゲスト出演者 ===
* 白鳥潔:[[中村竹弥]](第1話)
* オイルタンク職員:[[野口元夫]](第1話){{efn|name="no"|ノンクレジット。}}
* ボクシングジム会長:[[寺内大吉]](第2・3話)
* 佐久間:[[桂小かん]](第4話)
* 黒崎:[[草薙幸二郎]](第4・5話)
* 八田:竹田将二(第4・5話)
* 白井:[[片岡五郎]](第4話)
* スミス長官:ピエロ・カラメロ(第5話)
* 鮫島参謀:[[大下哲矢]](第5話)
* 大羽次郎:[[矢崎知紀]](第8話)
* 大羽英次郎:[[外山高士]](第8話)
* 田中巡査:[[大泉滉]](第8話)
* 熊谷さん:[[熊谷健]](第8話){{efn|name="cameo"|[[カメオ出演]]。}}
* 平田俊夫:紺野秀樹(第9話)
* 平田秀一:石井宏明(第9話)
* アケボノビルのオーナー:[[富田仲次郎]](第9話)
* 建設会社責任者:西川敬三郎(第9話)
* ZATオペレーター:永本泉、大隅さとみ、藤岡恵子、中楯富久子(第10話)
* 岩坪かなえ:下野照美(第11話)
* 岩坪夫人:[[万里昌代]](第11話)
* 林田タケシ:野島千照(第12話)
* 林田:[[平松慎吾]](第12話)
* 中山:[[小高まさる]](第12話)
* 開発社長:[[立原博]](第12話)
* 南原たか:[[磯村千花子]](第13・51話)
* 島田老人:[[浜村純]](第14話)
* 現場主任:[[大前均]](第14話)
* 良助:斎藤健夫(第14話)
* 紅カオル:本郷淳子(第15話)
* カオルの母:[[西恵子]](第15話)
* カオルの祖父:[[浅野進治郎]](第15話)
* 自警団の男の1人:[[上田耕一]](第15話){{efn|name="no"}}
* 笛吹亜理人:山田浩之(第16話)
* 亜理人の両親:[[守田比呂也]]、[[大原穣子]](第16話)
* 音楽教師:[[桂木美加]](第16話)
* 小林タケシ:[[西脇政敏]](第17 - 19話)
* 小林彰:[[二瓶秀雄]](第17 - 19話)
* 小林ゆき:金井由美(第17 - 19話)
* 団地の住民:江藤直行<ref>「ウルトラ怪獣戯画 ウルトラ怪獣激闘史III」([[バンダイ]]、[[2007年]])「2大怪獣タロウに迫る!」および「ゾフィが死んだ!タロウも死んだ!」でのブックレットより本人の解説にて判明。</ref>(第19話){{efn|name="cameo"}}
* お杉:[[磯村みどり]](第20話)
* 米吉:[[岡村春彦]](第20話)
* 正一:石井秀人(第21話)
* 正一の母:[[楠トシエ]](第21話)
* 藤波隆夫:[[佐久間亮]](第22話)
* 藤波優子:[[中田喜子]](第22話)
* 三島六郎:[[梅津昭典]](第23話)
* 三島馨:[[富田浩太郎]](第23話)
* 三島好子:[[瞳麗子]](第23話)
* 岩森善晴:[[石堂淑朗]](第24話)
* 岩森ヨウコ:[[青木和子]](第24話)
* 岩森一郎:斎藤則幸(第24・25話)
* 岩森初子:田島幸恵(第24・25話)
* 岩森次郎:柴山二三雄(第24・25話)
* 岩森三郎:山野辺修(第24・25話)
* 岩森四郎:[[佐野伸寿]](第24・25話)
* 岩森末子:宮原由美(第24・25話)
* 灯台職員:[[里木佐甫良]](第25話)
* ZAT中央病院医師:[[山本廉]](第25話)
* 笠井竹雄:[[高橋仁]](第26話)
* 笠井仙吉:[[江戸家猫八 (3代目)|江戸家猫八]](第26話)
* 史男:吉村影史(第27話)
* 史男の母:[[根岸明美]](第27話)
* 医師:[[長沢大]](第27話)
* 安田:肥土尚弘(第27話)
* 猿飛佐助:大山正明(第28話)
* ターザン:紺野秀樹(第28話)
* 孫悟空:西郷英利(第28話)
* 隠居:[[今村源兵]](第28話)
* 海野八郎:[[大和田獏]](第29・30話)
* 佐野トオル:宮田真(第29・30話)
* トオルの母:[[蓮川久美]](第29・30話)
* 武田大介:[[佐藤宏之 (俳優)|佐藤宏之]](第31話)
* 大介の両親:山本廉、[[上月左知子]](第31話)
* 梶原先生:川上大輔(第31話){{efn|第32話に誤クレジット。}}
* 不良中学生:[[清水昭博]]、岩崎洋也、二瓶秀哉(第31話)
* ドンちゃん:大山正明(第32話)
* 教師:[[新海丈夫]](第32話){{efn|第31話に誤クレジット。}}
* 大谷栄一:西脇政敏(第33・34話)
* 大谷博士:[[竜崎勝]](第33・34話)
* ハヤタ:[[黒部進]](第33・34話)
* モロボシ・ダン:[[森次晃嗣]](第33・34話)
* 郷秀樹:[[団時朗|団次郎]](第33・34・52話)
* 北斗星司:[[高峰圭二]](第33・34話)
* 青木まち子:浅野由香(第35話)
* 宮坂清彦:矢崎知記(第36話)
* 宮坂陽子:[[久保田民絵|久保田民栄]](第36話)
* 岩坪:[[平泉成|平泉征]](第36話)
* 建設作業員:[[きくち英一|菊池英一]]、[[遠矢孝信]](第36話)
* 警官:[[石山勝巳|石山克巳]](第36話)
* めぐみ:[[丘野かおり|山田圭子]](第37話)
* 平治老人:[[池田生二]](第37話)
* 青山ひとみ:天野美保子(第38話)
* ひとみの両親:[[小松英三郎]]、[[川口節子 (1941年生)|川口節子]](第38話)
* 空のおじさん / ミラクル星人:長沢大(第38話)
* 南夕子:[[星光子]](第39話)
* はこべ園園長:[[寄山弘]](第39話)
* 福場タケシ:樋浦修臣(第40話)
* 泉山正博:高橋仁(第41話)
* 正博の母:[[北川恭子]](第41話)
* 塀の家の持ち主:[[五月晴子]](第41話)
* 島田タツオ:松坂雅治(第42話)
* アンドロイド聖子:川口真有美(第42話)
* 島田信吾:三島耕(第42話)
* 島田トモユキ:長谷川秀人(第42話)
* 武志:矢崎知紀(第43話)
* 善助:[[大木正司]](第43話)
* きさらぎ星人 / オニバンバ:笠井ひろ(第44話)
* 岡本一郎:小松陽太郎(第44話)
* 岡本二郎:[[新井つねひろ]](第44話)
* 岡本兄弟の母:新井麗子(第44話)
* 山川真理 / メモール:夏川圭(第45話)
* 横田:大泉滉(第46話)
* 太一:大山正明(第46話)
* 三代:瞳麗子(第46話)
* 沢口竜一:山下克弘(第47話)
* 太郎:古堀宏(第48話)
* 太郎の姉:臼倉明美、高沢加代子(第48話)
* 坂本 / カーン星人:[[草野大悟]](第49話)
* 服部ユキ:[[坂口良子]](第50話)
* 伸一郎:浜村純(第50話)
* タエ:[[小峰千代子]](第50話)
* 老人ホーム責任者:[[牧田正嗣]](第50話)
* モッちゃん:新敷浄(第50話)
* 珠子:今井美佐子(第51話)
* 住職:石川隆昭(第51話)
* 中西一郎:松葉寛祐(第53話)
=== 声の出演 ===
※すべてノンクレジット
* メフィラス星人(二代目):[[西川幾雄]](第27話)
* 巨大ヤプール(改造):[[高田拓土彦|高田裕史]]{{R|画報228}}(第29・30話)
* ケヤキ:西川幾雄(第31話)
* テンペラー星人:[[丸山詠二]](第33・34話)
* ゾフィー:[[鹿島信哉]](第33・34話)
* カタン星人:西川幾雄(第35話)
* メドウーサ星人:西川幾雄(第37話)
* テロリスト星人:鹿島信哉(第38話)
* モチロン:[[渡部猛]](第39話)
* ウルトラの父:鹿島信哉(第39話)
* ピッコロ:[[京田尚子]](第46話)
* ベロン:渡部猛(第48話)
* オルフィ:[[桑原たけし]]{{R|画報228}}(第49話)
* 荒垣修平:[[沢りつお]](第49・50話)
* ドロボン:渡部猛(第52話)
* バルキー星人:鹿島信哉(第53話)
=== スーツアクター ===
* ウルトラマンタロウ:長沢寛
* 怪獣・宇宙人:[[河合徹]]、葵玉五郎(第7話)、[[山村哲夫]]{{R|画報228}}(第17・18話)、大瀬松一{{R|画報228}}(第22話)、吉村景文{{R|画報228}}(第46話)ほか
* ウルトラの母(第3話):安富誠{{R|タロウタロウタロウ113|画報228}}{{efn|男性が演じているため「子供のイメージを壊す」として視聴者への配慮からクレジットされなかった{{R|タロウタロウタロウ113|特撮全史}}。}}
* ゾフィー(第18話){{Sfn|白書|1982|p=80}}、ウルトラマンタロウ(一部){{R|hiho.5}}:[[西条満 (スーツアクター)|西条満]]
== スタッフ ==
* プロデューサー:[[熊谷健]]、橋本洋二 (TBS)
* 脚本:[[田口成光]]、[[阿井渉介|阿井文瓶]]、[[上原正三]]、[[佐々木守]]、[[石堂淑朗]]、斉藤正夫、[[大原清秀]](木戸愛楽、大原清名義でも執筆)、村山庄三(第21話原案)、深田太郎{{efn|本作の主題歌を作詞した[[阿久悠]]の実子(当時7歳)で、現在は作曲家。}}(第9話原案)
* 監督(本編):真船禎、深沢清澄、[[高橋勝]]、[[筧正典]]、前田勲、山本正孝、吉野安雄、岡村精、[[山際永三]]
* 監督(特殊技術):[[高野宏一]]、[[佐川和夫]]、[[鈴木清 (映画監督)|鈴木清]]、[[矢島信男]]、[[東條昭平]]、[[大木淳吉|大木淳]]、山本正孝、[[川北紘一]]、山際永三、大平隆、小林正夫、高橋勝
* 音楽:[[日暮雅信]]
* 選曲:白井多美雄(ノンクレジット){{R|タロウタロウタロウ86|オール・ザットタロウ144}}
* 演奏:サロン・アンサンブル
* 撮影(本編):[[森喜弘]]、井上光雄、中町武、[[中堀正夫]]、和栗惣治、小林茂、佐藤敏彦
* 撮影(特撮):[[大岡新一]]、佐藤貞夫
* 照明(本編):佐山五郎
* 照明(特撮):近藤勝、松丸善明、鎌田靖男
* 美術(本編):[[鈴木儀雄]]
* 美術(特撮):[[青木利郎]]、桜井克彦、島崎尭司、小川富美夫
* 編集:[[小林熙昌]]
* 視覚効果:[[中野稔]]
* 助監督(本編):前田勲、米山紳
* 助監督(特撮):宮坂清彦、鈴木義昭、西田耕一、小宮高広、中田新一、白川俊夫
* 製作担当:内田貴夫、片桐崇維
* 録音・効果:[[東京映画]]映像部(現:東宝サウンドスタジオ)
* 効果:協立音響 ※第12話のみ
* 現像:[[東京現像所]]
* 制作協力:[[日本現代企画]](第4・5話のみ)、[[東宝映像美術|東宝映像株式会社]](第6・7話のみ)
* 造形:[[開米栄三|開米プロダクション]]、[[エキスプロダクション]]
* 挿画:[[内山まもる]] ※第25話
* 製作:円谷プロダクション、TBS
助監督の中に、後に小説家となる[[打海文三]]がいる。
== 放映リスト ==
* 各怪獣の詳細は「[[ウルトラマンタロウの登場怪獣]]」を参照。
{|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small"
!話数!!サブタイトル!!style="line-height:1.1"|登場怪獣・宇宙人<br />ゲストウルトラマン!!脚本!!監督!!特殊技術!!放送日!!視聴率
|-
|1||ウルトラの母は太陽のように
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* アストロモンス
* チグリスフラワー
* オイルドリンカー
* ウルトラの母
* ウルトラ5兄弟
}}
|rowspan="3"|田口成光
|rowspan="3"|山際永三
|佐川和夫
|'''1973年'''<br />4月6日||-
|-
|2||その時 ウルトラの母は
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* コスモリキッド
* ライブキング
}}
|rowspan="2"|山本正孝
|4月13日||-
|-
|3||ウルトラの母はいつまでも{{efn|決定稿では「ウルトラの母は強し!」{{Sfn|兄弟激闘編|2013|p=85}}。}}
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* コスモリキッド
* ライブキング
* ウルトラの母
}}
|4月20日|||-
|-
|4||大海亀怪獣 東京を襲う!
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* キングトータス
* クイントータス
}}
|rowspan="2"|上原正三
|rowspan="2"|吉野安雄
|rowspan="2"|鈴木清
|4月27日||-
|-
|5||親星子星一番星
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* キングトータス
* クイントータス
* ミニトータス
* ウルトラセブン
}}
|5月4日||-
|-
|6||宝石は怪獣の餌だ!{{efn|予告でのサブタイトルは「怪獣は宝石がお好き」となっている。}}
|style="text-align:left"|ジレンマ
|田口成光
|rowspan="2"|筧正典
|rowspan="2"|川北紘一
|5月11日||-
|-
|7||天国と地獄 島が動いた!
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* ガンザ
* タガール
}}
|石堂淑朗
|5月18日||-
|-
|8||人喰い沼の人魂
|style="text-align:left"|トンダイル
|田口成光
|rowspan="2"|岡村精
|rowspan="2"|山本正孝
|5月25日||-
|-
|9||東京の崩れる日
|style="text-align:left"|アリンドウ
|石堂淑朗
|6月1日||-
|-
|10||牙の十字架は怪獣の墓場だ!
|style="text-align:left"|デッパラス
|rowspan="2"|木戸愛楽
|rowspan="2"|山際永三
|rowspan="2"|大平隆
|6月8日||-
|-
|11{{efn|準備稿では第12話{{R|オール・ザットタロウ142}}。}}||血を吸う花は少女の精{{efn|準備稿では「吸血怨み花」{{R|オール・ザットタロウ142}}。}}
|style="text-align:left"|バサラ
|6月15日||-
|-
|12||怪獣ひとり旅
|style="text-align:left"|ボルケラー
|rowspan="2"|田口成光
|rowspan="2"|深沢清澄
|rowspan="2"|山本正孝
|6月22日||-
|-
|13||怪獣の虫歯が痛い!
|style="text-align:left"|シェルター
|6月29日||-
|-
|14||タロウの首がすっ飛んだ!
|style="text-align:left"|エンマーゴ
|石堂淑朗
|山際永三
|(ノンクレジット)
|7月6日||-
|-
|15||青い狐火の少女
|style="text-align:left"|ミエゴン
|斉藤正夫
|rowspan="2"|筧正典
|rowspan="2"|大平隆
|7月13日||-
|-
|16||怪獣の笛がなる
|style="text-align:left"|オカリヤン
|rowspan="4"|田口成光
|7月20日||-
|-
|17||2大怪獣タロウに迫る!
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* ケムジラ
* バードン
}}
|rowspan="3"|深沢清澄
|rowspan="3"|小林正夫
|7月27日||-
|-
|18||ゾフィが死んだ!タロウも死んだ!
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* ケムジラ
* バードン
* ゾフィ
}}
|8月3日||-
|-
|19||ウルトラの母 愛の奇跡!
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* バードン
* ウルトラの母
* ゾフィ
}}
|8月10日||-
|-
|20||びっくり!怪獣が降ってきた
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* フライングライドロン(母・子)
* ウルトラの母
}}
|石堂淑朗
|rowspan="2"|山本正孝
|rowspan="2"|山際永三
|8月17日||-
|-
|21||東京ニュータウン沈没
|style="text-align:left"|キングゼミラ
|田口成光
|8月24日||-
|-
|22||子連れ怪獣の怒り!
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* パンドラ
* チンペ
}}
|大原清
|rowspan="2"|筧正典
|rowspan="2"|大平隆
|8月31日||-
|-
|23||やさしい怪獣お父さん!
|style="text-align:left"|ロードラ
|石堂淑朗
|9月7日||-
|-
|24||これがウルトラの国だ!
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* ムルロア
* スペースモス
* ラビドッグ
* ウルトラの母(ノンクレジット)
}}
|rowspan="2"|田口成光
|rowspan="2"|山際永三
|rowspan="2"|佐川和夫
|9月14日||-
|-
|25||燃えろ!ウルトラ6兄弟
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* ムルロア
* スペースモス
* ラビドッグ
* ウルトラ5兄弟
}}
|9月21日||-
|-
|26||僕にも怪獣は退治できる!
|style="text-align:left"|ムカデンダー
|阿井文瓶
|rowspan="2"|深沢清澄
|rowspan="2"|小林正夫
|9月28日||-
|-
|27||出た!メフィラス星人だ!
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* メフィラス星人(二代目)
* マンダリン草
}}
|大原清
|10月5日||-
|-
|28||怪獣エレキング 満月に吼える!
|style="text-align:left"|エレキング(再生)
|石堂淑朗
|高橋勝
|山際永三
|10月12日||-
|-
|29||ベムスター復活!タロウ絶体絶命!
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* 巨大ヤプール(改造)
* ベムスター(改造)
}}
|rowspan="2"|田口成光
|rowspan="2"|山本正孝
|rowspan="2"|高野宏一
|10月19日||-
|-
|30||逆襲!怪獣軍団
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* 巨大ヤプール(改造)
* ベムスター(改造)
* サボテンダー(改造)
* ベロクロン二世(改造)
}}
|10月26日||-
|-
|31||あぶない!嘘つき毒きのこ
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* マシュラ
* キノコ人間
}}
|大原清秀
|rowspan="2"|筧正典
|rowspan="2"|深沢清澄
|11月2日||-
|-
|32||木枯し怪獣!風の又三郎
|style="text-align:left"|グロン
|阿井文瓶
|11月9日||-
|-
|33||ウルトラの国 大爆発5秒前!
|rowspan="2" style="text-align:left"|{{Plainlist|
* テンペラー星人
* ウルトラ5兄弟
}}
|rowspan="2"|佐々木守
|rowspan="2"|真船禎
|rowspan="2"|山本正孝
|11月16日||-
|-
|34||ウルトラ6兄弟最後の日!
|11月23日||-
|-
|35||必殺!タロウ怒りの一撃!
|style="text-align:left"|カタン星人
|田口成光
|rowspan="2"|深沢清澄
|rowspan="2"|高橋勝
|11月30日||-
|-
|36||ひきょうもの!花嫁は泣いた
|style="text-align:left"|グロスト
|阿井文瓶
|12月7日||-
|-
|37||怪獣よ 故郷へ帰れ!
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* ヘルツ
* メドウーサ星人
}}
|石堂淑朗
|rowspan="2"|筧正典
|rowspan="2"|大木淳
|12月14日||-
|-
|38||ウルトラのクリスマスツリー
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* ミラクル星人
* テロリスト星人
}}
|田口成光
|12月21日||-
|-
|39||ウルトラ{{Ruby|父子|おやこ}}餅つき大作戦!
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* モチロン
* 南夕子
* ウルトラの父
}}
|石堂淑朗
|rowspan="2"|山際永三
|rowspan="2"|山本正孝
|12月28日||-
|-
|40||ウルトラ兄弟を超えてゆけ!
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* タイラント
* ウルトラの母
* ウルトラの父
* ウルトラ5兄弟
* 35大怪獣宇宙人{{Sfn|白書|1982|p=178}}{{efn|詳細は[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#35大怪獣・宇宙人]]を参照。}}
}}
|田口成光
|'''1974年'''<br />1月4日||-
|-
|41||母の願い 真冬の桜吹雪!
|style="text-align:left"|ゴンゴロス
|阿井文瓶
|rowspan="2"|深沢清澄
|rowspan="2"|高橋勝
|1月11日||-
|-
|42||幻の母は怪獣使い!
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* エレジア
* アンドロイド聖子
}}
|大原清秀
|1月18日||-
|-
|43||怪獣を塩漬にしろ!
|style="text-align:left"|モットクレロン
|阿井文瓶
|rowspan="2"|真船禎
|rowspan="2"|東條昭平
|1月25日||-
|-
|44||あっ!タロウが食べられる!
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* きさらぎ星人
* オニバンバ
}}
|田口成光
|2月1日||-
|-
|45||日本の童謡から<br />赤い靴はいてた…
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* ドルズ星人
* メモール
}}
|阿井文瓶
|rowspan="2"|筧正典
|rowspan="2"|矢島信男
|2月8日||-
|-
|46||日本の童謡から<br />白い兎は悪い奴!
|style="text-align:left"|ピッコロ
|石堂淑朗
|2月15日||-
|-
|47||日本の童謡から<br />怪獣大将
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* ゲラン
* ゴルゴザウルスII世
}}
|rowspan="2"|阿井文瓶
|rowspan="2"|山際永三
|rowspan="2"|大木淳
|2月22日||-
|-
|48||日本の童謡から<br />怪獣ひなまつり
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* ベロン
* ファイル星人
}}
|3月1日||-
|-
|49||歌え!怪獣ビッグマッチ
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* オルフィ
* カーン星人
}}
|石堂淑朗
|rowspan="2"|前田勲
|rowspan="2"|矢島信男
|3月8日||-
|-
|50||怪獣サインはV
|style="text-align:left"|ガラキング
|rowspan="2"|阿井文瓶
|3月15日||-
|-
|51||ウルトラの父と花嫁が来た!
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* リンドン
* ウルトラの父
}}
|rowspan="3"|筧正典
|rowspan="3"|大木淳
|3月22日||-
|-
|52||ウルトラの命を盗め!
|style="text-align:left"|{{Plainlist|
* ドロボン
* 帰ってきたウルトラマン
}}
|石堂淑朗
|3月29日||-
|-
|53||さらばタロウよ!ウルトラの母よ!
|style="text-align:left; line-height:1.2"|{{Plainlist|
* バルキー星人
* サメクジラ
* ウルトラの母(人間体)
}}
|田口成光
|4月5日||-
|}
== 放送局 ==
* TBS:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"|放送当時のポスターに明記されてある局<ref>{{Cite book|和書|year=1995-09|title=不滅のヒーロー ウルトラマン白書|volume=4|page=208|publisher=[[朝日ソノラマ]]|series=宇宙船別冊|ISBN=4257034505}}</ref>}}
* [[北海道放送]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}}
* [[青森テレビ]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}}{{R|k7383}}
* [[IBC岩手放送|岩手放送]]:金曜 18:00 - 18:30{{R|k7383}}
* [[秋田放送]]:月曜 18:00 - 18:30<ref>『河北新報』1973年8月6日 - 9月3日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[山形放送]]:金曜 17:30 - 18:00{{R|k7383}}
* [[東北放送]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}}{{R|f7346}}
* [[福島テレビ]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}}{{R|f7346}}
* [[新潟放送]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}}<ref>『福島民報』1973年7月6日 -1974年4月5日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[信越放送]]:火曜 17:15 - 17:45<ref>『信濃毎日新聞』1974年1月15日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[静岡放送]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}}
* [[富山テレビ放送|富山テレビ]]:月曜 - 金曜 18:00 - 18:30(1974年9月10日から11月22日まで放送)<ref>『[[北國新聞]]』1974年9月10日 - 11月22日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[北陸放送]]:火曜 18:00 - 18:30<ref>『北國新聞』1973年6月5日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[福井放送]]:木曜 18:00 - 18:30<ref>『北國新聞』1973年6月7日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[CBCテレビ|中部日本放送]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}}<ref>『[[北日本新聞]]』1973年4月6日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[朝日放送テレビ|朝日放送]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}}
* [[RSKテレビ|山陽放送]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}}
* [[中国放送]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}}
* [[山陰放送]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}}
* [[テレビ山口]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}}
* [[テレビ高知]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}}
* [[RKB毎日放送]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}}
* [[宮崎放送]]:木曜 18:00 - 18:30<ref> 『宮崎日日新聞』 1973年7月5日テレビ欄</ref>
* [[琉球放送]]:金曜 19:00 - 19:30{{efn|name="★"}}
== 未映像化作品 ==
; 「怪獣無常!昇る朝日に跪く(仮題)」
: 脚本:[[実相寺昭雄]]
; 「銀河を翔ろ!タロウからの手紙(仮題)」
: 脚本:大原清秀
; 「花嫁人形 氷の牙が光る時!」
: 脚本:阿井文瓶
: 上記3点は[[1990年]]に発売されたLD『ウルトラマンT VOL.14』封入の解説書に、印刷台本表紙の写真とストーリー概要が掲載された。
; 「怪獣無残!果報は寝て待て」
: 脚本:石堂淑朗。レプリカ台本が、[[2005年]][[5月27日]]に発売された[[DVD]]の1 - 5巻のメモリアルセットに封入されていた。同じく石堂脚本の第23話「やさしい怪獣お父さん!」と類似する部分がいくつか見られる。
== サンプルストーリー ==
いずれも「ウルトラマンスター」「ウルトラジャック」「ウルトラマンジャック」の企画書に掲載されている{{R|企画書|UPM vol.114}}。
; 「ウルトラマン(ウルトラ)○○○登場!」
: 宇宙ステーションを全滅させたアストロモンスが地球に飛来し、あらゆるエネルギーを吸い尽くそうとする。東光太郎は弟分の西田を救うため、スーパースワローの燃料タンクを放出して、死を覚悟でアストロモンスを宇宙に誘導して落命。しかし、光太郎はウルトラ兄弟に助けられてウルトラマン(ウルトラ)○○○の力とウルトラバッジを授かって蘇生する。ウルトラマンエースによって地球に送り届けられた光太郎は、ウルトラマン(ウルトラ)○○○に変身してアストロモンスを倒す。
:* 文中では触れていないが、光太郎と西田がアンドロメダでアストロモンスと交戦し、白鳥船長が石油密輸の容疑をかけられる他、ラストで光太郎が朝日奈から白鳥家への下宿を命じられる。
; 「液体怪獣登場!」
: 奥多摩のダムを襲ったコスモリキッドは、宇宙科学警備隊の火炎攻撃を食らって姿を消す。数日後、多摩川の新幹線鉄橋付近にコスモリキッドが現れたが、やはり警備隊の攻撃で姿を消した。しかし、関東地方に夕立が振り、光太郎の予感が的中してコスモリキッドが再び出現。
; 「幽霊怪獣ゴースト登場!」
: 深夜のビル街にゴーストが出現。ゴーストはビルを通り抜ける能力を秘めていた。警備隊のレーザー攻撃でその能力を失ったゴーストは、ビルに激突して姿を消した。警備隊はビルの崩落場で瀕死の女を発見するが、女はゴーストの仮の姿だった。
; 「再生怪獣登場!」
: アメリカ支部の航空機がライブキングの破片を日本支部に輸送中、謎の事故を起こして墜落。翌日、漁船が襲われたと連絡を受けて出動した警備隊は、そこでライブキングを目撃。
== 音楽 ==
東京レコード(AMONレーベル、ディスコメイトの前身・販売元は[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター音楽産業]])から[[コンパクト盤|EP]]が発売。初版約30万枚という当時としては高い売り上げを残した。
=== 主題歌 ===
; 「ウルトラマンタロウ」
:* 作詞:[[阿久悠]] / 作曲・編曲:[[川口真]] / 歌:[[福沢良一|武村太郎]]、[[少年少女合唱団みずうみ]]
: 「武村太郎」は[[福沢良一]]の変名。シンセアレンジは[[日暮雅信]]がノンクレジットで行っている<ref>『ウルトラマンタロウ ミュージックファイル』(1995年、[[バップ]])の楽曲解説</ref>。
: 劇中では1番が歌入り、2番が[[器楽曲|インストゥルメンタル]]という形に編集されたものが多用された。
: [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBSソニー]]からは[[子門真人]]、[[高橋元太郎]]、[[日本コロムビア|コロムビア]]からは[[三鷹淳]]、[[EMIミュージック・ジャパン|東芝レコード]]からは[[沢木順]]のカヴァー・ヴァージョンがそれぞれ発売された。
: 『ウルトラマンA』まで主題歌を作詞してきた東京一こと[[円谷一]]の死去に伴い、その後任として阿久悠が登用された。阿久によると、当時7歳の長男が奇しくも名前が「太郎」ということもあり、父親として尊敬されるため作詞をしたという<ref>阿久悠『歌謡曲の時代 歌もよう人もよう』新潮社、2004年、170頁。ISBN 4104708011</ref>。
=== 挿入歌 ===
==== 番組オリジナル ====
; 「ウルトラ六兄弟」(第18・25・33・34話)
:* 作詞:阿久悠 / 作曲・編曲:川口真 / 歌:武村太郎、少年少女合唱団みずうみ
: 第3・10・24話ではインストゥルメンタル版のみ、第18・25・33話ではインストゥルメンタル版と併用して使用された。
: 『[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]]』でアレンジバージョンが使用された。
: 後に[[Project DMM]]のカヴァー・バージョンが発表された。
:
; 「ウルトラの母のバラード」(第38・53話)
:* 作詞:[[田口成光]] / 作曲・編曲:[[蒔田尚昊|冬木透]] / 歌:[[藤田淑子]]
: [[キングレコード]]からは、ペギー葉山によるカヴァー・ヴァージョンが発売された。
==== その他の歌 ====
* 第23話では、朝加真由美のデビュー曲「虹色の夢」が使用された。
* 第31話では、不良中学生が[[キャロル (バンド)|キャロル]]の「[[ファンキー・モンキー・ベイビー (曲)|ファンキー・モンキ・ベイビー]]」に合わせて踊るシーンがある。
* 第48話では、[[山本リンダ]]の「[[狙いうち]]」、[[フィンガー5]]の「[[恋のダイヤル6700]]」と「バラの少女」、[[金井克子]]の「[[他人の関係]]」が挿入歌として使用された{{efn|「狙いうち」「恋のダイヤル6700」の作詞は阿久悠、「他人の関係」の作曲は川口真であり、主題歌コンビに配慮した選曲である{{R|タロウタロウタロウ86}}。}}。
* 第49話では、[[桜田淳子]]の「[[わたしの青い鳥]]」が使用された。
* 第50話では、ユキと[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#球好き怪獣 ガラキング|ガラキング]]の[[バレーボール]]対決のシーンで、[[坂口良子]]の「[[サインはV]]」が使用された。
=== BGM ===
上述のように、本作品のBGMは白井多美雄(ノンクレジット)が選曲しており{{R|タロウタロウタロウ86|オール・ザットタロウ144}}、中には流用されたものが存在{{R|オール・ザットタロウ144}}。
第11話と第15話で使用された「舞踏組曲 笛吹き地蔵」は、1964年にバレエ用に日暮が作曲{{R|タロウタロウタロウ86|オール・ザットタロウ144}}。
フランスのライブラリー音楽提供レーベルのMontparnasse2000からの音源が、第24話で使用されたのを皮切りに第40話、第43話、第46話、第48話で使用{{R|オール・ザットタロウ144}}。
== 他媒体展開 ==
=== 他テレビシリーズ ===
;『[[ウルトラマンメビウス]]』
: 本作品からウルトラマンタロウが登場。
;『[[ウルトラマンギンガ]]』
;『[[ウルトラマンギンガS]]』
: 両作からウルトラマンタロウがレギュラーとして登場。
;『[[ウルトラマンタイガ]]』
: 本作品からウルトラマンタロウが登場。
=== 映画 ===
==== 東宝チャンピオンまつり ====
『[[東宝チャンピオンまつり]]』にてテレビ版を劇場用にブローアップ再編集した作品が3シーズンにわたって公開された。なお次作『[[ウルトラマンレオ]]』は『チャンピオンまつり』では公開されなかったので、「ウルトラシリーズ」が同企画で公開されるのはこれが最後、さらに円谷プロ作品が同企画で公開されるのもこれが最後である。
; 『ウルトラマンタロウ』
: 1973年8月1日公開{{R|G画報242|C大全G120|UPM vol.1135}}{{efn|書籍『ゴジラ 東宝チャンピオンまつりパーフェクション』では、「7月28日」と記述している{{R|TCMP52}}。}}。第1話の劇場版{{R|TCMP52|UPM vol.1135}}。上映時間は25分{{R|TCMP52}}。
: 併映作品は『[[怪獣島の決戦 ゴジラの息子]]』、『[[愛の戦士レインボーマン#映画|レインボーマン 殺人プロフェッショナル]]』、『[[科学忍者隊ガッチャマン#東宝チャンピオンまつり|科学忍者隊ガッチャマン 火の鳥対火喰い竜]]』、『[[おもちゃ屋ケンちゃん#劇場版|おもちゃ屋ケンちゃん よそではいい子]]』、『[[山ねずみロッキーチャック#映画|山ねずみロッキーチャック ロッキーとポリー]]』{{R|UPM vol.1135}}。
; 『ウルトラマンタロウ 燃えろ!ウルトラ6兄弟』
: 1973年12月20日公開{{R|G画報242|C大全G120|TCMP54|UPM vol.1135}}。第25話の劇場版{{R|TCMP54|UPM vol.1135}}。上映時間は26分{{R|TCMP54}}。
: 併映作品は『[[キングコングの逆襲]]』、『[[侍ジャイアンツ#劇場版|侍ジャイアンツ ほえろバンババン]]』、『[[山ねずみロッキーチャック#映画|山ねずみロッキーチャック がんばれチャタラー]]』、『[[エースをねらえ!#劇場版|エースをねらえ! テニス王国のシンデレラ]]』、『[[科学忍者隊ガッチャマン#東宝チャンピオンまつり|科学忍者隊ガッチャマン 電子怪獣レンジラー]]』{{R|UPM vol.1135}}。
; 『ウルトラマンタロウ 血を吸う花は少女の精』
: 1974年3月21日公開{{R|G画報242|C大全G120|TCMP56|UPM vol.1135}}。第11話の劇場版{{R|TCMP56|UPM vol.1135}}。上映時間は26分{{R|TCMP56}}。
: 併映作品は『[[ゴジラ対メカゴジラ]]』、『[[ハロー!フィンガー5]]』、『[[新造人間キャシャーン#1974年の映画|新造人間キャシャーン 不死身の挑戦者]]』、『[[侍ジャイアンツ#劇場版|侍ジャイアンツ 殺生河原の決闘]]』、『[[アルプスの少女ハイジ (アニメ)#劇場版|アルプスの少女ハイジ]]』{{R|UPM vol.1135}}。
==== 円谷映画祭2023 ====
創立60周年を記念しセレクト上映。Part2は2023年12月1日に公開<ref>[https://m-78.jp/news/post-6897 円谷プロダクション創立60周年記念「円谷映画祭2023」開催決定]円谷ステーション 2022年10月30日</ref>。同時上映は『[[ウルトラマン#4Kディスカバリー|空想特撮シリーズ ウルトラマン 4Kディスカバリー]]「生命のものがたり」』を先行上映。
; 庵野秀明セレクション『ウルトラマンタロウ』
: 放送50周年として[[庵野秀明]]がセレクトした4エピソードを上映。上映作は第1話「ウルトラの母は太陽のように」、第18話「ゾフィが死んだ!タロウも死んだ!」、第33話「ウルトラの国 大爆発5秒前!」、第34話「ウルトラ6兄弟最後の日!」を上映。
==== その他の映画 ====
いずれにもウルトラマンタロウが登場する。
* 『[[ウルトラマン物語]]』
** テレビ本編の本放送終了から11年後の1984年7月14日に公開された映画で、新撮シーンを含めてタロウの成長を描いている。
* 『[[新世紀ウルトラマン伝説]]』
* 『[[新世紀2003ウルトラマン伝説 THE KING'S JUBILEE]]』
* 『[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]]』
* 『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』
* 『[[ウルトラマンゼロ THE MOVIE 超決戦!ベリアル銀河帝国]]』
* 『[[ウルトラマンギンガ#第2弾|ウルトラマンギンガ 劇場スペシャル ウルトラ怪獣☆ヒーロー大乱戦!]]』
* 『[[ウルトラマンタイガ#映画|劇場版 ウルトラマンタイガ ニュージェネクライマックス]]』
=== 雑誌 ===
[[小学館]]が権利を持っており、学年誌や『[[週刊少年サンデー]]』に掲載された。高学年向けの学年誌には特撮の解説が掲載された。
* 放映終了後、[[朝日ソノラマ]]社の『別冊マンガ少年・素晴らしき特撮映像の世界』(1979年刊)に、[[実相寺昭雄]]監督による未映像化脚本「怪獣無常!昇る朝日に跪く」を元にした漫画(作画:[[SYUFO|いたはししゅうほう]]とアルゴノウツ)が掲載されている。
==== 漫画連載 ====
; 週刊少年サンデー
:* [[石川賢 (漫画家)|石川賢]]と[[ダイナミックプロ]]
:** 石川賢が得意とする暴力描写の強い伝奇SF調の作風で描かれており、タロウのデザインやウルトラの母が東光太郎(姓の読みが「'''あずま'''」)にウルトラの命を授けたことでタロウが誕生したことはテレビ版と同じだが、それら以外はほぼ別物の内容となっている。ただし、映像化された本編と別物とはいえ、「ウルトラマンが地球を守る理由」などにも触れており、後年の平成ウルトラシリーズにも通じる部分が存在する。連載は番組終了以前に終了し、連載終了後は本作品のエピソード紹介と撮影日誌が掲載された。
:** 他の漫画版に比べて比較的単行本化の機会が多かったが、2016年には後述の小学一年生版(初単行本化)も含めた完全版として『ウルトラマンタロウ 完全復刻版』が発売された(小学館 ISBN 9784778033095)。また、『[[このマンガがすごい!|このマンガがすごい!WEB]]』でも紹介されている<ref>[https://konomanga.jp/special/75687-2 『ウルトラマンタロウ 完全復刻版』(石川賢とダイナミックプロ)ロングレビュー! 「お、おれが……怪物!!」敵をバラバラ、串刺し……TVでは見られないタロウがそこに……!] - このマンガがすごい!WEB</ref>。
:{| class="wikitable" border="1" font-size:small;"
|-
!掲載号!!サブタイトル
|-
||1973年17号 - 21号
||タロウ誕生
|-
||1973年22号 - 26号
||失われた町
|-
||1973年27号 - 32号
||小さな独裁者
|-
||1973年32号 - 34号
||鬼が来る
|}
; めばえ
:* 1973年6月号 - 1974年4月号 谷口健男
; よいこ
:* 1973年4月号 - 5月号 [[蛭田充]]
:* 1973年6月号 - 12月号 [[森藤よしひろ]]
; 小学一年生
:* 1973年4月号 [[森義一]]
:* 1973年5月号 - 1974年3月号 石川賢
:一部写真合成
:{| class="wikitable"
|-
!掲載号!! 作画 !!サブタイトル!!登場怪獣
|-
|1973年4月号
|森義一
|
|アストロモンス
|-
|1973年5月号
|石川賢
|
|ライブキング
|-
|1973年6月号
|石川賢
|
|キングトータス、クイントータス
|-
|1973年7月号
|石川賢
|
|タガール、ガンザ
|-
|1973年8月号
|石川賢
|
|デッパラス
|-
|1973年9月号
|石川賢
|
|バードン
|-
|1973年10月号
|石川賢
|東京ぜんめつ作戦
|バルタン星人、イカルス星人、ゼットン、ブラックキング、バードン、メフィラス星人
|-
|1973年11月号
|石川賢
|
|ムルロア
|-
|1974年12月号
|石川賢
|
|メフィラス星人、他
|-
|1974年1月号
|石川賢
|
|バルタン星人、他
|-
|1974年2月号
|石川賢
|
|ゼットン、ベムスター、他
|-
|1974年3月号
|石川賢
|きょうれつりゅうせい作せん
|メフィラス星人、アーストロン、他
|}
:
:
; 小学二年生
:* 1973年4月号 - 1974年3月号 [[内山まもる]]
:** 一部エピソードが『[[ザ・ウルトラマン (漫画)|ザ・ウルトラマン]]』の単行本に収録され、2005年にコンビニコミックとして全話を収録した完全版が刊行された。
:{| class="wikitable" border="1" font-size:small;"
|-
!掲載号!!サブタイトル!!登場怪獣
|-
||1973年4月号
||ウルトラの母は太陽のように
||宇宙大怪獣アストロモンス、オイル超獣オイルドリンカー
|-
||1973年5月号
||恐怖のはらぺこ怪獣!
||再生怪獣ライブキング
|-
||1973年6月号
||液体怪獣を追え!
||液体大怪獣コスモリキッド
|-
||1973年7月号
||東京の崩れる日
||大羽蟻怪獣アリンドウ
|-
||1973年8月号
||怪獣墓場からの脱走者
||噴煙怪獣ボルケラー、虫歯怪獣シェルター
|-
||1973年9月号
||涙のストリウム光線
||火山怪鳥バードン
|-
||1973年10月号
||消えた車は怪獣のエサだ
||蜃気楼怪獣ロードラ
|-
||1973年11月号
||ウルトラの泉の秘密
||宇宙大怪獣ムルロア
|-
||1973年12月号
||神の子になった少年
||悪質宇宙人メフィラス星人(二代目)
|-
||1974年1月号
||ウルトラ7番目の兄弟
||極悪宇宙人テンペラー星人、宇宙犬ラビドッグ
|-
||1974年2月号
||ウルトラ兄弟を超えてゆけ!
||暴君怪獣タイラント
|-
||1974年3月号
||地球が沈む!タロウ最後の戦い!
||熱怪獣ファイアント
|-
|}
; 小学三年生
:* 1973年4月号 - 1974年3月号 [[みやぞえ郁雄]]
; 小学四年生
:* 1973年4月号 - 1974年3月号 [[ダイナマイト鉄|斉藤ゆずる]]
; 小学五年生
:* 1973年4月号 - 1974年3月号 内山まもる
:** 全12話のうち3話分のみが『[[ザ・ウルトラマン (漫画)|ザ・ウルトラマン]]』の単行本に収録され、2022年5月発売の書籍『ザ・ウルトラマン 単行本初収録&傑作選 上』(小学館 ISBN 978-4778038700)に全てのエピソードが初収録された。
:** 地球侵略のために暗躍するインベーダーの存在を知ったために追われ、放浪の旅を余儀なくされたタケル少年が主人公。インベーダーはタケルの抹殺を目論み、様々な罠を仕掛ける一方、侵略のために怪獣を操って人々を恐怖に陥れていく。光太郎=タロウとタケルはテレパシーで結ばれており、タケルが危機に陥ると登場してインベーダーや怪獣と戦う。インベーダーが人間に化けて社会に潜伏していたり、タケルを追うインベーダーによって何の関係もない人々が巻き添えを喰らって命を落とすなど、SF色の強いハードな物語となっている。
:** 怪獣の出番は全12話中の第8話に登場するムルロアで打ち止めで、光太郎も第9話冒頭を最後に物語からフェードアウトし最終話でタロウとして登場するのみとなっており、第10話と第11話は事実上タケルを始めとする漫画独自のキャラクターのみで話を回している。
; 小学六年生
:* 1973年4月号 - 1973年9月号 森藤よしひろ
:{| class="wikitable" border="1" font-size:small;"
|-
!掲載号!!登場怪獣
|-
||1973年4月号
||超獣フュエルダボス、宇宙大怪獣アストロモンス
|-
||1973年5月号
||再生怪獣ライブキング
|-
||1973年6月号
||怪獣ジレンマ
|-
||1973年7月号
||怪獣デッパラス
|-
||1973年8月号
||怪獣クラトー
|-
||1973年9月号
||怪獣キングトンボラー
|-
|}
; 小学館BOOK
:* 蛭田充
:* [[池原しげと|池原成利]]
:* [[ヨシダ忠]]:ほんとうのお話ウルトラマンタロウ
:* [[石原豪人]]:SFウルトラマンタロウ
=== バラエティ番組 ===
* [[2007年]]6月から[[2008年]]5月に[[ファミリー劇場]]で「親子でトライ!ウルトラマンタロウ親子体操」が放送された。
* [[2017年]]5月18日に[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]で放送の[[バラエティ番組]]『[[人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ!]]』に出演(この回のテーマは「太郎」)<ref>[http://m-78.jp/news/n-4726/ NHK「人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ!」にウルトラマンタロウが登場!5/18(木) 19:30~放送予定!] M-78.net、2017年5月12日(5月18日閲覧)</ref>。ちなみにこの回には脚本を務めた[[田口成光]]もVTR出演した。
=== CM ===
* 1982年に[[永谷園]]の『[[すし太郎]]』のCMとして[[北島三郎]]とともにタロウがちらし寿司をつくるバージョンが制作・放送された。本放送終了から8年後に、第2期ウルトラシリーズのキャラクターが登場したCMが放送されたのは珍しい例で、タロウの知名度がうかがえるCMである。
=== パチンコ ===
* 『CRぱちんこウルトラマンタロウ 戦え!!ウルトラ6兄弟』[[京楽産業.]]:2012年6月発売
* 『CRぱちんこウルトラマンタロウ 暗黒の逆襲』京楽産業.:2013年4月発売
=== パチスロ ===
* 『ぱちスロ ウルトラマンタロウ 暴君SPEC』(2022年、[[オッケー.]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://1geki.jp/slot/s_ultraman_taro/|title=「ぱちスロ ウルトラマンタロウ 暴君SPEC」解析・攻略ページ|publisher=一撃|date=2022-04-28|accessdate=2022-08-02}}</ref>
=== ゲーム ===
* 『[[スーパーヒーロー作戦]]』([[1999年]]、[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]用ソフト)
* 『[[ロストヒーローズ]]』([[2012年]]、[[ニンテンドー3DS]]・[[PlayStation Portable]]用ソフト)
** 『ロストヒーローズ2』([[2015年]]、ニンテンドー3DS用ソフト)
* 『[[巨影都市]]』([[2017年]]、[[PlayStation 4]]用ソフト)
== 映像ソフト化 ==
* [[デジタルウルトラシリーズ]]第8弾として、[[DVD]]が[[2005年]][[5月27日]]に1 - 5巻、[[6月24日]]に6 - 10巻、[[7月29日]]に11 - 13巻と、それぞれをセット化したメモリアルセットが発売された<ref>{{Cite journal |和書|date=2005-05-01 |journal=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]] |volume=Vol.118 |issue=(2005年5月号) |publisher=[[朝日ソノラマ]] |page=61 |title=Visual Radar |id=雑誌コード:01843-05 }}</ref>。1巻のみ5話収録で、2巻以降は4話収録。1 - 5巻には放送当時の学年誌でのウルトラファミリーの記事、登場人物やメカニックなどのブロマイド、未映像化作品「怪獣無残!果報は寝て待て」のレプリカ台本、6 - 10巻には二子玉川園で開催されたショーなどの様子を写した冊子「青空の下で見たヒーローたち」、11 - 13巻にはキャスト・スタッフへのインタビューやスチールが掲載された冊子「拝啓ウルトラマンタロウ」、11巻には篠田や『ウルトラマン』の黒部進をはじめとする主演俳優のサイン入りブロマイドが封入されていた。
* [[2013年]][[6月21日]]に[[バンダイビジュアル]]からCOMPLETE DVD-BOXが発売された。作品解説書と企画書レプリカ冊子、ブロマイド封入。特典映像は『ウルトラマンタロウのすべて』([[ファミリー劇場]]で[[2007年]][[4月]]放送)、2013年[[4月28日]]に行われたペギー葉山と福沢良一のトークショー、[[原口智生]]へのインタビュー映像。
* [[2017年]][[12月22日]]にBlu-ray BOXが発売。発売告知CMは、テレビCMでは[[潘めぐみ]](『ウルトラマンジード』の[[ペガッサ星人#ペガッサ星人ペガ|ペガッサ星人ペガ]]の声)、[[YouTube]]の円谷プロの公式アカウントで視聴可能な動画では[[三森すずこ]](『ジード』のレムの声)がナレーションを担当。
== 備考 ==
{{雑多な内容の箇条書き|date=2015-08-16}}
* 木村は芸能界を引退しており、長らく特撮誌などのインタビューを受けることはなかったが、『[[ウルトラ情報局]]』[[2008年]]2月号でゲスト出演した。
* 田口は、本作品の放送当時に生まれた息子に「'''光太郎'''」と名づけようとしていた。しかし、親戚の子に偶然同じ名が付いてしまったために断念したが、その代わり、孫には「光太郎」と名付けている(『ウルトラ情報局』2007年5月号でのインタビューより{{信頼性要検証|date=2018年5月}})。名前の由来は東光太郎からである<!--<ref>「特撮 NEW TYPE THE LIVE」(角川書店)2009年3月号</ref>※ページ番号をご存じの方、ページ番号の追記をお願いします。-->。
* 第22話撮影中の[[1973年]][[8月4日]]、ロケバスが運転を誤りコンニャク畑に転落、横転する事故が発生し、篠田を含むキャスト・スタッフ8名全員が怪我をした{{Sfn|タロウタロウタロウ|1999|pp=52、127}}。
* 篠田は『[[鬼平犯科帳 (中村吉右衛門)|鬼平犯科帳]]』で[[尾美としのり]]と共演した際、本作品撮影時に尾美が監督に怒られてロケバスでしょんぼりしていたところを篠田に慰めてもらったことを聞いた。しかし、篠田は尾美が出演していたことを覚えていなかった{{R|タロウタロウタロウ39}}。
* 武村は1973年以前、ペギー葉山が大家を務めたアパート・ドレミファ荘で部屋を借りていた{{Sfn|DVDメモリアルセット|2005|p=18|loc=「福沢良一」}}{{sfn|オール・ザットタロウ|2016|p=91|loc=「ウルトラマンタロウ・スペシャルインタビュー 福沢良一」}}。
* [[朝日放送ラジオ|ABCラジオ]]で、1973年6月 - [[1989年]]3月に放送された "浪速のモーツァルト"こと、[[キダ・タロー]]がパーソナリティを務めた『[[フレッシュ9時半!キダ・タローです]]』の番組ジングルに「タロウ、タロウ、タロウ “フレッシュ9時半! キダ”タロウ」と、テーマソングの一部に“フレッシュ9時半! キダ”をかぶせる形で使用されていた。
* [[金子修介]]監督が映画『[[みんなあげちゃう]]』にウルトラの母を出演させた際、出演時間に対して秒いくらという形でギャラを算定して、出演料を円谷プロに支払ったという。
* 『[[SmaSTATION!!]]』([[テレビ朝日]])の2009年[[12月19日]]放送分で「ウルトラマン 9のヒミツ」と題した特集が組まれた際、「ファンが選ぶ対決ベスト3」に本作品でのバルキー星人との戦いが第2位にランクインした。また、この時のゲストだった[[ロンドンブーツ1号2号]]の[[田村亮 (お笑い芸人)|田村亮]]も、タロウが好きだったと語っていた。
* 『決定!これが日本のベスト100』(テレビ朝日系列)の[[2002年]][[9月8日]]放送分「あなたが選んだヒーローベスト100」の第21位に、タロウがランクインした<ref>[https://web.archive.org/web/20040311193246/http://www.tv-asahi.co.jp/best100/contents/100/0017/ranking/index.html 特撮&アニメ ヒーロー&ヒロインベスト100]、テレビ朝日。([[インターネットアーカイブ]])</ref>。
* 『[[コメットさん]]』([[1978年]])の第43話「初恋の人ウルトラマン」にタロウが登場。タロウが地球で人間としての生活を送っているなど、本作品の後日碑とも言える内容となっているほか、タロウがコメットの別れた恋人であることが判明している。ラストでタロウは、変身したら地球を去らなければならないことを承知の上で知り合いの宇宙人の少年を救うために変身し、そのまま地球を去っていった。同話でタロウの人間態を篠田ではなく[[下塚誠]]が演じていること、コメットから「'''タロウさん'''」と呼ばれていることから、「ウルトラマン画報下巻」([[竹書房]]・[[2002年]])で「'''光太郎と分離後のタロウ自身の変身体・太郎青年'''」と解説されているが、『コメットさん』は円谷プロ制作ではないため、本作品を含むウルトラシリーズとは無関係である。
* 『[[仮面ライダー電王]]』([[2007年]])の「イマジンあにめ3」に、タロウのパロディキャラクター・'''ウルトラマンタロス'''が登場。声は『ウルトラマン物語』や『ウルトラマンメビウス』以降の作品でタロウ役を担当した[[石丸博也]]が演じている。
* 漫画『[[てんとう虫の歌]]』の劇中で、テレビを観ながら主人公の兄弟が本作品の主題歌を合唱するシーンが存在する。画面に映っているタロウは角はあるものの、[[ウルトラマンA]]を思わせる外観であった。
* [[2013年]]に出版された書籍『ウルトラマンの愛した日本』<ref>[[宝島社新書]]、[[和智正喜]]訳。ISBN 978-4-8002-1943-5</ref>は、タロウの著作との設定を持つ。
* ウルトラマンワールドM78東京駅店は、タロウが名誉店長を務めている設定である<ref>{{Cite web|和書|title=円谷ステーション 「ウルトラマンキングより「ウルトラマンショップ」人事異動のお知らせ」|url=http://m-78.jp/news/n-1412|accessdate=2019-8-20}}</ref>。同店は千代田区にある。
* [[NHK BSプレミアム]]で[[2022年]][[9月10日]]に放送された『[[発表!全ウルトラマン大投票]]』の第9位にタロウがランクインしており、32.1%が女性による投票だった<ref>{{Cite web|和書|title=最終結果発表|url=https://www.nhk.or.jp/anime/ultraman/ranking|work=全ウルトラマン大投票|date=2022-9-11| accessdate=2022-9-25}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist
|refs=
<ref name="バッジ">その際、回想という形で第1話のタロウ誕生の映像が流用されている。</ref>
<ref name="客演">そのため、タロウは『ウルトラマンレオ』に客演していない。</ref>
}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2
|refs=
<ref name="企画書">COMPLETE DVD-BOX封入の「番組企画資料BOOK」(バンダイビジュアル)</ref>
<ref name="決定版ウルトラマン大集合">「決定版ウルトラマン大集合」([[実業之日本社]]・2002年)p.29、220、221</ref>
<ref name="タロウ197326">{{Harvnb|タロウ1973|2007|pp=26-29|loc=「『ウルトラマンタロウ』(仮題『ウルトラマンジャック』)資料再録」}}</ref>
<ref name="DVD25">{{Harvnb|DVD2|2005|pp=5-11|loc=「『DVDウルトラマンタロウ』ここを見逃すな! シーン・セレクション#3 本編と特撮、その華麗な融合」}}</ref>
<ref name="OFM VOL.731">{{Harvnb|OFM VOL.7|2005|p=31|loc=「熊谷健インタビュー」}}</ref>
<ref name="パンフレット">『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』パンフレット<!--ページ数表記なし--></ref>
<ref name="ウルトラ兄弟15">{{Harvnb|ウルトラ兄弟|1979|p=15}}</ref>
<ref name="別冊てれびくん">『別冊てれびくん(1)ウルトラマン ULTRAMAN FILM BOOK』(小学館)p40-41「ウルトラマンタロウの変身 ウルトラバッジ」</ref>
<ref name="白書90">{{Harvnb|白書|1982|pp=90-91|loc=「円谷プロ10周年作品ウルトラマンタロウ」}}</ref>
<ref name="怪獣大全集">{{Harvnb|ウルトラ怪獣大全集|1984|pp=58-59|loc=「ウルトラマンタロウ」}}</ref>
<ref name="超技56">{{Harvnb|超技全書|1990|p=56}}</ref>
<ref name="超技57">{{Harvnb|超技全書|1990|p=57}}</ref>
<ref name="超技58">{{Harvnb|超技全書|1990|p=58}}</ref>
<ref name="超技59">{{Harvnb|超技全書|1990|p=59}}</ref>
<ref name="超技60">{{Harvnb|超技全書|1990|p=60|loc=「投げ技」}}</ref>
<ref name="超技61">{{Harvnb|超技全書|1990|p=61|loc=「蹴り技」}}</ref>
<ref name="超技62">{{Harvnb|超技全書|1990|p=62|loc=「パンチ」}}</ref>
<ref name="超技63">{{Harvnb|超技全書|1990|p=63}}</ref>
<ref name="超技64">{{Harvnb|超技全書|1990|p=64}}</ref>
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<ref name="超技67">{{Harvnb|超技全書|1990|p=67}}</ref>
<ref name="超技68">{{Harvnb|超技全書|1990|pp=68-69|loc=「キングブレスレット」}}</ref>
<ref name="超技69">{{Harvnb|超技全書|1990|p=69|loc=「タロウブレスレット」}}</ref>
<ref name="超技97">{{Harvnb|超技全書|1990|p=97}}</ref>
<ref name="タロウ超全集10">{{Harvnb|タロウ超全集|1991|p=10}}</ref>
<ref name="タロウ超全集13">{{Harvnb|タロウ超全集|1991|p=13}}</ref>
<ref name="タロウ超全集30">{{Harvnb|タロウ超全集|1991|p=30|loc=「ZATの隊員たち」}}</ref>
<ref name="タロウ超全集91">{{Harvnb|タロウ超全集|1991|p=91|loc=「ウルトラマンタロウ 幻の必殺技」」}}</ref>
<ref name="タロウ超全集95">{{Harvnb|タロウ超全集|1991|p=95|loc=「キングブレスレット」}}</ref>
<ref name="タイガ超全集61">{{Harvnb|タイガ超全集|2020|p=61|loc=「タイガの危機に駆けつけたウルトラヒーローたち」}}</ref>
<ref name="タイガ超全集68">{{Harvnb|タイガ超全集|2020|p=68|loc=「ウルトラギャラクシーファイトのヒーロー」}}</ref>
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<ref name="ひみつ図鑑">「てれびくんデラックス 愛蔵版ウルトラマンメビウス超全集」(小学館・2007年)付録「ウルトラ兄弟ひみつ図鑑」<!--ページ数表記なし--></ref>
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<ref name="マガジンVOL.324">{{Harvnb|マガジンVOL.3|2022|p=24|loc=「スーパーメカニック大全 宇宙メカニック編」}}</ref>
<ref name="マガジンVOL.325">{{Harvnb|マガジンVOL.3|2022|p=25|loc=「スーパーメカニック大全 宇宙メカニック編」}}</ref>
<ref name="マガジンVOL.327">{{Harvnb|マガジンVOL.3|2022|p=27|loc=「スーパーメカニック大全 宇宙メカニック編」}}</ref>
<ref name="UPM vol.0331">{{Harvnb|UPM vol.03|2020|p=31|loc=「ウルトラ特別企画vol.03 ウルトラの特徴!?ユニフォーム考 その1」}}</ref>
<ref name="UPM vol.112">{{Harvnb|UPM vol.11|2020|p=2|loc=「タロウワールドは、ファンタジーと現実の往還 切通理作」}}</ref>
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<ref name="UPM vol.116">{{Harvnb|UPM vol.11|2020|pp=6-7|loc=「ウルトラマンタロウ」}}</ref>
<ref name="UPM vol.118">{{Harvnb|UPM vol.11|2020|p=8|loc=「光線技、特殊能力、攻撃戦法」}}</ref>
<ref name="UPM vol.119">{{Harvnb|UPM vol.11|2020|p=9|loc=「格闘技、武器」}}</ref>
<ref name="UPM vol.1111">{{Harvnb|UPM vol.11|2020|p=11|loc=「ウルトラ兄弟」}}</ref>
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<ref name="UPM vol.1118">{{Harvnb|UPM vol.11|2020|pp=18-19|loc=「ウルトラ特撮PERFECT MOOK vol.11 特別インタビュー 篠田三郎(東光太郎役)」}}</ref>
<ref name="UPM vol.1132">{{Harvnb|UPM vol.11|2020|pp=32-33|loc=「君にも見える ウルトラの証言 田口成光(脚本家、企画者)」}}</ref>
<ref name="UPM vol.1135">{{Harvnb|UPM vol.11|2020|p=35|loc=「『ウルトラマンタロウ』放送・スタッフリスト」}}</ref>
<ref name="UPM vol.1230">{{Harvnb|UPM vol.12|2020|p=30|loc=「ウルトラ特別企画vol.12 やっぱり基地」}}</ref>
<ref name="UPM vol.3729">{{Harvnb|UPM vol.37|2022|p=29|loc=「ウルトラ特別企画vol.37 本編美術セットとしての基地または作戦室」}}</ref>
<ref name="夢のかけら56">{{Harvnb|夢のかけら 円谷篇|2021|p=56|loc=「コンドル1号」}}</ref>
<ref name="夢のかけら60">{{Harvnb|夢のかけら 円谷篇|2021|p=60|loc=「ラビットパンダ」}}</ref>
<ref name="夢のかけら125">{{Harvnb|夢のかけら 円谷篇|2021|p=125|loc=「解説」}}</ref>
<ref name="HISTORICA26">{{Harvnb|HISTORICA|2022|pp=26-27|loc=「ウルトラマンタロウ」}}</ref>
<ref name="U168">{{Harvnb|宇宙船168|2020|pp=124-125|loc=「夢のかけら」}}</ref>
<ref name="教官">{{Cite web|和書|title=M78星雲「光の国」 {{!}}ウルトラマンタロウ|url=https://hicbc.com/tv/mebius/m78/|publisher=hicbc.com/|website=ウルトラマンメビウス|accessdate=2021-1-29|language=ja}}</ref>
<ref name="m7820190418">{{cite news|url=https://m-78.jp/news/post-5073/|title=新時代最初のヒーローはウルトラマンタロウの息子!新TVシリーズ『ウルトラマンタイガ』テレビ東京系 2019年7月6日(土)あさ9時放送スタート!〜シリーズ初!主人公・ヒロユキがタイガ、タイタス、フーマの複数ヒーローに変身!〜|newspaper=円谷プロダクション|date=2019-04-18|accessdate=2019-04-18}}</ref>
<ref name="メビウス8">『メビウス』のDVD第8巻封入の作品解説書「MEBIUS FILE」<!--ページ数表記なし--></ref>
<ref name="超8">『超ウルトラ8兄弟』のDVDメモリアルボックス(バンダイビジュアル・2009年1月23日発売・BCBS-3428)の特典のレプリカ台本</ref>
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}}
=== 出典(リンク) ===
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** {{Cite book|和書|others=構成・間宮尚彦 執筆・大石真司|title=[[ウルトラマンタイガ]]超全集|series=てれびくんデラックス 愛蔵版|date=2020-03-30|publisher=小学館|isbn=978-4-09-105167-7|ref={{SfnRef|タイガ超全集|2020}} }}
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* 画報シリーズ([[竹書房]])
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** {{Cite book|和書 |editor=竹書房/ブレインナビ| title = ウルトラマン画報 <small>光の戦士三十五年の歩み</small> | publisher = 竹書房 | volume = 上巻 | date = 2002-10-04 | isbn = 978-4-8124-0888-9 | ref = {{SfnRef|画報 上巻|2002}} }}
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* テレビマガジンデラックス(講談社)
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* {{Cite book|和書|year = 2007-12-21|title = ウルトラマンタロウ1973|publisher = ジェネオンエンタテインメント|isbn = 978-4-86235-455-6|ref = {{SfnRef|タロウ1973|2007}}}}
* {{Cite book|和書|others=構成・執筆・編集 小野浩一郎・岩畠寿明(エープロダクション)|date=2009-03-27|title=テレビマガジン特別編集 大決戦!超ウルトラ8兄弟|publisher=講談社|isbn=978-4-06-178434-5|ref={{SfnRef|テレビマガジン特別編集 超ウルトラ8兄弟|2009}} }}
* {{Cite book|和書|year = 2013-10|title = 語れ!ウルトラマン 兄弟激闘編|publisher = ベストセラーズ|series = ベストムックシリーズ23|isbn = 978-4-584-20523-5|ref = {{SfnRef|兄弟激闘編|2013}}}}
* {{Cite book|和書|author=繁原稔弘|title=ウルトラヒーロー必殺技スーパーガイド1966-2014|date=2014-03-30|publisher=メディアックス|series=メディアックスMOOK437|isbn=978-4-86201-467-2|ref={{SfnRef|必殺技SG|2014}}}}
* {{Cite book|和書|year = 2016-7|title = オール・ザットウルトラマンタロウ|publisher = ネコパブリッシング|isbn = 978-4-7770-1925-0|ref = {{SfnRef|オール・ザットタロウ|2016}}}}
*{{Cite book|和書|title=学年誌ウルトラ伝説|publisher=小学館|date=2017-07-03|isbn=978-4-09-682236-4|ref={{SfnRef|学年誌|2017}}}}
*{{Cite book|和書|year = 2017-10-28|title=俺たちのウルトラマンシリーズ ウルトラマンタロウ 大人のためのタロウ読本。|publisher = 日之出出版|series = HINODE MOOK 495|isbn=978-4-8387-9204-7|ref={{SfnRef|大人のためのタロウ読本|2017}}}}
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* {{Cite book|和書|editor=[[電撃ホビーマガジン]]編集部|title=ゴジラ 東宝チャンピオンまつり パーフェクション|date=2014-11-29|publisher=[[KADOKAWA]]([[アスキー・メディアワークス]])|series=DENGEKI HOBBY BOOKS|isbn=978-4-04-866999-3|ref={{SfnRef|東宝チャンピオンまつりパーフェクション|2014}}}}
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** {{Cite book|和書|editor=講談社|date = 2020-12-26|volume=vol.12|volume-title=ウルトラマンオーブ|publisher = 講談社|isbn = 978-4-06-520934-9|ref = {{SfnRef|UPM vol.12|2020}}}}
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** {{Cite book|和書|date = 2022-06-28<!--奥付表記-->|title = ULTRAMAN HISTORICA ウルトラQからシン・ウルトラマンまで |publisher = 講談社|series=講談社MOOK|isbn = 978-4-06-528129-1|ref = {{SfnRef|HISTORICA|2022}}}}
* {{Cite book|和書|others=修復-[[原口智生]] 撮影-加藤文哉|title=夢のかけら 円谷プロダクション篇|publisher=[[ホビージャパン]]|date=2021-08-31|isbn=978-4-7986-2523-2|ref={{SfnRef|夢のかけら 円谷篇|2021}}}}
*{{Cite journal|和書|date = 2020-04-01|journal=宇宙船|volume=vol.168|issue=(SPRING 2020.春)|publisher=ホビージャパン |isbn=978-4-7986-2182-1|ref={{SfnRef|宇宙船168|2020}}}}
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** {{wikicite|ref={{SfnRef|DVD2|2005}}|reference=DVD『ウルトラマンタロウVolume.2』([[デジタルウルトラプロジェクト]] DUPJ-72)封入 ライナーノーツ}}
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** {{wikicite|ref={{SfnRef|DVD13|2005}}|reference=DVD『ウルトラマンタロウVolume.13』([[デジタルウルトラプロジェクト]] DUP-83)封入 ライナーノーツ}}
** {{wikicite|ref={{SfnRef|DVDメモリアルセット|2005}}|reference=DVD『ウルトラマンタロウVolume.11 - 13 メモリアルセット』([[デジタルウルトラプロジェクト]])封入 拝啓、ウルトラマンタロウ}}
** {{wikicite|ref={{SfnRef|DVD-BOX|2013}}|reference=DVD『ウルトラマンタロウ COMPLETE DVD-BOX』([[バンダイビジュアル]] BCBS-4533) 封入 ULTRAMANTARO COLLECTOR’S BOOK}}
== 関連項目 ==
*[[ウルトラマンタロウの登場怪獣]]
*[[人気怪獣大パレード]] - [[1984年]]に[[テレビ東京]]の『[[5夜連続シリーズ スーパーTV]]』で放送。[[3月27日]]放送の第2回では本作を放送。
*[[宇瑠寅太郎]](うるとらたろう)…[[式秀部屋]]所属の[[大相撲力士]]。2013年11月場所より本作に因んで「宇瑠'''虎'''太郎」の[[四股名]]を名乗る(旧四股名は櫻潮功道)。2018年1月場所より、「虎」を「寅」に変えた現在の四股名に改名。
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{{ウルトラシリーズ}}
{{デフォルトソート:うるとらまんたろう}}
[[Category:ウルトラシリーズの特撮テレビドラマ|たろう]]
[[Category:TBS金曜7時枠の連続ドラマ]]
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[[Category:漫画作品 う|るとらまんたろう]]
[[Category:1973年の漫画]]
[[Category:週刊少年サンデーの漫画作品]]
[[Category:小学館の学年誌の漫画作品]] | 2003-02-19T03:08:35Z | 2023-12-09T08:29:05Z | false | false | false | [
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2,354 | マグマ大使 | 『マグマ大使』(マグマたいし)は、手塚治虫作の漫画作品、およびこれを原作にした特撮テレビ番組『マグマ大使』およびOVA。そして、これらの作品の主人公の名である。
マグマ大使とは、地球の創造主アースが、地球侵略を狙う「宇宙の帝王」ゴアとの戦いのために生んだ「ロケット人間」である。マグマ大使は、アースがマモル少年に与えた特殊な笛によって呼び出される。マモル少年たち正義の味方と、地球征服を企む宇宙の帝王ゴア、ゴアが差し向ける敵との戦いを描く。
少年月刊誌『少年画報』に1965年5月号から1967年8月号まで連載。テレビ版と異なり、怪獣はほとんど登場せず、どんな人間にも変身できる人間モドキや一つ目の種族サイクロップスなどの等身大の怪人が多く登場しており、また、宇宙の帝王ゴアもテレビ版以上に積極的な活躍を見せた。
後半はバラエティに富んだ展開ではあったが、作者である手塚の過密スケジュールのため、別の人物による代筆となっている。この為、代筆部分を自分名義の作品とすることを手塚自身が容認できず、後半のサイクロップス編は単行本化されていない。
1992年から1993年にかけて全13話で制作され、バンダイビジュアルよりVHS、LDが発売された。復活させられたゴアとマグマ(アース)との対決を主軸に描いているが、それを取り巻く周辺環境や過程(飛鳥父娘と祠に関わるオカルト要素、国家の謀略など)については大きな脚色が加えられている。
特に本編後半に差し掛かるまで村上厚、マモル父子の周辺を除いて可視状態のマグマは敵とみなされ、人間(国家)からもさまざまな攻撃を受ける(実は日本国家の中枢が秘密裏にゴア側と古くから取引を交わし、経済成長という利益を得ていたため)。
監督のうえだひでひとをはじめとするスタッフの大半は、1991年から1年間放映されたテレビアニメ版『三つ目がとおる』の制作終了後に続投する形で手がけている。
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] | 『マグマ大使』(マグマたいし)は、手塚治虫作の漫画作品、およびこれを原作にした特撮テレビ番組『マグマ大使』およびOVA。そして、これらの作品の主人公の名である。 マグマ大使とは、地球の創造主アースが、地球侵略を狙う「宇宙の帝王」ゴアとの戦いのために生んだ「ロケット人間」である。マグマ大使は、アースがマモル少年に与えた特殊な笛によって呼び出される。マモル少年たち正義の味方と、地球征服を企む宇宙の帝王ゴア、ゴアが差し向ける敵との戦いを描く。 | {{出典の明記|date=2020年11月}}
{{Infobox animanga/Header2}}
{{Infobox animanga/Manga
| タイトル = マグマ大使
| 作者 = [[手塚治虫]]
| 作画 =
| 出版社 = [[少年画報社]]
| 他出版社 =
| 掲載誌 = [[少年画報]]
| レーベル =
| 発行日 =
| 発売日 =
| 開始号 = 1965年5月号
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| その他 =
| インターネット =
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{{Infobox animanga/OVA
| タイトル = マグマ大使
| 原作 = 手塚治虫
| 監督 = [[うえだひでひと]]
| シリーズ構成 = [[小出克彦]]
| 脚本 =
| キャラクターデザイン = 宇田川一彦
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| 発売日 =
| 開始 = 1992年
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{{Infobox animanga/Footer
| ウィキプロジェクト =
| ウィキポータル =
}}
『'''マグマ大使'''』(マグマたいし)は、[[手塚治虫]]作の[[漫画]]作品、およびこれを原作にした[[特撮]]テレビ番組『[[マグマ大使 (テレビドラマ)|マグマ大使]]』および[[OVA]]。そして、これらの作品の主人公の名である。
マグマ大使とは、[[地球]]の創造主アースが、地球侵略を狙う「[[宇宙]]の帝王」ゴアとの戦いのために生んだ「ロケット人間」である。マグマ大使は、アースがマモル少年に与えた特殊な笛によって呼び出される。マモル少年たち[[正義の味方]]と、地球征服を企む宇宙の帝王ゴア、ゴアが差し向ける敵との戦いを描く。
== 概要 ==
少年月刊誌『[[少年画報]]』に[[1965年]]5月号から[[1967年]]8月号まで連載。テレビ版と異なり、[[怪獣]]はほとんど登場せず、どんな人間にも変身できる人間モドキや一つ目の種族サイクロップスなどの等身大の怪人が多く登場しており、また、宇宙の帝王ゴアもテレビ版以上に積極的な活躍を見せた。
後半はバラエティに富んだ展開ではあったが、作者である手塚の過密スケジュールのため、別の人物による代筆となっている。この為、代筆部分を自分名義の作品とすることを手塚自身が容認できず、後半のサイクロップス編は単行本化されていない{{efn|後篇が収録されていない「[[手塚治虫漫画全集]]」版(全三巻)では、あとがきで手塚自身が「この先はほぼ[[井上智]]と[[福元一義]]の代筆なので」とコメントしている。}}。
== 登場人物 ==
;マグマ大使
: アースによって地球を守るために作られた「ロケット人」。厳密に言うとロボットではない生きたロケット{{efn|ガムの話では土から生まれた存在。ダメージを受けた時は土の中に埋めることで体力回復ができる。}}。体色は金色で、自在に巨人の姿からロケットに変形する。武器は頭部の2本のアンテナから出す熱線と怪力。両腕を高速回転させるとジェット気流を巻き起こし、気圧の変化によって空気の凸レンズを作ることも可能。胸部からは様々な種類のミサイルを撃ち出す。
;モル
: 女性のロケット人でマグマの妻。作中では戦闘シーンは少なく、アースの助手をすることが多い。奥の手に無数の分身を作り出す「無機増殖術」を扱う。
;ガム
: マグマとモルの子供。マグマがマモルの事が気に入ったのでアースに「こんな子供が欲しい」と頼んで作ってもらった。マモルをモデルに作られたため、マモルに瓜二つ。マグマ一家の中で唯一、コックピットが作られており人間が搭乗することができる。小型サイズで搭乗できるという仕様もあって、マモルはマグマ達を呼ぶにあたって最初にガムを呼ぶことが多い。
;村上マモル
: 村上厚の一人息子。ゴアからの宣戦布告の証人にされるために、家族共々恐竜時代に連れてこられる。その際にゴアの写真を撮るが、マグマにその写真を貸してほしいと頼まれ、そのまま成り行き上でアースたちの元へついて来てしまう。マグマから、吹くとマグマ達を呼べる特殊な笛を貰い、マグマ達の一番の協力者となる。
;村上厚
: マモルの父。毎回新聞社会部記者。ゴアの宣戦布告の証人とされた2000人の新聞記者の一人。
;マモルの母
: 作中では本名は出てない。人間モドキの替え玉が現れたが、マモル曰く「ママはパパと話すときパパのぶしょうヒゲを撫でるはずだ」とのことで見破られた。
;ゴア
: さまざまな星を乗っ取り、その星の王となって悪事を尽くしてきた征服者。2億 - 3億もの星を手に入れていて、アースと同じくらい長く生きている。人間体はあくまで仮の姿、で正体(劇中では「本体」と呼称)は怪獣のような姿なのだが、肉食恐竜型{{efn|TVのゴアゴンゴンと違って角が無くずんぐり体型、ティラノサウルスやゴジラに似ている。}}と、クモとムカデを合わせたような虫型の2パターンがある{{efn|ただし、虫型形態は本人が「俺の三つ目の本体」というものの一度しか出てこず、アースやカオスなどの同格以上のキャラの前で見せた正体はいずれも肉食恐竜型の方である。}}。宇宙の悪魔と言われてる反面、子供には甘くなるという一面がある。
: 終盤では虫型形態でマグマと戦うが撃退されてしまう。今度はカオスに直談判することで地球をアースの手から奪い取ろうと画策してうまく言いくるめて自分の主張にも一理あると納得させ、双方が選出した戦士たちによる代理戦争で地球の覇権を決めるという形にもっていった。ゴアはブラックガロンをけしかけてマグマと戦わせるが、これも失敗に終わる。その結果を受け入れることができず憤慨してカオスを軽視する発言をしたため怒りを買い、全身傷だらけの姿で地球から逃げていった。だが、そのすぐ後、全人類に「また必ずやって来て地球を手に入れる!」と宣言する。
;アース
: 30億年前に地球を作った創造者。マグマ達ロケット人を作った本人である。杖を持った白髪白鬚の老人といった仙人のような姿をしている。
;カオス
: 終盤に登場。百億年前にすべての始まりの「原始原子」を作り出した全宇宙の創造者。アースやゴアの上をいく存在で、時間も長さも音も色も匂いもない光だけの世界に住む。
: 単純な善悪に左右されない公正な考え方を持ち、アースとゴアの両者の主張を聞いた際、ゴアの「地球を作ったのは確かにアースだが、カオスが作り出した原始原子はアース一人のものではない」という主張を認める。だからと言って、ゴアのものでもないから地球一つの事でごたごたするなら、地球を原子に戻そうと言う。それだけはやめてくださいと両者から懇願されたので、戦いによって地球の支配権を競うことを提案する。
;人間モドキ
: ゴアによって地球人と入れ替える為に作られた特殊な生物。作中では、人間モドキの原形はゼリー状の「[[原形質]]」というものでできている。このため、殆どの人間モドキは死ぬと溶けてしまうのが特徴{{efn|マモルの母に化けていた人間モドキは、ガムに高圧電流を浴びせられた際にアメーバのような姿になった。また、のっぺりとしているが人型を保った死体も登場した。}}。弱点は冬虫夏草などの寄生キノコの胞子。ブラックガロン編では、犬や猫、ネズミ型の動物モドキも登場した。
;ダバ
: ゴアが連れてきた諜報部員の一人。半人半馬の[[ケンタウロス]]の姿の宇宙人。マグマの破壊とアースの居所の探索の任を受けて砂漠に降り立つ。竜巻を作り出す手裏剣で砂に磁力をつけて、マグマを砂で固め、更には砂の巨人を作り出し襲わせた。マグマに鎖で縛られて、雷雲の中で雷を受けて倒された。
;ゾロリ
: ゴアが連れてきた諜報部員の一人。エリダヌス座デルタ星第三伴星の魚型の宇宙人。星一番のブ男で、ゴアの能力で星一番の美しい姿に整形してもらうのが望み。マグマの破壊とアースの居所の探索の任を受けて海に降り立つ。テレポーテーションと腹からナイフを撃ちだす能力を持つ。アースの隠れ家を突き止めるが、アースに土くれに変えられる。
;コイダマリネ
: ゴアが連れてきた諜報部員の一人。植物型の宇宙人で名前通り大根に似ている。マグマの破壊とアースの居所の探索の任を受けて山に降り立つ。根を伸ばして遠くのものを探ることができる。休眠中のマグマを発見するも、マモルに大量の農薬を掛けられて、溶けてしまう。
;メドウサ
: 前世紀に送り込まれたマグマ達に差し向けられたゴアの刺客。アースに化けて本物と互角に闘い、マグマに見破られた時には青銅の山も締め付けて砕いてしまうヘビの髪でマグマとモルを締め上げるも、マグマの放った催眠超音波を放つミサイルでヘビたちを操られてしまい、逆にヘビに飲まれてしまう。
;ザボ
: ゴアがプレアデス星団から連れてきたクモ人間の召使い。凄まじい重力を誇る[[白色矮星]]の出身。このため、地球のどんな物がぶつかってもビクともしないほどで、マグマも苦戦する。また、6本ある手の先から粘ついた糸を出す。
;ブラックガロン
: 人間モドキ作戦が失敗したゴアが新たに送り込んだ刺客。『[[鉄腕アトム]]』や『[[魔神ガロン]]』に登場したものと同じ種類のガロンで、体色が黒いのが特徴。指先から熱線を出したり、自在に分裂・合体をしたりする。マグマを一度はスクラップにしてしまうほどの実力者。ゴアに頭脳である「ピック」を抜き取られていたため暴れ続けていたが、マグマからピックを返されると同時に沈静化、自らマグマとの闘いを休戦する。
== 単行本 ==
* [[サンデーコミックス]]『マグマ大使』全2巻([[秋田書店]])
* [[手塚治虫漫画全集]]『マグマ大使』全3巻([[講談社]])
* 手塚治虫傑作選集『マグマ大使』全2巻(秋田書店)
* 秋田文庫『マグマ大使』全2巻(秋田書店)、1巻は大平透、2巻は[[実相寺昭雄]]が解説を担当している。
* [[手塚治虫文庫全集]]『マグマ大使』全1巻(講談社)
== テレビ版 ==
{{Main|マグマ大使 (テレビドラマ)}}
== OVA版 ==
1992年から1993年にかけて全13話で制作され、[[バンダイビジュアル]]よりVHS、LDが発売された。復活させられたゴアとマグマ(アース)との対決を主軸に描いているが、それを取り巻く周辺環境や過程(飛鳥父娘と[[祠]]に関わる[[オカルト]]要素、国家の謀略など)については大きな脚色が加えられている。
特に本編後半に差し掛かるまで村上厚、マモル父子の周辺を除いて可視状態のマグマは敵とみなされ、人間(国家)からもさまざまな攻撃を受ける(実は日本国家の中枢が秘密裏にゴア側と古くから取引を交わし、[[経済成長]]という利益を得ていたため)。
監督の[[うえだひでひと]]をはじめとするスタッフの大半は、1991年から1年間放映されたテレビアニメ版『[[三つ目がとおる]]』の制作終了後に続投する形で手がけている。
10周年の節目となる2002年6月25日には、[[パイオニアLDC]]より『手塚治虫アニメワールド』の一集としてDVD-BOXが発売されている<ref>{{ASIN|B0000677NM}}</ref>。
=== スタッフ ===
* 原作、オリジナルキャラクター:手塚治虫
* 企画:清水義裕、鵜之沢伸
* プロデューサー:久保田稔、岡崎茂、久保聡
* 監督:[[うえだひでひと]]
* 音楽:[[渡辺俊幸]]
* シリーズ構成:[[小出克彦]]
* キャラクターデザイン、総作画監督:[[宇田川一彦]]
* 美術監督:岡田和夫
* 撮影監督:野口肇
* 音楽制作:[[日本コロムビア|日本コロムビア株式会社]]
* 録音監督:[[向山宏志]]
* 音楽監督:東上別符精
* 主題歌
** 「愛がある星」
*** 作詞:平出よしかつ / 作曲・編曲:[[河野陽吾]] / 演奏・歌:Maybe{{efn|[[MAKE-UP]]の[[山田信夫 (歌手)|山田信夫]]と[[河野陽吾]]によるユニット。}}
** 「マグマ大使主題歌」
*** 作詞:長谷川竜生 / 作曲:[[山本直純]] / 編曲:松原神次 / 歌:オリュンポス三十二歌神{{efn|アマチュアの同人グループ。}}
=== 登場人物(OVA) ===
; 村上マモル
: [[声優|声]]:[[菊池正美]]
: 主人公。厚と友子夫妻の一人息子。アースからマグマを呼ぶ笛を授かり、地球侵略をたくらむゴアに狙われている。テレビ版での年齢は小学生であったが、本作では14歳となっており、自分の置かれた境遇に年相応に苦悩しつつ、アースや厚の正義の力に後押しされて成長して行く。エンディングでは「マモル」表記だが、本編の自宅の表札では「護」と表記されている。
; マグマ
: 声:[[大塚明夫]]
: アースによって創造されたロケット人間。ゴアに対抗する金の巨人。普段は大型の人間型ロボットのような姿だが、ロケット型に変形して飛行できる。
; モル
: 声:[[深見梨加]]
: アースによって創造された女性型ロケット人間。人間サイズ。
; ガム
: 声:[[石田彰]]
: アースによって創造された少年型ロケット人間。人間サイズ。マモルとそっくりの姿をしており、ロケット型に変形した時はマモルを乗せる。
; アース
: 声:[[宮内幸平]]
: 地球をつかさどる神。白髪白髭の老人の姿をしている。
; ゴア
: 声:[[大平透]]
: 地球を侵略しようとしている悪の権化。はるかな昔に飛鳥一族により封印されたが、復活する。しかし、地球創世の戦いで封印された際に飛散した自分の身体の一片が人間を作りだしていた真実をアースによって見せられ、地球を傷付けた人間を滅ぼすために総攻撃を決意する。
; 村上厚(むらかみ あつし)
: 声:[[小杉十郎太]]
: マモルの父で新聞記者。友人の飛鳥文明に呼び出されたことから、この「事変」に携わる。ゴアの円盤にまつわる記事は上層部に黙殺された。文明から託された祠の写真をめぐり、マモルや関田らを[[箱根]]に連れて行き、独断で調査取材活動を図る。国家がゴア側と結託している事実を突き止める。
; 村上友子(むらかみ ともこ)
: 声:深見梨加
: マモルの母親で厚の妻。ゴアに捉えられ、人間モドキのアルテミラに入れ替わられてしまう。
; 飛鳥文明(あすか ふみあき)
: 声:[[中村秀利]]
: 村上厚の友人。悪の権化であるゴアとそれに対抗する力を持つマグマの両者を封ずる一族の末裔。ゴアの復活をたくらむ鬼に殺害されるが、霊的存在となって娘の未来を守り導く。祠の写真が収められたペンダントを厚に託す。
; 飛鳥未来(あすか みき)
: 声:[[伊藤美紀 (声優)|伊藤美紀]]
: 文明の娘。文明が殺されたため、村上家に匿われる。霊的存在となった文明に導かれ、マグマを覚醒させるという使命を悟って命を捧げた。
; 関田淳也
: 声:[[高木渉]]
: 厚の部下でアシスタントをしている。
; 梅村さやか
: 声:[[松井菜桜子]]
: 若いフリージャーナリスト。ゴアの手下による侵略で壊滅状態に陥った都心にて調査を進めていた際、マモルと遭遇する。その後、厚と淳也のいる新聞社にネタを売り込み、行動を共にする。この騒動は[[アニミズム]]であると信じている。キャラクターの外見は『[[リボンの騎士]]』のサファイア([[スター・システム (小説・アニメ・漫画)|スターシステム]])に、口調は『[[三つ目がとおる]]』の[[三つ目がとおる#主要人物|和登千代子]]とほぼ同化している。
; 国東
: 声:[[金尾哲夫]]
: 国家情報部次長。上席の命によりゴア陣営と接触するが、マグマの登場により次第にゴアたちに疑念を抱く。
; 今井和夫
: 声:[[辻つとむ]]
: 厚や国家情報部周辺者以外で最初に人間モドキの存在を目の当たりにし、それに追われるマモルたちを自宅で匿う。
; 今井幸枝
: 声:[[引田有美]]
: 今井和夫の妻。
; 今井ミドリ
: 声:[[三石琴乃]]
: 今井家の娘で高校生。実は人間モドキ「NRT384」であり、本物のミドリと入れ替わってから2年が経過している。今井夫妻を慕っており、今井家に侵入した人間モドキとの戦いで焼死する。
; ウドー
: ゴアの右腕。文明が厚に託したペンダントに収められていた祠の写真の直近にある巨大な坑底で封印されていたが、ゴアの復活により目覚めることとなる。生身の人間を滋養としている。
; アルテミラ
: 声:深見梨加
: ウドー配下の人間モドキ。マモルの母、友子とすり替わりマモルの殺害を命じられるが、自分を母と信じて愛してくれたマモルに情が移った末、彼を守りたい一心からウドーを裏切る。その後、マモルに改めて「母さん」と呼ばれた直後、ウドーによって致命傷を負い、マモルに看取られながら息を引き取る。
; 人間モドキ
: ゴアの命令によって人間と入れ替わり、マモルたちを狙うエイリアン。化けの皮が剥がれると、蛸の足状の無数の触手で巻き付いて攻撃する。
; その他
: 声:[[渡辺美佐 (声優)|渡辺美佐]]、[[荒川太朗]]、[[笹岡繁蔵]]、[[岩坪理江]]、[[相沢まさき]]、[[速水奨]]、[[井上喜久子]]、[[星野充昭 ]]、[[菅原淳一]]、[[小形満]]
=== サブタイトル ===
# 我が名はゴア
# 黄金(きん)の巨神
# 静かなる侵略
# 二人のマモル
# 国家の思惑
# 疑惑の戦士マグマ
# 大いなる使命
# 狙われた笛
# ウドー復活
# 母、その愛
# 大地の怒り
# マグマ死す!
# 愛がある星
== その他 ==
;『[[炎の筆魂#炎の筆魂 参之拳|マグマ大使 地上最大のロケット人間の巻]]』
: [[島本和彦]]による手塚原作のパロディー漫画。
; 『[[Peeping Life]] -手塚プロ・タツノコプロワンダーランド- 』
: 2013年に『Peeping Life』と[[手塚プロダクション]]&[[タツノコプロ]]とのコラボレーションアニメを放送。
; 『懊悩!マモルくん』
: [[しりあがり寿]]による本作のパロディー漫画。手塚治虫生誕90周年記念の書籍『テヅコミ』vol.1(創刊号)~vol.18(最終号)にて連載。
==脚注==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 外部リンク ==
*[https://tezukaosamu.net/jp/manga/461.html 手塚治虫公式サイト内作品ページ(マンガ)]
*[https://tezukaosamu.net/jp/anime/88.html 手塚治虫公式サイト内作品ページ(アニメ)]
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2,355 | SC-3000 | SC-3000(エスシーサンゼン)は、セガ・エンタープライゼス(後のセガ)が開発したゲームパソコン。
日本国内では1983年7月15日にセガが発売し、海外ではOEM販売されていた。メーカー希望小売価格は29,800円。
また、1983年12月に初代機のチクレットキーボードをプラスティックの本格的なキーボードに改良した後継の上位機種である、SC-3000H(メーカー希望小売価格33,800円)を展開した。
SC-3000のSCは『Sega Computer』の略で、3000は約3万円という価格が由来で桁を1つ減らしたものである。
本機はシステムプログラムが別売であるため、単体ではシステムとして使用できない反面、高価だったROMとRAMを本体から切り離すことによって、同年11月発売のMSXと同等の性能で29,800円という当時のゲームパソコンよりも数万円安い低価格を実現した。また購入する言語によって、メモリ容量や、仕様を選択できるという利点もあった。このため発売前の受注段階で数万台の売上を計上したという。
この数字に自信を得たことや、同時期に任天堂がゲーム専用機を開発中であることを聞きつけた、当時社長の中山隼雄の鶴の一声で、SC-3000からキーボードやビデオ出力端子、カセット、プリンタ端子などを廃したことにより、ほぼ半額の15,000円という大幅なコストダウンを実現した廉価版SG-1000も同日に発売した。なお、任天堂のファミリーコンピュータも同日に発売されている。
日本国外にも展開され、オーストラリア・ニュージーランドを中心とするオセアニア地域では、オーストラリアではJohn Sands社、ニュージーランドではGRANDSTAND社によってOEM販売され、当時は低価格帯のパソコン市場に競合機が存在しなかったこともあって、市場をほぼ独占する成功をおさめた。日本同様テープ版ソフトやスーパーコントロール・ステーションが発売されたほか、日本未発売のライトペンや3インチディスクのパッケージソフトも発売された。ニュージーランドではSC-3000専門誌「SEGA Computer」も刊行されていた。この人気は、Amstrad CPCがオセアニアに上陸する1986年頃まで続いた。
フランスではYEN-O社によってOEM販売されていたほか、スペイン、イタリアでもOEM販売された。販売台数は欧州だけで初年度で十数万台と「初年度で国内外合わせて20万台」というセガの見込みを超える成功を収めたが、セールスではゲームソフトを遊ぶ事だけに特化したSG-1000の方が圧倒的に売れ行きが良かったことから、以後は家庭用ゲーム専用機の開発へとシフトしていった。
CPUやVDPはMSX1やSORDのM5等と同じで、ほぼ同等の性能・表現力を持つ。ただし、これらは開発時に意識したという訳では無く、当時のゲームパソコンで低価格を実現するためにチップなどの汎用部品を採用した結果ほとんど同じような構成になったという。そのため、コンピューターとしてのアーキテクチャーはすべて異なり、ハードウェア・ソフトウェア共に互換性は無いが、その類似性を使用し、機種依存部を書き換えコンバートしたMSXソフトウェアの海賊版などが、海外では発売されている。
ボディーカラーとして黒、白、赤の3色が存在した。
オプションとして、データレコーダSR-1000(9,800円)が発売されており、入出力を音でモニタできるほか、音声の入出力の信号に伴い、読み込み終了時にはモーターが停止、書き込み時には自動的にモーターが動作するようになっている。これらの実装に伴い、予約語としては用意されているMOTOR命令や、実際のREMOTE端子はハードウェア的に省略されているが、BASIC内部では、制御が行われている。
また、3インチコンパクトフロッピーディスクドライブ・64KBの拡張RAM・8KBの拡張ROM・プリンターポート・シリアルポートを搭載した拡張ユニット、スーパーコントロール・ステーションSF-7000(79,800円)も発売されていた。カートリッジの端子に接続し、ディスクから、起動することが可能になっている。フロッピーへの入出力に対応したF-BASICが添付された。
オプションとして、ジョイスティック(2本)が4,000円で提供された。
SC-3000に対応したソフトウェアの供給は主にカートリッジ媒体によって行われ、ゲームソフト、BASIC、学習用ソフトなどが供給された。
BASICカートリッジを装着することで、当時一般的だったBASIC言語によるプログラミングをすることができ、レベルII・レベルIII・ホームベーシックのように、RAMサイズ・命令・数値計算の精度が異なる複数のバリエーションが用意されていた(レベルIIのBASICカートリッジは5,800円、レベルIIIは9,800円)。レベルIIではSC-3000用のレベルIIAとSG-1000/SG-1000II対応のレベルIIBとがあった。なおレベルII、レベルIIIとも予約語が少なく、M5のBASIC-Gや、MSX-BASICの方が、BASICとしては高機能だった。
後に登場したホームベーシックは、扱う数値が整数型になったために算術関数関連の命令が大幅に削除された。反面、処理速度が向上しPLAYステートメントが追加されたことで音楽演奏は容易となりスプライト衝突割り込み命令も追加されてよりゲーム作成が行いやすくなった。またメニューから呼び出せるサンプルゲームやスプライトエディタが搭載されており、言語のみではなく、単体で使えるユーティリティーを内蔵しているところは、翌1984年6月に発売されたファミリーコンピュータのファミリーベーシックも同様である。
キーボードを活用したソフトウェアとしては、BASICの他に、数学や英語などの学習カートリッジが発売されていた。
SC-3000Hや本機のアーケード版とも言える「パソコン学習机」も存在する。パソコン学習机は筐体に内蔵されたBASIC・各種ゲームカートリッジをコイン投入後、一定時間利用できる。
1983年5月25日に東京流通センターで開催された『マイクロコンピュータショウ'83』では、ハードキーボードのSC-5000が発売予定として展示されており、電波新聞ではPC-8001と同等の機能でCPUは16ビットも検討して9月に出荷予定と報じられたが、後のSC-3000Hと考えられている。ただしキーボード配列がSC-3000Hと異なり、SC-3000にあるいくつかのキーが欠けていて、SC-3000にはない「CAN」キーがあるなどの相違がある。 | [
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] | SC-3000(エスシーサンゼン)は、セガ・エンタープライゼス(後のセガ)が開発したゲームパソコン。 日本国内では1983年7月15日にセガが発売し、海外ではOEM販売されていた。メーカー希望小売価格は29,800円。 また、1983年12月に初代機のチクレットキーボードをプラスティックの本格的なキーボードに改良した後継の上位機種である、SC-3000H(メーカー希望小売価格33,800円)を展開した。 SC-3000のSCは『Sega Computer』の略で、3000は約3万円という価格が由来で桁を1つ減らしたものである。 | {{出典の明記|date=2023-12-05}}
{{Infobox_コンシューマーゲーム機
|名称 = SC-3000
|画像 = [[File:Sega SC-3000 wb (shadow removed version).jpg|300px]]
|画像コメント = SC-3000
|メーカー = [[セガゲームス|セガ・エンタープライゼス]]
|種別 = [[ホビーパソコン]]
|世代 =
|発売日 = {{flagicon|Japan}} [[1983年]][[7月15日]]<br />{{flagicon|AUS}}{{flagicon|NZL}} 1983年<br />{{flagicon|FRA}}{{flagicon|ITA}}{{flagicon|ESP}} [[1984年]]
|CPU = NEC μPD780C
|GPU =
|メディア = ゲームカートリッジ<ref name="segahardhistory_sc_devices">{{Cite web|和書|url=https://sega.jp/history/hard/sc3000/devices.html|title=関連・周辺機器 SC-3000|website=セガハード大百科(新サイト)|publisher=セガ|accessdate=2023-11-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180410134736/https://www.sega.jp/history/hard/sc3000/devices.html|archivedate=2018-04-10}}</ref>
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|コントローラ = ケーブル
|外部接続端子 = [[プリンター]]端子<br />[[データレコーダ|カセットレコーダ]]端子
|オンラインサービス = 非対応
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|互換ハード = [[SG-1000]]<br />[[SG-1000II]]<br />SC-3000H<br />[[オセロマルチビジョン]]
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}}
'''SC-3000'''(エスシーサンゼン)は、セガ・エンタープライゼス(後の[[セガ]])が開発した[[ゲームパソコン]]<ref name="ascii_198307">{{Cite journal|和書|title=29,800円のパーソナルコンピュータ セガが発売|journal=[[月刊アスキー]]|issue=1983年7月号|publisher=アスキー|doi=10.11501/3250666|page=95}}</ref>。
日本国内では[[1983年]][[7月15日]]<ref>{{Cite news|和書|title=セガ、ホビー用パソコンに欧州から引き合い殺到、初年度生産50%増の30万台に|newspaper=[[日経産業新聞]]|page=13|date=1983-07-13}}</ref>{{Refnest|name=denpa_19830715|{{Cite news|和書|title=本日新発売 売れっ子登場!(「SC-3000」「SG-1000」の発売を伝えるセガ・エンタープライゼス社の新聞広告)|newspaper=[[電波新聞]]|page=23|date=1983-07-15}}{{efn2|1983年7月15日の電波新聞23面に掲載された新聞広告は『セガハード大百科』の「セガハードストーリー」第1回で「SC-3000発売時の新聞広告」として紹介されている<ref name="segahardhistory_2017_sg1000">{{Cite web|和書|language=ja|title=【連載】セガハードストーリー第1回 セガはなぜ家庭用ゲームに参入したのか?|date=2017-07-14|url=https://www.sega.jp/history/hard/column/column_01.html|website=セガハード大百科(新サイト)|publisher=セガ|accessdate=2023-11-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180721073354/https://www.sega.jp/history/hard/column/column_01.html|archivedate=2018-07-21}}</ref>。}}}}{{efn2|1983年5月時点においては発売日を1983年7月1日と発表していた<ref name="gamemachine_19830601">{{Cite news|和書|title=セガ社、超低価格で高性能のパソコン 7月発売へ|date=1983-06-01|newspaper=ゲームマシン|agency=アミューズメント通信社|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19830601p.pdf|issue=213|page=1|archivedate=2019-11-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191120031825/https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19830601p.pdf|url-status=live}}</ref><ref>{{Cite news|和書|title=低価格パソコン開発 セガ・エンタープライゼス 48Kバイトまで拡張可能|newspaper=電波新聞|page=2|date=1983-05-24}}</ref>。}}にセガが発売し、海外ではOEM販売されていた。メーカー希望小売価格は29,800円。
また、1983年12月<!-- 『ゲームマシン』1984年1月15日号の記事には1983年12月9日発売と記載。 -->に初代機の[[チクレットキーボード]]をプラスティックの本格的なキーボードに改良した後継の上位機種である、'''SC-3000H'''(メーカー希望小売価格33,800円)を展開した{{R|segahardhistory_sc_devices}}<ref>{{Cite news|和書|title=セガ社が上級機追加などで パソコン部門強化 4色プリンター発売へ|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19840115p.pdf|newspaper=ゲームマシン|issue=228|agency=アミューズメント通信社|date=1984-01-15|pages=4|archivedate=2019-11-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191120031825/https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19840115p.pdf|deadlink=no}}</ref><ref>{{Cite news|和書|title=セガ・エンタープライゼス パソコン部門を強化 上級機種と周辺機器投入|newspaper=日経産業新聞|page=10|date=1983-12-12}}</ref>。
SC-3000のSCは『'''Sega Computer'''』の略で、3000は約3万円という価格が由来で桁を1つ減らしたものである{{R|segahardhistory_2017_sg1000}}。
== 展開 ==
本機はシステムプログラムが別売であるため、単体ではシステムとして使用できない反面、高価だったROMとRAMを本体から切り離すことによって、同年11月発売の[[MSX]]と同等の性能で29,800円という当時のゲームパソコンよりも数万円安い低価格を実現した。また購入する言語によって、メモリ容量や、仕様を選択できるという利点もあった。このため発売前の受注段階で数万台の売上を計上したという。
{{要出典範囲|この数字に自信を得たことや、同時期に[[任天堂]]がゲーム専用機を開発中であることを聞きつけた、当時社長の[[中山隼雄]]の鶴の一声で|date=2023-11-26}}、SC-3000からキーボードやビデオ出力端子、カセット、プリンタ端子などを廃したことにより、ほぼ半額の15,000円という大幅なコストダウンを実現した廉価版[[SG-1000]]も同日に発売した{{R|denpa_19830715}}<ref name="gamemachine_19850715">{{Cite news|和書|title=セガ社家庭用TVゲームで ゲーム専用機も ──「SG-1000」を発表|date=1983-07-15|newspaper=ゲームマシン|agency=アミューズメント通信社|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19830715p.pdf|publication-date=1983-07-15|issue=216|page=6|archivedate=2019-12-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191201074754/https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19830715p.pdf|url-status=live}}</ref>。なお、[[任天堂]]の[[ファミリーコンピュータ]]も同日に発売されている{{R|segahardhistory_2017_sg1000}}{{R|gamemachine_19850715}}<ref>{{Cite journal|和書|doi=10.11501/2802646|journal=プレジデント|author=鎌田慧|title=「ファミコン」で「大儲け」した男たち|publisher=[[プレジデント社]]|date=1986-04|volume=24|issue=4|pages=328-341}}</ref>。
日本国外にも展開され、オーストラリア・ニュージーランドを中心とするオセアニア地域では、オーストラリアではJohn Sands社、ニュージーランドではGRANDSTAND社によってOEM販売され、当時は低価格帯のパソコン市場に競合機が存在しなかったこともあって、市場をほぼ独占する成功をおさめた。日本同様テープ版ソフトやスーパーコントロール・ステーションが発売されたほか、日本未発売の[[ライトペン]]や[[フロッピーディスク|3インチディスク]]の[[パッケージソフト]]も発売された。ニュージーランドではSC-3000専門誌「SEGA Computer」も刊行されていた。この人気は、[[Amstrad CPC]]がオセアニアに上陸する[[1986年]]頃まで続いた。
フランスではYEN-O社によってOEM販売されていたほか、スペイン、イタリアでもOEM販売された。販売台数は欧州だけで初年度で十数万台と「初年度で国内外合わせて20万台」というセガの見込みを超える成功を収めたが、セールスではゲームソフトを遊ぶ事だけに特化したSG-1000の方が圧倒的に売れ行きが良かったことから、以後は家庭用ゲーム専用機の開発へとシフトしていった<ref>{{Cite book|和書|author=前田尋之|title=あの頃欲しかったホビーパソコンカタログ|date=2021-07-29|publisher=ジーウォーク|page=120|ISBN=9784867170410}}</ref>。
== ハードウェア ==
CPUやVDPは[[MSX]]1や[[東芝パソコンシステム|SORD]]の[[M5 (コンピュータ)|M5]]等と同じで、ほぼ同等の性能・表現力を持つ。ただし、これらは開発時に意識したという訳では無く、当時のゲームパソコンで低価格を実現するためにチップなどの汎用部品を採用した結果ほとんど同じような構成になったという<ref>[[週刊ファミ通]][[2013年]][[8月29日]]増刊号別冊付録 SEGA CONSUMER 30th ANNIVERSARY BOOK 佐藤秀樹元セガ社長(SC-3000からドリームキャストまで、セガのすべての家庭用ハード設計開発に関わっていた人物)のインタビュー参照</ref>。そのため、コンピューターとしてのアーキテクチャーはすべて異なり、ハードウェア・ソフトウェア共に互換性は無いが、その類似性を使用し、機種依存部を書き換えコンバートしたMSXソフトウェアの[[海賊版]]などが、海外では発売されている。
ボディーカラーとして[[黒]]、[[白]]、[[赤]]の3色が存在した。
== 仕様 ==
[[File:SN76489 01.jpg|thumb|250px|SN76489A(DCSG)]]
* CPU:[[ΜCOMシリーズ#.CE.BCCOM-82|NEC μPD780C]] ([[Z80|Z80A]]互換)(クロック周波数3.58MHz)
* VDP:[[TMS9918|TMS9918A]]
** テキスト表示:38桁28行{{R|ascii_198307}}
** グラフィック表示:256x192ドット 16色{{R|ascii_198307}}
* RAM:2KB{{R|ascii_198307}}
** BASIC-LEVEL II A:515Byte
** BASIC-LEVEL II B:1KB
** BASIC-LEVEL III A:16KB
** BASIC-LEVEL III B:32KB
** ホームベーシック:32KB(実利用フリーエリアは26KB)
* VRAM:16KB{{R|ascii_198307}}
* サウンド機能:[[Programmable Sound Generator#SN76489の仕様|SN76489]]([[Programmable Sound Generator|PSG]]と機能はほぼ等価。ハードウェアによるエンベロープが無い反面、ノイズの出力をトーン出力と独立して制御可能になっている。)
* インターフェイス
** シリアルインターフェイス{{R|ascii_198307}}
** プリンターインターフェイス
** カセットインターフェイス(IN,OUT)
** AVOUT
** ジョイスティックインターフェイス(端子形状は[[Atari 2600#コントローラ|ATARI規格]]と同一、ピン配置は異なる)
* サイズ:幅353mm、奥行210mm、高さ46mm{{R|ascii_198307}}
* 重さ:約1.1Kg{{R|ascii_198307}}
== 周辺機器 ==
オプションとして、データレコーダ'''SR-1000{{R|segahardhistory_sc_devices}}'''(9,800円)が発売されており、入出力を音でモニタできるほか、音声の入出力の信号に伴い、読み込み終了時にはモーターが停止、書き込み時には自動的にモーターが動作するようになっている。これらの実装に伴い、予約語としては用意されているMOTOR命令や、実際のREMOTE端子はハードウェア的に省略されているが、BASIC内部では、制御が行われている。
また、3インチコンパクトフロッピーディスクドライブ・64KBの拡張RAM・8KBの拡張ROM・プリンターポート・シリアルポートを搭載した拡張ユニット、'''スーパーコントロール・ステーションSF-7000{{R|segahardhistory_sc_devices}}'''(79,800円)も発売されていた。カートリッジの端子に接続し、ディスクから、起動することが可能になっている。[[フロッピーディスク|フロッピー]]への入出力に対応したF-BASICが添付された。
オプションとして、ジョイスティック(2本)が4,000円で提供された{{R|ascii_198307}}。
== ソフトウェア ==
{{Main2|SC-3000/SG-1000用ゲームソフト|SG-1000のゲームタイトル一覧}}
SC-3000に対応したソフトウェアの供給は主にカートリッジ媒体によって行われ、ゲームソフト、[[BASIC]]、学習用ソフトなどが供給された{{R|ascii_198307}}{{R|gamemachine_19830601}}。
BASICカートリッジを装着することで、当時一般的だったBASIC言語によるプログラミングをすることができ、レベルII・レベルIII・ホームベーシックのように、RAMサイズ・命令・数値計算の精度が異なる複数のバリエーションが用意されていた(レベルIIのBASICカートリッジは5,800円、レベルIIIは9,800円{{R|ascii_198307}})。レベルIIではSC-3000用のレベルIIAと[[SG-1000]]/[[SG-1000II]]対応のレベルIIBとがあった。なおレベルII、レベルIIIとも予約語が少なく、M5のBASIC-Gや、MSX-BASICの方が、BASICとしては高機能だった。
後に登場したホームベーシックは、扱う数値が整数型になったために算術関数関連の命令が大幅に削除された。反面、処理速度が向上しPLAYステートメントが追加されたことで音楽演奏は容易となりスプライト衝突割り込み命令も追加されてよりゲーム作成が行いやすくなった。またメニューから呼び出せるサンプルゲームやスプライトエディタが搭載されており、言語のみではなく、単体で使えるユーティリティーを内蔵しているところは、翌[[1984年]]6月に発売された[[ファミリーコンピュータ]]の[[ファミリーベーシック]]も同様である。
[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]を活用したソフトウェアとしては、BASICの他に、[[数学]]や[[英語]]などの学習カートリッジが発売されていた。
== 派生機種 ==
[[File:Sega SC-3000H.jpg|thumb|200px|SC-3000H]]
SC-3000Hや本機のアーケード版とも言える「'''パソコン学習机'''」も存在する。パソコン学習机は筐体に内蔵されたBASIC・各種ゲームカートリッジをコイン投入後、一定時間利用できる。
1983年5月25日に東京流通センターで開催された『マイクロコンピュータショウ'83』では、ハードキーボードの'''SC-5000'''が発売予定として展示されており<ref>{{Cite journal|和書|journal=テクノポリス|issue=1983年7月号|publisher=徳間書店|page=9}}</ref>、[[電波新聞]]では[[PC-8001]]と同等の機能でCPUは16ビットも検討して9月に出荷予定と報じられたが<ref>{{Cite news|和書|title=パソコン市場に本格参入|newspaper=電波新聞|page=4|date=1983-05-09}}</ref>、後のSC-3000Hと考えられている<ref>{{Cite journal|和書|author=早苗月 ハンバーグ食べ男|author2=石川雅美|author3=奥成洋輔|author4=堀井直樹|title=[インタビュー]SC-3000&SG-1000発売40周年! セガハードを支えた石川雅美氏,奥成洋輔氏,堀井直樹氏がセガハード史を語る|date=2023-07-15|url=https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20230712065/|journal=[[4Gamer.net]]|publisher=Aetas|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230715031123/https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20230712065/|archivedate=2023-07-15|accessdate=2023-07-18}}</ref>。ただしキーボード配列がSC-3000Hと異なり、SC-3000にあるいくつかのキーが欠けていて、SC-3000にはない「CAN」キーがあるなどの相違がある。
{{Clear}}
== 関連項目 ==
* [[とんねるず]] - テレビCMなどでSC-3000のイメージキャラクターを務める{{R|gamemachine_19850715}}。
* [[斉藤ゆう子]] - テレビCMなどでSG-1000のイメージキャラクターを務める。
* [[マイコンBASICマガジン]] - SC-3000用投稿プログラムが長期間掲載されていた。
* [[パソコントラベル君ならどうする]] - セガのスポンサー・制作協力番組、回答者の端末として使用された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://sega.jp/history/hard/sc3000/index.html セガハード大百科 - SC-3000]
* {{Wayback|url=http://www9.ocn.ne.jp/~axl365/Oira_game/kateiyou/SC_SG.htm|title=SG-1000,II,SC-3000|date=20110209071553}}
{{家庭用ゲーム機/セガ}}
{{デフォルトソート:えすしい3000}}
[[Category:パーソナルコンピュータ (製品)]]
[[Category:セガのハードウェア]]
[[Category:1983年のコンピュータゲーム|*]]
[[Category:ゲーム機]]
[[Category:1980年代の玩具]] | 2003-02-19T03:19:23Z | 2023-12-10T02:25:32Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/SC-3000 |
2,357 | SG-1000II | SG-1000II(エスジーセンツー)は、1984年7月にセガ・エンタープライゼスが発売した家庭用テレビゲーム専用機である。価格は15,000円。
同社のSG-1000のマイナーチェンジ版。本体が薄型化され、「つなげればホームパソコン」の宣伝文句が象徴するように、別売キーボードのSK-1100を接続したときレイアウト的に統一感の出るデザインとカラーになっている。これに合わせる形でSK-1100本体のパッケージ側面に表記されたパソコンシステムの画像がSG-1000IIの画像に変更になっている。
なお、後継機のセガ・マークIII発売後は、当機が「マークII」と呼称されることもあるが正確な名称ではない。
標準で2個付属となった専用コントローラ、SJ-150は双方とも着脱式となり、コントローラの形状も変更され、レバー(つまみ)を取り外せばパッド状になり、本体側面に設けられたスペースに格納できる点など、ファミコンのコントローラを意識した形状となった。なお、つまみを付けるとパッドがレバーになる仕様は、当初はコントローラを横持ちの他に、従来の縦持ちでも使えるようにした配慮の結果である。初期に流通したSJ-150は方向キーの反応が鈍いという不具合がある。末期にはゴム製の楕円形のボタンを樹脂製の丸ボタンに変更したコントローラSJ-151をリリースし、それを同梱した本体も短期間だが流通した。 先代SG-1000にあったカートリッジスロットの強度不足問題や、一部に存在したマイカードソフトの動作不具合、コントローラ端子の5V供給問題は本機で全て解消されている。
なお、SG-1000IIと同形状でトップパネルにセガのロゴと商品名の代わりに「CGCホームテレビゲーム 遊びの天才」の表記がある本体も見つかっているが、詳細は不明である。
SG-1000IIもSG-1000同様、いくつかパッケージや本体外装や基板設計が変更されている。外観的には差はわずかで、底面のゴム足が5個、または6個といった具合の変更、同梱のコントローラがSJ-150かSJ-151である位である。ただし内部は基板設計が幾度か大幅に変更されている。
主な相違点を挙げると、
が存在している。
なお、セガカスタムチップ搭載機種に限り、要改造ではあるがRGB映像出力が可能である。一部ロットのパッケージや本体購入時に同梱されているチラシには赤いゴムボタンのSJ-150を装備したSG-1000IIが使用されているが、これは撮影用に着色されたタイプで一般には流通していない。 | [
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] | SG-1000II(エスジーセンツー)は、1984年7月にセガ・エンタープライゼスが発売した家庭用テレビゲーム専用機である。価格は15,000円。 | {{Infobox_コンシューマーゲーム機
|名称 = SG-1000II
|画像 = [[ファイル:Sega-SG-1000-MkII-Console-FL.jpg|340px]]
|画像コメント = SG-1000II
|メーカー = [[セガ|セガ・エンタープライゼス]]
|種別 = [[ゲーム機|据置型ゲーム機]]
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|発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1984年]][[7月]]
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|次世代ハード = [[セガ・マークIII]]
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'''SG-1000II'''(エスジーセンツー)は、[[1984年]]7月に[[セガ|セガ・エンタープライゼス]]が発売した家庭用[[テレビゲーム]]専用機である。価格は15,000円。
== 概要 ==
同社の[[SG-1000]]のマイナーチェンジ版。本体が薄型化され、「'''つなげればホームパソコン'''」の宣伝文句が象徴するように、別売[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]の'''SK-1100'''を接続したときレイアウト的に統一感の出るデザインとカラーになっている。これに合わせる形でSK-1100本体のパッケージ側面に表記されたパソコンシステムの画像がSG-1000IIの画像に変更になっている。
なお、後継機の[[セガ・マークIII]]発売後は、当機が「マークII」と呼称されることもあるが正確な名称ではない。
== ハードウェア ==
標準で2個付属となった専用[[コントローラ]]、'''SJ-150'''は双方とも着脱式となり、コントローラの形状も変更され、レバー(つまみ)を取り外せばパッド状になり、本体側面に設けられたスペースに格納できる点など、[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]のコントローラを意識した形状となった<ref>[http://www7b.biglobe.ne.jp/~tera2009/sega/item/sg1000_2.html SEGA SG-1000 II]</ref>。なお、つまみを付けるとパッドがレバーになる仕様は、当初はコントローラを横持ちの他に、従来の縦持ちでも使えるようにした配慮の結果である。初期に流通したSJ-150は方向キーの反応が鈍いという不具合がある。末期にはゴム製の楕円形のボタンを樹脂製の丸ボタンに変更したコントローラSJ-151をリリースし、それを同梱した本体も短期間だが流通した<ref>[https://rig-veda.hatenablog.com/entry/49324307 【SG/日本】 SGマシンの標準パッド 及び 幻のパッド『SJ-151』 (1984年頃) ≪セガ≫] - ぴこぴこ i FEEL ALRIGHT !</ref>。
先代SG-1000にあったカートリッジスロットの強度不足問題や、一部に存在したマイカードソフトの動作不具合、コントローラ端子の5V供給問題は本機で全て解消されている。
なお、SG-1000IIと同形状でトップパネルにセガのロゴと商品名の代わりに「CGCホームテレビゲーム 遊びの天才」の表記がある本体も見つかっているが、詳細は不明である<ref>[https://www.smspower.org/forums/12358-CGC トピックを表示 - 謎のSG-1000II「CGCホームテレビゲーム」「遊びの天才」 - Forums - SMS Power!]</ref>。
SG-1000IIもSG-1000同様、いくつかパッケージや本体外装や基板設計が変更されている。外観的には差はわずかで、底面のゴム足が5個、または6個といった具合の変更、同梱のコントローラがSJ-150かSJ-151である位である。ただし内部は基板設計が幾度か大幅に変更されている。
主な相違点を挙げると、
* 先代SG-1000と同じパーツ構成のV-RAMに2KiB D-RAMが8つ搭載されているタイプ
* V-RAMを8KiB×2に変更しパーツ点数を大幅に減らしたタイプ
* VDPとSOUNDを統合したSEGA 315系カスタムチップを搭載したタイプ
が存在している。
なお、セガカスタムチップ搭載機種に限り、要改造ではあるがRGB映像出力が可能である。一部ロットのパッケージや本体購入時に同梱されているチラシには赤いゴムボタンのSJ-150を装備したSG-1000IIが使用されている<ref>[https://sega.jp/fb/segahard/sg1000_2/01c.html セガハード大百科 SG-1000II ギャラリー]</ref>が、これは撮影用に着色されたタイプで一般には流通していない。
== 仕様 ==
* CPU [[Z80]]A(3.58MHz)
* RAM 1KiB
* V-RAM 16KiB
** 同時表示色数 : 15色 + 1色
** スプライト : 8 × 8ドット
* サウンド機能:[[Programmable Sound Generator#SN76489の仕様|SN76489]]([[Programmable Sound Generator|PSG]]と機能はほぼ等価。ハードウェアによるエンベロープが無い反面、ノイズの出力をトーン出力と独立して制御可能になっている)
* ジョイパッド接続端子2個 パッド2個付属
* ポーズボタン 本体に設置、ゲーム一時停止 / 再開用
* ROMカートリッジスロット1個
* 拡張用スロット1個 外付けキーボードSK-1100等の接続に使用
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
* [[マイカード]]
* [[セガ・マークIII]]
== 外部リンク ==
*[https://sega.jp/history/hard/sg1000-2/index.html セガハード大百科 - SG-1000II]
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[[Category:1984年のコンピュータゲーム|*]]
[[Category:SG-1000|*]]
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[[en:SG-1000#SG-1000 II]] | null | 2021-11-30T06:18:56Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/SG-1000II |
2,358 | 宇宙刑事ギャバン |
『宇宙刑事ギャバン』(うちゅうけいじギャバン)は、1982年3月5日から1983年2月25日まで、テレビ朝日系列で毎週金曜19時30分 - 20時(JST)に全44話が放送された、東映制作の特撮テレビドラマ、および作中で主人公が変身するヒーローの名称。
「宇宙刑事シリーズ」三部作の第1弾であり、後にそれを含む「メタルヒーローシリーズ」の第1弾としても位置付けられた。スター・ウォーズシリーズや宇宙戦艦ヤマトシリーズなどが人気を博したSFブームの中で制作された本作品は、従来の特撮ヒーローとは異なる斬新なビジュアルや設定が特徴である。
番組開始から30周年を迎えた2012年10月20日には、新作の劇場版『宇宙刑事ギャバン THE MOVIE』が公開された。
地球人たちが宇宙進出の第一歩として建造したスペースコロニーが宇宙犯罪組織マクーによって襲撃された。マクーが地球征服を狙っていることを確信した銀河連邦警察のコム長官は、宇宙刑事ギャバンを派遣する。父である任務中に行方不明となった宇宙刑事ボイサーと日本人の母・一条寺 民子()の間に生まれた宇宙混血児であるギャバンは地球では母方の旧姓をもらって一条寺 烈()と名乗り、コム長官の一人娘ミミーやルポライターの大山小次郎のサポートを受け、マクーと戦う。ギャバンは宇宙刑事という身分を隠し、マクーから逃がした少年・陽一の縁でアバロン乗馬クラブの従業員という仮の職業を得て、マクーの企みを阻止するべく活動を開始する。
マクーは生体合体装置でダブルマンとモンスターを合体させこれまでの3倍強力なダブルモンスターを開発し、ギャバン抹殺を企む。ギャバンはコム長官の指導の下さらに訓練を積み、ダブルモンスターの弱点の分析もし、なんとか勝利する。
ドン・ホラーは、息子でマクーの行動隊長を務め他方面に派遣していたサン・ドルバと、その母親魔女キバを呼び寄せる。サン・ドルバは元宇宙刑事でマクーの幹部のハンターキラーにスパイ嫌疑を掛けて暗黒銀河に追放し、魔女キバとともにマクーの幹部としてギャバンと相対することとなる。
ギャバンは、森林パトロール隊と名乗る伊賀 電と出会うが、バファローダブラーによって重傷を負ってしまい、バード星へ搬送されることとなる。
そんな中、ギャバンはマクーに囚われていたボイサーを救出するが、星野博士が開発したレーザー増幅システムの秘密を守るため、拷問に耐え続けたことで衰弱し切っており、ギャバンたちが見守る中で息を引き取る。
魔空城へ乗り込んだギャバンは新たに現れた宇宙刑事シャリバンの応援を受け、サン・ドルバと魔女キバを倒すと、ドン・ホラーをも倒し、マクーを壊滅させる。
地球担当には伊賀電ことシャリバンが就き、ギャバンは銀河パトロール隊の隊長に昇進し、地球を離れることとなった。
一条寺烈がスーツ装着コード「蒸着」指令を発することによって、地球衛星軌道上の亜空間内にいる超次元高速機ドルギランのコンピュータが作動して粒子状に分解されて瞬間的に電送されてくる特殊軽合金グラニウム製のターボプロテクター。電送されたスーツは烈の体に吹き付けられるようにスーツを再度形成していき、蒸着が完了する。この一連のプロセスは0.05秒間(1/20秒)で完了する。
銀色のメタルと黒いブラックシールドコーティングで構成されている。蒸着を完了するとハイパワークラッシャーパネルにより、全身の力がパワーアップする。胸のディメンションコントローラーにより、異次元や宇宙空間でも活動可能。頭部の電飾は人間に化けた敵も見破る獣星人センサー。
いずれも内蔵されている装備と武器は戦闘力と捜査力を上げるものとなっている。
全宇宙規模でその名を轟かす強大な宇宙犯罪組織。第1話ナレーションで宇宙海賊とも説明されている。獣星帝国の異名を持ち、強大な武力によって数万年に渡って数々の惑星を支配下においている。
第15話で組織発足2万6,000年の記念パーティを計画しており、宇宙警察機構より歴史は古い。魔空空間と呼ばれる宇宙の裂け目にある一種のブラックホールに浮かぶ魔空城を本拠地に惑星間で犯罪を繰り返し、人的・物的資源を独占するために暗躍する。
地軸転換装置を使い地球の地軸を操作して地球上に魔空空間を発生させたり、数々の強力な兵器を作り出したりするなど高度な科学力を持つ一方、獣星の神を祀る儀式のためにギャバンの首を供えようとするなど、宗教的な一面も見せた。
また、新たな惑星の住人をダブルマンとして取り込むことに執心しており、劇中でも複数回にわたって地球人をダブルマン化する作戦を実行した。
ギャバンのスーツアクターは、アクション用とアップ用でそれぞれ専属のアクターが務めている。アクションを担当した村上潤は、決めポーズを大きく見せるため大柄な山口仁がアップ用に起用されたと証言している。また、村上が後年にアクション監督の金田治に自身を起用した理由を訪ねたところ、『メガロマン』で単独ヒーローを演じた経験があったからだと告げられたという。
オープニングテーマとエンディングテーマは、当時の渡辺宙明が『大戦隊ゴーグルファイブ』と掛け持ちで音楽を担当していた関係から、差別化のためにと日本コロムビアのプロデューサーの木村宏による提案で作曲と編曲を別人が担当することになり、渡辺の推薦で馬飼野康二が起用された。
当初、本作品のBGMはレコード化が予定されておらず、それを知った渡辺は「何としてもレコードにする」と意気込み、豪華な楽器編成での楽曲制作を敢行した。そのため、予算の都合でモノラル録音を余儀なくされたが、渡辺の願いは叶い、1982年11月21日に『テレビオリジナルBGMコレクション 宇宙刑事ギャバン』(日本コロムビア CX-7072)としてレコード化された。
レーザーブレードのテーマとして知られる曲「襲撃II (B11)」は、本来はマクーの襲撃をイメージして作られたもの。実際に初期はそのような使い方もされており、『テレビオリジナルBGMコレクション 宇宙刑事ギャバン』では「マクーの攻撃」と題されたトラックに収録されている。しかし、ストリングスのリズムとトランペットのメロディーの掛け合いが生み出す独特の高揚感から、選曲の村田好次の発想で第17話からのレーザーブレードのシーンに多用されるようになった。その成功を受け、以降はクライマックスシーンの曲をこの曲調で注文されることが多くなり、後の『シャリバン』や『シャイダー』におけるレーザーブレードのテーマも同様の曲調で作られている他、同じく渡辺が音楽を手がけたテレビアニメ『光速電神アルベガス』の合体シーン、OVA『破邪大星ダンガイオー』の主役ロボ「ダンガイオー」の必殺技「サイキック・斬」、テレビアニメ『神魂合体ゴーダンナー!!』の敵襲撃時のテーマにも、この曲調が使用されている。
第11話から順次導入された挿入歌は、アルバム『宇宙刑事ギャバン ベストヒット曲集』として1982年6月21日にレコード化された。これは曲の合間に主演の大葉健二の語りが入るという構成で、後にスーパー戦隊シリーズ『忍風戦隊ハリケンジャー』などでも同様の構成のCDが製作された。放送から20年目に当たる2002年には、同レコードとBGM集を併せて『BEST HIT SONGS & ORIGINAL SOUNDTRACK』として復刻された。また、これとは別にヒット曲集から数曲抜粋され、LP片面のみにまとめられた『スーパーアクションサウンド』も発売された。ヒット集では大葉の一人語りであったが、こちらでは効果音もある新録のサウンドドラマが収録され、大葉の他に渡部猛や西尾徳も出演している。反対面は同じく「スーパーアクションサウンド 大戦隊ゴーグルファイブ」。
1981年の春から秋にかけて、円谷プロダクションの「ウルトラシリーズ」(『ウルトラマン80』)と東映の「仮面ライダーシリーズ」(『仮面ライダースーパー1』)が一旦終了し、毎週放映されるヒーローが登場する特撮テレビ番組は「スーパー戦隊シリーズ」(当時の『太陽戦隊サンバルカン』)だけになった。翌1982年、従来のシリーズに頼らない新しいヒーローとして開始された番組が本作品である。ほぼ同時期には、後に「東映不思議コメディーシリーズ」と呼ばれる『ロボット8ちゃん』も企画・放映されており、共に東映特撮に新風を吹き込むことになる。
本作品の企画のきっかけとなったのは、宇宙のどこかで金属質のヒーローが剣を持ってたたずむ姿を描いた村上克司による1枚のプライベートイラストである。このイラストを見た東映の吉川進は、天才的デザイナーの石ノ森章太郎を欠いた顔ぶれで『仮面ライダー』を超える単体ヒーローの創造に挑戦するに当たって、大きな戦力となると判断した。
企画当時のタイトルは『宇宙刑事Z』。正式な設定上の武器であるレーザーZビームとコンバットスーツにZの文字を彷彿させる黒のラインに、その名残がある。また、これ以外にも「ギンジロウ」「ギンブリッド」などのタイトル案があった。決定名称「ギャバン」はフランスの俳優ジャン・ギャバンからとった(エポニム)。著名な西洋人俳優の名を借りた理由は、既存の商標登録を回避しようとすると長い名前になってしまうので、日本語名称が使いづらいためである。この命名路線は『時空戦士スピルバン』まで継承された。
主演にはスーパー戦隊シリーズ『バトルフィーバーJ』・『電子戦隊デンジマン』で戦隊メンバーを演じ、当時のJACでエース格の大葉健二が起用され、変身前でも過激なアクションシーンが盛り込まれた。大葉によれば本作品は「スポンサーが年月をかけ温めに温めた念願の作品」であり、「テレビ局、東映のプロデューサーの方たちが自分の首を賭けている作品」である。また、鈴木武幸によると「過去最高の制作費を投入」した作品であり、「凶と出たら、2度と特撮の新ヒーローは生み出せないほど」の予算額だったことを後に述懐している。
技術的にも後述する真空蒸着技術がスーツ製作に応用されたほか、それまで実験的に使われていた立体的な合成を可能とする東通ecgシステムのビデオ合成がふんだんに取り入れられるなどといった試みがなされている。
ドラマ設定面においては、メインライターの上原正三が本作品の数年前に原作を担当した漫画『銀河の女王スーパーレディー』との複数の共通項が存在し、同作品が本作品の原案となったとする指摘もある。
パイロット監督の小林義明は、宇宙スケールのヒーローであることから近未来的な背景をイメージし、西新宿の高層ビル群や大井埠頭の埋立地などでロケを行っている。
元々、画期的な番組として注目され、放映開始時および続編に大葉がギャバン隊長として出演すると決まった時にはワイドショーで記者会見の模様が放映されるなど、注目を集めていた。第43話は反響が特に大きく、東映に電話などが殺到したという。
一方、大葉によるとテレビ局からスタッフには、「視聴率が2桁以上行かなければ首だ」という条件が課せられていた。第2話の撮影が終わった当時、東映プロデューサーの吉川進やテレビ局のプロデューサーからそれを聞かされた大葉は「命を懸けます」と宣言し、以降の撮影では激しいアクションシーンを多く取り入れるようにしたという。これは、本作品の時間帯における主人公が『キャンディ・キャンディ』以降は女ばかりであり、本作品は「男のヒーローでは弱すぎる!」とテレビ局から懸念されていたためである。このような状況下で本作品は成功し、平均視聴率が14.9%と前番組『ハロー!サンディベル』の12.1%を上回った。また、大葉によると「裏番組と1・2位の視聴率で戦えた」としている。最高視聴率は第24話の18.6%。
なお、後年に大葉が答えたインタビューによれば、作中でギャバンがヒロインのミミーと仲が良かったことに嫉妬したファンから、ギャバン宛てのファンレターに「毒」と称する白い粉が同封されてきたこともあったが、公にすると問題に発展して番組に影響が出るかもしれないため、プロデューサーと申し合わせて内緒にしていたという。
系列は本放送当時のものを使用。
『宇宙刑事ギャバン THE MOVIE』での新規キャラクターのみが登場する作品は宇宙刑事ギャバン THE MOVIE#他媒体展開を参照。
いずれも発売元は東映ビデオ。
その他放送当時の児童誌にいくつかマンガ版が掲載されていた。 | [
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"text": "パイロット監督の小林義明は、宇宙スケールのヒーローであることから近未来的な背景をイメージし、西新宿の高層ビル群や大井埠頭の埋立地などでロケを行っている。",
"title": "音楽"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "元々、画期的な番組として注目され、放映開始時および続編に大葉がギャバン隊長として出演すると決まった時にはワイドショーで記者会見の模様が放映されるなど、注目を集めていた。第43話は反響が特に大きく、東映に電話などが殺到したという。",
"title": "音楽"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "一方、大葉によるとテレビ局からスタッフには、「視聴率が2桁以上行かなければ首だ」という条件が課せられていた。第2話の撮影が終わった当時、東映プロデューサーの吉川進やテレビ局のプロデューサーからそれを聞かされた大葉は「命を懸けます」と宣言し、以降の撮影では激しいアクションシーンを多く取り入れるようにしたという。これは、本作品の時間帯における主人公が『キャンディ・キャンディ』以降は女ばかりであり、本作品は「男のヒーローでは弱すぎる!」とテレビ局から懸念されていたためである。このような状況下で本作品は成功し、平均視聴率が14.9%と前番組『ハロー!サンディベル』の12.1%を上回った。また、大葉によると「裏番組と1・2位の視聴率で戦えた」としている。最高視聴率は第24話の18.6%。",
"title": "音楽"
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"text": "なお、後年に大葉が答えたインタビューによれば、作中でギャバンがヒロインのミミーと仲が良かったことに嫉妬したファンから、ギャバン宛てのファンレターに「毒」と称する白い粉が同封されてきたこともあったが、公にすると問題に発展して番組に影響が出るかもしれないため、プロデューサーと申し合わせて内緒にしていたという。",
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"text": "系列は本放送当時のものを使用。",
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"text": "『宇宙刑事ギャバン THE MOVIE』での新規キャラクターのみが登場する作品は宇宙刑事ギャバン THE MOVIE#他媒体展開を参照。",
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"text": "いずれも発売元は東映ビデオ。",
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"text": "その他放送当時の児童誌にいくつかマンガ版が掲載されていた。",
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] | 『宇宙刑事ギャバン』(うちゅうけいじギャバン)は、1982年3月5日から1983年2月25日まで、テレビ朝日系列で毎週金曜19時30分 - 20時(JST)に全44話が放送された、東映制作の特撮テレビドラマ、および作中で主人公が変身するヒーローの名称。 | {{半保護}}
{{otheruseslist|宇宙刑事シリーズおよびメタルヒーローシリーズの第1作|本作品の主題歌|宇宙刑事ギャバン (曲)|映画化作品|宇宙刑事ギャバン THE MOVIE|小説化作品|宇宙刑事ギャバン THE NOVEL}}
{{Pathnav|メタルヒーローシリーズ|宇宙刑事シリーズ|frame=2}}
{| class="floatright" style="text-align:center; border-collapse:collapse; border:2px solid black; white-space:nowrap"
!colspan="3" style="background-color:#99ffff; border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[メタルヒーローシリーズ]]
|-
!style="border:1px solid black; background-color:#99ffff; white-space:nowrap"|通番
!style="border:1px solid black; background-color:#99ffff; white-space:nowrap"|題名
!style="border:1px solid black; background-color:#99ffff; white-space:nowrap"|放映期間
|-
|style="border:1px solid black; background-color:#99ffff; white-space:nowrap"|'''第1作'''
|style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''宇宙刑事<br />ギャバン'''
|style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[1982年]][[3月]]<br />- [[1983年]][[2月]]
|-
|style="border:1px solid black; background-color:#99ffff; white-space:nowrap"|'''第2作'''
|style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[宇宙刑事シャリバン|宇宙刑事<br />シャリバン]]
|style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1983年[[3月]]<br />- [[1984年]][[2月]]
|}
{{基礎情報 テレビ番組
| 番組名 = 宇宙刑事ギャバン
| ジャンル = [[特撮]][[テレビドラマ]]
| 放送時間 = 金曜 19時30分 - 20時
| 放送分 = 30
| 放送期間 = [[1982年]][[3月5日]]<br />- [[1983年]][[2月25日]]
| 放送枠 = メタルヒーローシリーズ
| 放送回数 = 全44
| 放送国 = {{JPN}}
| 制作局 = [[テレビ朝日]]
| 放送局 = [[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]
| 企画 =
| 製作総指揮 =
| 監督 = [[小林義明]] 他
| 原作 = [[八手三郎]]
| 脚本 = [[上原正三]] 他
| プロデューサー = {{Plainlist|
* [[碓氷夕焼]](テレビ朝日)
* [[吉川進]]
* [[折田至]](東映)
}}
| 出演者 = {{Plainlist|
* [[大葉健二]]
* [[叶和貴子]]
* [[西沢利明]]
* [[名代杏子]]
* [[鈴木正幸]] 他
}}
| 声の出演 = {{Plainlist|
* [[飯塚昭三]]
* [[渡部猛]]
}}
| ナレーター = [[政宗一成]]
| 音声 = [[モノラル放送]]
| 字幕 =
| データ放送 =
| 音楽 = [[渡辺宙明]]
| OPテーマ = 「[[宇宙刑事ギャバン (曲)|宇宙刑事ギャバン]]」<br />歌:[[串田アキラ]]
| EDテーマ = 「[[宇宙刑事ギャバン (曲)|星空のメッセージ]]」<br />歌:串田アキラ
| 言語 = [[日本語]]
| 外部リンク =
| 外部リンク名 =
| 特記事項=「[[メタルヒーローシリーズ]]」および「[[宇宙刑事シリーズ]]」 第1作
}}
『'''宇宙刑事ギャバン'''』(うちゅうけいじギャバン)は、[[1982年]][[3月5日]]から[[1983年]][[2月25日]]まで、[[テレビ朝日]][[オールニッポン・ニュースネットワーク|系列]]で毎週金曜19時30分 - 20時([[日本標準時|JST]])に全44話が放送された、[[東映]]制作の[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビドラマ]]、および作中で主人公が変身するヒーローの名称。
== 概要 ==
「[[宇宙刑事シリーズ]]」[[三部作]]の第1弾であり、後にそれを含む「[[メタルヒーローシリーズ]]」の第1弾としても位置付けられた。[[スター・ウォーズシリーズ]]や[[宇宙戦艦ヤマトシリーズ]]などが人気を博したSFブームの中で制作された本作品は、従来の特撮ヒーローとは異なる斬新なビジュアルや設定が特徴である{{R|最強18|最強24}}。
番組開始から30周年を迎えた[[2012年]][[10月20日]]には、新作の劇場版『[[宇宙刑事ギャバン THE MOVIE]]』が公開された。
== あらすじ ==
地球人たちが宇宙進出の第一歩として建造した[[宇宙ステーション|スペースコロニー]]が'''宇宙犯罪組織マクー'''によって襲撃された。マクーが地球征服を狙っていることを確信した銀河連邦警察の'''コム長官'''は、'''宇宙刑事ギャバン'''を派遣する。父である任務中に行方不明となった宇宙刑事'''ボイサー'''と日本人の母・{{読み仮名|'''一条寺 民子'''|いちじょうじ たみこ}}の間に生まれた宇宙混血児であるギャバンは地球では母方の旧姓をもらって{{読み仮名|'''一条寺 烈'''|いちじょうじ れつ}}と名乗り、コム長官の一人娘'''ミミー'''やルポライターの'''大山小次郎'''のサポートを受け、マクーと戦う。ギャバンは宇宙刑事という身分を隠し、マクーから逃がした少年・陽一の縁でアバロン乗馬クラブの従業員という仮の職業を得て、マクーの企みを阻止するべく活動を開始する。
マクーは生体合体装置でダブルマンとモンスターを合体させこれまでの3倍強力なダブルモンスターを開発し、ギャバン抹殺を企む。ギャバンはコム長官の指導の下さらに訓練を積み、ダブルモンスターの弱点の分析もし、なんとか勝利する。
ドン・ホラーは、息子でマクーの行動隊長を務め他方面に派遣していたサン・ドルバと、その母親魔女キバを呼び寄せる。サン・ドルバは元宇宙刑事でマクーの幹部のハンターキラーにスパイ嫌疑を掛けて暗黒銀河に追放し、魔女キバとともにマクーの幹部としてギャバンと相対することとなる。
ギャバンは、森林パトロール隊と名乗る'''伊賀 電'''と出会うが、バファローダブラーによって重傷を負ってしまい、バード星へ搬送されることとなる。
そんな中、ギャバンはマクーに囚われていたボイサーを救出するが、星野博士が開発したレーザー増幅システムの秘密を守るため、拷問に耐え続けたことで衰弱し切っており、ギャバンたちが見守る中で息を引き取る。
魔空城へ乗り込んだギャバンは新たに現れた宇宙刑事シャリバンの応援を受け、サン・ドルバと魔女キバを倒すと、ドン・ホラーをも倒し、マクーを壊滅させる。
地球担当には伊賀電ことシャリバンが就き、ギャバンは銀河パトロール隊の隊長に昇進し、地球を離れることとなった。
== 登場人物 ==
=== 銀河連邦警察 ===
{{Main|宇宙刑事シリーズの登場人物}}
; ギャバン/{{読み仮名|一条寺 烈|いちじょうじ れつ}}
: 主人公。失踪した父・'''ボイサー'''の後任として地球に派遣された宇宙刑事。
:
; ミミー
: ギャバンの上官・コム長官の娘。ギャバンの助手で彼に好意を持っている。
:
; コム長官
: 銀河連邦警察の最高責任者にしてミミーの父。行方不明のボイサーに代わりギャバンを宇宙刑事に育て上げギャバンを地球地区担当として派遣した。'''マリーン'''という女性を秘書に置いている。
:
; {{Anchors|ボイサー}}ボイサー
: ギャバンの父。バード星人で、地球地区担当の宇宙刑事だったがマクーに拉致され、消息不明になっていた。
: 捜査中に友人の星野博士が開発したレーザー増幅システムの秘密を知ったため、同じ宇宙刑事でありながらマクー側に寝返っていたハンターキラーの裏切りに遭い、マクー基地に監禁されて囚われの身となって長年にわたり致死量に近い自白液を注入されるなどマクーの拷問を受けていた。実は、その秘密設計図はボイサーの手のひらに体温が下がると浮かび上がる特殊なインクで描かれていた。そのため、拷問に耐えて生き続けることで秘密を守り抜いていた。
: 第43話でギャバンに救出されるが、長年に及ぶ拷問の影響で肉体は限界に達していたため、息子に看取られながら息絶える。
:* 演じた[[千葉真一]]は、大葉のために協力するとしてノーギャラでの出演であった{{R|仮面俳優209}}。千葉は、親子役であることから髪型を当時の大葉と合わせている{{R|仮面俳優209}}。撮影は千葉を優先したため、大葉の切り返しのカットは数日後に撮影されたが、大葉は代役の[[金田憲明]]に千葉に似せた眉を描き、感情移入して涙を流すシーンを演じた{{R|仮面俳優209}}。
=== 地球人 ===
; {{読み仮名|大山 小次郎|おおやま こじろう}}
: UFO専門の[[ルポルタージュ|ルポライター]]。[[宇宙刑事シリーズの登場人物]]を参照。
:
; {{読み仮名|藤 豪介|ふじ ごうすけ}}
: 烈の勤めるアバロン乗馬クラブのオーナー。烈からは「親父さん」と呼ばれている{{R|常識24}}。2年前に死んだ息子夫婦に代わり、孫のわかばと陽一の面倒を見ているが、代理人でしかない自分に限界を感じることもある。
:
; {{読み仮名|藤 わかば|ふじ わかば}}
: 豪介の孫娘で、動物好き。たびたび事件に巻き込まれる。第3話では、マクーにさらわれた先でミミーの変身を見た。
:
; {{読み仮名|藤 陽一|ふじ よういち}}
: 豪介の孫でわかばの弟。烈を慕っている。事件に巻き込まれることも多く、第34話ではドクターダブラーによって記憶を消されたこともある。
:
; {{Anchors|月子}}{{読み仮名|星野 月子|ほしの つきこ}}
: 第11話から登場。ボイサーの親友でプラズマエネルギー装置・ホシノ・システムを開発した星野博士の娘。[[宇宙刑事シリーズの登場人物]]を参照。
:
; {{読み仮名|当山 茂|とうやま しげる}}
: アバロン乗馬クラブで働いている青年。烈が事件でいなくなるたびに仕事が増えてしまう。
:
; {{読み仮名|伊賀 電|いが でん}}/シャリバン
: 日本の森林パトロール隊員(森林保護官)。バファローダブラーに襲われ瀕死の重傷を負い、ギャバンの手でバード星へ運ばれ治療を受けた後、宇宙刑事シャリバンとして地球へ帰還。ギャバンに代わり、地球地区担当となる。その他の詳細は[[宇宙刑事シリーズの登場人物]]を参照。
== ギャバンの装備・戦力 ==
=== コンバットスーツ ===
{{キャラスペック
|名称=宇宙刑事ギャバン
|身長=200{{nbsp}}[[センチメートル|cm]]
|体重=90{{nbsp}}[[キログラム|kg]]
|ジャンプ力={{Plainlist|
* 150{{nbsp}}[[メートル|m]]
* (ブースターの補助で300{{nbsp}}m{{R|GZ}})
}}
}}
一条寺烈がスーツ装着コード「[[蒸着]]」指令を発することによって、地球[[衛星軌道]]上の亜空間内にいる超次元高速機ドルギランのコンピュータが作動して粒子状に分解されて瞬間的に電送されてくる特殊軽合金グラニウム{{efn|書籍によっては、「グラニューム」と記述している{{R|F29814}}。}}製のターボプロテクター{{R|年代記|GB58}}。電送されたスーツは烈の体に吹き付けられるようにスーツを再度形成していき、蒸着が完了する。この一連のプロセスは0.05秒間(1/20秒)で完了する{{Refnest|group="出典"|{{R|GB58|常識26|最強16}}}}。
銀色の[[金属|メタル]]と黒いブラックシールドコーティングで構成されている。蒸着を完了するとハイパワークラッシャーパネルにより、全身の力がパワーアップする。胸のディメンションコントローラーにより、異次元や宇宙空間でも活動可能。頭部の電飾は人間に化けた敵も見破る獣星人センサー。
; キャラクターとしてのギャバン
: デザイン画ではスーツ造形を意識してヒジやヒザの関節カバーは表面のみに描かれていた{{R|F29860}}。
: 撮影用スーツは、メッキ加工を施した超アップ用、シルバー塗装のFRP製のアップ用、軽量のアクション用の3種類が存在する{{Sfn|年代記|2004|pp=90-91|loc=吉川進インタビュー}}{{R|仮面俳優173}}。
: [[繊維強化プラスチック|FRP]]製メッキスーツは変身コールにも引用された真空[[蒸着]]メッキと呼ばれる加工技術が使われており{{R|全怪獣416}}{{Sfn|年代記|2004|pp=90-91|loc=吉川進インタビュー}}、パーツの内部に気泡があればメッキを施す際の熱で膨らんでそこから破損してしまうため、造形的に非常に注意を要し手間の掛かるものだった{{R|gokai|21st11}}{{efn|当時[[エキスプロダクション]]で造形を担当した[[前澤範]]は、『[[スパイダーマン (東映)|スパイダーマン]]』での失敗が活かされたことを語っている{{R|21st11}}。}}。
: このメッキスーツには周囲の光景が映り込むため賛否両論を呼んだが、カメラマンの[[瀬尾脩]]が「宇宙刑事なんだから何が映ったって当たり前だ」と断言し、撮影会では事なきを得た{{R|gokai}}。{{要出典範囲|反射への対処としてツヤ消しスプレーが吹かれる場合もあった。後に普通の銀塗装のスーツも製作され、[[ウレタン]]・[[ラテックス]]製のアクション用スーツと共に、状況によって使い分けられた。しかしアクション用スーツであっても、太陽光線や人工照明の照り返しが大きく、撮影に困難が生じたため、「魔空空間」という設定を作って、戦闘は主にそこでなされるようになった。電飾で光るその目は恐ろしさを抱かせるほど鋭く、「子供が怖がるのではないか?」との意見もあったが、村上克司は「悪に対しての怒りを燃やすヒーロー像が必要」として断行したという。結果的にこの目論見は見事に当たり、以降のシリーズでも強面のマスクデザインが多い。|date=2022年9月}}
: 変身して名乗りを上げた後に「'''宇宙刑事ギャバンは戦闘の際、コンバットスーツを蒸着するタイムは僅か0.05秒にすぎない。では、蒸着プロセスをもう一度見てみよう!'''」{{efn|他に「宇宙刑事ギャバンが、コンバットスーツを蒸着するタイムは、僅か0.05秒に過ぎない(以下同じ)」のバリエーションも。}}というナレーションとスローモーションでの演出連続写真によるポーズ描写が並び「'''了解!コンバットスーツ、電送シマス!'''」とドルギランのコンピュータが言って烈へ電送装着するシーンが挿入され、以降の宇宙刑事シリーズの基本となった。また、0.05秒で蒸着できるという設定は、「銃を発砲された次の瞬間に蒸着。飛んでくる銃弾を手で受け止める」{{efn|5話より。なおこのパターンは18話でも似た形で使われる。}}など、変身シーンに数多くのバリエーションを持たせることが可能になった。中盤以降はマクーとの戦闘中に光に包まれて蒸着するようになった{{R|常識26}}。
: 変身プロセスを後から見せるという描写は、大葉が考えた名乗りがシンプルで短いものであったことから、子供へのサービスとして取り入れられた{{R|仮面俳優209}}。村上は時代劇『[[日本剣客伝]]』の[[宮本武蔵]]が一瞬で敵を斬り倒した後、その過程をスローモーションで見せるという演出から着想しており、『日本剣客伝』はプロデューサーの吉川進の初プロデュース作品でもあったことから採用された{{R|大全吉川|読本吉川}}。この描写により変身ヒーローものにありがちな「なぜ敵は変身中にヒーローを襲わないのか」という視聴者の疑問を解消させている{{R|全怪獣416|大全吉川}}。また変身時に光るという描写は、大葉が『デンジマン』のころに温めていたアイデアを提案したものである{{R|仮面俳優209}}。
: 戦闘の際には「チュウ!」という掛け声が多用される。これは「宇宙」の「宙」から取られたものである<ref>[https://ameblo.jp/watari2014/entry-12003699824.html 渡洋史の気ままなブログ「ニコニコ宇宙刑事・豆知識!」]</ref>。
: ジャンプする際に両手を広げたり低い姿勢での走りは、大葉のアイデアで、前者はバランスを取りやすくするため、後者は高い姿勢だと動きにムラが出るため敏捷性を見せるために取り入れられた{{R|年代記大葉}}。
: 後のシリーズでも『[[時空戦士スピルバン]]』までは、「専用バイク」「巨大戦用武装」「主人公が起居する母艦」などといった要素は細かい差異はあれど踏襲されており、各世界観に巧妙に組み込まれている{{R|GB58}}。
==== スーツ機能・装備 ====
いずれも内蔵されている装備と武器は戦闘力と捜査力を上げるものとなっている{{R|GB58}}。
; エレクトロソナー
: 耳に内蔵されている。メカのコントロールや通信に使う。アンテナを伸ばせば10キロ先のかすかな音も聞きわけられる{{R|GZ}}。また、左右の耳は取り外してトランシーバーとしても使用できるが、こちらは未使用{{R|大全前澤}}。
:
; ガスセンサー
: 38話で使用したセンサー。胸部の化学分析装置の一つで遺留品の小さな濃度を検知して、誘拐した時刻を推定することができる{{Sfn|大全|2000|p=25}}。
:
; レーザースコープ{{R|常識26|F29814}}
: 強化ガラス製ゴーグル内部に装備されている機能。技の発動時などには発光する。赤外線、紫外線、X線などのあらゆる波長をキャッチすると同時に分析、魔空空間で姿を隠した敵も発見する。
:
; ショックアブソーバー{{R|年代記}}
: 関節各部に備えられた着地時の衝撃を緩和する装置。
:
; 空間移動用ブースター{{R|年代記}}
: 脚部に備えられているジャンプ力を強化する装置。
:
; レーザーブレード{{R|最強16}}
: ギャバンの主要武器である片手持ちの剣。ギャバンが掌から刃にダイナミックレーザーパワーを注入することで光の剣となる。必殺技は'''ギャバン・ダイナミック'''。
: 映画『[[海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン THE MOVIE]]』では、後輩刑事のシャイダーのようにリボン状に変化する機能を披露した。
:* 劇中初期は刃渡りの短い剣で、グリップにはバード星の紋章をモチーフにしたモールドが刻まれていた{{efn|後にVシネマ『スペース・スクワッド ギャバンVSデカレンジャー』にて'''レーザーブレードオリジン'''と設定された。}}。その後、撮影中に折れてしまうアクシデントがあり中盤から長剣に変わり、柄の文様は消えて単なる縞の溝になった。
:* 光る時は[[光学合成|オプチカル合成]]で処理するのが主流だが、中盤からリアルな光加減と合成の手間を省く関係から、特撮用[[蛍光灯]]剣が使用されるシーンが登場する。
==== 必殺技 ====
; エレクトロスプラッシュ
: 目を覆って視界を塞ぐ物体を閃光と共にはがす技。第18話でアオガメダブラーの鱗を目に貼られた際に使用。
:
; ギャバンビーム
: 1話や7話などで使用した技。両手を電車の線路などの金属に当て、ビームを伝道させて攻撃する。
:
; ギャバンパンチ
: 厚さ10cmの鋼鉄もぶち抜くパンチ{{R|GZ}}。バリエーションとして第19話で使用したギャバンアッパーパンチがある。
:
; ギャバンキック
: ギャバンが得意とする飛び蹴り。ジャンプして右足で蹴り上げる。
:
; ギャバンショック
: 放電攻撃。全身から放電するタイプと指先から放電するタイプがあり、前者はクモダブラーの蜘蛛の巣から脱出する際に使用し、後者は第29話での戦闘で使用した。
:
; ギャバン・ダイナミック
: 大上段に構えた最大出力のレーザーブレードで相手を上から下に一刀両断に斬り裂く、ギャバン最大の必殺技。
: 第24話からは巨大化したダブルモンスターも倒せるほどの威力を持つようになった。後期は放つ前に前方宙返りを数回決めて破壊力を増したパワーアップバージョンになる。
:
; ギャバンバリヤー
: 前方に光の壁を作って敵の攻撃を防ぐ。作中では「バリヤー」と呼称。
:
; ギャバン・フルパワー
: 全エネルギーを全身に集中する。第7話で胸に受けた敵の光線を掛け声と共に跳ね返した。第23話ではマクー空間でクモダブラーの糸に拘束された時、掛け声とともに引き裂いた。
:
; ギャラクティカクラッシュ
: エネルギーを腕に集中させ、脚部のブースターで加速しながら敵の集団に突進し、強烈な肘打ちを叩き込む。第7話で使用。
:
; シルバービーム
: レーザーZビームとは違い、こちらはエネルギーを貯めずに発射する。速射性に優れるが、破壊力はやや劣る。主に左手で発射する。再生ベム怪獣程度なら一撃で倒すことができる。なお、他の宇宙刑事などと異なり、ギャバンは光線銃の類を持っておらず、ビーム発射機能はスーツに直接備わっている。
:
; スタッチックショック
: 何かに操られている相手に静電気でショックを与えて正気に戻す。第10話で使用。
:
; スパイラルキック{{R|F29814}}
: ギャバン特有のジャンプポーズ{{efn|両手を開いて片方の膝を若干曲げる。}}で敵に突っ込んでいく回転跳び蹴り。ダンプカーを100mも蹴り飛ばせる。{{要出典範囲|「ファイナルキック」と誤解されることもある。|date=2022年9月}}
:
; ディメンションボンバー{{R|最強16|F29814}}
: 空中から落下しながら両腕でジャンピングパンチを放ちつつ体当たりする。
:
; 凍結ビーム
: 目から発射。その名の通り、相手を凍らせる。戦闘で使用されたことはないが、第20話では爆発すると一瞬で地球の全生命体を死滅させる毒ガスを噴射する鬼火隕石を凍らせて鎮静化させた。
:
; レーザーZビーム{{R|最強16}}
: 拳や指先からダイナミックレーザーパワーの全エネルギーを放つ破壊光線。一連の動きで全エネルギーを貯めてから発射するため、速射性に劣るが、破壊力は絶大で、マクー戦闘機を一度に3機も破壊することが可能。通常は右手で発射する。初期のベム怪獣を倒す決め技。第19話ではキョウリュウダブラーにコンバットスーツを破壊され、使用不能になったことがある。破壊力の調整、多方向同時発射も可能である。
: 『[[宇宙刑事ギャバン THE MOVIE]]』では人質を盾にしたマクー幹部の顔面に命中させるなど、精密射撃も見せている。
:* {{要出典範囲|名称は番組の企画時タイトル『宇宙刑事Z』の名残。コンバットスーツにもZの名残を彷彿する黒のラインがある。|date=2022年9月}}
=== マシン ===
:{{機動兵器
|名称=ドルギラン
|直径=220{{nbsp}}m
|高さ=90{{nbsp}}m
|重量=2,000{{nbsp}}[[トン|t]]{{efn|資料によっては4,000{{nbsp}}tと記載している<ref>『ファンタスティック・コレクションNo.41「宇宙刑事ギャバン」』、[[朝日ソノラマ]]、1984年16頁。</ref>{{R|年代記}}。}}
|2名称=電子星獣ドル
|2全長=300{{nbsp}}m
|2重量=2,000{{nbsp}}t
}}
; 超次元光速機ドルギラン{{R|常識20}}{{efn|書籍によっては、超次元高速機ドルギランと記述している{{R|F29814}}。}}
: ギャバンの活動拠点、移動基地となる超光速宇宙船。大気圏外に普段は待機し、大気圏や宇宙、魔空空間でも活動可能。上部が居住スペースやライドメカの格納庫を有する'''ギラン円盤'''、下部が'''電子星獣ドル'''の2パーツから構成されている{{R|GB58|最強20}}。
: ドルは普段は首・手足・尾部を折りたたまれた形で円盤部の下に接続されている。ギラン円盤には3基のレーザー砲を装備{{R|GB58}}。下部から牽引ビームを出して人を回収する。
:* アダムスキー型の円盤では、シンプルすぎて『[[ぶんぶく茶釜]]』のようになってしまうため、メカニカルなデザインとなった{{R|F29858}}。
:; 電子星獣ドル{{R|常識20|F29814}}
:: ギャバンの指令を受けるとドルギランの下半分(ドルユニット)が分離変形した、青い龍の形の巨大ロボット。それ自体が意思を持ち{{R|GB58}}、ギャバンを支援する。内部にコックピットが存在する<ref>第2話に登場。『隔週刊 メタルヒーローDVDコレクション No.7』 [[デアゴスティーニ]] 2023年6月6日 雑誌 36901-6/6 9頁 </ref>が、戦闘時は主にギャバンがドルの鼻先に立って指令を出す。
:: 口から吐く高熱火炎'''ドルファイヤー'''{{R|GB58|最強20}}{{efn|書籍によっては、ドルファイアーと記述している{{R|F29814}}。}}、目から赤いレーザーを放つタイプと前脚からリング状レーザーを放つタイプ{{R|ep2}}の'''ドルレーザー'''{{R|GB58|最強20}}を武器とする。また、長い尾部による打撃'''スクリューアタック'''や、前脚部による打撃'''ドルキック'''により、巨大ベム怪獣や巨大ダブルモンスターとの格闘戦も可能{{R|GB58}}。
::* 日本のヒーローが乗ることから、西洋のドラゴンではなく、東洋のような龍がモチーフとなった{{R|F29858}}。
::* 主に空中を舞う操演タイプで撮影されたが、人が中に入って演じるスーツタイプのものも製作された{{R|ep2}}。
:
:{{機動兵器
|名称=サイバリアン
|全長=2.3{{nbsp}}m
|重量=400{{nbsp}}kg
|速度=500{{nbsp}}[[キロメートル毎時|km/h]]
}}
; サイバリアン{{R|常識20|F29814}}
: ドルギランに格納されている宇宙[[サイドカー]]で、深紅のギャバン専用マシン{{R|GB58}}。立ったままでの操縦、地上走行や空中飛行の他、あらゆる次元・空間への安全な突入および運用が可能。
: サイドカー側の後部にある'''サイバリアンレーザー'''{{R|GB58|最強20}}とハンドル左側にある'''サイバリアンロケッター'''{{R|GB58|最強20}}を装備する。
: また、堅牢な車体を生かした体当たり攻撃'''サイバリアンスピン'''も強力。リモートコントロールによる無人での走行・飛行が可能でギャバンの指令を受けると自動発進する{{R|GB58}}。ギャバンはこれを使って魔空空間へ突入する。また、'''サイバリアンレーザースピード'''を使えば蒸着直後のギャバンのように光になって突進することも可能。
: 世間一般のサイドカーと異なり一人乗りで、いわゆる「舟」部分に「座席」は存在しないが、この「舟」部分はギャバンが魔空空間内で搭乗する際の立ち乗り用スペースとして使用される。
: 魔空空間へ突入する際に車両本体と「舟」部分との間がスライドして展開し内部メカニックが露出するほか、「舟」部分後部に設置されたサイバリアンレーザーがせり上がるなどの変形機構がある。
:* [[仮面ライダーシリーズ]]との差別化から二輪のバイクではないものとなった{{R|F29858}}。大石一雄のデザインでは青い色だったが、[[ブルーバック]]撮影の都合から現場判断で急遽赤に変更された{{Sfn|年代記|2004|pp=88-89|loc=PLEXインタビュー}}。青いサイバリアンは後の『[[宇宙刑事ギャバン THE MOVIE]]』で実現する。
:* 撮影用プロップは、実車をベースとしてシャーシから作り起こした物。大石によると、直進安定性が悪かったという{{Sfn|年代記|2004|pp=88-89|loc=PLEXインタビュー}}。
:
:{{機動兵器
|名称=ギャビオン
|全長=20{{nbsp}}m
|重量=380{{nbsp}}t
|速度={{Plainlist|
* 時速500{{nbsp}}[[キロメートル|km]](地上)
* [[マッハ数|マッハ]]5(空中)
}}
}}
; 高次元戦闘車ギャビオン{{Refnest|group="出典"|{{R|年代記|常識20|F29814}}}}
: ドルギランに格納されているギャバン専用宇宙戦車。ギャバンの指令を受け自動発進する。内部で操縦するのではなく上部装甲の上にギャバンが立って音声による指示で操作を行う。戦車だが飛行能力があり、マクー円盤との空中戦もこなす。
: 上下2機に分離でき、上部は飛行メカのギャビオンAメカ、下部は地上メカのギャビオンBメカとなり、二面攻撃を可能とする{{Refnest|group="出典"|{{R|GB58|最強20|F29814}}}}。'''ギャビオンレーザー'''、'''ギャビオンミサイル'''、'''ギャビオンロケッター'''などを装備する{{R|GB58}}。
: 地上でAメカ・Bメカが分離・合体するシーンがないため、地上に着地するシーン(特に4話など)ではBメカのみしか映っていない。
:* 当初はキャタピラの付いた重そうなメカが飛行するのは変であると思い、分離した上部が空中戦を行うイメージであったが、特撮監督の矢島はそのまま飛行させていたという{{R|F29858}}。
:
:{{機動兵器
|名称=スクーパー
|全長=13{{nbsp}}m
|重量=400{{nbsp}}t
|出力=5万馬力
}}
; スクーパー{{R|F29814}}
: ギャビオンBメカ後部に格納されている地中用の小型[[地底戦車|ドリルタンク]]{{R|GB58}}。2基のドリルで地中を掘り進む。'''スクーパーレーザー'''{{R|GB58}}を装備。地底基地への攻撃、人質の救助活動などに活躍する。
{{-}}
== 宇宙犯罪組織マクー ==
全宇宙規模でその名を轟かす強大な宇宙犯罪組織。第1話ナレーションで[[宇宙海賊]]とも説明されている{{R|最強22}}。獣星帝国の異名を持ち、強大な武力によって数万年に渡って数々の惑星を支配下においている{{R|GB58|最強22}}。
第15話で組織発足2万6,000年の記念パーティを計画しており、宇宙警察機構より歴史は古い。魔空空間と呼ばれる宇宙の裂け目にある一種のブラックホールに浮かぶ魔空城を本拠地に惑星間で犯罪を繰り返し、人的・物的資源を独占するために暗躍する。
地軸転換装置を使い地球の地軸を操作して地球上に魔空空間を発生させたり、数々の強力な兵器を作り出したりするなど高度な科学力を持つ一方、獣星の神を祀る儀式のためにギャバンの首を供えようとするなど、宗教的な一面も見せた。
また、新たな惑星の住人をダブルマンとして取り込むことに執心しており、劇中でも複数回にわたって地球人をダブルマン化する作戦を実行した。
; {{Anchors|ドン・ホラー}}ドン・ホラー
: 全銀河の征服を企むマクーの首領である魔神で、獣星帝国の王{{R|常識22}}。資料によっては科学者{{Sfn|全怪獣怪人 下|1990|p=422}}や彼自身も「獣星人」などと記載されているものもあるが<ref>LD VOL.1の解説。</ref><ref>『ファンタスティック・コレクションNo.41「宇宙刑事ギャバン」』、[[朝日ソノラマ]]、1984年 23頁。</ref>、劇中では描写はなく、書籍『宇宙刑事大全』では「正体・前身は全く不明」とある{{Sfn|大全|2000|p=34}}。
: 鬼を思わせる姿で、怪物の口内に人面を覗かせる頭、腕は胴体から膝に乗せ支える一対、胸で腕を組む一対、唯一動かす腹からの一対の計六本を有する。魔空城の広間中心の玉座に石像のような巨体を鎮座させ、自ら立って動くことはないが、強力な超能力を持ち、伸縮自在の腕や目からの光線による攻撃を仕掛け、首を刎ねられてもその首を浮かせて攻撃できる。
: 基本的には冷酷だが、真面目に努力するギャバンと対照的に遊び好きの息子サン・ドルバに苛立ったり、ギャバン打倒よりも息子の教育を優先させたり、最終決戦で魔空城に乗り込んだギャバンを「良くぞここまで来た」と賞賛しつつ配下たちを下がらせての一対一の決闘で決着をつけようとしたりするなど、特に後半で情のある一面を見せた。サン・ドルバに対しては厳しい態度も取るが、最終話で裏切りの心が発覚した直後でさえ魔空空間や戦闘円盤による援護は行っており、やはり愛情は持っていたようである。
: 最終決戦では、サン・ドルバと魔女キバを倒して魔空城に乗り込んだギャバンと一対一で勝負を挑み、ギャバンを徹底的に追い詰めるが、一瞬の隙を突かれてしまい、額をレーザーブレードで貫かれ、直後にギャバンダイナミックを受け倒された。
:* デザインは増尾隆之が担当{{R|奇怪5}}。増尾が本作品で一番最初に描いたデザインであり、後年のインタビューでは[[H・R・ギーガー]]の影響が見えると述懐している{{R|奇怪97}}。
:* ドン・ホラーの声は当初[[飯塚昭三]]が担当していたが、喉の不調を理由に第11話から[[渡部猛]]が代役を務めた{{Sfn|公式読本|2012|p=55}}。『宇宙刑事魂』以降は再び飯塚が演じている。
:
; ホラーガール
: ドン・ホラーの秘書。鳥のような顔をしており、独特の奇声を発する。基本的に人間の言葉は一切話さないが、第26話では一度だけ人語を話している。
: 最終話で魔空城と共に爆死。
:* デザインは森野うさぎが担当{{R|奇怪6}}。
:
; {{Anchors|ハンターキラー}}ハンターキラー
: マクーの地球侵攻指揮官であり、元宇宙刑事{{R|常識22}}。左目と口、鼻だけを露出させた仮面をつけている。ボイサーの要請で地球に派遣されたが、ホシノスペースエネルギーの情報をマクーに提供し、開発者・星野博士の抹殺とボイサーの拉致に一役買った。
: その後も様々な計画を立案・遂行し、ギャバンにとって厄介な敵であり続ける。しかし、魔空城に帰還したサン・ドルバと魔女キバの復帰により地位を奪われることを恐れたのと、生真面目な性格がサン・ドルバと合わず、元々非常に仲が悪かったことから、宇宙刑事の暗号を用いてキバの妖術をギャバンに警告した。だがそのことを「所詮もう用済み」としてハンターキラーを葬り去るつもりでいた魔女キバに見破られ、かまをかけられて問い詰められた末、暗に密告を認めてしまう。抵抗したものの逃げ切れず、ドン・ホラーによって暗黒銀河へ永久追放される。
: その後、第42話で銀河警察のパトロール隊に発見されて保護されたものの、衰弱が激しく回復できる体力は残されていなかった。収容先の銀河警察病院の病床での尋問の末、コム長官にボイサーの居場所とX計画の存在を教えて息絶えた。
: 銀河連邦警察を裏切ってマクーに寝返った動機については、最後まで明かされなかった{{Sfn|大全|2000|p=35}}。
:* デザインは板橋しゅうほう、トレスと彩色は渡部昌彦が担当{{R|奇怪6}}。デザインは板橋の漫画『ペイルココーン』に登場するクリフォード大佐が原型となっており、装飾の一部も同作品に登場するガーホンのものを流用している{{R|奇怪100a}}。
:* 朝日ソノラマ社『ファンタスティックコレクション宇宙刑事ギャバン』に掲載されている番組企画書ではハンターキラーの項目には「元宇宙刑事」の肩書きはない<ref>『ファンタスティック・コレクションNo.41「宇宙刑事ギャバン」』、[[朝日ソノラマ]]、1984年 23-24頁。</ref>。
:
; {{Anchors|サン・ドルバ}}サン・ドルバ
: ドン・ホラーと魔女キバの息子。武勇に長けているが、酒と女が好き。
: 第30話で武者修行から帰還し、それまで指揮官を務めていたハンターキラーに代わってマクーの地球侵攻指揮官{{R|常識22}}に就くが、些か己の武勇を過信しすぎており、直情的。作戦時に搦め手を立案することはあまり得意ではなく、親(主にキバ)に頼りすぎる面がある。母である魔女キバも「お前がちやほやされるのはドン・ホラーの息子だから」とその将来を危ぶんでいる。第35話ではドン・ホラーと喧嘩していたこともあった。
: 最終決戦で鬼首島の総本部基地を陥とされて後がなくなり、度重なる失敗もあってとうとう親子の縁を切られてしまう。苦し紛れの策としてキバに入れ知恵され、魔空城をドルギランと接触させる提言をする。これはドン・ホラーとギャバンを戦わせ相討ちにさせた後にマクーを乗っ取ろうという腹で、キバと共にこっそり逃亡し高みの見物を決め込もうとしたが簡単に見破られ失敗。ギャバンを倒す以外に生きる道を絶たれ、追い詰められた状況で必死に戦うが銀河連邦警察が援軍として派遣したシャリバンの介入で形勢逆転され、最期はレーザーブレードの投擲を受けて負傷したキバを庇おうとしたところにギャバン・ダイナミックを叩き込まれ、死亡した。
:* デザインは野口竜が担当{{R|奇怪7}}。
:
; {{Anchors|魔女キバ}}魔女キバ
: 第30話から登場したサン・ドルバの母親。サン・ドルバの杖の先端の[[髑髏|ドクロ]]型の部分に潜む強力な妖術使い。悪知恵が働き、幾度も息子の作戦をフォローする。
: サン・ドルバを溺愛しており親馬鹿な発言も多いが、息子からは「キバ」と呼び捨てにされたり「おばば」と呼ばれたりと、あまり母親らしく接してもらえていない。また、サン・ドルバの父であるドン・ホラーとの関係も不明瞭であり、劇中では伴侶らしい扱いを一切されなかったが、妻と紹介する文献もある<ref>『[[宇宙刑事ギャバン THE MOVIE]]』劇場パンフレット</ref>。
: 最終決戦の際に母を庇おうとした息子諸共ギャバンに倒される。
:* デザインは野口竜が担当{{R|奇怪7}}。
:* 演者の三谷は男性であるが、設定としては女性である。
=== 戦闘構成員 ===
; {{Anchors|ダブルマン}}獣星人ダブルマン
: マクーが制圧してきた惑星に生息していた宇宙人が改造を受けた姿{{R|常識22}}。そのスタイルや顔は種族によって異なる{{R|常識22}}。
: 人間の姿で社会に潜伏し、作戦活動を実行・補佐する。社会的地位が高い者、各所にコネの利く者の姿を取ることが多い。
: ダブルマンは数種類の姿のものが存在するが、劇中では全て「ダブルマン」としか呼称されていない{{efn|書籍『全怪獣怪人 下巻』では登場順にアルファベットをふる形で{{R|全怪獣427}}、書籍『宇宙刑事大全』では出身星を併記する形で{{Sfn|大全|2000|pp=38 - 39|loc=マクーモンスター指名手配書}}それぞれ区別している。}}。全部で8惑星のダブルマンが存在しているが、アンタレス星のダブルマンは未登場{{Sfn|大全|2000|p=34}}。ゾンビ星のダブルマンは劇中で多数登場しており、強化型と思われる個体も複数登場している。また、第6話では地球人の子供をダブルマンに改造する目的の作戦が行われた。
:* デザインは増尾隆之が担当{{R|奇怪6}}。ゾンビは脳が露出したメタルナミュータントのようなイメージと指示を受け、知的なSFキャラクターと想定していたが、実際には格闘系のキャラクターとして描写されることが多かった{{R|奇怪97}}。
:
; ダブルガール
: 女性の獣星人{{R|常識22}}。
: 人間の女性に化け、スパイ活動や作戦の補佐を行う。また、手裏剣を武器にギャバンと戦うこともあるが、戦闘能力は低い。
: 姿の異なるミツバチダブラー配下の者、サン・ドルバの歓迎式で接待・踊り子を務めた人間姿の者も登場する。
:* デザイナーは不明{{R|奇怪6}}。
:
; ベム怪獣
: マクーが制圧してきた星に生息していた進化したエイリアンモンスター{{R|GB58}}。名前の最後に「モンスター」と付き、凶暴で知性が低いため、言葉を全く話さない。巨大化可能の者も存在した。
:* デザインのほとんどを担当した増尾は、当初は従来の怪人のイメージからの脱却を目指し、人が入っていることを意識させないものや、『スター・ウォーズ』に登場する宇宙人などをイメージして描いていたが、次第にモチーフのわかりやすいものや人型で造形できるものを要望されるようになったと述懐している{{R|奇怪97}}。
:
; ダブルモンスター
: 香月教授を脅迫して完成させた生体合体装置を用いて、ダブルマンとベム怪獣を合体させたモンスター。
: ベム怪獣のパワーとダブルマンの知性を合わせ持ち、ベム怪獣の3倍の戦闘力を持つ。名前の最後に「ダブラー」と付く。第13話から登場。
: 生体合体装置を使用せずに誕生した例や、ダブルガールと合体させた例もごく僅かながら存在する。ミツバチダブラーなど巨大化可能な者もいたが、回を追うごとに一切しなくなり、その代わりマクー戦闘機に乗って空から攻撃を仕掛けるようになる。
: 多くは人間体を持ち、医師や社会的影響力の大きい人間、各界に出入りできる人間の姿を取る。知能は高く、アオガメダブラーのように科学者としての能力を持っている者、アオガメダブラー、ケラダブラーのように必殺技も持っている者もいるが、カマダブラーのように見るからに知能の低そうな人間体に変身した個体も存在した。物語後半以降は言葉を話さない怪人体も登場した。
:* 第3クールまでは、動物モチーフのものが多かったが、それ以降は事象や機能をモチーフとしたものが多くなっていった{{R|奇怪97}}<ref>{{Harvnb|特撮全史|2020|pp=14-15|loc=「宇宙刑事ギャバン」}}</ref>。デザインのほとんどを担当した増尾は、どうしてそうなったのかは定かではないが、増尾自身は好きに描いたものが多かったと述べている{{R|奇怪97}}。
:
; 兵士クラッシャー{{R|常識22}}
: マクーの戦闘員。黒い革ジャンパーを身に纏い、ナイフとビームガンを武器とする。
: 人間に変身する能力を持ち、人型宇宙人であるミミーに化けた個体も存在する。変身中でも強いショックを受けると元の姿に戻ってしまい、ダメージが強烈であった場合などはそのまま死亡することもある{{efn|マジックダブラーのブラックホールボックスに入ったポール一星の助手役のクラッシャーなど。}}。第35話では通常と異なる顔のクラッシャーが登場している。
: 第15話から第30話では、地球の気候に合わせて夏服の革ベストを着用した{{Sfn|大全|2000|p=36}}{{R|年代記}}。
:* デザイナーは不明{{R|奇怪6}}。
=== マクーのメカニック ===
; 魔空城
: 異次元に浮かぶマクーの本拠地。ボスのドン・ホラーが構えている。内部にあるマクー窟では複数のベム怪獣たちを飼育している。
:* デザインは赤坂哲朗が担当{{R|奇怪100b}}。デザインイメージはナマコ{{R|奇怪100b}}。デザイン画では表面のモールドが細かく、電飾が多かったが、そのまま立体にはできなかったため、電飾をかなり潰したという{{R|奇怪100b}}。
:* {{要出典範囲|最終話の魔空城陥落のシーンでは、ミニチュアセットに実際に火を着けて燃やし、手前に迫り来る迫力あるカットを見せた。|date=2022年9月}}
:
; マクー戦闘円盤
: 異次元、通常空間の強襲宇宙円盤。クラッシャーが主に搭乗し、戦闘母艦や地上基地から3機編隊で発進する{{R|F29814}}。
:* デザインは赤坂哲朗が担当{{R|奇怪100b}}。デザインイメージはエイやカブトガニ{{R|奇怪100b}}。翼があると宇宙空間を飛べないことから、垂直尾翼を付けずに平べったい横長のフォルムにし、宇宙空間に漂う陽子を機体下部にある吸気口から取り込んで、推進力に変換して飛行するイメージとなっている{{R|奇怪5}}。
:
; マクー戦闘母艦
: 魔空城の一部が分離した宇宙戦闘母艦。戦闘円盤を格納する宇宙戦艦。
: 直接戦闘の頻度は少なく、最終話まで一度も撃沈されなかった。
:* デザインは赤坂哲朗が担当{{R|奇怪100b}}。デザインイメージはウミウシ{{R|奇怪100b}}。
== 用語 ==
; {{Anchors|maku_space}}{{読み仮名|魔空空間|まくうくうかん}}
: マクーが[[地軸]]転換装置を作動することで創りだす、亜空間(一種の[[ブラックホール]]){{R|GB58}}。マクーは、ダブルマンやベム怪獣の能力を魔空エネルギーによって地上の3倍に増幅させる魔空空間へ相手を引きずり込むことで、1対1での戦闘をより有利に展開しようとする。
: それに対してギャバンは、一人乗りマシンであるサイバリアンに騎乗し、あえて魔空空間で戦うことで、実世界の破壊と被害を最小限にとどめている。
: 地軸転換装置の作動はドン・ホラーの秘書であるホラーガールとクラッシャーが担当し、ホラーガールの怪しい踊りと呪文とともにハンドルを回し{{R|常識22}}、クラッシャーたちが装置を操作している。
: 第35話では自分の力だけでギャバンと戦うと大見得を切って出撃したザン・ドルバからの魔空空間要請をドン・ホラーが拒否したため、通常空間のみで戦闘が行われた。
:* この設定は、ギャバンのスーツが銀色塗装のため、太陽光や照明の照り返しが大きく、明るい場所での撮影が困難になったという、制作側の事情によって作られたものである{{R|大全吉川}}。魔空空間の導入理由は「爆発可能なロケ地が少なくなったため」{{R|大全吉川}}や「街中から造成地への移動を不自然に見せないため」{{R|全怪獣416}}に設定されたと言われることもあるが、プロデューサーの吉川は屋外での撮影が難しいという問題を解消するのが第一目的であったとしている{{R|大全吉川}}。企画者104の横田誠は、魔空空間の合成はカメラマンの[[瀬尾脩]]とアクション監督の[[金田治]]の息があっていた神業であると評している{{R|20th90}}。
:
; {{Anchors|seitai_gatai_soti}}{{読み仮名|生体合体装置|せいたいがったいそうち}}
: マクーが香月教授を脅し、彼の作った生体電送装置を応用させて作らせた装置。生物を元素に分解し、その状態で別の生物の元素を組み合わせて再構成して新しい生物を作り出す{{R|GB58}}。これによりダブルモンスターが製造される。
:
; {{Anchors|hoshino_space_canon}}ホシノスペースカノン
: マクーが切り札として建造していた最終兵器。星野博士が発明したホシノシステムの原理の応用によって、惑星を壊滅させる破壊力、[[光年]]単位で離れた目標を攻撃できる有効射程と攻撃精度を兼ね備えている。
: 作品終盤時点で90%まで完成した要塞設置型が鬼首島で建造されていたが、エネルギー増幅装置の設置を待たずに43話でギャバンに破壊された。
: 後に小型化された艦載タイプが「プラズマカノン」として銀河連邦警察で採用されている。
== キャスト ==
* 一条寺烈 / ギャバン - [[大葉健二]]
* ミミー - [[叶和貴子]]
* コム長官 - [[西沢利明]]
* マリーン - [[名代杏子]]
* 大山小次郎 - [[鈴木正幸]]
* 藤わかば - [[中島早苗]]
* 藤陽一 - 藤原進
* 当山茂 - [[加瀬慎一]]
* 星野月子 - [[立花愛子]]
* ハンターキラー - [[飯田道朗|飯田道郎]]
* サン・ドルバ - [[西田健]]
* 魔女キバ - [[三谷昇]]
* ドン・ホラーの声 - [[飯塚昭三]](第1話- 第10話)、[[渡部猛]](第11話- 第44話)
* ダブルガール - 尾曳伊都子、[[東まり子]]、[[平瀬りえ]]、[[阿知波悟美]]、山口ひろみ、[[五十嵐美鈴]]
* ホラーガールの声:[[太地琴恵]]
* ボイサー - [[千葉真一]] <small>※[[特別出演]]</small>
* ナレーター - [[政宗一成]]
* 豪介 - [[多々良純]]
=== ゲスト ===
* 杉本哲也 / 塚原哲 - [[長沢大]](第9話)
* 塚原奈々恵 - 石井亜希子(第9話)
* 一条寺民子 - [[久保田民絵]](第11話)
* 星野博士 - [[柄沢英二]](第11話)
* 幼少期の烈 - [[石関賢太郎]](第11話)
* 林真 - 斉藤雅晴(第12話)
* 真の父 - [[川島一平]](第12話)
* 香月教授 - [[西本裕行]](第13話)
* 森山千代 - [[神田亜矢子]](第15話)
* 千代の母 - [[中真千子]](第15話)
* 雨宮三郎 / ベン - 川崎直也(第16話)
* かすみ - [[木村有里]](第16話)
* 看護婦(ダブルガール人間態) - [[阿知波悟美]](第20話)
* 速水力也 / 怪盗X - [[倉知成満|倉地雄平]](第22話)
* 速水美知子 - [[吉川理恵子]](第22話)
* 恵子 - 日夏万鯉子(第23話)
* 坂田明 - [[深見亮介|深見博]](第26話)
* 双葉ケ丘小学校女教師 - 呉恵美子(第27話)
* モニカ - [[吉岡ひとみ]]、飯田テル子(第28話)
* 引田天功(二代目) - [[引田天功 (2代目)|二代目・引田天功]](第29話)
* アラン - [[宮内洋]](第30・31話)
* リン王女 - ポーラ・エドワーズ(第31話)
* ワーラ - 潮健児(第31話)
* 石川友子 - [[RIKACO|村上里佳子]](第33話)
* 岩井支配人 - 水村泰三(第34話)
* わかば・陽一の父親 - [[五代俊介]](第34話)
* わかば・陽一の母親 - [[松山薫]](第34話)
* 河原で野球をする父親 - 檀喧太(第34話)
* 河原で野球をする母親 - [[太地琴恵]](第34話)
* 映画監督 - 栗原敏(第36話)
* リララ姫 - [[森田理恵]](第37話)
* ジッタン - 林孝一(第37話)
* 神父 - [[松本朝生|松本朝夫]](第37話)
* 直子先生 - [[山本容子]](第38話)
* 警官 - [[垂水藤太]](第38話)
* 山口ツトム - [[坂詰貴之]](第39話)
* 清水博士 - [[小笠原弘]](第40話)
* 佐々木史郎 - 田辺潤(第40話)
* 伊賀電 / シャリバン(最終話のみ) - [[渡洋史]](第42話、第44話)
=== スーツアクター ===
ギャバンのスーツアクターは、アクション用とアップ用でそれぞれ専属のアクターが務めている{{R|仮面俳優173}}。アクションを担当した[[村上潤]]は、決めポーズを大きく見せるため大柄な山口仁がアップ用に起用されたと証言している{{R|仮面俳優173}}。また、村上が後年にアクション監督の[[金田治]]に自身を起用した理由を訪ねたところ、『[[メガロマン]]』で単独ヒーローを演じた経験があったからだと告げられたという{{R|20th95}}。
* ギャバン(アクション){{Refnest|group="出典"|{{R|gokai96|仮面俳優173|20th95}}}} - [[村上潤]]
* ギャバン(アップ){{R|gokai96|仮面俳優173}} - [[山口仁]]
* ギャバン(アップ){{R|仮面俳優173}} - 清水朗
* ギャバン(アップ・第1話 - 第3話)<ref>『[[宇宙刑事シャリバン]]』Blu-ray BOX特典映像</ref>、補助<ref>{{Cite web|和書|title=『シャリバン』アフレコ秘話〓〓〓 |url=http://shocker.sblo.jp/article/188353210.html |website=ショッカーO野の戦闘報告 |access-date=2023-07-29 |language=ja}}</ref> - 渡洋史
* ギャバン(トランポリン・一部){{R|年代記大葉}} - 大葉健二
* 獣星人ダブルマン{{Sfn|ヒーロー大全集|1987|p=113}} ー [[剱持誠]]
* ベム怪獣{{Sfn|ヒーロー大全集|1987|p=113}} - [[辻井啓伺|辻井啓嗣]]
* ホラーガール<ref>{{Cite journal|和書|date = 2006-06-10|journal = 東映ヒーローMAX|volume = Vol.17|page = 100|publisher = [[辰巳出版]]|isbn = 978-4-7778-0264-7}}</ref> - [[長門美由樹|長門美雪]]
* ダブルガール{{Sfn|大全|2000|p=174}} - [[シンシア・ラスター|津村ゆかり]]
* 戦闘員{{R|仮面俳優37}}{{efn|蜂須賀は基地内のシーンを担当{{R|仮面俳優37}}。初期は補助の方が多かったと述べている{{R|仮面俳優37}}。}} - [[蜂須賀祐一]]
* 怪人{{R|仮面俳優191}}{{efn|2班体制時に横山班で担当{{R|仮面俳優191}}。}}、戦闘員{{R|仮面俳優191}} - [[石垣広文]]
* 戦闘員クラッシャー{{R|ショッカーO野}}、補助<ref>{{Cite web|和書|title=『シャリバン』アフレコ秘話〓〓〓 |url=http://shocker.sblo.jp/article/188353210.html |website=ショッカーO野の戦闘報告 |access-date=2023-07-29 |language=ja}}</ref>、他{{R|ショッカーO野}} - [[ショッカーO野]]
* その他 - [[城谷光俊]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20190330051747/http://sports.geocities.jp/kenbukai_004/p_shiroya.htm |title=SAP剣武会 城谷光俊 プロフィール |access-date=2023/10/14}}</ref>
== スタッフ ==
* 原作 - [[八手三郎]]
* 連載 - 『[[テレビマガジン]]』『[[おともだち]]』『[[たのしい幼稚園 (雑誌) |たのしい幼稚園]]』『[[テレビランド]]』『[[冒険王 (漫画雑誌)|冒険王]]』
* プロデューサー - [[碓氷夕焼]](テレビ朝日)、[[吉川進]]、[[折田至]](第11話 - )(東映)
* 脚本 - [[上原正三]]、[[高久進]]、[[松下幹夫]]、阿部和江、永井達郎、[[筒井ともみ]]、[[小林義明|林強生]]
* アクション監督 - [[金田治]]、横山稔([[ジャパンアクションエンタープライズ|ジャパン・アクション・クラブ]])
* 監督 - [[小林義明]]、[[奥中惇夫]]、[[田中秀夫]]、[[小笠原猛]]、服部和史
* 撮影 - [[瀬尾脩]]、[[いのくままさお]]、[[松村文雄]]、西山誠
* 照明 - 嶋田宜代士、吉岡伝吉、国本正義
* 美術 - 宮国登
* キャラクターデザイン{{efn|大半の敵キャラクターのデザインは増尾が担当。ノンクレジットで[[SYUFO|板橋しゅうほう]]、[[いちごはうす|森野うさぎ]]、[[野口竜]]も参加{{R|奇怪4}}。}} - 増尾隆之、赤坂徹郎
* 音楽 - [[渡辺宙明]]
* 仕上制作 - [[映広]]音響
* 録音 - [[太田克己]]
* 効果 - [[大泉音映]]
* 選曲 - 村田好次
* 編集 - [[菅野順吉]]
* 制作担当 - 佐久間正光(第1-7話)、市倉正男(第8-12,32,33話)、桐山勝(第13-31,34-44話)
* 進行 - 小迫進、川上正行、奈良場稔、桐山勝
* 助監督 - [[坂本太郎 (テレビドラマ監督)|坂本太郎]]、小笠原猛、南晃行、是沢邦男、服部光則、中井敏夫、[[小中肇]]、[[石田秀範]]
* 計測 - 松村文雄、小野寺修、小林啓二、望月真寿夫、岡垣亨、渡辺敏夫
* 記録 - 宮本衣子、木村てるみ、栗原節子、勝原成子、内藤美子
* 制作デスク - 寺崎英世
* 装置 - 東映美術センター
* 操演 - 羽鳥博幸
* 美粧 - 入江美粧
* 衣裳 - 東京衣裳
* 装飾 - [[大晃商会]]
* 企画協力 - [[企画者104]]
* イラスト - [[野口竜]]
* キャラクター制作 - [[レインボー造型企画]]
* 車輌製作 - 十和モータース
* オートバイスタント - スリーチェイス
* 車輌協力 - [[鈴木自動車工業]]
* 現像 - [[東映化学工業|東映化学]]
* 視覚効果 - デン・フィルム・エフェクト
* 合成 - [[チャンネル16]]
* 音楽制作 - あんだんて
* ビデオ合成 - [[東通ecgシステム]]
* (株)[[特撮研究所]]
** 操演 - [[鈴木昶]]
** 美術 - [[大澤哲三]] (EDでは「大澤哲二」と誤植)
** 撮影 - 高橋政千
** 照明 - 須崎文夫
* 特撮監督 - [[矢島信男]]
* 制作 - [[テレビ朝日]]、[[東映]]、[[ADKホールディングス|旭通信社]]
== 音楽 ==
オープニングテーマとエンディングテーマは、当時の渡辺宙明が『[[大戦隊ゴーグルファイブ]]』と掛け持ちで音楽を担当していた関係から、差別化のためにと[[日本コロムビア]]のプロデューサーの木村宏による提案で作曲と編曲を別人が担当することになり、渡辺の推薦で[[馬飼野康二]]が起用された。
当初、本作品のBGMはレコード化が予定されておらず、それを知った渡辺は「何としてもレコードにする」と意気込み、豪華な楽器編成での楽曲制作を敢行した。そのため、予算の都合でモノラル録音を余儀なくされたが{{R|最強100}}、渡辺の願いは叶い、1982年11月21日に『テレビオリジナルBGMコレクション 宇宙刑事ギャバン』([[日本コロムビア]] CX-7072)としてレコード化された。
'''レーザーブレードのテーマ'''として知られる曲「襲撃II (B11)」は、本来はマクーの襲撃をイメージして作られたもの。実際に初期はそのような使い方もされており、『テレビオリジナルBGMコレクション 宇宙刑事ギャバン』では「マクーの攻撃」と題されたトラックに収録されている。しかし、ストリングスのリズムとトランペットのメロディーの掛け合いが生み出す独特の高揚感から、選曲の村田好次の発想で第17話からのレーザーブレードのシーンに多用されるようになった<ref>宇宙刑事ギャバン ベストヒット曲集&オリジナル・サウンドトラック(2002年、コロムビアミュージックエンタテインメント COCX-32031/2)</ref>。その成功を受け、以降はクライマックスシーンの曲をこの曲調で注文されることが多くなり、後の『シャリバン』や『シャイダー』におけるレーザーブレードのテーマも同様の曲調で作られている他、同じく渡辺が音楽を手がけたテレビアニメ『[[光速電神アルベガス]]』の合体シーン、OVA『[[破邪大星ダンガイオー]]』の主役ロボ「ダンガイオー」の必殺技「サイキック・斬」、テレビアニメ『[[神魂合体ゴーダンナー!!]]』の敵襲撃時のテーマにも、この曲調が使用されている。
第11話から順次導入された挿入歌は、アルバム『宇宙刑事ギャバン ベストヒット曲集』として1982年6月21日にレコード化された。これは曲の合間に主演の大葉健二の語りが入るという構成で{{R|最強100}}、後にスーパー戦隊シリーズ『[[忍風戦隊ハリケンジャー]]』などでも同様の構成のCDが製作された。放送から20年目に当たる2002年には、同レコードとBGM集を併せて『BEST HIT SONGS & ORIGINAL SOUNDTRACK』として復刻された。また、これとは別にヒット曲集から数曲抜粋され、LP片面のみにまとめられた『スーパーアクションサウンド』も発売された。ヒット集では大葉の一人語りであったが、こちらでは効果音もある新録のサウンドドラマが収録され、大葉の他に[[渡部猛]]や[[西尾徳]]も出演している。反対面は同じく「スーパーアクションサウンド [[大戦隊ゴーグルファイブ]]」。
; オープニングテーマ「[[宇宙刑事ギャバン (曲)|宇宙刑事ギャバン]]」
: 作詞:[[山川啓介]] / 作曲:渡辺宙明 / 編曲:[[馬飼野康二]] / 歌:[[串田アキラ]]
: 毎回のオープニングのみならず、序盤を中心に主にテレビサイズのバージョンが挿入曲としても使用されている。また本曲ではサビ前に叫び声が挿入されており{{efn|音盤類の歌詞カードや[[山川啓介]]の作詞原稿には記載なし。}}、しばしば「イー!イー!」と誤解されがちだが、正確には「'''ビーム!ビーム!'''」であり、放送当時の[[徳間書店]]刊行誌『[[テレビランド]]』における歌詞紹介にて「ビーム!」(1回)と記載されている他、後年作曲の渡辺や歌唱を手掛けた串田もそれを裏付ける発言を残している{{Refnest|group="出典"|{{R|F29832}}<ref>[http://homepage2.nifty.com/tomo-tomo-room/ 渡辺宙明 公式(公認)HP]{{リンク切れ|date=2015年12月}}の[http://homepage2.nifty.com/tomo-tomo-room/chuumei.old_bbs13.html 掲示板 その2 過去ログ13]{{リンク切れ|date=2015年12月}}</ref><ref>[[下田麻美の超ラジ!Girls]]第33回(2009年5月18日放送)、東映公認 鈴村健一・神谷浩史の仮面ラジレンジャー 第3回(2012年10月19日放送){{出典無効|date=2019年1月}}</ref>}}{{efn|CD『宇宙刑事シリーズSONG COLLECTION』収録バージョンでは「ビーム!」は1回だけである。}}。
:
; エンディングテーマ「[[宇宙刑事ギャバン (曲)|星空のメッセージ]]」
: 作詞:山川啓介 / 作曲:渡辺宙明 / 編曲:馬飼野康二 / 歌:串田アキラ
:* 串田は、「カッコつけて、上手く歌ってはいけない」とディレクターに言われたことから、歌謡曲のように細かく意味を捉えて抑揚を付けるのではなく、ボソボソと歌った感じであるという{{R|U178}}。
:
; 挿入歌
:; 「青い地球は母の星」(第11、14、19、43話)
:: 作詞:山川啓介 / 作曲・編曲・歌:[[木村昇 (歌手)|ハーリー木村]] / コーラス:[[川島和子]]
:; 「父よ」(第11、41、43話)
:: 作詞:山川啓介 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:大葉健二
:; 「チェイス!ギャバン」(第11、13、14、16、19 - 22、24、25、28、31 - 34、36、37、39 - 44話)
:: 作詞:山川啓介 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:串田アキラ
:; 「スーパーヒーローぼくらのギャバン」(第12、15、19、23、24、26、32、35、38、39話)
:: 作詞:山川啓介 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:串田アキラ、[[こおろぎ'73]]
:; 「輝く王者ドルギラン」(第12、14、15、17、19 - 21、32、41話)
:: 作詞:[[上原正三]] / 作曲・編曲・歌:ハーリー木村
:; 「走れ!ギャバン」(第15、41、42話)
:: 共作詞 / [[小林義明]]、[[金田治]] / 作曲・編曲:吉村浩二 / 歌:串田アキラ、こおろぎ'73
:; 「電光石火ギャバン-DISCO GAVAN-」(第15話)
:: 作詞:[[さがらよしあき]] / 作曲・編曲:吉村浩二 / 歌:串田アキラ&スペースキャッツ
:; 「蒸着せよ!ギャバン」(第15、17 - 19、23、27、30、31、40話)
:: 作詞:山川啓介 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:串田アキラ、こおろぎ'73 / コーラス:川島和子
=== 制作 ===
[[1981年]]の春から秋にかけて、[[円谷プロダクション]]の「[[ウルトラシリーズ]]」(『[[ウルトラマン80]]』)と[[東映]]の「[[仮面ライダーシリーズ]]」(『[[仮面ライダースーパー1]]』)が一旦終了し、毎週放映されるヒーローが登場する特撮テレビ番組は「[[スーパー戦隊シリーズ]]」(当時の『[[太陽戦隊サンバルカン]]』)だけになった。翌[[1982年]]、従来のシリーズに頼らない新しいヒーローとして開始された番組が本作品である。ほぼ同時期には、後に「[[東映不思議コメディーシリーズ]]」と呼ばれる『[[ロボット8ちゃん]]』も企画・放映されており、共に東映特撮に新風を吹き込むことになる{{efn|書籍『メタルヒーロー最強戦士列伝』では、同年放送のスーパー戦隊シリーズ『大戦隊ゴーグルファイブ』が安定した人気の定番作品となったことで、本作品は様々な新機軸を導入した挑戦的な作品になりえたものと評している{{R|最強24}}。}}。
本作品の企画のきっかけとなったのは、宇宙のどこかで金属質のヒーローが剣を持ってたたずむ姿を描いた[[村上克司]]による1枚のプライベートイラストである。このイラストを見た東映の[[吉川進]]は、天才的デザイナーの[[石ノ森章太郎]]を欠いた顔ぶれで『[[仮面ライダー]]』を超える単体ヒーローの創造に挑戦するに当たって、大きな戦力となると判断した{{Sfn|年代記|2004|pp=90-91|loc=吉川進インタビュー}}。
企画当時のタイトルは『宇宙刑事Z』。正式な設定上の武器であるレーザーZビームとコンバットスーツにZの文字を彷彿させる黒のラインに、その名残がある。また、これ以外にも「ギンジロウ{{Sfn|大全|2000|p=11}}{{efn|「ギンジロー」とも。由来は「銀色」とテニス選手「[[ジョン・マッケンロー|マッケンロー]]」から。当時の東映テレビ部に藤原銀次郎という人物がいたために使いづらくなり、没となった{{Sfn|年代記|2004|pp=90-91|loc=吉川進インタビュー}}。}}」「ギンブリッド{{Sfn|大全|2000|p=21}}」などのタイトル案があった。決定名称「ギャバン」はフランスの俳優[[ジャン・ギャバン]]からとった([[エポニム]])<ref>復活!栄光の東映ヒーローVol.2(1988年、[[日本コロムビア]] 56CC-2963/4)『[[時空戦士スピルバン]]』の解説ページ。</ref>{{efn|ただし、ジャン・ギャバンは「Gabin」、本作品のギャバンは「Gavan」と、[[ラテン文字]]表記は異なる。}}。著名な西洋人俳優の名を借りた理由は、既存の[[商標登録]]を回避しようとすると長い名前になってしまうので、日本語名称が使いづらいためである。この命名路線は『[[時空戦士スピルバン]]』まで継承された{{Sfn|年代記|2004|pp=90-91|loc=吉川進インタビュー}}。
主演にはスーパー戦隊シリーズ『[[バトルフィーバーJ]]』・『[[電子戦隊デンジマン]]』で戦隊メンバーを演じ、当時の[[ジャパンアクションエンタープライズ|JAC]]でエース格の[[大葉健二]]が起用され、変身前でも過激なアクションシーンが盛り込まれた{{Sfn|全怪獣怪人 下|1990|pp=417 - 418}}<ref>{{Cite book |和書 |editor=竹書房/イオン編 |date=1995-11-30 |title=超人画報 国産架空ヒーロー40年の歩み |publisher=[[竹書房]] |pages=165 |id=C0076 |isbn=4-88475-874-9}}</ref>。大葉によれば本作品は「スポンサーが年月をかけ温めに温めた念願の作品」であり、「テレビ局、東映のプロデューサーの方たちが自分の首を賭けている作品」である{{R|nonaka}}。また、[[鈴木武幸]]によると「過去最高の制作費を投入」した作品であり{{Sfn|大全|2000|p=71|loc=鈴木武幸スペシャルインタビュー}}、「凶と出たら、2度と特撮の新ヒーローは生み出せないほど」の予算額だった{{R|超合金の男}}ことを後に述懐している。
技術的にも後述する真空蒸着技術がスーツ製作に応用されたほか、それまで実験的に使われていた立体的な合成を可能とする[[東通ecgシステム]]の[[光学合成|ビデオ合成]]がふんだんに取り入れられるなどといった試みがなされている{{R|GB58|20th90}}。
ドラマ設定面においては、メインライターの[[上原正三]]が本作品の数年前に原作を担当した漫画『銀河の女王スーパーレディー』との複数の共通項が存在し{{efn|主人公の父の名がボイサーであることなど。}}、同作品が本作品の原案となったとする指摘もある<ref>{{Cite book|和書|publisher=[[白夜書房]]|title=ロボット&ヒーローCOMIXスーパーガイド|page=23|isbn=4-89367-601-6}}</ref>。
パイロット監督の[[小林義明]]は、宇宙スケールのヒーローであることから近未来的な背景をイメージし、西新宿の高層ビル群や大井埠頭の埋立地などでロケを行っている{{R|最強18}}。
元々、画期的な番組として注目され、放映開始時および続編に大葉がギャバン隊長として出演すると決まった時にはワイドショーで記者会見の模様が放映されるなど、注目を集めていた。第43話は反響が特に大きく、東映に電話などが殺到したという{{Sfn|大全|2000|p=69|loc=大葉健二スペシャルインタビュー}}。
一方、大葉によるとテレビ局からスタッフには、「視聴率が2桁以上行かなければ首だ」という条件が課せられていた{{R|weekly-g_ho139}}。第2話の撮影が終わった当時、東映プロデューサーの[[吉川進]]やテレビ局のプロデューサーからそれを聞かされた大葉は「命を懸けます」と宣言し、以降の撮影では激しいアクションシーンを多く取り入れるようにしたという{{R|weekly-g_ho139}}。これは、本作品の時間帯における主人公が『[[キャンディ・キャンディ]]』以降は女ばかりであり、本作品は「男のヒーローでは弱すぎる!」とテレビ局から懸念されていたためである{{R|nonaka}}。このような状況下で本作品は成功し、平均視聴率が14.9%と前番組『[[ハロー!サンディベル]]』の12.1%を上回った{{要出典|date=2016-04-29}}。また、大葉によると「裏番組と1・2位の視聴率で戦えた」としている{{R|nonaka}}。最高視聴率は第24話の18.6%{{要出典|date=2016-04-29}}。
なお、後年に大葉が答えたインタビューによれば、作中でギャバンがヒロインのミミーと仲が良かったことに嫉妬したファンから、ギャバン宛てのファンレターに「毒」と称する白い粉が同封されてきたこともあったが、公にすると問題に発展して番組に影響が出るかもしれないため、プロデューサーと申し合わせて内緒にしていたという{{R|weekly-g_ho139}}。
== 放送日程 ==
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!放送日!!放送回!!サブタイトル!! 登場ダブルマン、ベム怪獣、ダブルモンスター、その他!!脚本!!監督
|-align="center"
|align="right"|1982年{{0}}3月{{0}}5日
|1||東京地底の怪要塞
|align="left"|
* シャコモンスター(声:[[渡部猛]])
* ダブルマン・ゾンビA{{efn|書籍『全怪獣怪人 下巻』では、名称を'''ダブルマンA'''と記載している{{R|全怪獣427}}。}}(声:渡部猛)
|rowspan="16"|上原正三
|rowspan="3"|小林義明
|-align="center"
|align="right"|3月12日
|2||盗まれた日本列島
|align="left"|
* ガマラモンスター(声:[[青森伸]])
* ダブルマン・ゾンビA(人間態(船員)、声:[[栗原敏]])
|-align="center"
|align="right"|3月19日
|3||大変だ!黒星博士のベム計画を阻止せよ
|align="left"|
* コンドルモンスター(声:[[大山豊 (俳優)|大山豊]])
* ダブルマン・ゾンビA(人間態(黒星博士)、声:[[石橋雅史]])
|-align="center"
|align="right"|3月26日
|4||死を呼ぶ魔人兜
|align="left"|
* サソリモンスター(声:[[依田英助]])
* ダブルマン・マッド{{efn|書籍『全怪獣怪人 下巻』では、名称を'''ダブルマンB'''と記載している{{R|全怪獣427}}。}}(人間態(神永教授)、声:[[宇南山宏]])
|rowspan="2"|奥中惇夫
|-align="center"
|align="right"|{{efn|4月2日は『春だ!一番[[ドラえもん]]祭り』放送のため休止。}}4月{{0}}9日
|5||ミミーは泣く 猛毒コブラ弾が烈に命中
|align="left"|
* ドクジャモンスター(声:渡部猛)
* ダブルマン・スペクタル{{efn|書籍『全怪獣怪人 下巻』では、名称を'''ダブルマンC'''と記載している{{R|全怪獣427}}。}}(人間態(ジョー・スミス):ラシム・ワハブ、声:[[拡森信吾|広森信吾]])
|-align="center"
|align="right"|4月16日
|6||魔空塾の天才たち
|align="left"|
* オオマダコモンスター(声:[[西尾徳]])
* ダブルマン・ゾンビA(人間態(大天才塾塾長)、声:[[うえだ峻]])
|rowspan="2"|小林義明
|-align="center"
|align="right"|4月30日
|7||怪物がひそむ花びらに少女は口づけした
|align="left"|
* サムライアリモンスター(声:西尾徳)
* ダブルマン・ゾンビA(人間態(郷原):[[黒部進]]、声:西尾徳)
|-align="center"
|align="right"|5月{{0}}7日
|8||正義か悪魔か?銀マスク大ヒーロー
|align="left"|
* カエンザルモンスター(声:大山豊)
* ダブルマン・メルカン{{efn|書籍『全怪獣怪人 下巻』では、名称を'''ダブルマンD'''と記載している{{R|全怪獣427}}。}}(人間態(荒山編集長)、声:[[岩城力也]])
|rowspan="3"|奥中惇夫
|-align="center"
|align="right"|5月14日
|9||美しい人形スパイ
|align="left"|
* ダブルマン・ヒドラ{{efn|書籍『全怪獣怪人 下巻』では、名称を'''ダブルマンE'''と記載している{{R|全怪獣427}}。}}(声:[[大矢兼臣]])
|-align="center"
|align="right"|5月28日
|10||人間クラッシャー部隊を撃破せよ!
|align="left"|
* ニジチョウモンスター(声:大山豊)
* ダブルマン・ゾンビB(人間態(小島俊):[[新井量大|新井和夫]]、声:栗原敏)
|-align="center"
|align="right"|6月{{0}}4日
|11||父は生きているのか?謎のSOS信号
|align="left"|
* アルマジロモンスター(声:西尾徳)
* ダブルマン・ゾンビC{{efn|書籍『全怪獣怪人 下巻』では、名称を'''ダブルマンF'''と記載している{{R|全怪獣427}}。}}(声:西尾徳)
|rowspan="2"|田中秀夫
|-align="center"
|align="right"|6月11日
|12||遊園地へ急行せよ!UFO少年大ピンチ
|align="left"|
* ゴートモンスター(声:[[大宮悌二]])
* ダブルマン・バッド{{efn|書籍『全怪獣怪人 下巻』では、名称を'''ダブルマンG'''と記載している{{R|全怪獣427}}。}}(声:大宮悌二)
|-align="center"
|align="right"|6月18日
|13||危うし烈!大逆転
|align="left"|
* サイダブラー(声:依田英助)
* サイモンスター(声:依田英助)
* ダブルマン・リノマン{{efn|書籍『全怪獣怪人 下巻』では、名称を'''ダブルマンH'''と記載している{{R|全怪獣427}}。}}(声:[[潮健児]])
|rowspan="2"|奥中惇夫
|-align="center"
|align="right"|6月25日
|14||愛と悲しみの別れ とどめの一撃!!
|align="left"|
* サイダブラー(人間態(怪紳士):潮健児、声:依田英助)
|-align="center"
|align="right"|7月{{0}}2日
|15||幻?影?魔空都市
|align="left"|
* シャモダブラー(人間態(医師):[[平松慎吾]]、声:依田英助)
* 再生ベム怪獣軍団{{efn|シャコモンスター・オオマダコモンスター・ゴートモンスター。}}
|rowspan="3"|小林義明
|-align="center"
|align="right"|7月{{0}}9日
|16||初恋は宝石の輝き さようなら銀河特急
|align="left"|
* カマダブラー(人間態(大男):[[長江英和]]、声:依田英助)
|-align="center"
|align="right"|7月16日
|17||走る時限爆弾!白バイに乗った暗殺者
|align="left"|
* ヒョウダブラー(人間態(大条寺豪)、声:[[藤堂新二]])
|高久進
|-align="center"
|align="right"|7月23日
|18||乙姫様コンテスト ハチャメチャ竜宮城
|align="left"|
* アオガメダブラー(人間態(亀田博士)、声:[[梅津栄]])
|rowspan="2"|上原正三
|rowspan="2"|奥中惇夫
|-align="center"
|align="right"|7月30日
|19||午前6時蒸着! Zビームチャージ完了
|align="left"|
* キョウリュウダブラー(人間態(黒ずくめの男):[[大西義宏|大西徹哉]]、声:依田英助)
|-align="center"
|align="right"|8月{{0}}6日
|20||なぞ?の救急病院!人類の大滅亡が迫る
|align="left"|
* ケラダブラー(人間態(医師)、声:[[上田耕一]])
|松下幹夫
|rowspan="2"|田中秀夫
|-align="center"
|align="right"|{{efn|8月13日は『[[ドラえもん ぼく、桃太郎のなんなのさ]]』放送のため休止。}}8月20日
|21||踊ってチクリ大ピンチ ハニー作戦よ!
|align="left"|
* ミツバチダブラー(人間態(ハニー萬田)、声:[[曽我町子]]{{efn|第20話次回予告で第21話のタイトルコールも担当。}})
|rowspan="4"|上原正三
|-align="center"
|align="right"|9月{{0}}3日
|22||黄金仮面と妹 太陽に向って走るヨット
|align="left"|
* クラゲダブラー(人間態(石黒幸造)、声:[[福山象三]]、鳴き声:[[丸山詠二]])
|rowspan="2"|小林義明
|-align="center"
|align="right"|9月10日
|23||闇を裂く美女の悲鳴!霧の中の幽霊馬車
|align="left"|
*クモダブラー(人間態(怪紳士):[[山本昌平]]、声:依田英助)
|-align="center"
|align="right"|9月17日
|24||ミミーの悪夢か!? 吠える切り裂き魔獣
|align="left"|
* サーベルダブラー(声:西尾徳)
|rowspan="2"|田中秀夫
|-align="center"
|align="right"|10月{{0}}1日
|25||怪しくゆらめく水中花 わかばが危ない
|align="left"|
* ゴシキダブラー(人間態(水島コーチ):高橋みどり、声:[[鳳芳野]])
|阿部和江
|-align="center"
|align="right"|10月{{0}}8日
|26||人形は見た!! 毒ガス殺人部隊の正体
|align="left"|
* ガスダブラー(人間態(一宮教授):[[頭師孝雄]]、声:西尾徳)
|rowspan="2"|上原正三
|rowspan="2"|小林義明
|-align="center"
|align="right"|10月15日
|27||先生たちが変だ!学校は怪奇がいっぱい
|align="left"|
* ジャアクダブラー(人間態(双葉ヶ丘小学校校長):[[汐路章]]、声:依田英助)
|-align="center"
|align="right"|10月22日
|28||暗黒の宇宙の海 さまよえる魔女モニカ
|align="left"|
* ハッコツダブラー(声:依田英助)
|高久進<br />永井達郎
|rowspan="2"|田中秀夫
|-align="center"
|align="right"|10月29日
|29||電撃マジック合戦!暗殺のプログラム
|align="left"|
* マジックダブラー(人間態(ポール一星):[[中田博久]]、声:大宮悌二)
|rowspan="8"|上原正三
|-align="center"
|align="right"|11月{{0}}5日
|30||ドンホラーの息子が魔空城に帰って来た
|align="left"|
* ケイビダブラー(声:依田英助)
* サン・ドルバ
|rowspan="2"|小林義明
|-align="center"
|align="right"|11月12日
|31||天使の歌が聞こえる 人形にされた王女
|align="left"|
* サイミンダブラー(人間態:潮健児、声:西尾徳)
* 追跡ロボットX
|-align="center"
|align="right"|11月19日
|32||謎の地底迷路 ターゲットはWX-1
|align="left"|
* トツゲキダブラー(声:依田英助)
|rowspan="2"|田中秀夫
|-align="center"
|align="right"|11月26日
|33||新怪物誕生 エイリアンを拾った少年
|align="left"|
* カイブツダブラー(声:依田英助)
|-align="center"
|align="right"|12月{{0}}3日
|34||思い出は星の涙 父のない子 母のない子
|align="left"|
* ドクターダブラー(人間態(院長):[[太刀川寛]]、声:依田英助)
|rowspan="2"|小笠原猛
|-align="center"
|align="right"|12月10日
|35||マクーの若獅子 サンドルバの反抗
|align="left"|
* ガッツダブラー(声:西尾徳)
* ダブルマン・ゾンビ(声:丸山詠二)
* ロボットダブラー
|-align="center"
|align="right"|12月17日
|36||恨みのロードショー 撮影所は魔空空間
|align="left"|
* ウラミダブラー(人間態(高月あずさ):[[麻丘あゆみ]]、声:[[向殿あさみ]])
|rowspan="2"|田中秀夫
|-align="center"
|align="right"|12月24日
|37||おてんばひょうきん姫の地球冒険旅行
|align="left"|
* アナホリダブラー(人間態(大司教、現場監督):[[天本英世]]、声:依田英助)
|筒井ともみ
|-align="center"
|align="right"|1983年{{0}}1月14日<br />{{efn|1982年12月31日は『[[藤子不二雄]]スペシャル』放送のため休止。}}{{efn|1月7日は『新春プロレススペシャル』放送のため休止。}}
|38||包囲された輸送部隊 正義の太陽剣
|align="left"|
* ギャングダブラー(声:依田英助)
|rowspan="2"|上原正三
|rowspan="2"|服部和史
|-align="center"
|align="right"|1月21日
|39||学校から帰ったらぼくの家はマクー基地
|align="left"|
* ノットリダブラー(人間態(配達員):[[原口剛 (俳優)|原口剛]]、声:西尾徳)
|-align="center"
|align="right"|1月28日
|40||死の谷の大決戦 君も宇宙刑事だ!
|align="left"|
* ヨウカイダブラー(人間態(ホットドッグ店の店員):植村由美、声:依田英助)
|筒井ともみ
|rowspan="2"|小笠原猛
|-align="center"
|align="right"|2月{{0}}4日
|41||魔空都市は男の戦場 赤い{{Ruby|生命|いのち}}の砂時計
|align="left"|
* ジゴクダブラー(声:西尾徳)
|[[小林義明|林強生]]{{efn|小林義明のペンネーム{{Sfn|公式読本|2012|p=60}}。}}
|-align="center"
|align="right"|2月11日
|42||烈よ急げ!父よ
|align="left"|
* バファローダブラー(声:依田英助)
* ハンターキラー
|rowspan="3"|上原正三
|rowspan="3"|田中秀夫
|-align="center"
|align="right"|2月18日
|43||再会
|align="center"|-
|-align="center"
|align="right"|2月25日
|44||ドンホラーの首
|align="left"|
* ドン・ホラー
* サン・ドルバ
* 魔女キバ
|}
== 放送局 ==
{{出典の明記|date=2019年8月|section=1}}
系列は本放送当時のものを使用。
{| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:smaller"
|-
!放送対象地域
!放送局
!系列
!放送時間
!備考
|-
|[[広域放送|関東広域圏]]
|[[テレビ朝日]]
|rowspan="2"|[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]
|金曜 19:30 - 20:00
|'''制作局'''
|-
|[[北海道]]
|[[北海道テレビ放送|北海道テレビ]]
|
|
|-
|[[岩手県]]
|[[IBC岩手放送|岩手放送]]
|[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]
|金曜 17:30 - 18:00<ref>『[[日刊スポーツ]]』1982年10月1日付テレビ欄。</ref>
|
|-
|[[秋田県]]
|[[秋田放送]]
|[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]
|
|
|-
|[[山形県]]
|[[山形放送]]
|日本テレビ系列<br />テレビ朝日系列
|火曜 17:30 - 18:00<ref>『[[河北新報]]』1982年4月6日 - 5月25日付朝刊テレビ欄。</ref>
|
|-
|[[宮城県]]
|[[東日本放送]]
|rowspan="2"|テレビ朝日系列
|rowspan="2"|金曜 19:30 - 20:00<ref>『[[福島民報]]』1982年3月5日 - 1983年2月25日付朝刊テレビ欄。</ref>
|
|-
|[[福島県]]
|[[福島放送]]
|
|-
|[[新潟県]]
|[[NST新潟総合テレビ|新潟総合テレビ]]
|[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]<br />テレビ朝日系列
|火曜 16:55 - 17:25<ref>『日刊スポーツ』1982年3月9日 - 3月22日付テレビ欄。</ref>
|
|-
|[[長野県]]
|[[テレビ信州]]
|日本テレビ系列<br />テレビ朝日系列
|
|
|-
|[[山梨県]]
|[[テレビ山梨]]
|TBS系列
|
|
|-
|[[静岡県]]
|[[静岡朝日テレビ|静岡けんみんテレビ]]
|テレビ朝日系列
|
|
|-
|[[富山県]]
|[[北日本放送]]
|日本テレビ系列
|金曜 17:30 - 18:00<ref>『[[北國新聞]]』1983年8月5日付朝刊、テレビ欄。</ref>
|1983年2月4日から12月16日まで放送<ref>『北國新聞』1983年2月4日 - 1983年12月16日付朝刊、テレビ欄。</ref>{{efn|同局において放送されたメタルヒーローシリーズは本作品のみ。その後富山県では、[[チューリップテレビ]]で[[ビーロボカブタック]]と[[テツワン探偵ロボタック]]が放送された。}}
|-
|[[石川県]]
|[[北陸放送]]
|TBS系列
|水曜 17:00 - 17:30<ref>『北國新聞』1982年6月2日付朝刊、テレビ欄。</ref>
|
|-
|[[福井県]]
|[[福井放送]]
|日本テレビ系列
|木曜 17:00 - 17:30<ref>『北國新聞』1982年6月3日付朝刊、テレビ欄。</ref>
|
|-
|[[広域放送|中京広域圏]]
|[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]
|rowspan="2"|テレビ朝日系列
|
|
|-
|[[広域放送|近畿広域圏]]
|[[朝日放送テレビ|朝日放送]]
|
|
|-
|[[島根県]]<br />[[鳥取県]]
|[[山陰放送]]
|TBS系列
|
|
|-
|[[広島県]]
|[[広島ホームテレビ]]
|テレビ朝日系列
|
|{{efn|時折、当該時間帯でプロ野球・[[広島東洋カープ]]戦[[スーパーベースボール (テレビ朝日系列)|中継]]が行われる場合があった。その場合は、当該日の放送分は後日放送された。}}
|-
|[[山口県]]
|[[テレビ山口]]
|TBS系列<br />フジテレビ系列
|
|
|-
|[[香川県]]<br />[[岡山県]]
|[[瀬戸内海放送]]
|テレビ朝日系列
|
|
|-
|[[愛媛県]]
|[[テレビ愛媛]]
|フジテレビ系列
|
|
|-
|[[高知県]]
|[[高知放送]]
|rowspan="2"|日本テレビ系列
|
|
|-
|[[徳島県]]
|[[四国放送]]
|
|
|-
|[[福岡県]]
|[[九州朝日放送]]
|テレビ朝日系列
|
|
|-
|[[熊本県]]
|[[テレビ熊本]]
|フジテレビ系列<br />テレビ朝日系列<br />日本テレビ系列(1982年4月まで)
|
|
|-
|[[宮崎県]]
|[[テレビ宮崎]]
|フジテレビ系列<br />日本テレビ系列<br />テレビ朝日系列
|
|
|-
|[[鹿児島県]]
|[[鹿児島放送]]
|テレビ朝日系列
|
|1982年10月開局から
|-
|[[沖縄県]]
|[[沖縄テレビ放送|沖縄テレビ]]
|フジテレビ系列
|
|
|}
== ネット配信 ==
* '''東映特撮[[YouTube]] Official'''
** [[2011年]][[8月1日]] - [[2012年]][[1月1日]]
** [[2013年]][[5月6日]] - [[10月6日]]
** [[2016年]][[12月8日]] - [[2017年]][[5月11日]]
** [[2022年]][[3月22日]] - [[8月16日]]
== 他媒体展開 ==
『[[宇宙刑事ギャバン THE MOVIE]]』での新規キャラクターのみが登場する作品は[[宇宙刑事ギャバン THE MOVIE#他媒体展開]]を参照。
=== 映像ソフト化 ===
いずれも発売元は[[東映ビデオ]]。
; ビデオ
: 1986年10月から1989年9月にかけて、全14巻([[VHS]]、セル・レンタル共通)がリリースされている。全話収録だが、当初は傑作選の予定だったため、収録順は放送順と一致していない。
; [[レーザーディスク|LD]]
: [[1996年]][[6月21日]]から[[1997年]][[4月21日]]にかけて、全6巻が発売された。各巻2枚組・8話(Vol.6のみ1枚・4話)収録。
; [[DVD]]
: [[2002年]][[10月21日]]から[[11月21日]]にかけて、全4巻が発売された。各巻2枚組・11話収録。このうちVol.1とVol.2、Vol.3とVol.4はそれぞれ同時リリース。また[[2012年]]9月21日から11月21日にかけて、全8巻のDVDが発売された。各巻1枚・奇数巻は6話、偶数巻は5話収録。
: 2012年9月21日にメタルヒーローシリーズおよびそれを含む宇宙刑事シリーズ30周年記念として、『宇宙刑事ギャバンメモリアル 30年目の再会』を発売。
; [[Blu-ray Disc|Blu-ray]]
: [[2017年]][[1月11日]]から[[3月8日]]にかけて、全2巻が発売された。各巻4枚組・22話収録。
=== 他テレビシリーズ ===
; [[宇宙刑事シャリバン]]
; [[宇宙刑事シャイダー]]
: いずれも本作品と世界観を共有しており、ギャバン/一条寺烈をはじめとする本作品のキャラクターが登場。
=== 映画作品 ===
; 『[[海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン THE MOVIE]]』
: 2012年1月21日公開。ギャバン/一条寺烈が登場。
; 『[[宇宙刑事ギャバン THE MOVIE]]』
: 2012年10月20日公開。ギャバン/一条寺烈やコム長官が登場。新ギャバンも登場。
=== プラネタリウム映画 ===
; 『[[仮面ライダーフォーゼ#プラネタリウム映画|仮面ライダーフォーゼ&宇宙刑事ギャバン ゴールドディスクを守れ!]]』
: 2013年4月27日以降公開。ギャバン/一条寺烈が登場。
=== オリジナルDVD ===
; 『[[特命戦隊ゴーバスターズ#オリジナルDVD|特命戦隊ゴーバスターズvsビートバスターvsJ]]』
: ギャバン/一条寺烈が登場。
=== 漫画作品 ===
; 宇宙刑事ギャバン
: 作画:[[のなかみのる]]([[テレビマガジン]]連載)
; [[宇宙刑事ギャバン 黒き英雄]]
: 脚本:[[小林雄次]]、構成・演出:[[藤沢とおる]]、作画:[[太田正樹]]
: ギャバン/一条寺烈やコム長官やミミーが登場。
その他放送当時の児童誌にいくつかマンガ版が掲載されていた。
=== 小説作品 ===
; [[宇宙刑事ギャバン THE NOVEL]]
: ギャバン/一条寺烈やコム長官やミミーが登場。
=== ゲーム作品 ===
; [[スーパーヒーロー作戦]](1999年)
: 宇宙刑事が[[ウルトラシリーズ|ウルトラマン]]や[[ガンダムシリーズ|ガンダム]]と共演する[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]用ゲーム。
; [[スーパー特撮大戦2001]](2001年)
: 宇宙刑事がウルトラマンや[[仮面ライダーシリーズ|仮面ライダー]]などの特撮ヒーローと共演するPlayStation用ゲーム。
; [[宇宙刑事魂]]
: 宇宙刑事シリーズを題材とするPlayStation 2用ゲーム。
; [[ストリートファイター オンライン マウスジェネレーション]]
: オンライン対応の対戦型格闘ゲーム。ギャバンが参戦する。
; 宇宙刑事リターンズ
: 宇宙刑事シリーズを題材とするソーシャルゲーム。[[GREE]]・[[Mobage]]・[[スマートフォン|SP]]版[[mixi]]ゲームに対応している。
; [[スーパーロボット大戦X-Ω]]
: 「[[スーパーロボット大戦シリーズ]]」の一作であるスマートフォン用ゲームアプリ。第4期参戦作品として、2018年9月より登場。
: ギャバンの声は[[大葉健二]]による新規収録音声が使用されている。
=== パチスロ ===
; [[パチスロ]]
: [[2009年]]3月には本作品をモチーフとした機種が[[銀座 (企業)|銀座]]から発表され、ホールで稼動を開始。このパチスロの宣伝イベント用に製作されたスーツは後に映画『海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン THE MOVIE』でも使用されている。
== トピックス ==
{{出典の明記|date=2011年9月11日 (日) 16:05 (UTC)}}
* [[フランス]]では『X-OR』というタイトルで本作品が放送されており、後に大葉健二が千葉真一と共にフランスを訪れた際には、現地在住の日本人家族からレストランで声をかけられたという(この時本人たちはフランスで放送されていたことを知らなかった)。千葉はその家族の男児へ「ボクは、ギャバンのお父さんなんだよ」と余裕ある対応を見せたとのこと<ref>『宇宙刑事大全 ギャバン・シャリバン・シャイダーの世界』、[[双葉社]]、2000年 69-70頁。</ref>。。
* 劇中のイラストなどで登場していたボイサーの宇宙船は、『[[ナショナルキッド]]』におけるインカ金星人の母艦[[ミニチュア撮影|ミニチュア]]が東映テレビプロダクションの倉庫に保管されていたことから、『[[キカイダー01]]』における空中戦艦への流用を経て、『宇宙刑事ギャバン』でもボイサーの宇宙船として流用されることになった。また、マクー戦闘円盤のミニチュアと変身シーンの雷雲の映像とワープシーンの映像は後に、『[[宇宙からのメッセージ]]』の流用映像をメインにした[[セガ]]の[[レーザーディスクゲーム]]『[[アストロンベルト]]』における、敵側の戦闘機とステージの映像として流用された。
* 日本テレビ系列で放送されたテレビドラマ『[[マイ☆ボス マイ☆ヒーロー]]』の放送期間中、同局の朝の情報番組『[[ズームイン!!サタデー]]』内での番宣企画コーナーにおいて、主演の[[長瀬智也]]へのドッキリ企画として宇宙刑事ギャバンの生出演と大葉健二のビデオ出演が行われた。「ギャバンが学校の屋上で蒸着ポーズを行う」「教室の椅子に座り長瀬が教室に入ってくるのを待っていた」「蒸着ポーズで机に足がぶつかる」などがあり、大葉のビデオ出演に本作品のファンである長瀬は驚いていた。
* 現在{{いつ|date=2015年12月}}アトラクションショーで使用されているスーツは2003年に[[三井グリーンランド]]でのショー用に新調されたものである。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist
|refs=
<ref name="nonaka">[[のなかみのる]]版『[http://www.chara-con.jp/item/00000000018/ 宇宙刑事ギャバン] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111214020007/http://www.chara-con.jp/item/00000000018/ |date=2011年12月14日 }}』</ref>
<ref name="weekly-g_ho139">[https://web.archive.org/web/20160804172733/https://weekly-g.jp/c05roman/s01horoniga/ho139/ 俳優 大葉健二 - ほろ苦インタビュー | 週刊ジョージア]</ref>
<ref name="全怪獣416">{{Harvnb|全怪獣怪人 下|1990|pp=416 - 417}}</ref>
<ref name="全怪獣427">{{Harvnb|全怪獣怪人 下|1990|p=427}}</ref>
<ref name="大全吉川">{{Harvnb|大全|2000|pp=10-13|loc=吉川進スペシャルインタビュー}}</ref>
<ref name="大全前澤">{{Harvnb|大全|2000|pp=131-133|loc=前澤範スペシャルインタビュー}}</ref>
<ref name="年代記">{{Harvnb|年代記|2004|pp=6-17|loc=宇宙刑事ギャバン}}</ref>
<ref name="年代記大葉">{{Harvnb|年代記|2004|pp=81-83|loc=第五章 メタルヒーローの創造 大葉健二ロングインタビュー}}</ref>
<ref name="超合金の男">{{Cite book |和書 |author=小野塚謙太 |chapter=12 メタルヒーローの誕生 「俺が"ギャバン"だ!」 |date=2009-04-10 |isbn = 978-4-04-867798-1 |page=169 |publisher= [[アスキー・メディアワークス]] |series=アスキー新書 105 |title=カラー版 超合金の男-村上克司伝-}}</ref>
<ref name="GB58">{{Harvnb|gvsg|2012|pp=58-59|loc=「メタルヒーロー クロニクル」}}</ref>
<ref name="読本吉川">{{Harvnb|公式読本|2012|pp=128-129|loc=STAFF INTERVIEW_01 吉川進}}</ref>
<ref name="gokai96">{{Harvnb|豪快演義|2012|p=95|loc=「LEGEND COMMENT_06 [[大葉健二]]」}}</ref>
<ref name="gokai">{{Harvnb|豪快演義|2012|p=155|loc=「CROSS TALK in レインボー造形 前澤護×前澤まさる」}}</ref>
<ref name="常識20">{{Harvnb|常識|2013|pp=20-21|loc=「宇宙刑事ギャバンが多彩なメカニックを使う理由は?」}}</ref>
<ref name="常識22">{{Harvnb|常識|2013|pp=22-23|loc=「宇宙犯罪組織マクーが地球を狙う目的は?」}}</ref>
<ref name="常識24">{{Harvnb|常識|2013|pp=24-25|loc=「ギャバンに地球の友達はいるの?」}}</ref>
<ref name="常識26">{{Harvnb|常識|2013|pp=26-27|loc=「"蒸着"とはどういう意味?」}}</ref>
<ref name="最強16">{{Harvnb|最強戦士列伝|2014|pp=16-17|loc=「宇宙刑事ギャバン」}}</ref>
<ref name="最強18">{{Harvnb|最強戦士列伝|2014|pp=18-19|loc=「走れ、叫べ、転がれ、飛べ ギャバン激闘伝説」}}</ref>
<ref name="最強20">{{Harvnb|最強戦士列伝|2014|pp=20-21|loc=「ギャバンに登場したスーパーメカニック」}}</ref>
<ref name="最強22">{{Harvnb|最強戦士列伝|2014|pp=22-23|loc=「ギャバンが立ち向かう悪の組織とは?」}}</ref>
<ref name="最強24">{{Harvnb|最強戦士列伝|2014|pp=24-25|loc=「総論『ギャバン』とは何だったのか? SFブームが生んだニューヒーロー」}}</ref>
<ref name="最強100">{{Harvnb|最強戦士列伝|2014|pp=100-105|loc=「COLUMN VOL.2 メタルヒーロー音盤商品グラフィティ」}}</ref>
<ref name="仮面俳優37">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=37-46|loc=「第2章 昭和から平成へ仮面の下のイノベーション 03 [[蜂須賀祐一]]」(東映ヒーローMAX vol.33掲載)}}</ref>
<ref name="仮面俳優173">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=173-180|loc=「第5章 プレイヤーからアクション監督への転身 16 [[村上潤]]」}}</ref>
<ref name="仮面俳優191">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=191-198|loc=「第5章 プレイヤーからアクション監督への転身 18 [[石垣広文]]」}}</ref>
<ref name="仮面俳優209">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=209-221|loc=「第6章 現場に帰還した伝説のリアルヒーロー 20 [[大葉健二]]」(東映ヒーローMAX vol.37掲載)}}</ref>
<ref name="奇怪4">{{Harvnb|奇怪千蛮|2017|p=4|loc=「宇宙刑事ギャバン」}}</ref>
<ref name="奇怪5">{{Harvnb|奇怪千蛮|2017|p=5}}</ref>
<ref name="奇怪6">{{Harvnb|奇怪千蛮|2017|p=6}}</ref>
<ref name="奇怪7">{{Harvnb|奇怪千蛮|2017|p=7}}</ref>
<ref name="奇怪97">{{Harvnb|奇怪千蛮|2017|pp=97-99|loc=取材・構成 大黒秀一「DESIGNER INTERVIEW_01 増尾隆幸」}}</ref>
<ref name="奇怪100a">{{Harvnb|奇怪千蛮|2017|p=100|loc=取材・執筆 秋田英夫「DESIGNER INTERVIEW_02 板橋しゅうほう」}}</ref>
<ref name="奇怪100b">{{Harvnb|奇怪千蛮|2017|pp=100-101|loc=取材・執筆 安藤幹夫「DESIGNER INTERVIEW_03 赤坂哲朗」}}</ref>
<ref name="20th90">{{Cite book|和書|date=2019-04-25|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1990 [[地球戦隊ファイブマン]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK|page=33|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 [[企画者104|横田誠]]|isbn=978-4-06-513711-6}}</ref>
<ref name="20th95">{{Cite book|和書|date=2019-04-10|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1995 [[超力戦隊オーレンジャー]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK|page=33|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 [[村上潤]]|isbn=978-4-06-513710-9}}</ref>
<ref name="21st11">{{Cite book|和書|date=2017-04-10|title=スーパー戦隊 Official Mook 21世紀|volume=vol.11|volume-title=[[海賊戦隊ゴーカイジャー]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK||page=33|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 [[前澤範]]|isbn=978-4-06-509522-5}}</ref>
<ref name="U178">{{Harvnb|宇宙船178|2022|p=70|loc=「[インタビュー][[串田アキラ]]」}}</ref>
<ref name="F29814">{{Harvnb|フィギュア王298|2022|pp=14-21|loc=「宇宙刑事シリーズ メインキャラクター&メカニック紹介」}}</ref>
<ref name="F29832">{{Harvnb|フィギュア王298|2022|pp=32-33|loc=「INTERVIEW(2) 串田アキラ」}}</ref>
<ref name="F29858">{{Harvnb|フィギュア王298|2022|pp=58-59|loc=「INTERVIEW(3) 村上克司」}}</ref>
<ref name="F29860">{{Harvnb|フィギュア王298|2022|p=60|loc=「宇宙刑事シリーズ ヒーローデザイン集」}}</ref>
<ref name="ショッカーO野">{{Cite web|和書|title=プロフィール|url=http://shocker.sakura.ne.jp/p.html|website=shocker.sakura.ne.jp|accessdate=2019-11-02}}</ref>
<ref name="ep2">2話のみ使用。</ref>
<ref name="GZ">19話より。</ref>
}}
=== 出典(リンク) ===
{{Reflist|group="出典"|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|date = 1987-01-15|title=創刊15周年記念/テレビマガジン特別編集 テレビマガジンヒーロー大全集|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-178403-X|ref = {{SfnRef|ヒーロー大全集|1987}}}}
* {{Cite book|和書|date = 1990-11-30|title = [[全怪獣怪人]]|publisher = [[勁文社]]|volume = 下巻|id=C0676|isbn = 4-7669-1209-8|ref = {{SfnRef|全怪獣怪人 下|1990}}}}
* {{Cite book|和書|year=2000|title=宇宙刑事大全 <small>ギャバン・シャリバン・シャイダーの世界</small>|editor=安藤幹夫&スタジオハード・編|publisher=[[双葉社]]|isbn= 4-575-29080-7|ref={{SfnRef|大全|2000}}}}
* {{Cite book|和書|year=2004|title=宇宙刑事年代記 <small>メタルヒーローシリーズの系譜</small>|series=HYPER MOOK|publisher=[[徳間書店]]|isbn= 4-19-730103-0|ref={{SfnRef|年代記|2004}}}}
* 公式読本シリーズ([[グライドメディア]])
** {{Cite book|和書|year=2012|title=宇宙刑事シリーズ公式読本 METALLIC BIBLE|series=グライドメディアムック97|publisher=グライドメディア|isbn= 978-4-8130-8197-5|ref={{SfnRef|公式読本|2012}}}}
** {{Cite book|和書|date=2012-06-01|title=[[海賊戦隊ゴーカイジャー]]公式読本 豪快演義|publisher=グライドメディア|series=グライドメディアムック73|isbn=978-4-8130-8173-9|ref={{SfnRef|豪快演義|2012}}}}
* {{Cite book|和書|date=2012-01-21|title=『海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン THE MOVIE』公式ガイドブック |publisher=[[角川書店]]|isbn=978-4-04-110128-5|ref={{SfnRef|gvsg|2012}}}}
* {{Cite book |和書 |others= 監修:[[東映]] |date = 2013-08-11|title= 特撮ヒーローの常識 80年代篇 |publisher= [[双葉社]] |isbn= 978-4-575-30558-6|ref = {{SfnRef|常識|2013}}}}
* {{Cite book|和書 |others=[監修][[東映]]|date=2014-11-09|title=メタルヒーロー最強戦士列伝|publisher=[[双葉社]]|isbn=978-4-575-30779-5|ref={{SfnRef|最強戦士列伝|2014}}}}
* {{Cite book|和書|date=2014-12-20|others=鴬谷五郎[編著]|title=東映ヒーロー仮面俳優列伝|publisher=[[辰巳出版]]|isbn=978-4-7778-1425-1|ref={{SfnRef|仮面俳優列伝|2014}}}}
* {{Cite book|和書|date=2017-09-30|title=メタルヒーロー怪人デザイン大鑑 奇怪千蛮|publisher=ホビージャパン|isbn=978-4-7986-1540-0|ref={{SfnRef|奇怪千蛮|2017}}}}
* {{Cite book|和書|date = 2020-01-07|title =キャラクター大全 特撮全史 1980〜90年代 ヒーロー大全|publisher = 講談社|isbn = 978-4-06-512925-8|ref = {{SfnRef|特撮全史|2020}}}}
* {{Cite journal|和書|date = 2022-10-03|journal=宇宙船|volume=vol.178|issue=(AUTUMN 2022.秋)|publisher=ホビージャパン |isbn=978-4-7986-2945-2|ref={{SfnRef|宇宙船178|2022}}}}
* {{Cite journal|和書|date=2022-12-30<!--奥付表記-->|journal=フィギュア王|volume=No.298|publisher=ワールドフォトプレス|isbn=978-4-8465-3283-3|ref={{SfnRef|フィギュア王298|2022}}}}
== 関連項目 ==
* [[ロボコップ]] - 同作品を制作するにあたり、監督の[[ポール・バーホーベン]]からバンダイの[[村上克司]]へ、本作品からのデザイン引用の許諾を求める手紙が送られ、村上がこれを快諾したという経緯がある。
* [[オールスター番組対抗ボウリング大会]] - 本作品の開始から間もない1982年[[3月24日]]放送分の春大会と、[[9月29日]]放送分の秋大会に参加。それぞれ『[[あばれはっちゃく|男!あばれはっちゃく]]』(春大会)と『[[大戦隊ゴーグルファイブ]]』(秋大会)との連合チームでの参加となった。
{{前後番組
| 放送局 = [[テレビ朝日]]系列
| 放送枠 = [[テレビ朝日金曜7時30分枠の連続ドラマ|金曜19:30 - 20:00]]
| 番組名 = 宇宙刑事ギャバン<br />(1982年3月5日 - 1983年2月25日)
| 番組名備考 = ※本番組より[[宇宙刑事シリーズ]]<br />および[[メタルヒーローシリーズ]]
| 前番組 = [[ハロー!サンディベル]]<br />(1981年10月2日 - 1982年2月26日)
| 次番組 = [[宇宙刑事シャリバン]]<br />(1983年3月4日 - 1984年2月24日)
}}
{{メタルヒーローシリーズ}}
{{スーパー戦隊シリーズ}}
{{デフォルトソート:うちゆうけいしきやはん}}
[[Category:宇宙刑事シリーズ]]
[[Category:1982年のテレビドラマ]]
[[Category:テレビ朝日金曜7時30分枠の連続ドラマ]]
[[Category:テレビ朝日の特撮刑事ドラマ]]
[[Category:高久進脚本のテレビドラマ]]
[[Category:ジャパンアクションエンタープライズ|ド うちゆうけいしきやはん]]
[[Category:千葉真一]]<!--[[Category‐ノート:千葉真一#作品項目の見直し]]参照-->
[[Category:スーパーロボット大戦シリーズの参戦作品]] | 2003-02-19T03:39:53Z | 2023-11-18T16:00:47Z | false | false | false | [
"Template:Reflist",
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"Template:メタルヒーローシリーズ",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99%E5%88%91%E4%BA%8B%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%90%E3%83%B3 |
2,359 | セガ・マークIII | セガ・マークIII(セガ・マークスリー、SEGA MarkIII)は、1985年10月20日にセガ・エンタープライゼスより発売された家庭用ゲーム機。流通用の型番はSG-1000M3。
SC-3000シリーズ(SG-1000/SG-1000II)やオセロマルチビジョンとの互換性を維持しつつ、同時発色数、スプライト、スクロール機能などを強化したゲーム機である。接続端子はSC-3000シリーズにあったものの他に、マイカード専用スロットが追加された。日本国外では外装を変更し「Sega Master System」の名称で販売された。
なお、マークIIIと同性能のアーケード基板である「セガ・システムE」に関しても本記事で述べる。
SG-1000シリーズがゲーム機として一定の成果を収めたが、元々がホビーパソコンとして設計されたSC-3000をベースにしていることからアーケードゲームを移植するには性能が弱かった。そこでアーケードゲームの移植にも耐えうる高性能ハードの開発が企画された。開発にあたっては、当時稼働していた8ビットのアーケード基板『セガ・システム1』および『セガ・システム2』のゲームが見劣りなく移植できる程度の性能を目標とした。開発にかかわったセガ・インタラクティブの石川雅美は、本機を開発した意図について「当時はアーケードを追い掛けて開発をしていて、ゲームに特化した機械を安く提供して家庭内にも広めれば、ゲームセンターにもお客様が来るだろうと考えていました」と2016年に開催された「GAME ON~ゲームってなんでおもしろい?~」展でのトークイベントの中で振り返っている。
マークIIIがまだ開発中だった頃の日本は1983年に発売されていたファミコンが普及しはじめていた時期であり、主な競合機としてはセガが従来機SG-1000のマイナーチェンジモデルSG-1000IIを展開していたほか、同時期には一部の機能でファミコンを凌駕する性能を持つエポック社のスーパーカセットビジョンも登場した。この時点でセガはハードウエア性能で後れを取ったが、1985年10月のマークIIIの登場によりファミコンに比肩する性能をもつ家庭用ゲーム機を市場に投入する形となる。この頃は任天堂・セガ・エポック社の3社が時代を作ったと言われるが、その後のファミコンの爆発的な普及に伴い、これらの競合機は最後発のマークIIIを除いて1987年頃までにほぼ収束。1987年10月にPCエンジンが発売されるまでマークIIIがほぼ唯一のファミコン対抗機となった。
発売から2年後の1987年10月にはFM音源と連射装置などを内蔵したマイナーチェンジ機のセガ・マスターシステムを発売。アメリカではシェアが10%程度で、ファミコンの日本国外版であるNintendo Entertainment System(NES)が市場の90%を占めてほとんど普及しなかった。一方ヨーロッパでは健闘し、ほぼ二分するほどの普及を見せたが、市場が小さく、世界シェアでは9.1%にとどまった。また韓国やブラジルでも市場を開拓した。
SG-1000からのセガの8ビットゲーム機の1992年までの累計は780万台。日本を含む台湾、韓国、香港などのアジアで150万台、アメリカで180万台、ヨーロッパで350万台という内訳である。一方、ファミコンは累計で6,191万台を販売した。
当時セガの社長の中山隼雄は8ビット世代での敗因として、それまで家庭用ビジネスをしてきた任天堂と家庭用ビジネスをしてこなかったセガとの差、セガは業務用が主体で任天堂のように家庭用への絞り込みをしなかったこと、任天堂が独走して任天堂神話を確立したことを挙げている。
使用可能ソフトはマークIIIではマークIII専用ソフトの他、SG-1000/SC-3000/オセロマルチビジョン用ソフトである。ただしカラーパレットがマークIIIの64色から近い色を取り出したセットとなるため発色が大きく異なり、全体的に暗くくすんだ画面表示となる。
マークIII発売後、SG-1000/SC-3000/オセロマルチビジョン用ソフトは「全機種対応ソフト」と改称された。
専用ソフトは以下の3種類がある。
1986年にリリースされたマークIIIをベースとした業務用システム基板。マークIIIで使用されている音源内蔵VDP(315-5124)を2個搭載しており、BGレイヤー、表示可能スプライト数、PSGの同時発声数が2倍になっている。CPUもZ-80Bをクロック周波数8MHzで駆動させ強化されている。
当時のセガ製アーケード用ゲーム基板の仕様に沿い、セキュリティ対策として電池が搭載されている。そのため通電し続けない(コピー目的などでROMを取り外すなど)と稼働不能になる。 | [
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"text": "セガ・マークIII(セガ・マークスリー、SEGA MarkIII)は、1985年10月20日にセガ・エンタープライゼスより発売された家庭用ゲーム機。流通用の型番はSG-1000M3。",
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"text": "SG-1000からのセガの8ビットゲーム機の1992年までの累計は780万台。日本を含む台湾、韓国、香港などのアジアで150万台、アメリカで180万台、ヨーロッパで350万台という内訳である。一方、ファミコンは累計で6,191万台を販売した。",
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] | セガ・マークIIIは、1985年10月20日にセガ・エンタープライゼスより発売された家庭用ゲーム機。流通用の型番はSG-1000M3。 SC-3000シリーズ(SG-1000/SG-1000II)やオセロマルチビジョンとの互換性を維持しつつ、同時発色数、スプライト、スクロール機能などを強化したゲーム機である。接続端子はSC-3000シリーズにあったものの他に、マイカード専用スロットが追加された。日本国外では外装を変更し「Sega Master System」の名称で販売された。 なお、マークIIIと同性能のアーケード基板である「セガ・システムE」に関しても本記事で述べる。 | {{Infobox_コンシューマーゲーム機
| 名称 = セガ・マークIII
| ロゴ = [[File:Sega Mark III logo.svg|380px]]
| 画像 = [[File:Sega-Sg-1000-MkIII-Console-FL.jpg|330px]]
| 画像コメント = セガ・マークIII
| メーカー = [[セガ|セガ・エンタープライゼス]]
| 種別 = [[ゲーム機|据置型ゲーム機]]
| 世代 = [[ゲーム機|第3世代]]
| 発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1985年]][[10月20日]]
| CPU = Z80A
| GPU =
| メディア = [[ロムカセット]]<br />[[マイカード]]
| ストレージ =
| コントローラ = ケーブル
| 外部接続端子 = 拡張スロット
| オンラインサービス =
| 売上台数 = {{Flagicon|JPN}} 70万台{{要出典|date=2023年12月}}
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| 互換ハード = [[セガ・マスターシステム]]
|後方互換 = [[SG-1000]]
| 前世代ハード = [[SG-1000]]
| 次世代ハード = [[メガドライブ]]
}}
'''セガ・マークIII{{efn2|「III」は[[ローマ数字]]の[[3]]({{Rn|Ⅲ}})である。<!-- [[Unicodeの互換文字]]として、ローマ数字をラテン文字で表記することは「等価」と定められているため、必ずしも代用というわけではない。 -->}}'''(セガ・マークスリー、''SEGA MarkIII'')は、[[1985年]][[10月20日]]<ref name="new_segahardhistory_markiii_main">{{Cite web|和書|url=https://sega.jp/history/hard/segamark3/index.html|title=セガ・マークⅢ|website=セガハード大百科(新サイト)|publisher=セガ|accessdate=2023-12-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231009162320/https://www.sega.jp/history/hard/segamark3/index.html|archivedate=2023-10-09}}</ref>{{efn2|2017年4月に開設された『セガハード大百科』の新サイト<ref>{{Cite web2|df=ja|language=ja|author=今藤祐馬|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1070656.html|title=セガ、「セガハード大百科」をリニューアル!歴史を紐解く「セガハードストーリー」連載開始|website=[[Impress Watch|Game Watch]]|publisher=[[インプレス|Impress]]|date=2017-07-14|accessdate=2023-12-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170714120828/http://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1070656.html|archivedate=2017-07-14|url-status=live}}</ref>ではセガ・マークIIIの発売日を1985年10月20日としているが{{R|new_segahardhistory_markiii_main}}、2002年3月に開設された『セガハード大百科』の旧サイト<ref>{{Cite web2|df=ja|language=ja|author=北村孝和|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20020306/segacom.htm|title=セガ、ファンとの交流をはかる「セガコミュニティ」を公式サイト内に開設|website=Game Watch|publisher=Impress|date=2002-03-06|accessdate=2023-12-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130629035124/http://game.watch.impress.co.jp/docs/20020306/segacom.htm|archivedate=2013-06-29|url-status=live}}</ref>および2002年1月発行の『セガコンシューマーヒストリー』では1985年10月発売と記載されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sega.jp/fb/segahard/mk3/|title=セガマーク3|website=セガハード大百科(旧サイト)|publisher=セガ|accessdate=2023-12-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130209183653/http://sega.jp/fb/segahard/mk3/|archivedate=2013-02-09}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=テレビゲームが進化する SEGA MARKIII|journal=セガ・コンシューマー・ヒストリー|publisher=エンターブレイン|editor=ファミ通DC編集部|date=2002-02-01|ISBN=9784757707894|page=54}}</ref>。また、『コンピュートピア』1991年7月号のセガ・エンタープライゼスの[[駒井徳造]]専務(当時)へのインタビュー記事には1991年3月末までにセガ・エンタープライゼスが発売した家庭用ゲーム機の表が掲載されており、セガ・マークIIIは1985年10月発売と記載されている<ref>{{Cite journal|和書|author=長谷川清|author2=駒井徳造|title=<遊びの世界を探る> 豊かな生活をアレンジする アミューズメント業界の雄 「セガ・エンタープライゼス」|journal=[[コンピュートピア]]|publisher=コンピュータ・エージ社|issue=1991年7月号|pages=24-29|doi=10.11501/3250169}}</ref>。一方、セガ・マークIIIの発売を伝える1985年9月2日付の『日経産業新聞』、『ゲームマシン』1985年10月1日号、『トイジャーナル』1985年10月号の記事には1985年10月1日発売予定と記載<ref>{{Cite news|和書|title=セガ、新ビデオゲーム機販売──多彩な色彩、スクロールも。|newspaper=日経産業新聞|page=14|date=1985-09-02}}</ref><ref>{{Cite news|和書|title=セガ社が家庭用上位互換機「マークIII」発表 機能アップ、「テレコンパック」も|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19851001p.pdf|newspaper=ゲームマシン|issue=269|agency=アミューズメント通信社|date=1985-10-01|pages=5|archivedate=2019-12-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191201074754/https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19851001p.pdf|url-status=live}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|journal=[[トイジャーナル]]|title=セガ・マークⅢ 10月発売|publisher=東京玩具人形協同組合|issue=1985年10月号|pages=102}}</ref>、また1985年11月発売(予定)<ref>{{Cite journal|和書|title=新機種セガマークIII新発売へ|journal=トイズマガジン|publisher=トイズマガジン社|issue=1985年10月号|pages=120}}</ref><ref>{{Cite news|和書|title=怪物ファミコン席捲(中)なだれの仕掛け──低価格、市場制す。|newspaper=日経産業新聞|page=3|date=1986-02-07}}</ref>と記載されているものもあるなど、文献によってセガ・マークIIIの発売日の記述には違いがある。}}に[[セガ|セガ・エンタープライゼス]]より発売された[[ゲーム機|家庭用ゲーム機]]。流通用の型番はSG-1000M3。
[[SC-3000]]シリーズ([[SG-1000]]/[[SG-1000II]])や[[オセロマルチビジョン]]との互換性を維持しつつ、同時発色数、スプライト、スクロール機能などを強化したゲーム機である。接続端子は[[SC-3000]]シリーズにあったものの他に、[[マイカード]]専用スロットが追加された。日本国外では外装を変更し「'''[[セガ・マスターシステム|Sega Master System]]'''」の名称で販売された。
なお、マークIIIと同性能のアーケード基板である「セガ・システムE」に関しても本記事で述べる。
== 歴史 ==
[[SG-1000]]シリーズがゲーム機として一定の成果を収めたが、元々が[[ホビーパソコン]]として設計されたSC-3000をベースにしていることからアーケードゲームを移植するには性能が弱かった。そこでアーケードゲームの移植にも耐えうる高性能ハードの開発が企画された。開発にあたっては、当時稼働していた8ビットのアーケード基板『セガ・システム1』および『セガ・システム2』のゲームが見劣りなく移植できる程度の性能を目標とした<ref name="GameWatch20160523">{{Cite web|和書|title=「GAME ON」トークイベント「セガハードの歴史を語り尽くす」レポート 歴代セガハードの生みの親が集結した夢のキャスティングが実現! |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/758667.html |website=GAME Watch |date=2016-05-23 |access-date=2022-08-02 |publisher=インプレス}}</ref>。開発にかかわったセガ・インタラクティブの石川雅美は、本機を開発した意図について「当時はアーケードを追い掛けて開発をしていて、ゲームに特化した機械を安く提供して家庭内にも広めれば、ゲームセンターにもお客様が来るだろうと考えていました」と2016年に開催された「GAME ON~ゲームってなんでおもしろい?~」展でのトークイベントの中で振り返っている{{R|GameWatch20160523}}。
マークIIIがまだ開発中だった頃の日本は1983年に発売されていたファミコンが普及しはじめていた時期であり、主な競合機としてはセガが従来機SG-1000のマイナーチェンジモデルSG-1000IIを展開していたほか、同時期には一部の機能でファミコンを凌駕する性能を持つ[[エポック社]]の[[スーパーカセットビジョン]]も登場した。この時点でセガはハードウエア性能で後れを取ったが、1985年10月のマークIIIの登場によりファミコンに比肩する性能をもつ家庭用ゲーム機を市場に投入する形となる。この頃は任天堂・セガ・エポック社の3社が時代を作ったと言われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/guc/blog/tvgame/11475.html|title=第2回:TVゲームグラフティー[〜1984年日本編]|publisher=ファミ通.com|date=2012-12-14|accessdate=2019-05-16}}</ref>が、その後の<!--(スーパーマリオブラザーズのヒットに伴う)-->ファミコンの爆発的な普及に伴い、これらの競合機は最後発のマークIIIを除いて1987年頃までにほぼ収束。1987年10月に[[PCエンジン]]が発売されるまでマークIIIがほぼ唯一のファミコン対抗機となった<ref>中田宏之『任天堂大戦略 マリオがトヨタを超える日!』JICC出版局、1990年、p.32</ref>。
発売から2年後の1987年10月には[[FM音源]]と連射装置などを内蔵したマイナーチェンジ機の[[セガ・マスターシステム]]を発売<ref>{{Cite news|和書|title=国内用に、米国仕様機と同名のマスターシステム発売 セガ社、家庭用「マークIII」も上位互換機として|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19871115p.pdf|newspaper=ゲームマシン|issue=320|agency=アミューズメント通信社|date=1987-11-15|pages=3|archivedate=2019-12-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191201074754/https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19871115p.pdf|url-status=live}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|journal=トイジャーナル|title=「セガ・マスターシステム」新発売 年末重点商品として投入、新ソフト4点も登場|publisher=東京玩具人形協同組合|issue=1987年11月号|pages=128}}</ref>。アメリカではシェアが10%程度で、ファミコンの日本国外版である[[Nintendo Entertainment System]](NES)が市場の90%を占めてほとんど普及しなかった<ref>大下英治『セガ・ゲームの王国』講談社、1993年、p.285</ref>。一方ヨーロッパでは健闘し、ほぼ二分するほどの普及を見せたが、市場が小さく<ref>大下英治『セガ・ゲームの王国』講談社、1993年、p.302</ref><ref>内海一郎『任天堂ガリバー商法の秘密』日本文芸社、1991年、p.126</ref>、世界シェアでは9.1%にとどまった<ref>逸見啓『任天堂・セガ』大月書店、1997年、p.45</ref>。また[[大韓民国|韓国]]や[[ブラジル]]でも市場を開拓した<ref>逸見啓『任天堂・セガ』大月書店、1997年、p.161</ref>。
SG-1000からのセガの8ビットゲーム機の1992年までの累計は780万台。日本を含む[[台湾]]、韓国、[[香港]]などのアジアで150万台、アメリカで180万台、ヨーロッパで350万台という内訳である<ref name="大下p14" />。一方、ファミコンは累計で6,191万台を販売した。
当時セガの社長の[[中山隼雄]]は8ビット世代での敗因として、それまで家庭用ビジネスをしてきた任天堂と家庭用ビジネスをしてこなかったセガとの差、セガは業務用が主体で任天堂のように家庭用への絞り込みをしなかったこと、任天堂が独走して任天堂神話を確立したことを挙げている<ref name="大下p14">大下英治『セガ・ゲームの王国』講談社、1993年、p.14</ref>。
== ハードウェア ==
{{Empty section|date=2023年3月}}
== 仕様 ==
{{出典の明記|date=2023-12|section=1}}
* [[CPU]]: NEC [[ΜCOMシリーズ#.CE.BCCOM-82|uPD780C-1]]([[Z80]]A相当品) 3.579545[[メガヘルツ|MHz]]
* [[Random Access Memory|RAM]]: 8[[キビバイト|KiB]]
* [[VRAM]]: 16KiB
** 画像表示LSI(VDP)は[[TMS9918]]上位互換[[ヤマハ]]製315-5124
** 画面表示: 256 × 192ドット(8 × 8ドットのBGキャラクターが32 × 24)、BGキャラクターのパターン数は仕様上は最大512。ただし、テキストやスプライトの表示用にもVRAMを使用するため、実際に定義できる個数はそれより少ない。
** 色数 : BG面・スプライトとも、64色中の16色1パレットずつ
** [[スプライト (映像技術)|スプライト]]: 8 × 8ドット、8 × 16ドット、最大64個、横1ラインに8個まで同時表示可能
** ハードウェアスクロール機能あり
* サウンド機能:([[Programmable Sound Generator#SN76489の仕様|SN76489]]相当、矩形波3ch + ノイズ 1ch)315-5124に内蔵。
* [[ジョイパッド]]: 接続端子2個、パッド2個付属(写真は初期モデル付属のもの、後期モデルはパッド上下左右の他斜めにも突起があり中央のネジ穴にカバーがある)
*:大きさは[[ファミリーコンピュータ]]の[[コントローラ]]より若干小さめで、[[十字ボタン|操作キー]]は四角に近い形になっており、真ん中にはなだらかな窪みがあり、指が置きやすくなっている。押した入力とは違った方向にキーが入ることが時々ある。[[ジョイスティック]]にすると若干緩和された。二つの[[押しボタン]]については、どちらが1、START 、2かは明記されていない。[[SG-1000]]のジョイスティックより連打し易くなっている。
* ポーズボタン: 本体に設置、ゲーム一時停止 / 再開用
* ROMカートリッジスロット、マイカードスロット: 各1個 マイカードスロットは3-Dグラス使用時の3-Dアダプタ接続にも使用
* 拡張用スロット: 1個 外付けキーボードSK-1100、FM音源パック等の接続に使用
* 映像出力: 本体背面のRF端子よりRF出力の他に、DIN(8PIN)コネクタより別売のAVケーブルで[[コンポジット映像信号|ビデオ出力]]が可能である。また公式には非対応であるがRGB信号が出力されているため、別途RGBケーブルを作成することによりRGB出力が可能となる。ただし信号が弱いためブースター回路が別途必要。
== 周辺機器 ==
{{Gallery
|File:Sega Mark III. Joypad.jpg|ジョイパッド(SJ-151)
|File:Sega-Masters-Sys-3D-Glasses.jpg|3D-グラス
}}
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!style="width:5em" | 型番 !!style="width:15em" |名称 !! 備考
|-
|
| セガ ゴールドカートリッジ
| カートリッジのみの販売はない。
|-
| SA-150
| ACアダプタ
| 本体に付属。
|-
| SS-60
| RFスイッチボックス
| 本体に付属。
|-
|
| RFケーブル
| 本体に付属。
|-
|
| アンテナ整合器
| 本体に付属。
|-
| SD-80
| モノラルディンプラグコード
| メガドライブ1に付属。マークIIIでも使用可能。
|-
| SJ-151
| ジョイパッド
| SG-1000IIのコントローラ。ボタン部分がプラスチックになった。
|-
| SJ-152
| ジョイパッド<ref name="option">{{Cite web|和書|url=https://sega.jp/history/hard/segamark3/devices.html |title=関連・周辺機器 セガ・マークⅢ |work=セガハード大百科 |publisher=セガ |accessdate=2022-10-03}}</ref>
| 本体同梱のコントローラ。
|-
| SJ-200
| ジョイスティック
| SG-1000についているものと同型。
|-
| SJ-300
| ジョイスティック
|
|-
| HPD-200
| パドルコントロール{{R|option}}
|
|-
| SH-400
| ハンドルコントローラ
| レースゲーム用コントローラ
|-
| BH-400
| バイクハンドル{{R|option}}
| レースゲーム用コントローラ<ref name=":0" />
|-
| SK-1100
| キーボード<ref>[https://sega.jp/history/hard/sg1000/devices.html 関連・周辺機器 | SG-1000 | セガハード大百科 | セガ]</ref>
| SG-1000/1000II用の[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]が接続できる。対応ソフトはロードランナーのコンストラクションモードや、BASIC等。拡張スロットに接続するので、FMサウンドユニットとは排他である。
|-
| SP-400
| カラープロッタプリンタ
| セガ・[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]](SK-1100)の端子につないで使用する。ACアダプタが必要。
|-
| SR-1000
| カセットデータレコーダ
| セガ・[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]](SK-1100)の端子につないで使用する。
|-
| SR-1001
| カセットデータレコーダ用ACアダプタ
|
|-
| FM-70
| FMサウンドユニット<ref name="option"></ref>
| 拡張スロット・AV出力端子に接続する。日本版マスターシステムと同等のFM音源([[YM2413]])を採用<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[ゲーマガ|Beep]]|title=衝撃デビュー!マスターシステム|publisher=[[日本ソフトバンク]]|issue=1987年11月号|pages=45-46}}</ref>。本体の音源をFM音源と一緒に鳴らすとノイズが入るため、BGMをFM音源で鳴らすソフトでは、本体音源の使用は音声合成などに限られた。なお、マスターシステムにこの制約は無いが、対応ソフトはマークIIIに合わせて作られている。なお、一部のマイカードマークIIIソフトにて操作に支障をきたす現象が確認された。その場合は拡張端子からコネクタを外すよう対応を促すメッセージがマニュアル別紙にて同梱された。また、マークIII本体のAV端子から出力されるRGB信号はサウンドユニット側においてはサポートされず、結果RGB出力が使えなくなるため、それを克服させるRGBケーブルが同人ハード作家によって製作販売されたりもした<ref>[http://dempa.jp/cgi-bin/rgb/cargo/category.php?select=MK3 TOKYO RGB HOSPICE]</ref>。
|-
| RF-150
| ラピッドファイアユニット<ref name="option"></ref>
| オート連射機能を付加する。コントローラーと本体の間に付けて使用する。
|-
|
| 3-Dグラス<ref>[https://sega.jp/history/hard/mastersystem/devices.html 関連・周辺機器 | マスターシステム | セガハード大百科 | セガ]</ref>
| マイカード端子につなぐ。「ザクソン3D」のソフトに標準で付属。
|-
|
| 3-Dアダプタ
| 3-Dグラスを使うときに使用する。3-Dグラスに同梱。
|-
| GB-800
| テレビおえかき{{R|option}}
| 絵を描くことができるタブレット<ref name=":0">{{Cite journal|author=赤木真澄|year=|date=1985-12-15|title=セガ社家庭用TVゲーム機 周辺機器2機種|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19851215p.pdf|journal=ゲームマシン|volume=274|page=6}}</ref>
|-
| TP-300
| テレコンパック<ref name="option"></ref>
| AV出力端子に接続(本体後部に装着する形。FMサウンドユニットを付けた場合、ユニット後方に装着する)。映像・音声をUHFの電波で飛ばし、テレビとの接続がコードレスになる。
|-
|}
=== ライセンス品 ===
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
|-
! 型番
! 名称
! 発売元
! 備考
|-
| AS-0524-SG
| アスキースティックα
| [[アスキー (企業)|アスキー]]
|
|-
| HJ-10
| SGコマンダー
| [[ホリ (ゲーム周辺機器メーカー)|ホリ電機]]
|
|-
| XE-1ST
| ジョイスティック
| [[電波新聞社|マイコンソフト]]
|
|-
|}
== ソフトウェア ==
{{出典の明記|date=2023-12|section=1}}
{{Main|セガ・マークIIIのゲームタイトル一覧}}
使用可能ソフトはマークIIIではマークIII専用ソフトの他、SG-1000/[[SC-3000]]/[[オセロマルチビジョン]]用ソフトである<ref>{{Cite news|和書|title=セガ社家庭用ソフト70種|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19860501p.pdf|newspaper=[[ゲームマシン]]|issue=283|agency=[[アミューズメント通信社]]|date=1986-05-01|page=10|archivedate=2019-11-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191102030941/http://onitama.tv/gamemachine/pdf/19860501p.pdf|url-status=live}}</ref>。ただしカラーパレットがマークIIIの64色から近い色を取り出したセットとなるため発色が大きく異なり、全体的に暗くくすんだ画面表示となる<ref>{{Cite web2|df=ja|language=ja|author=山村智美、下村一誠、奥成洋輔、堀井直樹|url=http://game.watch.impress.co.jp/docs/interview/1036060-6.html|title=「セガ 3D復刻アーカイブス3 FINAL STAGE」インタビュー|page=6|website=[[Impress Watch|Game Watch]]|publisher=[[インプレス|Impress]]|date=2016-12-22|accessdate=2023-12-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161224195153/http://game.watch.impress.co.jp/docs/interview/1036060-6.html|archivedate=2016-12-24|url-status=live}}</ref>。
マークIII発売後、SG-1000/SC-3000/オセロマルチビジョン用ソフトは「全機種対応ソフト」と改称された。
{{Main2|SC-3000/SG-1000/オセロマルチビジョン用(セガ全機種用)タイトル|SG-1000のゲームタイトル一覧}}
専用ソフトは以下の3種類がある。
; マイカードマークIII{{R|option}}
: マークIII専用ソフトを記録したマイカード。当初マークIIIのソフト供給はすべてマイカードマークIIIにて行われた。最後のマイカードマークIII作品は『[[ウッディポップ]]』。パッケージのみゴールドカートリッジに似たもので、GOLD CARTRIDGEの表記がSEGA MYCARD MARK IIIになっており、容量表記はない。ゴールドカートリッジ時期に発売されたマイカード作品は他には存在しない。容量の限界がマイカードマークIIIが512Kbit(64KB)で、大容量化が技術的に困難であったことから、本来SG-1000/[[SC-3000]]/[[オセロマルチビジョン]]の下位互換用に設けられたROMカートリッジスロットを利用した大容量のゴールドカートリッジに移行した。
; {{Anchors|ゴールドカートリッジ}}ゴールドカートリッジ<ref name="option"></ref>
: セガから発売された、容量1Mビットから4Mビットのカートリッジ。基本的にマークIII専用だが、例外として全機種対応ソフト『[[ロレッタの肖像]]』は1Mビットだったためゴールドカートリッジとして発売された。地色を金とし、データ容量数を強調したデザインの箱とカートリッジラベルを特徴とする。カートリッジの色は当初は白、[[マスターシステム]]発売後にはSG-1000専用カートリッジの色と同じ黒色に変更された(スペースハリアー3Dの場合、カートリッジの色が白のまま)。
; シルバーカートリッジ
: 唯一のサードパーティーである[[テクモ|サリオ]]から発売されたマークIII専用カートリッジ。ゴールドカートリッジに倣い地色を銀とし、データ容量数を強調したデザインの箱とカートリッジラベルを特徴とする。マスターシステム発売後に登場したため、カートリッジの色は黒のみ。
== セガ・システムE ==
1986年にリリースされたマークIIIをベースとした業務用システム基板。マークIIIで使用されている音源内蔵VDP(315-5124)を2個搭載しており、BGレイヤー、表示可能スプライト数、PSGの同時発声数が2倍になっている。CPUもZ-80Bをクロック周波数8MHzで駆動させ強化されている。
当時のセガ製アーケード用ゲーム基板の仕様に沿い、セキュリティ対策として電池が搭載されている。そのため通電し続けない(コピー目的などでROMを取り外すなど)と稼働不能になる<ref>{{Cite web|和書|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20080122/ages1.htm|title=「SEGA AGES 2500シリーズ」今後の展開やいかに!?~奥成プロデューサーインタビュー|website=GAME Watch|publisher=インプレス|date=2008-01-21|accessdate=2019-05-16}}<!--中段くらいの見出し“熱心なファンが支える「SEGA AGES 2500シリーズ」”の最後に記載してある奥成氏の発言を参照 --> </ref>。
=== 主なタイトル ===
* ハングオンJr.
* アストロフラッシュ
* [[ピタゴラスの謎]]
* オパオパ
* [[ファンタジーゾーンII オパオパの涙|ファンタジーゾーンII]]([[セガ・システム16|システム16C]]リメイク版とは別物)。セガ・マークIIIから逆移植された<ref>{{Cite web|和書|url=https://sega.jp/history/hard/column/column_02.html |title=【連載】セガハードストーリー第2回 本格的な家庭用ハード開発時代へ |work=セガハード大百科 |publisher=セガ |accessdate=2022-08-29}}</ref>。
* [[テトリス]](システムE版)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 関連項目 ==
* [[メガアダプタ]]
* [[富田耕生]] - マークIII関連のCMナレーションの多くを担当。
== 外部リンク ==
* [https://sega.jp/history/hard/segamark3/index.html セガハード大百科 - セガ・マークIII]
{{家庭用ゲーム機/セガ}}
{{DEFAULTSORT:せかまあくすりい}}
[[Category:セガのハードウェア]]
[[Category:セガ・マークIII&マスターシステム|*]]
[[Category:1985年のコンピュータゲーム|*]]
[[Category:ゲーム機]]
[[Category:1980年代の玩具]] | 2003-02-19T03:51:53Z | 2023-12-25T14:03:22Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AFIII |
2,360 | セガ・マスターシステム | セガ・マスターシステム(Sega Master System)は、セガ・エンタープライゼスが発売した、8ビットの家庭用ゲーム機である。日本での型式番号はMK-2000。
日本で発売されたセガ・マークIII(以下、マークIII)の北米市場向け機種として、1986年6月にセガの米国法人セガ・オブ・アメリカから発売された。開発は日本のセガ本社とセガ・オブ・アメリカ共同で行われた。
その後、欧州など世界中で販売展開され、日本でも1987年10月18日に米国版をベースにFM音源や連射機能の内蔵などのマイナーチェンジを行い発売された。
日本と北米ではライバル機である任天堂のファミリーコンピュータおよびNintendo Entertainment Systemの市場を崩せなかった一方で、日本や北米とはTV放送方式が異なるため任天堂の参入が遅れたヨーロッパや、家庭用ゲーム機があまり普及していなかった南米では大きなシェアを獲得し、成功を収めた。
2022年時点でもブラジルでは現地製造が行われており、全世界累計販売台数はおよそ1850万台以上に達する。
米国ではMaster Systemは周辺機器も含めたシステムの名称であり、特に本体だけを指す場合はPower Baseと呼ばれる。
米国版マスターシステムは、マークIIIに以下の改良を加えたものである。
最大の違いはデザインの変更である。米国では光線銃と対応ソフトが本体と同梱されたセット等も発売された。日本では光線銃用ソフトは発売されなかった。ちなみに光線銃の形状は日本でサバイバルゲーム用玩具として発売された『超高速光線銃ジリオン』と同じである。
カートリッジ端子に変更が加えられ、日本のマークIIIソフトが使用出来ない様になった。ただし、カートリッジの各ピンの出力そのものは同じなので、日本のマークIII用ソフトを使用するための非公式のアダプタも存在した。また、逆に米国向けのカートリッジを日本版マスターシステムで使用するためのアダプタもあった。なお内部的にはSG-1000/SC-3000互換モードも持っており、「F-16 Fighting Falcon」のゲーム中画面で使用されている。
発売はセガの米国法人であるセガ・オブ・アメリカ(SOA)によって行われた。
なお、ソフトを挿さずに電源を入れ、警告メッセージ表示中に隠しコマンドを入れると迷路ゲームがプレイ出来る裏技が存在する。日本版には存在しない。
後期バージョンではあらかじめソフトが内蔵されており、ソフトを挿さずに電源を入れると内蔵ソフトが起動するようになっている。
なお欧州版とブラジル版のマスターシステムは、各国のテレビ規格への対応のために本体の動作クロックが若干異なる以外は基本的に米国版と同一である。また、映像信号の走査線数の違いによりアスペクト比が変わり、上下が潰れて若干横に間延びした表示となる。
日本版マスターシステムは、米国版マスターシステムをベースに更に以下の変更を加えた物である。
ソフトを挿さずに電源を入れると、カートリッジ未挿入の警告メッセージと『スペースハリアー』のステージイメージ映像と共に、FM音源のデモも兼ねて同ゲームのメインテーマが奏でられた。ちなみに、ここで流れる曲がマスターシステムでFM音源とPSGを同時に音声出力させている唯一のサウンドであり、通常のゲームカートリッジでは、マークIIIでFM音源ユニットからFM音源を鳴らすとPSGにノイズが入る制約があるため、FM音源とPSGは同時に使用されない。
連射機能が標準搭載されているゲーム機はマスターシステムが初めてである。コントローラに連射機能を持たせるのではなく、本体に連射機能・設定用ボタンを実装しているため、本機種用のコントローラーであれば種類を問わず同様の連射機能が付加される。
マスターシステムに付属しているコントローラの大きさは、ファミコンのコントローラより若干小さめ。操作キーは四角に近い形に、真ん中に窪みの形状が付いているマークIII版ジョイパッドに少し段差をつけた形状になっている。今までの機種のコントローラにはボタンの表示がなかったが、本機種のコントローラには明記されており、二つのボタンの左側は「1,START」、右側は「2」と明記されている。
ハード性能は、マークIIIにFMサウンドユニット・ラピッドファイアユニット・3-Dアダプタを全て装備した状態とほぼ同一である。
マークIIIに装備されていた拡張端子が削除され、SG-1000シリーズ用オプションである外付けキーボード(SK-1100)を必要とするBASIC等のソフトが使用出来なくなった。それ以外の対応ソフトウェアは100%の互換性がある。
内部基板にはマークIIIにあった拡張端子とは別の拡張端子が装備されている。ただし、筐体の端子カバーが封印されており外部からのアクセスは出来ない。公式ではこの拡張端子を使った周辺機は発売されていない。なお、拡張端子としての機能は従来機と同じであり、ケーブルを自作してSK-1100を接続し動作させたユーザーも存在する。
JOYポート7番ピンの扱いは海外版マスターシステムと同じてあり、この機種でも光線銃の使用が可能である(日本国内での光線銃と対応ソフトの市販はされていない)。
韓国版は日本版マスターシステムがベースとなっており、RAPIDボタンや3-Dグラス端子も搭載している。また、カートリッジ端子も日本版と同じ形状である。ただしFM音源は搭載されていない。添付されているコントローラは韓国版オリジナルの物になっている。BIOSは日本版と同じなのでカートリッジ未挿入時の文章は日本語だが、FM音源が無いためBGMはPSG音源部分のみが流れる。
1992年頃、サムスン電子が旧来の「三星」のロゴから国際的な「SAMSUNG」のロゴに変更するのとほぼ同時期に、「GAMBOY」が「ALADDINBOY」に、メガドライブに相当する「SUPER GAMBOY」も「SUPER ALADDINBOY」に、名称がそれぞれ変更された。
中国圏向け仕様のマスターシステムIIでは本体裏に「SEGA ENTERPRISES. LTD.」と「MADE IN JAPAN」の表記がある。外箱の表記は「世嘉 Master System II」である。
中国圏向けマスターシステムIIは、添付されているマニュアルが英語・中国語(簡体字・繁体字)・日本語で書かれている。また「チャンネルの合わせ方」としてNTSCとPALの両モデル用の説明表記がある(マニュアル上ではPALモデルが「香港と台湾用モデル」とされている)。本体には「アレックスキッドのミラクルワールド」が内蔵されている。中国・台湾モデル以外にはACアダプタのコンバージョンプラグが付属される。
また、香港では「世嘉电子智能机」の名称でマスターシステムが販売された。
欧米では1990年に筐体をコンパクトにし、ゲームソフトを1本内蔵、リセットボタンとマイカードスロット及び光線銃用の端子が削除された「Sega Master System II」が発売された。
ブラジルでは上記欧米のモデルが「Sega Master System III」の名称となり、ソニック・ザ・ヘッジホッグを内蔵したモデルやライトフェイザーガンの同梱版が発売された。またカートリッジスロットを廃して、あらかじめ132タイトルのゲームを内蔵した「Master System Evolution」と、コントローラ一体型で30タイトルのゲームを内蔵した「Master System Portátil(Portable)」がブラジルの代理店であるTectoyによって2011年時点でも販売されている。
韓国でもマスターシステムIIに相当する「SAMSUNG GAMBOY II」が発売された。ヨーロッパやブラジルなどで発売されたマスターシステムIIと同じ仕様ながら、カートリッジ端子のみが初代GAMBOYや日本版マスターシステムと同じ形状という、独自の仕様となっている。ハングル版『アレックスキッドのミラクルワールド』を内蔵している。
後継機である16ビットゲーム機「メガドライブ」の発売以降も欧州及びブラジルでは販売台数の多さからソフト開発が継続され、『ソニック・ザ・ヘッジホッグ2』や『Streets of Rage 2』『SAGAIA』『Winter Olympic '94』、欧州でのみリリースされたU.S. Gold社の『Out Run Europa』や『ストライダー飛竜 II』、ブラジルでのみリリースされた『Street Fighter II』(Tectoy社)など、メガドライブ版と同じタイトルが発売された。
これらは日本国内では未発売であるが、一部ソフトはほぼ同じ性能であるセガの携帯型ゲーム機「ゲームギア」に移植されるなど、日本市場のゲームギアユーザーにも恩恵が得られた。なお日本未発売のソフトの中にFM音源対応のものがいくつか存在し、変換アダプタを使用して日本国内版マスターシステムで起動すると再生することができる。
韓国では『将軍の息子』(『장군의 아들』、Daou Infosys社)などが発売された。なお韓国では1987年7月までコンピュータプログラムの著作権保護法が設けられていなかったため、Zemina社によって『スーパーマリオブラザーズ』を不正移植した『SUPER BOY』や、コナミの『NEMESIS』『NEMESIS 2』や『イーガー皇帝の逆襲』『KNIGHT MARE』『KNIGHT MARE 2』『F-1 SPIRIT』など、MSX用ソフトをコンバート移植した海賊版も存在する。 | [
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"title": "ソフトウェア"
}
] | セガ・マスターシステムは、セガ・エンタープライゼスが発売した、8ビットの家庭用ゲーム機である。日本での型式番号はMK-2000。 日本で発売されたセガ・マークIII(以下、マークIII)の北米市場向け機種として、1986年6月にセガの米国法人セガ・オブ・アメリカから発売された。開発は日本のセガ本社とセガ・オブ・アメリカ共同で行われた。 その後、欧州など世界中で販売展開され、日本でも1987年10月18日に米国版をベースにFM音源や連射機能の内蔵などのマイナーチェンジを行い発売された。 日本と北米ではライバル機である任天堂のファミリーコンピュータおよびNintendo Entertainment Systemの市場を崩せなかった一方で、日本や北米とはTV放送方式が異なるため任天堂の参入が遅れたヨーロッパや、家庭用ゲーム機があまり普及していなかった南米では大きなシェアを獲得し、成功を収めた。 2022年時点でもブラジルでは現地製造が行われており、全世界累計販売台数はおよそ1850万台以上に達する。 | {{Infobox_コンシューマーゲーム機
|名称 = セガ・マスターシステム<br />Sega Master System
|ロゴ = [[ファイル:Sega-master-system-logo.png|330px]]
|画像 = [[ファイル:Sega-Master-System-Set.png|300px]]
|画像コメント = セガ・マスターシステム
|メーカー = [[セガ|セガ・エンタープライゼス]]
|種別 = [[ゲーム機|据置型ゲーム機]]
|世代 = [[ゲーム機|第3世代]]
|発売日 = {{flagicon|USA}} [[1986年]][[6月]]<br />{{flagicon|EU}} [[1987年]][[9月]]<br />{{flagicon|JPN}} [[1987年]][[10月18日]]<br />{{flagicon|KOR}} [[1988年]]<br />{{flagicon|BRA}} [[1989年]]
|CPU = [[ザイログ|Zilog]]社製[[Z80|Z80A]]
|GPU =
|メディア = ゴールドカートリッジ<ref name="MK3">[https://sega.jp/history/hard/segamark3/devices.html 関連・周辺機器 | セガ・マークⅢ | セガハード大百科 | セガ]</ref><br />[[マイカード]]
|ストレージ = [[バッテリーバックアップ]]
|コントローラ = ケーブル
|外部接続端子 = 拡張スロット
|オンラインサービス =
|売上台数 = {{Flagicon|JPN}} 40万台{{要出典|date=2023年12月}}<br />{{Flagicon|USA}} 330万台<ref>{{Cite web|url=https://forgottenadvertisements.wordpress.com/2013/02/02/sega-master-system/ |title=Advertisements Time Forgot - Sega Master System |accessdate=2013-2-2}}</ref><br />{{flagicon|EU}} 680万台<ref>{{Cite web|url=http://segadoes.com/master-system/ |title=SEGA DOES The Joy of Sega One Console At A Time - Mark III / Master System |accessdate=2014-12-5}}</ref><br />{{flagicon|BRA}} 800万台<ref name="BRA">{{Cite web|url=https://jogos.uol.com.br/ultimas-noticias/2016/05/12/console-em-producao-ha-mais-tempo-master-system-ja-vendeu-8-mi-no-brasil.htm |title=Console em produção há mais tempo, Master System já vendeu 8 mi no Brasi |accessdate=2022-05-26}}</ref><br />[[ファイル:Map_projection-Eckert_IV.png|26px|世界]] 1850万台以上{{要出典|date=2023年12月}}
|最高売上ソフト =
|互換ハード = [[セガ・マークIII]]
|前世代ハード =
|次世代ハード = [[メガドライブ]]
}}
'''セガ・マスターシステム'''(''Sega Master System'')は、[[セガ|セガ・エンタープライゼス]]が発売した、[[8ビット]]の[[ゲーム機|家庭用ゲーム機]]である。日本での型式番号はMK-2000。
日本で発売された[[セガ・マークIII]](以下、マークIII)の北米市場向け機種として、1986年6月にセガの米国法人セガ・オブ・アメリカから発売された。開発は日本のセガ本社とセガ・オブ・アメリカ共同で行われた。
その後、欧州など世界中で販売展開され、日本でも1987年10月18日<ref name="new_segahardhistory_sms_main">{{Cite web|和書|url=https://sega.jp/history/hard/mastersystem/index.html|title=マスターシステム|work=セガハード大百科(新サイト)|publisher=セガ|accessdate=2023-12-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231104135807/https://www.sega.jp/history/hard/mastersystem/index.html|archivedate=2023-11-04}}</ref>に米国版をベースに[[FM音源]]や連射機能の内蔵などの[[マイナーチェンジ]]を行い発売された<ref name="gamemachine_19871115">{{Cite news|和書|title=国内用に、米国仕様機と同名のマスターシステム発売 セガ社、家庭用「マークIII」も上位互換機として|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19871115p.pdf|newspaper=ゲームマシン|issue=320|agency=アミューズメント通信社|date=1987-11-15|pages=3|archivedate=2019-12-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191201074754/https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19871115p.pdf|url-status=live}}</ref><ref name="toyjournal_198711">{{Cite journal|和書|journal=[[トイジャーナル]]|title=「セガ・マスターシステム」新発売 年末重点商品として投入、新ソフト4点も登場|publisher=東京玩具人形協同組合|issue=1987年11月号|pages=128}}</ref>{{efn|2017年4月に開設された『セガハード大百科』の新サイト<ref>{{Cite web2|df=ja|language=ja|author=今藤祐馬|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1070656.html|title=セガ、「セガハード大百科」をリニューアル!歴史を紐解く「セガハードストーリー」連載開始|website=[[Impress Watch|Game Watch]]|publisher=[[インプレス|Impress]]|date=2017-07-14|accessdate=2023-12-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170714120828/http://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1070656.html|archivedate=2017-07-14|url-status=live}}</ref>ではセガ・マスターシステムの発売日を1987年10月18日としているが{{R|new_segahardhistory_sms_main}}、2002年3月に開設された『セガハード大百科』の旧サイト<ref>{{Cite web2|df=ja|language=ja|author=北村孝和|website=Game Watch|publisher=Impress|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20020306/segacom.htm|title=セガ、ファンとの交流をはかる「セガコミュニティ」を公式サイト内に開設|date=2002-03-06|accessdate=2023-12-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130629035124/http://game.watch.impress.co.jp/docs/20020306/segacom.htm|archivedate=2013-06-29|url-status=live}}</ref>では1987年10月発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sega.jp/fb/segahard/master/|title=マスターシステム|website=セガハード大百科(旧サイト)|publisher=セガ|accessdate=2023-12-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130209183615/http://sega.jp/fb/segahard/master/|archivedate=2013-02-09}}</ref>、2002年1月発行の『セガコンシューマーヒストリー』では1987年11月発売と記載されている<ref>{{Cite journal|和書|title=先進のスーパーゲームメカ! Master System|journal=セガ・コンシューマー・ヒストリー|publisher=エンターブレイン|editor=ファミ通DC編集部|date=2002-02-01|ISBN=9784757707894|page=58}}</ref>。また、『コンピュートピア』1991年7月号のセガ・エンタープライゼスの[[駒井徳造]]専務(1991年当時)へのインタビュー記事には1991年3月末までにセガ・エンタープライゼスが発売した家庭用ゲーム機の表が掲載されており、日本版マスターシステムの発売日を1987年10月発売と記載している<ref>{{Cite journal|和書|author=長谷川清|author2=駒井徳造|title=<遊びの世界を探る> 豊かな生活をアレンジする アミューズメント業界の雄 「セガ・エンタープライゼス」|journal=[[コンピュートピア]]|publisher=コンピュータ・エージ社|issue=1991年7月号|pages=24-29|doi=10.11501/3250169}}</ref>。一方、日本版マスターシステムの発売を伝える『ゲームマシン』1987年11月15日号の記事では1987年10月20日発売予定{{R|gamemachine_19871115}}、『トイジャーナル』1987年11月号の記事では1987年10月20日に新発売したと記載している{{R|toyjournal_198711}}。}}。
日本と北米ではライバル機である[[任天堂]]の[[ファミリーコンピュータ]]および[[Nintendo Entertainment System]]の市場を崩せなかった一方で<ref>{{Cite news|url=http://www.nytimes.com/1988/12/04/business/nintendo-scores-big.html?sec=&spon=&pagewanted=2|title=Nintendo Scores Big|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]]|date=1988-12-04|accessdate=2009-03-27|first=Douglas C.|last=McGill}}</ref>、日本や北米とはTV放送方式が異なるため任天堂の参入が遅れたヨーロッパや、家庭用ゲーム機があまり普及していなかった南米では大きなシェアを獲得し、成功を収めた<ref>[http://vc.sega.jp/about_ms.html バーチャルコンソールの紹介ページ]</ref><ref>[http://www.tectoy.com.br/timeline.php Histórico] ブラジルのセガ代理店Tectoyの公式サイトによる歴史</ref>。
{{要出典範囲|2022年時点でもブラジルでは現地製造が行われており、全世界累計販売台数はおよそ1850万台以上に達する|date=2023年12月}}。
== 歴史 ==
{{出典の明記|date=2022年5月|section=1}}
; 北米
: [[任天堂]]が従来の[[ファミリーコンピュータ]]を新たに設計し直して北米市場向けに電磁波対策を施した[[Nintendo Entertainment System]](NES)を1985年に発売後に成功を収めたのを受けて、セガも北米市場へのマークIII投入を決断し、社内で開発コードが「'''M4'''」(マーク4)と名付けられたプロジェクトをスタートさせ、黒と赤で構成された本体カラーや、光線銃ライトフェザーの販売など変更が施された。
: 1986年6月に発売するも、既に北米版ファミコンである[[Nintendo Entertainment System|NES]]が市場を95%以上独占しており<ref>{{Cite book|和書|title=セガ vs. 任天堂――ゲームの未来を変えた覇権戦争(下)|date=2017/3/23|year=2017|publisher=早川書房}}</ref>、参入した[[サードパーティー#テレビゲームにおけるサードパーティー|サードパーティー]]も[[アクティビジョン]]と[[パーカー・ブラザーズ]]の2社のみだった。その結果、1988年の時点でNESのシェアを83%までにしか切り崩せず<ref>{{Cite news|url=http://www.nytimes.com/1988/12/04/business/nintendo-scores-big.html?sec=&spon=&pagewanted=2|title=Nintendo Scores Big|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]]|date=1988-12-04|accessdate=2009-03-27|first=Douglas C.|last=McGill}}</ref>、SEGAはマスターシステムの販売権利を[[ハズブロ]]傘下の[[Tonka]]に売却して北米市場からは一時撤退した<ref name="Allgame">{{cite web|url=http://www.allgame.com/platform.php?id=23|title=Sega Master System Overview|author=Dave Beushcer|accessdate=2023-07-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141114094421/http://www.allgame.com/platform.php?id=23|archivedate=2014-11-14}}</ref>。
: 1990年、北米版[[メガドライブ]]であるSEGA GENESISの販売展開後に再度、権利を買い戻しダウンサイジングやカードスロットの省略などコストダウンを図ったリニューアルモデル「Sega Master System II」を発売した{{R|Allgame}}が、1991年の『[[ソニック・ザ・ヘッジホッグ_(1991年のゲーム)#8ビット版|ソニック・ザ・ヘッジホッグ]]』をもってソフト供給を終了<ref name="NintendoLife20140722">{{Cite web |title=Hardware Classics: Sega Master System |url=https://www.nintendolife.com/news/2014/07/hardware_classics_sega_master_system |website=Nintendo Life |date=2014-07-22 |access-date=2023-07-05 |language=en-GB |first= Damien|last=McFerran }}</ref>、翌1992年には本体製造も終了した。北米市場での累計販売台数はおよそ330万台。
; 欧州
: 米国市場に投入された後、米国版をベースに[[世界の放送方式|テレビ規格]]を[[NTSC]]から西欧や南米に対応した[[PAL]]方式、フランスや東欧で採用されている[[SECAM]]方式にするなどしたマスターシステムを1987年9月に欧州で発売。
: 当時は欧州市場向けの販売子会社セガ・オブ・ヨーロッパが設立されていなかったため、例えば[[イギリス]]では英[[ヴァージン・グループ]]傘下の大手パソコン用ゲーム会社[[Mastertronic]]社など、各国ごとに販売会社と提携し、現地でのファーストパーティであるヴァージンのコンシューマ部門ヴァージン・インタラクティブ社の他、セガ製アーケードゲームの欧州[[ホビーパソコン]]への移植を通じてセガと関係が深かった[[U.S. Gold]]社や[[Ocean Software]]社といった大手が[[セカンドパーティ]]としてソフトを供給。中でも『[[アレックスキッドのミラクルワールド]]』をはじめマークIII世代に登場した「アレックスキッド」が活躍するゲームはヨーロッパにおいてヒットし、後継機メガドライブが発売された後も、海外版のみでの新作タイトル『Alex Kidd in Shinobi World』や、小型化された『Master System II』も販売されるなどマスターシステムは息の長い製品となり、1990年以降は[[テンゲン]]や[[アクレイム・エンタテインメント|アクレイム]]といったメガドライブの主要サードパーティもマスターシステム用ソフトを供給し、それら一部ソフトはほぼ同じ性能であるセガの携帯型ゲーム機「[[ゲームギア]]」に移植されるなど、[[セガサターン]]が発売される1990年代後半まで展開が続いた。
: ライバル機である[[任天堂]]のNES(ヨーロッパ版ファミコン)は発売がマスターシステムと同じ1987年であること、またヨーロッパでの代理店となった[[マテル]]社のマーケティングの不備などもあって当初はマスターシステムに圧倒され、ヨーロッパの多くのサードパーティもマスターシステム側に付いた。しかし『[[激亀忍者伝]]』がNESにバンドルされた1990年のクリスマス商戦が転機となって販売台数が2,000%増え、逆にNESがマスターシステムを圧倒するようになったと、SEGA WestのCEOであったMike Hayesは証言している<ref>[http://www.edge-online.com/features/mike-hayes-life-after-sega/ Mike Hayes on life after Sega]</ref>。それでも1994年頃の本体製造終了までの欧州市場での累計販売台数はおよそ680万台と、NESの830万台に対しても健闘を見せるなど、任天堂の[[Nintendo Entertainment System|NES]]とほぼ同格のシェアを獲得し、成功を収めた。
; 日本
: マークIIIが販売されていた頃、日本でマークIIIの記事を扱うゲーム誌は数誌しか存在しておらず、その中で最も記事量が多かった『[[ゲーマガ#Beep|Beep!]]』誌([[ソフトバンク]]刊)上で当時「マークIIIで発売を望む周辺機器」という読者アンケートが繰り返し行われており、そこでは常にサウンド面を強化する[[FM音源]]ユニットの発売が圧倒的な得票を得ていて、また[[連射]]機能ユニットも常に上位に入っていた。
: こうしたユーザーの声にセガが応える形で、マークIIIの外付けFM音源である「FMサウンドユニット」発売や、[[連射]]機能ユニットである「ラピッドファイアユニット」<ref name="MK3"></ref>の発売に至ると同時に、これらを内蔵したマイナーチェンジ版マークIIIの開発が社内にて計画され、海外展開を行っていたマスターシステムをベースに新たに設計し直す事とし、セガ社内で開発コードが'''「M4J」(マーク4 Japan)'''と名付けられたプロジェクトをスタートさせた。こうして誕生したのが日本版の「マスターシステム」である。
: 同ハード版の『[[覇邪の封印]]』と共に1987年10月18日に発売されたが、競合機の[[ファミリーコンピュータ]]は同年には日本国内での累計出荷台数1,152万台を記録するなど<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sanosemi.com/wordpress/?p=295 |title=ファミコンの日本国内出荷台数の推移 1983-2007[単位:万台] |accessdate=2014-12-5}}</ref>、既に市場を席巻しており、さらに[[日本電気ホームエレクトロニクス|NEC HE]]からも家庭用ゲーム機[[PCエンジン]]が[[1987年]]10月30日に発売されるなど苦戦を強いられ、サードパーティー制度を開放するも参入は[[テクモ]]社長が兼任して設立した子会社サリオの1社だけで、セガはマスターシステム発売から約1年後の[[1988年]]10月に次世代ゲーム機[[メガドライブ]]を投入し、マスターシステム用ソフトの供給も1989年2月4日発売の『[[ボンバーレイド]]』をもって終了した。
: 初代[[SG-1000]]、セガ・マークIIIを含めた日本市場での累計販売台数は約145万台<ref>{{Cite news|和書|title=「メガドライブ」発表 セガ社が任天堂より先に16ビット家庭用を|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19881101p.pdf|newspaper=ゲームマシン|issue=343|agency=アミューズメント通信社|date=1988-11-01|pages=4|archivedate=2019-12-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191201074754/https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19881101p.pdf|url-status=live|accessdate=2022-08-18}}</ref>。
; 韓国
: 韓国では元々OACSというメーカーが日本版マークIIIを輸入販売しており、その後マスターシステムに切り替わり「GAMBOY」という名称で販売していたが、1989年に韓国の大手家電メーカーである[[サムスン電子]]がライセンスを取得し'''「삼성 겜보이(SAMSUNG GAMBOY)」'''の名で販売を開始。後にSAMSUNG ALADDINBOYに名称変更された。
: ファーストパーティにあたるサムスンの他、[[Zemina]]社など当時韓国で普及していた[[MSX]]([[Zemmix]])用ソフトウェアを発売していたメーカーが複数サードパーティとして付いた。ソフトウェアは殆どが既存ソフトウェアのリージョンのみを変更してマニュアルとパッケージをローカライズした物であるが、中には『환타지스타』(『[[ファンタシースター]]』)など、出力メッセージを全てハングルに翻訳したソフトも存在する。なおソフトウェアのパッケージの異同が激しく、短期間の間に代理店の変更、ハードの名称変更、代理店のロゴ変更、国際版パッケージから韓国独自のパッケージへ変更された。
; ブラジル
: 欧州での成功後、テレビ規格を[[PAL#PAL-M|PAL-M]]にして南米・ブラジルでも展開された。玩具事業で提携していたブラジルで最も有名な玩具メーカーの[[Tectoy]]社とセガの代理店としてライセンス契約を締結し、1989年に発売。
: ヨーロッパ市場向けソフトがそのまま発売された他、『[[ダイナマイトヘッディー]]』等、ほぼ同スペックであるセガの携帯型ゲーム機ゲームギアのソフトを移植するなどTectoy自身がソフトメーカーとして多くのソフトを供給する一方、ライバルの任天堂は1993年までブラジルに代理店を設けなかったため、公式のNES(ファミコン)本体が発売される前にNESの海賊版が大量に出回る事態を招いてしまった。
: またブラジルでは海外製の精密機器に対して非常に高額な輸入税が課せられるため、NESは乱立する海賊版ソフトによりゲーム品質を保てず、任天堂の正規品ソフトやハードは輸入税で高額での販売を余儀なくされるなど混迷を極める中、ブラジル国内での開発・製造を請け負ったTectoyのマスターシステムやメガドライブは輸入税の影響を受けず、メーカー正規品としての開発力や品質において他社ゲームハードを圧倒し、ブラジルの家庭用ゲーム機市場を独占<ref>{{Cite web|和書|url=https://gigazine.net/news/20150730-sega-beat-nintendo-brazil/ |title=なぜセガは任天堂をブラジルのゲーム機市場で圧倒できたのか? |access-date=2022-08-17 |publisher=GigaZiNE}}</ref>。2009年に新モデルが発売されるほどで<ref>{{Cite web |url=https://segaretro.org/Master_System_Evolution |title=Master System Evolution |access-date=2022-08-17 |publisher=SEGA Retro}}</ref>、2012年時点でも未だにマスターシステムとメガドライブが合わせて年間15万台ほど販売台数を伸ばしており<ref>{{Cite web |url=https://www.uol.com.br/start/ultimas-noticias/2012/07/30/vinte-anos-depois-master-system-e-mega-drive-vendem-150-mil-unidades-por-ano-no-brasil.htm |title=Vinte anos depois, Master System e Mega Drive vendem 150 mil unidades por ano no Brasil... - Veja mais em https://www.uol.com.br/start/ultimas-noticias/2012/07/30/vinte-anos-depois-master-system-e-mega-drive-vendem-150-mil-unidades-por-ano-no-brasil.htm?cmpid=copiaecola |access-date=2022-08-17}}</ref>、累計販売台数はブラジル市場だけでおよそ500万台を突破し<ref>{{Cite web |url=http://jogos.uol.com.br/ultimas-noticias/2012/07/30/vinte-anos-depois-master-system-e-mega-drive-vendem-150-mil-unidades-por-ano-no-brasil.htm |title=Vinte anos depois, Master System e Mega Drive vendem 150 mil unidades por ano no Brasil |accessdate=2012-7-30}}</ref>、2016年には累計800万台に到達した<ref name="BRA" />。
== ハードウェア ==
{{出典の明記|date=2022年5月|section=1}}
=== 米国版 ===
米国ではMaster Systemは周辺機器も含めたシステムの名称であり、特に本体だけを指す場合は'''Power Base'''と呼ばれる。
米国版マスターシステムは、マークIIIに以下の改良を加えたものである。
* 米国市場向けにデザインを一新し黒基調のデザインに統一
* JOYポートの7番を光線銃用の入力端子に変更(マークIIIより以前の機種ではGNDに接続されている)
* [[リセット]]ボタンの追加
* カートリッジ端子を米国向けに変更し、カートリッジも横長形状に変更
* [[SG-1000]]互換の拡張端子(SK-1100<ref name="SG">[https://sega.jp/history/hard/sg1000/devices.html 関連・周辺機器 | SG-1000 | セガハード大百科 | セガ]</ref>やFMサウンドユニット<ref name="MK3"></ref>接続用)の廃止
* BIOSの搭載(カートリッジ未挿入で電源を入れた際に警告メッセージを表示。最終バージョンはv1.3)
最大の違いはデザインの変更<!--{{要検証範囲|date=2011年11月|と光線銃端子の追加}}-->である。米国では光線銃と対応ソフトが本体と同梱されたセット等も発売された。日本では光線銃用ソフトは発売されなかった。ちなみに光線銃の形状は日本でサバイバルゲーム用玩具として発売された『超高速光線銃ジリオン』と同じである。
カートリッジ端子に変更が加えられ、日本のマークIIIソフトが使用出来ない様になった。ただし、カートリッジの各ピンの出力そのものは同じなので、日本のマークIII用ソフトを使用するための非公式のアダプタも存在した。また、逆に米国向けのカートリッジを日本版マスターシステムで使用するためのアダプタもあった。なお内部的には[[SG-1000]]/[[SC-3000]]互換モードも持っており、「F-16 Fighting Falcon」のゲーム中画面で使用されている。
発売はセガの米国法人であるセガ・オブ・アメリカ(SOA)によって行われた。
なお、ソフトを挿さずに電源を入れ、警告メッセージ表示中に隠しコマンドを入れると迷路ゲームがプレイ出来る裏技が存在する。日本版には存在しない。
後期バージョンではあらかじめソフトが内蔵されており、ソフトを挿さずに電源を入れると内蔵ソフトが起動するようになっている。
なお欧州版とブラジル版のマスターシステムは、各国のテレビ規格への対応のために本体の動作クロックが若干異なる以外は基本的に米国版と同一である。また、[[映像信号]]の走査線数の違いにより[[画面アスペクト比|アスペクト比]]が変わり、上下が潰れて若干横に間延びした表示となる。
=== 日本版 ===
[[File:Sega-Masters-Sys-3D-Glasses.jpg|thumb|right|250px|3Dグラス]]
日本版マスターシステムは、米国版マスターシステムをベースに更に以下の変更を加えた物である。
* 3Dグラス端子を配置(カードスロット横の空きスペースを利用)
* [[リセット]]ボタンを廃止し、その位置に連射(RAPID)ボタンを配置
* カートリッジ端子をマークIII(SG-1000III)と同様の日本向けに戻す
* 家庭用ゲーム機初の[[FM音源]]を内蔵
* BIOSを国内仕様に変更(カートリッジ未挿入時の警告メッセージで[[スペースハリアー]]のBGMが演奏される。最終バージョンはv2.1)
ソフトを挿さずに電源を入れると、カートリッジ未挿入の警告メッセージと『[[スペースハリアー]]』のステージイメージ映像と共に、FM音源のデモも兼ねて同ゲームのメインテーマが奏でられた。ちなみに、ここで流れる曲がマスターシステムでFM音源とPSGを同時に音声出力させている唯一のサウンドであり、通常のゲームカートリッジでは、マークIIIでFM音源ユニットからFM音源を鳴らすとPSGにノイズが入る制約があるため、FM音源とPSGは同時に使用されない。
連射機能が標準搭載されているゲーム機はマスターシステムが初めてである。[[ゲームコントローラ|コントローラ]]に連射機能を持たせるのではなく、本体に連射機能・設定用ボタンを実装しているため、本機種用のコントローラーであれば種類を問わず同様の連射機能が付加される。
マスターシステムに付属しているコントローラの大きさは、ファミコンのコントローラより若干小さめ。[[十字ボタン|操作キー]]は四角に近い形に、真ん中に窪みの形状が付いているマークIII版ジョイパッドに少し段差をつけた形状になっている。今までの機種の[[コントローラ]]にはボタンの表示がなかったが、本機種のコントローラには明記されており、二つのボタンの左側は「1,START」、右側は「2」と明記されている。
ハード性能は、マークIIIにFMサウンドユニット・ラピッドファイアユニット・3-Dアダプタを全て装備した状態とほぼ同一である。
マークIIIに装備されていた拡張端子が削除され、[[SG-1000]]シリーズ用オプションである外付け[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]([[SK-1100]])を必要とする[[BASIC]]等のソフトが使用出来なくなった。それ以外の対応ソフトウェアは100%の互換性がある。
内部基板にはマークIIIにあった拡張端子とは別の拡張端子が装備されている。ただし、筐体の端子カバーが封印されており外部からのアクセスは出来ない。公式ではこの拡張端子を使った周辺機は発売されていない。なお、拡張端子としての機能は従来機と同じであり、ケーブルを自作してSK-1100を接続し動作させたユーザーも存在する<ref>[https://sions-papa.blogspot.com/2014/07/blog-post.html セガ マスターシステムにキーボードをつなぐ ]</ref>。
JOYポート7番ピンの扱いは海外版マスターシステムと同じてあり、この機種でも[[光線銃]]の使用が可能である(日本国内での光線銃と対応ソフトの市販はされていない)。
=== 韓国版 ===
韓国版は日本版マスターシステムがベースとなっており、RAPIDボタンや3-Dグラス端子も搭載している。また、カートリッジ端子も日本版と同じ形状である。ただしFM音源は搭載されていない。添付されているコントローラは韓国版オリジナルの物になっている。BIOSは日本版と同じなのでカートリッジ未挿入時の文章は日本語だが、FM音源が無いためBGMはPSG音源部分のみが流れる。
1992年頃、サムスン電子が旧来の「三星」のロゴから国際的な「SAMSUNG」のロゴに変更するのとほぼ同時期に、「GAMBOY」が「ALADDINBOY」に、メガドライブに相当する「SUPER GAMBOY」も「SUPER ALADDINBOY」に、名称がそれぞれ変更された。
=== 中国圏向け ===
中国圏向け仕様のマスターシステムII<ref>[http://www.smspower.org/forums/6801-II トピックを表示 - アジアのマスターシステムII - Forums - SMS Power!]</ref>では本体裏に「SEGA ENTERPRISES. LTD.」と「MADE IN JAPAN」の表記がある。外箱の表記は'''「世嘉 Master System II」'''である。
中国圏向けマスターシステムIIは、添付されているマニュアルが英語・中国語([[簡体字]]・[[繁体字]])・日本語で書かれている。また「チャンネルの合わせ方」としてNTSCとPALの両モデル用の説明表記がある(マニュアル上ではPALモデルが「香港と台湾用モデル」とされている)。本体には「[[アレックスキッド|アレックスキッドのミラクルワールド]]」が内蔵されている。中国・台湾モデル以外にはACアダプタのコンバージョンプラグが付属される。
また、香港では'''「世嘉电子智能机」'''<ref>[http://www.segaretro.org/File:SMS_HK_Box_Front.jpg SMS HK Box Front.jpg]</ref>の名称でマスターシステムが販売された。
== 仕様 ==
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
|-
!項目!!!!!!備考
|-
| 型番
| colspan="2"|(日本版)MK-2000
|
|-
| rowspan="2"|[[CPU]]
| rowspan="2"|[[ザイログ|Zilog]] [[Z80]]A
| (NTSC版)3.579545[[MHz]]
| rowspan="2"| NTSCは日本・韓国・北米等。PAL/SECAMは欧州・南米等。フレームレートの関係でNTSC版の方が若干速い。
|-
| (PAL/SECAM版)3.546893[[MHz]]
|-
| [[Read Only Memory|ROM]]
| colspan="2"|8KB〜256KB
| カートリッジ未挿入警告メッセージ用BIOS 8KB。海外版でゲームが内蔵されているものは最大で256KB(2Mbit)。
|-
| [[Random Access Memory|RAM]]
| colspan="2"|8KB
|
|-
| [[VRAM]]
| colspan="2"|16KB
|
|-
| rowspan="6"|グラフィック
| [[VDP]]
| [[Texas Instruments]] [[TMS9918]]上位互換カスタムチップ
|
|-
| [[画面解像度|画面表示]]
| 256 × 192 または 256 × 224。PAL/SECAMは 256 × 240も使用可能
|
|-
| 同時表示色数
| 64色中32色同時表示(16色×2パレット)
| ソフトウェアでラスター単位でのパレットチェンジが可能
|-
|パターン
| 8 × 8ドット最大448種類。1ドット毎16色設定可。
|
|-
| [[スプライト (映像技術)|スプライト]]
| 8 × 8ドット最大256種類。1ドット毎16色設定可。1画面に64個まで表示可能
|
|-
| その他
| 上下左右・斜め・部分スクロール
| 部分スクロールは、画面上部2BG(16dot)部分を固定させた横スクロールと、画面右8BG(64dot)部分を固定させた縦スクロールがハードウェアレベルで可能。この他にソフトウェアで任意のラスタースクロールが可能
|-
| rowspan="2"|サウンド
| [[Programmable Sound Generator|PSG]]
| [[Texas Instruments]] [[Programmable Sound Generator#SN76489の仕様|SN76489]] 矩形波3ch + ノイズ 1ch
| 正確には「PSG類似」音源(DCSG)であるが、一般的にはPSGと同一扱いされる。
|-
| [[FM音源]]
| [[ヤマハ]] [[YM2413]] (OPLL) 2オペレータ9ch または 6ch+リズム5ch
| FM音源搭載は日本版のみ。PSGと同時に音声出力させるとPSG側にノイズが発生するマークIIIのハード制約に合わせて、FM音源対応ソフトではPSGの使用箇所が限定されている。
|-
| rowspan="2"|カートリッジ形状
| 日本版/韓国版
| 縦型44pin
| rowspan="2"| 各国で発売された[[SG-1000]]は日本と同様に44pin。[[オセアニア]]では50pin端子カートリッジの海外版マスターシステム以外にも44pin端子カートリッジのマークIII も販売されていた。
|-
| 日本版以外(北米/欧州/南米)
| 横型50pin
|-
| [[マイカード]]スロット
| colspan="2"| 標準装備
| 海外版のマスターシステムIIではマイカードスロットが省略された。<br />それ以外のマスターシステムは全て標準装備。
|-
| rowspan="4"|本体<br />ボタン
| ポーズボタン
| 本体上面の右側に設置
| ゲーム一時停止 / 再開用。ソフトウェアポーズなので、ソフトによってはゲームの補助ボタンとして使用される
|-
| リセットボタン
| 本体上面の左側に設置
| ソフトリセット用。海外版のみ
|-
| 連射設定用ボタン
| 本体上面の左側に設置
| 日本版及び韓国版。リセットボタンの位置に設置。
|-
| 電源ボタン
| 本体前面左側に設置
|
|-
<!--
| rowspan="6"|外部端子
-->
| rowspan="5"|外部端子
| A/V出力端子
| 8pin DINコネクタ x 1
| 映像及び音声出力。音声出力はモノラル。各国版ピン配列共通。
|-
| ACアダプタ<br />接続端子
| 丸型プラグメス x 1
| DC9V/850mA。極性はセンターマイナス。<br />プラグ:丸型 外径 ⌀5.5 内径 ⌀2.1。各国版共通。
|-
| [[ゲームパッド|ジョイパッド]]
| 接続端子2個
| [[Atari 2600#コントローラ|ATARI規格]]D-sub9ピンと同形状だがピン配列が一部異なる
<!--
|-
| {{要検証範囲|date=2011年11月|光線銃<br />接続端子}}
| {{要検証範囲|date=2011年11月|本体前面の右側に設置}}
|
-->
|-
| 3Dグラス<ref>[https://sega.jp/history/hard/mastersystem/devices.html 関連・周辺機器 | マスターシステム | セガハード大百科 | セガ]</ref><br />接続端子
| 本体前面の右側に設置
| 日本版及び韓国版。光線銃端子の位置に設置。
|-
| 拡張端子
| 本体裏側
| 公式ではこの拡張コネクタ用の周辺機は発売されず使用されることはなかった。非公式ではカートリッジ変換アダプタが存在する<ref>[http://www.smspower.org/Shop/GenderAdapter Sega Master System Gender Adapter - Shop - SMS Power!]</ref>。
|-
| 外形寸法
| colspan="2"|(日本版) 365(W) × 170(D) × 70(H)mm
|
|-
|付属品
| colspan="2"|(日本版)コントロールパッド × 2・ACアダプタ・RFオートスイッチボックス・アンテナ整合器・説明書(取扱説明書・テレビの取扱方法)・保証書
|
|}
== 周辺機器 ==
{{Empty section|date=2023年3月}}
<gallery>
File:Sega-Master-System-Control-Stick.jpg|コントロールスティック
File:SMS-Light-Phaser.jpg|フェイザーライトガン
</gallery>
== バリエーション ==
[[File:Sega-Mastery-System-MkII-Console-FL.png|thumb|250px|Sega Master System II]]
欧米では[[1990年]]に筐体をコンパクトにし、ゲームソフトを1本内蔵、リセットボタンとマイカードスロット及び光線銃用の端子が削除された「Sega Master System II」が発売された。
ブラジルでは上記欧米のモデルが「Sega Master System III」の名称となり、ソニック・ザ・ヘッジホッグを内蔵したモデルやライトフェイザーガンの同梱版が発売された<ref>{{Wayback|url=http://www.tectoy.com.br/games/master/index.html |title=Master System III Compact(ポルトガル語) |date=19991023112823}}</ref>。またカートリッジスロットを廃して、あらかじめ132タイトルのゲームを内蔵した「Master System Evolution」と、コントローラ一体型で30タイトルのゲームを内蔵した「Master System Portátil(Portable)」がブラジルの代理店である[[Tectoy]]によって2011年時点でも販売されている<ref>[http://www.tectoy.com.br/lista_produto.php?categoria=2 ブラジルの代理店Tectoyによる製品紹介]</ref>。
韓国でもマスターシステムIIに相当する「SAMSUNG GAMBOY II」が発売された。ヨーロッパやブラジルなどで発売されたマスターシステムIIと同じ仕様ながら、カートリッジ端子のみが初代GAMBOYや日本版マスターシステムと同じ形状という、独自の仕様となっている。ハングル版『アレックスキッドのミラクルワールド』を内蔵している。
== ソフトウェア ==
{{Main|セガ・マークIIIのゲームタイトル一覧}}
後継機である16ビットゲーム機「[[メガドライブ]]」の発売以降も欧州及びブラジルでは販売台数の多さからソフト開発が継続され、『[[ソニック・ザ・ヘッジホッグ2]]』や『[[ベア・ナックル#移植版|Streets of Rage 2]]』『[[ダライアスII|SAGAIA]]』『Winter Olympic '94』、欧州でのみリリースされた[[U.S. Gold]]社の『[[:en:Out Run Europa|Out Run Europa]]』や『[[:en:Strider II|ストライダー飛竜 II]]』、ブラジルでのみリリースされた『[[ストリートファイターII|Street Fighter II]]』(Tectoy社)など、メガドライブ版と同じタイトルが発売された{{Sfn|レトロゲーム愛好会|2020|p=277|loc=海外版ソフト紹介<Master System>}}。
これらは日本国内では未発売であるが、一部ソフトはほぼ同じ性能であるセガの携帯型ゲーム機「[[ゲームギア]]」に移植されるなど、日本市場のゲームギアユーザーにも恩恵が得られた。なお日本未発売のソフトの中にFM音源対応のものがいくつか存在し、変換アダプタを使用して日本国内版マスターシステムで起動すると再生することができる。
韓国では『将軍の息子』(『장군의 아들』、Daou Infosys社)などが発売された。なお韓国では1987年7月までコンピュータプログラムの著作権保護法が設けられていなかったため、Zemina社によって『[[スーパーマリオブラザーズ]]』を不正移植した『SUPER BOY』や、コナミの『[[グラディウス (ゲーム)|NEMESIS]]』『[[グラディウス2|NEMESIS 2]]』や『[[イーガー皇帝の逆襲]]』『[[魔城伝説|KNIGHT MARE]]』『[[魔城伝説II ガリウスの迷宮|KNIGHT MARE 2]]』『[[F1スピリット|F-1 SPIRIT]]』など、MSX用ソフトをコンバート移植した海賊版も存在する。
=== BIOS ===
{| class="wikitable" style="text-align:center" style="font-size:smaller"
|-
! バージョン || リリース年 || 発売国 || ROMチェック || 備考
|-
| M404 || 1986 || (N/A) || あり
| style="text-align:left" | SEGAのロゴが下から、MASTER SYSTEMのロゴが右から流れてきて中央でクロスする。
|-
| v1.0 || 1986 || (N/A) || あり
| style="text-align:left" | SEGAロゴのアニメーションとサウンドがない。迷路ゲームも非搭載。
|-
| v1.3 || 1986 || {{flagicon|USA}} || あり
| style="text-align:left" | SEGAロゴのアニメーションとサウンドがある。隠しで迷路ゲームを搭載。
|-
| v2.0 || 1987 || {{flagicon|EUR}} || なし
| style="text-align:left" | v1.3のバージョン違いで内容は同一。ROMチェックなし。
|-
| v2.1 || 1987 || {{flagicon|JPN}} || なし
| style="text-align:left" | カートリッジ未挿入の警告メッセージが日本語。FM音源のデモ音楽が流れる。
|-
| v2.4 || 1987 || {{flagicon|USA}} || あり
| style="text-align:left" | 光線銃同梱モデル向け。「Hang On」と「Safari Hunt」を内蔵。
|-
| v3.4 || 1987 || {{flagicon|USA}} || あり
| style="text-align:left" | 「Hang On」を内蔵。
|-
| v4.4 || 1988 || {{flagicon|USA}} || あり
| style="text-align:left" | 「Missile Defense 3-D」を内蔵。
|-
| || 1988 || {{flagicon|USA}} || あり
| style="text-align:left" | 「Alex Kidd in Miracle World」特別版{{Efn|パンチとジャンプボタンが入れ替わっている。おにぎりがハンバーガーになっている}}を内蔵。
|-
||| 1988 || {{flagicon|KOR}} || なし
| style="text-align:left" | Samsung Gam*Boy/Aladdin Boy II 向け。「알렉스 키드 in Miracle World」を内蔵。
|-
||| 1991 || {{flagicon|USA}} || あり
| style="text-align:left" | マスターシステムII 向け。「Sonic The Hedgehog」を内蔵。
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book |和書 |author=レトロゲーム愛好会 |date=2020-08-28|title=メガドライブコンプリートガイドデラックス With マークIII|publisher=主婦の友インフォス |isbn=978-4-07-442206-7|ref={{SfnRef|レトロゲーム愛好会|2020}} }}
== 関連項目 ==
* [[マイカード]]
* [[SG-1000]]
* [[メガアダプタ]]
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Sega Master System}}
* [http://vc.sega.jp/lineup_ms.html マスターシステムバーチャルコンソール 公式サイト]
* [https://sega.jp/history/hard/mastersystem/index.html セガハード大百科 - マスターシステム]
{{家庭用ゲーム機/セガ}}
{{DEFAULTSORT:せかますたあしすてむ}}
[[Category:セガのハードウェア|ますたあしすてむ]]
[[Category:セガ・マークIII&マスターシステム|*]]
[[Category:ゲーム機]]
[[Category:1987年のコンピュータゲーム|*]]
[[Category:1980年代の玩具]] | 2003-02-19T04:03:55Z | 2023-12-25T14:14:22Z | false | false | false | [
"Template:Wayback",
"Template:Commons",
"Template:要出典",
"Template:出典の明記",
"Template:Empty section",
"Template:Notelist",
"Template:Reflist",
"Template:Efn",
"Template:Cite news",
"Template:Cite book",
"Template:Infobox コンシューマーゲーム機",
"Template:Sfn",
"Template:家庭用ゲーム機/セガ",
"Template:R",
"Template:Main",
"Template:Flagicon",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite web"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0 |
2,362 | 鯨類 | 鯨類(げいるい、英名:Cetaceans)は、偶蹄目または鯨偶蹄目のCetacea下目に分類される分類群。魚類体形の現生水生哺乳類と、その始原的祖先である陸棲哺乳類、および、系統的類縁にあたる全ての化石哺乳類を総括したグループを言う。新生代初期の水辺に棲息していた小獣を祖として海への適応進化を遂げ、世界中の海と一部の淡水域に広く分布するに至った動物群である。
構成種はクジラ(whale)、イルカ(dolphin)、ネズミイルカ(porpoise)と呼ばれる。ただし、クジラとイルカは系統学的グループでも分類学的グループでもなく、ハクジラの一部の小型種がイルカとされることが一般的である。
かつては哺乳綱を構成する目の一つであったが、新たな知見に基づいて偶蹄目と統合された結果、新目「鯨偶蹄目」の下位分類となった。もっとも、下位分類階級の「亜目」「下目」「小目」などで言い換えられることはまだ少なく、便宜上、従来と変わらず鯨目やクジラ目が用いられることが多い(右の分類表、および、最下段の「哺乳類の現生目#廃止・希」を参照)。
目階級とする分類における2018年時点の標準和名は「鯨目」であり、漢字をカタカナで表記した「クジラ目」とすることもある。また、目より上位の階級名の慣例として、音読みで「げいもく」とする。「くじらもく」と湯桶読みするようになったのは後世のことである。
日本語の「クジラ」の語源については、大きな口を持つことから古来「口広(クチビロ)」と呼んでいたのが転訛して「クヂラ」となったとする説、体色が黒と白に色分けされていることから来る「黒白(クロシロ)」に由来するという説など、諸説がある。「イサナ」とも呼び、漢字で「勇魚(勇〈イサ〉魚〈ナ〉)」「不知魚」「伊佐魚」などと書き表してもいた。漢字表記の「鯨」は、巨大な魚と見なされたことに由来し、旁(つくり)の「京」は大きい桁・数字を表す「京」と同源であるとされる。なお、漢字「鯨」については「Wiktionary:鯨」による解説もあり。
クジラの学名や星座名の Cetus は、「海獣、海の大魚、鯨」を意味するラテン語で、古代ギリシア語: κῆτος (kētos) からの借入語。 なお、ラテン語本来の発音は「ケートゥス」であり、また属名などの構成要素として使われる際の英語の発音は「シータス」である。「ケタス」「セタス」はいずれも日本語独自の慣習読み。
また、本来のラテン語でクジラを意味する balaena はホッキョククジラ属の属名ともなっている。イタリア語 balena、スペイン語 ballena、フランス語 baleine などいずれもこの語に由来する。また、英語で「クジラのひげ」を意味する baleen も同語源である。ちなみに、「ヒゲクジラ」のことを英語では baleen whale という。
英語 whale は、オランダ語の walvis、ドイツ語の Wal、スウェーデン語の val などとともに、ゲルマン祖語 *khwalaz からの発展形である。
日本語では、クジラの中でも成体で体長4m程度以下の比較的小型のハクジラの一部をイルカと呼ぶが、生物分類上はクジラとイルカの間に明確な境界は無い。この曖昧さは日本語だけのものではなく、例えば英語では、ヒゲクジラの全てと大型ハクジラ類を Whale(クジラ)、小型のハクジラ類(概して日本語での「イルカ」)をさらに Dolphin(イルカ一般)と Porpoise(ネズミイルカ)の2つに分け、計3種類に区別して呼ばれるが、生物分類上は Whale と Dolphin の境界は明確ではない。
古生物学の世界では長い間、新生代暁新世から始新世にかけて生息した肉食性有蹄動物のメソニクス目 Mesonychia がクジラ類の祖先にあたるとの見方が、伝統的かつ支配的であった。しかし、これに替わって2000年頃からは新たな知見に基づき、原始的な肉食性偶蹄類がそれであるとの見方が有力となっている(これに基づけばメソニクス目はクジラ及び偶蹄類と近縁ではあるが姉妹グループであり、クジラの祖先ではないとみなされている)。
始新世初期に、水中生活への依存度を高めていた陸生偶蹄類の一群が、その環境への適応を一段と進めて分化(分岐して進化)していったものであるとの説である。この新たな知見とは、塩基配列の解析など進歩著しい分子系統学からのアプローチや、偶蹄類に近い特徴とクジラ類に固有の特徴を併せ持った距骨を具える四つ足の始原的クジラ類の化石発見からもたらされた形態学由来のものであった。また、分子系統学からは、クジラ類はカバ科と姉妹群であるとの指摘がなされている。これを既知の知見と照合すれば、クジラとカバの系統的分化は少なくとも暁新世の後期以前に起こっていたことになる。しかし、その時代からの化石がまだもたらされていない今日では、約5,300万年前(始新世初頭)が実証可能な最古の時代であり、パキケトゥス科をもって最古としている。彼らの段階ではクジラ類はまだ、水に潜って餌を獲ることの多いオオカミ大の四つ足動物でしかなかった。系統分類についてさらに詳しくは鯨偶蹄目を、進化経緯については古鯨類を参照のこと。
クジラ類は全て水生であって主に海に生息するが、カワイルカ類など一部のものは川や汽水域に生息する。現生動物としては体長や体重が最大のグループを含み、特にシロナガスクジラは動物として史上最大の質量(体重約130t)を誇る。一方で、クジラ目の中で最も小さいのはコガシラネズミイルカであり、体長は約1.5m、体重は50kg程度に過ぎない。魚類やイカ類などの頭足類を食べるハクジラ類と、オキアミなどのプランクトンや群集性小魚類を食べるヒゲクジラ類では食性が異なるが、全て広い意味での肉食性である。ハクジラ類は海の生態系の最上位のほか、高位の多くを占め、ヒゲクジラ類も低位消費者の最大種を含む一大グループとして多様な進化に成功したものである。
クジラ類の耳には耳殻は無く、単なる直径2mm程度の穴であり、耳垢がつまっている。耳垢の層を数えることにより、ある程度の年齢を推測することができる。脂肪を蓄え、それによって水分を作ってすごす。汗腺は無い。頭部の背側に呼吸のための噴気孔を有す。噴気孔はヒゲクジラでは2個、ハクジラでは1個である。噴気孔は開閉が可能であり、頭部を水面上に出して噴気孔を開けて空気を吸い、それ以外の潜水する時などは噴気孔を閉じて水の浸入を防ぐ。いびきをかくこともある。糞は固形分が少なく液状に近い。哺乳類であるので体温は35-37°Cで臍(へそ)もある。乳首は2つあり、風邪もひく。泳ぐ速度は時速 3kmから50km程度。寿命は 30年から120年程度である。他の哺乳類同様、大型種ほど寿命が長い傾向にある。
鯨類は、古鯨類(ムカシクジラ類)、ハクジラ類、ヒゲクジラ類の3つの分類群に大別されるが、古鯨類に属する種は全て絶滅しており、現生はヒゲクジラ小目とハクジラ小目の2小目である。ハクジラ類とヒゲクジラ類は一時単系統性が疑われたこともあるが、単系統ということで決着が着いた。「ハクジラ類・ヒゲクジラ類以外の全て」という形の古鯨類は単系統ではないため、廃したり、いくつかの科を除外したりすることも多い。
ハクジラ類は古鯨類と同様に獲物を捕えるための歯を持っている。また、ハクジラ類は、自分の出した音の反射を利用して獲物や障害物を探る反響定位(エコーロケーション)のための器官、すなわち、上眼窩突起、顔の筋肉、鼻の反響定位器官を発達させていることを特徴とする。イルカ、シャチ、イッカクなどもハクジラ類に属する。一方、ヒゲクジラ類は、口内にプランクトンやオキアミなどをこし取るための櫛(くし)状の髭(ひげ)板を持つのが特徴で、歯は消失している。
鯨類を無肉歯類とともに亜目として類鯨目Ceteに置き、ハクジラ類とヒゲクジラ類を小目として正鯨下目Autocetaにまとめることもあったが、のちに分子系統推定によって鯨類と偶蹄類の類縁関係が認められるようになり、無肉歯類との類縁性は否定されている。
かつてはカワイルカを総括するカワイルカ上科 Platanistoidea を置くことがあったが、側系統であることが判明し、分割された。
現生鯨類の系統関係は次のとおり。現生ではカバ科(カバ下目、Ancodonta)が姉妹群であり、併せて単系統群の鯨凹歯類(ケタンコドンタ、Cetancodonta もしくは Whippomorpha)をなす。ナガスクジラ科の単系統性は疑わしく、コククジラ科と併せて単系統をなす。
国際的な鯨類の保護としては、IUCN(国際自然保護連合)が作成したレッドリストに多くの種が掲載されており、国際的な商取引を規制する絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)にもクジラ目の全種が附属書IあるいはIIに掲げられている。また、1946年には国際捕鯨取締条約が採択され、鯨類の資源管理・保存・利用が進められている。
日本では伝統的にクジラ漁が盛んであったが、国際捕鯨委員会による商業捕鯨禁止の決定により、近年までは、指定された種のクジラについては調査捕鯨以外の捕鯨を実施していなかった。ただし、他のクジラやイルカについては引き続き捕鯨の対象になっている。また、近年では、「ホエールウォッチング」というクジラとの新たな接し方が観光資源として注目されてきている。
日本では環境省及び水産庁の法令等により保護・管理されている。環境省は哺乳類レッドリストでは対象外としているが、種の保存法に基づく国際希少野生動植物種にはクジラ目の種も指定している。これは罰則規定がないワシントン条約の国内での実効的な運用を目的として設けられている。一方、水産庁は水産資源の持続的利用を目的として「日本の希少な野生水生生物に関するデータブック」という水生生物のレッドデータブックを発行しているが、その評価基準及びカテゴリーは最新のIUCNカテゴリーではなく、環境省の1991年版カテゴリー(IUCNカテゴリー ver.1)に準じており、また独自のカテゴリーも設けているなど、複数の専門家から問題点が指摘されている。たとえば、水産庁のレッドリストでは、生息数の変動が自然変動の範囲内である野生生物は「普通種」としてランクされる(例えば、10万頭が1万頭に激減しても、その後、大きな変動が無ければ「普通種」と評価される)という点を日本獣医畜産大学(現日本獣医生命科学大学)の羽山伸一助教授(当時)が指摘している。また、日本鯨類研究所では、捕鯨対象種の鯨種のうちシロナガスクジラとホッキョククジラ以外の資源は健全であると発表しているが、これは、全ての生息数を合算したものであり、それに対して、元日本鯨類研究所の粕谷俊雄教授は、鯨の生息数は世界で均一ではなく、その地域の個体群ごとに資源の管理を行わなければいけないと指摘している。
下記にIUCN(国際自然保護連合)が作成した2006年版レッドリストに記載されている主な鯨類を示す。括弧内は分類された年で、「」内はIUCN日本委員会の訳語である。
下記に絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)の附属書に掲げられた鯨目の種を示す。 | [
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"text": "始新世初期に、水中生活への依存度を高めていた陸生偶蹄類の一群が、その環境への適応を一段と進めて分化(分岐して進化)していったものであるとの説である。この新たな知見とは、塩基配列の解析など進歩著しい分子系統学からのアプローチや、偶蹄類に近い特徴とクジラ類に固有の特徴を併せ持った距骨を具える四つ足の始原的クジラ類の化石発見からもたらされた形態学由来のものであった。また、分子系統学からは、クジラ類はカバ科と姉妹群であるとの指摘がなされている。これを既知の知見と照合すれば、クジラとカバの系統的分化は少なくとも暁新世の後期以前に起こっていたことになる。しかし、その時代からの化石がまだもたらされていない今日では、約5,300万年前(始新世初頭)が実証可能な最古の時代であり、パキケトゥス科をもって最古としている。彼らの段階ではクジラ類はまだ、水に潜って餌を獲ることの多いオオカミ大の四つ足動物でしかなかった。系統分類についてさらに詳しくは鯨偶蹄目を、進化経緯については古鯨類を参照のこと。",
"title": "生物的特徴"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "クジラ類は全て水生であって主に海に生息するが、カワイルカ類など一部のものは川や汽水域に生息する。現生動物としては体長や体重が最大のグループを含み、特にシロナガスクジラは動物として史上最大の質量(体重約130t)を誇る。一方で、クジラ目の中で最も小さいのはコガシラネズミイルカであり、体長は約1.5m、体重は50kg程度に過ぎない。魚類やイカ類などの頭足類を食べるハクジラ類と、オキアミなどのプランクトンや群集性小魚類を食べるヒゲクジラ類では食性が異なるが、全て広い意味での肉食性である。ハクジラ類は海の生態系の最上位のほか、高位の多くを占め、ヒゲクジラ類も低位消費者の最大種を含む一大グループとして多様な進化に成功したものである。",
"title": "生物的特徴"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "クジラ類の耳には耳殻は無く、単なる直径2mm程度の穴であり、耳垢がつまっている。耳垢の層を数えることにより、ある程度の年齢を推測することができる。脂肪を蓄え、それによって水分を作ってすごす。汗腺は無い。頭部の背側に呼吸のための噴気孔を有す。噴気孔はヒゲクジラでは2個、ハクジラでは1個である。噴気孔は開閉が可能であり、頭部を水面上に出して噴気孔を開けて空気を吸い、それ以外の潜水する時などは噴気孔を閉じて水の浸入を防ぐ。いびきをかくこともある。糞は固形分が少なく液状に近い。哺乳類であるので体温は35-37°Cで臍(へそ)もある。乳首は2つあり、風邪もひく。泳ぐ速度は時速 3kmから50km程度。寿命は 30年から120年程度である。他の哺乳類同様、大型種ほど寿命が長い傾向にある。",
"title": "生物的特徴"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "鯨類は、古鯨類(ムカシクジラ類)、ハクジラ類、ヒゲクジラ類の3つの分類群に大別されるが、古鯨類に属する種は全て絶滅しており、現生はヒゲクジラ小目とハクジラ小目の2小目である。ハクジラ類とヒゲクジラ類は一時単系統性が疑われたこともあるが、単系統ということで決着が着いた。「ハクジラ類・ヒゲクジラ類以外の全て」という形の古鯨類は単系統ではないため、廃したり、いくつかの科を除外したりすることも多い。",
"title": "生物的特徴"
},
{
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"text": "ハクジラ類は古鯨類と同様に獲物を捕えるための歯を持っている。また、ハクジラ類は、自分の出した音の反射を利用して獲物や障害物を探る反響定位(エコーロケーション)のための器官、すなわち、上眼窩突起、顔の筋肉、鼻の反響定位器官を発達させていることを特徴とする。イルカ、シャチ、イッカクなどもハクジラ類に属する。一方、ヒゲクジラ類は、口内にプランクトンやオキアミなどをこし取るための櫛(くし)状の髭(ひげ)板を持つのが特徴で、歯は消失している。",
"title": "生物的特徴"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "鯨類を無肉歯類とともに亜目として類鯨目Ceteに置き、ハクジラ類とヒゲクジラ類を小目として正鯨下目Autocetaにまとめることもあったが、のちに分子系統推定によって鯨類と偶蹄類の類縁関係が認められるようになり、無肉歯類との類縁性は否定されている。",
"title": "生物的特徴"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "かつてはカワイルカを総括するカワイルカ上科 Platanistoidea を置くことがあったが、側系統であることが判明し、分割された。",
"title": "生物的特徴"
},
{
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"text": "現生鯨類の系統関係は次のとおり。現生ではカバ科(カバ下目、Ancodonta)が姉妹群であり、併せて単系統群の鯨凹歯類(ケタンコドンタ、Cetancodonta もしくは Whippomorpha)をなす。ナガスクジラ科の単系統性は疑わしく、コククジラ科と併せて単系統をなす。",
"title": "生物的特徴"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "国際的な鯨類の保護としては、IUCN(国際自然保護連合)が作成したレッドリストに多くの種が掲載されており、国際的な商取引を規制する絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)にもクジラ目の全種が附属書IあるいはIIに掲げられている。また、1946年には国際捕鯨取締条約が採択され、鯨類の資源管理・保存・利用が進められている。",
"title": "保護"
},
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"text": "日本では伝統的にクジラ漁が盛んであったが、国際捕鯨委員会による商業捕鯨禁止の決定により、近年までは、指定された種のクジラについては調査捕鯨以外の捕鯨を実施していなかった。ただし、他のクジラやイルカについては引き続き捕鯨の対象になっている。また、近年では、「ホエールウォッチング」というクジラとの新たな接し方が観光資源として注目されてきている。",
"title": "保護"
},
{
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"tag": "p",
"text": "日本では環境省及び水産庁の法令等により保護・管理されている。環境省は哺乳類レッドリストでは対象外としているが、種の保存法に基づく国際希少野生動植物種にはクジラ目の種も指定している。これは罰則規定がないワシントン条約の国内での実効的な運用を目的として設けられている。一方、水産庁は水産資源の持続的利用を目的として「日本の希少な野生水生生物に関するデータブック」という水生生物のレッドデータブックを発行しているが、その評価基準及びカテゴリーは最新のIUCNカテゴリーではなく、環境省の1991年版カテゴリー(IUCNカテゴリー ver.1)に準じており、また独自のカテゴリーも設けているなど、複数の専門家から問題点が指摘されている。たとえば、水産庁のレッドリストでは、生息数の変動が自然変動の範囲内である野生生物は「普通種」としてランクされる(例えば、10万頭が1万頭に激減しても、その後、大きな変動が無ければ「普通種」と評価される)という点を日本獣医畜産大学(現日本獣医生命科学大学)の羽山伸一助教授(当時)が指摘している。また、日本鯨類研究所では、捕鯨対象種の鯨種のうちシロナガスクジラとホッキョククジラ以外の資源は健全であると発表しているが、これは、全ての生息数を合算したものであり、それに対して、元日本鯨類研究所の粕谷俊雄教授は、鯨の生息数は世界で均一ではなく、その地域の個体群ごとに資源の管理を行わなければいけないと指摘している。",
"title": "保護"
},
{
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"tag": "p",
"text": "下記にIUCN(国際自然保護連合)が作成した2006年版レッドリストに記載されている主な鯨類を示す。括弧内は分類された年で、「」内はIUCN日本委員会の訳語である。",
"title": "保護"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "下記に絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)の附属書に掲げられた鯨目の種を示す。",
"title": "保護"
}
] | 鯨類は、偶蹄目または鯨偶蹄目のCetacea下目に分類される分類群。魚類体形の現生水生哺乳類と、その始原的祖先である陸棲哺乳類、および、系統的類縁にあたる全ての化石哺乳類を総括したグループを言う。新生代初期の水辺に棲息していた小獣を祖として海への適応進化を遂げ、世界中の海と一部の淡水域に広く分布するに至った動物群である。 構成種はクジラ(whale)、イルカ(dolphin)、ネズミイルカ(porpoise)と呼ばれる。ただし、クジラとイルカは系統学的グループでも分類学的グループでもなく、ハクジラの一部の小型種がイルカとされることが一般的である。 かつては哺乳綱を構成する目の一つであったが、新たな知見に基づいて偶蹄目と統合された結果、新目「鯨偶蹄目」の下位分類となった。もっとも、下位分類階級の「亜目」「下目」「小目」などで言い換えられることはまだ少なく、便宜上、従来と変わらず鯨目やクジラ目が用いられることが多い(右の分類表、および、最下段の「哺乳類の現生目#廃止・希」を参照)。 | {{複数の問題
| 出典の明記 = 2023年11月2日 (木) 05:49 (UTC)
| 独自研究 = 2023年11月2日 (木) 05:49 (UTC)
}}
{{生物分類表
|名称 = 鯨類
|fossil_range = {{Fossil range|53.0|0}}
|画像 = [[ファイル:Humpback Whale underwater shot.jpg|260px]]
|画像キャプション = [[ザトウクジラ]]
|地質時代 = 約5,300万年前 - 現世<br />[[新生代]][[古第三紀]][[始新世]][[ヤプレシアン]]<br /> - [[第四紀]][[完新世]]
|status = [[絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約|ワシントン条約]]附属書II
|status_ref = <ref>CITES, [https://cites.org/eng/app/appendices.php Appendices I, II and III] valid from 22 June 2021, [https://cites.org/eng Convention on International Trade in Endangered Species of Wild Fauna and Flora], Accessed on 10 April 2022.</ref>
|省略 = 哺乳綱
|目 = [[偶蹄目]]/[[鯨偶蹄目]] {{Sname||Artiodactyla}}/{{Sname|Cetartiodactyla}}
|亜目階級なし = [[鯨凹歯類|鯨河馬形類]] {{Sname||Whippomorpha}}
|下目階級なし = '''鯨類''' {{Sname||Cetacea}}
|学名 = Cetacea [[マチュラン・ジャック・ブリソン|Brisson]], [[1762年|1762]]<ref name="mead_brownell_jr">James G. Mead and Robert L. Brownell, Jr., “[http://www.departments.bucknell.edu/biology/resources/msw3/browse.asp?id=14300001 Order Cetacea],” In: Don E. Wilson & DeeAnn M. Reeder (eds.), ''[[Mammal Species of the World]]'' (3rd ed.), Volume 1, Johns Hopkins University Press, 2005, Pages 723-743.</ref>
|和名 = 鯨類<ref name="martin_a" />
|英名 = Cetaceans<ref name="martin_a">アンソニー・マーティン・吉岡基訳「クジラとは?」アンソニー・マーティン編著・粕谷俊雄監訳『クジラ・イルカ大図鑑』平凡社、1991年、10-11頁。</ref>
|下位分類名 = 下位分類群
|下位分類 =
* [[古鯨類]] {{sname||Archaeoceti}}†<small>([[絶滅]]、側系統群)</small>
* [[正鯨類]] {{Sname||Autoceta}}<small>(=Neoceti、現生鯨類)</small>
** [[ヒゲクジラ類|ヒゲクジラ小目]] [[w:Baleen whale|Mysticeti]]
** [[ハクジラ類|ハクジラ小目]] [[w:Toothed whale|Odontoceti]]
}}
'''鯨類'''(げいるい、[[英語|英名]]:[[:en:Cetacea|Cetaceans]])は、[[偶蹄目]]または[[鯨偶蹄目]]の{{Sname|Cetacea}}下目に分類される[[タクソン|分類群]]。'''[[魚類]]体形の現生水生[[哺乳類]]'''と、その始原的祖先である陸棲哺乳類、および、系統的類縁にあたる全ての[[化石]]哺乳類を総括したグループを言う。[[新生代]]初期の水辺に棲息していた小獣を祖として海への[[適応 (生物学)|適応]][[進化]]を遂げ、世界中の海と一部の[[淡水|淡水域]]に広く分布するに至った動物群である。
構成種は[[クジラ]](whale)、[[イルカ]](dolphin)、[[ネズミイルカ科|ネズミイルカ]](porpoise)と呼ばれる<ref name="martin_a" />。ただし、クジラとイルカは[[系統学]]的グループでも[[分類学]]的グループでもなく、[[ハクジラ類|ハクジラ]]の一部の小型種がイルカとされることが一般的である。
かつては哺乳綱を構成する[[目 (分類学)|目]]の一つであったが、新たな知見に基づいて偶蹄目と統合された結果、新目「鯨偶蹄目」の下位分類となった。もっとも、下位分類階級の「亜目」「下目」「小目」などで言い換えられることはまだ少なく、便宜上、従来と変わらず'''鯨目'''や'''クジラ目'''が用いられることが多い(<small>右の分類表、および、最下段の「哺乳類の現生目#廃止・希」を参照</small>)。
== 呼称 ==
=== 和名 ===
目階級とする分類における2018年時点の[[和名|標準和名]]は「鯨目」であり<ref>川田伸一郎・岩佐真宏・福井大・新宅勇太・天野雅男・下稲葉さやか・樽創・姉崎智子・横畑泰志「[https://doi.org/10.11238/mammalianscience.58.S1 世界哺乳類標準和名目録]」『哺乳類科学』第58巻 別冊、日本哺乳類学会、2018年、1-53頁。</ref>、[[漢字]]をカタカナで表記した「クジラ目」とすることもある<ref name="tasumi">[[田隅本生]]「[https://doi.org/10.11238/mammalianscience.40.83 哺乳類の日本語分類群名,特に目名の取扱いについて —文部省の“目安”にどう対応するか—]」『哺乳類科学』第40巻 1号、日本哺乳類学会、2000年、83-99頁。</ref>。また、[[目 (分類学)|目]]より上位の階級名の慣例として、[[音読み]]で「げいもく」とする。「くじらもく」と[[湯桶読み]]するようになったのは後世のことである。
[[日本語]]の「クジラ」の語源については、大きな口を持つことから古来「口広(クチビロ)」と呼んでいたのが[[転訛]]して「クヂラ」となったとする説、体色が黒と白に色分けされていることから来る「黒白(クロシロ)」に由来するという説など、諸説がある。「イサナ」とも呼び、漢字で「勇魚(勇〈イサ〉魚〈ナ〉)」「不知魚」「伊佐魚」などと書き表してもいた。漢字表記の「鯨」は、巨大な[[魚類|魚]]と見なされたことに由来し、[[旁]](つくり)の「京」は大きい桁・数字を表す「[[京 (数)|京]]」と同源であるとされる。なお、漢字「鯨」については「[[Wiktionary:鯨]]」による解説もあり。
{{See also|クジラ#鯨と言葉}}
=== 学名・外国語名 ===
クジラの[[学名]]や星座名の {{lang|la|Cetus}} は、「海獣、海の大魚、鯨」を意味する[[ラテン語]]で、{{lang-grc|[[Wiktionary:κῆτος|κῆτος ]]}} ({{lang|grc-latn|kētos}}) からの借入語。
なお、ラテン語本来の発音は「ケートゥス」であり、また属名などの構成要素として使われる際の英語の発音は「シータス」である。「ケタス」「セタス」はいずれも日本語独自の慣習読み。
また、本来のラテン語でクジラを意味する {{lang|la|balaena}} は[[ホッキョククジラ]]属の属名ともなっている。イタリア語 {{lang|it|balena}}、スペイン語 {{lang|es|ballena}}、フランス語 {{lang|fr|baleine}} などいずれもこの語に由来する。また、英語で「クジラのひげ」を意味する {{lang|en|baleen}} も同語源である。ちなみに、「ヒゲクジラ」のことを英語では {{lang|en|baleen whale}} という。
英語 {{lang|en|[[Wiktionary:whale|whale]]}} は、オランダ語の {{lang|nl|[[Wiktionary:nl:walvis|walvis]]}}、ドイツ語の {{lang|de|[[Wiktionary:de:Wal|Wal]]}}、スウェーデン語の {{lang|sv|[[Wiktionary:sv:val|val]]}} などとともに、[[ゲルマン祖語]] {{lang|gem|*khwalaz}} からの発展形である<ref>[http://starling.rinet.ru/cgi-bin/response.cgi?single=1&basename=/data/ie/germet&text_number=+++701&root=config Indo-European Etymology Database]</ref>。
=== クジラとイルカ ===
日本語<!--日本語とその話者が説明の対象であって「日本」ではありません。-->では、クジラの中でも成体で体長4m程度以下の比較的小型の[[ハクジラ類|ハクジラ]]の一部を[[イルカ]]と呼ぶが、生物分類上はクジラとイルカの間に明確な境界は無い。この曖昧さは日本語だけのものではなく、例えば[[英語]]では、ヒゲクジラの全てと大型ハクジラ類を {{lang|en|[[:en:Whale|Whale]]}}(クジラ)、小型のハクジラ類(概して日本語での「イルカ」)をさらに {{lang|en|[[:en:Dolphin|Dolphin]]}}(イルカ一般)と {{lang|en|[[:en:Porpoise|Porpoise]]}}(ネズミイルカ)の2つに分け、計3種類に区別して呼ばれるが、生物分類上は {{lang|en|Whale}} と {{lang|en|Dolphin}} の境界は明確ではない。
== 生物的特徴 ==
=== 祖先 ===
[[古生物学]]の世界では長い間、[[新生代]][[暁新世]]から[[始新世]]にかけて生息した肉食性[[有蹄動物]]の[[メソニクス目]] {{sname||Mesonychia}} がクジラ類の祖先にあたるとの見方が、伝統的かつ支配的であった。しかし、これに替わって[[2000年]]頃からは新たな知見に基づき、原始的な肉食性[[ウシ目|偶蹄類]]がそれであるとの見方が有力となっている(これに基づけばメソニクス目はクジラ及び偶蹄類と近縁ではあるが姉妹グループであり、クジラの祖先ではないとみなされている)。
始新世初期<ref>この時期には既にクジラは古鯨類であった。よって、理論上はさらなる過去に始まりがあってもよい。そこに後述のカバの進化系統との[[分水界|分水嶺]]がある。</ref>に、水中生活への依存度を高めていた陸生偶蹄類の一群が、その環境への適応を一段と進めて[[分化]](分岐して進化)していったものであるとの説である。この新たな知見とは、[[塩基配列]]の解析など進歩著しい[[分子系統学]]からのアプローチや、偶蹄類に近い特徴とクジラ類に固有の特徴を併せ持った[[距骨]]を具える四つ足の始原的クジラ類の[[化石]]発見からもたらされた[[形態学 (生物学)|形態学]]由来のものであった<ref>平たく言えば、血筋の分析と、他には無い骨格的特徴の観察、それらを基にした見極めの結果である。</ref>。また、分子系統学からは、クジラ類は[[カバ科]]と[[姉妹群]]であるとの指摘がなされている。これを既知の知見と照合すれば、クジラとカバの系統的分化は少なくとも暁新世の後期以前に起こっていたことになる。しかし、その時代からの化石がまだもたらされていない今日では、約5,300万年前(始新世初頭)が実証可能な最古の時代であり、[[パキケトゥス科]]をもって最古としている。彼らの段階ではクジラ類はまだ、水に潜って餌を獲ることの多い[[オオカミ]]大の四つ足動物でしかなかった。系統分類についてさらに詳しくは[[鯨偶蹄目]]を、進化経緯については[[古鯨類]]を参照のこと。
<!--{|
|
最初期の[[パキケトゥス]](左)では吻部先端にあった外鼻孔は、海生に適応した[[ロドケトゥス]](中央)では吻部の中間に移動。それが現生クジラ類(左。図はヒゲクジラ類の[[コククジラ]])では頭頂部に移って特殊化し、噴気孔となっている。]]
|
パキケトゥス(左)の段階では陸生動物の下顎骨を持っていたクジラ類であるが、[[バシロサウルス]](中央)では水生向きの[[骨伝導]]性に優れた構造体へと進化。さらに現生ハクジラ類(左。図はイルカ)では反響定位能力を担うメロン体が頭頂部前方(上[[眼窩]]部)に出現し、大きな発達を見せている。]]
|}-->
=== 生態 ===
クジラ類は全て[[水生]]であって主に[[海]]に生息するが、[[カワイルカ]]類など一部のものは[[川]]や[[汽水域]]に生息する。現生動物としては体長や体重が最大のグループを含み、特に[[シロナガスクジラ]]は動物として史上最大の質量(体重約130t)を誇る。一方で、クジラ目の中で最も小さいのは[[コガシラネズミイルカ]]であり、体長は約1.5m、体重は50kg程度に過ぎない。[[魚類]]や[[イカ]]類などの[[頭足類]]を食べるハクジラ類と、[[オキアミ]]などの[[プランクトン]]や群集性小魚類を食べるヒゲクジラ類では食性が異なるが、全て広い意味での肉食性である。ハクジラ類は海の生態系の最上位のほか、高位の多くを占め、ヒゲクジラ類も低位消費者の最大種を含む一大グループとして多様な進化に成功したものである。<!-- ヒゲクジラ類は最低位のプランクトンを摂食する低位消費者のはず。-->
クジラ類の[[耳]]には耳殻は無く、単なる直径2mm程度の穴であり、[[耳垢]]がつまっている。[[耳垢]]の層を数えることにより、ある程度の年齢を推測することができる。脂肪を蓄え、それによって水分を作ってすごす。汗腺は無い。頭部の背側に[[呼吸]]のための[[噴気孔 (生物学)|噴気孔]]を有す。噴気孔はヒゲクジラでは2個、ハクジラでは1個である。噴気孔は開閉が可能であり、頭部を水面上に出して噴気孔を開けて空気を吸い、それ以外の潜水する時などは噴気孔を閉じて水の浸入を防ぐ。[[いびき]]をかくこともある。[[糞]]は固形分が少なく液状に近い。[[哺乳類]]であるので体温は35-37℃で[[臍]](へそ)もある。乳首は2つあり、風邪もひく。泳ぐ速度は時速 3kmから50km程度。寿命は 30年から120年程度である。他の哺乳類同様、大型種ほど寿命が長い傾向にある。
=== 分類と系統 ===
鯨類は、[[古鯨類]](ムカシクジラ類)、[[ハクジラ類]]、[[ヒゲクジラ類]]の3つの分類群に大別されるが、古鯨類に属する種は全て絶滅しており、現生はヒゲクジラ小目とハクジラ小目の2小目である。ハクジラ類とヒゲクジラ類は一時単系統性が疑われたこともあるが、単系統ということで決着が着いた。「ハクジラ類・ヒゲクジラ類以外の全て」という形の古鯨類は単系統ではないため、廃したり、いくつかの科を除外したりすることも多い。
ハクジラ類は古鯨類と同様に獲物を捕えるための歯を持っている。また、ハクジラ類は、自分の出した音の反射を利用して獲物や障害物を探る[[反響定位]](エコーロケーション)のための器官、すなわち、上[[眼窩]]突起、顔の筋肉、鼻の反響定位器官を発達させていることを特徴とする。イルカ、[[シャチ]]、[[イッカク]]などもハクジラ類に属する。一方、ヒゲクジラ類は、口内にプランクトンやオキアミなどをこし取るための[[櫛]](くし)状の髭(ひげ)板を持つのが特徴で、歯は消失している。
[[ファイル:Cetacea.jpg|thumb|280px|鯨類の代表的な種<br />(1.3.6.7.はヒゲクジラ、2.4.5.8.はハクジラ)<br/>1. [[ホッキョククジラ]]<br/>2. [[シャチ]]<br/>3. [[セミクジラ]]<br/>4. [[マッコウクジラ]]<br/>5. [[イッカク]]<br/>6. [[シロナガスクジラ]]<br/>7. [[ナガスクジラ]]<br/>8. [[シロイルカ]]]]
==== 分類 ====
鯨類を[[無肉歯類]]とともに亜目として類鯨目{{sname|Cete}}に置き、ハクジラ類とヒゲクジラ類を小目として正鯨下目{{Sname|Autoceta}}にまとめることもあったが、のちに分子系統推定によって鯨類と偶蹄類の類縁関係が認められるようになり、無肉歯類との類縁性は否定されている<ref>日本哺乳類学会 種名・標本検討委員会 目名問題検討作業部会「[https://doi.org/10.11238/mammalianscience.43.127 哺乳類の高次分類群および分類階級の日本語名称の提案について]」『哺乳類科学』第43巻 2号、日本哺乳類学会、2003年、127-134頁。</ref>。
かつては[[カワイルカ]]を総括するカワイルカ上科 {{Sname|Platanistoidea}} を置くことがあったが、側系統であることが判明し、分割された。
* †[[古鯨類]] {{Sname||Archaeoceti}} (†=絶滅)
** †[[パキケトゥス科]] {{Sname||Pakicetidae}}
** †[[アンブロケトゥス|アンブロケトゥス科]] {{Sname||Ambulocetidae}}
** †[[レミングトノケトゥス|レミングトノケトゥス科]] {{Sname||Remingtonocetidae}}
** †[[プロトケトゥス|プロトケトゥス科]] {{Sname||Protocetidae}}
** †[[バシロサウルス科]] {{Sname||Basilosauridae}}
* [[正鯨類]] {{Sname||Autoceta}}
** [[ハクジラ類]] {{Sname||Odontoceti}}
*** †スクアロドン上科 (未分類上科) {{Sname||Squalodontoidea}}
**** †[[スクアロドン|スクアロドン科]] {{Sname||Squalodontidae}}
**** †[[ラブドステウス|ラブドステウス科]] {{Sname||Rhabdosteidae}} ({{Sname||Eurhinodelphidae}})
*** [[マッコウクジラ上科]] {{Sname||Physeteroidea}}
**** [[マッコウクジラ科]] {{Sname||Physeteridae}}
**** [[コマッコウ科]] {{Sname||Kogiidae}}
*** [[アカボウクジラ上科]] {{Sname||Ziphioidea}}
**** [[アカボウクジラ科]] {{Sname||Ziphiidae}}
*** [[インドカワイルカ上科]] {{Sname||Platanistoidea}}
**** [[インドカワイルカ科]] {{Sname||Platanistidae}}
*** †?[[ヨウスコウカワイルカ上科]] {{Sname||Lipotoidea}}
**** †?[[ヨウスコウカワイルカ科]] {{Sname||Lipotidae}}(絶滅?)
*** [[アマゾンカワイルカ上科]] {{Sname||Inoidea}}
**** [[アマゾンカワイルカ科]] {{Sname||Iniidae}}
**** [[ラプラタカワイルカ科]] {{Sname||Pontoporiidae}}
*** [[マイルカ上科]] {{Sname||Delphinoidea}}
**** [[マイルカ科]] {{Sname||Delphinidae}}
**** [[ネズミイルカ科]] {{Sname||Phocoenidae}}
**** [[イッカク科]] {{Sname||Monodontidae}}
** [[ヒゲクジラ類]] {{Sname||Mysticeti}}
*** [[セミクジラ科]] {{Sname||Balaenidae}}
*** [[コセミクジラ科]] {{Sname||Neobalaenidae}}
*** [[コククジラ科]] {{Sname||Eschrichtiidae}}
*** [[ナガスクジラ科]] {{Sname||Balaenopteridae}}
==== 系統 ====
現生鯨類の系統関係は次のとおり。現生では[[カバ科]](カバ下目、Ancodonta)が姉妹群であり、併せて[[単系統群]]の[[鯨凹歯類]](ケタンコドンタ、{{Sname||Cetancodonta}} もしくは {{Sname||Whippomorpha}})をなす。ナガスクジラ科の単系統性は疑わしく、コククジラ科と併せて単系統をなす。
{{Clade
|label1=鯨凹歯類
|1={{Clade
|1=カバ科
|label2=鯨類
|2={{Clade
|label1=ヒゲクジラ類
|1={{Clade
|1=セミクジラ科
|2={{Clade
|1=コセミクジラ科
|2=ナガスクジラ科 + コククジラ科
}}
}}
|label2=ハクジラ類
|2={{Clade
|label1=マッコウクジラ上科
|1={{Clade
|1=マッコウクジラ科
|2=コマッコウ科
}}
|2={{Clade
|1={{nowrap|アカボウクジラ科}}
|2={{Clade
|1={{nowrap|インドカワイルカ科}}
|label2= 
|2={{Clade
|1={{Clade
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|2={{nowrap|ラプラタカワイルカ科}}
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}}
|label2=マイルカ上科
|2={{Clade
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|2={{Clade
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|2={{nowrap|イッカク科}}
}}
}}
}}
}}
}}
}}
}}
}}
}}
== 保護 ==
[[ファイル:Southern right whale7.jpg|thumb|ホエールウォッチング, [[バルデス半島]] ([[アルゼンチン]])]]
国際的な鯨類の保護としては、IUCN([[国際自然保護連合]])が作成した[[レッドリスト]]に多くの種が掲載されており、国際的な商取引を規制する[[絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約]](ワシントン条約)にもクジラ目の全種が附属書IあるいはIIに掲げられている。また、[[1946年]]には[[国際捕鯨取締条約]]が採択され、鯨類の資源管理・保存・利用が進められている。
日本では伝統的にクジラ漁が盛んであったが、[[国際捕鯨委員会]]による商業捕鯨禁止の決定により、近年までは、指定された種のクジラについては調査捕鯨以外の[[捕鯨]]を実施していなかった。ただし、他のクジラやイルカについては引き続き捕鯨の対象になっている。また、近年では、「[[ホエールウォッチング]]」というクジラとの新たな接し方が[[観光]]資源として注目されてきている。
日本では[[環境省]]及び[[水産庁]]の法令等により保護・管理されている。環境省は[[哺乳類レッドリスト (環境省)|哺乳類レッドリスト]]では対象外としているが、[[絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律|種の保存法]]に基づく[[希少野生動植物種#国際希少野生動植物種|国際希少野生動植物種]]にはクジラ目の種も指定している<ref>絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律施行令[http://www.env.go.jp/nature/yasei/hozonho/list_international.pdf 別表第二 国際希少野生動植物種]</ref>。これは罰則規定がないワシントン条約の国内での実効的な運用を目的として設けられている。一方、水産庁は水産資源の持続的利用を目的として「日本の希少な野生水生生物に関するデータブック」という水生生物の[[レッドデータブック]]を発行しているが、その評価基準及びカテゴリーは最新のIUCNカテゴリーではなく、環境省の1991年版カテゴリー(IUCNカテゴリー ver.1)に準じており、また独自のカテゴリーも設けている<ref>水産庁編 『日本の希少な野生水生生物に関するデータブック』 財団法人自然環境研究センター、2000年、4頁。</ref>など、複数の専門家から問題点が指摘されている。たとえば、水産庁のレッドリストでは、生息数の変動が自然変動の範囲内である野生生物は「普通種」としてランクされる(例えば、10万頭が1万頭に激減しても、その後、大きな変動が無ければ「普通種」と評価される)<ref>マッコウクジラに関しては日本哺乳類学会では系統群ごとに評価しているにもかかわらず、水産庁では北太平洋全体で一つと認識されており、生息数もそれだけ大きく見積もられるような問題もある。</ref><!--といった水産庁の海洋野生生物の保全に対する基本的な認識に対する問題点 ←何を以て「基本的な認識」と称するのか不明。また、この「基本的な認識」という語は「全面的にダメ」という非難のニュアンスを伴って使われやすいことにも留意。-->という点を日本獣医畜産大学(現[[日本獣医生命科学大学]])の羽山伸一<!--存在しない人名項目への赤リンクは作らないこと!!-->助教授(当時)が指摘している。また、[[日本鯨類研究所]]では、捕鯨対象種の鯨種のうちシロナガスクジラとホッキョククジラ以外の資源は健全であると発表している<ref> 『[[そうだったのか!池上彰の学べるニュース]]』2010年7月21日放送分</ref>が、これは、全ての生息数を合算したものであり<ref>たとえば、健全とされた[[コククジラ]]については、北米側の系統群は保護の結果として増加が激しい反面、アジア側の系統群は僅か100頭程度である。また、[[ミンククジラ]]が[[クロミンククジラ]]とよく似た別種であるにもかかわらず、両方を足して100万頭とされている。</ref>、それに対して、元日本鯨類研究所の粕谷俊雄教授は、鯨の生息数は世界で均一ではなく、その地域の個体群ごとに資源の管理を行わなければいけないと指摘している<ref>[http://www.animalweb.jp/nekonome/labo/kasuya.html ねこの目通信 研究室訪問 粕谷研究室]</ref>。
=== IUCNレッドリスト ===
下記にIUCN([[国際自然保護連合]])が作成した2006年版[[レッドリスト]]に記載されている主な鯨類を示す。括弧内は分類された年で、「」内はIUCN日本委員会の訳語である。
; 「絶滅寸前」 (CR:Critically Endangered) 2種
* [[コガシラネズミイルカ]] {{snamei|Phocoena sinus}} (1996年)
* [[ヨウスコウカワイルカ科|ヨウスコウカワイルカ]] {{snamei|Lipotes vexillifer}} (2005年)
; 「絶滅危機」 (EN:Endangered) 7種
* [[イワシクジラ ]] {{snamei|Balaenoptera borealis}} ([[:en:Sei Whale|Sei Whale]]) (1996年)
* [[シロナガスクジラ]] {{snamei|Balaenoptera musculus}} (1996年)
* [[ナガスクジラ ]] {{snamei|Balaenoptera physalus}} (1996年)
* [[タイセイヨウセミクジラ]] {{snamei|Eubalaena glacialis}} ([[:en:Right whale|Right whale]]) (1996年)
* [[セミクジラ]] {{snamei|Eubalaena japonica}} (1996年)
* [[セッパリイルカ]] {{snamei|Cephalorhynchus hectori}} (2000年)
* [[カワイルカ科|インドカワイルカ]] {{snamei|Platanista gangetica}} (2004年)
; 「脆弱」 (VU:Vulnerable) 5種
* [[シロイルカ]] {{snamei|Delphinapterus leucas}} (1996年)
* [[アマゾンカワイルカ科|アマゾンカワイルカ]] {{snamei|Inia geoffrensis}} (1996年)
* [[ザトウクジラ]] {{snamei|Megaptera novaeangliae}} (1996年)
* [[ネズミイルカ]] {{snamei|Phocoena phocoena}} (1996年)
* [[マッコウクジラ]] {{snamei|Physeter macrocephalus}} (1996年)
; 「低リスク - 保全対策依存」 (LRcd:Lower Risk - Conservation Dependent) 14種
; 「低リスク - 準絶滅危惧」 (LRnt:Lower Risk - Near Threatened) 1種
; 「低リスク - 軽度懸念」 (LRlc:Lower Risk - Least Concern) 13種
; 「情報不足」 (DD:Data Deficient) 39種
=== ワシントン条約の附属書 ===
下記に[[絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約]](ワシントン条約)の附属書に掲げられた鯨目の種を示す。
; 附属書I
{{div col}}
* [[セミクジラ科]]
** [[ホッキョククジラ]]
** [[セミクジラ属]]全種
* [[ナガスクジラ科]]
** [[ミンククジラ]]
** ミナミミンククジラ([[クロミンククジラ]])
** [[イワシクジラ]]
** [[ニタリクジラ]]
** [[シロナガスクジラ]]
** [[ナガスクジラ]]
** [[ザトウクジラ]]
* [[マイルカ科]]
** [[カワゴンドウ]]
** [[コビトイルカ属]]全種
** [[ウスイロイルカ]]全種
* [[コククジラ科]]
** [[コククジラ]]
* [[アマゾンカワイルカ科]]
** [[ヨウスコウカワイルカ]]
* [[コセミクジラ科]]
** [[コセミクジラ]]
* [[ネズミイルカ科]]
** [[スナメリ]]
** [[コガシラネズミイルカ]]
* [[マッコウクジラ科]]
** [[マッコウクジラ]]
* [[カワイルカ科]]
** [[カワイルカ属]]全種
* [[アカボウイルカ科]]
** [[ツチクジラ属]]全種
** [[トックリクジラ属]]全種
{{div col end}}
; 附属書II
* 附属書Iに掲げる種以外の鯨目全種
== クジラの利用と加工品 ==
[[ファイル:Kujira bentou.JPG|thumb|170px|くじら弁当<br />(館山駅、2005年3月21日)]]
* [[鯨肉|肉]]
* [[鯨油|油脂]]
* 歯
* [[鯨ひげ]]
* [[鯨骨|骨]]
{{clear}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wikispecies|Cetacea}}
{{Commonscat|Cetacea}}
{{Wiktionary|鯨|whale}}
* [[クジラ類の進化史]]
* [[クジラ学]]
* [[潮吹き (くじら)|潮吹き]] / [[クジラの歌]]
* [[ライブストランディング]](クジラの、生体[[座礁]]現象) / [[鯨の爆発]]
* [[龍涎香]]
* [[はりはり鍋]]
* [[捕鯨問題]]
* [[くじら座]]:星座
* [[マリンジャンボ]]:航空機
== 参考文献、外部リンク ==
* [http://www.redlist.org/ 2006 IUCN Red List of Threatened Species]{{en icon}}- [[IUCNレッドリスト]]
* [http://svrsh1.kahaku.go.jp/mmml/flash/pictorial/main.html 海棲哺乳類図鑑] 国立科学博物館 動物研究部
* May-Collado, L., Agnarsson, I. (2006). Cytochrome b and Bayesian inference of whale phylogeny. Molecular Phylogenetics and Evolution 38, 344-354. [http://theridiidae.com/pdf/MayColladoandAgnarsson2006.pdf ]
* 羽山伸一著 『野生生物問題』 [[地人書館]]、2001年、155-159頁。ISBN 4-8052-0689-6
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[[カテゴリ:鯨類|*けいるい]] | 2003-02-19T04:27:51Z | 2023-12-12T02:03:05Z | false | false | false | [
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2,363 | マイカード | マイカードとは、セガが自社ゲーム機のSG-1000/SC-3000両シリーズ、及びセガマークIII/マスターシステムのソフトウェア供給媒体として使用したICカード型ROM。開発元は三菱樹脂。
それまで使用されていたROMカートリッジは大きさが嵩張り、流通上負荷が生じていた。そのためセガは日本市場でのSG-1000IIの発売と合わせ、1984年よりソフト外箱のサイズを大幅に縮小させ流通面での負荷低減を図ったものの、元のROMカートリッジサイズ以下にはならないため限界があった。またユーザー側から見ても大きなサイズのROMカートリッジは、収納面での負荷となると考えられ、セガは名刺サイズのICカード型ROMの採用に至る。
当初、セガは積極的にカード化を推進し、今後に発売する全てのゲームソフトをカード化する意向だった。しかし、時代の流れはゲームソフトの大容量化に向かっており、当時、最高で32KB(マークIII専用ソフトは最高64KB)までしか搭載出来なかったマイカードに対し、ROMカートリッジでは大容量化が比較的簡単かつ安価に実現出来た。そのため、セガは再びROMカートリッジ路線へ回帰し、マイカード発売開始の1年後である1986年7月に日本にて、それまでのサイズの4倍である1Mbit(128KB)搭載の大容量ROMカートリッジゴールドカートリッジを発売した。
ソフトの大容量化の流れに対応出来なかったマイカードは、その後徐々に姿を消していき、日本では1987年3月15日に発売されたウッディポップを最後に販売を終了した。
MSXで使用されたBEE CARDやPCエンジンで使用されたHuCARD(ヒューカード)とほぼ同等品で、開発元も同じ三菱樹脂だが、互換性はない。
セガマークIIIが発売される前の、1985年7月に日本で販売開始された。
初のカード対応ソフトはドラゴン・ワンとズーム909の2本で、両ソフトの初期出荷版には別売のカードキャッチャと呼ばれる変換アダプタが無料で同梱されていた。当初の対応機種はSG-1000シリーズ(SG-1000及びSG-1000II)とSC-3000シリーズ(SC-3000とSC-3000H)そして両シリーズの互換機(ツクダオリジナルのオセロマルチビジョンシリーズ・パイオニアのSD-G5)。全てマイカード発売前に登場した機種なのでカードスロットは付いておらず、マイカードを使用するには必ずカードキャッチャをROMカートリッジスロットへ挿入して使用する必要があった。
当初、セガは全てのROMカセットをICカード化する予定であり、マイカード発売開始時にセガソフトの型番(G-10xx)の最後の番号がG-1045だったため、最初のマイカードソフトである「ドラゴン・ワン」は"C-46"、「ズーム909」は"C-47"と型番の番号が継承された。セガの型番 "C"はICカードソフトの意であるまた、人気ROMカセットのソフトの再発売はマイカードで行われた。例えば、チャンピオンゴルフ(G-1005)はマイカードで再発売され、マイカード版型番は C-05である。なお、ROMカセット路線へ回帰後に登場したザ・キャッスルの型番は、そのルールを無視してG-1046の型番が振られた。
1985年10月に後継機のセガマークIII発売後は、マイカードは当初の対応機種であるSG-1000/SC-3000両シリーズおよびその互換機と、SG-1000/SC-3000シリーズの上位互換機であるセガマークIIIで使用出来るソフトを表す名称となった。当時、セガがそれまでに発売した全てのゲーム機で使用出来たため、マイカードは「セガ全機種用ソフト」「セガ全機種用マイカード」とも呼称された。
なお、マイカード後に登場したセガマークIIIと、マークIIIの互換機であるマスターシステムは、マイカードスロットを標準装備していたため、カードキャッチャを用いなくともマイカードをそのまま使用可能である。また、ROMカセットとマイカードは単にピン配列が異なるのみで互換性があるため、マークIII/マスターシステムのROMスロットにカードキャッチャを挿入し、マイカードソフトを刺しても正常動作する。
一方、メガドライブにマークIIIソフトを使用するためのアダプタであるメガアダプタを接続した状態の場合には、SG-1000/SC-3000シリーズとの互換性は無いため、マイカードソフトを使用する事は出来ない。
日本国内でのマイカード発売タイトルは以下の通り。
ニュージーランドでは、SG-1000/SC-3000の通常ソフト同様Grandstand Leisure Limited社によってカードキャッチャおよびマイカードの販売がされていた。
発売タイトルは以下の通り。
日本では、マイカードソフトの中で特にセガマークIII専用ソフトの物はマイカードマークIIIと呼ばれ、1985年10月のセガマークIII発売と同時に登場した。当初はマークIII用ソフトは全てマイカードマークIIIで発売された。しかし、1986年のゴールドカートリッジ登場と同時に次第に姿を消していき、翌1987年には姿を消した。マイカードマークIIIは、マークIII、マークIIIの互換機であるマスターシステム、そしてメガアダプタを接続したメガドライブで使用可能。マークIII以前のセガハード(SG-1000/SC-3000両シリーズ)とその互換機では使用出来ない。
日本以外では、マイカードマークIIIは「Sega Card」という名称で発売された。米国では1986年のマスターシステム(米国版マークIII)発売と同時に販売開始するなど、各国版共にマスターシステム発売と同時に展開された。日本版以外のマスターシステムでも日本版同様にカードスロットが標準装備なので、カードキャッチャを使用せず、そのままSega Card(マイカード)が使用可能である。後に発売された廉価版のマスターシステムである「マスターシステムII」ではカードスロットが省略されたため使用出来ない。
日本国内でのマイカード マークIII発売タイトルは以下の通り。
マイカードが登場した1985年に日本で発売予定のアナウンスがされたEPROM(UV-EPROM)を使用した書き換え可能なマイカードである。EPマイカードのEPとはEPROMの略である。日本では雑誌広告の掲載やチラシの配布等も行われ、発売前のロケーションテストとして、東京・二子玉川の玉川髙島屋にて、EPマイカードの販売及び書き換えが試験的に行われていた。結局、問屋・販売店の協力が得られず発売中止になった。そのため、その時に販売されたカードにプレミアが付いている。
販売予定価格はEPマイカード本体が5000円、書き換えは1800円。ロケーションテストが行われた玉川高島屋でも予定価格と同額で、下記の予定タイトルの全てが書き換え可能だった。EPマイカードは日本で試験販売が行われただけであり、日本以外の国では発売予定すらなかった。
販売店にEPROMの書換え機を設置し、ユーザーは有料で他のゲームに書き換える事が出来るシステムを計画していた。類似のシステムとして、のちに登場するファミリーコンピュータ ディスクシステムが存在する。
EPマイカードの裏側は通常と違い銀色のステッカーが貼られており、これをはがして書き換えを実施する。
EPマイカード本体に初期書き込み済みタイトルとしてはスタージャッカーとドラゴン・ワンの2種、書き換えタイトルは以下が予定されていた。
○=使用可/●=条件付き使用可/×=使用不可
当時、マイカード及びマイカードマークIIIソフトの説明書についている応募券を4枚集めてセガに送ると、マイカードを6枚まで収納できるマイカードホルダー(非売品)を全員プレゼントで貰うことができた。 | [
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"text": "当初、セガは全てのROMカセットをICカード化する予定であり、マイカード発売開始時にセガソフトの型番(G-10xx)の最後の番号がG-1045だったため、最初のマイカードソフトである「ドラゴン・ワン」は\"C-46\"、「ズーム909」は\"C-47\"と型番の番号が継承された。セガの型番 \"C\"はICカードソフトの意であるまた、人気ROMカセットのソフトの再発売はマイカードで行われた。例えば、チャンピオンゴルフ(G-1005)はマイカードで再発売され、マイカード版型番は C-05である。なお、ROMカセット路線へ回帰後に登場したザ・キャッスルの型番は、そのルールを無視してG-1046の型番が振られた。",
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"text": "発売タイトルは以下の通り。",
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"text": "日本では、マイカードソフトの中で特にセガマークIII専用ソフトの物はマイカードマークIIIと呼ばれ、1985年10月のセガマークIII発売と同時に登場した。当初はマークIII用ソフトは全てマイカードマークIIIで発売された。しかし、1986年のゴールドカートリッジ登場と同時に次第に姿を消していき、翌1987年には姿を消した。マイカードマークIIIは、マークIII、マークIIIの互換機であるマスターシステム、そしてメガアダプタを接続したメガドライブで使用可能。マークIII以前のセガハード(SG-1000/SC-3000両シリーズ)とその互換機では使用出来ない。",
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"text": "日本以外では、マイカードマークIIIは「Sega Card」という名称で発売された。米国では1986年のマスターシステム(米国版マークIII)発売と同時に販売開始するなど、各国版共にマスターシステム発売と同時に展開された。日本版以外のマスターシステムでも日本版同様にカードスロットが標準装備なので、カードキャッチャを使用せず、そのままSega Card(マイカード)が使用可能である。後に発売された廉価版のマスターシステムである「マスターシステムII」ではカードスロットが省略されたため使用出来ない。",
"title": "マイカード マークIII"
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"text": "日本国内でのマイカード マークIII発売タイトルは以下の通り。",
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"text": "マイカードが登場した1985年に日本で発売予定のアナウンスがされたEPROM(UV-EPROM)を使用した書き換え可能なマイカードである。EPマイカードのEPとはEPROMの略である。日本では雑誌広告の掲載やチラシの配布等も行われ、発売前のロケーションテストとして、東京・二子玉川の玉川髙島屋にて、EPマイカードの販売及び書き換えが試験的に行われていた。結局、問屋・販売店の協力が得られず発売中止になった。そのため、その時に販売されたカードにプレミアが付いている。",
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"text": "販売予定価格はEPマイカード本体が5000円、書き換えは1800円。ロケーションテストが行われた玉川高島屋でも予定価格と同額で、下記の予定タイトルの全てが書き換え可能だった。EPマイカードは日本で試験販売が行われただけであり、日本以外の国では発売予定すらなかった。",
"title": "EPマイカード"
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"text": "販売店にEPROMの書換え機を設置し、ユーザーは有料で他のゲームに書き換える事が出来るシステムを計画していた。類似のシステムとして、のちに登場するファミリーコンピュータ ディスクシステムが存在する。",
"title": "EPマイカード"
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{
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"text": "EPマイカードの裏側は通常と違い銀色のステッカーが貼られており、これをはがして書き換えを実施する。",
"title": "EPマイカード"
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"text": "EPマイカード本体に初期書き込み済みタイトルとしてはスタージャッカーとドラゴン・ワンの2種、書き換えタイトルは以下が予定されていた。",
"title": "EPマイカード"
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"text": "○=使用可/●=条件付き使用可/×=使用不可",
"title": "対応機種一覧"
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"text": "当時、マイカード及びマイカードマークIIIソフトの説明書についている応募券を4枚集めてセガに送ると、マイカードを6枚まで収納できるマイカードホルダー(非売品)を全員プレゼントで貰うことができた。",
"title": "その他"
}
] | マイカードとは、セガが自社ゲーム機のSG-1000/SC-3000両シリーズ、及びセガマークIII/マスターシステムのソフトウェア供給媒体として使用したICカード型ROM。開発元は三菱樹脂。 | {{Otheruses|[[セガ]]の[[ICカード]]型[[Read Only Memory|ROM]]}}
{{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]([[はしご高]])}}
'''マイカード'''とは、[[セガ]]が自社[[ゲーム機]]の[[SG-1000]]/[[SC-3000]]両シリーズ、及び[[セガマークIII]]/[[マスターシステム]]の[[ソフトウェア]]供給[[電子媒体|媒体]]として使用した[[ICカード]]型[[Read Only Memory|ROM]]。開発元は[[三菱樹脂]]。
== 概要 ==
それまで使用されていた[[ロムカセット|ROMカートリッジ]]は大きさが嵩張り、流通上負荷が生じていた。そのため[[セガ]]は日本市場での[[SG-1000II]]の発売と合わせ、[[1984年]]よりソフト外箱のサイズを大幅に縮小させ流通面での負荷低減を図ったものの、元の[[ロムカセット|ROMカートリッジ]]サイズ以下にはならないため限界があった。またユーザー側から見ても大きなサイズの[[ロムカセット|ROMカートリッジ]]は、収納面での負荷となると考えられ、セガは名刺サイズのICカード型ROMの採用に至る。
当初、セガは積極的にカード化を推進し、今後に発売する全てのゲームソフトをカード化する意向だった。しかし、時代の流れはゲームソフトの大容量化に向かっており、当時、最高で32[[キロバイト|KB]](マークIII専用ソフトは最高64KB)までしか搭載出来なかったマイカードに対し、[[ロムカセット|ROMカートリッジ]]では大容量化が比較的簡単かつ安価に実現出来た。そのため、セガは再び[[ロムカセット|ROMカートリッジ]]路線へ回帰し、マイカード発売開始の1年後である[[1986年]]7月に日本にて、それまでのサイズの4倍である1[[メガビット|Mbit]](128KB)搭載の大容量[[ロムカセット|ROMカートリッジ]]'''ゴールドカートリッジ'''を発売した。
ソフトの大容量化の流れに対応出来なかったマイカードは、その後徐々に姿を消していき、日本では[[1987年]][[3月15日]]に発売されたウッディポップを最後に販売を終了した。
[[MSX]]で使用された[[BEE CARD]]や[[PCエンジン]]で使用された[[HuCARD]](ヒューカード)とほぼ同等品で、開発元も同じ三菱樹脂だが、[[互換性]]はない。
== 仕様 ==
;容量
:最大32KB
;サイズ
:厚さ約2mm
;ピン
:36ピン(上部17ピン 下部19ピン)
== バリエーション ==
;マイカード
:[[SG-1000]]シリーズ(SG-1000及び[[SG-1000II]])、[[SC-3000]]シリーズ(SC-3000とSC-3000H)、[[ツクダオリジナル]]の[[オセロマルチビジョン]]シリーズ、[[パイオニア]]の[[SG-1000#バリエーション|SD-G5]]で使用可能なICカードROMソフト。SG-1000シリーズの[[上位互換]]機である[[セガマークIII]]および国内版[[マスターシステム]]でも使用可能。
;マイカードマークIII
:日本で発売されたセガマークIII専用のICカードROMソフト。国内版[[マスターシステム]]や[[メガアダプタ]]でも使用可能。
;Sega Card
:海外版[[マスターシステム]]専用のICカードROMソフト。Power Base Converter(海外版のメガアダプタ)でも使用可能。
;EPマイカード
:マスクROMを[[EPROM|EP-ROM]]にしてソフトウェアを書き換え可能としたマイカード。試験販売されたのみで殆ど流通していない。
== マイカード ==
=== 日本での動き ===
セガマークIIIが発売される前の、[[1985年]]7月に日本で販売開始された。
初のカード対応ソフトはドラゴン・ワンとズーム909の2本で、両ソフトの初期出荷版には別売のカードキャッチャ<ref>[https://sega.jp/fb/segahard/sc3000/c1000.html セガハード大百科 カードキャッチャ]</ref>と呼ばれる変換アダプタが無料で同梱されていた。当初の対応機種は[[SG-1000]]シリーズ(SG-1000及び[[SG-1000II]])と[[SC-3000]]シリーズ(SC-3000とSC-3000H)そして両シリーズの互換機([[ツクダオリジナル]]の[[オセロマルチビジョン]]シリーズ・[[パイオニア]]の[[SG-1000#バリエーション|SD-G5]])。全てマイカード発売前に登場した機種なのでカードスロットは付いておらず、マイカードを使用するには必ずカードキャッチャをROMカートリッジスロットへ挿入して使用する必要があった。
当初、セガは全てのROMカセットをICカード化する予定であり、マイカード発売開始時にセガソフトの型番(G-10xx)の最後の番号がG-1045だったため、最初のマイカードソフトである「ドラゴン・ワン」は"C-46"、「ズーム909」は"C-47"と型番の番号が継承された。セガの型番 "C"はICカードソフトの意であるまた、人気ROMカセットのソフトの再発売はマイカードで行われた。例えば、チャンピオンゴルフ(G-1005)はマイカードで再発売され、マイカード版型番は C-05である。なお、ROMカセット路線へ回帰後に登場した[[ザ・キャッスル]]の型番は、そのルールを無視してG-1046の型番が振られた。
1985年10月に後継機の[[セガマークIII]]発売後は、マイカードは当初の対応機種であるSG-1000/SC-3000両シリーズおよびその互換機と、SG-1000/SC-3000シリーズの[[上位互換]]機であるセガマークIIIで使用出来るソフトを表す名称となった。当時、セガがそれまでに発売した全てのゲーム機で使用出来たため、マイカードは「セガ全機種用ソフト」「セガ全機種用マイカード」とも呼称された。
なお、マイカード後に登場したセガマークIIIと、マークIIIの互換機である[[マスターシステム]]は、マイカードスロットを標準装備していたため、カードキャッチャを用いなくともマイカードをそのまま使用可能である。また、ROMカセットとマイカードは単にピン配列が異なるのみで互換性があるため、マークIII/マスターシステムのROMスロットにカードキャッチャを挿入し、マイカードソフトを刺しても正常動作する。
一方、[[メガドライブ]]にマークIIIソフトを使用するためのアダプタである[[メガアダプタ]]を接続した状態の場合には、SG-1000/SC-3000シリーズとの互換性は無いため、マイカードソフトを使用する事は出来ない。
日本国内でのマイカード発売タイトルは以下の通り。
*ドラゴン・ワン
*ズーム909
*[[チョップリフター]]
*[[ピットフォール|ピットフォールII]]
*どきどきペンギンランド
*ドロール
*[[ちゃっくんぽっぷ|チャックンポップ]]
*[[バンクパニック]]
*ロックンボルト
*[[エレベーターアクション]]
*[[倉庫番]]
*[[チャンピオンシップロードランナー]]
*ヒーロー
*チャンピオンアイスホッケー
*[[ハングオン (ゲーム)|ハングオンII]]
*[[ボンジャック]]
*[[ガルケーブ]]
*シーソー
*[[忍者プリンセス]]
*スーパータンク
*チャンピオン剣道
*[[ワンダーボーイ (ゲーム)|ワンダーボーイ]]
*チャンピオンビリヤード
*[[ザ・ブラックオニキス]]
*チャンピオンゴルフ(カートリッジ版の再発)
*モナコGP(カートリッジ版の再発)
*[[ジッピーレース]](カートリッジ版の再発)
*チャンピオンボクシング(カートリッジ版の再発)
*[[スターフォース]](カートリッジ版の再発)
=== ニュージーランドでの動き ===
ニュージーランドでは、SG-1000/SC-3000の通常ソフト同様Grandstand Leisure Limited社によってカードキャッチャおよびマイカードの販売がされていた。
発売タイトルは以下の通り。
*SEGA Galaga
*Zippy Race
*Lode Runner
*Hustle Chumy
*Zaxxon
*GP World
*Hyper Sports
*Dragon Wang
*Zoom 909
*Choplifter
*Pitfall2
*Penguin Land
*Drol
*Chack'n Pop
*Bank Panic
*Rock'n Bolt
*Elevator Action
*Sokoban
*Championship Lode Runner
*Ice Hockey
*Hangon II
*BombJack
*C-SO!
*Ninja Princess
*Wonderboy
== マイカード マークIII ==
日本では、マイカードソフトの中で特にセガマークIII専用ソフトの物はマイカードマークIIIと呼ばれ、1985年10月のセガマークIII発売と同時に登場した。当初はマークIII用ソフトは全てマイカードマークIIIで発売された。しかし、1986年のゴールドカートリッジ登場と同時に次第に姿を消していき、翌1987年には姿を消した。マイカードマークIIIは、マークIII、マークIIIの互換機であるマスターシステム、そして[[メガアダプタ]]を接続したメガドライブで使用可能。マークIII以前のセガハード(SG-1000/SC-3000両シリーズ)とその互換機では使用出来ない。
日本以外では、マイカードマークIIIは「Sega Card」という名称で発売された。米国では1986年のマスターシステム(米国版マークIII)発売と同時に販売開始するなど、各国版共にマスターシステム発売と同時に展開された。日本版以外のマスターシステムでも日本版同様にカードスロットが標準装備なので、カードキャッチャを使用せず、そのままSega Card(マイカード)が使用可能である。後に発売された廉価版のマスターシステムである「マスターシステムII」ではカードスロットが省略されたため使用出来ない。
日本国内でのマイカード マークIII発売タイトルは以下の通り。
*[[テディーボーイ・ブルース]]
*[[ハングオン]]
*アストロフラッシュ
*グレートサッカー
*グレートベースボール
*サテライト7
*不思議のお城ピットポット
*[[F-16 ファイティングファルコン]]
*[[青春スキャンダル]]
*コミカル・マシンガンジョー
*ゴーストハウス
*[[スパイvsスパイ]]
*グレートテニス
*[[ウッディポップ]]
== EPマイカード ==
マイカードが登場した1985年に日本で発売予定のアナウンスがされた[[EPROM]](UV-EPROM)を使用した書き換え可能なマイカードである。EPマイカードのEPとはEPROMの略である。日本では雑誌広告の掲載やチラシの配布等も行われ、発売前の[[ロケーションテスト]]として、東京・[[二子玉川]]の玉川[[髙島屋]]にて、EPマイカードの販売及び書き換えが試験的に行われていた。結局、問屋・販売店の協力が得られず発売中止になった。そのため、その時に販売されたカードにプレミアが付いている<ref>[http://www.suruga-ya.jp/product/detail/148003200001 EPマイカード 中古 セガSG1000ハード] ‐ [[エーツー|駿河屋]]</ref>。
販売予定価格はEPマイカード本体が5000円、書き換えは1800円。ロケーションテストが行われた玉川高島屋でも予定価格と同額で、下記の予定タイトルの全てが書き換え可能だった。EPマイカードは日本で試験販売が行われただけであり、日本以外の国では発売予定すらなかった。
販売店にEPROMの書換え機を設置し、ユーザーは有料で他のゲームに書き換える事が出来るシステムを計画していた。類似のシステムとして、のちに登場する[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]が存在する。
EPマイカードの裏側は通常と違い銀色のステッカーが貼られており、これをはがして書き換えを実施する<ref>[http://www.smspower.org/sites/Nakat-20041001/s_EP.htm 幻(?)のセガ「EPマイカード」]</ref>。
EPマイカード本体に初期書き込み済みタイトルとしてはスタージャッカーとドラゴン・ワンの2種、書き換えタイトルは以下が予定されていた<ref>[http://www7b.biglobe.ne.jp/~tera2009/sega/datas/ep_rom.html EP-マイカード!]</ref>。
*スタージャッカー
*ボーダーライン
*[[トランキライザーガン|サファリハンティング]]
*セガフリッパー
*パッカー
*サファリレース
*シンドバッドミステリー
*どきどきペンギンランド
*ドラゴン・ワン
*ガルケーブ(当初は書き換え専用タイトルだった)
*テディーボーイブルース(マークIII専用)
*グレートベースボール(マークIII専用)
*グレートサッカー(マークIII専用)
*アストロフラッシュ(マークIII専用)
== 対応機種一覧 ==
{{独自研究|date=2016年6月}}
○=使用可/●=条件付き使用可/×=使用不可
{| class="wikitable" style="text-align:center"
! 機種名
! マイカード
! マイカードマークIII
! SegaCard<br />(日本以外向けのマイカードマークIII)
! EPマイカード
! 備考
|-
! SG-1000<br />(セガ・エンタープライゼス)
| ●
| ×
| ×
| ●
| rowspan="4"|使用にはカードキャッチャが必要。<br />EPマイカードは全機種用ソフトのみ使用可。<br />各国版は相互完全互換が有るが、当該国で発売された物以外はメーカー未保証。
|-
! SG-1000II<br />(セガ・エンタープライゼス)
| ●
| ×
| ×
| ●
|-
! SC-3000<br />(セガ・エンタープライゼス)
| ●
| ×
| ×
| ●
|-
! SC-3000H<br />(セガ・エンタープライゼス)
| ●
| ×
| ×
| ●
|-
! オセロマルチビジョン(FG-1000)<br />(ツクダオリジナル)
| ●
| ×
| ×
| ●
| rowspan="3"|使用にはカードキャッチャが必要。<br />EPマイカードは全機種用ソフトのみ使用可。<br />日本でのみ発売された。
|-
! オセロマルチビジョン2(FG-2000)<br />(ツクダオリジナル)
| ●
| ×
| ×
| ●
|-
! SD-G5<br />(パイオニア)
| ●
| ×
| ×
| ●
|-
! セガマークIII<br />(セガ・エンタープライゼス)
| ●
| ○
| ●
| ●
| rowspan="2"|SegaCardは公式には非対応でメーカー未保証。<br />マイカードは使用可能だが、若干色が変化する(EPマイカードの全機種用も同じ)。詳しくは[[セガマークIII#使用可能ソフト]]を参照のこと。
|-
! マスターシステム(日本版)<br />(セガ・エンタープライゼス)
| ●
| ○
| ●
| ●
|-
! マスターシステム(米国版)<br />(セガ オブ アメリカ)
| ●
| ●
| ○
| ●
| rowspan="2"|日本版のソフトは公式には非対応でメーカー未保証。
|-
! マスターシステム(欧州版/ブラジル版)<br />(バージン他)
| ●
| ●
| ○
| ●
|-
! [[メガアダプタ]]<br />(セガ・エンタープライゼス)
| ×
| ○
| ●
| ●
| マイカード使用不可。SegaCardは公式には非対応でメーカー未保証。<br />メガアダプタが使用出来れば他のメガドライブ互換機でも同様。
|-
! レトロフリーク用ギアコンバーター<br />([[サイバーガジェット]])
| ×
| ○
| ●
| ●
| メガアダプタと同等の互換機能を持つ<ref>[http://www.cybergadget.co.jp/products/4544859022616.html レトロフリーク用ギアコンバーター|サイバーガジェット]</ref>。
|-
! レトロフリーク用GEAR CONVERTER for SMS<br />(サイバーガジェット)
| ×
| ○
| ●
| ●
| 海外用カートリッジに対応させた以外はレトロフリーク用ギアコンバーターと互換機能は同等。<ref>[http://www.cybergadget.co.jp/products/4544859027093.html レトロフリーク用GEAR CONVERTER for SMS|サイバーガジェット]</ref>。
|-
! パワーベースコンバータ<br />(セガ オブ アメリカ)
| ×
| ●
| ○
| ●
| 米国版メガアダプタ(米国版メガドライブであるジェネシスで使用可能)。<br />SegaCardには勿論対応。日本のマイカードマークIIIは公式には非対応でメーカー未保証。<br />日本のメガアダプタ同様マイカード(全機種用)は使用不可。
|-
! マスターシステムコンバータ2
| ×
| ×
| ×
| ×
| 欧州版メガアダプタ。カードスロットが削除されておりマイカードやSegaCardには非対応。
<!--
|-
! [[セガサターン]]以降のセガ家庭用ゲーム機
! ×
! ×
! ×
! ×
! マイカードの接続に必要なカートリッジスロットが存在しない。また、セガサターンは接触不良の多発する構造上の欠陥により、カードキャッチャに相当する変換アダプタを作ること自体が現実的ではない。
-->
|}
== その他 ==
当時、マイカード及びマイカードマークIIIソフトの説明書についている応募券を4枚集めてセガに送ると、マイカードを6枚まで収納できるマイカードホルダー(非売品)を全員プレゼントで貰うことができた<ref>[http://www7b.biglobe.ne.jp/~tera2009/sega/item/holder.html MY CARD HOLDER]</ref>。
== 関連項目 ==
*[[HuCARD]]([[PCエンジン]]用)
*[[BEE CARD]]([[MSX]]用)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 外部リンク ==
*[https://sega.jp/fb/segahard/sc3000/mycard.html セガハード大百科 セガ マイカード]
{{家庭用ゲーム機/セガ}}
[[Category:メモリーカード|まいかあと]]
[[Category:SG-1000|まいかあと]]
[[Category:セガ・マークIII&マスターシステム|まいかあと]] | 2003-02-19T04:32:49Z | 2023-11-08T22:52:01Z | false | false | false | [
"Template:Reflist",
"Template:家庭用ゲーム機/セガ",
"Template:Otheruses",
"Template:独自研究",
"Template:脚注ヘルプ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89 |
2,364 | アーケードゲーム | アーケードゲーム(英語: arcade game)は、業務用ゲーム機(アーケードゲーム機)によるゲームのこと。
通常の辞典、ゲームを主題とする辞典によってはアーケードゲームが和製英語とされているが正しくはなく、タイニーPはゲームセンターが和製英語として説明されたのを文中に登場するアーケードゲームも和製英語だと思い込まれた可能性を挙げた。また、アーケード街、商店街にあるとする説明もあるが、Amusement Arcade、Penny Arcadeのようにゲームセンターを意味する英語が生まれ、そこに設置されたゲーム機器、設備がArcade Gameと呼ばれるようになったためアーケード街と関連付けることではない。
Amusement Arcadeはアメリカでは1902年の新聞広告で大文字で始まる言葉として使われ、それは固有名詞として捉えられていたことになる。そのときは路上に置かれた機器ではなく建物内の店舗名だった。似た言葉に劇場を意味するamusement center、amusement hall、建物内の娯楽室を意味するamusement parlor、射的を意味するshooting gallery、ボウリング場を意味するbowling alleyといったものがあったが、Penny Arcade、Amusement Arcadeはそれらと混ざらず、賑やか、楽しそうなものが多くある様を思い起こさせる店名だったとみられる。
日本の業界ではアメリカを主に輸入元としていたこともあって業界ではアーケードゲームを業務用ゲーム機の意味で使ったが、1970年代中頃にはメダルゲームやコンピュータゲームを含むことはほとんどなく、業界ではそれが新興勢力として注目されたためとみられ、レトロニウムではないがそれまでのゲーム機器の総称としてアーケードゲーム機の語が使われたと考えられる。その後、テレビゲームという言葉も広まったがゲームメーカーによっては広告、カタログなどでビデオゲームの語を使い続けたせいか1980年代初頭の一部マニアには業務用に対してだけビデオゲームと呼ぶようになった。パソコン雑誌の中には北米市場の影響を受けてPC向けアクションゲームなどをアーケードゲームと呼んでいたところもあった。
こういった状況が変わり始めたのは業務用ゲーム界が一般消費者向けにも目を向け始めたのと同時期で、北米で業務用家庭用の両方が大人気となり、日本でも家庭用や安価なPCの市場が注目され、ホームユース、ホーム市場などと呼ばれた。そして、業務用を意味する言葉としてアーケードが更に使われるようになった。ビデオゲームの語はまだまだマニアには使われていたが、『ドラゴンクエストII』『ドラゴンクエストIII』などのファミコンRPGが流行し、ファミコンにも業務用にもなかったジャンルの先進性があると捉えられたことや単にゲームだけでコンピュータゲームを意味することが子供にも広まり、それと比べてビデオゲームは語呂の長い言葉となったこと、インベーダーゲームブームから10年近く経ったことやレトロブームリメイクブームの波でコンピュータゲームの歴史を俯瞰的に捉えることができるようになったこと、X68000、PCエンジン、メガドライブなど性能が向上したPC、家庭用ゲーム機が発売され業務用作品がそれらへ移植され、オリジナルと比較されるようになったことで1980年代末にはビデオゲームと呼ぶことは廃れ、アーケードがよく使われるようになったとみられる。なお、ファミ通において、コーナー名としては2000年代でもビデオゲームTOP10のように使用例がある。
古くは典型的、代表的なものとしてはピンボールがあり、電気、機械的な装置だった。
不特定多数を対象とした世界初のコンピュータゲームは1958年に米国のブルックヘブン国立研究所で物理学者のウィリアム・ヒギンボーサムがオシロスコープを使って製作したテニスゲーム『Tennis for Two』とされている。これは業務用ではなくブルックヘブン国立研究所の定期公開日の見学者用にあり合わせの機材で製作されたものであったが予想外の人気を博した。
世界初のアーケードゲームは1971年にナッチングから発売された『コンピュータースペース』である。この『コンピュータースペース』は生産台数約1500台と少なめで、あまりヒットしなかったが後世のゲーム文化に与えた影響は大きかった。
その翌年の1972年にアタリ社がゲームシステム『ポン』を発表し、これが大ヒットしたことから『ポン』が「業務用ゲーム」の元祖と呼ばれている。
日本国内では主にゲームセンターや遊園地などのアミューズメントスポットに設置され、1プレイごとに料金を徴収するのが一般的である。これらアミューズメント機器を設置する施設の運営は、風俗営業法に従って行われているため、全国共通で18歳未満は22時以降の入店禁止の制限が設けられている。同時に、各都道府県の条例により16歳未満、18歳未満の入店制限時間を別個に設定している(法律や規制に関する詳細はゲームセンターの項を参照)。
近年では、時間当たりの入場料金を支払い、ダーツやビリヤードその他スポーツアトラクションが遊び放題となる施設にアーケードゲームを設置する例も存在する。店内のゲーム機はフリープレイ設定であることがほとんどであり、風俗営業法の規制対象外の店が多い。ペイアウトを伴うメダルゲームやプライズゲーム、トレーディングカードアーケードゲームまたはプリクラなどは設置されない(例外あり)。
ビデオゲームの売上低下は著しく、1997年以降はプライズゲームに、2001年以降はメダルゲームよりも下回る状況が続いている。
2020年代に入ると、新型コロナウイルス感染症の感染拡大に伴う外出自粛などの影響でゲームセンターの来店者数がさらに激減し、店舗数も減少した。これに関連してサービスを終了するアーケードゲーム作品も存在した。
料金は地域、店鋪、ゲームの種類等により差があるが、一般的には10円 - 500円程度。筐体に直接硬貨を投入する場合がほとんどであるが、プリペイドカードや電子マネー(Edyなど)を用いたり、事前にメダル貸出機でメダルを借りて、そのメダルを使用する場合もある(メダルゲーム)。なお、紙幣を投入できる機構を備えたゲーム機を製造及び設置することは日本国内においては違法である。
海外では、現金の代わりに、トークンを使用する例もある(日本国内でも少数ながらトークン制の店舗が存在)。現金を、払い戻しができないトークンと呼ばれるメダルに予め換えさせ、硬貨と同様にゲーム機に投入させて料金とするものである。メリットは現金をトークンの貸出機で集中的に管理する事ができる点にある。また、一度に両替する金額によってトークンの単価を変えることで客にスケールメリットをアピール(例:1ドル3トークンとして、通常50セント1プレイのゲームを1トークン(約33セント)でプレイできる、等)して、一度に多額の現金をトークンに換えさせるよう促す効果(と同時に、ほとんどゲームをしないライト客からは相応に高単価の料金を徴収する効果)もある。
アーケードゲームは大別して、コンピュータゲームとエレメカの2種類に分類できる。このほか、稀にカジノテーブルやボードゲーム、トレーディングカードゲームTCGのデュエルスペースなどを設置してアナログゲーム=非電源ゲームを運営する場合もある。カジノテーブルのみを設置したアナログゲーム専門店はカジノバーと呼ばれるが、ゲームセンターと同じ扱いを受けるため、風営法による営業の認可を得る必要がある。一方、TCG専門のデュエルスペースは一般的に同法による認可は必要とされていないが、場所貸しだけでなく、店員がゲームに関与する(ジャッジやゲームマスター、あるいは1人客の相手役をするなど)する場合は風俗営業として認可が必要となる)。
ゲーム基板は、基本的に1枚につき1タイトルであり、別のゲームを稼動させるには筐体の中の基板を交換する必要があるが、家庭用ゲーム機のようにメディアの交換で別ゲームを稼動できる、システム基板と呼ばれる物も存在する。システム基板のアーキテクチャは従来はメーカー独自設計が多かったが、近年ではコスト削減のため(また、独自基板を開発しなくても充分オーバースペックのシステム基板が利用できるという理由もあって)、家庭用ゲーム機のアーキテクチャを流用したものやPCをベースとしたものが増えている。少なくとも1990年代までは、独自開発の最先端技術を投入することで、家庭では体験できない高品質なグラフィックを売りにしていたが、2000年代に入って、コストパフォーマンスの問題からアーケードゲーム機器においても家庭用ゲーム機のアーキテクチャの流用に続き、家庭用PCのアーキテクチャを流用するようになったため、グラフィックでは家庭用PCの方が上回るようになった。
一方、プレイごとにお金を払うという性質を生かして、プレイが成功すると景品がもらえるプライズゲームという種類のゲームもある。これはエレメカに分類され、いわゆるコンピュータゲームのような画面がなかったり、あっても簡易なものであることが多い(ビデオゲームを使用したプライズ機は認められていないため)。なお、プレイの成否を問わず必ず何らかの商品がもらえる構造のゲームは、法律上はゲーム機とは見なされず自動販売機に分類される(アミューズメントベンダー、あるいは単にベンダーと呼ばれる)。このため、ビデオゲームと組み合わせた機器も存在する。
基本的にメンテナンスはオペレーター(アミューズメント施設運営者)が行うが、メーカーが定期点検を行う場合がある。
メーカーが筐体やシステム基板をサポートする期間はタイトルによって異なるが、大半は部品調達難などの理由でメーカーサポートを終了する場合が多い。基板や筐体によっては20年から35年もサポートを行っていたタイトルもある。メーカーが事業撤退もしくは経営破綻した場合は、グループ企業への事業移管や同業他社へ事業譲渡した場合などを除き、一切メーカーサポートを受けることはできない。バンダイナムコエンターテインメント(当時)は2015年7月に、セガ・インタラクティブ(当時)は2016年11月に、メーカーがサポートする期間を基本的にPCや家庭用ゲーム機並みにすることを発表している。
ネットワーク対応タイトルにおけるネットワークサービス終了が行われる時間は、23時59分もしくは、風営法による営業禁止時間(0時〜6時)に行われることがほとんどである。
主要メーカーの中には、バンダイナムコアミューズメントのアーケードゲームのメンテナンスやサポート業務をバンダイナムコテクニカとバンダイロジパルが、セガのアーケードゲームのメンテナンスやサポート業務をセガ・ロジスティクスサービスがそれぞれ手掛けているように、グループ内でアーケードゲームのメンテナンスやサポートを行う会社がある。他の主要メーカーでは、タイトーは自社でアーケードゲームのメンテナンスやサポートを行っている他、アミューズメント施設運営者を対象としたタイトーアミューズメントスクールを厚木テクニカル&ロジスティクスセンター内に設置している。コナミアミューズメントは、自社でアーケードゲームのメンテナンスやサポートを行っている。サービス拠点は、バンダイロジパルとタイトーが全国各地に設置しているのに対し、セガ・ロジスティクスサービスはサービス拠点が4か所(東京都大田区、千葉県佐倉市、大阪市、福岡市)しかない。カプコンは以前は三重県伊賀市にあるサービスセンターでメンテナンスやサポート業務を行っていたが、2019年4月にセガ・ロジスティクスサービスへ業務が移管された。
主要メーカー以外は、メンテナンスやサポートをメーカー自体が行うか、バンダイロジパルやセガ・ロジスティクスサービス、タイトーに委託する場合が多い。
メーカーの筐体サポートサイトは、メーカーと取引があるオペレーターや筐体レンタル業者しか会員になれず、メーカーと取引がないオペレーター、筐体レンタル業者、個人ユーザーの閲覧可能なページには制限がある。そのため、バンダイナムコアミューズメント製品とタイトー製品のメーカー修理サポートは、取引がある法人が所有する筐体に限定されている(個人所有の筐体や取引がない法人が所有する筐体は、取引がある法人<購入した販売代理店など>を経由することになる)。カプコン製品のサポートは、セガ・ロジスティクスサービスの約款が適用される。会員であっても、会員であるオペレーターや筐体レンタル業者が、部品代金の未払い、倒産、風営法並びに各都道府県の条例に違反した場合などは会員資格を取り消すメーカーもある。
筐体とはゲーム機の外殻のことや、ゲームの機械や付帯設備を収める箱をいう。
単体で発売されるゲーム基板を入れ替えて、コントロールパネルやボタンを換装することにより、汎用的に様々なゲームに使用することができる。1990年代以降、汎用筐体といえば後述のミディタイプ筐体を指すことが普通である。ゲーム業界内部での流行に合わせ、年代毎に特徴的な付加機能(例として、ヘッドフォン端子、プリペイドカード用スロット、家庭用ゲーム機のメモリーカードやコントローラー用の端子、ICカードスロットなど)が装備されているので、それを元に世代を推測することもできる。
プレイヤーが立ってゲームを行う筐体で、モニター画面は床に対してほぼ垂直か、やや仰角をつけて取り付けられている場合が多い。多くは冷蔵庫やタンスの様な直方体に近い形をしているが、新しいタイプではAVラックのような洗練されたデザインのものもある。
小型のアップライト筐体。使用するモニターが小さく、マーキー(看板)も簡素化するか、または完全に除去して、小型化が図られている。シングルロケやSCロケなど、小さな子供客が多いロケーションで多く用いられる。
日本では駄菓子屋の軒先など屋外に設置する筐体がオレンジ色だったことから『オレンジ筐体』や『駄菓子屋筐体』と俗称される。
米国においては、キャバレータイプあるいはキャバレー筐体(cabaret type/cabinet)と称する。
アップライトに似て、モニター画面は床に対してほぼ垂直か、やや仰角をつけて取り付けられているが、筐体全体の背が低く、プレイヤーは椅子に座ってゲームを行う点がアップライトとは異なる。そのため家庭用のモニターとアスペクト比が違う。解像度は当時のブラウン管のテレビより高い。テーブル筐体に代わるビデオゲーム用汎用筐体として、1985年頃より普及し始め、2007年現在では日本国内のメーカーが製造するビデオゲーム用汎用筐体の殆どがこのタイプになっている。筐体上部にゲームの目的や基本的な操作方法を説明するインストラクションカードを入れて掲示できる。
「ミディタイプ筐体」との呼称は、アミューズメント産業出版社が刊行する遊戯機械総合年鑑においては、1987年版のエイブルコーポレーション及びエス・エヌ・ケイ社製汎用筐体の説明文に初めて登場し、更に同年鑑の1990年版では、エイブルコーポレーション、カシオゲーム社、カプコン、ジャレコ、タイトー製汎用筐体の説明文に使用されるまでに至っている。しかし、この呼称はテーブル筐体の減少と並行して使用頻度が下がり、2007年現在では単に「汎用筐体」と呼ばれるか、または商品名で呼ばれるのが普通となっている。
モニター画面が床に対して水平に設置されており、ガラスの天板の上にはカクテルグラスを置くことが出来ることからその名が付いた。主に米国で使用される名称で、後述するテーブル筐体もこの一種とされる。
テーブル筐体は1976年にタイトーが「ブロックくずし」のゲームを製造した際、喫茶店に納入するために開発したものである。1978年に同社からリリースされた『スペースインベーダー』の大ヒットで爆発的に全国に普及した。1980年代前半までは業務用ビデオゲームと言えば、殆どがこれであった。1990年代中盤までは、ゲームセンターの総店舗数の中でもゲーム機を導入した喫茶店は、風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律の認可店舗19406店舗のうち8768店で、それ以外の風適法適用が必要ない店舗にも置かれていた。風適法の施行後は、喫茶店側もゲームが置ける面積(敷地面積の10%以下)や営業時間を抑えなければゲームセンターとしての申請を行わなければならず、1981年秋以降に摘発が多数発生したことなどが影響して、テーブル筐体などをサービスとする喫茶店は減少した。インストラクションカードは画面の両脇に天板の下に挟み込んで掲示する。
飲食店のカウンター上に設置することを目的とした筐体。ソリティアに類するパズルゲームが入っていることが多いが、ビデオスロットやビデオポーカーなど、しばしばギャンブルをテーマとするゲームが入っている場合もある。
ゲームセンター、屋内型大型施設等のゲームコーナー等に置かれる50インチ以上の後投影型プロジェクタを使用した汎用筐体。プロジェクタ部とプレイヤー部を分離し、ゲーム基板はプレイヤーコンパネ部下の一体化されたBOX内に内包される。
いわゆる大型筐体ゲーム。
コクピット筐体は自動車や宇宙船のコクピットを模した筐体に座ってプレイするもので、例えばレースゲームならば、レースカーのコクピットを模した大型の筐体でプレイするようなゲームであり、よりリアルな臨場感を味わうことができる。
コクピット筐体の変形バリエーションで、プレイヤーが乗り物型の筐体に乗ったり、操作する事で筐体が動いたりするもの。『モナコGP』以降のセガが得意とする。近年はスケートボードや自転車から、犬の散歩にいたるまで、あらゆるジャンルが体感筐体として作られている。中にはプレイヤーが筐体に乗り込み、筐体そのものがゲーム内容に合わせて動くことで臨場感を出すもの(R-360など)も存在した。
専用筐体の一つであるが、ゲームの過程でカードを使用するもの。筐体の形状は様々ではあるが、特徴的なのはカードを読み取る機構(バーコードを読み取るだけの単純なものから、位置や上下方向を認識するものなどもある)と、新規カードを排出する機構を備えていること。カードの情報を読み取ることで画面内のキャラクタの属性を変化させたり、カードを筐体上で移動させることでキャラクタを移動できるなど、トレーディングカードとビデオゲームを組み合わせたゲーム性になっている。また、ゲームを行うごとに新規カードが払い出されるようになっている。一般に、トレーディングカードゲーム(TCG)ではプレイヤーがカードを多く所有するほど、使用できるキャラクタや技などが増え、ゲームを有利に進められることが多い。この筐体の場合、プレイ毎に新たなカードを入手できるため、プレイ回数を重ねれば重ねるほどゲームを有利に進めやすくなり、結果として繰り返しプレイされることが期待できる。
アーケードを家庭用に移植する場合、専用筐体で遊べない事は百歩譲ったとしても、カードの排出機能自体は家庭用で再現出来ない(もっとも、TCGとコンピュータゲームの融合はカードe(任天堂)など家庭用ゲームの方が先である)。故に現在はアーケードでしか実現できない家庭用に対するアドバンテージとなっており、『オシャレ魔女♥ラブandベリー』の様な児童向けゲームまで多数登場している。
ジャンルの名称としては、「トレーディングカードアーケードゲーム」と呼ばれている。
なお、前述の通り法律上は自動販売機(ベンダー)という位置付けになる。
1990年代まではアーケードゲームが最先端技術の実験場として機能していたが、後にパソコンの技術に統一され、現代ではパソコンゲームに最先端が移行している。
1990年代後半より、1980年代〜1990年代前半のアーケードゲームタイトルを、アーケードにおける仕様を極力再現した単品または複数カップリングによるコンシューマ移植ソフトとしてリリースされるようになっている。これらのゲームはコントローラーの任意のボタン(SELECTボタンなど)でクレジットの投入を再現できるものが多い。2020年代にはアーケードゲーム筐体をモチーフとした復刻ゲーム機が登場している。
主な一例
(アーケ―ドゲーム関連企業)
(アーケードゲーム機製造企業) | [
{
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"text": "アーケードゲーム(英語: arcade game)は、業務用ゲーム機(アーケードゲーム機)によるゲームのこと。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
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"text": "通常の辞典、ゲームを主題とする辞典によってはアーケードゲームが和製英語とされているが正しくはなく、タイニーPはゲームセンターが和製英語として説明されたのを文中に登場するアーケードゲームも和製英語だと思い込まれた可能性を挙げた。また、アーケード街、商店街にあるとする説明もあるが、Amusement Arcade、Penny Arcadeのようにゲームセンターを意味する英語が生まれ、そこに設置されたゲーム機器、設備がArcade Gameと呼ばれるようになったためアーケード街と関連付けることではない。",
"title": "呼称"
},
{
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"tag": "p",
"text": "Amusement Arcadeはアメリカでは1902年の新聞広告で大文字で始まる言葉として使われ、それは固有名詞として捉えられていたことになる。そのときは路上に置かれた機器ではなく建物内の店舗名だった。似た言葉に劇場を意味するamusement center、amusement hall、建物内の娯楽室を意味するamusement parlor、射的を意味するshooting gallery、ボウリング場を意味するbowling alleyといったものがあったが、Penny Arcade、Amusement Arcadeはそれらと混ざらず、賑やか、楽しそうなものが多くある様を思い起こさせる店名だったとみられる。",
"title": "呼称"
},
{
"paragraph_id": 3,
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"text": "日本の業界ではアメリカを主に輸入元としていたこともあって業界ではアーケードゲームを業務用ゲーム機の意味で使ったが、1970年代中頃にはメダルゲームやコンピュータゲームを含むことはほとんどなく、業界ではそれが新興勢力として注目されたためとみられ、レトロニウムではないがそれまでのゲーム機器の総称としてアーケードゲーム機の語が使われたと考えられる。その後、テレビゲームという言葉も広まったがゲームメーカーによっては広告、カタログなどでビデオゲームの語を使い続けたせいか1980年代初頭の一部マニアには業務用に対してだけビデオゲームと呼ぶようになった。パソコン雑誌の中には北米市場の影響を受けてPC向けアクションゲームなどをアーケードゲームと呼んでいたところもあった。",
"title": "呼称"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "こういった状況が変わり始めたのは業務用ゲーム界が一般消費者向けにも目を向け始めたのと同時期で、北米で業務用家庭用の両方が大人気となり、日本でも家庭用や安価なPCの市場が注目され、ホームユース、ホーム市場などと呼ばれた。そして、業務用を意味する言葉としてアーケードが更に使われるようになった。ビデオゲームの語はまだまだマニアには使われていたが、『ドラゴンクエストII』『ドラゴンクエストIII』などのファミコンRPGが流行し、ファミコンにも業務用にもなかったジャンルの先進性があると捉えられたことや単にゲームだけでコンピュータゲームを意味することが子供にも広まり、それと比べてビデオゲームは語呂の長い言葉となったこと、インベーダーゲームブームから10年近く経ったことやレトロブームリメイクブームの波でコンピュータゲームの歴史を俯瞰的に捉えることができるようになったこと、X68000、PCエンジン、メガドライブなど性能が向上したPC、家庭用ゲーム機が発売され業務用作品がそれらへ移植され、オリジナルと比較されるようになったことで1980年代末にはビデオゲームと呼ぶことは廃れ、アーケードがよく使われるようになったとみられる。なお、ファミ通において、コーナー名としては2000年代でもビデオゲームTOP10のように使用例がある。",
"title": "呼称"
},
{
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"text": "古くは典型的、代表的なものとしてはピンボールがあり、電気、機械的な装置だった。",
"title": "米国のアーケードゲーム"
},
{
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"tag": "p",
"text": "不特定多数を対象とした世界初のコンピュータゲームは1958年に米国のブルックヘブン国立研究所で物理学者のウィリアム・ヒギンボーサムがオシロスコープを使って製作したテニスゲーム『Tennis for Two』とされている。これは業務用ではなくブルックヘブン国立研究所の定期公開日の見学者用にあり合わせの機材で製作されたものであったが予想外の人気を博した。",
"title": "米国のアーケードゲーム"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "世界初のアーケードゲームは1971年にナッチングから発売された『コンピュータースペース』である。この『コンピュータースペース』は生産台数約1500台と少なめで、あまりヒットしなかったが後世のゲーム文化に与えた影響は大きかった。",
"title": "米国のアーケードゲーム"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "その翌年の1972年にアタリ社がゲームシステム『ポン』を発表し、これが大ヒットしたことから『ポン』が「業務用ゲーム」の元祖と呼ばれている。",
"title": "米国のアーケードゲーム"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "日本国内では主にゲームセンターや遊園地などのアミューズメントスポットに設置され、1プレイごとに料金を徴収するのが一般的である。これらアミューズメント機器を設置する施設の運営は、風俗営業法に従って行われているため、全国共通で18歳未満は22時以降の入店禁止の制限が設けられている。同時に、各都道府県の条例により16歳未満、18歳未満の入店制限時間を別個に設定している(法律や規制に関する詳細はゲームセンターの項を参照)。",
"title": "日本のアーケードゲーム"
},
{
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"text": "近年では、時間当たりの入場料金を支払い、ダーツやビリヤードその他スポーツアトラクションが遊び放題となる施設にアーケードゲームを設置する例も存在する。店内のゲーム機はフリープレイ設定であることがほとんどであり、風俗営業法の規制対象外の店が多い。ペイアウトを伴うメダルゲームやプライズゲーム、トレーディングカードアーケードゲームまたはプリクラなどは設置されない(例外あり)。",
"title": "日本のアーケードゲーム"
},
{
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"text": "ビデオゲームの売上低下は著しく、1997年以降はプライズゲームに、2001年以降はメダルゲームよりも下回る状況が続いている。",
"title": "日本のアーケードゲーム"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "2020年代に入ると、新型コロナウイルス感染症の感染拡大に伴う外出自粛などの影響でゲームセンターの来店者数がさらに激減し、店舗数も減少した。これに関連してサービスを終了するアーケードゲーム作品も存在した。",
"title": "日本のアーケードゲーム"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "料金は地域、店鋪、ゲームの種類等により差があるが、一般的には10円 - 500円程度。筐体に直接硬貨を投入する場合がほとんどであるが、プリペイドカードや電子マネー(Edyなど)を用いたり、事前にメダル貸出機でメダルを借りて、そのメダルを使用する場合もある(メダルゲーム)。なお、紙幣を投入できる機構を備えたゲーム機を製造及び設置することは日本国内においては違法である。",
"title": "日本のアーケードゲーム"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "海外では、現金の代わりに、トークンを使用する例もある(日本国内でも少数ながらトークン制の店舗が存在)。現金を、払い戻しができないトークンと呼ばれるメダルに予め換えさせ、硬貨と同様にゲーム機に投入させて料金とするものである。メリットは現金をトークンの貸出機で集中的に管理する事ができる点にある。また、一度に両替する金額によってトークンの単価を変えることで客にスケールメリットをアピール(例:1ドル3トークンとして、通常50セント1プレイのゲームを1トークン(約33セント)でプレイできる、等)して、一度に多額の現金をトークンに換えさせるよう促す効果(と同時に、ほとんどゲームをしないライト客からは相応に高単価の料金を徴収する効果)もある。",
"title": "日本のアーケードゲーム"
},
{
"paragraph_id": 15,
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"text": "アーケードゲームは大別して、コンピュータゲームとエレメカの2種類に分類できる。このほか、稀にカジノテーブルやボードゲーム、トレーディングカードゲームTCGのデュエルスペースなどを設置してアナログゲーム=非電源ゲームを運営する場合もある。カジノテーブルのみを設置したアナログゲーム専門店はカジノバーと呼ばれるが、ゲームセンターと同じ扱いを受けるため、風営法による営業の認可を得る必要がある。一方、TCG専門のデュエルスペースは一般的に同法による認可は必要とされていないが、場所貸しだけでなく、店員がゲームに関与する(ジャッジやゲームマスター、あるいは1人客の相手役をするなど)する場合は風俗営業として認可が必要となる)。",
"title": "機器面の分類"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "ゲーム基板は、基本的に1枚につき1タイトルであり、別のゲームを稼動させるには筐体の中の基板を交換する必要があるが、家庭用ゲーム機のようにメディアの交換で別ゲームを稼動できる、システム基板と呼ばれる物も存在する。システム基板のアーキテクチャは従来はメーカー独自設計が多かったが、近年ではコスト削減のため(また、独自基板を開発しなくても充分オーバースペックのシステム基板が利用できるという理由もあって)、家庭用ゲーム機のアーキテクチャを流用したものやPCをベースとしたものが増えている。少なくとも1990年代までは、独自開発の最先端技術を投入することで、家庭では体験できない高品質なグラフィックを売りにしていたが、2000年代に入って、コストパフォーマンスの問題からアーケードゲーム機器においても家庭用ゲーム機のアーキテクチャの流用に続き、家庭用PCのアーキテクチャを流用するようになったため、グラフィックでは家庭用PCの方が上回るようになった。",
"title": "機器面の分類"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "一方、プレイごとにお金を払うという性質を生かして、プレイが成功すると景品がもらえるプライズゲームという種類のゲームもある。これはエレメカに分類され、いわゆるコンピュータゲームのような画面がなかったり、あっても簡易なものであることが多い(ビデオゲームを使用したプライズ機は認められていないため)。なお、プレイの成否を問わず必ず何らかの商品がもらえる構造のゲームは、法律上はゲーム機とは見なされず自動販売機に分類される(アミューズメントベンダー、あるいは単にベンダーと呼ばれる)。このため、ビデオゲームと組み合わせた機器も存在する。",
"title": "機器面の分類"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "基本的にメンテナンスはオペレーター(アミューズメント施設運営者)が行うが、メーカーが定期点検を行う場合がある。",
"title": "メンテナンス・サポート"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "メーカーが筐体やシステム基板をサポートする期間はタイトルによって異なるが、大半は部品調達難などの理由でメーカーサポートを終了する場合が多い。基板や筐体によっては20年から35年もサポートを行っていたタイトルもある。メーカーが事業撤退もしくは経営破綻した場合は、グループ企業への事業移管や同業他社へ事業譲渡した場合などを除き、一切メーカーサポートを受けることはできない。バンダイナムコエンターテインメント(当時)は2015年7月に、セガ・インタラクティブ(当時)は2016年11月に、メーカーがサポートする期間を基本的にPCや家庭用ゲーム機並みにすることを発表している。",
"title": "メンテナンス・サポート"
},
{
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"text": "ネットワーク対応タイトルにおけるネットワークサービス終了が行われる時間は、23時59分もしくは、風営法による営業禁止時間(0時〜6時)に行われることがほとんどである。",
"title": "メンテナンス・サポート"
},
{
"paragraph_id": 21,
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"text": "主要メーカーの中には、バンダイナムコアミューズメントのアーケードゲームのメンテナンスやサポート業務をバンダイナムコテクニカとバンダイロジパルが、セガのアーケードゲームのメンテナンスやサポート業務をセガ・ロジスティクスサービスがそれぞれ手掛けているように、グループ内でアーケードゲームのメンテナンスやサポートを行う会社がある。他の主要メーカーでは、タイトーは自社でアーケードゲームのメンテナンスやサポートを行っている他、アミューズメント施設運営者を対象としたタイトーアミューズメントスクールを厚木テクニカル&ロジスティクスセンター内に設置している。コナミアミューズメントは、自社でアーケードゲームのメンテナンスやサポートを行っている。サービス拠点は、バンダイロジパルとタイトーが全国各地に設置しているのに対し、セガ・ロジスティクスサービスはサービス拠点が4か所(東京都大田区、千葉県佐倉市、大阪市、福岡市)しかない。カプコンは以前は三重県伊賀市にあるサービスセンターでメンテナンスやサポート業務を行っていたが、2019年4月にセガ・ロジスティクスサービスへ業務が移管された。",
"title": "メンテナンス・サポート"
},
{
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"text": "主要メーカー以外は、メンテナンスやサポートをメーカー自体が行うか、バンダイロジパルやセガ・ロジスティクスサービス、タイトーに委託する場合が多い。",
"title": "メンテナンス・サポート"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "メーカーの筐体サポートサイトは、メーカーと取引があるオペレーターや筐体レンタル業者しか会員になれず、メーカーと取引がないオペレーター、筐体レンタル業者、個人ユーザーの閲覧可能なページには制限がある。そのため、バンダイナムコアミューズメント製品とタイトー製品のメーカー修理サポートは、取引がある法人が所有する筐体に限定されている(個人所有の筐体や取引がない法人が所有する筐体は、取引がある法人<購入した販売代理店など>を経由することになる)。カプコン製品のサポートは、セガ・ロジスティクスサービスの約款が適用される。会員であっても、会員であるオペレーターや筐体レンタル業者が、部品代金の未払い、倒産、風営法並びに各都道府県の条例に違反した場合などは会員資格を取り消すメーカーもある。",
"title": "メンテナンス・サポート"
},
{
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"text": "筐体とはゲーム機の外殻のことや、ゲームの機械や付帯設備を収める箱をいう。",
"title": "筐体"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "単体で発売されるゲーム基板を入れ替えて、コントロールパネルやボタンを換装することにより、汎用的に様々なゲームに使用することができる。1990年代以降、汎用筐体といえば後述のミディタイプ筐体を指すことが普通である。ゲーム業界内部での流行に合わせ、年代毎に特徴的な付加機能(例として、ヘッドフォン端子、プリペイドカード用スロット、家庭用ゲーム機のメモリーカードやコントローラー用の端子、ICカードスロットなど)が装備されているので、それを元に世代を推測することもできる。",
"title": "筐体"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "プレイヤーが立ってゲームを行う筐体で、モニター画面は床に対してほぼ垂直か、やや仰角をつけて取り付けられている場合が多い。多くは冷蔵庫やタンスの様な直方体に近い形をしているが、新しいタイプではAVラックのような洗練されたデザインのものもある。",
"title": "筐体"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "小型のアップライト筐体。使用するモニターが小さく、マーキー(看板)も簡素化するか、または完全に除去して、小型化が図られている。シングルロケやSCロケなど、小さな子供客が多いロケーションで多く用いられる。",
"title": "筐体"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "日本では駄菓子屋の軒先など屋外に設置する筐体がオレンジ色だったことから『オレンジ筐体』や『駄菓子屋筐体』と俗称される。",
"title": "筐体"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "米国においては、キャバレータイプあるいはキャバレー筐体(cabaret type/cabinet)と称する。",
"title": "筐体"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "アップライトに似て、モニター画面は床に対してほぼ垂直か、やや仰角をつけて取り付けられているが、筐体全体の背が低く、プレイヤーは椅子に座ってゲームを行う点がアップライトとは異なる。そのため家庭用のモニターとアスペクト比が違う。解像度は当時のブラウン管のテレビより高い。テーブル筐体に代わるビデオゲーム用汎用筐体として、1985年頃より普及し始め、2007年現在では日本国内のメーカーが製造するビデオゲーム用汎用筐体の殆どがこのタイプになっている。筐体上部にゲームの目的や基本的な操作方法を説明するインストラクションカードを入れて掲示できる。",
"title": "筐体"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "「ミディタイプ筐体」との呼称は、アミューズメント産業出版社が刊行する遊戯機械総合年鑑においては、1987年版のエイブルコーポレーション及びエス・エヌ・ケイ社製汎用筐体の説明文に初めて登場し、更に同年鑑の1990年版では、エイブルコーポレーション、カシオゲーム社、カプコン、ジャレコ、タイトー製汎用筐体の説明文に使用されるまでに至っている。しかし、この呼称はテーブル筐体の減少と並行して使用頻度が下がり、2007年現在では単に「汎用筐体」と呼ばれるか、または商品名で呼ばれるのが普通となっている。",
"title": "筐体"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "モニター画面が床に対して水平に設置されており、ガラスの天板の上にはカクテルグラスを置くことが出来ることからその名が付いた。主に米国で使用される名称で、後述するテーブル筐体もこの一種とされる。",
"title": "筐体"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "テーブル筐体は1976年にタイトーが「ブロックくずし」のゲームを製造した際、喫茶店に納入するために開発したものである。1978年に同社からリリースされた『スペースインベーダー』の大ヒットで爆発的に全国に普及した。1980年代前半までは業務用ビデオゲームと言えば、殆どがこれであった。1990年代中盤までは、ゲームセンターの総店舗数の中でもゲーム機を導入した喫茶店は、風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律の認可店舗19406店舗のうち8768店で、それ以外の風適法適用が必要ない店舗にも置かれていた。風適法の施行後は、喫茶店側もゲームが置ける面積(敷地面積の10%以下)や営業時間を抑えなければゲームセンターとしての申請を行わなければならず、1981年秋以降に摘発が多数発生したことなどが影響して、テーブル筐体などをサービスとする喫茶店は減少した。インストラクションカードは画面の両脇に天板の下に挟み込んで掲示する。",
"title": "筐体"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "飲食店のカウンター上に設置することを目的とした筐体。ソリティアに類するパズルゲームが入っていることが多いが、ビデオスロットやビデオポーカーなど、しばしばギャンブルをテーマとするゲームが入っている場合もある。",
"title": "筐体"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ゲームセンター、屋内型大型施設等のゲームコーナー等に置かれる50インチ以上の後投影型プロジェクタを使用した汎用筐体。プロジェクタ部とプレイヤー部を分離し、ゲーム基板はプレイヤーコンパネ部下の一体化されたBOX内に内包される。",
"title": "筐体"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "いわゆる大型筐体ゲーム。",
"title": "筐体"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "コクピット筐体は自動車や宇宙船のコクピットを模した筐体に座ってプレイするもので、例えばレースゲームならば、レースカーのコクピットを模した大型の筐体でプレイするようなゲームであり、よりリアルな臨場感を味わうことができる。",
"title": "筐体"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "コクピット筐体の変形バリエーションで、プレイヤーが乗り物型の筐体に乗ったり、操作する事で筐体が動いたりするもの。『モナコGP』以降のセガが得意とする。近年はスケートボードや自転車から、犬の散歩にいたるまで、あらゆるジャンルが体感筐体として作られている。中にはプレイヤーが筐体に乗り込み、筐体そのものがゲーム内容に合わせて動くことで臨場感を出すもの(R-360など)も存在した。",
"title": "筐体"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "専用筐体の一つであるが、ゲームの過程でカードを使用するもの。筐体の形状は様々ではあるが、特徴的なのはカードを読み取る機構(バーコードを読み取るだけの単純なものから、位置や上下方向を認識するものなどもある)と、新規カードを排出する機構を備えていること。カードの情報を読み取ることで画面内のキャラクタの属性を変化させたり、カードを筐体上で移動させることでキャラクタを移動できるなど、トレーディングカードとビデオゲームを組み合わせたゲーム性になっている。また、ゲームを行うごとに新規カードが払い出されるようになっている。一般に、トレーディングカードゲーム(TCG)ではプレイヤーがカードを多く所有するほど、使用できるキャラクタや技などが増え、ゲームを有利に進められることが多い。この筐体の場合、プレイ毎に新たなカードを入手できるため、プレイ回数を重ねれば重ねるほどゲームを有利に進めやすくなり、結果として繰り返しプレイされることが期待できる。",
"title": "筐体"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "アーケードを家庭用に移植する場合、専用筐体で遊べない事は百歩譲ったとしても、カードの排出機能自体は家庭用で再現出来ない(もっとも、TCGとコンピュータゲームの融合はカードe(任天堂)など家庭用ゲームの方が先である)。故に現在はアーケードでしか実現できない家庭用に対するアドバンテージとなっており、『オシャレ魔女♥ラブandベリー』の様な児童向けゲームまで多数登場している。",
"title": "筐体"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ジャンルの名称としては、「トレーディングカードアーケードゲーム」と呼ばれている。",
"title": "筐体"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "なお、前述の通り法律上は自動販売機(ベンダー)という位置付けになる。",
"title": "筐体"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1990年代まではアーケードゲームが最先端技術の実験場として機能していたが、後にパソコンの技術に統一され、現代ではパソコンゲームに最先端が移行している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1990年代後半より、1980年代〜1990年代前半のアーケードゲームタイトルを、アーケードにおける仕様を極力再現した単品または複数カップリングによるコンシューマ移植ソフトとしてリリースされるようになっている。これらのゲームはコントローラーの任意のボタン(SELECTボタンなど)でクレジットの投入を再現できるものが多い。2020年代にはアーケードゲーム筐体をモチーフとした復刻ゲーム機が登場している。",
"title": "アーケードゲームの復刻"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "主な一例",
"title": "アーケードゲームの復刻"
},
{
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"tag": "p",
"text": "(アーケ―ドゲーム関連企業)",
"title": "関連企業"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "(アーケードゲーム機製造企業)",
"title": "関連企業"
}
] | アーケードゲームは、業務用ゲーム機(アーケードゲーム機)によるゲームのこと。 | {{Pathnav|ゲーム|コンピュータゲーム|frame=1}}
{{複数の問題
|出典の明記 = 2021年2月
|独自研究 = 2015年1月
}}
[[File:Signed_Pong_Cabinet.jpg|thumb|upright|「[[ポン (ゲーム)|ポン]]」は最初に商業的に成功したアーケード[[ビデオゲーム]]]]
{{コンピュータゲームのサイドバー}}
'''アーケードゲーム'''({{Lang-en|arcade game}})は、[[業務用]][[ゲーム機]](アーケードゲーム機)によるゲームのこと。
== 呼称 ==
通常の辞典、ゲームを主題とする辞典によってはアーケードゲームが[[和製英語]]とされているが正しくはなく、コンピューター文化史研究家のタイニーPは[[ゲームセンター]]が和製英語として説明されたのを文中に登場するアーケードゲームも和製英語だと思い込まれた可能性を挙げた<ref name="denfami1">{{Cite news|date=2021-08-26|title=100年前の「アーケード」ってどんなところ? 「アーケードゲーム」の語源を調べていたら、見世物小屋みたいな妙な自動機械がたくさん出てきた |newspaper=電ファミニコゲーマー |publisher=マレ |url=https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/210826b |accessdate=2021-10-07 |page=1 }}</ref>。また、アーケード街、商店街にあるとする説明もあるが、[[Amusement]] Arcade、[[Penny]] Arcadeのようにゲームセンターを意味する[[英語]]が生まれ、そこに設置されたゲーム機器、設備がArcade Gameと呼ばれるようになったため[[アーケード街]]と関連付けることではない<ref name="denfami1" />。
Amusement Arcadeは[[アメリカ]]では[[1902年]]の[[新聞広告]]で[[大文字]]で始まる言葉として使われ、それは[[固有名詞]]として捉えられていたことになる<ref name="denfami1" />。そのときは路上に置かれた機器ではなく建物内の[[店舗]]名だった<ref name="denfami1" />。似た言葉に劇場を意味するamusement center、amusement hall、建物内の娯楽室を意味するamusement parlor、[[射的]]を意味するshooting gallery、[[ボウリング場]]を意味するbowling alleyといったものがあったが、Penny Arcade、Amusement Arcadeはそれらと混ざらず、賑やか、楽しそうなものが多くある様を思い起こさせる店名だったとみられる<ref name="denfami1" />。
[[日本]]の業界ではアメリカを主に輸入元としていたこともあって業界ではアーケードゲームを業務用ゲーム機の意味で使ったが、[[1970年代]]中頃には[[メダルゲーム]]や[[コンピュータゲーム]]を含むことはほとんどなく、業界ではそれが新興勢力として注目されたためとみられ、[[レトロニム]]ではないがそれまでのゲーム機器の総称としてアーケードゲーム機の語が使われたと考えられる<ref name="denfami2">{{Cite news|date=2021-08-26|title=100年前の「アーケード」ってどんなところ? 「アーケードゲーム」の語源を調べていたら、見世物小屋みたいな妙な自動機械がたくさん出てきた |newspaper=電ファミニコゲーマー |publisher=マレ |url=https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/210826b/2 |accessdate=2021-10-07 |page=2 }}</ref>。その後、テレビゲームという言葉も広まったがゲームメーカーによっては広告、カタログなどでビデオゲームの語を使い続けたせいか1980年代初頭の一部マニアには業務用に対してだけビデオゲームと呼ぶようになった<ref name="denfami2" />。パソコン雑誌の中には北米市場の影響を受けてPC向け[[アクションゲーム]]などをアーケードゲームと呼んでいたところもあった<ref name="denfami2" />。
こういった状況が変わり始めたのは業務用ゲーム界が一般消費者向けにも目を向け始めたのと同時期で、北米で業務用家庭用の両方が大人気となり、日本でも家庭用や安価なPCの市場が注目され、ホームユース、ホーム市場などと呼ばれた<ref name="denfami2" />。そして、業務用を意味する言葉としてアーケードが更に使われるようになった<ref name="denfami2" />。ビデオゲームの語はまだまだマニアには使われていたが、『[[ドラゴンクエストII 悪霊の神々|ドラゴンクエストII]]』『[[ドラゴンクエストIII そして伝説へ…|ドラゴンクエストIII]]』などの[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]][[コンピュータRPG|RPG]]が流行し、ファミコンにも業務用にもなかったジャンルの先進性があると捉えられたことや単にゲームだけでコンピュータゲームを意味することが子供にも広まり、それと比べてビデオゲームは語呂の長い言葉となったこと、[[スペースインベーダー|インベーダーゲーム]]ブームから10年近く経ったことやレトロブームリメイクブームの波でコンピュータゲームの歴史を俯瞰的に捉えることができるようになったこと、[[X68000]]、[[PCエンジン]]、[[メガドライブ]]など性能が向上したPC、家庭用ゲーム機が発売され業務用作品がそれらへ移植され、オリジナルと比較されるようになったことで1980年代末にはビデオゲームと呼ぶことは廃れ、アーケードがよく使われるようになったとみられる<ref name="denfami2" />。なお、[[ファミ通]]において、コーナー名としては2000年代でもビデオゲームTOP10のように使用例がある<ref name="denfami2" />。
== 米国のアーケードゲーム ==
古くは典型的、代表的なものとしては[[ピンボール]]があり、電気、機械的な装置だった。
不特定多数を対象とした世界初のコンピュータゲームは[[1958年]]に米国の[[ブルックヘブン国立研究所]]で[[物理学者]]の[[ウィリアム・ヒギンボーサム]]が[[オシロスコープ]]を使って製作したテニスゲーム『[[Tennis for Two]]』とされている<ref name="studys" />。これは業務用ではなくブルックヘブン国立研究所の定期公開日の見学者用にあり合わせの機材で製作されたものであったが予想外の人気を博した<ref name="studys" />。
世界初のアーケードゲームは[[1971年]]にナッチングから発売された『[[コンピュータースペース]]』である<ref name="studys">{{cite book|和書|title=現代文化スタディーズ|author1=大越愛子|author2=堀田美保|publisher=晃洋書房|year=2001|page=126}}</ref>。この『コンピュータースペース』は生産台数約1500台と少なめで、あまりヒットしなかったが後世のゲーム文化に与えた影響は大きかった<ref name="studys" />{{efn2|1973年の映画『[[ソイレント・グリーン]]』には、未来的なガジェットとして『コンピュータースペース』をプレイしている場面がある<ref>{{cite web|url=https://www.technologizer.com/2011/12/11/computer-space-and-the-dawn-of-the-arcade-video-game/3/|title=Computer Space and the Dawn of the Arcade Video Game|date=2011-12-11|publisher=Technologizer|accessdate=2021-11-17}}</ref><ref>{{citation|author=Marty Goldberg|author2= Curt Vendel|title=Atari Inc.: Business is Fun|publisher= Syzygy Press|date=2012-11-25|pages=pp=40-46|isbn=978-0985597405}}</ref>。}}。
その翌年の[[1972年]]に[[アタリ (企業)|アタリ]]社がゲームシステム『[[ポン (ゲーム)|ポン]]』を発表し、これが大ヒットしたことから『ポン』が「'''業務用ゲーム'''」の元祖と呼ばれている<ref name="studys" />。
== 日本のアーケードゲーム ==
=== 営業方法 ===
日本国内では主にゲームセンターや[[遊園地]]などのアミューズメントスポットに設置され、1プレイごとに料金を徴収するのが一般的である。これらアミューズメント機器を設置する施設の運営は、[[風俗営業法]]に従って行われているため、全国共通で18歳未満は22時以降の入店禁止の制限が設けられている。同時に、各都道府県の条例により16歳未満、18歳未満の入店制限時間を別個に設定している(法律や規制に関する詳細は[[ゲームセンター]]の項を参照)。
近年では、時間当たりの入場料金を支払い、[[ダーツ]]や[[ビリヤード]]その他スポーツアトラクションが遊び放題となる施設にアーケードゲームを設置する例も存在する。店内のゲーム機はフリープレイ設定であることがほとんどであり、風俗営業法の規制対象外の店が多い。ペイアウトを伴う[[メダルゲーム]]や[[プライズゲーム]]、[[トレーディングカードアーケードゲーム]]または[[プリクラ]]などは設置されない(例外あり)。
ビデオゲームの売上低下は著しく、1997年以降はプライズゲームに、2001年以降はメダルゲームよりも下回る状況が続いている<ref>[https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/8eb269d21a7befc16b75af48663e45ae4739800f ゲーセンの数は5分の1に減少、歴史に残る作品が続々誕生:数字で振返る「平成アーケードゲーム30年史」]Yahoo!ニュース 2019年4月23日</ref>。
2020年代に入ると、[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|新型コロナウイルス感染症の感染拡大に伴う外出自粛などの影響]]でゲームセンターの来店者数がさらに激減し、店舗数も減少した<ref>{{Cite news|author=|url= https://mainichi.jp/articles/20210227/ddf/001/040/001000c |title= ゲーセン哀歌 時代の変化にコロナ、存続危機 |work= 毎日新聞 |publisher= 株式会社毎日新聞社 |date=2021-02-27|accessdate=2021-03-12}}</ref><ref>{{Cite news|author=|url= https://www.moneypost.jp/765909 |title= 有名店も続々閉店、コロナだけじゃない「ゲーセン離れ」の本音 |work= マネーポストWEB |publisher= 株式会社小学館 |date=2021-03-11|accessdate=2021-03-12}}</ref>。これに関連してサービスを終了するアーケードゲーム作品も存在した<ref>{{Cite web|和書|title=スクウェア・エニックス『星と翼のパラドクス』、10月31日にネットワークサービスを終了へ。アーケードゲームに訪れる苦境|url=https://automaton-media.com/articles/newsjp/20210831-174206/|website=AUTOMATON|date=2021-08-31|accessdate=2021-09-04|language=ja|first=Yuki|last=Kurosawa}}</ref>。
=== プレイ料金 ===
料金は地域、店鋪、ゲームの種類等により差があるが、一般的には10円 - 500円程度。筐体に直接硬貨を投入する場合がほとんどであるが、[[プリペイドカード]]や[[電子マネー]]([[楽天Edy|Edy]]など)を用いたり、事前にメダル貸出機でメダルを借りて、そのメダルを使用する場合もある(メダルゲーム)。なお、紙幣を投入できる機構を備えたゲーム機を製造及び設置することは日本国内においては違法である。
海外では、現金の代わりに、トークンを使用する例もある(日本国内でも少数ながらトークン制の店舗が存在)。現金を、払い戻しができないトークンと呼ばれるメダルに予め換えさせ、硬貨と同様にゲーム機に投入させて料金とするものである。メリットは現金をトークンの貸出機で集中的に管理する事ができる点にある。また、一度に両替する金額によってトークンの単価を変えることで客にスケールメリットをアピール(例:1ドル3トークンとして、通常50セント1プレイのゲームを1トークン(約33セント)でプレイできる、等)して、一度に多額の現金をトークンに換えさせるよう促す効果(と同時に、ほとんどゲームをしないライト客からは相応に高単価の料金を徴収する効果)もある。
== 機器面の分類 ==
アーケードゲームは大別して、コンピュータゲームと[[エレメカ]]の2種類に分類できる。このほか、稀にカジノテーブルやボードゲーム、[[トレーディングカードゲームTCG]]のデュエルスペースなどを設置して[[アナログゲーム]]=非電源ゲームを運営する場合もある。カジノテーブルのみを設置したアナログゲーム専門店は[[カジノバー]]と呼ばれるが、ゲームセンターと同じ扱いを受けるため、[[風営法]]による営業の認可を得る必要がある。一方、TCG専門のデュエルスペースは一般的に同法による認可は必要とされていないが、場所貸しだけでなく、店員がゲームに関与する(ジャッジやゲームマスター、あるいは1人客の相手役をするなど)する場合は風俗営業として認可が必要となる)。
ゲーム基板は、基本的に1枚につき1タイトルであり、別のゲームを稼動させるには筐体の中の基板を交換する必要があるが、家庭用ゲーム機のようにメディアの交換で別ゲームを稼動できる、システム基板と呼ばれる物も存在する。システム基板の[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]は従来はメーカー独自設計が多かったが、近年ではコスト削減のため(また、独自基板を開発しなくても充分オーバースペックのシステム基板が利用できるという理由もあって)、家庭用ゲーム機のアーキテクチャを流用したものや[[パーソナルコンピュータ|PC]]をベースとしたものが増えている。少なくとも1990年代までは、独自開発の最先端技術を投入することで、家庭では体験できない高品質なグラフィックを売りにしていたが、2000年代に入って、コストパフォーマンスの問題からアーケードゲーム機器においても家庭用ゲーム機のアーキテクチャの流用に続き、家庭用PCのアーキテクチャを流用するようになったため、グラフィックでは家庭用PCの方が上回るようになった。
一方、プレイごとにお金を払うという性質を生かして、プレイが成功すると景品がもらえるプライズゲームという種類のゲームもある。これはエレメカに分類され、いわゆるコンピュータゲームのような画面がなかったり、あっても簡易なものであることが多い(ビデオゲームを使用したプライズ機は認められていないため)。なお、プレイの成否を問わず必ず何らかの商品がもらえる構造のゲームは、法律上はゲーム機とは見なされず[[自動販売機]]に分類される(アミューズメントベンダー、あるいは単にベンダーと呼ばれる)。このため、ビデオゲームと組み合わせた機器も存在する。
== メンテナンス・サポート ==
基本的にメンテナンスはオペレーター(アミューズメント施設運営者)が行うが、メーカーが定期点検を行う場合がある。
メーカーが筐体やシステム基板をサポートする期間はタイトルによって異なるが、大半は部品調達難などの理由でメーカーサポートを終了する場合が多い。基板や筐体によっては20年から35年もサポートを行っていたタイトルもある。メーカーが事業撤退もしくは経営破綻した場合は、グループ企業への事業移管や同業他社へ事業譲渡した場合などを除き、一切メーカーサポートを受けることはできない。[[バンダイナムコエンターテインメント]](当時)は2015年7月に、[[セガ・インタラクティブ]](当時)は2016年11月に、メーカーがサポートする期間を基本的にPCや[[家庭用ゲーム機]]並みにすることを発表している。
ネットワーク対応タイトルにおけるネットワークサービス終了が行われる時間は、23時59分もしくは、風営法による営業禁止時間(0時〜6時)に行われることがほとんどである。
主要メーカーの中には、[[バンダイナムコアミューズメント]]のアーケードゲームのメンテナンスやサポート業務を[[バンダイナムコテクニカ]]と[[バンダイロジパル]]が、[[セガ]]のアーケードゲームのメンテナンスやサポート業務を[[セガ・ロジスティクスサービス]]がそれぞれ手掛けているように、グループ内でアーケードゲームのメンテナンスやサポートを行う会社がある{{efn2|バンダイロジパル、セガ・ロジスティクスサービス共運送業も兼業している。}}。他の主要メーカーでは、[[タイトー]]は自社でアーケードゲームのメンテナンスやサポートを行っている他、アミューズメント施設運営者を対象としたタイトーアミューズメントスクールを厚木テクニカル&ロジスティクスセンター内に設置している。[[コナミアミューズメント]]は、自社でアーケードゲームのメンテナンスやサポートを行っている。サービス拠点は、バンダイロジパルとタイトーが全国各地に設置しているのに対し、セガ・ロジスティクスサービスはサービス拠点が4か所(東京都[[大田区]]、[[千葉県]][[佐倉市]]、[[大阪市]]、[[福岡市]])しかない。[[カプコン]]は以前は[[三重県]][[伊賀市]]にあるサービスセンターでメンテナンスやサポート業務を行っていたが、2019年4月にセガ・ロジスティクスサービスへ業務が移管された<ref>[https://www.ampress.co.jp/backnumber/bn2019.04.01.htm カプコン業務用のメンテナンスは、セガロジが引き受ける。] ゲームマシン 2019年4月1日号</ref><ref name="capcon20190304">[http://www.capcom.co.jp/arcade/news/operator/20190306.html 業務用アミューズメント機器のサービス業務移管スケジュールに関するお知らせ] カプコン 2019年3月4日</ref>。
主要メーカー以外は、メンテナンスやサポートをメーカー自体が行うか、バンダイロジパルやセガ・ロジスティクスサービス、タイトーに委託する場合が多い。
メーカーの筐体サポートサイトは、メーカーと取引があるオペレーターや筐体レンタル業者しか会員になれず、メーカーと取引がないオペレーター、筐体レンタル業者、個人ユーザーの閲覧可能なページには制限がある。そのため、バンダイナムコアミューズメント製品とタイトー製品のメーカー修理サポートは、取引がある法人が所有する筐体に限定されている(個人所有の筐体や取引がない法人が所有する筐体は、取引がある法人<購入した販売代理店など>を経由することになる)<ref>[https://www.banasupport.net/regist/index.html#newUser ご利用方法]バナサポ - バンダイナムコテクニカ</ref><ref>[https://www.taitotech.com/ よくある質問「個人でも登録できますか?」]タイトーテック</ref>。カプコン製品のサポートは、セガ・ロジスティクスサービスの約款が適用される。会員であっても、会員であるオペレーターや筐体レンタル業者が、部品代金の未払い、倒産、風営法並びに各都道府県の条例に違反した場合などは会員資格を取り消すメーカーもある。
== 筐体 ==
[[筐体]]とはゲーム機の外殻のことや、ゲームの機械や付帯設備を収める箱をいう。
=== 汎用筐体 ===
単体で発売されるゲーム基板を入れ替えて、コントロールパネルやボタンを換装することにより、汎用的に様々なゲームに使用することができる。1990年代以降、汎用筐体といえば後述のミディタイプ筐体を指すことが普通である。ゲーム業界内部での流行に合わせ、年代毎に特徴的な付加機能(例として、ヘッドフォン端子、[[プリペイドカード]]用スロット、家庭用ゲーム機の[[メモリーカード]]やコントローラー用の端子、[[ICカード]]スロットなど)が装備されているので、それを元に世代を推測することもできる。
==== アップライト筐体 ====
[[ファイル:Donkey Kong arcade.jpg|thumb|160px|アップライト筐体の一例([[アーケードゲーム基板|ゲーム基板]]『[[ドンキーコング]]』)]]
プレイヤーが立ってゲームを行う筐体で、モニター画面は床に対してほぼ垂直か、やや仰角をつけて取り付けられている場合が多い。多くは冷蔵庫やタンスの様な直方体に近い形をしているが、新しいタイプではAVラックのような洗練されたデザインのものもある。
==== ミニアップライト筐体 ====
小型のアップライト筐体。使用するモニターが小さく、マーキー(看板)も簡素化するか、または完全に除去して、小型化が図られている。[[シングルロケ]]やSCロケなど、小さな子供客が多いロケーションで多く用いられる。
日本では[[駄菓子屋]]の軒先など屋外に設置する筐体がオレンジ色だったことから『オレンジ筐体』や『駄菓子屋筐体』と俗称される。
米国においては、キャバレータイプあるいはキャバレー筐体(cabaret type/cabinet)と称する。
==== ミディタイプ筐体(汎用筐体) ====
[[ファイル:Sega astro city candy cab.jpg|thumb|160px|ミディタイプ筐体の一例(セガ『アストロシティ』)]]
アップライトに似て、モニター画面は床に対してほぼ垂直か、やや仰角をつけて取り付けられているが、筐体全体の背が低く、プレイヤーは椅子に座ってゲームを行う点がアップライトとは異なる。そのため家庭用のモニターとアスペクト比が違う。解像度は当時のブラウン管のテレビより高い。テーブル筐体に代わるビデオゲーム用汎用筐体として、1985年頃より普及し始め、2007年現在では日本国内のメーカーが製造するビデオゲーム用汎用筐体の殆どがこのタイプになっている。筐体上部にゲームの目的や基本的な操作方法を説明するインストラクションカードを入れて掲示できる。
「ミディタイプ筐体」との呼称は、アミューズメント産業出版社が刊行する遊戯機械総合年鑑においては、1987年版の[[エイブルコーポレーション]]及び[[SNK (1978年設立の企業)|エス・エヌ・ケイ]]社製汎用筐体の説明文に初めて登場し、更に同年鑑の1990年版では、[[エイブルコーポレーション]]、[[カシオ計算機|カシオ]]ゲーム社、カプコン、ジャレコ、タイトー製汎用筐体の説明文に使用されるまでに至っている。しかし、この呼称はテーブル筐体の減少と並行して使用頻度が下がり、2007年現在では単に「汎用筐体」と呼ばれるか、または商品名で呼ばれるのが普通となっている。
==== カクテル筐体 ====
モニター画面が床に対して水平に設置されており、ガラスの天板の上にはカクテルグラスを置くことが出来ることからその名が付いた。主に米国で使用される名称で、後述するテーブル筐体もこの一種とされる。
[[ファイル:Space Invaders.JPG|thumb|160px|テーブル筐体(『[[スペースインベーダー]]』)]]
==== テーブル筐体 ====
テーブル筐体は1976年にタイトーが「ブロックくずし」のゲームを製造した際、[[喫茶店]]に納入するために開発したものである。1978年に同社からリリースされた『[[スペースインベーダー]]』の大ヒットで爆発的に全国に普及した。1980年代前半までは業務用ビデオゲームと言えば、殆どがこれであった。1990年代中盤までは、ゲームセンターの総店舗数の中でもゲーム機を導入した喫茶店は、[[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律]]の認可店舗19406店舗のうち8768店で、それ以外の風適法適用が必要ない店舗にも置かれていた<ref name=table>{{Cite journal|和書|author=川﨑寧生 |date=2015 |url=https://doi.org/10.9762/digraj.7.2_1 |title=ビデオゲーム機が導入された喫茶店の役割の見直し : ゲーム機が作り出した都市型娯楽の新しい形 |journal=デジタルゲーム学研究 |publisher=日本デジタルゲーム学会 |volume=7 |issue=2 |pages=1-12 |language=ja |doi=10.9762/digraj.7.2_1 |CRID=1390282752340981504 |ISSN=18820913}}</ref>。風適法の施行後は、喫茶店側もゲームが置ける面積(敷地面積の10%以下)や営業時間を抑えなければゲームセンターとしての申請を行わなければならず、1981年秋以降に摘発が多数発生したことなどが影響して、テーブル筐体などをサービスとする喫茶店は減少した<ref name=table/>。[[インストラクションカード]]は画面の両脇に天板の下に挟み込んで掲示する。
==== カウンタートップ筐体 ====
飲食店のカウンター上に設置することを目的とした筐体。[[ソリティア]]に類する[[パズルゲーム]]が入っていることが多いが、ビデオスロットや[[ビデオポーカー]]など、しばしば[[賭博|ギャンブル]]をテーマとするゲームが入っている場合もある。
==== プロジェクタ筐体 ====
ゲームセンター、屋内型大型施設等のゲームコーナー等に置かれる50インチ以上の後投影型プロジェクタを使用した汎用筐体。プロジェクタ部とプレイヤー部を分離し、ゲーム基板はプレイヤーコンパネ部下の一体化されたBOX内に内包される。
=== 専用筐体 ===
いわゆる[[大型筐体ゲーム]]。
==== コクピット筐体 ====
[[ファイル:Outrun-sit-down-cabinet.jpg|thumb|160px|『[[アウトラン]]』固定筐体]]
コクピット筐体は自動車や宇宙船のコクピットを模した筐体に座ってプレイするもので、例えば[[レースゲーム]]ならば、レースカーの[[コクピット]]を模した大型の筐体でプレイするようなゲームであり、よりリアルな臨場感を味わうことができる。
==== 体感筐体 ====
コクピット筐体の変形バリエーションで、プレイヤーが乗り物型の筐体に乗ったり、操作する事で筐体が動いたりするもの。『[[モナコGP (ゲーム)|モナコGP]]』以降のセガが得意とする。近年は[[スケートボード]]や自転車から、犬の散歩にいたるまで、あらゆるジャンルが体感筐体として作られている。中にはプレイヤーが筐体に乗り込み、筐体そのものがゲーム内容に合わせて動くことで臨場感を出すもの([[Sega R-360|R-360]]など)も存在した。
==== カードゲーム筐体 ====
専用筐体の一つであるが、ゲームの過程でカードを使用するもの。筐体の形状は様々ではあるが、特徴的なのはカードを読み取る機構(バーコードを読み取るだけの単純なものから、位置や上下方向を認識するものなどもある)と、新規カードを排出する機構を備えていること。カードの情報を読み取ることで画面内のキャラクタの属性を変化させたり、カードを筐体上で移動させることでキャラクタを移動できるなど、トレーディングカードとビデオゲームを組み合わせたゲーム性になっている。また、ゲームを行うごとに新規カードが払い出されるようになっている。一般に、トレーディングカードゲーム(TCG)ではプレイヤーがカードを多く所有するほど、使用できるキャラクタや技などが増え、ゲームを有利に進められることが多い。この筐体の場合、プレイ毎に新たなカードを入手できるため、プレイ回数を重ねれば重ねるほどゲームを有利に進めやすくなり、結果として繰り返しプレイされることが期待できる。
アーケードを家庭用に移植する場合、専用筐体で遊べない事は百歩譲ったとしても、カードの排出機能自体は家庭用で再現出来ない(もっとも、TCGとコンピュータゲームの融合は[[カードe]]([[任天堂]])など家庭用ゲームの方が先である)。故に現在はアーケードでしか実現できない家庭用に対するアドバンテージとなっており、『[[オシャレ魔女♥ラブandベリー]]』の様な児童向けゲームまで多数登場している。
ジャンルの名称としては、「[[トレーディングカードアーケードゲーム]]」と呼ばれている。<!--カテゴリですでに[[トレーディングカードアーケードゲーム]]がありますが、正しい呼称なのでしょうか?←TCG側から見たジャンルカテゴリとしては広まっているようです-->
なお、前述の通り法律上は自動販売機(ベンダー)という位置付けになる。
== 歴史 ==
=== 1970年代 ===
; [[1971年]]
:* [[ノーラン・ブッシュネル]]、史上初のアーケードビデオゲーム『[[コンピュータースペース]]』(開発:シジギ、発売:ナッチング・アソシエーツ)発売。操作性が悪く全く人気が出ず。
; [[1972年]]
:* ブッシュネル、上記の反省を活かし『[[ポン (ゲーム)|ポン]]』([[アタリ (企業)|アタリ]])発売、大ヒット。娯楽産業史上ではこれが最初とされる。
:* 太東貿易が『[[タイトー|株式会社タイトー]]』へ社号変更。
; [[1973年]]
:* 日本で『ポン』のコピーゲーム『ポントロン』([[セガ]])と『エレポン』(タイトー)発売。
:* 日本人が開発した初のアーケードビデオゲーム『サッカー』(タイトー、開発者:[[西角友宏]])発売。
; [[1974年]]
:* 日本製初のビデオ[[レースゲーム]]『[[スピードレース]]』(タイトー、開発者:西角友宏)が発売されヒット作となる。
; [[1975年]]
:* ドイツで[[ドライビングシミュレーター]]研究開発の一環として制作されたドライブゲーム『{{仮リンク|ニュルブルクリンク1|en|Nürburgring 1}}』が発売(開発者は{{仮リンク|ライナー・フェルスト|de|Reiner Foerst}})。コースは白い支柱の並びのみで表現され、ライバルカーもないシンプルなものだが、世界初の3D視点によるドライブゲームであり、翌年にアタリがこれに影響された製品『{{仮リンク|ナイトドライバー|en|Night Driver (video game)}}』を販売する。
; [[1976年]]
:* 『ブレイクアウト』(アタリ)発売。日本では『[[ブロックくずし]]』の通称で、これを発売する為非常に多くのゲーム会社が創業し、現在も老舗メーカーとして多数生き残っている。
; [[1977年]]
:* 帝国管財株式会社が『[[テクモ|株式会社テーカン]]』へ社号変更。
:* 有限会社中村製作所が『[[バンダイナムコエンターテインメント|株式会社ナムコ]]』へ社号変更。
; [[1978年]]
:* 『[[スペースインベーダー]]』(タイトー)発売。大ブームとなる。
:* 『デス・レース』(ボナンザ・エンタープライズ)が摘発される。同ゲームは自動車のハンドルを操作して映像に映る歩行者を轢き殺し、その数を競うという反社会的内容のゲームであり問題となっていた(1975年に公開された映画『[[デス・レース2000年]]』をモチーフにした可能性がある)。ゲーム内容を取り締まる法律が無かったことから製造業者らの逮捕に当たっては、製造時の手続き上の瑕疵を理由として[[電気用品取締法]]が適用された<ref>「殺人ゲーム機」ついに断 電気用品取締法を適用 製造業者ら四人逮捕『朝日新聞』1978年6月21日朝刊、13版、23面</ref>。
; [[1979年]]
:* 『[[ギャラクシアン]]』(ナムコ)発売。ポスト・インベーダーとして好評を博す。
:* アイ・ピー・エム株式会社が『[[アピエス|アイレム株式会社]]』へ社号変更。
=== 1980年代 ===
; [[1980年]]
:* アイレムの全株式が[[EIZO|株式会社ナナオ]]に売却され、その子会社となる。
:* 世界初の[[音声合成]]を備えたビデオゲーム『{{仮リンク|スピーク&レスキュー|en|Stratovox}}』([[サン電子]])発売。
:* 『[[パックマン]]』(ナムコ)発売。日本だけでなくアメリカを始め全世界で記録的大ヒットとなる。
:* [[デコカセットシステム]]([[データイースト]])発売。ハードウェアとソフトウェアの基板を共通化し、ソフトを差し替えることで多彩なゲームを扱うことが出来た最初期のアーケードゲーム基板。
; [[1981年]]
:* アミューズメントマシン開発・製作企業の業界団体「[[日本アミューズメントマシン工業協会]]」(JAMMA)発足。
; [[1982年]]
:* [[ミッドウェイゲームズ|ミッドウェイ]]社が『バリー・ミッドウェイ』へ社号変更。
:* 『[[ポールポジション (ゲーム)|ポールポジション]]』(ナムコ)発売。『スピードレース』のヒット以降、トップビュー視点が当たり前だったレースゲームに、[[ラスタースクロール]]による擬似3Dの後方視点を初めて実装した。
:* 『{{仮リンク|サブロック3D|en|SubRoc-3D}}』(セガ)発売。初の[[3次元ディスプレイ|3Dシャッター]]による[[立体視]]が実装されたアーケードゲーム。
; [[1983年]]
:* 『[[ゼビウス]]』(ナムコ)発売。著名人やマスメディアを巻き込む大ブームとなる。
:* 初の[[レーザーディスクゲーム]]『[[アストロンベルト]]』(セガ)発売。
:*『コンピュータークイズ 頭の体操』(ユニエンタープライズ/八千代電器産業)発売。その後の[[クイズゲーム]]の雛形となる。
:* 『[[光速船]]』([[バンダイ]])発売。家庭用のシステムにオプションを付けることでコインオペレートも可能で、「ゲームセンターと家で同じゲームが遊べる」という理想の先鞭を付けた。
:* 『{{仮リンク|TX-1|en|TX-1}}』([[辰巳電子工業]])発売。複数のモニター(3画面)を用いた初のアーケードゲーム。ただし、モニター間に継ぎ目あり。
:* 『[[マイコンBASICマガジン]]』([[電波新聞社]])、『[[ログイン (雑誌)|ログイン]]』([[メディアリーヴス|アスキー]])、『[[コンプティーク]]』([[角川書店]])にて報道始まる。
; [[1984年]]
:* [[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律|風営法]]が大幅に改定。ゲームセンターの24時間営業が不可に(施行は1985年2月)。
:* [[ファミリーコンピュータ]]の構造を応用し、そちらからの移植を容易にしたアーケード基板『[[任天堂VS.システム]]』が発売。
:* 業界初の回転機能があるゲーム基板を用いたゲーム『[[チューブパニック]]』<ref>[http://gameside.jp/sgs/sgs10/ シューティングゲームサイドvol.10 収録インタビュー] - [[マイクロマガジン社]] 2014年9月26日発行</ref>([[日本物産]])発売。
; [[1985年]]
:* 体感ゲームの第1作目『[[ハングオン (ゲーム)|ハングオン]]』(セガ)発売。
:* 全篇背景動画10万数を越えるレーザーディスクゲーム『[[ロードブラスター]]』(データイースト)発売。
:* 百貨店やショッピングセンターにおけるアミューズメント施設運営企業の業界団体「[[日本SC遊園協会]]」(NSA)発足。
:* ゲームセンター運営企業の業界団体「[[全日本アミューズメントマシン・オペレーター連合会]]」(AOU)発足。
; [[1986年]]
:* 株式会社テーカンが『[[テクモ|テクモ株式会社]]』へ社号変更。
:* 新日本企画が『[[SNK (1978年設立の企業)|株式会社エス・エヌ・ケイ]]』へ社号変更。
:* タイトーが[[京セラ|京セラ株式会社]]の資本参加により、その子会社となる。
:* [[任天堂]]がアーケードゲーム事業から撤退。
:* 『[[アウトラン]]』(セガ)発売。
:* 『[[イシターの復活]]』(ナムコ)発売、アーケードゲーム初の「パスワードコンティニュー」を導入し、全国どの筐体でも継続プレイを可能とした。
:* アーケードゲーム専門誌『[[ゲーメスト]]』([[新声社]])創刊。
; [[1987年]]
:* 株式会社テーカンエレクトロニクス(前身は「日本ヨット株式会社」)がテクモ株式会社を吸収合併。
:* 『[[ダライアス]]』(タイトー)発売。継ぎ目のない3画面モニターを用いてヒットする。
:* 『[[ミッドナイトランディング]]』(タイトー)発売。アーケードゲーム初の本格的な乗り物シミュレーションゲーム。
:* 『[[ファイナルラップ]]』(ナムコ)発売。筐体間の通信リンクを導入しヒットする。
:* 『[[オペレーションウルフ]]』(タイトー)発売。アーケードビデオゲームでは初めて、[[光線銃]]の仕組みを応用した[[ガンシューティングゲーム]]。
; [[1988年]]
:* 『[[テトリス]]』(セガ)発売。[[落ち物パズル]]ゲームが大流行。
:* 『[[トップランディング]]』(タイトー)発売。国産初の[[3次元コンピュータグラフィックス|3DCG]]アーケードゲーム。
:* バリー・ミッドウェイのゲーム部門が[[ウィリアムス (ゲーム)|ウィリアムス]]社に買収され、『ミッドウェイゲームズ』へ社号変更。
; [[1989年]]
:* 世界初の3Dアーケード[[レースゲーム]]である『[[ウイニングラン (コンピューターゲーム)|ウイニングラン]]』(ナムコ)発売(この2ヶ月後にアタリが[[ハードドライビン]]を発売)。
:*『[[アドベンチャークイズ カプコンワールド]]』(カプコン)発売。このヒットを契機に各社が挙ってクイズゲームを発売し始める。
=== 1990年代 ===
; [[1990年]]
:* 家庭用ハード・[[ネオジオ]]と同性能の基板を用いた[[Multi Video System|MVS]]([[SNK (1978年設立の企業)|SNK]])発表。
; [[1991年]]
:* 『[[ストリートファイターII]]』([[カプコン]])発売。その後[[対戦型格闘ゲーム]]が大流行する。
; [[1992年]]
:* 対戦型落ち物パズルゲームの元祖となる『[[ぷよぷよ]]』(セガ/[[コンパイル (企業)|コンパイル]])発売。
:* 『[[モータルコンバット]]』(ミッドウェイゲームズ)発売。
:* 日本物産がJAMMAを退会。
; [[1993年]]
:* 『[[バーチャファイター]]』(セガ)発売。格闘ゲームにおける[[ポリゴン]]のリアルタイムレンダリングの最初の事例となり、注目を集めた。
; [[1994年]]
:* 『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ'94]]』(SNK)発売、以後毎年(2003年まで)発売される人気シリーズとなる。
:* 『[[バーチャファイター2]]』(セガ)発売。描画速度が秒間60フレームに強化され、大ヒットを巻き起こす。
:* 『[[鉄拳 (ゲーム)|鉄拳]]』(ナムコ)発売。[[鉄拳シリーズ]]はその後20年以上に渡り継続する人気シリーズとなる。
:* シューティングゲームの老舗メーカーとして人気だった[[東亜プラン]]が倒産。
:* [[アピエス|アイレム]]がアーケードゲーム事業より撤退(アミューズメントベンダー事業は継続)。
; [[1995年]]
:* 『[[電脳戦機バーチャロン]]』(セガ)発売。対戦型格闘ゲームとは一線を画した、対戦を主体としたアクションゲームの草分け的存在。
:* JAMMA、AOU、NSCの3団体により、毎年[[11月23日]]を「ゲームの日」と制定。全国のゲームセンターにおいて、無料サービスやイベントなどを開催するようになる。
:* セガが、アーケードゲームの保守サービス部門を[[セガ・ロジスティクスサービス]]へ分社。
; [[1996年]]
:* ミッドウェイゲームズが[[ワーナーメディア|タイム・ワーナー・インタラクティブ]]を買収。ワーナー所有のアタリゲームの権利を取得。また同年、親会社であるウィリアムスより『[[ディフェンダー (ゲーム)|ディフェンダー]]』などの著作権を譲渡される。
; [[1997年]]
:* 『[[電車でGO!]]』(タイトー)発売。
:* 『[[beatmania]]』(コナミ)発売。[[音楽ゲーム]]のはしりとなった。
; [[1998年]]
:* 『beatmania 2nd MIX』(コナミ)発売。爆発的な人気となり、以後「[[BEMANIシリーズ]]」として多数の音楽ゲームが発売された。
:* 『[[ぷよぷよ]]』シリーズで人気を馳せた[[コンパイル (企業)|コンパイル]]が[[和議]]を申請し経営破綻。
:* データイーストがアーケードゲーム事業から撤退。
; [[1999年]]
:* 『[[DERBY OWNERS CLUB]]』(セガ)発売。磁気カードによるデータ保存を初めて導入。
:* 『[[Dance Dance Revolution]] 2ndMIX LINK VERSION』(コナミ)発売。メモリーカードを介した、[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]版とのデータ連動を初めて導入。また同年の『[[GUITARFREAKS]] 2ndMIX Link version』では、データ連動のほか「マイギター」として家庭用ギターコントローラーを使用できた。
:* 新声社倒産によりゲーメスト廃刊。後継誌として『[[月刊アルカディア]]』([[エンターブレイン]])創刊。
:* マイコンBASICマガジンの[[ハイスコアラー|ハイスコア集計]]、3月号をもって終了。
1990年代まではアーケードゲームが最先端技術の実験場として機能していたが、後にパソコンの技術に統一され、現代ではパソコンゲームに最先端が移行している。
=== 2000年代 ===
; [[2000年]]
:* [[ジャレコ]]が香港の企業「[[PCCW]](パシフィック・センチュリー・サイバーワークス)」より買収され「PCCW Japan株式会社」に社名変更。アーケードゲーム事業から事実上の撤退。
; [[2001年]]
:* 対戦型格闘ゲームの大手メーカーである[[SNK (1978年設立の企業)|SNK]]が倒産。
:* 『[[バーチャファイター4]]』(セガ)発売。[[ICカード]]を利用したアーケードゲームと[[インターネット]]の本格的な連携を初めて実現。セガはこのゲームのために全国の店舗への[[ISDN]]回線の導入を推進した。
:* 『[[太鼓の達人]]』([[ナムコ]])稼働開始。
; [[2002年]]
:* [[トレーディングカード]]をアーケードゲームに組みこんだ『[[WORLD CLUB Champion Football]]』(セガ)発売。[[トレーディングカードアーケードゲーム]]の原点的作品で、アーケードでしか実現できないシステムとして注目を集める。
:* 『[[麻雀格闘倶楽部]]』(コナミ)にて、インターネットを介した異なる店舗間でのリアルタイム対戦が、初めて実現。
:* ゲームをインターネットに接続し、プレイデータの集計やオンラインアップデートなどを行うサービス「[[e-AMUSEMENT]]」(コナミ)がスタート。
:* コナミがアミューズメント施設事業([[チルコポルト]]運営など)を分社化のうえ[[アムリード]]に全株式を譲渡し、事実上の撤退。
; [[2003年]]
:* 『[[甲虫王者ムシキング]]』(セガ)発売。トレーディングカードアーケードゲームとしては初めて子供向けとして発売され、現在も続く子供向けトレーディングカードアーケードゲームのブームを牽引する形となった。
:* メーカーの枠を超えた対戦型格闘ゲームの全国大会「[[闘劇]]」開始。主催はエンターブレイン。
; [[2004年]]
:* セガ・サミー・ナムコの共通ネットワーク規格「[[ALL.Net]]」が始まる。
:* 『[[Quest of D]]』([[SEGA-AM2]])発売。アーケードにおける初のリアルタイム店舗間マッチング協力プレイが可能な[[MORPG]]。
; [[2005年]]
:* アーケードゲーム用ネットワークシステム「[[NESYS]]」(タイトー)がサービス開始。
:* 任天堂が『[[マリオカート アーケードグランプリ]]』でアーケードゲーム事業に再参入。
:* 『[[三国志大戦]]』(セガ)発売。アクション要素のあるカードゲームとして初めて、異なる店舗間でのリアルタイム対戦を実現。
:* いち早く[[高精細度ビデオ|高精細度]]化を導入したシステム基板「[[LINDBERGH]]」(セガ)発売。
:* 日本物産がアーケードゲーム事業から撤退。同年稼働開始の『恋するコスプレ秋葉原』が最終作。
:* タイトーが[[株式公開買付け]]により、京セラから[[スクウェア・エニックス]]の[[連結子会社]]となる。
:* アイドルプロデュース体験ゲーム『[[THE IDOLM@STER]]』(ナムコ)稼働開始。後にプラットフォームを家庭用ゲーム機や携帯電話に移し、[[アイドルマスターシリーズ]]を形成する。
; [[2006年]]
:* コナミグループの再編に伴い、アーケードゲームなどを手掛ける新会社として[[コナミデジタルエンタテインメント]]をコナミ(後の[[コナミホールディングス]])から新設分割で設立。
:* ナムコがバンダイのゲーム事業を譲受し、バンダイナムコゲームスへ商号変更。
:* アーケードゲーム市場規模が過去最高の7,029億円に更新<ref>[https://web.archive.org/web/20170814224549/http://job.mynavi.jp/conts/2016/keyword/gyoukai/gyo723.html 就活大百科 キーワード1000 > 業界研究 > その他メーカー・製造関連 - 就職活動(就活)準備 - マイナビ2016]</ref>。
; [[2007年]]
:* 『[[頭文字D ARCADE STAGE 4]]』稼動開始。アーケード向けレースゲームとして初めて、異なる店舗間でのリアルタイム対戦を実現。
:* [[コンシューマーゲーム]]メーカーの大手、スクウェア・エニックスが『[[ドラゴンクエスト モンスターバトルロード]]』でアーケードに参入。
; [[2008年]]
:* スクウェア・エニックスのアーケード初の完全オリジナル作品『[[LORD of VERMILION]]』発売。
:* 『[[ストリートファイターIII]] 3rd STRIKE』以来、約9年ぶりのシリーズ作品となる『[[ストリートファイターIV]]』(カプコン)発売。
:* バンダイナムコゲームスが、バンプレストのゲーム事業を譲受。
; [[2009年]]
:* ミッドウェイゲームズが倒産。資産は[[ワーナー・ブラザース]]に売却。
=== 2010年代 ===
; [[2010年]]
:* スクウェア・エニックスグループ再編に伴い、グループにおけるアーケードゲーム事業をタイトーに集約(同時にコンシューマーゲーム事業はスクウェア・エニックスに集約)。
:* [[テクモ]]が[[コーエー|株式会社コーエー]]と経営統合し「[[コーエーテクモゲームス]]」へ社号変更。
:* e-AMUSEMENTにて、カード([[e-AMUSEMENT PASS]])に電子マネー機能を付加する「PASELI(パセリ)」サービス開始。PASELI対応ゲームでは、PASELI利用時のみ所定の特典が得られる。
:* ゲーム筺体にダウンロードコンテンツとして配信されているゲームタイトルを、ダウンロードして遊ぶことができるシステム『[[NESiCAxLive]]』開始。
:* ALL.Netにおいて、それまでゲーム毎に必要だった専用のICカードを、ひとつのICカードまたは携帯電話に集約するサービスを開始(セガ「[[ALL.Net#Aime|Aime]]」、バンダイナムコゲームス「[[ALL.Net#バナパスポート|バナパスポート]]」)。同年11月より、「Aime」と「バナパスポート」の相互利用サービスを開始。
; [[2011年]]
:* コナミが自社アーケード製品の全国大会「[[KONAMI Arcade Championship]]」を初開催。
; [[2012年]]
:* JAMMAがNSA、全日本遊園施設協会(JAPEA)と統合し、一般社団法人に移行。名称を「日本アミューズメントマシン協会」に変更。
; [[2013年]]
:* JAMMA主催の展示会「アミューズメントマシンショー」と、AOU主催の展示会「AOUアミューズメント・エキスポ」が統合し、「[[ジャパンアミューズメントエキスポ]](JAEPO)」を開催。
:* ALL.Netにおいて、『NESiCAxLive』同様に筐体にゲームをダウンロードして遊ぶシステム『ALL.Net P-ras MULTIバージョン2』開始。
:* 東亜プランの流れをくむ[[ケイブ]]がアーケードゲーム事業より撤退(同時にコンソールゲーム事業からも撤退)。前年稼働開始の『[[赤い刀]] 真 for NESiCAxLive』が最終作。
:* セガが、子会社の[[iXIT|インデックス]]からアーケードゲーム事業を移管。[[アトラス (ゲーム会社)|アトラス]]はアーケードゲーム事業より撤退。同年稼働開始の『[[イナズマイレブンGO バトリズム]]』がアトラスが開発したアーケードゲーム最終作。
:* 『[[ぷよぷよ!!クエスト アーケード]]』(セガ)発売。アーケードゲーム初の基本プレイ無料制([[フリーミアム]]方式)を導入<ref name="4Gamer.net20130405">{{Cite web|和書|title=“基本プレイ無料”のアーケードゲーム「ぷよぷよ!!クエスト アーケード」。ロケテスト会場で,プロデューサー渡邉氏にその狙いを聞いてみた|url=https://www.4gamer.net/games/209/G020944/20130403092/|website=www.4gamer.net|accessdate=2021-09-04|publisher=Aetas|date=2013-04-05 }}</ref>。
; [[2014年]]
:* 5月29日、e-AMUSEMENT対応のアーケード一部タイトルがパソコンで遊べ、データ共有も可能なサービス「e-AMUSEMENT CLOUD」サービス開始。対応タイトルは、アーケードとの対戦・協力プレイも可能。
:* メーカーの枠を超えた音楽ゲームの全国大会「[[全日本アミューズメント施設営業者協会連合会#天下一音ゲ祭|天下一音ゲ祭]]」開始。主催はAOU。
; [[2015年]]
:* セガグループ再編に伴い、アーケードゲームを手掛ける新会社としてセガ・インタラクティブをセガ(後の[[セガゲームス]])から新設分割で設立。
:* バンダイナムコゲームスの商号をバンダイナムコエンターテインメントへ変更。
:* カプコンが自社開発基板である[[CPシステム]]・[[CPシステムII]]・[[CPシステムIII]]の修理サポートを終了。サポート終了タイトルは1984年 - 2004年発売のタイトルで、144タイトルに上った。
:* 『[[鉄拳7]]』(バンダイナムコエンターテインメント)発売。アーケードの対戦型格闘ゲームでは初めての店舗間オンライン対戦を導入。
:* タイトーが対戦型ゲームの全国大会「[[闘神祭]]」を開催。当初は自社製品『NESiCAxLive』のプロモーションの一環だったが、翌年より『鉄拳7』などの他社製品も加わり、2012年に終了した「闘劇」の実質的な後継イベントとなる。
:* タイトーが「マルチ電子マネー決済システム」を導入開始。自社ロケーションにおいて、流通系および交通系電子マネーでの決済が可能となる。
:* カプコンがNESiCAxLiveに続き、ALL.Netも導入。
:* アルカディアが4月号をもって定期刊行を終了。
; [[2016年]]
:* 『[[艦これアーケード]]』(セガ・インタラクティブ)発売。トレーディングカードアーケードゲーム初の[[オンデマンド印刷]]を導入(片面印刷のみ)。また、カードとプレイヤーアカウントの紐付けを実現。
:* 『[[三国志大戦#三国志大戦(第2期)|三国志大戦]]』(セガ・インタラクティブ)発売。オンデマンド印刷の両面印刷を初めて導入。
:* セガ・インタラクティブとコナミデジタルエンタテインメントが、共同でアミューズメント施設向けマルチ電子マネーシステムを開始することを発表。「PASELI(パセリ)」、交通系電子マネー、流通系電子マネーを1台の端末で対応。
:* コナミグループ再編に伴い、コナミデジタルエンタテインメントのアーケードゲーム事業をコナミアミューズメントへ吸収分割で移管。
:* セガ・インタラクティブが、アーケードゲームタイトルのIP(知的財産権)をスマートフォンゲームにも活用する「マルチデバイス×ワンサービス」を発表。
:* アルカディア定期刊行終了により全国ハイスコア集計が途絶えたことを受け、[[ハイスコアラー#日本ハイスコア協会|日本ハイスコア協会]]が2月に発足し、独自にハイスコア集計を継続。
; [[2017年]]
:* NESiCAxLiveのシステムを継承し、かつ店舗間オンライン対戦に対応した『NESiCAxLive2』サービス提供開始。
:* セガ・インタラクティブとセガ・ロジスティクスサービスが、LINDBERGH以前のシステム基板並びに[[ATOMISWAVE]]を使用したタイトルの修理サポートを終了。
:* バンダイナムコエンターテインメントが、アーケードゲームのアフターサービス部門を[[バンダイナムコテクニカ]]へ新設分割で移管。
:* バンダイナムコエンターテインメントとバンダイナムコテクニカが、『[[ギャラクシアン]]』・『[[ゼビウス]]』・『[[鉄拳6|鉄拳6 BLOODLINE REBELLION]]』以前の[[鉄拳シリーズ]]など272タイトルの修理サポートを終了。
; [[2018年]]
:* JAMMAとAOUが合併し、[[日本アミューズメント産業協会]](JAIA)が発足。
:* バンダイナムコエンターテインメントのアーケードゲーム事業を、[[バンダイナムコアミューズメント]](ナムコから商号変更)へ吸収分割で移管。
:* セガ・インタラクティブ、バンダイナムコエンターテインメント、コナミアミューズメントの3社が、各社が独自に展開していたアーケードゲーム用ICカードの仕様を統一した規格「[[Amusement IC]]」を制定。各社が同規格に対応した「アミューズメントICカード」を発売。
:* カプコンが『[[CROSS×BEATS#アーケード版|crossbeats REV.]]』のオンラインサービスを終了、『[[Cytus Ω]]』および『[[進撃の巨人#アーケードゲーム|進撃の巨人 TEAM BATTLE]]』の開発中止を発表し、アーケードゲームから事実上の撤退。
; [[2019年]]
:* タイトーが『[[ストリートファイターV#ストリートファイターV タイプアーケード|ストリートファイターV タイプアーケード]]』にてAmusement ICに参入。「アミューズメントICカード」対応のNESiCAを発売。
:* カプコンが自社業務用アミューズメント機器の修理サポート業務を、セガ・ロジスティクスサービスに移管<ref>{{Cite press release|和書|title=【重要】業務用アミューズメント機器のサービス業務移管に関するお知らせ|url=https://www.capcom.co.jp/arcade/news/operator/20200401.html|date=2020年04月01日|accessdate=2021-09-04|publisher=カプコン}}</ref>。
:* 『ALL.Net P-ras MULTI Ver.3』(セガ)開始。ゲームパッド接続用のUSB端子などを備えた新筐体にて供給される。
:* 子供向けアーケードゲームの開発や、プライズマシンの開発・販売を行っていた[[マーベラス (企業)|マーベラス]]が、音楽グループ[[HARDCORE TANO*C]]との共同開発作品である『[[WACCA]]』で開発兼パブリッシャーとして参入<ref name="4Gamer.net20181019">{{Cite interview|和書|title=新作リズムゲーム「WACCA」ロケテスト初日の模様とインタビューをお届け。マーベラスとHARDCORE TANO*Cの新たな挑戦について話を聞いた|url=https://www.4gamer.net/games/436/G043627/20181022022/|website=www.4gamer.net|accessdate=2020-05-08|publisher=Aetas|interviewer=丸谷健太|subject=横山達也|subject2=HARDCORE TANO*C|date=2018年10月19日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=360度タッチパネルが生むアケゲーならでは体験--マーベラスのリズムゲーム「WACCA」|url=https://japan.cnet.com/article/35139869/|website=CNET Japan|date=2019-07-13|accessdate=2021-09-04|author=佐藤和也}}</ref>。
:* ALL.Netがサービスの高速化・安定化を目的に、ネットワーク回線を[[IPv4]] PPPoE接続から[[IPv6]] IPoE接続に変更。
:* システム基板「[[exA-Arcadia]]」発売。海外の新興デベロッパによる開発で、ゲームはロムカートリッジで供給される。11月27日、ローンチタイトル『[[アカとブルー タイプレボリューション]]』稼動開始<ref>{{Cite web|和書|title=アーケード向け新作STG「アカとブルー Type-R」の稼働開始日が11月27日に決定&告知プロモーションムービーが公開|url=https://www.4gamer.net/games/408/G040821/20191009094/|website=www.4gamer.net|accessdate=2021-09-04|publisher=Aetas|date=2019-10-09 }}</ref>。
=== 2020年代 ===
; [[2020年]]
:* セガとタイトーが、ALL.NetとNESYSのネットワーク回線の共同利用に合意<ref name="dengeki20200207">{{Cite web|和書|title=セガ・インタラクティブとタイトーがネットワーク回線の共同利用を合意|url=https://dengekionline.com/articles/25621|website=電撃オンライン|accessdate=2021-09-04|date=2020年02月07日}}</ref>。店舗側の負担を減らすため、ALL.Netが先行して導入していたIPv6 IPoE接続に、NESYSが相乗りすることとなる{{R|dengeki20200207}}。
:* セガゲームスがセガ・インタラクティブを吸収合併。セガゲームスは社名をセガに再変更。
:* ワスド株式会社、アミューズメント施設向けクラウド接客サービス「デジちゃいむ」提供開始。セガやタイトーなどが系列店舗に導入<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/202012/02210193.html|title=“デジちゃいむ”の狙いをキーパーソンに聞く。ゲームセンターをサポートするために企画した、新時代に向けての新たな接客サービス|author=古屋陽一|date=2020-12-02|website=[[ファミ通.com]]|publisher=[[KADOKAWA Game Linkage]]|accessdate=2023-09-12}}</ref>。
:* セガ エンタテインメントが12月30日付で[[GENDA]]の連結子会社となり、商号をGENDA SEGA Entertainmentに変更。これによりセガはアミューズメント施設運営事業から撤退。なお[[セガグループ]]は同社の株式14.9%を引き続き保有し、店舗名としてのセガブランドは継続する。
; [[2021年]]
:* 『[[バーチャファイター eスポーツ]]』[[ALL.Net P-ras MULTI Ver.3]]にて稼動開始。『[[バーチャファイター5]]』のリメイク作品で、メジャーバージョンアップとしては『[[バーチャファイター5#バーチャファイター5_ファイナルショーダウン|バーチャファイター5 ファイナルショーダウン]]』以来約11年ぶりの新作となる。
:* 10月31日までにスクウェア・エニックスの全タイトルがネットワークサービスを終了し、アーケードゲームから事実上の撤退。
:* 『[[CHRONO CIRCLE]]』(アンダミロ)稼動開始。[[ラウンドワン]]限定稼動タイトルで、筐体にもラウンドワンのロゴが刻印されている。以降も『DANCE aROUND』(コナミアミューズメント)『[[MUSIC DIVER]]』(タイトー)とラウンドワン限定稼動タイトルがリリース。
; [[2022年]]
:* GENDA SEGA Entertainment、セガの所有する自社株式14.9%を取得し、社名を[[GENDA GiGO Entertainment]]に変更。あわせて店舗ブランド「SEGA」を今後「GiGO」へ変更することを発表した。さらに[[宝島 (アミューズメント施設)|株式会社宝島]]の全株式を取得し完全子会社化(「宝島」「あそびのひろば」のブランドは継続)、のち吸収合併。7月には北海道でディノスパークを経営していた[[スガイディノス]]より事業譲渡を受けた。
; [[2023年]]
:* 3月29日、ワスド株式会社破産<ref>{{Cite web|和書|url=https://n-seikei.jp/2023/04/post-90186.html|title=ワスド(株)/破産手続き開始決定 <東京>|date=2023-04-07|website=JCNET|accessdate=2023-09-12}}</ref>。「デジちゃいむ」はGENDAが9月1日付けで資産譲渡により取得<ref>{{Cite web|和書|url=https://genda.jp/2023/09/01/genda%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97%E3%81%AE%E5%BA%97%E8%88%97dx%E3%81%8C%E6%9B%B4%E3%81%AB%E5%8A%A0%E9%80%9F-%E3%83%87%E3%82%B8%E3%81%A1%E3%82%83%E3%81%84%E3%82%80/|title=GENDAグループの店舗DXが更に加速 ~「デジちゃいむ」取得によりオペレーションの効率化と顧客満足度の向上を図る ~|date=2023-09-01|website=[[GENDA]]|accessdate=2023-09-12}}</ref>しサービス継続。
:* ジャパンアミューズメントエキスポが同年をもって開催終了。同年秋に「アミューズメント エキスポ in TOKYO BIG SIGHT」としてリニューアルし開催。
== 分類 ==
* ビデオゲーム
** 対戦格闘型 - 対戦相手を撃破し、勝利を目指す物 - 『[[機動戦士ガンダム vs.シリーズ]]』、『[[バーチャファイターシリーズ]]』など多数。
** 反射型 - 移動している物体をパドルなどを操作して打ち返す物 - 『[[ポン (ゲーム)|ポン]]』、『[[ブロックくずし]]』など。
** [[シューティングゲーム|シューティング]]型 - 固定もしくは移動する目標を射撃する物 - 『[[スペースインベーダー]]』、『[[ゼビウス]]』など。
** ドットイート型 - 場面上に配置された物を回収する物 - 『ヘッドオン』、『[[パックマン]]』など。
** [[ベルトスクロールアクションゲーム|ベルトスクロールアクション]]型 - 横から見た構成の画面で、一定の敵が出てくるのを倒しながら一定の方向に進んでいくもの、ベルトコンベアーに例えてつけられた - 『[[ダブルドラゴンシリーズ]]』、『[[ファイナルファイト]]』など。
** [[テーブルゲーム]] - [[クイズ]]、[[麻雀]]、[[将棋]]などの[[アナログゲーム]]をコンピュータ上で遊べるようにしたもの。近年ではネットワーク対戦を利用したものが多い。 - 『[[クイズマジックアカデミー]]』、『[[麻雀格闘倶楽部]]』など
** [[レースゲーム]] - 車を操作し、相手車両より先着する物 - 『[[湾岸ミッドナイト MAXIMUM TUNEシリーズ]]』、『[[頭文字D ARCADE STAGE]]』など。
* 音楽ゲーム
** 演奏型 - 曲を正しく演奏してクリアを目指すもの。『[[beatmania IIDX]]』、『[[GITADORA]]』、『[[太鼓の達人]]』、『[[pop'n music]]』など。
** ダンス型 - 矢印や振り付けを見て踊るもの。体力を使う。『[[Dance Dance Revolution]]』、『[[Dance Evolution|Dance Evolution ARCADE]]』など。
** リズム型 - リズムに合わせてオブジェクトやボタンを押し、クリアを目指すもの。『[[jubeat]]』、『[[初音ミク -Project DIVA-|初音ミク Project DIVA Arcade]]』など。
* エレメカ
** [[プライズゲーム]] - ゲームの結果により、景品がもらえるもの。『[[UFOキャッチャー]]』等
** ベンダー - 必ず商品が出てくる自動販売機。『[[プリント倶楽部]]』『[[甲虫王者ムシキング]]』等。法的にはゲーム機とは見なされない。
== アーケードゲームの復刻 ==
1990年代後半より、1980年代〜1990年代前半のアーケードゲームタイトルを、アーケードにおける仕様を極力再現した単品または複数カップリングによるコンシューマ移植ソフトとしてリリースされるようになっている。これらのゲームはコントローラーの任意のボタン(SELECTボタンなど)でクレジットの投入を再現できるものが多い。2020年代にはアーケードゲーム筐体をモチーフとした復刻ゲーム機が登場している。
'''主な一例'''
*[[ナムコミュージアム]]
*[[カプコン クラシックスコレクション]]
*[[タイトーメモリーズ]]
*[[コナミ アーケード コレクション]]
*[[オレたちゲーセン族]]
*[[NEOGEO オンラインコレクション|ネオジオ オンラインコレクション]]
*[[バーチャルコンソールアーケード]]
*[[Xbox Live Arcade]]
*[[アーケードアーカイブス]]
*[[アストロシティミニ]] - [[アストロシティミニ V]]
*[[ネオジオ ミニ]]
*[[イーグレットツー ミニ]]
== 関連企業 ==
{{also|ゲーム会社一覧|日本アミューズメントマシン協会}}
(アーケ―ドゲーム関連企業)
* [[スタンバイ (アミューズメント機器)|スタンバイ]] - 業務用ゲーム機の販売、レンタル、中古機、景品、部品、修理など
* [[オルガンソフト]] - 未上場、携帯機のほかアーケード用のゲームの3Dグラフィックやアニメーションなどを制作。大阪市中央区
* [[ユーテック]] - 未上場、アーケードゲーム機械の販売及び中古買取を行う会社、アミューズメント施設向けに、クレーンゲームなどプライズゲーム機を中心としたアーケードゲーム機械を販売。新品販売の他、中古機械の買取・販売も。吹田市
* [[セイミツ工業]] - 未上場、アミューズメント関連部品の製造及び販売を行っている会社でジョイスティックや押しボタンなどのアミューズメント関連部品の製造や販売。埼玉県戸田市
* [[セガ・ロジスティクスサービス]] - 未上場、アミューズメント機器などの物流業務全般、アミューズメント機器の保守サービスや修理なども。東京都大田区
* [[バンダイナムコアミューズメント]] - 未上場、アミューズメント機器の企画および卸売。東京都港区
* [[大栄工業]] - 未上場、ゲームセンター用の大型木製キャビネットおよび関連部品を製造。東京都品川区
* [[佐伯工業]] - 未上場、鉄道車両と遊戯機械に関する業務を行っている会社で車両更新工事、屋根・台車補修工事や点検・整備などの鉄道車両に関する事業。泉南郡岬町
* [[エスアイエレクトロニクス]] - 未上場、アミューズメントエレクトロニクス製品の企画・開発・設計など。東京都中央区
* [[松浦製作所]] - 未上場、ATMやアミューズメントマシンのほか航空機内装品などの製造。新潟県新発田市
* [[オウミ技研]] - 未上場、アミューズメント機器をメインに民生品の制御基板などシステム制御およびゲーム機の開発を手掛ける会社でハードウェアやソフトウェアの企画および開発・設計。群馬県太田市
* ファイブ - 未上場、業務用アミューズメント機器(UFOキャッチャー・スロット・パチンコ)のゲーム機器などの卸売やリサイクルショップを運営。福岡県久留米市
* [[タクミコーポレーション]] - 未上場、国内外の業務用・家庭用ゲーム関連ソフトウェアの企画及び開発。東京都新宿区
* [[ユニ機器]] - 未上場、メダル自動補給装置などレジャー機器や自動販売機の製造および販売。栃木県小山市
(アーケードゲーム機製造企業)
* [[アイ・エム・エス]] - 未上場、プリントシール機のほかプライズ機などのアミューズメント機器を開発・販売。吹田市
* [[エスプラン]] - 未上場、小型クレーンゲーム機「カリーノシリーズ」の製造および販売。福岡県春日市
* [[アムジー (相模原市の企業)|アムジー]] - 未上場、業務用ゲーム機の開発や製造および販売、子供向けやファミリー向業務用メダルゲームなど。相模原市中央区
* [[西友エレクトロ]] - 未上場、電子部品やプリクラボックスなどの製造。宮城県栗原市
* [[メイクイースト]] - 未上場、プリクラ機等のアミューズメントマシンの会社でプリクラ機を中心とした、アミューズメントマシンの開発。東京都千代田区
* [[富士電子工業]] - 未上場、メダルゲームなどアミューズメント機械の製造・販売。千葉県市川市
* [[ユー・エス産業]] - 未上場、アーケードゲームの開発や販売などを手掛ける企業でプリクラやUFOキャッチャーなどゲームセンター用のアミューズメントゲーム機の開発や製造、そして販売。大阪市大正区
* [[ピクセルカンパニーズ]] - JASDAQ、カジノ用ゲーム機の開発などを行う。東京都港区
* [[カプコン]] - 東証1部、デジタルコンテンツの開発・販売。大阪市中央区
* [[コナミアミューズメント]] - 未上場、アーケードゲームやアミューズメント施設向けゲーム機器を製造や販売。愛知県一宮市
* [[メトロ (ゲーム会社)|メトロ]] - 未上場、業務用・家庭用ゲームの企画・製造・開発。大阪市淀川区
* [[北日本通信工業]] - 未上場、アーケードゲームの製造および販売。福島県須賀川市
* [[ウイング (杉並区の企業)]]
* [[ディーディーエル]] - 未上場、業務用ゲーム機、機器組込システムや玩具及びゲーム機器等の設計及び製造。札幌市中央区
* [[アルゼゲーミングテクノロジーズ]] - 未上場、ゲーミング事業に特化したカジノマシンの開発。東京都江東区
* アイ・ウィル - 未上場、「ねこくじ」などのアミューズメント施設用ゲーム機の製造・販売。埼玉県戸田市
* [[コーエーテクモホールディングス]] - 東証1部、「[[信長の野望]]」「三國志」など歴史[[シミュレーションゲーム]]が強みのゲーム製作会社で[[パーソナルコンピュータ|PC]]向けゲームで発展してきた[[コーエー]]社と、業務用娯楽機器で発展してきた[[テクモ]]社が2009年に経営統合し設立。神奈川県横浜市港北区
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* 石井ぜんじ・宇佐太郎・氏家雅紀 『セガ・アーケード・ヒストリー』エンターブレイン(ファミ通books)2002年、209頁。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Arcade games}}
* [[アーケードゲームのタイトル一覧]]
* [[コンピュータゲームの歴史]]
* [[ベクタースキャン]]
* [[移植 (ソフトウェア)]]
* [[アミューズメントジャーナル]]
== 外部リンク ==
* [http://www.ampress.co.jp/ ゲームマシン]
* [http://www.am-j.co.jp/ アミューズメント・ジャーナル]
* [http://www.jamma.or.jp/ 一般社団法人 日本アミユ一ズメントマシン協会 : JAMMA]
* [http://www.ge-sen.com/ 全国ゲームセンター情報 ゲマセン]
* [http://pcbdb.net/ PCBdB* アーケードゲーム基板データベース]
<!--* [http://www.am-net.jp/ am-net]
* [http://www.vgamers.net/ vgamer's]-->
* [http://www.focgames.com/ja/games/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0 古典的なゲーム]
{{コンピュータゲームのジャンル}}
{{DEFAULTSORT:ああけえとけえむ}}
[[Category:アーケードゲーム|*]]
[[Category:喫茶文化]] | 2003-02-19T04:43:12Z | 2023-12-09T04:50:13Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0 |
2,365 | 商工会 | 商工会(しょうこうかい)
本項では2について解説する。
商工会(しょうこうかい)は、商工会法(昭和35年法律第89号)に基づき経済産業大臣の認可を受けて設立された特別認可法人。全国には1673ヶ所(平成26年4月1日現在)に設立されている。
地域内商工業者の経営の改善に関する相談とその指導、地域内経済振興をはかるための諸活動及び社会一般の福祉の増進に資することを目的として、幅広い活動を行っている。商工会の運営をささえ、事業活動の推進力となるのは、会員である。会員は、自分の事業を発展させるために、商工会を十分に活用することが出来る。
商工会が他の商工業者の組織と異なる点は、商工会は運営にあたって、法律で定めてある以下の3つの原則に基づいて、公正な立場で事業を行わなくてはならない点である。
小規模事業者の経営または技術の改善発達を図るためのもので、国・都道府県の補助を受けて、商工会の事業の中でも特に重要なものの一つである。この事業には、国が認定した経営指導員などが従事しており、秘密厳守、原則無料として小規模事業者のよき相談相手として適切な助言・指導を行う。
相互扶助・親睦や情報交換・福利厚生などの社会福祉活動・地域課題に対する調査研究
商工会の最高意思決定機関。総会は会員全員で組織されている。会員は、公平に一つの議決権を有し、総会に参加して、意見を商工会に反映させることができる。
会員総数が200人以上の商工会は総代会を設けることができる。その場合は、総会に代わり、会員の中から選任される総代が総代会を組織して最高意思決定機関となる。総代は、会員のうちから、住所や事業の種類等に応じて公平に選挙されなければならない。
商工会運営に関する事項の審議機関で、会員の中から選ばれた、会長、副会長、理事および監事から構成されている。議長は会長が兼務するが、会長に事故のある場合は副会長が議長を務める。なお、商工会法により副会長は2名設置されている。
45歳(40歳)以下の若手商工業者(経営者・後継者など)により構成される青年部と、女性商工業者(経営者・経営者の妻や子女)から構成される女性部がある。ともに、商工会が行う地域振興事業において大きな役割を占め、地域のイベントを実際に運営しているのが地元商工会の青年部・女性部であることは珍しくない。
会員が営んでいる主要な事業の種類ごとに、それぞれの事業の適切な改善発達を図るために、部会が置かれている。例えば工業部会やサービス部会などが設置され、各々業種にあわせた会員で構成されている。商工会の活動に対して意見を述べ、業種ごとの情報を吸収する場ともなる。
地域商工業の重要な問題について調査研究を行い、また、会長の諮問に応じるための機関、理事会を補佐する審議機関であり学識者や商工会役員などで構成されている。
商工会の各種事業ならびに総会や理事会等において決定された施策の執行機関。事務局長が統括し、経営指導員を中心に補助員・記帳専任職員などの職員が常置される。
以下の役員が設置される(商工会法第30条)。
役員の任免は総会(総代会)によってなされる。また、次の各号のいずれかに該当する者は、役員となることができない(商工会法第32条)。
商工会と役員との関係は、委任に関する規定に従う(商工会法第33条)。役員の任期は、3年以内において定款で定める期間とする(商工会法第34条)。 | [
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] | 商工会(しょうこうかい) 明治時代初期の日本において、現在の商工会議所に対して用いられた呼称。商法会議所を参照のこと。
第二次世界大戦後に設立された日本の特別認可法人。
静岡商工会 - 2とは異なる静岡県静岡市の小規模業者団体。 本項では2について解説する。 商工会(しょうこうかい)は、商工会法(昭和35年法律第89号)に基づき経済産業大臣の認可を受けて設立された特別認可法人。全国には1673ヶ所(平成26年4月1日現在)に設立されている。 地域内商工業者の経営の改善に関する相談とその指導、地域内経済振興をはかるための諸活動及び社会一般の福祉の増進に資することを目的として、幅広い活動を行っている。商工会の運営をささえ、事業活動の推進力となるのは、会員である。会員は、自分の事業を発展させるために、商工会を十分に活用することが出来る。 商工会が他の商工業者の組織と異なる点は、商工会は運営にあたって、法律で定めてある以下の3つの原則に基づいて、公正な立場で事業を行わなくてはならない点である。 | {{混同|民主商工会}}
'''商工会'''(しょうこうかい)
#[[明治時代]]初期の[[日本]]において、現在の[[商工会議所]]に対して用いられた呼称。[[商法会議所]]を参照のこと。
#[[第二次世界大戦]]後に設立された日本の特別認可法人。
#静岡商工会 - 2とは異なる[[静岡県]][[静岡市]]の小規模業者団体。
本項では2について解説する。
----
'''商工会'''(しょうこうかい)は、商工会法(昭和35年法律第89号)に基づき[[経済産業大臣]]の認可を受けて設立された[[特別認可法人]]。全国には1673ヶ所(平成26年4月1日現在)に設立されている。
地域内[[商工業|商工業者]]の経営の改善に関する相談とその指導、地域内経済振興をはかるための諸活動及び社会一般の福祉の増進に資することを目的として、幅広い活動を行っている。商工会の運営をささえ、事業活動の推進力となるのは、会員である。会員は、自分の事業を発展させるために、商工会を十分に活用することが出来る。
商工会が他の商工業者の組織と異なる点は、商工会は運営にあたって、法律で定めてある以下の3つの原則に基づいて、公正な立場で事業を行わなくてはならない点である。
== 商工会の基本原則 ==
*営利を目的としない
*特定の個人や団体の利益のために活動しない
*特定の政党のために活動しない
=== 商工会と商工会議所 ===
<div style="margin:0 2em 0 2em">
{| class="wikitable" style="font-size: 90%;" style="width:100%"
! 区分 !! 商工会議所 !! 商工会
|-
|style="text-align:center"|根拠となる法律
|style="text-align:center"|[[商工会議所法]]
|style="text-align:center"|[[商工会法]]
|-
|style="text-align:center"|管轄する官庁
|style="text-align:center"|[[経済産業省]][[経済産業政策局]]
|style="text-align:center"|[[経済産業省]][[中小企業庁]]
|-
|style="text-align:center"|主たる地区<ref>原則として、同一の市町村内に複数の法人が存在することはないが、[[市町村合併]]などにより、以前の市町村の地区別ごとなどに法人が存在する地方自治体も多い。ただし、他の地区と重複することはない。町村の区域にある商工会議所や、市の区域にある商工会も存在する。</ref>
|style="text-align:center"|[[市]]および[[特別区]]の区域(例外あり)
|style="text-align:center"|[[町村]]の区域(例外あり)
|-
|style="text-align:center"|組織構成
|style="text-align:center"|[[日本商工会議所]](全国組織)<br>商工会議所連合会(都道府県)<br>[[商工会議所]](市、特別区)
|style="text-align:center"|[[全国商工会連合会]](全国組織)<br>商工会連合会(都道府県)<br>'''商工会'''(町村)
|-
|style="text-align:center"|会員の規模
|地区内の小規模事業者が中心であるが、商工会と比較すると中堅・大企業の割合が高い
|地区内の小規模事業者が中心で、9割を超える会員が小規模事業者
|-
|style="text-align:center"|事業
|地域の総合経済団体として中小企業支援事業の他、原産地証明、商事紛争の仲裁等国際的業務
|中小企業施策、特に小規模事業施策に重点を置いており、事業の中心は経営改善普及事業
|-
|style="white-space:nowrap"|組織の意思決定
|選挙で選任された議員による議員総会で決定、議員選挙は会費1口当たり1票
|全ての会員に参加する権利がある総会で意思決定、1会員1票
|-
|style="text-align:center"|設立要件
|地区内の特定商工業者の過半数が同意(会員要件なし)、経済的基礎・施設・職員を有すること
|地区内の商工業者の2分の1以上が会員となること
|}
<references />
</div>
==経営改善普及事業==
小規模事業者の経営または技術の改善発達を図るためのもので、国・都道府県の補助を受けて、商工会の事業の中でも特に重要なものの一つである。この事業には、国が認定した経営指導員などが従事しており、秘密厳守、原則無料として小規模事業者のよき相談相手として適切な助言・指導を行う。
*金融 - 事業資金についての相談・斡旋(無担保・無保証融資の斡旋もある)。特に商工会・[[商工会議所]]から経営指導を受けている事業所は[[日本政策金融公庫]]より「マル経融資」という有利な条件による融資を受けられる。
*税務 - 所得税や相続税、贈与税等の申告納税についての相談・指導
*経理 - 帳簿のつけ方や決算の仕方についての相談・指導
*労務 - 従業員の採用、福利厚生、労働、社会保険、各種共済、教育訓練等についての相談
*経営 - 仕入、生産、販売、市場調査等についての相談や経営診断
*その他 - 法律、特許、取引紹介や講習会などの開催、組合事業等の相談
==地域総合振興事業==
相互扶助・親睦や情報交換・福利厚生などの社会福祉活動・地域課題に対する調査研究
*総合振興事業
*[[商業]]振興事業
*[[工業]]・[[水産加工業]]振興事業
*観光振興事業
*青年部事業
*女性部事業
*金融・税務対策
*労働・福利厚生対策
==組織構成==
===総会(総代会)===
商工会の最高意思決定機関。総会は会員全員で組織されている。会員は、公平に一つの議決権を有し、総会に参加して、意見を商工会に反映させることができる。
会員総数が200人以上の商工会は総代会を設けることができる。その場合は、総会に代わり、会員の中から選任される総代が総代会を組織して最高意思決定機関となる。総代は、会員のうちから、住所や事業の種類等に応じて公平に選挙されなければならない。
===理事会===
商工会運営に関する事項の審議機関で、会員の中から選ばれた、会長、副会長、理事および監事から構成されている。議長は会長が兼務するが、会長に事故のある場合は副会長が議長を務める。なお、商工会法により副会長は2名設置されている。
===青年部・女性部===
45歳(40歳)以下の若手商工業者(経営者・後継者など)により構成される青年部と、女性商工業者(経営者・経営者の妻や子女)から構成される女性部がある。ともに、商工会が行う地域振興事業において大きな役割を占め、地域のイベントを実際に運営しているのが地元商工会の青年部・女性部であることは珍しくない。
===部会===
会員が営んでいる主要な事業の種類ごとに、それぞれの事業の適切な改善発達を図るために、部会が置かれている。例えば工業部会やサービス部会などが設置され、各々業種にあわせた会員で構成されている。商工会の活動に対して意見を述べ、業種ごとの情報を吸収する場ともなる。
===委員会===
地域商工業の重要な問題について調査研究を行い、また、会長の諮問に応じるための機関、理事会を補佐する審議機関であり学識者や商工会役員などで構成されている。
===事務局===
商工会の各種事業ならびに総会や理事会等において決定された施策の執行機関。事務局長が統括し、[[経営指導員]]を中心に補助員・記帳専任職員などの職員が常置される。
==役員==
以下の役員が設置される(商工会法第30条)。
*会長 - 1名。商工会を代表し、その業務を総理する。
*副会長 - 2名以内。会長を補佐し、会長に事故がある時は職務を代理し、会長が欠員の時はその職務を行なう。
*理事 - 30名以内。会長・副会長を補佐して会務を掌理し、会長・副会長に事故がある時は職務を代理し、会長・副会長が欠員の時はその職務を行なう。
*監事 - 2名以内。商工会の業務及び会計の状況を監査し、その監査の結果を総会に報告する。
役員の任免は総会(総代会)によってなされる。また、次の各号のいずれかに該当する者は、役員となることができない(商工会法第32条)。
#心身の故障のため職務を適正に執行することができない者として経済産業省令で定める者<ref>[[成年被後見人]]又は[[被保佐人]]を[[欠格]]条項とする規定については、令和元年6月14日に公布された「成年被後見人等の権利の制限に係る措置の適正化等を図るための関係法律の整備に関する法律」によって削除され、心身の故障等の状況を個別的、実質的に審査し、必要な能力の有無を判断することとなった。</ref>
#[[破産]]手続開始の決定を受けて[[復権]]を得ない者
#[[未成年者]]
#[[禁錮]]以上の刑に処せられた者で、その執行を終わり、又は執行を受けることがなくなった日から5年を経過しないもの
商工会と役員との関係は、[[委任]]に関する規定に従う(商工会法第33条)。役員の任期は、3年以内において[[定款]]で定める期間とする(商工会法第34条)。
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[商工会議所]]
* [[商工組合]]
* [[中小企業]]
== 外部リンク ==
<!-- 特記すべき理由のない個別商工会へのリンクは除去されます -->
* [https://www.shokokai.or.jp/ 全国商工会連合会]
{{日本の法人}}
{{DEFAULTSORT:しようこうかい}}
[[category:日本の法人]]
[[category:中小企業団体]]
[[Category:企業支援]]
[[Category:20世紀の日本の設立]] | null | 2023-05-23T06:20:48Z | false | false | false | [
"Template:混同",
"Template:Reflist",
"Template:日本の法人"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E5%B7%A5%E4%BC%9A |
2,366 | 市川雷蔵 | 市川 雷藏(いちかわ らいぞう、新字体:雷蔵)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は、初代から四代目と六代目は柏屋、五代目は櫻屋、七代目は不詳、八代目は升田屋。定紋は三升の中に雷(みますの なかに いかづち)、替紋は棘牡丹(いばら ぼたん)。 | [
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] | 市川 雷藏は、歌舞伎役者の名跡。屋号は、初代から四代目と六代目は柏屋、五代目は櫻屋、七代目は不詳、八代目は升田屋。定紋は三升の中に雷、替紋は棘牡丹。 初代 市川雷蔵
二代目市川團十郎の門人、1724–67。京の子供芝居から、嵐一門での若女形を経て、寛保二年 (1742) 江戸へ下り二代目海老蔵門下で立役。屋号は柏屋。
嵐玉柏 → 初代市川升蔵 → 初代市川雷蔵 二代目 市川雷蔵
初代の子、1754–78。早世。屋号は柏屋。
市川雛蔵 → 二代目代市川雷蔵 三代目 市川雷蔵
五代目市川團十郎の門人、生没年不詳。屋号は柏屋。
二代目市川升蔵 → 三代目市川雷蔵 四代目 市川雷蔵
五代目市川團十郎の門人、生没年不詳。はじめ中山久吉の門下。屋号は柏屋。
中山金蔵 → 初代榊山金蔵 → 榊山四郎三郎 → 中山楯蔵 → 四代目市川雷蔵 → 二代目市川男女蔵(小谷屋) 五代目 市川雷蔵
七代目市川團十郎の門人、1820–66。屋号は櫻屋。
三河屋三代目市川團子 → 四代目市川雷蔵 → 四代目市川壽美蔵 → 四代目市川雷蔵 → 市川團五郎 → 市川海蔵 → 市川海猿 → 初代市川猿三郎 → 市川雛助 (市川雷蔵)
出自・生没年不詳。明治9年 (1878) 6月の絵本番付にその名がみえる。詳細不明。
襲名歴不詳 六代目 市川雷蔵
九代目市川團十郎の門人、1876–1901、早世。屋号は柏屋。
市川九 → 六代目市川雷蔵 → 鈴木吉蔵 → 六代目市川雷蔵 七代目 市川雷蔵
九代目市川團十郎の門人、1890–??。大正の中頃中期に廃業して日本舞踊藤間流の師範に。
市川英太郎 → 七代目市川雷蔵 八代目 市川雷蔵
三代目市川壽海の養子、1931–69。実家は京都の商家。生後ほどなく実父の義兄・三代目市川九團次の養子となる。大看板・市川壽海の御曹司となり将来を嘱望されたが、映画界へ転身。大映専属の映画俳優として戦後昭和の日本映画を代表する大スターになるが、37歳で病死。屋号は升田屋。
二代目市川莚蔵 → 八代目市川雷蔵 | [[File:Mimasu no Naka ni Ikazuchi.jpg|thumb|100px|三升の中に雷]]
[[File:unknown2.jpg|thumb|100px|棘牡丹]]
'''市川 雷藏'''(いちかわ らいぞう、新字体:'''雷蔵''')は、[[歌舞伎]]役者の名跡。[[屋号]]は、初代から四代目と六代目は[[柏屋 (歌舞伎)|柏屋]]、五代目は[[櫻屋]]、七代目は不詳、八代目は[[升田屋]]。[[定紋]]は三升の中に雷<small>(みますの なかに いかづち)</small>、替紋は棘牡丹<small>(いばら ぼたん)</small>。
*[[市川雷蔵 (初代)|初代 市川雷蔵]]
**[[市川團十郎 (2代目)|二代目市川團十郎]]の門人、1724–67。[[京都|京]]の子供芝居から、嵐一門での若女形を経て、[[寛保]]二年 (1742) 江戸へ下り二代目海老蔵門下で[[立役]]。[[屋号]]は柏屋。<!--[[俳名]]に栢車。-->
**嵐玉柏 → 初代[[市川升蔵]] → 初代市川雷蔵
*[[市川雷蔵 (2代目)|二代目 市川雷蔵]]
**初代の子、1754–78。早世。屋号は柏屋。<!--俳名に栢車。-->
**市川雛蔵 → 二代目代市川雷蔵
*[[市川雷蔵 (3代目)|三代目 市川雷蔵]]
**[[市川團十郎 (5代目)|五代目市川團十郎]]の門人、生没年不詳。屋号は柏屋。
**二代目市川升蔵 → 三代目市川雷蔵
*[[市川雷蔵 (4代目)|四代目 市川雷蔵]]
**五代目市川團十郎の門人、生没年不詳。はじめ中山久吉の門下。屋号は柏屋。
**中山金蔵 → 初代[[榊山金蔵]] → 榊山四郎三郎 → 中山楯蔵 → 四代目市川雷蔵 → 二代目[[市川男女蔵]](小谷屋)
*[[市川雷蔵 (5代目)|五代目 市川雷蔵]]
**[[市川團十郎_(7代目)|七代目市川團十郎]]の門人、1820–66。屋号は櫻屋。
**三河屋三代目[[市川團子#三河屋市川團子代々|市川團子]] → 四代目市川雷蔵 → 四代目[[市川壽美蔵]] → 四代目市川雷蔵 → 市川團五郎 → 市川海蔵 → 市川海猿 → 初代[[市川猿三郎]] → 市川雛助
*(市川雷蔵)
**出自・生没年不詳。明治9年 (1878) 6月の絵本番付にその名がみえる。詳細不明。
**襲名歴不詳
*[[市川雷蔵 (6代目)|六代目 市川雷蔵]]
**[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]の門人、1876–1901、早世。屋号は柏屋。
**市川九 → 六代目市川雷蔵 → 鈴木吉蔵 → 六代目市川雷蔵
*[[市川雷蔵 (7代目)|七代目 市川雷蔵]]
**九代目市川團十郎の門人、1890–??。大正の中頃中期に廃業して[[日本舞踊]][[藤間流]]の師範に。
**市川英太郎 → 七代目市川雷蔵
*[[市川雷蔵 (8代目)|八代目 市川雷蔵]]
**[[市川壽海 (3代目)|三代目市川壽海]]の養子、1931–69。実家は京都の商家。生後ほどなく実父の義兄・[[市川九團次|三代目市川九團次]]の養子となる。大看板・市川壽海の御曹司となり将来を嘱望されたが、映画界へ転身。[[大映]]専属の映画俳優として戦後昭和の[[日本映画]]を代表する大スターになるが、37歳で病死。屋号は升田屋。
**二代目[[市川莚蔵]] → 八代目市川雷蔵
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2,367 | 阪東妻三郎 | 阪東 妻三郎(ばんどう つまさぶろう、1901年(明治34年)12月14日 - 1953年(昭和28年)7月7日)は、日本の歌舞伎俳優、映画俳優。本名:田村 傳吉(たむら でんきち)、サイレント映画時代に岡山 俊太郎(おかやま しゅんたろう)の名で監督作がある。端正な顔立ちと高い演技力を兼ね備えた二枚目俳優として親しまれ、「阪妻(バンツマ)」の愛称で呼ばれた。
大正末年から昭和初年にかけての剣戟ブームを生み出した剣戟俳優であり、「剣戟王(けんげきおう)」の異名を持つ。日本映画史においてサイレント映画からトーキーへの転換期に活躍、双方で高い実績を残した人物としてしばしば名を挙げられる。
大河内傳次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。
1901年(明治34年)12月14日(土曜日)、東京府神田区橋本町(現在の東京都千代田区東神田)の田村長五郎という木綿問屋の次男坊として生まれ、神田で育った。小学校を卒業する頃から家業が傾き始める。兄、姉、母が相次いで亡くなり、父親が事業に失敗して破産。
1916年(大正5年)、旧制・尋常小学校高等科を卒業した後、母や姉が常盤津や長唄の芸事に秀でていたことや芝居が好きだったことから「立身出世の早道」を求め、16歳で成績表片手に芝明舟町にあった十五代目市村羽左衛門の邸へ飛び込むが門前払いされた。
落ち込んで帰宅する途中、近くの十一代目片岡仁左衛門の邸に思い切って飛び込んでみたところ、伊東という番頭が取り次いでくれて、「まあ遊んでいろ」と仁左衛門の内弟子を許される。
仕事は雑用ばかりで、しつけは厳しく、雑用の合間に黒衣着で舞台の見学をしながら狂言のノートをとる毎日だった。師匠について大阪中座で「紙子仕立両面鑑」の序幕の仕込みに出たのが初舞台で、セリフはなかった。
1918年(大正7年)、二年辛抱するがうだつが上がらず、因襲と家柄優先の歌舞伎の世界に限界を感じ始め、「一日二回、十日替りの芝居ならもっと修行ができる」と結論。金にもなるということから、ちょうど浅草の吾妻座から声がかかり、沢村宗五郎、吾妻市之丞らの一座に入り、「沢村紀千助」を名乗る。
下っ端なりに役も付くようになったが物にならず、市之丞に連れられて再び歌舞伎座に戻り、師匠の仁左衛門に顔向け出来ぬ苦しみを味わう。こうしたなか、縁あって神田劇場で中村歌扇や尾上菊右衛門と一座することとなる。
1919年(大正8年)、国際活映の沢村四郎五郎一派のエキストラに出演。日給1円20銭だった。伝統や因襲にこだわる芝居道と違う新天地を活動写真界に見出し、3月ごろから「阪東藤助」を名乗り、沢村四郎五郎、實川莚十郎に頼みこんで昼は活動写真、夜は劇場と働いた。
1920年(大正9年)、6月に松竹キネマ蒲田撮影所が出来ると、實川莚十郎と一緒に松竹キネマに入るが、このとき行動を共にした森要がまもなく退社したため、これに伴って国活に逆戻りし、まったく無名のまま脇役を過ごす。国活では「阪東要二郎」を名乗り、7月には『島の塚』(枝正義郎監督)に仕出し役で出演している。環歌子は当時の阪妻について、「大勢のエキストラの中でも大変目立ってすぐわかりました。痩せて非常に背が高く、首一つ出ている感じで色が白いのを通り越して青い様な感じでした」と語っている。
1921年(大正10年)、活動写真の現場でも下廻りばかりで面白くなくなり、国活撮影所で同士だった片岡松花、中村吉松を募って撮影所を飛び出し、「阪東妻三郎」を名乗って「東京大歌舞伎 阪東妻三郎一座」の看板を掲げ、「タンカラ芝居」(東京近郊を巡業する村芝居)に出る。演し物は一番目が「ひらがな盛衰記」、二番目が「本朝二十四孝」の御殿で、阪妻は船人松右衛門と武田勝頼を演じた。
前景気も良く、「阪東妻三郎大一座」は上州辺りを打って廻り、始めは大入り大受けだった。
1922年(大正11年)、22歳の春、仕打ちの失敗から一座解散。阪妻は単衣物一枚の上に外套を羽織る惨めな有様で、ようやく生家に戻ったものの妹は死んだあとで、兄は病臥していた。
1923年(大正12年)2月、牧野省三が京都にマキノ映画製作所を結成するにあたり、マキノの重役宮川斉が東京に俳優募集に来たところ、阪妻に眼を止める。阪妻は「これで成功しなければ二度と東京の土は踏まぬ」との一大決心で片岡松花、中村吉松と京都入り、マキノ・プロダクションに入社。
マキノ・プロに月給六十円の大部屋俳優として転がり込んだ阪妻だが、当初、役柄は敵役、脇役が多かった。「御用、御用」の斬られ役で、斬られては顔を変え、幾度も立ち回りにからんだが、顔が立派で柄も大きいため、どんなに変装しても目立ってしまった。
1924年(大正13年)、正月映画『火の車お萬』で環歌子との共演が当たり役となって、「あいつが出ると目立ってしかたがないから役をつけてしまえ」ということになり、『怪傑鷹』(二川文太郎監督)で高木新平の相手役の「黒木原源太」という悪役に抜擢される。ところが「白面の美剣士が敵役」というので、観客、批評家を驚かし、これが出世の糸口となる。
続く日活・松之助映画とマキノの初競作『燃ゆる渦巻』(全四篇)で、途中から阪妻演じる駒井相模守の人気が急上昇。第四篇では主役の林清之助が呆気なく死に、阪妻の相模守が主役になってしまった。この作品でマキノは大いに名声を博し、尾上松之助版を圧倒する評判を得た。
ちょうどたまたま同じ下宿に、浅草ペラゴロ出身の、これも浪人の身の脚本家寿々喜多呂九平(『怪傑鷹』の作者)がおり、二人は意気投合。同年、阪妻のために呂九平は『鮮血の手型 前・後篇』(沼田紅緑監督)の脚本を書き下ろし、同作は阪妻の第一回主演作となる。
『鮮血の手型』は、それまでのやたらと見得を斬る歌舞伎スタイルの立ち回りの旧劇と異なり、阪妻の激しい剣戟とリアルな演出が、映画界に革命的な衝撃を与えた。以後、『恐怖の夜叉』、『討たるる者』、『『江戸怪賊伝 影法師 前・後篇』、『墓石が鼾する頃』と、この寿々喜多呂九平と組んだ、阪妻の人気を不動とした作品群が続き、とりわけて虚無的で反逆的な一連の傑作を、浅草オペラ出身のアナキスト、漠与太平門下生の二川文太郎が監督。なかでも大正14年の『江戸怪賊伝 影法師 前・後篇』は大好評で、時代劇俳優の第一人者としての地位は決定的なものとなる。
1925年(大正14年)9月、全国の熱狂的なファンに応え、阪妻は「自由制作」を標榜し、25歳で阪東妻三郎プロダクションを京都太秦に設立。今東光を顧問に据え、自ら陣頭に立ち、映画製作を開始する。
阪妻はマキノ時代以来の盟友、寿々喜多呂九平・二川文太郎をマキノからの出向で得て、『雄呂血』の製作を開始するが、京都ではマキノ側の妨害が激しく、やむなく東京の吾嬬撮影所で『異人娘と武士』を撮影。
『異人娘と武士』が終わるとすぐに引き返し、奈良で『雄呂血』を撮影。撮影所はなく、旅館に泊まって資金ができるとロケに出るという状況だった。環歌子はこのときの阪妻の様子について、「妻さんは命がけでやっているのがよくわかりました。泣きながら一人で頑張っていました」と語っている。
11月、ついに『雄呂血』が完成し、封切り公開。歌舞伎調の立ち回りを完全に破壊した型破りの殺陣は大評判となり、また体制に反逆する主人公の虚無的な英雄像はその時代の風潮ともマッチし、大ヒットとなる。また、その大胆な殺陣で「乱闘劇のバンツマ」として一世を風靡する。
12月、阪妻人気に注目した松竹は独立早々の阪妻と配給提携を結び、これにより阪妻人気は全国的なものとなる。
阪妻プロでは「三羽がらす」、「四天王」、「十剣士」などといった「からみ(斬られ役)」を揃えていた。河津清三郎は最も多く用いられたからみの一人だった。
1926年(大正15年)4月、阪妻プロの太秦撮影所落成。9月、アメリカのユニバーサル社と配給提携。以後、時代劇のみならず現代劇も制作。
この年『魔保露詩』、「東山三十六峰静かに眠るとき・・・」の活弁で一世を風靡した『尊王』、アナキスト悪麗之助監督・脚本の『無明地獄』と、代表作とされる傑作を連作。剣戟スタアの地位を不動のものとする。
阪妻映画では、講談調の単なる英雄、豪傑と違い、阪妻扮する武士や浪人、やくざに至るまでが人間的な明暗を持ち、不正や不当な権力と闘う不屈な精神が描かれるため、阪妻の映画は幅広い愛好者の支持を受けた。
1927年(昭和2年)5月、ユニバーサル社との提携を解除。思い通りに動かない阪妻を警戒した松竹は、六十万円を出資して阪妻プロを株式会社化。山崎修一を目付役に送り込む。以後山崎と阪妻は意見対立・喧嘩の毎日だった。
1928年(昭和3年)新春早々、朝日新聞が阪妻のために「賞金五千円」をかけて募集した映画小説一等当選作『霊の審判』の映画化を発表。この作品はすでに朝日新聞紙上で伊藤好市原作で連載中であり、「阪妻の初の本格現代劇主演」とあってセンセーショナルな話題を映画界に投じた。
しかし興行主義の松竹と芸術志向の阪妻の対立が次第に表面化。初の現代劇ともあって阪妻も調子が上がらず、また異色の原作映画化といったこともあり、三月封切りの予定を過ぎても『霊の審判』は完成せず、4月、ついに阪妻プロ支配人山崎修一は製作の正式中止を発表。
6月28日、阪妻プロは改革縮小を断行。阪妻は取締役を辞任、『霊の審判』主要スタッフの枝正義郎、細山喜代松、江川宇礼雄、近藤伊与吉らが整理退社となり、『霊の審判』製作再開は不可能となる。
阪妻の松竹に対する発言力が強かったのは大正15年から昭和2年までで、この昭和3年以降は強大な資本力によって、松竹の阪妻プロ干渉が強力なものとなっていった。松竹での阪妻プロの位置づけは「松竹時代劇救世主」から、「松竹時代劇ブロック構成の一環」に組み込まれていった。昭和2年、松竹は阪妻に替えて林長二郎を二万円(当時)の宣伝費をかけて売り出し、長二郎の人気は阪妻に肉薄していく。
1929年(昭和4年)、松竹は阪妻、林長二郎、月形龍之介、市川右太衛門、阪東寿之助と時代劇ブロックを充実させ、芸術志向の阪妻プロとの時代劇製作方針の相克は溝をますます深める。
1930年(昭和5年)6月11日、阪妻懸案の大佛次郎との提携作『からす組』完成後に、阪妻は朝日新聞紙上に松竹脱退絶縁声明書を発表。京都の阪妻プロ撮影所を解散する。
1931年(昭和6年)2月4日、松竹との借財問題を解決するために大阪に出向き、黒龍会の吉田益三の仲介のもとで借金の返済交渉にあたる。阪東が借金5万円のうち半額を渡し、残金は追って支払うことで和解した。 閉鎖した京都太秦の撮影所を谷津遊園(現千葉県習志野市・現在はない)に移設し、野心的に仕事をこなす。新興キネマと配給提携し、吉川英治、長谷川伸その他の大衆文芸を題材とした本格的ドラマ作りに精進。共演女優に森静子、環光子、鈴木澄子、桜木梅子が次々出演。ヒット作を飛ばす。
同年、アメリカのパラマウント社のため阪妻プロとは別に「大日本自由映画プロダクション」を設立し、『落陽餓ゆ』(東隆史監督)を制作。「大日本自由映画」はこの一本のみで解散する。
1935年(昭和10年)5月、阪妻プロが新興キネマと合流。昭和6、7年ごろから日本映画はトーキー時代に移行。映画界の情勢は一変。阪妻人気は凋落。
1936年(昭和11年)12月、『怒涛一番乗』を最後に、11年続いた阪妻プロは解散する。
1937年(昭和12年)5月、谷津の撮影所を整理して、裸一貫で日活に移る。独立時代と違って、商業主義的な大作に次々と出演し、芸歴は一段と大きくなったが、独立時代に深刻な人間探求を続けた成果が実り、名優としての評価が加わった。セリフをすべて暗記するまで仕事にかからなくなったのはこのころからである。役柄では『恋山彦』の伊奈小源太、『柳生月影抄』の柳生十兵衛、『闇の影法師』の縣佐馬之助、『忠臣蔵』の大石内蔵助、『富士に立つ影』の佐藤菊太郎と、オーソドックスな武士に扮して堂々の貫禄を示した。『将軍と参謀と兵』では師団長中将に扮して支那大陸を背景に現代武人の典型を見せ名実ともに斯界の王座を占めた。
1942年(昭和17年)、『将軍と参謀と兵』(田口哲監督)で、初の現代劇主演。
この年、日活が再編成され大映となり、阪妻もこれに合流。創立記念作『維新の曲』(牛原虚彦監督)は、阪妻、千恵蔵、右太衛門、アラカンという「四大スタア」の顔合わせもあり大ヒットとなる。
1943年(昭和18年)、軍徴用にひっかかるが、嵐寛寿郎によると「あの人は豪胆やさかい呼び出しに応じまへん」とのことで、「役者の阪妻がお国の役に立たなくて、田村伝吉に何の用がおます」と啖呵を切り、出頭せずじまいで済ませてしまった。
戦時中はほかに『血煙高田の馬場』、『魔像』、『江戸最後の日』、『無法松の一生』などの傑作に主演。
1944年(昭和19年)、8カ月にわたる上海ロケの末、日華合作映画『狼火は上海に揚る』(稲垣浩監督)を完成。封切り時は日支双方とも空襲のさなかで映画鑑賞のゆとりなどはなかったという。
1945年(昭和20年)、日活撮影所は連日京都師団の査閲訓練を受け、映画撮影どころでなくなる。阪妻は稲垣に「上陸されたらおしまいでしょう」と戦況を語っている。8月15日、日本敗戦。阪妻は撮影所企画室で、稲垣浩と二人で黙って手を握り合ったという。
戦後、占領軍の「チャンバラ禁止令」のために剣戟ができず、慣れない洋服を着て現代劇に出演。
1947年(昭和22年)、『素浪人罷り通る』(伊藤大輔監督)で時代劇復帰。
1949年(昭和24年)、現代劇好調を受け、大映社長永田雅一が「古ぼけた時代劇のスタアはもうウチはいらん」と放言。これに怒って「四大スタア」全員大映を脱退。阪妻は松竹京都に移籍。時代劇の地図が塗り替えられることとなる。
1950年(昭和25年)、松竹下加茂撮影所が可燃性フィルムの自然爆発を起こし、現像所や事務所、ステージを全焼。ほぼ完成状態だった、山田五十鈴共演の『無頼漢』(衣笠貞之助監督)のフィルムが焼失の憂き目に遭う。
時代劇では『大江戸五人男』、天才棋士坂田三吉を演じた『王将』、コミカルな現代劇『破れ太鼓』などの作品に主演し、大河内伝次郎とともに正真正銘の「スタア」であり続けた。
1953年(昭和28年)7月2日、『あばれ獅子』撮影中に持病の高血圧から体調を崩し、同年7月7日、脳内出血により死去。51歳没。
5人の子どものうち、長男の田村高廣、三男の田村正和、四男の田村亮の3人は俳優となった。二男の田村俊磨は実業家で、高廣・正和のマネージャーも務めた。婚外子に俳優の水上保広がいる。田村幸士は孫にあたる。
阪妻はサイレント映画時代から培った、動きと表情を駆使する技術で演技全体に抜群の説得力を与えた。特に彼が殺陣の見せ場で行う、両脚を大きく広げて踏ん張った体勢で手に持った刀をゆっくりと眼前に下ろし、首を左右にゆらゆらと動かす仕草は「バンツマ」の代名詞として広く知られている。これについて俳優の高橋英樹は「子供の頃、チャンバラごっこが好きな男の子はみんな阪東さんの真似をしていましたよ。僕くらいの年齢なら阪妻のあれ(首をゆらゆらさせる仕草)を全く知らないという人の方が少ないんじゃないですか」と述べており、彼の演技が幅広い年齢層に浸透していたことが伺える。
トーキー映画に初めて出演した際、自身の甲高く細い声がファンの失望を呼んだことが人気低落の理由のひとつと考え、独自にボイストレーニングを行う。やがて努力の甲斐あり阪妻は迫力のある発声を体得したが、無理な訓練がたたり喉が潰れ、以後しゃがれ声になった。しかし阪妻は声が変わってしまったことを全く後悔せず、「こういう声の方が凄みが出る。前よりずっといい」と語っていたという。そして再生一作目となる『恋山彦』前後篇では、「剣戟王・阪妻」の復活を告げる素晴らしい立ち回りとともに、喉の奥から搾り出すような独特の台詞回しで好評を博した。
無学のコンプレックスを克服するため、勉励努力を重ねていた。アナキストの今東光を阪妻プロの顧問に迎えたり、哲学映画『霊の審判』を自ら監督しようとして結局製作中止となったり、「大日本自由映画プロダクション」を設立して『洛陽餓ゆ』一本のみで解散するなど、世間からは大風呂敷としか見えない試行錯誤を執拗に繰り返した。これは阪妻が常に不安であり、俳優という仕事に小心、謙虚であったことを物語っている。映画が挙げてトーキー化の波に洗われたとき、発声に自信のなかった阪妻は最後まで無声映画の砦を守ろうとした。だが、悪声をかえって武器とし、独特のエロキューションを工夫、創造してみせたのである。 現役時代は大変多忙で、休日等は自宅の二階で寝ている事が多く、家事にはあまり口を出さなかったという。ただし、来客時には客に対して正装して懇切に応接していたようである。例外として、息子である田村高廣が、旧制京都府立第三中学に合格した事を告げに担任の小学教師が訪問した際、二階から浴衣姿のままでドタドタと階段を降り、玄関先にいる教師の足下で「せ、先生!あ、ありがとうございました!」と土下座してお礼を言ったそうである。
阪妻の人気が上がると、各社が阪妻そっくりのスタアをつくろうと大童となった。谷崎十郎や阿部九洲男がこうして生まれたが、なかには音感を似せた「千葉三郎」だとか、「吾妻三郎」というものもあった。誰も「あづま」とは読まず、「われ妻三郎」と読んでいた。場末の三本立ての館などでは、阪妻に顔も似ていて「妻三郎」でもあるのでだまされて入った客も相当いたという。
日活撮影所では千恵蔵、阪妻、寛寿郎の大スタアの顔合わせを、徳川御三家にきかせて「御三家」と呼んでいた。阪妻の内弟子は「阪東妻楊枝」と呼ばれていた。大映で四大スタアが揃うと、弟子たちは師匠自慢をしたが、「阪妻さんが歌舞伎の出や言うけど、屋号は何というのや」、「坂東なら音羽屋、大和屋、橘屋と三つあるが土偏の『坂』や、こざと偏の阪東が歌舞伎にあるかい」と言われ、弟子たちは悔しがったという。
阪妻プロを解散し、裸一貫で日活に入ったとき、日活の所員は阪妻をどう呼んでいいか迷った。マキノ正博は「妻さん」と呼び、稲垣らは「田村さん」と呼んだ。助監督や進行係は「阪東さん、阪東さん」と呼んでいたので、阪妻は「いやになっちゃうな、番頭さんみたいで」とこぼしていた。のちに「先生」と呼ばれるようになったが、それも気に入らぬようだった。「先生」が教師や医者の代名詞であるのと、川柳に「先生といわれるほどの馬鹿でなし」というのがあったからで、阪妻プロ創立時は23歳の若さだったことからよけいに不似合いなこの呼びかたを嫌がった。
あるとき祇園の女将が「そんなにおいやどしたら先生のセを抜いてよばはったらどうどすねん。ンセイなら運勢がよろしおすえ」と言ったのが気に入り、以後「ンセイ」と呼ばれるようになった。阪妻はお天気屋で知られ、ときどき冠を曲げて人を困らせた。1927年(昭和2年)の『大義』で、妙に重たい雰囲気で撮影が難渋し、これを一掃しようとした安田憲邦監督が「ハイ御大のアップ頂戴っ!」とやってのけたことがあって、これで一同ドッと笑って和やかな雰囲気となった。それ以来この「アップ頂戴」が流行っていろいろな監督が使ったが、東京のジャーナリストに誤解されて伝わり、「阪妻は横暴だ」ということになってしまった。
阪妻プロを立ち上げ、人気絶頂だったころの阪妻は、その遊びぶりも豪快なものだった。アラカンは「時代劇の王者は何とゆうても阪東妻三郎、女遊びもこの人にはとても及びまへん、散財のケタがちがう」と語っている。阪妻プロの映画は、松竹の買い取り価格が一尺あたり二円四十銭だった。「捕り方パッと走っても二、三百円稼ぐんだ、その銭をつかんで撒く、勝負になりまへん、祇園の芸者総揚げにした。伝説やおまへん、この目で見ました」、「花見小路から八坂さんまでずら〜っと、芸者末社ひきつれて大名行列を繰り広げた」
1928年(昭和3年)、昭和天皇の御大典に合わせて、東京から京都へ「偉い人たち」が大挙押し寄せ、祇園や先斗町で権柄づくの野暮天風を吹かせた。「お上が大嫌い」という阪妻はこれが気に喰わず、今東光と示し合わせて祇園街を買い占めてみせた。アラカンは「王城の都の歴史にないことを妻さんやってのけた」、「妻さん身持ち固かったとワテは思います、女道楽よりも男の意地でゼニ撒いたんやないか。尺二円四十銭、今の金に直してシャシン一本何千万円、いや億になりまっしゃろ、ためたらバチが当たりますわ」と、このときの様子を語っている。
環歌子は阪妻とはマキノ時代からの同僚で、大正12年、マキノ省三から「お前さんのシャシンは評判がいいから、今度の相手役はお前さんの気に入ったものを選びなさい」と言われ、ちょうど阪妻とのコンビが評判になって来た時だったので阪妻を選んだ。これが『火の車お萬』で、当時阪妻は撮影所近くに中村吉松と下宿していたが、急に人気が上がり、特に年増の女性にもて、肉屋の女中や料理屋の仲居をファンに連れて撮影所を出入りする姿をちょいちょい見かけたという。
環には、着流しで数人女連れの阪妻の姿は浮ついてだらしなく見えたので、「もし今度のシャシンで共演する気があるなら、撮影に入ったら仕事中はきちんとした服装で出所する、プライベートの時間は何をしても自由だが一本の仕事にかかったら終わるまで、女はファンだろうと誰だろうと近づけないようにしてほしい」と注文をつけた。阪妻は黙ってじっと聞いていたが、このときは「ちょっと考えさせてほしい」と云って帰り、翌日になって「環さんの言うことはよくわかりましたから、よろしくお願いします」と返事をしてきた。『火の車お萬』は大正13年正月のヒット作となった。作中での阪妻の脚の線の美しさが話題となった映画でもある。
稲垣浩は「妻さんは僕がこれまでに出会った人のなかで最高に懐かしく、最高に好きな人のひとりである」と述べている。あるとき阪妻は「僕らは親友などというケチなつきあいでなくいこう」と不思議なことを言い出したという。若くして時代劇の大スタアとなった阪妻だったが、十一年間のプロダクション経営で得たものは名声でもなく財産でもなく、借金と人に裏切られた悔しさと、凋落する孤独の寂しさだった。景気の良かったとき整理に困ったほど集まった親友たちは、いつしか身辺から去って行ったという。裸一貫で日活に入社し、十年ぶりに戻った太秦にはかつて自分が開いた撮影所が新興映画として華やかに活動していて、阪妻は華やかだった昔を取り戻そうということより、トーキーに移り変わろうとしている時代に生き残ろうと必死だったのである。
阪妻が日活に入社したころ、稲垣は東宝入りが決まっていたが、日活が急に引き留めを開始して、違約金まで支払われ京都に引き戻された。あとで、この工作をしたのが阪妻だと知ったという。
日活で稲垣は独自の阪妻を作り出そうと企画を出したが、どの企画も「阪妻のイメージを変えては困る」と否決された。ところが一年過ぎたある日、殺陣師の河原利一が「筒井とは縁を切ることになったから、こののちはいままでの妻三郎にこだわらず、何か新しいものを考えて欲しい」との伝言を託されて来た。「筒井」というのは仲間内で「淀君」とか「宋美齢」などと陰口していた、阪妻のマネージャー兼愛人で、この女性がいつまでも阪妻のイメージにこだわっていたのだった。相当の決心を持ってこれを絶縁した阪妻のために、稲垣は『十人斬りの男』という阪妻用の脚本を改題して『地獄の蟲』とした。
この映画が気に入った阪妻は「ツケ鬚では演技もウソ鬚になる」と、本物の鬚を生やすことにした。すると脇役の市川小文治、市川百々之助、志村喬、団徳麿らも右に習って鬚を生やす熱の入れ方で、このとき初めて稲垣は阪東妻三郎という人の映画に懸ける意気込みと情熱を感じたという。
『地獄の蟲』は無事完成したが、ラストの自決の場面で晒の腹巻きに血がにじむという苦心の場面があり、内務省の検閲官はこれを「検閲保留」と処分した(戦前までは映画での流血はタブーだった)。会社は改訂してでも封切りたがったが、阪妻や脇役、スタッフに対し原型を変えたくないと稲垣はこれに応じなかった。このとき阪妻は「クサルことはないですよ。僕らはともかくりっぱな作品を作って、それをこの目で見たのだ。それを大衆に見せなかったのは僕らのせいじゃない」と慰めてくれ、稲垣を大変に勇気づけた。稲垣は「その後阪妻と数々の作品を生むことができたのも、親友などというケチなつきあいでなくつきあえたのも、すべてこの『地獄の蟲』が始まりだった」と語っている。
昭和初期、「サイレント映画では、虚無的な浪人者をやらせては妻三郎の右に出るものなし」と謳われた。阪妻が最初に演じた「ニヒルな浪人者」は、『砂繪呪縛』の「森尾重四郎」だった。
1927年(昭和2年)の6月から12月まで、朝日新聞夕刊は土師清二の『砂繪呪縛』を連載。連載30回目のころに、松竹は阪妻プロでこの小説の映画化を決定。企画段階では主演は草間実で、阪妻は「森尾重四郎」役に執心していたが、四社競合製作となったため、阪妻の「勝浦孫之丞」と「森尾重四郎」二役を念頭に準備が進められ、撮入直前に阪妻の意思で「森尾重四郎」一本で行くことに決定。結果は阪妻演じる重四郎の存在感が他社を圧倒。「ニヒルな浪人剣士」の一大ブームを巻き起こした。
『砂繪呪縛』は、トーキー時代を迎えた1936年(昭和11年)、阪妻プロ谷津で阪妻主演で再映画化。さらに1952年(昭和27年)大映で黒川弥太郎主演、1960年(昭和35年)には東映で近衛十四郎主演と三度映画化されたが、「勝浦孫之丞」が主役だったのは1927年の初作のみ、再映画化三作はすべて「森尾重四郎」が主役になっているほど、阪妻の演じた重四郎は強烈なものだった。
当時、阪妻の重四郎は撮影所の所員の間でもブームとなり、真似をする者が続出。次のようなエピソードが残されている。「おい煙草はないか」と云うと静かに首を振っておもむろに「ない」、「どうだ食堂に行こうか」と云うとちょっとあいてを眼の先に引っかけて大きく頷きながら「行くことにしよう」、「おい、この間の食券返してくれよ」暫く目をぱちぱちさせながら無言でいて、「あれは返さんでもいい事にする・・・」、「手数のかかることおびただしい」
稲垣浩に「酒は行儀よく飲んで楽しむものだ」と教えたのは阪妻だった。阪妻はお猪口で飲んで、決してコップ酒のがぶ飲みはしなかった。自宅でも高脚の膳を据え、夫人や弟子に酌をさせた。あるとき弟子のひとりに杯を出したので、弟子はいただけるものと手を出すと、「お酌だよ、お前なんか台所でグッといけ」と言った。このように弟子に杯をやるなどということはめったにしない阪妻が、あるとき突然台所で茶碗酒だのコップ酒をやり始め、夫人も弟子も驚いた。普段は膝も崩さない阪妻が大胡坐をかいて酒を飲むありさまに、撮影所で不愉快なことでもあったのかと心配したというが、それは『無法松の一生』撮入前の役作りだったことがあとでわかった。『無法松』の現場では、よく吉岡夫人になりきった園井恵子がお茶を静かにたて、「先生、お茶が入りました」とすすめていた。阪妻も無法松を忘れず、へりくだってお茶をいただいていた。
阪妻が『無法松の一生』に主演してから、舞台となった九州小倉には松五郎の墓や碑が出来たうえ、映画で阪妻が見せた小倉祇園太鼓の早打ちは、フィクションが現実になってその後、祇園太鼓の基本の打ち方になってしまった。
1944年(昭和19年)、日華合作映画『狼火は上海に揚る』で阪妻は稲垣と二人で上海に渡ったが、あるとき場末の小店へワンタンを食べに入ると、店の主人や使用人が彼らを見てコソコソ囁いている。阪妻が「どうやら僕を知ってるらしいね」と言うので「日本人だからだろう」と稲垣が答えると「違う。ワンポーツォー(黄包車)とかパントンとか言ってるよ」と言う。現地の撮影所では「阪東妻三郎」は「パントン・シーサンラン」と呼ばれていたので、阪妻にはすぐわかったのである。「黄包車」は「人力車」のことで、彼らは『無法松の一生』を観たようだった。阪妻はニコニコ顔で立ち上がり、「うん、我姓(ウォーシン)、阪東妻三郎(パントン・シーサンラン)、你的(ニーデ)、黄包車(ワンポーツォー)の電影(デンエイ)、観観(カンカン)か、うん、そうかそうか」とあやしげな中国語で返すと主人は大喜びで恐縮しながら立派な紙と筆を捧げてサインを求めた。その戻りに阪妻は稲垣に「日本映画も、やっと国際的になったね」と言った。
1975年が阪妻の二十三回忌にあたることから、当時の邦画五社が協力して「阪妻映画祭」と銘打ち、阪妻の代表作が1975年6月7日の日劇文化劇場を皮切りに、1976年にかけて全国各地で巡回上映された。当時の邦画各社は仲がいいとは言えず、ことに商売が絡むと二社ですらまとまったことがないと言われたため、当時としては画期的なイベントだった。映画祭の発案者は、業界の"裏ドン"こと全興連副会長で大旺映画社長・山田敏郎。山田は松竹のOBで「幌馬車の唄」や「人妻椿」の主題歌の作詞者でもあった(山田としを名義)。当時の邦画不況もあり、ローカルの小劇場は経営に苦しみ、強力な番組でも二週間持てばいい方。邦画の再上映でお茶を濁すことになるが、成績が下向するのは当然で、興行者の立場から眠っている映画の再発掘として、阪妻は現代(当時)に通じるものがあり、今出しても十分鑑賞に耐えれると考え「阪妻映画祭」を発案した。ネックになったのが、阪妻は松竹、日活、大映の出演作は多いが、当時の五社で影響力を増していた岡田茂東映社長と松岡功東宝副社長の二社には、阪妻の出演作が無いことだった。山田は自身の業界での地位を上げるチャンスとばかり、松竹社長で映連会長・城戸四郎に了解を取り付けた上で、すぐに岡田茂を説得に行った。山田は岡田を「いい話があれば即座に飛びついて自分のモノにしてしまう男」と城戸の後継者は岡田と見込んで、自分の懐に巻き込もうと画策していたため、岡田に「上映委員会副会長をやってくれ」と頼んだが「オレんとこ阪妻の写真ないからダメだ」と断られた。すかさず山田は「冗談じゃない、一本ある。『天狗の安』というのがある」 岡田「.....」。山田「第一、東映は時代劇で儲けて大きくなったんだから、せめて阪妻の追悼の意味で副会長やってくれてもいいじゃないですか」と無理やり副会長を引き受けてもらった。次に松岡功に頼みに行ったら同じく「ウチも阪妻の写真がないから降ります」と言われたが「いや『佐平次捕物帳 紫頭巾』があります」 松岡「.....」と、これで五社をまとめることが出来た。「阪妻映画祭」は予想以上の反響を呼び、半年間で1億1800万円の興行収入を上げ、旧作リバイバルの新しい道を拓いた。この成功により1975年11月に「日本映画名作祭」第一回の開催が決まり、「阪妻映画祭」同様に邦画五社が各社の過去の名作を全国各地で上映し大成功した。「阪妻映画祭」が好評で、有楽シネマを加えたことから「日本映画名作祭」は最初から三館上映を行った。これらの成功を受け、番線外劇場の「名作選」上映が盛んになった。
マキノ雅弘は「最後の時まで育てた役者の中で、一等大殺陣のうまかったのは?」と訊かれ、「専門としてみて」と前置きして、市川右太衛門、月形竜之介の前に「妻さん、だろうね」と阪妻の名を挙げている。阪妻は月形とともに、「竹光では感じが出ない」と真剣を使っての立ち回りもよく行った。稲垣浩は「妻さんが二段引き、というのをやってね。サーッ、ターッ!と相手を斬ってから、キュッとも一つ刃を引く。『あれがいけない』っていうんで、検閲でカットになったことがある」と語っている。「『骨まで斬った』という感じが出るからいかん」、という理由だったという。
マキノと稲垣のコンビによる『血煙高田の馬場』(1937年)で、堀部安兵衛役の阪妻に、マキノ雅弘が「火傷するように熱い、火に焦げた鉄板の上の立ち回りをやってくれ!」と注文をつけた。「難しいことを言うな、と妻さん、殺陣師を横に置いて、やりましたよ。足をバタバタ、バタバタやって、実にうまかったんだ、これが。“アチッ、アチッ!”という感じでねえ。決闘シーンをイチン日で撮っちゃったんですよ。済んだらデーンとひっくり返っちゃって、二度と『高田の馬場』はやらん! と声明した。ほんとに、それから撮らなかったですよ」
阪妻の立ち回りは「悲壮豪壮天下一品」と呼ばれ、破天荒なものだった。『邪痕魔道 前・中・後篇』(1927年、古海卓二監督)の後篇は、「ここ花の吉原仲之町、歓楽の巷にまたもや血の雨が降る・・・」などと弁士の解説とともに、ただひたすらチャンバラのみが写されるという無茶なものだった。伊藤大輔監督とのコンビで撮った『新納鶴千代』(1935年)では、阪妻は荒川大橋の上で、すべての敵を後ろにして前を歩き、後からかかってくる敵を全部振り返らずに斬るという斬新な殺陣を見せている。
トーキー時代に入って伊藤とマキノ雅弘のコンビで撮った『国定忠治』では、子負いのバンツマが泣く子を『木曾の仲乗りさん』を歌ってあやしながら、追手と立ち回りを演じるという難しい殺陣を見せている。マキノによると、阪妻は歌が得意だったわけではなく、時代劇スタアの中で本当に歌が歌えるのは嵐寛寿郎くらいだったという。阪妻はむしろ悪声で、訛りがあるのをかえって居直って「阪妻節」に変えてしまったのである。
林屋辰三郎、加藤秀俊、梅棹忠夫、多田道太郎がチャンバラについて討論し纏めた一文に、つぎのようなものがある。
替え玉が必要な場面でも、大河内傳次郎と並んで阪妻は遠景の姿形の美しさにこだわり、どんなに遠くて顔が見えないショットでも「自分の形の見せ所だ」と言って替え玉にはさせなかった。『無法松』では、雪の中倒れる場面の撮影で中耳炎を発症。結局久世竜が替え玉を演じ、気づく者はいなかったが、阪妻は「いい仕事ができてよかったですね。だが、あの雪の場面が僕だったら、もっと、もっとよかったでしょう」とただ一人稲垣に不満を漏らしたという。
1942年(昭和17年)の大映創立記念作『維新の曲』は、阪妻、千恵蔵、右太衛門、アラカンという「四大スタア」の顔合わせで、配役と序列で会社は頭を悩ました。そのなか阪妻が行く先も知らさず姿を消し、「役か脚本、序列が気に入らないのだろう」と噂された。稲垣も会社への不満だろうと思い、阪妻の弟子に尋ねたところ、「誰にも言わないでください」と教えてくれた。実は阪妻は坂本龍馬の役作りのため、土佐の風土、方言、龍馬の足跡などを得るために土佐へ出かけていたのだった。出来上がった龍馬はそれまでの阪妻に見たことのない、誰もやったことのない一風変わった龍馬となっていて、人々を驚かせた。
役によっては、セットでもロケでも一人離れた場所に、着くずれのしないように自分で考案した高い椅子にちょいと尻を載せて、何時間でも出のくるのを静かに待っていた。ある作品で稲垣浩監督が敵役を背中から袈裟懸けに斬る殺陣を注文したところ、「この役は背中向きを斬るような役ではないと思いますが」と遠慮深く抗議した。これで役の性格が違ってくるわけだが、若かったせいもあり稲垣は無理を押し通して撮影に入った。ところが敵役は背中に刀が当たるものと思っていたが当たらない。相手役が「かまいませんから強く刀を当ててください」と頼んだところ、阪妻は憤然として「私は今まで随分立ち回りはしてきたが、人のからだに当てないのを身上としてきたので、それだけはいやだ」と断った。稲垣はその立派さに感心したと語っている。
1989年(平成元年)に文春文庫ビジュアル版として『大アンケートによる日本映画ベスト150』という一書が刊行されたが、文中372人が選んだ「個人編男優ベストテン」の一位は阪妻だった。死後35年余りを経て、なおこの結果だった。2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の7位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第8位になった。
息子の田村俊磨は、居間でセリフを練習するなど家でも阪妻そのものであったとし、田村正和は、ハートで演じるタイプの役者であったと思うと話した。 | [
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"text": "阪東 妻三郎(ばんどう つまさぶろう、1901年(明治34年)12月14日 - 1953年(昭和28年)7月7日)は、日本の歌舞伎俳優、映画俳優。本名:田村 傳吉(たむら でんきち)、サイレント映画時代に岡山 俊太郎(おかやま しゅんたろう)の名で監督作がある。端正な顔立ちと高い演技力を兼ね備えた二枚目俳優として親しまれ、「阪妻(バンツマ)」の愛称で呼ばれた。",
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"text": "大正末年から昭和初年にかけての剣戟ブームを生み出した剣戟俳優であり、「剣戟王(けんげきおう)」の異名を持つ。日本映画史においてサイレント映画からトーキーへの転換期に活躍、双方で高い実績を残した人物としてしばしば名を挙げられる。",
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"text": "大河内傳次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。",
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"text": "1901年(明治34年)12月14日(土曜日)、東京府神田区橋本町(現在の東京都千代田区東神田)の田村長五郎という木綿問屋の次男坊として生まれ、神田で育った。小学校を卒業する頃から家業が傾き始める。兄、姉、母が相次いで亡くなり、父親が事業に失敗して破産。",
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"text": "1916年(大正5年)、旧制・尋常小学校高等科を卒業した後、母や姉が常盤津や長唄の芸事に秀でていたことや芝居が好きだったことから「立身出世の早道」を求め、16歳で成績表片手に芝明舟町にあった十五代目市村羽左衛門の邸へ飛び込むが門前払いされた。",
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"text": "落ち込んで帰宅する途中、近くの十一代目片岡仁左衛門の邸に思い切って飛び込んでみたところ、伊東という番頭が取り次いでくれて、「まあ遊んでいろ」と仁左衛門の内弟子を許される。",
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"text": "仕事は雑用ばかりで、しつけは厳しく、雑用の合間に黒衣着で舞台の見学をしながら狂言のノートをとる毎日だった。師匠について大阪中座で「紙子仕立両面鑑」の序幕の仕込みに出たのが初舞台で、セリフはなかった。",
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"text": "1918年(大正7年)、二年辛抱するがうだつが上がらず、因襲と家柄優先の歌舞伎の世界に限界を感じ始め、「一日二回、十日替りの芝居ならもっと修行ができる」と結論。金にもなるということから、ちょうど浅草の吾妻座から声がかかり、沢村宗五郎、吾妻市之丞らの一座に入り、「沢村紀千助」を名乗る。",
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"text": "下っ端なりに役も付くようになったが物にならず、市之丞に連れられて再び歌舞伎座に戻り、師匠の仁左衛門に顔向け出来ぬ苦しみを味わう。こうしたなか、縁あって神田劇場で中村歌扇や尾上菊右衛門と一座することとなる。",
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"text": "1919年(大正8年)、国際活映の沢村四郎五郎一派のエキストラに出演。日給1円20銭だった。伝統や因襲にこだわる芝居道と違う新天地を活動写真界に見出し、3月ごろから「阪東藤助」を名乗り、沢村四郎五郎、實川莚十郎に頼みこんで昼は活動写真、夜は劇場と働いた。",
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"text": "1920年(大正9年)、6月に松竹キネマ蒲田撮影所が出来ると、實川莚十郎と一緒に松竹キネマに入るが、このとき行動を共にした森要がまもなく退社したため、これに伴って国活に逆戻りし、まったく無名のまま脇役を過ごす。国活では「阪東要二郎」を名乗り、7月には『島の塚』(枝正義郎監督)に仕出し役で出演している。環歌子は当時の阪妻について、「大勢のエキストラの中でも大変目立ってすぐわかりました。痩せて非常に背が高く、首一つ出ている感じで色が白いのを通り越して青い様な感じでした」と語っている。",
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"text": "1921年(大正10年)、活動写真の現場でも下廻りばかりで面白くなくなり、国活撮影所で同士だった片岡松花、中村吉松を募って撮影所を飛び出し、「阪東妻三郎」を名乗って「東京大歌舞伎 阪東妻三郎一座」の看板を掲げ、「タンカラ芝居」(東京近郊を巡業する村芝居)に出る。演し物は一番目が「ひらがな盛衰記」、二番目が「本朝二十四孝」の御殿で、阪妻は船人松右衛門と武田勝頼を演じた。",
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"text": "前景気も良く、「阪東妻三郎大一座」は上州辺りを打って廻り、始めは大入り大受けだった。",
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"text": "1922年(大正11年)、22歳の春、仕打ちの失敗から一座解散。阪妻は単衣物一枚の上に外套を羽織る惨めな有様で、ようやく生家に戻ったものの妹は死んだあとで、兄は病臥していた。",
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"text": "1923年(大正12年)2月、牧野省三が京都にマキノ映画製作所を結成するにあたり、マキノの重役宮川斉が東京に俳優募集に来たところ、阪妻に眼を止める。阪妻は「これで成功しなければ二度と東京の土は踏まぬ」との一大決心で片岡松花、中村吉松と京都入り、マキノ・プロダクションに入社。",
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"text": "マキノ・プロに月給六十円の大部屋俳優として転がり込んだ阪妻だが、当初、役柄は敵役、脇役が多かった。「御用、御用」の斬られ役で、斬られては顔を変え、幾度も立ち回りにからんだが、顔が立派で柄も大きいため、どんなに変装しても目立ってしまった。",
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"text": "1924年(大正13年)、正月映画『火の車お萬』で環歌子との共演が当たり役となって、「あいつが出ると目立ってしかたがないから役をつけてしまえ」ということになり、『怪傑鷹』(二川文太郎監督)で高木新平の相手役の「黒木原源太」という悪役に抜擢される。ところが「白面の美剣士が敵役」というので、観客、批評家を驚かし、これが出世の糸口となる。",
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"text": "続く日活・松之助映画とマキノの初競作『燃ゆる渦巻』(全四篇)で、途中から阪妻演じる駒井相模守の人気が急上昇。第四篇では主役の林清之助が呆気なく死に、阪妻の相模守が主役になってしまった。この作品でマキノは大いに名声を博し、尾上松之助版を圧倒する評判を得た。",
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"text": "ちょうどたまたま同じ下宿に、浅草ペラゴロ出身の、これも浪人の身の脚本家寿々喜多呂九平(『怪傑鷹』の作者)がおり、二人は意気投合。同年、阪妻のために呂九平は『鮮血の手型 前・後篇』(沼田紅緑監督)の脚本を書き下ろし、同作は阪妻の第一回主演作となる。",
"title": "来歴"
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"text": "『鮮血の手型』は、それまでのやたらと見得を斬る歌舞伎スタイルの立ち回りの旧劇と異なり、阪妻の激しい剣戟とリアルな演出が、映画界に革命的な衝撃を与えた。以後、『恐怖の夜叉』、『討たるる者』、『『江戸怪賊伝 影法師 前・後篇』、『墓石が鼾する頃』と、この寿々喜多呂九平と組んだ、阪妻の人気を不動とした作品群が続き、とりわけて虚無的で反逆的な一連の傑作を、浅草オペラ出身のアナキスト、漠与太平門下生の二川文太郎が監督。なかでも大正14年の『江戸怪賊伝 影法師 前・後篇』は大好評で、時代劇俳優の第一人者としての地位は決定的なものとなる。",
"title": "来歴"
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"text": "1925年(大正14年)9月、全国の熱狂的なファンに応え、阪妻は「自由制作」を標榜し、25歳で阪東妻三郎プロダクションを京都太秦に設立。今東光を顧問に据え、自ら陣頭に立ち、映画製作を開始する。",
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"text": "阪妻はマキノ時代以来の盟友、寿々喜多呂九平・二川文太郎をマキノからの出向で得て、『雄呂血』の製作を開始するが、京都ではマキノ側の妨害が激しく、やむなく東京の吾嬬撮影所で『異人娘と武士』を撮影。",
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"text": "『異人娘と武士』が終わるとすぐに引き返し、奈良で『雄呂血』を撮影。撮影所はなく、旅館に泊まって資金ができるとロケに出るという状況だった。環歌子はこのときの阪妻の様子について、「妻さんは命がけでやっているのがよくわかりました。泣きながら一人で頑張っていました」と語っている。",
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"text": "11月、ついに『雄呂血』が完成し、封切り公開。歌舞伎調の立ち回りを完全に破壊した型破りの殺陣は大評判となり、また体制に反逆する主人公の虚無的な英雄像はその時代の風潮ともマッチし、大ヒットとなる。また、その大胆な殺陣で「乱闘劇のバンツマ」として一世を風靡する。",
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"text": "12月、阪妻人気に注目した松竹は独立早々の阪妻と配給提携を結び、これにより阪妻人気は全国的なものとなる。",
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"text": "阪妻プロでは「三羽がらす」、「四天王」、「十剣士」などといった「からみ(斬られ役)」を揃えていた。河津清三郎は最も多く用いられたからみの一人だった。",
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"text": "1926年(大正15年)4月、阪妻プロの太秦撮影所落成。9月、アメリカのユニバーサル社と配給提携。以後、時代劇のみならず現代劇も制作。",
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"text": "この年『魔保露詩』、「東山三十六峰静かに眠るとき・・・」の活弁で一世を風靡した『尊王』、アナキスト悪麗之助監督・脚本の『無明地獄』と、代表作とされる傑作を連作。剣戟スタアの地位を不動のものとする。",
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"text": "阪妻映画では、講談調の単なる英雄、豪傑と違い、阪妻扮する武士や浪人、やくざに至るまでが人間的な明暗を持ち、不正や不当な権力と闘う不屈な精神が描かれるため、阪妻の映画は幅広い愛好者の支持を受けた。",
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"text": "1927年(昭和2年)5月、ユニバーサル社との提携を解除。思い通りに動かない阪妻を警戒した松竹は、六十万円を出資して阪妻プロを株式会社化。山崎修一を目付役に送り込む。以後山崎と阪妻は意見対立・喧嘩の毎日だった。",
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"text": "1928年(昭和3年)新春早々、朝日新聞が阪妻のために「賞金五千円」をかけて募集した映画小説一等当選作『霊の審判』の映画化を発表。この作品はすでに朝日新聞紙上で伊藤好市原作で連載中であり、「阪妻の初の本格現代劇主演」とあってセンセーショナルな話題を映画界に投じた。",
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"text": "しかし興行主義の松竹と芸術志向の阪妻の対立が次第に表面化。初の現代劇ともあって阪妻も調子が上がらず、また異色の原作映画化といったこともあり、三月封切りの予定を過ぎても『霊の審判』は完成せず、4月、ついに阪妻プロ支配人山崎修一は製作の正式中止を発表。",
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"text": "6月28日、阪妻プロは改革縮小を断行。阪妻は取締役を辞任、『霊の審判』主要スタッフの枝正義郎、細山喜代松、江川宇礼雄、近藤伊与吉らが整理退社となり、『霊の審判』製作再開は不可能となる。",
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"text": "阪妻の松竹に対する発言力が強かったのは大正15年から昭和2年までで、この昭和3年以降は強大な資本力によって、松竹の阪妻プロ干渉が強力なものとなっていった。松竹での阪妻プロの位置づけは「松竹時代劇救世主」から、「松竹時代劇ブロック構成の一環」に組み込まれていった。昭和2年、松竹は阪妻に替えて林長二郎を二万円(当時)の宣伝費をかけて売り出し、長二郎の人気は阪妻に肉薄していく。",
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"text": "1929年(昭和4年)、松竹は阪妻、林長二郎、月形龍之介、市川右太衛門、阪東寿之助と時代劇ブロックを充実させ、芸術志向の阪妻プロとの時代劇製作方針の相克は溝をますます深める。",
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"paragraph_id": 35,
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"text": "1930年(昭和5年)6月11日、阪妻懸案の大佛次郎との提携作『からす組』完成後に、阪妻は朝日新聞紙上に松竹脱退絶縁声明書を発表。京都の阪妻プロ撮影所を解散する。",
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"text": "1931年(昭和6年)2月4日、松竹との借財問題を解決するために大阪に出向き、黒龍会の吉田益三の仲介のもとで借金の返済交渉にあたる。阪東が借金5万円のうち半額を渡し、残金は追って支払うことで和解した。 閉鎖した京都太秦の撮影所を谷津遊園(現千葉県習志野市・現在はない)に移設し、野心的に仕事をこなす。新興キネマと配給提携し、吉川英治、長谷川伸その他の大衆文芸を題材とした本格的ドラマ作りに精進。共演女優に森静子、環光子、鈴木澄子、桜木梅子が次々出演。ヒット作を飛ばす。",
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"text": "同年、アメリカのパラマウント社のため阪妻プロとは別に「大日本自由映画プロダクション」を設立し、『落陽餓ゆ』(東隆史監督)を制作。「大日本自由映画」はこの一本のみで解散する。",
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"text": "1935年(昭和10年)5月、阪妻プロが新興キネマと合流。昭和6、7年ごろから日本映画はトーキー時代に移行。映画界の情勢は一変。阪妻人気は凋落。",
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"text": "1936年(昭和11年)12月、『怒涛一番乗』を最後に、11年続いた阪妻プロは解散する。",
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"paragraph_id": 40,
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"text": "1937年(昭和12年)5月、谷津の撮影所を整理して、裸一貫で日活に移る。独立時代と違って、商業主義的な大作に次々と出演し、芸歴は一段と大きくなったが、独立時代に深刻な人間探求を続けた成果が実り、名優としての評価が加わった。セリフをすべて暗記するまで仕事にかからなくなったのはこのころからである。役柄では『恋山彦』の伊奈小源太、『柳生月影抄』の柳生十兵衛、『闇の影法師』の縣佐馬之助、『忠臣蔵』の大石内蔵助、『富士に立つ影』の佐藤菊太郎と、オーソドックスな武士に扮して堂々の貫禄を示した。『将軍と参謀と兵』では師団長中将に扮して支那大陸を背景に現代武人の典型を見せ名実ともに斯界の王座を占めた。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 41,
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"text": "1942年(昭和17年)、『将軍と参謀と兵』(田口哲監督)で、初の現代劇主演。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "この年、日活が再編成され大映となり、阪妻もこれに合流。創立記念作『維新の曲』(牛原虚彦監督)は、阪妻、千恵蔵、右太衛門、アラカンという「四大スタア」の顔合わせもあり大ヒットとなる。",
"title": "来歴"
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"text": "1943年(昭和18年)、軍徴用にひっかかるが、嵐寛寿郎によると「あの人は豪胆やさかい呼び出しに応じまへん」とのことで、「役者の阪妻がお国の役に立たなくて、田村伝吉に何の用がおます」と啖呵を切り、出頭せずじまいで済ませてしまった。",
"title": "来歴"
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"text": "戦時中はほかに『血煙高田の馬場』、『魔像』、『江戸最後の日』、『無法松の一生』などの傑作に主演。",
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"text": "1944年(昭和19年)、8カ月にわたる上海ロケの末、日華合作映画『狼火は上海に揚る』(稲垣浩監督)を完成。封切り時は日支双方とも空襲のさなかで映画鑑賞のゆとりなどはなかったという。",
"title": "来歴"
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"text": "1945年(昭和20年)、日活撮影所は連日京都師団の査閲訓練を受け、映画撮影どころでなくなる。阪妻は稲垣に「上陸されたらおしまいでしょう」と戦況を語っている。8月15日、日本敗戦。阪妻は撮影所企画室で、稲垣浩と二人で黙って手を握り合ったという。",
"title": "来歴"
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"text": "戦後、占領軍の「チャンバラ禁止令」のために剣戟ができず、慣れない洋服を着て現代劇に出演。",
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"paragraph_id": 48,
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"text": "1947年(昭和22年)、『素浪人罷り通る』(伊藤大輔監督)で時代劇復帰。",
"title": "来歴"
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"tag": "p",
"text": "1949年(昭和24年)、現代劇好調を受け、大映社長永田雅一が「古ぼけた時代劇のスタアはもうウチはいらん」と放言。これに怒って「四大スタア」全員大映を脱退。阪妻は松竹京都に移籍。時代劇の地図が塗り替えられることとなる。",
"title": "来歴"
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"text": "1950年(昭和25年)、松竹下加茂撮影所が可燃性フィルムの自然爆発を起こし、現像所や事務所、ステージを全焼。ほぼ完成状態だった、山田五十鈴共演の『無頼漢』(衣笠貞之助監督)のフィルムが焼失の憂き目に遭う。",
"title": "来歴"
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"text": "時代劇では『大江戸五人男』、天才棋士坂田三吉を演じた『王将』、コミカルな現代劇『破れ太鼓』などの作品に主演し、大河内伝次郎とともに正真正銘の「スタア」であり続けた。",
"title": "来歴"
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"text": "1953年(昭和28年)7月2日、『あばれ獅子』撮影中に持病の高血圧から体調を崩し、同年7月7日、脳内出血により死去。51歳没。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 53,
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"text": "5人の子どものうち、長男の田村高廣、三男の田村正和、四男の田村亮の3人は俳優となった。二男の田村俊磨は実業家で、高廣・正和のマネージャーも務めた。婚外子に俳優の水上保広がいる。田村幸士は孫にあたる。",
"title": "家系・家族"
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"paragraph_id": 54,
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"text": "阪妻はサイレント映画時代から培った、動きと表情を駆使する技術で演技全体に抜群の説得力を与えた。特に彼が殺陣の見せ場で行う、両脚を大きく広げて踏ん張った体勢で手に持った刀をゆっくりと眼前に下ろし、首を左右にゆらゆらと動かす仕草は「バンツマ」の代名詞として広く知られている。これについて俳優の高橋英樹は「子供の頃、チャンバラごっこが好きな男の子はみんな阪東さんの真似をしていましたよ。僕くらいの年齢なら阪妻のあれ(首をゆらゆらさせる仕草)を全く知らないという人の方が少ないんじゃないですか」と述べており、彼の演技が幅広い年齢層に浸透していたことが伺える。",
"title": "人物・エピソード"
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"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "トーキー映画に初めて出演した際、自身の甲高く細い声がファンの失望を呼んだことが人気低落の理由のひとつと考え、独自にボイストレーニングを行う。やがて努力の甲斐あり阪妻は迫力のある発声を体得したが、無理な訓練がたたり喉が潰れ、以後しゃがれ声になった。しかし阪妻は声が変わってしまったことを全く後悔せず、「こういう声の方が凄みが出る。前よりずっといい」と語っていたという。そして再生一作目となる『恋山彦』前後篇では、「剣戟王・阪妻」の復活を告げる素晴らしい立ち回りとともに、喉の奥から搾り出すような独特の台詞回しで好評を博した。",
"title": "人物・エピソード"
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"paragraph_id": 56,
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"text": "無学のコンプレックスを克服するため、勉励努力を重ねていた。アナキストの今東光を阪妻プロの顧問に迎えたり、哲学映画『霊の審判』を自ら監督しようとして結局製作中止となったり、「大日本自由映画プロダクション」を設立して『洛陽餓ゆ』一本のみで解散するなど、世間からは大風呂敷としか見えない試行錯誤を執拗に繰り返した。これは阪妻が常に不安であり、俳優という仕事に小心、謙虚であったことを物語っている。映画が挙げてトーキー化の波に洗われたとき、発声に自信のなかった阪妻は最後まで無声映画の砦を守ろうとした。だが、悪声をかえって武器とし、独特のエロキューションを工夫、創造してみせたのである。 現役時代は大変多忙で、休日等は自宅の二階で寝ている事が多く、家事にはあまり口を出さなかったという。ただし、来客時には客に対して正装して懇切に応接していたようである。例外として、息子である田村高廣が、旧制京都府立第三中学に合格した事を告げに担任の小学教師が訪問した際、二階から浴衣姿のままでドタドタと階段を降り、玄関先にいる教師の足下で「せ、先生!あ、ありがとうございました!」と土下座してお礼を言ったそうである。",
"title": "人物・エピソード"
},
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"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "阪妻の人気が上がると、各社が阪妻そっくりのスタアをつくろうと大童となった。谷崎十郎や阿部九洲男がこうして生まれたが、なかには音感を似せた「千葉三郎」だとか、「吾妻三郎」というものもあった。誰も「あづま」とは読まず、「われ妻三郎」と読んでいた。場末の三本立ての館などでは、阪妻に顔も似ていて「妻三郎」でもあるのでだまされて入った客も相当いたという。",
"title": "人物・エピソード"
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"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "日活撮影所では千恵蔵、阪妻、寛寿郎の大スタアの顔合わせを、徳川御三家にきかせて「御三家」と呼んでいた。阪妻の内弟子は「阪東妻楊枝」と呼ばれていた。大映で四大スタアが揃うと、弟子たちは師匠自慢をしたが、「阪妻さんが歌舞伎の出や言うけど、屋号は何というのや」、「坂東なら音羽屋、大和屋、橘屋と三つあるが土偏の『坂』や、こざと偏の阪東が歌舞伎にあるかい」と言われ、弟子たちは悔しがったという。",
"title": "人物・エピソード"
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"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "阪妻プロを解散し、裸一貫で日活に入ったとき、日活の所員は阪妻をどう呼んでいいか迷った。マキノ正博は「妻さん」と呼び、稲垣らは「田村さん」と呼んだ。助監督や進行係は「阪東さん、阪東さん」と呼んでいたので、阪妻は「いやになっちゃうな、番頭さんみたいで」とこぼしていた。のちに「先生」と呼ばれるようになったが、それも気に入らぬようだった。「先生」が教師や医者の代名詞であるのと、川柳に「先生といわれるほどの馬鹿でなし」というのがあったからで、阪妻プロ創立時は23歳の若さだったことからよけいに不似合いなこの呼びかたを嫌がった。",
"title": "人物・エピソード"
},
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"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "あるとき祇園の女将が「そんなにおいやどしたら先生のセを抜いてよばはったらどうどすねん。ンセイなら運勢がよろしおすえ」と言ったのが気に入り、以後「ンセイ」と呼ばれるようになった。阪妻はお天気屋で知られ、ときどき冠を曲げて人を困らせた。1927年(昭和2年)の『大義』で、妙に重たい雰囲気で撮影が難渋し、これを一掃しようとした安田憲邦監督が「ハイ御大のアップ頂戴っ!」とやってのけたことがあって、これで一同ドッと笑って和やかな雰囲気となった。それ以来この「アップ頂戴」が流行っていろいろな監督が使ったが、東京のジャーナリストに誤解されて伝わり、「阪妻は横暴だ」ということになってしまった。",
"title": "人物・エピソード"
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"paragraph_id": 61,
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"text": "阪妻プロを立ち上げ、人気絶頂だったころの阪妻は、その遊びぶりも豪快なものだった。アラカンは「時代劇の王者は何とゆうても阪東妻三郎、女遊びもこの人にはとても及びまへん、散財のケタがちがう」と語っている。阪妻プロの映画は、松竹の買い取り価格が一尺あたり二円四十銭だった。「捕り方パッと走っても二、三百円稼ぐんだ、その銭をつかんで撒く、勝負になりまへん、祇園の芸者総揚げにした。伝説やおまへん、この目で見ました」、「花見小路から八坂さんまでずら〜っと、芸者末社ひきつれて大名行列を繰り広げた」",
"title": "人物・エピソード"
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"paragraph_id": 62,
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"text": "1928年(昭和3年)、昭和天皇の御大典に合わせて、東京から京都へ「偉い人たち」が大挙押し寄せ、祇園や先斗町で権柄づくの野暮天風を吹かせた。「お上が大嫌い」という阪妻はこれが気に喰わず、今東光と示し合わせて祇園街を買い占めてみせた。アラカンは「王城の都の歴史にないことを妻さんやってのけた」、「妻さん身持ち固かったとワテは思います、女道楽よりも男の意地でゼニ撒いたんやないか。尺二円四十銭、今の金に直してシャシン一本何千万円、いや億になりまっしゃろ、ためたらバチが当たりますわ」と、このときの様子を語っている。",
"title": "人物・エピソード"
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{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "環歌子は阪妻とはマキノ時代からの同僚で、大正12年、マキノ省三から「お前さんのシャシンは評判がいいから、今度の相手役はお前さんの気に入ったものを選びなさい」と言われ、ちょうど阪妻とのコンビが評判になって来た時だったので阪妻を選んだ。これが『火の車お萬』で、当時阪妻は撮影所近くに中村吉松と下宿していたが、急に人気が上がり、特に年増の女性にもて、肉屋の女中や料理屋の仲居をファンに連れて撮影所を出入りする姿をちょいちょい見かけたという。",
"title": "人物・エピソード"
},
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"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "環には、着流しで数人女連れの阪妻の姿は浮ついてだらしなく見えたので、「もし今度のシャシンで共演する気があるなら、撮影に入ったら仕事中はきちんとした服装で出所する、プライベートの時間は何をしても自由だが一本の仕事にかかったら終わるまで、女はファンだろうと誰だろうと近づけないようにしてほしい」と注文をつけた。阪妻は黙ってじっと聞いていたが、このときは「ちょっと考えさせてほしい」と云って帰り、翌日になって「環さんの言うことはよくわかりましたから、よろしくお願いします」と返事をしてきた。『火の車お萬』は大正13年正月のヒット作となった。作中での阪妻の脚の線の美しさが話題となった映画でもある。",
"title": "人物・エピソード"
},
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"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "稲垣浩は「妻さんは僕がこれまでに出会った人のなかで最高に懐かしく、最高に好きな人のひとりである」と述べている。あるとき阪妻は「僕らは親友などというケチなつきあいでなくいこう」と不思議なことを言い出したという。若くして時代劇の大スタアとなった阪妻だったが、十一年間のプロダクション経営で得たものは名声でもなく財産でもなく、借金と人に裏切られた悔しさと、凋落する孤独の寂しさだった。景気の良かったとき整理に困ったほど集まった親友たちは、いつしか身辺から去って行ったという。裸一貫で日活に入社し、十年ぶりに戻った太秦にはかつて自分が開いた撮影所が新興映画として華やかに活動していて、阪妻は華やかだった昔を取り戻そうということより、トーキーに移り変わろうとしている時代に生き残ろうと必死だったのである。",
"title": "人物・エピソード"
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"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "阪妻が日活に入社したころ、稲垣は東宝入りが決まっていたが、日活が急に引き留めを開始して、違約金まで支払われ京都に引き戻された。あとで、この工作をしたのが阪妻だと知ったという。",
"title": "人物・エピソード"
},
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"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "日活で稲垣は独自の阪妻を作り出そうと企画を出したが、どの企画も「阪妻のイメージを変えては困る」と否決された。ところが一年過ぎたある日、殺陣師の河原利一が「筒井とは縁を切ることになったから、こののちはいままでの妻三郎にこだわらず、何か新しいものを考えて欲しい」との伝言を託されて来た。「筒井」というのは仲間内で「淀君」とか「宋美齢」などと陰口していた、阪妻のマネージャー兼愛人で、この女性がいつまでも阪妻のイメージにこだわっていたのだった。相当の決心を持ってこれを絶縁した阪妻のために、稲垣は『十人斬りの男』という阪妻用の脚本を改題して『地獄の蟲』とした。",
"title": "人物・エピソード"
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{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "この映画が気に入った阪妻は「ツケ鬚では演技もウソ鬚になる」と、本物の鬚を生やすことにした。すると脇役の市川小文治、市川百々之助、志村喬、団徳麿らも右に習って鬚を生やす熱の入れ方で、このとき初めて稲垣は阪東妻三郎という人の映画に懸ける意気込みと情熱を感じたという。",
"title": "人物・エピソード"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "『地獄の蟲』は無事完成したが、ラストの自決の場面で晒の腹巻きに血がにじむという苦心の場面があり、内務省の検閲官はこれを「検閲保留」と処分した(戦前までは映画での流血はタブーだった)。会社は改訂してでも封切りたがったが、阪妻や脇役、スタッフに対し原型を変えたくないと稲垣はこれに応じなかった。このとき阪妻は「クサルことはないですよ。僕らはともかくりっぱな作品を作って、それをこの目で見たのだ。それを大衆に見せなかったのは僕らのせいじゃない」と慰めてくれ、稲垣を大変に勇気づけた。稲垣は「その後阪妻と数々の作品を生むことができたのも、親友などというケチなつきあいでなくつきあえたのも、すべてこの『地獄の蟲』が始まりだった」と語っている。",
"title": "人物・エピソード"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "昭和初期、「サイレント映画では、虚無的な浪人者をやらせては妻三郎の右に出るものなし」と謳われた。阪妻が最初に演じた「ニヒルな浪人者」は、『砂繪呪縛』の「森尾重四郎」だった。",
"title": "人物・エピソード"
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{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "1927年(昭和2年)の6月から12月まで、朝日新聞夕刊は土師清二の『砂繪呪縛』を連載。連載30回目のころに、松竹は阪妻プロでこの小説の映画化を決定。企画段階では主演は草間実で、阪妻は「森尾重四郎」役に執心していたが、四社競合製作となったため、阪妻の「勝浦孫之丞」と「森尾重四郎」二役を念頭に準備が進められ、撮入直前に阪妻の意思で「森尾重四郎」一本で行くことに決定。結果は阪妻演じる重四郎の存在感が他社を圧倒。「ニヒルな浪人剣士」の一大ブームを巻き起こした。",
"title": "人物・エピソード"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "『砂繪呪縛』は、トーキー時代を迎えた1936年(昭和11年)、阪妻プロ谷津で阪妻主演で再映画化。さらに1952年(昭和27年)大映で黒川弥太郎主演、1960年(昭和35年)には東映で近衛十四郎主演と三度映画化されたが、「勝浦孫之丞」が主役だったのは1927年の初作のみ、再映画化三作はすべて「森尾重四郎」が主役になっているほど、阪妻の演じた重四郎は強烈なものだった。",
"title": "人物・エピソード"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "当時、阪妻の重四郎は撮影所の所員の間でもブームとなり、真似をする者が続出。次のようなエピソードが残されている。「おい煙草はないか」と云うと静かに首を振っておもむろに「ない」、「どうだ食堂に行こうか」と云うとちょっとあいてを眼の先に引っかけて大きく頷きながら「行くことにしよう」、「おい、この間の食券返してくれよ」暫く目をぱちぱちさせながら無言でいて、「あれは返さんでもいい事にする・・・」、「手数のかかることおびただしい」",
"title": "人物・エピソード"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "稲垣浩に「酒は行儀よく飲んで楽しむものだ」と教えたのは阪妻だった。阪妻はお猪口で飲んで、決してコップ酒のがぶ飲みはしなかった。自宅でも高脚の膳を据え、夫人や弟子に酌をさせた。あるとき弟子のひとりに杯を出したので、弟子はいただけるものと手を出すと、「お酌だよ、お前なんか台所でグッといけ」と言った。このように弟子に杯をやるなどということはめったにしない阪妻が、あるとき突然台所で茶碗酒だのコップ酒をやり始め、夫人も弟子も驚いた。普段は膝も崩さない阪妻が大胡坐をかいて酒を飲むありさまに、撮影所で不愉快なことでもあったのかと心配したというが、それは『無法松の一生』撮入前の役作りだったことがあとでわかった。『無法松』の現場では、よく吉岡夫人になりきった園井恵子がお茶を静かにたて、「先生、お茶が入りました」とすすめていた。阪妻も無法松を忘れず、へりくだってお茶をいただいていた。",
"title": "人物・エピソード"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "阪妻が『無法松の一生』に主演してから、舞台となった九州小倉には松五郎の墓や碑が出来たうえ、映画で阪妻が見せた小倉祇園太鼓の早打ちは、フィクションが現実になってその後、祇園太鼓の基本の打ち方になってしまった。",
"title": "人物・エピソード"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "1944年(昭和19年)、日華合作映画『狼火は上海に揚る』で阪妻は稲垣と二人で上海に渡ったが、あるとき場末の小店へワンタンを食べに入ると、店の主人や使用人が彼らを見てコソコソ囁いている。阪妻が「どうやら僕を知ってるらしいね」と言うので「日本人だからだろう」と稲垣が答えると「違う。ワンポーツォー(黄包車)とかパントンとか言ってるよ」と言う。現地の撮影所では「阪東妻三郎」は「パントン・シーサンラン」と呼ばれていたので、阪妻にはすぐわかったのである。「黄包車」は「人力車」のことで、彼らは『無法松の一生』を観たようだった。阪妻はニコニコ顔で立ち上がり、「うん、我姓(ウォーシン)、阪東妻三郎(パントン・シーサンラン)、你的(ニーデ)、黄包車(ワンポーツォー)の電影(デンエイ)、観観(カンカン)か、うん、そうかそうか」とあやしげな中国語で返すと主人は大喜びで恐縮しながら立派な紙と筆を捧げてサインを求めた。その戻りに阪妻は稲垣に「日本映画も、やっと国際的になったね」と言った。",
"title": "人物・エピソード"
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{
"paragraph_id": 77,
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"text": "1975年が阪妻の二十三回忌にあたることから、当時の邦画五社が協力して「阪妻映画祭」と銘打ち、阪妻の代表作が1975年6月7日の日劇文化劇場を皮切りに、1976年にかけて全国各地で巡回上映された。当時の邦画各社は仲がいいとは言えず、ことに商売が絡むと二社ですらまとまったことがないと言われたため、当時としては画期的なイベントだった。映画祭の発案者は、業界の\"裏ドン\"こと全興連副会長で大旺映画社長・山田敏郎。山田は松竹のOBで「幌馬車の唄」や「人妻椿」の主題歌の作詞者でもあった(山田としを名義)。当時の邦画不況もあり、ローカルの小劇場は経営に苦しみ、強力な番組でも二週間持てばいい方。邦画の再上映でお茶を濁すことになるが、成績が下向するのは当然で、興行者の立場から眠っている映画の再発掘として、阪妻は現代(当時)に通じるものがあり、今出しても十分鑑賞に耐えれると考え「阪妻映画祭」を発案した。ネックになったのが、阪妻は松竹、日活、大映の出演作は多いが、当時の五社で影響力を増していた岡田茂東映社長と松岡功東宝副社長の二社には、阪妻の出演作が無いことだった。山田は自身の業界での地位を上げるチャンスとばかり、松竹社長で映連会長・城戸四郎に了解を取り付けた上で、すぐに岡田茂を説得に行った。山田は岡田を「いい話があれば即座に飛びついて自分のモノにしてしまう男」と城戸の後継者は岡田と見込んで、自分の懐に巻き込もうと画策していたため、岡田に「上映委員会副会長をやってくれ」と頼んだが「オレんとこ阪妻の写真ないからダメだ」と断られた。すかさず山田は「冗談じゃない、一本ある。『天狗の安』というのがある」 岡田「.....」。山田「第一、東映は時代劇で儲けて大きくなったんだから、せめて阪妻の追悼の意味で副会長やってくれてもいいじゃないですか」と無理やり副会長を引き受けてもらった。次に松岡功に頼みに行ったら同じく「ウチも阪妻の写真がないから降ります」と言われたが「いや『佐平次捕物帳 紫頭巾』があります」 松岡「.....」と、これで五社をまとめることが出来た。「阪妻映画祭」は予想以上の反響を呼び、半年間で1億1800万円の興行収入を上げ、旧作リバイバルの新しい道を拓いた。この成功により1975年11月に「日本映画名作祭」第一回の開催が決まり、「阪妻映画祭」同様に邦画五社が各社の過去の名作を全国各地で上映し大成功した。「阪妻映画祭」が好評で、有楽シネマを加えたことから「日本映画名作祭」は最初から三館上映を行った。これらの成功を受け、番線外劇場の「名作選」上映が盛んになった。",
"title": "人物・エピソード"
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{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "マキノ雅弘は「最後の時まで育てた役者の中で、一等大殺陣のうまかったのは?」と訊かれ、「専門としてみて」と前置きして、市川右太衛門、月形竜之介の前に「妻さん、だろうね」と阪妻の名を挙げている。阪妻は月形とともに、「竹光では感じが出ない」と真剣を使っての立ち回りもよく行った。稲垣浩は「妻さんが二段引き、というのをやってね。サーッ、ターッ!と相手を斬ってから、キュッとも一つ刃を引く。『あれがいけない』っていうんで、検閲でカットになったことがある」と語っている。「『骨まで斬った』という感じが出るからいかん」、という理由だったという。",
"title": "人物・エピソード"
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{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "マキノと稲垣のコンビによる『血煙高田の馬場』(1937年)で、堀部安兵衛役の阪妻に、マキノ雅弘が「火傷するように熱い、火に焦げた鉄板の上の立ち回りをやってくれ!」と注文をつけた。「難しいことを言うな、と妻さん、殺陣師を横に置いて、やりましたよ。足をバタバタ、バタバタやって、実にうまかったんだ、これが。“アチッ、アチッ!”という感じでねえ。決闘シーンをイチン日で撮っちゃったんですよ。済んだらデーンとひっくり返っちゃって、二度と『高田の馬場』はやらん! と声明した。ほんとに、それから撮らなかったですよ」",
"title": "人物・エピソード"
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"paragraph_id": 80,
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"text": "阪妻の立ち回りは「悲壮豪壮天下一品」と呼ばれ、破天荒なものだった。『邪痕魔道 前・中・後篇』(1927年、古海卓二監督)の後篇は、「ここ花の吉原仲之町、歓楽の巷にまたもや血の雨が降る・・・」などと弁士の解説とともに、ただひたすらチャンバラのみが写されるという無茶なものだった。伊藤大輔監督とのコンビで撮った『新納鶴千代』(1935年)では、阪妻は荒川大橋の上で、すべての敵を後ろにして前を歩き、後からかかってくる敵を全部振り返らずに斬るという斬新な殺陣を見せている。",
"title": "人物・エピソード"
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{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "トーキー時代に入って伊藤とマキノ雅弘のコンビで撮った『国定忠治』では、子負いのバンツマが泣く子を『木曾の仲乗りさん』を歌ってあやしながら、追手と立ち回りを演じるという難しい殺陣を見せている。マキノによると、阪妻は歌が得意だったわけではなく、時代劇スタアの中で本当に歌が歌えるのは嵐寛寿郎くらいだったという。阪妻はむしろ悪声で、訛りがあるのをかえって居直って「阪妻節」に変えてしまったのである。",
"title": "人物・エピソード"
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{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "林屋辰三郎、加藤秀俊、梅棹忠夫、多田道太郎がチャンバラについて討論し纏めた一文に、つぎのようなものがある。",
"title": "人物・エピソード"
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{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "替え玉が必要な場面でも、大河内傳次郎と並んで阪妻は遠景の姿形の美しさにこだわり、どんなに遠くて顔が見えないショットでも「自分の形の見せ所だ」と言って替え玉にはさせなかった。『無法松』では、雪の中倒れる場面の撮影で中耳炎を発症。結局久世竜が替え玉を演じ、気づく者はいなかったが、阪妻は「いい仕事ができてよかったですね。だが、あの雪の場面が僕だったら、もっと、もっとよかったでしょう」とただ一人稲垣に不満を漏らしたという。",
"title": "人物・エピソード"
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{
"paragraph_id": 84,
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"text": "1942年(昭和17年)の大映創立記念作『維新の曲』は、阪妻、千恵蔵、右太衛門、アラカンという「四大スタア」の顔合わせで、配役と序列で会社は頭を悩ました。そのなか阪妻が行く先も知らさず姿を消し、「役か脚本、序列が気に入らないのだろう」と噂された。稲垣も会社への不満だろうと思い、阪妻の弟子に尋ねたところ、「誰にも言わないでください」と教えてくれた。実は阪妻は坂本龍馬の役作りのため、土佐の風土、方言、龍馬の足跡などを得るために土佐へ出かけていたのだった。出来上がった龍馬はそれまでの阪妻に見たことのない、誰もやったことのない一風変わった龍馬となっていて、人々を驚かせた。",
"title": "人物・エピソード"
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"paragraph_id": 85,
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"text": "役によっては、セットでもロケでも一人離れた場所に、着くずれのしないように自分で考案した高い椅子にちょいと尻を載せて、何時間でも出のくるのを静かに待っていた。ある作品で稲垣浩監督が敵役を背中から袈裟懸けに斬る殺陣を注文したところ、「この役は背中向きを斬るような役ではないと思いますが」と遠慮深く抗議した。これで役の性格が違ってくるわけだが、若かったせいもあり稲垣は無理を押し通して撮影に入った。ところが敵役は背中に刀が当たるものと思っていたが当たらない。相手役が「かまいませんから強く刀を当ててください」と頼んだところ、阪妻は憤然として「私は今まで随分立ち回りはしてきたが、人のからだに当てないのを身上としてきたので、それだけはいやだ」と断った。稲垣はその立派さに感心したと語っている。",
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"text": "1989年(平成元年)に文春文庫ビジュアル版として『大アンケートによる日本映画ベスト150』という一書が刊行されたが、文中372人が選んだ「個人編男優ベストテン」の一位は阪妻だった。死後35年余りを経て、なおこの結果だった。2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の7位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第8位になった。",
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"text": "息子の田村俊磨は、居間でセリフを練習するなど家でも阪妻そのものであったとし、田村正和は、ハートで演じるタイプの役者であったと思うと話した。",
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] | 阪東 妻三郎は、日本の歌舞伎俳優、映画俳優。本名:田村 傳吉、サイレント映画時代に岡山 俊太郎の名で監督作がある。端正な顔立ちと高い演技力を兼ね備えた二枚目俳優として親しまれ、「阪妻(バンツマ)」の愛称で呼ばれた。 | {{ページ番号|date=2016年9月}}
{{ActorActress
| 芸名 = 阪東 妻三郎
| ふりがな = ばんどう つまさぶろう
| 画像ファイル = Tsumasaburō Bandō.jpg
| 本名 = 田村 傳吉
| 別名義 = 沢村紀千助<br />阪東藤助<br />阪東要二郎<br />岡山俊太郎
| 出生地 = {{JPN}}・[[東京府]][[東京市]][[神田区]](現・[[東京都]][[千代田区]])
| 死没地 = {{JPN}}・[[京都府]][[京都市]]
| 身長 = 172[[センチメートル|cm]]
| 血液型 =
| 生年 = 1901
| 生月 = 12
| 生日 = 14
| 没年 = 1953
| 没月 = 7
| 没日 = 7
| 職業 = [[俳優]]
| ジャンル = [[映画]]
| 活動期間 = [[1918年]] - [[1953年]]
| 著名な家族 = 長男:[[田村高廣]]<br />次男:[[田村俊磨]]<br />三男:[[田村正和]]<br />四男:[[田村亮 (俳優)|田村亮]]<br />婚外子:[[水上保広]]<br />孫:[[田村幸士]]
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = 『[[雄呂血]]』<br />『[[無法松の一生 (1943年の映画)|無法松の一生]]』
}}
'''阪東 妻三郎'''(ばんどう つまさぶろう、[[1901年]]([[明治]]34年)[[12月14日]] - [[1953年]]([[昭和]]28年)[[7月7日]])は、[[日本]]の[[歌舞伎]]俳優、[[俳優|映画俳優]]。本名:田村 傳吉(たむら でんきち)、[[サイレント映画]]時代に岡山 俊太郎(おかやま しゅんたろう)の名で<!-- ×名義-->[[映画監督|監督]]作がある。端正な顔立ちと高い演技力を兼ね備えた[[二枚目]]俳優として親しまれ、「阪妻(バンツマ)」の愛称で呼ばれた。
== 概要 ==
大正末年から昭和初年にかけての剣戟ブームを生み出した[[剣戟俳優]]であり、「'''剣戟王'''(けんげきおう)」の異名を持つ<ref>『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、[[マツダ映画社]]監修、アーバン・コネクションズ、2005年、p.38</ref>。日本映画史において[[サイレント映画]]から[[トーキー]]への転換期に活躍、双方で高い実績を残した人物としてしばしば名を挙げられる。
[[大河内傳次郎]]、[[嵐寛寿郎]]、[[片岡千恵蔵]]、[[市川右太衛門]]、[[長谷川一夫]]とともに「[[時代劇六大スタア]]」と呼ばれた<ref>『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)</ref>。
== 来歴 ==
[[1901年]](明治34年)[[12月14日]]([[土曜日]])、[[東京府]][[神田区]]橋本町(現在の[[東京都]][[千代田区]][[東神田]])の[[田村長五郎]]という木綿問屋の次男坊として生まれ、神田で育った。小学校を卒業する頃から家業が傾き始める。兄、姉、母が相次いで亡くなり、父親が事業に失敗して破産。
=== 歌舞伎界へ ===
[[1916年]](大正5年)、旧制・尋常小学校高等科を卒業した後、母や姉が常盤津や長唄の芸事に秀でていたことや芝居が好きだったことから「立身出世の早道」を求め、16歳で成績表片手に芝明舟町にあった[[市村羽左衛門 (15代目)|十五代目市村羽左衛門]]の邸へ飛び込むが門前払いされた。
落ち込んで帰宅する途中、近くの[[片岡仁左衛門 (11代目)|十一代目片岡仁左衛門]]の邸に思い切って飛び込んでみたところ、伊東という番頭が取り次いでくれて、「まあ遊んでいろ」と仁左衛門の内弟子を許される。
仕事は雑用ばかりで、しつけは厳しく、雑用の合間に黒衣着で舞台の見学をしながら狂言のノートをとる毎日だった。師匠について大阪中座で「紙子仕立両面鑑」の序幕の仕込みに出たのが初舞台で、セリフはなかった。
[[1918年]](大正7年)、二年辛抱するがうだつが上がらず、因襲と家柄優先の歌舞伎の世界に限界を感じ始め、「一日二回、十日替りの芝居ならもっと修行ができる」と結論。金にもなるということから、ちょうど浅草の吾妻座から声がかかり、沢村宗五郎、[[吾妻藤蔵|吾妻市之丞]]らの一座に入り、「'''沢村紀千助'''」を名乗る。
下っ端なりに役も付くようになったが物にならず、市之丞に連れられて再び歌舞伎座に戻り、師匠の仁左衛門に顔向け出来ぬ苦しみを味わう。こうしたなか、縁あって神田劇場で[[中村歌昇|中村歌扇]]や尾上菊右衛門と一座することとなる。
=== 映画界へ ===
[[1919年]](大正8年)、[[国際活映]]の[[澤村四郎五郎 (5代目)|沢村四郎五郎]]一派のエキストラに出演。日給1円20銭だった。伝統や因襲にこだわる芝居道と違う新天地を[[活動写真]]界に見出し、3月ごろから「'''阪東藤助'''」を名乗り、[[沢村四郎五郎]]、實川莚十郎に頼みこんで昼は活動写真、夜は劇場と働いた。
[[1920年]](大正9年)、6月に[[松竹蒲田撮影所|松竹キネマ蒲田撮影所]]が出来ると、實川莚十郎と一緒に松竹キネマに入るが、このとき行動を共にした[[森要]]がまもなく退社したため、これに伴って国活に逆戻りし、まったく無名のまま脇役を過ごす。国活では「'''阪東要二郎'''」を名乗り、7月には『島の塚』([[枝正義郎]]監督)に仕出し役で出演している<ref>『あゝ活動大写真 グラフ日本映画史 戦前篇』(朝日新聞社)</ref>。[[環歌子]]は当時の阪妻について、「大勢のエキストラの中でも大変目立ってすぐわかりました。痩せて非常に背が高く、首一つ出ている感じで色が白いのを通り越して青い様な感じでした」と語っている。
===再び歌舞伎界へ===
[[1921年]](大正10年)、活動写真の現場でも下廻りばかりで面白くなくなり、国活撮影所で同士だった片岡松花、[[中村吉松]]を募って撮影所を飛び出し、「'''阪東妻三郎'''」を名乗って「東京大歌舞伎 阪東妻三郎一座」の看板を掲げ、「タンカラ芝居」(東京近郊を巡業する村芝居)に出る。演し物は一番目が「ひらがな盛衰記」、二番目が「本朝二十四孝」の御殿で、阪妻は船人松右衛門と[[武田勝頼]]を演じた。
前景気も良く、「阪東妻三郎大一座」は上州辺りを打って廻り、始めは大入り大受けだった。
[[1922年]](大正11年)、22歳の春、仕打ちの失敗から一座解散。阪妻は単衣物一枚の上に外套を羽織る惨めな有様で、ようやく生家に戻ったものの妹は死んだあとで、兄は病臥していた。
===マキノ・プロへ===
[[1923年]](大正12年)2月、[[牧野省三]]が京都に[[マキノ映画製作所]]を結成するにあたり、マキノの重役宮川斉が東京に俳優募集に来たところ、阪妻に眼を止める。阪妻は「これで成功しなければ二度と東京の土は踏まぬ」との一大決心で片岡松花、[[中村吉松]]と京都入り、[[マキノ・プロダクション]]に入社<ref>ここまで注釈以外、すべて『剣戟王阪東妻三郎』(丸山敞平、ワイズ出版)から</ref>。
マキノ・プロに月給六十円の[[大部屋俳優]]として転がり込んだ阪妻だが、当初、役柄は敵役、脇役が多かった。「御用、御用」の斬られ役で、斬られては顔を変え、幾度も立ち回りにからんだが、顔が立派で柄も大きいため、どんなに変装しても目立ってしまった。
[[1924年]](大正13年)、正月映画『火の車お萬』で[[環歌子]]との共演が当たり役となって、「あいつが出ると目立ってしかたがないから役をつけてしまえ」ということになり、『[[怪傑鷹]]』([[二川文太郎]]監督)で[[高木新平]]の相手役の「黒木原源太」という悪役に抜擢される。ところが「白面の美剣士が敵役」というので、観客、批評家を驚かし、これが出世の糸口となる<ref name="名前なし-1">『ひげとちょんまげ』([[稲垣浩]]、毎日新聞社刊)</ref>。
続く日活・松之助映画とマキノの初競作『燃ゆる渦巻』(全四篇)で、途中から阪妻演じる駒井相模守の人気が急上昇。第四篇では主役の林清之助が呆気なく死に、阪妻の相模守が主役になってしまった。この作品でマキノは大いに名声を博し、[[尾上松之助]]版を圧倒する評判を得た<ref name="名前なし-2">『剣戟王阪東妻三郎』「環歌子聞き書き〜マキノ時代の阪妻〜」(丸山敞平、ワイズ出版)</ref>。
ちょうどたまたま同じ下宿に、浅草ペラゴロ出身の、これも浪人の身の脚本家[[寿々喜多呂九平]](『怪傑鷹』の作者)がおり、二人は意気投合。同年、阪妻のために呂九平は『鮮血の手型 前・後篇』([[沼田紅緑]]監督)の脚本を書き下ろし、同作は阪妻の第一回主演作となる。
『鮮血の手型』は、それまでのやたらと見得を斬る歌舞伎スタイルの立ち回りの旧劇と異なり、阪妻の激しい剣戟とリアルな演出が、映画界に革命的な衝撃を与えた。以後、『恐怖の夜叉』、『討たるる者』、『『江戸怪賊伝 影法師 前・後篇』、『墓石が鼾する頃』と、この寿々喜多呂九平と組んだ、阪妻の人気を不動とした作品群が続き、とりわけて虚無的で反逆的な一連の傑作を、浅草オペラ出身のアナキスト、[[古海卓二|漠与太平]]門下生の[[二川文太郎]]が監督。なかでも大正14年の『江戸怪賊伝 影法師 前・後篇』は大好評で、時代劇俳優の第一人者としての地位は決定的なものとなる<ref>ここまで注釈以外すべて『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)より</ref>。
=== 阪妻プロの創設 ===
[[1925年]](大正14年)9月、全国の熱狂的なファンに応え、阪妻は「自由制作」を標榜し、25歳で[[阪東妻三郎プロダクション]]を京都[[太秦]]に設立。[[今東光]]を顧問に据え、自ら陣頭に立ち、映画製作を開始する。
阪妻はマキノ時代以来の盟友、[[寿々喜多呂九平]]・[[二川文太郎]]をマキノからの出向で得て、『[[雄呂血]]』の製作を開始するが、京都ではマキノ側の妨害が激しく、やむなく東京の吾嬬撮影所で『異人娘と武士』を撮影。
『異人娘と武士』が終わるとすぐに引き返し、奈良で『雄呂血』を撮影。撮影所はなく、旅館に泊まって資金ができるとロケに出るという状況だった。環歌子はこのときの阪妻の様子について、「妻さんは命がけでやっているのがよくわかりました。泣きながら一人で頑張っていました」と語っている<ref name="名前なし-2"/>。
11月、ついに『雄呂血』が完成し、封切り公開。歌舞伎調の立ち回りを完全に破壊した型破りの殺陣は大評判となり、また体制に反逆する主人公の虚無的な英雄像はその時代の風潮ともマッチし、大ヒットとなる。また、その大胆な殺陣で「乱闘劇のバンツマ」として一世を風靡する。
12月、阪妻人気に注目した松竹は独立早々の阪妻と配給提携を結び、これにより阪妻人気は全国的なものとなる。
阪妻プロでは「三羽がらす」、「四天王」、「十剣士」などといった「からみ(斬られ役)」を揃えていた。[[河津清三郎]]は最も多く用いられたからみの一人だった。
[[1926年]](大正15年)4月、阪妻プロの太秦撮影所落成。9月、アメリカのユニバーサル社と配給提携。以後、時代劇のみならず現代劇も制作。
この年『魔保露詩』、「東山三十六峰静かに眠るとき・・・」の活弁で一世を風靡した『尊王』、アナキスト[[悪麗之助]]監督・脚本の『無明地獄』と、代表作とされる傑作を連作。剣戟スタアの地位を不動のものとする。
阪妻映画では、講談調の単なる英雄、豪傑と違い、阪妻扮する武士や浪人、やくざに至るまでが人間的な明暗を持ち、不正や不当な権力と闘う不屈な精神が描かれるため、阪妻の映画は幅広い愛好者の支持を受けた<ref name="名前なし-3">『あゝ活動大写真 グラフ日本映画史 戦前篇』(朝日新聞社刊)</ref>。
[[1927年]](昭和2年)5月、ユニバーサル社との提携を解除。思い通りに動かない阪妻を警戒した松竹は、六十万円を出資して阪妻プロを株式会社化。山崎修一を目付役に送り込む。以後山崎と阪妻は意見対立・喧嘩の毎日だった。
[[1928年]](昭和3年)新春早々、朝日新聞が阪妻のために「賞金五千円」をかけて募集した映画小説一等当選作『[[霊の審判]]』の映画化を発表。この作品はすでに朝日新聞紙上で[[貴司山治|伊藤好市]]原作で連載中であり、「阪妻の初の本格現代劇主演」とあってセンセーショナルな話題を映画界に投じた。
しかし興行主義の松竹と芸術志向の阪妻の対立が次第に表面化。初の現代劇ともあって阪妻も調子が上がらず、また異色の原作映画化といったこともあり、三月封切りの予定を過ぎても『霊の審判』は完成せず、4月、ついに阪妻プロ支配人山崎修一は製作の正式中止を発表。
6月28日、阪妻プロは改革縮小を断行。阪妻は取締役を辞任、『霊の審判』主要スタッフの[[枝正義郎]]、[[細山喜代松]]、[[江川宇礼雄]]、[[近藤伊与吉]]らが整理退社となり、『霊の審判』製作再開は不可能となる。
阪妻の松竹に対する発言力が強かったのは大正15年から昭和2年までで、この昭和3年以降は強大な資本力によって、松竹の阪妻プロ干渉が強力なものとなっていった。松竹での阪妻プロの位置づけは「松竹時代劇救世主」から、「松竹時代劇ブロック構成の一環」に組み込まれていった。昭和2年、松竹は阪妻に替えて[[長谷川一夫|林長二郎]]を二万円(当時)の宣伝費をかけて売り出し、長二郎の人気は阪妻に肉薄していく。
[[1929年]](昭和4年)、松竹は阪妻、[[長谷川一夫|林長二郎]]、[[月形龍之介]]、[[市川右太衛門]]、[[阪東寿之助]]と時代劇ブロックを充実させ、芸術志向の阪妻プロとの時代劇製作方針の相克は溝をますます深める。
[[1930年]](昭和5年)6月11日、阪妻懸案の[[大佛次郎]]との提携作『[[からす組]]』完成後に、阪妻は朝日新聞紙上に松竹脱退絶縁声明書を発表。京都の阪妻プロ撮影所を解散する<ref name="名前なし-4">ここまで『剣戟王阪東妻三郎』(丸山敞平、ワイズ出版)より</ref>。
===阪妻プロの再結成===
[[File:BANTSUMA.jpg|thumb|250px|千葉谷津海岸に移設した阪妻プロの撮影所。太秦とは逆にスタジオの文字が左書きになった]]
[[1931年]](昭和6年)2月4日、松竹との借財問題を解決するために大阪に出向き、[[黒龍会]]の吉田益三の仲介のもとで借金の返済交渉にあたる。阪東が借金5万円のうち半額を渡し、残金は追って支払うことで和解した<ref>阪東再起、松竹との借金問題が解決『大阪毎日新聞』昭和6年2月6日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和6年-昭和7年』本編p25 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
閉鎖した京都太秦の撮影所を[[谷津遊園]](現[[千葉県]][[習志野市]]・現在はない)に移設し、野心的に仕事をこなす。[[新興キネマ]]と配給提携し、[[吉川英治]]、[[長谷川伸]]その他の大衆文芸を題材とした本格的ドラマ作りに精進。共演女優に[[森静子]]、[[環光子]]、[[鈴木澄子]]、[[桜木梅子]]が次々出演。ヒット作を飛ばす。
同年、アメリカのパラマウント社のため阪妻プロとは別に「大日本自由映画プロダクション」を設立し、『落陽餓ゆ』([[東隆史]]監督)を制作。「大日本自由映画」はこの一本のみで解散する。
[[1935年]](昭和10年)5月、阪妻プロが新興キネマと合流。昭和6、7年ごろから日本映画はトーキー時代に移行。映画界の情勢は一変。阪妻人気は凋落。
[[1936年]](昭和11年)12月、『怒涛一番乗』を最後に、11年続いた阪妻プロは解散する。{{main|阪東妻三郎プロダクション}}
=== 日活〜大映へ ===
[[1937年]](昭和12年)5月、谷津の撮影所を整理して、裸一貫で[[日活]]に移る。独立時代と違って、商業主義的な大作に次々と出演し、芸歴は一段と大きくなったが、独立時代に深刻な人間探求を続けた成果が実り、名優としての評価が加わった。セリフをすべて暗記するまで仕事にかからなくなったのはこのころからである。役柄では『恋山彦』の伊奈小源太、『柳生月影抄』の柳生十兵衛、『闇の影法師』の縣佐馬之助、『忠臣蔵』の大石内蔵助、『富士に立つ影』の佐藤菊太郎と、オーソドックスな武士に扮して堂々の貫禄を示した。『将軍と参謀と兵』では師団長中将に扮して支那大陸を背景に現代武人の典型を見せ名実ともに斯界の王座を占めた<ref name="名前なし-3"/>。
[[1942年]](昭和17年)、『[[将軍と参謀と兵]]』([[田口哲 (映画監督)|田口哲]]監督)で、初の現代劇主演。
この年、日活が再編成され[[大映]]となり、阪妻もこれに合流。創立記念作『維新の曲』([[牛原虚彦]]監督)は、阪妻、[[片岡千恵蔵|千恵蔵]]、[[市川右太衛門|右太衛門]]、[[嵐寛寿郎|アラカン]]という「四大スタア」の顔合わせもあり大ヒットとなる。
[[1943年]](昭和18年)、軍徴用にひっかかるが、[[嵐寛寿郎]]によると「あの人は豪胆やさかい呼び出しに応じまへん」とのことで、「役者の阪妻がお国の役に立たなくて、田村伝吉に何の用がおます」と啖呵を切り、出頭せずじまいで済ませてしまった<ref name="名前なし-5">『聞書アラカン一代 - 鞍馬天狗のおじさんは』(竹中労、白川書院)</ref>。
戦時中はほかに『[[血煙高田の馬場]]』、『魔像』、『[[江戸最後の日]]』、『[[無法松の一生]]』などの傑作に主演。
[[1944年]](昭和19年)、8カ月にわたる上海ロケの末、日華合作映画『狼火は上海に揚る』([[稲垣浩]]監督)を完成。封切り時は日支双方とも空襲のさなかで映画鑑賞のゆとりなどはなかったという。
[[1945年]](昭和20年)、日活撮影所は連日京都師団の査閲訓練を受け、映画撮影どころでなくなる。阪妻は稲垣に「上陸されたらおしまいでしょう」と戦況を語っている。8月15日、日本敗戦。阪妻は撮影所企画室で、稲垣浩と二人で黙って手を握り合ったという。
戦後、占領軍の「チャンバラ禁止令」のために剣戟ができず、慣れない洋服を着て現代劇に出演。
[[1947年]](昭和22年)、『素浪人罷り通る』([[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]監督)で時代劇復帰。
===松竹へ===
[[1949年]](昭和24年)、現代劇好調を受け、大映社長[[永田雅一]]が「古ぼけた時代劇のスタアはもうウチはいらん」と放言。これに怒って「四大スタア」全員大映を脱退。阪妻は[[松竹京都撮影所|松竹京都]]に移籍。時代劇の地図が塗り替えられることとなる<ref name="名前なし-5"/>。
[[1950年]](昭和25年)、松竹下加茂撮影所が可燃性フィルムの自然爆発を起こし、現像所や事務所、ステージを全焼。ほぼ完成状態だった、[[山田五十鈴]]共演の『無頼漢』([[衣笠貞之助]]監督)のフィルムが焼失の憂き目に遭う<ref name="名前なし-1"/>。
時代劇では『大江戸五人男』、天才棋士[[坂田三吉]]を演じた『[[王将 (1948年の映画)|王将]]』、コミカルな現代劇『[[破れ太鼓]]』などの作品に主演し、[[大河内伝次郎]]とともに正真正銘の「スタア」であり続けた。
[[1953年]](昭和28年)[[7月2日]]、『あばれ獅子』撮影中に持病の[[高血圧]]から体調を崩し、同年[[7月7日]]、[[脳内出血]]により死去。{{没年齢|1901|12|14|1953|7|7}}。墓所は京都市[[二尊院]]。
== 家系・家族 ==
5人の子どものうち、長男の[[田村高廣]]、三男の[[田村正和]]、四男の[[田村亮 (俳優)|田村亮]]の3人は俳優となった。二男の[[田村俊磨]]は実業家で、高廣・正和のマネージャーも務めた。[[婚外子]]に俳優の[[水上保広]]がいる。[[田村幸士]]は孫にあたる。
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== 人物・エピソード ==
阪妻は[[サイレント映画]]時代から培った、動きと表情を駆使する技術で演技全体に抜群の説得力を与えた。特に彼が殺陣の見せ場で行う、両脚を大きく広げて踏ん張った体勢で手に持った刀をゆっくりと眼前に下ろし、首を左右にゆらゆらと動かす仕草は「バンツマ」の代名詞として広く知られている。これについて俳優の[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]は「子供の頃、[[チャンバラ]]ごっこが好きな男の子はみんな阪東さんの真似をしていましたよ。僕くらいの年齢なら阪妻のあれ(首をゆらゆらさせる仕草)を全く知らないという人の方が少ないんじゃないですか」と述べており、彼の演技が幅広い年齢層に浸透していたことが伺える。
[[トーキー]]映画に初めて出演した際、自身の甲高く細い声がファンの失望を呼んだことが人気低落の理由のひとつと考え、独自に[[ボイストレーニング]]を行う。やがて努力の甲斐あり阪妻は迫力のある発声を体得したが、無理な訓練がたたり喉が潰れ、以後しゃがれ声になった。しかし阪妻は声が変わってしまったことを全く後悔せず、「こういう声の方が凄みが出る。前よりずっといい」と語っていたという。そして再生一作目となる『恋山彦』前後篇では、「剣戟王・阪妻」の復活を告げる素晴らしい立ち回りとともに、喉の奥から搾り出すような独特の台詞回しで好評を博した。
無学のコンプレックスを克服するため、勉励努力を重ねていた。アナキストの[[今東光]]を阪妻プロの顧問に迎えたり、哲学映画『[[霊の審判]]』を自ら監督しようとして結局製作中止となったり、「大日本自由映画プロダクション」を設立して『洛陽餓ゆ』一本のみで解散するなど、世間からは大風呂敷としか見えない試行錯誤を執拗に繰り返した。これは阪妻が常に不安であり、俳優という仕事に小心、謙虚であったことを物語っている。映画が挙げてトーキー化の波に洗われたとき、発声に自信のなかった阪妻は最後まで無声映画の砦を守ろうとした。だが、悪声をかえって武器とし、独特のエロキューションを工夫、創造してみせたのである<ref>『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)</ref>。
現役時代は大変多忙で、休日等は自宅の二階で寝ている事が多く、家事にはあまり口を出さなかったという。ただし、来客時には客に対して正装して懇切に応接していたようである。例外として、息子である田村高廣が、[[京都府立福知山高等学校・附属中学校|旧制京都府立第三中学]]に合格した事を告げに担任の小学教師が訪問した際、二階から浴衣姿のままでドタドタと階段を降り、玄関先にいる教師の足下で「せ、先生!あ、ありがとうございました!」と土下座してお礼を言ったそうである<ref>『剣戟王阪妻の素顔 - 家ではこんなお父さんでした』 [[田村高廣]]、[[ワイズ出版]]、2001年</ref>。
阪妻の人気が上がると、各社が阪妻そっくりのスタアをつくろうと大童となった。[[谷崎十郎]]や[[阿部九洲男]]がこうして生まれたが、なかには音感を似せた「千葉三郎」だとか、「[[吉頂寺晃|吾妻三郎]]」というものもあった。誰も「あづま」とは読まず、「われ妻三郎」と読んでいた。場末の三本立ての館などでは、阪妻に顔も似ていて「妻三郎」でもあるのでだまされて入った客も相当いたという。
日活撮影所では[[片岡千恵蔵|千恵蔵]]、阪妻、[[嵐寛寿郎|寛寿郎]]の大スタアの顔合わせを、徳川御三家にきかせて「御三家」と呼んでいた。阪妻の内弟子は「阪東妻楊枝」と呼ばれていた。大映で四大スタアが揃うと、弟子たちは師匠自慢をしたが、「阪妻さんが歌舞伎の出や言うけど、屋号は何というのや」、「坂東なら音羽屋、大和屋、橘屋と三つあるが土偏の『坂』や、こざと偏の阪東が歌舞伎にあるかい」と言われ、弟子たちは悔しがったという。
阪妻プロを解散し、裸一貫で日活に入ったとき、日活の所員は阪妻をどう呼んでいいか迷った。[[マキノ正博]]は「妻さん」と呼び、稲垣らは「田村さん」と呼んだ。助監督や進行係は「阪東さん、阪東さん」と呼んでいたので、阪妻は「いやになっちゃうな、番頭さんみたいで」とこぼしていた。のちに「先生」と呼ばれるようになったが、それも気に入らぬようだった。「先生」が教師や医者の代名詞であるのと、川柳に「先生といわれるほどの馬鹿でなし」というのがあったからで、阪妻プロ創立時は23歳の若さだったことからよけいに不似合いなこの呼びかたを嫌がった。
あるとき祇園の女将が「そんなにおいやどしたら先生のセを抜いてよばはったらどうどすねん。ンセイなら運勢がよろしおすえ」と言ったのが気に入り、以後「ンセイ」と呼ばれるようになった。阪妻はお天気屋で知られ、ときどき冠を曲げて人を困らせた。1927年(昭和2年)の『大義』で、妙に重たい雰囲気で撮影が難渋し、これを一掃しようとした[[安田憲邦]]監督が「ハイ御大のアップ頂戴っ!」とやってのけたことがあって、これで一同ドッと笑って和やかな雰囲気となった。それ以来この「アップ頂戴」が流行っていろいろな監督が使ったが、東京のジャーナリストに誤解されて伝わり、「阪妻は横暴だ」ということになってしまった<ref name="名前なし-6">ここまで、『ひげとちょんまげ』([[稲垣浩]]、毎日新聞社刊)より</ref>。
===阪妻と女性たち===
阪妻プロを立ち上げ、人気絶頂だったころの阪妻は、その遊びぶりも豪快なものだった。アラカンは「時代劇の王者は何とゆうても阪東妻三郎、女遊びもこの人にはとても及びまへん、散財のケタがちがう」と語っている。阪妻プロの映画は、松竹の買い取り価格が一尺あたり二円四十銭だった。「捕り方パッと走っても二、三百円稼ぐんだ、その銭をつかんで撒く、勝負になりまへん、祇園の芸者総揚げにした。伝説やおまへん、この目で見ました」、「花見小路から八坂さんまでずら〜っと、芸者末社ひきつれて大名行列を繰り広げた」
1928年(昭和3年)、昭和天皇の[[即位の礼|御大典]]に合わせて、東京から京都へ「偉い人たち」が大挙押し寄せ、祇園や先斗町で権柄づくの野暮天風を吹かせた。「お上が大嫌い」という阪妻はこれが気に喰わず、[[今東光]]と示し合わせて祇園街を買い占めてみせた。アラカンは「王城の都の歴史にないことを妻さんやってのけた」、「妻さん身持ち固かったとワテは思います、女道楽よりも男の意地でゼニ撒いたんやないか。尺二円四十銭、今の金に直してシャシン一本何千万円、いや億になりまっしゃろ、ためたらバチが当たりますわ」と、このときの様子を語っている<ref name="名前なし-5"/>。
[[環歌子]]は阪妻とはマキノ時代からの同僚で、大正12年、[[マキノ省三]]から「お前さんのシャシンは評判がいいから、今度の相手役はお前さんの気に入ったものを選びなさい」と言われ、ちょうど阪妻とのコンビが評判になって来た時だったので阪妻を選んだ。これが『火の車お萬』で、当時阪妻は撮影所近くに中村吉松と下宿していたが、急に人気が上がり、特に年増の女性にもて、肉屋の女中や料理屋の仲居をファンに連れて撮影所を出入りする姿をちょいちょい見かけたという。
環には、着流しで数人女連れの阪妻の姿は浮ついてだらしなく見えたので、「もし今度のシャシンで共演する気があるなら、撮影に入ったら仕事中はきちんとした服装で出所する、プライベートの時間は何をしても自由だが一本の仕事にかかったら終わるまで、女はファンだろうと誰だろうと近づけないようにしてほしい」と注文をつけた。阪妻は黙ってじっと聞いていたが、このときは「ちょっと考えさせてほしい」と云って帰り、翌日になって「環さんの言うことはよくわかりましたから、よろしくお願いします」と返事をしてきた。『火の車お萬』は大正13年正月のヒット作となった。作中での阪妻の脚の線の美しさが話題となった映画でもある<ref name="名前なし-2"/>。
===阪妻と稲垣浩===
[[稲垣浩]]は「妻さんは僕がこれまでに出会った人のなかで最高に懐かしく、最高に好きな人のひとりである」と述べている。あるとき阪妻は「僕らは親友などというケチなつきあいでなくいこう」と不思議なことを言い出したという。若くして時代劇の大スタアとなった阪妻だったが、十一年間のプロダクション経営で得たものは名声でもなく財産でもなく、借金と人に裏切られた悔しさと、凋落する孤独の寂しさだった。景気の良かったとき整理に困ったほど集まった親友たちは、いつしか身辺から去って行ったという。裸一貫で日活に入社し、十年ぶりに戻った太秦にはかつて自分が開いた撮影所が新興映画として華やかに活動していて、阪妻は華やかだった昔を取り戻そうということより、トーキーに移り変わろうとしている時代に生き残ろうと必死だったのである。
阪妻が日活に入社したころ、稲垣は東宝入りが決まっていたが、日活が急に引き留めを開始して、違約金まで支払われ京都に引き戻された。あとで、この工作をしたのが阪妻だと知ったという。
日活で稲垣は独自の阪妻を作り出そうと企画を出したが、どの企画も「阪妻のイメージを変えては困る」と否決された。ところが一年過ぎたある日、殺陣師の河原利一が「筒井とは縁を切ることになったから、こののちはいままでの妻三郎にこだわらず、何か新しいものを考えて欲しい」との伝言を託されて来た。「筒井」というのは仲間内で「淀君」とか「宋美齢」などと陰口していた、阪妻のマネージャー兼愛人で、この女性がいつまでも阪妻のイメージにこだわっていたのだった。相当の決心を持ってこれを絶縁した阪妻のために、稲垣は『十人斬りの男』という阪妻用の脚本を改題して『地獄の蟲』とした。
この映画が気に入った阪妻は「ツケ鬚では演技もウソ鬚になる」と、本物の鬚を生やすことにした。すると脇役の[[市川小文治]]、[[市川百々之助]]、[[志村喬]]、[[団徳麿]]らも右に習って鬚を生やす熱の入れ方で、このとき初めて稲垣は阪東妻三郎という人の映画に懸ける意気込みと情熱を感じたという。
『地獄の蟲』は無事完成したが、ラストの自決の場面で晒の腹巻きに血がにじむという苦心の場面があり、内務省の検閲官はこれを「検閲保留」と処分した(戦前までは映画での流血はタブーだった)。会社は改訂してでも封切りたがったが、阪妻や脇役、スタッフに対し原型を変えたくないと稲垣はこれに応じなかった。このとき阪妻は「クサルことはないですよ。僕らはともかくりっぱな作品を作って、それをこの目で見たのだ。それを大衆に見せなかったのは僕らのせいじゃない」と慰めてくれ、稲垣を大変に勇気づけた。稲垣は「その後阪妻と数々の作品を生むことができたのも、親友などというケチなつきあいでなくつきあえたのも、すべてこの『地獄の蟲』が始まりだった」と語っている<ref name="名前なし-7">『日本映画の若き日々』([[稲垣浩]]、毎日新聞社刊)</ref>。
===阪妻と「森尾重四郎」===
昭和初期、「サイレント映画では、虚無的な浪人者をやらせては妻三郎の右に出るものなし」と謳われた。阪妻が最初に演じた「ニヒルな浪人者」は、『砂繪呪縛』の「森尾重四郎」だった。
1927年(昭和2年)の6月から12月まで、[[朝日新聞]]夕刊は[[土師清二]]の『砂繪呪縛』を連載。連載30回目のころに、松竹は阪妻プロでこの小説の映画化を決定。企画段階では主演は草間実で、阪妻は「森尾重四郎」役に執心していたが、四社競合製作となったため、阪妻の「勝浦孫之丞」と「森尾重四郎」二役を念頭に準備が進められ、撮入直前に阪妻の意思で「森尾重四郎」一本で行くことに決定。結果は阪妻演じる重四郎の存在感が他社を圧倒。「ニヒルな浪人剣士」の一大ブームを巻き起こした。
『砂繪呪縛』は、トーキー時代を迎えた1936年(昭和11年)、阪妻プロ谷津で阪妻主演で再映画化。さらに1952年(昭和27年)大映で[[黒川弥太郎]]主演、1960年(昭和35年)には東映で[[近衛十四郎]]主演と三度映画化されたが、「勝浦孫之丞」が主役だったのは1927年の初作のみ、再映画化三作はすべて「森尾重四郎」が主役になっているほど、阪妻の演じた重四郎は強烈なものだった。
当時、阪妻の重四郎は撮影所の所員の間でもブームとなり、真似をする者が続出。次のようなエピソードが残されている。「おい煙草はないか」と云うと静かに首を振っておもむろに「ない」、「どうだ食堂に行こうか」と云うとちょっとあいてを眼の先に引っかけて大きく頷きながら「行くことにしよう」、「おい、この間の食券返してくれよ」暫く目をぱちぱちさせながら無言でいて、「あれは返さんでもいい事にする・・・」、「手数のかかることおびただしい<ref name="名前なし-4"/>」
===阪妻と『無法松の一生』===
[[ファイル:The Rickshaw Man (1943).jpg|サムネイル|「無法松の一生」(1943)右は沢村アキヲ(後の長門裕之)]]
稲垣浩に「酒は行儀よく飲んで楽しむものだ」と教えたのは阪妻だった。阪妻はお猪口で飲んで、決してコップ酒のがぶ飲みはしなかった。自宅でも高脚の膳を据え、夫人や弟子に酌をさせた。あるとき弟子のひとりに杯を出したので、弟子はいただけるものと手を出すと、「お酌だよ、お前なんか台所でグッといけ」と言った。このように弟子に杯をやるなどということはめったにしない阪妻が、あるとき突然台所で茶碗酒だのコップ酒をやり始め、夫人も弟子も驚いた。普段は膝も崩さない阪妻が大胡坐をかいて酒を飲むありさまに、撮影所で不愉快なことでもあったのかと心配したというが、それは『無法松の一生』撮入前の役作りだったことがあとでわかった。『無法松』の現場では、よく吉岡夫人になりきった[[園井恵子]]がお茶を静かにたて、「先生、お茶が入りました」とすすめていた。阪妻も無法松を忘れず、へりくだってお茶をいただいていた<ref name="名前なし-7"/>。
阪妻が『無法松の一生』に主演してから、舞台となった九州小倉には松五郎の墓や碑が出来たうえ、映画で阪妻が見せた[[小倉祇園太鼓]]の早打ちは、フィクションが現実になってその後、祇園太鼓の基本の打ち方になってしまった。
1944年(昭和19年)、日華合作映画『狼火は上海に揚る』で阪妻は稲垣と二人で上海に渡ったが、あるとき場末の小店へワンタンを食べに入ると、店の主人や使用人が彼らを見てコソコソ囁いている。阪妻が「どうやら僕を知ってるらしいね」と言うので「日本人だからだろう」と稲垣が答えると「違う。ワンポーツォー([[人力車|黄包車]])とかパントンとか言ってるよ」と言う。現地の撮影所では「阪東妻三郎」は「パントン・シーサンラン」と呼ばれていたので、阪妻にはすぐわかったのである。「黄包車」は「人力車」のことで、彼らは『無法松の一生』を観たようだった。阪妻はニコニコ顔で立ち上がり、「うん、我姓(ウォーシン)、阪東妻三郎(パントン・シーサンラン)、你的(ニーデ)、黄包車(ワンポーツォー)の電影(デンエイ)、観観(カンカン)か、うん、そうかそうか」とあやしげな中国語で返すと主人は大喜びで恐縮しながら立派な紙と筆を捧げてサインを求めた。その戻りに阪妻は稲垣に「日本映画も、やっと国際的になったね」と言った<ref name="名前なし-1"/>。
=== 阪妻映画祭 ===
1975年が阪妻の[[年忌|二十三回忌]]にあたることから、当時の[[日本映画製作者連盟|邦画五社]]が協力して「阪妻映画祭」と銘打ち、阪妻の代表作が1975年6月7日の[[日劇|日劇文化劇場]]を皮切りに、1976年にかけて全国各地で巡回上映された<ref>{{cite journal | 和書 |author = | title =映画界重要日誌 | journal = 映画年鑑 1976年版([[映画産業団体連合会]]協賛) | issue = 1975年12月1日発行 | publisher = 時事映画通信社 | pages = 15 }}</ref><ref name="映画年鑑77">{{cite journal |和書 |author = |title =映画業界動向 |journal = 映画年鑑 1977年版(映画産業団体連合会協賛) |issue = 1976年12月1日発行 |publisher = 時事映画通信社 |pages = 55 }}</ref><ref name="VM197602">{{Cite journal|和書 |author = |title = トップインタビュー <small>[[全国興行生活衛生同業組合連合会|全興連]]副会長 [[映画産業団体連合会|映団連]]理事 大旺映画社長</small> 山田敏郎 『異色のカツドウ屋43年間の浪人人生』 ききて <small>『[[財界 (雑誌)|財界]]』編集長</small> 針木康雄 |journal = 月刊ビデオ&ミュージック |issue = 1976年2月号 |publisher = 東京映音 |pages = 20 }}</ref>。当時の邦画各社は仲がいいとは言えず<ref name="VM197602"/>、ことに商売が絡むと二社ですらまとまったことがないと言われたため、当時としては画期的なイベントだった<ref name="VM197602"/>。映画祭の発案者は、業界の"裏ドン"こと<ref name="キネ旬198612">{{Cite journal |和書 |author = |title = 映画・トピック・ジャーナル |journal = [[キネマ旬報]] |issue = 1986年1月下旬号 |publisher = [[キネマ旬報]] | pages = 170-171 }}</ref>[[全国興行生活衛生同業組合連合会|全興連]]副会長で大旺映画社長・山田敏郎<ref name="VM197602"/>。山田は[[松竹]]の[[OB・OG|OB]]で「[[池田不二男#代表作品・年代|幌馬車の唄]]」や「[[人妻椿#1936年版|人妻椿]]」の[[主題歌]]の[[作詞家|作詞者]]でもあった(山田としを名義)<ref name="VM197602"/>。当時の邦画不況もあり、ローカルの小劇場は経営に苦しみ、強力な番組でも二週間持てばいい方。邦画の再上映でお茶を濁すことになるが、成績が下向するのは当然で、興行者の立場から眠っている映画の再発掘として、阪妻は現代(当時)に通じるものがあり、今出しても十分鑑賞に耐えれると考え「阪妻映画祭」を発案した<ref name="VM197602"/>。ネックになったのが、阪妻は松竹、[[日活]]、[[大映]]の出演作は多いが、当時の五社で影響力を増していた[[岡田茂 (東映)|岡田茂]][[東映]]社長と[[松岡功]][[東宝]]副社長の二社には、阪妻の出演作が無いことだった<ref name="VM197602"/>。山田は自身の業界での地位を上げるチャンスとばかり、松竹社長で映連会長・[[城戸四郎]]に了解を取り付けた上で、すぐに岡田茂を説得に行った。山田は岡田を「いい話があれば即座に飛びついて自分のモノにしてしまう男」と城戸の後継者は岡田と見込んで<ref name="VM197602"/>、自分の懐に巻き込もうと画策していたため、岡田に「上映委員会副会長をやってくれ」と頼んだが「オレんとこ阪妻の写真ないからダメだ」と断られた。すかさず山田は「冗談じゃない、一本ある。『天狗の安』というのがある」 岡田「.....」。山田「第一、東映は時代劇で儲けて大きくなったんだから、せめて阪妻の追悼の意味で副会長やってくれてもいいじゃないですか」と無理やり副会長を引き受けてもらった<ref name="VM197602"/>。次に松岡功に頼みに行ったら同じく「ウチも阪妻の写真がないから降ります」と言われたが「いや『佐平次捕物帳 紫頭巾』があります」 松岡「.....」と、これで五社をまとめることが出来た<ref name="VM197602"/>。「阪妻映画祭」は予想以上の反響を呼び、半年間で1億1800万円の[[興行収入]]を上げ<ref name="VM197602"/>、旧作[[リバイバル]]の新しい道を拓いた<ref name="映画年鑑77"/>。この成功により1975年11月に「日本映画名作祭」第一回の開催が決まり<ref name="映画年鑑77"/>、「阪妻映画祭」同様に邦画五社が各社の過去の名作を全国各地で上映し大成功した<ref name="VM197602"/><ref>{{cite journal | 和書 |author = | title =映画界重要日誌 | journal = 映画年鑑 1977年版(映画産業団体連合会協賛) | issue = 1976年12月1日発行 | publisher = 時事映画通信社 | pages = 8 }}</ref>。「阪妻映画祭」が好評で、有楽シネマを加えたことから「日本映画名作祭」は最初から三館上映を行った<ref name="映画年鑑77"/>。これらの成功を受け、番線外劇場の「名作選」上映が盛んになった<ref name="映画年鑑77"/>。
=== 剣戟スタア・阪東妻三郎 ===
[[マキノ雅弘]]は「最後の時まで育てた役者の中で、一等大殺陣のうまかったのは?」と訊かれ、「専門としてみて」と前置きして、[[市川右太衛門]]、[[月形竜之介]]の前に「妻さん、だろうね」と阪妻の名を挙げている。阪妻は月形とともに、「竹光では感じが出ない」と真剣を使っての立ち回りもよく行った。[[稲垣浩]]は「妻さんが二段引き、というのをやってね。サーッ、ターッ!と相手を斬ってから、キュッとも一つ刃を引く。『あれがいけない』っていうんで、検閲でカットになったことがある」と語っている。「『骨まで斬った』という感じが出るからいかん」、という理由だったという。
マキノと稲垣のコンビによる『[[血煙高田の馬場]]』(1937年)で、[[堀部武庸|堀部安兵衛]]役の阪妻に、マキノ雅弘が「火傷するように熱い、火に焦げた鉄板の上の立ち回りをやってくれ!」と注文をつけた。「難しいことを言うな、と妻さん、殺陣師を横に置いて、やりましたよ。足をバタバタ、バタバタやって、実にうまかったんだ、これが。“アチッ、アチッ!”という感じでねえ。決闘シーンをイチン日で撮っちゃったんですよ。済んだらデーンとひっくり返っちゃって、二度と『高田の馬場』はやらん! と声明した。ほんとに、それから撮らなかったですよ」
阪妻の立ち回りは「悲壮豪壮天下一品」と呼ばれ、破天荒なものだった。『邪痕魔道 前・中・後篇』(1927年、[[古海卓二]]監督)の後篇は、「ここ花の吉原仲之町、歓楽の巷にまたもや血の雨が降る・・・」などと弁士の解説とともに、ただひたすらチャンバラのみが写されるという無茶なものだった。[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]監督とのコンビで撮った『新納鶴千代』(1935年)では、阪妻は荒川大橋の上で、すべての敵を後ろにして前を歩き、後からかかってくる敵を全部振り返らずに斬るという斬新な殺陣を見せている。
トーキー時代に入って伊藤とマキノ雅弘のコンビで撮った『国定忠治』では、子負いのバンツマが泣く子を『[[木曽節|木曾の仲乗りさん]]』を歌ってあやしながら、追手と立ち回りを演じるという難しい殺陣を見せている。マキノによると、阪妻は歌が得意だったわけではなく、時代劇スタアの中で本当に歌が歌えるのは[[嵐寛寿郎]]くらいだったという。阪妻はむしろ悪声で、訛りがあるのをかえって居直って「阪妻節」に変えてしまったのである<ref>ここまで『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)より</ref>。
[[林屋辰三郎]]、[[加藤秀俊]]、[[梅棹忠夫]]、[[多田道太郎]]がチャンバラについて討論し纏めた一文に、つぎのようなものがある。
:「阪妻が一代の剣豪スタアとして絶大な人気を博したのは、眇目に構えた独特のポーズにあった。それは青眼でない眇目の阪妻が見事に表現したからであろう。このように人生論的意味を身を持って表すことのできる俳優にして、はじめてスタアの座を確保できるのだ<ref>『日本人の知恵』(中央公論社)</ref>」
[[吹き替え|替え玉]]が必要な場面でも、[[大河内傳次郎]]と並んで阪妻は遠景の姿形の美しさにこだわり、どんなに遠くて顔が見えないショットでも「自分の形の見せ所だ」と言って替え玉にはさせなかった。『無法松』では、雪の中倒れる場面の撮影で中耳炎を発症。結局[[久世竜]]が替え玉を演じ、気づく者はいなかったが、阪妻は「いい仕事ができてよかったですね。だが、あの雪の場面が僕だったら、もっと、もっとよかったでしょう」とただ一人稲垣に不満を漏らしたという<ref name="名前なし-7"/>。
1942年(昭和17年)の大映創立記念作『維新の曲』は、阪妻、[[片岡千恵蔵|千恵蔵]]、[[市川右太衛門|右太衛門]]、[[嵐寛寿郎|アラカン]]という「四大スタア」の顔合わせで、配役と序列で会社は頭を悩ました。そのなか阪妻が行く先も知らさず姿を消し、「役か脚本、序列が気に入らないのだろう」と噂された。稲垣も会社への不満だろうと思い、阪妻の弟子に尋ねたところ、「誰にも言わないでください」と教えてくれた。実は阪妻は[[坂本龍馬]]の役作りのため、土佐の風土、方言、龍馬の足跡などを得るために土佐へ出かけていたのだった。出来上がった龍馬はそれまでの阪妻に見たことのない、誰もやったことのない一風変わった龍馬となっていて、人々を驚かせた。
役によっては、セットでもロケでも一人離れた場所に、着くずれのしないように自分で考案した高い椅子にちょいと尻を載せて、何時間でも出のくるのを静かに待っていた。ある作品で稲垣浩監督が敵役を背中から袈裟懸けに斬る殺陣を注文したところ、「この役は背中向きを斬るような役ではないと思いますが」と遠慮深く抗議した。これで役の性格が違ってくるわけだが、若かったせいもあり稲垣は無理を押し通して撮影に入った。ところが敵役は背中に刀が当たるものと思っていたが当たらない。相手役が「かまいませんから強く刀を当ててください」と頼んだところ、阪妻は憤然として「私は今まで随分立ち回りはしてきたが、人のからだに当てないのを身上としてきたので、それだけはいやだ」と断った。稲垣はその立派さに感心したと語っている<ref name="名前なし-6"/>。
1989年(平成元年)に文春文庫ビジュアル版として『大アンケートによる日本映画ベスト150』という一書が刊行されたが、文中372人が選んだ「個人編男優ベストテン」の一位は阪妻だった。死後35年余りを経て、なおこの結果だった。[[2000年]]に発表された『[[キネマ旬報]]』の「[[キネマ旬報20世紀の映画スター|20世紀の映画スター]]・男優編」で日本男優の7位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第8位になった。
息子の[[田村俊磨]]は、居間でセリフを練習するなど家でも阪妻そのものであったとし<ref> [[週刊現代]] 2021年6月12日号 p.54-55 </ref>、[[田村正和]]は、ハートで演じるタイプの役者であったと思うと話した<ref> テレビガイド 1977年5月6日号 18-19ページ ぴいぷる 田村正和インタビュー 阪妻さんは大尊敬しています</ref>。
== おもな出演作品 ==
;[[File:Orochi film1.jpg|thumb|250px|「[[雄呂血]]」(1925年〔大正14年〕11月)]]
;[[ファイル:Gyakuryu (1924) Tsumasaburo Bando 2.jpg|サムネイル|「逆流」(1924[大正13]年)]][[ファイル:1941edosaigonohi.jpg|サムネイル|「[[江戸最後の日]]」(1941[昭和16]年)右は[[志村喬]]]]国活
*島の塚(1920年〔大正9年〕7月)
*江戸七不思議(1921年〔大正10年〕7月)
*中将姫(1922年〔大正11年〕5月)
*清水次郎長(1923年〔大正12年〕3月)
;マキノ等寺院(計50作)
*[[三好清海]](1923年〔大正12年〕)
*加賀の若殿(1923年〔大正12年〕8月)
*[[鮮血の手型]](1923年〔大正12年〕)
*[[小雀峠]](1923年〔大正12年〕11月30日)粕谷桃之助
*[[怪傑鷹]](1924年〔大正13年〕)
*雪の峠(1924年〔大正13年〕)
*[[血桜]](1924年〔大正13年〕)
*[[逆流 (映画)|逆流]](1924年〔大正13年〕)
*紀州の落人(1924年〔大正13年〕7月)
;東亜等寺院(計5作)
*復讐の日(1924年〔大正13年〕8月)
*国定忠治信州落ち(1924年〔大正13年〕9月)
*影法師(1925年〔大正14年〕3月)
;東亜マキノ等寺院(計9作)
*[[江戸怪賊伝 影法師]](1925年〔大正14年〕3月)怪賊影法師
*三人姉妹 前・中・後篇(1925年〔大正14年〕4〜5月)
*[[墓石が鼾する頃]](1925年〔大正14年〕5月)
*落花の舞 前後篇(1925年〔大正14年〕6月)
;阪妻プロ・マキノ(計3作)
*異人娘と武士(1925年〔大正14年〕9月)
*[[雄呂血]](1925年〔大正14年〕11月)
*魔保露詩(1925年〔大正14年〕12月31日)
;阪妻プロ・松竹(計41作)
*尊王(1926年〔大正15年〕2月)
*蛇眼(1926年〔大正15年〕5月)
*幕末(1926年〔大正15年〕6月)
*[[落花の舞]](1926年〔大正15年〕)
*[[魔保露詩]](1926年〔大正15年〕)
*嵐に立つ女 後篇(1927年〔昭和2年〕4月)※この作品のみ阪妻・立花・ユニバーサル
*砂繪呪縛 上・中・下篇(1927年〔昭和2年〕9月〜12月)
*護国の鬼(1927年〔昭和2年〕11月)
*鼠小僧次郎吉(1927年〔昭和2年〕12月)
*[[開化異相]](1928年〔昭和3年〕)
*清水次郎長伝(1929年〔昭和4年〕12月)
*裏切義十郎(1929年〔昭和4年〕12月)
*石松の最期(1930年〔昭和5年〕1月)
*筆禍夢物語・高野長英傳(1930年〔昭和5年〕2月)
*からす組 前後篇(1930年〔昭和5年〕5〜6月)※阪妻プロ松竹より離脱
*[[洛陽餓ゆ]](1931年〔昭和6年〕7月15日)空覚後ニ風間覚之助 ※この作品のみ阪妻プロ関東
;阪妻プロ新興(計48作)
*風雲長門城(1931年〔昭和6年〕9月)
*[[雪の渡り鳥]](1931年〔昭和6年〕10月15日)鯉名の銀平
*[[牢獄の花嫁 前篇]](1931年〔昭和6年〕)
*[[牢獄の花嫁 解決篇]](1931年〔昭和6年〕)
*[[片腕仁義]](1932年〔昭和7年〕)
*かまいたち(1932年〔昭和7年〕3月)
*春秋編笠ぶし(1932年〔昭和7年〕6月)
*神変麝香猫(1932年〔昭和7年〕7月)
*情熱地獄(1932年〔昭和7年〕11月)
*新訳・清水一角(1933年〔昭和8年〕11月)
*阿弥陀時雨(1934年〔昭和9年〕11月)
*剣聖千葉周作(1934年〔昭和9年〕12月)
*[[魔像]](1936年〔昭和11年〕6月 12月)
*怒涛一番乗(1936年〔昭和11年〕12月31日)
;日活(計26作)
*恋山彦(1937年〔昭和12年〕7月)
*[[血煙高田の馬場]](1937年〔昭和12年〕12月)息子の田村高廣主演の[[必殺シリーズ]]の[[助け人走る]]第2話に映像が使用されている<ref>[[デアゴスティーニ]]「必殺シリーズDVDコレクション」第22号 7p </ref>。
*[[忠臣蔵 地の巻]] (1938年〔昭和13年〕3月31日) 大石内蔵之助
*[[忠臣蔵 天の巻]] (1938年〔昭和13年〕3月31日) 大石内蔵之助
*闇の影法師(1938年〔昭和13年〕7月)
*大岡政談・魔像(1938年〔昭和13年〕12月)
*[[牢獄の花嫁 前篇]](1939年〔昭和14年〕8月17日)塙江漢、羅門塔十郎
*[[牢獄の花嫁 解決篇]](1939年〔昭和14年〕9月)
*[[楠木正成|大楠公]](1940年〔昭和15年〕)
*風雲将棋谷解決編(1940年〔昭和15年〕9月)
*[[江戸最後の日]](1941年〔昭和16年〕11月)
*柳生月影抄(1941年〔昭和16年〕6月)
*[[将軍と参謀と兵]](1942年〔昭和17年〕)※現代劇初主演
;大映京都(計18作)
*[[維新の曲]](1942年〔昭和17年〕)
*[[伊賀の水月 剣雲三十六騎]](1942年〔昭和17年〕8月13日)荒木又右衛門
*[[富士に立つ影]](1942年〔昭和17年〕12月27日)佐藤菊太郎
*[[無法松の一生 (1943年の映画)|無法松の一生]](1943年〔昭和18年〕)
*[[剣風練兵館]](1944年〔昭和19年〕1月3日)桂小五郎
*[[狐の呉れた赤ん坊]](1945年〔昭和20年〕)
*[[国定忠治]](1946年〔昭和21年〕9月10日)国定忠治
*[[月の出の決闘]](1947年〔昭和22年〕7月15日)天堂小源太
*[[素浪人罷通る]](1947年〔昭和22年〕10月28日)山内伊賀亮
*[[木曾の天狗]](1948年〔昭和23年〕4月19日)名なしの権兵衛
*[[王将 (1948年の映画)|王将]](1948年〔昭和23年〕)坂田三吉
;大洋興業(C・A・C)
*[[佐平次捕物帳 紫頭巾]] (1949年〔昭和24年〕5月)紫頭巾、狩田秀麿、報龍太郎
*佐平次捕物帳 紫頭巾 解決篇(1949年〔昭和24年〕5月17日)紫頭巾、狩田秀麿、報龍太郎
;松竹京都
*[[破れ太鼓]](1949年〔昭和24年〕12月)
*[[影法師 寛永坂の決闘]](1949年〔昭和24年〕12月25日)仙波龍之介、天堂左近
*[[続影法師 龍虎相搏つ]] (1950年〔昭和25年〕1月8日)仙波龍之介、天堂左近
*無頼漢(1950年〔昭和25年〕)※完成間際で撮影所火災のため焼失
;大洋興業・東横映画
*獅子の罠(1950年〔昭和25年〕5月)
;松竹京都(計3作)
*風雲金毘羅山(1950年〔昭和25年〕9月)
*[[左近捕物帖 鮮血の手型]](1950年〔昭和25年〕12月2日)日傘十兵衛
*[[おぼろ駕籠]](1951年〔昭和26年〕1月)
;新東宝
*日活新版・牢獄の花嫁 総集篇(1951年〔昭和26年〕5月)
*日活新版・柳生月影抄(1951年〔昭和26年〕7月)
*日活新版・血闘高田の馬場(1952年〔昭和27年〕2月)※「血煙高田の馬場」再上映
;東映(計1作)
*天狗の安(1951年〔昭和26年〕8月)
;松竹京都
*松竹三十周年記念映画・[[大江戸五人男]] (1951年〔昭和26年〕11月22日) 幡隋院長兵衛
*[[稲妻草紙]](1951年〔昭和26年〕12月30日)有馬又十郎
*[[魔像]](1952年〔昭和27年〕5月1日)神尾喬之助、茨右近
*[[丹下左膳]](1952年〔昭和27年〕)
;大映
*新版・富士に立つ影(1952年〔昭和27年〕5月22日)
*改題新版・東海二十八人衆(1952年〔昭和27年〕11月)※「東海水滸傳」の再上映
*改題新版・剣雲三十六騎(1953年〔昭和28年〕2月)
;新東宝
*日活新版・風雲将棋谷 総集篇(1952年〔昭和27年〕12月)
*日活新版・水戸黄門廻國記(1953年〔昭和28年〕4月)
*紫頭巾総集版・快傑紫頭巾(1953年〔昭和28年〕7月)
*日活新版・江戸最後の日(1953年〔昭和28年〕9月)
;松竹京都
*[[あばれ獅子]](1953年〔昭和28年〕8月)※遺作
;松竹京都
*日活改訂総集版・忠臣蔵 天の巻・地の巻(1953年〔昭和28年〕12月)
*日活改題新版・決闘高田の馬場(1954年〔昭和29年〕3月)※「血煙高田の馬場」再上映
;日活(計6作)
*再映新版・闇の影法師(1954年〔昭和29年〕6月)
*名優追悼新総集版・恋山彦(1954年〔昭和29年〕8月)
*改題改訂版・戦争と将軍(1954年〔昭和29年〕8月)※「将軍と参謀と兵」の再上映
*再映新版・柳生大乗剣(1954年〔昭和29年〕9月)
*改題新版・忠臣蔵 赤垣源蔵 討入り前夜(1954年〔昭和29年〕11月)
*再映新版・忠臣蔵 天の巻・地の巻(1954年〔昭和29年〕12月)
;東映京都
*[[ちゃんばらグラフィティー 斬る!]](1981年〔昭和56年〕4月11日)※主演場面の抜粋
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
{{Portal 映画}}
* [[阪東妻三郎プロダクション]]
* [[阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画]]
* [[牧野教育映画製作所]] - [[マキノ映画製作所]] - [[東亜キネマ]] - [[マキノ・プロダクション]] ([[牧野省三]])
* [[新興キネマ]]
* [[日活]]
* [[日活撮影所]]
* [[大映]]
* [[時代劇六大スタア]]
== 外部リンク ==
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* {{imdb name|0051765|Tsumasaburo Bando}}
* {{jmdb name|0133880|阪東妻三郎}}
* {{Wayback |url=http://www.nikkatsu.com/bantsuma/ |title=阪妻映画祭 |date=20020603000710}} - 生誕100年を記念し現存する全出演作を上映([[日活]])
<!-- * [http://www.tamura-kyoudai.com/ 田村兄弟] -->
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2,368 | 若山富三郎 | 若山 富三郎(わかやま とみさぶろう、1929年〈昭和4年〉9月1日 - 1992年〈平成4年〉4月2日)は、日本の俳優・歌手・テレビドラマ監督。本名:奥村 勝(おくむら まさる)。別名は城 健三朗(じょう けんざぶろう)。東京府東京市深川区(現・東京都江東区)出身。映画・テレビドラマ・演劇で幅広い役柄を演じ、特に殺陣に関しては当代随一の名手と評された。父は長唄三味線の杵屋勝東治、弟に勝新太郎、息子は若山騎一郎、元妻は藤原礼子、甥は俳優の鴈龍。
幼少の頃より弟の勝新太郎とともに長唄の修行を始めるが専念せず、旧制日大三中在学中は1年生を3回落第するほど素行に問題があった。しかし一方では柔道に熱中して師範(伍段)を目指していたといい、「あたしは柔道教師になろうと思ったんです...ええ、講道館の四段で、間もなく五段になるところでした」と語っている。 1949年、20歳のときに長唄の和歌山富十郎に弟子入りし、芸名を若山 富三郎とした。1954年に新東宝からスカウト、演技経験のない新人としては破格の高給と、運転手付きの車での送迎を約束させた上で入社を決める。
1955年に『忍術児雷也』でデビュー。『人形佐七捕物帖』シリーズなどの時代劇に主演。1958年には野村胡堂の原作『銭形平次捕物控』をテレビ時代劇化した『銭形平次捕物控』(KRテレビ)に主演。新東宝が経営不振に陥ると1959年に東映へ移籍し、新東宝時代同様に『人形佐七捕物帖』シリーズで主演した他、多くの脇役もこなす。
1962年に勝が在籍する大映へ移籍、城 健三朗と改名。白黒作品の『打ち鴉』に主演した他は市川雷蔵や弟の勝新太郎の脇役に甘んじ仕事では不遇の日々であった。1964年1月6日(月曜日)に同じく大映所属の女優、藤原礼子と結婚。
1964年にはテレビ時代劇『風雲児半次郎 唐芋侍と西郷』に主演。この年に一男(のちの若山騎一郎)を儲けるが、1965年に藤原と離婚、その後の1年間干されて役がつかない挫折を味わった。
1966年に出演した大映での最後の作品『処女が見た』で共演した安田道代と恋愛関係となり、長期間交際した。この年、城は再び東映に移籍し、芸名を若山 富三郎に戻した。脇役からのスタートであったが、鶴田浩二主演の『博奕打ち 総長賭博』の助演で認められ、主演映画も制作され始める。1968年より始まった『緋牡丹博徒シリーズ』、『極道シリーズ』、『前科者』では、従来の義理人情のヤクザ映画に若山のコミカルな演技が加わり、他の任侠路線とは一線を画す人気作となった。その他、『賞金稼ぎシリーズ』、『極悪坊主シリーズ』などに主演した。これ以降は主演ないし大型ゲストとしての仕事が切れ目なく続き、浮き沈みのあった前半生とは一転してスター人生を全うすることになる。
1970年代の勝プロ制作の映画『子連れ狼シリーズ』では拝一刀に扮し、凄みのあるダイナミックな殺陣と寡黙な演技は「一刀の若山か、若山の一刀か」と評されるほどの代表作になり、海外にも輸出された。同じ頃、個人事務所「若山企画」を立ち上げ、『唖侍鬼一法眼』(1973年)、『賞金稼ぎ』(1975年)などのテレビ時代劇に主演。前者では2話、後者では3話を監督している。
白塗りの二枚目から三枚目、悪役、豪放なアクション・殺陣と、幅広いタイプの役柄を演じているが、1974年には睦五朗に招かれ、『エスパイ』に出演し、敵役のリーダー「逆エスパイ・ウルロフ」を演じた。特徴的な髪型は若山の考案で、クランクインの際には一つのセリフを様々な抑揚・表情でサンプルのように演じ分けてみせ、監督に選んでもらった。ちなみに、映画生活20年目にして初めての東宝砧撮影所での仕事であった。1977年公開の『悪魔の手毬唄』の磯川警部と、1978年から放送されたテレビドラマ『事件』の菊池弁護士は、優しい人間味と哀愁を湛えた等身大の中年像であり、抑えた演技はそれまでのイメージを一新した。『悪魔の手毬唄』と映画『姿三四郎』の村井半助で、第20回ブルーリボン助演男優賞を受賞。1979年の映画『衝動殺人 息子よ』で、キネマ旬報主演男優賞・ブルーリボン賞・毎日映画コンクールの主演男優賞、第3回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞した。1978年のパラマウント映画『がんばれ!ベアーズ大旋風 -日本遠征-』では少年野球日本代表チームの監督役としてトニー・カーティスと共演し、「黒田節」を歌いバック転を披露している。演劇では1977年の蜷川幸雄演出のミュージカル『三文オペラ』や1978年の『アニー』で、長唄で鍛えた美声を披露。また同年の『歌舞伎模様・天保六花撰』では河内山宗俊に扮して、第33回芸術祭大賞を受賞した。
1980年代には映画『魔界転生』で柳生宗矩に扮し、紅蓮の炎の中で行われた柳生十兵衛(千葉真一)との決闘では華麗ながらも凄みのある戦いを演じ、劇中最大のクライマックスとなっている。魔界衆がまばたきをしないのは、歌舞伎でのお化けの演技からヒントを得た若山の発案である。本作は観客動員数200万人、配給収入10億5千万円となった。千葉は本作後も再び若山との殺陣を望み、テレビドラマ『影の軍団III』第1話「二つの顔の男」では千葉が直接、若山へ出演依頼をして共演を実現させた。ほかにはテレビドラマ『御金蔵破りシリーズ』でも殺陣と復讐に燃える忍者からコミカルな役まで幅広い演技を見せる。
黒澤明は映画『影武者』で、信玄役を若山富三郎、影武者役を勝新太郎という実の兄弟でキャスティングする意向だった。しかし、若山は勝と黒澤のトラブルを予期し、それに巻き込まれることを嫌って出演依頼を断った。なお若山は、「何、黒澤明? そんなうるせえ監督に出られねえよ、俺は」と、その本音を述懐している。
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1992年3月27日、勝に対して懲役2年6月、執行猶予4年の判決が下され、実刑も予想される中での執行猶予付き判決に涙を流して喜び、4月2日、京都の自宅に勝夫妻と清川虹子を招き食事会を催す。食事の後、いつものようにマネージャーに麻雀卓の用意をさせているさなか、隣に座っていた清川に顔面蒼白で倒れこみ、この時には既に心停止の状態だった。搬送先の京大病院で電気ショックや降圧剤投与などの処置を受けるが、午後6時25分、急性心不全のため死去。62歳没。兄想いだった勝はカメラの前でその遺骨を食べ、涙を流しながらその死を悼んだ。
数多い時代劇俳優の中にあって殺陣が最もすぐれた俳優と評され、千葉真一は峰打ちの殺陣を若山から教わるなど、「若山先生から殺陣を本格的に教わり、ある意味(若山先生は)僕の師匠」「尊敬している」と語っている。若山は千葉が1970年に設立したジャパンアクションクラブ(JAC)の結成式にも駆けつけ、その門出を祝っている。弟の勝新太郎も「殺陣はお兄ちゃんにかなわない」と証言している。勝の代表作である『座頭市シリーズ』でも『続・座頭市物語』(1962年)、『座頭市千両首』(1964年)の2作品に出演している。『続』では過去の因縁から市(笠間の市太)と反目する実兄・渚の与四郎役、『千両首』では剣客・仙場十四郎役で、どちらも勝と迫力ある殺陣を演じている。
嵐寛寿郎は竹中労のインタビューで「若手で巧かったのは一に萬屋錦之介、二に若山(と勝)で以下は無い」としているが、テレビドラマ『賞金稼ぎ』の殺陣を担当した上野隆三(東映)は「殺陣が特に巧い人は誰かというなら、若山富三郎さんだ。あの人は何を持たせても巧い。武芸百般というけれども、刀・槍・薙刀・棒術などいろんなのがあるが、若山さんは何をやってもできる人だったね」と評している。
代表作である映画『子連れ狼シリーズ』では刀・長巻を駆使した殺陣を披露し、トンボ切り(前方宙返り)も得意とした。トンボ切りは他にも映画『極悪坊主 念仏人斬り旅』『賞金稼ぎシリーズ』『魔界転生』やテレビドラマ『賞金稼ぎ』『御金蔵破りシリーズ』『影の軍団III』『暴力中学シリーズ』などで披露している。
親分肌で、気に入った役者やスタッフらを取り巻きとして公私に関わらず引き連れていたため、いつしか「若山組」と呼ばれるようになった。面倒見のいい反面、非礼な態度や意にそぐわない相手には手を上げることもよくあり、自分より格下と思われる相手からは「若山さん」ではなく「若山先生」と呼ばれない限り、返事もしなかった。大部屋俳優等、弱い立場の人に対してだけでなく、撮影スタッフや監督、大映時代には会社幹部にまで暴力をふるうことがあったため恐れられていたが、子役に対しては優しかった。1989年のこと、新東宝時代からの友人である丹波哲郎は若山に、自身が企画・製作・脚本・総監督を務めた映画『丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる』(丹波企画 / 松竹富士)への出演を依頼。若山は既に心臓疾患を患い、体調に不安を抱えつつもこれを引き受ける。丹波は若山の体調を気遣いながら撮影を進めたが「おまえはすぐ人を殴る。体調が悪くなったのはそのバチが当たったんだ」と苦言を呈している。
若山組には大木実・潮健児・関山耕司・山城新伍・安岡力也・高岡健二・丹古母鬼馬二らのメンバーがいたが、若山より6歳年上の大木とはお互いに「きょうだい」と呼び合う仲だった。若山組への加入は「固めの杯」を任侠の世界と同様に行っていたが、下戸で自他共に認める名うての甘党だった若山の「固めの杯」は「羊羹を煮溶かし、食パンの上に塗ったものを食べるというものであった」と山城は語っている。後輩を壁際に立たせて、若山得意の手裏剣を投げつけるという荒っぽい「入組試験」もあった。
弟である勝新太郎とは容姿がそっくりなだけでなく、「借金が得意」、「親分肌で取り巻きを大勢連れ回したがる」など、その性格・言動やプライベートが酷似していたため、大映時代には「二人も勝新太郎は要らない」、「愚兄賢弟」などと揶揄されたほどだった。しかし天才肌の反面、大酒飲みで遅刻が多く台本をあまり読んでこない勝と違い、若山は2時間ほど前には楽屋入りし、撮影前の台本チェックなど事前の準備を怠らなかった。後年東映でスターダムにのし上がり、映画賞・演劇賞を数々受賞するに至ってからは名優としての評価を高めたのに対し、勝は不祥事が相次ぐようになり、その評価は逆転した。事実、勝は「演出やプロデュースでは自分が上だが、演技力はお兄ちゃんに敵わない」と最高の賛辞を送っている。兄弟仲は非常に良く、勝が大麻所持で逮捕された際、マスコミの前では勝を批判しながらも、執行猶予付きの判決が出たときは若山は「よかった、よかった」と涙を流して喜んだ。また、勝がある役者の演技を叱ろうとしたとき、その役者が「若山先生の言われた通りにしたんですけど...」と答えると、「あぁそう、お兄ちゃんがそう言ったの」と一転して機嫌がよくなり、叱るのをやめたという。
1984年に行なわれたインタビューの中で、「これまで4回ほど、ドン底があった」として、「一時は、東京の山谷か大阪の釜ヶ崎に住もうかと本気で考えたし、共産圏の国に逃げちゃおうかなんて思ったこともあった。」と話している。
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"text": "1992年3月27日、勝に対して懲役2年6月、執行猶予4年の判決が下され、実刑も予想される中での執行猶予付き判決に涙を流して喜び、4月2日、京都の自宅に勝夫妻と清川虹子を招き食事会を催す。食事の後、いつものようにマネージャーに麻雀卓の用意をさせているさなか、隣に座っていた清川に顔面蒼白で倒れこみ、この時には既に心停止の状態だった。搬送先の京大病院で電気ショックや降圧剤投与などの処置を受けるが、午後6時25分、急性心不全のため死去。62歳没。兄想いだった勝はカメラの前でその遺骨を食べ、涙を流しながらその死を悼んだ。",
"title": "経歴"
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"text": "数多い時代劇俳優の中にあって殺陣が最もすぐれた俳優と評され、千葉真一は峰打ちの殺陣を若山から教わるなど、「若山先生から殺陣を本格的に教わり、ある意味(若山先生は)僕の師匠」「尊敬している」と語っている。若山は千葉が1970年に設立したジャパンアクションクラブ(JAC)の結成式にも駆けつけ、その門出を祝っている。弟の勝新太郎も「殺陣はお兄ちゃんにかなわない」と証言している。勝の代表作である『座頭市シリーズ』でも『続・座頭市物語』(1962年)、『座頭市千両首』(1964年)の2作品に出演している。『続』では過去の因縁から市(笠間の市太)と反目する実兄・渚の与四郎役、『千両首』では剣客・仙場十四郎役で、どちらも勝と迫力ある殺陣を演じている。",
"title": "殺陣"
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"text": "嵐寛寿郎は竹中労のインタビューで「若手で巧かったのは一に萬屋錦之介、二に若山(と勝)で以下は無い」としているが、テレビドラマ『賞金稼ぎ』の殺陣を担当した上野隆三(東映)は「殺陣が特に巧い人は誰かというなら、若山富三郎さんだ。あの人は何を持たせても巧い。武芸百般というけれども、刀・槍・薙刀・棒術などいろんなのがあるが、若山さんは何をやってもできる人だったね」と評している。",
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"text": "代表作である映画『子連れ狼シリーズ』では刀・長巻を駆使した殺陣を披露し、トンボ切り(前方宙返り)も得意とした。トンボ切りは他にも映画『極悪坊主 念仏人斬り旅』『賞金稼ぎシリーズ』『魔界転生』やテレビドラマ『賞金稼ぎ』『御金蔵破りシリーズ』『影の軍団III』『暴力中学シリーズ』などで披露している。",
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"text": "親分肌で、気に入った役者やスタッフらを取り巻きとして公私に関わらず引き連れていたため、いつしか「若山組」と呼ばれるようになった。面倒見のいい反面、非礼な態度や意にそぐわない相手には手を上げることもよくあり、自分より格下と思われる相手からは「若山さん」ではなく「若山先生」と呼ばれない限り、返事もしなかった。大部屋俳優等、弱い立場の人に対してだけでなく、撮影スタッフや監督、大映時代には会社幹部にまで暴力をふるうことがあったため恐れられていたが、子役に対しては優しかった。1989年のこと、新東宝時代からの友人である丹波哲郎は若山に、自身が企画・製作・脚本・総監督を務めた映画『丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる』(丹波企画 / 松竹富士)への出演を依頼。若山は既に心臓疾患を患い、体調に不安を抱えつつもこれを引き受ける。丹波は若山の体調を気遣いながら撮影を進めたが「おまえはすぐ人を殴る。体調が悪くなったのはそのバチが当たったんだ」と苦言を呈している。",
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"text": "若山組には大木実・潮健児・関山耕司・山城新伍・安岡力也・高岡健二・丹古母鬼馬二らのメンバーがいたが、若山より6歳年上の大木とはお互いに「きょうだい」と呼び合う仲だった。若山組への加入は「固めの杯」を任侠の世界と同様に行っていたが、下戸で自他共に認める名うての甘党だった若山の「固めの杯」は「羊羹を煮溶かし、食パンの上に塗ったものを食べるというものであった」と山城は語っている。後輩を壁際に立たせて、若山得意の手裏剣を投げつけるという荒っぽい「入組試験」もあった。",
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"text": "弟である勝新太郎とは容姿がそっくりなだけでなく、「借金が得意」、「親分肌で取り巻きを大勢連れ回したがる」など、その性格・言動やプライベートが酷似していたため、大映時代には「二人も勝新太郎は要らない」、「愚兄賢弟」などと揶揄されたほどだった。しかし天才肌の反面、大酒飲みで遅刻が多く台本をあまり読んでこない勝と違い、若山は2時間ほど前には楽屋入りし、撮影前の台本チェックなど事前の準備を怠らなかった。後年東映でスターダムにのし上がり、映画賞・演劇賞を数々受賞するに至ってからは名優としての評価を高めたのに対し、勝は不祥事が相次ぐようになり、その評価は逆転した。事実、勝は「演出やプロデュースでは自分が上だが、演技力はお兄ちゃんに敵わない」と最高の賛辞を送っている。兄弟仲は非常に良く、勝が大麻所持で逮捕された際、マスコミの前では勝を批判しながらも、執行猶予付きの判決が出たときは若山は「よかった、よかった」と涙を流して喜んだ。また、勝がある役者の演技を叱ろうとしたとき、その役者が「若山先生の言われた通りにしたんですけど...」と答えると、「あぁそう、お兄ちゃんがそう言ったの」と一転して機嫌がよくなり、叱るのをやめたという。",
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"text": "1984年に行なわれたインタビューの中で、「これまで4回ほど、ドン底があった」として、「一時は、東京の山谷か大阪の釜ヶ崎に住もうかと本気で考えたし、共産圏の国に逃げちゃおうかなんて思ったこともあった。」と話している。",
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"text": "1983年(昭和58年)に本人名義で、歴史小説『ゼロの暗殺者』を発表したが、これはゴーストライターによる執筆作である。",
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] | 若山 富三郎は、日本の俳優・歌手・テレビドラマ監督。本名:奥村 勝。別名は城 健三朗。東京府東京市深川区(現・東京都江東区)出身。映画・テレビドラマ・演劇で幅広い役柄を演じ、特に殺陣に関しては当代随一の名手と評された。父は長唄三味線の杵屋勝東治、弟に勝新太郎、息子は若山騎一郎、元妻は藤原礼子、甥は俳優の鴈龍。 | {{出典の明記|date=2017年1月6日 (金) 14:20(UTC)|ソートキー=人1992年没}}
{{ActorActress
| 芸名 = 若山 富三郎
| ふりがな = わかやま とみさぶろう
| 画像ファイル = Tomizaburo Wakayama - Nihon Kyokakuden Series 9.jpg
| 画像サイズ = 300
| 画像コメント = [[博徒列伝]] [[1968年]]
| 本名 = 奥村 勝 {{small|(おくむら まさる)}}
| 別名義 = 城 健三朗 {{small|(じょう けんざぶろう)}}
| 出生地 = {{JPN}}・[[東京府]][[東京市]][[深川区]](現・[[東京都]][[江東区]])
| 死没地 =
| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ -->
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です -->
| 身長 =
| 血液型 =
| 生年 = 1929
| 生月 = 9
| 生日 = 1
| 没年 = 1992
| 没月 = 4
| 没日 = 2
| 職業 = [[俳優]]・[[歌手]]・[[テレビドラマ]][[監督]]
| ジャンル = [[映画]]・[[テレビドラマ]]・[[演劇]]
| 活動期間 = [[1949年]] - [[1992年]]
| 活動内容 =
| 配偶者 = [[藤原礼子]]([[1963年]] - [[1965年]])
| 著名な家族 = [[杵屋勝東治]](父)<br />[[勝新太郎]](弟)<br />[[若山騎一郎]](息子)<br />[[鴈龍]](甥)<br />[[File:Wakayama katsu20120106.jpg|thumb|right|200px|東京都[[港区 (東京都)|港区]][[三田 (東京都港区)|三田]]の蓮乗寺。弟の[[勝新太郎]]と共に眠る。<br />(※:写真は[[2012年]][[1月6日]])]]
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = '''映画'''<br />『[[人形佐七捕物帖 (若山富三郎版)|人形佐七捕物帖]]』<br />『[[博奕打ち 総長賭博]]』 / 『[[極道シリーズ]]』<br />『[[賞金稼ぎ (映画版シリーズ)|賞金稼ぎシリーズ]]』 / 『[[子連れ狼 (若山富三郎版)|子連れ狼シリーズ]]』<br />『[[姿三四郎 (映画)#1977年版|姿三四郎]]』 / 『[[エスパイ]]』<br />『[[悪魔の手毬唄 (1977年の映画)|悪魔の手毬唄]]』 / 『[[衝動殺人 息子よ]]』<br />『[[トラック野郎・男一匹桃次郎]]』<br />『[[がんばれ!ベアーズ大旋風 -日本遠征-]]』<br />『[[魔界転生#1981年|魔界転生]]』 / 『[[ブラック・レイン]]』<hr />
'''テレビドラマ'''<br />『[[唖侍鬼一法眼]]』 / 『[[賞金稼ぎ (テレビドラマ)|賞金稼ぎ]]』/『[[%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AA%E3%81%82%E3%81%84%E3%81%A4]]』 / 『[[さくらの唄 (テレビドラマ)|さくらの唄]]』<br />『[[事件 (小説)#テレビドラマ|事件シリーズ]]』 / 『[[飢餓海峡#1978年(テレビドラマ)|飢餓海峡]]』<br />『[[御金蔵破り (1981年のテレビドラマ)|御金蔵破りシリーズ]]』<hr />
'''演劇'''<br />『歌舞伎模様・[[天保六花撰]]』
| アカデミー賞 =
| アリエル賞 =
| AFI賞 =
| 英国アカデミー賞 =
| エミー賞 =
| グラミー賞 =
| ゴールデングローブ賞 =
| ゴールデンラズベリー賞 =
| ゴヤ賞 =
| ジェミニ賞 =
| ジニー賞 =
| セザール賞 =
| トニー賞 =
| 日本アカデミー賞 = '''最優秀主演男優賞'''<br />[[1979年]]『衝動殺人 息子よ』
| フィルムフェア賞 =
| ブルーリボン賞 = '''主演男優賞'''<br />1979年『衝撃殺人 息子よ』<br />'''助演男優賞'''<br />[[1977年]] 『[[姿三四郎 (映画)#1977年版|姿三四郎]]』 / 『[[悪魔の手毬唄]]』
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| その他の賞 = '''[[芸術祭 (文化庁)|芸術祭大衆芸能部門]] 大賞'''<br />[[1978年]]『歌舞伎模様・[[天保六花撰]]』
<hr />'''[[キネマ旬報]] 主演男優賞'''<br />[[1979年]] 『衝動殺人 息子よ』
<hr />'''[[毎日映画コンクール]]'''<br /> '''男優主演賞'''<br />[[1979年]] 『衝動殺人 息子よ』
| 備考 =
}}
'''若山 富三郎'''(わかやま とみさぶろう{{R|全史535}}、[[1929年]]〈[[昭和]]4年〉[[9月1日]]{{R|全史535}} - [[1992年]]〈[[平成]]4年〉[[4月2日]])は、[[日本]]の[[俳優]]・[[歌手]]・[[テレビドラマ]][[監督]]。本名:奥村 勝(おくむら まさる)。別名は城 健三朗(じょう けんざぶろう)。[[東京府]][[東京市]][[深川区]](現・[[東京都]][[江東区]])出身{{R|全史535}}。[[映画]]・[[テレビドラマ]]・[[演劇]]で幅広い役柄を演じ、特に[[殺陣]]に関しては当代随一の名手と評された{{R|chiba|akkan|アサ芸魔界}}。父は[[長唄]][[三味線]]の[[杵屋勝東治]]、弟に[[勝新太郎]]{{R|全史535}}、息子は[[若山騎一郎]]、元妻は[[藤原礼子]]、甥は俳優の[[鴈龍]]。
== 経歴 ==
幼少の頃より弟の勝新太郎とともに[[長唄]]の修行を始めるが{{R|全史535}}専念せず、[[日本大学第三中学校・高等学校|旧制日大三中]]在学中は1年生を3回[[落第]]するほど素行に問題があった。しかし一方では[[柔道]]に熱中して[[師範]](伍段)を目指していたといい、「あたしは柔道教師になろうと思ったんです...ええ、[[講道館]]の四段で、間もなく五段になるところでした」と語っている<ref>{{Cite journal|和書|journal=小説倶楽部|issue=11(3)|title=スタア武芸帖|author=南部僑一郎|pages=218|date=1958-3|publisher=桃園書房}}</ref>。
[[1949年]]、20歳のときに長唄の和歌山富十郎に弟子入りし{{R|全史535}}、芸名を若山 富三郎とした。[[1954年]]に[[新東宝]]からスカウト、演技経験のない新人としては破格の高給と、運転手付きの車での送迎を約束させた上で入社を決める。
[[1955年]]に『忍術児雷也』でデビュー{{R|全史535}}。『[[人形佐七捕物帖 (若山富三郎版)|人形佐七捕物帖]]』シリーズなどの時代劇に主演。[[1958年]]には[[野村胡堂]]の原作『[[銭形平次捕物控]]』をテレビ時代劇化した『[[銭形平次捕物控#テレビドラマ|銭形平次捕物控]]』([[TBSテレビ|KRテレビ]])に主演。新東宝が経営不振に陥ると[[1959年]]に[[東映]]へ移籍し、新東宝時代同様に『[[人形佐七捕物帖 (若山富三郎版)|人形佐七捕物帖]]』シリーズで主演した他、多くの脇役もこなす。
[[1962年]]に勝が在籍する[[大映 (映画)|大映]]へ移籍、城 健三朗と改名。白黒作品の『打ち鴉』に主演した他は[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]や弟の[[勝新太郎]]の脇役に甘んじ仕事では不遇の日々であった。[[1964年]][[1月6日]]([[月曜日]])に同じく大映所属の女優、[[藤原礼子]]と結婚。
[[File:若山富三郎(城健三朗)、藤原礼子結婚式。1964年.jpg | thumb | 220x124px | right | alt= 若山富三郎(城健三朗)と藤原礼子の結婚式 |
前列中央、若山富三郎(城健三朗)・藤原礼子]]
[[1964年]]にはテレビ時代劇『[[風雲児半次郎|風雲児半次郎 唐芋侍と西郷]]』に主演。この年に一男(のちの[[若山騎一郎]])を儲けるが、[[1965年]]に藤原と離婚、その後の1年間干されて役がつかない挫折を味わった。
[[1966年]]に出演した大映での最後の作品『処女が見た』で共演した[[大楠道代|安田道代]]と恋愛関係となり、長期間交際した。この年、城は再び東映に移籍し、芸名を若山 富三郎に戻した。脇役からのスタートであったが、[[鶴田浩二]]主演の『[[博奕打ち 総長賭博]]』の助演で認められ、主演映画も制作され始める。[[1968年]]より始まった『[[緋牡丹博徒シリーズ]]』、『[[極道シリーズ]]』、『前科者』では、従来の義理人情のヤクザ映画に若山のコミカルな演技が加わり、他の任侠路線とは一線を画す人気作となった。その他、『[[賞金稼ぎ (映画版シリーズ)|賞金稼ぎシリーズ]]』、『極悪坊主シリーズ』などに主演した。これ以降は主演ないし大型ゲストとしての仕事が切れ目なく続き、浮き沈みのあった前半生とは一転してスター人生を全うすることになる。
[[1970年代]]の勝プロ制作の映画『[[子連れ狼 (若山富三郎版)|子連れ狼シリーズ]]』では[[拝一刀]]に扮し、凄みのあるダイナミックな殺陣と寡黙な演技は「一刀の若山か、若山の一刀か」と評されるほどの代表作になり、海外にも輸出された。同じ頃、個人事務所「若山企画」を立ち上げ、『[[唖侍鬼一法眼]]』([[1973年]])、『[[賞金稼ぎ (テレビドラマ)|賞金稼ぎ]]』([[1975年]])などのテレビ時代劇に主演。前者では2話、後者では3話を監督している。
白塗りの二枚目から三枚目、悪役、豪放なアクション・殺陣と、幅広いタイプの役柄を演じているが、[[1974年]]には[[睦五朗]]に招かれ、『[[エスパイ]]』に出演し、敵役のリーダー「逆エスパイ・ウルロフ」を演じた。特徴的な髪型は若山の考案で、クランクインの際には一つのセリフを様々な抑揚・表情でサンプルのように演じ分けてみせ、監督に選んでもらった。ちなみに、映画生活20年目にして初めての東宝砧撮影所での仕事であった。[[1977年]]公開の『[[悪魔の手毬唄 (1977年の映画)|悪魔の手毬唄]]』の磯川警部と、[[1978年]]から放送されたテレビドラマ『[[事件 (小説)#テレビドラマ|事件]]』の菊池弁護士は、優しい人間味と哀愁を湛えた等身大の中年像であり、抑えた演技はそれまでのイメージを一新した。『悪魔の手毬唄』と映画『[[姿三四郎 (映画)#1977年版|姿三四郎]]』の村井半助で、第20回[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン]]助演男優賞を受賞。[[1979年]]の映画『[[衝動殺人 息子よ]]』で、[[キネマ旬報]]主演男優賞・[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]・[[毎日映画コンクール]]の主演男優賞、第3回[[日本アカデミー賞]]の最優秀主演男優賞を受賞した。1978年の[[パラマウント映画]]『[[がんばれ!ベアーズ大旋風 -日本遠征-]]』では少年野球日本代表チームの監督役として[[トニー・カーティス]]と共演し、「[[黒田節]]」を歌い[[バック転]]を披露している。演劇では1977年の[[蜷川幸雄]]演出のミュージカル『[[三文オペラ]]』や1978年の『[[アニー#日本版|アニー]]』で、長唄で鍛えた美声を披露。また同年の『歌舞伎模様・[[天保六花撰]]』では[[河内山宗俊]]に扮して、第33回[[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]大賞を受賞した{{R|geijutu}}。
[[1980年代]]には映画『[[魔界転生#1981年|魔界転生]]』で[[柳生宗矩]]に扮し、紅蓮の炎の中で行われた[[柳生三厳|柳生十兵衛]]([[千葉真一]])との決闘では華麗ながらも凄みのある戦いを演じ、劇中最大のクライマックスとなっている{{R|アサ芸魔界}}<ref>{{Cite journal |和書 |author = 佐藤雅夫 |date = 1981-06-06 |title = プロダクション・ノート 魔界に祟られたスタジオ |journal = [[魔界転生]] |pages = 24 - 25 |publisher = [[角川映画|角川春樹事務所]]・[[東映]] |format = [[小冊子|パンフレット]] }}</ref>。魔界衆がまばたきをしないのは、歌舞伎でのお化けの演技からヒントを得た若山の発案である。本作は観客動員数200万人、[[配給収入]]10億5千万円となった{{R|配給収入}}。千葉は本作後も再び若山との殺陣を望み、テレビドラマ『[[影の軍団III]]』第1話「二つの顔の男」では千葉が直接、若山へ出演依頼をして共演を実現させた。ほかにはテレビドラマ『[[御金蔵破り (1981年のテレビドラマ)|御金蔵破りシリーズ]]』でも殺陣と復讐に燃える[[忍者]]からコミカルな役まで幅広い演技を見せる。
[[黒澤明]]は映画『[[影武者 (映画)|影武者]]』で、信玄役を若山富三郎、影武者役を勝新太郎という実の兄弟でキャスティングする意向だった{{R|daily}}。しかし、若山は勝と黒澤のトラブルを予期し、それに巻き込まれることを嫌って出演依頼を断った。なお若山は、「何、黒澤明? そんなうるせえ監督に出られねえよ、俺は」と、その本音を述懐している<ref>『仲代達矢が語る 日本映画黄金時代』(PHP新書)P214</ref>。
一方、[[喘息]]でありながら[[ホープ (たばこ)|ショートホープ]]を愛煙するチェーンスモーカーで、[[糖尿病]]でありながら平気で[[大福]]や[[羊羹]]1本を平らげるなど、持病を抱えながらも不節制、不養生を続ける生活習慣が祟り、[[1984年]]には[[心筋梗塞]]で入院。その後ハワイで血管5本に及ぶ[[冠動脈大動脈バイパス移植術|バイパス手術]]を受ける<ref>http://www.nurs.or.jp/~ki-net/home2d.html ([[2013年]][[4月19日]]閲覧)</ref>。手術は無事に成功し現場に復帰、特に、[[1989年]]の[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]『[[ブラック・レイン]]』では、凄みを効かせたヤクザの親分を演じ、その存在感を示した。しかし、この間医師の忠告を無視し生活習慣を改めることはなかった。糖尿病悪化の影響もあり、[[1990年]]になって心臓の状態は再び悪化。同年12月には腎機能障害を併発し入院を余儀なくされ、医師から「(このままの生活を続ければ)来年の夏までもたない」と余命宣告を受けている{{efn|この事実は、当然本人には一切知らされなかったが、この当時、若山の近親者はハワイ滞在中の勝以外、当時存命であった高齢の父・勝東治のみで、付き人らも「私たちでは受け止められない」とし、結局医師の説明に立ち会ったのは[[山城新伍]]と当時の夫人[[花園ひろみ]]であった。医師からは「私たちの言う事を聞いてくれて煙草を吸わないでいるとか、そういうことで騙し騙しいけば3年か4年は大丈夫かも知れない。だが覚悟だけはしておいて欲しい」と伝えられた。}}。その後は[[京大病院]]に転院。一時小康状態となり、週3回の[[人工透析]]を受けながら、[[1991年]]10月に映画『[[王手 (映画)|王手]]』で復帰を果たすが、病の影響で、やつれた印象は隠しようがなかった<ref>{{Cite book |和書 |author = 山城新伍 |authorlink = 山城新伍 |year = 2008 |title =若山富三郎・[[勝新太郎]]無頼控 おこりんぼさびしんぼ|publisher = 廣済堂文庫|pages = 233 - 259 |isbn = 9784331654330 }}</ref>。1992年2月には[[心臓ペースメーカー|ペースメーカー]]埋め込み手術を受けている<ref>{{Cite web|和書|title=麻雀中に急性心不全で倒れた若山富三郎|プレイバック芸能スキャンダル史|url=http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/143448|website=日刊ゲンダイDIGITAL|accessdate=2020-03-04}}</ref>。
[[1992年]][[3月27日]]、勝に対して懲役2年6月、執行猶予4年の判決が下され、実刑も予想される中での執行猶予付き判決に涙を流して喜び、[[4月2日]]、京都の自宅に勝夫妻と[[清川虹子]]を招き食事会を催す。食事の後、いつものようにマネージャーに麻雀卓の用意をさせているさなか、隣に座っていた清川に顔面蒼白で倒れこみ、この時には既に心停止の状態だった。搬送先の京大病院で電気ショックや降圧剤投与などの処置を受けるが、午後6時25分、[[心不全#急性心不全|急性心不全]]のため死去。{{没年齢|1929|9|1|1992|4|2}}<ref>{{Cite web|和書|title=麻雀中に急性心不全で倒れた若山富三郎|プレイバック芸能スキャンダル史|url=http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/143448|website=日刊ゲンダイDIGITAL|accessdate=2020-03-04}}</ref>。兄想いだった勝はカメラの前でその遺骨を食べ、涙を流しながらその死を悼んだ<ref>{{Cite web|和書|title=兄の遺骨を食べ、薬物をパンツに隠す 令和に語り継がれる「勝新太郎伝説」|url=https://dot.asahi.com/articles/-/101724?page=2|website=AERA dot.|accessdate=2020-03-06}}</ref>。墓所は港区蓮乗寺。
== 殺陣 ==
数多い時代劇俳優の中にあって[[殺陣]]が最もすぐれた俳優と評され{{R|chiba|akkan|アサ芸魔界}}、[[千葉真一]]は[[峰打ち]]の殺陣を若山から教わるなど{{R|chiba}}、「若山先生から殺陣を本格的に教わり、ある意味(若山先生は)僕の師匠」「尊敬している<ref>{{Cite web|和書|date = 2011-12-14 |url = http://www.tbsradio.jp/top954/2011/12/12.html |title = 千葉真一 高倉健から東映解雇を救ってもらった体験を明かす |work = [[ザ・トップ5]] |publisher = [[TBSラジオ]] <!--|archiveurl = https://web.archive.org/web/20141121065647/http://www.tbsradio.jp/top954/2011/12/12.html |archivedate = 2014-11-21--> |accessdate = 2014-11-24 }}</ref>」と語っている。若山は千葉が[[1970年]]に設立した[[ジャパンアクションクラブ]](''JAC'')の結成式にも駆けつけ、その門出を祝っている<ref>{{Cite episode |title = 銀幕にかける情熱 夢・ロマン そて挑戦 |series = 本格報道 INsideOUT |serieslink = 本格報道 INsideOUT |network = |station = [[日本BS放送|BS11]] |airdate = 2013-3-20 |minutes = 21:00 - 21:54 }}</ref>。弟の[[勝新太郎]]も「殺陣はお兄ちゃんにかなわない」と証言している<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.toeich.jp/?act=program-detail&info_id=1TT000003373 |title = 賞金稼ぎ (1975) |publisher = [[東映チャンネル]] <!--|archiveurl = https://web.archive.org/web/20130105193246/http://www.toeich.jp/?act=program-detail&info_id=1TT000003373 |archivedate = 2013-01-18--> |accessdate = 2013-01-18 }}</ref>。勝の代表作である『[[座頭市|座頭市シリーズ]]』でも『[[続・座頭市物語]]』([[1962年]])、『[[座頭市千両首]]』([[1964年]])の2作品に出演している。『続』では過去の因縁から市(笠間の市太)と反目する実兄・渚の与四郎役、『千両首』では剣客・仙場十四郎役で、どちらも勝と迫力ある殺陣を演じている。
[[嵐寛寿郎]]は[[竹中労]]のインタビューで「若手で巧かったのは一に[[萬屋錦之介]]、二に若山(と勝)で以下は無い<ref>{{Cite book |author=竹中労 |year=1976 |title=鞍馬天狗のおじさんは―聞書アラカン一代 |page= |publisher=白川書院 |asin=B000J8VD9U }}</ref>」としているが、テレビドラマ『[[賞金稼ぎ (テレビドラマ)|賞金稼ぎ]]』の殺陣を担当した上野隆三(東映)は「殺陣が特に巧い人は誰かというなら、若山富三郎さんだ。あの人は何を持たせても巧い。武芸百般というけれども、[[刀]]・[[槍]]・[[薙刀]]・[[棒術]]などいろんなのがあるが、若山さんは何をやってもできる人だったね{{R|akkan}}」と評している。
代表作である映画『[[子連れ狼 (若山富三郎版)|子連れ狼シリーズ]]』では[[刀]]・[[長巻]]を駆使した殺陣を披露し、トンボ切り([[宙返り|前方宙返り]])も得意とした。トンボ切りは他にも映画『極悪坊主 念仏人斬り旅』『[[賞金稼ぎ (映画版シリーズ)|賞金稼ぎシリーズ]]』『[[魔界転生#1981年|魔界転生]]』やテレビドラマ『[[賞金稼ぎ (テレビドラマ)|賞金稼ぎ]]』『[[御金蔵破り (1981年のテレビドラマ)|御金蔵破りシリーズ]]』『[[影の軍団III]]』『暴力中学シリーズ』などで披露している。
== 人物 ==
親分肌で、気に入った役者やスタッフらを取り巻きとして公私に関わらず引き連れていたため、いつしか「若山組」と呼ばれるようになった。面倒見のいい反面、非礼な態度や意にそぐわない相手には手を上げることもよくあり、自分より格下と思われる相手からは「若山さん」ではなく「若山先生」と呼ばれない限り、返事もしなかった。[[大部屋俳優]]等、弱い立場の人に対してだけでなく、撮影スタッフや監督、大映時代には会社幹部にまで暴力をふるうことがあったため恐れられていたが、子役に対しては優しかった。[[1989年]]のこと、[[新東宝]]時代からの友人である[[丹波哲郎]]は若山に、自身が企画・製作・脚本・総監督を務めた映画『[[丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる]]』(丹波企画 / [[松竹富士]])への出演を依頼。若山は既に心臓疾患を患い、体調に不安を抱えつつもこれを引き受ける。丹波は若山の体調を気遣いながら撮影を進めたが「おまえはすぐ人を殴る。体調が悪くなったのはそのバチが当たったんだ」と苦言を呈している。
若山組には[[大木実]]・[[潮健児]]・[[関山耕司]]・[[山城新伍]]・[[安岡力也]]・[[高岡健二]]・[[丹古母鬼馬二]]らのメンバーがいたが、若山より6歳年上の大木とはお互いに「きょうだい」と呼び合う仲だった{{R|yamashiro}}。若山組への加入は「固めの杯」を任侠の世界と同様に行っていたが、下戸で自他共に認める名うての甘党だった若山の「固めの杯」は「羊羹を煮溶かし、食パンの上に塗ったものを食べるというものであった」と山城は語っている。後輩を壁際に立たせて、若山得意の手裏剣を投げつけるという荒っぽい「入組試験」もあった<ref>{{Cite book |和書 |author = 若山騎一郎 |authorlink = 若山騎一郎 |year = 1998 |title = 不器用に生きた男 わが父若山富三郎 |publisher = ひらく |pages = 172 - 173 |isbn = 4341190423 }}</ref>。
弟である[[勝新太郎]]とは容姿がそっくりなだけでなく、「借金が得意」、「親分肌で取り巻きを大勢連れ回したがる」など、その性格・言動やプライベートが酷似していたため、大映時代には「二人も勝新太郎は要らない」、「愚兄賢弟」などと揶揄されたほどだった。しかし天才肌の反面、大酒飲みで遅刻が多く台本をあまり読んでこない勝と違い、若山は2時間ほど前には楽屋入りし、撮影前の台本チェックなど事前の準備を怠らなかった。後年[[東映]]でスターダムにのし上がり、映画賞・演劇賞を数々受賞するに至ってからは名優としての評価を高めたのに対し、勝は不祥事が相次ぐようになり、その評価は逆転した。事実、勝は「[[演出]]や[[プロデュース]]では自分が上だが、演技力はお兄ちゃんに敵わない」と最高の賛辞を送っている。兄弟仲は非常に良く、勝が[[大麻]]所持で逮捕された際、マスコミの前では勝を批判しながらも、[[執行猶予]]付きの判決が出たときは若山は「よかった、よかった」と涙を流して喜んだ。また、勝がある役者の演技を叱ろうとしたとき、その役者が「若山先生の言われた通りにしたんですけど…」と答えると、「あぁそう、お兄ちゃんがそう言ったの」と一転して機嫌がよくなり、叱るのをやめたという。
[[1984年]]に行なわれたインタビューの中で、「これまで4回ほど、ドン底があった」として、「一時は、東京の[[山谷 (東京都)|山谷]]か大阪の[[釜ヶ崎]]に住もうかと本気で考えたし、共産圏の国に逃げちゃおうかなんて思ったこともあった。」と話している。<ref name=NHK>{{Cite journal|和書|journal=グラフNHK|issue=11月号(25巻11号、通巻475)|title=人 若山富三郎|pages=2|date=1984-11-1|publisher=NHK}}</ref>
== 逸話 ==
=== 撮影所 ===
; 監督との関係
:若山は、学歴に対するコンプレックスが強かった。それゆえ新人監督が若山に接するときは、とにかく「帝大を出た事にしろ」とアドバイスされたという。また、仕事に対するこだわりが強く、撮影現場でもさまざまなアイデアを進言することがあったが、無茶を言って監督を困らせるようなものも少なくなかった。そんな若山をなだめるのがうまかったのが[[山下耕作]]で「若山さん、それは素晴らしいアイデアだ。でも、もったいないから、次回に取っておきましょう」と、若山の熱意と顔を立てながら現場を収拾していた{{R|yamashiro}}。
; 楽屋
:あるとき東映の若山の楽屋の隣から工事の音がし始めた。若山の取り巻きが聞いてきた話では、[[高倉健]]が自分の楽屋が狭いため、拡張工事をしていると言う。それを聞き激怒した若山は「そっちがそんな勝手するなら俺だって」と、音のする壁と反対側の壁を自ら叩き始め楽屋を広くしようとした。若山に壁を叩かれた隣の部屋では[[大川橋蔵 (2代目)|大川橋蔵]]が弁当を食べていたが、びっくりして飛び出してきた。大川が「いったい、何やってるんですか?」と尋ねると、若山は「壁壊して部屋広くするんや」と返答。大川は呆れ気味に「それはいいですけど、僕の部屋はどうなるんですか?」と尋ねると、若山は正気に戻ったのか「あ、すんまへん」と謝った。さらにそこに通りかかって話を聞いた[[鶴田浩二]]も激怒し、同じく自分の楽屋を広くするため壁を叩き始めたという{{R|yamashiro}}。
:[[片岡千恵蔵]]を非常に尊敬しており、千恵蔵の使用していた楽屋が自分のものになると感激のあまり、号泣した{{R|yamashiro}}<ref>[https://www.facebook.com/notes/%E6%9D%B1%E6%98%A0%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE/%E7%A7%81%E3%81%A8%E6%9D%B1%E6%98%A0-%E7%A5%9E%E5%85%88-%E9%A0%8C%E5%B0%9A%E6%B0%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC-%E7%AC%AC%EF%BC%93%E5%9B%9E-%E5%85%A8%EF%BC%94%E5%9B%9E/333844493296879/]</ref>。
:楽屋には[[大福]]・[[キャラメル]]・[[コーヒー牛乳]]などを常備する甘党で、夜中に後輩俳優を呼び出して[[汁粉]]を振る舞ったこともあった{{efn|実家が和菓子屋で自身も甘党だった[[潮健児]]が、ある日楽屋で汁粉を作っていた若山に「甘味を増すために塩を入れるのは素人」と進言。「ならばどうするのか?」と尋ねる若山にすかさず「もっと砂糖を入れればいいんです」と答えた事で一目置かれるようになったという<ref>潮健児 『星を喰った男』([[1993年]]、[[バンダイ]]) ISBN 4891895187{{要ページ番号|date=2022年2月}}</ref>。}}。
:若山が下戸であることを知らなかった高倉は、日頃の礼の意味で撮影前の若山に日本酒を一瓶贈ったことがあった。若山は困惑しながらも高倉の思いに応えようと快く受け取り、高倉の眼前でラッパ飲みして見せた。しかし飲んだ直後に卒倒し、当日の撮影は中止となった。高倉はひたすら平身低頭、謝罪したという。
; 菅原文太
:[[1967年]]、松竹に在籍していた新東宝時代の後輩・[[菅原文太]]が東映に移籍し若山に挨拶に行った際、東映への移籍は[[安藤昇]]からの勧めがあったことから、若山は「お前は安藤の子分になったのか」と訊ねた。菅原はそれを否定し「そうか!ならワシんとこの若い衆になれ!」と、それ以降菅原を可愛がるようになった。その後、菅原は[[1969年]]に『[[現代やくざ 与太者の掟]]』で東映で初主演(この作品にも、若山が出演し華を添えている)、[[1973年]]には『[[仁義なき戦い]]』シリーズが大ヒットし、一躍東映の看板スターとなるに至り、菅原を妬んだ東映生え抜きの役者連中は若山に「菅原が天狗になってます。何とかしてください」等と告げ口を始める。菅原自身は若山には礼を尽くしていたので、若山は意に介していなかったが、遂に乗せられ「アイツ自身のためにみんなの前で殴る」と菅原を殴ることになった。
:[[東映京都撮影所]]の俳優会館の前に椅子を持ち出して待ち構え、通りかかった菅原を見つけ「オイ、文太!」と声を掛けた。ところが機敏に察知した菅原は、若山に走り寄りその手をとって「オヤッさん、ありがとうございました。ぼくみたいな下手な役者が、小さな賞ですけど京都市民映画祭の主演男優賞を獲れたのはオヤっさんのおかげです。ありがとうございました。」と恭しく挨拶した。気勢をそがれた若山は「おお、そうか…。文太、お前の部屋(東映の控え室)にテレビはあるのか?」と聞き、菅原が「ありません」と答えると、「じゃあみんなでお祝いに買ってやる」として奥で隠れてやり取りを見ていた子分の[[山城新伍]]から3万円を出させ、テレビを買い与えた。当時のテレビの価格では3万円は頭金にしかならず、かといって他の役者達は金を出さなかったので、電器屋が菅原のところへ代金を請求に行ったところ「取れるもんなら、取ってみい!」と凄まれて泣く泣く帰る羽目になり、結局電器屋は丸損となった{{R|yamashiro}}。
; 仲裁を待つ
:ある時東映撮影所で大喧嘩になり、若山は「ぶち殺してやる」と机を持ち上げて相手に投げつけようとした。若山を止めてもらおうと呼び出された山城が駆けつけると、若山は机を振り上げた姿勢のまま固まって待っていた。山城は若山に「早く止めに来んかい」と怒られた{{R|yamashiro}}。
; 「やなぎざわじんごぉ~!」
: コミカルな芸も得意とする俳優の[[柳沢慎吾]]が[[松方弘樹]]主演の『[[名奉行 遠山の金さん]]』([[テレビ朝日]]系)に同心・間半平役でレギュラー出演していた頃、若山が第3シリーズ第3話「怪盗の顔を見た!」([[1990年]][[7月26日]]放送分)でゲスト出演した際に、東映京都撮影所内ですれ違った時のことである。当時柳沢はまだ駆け出しの若手だったため、若山に対する【暗黙のルール】{{efn|若山と顔を合わせた場合、座っていれば必ず立ち上がり、すれ違った時は必ず立ち止まって『若山先生、おはようございます!』と声をかけて最敬礼する。また、共演する場合には撮影開始前に若山の楽屋へ必ず挨拶に行く、当然であるが遅刻厳禁である。}}を知らされていなかった。
: ちょうど食事を終え、食堂から出てきた柳沢は若山に対し、楊枝をくわえながら「チィーッス!」と何気なしに頭を下げて立ち去った。この態度に若山が信じられないようなものを見た顔をして激怒し、「あの野郎、後で俺の部屋ぁ来いって言っとけ!」と東映京都撮影所俳優会館のスタッフに指示。
: 俳優会館内の特別室である自分の楽屋に柳沢を呼び付け、大慌てで自己紹介し謝罪する柳沢を尻目に、柳沢を自分のソファーの真向かいに座らせ、無言のまま長時間睨みつける事態となった。そこへ、ただならぬ異変に気付いた松方が楽屋に入り「富兄い、今、俺と一緒に『金さん』やってる柳沢慎吾って若い奴だから…」と間を取り持つと、若山は「…知ってるよ。だから俺ぁ、シンゴと話してたんじゃねぇか」と告げたが、実際は何も言わずにひたすら柳沢を睨み続けていたという。若山は松方の顔を立て、その場は一旦収束した。
: 若山と柳沢が絡むシーンは、同心の間半平が右手で刀を持ちながら{{efn|同心は敵がいつ襲ってくるかわからないため、本来右手で刀を持つことはあり得ないが、ドラマだからという理由で他のシーンも右手に刀を持った状態で撮影してしまっている。また間半平という役のキャラクターカラーを際立たすために右手に刀を持たしていたとも言われている。}}目撃者を尋問しているところを若山演じる元岡っ引きの老人が襖を開け「旦那ぁ、そいつは違うんだよぉ…そいつは違うんだよ旦那ぁ!」と若山が割って入るのを柳沢が『うるせぇこのジジィ!おめぇは引っ込んでろ!』と一蹴するシーンだった。ところが撮影に入ると、同心役の柳沢の刀の取り扱いや所作に度々注文をつけ、「やなぎ'''ざ'''わ'''じ'''んごぉ~!{{efn|決して「やなぎさわ」とは呼ばなかった。}}おめぇ今、どっちの手で刀ぁ持ってたんだよ!おめぇの役は同心じゃねぇのか?…おい、やなぎ'''ざ'''わ'''じ'''んごぉ~!」などと柳沢を何度も叱責。
: 柳沢が必死に「これは[[松尾正武|松尾(正武)]]監督の指示なので…」と説明すると今度は「'''おい松尾こっち来い!'''」と監督の松尾に矛先が向いた。「(スクリプトされた)前とのつながりがありますから」との松尾の説明にも納得せず、演出について1時間ほど撮影中断の上で意見する事態となり、撮影は遅々として進まなかった。
: 業を煮やした松尾は、柳沢が若山に対して言う台詞『うるせぇこのジジィ!おめぇは引っ込んでろ!』の「”ジジィ”の前に'''【クソ】'''付けて!」と柳沢に指示。
: 渋る柳沢をよそに「うるせぇこの'''クソジジィ'''!」の台詞で撮影は進行。一応そのシーンは撮り終わったものの、直後に若山が「おい、やなぎ'''ざ'''わ'''じ'''んごぉ~!おめぇ今台詞が2つくらい増えたろ!?」と再び柳沢を叱責した。
: 若山は「おい岩村、聴かせろ!」と録音技師を呼びつけて何度も音声をチェックし、柳沢の台詞が台本と変わっていることに気づいて激怒した。
: ここで再び「い、いや、違います。これは松尾監督の指示で…」と狼狽する柳沢から説明されると「'''松尾てめぇこっち来いこの野郎!'''」と今度は松尾に喰ってかかり、結局この日の撮影は中止となった{{efn|ちなみにこの日は撮影中止となり、柳沢は帰京するため風呂に入ろうとしたところ、スタッフから「俳優会館3階にある浴室が2か所空いているから、右側を使って良い」と勧められ、言われた通り右側の浴室を使用した。しかしその浴室は先に若山が使用しており、戻ってきた若山に見つかりそうになり、慌てて半裸のまま1階の大部屋用大浴場に逃げこんだ。廊下の水滴を辿って後を追ってきた若山に踏み込まれるが、周囲の役者らの機転と浴槽の湯に潜ったことで事なきを得た。帰京する新幹線の車中で、柳沢は極度の緊張と恐怖から解放され「爆睡」したという。この柳沢の「しくじり」は当時、すでに[[小堺一機]]・[[関根勤]]の耳に入っており、仲間内では有名だったという。なお、これらのエピソードは[[2004年]][[2月10日]]から16日まで、[[品川プリンスホテル]]の「クラブeX」で開催された小堺とのコントライブ「小堺一機 & 柳沢慎吾LIVE ライブマン★コミック君!!」で披露されたほか、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]『[[ザ!世界仰天ニュース]]』([[2007年]][[4月25日]]放送分)で柳沢がゲスト出演した際、[[笑福亭鶴瓶]]のリクエストに応え、「1人コント」で一部始終を再現しており、柳沢のネタの1つになっていて、その後も度々披露している{{出典無効|date=2022年2月}}(もっとも、柳沢は話を誇張する癖が有るため、話すたびに細部が異なり、どこまで正確な話なのかは定かでは無い)。}}。
: しかしその後、若山は柳沢を懇意にし、とても良好な関係だったという。
: 柳沢の実家には若山に肩を組まれて撮ったスナップ写真を引き延ばしたパネルが飾られている。
=== バラエティー ===
; 『[[クイズダービー]]』
:[[1988年]](昭和63年)[[10月8日]](第661回・ドラマ大会)、同日放送の『[[妻たちの鹿鳴館]]』の番組告知も兼ね、共演の[[池内淳子]]と共に出場者側(ギャンブラー席・黄色チーム)で登場した。若山は第1問目で、5枠・ゲスト解答者だった[[ビートたけし]]に「たけし君にね、『3,000点』はダメか?」といきなり持ち点の全部を賭けようとした。しかし司会の[[大橋巨泉]]に「3000点はまずいですよ!!無くなっちゃうじゃないですか。早く帰ろうと思ってるなぁ!淳子ちゃん何か言って下さいよ!」と呆れながら止められてしまい、結局全額を賭けることはできなかった。レギュラー解答者・出場者側の[[タレント]]を始め会場の観客らは大爆笑、隣の池内も苦笑いしつつ1,000点に賭け点を変更したものの、たけしは不正解。持ち点は2,000点と減点された。なお番組の歴史上、第1問で3,000点全部を賭けようとした番組出場者は若山と、[[とんねるず]](本件とは逆で、高正解率を誇る[[はらたいら]]の確実性に賭けた)のみである。
:第5問目では若山が1枠・[[北野大]]を指名。「(北野博士の)[[ファン]]なんだよ」と言いながらも、持ち点の1,500点から賭けたのは「200円」だった。巨泉は「200『[[円 (通貨)|円]]』!これが、ファンにしてはケチなんだよなあ。まあ良いでしょう」と笑う。その後池内が500点に変更したが、結局北野大は不正解で1000点に減額。巨泉に「200円にしとけば良かったね、若山さん今のねぇ」と苦笑された。第6問の作詞問題では、若山が歌う『男道』からの出題であった。問題が読まれた直後に若山は「これ俺じゃないよ。だって覚えが無いもん」と困惑していたが、巨泉から「オレですよぉー!!そうやって書いてあるんだもん、レコードに。それは、単に忘れちゃっただけですよ!!」と呆然とされた。
:第7問終了時にはわずか100点にまで減っていた。最終問題で池内は掛け率8倍の4枠・[[竹下景子]]を指名して、100点全部を賭けた。竹下が正解したので、結果若山・池内ペアの賞金獲得額は「900円」だった。エンディングで池内は「でも偉いでしょ?ゼロにならなかったのがねぇ」と笑い巨泉も「エライですよ」と褒めたが、巨泉は若山に「自分がレコーディングしたの忘れないで下さいね」と繰り返し言っていた。
; 『[[元祖どっきりカメラ|どっきりカメラ]]』
:若山は清川虹子と共に[[安岡力也]]へのどっきりの仕掛け人として出演。若山と清川が結婚するという偽の招待状を受け取った安岡は、御祝儀をいくら出すか悩んで周囲に相談し、事務所から「(若山さんと清川さんからは)2人とも初婚ではなく、年齢的な理由もあって質素な結婚式をすると聞いている」「会費制で1万円」と聞き、1万円にした。当日、出席者の山城新伍や[[松方弘樹]]ら御祝儀の金額が次々と読み上げられたが<ref>結婚式の会場で招待客が渡したご祝儀の金額を読み上げるといった事は通常ではありえない事である。</ref>、すべて10万円以上で、100万円といった桁違いに高い金額もあった。力也の前に読み上げられた[[高岡健二]]の金額が1万円であったことに若山が驚愕し激怒、高岡は裏口に連れ出されて暴行されるなど手痛い仕打ちを受ける(※無論、本当に殴られているわけではなく実際にはふりで、メイクで傷痕を作った)。その様子を間近で見ていた力也が、緊張のあまり震え上がるという趣向だった。
; 『[[8時だョ!全員集合]]』
:ゲストとして出演した際、たまたま[[急性腰痛症|ぎっくり腰]]を患い、[[松葉杖]]をつきながらもこの日の「学校コント」や「時代劇コント」に出演した。特に「時代劇コント」では、[[志村けん]]に松葉杖を預けた上で、ぎっくり腰とは思えぬ見事な[[殺陣]]を披露した。志村からの「賞金稼ぎがぎっくり腰とはお笑いだ」とのツッコミに、若山も「金貰ってるから、やらねぇとしょうがねぇんだよ」と返し、しっかり笑いもとった。
=== 趣味 ===
; [[スーパーマリオブラザーズ]]
:実子で付き人であった[[若山騎一郎]]の著書『不器用に生きた男 わが父 若山富三郎』によれば、騎一郎や、騎一郎の姉の佳代子には[[スーパーマリオブラザーズ|スーパーマリオ]]のゲームを教えるときだけは優しかったという。また、若山企画の人間全員にもやらせ、賞金まで出して大会を開く、一人でも毎日のようにプレイし、腱鞘炎になっても包帯を巻いてでもやり続ける、[[スーパーマリオブラザーズ2|スーパーマリオ2]]が発売されたときには仕事を休んでまでクリアしようとしたなど、ハマっていた逸話が多い。
=== 小説 ===
[[1983年]](昭和58年)に本人名義で、歴史小説『ゼロの暗殺者』を発表したが、これは[[ゴーストライター]]による執筆作である{{efn|[[2009年]](平成21年)[[6月18日]]、[[テレビ神奈川]]・[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX TV]]『[[博士の異常な鼎談]]』で、ゲスト出演したコラムニスト・書評家の[[吉田豪]]が、この小説のあとがきを読む過程でその内訳を明かしている{{出典無効|date=2022年2月}}。}}。
== 受賞 ==
* 第20回[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン]] 助演男優賞 『悪魔の手毬唄』、『[[姿三四郎 (映画)#1977年版|姿三四郎]]』
* [[日本アカデミー賞|第3回日本アカデミー賞]] 最優秀主演男優賞 『[[衝動殺人 息子よ]]』
* [[キネマ旬報]] 主演男優賞 『衝動殺人 息子よ』
* 第21回[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]] 主演男優賞 『衝動殺人 息子よ』
* [[毎日映画コンクール]] 主演男優賞 『衝動殺人 息子よ』
* 第33回[[芸術祭 (文化庁)|芸術祭大衆芸能部門]] 大賞{{R|geijutu}} 『歌舞伎模様・[[天保六花撰]]』
== 出演 ==
=== 映画 ===
==== シリーズ ====
* 忍術児雷也シリーズ (1955年、新東宝) - 遠山弓之助
** 忍術児雷也 (1955年)
** 逆襲大蛇丸 (1955年)
* [[人形佐七捕物帖 (若山富三郎版)|人形佐七捕物帖シリーズ]](1956年 - 1961年) - 人形佐七
** 人形佐七捕物帖 妖艶六死美人(1956年、[[新東宝]])
** 人形佐七捕物帖 大江戸の丑満刻(1957年、新東宝)
** 人形佐七捕物帖 花嫁殺人魔(1957年、新東宝)
** 人形佐七捕物帖 浮世風呂の死美人(1958年、新東宝)
** 人形佐七捕物帖 腰元刺青死美人(1958年、新東宝)
** 人形佐七捕物帖 般若の面(1960年、[[東映]])
** 人形佐七捕物帖 くらやみ坂の死美人(1960年、東映)
** 人形佐七捕物帖 血染めの肌着(1960年、東映)
** 人形佐七捕物帖 ふり袖屋敷(1960年、東映)
** 人形佐七捕物帖 恐怖の通り魔(1961年、東映)
** 人形佐七捕物帖 闇に笑う鉄火面(1961年、東映)
* 謎の紫頭巾シリーズ(1957年、新東宝) - [[遠山景元|遠山金四郎]]
** 姫君剣法 謎の紫頭巾(1957年)
** 謎の紫頭巾 姫君花吹雪(1957年)
* 修羅八荒シリーズ(1957年、新東宝) - 浅香恵之助
** 修羅八荒 薩多峠の剣陣(1957年)
** 修羅八荒 猛襲伏魔殿(1957年)
* 忍術使いと三人娘シリーズ(1961年、東映) - 神築弓之介
** 忍術使いと三人娘(1961年)
** 忍術使いと三人娘 女狐変化(1961年)
* [[極道シリーズ]](1968年 - 1974年、東映) - 島村清吉
** [[極道 (1968年の映画)|極道]](1968年)
** 帰ってきた極道(1968年)
** [[兵隊極道]](1968年)
** 待っていた極道(1969年)
** [[旅に出た極道]](1969年)
** 極道釜ヶ崎に帰る(1970年)
** 極道兇状旅(1970年)
** 極道罷り通る(1972年)
** 釜ヶ崎極道(1973年)
** [[極道VSまむし]](1974年)
** 極道VS[[不良番長]](1974年)
* 前科者シリーズ(1968年 - 1969年、東映)
** 前科者 (1968年)
** 横紙破りの前科者(1968年)
** 前科者 縄張荒し(1969年)
* 極悪坊主シリーズ(1968年 - 1971年、東映) - 真海
** 極悪坊主(1968年)
** 極悪坊主 人斬り数え唄(1968年)
** 極悪坊主 念仏人斬り旅(1969年)
** 極悪坊主 念仏三段斬り(1970年)
** 極悪坊主 飲む打つ買う(1971年)
* [[賞金稼ぎ (映画版シリーズ)|賞金稼ぎシリーズ]](1969年 - 1972年、東映) - 錣市兵衛
** [[賞金稼ぎ (映画)|賞金稼ぎ]](1969年)
** [[五人の賞金稼ぎ]](1969年)
** [[賞金首 一瞬八人斬り]](1972年)
* [[子連れ狼 (若山富三郎版)|子連れ狼シリーズ]](1972年 - 1974年、勝プロ / [[東宝]]) - [[拝一刀]]
** [[子連れ狼 子を貸し腕貸しつかまつる]](1972年)
** [[子連れ狼 三途の川の乳母車]](1972年)
** [[子連れ狼 死に風に向かう乳母車]](1972年)
** [[子連れ狼 親の心子の心]](1972年)
** [[子連れ狼 冥府魔道]](1973年)
** [[子連れ狼 地獄へ行くぞ!大五郎]](1974年)
==== その他 ====
* [[番場の忠太郎 (映画)|番場の忠太郎]](1955年、新東宝) - 忠太郎
* [[四谷怪談 (1956年の映画)|四谷怪談]](1956年、新東宝)
*[[軍神山本元帥と連合艦隊]](1956年、新東宝)
* [[明治天皇と日露大戦争]](1957年、新東宝)
* [[水戸黄門 天下の副将軍]](1959年、東映) - [[徳川綱吉]]
*[[雪之丞変化]](1959年、東映)- 安藤左近将監役
* [[壮烈新選組 幕末の動乱]](1960年、東映) - [[沖田総司]]
* 旗本と幡随院 男の対決 (1960年、東映) - [[幡随院長兵衛]]
* 野火を斬る兄弟(1960年、東映)
* ひばりの森の石松(1960年、東映)
* 又四郎行状記 神変美女蝙蝠(1961年、東映)
* 怪談お岩の亡霊(1961年、東映)
* [[続・座頭市物語]](1962年、[[大映]]) - 渚の与四郎
** [[座頭市千両首]](1964年、大映) - 仙波十四郎
* [[忍びの者]](1962年、大映) - [[織田信長]]
** [[続・忍びの者]](1963年、大映) - 織田信長
** [[忍びの者 霧隠才蔵]](1964年、大映) - [[真田信繁|真田幸村]]
* 抜打ち鴉(1962年、大映)
* [[妖僧]] (1963年 大映)
*[[侍富士を走る]] (1963年 東映)- 葛城瓢介
* [[新選組始末記#映画(1963年)|新選組始末記]] (1963年、大映) - [[近藤勇]]
* [[眠狂四郎殺法帖]](1963年、大映) - 陳孫
** [[眠狂四郎女妖剣]](1964年、大映) - 陳孫
* [[乞食大将]] (1964年、大映)
* 処女が見た(1966年、大映) - 行俊 {{efn|主演は[[若尾文子]]。この作品で共演した[[大楠道代|安田道代]]と恋愛関係となった。}}
* 兄弟仁義 関東三兄弟 (1966年、東映)
**[[兄弟仁義 逆縁の盃]](1968年、東映)
* [[博奕打ち (映画)|博奕打ち]](1967年、東映)
** 博奕打ち 不死身の勝負(1967年、東映)
** [[博奕打ち 総長賭博]](1968年、東映)
**[[博奕打ち外伝]](1972年、東映)
* [[懲役十八年]](1967年、東映)
* [[渡世人 (1967年の映画)|渡世人]](1967年、東映)
*[[尼寺(秘)物語|尼寺㊙物語]](1968年、東映)
*[[緋牡丹博徒シリーズ|緋牡丹博徒]](1968年、東映)
*[[妖艶毒婦伝 般若のお百]] (1968年、東映)
*[[人生劇場 飛車角と吉良常]](1968年、東映)
*[[博徒列伝]](1968年、東映)
*[[現代やくざ 与太者の掟]](1969年、東映)
* [[日本暴力団 組長]] (1969年、東映)
* [[日本暗殺秘録]] (1969年、東映) - [[有村次左衛門]]
*[[渡世人列伝]](1969年、東映)
*[[日本ダービー 勝負]](1970年、東映)
* 舶来仁義 カポネの舎弟(1970年、東映)
*[[戦後秘話 宝石略奪]](1970年、東映)
*[[日本暴力団 組長くずれ]](1970年、東映)
* シルクハットの大親分(1970年、東映)
** シルクハットの大親分 ちょび髭の熊(1970年、東映)
* 喜劇 ギャンブル必勝法(1970年、東映)
*[[最後の特攻隊]](1970年、東映)
*[[新宿の与太者]](1970年、東映)
*[[博徒外人部隊]](1971年、東映)
** [[博徒斬り込み隊]](1971年、東映)- 矢野刑事(飯坂署)
*[[日本やくざ伝 総長への道]](1971年、東映)
*[[暴力団再武装]](1971年、東映)
* [[傷だらけの人生]](1971年、東映)
*[[顔役 (1971年の映画)|顔役]](1971年、ダイニチ映配)
* 日本悪人伝(1971年、東映)
* [[純子引退記念映画 関東緋桜一家|関東緋桜一家]](1972年、東映)
* [[桜の代紋 (映画)|桜の代紋]](1973年、勝プロ / 東宝)
* [[脱獄広島殺人囚]](1974年、東映)
* [[新仁義なき戦い]](1974年、東映)
* [[エスパイ]](1974年、東宝) - ウルロフ{{R|全史535}}
* [[桜の森の満開の下#映画化|桜の森の満開の下]](1975年、東宝)
* [[暴力金脈]](1975年、東映)
* [[強盗放火殺人囚]](1975年、東映)
* [[愉快な極道]](1976年、東映)
* [[悪魔の手毬唄 (1977年の映画)|悪魔の手毬唄]](1977年、東宝)
* [[江戸川乱歩の陰獣]](1977年、[[松竹]])
*[[姿三四郎 (映画)|姿三四郎]](1977年、東宝)
* [[トラック野郎・男一匹桃次郎]](1977年、東映)
* [[火の鳥 (漫画)|火の鳥]](1978年、東宝)
* [[がんばれ!ベアーズ大旋風 -日本遠征-]](1978年、[[パラマウント映画]])
* [[衝動殺人 息子よ]](1979年、松竹)
*[[遠い明日]](1979年、東宝)
*[[父よ母よ!]](1980年、松竹)
* [[青春の門]](1981年、東映)
* [[ちゃんばらグラフィティー 斬る!]] (1981年、東映)
*[[炎のごとく]](1981年、東宝)
* [[魔界転生]](1981年、[[角川映画|角川春樹事務所]] / 東映) - [[柳生宗矩|柳生但馬守宗矩]]
* [[燃える勇者]](1981年、東映) - 梶五郎
* [[夏の秘密 (映画)|夏の秘密]](1982年、松竹)
* [[大日本帝国 (映画)|大日本帝国]](1982年、東映) - [[石原莞爾]]
*[[凶弾]](1982年、松竹)
* [[制覇]](1982年、東映)
* 雪華葬刺し 1982年、大映)
* [[白蛇抄]](1983年、東映)
* [[小説吉田学校#映画|小説吉田学校]](1983年、東宝)- [[三木武吉]]
* [[人生劇場 (1983年の映画)|人生劇場]](1983年、東映)
* [[修羅の群れ]](1984年、東映)ー 鶴岡政次郎
* 山下少年物語(1985年、[[東宝東和]])
* [[道 (1986年の映画)|道]](1986年、東映)
* [[人間の約束]](1986年、東宝東和)
* [[親鸞 白い道]](1987年、松竹)
* [[丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる]](1989年、[[松竹富士]])
* [[社葬 (映画)|社葬]](1989年、東映)
*バッドヒストリー~ワルの歴史~(1989年、ジュンヤ・オフィス)
* [[ブラック・レイン]](1989年、[[パラマウント映画]]) - 菅井国雄
* [[女帝 春日局]](1990年、東映) - [[徳川家康]]
*カンバック(1990年、松竹)
* 斬殺せよ 切なきもの、それは愛(1990年、東映クラシックス)
* [[王手 (映画)|王手]](1991年、ムービーギャング)
=== テレビドラマ ===
* [[銭形平次捕物控]](1958年7月7日 - 1960年6月27日、[[TBSテレビ|TBS]])
* [[風雲児半次郎]](1964年10月28日 - 1965年3月31日、[[テレビ東京|東京12チャンネル]])
* [[三匹の侍]] 第4シリーズ 第26話「斬る」(1967年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - 中根兵馬
* [[待っていた用心棒]](1968年、[[テレビ朝日|NETテレビ]]) - 夏山大吉郎(外道)
** 第19話「同志たちの夜」
** 第25話「ただ一人の女」
** 第26話「山なみの彼方へ」
* [[大奥 (1968年のテレビドラマ)|大奥]](1968年、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]) - [[柳沢吉保]]
* [[旅がらすくれないお仙]] 第1話「親分衆ふざけないで!」(1968年、NETテレビ)
* [[柳生十兵衛 (1970年のテレビドラマ)|柳生十兵衛]] 第28話「鬼坊主の復讐」(1971年、フジテレビ) - 鄭玄竜
* [[軍兵衛目安箱]](1971年、NETテレビ)- 伴大五郎
* 江戸巷談 花の日本橋(1971年、関西テレビ) - [[丹下左膳]]
** 第11話「丹下左膳と櫛巻きお藤」
** 第12話「女が惚れた暴れん坊」
* [[長谷川伸シリーズ]](1973年、NETテレビ)
** 第12話「頼まれ多九蔵」
** 第29話「蝙蝠安」
* [[唖侍鬼一法眼]](1973年10月7日 - 1974年3月31日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) - 鬼一法眼
* [[賞金稼ぎ (テレビドラマ)|賞金稼ぎ]](1975年4月16日 - 10月5日、NETテレビ) - 錣市兵衛
* [[悪魔のようなあいつ]](1975年、TBS) - 白戸五十六
* [[影同心]] 第23話「花嫁買って殺し節」(1975年、[[毎日放送|MBS]]) - [[山田浅右衛門|山田朝右衛門]]
* [[痛快!河内山宗俊]](1975年、フジテレビ) - 遠山金四郎
* [[さくらの唄 (テレビドラマ)|さくらの唄]](1976年、TBS) - 高松伝六
* [[新・座頭市]] 第27話「旅人の詩」(1977年、フジテレビ)
* [[貝がらの街]](1978年、日本テレビ) - 脇田徳三
* [[飢餓海峡#1978年(テレビドラマ)|飢餓海峡]](1978年、フジテレビ) - 弓坂刑事
* [[ドラマ人間模様]] / [[事件 (小説)|事件]](1978年 - 1984年、[[日本放送協会|NHK]]) - 菊地大三郎<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010474 番組エピソード 早坂暁と「NHKドラマ」 NHKアーカイブス]</ref>
* [[不毛地帯#毎日放送版(1979年)|不毛地帯]](1979年、MBSテレビ) - 大門一三
* あめりか物語(1979年、NHK)
* [[頓珍館おやじ]](1980年、[[テレビ朝日]]) - 綾小路丑寅
* [[火曜サスペンス劇場]] / 「あの三億円事件の真相は?父と子の炎」(1981年、日本テレビ)
* [[時代劇スペシャル (フジテレビ)|時代劇スペシャル]] / [[御金蔵破り (1981年のテレビドラマ)|御金蔵破りシリーズ]](1981年 - 1983年、フジテレビ)
* [[影の軍団III]] 第1話「二つの顔の男」(1982年、関西テレビ) - 丸目正眼
* [[花王名人劇場]] / 名物タクシー奮戦記(1982年 - 1983年、関西テレビ)
* [[大奥 (1983年のテレビドラマ)|大奥]] 第1話「大奥誕生」・第2話「生みの母 育ての母」(1983年、関西テレビ) - [[徳川家康]]
* [[木曜ゴールデンドラマ]] / 暴力中学シリーズ([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]) - 主演兼企画
** 暴力教室 ある教師の詩(1984年3月1日)
** 暴力中学 ある教師の詩2(1984年12月20日)
* [[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]] 第886話「悲しき嘘」(1984年、フジテレビ) - 丈吉
* [[花王名人劇場]] / [[寝ぼけ署長]](1984年 - 1985年、関西テレビ)
* [[支払い過ぎた縁談#1985年版|松本清張スペシャル・支払い過ぎた縁談]](1985年、TBS) - 萱野徳右衛門
* ドラマスペシャル / 「刑事弁護人・わが子殺人」(1986年、テレビ東京) - 主演
* [[イキのいい奴]](1987年、NHK)
* [[関西テレビ制作・月曜夜10時枠の連続ドラマ|京都サスペンス「出町の柳」]](1987年、関西テレビ)
* 「人間ドラマシリーズ 泣けたぜ! おやじ・明大島岡監督物語」(1987年12月7日、フジテレビ) - 主演[[島岡吉郎]]役
* [[火曜スーパーワイド]] / [[サザエさん旅あるき]] (1988年、テレビ朝日)
* [[忠臣蔵・いのちの刻]](1988年、TBS)
* [[妻たちの鹿鳴館]](1988年、TBS) - [[伊藤博文]] 役
* [[織田信長 (1989年のテレビドラマ)|織田信長]](1989年、TBS) - [[平手政秀]]
* [[坂本龍馬 (テレビドラマ)|坂本龍馬]](1989年、TBS) - [[永井尚志|永井玄番頭]]
* [[風雲!真田幸村]](1989年、東映 / テレビ東京) - [[徳川家康]] 役
* [[子連れ狼 (高橋英樹版)|子連れ狼]](1989年、テレビ朝日) - [[柳生烈堂]]
* すみだ川塀外物語(1989年11月28日、ぎみあブレイク)
* [[新吾十番勝負#1990年テレビ朝日版|新吾十番勝負]](1990年、テレビ朝日) - 武田一真
* [[源義経 (1990年のテレビドラマ)|源義経]](1990年、TBS) - [[平清盛]]
* [[樅ノ木は残った]](1990年、日本テレビ) - [[酒井忠清|酒井雅楽頭]] 役
* [[名奉行 遠山の金さん]](1990年、テレビ朝日)
** 第3シリーズ 第3話「怪盗の顔を見た!」- 車坂の惣兵衛
* [[犬神家の一族#テレビドラマ|横溝正史傑作サスペンス・犬神家の一族]](1990年、テレビ朝日) - 犬神佐兵衛
* [[柳生武芸帳#1990年-1992年|柳生武芸帳]](1990年、日本テレビ) - [[徳川家康]]
* [[閨閥]](1990年、TBS)
* [[戦艦大和 (テレビドラマ)|戦艦大和]](1990年、フジテレビ) - [[豊田副武]]
* [[白旗の少女#1990年版|白旗の少女]](1990年、フジテレビ)
* [[関西テレビ制作・月曜夜10時枠の連続ドラマ|山村美紗サスペンス「死を呼ぶ醍醐の桜狩り」]](1990年、関西テレビ / 東映)
* [[武田信玄 (1991年のテレビドラマ)|武田信玄]](1991年、TBS) - [[太原雪斎]] 役
* 恋しとよ君恋しとよ(1991年、NHK)
* [[雲霧仁左衛門 (1991年のテレビドラマ)|雲霧仁左衛門]](1991年、関西テレビ)
* [[迷走地図#テレビドラマ|松本清張作家活動40周年記念・迷走地図]](1992年、TBS) - 望月稲右衛門 ※遺作
=== 舞台 ===
* [[三文オペラ]](1977年、[[帝国劇場]]) - ビーチャム
* [[アニー#日本版|アニー]](1978年、[[日生劇場]]) - ウォーバックス
* 歌舞伎模様・[[天保六花撰]](1978年、[[新宿コマ劇場]]) - [[河内山宗俊]]<ref>[http://www.geinin.jp/prize/1978/geijutsusai.html 昭和53年度 第33回 文化庁芸術祭賞]</ref>
=== バラエティ ===
* [[スター千一夜]](フジテレビ)
* [[象印スターものまね大合戦]]([[テレビ朝日|NET]])
* [[8時だョ!全員集合]](TBS)
* [[加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ]](TBS)
* [[クイズダービー]](TBS)
* テレビ祭り 10月だョ!全員集合(TBS)
* [[モーニングジャンボ奥さま8時半です]](TBS)
* [[夜の指定席]]~富三郎の談話室(NHK 1981年〜1983年 奇数月の第4(土)に放送)
* [[すばらしき仲間]]([[CBCテレビ|中部日本放送]])
* [[所さんの勝ったも同然!!]](日本テレビ)
* いい!!かもしんない(日本テレビ)
* [[にっぽん!いい旅|いい旅・夢気分]](テレビ東京) - 信州湯けむり雪景色
=== CM ===
* [[味の素|味の素株式会社]]「アルギンZ」(1979年)
* [[明星食品]]「チャルメラ・デラ」、「チャルメラ・みそ吉」(1979年)
* [[資生堂]] 「ドルックス」(1982年)
== ディスコグラフィ ==
=== シングル ===
*極道ブルース/渡世人(テイチクレコード、A-2)
*極悪坊主/男のバラード(1968年8月、テイチクレコード、A-6)
*道産子人生/波止場ブルース(テイチクレコード、A-14)
*落葉人生/雪に追われた流れもの(1969年、テイチクレコード、A-17)
*極道子守唄(テイチクレコード、A-41)
*極道エレジー/全極連ブルース(テイチクレコード、A-47)
*諸行無常/極道のバラード(テイチクレコード、A-56)
*股引一代/男道(テイチクレコード、A-72)
*マドロス子守唄(テイチクレコード、A-75)
*ひとり無情/問わず語り(ポリドール、DR-1658)
*別れの子守唄/夕べ酒場で聞いたうた(1971年、RCAレコード、JRT-1180)
*子連れ狼/流れ影(1972年、東芝レコード、TP-2689)
*流れ者/ ひとつの命(1975年4月、キャニオンレコード、A-253)
*ふたりの四季/双六仁義(1980年、KA-1197)
*幸せになれよ/なぐさめ(1983年、クラウンレコード、CWA-219)
*なむあみだぶつ/野狼のうた(クラウンレコード、CW-901)
*おとこ坂/おんな坂(日本コロムビア、AH-61)
=== アルバム ===
*流れ者(1972年、MR-2213)
== 著書 ==
* ゼロの暗殺者 (自由書館 1983年3月) ISBN 978-4915574023
* 鎮魂曲(レクイエム)は地獄で聴け (原案、[[牛次郎]]著、廣済堂出版 1986年10月) ISBN 978-4331052358
* 鬼畜狩り (原案、牛次郎著、祥伝社 1991年4月) ISBN 978-4396322137
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist
|refs=
<ref name="geijutu">{{Cite web|和書|url = http://www.bunka.go.jp/geijutsu_bunka/geijutsusai/pdf/s51_s60.pdf |title = 昭和53年度(第33回)芸術祭賞一覧 |accessdate = 2010-10-20 }}</ref>
<ref name="配給収入">{{Cite web|和書|url=http://www.eiren.org/toukei/1981.html|accessdate=2014-06-30|title=過去興行収入上位作品 一般社団法人日本映画製作者連盟}}</ref>
<ref name="daily">[https://www.dailyshincho.jp/article/2016/03080500/?all=1 「黒澤明」参謀が明かした「勝新太郎」と大喧嘩の一部始終] 週刊新潮(2016年3月3日号)</ref>
<ref name="全史535">{{Harvnb|東宝特撮映画全史|1983|p=535|loc=「怪獣・SF映画俳優名鑑」}}</ref>
<ref name="yamashiro">{{Cite book |和書 |author = 山城新伍 |authorlink = 山城新伍 |year = 1998 |title =若山富三郎・[[勝新太郎]]無頼控 おこりんぼさびしんぼ|publisher = [[幻冬舎]]|pages = 46頁、51 - 57頁、62 - 65頁、72頁、83 - 91頁、98頁 |isbn = 4877282424 }}</ref>
<ref name="chiba">{{Cite book |和書 |author = JJサニー千葉 |authorlink = 千葉真一 |year = 2010 |title = 千葉流 サムライへの道 |publisher = [[ぶんか社]] |pages = 154 - 171 |isbn = 4821142694 }}</ref>
<ref name="akkan">{{Cite book |和書|year=2004 |title=圧巻!無頼派時代劇―ハードボイルド・ヒーローを斬る! (歴史群像シリーズ) |publisher=[[学研ホールディングス|学研]] |page=115 |id= |isbn=9784056032680 }}</ref>
<ref name="アサ芸魔界">{{Cite journal |和書 |date = 2012-11-29 |title = 深作欣二「千葉ちゃん、ウソって観客に思わせたら負け」 |journal = [[アサヒ芸能|アサ芸+]] |publisher = [[徳間書店]] |url = https://www.asagei.com/9406 |accessdate = 2012-12-08 <!--|archiveurl = http://liveweb.archive.org/https://www.asagei.com/9406 |archivedate = 2012-12-08 --> }}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=東宝特撮映画全史|others=監修 [[田中友幸]]|date=1983-12-10|publisher=[[東宝]]出版事業室|isbn=4-924609-00-5|ref={{SfnRef|東宝特撮映画全史|1983}}}}
== 外部リンク ==
* {{JMDb name}}
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[[Category:若山富三郎|*]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E5%B1%B1%E5%AF%8C%E4%B8%89%E9%83%8E |
2,369 | 嵐寛寿郎 | 嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう、新字体:寛寿郎、本名:高橋 照一(たかはし てるいち)、1902年〈明治35年〉12月8日 - 1980年〈昭和55年〉10月21日)は、日本の映画俳優、映画プロデューサーである。
戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、300本以上の映画に出演し、「アラカン」の愛称で親しまれた。同時代の時代劇スターの阪東妻三郎、大河内傳次郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。当たり役は鞍馬天狗と『右門捕物帖』のむっつり右門で、前者は40本、後者は36本シリーズ化されている。また、新東宝の『明治天皇と日露大戦争』では、俳優の中で初めて天皇を演じて話題となった(本作では明治天皇を演じた)。晩年は東映任侠映画で助演し、テレビドラマでも活躍した。
祖父は文楽の人形遣いの初代桐竹紋十郎。叔父は俳優の六代目嵐徳三郎。従妹は女優の森光子で、甥にAV男優の山本竜二がいる。自宅は嵐山にあった。
1902年(明治35年)12月8日、京都市木屋町三条下ルに生まれる。「無芸だった」という父親が奉公していた手前、縄手に住む祖母(夫が桐竹紋十郎)の経営する料理旅館「葉村屋」に預けられた。
満十歳の時、母親の「芸事より固い商売を」との方針で、弥栄尋常小学校を五年で中退、七條大宮の衿屋に丁稚奉公させられる。「睡眠5時間、おかずは沢庵二切れのみ、月給一円、休みは月に一度だけ」という殺人的重労働に「まるで留置場やった」と述懐している。
丁稚時代、月に一度の休日に活動写真を観に行くことだけが愉しみで、尾上松之助の忍術トリック映画や、ニコニコ大会(バスター・キートン、チャールズ・チャップリン、ハロルド・ロイドの混載興行)に熱中していた。のちに、チャップリンの「キッド」が鞍馬天狗と杉作とのからみに、キートンの無表情さがむっつり右門の演技に、それぞれ大きな影響になったと述懐している。
1919年(大正8年)、手代から番頭に出世しようという17歳のときに、主人が死去。一から丁稚のやり直しは御免と、祖母に頼んで愛知県岡崎市で巡業中の片岡松之助の一座に加入。「食事は卵に味噌汁付き、給金五円」の待遇に「丁稚奉公のツキイチとは雲泥の差やった」と述べている。一座ではちょうど片岡義士劇の大石主悦役の役者が女をこしらえ逐電したところで、「嵐徳太郎」の芸名をもらい、数えで18歳でいきなり主悦役の初舞台を踏む。この義士劇にはチャンバラがあり、ここで殺陣を覚えた。
当人はこれでかなり自惚れたというが、片岡義士劇では役はいつまでたっても大石主悦役のみだった。「飲む打つ買う」の巡業生活に染まって、オイチョカブに誘われ、松江の巡業先で大事な衣装の紋付まで質に入れる大負けとなり、着の身着のまま京都へ逃げ帰る。
1921年(大正10年)、初代中村扇雀(中村鴈治郎)一座の、当時「ちんこ芝居」と呼ばれた「関西青年歌舞伎」に加わり、女形となる。ここには市川寿之助のほか、のちに映画に移る市川百々之助、市川右一(のちの市川右太衛門)、林長丸(のちの長谷川一夫)など将来のライバルたちが同期生所属していて、百々之助、右太衛門、長丸、アラカンの四人が揃って腰元役で舞台を踏んだこともあったという。「不謹慎にいえば、オイチョカブのおかげで桧舞台を踏むことがでけた」と語っている。芝居の世界は女買いが盛んで、若い徳太郎は酒は飲めなかったが「モテにモテて」、粋筋から引く手あまただったが、女郎を買うときは必ず根引き(独占)にしていた。
1923年(大正12年)、腰元役ばかりでうだつの上がらぬ現状に不満を抱き、「桐竹紋十郎の孫なんぞ大歌舞伎の世界では通用しない」と悟った嵐徳太郎は、「二流の小屋でもいいから芝居らしい芝居がしたい」と東京宮戸座で「大衆歌舞伎」を掲げた叔父の徳三郎の一座に加入。この夏、好きになった年増の芸妓と駆け落ちを決意。出奔の当日9月1日正午に関東大震災が発生。結局女も金も失い、失意のまま京都へ戻り、「しばらくふぬけていた」という。
しばらくして叔父の徳三郎が東京から引き揚げ、先々代片岡仁左衛門を「うわのせ(特別出演)」して、大阪松島の八千代座での旗揚げ公演を決定。誘いをかけてきた。母親も態度を変えて勧めたので、「月給百五十円」で加入を決意。屋号を葉村屋、叔父徳三郎から「嵐和歌太夫」の芸名をもらう。この一座で片岡千栄蔵(のちの片岡千恵蔵)と鏡台を並べる。
1926年(大正15年)、芸妓に振られ自棄気味だった和歌太夫は女出入りが激しく、ついに淋病に罹り、子種を失うこととなる。入院中は「煙草三箱」で千栄蔵に代役を頼んだ。難聴のおかげで徴兵検査を丙種失格となる。
1927年(昭和2年)、癇癪持ちの片岡仁左衛門が、「奴」を踊った千栄蔵(片岡千恵蔵)を「貴様は鈍な役者だ」と真剣の峰で殴った。このときそばで見ていた和歌太夫は「男の面態を!」と心が寒くなり、「阿呆でも名門のセガレは出世がでける、才能があっても家系がなければ一生冷や飯喰わされる、こんな世界に何の未練もない」と思ったという。
この事件が起こったころに、ポスター会社の清正堂を通して、マキノ省三が映画界入りを誘ってきた。マキノ監督は独立した市川右太衛門の後釜として「月給八百円」(当時家が一軒買えた)の高待遇を提示。「丁稚奉公と同じや、ウソで塗り固められた徒弟制度の枠の中で主人の顔色をうかがって、犬のように餌をもらう生活は御免や」と考えていた和歌太夫は、北陸の巡業先から逐電し、同年3月にマキノ・プロダクション御室撮影所に入社した。
和歌太夫によると、大阪松島の八千代座に出ているときに「マキノの先生」が見え、「八百円やるから、カツドウに来い」と誘われた。当時の月給は三百円で、約3倍ということで、「そら行きますがな」ということだった。これを叔父の徳三郎に伝えると「お前、泥芝居 に行くんか、泥芝居の役者ンなんのか!」と怒鳴られ横面を張られた。祖母や親戚中から反対され、勘当同然でマキノへ入ったというが、母親だけは「月給八百円」の条件で大賛成だった。
マキノへ行くと、「この中のどの役をやってみたい?」と雑誌「少年倶楽部」を渡された。嵐が選んだのが鞍馬天狗である。天狗役が決まるとマキノ監督は「俺がつけたる」と、剣の持ち方から立ち回りまで、殺陣の特訓をしてくれた。芸名は「嵐はそのままでええ、こうつと名前やな、叔父貴からもらえ、お前顔が長いよって長三郎にしとけ」と「嵐長三郎」の名を与えられた。片岡千恵蔵に一日遅れた入社だった。
4月、マキノ御室撮影所製作の『鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子』でデビュー。脚本は売り出し中の山上伊太郎、撮影は名キャメラマンと謳われた三木稔と、マキノ最高のスタッフで固められたデビュー作だった。それから鞍馬天狗は彼の当たり役となった。
以降マキノの看板スターとして、在籍一年半足らずで27本の映画に主演。『鞍馬天狗』シリーズのほか『鳴門秘帖』『百万両秘聞』でもヒットを飛ばした。
1928年(昭和3年)4月、『新版大岡政談 前編・中篇』の2作で丹下左膳を演じたのを最後に、マキノから独立、嵐寛寿郎プロダクション(略称:寛プロ)を設立。独立の理由には、鞍馬天狗を巡るマキノとの軋轢があった。この独立に際して長三郎の名を返上し、葉村屋の宗家の名跡である「璃寛」からとった「嵐寛壽郎」を名乗り、以来生涯この名で通す。しかし、設立第5作の『鬼神の血煙』をもって寛プロは解散した。
1929年(昭和4年)2月、東亜キネマ京都撮影所にスター級幹部俳優として迎えられた。同年、『右門一番手柄 南蛮幽霊』でむっつり右門を初めて演じ、鞍馬天狗と並ぶ当り役となった。
1931年(昭和6年)5月、寛プロ名義、東亜キネマの配給で『都一番風流男』を発表。同年8月に東亜キネマ京都撮影所長の高村正次とともに東亜を退社。第2次寛プロを設立し、7年後の解散までに鞍馬天狗、むっつり右門、銭形平次を演じたほか、山中貞雄を抜擢して『磯の源太 抱寝の長脇差』『小笠原壱岐守』にも主演。寛プロ時代の代表作との声も高い。
しかし、1937年(昭和12年)8月に寛プロは解散した。剛毅な性格だったアラカンは、この「寛プロ」合流に前後して新興キネマの身売り話が持ち上がったことにかこつけて、新興側の永田雅一が寛寿郎に対して「寛プロ」解散費用を全負担し、「八千円の給料」と言う破格の条件で入社をもちかけたところ、「従業員はほっといてお前だけ来い」との永田の一言に激怒。永田と衝突した結果、アラカンは自社の従業員を新興に送り込んで、自身は半年ほど映画界から追放された。従姉妹の森光子は「おとなしいような顔をして、その実は大変な反逆児なんですね。永田雅一さんにさからうなんて、当時考えられないころです。それで一時にせよ映画スターをやめちゃったんですから、あの方は徹底してるんです」と述懐している。
1938年(昭和13年)、日活京都撮影所に入社。ここでも鞍馬天狗とむっつり右門を演じ、ほかにも『出世太閤記』『海援隊』等の佳作に出演した。
1942年(昭和17年)、日活が戦時統合により大映に改組されたことで、大映京都撮影所へ移る。同年の『鞍馬天狗』(伊藤大輔監督)が大映移籍後の主演第1作となる。同作の立ち回りでは「裾さばきが乱れないこと」が特徴とされ、「林長二郎と同じく女形出身だから」と、どんなチャンバラでも裾の乱れは見せなかった。同作で伊藤監督は、アラカンに百メートル疾走する立ち回りを要求し、出来あがった映画で裾さばきが乱れていないことに感心し、「あれもほんとうのわざおぎです」と評している。このころから、一座を組み中国大陸の慰問活動を熱心に行っている。
1948年(昭和23年)、大映京都を退社してフリーとなる。この頃はGHQのチャンバラ禁止令により剣戟映画の製作が禁止されていたため、『私刑』等の現代劇に出演していた。1950年(昭和25年)、綜芸プロダクションを設立。
1956年(昭和31年)、新東宝に入社。新東宝では数少ないスター俳優として活躍し、翌1957年(昭和32年)公開の『明治天皇と日露大戦争』では明治天皇を演じる。同作では、大蔵貢社長じきじきに「日本映画界初の天皇俳優にならんか」とこの役を持ちかけられ、当初乃木希典役と思っていたアラカンは余りの大役に戸惑いつつも、御真影や説話のイメージ通りの威厳ある明治天皇を演じて話題となり、作品は空前の大ヒットを記録する。続けて『天皇・皇后と日清戦争』『明治大帝と乃木将軍』でも明治天皇を演じている。ほか、『大東亜戦争と国際裁判』では東條英機、『皇室と戦争とわが民族』では神武天皇を演じるなど歴史上の大人物を演じることが多かった。
1961年(昭和36年)に新東宝が倒産すると、以後はどこにも専属せず、脇役に回った。
新東宝倒産後は、主に東映任侠映画や松竹・日活のヤクザ・ギャング映画に多く出演した。1965年(昭和40年)からは、『網走番外地』で「八人殺しの鬼寅」を演じ、同シリーズを通しての当たり役となる。
1968年(昭和43年)、今村昌平監督の『神々の深き欲望』に出演。毎日映画コンクールで男優助演賞を受賞した。
この時期からテレビ界にも進出し、テレビドラマにも時折ゲストで出演した。それらのいずれも脇役ながら俳優としての存在感は健在だった。1972年(昭和47年)には『変身忍者嵐』で百地三太夫を演じる。当時は『仮面ライダー』に始まる変身ヒーロー・仮面ヒーローのブームのさなかで、「変身ヒーローの元祖が変身番組に出演」と、その登場は話題となった。
最晩年も活躍し続け、『男はつらいよ 寅次郎と殿様』や『ダイナマイトどんどん』などに出演。後者と『オレンジロード急行』の演技では第2回日本アカデミー賞優秀男優賞を受賞している。
1979年(昭和54年)夏ごろに脳血栓で倒れ京都市西京区の自宅で療養していたが、1980年10月21日に死去した。77歳没。
幼少時より、祖母から踊りを仕込もうとされたが、これを嫌って琵琶湖疎水で泳いでばかりいた。このため中耳炎を患い、以来、左耳が難聴となる。若いころから無口だったのはこの難聴のせいだった。
私生活では5回の結婚と4回の離婚とを繰り返したが、別れるたびに前妻に全財産と家屋敷を譲り渡していた。最晩年も40歳年下の久子夫人を伴侶としていた。アラカン自身は「モテたんちゃう。買いに行ったん。映画(界)入ったら月給は三倍やでん。使い道あらへん。これがいかんでしたわ。それから獄道ですワ」と語っている。稲垣浩は求婚した女性が、アラカンの「何番目かの」愛人だったことがあったという。 金銭面には無頓着で、生涯遊べるだけの金を稼ぎながら、財産はほとんど残さなかった。一つには、前述したように離婚のたびに全財産を譲り渡していたこともさることながら、もう一つは面倒見のよさからだった。戦死した「寛寿郎プロ」時代のスタッフの仏前へ、自費で一軒ずつ全国を回って香典をそなえたりと、スタッフへの物心双方の援助も惜しまなかった。新東宝の最後までつきあっているのもスタッフを捨て置けなかったからだった。
その反面、自身は贅沢が嫌いで、衣装道楽も縁がなく、和服も2、3着より持たず、背広も靴も既製品、煙草はマッチ派だった。戦前の全盛期でも自宅から撮影所まで自家用車を使わず京福電鉄嵐山線を利用、戦後はもっぱら円タクを使った。「映画会社の社長はん、ゴルフする暇あったらパチンコせいとは言わんが円タクに乗るべしや」と語っている。円タクで支払いの際に「ワテ嵐寛壽郎ダ」と言えば運転手がファンになる、これが庶民派のアラカン流だった。付き人の嵐寿之助は「盗人に入られても、“警察に届けたらあかんで、折角ゼニつかんで喜んでるのに、気の毒やさかい”という人ですからね。...“他人のためには金は惜しまん、おのれは最低必要なものがあればよい”という精神、これ昔からなんですわ。神様みたいな人です」と証言している。
寛寿郎プロ解散直後、本気で雲隠れに洋行を考えていたが、洋食嫌いの理由で断念した。かなりの偏食で、洋食は一切受けつかなかった。アラカン自身ナイフとフォークを使って肉を食べる習慣が野蛮なものと嫌悪し、味の面でも「ナマリブシみたいなん切らしたら死んでしまいます。トンカツぐらいでんな。西洋料理で口にあうのは」と語っている。日本料理専門だが、それも火が通ったものだけで、刺身も寿司もうけつけなかった。
1939年、琵琶湖の天寅飛行場から大阪湾へ、テスト飛行に無事合格、世間をアッと言わせた。アラカンは運動神経が良く、飛行機だけでなくオートバイや自動車も運転できた。稲垣浩によると、大スタアの中で、自動車に乗れる人は当時ほとんどいなかったという。
嵐寛の立ち回りは「見せる立ち回り」という点で、「アラカンに勝る剣戟スタアは戦前戦後を通じていない」とまで評された。「バンツマ(阪東妻三郎)の立ち回りは悲愴豪壮、大河内傳次郎八方破れ、アラカンは「さばきの美事さ」と定評がある。必殺の白刃を息もつがせず手首の返しで繰り出してくる、切先が銀蛇のようにしない、上段から下段へなぎ立てる。胸元まで来ていま一つのび、蝶のごとく舞う」。
1929年、アメリカの活劇俳優のダグラス・フェアバンクス夫妻が来日の折、滞在先の京都ホテルでアラカンは英語のスピーチをし、「わてが映画俳優として最初に英語で挨拶したんだす」と後年まで自慢していた。なお、そのときの言葉は「ウェルカム・ダゴラス!」のみであった。
寛プロ解散後、しばらくアラカンは無聊を託っていた。元来新しい物好きで自家用車に凝っていたこともあるアラカンは、二等飛行操縦士のライセンスを取り、ドイツ製のフォッカーを購入、自家用飛行機を持つまでに至った。このライセンスを生かし、遊覧飛行のアルバイトをしていたとき、客から「アラカンや、飛行機屋とはけしからん!」と騒がれたことがある。咄嗟に人違いだと言って取り繕ったものの、腹が立って収まらず、「せやけど、聞きずてならへん。アラカンやったらなんでアカンねん。金払ろてとっと去ね!」とやりかえしたという。後年、「役者やっとったらこうはいきまへん。稼ぎは別として、楽しい毎日やった」と述懐している。
1951年、鞍馬天狗の杉作役で共演した美空ひばりについて、「美空ひばりにはたまげた。まあいうたら子供の流行歌手ですよってな、多くは期待しませんでした。かわゆければよいと、ところがそんなもんやない。...男やない女の色気を出しよる。あの山田五十鈴に対抗しよる」と感服し、女優としてのその才能を認めていた。
1957年、『明治天皇と日露大戦争』で明治天皇を演じるが、これを受けた一番大きな動機として、「シネマスコープ、これに心が動きましたんや」と語っている。映画は大ヒットし、アラカンによると封切りで8億円稼いだ。すると大蔵貢新東宝社長がアラカンを新橋の料亭に招き、「寛寿郎くん、ご苦労でした」と10万円くれた。アラカンはこれを「アセモ代のボーナス」だと思っていたところ、「あとで東劇で凱旋興行をやるから衣装を着けて挨拶してくれ」との話になった。アラカンは「あの10万円ギャラやったんか、すまんがそらお断りや、皇室利用して銭儲けしてもわての知ったこっちゃない、せやけど少しは遠慮しなはれ、明治天皇サンドイッチマンにする了見か」と、大蔵の商魂に舌を巻いている。
アラカンが『網走番外地』の老侠客、鬼寅親分を当たり役としていた1960年代に、趣味の競艇に行ったところ、組関係者から丁重に挨拶され、「どうぞ」とわざわざ貴賓室に案内された。アラカンは「鬼寅親分のおかげや。ファンなんだその連中、冬などはまことによろしい。ガラス張りであたたかい、毎度心地よう利用させてもろてます」と喜んでいた。鬼寅は、ロケ地の網走刑務所でも見物していた囚人たちから「アラカン!頑張れ!」と声援が飛び、アラカンを感激させたほどの気の入った役だった。『直撃地獄拳 大逆転』(1974年)でも、ラストの網走刑務所のシーンの締めのためにわざわざアラカンに鬼寅役で1シーン登場させるほど、当時の鬼寅役は知名度の高いものだった。
1968年の『神々の深き欲望』では、実の娘を犯して、彼女を妊娠させ子供を産ませたという鞍馬天狗とは正反対の汚れ役を演じ、映画生活42年目にして映画で初めて賞を受賞した。この役は当初早川雪洲が演じる予定であったが、諸事情により早川が降板。他の俳優を探していたところ、アラカンにオファーが回ってきたが、その役柄に嫌悪感を感じ乗り気がせず一旦拒否する。しかしその後の今村昌平監督の執拗な出演依頼にやむを得ず出演をしたとの事である。この作品の演出指導はかなり苛酷なもので、今村監督にいきなり「あんたは今まで主演ばっかりやっていたから、人の顔見てものを言わない。自分のアップだけしか考えていない」、「役者は相手を見てものを言うもんや。相手と対話して初めて映画になる。お前は一人で目ェむいてる」と言われたという。また撮影時にアラカンが「カメラはどっちや?」と尋ねると今村昌平監督が「こっちや」と明らかに違う方向を指差す等、その演出指導にほとほと嫌気がさしアラカンは何度も現場放棄をしたが、結局撮影に舞い戻ってくるという逸話を残している。
『男はつらいよ 寅次郎と殿様』は、『トラック野郎』と同時にオファーがあり、迷った上での出演であった。甥の山本竜二によると、どちらに出演すべきか相談を持ちかけられ、山本は、「そら先生、寅さんでっしゃろ。国民的映画ですがな」と背中を押してみたが、「せやけど、菅原文太には、新東宝の義理があるさかいなぁ...」と気に掛けていた。が、「後で、トラック野郎にもちゃっかり出演してはりました」と山本は語っている。
医者から高血圧の予防に「くるみの実を手の中で転がしておくように」と言われ、どうせならと、パチンコ店に通い始めた。「趣味と実益と健康と、一石三鳥というわけだ。」と本人は嘯き、なかなかの腕前であった。だがマスコミにパチンコの趣味を暴露されてからは、店内で「先生どうぞ」と、玉のサービスをしてもらったり、桂米朝のNHKビッグショー出演のギャラにパチンコ玉交換券を貰うなどの目にあい、アラカンは「有難迷惑や」と苦笑していた。
落語家林家木久扇の憧れの人であり、『笑点』でも時々アラカンの物まねをする。また、三波伸介が司会していた当時に番組のコーナー「伸介のなんでもコーナー」(1975年7月6日放送)にゲスト出演した際に木久扇(当時木久蔵)と共演した。
水木しげるの漫画作品になぜかよく登場していて、タコに子供を生ませたり、鬼太郎とともに妖怪を退治したこともある。
マキノで撮った1927年の初作『鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子』から、1956年の『疾風!鞍馬天狗』までの実に30年の長きにわたり、アラカンは40本もの『鞍馬天狗』映画に主演している。もっともこれは確認漏れもあり、アラカン自身は「46本のはずだ」と述べている。一方、「庶民のスタア」だったアラカンは批評家からは「アラカンといえばB級・娯楽版、お子様ランチ」などと差別された一面もあった。
アラカンは当たり役『鞍馬天狗』を引き受けた理由として、杉作という子供のキャラクターを挙げ、「昔から、子供の出る芝居は必ず当たるんですね。“先代萩”ありますやろ。チャップリンの“キッド”ありますやろ。子供が出るので、こりゃいけると思いまして、出さしてもらいますと返事しました。子供使うの得や。思ったとおり、大当たりとりました」と語っている。
長三郎時代からアラカンの殺陣は軽快で「スポーツ剣戟」と評されたこともあった。マキノ雅弘はアラカンの殺陣について「わりあいリアルで伸びが良かった」と語っている。稲垣浩によると、立ち回りで相手に刀(竹光)をパチーンとぶつけることで有名だった。一度立ち回りの際に気合いで六尺棒を竹光で真っ二つに斬ったこともあったという。
鞍馬天狗の立ち回りについては決して下着を見せなかった。「女形をやってましたから、これが結果としてよかったのでしょう。女形の裾さばきちゅうもんはチャンバラと合うんですワ。でも私には、人を斬ったるという気がありました。竹光だから斬れへん。周りは弟子がかためましたから、遠慮いりまへん。弟子にはずいぶん怪我さしてます。でも他人には怪我さしてません」と語っている。
そんなアラカンが一番怖かったのは大河内傳次郎だったという。「私の時に限って真剣使うんですワ。一番仲良かったけど、やっぱり気構えが違うんですな。いつも大河内さんは近藤勇の役で、しかもあの人、近眼でっしゃろ。怖かったですよ」。
1928年に寛寿郎が「マキノ御室撮影所」を退社したが、これは『角兵衛獅子功名帖』を「鞍馬天狗最終作」と会社側が勝手に決めてしまったことが最大の理由であった。また理由はこれだけではなく、折しもこの年マキノ省三が伊井蓉峰を主役に起用して『忠魂義烈 実録忠臣蔵』を制作しアラカンも出演したが、新派の大物である伊井の尊大な態度や監督の指示を聞かない勝手な演技などの我がままを、マキノたちスタッフが招聘した手前どうにもできずに容認していたことを目の当たりにし、このことへの不満も、アラカンに退社の決意を固めさせた要因であったという。
その後、戦中戦後の混乱や空白も乗り越えて、約30年にわたってアラカンは数々の『鞍馬天狗』を制作し演じていたが、1954年、原作者の大佛次郎が自ら『鞍馬天狗』映画の製作に乗り出した。この際にアラカンに不満を言い鞍馬天狗役を封印させたが、大佛の手掛けた、小堀明男を主演に据えた『新鞍馬天狗』は結局、日本映画史に残るとまで言われる(それどころか、作家としての大佛自身の評価にまで傷がつく程の)大失敗作に終わり、『新鞍馬天狗』で映画館が被った損失の補填というとんだあおりを食らってアラカンは代理で2本出る羽目になっている。このときも「言うたら悪いが、生きてる天狗はわてがつくった。」とアラカンは、暗に大佛次郎を非難している。
人物伝としては、この奇骨の人物を愛した竹中労による『鞍馬天狗のおじさんは - 聞き書きアラカン一代』がある。晩年のインタビューによると原作者の「天狗が人を斬りすぎる」という意見に対して、アラカンは「活動大写真」(アラカンの表現)としての立場から同意していない。
アラカンの、鞍馬天狗についで有名なキャラクターは38本撮ったむっつり右門である。唇をへの字に曲げて腰を開いて、さァ来いと構えても、右門は「ヤー」とも「オー」とも言わない。無声映画であるから声は聞こえずともよいが、何も言わない顔がかえって迫力があると大いに受けた。アラカンは子供のころからアメリカの喜劇映画が大好きで、「自分がむっつり屋だから」と、「むっつり屋」のキートンがごひいきだった。
アラカンは右門について、「これも自分に合うと思いました。昔はしゃべるのがイヤで、いつも、むっつりやったから。キートン、バスター・キートン、あの人ちっとも笑いまへん。これでいこう! と思いました、はい」と語っている。
映画プロデューサーとして、アラカンの制作姿勢は前衛的だった。1931年には、最初の色彩時代劇である、『京一番風流男』(仁科熊彦監督)をパートカラーで撮り、1935年には『春霞八百八町』(マキノ正博監督)で真っ先に国産トーキー・映音システムを採用している。
1928年に、マキノ映画のスターたち6人が独立してそれぞれプロダクションを興したが、20mも離れていなかった千恵プロと寛寿郎プロは対抗意識が強く、プロぐるみで反目し合っていた。結局この2つのプロダクションだけが生き残ることとなっている。自らが映画プロデューサーを務めたこの寛寿郎プロでは、1938年公開の『出世太閤記』を「よろしおしたな。あの映画は一生の思い出ドス。」と語っている。
この作品でアラカンは自ら御殿場ロケで使う馬の交渉に当たり、また実現しなかったが阪東妻三郎に信長役での出演を頼みに、阪妻邸まで出かけていって頭を下げたりと精力的にプロデューサー役に務めた。稲垣浩は「山中貞雄を発見したのもそういう情熱があったからだろう」と語っている。そんなアラカンも晩年は「ちかごろの時代劇アキマセンな。なんでこないなことになったのドスやろ」と嘆いていたという。 | [
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"text": "嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう、新字体:寛寿郎、本名:高橋 照一(たかはし てるいち)、1902年〈明治35年〉12月8日 - 1980年〈昭和55年〉10月21日)は、日本の映画俳優、映画プロデューサーである。",
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"text": "戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、300本以上の映画に出演し、「アラカン」の愛称で親しまれた。同時代の時代劇スターの阪東妻三郎、大河内傳次郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。当たり役は鞍馬天狗と『右門捕物帖』のむっつり右門で、前者は40本、後者は36本シリーズ化されている。また、新東宝の『明治天皇と日露大戦争』では、俳優の中で初めて天皇を演じて話題となった(本作では明治天皇を演じた)。晩年は東映任侠映画で助演し、テレビドラマでも活躍した。",
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"text": "祖父は文楽の人形遣いの初代桐竹紋十郎。叔父は俳優の六代目嵐徳三郎。従妹は女優の森光子で、甥にAV男優の山本竜二がいる。自宅は嵐山にあった。",
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"text": "1902年(明治35年)12月8日、京都市木屋町三条下ルに生まれる。「無芸だった」という父親が奉公していた手前、縄手に住む祖母(夫が桐竹紋十郎)の経営する料理旅館「葉村屋」に預けられた。",
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"text": "満十歳の時、母親の「芸事より固い商売を」との方針で、弥栄尋常小学校を五年で中退、七條大宮の衿屋に丁稚奉公させられる。「睡眠5時間、おかずは沢庵二切れのみ、月給一円、休みは月に一度だけ」という殺人的重労働に「まるで留置場やった」と述懐している。",
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"text": "丁稚時代、月に一度の休日に活動写真を観に行くことだけが愉しみで、尾上松之助の忍術トリック映画や、ニコニコ大会(バスター・キートン、チャールズ・チャップリン、ハロルド・ロイドの混載興行)に熱中していた。のちに、チャップリンの「キッド」が鞍馬天狗と杉作とのからみに、キートンの無表情さがむっつり右門の演技に、それぞれ大きな影響になったと述懐している。",
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"text": "1919年(大正8年)、手代から番頭に出世しようという17歳のときに、主人が死去。一から丁稚のやり直しは御免と、祖母に頼んで愛知県岡崎市で巡業中の片岡松之助の一座に加入。「食事は卵に味噌汁付き、給金五円」の待遇に「丁稚奉公のツキイチとは雲泥の差やった」と述べている。一座ではちょうど片岡義士劇の大石主悦役の役者が女をこしらえ逐電したところで、「嵐徳太郎」の芸名をもらい、数えで18歳でいきなり主悦役の初舞台を踏む。この義士劇にはチャンバラがあり、ここで殺陣を覚えた。",
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"text": "当人はこれでかなり自惚れたというが、片岡義士劇では役はいつまでたっても大石主悦役のみだった。「飲む打つ買う」の巡業生活に染まって、オイチョカブに誘われ、松江の巡業先で大事な衣装の紋付まで質に入れる大負けとなり、着の身着のまま京都へ逃げ帰る。",
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"text": "1921年(大正10年)、初代中村扇雀(中村鴈治郎)一座の、当時「ちんこ芝居」と呼ばれた「関西青年歌舞伎」に加わり、女形となる。ここには市川寿之助のほか、のちに映画に移る市川百々之助、市川右一(のちの市川右太衛門)、林長丸(のちの長谷川一夫)など将来のライバルたちが同期生所属していて、百々之助、右太衛門、長丸、アラカンの四人が揃って腰元役で舞台を踏んだこともあったという。「不謹慎にいえば、オイチョカブのおかげで桧舞台を踏むことがでけた」と語っている。芝居の世界は女買いが盛んで、若い徳太郎は酒は飲めなかったが「モテにモテて」、粋筋から引く手あまただったが、女郎を買うときは必ず根引き(独占)にしていた。",
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"text": "1923年(大正12年)、腰元役ばかりでうだつの上がらぬ現状に不満を抱き、「桐竹紋十郎の孫なんぞ大歌舞伎の世界では通用しない」と悟った嵐徳太郎は、「二流の小屋でもいいから芝居らしい芝居がしたい」と東京宮戸座で「大衆歌舞伎」を掲げた叔父の徳三郎の一座に加入。この夏、好きになった年増の芸妓と駆け落ちを決意。出奔の当日9月1日正午に関東大震災が発生。結局女も金も失い、失意のまま京都へ戻り、「しばらくふぬけていた」という。",
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"text": "しばらくして叔父の徳三郎が東京から引き揚げ、先々代片岡仁左衛門を「うわのせ(特別出演)」して、大阪松島の八千代座での旗揚げ公演を決定。誘いをかけてきた。母親も態度を変えて勧めたので、「月給百五十円」で加入を決意。屋号を葉村屋、叔父徳三郎から「嵐和歌太夫」の芸名をもらう。この一座で片岡千栄蔵(のちの片岡千恵蔵)と鏡台を並べる。",
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"text": "1926年(大正15年)、芸妓に振られ自棄気味だった和歌太夫は女出入りが激しく、ついに淋病に罹り、子種を失うこととなる。入院中は「煙草三箱」で千栄蔵に代役を頼んだ。難聴のおかげで徴兵検査を丙種失格となる。",
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"text": "1927年(昭和2年)、癇癪持ちの片岡仁左衛門が、「奴」を踊った千栄蔵(片岡千恵蔵)を「貴様は鈍な役者だ」と真剣の峰で殴った。このときそばで見ていた和歌太夫は「男の面態を!」と心が寒くなり、「阿呆でも名門のセガレは出世がでける、才能があっても家系がなければ一生冷や飯喰わされる、こんな世界に何の未練もない」と思ったという。",
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"text": "この事件が起こったころに、ポスター会社の清正堂を通して、マキノ省三が映画界入りを誘ってきた。マキノ監督は独立した市川右太衛門の後釜として「月給八百円」(当時家が一軒買えた)の高待遇を提示。「丁稚奉公と同じや、ウソで塗り固められた徒弟制度の枠の中で主人の顔色をうかがって、犬のように餌をもらう生活は御免や」と考えていた和歌太夫は、北陸の巡業先から逐電し、同年3月にマキノ・プロダクション御室撮影所に入社した。",
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"text": "マキノへ行くと、「この中のどの役をやってみたい?」と雑誌「少年倶楽部」を渡された。嵐が選んだのが鞍馬天狗である。天狗役が決まるとマキノ監督は「俺がつけたる」と、剣の持ち方から立ち回りまで、殺陣の特訓をしてくれた。芸名は「嵐はそのままでええ、こうつと名前やな、叔父貴からもらえ、お前顔が長いよって長三郎にしとけ」と「嵐長三郎」の名を与えられた。片岡千恵蔵に一日遅れた入社だった。",
"title": "来歴"
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"text": "4月、マキノ御室撮影所製作の『鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子』でデビュー。脚本は売り出し中の山上伊太郎、撮影は名キャメラマンと謳われた三木稔と、マキノ最高のスタッフで固められたデビュー作だった。それから鞍馬天狗は彼の当たり役となった。",
"title": "来歴"
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"text": "以降マキノの看板スターとして、在籍一年半足らずで27本の映画に主演。『鞍馬天狗』シリーズのほか『鳴門秘帖』『百万両秘聞』でもヒットを飛ばした。",
"title": "来歴"
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"text": "1928年(昭和3年)4月、『新版大岡政談 前編・中篇』の2作で丹下左膳を演じたのを最後に、マキノから独立、嵐寛寿郎プロダクション(略称:寛プロ)を設立。独立の理由には、鞍馬天狗を巡るマキノとの軋轢があった。この独立に際して長三郎の名を返上し、葉村屋の宗家の名跡である「璃寛」からとった「嵐寛壽郎」を名乗り、以来生涯この名で通す。しかし、設立第5作の『鬼神の血煙』をもって寛プロは解散した。",
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"text": "1929年(昭和4年)2月、東亜キネマ京都撮影所にスター級幹部俳優として迎えられた。同年、『右門一番手柄 南蛮幽霊』でむっつり右門を初めて演じ、鞍馬天狗と並ぶ当り役となった。",
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"paragraph_id": 20,
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"text": "1931年(昭和6年)5月、寛プロ名義、東亜キネマの配給で『都一番風流男』を発表。同年8月に東亜キネマ京都撮影所長の高村正次とともに東亜を退社。第2次寛プロを設立し、7年後の解散までに鞍馬天狗、むっつり右門、銭形平次を演じたほか、山中貞雄を抜擢して『磯の源太 抱寝の長脇差』『小笠原壱岐守』にも主演。寛プロ時代の代表作との声も高い。",
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"text": "しかし、1937年(昭和12年)8月に寛プロは解散した。剛毅な性格だったアラカンは、この「寛プロ」合流に前後して新興キネマの身売り話が持ち上がったことにかこつけて、新興側の永田雅一が寛寿郎に対して「寛プロ」解散費用を全負担し、「八千円の給料」と言う破格の条件で入社をもちかけたところ、「従業員はほっといてお前だけ来い」との永田の一言に激怒。永田と衝突した結果、アラカンは自社の従業員を新興に送り込んで、自身は半年ほど映画界から追放された。従姉妹の森光子は「おとなしいような顔をして、その実は大変な反逆児なんですね。永田雅一さんにさからうなんて、当時考えられないころです。それで一時にせよ映画スターをやめちゃったんですから、あの方は徹底してるんです」と述懐している。",
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"text": "1938年(昭和13年)、日活京都撮影所に入社。ここでも鞍馬天狗とむっつり右門を演じ、ほかにも『出世太閤記』『海援隊』等の佳作に出演した。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "1942年(昭和17年)、日活が戦時統合により大映に改組されたことで、大映京都撮影所へ移る。同年の『鞍馬天狗』(伊藤大輔監督)が大映移籍後の主演第1作となる。同作の立ち回りでは「裾さばきが乱れないこと」が特徴とされ、「林長二郎と同じく女形出身だから」と、どんなチャンバラでも裾の乱れは見せなかった。同作で伊藤監督は、アラカンに百メートル疾走する立ち回りを要求し、出来あがった映画で裾さばきが乱れていないことに感心し、「あれもほんとうのわざおぎです」と評している。このころから、一座を組み中国大陸の慰問活動を熱心に行っている。",
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"text": "1948年(昭和23年)、大映京都を退社してフリーとなる。この頃はGHQのチャンバラ禁止令により剣戟映画の製作が禁止されていたため、『私刑』等の現代劇に出演していた。1950年(昭和25年)、綜芸プロダクションを設立。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "1956年(昭和31年)、新東宝に入社。新東宝では数少ないスター俳優として活躍し、翌1957年(昭和32年)公開の『明治天皇と日露大戦争』では明治天皇を演じる。同作では、大蔵貢社長じきじきに「日本映画界初の天皇俳優にならんか」とこの役を持ちかけられ、当初乃木希典役と思っていたアラカンは余りの大役に戸惑いつつも、御真影や説話のイメージ通りの威厳ある明治天皇を演じて話題となり、作品は空前の大ヒットを記録する。続けて『天皇・皇后と日清戦争』『明治大帝と乃木将軍』でも明治天皇を演じている。ほか、『大東亜戦争と国際裁判』では東條英機、『皇室と戦争とわが民族』では神武天皇を演じるなど歴史上の大人物を演じることが多かった。",
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"text": "1961年(昭和36年)に新東宝が倒産すると、以後はどこにも専属せず、脇役に回った。",
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"text": "新東宝倒産後は、主に東映任侠映画や松竹・日活のヤクザ・ギャング映画に多く出演した。1965年(昭和40年)からは、『網走番外地』で「八人殺しの鬼寅」を演じ、同シリーズを通しての当たり役となる。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "1968年(昭和43年)、今村昌平監督の『神々の深き欲望』に出演。毎日映画コンクールで男優助演賞を受賞した。",
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"paragraph_id": 29,
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"text": "この時期からテレビ界にも進出し、テレビドラマにも時折ゲストで出演した。それらのいずれも脇役ながら俳優としての存在感は健在だった。1972年(昭和47年)には『変身忍者嵐』で百地三太夫を演じる。当時は『仮面ライダー』に始まる変身ヒーロー・仮面ヒーローのブームのさなかで、「変身ヒーローの元祖が変身番組に出演」と、その登場は話題となった。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "最晩年も活躍し続け、『男はつらいよ 寅次郎と殿様』や『ダイナマイトどんどん』などに出演。後者と『オレンジロード急行』の演技では第2回日本アカデミー賞優秀男優賞を受賞している。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "1979年(昭和54年)夏ごろに脳血栓で倒れ京都市西京区の自宅で療養していたが、1980年10月21日に死去した。77歳没。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "幼少時より、祖母から踊りを仕込もうとされたが、これを嫌って琵琶湖疎水で泳いでばかりいた。このため中耳炎を患い、以来、左耳が難聴となる。若いころから無口だったのはこの難聴のせいだった。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "私生活では5回の結婚と4回の離婚とを繰り返したが、別れるたびに前妻に全財産と家屋敷を譲り渡していた。最晩年も40歳年下の久子夫人を伴侶としていた。アラカン自身は「モテたんちゃう。買いに行ったん。映画(界)入ったら月給は三倍やでん。使い道あらへん。これがいかんでしたわ。それから獄道ですワ」と語っている。稲垣浩は求婚した女性が、アラカンの「何番目かの」愛人だったことがあったという。 金銭面には無頓着で、生涯遊べるだけの金を稼ぎながら、財産はほとんど残さなかった。一つには、前述したように離婚のたびに全財産を譲り渡していたこともさることながら、もう一つは面倒見のよさからだった。戦死した「寛寿郎プロ」時代のスタッフの仏前へ、自費で一軒ずつ全国を回って香典をそなえたりと、スタッフへの物心双方の援助も惜しまなかった。新東宝の最後までつきあっているのもスタッフを捨て置けなかったからだった。",
"title": "人物"
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"text": "その反面、自身は贅沢が嫌いで、衣装道楽も縁がなく、和服も2、3着より持たず、背広も靴も既製品、煙草はマッチ派だった。戦前の全盛期でも自宅から撮影所まで自家用車を使わず京福電鉄嵐山線を利用、戦後はもっぱら円タクを使った。「映画会社の社長はん、ゴルフする暇あったらパチンコせいとは言わんが円タクに乗るべしや」と語っている。円タクで支払いの際に「ワテ嵐寛壽郎ダ」と言えば運転手がファンになる、これが庶民派のアラカン流だった。付き人の嵐寿之助は「盗人に入られても、“警察に届けたらあかんで、折角ゼニつかんで喜んでるのに、気の毒やさかい”という人ですからね。...“他人のためには金は惜しまん、おのれは最低必要なものがあればよい”という精神、これ昔からなんですわ。神様みたいな人です」と証言している。",
"title": "人物"
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"text": "寛寿郎プロ解散直後、本気で雲隠れに洋行を考えていたが、洋食嫌いの理由で断念した。かなりの偏食で、洋食は一切受けつかなかった。アラカン自身ナイフとフォークを使って肉を食べる習慣が野蛮なものと嫌悪し、味の面でも「ナマリブシみたいなん切らしたら死んでしまいます。トンカツぐらいでんな。西洋料理で口にあうのは」と語っている。日本料理専門だが、それも火が通ったものだけで、刺身も寿司もうけつけなかった。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "1939年、琵琶湖の天寅飛行場から大阪湾へ、テスト飛行に無事合格、世間をアッと言わせた。アラカンは運動神経が良く、飛行機だけでなくオートバイや自動車も運転できた。稲垣浩によると、大スタアの中で、自動車に乗れる人は当時ほとんどいなかったという。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "嵐寛の立ち回りは「見せる立ち回り」という点で、「アラカンに勝る剣戟スタアは戦前戦後を通じていない」とまで評された。「バンツマ(阪東妻三郎)の立ち回りは悲愴豪壮、大河内傳次郎八方破れ、アラカンは「さばきの美事さ」と定評がある。必殺の白刃を息もつがせず手首の返しで繰り出してくる、切先が銀蛇のようにしない、上段から下段へなぎ立てる。胸元まで来ていま一つのび、蝶のごとく舞う」。",
"title": "人物"
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"text": "1929年、アメリカの活劇俳優のダグラス・フェアバンクス夫妻が来日の折、滞在先の京都ホテルでアラカンは英語のスピーチをし、「わてが映画俳優として最初に英語で挨拶したんだす」と後年まで自慢していた。なお、そのときの言葉は「ウェルカム・ダゴラス!」のみであった。",
"title": "エピソード"
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"text": "寛プロ解散後、しばらくアラカンは無聊を託っていた。元来新しい物好きで自家用車に凝っていたこともあるアラカンは、二等飛行操縦士のライセンスを取り、ドイツ製のフォッカーを購入、自家用飛行機を持つまでに至った。このライセンスを生かし、遊覧飛行のアルバイトをしていたとき、客から「アラカンや、飛行機屋とはけしからん!」と騒がれたことがある。咄嗟に人違いだと言って取り繕ったものの、腹が立って収まらず、「せやけど、聞きずてならへん。アラカンやったらなんでアカンねん。金払ろてとっと去ね!」とやりかえしたという。後年、「役者やっとったらこうはいきまへん。稼ぎは別として、楽しい毎日やった」と述懐している。",
"title": "エピソード"
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"text": "1951年、鞍馬天狗の杉作役で共演した美空ひばりについて、「美空ひばりにはたまげた。まあいうたら子供の流行歌手ですよってな、多くは期待しませんでした。かわゆければよいと、ところがそんなもんやない。...男やない女の色気を出しよる。あの山田五十鈴に対抗しよる」と感服し、女優としてのその才能を認めていた。",
"title": "エピソード"
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"text": "1957年、『明治天皇と日露大戦争』で明治天皇を演じるが、これを受けた一番大きな動機として、「シネマスコープ、これに心が動きましたんや」と語っている。映画は大ヒットし、アラカンによると封切りで8億円稼いだ。すると大蔵貢新東宝社長がアラカンを新橋の料亭に招き、「寛寿郎くん、ご苦労でした」と10万円くれた。アラカンはこれを「アセモ代のボーナス」だと思っていたところ、「あとで東劇で凱旋興行をやるから衣装を着けて挨拶してくれ」との話になった。アラカンは「あの10万円ギャラやったんか、すまんがそらお断りや、皇室利用して銭儲けしてもわての知ったこっちゃない、せやけど少しは遠慮しなはれ、明治天皇サンドイッチマンにする了見か」と、大蔵の商魂に舌を巻いている。",
"title": "エピソード"
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"text": "アラカンが『網走番外地』の老侠客、鬼寅親分を当たり役としていた1960年代に、趣味の競艇に行ったところ、組関係者から丁重に挨拶され、「どうぞ」とわざわざ貴賓室に案内された。アラカンは「鬼寅親分のおかげや。ファンなんだその連中、冬などはまことによろしい。ガラス張りであたたかい、毎度心地よう利用させてもろてます」と喜んでいた。鬼寅は、ロケ地の網走刑務所でも見物していた囚人たちから「アラカン!頑張れ!」と声援が飛び、アラカンを感激させたほどの気の入った役だった。『直撃地獄拳 大逆転』(1974年)でも、ラストの網走刑務所のシーンの締めのためにわざわざアラカンに鬼寅役で1シーン登場させるほど、当時の鬼寅役は知名度の高いものだった。",
"title": "エピソード"
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"text": "1968年の『神々の深き欲望』では、実の娘を犯して、彼女を妊娠させ子供を産ませたという鞍馬天狗とは正反対の汚れ役を演じ、映画生活42年目にして映画で初めて賞を受賞した。この役は当初早川雪洲が演じる予定であったが、諸事情により早川が降板。他の俳優を探していたところ、アラカンにオファーが回ってきたが、その役柄に嫌悪感を感じ乗り気がせず一旦拒否する。しかしその後の今村昌平監督の執拗な出演依頼にやむを得ず出演をしたとの事である。この作品の演出指導はかなり苛酷なもので、今村監督にいきなり「あんたは今まで主演ばっかりやっていたから、人の顔見てものを言わない。自分のアップだけしか考えていない」、「役者は相手を見てものを言うもんや。相手と対話して初めて映画になる。お前は一人で目ェむいてる」と言われたという。また撮影時にアラカンが「カメラはどっちや?」と尋ねると今村昌平監督が「こっちや」と明らかに違う方向を指差す等、その演出指導にほとほと嫌気がさしアラカンは何度も現場放棄をしたが、結局撮影に舞い戻ってくるという逸話を残している。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 44,
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"text": "『男はつらいよ 寅次郎と殿様』は、『トラック野郎』と同時にオファーがあり、迷った上での出演であった。甥の山本竜二によると、どちらに出演すべきか相談を持ちかけられ、山本は、「そら先生、寅さんでっしゃろ。国民的映画ですがな」と背中を押してみたが、「せやけど、菅原文太には、新東宝の義理があるさかいなぁ...」と気に掛けていた。が、「後で、トラック野郎にもちゃっかり出演してはりました」と山本は語っている。",
"title": "エピソード"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "医者から高血圧の予防に「くるみの実を手の中で転がしておくように」と言われ、どうせならと、パチンコ店に通い始めた。「趣味と実益と健康と、一石三鳥というわけだ。」と本人は嘯き、なかなかの腕前であった。だがマスコミにパチンコの趣味を暴露されてからは、店内で「先生どうぞ」と、玉のサービスをしてもらったり、桂米朝のNHKビッグショー出演のギャラにパチンコ玉交換券を貰うなどの目にあい、アラカンは「有難迷惑や」と苦笑していた。",
"title": "エピソード"
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"text": "落語家林家木久扇の憧れの人であり、『笑点』でも時々アラカンの物まねをする。また、三波伸介が司会していた当時に番組のコーナー「伸介のなんでもコーナー」(1975年7月6日放送)にゲスト出演した際に木久扇(当時木久蔵)と共演した。",
"title": "エピソード"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "水木しげるの漫画作品になぜかよく登場していて、タコに子供を生ませたり、鬼太郎とともに妖怪を退治したこともある。",
"title": "エピソード"
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{
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"text": "マキノで撮った1927年の初作『鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子』から、1956年の『疾風!鞍馬天狗』までの実に30年の長きにわたり、アラカンは40本もの『鞍馬天狗』映画に主演している。もっともこれは確認漏れもあり、アラカン自身は「46本のはずだ」と述べている。一方、「庶民のスタア」だったアラカンは批評家からは「アラカンといえばB級・娯楽版、お子様ランチ」などと差別された一面もあった。",
"title": "エピソード"
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"text": "アラカンは当たり役『鞍馬天狗』を引き受けた理由として、杉作という子供のキャラクターを挙げ、「昔から、子供の出る芝居は必ず当たるんですね。“先代萩”ありますやろ。チャップリンの“キッド”ありますやろ。子供が出るので、こりゃいけると思いまして、出さしてもらいますと返事しました。子供使うの得や。思ったとおり、大当たりとりました」と語っている。",
"title": "エピソード"
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"text": "長三郎時代からアラカンの殺陣は軽快で「スポーツ剣戟」と評されたこともあった。マキノ雅弘はアラカンの殺陣について「わりあいリアルで伸びが良かった」と語っている。稲垣浩によると、立ち回りで相手に刀(竹光)をパチーンとぶつけることで有名だった。一度立ち回りの際に気合いで六尺棒を竹光で真っ二つに斬ったこともあったという。",
"title": "エピソード"
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"text": "鞍馬天狗の立ち回りについては決して下着を見せなかった。「女形をやってましたから、これが結果としてよかったのでしょう。女形の裾さばきちゅうもんはチャンバラと合うんですワ。でも私には、人を斬ったるという気がありました。竹光だから斬れへん。周りは弟子がかためましたから、遠慮いりまへん。弟子にはずいぶん怪我さしてます。でも他人には怪我さしてません」と語っている。",
"title": "エピソード"
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"text": "そんなアラカンが一番怖かったのは大河内傳次郎だったという。「私の時に限って真剣使うんですワ。一番仲良かったけど、やっぱり気構えが違うんですな。いつも大河内さんは近藤勇の役で、しかもあの人、近眼でっしゃろ。怖かったですよ」。",
"title": "エピソード"
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"text": "1928年に寛寿郎が「マキノ御室撮影所」を退社したが、これは『角兵衛獅子功名帖』を「鞍馬天狗最終作」と会社側が勝手に決めてしまったことが最大の理由であった。また理由はこれだけではなく、折しもこの年マキノ省三が伊井蓉峰を主役に起用して『忠魂義烈 実録忠臣蔵』を制作しアラカンも出演したが、新派の大物である伊井の尊大な態度や監督の指示を聞かない勝手な演技などの我がままを、マキノたちスタッフが招聘した手前どうにもできずに容認していたことを目の当たりにし、このことへの不満も、アラカンに退社の決意を固めさせた要因であったという。",
"title": "エピソード"
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"text": "その後、戦中戦後の混乱や空白も乗り越えて、約30年にわたってアラカンは数々の『鞍馬天狗』を制作し演じていたが、1954年、原作者の大佛次郎が自ら『鞍馬天狗』映画の製作に乗り出した。この際にアラカンに不満を言い鞍馬天狗役を封印させたが、大佛の手掛けた、小堀明男を主演に据えた『新鞍馬天狗』は結局、日本映画史に残るとまで言われる(それどころか、作家としての大佛自身の評価にまで傷がつく程の)大失敗作に終わり、『新鞍馬天狗』で映画館が被った損失の補填というとんだあおりを食らってアラカンは代理で2本出る羽目になっている。このときも「言うたら悪いが、生きてる天狗はわてがつくった。」とアラカンは、暗に大佛次郎を非難している。",
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"text": "人物伝としては、この奇骨の人物を愛した竹中労による『鞍馬天狗のおじさんは - 聞き書きアラカン一代』がある。晩年のインタビューによると原作者の「天狗が人を斬りすぎる」という意見に対して、アラカンは「活動大写真」(アラカンの表現)としての立場から同意していない。",
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"text": "アラカンの、鞍馬天狗についで有名なキャラクターは38本撮ったむっつり右門である。唇をへの字に曲げて腰を開いて、さァ来いと構えても、右門は「ヤー」とも「オー」とも言わない。無声映画であるから声は聞こえずともよいが、何も言わない顔がかえって迫力があると大いに受けた。アラカンは子供のころからアメリカの喜劇映画が大好きで、「自分がむっつり屋だから」と、「むっつり屋」のキートンがごひいきだった。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 57,
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"text": "アラカンは右門について、「これも自分に合うと思いました。昔はしゃべるのがイヤで、いつも、むっつりやったから。キートン、バスター・キートン、あの人ちっとも笑いまへん。これでいこう! と思いました、はい」と語っている。",
"title": "エピソード"
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"text": "映画プロデューサーとして、アラカンの制作姿勢は前衛的だった。1931年には、最初の色彩時代劇である、『京一番風流男』(仁科熊彦監督)をパートカラーで撮り、1935年には『春霞八百八町』(マキノ正博監督)で真っ先に国産トーキー・映音システムを採用している。",
"title": "エピソード"
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"text": "1928年に、マキノ映画のスターたち6人が独立してそれぞれプロダクションを興したが、20mも離れていなかった千恵プロと寛寿郎プロは対抗意識が強く、プロぐるみで反目し合っていた。結局この2つのプロダクションだけが生き残ることとなっている。自らが映画プロデューサーを務めたこの寛寿郎プロでは、1938年公開の『出世太閤記』を「よろしおしたな。あの映画は一生の思い出ドス。」と語っている。",
"title": "エピソード"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "この作品でアラカンは自ら御殿場ロケで使う馬の交渉に当たり、また実現しなかったが阪東妻三郎に信長役での出演を頼みに、阪妻邸まで出かけていって頭を下げたりと精力的にプロデューサー役に務めた。稲垣浩は「山中貞雄を発見したのもそういう情熱があったからだろう」と語っている。そんなアラカンも晩年は「ちかごろの時代劇アキマセンな。なんでこないなことになったのドスやろ」と嘆いていたという。",
"title": "エピソード"
}
] | 嵐 寛壽郎は、日本の映画俳優、映画プロデューサーである。 戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、300本以上の映画に出演し、「アラカン」の愛称で親しまれた。同時代の時代劇スターの阪東妻三郎、大河内傳次郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。当たり役は鞍馬天狗と『右門捕物帖』のむっつり右門で、前者は40本、後者は36本シリーズ化されている。また、新東宝の『明治天皇と日露大戦争』では、俳優の中で初めて天皇を演じて話題となった(本作では明治天皇を演じた)。晩年は東映任侠映画で助演し、テレビドラマでも活躍した。 祖父は文楽の人形遣いの初代桐竹紋十郎。叔父は俳優の六代目嵐徳三郎。従妹は女優の森光子で、甥にAV男優の山本竜二がいる。自宅は嵐山にあった。 | {{ActorActress
| 芸名 = 嵐 寛壽郎
| ふりがな = あらし かんじゅうろう
| 画像ファイル = Kanjūrō Arashi.jpg
| 画像サイズ =
| 画像コメント =
| 本名 = 高橋 照一<br />たかはし てるいち
| 別名義 = 嵐 徳太郎<br />あらし とくたろう<br />嵐 和歌太夫<br />あらし わかだゆう<br />嵐 長三郎<br />あらし ながさぶろう
| 出生地 = {{JPN}}・[[京都府]][[京都市]][[木屋町通|木屋町]]
| 死没地 =
| 国籍 =
| 身長 =
| 血液型 =
| 生年 = 1902
| 生月 = 12
| 生日 = 8
| 没年 = 1980
| 没月 = 10
| 没日 = 21
| 職業 = [[俳優]]
| ジャンル = [[歌舞伎]]・[[映画]]・[[テレビドラマ]]
| 活動期間 = [[1919年]] - [[1980年]]
| 活動内容 = [[1921年]]:歌舞伎界に入る<br />[[1927年]]:[[マキノ・プロダクション]]に入社、映画デビュー<br />[[1928年]]:[[嵐寛寿郎プロダクション]](第1次)設立<br />[[1929年]]:[[東亜キネマ]]に入社<br />[[1931年]]:嵐寛寿郎プロダクション(第2次)設立<br />[[1938年]]:[[日活]]に入社<br />[[1942年]]:[[大映]]に移籍<br />[[1956年]]:[[新東宝]]に入社<br />[[1961年]]:フリーとなる
| 配偶者 =
| 著名な家族 = 義兄:[[嵐徳三郎 (6代目)|六代目嵐徳三郎]]<br />従妹:[[森光子]]<br />甥:[[山本竜二]]
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = 『[[鞍馬天狗 (小説)|鞍馬天狗]]』シリーズ<br />『[[右門捕物帖]]』シリーズ<br />『[[明治天皇と日露大戦争]]』<br />『[[網走番外地 (東映)|網走番外地]]』シリーズ<br />『[[男はつらいよ 寅次郎と殿様]]』<!--皆が認める代表作品を入力-->
| アカデミー賞 =
| AFI賞 =
| 英国アカデミー賞 =
| セザール賞 =
| エミー賞 =
| ジェミニ賞 =
| ゴールデングローブ賞 =
| ゴールデンラズベリー賞 =
| ゴヤ賞 =
| グラミー賞 =
| ブルーリボン賞 =
| 全米映画俳優組合賞 =
| トニー賞 =
| 日本アカデミー賞 = '''優秀助演男優賞'''<br />[[1979年]] 『オレンジロード急行』『[[ダイナマイトどんどん]]』
| その他の賞 = '''[[毎日映画コンクール]]'''<br />'''男優助演賞'''<br />[[1968年]] 『[[神々の深き欲望]]』<br />[[牧野省三]]賞<br />[[1974年]]
| 備考 =
}}
'''嵐 寛壽郎'''(あらし かんじゅうろう、新字体:寛寿郎、本名:高橋 照一<ref group="注釈">文献により「照市」との表記もある</ref>(たかはし てるいち)、[[1902年]]〈[[明治]]35年〉[[12月8日]] - [[1980年]]〈[[昭和]]55年〉[[10月21日]])は、[[日本]]の[[映画俳優]]、[[映画プロデューサー]]である。
戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、300本以上の映画に出演し、「'''アラカン'''」の愛称で親しまれた。同時代の時代劇スターの[[阪東妻三郎]]、[[大河内傳次郎]]、[[片岡千恵蔵]]、[[市川右太衛門]]、[[長谷川一夫]]とともに「[[時代劇六大スタア]]」と呼ばれた<ref>『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)</ref>。当たり役は[[鞍馬天狗 (小説)|鞍馬天狗]]と『[[右門捕物帖]]』のむっつり右門で、前者は40本、後者は36本シリーズ化されている。また、[[新東宝]]の『[[明治天皇と日露大戦争]]』では、俳優の中で初めて[[天皇]]を演じて話題となった(本作では[[明治天皇]]を演じた)。晩年は[[やくざ映画|東映任侠映画]]で助演し、[[テレビドラマ]]でも活躍した。
祖父は[[文楽#人形遣い|文楽の人形遣い]]の初代[[桐竹紋十郎]]。叔父は俳優の[[嵐徳三郎 (6代目)|六代目嵐徳三郎]]<ref group="注釈">この徳三郎は「義父」を名乗ることがあったので、文献に混乱が見られるが叔父である。</ref>。従妹は女優の[[森光子]]で、甥に[[AV男優]]の[[山本竜二]]がいる。自宅は[[嵐山]]にあった。
== 来歴 ==
[[1902年]](明治35年)[[12月8日]]、[[京都市]][[木屋町通|木屋町]]三条下ルに生まれる。「無芸だった」という父親が奉公していた手前、縄手に住む祖母(夫が[[桐竹紋十郎]])の経営する料理旅館「葉村屋」に預けられた。
満十歳の時、母親の「芸事より固い商売を」との方針で、弥栄尋常小学校を五年で中退、七條大宮の衿屋に[[丁稚]]奉公させられる。「睡眠5時間、おかずは沢庵二切れのみ、月給一円、休みは月に一度だけ」という殺人的重労働に「まるで[[留置場]]やった」と述懐している。
丁稚時代、月に一度の休日に活動写真を観に行くことだけが愉しみで、尾上松之助の忍術トリック映画や、[[ニコニコ大会]]([[バスター・キートン]]、[[チャールズ・チャップリン]]、[[ハロルド・ロイド]]の混載興行)に熱中していた。のちに、チャップリンの「[[キッド (1921年の映画)|キッド]]」が鞍馬天狗と杉作とのからみに、キートンの無表情さがむっつり右門の演技に、それぞれ大きな影響になったと述懐している。
=== 歌舞伎界へ ===
[[1919年]](大正8年)、[[手代]]から[[番頭]]に出世しようという17歳のときに、主人が死去。一から丁稚のやり直しは御免と、祖母に頼んで[[愛知県]][[岡崎市]]で巡業中の[[片岡松之助]]の一座に加入。「食事は卵に味噌汁付き、給金五円」の待遇に「丁稚奉公のツキイチとは雲泥の差やった」と述べている。一座ではちょうど片岡義士劇の[[大石良金|大石主悦]]役の役者が女をこしらえ逐電したところで、「'''嵐徳太郎'''」の芸名をもらい、数えで18歳でいきなり主悦役の初舞台を踏む。この義士劇にはチャンバラがあり、ここで殺陣を覚えた。
当人はこれでかなり自惚れたというが、片岡義士劇では役はいつまでたっても大石主悦役のみだった。「飲む打つ買う」の巡業生活に染まって、[[おいちょかぶ|オイチョカブ]]に誘われ、[[松江市|松江]]の巡業先で大事な衣装の紋付まで質に入れる大負けとなり、着の身着のまま京都へ逃げ帰る<ref group="注釈">のちの出演作『[[続 網走番外地]]』での「鬼寅親分」のセリフには、「十五の年からいたずら(賭博)をしてきた」というものがある。</ref>。
[[1921年]](大正10年)、初代中村扇雀([[中村鴈治郎 (2代目)|中村鴈治郎]])一座の、当時「ちんこ芝居」と呼ばれた「関西青年歌舞伎」に加わり、[[女形]]となる。ここには市川寿之助のほか、のちに映画に移る[[市川百々之助]]、市川右一(のちの[[市川右太衛門]])、林長丸(のちの[[長谷川一夫]])など将来のライバルたちが同期生所属していて、百々之助、右太衛門、長丸、アラカンの四人が揃って腰元役で舞台を踏んだこともあったという。「不謹慎にいえば、オイチョカブのおかげで桧舞台を踏むことがでけた」と語っている。芝居の世界は女買いが盛んで、若い徳太郎は酒は飲めなかったが「モテにモテて」、粋筋から引く手あまただったが、女郎を買うときは必ず根引き(独占)にしていた。
[[1923年]](大正12年)、腰元役ばかりでうだつの上がらぬ現状に不満を抱き、「桐竹紋十郎の孫なんぞ大歌舞伎の世界では通用しない」と悟った嵐徳太郎は、「二流の小屋でもいいから芝居らしい芝居がしたい」と東京宮戸座で「大衆歌舞伎」を掲げた叔父の徳三郎の一座に加入。この夏、好きになった年増の芸妓と駆け落ちを決意。出奔の当日[[9月1日]]正午に[[関東大震災]]が発生。結局女も金も失い、失意のまま京都へ戻り、「しばらくふぬけていた」という。
しばらくして叔父の徳三郎が東京から引き揚げ、先々代片岡仁左衛門を「うわのせ(特別出演)」して、大阪松島の八千代座での旗揚げ公演を決定。誘いをかけてきた。母親も態度を変えて勧めたので、「月給百五十円」で加入を決意。[[屋号]]を[[葉村屋]]、叔父徳三郎から「'''嵐和歌太夫'''」の芸名をもらう。この一座で片岡千栄蔵(のちの[[片岡千恵蔵]])と鏡台を並べる。
[[1926年]](大正15年)、芸妓に振られ自棄気味だった和歌太夫は女出入りが激しく、ついに[[淋病]]に罹り、子種を失うこととなる。入院中は「煙草三箱」で千栄蔵に代役を頼んだ。難聴のおかげで[[徴兵検査]]を丙種失格となる。
=== 映画界へ ===
[[1927年]](昭和2年)、癇癪持ちの[[片岡仁左衛門 (11代目)|片岡仁左衛門]]が、「奴」を踊った千栄蔵([[片岡千恵蔵]])を「貴様は鈍な役者だ」と真剣の峰で殴った。このときそばで見ていた和歌太夫は「男の面態を!」と心が寒くなり、「阿呆でも名門のセガレは出世がでける、才能があっても家系がなければ一生冷や飯喰わされる、こんな世界に何の未練もない」と思ったという。
この事件が起こったころに、ポスター会社の清正堂を通して、[[マキノ省三]]が映画界入りを誘ってきた。マキノ監督は独立した[[市川右太衛門]]の後釜として「月給八百円」(当時家が一軒買えた)の高待遇を提示。「丁稚奉公と同じや、ウソで塗り固められた徒弟制度の枠の中で主人の顔色をうかがって、犬のように餌をもらう生活は御免や」と考えていた和歌太夫は、北陸の巡業先から逐電し、同年3月に[[マキノ・プロダクション]][[御室撮影所]]に入社した。
和歌太夫によると、大阪松島の八千代座に出ているときに「マキノの先生」が見え、「八百円やるから、カツドウに来い」と誘われた。当時の月給は三百円で、約3倍ということで、「そら行きますがな」ということだった。これを叔父の徳三郎に伝えると「お前、泥芝居<ref group="注釈">映画のロケーションのこと。土の上で芝居をするためこう呼ばれた</ref> に行くんか、泥芝居の役者ンなんのか!」と怒鳴られ横面を張られた。祖母や親戚中から反対され、勘当同然でマキノへ入ったというが、母親だけは「月給八百円」の条件で大賛成だった。
マキノへ行くと、「この中のどの役をやってみたい?」と雑誌「[[少年倶楽部]]」を渡された。嵐が選んだのが[[鞍馬天狗]]である。天狗役が決まるとマキノ監督は「俺がつけたる」と、剣の持ち方から立ち回りまで、殺陣の特訓をしてくれた。芸名は「嵐はそのままでええ、こうつと名前やな、叔父貴からもらえ、お前顔が長いよって長三郎にしとけ」と「'''嵐長三郎'''」の名を与えられた。[[片岡千恵蔵]]に一日遅れた入社だった。
4月、マキノ御室撮影所製作の『鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子』でデビュー<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 60頁。</ref>。脚本は売り出し中の[[山上伊太郎]]、撮影は名キャメラマンと謳われた[[三木滋人|三木稔]]と、マキノ最高のスタッフで固められたデビュー作だった<ref name="鞍馬天狗">ここまで『鞍馬天狗のおじさんは - 聞き書きアラカン一代』(竹中労、徳間書店)より</ref>。それから鞍馬天狗は彼の当たり役となった。
以降マキノの看板スターとして、在籍一年半足らずで27本の映画に主演。『鞍馬天狗』シリーズのほか『鳴門秘帖』『百万両秘聞』でもヒットを飛ばした。
=== 嵐寛寿郎プロダクションの設立 ===
[[Image:Kanjuro-Arashi-in-film-Gozonji-Kurama-Tengu-1936.png|thumb|left|『御存知鞍馬天狗 宗十郎頭巾』(1936年)]]
[[1928年]](昭和3年)4月、『新版大岡政談 前編・中篇』の2作で[[丹下左膳]]を演じたのを最後に、マキノから独立、[[嵐寛寿郎プロダクション]](略称:寛プロ)を設立。独立の理由には、[[#アラカンと鞍馬天狗|鞍馬天狗を巡るマキノとの軋轢]]があった。この独立に際して長三郎の名を返上し、葉村屋の宗家の名跡である「璃寛」からとった「'''嵐寛壽郎'''」を名乗り、以来生涯この名で通す。しかし、設立第5作の『鬼神の血煙』をもって寛プロは解散した。
[[1929年]](昭和4年)2月、[[東亜キネマ|東亜キネマ京都撮影所]]にスター級幹部俳優として迎えられた。同年、『右門一番手柄 南蛮幽霊』でむっつり右門を初めて演じ、鞍馬天狗と並ぶ当り役となった。
[[1931年]](昭和6年)5月、寛プロ名義、東亜キネマの配給で『都一番風流男』を発表。同年8月に東亜キネマ京都撮影所長の[[高村正次]]とともに東亜を退社。第2次寛プロを設立し、7年後の解散までに鞍馬天狗、むっつり右門、[[銭形平次捕物控|銭形平次]]を演じたほか、[[山中貞雄]]を抜擢して『[[磯の源太 抱寝の長脇差]]』『[[小笠原壱岐守]]』にも主演。寛プロ時代の代表作との声も高い。
しかし、[[1937年]](昭和12年)8月に寛プロは解散した。剛毅な性格だったアラカンは、この「寛プロ」合流に前後して[[新興キネマ]]の身売り話が持ち上がったことにかこつけて、新興側の[[永田雅一]]が寛寿郎に対して「寛プロ」解散費用を全負担し、「八千円の給料」と言う破格の条件で入社をもちかけたところ、「従業員はほっといてお前だけ来い」との永田の一言に激怒。永田と衝突した結果、アラカンは自社の従業員を新興に送り込んで、自身は半年ほど映画界から追放された。従姉妹の[[森光子]]は「おとなしいような顔をして、その実は大変な反逆児なんですね。永田雅一さんにさからうなんて、当時考えられないころです。それで一時にせよ映画スターをやめちゃったんですから、あの方は徹底してるんです」と述懐している。
[[1938年]](昭和13年)、[[日活京都撮影所]]に入社。ここでも鞍馬天狗とむっつり右門を演じ、ほかにも『出世太閤記』『海援隊』等の佳作に出演した。
===大映・新東宝時代===
[[1942年]](昭和17年)、日活が戦時統合により大映に改組されたことで、[[大映京都撮影所]]へ移る。同年の『[[鞍馬天狗横浜に現る|鞍馬天狗]]』([[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]監督)が大映移籍後の主演第1作となる。同作の立ち回りでは「裾さばきが乱れないこと」が特徴とされ、「林長二郎と同じく女形出身だから」と、どんなチャンバラでも裾の乱れは見せなかった<ref name="活動写真">『あゝ活動大写真 グラフ日本映画史 戦前篇』(朝日新聞社)</ref>。同作で伊藤監督は、アラカンに百メートル疾走する立ち回りを要求し、出来あがった映画で裾さばきが乱れていないことに感心し、「あれもほんとうのわざおぎです」と評している。このころから、一座を組み中国大陸の慰問活動を熱心に行っている。
[[1948年]](昭和23年)、大映京都を退社してフリーとなる。この頃は[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の[[連合国軍最高司令官総司令部#非軍事化|チャンバラ禁止令]]により[[剣戟映画]]の製作が禁止されていたため、『[[私刑 リンチ|私刑]]』等の現代劇に出演していた。[[1950年]](昭和25年)、綜芸プロダクションを設立。
[[ファイル:Stuido Still snap from Meiji Tenno to Nichiro Daisenso (05 Kanjuro Arashi) Scan10022.jpg|左|サムネイル|431x431ピクセル|「明治天皇と日露大戦争」で明治天皇を演じる。]]
[[1956年]](昭和31年)、[[新東宝]]に入社。新東宝では数少ないスター俳優として活躍し、翌[[1957年]](昭和32年)公開の『[[明治天皇と日露大戦争]]』では[[明治天皇]]を演じる。同作では、[[大蔵貢]]社長じきじきに「日本映画界初の天皇俳優にならんか」とこの役を持ちかけられ、当初乃木希典役と思っていたアラカンは余りの大役に戸惑いつつも、御真影や説話のイメージ通りの威厳ある明治天皇を演じて話題となり、作品は空前の大ヒットを記録する。続けて『[[天皇・皇后と日清戦争]]』『明治大帝と乃木将軍』でも明治天皇を演じている。ほか、『大東亜戦争と国際裁判』では[[東條英機]]、『皇室と戦争とわが民族』では[[神武天皇]]を演じるなど歴史上の大人物を演じることが多かった。
[[1961年]](昭和36年)に新東宝が倒産すると、以後はどこにも専属せず、脇役に回った。
===晩年===
新東宝倒産後は、主に[[ヤクザ映画|東映任侠映画]]や[[松竹]]・[[日活]]のヤクザ・ギャング映画に多く出演した。[[1965年]](昭和40年)からは、『[[網走番外地 (東映)|網走番外地]]』で「八人殺しの鬼寅」を演じ、同シリーズを通しての当たり役となる。
[[1968年]](昭和43年)、[[今村昌平]]監督の『[[神々の深き欲望]]』に出演。[[毎日映画コンクール]]で男優助演賞を受賞した。
この時期からテレビ界にも進出し、[[テレビドラマ]]にも時折ゲストで出演した。それらのいずれも脇役ながら俳優としての存在感は健在だった。[[1972年]](昭和47年)には『[[変身忍者嵐]]』で[[百地三太夫]]を演じる。当時は『[[仮面ライダー]]』に始まる[[第二次怪獣ブーム|変身ヒーロー・仮面ヒーローのブーム]]のさなかで、「変身ヒーローの元祖が変身番組に出演」と、その登場は話題となった。
最晩年も活躍し続け、『[[男はつらいよ 寅次郎と殿様]]』や『[[ダイナマイトどんどん]]』などに出演。後者と『[[オレンジロード急行]]』の演技では[[第2回日本アカデミー賞]]優秀男優賞を受賞している。
[[1979年]](昭和54年)夏ごろに[[脳梗塞|脳血栓]]で倒れ[[京都市]][[西京区]]の自宅で療養していたが、[[1980年]][[10月21日]]に死去した。77歳没。
== 人物 ==
幼少時より、祖母から踊りを仕込もうとされたが、これを嫌って[[琵琶湖疎水]]で泳いでばかりいた。このため中耳炎を患い、以来、左耳が難聴となる。若いころから無口だったのはこの難聴のせいだった。
私生活では5回の結婚と4回の離婚とを繰り返したが、別れるたびに前妻に全財産と家屋敷を譲り渡していた。最晩年も40歳年下の久子夫人を伴侶としていた。アラカン自身は「モテたんちゃう。買いに行ったん。映画(界)入ったら月給は三倍やでん。使い道あらへん。これがいかんでしたわ。それから獄道ですワ」と語っている<ref name="インタビュー">『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』嵐寛壽郎インタビュー「アラカン半生に悔いなし」(サンケイ出版)</ref>。[[稲垣浩]]は求婚した女性が、アラカンの「何番目かの」愛人だったことがあったという<ref name="若き日々">『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)</ref>。
金銭面には無頓着で、生涯遊べるだけの金を稼ぎながら、財産はほとんど残さなかった。一つには、前述したように離婚のたびに全財産を譲り渡していたこともさることながら、もう一つは面倒見のよさからだった。戦死した「寛寿郎プロ」時代のスタッフの仏前へ、自費で一軒ずつ全国を回って香典をそなえたりと、スタッフへの物心双方の援助も惜しまなかった。新東宝の最後までつきあっているのもスタッフを捨て置けなかったからだった。
その反面、自身は贅沢が嫌いで、衣装道楽も縁がなく、和服も2、3着より持たず、背広も靴も既製品、煙草はマッチ派だった。戦前の全盛期でも自宅から撮影所まで自家用車を使わず[[京福電気鉄道|京福電鉄]][[京福電気鉄道嵐山本線|嵐山線]]を利用、戦後はもっぱら円タクを使った。「映画会社の社長はん、ゴルフする暇あったらパチンコせいとは言わんが円タクに乗るべしや」と語っている。円タクで支払いの際に「ワテ嵐寛壽郎ダ」と言えば運転手がファンになる、これが庶民派のアラカン流だった。付き人の[[嵐寿之助]]は「盗人に入られても、“警察に届けたらあかんで、折角ゼニつかんで喜んでるのに、気の毒やさかい”という人ですからね。…“他人のためには金は惜しまん、おのれは最低必要なものがあればよい”という精神、これ昔からなんですわ。神様みたいな人です」と証言している。
[[嵐寛寿郎プロダクション|寛寿郎プロ]]解散直後、本気で雲隠れに洋行を考えていたが、洋食嫌いの理由で断念した。かなりの偏食で、洋食は一切受けつかなかった。アラカン自身ナイフとフォークを使って肉を食べる習慣が野蛮なものと嫌悪し、味の面でも「[[生利節|ナマリブシ]]みたいなん切らしたら死んでしまいます。[[トンカツ]]ぐらいでんな。西洋料理で口にあうのは」と語っている。日本料理専門だが、それも火が通ったものだけで、刺身も寿司もうけつけなかった<ref name="鞍馬天狗" />。
[[1939年]]、琵琶湖の天寅飛行場から大阪湾へ、テスト飛行に無事合格、世間をアッと言わせた。アラカンは運動神経が良く、飛行機だけでなくオートバイや自動車も運転できた。[[稲垣浩]]によると、大スタアの中で、自動車に乗れる人は当時ほとんどいなかったという<ref name="英雄">『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』「庶民の英雄 嵐寛寿郎」(サンケイ出版)</ref>。
嵐寛の立ち回りは「見せる立ち回り」という点で、「アラカンに勝る剣戟スタアは戦前戦後を通じていない」とまで評された。「バンツマ([[阪東妻三郎]])の立ち回りは悲愴豪壮、[[大河内傳次郎]]八方破れ、アラカンは「さばきの美事さ」と定評がある。必殺の白刃を息もつがせず手首の返しで繰り出してくる、切先が銀蛇のようにしない、上段から下段へなぎ立てる。胸元まで来ていま一つのび、蝶のごとく舞う」<ref name="英雄" />。
== エピソード ==
[[1929年]]、アメリカの活劇俳優の[[ダグラス・フェアバンクス]]夫妻が来日の折、滞在先の[[京都ホテル]]でアラカンは英語のスピーチをし、「わてが映画俳優として最初に英語で挨拶したんだす」と後年まで自慢していた。なお、そのときの言葉は「ウェルカム・ダ'''ゴ'''ラス!」のみであった。
寛プロ解散後、しばらくアラカンは無聊を託っていた。元来新しい物好きで自家用車に凝っていたこともあるアラカンは、二等飛行操縦士のライセンスを取り、ドイツ製の[[フォッカー]]を購入、自家用飛行機を持つまでに至った。このライセンスを生かし、遊覧飛行のアルバイトをしていたとき、客から「アラカンや、飛行機屋とはけしからん!」と騒がれたことがある。咄嗟に人違いだと言って取り繕ったものの、腹が立って収まらず、「せやけど、聞きずてならへん。アラカンやったらなんでアカンねん。金払ろてとっと去ね!」とやりかえしたという。後年、「役者やっとったらこうはいきまへん。稼ぎは別として、楽しい毎日やった」と述懐している。
[[1951年]]、鞍馬天狗の杉作役で共演した[[美空ひばり]]について、「美空ひばりにはたまげた。まあいうたら子供の流行歌手ですよってな、多くは期待しませんでした。かわゆければよいと、ところがそんなもんやない。…男やない女の色気を出しよる。あの[[山田五十鈴]]に対抗しよる」と感服し、女優としてのその才能を認めていた。
[[1957年]]、『[[明治天皇と日露大戦争]]』で明治天皇を演じるが、これを受けた一番大きな動機として、「[[シネマスコープ]]、これに心が動きましたんや」と語っている。映画は大ヒットし、アラカンによると封切りで8億円稼いだ。すると[[大蔵貢]]新東宝社長がアラカンを新橋の料亭に招き、「寛寿郎くん、ご苦労でした」と10万円くれた。アラカンはこれを「アセモ代のボーナス」だと思っていたところ、「あとで東劇で凱旋興行をやるから衣装を着けて挨拶してくれ」との話になった。アラカンは「あの10万円ギャラやったんか、すまんがそらお断りや、皇室利用して銭儲けしてもわての知ったこっちゃない、せやけど少しは遠慮しなはれ、明治天皇サンドイッチマンにする了見か」と、大蔵の商魂に舌を巻いている。
アラカンが『網走番外地』の老侠客、鬼寅親分を当たり役としていた[[1960年代]]に、趣味の[[競艇]]に行ったところ、組関係者から丁重に挨拶され、「どうぞ」とわざわざ貴賓室に案内された。アラカンは「鬼寅親分のおかげや。ファンなんだその連中、冬などはまことによろしい。ガラス張りであたたかい、毎度心地よう利用させてもろてます」と喜んでいた。鬼寅は、ロケ地の網走刑務所でも見物していた囚人たちから「アラカン!頑張れ!」と声援が飛び、アラカンを感激させたほどの気の入った役だった。『[[直撃地獄拳 大逆転]]』([[1974年]]<ref group="注釈">監督は『網走番外地』と同じ[[石井輝男]]</ref>)でも、ラストの網走刑務所のシーンの締めのためにわざわざアラカンに鬼寅役で1シーン登場させるほど、当時の鬼寅役は知名度の高いものだった。
[[1968年]]の『[[神々の深き欲望]]』では、実の娘を犯して、彼女を妊娠させ子供を産ませたという鞍馬天狗とは正反対の汚れ役を演じ、映画生活42年目にして映画で初めて賞を受賞した<ref name="インタビュー" />。この役は当初[[早川雪洲]]が演じる予定であったが、諸事情により早川が降板。他の俳優を探していたところ、アラカンにオファーが回ってきたが、その役柄に嫌悪感を感じ乗り気がせず一旦拒否する。しかしその後の今村昌平監督の執拗な出演依頼にやむを得ず出演をしたとの事である。この作品の演出指導はかなり苛酷なもので、今村監督にいきなり「あんたは今まで主演ばっかりやっていたから、人の顔見てものを言わない。自分のアップだけしか考えていない」、「役者は相手を見てものを言うもんや。相手と対話して初めて映画になる。お前は一人で目ェむいてる」と言われたという。また撮影時にアラカンが「カメラはどっちや?」と尋ねると今村昌平監督が「こっちや」と明らかに違う方向を指差す等、その演出指導にほとほと嫌気がさしアラカンは何度も現場放棄をしたが、結局撮影に舞い戻ってくるという逸話を残している。
『[[男はつらいよ 寅次郎と殿様]]』は、『[[トラック野郎]]』と同時にオファーがあり、迷った上での出演であった。甥の[[山本竜二]]によると、どちらに出演すべきか相談を持ちかけられ、山本は、「そら先生、寅さんでっしゃろ。国民的映画ですがな」と背中を押してみたが、「せやけど、[[菅原文太]]には、新東宝の義理があるさかいなぁ…」と気に掛けていた。が、「後で、トラック野郎にもちゃっかり出演してはりました」と山本は語っている。
医者から[[高血圧]]の予防に「くるみの実を手の中で転がしておくように」と言われ、どうせならと、[[パチンコ]]店に通い始めた。「趣味と実益と健康と、一石三鳥というわけだ。」と本人は嘯き、なかなかの腕前であった。だがマスコミにパチンコの趣味を暴露されてからは、店内で「先生どうぞ」と、玉のサービスをしてもらったり、[[桂米朝 (3代目)|桂米朝]]の[[ビッグショー (テレビ番組)|NHKビッグショー]]出演のギャラにパチンコ玉交換券を貰うなどの目にあい、アラカンは「有難迷惑や」と苦笑していた。
[[落語家]][[林家木久扇]]の憧れの人であり、『[[笑点]]』でも時々アラカンの物まねをする。また、[[三波伸介 (初代)|三波伸介]]が司会していた当時に番組のコーナー「伸介のなんでもコーナー」([[1975年]][[7月6日]]放送)にゲスト出演した際に木久扇(当時木久蔵)と共演した。
[[水木しげる]]の漫画作品になぜかよく登場していて、タコに子供を生ませたり、[[鬼太郎]]とともに妖怪を退治したこともある。
=== アラカンと鞍馬天狗 ===
[[File:Kurama Tengu, Ryujo-Kobaku no maki 1938.jpeg|thumb|『鞍馬天狗 龍攘虎搏の巻』(1938年)右は[[香住佐代子]]]]
マキノで撮った1927年の初作『鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子』から、[[1956年]]の『疾風!鞍馬天狗』までの実に30年の長きにわたり、アラカンは40本もの『鞍馬天狗』映画に主演している。もっともこれは確認漏れもあり、アラカン自身は「46本のはずだ」と述べている。一方、「庶民のスタア」だったアラカンは批評家からは「アラカンといえばB級・娯楽版、お子様ランチ」などと差別された一面もあった。
アラカンは当たり役『鞍馬天狗』を引き受けた理由として、杉作という子供のキャラクターを挙げ、「昔から、子供の出る芝居は必ず当たるんですね。“先代萩”ありますやろ。チャップリンの“キッド”ありますやろ。子供が出るので、こりゃいけると思いまして、出さしてもらいますと返事しました。子供使うの得や。思ったとおり、大当たりとりました」と語っている。
長三郎時代からアラカンの殺陣は軽快で「スポーツ剣戟」と評されたこともあった。マキノ雅弘はアラカンの殺陣について「わりあいリアルで伸びが良かった」と語っている。稲垣浩によると、立ち回りで相手に刀(竹光)をパチーンとぶつけることで有名だった。一度立ち回りの際に気合いで六尺棒を竹光で真っ二つに斬ったこともあったという。
鞍馬天狗の立ち回りについては決して下着を見せなかった。「女形をやってましたから、これが結果としてよかったのでしょう。女形の裾さばきちゅうもんはチャンバラと合うんですワ。でも私には、人を斬ったるという気がありました。竹光だから斬れへん。周りは弟子がかためましたから、遠慮いりまへん。弟子にはずいぶん怪我さしてます。でも他人には怪我さしてません」と語っている。
そんなアラカンが一番怖かったのは[[大河内傳次郎]]だったという。「私の時に限って'''真剣'''使うんですワ。一番仲良かったけど、やっぱり気構えが違うんですな。いつも大河内さんは[[近藤勇]]の役で、しかもあの人、近眼でっしゃろ。怖かったですよ」<ref>この項ここまで『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)より</ref>。
[[1928年]]に寛寿郎が「マキノ御室撮影所」を退社したが、これは『角兵衛獅子功名帖』を「鞍馬天狗最終作」と会社側が勝手に決めてしまったことが最大の理由であった。また理由はこれだけではなく、折しもこの年マキノ省三が[[伊井蓉峰]]を主役に起用して『[[忠魂義烈 実録忠臣蔵]]』を制作しアラカンも出演したが、新派の大物である伊井の尊大な態度や監督の指示を聞かない勝手な演技などの我がままを、マキノたちスタッフが招聘した手前どうにもできずに容認していたことを目の当たりにし、このことへの不満も、アラカンに退社の決意を固めさせた要因であったという<ref>『鞍馬天狗のおじさんは - 聞き書きアラカン一代』(竹中労、徳間書店)</ref>。
その後、戦中戦後の混乱や空白も乗り越えて、約30年にわたってアラカンは数々の『鞍馬天狗』を制作し演じていたが、[[1954年]]、原作者の[[大佛次郎]]が自ら『鞍馬天狗』映画の製作に乗り出した。この際にアラカンに不満を言い鞍馬天狗役を封印させたが、大佛の手掛けた、小堀明男を主演に据えた『新鞍馬天狗』は結局、日本映画史に残るとまで言われる(それどころか、作家としての大佛自身の評価にまで傷がつく程の)大失敗作に終わり、『新鞍馬天狗』で映画館が被った損失の補填というとんだあおりを食らってアラカンは代理で2本出る羽目になっている。このときも「言うたら悪いが、生きてる天狗はわてがつくった。」とアラカンは、暗に大佛次郎を非難している。
人物伝としては、この奇骨の人物を愛した[[竹中労]]による『鞍馬天狗のおじさんは - 聞き書きアラカン一代』がある。晩年のインタビューによると原作者の「天狗が人を斬りすぎる」という意見に対して、アラカンは「[[活動写真|活動大写真]]」(アラカンの表現)としての立場から同意していない。
[[File:Shippu! Kurama Tengu 1956 ad.jpg|thumb|217px|『[[疾風!鞍馬天狗]]』(監督[[並木鏡太郎]]、1956年6月8日公開)公開時のポスター広告。]]
=== アラカンとむっつり右門 ===
アラカンの、鞍馬天狗についで有名なキャラクターは38本撮ったむっつり右門である。唇をへの字に曲げて腰を開いて、さァ来いと構えても、右門は「ヤー」とも「オー」とも言わない。無声映画であるから声は聞こえずともよいが、何も言わない顔がかえって迫力があると大いに受けた。アラカンは子供のころからアメリカの喜劇映画が大好きで、「自分がむっつり屋だから」と、「むっつり屋」のキートンがごひいきだった<ref name="活動写真" />。
アラカンは右門について、「これも自分に合うと思いました。昔はしゃべるのがイヤで、いつも、むっつりやったから。キートン、バスター・キートン、あの人ちっとも笑いまへん。これでいこう! と思いました、はい」と語っている<ref name="インタビュー" />。
=== アラカンと寛プロ ===
映画プロデューサーとして、アラカンの制作姿勢は前衛的だった。1931年には、最初の色彩時代劇である、『京一番風流男』([[仁科熊彦]]監督)をパートカラーで撮り、1935年には『春霞八百八町』([[マキノ正博]]監督)で真っ先に国産トーキー・映音システムを採用している<ref name="英雄" />。
1928年に、マキノ映画のスターたち6人が独立してそれぞれプロダクションを興したが、20mも離れていなかった千恵プロと寛寿郎プロは対抗意識が強く、プロぐるみで反目し合っていた。結局この2つのプロダクションだけが生き残ることとなっている。自らが映画プロデューサーを務めたこの寛寿郎プロでは、[[1938年]]公開の『出世太閤記』を「よろしおしたな。あの映画は一生の思い出ドス。」と語っている。
この作品でアラカンは自ら御殿場ロケで使う馬の交渉に当たり、また実現しなかったが[[阪東妻三郎]]に信長役での出演を頼みに、阪妻邸まで出かけていって頭を下げたりと精力的にプロデューサー役に務めた。[[稲垣浩]]は「[[山中貞雄]]を発見したのもそういう情熱があったからだろう」と語っている。そんなアラカンも晩年は「ちかごろの時代劇アキマセンな。なんでこないなことになったのドスやろ」と嘆いていたという<ref name="若き日々" />。
== 出演歴 ==
=== 映画 ===
[[File:13-Assassins-1.jpg|thumb|240px|『[[十三人の刺客]]』(1963年)]]
* [[鞍馬天狗]]シリーズ - 鞍馬天狗
** マキノ版
*** 鞍馬天狗異聞 角兵衛獅子(1927年)
*** 鞍馬天狗異聞 続角兵衛獅子(1927年)
*** 角兵衛獅子功名帖(1928年)
** 寛プロ(第1次)版
*** 鞍馬天狗(1928年)
*** 鞍馬天狗 恐怖時代(1928年)
** 東亜版
*** 鞍馬天狗(1929年)
*** 続・鞍馬天狗 電光篇(1930年)
** 寛プロ(第2次)版
*** 鞍馬天狗 解決篇(1931年)
*** 天狗廻状 前篇(1932年)
*** 天狗廻状 後篇(1932年)
*** 鞍馬天狗 地獄の門(1934年)
*** 鞍馬天狗 第一篇 絨り首暗躍篇(1934年)
*** 鞍馬天狗 第二篇 丁字屋敷活殺篇(1935年)
*** 鞍馬天狗 第三篇 影義隊乱刃篇(1935年)
*** 鞍馬天狗 江戸日記 前篇(1935年)
*** 御存知鞍馬天狗 宗十郎頭巾(1936年)
*** 御存知鞍馬天狗 千両小判(1937年)
** 日活版
*** 鞍馬天狗 角兵衛獅子の巻(1938年)
*** 鞍馬天狗 竜攘虎搏の巻(1938年)
*** 鞍馬天狗 江戸日記(1939年)
*** 鞍馬天狗 恐怖篇(1939年)
*** 天狗廻状 魔刃の巻(1939年)
*** 続天狗廻状 刃影の巻(1940年)
*** 鞍馬天狗捕はる(1940年)
*** 鞍馬天狗 薩摩の密使(1941年)
** 大映版
*** [[鞍馬天狗横浜に現る]](1942年)
** 松竹版
*** 鞍馬天狗 角兵衛獅子(1951年)
*** 鞍馬天狗 鞍馬の火祭(1951年)
*** 鞍馬天狗 天狗廻状(1952年)
** 東映版
*** 鞍馬天狗 一騎討ち(1952年)
*** 鞍馬天狗 疾風黒母坂(1953年)
*** 危うし!鞍馬天狗(1953年)
*** 逆襲!鞍馬天狗(1953年)
** 綜芸プロ版
*** 鞍馬天狗 青胴鬼(1952年)
** 新東宝版
*** 鞍馬天狗と勝海舟(1953年)
** 宝塚映画版
*** 鞍馬天狗斬り込む(1953年)
*** 鞍馬天狗 疾風八百八町(1954年)
*** 鞍馬天狗 御用盗異変(1956年)
*** 疾風!鞍馬天狗(1956年)
* 鬼薊(1927年、マキノ)[[大林梅子]]共演
* 青春(1927年、マキノ)
* 鳴門秘帖(マキノ) - 法月弦之丞
** 第四篇(1927年)
** 第五篇(1927年)
** 第六篇(1927年)
** 最終篇(1927年)
* 百万両秘聞(マキノ) - 春水主税
** 第一篇(1927年)
** 第二篇(1927年)
** 最終篇(1927年)
* [[忠魂義烈 実録忠臣蔵]](1928年、マキノ) - 脇坂淡路守、寺坂吉右衛門
* 新版大岡政談(マキノ) - 丹下左膳
** 前篇(1928年)
** 中篇(1928年)
* 荒木又右衛門(1929年、東亜)
* [[右門捕物帖]]シリーズ - むっつり右門
** 右門一番手柄 南蛮幽霊(1929年、東亜)
** 右門捕物帖 六番手柄(1930年、東亜)
** 右門捕物帖 十番手柄(1930年、東亜)
** 右門捕物帖 十六番手柄(1931年、東亜)
** 右門捕物帖 十八番手柄(1931年、寛プロ)
** 右門捕物帖 ニ十番手柄(1931年、寛プロ)
** 右門捕物帖 廿五番手柄 七十七なぞの橙(1932年、寛プロ)
** [[右門捕物帖 三十番手柄 帯解け仏法]](1932年、寛プロ)
** 右門捕物帖 三十五番手柄 越後獅子の兄弟(1933年、寛プロ)
** 右門捕物帖 三十八番手柄 白矢・黒影・青空(1934年、寛プロ)
** 右門捕物帖 二百十日(1934年、寛プロ)
** 右門捕物帖 七化け大名(1935年、寛プロ)
** 右門捕物帖 花嫁地獄変(1935年、寛プロ)
** 右門捕物帖 晴々五十三次 乱麻篇(1935年、寛プロ)
** 右門捕物帖 晴々五十三次 裁決篇(1936年、寛プロ)
** 右門捕物帖 娘傀儡師(1936年、寛プロ)
** 右門捕物帖 雪夜の謎(1936年、寛プロ)
** 右門捕物帖 木曾路の謎(1937年、寛プロ)
** 右門捕物帖 恋染の手形(1938年、日活)
** 右門捕物帖 拾万両秘聞(1939年、日活)
** 右門捕物帖 金色の鬼(1940年、日活)
** 右門江戸姿(1940年、日活)
** 右門捕物帖 幽霊水芸師(1941年、日活)
** 御存じ右門 護る影(1943年、大映)
** 右門捕物帖 謎の八十八夜(1949年、新光映画)
** 右門伊豆の旅日記(1950年、新東宝)
** 右門捕物帖 片目狼(1951年、綜芸プロ)
** 右門捕物帖 帯解け仏法(1951年、綜芸プロ)
** 右門捕物帖 緋鹿の子異変(1952年、新東宝)
** 右門捕物帖 謎の血文字(1952年、新東宝)
** 右門捕物帖 からくり街道(1953年、綜芸プロ)
** 右門捕物帖 妖鬼屋敷(1954年、宝塚映画)
** 右門捕物帖 まぼろし変化(1954年、宝塚映画)
** 右門捕物帖 献上博多人形(1955年、宝塚映画)
** むっつり右門捕物帖 鬼面屋敷(1955年、東宝)
** 右門捕物帖 恐怖の十三夜(1955年、宝塚映画)
* 貝殻一平 前後篇(1929年・1930年、東亜) - 沢井転
* 二刀流安兵衛(1930年、東亜) - 中山安兵衛
* 時代の踊子 前後篇(1930年、東亜) - 久原采女
* 都一番風流男(1931年、寛プロ)※「パートカラー色彩時代劇」
* 戸並長八郎(1931年、寛プロ) - 戸並長八郎
* 御家人桜(1932年、寛プロ) - 三村鉄之丞
* [[磯の源太 抱寝の長脇差]](1932年、寛プロ) - 磯の源太 ※[[山中貞雄]]第一回監督作品
* 小判しぐれ(1932年、寛プロ) - いの一の太郎吉
* [[小笠原壱岐守]](1932年、寛プロ) - 小笠原壱岐守、有賀源五左衛門
* 口笛を吹く武士(1932年、寛プロ) - 清水狂太郎、浅野内匠守
* 銭形平次捕物控シリーズ(寛プロ) - 銭形平次
** 銭形平次捕物控 富籤政談(1933年)
** 銭形平次捕物控 復讐鬼(1933年)
** 銭形平次捕物控 紅蓮地獄(1934年)
* 磧の霧(1933年、寛プロ)
* 相馬の金さん(1933年、寛プロ) - 相馬金次郎
* 山を守る兄弟 前後篇(1933年、寛プロ) - 並木秋之進
* 剣鬼三人旅(1933年、寛プロ)
* 兵学往来髭大名(1934年、寛プロ)
* 松五郎鴉(寛プロ) - 松五郎
** 前篇 三州星月夜の巻(1934年)
** 後篇 乱雲秋葉山の巻(1934年)
* 修羅時鳥(寛プロ) - 篠阿波次郎、渋川十蔵
** 前篇(1934年)
** 完結篇(1935年)
* 活人剣 荒木又右衛門(1935年、寛プロ) - 荒木又右衛門
* 春霞八百八町(1935年、寛プロ)※初のトーキー
* [[鳴門秘帖]](寛プロ) - 法月弦之丞
** 前篇 本土篇(1936年)
** 鳴門篇(1937年)
* 忠臣蔵 天の巻・地の巻(1938年、日活) - 脇坂淡路守、清水一角
* 荒獅子(1938年、日活)
* 出世太閤記(1938年、日活) - 木下藤吉郎
* 髑髏銭(日活)
** 前篇 風の巻(1938年)
** 後篇 雲の巻(1938年)
* 袈裟と盛遠(1939年、日活)
* 海援隊(1939年、日活)
* [[江戸の悪太郎]](1939年、日活)
* 王政復古(1939年、日活) - 坂本竜馬
* 仇討交響曲(1940年、日活) - 轟十三郎
* 鳥人(1940年、日活) - [[浮田幸吉]]
* 決戦奇兵隊(1941年、日活) - 高杉晋作
* 英雄峠(1941年、日活)
* 剣光桜吹雪(1941年、日活)
* 江戸の竜虎(1942年、日活)
* 維新の曲(1942年、大映) - 徳川慶喜
* 海の豪族(1942年、大映)
* 護る影(1943年、大映)
* 海峡の風雲児(1943年、大映)
* 河童大将(1944年、大映)
* [[盤嶽江戸へ行く]](1949年、新東宝) - 野々宮一徹
* [[白髪鬼]](1949年、大映) - 里見
* [[私刑 リンチ]](1949年、新東宝) - 清吉
* [[当り矢金八捕物帖 千里の虎]](1950年、新光映画) - 當り矢金八
* [[薩摩飛脚]](1951年、松竹) - 神谷金三郎
* あばれ熨斗(1952年、大映)
* やくざ狼(1953年、綜芸プロ)
* 恋しぐれ 浅間の火祭り(1953年、東映)
* 人形佐七捕物帖 通り魔(1953年、新東宝)
* [[照る日くもる日]](1954年、宝塚映画) - 白雲堂
* 旗本やくざ(1955年、宝塚映画)
* 桂小五郎と近藤勇・竜虎の決戦(1957年、新東宝) - 桂小五郎
* 風雲天満動乱(1957年、新東宝)
* [[明治天皇と日露大戦争]](1957年、新東宝) - [[明治天皇]]
* 隠密将軍と喧嘩大名(1958年、新東宝)
* [[天皇・皇后と日清戦争]](1958年、新東宝) - 明治天皇
* 稲妻奉行(1958年、新東宝) - 大岡忠右衛門
* 黄金奉行(1958年、新東宝)
* 明治大帝と乃木将軍(1959年、新東宝) - 明治天皇
* 影法師捕物帖(1959年、新東宝)
* 大東亜戦争と国際裁判(1959年、新東宝) - [[東條英機]]
* [[日本ロマンス旅行]](1959年、新東宝) - [[仁徳天皇]]
* 大天狗出現(1960年、新東宝)
* [[地獄 (1960年の映画)|地獄]](1960年、新東宝) - 閻魔大王(カメオ出演)
* 皇室と戦争とわが民族(1960年、新東宝) - [[神武天皇]]、東条英機
* [[敵は本能寺にあり (映画)|敵は本能寺にあり]](1960年、松竹) - [[徳川家康]]
* [[残菊物語]](1963年、松竹) - 五代目尾上菊五郎
* [[十三人の刺客]](1963年、東映) - 倉永佐平太
* [[昭和侠客伝]](1963年、東映) - 桜千之助
* 網走番外地シリーズ(東映) - 鬼寅
** [[網走番外地 (東映)|網走番外地]](1965年)
** [[続 網走番外地]](1965年)
** [[網走番外地 北海篇]](1965年)
** [[網走番外地 望郷篇]](1965年)
** 網走番外地 大雪原の対決(1966年)
** 網走番外地 南国の対決(1966年)
** 網走番外地 荒野の対決(1966年)
** 網走番外地 悪への挑戦(1967年)
** 網走番外地 決斗零下30度(1967年)
* [[主水之介三番勝負]](1965年、東映) - 田辺玄達
* [[明治侠客伝 三代目襲名]](1965年、東映) - 江本福一
* [[拳銃は俺のパスポート]](1967年、日活) - 島津
* [[続 浪曲子守唄]](1967年、東映) - 銀造
* [[東シナ海 (映画)|東シナ海]](1968年、日活)
* [[神々の深き欲望]](1968年、日活) - 太山盛
* [[緋牡丹博徒シリーズ]](東映)
** 緋牡丹博徒 二代目襲名(1969年) - 杉山貞次郎
** 緋牡丹博徒 花札勝負(1969年) - 川辺
** 緋牡丹博徒 お竜参上(1970年) - 鉄砲久
** 緋牡丹博徒 お命戴きます(1971年) - 大前田英五郎
* [[博徒百人]](1969年、日活) - 村井磯吉
* [[組織暴力 兄弟盃]](1969年、東映)
* [[昭和やくざ系図 長崎の顔]](1969年、日活) - 平田新吉
* [[関東テキヤ一家]](1969年、東映)
* [[五人の賞金稼ぎ]](1969年、東映) - 榎太左衛門
* [[座頭市と用心棒]](1970年、勝プロ) - 兵六爺さん
* [[殺し屋人別帳]](1970年、東映) - 大正琴の寅さん
* [[監獄人別帳]](1970年、東映) - 阿久田
* [[遊侠列伝]](1970年、東映) - 万清屋源造
* [[日本やくざ伝 総長への道]](1971年、東映) - 南善八郎
* [[ひとごろし|初笑いびっくり武士道]](1972年、松竹) - [[松平宗矩]]
* [[まむしの兄弟 懲役十三回]](1972年、東映)
* [[純子引退記念映画 関東緋桜一家]](1972年、東映) - 新堀辰之助
* 昭和おんな博徒(1972年、東映)
* 哥(1972年、実相寺プロ) - 森山伊兵衛
* やさぐれ姐御伝 総括リンチ(1973年、東映)
* [[山口組三代目 (映画)|山口組三代目]](1973年、東映) - いろは幸太郎
* [[直撃地獄拳 大逆転]](1974年、東映) - 鬼寅
* [[狭山裁判]](1976年、東映) - 大川竹次郎
* [[男はつらいよ 寅次郎と殿様]](1977年、松竹) - 藤堂宗清
* [[日本の首領|日本の首領 野望篇]](1977年、東映) - 組長・河元弥之助
* [[トラック野郎・一番星北へ帰る]](1978年、東映) - 御手洗剛造
* [[オレンジロード急行]](1978年、松竹) - 鈴木鈴之助
* [[ダイナマイトどんどん]](1978年、大映映画) - 岡谷源蔵
* [[俺は田舎のプレスリー]](1978年、松竹) - 大山吉兵衛
* [[日蓮 (映画)|日蓮]](1979年、松竹) - 延暦寺聖覚上人
* [[白昼の死角]](1979年、東映) - 高島総長
* [[神様のくれた赤ん坊]](1979年、松竹) - 高田幾松
* [[ちゃんばらグラフィティー 斬る!]](1981年、東映)
=== テレビドラマ ===
* [[侍 (テレビドラマ)|侍]] 第7話「阿地川盤嶽」(1960年、CX)
* テレビ指定席 / 海の畑(1963年、NHK)
* 浪曲ドラマ / [[盤嶽の一生]](1963年、NHK)
* [[大河ドラマ]](NHK)
** [[花の生涯 (NHK大河ドラマ)|花の生涯]](1963年) - [[徳川斉昭|水戸斉昭]]
** [[赤穂浪士 (NHK大河ドラマ)|赤穂浪士]](1964年) - [[細川綱利|細川越中守]]
* [[三匹の侍]] 第1シリーズ 第21話「春雷有情」(1964年、CX)
* [[新選組血風録 (テレビドラマ)|新選組血風録]] 第1話「虎徹という名の剣」(1965年、NET) - 弥左ヱ門
* [[竜馬がゆく (1965年のテレビドラマ)|竜馬がゆく]](1965年、MBS) - 河田小龍
* [[泣いてたまるか]] 第58話「下町の青春」(1967年、TBS)
* [[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]](CX)
** 第106話「黒い傷あと」(1968年) - 茂十
** 第248話「なさけ深川」(1971年) - 源太
* [[右門捕物帖 (1969年のテレビドラマ)|右門捕物帖]] 第1話「右門登場」 (1969年、NTV / 東宝)
* [[柳生十兵衛 (1970年のテレビドラマ)|柳生十兵衛]] 第10話「黒竜の秘密」 (1970年、CX) - 都築勘太夫
* [[弥次喜多隠密道中]] 第9話「帰ってきた男」(1971年、NTV)
* [[特別機動捜査隊]] 第530話「懐かしのメロディー 殺し屋」(1971年、NET)
* [[刑事くん]] 第1部 第10話「枯葉に朝日が」(1971年、TBS) - シバの貞吉
* [[土曜ドラマ (日本テレビ)|土曜グランド劇場]] / [[3丁目4番地]](1972年、NTV) - 木下徳次
* [[木枯し紋次郎]] 第2シーズン 第20話「上州新田郡三日月村」(1972年、CX) - 与作
* [[変身忍者 嵐]] 第26話「死ぬか嵐! 恐怖のスフィンクス!!」・第27話「妖怪! 毒ぐもタランチュラ!!」(1972年、MBS) - [[百地丹波|百地三太夫]]
* [[長谷川伸シリーズ]] 第22話「抱き寝の長脇差」(1973年、NET) - 矢切の七左衛門
* [[ご存知時代劇]] / 赤城の子守唄(1973年、NET) - 御室の勘助
* [[新選組 (テレビドラマ)|新選組]] 第14話「奈良尼寺の急襲」(1973年、CX) - 国分文左衛門
* [[唖侍鬼一法眼|唖侍 鬼一法眼]](NTV / 勝プロ) - 慈海和尚
** 第5話「流転のめぐり合い」(1973年)
** 第13話「黒髪地獄」(1974年)
* [[荒野の素浪人]] 第2シリーズ 第11話「地獄の沙汰」(1974年、NET) - 青鬼の源五郎
* [[鞍馬天狗 (1974年のテレビドラマ)|鞍馬天狗]] 第11話「人斬り」(1974年、NTV / 東宝) - 玄海竜
* [[ちょっとしあわせ]](1974年 - 1975年、NET) - 柚木紋平
* [[東芝日曜劇場]] 第980話「社長命令」(1975年、TBS)
* [[ばあちゃんの星]](1975年、TBS)
* [[土曜ドラマ (NHK)|土曜ドラマ]](NHK)
** [[紅い花#映像化作品|紅い花]](1976年) - 老人
** 大阪親不孝通り(1979年)
* [[鞍馬天狗の「家」]](1977年、ABC) - 本人(鞍馬天狗)
* [[新・必殺仕置人]] 第11話「助人無用」(1977年、ABC) - 天狗の鞍三
* [[日本の戦後]] 第1集「日本分割 知られざる占領計画」(1977年、NHK) - [[鈴木貫太郎]]
* [[土曜ワイド劇場]] / 逃亡・雪原の銃声(1978年、ANB)
* [[破れ新九郎]](1978年、ANB) - 八兵衛
=== CM ===
* [[ワリシン]]([[日本債券信用銀行]]発行)(1977年)
* [[ソフト99]]「クイックワン」(1980年)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 荷村寛夫 『嵐寛寿郎と100人のスター 男優篇』 [[ワイズ出版]]、1996年。
* 荷村寛夫 『嵐寛寿郎と100人のスター 女優篇』 ワイズ出版、1997年。
* [[竹中労]] 『鞍馬天狗のおじさんは-聞書アラカン一代』 白川書院、1976年。
** 竹中労 『聞書アラカン一代-鞍馬天狗のおじさんは』 [[徳間書店]]〈[[徳間文庫]]〉、1985年。
** 竹中労 『鞍馬天狗のおじさんは-聞書アラカン一代』 [[筑摩書房]]〈[[ちくま文庫]]〉、1992年。
* 渡辺才二・嵐寛寿郎研究会編著 『剣戟王嵐寛壽郎』 [[三一書房]]、1997年。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Arashi Kanjūrō}}
* [[歌舞伎]]
* [[日本映画プロダクション連盟]]
* [[新興キネマ]]
* [[日活撮影所]]
* [[大映]]
* [[大映京都撮影所]]
== 外部リンク ==
* {{Kinejun name|2=嵐寛寿郎}}
* {{jmdb name|0369750|嵐寛寿郎}}
* {{NHK人物録|D0009071296_00000}}
{{毎日映画コンクール男優助演賞}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:あらし かんしゆうろう}}
[[Category:日本の男優]]
[[Category:日本の映画プロデューサー]]
[[Category:20世紀日本の実業家]]
[[Category:剣戟俳優]]
[[Category:歌舞伎役者]]
[[Category:サイレント映画の俳優]]
[[Category:ヤクザ映画の俳優]]
[[Category:マキノ・プロダクションの俳優]]
[[Category:嵐寛寿郎プロダクションの人物|*]] <!-- 俳優・主宰者 -->
[[Category:東亜キネマの俳優]]
[[Category:戦前の日活の俳優]]
[[Category:大映の俳優]]
[[Category:新東宝の俳優]]
<!--
[[Category:松竹の俳優]]
[[Category:東映の俳優]]
(所属が確認できない)-->
[[Category:京都市出身の人物]]
[[Category:1902年生]]
[[Category:1980年没]]
[[Category:森光子|+あらし かんしゆうろう]] | 2003-02-19T06:31:25Z | 2023-11-08T05:13:16Z | false | false | false | [
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2,371 | アメイジア大陸 | アメイジア大陸(アメイジアたいりく、Amasia)もしくはノヴォパンゲア大陸(ノヴォパンゲアたいりく、Novopangea/Novopangaea)は、プレートテクトニクスにおいて、現在より約2億5000万年後までに地球に出現する可能性があると考えられている超大陸の一つ。アメイジアは「アメリカ」と「アジア」を繋げたもので、ノヴォパンゲアは「新しいパンゲア」の意味である。パンゲア大陸とは2億年以上前に存在したとされる超大陸で、現在の大陸に分裂したとされる。
アメイジア大陸は、地球内部のマントルが長年をかけて対流することでプレートが移動し、アフリカ大陸、ユーラシア大陸、アメリカ大陸、オーストラリア大陸の合体によって形成される。その際には太平洋は消滅し、そこに大山脈が出現する。その後、太平洋の跡からの大規模なプルーム現象が起こると予測されている。
なお、「東ユーラシアと北アメリカが直接衝突し、その南にオーストラリアが衝突する形になる」、「オーストラリアが両者の間に割り込むところまで北上する」、「南極大陸がオーストラリアの南側に衝突するか、単独の大陸のままで残る」、などについては予想が分かれている。一方で、イェール大学のミッチェル博士らは、北極を中心に形成されるとしている。
アメイジアは、1992年に出されたケンブリッジ大学のChris Hartnadyの説に、ハーバード大学のポール・ホフマン(英語版)がつけた名称である。のちに唱えられたノヴォパンゲアに比べ、南極大陸があまり動かず孤立した大陸として残るという特徴がある。
一方、ノヴォパンゲアは、1990年代末にケンブリッジ大学のRoy Livermoreがつけた名称である。こちらの説では、新たな沈み込み帯により南極大陸が太平洋を北上し、超大陸に加わる。
2012年、イェール大学のロス・ミッチェルらは、「北アメリカとアジアが北上して北極海で衝突する」という説を唱えた。この説では太平洋の代わりに北極海を中心とした超大陸ができるが、彼らは次の超大陸を広くアメイジアとしていたので、この超大陸もアメイジアと呼んだ。
広義のアメイジアの語法は一般的ではないが、北極海で衝突する説が「アメイジア大陸」として、太平洋で衝突する説が「ノヴォパンゲア大陸」として紹介されることがある。
アメイジア大陸とは逆に、「現在は拡大している大西洋が縮小に転じ、消滅するような形で超大陸が形成される」という説もあり、この超大陸はパンゲア・ウルティマ大陸またはパンゲア・プロクシマ大陸と呼ばれている。
さらに、「太平洋と大西洋が共に消滅し、それを補う形でユーラシアが新たなプレート境界により東西に分裂し、その間に新たな大洋ができる」という説が、2018年に発表された。この超大陸はオーリカ大陸と呼ばれる。 | [
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] | アメイジア大陸(アメイジアたいりく、Amasia)もしくはノヴォパンゲア大陸(ノヴォパンゲアたいりく、Novopangea/Novopangaea)は、プレートテクトニクスにおいて、現在より約2億5000万年後までに地球に出現する可能性があると考えられている超大陸の一つ。アメイジアは「アメリカ」と「アジア」を繋げたもので、ノヴォパンゲアは「新しいパンゲア」の意味である。パンゲア大陸とは2億年以上前に存在したとされる超大陸で、現在の大陸に分裂したとされる。 | '''アメイジア大陸'''(アメイジアたいりく、Amasia)もしくは'''ノヴォパンゲア大陸'''(ノヴォパンゲアたいりく、Novopangea/Novopangaea)は、[[プレートテクトニクス]]において、現在より約2億5000万年後までに[[地球]]に出現する可能性があると考えられている[[超大陸]]の一つ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jamstec.go.jp/j/about/press_release/20160804/ |title=2億5000万年後までに日本列島を含んだ超大陸アメイジアが北半球に形成されることを数値シミュレーションにより予測~大陸移動の原動力の理解へ一歩前進~ |author= |date=2016-08-04 |work= |publisher=国立研究開発法人海洋研究開発機構 |accessdate=2017-11-23 }}</ref>。アメイジアは「アメリカ」と「アジア」を繋げたもので、ノヴォパンゲアは「新しいパンゲア」の意味である。[[パンゲア大陸]]とは2億年以上前に存在したとされる超大陸で、現在の大陸に分裂したとされる。
== 概要 ==
アメイジア大陸は、地球内部の[[マントル]]が長年をかけて対流することで[[プレート]]が移動し、[[アフリカ大陸]]、[[ユーラシア大陸]]、[[アメリカ大陸]]、[[オーストラリア大陸]]の合体によって形成される。その際には[[太平洋]]は消滅し、そこに大[[山脈]]が出現する。その後、太平洋の跡からの大規模な[[プルームテクトニクス#ホットプルーム|プルーム]]現象が起こると予測されている。
なお、「東ユーラシアと北アメリカが直接衝突し、その南にオーストラリアが衝突する形になる」、「オーストラリアが両者の間に割り込むところまで北上する」、「[[南極大陸]]がオーストラリアの南側に衝突するか、単独の大陸のままで残る」、などについては予想が分かれている<ref>[http://www.clas.ufl.edu/users/jmeert/amasia.gif]{{リンク切れ|date=2019年7月}}</ref><ref>[http://farm3.static.flickr.com/2312/2375050024_048ed41f39_b.jpg 2375050024_048ed41f39_b.jpg (787×1024)]</ref>。一方で、[[イェール大学]]のミッチェル博士らは、[[北極]]を中心に形成されるとしている<ref>「ニュートン2012年6月号」[[ニュートンプレス]] 原典は[[ネイチャー|Nature]]2012-2-9日号</ref>。
== アメイジアとノヴォパンゲア ==
アメイジアは、1992年に出された[[ケンブリッジ大学]]のChris Hartnadyの説に、[[ハーバード大学]]の{{仮リンク|ポール・F・ホフマン|label=ポール・ホフマン|en|Paul F. Hoffman}}がつけた名称である<ref name="NewSci">{{cite news|last1=Williams|first1=Caroline|last2=Nield|first2=Ted|title=Pangaea, the comeback|work=New Scientist|date=20 October 2007|original-url=http://www.science.org.au/nova/newscientist/104ns_011.htm|url=https://web.archive.org/web/20080413162401/http://www.science.org.au/nova/newscientist/104ns_011.htm|archive-date=13 April 2008|accessdate=4 August 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20080413162401/http://www.science.org.au/nova/newscientist/104ns_011.htm}}</ref>。のちに唱えられたノヴォパンゲアに比べ、[[南極大陸]]があまり動かず孤立した大陸として残るという特徴がある。
一方、ノヴォパンゲアは、1990年代末にケンブリッジ大学のRoy Livermoreがつけた名称である<ref name=NewSci/>。こちらの説では、新たな[[沈み込み帯]]により南極大陸が太平洋を北上し、超大陸に加わる。
2012年、[[イェール大学]]のロス・ミッチェル<!--Ross N. Mitchell-->らは、「北アメリカとアジアが北上して[[北極海]]で衝突する」という説を唱えた<ref>{{cite|title=Supercontinent cycles and the calculation of absolute palaeolongitude in deep time|author=Ross N. Mitchell, Taylor M. Kilian & David A. D. Evans|journal=[[ネイチャー|Nature]]|volume=482|number=7384|year=2012|url=https://www.nature.com/articles/nature10800}}</ref><ref>{{cite|url=https://wired.jp/2012/02/09/amasia-supercontinent/|title=アジアと米大陸が衝突:最新の大陸移動予想(動画)|year=2012|journal=[[WIRED (雑誌)|WIRED]]|accessdate=2019-11-01}}</ref>。この説では太平洋の代わりに北極海を中心とした超大陸ができるが、彼らは次の超大陸を広くアメイジアとしていたので、この超大陸もアメイジアと呼んだ。
広義のアメイジアの語法は一般的ではないが、北極海で衝突する説が「アメイジア大陸」として、太平洋で衝突する説が「ノヴォパンゲア大陸」として紹介されることがある<ref>{{cite web|title=Here's what the Earth could look like in 200million years – FOUR new supercontinents revealed|url=https://www.thesun.co.uk/tech/7845936/earth-future-continents-supercontient-pangea/|accessdate=2019-11-01|journal=[[The Sun]]}}</ref>。
== 他の予想 ==
アメイジア大陸とは逆に、「現在は拡大している[[大西洋]]が縮小に転じ、消滅するような形で超大陸が形成される」という説もあり、この超大陸は[[パンゲア・ウルティマ大陸]]またはパンゲア・プロクシマ大陸と呼ばれている。
さらに、「太平洋と大西洋が共に消滅し、それを補う形でユーラシアが新たな[[プレート境界]]により東西に分裂し、その間に新たな大洋ができる」という説が、2018年に発表された<ref>{{cite|title=The future of Earth's oceans: consequences of subduction initiation in the Atlantic and implications for supercontinent formation|author=JOÃO C. DUARTE, WOUTER P. SCHELLART and FILIPE M. ROSAS|journal=Geological Magazine|year=2018|volume=155|issue=1}}</ref>。この超大陸は[[オーリカ大陸]]と呼ばれる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author = [[テッド・ニールド]]
|translator = [[松浦俊輔]]
|title = 超大陸 : 100億年の地球史
|origyear =
|year = 2008
|publisher = [[青土社]]
|isbn = 978-4-7917-6442-6
}}
== 関連項目 ==
* [[大陸移動説]]
* [[パンゲア大陸]]
{{プレートテクトニクス}}{{世界の地理}}{{DEFAULTSORT:あめいしあたいりく}}
[[Category:超大陸]] | 2003-02-19T06:42:31Z | 2023-10-07T01:41:02Z | false | false | false | [
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2,372 | にらめっこ | にらめっこ(白眼こ)はこどもの遊びのひとつ。基本は二人が向かい合わせになり、わらべうたを歌う。(下記参照)だるまさん、だるまさん、の部分は省略することが多い。
うたの最後の「......っぷ」にあわせて無表情、またはおかしな表情をつくり、どちらかが先に笑ったら負け、というルールで勝ちを競う。 ローカルルールとして、しゃべることができたり、声に出して笑わない限り負けにならないこともある。
勝敗の明確な基準をつけるために口に牛乳などの水分を含み、噴き出したら負けというルールもあり、バラエティ番組などでも使用されている。ただし、この場合は特性上、表情の自由が制限されるため、一人が表情を作り、一人が口に水分を含んでこらえるという形を交互に行うことになることが多い。
※「あっぷっぷ」が「うんとこどっこいしょ」に代わる地域もある。
やはり笑うと負けになる遊技に、「ぷくぷく」というのがある。二人が向かい合い、交互に「ぷくぷく」と言いながら変な顔をするものである。
海外の例で、英語圏の Staring contests では、まばたきや目を逸らすのも駄目というルールがある。 | [
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] | にらめっこ(白眼こ)はこどもの遊びのひとつ。基本は二人が向かい合わせになり、わらべうたを歌う。(下記参照)だるまさん、だるまさん、の部分は省略することが多い。 うたの最後の「……っぷ」にあわせて無表情、またはおかしな表情をつくり、どちらかが先に笑ったら負け、というルールで勝ちを競う。
ローカルルールとして、しゃべることができたり、声に出して笑わない限り負けにならないこともある。 勝敗の明確な基準をつけるために口に牛乳などの水分を含み、噴き出したら負けというルールもあり、バラエティ番組などでも使用されている。ただし、この場合は特性上、表情の自由が制限されるため、一人が表情を作り、一人が口に水分を含んでこらえるという形を交互に行うことになることが多い。 | {{出典の明記|date=2012年5月}}
'''にらめっこ'''は[[子供|こども]]の[[遊び]]のひとつ。基本は二人が向かい合わせになり、[[わらべうた]]を歌う。(下記参照)だるまさん、だるまさん、の部分は省略することが多い。
うたの最後の「……っぷ」にあわせて無表情、またはおかしな[[表情]]をつくり、どちらかが先に[[笑い|笑ったら]]負け、というルールで勝ちを競う。
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勝敗の明確な基準をつけるために口に[[牛乳]]などの水分を含み、噴き出したら負けというルールもあり、[[バラエティ番組]]などでも使用されている。ただし、この場合は特性上、表情の自由が制限されるため、一人が表情を作り、一人が口に水分を含んでこらえるという形を交互に行うことになることが多い。
== 歌詞 ==
:だるまさん、だるまさん、にらめっこしましょ
:わらうとまけよ、あっぷっぷ
※「あっぷっぷ」が「うんとこどっこいしょ」に代わる地域もある。
== 類似例 ==
やはり笑うと負けになる遊技に、「ぷくぷく」というのがある。二人が向かい合い、交互に「ぷくぷく」と言いながら変な顔をするものである。
海外の例で、英語圏の Staring contests では、まばたきや目を逸らすのも駄目というルールがある。
== 関連項目 ==
* [[こどもの文化]]
* [[達磨]] - 9年間、ずっと壁に向かって座禅を組んでいた「面壁九年」という四字熟語がある。
** [[だるまさんがころんだ]]
* [[目競]] - 日本の妖怪。
{{DEFAULTSORT:にらめつこ}}
[[Category:子供の遊び]]
[[Category:日本の童歌]]
[[Category:顔]]
[[Category:だるま]] | 2003-02-19T06:52:54Z | 2023-10-20T00:01:07Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AB%E3%82%89%E3%82%81%E3%81%A3%E3%81%93 |
2,373 | ピーナッツ (曖昧さ回避) | ピーナッツ、ピーナツ (peanuts) は、英語で落花生(ラッカセイ)の意。日本では特に食用の種子を指す。 | [
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] | ピーナッツ、ピーナツ (peanuts) は、英語で落花生(ラッカセイ)の意。日本では特に食用の種子を指す。 ピーナッツ (漫画) - チャールズ・M・シュルツ作のアメリカ漫画。スヌーピーなどのキャラクターで有名。
ザ・ピーナッツ - 日本の女性双子歌手ユニット。
ピーナッツ (映画) - 2006年に公開された内村光良監督の日本映画。
ピーナッツ - 南海電気鉄道のフリーペーパー「P+natts」の愛称。
ピーナツ - ロッキード事件で用いられた賄賂額の符丁。
ピーナッツくん - 日本のバーチャルYouTuber。
ピーナッツ - アメリカの黒人ボーカルグループリトル・ジョー&ザ・スリラーズの1957年のシングル。フォー・シーズンズや梅木マリがカバー。
ピイナッツ - 三池崇史監督・竹内力主演による1996年のVシネマ。 | '''ピーナッツ'''、'''ピーナツ''' ({{En|peanuts}}) は、[[英語]]で落花生([[ラッカセイ]])の意。日本では特に食用の種子を指す。
* [[ピーナッツ (漫画)]] - [[チャールズ・M・シュルツ]]作のアメリカ[[漫画]]。[[スヌーピー]]などのキャラクターで有名。
* [[ザ・ピーナッツ]] - 日本の女性[[双生児|双子]]歌手ユニット。
* [[ピーナッツ (映画)]] - [[2006年]]に公開された[[内村光良]]監督の[[日本映画]]。
* ピーナッツ - [[南海電気鉄道]]のフリーペーパー「[[P+natts]]」の愛称。
* ピーナツ - [[ロッキード事件]]で用いられた賄賂額の符丁。
* [[ピーナッツくん]] - 日本の[[バーチャルYouTuber]]。
* ピーナッツ - アメリカの黒人ボーカルグループ{{仮リンク|リトル・ジョー&ザ・スリラーズ|en|Little Joe Cook}}の1957年のシングル。[[フォー・シーズンズ]]や[[梅木マリ]]がカバー。
*{{仮リンク|ピイナッツ|en|Peanuts (1996 film)}} - [[三池崇史]]監督・[[竹内力]]主演による1996年の[[Vシネマ]]。
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%83%E3%83%84_(%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF) |
2,374 | 北海道大学 | 北海道大学(ほっかいどうだいがく、英語: Hokkaido University)は、北海道札幌市北区北8条西5丁目に本部を置く、日本の国立大学である。略称は北大(ほくだい)。1876年(明治9年)に前身の札幌農学校が創立され、東北帝国大学農科大学への改称を経て、総合大学の北海道帝国大学が1918年(大正7年)に設置された。旧帝国大学(旧帝大)7校の一つであり、THE大学ランキング日本版2022では国内第6位、社会貢献の取り組みを示すインパクトランキングでは世界10位・国内1位に数えられる。
北海道大学は、日本初の学士授与機関として1876年(明治9年)に設立された札幌農学校を前身とする総合大学である。12学部と21大学院を擁する。
札幌農学校の源流は1872年(明治5年)設立の開拓使仮学校(東京府芝)および同校が北海道札幌郡に1875年(明治8年)に移転・改称した札幌学校であるが、北海道大学の歴史においては「前史」とされており、両校の開校日は、現在の北海道大学の創立記念日とは位置付けられていない。大学全体としては学制(明治5年太政官布告第214号)の規定に基づく学士の称号の授与権限が付与された1876年(明治9年)を北海道大学の創基(創立)年としている。
札幌農学校はその後東北帝国大学農科大学(1907年)、北海道帝国大学(1918年)、太平洋戦争敗戦に伴い改組された新制大学である北海道大学(1947年)を経て、現在の国立大学法人北海道大学(2004年)に至る。現在の国立大学法人北海道大学は、創基以来4番目の組織再編とされており、北海道大学の時代区分においても、国立大学法人化以前の北海道大学とは区別されている。
2021年の時点で、北海道大学の卒業生・教員1名(鈴木章)と教員1名(ベンジャミン・リスト)の合計2名がノーベル化学賞を受賞している。また、2010年ノーベル賞受賞者根岸英一も北海道大学触媒科学研究所の特別教授として務めた。
フロンティア精神、実学の重視、全人教育、国際性の涵養などが建学理念であり、現在も基本理念として掲げられている。
札幌農学校初代教頭(事実上の校長)であるウィリアム・スミス・クラーク(米国マサチューセッツ農科大学前学長)が、米国帰国にあたり札幌近くの島松(今の恵庭市と北広島市境界付近)で馬上から叫んだという「Boys, be ambitious.」(少年よ、大志を抱け)は、現在でも北海道大学のモットーとして受け継がれている。クラークは、札幌農学校の開校式において、「lofty ambition」(高邁なる大志)との言葉を発しており、開校および帰国に際していずれも大志との語を使っていることから、その信念が一貫していたことが分かる。
また、クラークが説いたキリスト教精神により、官立学校にもかかわらず学生の間で「イエスを信ずる者の誓約」が行われ、内村鑑三などのクリスチャンを生んだ。彼らは札幌バンドと呼ばれ、日本におけるプロテスタントの先駆者として活躍した。札幌農学校1期生の伊藤一隆は1876年(明治9年)、着任わずか2日後のクラーク立ち合いのもと、クラークの宿舎において英国国教会(CMS)の宣教師ウォルター・デニングが洗礼を授けた。キリスト教に関しては後に衰退していくが、伊藤一隆や内村鑑三らが引き継いでいくこととなった。現在でも北海道大学の校歌の旋律はキリスト教の賛美歌と同一である等、国立大学でありながらキリスト教の文化が残る一面も見受けられる。
このような札幌農学校の精神が、同大の基本理念に引き継がれている。「アイヌの父」として知られる英国聖公会宣教協会(CMS)の宣教師ジョン・バチェラーの邸宅も北海道大学植物園内に移築され、登録有形文化財になっている。
男女共同参画社会基本法に基づくポジティブ・アクションに取り組んでおり、全研究者の中の女性研究者比率が2020年までに20%になるよう努めるとする数値目標を掲げ推進している。北東アジア地域との連携を重視しており、大韓民国、台湾、中華人民共和国などの大学とも相互協定を結んでいることだけではなく、2005年4月12日に連携協力協定を締結した青年海外協力隊(JICA)へも定期的に隊員を送り出し、また研修員を受け入れている。これは、同大学の建学の精神にも謳われている、国際性豊かな若者を育成することを重視しているためである。
(沿革節の主要な出典は大学概要)
本節では、北海道大学が発行する大学概要に準拠し、1876年(明治9年)以降の沿革を「札幌農学校時代」「東北帝国大学農科大学時代」「北海道帝国大学時代」「北海道大学時代」「国立大学法人北海道大学時代」に分けて記す。
。
北海道大学は、国立大学としては最多の12学部・19大学院を設置し、大学の総敷地面積としては国内最大の規模(660平方キロメートル)であり、全国の大学が所有する土地面積の4割超を有する。
校章はキャンパス内に自生するオオバナノエンレイソウ(ユリ科トリリウム属の多年草)を図案化したもの。1950年(昭和25年)の公募による入選作を、創基120周年を機に修正を加え、1996年(平成8年)9月にシンボルマークとして決定された。なお、起源については、恵迪寮のシンボルマークから発祥説と、ラグビー部のシンボルマークから発祥説がある。
従来より北大の緑豊かなキャンパスを表すグリーンがスクールカラーとして慣例的に使用されていたが、2009年(平成21年)9月に、詳細な色指定をもって正式にスクールカラーとして定められた。プロセスカラーはシアン80%、マゼンタ10%、イエロー100%、ブラック30%。
2009年(平成21年)7月にロゴタイプオンライン投票が実施され、その結果をもとに同年9月に制定された。
校歌は『永遠の幸』(とこしえのさち)と題し、札幌農学校時代に作られた。作詞者は有島武郎。米国人作曲家ジョージ・F・ルート(英語版)が1863年に作曲した "Tramp!Tramp!Tramp!" が原曲。この曲はアメリカ合衆国が南北戦争の時代に北軍の行進曲として歌われ、南軍でも歌われていた。また、歌詞を変えてアイルランドでも流行した。南北戦争後、米国の各大学でも学生歌に用いられていたものを納所弁次郎が選曲したといわれている。旧制の国立学校校歌としては特異な成り立ちであり、旧帝大においては唯一の「校歌」である。
歌詞は大和田建樹が校閲したため、作詞者の欄に有島とともに併記されることもある。
有島が作詞をしたのは1900年(明治33年)頃であり、1900年(明治33年)に行われた創立25周年記念祝賀会で歌われたとする資料がある。当時有島は農学校の学生であったため、現在でも校歌作詞者を記す時には「有島武郎君作歌」というように「君」付けで表記されることが多い。
原曲の"Tramp! Tramp! Tramp!"は、キリスト教の賛美歌にも使われ、日本においては、日本福音連盟『新聖歌』(2001年版)の186番、救世軍歌(1997年版)の108番などにその例が見られる。
"Tramp! Tramp! Tramp!"を原曲とする曲としては、同志社大学の応援歌『若草萌えて』や童謡の『船乗りの夢』、アイルランド準国歌『神よアイルランドを守り給え』も該当する。
北海道大学には現在も『都ぞ弥生』(みやこぞやよい)をはじめとする寮歌が歌い継がれている。大学の公式の寮である恵迪寮では、1907年から2018年現在まで原則、年に1曲ずつ寮歌が作成されている。
学校の花はオオバナノエンレイソウで、校章のモチーフとなっている。
21世紀COEプログラムの採択数は12件だった。
グローバルCOEプログラムの採択数は7件である。
もともと課外活動に関する学生団体として札幌農学校時代に文武会が存在し、その後、予科の教官と学生の懇親と団結を目的とした桜星会が誕生した。これがスポーツ中心の活動となった組織が北海道大学体育会である。2018年7月30日時点公認の体育系団体は67団体(その内53団体が体育会に所属)あり、文科系団体は52団体がある。
北海道大学の体育会団体の中には、他大学生の受け入れを認めている団体があるほか、近隣大学と合同練習する団体も見られる。 (2019年1月時点の公式サイト掲載団体)
上述の体育系団体と同様、文化系団体においても他大学生の在籍を認める団体が多く見受けられる。
北海道大学は札幌駅徒歩圏内という立地条件に加えて、近隣に複数の大学が所在するという事情もあり、多くのサークルにおいて他大学生の受け入れを認めている。特に藤女子大学や北海道武蔵女子短期大学の学生が多く在籍する傾向にある。
北海道大学では、ほとんどのサークルが常設の「部室」というものを与えられていない。このため、校内各所に設けられた会議室・サークル会館等の部屋を時間指定で借りて、活動を行う。常設の部室が無いため、備品も同じく各所に設けられたロッカー等に保管される。
文化系団体のYOSAKOIソーラン北海道大学"縁"はYOSAKOIソーラン祭りに北海道大学"縁"として出場。2009年から2016年まで8年連続でファイナル進出。2013年、2014年の2年連続で準YOSAKOIソーラン大賞を受賞。演舞の途中で男性陣が「赤いふんどし」になる。
毎年6月上旬に北18条ロータリー(高等教育推進機構前)から農学部前までのメインストリートを使った「北大祭」が盛大に開催される。「北大祭」とは、期間中に開催される各祭りの集合体であり、主に学部・学科・ゼミを中心とする「学部祭」(例:獣医学部祭)、留学生を中心とする IFF (International Food Festival)、1年生やサークルを中心とする「楡陵祭」(ゆりょうさい)などによって構成されている。北大祭は日祝日にかけて行われるため訪れる観光客や市民も多い。このほか10月から11月にかけては恵迪寮祭も行われる。
北海道大学の卒業生が組織する各学部や地区別に存在していた同窓会をとりまとめるため、2004年4月に北海道大学連合同窓会が発足した。 2016年6月に大学、在学生との連携をさらに強化することを目的として連合同窓会は解散し、北海道大学校友会エルムが発足した。
以下は校友会エルムにおいて「基礎同窓会」と位置づけられている組織。
大学内では通称「エルムの杜」とも呼ばれ、札幌市中心部に所在している。敷地面積は177万m
キャンパス内は南北約1.5キロメートルのメインストリートの左右に各施設が並ぶ配置。キャンパスのすぐ東を南北に延びる札幌市営地下鉄南北線さっぽろ駅付近から北12条駅を抜け、北18条駅を過ぎる辺りまでキャンパスが広がっている。付属農場の部分も加えると、その北端は北24条駅の辺りにまで達する。目的の施設・学部・研究科などによって最寄駅は大きく異なる。また札幌キャンパスの多くの施設では、住所に「番」および「号」が付与されていない全国的にも珍しい住所表記となっている。
札幌キャンパスでは通行車両を必要最小限に抑えるため「車両通行規制」が施行されており、観光・通り抜け・通学目的の車両入構禁止、最高速度25km/hなどの規制が敷かれている。キャンパスの西側(石山通・桑園地区)と東側(北大通・地下鉄南北線沿線)の往来は不便であったが、2001年(平成13年)にキャンパスの北部を東西に貫く地下道路トンネル「環状通エルムトンネル」が開通したことにより従来より利便性が向上した。
正門を入って北側の大学事務局(本部)は、北海道帝国大学予科時代に校舎として使用していた建物。西に進むと広い芝生の「中央ローン」がある。中央ローンを流れる小川はサクシュコトニ川で、現在は人工の川であるが、かつては鮭も遡上した天然河川であった。
中央ローンの北には、旧制東北帝国大学農科大学以来の木造の教室である「古河記念講堂」が残り、西には同じく明治建築の「旧昆虫学及養蚕学教室」と「旧札幌農学校図書館読書室・書庫」、南には「クラーク像」、その西には時計塔がある「農学部本館」と、北大の象徴が集まっている。メインストリート南端にあるクラーク会館は、国立大学初の学生会館である。「旧昆虫学及養蚕学教室」の北の広場は「エルムの森」と呼ばれ、その北に総合博物館がある。
絵はがきなどで有名なポプラ並木は、メインストリートから理学部と工学部の間を西側に入った農場近くにあり、約300 mの並木が続く。かねてより倒木の危険性があり、立ち入りは禁止されていたが、2004年(平成16年)9月の台風の影響で51本のうち27本が倒壊してしまった。その後、再生を目指して若木の植樹を行うなどして整備し、80 mほどまで散策可能となった。
理学部敷地内の旧理学部本館は1999年(平成11年)から北海道大学総合博物館となり、農学部など学内各学部に分散して管理されていた明治時代以来の各種学術資料の集中的な管理体制が構築されつつある。
札幌キャンパスは国指定重要文化財・登録有形文化財が複数登録されており、札幌市を代表する観光スポットの一つとして毎年多くの観光客が訪れている。
キャンパス北地区に位置する重要文化財・北海道遺産である札幌農学校第2農場はクラークの構想によるモデルバーン(模範家畜房)を中心にした明治期の建築物であり、現存する北大の建築物の中では最古である。また、旧校地である北1条西2丁目には、旧札幌農学校演武場(通称:札幌時計台)が保存されており、キャンパス移転前の趣が色濃く残されている。
なお、正門近くの中央ローンに「クラーク像」(胸像)があるが、これは札幌市豊平区のさっぽろ羊ヶ丘展望台にある「丘の上のクラーク」(全身像)とは別物である。
キャンパスから少し離れた南側の北海道庁赤レンガ庁舎隣接地に北海道大学植物園(13万 m)があり、こちらも観光客が多く訪れる。
水産学部は札幌農学校水産学科として発足したが、1935年(昭和10年)に函館高等水産学校として函館に独立し、1949年(昭和24年)の新制大学制度の施行に伴い、函館水産専門学校は北海道大学に包括され、農学部水産学科と併せ水産学部となった。その経緯から現在でも水産学部のみ函館のキャンパスを使用しており、卒業式も同キャンパスで開催される。面積はおよそ89,000 m2006年度より共同研究を目的とした一部の研究室が札幌に移転(環境科学院へ)している場合もあり、各学部間との協力体制も見直されてきているため、一部の学生は函館に移行した後、再び札幌に戻るケースもでてきている。また平成23年度より総合入試が導入されたため、従来は2年生後期に函館キャンパスに移行となっていたが、3年生前期からのキャンパス移行へと変更がなされている。したがって水産学部生の中には、最短で1年間だけ函館で生活し、4年生から札幌に戻る学生もいるため、慌ただしいキャンパスライフを送ることになる学生もいる。
有珠火山観測所、厚岸臨海実験所(厚岸町)、静内研究牧場(静内町)、生物生産研究農場余市果樹園(余市町)、洞爺臨湖実験所、各研究林など北海道内に20施設。パラダイス・ヒュッテ、ヘルヴェチア・ヒュッテ、無意根小屋などの山小屋もある。水産学部は1,300トン級の練習船「おしょろ丸」など船舶数隻を所有している。
また、北海道以外にも和歌山県古座川町に約429万 mの研究林、東京都千代田区丸の内にある「サピアタワー」内(東京都港区の新高輪プリンスホテルから2007年3月に移転)に東京オフィスを持つ。また、日本国外にも韓国の首都ソウル、フィンランドの首都ヘルシンキ、アフリカ大陸にあるザンビアの首都ルサカの各地にオフィスも所有する。
大学公式の寮として札幌キャンパスの大学敷地内に学部学生の男子および女子と男子大学院生、外国人男子留学生を対象とした「恵迪寮」(けいてきりょう)がある。また札幌キャンパスには女子学生対象の「霜星寮」(そうせいりょう)と「北大インターナショナルハウス北23条2号棟」がある。函館キャンパスの水産学部・水産科学院生の男子および女子を対象とした「北晨寮」(ほくしんりょう)がある。
加えて、外国人学生向けの寮として「北大インターナショナルハウス北8条」「北大インターナショナルハウス北23条」「北大インターナショナルハウス伏見」がある。日本国外からの学生は原則、入国直後は寮に入寮する。期間は原則6か月間とされている。なお、代々木ゼミナールの学生寮として使われていた建物を北海道大学が借り上げ、同様の趣旨で使用していた「北大インターナショナルハウス北8条東」は、契約期間満了のため2021年8月31日をもって閉寮した。
年は締結時期を示す。
北海道大学では18か国48校の大学と大学間の留学協定を結んでいる。また海外に8箇所のオフィスを設け、留学希望者に対する情報提供と具体的な手続きのサポートを行う。インバウンドの留学希望者向けの広報と手続きの支援を行う事務所を韓国(ソウル)、中国(北京)、フィンランド(ヘルシンキ)、ザンビア共和国(ルサカ)に置く。これらと並行してリエゾンオフィスという連絡先を現地の大学構内に設けているのは、2017年(平成29年)5月よりタイ(カセサート大学カンペンセンキャンパス 農学研究院棟内)、2017年(平成29年)6月よりインドネシア(ボゴール農科大学ダルマガキャンパス内)、2018年(平成30年)3月よりフィリピン(フィリピン大学ディリマン校)および中国(中国科学院大学内)である。
学生交流協定を結ぶ海外の大学等174機関(約47カ国・地域)とは、本学の学生が誰でも志望できる「大学間協定大学」と、当該の部局の学生に限定される「部局間協定大学」からなっている。
2020年には法政大学との連携プロジェクトである「オンラインSDGs人材育成プログラム」をスタートした。対象は北海道大学および法政大学の学部生と院生である。
外国人留学生(研究生・聴講学生等を除く)は、2022年(令和4年)5月1日時点で1,696人であり、うち女性は789人である。所属別留学生数を見ると、学部学生は183人(78人)、大学院学生のうち修士課程(博士前期)は712人(361人)、専門職学位課程は16人(7人)、博士課程(博士後期及び博士一貫)は785人(343人)である(カッコ内の人数は女性の内数)。
2022年度(5月1日時点)の国・地域別外国人留学生数 を見ると、出身の内訳は、中国が全体の6割にあたる1,232人、次いで韓国が107人と多く、アジアからの学生が全体の85.4%を占めている。そのほかヨーロッパからの学生が6.0%、アフリカからの学生が4.4%などとなっている。この年は、99の国・地域から2,024人の学生を受け入れている。
かつて、附属学校として北海道大学工業教員養成所という3年制の各種学校が存在した。現在は閉鎖されている。 | [
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"text": "北海道大学(ほっかいどうだいがく、英語: Hokkaido University)は、北海道札幌市北区北8条西5丁目に本部を置く、日本の国立大学である。略称は北大(ほくだい)。1876年(明治9年)に前身の札幌農学校が創立され、東北帝国大学農科大学への改称を経て、総合大学の北海道帝国大学が1918年(大正7年)に設置された。旧帝国大学(旧帝大)7校の一つであり、THE大学ランキング日本版2022では国内第6位、社会貢献の取り組みを示すインパクトランキングでは世界10位・国内1位に数えられる。",
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"text": "北海道大学は、日本初の学士授与機関として1876年(明治9年)に設立された札幌農学校を前身とする総合大学である。12学部と21大学院を擁する。",
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"text": "札幌農学校の源流は1872年(明治5年)設立の開拓使仮学校(東京府芝)および同校が北海道札幌郡に1875年(明治8年)に移転・改称した札幌学校であるが、北海道大学の歴史においては「前史」とされており、両校の開校日は、現在の北海道大学の創立記念日とは位置付けられていない。大学全体としては学制(明治5年太政官布告第214号)の規定に基づく学士の称号の授与権限が付与された1876年(明治9年)を北海道大学の創基(創立)年としている。",
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"text": "札幌農学校はその後東北帝国大学農科大学(1907年)、北海道帝国大学(1918年)、太平洋戦争敗戦に伴い改組された新制大学である北海道大学(1947年)を経て、現在の国立大学法人北海道大学(2004年)に至る。現在の国立大学法人北海道大学は、創基以来4番目の組織再編とされており、北海道大学の時代区分においても、国立大学法人化以前の北海道大学とは区別されている。",
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"text": "2021年の時点で、北海道大学の卒業生・教員1名(鈴木章)と教員1名(ベンジャミン・リスト)の合計2名がノーベル化学賞を受賞している。また、2010年ノーベル賞受賞者根岸英一も北海道大学触媒科学研究所の特別教授として務めた。",
"title": "概観"
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"text": "フロンティア精神、実学の重視、全人教育、国際性の涵養などが建学理念であり、現在も基本理念として掲げられている。",
"title": "概観"
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"text": "札幌農学校初代教頭(事実上の校長)であるウィリアム・スミス・クラーク(米国マサチューセッツ農科大学前学長)が、米国帰国にあたり札幌近くの島松(今の恵庭市と北広島市境界付近)で馬上から叫んだという「Boys, be ambitious.」(少年よ、大志を抱け)は、現在でも北海道大学のモットーとして受け継がれている。クラークは、札幌農学校の開校式において、「lofty ambition」(高邁なる大志)との言葉を発しており、開校および帰国に際していずれも大志との語を使っていることから、その信念が一貫していたことが分かる。",
"title": "概観"
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"text": "また、クラークが説いたキリスト教精神により、官立学校にもかかわらず学生の間で「イエスを信ずる者の誓約」が行われ、内村鑑三などのクリスチャンを生んだ。彼らは札幌バンドと呼ばれ、日本におけるプロテスタントの先駆者として活躍した。札幌農学校1期生の伊藤一隆は1876年(明治9年)、着任わずか2日後のクラーク立ち合いのもと、クラークの宿舎において英国国教会(CMS)の宣教師ウォルター・デニングが洗礼を授けた。キリスト教に関しては後に衰退していくが、伊藤一隆や内村鑑三らが引き継いでいくこととなった。現在でも北海道大学の校歌の旋律はキリスト教の賛美歌と同一である等、国立大学でありながらキリスト教の文化が残る一面も見受けられる。",
"title": "概観"
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"text": "このような札幌農学校の精神が、同大の基本理念に引き継がれている。「アイヌの父」として知られる英国聖公会宣教協会(CMS)の宣教師ジョン・バチェラーの邸宅も北海道大学植物園内に移築され、登録有形文化財になっている。",
"title": "概観"
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"text": "男女共同参画社会基本法に基づくポジティブ・アクションに取り組んでおり、全研究者の中の女性研究者比率が2020年までに20%になるよう努めるとする数値目標を掲げ推進している。北東アジア地域との連携を重視しており、大韓民国、台湾、中華人民共和国などの大学とも相互協定を結んでいることだけではなく、2005年4月12日に連携協力協定を締結した青年海外協力隊(JICA)へも定期的に隊員を送り出し、また研修員を受け入れている。これは、同大学の建学の精神にも謳われている、国際性豊かな若者を育成することを重視しているためである。",
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"text": "(沿革節の主要な出典は大学概要)",
"title": "沿革"
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"text": "本節では、北海道大学が発行する大学概要に準拠し、1876年(明治9年)以降の沿革を「札幌農学校時代」「東北帝国大学農科大学時代」「北海道帝国大学時代」「北海道大学時代」「国立大学法人北海道大学時代」に分けて記す。",
"title": "沿革"
},
{
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"text": "。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 13,
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"text": "北海道大学は、国立大学としては最多の12学部・19大学院を設置し、大学の総敷地面積としては国内最大の規模(660平方キロメートル)であり、全国の大学が所有する土地面積の4割超を有する。",
"title": "基礎データ"
},
{
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"text": "校章はキャンパス内に自生するオオバナノエンレイソウ(ユリ科トリリウム属の多年草)を図案化したもの。1950年(昭和25年)の公募による入選作を、創基120周年を機に修正を加え、1996年(平成8年)9月にシンボルマークとして決定された。なお、起源については、恵迪寮のシンボルマークから発祥説と、ラグビー部のシンボルマークから発祥説がある。",
"title": "基礎データ"
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"text": "従来より北大の緑豊かなキャンパスを表すグリーンがスクールカラーとして慣例的に使用されていたが、2009年(平成21年)9月に、詳細な色指定をもって正式にスクールカラーとして定められた。プロセスカラーはシアン80%、マゼンタ10%、イエロー100%、ブラック30%。",
"title": "基礎データ"
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"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "2009年(平成21年)7月にロゴタイプオンライン投票が実施され、その結果をもとに同年9月に制定された。",
"title": "基礎データ"
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"text": "校歌は『永遠の幸』(とこしえのさち)と題し、札幌農学校時代に作られた。作詞者は有島武郎。米国人作曲家ジョージ・F・ルート(英語版)が1863年に作曲した \"Tramp!Tramp!Tramp!\" が原曲。この曲はアメリカ合衆国が南北戦争の時代に北軍の行進曲として歌われ、南軍でも歌われていた。また、歌詞を変えてアイルランドでも流行した。南北戦争後、米国の各大学でも学生歌に用いられていたものを納所弁次郎が選曲したといわれている。旧制の国立学校校歌としては特異な成り立ちであり、旧帝大においては唯一の「校歌」である。",
"title": "基礎データ"
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"text": "歌詞は大和田建樹が校閲したため、作詞者の欄に有島とともに併記されることもある。",
"title": "基礎データ"
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"text": "有島が作詞をしたのは1900年(明治33年)頃であり、1900年(明治33年)に行われた創立25周年記念祝賀会で歌われたとする資料がある。当時有島は農学校の学生であったため、現在でも校歌作詞者を記す時には「有島武郎君作歌」というように「君」付けで表記されることが多い。",
"title": "基礎データ"
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"text": "原曲の\"Tramp! Tramp! Tramp!\"は、キリスト教の賛美歌にも使われ、日本においては、日本福音連盟『新聖歌』(2001年版)の186番、救世軍歌(1997年版)の108番などにその例が見られる。",
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"text": "\"Tramp! Tramp! Tramp!\"を原曲とする曲としては、同志社大学の応援歌『若草萌えて』や童謡の『船乗りの夢』、アイルランド準国歌『神よアイルランドを守り給え』も該当する。",
"title": "基礎データ"
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"text": "北海道大学には現在も『都ぞ弥生』(みやこぞやよい)をはじめとする寮歌が歌い継がれている。大学の公式の寮である恵迪寮では、1907年から2018年現在まで原則、年に1曲ずつ寮歌が作成されている。",
"title": "基礎データ"
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"text": "学校の花はオオバナノエンレイソウで、校章のモチーフとなっている。",
"title": "基礎データ"
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"text": "21世紀COEプログラムの採択数は12件だった。",
"title": "教育および研究"
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"text": "グローバルCOEプログラムの採択数は7件である。",
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"text": "もともと課外活動に関する学生団体として札幌農学校時代に文武会が存在し、その後、予科の教官と学生の懇親と団結を目的とした桜星会が誕生した。これがスポーツ中心の活動となった組織が北海道大学体育会である。2018年7月30日時点公認の体育系団体は67団体(その内53団体が体育会に所属)あり、文科系団体は52団体がある。",
"title": "学生生活"
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"text": "北海道大学の体育会団体の中には、他大学生の受け入れを認めている団体があるほか、近隣大学と合同練習する団体も見られる。 (2019年1月時点の公式サイト掲載団体)",
"title": "学生生活"
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"text": "上述の体育系団体と同様、文化系団体においても他大学生の在籍を認める団体が多く見受けられる。",
"title": "学生生活"
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"text": "北海道大学は札幌駅徒歩圏内という立地条件に加えて、近隣に複数の大学が所在するという事情もあり、多くのサークルにおいて他大学生の受け入れを認めている。特に藤女子大学や北海道武蔵女子短期大学の学生が多く在籍する傾向にある。",
"title": "学生生活"
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"text": "北海道大学では、ほとんどのサークルが常設の「部室」というものを与えられていない。このため、校内各所に設けられた会議室・サークル会館等の部屋を時間指定で借りて、活動を行う。常設の部室が無いため、備品も同じく各所に設けられたロッカー等に保管される。",
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"text": "文化系団体のYOSAKOIソーラン北海道大学\"縁\"はYOSAKOIソーラン祭りに北海道大学\"縁\"として出場。2009年から2016年まで8年連続でファイナル進出。2013年、2014年の2年連続で準YOSAKOIソーラン大賞を受賞。演舞の途中で男性陣が「赤いふんどし」になる。",
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"text": "毎年6月上旬に北18条ロータリー(高等教育推進機構前)から農学部前までのメインストリートを使った「北大祭」が盛大に開催される。「北大祭」とは、期間中に開催される各祭りの集合体であり、主に学部・学科・ゼミを中心とする「学部祭」(例:獣医学部祭)、留学生を中心とする IFF (International Food Festival)、1年生やサークルを中心とする「楡陵祭」(ゆりょうさい)などによって構成されている。北大祭は日祝日にかけて行われるため訪れる観光客や市民も多い。このほか10月から11月にかけては恵迪寮祭も行われる。",
"title": "学生生活"
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"text": "北海道大学の卒業生が組織する各学部や地区別に存在していた同窓会をとりまとめるため、2004年4月に北海道大学連合同窓会が発足した。 2016年6月に大学、在学生との連携をさらに強化することを目的として連合同窓会は解散し、北海道大学校友会エルムが発足した。",
"title": "大学関係者と組織"
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"text": "以下は校友会エルムにおいて「基礎同窓会」と位置づけられている組織。",
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"text": "札幌キャンパスでは通行車両を必要最小限に抑えるため「車両通行規制」が施行されており、観光・通り抜け・通学目的の車両入構禁止、最高速度25km/hなどの規制が敷かれている。キャンパスの西側(石山通・桑園地区)と東側(北大通・地下鉄南北線沿線)の往来は不便であったが、2001年(平成13年)にキャンパスの北部を東西に貫く地下道路トンネル「環状通エルムトンネル」が開通したことにより従来より利便性が向上した。",
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"text": "中央ローンの北には、旧制東北帝国大学農科大学以来の木造の教室である「古河記念講堂」が残り、西には同じく明治建築の「旧昆虫学及養蚕学教室」と「旧札幌農学校図書館読書室・書庫」、南には「クラーク像」、その西には時計塔がある「農学部本館」と、北大の象徴が集まっている。メインストリート南端にあるクラーク会館は、国立大学初の学生会館である。「旧昆虫学及養蚕学教室」の北の広場は「エルムの森」と呼ばれ、その北に総合博物館がある。",
"title": "施設"
},
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"paragraph_id": 40,
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"text": "絵はがきなどで有名なポプラ並木は、メインストリートから理学部と工学部の間を西側に入った農場近くにあり、約300 mの並木が続く。かねてより倒木の危険性があり、立ち入りは禁止されていたが、2004年(平成16年)9月の台風の影響で51本のうち27本が倒壊してしまった。その後、再生を目指して若木の植樹を行うなどして整備し、80 mほどまで散策可能となった。",
"title": "施設"
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"text": "理学部敷地内の旧理学部本館は1999年(平成11年)から北海道大学総合博物館となり、農学部など学内各学部に分散して管理されていた明治時代以来の各種学術資料の集中的な管理体制が構築されつつある。",
"title": "施設"
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"text": "札幌キャンパスは国指定重要文化財・登録有形文化財が複数登録されており、札幌市を代表する観光スポットの一つとして毎年多くの観光客が訪れている。",
"title": "施設"
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"text": "キャンパス北地区に位置する重要文化財・北海道遺産である札幌農学校第2農場はクラークの構想によるモデルバーン(模範家畜房)を中心にした明治期の建築物であり、現存する北大の建築物の中では最古である。また、旧校地である北1条西2丁目には、旧札幌農学校演武場(通称:札幌時計台)が保存されており、キャンパス移転前の趣が色濃く残されている。",
"title": "施設"
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"text": "なお、正門近くの中央ローンに「クラーク像」(胸像)があるが、これは札幌市豊平区のさっぽろ羊ヶ丘展望台にある「丘の上のクラーク」(全身像)とは別物である。",
"title": "施設"
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"text": "キャンパスから少し離れた南側の北海道庁赤レンガ庁舎隣接地に北海道大学植物園(13万 m)があり、こちらも観光客が多く訪れる。",
"title": "施設"
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"text": "水産学部は札幌農学校水産学科として発足したが、1935年(昭和10年)に函館高等水産学校として函館に独立し、1949年(昭和24年)の新制大学制度の施行に伴い、函館水産専門学校は北海道大学に包括され、農学部水産学科と併せ水産学部となった。その経緯から現在でも水産学部のみ函館のキャンパスを使用しており、卒業式も同キャンパスで開催される。面積はおよそ89,000 m2006年度より共同研究を目的とした一部の研究室が札幌に移転(環境科学院へ)している場合もあり、各学部間との協力体制も見直されてきているため、一部の学生は函館に移行した後、再び札幌に戻るケースもでてきている。また平成23年度より総合入試が導入されたため、従来は2年生後期に函館キャンパスに移行となっていたが、3年生前期からのキャンパス移行へと変更がなされている。したがって水産学部生の中には、最短で1年間だけ函館で生活し、4年生から札幌に戻る学生もいるため、慌ただしいキャンパスライフを送ることになる学生もいる。",
"title": "施設"
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"text": "有珠火山観測所、厚岸臨海実験所(厚岸町)、静内研究牧場(静内町)、生物生産研究農場余市果樹園(余市町)、洞爺臨湖実験所、各研究林など北海道内に20施設。パラダイス・ヒュッテ、ヘルヴェチア・ヒュッテ、無意根小屋などの山小屋もある。水産学部は1,300トン級の練習船「おしょろ丸」など船舶数隻を所有している。",
"title": "施設"
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"text": "また、北海道以外にも和歌山県古座川町に約429万 mの研究林、東京都千代田区丸の内にある「サピアタワー」内(東京都港区の新高輪プリンスホテルから2007年3月に移転)に東京オフィスを持つ。また、日本国外にも韓国の首都ソウル、フィンランドの首都ヘルシンキ、アフリカ大陸にあるザンビアの首都ルサカの各地にオフィスも所有する。",
"title": "施設"
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"text": "大学公式の寮として札幌キャンパスの大学敷地内に学部学生の男子および女子と男子大学院生、外国人男子留学生を対象とした「恵迪寮」(けいてきりょう)がある。また札幌キャンパスには女子学生対象の「霜星寮」(そうせいりょう)と「北大インターナショナルハウス北23条2号棟」がある。函館キャンパスの水産学部・水産科学院生の男子および女子を対象とした「北晨寮」(ほくしんりょう)がある。",
"title": "施設"
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{
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"text": "加えて、外国人学生向けの寮として「北大インターナショナルハウス北8条」「北大インターナショナルハウス北23条」「北大インターナショナルハウス伏見」がある。日本国外からの学生は原則、入国直後は寮に入寮する。期間は原則6か月間とされている。なお、代々木ゼミナールの学生寮として使われていた建物を北海道大学が借り上げ、同様の趣旨で使用していた「北大インターナショナルハウス北8条東」は、契約期間満了のため2021年8月31日をもって閉寮した。",
"title": "施設"
},
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"text": "年は締結時期を示す。",
"title": "対外関係"
},
{
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"text": "北海道大学では18か国48校の大学と大学間の留学協定を結んでいる。また海外に8箇所のオフィスを設け、留学希望者に対する情報提供と具体的な手続きのサポートを行う。インバウンドの留学希望者向けの広報と手続きの支援を行う事務所を韓国(ソウル)、中国(北京)、フィンランド(ヘルシンキ)、ザンビア共和国(ルサカ)に置く。これらと並行してリエゾンオフィスという連絡先を現地の大学構内に設けているのは、2017年(平成29年)5月よりタイ(カセサート大学カンペンセンキャンパス 農学研究院棟内)、2017年(平成29年)6月よりインドネシア(ボゴール農科大学ダルマガキャンパス内)、2018年(平成30年)3月よりフィリピン(フィリピン大学ディリマン校)および中国(中国科学院大学内)である。",
"title": "対外関係"
},
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"text": "学生交流協定を結ぶ海外の大学等174機関(約47カ国・地域)とは、本学の学生が誰でも志望できる「大学間協定大学」と、当該の部局の学生に限定される「部局間協定大学」からなっている。",
"title": "対外関係"
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"text": "2020年には法政大学との連携プロジェクトである「オンラインSDGs人材育成プログラム」をスタートした。対象は北海道大学および法政大学の学部生と院生である。",
"title": "対外関係"
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"tag": "p",
"text": "外国人留学生(研究生・聴講学生等を除く)は、2022年(令和4年)5月1日時点で1,696人であり、うち女性は789人である。所属別留学生数を見ると、学部学生は183人(78人)、大学院学生のうち修士課程(博士前期)は712人(361人)、専門職学位課程は16人(7人)、博士課程(博士後期及び博士一貫)は785人(343人)である(カッコ内の人数は女性の内数)。",
"title": "対外関係"
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"text": "2022年度(5月1日時点)の国・地域別外国人留学生数 を見ると、出身の内訳は、中国が全体の6割にあたる1,232人、次いで韓国が107人と多く、アジアからの学生が全体の85.4%を占めている。そのほかヨーロッパからの学生が6.0%、アフリカからの学生が4.4%などとなっている。この年は、99の国・地域から2,024人の学生を受け入れている。",
"title": "対外関係"
},
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"text": "",
"title": "対外関係"
},
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"text": "かつて、附属学校として北海道大学工業教員養成所という3年制の各種学校が存在した。現在は閉鎖されている。",
"title": "附属学校"
}
] | 北海道大学は、北海道札幌市北区北8条西5丁目に本部を置く、日本の国立大学である。略称は北大(ほくだい)。1876年(明治9年)に前身の札幌農学校が創立され、東北帝国大学農科大学への改称を経て、総合大学の北海道帝国大学が1918年(大正7年)に設置された。旧帝国大学(旧帝大)7校の一つであり、THE大学ランキング日本版2022では国内第6位、社会貢献の取り組みを示すインパクトランキングでは世界10位・国内1位に数えられる。 | {{日本の大学
|大学名 = 北海道大学
|ロゴ=北海道大学.svg
|画像 = Hokkaido Univ./北大農学部 - panoramio.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 札幌キャンパス農学部棟(2008年11月撮影)
{{Infobox mapframe}}
|大学設置年 = [[1918年]]([[大正]]7年)
|創立年 = [[1876年]]([[明治]]9年)
|廃止年 =
|学校種別 = 国立
|設置者 = [[国立大学法人]]北海道大学
|本部所在地 = [[北海道]][[札幌市]][[北区 (札幌市)|北区]]北8条西5丁目
|緯度度 = 43 |緯度分 = 4 |緯度秒 = 29
|経度度 = 141 |経度分 = 20 |経度秒 = 27
|キャンパス = {{plainlist|
* 札幌(北海道札幌市北区)
* 函館(北海道[[函館市]]港町)}}<br />総面積(その他含む) 660,177,464 m{{sup|2}}<ref name="area">{{Cite book|url=https://www.hokudai.ac.jp/introduction/pdf/20220729_gaiyou.pdf#page=63|title=北海道大学概要2022|chapter=土地・建物・船舶|publisher=北海道大学 社会共創部広報課|date=2022-07|page=61}}</ref><br />{{small|(2022年4月1日時点)}}
|学部 = {{plainlist|
* [[北海道大学大学院文学研究科・文学部|文学部]]
* [[北海道大学大学院法学研究科・法学部|法学部]]
* [[北海道大学大学院教育学研究院・大学院教育学院・教育学部|教育学部]]
* [[北海道大学大学院経済学研究院・経済学院・経済学部|経済学部]]
* [[医学部]]
* [[歯学部]]
* [[獣医学部]]
* [[北海道大学大学院農学研究院・大学院農学院・農学部|農学部]]
* [[北海道大学大学院工学研究院・大学院工学院・工学部|工学部]]
* [[薬学部]]
* [[北海道大学大学院理学研究院・大学院理学院・理学部|理学部]]
* [[北海道大学大学院水産科学研究院・大学院水産科学院・水産学部|水産学部]] }}
| 研究科 = {{plainlist|
* [[北海道大学大学院文学研究科・文学部|文学院・文学研究院]]
* [[北海道大学大学院法学研究科・法学部|法学研究科]]
* 公共政策学教育部・連携研究部
* [[北海道大学大学院教育学研究院・大学院教育学院・教育学部|教育学院・教育学研究院]]
* [[北海道大学大学院経済学研究院・経済学院・経済学部|経済学院・経済学研究院]]
* [[北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院|国際広報メディア・観光学院]]
* [[北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院|メディア・コミュニケーション研究院]]
* 医学院・医学研究院
* 保健科学院
* 歯学院・歯学研究院
* 医理工学院
* 獣医学院・獣医学研究院
* 国際感染症学院
* [[北海道大学大学院農学研究院・大学院農学院・農学部|農学院・農学研究院]]
* 国際食資源学院
* 生命科学院・先端生命科学研究院
* [[北海道大学大学院工学研究院・大学院工学院・工学部|工学院・工学研究院]]
* 情報科学院・情報科学研究院
* 環境科学院・地球環境科学研究院
* 薬学研究院
* [[北海道大学大学院理学研究院・大学院理学院・理学部|理学院・理学研究院]]
* 総合化学院
* [[北海道大学大学院水産科学研究院・大学院水産科学院・水産学部|水産科学院・水産科学研究院]] }}
|ウェブサイト = [https://www.hokudai.ac.jp/ 北海道大学]
}}
'''北海道大学'''(ほっかいどうだいがく、{{Lang-en|Hokkaido University}})は、[[北海道]][[札幌市]][[北区 (札幌市)|北区]]北8条西5丁目に本部を置く、[[日本]]の[[国立大学]]である。略称は'''北大'''(ほくだい){{efn|ただし、国立大学法人北海道大学文書処理規程における文書記号は「海大」。文書記号を根拠に「海大」が本来の公式略称であると記載する雑誌などがあるが、文書記号はあくまで大学識別用の記号として[[公文書]]を発行する場合にのみ用いられるもので<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hokudai.ac.jp/jimuk/reiki/reiki_honbun/au01002471.html |title=国立大学法人北海道大学文書処理規程 昭和54年03月31日 海大達第2号 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120120043046/http://www.hokudai.ac.jp/jimuk/reiki/reiki_honbun/au01002471.html |date=1979-03-31 |archivedate=2012-01-20 |accessdate=2018-10-04}}</ref>、略称とは異なるものである。実際、北海道大学も自らの略称として「北大」を用いており、「海大」という略称は一切使用していない。なお、文書記号の「北大」は[[東北大学]]を指す。}}。[[1876年]]([[明治]]9年)に前身の[[札幌農学校]]が創立され、[[東北帝国大学]]農科大学への改称を経て、[[総合大学]]の北海道帝国大学が[[1918年]]([[大正]]7年)に設置された<ref>[https://www.let.hokudai.ac.jp/general/history 沿革] 北海道大学大学院文学研究院・大学院文学院・文学部(2023年11月7日閲覧)</ref>。[[帝国大学#旧帝国大学|旧帝国大学]](旧帝大)7校の一つであり、[[THE世界大学ランキング|THE大学ランキング]]日本版2022では国内第6位、社会貢献の取り組みを示すインパクトランキングでは世界10位・国内1位に数えられる<ref>{{Cite web|和書|title=北海道大学プロフィール|url=https://japanuniversityrankings.jp/universities/1025/ |website=THE世界大学ランキング 日本版 |accessdate=2022-10-06}}</ref>。
== 概観 ==
[[画像:HokkaidoDaigakuSapporoKyanpasuSeimon2005-2.jpg|220px|thumb|札幌キャンパス正門]]
[[画像:A row of poplar trees at Hokkaido University.jpg|220px|thumb|[[北大ポプラ並木]](札幌キャンパス)]]
[[画像:131103 Hokkaido University Sapporo Hokkaido Japan04bs.jpg|220px|thumb|附属図書館本館付近(札幌キャンパス)]]
[[画像:131103 Hokkaido University Sapporo Hokkaido Japan07s3.jpg|220px|thumb|エルムの森(札幌キャンパス)]]<!--
※この項目では大学の基礎データを以下の節でまとめる。-->
=== 大学全体 ===<!--
※「大学全体」は、あくまでその大学の「全体像」を大凡にまとめる部分である。長さの目安は400字程度。また、本プロジェクトで討議された文章表現の基準に準拠する必要がある。特にその大学にとって特段の大きな意味を有さないこと、時限的な事象を大きくとりあげることにならないよう留意する必要が認められる。
記載内容は、大学の全体について平均的に記述し、特定の学部・研究科などを大きく取り上げる形にならないように留意する。また、できるだけ曖昧な表現の使用はさけ、より具体的でかつ確定的なことを中心に記載する。なお、その際、文章が増えることがあるが、節全体の文章量も十分に考慮する。さらに歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述する。-->
北海道大学は、日本初の[[学士]]授与機関として1876年(明治9年)に設立された札幌農学校を前身とする総合大学である<ref>{{Cite book|和書 |author=草原克豪 |title=新渡戸稲造はなぜ『武士道』を書いたのか : 愛国心と国際心 |publisher=[[PHP研究所]] |series=PHP新書 |number=1085 |ncid=BB23095186 |year=2017}}</ref><ref name="gaiyou2019">{{Cite web|和書|url=https://www.hokudai.ac.jp/introduction/30gaiyou_0705.pdf#page=4 |title=北海道大学概要2018-2019 |accessdate=2019-04-11 |publisher=北海道大学 |format=pdf |page=4}}</ref>。12[[学部]]と21[[大学院]]を擁する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hokudai.ac.jp/international3/ryugaku/about/ |title=北海道大学の魅力 {{!}} 国際交流・留学 |access-date=2022-11-13 |publisher=北海道大学}}</ref>。
札幌農学校の源流は[[1872年]](明治5年)設立の[[開拓使]]仮学校([[東京府]][[芝 (東京都港区)|芝]])および同校が北海道[[札幌郡]]に[[1875年]](明治8年)に移転・改称した札幌学校であるが、北海道大学の歴史においては「前史」とされており、両校の開校日は、現在の北海道大学の創立記念日とは位置付けられていない<ref>{{Cite web|和書|title=北海道大学150年史編集準備室 |url=https://www.hokudai.ac.jp/bunsyo/hu150_chronology.html |website=www.hokudai.ac.jp |accessdate=2020-06-18}}</ref>。大学全体としては[[学制]](明治5年[[太政官布告・太政官達|太政官布告]]第214号)の規定に基づく学士の称号の授与権限が付与された1876年(明治9年)を北海道大学の創基(創立){{efn|教育機関によっては「創基」と「創立」を使い分けている例も見られるが、北海道大学の場合は特に区別せず、両者とも「札幌農学校」開校日から起算している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.sapporo.jp/keikaku/keikan/rekiken/buildings/building17-20.html |title=北海道大学にある歴史的建造物たち |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160113075349/http://www.city.sapporo.jp:80/keikaku/keikan/rekiken/buildings/building17-20.html |archivedate=2016-01-13 |publisher=札幌市 |date=2011-04-27 |accessdate=2018-05-18}}</ref>。}}年としている。
札幌農学校はその後[[東北大学#東北帝国大学時代|東北帝国大学]]農科大学(1907年)、北海道帝国大学(1918年)、[[太平洋戦争]]敗戦に伴い改組された[[新制大学]]である北海道大学([[1947年]])を経て、現在の[[国立大学法人]]北海道大学([[2004年]])に至る。現在の国立大学法人北海道大学は、創基以来4番目の組織再編とされており、北海道大学の時代区分においても、国立大学法人化以前の北海道大学とは区別されている。
2021年の時点で、北海道大学の卒業生・教員1名([[鈴木章]])と教員1名([[ベンジャミン・リスト]])の合計2名が[[ノーベル化学賞]]を受賞している。また、2010年ノーベル賞受賞者[[根岸英一]]も[[北海道大学触媒科学研究所]]の特別教授として務めた。
=== 建学理念、学風および特色 ===<!--
※この項目はそれぞれの大学に応じて「校訓」「学是」「憲章」などの適切な節名を用いる。なお、校訓などが長文となる場合は、[[著作権]]に注意すること。最後に改訂されてから50年が経過していれば全文の紹介が可能であるが、そうではない場合には概略に止め、全文は公式サイトへのリンクで代用するという手段がある。-->
[[フロンティア]]精神、[[実学]]の重視、[[全人教育]]、国際性の[[涵養]]などが建学理念であり、現在も基本理念として掲げられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hokudai.ac.jp/introduction/plan/kihonrinen.html |title=基本理念と長期目標 |accessdate=2019-04-11 |publisher=北海道大学}}</ref>。<!--
=== 教育および研究 ===
○○大学は日本全国でただ一つの○○学部を持ち…
日本ではめずらしい○○といった授業科目が必修科目となっているがこれは…
○○の専門家である○○による特別講義が行われ…
※大学の学問的な特徴の概略をこちらでまとめる。各学部ごとに詳細な内容をまとめる必要がある場合は後述の学部をまとめた項目で記すこと。さらに歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述する。
=== 学風および特色 ===
具体的な数字データや学生生活の詳細は別項でまとめる。あくまでここは概略である。さらに歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述する。-->
札幌農学校初代教頭(事実上の校長)<ref>{{Cite book|和書 |author=小島直記 |title=気概の人 石橋湛山 |publisher=[[東洋経済新報社]] |isbn=4492061371 |ncid=BA68792141 |year=2004}}</ref>である[[ウィリアム・スミス・クラーク]]([[アメリカ合衆国|米国]][[マサチューセッツ大学アマースト校|マサチューセッツ農科大学]]前学長)が、米国帰国にあたり札幌近くの島松(今の[[恵庭市]]と[[北広島市]]境界付近)で[[乗馬|馬上]]から叫んだという「'''Boys, be ambitious.'''」('''少年よ、大志を抱け''')は、現在でも北海道大学の[[標語|モットー]]として受け継がれている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hokudai.ac.jp/introduction/president/message/ |title=総長からのご挨拶・式辞 |author=[[山口佳三]] [北海道大学総長] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140706182346/http://www.hokudai.ac.jp/introduction/president/message/ |archivedate=2014-07-06 |accessdate=2014-07-06}}</ref>。クラークは、札幌農学校の開校式において、「lofty ambition」(高邁なる大志)との言葉を発しており、開校および帰国に際していずれも大志との語を使っていることから、その信念が一貫していたことが分かる{{efn|クラークが最後に残した "Boys, be ambitious." に続く言葉についてはいくつかの説がある。
<blockquote>1「Boys, be ambitious like this old man」(訳:小供等よ、この老人の如く大望にあれ)</blockquote>
<blockquote>2「“Boys, be ambitious!” Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for knowledge, for righteousness, and for the uplift of your people. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be. This was the message of William Smith Clark.」</blockquote>
::(訳:「青年よ大志を抱け!」金のためまたは利己的栄達の為にでもなく、ましてや人よんで名誉と称する空しきもののためにでもない。知識に対して、正義に対して、かつ国民の向上のために大志を抱け。人としてまさにかくあらねばならぬ全ての事を達成せんとするために大志を抱け。これはWilliam Smith Clarkのメッセージであった)
後者は『東北帝国大学農科大学略史』(大正3年)中の言葉で、「Be ambitious not…」以下は執筆者であるポール・ローランドが「Boys, be ambitious」を解釈したものと考えられる<ref>{{Cite web|和書|title=Q.クラーク博士について |publisher=北海道大学 |url=http://www.hokudai.ac.jp/sub/inquiry/faq.html#q9 |accessdate=2012-01-20}}</ref>。}}。
また、クラークが説いた[[キリスト教]]精神により、[[旧官立大学|官立学校]]にもかかわらず学生の間で「[[イエス・キリスト|イエス]]を信ずる者の誓約」が行われ、[[内村鑑三]]などの[[キリスト教徒|クリスチャン]]を生んだ。<!--因みに札幌農学校初代校長は、開拓少判官札幌本庁上局事務取扱の[[調所広丈]]であったが、事実上クラークが責任者だった。-->彼らは[[札幌バンド]]と呼ばれ、日本における[[プロテスタント]]の先駆者として活躍した。[[札幌農学校]]1期生の[[伊藤一隆]]は1876年(明治9年)、着任わずか2日後のクラーク立ち合いのもと、クラークの宿舎において[[イングランド国教会|英国国教会]]([[英国聖公会宣教協会|CMS]])の[[宣教師]][[ウォルター・デニング]]が[[洗礼]]を授けた<ref>[http://nskk-hokkaido.jp/church/sapporo-christ.html 日本聖公会・北海道教区『札幌キリスト教会(主教座聖堂)』]</ref><ref>[http://www.nskk.org/hokkaido/sapporo-christ/SYOUKAI/SYOUKAI.HTM 日本聖公会北海道教区・札幌キリスト教会『札幌キリスト教会の沿革』]</ref>。キリスト教に関しては後に衰退していくが、伊藤一隆や内村鑑三らが引き継いでいくこととなった。現在でも北海道大学の校歌の[[旋律]]はキリスト教の[[賛美歌]]と同一である等、国立大学でありながらキリスト教の文化が残る一面も見受けられる。
このような札幌農学校の精神が、同大の[[#建学理念、学風および特色|基本理念]]に引き継がれている。「[[アイヌ]]の父」として知られる[[英国聖公会宣教協会]](CMS)の宣教師[[ジョン・バチェラー]]の邸宅も[[北海道大学植物園]]内に移築され、[[登録有形文化財]]になっている<ref>[https://www.city.sapporo.jp/ncms/shimin/bunkazai/bunkazai/syousai/42s_bacyera.html 札幌市『北海道大学農学部博物館バチェラー記念館』]</ref>。
[[男女共同参画社会基本法]]に基づく[[ポジティブ・アクション]]に取り組んでおり、全研究者の中の女性研究者比率が[[2020年]]までに20%になるよう努めるとする数値目標を掲げ推進している。北東アジア地域との連携を重視しており<ref name="ko_zentai">{{Cite web|和書|url=http://www.hokudai.ac.jp/huisd/ko_zentai.html |title=北海道大学の国際化全体像 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100410063335/http://www.hokudai.ac.jp/huisd/ko_zentai.html |archivedate=2010-04-10 |accessdate=2010-12-06}}</ref>、[[大韓民国]]、[[台湾]]、[[中華人民共和国]]などの大学とも相互協定を結んでいることだけではなく、2005年4月12日に連携協力協定を締結した[[青年海外協力隊]]([[国際協力機構|JICA]])へも定期的に隊員を送り出し<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hokudai.ac.jp/huisd/jica.html |title=JICAと連携協力協定を締結|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100306073331/http://www.hokudai.ac.jp/huisd/jica.html |archivedate=2010-03-06 |accessdate=2010-03-06}}</ref>、また研修員を受け入れている<ref>{{Cite book|和書 |url=https://www.hokudai.ac.jp/international3/JICAH24.pdf |format=PDF |title=JICA(国際協力機構)研修員受入れ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20181004191338/https://www.hokudai.ac.jp/international3/JICAH24.pdf |archivedate=2018-10-04 |accessdate=2018-10-04}}</ref>。これは、同大学の建学の精神にも謳われている、国際性豊かな若者を育成することを重視しているためである。
== 沿革 ==
(沿革節の主要な出典は大学概要<ref name="gaiyou2019" /><!-- 別の出典で記事を追加するには出典をその追加記事の後に脚注を導入して付け加えて下さい。 -->)
[[画像:Hokkaido Imperial University.jpg|220px|thumb|昭和9年(1934年)の北海道帝国大学正門]]
[[画像:131103 Hokkaido University Sapporo Hokkaido Japan09bs.jpg|220px|thumb|クラーク像]]
=== 略歴 ===
{{main2|北海道帝国大学設置に至る過程|札幌農学校}}
本節では、北海道大学が発行する大学概要に準拠し、1876年(明治9年)以降の沿革を「札幌農学校時代」「東北帝国大学農科大学時代」「北海道帝国大学時代」「北海道大学時代」「国立大学法人北海道大学時代」に分けて記す。
=== (前史) ===
* [[1872年]]:[[東京府]][[芝 (東京都港区)|芝]]の[[増上寺]]内に[[開拓使]]仮学校設置<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=北海道大学150年史編集室 |url=https://www.hokudai.ac.jp/bunsyo/hu150_chronology_1869_1876.html |website=www.hokudai.ac.jp |accessdate=2022-04-04}}</ref>。
* [[1875年]](明治8年):仮学校を札幌学校と改称し、北海道[[石狩国]][[札幌郡]][[札幌市|札幌]]に移転<ref name=":0" />。
=== 札幌農学校時代 ===
* [[1876年]](明治9年)7月31日:[[ウィリアム・スミス・クラーク|クラーク博士]]が教頭として札幌に着任<ref>{{Cite book|和書 |title=農学校物語 |date=1992-6-24 |publisher=札幌市 |author=札幌市教育委員会文化資料室 編 |series=さっぽろ文庫 |pages=19-20}}</ref>。8月14日専門科開校式挙行<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=北海道大学150年史編集室 |url=https://www.hokudai.ac.jp/bunsyo/hu150_chronology_1876_1907.html |website=www.hokudai.ac.jp |accessdate=2022-04-04}}</ref>(北海道大学開学記念日)。9月9日札幌学校を[[札幌農学校]]と改称<ref name=":1" />。
* [[1878年]](明治11年):演武場(現在の[[札幌市時計台]])が竣工<ref name=":1" />。
* [[1881年]](明治14年):[[森源三]](開拓権少書記官)が校長を兼務<ref name=":1" />。
* [[1886年]](明治19年):[[北海道大学植物園|植物園]]が竣工。
* [[1888年]](明治21年):[[橋口文蔵]]が校長に就任。
* [[1894年]](明治27年):[[佐藤昌介]]が校長に就任。
=== 東北帝国大学農科大学時代 ===
* [[1907年]](明治40年):[[東北大学|東北帝国大学]]設置の[[勅令]]公布。札幌農学校は札幌所在のまま東北帝国大学農科大学となり、[[大学予科|予科]]を付設。
=== 北海道帝国大学時代 ===
* [[1918年]](大正{{0}}7年):北海道札幌区に「'''北海道帝国大学'''」設置。東北帝国大学農科大学が北海道帝国大学に移管。
* [[1919年]](大正{{0}}8年):北海道帝国大学農科大学を北海道帝国大学[[北海道大学大学院農学研究院・大学院農学院・農学部|農学部]]と改め、新たに[[医学部]]を設置。
* [[1921年]](大正10年):医学部附属医院設置(同年11月に診療開始)。
* [[1922年]](大正11年):図書館を[[北海道大学附属図書館|附属図書館]]と改称。
* [[1924年]](大正13年):[[北海道大学大学院工学研究院・大学院工学院・工学部|工学部]]を設置。
* [[1930年]]([[昭和]]{{0}}5年):[[北海道大学大学院理学研究院・大学院理学院・理学部|理学部]]を設置。[[南鷹次郎]]が総長に就任。
* [[1933年]](昭和{{0}}8年):[[高岡熊雄]]が総長に就任。
* [[1937年]](昭和12年):[[今裕]]が総長に就任。
* [[1939年]](昭和14年):[[戦時中の医師不足対策#臨時医学専門部の設置|臨時附属医学専門部]]を設置。
* [[1941年]](昭和16年):[[北海道大学低温科学研究所|低温科学研究所]]を設置。
* [[1943年]](昭和18年):[[研究生#旧制大学院における特別研究生|大学院特別研究生制度]]実施。[[北海道大学触媒研究所|触媒研究所]]設置および[[超短波]]研究所を設置。
* [[1945年]](昭和20年):事務局および学生部設置、[[伊藤誠哉]]が総長に就任。
* [[1946年]](昭和21年):超短波研究所を応用電気研究所と改称。
=== 北海道大学時代 ===
* [[1947年]](昭和22年):4月に[[法文学部]]を設置、10月に北海道大学へ名称変更。
* [[1949年]](昭和24年):[[学制改革]]により[[旧制専門学校]]である[[函館高等水産学校|函館水産専門学校]]と、[[大学予科|予科]]を吸収して[[新制大学]]となる。法文・教育・理・医・工・農・[[北海道大学大学院水産科学研究院・大学院水産科学院・水産学部|水産学部]]を設置。
* [[1950年]](昭和25年):法文学部を[[北海道大学大学院文学研究科・文学部|文学部]]と[[法経学部]]に分離。[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]][[民間情報教育局]]の教育顧問[[ウォルター・クロスビー・イールズ|ウォルター・C・イールズ]]が、[[レッドパージ]]の一環として“共産主義者の教授を学内から追放すべし”と講演。これに抗議した学生10人が停学・退学などの処分を受ける「[[イールズ声明|イールズ事件]]」が起きる。
* [[1952年]](昭和27年):農学部獣医学科を[[獣医学部]]に昇格・設置。
* [[1953年]](昭和28年):法経学部を[[北海道大学大学院法学研究科・法学部|法学部]]と[[北海道大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学部]]に分離。
* [[1954年]](昭和29年):[[杉野目晴貞]]が学長に就任。
* [[1955年]](昭和30年):大学院に医学研究科を設置。
* [[1957年]](昭和32年):一般教養部を教養部と改称。
* [[1958年]](昭和33年):大学院に薬学研究科を設置。
* [[1961年]](昭和36年):工業教員養成所設置(1969年に廃止)。
* [[1965年]](昭和40年):[[薬学部]]を設置。
* [[1966年]](昭和41年):[[古市二郎]]が学長に就任。
* [[1967年]](昭和42年):[[歯学部]]を設置。
* [[1967年]](昭和42年);[[堀内寿郎]]が学長に就任。
* [[1969年]](昭和44年)
** 附属図書館に教養分館を設置。
** 5月:[[革マル派]]学生らが教養部本館をバリケード封鎖。翌年1月4日に封鎖が解除されるまで教養部の授業が休講状態になる<ref>「北大に再び機動隊 きょう授業再開へ」『中國新聞』昭和45年1月5日15面</ref>。
* [[1970年]](昭和45年):大型計算機センター(全国共同利用施設)を設置。
* [[1971年]](昭和46年):[[丹羽貴知蔵]]が学長に就任。
* [[1972年]](昭和47年):保健管理センターおよび体育指導センターを設置。
* [[1974年]](昭和49年):大学院に歯学研究科を設置。
* [[1975年]](昭和50年):[[今村成和]]が学長に就任。
* [[1977年]](昭和52年):大学院に環境科学研究科(独立研究科)を設置。
* [[1978年]](昭和53年):[[スラヴ人]]が多く住む[[ソ連]](現在の[[ロシア連邦]]など)に近い立地を生かして、スラブ研究センター(後に[[北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター|スラブ・ユーラシア研究センター]]へ改称)設置<ref>[http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/center/index11.html スラブ・ユーラシア研究センター/沿革と概要](2018年12月27日閲覧)</ref>。および[[放射性同位体|アイソトープ]]総合センターを設置。
* [[1979年]](昭和54年):情報処理教育センターおよび機器分析センターを設置。
* [[1980年]](昭和55年):医療技術短期大学部を設置。
* [[1981年]](昭和56年):言語文化部設置および実験生物センターを設置。[[有江幹男]]が学長に就任。
* [[1985年]](昭和60年):遺伝子実験施設を設置。
* [[1987年]](昭和62年):[[伴義雄]]が学長に就任。
* [[1989年]]([[平成]]元年):触媒化学研究センター(全国共同利用施設)を設置する(触媒研究所は廃止)。
* [[1990年]](平成2年):スラブ研究センターが全国共同利用施設に改組。
* [[1991年]](平成3年):留学生センター設置、量子界面エレクトロニクス研究センター設置、[[廣重力]]が学長に就任。
* [[1992年]](平成4年):応用電気研究所が電子科学研究所に改組。
* [[1993年]](平成5年):大学院に地球環境科学研究科(独立研究科)を設置する。(大学院の環境科学研究科を廃止)
* [[1994年]](平成6年):エネルギー先端工学研究センターを設置、[[鈴木章]]が[[名誉教授]]に就任。
* [[1995年]](平成7年):総長に[[丹保憲仁]]が就任。教養部廃止、高等教育機能開発総合センター設置、低温科学研究所が全国共同利用施設に改組、大学院の理学研究科、獣医学研究科が大学院講座制に移行(いわゆる大学院重点化)、環境保全センター設置、附属図書館の教養分館を北分館と改称する。
* [[1996年]](平成8年):先端科学技術共同研究センターおよび[[ベンチャー]]・ビジネス・ラボラトリー設置。
* [[1997年]](平成9年):大学院の工学研究科が大学院講座制に移行。
* [[1998年]](平成10年):大学院の薬学研究科が大学院講座制に移行。
* [[1999年]](平成11年):大学院の農学研究科が大学院講座制に移行、情報メディア教育研究総合センター設置(情報処理教育センター廃止)、総合博物館を設置。
* [[2000年]](平成12年):大学院に国際広報メディア研究科(独立研究科)を設置、遺伝子病制御研究所設置(免疫科学研究所改組および医学部附属[[癌]]研究施設廃止)、北ユーラシア・北太平洋地域研究センターを設置。
* [[2001年]](平成13年):総長に憲法学者[[中村睦男]]が就任。量子集積エレクトロニクス研究センターを設置(量子界面エレクトロニクス研究センターは廃止)。
* [[2002年]](平成14年):創成科学研究機構を設置、練習船うしお丸を新設326(北星丸は廃止)。
* [[2003年]](平成15年) 医学部附属病院と歯学部附属病院を北海道大学病院として統合する。情報基盤センターを設置(大型計算機センター、情報メディア教育研究総合センター廃止)。脳科学研究教育センターを設置。医学部保健学科を設置。知的財産本部を設置。
=== 国立大学法人北海道大学時代 ===
* [[2004年]](平成16年):[[国立大学法人法]]の規定により[[国立大学法人]]となる。[[北海道大学医療技術短期大学部|医療技術短期大学部]]が医学部保健学科に昇格する。[[法科大学院]]を設置。
* [[2005年]](平成17年):大学文書館を設置、[[公共政策大学院]]および[[北海道大学大学院経済学研究科・経済学部|会計専門職大学院]]を設置。『北海道大学環境方針』を策定。
* [[2006年]](平成18年):薬学教育6年制移行により、薬学部薬学科を6年制に移行、総合薬学科廃止の上4年制学科の薬科学科を設置。
* [[2007年]](平成19年):[[佐伯浩]]が総長に就任。
* [[2010年]](平成22年):[[鈴木章]][[名誉教授]]が[[ノーベル化学賞]]を受賞(北海道大学出身者初の受賞)。
* [[2011年]](平成23年):入試制度改編、「総合入試」がスタートする。
* [[2012年]](平成24年):大学が運営を委託された[[大学入試センター試験]]で試験問題の配付ミスが発生、さらに公表もしなかった事実が発覚した<ref>{{Cite news |title=センター試験のミス、当初公表せず 北大、高校にも連絡なし |newspaper=朝日新聞 |date=2012-01-20 |url=http://www.asahi.com/edu/center-exam/HOK201201200005.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150924150546/http://www.asahi.com/edu/center-exam/HOK201201200005.html |archivedate=2015-09-24 |accessdate=2018-10-04}}</ref>。
* [[2013年]](平成25年):[[山口佳三]]が総長に就任。「新渡戸カレッジ」創設。
* [[2015年]](平成27年):「高等教育研修センター」{{efn|高等教育推進機構の組織および運営は、大学組織規則(平成16年海大達第31号)第16条の9第2項の規定に基づく<ref>{{Cite report |title=国立大学法人北海道大学高等教育推進機構規程 平成22年10月1日 海大達第243号 (平成28年4月1日施行) |date=2018-08-01 |publisher=国立大学法人北海道大学 |url=http://www.hokudai.ac.jp:80/jimuk/reiki/reiki_honbun/u010RG00000750.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160702230317/http://www.hokudai.ac.jp:80/jimuk/reiki/reiki_honbun/u010RG00000750.html |archivedate=2016-07-02 |accessdate=2018-10-04}}</ref>。}}を開設、教職員等の研修プログラムの開発と実施を一元化<ref name="nendo29">{{Cite report |title=平成29年度年度計画 |url=https://www.hokudai.ac.jp/introduction/170331_29keikaku.pdf |format=PDF |accessdate=2018-04-25}}</ref>。「[https://www.hokudai.ac.jp/introduction/information/hokudai_kinmirai.pdf 北海道大学近未来戦略150]」(2014年3月策定)に則り、この年から従前の大学院組織を教育組織の「学院」と教員(研究)組織の「研究院」に分離した再編が段階的に行われる<ref>{{Wayback |url=https://www.hokudai.ac.jp/introduction/reform/re/ |title=教育組織の改革(北海道大学) |date=20220308013530}}</ref><ref>{{Wayback |url=https://www.hokudai.ac.jp/introduction/kaiso.pdf |title=北海道大学の教育組織改革 イメージ ~ 学院・研究院化の完成 ~|date=20220308013738}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年):共用機器管理センターを拡充して「グローバルファシリティセンター」(GFC) を設立<ref>{{Cite report |title=学外向け広報誌『リテラポプリ』第59号 (2017年春) |url=https://www.hokudai.ac.jp/pr/LitteraePopuli_vol.59.pdf |format=PDF |page=8 |accessdate=2018-04-25}}</ref>。
* [[2017年]](平成29年):[[名和豊春]]が総長に就任<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hokudai.ac.jp/introduction/president/message/20170411.html |author=名和豊春 [第19代北海道大学総長] |title=就任のご挨拶 |date=2017-04-05 |accessdate=2018-04-25}}</ref>。2018年実施に向け、[[国際バカロレア]]等を用いた「国際総合入試」の準備<ref name="nendo29"/>。
* [[2020年]](令和2年)
** 6月:名和豊春総長が、[[パワーハラスメント]]があったとして解任される<ref>[https://mainichi.jp/articles/20200630/k00/00m/040/123000c 北大学長をパワハラ疑いで解任 萩生田文科相「遺憾」]{{リンク切れ|date=2023年11月}}毎日新聞 2020年6月30日</ref>。
** 10月:[[寳金清博]]が総長に就任。
* [[2026年]](令和8年)夏:[[安藤忠雄]]による[[図書館]]プロジェクト「こども本の森」6か所目が北大正門近くに開設予定(運営は札幌市)
<ref>[https://www.htb.co.jp/news/archives_23363.html 北大に安藤忠雄建築 全国6カ所目の「こども本の森」 自然と共に生きる図書館 2026年夏完成目指す] [[北海道テレビ放送]](2023年11月7日)同日閲覧</ref>。
== 基礎データ ==
[[画像:131103 Hokkaido University Sapporo Hokkaido Japan11s5.jpg|220px|thumb|総合博物館(旧理学部本館)]]
[[画像:HokkaidoDaigakuPopuranamiki2004-5.jpg|220px|thumb|ポプラ並木]]
北海道大学は、国立大学としては最多の12学部・19大学院を設置し、大学の総敷地面積としては国内最大の規模(660平方キロメートル<ref name="area" />)であり、全国の大学が所有する土地面積の4割超を有する。
[[画像:Hokkaido University.jpg|220px|thumb|北海道大学俯瞰図(2009年9月)]]
=== 所在地 ===<!--
* ○○キャンパス(○○県○○市○○区)
* ××キャンパス(××県××市××区)
※ここではキャンパスの名称と所在地のみ記す。-->
* 札幌キャンパス([[北海道]][[札幌市]][[北区 (札幌市)|北区]])
* 函館キャンパス(北海道[[函館市]]港町3-1-1)
=== 象徴 ===
==== 校章 ====
[[画像:オオバナノエンレイソウTrillium kamtschaticum,P7020013.jpg|150px|thumb|校章に採用されている[[オオバナノエンレイソウ]] (Trillium kamtschaticum)]]
[[校章]]はキャンパス内に自生する[[オオバナノエンレイソウ]]([[ユリ科]]トリリウム属の[[多年生植物|多年草]])を図案化したもの<ref name="symbol">{{Cite web|和書|url=https://www.hokudai.ac.jp/introduction/information/symbol/|title=シンボルマーク・スクールカラー・ロゴマーク|accessdate=2019-04-11|publisher=北海道大学}}</ref>。[[1950年]](昭和25年)の公募による入選作を、創基120周年を機に修正を加え、[[1996年]](平成8年)9月に[[シンボルマーク]]として決定された<ref name="symbol" />。なお、起源については、[[恵迪寮]]のシンボルマークから発祥説と、ラグビー部のシンボルマークから発祥説がある。
[[画像:北海道大学恵迪寮寮章.svg|150px|thumb|オオバナノエンレイソウをモチーフにした校章の起源といわれる[[恵迪寮]]の寮章]]
==== スクールカラー ====
従来より北大の緑豊かなキャンパスを表す[[緑|グリーン]]が[[スクールカラー]]として慣例的に使用されていたが、[[2009年]](平成21年)9月に、詳細な色指定をもって正式にスクールカラーとして定められた<ref name="symbol" />。プロセスカラーはシアン80%、マゼンタ10%、イエロー100%、ブラック30%<ref name="symbol" />。
==== ロゴタイプ ====
[[2009年]](平成21年)7月に[[ロゴタイプ]]オンライン投票が実施され、その結果をもとに同年9月に制定された<ref name="symbol" />。
==== 校歌 ====
[[校歌]]は『永遠の幸』(とこしえのさち)と題し、札幌農学校時代に作られた。作詞者は[[有島武郎]]。米国人作曲家{{仮リンク|ジョージ・F・ルート|en|George Frederick Root}}が[[1863年]]に作曲した "[[Tramp!Tramp!Tramp!]]" が原曲。この曲は[[アメリカ合衆国]]が[[南北戦争]]の時代に[[北軍]]の行進曲として歌われ、[[アメリカ連合国|南軍]]でも歌われていた。また、歌詞を変えて[[アイルランド]]でも流行した。南北戦争後、米国の各大学でも[[学生歌]]に用いられていたものを[[納所弁次郎]]が選曲したといわれている。旧制の国立学校校歌としては特異な成り立ちであり、旧帝大においては唯一の「校歌」である。
歌詞は[[大和田建樹]]が[[校閲]]したため、作詞者の欄に有島とともに併記されることもある。
有島が作詞をしたのは[[1900年]](明治33年)頃であり、[[1900年]](明治33年)に行われた創立25周年記念祝賀会で歌われたとする資料がある。当時有島は農学校の学生であったため、現在でも校歌作詞者を記す時には「有島武郎君作歌」というように「君」付けで表記されることが多い。
原曲の"Tramp! Tramp! Tramp!"は、キリスト教の[[賛美歌]]にも使われ、日本においては、[[日本福音連盟]]『新聖歌』(2001年版)の186番、[[救世軍]]歌(1997年版)の108番などにその例が見られる。
"Tramp! Tramp! Tramp!"を原曲とする曲としては、[[同志社大学]]の応援歌『若草萌えて』や[[童謡]]の『[[船乗りの夢]]』、[[アイルランド]]準[[国歌]]『[[神よアイルランドを守り給え]]』も該当する。
==== 寮歌 ====
北海道大学には現在も『[[都ぞ弥生]]』(みやこぞやよい)をはじめとする[[寮歌]]が歌い継がれている。大学の公式の寮である[[恵迪寮]]では、[[1907年]]から[[2018年]]現在まで原則、年に1曲ずつ寮歌が作成されている{{efn|北海道大学恵迪寮寮歌集アプリには最新作の寮歌まで、全ての歌が掲載されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~mkuriki/phone/ryoka/list_ryoka.html |title=北海道大学恵迪寮寮歌集アプリ - 恵迪寮寮歌, 学生歌一覧 |publisher=村橋究理基 |date=2018-12-21 |accessdate=2019-01-25}}</ref>。}}。
==== 花 ====
学校の花はオオバナノエンレイソウで、校章のモチーフとなっている。
== 教育および研究 ==
[[画像:Hokkaido University Engineering.JPG|220px|thumb|工学部棟(札幌キャンパス)]]
=== 組織 ===
==== 学部 ====
* 札幌農学校時代よりリベラルアーツ教育を重視している北海道大学では、[[東京大学]]の[[進学選択]]制度に似た「移行制度」を基本としている。
* 1995年度より「移行制度」を取りやめ新たに「学部別入試」を採用したが、教養教育を重視する北海道大学においては実情に合わず、2011年度より「総合入試」制度として移行制度が復活した(学部別入試は縮小の上存置)。
* 「総合入試」では、「文系」「理系」の2分野で募集し、2年次に成績と学生の希望に基づいて所属学部を決定する。学生の成績によっては希望の学部に所属できないこともあり、希望学部に所属するためにあえて原級を選ぶケースもある。総合入試による入学者は、文系から理系学部、理系から文系学部への移行も可能。
===== 文系 =====
* [[北海道大学大学院文学研究科・文学部|文学部]]{{efn|通則第3条第1項の規定により2年次にコースを選択<ref>{{Cite report |title=(進級及びコース選択) |work=北海道大学文学部規程 平成7年4月1日 海大達第4号 (平成29年4月1日施行) |number=第3条 |date=1995-04-01 |accessdate=2018-10-04}}</ref>。「学科目及びこれに相当する組織」として、哲学文化学、歴史学人類学、言語文学、人間システム科学がある<ref name="kouza_kitei">{{Cite report |title=○北海道大学における講座等に関する規程 平成14年4月1日 海大達第25号(平成30年7月1日施行) |date=2002-04-01 |url=http://www.hokudai.ac.jp:80/jimuk/reiki/reiki_honbun/u010RG00000385.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160702224031/http://www.hokudai.ac.jp:80/jimuk/reiki/reiki_honbun/u010RG00000385.html |archivedate=2016-07-02 |accessdate=2018-10-04}}</ref>。}}
** [[人文科学科]]
*** 哲学・文化学コース
*** 歴史学・人類学コース
*** 言語・文学コース
*** 人間科学コース
* [[北海道大学大学院教育学研究院・大学院教育学院・教育学部|教育学部]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、教育社会科学、教育基礎論、教育心理学、健康体育学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
** [[教育学科]]
* [[北海道大学大学院法学研究科・法学部|法学部]]{{efn|コース配属時期は、第2年次第2学期<ref>{{Cite report |title=(課程及び履修コース) |work=北海道大学法学部規程 平成7年4月1日 海大達第6号 (平成29年4月1日施行) |date=1995-04-01 |number=第2条3 |url=http://www.hokudai.ac.jp:80/jimuk/reiki/reiki_honbun/u010RG00000014.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160607234849/http://www.hokudai.ac.jp:80/jimuk/reiki/reiki_honbun/u010RG00000014.html |archivedate=2016-06-07 |accessdate=2018-10-04}}</ref>。「学科目及びこれに相当する組織」として、公法、民事法、刑事法、社会法、基礎法学、政治学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
** 法学課程
*** 法専門職コース
*** 総合法政コース
* [[北海道大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学部]]{{efn|通則第3条第1項の規定によると、第2年次に進級し、6月以上在学した者を学科に配属するとしている<ref>{{Cite report |title=(進級及び学科分属) |work=北海道大学経済学部規程 平成7年4月1日 海大達第7号 (平成29年4月1日施行) |date=1995-04-01 |number=第3条 |url=http://www.hokudai.ac.jp:80/jimuk/reiki/reiki_honbun/u010RG00000016.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150716082901/http://www.hokudai.ac.jp:80/jimuk/reiki/reiki_honbun/u010RG00000016.html |archivedate=2015-07-16 |accessdate=2018-10-04}}</ref>。}}
** [[経済学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、経済理論、経済史、応用経済学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
** [[経営学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、経営学、経営情報がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
===== 理系 =====
* [[北海道大学大学院理学研究院・大学院理学院・理学部|理学部]]{{efn|通則第3条第1項の規定により第2年次に進級した者を学科に配属するとしている<ref>{{Cite report |title=(学科分属) |work=北海道大学理学部規程 平成7年4月1日 海大達第8号 (平成30年4月1日施行) |date=1995-04-01 |number=第3条 |url=https://www.hokudai.ac.jp/jimuk/reiki/reiki_honbun/u010RG00000019.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20181004165018/https://www.hokudai.ac.jp/jimuk/reiki/reiki_honbun/u010RG00000019.html |archivedate=2018-10-04 |accessdate=2018-10-04}}</ref>。}}
** [[数学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、数学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
** [[物理学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、物理学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
** [[化学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、化学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
** [[生物科学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、生物学、高分子機能学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
*** 生物学専修分野
*** 高分子機能学専修分野
** [[地球惑星科学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、地球惑星科学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}([[地球科学科]]から2011年度より名称変更)
* [[医学部]]
** [[医学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、医学概論、医学史、人類遺伝学、解剖・発生学、生理学、生化学、薬理学、病理学、細菌学、法医・医療情報学、衛生・公衆衛生学、内科学、外科学、生殖・発達医学、精神・脳神経医学、感覚器医学、機能回復医学、高次診断医学、リハビリテーション医学、侵襲制御医学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}(6年制)
** [[保健学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、看護学、放射線技術科学、検査技術科学、理学療法学、作業療法学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
*** [[看護学]]専攻
*** 放射線技術科学専攻
*** 検査技術科学専攻
*** [[理学療法]]学専攻
*** [[作業療法]]学専攻
* [[歯学部]]
** [[歯学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、生体構造解析学、生体機能解析学、病因病態解析学、歯質・歯周再建学、咬合再建学、口腔診断内科学、口腔顎顔面外科学、発育加齢歯科学、口腔健康科学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}(6年制)
* [[薬学部]]
** [[薬学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、薬学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}(6年制)
** [[薬科学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、薬科学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}(4年制)
* [[北海道大学大学院工学研究院・大学院工学院・工学部|工学部]]{{efn|工学部規程通則第3条第1項の規定 (コース分属) によると、第2年次に進級した者を各学科のコースに配属するとしている<ref>{{Cite report |title=(コース分属) |work=北海道大学工学部規程 平成7年4月1日 海大達第12号 (平成30年4月1日施行) |date=1995-04-01 |number=第4条 |url=http://www.hokudai.ac.jp:80/jimuk/reiki/reiki_honbun/u010RG00000042.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160510165411/http://www.hokudai.ac.jp:80/jimuk/reiki/reiki_honbun/u010RG00000042.html |archivedate=2016-05-10 |accessdate=2018-10-04}}</ref>。}}
** [[応用理工系学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、応用物理工学、応用化学、応用マテリアル工学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
*** 応用物理工学コース
*** 応用化学コース
*** 応用マテリアル工学コース
** [[情報エレクトロニクス学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、情報理工学、電気電子工学、生体情報、メディアネットワーク、電気制御システムがある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
*** 情報理工学コース
*** 電気電子工学コース
*** 生体情報コース
*** メディアネットワークコース
*** 電気制御システムコース
** [[機械知能工学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、機械情報、機械システムがある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
*** 機械情報コース
*** 機械システムコース
** [[環境社会工学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、社会基盤学、国土政策学、建築都市、衛生環境工学、資源循環システムがある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
*** 社会基盤学コース
*** 国土政策学コース
*** 建築都市コース
*** 衛生環境工学コース
*** 資源循環システムコース
* [[北海道大学大学院農学研究院・大学院農学院・農学部|農学部]]{{efn|北海道大学農学部通則第3条第1項の規定によると、第2年次に進級した者を学科に配属するとしている<ref>{{Cite report |title=(進級及び学科分属) |work=北海道大学農学部規程 平成7年4月1日 海大達第13号 (平成30年4月1日施行) |date=1995-04-01 |number=第3条 |url=https://www.hokudai.ac.jp/jimuk/reiki/reiki_honbun/u010RG00000046.html#e000000036 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160710030155/http://www.hokudai.ac.jp:80/jimuk/reiki/reiki_honbun/u010RG00000046.html |archivedate=2016-07-10 |accessdate=2018-10-04}}</ref>。}}
** [[生物資源科学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、生物資源科学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
** [[応用生命科学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、応用生命科学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
** [[生物機能化学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、生物機能化学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
** [[森林科学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、森林科学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
** [[畜産科学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、畜産科学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
** [[生物環境工学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、生物環境工学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
** [[農業経済学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、農業経済学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
* [[獣医学部]]
** [[獣医学科|共同獣医学課程]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、基礎獣医学、病態獣医学、応用獣医学、臨床獣医学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}(6年制)
* [[北海道大学大学院水産科学研究院・大学院水産科学院・水産学部|水産学部]]{{efn|北海道大学水産学部規程通則第3条第1項の規定によると、第2年次に進級した者を学科に配属するとしている<ref>{{Cite report |title=(学科分属) |work=北海道大学水産学部規程 平成7年4月1日 海大達第15号 (平成29年4月1日施行) |date=1995-04-01 |number=第3条 |url=http://www.hokudai.ac.jp:80/jimuk/reiki/reiki_honbun/u010RG00000060.html |archiveurl= https://web.archive.org/web/20160826064642/http://www.hokudai.ac.jp:80/jimuk/reiki/reiki_honbun/u010RG00000060.html |archivedate=2016-08-26 |accessdate=2018-10-04}}</ref>。}}
** [[海洋生物科学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、海洋生物科学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
** [[海洋資源科学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、海洋資源科学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
** [[増殖生命科学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、増殖生命科学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
** [[資源機能化学科]]{{efn|「学科目及びこれに相当する組織」として、資源機能化学がある<ref name="kouza_kitei"/>。}}
===== その他 =====
* 総合教育部(2011年度から、入学者は全員「総合教育部」に所属することになった。総合教育部では、文系、理系のそれぞれでカリキュラムが統一されている。1年間、教養教育と基礎教育を学び、各学部に進む。)<!--
※学部ごとに詳細な説明を加えたい場合には以下のようにする方法もある。ただし、独立した節を入れて解説する場合、独立した節にできるほど歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述する。
===== ○○学部 =====
* ××学科
* △△学科
この学部は…
===== □□学部 =====
* ×△学科
* △×学科
この学部は…-->
* 現代日本学プログラム課程(留学生だけ入学可能であり、全ての授業は英語で行われる。他大学の教養学部に相当。)
* Integrated Science Program (ISP)(留学生だけ入学可能であり、全ての授業は英語で行われる。学士・修士一貫制。)
==== 研究科 ====
* [[北海道大学大学院文学研究科・文学部|文学院/文学研究院]](修士課程・博士後期課程)
** 人文学専攻
** 人間科学専攻
* [[北海道大学大学院法学研究科・法学部|法学研究科/法科大学院]]
** 法学政治学専攻(修士課程・博士後期課程)
** 法律実務専攻(法科大学院)
** 附属高等法政教育研究センター
* [[北海道大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学院/経済学研究院]]
** 現代経済経営専攻(修士課程・博士後期課程)
** 会計情報専攻([[会計大学院|会計専門職大学院]]<ref>{{Main|公認会計士試験#大学別合格者数}}</ref>)
* [[医学研究科|医学院/医学研究院]]
** 医科学専攻(修士課程)
** 医学専攻(博士課程)
* 附属動物実験施設
* [[歯学研究科|歯学院/歯学研究院]]
** 口腔医学専攻(博士課程)
* [[北海道大学大学院工学研究院・大学院工学院・工学部|工学院/工学研究院]](修士課程・博士後期課程)
** 応用物理学専攻
** 有機プロセス工学専攻
** 生物機能高分子専攻
** 物質化学専攻
** 材料科学専攻
** 機械宇宙工学専攻
** 人間機械システムデザイン専攻
** エネルギー環境システム専攻
** 量子理工学専攻
** 環境フィールド工学専攻
** 北方圏環境政策工学専攻
** 建築都市空間デザイン専攻
** 空間性能システム専攻
** 環境創生工学専攻
** 環境循環システム専攻
* [[獣医学研究科|獣医学院/獣医学研究院]](博士課程)
** 獣医学専攻
** 附属動物病院
* [[情報学研究科|情報科学院/情報科学研究院]](修士・博士後期課程)
** 情報理工学専攻
** 情報エレクトロニクス専攻
** 生命人間情報科学専攻
** メディアネットワーク専攻
** システム情報科学専攻
* [[北海道大学大学院水産科学研究院・大学院水産科学院・水産学部|水産科学院/水産科学研究院]](博士前期課程・博士後期課程)
** 海洋生物資源科学専攻
** 海洋応用生命科学専攻
* [[環境科学研究科|環境科学院/地球環境科学研究院]](修士課程・博士後期課程)
** 環境起学専攻
** 地球圏科学専攻
** 生物圏科学専攻
** 環境物質科学専攻
* [[北海道大学大学院理学研究院・大学院理学院・理学部|理学院/理学研究院]]
** 数学専攻
** 物性物理学専攻
** 宇宙理学専攻
** 自然史科学専攻
** 附属地震火山研究観測センター
** 附属[[原子核反応]]データ研究開発センター
** 附属ゲノムダイナミクス研究センター
* [[薬学研究科|薬学研究院]](生命科学院・先端生命科学研究院に改組)
* [[北海道大学大学院農学研究院・大学院農学院・農学部|農学院、農学研究院]](修士課程・博士後期課程)
** 共生基盤学専攻
** 生物資源科学専攻
** 応用生物科学専攻
** 環境資源学専攻
* [[生命科学]]院/先端生命科学研究院
** 生命科学専攻(修士課程)
** 臨床薬学専攻(4年制博士課程)
* [[北海道大学大学院教育学研究院・大学院教育学院・教育学部|教育学院/教育学研究院]](修士課程・博士後期課程)
** 教育学専攻
** 附属子ども発達臨床研究センター
* [[北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院|国際広報メディア・観光学院]]、[[北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院|メディア・コミュニケーション研究院]](修士課程・博士後期課程)
** 国際広報メディア専攻
** 観光創造専攻
* [[保健学研究科|保健科学院/保健科学研究院]](修士課程・博士後期課程)
** 保健科学専攻
* 公共政策学教育部・公共政策学連携研究部([[公共政策大学院]])
** 公共政策学専攻
* 総合化学院(修士課程・博士後期課程)
** 総合化学専攻<!--
* [[○研究科]]([[博士前期課程]]・[[博士後期課程]])
** ○学専攻
* [[△研究科]]([[修士課程]])
** △学専攻
** ◇学専攻
* [[□研究科]]([[一貫制博士課程]])
** ☆学専攻
==== 専攻科 ====
==== 別科 ====-->
==== 短期大学部 ====
* [[北海道大学医療技術短期大学部|医療技術短期大学部]]([[2006年]](平成18年)に廃止)<!--
※ 学校教育法上、短期大学と大学は、それぞれが別々の1つの学校である。よって必要な場合は、独立した記事を立ててここでは簡便な記述に留める。-->
==== 附属機関 ====<!--
※ 学部・研究科・別科・専攻科・(短期大学部)などの教育を行っている組織外の研究所、センター、大学博物館などは、ここでまとめる。-->
* 附置研究所
** [[北海道大学低温科学研究所|低温科学研究所]]
** [[北海道大学電子科学研究所|電子科学研究所]]
** [[北海道大学遺伝子病制御研究所|遺伝子病制御研究所]]
** [[北海道大学触媒科学研究所|触媒科学研究所]]
** [[北海道大学人獣共通感染症国際共同研究所|人獣共通感染症国際共同研究所]]
* 研究センター
** [[北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター|スラブ・ユーラシア研究センター]]
** 情報基盤センター
* 学内共同教育研究施設等
** アイソトープ総合センター
** 量子集積エレクトロニクス研究センター
** 北方生物圏フィールド科学センター
*** 耕地圏ステーション植物園([[北海道大学植物園]])
** 観光学高等研究センター
** [[アイヌ]]・先住民研究センター(2007年(平成19年)4月開設<ref name="hokkaido-np-2007-1-23">“アイヌ民族研究に拠点 北大、センター4月開設 言語・文化・歴史など 先住権など具体化探る”. 『[[北海道新聞]]』(北海道新聞社). (2007年1月23日)</ref>)
** 社会科学実験研究センター
** 環境健康科学研究教育センター
** 北極域研究センター
** 脳科学研究教育センター
** 外国語教育センター
** 数理・データサイエンス教育研究センター
** [[北海道大学総合博物館|総合博物館]]
** 大学文書館
** 保健センター
** 埋蔵文化財調査センター
* 産学・地域協働推進機構
* 創成研究機構
** 研究部
** グローバルファシリティセンター
** 機器分析受託部門|オープンファシリティ部門
** 研究人材育成推進室 (L-Station)
* 高等教育推進機構
* アドミッションセンター
* サステイナブルキャンパスマネジメント本部
** 有害廃液処理支援施設
* 国際連携機構
* 人材育成本部
** 上級人材育成ステーション
** S-cubic|I-HoP|Tenure-Track
** 女性研究者支援室 (FResHU)
** 連携型博士研究人材育成推進室 (COFRe)
* [[CoSTEP|科学技術コミュニケーター養成ユニット]]
* [[北海道大学病院]]
* [[北海道大学附属図書館|附属図書館]]
* 植物園
* 大学力強化推進本部
* 動物病院
* 安全衛生本部
* フード&メディカル[[イノベーション]]推進本部
* 情報環境推進本部
* 事務局<!--
※ 数が多い、あるいは特徴的な機関があるという場合には、上記一覧表を掲示した下へ下記のように節を入れて解説することも考慮すべきである。ただし、独立した節を入れて解説する場合、独立した節に出来るほど歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述する。
===== ○○研究所 =====
○○研究所は…
===== 附属病院 =====
附属病院は…
===== 附属図書館 =====
図書館は…
===== ○○博物館 =====
○○博物館は…-->
=== 研究 ===<!--
※歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述できる場合は、プログラムに関する列記以外に研究内容の特色を別途記すこともできる。-->
{{更新|date=2018年10月|section=1}}
==== 21世紀COEプログラム ====
[[21世紀COEプログラム]]の採択数は12件だった。
* 2002年
*; 生命科学
*: バイオとナノを融合する新生命科学拠点
*; 情報・電気・電子
*: 知識メディアを基盤とする次世代ITの研究
*; 人文科学
*: 心の文化・生態学的基盤に関する研究拠点
*; 学際・複合・新領域
*: 生態地球圏システム劇変の予測と回避
* 2003年度
*; 医学系
*: 人獣共通感染症制圧のための研究開発
*; 数学・物理学・地球科学
*: 特異性から見た非線形構造の数学
*; 機械・土木・建築・その他工学
*: 流域圏の持続可能な水・廃棄物代謝システム
*; 社会科学
*: 新世代知的財産法政策学の国際拠点形成
*; 学際・複合・新領域
*: 新・自然史科学創成:自然界における多様性の起源と進化
*: [[スラヴ人|スラブ]]・[[ユーラシア大陸|ユーラシア]]学の構築:中域圏の形成と地球化
* 2004年度
*; 革新的な学術分野
*: [[位相幾何学|トポロジー]]理工学の創成
*: 海洋生命統御による食糧生産の革新-海の生物の高度で安全な活用を目指して
==== グローバルCOEプログラム ====
[[グローバルCOEプログラム]]の採択数は7件である。
* 2007年度
*; 科学・材料化学
*: 触媒が先導する物質科学イノベーション
*; 情報・電気・電子
*: 知の創出を支える次世代IT基盤拠点
*; 人文科学
*: 心の社会性に関する教育研究拠点
* 2008年度
*; 医学系
*: [[人獣共通感染症]]国際共同教育研究拠点の創成
*; 社会科学
*: 多元分散型統御を目指す新世代法政策学
*; 学際・複合・新領域
*: 統合フィールド環境科学の教育研究拠点形成
* 2009年度
*; 学際・複合・新領域
*: 境界研究の拠点形成<!--
</div>{{clear|left}}
==== 私立大学学術研究高度化推進事業 ====
※私立大学で[[私立大学学術研究高度化推進事業]]の採択がある場合はこの項目を立てて以下のように記述する。採択がない場合はこの節は立てない。ただし、書いていないのか未採択なのかの区別をつけるために「研究」節内で「{{Nowiki|*私立大学学術研究高度化推進事業の採択はない。}}」と記述する。
* ○○事業
** ○○センター
* ○○事業
** ○○センター
=== 教育 ===
※以下のプログラムに指定されたプロジェクトがあれば、以下のように項目を作り記述する。採択がない場合、書いていないのか未採択なのかの区別をつけるために{{Nowiki|*○○プログラムの採択はない。}}」と記述する。歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述できる場合は、プログラムに関する列記以外に教育内容の特色を別途記すこともできる。
* 現代的教育ニーズ取組支援プログラム
** ○○プロジェクト
* 特色ある大学教育支援プログラム
** ○○プロジェクト
* 大学教育の国際化推進プログラム
** ○○プロジェクト
* 法科大学院等専門職大学院形成支援プログラム
** ○○プロジェクト
* 地域医療等社会的ニーズに対応した医療人教育支援プログラム
** ○○プロジェクト
* 大学・大学院における教員養成推進プログラム
** ○○プロジェクト-->
== 学生生活 ==<!--
学生自治会に関係する内容は、適宜下位の節に織り込む。-->
=== 部活動 ===
<!--○○大学では{部活動|クラブ活動|サークル活動}は…
※各大学によって、これら活動の呼称や範囲が異なっているので、学生組織の規約または大学事務局発行の資料などに基づいて適切な節名とする。全公認学生団体・部・サークルのリストを掲載しなければ大学に関して説明できないという特段の事情がある場合には、歴史的社会的にどのような価値を持つのかをふまえながらどのような事情であるのかを関係者以外でも理解できるように記述可能な場合のみ、事前にノートで合意を形成した上でこの節にまとめる。-->
もともと課外活動に関する学生団体として札幌農学校時代に文武会が存在し、その後、予科の教官と学生の懇親と団結を目的とした桜星会が誕生した。これがスポーツ中心の活動となった組織が北海道大学体育会である<ref>{{Cite book|和書 |title=北大百年史 部局史 |url=https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/100-bukyoku.jsp|date=1980-03-20}}</ref>。2018年7月30日時点公認の体育系団体は67団体(その内53団体が体育会に所属<ref>{{Cite web|和書|url=http://hokudai-taiikukai.com/about/belong.html |title=体育会所属団体一覧 |publisher=北海道大学体育会 |year=2016 |accessdate=2019-01-25}}</ref>)あり、文科系団体は52団体がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hokudai.ac.jp/gakusei/campus-life/campus/activity.html |title=公認学生団体 |publisher=北海道大学 |year=2018 |accessdate=2019-01-27}}</ref>。
==== 体育系団体 ====
北海道大学の体育会団体の中には、他大学生の受け入れを認めている団体があるほか、近隣大学と合同練習する団体も見られる。
(2019年1月時点の公式サイト掲載団体)
<div style="clear:none;float:left">
* 合気会合気道部
* 武田流中村派合気道部
* [[北海道大学ビッググリーン|アメリカンフットボール部]]
* アルティメットサークルPADDY
* [[居合道]]部
* 応援吹奏団:体育会直轄部
* [[北海道大学応援団|応援団]]
* オリエンテーリングクラブ
* カヌー部
* [[空手]]部
* カーリングサークル
* [[弓道]]部
* 競技舞踏部
* [[剣道]]部
* 日本拳法部
* [[少林寺拳法]]部
* 航空部
* ゴルフ部
* サイクリングクラブ
* サッカー部
* 山岳部
* 自転車競技部
* 自動車部
</div><div style="clear:none;float:left">
* [[柔道]]部
* [[水泳]]部
* [[スカッシュ]]ラケットクラブ
* エレガントスキー部
* 基礎スキー部
* 競技スキー部
* 山スキー部
* [[スケート]]部
* スポーツチャンバラサークル翠剣会
* 相撲同好会
* 漕艇部
* 男子ソフトボール部
* 体操部
* [[躰道]]部
* 卓球部
* [[チアリーダー]]部CADENDIA
* 硬式庭球部
* 軟式庭球部
* テコンドークラブ
* [[トライアスロン]]部ちゃらんけ
* ライダーズクラブHORIZON
* 馬術部
* 男子バスケットボール部
</div><div style="clear:none;float:left">
* 女子バスケットボール部
* バドミントン部
* 男子バレーボール部
* 女子バレーボール部
* ハンドボール部
* フェンシング部
* フットサル部Esperanza
* [[ボクシング]]部
* ボブスレー部
* 硬式野球部
* 準硬式野球部
* 軟式野球シーラカンス
* 洋弓部
* [[ヨット]]部
* ライフル射撃部
* 男子[[ラクロス]]部
* 女子ラクロス部
* ラグビー・フットボール部
* 陸上競技部
* 陸上ホッケー部
* ワンダーフォーゲル部
</div>
{{clear}}
==== 文化系団体 ====
上述の体育系団体と同様、文化系団体においても他大学生の在籍を認める団体が多く見受けられる。
<div style="clear:none;float:left">
* Hokkaido University Business Society「HUBS」
* アニメーション研究会
* 歩く会
* RPG研究会
* 囲碁部
* 映画研究会
* 英語研究会
* 北大エレクトーンサークル
* 合唱団
* カフェプロジェクト
* [[奇術]]研究会
* キリスト教青年会
* クイズ研究会
* クラーク[[聖書]]研究会
* 軽音楽研究会
* ゲーム部
* 劇団しろちゃん
* 交響楽団
* 混声合唱団
</div><div style="clear:none;float:left;">
* 裁判問題研究会
* The セツルメント
* 茶道研究会
* 自然に親しむ会「野客」
* 自然研究会
* 写真部
* ジャズ研究会
* シュマの会
* [[手話]]サークル
* 将棋部
* 植物同好会
* [[推理小説]]研究会
* 絶学会
* チルコロ・マンドリニスティコ「アウロラ」
* 鉄道研究会
* 天文同好会
* パイプオルガン研究会
* ピアノクラブ
</div><div style="clear:none;float:left">
* BIGBAND 北極
* 美術部黒百合会
* フォークソング研究会
* 仏教青年会
* ブルーグラス研究会
* 文芸部
* 邦楽研究会
* 北大金融研究会
* マイクロコンピュータ研究会
* 漫画イラスト研究会「SISYPHUS」
* 民謡研究会合唱団「わだち」
* 野鳥研究会
* ユースホステルクラブ
* YOSAKOIソーラン北海道大学“縁”
* 落語研究会
* リコーダーアンサンブル
* 連合吹奏楽団
</div>
{{clear}}
==== その他団体 ====
* 北海道大学大学祭全学実行委員会
* 人力飛行機製作サークルNorthern Wings
* フォーミュラSAE北海道チーム
=== サークル活動 ===
北海道大学は札幌駅徒歩圏内という立地条件に加えて、近隣に複数の大学が所在するという事情もあり、多くのサークルにおいて他大学生の受け入れを認めている。特に[[藤女子大学]]や[[北海道武蔵女子短期大学]]の学生が多く在籍する傾向にある。
北海道大学では、ほとんどのサークルが常設の「[[部室]]」というものを与えられていない。このため、校内各所に設けられた会議室・サークル会館等の部屋を時間指定で借りて、活動を行う。常設の部室が無いため、備品も同じく各所に設けられたロッカー等に保管される。
文化系団体のYOSAKOIソーラン北海道大学"縁"は[[YOSAKOIソーラン祭り]]に北海道大学"縁"として出場。[[2009年]]から[[2016年]]まで8年連続でファイナル進出。[[2013年]]、[[2014年]]の2年連続で準YOSAKOIソーラン大賞を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hokudai.ac.jp/gakusei/2013/06/-22yosakoi.html |title=公認学生団体 北海道大学"縁" が「第22回YOSAKOIソーラン祭り」で準大賞を受賞 |publisher=北海道大学 |year=2013 |accessdate=2023-06-16}}</ref>。演舞の途中で男性陣が「赤い[[ふんどし]]」になる。
=== 大学祭 ===
毎年6月上旬に北18条ロータリー(高等教育推進機構前)から農学部前までのメインストリートを使った「北大祭」が盛大に開催される。「北大祭」とは、期間中に開催される各祭りの集合体であり、主に学部・学科・ゼミを中心とする「'''学部祭'''」(例:獣医学部祭)、留学生を中心とする '''IFF''' (International Food Festival)、1年生やサークルを中心とする「'''楡陵祭'''」(ゆりょうさい)などによって構成されている。北大祭は日祝日にかけて行われるため訪れる観光客や市民も多い。このほか10月から11月にかけては恵迪寮祭も行われる。
== 大学関係者と組織 ==
=== 同窓会組織 ===
北海道大学の卒業生が組織する各学部や地区別に存在していた同窓会をとりまとめるため、[[2004年]]4月に北海道大学連合同窓会が発足した。
[[2016年]]6月に大学、在学生との連携をさらに強化することを目的として連合同窓会は解散し、[https://www.alumni-hokudai.jp/about/ 北海道大学校友会エルム]が発足した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.alumni-hokudai.jp/about/story.html|title=設立までの敬意|publisher=北海道大学校友会エルム|accessdate=2020-05-21}}</ref>。
以下は校友会エルムにおいて「基礎同窓会」と位置づけられている組織<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.alumni-hokudai.jp/|title=基礎同窓会一覧|publisher=北海道大学校友会エルム|accessdate=2020-05-21}}</ref>。
==== 学部・研究科同窓会 ====
* [https://www.let.hokudai.ac.jp/general/alumni 文学部同窓会]
* [https://www.edu.hokudai.ac.jp/job/reunion/ 教育学部同窓会]
* [https://lex.juris.hokudai.ac.jp/dosokai/ 法学部同窓会]
* [https://www.econ.hokudai.ac.jp/~alumni/ 経済学部同窓会]
* [https://www.sci.hokudai.ac.jp/grp/dosokai/rd/ 理学部同窓会]
* [https://hokudai-med-dousou.com/ 医学部同窓会]
* [https://almni.den.hokudai.ac.jp/ 歯学部同窓会]
* [https://www.pharm.hokudai.ac.jp/alumni/ 薬学部同窓会]
* [https://www.eng.hokudai.ac.jp/dousoukai/ 工学部同窓会]
* [https://www.agr.hokudai.ac.jp/i/obog 一般社団法人 札幌農学同窓会(農学部)]
* [https://www.vetmed.hokudai.ac.jp/alumni/ 獣医学部同窓会]
* [http://hokusui.net/ 水産学部同窓会]
* [http://www.freeml.com/imcts 国際広報メディア観光学院同窓会]
* [https://hokudaihoken.jimdofree.com/ 医学部保健学科・北海道大学医療技術短期大学部同窓会]
* 公共政策大学院同窓会
* 白揺会(北海道大学助産師学校(旧)の同窓会)
* [https://www.ees.hokudai.ac.jp/alumni/ 環境科学同窓会]
* [https://www.ist.hokudai.ac.jp/hokuyu-kai/ 北楡会(情報科学研究科の同窓会)]
* 北海道大学大学院医理工学院同窓会
==== 学生寮同窓会 ====
* 一般社団法人[[恵迪寮同窓会]]
==== 国内地区同窓会 ====
* 北海道大学ほっかいどう同窓会
* 旭川北大同窓会
* 北海道大学函館同窓会
* 十勝エルム会
* 北海道大学秋田県同窓会
* 岩手北大会
* 北海道大学宮城県同窓会
* 北海道大学福島県同窓会
* 北海道大学茨城県同窓会
* 北大栃木エルム会
* 北海道大学東京同窓会
* 上毛エルム会
* 新潟エルム会
* 北海道大学関西同窓会
* 京都エルム会
* 鳥取県北大同窓会
* 岡山北大エルム会
* 広島エルム会
* 北海道大学同窓会香川支部
* 愛媛エルム会
* 北海道大学高知県同窓会
* 九州・山口北大エルム会
* 北海道大学同窓会佐賀県支部
* 北海道大学北楡会宮崎エルム会
* 北海道大学大分県同窓会
* 鹿児島エルム会
==== 海外地区同窓会 ====
* 北海道大学中国同窓会
* 北海道大学台湾同窓会
* 北海道大学韓国同窓会
* ブラジル北海道大学同窓会
* 上海北大エルム会
* ジャカルタ同窓会
* 北海道大学タイ同窓会
* シンガポールエルム会
* ハノイエルム会
* 北海道大学バンコク同窓会
* マレーシア北大エルム会
* サハリン北海道大学校友会
* 北海道大学フィリピン同窓会
* サイゴンエルム会
* 香港エルム会
* 北海道大学インドネシア同窓会
==== 職域同窓会 ====
* 食品産業エルム会
== 大学関係者一覧 ==
{{See|北海道大学の人物一覧}}
== 施設 ==
=== キャンパス ===
==== 札幌キャンパス ====
[[画像:151010 Hokkaido University Japan04s3.jpg|220px|thumb|古河記念講堂]]
[[画像:Hokkaido-Univ-Adm-Bureau-01.jpg|220px|thumb|大学事務局]]
[[画像:151010 Hokkaido University Japan05s3.jpg|220px|thumb|北大イチョウ並木]]
[[画像:151010 Hokkaido University Japan01s3.jpg|220px|thumb|中央ローン]]
[[画像:Hokkaidouni.jpg|220px|thumb|札幌キャンパス(1985年) {{国土航空写真}}]]
* 使用学部:全学部(水産学部は1-2年次)
* 使用研究科:水産科学院・水産科学研究院以外の大学院全研究科
* 交通アクセス
** [[札幌駅]]・[[さっぽろ駅]]を利用する場合(正門)
*** 北口地下歩道12番出口より徒歩3分
*** 西口より徒歩5分
*** 西通り北口より徒歩7分
** [[札幌市営地下鉄南北線|地下鉄南北線]]を利用する場合
*** [[北12条駅]]より徒歩4分(北13条門)
*** [[北18条駅]]より徒歩7分(環状門・北18条門)
*** [[北24条駅]]より徒歩13分(北20条東門)
大学内では通称「エルムの杜」とも呼ばれ、[[札幌市]]中心部に所在している。敷地面積は177万[[平方メートル|m{{sup|2}}]]{{efn|「札幌市内(札幌キャンパス)1,776,248 m{{sup|2}}」<ref name="gaiyo2008">{{Cite report |url=http://www.hokudai.ac.jp/bureau/gaiyou/2008/P48/P48.htm |title=北海道大学概要 |page=48 |publisher=北海道大学 |accessdate=2012-01-20}}</ref>。}}
キャンパス内は南北約1.5キロメートルのメインストリートの左右に各施設が並ぶ配置。キャンパスのすぐ東を南北に延びる[[札幌市営地下鉄南北線]]さっぽろ駅付近から北12条駅を抜け、北18条駅を過ぎる辺りまでキャンパスが広がっている。付属農場の部分も加えると、その北端は[[北24条駅]]の辺りにまで達する。目的の施設・学部・研究科などによって最寄駅は大きく異なる。また札幌キャンパスの多くの施設では、住所に「番」および「号」が付与されていない全国的にも珍しい住所表記となっている{{efn|北海道大学の本部所在地は、札幌市北区北8条西6丁目であり、番地および番号は付されていない。}}。
札幌キャンパスでは通行車両を必要最小限に抑えるため「車両通行規制」が施行されており、観光・通り抜け・通学目的の車両入構禁止、最高速度25km/hなどの規制が敷かれている。キャンパスの西側(石山通・桑園地区)と東側(北大通・地下鉄南北線沿線)の往来は不便であったが、[[2001年]](平成13年)にキャンパスの北部を東西に貫く地下道路トンネル「[[環状通エルムトンネル]]」が開通したことにより従来より利便性が向上した。
正門を入って北側の大学事務局(本部)は、北海道帝国大学[[大学予科|予科]]時代に校舎として使用していた建物。西に進むと広い芝生の「中央ローン」がある。中央ローンを流れる小川は[[サクシュコトニ川]]で、現在は人工の川であるが、かつては鮭も遡上した天然河川であった。
中央ローンの北には、旧制東北帝国大学農科大学以来の木造の教室である「[[古河記念講堂]]」が残り、西には同じく明治建築の「[[北海道大学旧札幌農学校昆虫学及養蚕学教室|旧昆虫学及養蚕学教室]]」と「旧札幌農学校図書館読書室・書庫」、南には「[[クラーク像]]」、その西には時計塔がある「農学部本館」と、北大の象徴が集まっている。メインストリート南端にあるクラーク会館は、国立大学初の学生会館である。「旧昆虫学及養蚕学教室」の北の広場は「エルムの森」と呼ばれ、その北に総合博物館がある。
[[絵はがき]]などで有名な[[北大ポプラ並木|ポプラ並木]]は、メインストリートから理学部と工学部の間を西側に入った[[農場]]近くにあり、約300 mの並木が続く。かねてより倒木の危険性があり、立ち入りは禁止されていたが、[[2004年]](平成16年)9月の台風の影響で51本のうち27本が倒壊してしまった。その後、再生を目指して若木の植樹を行うなどして整備し、80 mほどまで散策可能となった。
理学部敷地内の旧理学部本館は[[1999年]](平成11年)から[[北海道大学総合博物館]]となり、農学部など学内各学部に分散して管理されていた明治時代以来の各種学術資料の集中的な管理体制が構築されつつある。
[[画像:151010 Sapporo Agricultural College Hokkaido Japan01s3.jpg|220px|thumb|札幌農学校第2農場]]
札幌キャンパスは[[国指定重要文化財]]・[[登録有形文化財]]が複数登録されており、札幌市を代表する観光スポットの一つ{{efn|2013年には無料で観光できるスポットの6位に入り<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hokudai.ac.jp/news/2013/10/2013-9.html |title=北海道大学札幌キャンパスが"行ってよかった!無料観光スポットランキング2013"を受賞! |work=北海道大学公式サイト |accessdate=2018-10-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=行ってよかった!無料観光スポット2013 第6位 北海道大学札幌キャンパス (北海道 札幌市) |url=https://www.tripadvisor.jp/pages/FreeAttractions_2013.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160530165729/https://www.tripadvisor.jp/pages/FreeAttractions_2013.html |archivedate= 2016-05-30 |publisher=[[トリップアドバイザー]] |accessdate=2016-05-30}}</ref>、イチョウ並木も人気を集める<ref>{{Cite web|和書|title=北海道大学構内にあるイチョウ並木が黄色く色づき、見ごろ |url=http://thepage.jp/detail/20141026-00000006-wordleaf |date=2014-10-26 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20160304111748/http://thepage.jp/detail/20141026-00000006-wordleaf |archivedate=2016-03-04 |publisher=the Page |accessdate=2016-05-30}}</ref>。}}として毎年多くの観光客が訪れている。
キャンパス北地区に位置する[[重要文化財]]・[[北海道遺産]]である[[札幌農学校第2農場]]はクラークの構想によるモデルバーン(模範家畜房)を中心にした明治期の建築物であり、現存する北大の建築物の中では最古である。また、旧校地である北1条西2丁目には、[[札幌市時計台|旧札幌農学校演武場]](通称:[[札幌市時計台|札幌時計台]])が保存されており、キャンパス移転前の趣が色濃く残されている。
なお、正門近くの中央ローンに「[[クラーク博士像|クラーク像]]」(胸像)があるが、これは札幌市[[豊平区]]の[[さっぽろ羊ヶ丘展望台]]にある「丘の上のクラーク」(全身像)とは別物<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hokudai.ac.jp/sub/inquiry/faq.html#q7 |title=北海道大学 よくある質問 |accessdate=2012-01-20}}</ref>である。
キャンパスから少し離れた南側の[[北海道庁旧本庁舎|北海道庁赤レンガ庁舎]]隣接地に[[北海道大学植物園]](13万 m{{sup|2}})があり、こちらも観光客が多く訪れる。
==== 函館キャンパス ====
* 使用学部:水産学部(3-4年次)
* 使用研究科:水産科学院・水産科学研究院
* 交通アクセス
** JR[[函館駅]]から[[函館バス]]に乗車、「北大裏」バス停下車
** [[函館市電|市電]][[五稜郭公園前停留場|五稜郭公園前電停]]から函館バスに乗車、「北大前」バス停下車
水産学部は札幌農学校水産学科として発足したが、[[1935年]](昭和10年)に函館高等水産学校として函館に独立し、[[1949年]](昭和24年)の新制大学制度の施行に伴い、函館水産専門学校は北海道大学に包括され、農学部水産学科と併せ水産学部となった。その経緯から現在でも水産学部のみ函館のキャンパスを使用しており、卒業式も同キャンパスで開催される。面積はおよそ89,000 m{{sup|2}}{{efn|「水産学部88,876 m{{sup|2}}、函館市内合計105,240 m{{sup|2}}」<ref name="gaiyo2008"/>}}<!--
北海道大学は「全ての学部が一つのキャンパス(=札幌)に集約されている」というイメージが強いため、函館にキャンパスがあるということは知らない人も多い。-->2006年度より共同研究を目的とした一部の研究室が札幌に移転(環境科学院へ)している場合もあり、各学部間との協力体制も見直されてきているため、一部の学生は函館に移行した後、再び札幌に戻るケースもでてきている。また平成23年度より総合入試が導入されたため、従来は2年生後期に函館キャンパスに移行となっていたが、3年生前期からのキャンパス移行へと変更がなされている。したがって水産学部生の中には、最短で1年間だけ函館で生活し、4年生から札幌に戻る学生もいるため、慌ただしいキャンパスライフを送ることになる学生もいる。
==== その他 ====
[[有珠山|有珠]]火山観測所、厚岸臨海実験所([[厚岸町]])、静内研究牧場([[静内町]])、生物生産研究農場余市果樹園([[余市町]])、[[洞爺湖|洞爺]]臨湖実験所、各研究林など北海道内に20施設。パラダイス・ヒュッテ{{efn|1926年に建てられた日本初のスキーヒュッテ。老朽化により倒壊後、1994年山スキー部OB会により再建。}}、[[ヘルヴェチア・ヒュッテ]]、無意根小屋などの[[山小屋]]もある。水産学部は1,300トン級の練習船「おしょろ丸」など船舶数隻{{efn|「船舶(主要なもの)「おしょろ丸」1396トン、「うしお丸」179トン」<ref name="gaiyo2008"/>。}}を所有している。
また、北海道以外にも[[和歌山県]][[古座川町]]に約429万 m{{sup|2}}の研究林{{efn|「フィールド科学センター和歌山研究林4,291,291m{{sup|2}}」<ref name="gaiyo2008"/>。}}、[[東京都]][[千代田区]][[丸の内]]にある「[[サピアタワー]]」内(東京都港区の新高輪プリンスホテルから2007年3月に移転)に東京オフィスを持つ。また、日本国外にも[[韓国]]の首都[[ソウル特別市|ソウル]]、[[フィンランド]]の首都[[ヘルシンキ]]、[[アフリカ大陸]]にある[[ザンビア]]の首都[[ルサカ]]の各地にオフィスも所有する。
=== 寮 ===
大学公式の寮として札幌キャンパスの大学敷地内に学部学生の男子および女子と男子大学院生、外国人男子留学生を対象とした「[[恵迪寮]]」(けいてきりょう)がある。また札幌キャンパスには女子学生対象の「[[霜星寮]]」(そうせいりょう)と「北大インターナショナルハウス北23条2号棟」がある。函館キャンパスの水産学部・水産科学院生の男子および女子を対象とした「[[北晨寮]]」(ほくしんりょう)がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hokudai.ac.jp/gakusei/campus-life/certificates/residency.html |title=住まい(学生寮・アパートなど)・アルバイト |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170929234303/http://www.hokudai.ac.jp:80/gakusei/campus-life/certificates/residency.html |archivedate=2017-09-29 |accessdate=2018-09-12 |publisher=北海道大学}}</ref>。
加えて、外国人学生向けの寮として「北大インターナショナルハウス北8条」「北大インターナショナルハウス北23条」「北大インターナショナルハウス伏見」がある。日本国外からの学生は原則、入国直後は寮に入寮する。期間は原則6か月間とされている。なお、代々木ゼミナールの学生寮として使われていた建物を北海道大学が借り上げ、同様の趣旨で使用していた「北大インターナショナルハウス北8条東」は、契約期間満了のため2021年8月31日をもって閉寮した。
=== 観光用施設 ===
* インフォメーションセンター「エルムの森」(エルムの森ショップ、カフェdeごはん)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hokudai.ac.jp/pr/shops/elm.html |title=インフォメーションセンター エルムの森 | 広報施設・ショップ | 広報・公開 |accessdate=2022-05-15 |website=北海道大学}}</ref>
* 北海道大学オリジナルショップ
* [[ミュージアムショップ]]「ぽとろ」
* ミュージアムカフェ「ぽらす」
== 対外関係 ==
=== 地方自治体との協定 ===
年は締結時期を示す。
* [[北海道]]
** [[岩見沢市]](保健科学研究院、2017年)
** [[札幌市円山動物園]](獣医学部、2017年)
** 札幌市(災害時の[[ペット]]保護など[[動物福祉]]に関する協定、2018年)<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO37985380Q8A121C1TCN000/ 「北大と札幌市、動物福祉で協定」]『[[日本経済新聞]]』朝刊2018年11月21日(大学面)2018年12月27日閲覧</ref>
** [[江別市]](大学院医学研究科、2016年)
** 農政部・水産林務部(農学院・農学部、2014年)
** [[むかわ町]][[穂別博物館]](総合博物館、2014年)
** [[芽室町]]議会(公共政策学連携研究部、2012年)
** [[様似町]](北方生物圏フィールド科学センター、2012年)
* [[秋田県]]
** [[北秋田市]](獣医学研究院・農学研究院、2017年)
=== 他大学との協定 ===
北海道大学では18か国48校の大学と大学間の留学協定を結んでいる<ref name="北海道大学留学生センター">{{Cite web|和書|url=https://www.hokudai.ac.jp/international3/internationalization/data/folder/ |title=<nowiki>大学間協定 | 大学間交流協定 | 国際交流・留学 - 北海道大学</nowiki> |date=2018-06-25 |accessdate=2018-10-04}}</ref>。また海外に8箇所のオフィスを設け、留学希望者に対する情報提供と具体的な手続きのサポートを行う。インバウンドの留学希望者向けの広報と手続きの支援を行う事務所を韓国([[ソウル特別市|ソウル]])、中国([[北京市|北京]])、[[フィンランド]]([[ヘルシンキ]])、[[ザンビア|ザンビア共和国]]([[ルサカ]])に置く。これらと並行してリエゾンオフィスという連絡先を現地の大学構内に設けているのは、2017年(平成29年)5月よりタイ([[カセサート大学]]カンペンセンキャンパス 農学研究院棟内)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hokudai.ac.jp/international3/internationalization/overseaoffices/thai/ |title=タイリエゾンオフィス <nowiki>|</nowiki> 国際交流・留学 - 北海道大学 |accessdate=2018-10-04}}</ref>、2017年(平成29年)6月よりインドネシア([[ボゴール農科大学]]ダルマガキャンパス内)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hokudai.ac.jp/international3/internationalization/overseaoffices/indonesia/ |title=インドネシアリエゾンオフィス <nowiki>|</nowiki> 国際交流・留学 - 北海道大学 |accessdate=2018-10-04}}</ref>、2018年(平成30年)3月よりフィリピン([[フィリピン大学]]ディリマン校)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hokudai.ac.jp/international3/internationalization/overseaoffices/philippines/ |title=フィリピンリエゾンオフィス <nowiki>|</nowiki> 国際交流・留学 - 北海道大学 |accessdate=2018-10-04}}</ref>および中国([[中国科学院]]大学内)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hokudai.ac.jp/international3/internationalization/overseaoffices/liaison-beijing/ |title=中国北京リエゾンオフィス <nowiki>|</nowiki> 国際交流・留学 - 北海道大学 |accessdate=2018-10-04}}</ref>である。
学生交流協定を結ぶ海外の大学等174機関(約47カ国・地域)<ref>{{Cite document|和書 |title=大学間交流協定(47カ国・地域、170協定・174機関)|url=https://www.oia.hokudai.ac.jp/be_global/wp-content/uploads/2017/06/2e559e3735e28347ddc3bd3d907071aa.pdf |format=PDF |work=北海道大学と授業料等を不徴収とする学生交流協定締結大学 |date=2017-02 |pages=10-13 |accessdate=2018-10-04}}</ref>とは、本学の学生が誰でも志望できる「大学間協定大学」と、当該の部局の学生に限定される「部局間協定大学」からなっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oia.hokudai.ac.jp/be_global/prospective-students/%e5%8c%97%e5%a4%a7%e3%81%ae%e4%ba%a4%e6%8f%9b%e7%95%99%e5%ad%a6%e5%88%b6%e5%ba%a6/%e4%ba%a4%e6%8f%9b%e7%95%99%e5%ad%a6%e3%81%a8%e3%81%af%e4%ba%a4%e6%8f%9b%e7%95%99%e5%ad%a6%e3%81%ae%e3%83%a1%e3%83%aa%e3%83%83%e3%83%88/ |title=交換留学 |publisher=北海道大学 国際部国際交流課 |accessdate=2018-10-04}}</ref>。
2020年には[[法政大学]]との連携プロジェクトである「オンラインSDGs人材育成プログラム」をスタートした<ref>{{Cite web|和書|title=札幌市×北大×法政大「オンラインSDGs人材育成プログラム」9月 |url=https://resemom.jp/article/2020/08/18/57690.html |website=リセマム |accessdate=2020-08-18}}</ref>。対象は北海道大学および法政大学の学部生と院生である。
==== 外国人留学生数 ====
外国人留学生(研究生・聴講学生等を除く)は、2022年(令和4年)5月1日時点で1,696人であり、うち女性は789人である。所属別留学生数を見ると、学部学生は183人(78人)、大学院学生のうち修士課程(博士前期)は712人(361人)、専門職学位課程は16人(7人)、博士課程(博士後期及び博士一貫)は785人(343人)である(カッコ内の人数は女性の内数)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hokudai.ac.jp/pr/R4_gakusei.pdf |title=在籍者数 |work=法令等に基づく公表事項 |publisher=北海道大学 |accessdate=2022-10-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220818130837/https://www.hokudai.ac.jp/pr/R4_gakusei.pdf |archivedate=2022-08-18 |url-status=live}}</ref><ref name="international student">{{Cite book|和書 |title=北海道大学概要 2022年度(2022-2023)版 |chapter=外国人留学生数 |date=2022-07 |publisher=北海道大学 |pages=44-45}}</ref>。
2022年度(5月1日時点)の国・地域別外国人留学生数{{efn|ただし研究生・聴講学生等を含む全体の数。学部・大学院のほか研究センター等の附属機関における数も含まれる。なお、在留区分が「留学」である外国人留学生についての数である。}} を見ると、出身の内訳は、中国が全体の6割にあたる1,232人、次いで韓国が107人と多く、アジアからの学生が全体の85.4%を占めている。そのほかヨーロッパからの学生が6.0%、アフリカからの学生が4.4%などとなっている。この年は、99の国・地域から2,024人の学生を受け入れている<ref name="international student" />。
==== 留学協定提携先 ====
{{Col-begin}}
;[[アメリカ合衆国]]
* [[ポートランド州立大学]]
* [[マサチューセッツ大学]]
* [[アラスカ大学フェアバンクス校]]
* [[オハイオ州立大学]]
* [[ウィスコンシン大学マディソン校]]
* [[ハワイ大学]]
* [[オレゴン大学]]
* [[オクラホマ大学]]
* [[サンディエゴ州立大学]]
* [[ワシントン大学 (ワシントン州)|ワシントン大学]]
* [[カリフォルニア大学デービス校]](語学研修のみ)
; {{GBR3}}
* [[シェフィールド大学]]
* [[エディンバラ大学]]
* [[ウォーリック大学]]
* [[ニューカッスル大学 (イングランド)]]
* [[イーストアングリア大学]]
* [[アバディーン大学]]
; [[中華人民共和国]]
* [[北京大学]]
* [[清華大学]]
* [[武漢大学]]
* [[上海交通大学]]
* [[上海海洋大学]]
* [[浙江大学]]
* [[北京科技大学]]
* [[南京大学]]
* [[四川大学]]
* [[復旦大学]]
* [[蘭州大学]]
* [[吉林大学]]
* [[南開大学]]
* [[西安交通大学]]
* [[廈門大学]]
* [[中国海洋大学]]
; [[台湾]]
* [[中央研究院]]
* [[国立台湾大学]]
* [[国立台湾師範大学]]
* [[国立陽明交通大学]]
* [[国立清華大学]]
* [[国立成功大学]]
* [[国立政治大学]]
* [[国立中興大学]]
* [[国立中正大学]]
* [[国立台湾海洋大学]]
* [[国立東華大学]]
* [[台北医学大学]]
* [[中国医薬大学]]
* [[淡江大学]]
* [[輔仁大学]]
; [[大韓民国]]
* [[ソウル大学校]]
* [[全北大学校]]
* [[延世大学校]]
* [[高麗大学校]]
* [[嶺南大学校]]
* [[釜慶大学校]]
* [[忠南大学校]]
* [[仁川大学校]]
* [[江原大学校]]
* [[韓京国立大学校]]
* [[東義大学校]]
* [[韓国海洋大学校]]
* [[公州大学校]]
* [[ソウル市立大学校]]
* [[韓国科学技術院]]
* [[漢陽大学校]]
* [[忠北大学校]]
* [[成均館大学校]]
{{Col-break}}
; {{IDN}}
* [[パランカラヤ大学]]
; [[スリランカ]]
** [[ペラデニヤ大学]]
; {{THA}}
* [[アジア工科大学院]]
* [[マヒドン大学]]
; {{CAN}}
* [[アルバータ大学]]
; [[エストニア]]
* [[タルトゥ大学]]
; [[イタリア]]
* [[トリノ工科大学]]
; {{POL}}
* [[AGH科学技術大学]]
; [[スウェーデン]]
* [[スウェーデン王立工科大学]]
; [[ドイツ]]
* [[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン]](ミュンヘン大学)
* {{仮リンク|ブレーメン大学|en|University of Bremen}}
* [[ミュンヘン工科大学]]
; [[フランス]]
* [[パリ政治学院]]
* [[レンヌ政治学院]]
* {{仮リンク|機械航空高等国立大学|en|École Nationale Supérieure de Mécanique et d'Aérotechnique}} (ISAE-ENSMA)
* [[パリ市立工業物理化学高等専門大学]]
* グルノーブル大学連合
; [[フィンランド]]
* [[ヘルシンキ大学]]
* {{仮リンク|ラップランド大学|en|University of Lapland}}
* [[オウル大学]]<ref name="ko_zentai"/>
* [[アールト大学]]
* [[トゥルク大学]]
* {{仮リンク|東フィンランド大学|en|University of Eastern Finland}}
; [[スイス]]
* [[ジュネーブ大学]]
* [[スイス連邦工科大学]]
; {{SRB}}
* [[ベオグラード大学]]
; [[ロシア]]
* [[モスクワ国立大学]]
* [[サハリン国立総合大学]]
* [[極東連邦大学]]
* [[イルクーツク国立大学]]
* [[北東連邦大学]]
* [[サンクトペテルブルク大学]]
* [[太平洋国立大学]]
; [[ハンガリー]]
* [[ブダペスト工科経済大学]]
; {{KAZ}}
* {{仮リンク|アルファラビ・カザフ国立大学|en|Al-Farabi Kazakh National University}}
; {{ZAF}}
* [[ヨハネスブルグ大学]]
* {{仮リンク|ノースウェスト大学|en|North-West University}}
* [[プレトリア大学]]
; [[ザンビア]]
* [[ザンビア大学]]
* [[カッパーベルト大学]]
; [[オーストラリア]]
* [[タスマニア大学]]
* [[オーストラリア国立大学]]
* [[ニューサウスウェールズ大学]]
* [[アデレード大学]]
* [[シドニー大学]]
* [[サンシャインコースト大学]]
* [[マードック大学]]
* [[メルボルン大学]]
; [[ニュージーランド]]
* [[オークランド大学]]<ref name="ko_zentai"/>
* [[オタゴ大学]]
{{Col-end}}
== 附属学校 ==
かつて、附属学校として[[北海道大学工業教員養成所]]という3年制の各種学校が存在した。現在は閉鎖されている。
== 評価 ==
=== 人事担当者からの評価 ===
* 2021年に[[日本経済新聞社]]と[[日経HR]]が実施した、「企業の人事担当者からみたイメージ調査」<ref name="日経HR">{{Cite web|和書|title=《日経HR》企業の人事担当者から見た大学イメージ調査 『就職力ランキング』|url=https://www.nikkeihr.co.jp/news/2021/0602435.html |accessdate=2021-07-18 |archivedate=2021-06-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210602073856/https://www.nikkeihr.co.jp/news/2021/0602435.html |url-status=live}}</ref>(全[[上場企業]]と一部有力未上場企業4,850社の人事担当者を対象に、2019年4月から2021年3月までの間に採用した学生から見た大学のイメージなどを聞いた調査)において、北海道大学は、「全国総合」で788大学<ref>{{Cite journal|和書 |url=http://eic.obunsha.co.jp/resource/viewpoint-pdf/202104.pdf |title=日本の大学数 2021年度は788大学 |journal=今月の視点 |issue=172 |date=2021-04-01 |publisher=旺文社 教育情報センター |accessdate=2021-07-18 |format=PDF}}</ref>中、第1位<ref name="日経HR" />にランキングされた。
=== 国際評価機構からの評価 ===
*2015年、ロイターは「世界で最も革新的な大学(The world’s most innovative universities)トップ100」を発表し、98位とした<ref>{{Cite web |url=https://www.timeshighereducation.com/worlds-most-innovative-universities-2015-results |title=The world’s most innovative universities |accessdate=2022-05-14 |date=2015-09-16 |website=Times Higher Education (THE) |language=en}}</ref>。
*2021年の[[世界大学学術ランキング]]では、国際順位150-200位の間、日本においては5-7位<ref>[http://www.shanghairanking.com/rankings/arwu/2021 2021 Academic Ranking of World Universities]</ref>にランキングされた<ref>[http://www.shanghairanking.com/ 世界大学学術ランキング ARWU]</ref>。
*[[THE世界大学ランキング]]2021年度では、日本の大学ランキング<ref>[https://www.timeshighereducation.com/world-university-rankings THE世界大学ランキング]</ref>で第6位<ref>[https://www.timeshighereducation.com/rankings/japan-university/2021#!/page/0/length/25/sort_by/rank/sort_order/asc/cols/stats Japan University Rankings 2021]</ref>にランキングされた。
*2022年の[[QS世界大学ランキング]]では、日本の大学ランキングで第8位<ref>[https://www.topuniversities.com/qs-world-university-rankings?utm_source=topnav QS World University Rankings - Discover the world’s top universities. Explore the QS World University Rankings® 2022.]</ref>にランキングされた<ref>[https://www.topuniversities.com/ QS世界大学ランキング]</ref>。
*2022年4月28日、高等教育専門誌『[[タイムズ・ハイアー・エデュケーション]]』の THEインパクトランキング2022 にて、総合ランキング世界 10位(国内 1位)、「[[飢餓]]」をなくす取り組みを評価する「SDG2 飢餓部門」にて、世界1位と評価した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hokudai.ac.jp/news/2022/04/THEranking2022.html |title=新着情報: 北海道大学が「THEインパクトランキング2022」で総合ランキング世界10位(国内1位),「SDG2 飢餓」の項目で世界1位にランクイン |accessdate=2022-05-14 |website=北海道大学}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20220515/7000046481.html |title=SDGs貢献ランキング 北海道大学が“飢餓”部門で世界1位|NHK 北海道のニュース |accessdate=2022-05-14 |last=日本放送協会 |website=NHK NEWS WEB}}</ref>。
=== 関係者の評価 ===
;卒業生
* [[新渡戸稲造]](、[[国際連盟]]事務次長)
* [[伊福部昭]]([[作曲家]])
* [[三浦雄一郎]]([[スキー選手]]・[[登山家]]、日本プロスキー連盟会長)
* [[八木義徳]]([[小説家]])
* [[加藤幸子 (作家)|加藤幸子]](小説家)
* [[鈴木章]]([[化学者]])
* [[毛利衛]]([[宇宙飛行士]])
;関係者
* [[根岸英一]](化学者):触媒科学研究所の特別教授
* [[ベンジャミン・リスト]]([[有機化学]]者):化学反応創成研究拠点主任研究者
;その他、観光客・外部企業の評価
* [[芥川龍之介]]:北海道大学の植物園の評価として「あの植物園全体へどろりとマヨネーズをかけてしまへ」と食欲をあらわにしていた<ref>{{Cite book|和書|author=芥川龍之介|title=芥川龍之介全集 6|publisher=[[筑摩書房]]|year=1985|page=121}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=芥川龍之介|title=芥川龍之介全集|publisher=[[岩波書店]]|volume=9|date=1978-04|page=226}}</ref>。
* 洋菓子店[[きのとや]]:「北海道ミルククッキー札幌農学校」という菓子をブランド化して販売<ref>{{Cite news|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFC190MX0Z10C22A1000000/ |title=『札幌農学校』独立 きのとや100億円への青写真|newspaper=日本経済新聞|publisher=日本経済新聞社|date=2022-01-24}}{{要購読}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[北海道の大学一覧]]
* [[樺太医学専門学校 (旧制)]]
* [[古河虎之助]]:開校初期の資金提供者。
* [[動物のお医者さん]]:物語の舞台「H大学獣医学部」として登場。
* [[七帝柔道記]]:北大柔道部を舞台にした物語。キャンパスや界隈の飲み屋・喫茶店なども実名で登場。
* [[札内川十の沢北海道大学山岳部遭難事件]]
* [[北大人骨事件]]:北大標本庫において頭骨が発見された事件。
== 外部リンク ==
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{{Commons|Representation of Imperial University (Japan)|博士の肖像 (帝国大学)}}
{{Wikibooks|北海道大対策|北海道大対策}}
* {{official website}}
* [https://www.global.hokudai.ac.jp/ Hokkaido University], Official website{{Languageicon|en}}
* [http://keiteki.main.jp/ 北海道大学恵迪寮公式ホームページ] - 北大の公式な学生寮の一つ。
* [http://www.joyouryo.com// 北海道大学YMCA汝羊寮公式ホームページ] - 自治寮の一つ。男子寮。
* [https://hokudaiwiki.net/wiki/ 北大Wiki] - 北大の細かい情報がまとまったWikiサイト。
* [https://www.hokudai.ac.jp/fsc/bg/ 北海道大学植物園]
* [https://web.archive.org/web/19990427033754/http://www.hokudai.ac.jp/agricu/exbg/index.html 北大植物園へようこそ] - 北海道大学植物園のアーカイブサイト
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2,380 | Safari | Safari(サファリ)は、Appleにより開発されているウェブブラウザ。レンダリングエンジンのWebKitを初めとするオープンソースソフトウェアをベースにしており、Mac標準搭載のウェブブラウザとして過去のInternet Explorer for MacやNetscape Navigatorを置き換える形で登場した。macOS、iOS、iPadOSに対応しており、2007年から2012年まではWindows版も提供されていた。
Safariは2003年のMac OS X v10.3と共に正式版が登場し、以降macOSのメジャーアップデートに合わせて最新版が公開されており、2022年現在はバージョン16が最新版となっている。
1997年、Appleはマイクロソフトが提供するInternet Explorer for Macを5年間Macの標準搭載のブラウザとする契約を交わしていた。この契約が満了となる2002年当時、ウェブブラウザ市場はWindows向けに登場していた最新のInternet Explorer 6がシェアをほぼ独占する一方、Mac向けのInternet Explorerはバージョンが5で据え置かれ、時代遅れとなっていた。また、競合のNetscapeやそのオープンソース版である Mozillaスイートは機能面やウェブ標準への対応などで巻き返しを図るものの動作速度で劣り、市場シェアを取り戻すには至っていなかった。こうした状況のなか、Appleは新たなブラウザを独自開発し、標準ブラウザを置き換えてマイクロソフトによる市場支配から脱却する必要に迫られていた。
2003年1月にMac OS X v10.2で動作する最初のベータ版が公開されたSafariは、レンダリングエンジンに当時Internet Explorerの対抗馬として有力視されNetscapeやMozillaスイートで採用されていたGeckoではなく、まだ無名だったKonquerorのレンダリングエンジンであるKHTMLをベースとするWebKitを採用したことで話題を呼んだ。発表当初のSafariは最速のブラウザを謳い、ウェブ標準のサポートを売りにし、当時としては斬新だったツールバー統合のGoogle検索やポップアップ広告ブロック機能を搭載するなど、Appleは技術面・機能面での先進性をアピールし、Macのウェブブラウザ環境のイメージ改善を図った。実際、Safariは画像に埋め込まれたカラープロファイリングを使った正確な色空間の描画に先んじて対応し、CSSについてもAcid2テストに最初期(2005年4月)に合格し、正式版としてではないがAcid3テストにおいても開発版のWebKit r31356(最初のスコア100は、r31342)が最初に合格するWebブラウザとなるなど、同時期の他のウェブブラウザの中でも一二を争う描画の正確性を誇っていた。また、JavaScriptに関してはKJSを前身とするJavaScriptCore フレームワークを中核に備えていたことがブラウザの高速動作に一役買っていた。
Safariは2003年6月に正式版が公開され、同年10月に登場したMac OS X v10.3からは標準ブラウザとなった。以降、2022年現在に至るまでmacOSの標準ブラウザとなっている。Appleが標準ブラウザの独自開発に成功したことで、結果的にmacOSやその派生となるiOSは、WindowsにおけるIEコンポーネントに匹敵する強力なブラウザエンジンを内包することになった。
2007年に発売されたiPhoneや、2010年のiPadでも当初から標準ブラウザとなっている。iPhone版およびiPad版Safariは外部プラグインをサポートせず、特に当時のウェブにおいて広告や動画コンテンツの表示技術として独占的な地位にあり、事実上ブラウザに必須のプラグインと見做されていたAdobe Flash Playerが利用できないことは物議を醸したが、結果的にSafariのこの方針がAdobe Flash Playerの独占に風穴を開け、オープンな代替技術であるHTML5への移行を促す役割を果たすことになった。需要が減少したAdobe Flash Playerはその後2020年に開発が終了し、macOS版Safariを含む全てのウェブブラウザから排除されている。
Safariの登場後、Mozillaは動作速度に劣るとされていたMozillaスイートから、当時は実験的なプロジェクトの一つだった軽量・高速なブラウザである「Phoenix」に開発の軸足を移すことになった。この方針転換にはAppleがGecko採用を見送ったことが影響している。Phoenixはその後Mozilla Firefoxと改称され、2004年に正式版が登場した。
2008年に登場したGoogle Chromeは当初Safariと同じWebKitをレンダリングエンジンとして採用し、Safariとの高い互換性を保っていたが、2013年にGoogleによってWebKitから分岐したBlinkに移行してからは競合関係となっている。
2023年5月のStatCounterの調査によれば、Safariはデスクトップ用ウェブブラウザの中で11.87%の利用シェアを持ち、66.13%のChromeに次いで世界で2番目に人気のあるブラウザとなっており、Microsoft Edgeの11%、Firefoxの5.65%を上回っている。 | [
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] | Safari(サファリ)は、Appleにより開発されているウェブブラウザ。レンダリングエンジンのWebKitを初めとするオープンソースソフトウェアをベースにしており、Mac標準搭載のウェブブラウザとして過去のInternet Explorer for MacやNetscape Navigatorを置き換える形で登場した。macOS、iOS、iPadOSに対応しており、2007年から2012年まではWindows版も提供されていた。 | {{Otheruses|ウェブブラウザ|その他の用法|サファリ (曖昧さ回避)}}
{{Infobox Software
| 名称 = Safari
| ロゴ = Safari browser logo.svg
| スクリーンショット = [[ファイル:Safari 16.png|350px]]
| 説明文 = [[macOS Ventura]]上で動作するSafari 16
| 開発元 = {{USA}}<br />[[Apple]]
| 初版 = [[2003年]][[1月7日]]
| frequently updated = Yes
| 対応OS = [[macOS]]<small>([[#macOS|バージョン履歴]]参照)</small><br />[[iOS]](3.0 - )<br />[[iPadOS]]
| エンジン = [[WebKit]](HTMLレンダリング)<br />[[WebKit#JavaScriptCore|Nitro]](JavaScript)
| 対応プラットフォーム = [[Mac (コンピュータ)|Mac]], [[iPod touch]], [[iPhone]], [[iPad]]
| 種別 = [[ウェブブラウザ]]
| ライセンス = [[ライセンス|EULA]]<br />[[GNU Lesser General Public License|LGPL]]
| 公式サイト = {{Official website|https://www.apple.com/jp/safari/}}
}}
'''Safari'''(サファリ)は、[[Apple]]により開発されている[[ウェブブラウザ]]。[[HTMLレンダリングエンジン|レンダリングエンジン]]の[[WebKit]]を初めとする[[オープンソースソフトウェア]]をベースにしており、[[Mac (コンピュータ)|Mac]]標準搭載のウェブブラウザとして過去の[[Internet Explorer for Mac]]や[[Netscape Navigator]]を置き換える形で登場した。[[macOS]]、[[iOS]]、[[iPadOS]]に対応しており、[[2007年]]から[[2012年]]までは[[Microsoft Windows|Windows]]版も提供されていた。
== 概要 ==
Safariは[[2003年]]の[[Mac OS X v10.3]]と共に正式版が登場し、以降[[macOS]]のメジャーアップデートに合わせて最新版が公開されており、[[2022年]]現在はバージョン16が最新版となっている。
=== 開発の経緯 ===
[[1997年]]、[[Apple]]は[[マイクロソフト]]が提供する[[Internet Explorer for Mac]]を5年間[[Mac (コンピュータ)|Mac]]の標準搭載のブラウザとする契約を交わしていた。この契約が満了となる[[2002年]]当時、[[ブラウザ戦争|ウェブブラウザ市場]]は[[Windows]]向けに登場していた最新の[[Internet Explorer 6]]がシェアをほぼ独占する一方、Mac向けのInternet Explorerはバージョンが5で据え置かれ、時代遅れとなっていた。また、競合の[[Netscape (Mozillaベース)|Netscape]]やそのオープンソース版である[[Mozilla Application Suite| Mozillaスイート]]は機能面や[[ウェブ標準]]への対応などで巻き返しを図るものの動作速度で劣り、市場シェアを取り戻すには至っていなかった。こうした状況のなか、[[Apple]]は新たなブラウザを独自開発し、標準ブラウザを置き換えて[[マイクロソフト]]による市場支配から脱却する必要に迫られていた。
[[2003年]]1月に[[Mac OS X v10.2]]で動作する最初のベータ版が公開されたSafariは、レンダリングエンジンに当時Internet Explorerの対抗馬として有力視されNetscapeやMozillaスイートで採用されていた[[Gecko]]ではなく、まだ無名だった[[Konqueror]]のレンダリングエンジンである[[KHTML]]をベースとする[[WebKit]]を採用したことで話題を呼んだ。発表当初のSafariは最速のブラウザを謳い、ウェブ標準のサポートを売りにし、当時としては斬新だったツールバー統合の[[Google]]検索やポップアップ広告ブロック機能を搭載するなど、Appleは技術面・機能面での先進性をアピールし、Macのウェブブラウザ環境のイメージ改善を図った<ref>{{cite web | url=https://www.apple.com/newsroom/2003/01/07Apple-Unveils-Safari/ | title=Apple Unveils Safari | date=2003-01-07 | publisher=Apple | accessdate=2022-06-15 }}</ref>。実際、Safariは画像に埋め込まれた[[カラープロファイル|カラープロファイリング]]を使った正確な色空間の描画に先んじて対応し、[[Cascading Style Sheets|CSS]]についても[[Acid2]]テストに最初期(2005年4月<ref>{{cite web | url=http://weblogs.mozillazine.org/hyatt/archives/2005_04.html#008042 | title=Safari Passes the Acid2 Test (Updated) | date=2005年4月27日 | publisher=[http://webkit.org/blog/ The Surfin' Safari blog] | accessdate=2009-01-10 }}</ref>)に合格し、正式版としてではないが[[Acid3]]テストにおいても開発版のWebKit r31356(最初のスコア100は、r31342)が最初に合格するWebブラウザとなるなど<ref>{{cite web | url=http://webkit.org/blog/173/webkit-achieves-acid3-100100-in-public-build/ | title=WebKit achieves Acid3 100/100 in public build | publisher=The Surfin' Safari blog | date=2008年3月26日 | accessdate=2009-01-10 }}</ref>、同時期の他のウェブブラウザの中でも一二を争う描画の正確性を誇っていた。また、[[JavaScript]]に関しては[[KJS]]を前身とする[[WebKit|JavaScriptCore]] [[ソフトウェアフレームワーク|フレームワーク]]を中核に備えていたことがブラウザの高速動作に一役買っていた。
Safariは[[2003年]]6月に正式版が公開され、同年10月に登場した[[Mac OS X v10.3]]からは標準ブラウザとなった。以降、[[2022年]]現在に至るまでmacOSの標準ブラウザとなっている。Appleが標準ブラウザの独自開発に成功したことで、結果的にmacOSやその派生となる[[iOS]]は、Windowsにおける[[MSHTML|IEコンポーネント]]に匹敵する強力なブラウザエンジンを内包することになった。
=== iPhone版とiPad版 ===
[[2007年]]に発売された[[iPhone]]や、[[2010年]]の[[iPad]]でも当初から標準ブラウザとなっている。iPhone版およびiPad版Safariは外部プラグインをサポートせず、特に当時のウェブにおいて広告や動画コンテンツの表示技術として独占的な地位にあり、事実上ブラウザに必須のプラグインと見做されていた[[Adobe Flash|Adobe Flash Player]]が利用できないことは物議を醸したが、結果的にSafariのこの方針がAdobe Flash Playerの独占に風穴を開け、オープンな代替技術である[[HTML5]]への移行を促す役割を果たすことになった<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.appbank.net/2022/05/15/technology/2234102.php | title=スティーブ・ジョブズが「世界一普及した動画フォーマット」を葬った裏事情 | date=2022-05-20 | publisher=AppBank | accessdate=2022-06-15 }}</ref>。需要が減少したAdobe Flash Playerはその後[[2020年]]に開発が終了し、macOS版Safariを含む全てのウェブブラウザから排除されている<ref>{{Cite web|和書|title=Safari 14登場、Flashの廃止と新機能多数 - macOS Big Surより先に |url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20200917-1313535/ |website=TECH+ |date=2020-09-17 |access-date=2022-05-17 |language=ja}}</ref>。
=== 他のウェブブラウザとの関係 ===
Safariの登場後、[[Mozilla Foundation|Mozilla]]は動作速度に劣るとされていた[[Mozilla Application Suite|Mozillaスイート]]から、当時は実験的なプロジェクトの一つだった軽量・高速なブラウザである「Phoenix」に開発の軸足を移すことになった。この方針転換にはAppleがGecko採用を見送ったことが影響している<ref>{{cite web|url=http://www-archive.mozilla.org/browser-innovation.html|title=Browser Innovation, Gecko and the Mozilla Project|last=Baker|first=Mitchell|publisher=Mozilla|accessdate=2011-07-11}}</ref>。Phoenixはその後[[Mozilla Firefox]]と改称され、[[2004年]]に正式版が登場した。
[[2008年]]に登場した[[Google Chrome]]は当初Safariと同じWebKitをレンダリングエンジンとして採用し、Safariとの高い互換性を保っていたが、[[2013年]]に[[Google]]によってWebKitから分岐した[[Blink (レンダリングエンジン)|Blink]]に移行してからは競合関係となっている。
[[2023年]]5月の[[StatCounter]]の調査によれば、Safariはデスクトップ用ウェブブラウザの中で11.87%の利用シェアを持ち、66.13%のChromeに次いで世界で2番目に人気のあるブラウザとなっており、[[Microsoft Edge]]の11%、Firefoxの5.65%を上回っている<ref>{{cite news |url=https://www.macrumors.com/2023/05/02/safari-overtakes-edge-popular-browsers/ |title=Apple's Safari Again Overtakes Microsoft Edge as Second Most Popular Desktop Browser - MacRumors |work=MacRumors |date=2023-05-02 |accessdate=2023-08-22 }}</ref>。
== 歴史 ==
* [[2003年]]
**[[1月7日]]にApple ComputerがSafariの[[ベータ版]]を発表。
** [[6月24日]]に公式版1.0を発表。そのすぐ後、[[マイクロソフト]]はInternet Explorer for Macの開発を中止すると発表した。
** [[10月24日]]に発売されたMac OS X v10.3には、バージョン 1.1 (v100) を搭載。Safariが標準のブラウザ、Internet Explorer for Macは代替ブラウザという位置づけになった。
*** Mac OS X v10.2.8向けの最終バージョンは1.0.3、Mac OS X v10.3.9向けの最終バージョンは1.3.2。これらの2つは2007年末までにサポートが終了している。
* [[2005年]][[4月29日]]に発売されたMac OS X v10.4には、バージョン2.0 (v412) を搭載。初のメジャーバージョンアップであり、[[RSS]]リーダーなどの機能が追加されている。
* [[2007年]][[6月11日]]にWindows版Safariの開発が発表された。同時にMac OS X、Windowsプラットフォーム対応、Safari 3.0 (v522.11) のパブリックベータが公開された。Safariのウェブブラウザ市場占有率の向上を狙った投入であり、AppleのWindows版ソフトウェアは[[QuickTime]]、[[iTunes]]に続き3本目となる<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.apple.com/jp/news/2007/jun/11safari.html | title=アップル、Windows版のSafariを発表 | publisher=[[Apple]] | date=2007-06-11 | accessdate=2009-01-10 }}</ref>。
* [[2008年]][[3月18日]]、Mac OS X v10.5.2、Mac OS X v10.4.11、Windows XP、Windows Vista向けにSafari 3.1 (525.13) が公開された<ref>[https://www.apple.com/jp/safari/ Safari - Apple(日本)]</ref>。
* [[2009年]]
**[[2月24日]]にAppleがSafari 4[[ベータ版]]を発表<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.apple.com/jp/news/2009/feb/24safari.html | title=アップル、Safari 4を発表 — 世界最速、最も革新的なブラウザ | date=2009-02-24 | publisher=Apple | accessdate=2009-02-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url=http://www.apple.com/jp/safari/whats-new.html | title=アップル - Safariの新機能 - MacとWindows PCのためのブラウザ、Safari 4 Betaの新機能をご覧ください。| date=2009-02-24 | publisher=Apple | accessdate=2009-02-24}}</ref>。
** [[6月9日]]にAppleがSafari 4の正式版を発表。β版の不具合の修正、日本語を含む表示言語の追加や、タブ表示に変更がされている。
*** Mac OS Xでは、リリースされてきたSecurity UpdateにSafariに関係するセキュリティ修正が多数含まれてきたが、必ずしもWebCoreのバージョンが上がっている訳ではない<ref>[http://developer.apple.com/internet/safari/uamatrix.html Safari and WebKit Version Information]</ref><ref>{{Cite web|和書| url=http://docs.info.apple.com/article.html?artnum=61798-ja | title=Apple セキュリティアップデートについて | date=2008-12-16 | publisher=Apple | accessdate=2009-01-10 }}</ref>。
* [[2010年]]6月7日に、Safari 5が発表された。[[サードパーティー]]の機能拡張をサポート、ページ内の広告などを非表示にできるSafariリーダーの搭載、検索オプションに[[Microsoft Bing|Bing]]の追加、GeolocationやWebSocketを始めとしたHTML5の対応強化、JavaScriptのパフォーマンスが30%向上、開発者用ツールの改善など。
* 2011年7月20日、WebKit2を採用したSafari 5.1が公開。サンドボックス化し、WebProcess.appで、Safari本体とWeb描画のプロセスを分けた。
* 2012年
**3月12日、Safari 5.1.4が公開。StagedFrameworks利用によるサンドボックスの改良。
** 7月26日、OS X Mountain LionのリリースとともにSafari 6が公開。しかしWindows向けのバージョンは用意されず、旧バージョンのダウンロードもサポートページからしかできなくなった。
** 10月23日、[[情報処理推進機構]]は[[セキュリティホール]]が存在するためWindows向けSafariの使用停止を勧告した<ref name="JVN42676559">{{Cite web|和書| url=https://jvn.jp/jp/JVN42676559/ | title=JVN#42676559: Safari においてリモートからローカルファイルを読み取り可能な脆弱性 | date=2012年10月23日 | publisher=情報処理推進機構 | accessdate=2012-10-23 }}</ref>。
* 2013年10月22日、OS X MavericksのリリースとともにSafari 7が公開。ウィンドウやタブごとに個別プロセス化。共有リンクやキーチェーンなど多くの機能を追加し、パフォーマンスやバッテリー効率を向上。旧バージョン向けにはSafari 6.1が公開。
* 2014年10月16日、OS X YosemiteのリリースとともにSafari 8が公開。
* 2015年9月30日、OS X El Capitanのリリースとともに、MavericksやYosemite向けも含め、Safari 9がリリースされた。
* 2016年9月20日、macOS Sierraのリリースとともに、YosemiteやEl Capitan向けも含め、Safari 10がリリースされた<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT207157|title=Safari 10 のセキュリティコンテンツについて|accessdate=2019-01-17|website=Apple Support|language=ja}}</ref>。
* 2017年9月26日、macOS High Sierraのリリースとともに、El CapitanやSierra向けも含め、Safari 11がリリースされた<ref name=":1" />。
* 2018年9月17日、macOS Mojaveのリリースとともに、SierraやHigh Sierra向けも含め、Safari 12がリリースされた<ref name=":3" />。
*2019年9月20日、macOS MojaveとHigh Sierra向けに、Safari 13がリリースされた。レガシー機能拡張は動作しない<ref name=":4" />。
*2020年9月16日、macOS CatalinaとMojave向けに、Safari 14がリリースされた<ref name=":8">{{Cite web |title=Safari 14 Release Notes |url=https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-14-release-notes |website=developer.apple.com |access-date=2022-09-13}}</ref><ref name=":5">{{Cite web|和書|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT211845|title=Safari 14.0 のセキュリティコンテンツについて|accessdate=2020年9月21日|publisher=Apple}}</ref>。macOS Big SurおよびiOS/iPadOS 14にも含まれている<ref name=":8" />。
*2021年9月21日、macOS Big SurとCatalina向けに、Safari 15がリリースされた<ref name=":9">{{Cite web |title=Safari 15 Release Notes |url=https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-15-release-notes |website=developer.apple.com |access-date=2022-09-13}}</ref><ref>{{Cite web|title=About the security content of Safari 15|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT212816|website=Apple Support|accessdate=2021-09-21|language=ja}}</ref>。UIの刷新、高速化、セキュリティ機能向上とともに自動HTTPS接続が実装されている<ref>{{Cite web|title=Safari|url=https://www.apple.com/jp/safari/|website=Apple(日本)|accessdate=2021-09-21|language=ja-JP}}</ref>。macOS MontereyおよびiOS/iPadOS 15にも含まれている<ref name=":9" />。
*2022年9月12日、macOS MontereyとBig Sur向けに、Safari 16がリリースされた<ref name=":10">{{Cite web |title=Safari 16 Release Notes |url=https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-16-release-notes |website=developer.apple.com |access-date=2022-09-13}}</ref><ref>{{Cite web |title=About the security content of Safari 16 |url=https://support.apple.com/ja-jp/HT213442 |website=Apple Support |access-date=2022-09-13 |language=ja}}</ref>。iOS 16/iPadOS 16.1, macOS Venturaにも含まれている<ref name=":10" />。
*2023年9月26日、macOS VenturaとMonterey向けに、Safari 17がリリースされた<ref>{{Cite web |title=About the security content of Safari 17 |url=https://support.apple.com/ja-jp/HT213941 |website=Apple Support |date=2023-09-26 |access-date=2023-09-27 |language=ja}}</ref>。macOS Sonoma, iOS/iPadOS 17にも含まれている<ref>{{Cite web |title=Safari 17 Release Notes |url=https://docs.developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-17-release-notes |website=Apple Developer Documentation |access-date=2023-09-27 |language=en-US}}</ref>。
== バージョン履歴 ==
=== macOS ===
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
! rowspan="2" |世代
! colspan="2" |バージョンナンバー
! rowspan="2" |対応 OS
! rowspan="2" |リリース日
! rowspan="2" |概要
|-
! Safari
! WebKit
|-
!rowspan="5" | Beta
| 0.8
| 48
|rowspan="5" | Mac OS X v10.2
| 2003年1月7日
| Macworld Conferenceで最初のリリース<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.apple.com/jp/news/2003/jan/08safari.html | title=アップル、Safariを発表 | date=2003-01-08 | publisher=Apple | accessdate=2009-01-10 }}</ref>。
|-
| 0.8.1
| 51
| 2003年1月10日
| すべてのユーザーに推薦する小さな改善。
|-
| 0.8.2
| 60
| 2003年2月12日
| ウェブサイトとの互換性改善、[[Extensible Markup Language|XML]] サポート、安定性改善、[[Macromedia Flash]]のパフォーマンス改善、ウェブ標準のサポート改善。
|-
| rowspan="2" | 0.9
| 73
| 2003年4月14日
| Safari Beta 2 (パブリックベータ) リリース<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.apple.com/jp/news/2003/apr/15safari.html | title=アップル、Safari Beta 2をリリース | date=2003-04-14 | publisher=Apple | accessdate=2009-01-10 }}</ref>。タブブラウジング、フォームとパスワードの自動入力、ブラウザのリセット(クッキー、キャッシュ及びその他の消去)、[[Netscapeシリーズ|Netscape]]および[[Mozilla Application Suite|Mozilla]]のブックマーク読み込み、ウェブ標準のサポート改善、[[AppleScript]]サポート改善、多くの言語版対応。
|-
| 74
| 2003年5月15日
| パブリックベータ2のSSL証明書の検証を改善。
|-
!rowspan="18" nowrap="nowrap" | Safari 1
| rowspan="2" | 1.0
| 85
|rowspan="6" nowrap="nowrap" | Mac OS X v10.2
| 2003年6月23日
| Safari 1.0リリース<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.apple.com/jp/news/2003/jun/24safari.html | title=アップル、Safari 1.0をリリース | date=2003年6月24日 | publisher=Apple | accessdate=2009-01-10 }}</ref>。SafariがMac OS Xの標準ブラウザになる、自動タブの高速化、[[iSync]]によるブックマーク同期化のサポート、すべてのMac OS X言語版サポート、より多くのAppleScriptのコントロールを改善、ウェブ標準のサポート改善。
|-
| 85.5
| 2003年10月3日
| Mac OS X 10.2.8アップデータと共にリリース。
|-
| 1.0.1
| 85.6
|nowrap="nowrap" | 2003年11月19日
| Security Update 2003-11-19と共にリリース。
|-
| 1.0.2
| 85.7
| 2004年2月23日
| Security Update 2004-02-23と共にリリース。CAN-2004-0166のセキュリティ修正、ステータスバーのURL表示を改善。
|-
| rowspan="2" | 1.0.3
| 85.8
| 2004年8月9日
| Security Update 2004-08-09と共にリリース。CAN-2002-1363, CAN-2004-0421, CAN-2004-0597, CAN-2004-0598, CAN-2004-0599のセキュリティ修正。
|-
| 85.8.1
| 2005年1月25日
| Security Update 2005-001と共にリリース。
|-
| 1.1
| 100
|rowspan="12" nowrap="nowrap" | Mac OS X 10.3
| 2003年10月24日
| rowspan="2" | Mac OS X 10.3と共にリリース。高速化、ウェブ標準のサポート改善、CSSサポート改善。
|-
| 1.1.1
| 100.1
| 2003年11月19日
|-
| 1.2
| 125
| 2004年2月2日
| ウェブサイトおよびウェブとの互換性改善。個人証明書の認証をサポート。フルキーボードアクセス、中断したダウンロードの再開機能。LiveConnectのサポート。XMLHttpRequestのサポート<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.apple.com/jp/ftp-info/reference/safari.html | title=「Safari 1.2」について | date=2004-02-02 | publisher=Apple | accessdate=2009-01-10 }}</ref>。
|-
| 1.2.1
| 125.1
| 2004年3月15日
| Mac OS X 10.3.3アップデータと共にリリース。
|-
| rowspan="2" | 1.2.2
| 125.7
| 2004年5月26日
| Mac OS X 10.3.4アップデータと共にリリース。Hotmail添付ファイルの問題を修正。
|-
| 125.8
| 2004年6月7日
| Security Update 2004-06-07と共にリリース。Resolves a security issue where the "Show in Finder" button would execute certain downloaded applications.
|-
| 1.2.3
| 125.9
| 2004年8月9日
| Security Update 2004-08-09と共にリリース。CAN-2002-1363, CAN-2004-0421, CAN-2004-0597, CAN-2004-0598, CAN-2004-0599のセキュリティ修正。
|-
| rowspan="2" | 1.2.4
| 125.11
| 2004年11月5日
| Mac OS X 10.3.6アップデータと共にリリース。60秒タイムアウト除去。非ASCII文字を含むHDD名に伴う問題を解決。
|-
| 125.12
| 2004年12月2日
| Security Update 2004-12-02と共にリリース。いくつかのセキュリティ問題の解決;ステータスバーにおけるURLが偽装できる脆弱性とポップアップウインドウの発行元が偽装できる脆弱性<ref>{{cite web | url=http://secunia.com/advisories/13047/ | title=Safari "Javascript Disabled" Status Bar Spoofing | date=2004-11-01 | publisher=[[Secunia]] | accessdate=2009-01-10 }}</ref><ref>{{cite web | url=http://secunia.com/advisories/12892/ | title=Safari Dialog Box Spoofing Vulnerability | date=2004-10-20 | publisher=Secunia | accessdate=2009-01-10 }}</ref>。
|-
| 1.3
| 312
| 2005年4月15日
| Mac OS X 10.3.9と共にリリース。Mac OS X 10.4に含まれるSafari 2向けに開発された描画速度およびウェブサイト互換性の改善をほとんど取り込む。
|-
| 1.3.1
| 312.3
| 2005年8月29日
| Safari Update 1.3.1としてリリース。ウェブサイトの互換性、安定性、およびサードパーティーサポートの更新<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.apple.com/jp/ftp-info/reference/safariupdate131.html | title=「Safari Update 1.3.1」について | date=2005-08-29 | publisher=Apple | accessdate=2009-01-10 }}</ref>。
|-
| 1.3.2
| 312.5
| 2006年1月11日
| Safari Update 1.3.2としてリリース。ウェブサイトの互換性、安定性、およびサードパーティーサポートの更新<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.apple.com/jp/ftp-info/reference/safariupdate132.html | title=「Safari Update 1.3.2」について | date=2006-01-11 | publisher=Apple | accessdate=2009-01-10 }}</ref>。
|-
!rowspan="10" | Safari 2
| rowspan="3" | 2.0
| 412
|rowspan="10" | Mac OS X 10.4
| 2005年4月29日
| [[Mac OS X v10.4|Mac OS X 10.4]]と共にリリース。レンダリング速度およびウェブサイト互換性改善。統合した[[RSS]]および[[Atom (ウェブ標準)|Atom]]リーダー。統合した[[Portable Document Format|PDF]]ビューワー。[[プライバシーモード|プライベートブラウジングモード]]および[[ペアレンタルコントロール]]。ウェブアーカイブと同じくウェブサイトを完全に保存する。
|-
| 412.2
| 2005年7月12日
| Mac OS X 10.4.2アップデートと共にリリース。プロキシサーバ認証の改善、その他多数。
|-
| 412.2.2
| 2005年8月15日
| Security Update 2005-007と共にリリース。CAN-2005-2516、CAN-2005-2517 及び CAN-2005-2522のセキュリティ修正。
|-
| 2.0.1
| 412.5
| 2005年8月29日
| Safari Update 2.0.1としてリリース。ウェブサイトの互換性、安定性、およびサードパーティーサポートの更新。
|-
| rowspan="2" | 2.0.2
| 416.12
| 2005年11月2日
| Mac OS X 10.4.3アップデートの一部。[[Acid2]]クリア、[[ヘブライ語]]と[[アラビア語]]テキストの処理改善、[[Shockwave|Macromedia Shockwave]]向けのより優れ [[OpenGL]]サポート、[[Webcam]]互換性の改善。
|-
| 416.13
| 2005年11月29日
| Security Update 2005-009と共にリリース。Safariに組み込まれている[[Perl Compatible Regular Expressions|PCRE]]のバージョンアップにより、入力の検証を強化。非常に長い名前をもったダウンロードされたファイルによるオーバーフロー問題に対する更新。[[JavaScript]]のダイアログボックスが発行元を偽装できる問題への対処<ref>{{cite web | url=http://secunia.com/advisories/15474/ | title=Safari Dialog Origin Spoofing Vulnerability | date=2005-06-21 | publisher=Secunia | accessdate=2009-01-10 }}</ref>。WebKit内のヒープオーバーフロー問題への対処。
|-
| rowspan="3" | 2.0.3
| 417.8
| 2006年1月10日
| Mac OS X 10.4.4アップデートの一部。多数のセキュリティ修正とバグ修正。.Macを通したRSS購読項目の既読/未読状態の同期サポートを追加。
|-
| 417.9.2
| 2006年4月4日
| Mac OS X 10.4.6アップデート (2006-002) の一部。セキュリティ修正とバグ修正。
|-
| 417.9.3
| 2006年5月11日
| Mac OS X 10.4.6アップデート (2006-003) の一部。セキュリティ修正とバグ修正。
|-
| 2.0.4
| 419.3
| 2006年6月27日
| Mac OS X 10.4.7アップデートの一部。セキュリティ修正とバグ修正。
|-
!rowspan="12" | Safari 3
| 3.0
| 522.11
|rowspan="3" | Mac OS X 10.4
| 2007年6月11日
| WWDCで公開されたパブリックベータ。SVG対応
|-
| 3.0.2
| 522.12
| 2007年6月22日
| rowspan="2" | パブリックベータ
|-
| 3.0.3
| 522.12.1
| 2007年7月31日
|-
| rowspan="3" | 3.0.4
| 523.10.3
| Mac OS X 10.5
| 2007年10月26日
| [[Mac OS X v10.5|Mac OS X 10.5]]と共にリリース。レンダリング速度及びウェブサイト互換性、PDFハンドリングの改善。ウェブ クリップによる[[Dashboard]]ウィジェットの作成機能の追加。
|-
| 523.12
| Mac OS X 10.4
| 2007年11月14日
| Mac OS X 10.4.11アップデートの一部。レンダリング速度及びウェブサイト互換性、PDFハンドリングの改善。セキュリティ修正とバグ修正。
|-
| 523.10.6
| Mac OS X 10.5
| 2007年12月17日
| Security Update 2007-009の一部。CVE-2007-5858のセキュリティ修正。
|-
| 3.1
| 525.13
|rowspan="6" nowrap="nowrap" | Mac OS X 10.4, <br />Mac OS X 10.5
| 2008年3月18日
| Safari 3.1単体リリース。初のWindows版を含む。パフォーマンス改善、最新のウェブ標準への対応の進展、互換性の改善、複数のセキュリティ修正<ref>{{Cite web|和書|url=http://support.apple.com/kb/TA25197?viewlocale=ja_JP|title=Safari 3.1 のアップデートについて|accessdate=2009-01-10|date=2008-03-31|publisher=Apple}} <!-- [http://docs.info.apple.com/article.html?artnum=307467-ja About the Safari 3.1 Update] --> </ref><ref>{{Cite web|和書| url=http://docs.info.apple.com/article.html?artnum=307563-ja | title=Safari 3.1 のセキュリティコンテンツについて | date=2008-03-27 | publisher=Apple | accessdate=2009-01-10 }}</ref>。
|-
| 3.1.1
| 525.18
| 2008年4月16日
| Safari 3.1.1単体リリース。互換性の改善、複数のセキュリティ修正<ref>{{cite web | url=http://www.apple.com/support/downloads/safari311.html | title=About Safari 3.1.1 / What's New in this Version | date=2008-04-16 | publisher=Apple | accessdate=2009-01-10 }}<!-- [http://www.apple.com/support/downloads/safari311.html About the Safari 3.1.1 Update]--></ref><ref>{{Cite web|和書| url=http://support.apple.com/kb/HT1467?viewlocale=ja_JP | title=Safari 3.1.1 のセキュリティコンテンツについて | date=2008-05-05 | publisher=Apple | accessdate=2009-01-10 }}<!-- [http://support.apple.com/kb/HT1467 About the security content of Safari 3.1.1]--></ref>。
|-
| 3.1.2
| 525.20.1
| 2008年6月30日
| Mac OS X 10.5.4 UpdateおよびTiger向けSafari 3.1.2単体リリース。CVE-2008-2307のセキュリティ修正<ref>{{Cite web|和書| url=http://support.apple.com/kb/HT2163?viewlocale=ja_JP | title=セキュリティアップデート 2008-004 および Mac OS X 10.5.4 のセキュリティコンテンツについて | date=2008-08-06 | publisher=Apple | accessdate=2009-01-10 }}</ref><ref>{{Cite web|和書| url=http://support.apple.com/kb/HT2165?viewlocale=ja_JP | title=Mac OS X 10.4.11 版 Safari のセキュリティコンテンツについて | date=2008-07-07 | publisher=Apple | accessdate=2009-01-10 }}<!-- [http://support.apple.com/kb/HT2165 About the security content of Safari 3.1.2 for Mac OS X 10.4.11 ]--></ref>。
|-
| 3.2
| 525.26.12
| 2008年11月13日
| Safari 3.2単体リリース。[[フィッシング (詐欺)|フィッシング]]対策、[[Extended Validation 証明書|EV SSL]]対応、複数のセキュリティ修正<ref>[http://www.apple.com/downloads/macosx/apple/application_updates/safari.html Safari 3.2]</ref><ref>{{cite web | url=http://support.apple.com/kb/HT3298?viewlocale=ja_JP | title=About the security content of Safari 3.2 | date=2008-11-13 | publisher=Apple | accessdate=2009-01-10 }}</ref>。
|-
| 3.2.1
| 525.27.1
| 2008年11月24日
| Safari 3.2.1単体リリース。安定性の改善。
|-
| 3.2.3
| 525.28.3
| 2009年5月12日
| Mac OS X 10.5.7 UpdateおよびTiger向けSafari 3.2.3単体リリース。セキュリティの問題を修正<ref>{{Cite web|和書| url=http://support.apple.com/kb/HT3550?viewlocale=ja_JP | title=Safari 3.2.3 のセキュリティコンテンツについて | date=2009-05-12 | publisher=Apple | accessdate=2009-05-13 }}</ref>。
|-
!rowspan="12" | Safari 4
| rowspan="2" | 4.0 (β)
| 528.16
|rowspan="5" | Mac OS X 10.4, <br />Mac OS X 10.5
| 2009年2月24日
| Safari 4.0パブリックベータリリース。UIの大幅な変革、HTML5の機能を先取りして装備、NitroエンジンによりJavaScriptの実行速度が大幅に向上。
|-
| 528.17
| 2009年5月12日
| Safari 4 Public Beta Security Update<ref>{{cite web | url=http://support.apple.com/kb/HT3551 | title=About the Safari 4 Public Beta Security Update | date=2009-05-12 | publisher=Apple | accessdate=2009-05-13 }}</ref>。
|-
| 4.0
| 530.17
| 2009年6月9日
| 以前から公開されていた Safari 4 (β) の正規版。速度向上の他、履歴やブックマークをCoverFlow表示したりインターフェイスの変更などの新機能を搭載(β 版とはタブ表示が異なる)。
|-
| 4.0.1
| 530.18
| 2009年6月17日
| PDF印刷で強制終了する件、Safariインストール後[[iPhoto]]の機能の一部が適切に動作しないことがあった件等を訂正。
|-
| 4.0.2
| 530.19
| 2009年7月8日
| Nitro [[JavaScriptエンジン]]の安定性の改善、互換性と複数のセキュリティ修正<ref>{{Cite web|和書| url=http://support.apple.com/kb/HT3666?viewlocale=ja_JP | title=Safari 4.0.2 のセキュリティコンテンツについて | date=2009-07-09 | publisher=Apple | accessdate=2009-07-09 }}</ref>。
|-
| 4.0.3
| 531.9
|rowspan="3" | Mac OS X 10.4, <br />Mac OS X 10.5, <br />Mac OS X 10.6
| 2009年8月11日
| HTML5 の video 要素を使ったウェブページでの安定性の改善、一部のユーザが iWork.com へログイン出来ない問題の改善、ウェブコンテンツがカラーでなくグレースケールで表示される原因の改善、複数のセキュリティ修正<ref>[http://www.apple.com/downloads/macosx/apple/application_updates/safari.html Safari 4.0.3]</ref><ref>{{Cite web|和書| url=http://support.apple.com/kb/HT3733?viewlocale=ja_JP | title=Safari 4.0.3 のセキュリティコンテンツについて | date=2009-08-11 | publisher=Apple | accessdate=2009-08-12 }}</ref>。
|-
| 4.0.4
| 531.21.10
| 2009年11月11日
| JavaScript のパフォーマンスの改善、項目数の多い履歴を対象に検索を実行する場合のパフォーマンスの改善、他社製プラグイン、検索フィールド、および Yahoo! メールの安定性の改善、複数のセキュリティ修正<ref>[http://support.apple.com/kb/DL877?locale=ja_JP&viewlocale=ja_JP Safari 4.0.4]</ref><ref>{{Cite web|和書| url=http://support.apple.com/kb/HT3949?viewlocale=ja_JP | title=Safari 4.0.4 のセキュリティコンテンツについて | date=2009-11-11 | publisher=Apple | accessdate=2009-11-12 }}</ref>。
|-
| 4.0.5
| 531.22.7
| 2010年3月11日
| Top Sites のパフォーマンスの改善、他社製プラグインの安定性、オンラインフォームや Scalable Vector Graphics を使用する ウェブ サイトの安定性の改善、Safari から一部の Linksys ルーターの設定を変更できなかった問題の解決、複数のセキュリティ修正<ref>[http://support.apple.com/kb/DL877?viewlocale=ja_JP&locale=ja_JP Safari 4.0.5]</ref><ref>{{Cite web|和書| url=http://support.apple.com/kb/HT4070?viewlocale=ja_JP | title=Safari 4.0.5 のセキュリティコンテンツについて | accessdate=2010-08-06}}</ref>。
|-
| 4.1
| 533.16
|rowspan="4" | Mac OS X 10.4
| 2010年6月07日
| JavaScript、Top Sites、トラックパッドのピンチジェスチャのパフォーマンス、使いやすさ、互換性、HTML5 サポート、等の改善。DNS プリフェッチと改善されたページキャッシュによってページ読み込み速度が向上、Bing 検索オプションの追加。複数のセキュリティ修正<ref>[http://support.apple.com/kb/DL1045?viewlocale=ja_JP Safari 4.1 for Tiger]</ref><ref>{{Cite web|和書| url=http://support.apple.com/kb/HT4196?viewlocale=ja_JP | title=Safari 4.1 のセキュリティコンテンツについて | accessdate=2010-08-06}}</ref>。
|-
| 4.1.1
| 533.17.8
| 2010年7月28日
| 精度・安定性の向上、複数の問題の改善、複数のセキュリティ修正<ref>[http://support.apple.com/kb/DL1069?viewlocale=ja_JP Safari 4.1.3 for Tiger]</ref><ref>{{Cite web|和書| url=http://support.apple.com/kb/HT4276?viewlocale=ja_JP | title=Safari 5.0.1 と Safari 4.1.1 のセキュリティコンテンツについて | accessdate=2010-08-06}}</ref>。
|-
| 4.1.2
|
| 2010年9月7日
|
|-
| 4.1.3
|
| 2010年11月18日
|
|-
!rowspan="17" | Safari 5
| 5.0
| 533.16
|rowspan="6" | Mac OS X 10.5, <br />Mac OS X 10.6
| 2010年6月7日
| 新たに「機能拡張」機能と「Safari リーダー」の追加、JavaScript 実行速度の向上、Bing 検索オプション追加、HTML5 サポートの改善、複数のセキュリティ修正<ref>[http://support.apple.com/kb/DL1046?viewlocale=ja_JP Safari 5.0]</ref><ref>{{Cite web|和書| url=http://support.apple.com/kb/HT4196?viewlocale=ja_JP | title=Safari 5.0 と Safari 4.1 のセキュリティコンテンツについて | accessdate=2010-08-06}}</ref>。
|-
| 5.0.1
| 533.17.8
| 2010年7月28日
|「機能拡張」機能をデフォルトで有効に、精度・安定性の向上、複数の問題の改善、複数のセキュリティ修正<ref>[http://support.apple.com/kb/DL1070?viewlocale=ja_JP Safari 5.0.1]</ref><ref>{{Cite web|和書| url=http://support.apple.com/kb/HT4276?viewlocale=ja_JP | title=Safari 5.0.1 と Safari 4.1.1 のセキュリティコンテンツについて | accessdate=2010-08-06}}</ref>。
|-
| 5.0.2
| 533.18.5
| 2010年9月7日
|
|-
| 5.0.3
| 533.19.4
| 2010年11月18日
|
|-
| 5.0.4
| 533.20.27
| 2011年3月9日
| ImageIO、libxml、WebKit に含まれる合計 62 件の脆弱性の修正。プラグインの安定性向上。印刷の問題の対応。
|-
| 5.0.5
|
| 2011年4月14日
| WebKit の脆弱性 CVE-2011-1290 と CVE-2011-1344 の合計 2 件の修正。認証局によって不正に発行されていた SSL 証明書の対応。<ref>{{Cite web|date=2011-04-14|url=http://support.apple.com/kb/HT4596|title=About the security content of Safari 5.0.5|publisher=Apple|language=英語|accessdate=2011-04-15}}</ref>
|-
| 5.0.6
|
| Mac OS X 10.5
| 2011年7月20日
| 安定性・安全性に関する多くの問題に対処。<ref>{{Cite web|date=2011-7-20|url=http://support.apple.com/kb/DL1422?viewlocale=ja_JP|title=Safari 5.0.6|publisher=Apple|language=英語|accessdate=2011-10-13}}</ref>
|-
| 5.1
| 534.48.3
|rowspan="3" | Mac OS X 10.6, <br />Mac OS X 10.7
| 2011年7月20日
| 新しいプロセスアーキテクチャの採用。HTML5やCSS3の複数のウェブ標準規格に準拠。プライバシーの改良。<ref>{{Cite web|date=2011-7-20|url=http://support.apple.com/kb/DL1070?viewlocale=ja_JP|title=Safari 5.1|publisher=Apple|language=英語|accessdate=2011-10-13}}</ref>
|-
| 5.1.1
| 534.51.22
| 2011年10月12日
| [[iCloud]] に対応。安定性・信頼性・安全性に関する複数の問題に対処。印刷の改善。JavaScript のパフォーマンスが 13% 以上向上。<ref>{{Cite web|date=2011-10-12|url=http://support.apple.com/kb/DL1070|title=Safari 5.1.1|publisher=Apple|language=英語|accessdate=2011-10-13}}</ref>
|-
| 5.1.2
| 534.52.7
| 2011年11月29日
| 安定性の向上
|-
| 5.1.3
| 534.53.10
|rowspan="1" | Mac OS X 10.7
| 2012年2月1日
| OS X 10.7.3 アップデートの一部
|-
| 5.1.4
| 534.54.16
| rowspan="4" | Mac OS X 10.6,<br />Mac OS X 10.7
| 2012年3月12日
| 拡張機能使用時の安定性、互換性、起動時間の改善。<ref>[http://support.apple.com/kb/DL1070?viewlocale=ja_JP Safari 5.1.4]</ref>パフォーマンスの改善。いくつかの脆弱性の対応<ref>[http://support.apple.com/kb/HT5190?viewlocale=ja_JP Safari 5.1.4 のセキュリティコンテンツについて]</ref>。
|-
| 5.1.5
| 534.55.3
| 2012年3月26日
| 32 ビットモード時の問題改善。Mac OS X Server v10.6.8 のソフトウェア・アップデートの安定性の改善<ref>[http://support.apple.com/kb/DL1070?viewlocale=ja_JP Safari 5.1.5]</ref>。
|-
| 5.1.6
| 534.56
| 2012年5月9日
|
|-
| 5.1.7
| 534.57
| 2012年5月9日
| 複数のクロスサイトスクリプティング、メモリ破損、WebKitによるフォームの処理にステートトラッキングの問題を修正<ref>[http://support.apple.com/kb/HT5282?viewlocale=ja_JP]</ref>。
|-
| 5.1.8
| 534.58.2
| rowspan="1" | Mac OS X 10.7
| 2013年3月14日
| セキュリティアップデート2013-001に含まれる。
|-
| 5.1.10
|
| rowspan="1" | Mac OS X 10.6.8
| 2013年9月12日
| セキュリティアップデート<ref>[https://support.apple.com/ja-jp/HT202810 Safari 5.1.10 のセキュリティコンテンツについて]</ref>。
|-
!rowspan="22" | Safari 6
| 6.0
| 536.25
|rowspan="13" | Mac OS X 10.7, <br />OS X 10.8
| 2012年7月25日
| レイアウトの大幅改善。これにより、URL検索欄とGoogle検索欄が統一された。feed:// の URL の処理の問題を解消(RSSリーダーを削除)、サイトが自動入力を無効にするように指定している場合でも、パスワードが自動的に入力される問題を解決。<ref>[http://support.apple.com/kb/HT5400?viewlocale=ja_JP]</ref>
|-
| 6.0.1
| rowspan="2" | 536.26
| 2012年8月24日
| HTTPS URL の処理を改善、Safariの隔離属性を処理するロジックのエラーが原因でセーフモードは隔離されたファイルに対して反応していなかった問題に対し隔離属性の存在の検出を適正化、複数のメモリ処理の改善。<ref>[http://support.apple.com/kb/HT5502?viewlocale=ja_JP]</ref>
|-
| 6.0.2
| 2012年11月1日
|
|-
| 6.0.3
| 536.27
| 2013年3月14日
|
|-
| 6.0.4
| 536.29.13
| 2013年4月16日
|
|-
| 6.0.5
| 536.30.1
| 2013年6月4日
| セキュリティアップデート2013-002に含まれる<ref>[http://support.apple.com/kb/HT5785]</ref>。
|-
| 6.1
| 537.43.58
| 2013年10月22日
|
|-
| 6.1.1
| 537.73.11
| 2013年12月16日
|
|-
| 6.1.2
|
| 2014年2月25日
|
|-
| 6.1.3
|
| 2014年4月1日
|
|-
| 6.1.4
|
| 2014年5月21日
|
|-
| 6.1.5
|
| 2014年6月30日
|
|-
| 6.1.6
|
| 2014年8月13日
|
|-
| 6.2
|
|rowspan="9" | OS X 10.8
| 2014年9月18日
|
|-
| 6.2.1
|
| 2014年12月4日
|
|-
| 6.2.2
|
| 2014年12月11日
|
|-
| 6.2.3
|
| 2015年1月27日
|
|-
| 6.2.4
|
| 2015年3月17日
|
|-
| 6.2.5
|
| 2015年4月8日
|
|-
| 6.2.6
|
| 2015年5月6日
|
|-
| 6.2.7
|
| 2015年6月30日
|
|-
| 6.2.8
|
| 2015年8月13日
|
|-
!rowspan="16" | Safari 7
| 7.0
| 537.71
|rowspan="16" | OS X 10.9
| 2013年10月22日
| OS X 10.9.0に同梱。<br />共有リンクやキーチェーンなど多くの機能を追加し、パフォーマンスやバッテリー効率を向上。RSSリーダー非搭載。
|-
| 7.0.1
| 537.73.11
| 2013年12月16日
|
|-
| 7.0.2
|
| 2014年2月25日
|
|-
| 7.0.3
|
| 2014年4月1日
|
|-
| 7.0.4
| 537.76.4
| 2014年5月21日
|
|-
| 7.0.5
| 537.77.4
| 2014年6月30日
|OS X 10.9.4に同梱。
|-
| 7.0.6
|
| 2014年8月13日
|OS X 10.9.5に同梱。
|-
| 7.1
|
| 2014年9月18日
|
|-
| 7.1.1
|
| 2014年12月4日
|
|-
| 7.1.2
|
| 2014年12月11日
|
|-
| 7.1.3
|
| 2015年1月27日
|
|-
| 7.1.4
|
| 2015年3月17日
|
|-
| 7.1.5
|
| 2015年4月8日
|
|-
| 7.1.6
|
| 2015年5月6日
|
|-
| 7.1.7
|
| 2015年6月30日
|
|-
| 7.1.8
|
| 2015年8月13日
|
|-
!rowspan="9" | Safari 8
| 8.0
| 538.35.8
|rowspan="9" | OS X 10.10
| 2014年10月16日
| OS X 10.10に同梱。RSSリーダーを搭載。
|-
| 8.0.1
|
| 2014年12月4日
|
|-
| 8.0.2
|
| 2014年12月11日
|
|-
| 8.0.3
|
| 2015年1月27日
|
|-
| 8.0.4
|
| 2015年3月17日
|
|-
| 8.0.5
|
| 2015年4月8日
|
|-
| 8.0.6
|
| 2015年5月6日
|
|-
| 8.0.7
|
| 2015年6月30日
|
|-
| 8.0.8
|
| 2015年8月13日
| OS X 10.10.5に同梱。
|-
!rowspan="6" | Safari 9
| rowspan="3" | 9.0
| 537.86.1.56.2
|rowspan="1" | OS X 10.9.5
| rowspan="2" | 2015年9月30日
|
|-
|601.1.56.2
| OS X 10.10.5
|
|-
|
| OS X 10.11
| 2015年9月30日
| OS X 10.11に同梱。ページピンやタブを消音などの機能を搭載。
|-
| 9.1.2
|
|rowspan="1" | OS X 10.9.5
| 2016年7月18日
| セキュリティアップデート<ref>[https://support.apple.com/ja-jp/HT206900 Safari 9.1.2 のセキュリティコンテンツについて]</ref>
|-
| rowspan="2" |9.1.3
|
| OS X 10.10.5
| rowspan="2" | 2016年9月1日
| rowspan="2" | セキュリティアップデート<ref name=9.1.3>[https://support.apple.com/ja-jp/HT207131 Safari 9.1.3 のセキュリティコンテンツについて]</ref>
|-
|
| OS X 10.11.6
|-
! rowspan="21" | Safari 10
| rowspan="3" | 10.0
|
|rowspan="1" | OS X 10.10.5
| rowspan="3" | 2016年9月20日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref name=":2" />
|-
|
| OS X 10.11.6
|-
|
| macOS 10.12
|-
| rowspan="3" |10.0.1
|
| OS X 10.10.5
| rowspan="3" | 2016年10月24日
| rowspan="3" |
|-
|
| OS X 10.11.6
|-
|
| macOS 10.12.1
|-
| rowspan="3" |10.0.2
|
| OS X 10.10.5
| rowspan="3" | 2016年12月13日
| rowspan="3" |
|-
|
| OS X 10.11.6
|-
| 602.3.12.0.1
| macOS 10.12.2
|-
| rowspan="3" |10.0.3
|
| OS X 10.10.5
| rowspan="3" |2017年1月23日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref name=Safari1003>[https://support.apple.com/ja-jp/HT207484 Safari 10.0.3 のセキュリティコンテンツについて]</ref>
|-
| 602.4.8.0.1
| OS X 10.11.6
|-
| 602.4.8
| macOS 10.12.3
|-
| rowspan="3" |10.1
|
| OS X 10.10.5
| rowspan="3" |2017年3月27日
| rowspan="3" |New Web Features in Safari 10.1<ref>{{Cite news|title=New Web Features in Safari 10.1|date=2017-03-29|url=https://webkit.org/blog/7477/new-web-features-in-safari-10-1/|accessdate=2018-06-06|work=WebKit}}</ref>、セキュリティアップデート<ref name="Safari101">[https://support.apple.com/ja-jp/HT207600 Safari 10.1 のセキュリティコンテンツについて]</ref>
|-
| rowspan="2" | 603.1.30.0.34
| OS X 10.11.6
|-
| macOS 10.12.4
|-
| rowspan="3" |10.1.1
|
|OS X 10.10.5
| rowspan="3" |2017年5月15日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref>{{Cite news|title=Safari 10.1.1 のセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT207804|accessdate=2018-06-06|language=ja-JP|work=Apple Support}}</ref>
|-
|
|OS X 10.11.6
|-
|
|macOS 10.12.5
|-
| rowspan="3" |10.1.2
|
|OS X 10.10.5
| rowspan="3" |2017年7月19日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref>{{Cite news|title=Safari 10.1.2 のセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT207921|accessdate=2018-06-06|language=ja-JP|work=Apple Support}}</ref>
|-
|
|OS X 10.11.6
|-
|
|macOS 10.12.6
|-
! rowspan="21" | Safari 11
| rowspan="3" | 11.0
|604.1.38.1.7
| OS X 10.11.6
| rowspan="3" |2017年9月19日
| rowspan="2" |What's new in Safari - Safari 11.0<ref name=":0">[https://developer.apple.com/library/content/releasenotes/General/WhatsNewInSafari/Safari_11_0/Safari_11_0.html#//apple_ref/doc/uid/TP40014305-CH13-SW1 Safari 11.0 ships with iOS 11.0 and macOS 10.13. It is also available in macOS 10.12.6 and 10.11.6]</ref>, セキュリティアップデート<ref name=":1">[https://support.apple.com/ja-jp/HT208116 Safari 11 のセキュリティコンテンツについて]</ref>
|-
|
|macOS 10.12.6
|-
|604.1.38.1.6
|macOS 10.13
|[[MacOS High Sierra|mac OS High Sierra]]に同梱、What's new in Safari - Safari 11.0<ref name=":0" />, セキュリティアップデート<ref name=":1" />
|-
| rowspan="3" |11.01
|
|OS X 10.11.6
| rowspan="3" |2017年10月31日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref>{{Cite news|title=Safari 11.0.1 のセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT208223|accessdate=2018-04-06|language=ja-JP|work=Apple Support}}</ref>
|-
|
|macOS 10.12.6
|-
|
|macOS 10.13.1
|-
| rowspan="3" |11.0.2
|
|OS X 10.11.6
| rowspan="3" |2018年1月8日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref>{{Cite news|title=Safari 11.0.2 のセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT208403|accessdate=2018-04-06|language=ja-JP|work=Apple Support}}</ref>
|-
|
|macOS 10.12.6
|-
|
|macOS 10.13.2
|-
| rowspan="3" |11.03
|
|OS X 10.11.6
| rowspan="3" |2018年1月23日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref>{{Cite news|title=Safari 11.0.3 のセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT208475|accessdate=2018-04-06|language=ja-JP|work=Apple Support}}</ref>
|-
|
|macOS 10.12.6
|-
|
|macOS 10.13.3
|-
| rowspan="6" |11.1
|
|OS X 10.11.6
| rowspan="3" |2018年3月29日
| rowspan="3" |What's new in Safari - Safari 11.1<ref>{{Cite web|url=https://developer.apple.com/library/content/releasenotes/General/WhatsNewInSafari/Articles/Safari_11_1.html|title=Safari 11.1|accessdate=2018-04-06|website=developer.apple.com|language=en}}</ref>、セキュリティアップデート<ref>{{Cite news|title=Safari 11.1 のセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT208695|accessdate=2018-04-06|language=ja-JP|work=Apple Support}}</ref>
|-
|
|macOS 10.12.6
|-
|605.1.33.1.2
|macOS 10.13.4
|-
| rowspan="3" |605.1.33.1.4
|OS X 10.11.6
| rowspan="3" |2018年4月24日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref>{{Cite news|title=About the security content of Safari 11.1|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT208741|accessdate=2018-04-25|language=ja-JP|work=Apple Support}}</ref>
|-
|macOS 10.12.6
|-
|macOS 10.13.4
|-
| rowspan="3" |11.1.1
|
|OS X 10.11.6
| rowspan="3" |2018年6月1日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref>{{Cite news|title=About the security content of Safari 11.1.1|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT208854|accessdate=2018-06-06|language=ja-JP|work=Apple Support}}</ref>
|-
|
|macOS 10.12.6
|-
|
|macOS 10.13.4
|-
! rowspan="18" |Safari 12
| rowspan="3" |12.0
|605.1.15
|macOS 10.12.6
| rowspan="3" |2018年9月17日
| rowspan="3" |Safari 12 Release Notes<ref>{{Cite web|title=Safari 12 Release Notes|url=https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-12-release-notes|website=developer.apple.com|accessdate=2021-09-23}}</ref>、セキュリティアップデート<ref name=":3">{{Cite web|和書|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT209109|title=Safari 12 のセキュリティコンテンツについて|accessdate=2019-01-15|website=Apple Support|language=ja}}</ref>
|-
|
|macOS 10.13.6
|-
|
|macOS 10.14
|-
| rowspan="3" |12.0.1
|
|macOS 10.12.6
| rowspan="3" |2018年10月30日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref>{{Cite web|和書|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT209196|title=Safari 12.0.1 のセキュリティコンテンツについて|accessdate=2019-01-15|website=Apple Support|language=ja}}</ref>
|-
|
|macOS 10.13.6
|-
|
|macOS 10.14
|-
| rowspan="3" |12.0.2
|
|macOS 10.12.6
| rowspan="3" |2018年12月5日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref>{{Cite web|和書|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT209344|title=Safari 12.0.2 のセキュリティコンテンツについて|accessdate=2019-01-15|website=Apple Support|language=ja}}</ref>
|-
|
|macOS 10.13.6
|-
|
|macOS 10.14.1
|-
| rowspan="3" |12.0.3
|
|macOS 10.12.6
| rowspan="3" |2019年1月22日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref>{{Cite web|和書|title=Safari 12.0.3 のセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT209449|website=Apple Support|accessdate=2019-08-28|language=ja}}</ref>
|-
|
|macOS 10.13.6
|-
|
|macOS 10.14.3
|-
| rowspan="3" |12.1
|
|macOS 10.12.6
| rowspan="3" |2019年3月25日
| rowspan="3" |Safari 12.1 Release Notes<ref>{{Cite web|title=Safari 12.1 Release Notes {{!}} Apple Developer Documentation|url=https://developer.apple.com/documentation/safari_release_notes/safari_12_1_release_notes|website=developer.apple.com|accessdate=2019-07-23}}</ref>、セキュリティアップデート<ref>{{Cite web|和書|title=Safari 12.1 のセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT209603|website=Apple Support|accessdate=2019-07-23|language=ja}}</ref>
|-
|
|macOS 10.13.6
|-
|
|macOS 10.14.4
|-
| rowspan="3" |12.1.2
| rowspan="3" |607.3.9
|macOS 10.12.6
| rowspan="3" |2019年7月22日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref>{{Cite web|title=About the security content of Safari 12.1.2|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT210355|website=Apple Support|accessdate=2019-07-23|language=ja}}</ref>
|-
|macOS 10.13.6
|-
|macOS 10.14.6
|-
! rowspan="25" |Safari 13
| rowspan="2" |13.0
| rowspan="2" |
|macOS 10.13.6
| rowspan="2" |2019年9月20日
| rowspan="2" |Safari 13 Release Notes<ref name=":4">{{Cite web|title=Safari 13 Release Notes {{!}} Apple Developer Documentation|url=https://developer.apple.com/documentation/safari_release_notes/safari_13_release_notes|website=developer.apple.com|accessdate=2019-09-26}}</ref>、セキュリティアップデート<ref>{{Cite web|title=About the security content of Safari 13|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT210608|website=Apple Support|accessdate=2019-09-30|language=ja}}</ref>
|-
|macOS 10.14.6
|-
| rowspan="2" |13.0.1
| rowspan="2" |608.2.11
|macOS 10.13.6
| rowspan="2" |2019年9月25日
| rowspan="2" |セキュリティアップデート<ref>{{Cite web|title=About the security content of Safari 13.0.1|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT210605|website=Apple Support|accessdate=2019-09-30|language=ja}}</ref>
|-
|macOS 10.14.6
|-
| rowspan="3" |13.0.2
| rowspan="3" |608.2.40
|macOS 10.13.6
| rowspan="3" |2019年10月8日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート
|-
|macOS 10.14.6
|-
|macOS 10.15
|-
| rowspan="3" |13.0.3
| rowspan="3" |
|macOS 10.13.6
| rowspan="3" |2019年10月28日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref>{{Cite web|和書|title=Safari 13.0.3 のセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT210725|website=Apple Support|accessdate=2020-02-21|language=ja}}</ref>
|-
|macOS 10.14.6
|-
|macOS 10.15.1
|-
| rowspan="3" |13.0.4
| rowspan="3" |
|macOS 10.13.6
| rowspan="3" |2019年12月10日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref>{{Cite web|和書|title=Safari 13.0.4 のセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT210792|website=Apple Support|accessdate=2020-02-21|language=ja}}</ref>
|-
|macOS 10.14.6
|-
|macOS 10.15.2
|-
| rowspan="3" |13.0.5
| rowspan="3" |608.5.12
|macOS 10.13.6
| rowspan="3" |2020年1月28日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref>{{Cite web|和書|title=Safari 13.0.5 のセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT210922|website=Apple Support|accessdate=2020-02-21|language=ja}}</ref>
|-
|macOS 10.14.6
|-
|macOS 10.15.3
|-
| rowspan="3" |13.1
| rowspan="3" |
|macOS 10.13.6
| rowspan="3" |2020年3月24日
| rowspan="3" |Safari 13.1 Release Notes<ref>{{Cite web|title=Safari 13.1 Release Notes|url=https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-13_1-release_notes|website=developer.apple.com|accessdate=2020-09-22|publisher=}}</ref>、セキュリティアップデート<ref>{{Cite web|和書|title=Safari 13.1 のセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT211104|website=Apple Support|accessdate=2020-09-22|language=ja}}</ref>
|-
|macOS 10.14.6
|-
|macOS 10.15.4
|-
| rowspan="3" |13.1.1
| rowspan="3" |
|macOS 10.13.6
| rowspan="3" |2020年5月26日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref>{{Cite web|和書|title=Safari 13.1.1 のセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT211177|website=Apple Support|accessdate=2020-09-22|language=ja}}</ref>
|-
|macOS 10.14.6
|-
|macOS 10.15.6
|-
| rowspan="3" |13.1.2
| rowspan="3" |
|macOS 10.13.6
| rowspan="3" |2020年7月15日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref>{{Cite web|和書|title=Safari 13.1.2 のセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT211292|website=Apple Support|accessdate=2020-09-22|language=ja}}</ref>
|-
|macOS 10.14.6
|-
|macOS 10.15.6
|-
! rowspan="27" |Safari 14
| rowspan="3" |14.0
| rowspan="3" |610.1.28
|macOS 10.14.6
| rowspan="2" |2020年9月16日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref name=":5" />Safari 14 Release Notes<ref name=":7">{{Cite web|title=Safari 14 Release Notes|url=https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-14-release-notes|website=developer.apple.com|accessdate=2021-04-27}}</ref>
|-
|macOS 10.15.6
|-
|macOS 11.0
| -
|-
| rowspan="3" |14.0.1
| rowspan="3" |610.2.11
|macOS 10.14.6
| rowspan="3" |2020年11月12日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref>{{Cite web|和書|title=Safari 14.0.1 のセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT211934|website=Apple Support|accessdate=2020-11-13|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|title=About the security content of macOS Big Sur 11.0.1|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT211931|website=Apple Support|accessdate=2020-11-13|language=ja}}</ref>
|-
|macOS 10.15.7
|-
|macOS 11.0.1
|-
| rowspan="3" |14.0.2
| rowspan="3" |610.3.7
|macOS 10.14.6
| rowspan="3" |2020年12月14日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref>{{Cite web|和書|title=Safari 14.0.2 のセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT212007|website=Apple Support|accessdate=2020-12-27|language=ja}}</ref>
|-
|macOS 10.15.7
|-
|macOS 11.1
|-
| rowspan="6" |14.0.3
| rowspan="3" |610.4.3
|macOS 10.14.6
| rowspan="3" |2021年2月1日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref>{{Cite web|和書|title=Safari 14.0.3 のセキュリティコンテンツについて|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT212152|website=Apple Support|accessdate=2021-02-05|language=ja}}</ref>
|-
|macOS 10.15.7
|-
|macOS 11.2
|-
| rowspan="3" |610.4.3.1.7
|macOS 10.14.6
| rowspan="3" |2021年3月8日
| rowspan="2" |セキュリティアップデート<ref>{{Cite web|title=About the security content of Safari 14.0.3|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT212223|website=Apple Support|accessdate=2021-03-09|language=ja}}</ref>
|-
|macOS 10.15.7
|-
|macOS 11.2.3
|セキュリティアップデート<ref>{{Cite web|title=About the security content of macOS Big Sur 11.2.3|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT212220|website=Apple Support|accessdate=2021-03-09|language=ja}}</ref>
|-
| rowspan="3" |14.1
| rowspan="3" |611.1.21.161.7
|macOS 10.14.6
| rowspan="3" |2021年4月26日
| rowspan="3" |セキュリティアップデート<ref>{{Cite web|title=About the security content of Safari 14.1|url=https://support.apple.com/ja-jp/HT212318|website=Apple Support|accessdate=2021-04-27|language=ja}}</ref>Safari 14.1 Release Notes<ref>{{Cite web|title=Apple Developer Documentation|url=https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-14_1-release-notes|website=developer.apple.com|accessdate=2021-09-23}}</ref>
* スタートページのセクションの順序をカスタマイズ<ref name=":6">下記、ソフトウェア・アップデートの記述による
''Safari 14.1には、以下の改善および問題の修正が含まれます。''</ref>
* WebExtensions API追加により、新しいタブページを置き換える機能拡張を提供可能<ref name=":6" />
* Web Speech APIにより、リアルタイムのキャプション表示、音声入力、音声ナビゲーションのための音声認識をWebページに組み込める<ref name=":6" />
* WebMおよびVorbisのビデオ/オーディオフォーマットに対応<ref name=":6" />
* SafariでiCloudタブが表示されない問題解決<ref name=":6" />
|-
|macOS 10.15.7
|-
|macOS 11.3
|-
| rowspan="3" |14.1.1
| rowspan="3" |611.2.7.1.4
|macOS 10.14.6
| rowspan="3" |2021年5月24日
| rowspan="3" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT212534 Safari 14.1.1 のセキュリティコンテンツについて]
|-
|macOS 10.15.7
|-
|macOS 11.4
|-
| rowspan="6" |14.1.2
| rowspan="3" |611.3.10.1.5
|macOS 10.14.6
| rowspan="3" |2021年7月19日
| rowspan="3" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT212606 Safari 14.1.2 のセキュリティコンテンツについて]
|-
|macOS 10.15.7
|-
|macOS 11.5
|-
| rowspan="2" |611.3.10.1.7
|macOS 10.14.6
| rowspan="3" |2021年9月13日
| rowspan="3" | [https://support.apple.com/ja-jp/HT212808 Safari 14.1.2 のセキュリティコンテンツについて]
|-
|macOS 10.15.7
|-
|611.3.10.1.6
|macOS 11.6
|-
! rowspan="26" |Safari 15
| rowspan="2" |15.0
| rowspan="2" |612.1.29.41.4
|macOS 10.15.7
|rowspan="2" |2021年9月20日
|rowspan="2" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT212816 About the security content of Safari 15] UIの刷新、電力効率向上、高速化、プライバシー保護機能、セキュリティ機能向上とともに自動HTTPS接続<ref>{{Cite web|title=Safari|url=https://www.apple.com/jp/safari/|website=Apple(日本)|accessdate=2021-09-21|language=ja-JP}}</ref>。
[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-15-release-notes Safari 15 Release Notes]
|-
|macOS 11.6
|-
| rowspan="3" |15.1
|
|macOS 10.15.7
| rowspan="2" |2021年10月27日
| rowspan="2" |タブのUIをSafari 14以前に戻す。[https://support.apple.com/ja-jp/HT212875 About the security content of Safari 15.1]
|-
|
|macOS 11.6.1
|-
|612.2.0.1.20
|macOS 12.0.1
|2021年10月25日
|
|-
| rowspan="3" |15.2
|
|macOS 10.15.7
| rowspan="2" |2021年12月14日
| rowspan="2" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT212982 Safari 15.2 のセキュリティコンテンツについて]
|-
|612.3.6.1.8
|macOS 11.6.2
|-
|612.3.6.1.6
|macOS 12.1
|2021年12月13日
|[https://support.apple.com/ja-jp/HT212978 About the security content of macOS Monterey 12.1]
[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-15_2-release-notes Safari 15.2 Release Notes]
|-
| rowspan="6" |15.3
| rowspan="3" |612.4.9.1.7
|macOS 10.15.7
| rowspan="3" |2022年1月26日
| rowspan="2" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT213058 About the security content of Safari 15.3]
|-
|macOS 11.6.3
|-
|macOS 12.2
|[https://support.apple.com/ja-jp/HT213054 About the security content of macOS Monterey 12.2]
|-
| rowspan="3" |612.4.9.1.8
|macOS 10.15.7
| rowspan="3" |2022年2月10日
| rowspan="2" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT213091 Safari 15.3 のセキュリティコンテンツについて]
|-
|macOS 11.6.3
|-
|macOS 12.2.1
|[https://support.apple.com/ja-jp/HT213092 macOS Monterey 12.2.1 のセキュリティコンテンツについて]
|-
| rowspan="3" |15.4
|
|macOS 10.15.7
| rowspan="2" |2022年3月15日
| rowspan="2" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT213187 Safari 15.4 のセキュリティコンテンツについて]
|-
|613.1.17.1.11
|macOS 11.6.5
|-
|613.1.17.1.6
|macOS 12.3
|2022年3月14日
|[https://support.apple.com/ja-jp/HT213183 macOS Monterey 12.3 のセキュリティコンテンツについて]
[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-15_4-release-notes Safari 15.4 Release Notes]
|-
| rowspan="3" |15.5
|
|macOS 10.15.7
| rowspan="3" |2022年5月16日
| rowspan="2" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT213260 Safari 15.5 のセキュリティコンテンツについて]
|-
|613.2.7.1.9
|macOS 11.6.6
|-
|613.2.7.1.8
|macOS 12.4
|[https://support.apple.com/ja-jp/HT213257 About the security content of macOS Monterey 12.4][https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-15_5-release-notes Safari 15.5 Release Notes]
|-
| rowspan="3" |15.6
|613.3.9.1.7
|macOS 10.15.7
| rowspan="3" |2022年7月20日
| rowspan="2" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT213341 About the security content of Safari 15.6]
|-
|613.3.9.1.3
|macOS 11.6.8
|-
|613.3.9.1.5
|macOS 12.5
|[https://support.apple.com/ja-jp/HT213345 About the security content of macOS Monterey 12.5][https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-15_6-release-notes Safari 15.6 Release Notes]
|-
| rowspan="3" |15.6.1
| rowspan="3" |613.3.9.1.16
|macOS 12.5.1
|2022年8月17日
|[https://support.apple.com/ja-jp/HT213413 About the security content of macOS Monterey 12.5.1]
|-
|macOS 10.15.7
| rowspan="2" |2022年8月18日
| rowspan="2" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT213414 About the security content of Safari 15.6.1]
|-
|macOS 11.6.8
|-
! rowspan="36" |Safari 16
| rowspan="2" |16.0
| rowspan="2" |614.1.25.9.10
|macOS 11.7
| rowspan="2" |2022年9月12日
| rowspan="2" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT213442 About the security content of Safari 16][https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-16-release-notes Safari 16 Release Notes]
|-
|macOS 12.6
|-
| rowspan="3" |16.1
| rowspan="2" |614.2.9.1.13
|macOS 11.7.1
| rowspan="3" |2022年10月24日
| rowspan="3" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT213495 About the security content of Safari 16.1][https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-16_1-release-notes Safari 16.1 Release Notes] [[AV1|AVIF]]対応<ref name=":11">{{Cite web|和書|title=WebKit開発チーム、Safari 16.0で用いられているWebKit機能について紹介 |url=https://codezine.jp/article/detail/16529 |website=CodeZine |access-date=2022-10-27 |language=ja}}</ref>([[macOS Ventura]]のみ)
|-
|macOS 12.6.1
|-
|614.2.9.1.12
|macOS 13.0
|-
| rowspan="3" |16.2
|
|macOS 11.7.2
| rowspan="3" |2022年12月13日
| rowspan="3" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT213537 Safari 16.2 のセキュリティコンテンツについて] [https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-16_2-release-notes Safari 16.2 Release Notes]
|-
|
|macOS 12.6.2
|-
|
|macOS 13.1
|-
| rowspan="6" |16.3
|614.4.6.11.4
|macOS 11.7.3
| rowspan="3" |2023年2月23日
| rowspan="3" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT213600 Safari 16.3 のセキュリティコンテンツについて] [https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-16_3-release-notes Safari 16.3 Release Notes]
|-
|
|macOS 12.6.3
|-
|
|macOS 13.2
|-
|614.4.6.1.6
|macOS 13.2.1
| rowspan="3" |2023年2月13日
|[https://support.apple.com/ja-jp/HT213633 About the security content of macOS Ventura 13.2.1]
|-
|614.4.6.11.6
|macOS 11.7.3
| rowspan="2" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT213638 Safari 16.3.1 のセキュリティコンテンツについて]
|-
|
|macOS 12.6.3
|-
|16.3.1
|614.4.6.11.7
|macOS 11.7.4
|2023年2月15日
|お気に入りアイコンが表示されない問題修正<ref>{{Cite web |title=Apple Releases macOS Big Sur 11.7.4 With Fix for Safari Favorite Icons |url=https://www.macrumors.com/2023/02/15/apple-releases-macos-big-sur-11-7-4/ |website=MacRumors |access-date=2023-02-16 |language=en}}</ref>
|-
| rowspan="4" |16.4
|
|macOS 11.7.5
| rowspan="3" |2023年3月27日
| rowspan="3" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT213671 About the security content of Safari 16.4]
[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-16_4-release-notes Safari 16.4 Release Notes]
|-
|
|macOS 12.6.4
|-
|615.1.26.11.22
|macOS 13.3
|-
|615.1.26.11.23
|macOS 13.3.1
| rowspan="3" |2023年4月7日
|[https://support.apple.com/ja-jp/HT213721 About the security content of macOS Ventura 13.3.1]
|-
| rowspan="2" |16.4.1
| rowspan="2" |615.1.26.101.10
|macOS 11.7.5
| rowspan="2" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT213722 About the security content of Safari 16.4.1]
|-
|macOS 12.6.4
|-
| rowspan="3" |16.5
|
|macOS 11.7.7
| rowspan="3" |2023年5月18日
| rowspan="3" |[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-16_5-release-notes Safari 16.5 Release Notes][https://support.apple.com/ja-jp/HT213762 About the security content of Safari 16.5]
|-
|
|macOS 12.6.6
|-
|615.2.9.11.4
|macOS 13.4
|-
| rowspan="3" |16.5.1
| rowspan="3" |615.2.9.11.7
|macOS 11.7.8
| rowspan="3" |2023年6月21日
| rowspan="3" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT213816 About the security content of Safari 16.5.1]
|-
|macOS 12.6.7
|-
|macOS 13.4.1
|-
| rowspan="4" |16.5.2
|
|macOS 11.7.8
| rowspan="3" |2023年7月10日
| rowspan="2" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT213826 About the security content of Safari 16.5.2]
|-
|615.2.9.101.1
|macOS 12.6.7
|-
|615.2.9.11.9
|macOS 13.4.1 (a)
| rowspan="2" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT213825 About the security content of Rapid Security Responses for macOS Ventura 13.4.1]
|-
|615.2.9.11.10
|macOS 13.4.1 (c)
|2023年7月12日
|-
| rowspan="3" |16.6
|
|macOS 11.7.9
| rowspan="3" |2023年7月24日
| rowspan="2" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT213847 About the security content of Safari 16.6]
|-
|
|macOS 12.6.8
|-
|615.3.12.11.2
|macOS 13.5
|[https://support.apple.com/ja-jp/HT213843 About the security content of macOS Ventura 13.5]
|-
| rowspan="2" |16.6.1
|
|macOS 12.7
| rowspan="2" |2023年9月21日
| rowspan="2" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT213930 Safari 16.6.1 のセキュリティコンテンツについて]
|-
|
|macOS 13.6
|-
! rowspan="14" |Safari 17
| rowspan="3" |17.0
|
|macOS 12.7
| rowspan="3" |2023年9月26日
| rowspan="2" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT213941 Safari 17 のセキュリティコンテンツについて]
[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-17-release-notes Safari 17 Release Notes]
|-
|
|macOS 13.6
|-
|
|macOS 14.4
|[https://support.apple.com/ja-jp/HT213940 macOS Sonoma 14 のセキュリティコンテンツについて]
|-
| rowspan="3" |17.1
|
|macOS 12.7.1
| rowspan="3" |2023年10月25日
| rowspan="2" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT213986 Safari 17.1 のセキュリティコンテンツについて]
[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-17_1-release-notes Safari 17.1 Release Notes]
|-
|616.2.9.11.10
|macOS 13.6.1
|-
|
|macOS 14.1
|[https://support.apple.com/ja-jp/HT213984 macOS Sonoma 14.1 のセキュリティコンテンツについて]
|-
| rowspan="3" |17.1.2
| rowspan="3" |616.2.9.11.12
|macOS 12.7.1
| rowspan="3" |2023年11月30日
| rowspan="2" |[https://support.apple.com/ja-jp/HT214033 About the security content of Safari 17.1.2]
|-
|macOS 13.6.1
|-
|macOS 14.1.2
|[https://support.apple.com/ja-jp/HT214032 About the security content of macOS Sonoma 14.1.2]
|-
| rowspan="3" |17.2
|
|macOS 12.7.2
| rowspan="3" |2023年12月11日
| rowspan="3" |[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-17_2-release-notes Safari 17.2 Release Notes]
[https://support.apple.com/ja-jp/HT214039 About the security content of Safari 17.2]
|-
|617.1.17.11.11
|macOS 13.6.3
|-
|
|macOS 14.2
|-
| rowspan="2" |17.2.1
| rowspan="2" |617.1.17.11.12
|macOS 12.7.2
| rowspan="2" |2023年12月19日
| rowspan="2" |Safari 17.2.1
This update has no published CVE entries.<ref>{{Cite web |title=Apple security releases |url=https://support.apple.com/en-us/HT201222 |website=Apple Support |date=2023-12-19 |access-date=2023-12-21 |language=en}}</ref>
|-
|macOS 13.6.3
|}
=== <s>Windows</s> ===
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
! rowspan="2" |世代
! colspan="2" |バージョンナンバー
! rowspan="2" |対応 OS
! rowspan="2" |リリース日
! rowspan="2" |概要
|-
! nowrap="nowrap" | Safari
! nowrap="nowrap" | WebKit
|-
!rowspan="12" nowrap="nowrap" | Safari 3
| 3.0
| 522.11.3
|rowspan="4" nowrap="nowrap" | Windows 2000, <br />Windows XP, <br />Windows Vista
| 2007年6月11日
| パブリックベータ。Windows XP、Windows Vista([[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]] はサポートされないが動作可能)向けの最初のリリース。 Mac OS X 向けと同様に Safari 3 の新機能を搭載。
|-
| 3.0.1
| 522.12.2
| 2007年6月13日
| パブリックベータ。複数のセキュリティ修正。
|-
| 3.0.2
| 522.13.1
| 2007年7月22日
| パブリックベータ。セキュリティ修正を含む。
|-
| 3.0.3
| 522.15.5
| 2007年8月1日
| パブリックベータ。大幅な安定性向上及びメモリリークの修正。
|-
| rowspan="3" | 3.0.4
| 523.12.9
|rowspan="8" | Windows XP, <br />Windows Vista
|nowrap="nowrap" | 2007年11月14日
| パブリックベータ。幾つかUIに関する修正されたが、依然として問題は残る。Windows 2000 では Safari 3.0.3 と異なり実行不可。幾許かのショートカットキー<!--shortcut functionsとは何だらうか -->が追加され、以後のブラウザで(例としてタブの移動など)使用できるようになった。
|-
| 523.13
| 2007年12月17日
| Safari 3 Beta 3.0.4 のセキュリティアップデート。<!-- confer. ソースは次の見出しを見よ http://docs.info.apple.com/article.html?artnum=307225--> このセキュリティアップデートは、既存 Safariにサイト間攻撃 ([[クロスサイトスクリプティング|XSS]]) がなされる問題を防ぐ目的で施された<ref>{{Cite web|和書| url=http://support.apple.com/kb/HT2290?viewlocale=ja_JP | title=Safari 3 Beta 3.0.4 セキュリティアップデート v1.1 について | date=2008-07-25 | publisher=Apple | accessdate=2008-11-21 }}</ref>。
|-
| 523.15
| 2007年12月21日
| Safari 3 Beta 3.0.4 のセキュリティアップデート (v.1.1)。This update fixes an issue introduced with the previous security update “that may cause Safari to unexpectedly quit when browsing certain websites”.
|-
| 3.1
| 525.13
| 2008年3月18日
| 安定した初の Windows 向けリリース。新たに [[:en:Web-safe fonts|CSS ウェブフォント]]<ref group="注">CSSでWebServer上のフォントを参照し、文字を出力する技術。</ref> とアニメ<ref group="注">(訳者註)ここでのアニメは、Appleが提案する WebKit での CSS Animations 技術のこと。これといった訳文は2008年11月時点で存在しない。CSSでHTML DOM Elementを動かす技術。参考資料:「[http://webkit.org/specs/CSSVisualEffects/CSSAnimation.html CSS Animation]」(The WebKit Open Source Project)、「[https://news.mynavi.jp/news/2008/11/14/020/ CSS TransitionsとCSS Animations、Apple提案のCSSアニメ機能]」(マイコミジャーナル)</ref>が導入され、それから[[Scalable Vector Graphics|SVG]]及び[[HTML5]]に於けるメディア<ref group="注">(訳者註)ここでのメディアは埋め込みメディアの類いをさすか。HTML5 ではタグ体系の大幅な見直しが盛り込まれることになっていて、Safari (WebKit) では実験的に搭載されている。videoタグ等の振る舞いを改善する物と思われる。</ref>の扱いが改善された。パフォーマンス改善。検索に際して自動のスペルチェック機能が追加される。<!--for searchesの譯文に自信がない。Added automatic spell checker for searches.-->
|-
| 3.1.1
| 525.17
| 2008年4月16日
| 安定性の改善とセキュリティ修正。
|-
| 3.1.2
| 525.21
| 2008年6月19日
| Windows の仕様と複合したセキュリティ問題(悪意のあるファイルが自動的にダウンロードされ実行される危険がある)を修正<ref>{{Cite web|和書| url=http://support.apple.com/kb/HT2092?viewlocale=ja_JP | title=Windows 版 Safari 3.1.2 のセキュリティコンテンツについて | date=2008-11-22 | publisher=Apple | accessdate=2009-01-10 }}<!--[http://support.apple.com/kb/HT2092 About the security content of Safari 3.1.2 for Windows]--></ref><ref>{{Cite web|和書| url=http://www.microsoft.com/japan/technet/security/advisory/953818.mspx | title=マイクロソフト セキュリティ アドバイザリ (953818) / Apple 製 Safari が Windows プラットフォーム上で使用された場合の複合的な脅威 | date=2008-05-31 | publisher=[[マイクロソフト]] | accessdate=2009-01-10 }}</ref>。
|-
| 3.2.1
| 525.27.1
| 2008年11月24日
| 安定性の改善。
|-
| 3.2.2
| 525.28.1
| 2009年2月12日
| フィードの処理に関する脆弱性により、JavaScriptがローカルセキュリティゾーンで実行される恐れのあるセキュリティ問題を修正。
|-
!rowspan="5" | Safari 4
| 4.0
| 530.17
|rowspan="3" | Windows XP, <br />Windows Vista
| 2009年6月9日
| 以前から公開されていたSafari 4 Betaの正規版。速度向上の他、履歴やブックマークをCoverFlow表示したり、Windows版ではWindows風のインターフェイスを採用している
|-
| 4.0.2
| 530.19.1
| 2009年7月8日
| Nitro JavaScriptエンジンの安定性の改善、互換性と複数のセキュリティ問題の修正。
|-
| 4.0.3
| 531.9.1
| 2009年8月11日
| 安定性の改善、互換性と複数のセキュリティ問題の修正。
|-
| 4.0.4
| 531.21.10
|rowspan="2" | Windows XP, <br />Windows Vista, <br />Windows 7
| 2009年11月11日
| 文字化け問題の修正。Windows 7への対応、複数のセキュリティ問題の修正。
|-
| 4.0.5
| 531.22.7
| 2010年3月11日
|
|-
!rowspan="14" | Safari 5
| 5.0
| 533.16
|rowspan="14" | Windows XP, <br />Windows Vista, <br />Windows 7
| 2010年6月7日
|
|-
| 5.0.1
| 533.17.8
| 2010年7月28日
|
|-
| 5.0.2
| 533.18.5
| 2010年9月7日
|
|-
| 5.0.3
| 533.19.4
| 2010年11月18日
|
|-
| 5.0.4
| 533.20.27
| 2011年3月9日
| ImageIO、libxml、WebKitに含まれる合計 62 件の脆弱性の修正。プラグインの安定性向上。印刷の問題の対応。
|-
| 5.0.5
| 533.21.1
| 2011年4月14日
| WebKitの脆弱性CVE-2011-1290とCVE-2011-1344の合計2件の修正。認証局によって不正に発行されていたSSL証明書の対応。
|-
| 5.1
| 534.48.3
| 2011年7月20日
| 新しいプロセスアーキテクチャの採用。HTML5やCSS3の複数のウェブ標準規格に準拠。プライバシーの改良。
|-
| 5.1.1
| 534.51.22
| 2011年10月12日
| [[iCloud]]に対応。安定性・信頼性・安全性に関する複数の問題に対処。印刷の改善。
|-
| 5.1.2
| 534.52.7
| 2011年11月29日
| 安定性の向上
|-
| 5.1.3
|
|
|
|-
| 5.1.4
| 534.54.16
| 2012年3月12日
| 拡張機能使用時の安定性、互換性、起動時間の改善。パフォーマンスの改善。いくつかの脆弱性の対応。
|-
| 5.1.5
|
|
|
|-
| 5.1.6
|
|
|
|-
| 5.1.7
| 534.57.2
| 2012年5月9日
| Windows系統では最後のバージョン。[[セキュリティホール]]が存在するが修正版は出ていない<ref name="JVN42676559"/>。
|}
=== iOS/iPadOS ===
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
! rowspan="2" |世代
! colspan="2" |バージョンナンバー
! rowspan="2" |対応 OS
! rowspan="2" |リリース日
! rowspan="2" |概要
|-
! nowrap="nowrap" | Safari
! nowrap="nowrap" | WebKit
|-
!rowspan="2" nowrap="nowrap" | Safari 3
| 3.0
| 419.3
| iPhone OS 1.0
| 2007年6月26日
|-
| 3.1.1
| 525.18.1
| iPhone OS 2.0
| 2008年7月11日
| ホーム画面へWebクリップ(ウェブサイトのリンク)保存に対応。一部のウェブページをフルスクリーンで表示できる。
|-
!rowspan="4" | Safari 4
| rowspan="2" | 4.0
| 528.16
| iPhone OS 3.0
| 2009年6月17日
| テキスト、画像のカット、コピーアンドペーストに対応。リンクを別窓で開く事が可能。「写真」アプリへの画像の保存に対応。
|-
| 528.18
| iPhone OS 3.1
| 2009年9月9日
| WebKitに関する 4 つのセキュリティアップデート<ref>[http://support.apple.com/kb/HT3860 About the security content of iPhone OS 3.1 and iPhone OS 3.1.1 for iPod touch]</ref>。
|-
| 4.0.4
| 531.21.10
| iPhone OS 3.2
| 2010年4月3日
| iPadの初期搭載版。
|-
| 4.0.5
| 532.9
| iOS 4.0, 4.1
| 2010年6月21日
| iOS 4.0の初期搭載版。複数のセキュリティアップデート<ref>[http://support.apple.com/kb/HT4225?viewlocale=ja_JP iOS 4 のセキュリティコンテンツについて]</ref>。
|-
!rowspan="2" | Safari 5
| 5.0.2
| 533.17.9
| iOS 4.2.1, 4.3
| 2010年11月24日
|
|-
| 5.1
| 534.46
| iOS 5.0, 5.1
| 2011年10月12日
|
|-
!rowspan="1" | Safari 6
| 6.0
| 536.26
| [[iOS 6]]
| 2012年9月19日
|
|-
!rowspan="1" | Safari 7
| 7.0
| 537.51.1
| [[iOS 7]]
| 2013年9月18日
|iOS 7向けのデザインに変更される。タブの個数が最大24枚になる。
|-
!rowspan="1" | Safari 8
| 8.0
| 538.35
| [[iOS 8]]
| 2014年9月17日
|iOS 8向け
|-
! rowspan="1" |Safari 9
|9.0
|601.1.46
|[[iOS 9]]
|2015年9月16日
|
|-
! rowspan="2" |Safari 10
|10.0
|602.1.50
|[[iOS 10]]
|2016年9月14日
|
|-
|10.1
|603.2.1
|iOS 10.1
|2017年3月27日
|
|-
! rowspan="2" |Safari 11
|11.0
|604.2.4
|[[iOS 11]]
|2017年9月19日
|
|-
|11.1
|605.1.33
|iOS 11.1
|2018年4月12日
|
|-
! rowspan="2" |Safari 12
|12.0
|606.1.36
|[[iOS 12]]
|2018年9月17日
|
|-
|12.1
|607.1.40
|iOS 12.2
|2019年3月25日
|[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-12_1-release-notes Safari 12.1 Release Notes]
|-
! rowspan="2" |Safari 13
|13.0
|608.2.11
|[[iOS 13]]
|2019年9月20日
|
|-
|13.1
|609.1.20
|iOS 13.4
|2020年3月24日
|[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-13_1-release_notes Safari 13.1 Release Notes]
|-
! rowspan="7" |Safari 14
|14.0
|610.1.28
|[[iOS 14]]
|2020年9月16日
|<ref name=":7" />
|-
|14.0.1
|
|iOS 14.2
|2020年11月5日
|
|-
|14.0.2
|
|iOS 14.3
|2020年12月14日
|
|-
|14.0.3
|
|iOS 14.4
|2021年1月26日
|
|-
|14.1
|611.1.21
|iOS 14.5
|2021年4月26日
|[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-14_1-release-notes Safari 14.1 Release Notes]
|-
|14.1.1
|
|iOS 14.6
|2021年5月24日
|
|-
|14.1.2
|
|iOS 14.7
|2021年6月19日
|
|-
! rowspan="12" |Safari 15
|15.0
|612.1.29
|[[iOS 15]]
|2021年9月20日
|[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-15-release-notes Safari 15 Release Notes]
|-
|15.1
|612.2.9
|iOS 15.1
|2021年10月25日
|
|-
|15.2
|612.3.6
|iOS 15.2
|2021年12月13日
|
|-
|15.3
|612.4.9
|iOS 15.3
|2022年1月26日
|
|-
|15.4
|613.1.17
|iOS 15.4
|2022年3月14日
|
|-
|15.5
|613.2.7
|iOS 15.5
|2022年5月16日
|
|-
|15.6
|613.3.9
|iOS 15.6
|2022年7月20日
|[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-15_6-release-notes Safari 15.6 Release Notes]
|-
|15.6.1
|
|iOS 15.6.1
|2022年8月17日
|
|-
|15.6.2
|
|iOS 15.7
|2022年9月12日
|
|-
|15.6.3
|
|IOS 15.7.1
|2022年10月27日
|iOS 15.7.1 および iPadOS 15.7.1 のセキュリティコンテンツについて<ref>{{Cite web|和書|title=iOS 15.7.1 および iPadOS 15.7.1 のセキュリティコンテンツについて |url=https://support.apple.com/ja-jp/HT213490 |website=Apple Support |access-date=2023-04-08 |language=ja}}</ref>
|-
| rowspan="2" |15.6.4
|
|iOS 15.7.2
|2022年12月13日
|iOS 15.7.2 および iPadOS 15.7.2 のセキュリティコンテンツについて<ref>{{Cite web|和書|title=iOS 15.7.2 および iPadOS 15.7.2 のセキュリティコンテンツについて |url=https://support.apple.com/ja-jp/HT213531 |website=Apple Support |access-date=2023-04-08 |language=ja}}</ref>
|-
|
|iOS 15.7.4
|2023年3月27日
|iOS 15.7.4 および iPadOS 15.7.4 のセキュリティコンテンツについて<ref>{{Cite web|和書|title=iOS 15.7.4 および iPadOS 15.7.4 のセキュリティコンテンツについて |url=https://support.apple.com/ja-jp/HT213673 |website=Apple Support |access-date=2023-04-08 |language=ja}}</ref>
|-
! rowspan="9" |Safari 16
|16.0
|614.1.25
|[[iOS 16]]
|
|[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-16-release-notes Safari 16 Release Notes]
|-
|16.1
|614.2.9
|iOS 16.1, [[IPadOS 16|iPadOS 16.1]]
|2022年9月24日
|[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-16_1-release-notes Safari 16.1 Release Notes] AVIF対応<ref name=":11" />
|-
|16.2
|614.3.7
|iOS 16.2, iPadOS 16.2
|2022年12月13日
|[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-16_2-release-notes Safari 16.2 Release Notes]
|-
| rowspan="2" |16.3
|614.4.6
|iOS 16.3, iPadOS 16.3
|2023年1月23日
|[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-16_3-release-notes Safari 16.3 Release Notes]
|-
|
|iOS 16.3.1, iPadOS 16.3.1
|2023年2月13日
|iOS 16.3.1 および iPadOS 16.3.1 のセキュリティコンテンツについて<ref>{{Cite web|和書|title=iOS 16.3.1 および iPadOS 16.3.1 のセキュリティコンテンツについて |url=https://support.apple.com/ja-jp/HT213635 |website=Apple Support |access-date=2023-04-08 |language=ja}}</ref>
|-
| rowspan="2" |16.4
|615.1.26
|iOS 16.4, iPadOS 16.4
|2023年3月27日
| rowspan="2" |[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-16_4-release-notes Safari 16.4 Release Notes]
|-
|
|iOS 16.4.1, iPadOS 16.4.1
|2023年4月7日
|-
|16.5
|615.2.9<ref>{{Cite web |title=browser-compat-data/browsers/safari.json at main · mdn/browser-compat-data |url=https://github.com/mdn/browser-compat-data/blob/main/browsers/safari.json |website=GitHub |access-date=2023-07-25 |language=en}}</ref>
|iOS 16.5, iPadOS 16.5
|2023年5月18日
|[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-16_5-release-notes Safari 16.5 Release Notes]
|-
|16.6
|
|iOS 16.6, iPadOS 16.6
|2023年7月24日
|[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-16_6-release-notes Safari 16.6 Release Notes]
|-
! rowspan="3" |Safari 17
|17.0
|
|iOS 17, iPadOS 17
|2023年9月26日
|[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-17-release-notes Safari 17 Release Notes]
|-
|17.1
|
|iOS 17.1, iPadOS 17.1
|2023年10月25日
|[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-17_1-release-notes Safari 17.1 Release Notes]
|-
|17.2
|
|iOS 17.2, iPadOS 17.2
|2023年12月11日
|[https://developer.apple.com/documentation/safari-release-notes/safari-17_2-release-notes Safari 17.2 Release Notes] セキュリティアップデート<ref>{{Cite web |title=About the security content of Safari 17.2 |url=https://support.apple.com/ja-jp/HT214039 |website=Apple Support |date=2023-12-11 |access-date=2023-12-12 |language=ja}}</ref>
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 外部リンク ==
* {{Official website|https://www.apple.com/jp/safari/}}
{{Apple software}}
{{MacOS}}
{{iOS}}
{{ウェブブラウザ}}
{{デフォルトソート:Safari}}
[[Category:WebKitを用いたウェブブラウザ|Safari]]
[[Category:Appleのソフトウェア]]
[[Category:MacOS]]
[[Category:iOS]]
[[Category:RSS]]
[[Category:2003年のソフトウェア]] | 2003-02-19T08:27:08Z | 2023-12-21T09:46:47Z | false | false | false | [
"Template:IOS",
"Template:ウェブブラウザ",
"Template:Otheruses",
"Template:Infobox Software",
"Template:Cite web",
"Template:Apple software",
"Template:MacOS",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Cite news",
"Template:Official website"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Safari |
2,382 | 大日本帝国憲法 |
大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう、だいにっぽんていこくけんぽう、旧字体: 大日本帝󠄁國憲󠄁法)は、1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された日本の憲法 。
略して「帝国憲法」、明治に発布されたことから俗称として「明治憲法」とも。また、現行の日本国憲法との対比で旧憲法()とも呼ばれる。
東アジア初の近代憲法である。日本国憲法施行までの半世紀以上の間、一度も改正されることはなかった。1946年(昭和21年)5月16日に第73条の憲法改正手続による帝国議会の審議を経て、同年10月29日に枢密院が新憲法案を可決。日本国憲法が1946年(昭和21年)11月3日に公布、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。大日本帝国憲法の施行期間は、1890年(明治23年)11月29日から1947年(昭和22年)5月2日までの56ヶ年5ヶ月4日(20,608日)である。
日本では、明治初年に始まる明治維新により、さまざまな改革が行われ、旧来の国家体制は根本的に変更された。慶応3年10月14日(グレゴリオ暦1867年11月9日)、江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が明治天皇に統治権の返還を表明し、翌日、天皇はこれを勅許した(大政奉還)。同年12月9日(1868年1月3日)に江戸幕府は廃止され、新政府(明治政府)が設立された(王政復古)。新政府は天皇の官制大権を前提として近代的な官僚制の構築を目指した。これにより、日本は、封建的な幕藩体制に基づく代表的君主政から、近代的な官僚機構を擁する直接的君主政に移行した。大日本帝国憲法第10条は官制大権が天皇に属すると規定している。
明治2年6月17日(1869年7月25日)、「版籍奉還」がおこなわれ、諸侯(藩主)は土地と人民に対する統治権をすべて天皇に奉還した。これは、幕府や藩などの媒介なしに、天皇の下にある中央政府が直接に土地と人民を支配し、統治権(立法権・行政権・司法権の総称)を行使することを意味する。さらに、明治4年7月14日(1871年8月29日)には「廃藩置県」が行われ、名実共に藩は消滅し、国家権力が中央政府に集中された。大日本帝国憲法第1条および同第4条は、「国家の統治権は天皇が総攬する」と規定している。また、帝国議会の設立を規定し、法律案・予算案の審議権(協賛権)が与えられ天皇の立法権行使に参与し(大日本帝国憲法第5条)、司法権は行政権から独立して(大日本帝国憲法第57条)、三権分立が明文化された。
版籍奉還により各藩内の封建制は廃止され、人民が土地に縛り付けられることもなくなった。大日本帝国憲法第27条は臣民の財産権を保障し、同第22条は臣民の居住移転の自由を保障している。
新政府は版籍奉還と同時に、堂上公家と諸侯を華族といった爵位が授与された特権階級に、武士を士族に、足軽などを卒族に、その他の人民を平民として「大日本帝国臣民(日本国民)」を改組した。旧暦明治4年(1872年)には士族の公務を解いて職業選択の自由を与え、また大日本帝国憲法第19条によって平民も等しく公務就任権を規定した。明治5年(1872年)には徴兵制度を採用して国民皆兵となったため、士族による軍事的職業の独占は破られて武士の階級的な特権は廃止された。同第20条は兵役の義務を規定した。
税制については、江戸時代の農業者に負担の重い税制に代えて臣民全体の義務としての納税が大日本帝国憲法第21条に規定された。また新規に租税を課したり税率を変更したりする際には議会の協賛を経て法律に依ることという租税法律主義が採用された。
帝国議会(下院:「衆議院」と上院:「貴族院」の両院制)の開設に先立ち、1884年(明治17年)には「華族令」を定めて華族を「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の5爵の爵位に再編するとともに身分的特権を与えた。大日本帝国憲法第34条は華族の貴族院列席特権を規定した。
なお、現憲法と違って子女に教育を受けさせる義務・勤労の義務が入っていないが、教育については憲法制定に先立ち明治5年(1872年)の学制の序文において既に「必ず邑に不学の戸なく 家に不学の人なからしめん事を期す」と国民全体が就学すべきことを謳っている。
なお、明治5年(1872年)11月9日、太陰暦を廃し太陽暦を採用することの詔書が発せられ、太政官布告第337号により公布された。同年12月3日が明治6年1月1日となった。
「王政復古の大号令」によって設置された総裁・議定・参与の三職のうち、実務を担う参与の一員となった由利公正・福岡孝弟・木戸孝允らは、公議輿論の尊重と開国和親を基調とした新政府の基本方針を5か条にまとめた。慶応4年3月14日(1868年4月6日)、明治天皇がその実現を天地神明に誓ったのが五箇条の御誓文である。
政府は、この五箇条の御誓文に示された諸原則を具体化するため、同年閏4月21日(1868年6月11日)、政体書を公布して統治機構を改めた。すなわち、権力分立(三権分立)の考えを入れた七官を設置し、そのうちの一官を公議輿論の中心となる立法議事機関として議政官とすることなどを定めた。議政官は上局と下局に分かれ、上局は議定と参与で構成とし、下局は各藩の代表者1名から3名からなる貢士をその構成員とするものだった。しかし戊辰戦争終結の見通しがつき始めると、政府は公議輿論の尊重には消極的となり、結局同年9月に議政官は廃止されてしまった。
明治2年3月(1869年4月)には議事体裁取調所による調査を経て、新たに立法議事機関として公議所が設置された。これは各藩の代表者1名により構成されるもので、これが同年9月には集議院に改組される。明治4年7月14日(1871年8月29日)に廃藩置県が実施されると、同年には太政官官制が改革された。太政官は正院・左院・右院から成り、集議院は左院に置き換えられ、官撰の議員によって構成される立法議事機関となった。
1874年(明治7年)、前年の明治六年政変で征韓論の争議に敗れて下野した副島種臣・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らは連署により民撰議院設立建白書を左院に提出した。この建白書には、新たに官選ではなく民選の議員で構成される立法議事機関を開設し、有司専制(官僚による専制政治)を止めることが国家の維持と国威発揚に必要であると主張されていた。これを契機として薩長藩閥による政権運営に対する批判が噴出、これが自由民権運動となって盛り上がり、各地で政治結社が名乗りを上げた。さらにこの頃には各地で不平士族による反乱が頻発するようになり、日本の治安はきわめて悪化した。その代表的なものとしては、1874年(明治7年)の佐賀の乱、1876年(明治9年)の神風連の乱、1877年(明治10年)の西南戦争などが挙げられる。
1875年(明治8年)4月14日、立憲政体の詔書(漸次立憲政体樹立の詔)が渙発された。
すなわち、元老院、大審院、地方官会議を置き、段階的に立憲君主制に移行することを宣言したのである。これは、大久保利通や伊藤博文ら政府要人と、木戸孝允や板垣退助らの民権派が大阪に会して談判した大阪会議の結果だった。また地方の政情不安に対処するため、1878年(明治11年)には府県会規則を公布して各府県に民選の地方議会である府県会を設置した。これが日本で最初の民選議会となった。なお、地方官会議は、1874年(明治7年)にすでに定められていたが、台湾出兵が発生したため開催に至らず、元老院及び大審院の新設とともに初めて開催されることとなったものである。
1874年(明治7年)からの「自由民権運動」において、さまざまな憲法私案(私擬憲法)が各地で盛んに執筆された。しかし、政府はこれらの私擬憲法を持ち寄り議論することなく、大日本帝国憲法を起草したため、憲法に直接反映されることはなかった。政府は国民の言論と政治運動を弾圧するため、1875年(明治8年)の讒謗律、新聞紙条例、1880年(明治13年)の集会条例などさまざまな法令を定めた。1887年(明治20年)の保安条例では、民権運動家は東京より退去を強いられ、これを拒んだ者を拘束した。
私擬憲法の内容についてはさまざまな研究がある。政府による言論と政治活動の弾圧を背景として、人権に関する規定が詳細なことはおおむね共通する。天皇の地位に関してはいわれるほど差があるものではなかったとする意見がある。「自由民権家は皆明治維新を闘った尊皇家で、天皇の存在に国民の権利、利益の究極の擁護者の地位を仰ぎみていた」とするものである。例えば、草の根の人権憲法として名高い千葉卓三郎らの憲法草案(いわゆる五日市憲法)でも、天皇による天皇の神聖不可侵や立法行政司法の総轄、軍の統帥権を定めている点などは大日本帝国憲法と同様である。
1876年(明治9年)9月6日、明治天皇は「元老院議長有栖川宮熾仁親王へ国憲起草を命ずるの勅語」を発し、各国憲法を研究して憲法草案を起草せよと命じた。
元老院はこの諮問に応え、憲法取調局を設置し、同時に明法寮・司法省法学校やボアソナードらを中心に、治罪法(刑事訴訟法)や民法、共通法などの構築作業がフランスやベルギーの大陸法を基盤に置いて展開された。
これに対し、英語・ドイツ語圏の側は、1877年に日本赤十字社前身の博愛社を設立し、また駐ドイツ帝国公使青木周蔵は1878年10月、ドイツ人ヘルマン・ロエスレル(ロェスラー、Karl Friedrich Hermann Roesler)を日本に送り込み、1881年にはドイツ法の法学団体獨逸学協会を結成した。
1880年(明治13年)、元老院は「日本國憲按」(第三次)を成案として提出し、また、大蔵卿・大隈重信も「憲法意見」を提出した。しかし日本國憲按は皇帝の国憲遵守の誓約や議会の強権を定めるなど、ベルギー憲法(1831年)やドイツ帝国統一前のプロイセン王国憲法(ベルギー憲法を模範としたもの)(1850年)の影響を強く受けていたことから岩倉具視・伊藤博文らの反対に遭い、大隈の意見もまた採択されるに至らなかった。岩倉具視も天皇に意見書を奏上した。
1881年(明治14年)8月31日、伊藤博文を中心とする勢力は明治十四年の政変によって大隈重信を罷免し、その直後に御前会議を開いて国会開設を決定した。9月18日には主だった官僚や政治家をメンバーとする国策機関独逸学協会(Verein für die deutschen Wissenschaften, Society for German Sciences)を設立し、ドイツ帝国式立憲主義推進の立場を強めた。この協会には法律家のみならずドイツ人造船技術者レーマンなども参加していた。
その結果、10月12日に次のような「国会開設の勅諭」が発された。この勅諭では、第1に、1890年(明治23年)の国会(議会)開設を約束し、第2に、その組織や権限は政府に決めさせること(欽定憲法)を示し、第3に、これ以上の議論を止める政治休戦を説き、第四に内乱を企てる者は処罰すると警告している。この勅諭を発することにより、ドイツ勢力は政局の主導権を取った。
1882年(明治15年)3月、独逸学協会名誉会員であり参議の伊藤博文らは「在廷臣僚」として、政府の命をうけてヨーロッパに渡り、ドイツ帝国系立憲主義、ビスマルク憲法の理論と実際について調査を始めた。伊藤は、ベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイスト、ウィーン大学のロレンツ・フォン・シュタインの両学者から、「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強せよ」という助言をうけた。その結果、ドイツ帝国(プロイセン)の憲法体制が最も日本に適すると信ずるに至った(ただし、伊藤はプロイセン式を過度に評価する井上毅をたしなめるなど、そのままの移入を考慮していたわけではない。伊藤自身が本国に送った手紙では、グナイストは極右で付き合いきれないが、シュタインは自分に合った人物だと評している。翌1883年(明治16年)に伊藤らは帰国し、井上毅に憲法草案の起草を命じ、憲法取調局(翌年、制度取調局に改称)を設置するなど憲法制定と議会開設の準備を進めた。
その後、憲政実施のための準備行為として、次の改革が行われた。
なお、1886年(明治19年)年には、大審院長玉乃世履の在職中の自殺事件が起きるが、井上は、政府の法律顧問となったロエスレルやアルバート・モッセ(Albert Mosse)などの助言を得て憲法草案の起草作業を行った。
1887年(明治20年)5月に憲法草案(甲乙2案)を書き上げた。一方、伊藤の命を受けたロエスレルによる草案もほぼ同時期に作成された。こらの草案を元に、夏島(神奈川県横須賀市)にある伊藤の別荘で、伊藤、井上、伊東巳代治、金子堅太郎らが検討を重ね、夏島草案をまとめた。当初は東京で編集作業を行っていたが、伊藤が首相であったことからその業務に時間を割くことになってしまいスムーズな編集作業が出来なくなったことから、相州金沢(現:神奈川県横浜市金沢区)の東屋旅館に移り作業を継続、しかしメンバーが横浜へ外出している合間に書類を入れたカバンが盗まれる事件が発生、民権派の犯行も疑われたが、見つかったカバンからは金品のみなくなっていたことから空き巣であったとされる。そのため最終的には夏島に移っての作業になった。その後、夏島草案に修正が加えられ、1888年(明治21年)4月に成案をまとめた。その直後、伊藤は天皇の諮問機関として枢密院を設置し、自ら議長となってこの憲法草案の審議を行った。枢密院での審議は1889年(明治22年)1月に結了した。ロエスレルらの提出した「日本帝国憲法草案」のほとんどが司法大臣山田顕義の下で受け入れられた。
憲法制定にあたり明治天皇も侍従の藤波言忠をシュタインの下に派遣して彼の憲法説を学ばせ、藤波から皇后美子とともに全33回の講義を受けシュタイン流の憲法学と君主機関説を学んだ。この後、枢密院にて皇室典範と憲法の審議が開始されると明治天皇はその審議のほとんど全てに出席して修正条項は朱書して提出させ、理解できないところは伊藤枢密院議長に説明させた。以上のように大日本帝国憲法は憲法により天皇の権限を限定する当時最先端の君主機関説を反映したものであり、明治天皇自身もそのように理解していた。また明治天皇自身がこの憲法は自らが作った欽定憲法であると自負しており、板垣退助がドイツ憲法の真似だと批判したと聞いて怒ったと伝わる。
1889年(明治22年)2月11日、明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅」が出されるとともに大日本帝国憲法が発布され、国民に公表された。この憲法は天皇が黒田清隆首相に手渡すという欽定憲法の形で発布され、日本は東アジアで初めて近代憲法を有する立憲君主国家となった。また、同時に、皇室の家法である皇室典範も定められた。また、議院法、貴族院令、衆議院議員選挙法、会計法なども同時に定められた。大日本帝国憲法は第1回衆議院議員総選挙実施後の第1回帝国議会が開会された1890年(明治23年)11月29日に施行された。
国民は憲法の内容が発表される前から憲法発布に沸き立ち、至る所に奉祝門やイルミネーションが飾られ、提灯行列も催された。当時の自由民権家や新聞各紙も同様に大日本帝国憲法を高く評価し、憲法発布を祝った。自由民権家の高田早苗は「聞きしに優る良憲法」と高く評価した。
他方、福澤諭吉は主宰する『時事新報』の紙上で、「国乱」によらない憲法の発布と国会開設を驚き、好意を持って受け止めつつ、「そもそも西洋諸国に行はるる国会の起源またはその沿革を尋ぬるに、政府と人民相対し、人民の知力ようやく増進して君上の圧制を厭ひ、またこれに抵抗すべき実力を生じ、いやしくも政府をして民心を得さる限りは内治外交ともに意のごとくならざるより、やむを得ずして次第次第に政権を分与したることなれども、今の日本にはかかる人民あることなし」として、人民の精神の自立を伴わない憲法発布や政治参加に不安を抱いている。中江兆民もまた、「我々に授けられた憲法が果たしてどんなものか。玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。国民の愚かなるにして狂なる。何ぞ斯くの如きなるや」と書生の幸徳秋水に溜息をついている。
『読売新聞』は、憲法について十分理解していない市民がいることについて「折角憲法を拝受しながら其何たるをさへ弁へざる物少なからざる」「甚だしきに至ては憲法様の御迎に何処まで行くのかと問ひ憲法発布を絹布の法被を給わるが為なりと誤解する物ある」と指摘した。
井上毅は旧憲法施行の後は、条文解釈について御雇い外国人の法律顧問らから助言を受けていたとされている。1891年には、「憲法上の大権(統治大権、官制大権、任免大権、統帥大権、編制大権、外交大権、戒厳大権、非常大権)に基づく既定の歳出、及び法律の結果により、または法律上の政府の義務に関する歳出は、帝国議会は、政府の同意なくしては、これを排除しまたは削減することができない」(憲法67条)の解釈について、ロエスエルに回答を求めている。
との旨を答えられた。 しかるに、議決にはすでに効力がないとするのであれば、それは未だ一度も議決を経ていないということである。議決を経ない予算の款項は予算の草案に過ぎず、政府は予算の草案をもって、成立した(言い換えれば協賛を得た)予算としてこれを執行することができる、というのは法理において、やや穏当を欠くに似たものである。さらにご回答を煩わす。 二十四年一月
ロエスレルは、帝国議会に予算の決定権はないという旨とその理由を回答した。
1890年、民法・商法・民事訴訟法・刑事訴訟法公布。民法は民法典論争の後修正して1898年に施行。
1891年(明治24年)、司法権独立につき大津事件。
1935年(昭和10年)、憲法解釈を巡り天皇機関説事件。
1945年(昭和20年)8月、日本政府がポツダム宣言を受諾して終戦を迎えた(日本の降伏)。同宣言には、「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ」、「言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」などと定められたため、ダグラス・マッカーサー率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、大日本帝国憲法の改正を日本政府に求めた。政府は内閣の下に憲法問題調査委員会(委員長・松本烝治国務大臣、松本委員会)を設置して、憲法問題の審議にあたらせた。政府は松本委員会が要綱化した案を元に閣議で審議し、1946年(昭和21年)2月8日に「憲法改正要綱(松本試案)」として総司令部に提出した。この間、国民の間でも憲法改正論議は高まり、さまざまな憲法改正案が発表された。
政府による「松本試案」の提出に先立ち、2月1日付『毎日新聞』が「松本委員会試案」なるものをスクープした。スクープされたものは松本委員会の委員の一人である宮澤俊義が作成した試案であって、松本試案とは異なるものであった。そのため、政府もその報道された内容が政府案と異なるとする声明を発表した。しかし、総司令部はその記事内容が真正な松本委員会案であると判断した。総司令部はその記事に示された「松本委員会試案」は受け入れがたいと考え、自ら憲法改正案を作成し、日本政府に提示することを決定した。総司令部は、2月3日から13日にかけて、いわゆる「マッカーサー草案」をまとめた。
2月13日、総司令部は、松本国務大臣と吉田茂首相に対し、2月8日に提出された「松本試案」に対する回答として、「マッカーサー草案」を手渡した。政府は「松本試案」の再考を求めたもののいれられず、あらためて、「マッカーサー草案」に基づいて検討し直し、「日本側草案(3月2日案)」を作成した。政府は総司令部と折衝の上、3月6日に「憲法改正草案要綱(3月6日案)」を政府案として国民に公表した。この「憲法改正草案」は、一部改正方式(いわゆる改め文方式)ではなく、全部改正方式を採用していた。
この政府案を元に国民の間で広く議論が行われ、4月10日には第22回衆議院議員総選挙が行われた(もっとも、国民の最大の関心は新憲法より生活の安定にあった)。政府は、選挙が終了した4月17日に、要綱を条文化した「憲法改正草案」を公表した。4月22日から枢密院において憲法改正案が審査が開始され、6月8日に可決された。6月20日、政府は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に基づき、憲法改正案を衆議院に提出した。6月25日から衆議院において審議が開始され、若干の修正が加えられた後、8月24日に可決された。続けて、8月26日から貴族院において審議が開始され、ここでも若干の修正が加えられた後、10月6日に可決された。翌7日、衆議院は貴族院の修正に同意し、帝国議会での審議は結了した。憲法改正案はふたたび枢密院にはかられ、10月29日に可決された。天皇の裁可を経て、11月3日、大日本帝国憲法は改正され日本国憲法として公布され、翌1947年(昭和22年)5月3日に施行された。
大日本帝国憲法には、「内閣」「内閣総理大臣」の規定がない。これは、伊藤博文がグナイストの指導を受け入れ、プロイセン憲法(ビスマルク憲法、1871年)を下敷きにして新憲法を作ったからに他ならない。グナイストは伊藤に対して、「イギリスのような責任内閣制度を採用すべきではない。なぜなら、いつでも大臣の首を切れるような首相を作ると国王の権力が低下するからである。あくまでも行政権は国王や皇帝の権利であって、それを首相に譲ってはいけない」と助言した。この意見を採用した結果、戦前の日本は憲法上「内閣も首相も存在しない国」になったが、のちにこの欠陥に気づいた軍部が「陸海軍は天皇に直属する」という規定を盾に政府を無視して暴走することになった。
こうした欠陥が「統帥権干犯問題」の本質である。昭和に入るまでは明治維新の功労者である元勲が政軍両面を一元的に統制していたため問題が起きなかったが、元勲が相次いで死去するとこの問題が起きてきた。そしてさらに悪いことに、大日本帝国憲法を「不磨の大典」として条文の改正を不可能にする考え方があったことである。これによって昭和の悲劇が決定的になったと言える。
ビスマルク憲法のほうは大日本帝国憲法成立後の改正によって大臣解任権が議会に与えられたが、日本においては現在も事実上の大臣解任権を持つ議会(国会)や、独立の大臣等罷免審査の機関(憲法裁判所)が存在しない。
伊藤博文は議会制民主主義に付随する議院法については英国人顧問フランシス・テイラー・ピゴットの助言を求め、ピゴットは「貴族院議院の資格争訟判決には理由を付すよう」回答している。しかし、伊藤らはその助言内容に反し、憲法の公布から施行までの間の1890年10月11日、貴族院議員資格争訟裁判の審査内容を秘密化する法律「貴族院議員資格及選挙争訟判決規則」を設置した。
大日本帝国憲法の制定は、明治憲法起草者の意図としては、日本古来の伝統的な不文憲法(「立憲独裁制」)が成文化され「立憲君主制」に改正されたものであると解釈され、帝国憲法は欽定憲法という点で建国以来の国体と法的に連続し、江戸時代の武家政権から政体は変わったものの、天皇独裁という日本の政治体制の根幹(国体)は一貫して維持されてきたという結論と結びついたものと解釈されていた。
一方で日本国憲法の制定は大日本帝国憲法第73条の改正規定によって行われており、この条文によると、憲法改正は天皇が発議・裁可することになっており、実際、憲法改正の上諭文には、「朕は...憲法の改正を裁可し...」との記述(欽定憲法)がなされた。この表現が、日本国憲法前文の「日本国民は...この憲法を確定する」(民定憲法)の文言と矛盾することが一部学説で問題とされている。
憲法学の学説の一つに、憲法の基本原則(国体)を変更する憲法改正は法的に不可能であるとするものがある(憲法改正有限界説)。この学説では、憲法の「改正権」という概念は「制憲権」(憲法を制定する権利)なしには産み出されないものであり、改正によって、産みの親である制憲権の所在(すなわち主権者)を変更することは法的に許されないとする。
このため、これらの矛盾を説明するために「八月革命説」が主張されるようになった。この学説によれば帝国憲法に定められた改正手続きによって行われたのは便宜的・形式的なもので、実質的に日本国憲法は改正ではなく「新たに制定」されたものであり、両者の間の法的連続性は無いという解釈が取られる。
一方で、憲法改正無限界説においては、大日本帝国憲法には改正限界を規定する条文は存在しておらず、大日本帝国憲法第73条の規定にのっとり改正された以上、憲法改正は正当であるとし、法的連続性は存在するとする。
なお、各国の憲法の中には「憲法改正の限界」を憲法に明記しているものが存在する(戦う民主主義を参照)。
大日本帝国憲法は、第73条に定める改正手続を経て全面改正され、日本国憲法となる。日本国憲法は1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。
大日本帝国憲法の下で成立した法令は、日本国憲法98条1項により、「その条規に反する」ものについて同時に失効している。また、同条の反対解釈により、日本国憲法の条規に反しない法令は、日本国憲法の施行日以降も効力を有する。効力を有する場合、法律は法律として扱われ、閣令は内閣府令として、省令は省令として扱われる。勅令は、法律事項を内容とするものは暫定的効力を認めた後失効させ、法律事項以外を内容とするものは政令として扱われた。物価統制令などのいわゆるポツダム勅令(ポツダム命令)の一部については占領政策の終了に伴い法令等に存廃措置されている(詳しくはポツダム命令#現在も効力を有する「ポツダム命令」)。
この憲法は立憲主義の要素と国体の要素をあわせもつ欽定憲法であり、立憲主義によって議会制度が定められ、国体によって議会の権限が制限された。一方、大日本帝国憲法第8条により、議会は天皇が発布した緊急勅令については効力停止にすることもできた。日本国憲法成立後は、憲法学者らによって外見的立憲主義、王権神授説的と評された。
大日本帝国憲法は7章76条からなる。構成は以下の通り。初期のビスマルク憲法と同様に内閣及び首相に関する規程がない(なおビスマルク憲法のほうは、後になって議会に大臣解任権が与えられた)。なお、既存項目が存在する条文のみ列挙した。全文はウィキソースの大日本帝國憲法を参照のこと。
立憲主義の要素としては次の諸点がある。
言論の自由・結社の自由や信書の秘密など臣民の権利が法律の留保のもとで保障されていること(第2章)。
これらの権利は天皇から臣民に与えられた「恩恵的権利」としてその享有が保障されていた。日本国憲法ではこれらの権利を永久不可侵の「基本的人権」と規定する。また、権利制限の根拠は、「法律ニ定メタル場合」、「法律ノ範囲内」などのいわゆる「法律の留保」、あるいは「安寧秩序」に求められた。この点も、基本的人権の制約を「公共の福祉」に求める日本国憲法とは異なる。ただし、現憲法の「公共の福祉」による制限も法律による人権の制限の一種であり、現在、教育の現場で解説されるような、「旧憲法のそれは非常に制限的であり、現憲法のそれは開放的である」とする程の本質的な差はないとする意見もある(ただし、比較的な傾向としては肯定する)。その立場からは、「人権が上位法の憲法典の形で明文で保障された」点に第一の意義があり、また内容としては当時においてはかなり先進的なものであったとする。
帝国議会を開設し、貴族院は皇族華族及び勅任議員からなり、衆議院は公選された議員からなること(第3章)。
帝国議会は法律の協賛(同意)権を持ち、臣民の権利・義務など法律の留保が付された事項は帝国議会の同意がなければ改変できなかった。また、帝国議会は予算協賛権を有し、予算審議を通じて行政を監督する力を持った。衆議院が予算先議権を持つ以外は、貴衆両院は対等とされた。上奏権や建議権も限定付きながら与えられた(最終的には天皇の裁可と国務大臣の副署が必要であったが、建議権を通じた事実上の政策への関与が可能とされた)。
議会は緊急勅令については次󠄁の会期において効力を停止させることができた(第8条2項)。
天皇の行政大権の行使に国務大臣の輔弼(天皇が権能を行使するに際し、助言を与える事)を必要とする体制(大臣責任制または大臣助言制)を定めたこと(第4章)。
内閣や内閣総理大臣に関する規定は憲法典ではなく内閣官制に定められた。内閣総理大臣は国務大臣の首班ではあるものの同輩中の首席とされ、国務大臣(各省大臣)に対する任免権がないため、明文上の権限は強くない。しかし、内閣総理大臣は各部総督権を有して大政の方向を指示するために機務奏宣権(天皇に裁可を求める奏請権と天皇の裁可を宣下する権限)と国務大臣の奏薦権(天皇に任命を奏請する権限)を有したため、実質的な権限は大きかった。
司法権の独立を確立したこと。
司法権は天皇から裁判所に委任された形をとり、これが司法権の独立を意味していた。また、欧州大陸型の司法制度を採用し、行政訴訟の管轄は司法裁判所にはなく行政裁判所の管轄に属していた。この根拠については伊藤博文著の『憲法義解』によると、行政権もまた司法権からの独立を要することに基づくとされている。
国体の要素としては次の諸点が挙げられる。
「天壌無窮の神勅」
日本書紀に書かれた、天照大神が孫のニニギノミコトに言ったという言葉。
「葦原千五百秋之瑞穗國、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣。寶祚之隆、當與天壤無窮者矣。」
「葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、是れ、吾が子孫の王たるへき地なり。宣しく爾皇孫(すめみま)就(ゆ)きて治(しら)せ。行(さまく)矣(ませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさんこと、当に天壌(あまつち)と窮り無けむ。」
大日本帝国憲法では皇室の永続性が皇室の正統性の証拠であることを強調していた。『告文』(憲法前文)には以下のような文章がある。
そして、憲法第1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定されたのである。近代的な政治文書で「万世一系」のような詩的な文言が用いられたのはこれが初めてである。「万世一系」のフレーズは公式のイデオロギーの中心となった。学校や兵舎でも公式な告知や発表文でも広く使われて周知されていった。
「天壌無窮ノ宏謨(てんじょうむきゅうのこうぼ)」(御告文)という皇祖皇宗の意思を受け、天皇が継承した「国家統治ノ大権」(上諭)に基づき、天皇を国の元首、統治権の総攬者としての地位に置いた。この天皇が日本を統治する体制を国体という。
天皇統治の正当性を根拠付ける国体論は、大きく二つに分けられる。一つは起草者の一人である井上毅らが主唱する国体論(『シラス』国体論)であり、もう一つは、後に、高山樗牛、井上哲次郎らが主唱した国体論(家秩序的国体論)である。井上らの国体論は、古事記神話に基づいて公私を峻別し、天皇は公的な統治を行う(シラス)ものであって、他の土豪や人民が行う私的な所有権の行使(ウシハク)とは異なるとする(井上「古言」)。これに対して、高山らの国体論は、当時、広く浸透していた「家」を中心とする国民意識に基づき、「皇室は宗家にして臣民は末族なり」とし、宗家の家長たる天皇による日本(=「君臣一家」)の統治権を正当化する(高山「我国体と新版図」、『太陽』3巻22号)。憲法制定当初は井上らの国体論を基礎的原理とした。しかし、日清戦争後は高山らの国体論が徐々に浸透してゆき、天皇機関説事件以後は、「君民一体の一大家族国家」(文部省「国体の本義」)として、ほぼ国定の解釈となった。
天皇が天皇大権と呼ばれる広範な権限を有したこと。
特に、独立命令による法規の制定(9条)、条約の締結(13条)の権限を議会の制約を受けずに行使できるのは他の立憲君主国に類例がなかった。なお、天皇の権限といっても、運用上は天皇が単独で権限を行使することはなく、内閣(内閣総理大臣)が天皇の了解を得て決断を下す状態が常であった。
立法権を有するのは天皇であり、帝国議会は立法機関ではなく立法協賛機関とされた。
立法権を有するのは天皇であるが、法律の制定には、帝国議会の協賛を得たうえで天皇の裁可を要するものとされた。同時代の君主国憲法の多くが立法権を君主と国会が共有する権能としていたことと比すると特異な立法例であるといえるが、帝国議会の協賛がなければ法律を制定することができないこと、帝国議会が可決した法律案を天皇が裁可しなかったことは一度もなかったことから、事実上、帝国議会が唯一の立法機関であった。ただし、例外として、天皇には、緊急勅令や独立命令を発する権限など、実質的な立法に関する権限が留保された(ただし議会は緊急勅令については効力を停止することももできた)。また、憲法改正の発案権は天皇のみにあり、帝国議会にはなかった。
さらに、帝国議会の一院に公選されない貴族院を置き、衆議院とほぼ同等の権限を持たせた。
また、枢密院など内閣を掣肘する議会外機関を置いたこと。このほか、元老、重臣会議、御前会議など法令に規定されない役職や機関が多数置かれた。
統帥権を独立させ、大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍は議会(立法府)や政府・内閣(行政府)に対し、一切責任を負わないものとされた。
統帥権は慣習法的に軍令機関(陸軍参謀本部・海軍軍令部)の専権とされ、文民統制(シビリアン・コントロール)の概念に欠けていた。元来は政争の道具として軍が使われないようにと元勲が企図したものだが、統帥権に基づいて軍令機関は帷幄上奏権を有すると解し、軍部大臣現役武官制とともに軍部の政治力の源泉となった。後に、昭和に入ってから、軍部が大きくこれを利用し、陸海軍は大元帥である天皇から直接統帥を受けるのであって政府の指示に従う必要はないとして、満州事変などにおいて政府の決定を無視した行動を取るなどその勢力を誇示した。
皇室自律主義を採り、皇室典範などの重要な憲法的規律を憲法典から分離し、議会に関与させなかったこと。
宮中(皇室、宮内省、内大臣府)と府中(政府)の別が原則とされ、互いに干渉しあわないこととされた。もっとも、宮中の事務をつかさどる内大臣が内閣総理大臣の選定に関わるなど大きな政治的役割を担い、しばしば宮中から府中への線は踏み越えられた。
本憲法の統治構造は、国務大臣や帝国議会、裁判所、枢密院、陸海軍などの国家機関が各々独立して天皇に輔弼ないし協賛の責任を持つという形をとっており、必然的にどの国家機関も他に優越することはできなかった(分立主義)。そして、実際には天皇が能動的に統治行為を行わない以上(機務六条)、権力の分立を避けるために憲法外に実質的な統合者(元老など)を必要としていた。
この問題は「統治構造の割拠性」といわれる。「明治憲法体制下においては、天皇は、親政をとらず、内閣等の輔弼に従って名目的な統括者として権力を行使する存在であった」「各輔弼機関は分立的・割拠的であったため、その調整は事実上、元老に委ねられていたが、元老の消滅に伴い、実質的な統治の中心が不在となってしまった」「戦前の統治構造における割拠性については改めて言及するまでもなかろう。明治22年の内閣官制、非連帯責任制の採用、統帥権の独立、枢密院・貴族院の存在等々、幾多の障壁が内閣の一体性の確保を阻害していた」のである。
そしてこの、権力が割拠し、意思決定中枢を欠くという問題を解決するために、権力の統合を進めようとする動きがあった。政党内閣制はその試みのうちの有力なものである。しかし、そういった動きに対しては、天皇主権を否定し、「幕府的存在」を作ることになるとの反発などもあり(例:内閣官制における大宰相主義の否定、大政翼賛会違憲論など)、ついに解消されることはなかった。
当時、欧米諸国以外で立憲政治を実現した国はなかった。1876年にオスマン帝国(トルコ)がオスマン帝国憲法を制定し立憲政治を始めたが、わずか2年で憲法停止・議会解散に追い込まれていた。(ただし清には科挙制度など比較的民主的な制度が存在した)。
明治維新後の日本は不平等条約を改正し、欧米列強と対等の関係を築くために近代的憲法を必要としていたため、民間の憲法案も多数発表されたが、憲法起草の中心になった伊藤博文にいわせれば、「実に英、米、仏の自由過激論者の著述のみを金科玉条のごとく誤信し、ほとんど国家を傾けんとする勢い」であった。
また、一部の保守派には絶対君主制を目指す動きがあった。伊藤はビスマルク憲法が日本の現状に適合しているとして憲法制定を推進した。それまで日本は幕藩体制の中でばらばらの状況であり、一つの国家と国民という結びつきができていなかった。そのために、天皇を中心として国民を一つにまとめる反面、議会に力を持たせ、バランスの取れた憲法を制定する必要があった。
憲法の起草は、夏島(現在の神奈川県横須賀市夏島町)の伊藤博文別荘を本拠に、1887年(明治20年)6月4日ごろから行われた。伊藤の別荘は手狭だったことから、事務所として料理旅館の「東屋」(現在の神奈川県横浜市金沢区)を当初は用いていた。しかし、8月6日、伊藤らが横浜へ娯遊中に泥棒が入り、草案の入った鞄が盗難にあったことから、その後は伊藤別荘で作業が進められた。鞄は後に近くの畑でみつかり、草案は無事だったという(脚注を参照)。
東屋には、憲法ゆかりの地であることを記念して、1935年(昭和10年)に、起草メンバーの一人であった金子堅太郎書による「憲法草創の処」の碑が建てられた。その後、東屋は廃業し、一時的に、野島公園(同区)に碑も移転したが、現在は東屋跡地に近い洲崎広場に設置されている。
なお、夏島にあった伊藤の別荘は、後に、小田原に移築され、関東大震災(大正関東地震)で焼失しているため現存しない。夏島の跡地には明治憲法起草地記念碑が建てられている。また、のちに、伊藤が建てた別荘が野島に残っている(伊藤博文記念館)。
大日本帝国憲法が公布された2月11日は「紀元節」(1873年制定、1948年廃止)で、同日は現在も「建国記念の日」として国民の祝日である。
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"text": "大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう、だいにっぽんていこくけんぽう、旧字体: 大日本帝󠄁國憲󠄁法)は、1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された日本の憲法 。",
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"text": "東アジア初の近代憲法である。日本国憲法施行までの半世紀以上の間、一度も改正されることはなかった。1946年(昭和21年)5月16日に第73条の憲法改正手続による帝国議会の審議を経て、同年10月29日に枢密院が新憲法案を可決。日本国憲法が1946年(昭和21年)11月3日に公布、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。大日本帝国憲法の施行期間は、1890年(明治23年)11月29日から1947年(昭和22年)5月2日までの56ヶ年5ヶ月4日(20,608日)である。",
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"text": "日本では、明治初年に始まる明治維新により、さまざまな改革が行われ、旧来の国家体制は根本的に変更された。慶応3年10月14日(グレゴリオ暦1867年11月9日)、江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が明治天皇に統治権の返還を表明し、翌日、天皇はこれを勅許した(大政奉還)。同年12月9日(1868年1月3日)に江戸幕府は廃止され、新政府(明治政府)が設立された(王政復古)。新政府は天皇の官制大権を前提として近代的な官僚制の構築を目指した。これにより、日本は、封建的な幕藩体制に基づく代表的君主政から、近代的な官僚機構を擁する直接的君主政に移行した。大日本帝国憲法第10条は官制大権が天皇に属すると規定している。",
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"text": "明治2年6月17日(1869年7月25日)、「版籍奉還」がおこなわれ、諸侯(藩主)は土地と人民に対する統治権をすべて天皇に奉還した。これは、幕府や藩などの媒介なしに、天皇の下にある中央政府が直接に土地と人民を支配し、統治権(立法権・行政権・司法権の総称)を行使することを意味する。さらに、明治4年7月14日(1871年8月29日)には「廃藩置県」が行われ、名実共に藩は消滅し、国家権力が中央政府に集中された。大日本帝国憲法第1条および同第4条は、「国家の統治権は天皇が総攬する」と規定している。また、帝国議会の設立を規定し、法律案・予算案の審議権(協賛権)が与えられ天皇の立法権行使に参与し(大日本帝国憲法第5条)、司法権は行政権から独立して(大日本帝国憲法第57条)、三権分立が明文化された。",
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"text": "版籍奉還により各藩内の封建制は廃止され、人民が土地に縛り付けられることもなくなった。大日本帝国憲法第27条は臣民の財産権を保障し、同第22条は臣民の居住移転の自由を保障している。",
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"text": "新政府は版籍奉還と同時に、堂上公家と諸侯を華族といった爵位が授与された特権階級に、武士を士族に、足軽などを卒族に、その他の人民を平民として「大日本帝国臣民(日本国民)」を改組した。旧暦明治4年(1872年)には士族の公務を解いて職業選択の自由を与え、また大日本帝国憲法第19条によって平民も等しく公務就任権を規定した。明治5年(1872年)には徴兵制度を採用して国民皆兵となったため、士族による軍事的職業の独占は破られて武士の階級的な特権は廃止された。同第20条は兵役の義務を規定した。",
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"text": "税制については、江戸時代の農業者に負担の重い税制に代えて臣民全体の義務としての納税が大日本帝国憲法第21条に規定された。また新規に租税を課したり税率を変更したりする際には議会の協賛を経て法律に依ることという租税法律主義が採用された。",
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"text": "帝国議会(下院:「衆議院」と上院:「貴族院」の両院制)の開設に先立ち、1884年(明治17年)には「華族令」を定めて華族を「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の5爵の爵位に再編するとともに身分的特権を与えた。大日本帝国憲法第34条は華族の貴族院列席特権を規定した。",
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"text": "なお、現憲法と違って子女に教育を受けさせる義務・勤労の義務が入っていないが、教育については憲法制定に先立ち明治5年(1872年)の学制の序文において既に「必ず邑に不学の戸なく 家に不学の人なからしめん事を期す」と国民全体が就学すべきことを謳っている。",
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"text": "なお、明治5年(1872年)11月9日、太陰暦を廃し太陽暦を採用することの詔書が発せられ、太政官布告第337号により公布された。同年12月3日が明治6年1月1日となった。",
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"text": "「王政復古の大号令」によって設置された総裁・議定・参与の三職のうち、実務を担う参与の一員となった由利公正・福岡孝弟・木戸孝允らは、公議輿論の尊重と開国和親を基調とした新政府の基本方針を5か条にまとめた。慶応4年3月14日(1868年4月6日)、明治天皇がその実現を天地神明に誓ったのが五箇条の御誓文である。",
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"text": "政府は、この五箇条の御誓文に示された諸原則を具体化するため、同年閏4月21日(1868年6月11日)、政体書を公布して統治機構を改めた。すなわち、権力分立(三権分立)の考えを入れた七官を設置し、そのうちの一官を公議輿論の中心となる立法議事機関として議政官とすることなどを定めた。議政官は上局と下局に分かれ、上局は議定と参与で構成とし、下局は各藩の代表者1名から3名からなる貢士をその構成員とするものだった。しかし戊辰戦争終結の見通しがつき始めると、政府は公議輿論の尊重には消極的となり、結局同年9月に議政官は廃止されてしまった。",
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"text": "明治2年3月(1869年4月)には議事体裁取調所による調査を経て、新たに立法議事機関として公議所が設置された。これは各藩の代表者1名により構成されるもので、これが同年9月には集議院に改組される。明治4年7月14日(1871年8月29日)に廃藩置県が実施されると、同年には太政官官制が改革された。太政官は正院・左院・右院から成り、集議院は左院に置き換えられ、官撰の議員によって構成される立法議事機関となった。",
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"text": "1874年(明治7年)、前年の明治六年政変で征韓論の争議に敗れて下野した副島種臣・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らは連署により民撰議院設立建白書を左院に提出した。この建白書には、新たに官選ではなく民選の議員で構成される立法議事機関を開設し、有司専制(官僚による専制政治)を止めることが国家の維持と国威発揚に必要であると主張されていた。これを契機として薩長藩閥による政権運営に対する批判が噴出、これが自由民権運動となって盛り上がり、各地で政治結社が名乗りを上げた。さらにこの頃には各地で不平士族による反乱が頻発するようになり、日本の治安はきわめて悪化した。その代表的なものとしては、1874年(明治7年)の佐賀の乱、1876年(明治9年)の神風連の乱、1877年(明治10年)の西南戦争などが挙げられる。",
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"text": "1875年(明治8年)4月14日、立憲政体の詔書(漸次立憲政体樹立の詔)が渙発された。",
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"text": "すなわち、元老院、大審院、地方官会議を置き、段階的に立憲君主制に移行することを宣言したのである。これは、大久保利通や伊藤博文ら政府要人と、木戸孝允や板垣退助らの民権派が大阪に会して談判した大阪会議の結果だった。また地方の政情不安に対処するため、1878年(明治11年)には府県会規則を公布して各府県に民選の地方議会である府県会を設置した。これが日本で最初の民選議会となった。なお、地方官会議は、1874年(明治7年)にすでに定められていたが、台湾出兵が発生したため開催に至らず、元老院及び大審院の新設とともに初めて開催されることとなったものである。",
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"text": "1874年(明治7年)からの「自由民権運動」において、さまざまな憲法私案(私擬憲法)が各地で盛んに執筆された。しかし、政府はこれらの私擬憲法を持ち寄り議論することなく、大日本帝国憲法を起草したため、憲法に直接反映されることはなかった。政府は国民の言論と政治運動を弾圧するため、1875年(明治8年)の讒謗律、新聞紙条例、1880年(明治13年)の集会条例などさまざまな法令を定めた。1887年(明治20年)の保安条例では、民権運動家は東京より退去を強いられ、これを拒んだ者を拘束した。",
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"text": "私擬憲法の内容についてはさまざまな研究がある。政府による言論と政治活動の弾圧を背景として、人権に関する規定が詳細なことはおおむね共通する。天皇の地位に関してはいわれるほど差があるものではなかったとする意見がある。「自由民権家は皆明治維新を闘った尊皇家で、天皇の存在に国民の権利、利益の究極の擁護者の地位を仰ぎみていた」とするものである。例えば、草の根の人権憲法として名高い千葉卓三郎らの憲法草案(いわゆる五日市憲法)でも、天皇による天皇の神聖不可侵や立法行政司法の総轄、軍の統帥権を定めている点などは大日本帝国憲法と同様である。",
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"text": "1876年(明治9年)9月6日、明治天皇は「元老院議長有栖川宮熾仁親王へ国憲起草を命ずるの勅語」を発し、各国憲法を研究して憲法草案を起草せよと命じた。",
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"text": "元老院はこの諮問に応え、憲法取調局を設置し、同時に明法寮・司法省法学校やボアソナードらを中心に、治罪法(刑事訴訟法)や民法、共通法などの構築作業がフランスやベルギーの大陸法を基盤に置いて展開された。",
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"text": "これに対し、英語・ドイツ語圏の側は、1877年に日本赤十字社前身の博愛社を設立し、また駐ドイツ帝国公使青木周蔵は1878年10月、ドイツ人ヘルマン・ロエスレル(ロェスラー、Karl Friedrich Hermann Roesler)を日本に送り込み、1881年にはドイツ法の法学団体獨逸学協会を結成した。",
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"text": "1880年(明治13年)、元老院は「日本國憲按」(第三次)を成案として提出し、また、大蔵卿・大隈重信も「憲法意見」を提出した。しかし日本國憲按は皇帝の国憲遵守の誓約や議会の強権を定めるなど、ベルギー憲法(1831年)やドイツ帝国統一前のプロイセン王国憲法(ベルギー憲法を模範としたもの)(1850年)の影響を強く受けていたことから岩倉具視・伊藤博文らの反対に遭い、大隈の意見もまた採択されるに至らなかった。岩倉具視も天皇に意見書を奏上した。",
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"text": "1881年(明治14年)8月31日、伊藤博文を中心とする勢力は明治十四年の政変によって大隈重信を罷免し、その直後に御前会議を開いて国会開設を決定した。9月18日には主だった官僚や政治家をメンバーとする国策機関独逸学協会(Verein für die deutschen Wissenschaften, Society for German Sciences)を設立し、ドイツ帝国式立憲主義推進の立場を強めた。この協会には法律家のみならずドイツ人造船技術者レーマンなども参加していた。",
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"text": "その結果、10月12日に次のような「国会開設の勅諭」が発された。この勅諭では、第1に、1890年(明治23年)の国会(議会)開設を約束し、第2に、その組織や権限は政府に決めさせること(欽定憲法)を示し、第3に、これ以上の議論を止める政治休戦を説き、第四に内乱を企てる者は処罰すると警告している。この勅諭を発することにより、ドイツ勢力は政局の主導権を取った。",
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"text": "1882年(明治15年)3月、独逸学協会名誉会員であり参議の伊藤博文らは「在廷臣僚」として、政府の命をうけてヨーロッパに渡り、ドイツ帝国系立憲主義、ビスマルク憲法の理論と実際について調査を始めた。伊藤は、ベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイスト、ウィーン大学のロレンツ・フォン・シュタインの両学者から、「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強せよ」という助言をうけた。その結果、ドイツ帝国(プロイセン)の憲法体制が最も日本に適すると信ずるに至った(ただし、伊藤はプロイセン式を過度に評価する井上毅をたしなめるなど、そのままの移入を考慮していたわけではない。伊藤自身が本国に送った手紙では、グナイストは極右で付き合いきれないが、シュタインは自分に合った人物だと評している。翌1883年(明治16年)に伊藤らは帰国し、井上毅に憲法草案の起草を命じ、憲法取調局(翌年、制度取調局に改称)を設置するなど憲法制定と議会開設の準備を進めた。",
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"text": "その後、憲政実施のための準備行為として、次の改革が行われた。",
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"text": "1887年(明治20年)5月に憲法草案(甲乙2案)を書き上げた。一方、伊藤の命を受けたロエスレルによる草案もほぼ同時期に作成された。こらの草案を元に、夏島(神奈川県横須賀市)にある伊藤の別荘で、伊藤、井上、伊東巳代治、金子堅太郎らが検討を重ね、夏島草案をまとめた。当初は東京で編集作業を行っていたが、伊藤が首相であったことからその業務に時間を割くことになってしまいスムーズな編集作業が出来なくなったことから、相州金沢(現:神奈川県横浜市金沢区)の東屋旅館に移り作業を継続、しかしメンバーが横浜へ外出している合間に書類を入れたカバンが盗まれる事件が発生、民権派の犯行も疑われたが、見つかったカバンからは金品のみなくなっていたことから空き巣であったとされる。そのため最終的には夏島に移っての作業になった。その後、夏島草案に修正が加えられ、1888年(明治21年)4月に成案をまとめた。その直後、伊藤は天皇の諮問機関として枢密院を設置し、自ら議長となってこの憲法草案の審議を行った。枢密院での審議は1889年(明治22年)1月に結了した。ロエスレルらの提出した「日本帝国憲法草案」のほとんどが司法大臣山田顕義の下で受け入れられた。",
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"text": "憲法制定にあたり明治天皇も侍従の藤波言忠をシュタインの下に派遣して彼の憲法説を学ばせ、藤波から皇后美子とともに全33回の講義を受けシュタイン流の憲法学と君主機関説を学んだ。この後、枢密院にて皇室典範と憲法の審議が開始されると明治天皇はその審議のほとんど全てに出席して修正条項は朱書して提出させ、理解できないところは伊藤枢密院議長に説明させた。以上のように大日本帝国憲法は憲法により天皇の権限を限定する当時最先端の君主機関説を反映したものであり、明治天皇自身もそのように理解していた。また明治天皇自身がこの憲法は自らが作った欽定憲法であると自負しており、板垣退助がドイツ憲法の真似だと批判したと聞いて怒ったと伝わる。",
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"text": "1889年(明治22年)2月11日、明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅」が出されるとともに大日本帝国憲法が発布され、国民に公表された。この憲法は天皇が黒田清隆首相に手渡すという欽定憲法の形で発布され、日本は東アジアで初めて近代憲法を有する立憲君主国家となった。また、同時に、皇室の家法である皇室典範も定められた。また、議院法、貴族院令、衆議院議員選挙法、会計法なども同時に定められた。大日本帝国憲法は第1回衆議院議員総選挙実施後の第1回帝国議会が開会された1890年(明治23年)11月29日に施行された。",
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"text": "国民は憲法の内容が発表される前から憲法発布に沸き立ち、至る所に奉祝門やイルミネーションが飾られ、提灯行列も催された。当時の自由民権家や新聞各紙も同様に大日本帝国憲法を高く評価し、憲法発布を祝った。自由民権家の高田早苗は「聞きしに優る良憲法」と高く評価した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "他方、福澤諭吉は主宰する『時事新報』の紙上で、「国乱」によらない憲法の発布と国会開設を驚き、好意を持って受け止めつつ、「そもそも西洋諸国に行はるる国会の起源またはその沿革を尋ぬるに、政府と人民相対し、人民の知力ようやく増進して君上の圧制を厭ひ、またこれに抵抗すべき実力を生じ、いやしくも政府をして民心を得さる限りは内治外交ともに意のごとくならざるより、やむを得ずして次第次第に政権を分与したることなれども、今の日本にはかかる人民あることなし」として、人民の精神の自立を伴わない憲法発布や政治参加に不安を抱いている。中江兆民もまた、「我々に授けられた憲法が果たしてどんなものか。玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。国民の愚かなるにして狂なる。何ぞ斯くの如きなるや」と書生の幸徳秋水に溜息をついている。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "『読売新聞』は、憲法について十分理解していない市民がいることについて「折角憲法を拝受しながら其何たるをさへ弁へざる物少なからざる」「甚だしきに至ては憲法様の御迎に何処まで行くのかと問ひ憲法発布を絹布の法被を給わるが為なりと誤解する物ある」と指摘した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "井上毅は旧憲法施行の後は、条文解釈について御雇い外国人の法律顧問らから助言を受けていたとされている。1891年には、「憲法上の大権(統治大権、官制大権、任免大権、統帥大権、編制大権、外交大権、戒厳大権、非常大権)に基づく既定の歳出、及び法律の結果により、または法律上の政府の義務に関する歳出は、帝国議会は、政府の同意なくしては、これを排除しまたは削減することができない」(憲法67条)の解釈について、ロエスエルに回答を求めている。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "との旨を答えられた。 しかるに、議決にはすでに効力がないとするのであれば、それは未だ一度も議決を経ていないということである。議決を経ない予算の款項は予算の草案に過ぎず、政府は予算の草案をもって、成立した(言い換えれば協賛を得た)予算としてこれを執行することができる、というのは法理において、やや穏当を欠くに似たものである。さらにご回答を煩わす。 二十四年一月",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ロエスレルは、帝国議会に予算の決定権はないという旨とその理由を回答した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1890年、民法・商法・民事訴訟法・刑事訴訟法公布。民法は民法典論争の後修正して1898年に施行。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1891年(明治24年)、司法権独立につき大津事件。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1935年(昭和10年)、憲法解釈を巡り天皇機関説事件。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1945年(昭和20年)8月、日本政府がポツダム宣言を受諾して終戦を迎えた(日本の降伏)。同宣言には、「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ」、「言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」などと定められたため、ダグラス・マッカーサー率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、大日本帝国憲法の改正を日本政府に求めた。政府は内閣の下に憲法問題調査委員会(委員長・松本烝治国務大臣、松本委員会)を設置して、憲法問題の審議にあたらせた。政府は松本委員会が要綱化した案を元に閣議で審議し、1946年(昭和21年)2月8日に「憲法改正要綱(松本試案)」として総司令部に提出した。この間、国民の間でも憲法改正論議は高まり、さまざまな憲法改正案が発表された。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "政府による「松本試案」の提出に先立ち、2月1日付『毎日新聞』が「松本委員会試案」なるものをスクープした。スクープされたものは松本委員会の委員の一人である宮澤俊義が作成した試案であって、松本試案とは異なるものであった。そのため、政府もその報道された内容が政府案と異なるとする声明を発表した。しかし、総司令部はその記事内容が真正な松本委員会案であると判断した。総司令部はその記事に示された「松本委員会試案」は受け入れがたいと考え、自ら憲法改正案を作成し、日本政府に提示することを決定した。総司令部は、2月3日から13日にかけて、いわゆる「マッカーサー草案」をまとめた。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2月13日、総司令部は、松本国務大臣と吉田茂首相に対し、2月8日に提出された「松本試案」に対する回答として、「マッカーサー草案」を手渡した。政府は「松本試案」の再考を求めたもののいれられず、あらためて、「マッカーサー草案」に基づいて検討し直し、「日本側草案(3月2日案)」を作成した。政府は総司令部と折衝の上、3月6日に「憲法改正草案要綱(3月6日案)」を政府案として国民に公表した。この「憲法改正草案」は、一部改正方式(いわゆる改め文方式)ではなく、全部改正方式を採用していた。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "この政府案を元に国民の間で広く議論が行われ、4月10日には第22回衆議院議員総選挙が行われた(もっとも、国民の最大の関心は新憲法より生活の安定にあった)。政府は、選挙が終了した4月17日に、要綱を条文化した「憲法改正草案」を公表した。4月22日から枢密院において憲法改正案が審査が開始され、6月8日に可決された。6月20日、政府は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に基づき、憲法改正案を衆議院に提出した。6月25日から衆議院において審議が開始され、若干の修正が加えられた後、8月24日に可決された。続けて、8月26日から貴族院において審議が開始され、ここでも若干の修正が加えられた後、10月6日に可決された。翌7日、衆議院は貴族院の修正に同意し、帝国議会での審議は結了した。憲法改正案はふたたび枢密院にはかられ、10月29日に可決された。天皇の裁可を経て、11月3日、大日本帝国憲法は改正され日本国憲法として公布され、翌1947年(昭和22年)5月3日に施行された。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "大日本帝国憲法には、「内閣」「内閣総理大臣」の規定がない。これは、伊藤博文がグナイストの指導を受け入れ、プロイセン憲法(ビスマルク憲法、1871年)を下敷きにして新憲法を作ったからに他ならない。グナイストは伊藤に対して、「イギリスのような責任内閣制度を採用すべきではない。なぜなら、いつでも大臣の首を切れるような首相を作ると国王の権力が低下するからである。あくまでも行政権は国王や皇帝の権利であって、それを首相に譲ってはいけない」と助言した。この意見を採用した結果、戦前の日本は憲法上「内閣も首相も存在しない国」になったが、のちにこの欠陥に気づいた軍部が「陸海軍は天皇に直属する」という規定を盾に政府を無視して暴走することになった。",
"title": "大日本帝国憲法の論点"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "こうした欠陥が「統帥権干犯問題」の本質である。昭和に入るまでは明治維新の功労者である元勲が政軍両面を一元的に統制していたため問題が起きなかったが、元勲が相次いで死去するとこの問題が起きてきた。そしてさらに悪いことに、大日本帝国憲法を「不磨の大典」として条文の改正を不可能にする考え方があったことである。これによって昭和の悲劇が決定的になったと言える。",
"title": "大日本帝国憲法の論点"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ビスマルク憲法のほうは大日本帝国憲法成立後の改正によって大臣解任権が議会に与えられたが、日本においては現在も事実上の大臣解任権を持つ議会(国会)や、独立の大臣等罷免審査の機関(憲法裁判所)が存在しない。",
"title": "大日本帝国憲法の論点"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "伊藤博文は議会制民主主義に付随する議院法については英国人顧問フランシス・テイラー・ピゴットの助言を求め、ピゴットは「貴族院議院の資格争訟判決には理由を付すよう」回答している。しかし、伊藤らはその助言内容に反し、憲法の公布から施行までの間の1890年10月11日、貴族院議員資格争訟裁判の審査内容を秘密化する法律「貴族院議員資格及選挙争訟判決規則」を設置した。",
"title": "大日本帝国憲法の論点"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "大日本帝国憲法の制定は、明治憲法起草者の意図としては、日本古来の伝統的な不文憲法(「立憲独裁制」)が成文化され「立憲君主制」に改正されたものであると解釈され、帝国憲法は欽定憲法という点で建国以来の国体と法的に連続し、江戸時代の武家政権から政体は変わったものの、天皇独裁という日本の政治体制の根幹(国体)は一貫して維持されてきたという結論と結びついたものと解釈されていた。",
"title": "大日本帝国憲法の論点"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "一方で日本国憲法の制定は大日本帝国憲法第73条の改正規定によって行われており、この条文によると、憲法改正は天皇が発議・裁可することになっており、実際、憲法改正の上諭文には、「朕は...憲法の改正を裁可し...」との記述(欽定憲法)がなされた。この表現が、日本国憲法前文の「日本国民は...この憲法を確定する」(民定憲法)の文言と矛盾することが一部学説で問題とされている。",
"title": "大日本帝国憲法の論点"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "憲法学の学説の一つに、憲法の基本原則(国体)を変更する憲法改正は法的に不可能であるとするものがある(憲法改正有限界説)。この学説では、憲法の「改正権」という概念は「制憲権」(憲法を制定する権利)なしには産み出されないものであり、改正によって、産みの親である制憲権の所在(すなわち主権者)を変更することは法的に許されないとする。",
"title": "大日本帝国憲法の論点"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "このため、これらの矛盾を説明するために「八月革命説」が主張されるようになった。この学説によれば帝国憲法に定められた改正手続きによって行われたのは便宜的・形式的なもので、実質的に日本国憲法は改正ではなく「新たに制定」されたものであり、両者の間の法的連続性は無いという解釈が取られる。",
"title": "大日本帝国憲法の論点"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "一方で、憲法改正無限界説においては、大日本帝国憲法には改正限界を規定する条文は存在しておらず、大日本帝国憲法第73条の規定にのっとり改正された以上、憲法改正は正当であるとし、法的連続性は存在するとする。",
"title": "大日本帝国憲法の論点"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "なお、各国の憲法の中には「憲法改正の限界」を憲法に明記しているものが存在する(戦う民主主義を参照)。",
"title": "大日本帝国憲法の論点"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "大日本帝国憲法は、第73条に定める改正手続を経て全面改正され、日本国憲法となる。日本国憲法は1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。",
"title": "大日本帝国憲法の論点"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "大日本帝国憲法の下で成立した法令は、日本国憲法98条1項により、「その条規に反する」ものについて同時に失効している。また、同条の反対解釈により、日本国憲法の条規に反しない法令は、日本国憲法の施行日以降も効力を有する。効力を有する場合、法律は法律として扱われ、閣令は内閣府令として、省令は省令として扱われる。勅令は、法律事項を内容とするものは暫定的効力を認めた後失効させ、法律事項以外を内容とするものは政令として扱われた。物価統制令などのいわゆるポツダム勅令(ポツダム命令)の一部については占領政策の終了に伴い法令等に存廃措置されている(詳しくはポツダム命令#現在も効力を有する「ポツダム命令」)。",
"title": "大日本帝国憲法の論点"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "この憲法は立憲主義の要素と国体の要素をあわせもつ欽定憲法であり、立憲主義によって議会制度が定められ、国体によって議会の権限が制限された。一方、大日本帝国憲法第8条により、議会は天皇が発布した緊急勅令については効力停止にすることもできた。日本国憲法成立後は、憲法学者らによって外見的立憲主義、王権神授説的と評された。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "大日本帝国憲法は7章76条からなる。構成は以下の通り。初期のビスマルク憲法と同様に内閣及び首相に関する規程がない(なおビスマルク憲法のほうは、後になって議会に大臣解任権が与えられた)。なお、既存項目が存在する条文のみ列挙した。全文はウィキソースの大日本帝國憲法を参照のこと。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "立憲主義の要素としては次の諸点がある。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "言論の自由・結社の自由や信書の秘密など臣民の権利が法律の留保のもとで保障されていること(第2章)。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "これらの権利は天皇から臣民に与えられた「恩恵的権利」としてその享有が保障されていた。日本国憲法ではこれらの権利を永久不可侵の「基本的人権」と規定する。また、権利制限の根拠は、「法律ニ定メタル場合」、「法律ノ範囲内」などのいわゆる「法律の留保」、あるいは「安寧秩序」に求められた。この点も、基本的人権の制約を「公共の福祉」に求める日本国憲法とは異なる。ただし、現憲法の「公共の福祉」による制限も法律による人権の制限の一種であり、現在、教育の現場で解説されるような、「旧憲法のそれは非常に制限的であり、現憲法のそれは開放的である」とする程の本質的な差はないとする意見もある(ただし、比較的な傾向としては肯定する)。その立場からは、「人権が上位法の憲法典の形で明文で保障された」点に第一の意義があり、また内容としては当時においてはかなり先進的なものであったとする。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "帝国議会を開設し、貴族院は皇族華族及び勅任議員からなり、衆議院は公選された議員からなること(第3章)。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "帝国議会は法律の協賛(同意)権を持ち、臣民の権利・義務など法律の留保が付された事項は帝国議会の同意がなければ改変できなかった。また、帝国議会は予算協賛権を有し、予算審議を通じて行政を監督する力を持った。衆議院が予算先議権を持つ以外は、貴衆両院は対等とされた。上奏権や建議権も限定付きながら与えられた(最終的には天皇の裁可と国務大臣の副署が必要であったが、建議権を通じた事実上の政策への関与が可能とされた)。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "議会は緊急勅令については次󠄁の会期において効力を停止させることができた(第8条2項)。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "天皇の行政大権の行使に国務大臣の輔弼(天皇が権能を行使するに際し、助言を与える事)を必要とする体制(大臣責任制または大臣助言制)を定めたこと(第4章)。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "内閣や内閣総理大臣に関する規定は憲法典ではなく内閣官制に定められた。内閣総理大臣は国務大臣の首班ではあるものの同輩中の首席とされ、国務大臣(各省大臣)に対する任免権がないため、明文上の権限は強くない。しかし、内閣総理大臣は各部総督権を有して大政の方向を指示するために機務奏宣権(天皇に裁可を求める奏請権と天皇の裁可を宣下する権限)と国務大臣の奏薦権(天皇に任命を奏請する権限)を有したため、実質的な権限は大きかった。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "司法権の独立を確立したこと。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "司法権は天皇から裁判所に委任された形をとり、これが司法権の独立を意味していた。また、欧州大陸型の司法制度を採用し、行政訴訟の管轄は司法裁判所にはなく行政裁判所の管轄に属していた。この根拠については伊藤博文著の『憲法義解』によると、行政権もまた司法権からの独立を要することに基づくとされている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "国体の要素としては次の諸点が挙げられる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "「天壌無窮の神勅」",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "日本書紀に書かれた、天照大神が孫のニニギノミコトに言ったという言葉。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "「葦原千五百秋之瑞穗國、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣。寶祚之隆、當與天壤無窮者矣。」",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "「葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、是れ、吾が子孫の王たるへき地なり。宣しく爾皇孫(すめみま)就(ゆ)きて治(しら)せ。行(さまく)矣(ませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさんこと、当に天壌(あまつち)と窮り無けむ。」",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "大日本帝国憲法では皇室の永続性が皇室の正統性の証拠であることを強調していた。『告文』(憲法前文)には以下のような文章がある。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "そして、憲法第1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定されたのである。近代的な政治文書で「万世一系」のような詩的な文言が用いられたのはこれが初めてである。「万世一系」のフレーズは公式のイデオロギーの中心となった。学校や兵舎でも公式な告知や発表文でも広く使われて周知されていった。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "「天壌無窮ノ宏謨(てんじょうむきゅうのこうぼ)」(御告文)という皇祖皇宗の意思を受け、天皇が継承した「国家統治ノ大権」(上諭)に基づき、天皇を国の元首、統治権の総攬者としての地位に置いた。この天皇が日本を統治する体制を国体という。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "天皇統治の正当性を根拠付ける国体論は、大きく二つに分けられる。一つは起草者の一人である井上毅らが主唱する国体論(『シラス』国体論)であり、もう一つは、後に、高山樗牛、井上哲次郎らが主唱した国体論(家秩序的国体論)である。井上らの国体論は、古事記神話に基づいて公私を峻別し、天皇は公的な統治を行う(シラス)ものであって、他の土豪や人民が行う私的な所有権の行使(ウシハク)とは異なるとする(井上「古言」)。これに対して、高山らの国体論は、当時、広く浸透していた「家」を中心とする国民意識に基づき、「皇室は宗家にして臣民は末族なり」とし、宗家の家長たる天皇による日本(=「君臣一家」)の統治権を正当化する(高山「我国体と新版図」、『太陽』3巻22号)。憲法制定当初は井上らの国体論を基礎的原理とした。しかし、日清戦争後は高山らの国体論が徐々に浸透してゆき、天皇機関説事件以後は、「君民一体の一大家族国家」(文部省「国体の本義」)として、ほぼ国定の解釈となった。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "天皇が天皇大権と呼ばれる広範な権限を有したこと。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "特に、独立命令による法規の制定(9条)、条約の締結(13条)の権限を議会の制約を受けずに行使できるのは他の立憲君主国に類例がなかった。なお、天皇の権限といっても、運用上は天皇が単独で権限を行使することはなく、内閣(内閣総理大臣)が天皇の了解を得て決断を下す状態が常であった。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "立法権を有するのは天皇であり、帝国議会は立法機関ではなく立法協賛機関とされた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "立法権を有するのは天皇であるが、法律の制定には、帝国議会の協賛を得たうえで天皇の裁可を要するものとされた。同時代の君主国憲法の多くが立法権を君主と国会が共有する権能としていたことと比すると特異な立法例であるといえるが、帝国議会の協賛がなければ法律を制定することができないこと、帝国議会が可決した法律案を天皇が裁可しなかったことは一度もなかったことから、事実上、帝国議会が唯一の立法機関であった。ただし、例外として、天皇には、緊急勅令や独立命令を発する権限など、実質的な立法に関する権限が留保された(ただし議会は緊急勅令については効力を停止することももできた)。また、憲法改正の発案権は天皇のみにあり、帝国議会にはなかった。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "さらに、帝国議会の一院に公選されない貴族院を置き、衆議院とほぼ同等の権限を持たせた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "また、枢密院など内閣を掣肘する議会外機関を置いたこと。このほか、元老、重臣会議、御前会議など法令に規定されない役職や機関が多数置かれた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "統帥権を独立させ、大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍は議会(立法府)や政府・内閣(行政府)に対し、一切責任を負わないものとされた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "統帥権は慣習法的に軍令機関(陸軍参謀本部・海軍軍令部)の専権とされ、文民統制(シビリアン・コントロール)の概念に欠けていた。元来は政争の道具として軍が使われないようにと元勲が企図したものだが、統帥権に基づいて軍令機関は帷幄上奏権を有すると解し、軍部大臣現役武官制とともに軍部の政治力の源泉となった。後に、昭和に入ってから、軍部が大きくこれを利用し、陸海軍は大元帥である天皇から直接統帥を受けるのであって政府の指示に従う必要はないとして、満州事変などにおいて政府の決定を無視した行動を取るなどその勢力を誇示した。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "皇室自律主義を採り、皇室典範などの重要な憲法的規律を憲法典から分離し、議会に関与させなかったこと。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "宮中(皇室、宮内省、内大臣府)と府中(政府)の別が原則とされ、互いに干渉しあわないこととされた。もっとも、宮中の事務をつかさどる内大臣が内閣総理大臣の選定に関わるなど大きな政治的役割を担い、しばしば宮中から府中への線は踏み越えられた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "本憲法の統治構造は、国務大臣や帝国議会、裁判所、枢密院、陸海軍などの国家機関が各々独立して天皇に輔弼ないし協賛の責任を持つという形をとっており、必然的にどの国家機関も他に優越することはできなかった(分立主義)。そして、実際には天皇が能動的に統治行為を行わない以上(機務六条)、権力の分立を避けるために憲法外に実質的な統合者(元老など)を必要としていた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "この問題は「統治構造の割拠性」といわれる。「明治憲法体制下においては、天皇は、親政をとらず、内閣等の輔弼に従って名目的な統括者として権力を行使する存在であった」「各輔弼機関は分立的・割拠的であったため、その調整は事実上、元老に委ねられていたが、元老の消滅に伴い、実質的な統治の中心が不在となってしまった」「戦前の統治構造における割拠性については改めて言及するまでもなかろう。明治22年の内閣官制、非連帯責任制の採用、統帥権の独立、枢密院・貴族院の存在等々、幾多の障壁が内閣の一体性の確保を阻害していた」のである。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "そしてこの、権力が割拠し、意思決定中枢を欠くという問題を解決するために、権力の統合を進めようとする動きがあった。政党内閣制はその試みのうちの有力なものである。しかし、そういった動きに対しては、天皇主権を否定し、「幕府的存在」を作ることになるとの反発などもあり(例:内閣官制における大宰相主義の否定、大政翼賛会違憲論など)、ついに解消されることはなかった。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "当時、欧米諸国以外で立憲政治を実現した国はなかった。1876年にオスマン帝国(トルコ)がオスマン帝国憲法を制定し立憲政治を始めたが、わずか2年で憲法停止・議会解散に追い込まれていた。(ただし清には科挙制度など比較的民主的な制度が存在した)。",
"title": "起草前後の政情"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "明治維新後の日本は不平等条約を改正し、欧米列強と対等の関係を築くために近代的憲法を必要としていたため、民間の憲法案も多数発表されたが、憲法起草の中心になった伊藤博文にいわせれば、「実に英、米、仏の自由過激論者の著述のみを金科玉条のごとく誤信し、ほとんど国家を傾けんとする勢い」であった。",
"title": "起草前後の政情"
},
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"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "また、一部の保守派には絶対君主制を目指す動きがあった。伊藤はビスマルク憲法が日本の現状に適合しているとして憲法制定を推進した。それまで日本は幕藩体制の中でばらばらの状況であり、一つの国家と国民という結びつきができていなかった。そのために、天皇を中心として国民を一つにまとめる反面、議会に力を持たせ、バランスの取れた憲法を制定する必要があった。",
"title": "起草前後の政情"
},
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"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "憲法の起草は、夏島(現在の神奈川県横須賀市夏島町)の伊藤博文別荘を本拠に、1887年(明治20年)6月4日ごろから行われた。伊藤の別荘は手狭だったことから、事務所として料理旅館の「東屋」(現在の神奈川県横浜市金沢区)を当初は用いていた。しかし、8月6日、伊藤らが横浜へ娯遊中に泥棒が入り、草案の入った鞄が盗難にあったことから、その後は伊藤別荘で作業が進められた。鞄は後に近くの畑でみつかり、草案は無事だったという(脚注を参照)。",
"title": "起草前後の政情"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "東屋には、憲法ゆかりの地であることを記念して、1935年(昭和10年)に、起草メンバーの一人であった金子堅太郎書による「憲法草創の処」の碑が建てられた。その後、東屋は廃業し、一時的に、野島公園(同区)に碑も移転したが、現在は東屋跡地に近い洲崎広場に設置されている。",
"title": "起草前後の政情"
},
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"text": "なお、夏島にあった伊藤の別荘は、後に、小田原に移築され、関東大震災(大正関東地震)で焼失しているため現存しない。夏島の跡地には明治憲法起草地記念碑が建てられている。また、のちに、伊藤が建てた別荘が野島に残っている(伊藤博文記念館)。",
"title": "起草前後の政情"
},
{
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"text": "大日本帝国憲法が公布された2月11日は「紀元節」(1873年制定、1948年廃止)で、同日は現在も「建国記念の日」として国民の祝日である。",
"title": "日本の祝日"
},
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"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "本記事末尾のテンプレートを参照。",
"title": "条文リンク"
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] | 大日本帝国憲法は、1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された日本の憲法。 略して「帝国憲法」、明治に発布されたことから俗称として「明治憲法」とも。また、現行の日本国憲法との対比で旧憲法とも呼ばれる。 東アジア初の近代憲法である。日本国憲法施行までの半世紀以上の間、一度も改正されることはなかった。1946年(昭和21年)5月16日に第73条の憲法改正手続による帝国議会の審議を経て、同年10月29日に枢密院が新憲法案を可決。日本国憲法が1946年(昭和21年)11月3日に公布、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。大日本帝国憲法の施行期間は、1890年(明治23年)11月29日から1947年(昭和22年)5月2日までの56ヶ年5ヶ月4日(20,608日)である。 | {{脚注の不足|date=2016年4月}}
{{半保護}}
{{日本の憲法典|原本画像=[[File:Meiji-Constitution-Empire-of-Japan.png|270px]]|正式名称=大日本帝国憲法|通称・略称=帝国憲法<br/>明治憲法<br/>旧憲法 など|制定主体=[[憲法#憲法の分類|欽定憲法]]/[[天皇]]|効力=[[大日本帝国憲法第73条|第73条]]により全面改正<br>または事実上の失効|成立=|公布=[[1889年]]([[明治]]22年)<br>[[2月11日]]|施行=[[1890年]](明治23年)<br>[[11月29日]]|主な内容=[[天皇]]、臣民の権利義務、[[帝国議会]]、[[国務大臣]]及び[[枢密顧問]]、[[司法]]、[[会計]]|元首=[[天皇]]|起草者=[[伊藤博文]]<br/>[[井上毅]]<br/>[[伊東巳代治]]<br/>[[金子堅太郎]]<br/>[[ヘルマン・ロエスレル]](助言)など|以前の憲法=|関連法令=[[日本国憲法]]<br>[[皇室典範 (1889年)|旧皇室典範]]<br>[[議院法]]<br>[[内閣官制]]<br>[[裁判所構成法]]|条文リンク=https://ja.wikisource.org/wiki/大日本帝國憲法|署名=[[黒田清隆]]<br/>(内閣総理大臣・伯爵)<br/>[[伊藤博文]]<br/>(枢密院議長・伯爵)<br/>[[大隈重信]]<br/>(外務大臣・伯爵)<br/>[[西郷従道]]<br/>(海軍大臣・伯爵)<br/>[[井上馨]]<br/>(農商務大臣・伯爵)<br/>[[山田顕義]]<br/>(司法大臣・伯爵)<br/>[[松方正義]]<br/>(大蔵大臣兼内務大臣・伯爵)<br/>[[大山巌]]<br/>(陸軍大臣・伯爵)<br/>[[森有礼]]<br/>(文部大臣・子爵)<br/>[[榎本武揚]]<br/>(逓信大臣・子爵)|憲法名=大日本帝国憲法|構成条章=[[大日本帝国憲法における上諭|上諭]]<br/>[[大日本帝国憲法第1章|第1章]]<br/>[[大日本帝国憲法第2章|第2章]]<br/>[[大日本帝国憲法第3章|第3章]]<br/>[[大日本帝国憲法第4章|第4章]]<br/>[[大日本帝国憲法第5章|第5章]]<br/>[[大日本帝国憲法第6章|第6章]]<br/>[[大日本帝国憲法第7章|第7章]]|施行期間=1890年11月29日 - 1947年5月2日|制定時内閣=[[黒田内閣|黒田清隆内閣]]|その他の施行区域=[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]<br/>[[日本統治時代の台湾|台湾]]|原語名='''{{kyujitai|大日本帝󠄁國憲󠄁法}}'''}}
[[ファイル:Kenpohapu-chikanobu.jpg|300px|thumb|憲法発布略図<br>1889年(明治22年)、[[楊洲周延]]画]]
[[ファイル:Adachi Ginkō (1889) View of the Issuance of the State Constitution in the State Chamber of the New Imperial Palace.jpg|300px|right|thumb|新皇居於テ正殿憲法発布式之図<br>1889年(明治22年)、[[安達吟光]]画]]
[[File:Ceremony for the Promulgation of the Constitution by Wada Eisaku.jpg|thumb|right|150px|『憲法発布式』1936年(昭和11年)、[[和田英作]]画、[[聖徳記念絵画館]]蔵]]
'''大日本帝国憲法'''(だいにほんていこくけんぽう、だいにっぽんていこくけんぽう、{{旧字体|'''大日本帝󠄁國憲󠄁法'''}})は、[[1889年]]([[明治]]22年)[[2月11日]]に[[公布]]、[[1890年]](明治23年)[[11月29日]]に[[施行]]された[[日本]]の[[憲法]] <ref group="注釈">大日本帝国憲法には、表題に「[[大日本帝国]]」が使用されているが、[[詔勅]]では「大日本憲法」と称しており、正式な[[国号]]と規定されたものではない。1936年(昭和11年)から第二次世界大戦終戦までは外交文書において「大日本帝国」に統一されたが、それ以外では「日本国」「日本」などの名称も使用された。</ref>。
略して「帝国憲法」、明治に発布されたことから俗称として「'''明治憲法'''」とも。また、現行の[[日本国憲法]]との対比で{{読み仮名|'''旧憲法'''|きゅうけんぽう}}とも呼ばれる。
東アジア初の近代憲法である。[[日本国憲法]]施行までの半世紀以上の間、一度も改正されることはなかった。1946年(昭和21年)5月16日に[[大日本帝国憲法第73条|第73条]]の憲法改正手続による[[帝国議会]]の審議を経て、同年10月29日に[[枢密院 (日本)|枢密院]]が新憲法案を可決。日本国憲法が1946年(昭和21年)11月3日に公布、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。大日本帝国憲法の施行期間は、1890年(明治23年)11月29日から1947年(昭和22年)5月2日までの56ヶ年5ヶ月4日(20,608日)である。
==沿革==
[[ファイル:Meiji Kenpo01.jpg|thumb|300px|大日本帝国憲法「上諭」1頁目]]
[[ファイル:Meiji Kenpo02.jpg|thumb|300px|大日本帝国憲法「上諭」2頁目]]
[[ファイル:Meiji Kenpo03.jpg|thumb|300px|大日本帝国憲法「御名御璽と大臣の副署」3頁目]]
[[ファイル:Meiji Kenpo04.jpg|thumb|300px|大日本帝国憲法「本文」4頁目]]
===明治維新による国家体制の変化===
日本では、明治初年に始まる[[明治維新]]により、さまざまな改革が行われ、旧来の国家体制は根本的に変更された。[[慶応]]3年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]([[グレゴリオ暦]]1867年11月9日)、[[江戸幕府]]第15代[[征夷大将軍|将軍]]の[[徳川慶喜]]が[[明治天皇]]に統治権の返還を表明し、翌日、天皇はこれを勅許した([[大政奉還]])。同年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]](1868年1月3日)に[[江戸幕府]]は廃止され、新政府(明治政府)が設立された([[王政復古 (日本)|王政復古]])。新政府は天皇の官制大権を前提として近代的な[[官僚制]]の構築を目指した。これにより、日本は、封建的な[[幕藩体制]]に基づく代表的[[君主制|君主政]]から、近代的な官僚機構を擁する直接的君主政に移行した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi027.pdf/$File/shukenshi027.pdf |title=明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料 (明治憲法の制定過程について) |access-date=2023.11.10 |publisher=[[衆議院]] |author=衆議院憲法調査会事務局 |page=2}}</ref>。[[大日本帝国憲法第10条]]は官制大権が天皇に属すると規定している。
明治2年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]](1869年7月25日)、「[[版籍奉還]]」がおこなわれ、諸侯(藩主)は土地と[[人民]]に対する統治権をすべて[[天皇]]に奉還した。これは、幕府や藩などの媒介なしに、天皇の下にある中央政府が直接に土地と人民を支配し、[[統治権]]([[立法]]権・[[行政]]権・[[司法]]権の総称<ref>{{Cite web|和書|title=とうちけん【統治権】 {{!}} と {{!}} 辞典 |url=https://kids.gakken.co.jp/jiten/dictionary04500181/ |website=学研キッズネット |access-date=2023-03-25 |language=ja}}</ref>)を行使することを意味する。さらに、[[明治]]4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]](1871年8月29日)には「[[廃藩置県]]」が行われ、名実共に藩は消滅し、[[国家権力]]が[[中央政府]]に集中された。[[大日本帝国憲法第1条]]および[[大日本帝国憲法第4条|同第4条]]は、「国家の統治権は天皇が総攬する」と規定している。また、[[帝国議会]]の設立を規定し、法律案・予算案の審議権(協賛権)が与えられ天皇の立法権行使に参与し([[大日本帝国憲法第5条|大日本帝国憲法第5条]]<ref>{{Cite web|和書|title=憲法条文・重要文書 {{!}} 日本国憲法の誕生 |url=https://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j02.html |website=www.ndl.go.jp |access-date=2023-03-25 |language=ja}}</ref>)、司法権は行政権から独立して([[大日本帝国憲法第57条]]<ref>{{Cite web|和書|title=憲法条文・重要文書 {{!}} 日本国憲法の誕生 |url=https://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j02.html |website=www.ndl.go.jp |access-date=2023-03-25 |language=ja}}</ref>)、[[三権分立]]が明文化された<ref>{{Cite web|和書|title=大日本帝国憲法 |url=https://www.archives.go.jp/owning/mini_img/4-4.html |website=www.archives.go.jp |access-date=2023-03-25}}</ref>。
版籍奉還により各藩内の[[封建制]]は廃止され、人民が土地に縛り付けられることもなくなった。[[大日本帝国憲法第27条]]は臣民の[[財産権]]を保障し、[[大日本帝国憲法第22条|同第22条]]は臣民の[[居住移転の自由]]を保障している。
新政府は版籍奉還と同時に、[[堂上家|堂上公家]]と[[大名|諸侯]]を[[華族]]といった[[爵位]]が授与された特権階級に、武士を[[士族]]に、足軽などを[[卒族]]に、その他の人民を[[平民]]として「大日本帝国[[臣民]](日本国民)」を改組した。旧暦明治4年(1872年)には士族の公務を解いて[[職業選択の自由]]を与え<ref>{{Cite web|和書|url=https://heiwa.hiroshima-u.ac.jp/Pub/47/47fuchinoue.pdf |title=日本の内戦後平和構築における経済的側面:秩禄処分による特権の解体 |access-date=2023.11.10 |publisher=広島大学 |page=74 |quote=1972 年 1 月 27 日(旧暦明治 4 年 12 月 18 日)華士族・卒の職業選択自由の許可(太政官布告第 654号) |author=[[淵ノ上英樹]]}}</ref>、また[[大日本帝国憲法第19条]]によって平民も等しく公務就任権を規定した。明治5年(1872年)には[[徴兵制度]]を採用して[[国民皆兵]]となったため、士族による[[軍事]]的[[職業]]の独占は破られて武士の階級的な特権は廃止された。[[大日本帝国憲法第20条|同第20条]]は[[兵役]]の義務を規定した。
税制については、江戸時代の農業者に負担の重い税制に代えて臣民全体の義務としての納税が[[大日本帝国憲法第21条]]に規定された。また新規に租税を課したり税率を変更したりする際には議会の協賛を経て法律に依ることという[[租税法律主義]]が採用された<ref>{{Cite web|和書|title=明治維新と租税の近代化|租税史料特別展示|税務大学校|国税庁 |url=https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/tokubetsu/h29shiryoukan/00.htm |website=www.nta.go.jp |access-date=2023-03-24}}</ref>。
[[帝国議会]]([[下院]]:「[[衆議院]]」と[[上院]]:「[[貴族院 (日本)|貴族院]]」の[[両院制]])の開設に先立ち、1884年(明治17年)には「[[華族令]]」を定めて華族を「[[公爵]]」・「[[侯爵]]」・「[[伯爵]]」・「[[子爵]]」・「[[男爵]]」の5爵の[[爵位]]に再編するとともに身分的特権を与えた。[[大日本帝国憲法第34条]]は華族の[[貴族院 (日本)|貴族院]]列席特権を規定した。
なお、現憲法と違って[[日本国憲法第26条|子女に教育を受けさせる義務]]・[[勤労の義務]]が入っていないが、教育については憲法制定に先立ち明治5年(1872年)の[[学制]]の序文において既に「必ず邑に不学の戸なく 家に不学の人なからしめん事を期す」と国民全体が就学すべきことを謳っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sunfield.ne.jp/~kiriken/tayori14.pdf |title=教育史料室だよりno.14「桐生の教育史をたどる【学制 その7】」 |access-date=2023年3月24日}}</ref>。
なお、明治5年(1872年)11月9日、太陰暦を廃し太陽暦を採用することの詔書が発せられ、太政官布告第337号により公布された。同年12月3日が明治6年1月1日となった<ref>{{Cite web|和書|title=明治5年(1872)11月|太陽暦が採用される:日本のあゆみ |url=https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m05_1872_05.html#:~:text=%E6%98%8E%E6%B2%BB5%E5%B9%B4%EF%BC%881872%EF%BC%8911%E6%9C%889%E6%97%A5%E3%80%81%E5%A4%AA%E9%99%B0%E6%9A%A6,%E3%81%8C%E5%AE%9A%E3%82%81%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82 |website=www.archives.go.jp |access-date=2023-11-10}}</ref>。
===明治の変革===
「[[王政復古の大号令]]」によって設置された総裁・議定・参与の[[三職]]のうち、実務を担う[[参与]]の一員となった[[由利公正]]・[[福岡孝弟]]・[[木戸孝允]]らは、[[公議政体論|公議輿論]]の尊重と開国和親を基調とした新政府の基本方針を5か条にまとめた。[[慶応]]4年3月14日(1868年4月6日)、明治天皇がその実現を天地神明に誓ったのが'''[[五箇条の御誓文]]'''である。
{{quotation|{{kyujitai|'''一、廣ク會議ヲ興シ、萬機公󠄁論ニ決スヘシ<br />一、上下心ヲ一ニシテ、盛󠄁ニ經綸ヲ行フヘシ<br />一、官武一途󠄁、庻民ニ至ル迠、各其志ヲ遂󠄂ケ、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要󠄁ス<br />一、舊來ノ陋習󠄁ヲ破リ、天地ノ公󠄁道󠄁ニ基クヘシ<br />一、智識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起󠄁スヘシ<br />'''}}|{{smaller|「五箇条の御誓文」}}}}
政府は、この五箇条の御誓文に示された諸原則を具体化するため、同年閏4月21日(1868年6月11日)、'''[[太政官#政体書|政体書]]'''を公布して統治機構を改めた。すなわち、[[権力分立|権力分立(三権分立)]]の考えを入れた[[七官]]を設置し、そのうちの一官を公議輿論の中心となる立法議事機関として[[議政官]]とすることなどを定めた。議政官は上局と下局に分かれ、上局は議定と参与で構成とし、下局は各藩の代表者1名から3名からなる[[貢士]]をその構成員とするものだった。しかし[[戊辰戦争]]終結の見通しがつき始めると、政府は公議輿論の尊重には消極的となり、結局同年9月に議政官は廃止されてしまった。
明治2年3月(1869年4月)には議事体裁取調所による調査を経て、新たに立法議事機関として[[公議所]]が設置された。これは各藩の代表者1名により構成されるもので、これが同年9月には[[集議院]]に改組される。明治4年7月14日(1871年8月29日)に[[廃藩置県]]が実施されると、同年には太政官官制が改革された。太政官は正院・左院・右院から成り、集議院は左院に置き換えられ、官撰の議員によって構成される立法議事機関となった。
1874年(明治7年)、前年の[[明治六年政変]]で[[征韓論]]の争議に敗れて下野した[[副島種臣]]・[[板垣退助]]・[[後藤象二郎]]・[[江藤新平]]らは連署により'''[[民撰議院設立建白書]]'''を左院に提出した。この建白書には、新たに官選ではなく民選の議員で構成される立法議事機関を開設し、有司専制(官僚による専制政治)を止めることが国家の維持と国威発揚に必要であると主張されていた。これを契機として薩長[[藩閥]]による政権運営に対する批判が噴出、これが[[自由民権運動]]となって盛り上がり、各地で政治結社が名乗りを上げた。さらにこの頃には各地で[[不平士族]]による反乱が頻発するようになり、日本の[[治安]]はきわめて悪化した。その代表的なものとしては、1874年(明治7年)の[[佐賀の乱]]、1876年(明治9年)の[[神風連の乱]]、1877年(明治10年)の[[西南戦争]]などが挙げられる。
[[File:Imperial rescript (M8).jpg|thumb|right|300px|立憲政体の詔書(国立公文書館収蔵)]]
1875年(明治8年)4月14日、'''[[立憲政体の詔書]]'''(漸次立憲政体樹立の詔)が渙発された。
{{quotation|{{kyujitai|'''…… 茲ニ[[元老院 (日本)|元老院]]ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ廣メ[[大審院]]ヲ置キ以テ審判󠄁ノ權ヲ鞏クシ又地方官ヲ召集シ以テ民情󠄁ヲ通󠄁シ公󠄁益󠄁ヲ圖リ漸次󠄁ニ國家立憲󠄁ノ政體ヲ立テ汝衆󠄁庶ト俱ニ其慶ニ賴ント欲ス……'''}}|{{smaller|「立憲政体の詔書」(抄)}}}}
すなわち、元老院、大審院、地方官会議を置き、段階的に[[立憲君主制]]に移行することを宣言したのである。これは、[[大久保利通]]や[[伊藤博文]]ら政府要人と、[[木戸孝允]]や板垣退助らの民権派が大阪に会して談判した大阪会議の結果だった。また地方の政情不安に対処するため、1878年(明治11年)には[[府県会規則]]を公布して各府県に民選の[[地方議会]]である'''府県会'''を設置した。これが日本で最初の民選議会となった。なお、地方官会議は、1874年(明治7年)にすでに定められていたが、[[台湾出兵]]が発生したため開催に至らず、元老院及び大審院の新設とともに初めて開催されることとなったものである{{Sfn|美濃部達吉|1927|p=11}}。
===私擬憲法===
1874年(明治7年)からの「'''[[自由民権運動]]'''」において、さまざまな憲法私案('''[[私擬憲法]]''')が各地で盛んに執筆された。しかし、政府はこれらの私擬憲法を持ち寄り議論することなく、大日本帝国憲法を起草したため、憲法に直接反映されることはなかった。政府は国民の言論と政治運動を弾圧するため、1875年(明治8年)の[[讒謗律]]、[[新聞紙条例]]、1880年(明治13年)の[[集会条例]]などさまざまな法令を定めた。1887年(明治20年)の[[保安条例]]では、民権運動家は[[東京]]より退去を強いられ、これを拒んだ者を拘束した。
私擬憲法の内容についてはさまざまな研究がある。{{独自研究範囲|政府による言論と政治活動の弾圧を背景として、[[人権]]に関する規定が詳細なことはおおむね共通する|date=2023年11月}}。{{要出典|date=2023年11月|範囲=天皇の地位に関してはいわれるほど差があるものではなかったとする意見がある}}。「自由民権家は皆[[明治維新]]を闘った[[尊皇]]家で、天皇の存在に国民の権利、利益の究極の擁護者の地位を仰ぎみていた」とするものである。例えば、草の根の人権憲法として名高い[[千葉卓三郎]]らの憲法草案(いわゆる[[五日市憲法]])でも、天皇による天皇の神聖不可侵や立法行政司法の総轄、軍の統帥権を定めている<ref>{{Cite web|和書|title=五日市憲法草案 現代語訳 「第一篇 国帝」(2) | あきる野デジタルアーカイブ |url=https://archives.library.akiruno.tokyo.jp/about/souan/genndai_1-2/ |website=archives.library.akiruno.tokyo.jp |access-date=2023-11-10 |quote=18.国帝の身体は神聖にして侵害することはできない。また、責任を負うべきところはない。
国政に関して、もし国帝が国民に対して過失があったときはその執務担当大臣のみが責任を負う。
19.国帝は、立法・行政・司法の3部門をとりまとめ、管理する。
21.国帝は、海陸軍の全体を監督し率いる。軍事に携わる官吏を任官し、軍隊を整備して必要に応じて軍隊を派遣することができる。 ただし軍隊内の昇級や免職、退役については法律で定めた規則にしたがって国帝がこれを決める。}}</ref>点などは大日本帝国憲法と同様である。
===国憲起草への動き===
1876年(明治9年)9月6日、[[明治天皇]]は「元老院議長[[有栖川宮熾仁親王]]へ国憲起草を命ずるの[[勅語]]」を発し、各国憲法を研究して憲法草案を起草せよと命じた<ref>[{{NDLDC|1041465/145}} 三浦藤作『歴代詔勅全集 第5巻』河出書房、1940。国立国会図書館デジタルコレクション コマ145]</ref><ref>{{Cite web|和書|title=国憲起草の詔|website=国立公文書館|url= https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0101000000/0000000004/00 |accessdate=September 4, 2020}}</ref>。
{{quotation|{{kyujitai|'''朕󠄂<ruby><rb>爰</rb><rt>(ここ)</rt></ruby>ニ我カ建󠄁國ノ體ニ基キ廣ク海󠄀外各國ノ成󠄁法ヲ斟酌󠄁シ以テ國憲󠄁ヲ定メントス汝等ソレ宜シク之カ草按ヲ起󠄁創シ以テ<ruby><rb>聞</rb><rt>(ぶん)</rt></ruby>セヨ朕󠄂將ニ之ヲ撰ハントス'''}}|国憲起草を命ずるの勅語}}
元老院はこの諮問に応え、[[憲法取調局]]を設置し、同時に[[明法寮]]・[[司法省法学校]]や[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード|ボアソナード]]らを中心に、治罪法([[刑事訴訟法]])や[[民法 (日本)#沿革|民法]]、[[共通法]]などの構築作業がフランスやベルギーの[[大陸法]]を基盤に置いて展開された。
これに対し、英語・ドイツ語圏の側は、1877年に[[日本赤十字社]]前身の博愛社を設立し、また駐ドイツ帝国公使[[青木周蔵]]は1878年10月、ドイツ人[[ヘルマン・ロエスレル]](ロェスラー、Karl Friedrich Hermann Roesler)を日本に送り込み、1881年にはドイツ法の法学団体[[獨逸学協会]]を結成した。
1880年(明治13年)、元老院は「'''日本國憲按'''」(第三次)を成案として提出し<ref>{{Cite web|和書|title=日本国憲按(明治9(1876)年10月の憲法草案(第一次国憲按))|website=国立国会図書館|url=https://www.ndl.go.jp/modern/img_t/022/022-002tx.html |accessdate=September 4, 2020}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi027.pdf/$File/shukenshi027.pdf |title=衆憲資第 27 号「明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料 (明治憲法の制定過程について)」 |access-date=2023年3月25日}}</ref>、また、[[大蔵卿 (太政官)|大蔵卿]]・[[大隈重信]]も「憲法意見」を提出した<ref>{{Cite web|和書|title=大隈重信の上奏文(写)|website=国立国会図書館|url=https://www.ndl.go.jp/modern/img_t/023/023-001tx.html |accessdate=September 4, 2020}}</ref>。しかし日本國憲按は皇帝の国憲遵守の誓約や議会の強権を定めるなど、[[ベルギー憲法]](1831年)やドイツ帝国統一前の[[プロイセン王国]]憲法(ベルギー憲法を模範としたもの<ref>{{Cite web|和書|title=プロシア憲法(プロシアけんぽう)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%86%B2%E6%B3%95-127935 |website=コトバンク |access-date=2023-03-25 |language=ja |first=ブリタニカ国際大百科事典 |last=小項目事典}}</ref>)(1850年)の影響を強く受けていたことから[[岩倉具視]]・[[伊藤博文]]らの反対に遭い、大隈の意見もまた採択されるに至らなかった。岩倉具視も天皇に意見書を奏上した<ref>{{Cite web|和書|title=岩倉具視の憲法構想|website=国立国会図書館|url=https://www.ndl.go.jp/modern/cha2/description04.html |accessdate=September 4, 2020}}</ref>。
[[File:Member list of SGS.pdf|thumb|300px|独逸学協会名誉会員の一覧(PDF)]]
[[ファイル:Imperial rescript of the Diet establishment.jpg|thumb|right|300px|国会開設の勅諭]]
1881年(明治14年)8月31日、伊藤博文を中心とする勢力は[[明治十四年の政変]]によって大隈重信を罷免し、その直後に[[御前会議]]を開いて国会開設を決定した。9月18日には主だった官僚や政治家をメンバーとする国策機関[[独逸学協会]](Verein für die deutschen Wissenschaften, Society for German Sciences)を設立し、[[ドイツ帝国]]式立憲主義推進の立場を強めた。この協会には法律家のみならずドイツ人造船技術者[[ルドルフ・レーマン_(機械工学技師)|レーマン]]なども参加していた。
10月12日には「'''[[国会開設の詔|国会開設の勅諭]]'''」が発された。この勅諭では、第1に、1890年(明治23年)の国会([[議会]])開設を約束し、第2に、その組織や権限は政府に決めさせること(欽定憲法)を示し、第3に、これ以上の議論を止める政治休戦を説き、第4にこれ以降は浮言を動かし殊更に躁急󠄁を争い事変を煽る者は処罰すると警告している。この勅諭より以降、憲法制定に関してドイツ法派が政局の主導権を取ることとなる<!--<ref group="注釈">当時の[[イギリス王室]]とドイツ帝国の貴族は同族氏族関係にあった{{疑問点|date=2023年3月|title=このことが「ドイツ勢力は政局の主導権を取った」ことと何か関係があるのか?}}。</ref>--><!--文脈と無関係な蘊蓄なのでコメントアウト-->。
===制定までの経緯===
1882年(明治15年)3月、独逸学協会名誉会員であり[[参議]]の[[伊藤博文]]らは「在廷臣僚」として、政府の命をうけて[[ヨーロッパ]]に渡り、ドイツ帝国系立憲主義、[[ビスマルク憲法]]の理論と実際について調査を始めた。伊藤は、[[ベルリン大学]]の[[ルドルフ・フォン・グナイスト]]、[[ウィーン大学]]の[[ロレンツ・フォン・シュタイン]]の両学者から、「[[憲法]]はその国の[[歴史]]・[[伝統]]・[[文化_(代表的なトピック)|文化]]に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強せよ」という助言をうけた。その結果、[[ドイツ帝国]]([[プロイセン]])の憲法体制が最も日本に適すると信ずるに至った(ただし、伊藤はプロイセン式を過度に評価する[[井上毅]]をたしなめるなど、そのままの移入を考慮していたわけではない。伊藤自身が本国に送った手紙では、グナイストは極右で付き合いきれないが、シュタインは自分に合った人物だと評している。翌1883年(明治16年)に伊藤らは帰国し、井上毅に憲法草案の起草を命じ、憲法取調局(翌年、制度取調局に改称)を設置するなど憲法制定と議会開設の準備を進めた。
その後、憲政実施のための準備行為として、次の改革が行われた。
* 1884年(明治17年)7月:[[華族令]]が公布されて新たに授爵の制が定められ、華族授爵の詔勅による[[爵位#1884年(明治17年)7月7日の叙任|叙任]]がなされた。
* 1885年(明治18年):[[太政官|太政官制]]を廃止して'''[[内閣 (日本)|内閣制度]]'''が創設され、[[伊藤博文]]が初代[[内閣総理大臣]](首相)となり、同じく独逸学協会の[[司法大臣]][[山田顕義]]も再任され、[[ゲオルグ・ミハエリス]]や[[パウル・マイエット]]も来日した。この時、同時に、宮内省を内閣の外に置くこととして、宮中と政府との分離が実施された。
* 1886年(明治19年)1月:[[公文式_(勅令)|公文式]]が公布され、法律、勅令、閣令、省令等の法形式が定められた。
* 1887年(明治20年):[[文官試験試補及見習規則]]が公布され、官吏任用のための試験制度が設けられた。
* 1888年(明治21年):[[市制]]・[[町村制]]が公布され、地方自治制度の基礎が定められた。また、枢密院が設けられ、天皇の諮詢に応える機関とされた。
なお、1886年(明治19年)年には、[[大審院]]長[[玉乃世履]]の在職中の自殺事件が起きるが、井上は、政府の法律顧問となったロエスレルや[[アルバート・モッセ]](Albert Mosse)などの助言を得て憲法草案の起草作業を行った。
1887年(明治20年)5月に憲法草案(甲乙2案)を書き上げた。一方、伊藤の命を受けた[[ヘルマン・ロエスレル|ロエスレル]]による草案もほぼ同時期に作成された。こらの草案を元に、[[夏島町|夏島]]([[神奈川県]][[横須賀市]])にある伊藤の別荘で、伊藤、井上、[[伊東巳代治]]、[[金子堅太郎]]らが検討を重ね、夏島草案をまとめた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi027.pdf/$File/shukenshi027.pdf |title=明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料 (明治憲法の制定過程について) |access-date=2023年3月25日 |quote=まず、井上毅により、明治 20 年(1887)3 月に草案の初稿が、次いで 5 月に最初の体系的な憲法草案(甲乙 2 案)が作成された。草案の作成に当たっては、井上とロエスレル及びモッセとの間で討議がなされたようである。
このうち、甲案は正式草案と呼ぶべきもので「最初ノ命意ニ依リ君主ノ特權并ニ他ノ綱要ノ部分ヲ「プレアンブル」ニ讓リ務メテ條章ヲ簡省ニスルノ方嚮ヲ取」ったもので、7 章 72 ヵ条からなるものであった。
これに対し、乙案は「務メテ許多ノ條章ヲ列擧スルヲ以テ目的トシ」また「私39意ヲ以テセス」との方針の下に作成されたもので、8 章 79 ヵ条からなるものであった。
この井上による草案とは別に、伊藤の命を受けたロエスレルによる草案(8章 95 ヵ条)も、ほぼ同じ時期に作成された。
伊藤は、以上の 3 草案を携え、伊東巳代治と金子堅太郎を随えて、神奈川の夏島にあった別荘において集中的な検討を行った(後日、井上も合流した。)。
この夏島における精力的な検討作業の結果、同年の 8月中旬には、7章 89 ヵ条からなる草案(「夏島草案 」又は「八月草案」と称される。)が取りまとめられた。}}</ref>。当初は東京で編集作業を行っていたが、伊藤が首相であったことからその業務に時間を割くことになってしまいスムーズな編集作業が出来なくなったことから、[[金沢区|相州金沢]](現:[[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]])の東屋旅館に移り作業を継続、しかしメンバーが[[横浜市|横浜]]へ外出している合間に書類を入れたカバンが盗まれる事件が発生、民権派の犯行も疑われたが、見つかったカバンからは金品のみなくなっていたことから[[空き巣]]であったとされる<ref name="trivia">{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2004 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 5 |publisher=講談社 }}</ref>。そのため最終的には夏島に移っての作業になった<ref name="trivia" />。その後、夏島草案に修正が加えられ、1888年(明治21年)4月に成案をまとめた。その直後、伊藤は天皇の諮問機関として[[枢密院 (日本)|枢密院]]を設置し、自ら議長となってこの憲法草案の審議を行った。枢密院での審議は1889年(明治22年)1月に結了した。{{要出典範囲|ロエスレルらの提出した「日本帝国憲法草案」のほとんどが[[司法大臣]][[山田顕義]]の下で受け入れられた|date=2023年3月}}。
====== 明治天皇の参加 ======
憲法制定にあたり[[明治天皇]]も侍従の[[藤波言忠]]を[[ローレンツ・フォン・シュタイン|シュタイン]]の下に派遣して彼の憲法説を学ばせ、藤波から[[皇后美子]]とともに全33回の講義を受けシュタイン流の憲法学と君主機関説を学んだ。この後、[[枢密院 (日本)|枢密院]]にて[[旧皇室典範|皇室典範]]と憲法の審議が開始されると明治天皇はその審議のほとんど全てに出席して修正条項は朱書して提出させ、理解できないところは伊藤枢密院議長に説明させた。以上のように[[大日本帝国憲法]]は憲法により天皇の権限を限定する当時最先端の君主機関説を反映したものであり、明治天皇自身もそのように理解していた。また明治天皇自身がこの憲法は自らが作った[[欽定憲法]]であると自負しており、[[板垣退助]]がドイツ憲法の真似だと批判したと聞いて怒ったと伝わる<ref>伊藤之雄「明治天皇」|2006‐9‐10|p=248‐272</ref>。
{{Wikisource|大日本帝國憲法#憲法發布勅語|憲法発布の詔勅}}
[[File:MET 06 448 F.jpeg|thumb|left|150px|憲法発布式に関わった皇族や官吏に授与された[[記念章#大日本帝国憲法発布記念章|大日本帝国憲法発布記念章]](金)。]]
1889年(明治22年)2月11日、[[明治天皇]]より「'''大日本憲法発布の[[詔勅]]'''」<ref>柴田勇之助 編、「大日本憲法發布の詔勅」『明治詔勅全集』、p26-27、1907年、皇道館事務所。[{{NDLDC|759508/34}}]</ref>が出されるとともに'''大日本帝国憲法'''が発布され、国民に公表された。この憲法は[[天皇]]が[[黒田清隆]]首相に手渡すという[[欽定憲法]]の形で発布され、日本は[[東アジア]]で初めて[[近代憲法]]を有する[[立憲君主制|立憲君主国家]]となった。また、同時に、皇室の家法である[[皇室典範]]も定められた。また、[[議院法]]、[[貴族院令]]、[[衆議院議員選挙法]]、[[会計法]]なども同時に定められた。大日本帝国憲法は[[第1回衆議院議員総選挙]]実施後の第1回[[帝国議会]]が開会された1890年(明治23年)11月29日に施行された。
===発布時の反響===
国民は憲法の内容が発表される前から憲法発布に沸き立ち、至る所に奉祝門やイルミネーションが飾られ、提灯行列も催された。当時の自由民権家や新聞各紙も同様に大日本帝国憲法を高く評価し、憲法発布を祝った<ref group="注釈">制定の過程において新聞紙上及び民権運動家から様々な批判があったにもかかわらず、発布に際しては国を挙げた奉祝ムードにあったことを、当時、[[東京大学]]医学部で教鞭を執っていた[[ベルツ]]が記している(『ベルツの日記』)。</ref>。自由民権家の[[高田早苗]]は「聞きしに優る良憲法」と高く評価した<ref>{{Cite web|和書|url=https://nichibun.repo.nii.ac.jp/records/6552 |title=グローバル・コンテキストのなかの明治憲法 |access-date=2023.11.10 |publisher=[[国際日本文化研究センター]] |author=[[瀧井一博]] |quote=当時の民権派の新聞・雑誌も総じて、憲法の発布を歓迎している。「余は大日本帝国憲法を良憲法と思ふなり、聞しに優る良憲法と思ふなり」とは、[[立憲改進党|改進党]]の論客高田早苗の評である。 |page=158}}</ref>。
他方、{{要出典範囲|福澤諭吉は主宰する『[[時事新報]]』の紙上で、「国乱」によらない憲法の発布と国会開設を驚き、好意を持って受け止めつつ、「そもそも西洋諸国に行はるる国会の起源またはその沿革を尋ぬるに、政府と人民相対し、人民の知力ようやく増進して君上の圧制を厭ひ、またこれに抵抗すべき実力を生じ、いやしくも政府をして民心を得さる限りは内治外交ともに意のごとくならざるより、やむを得ずして次第次第に政権を分与したることなれども、今の日本にはかかる人民あることなし」として、人民の精神の自立を伴わない憲法発布や政治参加に不安を抱いている|date=2023年11月}}。{{要出典範囲|[[中江兆民]]もまた、「我々に授けられた憲法が果たしてどんなものか。玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。国民の愚かなるにして狂なる。何ぞ斯くの如きなるや」と書生の[[幸徳秋水]]に溜息をついている|date=2023年11月}}。
『[[読売新聞]]』は、憲法について十分理解していない市民がいることについて「折角憲法を拝受しながら其何たるをさへ弁へざる物少なからざる」「甚だしきに至ては憲法様の御迎に何処まで行くのかと問ひ憲法発布を絹布の法被を給わるが為なりと誤解する物ある」と指摘した<ref>{{Cite web|和書|title=以下の記事に関して、掲載箇所を教えて頂けないでしょうか。①『東京朝日新聞』明治22年2月7日付 社説... |url=https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000236761 |website=レファレンス協同データベース |access-date=2023-09-01 |language=ja |last=国立国会図書館}}</ref>。
=== 条文解釈の議論 ===
井上毅は旧憲法施行の後は、条文解釈について[[御雇い外国人]]の法律顧問らから助言を受けていたとされている。1891年には、「憲法上の大権(統治大権、官制大権、任免大権、統帥大権、編制大権、外交大権、戒厳大権、非常大権)に基づく既定の歳出、及び法律の結果により、または法律上の政府の義務に関する歳出は、帝国議会は、'''政府の同意なくしては'''、これを排除しまたは削減することができない」(憲法67条)の解釈について、[[ロエスエル]]に回答を求めている。
{{quote|貴下は先に、<br> 議会がもし、憲法第67条の明文があるにも拘らず政府の同意を経ずして、該条に列挙した費額を排除・削減したときは、'''その議決は効力のないものとし、政府は原案を執行することができる。'''<br>
との旨を答えられた。<br>
しかるに、'''議決にはすでに効力がない'''とするのであれば、それは未だ一度も議決を経ていないということである。議決を経ない予算の款項は予算の草案に過ぎず、政府は予算の草案をもって、成立した(言い換えれば協賛を得た)予算としてこれを執行することができる、というのは法理において、やや穏当を欠くに似たものである。さらにご回答を煩わす。<br>
二十四年一月<br>
{{right|井上}}
ロエスレル博士}}
ロエスレルは、帝国議会に予算の決定権はないという旨とその理由を回答した{{sfn|井上毅|1891}}。
===制定後の出来事===
1890年、民法・商法・民事訴訟法・刑事訴訟法公布。民法は[[民法典論争]]の後修正して1898年に施行。
1891年(明治24年)、司法権独立につき[[大津事件]]。
1935年(昭和10年)、憲法解釈を巡り[[天皇機関説事件]]。
===日本国憲法への移行===
[[ファイル:Privy Council (Japan).jpg|thumb|right|300px|1946年(昭和21年)10月29日、「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した枢密院本会議の模様。]]
1945年(昭和20年)8月、日本政府が'''[[ポツダム宣言]]'''を受諾して[[終戦]]を迎えた([[日本の降伏]])。同宣言には、「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ」、「言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」などと定められたため、[[ダグラス・マッカーサー]]率いる[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ/SCAP)は、大日本帝国憲法の改正を日本政府に求めた。政府は内閣の下に憲法問題調査委員会(委員長・[[松本烝治]]国務大臣、松本委員会)を設置して、憲法問題の審議にあたらせた。政府は松本委員会が要綱化した案を元に閣議で審議し、1946年(昭和21年)2月8日に「'''憲法改正要綱([[松本試案]]''')」として総司令部に提出した。この間、国民の間でも憲法改正論議は高まり、さまざまな憲法改正案が発表された。
政府による「松本試案」の提出に先立ち、2月1日付『[[毎日新聞]]』が「松本委員会試案」なるものをスクープした。スクープされたものは松本委員会の委員の一人である[[宮澤俊義]]が作成した試案であって、松本試案とは異なるものであった。そのため、政府もその報道された内容が政府案と異なるとする声明を発表した。しかし、総司令部はその記事内容が真正な松本委員会案であると判断した。総司令部はその記事に示された「松本委員会試案」は受け入れがたいと考え、自ら憲法改正案を作成し、日本政府に提示することを決定した。総司令部は、2月3日から13日にかけて、いわゆる「'''[[マッカーサー草案]]'''」をまとめた。
2月13日、総司令部は、松本国務大臣と[[吉田茂]]首相に対し、2月8日に提出された「松本試案」に対する回答として、「マッカーサー草案」を手渡した。政府は「松本試案」の再考を求めたもののいれられず、あらためて、「マッカーサー草案」に基づいて検討し直し、「'''日本側草案'''(3月2日案)」を作成した。政府は総司令部と折衝の上、3月6日に「'''憲法改正草案要綱'''(3月6日案)」を政府案として国民に公表した。この「憲法改正草案」は、一部改正方式(いわゆる[[改め文]]方式)ではなく、全部改正方式を採用していた<ref group="注釈">全部改正であるにもかかわらず、「大日本帝国憲法の全部を改正する。」旨の記載がないのは、このような記載をするようになったのが、日本国憲法制定後のためである。また、廃止制定方式の場合には、附則に「○○法は、廃止する。」旨の記述をしなければならないが、本草案中には「大日本帝国憲法は、廃止する。」という文言はない。なお、このことは、日本国憲法についても同様である。</ref>。
この政府案を元に国民の間で広く議論が行われ、4月10日には[[第22回衆議院議員総選挙]]が行われた(もっとも、国民の最大の関心は新憲法より生活の安定にあった)。政府は、選挙が終了した4月17日に、要綱を条文化した「'''憲法改正草案'''」を公表した。4月22日から枢密院において憲法改正案が審査が開始され、6月8日に可決された。6月20日、政府は、[[大日本帝国憲法73条]]の憲法改正手続に基づき、憲法改正案を衆議院に提出した。6月25日から衆議院において審議が開始され、若干の修正が加えられた後、8月24日に可決された。続けて、8月26日から貴族院において審議が開始され、ここでも若干の修正が加えられた後、10月6日に可決された。翌7日、衆議院は貴族院の修正に同意し、帝国議会での審議は結了した。憲法改正案はふたたび枢密院にはかられ、10月29日に可決された。天皇の裁可を経て、11月3日、大日本帝国憲法は改正され'''[[日本国憲法]]'''として公布され、翌1947年(昭和22年)5月3日に施行された。
== 大日本帝国憲法の論点 ==
=== 内閣と総理大臣についての規定の欠落 ===
大日本帝国憲法には、'''「内閣」「内閣総理大臣」の規定がない'''。これは、伊藤博文がグナイストの指導を受け入れ、プロイセン憲法([[ビスマルク憲法]]、1871年)を下敷きにして新憲法を作ったからに他ならない。グナイストは伊藤に対して、「イギリスのような責任内閣制度を採用すべきではない。なぜなら、いつでも大臣の首を切れるような首相を作ると国王の権力が低下するからである。あくまでも行政権は国王や皇帝の権利であって、それを首相に譲ってはいけない」と助言した。この意見を採用した結果、戦前の日本は憲法上「内閣も首相も存在しない国」になったが、のちにこの欠陥に気づいた軍部が「陸海軍は天皇に直属する」という規定を盾に政府を無視して暴走することになった。
こうした欠陥が「統帥権干犯問題」の本質である。昭和に入るまでは明治維新の功労者である元勲が政軍両面を一元的に統制していたため問題が起きなかったが、元勲が相次いで死去するとこの問題が起きてきた。そしてさらに悪いことに、大日本帝国憲法を「[[不磨の大典]]」として条文の改正を不可能にする考え方があったことである。これによって昭和の悲劇が決定的になったと言える<ref>{{Cite book|和書|author=渡部昇一|authorlink=渡部昇一|date=2010-05-21|title=世界史に躍り出た日本|volume=第5巻 明治編|series=渡部昇一「日本の歴史」|publisher=[[ワック (メディア企業)|ワック]]|isbn=978-4-89831-144-8}}</ref>。
ビスマルク憲法のほうは大日本帝国憲法成立後の改正によって大臣解任権が議会に与えられたが、日本においては現在も事実上の大臣解任権を持つ[[議会]](国会)<ref group="注釈">衆議院には内閣不信任権が憲法で明記されている。</ref>や、独立の大臣等罷免審査の機関([[憲法裁判所]])が存在しない。
{{see also|立憲主義#外見的立憲主義}}
=== 議員資格審査の秘密性 ===
[[伊藤博文]]は[[間接民主主義|議会制民主主義]]に付随する[[議院法]]については英国人顧問[[フランシス・テイラー・ピゴット]]の助言を求め、ピゴットは「貴族院議院の資格争訟判決には理由を付すよう」回答している。しかし、伊藤らはその助言内容に反し、憲法の公布から施行までの間の1890年10月11日、貴族院議員資格争訟裁判の審査内容を秘密化する法律「貴族院議員資格及選挙争訟判決規則」を設置した<ref>[[#ピゴット]]及び[[#1890年勅令221]]。</ref>。
=== 憲法改正有限界説 ===
{{Main|八月革命説}}
大日本帝国憲法の制定は、明治憲法起草者の意図としては、日本古来の伝統的な不文憲法(「立憲独裁制」)が成文化され「立憲君主制」に改正されたものであると解釈され、帝国憲法は欽定憲法という点で建国以来の国体と法的に連続し、江戸時代の武家政権から政体は変わったものの、天皇独裁という日本の政治体制の根幹(国体)は一貫して維持されてきたという結論と結びついたものと解釈されていた<ref>[[穂積八束]]「新憲法ノ法理及憲法解釈ノ心得」
(上杉慎吾編、穂積八束博士論文集、大正2)[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952351]p.p.1-10</ref><ref>直接の引用は宇都宮純一「内田貴・法学の誕生-近代日本にとって「法」とは何であったか」を読む」(金沢法学2021.3.31)[https://kanazawa-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=55196&item_no=1&page_id=13&block_id=21][http://altmetrics.ceek.jp/article/ci.nii.ac.jp/naid/120006993509]P.11(PDF-P.12)</ref>。
一方で日本国憲法の制定は[[大日本帝国憲法第73条]]の改正規定によって行われており、この条文によると、憲法改正は天皇が発議・裁可することになっており、実際、憲法改正の上諭文には、「'''朕は'''…憲法の改正を'''裁可し'''…」との記述([[欽定憲法]])がなされた。この表現が、日本国憲法前文の「'''日本国民は'''…この憲法を確定する」([[民定憲法]])の文言と矛盾することが一部学説で問題とされている。
憲法学の学説の一つに、憲法の基本原則([[国体]])を変更する憲法改正は法的に不可能であるとするものがある(憲法改正有限界説)。この学説では、憲法の「改正権」という概念は「制憲権」(憲法を制定する権利)なしには産み出されないものであり、改正によって、産みの親である制憲権の所在(すなわち主権者)を変更することは法的に許されないとする。
このため、これらの矛盾を説明するために「[[八月革命説]]」が主張されるようになった。この学説によれば帝国憲法に定められた改正手続きによって行われたのは便宜的・形式的なもので、実質的に日本国憲法は改正ではなく「新たに制定」されたものであり、両者の間の法的連続性は無いという解釈が取られる。
一方で、憲法改正無限界説においては、大日本帝国憲法には改正限界を規定する条文は存在しておらず、大日本帝国憲法第73条の規定にのっとり改正された以上、憲法改正は正当であるとし、法的連続性は存在するとする。
なお、各国の憲法の中には「憲法改正の限界」を憲法に明記しているものが存在する([[戦う民主主義]]を参照)。
=== 現行法制度との関係 ===
大日本帝国憲法は、[[大日本帝国憲法第73条|第73条]]に定める改正手続を経て全面改正され、日本国憲法となる。日本国憲法は1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。
大日本帝国憲法の下で成立した法令は、[[日本国憲法第98条|日本国憲法98条1項]]により、「その条規に反する」ものについて同時に失効している。また、同条の反対解釈により、日本国憲法の条規に反しない法令は、日本国憲法の施行日以降も効力を有する。効力を有する場合、法律は法律として扱われ、[[閣令]]は[[内閣府令]]として、[[省令]]は省令として扱われる。勅令は、法律事項を内容とするものは暫定的効力を認めた後失効させ、法律事項以外を内容とするものは[[政令]]として扱われた。[[物価統制令]]などのいわゆる[[ポツダム命令|ポツダム勅令]](ポツダム命令)の一部については占領政策の終了に伴い法令等に存廃措置されている(詳しくは[[ポツダム命令#現在も効力を有する「ポツダム命令」]])。
==特徴==
[[ファイル:Politics Under Meiji Constitution 02.png|thumb|400px|大日本帝国憲法下の統治機構図。丸括弧で括った機関は、憲法に規定がない。]]
この憲法は[[立憲主義]]の要素と[[国体]]の要素をあわせもつ[[欽定憲法]]であり、立憲主義によって議会制度が定められ、国体によって議会の権限が制限された。一方、[[大日本帝国憲法第8条]]により、議会は[[天皇]]が発布した[[緊急勅令]]については[[#議会制|効力停止]]にすることもできた。<!--憲法改正-->[[日本国憲法]]成立後は、憲法学者らによって外見的立憲主義、[[王権神授説]]的と評された。
===構成===
大日本帝国憲法は7章76条からなる。構成は以下の通り。初期のビスマルク憲法と同様に内閣及び首相に関する規程がない(なおビスマルク憲法のほうは、後になって議会に大臣解任権が与えられた)。なお、既存項目が存在する条文のみ列挙した。全文は[[ウィキソース]]の[[s:大日本帝國憲法|大日本帝國憲法]]を参照のこと。
*第1章 天皇
**[[大日本帝国憲法第1条|第1条]] 天皇主権
**[[大日本帝国憲法第2条|第2条]] 皇位継承
**[[大日本帝国憲法第4条|第4条]] 統治大権
**[[大日本帝国憲法第10条|第10条]] 官制大権及び任免大権
**[[大日本帝国憲法第11条|第11条]] [[統帥権|統帥大権]]
**[[大日本帝国憲法第12条|第12条]] 編制大権
**[[大日本帝国憲法第13条|第13条]] 外交大権
**[[大日本帝国憲法第14条|第14条]] 戒厳大権
*第2章 臣民権利義務
**[[大日本帝国憲法第19条|第19条]] 公務への志願の自由
**[[大日本帝国憲法第20条|第20条]] 兵役の義務
**[[大日本帝国憲法第22条|第22条]] 居住・移転の自由
**[[大日本帝国憲法第29条|第29条]] 言論・出版・集会・結社の自由
**[[大日本帝国憲法第31条|第31条]] 非常大権
*第3章 帝国議会
**[[大日本帝国憲法第34条|第34条]] 貴族院
*第4章 国務大臣及枢密顧問
*第5章 司法
*第6章 会計
*第7章 補則
**[[大日本帝国憲法第73条|第73条]] 憲法改正
===立憲主義の要素===
立憲主義の要素としては次の諸点がある。
====言論の自由====
[[言論の自由]]・[[結社の自由]]や信書の秘密など臣民の権利が[[法律の留保]]のもとで保障されていること(第2章)。
これらの権利は天皇から臣民に与えられた「恩恵的権利」としてその享有が保障されていた。[[日本国憲法]]ではこれらの権利を永久不可侵の「[[基本的人権]]」と規定する。また、権利制限の根拠は、「法律ニ定メタル場合」、「法律ノ範囲内」などのいわゆる「法律の留保」、あるいは「安寧秩序」に求められた。この点も、基本的人権の制約を「公共の福祉」に求める日本国憲法とは異なる。ただし、現憲法の「公共の福祉」による制限も法律による人権の制限の一種であり、現在、教育の現場で解説されるような、「旧憲法のそれは非常に制限的であり、現憲法のそれは開放的である」とする程の本質的な差はないとする意見もある(ただし、比較的な傾向としては肯定する)。その立場からは、「人権が上位法の憲法典の形で明文で保障された」点に第一の意義があり、また内容としては当時においてはかなり先進的なものであったとする。
====議会制====
[[帝国議会]]を開設し、[[貴族院 (日本)|貴族院]]は皇族華族及び勅任議員からなり、[[衆議院]]は公選された議員からなること(第3章)。
帝国議会は法律の協賛(同意)権を持ち、臣民の権利・義務など法律の留保が付された事項は帝国議会の同意がなければ改変できなかった。また、帝国議会は予算協賛権を有し、予算審議を通じて行政を監督する力を持った。衆議院が予算先議権を持つ以外は、貴衆両院は対等とされた。上奏権や建議権も限定付きながら与えられた(最終的には天皇の裁可と国務大臣の副署が必要であったが、建議権を通じた事実上の政策への関与が可能とされた)。
議会は[[緊急勅令]]については次󠄁の会期において効力を停止させることができた([[大日本帝国憲法第8条#条文|第8条2項]]){{efn|[[大日本帝国憲法第8条]]2項は、緊急勅令は「次󠄁の會期に於󠄁て帝󠄁國議會に提出すべし。もし議會に於󠄁て承諾せざるときは、政府は將來に向けてその效力を失うことを公布すべし」としており、議会がその勅令を承認しない場合は将来に向けて効力を停止する勅令が発布される。<br/>一例として、日本政府は1919年(大正8年)、[[ベルサイユ条約]]締結により[[ドイツ帝国]]の[[膠州湾租借地]]の譲渡を受ける予定で、締結5日前の6月23日に緊急勅令を発し、日本政府はドイツ、オーストリア、ハンガリー及びトルコの個人や法人の財産を管理できるものとしたが、当該勅令は帝国議会が承諾せず、翌年3月25日に効力停止の勅令が発布された{{sfn|大正天皇|1920}}。当時、[[中華民国]]で[[五四運動#パリ講和反対デモ|パリ講和反対デモ(五四運動)]]が進行していたこと、結果的に中国がベルサイユ条約への調印(署名)を拒んだためであると見られる。}}。
====大臣責任制・大臣助言制====
天皇の[[行政大権]]の行使に[[国務大臣]]の[[輔弼]](天皇が権能を行使するに際し、助言を与える事)を必要とする体制([[大臣責任制]]または[[大臣助言制]])を定めたこと(第4章)。
[[内閣]]や[[内閣総理大臣]]に関する規定は憲法典ではなく[[内閣官制]]に定められた。内閣総理大臣は国務大臣の首班ではあるものの同輩中の首席とされ、国務大臣(各省大臣)に対する任免権がないため、明文上の権限は強くない。しかし、内閣総理大臣は各部総督権を有して大政の方向を指示するために機務奏宣権(天皇に裁可を求める奏請権と天皇の裁可を宣下する権限)と国務大臣の奏薦権(天皇に任命を奏請する権限)を有したため、実質的な権限は大きかった。
====司法権の独立====
司法権の独立を確立したこと。
司法権は天皇から裁判所に委任された形をとり、これが司法権の独立を意味していた。また、欧州大陸型の司法制度を採用し、[[行政訴訟]]の管轄は[[司法]]裁判所にはなく[[行政裁判所 (日本)|行政裁判所]]の管轄に属していた。この根拠については[[伊藤博文]]著の『[[憲法義解]]』によると、行政権もまた司法権からの独立を要することに基づくとされている。
===国体の要素===
[[国体]]の要素としては次の諸点が挙げられる。
====万世一系====
<ref>この章は、ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎(翻訳)、31頁。(第8章1『日本王朝の太古的古さ』)を参照。</ref>
「天壌無窮の神勅」
日本書紀に書かれた、天照大神が孫のニニギノミコトに言ったという言葉。
「葦原千五百秋之瑞穗國、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣。寶祚之隆、當與天壤無窮者矣。」
「葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、是れ、吾が子孫の王たるへき地なり。宣しく爾皇孫(すめみま)就(ゆ)きて治(しら)せ。行(さまく)矣(ませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさんこと、当に天壌(あまつち)と窮り無けむ。」
大日本帝国憲法では皇室の永続性が皇室の正統性の証拠であることを強調していた。『[[大日本帝国憲法における告文|告文]]』(憲法前文)には以下のような文章がある。
{{Quotation|{{kyujitai|…天壤無窮ノ<ruby><rb>宏謨</rb><rt>(こうぼ)</rt></ruby>ニ<ruby><rb>循</rb><rt>(したが)</rt></ruby>ヒ<ruby><rb>惟神</rb><rt>(かんながら)</rt></ruby>ノ寳祚ヲ承繼シ…}}|『大日本帝国憲法』告文|日本の憲法}}
:''輝かしき祖先たちの徳の力により、はるかな昔から代々絶えることなくひと筋に受け継がれてきた皇位を継承し…''
そして、[[大日本帝国憲法第1条|憲法第1条]]で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定されたのである。近代的な政治文書で「[[万世一系]]」のような詩的な文言が用いられたのはこれが初めてである。「万世一系」のフレーズは公式のイデオロギーの中心となった。学校や兵舎でも公式な告知や発表文でも広く使われて周知されていった。
====総攬者====
<ref>この章は、[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai7/7siryou1.html 「皇室典範に関する有識者会議」第7回の鈴木正幸・神戸大学副学長による説明]を参照。</ref>
「天壌無窮ノ宏謨(てんじょうむきゅうのこうぼ)」(御告文)という皇祖皇宗の意思を受け、天皇が継承した「国家統治ノ大権」(上諭)に基づき、天皇を国の[[元首]]、統治権の総攬者としての地位に置いた。この天皇が日本を統治する体制を'''国体'''という。
天皇統治の正当性を根拠付ける国体論は、大きく二つに分けられる。一つは起草者の一人である[[井上毅]]らが主唱する国体論(『シラス』国体論)であり、もう一つは、後に、[[高山樗牛]]、[[井上哲次郎]]らが主唱した国体論(家秩序的国体論)である。井上らの国体論は、[[古事記]]神話に基づいて公私を峻別し、天皇は公的な統治を行う(シラス)ものであって、他の土豪や人民が行う私的な所有権の行使(ウシハク)とは異なるとする(井上「古言」)。これに対して、高山らの国体論は、当時、広く浸透していた「家」を中心とする国民意識に基づき、「皇室は宗家にして臣民は末族なり」とし、宗家の家長たる天皇による日本(=「君臣一家」)の統治権を正当化する(高山「我国体と新版図」、『太陽』3巻22号)。憲法制定当初は井上らの国体論を基礎的原理とした。しかし、[[日清戦争]]後は高山らの国体論が徐々に浸透してゆき、[[天皇機関説事件]]以後は、「君民一体の一大家族国家」([[文部省]]「国体の本義」)として、ほぼ国定の解釈となった。
====天皇大権====
[[天皇]]が[[天皇大権]]と呼ばれる広範な権限を有したこと。
特に、独立命令による法規の制定(9条)、条約の締結(13条)の権限を議会の制約を受けずに行使できるのは他の立憲君主国に類例がなかった。なお、天皇の権限といっても、運用上は天皇が単独で権限を行使することはなく、[[内閣 (日本)|内閣]]([[内閣総理大臣]])が天皇の了解を得て決断を下す状態が常であった。
====立法権====
立法権を有するのは天皇であり、[[帝国議会]]は立法機関ではなく立法協賛機関とされた。
立法権を有するのは天皇であるが、法律の制定には、帝国議会の協賛を得たうえで天皇の裁可を要するものとされた。同時代の君主国憲法の多くが立法権を君主と国会が共有する権能としていたことと比すると特異な立法例であるといえるが、帝国議会の協賛がなければ法律を制定することができないこと、帝国議会が可決した法律案を天皇が裁可しなかったことは一度もなかったことから、事実上、帝国議会が唯一の立法機関であった。ただし、例外として、天皇には、[[緊急勅令]]や[[独立命令]]を発する権限など、実質的な立法に関する権限が留保された(ただし[[#議会制|議会]]は[[緊急勅令]]については効力を停止することももできた)。また、憲法改正の発案権は天皇のみにあり、帝国議会にはなかった。
さらに、帝国議会の一院に公選されない[[貴族院 (日本)|貴族院]]を置き、衆議院とほぼ同等の権限を持たせた。
また、[[枢密院 (日本)|枢密院]]など内閣を掣肘する議会外機関を置いたこと。このほか、[[元老]]、[[重臣会議]]、[[御前会議]]など法令に規定されない役職や機関が多数置かれた。
====統帥権====
[[統帥権]]を独立させ、[[大日本帝国陸軍]]・[[大日本帝国海軍]]は議会(立法府)や政府・内閣(行政府)に対し、一切責任を負わないものとされた。
統帥権は慣習法的に軍令機関([[参謀本部 (日本)|陸軍参謀本部]]・[[軍令部|海軍軍令部]])の専権とされ、[[文民統制]](シビリアン・コントロール)の概念に欠けていた。元来は政争の道具として軍が使われないようにと元勲が企図したものだが、統帥権に基づいて軍令機関は帷幄上奏権を有すると解し、[[軍部大臣現役武官制]]とともに軍部の政治力の源泉となった。後に、[[昭和]]に入ってから、軍部が大きくこれを利用し、陸海軍は大元帥である天皇から直接統帥を受けるのであって政府の指示に従う必要はないとして、[[満州事変]]などにおいて政府の決定を無視した行動を取るなどその勢力を誇示した。
====皇室自律主義====
皇室自律主義を採り、[[旧皇室典範|皇室典範]]などの重要な憲法的規律を憲法典から分離し、議会に関与させなかったこと。
宮中(皇室、[[宮内省]]、[[内大臣府]])と府中(政府)の別が原則とされ、互いに干渉しあわないこととされた。もっとも、宮中の事務をつかさどる[[内大臣府|内大臣]]が内閣総理大臣の選定に関わるなど大きな政治的役割を担い、しばしば宮中から府中への線は踏み越えられた。
===分立主義===
{{see also|セクショナリズム|権力分立}}
本憲法の統治構造は、国務大臣や帝国議会、裁判所、枢密院、陸海軍などの国家機関が各々独立して天皇に輔弼ないし協賛の責任を持つという形をとっており、必然的にどの国家機関も他に優越することはできなかった(分立主義)。そして、実際には天皇が能動的に統治行為を行わない以上([[機務六条]])、権力の分立を避けるために憲法外に実質的な統合者([[元老]]など)を必要としていた。
この問題は「統治構造の割拠性」といわれる<ref>この概念の先駆は[[辻清明 (政治学者)|辻清明]]である。第一論文「統治構造における割拠性の基因」の初出は『国家学会雑誌』58巻1号(昭和19年)、「新版・日本官僚制度の研究」1969年序ⅲ~ⅳページ。</ref><ref>西本筆、「[https://hdl.handle.net/2115/29342 文部行政の歴史的研究序説]」『北海道大学教育学部紀要』1990年2月 54巻 p.97-111(P.98), 北海道大學教育學部。</ref><ref>辻の階統制と割拠性についての解説としては 小西徳慶、「[https://hdl.handle.net/10291/15008 日本におけるセクショナリズムと稟議制の源流-「日本社会」論を前提として-]」『政經論叢』 2011年3月 79巻 3-4号 p.115-160 {{naid|120005258999}}, 明治大学政治経済研究所。</ref>。「明治憲法体制下においては、天皇は、親政をとらず、内閣等の輔弼に従って名目的な統括者として権力を行使する存在であった」「各輔弼機関は分立的・割拠的であったため、その調整は事実上、元老に委ねられていたが、元老の消滅に伴い、実質的な統治の中心が不在となってしまった」<ref>政治の基本機構のあり方に関する調査小委員会(第五回)[[八木秀次 (法学者)|八木秀次]]参考人[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/news032.pdf/$File/news032.pdf][https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/154-07-04-touchi.htm]</ref>「戦前の統治構造における割拠性については改めて言及するまでもなかろう。明治22年の内閣官制、非連帯責任制の採用、統帥権の独立、枢密院・貴族院の存在等々、幾多の障壁が内閣の一体性の確保を阻害していた」<ref>大河内繁男、「[http://digital-archives.sophia.ac.jp/repository/view/repository/00000023331 統合調整機能の強化:総合管理庁講想と総務庁]」『上智法學論集』 1985年 28巻 1-3号 p.133-154, {{ncid|AN00115768}}, 上智大學法學會</ref>のである。
そしてこの、権力が割拠し、[[意思決定]]中枢を欠くという問題を解決するために、権力の統合を進めようとする動きがあった。[[政党内閣制]]はその試みのうちの有力なものである。しかし、そういった動きに対しては、天皇主権を否定し、「幕府的存在」を作ることになるとの反発などもあり(例:[[内閣官制]]における大宰相主義の否定、[[大政翼賛会]]違憲論など)、ついに解消されることはなかった。
==起草前後の政情==
[[ファイル:Meiji constitution memorial.jpg|thumb|250px|『憲法草創之處』碑([[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]])]]{{出典の明記| date = 2023年4月| section = 1}}
当時、欧米諸国以外で立憲政治を実現した国はなかった。1876年に[[オスマン帝国]]([[トルコ]])が[[オスマン帝国憲法]]を制定し立憲政治を始めたが、わずか2年で憲法停止・議会解散に追い込まれていた。({{疑問点範囲|ただし[[清]]には[[科挙]]制度など比較的民主的な制度が存在した|date=2023年3月|title=立憲政治に関する記述に科挙の記述の混ぜるのは適切か?}})。
明治維新後の日本は不平等条約を改正し、欧米列強と対等の関係を築くために近代的憲法を必要としていたため、民間の憲法案も多数発表されたが、憲法起草の中心になった伊藤博文にいわせれば、「実に英、米、仏の自由過激論者の著述のみを金科玉条のごとく誤信し、ほとんど国家を傾けんとする勢い」であった。
また、一部の保守派には絶対君主制を目指す動きがあった。伊藤は[[ビスマルク憲法]]が日本の現状に適合しているとして憲法制定を推進した。それまで日本は幕藩体制の中でばらばらの状況であり、一つの国家と国民という結びつきができていなかった。そのために、天皇を中心として国民を一つにまとめる反面、議会に力を持たせ、バランスの取れた憲法を制定する必要があった。
憲法の起草は、夏島(現在の[[神奈川県]][[横須賀市]]夏島町)の[[伊藤博文]]別荘を本拠に、1887年(明治20年)6月4日ごろから行われた。伊藤の別荘は手狭だったことから、事務所として料理旅館の「東屋」(現在の[[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]])を当初は用いていた。しかし、8月6日、伊藤らが横浜へ娯遊中に泥棒が入り、草案の入った鞄が盗難にあったことから、その後は伊藤別荘で作業が進められた。鞄は後に近くの畑でみつかり、草案は無事だったという(脚注を参照{{どれ|date=2023年3月}})。
東屋には、憲法ゆかりの地であることを記念して、1935年(昭和10年)に、起草メンバーの一人であった[[金子堅太郎]]書による「憲法草創の処」の碑が建てられた。その後、東屋は廃業し、一時的に、野島公園(同区)に碑も移転したが、現在は東屋跡地に近い洲崎広場に設置されている。
なお、夏島にあった伊藤の別荘は、後に、[[小田原町|小田原]]に移築され、[[関東大震災]](大正[[関東地震]])で焼失しているため現存しない。夏島の跡地には明治憲法起草地記念碑が建てられている。また、のちに、伊藤が建てた別荘が野島に残っている(伊藤博文記念館)。
== 日本の祝日 ==
大日本帝国憲法が公布された2月11日は「[[紀元節]]」(1873年制定、1948年廃止)で、同日は現在も「[[建国記念の日]]」として[[国民の祝日]]である<ref>{{Cite web|和書|title=令和3年2月10日 「建国記念の日」を迎えるに当たっての内閣総理大臣メッセージ {{!}} 令和3年 {{!}} 総理の指示・談話など {{!}} ニュース|url=https://www.kantei.go.jp/jp/99_suga/discourse/20210211message.html|website=首相官邸ホームページ|accessdate=2021-11-02|language=ja}}</ref>。
==条文リンク==
本記事末尾のテンプレートを参照。
<!--*第一章 天皇
**[[大日本帝国憲法第1条|第1条]]
**[[大日本帝国憲法第2条|第2条]]
**[[大日本帝国憲法第3条|第3条]]
**[[大日本帝国憲法第4条|第4条]]
**[[大日本帝国憲法第5条|第5条]]
**[[大日本帝国憲法第6条|第6条]]
**[[大日本帝国憲法第7条|第7条]]
**[[大日本帝国憲法第8条|第8条]]
**[[大日本帝国憲法第9条|第9条]]
**[[大日本帝国憲法第10条|第10条]]
**[[大日本帝国憲法第11条|第11条]]
**[[大日本帝国憲法第12条|第12条]]
**[[大日本帝国憲法第13条|第13条]]
**[[大日本帝国憲法第14条|第14条]]
**[[大日本帝国憲法第15条|第15条]]
**[[大日本帝国憲法第16条|第16条]]
**[[大日本帝国憲法第17条|第17条]]
*第二章 臣民権利義務
**[[大日本帝国憲法第18条|第18条]]
**[[大日本帝国憲法第19条|第19条]]
**[[大日本帝国憲法第20条|第20条]]
**[[大日本帝国憲法第21条|第21条]]
**[[大日本帝国憲法第22条|第22条]]
**[[大日本帝国憲法第23条|第23条]]
**[[大日本帝国憲法第24条|第24条]]
**[[大日本帝国憲法第25条|第25条]]
**[[大日本帝国憲法第26条|第26条]]
**[[大日本帝国憲法第27条|第27条]]
**[[大日本帝国憲法第28条|第28条]]
**[[大日本帝国憲法第29条|第29条]]
**[[大日本帝国憲法第30条|第30条]]
**[[大日本帝国憲法第31条|第31条]]
**[[大日本帝国憲法第32条|第32条]]
**[[大日本帝国憲法第33条|第33条]]
--><!--33条で止めておく理由がないので、記事末テンプレートに誘導-->
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist|2}}
===出典===
{{reflist|2}}
==参考文献==
{{参照方法|date=2021年7月|section=1}}
===史料===
*{{Cite book|和書|author=[[大正天皇]]| title=[{{NDLDC|2954404/1}} 大正八年勅令三百四号の効力を将来に失わしむるの件 ]| page=1| publisher=[[国立印刷局|大蔵省印刷局]]『官報』| location =| year=1920|date=1920-3-25| isbn=| ref=harv}}
*<span id="ピゴット"></span>[[フランシス・テイラー・ピゴット]]『[[:s:貴族院議員資格及選挙争訟判決規則に対するピゴット氏意見|貴族院議員資格及選挙争訟判決規則に対するピゴット氏意見]]』、伊藤博文『秘書類纂』。
*<span id="1890年勅令221"></span>[[:s:貴族院議員資格及選挙争訟判決規則(明治23年勅令第221号)|貴族院議員資格及選挙争訟判決規則(明治23年勅令第221号)]]。官報、1890年10月11日。
*{{Cite book|和書|author=井上毅|authorlink=井上毅| translator=| title=[{{NDLDC|1235788/140}} 憲法及議員法に関し井上毅質問に付ロエスレル氏等答]| page=| publisher=[[伊藤博文]]・[[秘書類纂刊行会]]『秘書類纂. 帝国議会資料 上巻』| location =| year=1891| isbn=| ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=伊藤博文|authorlink=伊藤博文|date=1889-04-24|title=帝国憲法義解|publisher=[[国家学会]]|id={{近代デジタルライブラリー|789171}}|ref=伊藤1889}}
**{{Cite book|和書|author=伊藤博文|date=1889-06-01|title=帝国憲法皇室典範義解|edition=5版|publisher=[[丸善雄松堂|丸善]]|id={{近代デジタルライブラリー|994279}}|ref=伊藤1904}} - 国家学会蔵版。
**{{Cite book|和書|author=伊藤博文|date=1935-04-22|title=帝国憲法皇室典範義解|edition=増補15版|publisher=丸善|id={{近代デジタルライブラリー|1281828}}|ref=伊藤1935}} - 国家学会蔵版。
**{{Cite book|和書|author=伊藤博文|others=[[日本国学振興会]]訳註|date=1938-05-05|title=帝国憲法義解 新訳|publisher=日本国学振興会|id={{近代デジタルライブラリー|1441516}}|ref=伊藤1938}}
**{{Cite book|和書|author=伊藤博文|others=[[宮沢俊義]]校註|date=1940-04-15|title=憲法義解|series=[[岩波文庫]]|publisher=岩波書店|isbn=4-00-331111-6|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/6/3311110.html|id={{近代デジタルライブラリー|1267849}}|ref=伊藤1940}}
===文献===
====大日本帝国憲法制定前史に関するもの====
*{{Cite book|和書|author=工藤武重|authorlink=工藤武重|year=1934|month=|title=明治憲政史|edition=|publisher=[[有斐閣]]|id={{近代デジタルライブラリー|1146795}}|ref=harv}}
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*{{Cite book|和書|author=国家学会|authorlink=|year=1919|month=|title=明治憲政経済史論|edition=|publisher=国家学会|id={{近代デジタルライブラリー|960529}}|ref=harv}}
====大日本帝国憲法の内容に関するもの====
*{{Cite book|和書|author=美濃部達吉|authorlink=美濃部達吉|year=1927|month=|title=逐条憲法精義|edition=|publisher=有斐閣|id={{近代デジタルライブラリー|1280004}}| ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=美濃部達吉|authorlink=|year=1946|month=8|title=憲法撮要|edition=改訂版|publisher=有斐閣|id={{近代デジタルライブラリー|1267437}}| ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=稲田正次|authorlink=稲田正次|year=1960|month=4|title=明治憲法成立史|volume=上巻|edition=オンデマンド版|publisher=有斐閣|isbn=4-641-90325-5|url=http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/4641903263}}
*{{Cite book|和書|author=稲田正次|year=1962|month=1|title=明治憲法成立史|volume=下巻|edition=オンデマンド版|publisher=有斐閣|isbn=4-641-90326-3|url=http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/4641903255}}
*{{Cite book|和書|author=瀧井一博|authorlink=瀧井一博|year=2003|month=12|title=文明史のなかの明治憲法 この国のかたちと西洋体験|series=講談社選書メチエ286|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-258286-4|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000195246}}
*{{Cite book|和書|author=八木公生|authorlink=八木公生|year=2001|month=1|title=天皇と日本の近代|volume=(上)憲法と現人神 |series=講談社現代新書1534|publisher=講談社|isbn=4-06-149534-8|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000146995}}
*{{Cite book|和書|author=八木秀次|authorlink=八木秀次 (法学者)|year=2002|month=4|title=明治憲法の思想 日本の国柄とは何か|series=PHP新書201|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=4-569-62145-7|url=http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-62145-6}}
==関連項目==
{{Commonscat|独逸学協会|独逸学協会}}
{{Commonscat|Meiji Constitution}}
{{Wikisource|大日本帝國憲法|大日本帝国憲法}}
*[[憲法義解]]
*[[太政官]]
*[[天皇機関説]]
*[[天皇主権]]
*[[内閣 (日本)]]
*[[日本国憲法]]
*[[大日本帝国]]
*[[エチオピア1931年憲法]] - 大日本帝国憲法を基にして制定された。
==外部リンク==
*伊東巳代治関係文書『[{{NDLDC|3947565}} ロエスレル氏起案日本帝国憲法草案]』
**[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3947565 「ロエスレル起案日本帝国憲法草案」]
*[https://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j02.html 大日本帝国憲法] - [[国立国会図書館]]
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*{{Kotobank|大日本帝国憲法|2=[[世界大百科事典]] 第2版}}
*伊藤博文 著『[{{NDLDC|1272168}} 帝国憲法義解・皇室典範義解]』 - 近代デジタルライブラリー
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*{{NHK for School clip|D0005310129_00000|大日本帝国憲法}}
*{{NHK for School clip|D0005402876_00000|大日本帝国憲法-中学}}
*『[https://chukyo-u.repo.nii.ac.jp/records/15193 明治前期の憲法諸構想に於ける天皇大権規定の一考察(一)]』 - [https://chukyo-u.repo.nii.ac.jp/?page=1&size=20&sort=custom_sort 中京大学学術情報リポジトリ]
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2,383 | BeOS | BeOS(ビーオーエス)は、米Be社が開発したオペレーティングシステム (OS) である。
BeOSのコードはUNIXなどの既存のコードをベースとするのではなく、すべて新しく書き起こされた。
同社のワークステーションであるBeBox、またはPower Mac、PC/AT互換機で動作し、メディアOSとしてマルチメディアを扱うことに長けていた。洗練された設計で、非常に高性能なOSである。発表当時同じPowerPCで動くMac OSよりも遥かに高速に動作し、「PowerPCの真価を発揮した」とユーザーを驚かせた。
技術的な特徴として次のようなものがある。
OS単体での販売が終了した後でも、楽器メーカーのローランドがエディロールのブランドでビデオ編集専用機のDV-7DLで組み込みOSとして使用しており、単体のシステムとしてより若干長く現役で活躍していたOSでもある。
上記の特徴はオープンなBeOSとして開発中のHaikuで再現されようとしている。
新興OSとして、レガシーを切り捨てた設計で高性能を発揮したが、動作環境が限られ、対応アプリケーションが少なかったことでシェアを獲得できず開発が中止された。
Appleのヨーロッパ部門で好成績を収め、後にApple本社で開発責任者を務めたジャン=ルイ・ガセー(Jean-Louis Gassée)らが1990年にスピンアウトしてBe社を設立した。Be社は1990年当時にようやく注目され始めたRISC CPU,マイクロカーネル,SMPという要素を全て盛り込んだコンピュータを作るため、ハードウェアBeBoxとオペレーティングシステム BeOSの開発を開始する。初期のBeBoxのプロトタイプはAT&TのHobbitというプロセッサーを使用していたが、後にPowerPCベースに変更され、その上で動くBeOSとともに1995年に一般に公開された。BeOSではアプリケーションからの直接的なハードウェアアクセスと徹底した並列化を設計レベルで実装した結果、同時代のMacintoshやWindows等とは比較にならない程高速に動作し、コンピュータ関係者の間で大きな話題となった。しかし、対応ハードウェアが一般的でないBeBoxのみではソフトメーカーが参入せず、恒常的なアプリケーション不足に悩まされることになった。
翌年にはBeOSはPower Macintoshに移植され、Mac OSの次世代OS候補として注目を集めることになった(BeBox事業は終了したが、サポートはその後数年間継続した)。旧弊なMac OSに代わる次世代OSを求めている事を知り得たガセーは、BeOSの良さをアピールすべくAppleに働きかけ、当時のApple CEOのギル・アメリオらに簡単なデモを行った。ガセーはアメリオに買収に関する条件に付いて提示をしたが、Appleの見積ではBeOSの価値は5000万ドルであったのに対しガセーは3億ドルと法外に高額な金額を提示した。当時、BeOSは6年かかっても未完成であり、完全な商用製品と呼べるシステムには至っておらず、更にMacに搭載した場合のコストとBeOS自体の開発費用等を含めるととてつもない金額となり、その上に急を要する次世代Mac用のOS開発に膨大な時間がかかる事が分かる。またギル・アメリオの腹心だったエレン・ハンコックがIBMにソフトウェア担当上級副社長として勤めていた際に、技術オンチだった幹部陣がインテルやマイクロソフトにいいようににしてやられる様を見てきたため、結論を急ぎ過ぎないよう進言した。
結果として、AppleはNeXTソフトウェアのOPENSTEPを選択し、スティーブ・ジョブズ率いるNeXTを買収する。金額的にはBeよりも高くはなったが、OPENSTEPは金融機関や研究機関などで既に実績を上げていた。
Appleへの売却に失敗したBe(ガセー)は徐々に業績が下がっていった。さらに、AppleがPower Macintosh G3以降のマシンの技術資料の公開を拒んだため、技術的にもMacプラットフォーム上でのBeOSの発展は困難となったとし、BeOSがG3以降の機種に対応することはなかった。これについては、Power Macintosh G3の仕様はCHRP準拠であり公開されていたも同然であり、PowerPC用Linux等複数のOSがPower Mac G4以降でも動作していることから、単にMacに見切りをつけるための口実であったとも言われている。
そこでインテル等の協力を得てPC/AT互換機で作動するBeOSの開発に専念する事になった。
このような状況で、BeOSはインテル (x86) プラットフォームへ進出し、1998年にはBeOS Release 3 (R3) としてx86・Power Mac・BeBox対応でリリースされた。これによりBeOSはPCユーザーからも注目を集めることとなる。しかし、R3時点ではx86プラットフォームのハードウェアサポート(チップセット・ビデオ・オーディオ・ネットワークなど)はきわめて限定されており、BeOS専用にハードウェアを選択しなければ満足に動かすのは難しいほどであった。また、付属のウェブブラウザNetPositiveは日本語のエンコーディングに対応していたものの、日本語のフォントやインプットメソッドは付属しなかったため、日本のユーザーにとってはハードルが高かった。
1998年暮れにはRelease 4 (R4) がリリースされた。このリリースからは日本語のフォントやインプットメソッド(エルゴソフトのEGBRIDGE ベース)も付属した。一方で、x86 の標準のコンパイラがCodeWarriorからGCCに変更されたためバイナリフォーマットがPEからELFに変わり、R3 x86のバイナリは動かなくなった。このころはMicrosoft Windowsに代わる代替OSを求める動きが盛んになってきたころで、BeOSもその波に乗って一定のユーザーを獲得した。日本では日立製作所からプレインストールPC(Windows 98とのデュアルブート)も発売された。
翌年にはRelease 4.5(R4.5、コードネームGenki)がリリースされ、PCカードサポートなどが追加された。
2000年にBeOSの第三の転機が訪れる。BeOS Release 5(R5、コードネームMaui)は、従来の個人ユーザー中心のパッケージ販売から、以下のような提供形態に切り替えることが発表された。
これは、業績が芳しくない個人向け市場から、当時注目を集めていたIA市場へとシフトしたもので、米ソニーのIA「eVilla」などに採用された。また、無料でインストールも簡単なPEの存在も目を引いた。
しかし、IA市場そのものがそれほど発展しなかったこともあり、ビジネス的には苦しい状況が続いた。開発中のR5.1(コードネームDano)は日の目を見ることなく、2001年にBe社の知的資産はパーム(旧PalmSource、現ACCESS Systems)に売却され、Be社は解散した。これにより、Be社によるBeOSの歴史は終わりを告げた。
このように、BeOSの歩みはハードウェアを転々としてきた歴史でもある。これについても、BeOSの移植性の高さの賜物として肯定的にとらえる意見と、ユーザーを切り捨ててきた歴史として批判する意見とがある。
Be社には親日家のエンジニアが多く、日本語のサポートが比較的充実していた。 また、日本語関係のお遊びも盛り込まれていた。
多くの人々に愛されたBeOSであり、2002年以降、いくつかのオープンソースプロジェクトがBeOSを再構築するために動いている。BeOS 5をベースにプロプライエタリなコードを排除すべく書き直され、機能が増強されている。BeOSのマイクロカーネルの仕組みがこの作業を簡単にした。
ZETAは、yellowTAB社がPalm社からライセンスを得て開発していた商用のBeOS後継OSである。yellowTAB社が破産したため、magnussoft社支援のもと元CEOだったBernd Korzが中心となったチームで ZETA 開発が継続され、製品の販売は独magnussoft社に引き継がれた。しかし2007年に販売不振により支援打ち切りが決まり、開発終了および販売停止となった。
Haiku プロジェクトは、オープンソース版 BeOS を目指して、Be 社解散後に発足した。当初のプロジェクト名は OpenBeOS と称しており、2004 年にコミュニティの投票によって選ばれた新しいプロジェクト名として Haiku と改名された。Haiku プロジェクトの第一目標は、BeOS と互換性(ソース / バイナリ共)を持つHaiku R1 (RはReleaseの頭文字) をリリースすることであり、R1 以降は、Haiku に新しい技術やアイディアを採り入れた最適なデスクトップ OS プラットフォームに発展させていくことを長期的な目標として掲げている。Haiku は x86 と PowerPC コンピュータを対象に開発が進められている。Haiku のスクリーンショット集
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] | BeOS(ビーオーエス)は、米Be社が開発したオペレーティングシステム (OS) である。 | {{出典の明記|date=2021年5月}}
{{Infobox OS
| name = BeOS
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| screenshot =
| caption = BeOS PR2
| developer = [[Be社]]
| family = BeOS
| source_model = [[クローズドソース]]
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| license = [[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]
| website = {{Wayback | url=http://www.beincorporated.com/ | title=beincorporated.com | date=20020329}}
}}
'''BeOS'''(ビーオーエス)は、米[[Be (企業)|Be社]]が開発した[[オペレーティングシステム]] (OS) である。
== 特徴 ==
BeOSのコードは[[UNIX]]などの既存の[[ソースコード|コード]]をベースとするのではなく、すべて新しく書き起こされた。
同社の[[ワークステーション]]である[[BeBox]]、または[[Power Mac]]、[[PC/AT互換機]]で動作し、メディアOSとして[[マルチメディア]]を扱うことに長けていた。洗練された設計で、非常に高性能なOSである。発表当時同じ[[PowerPC]]で動く[[Classic Mac OS|Mac OS]]よりも遥かに高速に動作し、「PowerPCの真価を発揮した」とユーザーを驚かせた。
技術的な特徴として次のようなものがある。
* [[POSIX]]と互換性がある。
* [[マイクロカーネル]]を採用。これは[[マルチプロセッサ]]対応を最初から意識した設計である。
* [[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]が[[オブジェクト指向プログラミング|オブジェクト指向]]の言語[[C++]]で書かれている。
* 全体が高度に[[マルチスレッド]]・[[マルチタスク]]化されており、並列・並行処理のパフォーマンスに優れる。
* [[データベース]]のように動作する、[[ジャーナリングファイルシステム|ジャーナルファイルシステム]]対応 [[64ビット]]ファイルシステム [[Be File System|BFS]]。
* シングルユーザーのパーソナル指向OS。
OS単体での販売が終了した後でも、楽器メーカーの[[ローランド]]が[[エディロール]]のブランドでビデオ編集専用機のDV-7DLで組み込みOSとして使用<ref>[https://www.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0408/23/news005.html PCの技術で完璧な「専用機」を作る (1/3)]</ref>しており、単体のシステムとしてより若干長く現役で活躍していたOSでもある。
上記の特徴はオープンなBeOSとして開発中の[[Haiku (オペレーティングシステム)|Haiku]]で再現されようとしている。
== 歴史 ==
新興OSとして、レガシーを切り捨てた設計で高性能を発揮したが、動作環境が限られ、対応アプリケーションが少なかったことでシェアを獲得できず開発が中止された。
=== PowerPCプラットフォームでの展開 ===
[[Apple]]のヨーロッパ部門で好成績を収め、後にApple本社で開発責任者を務めた[[ジャン=ルイ・ガセー]]({{Lang|fr|Jean-Louis Gassée}})らが[[1990年]]に[[スピンオフ|スピンアウト]]してBe社を設立した。Be社は1990年当時にようやく注目され始めたRISC CPU,マイクロカーネル,SMPという要素を全て盛り込んだコンピュータを作るため、[[ハードウェア]][[BeBox]]とオペレーティングシステム '''BeOS'''の開発を開始する。初期のBeBoxの[[プロトタイプ]]は[[AT&T]]の[[Hobbit]]という[[マイクロプロセッサー|プロセッサー]]を使用していたが、後に[[PowerPC]]ベースに変更され、その上で動くBeOSとともに[[1995年]]に一般に公開された。BeOSではアプリケーションからの直接的なハードウェアアクセスと徹底した並列化を設計レベルで実装した結果、同時代のMacintoshやWindows等とは比較にならない程高速に動作し、コンピュータ関係者の間で大きな話題となった。しかし、対応ハードウェアが一般的でないBeBoxのみではソフトメーカーが参入せず、恒常的なアプリケーション不足に悩まされることになった。
翌年にはBeOSは[[Power Macintosh]]に移植され、[[Classic Mac OS|Mac OS]]の次世代OS候補として注目を集めることになった(BeBox事業は終了したが、サポートはその後数年間継続した)。旧弊なMac OSに代わる次世代OSを求めている事を知り得たガセーは、BeOSの良さをアピールすべくAppleに働きかけ、当時のApple [[最高経営責任者|CEO]]の[[ギル・アメリオ]]らに簡単な[[プレゼンテーション|デモ]]を行った。ガセーはアメリオに買収に関する条件に付いて提示をしたが、Appleの見積ではBeOSの価値は5000万ドルであったのに対しガセーは3億ドルと法外に高額な金額を提示した<ref>参考 『アップル薄氷の500日』 1998年8月15日</ref>。当時、BeOSは6年かかっても未完成であり、完全な商用製品と呼べるシステムには至っておらず、更にMacに搭載した場合のコストとBeOS自体の開発費用等を含めるととてつもない金額となり、その上に急を要する次世代Mac用のOS開発に膨大な時間がかかる事が分かる。また[[ギル・アメリオ]]の腹心だった[[エレン・ハンコック]]が[[IBM]]にソフトウェア担当上級副社長として勤めていた際に、技術オンチだった幹部陣が[[インテル]]や[[マイクロソフト]]にいいようににしてやられる様を見てきたため、結論を急ぎ過ぎないよう進言した。
結果として、Appleは[[NeXT]]ソフトウェアの[[OPENSTEP]]を選択し、[[スティーブ・ジョブズ]]率いるNeXTを買収する。金額的にはBeよりも高くはなったが、OPENSTEPは[[金融機関]]や研究機関などで既に実績を上げていた。
Appleへの売却に失敗したBe(ガセー)は徐々に業績が下がっていった。さらに、AppleがPower Macintosh G3以降のマシンの技術資料の公開を拒んだため、技術的にもMac[[プラットフォーム (コンピューティング)|プラットフォーム]]上でのBeOSの発展は困難となったとし、BeOSがG3以降の機種に対応することはなかった。これについては、Power Macintosh G3の仕様は[[CHRP]]準拠であり公開されていたも同然であり、PowerPC用[[Linux]]等複数のOSがPower Mac G4以降でも動作していることから、単にMacに見切りをつけるための口実であったとも言われている。
そこで[[インテル]]等の協力を得て[[PC/AT互換機]]で作動するBeOSの開発に専念する事になった。
=== インテルプラットフォームでの展開 ===
このような状況で、BeOSはインテル ([[x86]]) プラットフォームへ進出し、[[1998年]]にはBeOS Release 3 (R3) としてx86・Power Mac・BeBox対応でリリースされた。これによりBeOSはPCユーザーからも注目を集めることとなる。しかし、R3時点ではx86プラットフォームのハードウェアサポート([[チップセット]]・[[ビデオ]]・[[オーディオ]]・[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]など)はきわめて限定されており、BeOS専用にハードウェアを選択しなければ満足に動かすのは難しいほどであった。また、付属の[[ウェブブラウザ]]NetPositiveは日本語の[[エンコーディング]]に対応していたものの、日本語の[[フォント]]や[[インプットメソッド]]は付属しなかったため、日本のユーザーにとってはハードルが高かった。
[[1998年]]暮れにはRelease 4 (R4) がリリースされた。このリリースからは日本語のフォントやインプットメソッド(エルゴソフトの[[EGBRIDGE]] ベース<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/980528/ergo.htm BeOS Release 4に標準添付「EGBRIDGE」のエンジンや辞書をもとに開発 エルゴソフト、BeOSに標準添付される日本語入力システムを開発] 1998年5月28日</ref>)も付属した。一方で、x86 の標準のコンパイラが[[CodeWarrior]]から[[GNUコンパイラコレクション|GCC]]に変更されたため[[バイナリフォーマット]]が[[Portable Executable|PE]]から[[Executable and Linkable Format|ELF]]に変わり、R3 x86の[[バイナリ]]は動かなくなった。このころは[[Microsoft Windows]]に代わる代替OSを求める動きが盛んになってきたころで、BeOSもその波に乗って一定のユーザーを獲得した。日本では[[日立製作所]]から[[プレインストール]]PC([[Microsoft Windows 98|Windows 98]]との[[デュアルブート]])も発売された<ref>{{Cite web|和書|date=1998-11-11 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/981111/hitachi.htm |title=日立、BeOSをプリインストールした液晶デスクトップ |publisher=PC Watch |accessdate=2012-08-31}}</ref>。
翌年にはRelease 4.5(R4.5、コードネームGenki)がリリースされ、[[PCカード]]サポートなどが追加された。
=== フォーカスシフトとBeOSの終焉 ===
[[2000年]]にBeOSの第三の転機が訪れる。BeOS Release 5(R5、コードネームMaui)は、従来の個人ユーザー中心のパッケージ販売から、以下のような提供形態に切り替えることが発表された。
* BeIA(コードネームStinger) - [[インターネットアプライアンス]] (IA) 向けのOEM供給。ビジネス的にはこれを主力とする。
* BeOS Personal Edition (PE) - 個人非商用向け無料バージョン。[[ダウンロード]]配布され、Windows上で[[File Allocation Table|FAT]][[パーティション]]内に[[インストール]]することができる(実際の動作は通常通り独立したOSとして動作する)。
* BeOS Pro Edition - 従来のパッケージ販売の後継。PCで本格的に利用するユーザー向け。
これは、業績が芳しくない個人向け市場から、当時注目を集めていたIA市場へとシフトしたもので、米ソニーのIA「eVilla」などに採用された。また、無料でインストールも簡単なPEの存在も目を引いた。
しかし、IA市場そのものがそれほど発展しなかったこともあり、ビジネス的には苦しい状況が続いた。開発中のR5.1(コードネームDano)は日の目を見ることなく、[[2001年]]にBe社の[[知的資産]]は[[パーム (企業)|パーム]](旧PalmSource、現[[ACCESS Systems]])に売却され、Be社は解散した。これにより、Be社によるBeOSの歴史は終わりを告げた。
このように、BeOSの歩みはハードウェアを転々としてきた歴史でもある。これについても、BeOSの移植性の高さの賜物として肯定的にとらえる意見と、ユーザーを切り捨ててきた歴史として批判する意見とがある。
== BeOSと日本語 ==
{{要出典範囲|Be社には[[親日家]]のエンジニアが多く、[[日本語]]のサポートが比較的充実していた。|date= 2019年7月}}
また、日本語関係のお遊びも盛り込まれていた。
* NetPositiveでは日本語のエンコーディングがサポートされていた(非西洋圏の言語では唯一)。
* R4以降、日本語のフォントとインプットメソッドが付属した(同上)。
* BeBoxのカスタムI/OプロセッサはKasumiと呼ばれていた。これは『[[らんま1/2]]』の女性キャラクター・天道かすみにちなんだものといわれている。
* NetPositiveの[[エラーメッセージ]]は、英語による[[俳句]]形式になっていた(BeOS後継プロジェクトの一つHaiku OSのネーミングは、これにちなんだものと思われる)。ただし、これはわかりづらかったため、後のバージョンでは通常の形式も選べるようになった。
* R4.5のコードネームはGenki(元気)であった。
== 最近の動向 ==
[[File:BeOS family.svg|thumb|BeOSおよびBeOS系システム系統図]]
多くの人々に愛されたBeOSであり、[[2002年]]以降、いくつかの[[オープンソース]]プロジェクトがBeOSを再構築するために動いている。BeOS 5をベースに[[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]なコードを排除すべく書き直され、機能が増強されている。BeOSのマイクロカーネルの仕組みがこの作業を簡単にした。
=== ZETA ===
[[ZETA]]は、[[:en:yellowTAB|yellowTAB]]社がPalm社から[[ライセンス]]を得て開発していた商用のBeOS後継OSである。yellowTAB社が[[破産]]したため、[[:en:magnussoft|magnussoft]]社支援のもと元CEOだったBernd Korzが中心となったチームで ZETA 開発が継続され、製品の販売は独magnussoft社に引き継がれた。しかし[[2007年]]に販売不振により支援打ち切りが決まり、開発終了および販売停止となった。
* [[2003年]] - yellowTAB社が Palm社からライセンスを得てBeOSの後継 OS ZETA を開発中。
* [[2004年]] - yellowTAB社が ZETA の RC 版を発売。一家の中では複数の PC にインストール可能なファミリーライセンス形式を採用。この Zeta Neo は BeOS の後継として徐々に認知されつつある。
* [[2005年]]6月9日 - yellowTAB社がZETA 1.0を発表。
* 2005年7月1日 - Berry Japan社がyellowTAB社と総代理店契約締結。ZETA の日本公式サイトを開設。
* 2005年7月7日 - Berry Japan社が、ZETA 1.0 Multilingual Deluxe Version(15,800円)を販売開始。[[セブン-イレブン]]経営の7dream.comでも販売。
* 2005年 8月5日 -「ZETA 1.0 Deluxe Edition」が[[秋葉原]]のショップに初登場。[[ぷらっとホーム]]が、ZETA 1.0 Multilingual Deluxe Versionを販売開始。
* 2005年 10月15日 - yellowTAB社が「ZETA 1.1」をリリース、既存ユーザ向けアップデータを無料ダウンロードとして配布開始。
* [[2006年]] 1月21日 - 長期間にわたるBerry Japan社の契約違反のため、yellowTAB社がBerry Japan社との日本総代理店契約を破棄。
* 2006年 4月4日 - ZETA 開発元 yellowTAB社が破産保護下に置かれる<ref>[http://yellowtab.com/news/article.php?id=192 yellowTAB 社発表]</ref><ref>[http://pcweb.mycom.co.jp/news/2006/04/17/004.html MYCOM PC WEB 関連記事]</ref>。
* 2006年 10月14日 - 元CEOだったBernd Korzが中心となったチームでZETAが開発され、製品の販売は独magnussoft社が引き継ぐ。
* [[2007年]]<!--3月--> - magnussoft社は販売不振に伴いZETAの開発支援打ち切り決定し、Bernd Korzも開発終了を発表<ref>[https://news.mynavi.jp/news/2007/04/03/006/ 「ついにBeOS後継「Zeta」の開発が終了」] マイコミジャーナル 2007年4月3日</ref>、販売も2007年度で終了する。
=== Haiku プロジェクト ===
{{Main|Haiku (オペレーティングシステム)}}
[[Haiku (オペレーティングシステム)|Haiku プロジェクト]]は、オープンソース版 BeOS を目指して、Be 社解散後に発足した。当初のプロジェクト名は OpenBeOS と称しており、2004 年にコミュニティの投票によって選ばれた新しいプロジェクト名として Haiku と改名された。Haiku プロジェクトの第一目標は、BeOS と[[互換性]](ソース / バイナリ共)を持つHaiku R1 (RはReleaseの頭文字) をリリースすることであり、R1 以降は、Haiku に新しい技術やアイディアを採り入れた最適な[[デスクトップ]] OS プラットフォームに発展させていくことを長期的な目標として掲げている。Haiku は x86 と PowerPC コンピュータを対象に開発が進められている。[https://www.haiku-os.org/slideshows/haiku-1 Haiku のスクリーンショット集]
既に20年もの歴史があるプロジェクトだが、開発は遅々として進まず、最初の正式版となるR1が未だにリリース出来ていない段階にある。
* [[2001年]] 8月 OpenBeOS プロジェクト発足。
* [[2004年]] 6月 第1回「WalterCon 2004」開催、新プロジェクト名「Haiku」が発表される。
* 2004年 10月 CannaIM for BeOS が Haiku に寄付される。
* [[2005年]] 7月 日本語フォント「[http://www.masuseki.com/index.php?u=be/konatu.htm 小夏]」を標準フォントとして適用。
* 2005年 8月 「WalterCon 2005」開催。
* 2009年9月14日 初公式リリース Haiku R1/Alpha 1 が公開される [http://www.haiku-os.org/news/2009-09-13_haiku_project_announces_availability_haiku_r1alpha_1 公式サイトでの発表]、[http://sourceforge.jp/magazine/09/09/14/0439229 sourceforge.jp]、[http://sourceforge.jp/magazine/09/09/26/0812219/2 BeOS互換OS「Haiku」の初となる公式開発版「Haiku R1/Alpha」を試す]
* 2010年5月9日 Haiku R1/Alpha 2 が公開される。
* 2011年6月18日 Haiku R1/Alpha 3 が公開される。
* 2012年11月12日 Haiku R1/Alpha 4 が公開される。
* 2012年11月14日 Haiku R1/Alpha 4.1 が公開される。
* 2018年9月28日 Haiku R1/Beta 1 が公開される。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 外部リンク ==
* 日本のユーザグループ(閉鎖): [https://web.archive.org/web/20061130194044/http://www.jpbe.net/ 日本 BeOS ネットワーク]{{リンク切れ|date=2019年12月}}
* [https://web.archive.org/web/19970430201842/http://www.eng.iastate.edu/~hiro/BeScope.html Be遠鏡(BeScope)]
* [https://web.archive.org/web/19990916063307/http://www.yk.rim.or.jp/~okuno/be-free/jp/ Be Free! --- BeOS Introduction Page ---]
=== 後継OS ===
* [http://www.beunited.org/ beunited.org] - Be互換OSへのリンクと関連ニュース
* [http://www.blueeyedos.com/ B.E.O.S] - [[Linux]]カーネルベース、2003年以降開発が停止している
==== Haiku関連 ====
* [http://www.haiku-os.org Haikuプロジェクト公式サイト](英語)
* [https://web.archive.org/web/20071012170854/http://jpbe.net/news/archives/cat_haiku_os_openbeos.html 日本ユーザグループJPBE.netからのHaiku関連ニュース] - 閉鎖。(2007年10月12日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])
==== ZETA関連 ====
* ZETAの公式ホームページ([https://web.archive.org/web/20080509135207/http://www.zeta-os.com/] zeta-os.com 消滅)
* [https://web.archive.org/web/20060901014809/http://www.yellowtab.com/ yellowTAB社] - ZETAの旧開発元
* [https://web.archive.org/web/20060630073700/http://www.yellowtab.com/news/article.php?id=130 Zeta 1.0の発表] - yellowTAB社ウェブサイト内の記事
* [https://web.archive.org/web/20090421223726/http://akiba.ascii24.com/akiba/news/2005/08/05/657395-000.html 「BeOS」の後継OS「ZETA 1.0 Deluxe Edition」が秋葉原のショップに初登場] - ニュースサイト内の記事
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/BeOS |
2,387 | CPU | CPU(シーピーユー、英: Central Processing Unit)、中央処理装置(ちゅうおうしょりそうち)または中央演算処理装置(ちゅうおうえんざんしょりそうち)は、コンピュータの主要な構成要素のひとつで、コンピュータ内の他の装置・回路の制御やデータの演算などを行う装置。演算装置と制御装置を統合したもの。コンピュータにおける中心的な処理装置(プロセッサ)。
「CPU」の意味は、厳密に言うと、「プロセッサ」や「マイクロプロセッサ」とは意味が異なっており、範囲の違いがある。
もともとは、コンピュータの中央処理装置(CPU)は、ディスクリート(ダイオードやトランジスタなど、単機能の個別半導体で構成された電子回路)から成るかなり大きなサイズの電子回路で作られた。やがて集積回路を作れるようになると、それを使い中央処理装置を作るようになった。(なお、大型汎用機を指す「メインフレーム」という語は、もともとは多数の架(フレーム)から成る大型汎用機システムにおいてCPUの収まる主要部(メイン)、という所から来ている。) さらに大規模集積回路(LSI)を作れるようになると、やがてCPUの機能を含んだマイクロプロセッサを製造できるようになり、それがCPUとして使われている(ただしマイクロプロセッサはCPU以外の用途で使われているほうがはるかに数が多い。例えばPCの電源部に内蔵されている制御用マイクロコントローラはマイクロプロセッサの一種だが、PCのCPUではない。)
CPUは記憶装置上にあるプログラムと呼ばれる命令列を順に読み込んで解釈・実行することで情報の加工を行なう。CPUはコンピュータ内での演算を行なう中心であり、CPUは通常はバスと呼ばれる信号線を介して主記憶装置や入出力回路に接続され、何段階かの入出力回路を介して補助記憶装置や表示装置、通信装置などの周辺機器が接続され、データやプログラムなど情報のやりとりを行なう。
このようなCPUを用いたプログラムによるコンピュータの逐次動作がほとんどのコンピュータの基本的な動作原理となっている。記憶装置上にプログラムを配置してから、プログラムを実行する方式をプログラム内蔵方式と言う。
現在のCPUは、部品としてはプロセッサの1種である。プロセッサの多くはマイクロチップとして実装されており、マイクロプロセッサやMPU (Micro Processing Unit) と呼ばれる。また、算術演算機能を強化し信号処理に特化したデジタルシグナルプロセッサ (DSP) や、メモリや周辺回路を搭載し組込機器制御を目的としたマイクロコントローラ(マイコン)などの展開種も登場している。
専用の電子回路に比べると実行速度は遅いが、プログラムを変えるだけで多様な処理が行なえることから、非常に多岐にわたる用途に使用できる汎用性と柔軟性が最大の特徴である。専用回路(ハードウェア)の変更・修正に比べれば、ソフトウェアの変更・修正は容易であり、物質的なコストがかからないため、システム設計・開発の試行錯誤もしやすい。このため、CPUはおよそあらゆるシステムに内蔵され、現代の産業や生活の屋台骨を支える存在にまで普及している。現在最も普及しているCPUアーキテクチャとしてARMアーキテクチャが挙げられる。ARMアーキテクチャベースのCPUは1991年から数え2008年初頭に出荷個数が100億個を超えるなど、家電製品から工業製品、携帯機器などに至る多くのシステムに組み込まれ、機器制御を司っている。また、パーソナルコンピュータ (PC) など、現在の汎用コンピュータ製品における多くのシステムのメインCPUにx86アーキテクチャが用いられており、インテルのx86系CPU出荷数は1978年6月9日の8086発売から2003年までの25年で10億個を越えた。
いわゆるノイマン型・プログラム内蔵方式のプロセッサの構造と基本動作は、世界で最初の実用的なノイマン型・プログラム内蔵方式のコンピュータであったEDSACの実装の時点で、すでに構造と基本動作が実装されている。CPUやCPU以外のプロセッサの発達には、プロセス技術の微細化による高速化、命令の各処理工程の並列実行(命令パイプライン、演算パイプライン)、命令の並列実行(スーパースケーラ、VLIW)、データ演算の並列化(SIMD演算)、複数プロセッサ・コアの実装(マルチコア)、複数スレッドの同時実行(同時マルチスレッディング)などやその他多数の要素がある。
CPUは、全体を制御する制御装置、演算装置、データを一時記憶するレジスタ、メモリなどの記憶装置とのインタフェース、周辺機器との入出力装置とのインタフェース、などから構成される。
その他 浮動小数点演算を行うFPU(浮動小数点演算ユニット)、レジスタより多くの情報を一時記憶するキャッシュメモリ、DMAコントローラ、タイマー、シリアルインタフェースなどの機能をCPUと同一IC内に持つものもある。また、メモリから読み込んだ命令語を内部的なオペレーションに置き換える変換部を持つものもある。
クロック同期型のCPUは、クロック信号によって規則正しいタイミングで各部の動作を統制されている。 同じアーキテクチャのCPUであればクロック周波数が高い方が高速に動作し、一定時間に多くのことを処理できる。ただしその代わりに消費電力や発熱が大きくなるという問題も発生する。 1クロックで処理できる内容はCPUおよび命令セットの設計により異なり、複数クロックで1つの機械語命令を実行するものから、1クロックで複数の命令を同時に実行できるものまである。クロック周波数が1 GHzのCPUは、基本回路が1秒間に10億回の動作をする。
多くのCPUでは、大まかに言って制御装置が命令の解釈とプログラムの制御の流れを制御し、演算装置が演算を実行する。
高性能なCPUや、非ノイマン型のCPUや、画像処理向けのCPUは、同時に複数の命令を実行できるように複数の実行部を同一IC内に持っているものがある。
ノイマン型CPUの基本的な動作は、その実装に関わらずプログラムと呼ばれる命令列を順番に実行することである。
プログラムは数値列として何らかのメモリに格納されている。CPUでは、フェッチ (fetch)、デコード (decode)、実行 (execute) という3つのステップがほぼ必ず存在する。
最初の段階であるフェッチとは、実行すべき命令(ある数値または数値の並び)をプログラムの置かれたメモリから取り出すことである。メモリ上の実行すべき命令の位置はプログラムカウンタで指定される。プログラムカウンタはCPUが現在見ているプログラム上の位置を示しているとも言える。命令フェッチに使用されると、プログラムカウンタはフェッチしたぶんだけ増加させられる。
CPUがメモリからフェッチした命令によってCPUの次にすべきことが決定される。デコードでは、命令をCPUにとって意味のある形式に分割する。命令を表す数値をどう分割するかは、予めそのCPUの命令セットで決定される。命令の一部の数値は命令コードと呼ばれ、実行すべき処理を指定する。その他の部分はオペランドと呼ばれ、その命令で使用する情報を示している。たとえば加算命令のオペランドは加算すべき数値を示している。オペランドには数値そのものが書かれていたり、数値のある場所(メモリのアドレスかレジスタの番号)が書かれている。古い設計では、デコーダ(デコードを行う部分)は変更不可能なハードウェア部品だった。しかし、より複雑で抽象的なCPUや命令セットではマイクロプログラム方式がしばしば使われ、命令を様々な信号に変換するのを助けている。このマイクロプログラムは書き換え可能な場合があり、製造後でも命令デコード方法を変更することができる。
フェッチとデコードの次は、実行ステップが行われる。このステップでは、CPUの多くの部分が接続され(たとえばマルチプレクサを切り替えるなどして)指定された操作を実行する。たとえば、加算を要求されている場合、加算器が所定の入力と接続され、出力と接続される。入力は加算すべき数値を提供し、出力には加算結果が格納される。加算結果が大きすぎてそのCPUに扱えない場合、算術オーバーフローフラグをフラグレジスタ(ステータスレジスタ)にセットする(RISCではフラグレジスタが存在しない場合もある)。入力や出力にはいろいろなものが使用される。演算結果が一時的かあるいはすぐに利用される場合にはレジスタと呼ばれる高速で小さなメモリ領域に格納される。メモリも入力や出力に使われる。レジスタ以外のメモリは低速だが、コスト的には一般的なメモリの方が安価であり大量のデータを格納できるため、コンピュータには必須である。
いくつかの命令はプログラムカウンタを操作する。それらは一般にジャンプ命令と呼ばれ、ループを構成したり、条件分岐をしたり、サブルーチンを実現するのに使われる。また、多くの命令はフラグレジスタを変化させる。それらのフラグはプログラムの動作に影響を与える。たとえば比較命令は二つの値を比較してフラグレジスタにその大小を示す値をセットする。そして、その値を使用してその後の処理の流れを決定する。
命令を実行後、同じ流れが繰り返されて次の命令をプログラムカウンタにしたがってフェッチする。もっと複雑なCPUでは、複数の命令をフェッチし、デコードし、同時に実行することもできる。しかし、基本的にどんなCPUでもやっていることはここで説明した流れと同じである。
現代のCPUのような装置が出てくる以前、ENIACのような計算機は、実行する処理の内容を変えるたびに物理的に配線を変更していた。このような機械では、プログラムを変更するために物理的に再構成する必要がある(たとえばENIACなどではパッチパネルが使われた)ことから「プログラム固定計算機」と呼ばれることがある(なお、ENIACは非常に限られた機能と性能になるが、ある程度はプログラム内蔵方式的な動作もできた)。
CPUは一般にソフトウェア(プログラム)を実行する装置として定義されるため、CPUと呼べる装置が現れたのはプログラム内蔵方式のコンピュータからである。プログラム内蔵方式の考え方は、ENIACの設計時にすでに存在していたが、マシンの完成を早期に可能とするため、ENIACの初期段階で採用されなかった。ENIACが完成する以前の1945年6月30日、数学者のジョン・フォン・ノイマンの名で、EDVACに関する報告書の第一草稿 (First Draft of a Report on the EDVAC) という報告書が公開・配布された。この中で、プログラム内蔵方式のコンピュータの設計について概説されている。この報告書はEDSACなどに影響を与えた。EDVACは1949年8月に一応の完成を見、アバディーンに移された。EDVACは様々な命令の集まりを実行するよう設計されていた。命令を組み合わせることで実用的なプログラムを構成し、EDVACで動作させることができた。EDVACではプログラムは高速なメモリに格納されており、物理的に配線を変更することで指定されるものではない点が重要である。ノイマン型の設計では、EDVACで動作させるプログラムを変更するにはメモリを書き換えればよかった(ノイマン型はプログラム内蔵だけでなく、プログラムがデータとして書き換え可能である点まで含む点に注意)。
結果としてノイマン型で先に完成したのは、EDSAC (1949年) やManchester Mark Iの試作機 Baby (1948年) であった。EDVACは先に設計が始まっているが、設計者間のごたごたがあって完成が遅れた。また、アイデアレベルではZuse Z3を1941年に開発しているコンラッド・ツーゼもそれ以前にプログラム内蔵方式(書き換えでない点に注意)を考案していた。データとプログラムを同じ記憶装置に格納するかどうかという点が異なる方式として、ハーバード・アーキテクチャがある。これはEDVAC以前に完成したHarvard Mark Iに由来する。同機ではさん孔テープにプログラムを格納した。ノイマン型とハーバード型の大きな違いは、後者が命令とデータの格納場所と扱いを完全に分離していることであり、前者はどちらも同じ記憶領域に格納する。汎用CPUは基本的にノイマン型であるが、ハーバード・アーキテクチャも部分的に採用されている(キャッシュメモリなど)。
デジタル機器としてのCPUは、状態を変更したり表現したりするために、何らかのスイッチを必要とする。電気機械式から電子式への移行期には、リレーや真空管がスイッチとして使われた。これらは、従来の完全な機械式よりも高速にスイッチを切り替えられたが、チャタリングをはじめ、コイル(インダクタ)によって発生する高電圧などの問題があった。一方、真空管はチャタリングは起こさないが、機能するには熱が必要であり、劣化により動作中にカソードの電子放射能力が減退(エミッション減退)して動作不能になってしまう。真空管が劣化・故障したら、故障した部位を特定して交換しなければならない。したがって、初期の電子計算機は高速化は実現したものの、電気機械式計算機よりも信頼性が低かった。EDVACのような真空管計算機は故障と故障の間の平均時間(MTBF = Mean Time Between Failure)は約 8 時間であったが、Harvard Mark Iのようなリレー式計算機はほとんど故障しなかった。しかし、信頼性よりも性能が重視され、真空管式計算機が主流となっていった。当時の同期式CPUのクロック周波数は現在のCPUに比較すると非常に遅く、100 kHz〜4 MHz程度であった。これは、当時の論理素子(真空管)のスイッチング速度によって限界が定められていた。
CPUの設計と複雑さの進歩は、小型で信頼性の高い電子部品を使うことでもたらされた。新たに発明され急激に性能の向上したトランジスタの利用である。これによって、1950年代から1960年代には、かさばって信頼性の低い真空管やリレーは使われなくなり、トランジスタ製CPUが主流となった。この改善によってさらに複雑で信頼性のあるCPUを一枚から数枚のプリント基板で構成できるようになった。
1964年、IBMが発表したSystem/360アーキテクチャは、いろいろな性能と大きさのコンピュータとして実装され、それらのシリーズではプログラムを変更することなく動作させることができた。当時、たとえ同じメーカーであっても、サイズの違うコンピュータは互換性がないのが普通だった。この改善を成し遂げるため、IBMはマイクロプログラム方式を採用した。これは現在のCPUでも広く使われている手法である。System/360は大変な成功を収め、その後数十年間メインフレーム市場を支配し続け、現在のz/Architectureに至っている。
同じ1964年、DECも、「PDP-8」という後世に影響を与えたミニコンピュータを、科学分野や研究分野に向けてリリースした。DECは、後にさらに広く使われることとなる「PDP-11シリーズ」を発表したが、このシリーズは、後に集積回路(IC)が使えるようになると、それを使ったバージョンも製造されている。トランジスタを使ったCPUでは、新たな設計上の工夫をする余裕が生じ、SIMDやベクトル計算機と呼ばれるものが出現した。そのような初期の実験的設計は、後にクレイ社の製造したスーパーコンピュータのベースとなっている。
トランジスタを使ったコンピュータは、それ以前のものと比較していくつかの明確な利点があった。信頼性向上と消費電力低下はもちろん、トランジスタによるスイッチは切り替え時間が劇的に短縮されたため、CPUが高速化された。トランジスタによるコンピュータでは動作周波数は数十MHzまで高速化された。
CPUなどに使われるプロセッサは、1970年代に1チップの大規模集積回路(LSI)に集積されるようになった(マイクロプロセッサ)。初期のマイクロプロセッサは4ビットや8ビットで、当時のミニコンピュータやメインフレームのCPUに比べると非常に機能の限られたものであったが、1970年代末から1980年代の微細化の進展により、プロセス保護など当時のメインフレームに相当するような機能を統合した32ビットプロセッサが現れた。組み込み用途には周辺機能やメモリ等を集積した、いわゆるワンチップマイコンも普及した。初期のマイクロプロセッサはNMOSロジック回路で構成されていたが、1980年代にはCMOS化が進み、消費電力が激減した(CMOSは消費電力は抑えられるが、当初は遅かったことから、電卓や時計など消費電力が重要で速度が重要でない分野でしか使われなかった)。CMOSは微細化が進めば進むほど静電容量が減り高速化でき、高速化を狙わない場合は低消費電力化できるという優れた特長があり(デナード則)、動作周波数は2000年代にはGHzオーダーまで上がった。微細化はより多くのゲートを載せることができるということでもあり、命令パイプラインやアウト・オブ・オーダー実行などで命令レベルの並列性を引き出す、複雑で高性能なプロセッサが作られるようにもなった。微細化による集積度の向上の傾向はムーアの法則により定性的にモデル化されている。ただし複雑化に比例して性能が線形に上がるわけではない(ポラックの法則)。しかし、2006年頃にはデナード則が崩れて、動作周波数の向上とマイクロアーキテクチャの複雑化で性能向上を図る方向性は行き詰まった。以降は(非対称型を含む)マルチコア化と、相対的に低いクロックでも高い性能を引き出しやすいSIMDの性能向上に力点が置かれている。
マイクロプロセッサの複雑さ、機能、構造、一般的な形状はこの50年間で劇的に変化したが、CPUの高性能化の基本的なコンセプトは、マイクロプロセッサ以前の1960年代に初めて現れた、というものが多い。たとえば、アウト・オブ・オーダー実行の方式であるscoreboardingもTomasuloのアルゴリズムも、最初に考案されたのは1960年代である。
21世紀現在のコンピュータは、ほぼ全てが「二値論理」方式であり、そのうちの全てではないもののかなり多くが、二値論理に数の表現法として二進法をマッピングして演算などを行っているが、メインフレームや、電卓用に特別に設計されたマイコンなどには、広義の二進化十進表現に含まれるような方式でハードウェアによって直接に十進の計算を行う機能が強化されているものもある。1ビットが二進法の1桁である。ビット数を「ビット幅」などとも呼ぶ。
例えば、「ビット幅」や「データバス幅」が8ビットであるため8ビットCPUと呼ばれるCPUでは、主なレジスタ等の幅、あるいは、データバスの幅が8ビットである。8ビットでは、非負整数であれば二進法8桁で表せる範囲である「2の8乗 − 1」まで、つまり[0 〜 255]の範囲の整数が表現できる。
また「アドレス幅」はCPUが直接にメモリを指し示す(アドレッシングする)範囲を制限する。例えば、アドレス幅が32ビットのCPUでは、そのCPUが直接指定できるアドレスの範囲は、2の32乗、つまり4,294,967,296個の異なる位置になる。
System/360以降の多くの命令セットアーキテクチャ(ISA)では1バイトがアドレス付けの単位であるため(バイトアドレッシング)、4ギビバイトのメモリに、直接アクセスできる、ということになる。
これらはCPUのデータ幅やアドレス幅による単純な分類方法であり、実際のCPUではデータ信号線やアドレス指定方法に工夫することで、外部的に少ないデータバス幅や内部的に少ないアドレス幅でも効率的にメモリ・アクセスできるようにしているものがあるため、こういった分類は多少複雑になっている。
CPUを表現する場合のビット数の意味は以下の通りである。
1990年代以降は4ビットから64ビットまで多様なビット幅のCPUが製品化されている。高ビット幅のCPUは機能や性能が高い反面、高集積化や回路の複雑度から高価格で消費電力も大きく、低ビット幅のCPUは機能や性能が制限される代わりに安価で低消費電力であるなど特徴があり、状況に応じて使い分けられている。
1990年代後半から21世紀に入って、パーソナルコンピュータ用CPUで一般化した、いくぶん新たなCPU高速化技術については、複数CPUの搭載(マルチコア)やVLIW、スーパースケーラなどがある。これらはメインフレームなどの大型計算機ではずっと前から一般的だったが、PC用の技術として降りてくるまでにはプロセス微細化の発展や製造コスト低下を待たなければならなかった。
CPUのビット数による用途の例を示す。
上記の分類に当てはまらないものとして、過去には、互いに結合し自由にビット長を増やす事ができる方式のCPUがあり、これはビットスライスプロセッサと呼ばれた。代表的な製品にAMDのAM2900シリーズなどが挙げられる。AM2901は、スイス連邦工科大学のLilithワークステーション等に使用されていた。またデータをバイト単位で扱うCPU(バイトマシン)の他、ワード単位で扱うCPU(ワードマシン)もある(日本電気のACOS-6など)。
最も基本的なCPUの低消費電力化技術は低電圧化であった。ロジック動作の信号線の電圧を低電圧化することは、低消費電力化につながると同時に信号を"Hi"と"Low"の間で高速に変更できるため動作速度の向上にも寄与した。
当初はリレーのような数十ボルトの動作電圧だったが、1980年代には5 Vがデジタルコンピュータの標準的な動作電圧となり、1990年代には内部回路が3 V程度の低電圧化を取り入れはじめ、外部との信号線でも同様の低電圧化が行なわれる頃には、CPUの内部ではさらに低い電圧が採用されるようになった。2000年代末には内部的には1 V弱まで低電圧化が進められ、当時はノイズ耐性を考慮すればほぼ限界であると考えられていたが、その後もマイクロプロセッサの低電圧化の趨勢は続き、2013年に登場したQuark X1000は最低0.28 Vの超低電圧動作が可能である。
ほとんどのCPU(もっと言えばほとんどの順序回路)は同期式である。つまり、CPUは同期信号にしたがって動作するよう設計されている。この信号は「クロック信号」として知られていて、一定周期の矩形波の形であることが多い。電気信号の伝播速度からCPU内の信号経路の長さを考慮してクロック信号の周波数が決定される。この周波数は信号伝播の最悪ケースを考慮して決めなければならない。最悪ケースを考慮して周波数を決定すれば、CPU全体が波形のエッジ部分で動作するよう設計でき、CPUの設計を簡略化できると同時にトランジスタ数も減らすことができる。しかし、この設計手法の欠点としてCPU全体が最も遅い部分を待つように設計しなければならず、全体の高速化がその遅い部分によって制限される。この制限に対処するために命令パイプラインやスーパースケーラといった手法が採られてきた。
パイプラインだけでは同期式CPUの問題を全て解決することはできない。たとえば、クロック信号は他の電気信号の遅延に影響される。クロック周波数が高くなり、さらに複雑なCPUを動作させようとしたとき、全回路を同期させるのが困難になってきた。このため、新たな高性能CPUでは1つのクロック信号でCPU全体を同期するのではなく、いくつかのクロック信号で各部分を個別に同期させるようにしている。また、クロック周波数が高くなるにつれてCPUの発熱が大きな問題となってきた。クロック信号が"Hi"と"Low"を繰り返すことで多くのロジック回路が同様に"Hi"と"Low"を繰り返し、その回路が演算処理に使われていない時でもクロック信号が供給されている間は無駄に動作して発熱する。21世紀現在CPUに使用されている半導体回路では、信号電圧を"Hi"か"Low"に保持し続けるよりも"Hi"から"Low"や"Low"から"Hi"へ移る時に多くの電気エネルギーを消費する。このため、CPUに高速処理能力を求めるとクロック周波数が高くなり発熱も多くなって、さらに冷却する必要が生じる。
つまり、無駄にクロック信号を供給することを止めれば電力消費は抑えられ発熱も小さくなる。このように、演算処理に関与しない不要ブロックへのクロック信号の供給を止めるクロックゲーティング(英語版)と呼ばれる手法がある。
2000年代後半以降に登場した高性能CPUで使用されている半導体回路技術(プロセス技術)では、消費電力に対するリーク電流の比率が大きくなった。リーク電流はクロック信号の有無に関係が無いため、クロックゲーティングだけでは大きな電力削減効果は得られない。
このような高性能CPUでは、クロック信号の供給停止だけではなく、動作していないモジュール等への電源供給そのものを遮断するパワーゲーティング(英語版)と呼ばれる技術が必要になる。従来は、高性能化したCPUが消費する大電流をロジック回路に最適化された半導体回路技術(プロセス技術)で制御することは容易ではなかったが、リーク電流対策として2000年代末までには広く用いられる技術になった。
クロック信号で全体を一斉に動かすのをやめる、という手もある。非同期設計には独特の手法が必要で、同期設計と比較すると非常に難しい点があるが、消費電力と発熱の面で大きな利点がある。SRAMなどでは、クロックと関係なくアクセスできたほうが扱いに便利な場合もあり、非同期SRAMはごく一般的な製品である。また演算回路など、一般的なプロセッサ内部の一部に使われることもある。
一般に市販された製品としては、非同期設計を表に出したマイクロプロセッサはあまり一般的ではないが、研究室での試作といったレベルでは研究・試作はさかんに行われており、日本のものでは南谷らによるTITACなどが知られている。海外ではマンチェスター大によるARMベースのAMULETは(技術的ではない理由で中止にはなっているが)市販品に使用される予定があった。他にMIPS(R3000)ベースのMiniMIPSなどがある。
クロックを完全に無くするのではなく部分的に非同期化することで性能を高める工夫としては、非同期演算装置を使ってスーパースカラーのパイプラインを構成することで演算性能を上げようとした設計などがある。同期動作するCPUに比較して性能が向上するかどうかは定かではないが、少なくとも原理的には効果が期待できる。
CPUを中心に拡張された電子部品にマイクロコントローラ(MCU)がある。 このMCUはCPUに加えてプログラム格納用を含む半導体メモリやGPIOとシリアルIO、DAC/ADCといった各種入出力機能にタイマーやDMACにクロック回路、必要に応じてDSPやフラッシュメモリなどの周辺回路を1つのパッケージに内蔵して、主に小型の組込機器の制御に使用される。
(適切な比喩なのか、かなり怪しいが)CPUは、コンピュータの「頭脳」に例えられることが多い。
比喩的表現(換喩法)だが、コンピュータゲームの世界では、コンピュータやソフトウェアが動かす対戦相手や敵ユニットを指すこともある。
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"text": "CPU(シーピーユー、英: Central Processing Unit)、中央処理装置(ちゅうおうしょりそうち)または中央演算処理装置(ちゅうおうえんざんしょりそうち)は、コンピュータの主要な構成要素のひとつで、コンピュータ内の他の装置・回路の制御やデータの演算などを行う装置。演算装置と制御装置を統合したもの。コンピュータにおける中心的な処理装置(プロセッサ)。",
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"text": "「CPU」の意味は、厳密に言うと、「プロセッサ」や「マイクロプロセッサ」とは意味が異なっており、範囲の違いがある。",
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"text": "もともとは、コンピュータの中央処理装置(CPU)は、ディスクリート(ダイオードやトランジスタなど、単機能の個別半導体で構成された電子回路)から成るかなり大きなサイズの電子回路で作られた。やがて集積回路を作れるようになると、それを使い中央処理装置を作るようになった。(なお、大型汎用機を指す「メインフレーム」という語は、もともとは多数の架(フレーム)から成る大型汎用機システムにおいてCPUの収まる主要部(メイン)、という所から来ている。) さらに大規模集積回路(LSI)を作れるようになると、やがてCPUの機能を含んだマイクロプロセッサを製造できるようになり、それがCPUとして使われている(ただしマイクロプロセッサはCPU以外の用途で使われているほうがはるかに数が多い。例えばPCの電源部に内蔵されている制御用マイクロコントローラはマイクロプロセッサの一種だが、PCのCPUではない。)",
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"text": "CPUは記憶装置上にあるプログラムと呼ばれる命令列を順に読み込んで解釈・実行することで情報の加工を行なう。CPUはコンピュータ内での演算を行なう中心であり、CPUは通常はバスと呼ばれる信号線を介して主記憶装置や入出力回路に接続され、何段階かの入出力回路を介して補助記憶装置や表示装置、通信装置などの周辺機器が接続され、データやプログラムなど情報のやりとりを行なう。",
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"text": "このようなCPUを用いたプログラムによるコンピュータの逐次動作がほとんどのコンピュータの基本的な動作原理となっている。記憶装置上にプログラムを配置してから、プログラムを実行する方式をプログラム内蔵方式と言う。",
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"text": "現在のCPUは、部品としてはプロセッサの1種である。プロセッサの多くはマイクロチップとして実装されており、マイクロプロセッサやMPU (Micro Processing Unit) と呼ばれる。また、算術演算機能を強化し信号処理に特化したデジタルシグナルプロセッサ (DSP) や、メモリや周辺回路を搭載し組込機器制御を目的としたマイクロコントローラ(マイコン)などの展開種も登場している。",
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"text": "専用の電子回路に比べると実行速度は遅いが、プログラムを変えるだけで多様な処理が行なえることから、非常に多岐にわたる用途に使用できる汎用性と柔軟性が最大の特徴である。専用回路(ハードウェア)の変更・修正に比べれば、ソフトウェアの変更・修正は容易であり、物質的なコストがかからないため、システム設計・開発の試行錯誤もしやすい。このため、CPUはおよそあらゆるシステムに内蔵され、現代の産業や生活の屋台骨を支える存在にまで普及している。現在最も普及しているCPUアーキテクチャとしてARMアーキテクチャが挙げられる。ARMアーキテクチャベースのCPUは1991年から数え2008年初頭に出荷個数が100億個を超えるなど、家電製品から工業製品、携帯機器などに至る多くのシステムに組み込まれ、機器制御を司っている。また、パーソナルコンピュータ (PC) など、現在の汎用コンピュータ製品における多くのシステムのメインCPUにx86アーキテクチャが用いられており、インテルのx86系CPU出荷数は1978年6月9日の8086発売から2003年までの25年で10億個を越えた。",
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"text": "いわゆるノイマン型・プログラム内蔵方式のプロセッサの構造と基本動作は、世界で最初の実用的なノイマン型・プログラム内蔵方式のコンピュータであったEDSACの実装の時点で、すでに構造と基本動作が実装されている。CPUやCPU以外のプロセッサの発達には、プロセス技術の微細化による高速化、命令の各処理工程の並列実行(命令パイプライン、演算パイプライン)、命令の並列実行(スーパースケーラ、VLIW)、データ演算の並列化(SIMD演算)、複数プロセッサ・コアの実装(マルチコア)、複数スレッドの同時実行(同時マルチスレッディング)などやその他多数の要素がある。",
"title": "概要"
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"text": "CPUは、全体を制御する制御装置、演算装置、データを一時記憶するレジスタ、メモリなどの記憶装置とのインタフェース、周辺機器との入出力装置とのインタフェース、などから構成される。",
"title": "構造と動作"
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"text": "その他 浮動小数点演算を行うFPU(浮動小数点演算ユニット)、レジスタより多くの情報を一時記憶するキャッシュメモリ、DMAコントローラ、タイマー、シリアルインタフェースなどの機能をCPUと同一IC内に持つものもある。また、メモリから読み込んだ命令語を内部的なオペレーションに置き換える変換部を持つものもある。",
"title": "構造と動作"
},
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"text": "クロック同期型のCPUは、クロック信号によって規則正しいタイミングで各部の動作を統制されている。 同じアーキテクチャのCPUであればクロック周波数が高い方が高速に動作し、一定時間に多くのことを処理できる。ただしその代わりに消費電力や発熱が大きくなるという問題も発生する。 1クロックで処理できる内容はCPUおよび命令セットの設計により異なり、複数クロックで1つの機械語命令を実行するものから、1クロックで複数の命令を同時に実行できるものまである。クロック周波数が1 GHzのCPUは、基本回路が1秒間に10億回の動作をする。",
"title": "構造と動作"
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"text": "多くのCPUでは、大まかに言って制御装置が命令の解釈とプログラムの制御の流れを制御し、演算装置が演算を実行する。",
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"text": "高性能なCPUや、非ノイマン型のCPUや、画像処理向けのCPUは、同時に複数の命令を実行できるように複数の実行部を同一IC内に持っているものがある。",
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"text": "ノイマン型CPUの基本的な動作は、その実装に関わらずプログラムと呼ばれる命令列を順番に実行することである。",
"title": "構造と動作"
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"text": "プログラムは数値列として何らかのメモリに格納されている。CPUでは、フェッチ (fetch)、デコード (decode)、実行 (execute) という3つのステップがほぼ必ず存在する。",
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"text": "最初の段階であるフェッチとは、実行すべき命令(ある数値または数値の並び)をプログラムの置かれたメモリから取り出すことである。メモリ上の実行すべき命令の位置はプログラムカウンタで指定される。プログラムカウンタはCPUが現在見ているプログラム上の位置を示しているとも言える。命令フェッチに使用されると、プログラムカウンタはフェッチしたぶんだけ増加させられる。",
"title": "構造と動作"
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"text": "CPUがメモリからフェッチした命令によってCPUの次にすべきことが決定される。デコードでは、命令をCPUにとって意味のある形式に分割する。命令を表す数値をどう分割するかは、予めそのCPUの命令セットで決定される。命令の一部の数値は命令コードと呼ばれ、実行すべき処理を指定する。その他の部分はオペランドと呼ばれ、その命令で使用する情報を示している。たとえば加算命令のオペランドは加算すべき数値を示している。オペランドには数値そのものが書かれていたり、数値のある場所(メモリのアドレスかレジスタの番号)が書かれている。古い設計では、デコーダ(デコードを行う部分)は変更不可能なハードウェア部品だった。しかし、より複雑で抽象的なCPUや命令セットではマイクロプログラム方式がしばしば使われ、命令を様々な信号に変換するのを助けている。このマイクロプログラムは書き換え可能な場合があり、製造後でも命令デコード方法を変更することができる。",
"title": "構造と動作"
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"text": "フェッチとデコードの次は、実行ステップが行われる。このステップでは、CPUの多くの部分が接続され(たとえばマルチプレクサを切り替えるなどして)指定された操作を実行する。たとえば、加算を要求されている場合、加算器が所定の入力と接続され、出力と接続される。入力は加算すべき数値を提供し、出力には加算結果が格納される。加算結果が大きすぎてそのCPUに扱えない場合、算術オーバーフローフラグをフラグレジスタ(ステータスレジスタ)にセットする(RISCではフラグレジスタが存在しない場合もある)。入力や出力にはいろいろなものが使用される。演算結果が一時的かあるいはすぐに利用される場合にはレジスタと呼ばれる高速で小さなメモリ領域に格納される。メモリも入力や出力に使われる。レジスタ以外のメモリは低速だが、コスト的には一般的なメモリの方が安価であり大量のデータを格納できるため、コンピュータには必須である。",
"title": "構造と動作"
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"text": "いくつかの命令はプログラムカウンタを操作する。それらは一般にジャンプ命令と呼ばれ、ループを構成したり、条件分岐をしたり、サブルーチンを実現するのに使われる。また、多くの命令はフラグレジスタを変化させる。それらのフラグはプログラムの動作に影響を与える。たとえば比較命令は二つの値を比較してフラグレジスタにその大小を示す値をセットする。そして、その値を使用してその後の処理の流れを決定する。",
"title": "構造と動作"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "命令を実行後、同じ流れが繰り返されて次の命令をプログラムカウンタにしたがってフェッチする。もっと複雑なCPUでは、複数の命令をフェッチし、デコードし、同時に実行することもできる。しかし、基本的にどんなCPUでもやっていることはここで説明した流れと同じである。",
"title": "構造と動作"
},
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"paragraph_id": 20,
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"text": "現代のCPUのような装置が出てくる以前、ENIACのような計算機は、実行する処理の内容を変えるたびに物理的に配線を変更していた。このような機械では、プログラムを変更するために物理的に再構成する必要がある(たとえばENIACなどではパッチパネルが使われた)ことから「プログラム固定計算機」と呼ばれることがある(なお、ENIACは非常に限られた機能と性能になるが、ある程度はプログラム内蔵方式的な動作もできた)。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "CPUは一般にソフトウェア(プログラム)を実行する装置として定義されるため、CPUと呼べる装置が現れたのはプログラム内蔵方式のコンピュータからである。プログラム内蔵方式の考え方は、ENIACの設計時にすでに存在していたが、マシンの完成を早期に可能とするため、ENIACの初期段階で採用されなかった。ENIACが完成する以前の1945年6月30日、数学者のジョン・フォン・ノイマンの名で、EDVACに関する報告書の第一草稿 (First Draft of a Report on the EDVAC) という報告書が公開・配布された。この中で、プログラム内蔵方式のコンピュータの設計について概説されている。この報告書はEDSACなどに影響を与えた。EDVACは1949年8月に一応の完成を見、アバディーンに移された。EDVACは様々な命令の集まりを実行するよう設計されていた。命令を組み合わせることで実用的なプログラムを構成し、EDVACで動作させることができた。EDVACではプログラムは高速なメモリに格納されており、物理的に配線を変更することで指定されるものではない点が重要である。ノイマン型の設計では、EDVACで動作させるプログラムを変更するにはメモリを書き換えればよかった(ノイマン型はプログラム内蔵だけでなく、プログラムがデータとして書き換え可能である点まで含む点に注意)。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "結果としてノイマン型で先に完成したのは、EDSAC (1949年) やManchester Mark Iの試作機 Baby (1948年) であった。EDVACは先に設計が始まっているが、設計者間のごたごたがあって完成が遅れた。また、アイデアレベルではZuse Z3を1941年に開発しているコンラッド・ツーゼもそれ以前にプログラム内蔵方式(書き換えでない点に注意)を考案していた。データとプログラムを同じ記憶装置に格納するかどうかという点が異なる方式として、ハーバード・アーキテクチャがある。これはEDVAC以前に完成したHarvard Mark Iに由来する。同機ではさん孔テープにプログラムを格納した。ノイマン型とハーバード型の大きな違いは、後者が命令とデータの格納場所と扱いを完全に分離していることであり、前者はどちらも同じ記憶領域に格納する。汎用CPUは基本的にノイマン型であるが、ハーバード・アーキテクチャも部分的に採用されている(キャッシュメモリなど)。",
"title": "歴史"
},
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"text": "デジタル機器としてのCPUは、状態を変更したり表現したりするために、何らかのスイッチを必要とする。電気機械式から電子式への移行期には、リレーや真空管がスイッチとして使われた。これらは、従来の完全な機械式よりも高速にスイッチを切り替えられたが、チャタリングをはじめ、コイル(インダクタ)によって発生する高電圧などの問題があった。一方、真空管はチャタリングは起こさないが、機能するには熱が必要であり、劣化により動作中にカソードの電子放射能力が減退(エミッション減退)して動作不能になってしまう。真空管が劣化・故障したら、故障した部位を特定して交換しなければならない。したがって、初期の電子計算機は高速化は実現したものの、電気機械式計算機よりも信頼性が低かった。EDVACのような真空管計算機は故障と故障の間の平均時間(MTBF = Mean Time Between Failure)は約 8 時間であったが、Harvard Mark Iのようなリレー式計算機はほとんど故障しなかった。しかし、信頼性よりも性能が重視され、真空管式計算機が主流となっていった。当時の同期式CPUのクロック周波数は現在のCPUに比較すると非常に遅く、100 kHz〜4 MHz程度であった。これは、当時の論理素子(真空管)のスイッチング速度によって限界が定められていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "CPUの設計と複雑さの進歩は、小型で信頼性の高い電子部品を使うことでもたらされた。新たに発明され急激に性能の向上したトランジスタの利用である。これによって、1950年代から1960年代には、かさばって信頼性の低い真空管やリレーは使われなくなり、トランジスタ製CPUが主流となった。この改善によってさらに複雑で信頼性のあるCPUを一枚から数枚のプリント基板で構成できるようになった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 25,
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"text": "1964年、IBMが発表したSystem/360アーキテクチャは、いろいろな性能と大きさのコンピュータとして実装され、それらのシリーズではプログラムを変更することなく動作させることができた。当時、たとえ同じメーカーであっても、サイズの違うコンピュータは互換性がないのが普通だった。この改善を成し遂げるため、IBMはマイクロプログラム方式を採用した。これは現在のCPUでも広く使われている手法である。System/360は大変な成功を収め、その後数十年間メインフレーム市場を支配し続け、現在のz/Architectureに至っている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 26,
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"text": "同じ1964年、DECも、「PDP-8」という後世に影響を与えたミニコンピュータを、科学分野や研究分野に向けてリリースした。DECは、後にさらに広く使われることとなる「PDP-11シリーズ」を発表したが、このシリーズは、後に集積回路(IC)が使えるようになると、それを使ったバージョンも製造されている。トランジスタを使ったCPUでは、新たな設計上の工夫をする余裕が生じ、SIMDやベクトル計算機と呼ばれるものが出現した。そのような初期の実験的設計は、後にクレイ社の製造したスーパーコンピュータのベースとなっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "トランジスタを使ったコンピュータは、それ以前のものと比較していくつかの明確な利点があった。信頼性向上と消費電力低下はもちろん、トランジスタによるスイッチは切り替え時間が劇的に短縮されたため、CPUが高速化された。トランジスタによるコンピュータでは動作周波数は数十MHzまで高速化された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "CPUなどに使われるプロセッサは、1970年代に1チップの大規模集積回路(LSI)に集積されるようになった(マイクロプロセッサ)。初期のマイクロプロセッサは4ビットや8ビットで、当時のミニコンピュータやメインフレームのCPUに比べると非常に機能の限られたものであったが、1970年代末から1980年代の微細化の進展により、プロセス保護など当時のメインフレームに相当するような機能を統合した32ビットプロセッサが現れた。組み込み用途には周辺機能やメモリ等を集積した、いわゆるワンチップマイコンも普及した。初期のマイクロプロセッサはNMOSロジック回路で構成されていたが、1980年代にはCMOS化が進み、消費電力が激減した(CMOSは消費電力は抑えられるが、当初は遅かったことから、電卓や時計など消費電力が重要で速度が重要でない分野でしか使われなかった)。CMOSは微細化が進めば進むほど静電容量が減り高速化でき、高速化を狙わない場合は低消費電力化できるという優れた特長があり(デナード則)、動作周波数は2000年代にはGHzオーダーまで上がった。微細化はより多くのゲートを載せることができるということでもあり、命令パイプラインやアウト・オブ・オーダー実行などで命令レベルの並列性を引き出す、複雑で高性能なプロセッサが作られるようにもなった。微細化による集積度の向上の傾向はムーアの法則により定性的にモデル化されている。ただし複雑化に比例して性能が線形に上がるわけではない(ポラックの法則)。しかし、2006年頃にはデナード則が崩れて、動作周波数の向上とマイクロアーキテクチャの複雑化で性能向上を図る方向性は行き詰まった。以降は(非対称型を含む)マルチコア化と、相対的に低いクロックでも高い性能を引き出しやすいSIMDの性能向上に力点が置かれている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 29,
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"text": "マイクロプロセッサの複雑さ、機能、構造、一般的な形状はこの50年間で劇的に変化したが、CPUの高性能化の基本的なコンセプトは、マイクロプロセッサ以前の1960年代に初めて現れた、というものが多い。たとえば、アウト・オブ・オーダー実行の方式であるscoreboardingもTomasuloのアルゴリズムも、最初に考案されたのは1960年代である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "21世紀現在のコンピュータは、ほぼ全てが「二値論理」方式であり、そのうちの全てではないもののかなり多くが、二値論理に数の表現法として二進法をマッピングして演算などを行っているが、メインフレームや、電卓用に特別に設計されたマイコンなどには、広義の二進化十進表現に含まれるような方式でハードウェアによって直接に十進の計算を行う機能が強化されているものもある。1ビットが二進法の1桁である。ビット数を「ビット幅」などとも呼ぶ。",
"title": "設計と実装"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "例えば、「ビット幅」や「データバス幅」が8ビットであるため8ビットCPUと呼ばれるCPUでは、主なレジスタ等の幅、あるいは、データバスの幅が8ビットである。8ビットでは、非負整数であれば二進法8桁で表せる範囲である「2の8乗 − 1」まで、つまり[0 〜 255]の範囲の整数が表現できる。",
"title": "設計と実装"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "また「アドレス幅」はCPUが直接にメモリを指し示す(アドレッシングする)範囲を制限する。例えば、アドレス幅が32ビットのCPUでは、そのCPUが直接指定できるアドレスの範囲は、2の32乗、つまり4,294,967,296個の異なる位置になる。",
"title": "設計と実装"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "System/360以降の多くの命令セットアーキテクチャ(ISA)では1バイトがアドレス付けの単位であるため(バイトアドレッシング)、4ギビバイトのメモリに、直接アクセスできる、ということになる。",
"title": "設計と実装"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "これらはCPUのデータ幅やアドレス幅による単純な分類方法であり、実際のCPUではデータ信号線やアドレス指定方法に工夫することで、外部的に少ないデータバス幅や内部的に少ないアドレス幅でも効率的にメモリ・アクセスできるようにしているものがあるため、こういった分類は多少複雑になっている。",
"title": "設計と実装"
},
{
"paragraph_id": 35,
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"text": "CPUを表現する場合のビット数の意味は以下の通りである。",
"title": "設計と実装"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "1990年代以降は4ビットから64ビットまで多様なビット幅のCPUが製品化されている。高ビット幅のCPUは機能や性能が高い反面、高集積化や回路の複雑度から高価格で消費電力も大きく、低ビット幅のCPUは機能や性能が制限される代わりに安価で低消費電力であるなど特徴があり、状況に応じて使い分けられている。",
"title": "設計と実装"
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"text": "1990年代後半から21世紀に入って、パーソナルコンピュータ用CPUで一般化した、いくぶん新たなCPU高速化技術については、複数CPUの搭載(マルチコア)やVLIW、スーパースケーラなどがある。これらはメインフレームなどの大型計算機ではずっと前から一般的だったが、PC用の技術として降りてくるまでにはプロセス微細化の発展や製造コスト低下を待たなければならなかった。",
"title": "設計と実装"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "CPUのビット数による用途の例を示す。",
"title": "設計と実装"
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{
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"text": "上記の分類に当てはまらないものとして、過去には、互いに結合し自由にビット長を増やす事ができる方式のCPUがあり、これはビットスライスプロセッサと呼ばれた。代表的な製品にAMDのAM2900シリーズなどが挙げられる。AM2901は、スイス連邦工科大学のLilithワークステーション等に使用されていた。またデータをバイト単位で扱うCPU(バイトマシン)の他、ワード単位で扱うCPU(ワードマシン)もある(日本電気のACOS-6など)。",
"title": "設計と実装"
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{
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"text": "最も基本的なCPUの低消費電力化技術は低電圧化であった。ロジック動作の信号線の電圧を低電圧化することは、低消費電力化につながると同時に信号を\"Hi\"と\"Low\"の間で高速に変更できるため動作速度の向上にも寄与した。",
"title": "設計と実装"
},
{
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"text": "当初はリレーのような数十ボルトの動作電圧だったが、1980年代には5 Vがデジタルコンピュータの標準的な動作電圧となり、1990年代には内部回路が3 V程度の低電圧化を取り入れはじめ、外部との信号線でも同様の低電圧化が行なわれる頃には、CPUの内部ではさらに低い電圧が採用されるようになった。2000年代末には内部的には1 V弱まで低電圧化が進められ、当時はノイズ耐性を考慮すればほぼ限界であると考えられていたが、その後もマイクロプロセッサの低電圧化の趨勢は続き、2013年に登場したQuark X1000は最低0.28 Vの超低電圧動作が可能である。",
"title": "設計と実装"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ほとんどのCPU(もっと言えばほとんどの順序回路)は同期式である。つまり、CPUは同期信号にしたがって動作するよう設計されている。この信号は「クロック信号」として知られていて、一定周期の矩形波の形であることが多い。電気信号の伝播速度からCPU内の信号経路の長さを考慮してクロック信号の周波数が決定される。この周波数は信号伝播の最悪ケースを考慮して決めなければならない。最悪ケースを考慮して周波数を決定すれば、CPU全体が波形のエッジ部分で動作するよう設計でき、CPUの設計を簡略化できると同時にトランジスタ数も減らすことができる。しかし、この設計手法の欠点としてCPU全体が最も遅い部分を待つように設計しなければならず、全体の高速化がその遅い部分によって制限される。この制限に対処するために命令パイプラインやスーパースケーラといった手法が採られてきた。",
"title": "設計と実装"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "パイプラインだけでは同期式CPUの問題を全て解決することはできない。たとえば、クロック信号は他の電気信号の遅延に影響される。クロック周波数が高くなり、さらに複雑なCPUを動作させようとしたとき、全回路を同期させるのが困難になってきた。このため、新たな高性能CPUでは1つのクロック信号でCPU全体を同期するのではなく、いくつかのクロック信号で各部分を個別に同期させるようにしている。また、クロック周波数が高くなるにつれてCPUの発熱が大きな問題となってきた。クロック信号が\"Hi\"と\"Low\"を繰り返すことで多くのロジック回路が同様に\"Hi\"と\"Low\"を繰り返し、その回路が演算処理に使われていない時でもクロック信号が供給されている間は無駄に動作して発熱する。21世紀現在CPUに使用されている半導体回路では、信号電圧を\"Hi\"か\"Low\"に保持し続けるよりも\"Hi\"から\"Low\"や\"Low\"から\"Hi\"へ移る時に多くの電気エネルギーを消費する。このため、CPUに高速処理能力を求めるとクロック周波数が高くなり発熱も多くなって、さらに冷却する必要が生じる。",
"title": "設計と実装"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "つまり、無駄にクロック信号を供給することを止めれば電力消費は抑えられ発熱も小さくなる。このように、演算処理に関与しない不要ブロックへのクロック信号の供給を止めるクロックゲーティング(英語版)と呼ばれる手法がある。",
"title": "設計と実装"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2000年代後半以降に登場した高性能CPUで使用されている半導体回路技術(プロセス技術)では、消費電力に対するリーク電流の比率が大きくなった。リーク電流はクロック信号の有無に関係が無いため、クロックゲーティングだけでは大きな電力削減効果は得られない。",
"title": "設計と実装"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "このような高性能CPUでは、クロック信号の供給停止だけではなく、動作していないモジュール等への電源供給そのものを遮断するパワーゲーティング(英語版)と呼ばれる技術が必要になる。従来は、高性能化したCPUが消費する大電流をロジック回路に最適化された半導体回路技術(プロセス技術)で制御することは容易ではなかったが、リーク電流対策として2000年代末までには広く用いられる技術になった。",
"title": "設計と実装"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "クロック信号で全体を一斉に動かすのをやめる、という手もある。非同期設計には独特の手法が必要で、同期設計と比較すると非常に難しい点があるが、消費電力と発熱の面で大きな利点がある。SRAMなどでは、クロックと関係なくアクセスできたほうが扱いに便利な場合もあり、非同期SRAMはごく一般的な製品である。また演算回路など、一般的なプロセッサ内部の一部に使われることもある。",
"title": "設計と実装"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "一般に市販された製品としては、非同期設計を表に出したマイクロプロセッサはあまり一般的ではないが、研究室での試作といったレベルでは研究・試作はさかんに行われており、日本のものでは南谷らによるTITACなどが知られている。海外ではマンチェスター大によるARMベースのAMULETは(技術的ではない理由で中止にはなっているが)市販品に使用される予定があった。他にMIPS(R3000)ベースのMiniMIPSなどがある。",
"title": "設計と実装"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "クロックを完全に無くするのではなく部分的に非同期化することで性能を高める工夫としては、非同期演算装置を使ってスーパースカラーのパイプラインを構成することで演算性能を上げようとした設計などがある。同期動作するCPUに比較して性能が向上するかどうかは定かではないが、少なくとも原理的には効果が期待できる。",
"title": "設計と実装"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "CPUを中心に拡張された電子部品にマイクロコントローラ(MCU)がある。 このMCUはCPUに加えてプログラム格納用を含む半導体メモリやGPIOとシリアルIO、DAC/ADCといった各種入出力機能にタイマーやDMACにクロック回路、必要に応じてDSPやフラッシュメモリなどの周辺回路を1つのパッケージに内蔵して、主に小型の組込機器の制御に使用される。",
"title": "MCU"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "企業および製品"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "(適切な比喩なのか、かなり怪しいが)CPUは、コンピュータの「頭脳」に例えられることが多い。",
"title": "比喩"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "比喩的表現(換喩法)だが、コンピュータゲームの世界では、コンピュータやソフトウェアが動かす対戦相手や敵ユニットを指すこともある。",
"title": "比喩"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "比喩"
}
] | CPU、中央処理装置(ちゅうおうしょりそうち)または中央演算処理装置(ちゅうおうえんざんしょりそうち)は、コンピュータの主要な構成要素のひとつで、コンピュータ内の他の装置・回路の制御やデータの演算などを行う装置。演算装置と制御装置を統合したもの。コンピュータにおける中心的な処理装置(プロセッサ)。 | {{複数の問題
|出典の明記=2014年1月
|言葉を濁さない=2014年2月
}}
{{otheruses}}
'''CPU'''(シーピーユー、{{lang-en-short|Central Processing Unit}})、'''中央処理装置'''(ちゅうおうしょりそうち)または'''中央演算処理装置'''(ちゅうおうえんざんしょりそうち)は、[[コンピュータ]]の主要な構成要素のひとつで、コンピュータ内の他の装置・回路の制御やデータの演算などを行う装置<ref name="e-words">[https://e-words.jp/w/CPU.html e-words【CPU】</ref>。[[演算装置]]と制御装置を統合したもの<ref name="e-words"/>。[[コンピュータ]]における中心的な[[プロセッサ|処理装置(プロセッサ)]]<ref>[https://kotobank.jp/word/CPU-3987 CPU(シー ピー ユー)とは - コトバンク | ASCII.jpデジタル用語事典、大辞林、他]</ref>。
== 概要 ==
「CPU」の意味は、厳密に言うと、「[[プロセッサ]]」{{efn|[[インテル]]の日本法人は「プロセッサー」と表記している<ref>[https://www.intel.co.jp/content/www/jp/ja/products/details/processors/core.html インテル® Core™ プロセッサー・ファミリー - 最新世代の Core™ プロセッサー・ファミリーを表示する]</ref>。}}や「[[マイクロプロセッサ]]」とは意味が異なっており、範囲の違いがある。
もともとは、コンピュータの中央処理装置(CPU)は、ディスクリート([[ダイオード]]や[[トランジスタ]]など、単機能の個別半導体で構成された電子回路)から成るかなり大きなサイズの[[電子回路]]で作られた。やがて[[集積回路]]を作れるようになると、それを使い中央処理装置を作るようになった。(なお、大型汎用機を指す「[[メインフレーム]]」という語は、もともとは多数の架(フレーム)から成る大型汎用機システムにおいてCPUの収まる主要部(メイン)、という所から来ている。) さらに大規模集積回路([[LSI]])を作れるようになると、やがてCPUの機能を含んだ[[マイクロプロセッサ]]を製造できるようになり、それがCPUとして使われている(ただしマイクロプロセッサはCPU以外の用途で使われているほうがはるかに数が多い。例えばPCの[[電源]]部に内蔵されている[[制御装置|制御]]用[[マイクロコントローラ]]はマイクロプロセッサの一種だが、PCのCPUではない。)
{{Gallery
|width = 200px
|File:IBM System360 model 20 (2).jpg|IBMの[[System/360]]のCPU。この箱の中身全体がCPU。
|File:HP-HP9000-PA-RISC-NS2-CPU 01.jpg|HP [[HP 9000]] PA-RISC-NS2-CPU
|File:Z0840004PSC.jpg|CPUの例、ザイログ社の[[Z80]]。Z80をCPUとして採用したコンピュータについては英語版カテゴリ[[:en:Category:Z80-based home computers]]が参照可。
|ファイル:MOS 6502AD 4585 top.jpg|[[MOS 6502]]。6502をCPUとして採用したコンピュータは[[:en:Category:6502-based home computers]]が参照可。
|File:Nintendo DMG CPU 1.jpg|Nintendo DMG CPU
|File:AMD Ryzen 9 3900X - ISO.jpg|[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]の[[Ryzen]]シリーズ。RyzenのThreadripperシリーズには64[[マルチコア|コア]]、128[[スレッド (コンピュータ)|スレッド]]の世界最速モデルがある(2021年〜2022年時点)。
|ファイル:Intel CPU Core i7 6700K Skylake top.jpg|([[インテル|Intel]] [[Intel Core i7|Core i7]]-6700K)[[LGA1151|FCLGA1151]]。
|File:Apple M1.jpg|CPUの機能に加えて、さらに周辺チップの機能や高機能の回路を含む[[SoC]]の一例、[[Apple M1]]。高性能なうえに消費電力がとても小さく、たとえばApple M1搭載の[[MacBook]] Pro 13インチモデルはノートパソコンなのにバッテリーだけで最大連続稼働時間が20時間と驚異的な省電力性能を誇る。<ref>[https://www.nojima.co.jp/support/koneta/75394/ ノジマ電機「M1チップ搭載のMacBook Pro 13インチを比較レビュー」]</ref>
}}
;機能と動作
{{see|コンピュータ#概要}}
CPUは[[記憶装置]]上にある[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]と呼ばれる命令列を順に読み込んで解釈・実行することで情報の加工を行なう。CPUはコンピュータ内での演算を行なう中心であり、CPUは通常は[[バス (コンピュータ)|バス]]と呼ばれる信号線を介して[[主記憶装置]]や入出力回路に接続され、何段階かの入出力回路を介して[[補助記憶装置]]や[[ディスプレイ (コンピュータ)|表示装置]]、通信装置などの[[周辺機器]]が接続され、[[データ]]やプログラムなど情報のやりとりを行なう。
このようなCPUを用いたプログラムによるコンピュータの逐次動作がほとんどのコンピュータの基本的な動作原理となっている。[[記憶装置]]上にプログラムを配置してから、プログラムを実行する方式を[[プログラム内蔵方式]]と言う。
現在のCPUは、部品としては[[プロセッサ]]の1種である。プロセッサの多くは[[マイクロチップ]]として実装されており、[[マイクロプロセッサ]]やMPU (Micro Processing Unit) と呼ばれる。また、算術演算機能を強化し信号処理に特化した[[デジタルシグナルプロセッサ]] (DSP) や、メモリや周辺回路を搭載し[[組み込みシステム|組込機器]]制御を目的とした[[マイクロコントローラ]](マイコン)などの展開種も登場している。
専用の電子回路に比べると実行速度は遅いが、プログラムを変えるだけで多様な処理が行なえることから、非常に多岐にわたる用途に使用できる汎用性と柔軟性が最大の特徴である。専用回路(ハードウェア)の変更・修正に比べれば、ソフトウェアの変更・修正は容易であり、物質的なコストがかからないため、システム設計・開発の試行錯誤もしやすい。このため、CPUはおよそあらゆるシステムに内蔵され、現代の産業や生活の屋台骨を支える存在にまで普及している。現在最も普及しているCPUアーキテクチャとして[[ARMアーキテクチャ]]が挙げられる。ARMアーキテクチャベースのCPUは[[1991年]]から数え[[2008年]]初頭に出荷個数が100億個を超える<ref>
{{Cite web|和書
|date=2008-01-25
|url=http://www.jp.arm.com/pressroom/08/080125.html
|title=ARM、プロセッサの出荷個数100億個を達成
|publisher=ARM社 ニュースリリース
|accessdate=2009-05-10
}}
</ref>など、[[家電機器|家電製品]]から[[工業製品]]、[[携帯機器]]などに至る多くのシステムに組み込まれ、機器制御を司っている。また、[[パーソナルコンピュータ]] (PC) など、現在の汎用コンピュータ製品における多くのシステムのメインCPUに[[x86|x86アーキテクチャ]]が用いられており、[[インテル]]のx86系CPU出荷数は[[1978年]][[6月9日]]の[[Intel 8086|8086]]発売から[[2003年]]までの25年で10億個を越えた<ref>[https://japan.cnet.com/article/20055162/ 25周年を迎えた、インテルのx86アーキテクチャ], 2003年6月10日, CNET Japan</ref>。
いわゆる[[ノイマン型]]・[[プログラム内蔵方式]]のプロセッサの構造と基本動作は、世界で最初の実用的なノイマン型・プログラム内蔵方式のコンピュータであった[[EDSAC]]の実装の時点で、すでに構造と基本動作が実装されている。CPUやCPU以外のプロセッサの発達には、プロセス技術の微細化による高速化、命令の各処理工程の並列実行([[命令パイプライン]]、演算パイプライン)、命令の並列実行([[スーパースケーラ]]、[[VLIW]])、データ演算の並列化([[SIMD]]演算)、複数プロセッサ・コアの実装([[マルチコア]])、複数スレッドの同時実行([[同時マルチスレッディング]])などやその他多数の要素がある。
== 構造と動作 ==
{{see|コンピュータ#概要}}
=== 構造 ===
CPUは、全体を制御する[[制御装置]]、[[演算装置]]、データを一時記憶する[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]、[[メモリ]]などの[[記憶装置]]とのインタフェース、周辺機器との[[入出力装置]]とのインタフェース、などから構成される。
その他 浮動小数点演算を行う[[FPU]](浮動小数点演算ユニット)、レジスタより多くの情報を一時記憶する[[キャッシュメモリ]]、[[Direct Memory Access|DMA]]コントローラ、[[タイマー]]、シリアルインタフェースなどの機能をCPUと同一IC内に持つものもある。また、メモリから読み込んだ命令語を内部的なオペレーションに置き換える変換部を持つものもある。
クロック同期型のCPUは、[[クロック|クロック信号]]によって規則正しいタイミングで各部の動作を統制されている。
同じアーキテクチャのCPUであればクロック[[周波数]]が高い方が高速に動作し、一定時間に多くのことを処理できる。ただしその代わりに消費電力や発熱が大きくなるという問題も発生する。
1クロックで処理できる内容はCPUおよび命令セットの設計により異なり、複数クロックで1つの機械語命令を実行するものから、1クロックで複数の命令を同時に実行できるものまである。クロック周波数が1 [[ギガヘルツ|GHz]]のCPUは、基本回路が1秒間に10億回の動作をする。
多くのCPUでは、大まかに言って[[制御装置]]が命令の解釈と[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]の制御の流れを制御し、[[演算装置]]が演算を実行する。
高性能なCPUや、非ノイマン型のCPUや、画像処理向けのCPUは、同時に複数の命令を実行できるように複数の実行部を同一IC内に持っているものがある。
=== 動作 ===
ノイマン型CPUの基本的な動作は、その実装に関わらずプログラムと呼ばれる命令列を順番に実行することである。
プログラムは数値列として何らかの[[主記憶装置|メモリ]]に格納されている。CPUでは、'''フェッチ''' (fetch)、'''デコード''' (decode)、'''実行''' (execute) という3つのステップがほぼ必ず存在する。
最初の段階である'''フェッチ'''とは、実行すべき命令(ある数値または数値の並び)をプログラムの置かれたメモリから取り出すことである。メモリ上の実行すべき命令の位置は[[プログラムカウンタ]]で指定される。プログラムカウンタはCPUが現在見ているプログラム上の位置を示しているとも言える。命令フェッチに使用されると、プログラムカウンタはフェッチしたぶんだけ増加させられる。
CPUがメモリからフェッチした命令によってCPUの次にすべきことが決定される。'''デコード'''では、命令をCPUにとって意味のある形式に分割する。命令を表す数値をどう分割するかは、予めそのCPUの[[命令セット]]で決定される。命令の一部の数値は命令コードと呼ばれ、実行すべき処理を指定する。その他の部分はオペランドと呼ばれ、その命令で使用する情報を示している。たとえば加算命令のオペランドは加算すべき数値を示している。オペランドには数値そのものが書かれていたり、数値のある場所(メモリのアドレスかレジスタの番号)が書かれている。古い設計では、デコーダ(デコードを行う部分)は変更不可能なハードウェア部品だった。しかし、より複雑で抽象的なCPUや命令セットでは[[マイクロプログラム方式]]がしばしば使われ、命令を様々な信号に変換するのを助けている。このマイクロプログラムは書き換え可能な場合があり、製造後でも命令デコード方法を変更することができる。
'''フェッチ'''と'''デコード'''の次は、'''実行'''ステップが行われる。このステップでは、CPUの多くの部分が接続され(たとえば[[マルチプレクサ]]を切り替えるなどして)指定された操作を実行する。たとえば、加算を要求されている場合、[[加算器]]が所定の入力と接続され、出力と接続される。入力は加算すべき数値を提供し、出力には加算結果が格納される。加算結果が大きすぎてそのCPUに扱えない場合、[[算術オーバーフロー]]フラグをフラグレジスタ([[ステータスレジスタ]])にセットする([[RISC]]ではフラグレジスタが存在しない場合もある)。入力や出力にはいろいろなものが使用される。演算結果が一時的かあるいはすぐに利用される場合にはレジスタと呼ばれる高速で小さなメモリ領域に格納される。メモリも入力や出力に使われる。レジスタ以外のメモリは低速だが、コスト的には一般的なメモリの方が安価であり大量のデータを格納できるため、コンピュータには必須である。
いくつかの命令はプログラムカウンタを操作する。それらは一般にジャンプ命令と呼ばれ、[[ループ (プログラミング)|ループ]]を構成したり、条件分岐をしたり、[[サブルーチン]]を実現するのに使われる。また、多くの命令はフラグレジスタを変化させる。それらのフラグはプログラムの動作に影響を与える。たとえば比較命令は二つの値を比較してフラグレジスタにその大小を示す値をセットする。そして、その値を使用してその後の処理の流れを決定する。
命令を実行後、同じ流れが繰り返されて次の命令をプログラムカウンタにしたがってフェッチする。もっと複雑なCPUでは、複数の命令をフェッチし、デコードし、同時に実行することもできる。しかし、基本的にどんなCPUでもやっていることはここで説明した流れと同じである。
== 歴史 ==
{{see|コンピュータ#歴史}}
[[ファイル:Eniac.jpg|thumb|ENIAC]]
現代のCPUのような装置が出てくる以前、[[ENIAC]]のような計算機は、実行する処理の内容を変えるたびに物理的に配線を変更していた。このような機械では、プログラムを変更するために物理的に再構成する必要がある(たとえばENIACなどでは[[パッチパネル]]が使われた)ことから「プログラム固定計算機」と呼ばれることがある(なお、ENIACは非常に限られた機能と性能になるが、ある程度は[[プログラム内蔵方式]]的な動作もできた)。
CPUは一般にソフトウェア(プログラム)を実行する装置として定義されるため、CPUと呼べる装置が現れたのはプログラム内蔵方式のコンピュータからである。プログラム内蔵方式の考え方は、ENIACの設計時にすでに存在していたが、マシンの完成を早期に可能とするため、ENIACの初期段階で採用されなかった。ENIACが完成する以前の1945年6月30日、数学者の[[ジョン・フォン・ノイマン]]の名で、[[EDVACに関する報告書の第一草稿]] (First Draft of a Report on the EDVAC) という報告書が公開・配布された。この中で、プログラム内蔵方式のコンピュータの設計について概説されている{{efn|アイディアの元はENIACのプロジェクト中に検討されたもので、ノイマンは助言役として加わり、報告書の執筆者はノイマンである。報告書の著者がノイマンだけとされたことやアイディアを誰の功績とみるかについては諸説ある。}}。この報告書はEDSACなどに影響を与えた。[[EDVAC]]は1949年8月に一応の完成を見、アバディーンに移された{{efn|モークリーとエッカートの離脱(理由については諸説)などがありごたついた。運用に入ったのは1951年。}}。EDVACは様々な命令の集まりを実行するよう設計されていた。命令を組み合わせることで実用的なプログラムを構成し、EDVACで動作させることができた。EDVACではプログラムは高速な[[主記憶装置|メモリ]]に格納されており、物理的に配線を変更することで指定されるものではない点が重要である。[[ノイマン型]]の設計では、EDVACで動作させるプログラムを変更するにはメモリを書き換えればよかった(ノイマン型はプログラム内蔵だけでなく、プログラムがデータとして書き換え可能である点まで含む点に注意)。
結果としてノイマン型で先に完成したのは、[[EDSAC]] (1949年) や[[Manchester Mark I]]の試作機 ''[[Manchester Small-Scale Experimental Machine|Baby]]'' (1948年) であった。EDVACは先に設計が始まっているが、設計者間のごたごたがあって完成が遅れた。また、アイデアレベルでは[[Zuse Z3]]を1941年に開発している[[コンラッド・ツーゼ]]もそれ以前にプログラム内蔵方式(書き換えでない点に注意)を考案していた{{efn|1936年に[[特許]]申請しているが、アメリカに出願した際に[[チャールズ・バベッジ]]の[[解析機関]]との類似を指摘され、特許は成立していない。{{独自研究範囲|date=2021-11|ツーゼはこのときまでバベッジの業績を知らなかったと思われる。}}なおZ3は1998年に[[チューリング完全]]であったことが示されている。}}。データとプログラムを同じ記憶装置に格納するかどうかという点が異なる方式として、[[ハーバード・アーキテクチャ]]がある。これはEDVAC以前に完成した[[Harvard Mark I]]に由来する。同機では[[さん孔テープ]]にプログラムを格納した。ノイマン型とハーバード型の大きな違いは、後者が命令とデータの格納場所と扱いを完全に分離していることであり、前者はどちらも同じ記憶領域に格納する。汎用CPUは基本的にノイマン型であるが、ハーバード・アーキテクチャも部分的に採用されている([[キャッシュメモリ]]など)。
[[デジタル]]機器としてのCPUは、状態を変更したり表現したりするために、何らかの[[開閉器|スイッチ]]を必要とする。電気機械式から電子式への移行期には、[[継電器|リレー]]や[[真空管]]がスイッチとして使われた。これらは、従来の完全な機械式よりも高速にスイッチを切り替えられたが、[[チャタリング]]をはじめ、コイル(インダクタ)によって発生する高電圧などの問題があった。一方、真空管はチャタリングは起こさないが、機能するには熱が必要であり、劣化により動作中にカソードの電子放射能力が減退(エミッション減退)して動作不能になってしまう。真空管が劣化・故障したら、故障した部位を特定して交換しなければならない。したがって、初期の電子計算機は高速化は実現したものの、電気機械式計算機よりも信頼性が低かった。[[EDVAC]]のような真空管計算機は故障と故障の間の平均時間([[平均故障間隔|MTBF]] = Mean Time Between Failure)は約 8 時間であったが、[[Harvard Mark I]]のようなリレー式計算機はほとんど故障しなかった。しかし、{{要検証範囲|date=2021-11|信頼性よりも性能が重視され{{efn|ここの「信頼性」の考え方には問題がある。対象の問題を解決するには一定量の計算量が必要なのであって、一定量の計算時間が必要なわけではない。従って、平均故障時間をそのまま比較するのではなく、性能比を考慮して比較しなければ意味がない。}}<!-- もし問題点や矛盾点があると思うんだったら、注釈で反論するような書き方はせず、本文の記述を修正しろよ……Wikipediaはお前のノートではないし、落書きをする場でもない。 -->}}、真空管式計算機が主流となっていった。当時の同期式CPUの[[クロック]]周波数は現在のCPUに比較すると非常に遅く、100 [[キロヘルツ|kHz]]〜4 [[メガヘルツ|MHz]]程度であった。これは、当時の論理素子(真空管)のスイッチング速度によって限界が定められていた。
=== 半導体化 ===
CPUの設計と複雑さの進歩は、小型で信頼性の高い電子部品を使うことでもたらされた。新たに発明され<!--トランジスタの初期。特に接合型の初期の合金型の初期は周波数特性が悪かったのです-->急激に性能の向上した[[トランジスタ]]の利用である。これによって、[[1950年代]]から[[1960年代]]には、かさばって信頼性の低い真空管やリレーは使われなくなり、トランジスタ製CPUが主流となった。この改善によってさらに複雑で信頼性のあるCPUを一枚から数枚の[[プリント基板]]で構成できるようになった。
[[1964年]]、[[IBM]]が発表した[[System/360]]アーキテクチャは、いろいろな性能と大きさのコンピュータとして実装され、それらのシリーズではプログラムを変更することなく動作させることができた。当時、たとえ同じメーカーであっても、サイズの違うコンピュータは互換性がないのが普通だった。この改善を成し遂げるため、IBMは[[マイクロプログラム方式]]を採用した。これは現在のCPUでも広く使われている手法である。System/360は大変な成功を収め、その後数十年間[[メインフレーム]]市場を支配し続け、現在の[[z/Architecture]]に至っている。
同じ1964年、[[デジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]も、「[[PDP-8]]」という後世に影響を与えた[[ミニコンピュータ]]を、科学分野や研究分野に向けてリリースした。DECは、後にさらに広く使われることとなる「[[PDP-11]]シリーズ」を発表したが、このシリーズは、後に集積回路(IC)が使えるようになると、それを使ったバージョンも製造されている。トランジスタを使ったCPUでは、新たな設計上の工夫をする余裕が生じ、[[SIMD]]や[[ベクトル計算機]]と呼ばれるものが出現した。そのような初期の実験的設計は、後に[[クレイ (コンピュータ企業)|クレイ]]社の製造した[[スーパーコンピュータ]]のベースとなっている。
トランジスタを使ったコンピュータは、それ以前のものと比較していくつかの明確な利点があった。信頼性向上と消費電力低下はもちろん、トランジスタによるスイッチは切り替え時間が劇的に短縮されたため、CPUが高速化された。トランジスタによるコンピュータでは動作周波数は数十MHzまで高速化された。
=== マイクロプロセッサ ===
{{Main|マイクロプロセッサ|CPU年表}}
CPUなどに使われる[[プロセッサ]]は、1970年代に1チップの大規模[[集積回路]]([[LSI]])に集積されるようになった([[マイクロプロセッサ]])。初期のマイクロプロセッサは4ビットや8ビットで、当時の[[ミニコンピュータ]]や[[メインフレーム]]のCPUに比べると非常に機能の限られたものであったが、1970年代末から1980年代の[[微細化]]の進展により、プロセス保護など当時の[[メインフレーム]]に相当するような機能を統合した32ビットプロセッサが現れた。組み込み用途には周辺機能やメモリ等を集積した、いわゆる[[マイクロコントローラ|ワンチップマイコン]]も普及した。初期のマイクロプロセッサは[[:en:NMOS logic|NMOSロジック回路]]で構成されていたが、1980年代には[[CMOS]]化が進み、消費電力が激減した(CMOSは消費電力は抑えられるが、当初は遅かったことから、電卓や時計など消費電力が重要で速度が重要でない分野でしか使われなかった)。CMOSは微細化が進めば進むほど[[静電容量]]が減り高速化でき、高速化を狙わない場合は低消費電力化できるという優れた特長があり([[ロバート・デナード|デナード]]則)、動作周波数は2000年代にはGHzオーダーまで上がった。微細化はより多くのゲートを載せることができるということでもあり、[[命令パイプライン]]や[[アウト・オブ・オーダー実行]]などで[[命令レベルの並列性]]を引き出す、複雑で高性能なプロセッサが作られるようにもなった。微細化による集積度の向上の傾向は[[ムーアの法則]]により定性的<!--正確に-->にモデル化されている。ただし複雑化に比例して性能が線形に上がるわけではない([[ポラックの法則]])。しかし、2006年頃にはデナード則が崩れて、動作周波数の向上とマイクロアーキテクチャの複雑化で性能向上を図る方向性は行き詰まった。以降は([[:en:Asymmetric multiprocessing|非対称型]]を含む)[[マルチコア]]化と、相対的に低いクロックでも高い性能を引き出しやすい[[SIMD]]の性能向上に力点が置かれている。
[[ファイル:InternalIntegratedCircuit2.JPG|thumb|極低温で4.8 GHzで動作するマイクロプロセッサのマスクパターン]]
マイクロプロセッサの複雑さ、機能、構造、一般的な形状はこの50年間で劇的に変化したが、CPUの高性能化の基本的なコンセプトは、マイクロプロセッサ以前の1960年代に初めて現れた、というものが多い。たとえば、アウト・オブ・オーダー実行の方式である[[scoreboarding]]も[[Tomasuloのアルゴリズム]]も、最初に考案されたのは1960年代である。
== 設計と実装 ==
{{main|CPU設計}}
=== ビット幅 ===
{{N-bit}}
21世紀現在のコンピュータは、ほぼ全てが'''「二値論理」'''方式であり、そのうちの全てではないもののかなり多くが、'''二値論理に数の表現法として[[二進法]]をマッピング'''して演算などを行っているが{{efn|初期のデジタルコンピュータには、それ以前の[[機械式計算機]]に類似させたため([[ENIAC]]の場合)や、事務的な計算のため([[IBM 1401]]の場合)に、[[十進法]]を採用したものもあった([[EDSAC]]のように二進のものもあった)。他には3進数を採用したものもあった。それ以降は[[二進法]]を採用するのが一般化した。二進法では各桁はふたつの値(1 と 0)しかとらないので、高い電圧と低い電圧でそれを表すことができる。}}、[[メインフレーム]]や、[[電卓]]用に特別に設計されたマイコン{{efn|人が気にならない程度に(すなわち、普通のCPUとは比較にならないほど)遅くても良いが、極めて省電力であることなどが要求される。}}などには、広義の[[二進化十進表現]]に含まれるような方式でハードウェアによって直接に十進の計算を行う機能が強化されているものもある。1[[ビット]]が二進法の1桁である。ビット数を「ビット幅」などとも呼ぶ。<!--また、レジスタからデータが出て、演算器等を通り、そして別の、あるいは元のレジスタに戻る、というデータの通行路(バス)を「データバス」と言うが、その際に同時にまとめて扱われるひとかたまりの情報量を「データバス幅」と言う。--><!--これは「データバス」(「バ」は濁音)ではなく、「データパス」(「パ」は半濁音、data path)の説明になっている。「データバス」と「データパス」の違いについてはプロセッサ設計の教科書などを参照すること-->
例えば、「ビット幅」や「データバス幅」が8ビットであるため8ビットCPUと呼ばれるCPUでは、主なレジスタ等の幅、あるいは、データバスの幅が8ビットである。8ビットでは、非負整数であれば二進法8桁で表せる範囲である「2の8乗 − 1」まで、つまり[0 〜 255]の範囲の整数が表現できる。
また「アドレス幅」はCPUが直接にメモリを指し示す(アドレッシングする)範囲を制限する。例えば、アドレス幅が32ビットのCPUでは、そのCPUが直接指定できるアドレスの範囲は、2の32乗、つまり4,294,967,296個の異なる位置になる。
[[System/360]]以降の多くの命令セットアーキテクチャ(ISA)では{{efn|{{いつ範囲|date=2019-08|近年}}で、{{独自研究範囲|date=2019-08|日本でよく知られている例外は、[[CASL]]のCOMETぐらいであろう}}。}}1バイトがアドレス付けの単位であるため(バイトアドレッシング){{efn|なお、複数バイトから成るワード単位のアクセスは、必ずしもこの単位でアクセスできるとは限らない(アラインメント違反として[[バスエラー]]になるものも多い)。}}、4[[ギビバイト]]のメモリに、直接アクセスできる、ということになる。
これらはCPUのデータ幅やアドレス幅による単純な分類方法であり、実際のCPUではデータ信号線やアドレス指定方法に工夫することで、外部的に少ないデータバス幅や内部的に少ないアドレス幅でも効率的にメモリ・アクセスできるようにしているものがあるため、こういった分類は多少複雑になっている{{efn|アドレスビット幅は8ビットCPUにおいては16ビット幅以上ある事が通常で、32ビットCPUでは24ビットなど、N-ビットCPUと称する場合のビット数と一致しない事が多数ある。外部データバス幅は16ビットCPUで外部データバス8ビット、32ビットCPUで外部バス16ビットなど、これもN-ビットCPUと称する場合のビット数と一致しない事が多数ある。内部データバス幅は32ビットCPUで内部データバス64ビットの例がある。レジスタのビット幅では16ビットCPUで32ビットレジスタを持つCPUがある。命令長はCISCでは複数のビット幅が混在しており、RISCでも32ビット演算で16ビットバスなどがある。}}。
CPUを表現する場合のビット数の意味は以下の通りである。
* アドレス幅(内部のアドレスレジスタ幅、外部アドレスバス幅)
* データバス幅(内部データ幅、外部データバス幅)
* 内部演算幅(=演算装置の幅と整数レジスタ幅)
* 命令語長
1990年代以降は4ビットから64ビットまで多様なビット幅のCPUが製品化されている。高ビット幅のCPUは機能や性能が高い反面、高集積化や回路の複雑度から高価格で消費電力も大きく、低ビット幅のCPUは機能や性能が制限される代わりに安価で低消費電力であるなど特徴があり、状況に応じて使い分けられている。
1990年代後半から21世紀に入って、パーソナルコンピュータ用CPUで一般化した、いくぶん新たなCPU高速化技術については、複数CPUの搭載([[マルチコア]])や[[VLIW]]、[[スーパースケーラ]]などがある。これらはメインフレームなどの大型計算機ではずっと前から一般的だったが、PC用の技術として降りてくるまでにはプロセス微細化の発展や製造コスト低下を待たなければならなかった。
====用途例====
CPUのビット数による用途の例を示す。
; [[4ビット]]
:[[1980年代]]を中心に、一般的な[[家電機器|家電製品]]、[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]やマウス、[[電卓]]や[[時計]]など、ローエンドの[[組み込みシステム]]に広く用いられた。家電用の赤外線リモコンなど機能的に単純なものについては4ビットのマイクロプロセッサでも十分であるが、既に新規採用の事例はほとんどなくなっている。
; [[8ビット]]、[[16ビット]]
:[[組み込みシステム|機器組み込み]]向けに8ビットや16ビットのプロセッサ・コアと周辺回路を組み合わせた[[マイクロコントローラ]] ([[#MCU|MCU]]) と呼ばれるものが広く使用されている。いずれも要求仕様と製造原価との兼ね合いで都合の良いサイズのプロセッサが選定され製造される。だが、この用途でも32ビットマイクロプロセッサの価格低下、旧来用いてきた半導体の製造終了、要求仕様の高度化や汎用開発ツールの援用要求により、あえて32ビット以上のCPUを選択するケースも少なくない。
; [[32ビット]]
:[[携帯電話]]や[[デジタルカメラ]]をはじめ、[[エンジンコントロールユニット|自動車のエンジン制御]]や[[産業用ロボット]]、[[工作機械]]、[[白物家電]]など[[組み込みシステム]]や大小さまざまなシステムの制御に幅広く用いられており、狭義のCPUと呼ばれるものの主要な使用例である。
:[[2000年代]]以降の半導体製造技術の進歩に伴い、ローエンドの32ビットプロセッサと16/8ビットプロセッサの価格差は少なくなっており、16ビット命令(ARMのThumb命令など)を持つ32ビットプロセッサがMCU用途にも広く使われるようになっている。
:[[2010年代]]の高性能・多機能化した情報機器には、メインのCPUの他にしばしばペリフェラル(カメラなどの[[センサ]]類や、ストレージ、[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]、ネットワークなどの周辺デバイス)制御用の32ビットMCUが組み込まれている。また、[[モノのインターネット|IoT]]デバイスの構成単位としてセンサや[[アクチュエータ]]に組み込まれるMCUへの性能要求も高度化している。こうしたことから世の中に出回っている32ビットプロセッサの数は膨大である。
; [[64ビット]]
:[[パーソナルコンピュータ]] (PC)、[[ワークステーション]]、[[サーバ]]、[[スーパーコンピュータ]]をはじめ、[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]や[[スマートフォン]]などの「[[スマートデバイス]]」と総称される情報機器、[[ルーター|ルータ]]などのネットワーク機器、[[ゲーム機]]など、大量のデータを処理する用途で使われている。
:業務用のサーバでは大きな主記憶容量が求められたため、[[1990年代]]からCPUと[[オペレーティングシステム]] (OS) の64ビット化が進められていたが、一般消費者向けのPCにも浸透したのは[[2000年代]]中盤以降である{{efn|[[Microsoft Windows Server 2003]]をベースにした[[Microsoft Windows XP Professional x64 Edition]]が2005年にリリースされたが、最初の一般消費者向け64ビットOSとしては、翌2006年にリリースされたx64版[[Microsoft Windows Vista]]が主にその役目を果たした。}}。[[2010年代]]以降、市販されているPCは64ビットCPUを搭載するものがほとんどであるが、[[オフィススイート]]などの用途では[[アプリケーションソフトウェア]]を64ビット化してもパフォーマンス向上の恩恵が得られる場面は限られており<ref>[https://support.office.com/ja-jp/article/choose-between-the-64-bit-or-32-bit-version-of-office-2dee7807-8f95-4d0c-b5fe-6c6f49b8d261 64 ビット版または 32 ビット版の Office を選択する - Office サポート]</ref>、また互換性の問題(32ビット版のアドオンが利用できなくなるなど)の回避のために、32ビット版アプリケーションが推奨されているケースもある<ref>[https://blogs.technet.microsoft.com/office_jp/2010/05/05/64-office/ 64 ビット版 Office について – Office IT 担当者向けブログ]</ref>。一部のプラットフォームでは、64ビットOS上の32ビットエミュレーションレイヤーを介して32ビットアプリケーションを実行することもできるため、すべてのアプリケーションを64ビット化しなければならないというわけではない{{efn|64ビット版[[Microsoft Windows]]には[[WOW64]]サブシステムが搭載されている。64ビット版[[macOS]]もまた32ビットアプリケーションの動作をサポートするが、[[macOS High Sierra|High Sierra]]以降では非推奨となり、起動時に警告が表示されるようになっている。[[macOS Catalina]]では32ビットアプリケーションのサポートが打ち切られた。}}。また、64ビット版の[[デバイスドライバ]]が提供されていない周辺機器があるなどの問題から、64ビットCPUを搭載していながらも32ビット版のOSを利用しなければならないケースもある{{efn|x86版[[Microsoft Windows]]は32ビットのx86 CPUを搭載するシステムのほか、64ビットのx64 CPUを搭載するシステムにインストールして実行することもできる。}}。ただし、[[画像処理]]や動画編集など大量のデータを処理する用途では、巨大なメモリを割り当てることができる64ビット化のメリットは大きく、これらのアプリケーションソフトウェアは比較的早い時期から64ビット化が進んだ。2019年現在では、32ビット版デバイスドライバのサポートや更新が打ち切られているケースもある<ref>[https://nvidia.custhelp.com/app/answers/detail/a_id/4604/ Support Plan for 32-bit and 64-bit Operating Systems | NVIDIA]</ref>。
:スマートフォンも普及の初期は32ビットCPUが用いられたが、2013年9月に発表された[[iPhone 5s]]を皮切りに64ビットCPUへの対応と移行が進んでおり、[[iOS]]のように32ビット版アプリケーションの動作サポートを打ち切ったり、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]のように64ビット版アプリケーションの提供を義務付けたりするプラットフォームもある。
上記の分類に当てはまらないものとして、過去には、互いに結合し自由にビット長を増やす事ができる方式のCPUがあり、これは[[ビットスライスプロセッサ]]と呼ばれた。代表的な製品にAMDのAM2900シリーズなどが挙げられる。AM2901は、[[スイス連邦工科大学]]の[[Lilith]]ワークステーション等に使用されていた。またデータをバイト単位で扱うCPU([[バイトマシン]])の他、ワード単位で扱うCPU([[ワードマシン]])もある([[日本電気]]の[[ACOS-6]]など)。
=== 低消費電力化 ===
{{see also|半導体の低消費電力技術}}
==== 低電圧化 ====
最も基本的なCPUの低消費電力化技術は低電圧化であった。ロジック動作の信号線の電圧を低電圧化することは、低消費電力化につながると同時に信号を"Hi"と"Low"の間で高速に変更できるため動作速度の向上にも寄与した。
当初はリレーのような数十[[ボルト (単位)|ボルト]]の動作電圧だったが、1980年代には5 [[ボルト (単位)|V]]がデジタルコンピュータの標準的な動作電圧となり、1990年代には内部回路が3 V程度の低電圧化を取り入れはじめ、外部との信号線でも同様の低電圧化が行なわれる頃には、CPUの内部ではさらに低い電圧が採用されるようになった。2000年代末には内部的には1 V弱まで低電圧化が進められ、当時はノイズ耐性を考慮すればほぼ限界であると考えられていたが、その後もマイクロプロセッサの低電圧化の趨勢は続き、2013年に登場した[[Intel Quark|Quark X1000]]は最低0.28 Vの超低電圧動作が可能である。
==== クロックゲーティング ====
ほとんどのCPU(もっと言えばほとんどの[[順序回路]])は同期式である。つまり、CPUは同期信号にしたがって動作するよう設計されている。この信号は「[[クロック]]信号」として知られていて、一定周期の[[矩形波]]の形であることが多い。電気信号の伝播速度からCPU内の信号経路の長さを考慮してクロック信号の[[周波数]]が決定される。この周波数は信号伝播の最悪ケースを考慮して決めなければならない。最悪ケースを考慮して周波数を決定すれば、CPU全体が波形のエッジ部分で動作するよう設計でき、CPUの設計を簡略化できると同時にトランジスタ数も減らすことができる。しかし、この設計手法の欠点としてCPU全体が最も遅い部分を待つように設計しなければならず、全体の高速化がその遅い部分によって制限される。この制限に対処するために[[命令パイプライン]]や[[スーパースケーラ]]といった手法が採られてきた。
パイプラインだけでは同期式CPUの問題を全て解決することはできない。たとえば、クロック信号は他の電気信号の遅延に影響される。クロック周波数が高くなり、さらに複雑なCPUを動作させようとしたとき、全回路を同期させるのが困難になってきた。このため、新たな高性能CPUでは1つのクロック信号でCPU全体を同期するのではなく、いくつかのクロック信号で各部分を個別に同期させるようにしている。また、クロック周波数が高くなるにつれてCPUの発熱が大きな問題となってきた。クロック信号が"Hi"と"Low"を繰り返すことで多くのロジック回路が同様に"Hi"と"Low"を繰り返し、その回路が演算処理に使われていない時でもクロック信号が供給されている間は無駄に動作して発熱する。21世紀現在CPUに使用されている半導体回路では、信号電圧を"Hi"か"Low"に保持し続けるよりも"Hi"から"Low"や"Low"から"Hi"へ移る時に多くの電気エネルギーを消費する。このため、CPUに高速処理能力を求めるとクロック周波数が高くなり発熱も多くなって、さらに冷却する必要が生じる。
つまり、無駄にクロック信号を供給することを止めれば電力消費は抑えられ発熱も小さくなる。このように、演算処理に関与しない不要ブロックへのクロック信号の供給を止める{{仮リンク|クロックゲーティング|en|Clock gating}}と呼ばれる手法がある。
==== パワーゲーティング ====
2000年代後半以降に登場した高性能CPUで使用されている半導体回路技術(プロセス技術)では、消費電力に対する[[リーク電流]]の比率が大きくなった。リーク電流はクロック信号の有無に関係が無いため、クロックゲーティングだけでは大きな電力削減効果は得られない。
このような高性能CPUでは、クロック信号の供給停止だけではなく、動作していないモジュール等への電源供給そのものを遮断する{{仮リンク|パワーゲーティング|en|Power gating}}と呼ばれる技術が必要になる。従来は、高性能化したCPUが消費する大電流をロジック回路に最適化された半導体回路技術(プロセス技術)で制御することは容易ではなかったが、リーク電流対策として2000年代末までには広く用いられる技術になった。
==== 非同期設計 ====
クロック信号で全体を一斉に動かすのをやめる、という手もある。非同期設計には独特の手法が必要で、同期設計と比較すると非常に難しい点があるが、消費電力と発熱の面で大きな利点がある。SRAMなどでは、クロックと関係なくアクセスできたほうが扱いに便利な場合もあり、非同期SRAMはごく一般的な製品である。また演算回路など、一般的なプロセッサ内部の一部に使われることもある。
一般に市販された製品としては、非同期設計を表に出したマイクロプロセッサはあまり一般的ではないが、研究室での試作といったレベルでは研究・試作はさかんに行われており、日本のものでは南谷らによるTITAC<ref>http://www.hal.ipc.i.u-tokyo.ac.jp/research/titac/index.html</ref>などが知られている。海外ではマンチェスター大による[[ARMアーキテクチャ|ARM]]ベースの[[AMULET]]は(技術的ではない理由で中止にはなっているが)市販品に使用される予定があった。他に[[MIPSアーキテクチャ|MIPS]]([[R3000]])ベースのMiniMIPSなどがある。
クロックを完全に無くするのではなく部分的に非同期化することで性能を高める工夫としては<!--ref group="注釈">このため多くのCPUは外部回路をスタテック回路に換えてもDC動作と呼ばれるクロックを(例えば)手動で送るような操作は行なえない。[[位相同期回路|PLL回路]]が含まれるようになってからは一層不可能である。</ref--><!-- ← 動作クロックに下限がある(クロックを止めたり、極端に遅くできない)プロセッサがあるのは、レジスタの面積を小さくするためにダイナミック回路としていたりするからです。(必ずしも)非同期回路があるためではない。-->、非同期[[演算装置]]を使ってスーパースカラーのパイプラインを構成することで演算性能を上げようとした設計などがある。同期動作するCPUに比較して性能が向上するかどうかは定かではないが、少なくとも原理的には効果が期待できる。
=== 並列化 ===
{{Main|スーパースケーラ|マルチコア|並列コンピューティング}}
== MCU ==
CPUを中心に拡張された電子部品に[[マイクロコントローラ]](MCU)がある。
このMCUはCPUに加えてプログラム格納用を含む[[主記憶装置|半導体メモリ]]や[[GPIO]]と[[UART|シリアルIO]]、[[デジタル-アナログ変換回路|DAC]]/[[アナログ-デジタル変換回路|ADC]]といった各種入出力機能に[[タイマー]]や[[Direct Memory Access|DMAC]]にクロック回路、必要に応じて[[デジタルシグナルプロセッサ|DSP]]や[[フラッシュメモリ]]などの周辺回路を1つの[[パッケージ (電子部品)|パッケージ]]に内蔵して、主に小型の[[組み込みシステム|組込機器]]の制御に使用される。
== 企業および製品 ==
{{See|CPU製品一覧}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{脚注の不足|date=2021-11|section=1}}
* ジョン・L・ヘネシー/デイビッド・A・パターソン著、富田眞冶/村上和彰/新實治男訳、『コンピュータ・アーキテクチャ 設計・実現・評価の定量的アプローチ』、日経BP社、ISBN 4-8222-7152-8
* デイビッド・A・パターソン/ジョン・L・ヘネシー著、成田光彰訳、『コンピュータの構成と設計 ハードウエアとソフトウエアのインタフェース 第3版(上/下)』、日経BP社、ISBN 4-8222-8266-X/ISBN 4-8222-8267-8
* マイク・ジョンソン著、村上和彰監訳、『スーパスカラ・プロセッサ- マイクロプロセッサ設計における定量的アプローチ -』、日経BP社、ISBN 4-8227-1002-5
* 中森章著、『マイクロプロセッサ・アーキテクチャ入門 RISCプロセッサの基礎から最新プロセッサのしくみまで TECHI Vol.20』、CQ出版社、ISBN 4-7898-3331-3
* 渡波 郁、『CPUの創りかた』 毎日コミュニケーションズ, 2003, ISBN 978-4839909864
{| class="wikitable"
|+
!'''CPU'''
!用途
M
[[ノートパソコン|モバイル]]
D
[[デスクトップパソコン|デスクトップ]]
S
[[サーバ|サーバー]]
!ソケット
!ベースクロック(Ghz)
!ターボクロック(Ghz)
!対応メモリ
!最大メモリ容量
(GB)
!L2キャッシュ(MB)
!コア数スレッド数
!開発コード名
|-
|[[インテル|Intel]] [[Core Solo|Core solo]] U1300
|M
|[[Socket 479|PGA479]][[Socket 479|BGA479]]
|1.06
|NONE
|不明
|不明
|2
|1C
?T
|[[Yonah]]
|-
|[[インテル|Intel]] [[Intel Core 2|Core 2 Duo]] E6850
|D
|[[LGA775|FCLGA775]]
|3.00
|NONE
|[[DDR2 SDRAM|DDR2]] 667/800?
|不明
|4
|2C
2T
|[[Conroe]]
|-
|[[インテル|Intel]] [[Intel Core 2|Core 2 Duo]] E8400
|D
|[[LGA775|FCLGA775]]
|3.00
|NONE
|[[DDR2 SDRAM|DDR2]] 667 /800?
|不明
|6
|2C
2T
|[[Wolfdale]]
|-
|[[インテル|Intel]] [[Intel Core i3|Core i3]]-540
|D
|[[LGA1156|FCLGA1156]]
|3.06
|NONE
|[[DDR3 SDRAM|DDR3]] 1066/1333
|16.38
|4
|2C
4T
|[[Clarkdale]]
|-
|[[インテル|Intel]]
[[Intel Core i7|Core i7]]-8700
|D
|[[LGA1151|FCLGA1151]]
|3.20
|4.60
|[[DDR4 SDRAM|DDR4]] 2666
|128
|12
|6C
12T
|[[Coffee Lakeマイクロアーキテクチャ|Coffee Lake]]
|-
|[[インテル|Intel]] [[Pentium M]] 740
|M
|[[Socket 478|PPGA478]]、[[Socket 479|H-PBGA479]]
|1.73
|NONE
|[[DDR2 SDRAM|DDR2]] 533?
|不明
|2
|1C
?T
|[[Dothan]]
|-
|[[インテル|Intel]] [[Intel Core i7|Core i7]]-8086k
|D
|[[LGA1151|FCLGA1151]]
|4.00
|5.00
|[[DDR4 SDRAM|DDR4]] 2666
|128
|12
|6C
12T
|[[Coffee Lakeマイクロアーキテクチャ|Coffee Lake]]
|-
|[[インテル|Intel]] [[Intel Core i7|Core i7]] -10700k
|D
|[[LGA1200|FCLGA1200]]
|3.80
|5.10
|[[DDR4 SDRAM|DDR4]] 2933
|128
|16
|8C
16T
|[[Comet Lakeマイクロプロセッサ|Comet Lake]]
|-
|[[インテル|Intel]] [[Xeon]] E5-1603
|S
|[[LGA2011|FCLGA2011]]
|2.80
|NONE
|[[DDR3 SDRAM|DDR3]] 800/1066
|375
|10
|4C
4T
|[[Sandy Bridge EP]]
|}
== 比喩 ==
(適切な比喩なのか、かなり怪しいが)CPUは、コンピュータの「頭脳」に例えられることが多い<ref>[https://azby.fmworld.net/usage/closeup/20131023/?usagefrom=closeup パソコンの頭脳「CPU」どこを見れば性能がわかるの?(1/2) - FMVサポート : 富士通パソコン]</ref>。
[[比喩]]的表現([[換喩|換喩法]])だが、[[コンピュータゲーム]]の世界では、コンピュータやソフトウェアが動かす対戦相手や敵ユニットを指すこともある。
== 関連項目 ==
{{columns-list|column-width=25em|
* [[CPU年表]]
* [[4ビット]]
* [[8ビット]]
* [[16ビット]]
* [[24ビット]]
* [[32ビット]]
* [[64ビット]]
* [[CPU設計]]
* [[CPUの冷却装置]]
* [[クロック周波数]]
** [[オーバークロック]]
* [[動作環境]]
* [[命令セット]]
* [[キャッシュメモリ]]
* [[演算装置]]、[[FPU]]、[[スタックマシン]]、[[マイクロコントローラ]]
* [[バス (コンピュータ)]]
* [[CISC]] / [[RISC]]
* [[計算機科学]]
* [[計算機工学]]
* [[パイプライン処理]] - [[命令パイプライン]]
* [[マイクロプロセッサ]]
* [[マイクロプログラム方式]]
* [[スーパースケーラ]]
* [[ベクトル計算機]]
* [[ストリーム・プロセッシング]]
}}
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{CPU technologies}}
{{Basic computer components}}
{{DEFAULTSORT:CUP}}
[[Category:CPU|**]] | 2003-02-19T10:33:00Z | 2023-09-24T03:03:24Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/CPU |
2,388 | 欧州共同体 | 欧州共同体(おうしゅうきょうどうたい、英: European Communities)とは、同じ制度を持つ3つの国際機関のことである。欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)、欧州原子力共同体(EAECまたはEuratom)、欧州経済共同体(EEC)であったが、1993年のマーストリヒト条約により欧州共同体(EC)に改称され、欧州連合(EU)が発足した。
1993年に欧州連合に編入されたとき、共同体は欧州連合の最初の柱となった。欧州石炭鉄鋼共同体は、2002年に設立条約が失効し、消滅した。2009年のリスボン条約により、欧州共同体は欧州連合に統合され、EUは共同体の法的後継者となった。EuratomはEUとは別の組織として存続しているが、同じ制度によって管理されている。
ECSCが先に作られた。1950年にシューマン宣言で提案された後、ベルギー、フランス、イタリア、ルクセンブルグ、オランダ、西ドイツが集まり、1951年にパリ条約に調印し、共同体が設立された。この共同体の成功により、さらなる共同体の創設が望まれたが、欧州防衛共同体と欧州政治共同体の創設を試みたが失敗し、経済的な問題に回帰することになった。1957年、ローマ条約により、EAECとEECが設立された。EAECとEECは、ECSCのいくつかの制度を共有することになったが、執行機構は別個のものであった。
ECSCの目的は、加盟国の石炭と鉄鋼の産業を統合し、それらの資源の単一市場を作ることで、欧州の繁栄を図り、欧州統合の過程でこれらの国が戦争に巻き込まれる危険性を減らすことだった。EAECは、加盟国間の原子力協力に取り組んでいた。EECは、関税同盟と一般的な経済協力の構築を目指すものであった。その後、欧州単一市場の創設につながった。
EECはEUの欧州共同体の柱となり、ECSCとEAECは、法的には別々に存在しながら、あたかもEUの制度によって統治される、同様の従属的な位置づけを続けていた。ECSCの条約は50年の期限付きであったため、2002年に失効し、その活動はすべて欧州共同体に吸収された。EAECにはそのような期限がないため、現在も存続している。欧州の有権者にとって原子力はデリケートな問題であるため、この条約は調印以来改正されることなく、欧州憲法が他のすべての条約を廃止することを意図していたため、改正されることさえなかった(憲法の後継であるリスボン条約も同様に、改正を試みないままである) 。
EAECの知名度は低く、欧州共同体の知名度もEUのそれに比べて低いため、「欧州共同体」という言葉はあまり使われない。しかし、EU設立当初、欧州共同体のみを扱う機関、あるいは主に欧州共同体を扱う機関(3本柱すべてではなく)は元の名称を残しており、例えば、欧州司法裁判所の正式名称は2009年まで「欧州共同体司法裁判所」であった。
1967年、合併条約により、これらの別個の執行機関が統合された。EECの委員会と理事会は、他の組織の対応する責任を引き継ぐことになったのである。それ以降、これらの組織は「欧州共同体」と総称されるようになり、例えば欧州委員会は「欧州共同体委員会」と呼ばれるようになったが、法的には共同体そのものは別個のままであった。
欧州連合条約は、欧州連合の創設について単一欧州議定書と欧州の統合に関する宣言を土台に起草されている。欧州連合条約は1992年2月7日に調印され、1993年11月1日に発効した。欧州連合とは従来の欧州共同体に替わるものであり、また欧州共同体は政策分野の欧州共同体として3つの柱構造に組み入れられた。このとき欧州経済共同体は欧州共同体に改称され、欧州連合としての初代欧州委員会委員長には、欧州経済共同体の委員長であったジャック・ドロールが、1994年にジャック・サンテールに交替するまで務めた。
アムステルダム条約では査証、不法移民、難民といった人の移動の自由についての政策を司法・内務協力の柱から欧州共同体の柱の対象分野に変更した(なおこれにより司法・内務協力は警察・刑事司法協力に改称された)。またアムステルダム条約とニース条約では共同決定手続を用いる案件を拡張し、欧州共同体の対象とするほぼすべての政策分野において欧州議会は欧州連合理事会と対等の権限を有することになった。
2002年、欧州共同体を構成する3共同体の1つである欧州石炭鉄鋼共同体の根拠条約であるパリ条約が、ほかの基本条約にはない50年という有効期限を持っていたために、その効力が消滅した。ほかの基本条約と重複するものと考えられていたためパリ条約は更新されることがなく、かわりにニース条約においてパリ条約の要素は欧州共同体設立条約に継承され、欧州石炭鉄鋼共同体の機能は欧州共同体の機構により欧州共同体の政策分野の一部として引き継がれた。2009年に発効したリスボン条約では3本柱構造が廃止され、これにより欧州共同体はその法人格を欧州連合が継承したことで消滅し、欧州共同体設立条約も「欧州連合の機能に関する条約」に改称された。いっぽうで欧州原子力共同体については欧州連合と完全に統合せず、欧州連合の内部で独立した主体として存続している。
合併条約により、3つの共同体はすべて同じ制度的枠組みによって統治されることになった。1967年以前は、ECSCによって設立された共通会議/欧州議会と司法裁判所はすでにEECとEAECに共有されていたが、それぞれ異なる役員を擁していた。1967年の条約により、ECSCとEAECの事務はEECの理事会と委員会が担当することになり、ECSCとEAECの理事会、EAECの委員会、ECSCの最高機関は廃止された。1993年に欧州連合が設立されるまで、この3つの共同体が統治していた。
3つの共同体の加盟国は同じで、パリ条約とその後の条約に署名した6カ国は「内側の6カ国」と呼ばれた(「外側の7カ国」は欧州自由貿易連合を形成した国々)。設立したのは、フランス、西ドイツ、イタリア、ベネルクス3国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ)の6カ国である。である。最初の拡大は1973年で、デンマーク、アイルランド、英国が加盟した。1980年代には、ギリシャ、スペイン、ポルトガルが加盟した。1993年11月のEU発足後、2013年7月までにさらに16カ国を加盟させるまでに拡大した。
設立時の加盟国は緑色、それ以降の加盟国は青色で表示されている。1957年当時、東ドイツを形成していた国は共同体に加盟していなかったが、1990年のドイツ再統一により共同体に加盟している。
加盟国は各機関に何らかの形で代表されている。また、理事会は自国政府を代表する1名の閣僚で構成されている。また、各国はそれぞれ1名の欧州委員を持つ権利を有するが、欧州委員会では自国の利益ではなく、共同体の利益を代表することになっている。2004年以前は、大国(フランス、ドイツ、イタリア、イギリス)には2人の委員がった。欧州議会では、議員には人口に応じた議席数が割り当てられているが、1979年以降は直接選挙で選ばれており、国籍ではなく政治的忠誠心によって議席を獲得している。欧州司法裁判所を含む他のほとんどの機関では、何らかの形で委員の国籍が分かれている。
欧州共同体の柱は以下の分野を対象としている。 | [
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"text": "欧州共同体(おうしゅうきょうどうたい、英: European Communities)とは、同じ制度を持つ3つの国際機関のことである。欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)、欧州原子力共同体(EAECまたはEuratom)、欧州経済共同体(EEC)であったが、1993年のマーストリヒト条約により欧州共同体(EC)に改称され、欧州連合(EU)が発足した。",
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"text": "1993年に欧州連合に編入されたとき、共同体は欧州連合の最初の柱となった。欧州石炭鉄鋼共同体は、2002年に設立条約が失効し、消滅した。2009年のリスボン条約により、欧州共同体は欧州連合に統合され、EUは共同体の法的後継者となった。EuratomはEUとは別の組織として存続しているが、同じ制度によって管理されている。",
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"text": "ECSCが先に作られた。1950年にシューマン宣言で提案された後、ベルギー、フランス、イタリア、ルクセンブルグ、オランダ、西ドイツが集まり、1951年にパリ条約に調印し、共同体が設立された。この共同体の成功により、さらなる共同体の創設が望まれたが、欧州防衛共同体と欧州政治共同体の創設を試みたが失敗し、経済的な問題に回帰することになった。1957年、ローマ条約により、EAECとEECが設立された。EAECとEECは、ECSCのいくつかの制度を共有することになったが、執行機構は別個のものであった。",
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"text": "ECSCの目的は、加盟国の石炭と鉄鋼の産業を統合し、それらの資源の単一市場を作ることで、欧州の繁栄を図り、欧州統合の過程でこれらの国が戦争に巻き込まれる危険性を減らすことだった。EAECは、加盟国間の原子力協力に取り組んでいた。EECは、関税同盟と一般的な経済協力の構築を目指すものであった。その後、欧州単一市場の創設につながった。",
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"text": "EECはEUの欧州共同体の柱となり、ECSCとEAECは、法的には別々に存在しながら、あたかもEUの制度によって統治される、同様の従属的な位置づけを続けていた。ECSCの条約は50年の期限付きであったため、2002年に失効し、その活動はすべて欧州共同体に吸収された。EAECにはそのような期限がないため、現在も存続している。欧州の有権者にとって原子力はデリケートな問題であるため、この条約は調印以来改正されることなく、欧州憲法が他のすべての条約を廃止することを意図していたため、改正されることさえなかった(憲法の後継であるリスボン条約も同様に、改正を試みないままである) 。",
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"text": "EAECの知名度は低く、欧州共同体の知名度もEUのそれに比べて低いため、「欧州共同体」という言葉はあまり使われない。しかし、EU設立当初、欧州共同体のみを扱う機関、あるいは主に欧州共同体を扱う機関(3本柱すべてではなく)は元の名称を残しており、例えば、欧州司法裁判所の正式名称は2009年まで「欧州共同体司法裁判所」であった。",
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"text": "1967年、合併条約により、これらの別個の執行機関が統合された。EECの委員会と理事会は、他の組織の対応する責任を引き継ぐことになったのである。それ以降、これらの組織は「欧州共同体」と総称されるようになり、例えば欧州委員会は「欧州共同体委員会」と呼ばれるようになったが、法的には共同体そのものは別個のままであった。",
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"text": "欧州連合条約は、欧州連合の創設について単一欧州議定書と欧州の統合に関する宣言を土台に起草されている。欧州連合条約は1992年2月7日に調印され、1993年11月1日に発効した。欧州連合とは従来の欧州共同体に替わるものであり、また欧州共同体は政策分野の欧州共同体として3つの柱構造に組み入れられた。このとき欧州経済共同体は欧州共同体に改称され、欧州連合としての初代欧州委員会委員長には、欧州経済共同体の委員長であったジャック・ドロールが、1994年にジャック・サンテールに交替するまで務めた。",
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"text": "アムステルダム条約では査証、不法移民、難民といった人の移動の自由についての政策を司法・内務協力の柱から欧州共同体の柱の対象分野に変更した(なおこれにより司法・内務協力は警察・刑事司法協力に改称された)。またアムステルダム条約とニース条約では共同決定手続を用いる案件を拡張し、欧州共同体の対象とするほぼすべての政策分野において欧州議会は欧州連合理事会と対等の権限を有することになった。",
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"text": "2002年、欧州共同体を構成する3共同体の1つである欧州石炭鉄鋼共同体の根拠条約であるパリ条約が、ほかの基本条約にはない50年という有効期限を持っていたために、その効力が消滅した。ほかの基本条約と重複するものと考えられていたためパリ条約は更新されることがなく、かわりにニース条約においてパリ条約の要素は欧州共同体設立条約に継承され、欧州石炭鉄鋼共同体の機能は欧州共同体の機構により欧州共同体の政策分野の一部として引き継がれた。2009年に発効したリスボン条約では3本柱構造が廃止され、これにより欧州共同体はその法人格を欧州連合が継承したことで消滅し、欧州共同体設立条約も「欧州連合の機能に関する条約」に改称された。いっぽうで欧州原子力共同体については欧州連合と完全に統合せず、欧州連合の内部で独立した主体として存続している。",
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"text": "合併条約により、3つの共同体はすべて同じ制度的枠組みによって統治されることになった。1967年以前は、ECSCによって設立された共通会議/欧州議会と司法裁判所はすでにEECとEAECに共有されていたが、それぞれ異なる役員を擁していた。1967年の条約により、ECSCとEAECの事務はEECの理事会と委員会が担当することになり、ECSCとEAECの理事会、EAECの委員会、ECSCの最高機関は廃止された。1993年に欧州連合が設立されるまで、この3つの共同体が統治していた。",
"title": "機構"
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"text": "3つの共同体の加盟国は同じで、パリ条約とその後の条約に署名した6カ国は「内側の6カ国」と呼ばれた(「外側の7カ国」は欧州自由貿易連合を形成した国々)。設立したのは、フランス、西ドイツ、イタリア、ベネルクス3国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ)の6カ国である。である。最初の拡大は1973年で、デンマーク、アイルランド、英国が加盟した。1980年代には、ギリシャ、スペイン、ポルトガルが加盟した。1993年11月のEU発足後、2013年7月までにさらに16カ国を加盟させるまでに拡大した。",
"title": "加盟国"
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"text": "設立時の加盟国は緑色、それ以降の加盟国は青色で表示されている。1957年当時、東ドイツを形成していた国は共同体に加盟していなかったが、1990年のドイツ再統一により共同体に加盟している。",
"title": "加盟国"
},
{
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"text": "加盟国は各機関に何らかの形で代表されている。また、理事会は自国政府を代表する1名の閣僚で構成されている。また、各国はそれぞれ1名の欧州委員を持つ権利を有するが、欧州委員会では自国の利益ではなく、共同体の利益を代表することになっている。2004年以前は、大国(フランス、ドイツ、イタリア、イギリス)には2人の委員がった。欧州議会では、議員には人口に応じた議席数が割り当てられているが、1979年以降は直接選挙で選ばれており、国籍ではなく政治的忠誠心によって議席を獲得している。欧州司法裁判所を含む他のほとんどの機関では、何らかの形で委員の国籍が分かれている。",
"title": "加盟国"
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"text": "欧州共同体の柱は以下の分野を対象としている。",
"title": "政策分野"
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] | 欧州共同体とは、同じ制度を持つ3つの国際機関のことである。欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)、欧州原子力共同体(EAECまたはEuratom)、欧州経済共同体(EEC)であったが、1993年のマーストリヒト条約により欧州共同体(EC)に改称され、欧州連合(EU)が発足した。 1993年に欧州連合に編入されたとき、共同体は欧州連合の最初の柱となった。欧州石炭鉄鋼共同体は、2002年に設立条約が失効し、消滅した。2009年のリスボン条約により、欧州共同体は欧州連合に統合され、EUは共同体の法的後継者となった。EuratomはEUとは別の組織として存続しているが、同じ制度によって管理されている。 | {{about|1952年から2009年まで存在した3つの欧州共同体の集団的性質(1993年以降の欧州連合の柱としての運営を含む)|これら3つのうちの主要な組織|欧州経済共同体}}
{{Infobox|above=欧州共同体|header1=[[欧州連合の3本柱|欧州連合の柱]]|data2=<Center><imagemap>
File:Pillars of the European Union.svg|
rect 3 1 176 20 [[European Union]]
rect 65 42 115 170 [[Common Foreign and Security Policy]]
rect 126 42 176 170 [[Police and Judicial Co-operation in Criminal Matters]]
</imagemap></center>|data3=欧州連合を構成する3つの柱|data4=<center>1993–2009 [[欧州連合|→ EU]]</center>|labelstyle=background:#ddf;|header5=共同体の形成|label6=[[欧州石炭鉄鋼共同体]]|data6=1952–2002|label7=[[欧州経済共同体]]|data7=1958–2009|label8=[[欧州原子力共同体]]|data8=1958–現在}}'''欧州共同体'''(おうしゅうきょうどうたい、{{lang-en-short|European Communities}})とは、同じ制度を持つ3つの国際機関のことである。[[欧州石炭鉄鋼共同体]](ECSC)、[[欧州原子力共同体]](EAECまたはEuratom)、[[欧州経済共同体]](EEC)であったが、1993年の[[マーストリヒト条約]]により欧州共同体(EC)に改称され、[[欧州連合]](EU)が発足した。
1993年に欧州連合に編入されたとき、共同体は欧州連合の[[3つの柱 (EU)|最初の柱]]となった。欧州石炭鉄鋼共同体は、2002年に設立条約が失効し、消滅した。2009年の[[リスボン条約]]により、欧州共同体は欧州連合に統合され、EUは共同体の法的後継者となった。EuratomはEUとは別の組織として存続しているが、同じ制度によって管理されている。
== 歴史 ==
=== 3つの共同体 ===
ECSCが先に作られた。1950年に[[シューマン宣言]]で提案された後、[[ベルギー]]、[[フランス]]、[[イタリア]]、[[ルクセンブルク|ルクセンブルグ]]、[[オランダ]]、[[西ドイツ]]が集まり、1951年に[[パリ条約 (1951年)|パリ条約]]に調印し、共同体が設立された。この共同体の成功により、さらなる共同体の創設が望まれたが、[[欧州防衛共同体]]と[[欧州政治共同体]]の創設を試みたが失敗し、経済的な問題に回帰することになった。1957年、[[ローマ条約]]により、EAECとEECが設立された。EAECとEECは、ECSCのいくつかの制度を共有することになったが、執行機構は別個のものであった<ref name="ENA TEC3">[http://www.cvce.eu/obj/the_european_communities-en-3940ef1d-7c10-4d0f-97fc-0cf1e86a32d4.html The European Communities], on CVCE website</ref>。
ECSCの目的は、加盟国の石炭と鉄鋼の産業を統合し、それらの資源の単一市場を作ることで、欧州の繁栄を図り、[[欧州統合]]の過程でこれらの国が戦争に巻き込まれる危険性を減らすことだった。EAECは、加盟国間の[[原子力]]協力に取り組んでいた。EECは、[[関税同盟]]と一般的な経済協力の構築を目指すものであった。その後、欧州単一市場の創設につながった<ref name="ENA TEC4">[http://www.cvce.eu/obj/the_european_communities-en-3940ef1d-7c10-4d0f-97fc-0cf1e86a32d4.html The European Communities], on CVCE website</ref>。
EECは[[3つの柱 (EU)|EUの欧州共同体の柱]]となり、ECSCとEAECは、法的には別々に存在しながら、あたかもEUの制度によって統治される、同様の従属的な位置づけを続けていた。ECSCの条約は50年の期限付きであったため、2002年に失効し、その活動はすべて欧州共同体に吸収された<ref>{{Cite web |url=http://europa.eu/scadplus/treaties/ecsc_en.htm |title=Treaty establishing the European Coal and Steel Community, ECSC Treaty |publisher=Europa.eu |access-date=2012-06-04 |archive-url=https://web.archive.org/web/20071213202339/http://europa.eu/scadplus/treaties/ecsc_en.htm |archive-date=13 December 2007}}</ref>。EAECにはそのような期限がないため、現在も存続している。欧州の有権者にとって原子力はデリケートな問題であるため、この条約は調印以来改正されることなく、[[欧州のための憲法を制定する条約|欧州憲法]]が他のすべての条約を廃止することを意図していたため、改正されることさえなかった(憲法の後継である[[リスボン条約]]も同様に、改正を試みないままである)<ref>{{Cite web |url=http://www.eu-energy.com/euratom-reform.htm |title=Euratom reform |publisher=Eu-energy.com |access-date=2012-06-04}}</ref> <ref>{{Cite web |url=http://europa.eu/scadplus/treaties/euratom_en.htm |title=Treaty establishing the European Atomic Energy Community (Euratom) |publisher=Europa.eu |access-date=2012-06-04 |archive-url=https://web.archive.org/web/20120718210721/http://europa.eu/scadplus/treaties/euratom_en.htm |archive-date=18 July 2012}}</ref>。
EAECの知名度は低く、欧州共同体の知名度もEUのそれに比べて低いため、「欧州共同体」という言葉はあまり使われない。しかし、EU設立当初、欧州共同体のみを扱う機関、あるいは主に欧州共同体を扱う機関(3本柱すべてではなく)は元の名称を残しており、例えば、欧州司法裁判所の正式名称は2009年まで「欧州共同体司法裁判所」であった<ref>[http://curia.europa.eu/en/instit/presentationfr/index_cje.htm The Court of Justice of the European Communities]</ref>。
1967年、[[ブリュッセル条約|合併条約]]により、これらの別個の執行機関が統合された。EECの委員会と理事会は、他の組織の対応する責任を引き継ぐことになったのである。それ以降、これらの組織は「欧州共同体」と総称されるようになり、例えば欧州委員会は「欧州共同体委員会」と呼ばれるようになったが、法的には共同体そのものは別個のままであった<ref name="ENA TEC5">[http://www.cvce.eu/obj/the_european_communities-en-3940ef1d-7c10-4d0f-97fc-0cf1e86a32d4.html The European Communities], on CVCE website</ref>。
=== 柱 ===
欧州連合条約は、欧州連合の創設について[[単一欧州議定書]]と[[欧州の統合に関する宣言]]<!--Solemn Declarationon European Unionの仮訳-->を土台に起草されている。欧州連合条約は1992年2月7日に調印され、1993年11月1日に発効した。欧州連合とは従来の[[欧州諸共同体|欧州共同体]]に替わるものであり、また欧州共同体は政策分野の欧州共同体として3つの柱構造に組み入れられた。このとき欧州経済共同体は欧州共同体に改称され、欧州連合としての初代[[欧州委員会委員長]]には、欧州経済共同体の委員長であった[[ジャック・ドロール]]が、1994年に[[ジャック・サンテール]]に交替するまで務めた。
[[アムステルダム条約]]では[[査証]]、[[移民|不法移民]]、[[難民]]といった人の移動の自由についての政策を[[警察・刑事司法協力|司法・内務協力]]の柱から欧州共同体の柱の対象分野に変更した(なおこれにより司法・内務協力は[[警察・刑事司法協力]]に改称された)<ref name="Folk">{{Cite web|url=http://www.eu-oplysningen.dk/euo_en/spsv/all/12/|title=What are the three pillars of the EU?|publisher=EU Information Centre (set up by the Folketing)|language=English|accessdate=2008-11-23}}</ref>。またアムステルダム条約と[[ニース条約]]では[[共同決定手続]]を用いる案件を拡張し、欧州共同体の対象とするほぼすべての政策分野において[[欧州議会]]は[[欧州連合理事会]]と対等の権限を有することになった。
2002年、欧州共同体を構成する3共同体の1つである[[欧州石炭鉄鋼共同体]]の根拠条約である[[パリ条約 (1951年)|パリ条約]]が、ほかの[[欧州連合基本条約|基本条約]]にはない50年という有効期限を持っていたために、その効力が消滅した。ほかの基本条約と重複するものと考えられていたためパリ条約は更新されることがなく、かわりに[[ニース条約]]においてパリ条約の要素は欧州共同体設立条約に継承され、欧州石炭鉄鋼共同体の機能は欧州共同体の機構により欧州共同体の政策分野の一部として引き継がれた。2009年に発効したリスボン条約では3本柱構造が廃止され、これにより欧州共同体はその法人格を欧州連合が継承したことで消滅し、欧州共同体設立条約も「欧州連合の機能に関する条約」に改称された。いっぽうで[[欧州原子力共同体]]については欧州連合と完全に統合せず、欧州連合の内部で独立した主体として存続している。
{{EU-timeline}}
== 機構 ==
{{about||共同体機構の詳細|欧州経済共同体#機構|現在の機構の情報|欧州連合の機構}}
[[ブリュッセル条約|合併条約]]により、3つの共同体はすべて同じ制度的枠組みによって統治されることになった。1967年以前は、ECSCによって設立された共通会議/[[欧州議会]]と司法裁判所はすでにEECとEAECに共有されていたが、それぞれ異なる役員を擁していた。1967年の条約により、ECSCとEAECの事務はEECの理事会と委員会が担当することになり、ECSCとEAECの理事会、EAECの委員会、ECSCの最高機関は廃止された。1993年に欧州連合が設立されるまで、この3つの共同体が統治していた。
== 加盟国 ==
{{further|欧州連合加盟国|欧州連合の拡大}}3つの共同体の加盟国は同じで、パリ条約とその後の条約に署名した6カ国は「内側の6カ国」と呼ばれた(「外側の7カ国」は[[欧州自由貿易連合]]を形成した国々)。設立したのは、[[フランス]]、[[西ドイツ]]、[[イタリア]]、[[ベネルクス]]3国([[ベルギー]]、[[オランダ]]、[[ルクセンブルク|ルクセンブルグ]])の6カ国である。最初の拡大は1973年で、[[デンマーク]]、[[アイルランド]][[イギリス|、英国]]が加盟した。1980年代には、[[ギリシャ]]、[[スペイン]]、[[ポルトガル]]が加盟した。1993年11月のEU発足後、2013年7月までにさらに16カ国を加盟させるまでに拡大した。
[[ファイル:Expansion_of_the_European_Communities_1973-1992.png|サムネイル|300x300ピクセル|創設メンバーは緑色、それ以降のメンバーは青色で表示されている。1957年当時、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]を形成していた国家は共同体に属していなかったが、1990年のドイツ再統一により共同体に属するようになった。]]
設立時の加盟国は緑色、それ以降の加盟国は青色で表示されている。1957年当時、東ドイツを形成していた国は共同体に加盟していなかったが、1990年のドイツ再統一により共同体に加盟している。
{| class="wikitable"
![[欧州連合加盟国|加盟国]]
![[欧州連合の拡大|加盟]]
|-
|{{Flagu|Belgium}}
| style="text-align:right" |1957年3月25日
|-
|{{Flagu|Italy}}
| style="text-align:right" |1957年3月25日
|-
|{{Flagu|Luxembourg}}
| style="text-align:right" |1957年3月25日
|-
|{{Flagu|France}}
| style="text-align:right" |1957年3月25日
|-
|{{Flagu|Netherlands}}
| style="text-align:right" |1957年3月25日
|-
|{{Flagu|West Germany}}
| style="text-align:right" |1957年3月25日
|-
|{{Flagu|Denmark}}
| style="text-align:right" |1973年1月1日
|-
|{{Flagu|Ireland}}
| style="text-align:right" |1973年1月1日
|-
|{{Flagu|United Kingdom}}
| style="text-align:right" |1973年1月1日
|-
|{{Flagu|Greece}}
| style="text-align:right" |1981年1月1日
|-
|{{Flagu|Portugal}}
| style="text-align:right" |1986年1月1日
|-
|{{Flagu|Spain}}
| style="text-align:right" |1986年1月1日
|}
加盟国は各機関に何らかの形で代表されている。また、[[欧州連合理事会|理事会]]は自国政府を代表する1名の閣僚で構成されている。また、各国はそれぞれ1名の欧州委員を持つ権利を有するが、[[欧州委員会]]では自国の利益ではなく、共同体の利益を代表することになっている。2004年以前は、大国(フランス、ドイツ、イタリア、イギリス)には2人の委員がった。[[欧州議会]]では、議員には人口に応じた議席数が割り当てられているが、[[1979年欧州議会議員選挙|1979年]]以降は直接選挙で選ばれており、国籍ではなく政治的忠誠心によって議席を獲得している。欧州司法裁判所を含む他のほとんどの機関では、何らかの形で委員の国籍が分かれている。
== 政策分野 ==
{{See also|3つの柱 (EU)}}
欧州共同体の柱は以下の分野を対象としている<ref name="Folk"/>。
{{表3列|
* [[出入国管理]]
* [[欧州連合市民権|連合市民権]]
* [[共通農業政策]]
* [[共通漁業政策]]
* [[欧州連合競争法|競争政策]]
* [[消費者保護]]
* [[関税同盟]]および[[共同市場|単一市場]]
|
* [[欧州連合の経済通貨統合|経済通貨同盟]]
* [[教育]]・[[欧州連合の文化政策|文化]]
* [[環境法]]
* [[雇用]]
* [[公衆衛生]]
* [[欧州横断ネットワーク]]
|
* [[貿易|通商政策]]
* [[研究]]
* [[社会政策]]
* [[難民|難民政策]]
* [[シェンゲン協定]]
* [[移民|移民政策]]
}}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[欧州連合の3本柱]]
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2017年10月|section=1}}
* {{Cite book|last=Monnet|first=Jean|authorlink=ジャン・モネ|title=Prospect for a New Europe|origyear=1959|language=English}}
* {{Cite book|last=Balassa|first=Béla A.|authorlink=ベラ・バラッサ|title=The Theory of Economic Integration|origyear=1961|publisher=Homewood, Ill., R.D. Irwin|language=English|oclc=239453}}
* {{Cite book|last=Hallstein|first=Walter|authorlink=ヴァルター・ハルシュタイン|title=The European Community : A New Path to Peaceful Union|origyear=1964|publisher=Asia Pub. House|language=English|oclc=35115719}}
* {{Cite book|last=Spaak|first=Paul-Henri|authorlink=ポール=アンリ・スパーク|title=The Continuing Battle: memoirs of a European, 1936-1966|origyear=1971|publisher=Weidenfeld|language=English|isbn=978-0297993520|oclc=348039}}
== 外部リンク ==
*[http://europa.eu/index_en.htm The European Union On-Line]
*[http://www.cvce.eu/obj/treaty_establishing_the_european_economic_community_rome_25_march_1957-en-cca6ba28-0bf3-4ce6-8a76-6b0b3252696e.html Treaty establishing the European Economic Community] CVCE(要Flash Player)
* {{Kotobank|ヨーロッパ共同体}}
{{デフォルトソート:おうしゆうきようとうたい}}
[[Category:欧州連合|きようとうたい]]
{{authority control}} | 2003-02-19T10:33:10Z | 2023-12-31T11:50:39Z | false | false | false | [
"Template:See also",
"Template:表3列",
"Template:参照方法",
"Template:Authority control",
"Template:About",
"Template:Infobox",
"Template:EU-timeline",
"Template:Further",
"Template:Cite book",
"Template:Kotobank",
"Template:Lang-en-short",
"Template:Flagu",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E5%85%B1%E5%90%8C%E4%BD%93 |
2,393 | Kleinman-Bylander近似 | Kleinman-Bylander近似(クレインマン・バイランダーきんじ)は、擬ポテンシャルの非局所部分の計算量をNの2乗のオーダーからNのオーダーまで減らす近似[1]。ここでNは、平面波基底の数(通常、Nのオーダーでの計算量は扱う系が大きくなれば膨大なものになる)。Kleinman-Bylanderの分離形とも言う。
擬ポテンシャルVPS(r)は、局所部分と非局所部分とからなる。
ここで、 l {\displaystyle l\,} は軌道角運動量、 V local ( r ) {\displaystyle V_{\text{local}}(r)} が局所部分、 V non-local l ( r ) {\displaystyle V_{\text{non-local}}^{l}(r)} が非局所部分である。rは動径方向の座標。この非局所部分を次のように分離するのが、Kleinman-Bylander近似である。
φlは擬波動関数と言い、擬ポテンシャルを解くことによって得られる(擬似的な)波動関数である。上記の分離された形を使うことによって、逆格子空間で考えた非局所部分の和は、逆格子ベクトルGの数(平面波基底の数に相当)についてGとG'の二重の和が必要であったものが、Gのみの一重の和のみでよくなる。
この近似を用いた場合の問題点は、バンド計算においてゴーストバンドが生じる危険があることである。2004年現在、これを完全かつ確実に排除する確たる指導原理はない。 | [
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] | Kleinman-Bylander近似(クレインマン・バイランダーきんじ)は、擬ポテンシャルの非局所部分の計算量をNの2乗のオーダーからNのオーダーまで減らす近似[1]。ここでNは、平面波基底の数(通常、N2のオーダーでの計算量は扱う系が大きくなれば膨大なものになる)。Kleinman-Bylanderの分離形とも言う。 擬ポテンシャルVPS(r)は、局所部分と非局所部分とからなる。 ここで、 l は軌道角運動量、 V local が局所部分、 V non-local l が非局所部分である。rは動径方向の座標。この非局所部分を次のように分離するのが、Kleinman-Bylander近似である。 φlPSは擬波動関数と言い、擬ポテンシャルを解くことによって得られる(擬似的な)波動関数である。上記の分離された形を使うことによって、逆格子空間で考えた非局所部分の和は、逆格子ベクトルGの数(平面波基底の数に相当)についてGとG'の二重の和が必要であったものが、Gのみの一重の和のみでよくなる。 この近似を用いた場合の問題点は、バンド計算においてゴーストバンドが生じる危険があることである。2004年現在、これを完全かつ確実に排除する確たる指導原理はない。 | '''Kleinman-Bylander近似'''(クレインマン・バイランダーきんじ)は、[[擬ポテンシャル]]の[[非局所部分]]の計算量を''N''の2乗のオーダーから''N''のオーダーまで減らす近似[1]。ここで''N''は、[[平面波]]基底の数(通常、''N''<sup>2</sup>のオーダーでの計算量は扱う系が大きくなれば膨大なものになる)。Kleinman-Bylanderの分離形とも言う。
擬ポテンシャル''V''<sub>PS</sub>(r)は、局所部分と非局所部分とからなる。
:<math> V_{\text{PS}} (r) = V_{\text{local}} + \sum_l | l \rangle V_{\text{non-local}}^l (r) \langle l | </math>
ここで、<math> l \, </math>は[[軌道角運動量]]、<math> V_{\text{local}} (r) </math>が局所部分、<math> V_{\text{non-local}}^l (r) </math>が非局所部分である。''r''は動径方向の座標。この非局所部分を次のように分離するのが、Kleinman-Bylander近似である。
:<math> V_{\text{non-local}}^{l, \text{KB}} (r) = \frac{ |V_{\text{non-local}}^l | \phi_l^{\text{PS}} \rangle \langle \phi_l^{\text{PS}} | V_{\text{non-local}}^l | }{\langle \phi_l^{\text{PS}} | V_{\text{non-local}}^l | \phi_l^{\text{PS}} \rangle } </math>
''φ<sub>l</sub>''<sup>PS</sup>は擬波動関数と言い、擬ポテンシャルを解くことによって得られる(擬似的な)[[波動関数]]である。上記の分離された形を使うことによって、[[逆格子空間]]で考えた非局所部分の和は、[[逆格子ベクトル]]''G''の数(平面波基底の数に相当)について'''''G'''''と'''''G'''<nowiki/>'<nowiki/>''の二重の和が必要であったものが、'''''G'''''のみの一重の和のみでよくなる。
この近似を用いた場合の問題点は、[[バンド計算]]において[[ゴーストバンド]]が生じる危険があることである。[[2004年]]現在、これを完全かつ確実に排除する確たる指導原理はない。
== 参考文献 ==
[1] L. Kleinman and D. M. Bylander, Phys. Rev. Lett., '''48''' (1982) 1425.
== 関連項目 ==
*[[擬ポテンシャル]]
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[[Category:バンド計算]] | null | 2018-07-01T19:26:44Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Kleinman-Bylander%E8%BF%91%E4%BC%BC |
2,395 | 国際連合 | 国際連合(こくさいれんごう、UN、ONU; アラビア語: الأمم المتحدة、中国語: 联合国/聯合國、英語: United Nations、フランス語: Organisation des Nations unies、ロシア語: Организация Объединённых Наций、スペイン語: Organización de las Naciones Unidas)は、国際連合憲章の下で1945年10月に設立された国際機関。
第二次世界大戦の勃発を防げなかった国際連盟の様々な反省を踏まえ、1945年10月24日に51ヵ国の加盟国で設立された。主たる活動目的は、国際平和と安全の維持(安全保障)、経済・社会・文化などに関する国際協力の実現である。2021年6月の加盟国は193か国であり、現在国際社会に存在する国際組織の中では最も広範・一般的な権限と、普遍性を有する組織である。
なお英語表記の「United Nations(ユナイテッド・ネイションズ)」は第二次世界大戦中の連合国(英: the Allies、Allied powers)の別名と同じだが、日本では「国際連合」の訳が一般に使用されている(詳細は名称を参照)。中国語では第一次世界大戦の中央同盟国と第二次世界大戦の連合国を「同盟國」、国際連合を「联合国/聯合國」と分けて呼んでいる。フランス語でも第二次世界大戦の連合国は「Alliés de la Seconde Guerre mondiale」、国際連合は「Nations unies/Organisation des Nations unies」と分けられている。
国際連合は、第二次世界大戦を防ぐことができなかった国際連盟(1919年 - 1946年)の反省を踏まえ、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中華民国などの連合国(the united nations)が中心となって設立した。1945年4月から6月にかけてアメリカ・サンフランシスコで開かれたサンフランシスコ会議で国連憲章が署名され、同年10月24日に正式に発足した。
発足時の原加盟国はイギリスやソビエト連邦の構成国であった一部の国を含めた51か国であった。2023年2月現在、国際連合の加盟国数は193か国で、世界のほとんどの全地域を網羅している。最も新しい加盟国は、南スーダン(2011年7月14日加盟)である。
国連の目的は国連憲章第1条に記されており、目的は次の三つである。
これらの目的を達成するため、総会、安全保障理事会、経済社会理事会、信託統治理事会、国際司法裁判所、事務局という6つの主要機関と、多くの付属機関・補助機関が置かれている。加えて、15の専門機関と多くの関連機関が国連と連携して活動しており、全体として巨大かつ複雑な国連システム(国連ファミリー)を形成している。
国際連合の本部は、アメリカ合衆国のニューヨーク・マンハッタン島にある。本部ビルは、オスカー・ニーマイヤーを中心とした建築家国際委員会が設計したが、現在老朽化しており、新館を建築家・槇文彦が設計予定である(ただし、国際連合の資金難により計画は滞っている)。そのほか、ジュネーヴなど世界各地に事務所が置かれている。
国際連盟との間には法的な継続性がないものの、国際司法裁判所や国際労働機関(ILO)等の機関を連盟から引き継いでいる。また、旧連盟本部施設も連盟から移管されていて、部分的には継続した組織といえる。
「英語: the United Nations」(連合国)という言葉が初めて用いられたのは、第二次世界大戦中、日独伊の枢軸国と対戦していた26か国がアメリカ合衆国のワシントンD.C.に集まり、1942年1月1日、枢軸国への対決を明らかにした「連合国共同宣言(ワシントン宣言)」においてである。この名称は、前日の1941年12月31日、ルーズベルト大統領がチャーチル首相に提案して同意を得たとされる。戦後の国際的な平和組織の名称としては、前述の通り1943年8月に作成されたアメリカ国務省の案の中で既に使用されていたが、その後、連合国側の構想の中で使用されるようになった。一方のソ連は「世界連邦(せかいれんぽう)」という名称を提案していた。
国際連合の設立に尽力したルーズベルト大統領は、サンフランシスコ会議開幕直前である1945年4月12日に死去した。会議では、「United Nations」という英語は複数形であり国際機構を意味するものとしては不適当ではないかとの意見もあったが、彼に対する敬意を表してこの名称を採用することが合意された。しばらくは文法上の理由からUnited Nations Organization(UNO)という名称も使われたが、次第に使われなくなった。
一方、フランス語では「機構」を示す「Organisation」を付してOrganisation des Nations uniesから、「ONU」との略称を用いている。スペイン語(Organización de las Naciones Unidas)、イタリア語 (Organizzazione delle Nazioni Unite) も同様である。ドイツ語でも正式名称はOrganisation der Vereinten Nationenであるが、通常は Vereinte Nationen「連合国」を用いることが多い。略称は「UN」が一般的である。
日本においては、戦争中の国家連合の名称としては「連合国」(れんごうこく)、国際機構に対しては「国際連合」(こくさいれんごう)との訳語が一般に用いられてきた。後者を軍事同盟の連合国と区別するために「国際連合」と意訳したのは外務官僚であるとされる。ただし、連合国側も枢軸国の占領時には連合国について "the Allied Powers" と表記しており、"the United Nations" という用語を軍事的な意味で継続して使用する意思はなかった。1944年(昭和19年)10月にダンバートン・オークス会議で発表された「国際連合憲章の原案(「一般的国際機構設立に関する提案」)」を同年12月に外務省が翻訳した際には、既に「国際連合」という訳語が用いられており、その後も国際機構を指す言葉としては戦中から戦後、現在に至るまで使用されている。朝日新聞は、当時条約局事務官で、後に駐英大使を務めた森治樹が名付け親だとする話を報じている。
日本と同様に漢字を使用している中華民国(台湾)や中華人民共和国では「聯合國/联合国」が主に用いられている。
公称では、国連の前身は国際連盟である。国際連盟は、1919年、国際協力を促進し、平和安寧を完成することを目的として設立された。しかし、アメリカが参加せず、ソビエト連邦も1934年まで加盟せず、一方、日本、ドイツ、イタリアが脱退するなど、有力国の参加を欠いたこともあって、十分な力を発揮することができず、第二次世界大戦の勃発を防ぐことができなかった。
1941年8月、カナダ東海岸ニューファンドランド島沖のプリンス・オブ・ウェールズの艦上で、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相が会談し、大西洋憲章を提唱した。そこでは、第二次世界大戦後の世界に国際連盟に代わる国際平和機構を創設するとの構想が、抽象的にではあるが既に示されていた。その後、アメリカ国務省の内部で、戦後国際機構の構想が急速に進み、サムナー・ウェルズ国務次官の下に国際機構小委員会が設置され、1942年10月作業を開始して1943年3月には「国際機構憲章草案(英語: Draft Constitution of International Organization)」がほぼ完成していた。コーデル・ハル国務長官がこれを練り直して、同年8月「国際連合憲章(英語: The Charter of the United Nations)草案」を完成させ、ハルは「国連の父」と呼ばれることになる。
同年7月、イギリスもヨーロッパの安全保障に力点を置いた構想を策定してアメリカに提示したが、アメリカの案は、より世界的な機構とし、安全保障だけでなく経済社会問題も扱うべきだとの考えに基づいたものであった。そして、同年8月にケベックで米英首脳会談が開かれたが、その時点で、米英ソ中の4国が「すべての国の主権平等に基礎を置き、大国小国を問わずすべての国の加盟のために開放される、国際の平和と安全の維持のための一般的国際機構」を創設する必要があるとの、後のモスクワ宣言の草案が既に作成されていた。
1943年10月にモスクワで開かれたアメリカ、イギリス、ソ連による外相会議で「一般的安全保障に関する4か国宣言」が出され、ほぼ草案どおりの文言で、第二次世界大戦後に国際的な平和機構を再建する必要性が訴えられた。こうして、アメリカ案に沿った国際機構の創設が連合国側の構想として公式に示されることになった。同年のカイロ宣言(米英中)、テヘラン宣言(米英ソ)でも、米英ソ中の4大国が「世界の警察官」(「四人の警察官」と呼ぶ事もある。)としての役割を果たすことが合意された。
これを受けて、1944年8月〜10月、ワシントンD.C.のジョージタウンにあるダンバートン・オークス・ガーデンにおいて、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中華民国の代表が会議を開き、国際連合憲章の原案(「一般的国際機構設立に関する提案」)を作成した(ダンバートン・オークス会議)。ここでは、加盟国全部を含む総会と、大国中心に構成される安全保障理事会の二つを主体とする普遍的国際機構を作ることが合意された。
その後、安保理常任理事国の拒否権をどの範囲で認めるかについて、米英とソ連との交渉が続いたが、1945年2月に開催されたヤルタ会談において、大国の拒否権は実質事項のみで、手続事項には適用されないこと、紛争の平和的解決が試みられている間は当事国は表決に加わらないとの妥協が成立した。すなわち、米英ソ中に、イギリスの希望によりフランスを加えた5か国が拒否権を有する安保理常任理事国となるという「5大国一致の原則」が合意された。
1945年4月25日から6月26日にかけて、日本またはドイツ(なお同国は会議中の5月7日に降伏した)に宣戦している連合国50か国の代表がサンフランシスコに集まり、国際連合設立のためのサンフランシスコ会議を開いた。ダンバートン・オークス会議で作成された憲章原案に基づき審議が行われ、6月26日、50か国が国際連合憲章に署名して会議は終結した。ポーランドは会議に代表を送っていなかったが、その後国連憲章に署名し、原加盟国51か国の一つとなった。そして、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中華民国およびその他の署名国の過半数が批准した1945年10月24日に、国際連合が正式に発足した。10月24日は国連デーとして各国で記念されている。
1946年から1953年までの間、初代事務総長を務めたのはトリグブ・リー(ノルウェー出身)であった。その任期中にはパレスチナ問題が顕在化し、1947年11月29日の総会でパレスチナ分割決議がなされたが、翌1948年から第一次中東戦争に至った。国際連合休戦監視機構(UNTSO)が派遣され、事実上初の国連平和維持活動 (PKO) となった。
1950年には朝鮮戦争が勃発し、安全保障理事会でのソ連不在の間に米国を中心に「国連軍」が派遣される事態となった。国連の目指した集団安全保障は、東西冷戦の狭間で、機能不全に陥った。一方、1948年に世界人権宣言が総会で採択され、1951年には難民条約が採択されて国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が発足するなど、安全保障以外の面での活動も始まっていった。
1953年から1961年までの第2代事務総長ダグ・ハマーショルド(スウェーデン出身)の任期中にも、パレスチナ問題は再燃し、1956年の停戦違反を機にスエズ危機(第二次中東戦争)に至った。安保理は英仏の拒否権により機能停止に陥ったが、事務総長のリーダーシップにより、総会決議に基づいて第一次国連緊急軍(UNEFI)が派遣され、これが初の正式なPKOとなった。他方、1953年のアイゼンハワー米大統領による国連総会での平和のための原子力演説を契機として、1957年国際原子力機関(IAEA)が発足した。1956年には、日本も国連加盟を果たした。
ハマーショルド事務総長の手腕はソ連圏を除く加盟国から絶大な信頼を得、非加盟国である中華人民共和国を1955年に訪問して朝鮮戦争で捕虜となっていた国連軍兵士の釈放交渉を成功させ、1958年のレバノン事件、タイとカンボジアの紛争、ラオス問題などで緊張緩和に努め、「国連のプレゼンス」という言葉が国際外交で常用語となった。1960年のコンゴ動乱ではPKOとして国連コンゴ活動が展開され、事務総長も調停に努めたが、1961年9月、事務総長は任務遂行中に北ローデシア(現:ザンビア)の飛行機事故で死亡した。
1961年から1971年まで第3代事務総長を務めたのはウ・タント(ビルマ出身)である。これに先立つ1960年の植民地独立付与宣言(総会決議)に象徴されるように、1960年代には多くの植民地が独立を果たし、次々と国連に加盟した。1961年、第1回非同盟諸国会議が開かれ、米ソいずれの陣営にも属しない非同盟諸国が国連の多数派として出現し、1965年には加盟国の約7割に達した。1962年にはジョン・F・ケネディ大統領とニキータ・フルシチョフ最高指導者の政権下でキューバ危機が発生した。第二次世界大戦後のなかで最も米ソの核戦争(第三次世界大戦)開戦一歩手前までの緊張状態に陥った。
キューバ危機によって、世界各国にかつてないほどの混乱を招いた。国連では緊急安保理特別会合が午後に開かれ、ウ・タント事務局長は、米ソ両国に書簡を送り自制を求め、核戦争(第三次世界大戦)勃発へのエスカレーションは回避された。この一連の危機の経験は後世の核戦争回避への大きな教訓とされ、2つの国の政府首脳間を結ぶ緊急連絡用の直通電話ホットラインがソ連とアメリカ間に初めて設置された。そして翌年8月に部分的核実験禁止条約が締結された。
1964年、第1回国連貿易開発会議(UNCTAD)が開かれ、そこで途上国による77ヶ国グループ(G77)が結成された。77ヶ国グループは、その後も構成国を増やし、国連での投票等で一致した行動をとることによって先進国に対抗する大きな力を有するに至っている。
ウ・タント事務総長も、非同盟主義に共鳴する立場から、冷戦下において東側(共産主義)と西側(資本主義)が持つイデオロギー性を批判し、1965年から1975年間に行われたベトナム戦争をめぐってリンドン・ジョンソン米大統領と距離を置くとともに、途上国の開発の問題を訴えた。また、ベトナム戦争中のアメリカ軍の非人道的な出来事(クラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用)により、世界がアメリカ合衆国への不信感が際立った。同時期、非同盟諸国を中心に英仏などの西側、ソ連などの東側の賛成も得てアルバニア決議が採択されて中華民国が追放され、同国と対立する中華人民共和国に常任理事国が交代した。
彼の任期中には、1963年に初の核軍縮条約である部分的核実験禁止条約(PTBT)が署名され(同年発効)、1968年に核不拡散条約(NPT)が総会で採択される(1970年発効)など、核軍縮への取り組みも始まった。また、彼は宇宙船地球号を掲げて地球環境問題にも取り組み、アースデーの制定と後の国連人間環境会議の開催決定や国連環境計画(UNEP)設立決定に関わるなど国連は新しい任務を負うこととなった。
1972年から1981年までの第4代事務総長クルト・ヴァルトハイム(オーストリア出身)の任期中には、1973年の第四次中東戦争とそれに対する第二次国連緊急軍(UNEF II)の派遣、キプロス問題の再燃などがあった。ゴラン高原方面については、1974年より国際連合兵力引き離し監視軍(UNDOF)が設置された。
1973年には国際連合大学が日本の東京都・渋谷区に、1980年には国連平和大学がコスタリカに大学を設立、両大学は国連システムおよび国連加盟国のシンクタンクとしての機能を持つ。社会経済開発分野では、南北問題も深刻化し、石油輸出国機構(OPEC)による石油禁輸(オイルショック)、1974年の国連資源特別総会の開催に見られるように資源ナショナリズムが高揚した。1981年のカンクンでの南北サミットでは事務総長の努力にもかかわらず南北関係が好転しなかった。
1982年から1991年までの第5代事務総長ハビエル・デクエヤル(ペルー出身)の任期中には、イラン・イラク戦争、アフガニスタン紛争、ナミビア内戦、アンゴラ内戦などがあり、国連のあっせん・仲介で停戦など一定の成果が上がった。1982年には先住民作業部会が設立されるなど先住民の人権及び基本的な自由の促進と保護を重視されるようになった。1988年には将来的な米ソの核戦争回避を行うために中距離核戦力全廃条約を締結した。1989年にはベルリンの壁崩壊による東ドイツの崩壊とドイツ連邦共和国によるドイツ再統一、東欧革命などの一連の出来事によって冷戦の終結した。
1991年7月には共産主義国の国際軍事同盟のワルシャワ条約機構が解散、12月にはソビエト連邦の崩壊によって独立した独立国家共同体(CIS)、バルト三国の国家が国連に加盟した。東側諸国の影響力低下により、事実上のアメリカ合衆国一強時代となった。また、ソビエト連邦(ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国)の後継国としてロシア連邦が常任理事国になった。安保理の平和維持機能が復活し、1991年の湾岸戦争では安保理の武力行使容認決議に基づき多国籍軍が派遣された。
1992年から1996年までの第6代事務総長ブトロス・ガリ(エジプト出身)の任期中には、カンボジア、ソマリア、ルワンダ、ボスニア(旧ユーゴスラビア)、モザンビークなどに次々PKOが派遣され、ガリ事務総長が1992年の『平和への課題』と題する報告書で訴えたとおり、PKOに平和執行部隊としての機能も期待された。しかし、一定の成果を上げたカンボジアやモザンビークと異なり、ソマリア、ルワンダ、ボスニアではPKOは十分な役割を果たすことができなかった。
社会経済開発の分野では1992年、リオデジャネイロで環境と開発に関する国際連合会議(地球サミット)が開かれ、「持続可能な開発」の理念が普及した。1994年、国連開発計画(UNDP)が年次報告書で「人間の安全保障」という理念を提唱した。その他には1996年9月に包括的核実験禁止条約が国際連合総会によって採択されたが、未だに発効してない。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は核拡散防止条約からの脱退を表明したことで国連安保理が北朝鮮への制裁を検討する事態となった。
1997年から2006年まで第7代事務総長を務めたコフィー・アナン(ガーナ出身)は、国連の行政改革に取り組み、縦割りを是正するため執行委員会の設置などを行った。彼の任期中には、1998年に国際刑事裁判所(ICC)設立のためのローマ規程が採択されたり(2003年発足)、2000年のミレニアム記念総会(ミレニアム・サミット)で途上国の開発目標などを定める国連ミレニアム宣言が採択されたりした。国連ミレニアム宣言は、8つの章と32の主要目標からなり、サミットにおいて189ヶ国の世界の首脳によって採択された。
2001年、国連はアナン事務総長とともにノーベル平和賞を受賞した。もっとも、イラク民衆救済のための石油食料交換プログラム(1995年-2003年)に関し、国連事務局幹部の不祥事が後に発覚し、アナンの息子が勤めていた会社と国連との不透明な関係も指摘されるなど、事務総長自身の廉潔性も問われることとなった。2001年9月にはアメリカ同時多発テロ事件、2004年にはマドリード列車爆破テロ事件が発生した。国家間との戦いの減少に伴い、アルカーイダやイスラム国などのテロとの戦いへと変化していった。平和を目指すという名目では国際連合はかつての連盟と違い、機能を果たす機能をしていた。
2002年3月には北大西洋条約機構(NATO)率いる国際治安支援部隊(ISAF)のほか、国際機関(IGO)及び非政府組織(NGO)等と連携して国連アフガニスタン支援ミッションを設立した。同年、永世中立を宣言するスイスなどが国連に加盟した。国連に加盟するのに半世紀もの時間と議論を有したことになる。
21世紀に入り、安全保障理事会の承認がない対外的な軍事力の行使は常に批判されるが、安全保障理事会の常任理事国であるアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国の五大国の軍事力の行使は、国際社会や国際連合にそれを抑止する力がないので、だれにも抑止できない状態である。また、ソビエト連邦に変わって、台頭してきた中華人民共和国とアメリカの対立(新冷戦)が目立つようになった。
2007年から2016年まで潘基文(韓国出身)が第8代事務総長を務めた。2007年に先住民族の権利に関する国際連合宣言を行った。国連広報官は「同宣言は国際的な法律基準のダイナミックな発展を意味し、また国際連合の加盟国の関心や関与が一定の方向に動いたことを示した」 と発言。先住民をジェノサイドを行ってきた歴史を持つアメリカ合衆国やオーストリア、カナダ、ニュージーランドが反対、日本などは賛成を応じた。
2011年には東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)によって被害を受けた日本に対して、国連が世界各国に援助を求めた。同年、国際連合安全保障理事会決議1973に基づいてNATO諸国はリビア内戦に介入、 3月19日に米英仏を中心とする軍事介入が行われるに至った。結果的に反カダフィ勢力(アメリカ合衆国側)の勝利となった。
2017年、第9代事務総長アントニオ・グテーレス(ポルトガル出身)が就任した。2019年には中国の影響力が増大した影響で米ソ間で締結した中距離核戦力全廃条約をドナルド・トランプ大統領が破棄した。国連は再び核への緊張と抑止に晒される事になる。
2020年代に入ると、新型コロナウイルス感染症(SARSコロナウイルス2)が世界的に流行(パンデミック)した事をきっかけに声明と各国にコロナ対策や気候変動等の緊急課題を発表した。国連の専門機関である世界保健機関のテドロス・アダノム事務総長とアメリカのドナルド・トランプ大統領が対立、アメリカ合衆国は世界保健機関からの脱退を表明した。
2022年にはアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国の核保有国が「核戦争に勝者なし」と声明を発表し、核戦争回避と軍縮に向けた異例の共同声明 を発表しグテーレス事務総長は歓迎したが、同時にロシアとウクライナ情勢悪化によって、大規模な大戦が勃発する可能性があるとしアメリカとロシアが国連緊急会合を行った。
同年2月21日、ロシアは国連憲章に反してドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国を国家承認、国際社会から凄まじい批判をうけた。3日後の2月24日、ロシアはウクライナに全面侵攻(ロシア・ウクライナ危機)した。国連では緊急会合が開かれ、グテーレス事務総長は涙ながらロシアに自制を求めたが、10分後にはロシアのプーチン大統領はウクライナへの全面侵攻を宣言をした。クリミア半島併合などを2014年に行ったが核保有をしている常任理事国が非核保有の独立国への全面侵攻する事は異例である。プーチン大統領は「ロシアには大量の核兵器がある。ロシアに対して邪魔をすれば敗北と悲惨かつ壊滅的な被害になる」と核戦争(第三次世界大戦)及び核攻撃への突入にも辞さない事を発表、世界各国を脅し、ウクライナへの軍事支援を牽制した。G7各国やNATO諸国率いる西側諸国はロシアへの大規模な制裁を行っているが、軍事増援は核戦争(第三次世界大戦)勃発する可能性が高いため(武器・防具の供与を除き)現在も行っていない。
また、常任理事国であるロシアは核及び拒否権を所持しているため、第二次世界大戦前の国際連盟と同じく、国際連合及び国連安全保障理事会も機能不全に陥っている。国際ハッカー集団の「アノニマス」がTwitterにてロシアへ宣戦布告をした。
侵攻から数日後、ウクライナ軍の激しい抵抗によりロシア連邦軍は苦戦していることをきっかけにプーチン大統領は再び核の使用を匂わせる言及を行い、ロシアは国際社会(特に先進各国ら)から孤立した。ウォロディミル・ゼレンスキー大統領はグテーレス事務総長にロシアの常任理事国の権利の剥奪を要求している。3月にはグテーレス事務総長は核戦争(第三次世界大戦)が起こる可能性が高いことを発表した。
事態の悪化に伴い現在、各国は緊張状態に走っている。
国際連合は、6つの主要機関と、その下に置かれた付属機関・補助機関から成る。また、国際連合と連携関係を持ち、独立した専門機関、関連機関もある。こうした諸機関を総称して国連システム(国連ファミリー)という。
国際連合の主要機関として、総会、安全保障理事会、経済社会理事会、信託統治理事会、国際司法裁判所、事務局の6つの主要機関を設けている。
総会は、全加盟国で構成され、国連の関与するすべての問題を討議する。各国が1票の表決権を有し、重要問題については3分の2、一般問題については過半数で決する多数決制が取られている。総会の決議は加盟国または安全保障理事会に対する勧告をすることができることにとどまり、法的拘束力を持たない。しかし、重要な国際問題に対する世界の世論を示すものであり、国際社会の道徳的な権威を備えている。
総会の通常会期は、毎年9月第3週目の火曜日に始まり、翌年の9月上旬まで続く。議長は、会期ごとに、5つの地域グループから持ち回りで選ばれる。会期の始めには、全体会議(プレナリー)が開かれ、そこで各国の元首・政府の長による一般討論が行われる。その後、ほとんどの議題は分野別に次の6つの主要委員会で審議される。全体会議は決議・決定を採択した後、12月に休会に入るが、主要委員会や他の下位機関での活動は様々な形で翌年の7月ころまで続くとされている。
安全保障理事会(安保理)は、国連において国際の平和と安全に主要な責任を負う機関である。15か国で構成され、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ロシア連邦(1991年まではソ連)、中華人民共和国(1971年までは中華民国)の5か国が常任理事国、それ以外の10か国は総会で2年の任期で選ばれる非常任理事国である。
各理事国は1票を有し、手続事項に関する決定は15理事国のうち少なくとも9理事国の賛成投票によって行われるが、実質事項に関する決定は、5常任理事国の同意投票を含む9理事国の賛成投票によって行われる(国連憲章27条)。すなわち、常任理事国の1か国でも反対投票を投じれば決議は否決されるため、常任理事国は拒否権を有していることになる。常任理事国の拒否権行使により、安全保障理事会は国際社会の平和の維持や回復のためには機能していない。すべての国連加盟国は、安保理の決定を受諾・履行することに同意しており(憲章25条)、国連の中でこのように履行義務を伴う決定をなし得るのは安保理のみである(総会等の決議は勧告的効力にとどまる)。これらの弊害が指摘され、安保理の構成や拒否権の扱いについては改革の議論がなされている(後出国際連合改革)。
平和への脅威が生じると、安保理は、通常、平和的手段による合意を当事者に勧告する。自ら調査・仲介を行ったり、使節団を派遣したり、国際連合事務総長特別代表を任命したり、事務総長にあっせんを要請したりすることもある。紛争が激化すると、戦闘の拡大を防ぐため停戦命令を発することがある。さらに、平和維持軍を派遣したり、国連憲章第7章に基づき、経済制裁、武器禁輸、渡航禁止、集団的軍事行動などの強制措置を発動することもあり、安保理の重要な権限の一つである(後出平和と安全の維持)。
安全保障理事会の目的は国際社会の平和の維持と回復なのだが、国際連合設立後の現実としては、安全保障理事会の常任理事国である、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ロシア連邦、中華人民共和国の五大国と、アメリカ合衆国が常に擁護しているイスラエルの六国こそが、世界における軍事力行使の大部分を行っていて、安全の保障に反して軍事力が行使されている。
安保理の補助機関として、人道に対する罪を訴追するために設けられた旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(ICTY)、ルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)、またアメリカ同時多発テロ事件を受けて設けられた反テロリズム委員会がある。
経済社会理事会(経社理、ECOSOC)は、経済・社会・文化・教育・保健の分野で、専門機関等を含む国連ファミリーの活動を調整するために設置された機関である。54か国で構成され、理事国は3年の任期で総会で選ばれる。各国が1票を有し、決定は過半数で行われる。
経社理は、年間を通じて多くの準備会議、円卓会議、市民社会メンバーとのパネル・ディスカッションなどを開催するほか、毎年7月、ニューヨークとジュネーヴで交互に4週間の実質的な会期を開く。もっとも、経済社会分野の実質的な活動は、諸計画・基金、専門機関、関連機関によって担われており、これらの機関は経社理に報告を行ったり、勧告を行ったりする。経社理のあり方については、形骸化しており決定に実効性がない、総会討議と重複している、世界銀行グループのような専門機関に対する指導力がないといった批判がある。
また、経社理は、資格を有する非政府組織(NGO)と協議をすることができる(国連憲章71条)。2870以上のNGOが経社理と協議する地位を与えられている。NGOは特別の経験や専門知識を持ち、国連と市民社会とを結びつける貴重な存在であると考えられており、国連と提携NGOとの関係は、時代の進展とともに増大している。
信託統治理事会は、未独立の信託統治地域が自治・独立に向けた準備をすることができるようにすることを目的に設立された。1994年までに、すべての信託統治地域が自治または独立を達成したことから、その任務をほぼ完了したとして活動を停止した。
国際司法裁判所(ICJ)は、国連の主要な司法機関である(国連憲章92条)。所在地はオランダのハーグである。15名の裁判官で構成され、そのうちのいずれの2人も同一の国籍であってはならない(国際司法裁判所規程3条)。実際には、西欧・北米5名、東欧2名、中南米2名、アジア3名、アフリカ3名という地理的配分の原則がとられている。任期は9年で、3年ごとに5名が改選される(規程13条)。
すべての国連加盟国は自動的に国際司法裁判所規程の当事国となり(憲章93条)、ICJは同規程当事国のすべてに開放されている。国際組織や個人は当事者となることができない。もっとも、ICJが事案を審理し、判決を下すのに必要な管轄権を有するためには、当事国の同意がなければならない(規程36条)。判決は、出席した裁判官の過半数により決定される(規程55条)。判決は、当該紛争の当事国間において、かつ当該事件についてのみ拘束力を持つ(規程59条)。当事国は判決に従う義務がある。国際司法裁判所は判決を執行する能力が無いので、当事国の政府が判決に従わなければ、判決は履行されない。
そのほか、総会と安保理、また総会の許可を受けたその他の国連機関(経社理およびほとんどの専門機関など)は、いかなる法律問題についても、ICJに勧告的意見を求めることができる(憲章96条、規程65条)。国家は勧告的意見を求めることはできない。勧告的意見は、国連憲章の解釈や権限の行使の適法性などについて述べられるものが多い。勧告的意見は法的拘束力がないので、紛争を解決できた実績はない。また、裁判の強制権が無いため、裁判を申し込まれた国が拒否すれば裁判を行うことができない。
事務局は、国連の日常業務を遂行する機関であり、他の主要機関に役務を提供するとともに、それらの機関が決定した計画・政策を実施する。事務総長が統括する。1年以上の契約を持つ事務局職員は約2万5530人、短期契約職員は約3万0500人である。事務総長および事務局職員は、いかなる国の政府からも、国連以外のいかなる当局からも指示を受けない(国連憲章100条)。
事務総長は、国連の行政職員の長であるとともに(国連憲章97条)、総会、安保理、経社理、信託統治理事会から委託される任務を遂行する(同98条)。また、国際の平和・安全の維持への脅威について、安保理の注意を促すことができる権限が与えられている(同99条)。事務総長が公的または私的に行う国際紛争の「あっせん」は最も重要な役割の1つであり、キプロス、東ティモール、イラク、リビア、中東、ナイジェリア、西サハラなどの紛争に際して行われてきた。現在の事務総長はポルトガル出身のアントニオ・グテーレスである。
国連事務局には次のような部局が置かれている。
国連の本部ビルはニューヨークにあるが、世界各地に事務所があり、その中で中心的な役割を担うのはジュネーヴ事務局(UNOG)、ウィーン事務局(UNOV)、ナイロビ事務局(UNON)である。
国連システムには、次のような計画・基金が含まれる。これらは国連憲章7条2に基づいて設置された総会の補助機関であるが、それぞれ個別の予算を持っている。1960年代から1970年代にかけて第三世界から多数加盟した国々が総会で多数派となった結果、総会決議によりUNDPをはじめとする開発関係の補助機関が設置された(そのうちUNIDOなど、いくつかは専門機関に移行した)。他の国連機関と活動内容が重複するものもあるが、統廃合は進んでいない。
このほか、総会の補助機関として、いくつかの調査訓練機関などがある。
専門機関は、政府間の協定によって設けられ、経済・社会等の各分野において国際的責任を有する国際組織で、かつ国連との間で連携協定を締結しているものをいう(国連憲章57条、63条)。国連ファミリーに含まれるが、国連とは別個の国際法主体性を有する、独立した国際組織である。中でも、国際金融機関である世界銀行グループとIMFは最も独立色が強く、規模も国連本体に並び、次いでWHO、FAO、ILO、UNESCOの4機関の規模が大きい。これらの専門機関が力を持つ余り、経社理が形骸化して経済社会分野の国連改革が進まないとの批判もある。
現在存在する専門機関は、次の通りである。
関連機関は、国連と関係を有するが、専門機関としての連携協定を結んでいない国際組織である。国連には次の関連機関がある。
国連の公用語は、アラビア語、中国語(普通話・簡体字)、英語(イギリス式)、フランス語、ロシア語、スペイン語の6言語である。公式文書と公式会合での発言は、最小限これらの公用語に翻訳される。国連発足時からの公用語は、現在の言語よりアラビア語を除いた5言語であった。アラビア語が公用語に追加されたのは、1973年の第30回総会においてである。
国連事務局の作業言語は、英語とフランス語である。実質的には英語が使用されることが多い。
国際連合本部は米国ニューヨーク市に置かれているが、国際連合で用いられている英語はイギリス英語である。日付が「24 October 1945」と表記されたり(アメリカ英語: October 24, 1945)、単語のつづりが「organisation」など英国式になったりする(アメリカ英語: organization)。
国連予算は、主に通常予算とPKO予算に分かれている。
通常予算は、2年が単位である。事務総長が提出し、専門家からなる行政予算問題諮問委員会が審査する。そして、総会で承認される(国連憲章17条)。2006年-07年の予算は38億ドルであった。通常予算の主な財源は加盟国からの分担金であり、分担率は専門家から成る分担金委員会の勧告に基づいて、総会が承認する。分担率は基本的に加盟国の支払能力(全世界のGNPに占める加盟国の割合等)を考慮して決められるが、2000年、いかなる国も分担率の上限を22%とすることが総会で決定された(なお、上限にかかるのはアメリカのみである)。2019年から2021年における上位10か国の分担率は右表の通りである。しかし、多くの加盟国が分担金を滞納しており、国連の財政状況は不安定である。2006年末現在、財政的義務を負う191加盟国のうち分担金を全額支払った国は134か国にとどまり、滞納額は3億6200万ドルに達した。例えば、アメリカは、国連の組織と業務に無駄が多いとして、分担金の支払を制限している。
PKO予算は、毎年7月1日から1年間を単位とし、総会が承認する。これも加盟国の分担金によって賄われるが、通常予算よりも安保理常任理事国の分担率が高く設定されている。額は1990年代以降増加傾向にあり、2009年7月から2010年6月までの1年間の平和維持活動予算は約79億ドルであった。PKO予算の滞納額も、2006年末で19億ドルに達している。
なお、国連児童基金(UNICEF)、国連開発計画(UNDP)、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)といった諸計画・基金や、専門機関は、それぞれ独立した予算を持っており、各国や個人からの拠出金によって財政を賄っている。
国際の平和と安全の維持は、国連の主要な目的の一つである。国連憲章は、国際の平和及び安全の維持に関する責任を安保理に負わせている(24条)。
国連は、ある国家が侵略等の重大な国際法違反を犯した場合に、国連加盟国が団結して終了させるという集団安全保障の理念の下に設立され、その手段として後述の国連軍を想定していた。しかし、米ソ冷戦の下、安保理常任理事国の拒否権に阻まれて国連軍の規定は発動されなかった。それに代わるものとして、北大西洋条約機構(NATO)やワルシャワ条約機構という地域的防衛機構が、国連憲章51条により認められた集団的自衛権を行使するという集団防衛体制が生まれた。他方で、国連総会は、1950年11月3日、安保理が「その主要な責任」を果たせない場合に、総会が軍隊の使用を含む集団的措置を勧告でき、24時間以内に緊急特別総会を招集できるとする平和のための結集決議を採択した。総会決議には安保理決議と異なり法的拘束力はないものの、今まで度々同決議に基づいて紛争地域における平和維持活動(PKO)が展開されてきた。
冷戦が終結した1990年代以降は、後述の通り、PKOの役割が拡大するとともに、安保理の武力行使容認決議により多国籍軍が結成されることも多く、近年では両者の役割分担・協力関係も見られる。
安保理は、「平和に対する脅威、平和の破壊、侵略行為」に対し、経済制裁等の勧告をすることができるほか(39条)、国連憲章第7章の下における非軍事的強制措置として、包括的な経済制裁や禁輸措置(武器禁輸、渡航禁止、金融規制)、外交関係の断絶などの制裁をとることができる(41条)。今まで、独立紛争に関する対南ローデシア輸出入禁止(1966年、1968年)、アパルトヘイトに関する対南アフリカ共和国武器禁輸(1977年)、クウェート侵攻に関する対イラク経済輸出入禁止(1990年)、内戦における非人道的行為に関する対ユーゴスラビア輸出入禁止(1992年)、テロ防止への非協力を理由とする対リビア航空機乗入れ禁止・武器禁輸(1992年)、民主政権移行の不履行を理由とする対ハイチ輸出入禁止(1993年)などが行われてきた。もっとも、経済制裁は被制裁国の弱者に大きな経済的打撃を与えるという問題があることから、個人資産の凍結や政府関係者の入国禁止など、エリート層への打撃に的を絞った「スマートな制裁」が提唱されている。
国連憲章第7章は、非軍事的強制措置では不十分である場合に、安保理は「必要な空軍、海軍または陸軍の行動」をとることができるとしている(42条)。すなわち、国連軍の名の下での軍事的行動をとることができる。国連軍は軍事参謀委員会の指揮下に置かれ(47条)、国連軍創設には、加盟国と国連との間に兵力提供に関する「特別協定」が締結されなければならない(43条)。しかし、現在まで特別協定が締結されたことはないため、本来の意味の国連軍が創設されたことはないといえる。朝鮮戦争の際、米国軍を中心とした「国連軍」が創設されたが、これは本来の意味の国連軍ではない。
現在まで、国連軍が創設されなかった代わりに、安保理による武力行使容認決議が行われてきた。1990年11月、イラクのクウェート侵攻に対し、安保理は、国連憲章第7章の下、イラクが関連諸決議を完全に履行しない場合に「クウェート政府に協力している加盟国に対して......あらゆる必要な手段を行使することを容認する」とする決議(安保理決議678)を採択した。同決議に基づいて米軍を中心に多国籍軍が編成され、1991年1月から戦闘に入った(湾岸戦争)。その後も、1994年にハイチ軍政問題に関して、1997年にアルバニア暴動問題に関して、1999年にコソボ紛争に、同年と2006年に東ティモール紛争に、それぞれ多国籍軍の派遣が認められた。一方、2003年3月のアメリカおよびイギリスを始めとする有志連合による対イラク武力行使(イラク戦争)については、一連の安保理決議によって正当化されるかどうかについて各国の意見が分かれた。なお、こうした軍事行動は、参加国の管理の下に置かれるものであり、安保理が設立し事務総長の指揮の下に置かれるPKOとは異なる。
国連が行う平和維持活動(PKO)は、地域的な紛争の悪化を防ぐため、国連の権威の下になされる軍事的活動である。主に安保理決議に基づいて行われるが、総会決議(平和のための結集決議)の勧告に基づいて行われることもある。国連憲章上、PKOについて明文の規定はないが、憲章に違反するものではなく、国際司法裁判所は、1962年の「ある種の経費に関する事件」勧告的意見において、第一次国連緊急軍(UNEF I)および国連コンゴ活動(ONUC)の活動経費を国連憲章17条2項にいう「この機構の経費」に該当すると判断した上で、両活動は憲章第7章の強制行動とは性格を異にするとした。PKOは「6章半」であるという言い方をされることもある。
1948年、第一次中東戦争の際、パレスチナへ国連休戦監視機構(UNTSO)が派遣されて国境や停戦ラインの監視を行い、これがPKOの先駆けとなった。続いて1956年、スエズ危機(第二次中東戦争)に際して、国連総会決議に基づいて第一次国連緊急軍(UNEF I)が派遣されたのが、初の正式なPKOであった。その後もいくつものPKOが紛争地域に派遣されたが、1980年代までの冷戦下における伝統的なPKOは、軍人による軍事情勢の安定と停戦の監視を目的とするものであり、(1)当事者の合意により設立されること、(2)当事者に対して不偏性と中立を守ること、(3)武力の行使は自衛のために必要な最小限に留めること、というPKO3原則が守られてきた。
1990年前後に米ソ冷戦が終わったころから、PKOは、和平合意が結ばれた後の暫定的期間に、治安の維持、選挙の組織・監視、難民の帰還、戦後の復旧・復興などを行うという新しい任務を負わされるようになった。軍人以外に、専門の異なる文民(軍事監視員、文民警察官、行政官、選挙専門家、難民担当官、人権専門家、復旧支援担当官、国連ボランティアなど)が多数参加するようになった。1992年-93年に派遣された国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC、アンタック)や1992年-94年の国連モザンビーク活動(ONUMOZ)は、このような第二世代PKOの代表例であり、十分な成果を上げた。
ブトロス・ガリ事務総長は、1992年の『平和への課題』でPKOを「平和執行部隊」として事実上の軍事的強制措置を担わせようとする構想を提案した。これを受けて、1993年-95年の第二次国連ソマリア活動(UNOSOM II)、1992年-95年旧ユーゴスラビアに展開した国連保護軍(UNPROFOR)、1993年-96年の国連ルワンダ支援団(UNAMIR)は、いずれも違法行為停止のため自衛を超えて武力行使を行う「戦うPKO」としての任務を負わされた(第三世代PKO)。しかし、任務に見合う予算や兵力が与えられず、また有力国の協力が得られなかった結果、ジェノサイドなどの人道的惨劇を前にしながら、実効的に対処することができなかった。これに対して国連内部や加盟国からの反省があり、ガリ事務総長も、1995年の『平和への課題――追補』において、現状ではこうした平和執行型PKOを意図すべきではないと軌道修正した。1990年代後半からは、PKOは紛争後の後始末という本来の任務を担当し、違法行為の停止は国連憲章第7章の下の多国籍軍が担当するという役割分担が行われるようになり、PKOと多国籍軍との間で協力や任務の引き継ぎなども行われている。
その後もPKOのあり方については様々な改革が提案されている。事務総長特別代表のラフダール・ブラヒミは、2000年8月の報告において、PKOが十分な抑止能力を備えるために必要な予算・兵力・装備を承認すべきこと、紛争や戦争の後の平和構築活動のために、必要な予算が含まれるべきことなど、PKOの見直しを提言した(ブラヒミ報告)。また、潘基文事務総長の改革提案により、2007年6月事務局にフィールド支援局(DFS)が設置され、PKOミッションの策定、展開、持続に責任を持つこととなった。同じ事務局にある平和維持活動局 (DPKO)(現:平和活動局(DPO))は、戦略的監視や作戦上の政治的指針のような問題に集中することとなった。
国連は、設立当初は、集団安全保障体制の強化に重点を置いており、軍備管理と軍縮には消極的であった。しかし、核兵器の時代が国連創設とほぼ同時に到来したこと、集団安全保障体制が機能しなかったこともあって、否応なく対応を迫られてきた。実際、1946年に総会が最初に採択した決議は、核軍縮に関するものであった。国連憲章は、「軍備縮小及び軍備規制を律する原則」等を審議する主な責任を総会に与えている(11条)。毎年、総会の第一委員会においてすべての議題が審議され、数多くの決議が採択されているほか、その下部機関である国連軍縮委員会 (UNDC) が特定の問題を取り上げて審議している。多国間軍縮交渉の常設機関であり、後述のCWCやCTBTの交渉を成功に導いてきたジュネーブ軍縮会議(CD)は、国連の枠組みの外にあるが、国連総会の勧告を考慮し、また毎年総会に報告を行う。このほか、国連事務局の軍縮部は、軍縮問題に関する総会の決定を実施する。
国連が特に優先的な課題としてきたのは、大量破壊兵器の問題、すなわち(1)核兵器の削減と究極的な廃絶、(2)化学兵器の廃棄、(3)生物兵器禁止の強化であった。(1)核兵器の封じ込めの努力は米ソの二国間条約でもある程度進展したが、1968年に核拡散防止条約 (NPT) が国連総会で採択され、最も普遍的な軍縮条約となった。締約国は、国連の関連機関である国際原子力機関(IAEA)の保障措置を受け入れるよう求められる。しかし、非締約国であるイスラエル、インド、パキスタンによる核開発問題や、締約国でも核開発疑惑のあるイラン、脱退を表明した北朝鮮の問題など、条約の実効性が問題となっている。1996年には包括的核実験禁止条約 (CTBT) が加盟国の圧倒的多数により採択され、署名のために開放されたが、まだ発効の目処が立っていない。(2)化学兵器に関しては、1997年に化学兵器禁止条約(CWC)が発効し、国連の関連機関である化学兵器禁止機関(OCPW)が査察を行っている。(3)生物兵器については、生物兵器禁止条約(BWC)が1972年に署名され、1975年に発効した。同条約には検証機構についての規定がなく、検証や履行確保の方法が課題となっている。2006年の再検討会議で、実施支援班を設置することが決められた。近年、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を受けて、大量破壊兵器が、テロリストなど非国家主体の手に落ちた場合の危険が認識されるようになり、総会は2002年、テロリストが大量破壊兵器とその運搬方法を取得することを防止する措置に関する決議を採択した。また、安保理は、2004年、大量破壊兵器を開発、所有、利用等しようとする非国家主体に対していかなる支援も控えることを全加盟国に義務付けた(安保理決議1540)。
一方、通常兵器に関しては、特定通常兵器使用禁止制限条約(残忍兵器禁止条約)が国連で採択され1983年に発効したが、さらに交渉が続けられた結果、対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約が1997年に採択され、1999年に発効した。これにより、対人地雷の破壊・除去が進んでいる。このほか、国連では、小型武器非合法取引の規制に向けた取組みや、国連通常兵器移転登録制度の設立を行っている。
世界の人々の経済的・社会的福祉の実現は、国連の主要な目的の一つである。そのための開発の必要性、特に先進工業国と開発途上国との格差を埋めることの重要性は、1961年に始まった数次の国連開発の十年を機に強く表明されるようになった。1995年にコペンハーゲンで行われた世界社会開発サミットで、国際社会が貧困、失業、社会の崩壊といった問題と戦う必要性が訴えられたのをはじめとして、1990年代には多くの開発関係の世界会議が開催された。2000年9月の特別総会(ミレニアム・サミット)で採択された国連ミレニアム宣言は、開発の問題に重点を置き、具体的な開発目標を設定した。同宣言と、1990年代の国際会議やサミットで採択された国際開発目標とを統合し、2015年までに達成すべき目標としてまとめたのがミレニアム開発目標(MDGs)である。すなわち、(1)極度の貧困と飢餓を撲滅すること、(2)普遍的な初等教育を達成すること、(3)ジェンダーの平等を推進し、女性の地位向上を図ること、(4)乳幼児死亡率を下げること、(5)妊産婦の健康を改善すること、(6)HIV/エイズ、マラリア、その他の病気と戦うこと、(7)環境の持続可能性を確保すること、(8)開発のためのグローバル・パートナーシップを推進することが目標とされた。その後、これらの目標は2015年9月の総会で採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」の中核であり、2030年までに達成すべき目標として新たに設定された持続可能な開発目標(SDGs)に継承されている。
国連機関の経済社会活動を調整する主要な機関は経済社会理事会であり、その諮問機関として、専門家からなる開発政策委員会が置かれている。事務局では、経済社会局が経済社会政策の分析・調整等を行っている。国連開発計画(UNDP)は、開発途上国の開発を担当する機関であり、2005年に国連システムが開発援助活動に費やした金額は137億ドルであった。
人権の国際的な保障は、国連の主要な使命の一つである。国連憲章においては、前文で「基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女......の同権とに関する信念」をうたっており、第1条でも「人種、性、言語または宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励すること」を国連の設立目的の一つとしている。この目的を達成するため、加盟国は国連と協力して「共同及び個別の行動をとることを誓約」するものとされた(55条c、56条)。また、経済社会理事会の補助機関として「人権の伸長に関する委員会」を設けることとされた(68条)。これは、ナチス・ドイツをはじめとする全体主義国家による人権弾圧を踏まえて、人権の国際的な保障が必要と考えられたことなどによる。
1946年、国連憲章68条に基づいて、経社理の補助機関として国連人権委員会が設立され、憲章の人権規定を具体化する作業に着手した。その結果、1948年12月10日、国連総会は、「すべての人民にとって達成すべき共通の基準」として、世界人権宣言を採択した。同宣言は30条からなり、「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利において平等である」と述べた上(1条)、各種の自由権、社会権について規定している。ただし、総会決議であるため、国家に対する法的拘束力を持たないことを前提としていたことから、国連人権委員会は続いて条約化の作業を進めた。
1966年、総会は、社会権規約、自由権規約、自由権規約の選択議定書という三つの条約からなる国際人権規約を採択した。社会権規約は1976年に発効し、現在160か国が締約国となっている。自由権規約も同じ年に発効し、現在167か国が締約国となっている。両規約は、民族自決権、天然の富及び資源に対する権利について規定しており(両規約1条1項、2項)、個人の人権だけを規定した世界人権宣言と異なる。また、個人の人権についても、世界人権宣言より詳細な規定を設けており、人権の国際的保障の仕組みにおいて、最も重要な役割を果たしている。1989年には、自由権規約の第2選択議定書(死刑廃止条約)が採択され、73か国が締約国となっている。
そのほか、国連の枠組みの中で、個別的な人権の保障を目的として、以下のものを含め約80件の条約・宣言が採択されている。
1993年、ウィーンで開かれた世界人権会議が契機となって、長年提唱されていた国連人権高等弁務官の設置が実現した。その任務は、人権の促進・保護、助言的サービスの提供、人権侵害に対する緊急の対応、侵害予防など、広範にわたる。人権高等弁務官事務所(OHCHR)は、後述の人権理事会などの人権機関の事務局を務める。
また、2006年、国連人権委員会を発展させる形で国連人権理事会が設置された。理事会は、総合的な政策ガイダンスを提供するとともに、人権問題に関する研究、新しい国際規範の発展、人権順守の監視などを行う。
自然災害や、紛争を含む人為的災害により大規模な被害が生じた場合、国連機関は緊急援助や長期援助を提供してきた。
人道援助の主体となるのは、主に国連児童基金(ユニセフ)、世界食糧計画(WFP)、国連難民高等弁務官(UNHCR)の3機関である。ユニセフは、水と衛生施設のような基礎サービスの再建や、学校の再開を支援し、また予防接種・医薬品の提供などを行う。2006年にユニセフは53件の緊急事態に関して人道援助を行い、その額は5億300万ドルを超えた。WFPは、国内避難民、難民、エイズ孤児、紛争や自然災害(洪水、旱魃など)の犠牲者らに対して食糧等の援助を行っている。2006年には78か国で約8800万人に食糧援助を行った。UNHCRは、難民の地位に関する条約(1951年)、同議定書(1967年)に基づき、難民の基本的人権が尊重されるようにし、いかなる者も強制的に送還されないようにする。また、大量の難民の移動に伴う緊急事態の際の援助や、教育・保健・住居の援助、帰還・統合・第三国での再定住などの支援を行う。さらに、近年は条約に定められた難民だけでなく、国内避難民、元難民、無国籍者、庇護請求者(難民の認定を申請したがまだ結論が出ていない人々)など、広義の難民に対する緊急人道支援も行っている。なお、パレスチナ難民については国連パレスチナ救済事業機関(UNRWA)が支援を行っている。
このほか、国連食糧農業機関(FAO)は、防災情報や世界の食料情勢に関する最新の情報を提供し、また、農業生産の回復と復興の支援を行う。世界保健機関(WHO)は、栄養・伝染病の監視、エイズを含む感染症の予防、予防接種、薬品や医療器具の管理、性と生殖の健康、精神の健康など、被災者の保健に関する情報を収集・提供し、緊急援助計画を実施する。国連人口基金(UNFPA)は、混乱時にしばしば発生する妊娠に関する死亡、性的暴力などに対応し、リプロダクティブ・ヘルスを保護する。国連開発計画(UNDP)は、自然災害の緩和、予防、事前対策などの活動を調整するほか、元戦闘員の動員解除、地雷除去、難民・国内避難民の帰還と再統合、政府機関の復旧などの計画も支援する。
複雑な緊急事態に対しては、政府や非政府組織(NGO)、国連の諸機関が同時に対応を図ることから、これらの主体が行う援助活動を調整し、一貫した救援の仕組みを作るため、国連事務局に国連緊急援助調整官が率いる国連人道問題調整事務所(OCHA)が置かれている。24時間の監視警戒態勢を有し、自然災害等の緊急事態が発生すると12時間から24時間以内に国連災害評価調整チームを派遣することができる。また、OCHAは2006年、緊急事態に対する融資機構として国連中央緊急対応基金(英語版)(CERF)を発足させた。
国際連合は、国際法の発達への貢献という役割を果たしてきた。国際人権法、国際人道法、国際環境法、軍縮など様々な領域で多数国間条約の締結を手助けしており、国連の関与の下に成立した多数国間協定(批准する国家を法的に拘束するもの)は500件以上に上る。また、紛争の司法的解決を担う機関もある。
国連憲章は、総会が「国際法の漸進的発達と法典化を奨励すること」などの目的のために研究を発議し、勧告をすることとしている(13条)。そのために1947年に総会の付属機関として設けられたのが国際法委員会である。同委員会は、各種条約の草案作成作業を行っており、今まで、国際水路の非航行利用に関する条約(1997年総会採択)、条約法に関するウィーン条約(1969年)、外交関係に関するウィーン条約(1961年)、領事関係に関するウィーン条約(1963年)などの草案作成を行ってきた。1966年に総会によって設置された国際連合国際商取引法委員会(UNCITRAL)は、仲裁規則(1976年)、商事調停規則(1980年)、国際物品売買契約に関する国際連合条約(1980年)、各種のモデル法を作成してきた。また、「海の憲法」と呼ばれる海洋法に関する国際連合条約は、最も包括的な国際法の文書の一つである。そのほか、環境法、国際人道法、国際テロリズム対策の分野でも国連の条約が大きな役割を果たしている。
また、紛争の司法的解決に関しては、主要機関である国際司法裁判所(ICJ)が責任を負っている。1946年の設立から2007年10月までの間に、93件の判決と25件の勧告的意見を出した。国際人道法の分野では、国際刑事裁判所は国連の組織ではないが、国際刑事裁判所ローマ規程(1998年)を採択したのは国連総会が開催した外交官会議であった。このほか、安保理の補助機関として旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(1993年 - )、ルワンダ国際刑事裁判所(1994年 - )が置かれている。シエラレオネ特別法廷(2002年 - )はシエラレオネ政府と国連との協定に基づいて設置された独立の司法機関、カンボジア特別法廷(2006年 - )はカンボジア国内裁判所に国連の関与の下置かれた特別法廷である。
国連は、1945年の設立から半世紀を経過したころから、新たな時代状況に対応した国連組織の抜本的改革を求める動きが強まってきた。その中でも(1)安全保障理事会改革が最大の争点であり、そのほか(2)敵国条項の削除問題、(3)信託統治理事会の改編問題などがある。さらに国連総会を含めた国家を単位としその利害に影響される現在の意思決定方法から脱却し、世界の市民、立法者の意思が直接反映される国際連合議会会議の創設が構想されている。これらの改革には国連憲章の改正が必要である。
安保理は、現在、常任理事国5か国、非常任理事国10か国(発足時は6か国、1965年に増加)の合計15か国から成り、常任理事国のみ拒否権を有する。しかし、国連加盟国数が設立時の51か国から190か国以上まで増大したこと、日本の国連分担率が常任理事国である英仏ロ中の4か国合計の分担率を上回るなど財政負担の偏りが生じていることから、安保理の拡大を求める声が高まった。1995年、有識者から成る「グローバル・ガバナンス委員会」がダボス会議で国連改革の提言をまとめた報告書を発表した。そこでは、5か国(先進国から2か国、発展途上国から3か国)を拒否権なしの「常勤理事国」とし、非常任理事国を3か国程度増やし、合計23か国で安保理を構成するとの案が示された。
1997年3月、総会議長ラザリ・イスマイル(英語版)は、同委員会案を下敷きにしながら、常任理事国を5か国(先進国2か国、途上国3か国)、非常任理事国4か国増やし、新規の常任理事国には拒否権を与えない、敵国条項は廃棄するといった内容の改革案を各国に提示した(ラザリ案)。その新規常任理事国は、先進国からは日本とドイツ、途上国からはインド、ブラジルおよびアフリカの一国となることが暗黙の了解であった。
しかし、イタリアのフルチ国連大使が、ドイツの常任理事国入りを阻止するため、韓国、パキスタン、インドネシア、メキシコ、アルゼンチンなどを集めて「フルチ・コーヒークラブ」と呼ばれるグループを結成し、これに非同盟諸国も加えて、1997年12月ラザリ案を棚上げに持ち込んだ。2000年9月のミレニアム宣言では、安保理改革実現のための努力の強化が記されるにとどまった。
その後、アナン事務総長が2003年9月に安保理改革の再開を提唱したことによりハイレベル委員会が設置された。同委員会が2004年12月に提出した報告書では、次の2案が提示された。
しかし、中国・韓国がモデルAに反対し、日本とアフリカ諸国との連携・調整も順調に進まなかった結果、2005年9月の総会では、安保理改革の具体案の決定は先送りされた。敵国条項については、「国連憲章第53条、第77条および第107条における『敵国』への言及を削除することを決意する」との総会決議が採択された。また、アナン事務総長は、そのほかに総会改革、人権委員会の人権理事会への格上げ、平和構築委員会(英語版)(PBC)の設置などの機構改革を提言していた。そのうち、平和構築委員会の設置は2005年に、人権理事会への格上げは2006年に総会で決定されて形となった。
国連への加盟は、国連憲章に掲げる義務を受諾し、かつ国連によってこの義務を履行する意思と能力があると認められるすべての平和愛好国に開放されている。加盟は、安保理の勧告に基づいて総会が承認する(憲章4条)。憲章には加盟国の資格停止・除名の規定があるが、これまでこれらが発動されたことはない。
ほとんどの加盟国が、国連における意思決定に参加するため、ニューヨークに国連代表部を置いている。その長である外交官を常駐代表(英語版)といい、それに次ぐ者を次席代表という。なお、国連大使は常駐代表と同義ではなく、次席代表を含め複数の外交官が大使として任命されている場合がある。アメリカは5名、日本は3名、イギリスは2名の国連大使を派遣している。
2022年9月現在、国連加盟国は193か国である。設立から現在までの加盟国は以下の通りである(常任理事国は太字)。
国連の招待を受けた国際連合総会オブザーバーは総会に参加することができる。
国際連合は元々、第二次世界大戦の連合国が母体となってスタートしたものである。そのため国連憲章の53条には、第二次世界大戦で枢軸国側に立った国(特にドイツと日本)が侵略行動を行った場合には、安全保障理事会の議決に基づかずに強制行動がとれるという規定があり、また107条では旧敵国に対する行動については国連憲章に拘束されないという規定がある。この2条と敵国という語を含む77条については、1995年には国際連合総会決議50/52において敵国条項はすでに「死文化(英語: become obsolete)」しているとされ、憲章改正の際には削除するという内容を含む決議案が三か国のみ棄権という圧倒的な賛成多数で採択されている。また2005年9月15日には国連総会特別首脳会合で採択された「成果文書」には「敵国条項の削除を決意する」という決議が採択されている。ただし、国連憲章改正には総会での3分の2以上の賛成および、常任理事国すべてをふくむ安全保障理事会3分の2以上の賛成、そして3分の2以上の加盟国による批准措置が必要であり、また常任理事国の追加問題なども絡んでいるために削除には至っていない。
国際連合の中でも特に権限の大きい安全保障理事会での採決には常任理事国5カ国と非常任理事国10カ国との合同での採択で決定するが、常任理事国が拒否権を発動した場合、採択は全て否決される。今まで、東西冷戦時代等を中心に採択で常任理事国が拒否権を発動し否決された場合が数多くあり国連で拒否権の在り方が問題になっている。
2004年にはイラクに対する石油食料交換プログラムを利用したベノン・セバン事務次長やアナン事務総長・ガリ前事務総長の縁者が関与した大規模な不正事件が発覚した。
また2006年1月には国連調達をめぐる3億ドルにのぼる汚職事件が発生。国連は、関与したとされる8人の職員の勤務を一時停止にした。監査した国連内部監理室調達タスクフォースでは報告書において、「犯罪となるような誤った行動」はなかったが、「2000年にまでさかのぼり3件の調達の事例において、職権濫用と管理不行き届きがあった」としている。また、2008年には東京にある国連広報センター (UNIC) が不正経理をしていたとして国連から内部監査を受けていたことが明らかになった。しかし、日本は国連大学の建物を無償で提供しているが、その建物に入っているUNIC東京の家賃を、日本政府が国民の税金を使い国連大学に払っていることが判明した。
2017年、国際連合コンゴ民主共和国ミッションのスウェーデン人とアメリカ人の専門家2人が死亡する事件が発生。当初はコンゴ政府軍による警告に反して反政府組織カムイナ・ンサプのリーダーと面会しようとしたために同組織によって殺害されたとみられていたが、スウェーデンのドキュメンタリー番組Deceptive Diplomacyによって2人の殺害にコンゴ政府軍が深く関わっており、さらに国連もそれを知りながら停戦監視ミッションへのコンゴ政府との協力関係を維持したいがために黙殺し事件をもみ消そうとしていたことが判明している。同番組は国際エミー賞を受賞した。
国際連合は1968年に国連人権賞を制定している。またそれ以外にも国連が制定した賞、顕彰は多く存在する。一例として国連平和賞(United Nations Peace Medal)は国連によって制定された賞であるが、類似した名称や訳でも国連が無関与の賞も存在する。 | [
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"text": "国際連合(こくさいれんごう、UN、ONU; アラビア語: الأمم المتحدة、中国語: 联合国/聯合國、英語: United Nations、フランス語: Organisation des Nations unies、ロシア語: Организация Объединённых Наций、スペイン語: Organización de las Naciones Unidas)は、国際連合憲章の下で1945年10月に設立された国際機関。",
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"text": "第二次世界大戦の勃発を防げなかった国際連盟の様々な反省を踏まえ、1945年10月24日に51ヵ国の加盟国で設立された。主たる活動目的は、国際平和と安全の維持(安全保障)、経済・社会・文化などに関する国際協力の実現である。2021年6月の加盟国は193か国であり、現在国際社会に存在する国際組織の中では最も広範・一般的な権限と、普遍性を有する組織である。",
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"text": "なお英語表記の「United Nations(ユナイテッド・ネイションズ)」は第二次世界大戦中の連合国(英: the Allies、Allied powers)の別名と同じだが、日本では「国際連合」の訳が一般に使用されている(詳細は名称を参照)。中国語では第一次世界大戦の中央同盟国と第二次世界大戦の連合国を「同盟國」、国際連合を「联合国/聯合國」と分けて呼んでいる。フランス語でも第二次世界大戦の連合国は「Alliés de la Seconde Guerre mondiale」、国際連合は「Nations unies/Organisation des Nations unies」と分けられている。",
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"text": "国際連合は、第二次世界大戦を防ぐことができなかった国際連盟(1919年 - 1946年)の反省を踏まえ、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中華民国などの連合国(the united nations)が中心となって設立した。1945年4月から6月にかけてアメリカ・サンフランシスコで開かれたサンフランシスコ会議で国連憲章が署名され、同年10月24日に正式に発足した。",
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"text": "発足時の原加盟国はイギリスやソビエト連邦の構成国であった一部の国を含めた51か国であった。2023年2月現在、国際連合の加盟国数は193か国で、世界のほとんどの全地域を網羅している。最も新しい加盟国は、南スーダン(2011年7月14日加盟)である。",
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"text": "国連の目的は国連憲章第1条に記されており、目的は次の三つである。",
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"text": "これらの目的を達成するため、総会、安全保障理事会、経済社会理事会、信託統治理事会、国際司法裁判所、事務局という6つの主要機関と、多くの付属機関・補助機関が置かれている。加えて、15の専門機関と多くの関連機関が国連と連携して活動しており、全体として巨大かつ複雑な国連システム(国連ファミリー)を形成している。",
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"text": "国際連合の本部は、アメリカ合衆国のニューヨーク・マンハッタン島にある。本部ビルは、オスカー・ニーマイヤーを中心とした建築家国際委員会が設計したが、現在老朽化しており、新館を建築家・槇文彦が設計予定である(ただし、国際連合の資金難により計画は滞っている)。そのほか、ジュネーヴなど世界各地に事務所が置かれている。",
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"text": "国際連盟との間には法的な継続性がないものの、国際司法裁判所や国際労働機関(ILO)等の機関を連盟から引き継いでいる。また、旧連盟本部施設も連盟から移管されていて、部分的には継続した組織といえる。",
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"text": "「英語: the United Nations」(連合国)という言葉が初めて用いられたのは、第二次世界大戦中、日独伊の枢軸国と対戦していた26か国がアメリカ合衆国のワシントンD.C.に集まり、1942年1月1日、枢軸国への対決を明らかにした「連合国共同宣言(ワシントン宣言)」においてである。この名称は、前日の1941年12月31日、ルーズベルト大統領がチャーチル首相に提案して同意を得たとされる。戦後の国際的な平和組織の名称としては、前述の通り1943年8月に作成されたアメリカ国務省の案の中で既に使用されていたが、その後、連合国側の構想の中で使用されるようになった。一方のソ連は「世界連邦(せかいれんぽう)」という名称を提案していた。",
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"text": "国際連合の設立に尽力したルーズベルト大統領は、サンフランシスコ会議開幕直前である1945年4月12日に死去した。会議では、「United Nations」という英語は複数形であり国際機構を意味するものとしては不適当ではないかとの意見もあったが、彼に対する敬意を表してこの名称を採用することが合意された。しばらくは文法上の理由からUnited Nations Organization(UNO)という名称も使われたが、次第に使われなくなった。",
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"text": "一方、フランス語では「機構」を示す「Organisation」を付してOrganisation des Nations uniesから、「ONU」との略称を用いている。スペイン語(Organización de las Naciones Unidas)、イタリア語 (Organizzazione delle Nazioni Unite) も同様である。ドイツ語でも正式名称はOrganisation der Vereinten Nationenであるが、通常は Vereinte Nationen「連合国」を用いることが多い。略称は「UN」が一般的である。",
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"text": "日本においては、戦争中の国家連合の名称としては「連合国」(れんごうこく)、国際機構に対しては「国際連合」(こくさいれんごう)との訳語が一般に用いられてきた。後者を軍事同盟の連合国と区別するために「国際連合」と意訳したのは外務官僚であるとされる。ただし、連合国側も枢軸国の占領時には連合国について \"the Allied Powers\" と表記しており、\"the United Nations\" という用語を軍事的な意味で継続して使用する意思はなかった。1944年(昭和19年)10月にダンバートン・オークス会議で発表された「国際連合憲章の原案(「一般的国際機構設立に関する提案」)」を同年12月に外務省が翻訳した際には、既に「国際連合」という訳語が用いられており、その後も国際機構を指す言葉としては戦中から戦後、現在に至るまで使用されている。朝日新聞は、当時条約局事務官で、後に駐英大使を務めた森治樹が名付け親だとする話を報じている。",
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"text": "日本と同様に漢字を使用している中華民国(台湾)や中華人民共和国では「聯合國/联合国」が主に用いられている。",
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"text": "公称では、国連の前身は国際連盟である。国際連盟は、1919年、国際協力を促進し、平和安寧を完成することを目的として設立された。しかし、アメリカが参加せず、ソビエト連邦も1934年まで加盟せず、一方、日本、ドイツ、イタリアが脱退するなど、有力国の参加を欠いたこともあって、十分な力を発揮することができず、第二次世界大戦の勃発を防ぐことができなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "1941年8月、カナダ東海岸ニューファンドランド島沖のプリンス・オブ・ウェールズの艦上で、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相が会談し、大西洋憲章を提唱した。そこでは、第二次世界大戦後の世界に国際連盟に代わる国際平和機構を創設するとの構想が、抽象的にではあるが既に示されていた。その後、アメリカ国務省の内部で、戦後国際機構の構想が急速に進み、サムナー・ウェルズ国務次官の下に国際機構小委員会が設置され、1942年10月作業を開始して1943年3月には「国際機構憲章草案(英語: Draft Constitution of International Organization)」がほぼ完成していた。コーデル・ハル国務長官がこれを練り直して、同年8月「国際連合憲章(英語: The Charter of the United Nations)草案」を完成させ、ハルは「国連の父」と呼ばれることになる。",
"title": "歴史"
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"text": "同年7月、イギリスもヨーロッパの安全保障に力点を置いた構想を策定してアメリカに提示したが、アメリカの案は、より世界的な機構とし、安全保障だけでなく経済社会問題も扱うべきだとの考えに基づいたものであった。そして、同年8月にケベックで米英首脳会談が開かれたが、その時点で、米英ソ中の4国が「すべての国の主権平等に基礎を置き、大国小国を問わずすべての国の加盟のために開放される、国際の平和と安全の維持のための一般的国際機構」を創設する必要があるとの、後のモスクワ宣言の草案が既に作成されていた。",
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"text": "1943年10月にモスクワで開かれたアメリカ、イギリス、ソ連による外相会議で「一般的安全保障に関する4か国宣言」が出され、ほぼ草案どおりの文言で、第二次世界大戦後に国際的な平和機構を再建する必要性が訴えられた。こうして、アメリカ案に沿った国際機構の創設が連合国側の構想として公式に示されることになった。同年のカイロ宣言(米英中)、テヘラン宣言(米英ソ)でも、米英ソ中の4大国が「世界の警察官」(「四人の警察官」と呼ぶ事もある。)としての役割を果たすことが合意された。",
"title": "歴史"
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"text": "これを受けて、1944年8月〜10月、ワシントンD.C.のジョージタウンにあるダンバートン・オークス・ガーデンにおいて、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中華民国の代表が会議を開き、国際連合憲章の原案(「一般的国際機構設立に関する提案」)を作成した(ダンバートン・オークス会議)。ここでは、加盟国全部を含む総会と、大国中心に構成される安全保障理事会の二つを主体とする普遍的国際機構を作ることが合意された。",
"title": "歴史"
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"text": "その後、安保理常任理事国の拒否権をどの範囲で認めるかについて、米英とソ連との交渉が続いたが、1945年2月に開催されたヤルタ会談において、大国の拒否権は実質事項のみで、手続事項には適用されないこと、紛争の平和的解決が試みられている間は当事国は表決に加わらないとの妥協が成立した。すなわち、米英ソ中に、イギリスの希望によりフランスを加えた5か国が拒否権を有する安保理常任理事国となるという「5大国一致の原則」が合意された。",
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"text": "1945年4月25日から6月26日にかけて、日本またはドイツ(なお同国は会議中の5月7日に降伏した)に宣戦している連合国50か国の代表がサンフランシスコに集まり、国際連合設立のためのサンフランシスコ会議を開いた。ダンバートン・オークス会議で作成された憲章原案に基づき審議が行われ、6月26日、50か国が国際連合憲章に署名して会議は終結した。ポーランドは会議に代表を送っていなかったが、その後国連憲章に署名し、原加盟国51か国の一つとなった。そして、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中華民国およびその他の署名国の過半数が批准した1945年10月24日に、国際連合が正式に発足した。10月24日は国連デーとして各国で記念されている。",
"title": "歴史"
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"text": "1946年から1953年までの間、初代事務総長を務めたのはトリグブ・リー(ノルウェー出身)であった。その任期中にはパレスチナ問題が顕在化し、1947年11月29日の総会でパレスチナ分割決議がなされたが、翌1948年から第一次中東戦争に至った。国際連合休戦監視機構(UNTSO)が派遣され、事実上初の国連平和維持活動 (PKO) となった。",
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"text": "1950年には朝鮮戦争が勃発し、安全保障理事会でのソ連不在の間に米国を中心に「国連軍」が派遣される事態となった。国連の目指した集団安全保障は、東西冷戦の狭間で、機能不全に陥った。一方、1948年に世界人権宣言が総会で採択され、1951年には難民条約が採択されて国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が発足するなど、安全保障以外の面での活動も始まっていった。",
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"text": "1953年から1961年までの第2代事務総長ダグ・ハマーショルド(スウェーデン出身)の任期中にも、パレスチナ問題は再燃し、1956年の停戦違反を機にスエズ危機(第二次中東戦争)に至った。安保理は英仏の拒否権により機能停止に陥ったが、事務総長のリーダーシップにより、総会決議に基づいて第一次国連緊急軍(UNEFI)が派遣され、これが初の正式なPKOとなった。他方、1953年のアイゼンハワー米大統領による国連総会での平和のための原子力演説を契機として、1957年国際原子力機関(IAEA)が発足した。1956年には、日本も国連加盟を果たした。",
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"text": "ハマーショルド事務総長の手腕はソ連圏を除く加盟国から絶大な信頼を得、非加盟国である中華人民共和国を1955年に訪問して朝鮮戦争で捕虜となっていた国連軍兵士の釈放交渉を成功させ、1958年のレバノン事件、タイとカンボジアの紛争、ラオス問題などで緊張緩和に努め、「国連のプレゼンス」という言葉が国際外交で常用語となった。1960年のコンゴ動乱ではPKOとして国連コンゴ活動が展開され、事務総長も調停に努めたが、1961年9月、事務総長は任務遂行中に北ローデシア(現:ザンビア)の飛行機事故で死亡した。",
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"text": "1961年から1971年まで第3代事務総長を務めたのはウ・タント(ビルマ出身)である。これに先立つ1960年の植民地独立付与宣言(総会決議)に象徴されるように、1960年代には多くの植民地が独立を果たし、次々と国連に加盟した。1961年、第1回非同盟諸国会議が開かれ、米ソいずれの陣営にも属しない非同盟諸国が国連の多数派として出現し、1965年には加盟国の約7割に達した。1962年にはジョン・F・ケネディ大統領とニキータ・フルシチョフ最高指導者の政権下でキューバ危機が発生した。第二次世界大戦後のなかで最も米ソの核戦争(第三次世界大戦)開戦一歩手前までの緊張状態に陥った。",
"title": "歴史"
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"text": "キューバ危機によって、世界各国にかつてないほどの混乱を招いた。国連では緊急安保理特別会合が午後に開かれ、ウ・タント事務局長は、米ソ両国に書簡を送り自制を求め、核戦争(第三次世界大戦)勃発へのエスカレーションは回避された。この一連の危機の経験は後世の核戦争回避への大きな教訓とされ、2つの国の政府首脳間を結ぶ緊急連絡用の直通電話ホットラインがソ連とアメリカ間に初めて設置された。そして翌年8月に部分的核実験禁止条約が締結された。",
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"text": "1964年、第1回国連貿易開発会議(UNCTAD)が開かれ、そこで途上国による77ヶ国グループ(G77)が結成された。77ヶ国グループは、その後も構成国を増やし、国連での投票等で一致した行動をとることによって先進国に対抗する大きな力を有するに至っている。",
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"text": "ウ・タント事務総長も、非同盟主義に共鳴する立場から、冷戦下において東側(共産主義)と西側(資本主義)が持つイデオロギー性を批判し、1965年から1975年間に行われたベトナム戦争をめぐってリンドン・ジョンソン米大統領と距離を置くとともに、途上国の開発の問題を訴えた。また、ベトナム戦争中のアメリカ軍の非人道的な出来事(クラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用)により、世界がアメリカ合衆国への不信感が際立った。同時期、非同盟諸国を中心に英仏などの西側、ソ連などの東側の賛成も得てアルバニア決議が採択されて中華民国が追放され、同国と対立する中華人民共和国に常任理事国が交代した。",
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"text": "彼の任期中には、1963年に初の核軍縮条約である部分的核実験禁止条約(PTBT)が署名され(同年発効)、1968年に核不拡散条約(NPT)が総会で採択される(1970年発効)など、核軍縮への取り組みも始まった。また、彼は宇宙船地球号を掲げて地球環境問題にも取り組み、アースデーの制定と後の国連人間環境会議の開催決定や国連環境計画(UNEP)設立決定に関わるなど国連は新しい任務を負うこととなった。",
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{
"paragraph_id": 30,
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"text": "1972年から1981年までの第4代事務総長クルト・ヴァルトハイム(オーストリア出身)の任期中には、1973年の第四次中東戦争とそれに対する第二次国連緊急軍(UNEF II)の派遣、キプロス問題の再燃などがあった。ゴラン高原方面については、1974年より国際連合兵力引き離し監視軍(UNDOF)が設置された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "1973年には国際連合大学が日本の東京都・渋谷区に、1980年には国連平和大学がコスタリカに大学を設立、両大学は国連システムおよび国連加盟国のシンクタンクとしての機能を持つ。社会経済開発分野では、南北問題も深刻化し、石油輸出国機構(OPEC)による石油禁輸(オイルショック)、1974年の国連資源特別総会の開催に見られるように資源ナショナリズムが高揚した。1981年のカンクンでの南北サミットでは事務総長の努力にもかかわらず南北関係が好転しなかった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 32,
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"text": "1982年から1991年までの第5代事務総長ハビエル・デクエヤル(ペルー出身)の任期中には、イラン・イラク戦争、アフガニスタン紛争、ナミビア内戦、アンゴラ内戦などがあり、国連のあっせん・仲介で停戦など一定の成果が上がった。1982年には先住民作業部会が設立されるなど先住民の人権及び基本的な自由の促進と保護を重視されるようになった。1988年には将来的な米ソの核戦争回避を行うために中距離核戦力全廃条約を締結した。1989年にはベルリンの壁崩壊による東ドイツの崩壊とドイツ連邦共和国によるドイツ再統一、東欧革命などの一連の出来事によって冷戦の終結した。",
"title": "歴史"
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"text": "1991年7月には共産主義国の国際軍事同盟のワルシャワ条約機構が解散、12月にはソビエト連邦の崩壊によって独立した独立国家共同体(CIS)、バルト三国の国家が国連に加盟した。東側諸国の影響力低下により、事実上のアメリカ合衆国一強時代となった。また、ソビエト連邦(ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国)の後継国としてロシア連邦が常任理事国になった。安保理の平和維持機能が復活し、1991年の湾岸戦争では安保理の武力行使容認決議に基づき多国籍軍が派遣された。",
"title": "歴史"
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"text": "1992年から1996年までの第6代事務総長ブトロス・ガリ(エジプト出身)の任期中には、カンボジア、ソマリア、ルワンダ、ボスニア(旧ユーゴスラビア)、モザンビークなどに次々PKOが派遣され、ガリ事務総長が1992年の『平和への課題』と題する報告書で訴えたとおり、PKOに平和執行部隊としての機能も期待された。しかし、一定の成果を上げたカンボジアやモザンビークと異なり、ソマリア、ルワンダ、ボスニアではPKOは十分な役割を果たすことができなかった。",
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"text": "社会経済開発の分野では1992年、リオデジャネイロで環境と開発に関する国際連合会議(地球サミット)が開かれ、「持続可能な開発」の理念が普及した。1994年、国連開発計画(UNDP)が年次報告書で「人間の安全保障」という理念を提唱した。その他には1996年9月に包括的核実験禁止条約が国際連合総会によって採択されたが、未だに発効してない。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は核拡散防止条約からの脱退を表明したことで国連安保理が北朝鮮への制裁を検討する事態となった。",
"title": "歴史"
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"text": "1997年から2006年まで第7代事務総長を務めたコフィー・アナン(ガーナ出身)は、国連の行政改革に取り組み、縦割りを是正するため執行委員会の設置などを行った。彼の任期中には、1998年に国際刑事裁判所(ICC)設立のためのローマ規程が採択されたり(2003年発足)、2000年のミレニアム記念総会(ミレニアム・サミット)で途上国の開発目標などを定める国連ミレニアム宣言が採択されたりした。国連ミレニアム宣言は、8つの章と32の主要目標からなり、サミットにおいて189ヶ国の世界の首脳によって採択された。",
"title": "歴史"
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"text": "2001年、国連はアナン事務総長とともにノーベル平和賞を受賞した。もっとも、イラク民衆救済のための石油食料交換プログラム(1995年-2003年)に関し、国連事務局幹部の不祥事が後に発覚し、アナンの息子が勤めていた会社と国連との不透明な関係も指摘されるなど、事務総長自身の廉潔性も問われることとなった。2001年9月にはアメリカ同時多発テロ事件、2004年にはマドリード列車爆破テロ事件が発生した。国家間との戦いの減少に伴い、アルカーイダやイスラム国などのテロとの戦いへと変化していった。平和を目指すという名目では国際連合はかつての連盟と違い、機能を果たす機能をしていた。",
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"text": "2002年3月には北大西洋条約機構(NATO)率いる国際治安支援部隊(ISAF)のほか、国際機関(IGO)及び非政府組織(NGO)等と連携して国連アフガニスタン支援ミッションを設立した。同年、永世中立を宣言するスイスなどが国連に加盟した。国連に加盟するのに半世紀もの時間と議論を有したことになる。",
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"text": "21世紀に入り、安全保障理事会の承認がない対外的な軍事力の行使は常に批判されるが、安全保障理事会の常任理事国であるアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国の五大国の軍事力の行使は、国際社会や国際連合にそれを抑止する力がないので、だれにも抑止できない状態である。また、ソビエト連邦に変わって、台頭してきた中華人民共和国とアメリカの対立(新冷戦)が目立つようになった。",
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"text": "2007年から2016年まで潘基文(韓国出身)が第8代事務総長を務めた。2007年に先住民族の権利に関する国際連合宣言を行った。国連広報官は「同宣言は国際的な法律基準のダイナミックな発展を意味し、また国際連合の加盟国の関心や関与が一定の方向に動いたことを示した」 と発言。先住民をジェノサイドを行ってきた歴史を持つアメリカ合衆国やオーストリア、カナダ、ニュージーランドが反対、日本などは賛成を応じた。",
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"text": "2011年には東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)によって被害を受けた日本に対して、国連が世界各国に援助を求めた。同年、国際連合安全保障理事会決議1973に基づいてNATO諸国はリビア内戦に介入、 3月19日に米英仏を中心とする軍事介入が行われるに至った。結果的に反カダフィ勢力(アメリカ合衆国側)の勝利となった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "2017年、第9代事務総長アントニオ・グテーレス(ポルトガル出身)が就任した。2019年には中国の影響力が増大した影響で米ソ間で締結した中距離核戦力全廃条約をドナルド・トランプ大統領が破棄した。国連は再び核への緊張と抑止に晒される事になる。",
"title": "歴史"
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"text": "2020年代に入ると、新型コロナウイルス感染症(SARSコロナウイルス2)が世界的に流行(パンデミック)した事をきっかけに声明と各国にコロナ対策や気候変動等の緊急課題を発表した。国連の専門機関である世界保健機関のテドロス・アダノム事務総長とアメリカのドナルド・トランプ大統領が対立、アメリカ合衆国は世界保健機関からの脱退を表明した。",
"title": "歴史"
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"text": "2022年にはアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国の核保有国が「核戦争に勝者なし」と声明を発表し、核戦争回避と軍縮に向けた異例の共同声明 を発表しグテーレス事務総長は歓迎したが、同時にロシアとウクライナ情勢悪化によって、大規模な大戦が勃発する可能性があるとしアメリカとロシアが国連緊急会合を行った。",
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"text": "同年2月21日、ロシアは国連憲章に反してドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国を国家承認、国際社会から凄まじい批判をうけた。3日後の2月24日、ロシアはウクライナに全面侵攻(ロシア・ウクライナ危機)した。国連では緊急会合が開かれ、グテーレス事務総長は涙ながらロシアに自制を求めたが、10分後にはロシアのプーチン大統領はウクライナへの全面侵攻を宣言をした。クリミア半島併合などを2014年に行ったが核保有をしている常任理事国が非核保有の独立国への全面侵攻する事は異例である。プーチン大統領は「ロシアには大量の核兵器がある。ロシアに対して邪魔をすれば敗北と悲惨かつ壊滅的な被害になる」と核戦争(第三次世界大戦)及び核攻撃への突入にも辞さない事を発表、世界各国を脅し、ウクライナへの軍事支援を牽制した。G7各国やNATO諸国率いる西側諸国はロシアへの大規模な制裁を行っているが、軍事増援は核戦争(第三次世界大戦)勃発する可能性が高いため(武器・防具の供与を除き)現在も行っていない。",
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"text": "また、常任理事国であるロシアは核及び拒否権を所持しているため、第二次世界大戦前の国際連盟と同じく、国際連合及び国連安全保障理事会も機能不全に陥っている。国際ハッカー集団の「アノニマス」がTwitterにてロシアへ宣戦布告をした。",
"title": "歴史"
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"text": "侵攻から数日後、ウクライナ軍の激しい抵抗によりロシア連邦軍は苦戦していることをきっかけにプーチン大統領は再び核の使用を匂わせる言及を行い、ロシアは国際社会(特に先進各国ら)から孤立した。ウォロディミル・ゼレンスキー大統領はグテーレス事務総長にロシアの常任理事国の権利の剥奪を要求している。3月にはグテーレス事務総長は核戦争(第三次世界大戦)が起こる可能性が高いことを発表した。",
"title": "歴史"
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"text": "事態の悪化に伴い現在、各国は緊張状態に走っている。",
"title": "歴史"
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"text": "国際連合は、6つの主要機関と、その下に置かれた付属機関・補助機関から成る。また、国際連合と連携関係を持ち、独立した専門機関、関連機関もある。こうした諸機関を総称して国連システム(国連ファミリー)という。",
"title": "機関"
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"text": "国際連合の主要機関として、総会、安全保障理事会、経済社会理事会、信託統治理事会、国際司法裁判所、事務局の6つの主要機関を設けている。",
"title": "機関"
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{
"paragraph_id": 51,
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"text": "総会は、全加盟国で構成され、国連の関与するすべての問題を討議する。各国が1票の表決権を有し、重要問題については3分の2、一般問題については過半数で決する多数決制が取られている。総会の決議は加盟国または安全保障理事会に対する勧告をすることができることにとどまり、法的拘束力を持たない。しかし、重要な国際問題に対する世界の世論を示すものであり、国際社会の道徳的な権威を備えている。",
"title": "機関"
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"paragraph_id": 52,
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"text": "総会の通常会期は、毎年9月第3週目の火曜日に始まり、翌年の9月上旬まで続く。議長は、会期ごとに、5つの地域グループから持ち回りで選ばれる。会期の始めには、全体会議(プレナリー)が開かれ、そこで各国の元首・政府の長による一般討論が行われる。その後、ほとんどの議題は分野別に次の6つの主要委員会で審議される。全体会議は決議・決定を採択した後、12月に休会に入るが、主要委員会や他の下位機関での活動は様々な形で翌年の7月ころまで続くとされている。",
"title": "機関"
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{
"paragraph_id": 53,
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"text": "安全保障理事会(安保理)は、国連において国際の平和と安全に主要な責任を負う機関である。15か国で構成され、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ロシア連邦(1991年まではソ連)、中華人民共和国(1971年までは中華民国)の5か国が常任理事国、それ以外の10か国は総会で2年の任期で選ばれる非常任理事国である。",
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{
"paragraph_id": 54,
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"text": "各理事国は1票を有し、手続事項に関する決定は15理事国のうち少なくとも9理事国の賛成投票によって行われるが、実質事項に関する決定は、5常任理事国の同意投票を含む9理事国の賛成投票によって行われる(国連憲章27条)。すなわち、常任理事国の1か国でも反対投票を投じれば決議は否決されるため、常任理事国は拒否権を有していることになる。常任理事国の拒否権行使により、安全保障理事会は国際社会の平和の維持や回復のためには機能していない。すべての国連加盟国は、安保理の決定を受諾・履行することに同意しており(憲章25条)、国連の中でこのように履行義務を伴う決定をなし得るのは安保理のみである(総会等の決議は勧告的効力にとどまる)。これらの弊害が指摘され、安保理の構成や拒否権の扱いについては改革の議論がなされている(後出国際連合改革)。",
"title": "機関"
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"paragraph_id": 55,
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"text": "平和への脅威が生じると、安保理は、通常、平和的手段による合意を当事者に勧告する。自ら調査・仲介を行ったり、使節団を派遣したり、国際連合事務総長特別代表を任命したり、事務総長にあっせんを要請したりすることもある。紛争が激化すると、戦闘の拡大を防ぐため停戦命令を発することがある。さらに、平和維持軍を派遣したり、国連憲章第7章に基づき、経済制裁、武器禁輸、渡航禁止、集団的軍事行動などの強制措置を発動することもあり、安保理の重要な権限の一つである(後出平和と安全の維持)。",
"title": "機関"
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{
"paragraph_id": 56,
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"text": "安全保障理事会の目的は国際社会の平和の維持と回復なのだが、国際連合設立後の現実としては、安全保障理事会の常任理事国である、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ロシア連邦、中華人民共和国の五大国と、アメリカ合衆国が常に擁護しているイスラエルの六国こそが、世界における軍事力行使の大部分を行っていて、安全の保障に反して軍事力が行使されている。",
"title": "機関"
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{
"paragraph_id": 57,
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"text": "安保理の補助機関として、人道に対する罪を訴追するために設けられた旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(ICTY)、ルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)、またアメリカ同時多発テロ事件を受けて設けられた反テロリズム委員会がある。",
"title": "機関"
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{
"paragraph_id": 58,
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"text": "経済社会理事会(経社理、ECOSOC)は、経済・社会・文化・教育・保健の分野で、専門機関等を含む国連ファミリーの活動を調整するために設置された機関である。54か国で構成され、理事国は3年の任期で総会で選ばれる。各国が1票を有し、決定は過半数で行われる。",
"title": "機関"
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{
"paragraph_id": 59,
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"text": "経社理は、年間を通じて多くの準備会議、円卓会議、市民社会メンバーとのパネル・ディスカッションなどを開催するほか、毎年7月、ニューヨークとジュネーヴで交互に4週間の実質的な会期を開く。もっとも、経済社会分野の実質的な活動は、諸計画・基金、専門機関、関連機関によって担われており、これらの機関は経社理に報告を行ったり、勧告を行ったりする。経社理のあり方については、形骸化しており決定に実効性がない、総会討議と重複している、世界銀行グループのような専門機関に対する指導力がないといった批判がある。",
"title": "機関"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "また、経社理は、資格を有する非政府組織(NGO)と協議をすることができる(国連憲章71条)。2870以上のNGOが経社理と協議する地位を与えられている。NGOは特別の経験や専門知識を持ち、国連と市民社会とを結びつける貴重な存在であると考えられており、国連と提携NGOとの関係は、時代の進展とともに増大している。",
"title": "機関"
},
{
"paragraph_id": 61,
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"text": "信託統治理事会は、未独立の信託統治地域が自治・独立に向けた準備をすることができるようにすることを目的に設立された。1994年までに、すべての信託統治地域が自治または独立を達成したことから、その任務をほぼ完了したとして活動を停止した。",
"title": "機関"
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{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "国際司法裁判所(ICJ)は、国連の主要な司法機関である(国連憲章92条)。所在地はオランダのハーグである。15名の裁判官で構成され、そのうちのいずれの2人も同一の国籍であってはならない(国際司法裁判所規程3条)。実際には、西欧・北米5名、東欧2名、中南米2名、アジア3名、アフリカ3名という地理的配分の原則がとられている。任期は9年で、3年ごとに5名が改選される(規程13条)。",
"title": "機関"
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{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "すべての国連加盟国は自動的に国際司法裁判所規程の当事国となり(憲章93条)、ICJは同規程当事国のすべてに開放されている。国際組織や個人は当事者となることができない。もっとも、ICJが事案を審理し、判決を下すのに必要な管轄権を有するためには、当事国の同意がなければならない(規程36条)。判決は、出席した裁判官の過半数により決定される(規程55条)。判決は、当該紛争の当事国間において、かつ当該事件についてのみ拘束力を持つ(規程59条)。当事国は判決に従う義務がある。国際司法裁判所は判決を執行する能力が無いので、当事国の政府が判決に従わなければ、判決は履行されない。",
"title": "機関"
},
{
"paragraph_id": 64,
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"text": "そのほか、総会と安保理、また総会の許可を受けたその他の国連機関(経社理およびほとんどの専門機関など)は、いかなる法律問題についても、ICJに勧告的意見を求めることができる(憲章96条、規程65条)。国家は勧告的意見を求めることはできない。勧告的意見は、国連憲章の解釈や権限の行使の適法性などについて述べられるものが多い。勧告的意見は法的拘束力がないので、紛争を解決できた実績はない。また、裁判の強制権が無いため、裁判を申し込まれた国が拒否すれば裁判を行うことができない。",
"title": "機関"
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{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "事務局は、国連の日常業務を遂行する機関であり、他の主要機関に役務を提供するとともに、それらの機関が決定した計画・政策を実施する。事務総長が統括する。1年以上の契約を持つ事務局職員は約2万5530人、短期契約職員は約3万0500人である。事務総長および事務局職員は、いかなる国の政府からも、国連以外のいかなる当局からも指示を受けない(国連憲章100条)。",
"title": "機関"
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{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "事務総長は、国連の行政職員の長であるとともに(国連憲章97条)、総会、安保理、経社理、信託統治理事会から委託される任務を遂行する(同98条)。また、国際の平和・安全の維持への脅威について、安保理の注意を促すことができる権限が与えられている(同99条)。事務総長が公的または私的に行う国際紛争の「あっせん」は最も重要な役割の1つであり、キプロス、東ティモール、イラク、リビア、中東、ナイジェリア、西サハラなどの紛争に際して行われてきた。現在の事務総長はポルトガル出身のアントニオ・グテーレスである。",
"title": "機関"
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{
"paragraph_id": 67,
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"text": "国連事務局には次のような部局が置かれている。",
"title": "機関"
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{
"paragraph_id": 68,
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"text": "国連の本部ビルはニューヨークにあるが、世界各地に事務所があり、その中で中心的な役割を担うのはジュネーヴ事務局(UNOG)、ウィーン事務局(UNOV)、ナイロビ事務局(UNON)である。",
"title": "機関"
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{
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"tag": "p",
"text": "国連システムには、次のような計画・基金が含まれる。これらは国連憲章7条2に基づいて設置された総会の補助機関であるが、それぞれ個別の予算を持っている。1960年代から1970年代にかけて第三世界から多数加盟した国々が総会で多数派となった結果、総会決議によりUNDPをはじめとする開発関係の補助機関が設置された(そのうちUNIDOなど、いくつかは専門機関に移行した)。他の国連機関と活動内容が重複するものもあるが、統廃合は進んでいない。",
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"text": "このほか、総会の補助機関として、いくつかの調査訓練機関などがある。",
"title": "機関"
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{
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"text": "専門機関は、政府間の協定によって設けられ、経済・社会等の各分野において国際的責任を有する国際組織で、かつ国連との間で連携協定を締結しているものをいう(国連憲章57条、63条)。国連ファミリーに含まれるが、国連とは別個の国際法主体性を有する、独立した国際組織である。中でも、国際金融機関である世界銀行グループとIMFは最も独立色が強く、規模も国連本体に並び、次いでWHO、FAO、ILO、UNESCOの4機関の規模が大きい。これらの専門機関が力を持つ余り、経社理が形骸化して経済社会分野の国連改革が進まないとの批判もある。",
"title": "機関"
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{
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"text": "現在存在する専門機関は、次の通りである。",
"title": "機関"
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{
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"text": "関連機関は、国連と関係を有するが、専門機関としての連携協定を結んでいない国際組織である。国連には次の関連機関がある。",
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{
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"text": "",
"title": "機関"
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{
"paragraph_id": 75,
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"text": "国連の公用語は、アラビア語、中国語(普通話・簡体字)、英語(イギリス式)、フランス語、ロシア語、スペイン語の6言語である。公式文書と公式会合での発言は、最小限これらの公用語に翻訳される。国連発足時からの公用語は、現在の言語よりアラビア語を除いた5言語であった。アラビア語が公用語に追加されたのは、1973年の第30回総会においてである。",
"title": "言語"
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{
"paragraph_id": 76,
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"text": "国連事務局の作業言語は、英語とフランス語である。実質的には英語が使用されることが多い。",
"title": "言語"
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{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "国際連合本部は米国ニューヨーク市に置かれているが、国際連合で用いられている英語はイギリス英語である。日付が「24 October 1945」と表記されたり(アメリカ英語: October 24, 1945)、単語のつづりが「organisation」など英国式になったりする(アメリカ英語: organization)。",
"title": "言語"
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{
"paragraph_id": 78,
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"text": "国連予算は、主に通常予算とPKO予算に分かれている。",
"title": "財政"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "通常予算は、2年が単位である。事務総長が提出し、専門家からなる行政予算問題諮問委員会が審査する。そして、総会で承認される(国連憲章17条)。2006年-07年の予算は38億ドルであった。通常予算の主な財源は加盟国からの分担金であり、分担率は専門家から成る分担金委員会の勧告に基づいて、総会が承認する。分担率は基本的に加盟国の支払能力(全世界のGNPに占める加盟国の割合等)を考慮して決められるが、2000年、いかなる国も分担率の上限を22%とすることが総会で決定された(なお、上限にかかるのはアメリカのみである)。2019年から2021年における上位10か国の分担率は右表の通りである。しかし、多くの加盟国が分担金を滞納しており、国連の財政状況は不安定である。2006年末現在、財政的義務を負う191加盟国のうち分担金を全額支払った国は134か国にとどまり、滞納額は3億6200万ドルに達した。例えば、アメリカは、国連の組織と業務に無駄が多いとして、分担金の支払を制限している。",
"title": "財政"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "PKO予算は、毎年7月1日から1年間を単位とし、総会が承認する。これも加盟国の分担金によって賄われるが、通常予算よりも安保理常任理事国の分担率が高く設定されている。額は1990年代以降増加傾向にあり、2009年7月から2010年6月までの1年間の平和維持活動予算は約79億ドルであった。PKO予算の滞納額も、2006年末で19億ドルに達している。",
"title": "財政"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "なお、国連児童基金(UNICEF)、国連開発計画(UNDP)、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)といった諸計画・基金や、専門機関は、それぞれ独立した予算を持っており、各国や個人からの拠出金によって財政を賄っている。",
"title": "財政"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "国際の平和と安全の維持は、国連の主要な目的の一つである。国連憲章は、国際の平和及び安全の維持に関する責任を安保理に負わせている(24条)。",
"title": "活動内容"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "国連は、ある国家が侵略等の重大な国際法違反を犯した場合に、国連加盟国が団結して終了させるという集団安全保障の理念の下に設立され、その手段として後述の国連軍を想定していた。しかし、米ソ冷戦の下、安保理常任理事国の拒否権に阻まれて国連軍の規定は発動されなかった。それに代わるものとして、北大西洋条約機構(NATO)やワルシャワ条約機構という地域的防衛機構が、国連憲章51条により認められた集団的自衛権を行使するという集団防衛体制が生まれた。他方で、国連総会は、1950年11月3日、安保理が「その主要な責任」を果たせない場合に、総会が軍隊の使用を含む集団的措置を勧告でき、24時間以内に緊急特別総会を招集できるとする平和のための結集決議を採択した。総会決議には安保理決議と異なり法的拘束力はないものの、今まで度々同決議に基づいて紛争地域における平和維持活動(PKO)が展開されてきた。",
"title": "活動内容"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "冷戦が終結した1990年代以降は、後述の通り、PKOの役割が拡大するとともに、安保理の武力行使容認決議により多国籍軍が結成されることも多く、近年では両者の役割分担・協力関係も見られる。",
"title": "活動内容"
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{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "安保理は、「平和に対する脅威、平和の破壊、侵略行為」に対し、経済制裁等の勧告をすることができるほか(39条)、国連憲章第7章の下における非軍事的強制措置として、包括的な経済制裁や禁輸措置(武器禁輸、渡航禁止、金融規制)、外交関係の断絶などの制裁をとることができる(41条)。今まで、独立紛争に関する対南ローデシア輸出入禁止(1966年、1968年)、アパルトヘイトに関する対南アフリカ共和国武器禁輸(1977年)、クウェート侵攻に関する対イラク経済輸出入禁止(1990年)、内戦における非人道的行為に関する対ユーゴスラビア輸出入禁止(1992年)、テロ防止への非協力を理由とする対リビア航空機乗入れ禁止・武器禁輸(1992年)、民主政権移行の不履行を理由とする対ハイチ輸出入禁止(1993年)などが行われてきた。もっとも、経済制裁は被制裁国の弱者に大きな経済的打撃を与えるという問題があることから、個人資産の凍結や政府関係者の入国禁止など、エリート層への打撃に的を絞った「スマートな制裁」が提唱されている。",
"title": "活動内容"
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{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "国連憲章第7章は、非軍事的強制措置では不十分である場合に、安保理は「必要な空軍、海軍または陸軍の行動」をとることができるとしている(42条)。すなわち、国連軍の名の下での軍事的行動をとることができる。国連軍は軍事参謀委員会の指揮下に置かれ(47条)、国連軍創設には、加盟国と国連との間に兵力提供に関する「特別協定」が締結されなければならない(43条)。しかし、現在まで特別協定が締結されたことはないため、本来の意味の国連軍が創設されたことはないといえる。朝鮮戦争の際、米国軍を中心とした「国連軍」が創設されたが、これは本来の意味の国連軍ではない。",
"title": "活動内容"
},
{
"paragraph_id": 87,
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"text": "現在まで、国連軍が創設されなかった代わりに、安保理による武力行使容認決議が行われてきた。1990年11月、イラクのクウェート侵攻に対し、安保理は、国連憲章第7章の下、イラクが関連諸決議を完全に履行しない場合に「クウェート政府に協力している加盟国に対して......あらゆる必要な手段を行使することを容認する」とする決議(安保理決議678)を採択した。同決議に基づいて米軍を中心に多国籍軍が編成され、1991年1月から戦闘に入った(湾岸戦争)。その後も、1994年にハイチ軍政問題に関して、1997年にアルバニア暴動問題に関して、1999年にコソボ紛争に、同年と2006年に東ティモール紛争に、それぞれ多国籍軍の派遣が認められた。一方、2003年3月のアメリカおよびイギリスを始めとする有志連合による対イラク武力行使(イラク戦争)については、一連の安保理決議によって正当化されるかどうかについて各国の意見が分かれた。なお、こうした軍事行動は、参加国の管理の下に置かれるものであり、安保理が設立し事務総長の指揮の下に置かれるPKOとは異なる。",
"title": "活動内容"
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{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "国連が行う平和維持活動(PKO)は、地域的な紛争の悪化を防ぐため、国連の権威の下になされる軍事的活動である。主に安保理決議に基づいて行われるが、総会決議(平和のための結集決議)の勧告に基づいて行われることもある。国連憲章上、PKOについて明文の規定はないが、憲章に違反するものではなく、国際司法裁判所は、1962年の「ある種の経費に関する事件」勧告的意見において、第一次国連緊急軍(UNEF I)および国連コンゴ活動(ONUC)の活動経費を国連憲章17条2項にいう「この機構の経費」に該当すると判断した上で、両活動は憲章第7章の強制行動とは性格を異にするとした。PKOは「6章半」であるという言い方をされることもある。",
"title": "活動内容"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "1948年、第一次中東戦争の際、パレスチナへ国連休戦監視機構(UNTSO)が派遣されて国境や停戦ラインの監視を行い、これがPKOの先駆けとなった。続いて1956年、スエズ危機(第二次中東戦争)に際して、国連総会決議に基づいて第一次国連緊急軍(UNEF I)が派遣されたのが、初の正式なPKOであった。その後もいくつものPKOが紛争地域に派遣されたが、1980年代までの冷戦下における伝統的なPKOは、軍人による軍事情勢の安定と停戦の監視を目的とするものであり、(1)当事者の合意により設立されること、(2)当事者に対して不偏性と中立を守ること、(3)武力の行使は自衛のために必要な最小限に留めること、というPKO3原則が守られてきた。",
"title": "活動内容"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "1990年前後に米ソ冷戦が終わったころから、PKOは、和平合意が結ばれた後の暫定的期間に、治安の維持、選挙の組織・監視、難民の帰還、戦後の復旧・復興などを行うという新しい任務を負わされるようになった。軍人以外に、専門の異なる文民(軍事監視員、文民警察官、行政官、選挙専門家、難民担当官、人権専門家、復旧支援担当官、国連ボランティアなど)が多数参加するようになった。1992年-93年に派遣された国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC、アンタック)や1992年-94年の国連モザンビーク活動(ONUMOZ)は、このような第二世代PKOの代表例であり、十分な成果を上げた。",
"title": "活動内容"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "ブトロス・ガリ事務総長は、1992年の『平和への課題』でPKOを「平和執行部隊」として事実上の軍事的強制措置を担わせようとする構想を提案した。これを受けて、1993年-95年の第二次国連ソマリア活動(UNOSOM II)、1992年-95年旧ユーゴスラビアに展開した国連保護軍(UNPROFOR)、1993年-96年の国連ルワンダ支援団(UNAMIR)は、いずれも違法行為停止のため自衛を超えて武力行使を行う「戦うPKO」としての任務を負わされた(第三世代PKO)。しかし、任務に見合う予算や兵力が与えられず、また有力国の協力が得られなかった結果、ジェノサイドなどの人道的惨劇を前にしながら、実効的に対処することができなかった。これに対して国連内部や加盟国からの反省があり、ガリ事務総長も、1995年の『平和への課題――追補』において、現状ではこうした平和執行型PKOを意図すべきではないと軌道修正した。1990年代後半からは、PKOは紛争後の後始末という本来の任務を担当し、違法行為の停止は国連憲章第7章の下の多国籍軍が担当するという役割分担が行われるようになり、PKOと多国籍軍との間で協力や任務の引き継ぎなども行われている。",
"title": "活動内容"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "その後もPKOのあり方については様々な改革が提案されている。事務総長特別代表のラフダール・ブラヒミは、2000年8月の報告において、PKOが十分な抑止能力を備えるために必要な予算・兵力・装備を承認すべきこと、紛争や戦争の後の平和構築活動のために、必要な予算が含まれるべきことなど、PKOの見直しを提言した(ブラヒミ報告)。また、潘基文事務総長の改革提案により、2007年6月事務局にフィールド支援局(DFS)が設置され、PKOミッションの策定、展開、持続に責任を持つこととなった。同じ事務局にある平和維持活動局 (DPKO)(現:平和活動局(DPO))は、戦略的監視や作戦上の政治的指針のような問題に集中することとなった。",
"title": "活動内容"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "国連は、設立当初は、集団安全保障体制の強化に重点を置いており、軍備管理と軍縮には消極的であった。しかし、核兵器の時代が国連創設とほぼ同時に到来したこと、集団安全保障体制が機能しなかったこともあって、否応なく対応を迫られてきた。実際、1946年に総会が最初に採択した決議は、核軍縮に関するものであった。国連憲章は、「軍備縮小及び軍備規制を律する原則」等を審議する主な責任を総会に与えている(11条)。毎年、総会の第一委員会においてすべての議題が審議され、数多くの決議が採択されているほか、その下部機関である国連軍縮委員会 (UNDC) が特定の問題を取り上げて審議している。多国間軍縮交渉の常設機関であり、後述のCWCやCTBTの交渉を成功に導いてきたジュネーブ軍縮会議(CD)は、国連の枠組みの外にあるが、国連総会の勧告を考慮し、また毎年総会に報告を行う。このほか、国連事務局の軍縮部は、軍縮問題に関する総会の決定を実施する。",
"title": "活動内容"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "国連が特に優先的な課題としてきたのは、大量破壊兵器の問題、すなわち(1)核兵器の削減と究極的な廃絶、(2)化学兵器の廃棄、(3)生物兵器禁止の強化であった。(1)核兵器の封じ込めの努力は米ソの二国間条約でもある程度進展したが、1968年に核拡散防止条約 (NPT) が国連総会で採択され、最も普遍的な軍縮条約となった。締約国は、国連の関連機関である国際原子力機関(IAEA)の保障措置を受け入れるよう求められる。しかし、非締約国であるイスラエル、インド、パキスタンによる核開発問題や、締約国でも核開発疑惑のあるイラン、脱退を表明した北朝鮮の問題など、条約の実効性が問題となっている。1996年には包括的核実験禁止条約 (CTBT) が加盟国の圧倒的多数により採択され、署名のために開放されたが、まだ発効の目処が立っていない。(2)化学兵器に関しては、1997年に化学兵器禁止条約(CWC)が発効し、国連の関連機関である化学兵器禁止機関(OCPW)が査察を行っている。(3)生物兵器については、生物兵器禁止条約(BWC)が1972年に署名され、1975年に発効した。同条約には検証機構についての規定がなく、検証や履行確保の方法が課題となっている。2006年の再検討会議で、実施支援班を設置することが決められた。近年、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を受けて、大量破壊兵器が、テロリストなど非国家主体の手に落ちた場合の危険が認識されるようになり、総会は2002年、テロリストが大量破壊兵器とその運搬方法を取得することを防止する措置に関する決議を採択した。また、安保理は、2004年、大量破壊兵器を開発、所有、利用等しようとする非国家主体に対していかなる支援も控えることを全加盟国に義務付けた(安保理決議1540)。",
"title": "活動内容"
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{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "一方、通常兵器に関しては、特定通常兵器使用禁止制限条約(残忍兵器禁止条約)が国連で採択され1983年に発効したが、さらに交渉が続けられた結果、対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約が1997年に採択され、1999年に発効した。これにより、対人地雷の破壊・除去が進んでいる。このほか、国連では、小型武器非合法取引の規制に向けた取組みや、国連通常兵器移転登録制度の設立を行っている。",
"title": "活動内容"
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"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "世界の人々の経済的・社会的福祉の実現は、国連の主要な目的の一つである。そのための開発の必要性、特に先進工業国と開発途上国との格差を埋めることの重要性は、1961年に始まった数次の国連開発の十年を機に強く表明されるようになった。1995年にコペンハーゲンで行われた世界社会開発サミットで、国際社会が貧困、失業、社会の崩壊といった問題と戦う必要性が訴えられたのをはじめとして、1990年代には多くの開発関係の世界会議が開催された。2000年9月の特別総会(ミレニアム・サミット)で採択された国連ミレニアム宣言は、開発の問題に重点を置き、具体的な開発目標を設定した。同宣言と、1990年代の国際会議やサミットで採択された国際開発目標とを統合し、2015年までに達成すべき目標としてまとめたのがミレニアム開発目標(MDGs)である。すなわち、(1)極度の貧困と飢餓を撲滅すること、(2)普遍的な初等教育を達成すること、(3)ジェンダーの平等を推進し、女性の地位向上を図ること、(4)乳幼児死亡率を下げること、(5)妊産婦の健康を改善すること、(6)HIV/エイズ、マラリア、その他の病気と戦うこと、(7)環境の持続可能性を確保すること、(8)開発のためのグローバル・パートナーシップを推進することが目標とされた。その後、これらの目標は2015年9月の総会で採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」の中核であり、2030年までに達成すべき目標として新たに設定された持続可能な開発目標(SDGs)に継承されている。",
"title": "活動内容"
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"paragraph_id": 97,
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"text": "国連機関の経済社会活動を調整する主要な機関は経済社会理事会であり、その諮問機関として、専門家からなる開発政策委員会が置かれている。事務局では、経済社会局が経済社会政策の分析・調整等を行っている。国連開発計画(UNDP)は、開発途上国の開発を担当する機関であり、2005年に国連システムが開発援助活動に費やした金額は137億ドルであった。",
"title": "活動内容"
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{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "人権の国際的な保障は、国連の主要な使命の一つである。国連憲章においては、前文で「基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女......の同権とに関する信念」をうたっており、第1条でも「人種、性、言語または宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励すること」を国連の設立目的の一つとしている。この目的を達成するため、加盟国は国連と協力して「共同及び個別の行動をとることを誓約」するものとされた(55条c、56条)。また、経済社会理事会の補助機関として「人権の伸長に関する委員会」を設けることとされた(68条)。これは、ナチス・ドイツをはじめとする全体主義国家による人権弾圧を踏まえて、人権の国際的な保障が必要と考えられたことなどによる。",
"title": "活動内容"
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{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "1946年、国連憲章68条に基づいて、経社理の補助機関として国連人権委員会が設立され、憲章の人権規定を具体化する作業に着手した。その結果、1948年12月10日、国連総会は、「すべての人民にとって達成すべき共通の基準」として、世界人権宣言を採択した。同宣言は30条からなり、「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利において平等である」と述べた上(1条)、各種の自由権、社会権について規定している。ただし、総会決議であるため、国家に対する法的拘束力を持たないことを前提としていたことから、国連人権委員会は続いて条約化の作業を進めた。",
"title": "活動内容"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "1966年、総会は、社会権規約、自由権規約、自由権規約の選択議定書という三つの条約からなる国際人権規約を採択した。社会権規約は1976年に発効し、現在160か国が締約国となっている。自由権規約も同じ年に発効し、現在167か国が締約国となっている。両規約は、民族自決権、天然の富及び資源に対する権利について規定しており(両規約1条1項、2項)、個人の人権だけを規定した世界人権宣言と異なる。また、個人の人権についても、世界人権宣言より詳細な規定を設けており、人権の国際的保障の仕組みにおいて、最も重要な役割を果たしている。1989年には、自由権規約の第2選択議定書(死刑廃止条約)が採択され、73か国が締約国となっている。",
"title": "活動内容"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "そのほか、国連の枠組みの中で、個別的な人権の保障を目的として、以下のものを含め約80件の条約・宣言が採択されている。",
"title": "活動内容"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "1993年、ウィーンで開かれた世界人権会議が契機となって、長年提唱されていた国連人権高等弁務官の設置が実現した。その任務は、人権の促進・保護、助言的サービスの提供、人権侵害に対する緊急の対応、侵害予防など、広範にわたる。人権高等弁務官事務所(OHCHR)は、後述の人権理事会などの人権機関の事務局を務める。",
"title": "活動内容"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "また、2006年、国連人権委員会を発展させる形で国連人権理事会が設置された。理事会は、総合的な政策ガイダンスを提供するとともに、人権問題に関する研究、新しい国際規範の発展、人権順守の監視などを行う。",
"title": "活動内容"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "自然災害や、紛争を含む人為的災害により大規模な被害が生じた場合、国連機関は緊急援助や長期援助を提供してきた。",
"title": "活動内容"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "人道援助の主体となるのは、主に国連児童基金(ユニセフ)、世界食糧計画(WFP)、国連難民高等弁務官(UNHCR)の3機関である。ユニセフは、水と衛生施設のような基礎サービスの再建や、学校の再開を支援し、また予防接種・医薬品の提供などを行う。2006年にユニセフは53件の緊急事態に関して人道援助を行い、その額は5億300万ドルを超えた。WFPは、国内避難民、難民、エイズ孤児、紛争や自然災害(洪水、旱魃など)の犠牲者らに対して食糧等の援助を行っている。2006年には78か国で約8800万人に食糧援助を行った。UNHCRは、難民の地位に関する条約(1951年)、同議定書(1967年)に基づき、難民の基本的人権が尊重されるようにし、いかなる者も強制的に送還されないようにする。また、大量の難民の移動に伴う緊急事態の際の援助や、教育・保健・住居の援助、帰還・統合・第三国での再定住などの支援を行う。さらに、近年は条約に定められた難民だけでなく、国内避難民、元難民、無国籍者、庇護請求者(難民の認定を申請したがまだ結論が出ていない人々)など、広義の難民に対する緊急人道支援も行っている。なお、パレスチナ難民については国連パレスチナ救済事業機関(UNRWA)が支援を行っている。",
"title": "活動内容"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "このほか、国連食糧農業機関(FAO)は、防災情報や世界の食料情勢に関する最新の情報を提供し、また、農業生産の回復と復興の支援を行う。世界保健機関(WHO)は、栄養・伝染病の監視、エイズを含む感染症の予防、予防接種、薬品や医療器具の管理、性と生殖の健康、精神の健康など、被災者の保健に関する情報を収集・提供し、緊急援助計画を実施する。国連人口基金(UNFPA)は、混乱時にしばしば発生する妊娠に関する死亡、性的暴力などに対応し、リプロダクティブ・ヘルスを保護する。国連開発計画(UNDP)は、自然災害の緩和、予防、事前対策などの活動を調整するほか、元戦闘員の動員解除、地雷除去、難民・国内避難民の帰還と再統合、政府機関の復旧などの計画も支援する。",
"title": "活動内容"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "複雑な緊急事態に対しては、政府や非政府組織(NGO)、国連の諸機関が同時に対応を図ることから、これらの主体が行う援助活動を調整し、一貫した救援の仕組みを作るため、国連事務局に国連緊急援助調整官が率いる国連人道問題調整事務所(OCHA)が置かれている。24時間の監視警戒態勢を有し、自然災害等の緊急事態が発生すると12時間から24時間以内に国連災害評価調整チームを派遣することができる。また、OCHAは2006年、緊急事態に対する融資機構として国連中央緊急対応基金(英語版)(CERF)を発足させた。",
"title": "活動内容"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "国際連合は、国際法の発達への貢献という役割を果たしてきた。国際人権法、国際人道法、国際環境法、軍縮など様々な領域で多数国間条約の締結を手助けしており、国連の関与の下に成立した多数国間協定(批准する国家を法的に拘束するもの)は500件以上に上る。また、紛争の司法的解決を担う機関もある。",
"title": "活動内容"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "国連憲章は、総会が「国際法の漸進的発達と法典化を奨励すること」などの目的のために研究を発議し、勧告をすることとしている(13条)。そのために1947年に総会の付属機関として設けられたのが国際法委員会である。同委員会は、各種条約の草案作成作業を行っており、今まで、国際水路の非航行利用に関する条約(1997年総会採択)、条約法に関するウィーン条約(1969年)、外交関係に関するウィーン条約(1961年)、領事関係に関するウィーン条約(1963年)などの草案作成を行ってきた。1966年に総会によって設置された国際連合国際商取引法委員会(UNCITRAL)は、仲裁規則(1976年)、商事調停規則(1980年)、国際物品売買契約に関する国際連合条約(1980年)、各種のモデル法を作成してきた。また、「海の憲法」と呼ばれる海洋法に関する国際連合条約は、最も包括的な国際法の文書の一つである。そのほか、環境法、国際人道法、国際テロリズム対策の分野でも国連の条約が大きな役割を果たしている。",
"title": "活動内容"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "また、紛争の司法的解決に関しては、主要機関である国際司法裁判所(ICJ)が責任を負っている。1946年の設立から2007年10月までの間に、93件の判決と25件の勧告的意見を出した。国際人道法の分野では、国際刑事裁判所は国連の組織ではないが、国際刑事裁判所ローマ規程(1998年)を採択したのは国連総会が開催した外交官会議であった。このほか、安保理の補助機関として旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(1993年 - )、ルワンダ国際刑事裁判所(1994年 - )が置かれている。シエラレオネ特別法廷(2002年 - )はシエラレオネ政府と国連との協定に基づいて設置された独立の司法機関、カンボジア特別法廷(2006年 - )はカンボジア国内裁判所に国連の関与の下置かれた特別法廷である。",
"title": "活動内容"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "国連は、1945年の設立から半世紀を経過したころから、新たな時代状況に対応した国連組織の抜本的改革を求める動きが強まってきた。その中でも(1)安全保障理事会改革が最大の争点であり、そのほか(2)敵国条項の削除問題、(3)信託統治理事会の改編問題などがある。さらに国連総会を含めた国家を単位としその利害に影響される現在の意思決定方法から脱却し、世界の市民、立法者の意思が直接反映される国際連合議会会議の創設が構想されている。これらの改革には国連憲章の改正が必要である。",
"title": "国際連合改革"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "安保理は、現在、常任理事国5か国、非常任理事国10か国(発足時は6か国、1965年に増加)の合計15か国から成り、常任理事国のみ拒否権を有する。しかし、国連加盟国数が設立時の51か国から190か国以上まで増大したこと、日本の国連分担率が常任理事国である英仏ロ中の4か国合計の分担率を上回るなど財政負担の偏りが生じていることから、安保理の拡大を求める声が高まった。1995年、有識者から成る「グローバル・ガバナンス委員会」がダボス会議で国連改革の提言をまとめた報告書を発表した。そこでは、5か国(先進国から2か国、発展途上国から3か国)を拒否権なしの「常勤理事国」とし、非常任理事国を3か国程度増やし、合計23か国で安保理を構成するとの案が示された。",
"title": "国際連合改革"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "1997年3月、総会議長ラザリ・イスマイル(英語版)は、同委員会案を下敷きにしながら、常任理事国を5か国(先進国2か国、途上国3か国)、非常任理事国4か国増やし、新規の常任理事国には拒否権を与えない、敵国条項は廃棄するといった内容の改革案を各国に提示した(ラザリ案)。その新規常任理事国は、先進国からは日本とドイツ、途上国からはインド、ブラジルおよびアフリカの一国となることが暗黙の了解であった。",
"title": "国際連合改革"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "しかし、イタリアのフルチ国連大使が、ドイツの常任理事国入りを阻止するため、韓国、パキスタン、インドネシア、メキシコ、アルゼンチンなどを集めて「フルチ・コーヒークラブ」と呼ばれるグループを結成し、これに非同盟諸国も加えて、1997年12月ラザリ案を棚上げに持ち込んだ。2000年9月のミレニアム宣言では、安保理改革実現のための努力の強化が記されるにとどまった。",
"title": "国際連合改革"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "その後、アナン事務総長が2003年9月に安保理改革の再開を提唱したことによりハイレベル委員会が設置された。同委員会が2004年12月に提出した報告書では、次の2案が提示された。",
"title": "国際連合改革"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "しかし、中国・韓国がモデルAに反対し、日本とアフリカ諸国との連携・調整も順調に進まなかった結果、2005年9月の総会では、安保理改革の具体案の決定は先送りされた。敵国条項については、「国連憲章第53条、第77条および第107条における『敵国』への言及を削除することを決意する」との総会決議が採択された。また、アナン事務総長は、そのほかに総会改革、人権委員会の人権理事会への格上げ、平和構築委員会(英語版)(PBC)の設置などの機構改革を提言していた。そのうち、平和構築委員会の設置は2005年に、人権理事会への格上げは2006年に総会で決定されて形となった。",
"title": "国際連合改革"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "国連への加盟は、国連憲章に掲げる義務を受諾し、かつ国連によってこの義務を履行する意思と能力があると認められるすべての平和愛好国に開放されている。加盟は、安保理の勧告に基づいて総会が承認する(憲章4条)。憲章には加盟国の資格停止・除名の規定があるが、これまでこれらが発動されたことはない。",
"title": "加盟国"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "ほとんどの加盟国が、国連における意思決定に参加するため、ニューヨークに国連代表部を置いている。その長である外交官を常駐代表(英語版)といい、それに次ぐ者を次席代表という。なお、国連大使は常駐代表と同義ではなく、次席代表を含め複数の外交官が大使として任命されている場合がある。アメリカは5名、日本は3名、イギリスは2名の国連大使を派遣している。",
"title": "加盟国"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "2022年9月現在、国連加盟国は193か国である。設立から現在までの加盟国は以下の通りである(常任理事国は太字)。",
"title": "加盟国"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "国連の招待を受けた国際連合総会オブザーバーは総会に参加することができる。",
"title": "加盟国"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "国際連合は元々、第二次世界大戦の連合国が母体となってスタートしたものである。そのため国連憲章の53条には、第二次世界大戦で枢軸国側に立った国(特にドイツと日本)が侵略行動を行った場合には、安全保障理事会の議決に基づかずに強制行動がとれるという規定があり、また107条では旧敵国に対する行動については国連憲章に拘束されないという規定がある。この2条と敵国という語を含む77条については、1995年には国際連合総会決議50/52において敵国条項はすでに「死文化(英語: become obsolete)」しているとされ、憲章改正の際には削除するという内容を含む決議案が三か国のみ棄権という圧倒的な賛成多数で採択されている。また2005年9月15日には国連総会特別首脳会合で採択された「成果文書」には「敵国条項の削除を決意する」という決議が採択されている。ただし、国連憲章改正には総会での3分の2以上の賛成および、常任理事国すべてをふくむ安全保障理事会3分の2以上の賛成、そして3分の2以上の加盟国による批准措置が必要であり、また常任理事国の追加問題なども絡んでいるために削除には至っていない。",
"title": "問題点"
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"text": "国際連合の中でも特に権限の大きい安全保障理事会での採決には常任理事国5カ国と非常任理事国10カ国との合同での採択で決定するが、常任理事国が拒否権を発動した場合、採択は全て否決される。今まで、東西冷戦時代等を中心に採択で常任理事国が拒否権を発動し否決された場合が数多くあり国連で拒否権の在り方が問題になっている。",
"title": "問題点"
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"text": "2004年にはイラクに対する石油食料交換プログラムを利用したベノン・セバン事務次長やアナン事務総長・ガリ前事務総長の縁者が関与した大規模な不正事件が発覚した。",
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"text": "また2006年1月には国連調達をめぐる3億ドルにのぼる汚職事件が発生。国連は、関与したとされる8人の職員の勤務を一時停止にした。監査した国連内部監理室調達タスクフォースでは報告書において、「犯罪となるような誤った行動」はなかったが、「2000年にまでさかのぼり3件の調達の事例において、職権濫用と管理不行き届きがあった」としている。また、2008年には東京にある国連広報センター (UNIC) が不正経理をしていたとして国連から内部監査を受けていたことが明らかになった。しかし、日本は国連大学の建物を無償で提供しているが、その建物に入っているUNIC東京の家賃を、日本政府が国民の税金を使い国連大学に払っていることが判明した。",
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"text": "2017年、国際連合コンゴ民主共和国ミッションのスウェーデン人とアメリカ人の専門家2人が死亡する事件が発生。当初はコンゴ政府軍による警告に反して反政府組織カムイナ・ンサプのリーダーと面会しようとしたために同組織によって殺害されたとみられていたが、スウェーデンのドキュメンタリー番組Deceptive Diplomacyによって2人の殺害にコンゴ政府軍が深く関わっており、さらに国連もそれを知りながら停戦監視ミッションへのコンゴ政府との協力関係を維持したいがために黙殺し事件をもみ消そうとしていたことが判明している。同番組は国際エミー賞を受賞した。",
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"text": "国際連合は1968年に国連人権賞を制定している。またそれ以外にも国連が制定した賞、顕彰は多く存在する。一例として国連平和賞(United Nations Peace Medal)は国連によって制定された賞であるが、類似した名称や訳でも国連が無関与の賞も存在する。",
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] | 国際連合は、国際連合憲章の下で1945年10月に設立された国際機関。 第二次世界大戦の勃発を防げなかった国際連盟の様々な反省を踏まえ、1945年10月24日に51ヵ国の加盟国で設立された。主たる活動目的は、国際平和と安全の維持(安全保障)、経済・社会・文化などに関する国際協力の実現である。2021年6月の加盟国は193か国であり、現在国際社会に存在する国際組織の中では最も広範・一般的な権限と、普遍性を有する組織である。 なお英語表記の「United Nations(ユナイテッド・ネイションズ)」は第二次世界大戦中の連合国の別名と同じだが、日本では「国際連合」の訳が一般に使用されている(詳細は名称を参照)。中国語では第一次世界大戦の中央同盟国と第二次世界大戦の連合国を「同盟國」、国際連合を「联合国/聯合國」と分けて呼んでいる。フランス語でも第二次世界大戦の連合国は「Alliés de la Seconde Guerre mondiale」、国際連合は「Nations unies/Organisation des Nations unies」と分けられている。 | {{redirect2|UN|国連}}{{混同|x1=1920年から1946年まで存在した|国際連盟}}
{{Infobox UN
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{{thumbnail:begin}}
{{thumbnail:ノーベル賞受賞者|2001年|ノーベル平和賞|より良く組織され、より平和な世界のための取組みに対して<ref name="Nobel">{{Cite web |url=https://www.nobelprize.org/prizes/peace/2001/summary/ |title=The Nobel Peace Prize 2001:United Nations , Kofi Annan |publisher=Nobelprize.org |accessdate=2011-03-16}}</ref>}}
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'''国際連合'''(こくさいれんごう、'''UN'''、'''ONU'''; {{lang-ar|الأمم المتحدة}}、{{lang-zh|联合国/聯合國}}、{{lang-en|United Nations}}、{{lang-fr|Organisation des Nations unies}}、{{lang-ru|Организация Объединённых Наций}}、{{lang-es|Organización de las Naciones Unidas}})は、[[国際連合憲章]]の下で[[1945年]]10月に設立された[[国際機関]]。
[[第二次世界大戦]]の勃発を防げなかった[[国際連盟]]の様々な反省を踏まえ、1945年[[10月24日]]に51ヵ国の加盟国で設立された<ref name="gaiyo">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/unp_a/page22_001254.html 国連の概要] 外務省ホームページ</ref>。主たる活動目的は、[[国際平和]]と安全の維持([[国家安全保障|安全保障]])、[[経済]]・[[社会]]・[[文化]]などに関する国際協力の実現である<ref name="gaiyo"/><ref>[https://www.unic.or.jp/info/un/charter/purposes_principles/ 国連の目的と原則] 国連広報センターホームページ</ref>。[[2021年]]6月の加盟国は193か国であり<ref name="gaiyo" />、現在国際社会に存在する国際組織の中では最も広範・一般的な権限と、普遍性を有する組織である<ref>中谷ほか (2006:7)</ref>。
なお英語表記の「{{en|United Nations}}(ユナイテッド・ネイションズ)」は第二次世界大戦中の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]](英: [[:en:Allies of World War II|'''the Allies''']]<ref>{{Cite web|和書|title=英辞郎 on the WEB |url=https://eow.alc.co.jp/sp/search.html?q=the%20allies&pg=1 |website=eow.alc.co.jp |accessdate=2022-03-01}}</ref>、'''Allied powers'''<ref>{{Cite web |title=The Big Three |url=https://www.nationalww2museum.org/war/articles/big-three |website=The National WWII Museum {{!}} New Orleans |accessdate=2022-03-01 |language=en}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=allied powersの意味・使い方・読み方 {{!}} Weblio英和辞書 |url=https://ejje.weblio.jp/content/allied+powers |website=ejje.weblio.jp |accessdate=2022-03-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=英辞郎 on the WEB |url=https://eow.alc.co.jp/sp/search.html?q=allied%20powers&pg=1 |website=eow.alc.co.jp |accessdate=2022-03-01}}</ref>)の別名と同じだが、[[日本]]では「国際連合」の訳が一般に使用されている(詳細は[[#名称|名称]]を参照)。[[中国語]]では[[第一次世界大戦]]の[[中央同盟国]]と第二次世界大戦の連合国を「[[:zh:同盟國 (第二次世界大戰)|同盟國]]」、国際連合を「'''联合国/聯合國'''」と分けて呼んでいる<ref>{{Cite web |title=联合国の意味 - 中国語辞書 - Weblio日中中日辞典 |url=https://cjjc.weblio.jp/content/%E8%81%94%E5%90%88%E5%9B%BD |website=cjjc.weblio.jp |accessdate=2022-03-01}}</ref>。[[フランス語]]でも第二次世界大戦の連合国は「'''Alliés de la Seconde Guerre mondiale'''<ref>{{Cite book|title=Soldats allies de la seconde guerre mondiale - Collectif - FeniXX réédition numérique (R. Hirlé) - ebook (pdf) - ALIP|url=https://www.librairies-alip.fr/ebook/9782402438285-soldats-allies-de-la-seconde-guerre-mondiale-collectif/|language=fr}}</ref>」、国際連合は「'''Nations unies'''/'''Organisation des Nations unies'''<ref>{{Cite web |title=Nations Unies {{!}} Paix, dignité et égalitésur une planète saine |url=https://www.un.org/fr/ |website=United Nations |accessdate=2022-03-01 |language=fr |first=United |last=Nations}}</ref>」と分けられている。
== 概要 ==
[[画像:United Nations (Member States and Territories).svg|300px|thumb|水色は現在の国際連合の加盟国。非加盟国は[[西サハラ]]、[[パレスチナ国|パレスチナ]]、[[バチカン|バチカン市国]]。なお[[中華民国]]([[台湾]])、[[コソボ]]、[[ソマリランド]]、[[南オセチア]]、[[アルツァフ共和国]]、[[アブハジア]]などは他の加盟国の領土の一部とみなされている。]]
[[画像:United Nations Member States-1945.png|300px|thumb|水色は1945年の設立時の原加盟国、青は原加盟国の保護国や海外領土]]
国際連合は、[[第二次世界大戦]]を防ぐことができなかった[[国際連盟]]([[1919年]] - [[1946年]])の反省を踏まえ、[[アメリカ合衆国]]、[[イギリス]]、[[ソビエト連邦]]、[[中華民国]]などの[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]](the united nations)が中心となって設立した。1945年4月から6月にかけてアメリカ・[[サンフランシスコ]]で開かれた[[サンフランシスコ会議]]で[[国際連合憲章|国連憲章]]が署名され、同年10月24日に正式に発足した。
発足時の原加盟国はイギリスやソビエト連邦の構成国であった一部の国を含めた51か国であった。2023年2月現在、国際連合の加盟国数は193か国で、世界のほとんどの全地域を網羅している。最も新しい加盟国は、[[南スーダン]](2011年7月14日加盟)である<ref>{{Cite web |url=http://www.un.org/apps/news/story.asp?NewsID=39034&Cr=South+Sudan&Cr1= |title=UN welcomes South Sudan as 193rd Member State |publisher=UN News Centre|date=2011-07-14 |accessdate=2011-07-14}}</ref>。
国連の目的は国連憲章第1条に記されており、目的は次の三つである<ref>{{Cite web|和書|title=国連憲章テキスト |url=https://www.unic.or.jp/info/un/charter/text_japanese/ |website=国連広報センター |access-date=2023-02-07 |language=ja}}</ref>。
* 国際平和・安全の維持
* 諸国間の友好関係の発展
* 経済的・社会的・文化的・人道的な[[国際問題]]の解決のため、および[[人権]]・基本的自由の助長のための国際協力
[[画像:UN HQ 157652121 5b5979da9e.jpg|225px|thumb|left|[[ニューヨーク]]にある[[国際連合本部ビル|国連本部]]]]
これらの目的を達成するため、総会、安全保障理事会、経済社会理事会、信託統治理事会、国際司法裁判所、事務局という6つの主要機関と、多くの付属機関・補助機関が置かれている。加えて、15の[[専門機関]]と多くの関連機関が国連と連携して活動しており、全体として巨大かつ複雑な国連システム(国連ファミリー)を形成している<ref>{{Cite web|和書|title=国連の機構 |url=https://www.unic.or.jp/info/un/un_organization/ |website=国連広報センター |access-date=2023-02-07 |language=ja}}</ref>。
国際連合の本部は、アメリカ合衆国の[[ニューヨーク]]・[[マンハッタン島]]にある。[[国際連合本部ビル|本部ビル]]は、[[オスカー・ニーマイヤー]]を中心とした建築家国際委員会が設計したが、現在老朽化しており、新館を[[建築家]]・[[槇文彦]]が設計予定である(ただし、国際連合の資金難により計画は滞っている)。そのほか、[[ジュネーヴ]]など世界各地に事務所が置かれている。
国際連盟との間には法的な継続性がないものの、国際司法裁判所や国際労働機関(ILO)等の機関を連盟から引き継いでいる。また、旧連盟本部施設も連盟から移管されていて、部分的には継続した組織といえる。
== 名称 ==
[[ファイル:Logo_of_the_United_Nations.svg|サムネイル|280x280ピクセル|公式ロゴ]]
「{{lang-en|'''the United Nations'''}}」(連合国)という言葉が初めて用いられたのは、第二次世界大戦中、日独伊の[[枢軸国]]と対戦していた26か国がアメリカ合衆国の[[ワシントンD.C.]]に集まり、[[1942年]]1月1日、枢軸国への対決を明らかにした「[[連合国共同宣言]](ワシントン宣言)」においてである。この名称は、前日の1941年12月31日、[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]大統領が[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]首相に提案して同意を得たとされる<ref>吉田 (2003:45)</ref>。戦後の国際的な平和組織の名称としては、前述の通り1943年8月に作成された[[アメリカ国務省]]の案の中で既に使用されていたが、その後、連合国側の構想の中で使用されるようになった。一方のソ連は「'''世界連邦'''(せかいれんぽう)」という名称を提案していた。
国際連合の設立に尽力したルーズベルト大統領は、[[サンフランシスコ会議]]開幕直前である1945年4月12日に死去した。会議では、「{{lang|en|United Nations}}」という英語は複数形であり国際機構を意味するものとしては不適当ではないかとの意見もあったが、彼に対する敬意を表してこの名称を採用することが合意された。しばらくは文法上の理由から{{lang|en|United Nations Organization(UNO)}}という名称も使われたが、次第に使われなくなった<ref name="yoshida_2003:46">吉田 (2003:46)</ref>。
一方、フランス語では「機構」を示す「{{lang|fr|Organisation}}」を付して{{fr|Organisation des Nations unies}}から、「{{lang|fr|ONU}}」との略称を用いている。スペイン語({{es|Organización de las Naciones Unidas}})、イタリア語 ({{it|Organizzazione delle Nazioni Unite}}) も同様である<ref name="yoshida_2003:46" />。ドイツ語でも正式名称は{{de|Organisation der Vereinten Nationen}}であるが、通常は {{de|Vereinte Nationen}}「連合国」を用いることが多い。略称は「UN」が一般的である。
[[日本]]においては、戦争中の国家連合の名称としては「連合国」(れんごうこく)、国際機構に対しては「国際連合」(こくさいれんごう)との訳語が一般に用いられてきた。後者を軍事同盟の連合国と区別するために「国際連合」と意訳したのは外務官僚であるとされる<ref>吉田 (2003:39, 46)</ref>。ただし、連合国側も枢軸国の占領時には連合国について {{en|"the Allied Powers"}} と表記しており、{{en|"the United Nations"}} という用語を軍事的な意味で継続して使用する意思はなかった。1944年([[昭和]]19年)10月に[[ダンバートン・オークス会議]]で発表された「国際連合憲章の原案(「一般的国際機構設立に関する提案」)」を同年12月に外務省が翻訳した際には、既に「国際連合」という訳語が用いられており<ref>外務省条約局「条約集号外第18号」</ref>、その後も国際機構を指す言葉としては戦中<ref>{{アジア歴史資料センター|B02033038700}}</ref>から戦後、現在に至るまで使用されている。朝日新聞は、当時条約局事務官で、後に駐英大使を務めた[[森治樹 (外交官)|森治樹]]が名付け親だとする話を報じている{{Efn|国連本部主任広報官などを務めた吉田康彦への取材を行った結果によるもの。朝日新聞は森を知る複数の外務省OBに電話したが、経緯は分からなかったという。ちなみに、国連の前身「League of Nations」も直訳の「国家連盟」ではなく「国際連盟」と訳された。外交史料館によると、外務省で訳を検討した際、当時の欧米課長[[武者小路公共]]が思いついたという<ref name="asahi20130619">[https://digital.asahi.com/articles/TKY201306180351.html?ref=comkiji_txt_end_kjid_TKY201306180351 「United Nations」なぜ国際連合と訳す?] 朝日新聞 2013年6月19日朝刊 p.12</ref>。}}。
日本と同様に漢字を使用している[[中華民国]]([[台湾]])や[[中華人民共和国]]では「{{lang|zh-tw|聯合國}}/{{lang|zh-cn|联合国}}」が主に用いられている<ref>{{Cite web|和書|title=簡単な読み方など |url=https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/economy/yomikata.html |website=www.mlit.go.jp |access-date=2023-02-07}}</ref>。
== 歴史 ==
=== 設立に至る経緯 ===
[[画像:Yalta Conference (Churchill, Roosevelt, Stalin) (B&W).jpg|240px|thumb|国際連合の設立に主要な役割を果たした(左から)[[ウィンストン・チャーチル]]、[[フランクリン・ルーズベルト]]、[[ヨシフ・スターリン]]([[ヤルタ会談]]にて)。]]
公称では、国連の前身は[[国際連盟]]である<ref>国際連合広報局 (2009:24)</ref>。[[国際連盟]]は、1919年、国際協力を促進し、平和安寧を完成することを目的として設立された。しかし、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が参加せず、[[ソビエト連邦]]も1934年まで加盟せず、一方、日本、ドイツ、イタリアが脱退するなど、有力国の参加を欠いたこともあって、十分な力を発揮することができず、[[第二次世界大戦]]の勃発を防ぐことができなかった<ref>明石 (2006:30-31)、国際連合広報局 (2009:24)。</ref>。
[[1941年]]8月、[[カナダ]]東海岸[[ニューファンドランド島]]沖の[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|プリンス・オブ・ウェールズ]]の艦上で、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスの[[ウィンストン・チャーチル]]首相が会談し、[[大西洋憲章]]を提唱した。そこでは、第二次世界大戦後の世界に[[国際連盟]]に代わる[[国際平和機構]]を創設するとの構想が、抽象的にではあるが既に示されていた<ref>吉田 (2003:40-41)</ref>。その後、[[アメリカ合衆国国務省|アメリカ国務省]]の内部で、戦後国際機構の構想が急速に進み、[[サムナー・ウェルズ]][[アメリカ合衆国国務次官|国務次官]]の下に国際機構小委員会が設置され、1942年10月作業を開始して1943年3月には「国際機構憲章草案({{lang-en|Draft Constitution of International Organization}})」がほぼ完成していた。[[コーデル・ハル]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]がこれを練り直して、同年8月「国際連合憲章({{lang-en|The Charter of the United Nations}})草案」を完成させ、ハルは「国連の父」と呼ばれることになる<ref>Hulen, Bertram D. (1946-10-25). "Charter Becomes 'Law of Nations', 29 Ratifying It". The New York Times. p. 1.</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.nobelprize.org/prizes/peace/1945/hull/facts/ |title=Cordell Hull |accessdate=2020-07-31 |publisher=[[ノーベル財団]]}}</ref>。
同年7月、イギリスも[[ヨーロッパ]]の安全保障に力点を置いた構想を策定してアメリカに提示したが、アメリカの案は、より世界的な機構とし、安全保障だけでなく経済社会問題も扱うべきだとの考えに基づいたものであった。そして、同年8月に[[ケベック・シティー|ケベック]]で米英首脳会談が開かれたが、その時点で、米英ソ中の4国が「すべての国の[[主権]]平等に基礎を置き、大国小国を問わずすべての国の加盟のために開放される、国際の平和と安全の維持のための一般的国際機構」を創設する必要があるとの、後のモスクワ宣言の草案が既に作成されていた<ref>最上 (2005:70-72)</ref>。
[[1943年]]10月に[[モスクワ]]で開かれたアメリカ、イギリス、ソ連による外相会議で「一般的安全保障に関する4か国宣言」が出され、ほぼ草案どおりの文言で、第二次世界大戦後に国際的な平和機構を再建する必要性が訴えられた。こうして、アメリカ案に沿った国際機構の創設が連合国側の構想として公式に示されることになった<ref>最上 (2005:71)</ref>。同年の[[カイロ宣言]](米英中)、[[テヘラン会談|テヘラン宣言]](米英ソ)でも、米英ソ中の4大国が「世界の警察官」(「[[四人の警察官構想|四人の警察官]]」と呼ぶ事もある。)としての役割を果たすことが合意された<ref>吉田 (2003:41)</ref>。
これを受けて、[[1944年]]8月〜10月、[[ワシントンD.C.]]の[[ジョージタウン (ワシントンD.C.)|ジョージタウン]]にある[[ダンバートン・オークス]]・ガーデンにおいて、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中華民国の代表が会議を開き、国際連合憲章の原案(「一般的国際機構設立に関する提案」)を作成した([[ダンバートン・オークス会議]])。ここでは、加盟国全部を含む総会と、大国中心に構成される安全保障理事会の二つを主体とする普遍的国際機構を作ることが合意された<ref>明石 (2006:35-36)</ref>。
その後、[[国際連合安全保障理事会常任理事国|安保理常任理事国]]の[[国際連合安全保障理事会における拒否権|拒否権]]をどの範囲で認めるかについて、米英とソ連との交渉が続いたが、1945年2月に開催されたヤルタ会談において、大国の拒否権は[[実質事項]]のみで、手続事項には適用されないこと、[[国際紛争の平和的解決|紛争の平和的解決]]が試みられている間は当事国は表決に加わらないとの妥協が成立した<ref>明石 (2006:36)</ref>。すなわち、米英ソ中に、イギリスの希望によりフランスを加えた5か国が拒否権を有する安保理常任理事国となるという「5大国一致の原則」が合意された<ref>吉田 (2003:42-43)</ref>。
[[画像:UnitedNations.gif|thumb|left|[[サンフランシスコ会議]]の模様]]
1945年4月25日から6月26日にかけて、日本または[[ドイツ]](なお同国は会議中の5月7日に降伏した)に宣戦している連合国50か国の代表が[[サンフランシスコ]]に集まり、国際連合設立のためのサンフランシスコ会議を開いた。ダンバートン・オークス会議で作成された憲章原案に基づき審議が行われ、6月26日、50か国が国際連合憲章に署名して会議は終結した。[[ポーランド]]は会議に代表を送っていなかったが、その後国連憲章に署名し、原加盟国51か国の一つとなった。そして、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中華民国およびその他の署名国の過半数が[[批准]]した1945年10月24日に、国際連合が正式に発足した<ref>明石 (2006:37)、国際連合広報局 (2009:24-25)。</ref>。10月24日は[[国際デー|国連デー]]として各国で記念されている<ref>国際連合広報局 (2009:25)</ref>。
=== 設立後と冷戦 ===
[[ファイル:Trygve_Lie_1938.jpg|サムネイル|初代国連事務総長の[[トリグブ・リー]]]]
1946年から[[1953年]]までの間、初代事務総長を務めたのは'''[[トリグブ・リー]]'''([[ノルウェー]]出身)であった。その任期中には[[パレスチナ問題]]が顕在化し、[[1947年]]11月29日の総会で[[パレスチナ分割決議]]がなされたが、翌[[1948年]]から[[第一次中東戦争]]に至った。[[国際連合休戦監視機構]](UNTSO)が派遣され、事実上初の[[国際連合平和維持活動|国連平和維持活動]] (PKO) となった。
1950年には[[朝鮮戦争]]が勃発し、安全保障理事会でのソ連不在の間に米国を中心に「[[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍]]」が派遣される事態となった<ref>明石 (2006:167-68)</ref>。国連の目指した[[集団安全保障]]は、東西[[冷戦]]の狭間で、機能不全に陥った<ref>吉田 (2003:28)</ref>。一方、1948年に[[世界人権宣言]]が総会で採択され、1951年には[[難民条約]]が採択されて[[国際連合難民高等弁務官事務所|国連難民高等弁務官事務所]](UNHCR)が発足するなど、安全保障以外の面での活動も始まっていった。
1953年から[[1961年]]までの第2代事務総長'''[[ダグ・ハマーショルド]]'''([[スウェーデン]]出身)の任期中にも、パレスチナ問題は再燃し、1956年の停戦違反を機にスエズ危機([[第二次中東戦争]])に至った。安保理は英仏の拒否権により機能停止に陥ったが、事務総長のリーダーシップにより、総会決議に基づいて[[第一次国際連合緊急軍|第一次国連緊急軍]](UNEFI)が派遣され、これが初の正式なPKOとなった<ref>明石 (2006:168-71)</ref>。他方、1953年の[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]米大統領による国連総会での[[平和のための原子力]]演説を契機として、1957年[[国際原子力機関]](IAEA)が発足した。1956年には、[[日本]]も国連加盟を果たした{{Efn|日本国内では加盟の際に[[恩赦]]が行われ、造船産業に関する[[造船疑獄|政治資金規正法違反]]で起訴されていた元[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]][[幹事長]]の[[佐藤栄作]]が免訴されている。}}。
ハマーショルド事務総長の手腕はソ連圏を除く加盟国から絶大な信頼を得、非加盟国である[[中華人民共和国]]を1955年に訪問して朝鮮戦争で捕虜となっていた国連軍兵士の釈放交渉を成功させ<ref>Sze, Szeming (December 1986). Working for the United Nations: 1948–1968. Pittsburgh: University of Pittsburgh. p. 20.</ref>、1958年の[[レバノン]]事件、[[タイ王国|タイ]]と[[カンボジア]]の紛争、[[ラオス]]問題などで緊張緩和に努め、「国連のプレゼンス」という言葉が国際外交で常用語となった。1960年の[[コンゴ動乱]]ではPKOとして[[国際連合コンゴ活動|国連コンゴ活動]]が展開され、事務総長も調停に努めたが、1961年9月、事務総長は任務遂行中に[[北ローデシア]](現:[[ザンビア]])の飛行機事故で死亡した<ref>明石 (2006:171-73)</ref>。
1961年から[[1971年]]まで第3代事務総長を務めたのは'''[[ウ・タント]]'''([[ビルマ]]出身)である。これに先立つ1960年の[[植民地独立付与宣言]](総会決議)に象徴されるように、1960年代には多くの[[植民地]]が独立を果たし、次々と国連に加盟した。1961年、第1回非同盟諸国会議が開かれ、米ソいずれの陣営にも属しない[[非同盟運動|非同盟諸国]]が国連の多数派として出現し、1965年には加盟国の約7割に達した<ref>最上 (2005:141)</ref>。1962年には[[ジョン・F・ケネディ]]大統領と[[ニキータ・フルシチョフ]]最高指導者の政権下で[[キューバ危機]]が発生した。第二次世界大戦後のなかで最も米ソの[[核戦争]]([[第三次世界大戦]])開戦一歩手前までの緊張状態に陥った。
[[ファイル:P-2H_Neptune_over_Soviet_ship_Oct_1962.jpg|サムネイル|アメリカ合衆国の[[軍用機]]とソ連の[[貨物船]]([[キューバ危機]])]]
キューバ危機によって、世界各国にかつてないほどの混乱を招いた。国連では緊急安保理特別会合が午後に開かれ、ウ・タント事務局長は、米ソ両国に書簡を送り自制を求め、核戦争(第三次世界大戦)勃発へのエスカレーションは回避された。この一連の危機の経験は後世の核戦争回避への大きな教訓とされ、2つの国の政府首脳間を結ぶ緊急連絡用の直通電話[[ホットライン]]がソ連とアメリカ間に初めて設置された。そして翌年8月に[[部分的核実験禁止条約]]が締結された。
1964年、第1回[[国際連合貿易開発会議|国連貿易開発会議]](UNCTAD)が開かれ、そこで途上国による[[77ヶ国グループ]](G77)が結成された。77ヶ国グループは、その後も構成国を増やし、国連での投票等で一致した行動をとることによって先進国に対抗する大きな力を有するに至っている<ref>カウフマン (1983:96, 131-33)</ref>。
ウ・タント事務総長も、非同盟主義に共鳴する立場から、冷戦下において[[東側諸国|東側]]([[共産主義]])と[[西側諸国|西側]]([[資本主義]])が持つ[[イデオロギー]]性を批判し、1965年から1975年間に行われた[[ベトナム戦争]]をめぐって[[リンドン・ジョンソン]]米大統領と距離を置くとともに、途上国の開発の問題を訴えた<ref>明石 (2006:173-76)</ref>。また、ベトナム戦争中の[[アメリカ軍]]の非人道的な出来事([[クラスター爆弾]]、[[ナパーム弾]]、[[枯葉剤]]を使用)により、世界がアメリカ合衆国への不信感が際立った。同時期、非同盟諸国を中心に英仏などの西側、ソ連などの東側の賛成も得て[[アルバニア決議]]が採択されて[[中華民国]]が追放され、同国と対立する[[中華人民共和国]]に常任理事国が交代した。
彼の任期中には、[[1963年]]に初の核軍縮条約である[[部分的核実験禁止条約]](PTBT)が署名され(同年発効)、1968年に[[核拡散防止条約|核不拡散条約]](NPT)が総会で採択される(1970年発効)など、核[[軍縮]]への取り組みも始まった。また、彼は[[宇宙船地球号]]を掲げて<ref>http://www.wowzone.com/mc-lee.htm</ref>地球環境問題にも取り組み、[[アースデー]]の制定と後の[[国際連合人間環境会議|国連人間環境会議]]の開催決定や[[国際連合環境計画|国連環境計画]](UNEP)設立決定に関わる<ref>DeSombre, Elizabeth (2006). Global Environmental Institutions .Rutledge. pp. 22–23.</ref><ref>Lewis, Terrance L. (2012). "U Thant". Salem Press Biographical Encyclopedia:Research Starters . Salem Press.</ref><ref>Strong, Maurice; Introduction by Kofi Annan (2001). Where on Earth are We Going? (Reprint ed.). New York, London: Texere. pp.120–136. ISBN 1-58799-092-X.</ref>など国連は新しい任務を負うこととなった。
[[1972年]]から[[1981年]]までの第4代事務総長'''[[クルト・ヴァルトハイム]]'''([[オーストリア]]出身)の任期中には、[[1973年]]の[[第四次中東戦争]]とそれに対する[[第二次国際連合緊急軍|第二次国連緊急軍]](UNEF II)の派遣、[[キプロス問題]]の再燃などがあった<ref name="akashi_2006:176-78">明石 (2006:176-78)</ref>。[[ゴラン高原]]方面については、[[1974年]]より[[国際連合兵力引き離し監視軍]](UNDOF)が設置された。
1973年には[[国際連合大学]]が日本の[[東京都]]・[[渋谷区]]に、1980年には[[国連平和大学]]が[[コスタリカ]]に大学を設立、両大学は国連システムおよび[[国際連合加盟国|国連加盟国]]の[[シンクタンク]]としての機能を持つ。社会経済開発分野では、[[南北問題]]も深刻化し、[[石油輸出国機構]](OPEC)による石油禁輸([[オイルショック]])、1974年の国連資源特別総会の開催に見られるように[[資源ナショナリズム]]が高揚した。1981年の[[カンクン]]での南北サミットでは事務総長の努力にもかかわらず南北関係が好転しなかった<ref name="akashi_2006:176-78" />。
[[1982年]]から[[1991年]]までの第5代事務総長'''[[ハビエル・ペレス・デ・クエヤル|ハビエル・デクエヤル]]'''([[ペルー]]出身)の任期中には、[[イラン・イラク戦争]]、[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン紛争]]、[[ナミビア]]内戦、[[アンゴラ内戦]]などがあり、国連のあっせん・仲介で停戦など一定の成果が上がった<ref name="yoshida_2003:29">吉田 (2003:29)</ref>。1982年には[[先住民作業部会]]が設立されるなど[[先住民]]の[[人権]]及び基本的な自由の促進と保護を重視されるようになった。1988年には将来的な米ソの核戦争回避を行うために[[中距離核戦力全廃条約]]を締結した。1989年には[[ベルリンの壁]]崩壊による[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の崩壊と[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]によるドイツ再統一、[[東欧革命]]などの一連の出来事によって[[冷戦]]の終結した。
1991年7月には共産主義国の国際軍事同盟の[[ワルシャワ条約機構]]が解散、12月には[[ソビエト連邦の崩壊]]によって独立した[[独立国家共同体]](CIS)、[[バルト三国]]の国家が国連に加盟した。東側諸国の影響力低下により、事実上のアメリカ合衆国一強時代となった。また、ソビエト連邦([[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]])の後継国として[[ロシア|ロシア連邦]]が常任理事国になった。安保理の平和維持機能が復活し、1991年の[[湾岸戦争]]では安保理の[[武力行使容認決議]]に基づき[[多国籍軍]]が派遣された<ref name="yoshida_2003:29" />。
[[1992年]]から[[1996年]]までの第6代事務総長'''[[ブトロス・ブトロス=ガーリ|ブトロス・ガリ]]'''([[エジプト]]出身)の任期中には、カンボジア、[[ソマリア]]、[[ルワンダ]]、[[ボスニア]](旧[[ユーゴスラビア]])、[[モザンビーク]]などに次々PKOが派遣され、ガリ事務総長が1992年の『[[平和への課題]]』と題する報告書で訴えたとおり、PKOに平和執行部隊としての機能も期待された。しかし、一定の成果を上げたカンボジアやモザンビークと異なり、ソマリア、ルワンダ、ボスニアではPKOは十分な役割を果たすことができなかった<ref>明石 (2006:179-82)</ref>。
社会経済開発の分野では1992年、[[リオデジャネイロ]]で[[環境と開発に関する国際連合会議]](地球サミット)が開かれ、「[[持続可能な開発]]」の理念が普及した。1994年、[[国際連合開発計画|国連開発計画]](UNDP)が年次報告書で「[[人間の安全保障]]」という理念を提唱した。その他には[[1996年]]9月に[[包括的核実験禁止条約]]が国際連合総会によって採択されたが、未だに発効してない。[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)は[[核拡散防止条約]]からの脱退を表明したことで[[国際連合安全保障理事会|国連安保理]]が北朝鮮への制裁を検討する事態となった。
=== 21世紀 ===
[[ファイル:Kofi_Annan.jpg|サムネイル|第7代事務総長を務めた[[コフィー・アナン]]。在任中の2001年にはより平和な世界のための取組みに対して[[ノーベル平和賞]]を授与された。]]
[[1997年]]から[[2006年]]まで第7代事務総長を務めた'''[[コフィー・アナン]]'''([[ガーナ]]出身)は、国連の行政改革に取り組み、縦割りを是正するため執行委員会の設置などを行った<ref>明石 (2006:184)</ref>。彼の任期中には、1998年に[[国際刑事裁判所]](ICC)設立のための[[国際刑事裁判所ローマ規程|ローマ規程]]が採択されたり(2003年発足)、[[2000年]]の[[ミレニアム]]記念総会([[国連ミレニアム・サミット|ミレニアム・サミット]])で途上国の開発目標などを定める[[国連ミレニアム宣言]]が採択されたりした。国連ミレニアム宣言は、8つの章と32の主要目標からなり、サミットにおいて189ヶ国の世界の首脳によって採択された。
[[2001年]]、国連はアナン事務総長とともに[[ノーベル平和賞]]を受賞した<ref name="Nobel" />。もっとも、[[イラク]]民衆救済のための[[石油食料交換プログラム]](1995年-2003年)に関し、国連事務局幹部の不祥事が後に発覚し、アナンの息子が勤めていた会社と国連との不透明な関係も指摘されるなど、事務総長自身の廉潔性も問われることとなった<ref>明石 (2006:185-86)</ref>。2001年9月には[[アメリカ同時多発テロ事件]]、2004年には[[マドリード列車爆破テロ事件]]が発生した。[[戦争|国家間との戦い]]の減少に伴い、[[アルカーイダ]]や[[イスラム国家|イスラム国]]などの[[対テロ戦争|テロとの戦い]]へと変化していった。平和を目指すという名目では国際連合はかつての連盟と違い、機能を果たす機能をしていた。
2002年3月には[[北大西洋条約機構]](NATO)率いる[[国際治安支援部隊]](ISAF)のほか、国際機関(IGO)及び[[非政府組織]](NGO)等と連携して[[国連アフガニスタン支援ミッション]]を設立した。同年、[[永世中立国|永世中立]]を宣言する[[スイス]]などが国連に加盟した。国連に加盟するのに半世紀もの時間と議論を有したことになる<ref>{{Cite web|和書|title=10年前、やっと国連加盟したスイス |url=https://www.swissinfo.ch/jpn/%EF%BC%91%EF%BC%90%E5%B9%B4%E5%89%8D-%E3%82%84%E3%81%A3%E3%81%A8%E5%9B%BD%E9%80%A3%E5%8A%A0%E7%9B%9F%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9/32220006 |website=SWI swissinfo.ch |accessdate=2022-01-09 |language=ja |first=アルマンド・モンベリ, (仏語からの翻訳・編集 |last=里信邦子)}}</ref>。
[[21世紀]]に入り、安全保障理事会の承認がない対外的な軍事力の行使は常に批判されるが、安全保障理事会の常任理事国であるアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国の五大国の軍事力の行使は、国際社会や国際連合にそれを抑止する力がないので、だれにも抑止できない状態である。また、ソビエト連邦に変わって、台頭してきた中華人民共和国とアメリカの対立([[新冷戦]])が目立つようになった。
[[ファイル:UN_Members_Flags2.JPG|サムネイル|国連にある世界各国の国旗]]
2007年から2016年まで'''[[潘基文]]'''([[大韓民国|韓国]]出身)が第8代事務総長を務めた。2007年に[[先住民族の権利に関する国際連合宣言]]を行った。国連広報官は「同宣言は国際的な法律基準のダイナミックな発展を意味し、また国際連合の加盟国の関心や関与が一定の方向に動いたことを示した」 と発言。先住民をジェノサイドを行ってきた歴史を持つアメリカ合衆国や[[オーストリア]]、[[カナダ]]、[[ニュージーランド]]が反対、日本などは賛成を応じた。
2011年には[[東日本大震災]]([[東北地方太平洋沖地震]])によって被害を受けた日本に対して、国連が[[東日本大震災に対する日本国外の対応|世界各国に援助]]を求めた<ref>{{Cite web|和書|title=-東日本大震災-国連は日本を応援しています (4月20日現在) |url=https://www.unic.or.jp/news_press/features_backgrounders/1754/ |website=国連広報センター |accessdate=2022-02-11 |language=ja}}</ref>。同年、[[国際連合安全保障理事会決議1973]]に基づいて[[北大西洋条約機構|NATO]]諸国は[[2011年リビア内戦|リビア内戦]]に介入、 3月19日に[[オデッセイの夜明け作戦|米英仏を中心とする軍事介入]]が行われるに至った。結果的に[[反カダフィ勢力]](アメリカ合衆国側)の勝利となった。
[[ファイル:António_Guterres_-_2019_(48132270313)_(cropped).jpg|サムネイル|第9代事務総長[[アントニオ・グテーレス]]]]
[[2017年]]、第9代事務総長'''[[アントニオ・グテーレス]]'''([[ポルトガル]]出身)が就任した<ref>{{Cite news |title=New UN chief Guterres pledges to make 2017 'a year for peace' |newspaper=UN News Centre |date=2017-01-01 |url=https://news.un.org/en/story/2017/01/548762-new-un-chief-guterres-pledges-make-2017-year-peace#.WGlQRvmLSM8 |accessdate=2017-01-01}}</ref>。2019年には中国の影響力が増大した影響で米ソ間で締結した中距離核戦力全廃条約を[[ドナルド・トランプ]]大統領が破棄した<ref>{{Cite web|和書|title=トランプ米大統領:核廃棄条約の破棄の意向表明-露が違反と主張 |url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2018-10-21/PGYE826JTSE901 |website=Bloomberg.com |accessdate=2022-02-25 |language=ja}}</ref>。国連は再び核への緊張と抑止に晒される事になる。
2020年代に入ると、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]([[SARSコロナウイルス2]])が[[国・地域毎の2019年コロナウイルス感染症流行状況|世界的に流行]]([[パンデミック]])した事をきっかけに声明と各国にコロナ対策や気候変動等の緊急課題を発表した<ref>{{Cite web|和書|title=国連事務総長 5つの緊急課題 新型コロナや平和の構築など |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220122/k10013444511000.html |website=NHK NEWS WEB |accessdate=2022-02-12 |language=ja}}</ref>。国連の専門機関である[[世界保健機関]]の[[テドロス・アダノム]]事務総長とアメリカのドナルド・トランプ大統領が対立、アメリカ合衆国は世界保健機関からの脱退を表明した<ref>{{Cite web|和書|title=トランプ米政権、WHO脱退を国連に正式通告 コロナ禍のなか |url=https://www.bbc.com/japanese/53330702 |website=BBCニュース |date=2020-07-08 |accessdate=2022-02-27 |language=ja}}</ref>。
2022年にはアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国の[[核保有国の一覧|核保有国]]が「[[核戦争]]に勝者なし」と声明を発表し、核戦争回避と軍縮に向けた異例の共同声明 <ref>{{Cite web|和書|title=核戦争回避への声明を歓迎 国連事務総長「今後に期待」:東京新聞 TOKYO Web|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/152284|website=東京新聞 TOKYO Web|accessdate=2022-01-04|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=5大国「核戦争に勝者なし」 軍縮停滞で厳しい視線、批判かわす狙い|url=https://mainichi.jp/articles/20220104/k00/00m/030/047000c|website=毎日新聞|accessdate=2022-01-04|language=ja}}</ref>を発表しグテーレス事務総長は歓迎したが、同時にロシアと[[ウクライナ]]情勢悪化によって、大規模な大戦が勃発する可能性があるとしアメリカとロシアが国連緊急会合を行った<ref>{{Cite web|和書|title=ウクライナ情勢めぐり国連安保理が緊急会合 米ロが激しい応酬 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220201/k10013459911000.html |website=NHK NEWS WEB |accessdate=2022-02-11 |language=ja}}</ref>。
同年2月21日、ロシアは国連憲章に反して[[ドネツク人民共和国]]と[[ルガンスク人民共和国]]を国家承認、国際社会から凄まじい批判をうけた<ref>{{Cite web|和書|title=露下院、親露派の「国家承認」案を可決 法的拘束力なし |url=https://www.sankei.com/article/20220215-4NTOCBWJYFOWJMAHA7SQTYDKRY/ |website=産経ニュース |date=2022-02-15 |accessdate=2022-02-24 |language=ja |first=小野田 |last=雄一}}</ref>。3日後の2月24日、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアはウクライナに全面侵攻]]([[ロシア・ウクライナ危機 (2021年-2022年)|ロシア・ウクライナ危機]])した。国連では緊急会合が開かれ、グテーレス事務総長は涙ながらロシアに自制を求めたが、10分後にはロシアの[[ウラジーミル・プーチン|プーチン大統領]]はウクライナへの全面侵攻を宣言をした<ref>{{Cite web|和書|title=国連・安保理は“機能不全”露呈 グテーレス事務総長、涙浮かべプーチン大統領に呼びかけ |url=https://news.ntv.co.jp/category/international/990bfcaac3aa4293a110785df3272c4c |website=日テレNEWS |accessdate=2022-02-24 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「攻撃やめて」国連事務総長が訴えた10分後、プーチン氏が侵攻宣言 |url=https://mainichi.jp/articles/20220224/k00/00m/030/195000c |website=毎日新聞 |accessdate=2022-02-24 |language=ja}}</ref>。[[2014年クリミア危機|クリミア半島併合]]などを2014年に行ったが核保有をしている常任理事国が非核保有の独立国への全面侵攻する事は異例である。プーチン大統領は「ロシアには大量の[[核兵器]]がある。ロシアに対して邪魔をすれば敗北と悲惨かつ壊滅的な被害になる」と核戦争(第三次世界大戦)及び核攻撃への突入にも辞さない事を発表<ref>{{Cite web|和書|title=露プーチン大統領「わが国を攻撃すれば悲惨な結果に」核の威嚇繰り返す - 社会 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/general/news/202202250000913.html |website=nikkansports.com |accessdate=2022-02-25}}</ref>、世界各国を脅し、ウクライナへの軍事支援を牽制した。[[G7]]各国や[[NATO]]諸国率いる西側諸国はロシアへの大規模な制裁を行っている<ref>{{Cite web|和書|title=日本政府、ベラルーシ制裁を検討…米国の表明受け : 政治 : ニュース : 読売新聞オンライン |url=https://www.yomiuri.co.jp/politics/20220225-OYT1T50326/amp/ |website=www.yomiuri.co.jp |accessdate=2022-02-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=首相、ロシアへの追加制裁発表 金融機関の資産凍結など |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA2508Y0V20C22A2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2022-02-25 |accessdate=2022-02-25 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=アメリカは「痛み覚悟」の経済制裁を発動できるか {{!}} アメリカ |url=https://toyokeizai.net/articles/-/515052 |website=東洋経済オンライン |date=2022-02-25 |accessdate=2022-02-25 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=岸田首相 対ロシア追加制裁公表 資産凍結や半導体輸出規制など |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220225/k10013500511000.html |website=NHK NEWS WEB |accessdate=2022-02-25 |language=ja}}</ref>が、軍事増援は核戦争(第三次世界大戦)勃発する可能性が高いため(武器・防具の供与を除き)現在も行っていない。
また、常任理事国であるロシアは核及び拒否権を所持しているため、第二次世界大戦前の国際連盟と同じく、国際連合及び国連安全保障理事会も機能不全に陥っている<ref>{{Cite web|和書|title=緊急会合中に侵攻判明 国連安保理 機能不全露呈 {{!}} 山陰中央新報デジタル |url=https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/169007 |website=緊急会合中に侵攻判明 国連安保理 機能不全露呈 {{!}} 山陰中央新報デジタル |accessdate=2022-02-25 |language=ja}}</ref>。国際ハッカー集団の「[[アノニマス (集団)|アノニマス]]」がTwitterにてロシアへ宣戦布告をした<ref>{{Cite web|和書|title=「ロシア政府に対抗作戦を行う」──ハッカー集団Anonymousが声明 サイバー攻撃を示唆(要約) |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2202/25/news174.html |website=ITmedia NEWS |date=2022-02-25 |accessdate=2022-02-26 |language=ja}}</ref>。
侵攻から数日後、[[ウクライナ軍]]の激しい抵抗により[[ロシア連邦軍]]は苦戦していることをきっかけにプーチン大統領は再び核の使用を匂わせる言及を行い、ロシアは国際社会(特に先進各国ら)から孤立した。[[ウォロディミル・ゼレンスキー]][[ウクライナの大統領|大統領]]はグテーレス事務総長にロシアの[[国際連合安全保障理事会常任理事国|常任理事国]]の権利の剥奪を要求している<ref>{{Cite web|和書|title=ウクライナ大統領、露の安保理投票権剥奪訴え 国連事務総長に |url=https://www.sankei.com/article/20220227-IP7LMHRM7BKBPP4JUE7MTG67YM/ |website=産経ニュース |accessdate=2022-02-27 |language=ja}}</ref>。3月にはグテーレス事務総長は核戦争(第三次世界大戦)が起こる可能性が高いことを発表した<ref>{{Cite web|和書|title=「核戦争の可能性ある」国連事務総長が危機感 ウクライナに追加支援 [ウクライナ情勢]:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/amp/articles/ASQ3H421HQ3HUHBI012.html |website=www.asahi.com |accessdate=2022-03-16}}</ref>。
事態の悪化に伴い現在、各国は緊張状態に走っている。
== 機関 ==
{{See also|国際連合機関}}
国際連合は、6つの主要機関と、その下に置かれた付属機関・補助機関から成る。また、国際連合と連携関係を持ち、独立した専門機関、関連機関もある。こうした諸機関を総称して'''国連システム'''(国連ファミリー)という<ref name="koho_2009:49">国際連合広報局 (2009:49)</ref>。
[[ファイル:UN_HQ_157652121_5b5979da9e.jpg|サムネイル|[[国際連合本部ビル]]([[ニューヨーク]])]]
[[ファイル:Vereinte_Nationen_in_Wien.jpg|サムネイル|[[ウィーン]]にある国連ビル]]
=== 主要機関 ===
国際連合の主要機関として、総会、[[国際連合安全保障理事会|安全保障理事会]]、[[国際連合経済社会理事会|経済社会理事会]]、[[国際連合信託統治理事会|信託統治理事会]]、[[国際司法裁判所]]、[[国際連合事務局|事務局]]の6つの主要機関を設けている<ref>国際連合広報局 (2009:28)</ref>。
==== 総会 ====
{{See also|国際連合総会}}
[[画像:UN meeting on environment at General Assembly.jpg|225px|thumb|left|総会議事堂]]
[[国際連合総会|総会]]は、全加盟国で構成され、国連の関与するすべての問題を討議する。各国が1票の表決権を有し、重要問題については3分の2、一般問題については過半数で決する[[多数決]]制が取られている。[[国際連合総会決議|総会の決議]]は加盟国または安全保障理事会に対する勧告をすることができることにとどまり、法的拘束力を持たない。しかし、重要な国際問題に対する世界の世論を示すものであり、国際社会の道徳的な権威を備えている<ref>国際連合広報局 (2009:28-31)</ref>。
総会の通常会期は、毎年9月第3週目の火曜日に始まり、翌年の9月上旬まで続く。議長は、会期ごとに、5つの地域グループから持ち回りで選ばれる。会期の始めには、全体会議(プレナリー)が開かれ、そこで各国の[[元首]]・[[政府の長]]による一般討論が行われる。その後、ほとんどの議題は分野別に次の6つの主要委員会で審議される。全体会議は決議・決定を採択した後、12月に休会に入るが、主要委員会や他の下位機関での活動は様々な形で翌年の7月ころまで続くとされている<ref>北岡 (2007:34-35)、国際連合広報局 (2009:29-30)。</ref>。
{{Col-begin}}
{{Col-2}}
* 第1委員会:軍縮と国際安全保障
* 第2委員会:[[経済]]と[[金融]]
* 第3委員会:社会、[[人道]]と[[文化]]
{{Col-2}}
* 第4委員会:特別政治問題と[[脱植民地化|非植民地化]]
* 第5委員会:[[行政]]と[[予算]]
* 第6委員会:[[法律]]
{{Col-end}}
===== 緊急特別総会 =====
{{main|国際連合緊急特別総会}}
==== 安全保障理事会 ====
[[画像:UN security council 2005.jpg|225px|thumb|安全保障理事会室]]
[[国際連合安全保障理事会|安全保障理事会(安保理)]]は、国連において国際の平和と安全に主要な責任を負う機関である。15か国で構成され、[[アメリカ合衆国]]、[[イギリス]]、[[フランス]]、[[ロシア|ロシア連邦]](1991年までは[[ソビエト連邦|ソ連]])、[[中華人民共和国]](1971年までは[[中華民国]])の5か国が常任理事国、それ以外の10か国は総会で2年の任期で選ばれる非常任理事国である<ref>国際連合広報局 (2009:31)</ref>。
各理事国は1票を有し、手続事項に関する決定は15理事国のうち少なくとも9理事国の賛成投票によって行われるが、実質事項に関する決定は、5常任理事国の同意投票を含む9理事国の賛成投票によって行われる(国連憲章27条)。すなわち、常任理事国の1か国でも反対投票を投じれば[[国際連合安全保障理事会決議|決議]]は否決されるため、常任理事国は拒否権を有していることになる。常任理事国の拒否権行使により、安全保障理事会は国際社会の平和の維持や回復のためには機能していない。すべての国連加盟国は、安保理の決定を受諾・履行することに同意しており(憲章25条)、国連の中でこのように履行義務を伴う決定をなし得るのは安保理のみである(総会等の決議は勧告的効力にとどまる)<ref>国際連合広報局 (2009:31-32)</ref>。これらの弊害が指摘され、安保理の構成や拒否権の扱いについては[[国際連合安全保障理事会改革|改革]]の議論がなされている''(後出[[#国際連合改革|国際連合改革]])''。
平和への脅威が生じると、安保理は、通常、平和的手段による合意を当事者に勧告する。自ら調査・仲介を行ったり、使節団を派遣したり、[[国際連合事務総長特別代表]]を任命したり、事務総長にあっせんを要請したりすることもある。紛争が激化すると、戦闘の拡大を防ぐため停戦命令を発することがある。さらに、[[国際連合平和維持活動|平和維持軍]]を派遣したり、[[国際連合憲章第7章|国連憲章第7章]]に基づき、[[経済制裁]]、武器禁輸、渡航禁止、集団的軍事行動などの強制措置を発動することもあり、安保理の重要な権限の一つである''(後出[[#平和と安全の維持|平和と安全の維持]])''<ref name="koho_2009:33">国際連合広報局 (2009:33)</ref>。
安全保障理事会の目的は国際社会の平和の維持と回復なのだが、国際連合設立後の現実としては、安全保障理事会の常任理事国である、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ロシア連邦、中華人民共和国の五大国と、アメリカ合衆国が常に擁護しているイスラエルの六国こそが、世界における軍事力行使の大部分を行っていて、安全の保障に反して軍事力が行使されている。
安保理の補助機関として、人道に対する罪を訴追するために設けられた[[旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所]](ICTY)、[[ルワンダ国際刑事裁判所]](ICTR)、また[[アメリカ同時多発テロ事件]]を受けて設けられた反テロリズム委員会がある<ref name="koho_2009:33"/>。
==== 経済社会理事会 ====
[[国際連合経済社会理事会|経済社会理事会(経社理、ECOSOC)]]は、経済・社会・文化・教育・保健の分野で、専門機関等を含む国連ファミリーの活動を調整するために設置された機関である。54か国で構成され、理事国は3年の任期で総会で選ばれる。各国が1票を有し、決定は過半数で行われる<ref>国際連合広報局 (2009:34)</ref>。
経社理は、年間を通じて多くの準備会議、円卓会議、市民社会メンバーとのパネル・ディスカッションなどを開催するほか、毎年7月、ニューヨークとジュネーヴで交互に4週間の実質的な会期を開く。もっとも、経済社会分野の実質的な活動は、諸計画・基金、専門機関、関連機関によって担われており、これらの機関は経社理に報告を行ったり、勧告を行ったりする<ref>国際連合広報局 (2009:34-35)</ref>。経社理のあり方については、形骸化しており決定に実効性がない、総会討議と重複している、世界銀行グループのような専門機関に対する指導力がないといった批判がある<ref>吉田 (2003:170)</ref>。
また、経社理は、資格を有する[[非政府組織]](NGO)と協議をすることができる(国連憲章71条)。2870以上のNGOが経社理と協議する地位を与えられている。NGOは特別の経験や専門知識を持ち、国連と市民社会とを結びつける貴重な存在であると考えられており、国連と提携NGOとの関係は、時代の進展とともに増大している<ref>国際連合広報局 (2009:36)</ref>。
==== 信託統治理事会 ====
[[国際連合信託統治理事会|信託統治理事会]]は、未独立の[[信託統治]]地域が自治・[[国家の独立|独立]]に向けた準備をすることができるようにすることを目的に設立された。[[1994年]]までに、すべての信託統治地域が自治または独立を達成したことから、その任務をほぼ完了したとして活動を停止した<ref>国際連合広報局 (2009:36-37)</ref>。
==== 国際司法裁判所 ====
[[画像:Peace Palace covered by the first flakes of snow of 2009.jpg|200px|thumb|left|ハーグの国際司法裁判所]]
[[国際司法裁判所]](ICJ)は、国連の主要な[[司法]]機関である(国連憲章92条)。所在地はオランダの[[デン・ハーグ|ハーグ]]である。15名の[[裁判官]]で構成され、そのうちのいずれの2人も同一の[[国籍]]であってはならない([[国際司法裁判所規程]]3条)。実際には、西欧・北米5名、東欧2名、中南米2名、アジア3名、アフリカ3名という地理的配分の原則がとられている。任期は9年で、3年ごとに5名が改選される(規程13条)<ref>中谷ほか (2006:302)</ref>。
すべての国連加盟国は自動的に国際司法裁判所規程の当事国となり(憲章93条)、ICJは同規程当事国のすべてに開放されている。国際組織や[[個人]]は当事者となることができない。もっとも、ICJが事案を審理し、'''[[判決 (国際司法裁判所)|判決]]'''を下すのに必要な[[管轄権]]を有するためには、当事国の同意がなければならない(規程36条)。判決は、出席した裁判官の過半数により決定される(規程55条)。判決は、当該紛争の当事国間において、かつ当該事件についてのみ拘束力を持つ(規程59条)。当事国は判決に従う義務がある<ref>中谷ほか (2006:303-08)</ref>。国際司法裁判所は判決を執行する能力が無いので、当事国の政府が判決に従わなければ、判決は履行されない。
そのほか、総会と安保理、また総会の許可を受けたその他の国連機関(経社理およびほとんどの専門機関など)は、いかなる法律問題についても、ICJに'''勧告的意見'''を求めることができる(憲章96条、規程65条)。国家は勧告的意見を求めることはできない。勧告的意見は、国連憲章の解釈や権限の行使の適法性などについて述べられるものが多い。勧告的意見は[[法的拘束力]]がないので、紛争を解決できた実績はない。また、裁判の強制権が無いため、裁判を申し込まれた国が拒否すれば裁判を行うことができない。
==== 事務局 ====
[[画像:António Guterres meeting with Iranian Interior Minister 01.jpg|thumb|第9代事務総長・[[アントニオ・グテーレス]]]]
[[国際連合事務局|事務局]]は、国連の日常業務を遂行する機関であり、他の主要機関に役務を提供するとともに、それらの機関が決定した計画・政策を実施する。事務総長が統括する。1年以上の契約を持つ事務局職員は約2万5530人、短期契約職員は約3万0500人である。事務総長および事務局職員は、いかなる国の政府からも、国連以外のいかなる当局からも指示を受けない(国連憲章100条)<ref>国際連合広報局 (2009:39)</ref>。
事務総長は、国連の行政職員の長であるとともに(国連憲章97条)、総会、安保理、経社理、信託統治理事会から委託される任務を遂行する(同98条)。また、国際の平和・安全の維持への脅威について、安保理の注意を促すことができる権限が与えられている(同99条)。事務総長が公的または私的に行う国際紛争の「あっせん」は最も重要な役割の1つであり、[[キプロス]]、[[東ティモール]]、[[イラク]]、[[リビア]]、[[中東]]、[[ナイジェリア]]、[[西サハラ]]などの紛争に際して行われてきた。現在の事務総長はポルトガル出身のアントニオ・グテーレスである<ref>{{Cite news |title=Taking oath of office, António Guterres pledges to work for peace, development and a reformed United Nations |newspaper=UN News Centre |date=2016-12-12 |url=https://news.un.org/en/story/2016/12/547612-taking-oath-office-antonio-guterres-pledges-work-peace-development-and-reformed#.WGlPy_mLSM_ |accessdate=2017-01-01}}</ref>。
=== 国連事務局に置かれている部局 ===
国連事務局には次のような部局が置かれている<ref>国際連合広報局 (2009:50-65)</ref>。
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* 事務総長室(OSG)
* {{仮リンク|国際連合事務局内部監査部|en|United Nations Office of Internal Oversight Services|label=内部監査部}}(OIOS)
* 法務部(OLA)
* [[国際連合政治・平和構築局|政治・平和構築局]](DPPA)
* {{仮リンク|軍縮部|en|United Nations Office for Disarmament Affairs}}(DDA)
* [[国連国際防災戦略|国際防災戦略]](ISDR)
* [[国際連合平和活動局|平和活動局]](DPO)
* フィールド支援局(DFS)
* [[国際連合人道問題調整事務所|人道問題調整事務所]](OCHA)
* [[国際連合経済社会局|経済社会局]](DESA)
* 総会・会議管理局(DGACM)
* [[国際連合グローバル・コミュニケーション局|グローバル・コミュニケーション局]](UNDGC){{efn|2019年まで「広報局」と呼ばれた。頭字語はUNDPI(The United Nations Department of Public Information)。}}
* 管理局(DM)
* [[国際連合安全保安局|安全保安局]](DSS)
* [[後発開発途上国、内陸開発途上国、小島嶼開発途上国担当上級代表事務所]](UN-OHR-LLS)
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国連の本部ビルはニューヨークにあるが、世界各地に事務所があり、その中で中心的な役割を担うのは[[国際連合ジュネーヴ事務局|ジュネーヴ事務局]](UNOG)、[[国際連合ウィーン事務局|ウィーン事務局]](UNOV)、[[国際連合ナイロビ事務局|ナイロビ事務局]](UNON)である<ref>国際連合広報局 (2009:50-51)</ref>。
=== 諸計画・基金 ===
国連システムには、次のような計画・基金が含まれる。これらは国連憲章7条2に基づいて設置された総会の補助機関であるが、それぞれ個別の予算を持っている<ref>国際連合広報局 (2009:49, 52)</ref>。1960年代から1970年代にかけて第三世界から多数加盟した国々が総会で多数派となった結果、総会決議によりUNDPをはじめとする開発関係の補助機関が設置された(そのうちUNIDOなど、いくつかは専門機関に移行した)。他の国連機関と活動内容が重複するものもあるが、統廃合は進んでいない<ref>吉田 (2003:121, 144)</ref>。
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* [[国際連合貿易開発会議]](UNCTAD)
* [[国連薬物犯罪事務所]](UNODC)
* [[国際連合環境計画]](UNEP)
* [[国際連合児童基金|国連児童基金]](UNICEF)
* [[国際連合開発計画]](UNDP)
* [[国際連合人口基金|国連人口基金]](UNFPA)
* [[国際連合難民高等弁務官事務所]](UNHCR)
* [[世界食糧計画]](WFP)
* [[国際連合パレスチナ難民救済事業機関|国連パレスチナ難民救済事業機関]](UNRWA)
* [[国際連合人間居住計画|国連人間居住計画]](UN-HABITAT)
* [[国際連合大学|国連大学]](UNU)
* [[UNウィメン|ジェンダー平等と女性のエンパワーメントのための国連機関]](UN-Women)
{{div col end}}
このほか、総会の補助機関として、いくつかの調査訓練機関などがある。
=== 専門機関 ===
専門機関は、政府間の協定によって設けられ、経済・社会等の各分野において国際的責任を有する国際組織で、かつ国連との間で連携協定を締結しているものをいう(国連憲章57条、63条)。国連ファミリーに含まれるが、国連とは別個の国際法主体性を有する、独立した国際組織である<ref>中谷ほか (2006:71)</ref>。中でも、国際金融機関である世界銀行グループとIMFは最も独立色が強く、規模も国連本体に並び、次いでWHO、FAO、ILO、UNESCOの4機関の規模が大きい。これらの専門機関が力を持つ余り、経社理が形骸化して経済社会分野の国連改革が進まないとの批判もある<ref>吉田 (2003:124-26, 142)</ref>。
現在存在する専門機関は、次の通りである<ref name="koho_2009:52-53">国際連合広報局 (2009:52-53)、{{Cite web |url=https://www.un.org/en/aboutun/structure/index.shtml |title={{lang|en|Structure and Organization}}|author=United Nations |language=英語 |accessdate=2010-11-05}}</ref>。
{{div col}}
* [[国際労働機関]](ILO)
* [[国際連合食糧農業機関]](FAO)
* [[国際連合教育科学文化機関]](UNESCO)
* [[世界保健機関]](WHO)
* [[世界銀行]]グループ
* [[国際復興開発銀行]](IBRD)
* [[国際開発協会]](IDA)
* [[国際金融公社]](IFC)
* [[多国間投資保証機関]](MIGA)
* [[投資紛争解決国際センター|国際投資紛争解決センター]](ICSID)
* [[国際通貨基金]](IMF)
* [[国際民間航空機関]](ICAO)
* [[国際海事機関]](IMO)
* [[国際電気通信連合]](ITU)
* [[万国郵便連合]](UPU)
* [[世界気象機関]](WMO)
* [[世界知的所有権機関]](WIPO)
* [[国際農業開発基金]](IFAD)
* [[国際連合工業開発機関]](UNIDO)
* [[世界観光機関]](UNWTO)
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=== 関連機関 ===
[[関連機関]]は、国連と関係を有するが、専門機関としての連携協定を結んでいない国際組織である。国連には次の関連機関がある<ref name="koho_2009:52-53"/>。
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* [[世界貿易機関]](WTO)
* [[国際原子力機関]](IAEA)
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* {{仮リンク|包括的核実験禁止条約機関準備委員会|en|Preparatory Commission for the Comprehensive Nuclear-Test-Ban Treaty Organization}}({{lang-en-short|[[:en:Comprehensive Nuclear-Test-Ban Treaty Organization|CTBTO]]}} Prep. com)<!-- [[:d:Q15211422]] -->
* [[化学兵器禁止機関]](OPCW)
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== 言語 ==
国連の[[公用語]]は、[[アラビア語]]、[[中国語]]([[普通話]]・[[簡体字]])、英語([[イギリス英語|イギリス式]])、フランス語、[[ロシア語]]、[[スペイン語]]の6言語<ref name="un_language"/>である。公式文書と公式会合での発言は、最小限これらの公用語に翻訳される。国連発足時からの公用語は、現在の言語よりアラビア語を除いた5言語であった<ref>{{Cite web |url=http://daccess-dds-ny.un.org/doc/RESOLUTION/GEN/NR0/032/53/IMG/NR003253.pdf |format=PDF |title=2(1). Rules of procedure concerning languages |publisher=国際連合 |accessdate=2013-09-14}}</ref>。アラビア語が公用語に追加されたのは、1973年の第30回総会においてである<ref>{{Cite web |url=http://daccess-dds-ny.un.org/doc/RESOLUTION/GEN/NR0/282/62/IMG/NR028262.pdf |format=PDF |title=3190(XXVIII). Inclusion of Arabic among the official and the working languages of the General Assembly and its Main Committees |publisher=国際連合 |accessdate=2013-09-14}}</ref>。
国連事務局の作業言語は、[[英語]]と[[フランス語]]である<ref name="un_language">{{Cite web |title=Official Languages |url=https://www.un.org/en/our-work/official-languages |website=United Nations |access-date=2023年6月7日 |language=en |first= |last= |publisher=United Nations}}</ref>。実質的には英語が使用されることが多い<ref>{{Cite web |title=国連でのフランス語使用拡大を、仏大統領特使が要望 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2691540 |website=www.afpbb.com |date=2010-02-06 |access-date=2010年02月06日 |language=ja |publisher=AFP BBNews}}</ref>。
国際連合本部は米国ニューヨーク市に置かれているが、国際連合で用いられている英語は[[イギリス英語]]である。日付が「{{en|24 October 1945}}」と表記されたり({{lang-en-us|October 24, 1945}})、単語のつづりが「{{lang|en-gb|organi'''s'''ation}}」など英国式になったりする({{lang-en-us|organi'''z'''ation}})。
== 財政 ==
<div class="small">
{|class="wikitable" align="right"
|+2019年から2021年の分担率上位10か国<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/unp_a/page22_003118.html |title=2019-2021年の国連予算分担率の決定 |accessdate=2020-05-03 |year=2020 |publisher='''[[日本国外務省]]'''}}</ref>
! !!国!!分担率(%)
|-
!align="right"|1
||{{USA}}||align="right"|22.000
|-
!align="right"|2
||{{CHN}}||align="right"|15.245
|-
!align="right"|3
||{{JPN}}||align="right"|8.033
|-
!align="right"|4
||{{DEU}}||align="right"|6.111
|-
!align="right"|5
||{{GBR}}||align="right"|4.375
|-
!align="right"|6
||{{FRA}}||align="right"|4.318
|-
!align="right"|7
||{{ITA}}||align="right"|3.307
|-
!align="right"|8
||{{BRA}}||align="right"|2.948
|-
!align="right"|9
||{{CAN}}||align="right"|2.734
|-
!align="right"|10
||{{RUS}}||align="right"|2.405
|}</div>
国連予算は、主に通常予算とPKO予算に分かれている<ref>北岡 (2007:24)</ref>。
通常予算は、2年が単位である。事務総長が提出し、専門家からなる行政予算問題諮問委員会が審査する。そして、総会で承認される(国連憲章17条)。2006年-07年の予算は38億ドルであった。通常予算の主な財源は加盟国からの分担金であり、分担率は専門家から成る分担金委員会の勧告に基づいて、総会が承認する。分担率は基本的に加盟国の支払能力(全世界の[[国民総生産|GNP]]に占める加盟国の割合等)を考慮して決められるが、[[2000年]]、いかなる国も分担率の上限を22%とすることが総会で決定された(なお、上限にかかるのはアメリカのみである)。[[2019年]]から[[2021年]]における上位10か国の分担率は右表の通りである。しかし、多くの加盟国が分担金を滞納しており、国連の財政状況は不安定である。[[2006年]]末現在、財政的義務を負う191加盟国のうち分担金を全額支払った国は134か国にとどまり、滞納額は3億6200万ドルに達した<ref>国際連合広報局 (2009:45-47)</ref>。例えば、アメリカは、国連の組織と業務に無駄が多いとして、分担金の支払を制限している<ref>北岡 (2007:25-28)</ref>。
[[平和維持活動|PKO]]予算は、毎年7月1日から1年間を単位とし、総会が承認する。これも加盟国の分担金によって賄われるが、通常予算よりも安保理常任理事国の分担率が高く設定されている<ref>国際連合広報局 (2009:47)</ref>。額は1990年代以降増加傾向にあり、[[2009年]]7月から2010年6月までの1年間の平和維持活動予算は約79億ドルであった<ref>{{Cite web|和書|url=http://unic.or.jp/information/budget/ |title=予算 |publisher=国際連合広報センター |accessdate=2010-11-15}}</ref>。PKO予算の滞納額も、2006年末で19億ドルに達している<ref name="koho_2009:49"/>。
なお、[[国連児童基金]](UNICEF)、[[国連開発計画]](UNDP)、[[国連難民高等弁務官事務所]](UNHCR)といった諸計画・基金や、専門機関は、それぞれ独立した予算を持っており、各国や個人からの拠出金によって財政を賄っている<ref name="koho_2009:49"/>。
== 活動内容 ==
=== 平和と安全の維持 ===
国際の平和と安全の維持は、国連の主要な目的の一つである。国連憲章は、国際の平和及び安全の維持に関する責任を安保理に負わせている(24条)。
国連は、ある国家が侵略等の重大な国際法違反を犯した場合に、国連加盟国が団結して終了させるという集団安全保障の理念の下に設立され、その手段として後述の国連軍を想定していた。しかし、米ソ冷戦の下、安保理常任理事国の拒否権に阻まれて国連軍の規定は発動されなかった。それに代わるものとして、[[北大西洋条約機構]](NATO)や[[ワルシャワ条約機構]]という地域的防衛機構が、国連憲章51条により認められた[[集団的自衛権]]を行使するという集団防衛体制が生まれた。他方で、国連総会は、[[1950年]]11月3日、安保理が「その主要な責任」を果たせない場合に、総会が軍隊の使用を含む集団的措置を勧告でき、24時間以内に緊急特別総会を招集できるとする[[平和のための結集決議]]を採択した。総会決議には安保理決議と異なり法的拘束力はないものの、今まで度々同決議に基づいて紛争地域における平和維持活動(PKO)が展開されてきた<ref>明石 (2006:117-22)</ref>。
冷戦が終結した1990年代以降は、後述の通り、PKOの役割が拡大するとともに、安保理の武力行使容認決議により多国籍軍が結成されることも多く、近年では両者の役割分担・協力関係も見られる。
==== 強制措置 ====
安保理は、「平和に対する脅威、平和の破壊、侵略行為」に対し、経済制裁等の勧告をすることができるほか(39条)、国連憲章第7章の下における'''非軍事的強制措置'''として、包括的な経済制裁や[[禁輸]]措置(武器禁輸、渡航禁止、金融規制)、外交関係の断絶などの制裁をとることができる(41条)<ref>国際連合広報局 (2009:128)、中谷ほか (2003:323-24)。</ref>。今まで、[[ローデシア紛争|独立紛争]]に関する対[[南ローデシア]]輸出入禁止(1966年、1968年)、[[アパルトヘイト]]に関する対[[南アフリカ共和国]]武器禁輸(1977年)、[[クウェート]]侵攻に関する対イラク経済輸出入禁止(1990年)、内戦における非人道的行為に関する対[[ユーゴスラビア]]輸出入禁止(1992年)、テロ防止への非協力を理由とする対[[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国|リビア]]航空機乗入れ禁止・武器禁輸(1992年)、民主政権移行の不履行を理由とする対[[ハイチ]]輸出入禁止(1993年)などが行われてきた<ref>中谷ほか (2003:324)</ref>。もっとも、経済制裁は被制裁国の弱者に大きな経済的打撃を与えるという問題があることから、個人資産の凍結や政府関係者の入国禁止など、エリート層への打撃に的を絞った「スマートな制裁」が提唱されている<ref>明石 (2006:135-36)、国際連合広報局 (2009:128-30)、中谷ほか (2003:326)。</ref>。
国連憲章第7章は、非軍事的強制措置では不十分である場合に、安保理は「必要な空軍、海軍または陸軍の行動」をとることができるとしている(42条)。すなわち、'''[[国連軍]]'''の名の下での軍事的行動をとることができる。国連軍は[[軍事参謀委員会]]の指揮下に置かれ(47条)、国連軍創設には、加盟国と国連との間に兵力提供に関する「特別協定」が締結されなければならない(43条)。しかし、現在まで特別協定が締結されたことはないため、本来の意味の国連軍が創設されたことはないといえる。朝鮮戦争の際、米国軍を中心とした「国連軍」が創設されたが、これは本来の意味の国連軍ではない<ref>中谷ほか (2006:319-20)</ref>。
現在まで、国連軍が創設されなかった代わりに、安保理による'''武力行使容認決議'''が行われてきた。1990年11月、イラクの[[クウェート侵攻]]に対し、安保理は、国連憲章第7章の下、イラクが関連諸決議を完全に履行しない場合に「クウェート政府に協力している加盟国に対して……あらゆる必要な手段を行使することを容認する」とする決議([[国際連合安全保障理事会決議678|安保理決議678]])を採択した。同決議に基づいて[[アメリカ軍|米軍]]を中心に[[多国籍軍]]が編成され、1991年1月から戦闘に入った(湾岸戦争)。その後も、1994年にハイチ軍政問題に関して、1997年に[[1997年アルバニア暴動|アルバニア暴動問題]]に関して、1999年に[[コソボ紛争]]に、同年と2006年に[[東ティモール紛争]]に、それぞれ多国籍軍の派遣が認められた。一方、2003年3月のアメリカおよびイギリスを始めとする[[有志連合]]による対イラク武力行使(イラク戦争)については、一連の安保理決議によって正当化されるかどうかについて各国の意見が分かれた。なお、こうした軍事行動は、参加国の管理の下に置かれるものであり、安保理が設立し事務総長の指揮の下に置かれるPKOとは異なる<ref>国際連合広報局 (2009:131)、中谷ほか (2003:320-21)。</ref>。
==== 平和維持活動 ====
国連が行う'''[[国際連合平和維持活動|平和維持活動]]'''(PKO)は、地域的な紛争の悪化を防ぐため、国連の権威の下になされる軍事的活動である。主に安保理決議に基づいて行われるが、総会決議(平和のための結集決議)の勧告に基づいて行われることもある。国連憲章上、PKOについて明文の規定はないが、憲章に違反するものではなく、[[国際司法裁判所]]は、1962年の「ある種の経費に関する事件」勧告的意見において、第一次国連緊急軍(UNEF I)および国連コンゴ活動(ONUC)の活動経費を国連憲章17条2項にいう「この機構の経費」に該当すると判断した上で、両活動は憲章第7章の強制行動とは性格を異にするとした。PKOは「6章半」であるという言い方をされることもある<ref>中谷ほか (2003:327-28)</ref>。
1948年、第一次中東戦争の際、[[パレスチナ]]へ[[国際連合休戦監視機構|国連休戦監視機構]](UNTSO)が派遣されて国境や停戦ラインの監視を行い、これがPKOの先駆けとなった。続いて1956年、スエズ危機(第二次中東戦争)に際して、国連総会決議に基づいて第一次国連緊急軍(UNEF I)が派遣されたのが、初の正式なPKOであった。その後もいくつものPKOが紛争地域に派遣されたが、1980年代までの冷戦下における伝統的なPKOは、軍人による軍事情勢の安定と停戦の監視を目的とするものであり、(1)当事者の合意により設立されること、(2)当事者に対して不偏性と中立を守ること、(3)武力の行使は自衛のために必要な最小限に留めること、というPKO3原則が守られてきた<ref>明石 (2006:122-23)、国際連合広報局 (2009:121)、中谷ほか (2003:328)。</ref>。
[[画像:East timor independence un2.jpg|thumb|[[東ティモール]]でのPKOに従事するオーストラリア軍兵士(2002年)]]
1990年前後に米ソ冷戦が終わったころから、PKOは、和平合意が結ばれた後の暫定的期間に、治安の維持、[[選挙]]の組織・監視、[[難民]]の帰還、戦後の復旧・復興などを行うという新しい任務を負わされるようになった。軍人以外に、専門の異なる[[文民]](軍事監視員、文民警察官、行政官、選挙専門家、難民担当官、人権専門家、復旧支援担当官、国連ボランティアなど)が多数参加するようになった。1992年-93年に派遣された[[国際連合カンボジア暫定統治機構|国連カンボジア暫定統治機構]](UNTAC、アンタック)や1992年-94年の[[国際連合モザンビーク活動|国連モザンビーク活動]](ONUMOZ)は、このような第二世代PKOの代表例であり、十分な成果を上げた<ref>明石 (2006:124-25)、中谷ほか (2003:329)。</ref>。
[[ブトロス・ガリ]]事務総長は、1992年の『平和への課題』でPKOを「平和執行部隊」として事実上の軍事的強制措置を担わせようとする構想を提案した。これを受けて、1993年-95年の[[第二次国際連合ソマリア活動|第二次国連ソマリア活動]](UNOSOM II)、1992年-95年旧ユーゴスラビアに展開した[[国際連合保護軍|国連保護軍]](UNPROFOR)、1993年-96年の[[国際連合ルワンダ支援団|国連ルワンダ支援団]](UNAMIR)は、いずれも違法行為停止のため自衛を超えて武力行使を行う「戦うPKO」としての任務を負わされた(第三世代PKO)。しかし、任務に見合う予算や兵力が与えられず、また有力国の協力が得られなかった結果、[[ジェノサイド]]などの人道的惨劇を前にしながら、実効的に対処することができなかった<ref>明石 (2006:125-27)、中谷ほか (2003:329)。</ref>。これに対して国連内部や加盟国からの反省があり、ガリ事務総長も、1995年の『平和への課題――追補』において、現状ではこうした平和執行型PKOを意図すべきではないと軌道修正した<ref>明石 (2006:126)</ref>。1990年代後半からは、PKOは紛争後の後始末という本来の任務を担当し、違法行為の停止は国連憲章第7章の下の多国籍軍が担当するという役割分担が行われるようになり、PKOと多国籍軍との間で協力や任務の引き継ぎなども行われている<ref>中谷ほか (2003:329)</ref>。
その後もPKOのあり方については様々な改革が提案されている。事務総長特別代表のラフダール・ブラヒミは、2000年8月の報告において、PKOが十分な抑止能力を備えるために必要な予算・兵力・装備を承認すべきこと、紛争や戦争の後の平和構築活動のために、必要な予算が含まれるべきことなど、PKOの見直しを提言した([[ブラヒミ報告]])<ref>明石 (2006:127-29)</ref>。また、潘基文事務総長の改革提案により、2007年6月事務局にフィールド支援局(DFS)が設置され、PKOミッションの策定、展開、持続に責任を持つこととなった。同じ事務局にある平和維持活動局 (DPKO)(現:平和活動局(DPO))は、戦略的監視や作戦上の政治的指針のような問題に集中することとなった<ref>国際連合広報局 (2009:125)</ref>。
==== 軍備管理・軍縮 ====
国連は、設立当初は、集団安全保障体制の強化に重点を置いており、[[軍備管理]]と軍縮には消極的であった。しかし、核兵器の時代が国連創設とほぼ同時に到来したこと、集団安全保障体制が機能しなかったこともあって、否応なく対応を迫られてきた。実際、1946年に総会が最初に採択した決議は、核軍縮に関するものであった。国連憲章は、「軍備縮小及び軍備規制を律する原則」等を審議する主な責任を総会に与えている(11条)。毎年、総会の第一委員会においてすべての議題が審議され、数多くの決議が採択されているほか、その下部機関である国連軍縮委員会 (UNDC) が特定の問題を取り上げて審議している。多国間軍縮交渉の常設機関であり、後述のCWCやCTBTの交渉を成功に導いてきた[[ジュネーブ軍縮会議]](CD)は、国連の枠組みの外にあるが、国連総会の勧告を考慮し、また毎年総会に報告を行う。このほか、国連事務局の軍縮部は、軍縮問題に関する総会の決定を実施する<ref>明石 (2006:136-38)、国際連合広報局 (2009:200-03)。中谷ほか (2003:342)。</ref>。
国連が特に優先的な課題としてきたのは、[[大量破壊兵器]]の問題、すなわち(1)核兵器の削減と究極的な廃絶、(2)化学兵器の廃棄、(3)生物兵器禁止の強化であった<ref>国際連合広報局 (2009:199)</ref>。(1)'''[[核兵器]]'''の封じ込めの努力は米ソの二国間条約でもある程度進展したが、1968年に[[核拡散防止条約]] (NPT) が国連総会で採択され、最も普遍的な軍縮条約となった。締約国は、国連の関連機関である[[国際原子力機関]](IAEA)の保障措置を受け入れるよう求められる。しかし、非締約国である[[イスラエル]]、[[インド]]、[[パキスタン]]による核開発問題や、締約国でも核開発疑惑のある[[イラン]]、脱退を表明した[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の問題など、条約の実効性が問題となっている。1996年には[[包括的核実験禁止条約]] (CTBT) が加盟国の圧倒的多数により採択され、署名のために開放されたが、まだ発効の目処が立っていない<ref>国際連合広報局 (2009:203-07)、中谷ほか (2003:343-45)。</ref>。(2)'''[[化学兵器]]'''に関しては、1997年に[[化学兵器禁止条約]](CWC)が発効し、国連の関連機関である化学兵器禁止機関(OCPW)が査察を行っている。(3)'''[[生物兵器]]'''については、[[生物兵器禁止条約]](BWC)が1972年に署名され、1975年に発効した。同条約には検証機構についての規定がなく、検証や履行確保の方法が課題となっている。2006年の再検討会議で、実施支援班を設置することが決められた<ref>国際連合広報局 (2009:207-08)、中谷ほか (2003:345)。</ref>。近年、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を受けて、大量破壊兵器が、テロリストなど非国家主体の手に落ちた場合の危険が認識されるようになり、総会は2002年、[[テロリスト]]が大量破壊兵器とその運搬方法を取得することを防止する措置に関する決議を採択した。また、安保理は、2004年、大量破壊兵器を開発、所有、利用等しようとする非国家主体に対していかなる支援も控えることを全加盟国に義務付けた([[国際連合安全保障理事会決議1540|安保理決議1540]])<ref>国際連合広報局 (2009:199-200)</ref>。
一方、'''通常兵器'''に関しては、[[特定通常兵器使用禁止制限条約]](残忍兵器禁止条約)が国連で採択され1983年に発効したが<ref>{{Cite web |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/arms/ccw/ccw.html |title=特定通常兵器使用禁止制限条約 |publisher=外務省 |year=2007 |accessdate=2010-11-15}}</ref>、さらに交渉が続けられた結果、[[対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約]]が1997年に採択され、1999年に発効した。これにより、[[対人地雷]]の破壊・除去が進んでいる。このほか、国連では、小型武器非合法取引の規制に向けた取組みや、国連通常兵器移転登録制度の設立を行っている<ref>国際連合広報局 (2009:209-12)</ref>。
=== 経済社会開発 ===
世界の人々の経済的・社会的福祉の実現は、国連の主要な目的の一つである。そのための開発の必要性、特に[[先進国|先進工業国]]と[[開発途上国]]との格差を埋めることの重要性は、[[1961年]]に始まった数次の[[国連開発の十年]]を機に強く表明されるようになった<ref>国際連合広報局 (2009:222)</ref>。[[1995年]]に[[コペンハーゲン]]で行われた[[世界社会開発サミット]]で、国際社会が貧困、失業、社会の崩壊といった問題と戦う必要性が訴えられたのをはじめとして、[[1990年代]]には多くの開発関係の世界会議が開催された<ref>国際連合広報局 (2009:262-63)</ref>。[[2000年]]9月の特別総会([[国連ミレニアム・サミット|ミレニアム・サミット]])で採択された[[国連ミレニアム宣言]]は、開発の問題に重点を置き、具体的な開発目標を設定した。同宣言と、1990年代の国際会議やサミットで採択された国際開発目標とを統合し、[[2015年]]までに達成すべき目標としてまとめたのが'''[[ミレニアム開発目標]]'''(MDGs)である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.undp.or.jp/aboutundp/mdg/ |title=ミレニアム開発目標(MDGs) |publisher=国連開発計画 (UNDP) 東京事務所 |accessdate=2010-11-29}}</ref>。すなわち、(1)極度の貧困と[[飢餓]]を撲滅すること、(2)普遍的な[[初等教育]]を達成すること、(3)[[ジェンダー]]の平等を推進し、女性の地位向上を図ること、(4)[[乳幼児死亡率]]を下げること、(5)[[妊産婦]]の健康を改善すること、(6)[[HIV]]/[[エイズ]]、[[マラリア]]、その他の病気と戦うこと、(7)環境の持続可能性を確保すること、(8)開発のためのグローバル・パートナーシップを推進することが目標とされた<ref>国際連合広報局 (2009:222-24)</ref>。その後、これらの目標は2015年9月の総会で採択された「[[持続可能な開発のための2030アジェンダ]]」の中核であり、[[2030年]]までに達成すべき目標として新たに設定された'''[[持続可能な開発目標]]'''(SDGs)に継承されている。
国連機関の経済社会活動を調整する主要な機関は[[国際連合経済社会理事会|経済社会理事会]]であり、その諮問機関として、専門家からなる[[国際連合開発政策委員会|開発政策委員会]]が置かれている。事務局では、経済社会局が経済社会政策の分析・調整等を行っている。国連開発計画(UNDP)は、開発途上国の開発を担当する機関であり、2005年に国連システムが開発援助活動に費やした金額は137億ドルであった<ref>国際連合広報局 (2009:225-26)</ref>。
; [[経済開発]]
: 貧困の削減については、特に[[後発開発途上国]](LDC)50か国への経済的支援が重要な課題である。1970年、総会は[[政府開発援助]](ODA)の目標をGNP(後に[[国民総所得|GNI]])の0.7%と定めたが、1990年代にODAは急減し、2002年[[メキシコ]]の[[モンテレイ (メキシコ)|モンテレイ]]で開かれた国連開発資金国際会議でこれを増加することが合意された。2006年、[[開発援助委員会]](DAC)加盟国におけるODA額は、GNI合計額の0.3%に当たる1039億ドルとなっている<ref>国際連合広報局 (2009:228-29)</ref>。国連機関の中では、国連開発計画(UNDP)がミレニアム開発目標の達成のため各国への政策助言等を行っているほか、世界銀行グループ、国際通貨基金(IMF)、国連貿易開発会議(UNCTAD)といった諸機関が、政策アドバイス、技術提供、資金提供([[融資]]等)を行っている。
; 社会開発
: 国連は健康、教育、家族計画、住宅、衛生に関する各国政府の努力を支援してきた。飢餓との戦いでは[[国際連合食糧農業機関|国連食糧農業機関]](FAO)や世界食糧計画(WFP)、教育に関しては[[国際連合教育科学文化機関|国連教育科学文化機関]](ユネスコ)、健康に関しては国連児童基金(ユニセフ)、[[国際連合人口基金]](UNFPA)、世界保健機関(WHO)など、多くの機関がこの分野に関わっている。
; 持続可能な開発
: 国連は開発によってもたらされる[[環境問題]]にも取り組んでいる。1972年にストックホルムで開かれた国連人間環境会議の終了後、国連環境計画(UNEP)が設立された。UNEPは、世界の環境状況を評価し、1983年、総会は世界環境開発委員会を設置し、同委員会は1987年の報告の中で持続可能な開発という概念を提唱した。それを踏まえた総会の要請により、1992年、リオデジャネイロで環境と開発に関する国際連合会議(地球サミット)が開かれ、地球規模の行動計画として[[アジェンダ21]]が採択された。それを受けて、総会は、同年、持続可能な開発委員会を設置した。[[2002年]]には、アジェンダの実施状況を点検するため[[ヨハネスブルク]]で[[持続可能な開発に関する世界首脳会議]]が開かれ、持続可能な開発に関するヨハネスブルク宣言が採択された。国連機関の中では、UNEPのほか、世界気象機関(WMO)、両機関が設立した[[気候変動に関する政府間パネル]](IPCC)などが、[[地球温暖化]]、[[砂漠化]]、[[生物多様性]]、[[酸性雨]]、有害廃棄物・化学物質、[[海洋汚染]]、水資源、エネルギー、[[放射能]]など、数々の環境問題に携わっている<ref>国際連合広報局 (2009:316-349)</ref>。
=== 人権 ===
[[画像:Eleanor Roosevelt UDHR.jpg|240px|thumb|[[エレノア・ルーズベルト]]が1947年から1950年まで議長を務めた[[国際連合人権委員会|国連人権委員会]]は、1948年、世界人権宣言を完成させた<ref>阿部ほか (2009:181-83)</ref>。]]
人権の国際的な保障は、国連の主要な使命の一つである。国連憲章においては、前文で「基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女……の同権とに関する信念」をうたっており、第1条でも「人種、性、言語または宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励すること」を国連の設立目的の一つとしている。この目的を達成するため、加盟国は国連と協力して「共同及び個別の行動をとることを誓約」するものとされた(55条c、56条)。また、経済社会理事会の補助機関として「人権の伸長に関する委員会」を設けることとされた(68条)。これは、[[ナチス・ドイツ]]をはじめとする[[全体主義]]国家による人権弾圧を踏まえて、人権の国際的な保障が必要と考えられたことなどによる<ref>中谷ほか (2006:215-16)</ref>。
1946年、国連憲章68条に基づいて、経社理の補助機関として国連人権委員会が設立され、憲章の人権規定を具体化する作業に着手した。その結果、[[1948年]]12月10日、国連総会は、「すべての人民にとって達成すべき共通の基準」として、'''世界人権宣言'''を採択した。同宣言は30条からなり、「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利において平等である」と述べた上(1条)、各種の[[自由権]]、[[社会権]]について規定している。ただし、総会決議であるため、国家に対する法的拘束力を持たないことを前提としていたことから、国連人権委員会は続いて条約化の作業を進めた<ref>中谷ほか (2006:216-17)</ref>。
[[1966年]]、総会は、[[社会権規約]]、[[自由権規約]]、[[市民的及び政治的権利に関する国際規約の選択議定書|自由権規約の選択議定書]]という三つの条約からなる'''[[国際人権規約]]'''を採択した。社会権規約は1976年に発効し、現在160か国が締約国となっている。自由権規約も同じ年に発効し、現在167か国が締約国となっている<ref>{{Cite web |url=https://treaties.un.org/Pages/ViewDetails.aspx?src=TREATY&mtdsg_no=IV-3&chapter=4 |title=International Covenant on Economic, Social and Cultural Rights |accessdate=2011-03-08}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://treaties.un.org/Pages/ViewDetails.aspx?src=TREATY&mtdsg_no=IV-4&chapter=4 |title=Treaty Collection:International Covenant on Civil and Political Rights |publisher=United Nations |accessdate=2010-03-08 }}</ref>。両規約は、[[民族自決権]]、天然の富及び資源に対する権利について規定しており(両規約1条1項、2項)、個人の人権だけを規定した世界人権宣言と異なる。また、個人の人権についても、世界人権宣言より詳細な規定を設けており、人権の国際的保障の仕組みにおいて、最も重要な役割を果たしている<ref>中谷ほか (2006:217-19)。</ref>。1989年には、[[市民的及び政治的権利に関する国際規約の第2選択議定書|自由権規約の第2選択議定書]](死刑廃止条約)が採択され、73か国が締約国となっている<ref>{{Cite web |url=https://treaties.un.org/Pages/ViewDetails.aspx?src=TREATY&mtdsg_no=IV-12&chapter=4|title=Treaty Collection:Second Optional Protocol to the International Covenant on Civil and Political Rights, aiming at the abolition of the death penalty |publisher=United nations |accessdate=2011-03-08}}</ref>。
そのほか、国連の枠組みの中で、個別的な人権の保障を目的として、以下のものを含め約80件の条約・宣言が採択されている<ref>国際連合広報局 (2009:358-)、中谷ほか (2006:219)。</ref>。
* [[集団殺害罪の防止および処罰に関する条約]](ジェノサイド条約、1948年)
* [[難民の地位に関する条約]](1951年)
* [[あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約]](1966年)
* [[女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約]](1979年)
* [[拷問等禁止条約|拷問およびその他の残虐な、非人道的なまたは品位を傷つける取扱いまたは刑罰を禁止する条約]](1984年)
* [[全ての移住労働者及びその家族の権利の保護に関する国際条約]](1990年)
* [[強制失踪防止条約|すべての人の強制的失踪からの保護に関する国際条約]](2006年)
* [[障害者の権利に関する条約]](2006年)
[[1993年]]、[[ウィーン]]で開かれた[[世界人権会議]]が契機となって、長年提唱されていた'''[[国際連合人権高等弁務官事務所|国連人権高等弁務官]]'''の設置が実現した。その任務は、人権の促進・保護、助言的サービスの提供、人権侵害に対する緊急の対応、侵害予防など、広範にわたる<ref>中谷ほか (2006:224)</ref>。人権高等弁務官事務所(OHCHR)は、後述の人権理事会などの人権機関の事務局を務める<ref>国際連合広報局 (2009:366)</ref>。
また、2006年、国連人権委員会を発展させる形で'''[[国際連合人権理事会|国連人権理事会]]'''が設置された。理事会は、総合的な政策ガイダンスを提供するとともに、人権問題に関する研究、新しい国際規範の発展、人権順守の監視などを行う<ref>国際連合広報局 (2009:363-65)</ref>。
=== 人道援助 ===
[[画像:UNHCR in Kenya.jpg|240px|thumb|[[ケニア]]で救援活動を行う[[国際連合難民高等弁務官事務所|UNHCR]]職員ら(2006年)]]
[[自然災害]]や、紛争を含む人為的災害により大規模な被害が生じた場合、国連機関は緊急援助や長期援助を提供してきた。
人道援助の主体となるのは、主に国連児童基金(ユニセフ)、世界食糧計画(WFP)、[[国際連合難民高等弁務官事務所|国連難民高等弁務官]](UNHCR)の3機関である。ユニセフは、水と衛生施設のような基礎サービスの再建や、学校の再開を支援し、また[[予防接種]]・医薬品の提供などを行う。2006年にユニセフは53件の緊急事態に関して人道援助を行い、その額は5億300万ドルを超えた。WFPは、国内避難民、難民、エイズ孤児、紛争や自然災害([[洪水]]、[[旱魃]]など)の犠牲者らに対して食糧等の援助を行っている。2006年には78か国で約8800万人に食糧援助を行った<ref>国際連合広報局 (2009:389, 393-94)</ref>。UNHCRは、難民の地位に関する条約(1951年)、同議定書(1967年)に基づき、難民の基本的人権が尊重されるようにし、いかなる者も強制的に送還されないようにする。また、大量の難民の移動に伴う緊急事態の際の援助や、教育・保健・住居の援助、帰還・統合・第三国での再定住などの支援を行う。さらに、近年は条約に定められた難民だけでなく、国内避難民、元難民、[[無国籍者]]、[[庇護請求者]](難民の認定を申請したがまだ結論が出ていない人々)など、広義の難民に対する緊急人道支援も行っている<ref>国際連合広報局 (2009:399-402)、中谷ほか (2003:225-27)。</ref>。なお、[[パレスチナ難民]]については[[国際連合パレスチナ難民救済事業機関|国連パレスチナ救済事業機関]](UNRWA)が支援を行っている<ref>国際連合広報局 (2009:404)</ref>。
このほか、国連食糧農業機関(FAO)は、防災情報や世界の食料情勢に関する最新の情報を提供し、また、農業生産の回復と復興の支援を行う。世界保健機関(WHO)は、栄養・[[伝染病]]の監視、エイズを含む[[感染症]]の予防、予防接種、薬品や医療器具の管理、性と生殖の健康、精神の健康など、被災者の保健に関する情報を収集・提供し、緊急援助計画を実施する。国連人口基金(UNFPA)は、混乱時にしばしば発生する妊娠に関する死亡、[[性的暴力]]などに対応し、リプロダクティブ・ヘルスを保護する。国連開発計画(UNDP)は、自然災害の緩和、予防、事前対策などの活動を調整するほか、元戦闘員の動員解除、地雷除去、難民・国内避難民の帰還と再統合、政府機関の復旧などの計画も支援する<ref>国際連合広報局 (2009:396-98)</ref>。
複雑な緊急事態に対しては、政府や非政府組織(NGO)、国連の諸機関が同時に対応を図ることから、これらの主体が行う援助活動を調整し、一貫した救援の仕組みを作るため、国連事務局に国連緊急援助調整官が率いる[[国際連合人道問題調整事務所|国連人道問題調整事務所]](OCHA)が置かれている。24時間の監視警戒態勢を有し、自然災害等の緊急事態が発生すると12時間から24時間以内に国連災害評価調整チームを派遣することができる。また、OCHAは2006年、緊急事態に対する融資機構として{{仮リンク|国際連合中央緊急対応基金|en|Central Emergency Response Fund|label=国連中央緊急対応基金}}(CERF)を発足させた<ref>国際連合広報局 (2009:389-93)</ref>。
=== 国際法の発達 ===
国際連合は、[[国際法]]の発達への貢献という役割を果たしてきた。[[国際人権法]]、[[国際人道法]]、[[国際環境法]]、軍縮など様々な領域で多数国間条約の締結を手助けしており、国連の関与の下に成立した多数国間協定(批准する国家を法的に拘束するもの)は500件以上に上る<ref>国際連合広報局 (2009:406)</ref>。また、紛争の司法的解決を担う機関もある。
国連憲章は、総会が「国際法の漸進的発達と法典化を奨励すること」などの目的のために研究を発議し、勧告をすることとしている(13条)。そのために1947年に総会の付属機関として設けられたのが[[国際法委員会]]である。同委員会は、各種条約の草案作成作業を行っており、今まで、国際水路の非航行利用に関する条約(1997年総会採択)、[[条約法に関するウィーン条約]](1969年)、[[外交関係に関するウィーン条約]](1961年)、[[領事関係に関するウィーン条約]](1963年)などの草案作成を行ってきた。1966年に総会によって設置された[[国際連合国際商取引法委員会]](UNCITRAL)は、仲裁規則(1976年)、商事調停規則(1980年)、[[国際物品売買契約に関する国際連合条約]](1980年)、各種のモデル法を作成してきた。また、「海の[[憲法]]」と呼ばれる[[海洋法に関する国際連合条約]]は、最も包括的な国際法の文書の一つである。そのほか、[[環境法]]、国際人道法、国際[[テロリズム]]対策の分野でも国連の条約が大きな役割を果たしている<ref>国際連合広報局 (2009:410-23, 426-29)</ref>。
また、紛争の司法的解決に関しては、主要機関である国際司法裁判所(ICJ)が責任を負っている。1946年の設立から2007年10月までの間に、93件の[[判決 (国際司法裁判所)|判決]]と25件の勧告的意見を出した<ref>国際連合広報局 (2009:406-07)</ref>。国際人道法の分野では、国際刑事裁判所は国連の組織ではないが、[[国際刑事裁判所ローマ規程]](1998年)を採択したのは国連総会が開催した外交官会議であった。このほか、安保理の補助機関として旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(1993年 - )、ルワンダ国際刑事裁判所(1994年 - )が置かれている。[[シエラレオネ特別法廷]](2002年 - )は[[シエラレオネ]]政府と国連との協定に基づいて設置された独立の司法機関、[[カンボジア特別法廷]](2006年 - )はカンボジア国内裁判所に国連の関与の下置かれた特別法廷である<ref>国際連合広報局 (2009:424-26)</ref>。
== 国際連合改革 ==
国連は、1945年の設立から半世紀を経過したころから、新たな時代状況に対応した国連組織の抜本的改革を求める動きが強まってきた。その中でも(1)'''[[国際連合安全保障理事会改革|安全保障理事会改革]]'''が最大の争点であり、そのほか(2)'''[[敵国条項]]'''の削除問題、(3)信託統治理事会の改編問題などがある<ref name="nakatani_2006:68">中谷ほか (2006:68)</ref>。さらに国連総会を含めた国家を単位としその利害に影響される現在の[[意思決定]]方法から脱却し、世界の市民、立法者の意思が直接反映される[[国際連合議会会議]]の創設が構想されている。これらの改革には国連憲章の改正が必要である。
安保理は、現在、常任理事国5か国、非常任理事国10か国(発足時は6か国、1965年に増加)の合計15か国から成り、常任理事国のみ拒否権を有する。しかし、国連加盟国数が設立時の51か国から190か国以上まで増大したこと、日本の国連分担率が常任理事国である英仏ロ中の4か国合計の分担率を上回るなど財政負担の偏りが生じていることから、安保理の拡大を求める声が高まった<ref name="nakatani_2006:68"/>。1995年、有識者から成る「グローバル・ガバナンス委員会」が[[ダボス会議]]で国連改革の提言をまとめた報告書を発表した。そこでは、5か国(先進国から2か国、発展途上国から3か国)を拒否権なしの「常勤理事国」とし、非常任理事国を3か国程度増やし、合計23か国で安保理を構成するとの案が示された。
1997年3月、総会議長{{仮リンク|ラザリ・イスマイル|en|Razali Ismail}}は、同委員会案を下敷きにしながら、常任理事国を5か国(先進国2か国、途上国3か国)、非常任理事国4か国増やし、新規の常任理事国には拒否権を与えない、敵国条項は廃棄するといった内容の改革案を各国に提示した('''ラザリ案''')。その新規常任理事国は、先進国からは日本とドイツ、途上国からはインド、[[ブラジル]]およびアフリカの一国となることが暗黙の了解であった。
しかし、[[イタリア]]のフルチ国連大使が、ドイツの常任理事国入りを阻止するため、韓国、パキスタン、[[インドネシア]]、メキシコ、[[アルゼンチン]]などを集めて「フルチ・コーヒークラブ」と呼ばれるグループを結成し、これに非同盟諸国も加えて、1997年12月ラザリ案を棚上げに持ち込んだ<ref>吉田 (2003:84-86)</ref>。2000年9月の[[ミレニアム宣言]]では、安保理改革実現のための努力の強化が記されるにとどまった<ref name="nakatani_2006:68"/>。
その後、[[コフィー・アナン|アナン]]事務総長が2003年9月に安保理改革の再開を提唱したことによりハイレベル委員会が設置された。同委員会が2004年12月に提出した報告書では、次の2案が提示された。
* 常任理事国を6か国、非常任理事国を3か国増員して安保理構成国を24か国とする案(モデルA)
* 任期4年で再選可能な準常任理事国を8議席新設し、非常任理事国を1か国増やす案(モデルB)
しかし、中国・韓国がモデルAに反対し、日本とアフリカ諸国との連携・調整も順調に進まなかった結果、2005年9月の総会では、安保理改革の具体案の決定は先送りされた<ref>明石 (2006:17-18)、中谷ほか (2006:68-69)、吉田 (2003:86-87)。</ref>。敵国条項については、「国連憲章第53条、第77条および第107条における『敵国』への言及を削除することを決意する」との総会決議が採択された<ref>北岡 (2007:61)</ref>。また、アナン事務総長は、そのほかに総会改革、[[国際連合人権委員会|人権委員会]]の人権理事会への格上げ、{{仮リンク|平和構築委員会|en|Peacebuilding Commission}}(PBC)の設置などの機構改革を提言していた。そのうち、平和構築委員会の設置は2005年に、[[国際連合人権理事会|人権理事会]]への格上げは2006年に総会で決定されて形となった<ref>明石 (2006:18)、北岡 (2007:51-52)。</ref>。
== 加盟国 ==
{{Main|国際連合加盟国}}
国連への加盟は、国連憲章に掲げる義務を受諾し、かつ国連によってこの義務を履行する意思と能力があると認められるすべての[[平和愛好国]]に開放されている。加盟は、安保理の勧告に基づいて総会が承認する(憲章4条)。憲章には加盟国の資格停止・除名の規定があるが、これまでこれらが発動されたことはない<ref>国際連合広報局 (2009:27)</ref>。
ほとんどの加盟国が、国連における意思決定に参加するため、ニューヨークに[[政府代表部|国連代表部]]を置いている。その長である[[外交官]]を{{仮リンク|常駐代表|en|Permanent Representative}}といい、それに次ぐ者を次席代表という<ref>北岡 (2007:13)</ref>。なお、[[国連大使]]は常駐代表と同義ではなく、次席代表を含め複数の外交官が大使として任命されている場合がある。アメリカは5名、日本は3名、イギリスは2名の国連大使を派遣している<ref>北岡 (2007:14)</ref>。
=== 現在までの加盟国 ===
[[画像:United Nations member countries world map.PNG|750px|thumb|center|加盟国の変遷]]
2022年9月現在、国連加盟国は193か国である<ref name="gaiyo"/>。設立から現在までの加盟国は以下の通りである(常任理事国は'''太字''')<ref>国際連合広報局 (2009:521-23)</ref>。
<div class="small">
{|class="wikitable"
|-style="white-space:nowrap;"
!年!!加盟国!!備考||国数
|-
!style="white-space:nowrap"|1945年<br />(原加盟国)
|{{flag|アルゼンチン}}、{{flag|オーストラリア}}、{{flag|ベルギー}}、{{flag|ボリビア}}、{{flag|ブラジル}}、{{flag|ベラルーシ}}([[ファイル:Flag of Byelorussian SSR.svg|border|25x20px]] [[白ロシア・ソビエト社会主義共和国|白ロシアSSR]])、{{flag|カナダ}}、{{flag|チリ}}、'''{{flag|中華民国}}'''、{{flag|コロンビア}}、{{flag|コスタリカ}}、{{flag|キューバ}}、{{flag|チェコスロバキア|name=チェコスロバキア}}(1993年連邦解消)、{{flag|デンマーク}}、{{flag|ドミニカ共和国}}、{{flag|エクアドル}}、{{flag|エジプト}}、{{flag|エルサルバドル}}、{{flag|エチオピア}}、'''{{flag|フランス}}'''、{{flag|ギリシャ}}、{{flag|グアテマラ}}、{{flag|ハイチ}}、{{flag|ホンジュラス}}、{{flag|インド}}、{{flag|イラク}}、{{flag|イラン}}、{{flag|レバノン}}、{{flag|リベリア}}、{{flag|ルクセンブルク}}、{{flag|メキシコ}}、{{flag|オランダ}}、{{flag|ニュージーランド}}、{{flag|ニカラグア}}、{{flag|ノルウェー}}、{{flag|パナマ}}、{{flag|パラグアイ}}、{{flag|ペルー}}、{{flag|フィリピン}}、{{flag|ポーランド}}、'''{{flag|ロシア}}'''('''{{flag|ソビエト連邦}}''')、{{flag|サウジアラビア}}、{{flagicon|ZAF}} [[南アフリカ共和国|南アフリカ]]、{{flag|シリア}}、{{flag|トルコ}}、{{flag|ウクライナ}}([[ファイル:Flag of Ukrainian SSR.svg|border|25x20px]] [[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国|ウクライナSSR]])、'''{{flag|イギリス}}'''、'''{{flag|アメリカ合衆国}}'''、{{flag|ウルグアイ}}、{{flag|ベネズエラ}}、{{flag|ユーゴスラビア}}(1992年消滅)|| style="width:15em" |
|style="text-align:right"|51
|-
!1946年
|{{flag|アフガニスタン}}、{{flag|アイスランド}}、{{flag|スウェーデン}}、{{flagicon|THA}} [[タイ王国|タイ]]||
|style="text-align:right"|55
|-
!1947年
|{{flag|パキスタン}}、{{flag|イエメン}}||
|style="text-align:right"|57
|-
!1948年
|style="white-space:nowrap;" |{{flag|ミャンマー}}(当時の呼称はビルマ)||
|style="text-align:right"|58
|-
!1949年
|{{flag|イスラエル}}||
|style="text-align:right"|59
|-
!1950年
|{{flag|インドネシア}}||
|style="text-align:right"|60
|-
!1955年
|{{flag|アルバニア}}、{{flag|オーストリア}}、{{flag|ブルガリア}}、{{flag|カンボジア}}、{{flag|フィンランド}}、{{flag|ハンガリー}}、{{flag|アイルランド}}、{{flag|イタリア}}、{{flag|ヨルダン}}、{{flag|ラオス}}、{{flag|リビア}}、{{flag|ネパール}}、{{flag|ポルトガル}}、{{flag|ルーマニア}}、{{flag|スペイン}}、{{flag|スリランカ}}||
|style="text-align:right"|76
|-
!1956年
|{{flag|日本}}、{{flag|モロッコ}}、{{flag|スーダン}}、{{flag|チュニジア}}||
|style="text-align:right"|80
|-
!1957年
|{{flag|ガーナ}}、{{flag|マレーシア}}||
|style="text-align:right"|82
|-
!1958年
|{{flag|ギニア}}||シリアとエジプト合併。
|style="text-align:right"|82
|-
!1960年
|{{flag|ベナン}}、{{flag|ブルキナファソ}}、{{flag|カメルーン}}、{{flag|中央アフリカ}}、{{flag|チャド}}、{{flag|コンゴ共和国}}、{{flag|コートジボワール}}、{{flag|キプロス}}、{{flag|ガボン}}、{{flag|マダガスカル}}、{{flagicon|MLI}} [[マリ共和国|マリ]]、{{flag|ニジェール}}、{{flag|ナイジェリア}}、{{flag|セネガル}}、{{flag|ソマリア}}、{{flag|トーゴ}}、{{flag|コンゴ民主共和国}}||
|style="text-align:right"|99
|-
!1961年
|{{flag|モーリタニア}}、{{flagicon|MNG}} [[モンゴル国|モンゴル]]、{{flag|シエラレオネ}}、{{flag|タンザニア}}||シリア再び独立国に。
|style="text-align:right"|104
|-
!1962年
|{{flag|アルジェリア}}、{{flag|ブルンジ}}、{{flag|ジャマイカ}}、{{flag|ルワンダ}}、{{flag|トリニダード・トバゴ}}、{{flag|ウガンダ}}||
|style="text-align:right"|110
|-
!1963年
|{{flag|ケニア}}、{{flag|クウェート}}||
|style="text-align:right"|112
|-
!1964年
|{{flag|マラウイ}}、{{flag|マルタ}}、{{flag|ザンビア}}||
|style="text-align:right"|115
|-
!1965年
|{{flag|ガンビア}}、{{flag|モルディブ}}、{{flag|シンガポール}}||インドネシア脱退。
|style="text-align:right"|117
|-
!1966年
|{{flag|バルバドス}}、{{flag|ボツワナ}}、{{flag|ガイアナ}}、{{flag|レソト}}||インドネシア再加盟。
|style="text-align:right"|122
|-
!1967年
|{{flag|南イエメン}}(1990年消滅)||
|style="text-align:right"|123
|-
!1968年
|{{flag|赤道ギニア}}、{{flag|モーリシャス}}、{{SWZ}}||
|style="text-align:right"|126
|-
!1970年
|{{flag|フィジー}}||
|style="text-align:right"|127
|-
!1971年
|{{flag|バーレーン}}、{{flag|ブータン}}、{{flag|オマーン}}、{{flag|カタール}}、{{flag|アラブ首長国連邦}}、'''{{flag|中華人民共和国}}'''|| style="white-space:nowrap;" |'''中華民国'''脱退。
|style="text-align:right"|132
|-
!1973年
|{{flag|バハマ}}、[[ファイル:Flag of East Germany.svg|border|25x20px]] [[ドイツ民主共和国|東ドイツ]](1990年消滅)、{{flag|ドイツ}}(当時は{{flag|西ドイツ}})||
|style="text-align:right"|135
|-
!1974年
|{{flag|バングラデシュ}}、{{flag|グレナダ}}、{{flag|ギニアビサウ}}||
|style="text-align:right"|138
|-
!1975年
|{{flag|カーボベルデ}}、{{flag|コモロ}}、{{flag|モザンビーク}}、{{flag|パプアニューギニア}}、{{flag|サントメ・プリンシペ}}、{{flag|スリナム}}||
|style="text-align:right"|144
|-
!1976年
|{{flag|アンゴラ}}、{{flag|サモア}}、{{flag|セーシェル}}||
|style="text-align:right"|147
|-
!1977年
|{{flag|ジブチ}}、{{flag|ベトナム}}||
|style="text-align:right"|149
|-
!1978年
|{{flag|ドミニカ国}}、{{flag|ソロモン諸島}}||
|style="text-align:right"|151
|-
!1979年
|{{flag|セントルシア}}||
|style="text-align:right"|152
|-
!1980年
|{{flag|セントビンセント・グレナディーン諸島}}、{{flag|ジンバブエ}}||
|style="text-align:right"|154
|-
!1981年
|{{flag|アンティグア・バーブーダ}}、{{flag|ベリーズ}}、{{flag|バヌアツ}}||
|style="text-align:right"|157
|-
!1983年
|{{flag|セントクリストファー・ネイビス}}||
|style="text-align:right"|158
|-
!1984年
|{{flag|ブルネイ}}||
|style="text-align:right"|159
|-
!1990年
|{{flag|リヒテンシュタイン}}、{{flag|ナミビア}}||[[ドイツ再統一|東西ドイツ統一]]。イエメン統合。
|style="text-align:right"|159
|-
!1991年
|{{flag|エストニア}}、{{flag|ラトビア}}、{{flag|リトアニア}}、{{flag|ミクロネシア連邦}}、{{flag|マーシャル諸島}}、{{flagicon|KOR}} [[大韓民国|韓国]]、{{flagicon|PRK}} [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、||ソビエト連邦はロシアが、白ロシアSSRはベラルーシが、ウクライナSSRはウクライナが承継。
|style="text-align:right"|166
|-
!1992年
|{{flag|アルメニア}}、{{flag|アゼルバイジャン}}、{{flag|ボスニア・ヘルツェゴビナ}}、{{flag|クロアチア}}、{{flag|ジョージア}}、{{flag|カザフスタン}}、{{flag|キルギス}}、{{flag|モルドバ}}、{{flag|サンマリノ}}、{{flag|スロベニア}}、{{flag|タジキスタン}}、{{flag|トルクメニスタン}}、{{flag|ウズベキスタン}}||事情により2つ
|style="text-align:right"|179
|-
!1993年
|{{flag|アンドラ}}、{{flag|エリトリア}}、{{flag|モナコ}}、{{flag|チェコ}}、{{flag|スロバキア}}(「[[ビロード離婚]]」により連邦解散の後両国が改めて加盟)、{{flagicon|MKD}} [[北マケドニア]](マケドニア旧ユーゴスラビア共和国)||
|style="text-align:right"|184
|-
!1994年
|{{flag|パラオ}}||
|style="text-align:right"|185
|-
!1999年
|{{flag|キリバス}}、{{flag|ナウル}}、{{flag|トンガ}}||
|style="text-align:right"|188
|-
!2000年
|{{flag|ツバル}}、{{Flagcountry|セルビア}}([[ユーゴスラビア連邦共和国]])||
|style="text-align:right"|189
|-
!2002年
|{{flag|スイス}}、{{flag|東ティモール}}||
|style="text-align:right"|191
|-
!2006年
|{{flag|モンテネグロ}}||セルビアが[[セルビア・モンテネグロ]]の議席を引き継ぐ
|style="text-align:right"|192
|-
!2011年
|{{flag|南スーダン}}||
|style="text-align:right"|193
|}</div>
=== 加盟していない国等 ===
国連の招待を受けた[[国際連合総会オブザーバー]]は総会に参加することができる。
{{See also|国家承認を得た国連非加盟の国と地域の一覧}}
; 中華民国(台湾)
: 中国については、国連設立時には中華民国([[中国国民党|国民党]])政府が代表権を有していた。しかし、冷戦下の東西両陣営における微妙な政治バランスの下で、1971年10月25日に国連総会において「[[北京]]の中華人民共和国([[中国共産党|共産党]])政府が国連に対する唯一かつ正統な代表権を有する」との決議がされ、同国と対立する中華民国政府の代表は追放された(A/RES/2758 (XXVI)、[[アルバニア決議]])<ref>{{Cite web |url=http://daccess-dds-ny.un.org/doc/RESOLUTION/GEN/NR0/327/74/IMG/NR032774.pdf |title=2758 (XXVI). Restoration of the lawful rights of the People's Republic of China in the United Nations |publisher=United Nations |format=PDF |date=1971-10-25 |accessdate=2011-07-15}}</ref>。
: 中華民国は1993年以降、国連に対し毎年加盟復活を求め続けており、2007年からは「中華民国」ではなく「[[台湾]]」の名称での新規加盟を求め、[[陳水扁]]総統が潘基文事務総長に申請書を提出したが、1971年の総会決議を理由として申請は受理されなかった。同国は、近年は各種の国連機関への加盟を優先する方針を見せている<ref>{{Cite web |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/6913020.stm |title=UN rejects Taiwan membership bid |publisher=BBC News |date=2007-07-24 |accessdate=2011-07-15}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://earthtimes.org/articles/news/281906,taiwan-stops-seeking-un-membership-turns-to-un-organizations.html |title=Taiwan stops seeking UN membership, turns to UN organizations |publisher=Earth Times |date=2009-08-19 |accessdate=2011-07-15}}</ref>。
; バチカン市国
: [[バチカン市国]]は、伝統的に国家としての法主体性を認められているが<ref>山本 (1994:134-35)</ref>、国際的な中立を維持するためとして[[国際連合総会オブザーバー|オブザーバー]]参加を選択している<ref>{{Cite web |url=https://holyseemission.org/about/history-of-diplomacy-of-the-holy-see.aspx/history-of-diplomacy-of-the-holy-see.php |title=A Short History of the Holy See's Diplomacy |publisher=The Permanent Observer Mission of the Holy See to the Untied Nations |accessdate=2011-07-15}}</ref>。
;パレスチナ
:[[パレスチナ解放機構]](PLO)は、[[1974年]]11月22日、国連総会決議でオブザーバー参加を認められた<ref>{{Cite web |url=http://daccess-dds-ny.un.org/doc/RESOLUTION/GEN/NR0/738/39/IMG/NR073839.pdf |title=3237 (XXIX). Observer status for the Palestine Liberation Organization |publisher=United Nations |format=PDF |date=1974-11-22 |accessdate=2011-07-15}}</ref>。イスラエルとの和平交渉が行き詰まる中、2011年5月には[[アラブ連盟]]がパレスチナの国家([[パレスチナ国]])としての正式加盟を求める方針を決めた<ref>{{Cite web |url=https://www.cnn.co.jp/world/30002906.html |title=アラブ連盟、パレスチナ国家の国連加盟承認を要請へ |date=2011-05-30 |accessdate=2011-07-15}}</ref>。2012年11月29日には国連総会決議で国連における資格をオブザーバー組織からオブザーバー国家に格上げすることが承認された<ref>{{Cite news |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2012113002000265.html
|title=パレスチナ 「国家」格上げ決議採択 国連総会 |work=TOKYO Web |newspaper=[[東京新聞]] |date=2012-11-29 |accessdate=2012-12-01}}</ref>。
; その他
: [[コソボ]]は、2008年2月にセルビアからの独立を宣言したが、独立の経緯から常任理事国のロシアが強く国連加盟に反対しているため、加盟の目処は立っていない。[[ソマリランド共和国]]や[[北キプロス・トルコ共和国]]などは、現在のところ国家承認をしている国が皆無または極めて少ないことから加盟には至っておらず、国家としての存在自体も認められていない。[[サハラ・アラブ民主共和国]]は、[[アフリカ連合]]諸国や[[中南米]]諸国を中心に多くの国が国家承認をしているが、正式加盟はもちろんオブザーバー参加も認められていない。
== 問題点 ==
=== 敵国条項の問題 ===
{{main|敵国条項}}
国際連合は元々、第二次世界大戦の連合国が母体となってスタートしたものである。そのため[[国連憲章]]の53条には、第二次世界大戦で枢軸国側に立った国(特にドイツと日本)が侵略行動を行った場合には、安全保障理事会の議決に基づかずに強制行動がとれるという規定があり、また107条では旧敵国に対する行動については国連憲章に拘束されないという規定がある。この2条と敵国という語を含む77条については、1995年には[[国際連合総会決議]]50/52において敵国条項はすでに「死文化({{lang-en|become obsolete}})」しているとされ、憲章改正の際には削除するという内容を含む決議案が三か国のみ棄権という圧倒的な賛成多数で採択されている<ref>[https://www.un.org/documents/ga/res/50/a50r052.htm%20A/RES/50/52. Report of the Special Committee on the Charter of the United Nations and on the Strengthening of the Role of the Organization] - 国際連合総会決議50/52{{en icon}}</ref>。また2005年9月15日には国連総会特別首脳会合で採択された「成果文書」には「敵国条項の削除を決意する」という決議が採択されている。ただし、国連憲章改正には総会での3分の2以上の賛成および、常任理事国すべてをふくむ安全保障理事会3分の2以上の賛成、そして3分の2以上の加盟国による批准措置が必要であり、また常任理事国の追加問題なども絡んでいるために削除には至っていない。
=== 拒否権の問題 ===
国際連合の中でも特に権限の大きい安全保障理事会での採決には常任理事国5カ国と非常任理事国10カ国との合同での採択で決定するが、常任理事国が拒否権を発動した場合、採択は全て否決される。今まで、東西冷戦時代等を中心に採択で常任理事国が拒否権を発動し否決された場合が数多くあり国連で拒否権の在り方が問題になっている<ref group="注釈">なお常任理事国は国連連合憲章の改正についても拒否権を持つ。</ref>。
{{main|国際連合安全保障理事会における拒否権}}
=== 不祥事 ===
2004年には[[イラク]]に対する[[石油食料交換プログラム]]を利用したベノン・セバン[[国際連合事務次長|事務次長]]やアナン事務総長・ガリ前事務総長の縁者が関与した大規模な不正事件が発覚した。
また2006年1月には国連調達をめぐる3億ドルにのぼる汚職事件が発生。国連は、関与したとされる8人の職員の勤務を一時停止にした。監査した国連内部監理室調達タスクフォースでは報告書において、「犯罪となるような誤った行動」はなかったが、「2000年にまでさかのぼり3件の調達の事例において、職権濫用と管理不行き届きがあった」としている<ref>http://www.news.janjan.jp/world/0701/0701238663/1.php</ref>。また、2008年には東京にある国連広報センター (UNIC) が不正経理をしていたとして国連から内部監査を受けていたことが明らかになった。しかし、日本は国連大学の建物を無償で提供しているが、その建物に入っているUNIC東京の家賃を、日本政府が国民の税金を使い国連大学に払っていることが判明した<ref>http://www.news.janjan.jp/government/0901/0901160522/1.php</ref>。
2017年、[[国際連合コンゴ民主共和国ミッション]]のスウェーデン人とアメリカ人の専門家2人が死亡する事件が発生。当初はコンゴ政府軍による警告に反して反政府組織[[:en:Kamwina Nsapu rebellion|カムイナ・ンサプ]]のリーダーと面会しようとしたために同組織によって殺害されたとみられていたが、スウェーデンのドキュメンタリー番組{{en|''Deceptive Diplomacy''}}によって2人の殺害にコンゴ政府軍が深く関わっており、さらに国連もそれを知りながら停戦監視ミッションへのコンゴ政府との協力関係を維持したいがために黙殺し事件をもみ消そうとしていたことが判明している。同番組は[[国際エミー賞]]を受賞した<ref name="2019 INTERNATIONAL EMMY® AWARDS WINNERS FOR NEWS & CURRENT AFFAIRS ANNOUNCED">{{Cite web |url=https://www.iemmys.tv/2019-international-emmy-awards-winners-for-news-current-affairs-announced/ |publisher=iemmys.tv |author= |title=2019 INTERNATIONAL EMMY® AWARDS WINNERS FOR NEWS & CURRENT AFFAIRS ANNOUNCED |date= |accessdate=2020-02-05}}</ref>。
=== 国連による顕彰 ===
国際連合は1968年に[[国連人権賞]]を制定している。またそれ以外にも国連が制定した賞、顕彰は多く存在する。一例として[[国連平和賞]]({{en|United Nations Peace Medal}})は国連によって制定された賞であるが、類似した名称や訳でも国連が無関与の賞も存在する{{Efn|[[国連世界平和賞]]は無関係の機関が創設した賞}}。
== 発行物 ==
* 日本における発行物
** 1957年3月8日、国際連合加盟記念の切手1種(10円)が発行された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=明石康|authorlink=明石康|title=国際連合――軌跡と展望|publisher=岩波書店|series=岩波新書|year=2006|isbn=4-00-431052-0}}
* {{Cite book|和書|author=阿部浩己、今井直、藤本俊明|title=テキストブック 国際人権法|publisher=日本評論社|edition=第3版|year=2009|isbn=978-4-535-51636-6}}
* {{Cite book|和書|author=ヨハン・カウフマン|translator=山下邦明|title=国連外交の戦略と戦術|publisher=有斐閣|series=有斐閣選書R|date=1983-04-25|isbn=4-641-02325-5|id={{NDLJP|11893398}}}}
* {{Cite book|和書|author=北岡伸一|authorlink=北岡伸一|title=国連の政治力学――日本はどこにいるのか|publisher=中央公論新社|series=中公新書|year=2007|isbn=978-4-12-101899-1}}
* {{Cite book|和書|author=国際連合広報局|title=国際連合の基礎知識|publisher=関西学院大学出版会|year=2009|isbn=978-4-86283-042-5}}
* {{Cite book|和書|author1=中谷和弘|authorlink1=中谷和弘|author2=植木俊哉|author3=河野真理子|author4=森田章夫|author5=山本良|title=国際法|publisher=有斐閣|series=有斐閣アルマ|year=2006|isbn=4-641-12277-6}}
* {{Cite book|和書|author=最上敏樹|authorlink=最上敏樹|title=国連とアメリカ|publisher=岩波書店|series=岩波新書|year=2005|isbn=4-00-430937-9}}
* {{Cite book|和書|author=山本草二|authorlink=山本草二|title=国際法|publisher=有斐閣|edition=新版|year=1994|isbn=978-4641045934}}
* {{Cite book|和書|author=吉田康彦|authorlink=吉田康彦|title=国連改革――「幻想」と「否定論」を超えて|publisher=集英社|series=集英社新書|year=2003|isbn=4-08-720224-0}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|国際連合}}
* [[国際連合広報センター]]
* [[国際連合寄託図書館]]
* [[国際連合と日本]]
* [[国際連合 (小惑星)]](国際連合に因んで命名された[[小惑星]](6000))
* [[国連防災世界会議]]
* [[敵国条項]]
* [[国連軍]]
* [[模擬国連]] - 学生などがシミュレーションとして行う国連を模した活動。
== 外部リンク ==
{{sisterlinks|commons=United Nations – Nations Unies}}
{{Wikisource|国際連合憲章|3=日本語訳}}
* [https://www.un.org/ 国際連合]{{en icon}}{{ar icon}}{{zh icon}}{{fr icon}}{{ru icon}}{{es icon}}
* [https://www.unic.or.jp/ 国際連合広報センター]{{ja icon}}
* {{Kotobank}}
{{Commonscat|UN}}
* {{Twitter|UN}}
=== 資料検索 ===
* [https://documents.un.org/ ODS]{{en icon}} - 国連公式文書システム
{{国際連合}}
{{ノーベル平和賞受賞者 (2001年-2025年)}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こくさいれんこう}}
[[Category:国際連合|*]]
[[Category:国際関係]]
[[Category:ノーベル平和賞受賞者]]
[[Category:1945年設立の組織]] | 2003-02-19T11:15:20Z | 2023-12-12T07:50:30Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E5%90%88 |
2,396 | ゴーストバンド | ゴーストバンド(英: ghost band)とは、計算結果としては得られるものの、物理的に存在しないバンド構造である。
LAPW法やLMTO法など、線形化されたバンド計算では、非常に広いエネルギー範囲に渡って計算を行うとそのバンド構造に、実際には物理的に存在しないバンドである、ゴーストバンドが生じることがある。
擬ポテンシャルによるバンド計算において、Kleinman-Bylander近似を施すと計算で得られたバンド構造に、実際には物理的に存在しないバンドである、ゴーストバンド(ghost stateとも言う)が生じることがある。 | [
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}
] | ゴーストバンドとは、計算結果としては得られるものの、物理的に存在しないバンド構造である。 | {{出典の明記|date=2016年4月}}
'''ゴーストバンド'''({{lang-en-short|ghost band}})とは、計算結果としては得られるものの、物理的に存在しない[[バンド構造]]である。
==LAPW、LMTOでのゴーストバンド==
[[LAPW]]法や[[LMTO]]法など、[[線形化 (第一原理バンド計算)|線形化]]された[[バンド計算]]では、非常に広いエネルギー範囲に渡って計算を行うとそのバンド構造に、実際には物理的に存在しないバンドである、ゴーストバンドが生じることがある。
==Kleinma-Bylander近似でのゴーストバンド==
[[擬ポテンシャル]]によるバンド計算において、[[Kleinman-Bylander近似]]を施すと計算で得られたバンド構造に、実際には物理的に存在しないバンドである、ゴーストバンド({{en|ghost state}}とも言う)が生じることがある。
==関連項目==
*[[第一原理バンド計算]]
{{DEFAULTSORT:こおすとはんと}}
[[Category:バンド計算]] | null | 2017-05-06T17:22:07Z | false | false | false | [
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"Template:Lang-en-short"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89 |
2,398 | 部分内殻補正 | 部分内殻補正(ぶぶんないかくほせい、Nonlinear core correctionまたは、Partial core correction):擬ポテンシャルでは通常価電子のみを考慮し、原子の内殻電子からの寄与を考慮しない。電子間の相互作用である交換・相関項の部分は電荷密度に対して非線形な形になっているため問題を生じる場合がある。系全体の電荷密度ρが内殻電子による部分ρcと価電子による部分ρvとの和、
と表されるとして、電荷密度の関数として表現される交換相関エネルギーExcは非線形なため、
と、単純に分離することができない。擬ポテンシャルを使用するバンド計算では、そのままでは上式最右辺の第二項、Exc(ρv)がそのまま用いられる。部分内殻補正は部分的な内殻電子からの寄与を考慮することによって、この問題を補正するものである[1]。
第一原理バンド計算では、局所密度近似(LDA)を用いた場合、平衡格子定数が実験値より1,2%ほど過小に評価される。特に擬ポテンシャルを使ったバンド計算では、アルカリ金属や遷移金属で、この過小評価が大きくなる場合がある。部分内殻補正を導入することにより、アルカリ金属や遷移金属での平衡格子定数の過小評価の問題が改善される。また擬ポテンシャルを使用したバンド計算で、Fe、Co、Niにおける磁気モーメントの値の実験値からのずれを改善する。 | [
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] | 部分内殻補正:擬ポテンシャルでは通常価電子のみを考慮し、原子の内殻電子からの寄与を考慮しない。電子間の相互作用である交換・相関項の部分は電荷密度に対して非線形な形になっているため問題を生じる場合がある。系全体の電荷密度ρが内殻電子による部分ρcと価電子による部分ρvとの和、 と表されるとして、電荷密度の関数として表現される交換相関エネルギーExcは非線形なため、 と、単純に分離することができない。擬ポテンシャルを使用するバンド計算では、そのままでは上式最右辺の第二項、Exc(ρv)がそのまま用いられる。部分内殻補正は部分的な内殻電子からの寄与を考慮することによって、この問題を補正するものである[1]。 第一原理バンド計算では、局所密度近似(LDA)を用いた場合、平衡格子定数が実験値より1,2%ほど過小に評価される。特に擬ポテンシャルを使ったバンド計算では、アルカリ金属や遷移金属で、この過小評価が大きくなる場合がある。部分内殻補正を導入することにより、アルカリ金属や遷移金属での平衡格子定数の過小評価の問題が改善される。また擬ポテンシャルを使用したバンド計算で、Fe、Co、Niにおける磁気モーメントの値の実験値からのずれを改善する。 | {{出典の明記|date=2021年4月6日 (火) 11:06 (UTC)}}
'''部分内殻補正'''(ぶぶんないかくほせい、Nonlinear core correctionまたは、Partial core correction):[[擬ポテンシャル]]では通常[[価電子]]のみを考慮し、原子の[[内殻電子]]からの寄与を考慮しない。電子間の相互作用である[[交換・相関項]]の部分は[[電荷密度]]に対して非線形な形になっているため問題を生じる場合がある。系全体の電荷密度ρが内殻電子による部分ρ<sub>c</sub>と価電子による部分ρ<sub>v</sub>との和、
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と表されるとして、電荷密度の関数として表現される交換相関エネルギーE<sub>xc</sub>は非線形なため、
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と、単純に分離することができない。擬ポテンシャルを使用するバンド計算では、そのままでは上式最右辺の第二項、E<sub>xc</sub>(ρ<sub>v</sub>)がそのまま用いられる。部分内殻補正は部分的な内殻電子からの寄与を考慮することによって、この問題を補正するものである[1]。
[[第一原理バンド計算]]では、[[局所密度近似]](LDA)を用いた場合、平衡格子定数が実験値より1,2%ほど過小に評価される。特に擬ポテンシャルを使った[[バンド計算]]では、[[アルカリ金属]]や[[遷移金属]]で、この過小評価が大きくなる場合がある。部分内殻補正を導入することにより、アルカリ金属や遷移金属での平衡格子定数の過小評価の問題が改善される。また擬ポテンシャルを使用したバンド計算で、Fe、Co、Niにおける[[磁気モーメント]]の値の実験値からのずれを改善する。
== 参考文献 ==
[1] S. G. Louie, S. Froyen and M. L. Cohen, Phys. Rev. B'''26''' (1982) 1738.
{{DEFAULTSORT:ふふんないかくほせい}}
[[Category:バンド計算]] | null | 2021-04-06T11:06:56Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A8%E5%88%86%E5%86%85%E6%AE%BB%E8%A3%9C%E6%AD%A3 |
2,399 | 冥王計画ゼオライマー | 『冥王計画ゼオライマー』(プロジェクトゼオライマー)は、ちみもりをにより漫画雑誌「レモンピープル」で1983年10月号から1984年11月号まで連載された成人向け漫画。
巨大ロボットと美少女が登場するSF漫画。作中には壮大な設定とストーリー構想を伺わせる様々な伏線が張られていたが、連載は諸般の事情から半ば打ち切りに近い状態で終了している。久保書店版の単行本化に当たっては、連載時後期の伏線などは削除されたほか、最初期の連載部分の一部は完全に変更されている。
1988年から1990年にかけ、成人向け要素をほぼ排除した上で基本設定のみを流用したOVAも制作され、2004年には『スーパーロボット大戦MX』、2005年には『スーパーロボット大戦J』にそれぞれ登場している。詳細は冥王計画ゼオライマー (OVA)を参照。
2004年9月22日発行の角川書店「comic新現実」vol.1に『冥王計画ゼオライマー 最終章』の冒頭より18ページが掲載され、2007年4月19日発売の徳間書店「月刊COMICリュウ」2007年6月号より3号に渡って前・中・完結篇の3部構成で短期集中連載され、およそ23年におよぶ物語を完結させた後、完全版の単行本が発売された。なお、同誌では2008年11月号 - 2017年4月号に生誕25周年記念として、続編である『冥王計画ゼオライマーΩ』(作画:ワタリユウ)が連載された。
世界支配を目論む巨大組織、鉄神帝国ネマトーダ。日本でロボット研究をしていた氷室遼三博士は彼らの誘いに応じ、妻の氷室美久や同僚の若槻魔沙樹らを伴って、海底秘密基地へと赴く。ネマトーダの世界支配に貢献するロボットの研究のためであったが、氷室博士と魔沙樹には別の目論みがあった。ネマトーダに協力すると見せかけ、自分達にしか扱えない最強のロボットを完成させ、冥王として世界に君臨しようと企んでいたのだ。
最強のGクラスロボ「ゼオライマー」の開発は順調に進み、残すはその中枢部分である「超次元システム」の完成を待つだけだった。そして、それを機能させる重要な役割に氷室達は美久を選んだ。だが、氷室博士はゼオライマーが魔沙樹と美久以外には操縦できないよう、仕掛けがしてあることに気づく。その上、美久は日本に居た頃から夫を裏切って魔沙樹の愛人となっており、魔沙樹も仲間である氷室博士まで出し抜いて、自分一人が世界を牛耳ろうと考えていた。氷室博士が幾ら悔しがっても、外部からその仕掛けに手を加えることは不可能だった。
自分を裏切った二人への復讐を果たすべく、氷室博士は偶然の事故を装って魔沙樹と美久を殺害。ネマトーダの蘇生技術で、殺した二人を胎芽の状態に還元してから蘇生させた。そして、記憶の再構成が施されていない二人とゼオライマーを奪い、ネマトーダを脱出した。後は二人が成長し、無垢な存在となった彼らを操る氷室博士自身が全世界を掌握できるはずだった。だが、ゼオライマーの覚醒を恐れた助手の一人・秋津は、新生児になった魔沙樹を奪って姿を隠す。
ネマトーダが氷室博士を、氷室博士が秋津を探し出せないまま時は過ぎ、14年後のある日、秋津の息子・秋津マサキとして育てられていた若槻魔沙樹と、氷室博士の姪・美久として育てられていた氷室美久が再会した頃、ゼオライマーを奪還すべくネマトーダのロボットが出現。否応なくゼオライマーに搭乗させられて戸惑いつつも、迎撃に出たマサキの中でもう一人の人格が覚醒し、自在に機体を操っていく。
ゼオライマー奪還を図るネマトーダの将軍・ゴルシードが差し向けるロボットとの戦闘を重ねる内に、マサキはもう一人の人格の存在に気付く。それはかつての"魔沙樹"としての記憶だった。もう一人の人格・"魔沙樹"との間で苦悩するマサキの戦いは続く。
本作のロボットは「鉄神(てつじん)」と呼ばれ、サイズの大きい順にG~Aクラスの等級が付けられている。最大であるGクラスの鉄神は全長60m以上であり、Fクラス以下と区別して「重鉄神」と呼称される。Gクラスは作者曰く「現実世界における核兵器に相当」し、本編中ではかつて第二次世界大戦に当たる鉄神を主体とした戦争があり、敗戦国となった日本はGクラスロボを保有していない旨が語られている。なお、本編に登場した鉄神は全てGクラスであり、公式にFクラス以下の機体が登場したのは、続編の『冥王計画ゼオライマーΩ』が初である。
単行本『冥王計画ゼオライマー 完全版』の巻末において明かされた、アニメ会社サンライズが1999年に企画したアニメ版。ロボットデザインは原作者ちみもりを本人によるもので、主役ロボットはゼオライマーそのものだった。企画は通らず、デザインの権利は作者に帰属している。『冥王計画ゼオライマーΩ(オメガ)』は、このサンライズ版をベースに製作されている。
FクラスやGクラスといった原作におけるロボットのクラス分けが存在し、通常時の主役機(ゼオライマー)は『勇者ライディーン』などのような人の顔を持ったFクラスの機体で、覚醒して本性を現すと原作風の頭部に変形後、機体の各部が展開・伸長してGクラスの大きさに変化し、内部が剥き出しになった部分は更に異次元から増加装甲を取り出して装着する、というものだった。 | [
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] | 『冥王計画ゼオライマー』(プロジェクトゼオライマー)は、ちみもりをにより漫画雑誌「レモンピープル」で1983年10月号から1984年11月号まで連載された成人向け漫画。 | {{redirectlist|ゼオライマー|アニメ化作品|冥王計画ゼオライマー (OVA)|続編|冥王計画ゼオライマーΩ}}
{{出典の明記|date=2015-03-13}}
{{Infobox animanga/Header
|タイトル = 冥王計画ゼオライマー
|ジャンル = [[成人向け漫画]]、[[サイエンスフィクション|SF]]、ロボット}}
{{Infobox animanga/Manga
|作者 = [[高屋良樹|ちみもりを]]
|出版社 = [[久保書店]]<br />[[角川書店]]<br />[[徳間書店]](最終章)
|掲載誌 = [[レモンピープル]]<br />comic新現実<br />[[月刊COMICリュウ]](最終章)
|レーベル = WORLDコミックス(旧版)<br />[[RYU COMICS|RYU COMICS SPECIAL(完全版)<br />RYU COMICS(新装版)]]
|開始号 = 1983年10月号
|終了号 = 1984年11月号<br />(レモンピープル)<br />Vol.1(comic新現実)<br />2007年6月号 - 8月号<br />(月刊COMICリュウ)
|巻数 = 全1巻
|話数 = 全9話
}}
{{Infobox animanga/Footer}}
『'''冥王計画ゼオライマー'''』(プロジェクトゼオライマー)は、[[高屋良樹|ちみもりを]]により漫画雑誌「[[レモンピープル]]」で[[1983年]]10月号から[[1984年]]11月号まで連載された[[成人向け漫画]]。
== 概要 ==
巨大ロボットと美少女が登場する[[SF漫画]]。作中には壮大な設定とストーリー構想を伺わせる様々な伏線が張られていたが、連載は諸般の事情から半ば[[打ち切り]]に近い状態で終了している。[[久保書店]]版の単行本化に当たっては、連載時後期の伏線などは削除されたほか、最初期の連載部分の一部は完全に変更されている。
[[1988年]]から[[1990年]]にかけ、成人向け要素をほぼ排除した上で基本設定のみを流用した[[OVA]]も制作され、[[2004年]]には『[[スーパーロボット大戦MX]]』、[[2005年]]には『[[スーパーロボット大戦J]]』にそれぞれ登場している。詳細は[[冥王計画ゼオライマー (OVA)]]を参照。
2004年[[9月22日]]発行の[[角川書店]]「[[comic新現実]]」vol.1に『'''冥王計画ゼオライマー 最終章'''』の冒頭より18ページが掲載され、[[2007年]][[4月19日]]発売の[[徳間書店]]「[[月刊COMICリュウ]]」2007年6月号より3号に渡って前・中・完結篇の3部構成で短期集中連載され、およそ23年におよぶ物語を完結させた後、完全版の単行本が発売された。なお、同誌では[[2008年]]11月号 - [[2017年]]4月号に生誕25周年記念として、続編である『'''[[冥王計画ゼオライマーΩ]]'''』(作画:ワタリユウ)が連載された。
== ストーリー ==
世界支配を目論む巨大組織、'''鉄神帝国ネマトーダ'''。日本でロボット研究をしていた'''氷室遼三'''博士は彼らの誘いに応じ、妻の'''氷室美久'''や同僚の'''若槻魔沙樹'''らを伴って、海底秘密基地へと赴く。ネマトーダの世界支配に貢献するロボットの研究のためであったが、氷室博士と魔沙樹には別の目論みがあった。ネマトーダに協力すると見せかけ、自分達にしか扱えない最強のロボットを完成させ、冥王として世界に君臨しようと企んでいたのだ。
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自分を裏切った二人への復讐を果たすべく、氷室博士は偶然の事故を装って魔沙樹と美久を殺害。ネマトーダの蘇生技術で、殺した二人を胎芽の状態に還元してから蘇生させた。そして、記憶の再構成が施されていない二人とゼオライマーを奪い、ネマトーダを脱出した。後は二人が成長し、無垢な存在となった彼らを操る氷室博士自身が全世界を掌握できるはずだった。だが、ゼオライマーの覚醒を恐れた助手の一人・'''秋津'''は、新生児になった魔沙樹を奪って姿を隠す。
ネマトーダが氷室博士を、氷室博士が秋津を探し出せないまま時は過ぎ、14年後のある日、秋津の息子・'''秋津マサキ'''として育てられていた若槻魔沙樹と、氷室博士の姪・'''美久'''として育てられていた氷室美久が再会した頃、ゼオライマーを奪還すべくネマトーダのロボットが出現。否応なくゼオライマーに搭乗させられて戸惑いつつも、迎撃に出たマサキの中でもう一人の人格が覚醒し、自在に機体を操っていく。
ゼオライマー奪還を図るネマトーダの将軍・'''ゴルシード'''が差し向けるロボットとの戦闘を重ねる内に、マサキはもう一人の人格の存在に気付く。それはかつての"魔沙樹"としての記憶だった。もう一人の人格・"魔沙樹"との間で苦悩するマサキの戦いは続く。
== 登場人物 ==
; 秋津 マサキ(あきつ マサキ)
: どこにでも居るような、目立たず大人しいタイプの中学生。14歳の時、父親を病気で亡くす。その後、学校に転校してきた少女・氷室美久に導かれるまま氷室邸を訪れ、“運命共同体”であるゼオライマーに搭乗させられる。
: 出撃する度、自分の中で狡猾・残忍なもう一人の自分の存在が大きくなってゆくことに悩むが、ゼオライマーの記憶・人格再生プログラムによって若槻魔沙樹の記憶を取り戻し、己の野望を再び実現すべく美久の処女を喪失させて陵辱し心身共に服従させる。流れ込んだ膨大な量の記憶により自分は若槻魔沙樹になったと思い込んでいたが、秋津マサキの自我が消えることはなかった。
: 氷室博士の死を看取り、「運命から逃れるには、ゼオライマーを自ら葬るしか道は無い」と悟った彼は、美久と共にネマトーダ基地へ襲撃を掛ける。
: 魔沙樹の野望が潰えた後は、「自分達が生まれ育ったこの世界で生きたいから」と言い残してゴルシードに脱出を促すと、超次元システムを反転させ、重陽子爆弾のエネルギーを吸収、地球を滅亡から救った。その後は生死不明だが、続編「冥王計画ゼオライマーΩ」冒頭において、前述のシーンの続きとして美久と離れ離れになったシーンが描かれた。
:; 若槻 魔沙樹(わかつき まさき)
:: 氷室博士の同志であり、Gクラスロボの研究者。
:: 野心家であり、愛人である美久さえも道具・部品扱いで、邪魔な利用価値のないモノは虫ケラの如く全て踏み潰す卑劣漢。ネマトーダのためでも氷室との共謀のためでもなく、己のためだけに地上最強のGクラスロボを作り上げ、冥王として世に君臨しようと目論んでいた。
:: ゼオライマーには、自分しか操縦者と認識しないように設定。自分の“頭”が狙われ、洗脳などの処置をされてしまった場合に備え、記憶と人格を再生できる装置(ネマトーダのクローン再生処置システムの機能限定版といった趣の物である)をゼオライマーのコクピットに隠した。後に自分自身は殺害されるが、記憶再構成もされず成長した再生体に人格再生プログラムが適用されようとは、思ってもみなかったはずである。
:: しかし、最終章ではマサキとは別に、魔沙樹本人が蘇生されていたことが明らかとなった。詳しくはネマトーダ総統の項目を参照。
; 氷室 美久(ひむろ みく)
: 秋津マサキと同じ14歳の中学生の少女。かつて氷室博士の妻であり、夫の同僚・若槻魔沙樹の愛人でもあったのだが、ゼオライマーの記憶・人格再生プログラムは彼女には対応しておらず、再生前の記憶は失くしている。“魔沙樹”に真実を告げられ、父のように慕っていた氷室博士を妻であった自分が裏切っていたことにショックを受け、“魔沙樹”に籠絡されて道具の如く彼の言いなりになる。当初、マサキの存在は“運命共同体”としか思っていなかったようだが、“魔沙樹”との関係の中で次第に“マサキ”本来の人格に惹かれていった。
: ゼオライマーの心臓とも言える存在で、次元ジョイントを装着することで超次元システムの接点として機能する。次元ジョイントを用いてゼオライマーを自分の元へ空間跳躍させることも可能。ゼオライマー覚醒中は頭部光球内に全裸で浮かび、光球内に設置された触手群によって性感帯を責められることでエネルギーを供給する。その間、美久は搭乗者ではなく単なるパーツとして扱われ、コクピット内のマサキとの会話も不可能。ゼオライマーも美久もマサキも、超次元システムが機能している間は、原子レベルにまで分解されたとしても次の瞬間には寸分違わず再構成される。逆にシステムが機能していなければ、ゼオライマーは並以下のGクラスロボでしかない。
:; 次元ジョイント
:: 超次元システムの要となる球体のパーツ。子宮内に装着して使用する。魔沙樹が精製したオリジナルは半永久的に機能するが、氷室博士らは脱走時にそれを持ち出すことに失敗したため、美久が普段装着しているのは氷室博士が作成した代用品。これはオリジナルに較べて性能が落ちる上に小型化ができなかったため大きな飴玉ほどのサイズである。耐久性が低く2週間ほどで出力低下してしまうので定期的な交換を要する。また代用ジョイントはコントロール装置で外部から分解させることが可能。
:: 交換方法はまず交換用アダプターを生殖器に挿入して古いジョイントを回収し、次に新しいジョイントを装着したアダプターを再挿入する。ジョイント分離後、肛門から挿入した誘導端子によって子宮内へと移動させる。スムーズな交換には事前のクンニリングスが不可欠であり、これは氷室博士が自らこなしていた(“魔沙樹”覚醒後はマサキが行っている)。
:: 耐久期限を過ぎた代用ジョイントを使い続けるとショートしたような音を発し、出力低下を補うため触手は接触・挿入する本数を増やして美久が絶叫するほど責め立てる。ジョイントが完全に故障して子宮内から脱落し、体外に排出された時点で超次元システムは緊急停止、美久自身も相当なダメージを受けた。スペアを探すマサキに「必要なら自分で造ればいいじゃないか」と氷室から言われて戸惑う様子を見せた(後述の「オリジナルの次元ジョイント」参照)。
:
; 氷室 遼三(ひむろ りょうぞう)
: Gクラスロボ研究者の博士。魔沙樹と共にネマトーダに赴き、世界征服のためのGクラスロボの研究に携わる。
: 魔沙樹と共謀してネマトーダを出し抜き、自分達にしか扱えない最強のGクラスロボを作り上げようと目論むが、完成間近に彼と美久の裏切りを知り、偶然の事故を装って二人を殺害する。'''(ネマトーダでは、治療する患者の外傷が重過ぎる場合、処置体を一度、胚芽に還元して、肉体と記憶を戻していくという処置をする)'''これが、中断されれば記憶・人格の再構成が行われないことに着目し、再生途中の胎芽に戻された魔沙樹と美久とゼオライマーを奪うと、ネマトーダを脱出。記憶が白紙状態の二人を手なづけ、ゼオライマーを自分の命令通りに動かそうと考えていたが、助手の秋津に新生児となった魔沙樹(秋津マサキ)を奪い去られる。14年後にようやくマサキを発見するも、自身は既に病魔に侵されており、頻繁に喀血して死を待つだけの身体となっていた。
: 氷室邸に住む人間は遼三と美久のみ。ゼオライマーの整備作業などは全て全自動化され、ロボットが行なっている。
: かつての妻の生まれ変わりである美久に対して娘に対する愛情のようなものを抱いており、美久を自身の道具としかみなしていなかった魔沙樹とは違い、自らの性欲の捌け口に使うことはなかった(この事に関して、マサキ(魔沙樹)が転生した美久の処女を奪った時に不思議に感じていた)。
: 一方、魔沙樹への復讐心は持ち続けており、コントロール装置で次元ジョイントを戦闘中に分解させることで、魔沙樹の生まれ変わりであるマサキを窮地に陥れようと考えていた。だが魔沙樹の記憶にマサキの自我が抵抗して苦しむ姿を見てジョイント分解を思い留まると共に大量喀血し、断末魔の中で妻への想いを巡らせながら、息を引き取った。
; 秋津
: 氷室遼三の助手。氷室博士と共にネマトーダ基地を脱出するが、ゼオライマーが何であるかを知っていたためにその覚醒を恐れ、新生児となった魔沙樹を奪うと密かに氷室の下を去る。
: 病の床でゼオライマーの覚醒に怯え、「氷室博士」と「ゼオライマー」という謎の言葉を息子のマサキに残したまま、息を引き取る。
: 魔沙樹からは「無能」「臆病者」などと揶揄されているが、マサキにはゼオライマー復活阻止のために赤ん坊である自分を殺す選択肢があったのに、それをせずに育ててくれたことを感謝されている。
: 宿業を背負ったマサキを健全で優しい心根の少年に育て上げ、結果的には世界を救うまでに至らせた立役者であり、作者はあとがきにおいて、作中でその描写がいささか不十分だったと記述している。
; ゴルシード
: ゼオライマー奪還を命じられたネマトーダの将軍。打倒ゼオライマーに執念を燃やす。
: 初戦で次元ジョイントを持たないはずのゼオライマーにデスパイザーを倒され、「覚醒してしまったとあっては奪還は不可能に近い」と総統の怒りを買う。奪還が無理なら破壊をと、前戦を参考にゼオライマーが戦い辛いであろう街中を戦場に選び、新鋭3機を投入するも、街一つ消し飛ばさせた挙句に敗戦。世界征服作戦の発動を前に、Gクラスロボを4体も失ったことで苦しい立場に追い込まれ、死を覚悟。やがて、強靭な心身でなければ操縦することも適わぬ最新鋭機ローズ・セラヴィーに自ら搭乗すべく、廃人になる可能性も覚悟の上で、生体改造システムに身を投じる。
: 善戦するも、切断された腕を丸ごと一本再生したり爆散したコクピットをパイロットごと再生してしまうゼオライマーの前に、ローズ・セラヴィーごと敗北。その際、急に動きを止めてとどめも刺さず慌てて帰還するゼオライマーを見て、超次元システムがまだ完全ではないことを見抜いた。時間稼ぎをすれば勝てると計算するも、総統に将軍を解任される。
: 総統の命令で建設中だったもう1体のゼオライマーを目撃したり、蘇生セクション担当者からの接触を受けるなど、ネマトーダに対しては疑念めいたものを感じてもいた。
: 最終章では蘇生セクション担当者から全てを聞かされ、ネマトーダ総統の正体が若槻魔沙樹の復元体であることを知り、融合に失敗した魔沙樹が美久を爆破しようとするのを防ぎ、射殺する。全てが終わった後、基地の自爆装置が作動する中、マサキに促されて基地から脱出。全てが消失した基地跡を見つめながら、物語は幕を下ろす。
: 作中では記述されなかったものの、あとがきの記述によると裏設定として、若い頃に魔沙樹に陵辱されていたことから、彼とゼオライマーに憎悪を抱いていたとのこと。
; リンガム
: ゴルシードに代わり、ゼオライマーへの対応を任された新将軍。総統からの信用が厚い。
: 実は総統の正体が若槻魔沙樹の復元体だと知っており、それを承知しながら忠誠を尽くすことで、総統の信頼を得ていた。最後はその事実を知ったゴルシードからネマトーダを魔沙樹に売り渡した裏切り者と見なされ、射殺された。
; ネマトーダ総統
: 謎の人物。ちらりと覗く顔の一部から、かなりの高齢であることがうかがわれる。
: 14年前に氷室博士と若槻魔沙樹が提出したデータは不完全であったにも関わらず、総統の命令で建造中の新型機は、まさしくゼオライマーである。
: 最終章にて明かされたその正体は、マサキ同様、蘇生されていた若槻魔沙樹であり、蘇生後、本物の総統を暗殺して成り代わっていた。その事実を知っているのは、新任の将軍となったリンガムと魔沙樹を蘇生させた蘇生セクションの職員の一人のみである。(生前、万一のために、蘇生治療をされるときに、自分の胚芽が2つ用意されるように手配していたためである)
: しかし、氷室たちがネマトーダを脱出する際、蘇生セクションが被害を受けて、胚芽に損傷ができた影響で、肉体の急激な老化が止まらず、激しく老化してしまっている。黒いゼオライマーを建造し、超次元システムを利用してマサキのゼオライマーと統合することで、自分もマサキと統合して若い肉体を取り戻そうと目論んだが、マサキが初めてゼオライマーに搭乗した際、識別プログラムが再フォーマットされ、マサキをパイロットとして登録していたために失敗。死なば諸共と次元ジョイントの自爆スイッチを入れようとするが、ゴルシードに妨害され、射殺される。
; ミク
: ネマトーダ総統に成り代わっていた若槻魔沙樹のパートナーを務める、[[人造人間|人造生体]]の少女。容姿こそ氷室美久に瓜二つだが、所詮はダミーに過ぎず、彼女のような人間らしい感情は一切備わっていない。胎内にオリジナルの次元ジョイントを装着することで黒いゼオライマーの超次元システムの稼動が可能となる他、身体そのものには人間の男性との性行為が可能な機能も備えており、日頃は魔沙樹の性の捌け口として用いられている。
: 身体は黒いゼオライマーがゼオライマーと融合する際に原子レベルに分解され、オリジナルの次元ジョイントは美久の胎内へ渡った。
:; オリジナル次元ジョイント
:: ミクの体内に入っていた超次元システムの要となる球体のパーツ。氷室博士が作って美久の胎内に入れていた代用品と違い、こちらは正真正銘、半永久的に動き続けるオリジナル。マサキは氷室博士の死後、博士の研究室で魔沙樹の記憶をもとに、何度か本物の次元ジョイントを作ろうとしたが、完成間近ですぐに失敗してしまった。これはオリジナルの次元ジョイントは、性質上、この世に1つしか存在できないためである。
== 鉄神 ==
本作のロボットは「鉄神(てつじん)」と呼ばれ、サイズの大きい順にG~Aクラスの等級が付けられている。最大であるGクラスの鉄神は全長60m以上であり、Fクラス以下と区別して'''「重鉄神」'''と呼称される。Gクラスは作者曰く「現実世界における[[核兵器]]に相当」し、本編中ではかつて[[第二次世界大戦]]に当たる鉄神を主体とした戦争があり、敗戦国となった日本はGクラスロボを保有していない旨が語られている。なお、本編に登場した鉄神は全てGクラスであり、公式にFクラス以下の機体が登場したのは、続編の『冥王計画ゼオライマーΩ』が初である。
; ゼオライマー
: ネマトーダの誇る純白のGクラス重鉄神で、全高77m、パイロットはマサキ/魔沙樹。機体そのものの構造自体は14年前の製造物である為旧式かつ特筆する部分が無い(作中台詞及び文字設定に記述有り)が、美久の胎内に挿入された次元ジョイントを介して、異次元から無限のエネルギーを取り出す'''超次元システム'''により、他のGクラスロボを圧倒する出力・能力(空間跳躍・全方位バリアー・パイロットを含む破損箇所の再生、システムを「反転」させることによるエネルギーの吸収など)を活かした、超絶的攻撃力と鉄壁の防御・再生能力を併せ持つ、最強無敵の重鉄神。前述の通り空間跳躍が可能だが、戦闘機動時は各部に装備されているスラスターを使用。美久が未搭乗、もしくは次元ジョイントが機能していなくても稼動できるが、頭部の光球が格納され、並みのGクラスロボ以下の性能しか発揮できない。
: 武装は手甲部光球から放つエネルギー波「'''Dブラスト'''」(大抵の場合喰らうと特徴的な直方体の砕片に分解される)。このエネルギー波は、構えずに光球を光らせるだけでも相当な破壊力を持っており、作中では右腕に近付いたデスパイザーの右手を粉砕。バーストンとの対戦時にはOVA版の「メイオウ攻撃」の基となった、掲げた両腕の手甲部分の光球を重ねてエネルギー波を細く集束させて放ち機体を縦真っ二つに切断する使用法があり、その攻撃範囲や破壊力は臨機応変な調整が可能な模様。胸部光球にも同様のエネルギー波を発射する機能がある。ただし、その戦闘能力のほぼ全てを超次元システムに依存する仕様のため、同システム抜きでは徒手格闘以外の攻撃方法を持たず戦闘能力が激減するという、致命的な弱点を持っている。
; デスパイザー
: ゼオライマーを奪還すべく、最初に派遣されたGクラス鉄神。訳の分からないままゼオライマーに乗せられたマサキは本機に苦戦するが、魔沙樹の人格発現により形勢は逆転。その結果、本機は搭載していた爆撃用ミサイルも使うことなく、ゼオライマーのDブラストによってパイロットごと粉砕された。この敗北を受けて、将軍ゴルシードは新鋭3機(ランスター、ドノーグ、バーストン)をマサキと美久の通う学校付近に出撃させる。
; ランスター
: 新鋭Gクラス鉄神の1機。全身の至る所に装備された加速バーニアを使っての、高速移動・高速攻撃に特化された機体。ドノーグやバーストンと共に出撃し、学校屋上に居たマサキと美久を拉致しようと胸部からトラクタービームを発射するが、美久の次元ジョイントに呼ばれて空間跳躍してきたゼオライマーに阻まれる。結局、覚醒したゼオライマーには敵わず、腕を握り潰されて動きを止められ、コクピットを踏み潰された。
; ドノーグ
: 新鋭Gクラス鉄神の1機。優れた出力と装甲を活かした格闘戦に特化された機体。ランスターやバーストンと共にパイロットが戦い辛いであろう市街地での戦闘を仕掛けるが、ゼオライマーは民家を踏み潰すことを躊躇わなかった。ゼオライマーに両腕を引き千切られてコクピットを握り潰されかけたところへバーストンのミサイル全弾発射を受け、跡形もなく消滅した。
; バーストン
: 新鋭Gクラス鉄神の1機。太い全身に多連装ミサイルを満載しており、爆撃戦に特化された重厚な機体で「花火屋」とも呼ばれる。ゴルシードの命令でゼオライマーを対戦中のドノーグごと全弾発射でやむなく攻撃するが、街1つが消滅するほどの爆撃にも無傷だったゼオライマーには敵わず、エネルギー波で後方のビルごと真っ二つに切断される。
; ローズ・セラヴィー
: ネマトーダの総力を結集して設計された最新鋭Gクラス鉄神。手甲部には据え付け型の2対のビーム剣「'''エネルギーセイバー'''」、胸部には高出力のビーム砲'''「Jガイザー」'''を搭載している。どちらの武器もエネルギー消費が激しいため、上空の雲に隠れ待機している3機の衛星子機'''「エネルギーチャージャー」'''(所謂[[プロペラントタンク]]の役割をし、落雷によってエネルギーを供給する。完全版にてデザインが変更されている)との連携によりカバーする。操縦するには肉体的にも精神的にも強靭さが求められる。
: 度重なる作戦失敗の責を問われ追い詰められたゴルシードが、生体強化システムを廃人化の危険のあるレベル5で使用して搭乗した。ゼオライマーの腕や頭部を破壊するが、すぐ再生されてしまい効果がなく逆にDブラストや格闘で両腕を失い、最大出力の「'''Jガイザー・マキシマム'''」もバリアーに阻まれ、過負荷で機能停止してしまう。しかしゼオライマーも、次元ジョイントが機能停止して美久の身体から脱落したため、本機に止めを刺すことができなかった。大破した本機は機密保持の必要性から、エネルギーチャージャー2号機と3号機(1号機のみパイロットを要する有人型)を落とされ、爆破処分された。
; 黒いゼオライマー
: ネマトーダ総統の命令で建造されていた、白い外装のゼオライマーに酷似した漆黒のGクラス鉄神。外見・内部フレーム構造だけでなく、性能もゼオライマーと同等であり、'''オリジナルの次元ジョイントによる超次元システム'''を備える。ジョイントを装着しているのは人造生命のミク。
: 異次元空間に隠された'''超次元システムの本体'''である連結部分から、白いゼオライマー同様、無限のエネルギーを供給している。別々に建造されたものでも、連結部分の繋がってる本体は一つであるため、この2体は元来一つであるべきものである。一次的接触を行えば、'''融合'''を始め、一つの機体に'''結合'''される。
: 白いゼオライマーと完全結合し、左右白黒のゼオライマーとなる。だが、ネマトーダ総統に化けていた魔沙樹を拒絶しマサキによって再起動した際に再び純白の機体となった。その有様を見ていたゴルシード曰く「ゼオライマーには“白”が似合う」とのこと。
== 書誌情報 ==
; 初出
:* レモンピープル([[あまとりあ社]])[[1983年]]10月号 - [[1984年]]11月号
:* comic新現実(角川書店)vol.1
:* 月刊COMICリュウ(徳間書店)[[2007年]]6月号 - 2007年8月号
:
; [[久保書店]]刊
:* 冥王計画ゼオライマー
:** WORLD COMICSより[[1986年]][[3月]]発行<!--実売日--> ISBN 4-76-590224-2
:
; 徳間書店刊
:* 冥王計画ゼオライマー 完全版
:** RYU COMICS SPECIALより[[2008年]][[1月1日]]発行<!--奥付準拠 実売2007年11月x日--> ISBN 978-4-19-950063-3
:* 冥王計画ゼオライマー 新装版
:** RYU COMICSより[[2015年]][[4月1日]]発行<!--奥付準拠 実売2015年3月13日--> ISBN 978-4-19-950444-0
:** 徳間書店刊については、一般向けで出版するために性的なシーンで性器等が修正されている。
== 幻のサンライズ版 ==
単行本『冥王計画ゼオライマー 完全版』の巻末において明かされた、アニメ会社[[サンライズ (アニメ制作会社)|サンライズ]]が1999年に企画したアニメ版。ロボットデザインは原作者ちみもりを本人によるもので、主役ロボットはゼオライマーそのものだった。企画は通らず、デザインの権利は作者に帰属している。『'''冥王計画ゼオライマーΩ'''(オメガ)』は、このサンライズ版をベースに製作されている。
FクラスやGクラスといった原作におけるロボットのクラス分けが存在し、通常時の主役機(ゼオライマー)は『[[勇者ライディーン]]』などのような人の顔を持ったFクラスの機体で、覚醒して本性を現すと原作風の頭部に変形後、機体の各部が展開・伸長してGクラスの大きさに変化し、内部が剥き出しになった部分は更に異次元から増加装甲を取り出して装着する、というものだった。
== 外部リンク ==
* [https://www.comic-ryu.jp/_xeo/ 冥王計画ゼオライマーΩ] - 月刊COMICリュウ(本作の新装版についても紹介されている)
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[[Category:漫画作品 ふ|ろしえくとせおらいまあ]]
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2,400 | ワシントン州 | ワシントン州(ワシントンしゅう、英: State of Washington, 英語発音: [ˈwɑʃɪ̞ŋʔn̩])は、アメリカ合衆国西海岸最北部の州。州都はオリンピア市、人口規模および経済の面での中心都市はシアトル市である。北はカナダのブリティッシュコロンビア州、南はオレゴン州、東はアイダホ州と接している。1846年にオレゴン境界紛争を解決するためのオレゴン条約が結ばれた結果、イギリスから割譲されたワシントン準州の西側が現在のワシントン州になった。1889年にアメリカ合衆国42番目の州として認められた。
カリフォルニア州、オレゴン州と共に民主党が強いリベラルな気風で、共和党の地盤である保守的な中西部に対して「レッドウッド・カーテンの向こう側」と称される。
マイクロソフトやボーイング、スターバックスなどの世界的な大企業の本拠地であり、シアトルコーヒー発祥の地などとして知られる。州の中心都市のシアトルがMLBシアトル・マリナーズの本拠地でもある。
2020年国勢調査によると、ワシントン州の人口は7,705,281人となっている。その半分以上はセイリッシュ海のピュージェット湾に沿った交通、事業、産業の中心であるシアトル都市圏に集中している。ピュージェット湾は太平洋からの入江であり、氷河が侵食した多くの島、深いフィヨルドおよび湾がある。州の西部は深い温帯雨林があり、西部、中部、北東部および最南東部には山脈がある。東部の亜乾燥盆地は徹底した農業が行われ、アメリカ合衆国西海岸ではカリフォルニア州に次いで2番目に人口の多い州でもある。
州の名は、アメリカ建国の父で初代アメリカ合衆国大統領ジョージ・ワシントンに由来しており、大統領の名前が付けられたことでは合衆国の中で唯一の州でもある。首都ワシントンD.C.と区別するためにワシントン州と呼ばれるが、州民、近在の州およびカナダのブリティッシュコロンビア州南部の住人は単に「ワシントン」と呼び、首都の方は「ワシントンD.C.」あるいは単純に「D.C.」のみで呼んでいる。元々ワシントン州のある地域はコロンビア川にちなんで「コロンビア」と呼ばれており、ワシントンD.C.がコロンビア特別区と呼ばれることから、混乱を避けるためにワシントン州とされた。
ヨーロッパからの探検者が現在のワシントン州となった地域を訪れる以前、多くのインディアン部族が住んでおり、トーテムポールや装飾の施されたカヌーとマスクが知られている。生業の中心は鮭の漁業であり、マカ族の場合は捕鯨を行っていた。内陸の部族は狩猟採集が基本であり、何らかの形態の農業も行っていた。さらにコロンビア川とその支流で鮭漁も行っていた。1770年代に流行した天然痘のためにインディアンの人口が急減した。
ワシントン州海岸に上陸したという記録の残る最初のヨーロッパ人は、1775年のスペイン人船長ドン・ブルーノ・デ・ヘセタであり、サンティアゴとソノラという2隻の船隊で訪れたものだった。彼等は北のプリンス・ウィリアム湾までの海岸地域全てにスペインの領有を宣言した。これはトルデシリャス条約の取り決めによる権利であり、スペインは太平洋を「スペインの湖」とし、海岸部全てをスペイン帝国領有とするものだった。
1778年、イギリスの探検家ジェームズ・クック船長がフアンデフカ海峡の入口にあるフラッタリー岬を視認したが、クックはこの海峡があるとは考えなかった。1787年にインペリアル・イーグル号の船長チャールズ・ウィリアム・バークレーがその海峡を視認したのが最初だった。フアンデフカ海峡は1790年にスペイン人探検家マヌエル・キンパー、1791年にフランシスコ・デ・エリザが、さらに1792年にはイギリス人探検家ジョージ・バンクーバーが探検した。
1790年に行われたイギリスとスペインのヌートカ会議によってスペインの排他的権利主張が終わり、北西部の海岸は他国の探検家や貿易業者に開放された。中でもイギリスとロシア、さらに新生間もないアメリカ合衆国が積極的だった。その後アメリカ人船長ロバート・グレイがコロンビア川河口を発見した。かれはその乗船コロンビア号に因んで、その川をコロンビア川と名付けた。グレイは1792年からラッコの生皮を交易する事業を始めた。1805年10月10日、ルイス・クラーク探検隊が現在の州内に入った。
1811年7月9日、探検家デイビッド・トンプソンがコロンビア川を下る途中でスネーク川との合流点で宿営した。トンプソンは柱を立ててそこがイギリスの土地であること、北西会社がその地に交易基地を建設する意図があることを宣言する文書を付けた。
イギリスとアメリカ合衆国は1818年英米協議の一部としてロッキー山脈の大陸分水界から西の太平洋まで「協同領有」とすることに合意した。ロッキー山脈の東、ウッズ湖までは北緯49度線を国境とした。ロッキー山脈より西側に関する領土の取り決めは先延ばしされた。1819年、スペインは北緯42度線より北の領有権をアメリカ合衆国に渡した。スペインは事実上権利だけで領土の所有はしていなかった。
その後の約30年間イギリスとアメリカ合衆国との境界に関する交渉は進展をみず、オレゴン境界紛争という両国の緊張関係を呼ぶものになった。アメリカ人開拓者がオレゴン・カントリーに大挙して入るようになると、以前は毛皮交易を邪魔する恐れがあったために入植を奨励していなかったハドソン湾会社が立場を逆転してコロンビア地区のイギリス支配を維持しようとした。罠猟師のジェイムズ・シンクレアはハドソン湾会社の支配人ジョージ・シンプソンの命令で、1841年にレッド川コロニーの開拓者200名程を率い、バンクーバー砦近くのハドソン湾会社農場に入った。この隊はロッキー山脈を越えて、現在のブリティッシュコロンビア州ラディアムホットスプリングス近くでコロンビアバレーに入り、その後クーテネイ川とコロンビア川を南西方向に下った。このような動きにも拘わらず、1846年6月15日に締結されたオレゴン条約で、イギリスはアメリカ合衆国に北緯49度線以南の地全ての権利を譲った。
1836年、マーカス・ホイットマンなど宣教師の一団が、現在のワシントン州南東部ワラワラ郡近くに幾つかの伝道所とホイットマン自身の入植地を設立した。それらの地はカイユース族とネズ・パース族インディアンの領土だった。ホイットマンの入植地は1843年に山越えで西部に向かう移民の道であるオレゴン・トレイルに役立つことになり、その後の10年間で数多い移民を受け入れることになった。ホイットマンはインディアンに医療を施したが、このときヨーロッパ人の病気に免疫が無かったインディアンの患者が多く死に、一方で多くの白人患者は快復したので、医者であるホイットマンに責任があると思いこみ、1847年のホイットマン虐殺事件の際にホイットマンと他に12人の白人を殺害した。この事件がインディアンと開拓者の間のカイユース戦争に発展した。
ニスクァリー砦はハドソン湾会社の農場と交易拠点であり、1833年に設立され、ピュージェット湾地域では最初のヨーロッパ人開拓地となった。1846年、ミズーリ州出身の黒人開拓者ジョージ・ワシントン・ブッシュとテネシー州出身でコーカサス人の妻イザベラ・ジェイムズ・ブッシュが白人の4家族を率いてこの地に入り、ニューマーケット、現在のタムウォーターの町を建設した。彼等はオレゴンの人種差別法を避けてワシントン州に入った。彼等の後にはさらに多くの開拓者がオレゴン・トレイルを通って山を越え、北のピュージェット湾地域に入っていった。
1852年、現在のワシントン州となった全ての場所から住人がモンティチェロ(現在のロングビュー)に集まり、連邦議会に対する覚え書きを作成した。この覚え書きはコロンビアという名前での州昇格の願望を表すものだった。この集会はモンティチェロ会議と呼ばれるようになった。この会議の発した要請は連邦議会で好意的に迎えられたが、コロンビアという名前は既に存在するコロンビア特別区と混同する可能性があると判断された。この首都と混同するという問題を解決するには奇妙なやり方ではあるが、州の名前は初代アメリカ合衆国大統領ジョージ・ワシントンの名前が採られることになった。ワシントン州は1889年11月11日に合衆国42番目の州に昇格した。
州内で初期に発展した産業は農業と製材業だった。州東部ではヤキマ川バレーがリンゴ果樹園で知られるようになり、一方乾燥農法を使った小麦栽培が特に生産性を上げた。カスケード山脈の西側には雨が多くて霧が深く、ピュージェット湾に面した港は特にベイマツ材木の製造と積み出しで繁栄した。その他にも漁業、鮭の缶詰加工、および鉱業が発展した。
タコマ市は長い間金、銀、銅および鉛を扱う大規模精錬所で注目された。シアトルはアラスカ州など国内他地域との貿易港であり、大型の造船業が栄えた。ピュージェット湾東部周辺の地域は第一次世界大戦や第二次世界大戦の期間など重工業が発展し、ボーイング社が地域の象徴的存在になった。
世界恐慌のとき、発電量を増やすプロジェクトの一環としてコロンビア川に一連の水力発電ダムが建設された。1941年にはアメリカ合衆国では最大規模であるグランドクーリーダムが完成した。
第二次世界大戦のとき、ワシントン州は軍需産業の中心となり、ボーイング社は国内の重爆撃機の多くを生産し、シアトル、ブレマートン、バンクーバーおよびタコマの港は軍艦の建造に使われた。シアトルは太平洋へ送り出す兵士の出発点となり、その多くが出発前にゴールデン・ガーデンズ公園で宿泊した。州東部ではハンフォード・ワークス原子力エネルギープラントが1943年に開設され、原子爆弾製造に大きな役割を果たした。
激しい振動や噴火の続いた後の1980年5月18日、セントヘレンズ山の北東斜面が爆発し、この火山の頂部が大きく壊れた。この噴火で森を平らにし、57人の人命を奪い、コロンビア川とその支流を灰と泥で溢れさせ、ワシントン州やその他周辺の州を灰で覆い、昼でも夜のように暗くさせた。
ワシントン州は大陸アメリカ合衆国では北西の隅にある。西部で太平洋、南部でオレゴン州(この境界の大部分がコロンビア川であり、その東側は北緯46度線である)、東部でアイダホ州と接し、北側境界は大半が北緯49度線でありその西側はジョージア海峡、ハロ海峡およびファンデフカ海峡を経てカナダのブリティッシュコロンビア州と隣接している。美しい風景が広がっていることで知られ、標高の高い山々は常緑樹の森林やきらめく沿岸の海水よりもはるか上にそびえている。
東側のアイダホ州との境界はスネーク川とクリアウォーター川の合流点(西経 116°57')から北に子午線が真っ直ぐ走っており、南側の部分のみがスネーク川に沿っている。そこから西、太平洋までがワシントン州である。ワシントン州は南北戦争の間北軍の領土だったが、実際に戦争に参加することはなかった。
ワシントン州は太平洋岸北西部と呼ばれる地域の一部である。太平洋岸北西部には常にワシントン州とオレゴン州は含まれるが、アイダホ州、モンタナ州西部、カリフォルニア州北部、ブリティッシュコロンビア州の部分あるいは全部、アラスカ州およびユーコン準州はこの言葉を使う者の意図によって含められたり含められなかったりする。
カスケード山脈の高い山々が南北に走り、ワシントン州を2つに分けている。州西部はカスケード山脈の西側であり、温暖で雨の多い冬と秋と春、比較的乾燥した夏のある海洋西海岸性気候である。ここには針葉樹の深い森と温帯雨林がある。
対照的に州東部はカスケード山脈の東であり、比較的乾燥した気候で、カスケード山脈の雨陰には広大な亜乾燥ステップと乾燥した砂漠が幾つかある。ハンフォード居留地の場合は年間平均降水量が6インチから7インチ (152 - 178 mm) である。さらに東にいくと乾燥の程度は緩む。州南東部にあるパルース地域は草原だったが大半が農地に転換された。東部の他の地域は森林と山岳である。
カスケード山脈には他の山地よりも高く聳える火山が幾つか含まれている。北からベーカー山、グレイシア峰、セントヘレンズ山およびアダムズ山が並んでいる。セントヘレンズ山は州内で現在も活動を続けている唯一の火山である。しかし、上記火山は全て活火山だと考えられている。シアトル市の南50マイル (80 km) には火山のレーニア山があり、市内からも見ることができる。標高は14,411フィート (4,392 m) あり、シアトル都市圏に近いために大陸アメリカ合衆国では最も危険な火山だと考えられている。防災十年火山にも挙げられている。
太平洋やピュージェット湾の港があることで、アラスカ州、カナダおよび環太平洋地域の海上貿易では重要な役割を果たしている。ピュージェット湾の多くの島はアメリカ合衆国最大のフェリー航路網で結ばれている。
ワシントン州は対照的地勢の共存する領域である。オリンピック半島の深い森林は世界の中でも雨が多い場所であり、北米大陸で唯一の温帯雨林(Hoh Rain Forest のような)に囲まれている。一方、カスケード山脈以東の半砂漠地域では樹木は稀である。ワシントン州の一番高い山、レーニア山はシアトル南東部に垂直にそびえ、他州の最高点のいずれよりも多量の氷河に覆われている。晴天時にタコマ沖合いに「浮かぶ」ように現れる。ワシントン州の東部側は2つの地域、オカノガン高地およびコロンビア川流域に分ける事が出来る。
オリンピック国立公園はユネスコの世界遺産と国際生物圏保護区に指定されている。以下のアメリカ合衆国連邦政府管理地が州内にある。
州内には国立公園局の管理する3つの国立公園と2つの国立保護地がある。
州内には林野局の管理する9つの国有林の全体あるいは一部が含まれている。
州内には31の国が保護する原生地の全体あるいは一部が含まれている。以下はその一部。
州内には23の野生生物保護区の全体あるいは一部が含まれている。以下はその一部。
ワシントン州の気候は西から東に行くに連れて大きく変化している。州西部は海洋性気候(西岸海洋性気候とも呼ばれる)が支配的であり、カスケード山脈の東側は亜乾燥気候である。このような気候になる主要因として、北太平洋の高気圧と低気圧が入れ替わり現れる気象条件、北アメリカの大陸大気団、およびオリンピック山脈とカスケード山脈がある。春と夏には高気圧が北太平洋を支配し、大気は時計回りに回転する。
このことで北西からの偏西風が比較的冷涼な空気をもたらし、乾燥した季節を常に期待できることを意味している。秋と冬には低気圧のサイクロンが北太平洋で発生し、反時計回りで回転する。このことで偏向風は南西から吹くことになり、比較的暖かく湿った空気をもたらし、湿潤な季節となる。この湿潤な季節の極端になった場合をパイナップルエクスプレスと呼ぶことがある。
ワシントン州西部がヨーロッパの海岸都市の多くと同様に海洋性気候であるにも拘わらず、1880年、1881年、1893年および1916年の大雪や1883年-1884年、1915年-1916年、および1955年-1956年の厳しい冷え込みのような例外もある。このような時は 6フィート(1.8 m) の積雪や 0°F(−18°C) 以下の気温となり、3か月の根雪があったり湖や川が数週間凍ったりする。シアトル市での過去最低気温は1950年1月31日の 0°F(−18°C) だが、シアトルから車で約3時間の低高度の地域でも −48°F(−44°C) を記録したことがある。
2006年、ワシントン大学の気候影響グループが『ワシントン州の経済における気候変動の影響』を出版した。これは地球温暖化の可能性とワシントン州に与えるその影響についてリスクと機会を予備的に評価したものである。
オリンピック山脈とカスケード山脈が太平洋から内陸に吹き込む気団に地形性上昇を起こさせることで、山脈の風上の側は降水量が多く、風下の側は極めて少なくなる。これら山脈の南西に面した風上斜面は降水量が多く、温暖で冷涼な気温となる。ピュージェット湾の低地は冬に雲と雨が多く、カスケード山脈の西側斜面は多量の雨が降って、高度の高い地域では降雪が多い。州の北側境界に近いベーカー山は世界でも降雪量の多い場所の1つであり、一冬で1,140インチ (2,900 cm) の降雪は世界記録になっている。
カスケード山脈の東側は雨陰効果の強い広大な地域である。ワシントン州東部の大半では亜乾燥状態となり、コロンビア川台地中央の比較的高度の低い場所、特にスネーク川からオカノガン高地にかけてコロンビア川東岸は雨陰効果が最高になる。西部の温帯雨林に対して、東部では草原と灌木のステップで覆われている。
年間平均気温は太平洋岸での 51°F(11°C) から北東部の 40°F(4°C) まで変化する。過去最低気温はウィンスロップとマザマで記録した −48°F(−44°C) である。過去最高気温はアイスハーバー・ダムで記録した 118°F(48°C) である。どちらの記録もカスケード山脈の東側で記録された。州西部はその温暖な気候で知られ、冬はかなりの量の霧や雲で覆われることが多く、霧雨が長く続く。夏は日照が多く乾燥する。また時として極端な気象も発生する。冬季の北極性寒冷前線や夏の熱波は珍しいことではない。マリエッタでは気温が 112°F(44°C) に、ロングビューでは −20°F(−29°C) に達したことがある。
オリンピック半島の西側は年間降水量が160インチ (4,000 mm) に達し、大陸アメリカ合衆国では最も降水量が多い地域になっている。晴れた日の無い期間が数週間から数か月続くこともある。カスケード山脈の西側斜面は国内でも降雪量の多い地域である(降水換算で200インチ (5,000 mm) 以上の場合もある)。カスケード山脈の東側の雨陰地域は年間降水量がわずか6インチ (150 mm) である。さらに東のロッキー山脈に向かうと降水量は次第に増加している。
2020年のアメリカ合衆国国勢調査によると、ワシントン州の人口は7,705,281人となり、前回2010年国勢調査より980,741人、14.58%増加した。アメリカ合衆国の太平洋岸北西部では人口最大の州であり、その後にオレゴン州とアイダホ州が続いている。昔からドイツ系、アイルランド系およびイングランド系の移民が多い。
2004年、ワシントン州の人口は631,500人(州人口の10.3%)の外国生まれを含み、100,000人の不法在留外国人(州人口の1.6%)を見込んでいる。
2000年のワシントン州の人口重心はイーナムクロー市がある、キング郡東部である。
2020年国勢調査では、シアトル・タコマ・ベルビュー都市圏の人口が4,018,762人とされており、州人口の半分を超えている。
州人口のうち5歳未満は6.7%、18歳未満は25.7%、65歳以上は11.2%である。女性の比率は 50.2%となっている。
2010年国勢調査では、この州の人種的構成は以下の通りである。
アジア人7.2%の内訳は中国人1.4%、フィリピン人1.4%、ベトナム人1.0%、韓国人0.9%、インド人0.9%、日本人0.5%、カンボジア人0.3%、ラオス人0.1%、タイ人0.1%となっている。
アフリカ系アメリカ人はシアトル市南部やタコマ市に集中している。アメリカ合衆国の州ではアフリカ系アメリカ人人口が少ない方の州である。第二次世界大戦後に軍需産業やアメリカ軍がアメリカ合衆国南東部のアフリカ系アメリカ人を数多く採用してシアトル市のアフリカ系アメリカ人社会が大きくなった。彼等は1960年代にウェストコーストのロックンロールやR&Bソウルに大きな影響を与えた。シアトル出身のジミ・ヘンドリックス(黒人とチェロキー族インディアンの混血)がハードロックのパイオニアとして有名である。
アメリカ・インディアンはコルビル、マカ、マックルシュート、クィノールト、セイリッシュ、スポケーンおよびヤキマの各インディアン居留地や管轄区域に住んでいた。チヌーク族、ラミ族およびセイリッシュ族など部族が知られている。しかし、第二次世界大戦後にシアトルでアメリカ合衆国インディアン局の移住計画が形成した都市型インディアン社会が、この多様な都市圏に様々なインディアン文化をもたらしてきた。1880年代に白人がこの地峡に入植した時に、シアトル市はシアトル酋長に因んで名付けられていた。
アジア系や太平洋諸島系の住人はシアトル都市圏のカナダ国境にあるマウントバーノンからオレゴン州ポートランドの対岸にあるバンクーバーまで地域社会や地区を形成してきた。スポケーン市住人の10%はアジア系である。フィリピン系人口が最大であり、2010年時点で137,083人となっている。日本からの移民も多く、米国でも最大級の日系人コミュニティがあり、神社もある。
民族集団としての最大はラテン系の11%であり、メキシコ系アメリカ人がシェヘイリス・バレーや、ヤキマ・バレーと州東部の農業地域で大きな集団を形成している。20世紀後半メキシコやその他ラテン地域から大量の移民がシアトル市南部に入り、1980年代と1990年代に不動産ブームが起こった時にはキング郡、ピアース郡およびスノホミッシュ郡にある程度集中した。
祖先の出身国で分けた人口構成は以下の通りである。ワシントン州の多くの部分にはイングランド系の住民が暮らしているが、州の東部にはドイツ系アメリカ人住民が多く住んでいる。ワカイアカム郡はスカンディナヴィア系の多くの住民が住んでいる。
ワシントン州人口の宗派別構成比は以下の通りである。
2000年時点で信者数最大の宗派は716,133人のローマ・カトリック教会である。モルモン教の信者数は178,000人、福音主義派の信者数は127,854人となっている。
アメリカ合衆国西部の諸州と同様、自身を「無宗派」とする人口比率は全国平均より高く、コロラド州に次いで第2位である。
かつて70を数えるインディアン部族が先住し、現在も公認・非公認を含めた部族が200を超える。鮭漁などを営む漁猟民が多い。ピュージェット海峡では、周辺部族によるカヌー競争が盛んに行われる。
同州では海川での漁猟民が非常に多いが、白人はスポーツとして渓流釣りを楽しめるが、インディアンが川漁をすれば密猟罪で逮捕される、という状況が人種差別と連動して1950年代になってもなお根強かった。さらに1950年代から、全米のインディアン部族の漁猟・狩猟権の剥奪法案が合衆国議会で次々に可決され、同州のインディアン部族にとっても死活問題となった。1954年に「ピュヤラップ族」指導者のボブ・サティアカムによって始められたインディアンの漁猟権を巡る抗議は、1960年代のインディアン権利回復運動の中で中心的なテーマとなった。
ワシントン州では1964年3月に、このインディアンの漁猟・狩猟権の剥奪法案への抗議として、同州のあらゆる場所で一斉に全米から集まった5000人近いインディアンたちが一斉に釣りをしてみせる「フィッシュ・イン抗議運動」が決行された。20世紀に入って初のインディアンによる大規模抗議行動となるこの「フィッシュ・イン」は、1961年に発足した「全米インディアン若者会議」が主導したものだった。この運動には、白人俳優のマーロン・ブランドも参加し、援助を行っている。この「フィッシュ・イン」抗議運動では白人によって徹底弾圧が行われて逮捕者が続出し、運動を指揮したインディアン運動家ハンク・アダムスは警官隊の発砲で重傷を負った。
ニスクォーリー川の名の由来となった「ニスクォーリー族」は、1854年の「メディシンクリーク条約」をもとに、アメリカ連邦政府によって河口に近いピュージェット湾域へ強制移住させられたが、彼らの保留地の2/3は1917年にアメリカ陸軍の「ルイス基地」建設によって占領され、漁業権も奪われた。1970年代に入って、彼らは「ピュヤラップ族」とともに、「メディシンクリーク条約」で保証された同川での彼らの漁猟権回復要求運動を開始。白人からの嫌がらせと多数の逮捕者に耐え、州政府を提訴し、1974年にワシントン州のすべてのインディアン部族に、彼らの伝統領域での50%の漁獲漁猟権を認めた「ボルト決議」を勝ち取った。
しかし同州では1885年以来、多数の河川に電力会社が発電ダムを建設したことで鮭の遡上が阻害されていて、これらの条約・決議を虚しくしており、多数の漁猟部族がこれらのダムの設備改善要求運動を起こしている。電力ダムの契約更新を巡っては環境団体を巻き込んだ大論争となっており、ニスクォーリー川問題では「ニスクォーリー川調整委員会(NRCC)」が発足、「ニスクォーリー族」は「アルダー・ダム」下流の保留地に魚卵孵化場を設置することで和解したが、「ヤカマ族」や「チュラリップ族」はコロンビア川の「ロックアイランド・ダム」、「マックルシート族」はピュージェット湾電力会社を相手取り、「連邦エネルギー規制委員会(FARC)」に提訴係争中である。
2009年11月12日、「コルヴィル部族事務評議会」は、1872年の連邦との条約で保証された土地であり、1891年の連邦への割譲後も狩猟漁猟権を認定されている「ノース・ハーフ領域」での、部族の狩猟権確認のための訴訟を連邦裁判所に起こした。マイケル・フィンリー評議会委員長は「ワシントン州の『銃器取締法』の適用は、他州よりもインディアン部族に厳しすぎる」と抗議している。
「スクララム族」は伝統漁猟民であるが、彼らの住むキッツァップ半島には20世紀初頭から白人企業による製材工場が林立し、周辺の海域を汚染した。魚介海産物を伝統食材とするスクララム族は海洋汚染の影響を受け、1990年代には伝統食を続ける部族員が軒並み癌を発症し、大問題となっている。
オリンピア半島の「マカー族」は、全米で唯一、捕鯨権を連邦政府との条約で承認されている部族であるが、100年近くにわたり、不当にこれを禁止されてきた。今世紀に入り伝統のコククジラ漁を再開したものの、州政府や反捕鯨団体「シー・シェパード」などからの妨害、嫌がらせ、脅迫を受け続けている。
「シアトル市」は、「スクアミシュ族」のシアトル酋長(Chief Seattle)の名に因んでいる。スクアミシュ族が19世紀にアメリカ連邦政府によって保留地へ強制移住させられた際の、シアトル酋長の演説は非常に有名である。
「コウリッツ族」は保留地を持たない「絶滅部族」であるが、現在、クラーク郡に購入した152エーカー(約0.6 km)の土地を内務省信託として申請中である。この申請が内務省BIA(インディアン管理局)で承認されれば、この土地はコウリッツ族の政府、住宅、産業のための保留地となる。彼らは同地での「コウリッツ・カジノ・リゾート」を計画中である。
参照:ワシントン州の都市一覧、ワシントン州の町一覧、ワシントン州の一人当たり収入の多い場所の一覧及びワシントン州の市政府
下表はワシントン州の人口の多い都市20傑である。人口は2020年国勢調査による。
なお、州都オリンピアは人口55,605人、州内23位で、上表には入っていない。
参照:ワシントン州政府
ワシントン州の立法府は両院制議会である。州議会には下院と上院がある。州内は人口に応じて49の選挙区があり、それぞれ2人の下院議員と1人の上院議員を選出する。下院議員の任期は2年間、上院議員の任期は4年間である。多選の制限は無い。2011年時点で民主党が両院とも多数派になっている。
ワシントン州の行政府は4年任期で選ばれる知事が首長である。2011年時点の州知事はクリスティーン・グレゴア(民主党)であり、2005年以降現職である。
ワシントン州最高裁判所が州内の最上級裁判所である。9人の判事が就任しており、州全体の選挙で選ばれている。
連邦上院議員は2011年時点でパティ・マレーとマリア・E・キャントウェル(英語版)であり、2人とも民主党員である。
下院議員は9人を送りだしており、2011年時点で民主党員5人、共和党員4人となっている。
州内の政治はカスケード山脈で2つに分かれていると考えられ、西部はリベラルで(特に州間高速道路5号線回廊)、東部は保守的である。1988年以降の全てのアメリカ合衆国大統領選挙で民主党候補が制してきた。
西部の人口が多いために民主党が州全体の結果を制する傾向にある。シアトル都市圏(特にキング郡)は西部の周辺地域よりも通常民主党に大差を与えるが、2000年と2004年の結果はほぼ互角になった。1968年の場合は結果を左右する州と見なされ、民主党候補ヒューバート・ハンフリーが共和党候補のリチャード・ニクソンを制した唯一の西部州となった。ワシントン州は1994年の共和党革命でその一部と考えられ、連邦議会下院の9議席のうち共和党が7議席を獲得して最大の成果を挙げた。しかしこれは長続きせず、1996年には民主党が1議席取り戻し、1998年にはさらに2議席を奪って5対4の多数派となった。
現在の連邦上院議員は2人とも民主党員であり、州知事も民主党員で2期目である。連邦上院議員と州知事の双方に女性を選出したことでは最初の州になった。州議会の両院も民主党が多数派である。
参照:アメリカ合衆国の州別企業リスト ワシントン州の2010年州総生産高は合衆国内で14番目に位置する、5,515億米ドルだった。2009年時点で一人当たりの収入は52,403米ドルであり、国内第10位になっている。
ワシントン州内の重要なビジネスには、ジェット航空機の設計および製造(ボーイング・エバレット工場)、自動車(パッカー)、コンピュータソフトウェア開発(マイクロソフト)、オンライン書店(Amazon.com)、ゲーム(任天堂米国法人、バンジー、Valve Corporation)、通信(T-Mobile USA)、電子工学、バイオテクノロジー、アルミニウム製造、材木および木製品(ウェアーハウザー)、鉱業、飲料(スターバックス、ジョーンズソーダ)、不動産(ジョン・L・スコット)、小売業(ノードストローム、エディー・バウアー、カートイズ、コストコ、REI、ジーンフアレス)および観光業(アラスカ航空、エクスペディア・グループ)が含まれる。ワシントン州は、かなりの量の水力発電を行っている。
重要なアジアとの貿易は、ピュージェット湾の港湾を通して行われている。雑誌『フォーチュン』による「アメリカ合衆国の最も称賛される企業20傑」の中に、ワシントン州の企業4社、すなわちスターバックス、マイクロソフト、コストコおよびノードストロームが入っている。
ワシントン州は、酒を専売制する18州の1つである。ただし、コンビニエンスストアやスーパーマーケットで購入できるのは、アルコール度数20%未満のビールやワインである。発酵酒(アルコール度数20%未満のものも含む)と醸造酒は、州政府が運営している酒屋あるいは私営で、ワシントン州政府と契約した酒屋でのみ購入できる。
州民の中でも億万長者と言えば、マイクロソフト創業者のビル・ゲイツがいる。その純資産は400億ドルとされ、雑誌「フォーブス」の2011年2月ランキングで世界第2位である。その他にもポール・アレン(マイクロソフト)、スティーブ・バルマー(マイクロソフト)、ジェフ・ベゾス(アマゾン)、クレイグ・マッコー(マッコー・セルラー)、ジェイムズ・ジャナード(オークリー)、ハワード・シュルツ(スターバックス)、チャールズ・シモニー(マイクロソフト)がいる。
2010年1月時点の失業率は9.0%である。
ワシントン州政府は、個人に所得税を課していない。このような州は全米に7州しかない。また法人税あるいはフランチャイズ・タックスも徴集していない。州内の法人は事業占有税、総受領高税など種々の収入税を支払う必要があり、事業の種類によって税率が異なる。
基本的な消費税は6.5%であり、これに地方の税率が加算される。2010年4月時点でシアトル市などの都市では9.5%となっており、通常は8%と9%の間である。消費税は商品とサービスに適用される。食品の大半は免税であるが、加工食品、ダイエット・サプリメントおよびソフトドリンクは課税対象である。
物品税は、ガソリン、タバコおよび酒のような、限定商品に適用されている。資産税は州内第一の税金であり、州や地方の歳入の約30%を占めている。公共教育、消防、図書館、公園とレクリエーションなど特別目的地区にとっては、最も重要な歳入源である。
不動産と動産は、法律で免除されない限り課税対象である。動産も課税されるが、個人的な資産の大半は免税である。動産税は事業遂行に使われる個人資産や法で免除されない個人資産に対して課税される。資産税はその資産がある郡の財務官に支払われる。銀行預金、株式あるいは債券のような無形資産には課税されない。また退職金を他州で受けた場合にも課税されない。相続税の制度は無いが、不動産税は連邦の資産税とは別物であり、よって州は独自の資産税を課していることになる。
ワシントン州は農業生産高の多い州である。2003年、農産物の総生産高は57億9,000万ドルに上り、国内の州では第11位だった。穀物の生産高は38億ドル、第7位である。家畜と特産物の資産高は15億ドルで第26位である。
2004年では次の産品で国内第1位になった。括弧内は国内生産高に占める構成比である。赤ラズベリー (90.0%)、皺種 豆類 (80.6%)、ホップ (75.0%)、スペアミント油 (73.6%t)、リンゴ (58.1%)、サクランボ (47.3%)、ナシ (42.6%)、ペパーミント油 (40.3%)、コンコードブドウ (39.3%)、加工用ニンジン (36.8%)、ナイアガラブドウ (31.6%)。レンズ豆、秋ジャガイモ、乾燥食用豆、アプリコット、ブドウ(全種)、アスパラガス、加工用トウモロコシ、加工用グリーンピースでは第2位、酸味サクランボ、プルーンとプラム、乾燥夏タマネギでは第3位、オオムギとマスでは第4位、コムギ、クランベリー、イチゴでは第5位である。
リンゴは特に重要な産品である。州中部の乾燥し暖かい夏と冷涼な冬という好適な気候があるので、1920年代以降国内のリンゴ生産をリードし続けている。ウェナッチー・オカノガン地域(シェラン郡、オウカノガン郡、ダグラス郡、グラント郡)とヤキマ地域(ヤキマ郡、ベントン郡、キッティタス郡)という2つの地域で州内リンゴ生産量の過半数を産している。
ワシントン州は、公共スペースの清潔さとそれに関わるゴミ処理活動の有効さと質を評価する2011年州別ゴミ処理評価において前年第1位のバーモント州を抜いて第1位の州にランクされた。
州内はワシントン州道体系と国内最大かつ世界でも第3位となるフェリー運航網で各所が結ばれている。ワシントン州交通省が所有する州立空港16か所を含め140の公営空港がある。シアトルにあるキング郡国際空港、通称ボーイングフィールドは合衆国のハブ空港ではない空港の中では最も乗降客数が多い。シアトル・タコマ国際空港もシアトル大都市圏にあってもう一つの主要空港になっている。ワシントン州における正式な国際空港はシアトル・タコマ国際空港ではなくボーイングフィールドである。
ワシントン州の特徴ある地形のために例外的な交通需要がある。シアトル、ベルビュー、タコマ、オリンピアといった州内大都市の間には広範な水路がある。州道は橋によって広大なネットワークとなり、国内最大のフェリー運航網がピュージェット湾地域の交通需要を支えている。海のハイウェイはピュージェット湾とその内陸水路を航行して20の港を結ぶ28隻のフェリーで構成され、年間147,000本が運行されている。浮動橋の長さでは世界の5傑のうち4つが州内にある。すなわちエバーグリーンポイント浮動橋、ワシントン湖に架かるレイシー・V・マーロウ記念橋とホーマー・M・ハドリー記念橋、オリンピック半島とキトサップ半島を結ぶフッド運河橋である。
主要な州間高速道路は 州間高速道路5号線、同82号線、同84号線、同90号線などである。カスケード山脈があることでも特徴ある交通需要がある。州は7つの主要峠と8つの小型峠を運営し維持している。これらの峠は冬季には除雪され、砂を撒かれ、雪崩を抑えて安全が保たれている。全ての峠が冬季も通行可能というわけではない。ノース・カスケード・ハイウェイ、すなわち州道20号線は毎年閉鎖されている。ここは積雪量が以上に多く、ワシントン峠のある地域では雪崩の頻度も高いからである。
ワシントン州で自動車を運転する場合、30日以内までは他州交付の免許及び国際免許でも運転可能である。しかし、30日以上の滞在については、ビジタービザ(B-1/B-2)を除いて、ワシントン州の運転免許が必要である。州内で住所が変わった場合は10日以内に住所変更届けをしなければならない。日本からの留学生や出張者、海外赴任の多くはシアトルのダウンタウンの北に位置するgreenwoodの試験場を多く利用する。免許更新期間、有効期間は一律5年とされている。
マンハッタン計画のために作られたプルトニウム精製施設が今も州南東部のコロンビア河畔に残っており、その大量の核廃棄物によるヒトや農産物を含む生物への影響が懸念されている。
2007年、ワシントン州は多くの家庭用品に使われているPBDEと呼ばれる毒性の強い臭素化難燃剤を如何なる形でも使用しないように規定したことで、国内最初の州になった。2004年にオレゴン州、ワシントン州、ブリティッシュコロンビア州およびモンタナ州に住む母親40人を検査した結果、その全員の母乳にPBDEが検出された。
ワシントン州生態保護省による最近の研究3件では、数十年前に禁止された毒性化学物質が環境の中に残り続け、食物連鎖で濃縮されていることが示された。この研究の1つでは、州政府の科学者が45の場所から集めた淡水魚93サンプルで許容値を超える有毒物質を見付けた。これら有毒物質にはポリ塩化ビフェニル(PCB)、ダイオキシン類、2種の塩素系殺虫剤、ジクロロジフェニルジクロエチレン(DDE)とディルドリン、およびPBDEが含まれていた。この研究の結果、山岳部ホワイトフィッシュに不健康なレベルのPCBが見つかったウェナッチー川でPCBの排出源を調査することになっている。ワシントン州健康省は2007年のデータおよび2004年の生体研究に基づき、レブンワースから下流のコロンビア川と合流するまでのウェナッチー川から獲れるホワイトフィッシュを食さないよう大衆に忠告している。これら研究では科学者がワシントン湖やスポケーン川から集めた魚の細胞に高レベルの汚染が見られることも示しており、ここでも魚類摂取に対する忠告が行われている。
2006年3月27日、クリスティーン・グレゴア知事が議会承認された法案2322号に署名して成立させた。この法は、今後6年間で州内の食器洗い用洗剤に含まれるリン含有量を0.5%に制限するものである。この規制は2010年に州全体で有効になったが、ワットコム郡、スポケーン郡およびクラーク郡では2008年に有効とされた。近年の研究では水中の高濃度リンが藻類の汚染に結びつけられている。水域に大量に藻が発生すると生態的にも技術的にも大きな問題に繋がるとされている。
2008年から2009年の学校年で州内初等中等学校には1,040,750人の児童・生徒がおり、これを教える教師は59,562人である。2009年8月時点で、295の教育学区があり、9つの教育サービス地区がある。非営利州機関であるワシントン州学校情報処理法人が財務人材資源と生徒のデータについて情報管理システムを提供している。初等中等学校は州学校監査官ランディ・ドーンの率いる公共教育監査局の管轄下にある。
高校の高学年生は州のランニングスタート・プログラム利用を選択できる。1990年に州議会が始めたものであり、生徒は公費で高等教育機関に進むことができ、同時に高校とカレッジの卒業認定を取得できるものである。
州内にはタコマ美術学校、バンクーバー美術学校およびシアトルのセンタースクールなど大衆芸術に焦点を当てた高校もある。またトリシティズには「デルタ」、タコマにはSAMIと呼ばれる科学と数学を基本とする高校もある。
アメリカ海軍の4隻の艦船がワシントン州に因んで名付けられてきており、この中には2隻の戦艦も含まれている。以前にはジョージ・ワシントンに因んで名付けられたものもあった。
州の愛称である「エバーグリーン・ステート」は1890年にシアトルのチャールズ・T・コノバーが提案したものである。州内には常緑樹の森があり、年間を通じて豊富な雨が低木や草の緑を保っているので、この愛称はうまく当てはまっている。 | [
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"text": "ワシントン州(ワシントンしゅう、英: State of Washington, 英語発音: [ˈwɑʃɪ̞ŋʔn̩])は、アメリカ合衆国西海岸最北部の州。州都はオリンピア市、人口規模および経済の面での中心都市はシアトル市である。北はカナダのブリティッシュコロンビア州、南はオレゴン州、東はアイダホ州と接している。1846年にオレゴン境界紛争を解決するためのオレゴン条約が結ばれた結果、イギリスから割譲されたワシントン準州の西側が現在のワシントン州になった。1889年にアメリカ合衆国42番目の州として認められた。",
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"text": "カリフォルニア州、オレゴン州と共に民主党が強いリベラルな気風で、共和党の地盤である保守的な中西部に対して「レッドウッド・カーテンの向こう側」と称される。",
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"text": "マイクロソフトやボーイング、スターバックスなどの世界的な大企業の本拠地であり、シアトルコーヒー発祥の地などとして知られる。州の中心都市のシアトルがMLBシアトル・マリナーズの本拠地でもある。",
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"text": "2020年国勢調査によると、ワシントン州の人口は7,705,281人となっている。その半分以上はセイリッシュ海のピュージェット湾に沿った交通、事業、産業の中心であるシアトル都市圏に集中している。ピュージェット湾は太平洋からの入江であり、氷河が侵食した多くの島、深いフィヨルドおよび湾がある。州の西部は深い温帯雨林があり、西部、中部、北東部および最南東部には山脈がある。東部の亜乾燥盆地は徹底した農業が行われ、アメリカ合衆国西海岸ではカリフォルニア州に次いで2番目に人口の多い州でもある。",
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"text": "州の名は、アメリカ建国の父で初代アメリカ合衆国大統領ジョージ・ワシントンに由来しており、大統領の名前が付けられたことでは合衆国の中で唯一の州でもある。首都ワシントンD.C.と区別するためにワシントン州と呼ばれるが、州民、近在の州およびカナダのブリティッシュコロンビア州南部の住人は単に「ワシントン」と呼び、首都の方は「ワシントンD.C.」あるいは単純に「D.C.」のみで呼んでいる。元々ワシントン州のある地域はコロンビア川にちなんで「コロンビア」と呼ばれており、ワシントンD.C.がコロンビア特別区と呼ばれることから、混乱を避けるためにワシントン州とされた。",
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"text": "ヨーロッパからの探検者が現在のワシントン州となった地域を訪れる以前、多くのインディアン部族が住んでおり、トーテムポールや装飾の施されたカヌーとマスクが知られている。生業の中心は鮭の漁業であり、マカ族の場合は捕鯨を行っていた。内陸の部族は狩猟採集が基本であり、何らかの形態の農業も行っていた。さらにコロンビア川とその支流で鮭漁も行っていた。1770年代に流行した天然痘のためにインディアンの人口が急減した。",
"title": "歴史"
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"text": "ワシントン州海岸に上陸したという記録の残る最初のヨーロッパ人は、1775年のスペイン人船長ドン・ブルーノ・デ・ヘセタであり、サンティアゴとソノラという2隻の船隊で訪れたものだった。彼等は北のプリンス・ウィリアム湾までの海岸地域全てにスペインの領有を宣言した。これはトルデシリャス条約の取り決めによる権利であり、スペインは太平洋を「スペインの湖」とし、海岸部全てをスペイン帝国領有とするものだった。",
"title": "歴史"
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"text": "1778年、イギリスの探検家ジェームズ・クック船長がフアンデフカ海峡の入口にあるフラッタリー岬を視認したが、クックはこの海峡があるとは考えなかった。1787年にインペリアル・イーグル号の船長チャールズ・ウィリアム・バークレーがその海峡を視認したのが最初だった。フアンデフカ海峡は1790年にスペイン人探検家マヌエル・キンパー、1791年にフランシスコ・デ・エリザが、さらに1792年にはイギリス人探検家ジョージ・バンクーバーが探検した。",
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"text": "1790年に行われたイギリスとスペインのヌートカ会議によってスペインの排他的権利主張が終わり、北西部の海岸は他国の探検家や貿易業者に開放された。中でもイギリスとロシア、さらに新生間もないアメリカ合衆国が積極的だった。その後アメリカ人船長ロバート・グレイがコロンビア川河口を発見した。かれはその乗船コロンビア号に因んで、その川をコロンビア川と名付けた。グレイは1792年からラッコの生皮を交易する事業を始めた。1805年10月10日、ルイス・クラーク探検隊が現在の州内に入った。",
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"text": "1811年7月9日、探検家デイビッド・トンプソンがコロンビア川を下る途中でスネーク川との合流点で宿営した。トンプソンは柱を立ててそこがイギリスの土地であること、北西会社がその地に交易基地を建設する意図があることを宣言する文書を付けた。",
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"text": "イギリスとアメリカ合衆国は1818年英米協議の一部としてロッキー山脈の大陸分水界から西の太平洋まで「協同領有」とすることに合意した。ロッキー山脈の東、ウッズ湖までは北緯49度線を国境とした。ロッキー山脈より西側に関する領土の取り決めは先延ばしされた。1819年、スペインは北緯42度線より北の領有権をアメリカ合衆国に渡した。スペインは事実上権利だけで領土の所有はしていなかった。",
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"text": "その後の約30年間イギリスとアメリカ合衆国との境界に関する交渉は進展をみず、オレゴン境界紛争という両国の緊張関係を呼ぶものになった。アメリカ人開拓者がオレゴン・カントリーに大挙して入るようになると、以前は毛皮交易を邪魔する恐れがあったために入植を奨励していなかったハドソン湾会社が立場を逆転してコロンビア地区のイギリス支配を維持しようとした。罠猟師のジェイムズ・シンクレアはハドソン湾会社の支配人ジョージ・シンプソンの命令で、1841年にレッド川コロニーの開拓者200名程を率い、バンクーバー砦近くのハドソン湾会社農場に入った。この隊はロッキー山脈を越えて、現在のブリティッシュコロンビア州ラディアムホットスプリングス近くでコロンビアバレーに入り、その後クーテネイ川とコロンビア川を南西方向に下った。このような動きにも拘わらず、1846年6月15日に締結されたオレゴン条約で、イギリスはアメリカ合衆国に北緯49度線以南の地全ての権利を譲った。",
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"text": "1836年、マーカス・ホイットマンなど宣教師の一団が、現在のワシントン州南東部ワラワラ郡近くに幾つかの伝道所とホイットマン自身の入植地を設立した。それらの地はカイユース族とネズ・パース族インディアンの領土だった。ホイットマンの入植地は1843年に山越えで西部に向かう移民の道であるオレゴン・トレイルに役立つことになり、その後の10年間で数多い移民を受け入れることになった。ホイットマンはインディアンに医療を施したが、このときヨーロッパ人の病気に免疫が無かったインディアンの患者が多く死に、一方で多くの白人患者は快復したので、医者であるホイットマンに責任があると思いこみ、1847年のホイットマン虐殺事件の際にホイットマンと他に12人の白人を殺害した。この事件がインディアンと開拓者の間のカイユース戦争に発展した。",
"title": "歴史"
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"text": "ニスクァリー砦はハドソン湾会社の農場と交易拠点であり、1833年に設立され、ピュージェット湾地域では最初のヨーロッパ人開拓地となった。1846年、ミズーリ州出身の黒人開拓者ジョージ・ワシントン・ブッシュとテネシー州出身でコーカサス人の妻イザベラ・ジェイムズ・ブッシュが白人の4家族を率いてこの地に入り、ニューマーケット、現在のタムウォーターの町を建設した。彼等はオレゴンの人種差別法を避けてワシントン州に入った。彼等の後にはさらに多くの開拓者がオレゴン・トレイルを通って山を越え、北のピュージェット湾地域に入っていった。",
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"text": "1852年、現在のワシントン州となった全ての場所から住人がモンティチェロ(現在のロングビュー)に集まり、連邦議会に対する覚え書きを作成した。この覚え書きはコロンビアという名前での州昇格の願望を表すものだった。この集会はモンティチェロ会議と呼ばれるようになった。この会議の発した要請は連邦議会で好意的に迎えられたが、コロンビアという名前は既に存在するコロンビア特別区と混同する可能性があると判断された。この首都と混同するという問題を解決するには奇妙なやり方ではあるが、州の名前は初代アメリカ合衆国大統領ジョージ・ワシントンの名前が採られることになった。ワシントン州は1889年11月11日に合衆国42番目の州に昇格した。",
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"text": "州内で初期に発展した産業は農業と製材業だった。州東部ではヤキマ川バレーがリンゴ果樹園で知られるようになり、一方乾燥農法を使った小麦栽培が特に生産性を上げた。カスケード山脈の西側には雨が多くて霧が深く、ピュージェット湾に面した港は特にベイマツ材木の製造と積み出しで繁栄した。その他にも漁業、鮭の缶詰加工、および鉱業が発展した。",
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"text": "タコマ市は長い間金、銀、銅および鉛を扱う大規模精錬所で注目された。シアトルはアラスカ州など国内他地域との貿易港であり、大型の造船業が栄えた。ピュージェット湾東部周辺の地域は第一次世界大戦や第二次世界大戦の期間など重工業が発展し、ボーイング社が地域の象徴的存在になった。",
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"text": "世界恐慌のとき、発電量を増やすプロジェクトの一環としてコロンビア川に一連の水力発電ダムが建設された。1941年にはアメリカ合衆国では最大規模であるグランドクーリーダムが完成した。",
"title": "歴史"
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"text": "第二次世界大戦のとき、ワシントン州は軍需産業の中心となり、ボーイング社は国内の重爆撃機の多くを生産し、シアトル、ブレマートン、バンクーバーおよびタコマの港は軍艦の建造に使われた。シアトルは太平洋へ送り出す兵士の出発点となり、その多くが出発前にゴールデン・ガーデンズ公園で宿泊した。州東部ではハンフォード・ワークス原子力エネルギープラントが1943年に開設され、原子爆弾製造に大きな役割を果たした。",
"title": "歴史"
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"text": "激しい振動や噴火の続いた後の1980年5月18日、セントヘレンズ山の北東斜面が爆発し、この火山の頂部が大きく壊れた。この噴火で森を平らにし、57人の人命を奪い、コロンビア川とその支流を灰と泥で溢れさせ、ワシントン州やその他周辺の州を灰で覆い、昼でも夜のように暗くさせた。",
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"text": "ワシントン州は大陸アメリカ合衆国では北西の隅にある。西部で太平洋、南部でオレゴン州(この境界の大部分がコロンビア川であり、その東側は北緯46度線である)、東部でアイダホ州と接し、北側境界は大半が北緯49度線でありその西側はジョージア海峡、ハロ海峡およびファンデフカ海峡を経てカナダのブリティッシュコロンビア州と隣接している。美しい風景が広がっていることで知られ、標高の高い山々は常緑樹の森林やきらめく沿岸の海水よりもはるか上にそびえている。",
"title": "地理"
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"text": "東側のアイダホ州との境界はスネーク川とクリアウォーター川の合流点(西経 116°57')から北に子午線が真っ直ぐ走っており、南側の部分のみがスネーク川に沿っている。そこから西、太平洋までがワシントン州である。ワシントン州は南北戦争の間北軍の領土だったが、実際に戦争に参加することはなかった。",
"title": "地理"
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"text": "ワシントン州は太平洋岸北西部と呼ばれる地域の一部である。太平洋岸北西部には常にワシントン州とオレゴン州は含まれるが、アイダホ州、モンタナ州西部、カリフォルニア州北部、ブリティッシュコロンビア州の部分あるいは全部、アラスカ州およびユーコン準州はこの言葉を使う者の意図によって含められたり含められなかったりする。",
"title": "地理"
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"text": "カスケード山脈の高い山々が南北に走り、ワシントン州を2つに分けている。州西部はカスケード山脈の西側であり、温暖で雨の多い冬と秋と春、比較的乾燥した夏のある海洋西海岸性気候である。ここには針葉樹の深い森と温帯雨林がある。",
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"text": "対照的に州東部はカスケード山脈の東であり、比較的乾燥した気候で、カスケード山脈の雨陰には広大な亜乾燥ステップと乾燥した砂漠が幾つかある。ハンフォード居留地の場合は年間平均降水量が6インチから7インチ (152 - 178 mm) である。さらに東にいくと乾燥の程度は緩む。州南東部にあるパルース地域は草原だったが大半が農地に転換された。東部の他の地域は森林と山岳である。",
"title": "地理"
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"text": "カスケード山脈には他の山地よりも高く聳える火山が幾つか含まれている。北からベーカー山、グレイシア峰、セントヘレンズ山およびアダムズ山が並んでいる。セントヘレンズ山は州内で現在も活動を続けている唯一の火山である。しかし、上記火山は全て活火山だと考えられている。シアトル市の南50マイル (80 km) には火山のレーニア山があり、市内からも見ることができる。標高は14,411フィート (4,392 m) あり、シアトル都市圏に近いために大陸アメリカ合衆国では最も危険な火山だと考えられている。防災十年火山にも挙げられている。",
"title": "地理"
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"text": "太平洋やピュージェット湾の港があることで、アラスカ州、カナダおよび環太平洋地域の海上貿易では重要な役割を果たしている。ピュージェット湾の多くの島はアメリカ合衆国最大のフェリー航路網で結ばれている。",
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"text": "ワシントン州は対照的地勢の共存する領域である。オリンピック半島の深い森林は世界の中でも雨が多い場所であり、北米大陸で唯一の温帯雨林(Hoh Rain Forest のような)に囲まれている。一方、カスケード山脈以東の半砂漠地域では樹木は稀である。ワシントン州の一番高い山、レーニア山はシアトル南東部に垂直にそびえ、他州の最高点のいずれよりも多量の氷河に覆われている。晴天時にタコマ沖合いに「浮かぶ」ように現れる。ワシントン州の東部側は2つの地域、オカノガン高地およびコロンビア川流域に分ける事が出来る。",
"title": "地理"
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"text": "オリンピック国立公園はユネスコの世界遺産と国際生物圏保護区に指定されている。以下のアメリカ合衆国連邦政府管理地が州内にある。",
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"text": "州内には国立公園局の管理する3つの国立公園と2つの国立保護地がある。",
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"text": "州内には林野局の管理する9つの国有林の全体あるいは一部が含まれている。",
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"text": "州内には31の国が保護する原生地の全体あるいは一部が含まれている。以下はその一部。",
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"text": "州内には23の野生生物保護区の全体あるいは一部が含まれている。以下はその一部。",
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"paragraph_id": 33,
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"text": "ワシントン州の気候は西から東に行くに連れて大きく変化している。州西部は海洋性気候(西岸海洋性気候とも呼ばれる)が支配的であり、カスケード山脈の東側は亜乾燥気候である。このような気候になる主要因として、北太平洋の高気圧と低気圧が入れ替わり現れる気象条件、北アメリカの大陸大気団、およびオリンピック山脈とカスケード山脈がある。春と夏には高気圧が北太平洋を支配し、大気は時計回りに回転する。",
"title": "地理"
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"text": "このことで北西からの偏西風が比較的冷涼な空気をもたらし、乾燥した季節を常に期待できることを意味している。秋と冬には低気圧のサイクロンが北太平洋で発生し、反時計回りで回転する。このことで偏向風は南西から吹くことになり、比較的暖かく湿った空気をもたらし、湿潤な季節となる。この湿潤な季節の極端になった場合をパイナップルエクスプレスと呼ぶことがある。",
"title": "地理"
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"text": "ワシントン州西部がヨーロッパの海岸都市の多くと同様に海洋性気候であるにも拘わらず、1880年、1881年、1893年および1916年の大雪や1883年-1884年、1915年-1916年、および1955年-1956年の厳しい冷え込みのような例外もある。このような時は 6フィート(1.8 m) の積雪や 0°F(−18°C) 以下の気温となり、3か月の根雪があったり湖や川が数週間凍ったりする。シアトル市での過去最低気温は1950年1月31日の 0°F(−18°C) だが、シアトルから車で約3時間の低高度の地域でも −48°F(−44°C) を記録したことがある。",
"title": "地理"
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"text": "2006年、ワシントン大学の気候影響グループが『ワシントン州の経済における気候変動の影響』を出版した。これは地球温暖化の可能性とワシントン州に与えるその影響についてリスクと機会を予備的に評価したものである。",
"title": "地理"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "オリンピック山脈とカスケード山脈が太平洋から内陸に吹き込む気団に地形性上昇を起こさせることで、山脈の風上の側は降水量が多く、風下の側は極めて少なくなる。これら山脈の南西に面した風上斜面は降水量が多く、温暖で冷涼な気温となる。ピュージェット湾の低地は冬に雲と雨が多く、カスケード山脈の西側斜面は多量の雨が降って、高度の高い地域では降雪が多い。州の北側境界に近いベーカー山は世界でも降雪量の多い場所の1つであり、一冬で1,140インチ (2,900 cm) の降雪は世界記録になっている。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 38,
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"text": "カスケード山脈の東側は雨陰効果の強い広大な地域である。ワシントン州東部の大半では亜乾燥状態となり、コロンビア川台地中央の比較的高度の低い場所、特にスネーク川からオカノガン高地にかけてコロンビア川東岸は雨陰効果が最高になる。西部の温帯雨林に対して、東部では草原と灌木のステップで覆われている。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 39,
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"text": "年間平均気温は太平洋岸での 51°F(11°C) から北東部の 40°F(4°C) まで変化する。過去最低気温はウィンスロップとマザマで記録した −48°F(−44°C) である。過去最高気温はアイスハーバー・ダムで記録した 118°F(48°C) である。どちらの記録もカスケード山脈の東側で記録された。州西部はその温暖な気候で知られ、冬はかなりの量の霧や雲で覆われることが多く、霧雨が長く続く。夏は日照が多く乾燥する。また時として極端な気象も発生する。冬季の北極性寒冷前線や夏の熱波は珍しいことではない。マリエッタでは気温が 112°F(44°C) に、ロングビューでは −20°F(−29°C) に達したことがある。",
"title": "地理"
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"text": "オリンピック半島の西側は年間降水量が160インチ (4,000 mm) に達し、大陸アメリカ合衆国では最も降水量が多い地域になっている。晴れた日の無い期間が数週間から数か月続くこともある。カスケード山脈の西側斜面は国内でも降雪量の多い地域である(降水換算で200インチ (5,000 mm) 以上の場合もある)。カスケード山脈の東側の雨陰地域は年間降水量がわずか6インチ (150 mm) である。さらに東のロッキー山脈に向かうと降水量は次第に増加している。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2020年のアメリカ合衆国国勢調査によると、ワシントン州の人口は7,705,281人となり、前回2010年国勢調査より980,741人、14.58%増加した。アメリカ合衆国の太平洋岸北西部では人口最大の州であり、その後にオレゴン州とアイダホ州が続いている。昔からドイツ系、アイルランド系およびイングランド系の移民が多い。",
"title": "人口動態"
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{
"paragraph_id": 42,
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"text": "2004年、ワシントン州の人口は631,500人(州人口の10.3%)の外国生まれを含み、100,000人の不法在留外国人(州人口の1.6%)を見込んでいる。",
"title": "人口動態"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2000年のワシントン州の人口重心はイーナムクロー市がある、キング郡東部である。",
"title": "人口動態"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2020年国勢調査では、シアトル・タコマ・ベルビュー都市圏の人口が4,018,762人とされており、州人口の半分を超えている。",
"title": "人口動態"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "州人口のうち5歳未満は6.7%、18歳未満は25.7%、65歳以上は11.2%である。女性の比率は 50.2%となっている。",
"title": "人口動態"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2010年国勢調査では、この州の人種的構成は以下の通りである。",
"title": "人口動態"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "アジア人7.2%の内訳は中国人1.4%、フィリピン人1.4%、ベトナム人1.0%、韓国人0.9%、インド人0.9%、日本人0.5%、カンボジア人0.3%、ラオス人0.1%、タイ人0.1%となっている。",
"title": "人口動態"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "アフリカ系アメリカ人はシアトル市南部やタコマ市に集中している。アメリカ合衆国の州ではアフリカ系アメリカ人人口が少ない方の州である。第二次世界大戦後に軍需産業やアメリカ軍がアメリカ合衆国南東部のアフリカ系アメリカ人を数多く採用してシアトル市のアフリカ系アメリカ人社会が大きくなった。彼等は1960年代にウェストコーストのロックンロールやR&Bソウルに大きな影響を与えた。シアトル出身のジミ・ヘンドリックス(黒人とチェロキー族インディアンの混血)がハードロックのパイオニアとして有名である。",
"title": "人口動態"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "アメリカ・インディアンはコルビル、マカ、マックルシュート、クィノールト、セイリッシュ、スポケーンおよびヤキマの各インディアン居留地や管轄区域に住んでいた。チヌーク族、ラミ族およびセイリッシュ族など部族が知られている。しかし、第二次世界大戦後にシアトルでアメリカ合衆国インディアン局の移住計画が形成した都市型インディアン社会が、この多様な都市圏に様々なインディアン文化をもたらしてきた。1880年代に白人がこの地峡に入植した時に、シアトル市はシアトル酋長に因んで名付けられていた。",
"title": "人口動態"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "アジア系や太平洋諸島系の住人はシアトル都市圏のカナダ国境にあるマウントバーノンからオレゴン州ポートランドの対岸にあるバンクーバーまで地域社会や地区を形成してきた。スポケーン市住人の10%はアジア系である。フィリピン系人口が最大であり、2010年時点で137,083人となっている。日本からの移民も多く、米国でも最大級の日系人コミュニティがあり、神社もある。",
"title": "人口動態"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "民族集団としての最大はラテン系の11%であり、メキシコ系アメリカ人がシェヘイリス・バレーや、ヤキマ・バレーと州東部の農業地域で大きな集団を形成している。20世紀後半メキシコやその他ラテン地域から大量の移民がシアトル市南部に入り、1980年代と1990年代に不動産ブームが起こった時にはキング郡、ピアース郡およびスノホミッシュ郡にある程度集中した。",
"title": "人口動態"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "祖先の出身国で分けた人口構成は以下の通りである。ワシントン州の多くの部分にはイングランド系の住民が暮らしているが、州の東部にはドイツ系アメリカ人住民が多く住んでいる。ワカイアカム郡はスカンディナヴィア系の多くの住民が住んでいる。",
"title": "人口動態"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ワシントン州人口の宗派別構成比は以下の通りである。",
"title": "人口動態"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2000年時点で信者数最大の宗派は716,133人のローマ・カトリック教会である。モルモン教の信者数は178,000人、福音主義派の信者数は127,854人となっている。",
"title": "人口動態"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国西部の諸州と同様、自身を「無宗派」とする人口比率は全国平均より高く、コロラド州に次いで第2位である。",
"title": "人口動態"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "かつて70を数えるインディアン部族が先住し、現在も公認・非公認を含めた部族が200を超える。鮭漁などを営む漁猟民が多い。ピュージェット海峡では、周辺部族によるカヌー競争が盛んに行われる。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "同州では海川での漁猟民が非常に多いが、白人はスポーツとして渓流釣りを楽しめるが、インディアンが川漁をすれば密猟罪で逮捕される、という状況が人種差別と連動して1950年代になってもなお根強かった。さらに1950年代から、全米のインディアン部族の漁猟・狩猟権の剥奪法案が合衆国議会で次々に可決され、同州のインディアン部族にとっても死活問題となった。1954年に「ピュヤラップ族」指導者のボブ・サティアカムによって始められたインディアンの漁猟権を巡る抗議は、1960年代のインディアン権利回復運動の中で中心的なテーマとなった。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ワシントン州では1964年3月に、このインディアンの漁猟・狩猟権の剥奪法案への抗議として、同州のあらゆる場所で一斉に全米から集まった5000人近いインディアンたちが一斉に釣りをしてみせる「フィッシュ・イン抗議運動」が決行された。20世紀に入って初のインディアンによる大規模抗議行動となるこの「フィッシュ・イン」は、1961年に発足した「全米インディアン若者会議」が主導したものだった。この運動には、白人俳優のマーロン・ブランドも参加し、援助を行っている。この「フィッシュ・イン」抗議運動では白人によって徹底弾圧が行われて逮捕者が続出し、運動を指揮したインディアン運動家ハンク・アダムスは警官隊の発砲で重傷を負った。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ニスクォーリー川の名の由来となった「ニスクォーリー族」は、1854年の「メディシンクリーク条約」をもとに、アメリカ連邦政府によって河口に近いピュージェット湾域へ強制移住させられたが、彼らの保留地の2/3は1917年にアメリカ陸軍の「ルイス基地」建設によって占領され、漁業権も奪われた。1970年代に入って、彼らは「ピュヤラップ族」とともに、「メディシンクリーク条約」で保証された同川での彼らの漁猟権回復要求運動を開始。白人からの嫌がらせと多数の逮捕者に耐え、州政府を提訴し、1974年にワシントン州のすべてのインディアン部族に、彼らの伝統領域での50%の漁獲漁猟権を認めた「ボルト決議」を勝ち取った。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "しかし同州では1885年以来、多数の河川に電力会社が発電ダムを建設したことで鮭の遡上が阻害されていて、これらの条約・決議を虚しくしており、多数の漁猟部族がこれらのダムの設備改善要求運動を起こしている。電力ダムの契約更新を巡っては環境団体を巻き込んだ大論争となっており、ニスクォーリー川問題では「ニスクォーリー川調整委員会(NRCC)」が発足、「ニスクォーリー族」は「アルダー・ダム」下流の保留地に魚卵孵化場を設置することで和解したが、「ヤカマ族」や「チュラリップ族」はコロンビア川の「ロックアイランド・ダム」、「マックルシート族」はピュージェット湾電力会社を相手取り、「連邦エネルギー規制委員会(FARC)」に提訴係争中である。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "2009年11月12日、「コルヴィル部族事務評議会」は、1872年の連邦との条約で保証された土地であり、1891年の連邦への割譲後も狩猟漁猟権を認定されている「ノース・ハーフ領域」での、部族の狩猟権確認のための訴訟を連邦裁判所に起こした。マイケル・フィンリー評議会委員長は「ワシントン州の『銃器取締法』の適用は、他州よりもインディアン部族に厳しすぎる」と抗議している。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "「スクララム族」は伝統漁猟民であるが、彼らの住むキッツァップ半島には20世紀初頭から白人企業による製材工場が林立し、周辺の海域を汚染した。魚介海産物を伝統食材とするスクララム族は海洋汚染の影響を受け、1990年代には伝統食を続ける部族員が軒並み癌を発症し、大問題となっている。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "オリンピア半島の「マカー族」は、全米で唯一、捕鯨権を連邦政府との条約で承認されている部族であるが、100年近くにわたり、不当にこれを禁止されてきた。今世紀に入り伝統のコククジラ漁を再開したものの、州政府や反捕鯨団体「シー・シェパード」などからの妨害、嫌がらせ、脅迫を受け続けている。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "「シアトル市」は、「スクアミシュ族」のシアトル酋長(Chief Seattle)の名に因んでいる。スクアミシュ族が19世紀にアメリカ連邦政府によって保留地へ強制移住させられた際の、シアトル酋長の演説は非常に有名である。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "「コウリッツ族」は保留地を持たない「絶滅部族」であるが、現在、クラーク郡に購入した152エーカー(約0.6 km)の土地を内務省信託として申請中である。この申請が内務省BIA(インディアン管理局)で承認されれば、この土地はコウリッツ族の政府、住宅、産業のための保留地となる。彼らは同地での「コウリッツ・カジノ・リゾート」を計画中である。",
"title": "インディアン部族"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "参照:ワシントン州の都市一覧、ワシントン州の町一覧、ワシントン州の一人当たり収入の多い場所の一覧及びワシントン州の市政府",
"title": "主要な都市と町"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "下表はワシントン州の人口の多い都市20傑である。人口は2020年国勢調査による。",
"title": "主要な都市と町"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "なお、州都オリンピアは人口55,605人、州内23位で、上表には入っていない。",
"title": "主要な都市と町"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "参照:ワシントン州政府",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "ワシントン州の立法府は両院制議会である。州議会には下院と上院がある。州内は人口に応じて49の選挙区があり、それぞれ2人の下院議員と1人の上院議員を選出する。下院議員の任期は2年間、上院議員の任期は4年間である。多選の制限は無い。2011年時点で民主党が両院とも多数派になっている。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "ワシントン州の行政府は4年任期で選ばれる知事が首長である。2011年時点の州知事はクリスティーン・グレゴア(民主党)であり、2005年以降現職である。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "ワシントン州最高裁判所が州内の最上級裁判所である。9人の判事が就任しており、州全体の選挙で選ばれている。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "連邦上院議員は2011年時点でパティ・マレーとマリア・E・キャントウェル(英語版)であり、2人とも民主党員である。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "下院議員は9人を送りだしており、2011年時点で民主党員5人、共和党員4人となっている。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "州内の政治はカスケード山脈で2つに分かれていると考えられ、西部はリベラルで(特に州間高速道路5号線回廊)、東部は保守的である。1988年以降の全てのアメリカ合衆国大統領選挙で民主党候補が制してきた。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "西部の人口が多いために民主党が州全体の結果を制する傾向にある。シアトル都市圏(特にキング郡)は西部の周辺地域よりも通常民主党に大差を与えるが、2000年と2004年の結果はほぼ互角になった。1968年の場合は結果を左右する州と見なされ、民主党候補ヒューバート・ハンフリーが共和党候補のリチャード・ニクソンを制した唯一の西部州となった。ワシントン州は1994年の共和党革命でその一部と考えられ、連邦議会下院の9議席のうち共和党が7議席を獲得して最大の成果を挙げた。しかしこれは長続きせず、1996年には民主党が1議席取り戻し、1998年にはさらに2議席を奪って5対4の多数派となった。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "現在の連邦上院議員は2人とも民主党員であり、州知事も民主党員で2期目である。連邦上院議員と州知事の双方に女性を選出したことでは最初の州になった。州議会の両院も民主党が多数派である。",
"title": "政治と法律"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "参照:アメリカ合衆国の州別企業リスト ワシントン州の2010年州総生産高は合衆国内で14番目に位置する、5,515億米ドルだった。2009年時点で一人当たりの収入は52,403米ドルであり、国内第10位になっている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "ワシントン州内の重要なビジネスには、ジェット航空機の設計および製造(ボーイング・エバレット工場)、自動車(パッカー)、コンピュータソフトウェア開発(マイクロソフト)、オンライン書店(Amazon.com)、ゲーム(任天堂米国法人、バンジー、Valve Corporation)、通信(T-Mobile USA)、電子工学、バイオテクノロジー、アルミニウム製造、材木および木製品(ウェアーハウザー)、鉱業、飲料(スターバックス、ジョーンズソーダ)、不動産(ジョン・L・スコット)、小売業(ノードストローム、エディー・バウアー、カートイズ、コストコ、REI、ジーンフアレス)および観光業(アラスカ航空、エクスペディア・グループ)が含まれる。ワシントン州は、かなりの量の水力発電を行っている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "重要なアジアとの貿易は、ピュージェット湾の港湾を通して行われている。雑誌『フォーチュン』による「アメリカ合衆国の最も称賛される企業20傑」の中に、ワシントン州の企業4社、すなわちスターバックス、マイクロソフト、コストコおよびノードストロームが入っている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "ワシントン州は、酒を専売制する18州の1つである。ただし、コンビニエンスストアやスーパーマーケットで購入できるのは、アルコール度数20%未満のビールやワインである。発酵酒(アルコール度数20%未満のものも含む)と醸造酒は、州政府が運営している酒屋あるいは私営で、ワシントン州政府と契約した酒屋でのみ購入できる。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "州民の中でも億万長者と言えば、マイクロソフト創業者のビル・ゲイツがいる。その純資産は400億ドルとされ、雑誌「フォーブス」の2011年2月ランキングで世界第2位である。その他にもポール・アレン(マイクロソフト)、スティーブ・バルマー(マイクロソフト)、ジェフ・ベゾス(アマゾン)、クレイグ・マッコー(マッコー・セルラー)、ジェイムズ・ジャナード(オークリー)、ハワード・シュルツ(スターバックス)、チャールズ・シモニー(マイクロソフト)がいる。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "2010年1月時点の失業率は9.0%である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "ワシントン州政府は、個人に所得税を課していない。このような州は全米に7州しかない。また法人税あるいはフランチャイズ・タックスも徴集していない。州内の法人は事業占有税、総受領高税など種々の収入税を支払う必要があり、事業の種類によって税率が異なる。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "基本的な消費税は6.5%であり、これに地方の税率が加算される。2010年4月時点でシアトル市などの都市では9.5%となっており、通常は8%と9%の間である。消費税は商品とサービスに適用される。食品の大半は免税であるが、加工食品、ダイエット・サプリメントおよびソフトドリンクは課税対象である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "物品税は、ガソリン、タバコおよび酒のような、限定商品に適用されている。資産税は州内第一の税金であり、州や地方の歳入の約30%を占めている。公共教育、消防、図書館、公園とレクリエーションなど特別目的地区にとっては、最も重要な歳入源である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "不動産と動産は、法律で免除されない限り課税対象である。動産も課税されるが、個人的な資産の大半は免税である。動産税は事業遂行に使われる個人資産や法で免除されない個人資産に対して課税される。資産税はその資産がある郡の財務官に支払われる。銀行預金、株式あるいは債券のような無形資産には課税されない。また退職金を他州で受けた場合にも課税されない。相続税の制度は無いが、不動産税は連邦の資産税とは別物であり、よって州は独自の資産税を課していることになる。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "ワシントン州は農業生産高の多い州である。2003年、農産物の総生産高は57億9,000万ドルに上り、国内の州では第11位だった。穀物の生産高は38億ドル、第7位である。家畜と特産物の資産高は15億ドルで第26位である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "2004年では次の産品で国内第1位になった。括弧内は国内生産高に占める構成比である。赤ラズベリー (90.0%)、皺種 豆類 (80.6%)、ホップ (75.0%)、スペアミント油 (73.6%t)、リンゴ (58.1%)、サクランボ (47.3%)、ナシ (42.6%)、ペパーミント油 (40.3%)、コンコードブドウ (39.3%)、加工用ニンジン (36.8%)、ナイアガラブドウ (31.6%)。レンズ豆、秋ジャガイモ、乾燥食用豆、アプリコット、ブドウ(全種)、アスパラガス、加工用トウモロコシ、加工用グリーンピースでは第2位、酸味サクランボ、プルーンとプラム、乾燥夏タマネギでは第3位、オオムギとマスでは第4位、コムギ、クランベリー、イチゴでは第5位である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "リンゴは特に重要な産品である。州中部の乾燥し暖かい夏と冷涼な冬という好適な気候があるので、1920年代以降国内のリンゴ生産をリードし続けている。ウェナッチー・オカノガン地域(シェラン郡、オウカノガン郡、ダグラス郡、グラント郡)とヤキマ地域(ヤキマ郡、ベントン郡、キッティタス郡)という2つの地域で州内リンゴ生産量の過半数を産している。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "ワシントン州は、公共スペースの清潔さとそれに関わるゴミ処理活動の有効さと質を評価する2011年州別ゴミ処理評価において前年第1位のバーモント州を抜いて第1位の州にランクされた。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "州内はワシントン州道体系と国内最大かつ世界でも第3位となるフェリー運航網で各所が結ばれている。ワシントン州交通省が所有する州立空港16か所を含め140の公営空港がある。シアトルにあるキング郡国際空港、通称ボーイングフィールドは合衆国のハブ空港ではない空港の中では最も乗降客数が多い。シアトル・タコマ国際空港もシアトル大都市圏にあってもう一つの主要空港になっている。ワシントン州における正式な国際空港はシアトル・タコマ国際空港ではなくボーイングフィールドである。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "ワシントン州の特徴ある地形のために例外的な交通需要がある。シアトル、ベルビュー、タコマ、オリンピアといった州内大都市の間には広範な水路がある。州道は橋によって広大なネットワークとなり、国内最大のフェリー運航網がピュージェット湾地域の交通需要を支えている。海のハイウェイはピュージェット湾とその内陸水路を航行して20の港を結ぶ28隻のフェリーで構成され、年間147,000本が運行されている。浮動橋の長さでは世界の5傑のうち4つが州内にある。すなわちエバーグリーンポイント浮動橋、ワシントン湖に架かるレイシー・V・マーロウ記念橋とホーマー・M・ハドリー記念橋、オリンピック半島とキトサップ半島を結ぶフッド運河橋である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "主要な州間高速道路は 州間高速道路5号線、同82号線、同84号線、同90号線などである。カスケード山脈があることでも特徴ある交通需要がある。州は7つの主要峠と8つの小型峠を運営し維持している。これらの峠は冬季には除雪され、砂を撒かれ、雪崩を抑えて安全が保たれている。全ての峠が冬季も通行可能というわけではない。ノース・カスケード・ハイウェイ、すなわち州道20号線は毎年閉鎖されている。ここは積雪量が以上に多く、ワシントン峠のある地域では雪崩の頻度も高いからである。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "ワシントン州で自動車を運転する場合、30日以内までは他州交付の免許及び国際免許でも運転可能である。しかし、30日以上の滞在については、ビジタービザ(B-1/B-2)を除いて、ワシントン州の運転免許が必要である。州内で住所が変わった場合は10日以内に住所変更届けをしなければならない。日本からの留学生や出張者、海外赴任の多くはシアトルのダウンタウンの北に位置するgreenwoodの試験場を多く利用する。免許更新期間、有効期間は一律5年とされている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "マンハッタン計画のために作られたプルトニウム精製施設が今も州南東部のコロンビア河畔に残っており、その大量の核廃棄物によるヒトや農産物を含む生物への影響が懸念されている。",
"title": "環境問題"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "2007年、ワシントン州は多くの家庭用品に使われているPBDEと呼ばれる毒性の強い臭素化難燃剤を如何なる形でも使用しないように規定したことで、国内最初の州になった。2004年にオレゴン州、ワシントン州、ブリティッシュコロンビア州およびモンタナ州に住む母親40人を検査した結果、その全員の母乳にPBDEが検出された。",
"title": "環境問題"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "ワシントン州生態保護省による最近の研究3件では、数十年前に禁止された毒性化学物質が環境の中に残り続け、食物連鎖で濃縮されていることが示された。この研究の1つでは、州政府の科学者が45の場所から集めた淡水魚93サンプルで許容値を超える有毒物質を見付けた。これら有毒物質にはポリ塩化ビフェニル(PCB)、ダイオキシン類、2種の塩素系殺虫剤、ジクロロジフェニルジクロエチレン(DDE)とディルドリン、およびPBDEが含まれていた。この研究の結果、山岳部ホワイトフィッシュに不健康なレベルのPCBが見つかったウェナッチー川でPCBの排出源を調査することになっている。ワシントン州健康省は2007年のデータおよび2004年の生体研究に基づき、レブンワースから下流のコロンビア川と合流するまでのウェナッチー川から獲れるホワイトフィッシュを食さないよう大衆に忠告している。これら研究では科学者がワシントン湖やスポケーン川から集めた魚の細胞に高レベルの汚染が見られることも示しており、ここでも魚類摂取に対する忠告が行われている。",
"title": "環境問題"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "2006年3月27日、クリスティーン・グレゴア知事が議会承認された法案2322号に署名して成立させた。この法は、今後6年間で州内の食器洗い用洗剤に含まれるリン含有量を0.5%に制限するものである。この規制は2010年に州全体で有効になったが、ワットコム郡、スポケーン郡およびクラーク郡では2008年に有効とされた。近年の研究では水中の高濃度リンが藻類の汚染に結びつけられている。水域に大量に藻が発生すると生態的にも技術的にも大きな問題に繋がるとされている。",
"title": "環境問題"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "2008年から2009年の学校年で州内初等中等学校には1,040,750人の児童・生徒がおり、これを教える教師は59,562人である。2009年8月時点で、295の教育学区があり、9つの教育サービス地区がある。非営利州機関であるワシントン州学校情報処理法人が財務人材資源と生徒のデータについて情報管理システムを提供している。初等中等学校は州学校監査官ランディ・ドーンの率いる公共教育監査局の管轄下にある。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "高校の高学年生は州のランニングスタート・プログラム利用を選択できる。1990年に州議会が始めたものであり、生徒は公費で高等教育機関に進むことができ、同時に高校とカレッジの卒業認定を取得できるものである。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "州内にはタコマ美術学校、バンクーバー美術学校およびシアトルのセンタースクールなど大衆芸術に焦点を当てた高校もある。またトリシティズには「デルタ」、タコマにはSAMIと呼ばれる科学と数学を基本とする高校もある。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "アメリカ海軍の4隻の艦船がワシントン州に因んで名付けられてきており、この中には2隻の戦艦も含まれている。以前にはジョージ・ワシントンに因んで名付けられたものもあった。",
"title": "州の象徴など"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "州の愛称である「エバーグリーン・ステート」は1890年にシアトルのチャールズ・T・コノバーが提案したものである。州内には常緑樹の森があり、年間を通じて豊富な雨が低木や草の緑を保っているので、この愛称はうまく当てはまっている。",
"title": "州の象徴など"
}
] | ワシントン州は、アメリカ合衆国西海岸最北部の州。州都はオリンピア市、人口規模および経済の面での中心都市はシアトル市である。北はカナダのブリティッシュコロンビア州、南はオレゴン州、東はアイダホ州と接している。1846年にオレゴン境界紛争を解決するためのオレゴン条約が結ばれた結果、イギリスから割譲されたワシントン準州の西側が現在のワシントン州になった。1889年にアメリカ合衆国42番目の州として認められた。 カリフォルニア州、オレゴン州と共に民主党が強いリベラルな気風で、共和党の地盤である保守的な中西部に対して「レッドウッド・カーテンの向こう側」と称される。 マイクロソフトやボーイング、スターバックスなどの世界的な大企業の本拠地であり、シアトルコーヒー発祥の地などとして知られる。州の中心都市のシアトルがMLBシアトル・マリナーズの本拠地でもある。 2020年国勢調査によると、ワシントン州の人口は7,705,281人となっている。その半分以上はセイリッシュ海のピュージェット湾に沿った交通、事業、産業の中心であるシアトル都市圏に集中している。ピュージェット湾は太平洋からの入江であり、氷河が侵食した多くの島、深いフィヨルドおよび湾がある。州の西部は深い温帯雨林があり、西部、中部、北東部および最南東部には山脈がある。東部の亜乾燥盆地は徹底した農業が行われ、アメリカ合衆国西海岸ではカリフォルニア州に次いで2番目に人口の多い州でもある。 州の名は、アメリカ建国の父で初代アメリカ合衆国大統領ジョージ・ワシントンに由来しており、大統領の名前が付けられたことでは合衆国の中で唯一の州でもある。首都ワシントンD.C.と区別するためにワシントン州と呼ばれるが、州民、近在の州およびカナダのブリティッシュコロンビア州南部の住人は単に「ワシントン」と呼び、首都の方は「ワシントンD.C.」あるいは単純に「D.C.」のみで呼んでいる。元々ワシントン州のある地域はコロンビア川にちなんで「コロンビア」と呼ばれており、ワシントンD.C.がコロンビア特別区と呼ばれることから、混乱を避けるためにワシントン州とされた。 | {{混同|ワシントンD.C.|x1=アメリカ合衆国の首都}}
{{基礎情報 アメリカ合衆国の州
| 公式名称 = State of Washington
| 州旗 = Flag of Washington.svg
| 州章 = Seal_of_Washington.svg
| 地図 = Washington in United States.svg
| 愛称 = 常緑の州<br />The Evergreen State
| モットー = 追っ付け<br />([[チヌーク・ジャーゴン|チヌーク語]]:Al-ki)(非公式)
| 州都 = [[オリンピア (ワシントン州)|オリンピア]]
| 最大都市 = [[シアトル]]
| 州知事 = [[ジェイ・インスレー]]
| 公用語 = [[アメリカ英語|英語]](非公式) <!--1989年 English Plus-->
| 面積順位 = 18
| 総面積 = 184,827
| 面積大きさ = 1 E11
| 陸地面積 = 172,587
| 水域面積 = 12,237
| 水面積率 = 6.6
| 人口統計年 = 2020
| 人口順位 = 13
| 人口値 = 7,705,281
| 人口大きさ = 1 E6
| 人口密度 = 44.6
| 加入順 = 42
| 加入日 = 1889年11月11日
| 時間帯 = [[太平洋標準時|-8]]
| 夏時間 = [[太平洋夏時間|-7]]
| 緯度 = 45°33' - 49°
| 経度 = 116°55' - 124°46'
| 幅 = 400
| 長さ = 580
| 最高標高 = 4,395
| 平均標高 = 520
| 最低標高 = 0
| ISOコード = US-WA
| Website = access.wa.gov
| 上院議員 = [[:en:Patty Murray|パティー・マレー]]<br />[[:en:Maria Cantwell|マリア・キャントウェル]]
}}
'''ワシントン州'''(ワシントンしゅう、{{lang-en-short|State of Washington}}, {{IPA-en|ˈwɑʃɪ̞ŋʔn̩}})は、[[アメリカ合衆国]]西海岸最北部の[[アメリカ合衆国の州|州]]。州都は[[オリンピア (ワシントン州)|オリンピア市]]、人口規模および経済の面での中心都市は[[シアトル]]市である。北は[[カナダ]]の[[ブリティッシュコロンビア州]]、南は[[オレゴン州]]、東は[[アイダホ州]]と接している。1846年に[[オレゴン境界紛争]]を解決するための[[オレゴン条約]]が結ばれた結果、イギリスから割譲された[[ワシントン準州]]の西側が現在のワシントン州になった。1889年にアメリカ合衆国42番目の州として認められた。
[[カリフォルニア州]]、[[オレゴン州]]と共に[[民主党 (アメリカ)|民主党]]が強いリベラルな気風で、[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の地盤である保守的な[[アメリカ合衆国中西部|中西部]]に対して「レッドウッド・カーテンの向こう側」と称される。
[[マイクロソフト]]や[[ボーイング]]、[[スターバックス]]などの世界的な大企業の本拠地であり、[[シアトル系コーヒー|シアトルコーヒー]]発祥の地などとして知られる。州の中心都市のシアトルがMLB[[シアトル・マリナーズ]]の本拠地でもある。
2020年国勢調査によると、ワシントン州の人口は7,705,281人となっている<ref name="Census2020_QuickFacts">[https://www.census.gov/quickfacts/fact/table/US/POP010220 QuickFacts]. U.S. Census Bureau. 2020年.</ref>。その半分以上はセイリッシュ海の[[ピュージェット湾]]に沿った交通、事業、産業の中心であるシアトル都市圏に集中している。ピュージェット湾は[[太平洋]]からの入江であり、[[氷河]]が侵食した多くの島、深い[[フィヨルド]]および湾がある。州の西部は深い[[温帯雨林]]があり、西部、中部、北東部および最南東部には山脈がある。東部の亜乾燥盆地は徹底した農業が行われ、[[アメリカ合衆国西海岸]]ではカリフォルニア州に次いで2番目に人口の多い州でもある。
州の名は、[[アメリカ合衆国建国の父|アメリカ建国の父]]で初代アメリカ合衆国大統領[[ジョージ・ワシントン]]に由来しており、大統領の名前が付けられたことでは合衆国の中で唯一の州でもある。首都[[ワシントンD.C.]]と区別するためにワシントン州と呼ばれるが、州民、近在の州およびカナダのブリティッシュコロンビア州南部の住人は単に「ワシントン」と呼び、首都の方は「ワシントンD.C.」あるいは単純に「D.C.」のみで呼んでいる。元々ワシントン州のある地域は[[コロンビア川]]にちなんで「コロンビア」と呼ばれており、ワシントンD.C.がコロンビア特別区と呼ばれることから、混乱を避けるためにワシントン州とされた。
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|title=家庭で話される言語(ワシントン州) 2010
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|title=人種構成(ワシントン州) 2010
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}}
== 歴史 ==
{{Main|ワシントン州の歴史}}
=== 初期の歴史 ===
[[ファイル:The Dalles Dam USGS.jpg|thumb|right|[[コロンビア川]]のザ・ダレス・ダム]]
[[ファイル:Outcropping near Riverside WA.jpg|thumb|right|州北東部リバーサイド近くの農場と不毛の丘陵]]
[[ファイル:Mount Rainier over Tacoma.jpg|right|thumb|[[レーニア山]]、前景は[[タコマ (ワシントン州)|タコマ]]]]
[[ヨーロッパ]]からの探検者が現在のワシントン州となった地域を訪れる以前、多くの[[インディアン]]部族が住んでおり、[[トーテムポール]]や装飾の施されたカヌーとマスクが知られている。生業の中心は鮭の漁業であり、[[マカ族]]の場合は[[捕鯨]]を行っていた。内陸の部族は狩猟採集が基本であり、何らかの形態の農業も行っていた。さらにコロンビア川とその支流で鮭漁も行っていた。1770年代に流行した[[天然痘]]のためにインディアンの人口が急減した<ref>{{citation|last=Lange|first=Greg|url=http://www.historylink.org/essays/output.cfm?file_id=5100|title=Smallpox epidemic ravages Native Americans on the northwest coast of North America in the 1770s.|publisher=Historylink.org|date=2003-01-23|accessdate=2010-07-31}}</ref>。
ワシントン州海岸に上陸したという記録の残る最初のヨーロッパ人は、1775年の[[スペイン人]]船長ドン・ブルーノ・デ・ヘセタであり、''サンティアゴ''と''ソノラ''という2隻の船隊で訪れたものだった。彼等は北の[[プリンス・ウィリアム湾]]までの海岸地域全てにスペインの領有を宣言した。これは[[トルデシリャス条約]]の取り決めによる権利であり、スペインは太平洋を「スペインの湖」とし、海岸部全てを[[スペイン帝国]]領有とするものだった。
1778年、[[イギリス]]の探検家[[ジェームズ・クック]]船長が[[フアンデフカ海峡]]の入口にある[[フラッタリー岬]]を視認したが、クックはこの海峡があるとは考えなかった。1787年に''インペリアル・イーグル号''の船長チャールズ・ウィリアム・バークレーがその海峡を視認したのが最初だった。フアンデフカ海峡は1790年にスペイン人探検家マヌエル・キンパー、1791年にフランシスコ・デ・エリザが、さらに1792年にはイギリス人探検家[[ジョージ・バンクーバー]]が探検した。
1790年に行われたイギリスとスペインのヌートカ会議によってスペインの排他的権利主張が終わり、北西部の海岸は他国の探検家や貿易業者に開放された。中でもイギリスと[[ロシア]]、さらに新生間もないアメリカ合衆国が積極的だった。その後アメリカ人船長ロバート・グレイがコロンビア川河口を発見した。かれはその乗船''コロンビア号''に因んで、その川をコロンビア川と名付けた。グレイは1792年から[[ラッコ]]の生皮を交易する事業を始めた。1805年10月10日、[[ルイス・クラーク探検隊]]が現在の州内に入った。
=== 19世紀 ===
1811年7月9日、探検家デイビッド・トンプソンがコロンビア川を下る途中で[[スネーク川]]との合流点で宿営した。トンプソンは柱を立ててそこがイギリスの土地であること、[[北西会社]]がその地に交易基地を建設する意図があることを宣言する文書を付けた。
イギリスとアメリカ合衆国は1818年英米協議の一部として[[ロッキー山脈]]の大陸[[分水界]]から西の太平洋まで「協同領有」とすることに合意した。ロッキー山脈の東、[[ウッズ湖]]までは北緯49度線を国境とした。ロッキー山脈より西側に関する領土の取り決めは先延ばしされた。1819年、スペインは北緯42度線より北の領有権をアメリカ合衆国に渡した。スペインは事実上権利だけで領土の所有はしていなかった。
その後の約30年間イギリスとアメリカ合衆国との境界に関する交渉は進展をみず、[[オレゴン境界紛争]]という両国の緊張関係を呼ぶものになった。アメリカ人開拓者が[[オレゴン・カントリー]]に大挙して入るようになると、以前は[[毛皮貿易|毛皮交易]]を邪魔する恐れがあったために入植を奨励していなかった[[ハドソン湾会社]]が立場を逆転してコロンビア地区のイギリス支配を維持しようとした。罠猟師のジェイムズ・シンクレアはハドソン湾会社の支配人ジョージ・シンプソンの命令で、1841年にレッド川コロニーの開拓者200名程を率い、バンクーバー砦近くのハドソン湾会社農場に入った。この隊はロッキー山脈を越えて、現在のブリティッシュコロンビア州ラディアムホットスプリングス近くでコロンビアバレーに入り、その後クーテネイ川とコロンビア川を南西方向に下った。このような動きにも拘わらず、1846年6月15日に締結された[[オレゴン条約]]で、イギリスはアメリカ合衆国に北緯49度線以南の地全ての権利を譲った。
1836年、[[マーカス・ホイットマン]]など宣教師の一団が、現在のワシントン州南東部[[ワラワラ郡 (ワシントン州)|ワラワラ郡]]近くに幾つかの伝道所とホイットマン自身の入植地を設立した。それらの地はカイユース族と[[ネズ・パース]]族インディアンの領土だった。ホイットマンの入植地は1843年に山越えで西部に向かう移民の道である[[オレゴン・トレイル]]に役立つことになり、その後の10年間で数多い移民を受け入れることになった。ホイットマンはインディアンに医療を施したが、このときヨーロッパ人の病気に免疫が無かったインディアンの患者が多く死に、一方で多くの白人患者は快復したので、医者であるホイットマンに責任があると思いこみ、1847年のホイットマン虐殺事件の際にホイットマンと他に12人の白人を殺害した。この事件がインディアンと開拓者の間のカイユース戦争に発展した。
ニスクァリー砦はハドソン湾会社の農場と交易拠点であり、1833年に設立され、ピュージェット湾地域では最初のヨーロッパ人開拓地となった。1846年、[[ミズーリ州]]出身の黒人開拓者ジョージ・ワシントン・ブッシュと[[テネシー州]]出身で[[コーカサス]]人の妻イザベラ・ジェイムズ・ブッシュが白人の4家族を率いてこの地に入り、ニューマーケット、現在の[[タムウォーター (ワシントン州)|タムウォーター]]の町を建設した。彼等はオレゴンの人種差別法を避けてワシントン州に入った。彼等の後にはさらに多くの開拓者がオレゴン・トレイルを通って山を越え、北のピュージェット湾地域に入っていった。
1852年、現在のワシントン州となった全ての場所から住人がモンティチェロ(現在の[[ロングビュー (ワシントン州)|ロングビュー]])に集まり、連邦議会に対する覚え書きを作成した。この覚え書きはコロンビアという名前での州昇格の願望を表すものだった。この集会はモンティチェロ会議と呼ばれるようになった。この会議の発した要請は連邦議会で好意的に迎えられたが、コロンビアという名前は既に存在するコロンビア特別区と混同する可能性があると判断された。この首都と混同するという問題を解決するには奇妙なやり方ではあるが、州の名前は初代アメリカ合衆国大統領[[ジョージ・ワシントン]]の名前が採られることになった<ref>{{citation|title=City of Longview History|publisher=City of Longview, WA|url=http://www.mylongview.com/community/longview_history.html|accessdate=2009-06-30 }}</ref><ref>{{citation|url=http://www.sos.wa.gov/history/Timeline/detail.aspx?id=205|title=Settlers met at Cowlitz Landing and discussed the establishment of a new territory north of the Columbia River|work=Washington History - Territorial Timeline|publisher=Washington Secretary of State|accessdate=2010-02-26}}</ref>。ワシントン州は1889年11月11日に合衆国42番目の州に昇格した<ref>{{citation|last=Lange|first=Greg|url=http://www.historylink.org/index.cfm?displaypage=output.cfm&file_id=5210|title=Washington is admitted as the 42nd state to the United States of America on November 11, 1889.|publisher=Historylink.org|date=2003-02-15|accessdate=2010-11-10}}</ref>。
州内で初期に発展した産業は農業と製材業だった。州東部ではヤキマ川バレーがリンゴ果樹園で知られるようになり、一方乾燥農法を使った小麦栽培が特に生産性を上げた。[[カスケード山脈]]の西側には雨が多くて霧が深く、ピュージェット湾に面した港は特に[[ベイマツ]]材木の製造と積み出しで繁栄した。その他にも漁業、鮭の缶詰加工、および鉱業が発展した。
=== 20世紀 ===
[[タコマ (ワシントン州)|タコマ市]]は長い間金、銀、銅および鉛を扱う大規模精錬所で注目された。シアトルは[[アラスカ州]]など国内他地域との貿易港であり、大型の造船業が栄えた。ピュージェット湾東部周辺の地域は[[第一次世界大戦]]や[[第二次世界大戦]]の期間など重工業が発展し、[[ボーイング]]社が地域の象徴的存在になった。
[[世界恐慌]]のとき、発電量を増やすプロジェクトの一環としてコロンビア川に一連の[[水力発電]]ダムが建設された。1941年にはアメリカ合衆国では最大規模である[[グランドクーリーダム]]が完成した。
第二次世界大戦のとき、ワシントン州は軍需産業の中心となり、ボーイング社は国内の重爆撃機の多くを生産し、シアトル、[[ブレマートン (ワシントン州)|ブレマートン]]、[[バンクーバー (ワシントン州)|バンクーバー]]およびタコマの港は軍艦の建造に使われた。シアトルは太平洋へ送り出す兵士の出発点となり、その多くが出発前にゴールデン・ガーデンズ公園で宿泊した。州東部では[[ハンフォード・サイト|ハンフォード・ワークス]]原子力エネルギープラントが1943年に開設され、[[原子爆弾]]製造に大きな役割を果たした。
激しい振動や噴火の続いた後の1980年5月18日、[[セントヘレンズ山]]の北東斜面が爆発し、この火山の頂部が大きく壊れた。この噴火で森を平らにし、57人の人命を奪い、コロンビア川とその支流を灰と泥で溢れさせ、ワシントン州やその他周辺の州を灰で覆い、昼でも夜のように暗くさせた<ref>{{citation|url=http://murray.senate.gov/news.cfm?id=237728|title=Mount St. Helens:Senator Murray Speaks on the 25th Anniversary of the May 18, 1980 Eruption|publisher=Senate.gov|accessdate=2010-01-08}}</ref>。
== 地理 ==
[[ファイル:Rainierreflect1.jpg|thumb|right|275px|レーニア山、手前のリフレクション湖に映っている]]
[[ファイル:South Eastern Washington State.tif|thumb|275px|州南東部]]
ワシントン州は[[アメリカ合衆国本土|大陸アメリカ合衆国]]では北西の隅にある。西部で[[太平洋]]、南部で[[オレゴン州]](この境界の大部分が[[コロンビア川]]であり、その東側は北緯46度線である)、東部で[[アイダホ州]]と接し、北側境界は大半が北緯49度線でありその西側は[[ジョージア海峡]]、ハロ海峡および[[ファンデフカ海峡]]を経て[[カナダ]]の[[ブリティッシュコロンビア州]]と隣接している。美しい風景が広がっていることで知られ、標高の高い山々は[[常緑樹]]の森林やきらめく沿岸の海水よりもはるか上にそびえている。
東側のアイダホ州との境界はスネーク川とクリアウォーター川の合流点(西経 116°57')から北に[[子午線]]が真っ直ぐ走っており、南側の部分のみがスネーク川に沿っている。そこから西、太平洋までがワシントン州である<ref>[http://www1.leg.wa.gov/LawsAndAgencyRules/Constitution.htm Washington State Constitution] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20051224013928/http://www1.leg.wa.gov/LawsAndAgencyRules/Constitution.htm |date=2005年12月24日 }}, Article XXIV Boundaries</ref>。ワシントン州は[[南北戦争]]の間[[北軍]]の領土だったが、実際に戦争に参加することはなかった。
ワシントン州は[[太平洋岸北西部]]と呼ばれる地域の一部である。太平洋岸北西部には常にワシントン州とオレゴン州は含まれるが、アイダホ州、[[モンタナ州]]西部、カリフォルニア州北部、ブリティッシュコロンビア州の部分あるいは全部、アラスカ州および[[ユーコン準州]]はこの言葉を使う者の意図によって含められたり含められなかったりする。
カスケード山脈の高い山々が南北に走り、ワシントン州を2つに分けている。州西部はカスケード山脈の西側であり、温暖で雨の多い冬と秋と春、比較的乾燥した夏のある[[海洋性気候|海洋西海岸性気候]]である。ここには[[針葉樹]]の深い森と[[温帯雨林]]がある<ref>{{citation|url=http://seattletimes.nwsource.com/html/localnews/2010963527_rain03m.html|title=Hoh Rain Forest revels in wet, 'wild ballet'|last=Mapes|first=Lynda V.|date=February 3, 2010|work=The Seattle Times|accessdate=February 4, 2010|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100204160228/http://seattletimes.nwsource.com/html/localnews/2010963527_rain03m.html|archivedate=2010年2月4日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。
対照的に州東部はカスケード山脈の東であり、比較的乾燥した気候で、カスケード山脈の[[雨陰]]には広大な亜乾燥[[ステップ (植生)|ステップ]]と乾燥した[[砂漠]]が幾つかある。ハンフォード居留地の場合は年間平均降水量が6インチから7インチ (152 - 178 mm) である。さらに東にいくと乾燥の程度は緩む。州南東部にある[[パルース (地形)|パルース]]地域は草原だったが大半が農地に転換された。東部の他の地域は森林と山岳である。
カスケード山脈には他の山地よりも高く聳える火山が幾つか含まれている。北から[[ベーカー山]]、グレイシア峰、[[セントヘレンズ山]]および[[アダムズ山 (ワシントン州)|アダムズ山]]が並んでいる。セントヘレンズ山は州内で現在も活動を続けている唯一の火山である。しかし、上記火山は全て活火山だと考えられている。シアトル市の南50マイル (80 km) には火山の[[レーニア山]]があり、市内からも見ることができる。標高は14,411フィート (4,392 m) あり、シアトル都市圏に近いために大陸アメリカ合衆国では最も危険な火山だと考えられている<ref>{{citation|url=http://vulcan.wr.usgs.gov/Volcanoes/Rainier/description_rainier.html|title=CVO Website - Mount Rainier Volcano|publisher=Vulcan.wr.usgs.gov|date=|accessdate=2010-11-30}}</ref>。[[防災十年火山]]にも挙げられている。
太平洋やピュージェット湾の港があることで、アラスカ州、カナダおよび[[環太平洋地域]]の海上貿易では重要な役割を果たしている。ピュージェット湾の多くの島はアメリカ合衆国最大のフェリー航路網で結ばれている。
ワシントン州は対照的地勢の共存する領域である。[[オリンピック半島]]の深い森林は世界の中でも[[雨]]が多い場所であり、北米大陸で唯一の温帯雨林(Hoh Rain Forest のような)に囲まれている。一方、カスケード山脈以東の半砂漠地域では樹木は稀である。ワシントン州の一番高い山、[[レーニア山]]<ref name="usgs">{{citation|date=29 April 2005|url=http://erg.usgs.gov/isb/pubs/booklets/elvadist/elvadist.html#Highest|title=Elevations and Distances in the United States|publisher=U.S Geological Survey|accessdate=November 9, 2006}}</ref>はシアトル南東部に垂直にそびえ、他州の最高点のいずれよりも多量の[[氷河]]に覆われている<ref>[http://www.commondreams.org/headlines06/0829-02.htm Washington State's Glaciers are Melting, and That Has Scientists Concerned] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080725052647/http://www.commondreams.org/headlines06/0829-02.htm |date=2008年7月25日 }} - Blumenthal, Les. (August 29, 2006). McClatchy Newspapers. Retrieved on September 13, 2009 from Commondreams.org</ref>。晴天時に[[タコマ (ワシントン州)|タコマ]]沖合いに「浮かぶ」ように現れる。ワシントン州の東部側は2つの地域、オカノガン高地およびコロンビア川流域に分ける事が出来る。
=== 連邦政府管理地、保留地と国際的な認知 ===
オリンピック国立公園は[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]と[[生物圏保護区|国際生物圏保護区]]に指定されている。以下のアメリカ合衆国連邦政府管理地が州内にある。
==== 国立公園と保護地 ====
州内には[[アメリカ合衆国国立公園局|国立公園局]]の管理する3つの[[国立公園]]と2つの国立保護地がある。
{{div col|cols=8}}
* [[レーニア山国立公園]]
* [[ノース・カスケード国立公園]]
* [[オリンピック国立公園]]
* セントヘレンズ山国立火山保護地
* ハンフォードリーチ国立保護地
{{div col end}}
==== 国有林 ====
州内には林野局の管理する9つの国有林の全体あるいは一部が含まれている。
{{div col|cols=8}}
* コルビル国立の森
* [[ギフォード・ピンショー国有林|ギフォード・ピンショー国立の森]]
* アイダホ・パンハンドル国立の森
* カニクス国立の森
* ベーカー山スノクァルミー国立の森
* オカノガン国立の森
* オリンピック国立の森
* ユマティラ国立の森
* ウェナッチー国立の森
{{div col end}}
==== 連邦政府が保護する原生地 ====
州内には31の国が保護する原生地の全体あるいは一部が含まれている。以下はその一部。
{{div col|cols=8}}
* アルパイン湖原生地
* グレイシア峰原生地
* ゴートロックス原生地
* ヘンリー・M・ジャクソン原生地
* ジュニパー砂丘原生地
* シェラン湖ソートゥース原生地
* ベーカー山原生地
* ノーズ峰原生地
* オリンピック原生地
* パセイテン原生地
* ワイルドスカイ原生地
{{div col end}}
==== 国立野生生物保護区 ====
州内には23の野生生物保護区の全体あるいは一部が含まれている。以下はその一部。
{{div col|cols=8}}
* ダンジェネス国立野生生物保護区
* リトルポンダレイ国立野生生物保護区
* ニスクァリー国立野生生物保護区
* リッジフィールド国立野生生物保護区
* サドル山国立野生生物保護区
* サンフアン島国立野生生物保護区
* ターンブル国立野生生物保護区
* ウィラパ国立野生生物保護区
{{div col end}}
==== その他の連邦政府が保護する区域 ====
{{div col|cols=8}}
* [[コロンビア川]]峡谷国立景観地域
* イーベイズランディング国立歴史保護地
* バンクーバー砦国立歴史史跡
* クロンダイク・ゴールドラッシュ国立歴史公園
* シェラン湖国立レクリエーション地域
* ルーズベルト湖国立レクリエーション地域
* ワーデン砦州立公園<ref>{{citation|last=St. George|first=Peter|title=Fort Worden:Rebirth Through Decay|url=http://www.fortwordenbook.com|publisher=SaintImages|accessdate=9 August 2011}}</ref>
* ロス湖国立レクリエーション地域
* サンフアン島国立歴史公園
* ホィットマン宣教師団国立歴史史跡
* その他国立自然ランドマーク17か所
{{div col end}}
====軍隊とそれに関連する保護地====
{{div col|cols=8}}
* ルイス・マッコード合同基地
* フェアチャイルド空軍基地
* [[キトサップ海軍基地]]
* [[ハンフォード・サイト]]
* [[ヤキマトレーニングセンター|ヤキマ訓練センター]]
* [[ピュージェット・サウンド海軍造船所]]と中間修理施設(ブレマートン)
* ウィドビー島海軍航空基地
* エバレット海軍基地
{{div col end}}
=== 気候 ===
[[ファイル:Large dust storm in parts of eastern Washington on October 4, 2009.jpg|thumb|250px|right|[[乾燥農法]] のために2009年10月4日に州東部乾燥地域に大規模な[[砂塵嵐]]が起こった。NASA/GSFC, MODIS Rapid Response.提供<ref name="nasa">{{cite web
|url=http://earthobservatory.nasa.gov/IOTD/view.php?id=40590
|title=Dust Storm in Eastern Washington:Image of the Day
|publisher=earthobservatory.nasa.gov
|accessdate=2009-10-10
}}</ref>]]
ワシントン州の気候は西から東に行くに連れて大きく変化している。州西部は[[海洋性気候]]([[西岸海洋性気候]]とも呼ばれる)が支配的であり、カスケード山脈の東側は[[ステップ気候|亜乾燥気候]]である。このような気候になる主要因として、北太平洋の[[高気圧]]と[[低気圧]]が入れ替わり現れる気象条件、[[北アメリカ]]の大陸大気団、およびオリンピック山脈とカスケード山脈がある。春と夏には[[高気圧]]が北太平洋を支配し、大気は時計回りに回転する。
このことで北西からの[[偏西風]]が比較的冷涼な空気をもたらし、乾燥した季節を常に期待できることを意味している。秋と冬には低気圧の[[サイクロン]]が北太平洋で発生し、反時計回りで回転する。このことで偏向風は南西から吹くことになり、比較的暖かく湿った空気をもたらし、湿潤な季節となる。この湿潤な季節の極端になった場合を[[パイナップルエクスプレス]]と呼ぶことがある<ref>{{citation|last=Kruckeberg|first=Arthur R.|title=The Natural History of Puget Sound Country|publisher=University of Washington Press|year=1991|pages=42-43|isbn=0-295-97477-X}}</ref>。
ワシントン州西部がヨーロッパの海岸都市の多くと同様に海洋性気候であるにも拘わらず、1880年、1881年、1893年および1916年の大雪や1883年-1884年、1915年-1916年、および1955年-1956年の厳しい冷え込みのような例外もある。このような時は 6フィート(1.8 m) の積雪や 0{{°F}}(−18℃) 以下の気温となり、3か月の[[根雪]]があったり湖や川が数週間凍ったりする<ref>{{citation|url=http://www.historylink.org/index.cfm?DisplayPage=output.cfm&file_id=3681|title=HistoryLink.org- the Free Online Encyclopedia of Washington State History|publisher=www.historylink.org|accessdate=2009-01-26|last=|first=}}</ref>。シアトル市での過去最低気温は1950年1月31日の 0{{°F}}(−18℃) だが、シアトルから車で約3時間の低高度の地域でも −48{{°F}}(−44℃) を記録したことがある<ref>http://ggweather.com/climate/extremes_us.htm</ref>。
2006年、[[ワシントン大学 (ワシントン州)|ワシントン大学]]の気候影響グループが『ワシントン州の経済における気候変動の影響』を出版した。これは地球温暖化の可能性とワシントン州に与えるその影響についてリスクと機会を予備的に評価したものである<ref>{{citation|url=http://www.ecy.wa.gov/climatechange/economic_impacts.htm|title=Climate Change - Economic Impacts|publisher=Ecy.wa.gov|date=|accessdate=2010-07-31}}</ref>。
==== 雨陰効果 ====
オリンピック山脈とカスケード山脈が太平洋から内陸に吹き込む気団に地形性上昇を起こさせることで、山脈の風上の側は[[降水量]]が多く、風下の側は極めて少なくなる。これら山脈の南西に面した風上斜面は降水量が多く、温暖で冷涼な気温となる。ピュージェット湾の低地は冬に雲と雨が多く、カスケード山脈の西側斜面は多量の雨が降って、高度の高い地域では降雪が多い。州の北側境界に近いベーカー山は世界でも降雪量の多い場所の1つであり、一冬で1,140インチ (2,900 cm) の降雪は世界記録になっている。
カスケード山脈の東側は雨陰効果の強い広大な地域である。ワシントン州東部の大半では亜乾燥状態となり、[[コロンビア川台地]]中央の比較的高度の低い場所、特にスネーク川からオカノガン高地にかけてコロンビア川東岸は雨陰効果が最高になる。西部の温帯雨林に対して、東部では草原と灌木のステップで覆われている。
==== 気温 ====
年間平均[[気温]]は太平洋岸での 51{{°F}}(11℃) から北東部の 40{{°F}}(4℃) まで変化する。過去最低気温はウィンスロップとマザマで記録した −48{{°F}}(−44℃) である。過去最高気温はアイスハーバー・ダムで記録した 118{{°F}}(48℃) である。どちらの記録もカスケード山脈の東側で記録された。州西部はその温暖な気候で知られ、冬はかなりの量の[[霧]]や[[雲]]で覆われることが多く、[[霧雨]]が長く続く。夏は[[日照]]が多く乾燥する。また時として極端な気象も発生する。冬季の北極性[[寒冷前線]]や夏の[[熱波]]は珍しいことではない。マリエッタでは気温が 112{{°F}}(44℃) に<ref>{{citation|url=http://www.wrcc.dri.edu/cgi-bin/cliMAIN.pl?wa5028|title=Western Regional Climate Data Center, Marietta|publisher=Wrcc.dri.edu|date=|accessdate=2010-07-31}}</ref>、[[ロングビュー (ワシントン州)|ロングビュー]]では −20{{°F}}(−29℃) に<ref>{{citation|url=http://www.wrcc.dri.edu/cgi-bin/cliMAIN.pl?wa4769|title=Western Regional Climate Data Center, Longview|publisher=Wrcc.dri.edu|date=|accessdate=2010-07-31}}</ref>達したことがある。
オリンピック半島の西側は年間降水量が160インチ (4,000 mm) に達し、大陸アメリカ合衆国では最も降水量が多い地域になっている。晴れた日の無い期間が数週間から数か月続くこともある。カスケード山脈の西側斜面は国内でも降雪量の多い地域である(降水換算で200インチ (5,000 mm) 以上の場合もある)。カスケード山脈の東側の雨陰地域は年間降水量がわずか6インチ (150 mm) である。さらに東のロッキー山脈に向かうと降水量は次第に増加している。
== 人口動態 ==
{{USCensusPop
|1850=1201
|1860=11594
|1870=23955
|1880=75116
|1890=357232
|1900=518103
|1910=1141990
|1920=1356621
|1930=1563396
|1940=1736191
|1950=2378963
|1960=2853214
|1970=3409169
|1980=4132156
|1990=4866692
|2000=5894121
|2010=6724540
|2020=7705281
}}
[[ファイル:Washington population map.png|thumb|right|350px|ワシントン州の人口密度マップ]]
2020年のアメリカ合衆国国勢調査によると、ワシントン州の人口は7,705,281人となり、前回2010年国勢調査より980,741人、14.58%増加した<ref name="Census2020_QuickFacts" />。アメリカ合衆国の太平洋岸北西部では人口最大の州であり、その後にオレゴン州とアイダホ州が続いている。昔からドイツ系、アイルランド系およびイングランド系の移民が多い。
2004年、ワシントン州の人口は631,500人(州人口の10.3%)の外国生まれを含み、100,000人の不法在留外国人(州人口の1.6%)を見込んでいる。
2000年のワシントン州の人口重心は[[イーナムクロー (ワシントン州)|イーナムクロー市]]がある、[[キング郡 (ワシントン州)|キング郡]]東部である<ref>{{citation|title=Population and Population Centers by State:2001|publisher=U.S. Census Bureau|url=http://www.census.gov/geo/www/cenpop/statecenters.txt|accessdate=2007-06-15}}</ref>。
2020年国勢調査では、シアトル・タコマ・ベルビュー都市圏の人口が4,018,762人とされており、州人口の半分を超えている<ref name="Census2020_QuickFacts" />。
州人口のうち5歳未満は6.7%、18歳未満は25.7%、65歳以上は11.2%である。女性の比率は 50.2%となっている。
=== 人種、および祖先 ===
2010年国勢調査では、この州の人種的構成は以下の通りである。
{|class="wikitable"
!割合!!人種
|-
|77.3%||白人(非ヒスパニック白人は72.5%)
|-
|7.2%||アジア人
|-
|4.7%||混血
|-
|3.6%||アフリカ系アメリカ人
|-
|1.5%||アメリカ・インディアン
|-
|0.6%||太平洋諸島系
|-
|11.2%(上記と重複あり)||ヒスパニック
|}
アジア人7.2%の内訳は[[中国人]]1.4%、[[フィリピン]]人1.4%、[[ベトナム]]人1.0%、[[朝鮮民族|韓国人]]0.9%、[[インド]]人0.9%、[[日本人]]0.5%、[[カンボジア]]人0.3%、[[ラオス]]人0.1%、[[タイ王国|タイ]]人0.1%となっている。
アフリカ系アメリカ人はシアトル市南部やタコマ市に集中している。アメリカ合衆国の州ではアフリカ系アメリカ人人口が少ない方の州である。第二次世界大戦後に軍需産業やアメリカ軍がアメリカ合衆国南東部のアフリカ系アメリカ人を数多く採用してシアトル市のアフリカ系アメリカ人社会が大きくなった。彼等は1960年代にウェストコーストのロックンロールやR&Bソウルに大きな影響を与えた。シアトル出身の[[ジミ・ヘンドリックス]](黒人と[[チェロキー]]族インディアンの混血)がハードロックのパイオニアとして有名である。
アメリカ・インディアンはコルビル、[[マカ族|マカ]]、マックルシュート、クィノールト、セイリッシュ、スポケーンおよびヤキマの各[[インディアン居留地]]や管轄区域に住んでいた。チヌーク族、ラミ族およびセイリッシュ族など部族が知られている。しかし、第二次世界大戦後にシアトルでアメリカ合衆国インディアン局の移住計画が形成した都市型インディアン社会が、この多様な都市圏に様々なインディアン文化をもたらしてきた。1880年代に白人がこの地峡に入植した時に、シアトル市はシアトル酋長に因んで名付けられていた。
アジア系や太平洋諸島系の住人はシアトル都市圏のカナダ国境にある[[マウントバーノン (ワシントン州)|マウントバーノン]]からオレゴン州[[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]の対岸にあるバンクーバーまで地域社会や地区を形成してきた。[[スポケーン]]市住人の10%はアジア系である。フィリピン系人口が最大であり、2010年時点で137,083人となっている<ref>http://factfinder2.census.gov/faces/tableservices/jsf/pages/productview.xhtml?fpt=table</ref>。日本からの移民も多く、米国でも最大級の日系人コミュニティがあり、神社もある。
民族集団としての最大はラテン系の11%であり、メキシコ系アメリカ人がシェヘイリス・バレーや、ヤキマ・バレーと州東部の農業地域で大きな集団を形成している。20世紀後半[[メキシコ]]やその他ラテン地域から大量の移民がシアトル市南部に入り、1980年代と1990年代に不動産ブームが起こった時には[[キング郡 (ワシントン州)|キング郡]]、[[ピアース郡 (ワシントン州)|ピアース郡]]および[[スノホミッシュ郡 (ワシントン州)|スノホミッシュ郡]]にある程度集中した。
祖先の出身国で分けた人口構成は以下の通りである<ref>{{citation|author=American FactFinder, United States Census Bureau|url=http://factfinder.census.gov/servlet/ADPTable?_bm=y&-context=adp&-qr_name=ACS_2008_3YR_G00_DP3YR2&-ds_name=ACS_2008_3YR_G00_&-tree_id=3308&-redoLog=false&-_caller=geoselect&-geo_id=04000US53&-format=&-_lang=en|title=2006?2008 American Community Survey 3-Year Estimates|publisher=Factfinder.census.gov|date=|accessdate=2010-07-31}}</ref>。ワシントン州の多くの部分には[[イングランド系アメリカ人|イングランド系]]の住民が暮らしているが、州の東部には[[ドイツ系アメリカ人]]住民が多く住んでいる。[[ワカイアカム郡 (ワシントン州)|ワカイアカム郡]]は[[スカンディナヴィア]]系の多くの住民が住んでいる。
{|class="wikitable"
!割合!!出自国
|-
|20.9%||[[ドイツ系アメリカ人|ドイツ系]]
|-
|12.6%||[[イングランド系アメリカ人|イングランド系]]
|-
|12.6%||[[アイルランド系アメリカ人|アイルランド系]]
|-
|6.2%||[[ノルウェー]]系
|-
|4.1%||アメリカ人
|-
|4.0%||[[フランス系アメリカ人|フランス系]]
|-
|3.9%||[[スウェーデン]]系
|-
|3.6%||[[イタリア系アメリカ人|イタリア系]]
|-
|3.4%||[[スコットランド]]系
|-
|2.6%||[[スコットランド・アイルランド]]系
|-
|2.5%||[[オランダ]]系
|-
|1.9%||[[ポーランド系アメリカ人|ポーランド系]]
|-
|1.4%||[[ロシア系アメリカ人|ロシア系]]
|-
|1.2%||[[デンマーク]]系
|-
|1.1%||[[ウェールズ]]系
|}
=== 宗教 ===
ワシントン州人口の宗派別構成比は以下の通りである<ref>{{citation|url=http://religions.pewforum.org/maps|title=Pew Forum on Religion & Public Life|publisher=Religions.pewforum.org|date=|accessdate=2010-07-31}}</ref>。
* [[キリスト教]] –65%
** [[プロテスタント]] –49%
*** 福音主義派 –25%
*** メインライン –23%
*** その他のプロテスタント –1%
** [[カトリック教会|ローマ・カトリック]] –16%
* [[モルモン教]] –4%
* 無宗教 – 25%
* [[ユダヤ教]] - 1%
* [[イスラム教]] - 1%
* 他の宗教 – 3%
** [[神道]]
*** 日本の[[椿大神社]]の分社の[[アメリカ椿大神社]]がある。
2000年時点で信者数最大の宗派は716,133人の[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]教会である。[[モルモン教]]の信者数は178,000人、福音主義派の信者数は127,854人となっている<ref>{{citation|url=http://www.thearda.com/mapsReports/reports/state/53_2000.asp|title=The Association of Religion Data Archives |Maps & Reports|publisher=Thearda.com|date=|accessdate=2010-07-31}}</ref>。
アメリカ合衆国西部の諸州と同様、自身を「無宗派」とする人口比率は全国平均より高く、[[コロラド州]]に次いで第2位である<ref>{{citation|isbn=978-0759106253|title=Religion and Public Life in the Pacific Northwest:The None Zone|publisher=AltaMira Press|date=|accessdate=2010-07-31}}</ref>。
== インディアン部族 ==
[[ファイル:Puyallup.png|thumb|300px|left|ワシントン州のインディアン保留地]]
[[ファイル:Bia-sit-in.jpg|left|150px|thumb|1970年に、「全米インディアン若者会議」がデンバーで決行した内務省BIA(インディアン管理局)ビル前での「フィッシュ・イン」抗議デモ]]
かつて70を数える[[インディアン]]部族が先住し、現在も公認・非公認を含めた部族が200を超える。鮭漁などを営む漁猟民が多い。ピュージェット海峡では、周辺部族による[[カヌー]]競争が盛んに行われる。
同州では海川での漁猟民が非常に多いが、白人はスポーツとして渓流釣りを楽しめるが、インディアンが川漁をすれば密猟罪で逮捕される、という状況が人種差別と連動して1950年代になってもなお根強かった。さらに1950年代から、全米のインディアン部族の漁猟・狩猟権の剥奪法案が合衆国議会で次々に可決され、同州のインディアン部族にとっても死活問題となった。1954年に「ピュヤラップ族」指導者の[[:en:Robert Satiacum|ボブ・サティアカム]]によって始められたインディアンの漁猟権を巡る抗議は、1960年代のインディアン権利回復運動の中で中心的なテーマとなった。
ワシントン州では1964年3月に、このインディアンの漁猟・狩猟権の剥奪法案への抗議として、同州のあらゆる場所で一斉に全米から集まった5000人近いインディアンたちが一斉に釣りをしてみせる「フィッシュ・イン抗議運動」が決行された。20世紀に入って初のインディアンによる大規模抗議行動となるこの「フィッシュ・イン」は、1961年に発足した「[[全米インディアン若者会議]]」が主導したものだった。この運動には、白人俳優の[[マーロン・ブランド]]も参加し、援助を行っている。この「フィッシュ・イン」抗議運動では白人によって徹底弾圧が行われて逮捕者が続出し、運動を指揮したインディアン運動家[[:en:Hank Adams|ハンク・アダムス]]は警官隊の発砲で重傷を負った。
[[ファイル:Four Chinooks at Fort Lewis.jpg|thumb|right|ニスクォーリー族の保留地の東半分を占領した米軍のルイス基地と、「チヌーク」ヘリコプター]]
[[ファイル:Columbia.png|thumb|250px|right|ワシントン州周辺の河川における水力発電ダム。インディアンの保留地に作られたものが多い]]
[[ファイル:Carnation WA - Snoqualmie Tribe office.jpg|thumb|250px|right|スノクアルミー族の部族会議事務所]]
ニスクォーリー川の名の由来となった「ニスクォーリー族」は、1854年の「メディシンクリーク条約」をもとに、アメリカ連邦政府によって河口に近いピュージェット湾域へ強制移住させられたが、彼らの保留地の2/3は1917年にアメリカ陸軍の「ルイス基地」建設によって占領され、漁業権も奪われた。1970年代に入って、彼らは「ピュヤラップ族」とともに、「メディシンクリーク条約」で保証された同川での彼らの漁猟権回復要求運動を開始。白人からの嫌がらせと多数の逮捕者に耐え、州政府を提訴し、1974年にワシントン州のすべてのインディアン部族に、彼らの伝統領域での50%の漁獲漁猟権を認めた「[[:en:Boldt Decision|ボルト決議]]」を勝ち取った。
しかし同州では1885年以来、多数の河川に電力会社が発電ダムを建設したことで鮭の遡上が阻害されていて、これらの条約・決議を虚しくしており、多数の漁猟部族がこれらのダムの設備改善要求運動を起こしている。電力ダムの契約更新を巡っては環境団体を巻き込んだ大論争となっており、ニスクォーリー川問題では「ニスクォーリー川調整委員会(NRCC)」が発足、「ニスクォーリー族」は「アルダー・ダム」下流の保留地に魚卵孵化場を設置することで和解したが、「ヤカマ族」や「チュラリップ族」はコロンビア川の「ロックアイランド・ダム」、「マックルシート族」はピュージェット湾電力会社を相手取り、「連邦エネルギー規制委員会(FARC)」に提訴係争中である。
2009年11月12日、「コルヴィル部族事務評議会」は、1872年の連邦との条約で保証された土地であり、1891年の連邦への割譲後も狩猟漁猟権を認定されている「ノース・ハーフ領域」での、部族の狩猟権確認のための訴訟を連邦裁判所に起こした。マイケル・フィンリー評議会委員長は「ワシントン州の『銃器取締法』の適用は、他州よりもインディアン部族に厳しすぎる」と抗議している。
「スクララム族」は伝統漁猟民であるが、彼らの住むキッツァップ半島には20世紀初頭から白人企業による製材工場が林立し、周辺の海域を汚染した。魚介海産物を伝統食材とするスクララム族は海洋汚染の影響を受け、1990年代には伝統食を続ける部族員が軒並み癌を発症し、大問題となっている。
オリンピア半島の「[[マカ族|マカー族]]」は、全米で唯一、捕鯨権を連邦政府との条約で承認されている部族であるが、100年近くにわたり、不当にこれを禁止されてきた。今世紀に入り伝統のコククジラ漁を再開したものの、州政府や反捕鯨団体「[[シー・シェパード]]」などからの妨害、嫌がらせ、脅迫を受け続けている。
「シアトル市」は、「[[スクアミシュ族]]」のシアトル酋長([[:en:Chief Seattle|Chief Seattle]])の名に因んでいる。スクアミシュ族が19世紀にアメリカ連邦政府によって保留地へ強制移住させられた際の、シアトル酋長の演説は非常に有名である。
「[[コウリッツ族]]」は保留地を持たない「絶滅部族」であるが、現在、クラーク郡に購入した152エーカー(約0.6 km<sup>2</sup>)の土地を内務省信託として申請中である。この申請が内務省BIA(インディアン管理局)で承認されれば、この土地はコウリッツ族の政府、住宅、産業のための保留地となる。彼らは同地での「コウリッツ・カジノ・リゾート」を計画中である。
=== アメリカ連邦政府が公式認定している部族・団体 ===
<gallery>
ISchild Upper Skagit Indian Tribe.JPG|上スカギット族族の保留地案内看板
Puyallup nation flag.png|ピュヤラップ族の部族国旗
Bandera Quinault.PNG|クイノールト族の部族国旗
Bandera Tulalip.png|チュラリップ族の部族国旗
Yakima Indian Reservation map.png|ヤカマ族の保留地
</gallery>
{{div col|cols=8}}
* 「上[[スカギット族]]」
* 「[[マカ族|マカー族]]」
* 「[[カリスペル族]](ペンド・オ=レイル族)
* 「[[ルムミ族]]」
* 「[[ス=クララム族]]」
** 「ジェームスタウン・バンド」
** 「ポート・ギャンブル・バンド」
* 「[[ヤカマ|ヤカマ族]]・トペンニッシュ・バンド」
* 「下エルワ部族会議([[クララム族]])
* 「[[マックルシュート族]]」
* 「コルヴィル事務評議会」
** 「[[コルヴィル族]]」
** 「[[チェラン族]]」
** 「[[エンティアト族]]」
** 「[[メソウ族]]」
** 「[[オカノガン族]]」
** 「[[サン・ポイル族]]」
** 「レイク・[[ネスペレム族]]」
** 「[[ネズ・パース|ネ・ペルセ族]]」
** 「[[パルース族]]」
** 「[[シンキョーネ族]]」
** 「[[シンキョーネ族]]・モーゼのバンド」
** 「[[ウェナッチー族]]」
* 「[[クイリユート族]]」
* 「[[ピュヤラップ族]]」
* 「[[ニスクォーリー族]]」
* 「[[ソーク=シアトル族]]」
* 「[[ヌークサック族]]」
* 「ショールウォーター湾部族会議」
** 「[[チェハリス族]]
** 「[[チヌーク族]]」
** 「[[クイノールト族]]」
* 「[[クイノールト族]]」
* 「チュラリップ取締会議」
** 「[[スノホミシュ族]]」
** 「[[ショウクアルミー族]]」
** 「[[スカイホミシュ族]]」
* 「[[スココミシュ族]]」
* 「[[チェハリス族]]」
* 「[[サミッシュ族]]」
* 「スクアジン島インディアン(沿岸[[サリシュ族]])」
* 「[[スウィノミシュインディアン部族共同体]]」
** 「スウィノミシュ族」
** 「[[キキアルス族]]」
** 「下[[スカギット族]]」
** 「[[サミシュ族]]」
* 「[[スクアミシュ族]]」
* 「[[スノクアルミー族]]」
* 「[[スポケーン族]]」
* 「[[スティラクアミシュ族]]」
* 「[[ホー族]]」
* 「[[サミシュ族]]」
* 「[[コウリッツ族]]」(公認予定)
{{div col end}}
=== アメリカ連邦政府に公式認定要求中の部族・団体 ===
{{div col|cols=8}}
* 「ミッチェル湾インディアン・バンド」
* 「[[スノクアルモー族]]」
* 「[[ドゥワミシュ族]]」
* 「[[ステイラクーム族]]」
* 「[[チヌーク族]]」
* 「[[スノホミシュ族]]」
* 「[[ノー・ワー・ハ族]]」
* 「[[チェロキー族]]・アニサハニ・青い氏族」
* 「自由チェロキー族」
* 「[[キキアルス族]]」
* 「[[ヌークサック族]]」・マリエッタ・バンド」
{{div col end}}
=== インディアン・カジノ ===
{{div col|cols=8}}
* 「ジェームスタウン・ス=クララム族」
** 「七本杉のカジノ」 - 門前に控える[[トーテム・ポール]]が特徴
* 「下エルワ部族会議(クララム族)
** 「エルワ川カジノ」
* 「マカー族」
** 「マカー部族ビンゴ場」(現在閉店)
* 「[[コウリッツ族]]」
** 「コウリッツ・カジノ・リゾート」(計画中)
* 「クイノールト族」
** 「クイノールト浜辺のリゾート&カジノ」
* 「マックルシュート族」
** 「マックルシュート・インディアン・カジノ」
* 「スノコールミー族」
** 「スノコールミー・カジノ」
* 「スクアミシュ族」
** 「澄んだ水のカジノ」
* 「ポート・ギャンブル・ス=クララム族」
** 「胸躍る鷲のビンゴ場」
** 「岬のカジノ」
* 「スクアジン島インディアン」
** 「小さな渓流のカジノ・リゾート」
* 「スココミシュ族」
** 「幸運な犬のカジノ」(2009年9月30日を以て閉店)
* 「コルヴィル部族連合」
** 「ミル湾のカジノ」
** 「クーリーダム・カジノ」
** 「オカノガン・ビンゴ・カジノ」
* 「ショールウォーター湾部族会議」
** 「ショールウォーター湾カジノ」
* 「ピュヤラップ族」
** 「エメラルドクイーンホテル」
** 「エメラルドクイーンカジノ」
* 「上スカジット族」
** 「スカジットバレーカジノ」
* 「スウィノミシュ族共同体」
** 「スウィノミシュ・北の灯りのカジノ」
* 「スティラクアミシュ族」
** 「風の天使のカジノ」
* 「テュラリップ族」
** 「クイルシダー渓流ナイトクラブ&カジノ」
** 「テュラリップ・リゾート・カジノ」
* 「カリスペル族」
** 「北部クエスト・カジノ」
* 「スポーケン族」
** 「チェウェラー・カジノ」
** 「二つの川のカジノ&リゾート」
* 「チェハリス保留地部族連合」
** 「幸運な鷲のカジノ」
* 「ニスクォーリー族」
** 「赤い風のカジノ」
* 「ヌークサック族」
** 「ヌークサック川のカジノ」
** 「北の森を横切るカジノ」
* 「ルムミ族」
** 「銀の木の葉のカジノ」
* 「ヤカマ・インディアン・部族とバンドの連合国家」
** 「ヤカマ国家の伝説のカジノ」
{{div col end}}
== 主要な都市と町 ==
[[ファイル:Seattle Ferry.jpg|thumb|right|[[シアトル]]]]
[[ファイル:SpokaneFromPalisades 20070614.jpg|thumb|right|[[スポケーン]]]]
[[ファイル:Tacoma skyline from Thea Foss Waterway.jpg|thumb|right|[[タコマ (ワシントン州)|タコマ]]]]
[[ファイル:Vancouverwaskyline 004.jpg|thumb|right|[[バンクーバー (ワシントン州)|バンクーバー]]]]
''参照:[[:en:List of cities in Washington State|ワシントン州の都市一覧]]、[[:en:List of towns in Washington State|ワシントン州の町一覧]]、[[:en:Washington locations by per capita income|ワシントン州の一人当たり収入の多い場所の一覧]]及び[[:en:City government in the state of Washington|ワシントン州の市政府]]''
下表はワシントン州の人口の多い都市20傑である。人口は2020年国勢調査による<ref name="Census2020_QuickFacts" />。
{{clearleft}}
{|class="wikitable" style="text-align:right;margin-right:60px;"
|-
!順位
!都市名
!人口(人)
|-
|align="left"|1
|align="left"|[[シアトル]]
|737,015
|-
|align="left"|2
|align="left"|[[スポケーン]]
|228,989
|-
|align="left"|3
|align="left"|[[タコマ (ワシントン州)|タコマ]]
|219,346
|-
|align="left"|4
|align="left"|[[バンクーバー (ワシントン州)|バンクーバー]]
|190,915
|-
|align="left"|5
|align="left"|[[ベルビュー (ワシントン州)|ベルビュー]]
|151,854
|-
|align="left"|6
|align="left"|[[ケント (ワシントン州)|ケント]]
|136,588
|-
|align="left"|7
|align="left"|[[エバレット (ワシントン州)|エバレット]]
|110,629
|-
|align="left"|8
|align="left"|[[レントン (ワシントン州)|レントン]]
|106,785
|-
|align="left"|9
|align="left"|[[スポケーンバレー (ワシントン州の市)|スポケーンバレー]]
|102,976
|-
|align="left"|10
|align="left"|[[フェデラルウェイ (ワシントン州)|フェデラルウェイ]]
|101,030
|-
|align="left"|11
|align="left"|[[ヤキマ (ワシントン州)|ヤキマ]]
|96,968
|-
|align="left"|12
|align="left"|[[カークランド (ワシントン州)|カークランド]]
|92,175
|-
|align="left"|13
|align="left"|[[ベリンハム (ワシントン州)|ベリンハム]]
|91,482
|-
|align="left"|14
|align="left"|[[オーバーン (ワシントン州)|オーバーン]]
|87,256
|-
|align="left"|15
|align="left"|[[ケニウィック (ワシントン州)|ケニウィック]]
|83,921
|-
|align="left"|16
|align="left"|[[パスコ (ワシントン州)|パスコ]]
|77,108
|-
|align="left"|17
|align="left"|[[レドモンド (ワシントン州)|レドモンド]]
|73,256
|-
|align="left"|18
|align="left"|[[メアリーズビル (ワシントン州)|メアリーズビル]]
|70,714
|-
|align="left"|19
|align="left"|[[サマミッシュ (ワシントン州)|サマミッシュ]]
|67,455
|-
|align="left"|20
|align="left"|[[レイクウッド (ワシントン州)|レイクウッド]]
|63,612
|}
なお、州都[[オリンピア (ワシントン州)|オリンピア]]は人口55,605人<ref>[https://www.census.gov/quickfacts/fact/table/olympiacitywashington/POP010220 QuickFacts: Olympia city, Washington]. U.S. Census Bureau. 2020年.</ref>、州内23位で、上表には入っていない。
== 政治と法律 ==
''参照:[[:en:Category:Government of Washington (state)|ワシントン州政府]]
[[ファイル:WACapitolLegislativeBldg.jpg|thumb|250px|left|[[ワシントン州会議事堂]]、[[オリンピア (ワシントン州)|オリンピア市]]]]
ワシントン州の立法府は[[両院制]]議会である。州議会には下院と上院がある。州内は人口に応じて49の選挙区があり、それぞれ2人の下院議員と1人の上院議員を選出する。下院議員の任期は2年間、上院議員の任期は4年間である。多選の制限は無い。2011年時点で民主党が両院とも多数派になっている。
ワシントン州の行政府は4年任期で選ばれる知事が首長である。2011年時点の州知事は[[クリスティーン・グレゴア]](民主党)であり、2005年以降現職である。
ワシントン州最高裁判所が州内の最上級裁判所である。9人の判事が就任しており、州全体の選挙で選ばれている。
=== 連邦議会への代表 ===
連邦上院議員は2011年時点で[[パティ・マレー]]と{{仮リンク|マリア・E・キャントウェル|en|Maria Cantwell}}であり、2人とも民主党員である。
下院議員は9人を送りだしており、2011年時点で民主党員5人、共和党員4人となっている。
=== 選挙で選出される役人 ===
==== 執行府 ====
* 州知事
* 副知事
* 州務長官
* 検事総監
* 州財務官
* 州監査官
* 公共教育総監
* 公有地監督官
* 保険監督官
=== 政治 ===
{|class="wikitable" style="float:right;font-size:83%;"
|+ '''大統領選挙の結果'''
|- style="background:lightgrey;"
!年
![[共和党 (アメリカ)|共和党]]
![[民主党 (アメリカ)|民主党]]
|-
|style="text-align:center;background:#f0f0ff;"|[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙|2008年]]
|style="text-align:center;background:#fff3f3;"|40.48% ''1,229,216
|style="text-align:center;background:#f0f0ff;"|'''57.65%''' ''1,750,848
|-
|style="text-align:center;background:#f0f0ff;"|[[2004年アメリカ合衆国大統領選挙|2004年]]
|style="text-align:center;background:#fff3f3;"|45.59% ''1,304,893
|style="text-align:center;background:#f0f0ff;"|'''52.82%''' ''1,510,201
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|style="text-align:center;background:#f0f0ff;"|[[2000年アメリカ合衆国大統領選挙|2000年]]
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|style="text-align:center;background:#f0f0ff;"|'''50.21%''' ''1,247,652
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|style="text-align:center;background:#f0f0ff;"|[[1996年アメリカ合衆国大統領選挙|1996年]]
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|style="text-align:center;background:#f0f0ff;"|'''49.81%''' ''1,123,323
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|style="text-align:center;background:#f0f0ff;"|[[1992年アメリカ合衆国大統領選挙|1992年]]
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|style="text-align:center;background:#f0f0ff;"|[[1988年アメリカ合衆国大統領選挙|1988年]]
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|style="text-align:center;background:#fff3f3;"|[[1984年アメリカ合衆国大統領選挙|1984年]]
|style="text-align:center;background:#fff3f3;"|'''55.82%''' ''1,051,670
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|style="text-align:center;background:#fff3f3;"|[[1980年アメリカ合衆国大統領選挙|1980年]]
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|style="text-align:center;background:#fff3f3;"|[[1976年アメリカ合衆国大統領選挙|1976年]]
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|style="text-align:center;background:#fff3f3;"|[[1972年アメリカ合衆国大統領選挙|1972年]]
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|style="text-align:center;background:#f0f0ff;"|[[1968年アメリカ合衆国大統領選挙|1968年]]
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|-
|style="text-align:center;background:#f0f0ff;"|[[1964年アメリカ合衆国大統領選挙|1964年]]
|style="text-align:center;background:#fff3f3;"|37.37% ''{{0}}470,366
|style="text-align:center;background:#f0f0ff;"|'''61.97%''' ''{{0}}779,881
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|style="text-align:center;background:#f0f0ff;"|[[1960年アメリカ合衆国大統領選挙|1960年]]
|style="text-align:center;background:#fff3f3;"|'''50.68%''' ''{{0}}629,273
|style="text-align:center;background:#f0f0ff;"|48.27% ''{{0}}599,298
|}
州内の政治はカスケード山脈で2つに分かれていると考えられ、西部は[[リベラル]]で(特に州間高速道路5号線回廊)、東部は[[アメリカ合衆国の保守主義|保守的]]である。1988年以降の全ての[[アメリカ合衆国大統領選挙]]で[[民主党 (アメリカ)|民主党]]候補が制してきた。
西部の人口が多いために民主党が州全体の結果を制する傾向にある。シアトル都市圏(特にキング郡)は西部の周辺地域よりも通常民主党に大差を与えるが、2000年と2004年の結果はほぼ互角になった。1968年の場合は結果を左右する州と見なされ、民主党候補[[ヒューバート・ハンフリー]]が[[共和党 (アメリカ)|共和党]]候補の[[リチャード・ニクソン]]を制した唯一の西部州となった。ワシントン州は1994年の共和党革命でその一部と考えられ、連邦議会下院の9議席のうち共和党が7議席を獲得して最大の成果を挙げた<ref>{{citation|url=http://www.secstate.wa.gov/elections/results_report.aspx?e=15&c=&c2=&t=&t2=1&p=&p2=&y=|title=November 1994 General|publisher=Secstate.wa.gov|date=|accessdate=2010-07-31}}</ref>。しかしこれは長続きせず、1996年には民主党が1議席取り戻し<ref>{{citation|url=http://www.secstate.wa.gov/elections/results_report.aspx?e=17&c=&c2=&t=&t2=1&p=&p2=&y=|title=November 1996 General|publisher=Secstate.wa.gov|date=|accessdate=2010-07-31}}</ref>、1998年にはさらに2議席を奪って5対4の多数派となった<ref>{{citation|url=http://www.secstate.wa.gov/elections/results_report.aspx?e=10&c=&c2=&t=&t2=1&p=&p2=&y=|title=November 1998 General|publisher=Secstate.wa.gov|date=|accessdate=2010-07-31}}</ref>。
現在の連邦上院議員は2人とも民主党員であり、州知事も民主党員で2期目である。連邦上院議員と州知事の双方に女性を選出したことでは最初の州になった。州議会の両院も民主党が多数派である。
== 経済 ==
[[ファイル:Microsoft sign closeup.jpg|thumb|250px|left|[[マイクロソフト]]本社がある[[レドモンド (ワシントン州)|レドモンド]]、シアトル市郊外のイーストサイドにある]]
参照:[[:en:list of United States companies by state|アメリカ合衆国の州別企業リスト]]
ワシントン州の2010年州総生産高は合衆国内で14番目に位置する、5,515億米ドルだった<ref>{{citation|url=http://www.bea.gov/newsreleases/regional/gdp_state/gsp_newsrelease.htm|title=BEA:Gross Domestic Product by State|publisher=Bea.gov|date=2009-06-02|accessdate=2010-07-31}}</ref>。2009年時点で一人当たりの収入は52,403米ドルであり、国内第10位になっている。
ワシントン州内の重要なビジネスには、ジェット[[航空機]]の設計および製造([[ボーイング・エバレット工場]])、自動車([[パッカー]])、コンピュータ[[ソフトウェア]]開発([[マイクロソフト]])、オンライン書店([[Amazon.com]])、ゲーム([[任天堂|任天堂米国法人]]、[[バンジー (ゲーム会社)|バンジー]]、[[Valve Corporation]])、通信(T-Mobile USA)、[[電子工学]]、[[バイオテクノロジー]]、[[アルミニウム]]製造、材木および木製品([[ウェアーハウザー]])、鉱業、飲料([[スターバックス]]、ジョーンズソーダ)、不動産(ジョン・L・スコット)、小売業([[ノードストローム]]、[[エディー・バウアー]]、カートイズ、[[コストコ]]、REI、ジーンフアレス)および観光業([[アラスカ航空]]、[[エクスペディア・グループ]])が含まれる。ワシントン州は、かなりの量の水力発電を行っている。
重要な[[アジア]]との貿易は、[[ピュージェット湾]]の港湾を通して行われている。雑誌『[[フォーチュン (雑誌)|フォーチュン]]』による「アメリカ合衆国の最も称賛される企業20傑」の中に、ワシントン州の企業4社、すなわちスターバックス、マイクロソフト、コストコおよびノードストロームが入っている<ref>{{citation|title=Top 20 Most Admired Companies|publisher=Fortune Magazine|url=http://money.cnn.com/galleries/2007/fortune/0703/gallery.mostadmired_top20.fortune/index.html|accessdate=2007-06-15 }}</ref>。
ワシントン州は、[[酒]]を[[専売制]]する18州の1つである。ただし、[[コンビニエンスストア]]や[[スーパーマーケット]]で購入できるのは、[[アルコール度数]]20%未満のビールやワインである。発酵酒(アルコール度数20%未満のものも含む)と醸造酒は、州政府が運営している酒屋あるいは私営で、ワシントン州政府と契約した酒屋でのみ購入できる。
州民の中でも億万長者と言えば、マイクロソフト創業者の[[ビル・ゲイツ]]がいる。その[[純資産]]は400億ドルとされ、雑誌「フォーブス」の2011年2月ランキングで世界第2位である<ref>[http://www.dailyfinance.com/2011/03/09/forbes-the-richest-people-in-the-world-2011/] - Forbes (February 11, 2011). Retrieved 9-13-2009.</ref>。その他にも[[ポール・アレン]](マイクロソフト)、[[スティーブ・バルマー]](マイクロソフト)、[[ジェフ・ベゾス]](アマゾン)、クレイグ・マッコー(マッコー・セルラー)、ジェイムズ・ジャナード([[オークリー]])、[[ハワード・シュルツ]](スターバックス)、[[チャールズ・シモニー]](マイクロソフト)がいる<ref>{{Cite web|和書|url=http://seattletimes.nwsource.com/html/nationworld/2003270332_forbes22.html |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2014年4月19日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111214004105/http://seattletimes.nwsource.com/html/nationworld/2003270332_forbes22.html |archivedate=2011年12月14日 |deadlinkdate=2017年9月 }} Seattle Times September 22, 2006 "No news here ... Gates still richest"</ref>。
2010年1月時点の失業率は9.0%である<ref>[http://www.bls.gov/lau/ Bls.gov];Local Area Unemployment Statistics</ref>。
=== 税制 ===
[[ファイル:Starbucks Headquarters Seattle.jpg|thumb|220px|left|シアトルにある[[スターバックス]]本社]]
ワシントン州政府は、個人に[[所得税]]を課していない。このような州は全米に7州しかない。また[[法人税]]あるいはフランチャイズ・タックスも徴集していない。州内の法人は事業占有税、総受領高税など種々の収入税を支払う必要があり、事業の種類によって税率が異なる。
基本的な[[消費税]]は6.5%であり、これに地方の税率が加算される。2010年4月時点でシアトル市などの都市では9.5%となっており<ref>{{citation|title=Local Sales and Use Tax Rates by City/County|work=Washington State Department of Revenue|url=http://dor.wa.gov/Docs/forms/ExcsTx/LocSalUseTx/LocalSlsUseFlyer_10_Q2_alpha.pdf|accessdate=2010-03-22}}</ref>、通常は8%と9%の間である。消費税は商品とサービスに適用される。食品の大半は[[免税]]であるが、加工食品、ダイエット・[[サプリメント]]および[[ソフトドリンク]]は課税対象である。
[[物品税]]は、ガソリン、タバコおよび酒のような、限定商品に適用されている。[[固定資産税|資産税]]は州内第一の税金であり、州や地方の歳入の約30%を占めている。公共教育、消防、図書館、公園とレクリエーションなど特別目的地区にとっては、最も重要な歳入源である。
[[不動産]]と[[動産]]は、法律で免除されない限り課税対象である。動産も課税されるが、個人的な資産の大半は免税である。動産税は事業遂行に使われる個人資産や法で免除されない個人資産に対して課税される。資産税はその資産がある郡の財務官に支払われる。銀行預金、株式あるいは債券のような無形資産には課税されない。また退職金を他州で受けた場合にも課税されない。[[相続税]]の制度は無いが、不動産税は連邦の資産税とは別物であり、よって州は独自の資産税を課していることになる。
=== 農業 ===
[[ファイル:Wells Dam from Azwell WA.jpg|thumb|220px|right|果物収穫労働者の小屋とリンゴ果樹園、アズウェル]]
ワシントン州は農業生産高の多い州である。2003年、農産物の総生産高は57億9,000万ドルに上り、国内の州では第11位だった。穀物の生産高は38億ドル、第7位である。家畜と特産物の資産高は15億ドルで第26位である<ref>Washington State Office of Financial Management and the USDA, National Agricultural Statistics Service, Washington Field Office.</ref>。
2004年では次の産品で国内第1位になった。括弧内は国内生産高に占める構成比である。赤[[ラズベリー]] (90.0%)、皺種 [[豆類]] (80.6%)、[[ホップ]] (75.0%)、[[スペアミント]]油 (73.6%t)、[[リンゴ]] (58.1%)、[[サクランボ]] (47.3%)、[[ナシ]] (42.6%)、[[ペパーミント]]油 (40.3%)、コンコード[[ブドウ]] (39.3%)、加工用[[ニンジン]] (36.8%)、ナイアガラブドウ (31.6%)。[[レンズ豆]]、秋[[ジャガイモ]]、乾燥食用豆、[[アンズ|アプリコット]]、ブドウ(全種)、[[アスパラガス]]、加工用[[トウモロコシ]]、加工用グリーンピースでは第2位、酸味サクランボ、[[プルーン]]と[[プラム]]、乾燥夏[[タマネギ]]では第3位、[[オオムギ]]と[[マス]]では第4位、[[コムギ]]、[[クランベリー]]、[[イチゴ]]では第5位である。
リンゴは特に重要な産品である。州中部の乾燥し暖かい夏と冷涼な冬という好適な気候があるので、1920年代以降国内のリンゴ生産をリードし続けている<ref>{{Citation
|last=Schotzko
|first=Thomas R.
|last2=Granatstein
|first2=David
|year=2005
|title=A Brief Look at the Washington Apple Industry:Past and Present
|publication-place=Pullman, WA
|publisher=Washington State University
|pages=
|page=1
|url=http://www.agribusiness-mgmt.wsu.edu/agbusresearch/docs/SES04-05_BRIEF_LOOK_WAFTA.pdf
|accessdate=2008-05-09
}}</ref>。ウェナッチー・オカノガン地域([[シェラン郡 (ワシントン州)|シェラン郡]]、[[オウカノガン郡 (ワシントン州)|オウカノガン郡]]、[[ダグラス郡 (ワシントン州)|ダグラス郡]]、[[グラント郡 (ワシントン州)|グラント郡]])とヤキマ地域([[ヤキマ郡 (ワシントン州)|ヤキマ郡]]、[[ベントン郡 (ワシントン州)|ベントン郡]]、[[キッティタス郡 (ワシントン州)|キッティタス郡]])という2つの地域で州内リンゴ生産量の過半数を産している<ref>{{citation
|last=Lemons
|first=Hoyt
|authorlink=
|coauthors=Rayburn, D. Tousley
|year=1945
|month=July
|title=The Washington Apple Industry. I. Its Geographic Basis
|journal=[[Economic Geography]]
|volume=21
|issue=3
|publisher=Clark University
|pages=161-162, 166
|accessdate=2008-05-09
|doi=10.2307/141294
}}</ref>。
=== 交通 ===
[[ファイル:Washington State Ferry Tacoma.jpg|thumb|right|220px|国内でも最大級のフェリー運航網がある]]
[[ファイル:I-90 floating bridges looking east.JPG|thumb|right|220px|ワシントン湖の浮動橋]]
ワシントン州は、公共スペースの清潔さとそれに関わるゴミ処理活動の有効さと質を評価する2011年州別ゴミ処理評価において前年第1位の[[バーモント州]]を抜いて第1位の州にランクされた<ref>S. Spacek, 2011 American State Litter Scorecard:New Rankings for an Environmentally Concerned Populous.</ref>。
州内はワシントン州道体系と国内最大かつ世界でも第3位となるフェリー運航網で各所が結ばれている<ref>{{citation|url=http://www.wsdot.wa.gov/ferries/pdf/WSFLargest.pdf|title=WSFLargest_foliov3_May06.indd|format=PDF|date=|accessdate=2010-07-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080414020110/http://www.wsdot.wa.gov/ferries/pdf/WSFLargest.pdf|archivedate=2008年4月14日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。ワシントン州交通省が所有する州立空港16か所を含め140の公営空港がある。シアトルにある[[キング郡国際空港]]、通称ボーイングフィールドは合衆国のハブ空港ではない空港の中では最も乗降客数が多い。[[シアトル・タコマ国際空港]]もシアトル大都市圏にあってもう一つの主要空港になっている。ワシントン州における正式な国際空港はシアトル・タコマ国際空港ではなくボーイングフィールドである。
ワシントン州の特徴ある地形のために例外的な交通需要がある。シアトル、ベルビュー、タコマ、オリンピアといった州内大都市の間には広範な水路がある。州道は橋によって広大なネットワークとなり、国内最大のフェリー運航網がピュージェット湾地域の交通需要を支えている。海のハイウェイはピュージェット湾とその内陸水路を航行して20の港を結ぶ28隻のフェリーで構成され、年間147,000本が運行されている。浮動橋の長さでは世界の5傑のうち4つが州内にある。すなわちエバーグリーンポイント浮動橋、ワシントン湖に架かるレイシー・V・マーロウ記念橋とホーマー・M・ハドリー記念橋、[[オリンピック半島]]と[[キトサップ半島]]を結ぶフッド運河橋である。
主要な[[州間高速道路]]は [[州間高速道路5号線]]、同82号線、同84号線、同90号線などである。カスケード山脈があることでも特徴ある交通需要がある。州は7つの主要峠と8つの小型峠を運営し維持している。これらの峠は冬季には除雪され、砂を撒かれ、雪崩を抑えて安全が保たれている。全ての峠が冬季も通行可能というわけではない。ノース・カスケード・ハイウェイ、すなわち州道20号線は毎年閉鎖されている。ここは積雪量が以上に多く、ワシントン峠のある地域では雪崩の頻度も高いからである。
=== 運転免許 ===
ワシントン州で自動車を運転する場合、30日以内までは他州交付の免許及び国際免許でも運転可能である。しかし、30日以上の滞在については、ビジタービザ(B-1/B-2)を除いて、ワシントン州の運転免許が必要である。州内で住所が変わった場合は10日以内に住所変更届けをしなければならない。日本からの留学生や出張者、海外赴任の多くはシアトルのダウンタウンの北に位置するgreenwoodの試験場を多く利用する。免許更新期間、有効期間は一律5年とされている。
== 環境問題 ==
=== 核廃棄物 ===
[[マンハッタン計画]]のために作られた[[プルトニウム]][[精製]][[施設]]が今も州南東部の[[コロンビア川|コロンビア]]河畔に残っており、その大量の[[核廃棄物]]による[[ヒト]]や[[農産物]]を含む[[生物]]への影響が懸念されている。
{{main|ハンフォード・サイト}}
=== 有毒化学物質 ===
2007年、ワシントン州は多くの家庭用品に使われている[[ポリ臭化ジフェニルエーテル|PBDE]]と呼ばれる毒性の強い[[臭素]]化[[難燃剤]]を如何なる形でも使用しないように規定したことで、国内最初の州になった。2004年にオレゴン州、ワシントン州、ブリティッシュコロンビア州およびモンタナ州に住む母親40人を検査した結果、その全員の[[母乳]]にPBDEが検出された。
ワシントン州生態保護省による最近の研究3件では、数十年前に禁止された毒性化学物質が環境の中に残り続け、食物連鎖で濃縮されていることが示された。この研究の1つでは、州政府の科学者が45の場所から集めた淡水魚93サンプルで許容値を超える有毒物質を見付けた。これら有毒物質には[[ポリ塩化ビフェニル]](PCB)、[[ダイオキシン類]]、2種の塩素系殺虫剤、ジクロロジフェニルジクロエチレン(DDE)と[[ディルドリン]]、およびPBDEが含まれていた。この研究の結果、山岳部ホワイトフィッシュに不健康なレベルのPCBが見つかったウェナッチー川でPCBの排出源を調査することになっている。ワシントン州健康省は2007年のデータおよび2004年の生体研究に基づき、レブンワースから下流のコロンビア川と合流するまでのウェナッチー川から獲れるホワイトフィッシュを食さないよう大衆に忠告している。これら研究では科学者がワシントン湖やスポケーン川から集めた魚の細胞に高レベルの汚染が見られることも示しており、ここでも魚類摂取に対する忠告が行われている<ref>{{citation|author=staff|url=http://www.ens-newswire.com/ens/jun2007/2007-06-25-01.asp|title=Toxics Persist in Washington Rivers, Lakes and Fish|publisher=Ens-newswire.com|date=2007-06-25|accessdate=2010-07-31}}</ref>。
2006年3月27日、クリスティーン・グレゴア知事が議会承認された法案2322号に署名して成立させた。この法は、今後6年間で州内の食器洗い用洗剤に含まれる[[リン]]含有量を0.5%に制限するものである。この規制は2010年に州全体で有効になったが、ワットコム郡、スポケーン郡およびクラーク郡では2008年に有効とされた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.landscouncil.org/documents/Newsletters/3%20Spring%2006.pdf |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2014年4月19日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131102061725/http://www.landscouncil.org/documents/Newsletters/3%20Spring%2006.pdf |archivedate=2013年11月2日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。近年の研究では水中の高濃度リンが[[藻類]]の汚染に結びつけられている。水域に大量に藻が発生すると生態的にも技術的にも大きな問題に繋がるとされている。
== 教育 ==
=== 単科、および、総合大学 ===
==== 州立大学 ====
{{div col|cols=8}}
* [[セントラル・ワシントン大学]]
* 東ワシントン大学
* [[エバーグリーン州立大学]]
* [[ワシントン大学 (ワシントン州)|ワシントン大学]]
* [[ワシントン州立大学 (プルマン)|ワシントン州立大学]]
* 西ワシントン大学
{{div col end}}
==== 私立大学 ====
{{div col|cols=8}}
* アンティオック大学シアトル校
* アーゴジー大学シアトル校
* シアトル芸術大学
* バスター大学
* シアトル市大学
* カーニッシュ美術カレッジ
* ディジペン工科大学
* デブリー大学
* [[ゴンザガ大学]]
* ヘンリー・コグスウェル・カレッジ
* ヘリテージ・カレッジ
* マーズヒル・大学院大学
* ムーディ・バイブル大学スポケーン校
* ノースウェスト大学
* パシフィック・ルーテル大学
* セントマーティン大学
* 視覚概念学校
* シアトル・バイブル・カレッジ
* シアトル東洋医学大学
* [[シアトルパシフィック大学]]
* [[シアトル大学]]
* トリニティ・ルーテル・カレッジ
* フェニックス大学スポケーン校
* [[ピュージェットサウンド大学]]
* ワラワラ大学
* ウィットマン・カレッジ
* ウィットワース大学
{{div col end}}
==== コミュニティカレッジ ====
{{div col|cols=8}}
* ベイツ工科カレッジ
* ベルビュー・コミュニティ・カレッジ (ベルビューカレッジという4年制大学に変更)
* ベリングハム工科カレッジ
* ビッグベンド・コミュニティ・カレッジ
* カスカディア・コミュニティ・カレッジ
* セントラリア・カレッジ
* クラーク・カレッジ
* クロバーパーク工科カレッジ
* コロンビア・ベースン・カレッジ
* エドモンズ・コミュニティ・カレッジ
* エバレット・コミュニティ・カレッジ
* グレイズハーバー・カレッジ
* グリーンリバー・コミュニティ・カレッジ
* ハイライン・コミュニティ・カレッジ
* レイクワシントン工科カレッジ
* ローワーコロンビア・カレッジ
* オリンピック・カレッジ
* ペニンシュラ・カレッジ
* ピアース・カレッジ
* レントン工科カレッジ
* シアトル・コミュニティ・カレッジ地区
* ショアライン・コミュニティ・カレッジ
* スカジットバレー・カレッジ
* 南ピュージェット湾コミュニティ・カレッジ
* [[スポケーン]]・コミュニティ・カレッジ
* スポケーンフォールズ・コミュニティ・カレッジ
* タコマ・コミュニティ・カレッジ
* ワラワラ・コミュニティ・カレッジ
* ウェナッチーバレー・カレッジ
* ワットコム・コミュニティ・カレッジ
* ヤキマバレー・コミュニティ・カレッジ
{{div col end}}
=== 初等中等教育 ===
2008年から2009年の学校年で州内初等中等学校には1,040,750人の児童・生徒がおり、これを教える教師は59,562人である<ref>[http://reportcard.ospi.k12.wa.us/summary.aspx?year=2008-09 Washington State Report Card] - Office of Superintendent of Public Instruction. Retrieved 10-6-2009.</ref>。2009年8月時点で、295の教育学区があり、9つの教育サービス地区がある<ref>[http://www.k12.wa.us/maps/sdmainmap.aspx Districts and Schools] - Office of the Superintendent of Public Instruction. Retrieved 10-6-2009.</ref>。非営利州機関であるワシントン州学校情報処理法人が財務人材資源と生徒のデータについて情報管理システムを提供している。初等中等学校は州学校監査官ランディ・ドーンの率いる公共教育監査局の管轄下にある<ref>[http://www.k12.wa.us/AboutUs/default.aspx About Us] - Office of the Superintendent of Public Instruction. Retrieved 10-6-2009.</ref>。
高校の高学年生は州のランニングスタート・プログラム利用を選択できる。1990年に州議会が始めたものであり、生徒は公費で高等教育機関に進むことができ、同時に高校とカレッジの卒業認定を取得できるものである。
州内にはタコマ美術学校、バンクーバー美術学校およびシアトルのセンタースクールなど大衆芸術に焦点を当てた高校もある。また[[トリシティズ (ワシントン州)|トリシティズ]]には「デルタ」、タコマにはSAMIと呼ばれる科学と数学を基本とする高校もある。
== 芸術・文化 ==
* 参照:{{仮リンク|ワシントン州立公園の一覧|en|List of Washington state parks}}
* 参照:[[ワシントン州のラジオ放送局の一覧]]
=== プロスポーツチーム ===
{|class="wikitable sortable"
|-
!チーム
!スポーツ
!リーグ
!都市及び競技場
|-
|[[シアトル・シーホークス]]
|[[アメリカンフットボール|フットボール]]
|[[NFL]]''';''' NFC
|[[シアトル]]、[[クエスト・フィールド]]
|-
|[[シアトル・マリナーズ]]
|[[野球]]
|[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]''';''' [[アメリカンリーグ|AL]]
|シアトル、[[T-モバイル・パーク]]
|-
|[[シアトル・サンダーバーズ]]
|[[アイスホッケー]]
|ウェスタン・ホッケー・リーグ
|[[ケント (ワシントン州)|ケント]]、ショーウェアセンター
|-
|[[シアトル・ストーム]]
|[[バスケットボール]]
|[[WNBA]]
|シアトル、キーアリーナ
|-
|[[シアトル・サウンダーズFC]]
|[[サッカー]]
|[[メジャーリーグサッカー]]
|シアトル、センチュリーリンク・フィールド
|-
|[[:en:Seattle Sounders Women|シアトル・サウンダーズ]]
|[[サッカー]]
|W-League (女子)
|タクウィラ、スターファイア・スポーツ・コンプレックス
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|[[ベリンガム・スラム]]
|バスケットボール
|アメリカン・バスケットボール・アソシエーション
|[[ベリンハム (ワシントン州)|ベリングハム]]、ワットコム・コミュニティ・カレッジ
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|[[ベルビュー・ブラックホークス]]
|バスケットボール
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|[[ベルビュー (ワシントン州)|ベルビュー]]、マイデンバウア・センター
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|アイスホッケー
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|[[エバレット (ワシントン州)|エバレット]]、コムカスト・アリーナ
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|オリンピア・タイタンズ
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|-
|[[スポケーン・チーフス]]
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|[[トライシティ・アメリカンズ]]
|アイスホッケー
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|-
|[[トライシティ・フィーバー]]
|[[アリーナフットボール]]
|AF2
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|-
|[[トライシティ・ダストデビルズ]]
|野球
|[[ノースウェストリーグ]]''';''' [[マイナーリーグ|A]]
|[[パスコ (ワシントン州)|パスコ]]、ジェサ・スタジアム
|-
|[[タコマ・ナビゲーターズ]]
|バスケットボール
|アメリカン・バスケットボール・アソシエーション
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|野球
|[[パシフィックコーストリーグ]]''';''' [[マイナーリーグベースボール|AAA]]
|タコマ、[[チェニー・スタジアム]]
|-
|[[スポケーン・インディアンズ]]
|野球
|ノースウェストリーグ''';''' A
|スポケーン、アビスタ・スタジアム
|-
|[[エバレット・アクアソックス]]
|野球
|ノースウェストリーグ''';''' A
|エバレット、エバレット・メモリアル・スタジアム
|-
|[[ヤキマ・ベアーズ]]
|野球
|ノースウェストリーグ''';''' A
|ヤキマ、ヤキマ郡スタジアム
|-
|[[スポケーン・ショック]]
|[[アリーナフットボール]]
|AF2
|スポケーン、スポケーン・アリーナ
|-
|[[ウェナッチー・バレー・ベノム]]
|インドア・フットボール
|アメリカン・インドア・フットボール・アソシエーション
|[[ワナッチー (ワシントン州)|ウェナッチー]]、タウン・トヨタ・センター
|-
|[[スポケーン・スパイダーズ]]
|[[サッカー]]
|プレミア開発リーグ(ノースウェスト・ディビジョン)
|スポケーン、ジョー・アルビ・スタジアム
|-
|[[ケント・プレデターズ]]
|インドア・フットボール
|インドア・フットボール・リーグ
|ケント、ショーウェアセンター
|-
|[[シアトル・シーウルブズ]]
|ラグビー
|[[メジャーリーグラグビー]]
|[[タックウィラ (ワシントン州)|タックウィラ]]、スターファイアー
|-
|[[オールド・ピュージェット・サウンド・ビーチRFC]]
|ラグビー
|ラグビー・スーパーリーグ
|シアトル、不定
|-
|[[ワシントン・ステルス]]
|ラクロス
|ナショナル・ラクロス・リーグ
|エバレット、コムカスト・アリーナ
|-
|[[シアトル・ミスト]]
|ランジェリー・フットボール
|ランジェリー・フットボール・リーグ
|ケント、ショーウェアセンター
|-
|キットサップ・アドミラルズ
|バスケットボール
|アメリカン・バスケットボール・アソシエーション
|キットサップ
|-
|[[シアトル・オルカズ]]
|[[クリケット]]
|[[メジャーリーグクリケット]]
|[[レドモンド (ワシントン州)|レドモンド]]、メリームア・パーク(計画中)<ref>[https://redmond-reporter.com/news/king-county-passes-motion-of-support-for-marymoor-cricket-community-park King County passes Motion of Support for Marymoor Cricket Community Park] Redmond Reporter 2023年9月21日閲覧。</ref>
|}
== 州の象徴など ==
[[アメリカ海軍]]の4隻の艦船がワシントン州に因んで名付けられてきており、この中には2隻の戦艦も含まれている。以前にはジョージ・ワシントンに因んで名付けられたものもあった。
州の愛称である「エバーグリーン・ステート」は1890年にシアトルのチャールズ・T・コノバーが提案したものである。州内には常緑樹の森があり、年間を通じて豊富な雨が低木や草の緑を保っているので、この愛称はうまく当てはまっている<ref>Jollata, Pat, "Naming Clark County". Vancouver Historical Society. Vancouver, Washington. 1993. p.17</ref><ref>[http://www.leg.wa.gov/Symbols/Pages/default.aspx State Symbols]</ref>。
* 州歌:『Washington, My Home(ワシントン、我が家)』
* 州の鳥:"American Goldfinch"(オウゴンヒワ)
* 州の果物:リンゴ
* 州の野菜:ワラワラ・タマネギ<ref>[http://www.komotv.com/news/local/6890067.html Senate passes measure designating Walla Walla onion state veggie]. Komo 4 Television. April 5, 2007. Retrieved on April 5, 2007.</ref>
* 州のダンス:スクエアダンス、1979年に採用された
* 州の木:"Western Hemlock"(アメリカツガ)
* 州の花:"Coast Rhododendron"(シャクナゲ)
* 州の魚:"head trout"(ニジマス)
* 州のフォークソング:[[ウディ・ガスリー]]が歌った"Roll On, Columbia, Roll On"
* 州のロックソング:「[[ルイ・ルイ]]」、非公式だが大衆に認められている<ref>{{citation|url=http://www.wsdot.wa.gov/publications/highwaymap/other.htm|title=WSDOT - Highway Map - Washington State Facts|publisher=Wsdot.wa.gov|date=2009-06-01|accessdate=2010-11-30}}</ref>
* 州の草:"bluebunch wheatgrass"(ウィートグラス)
* 州の昆虫:"Green Darner Dragonfly"(グリーンダーナトンボ)
* 州の宝石:珪化木
* 州の化石:コロンビア・マンモス
* 州の海洋動物:[[シャチ|オルカ]]
* 州の陸生動物:オリンピックマーモット
* 州章は州旗にも描かれており、[[ギルバート・ステュアート]]によるジョージ・ワシントンの未完成肖像画から採られたものである<ref>[http://www.secstate.wa.gov/seal/history.aspx History of the State Seal]. Washington Secretary of State. Retrieved on April 5, 2007</ref>
== 外国の都市との姉妹自治体・提携自治体 ==
=== 日本 ===
{{div col|cols=2}}
* {{Flagicon|兵庫県}}[[兵庫県]] — 1963年10月22日 姉妹相互協力提携<ref>[https://web.pref.hyogo.lg.jp/sr13/ie12_000000003.html 「兵庫県の姉妹・友好提携」]</ref>
* {{Flagicon|愛知県}}[[愛知県]] — 2016年10月18日 友好交流及び相互協力<ref>[http://www.pref.aichi.jp/soshiki/ricchitsusho/20161018mou-washington.html 「友好交流及び相互協力に関する覚書」]</ref>
* {{Flagicon|青森県}}[[青森県]][[八戸市]] - [[フェデラルウェイ (ワシントン州)|フェデラルウェイ]]
* {{Flagicon|青森県}}青森県[[黒石市]] - [[ワナッチー (ワシントン州)|ワナッチー]]
* {{Flagicon|青森県}}青森県[[三沢市]] - ワナッチー
* {{Flagicon|青森県}}青森県三沢市 - [[イーストワナッチー (ワシントン州)|イーストワナッチー]]
* {{Flagicon|青森県}}青森県[[むつ市]] - [[ポートエンジェルス (ワシントン州)|ポートエンジェルス]]
* {{Flagicon|青森県}}青森県[[板柳町]] - [[ヤキマ (ワシントン州)|ヤキマ]]
* {{Flagicon|宮城県}}[[宮城県]][[石巻市]] - [[エバレット (ワシントン州)|エバレット]]
* {{Flagicon|秋田県}}[[秋田県]][[にかほ市]] - [[アナコルテス (ワシントン州)|アナコルテス]]
* {{Flagicon|山形県}}[[山形県]][[米沢市]] - [[モーゼスレイク (ワシントン州)|モーゼスレイク]]
* {{Flagicon|埼玉県}}[[埼玉県]][[和光市]] - [[ロングビュー (ワシントン州)|ロングビュー]]
* {{Flagicon|千葉県}}[[千葉県]][[館山市]] - [[ベリンハム (ワシントン州)|ベリンハム]]
* {{Flagicon|千葉県}}千葉県[[南房総市]] - [[ファーンデイル (ワシントン州)|ファーンデイル]]
* {{Flagicon|愛知県}}[[愛知県]][[碧南市]] - [[エドモンズ (ワシントン州)|エドモンズ]]
* {{Flagicon|愛知県}}[[愛知県]][[豊山町]] - [[グラント郡 (ワシントン州)|グラント郡]]
* {{Flagicon|三重県}}[[三重県]][[多気町]] - [[キャマス (ワシントン州)|キャマス]]
* {{Flagicon|京都府}}[[京都府]][[城陽市]] - [[バンクーバー (ワシントン州)|バンクーバー]]
* {{Flagicon|大阪府}}[[大阪府]][[八尾市]] - [[ベルビュー (ワシントン州)|ベルビュー]]
* {{Flagicon|兵庫県}}[[兵庫県]][[神戸市]] - [[シアトル]]
* {{Flagicon|兵庫県}}兵庫県[[西宮市]] - [[スポケーン]]
* {{Flagicon|兵庫県}}兵庫県[[西脇市]] - [[レントン (ワシントン州)|レントン]]
* {{Flagicon|兵庫県}}兵庫県[[三田市]] - [[エレンズバーグ (ワシントン州)|エレンズバーグ]]
* {{Flagicon|兵庫県}}兵庫県[[加西市]] - [[プルマン (ワシントン州)|プルマン]]
* {{Flagicon|兵庫県}}兵庫県[[丹波篠山市]] - [[ワラワラ (ワシントン州)|ワラワラ]]
* {{Flagicon|兵庫県}}兵庫県[[丹波市]] - [[ケント (ワシントン州)|ケント]]
* {{Flagicon|兵庫県}}兵庫県[[宍粟市]] - [[スクイム]]
* {{Flagicon|兵庫県}}兵庫県[[加東市]] - [[オリンピア (ワシントン州)|オリンピア]]
* {{Flagicon|兵庫県}}兵庫県[[市川町]] - [[ポートタウンゼント|ポート・タウンゼント]]
* {{Flagicon|広島県}}[[広島県]][[呉市]] - [[ブレマートン]]
* {{Flagicon|山口県}}[[山口県]][[岩国市]] - [[エバレット (ワシントン州)|エバレット]]
* {{Flagicon|徳島県}}[[徳島県]][[三好市]] - [[タックウィラ (ワシントン州)|タクウィラ]]
* {{Flagicon|福岡県}}[[福岡県]][[北九州市]] - [[タコマ (ワシントン州)|タコマ]]
* {{Flagicon|沖縄県}}[[沖縄県]][[沖縄市]] - [[レイクウッド (ワシントン州)|レイクウッド]]
{{div col end}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[ワシントン州の都市圏の一覧]]
* [[ワシントン州の郡一覧]]
* [[ワシントン州出身の人物一覧]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Washington}}
* {{Official website}} {{en icon}}
* [https://www.commerce.wa.gov/promoting-washington-state/export-assistance/ ワシントン州政府] {{en icon}}
* [http://www.tourism.wa.gov/ Washington State Tourism(英語版)]
* [https://www.seattle.us.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在シアトル日本国総領事館] {{ja icon}} {{en icon}}
* [https://www.jbaseattle.org/ シアトル日本商工会]
* [http://www.us-japan.org/jassw/ ワシントン州日米協会] {{en icon}}
* [http://wikis.ala.org/godort/index.php/Washington Washington State Databases] - Annotated list of searchable databases produced by Washington state agencies and compiled by the Government Documents Roundtable of the American Library Association.
* [http://www.secstate.wa.gov/history/ Secretary of State's Washington History website]
* [http://search.leg.wa.gov/pub/textsearch/default.asp State Code Search Tool]
* [http://tonto.eia.doe.gov/state/state_energy_profiles.cfm?sid=WA Energy Profile for Washington] - Economic, environmental, and energy data
* [http://www.usgs.gov/state/state.asp?State=WA USGS real-time, geographic, and other scientific resources of Washington]
* [http://quickfacts.census.gov/qfd/states/53000.html U.S. Census Bureau]
* [http://www.historylink.org/this_week/index.cfm Online Encyclopedia of Washington State History]
* {{Curlie|Regional/North_America/United_States/Washington}}
* {{Osmrelation|165479}}
* {{Googlemap|ワシントン州}}
{{Geographic Location
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|North={{Flagcountry|British Columbia}}<br />{{Flagcountry|Canada}}
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{{ワシントン州}}
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[[Category:アメリカ合衆国の州]]
[[Category:ワシントン州|*]]
[[Category:ジョージ・ワシントン]] | 2003-02-19T11:44:14Z | 2023-12-16T00:26:32Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E5%B7%9E |
2,401 | バンド | バンド(band、bund)、バン土(礬土)
英語で帯の意。
英語で集団の意。
ドイツ系に多い姓の一つ。
英語で築堤・埠頭の意。
バン土(礬土) | [
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] | バンド(band、bund)、バン土(礬土) | {{TOCright}}
'''バンド'''(band、bund)、'''バン土'''(礬土)
== band ==
=== 帯 ===
[[英語]]で[[帯]]の意。
* 体に巻き付けることで衣類を止める機能を果たす[[装身具]]。「[[ベルト (服飾)]]」を参照。
* 上記に類似した平たく細長い形態や機能をもつもの。例:[[バンドエイド]]([[絆創膏]]の[[商標|商品名]])・[[腕時計]]の[[腕時計#ベルト|バンド]]。
* 連続的な[[物理量]]において[[区間 (数学)|区間]]に相当するもの。
** [[電磁波]]の[[周波数]]。[[波長]]の区間。「[[電波の周波数による分類]]」を参照。
** [[固体]]の中を伝わる[[電子]]や[[光子]]がとる[[エネルギー]]準位の区間。「[[バンド理論]]」「[[バンド構造]]」「[[フォトニックバンド]]」を参照。
** 携帯電話の無線周波数帯の略称。「[[Long Term Evolution#周波数帯]]」「[[LTEバンド]]」を参照。
** 通信における「[[帯域幅]]」(bandwidth)。またそこから「[[通信路容量]]」のことをバンドと呼ぶことがある。「[[ナローバンド]]」「[[ブロードバンド]]」を参照。
=== 集団 ===
英語で[[集団]]の意。
* [[バンド (音楽)]] - 主に[[ポピュラー音楽]]、[[ジャズ]]、[[吹奏楽]]([[コンサート・バンド]])、行進をする場合([[マーチングバンド]])、[[学校]]([[スクールバンド]])などにおいて、[[演奏]]をする者の集団。
* [[ザ・バンド]] - [[アメリカ合衆国]]と[[カナダ]]の[[ロック (音楽)|ロック]]バンド。
** [[ザ・バンド (アルバム)]] - 上記ザ・バンドの[[スタジオアルバム]]。
* [[バンド (カナダ)]] - [[カナダ]]における[[ファーストネーション]]の集団。
=== 姓 ===
ドイツ系<ref>{{Cite web | title =Last name: Band | work =The Internet Surname Database | publisher =Name Origin Research | url =http://www.surnamedb.com/Surname/Band | accessdate =2010-07-14 }}</ref>に多い[[姓]]の一つ。
== bund ==
英語で[[築堤]]・[[埠頭]]の意。
* [[上海共同租界]]の河岸地区([[外灘]]、The Bund)。
* [[漢口租界]]の河岸地区(江灘、The Bund)。
== バン土 ==
バン土(礬土)
* 「礬」とは[[明礬]]を意味する漢字であり、礬土とは[[複塩]]である明礬の主成分、[[硫酸アルミニウム]]の略称または雅称。硫酸バンドや硫酸バン土、バン土(読み方は同じ)とも記され、[[凝集]]剤のひとつとして用いられる。
==脚注==
<references/>
== 関連項目 ==
* [[ブント]]
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{{デフォルトソート:はんと}}
[[Category:英語の語句]] | null | 2023-01-15T11:19:42Z | true | false | false | [
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"Template:TOCright",
"Template:Cite web"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89 |
2,403 | トランスフェラビリティー | トランスフェラビリティー(Transferability、移植性)は、原子の価電子部分から作られた擬ポテンシャルが実際のバンド計算に使用されるに際して、周りの環境の変化(周りの原子の配位の数、方向の変化や、周りに異なる種類の元素が存在する場合〔例:化合物〕など)にどのくらい精度を保ったまま対応できるのかを表す尺度と言える。トランスフェラビリティーの高い擬ポテンシャルは、信頼性及び汎用性の高い良いポテンシャルと言える。 | [
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] | トランスフェラビリティー(Transferability、移植性)は、原子の価電子部分から作られた擬ポテンシャルが実際のバンド計算に使用されるに際して、周りの環境の変化にどのくらい精度を保ったまま対応できるのかを表す尺度と言える。トランスフェラビリティーの高い擬ポテンシャルは、信頼性及び汎用性の高い良いポテンシャルと言える。 | {{出典の明記|date=2023年1月5日 (木) 03:59 (UTC)}}
'''トランスフェラビリティー'''(Transferability、移植性)は、[[原子]]の[[価電子]]部分から作られた[[擬ポテンシャル]]が実際の[[バンド計算]]に使用されるに際して、周りの環境の変化(周りの原子の配位の数、方向の変化や、周りに異なる種類の元素が存在する場合〔例:化合物〕など)にどのくらい精度を保ったまま対応できるのかを表す尺度と言える。トランスフェラビリティーの高い擬ポテンシャルは、信頼性及び汎用性の高い良いポテンシャルと言える。
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[[Category:バンド計算]] | null | 2023-01-05T03:59:41Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%A9%E3%83%93%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC |
2,406 | 宮崎駿の雑想ノート | 『宮崎駿の雑想ノート』(みやざきはやおのざっそうノート)は、漫画家・アニメ監督の宮崎駿による、イラストエッセイ及びマンガである。後にラジオドラマ化もされている。
アニメ制作の合間に模型雑誌『月刊モデルグラフィックス』に不定期連載されたもので、作者の趣味である軍事関係の船舶、航空機、戦車等を題材にしている。全13話。
連載初期はイラストのまわりに文章が書かれたエッセイ形式だったが、段々とページの一部がマンガとして描かれるようになり、第9話の後半からは全ページがマンガとして描かれるようになった。絵は鉛筆と透明水彩で描かれている。題材は、史上初の装甲艦同士の対決、特設監視艇となったオンボロ漁船、ポルシェ博士が作ったティーガー戦車Pなどである。雑想の言葉通り、全編にわたって史実とは異なる創作が巧妙に混ぜられている一方、明らかな間違いである記述も存在する。
キャラクターは欧米が舞台の場合、擬人化された動物が使われており、おおむねイギリス人が犬(『名探偵ホームズ』と同デザイン)、アメリカ人がゴリラ、ドイツ人が豚とされている。また「豚の虎」と続編「ハンスの帰還」、「泥まみれの虎」ではドイツ人同様、ソ連人が豚として描かれている。一方、日本や中国を題材にした作品では普通の人間である。また、前述の欧米を扱ったパートでも、非戦闘員など人物によっては普通の人間を用いる場合がある。
宮崎駿は「雑想ノート」以前に、東京ムービーのファン誌に『ぼくのスクラップ』を連載していた。これは初期の「雑想ノート」に似たスタイルで書かれたイラストエッセイである。このエッセイを見た大塚康生(宮崎駿の先輩アニメーター)が、『月刊モデルグラフィックス』誌の創刊時に連載を持ちかけた。
1998年に『宮崎駿の妄想ノート』というタイトルで連載が再開、オットー・カリウスの戦記を漫画化した「泥まみれの虎」が描かれ「豚の虎」の続編「ハンスの帰還」を収録して2002年に出版された。 | [
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] | 『宮崎駿の雑想ノート』(みやざきはやおのざっそうノート)は、漫画家・アニメ監督の宮崎駿による、イラストエッセイ及びマンガである。後にラジオドラマ化もされている。 アニメ制作の合間に模型雑誌『月刊モデルグラフィックス』に不定期連載されたもので、作者の趣味である軍事関係の船舶、航空機、戦車等を題材にしている。全13話。 | {{基礎情報 ラジオ番組
| 番組名 = 宮崎駿の雑想ノート
| ジャンル = [[ラジオドラマ]]
| 放送 = [[録音]]
| 放送時間 = 日曜 21:00 - 21:30
| パーソナリティ = [[神山卓三]](案内人)
| 出演 = [[#作品一覧]]参照
| 放送局 = [[ニッポン放送]]
| ネットワーク = [[全国ラジオネットワーク|NRN]]
| 放送期間 = 1995年11月5日 - 1996年4月7日
| 放送回数 =
| スポンサー = [[セガゲームス|セガ・エンタープライゼス]]
}}
『'''宮崎駿の雑想ノート'''』(みやざきはやおのざっそうノート)は、漫画家・アニメ監督の[[宮崎駿]]による、イラストエッセイ及びマンガである。後にラジオドラマ化もされている。
アニメ制作の合間に模型雑誌『月刊[[モデルグラフィックス]]』に不定期連載されたもので、作者の趣味である軍事関係の船舶、航空機、戦車等を題材にしている。全13話。
== 作品概要 ==
* 連載誌 - 『月刊[[モデルグラフィックス]]』([[大日本絵画]])
** 掲載されたうち「豚の虎」のみ、『雑想ノート』初版出版時の描き下ろし(執筆は1992年10月から11月)。
* 連載期間 - 1984年11月号 - 1990年5月号、不定期、全13回
* ページ数 - 各回3ページから5ページ。
連載初期はイラストのまわりに文章が書かれたエッセイ形式だったが、段々とページの一部がマンガとして描かれるようになり、第9話の後半からは全ページがマンガとして描かれるようになった。絵は鉛筆と透明水彩で描かれている。題材は、史上初の装甲艦同士の対決、[[特設艦船#日本海軍の特設艦船|特設監視艇]]となったオンボロ漁船、[[フェルディナント・ポルシェ|ポルシェ博士]]が作った[[VK4501(P)|ティーガー戦車P]]などである。'''雑想'''の言葉通り、全編にわたって史実とは異なる創作が巧妙に混ぜられている一方、明らかな間違いである記述も存在する{{efn2|例えば、[[定遠 (戦艦)|定遠]]の砲塔は装甲砲塔では無く22mm厚のフードでしかない、など。}}。
キャラクターは欧米が舞台の場合、[[擬人化]]された動物が使われており、おおむねイギリス人が犬(『[[名探偵ホームズ]]』と同デザイン)、アメリカ人がゴリラ、ドイツ人が豚とされている。また「豚の虎」と続編「ハンスの帰還」、「泥まみれの虎」ではドイツ人同様、ソ連人が豚として描かれている。一方、日本や中国を題材にした作品では普通の人間である。また、前述の欧米を扱ったパートでも、非戦闘員など人物によっては普通の人間を用いる場合がある。
宮崎駿は「雑想ノート」以前に、[[東京ムービー]]のファン誌に『ぼくのスクラップ』を連載していた。これは初期の「雑想ノート」に似たスタイルで書かれたイラストエッセイである。このエッセイを見た[[大塚康生]](宮崎駿の先輩アニメーター)が、『月刊モデルグラフィックス』誌の創刊時に連載を持ちかけた{{sfn|宮崎|1992|pp=110-111}}。
1998年に『'''宮崎駿の妄想ノート'''』というタイトルで連載が再開、[[オットー・カリウス]]の戦記を漫画化した「泥まみれの虎」が描かれ「豚の虎」の続編「ハンスの帰還」を収録して2002年に出版された。
== 作品一覧 ==
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!サブタイトル
!ラジオドラマの出演者{{efn2|またラジオドラマの案内人を[[神山卓三]]が務めた。}}
!ラジオドラマの話数<br />放送日
!ラジオドラマのCD化作品ナンバー{{efn2|CDは全12作品が発売されている(TKCA-70901 - 70912)。#5はサウンドトラック盤。#10はQ.ship・農夫の眼の2編を収録。}}
!主要登場兵器
|-
|知られざる巨人の末弟
|[[佐野史郎]]
|第5話<br />1995年12月24日・31日
|#1
|[[ユンカース G.38|WP-30重空中戦艦]]{{efn2|name="架空兵器"|架空兵器。}}
|-
|甲鉄の意気地
|[[名古屋章]]
|第7話<br />1996年1月21日・28日
|#7
|装甲艦[[モニター (装甲艦)|モニター]]、[[バージニア (装甲艦)|メリマック]]
|-
|多砲塔の出番
|[[桃井かおり]]
|第6話<br />1996年1月7日・14日
|#6
|[[悪役1号]]{{efn2|name="架空兵器"}}
|-
|農夫の眼
|[[天本英世]]
|第8話<br />1996年2月4日
|#10
|{{仮リンク|ポテーズ540|en|Potez 540}}
|-
|竜の甲鉄
|[[峰竜太]]
|第9話<br />1996年2月11日・18日
|#2
|[[定遠級戦艦]]
|-
|九州上空の重轟炸機
|[[春風亭柳昇]]
|第3話<br />1995年12月3日・10日
|#12
|[[B-10 (航空機)|マーチン139W]]
|-
|高射砲塔
|[[大竹しのぶ]]
|第2話<br />1995年11月19日・26日
|#4
|リュースバルク市の[[高射砲塔]]{{efn2|name="架空兵器"}}
|-
|Q.ship
|[[松尾貴史]]
|第4話<br />1995年12月17日
|#10
|[[Qシップ]]
|-
|特設空母安松丸物語
|[[三木のり平]]
|第10話<br />1996年2月25日・3月3日
|#8
|[[改造空母|特設空母]][[安松丸]]{{efn2|name="架空兵器"}}、[[九六式艦上攻撃機]]
|-
|ロンドン上空1918年
|[[谷啓]]
|第11話<br />1996年3月10日・17日
|#9
|{{仮リンク|ツェッペリン・シュターケンR-IV|en|Zeppelin-Staaken Riesenflugzeuge#Variants}}
|-
|最貧前線
|[[イッセー尾形]]
|第1話<br />1995年11月5日・12日
|#3
|[[特設艦船#特設監視艇|特設監視艇]]吉祥丸{{efn2|name="架空兵器"}}
|-
|飛行艇時代
| style="text-align:center" | -
| style="text-align:center" | -
| style="text-align:center" | -
|[[サボイアS.21試作戦闘飛行艇]]{{efn2|name="架空兵器"}}
|-
|豚の虎{{efn2|第13話「豚の虎」は単行本への描き下ろし作品{{sfn|宮崎|1997|p=104|loc=「第13話 豚の虎」}}。}}
| style="text-align:center" | -
| style="text-align:center" | -
| style="text-align:center" | -
|[[ポルシェティーガー]]
|-
|ハンスの帰還
| [[西田敏行]]
|第12話<br />1996年3月24日・31日・4月7日
|#11<ref>{{Cite web|和書|url=https://m.media-amazon.com/images/I/51IEogOeUmL._AC_.jpg|title=宮崎駿の雑想ノート〈11〉ハンスの帰還|accessdate=2022-11-23}}</ref>
|[[IV号戦車#バリエーション|IV号戦車J型]]
|}
== 主な登場人物 ==
; 悪役大佐
: 『多砲塔の出番』の悪役で豚の軍人。自身が開発した『悪役1号』が破壊された後、第5回、第7回の終盤で自身を主人公にした作品のスポンサーを募集している。
:
; ハンス整備兵長
: 『ロンドン上空1918年』、『豚の虎』、『ハンスの帰還』に登場する若きドイツ軍整備兵長。ただし『ロンドン』と『豚の虎』以降のハンスは同名だが別時代の人物で整備対象も航空機と戦車に分かれている。眼鏡をかけている、背が低く小太り、窮地に陥ると『ママー!』と叫ぶ、本来前線に出る必要がないのにドランシに引っ張られ弾丸が飛び交う中で整備をする、というのが共通設定。
:
; ドランシ大尉
: 『ロンドン上空1918年』、『豚の虎』、『ハンスの帰還』に登場するベテランドイツ軍人。ハンス同様『ロンドン』と『豚の虎』以降のドランシは別時代の人物。『安松丸物語』に登場する航空隊指揮官をリファインしたキャラクター。名前はドイツ語ではなく、日本語の「ど乱視」のもじり{{efn2|この流れで『ロンドン』では乱視の設定だったが『豚の虎』からは触れられず眼鏡類もかけてない}}。口髭、非常に強引な性格が共通しており、ハンスなど周囲を戦場に引っ張っていく。つきあいは一生続いた。
:
; ローザ
: 『ハンスの帰還』に登場するヒロインの少女(人間)。ベルリン近郊で祖母と飼い犬のグスタフと共に暮らしていたがソビエト軍の侵攻が迫った矢先、逃走してきたハンス、ドランシと共に自宅前に放棄されていたIV号戦車J型で家族と共にアメリカ軍の勢力圏へ向け旅をすることになる。非常に学習能力が高く砲撃の回避方法を一回経験しただけで実践してしまった。
:
; オットー・カリウス
: 『泥まみれの虎』の主人公にして原作者。制作にあたって宮崎駿は物語の舞台であるエストニア・ナルヴァの古戦場{{efn2|物語は1944年2月末から3月22日の間のエピソード。}}とカリウス本人のもとを訪れている。
:
; 宮崎駿
: 作者。『九州上空の重轟炸機』において幼少期の自画像以外は豚に擬人化して制作中の愚痴をこぼす形で登場。
== 派生作品 ==
* (制作中止)1985年に「多砲塔の出番」を『突撃!アイアンポーク』として[[OVA]]化する企画が進行したが、諸事情により中止された。監督に[[押井守]]が予定されていた{{sfn|宮崎|1992|p=103}}。
* 1992年に「飛行艇時代」が『[[紅の豚]]』として映画化された。
* 1994年、『[[風の谷のナウシカ]]』の最終回が掲載された『[[アニメージュ]]』1994年3月号表紙を「ハンスの帰還」をベースにしたイラストが掲載された。ただし、作品同様に少女(ローザ)、と老婆(祖母)が搭乗したイラストを掲載する予定だったが、宮崎いわく少女が「戦車に乗ってるのに顔が爽やかすぎてカマトトになってしまう」とされ、少女は成年女性に、老婆はハンスたちと同じ豚の戦車兵に差し替えられて掲載された{{sfn|宮崎|2002|p=80}}。
* 1995年 - 1996年に[[ラジオドラマ]]化され[[ニッポン放送]]で放送された。ラジオドラマ化されたのは、先述の[[#作品一覧]]に示した11話に『宮崎駿の妄想ノート』より「ハンスの帰還」([[西田敏行]])を加えた全12話。主に主役の一人語りで話が進行する。BGMは、脚本家の推薦により[[カテリーナ古楽合奏団]]が作成した。1996年に徳間ジャパンコミュニケーションズより、サウンドトラックも含めて全編がCD化された。放送期間は1995年11月5日 - 1996年4月7日、放送日時は毎週日曜 21:00 - 21:30。
* 「多砲塔の出番」に登場する架空の多砲塔戦車「[[悪役1号]]」が、有限会社[[アスカモデル|タスカモデリズモ]]から1/72スケールで[[プラモデル]]化されている<ref>{{Cite web |url=http://asukamodel-website.com/悪役1号/ |title=悪役1号 |website=Asukamodel |publisher=アスカモデル |accessdate=2023-07-14}}</ref>。
* 2013年の映画『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』の劇中において、「知られざる巨人の末弟」に登場するWP-30重空中戦艦のモデルとなった[[ユンカース G.38]]の映像化が実現した。
* 2019年に『最貧前線』が脚本に井上桂、演出に[[一色隆司]]という陣容で舞台化され、[[水戸芸術館|水戸美術館ACM劇場]]で上演された<ref>{{Cite web|和書|title=最貧前線|水戸芸術館ACM劇場プロデュース |url=https://www.arttowermito.or.jp/sp/poorfront310acm/ |website=www.arttowermito.or.jp |accessdate=2022-02-14}}</ref>。主な出演者は[[内野聖陽]]、[[風間俊介]]、[[溝端淳平]]など。また、これより前の2016年に[[埼玉県立川越高等学校]]の演劇部が『最貧前線』を原作にした脚本で全国大会に出場している<ref>{{Cite web|和書|title=第51回関東大会<さいたま会場>結果報告 - 埼玉県高等学校演劇連盟 |url=http://www.saikoenren.com/index.php?active_action=journal_view_main_detail&block_id=19&page_id=0&post_id=76&comment_flag=1 |website=www.saikoenren.com |accessdate=2022-02-14}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|30em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=宮崎駿 |authorlink=宮崎駿 |title=宮崎駿の雑想ノート |year=1992 |month=12 |publisher=大日本絵画 |isbn=978-4-499-20602-0 |ref={{sfnref|宮崎|1992}} }}
** {{Cite book|和書|author=宮崎駿 |title=宮崎駿の雑想ノート (増補改訂版) |year=1997 |month=8 |publisher=大日本絵画 |edition=増補改訂版 |isbn=978-4-499-22677-6 |ref={{sfnref|宮崎|1997}} }} - 上記の増補改訂版
* {{Cite book|和書|author=宮崎駿 |title=泥まみれの虎 宮崎駿の妄想ノート |date=2002-07-15 |publisher=大日本絵画 |isbn=978-4-499-22790-2 |ref={{sfnref|宮崎|2002}} }}
== 関連書籍 ==
* {{Cite book|和書|author=宮崎駿 |title=飛行艇時代 ポルコ・ロッソ「紅の豚」原作 |year=1992 |month=7 |publisher=大日本絵画 |isbn=978-4-499-20595-5}}
** {{Cite book|和書|author=宮崎駿 |title=飛行艇時代 映画『紅の豚』原作 |year=2004 |month=10 |publisher=大日本絵画 |edition=増補改訂版 |isbn=978-4-499-22864-0}} - 上記の増補改訂版
* {{Cite book|和書|author=宮崎駿 |title=風立ちぬ 宮崎駿の妄想カムバック |date=2015-10-08 |publisher=大日本絵画 |isbn=978-4-499-23167-1}}
{{宮崎駿}}
{{DEFAULTSORT:みやさきはやおのさつそうのおと}}
[[Category:漫画作品 み|やさきはやおのさつそうのおと]]
[[Category:情報誌掲載漫画作品]]
[[Category:戦争漫画]]
[[Category:ニッポン放送のラジオドラマ]]
[[Category:宮崎駿|さつそうのおと]] | 2003-02-19T12:57:43Z | 2023-11-19T01:29:13Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E9%A7%BF%E3%81%AE%E9%9B%91%E6%83%B3%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88 |
2,407 | 5月1日 | 5月1日(ごがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から121日目(閏年では122日目)にあたり、年末まであと244日ある。 | [
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'''5月1日'''(ごがつついたち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から121日目([[閏年]]では122日目)にあたり、年末まであと244日ある。
== できごと ==
[[Image:Nozze_di_Figaro_Scene_19th_century.jpg|thumb|196x196px|[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の[[オペラ]]『[[フィガロの結婚]]』初演(1786)]]
[[Image:Penny_black.jpg|thumb|140px|世界初の[[郵便切手]]、[[ペニー・ブラック]](1840)発行]]
[[Image:Crystal Palace from the northeast from Dickinson's Comprehensive Pictures of the Great Exhibition of 1851. 1854.jpg|thumb|180x180px|[[ロンドン万国博覧会 (1851年)|第1回万国博覧会]]、[[ロンドン]]で開催(1851)]]
[[Image:Japanese_Red_Cross_near_the_Amur_River_1904.jpg|thumb|180x180px|[[1877年]]、[[日本赤十字社]]の前身、博愛社創設。画像は[[日露戦争]]で救護にあたる[[日本赤十字社]]。]]
[[ファイル:Tobu-Tojo-line Series50090 10030.jpg|サムネイル|東武東上線開通(1914)|180x180ピクセル]]
[[Image:Empire_State_Building_by_David_Shankbone.jpg|thumb|200x200px|[[エンパイア・ステート・ビルディング|エンパイア・ステート・ビル]]完成(1931)]]
[[Image:Bloody_May_Day_Incident2.JPG|thumb|150x150px|[[血のメーデー事件]](1952)]]
* [[280年]]([[太康 (晋)|太康]]元年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]) - [[呉 (三国)|呉]]の皇帝[[孫晧]]が晋に降伏し、[[晋 (王朝)|晋]]([[西晋]])が全国統一。
* [[305年]] - [[マクシミアヌス]]と[[ディオクレティアヌス]]が[[ローマ帝国]]皇帝を退位。マクシミアヌスは[[306年]]復位。
* [[713年]]([[和銅]]6年[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]) - [[丹後国]]・[[美作国]]・[[大隅国]]を設置。
* [[1457年]]([[長禄]]元年[[4月8日 (旧暦)|4月8日]]) - [[太田道灌]]が[[武蔵国]][[荏原郡]]桜田郷に[[江戸城]]を築城。
* [[1557年]]([[弘治 (日本)|弘治]]3年[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]) - [[防長経略]]: [[大内義長]]が[[毛利元就]]に攻められて自害し、[[大内氏]]が滅亡。
* [[1575年]] - [[ポーランド・リトアニア共和国]]の王位相続人[[アンナ (ポーランド女王)|アンナ]]が[[トランシルヴァニア公国|トランシルヴァニア公]][[ステファン・バートリ (ポーランド王)|ステファン・バートリ]]と結婚し、2人そろって共同統治王に即位。
* [[1615年]]([[慶長]]20年[[4月4日 (旧暦)|4月4日]]) - [[大坂の陣|大坂夏の陣]]: [[徳川家康]]が[[徳川義直]]の婚儀のためとして駿府を出発。
* [[1707年]] - [[イングランド王国|イングランド]]と[[スコットランド王国|スコットランド]]が合邦し、[[グレートブリテン王国|グレート・ブリテン連合王国]]が成立。
* [[1776年]] - {{仮リンク|アダム・ヴァイスハオプト|en|Adam Weishaupt}}が秘密結社[[イルミナティ]]を設立。
* [[1786年]] - [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]作曲のオペラ『[[フィガロの結婚]]』が[[ウィーン]]で初演<ref>{{Cite journal|和書|author=後藤丹 |year=2006 |url=https://doi.org/10.34353/jmes.4.0_57 |title=《フィガロの結婚》のカリカチュアとしての《ドン・ジョヴァンニ》 : オペラのスコアに織り込まれたモーツァルトの機知 |journal=音楽表現学 |ISSN=13489038 |publisher=日本音楽表現学会 |volume=4 |pages=57-66 |naid=40019797922 |doi=10.34353/jmes.4.0_57 |CRID=1520853832296291328}}</ref>。
* [[1837年]]([[天保]]8年[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]) - [[大塩平八郎の乱]]: [[大塩平八郎]]が自害。
* [[1840年]] - [[イギリス]]郵政省が世界初の[[切手|郵便切手]]「[[ペニー・ブラック]]」を発行。
* [[1851年]] - [[ロンドン万国博覧会 (1851年)|第1回万国博覧会]]が[[ロンドン]]・[[ハイドパーク]]で開幕。[[10月15日]]まで。
* [[1861年]]([[文久]]元年[[3月22日 (旧暦)|3月22日]]) - [[トーマス・ブレーク・グラバー]]が長崎にグラバー商会を設立。
* [[1862年]] - [[ロンドン万国博覧会 (1862年)|ロンドン万国博覧会]]が開幕。開幕式に日本から[[文久遣欧使節]]一行が出席。
* [[1873年]] - [[ウィーン万国博覧会]]が開幕。[[10月31日]]まで。日本政府が初めて公式に参加。
* [[1877年]] - [[佐野常民]]と[[大給恒]]が[[西南戦争]]負傷者の救護のために博愛社([[日本赤十字社]]の前身)を創設<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1542384 |title=きょうの歴史 5月1日 |access-date=27 Jun 2023 |publisher=[[福井新聞]] |date=1 May 2022}}</ref>。
* [[1886年]] - [[シカゴ]]の労働者が[[8時間労働制]]を求めて[[ストライキ]]。[[メーデー]]の起源<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jtuc-rengo.or.jp/column/column018.html#:~:text=ヨーロッパでは「夏の訪れ,ことに由来します%E3%80%82 |title=「メーデー」とは? |access-date=27 Jun 2023 |publisher=[[日本労働組合総連合会]]}}</ref>。
* [[1890年]] - [[第二インターナショナル]]の決議に基づき、世界各地で「第1回国際メーデー」が開催される。
* [[1893年]] - [[シカゴ万国博覧会 (1893年)|シカゴ万国博覧会]]が開幕。[[10月3日]]まで。
* [[1898年]] - [[米西戦争]]: [[マニラ湾海戦]]。
* [[1911年]] - [[宮ノ越駅|宮ノ越]] - [[木曽福島駅|木曽福島]]が開業し、[[中央本線]]が全通。
* [[1914年]] - 東上鉄道(現・[[東武東上本線|東武東上線]])が開業。
* [[1918年]] - [[三菱財閥|三菱合資会社]]から営業部を分離独立させて[[三菱商事]]を設立。
* [[1923年]] - [[小田急電鉄]]の前身にあたる小田原急行鉄道が設立<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.odakyu.jp/company/about/ |title=会社概要 |access-date=27 Jun 2023 |publisher=[[小田急電鉄株式会社]]}}</ref>。
* [[1925年]] - 産業組合中央会の家庭向け機関誌『[[家の光]]』創刊。
* [[1930年]] - [[冥王星]]が正式に命名される。
* [[1931年]] - [[ニューヨーク]]の[[エンパイア・ステート・ビルディング]]が完成(102階建て、高さ381メートル)。
* 1931年 - [[大阪大学|大阪帝国大学]]設置。
* [[1937年]] - [[北海道]][[美唄市|美唄町]]で大火。372戸が焼失、罹災者1,900名<ref>美唄町で火事、三百四十戸全焼『東京朝日新聞』(昭和12年5月2日夕刊)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p686 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
* [[1939年]] - [[男鹿地震]]。
* [[1940年]] - [[第二次世界大戦]]の激化により、ヘルシンキで実施予定だった[[1940年東京オリンピック|1940年の夏季オリンピック]]の中止が決定。
* [[1941年]] - 3月7日に公布されていた[[帝都高速度交通営団法]]が施行。
* [[1942年]] - 東京横浜電鉄が[[京浜急行電鉄|京浜電鉄]]・[[小田急電鉄]]を吸収合併し[[東京急行電鉄]]が発足([[大東急]])。
* [[1945年]] - [[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の遺書によって前日に[[ドイツ国首相]]に任命された[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]が、[[ゲッベルス家の子どもたち|愛児]]を殺害した後に妻[[マクダ・ゲッベルス|マクダ]]とともに自殺。
* 1945年 - [[藝備銀行 (1920-45年)|芸備銀行]]、[[呉銀行]]、[[備南銀行]]、[[三次銀行]]及び[[広島合同貯蓄銀行]]が合併し、(新)芸備銀行(現:[[広島銀行]])設立。
* [[1946年]] - 日本でメーデーが11年ぶりに復活。50万人が[[宮城前広場]]に参集。
* [[1948年]] - [[海上保安庁]]が発足。
* 1948年 - [[美空ひばり]]がデビュー。
* 1948年 - 米国軍政府布令により「琉球銀行」設立<ref>[https://www.archives.pref.okinawa.jp/news/that_day/7109 あの日 1948年5月1日 米国軍政府布令により「琉球銀行」設立] 沖縄県公文書館</ref>
* [[1951年]] - 全国9電力会社([[北海道電力|北海道]]・[[東北電力|東北]]・[[東京電力|東京]]・[[北陸電力|北陸]]・[[中部電力|中部]]・[[関西電力|関西]]・[[中国電力|中国]]・[[四国電力|四国]]・[[九州電力|九州]])が発足。
* [[1952年]] - [[血のメーデー事件]]。
* 1952年 - [[東北地方]]最初の[[民間放送|民放局]]・仙台放送(ラジオ仙台、現・[[東北放送]])開局。
* [[1954年]] - [[世界基督教統一神霊協会]]が韓国ソウルに設立される。
* [[1956年]] - 新日本窒素(現在の[[チッソ]])水俣工場附属病院が「原因不明の中枢神経疾患多発」と保健所に報告。「[[水俣病]]」の発見。
* [[1960年]] - [[U-2撃墜事件]]。[[ソビエト連邦|ソ連]]が、自国領空内でアメリカ[[U-2 (航空機)|偵察機U-2]]を撃墜。
* 1960年 - 日本初の民放FM局・FM東海(後の[[エフエム東京|TOKYO FM]])が[[東海大学]]によって開局される。
* [[1961年]] - [[キューバ]]の[[フィデル・カストロ|カストロ]]首相が社会主義共和国を宣言。
* [[1963年]] - [[埼玉県]][[狭山市]]で女子高校生が行方不明に、夜半に脅迫状が発見され誘拐事件に発展([[狭山事件]])。
* [[1969年]] - [[サンテレビジョン]]開局。
* [[1971年]] - [[千葉テレビ放送]]開局。
* 1971年 - [[アムトラック]]発足。
* [[1975年]] - [[長崎空港]]が開港。日本初の海上空港。
* [[1976年]] - 休刊していた[[鳥取県]]の地方新聞・[[日本海新聞]]が[[新日本海新聞社]]により復刊。
* [[1982年]] - [[ノックスビル国際博覧会]]が開幕。[[10月31日]]まで。
* [[Image:Minamata_memorial_%281%29.jpg|thumb|150px|[[水俣病]]の発見(1956)。画像は記念碑『水俣メモリアル』]][[1989年]] - [[アメリカ合衆国]][[フロリダ州]][[オーランド]]にある[[ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート]]内に新しい[[テーマパーク]]、[[ディズニー・MGM・スタジオ]]がオープン。
* [[1992年]] - [[国家公務員]]の[[休日#週休二日制|完全週休二日制]]実施。
* [[1994年]] - [[フォーミュラ1|F1]]ドライバーの[[アイルトン・セナ]]が[[1994年サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]決勝で事故死<ref>{{Cite web|和書|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/853055 |title=「生々しい傷が残って…」衝撃の死から1年後、アイルトン・セナから石橋貴明に届いた“約束のヘルメット”「一度も頭を入れたことはありません」 |access-date=27 Jun 2023 |publisher=[[文藝春秋]] |date=1 May 2022 |website=Number Web}}</ref>。
* [[1996年]] - [[TBSホールディングス|東京放送(TBS)]]の[[磯崎洋三]]社長が[[オウム真理教]]による[[TBSビデオ問題|ビデオ問題]]の責任で辞任、後任の社長に[[砂原幸雄]]が就任。
* [[1997年]] - イギリスで[[1997年イギリス総選挙|総選挙]]。[[労働党 (イギリス)|労働党]]が18年ぶりに政権を奪回。
* [[1999年]] - エベレストで1924年に消息を断った英国人登山家[[ジョージ・マロリー]]の遺体が発見される<ref>{{Cite web |url=https://archive.nytimes.com/www.nytimes.com/library/books/112799everest-books.html |title=Finding Mallory Elicits a Flurry of Theories |access-date=27 Jun 2023 |publisher=The New York Times |date=27 Nov 1999}}</ref>。
* [[Image:Francis_Gary_Powers_U2_at_Moscow.jpg|thumb|150x150px|ソ連を偵察していた米軍機が撃墜された[[U-2撃墜事件]](1960)]]1999年 - [[来島海峡大橋]]・[[多々羅大橋]]・[[新尾道大橋]]の完成により、[[本州四国連絡橋|本四連絡橋]]・尾道今治ルート([[西瀬戸自動車道|しまなみ海道]])の全ての橋梁が開通。本四連絡橋の全ルートが完成。
* [[2000年]] - [[豊川市主婦殺人事件]]。17歳少年が主婦殺害。
* 2000年 - 海上保安庁への緊急電話番号[[118番]]がスタート。
* [[2001年]] - [[マイライン]]開始。
* [[2004年]] - [[欧州連合]]に新たに[[欧州連合の拡大|10か国が加盟]]、合計25か国になる。
* 2004年 - 広島総合銀行とせとうち銀行が合併し、[[もみじ銀行]]が誕生。
* [[2005年]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が[[ミサイル]]発射。
* [[2006年]] - [[会社法]]施行。
* [[2010年]] - [[上海国際博覧会]]が開幕。[[10月31日]]まで。
* 2010年 - [[池田銀行]]と[[泉州銀行]]が合併し、[[池田泉州銀行]]が誕生。
* [[2015年]] - [[ミラノ国際博覧会 (2015年)|ミラノ国際博覧会]]がイタリアの[[ミラノ]]近郊で開幕<ref>{{Cite web|和書|date=1 May 2015 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM01H4P_R00C15A5FF2000/ |title=ミラノ万博が開幕 食がテーマ、10月末まで |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=27 Jun 2023}}</ref>。
* [[2017年]] - [[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の超豪華クルーズトレイン、[[TRAIN SUITE 四季島]]が運行を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://financial-field.com/living/entry-214921 |title=「一度は乗ってみたい」豪華三大寝台列車!気になるサービスや料金とは? |access-date=27 Jun 2023 |publisher=Break media Inc. |website=ファイナンシャルフィールド}}</ref>。
* [[2018年]] - 米楽器メーカー、[[ギブソン (楽器メーカー)|ギブソン]]が[[連邦倒産法第11章]]の適用を申請<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/gibson-brands-bankruptcy-idJPKBN1I240Y |title=米ギブソンが破産法申請、中核事業のギター製造などに注力へ |publisher=[[ロイター|REUTERS]] |date=1 May 2018 |accessdate=27 Jun 2023}}</ref>。
* [[2019年]] - [[明仁|天皇明仁]]が前日の4月30日に退位し、皇太子徳仁親王が1日午前0時、[[徳仁|新天皇]]に即位した。[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]]に基づく代替わりで、元号は[[平成]]から[[令和]]に改元。天皇の譲位は202年ぶり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/48101947 |title=新しい天皇陛下が即位「令和」始まる |access-date=27 Jun 2023 |publisher=BBC NEWS JAPAN |date=30 Apr 2019}}</ref>。([[明仁から徳仁への皇位継承]]
<!--
=== 日本の自治体改編 ===
* [[1889年]] - [[東京府]]下[[東京15区|15区]]の区域に[[東京市]]を設置。
* [[1907年]] - [[長野県]][[松本市]]が市制施行。
* [[1919年]] - 長野県[[上田市]]が市制施行。
* [[1929年]] - 青森県[[八戸市]]、京都府[[伏見市]](現 [[京都市]][[伏見区]])が市制施行。
* [[1934年]] - 和歌山県[[海南市]]が市制施行。
* [[1943年]] - 大阪府[[貝塚市]]が市制施行。
* [[1953年]] - 広島県[[因島市]]が市制施行。
* [[1954年]] - 東京都[[昭島市]]、岡山県[[高梁市]]、佐賀県[[多久市]]が市制施行。
* [[1956年]] - 和歌山県[[有田市]]が市制施行。
* [[1958年]] - 徳島県[[阿南市]]が市制施行。
* [[1959年]] - 長野県[[篠ノ井市]](現 [[長野市]])が市制施行。
* [[1963年]] - 北海道[[深川市]]、千葉県[[市原市]]が市制施行。
* [[1966年]] - 北海道[[富良野市]]が市制施行。
* [[2001年]] - 埼玉県[[浦和市]]・[[大宮市]]・[[与野市]]が合併し[[さいたま市]]が発足。
* [[2003年]] - 岐阜県[[瑞穂市]]が市制施行。
* [[2005年]] - 鹿児島県[[日置市]]が市制施行。
* [[2019年]] - 兵庫県篠山市が[[丹波篠山市]]に改称。-->
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
[[Image:Rudolf_von_habsburg.png|thumb|100px|初代神聖ローマ皇帝、[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]](1218-1291)誕生]]
[[Image:Hamaguchi_Osachi_1-1.jpg|thumb|180px|第27代日本国内閣総理大臣、[[濱口雄幸]](1870-1931)]]
[[Image:Alfven_Kroyer.jpg|thumb|180px|スウェーデンの作曲家[[ヒューゴ・アルヴェーン]](1872-1903)]]
[[Image:Victor_Starffin.jpg|thumb|180px|日本の[[プロ野球]]初の外国人選手、[[ヴィクトル・スタルヒン]](1916-1957)。画像は1955年に300勝を達成したスタルヒン]]
[[Image:Danielle_Darrieux_Five_Fingers_2.jpg|thumb|180px|女優[[ダニエル・ダリュー]](1917-2017)]]
[[ファイル:Naoki Yoshida at the press conference of Final Fantasy 14 in South Korea, Oct 14, 2014.jpg|サムネイル|ゲームクリエイター[[吉田直樹 (ゲームクリエイター)|吉田直樹]](1973- )|180x180px]]
* [[1218年]] - [[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]<ref>{{Cite web |title=Rudolf I {{!}} Holy Roman Emperor & German King |url=https://www.britannica.com/biography/Rudolf-I-king-of-Germany |access-date=27 Jun 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[ハプスブルク家]]最初の[[神聖ローマ皇帝]](+ [[1291年]])
* [[1238年]] - [[マグヌス6世 (ノルウェー王)|マグヌス6世]]、[[ノルウェー王]](+ [[1280年]])
* [[1672年]] - [[ジョゼフ・アディソン]]、[[詩人]]、[[随筆家]](+ [[1719年]])
* [[1824年]] - [[アレキサンダー・ウィリアムソン]]、[[化学者]](+ [[1904年]])
* [[1825年]] - [[ヨハン・ヤコブ・バルマー]]、[[数学者]]、[[物理学者]](+ [[1898年]])
* [[1850年]] - [[アーサー (コノート公)|アーサー・ウィリアム・パトリック]]、コノート公(+ [[1942年]])
* [[1852年]] - [[サンティアゴ・ラモン・イ・カハール]]、[[神経解剖学|神経解剖学者]](+ [[1934年]])
* [[1856年]] - [[カラミティ・ジェーン]]、女性[[ガンマン|ガンファイター]](+ [[1903年]])
* [[1857年]] - [[テオドルス・ファン・ゴッホ]]、[[画商]](+ [[1891年]])
* [[1870年]]([[明治]]3年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]) - [[濱口雄幸]]、第27代[[内閣総理大臣]](+ [[1931年]])
* 1870年([[明治]]3年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]) - 木村秀蔵<ref>{{Kotobank|木村 秀蔵}}</ref>、[[アース製薬]]創業者(+ [[1945年]])
* [[1872年]] - [[ヒューゴ・アルヴェーン]]、作曲家、[[指揮者]](+ [[1960年]])
* 1872年 - [[シドニオ・パイス]]、[[ポルトガルの大統領|ポルトガル大統領]](+ [[1918年]])
* [[1873年]] - [[コンスタンチン・イグームノフ]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]]、音楽教師(+ [[1948年]])
* [[1876年]] - [[大角岑生]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]軍人(+ [[1941年]])
* [[1881年]] - [[ピエール・テイヤール・ド・シャルダン]]、[[古生物学|古生物学者]]、[[思想家]](+ [[1955年]])
* [[1892年]] - [[田口運蔵]]、[[社会主義]]運動家(+ [[1933年]])
* [[1895年]] - [[ニコライ・エジョフ]]、[[政治家]]、[[ソビエト連邦|ソ連]][[内務人民委員]](+ [[1940年]])
* [[1896年]] - [[玉川勝太郎|玉川勝太郎(2代目)]]、[[浪曲師]](+ [[1969年]])
* [[1899年]] - [[藤島亥治郎]]、[[建築史家]](+ [[2002年]])
* 1899年 - [[ヨン・レイフス]]、作曲家(+ [[1968年]])
* [[1902年]] - [[黒沼健]]<ref>{{Kotobank|黒沼 健}}</ref>、[[推理作家]](+ [[1985年]])
* [[1903年]] - [[橋本五郎 (小説家)|橋本五郎]]、推理作家(+ [[1948年]])
* 1903年 - [[鹿地亘]]、[[作家]]、[[評論家]](+ [[1982年]])
* [[1904年]] - [[貝塚茂樹]]、[[中国文学者]](+ [[1987年]])
* [[1905年]] - [[大久保康雄]]、[[翻訳家]](+ 1987年)
* [[1906年]] - [[須田剋太]]、[[画家]](+ [[1990年]])
* [[1911年]] - [[内田繁三]]、[[調教師]](+ 没年不詳)
* 1911年 - [[鈴木力衛]]、[[フランス文学者]](+ [[1973年]])
* 1911年 - [[アンソニー・サレルノ]]、[[マフィア]]の指導者(+ [[1992年]])
* [[1912年]] - [[オットー・クレッチマー]]、[[ドイツ海軍]]軍人(+ [[1998年]])
* [[1913年]] - [[佐藤一郎 (政治家)|佐藤一郎]]、政治家(+ [[1993年]])
* [[1915年]] - [[アーチー・ウィリアムズ]]、[[陸上競技選手一覧|陸上競技選手]](+ 1993年)
* 1915年 - [[長田正松]]、[[実業家]]、[[政治運動家]]([[日本愛酢党]][[党首]])(+ [[2003年]])
* [[1916年]] - [[ヴィクトル・スタルヒン]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1957年]])
* 1916年 - [[グレン・フォード]]、[[俳優]](+ [[2006年]])
* 1916年 - [[一色次郎]]、[[小説家]](+ [[1988年]])
* [[1917年]] - [[ダニエル・ダリュー]]、[[俳優|女優]](+ [[2017年]])
* [[1918年]] - [[酒沢成治]]、元プロ野球選手(+ [[2002年]])
* [[1919年]] - [[宗左近]]、詩人、評論家、[[フランス文学者]](+ [[2006年]])
* 1919年 - [[小島直記]]、小説家(+ [[2008年]])
* [[1920年]] - [[草間時彦]]、[[俳人]](+ [[2003年]])
* [[1921年]] - [[一言多十]]、元プロ野球選手(+ [[2010年]])
* 1921年 - [[吉田光邦]]、[[科学史家]](+ [[1991年]])
* [[1922年]] - [[林厳雄]]、[[物理学者]](+ [[2005年]])
* [[1923年]] - [[ジョセフ・ヘラー]]、小説家、[[劇作家]](+ [[1999年]])
* [[1924年]] - [[グレゴイール・カイバンダ]]、政治家、初代[[ルワンダの大統領一覧|ルワンダ大統領]](+ [[1976年]])
* 1924年 - [[テリー・サザーン]]、作家、[[脚本家]](+ [[1995年]])
* [[1925年]] - [[大道寺小三郎]]、[[実業家]](+ [[2005年]])
* [[1926年]] - [[ピーター・ラックス]]、[[数学者]]
* 1926年 - [[大平茂]]、元プロ野球選手
* [[1927年]] - [[北杜夫]]、小説家(+ [[2011年]])
* 1927年 - [[吉村昭]]、小説家(+ [[2006年]])
* 1927年 - [[ガリー・ベルティーニ]]、[[指揮者]](+ [[2005年]])
* [[1929年]] - [[ラルフ・ダーレンドルフ]]、[[社会学者]]、政治家(+ [[2009年]])
* [[1930年]] - [[リトル・ウォルター]]、[[ハーモニカ]][[演奏者|奏者]](+ [[1968年]])
* 1930年 - [[スタン・パリス]]、元プロ野球選手(+ [[2021年]])
* 1930年 - [[ノラ・グルムリーコヴァー]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[2004年]])
* [[1931年]] - [[あずさ欣平]]、[[声優]]、[[演出家]](+ [[1997年]])
* 1931年 - [[杉田郁子]]、声優(+ [[2009年]])
* [[1932年]] - [[山内一弘]]、元プロ野球選手、[[プロ野球監督]](+ [[2009年]])
* [[1933年]] - [[沖山光利]]、元プロ野球選手(+ [[2012年]])
* 1933年 - [[葉山峻]]、政治家(+ [[2010年]])
* 1933年 - [[長尾立子]]、政治家
* [[1934年]] - [[権藤正利]]、元プロ野球選手
* 1934年 - [[カーバー・ミード]]、[[計算機科学]]者
* 1934年 - [[西川長夫]]、[[文学者]]、社会学者(+ [[2013年]])
* [[1938年]] - [[赤池彰敏]]、元プロ野球選手
* [[1939年]] - [[本間勝]]、元プロ野球選手
* [[1941年]] - [[武部勤]]、政治家
* [[1942年]] - [[金本秀夫]]、元プロ野球選手
* [[1945年]] - [[阿木燿子]]、[[作詞家]]
* 1945年 - [[リタ・クーリッジ]]、[[歌手]]
* [[1946年]] - [[ジョン・ウー]]、[[映画監督]]
* 1946年 - [[池田重喜]]、元プロ野球選手
* [[1947年]] - [[本村凌二]]、[[歴史学者]]
* 1947年 - [[サムソン・クツワダ]]、[[プロレスラー]](+ [[2004年]])
* 1947年 - [[ヤコブ・ベッケンシュタイン]]、物理学者
* [[1949年]] - [[関本四十四]]、元プロ野球選手
* [[1950年]] - [[楊潔篪]]、政治家、外交官
* 1950年 - [[小西まち子]]、元女優
* [[1951年]] - [[東祥三]]、政治家
* 1951年 - [[ジェフ・リース]]、[[レーシングドライバー]]
* [[1952年]] - [[川本治]]、[[サッカー選手一覧|サッカー選手]]、指導者
* [[1953年]] - [[青木まゆみ]]、[[競泳]]選手
* 1953年 - [[内田直哉]]、声優
* 1953年 - [[副島隆彦]]、評論家
* 1953年 - [[前原滋子]]、漫画家
* [[1954年]] - [[レイ・パーカー・ジュニア]]、[[音楽家|ミュージシャン]]
* [[1955年]] - [[渡辺和郎]]、アマチュア天文家
* [[1957年]] - [[大谷幸]]、作曲家
* [[1958年]] - [[渡田均]]、[[プロ野球審判員]](+ [[2020年]])
* [[1959年]] - [[川本智徳]]、元プロ野球選手
* [[1960年]] - [[スティーブ・コーゼン]]、[[騎手]]
* [[1963年]] - [[園川一美]]、元プロ野球選手
* [[1964年]] - [[青井要]]、元プロ野球選手
* 1964年 - [[にわのまこと]]、[[漫画家]]
* 1964年 - [[羽生田忠克]]、元プロ野球選手
* [[1965年]] - [[岩代太郎]]、作曲家
* [[1966年]] - [[松崎秀昭]]、元プロ野球選手
* 1966年 - [[オラフ・トーン]]、元サッカー選手
* [[1967年]] - [[黒須陽一郎]]、元[[野球選手]]
* 1967年 - [[オリバー・ビアホフ]]、元サッカー選手
* 1967年 - [[寺井尚子]]、[[ジャズ]]ヴァイオリニスト
* [[1968年]] - [[雉子牟田明子]]、[[テニス選手一覧 (女子)|テニス選手]]
* 1968年 - [[やまむらはじめ]]、漫画家
* 1968年 - [[ダーシー・レッキー]]、ミュージシャン
* [[1969年]] - [[玉木雄一郎]]、政治家、衆議院議員
* 1969年 - [[吉永幸一郎]]、元プロ野球選手
* 1969年 - [[フィル・ハイアット]]、元プロ野球選手
* 1969年 - [[森山泰行]]、元サッカー選手、指導者
* 1969年 - [[ウェス・アンダーソン]]、映画監督
* [[1971年]] - [[藤本俊彦]]、元プロ野球選手
* [[1973年]] - [[吉田直樹 (ゲームクリエイター)|吉田直樹]]、ゲームクリエイター
* 1973年 - [[津川力]]、元プロ野球選手、[[プロ野球審判員]]
* 1973年 - [[柳家三之助]]、[[落語家]]
* 1973年 - [[一三]]、俳優、[[タレント]]
* 1973年 - [[オリバー・ノイビル]]、サッカー選手
* 1973年 - [[斎藤さと美]]、元重量挙げ選手
* [[1974年]] - [[堀真樹]]、元俳優
* 1974年 - [[スティーブン・ランドルフ]]、元プロ野球選手
* 1974年 - [[鈴木章仁]]、元[[野球選手]]
* [[1975年]] - [[工藤友也]]、元プロ野球選手
* 1975年 - [[ヤポンスキーこばやし画伯]]、[[お笑い芸人]]
* 1975年 - [[本上まなみ]]、女優
* 1975年 - [[萩尾ノブト]]、漫画家
* 1975年 - [[小山田サユリ]]、女優
* [[1976年]] - [[橋本将]]、元プロ野球選手
* 1976年 - [[村岡マサヒロ]]、漫画家
* [[1977年]] - [[ティファニー・スコット]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1977年 - [[松本奉文]]、元プロ野球選手
* [[1978年]] - [[原沙知絵]]、女優
* [[1979年]] - [[片岡龍也]]、[[自動車競技|レーシングドライバー]]
* 1979年 - [[平川忠亮]]、元サッカー選手
* [[1980年]] - [[坂本美雨]]、歌手
* 1980年 - [[小林杏奈]]、元[[アナウンサー]]
* 1980年 - [[牧谷宇佐美]]、元プロ野球選手
* 1980年 - [[市川洋介]]、元俳優
* [[1981年]] - [[林英傑]]、元プロ野球選手
* 1981年 - [[マニー・アコスタ]]、プロ野球選手
* 1981年 - [[レスリー・ホーカー]]、フィギュアスケート選手
* 1981年 - [[アレクサンドル・フレブ]]、サッカー選手
* 1981年 - [[ウェス・ウェルカー]]、[[アメリカンフットボール]]選手
* [[1982年]] - [[トミー・ロブレド]]、テニス選手
* 1982年 - [[柳野玲子]]、タレント
* 1982年 - [[クリスチャン・メンドーサ]]、プロ野球選手
* 1982年 - [[ダリヨ・スルナ]]、元サッカー選手
* 1982年 - [[アントニオ・アルベルト・バストス・ピンパレル|ベト]]、サッカー選手
* [[1983年]] - [[アラン・ベルナール]]、[[水泳選手]]
* 1983年 - [[正面健司]]、元[[ラグビーユニオン|ラグビー]]選手
* [[1984年]] - [[小山慶一郎]]、アイドル、タレント([[NEWS (ジャニーズ)|NEWS]])
* 1984年 - [[前田海嘉]]、元アナウンサー
* [[1985年]] - [[川﨑芽衣子]]、声優
* [[1986年]] - [[黒田祐輔]]、元プロ野球選手
* 1986年 - [[横田一義]]、[[バレーボール選手]]
* 1986年 - [[水城恵利]]、元プロ雀士
* 1986年 - [[井納翔一]]、元プロ野球選手
* 1986年 - [[藤光謙司]]、[[陸上競技選手一覧|陸上競技選手]]
* [[1987年]] - [[イバン・デヘスース・ジュニア]]、プロ野球選手
* 1987年 - [[レオナルド・ボヌッチ]]、サッカー選手
* 1987年 - [[杉山力裕]]、サッカー選手
* 1987年 - [[青山華歩]]、女優
* 1987年 - [[シャハー・ピアー]]、テニス選手
* 1987年 - [[伊藤峻太]]、映画監督
* [[1988年]] - [[星原健太]]、サッカー選手
* 1988年 - [[アヌシュカ・シャルマ]]、女優
* [[1989年]] - [[山田侑磨]]、俳優
* [[1990年]] - [[ディエゴ・コンテント]]、サッカー選手
* 1990年 - [[A.J.ヒメネス]]、元プロ野球選手
* [[1991年]] - [[カリーナ・ジョンソン]]、フィギュアスケート選手
* 1991年 - [[マーカス・ストローマン]]、プロ野球選手
* 1991年 - [[西宮悠介]]、元プロ野球選手
* [[1992年]] - [[吉川友]]、歌手
* 1992年 - [[福田晃斗]]、サッカー選手
* [[1993年]] - [[金澤有希]]、タレント、元アイドル(元[[SUPER☆GiRLS]]、元[[GEM (アイドルグループ)|GEM]]、元[[AKB48]])
* [[1994年]] - [[ワラシ・オリヴェイラ・ドス・サントス]]、サッカー選手
* [[1995年]] - [[岡部真子]]、元[[ファッションモデル]]
* 1995年 - キム・ミヒョン (ミミ)、アイドル([[OH MY GIRL]])
* 1995年 - [[福岡みなみ]]、タレント、グラビアモデル
* [[1997年]] - [[鈴木愛実]]、[[静岡エフエム放送]]アナウンサー
* [[1998年]] - [[橘遥菜]]、ファッションモデル
* 1998年 - [[伊藤綺夏]]、元女優、元[[子役]]
* [[2000年]] - [[:en:Rema_(musician)|レマ]]、[[シンガーソングライター]]
* [[2001年]] - [[Cocomi]]、モデル、フルート奏者
* 生年不明 - [[平澤芽衣]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://youngjump.jp/gravure/2023/2112/2.html |title=平澤芽衣 |access-date=27 Jun 2023 |publisher=[[週刊ヤングジャンプ]]}}</ref>、グラビアアイドル
* 生年不明 - [[カミヤ春佳]]、声優
* 生年不明 - [[新藤涼平]]、声優
* 生年不明 - [[夏吉ゆうこ]]、声優、歌手
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1994年]] - [[サイレンススズカ]]、[[競走馬]](+ [[1998年]])
== 忌日 ==
{{multiple image
| caption1 = [[神聖ローマ皇帝]][[アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト1世]](1255-1308)暗殺
| image1 = Albrecht_Erste_Habsburg.jpg
| width1 = 70
| alt1 = 神聖ローマ皇帝アルブレヒト1世
| image2 = Jyoshoji (Kita, Osaka) oshio.jpg
| width2 = 130
| caption2 = [[大塩平八郎の乱]]、[[大塩平八郎|平八郎]](1793-1837)自決
| alt2 = 大塩平八郎
}}
{{multiple image
| caption1 = 探検家[[デイヴィッド・リヴィングストン]](1813-1873)、[[マラリア]]で没。画像は[[ザンビア]]にある記念碑
| image1 = Livingstone1.jpg
| width1 = 85
| alt1 = 探検家デイヴィッド・リヴィングストン
| image2 = Dvo%C5%99%C3%A1k%27s_funeral026.jpg
| width2 = 115
| caption2 = 作曲家[[アントニン・ドヴォルザーク]](1841-1904)没。画像は5日の葬儀。
| alt2 = 作曲家アントニン・ドヴォルザーク
}}
{{multiple image
| caption1 = [[ナチス・ドイツ]]の宣伝相、[[ヨーゼフ・ゲッベルス]](1897-1945)自殺
| image1 = Bundesarchiv_Bild_102-17049%2C_Joseph_Goebbels_spricht.jpg
| width1 = 70
| alt1 = ナチス・ドイツの宣伝相、ヨーゼフ・ゲッベルス
| image2 = AyrtonSennaMormbiName.jpg
| width2 = 130
| caption2 = F1ドライバー[[アイルトン・セナ]](1960-1994)、[[サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]で事故死
| alt2 = アイルトン・セナ
}}
* [[408年]] - [[アルカディウス]]、東ローマ皇帝(* [[377年]])
* [[780年]]([[宝亀]]11年[[3月22日 (旧暦)|3月22日]]) - [[紀広純]]、[[奈良時代]]の[[公卿]]
* [[1118年]] - [[マティルダ・オブ・スコットランド|マティルダ]]、[[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]]の妃(* [[1180年]]頃)
* [[1308年]] - [[アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト1世]]、[[神聖ローマ皇帝]](* [[1255年]])
* [[1332年]]([[元弘]]2年/[[正慶]]元年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]) - [[南条時光]]、[[日蓮正宗]]総本山[[大石寺]]開基檀那(* [[1259年]])
* [[1539年]] - [[イザベラ・フォン・ポルトゥガル|イザベラ]]、神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の妃(* [[1503年]])
* [[1555年]] - [[マルケルス2世 (ローマ教皇)|マルケルス2世]]、第222代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1501年]])
* [[1557年]]([[弘治 (日本)|弘治]]3年[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]) - [[大内義長]]、[[周防国]]の[[戦国大名]](* [[1532年]]?)
* [[1572年]] - [[ピウス5世 (ローマ教皇)|ピウス5世]]、第225代ローマ教皇(* [[1504年]])
* [[1651年]]([[慶安]]4年[[3月12日 (旧暦)|3月12日]]) - [[狩野山雪]]、[[絵師]](* [[1589年]])
* [[1731年]] - [[ヨハン・ルートヴィヒ・バッハ]]、[[作曲家]](* [[1677年]])
* [[1813年]] - [[ジャン=バティスト・ベシェール]]、軍人(* [[1768年]])
* [[1837年]]([[天保]]8年[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]) - [[大塩平八郎]]、[[儒学者]](* [[1793年]])
* [[1850年]] - [[アンリ・ブランヴィル]]、[[動物学者]]、[[解剖学者]](* [[1777年]])
* [[1859年]] - [[ジョン・ウォーカー (薬剤師)|ジョン・ウォーカー]]、化学者、発明家(* [[1781年]])
* [[1873年]] - [[デイヴィッド・リヴィングストン]]、[[宣教師]]、[[探検家]](* [[1813年]])
* [[1904年]] - [[アントニン・ドヴォルザーク]]、作曲家(* [[1841年]])
* [[1918年]] - [[グローブ・カール・ギルバート]]、[[地質学|地質学者]](* [[1843年]])
* [[1927年]] - [[萬鉄五郎]]、[[画家]](* [[1885年]])
* [[1945年]] - [[ヨーゼフ・ゲッベルス]]、[[ナチス・ドイツ]]宣伝大臣(* [[1893年]])
* [[1951年]] - [[永井隆 (医学博士)|永井隆]]、[[医学|医学者]]、[[随筆家]](* [[1908年]])
* [[1965年]] - [[スパイク・ジョーンズ (音楽)|スパイク・ジョーンズ]]、[[音楽家]]、[[コメディアン]](* [[1911年]])
* [[1968年]] - [[ハロルド・ニコルソン]]、[[外交官]]、作家(* [[1886年]])
* [[1970年]] - [[李垠]]、[[大韓帝国]]皇太子(* [[1897年]])
* 1970年 - [[ラルフ・ハートレー]]、[[電子工学]]研究者(* [[1888年]])
* [[1976年]] - [[アレクサンドロス・パナグリス]]、[[詩人]]、[[政治家]](* [[1939年]])
* [[1978年]] - [[アラム・ハチャトゥリアン]]、作曲家(* [[1903年]])
* [[1979年]] - [[ブロニスワフ・ギンペル]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1911年]])
* [[1981年]] - [[五所平之助]]、[[映画監督]](* [[1902年]])
* [[1982年]] - [[ウィリアム・プリムローズ]]、[[ヴィオリスト]](* [[1904年]])
* [[1988年]] - [[澤田政廣]]、[[彫刻家]](* [[1894年]])
* [[1989年]] - [[アントニオ・ヤニグロ]]、[[チェリスト]]、[[指揮者]](* [[1918年]])
* [[1991年]] - [[チャールズ・エルトン]]、[[動物学者]](* [[1900年]])
* [[1992年]] - [[小池重明]]、アマチュアの将棋指し、真剣師(* [[1947年]])
* [[1993年]] - [[ピエール・ベレゴヴォワ]]、[[フランスの首相|フランス首相]](* [[1925年]])
* [[1994年]] - [[アイルトン・セナ]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー(* [[1960年]])
* [[1997年]] - [[ボー・ヴィーデルベリ]]、映画監督(* [[1930年]])
* [[2004年]] - [[戸川幸夫]]、[[小説家]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](* [[1912年]])
* [[2008年]] - [[アンソニー・マモ|サー・アンソニー・ジョゼフ・マモ]]、マルタ初代大統領 (* [[1909年]])
* [[2014年]] - [[矢田耕司]]、[[声優]](* [[1933年]])
* [[2015年]] - {{仮リンク|グレイス・リー・ホイットニー|en|Grace Lee Whitney}}、[[俳優|女優]](* [[1929年]])
* 2015年 - [[天野正子]]、[[社会学者]](* [[1938年]])
* [[2020年]] - [[マット・キーオ]]、元プロ野球選手(* [[1955年]])
* 2020年 - [[木藤聡子]]、声優(* [[1962年]])
* [[2021年]] - [[江原達怡]]、俳優(* [[1937年]])
* [[2022年]] - [[イビチャ・オシム]]、元サッカー選手、指導者(* [[1941年]])
* 2022年 - [[宮本卓也]]、元サッカー選手(*[[1983年]])
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:1maj medborgare2006.jpg|thumb|180x180px|[[労働者]]の祭典、[[メーデー]]。画像は2006年の[[スウェーデン]]]]
[[Image:Kate Greenaway - May day.jpg|thumb|180x180px|[[ケイト・グリーナウェイ]]『[[メーデー]]』。元来は春を祝う[[古代ローマ]]の[[五月祭]]である]]
* [[メーデー]]({{World}})
* [[八十八夜]]({{JPN}} 2012年)
* [[緑茶]]の日({{JPN}})
*: [[日本茶業中央会]]が制定。八十八夜にちなむものであるが、八十八夜は年によって日が変わるので、[[平年]]は[[5月2日]]、[[閏年]]は5月1日に固定して実施している。
* [[憲法記念日]]({{MHL}})
*: [[1979年]]のこの日に、[[太平洋諸島信託統治領|アメリカによる信託統治]]下のマーシャル諸島で憲法を制定し、自治政府が発足したことを記念。
* すずらんの日
*:[[フランス]]では、この日に日頃お世話になっている人へ[[スズラン]]の花を贈る習慣がある。
* 日本赤十字社創立記念日({{JPN}})
*:[[1877年]]のこの日、[[佐野常民]]らが[[西南戦争]]の負傷者の救護のため、[[日本赤十字社]]の前身である[[博愛社]]を設立した。
* 扇の日({{JPN}})
*:京都扇子団扇商工協同組合が[[1990年]]に制定。『[[源氏物語]]』で女性が[[光源氏]]に[[扇子|扇]]を贈っていることから、「こ(5)い(1)」(恋)の語呂合せで5月1日を記念日とした。
* 水俣病啓発の日({{JPN}})
*:[[1956年]]のこの日に、[[熊本県]][[水俣市]]の保健所へ市内の[[チッソ]]附属病院から「原因不明の奇病」の報告があり、これが[[水俣病]]が広く知られるきっかけとなった。50年目の[[2006年]]に記念日が制定された。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0501|date=Jun 2023}}
* [[1999年]] - モータースポーツ大会「REAL RACING ROOTS'99」(RRR'99)開幕、[[横浜市|横浜]]にて1次予選が開催される。(ゲーム『[[R4 -RIDGE RACER TYPE 4-]]』<ref>ゲーム内のレース開始前より</ref>)
* [[2017年]] - 海洋テーマパーク「LeMU」に7人の男女が閉じこめられる。(ゲーム『[[Ever17 -the out of infinity-]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1933年]] - ワタリ、漫画・アニメ『[[DEATH NOTE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author1=大場つぐみ|authorlink1=大場つぐみ|author2=小畑健|authorlink2=小畑健|year = 2006 |title = DEATH NOTE |volume = 第13巻 |page = 27 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]] |isbn = 978-4-08-874095-9}}</ref>
* 2017年 - [[ちいかわ]]、漫画・アニメ『[[ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ]]』に登場するキャラクター<ref name=":0">{{Twitter status|ngnchiikawa|1366393604655124486}}</ref>
* 2020年 - ハチワレ、漫画・アニメ『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ』に登場するキャラクター<ref name=":0" />
* 生年不明 - えりぴよ、漫画・アニメ『[[推しが武道館いってくれたら死ぬ]]』の主人公<ref>{{Twitter status|oshibudoryu|1520540704262348800}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.comic-ryu.jp/blog/2022/04/eriseitan_project2022/ |title=『推し武道』【えりぴよ生誕プロジェクト2022】開催のお知らせ‼ |access-date=27 Jun 2023 |publisher=COMICリュウ [[徳間書店]] |date=21 Apr 2022}}</ref>
* 生年不明 - 澁谷かのん、アニメ『[[ラブライブ!スーパースター!!]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lovelive-anime.jp/yuigaoka/member/ |title=澁谷かのん |access-date=27 Jun 2023 |publisher=プロジェクトラブライブ!スーパースター!! |work=『ラブライブ!スーパスター!!』}}</ref>
* 生年不明 - [[佐野榮太郎#原付萌奈美|原付萌奈美]]、[[愛知県]][[豊明市]]及び周辺地域のご当地キャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://ads.selfip.com/users/monami/monami_gentsuki.html#top |title=原付萌奈美 |accessdate= 27 Jun 2023 |publisher=原付萌奈美ぷろじぇくと}}</ref>
* 生年不明 - [[カルロス・サンターナ]]、漫画・アニメ『[[キャプテン翼]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=高橋陽一|authorlink=高橋陽一|year = 2003|title = キャプテン翼 3109日全記録|publisher = 集英社 |isbn = 4-08-782789-5|page = 160 }}</ref>
* 生年不明 - カイドウ、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Kaido.html |title=カイドウ |access-date= 27 Jun 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref>
* 生年不明 - カポーティ、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Capote.html |title=カポーティ |access-date= 27 Jun 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref>
* 生年不明 - [[NARUTO -ナルト-の登場人物#秋道チョウジ|秋道チョウジ]]、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|990969173793804288}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|year = 2002 |title = NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK |page = 17 |publisher = [[集英社]] |series = ジャンプ・コミックス |isbn = 4-08-873288-X }}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=[[集英社]]|series=ジャンプ・コミックス|year=2005|page=17|isbn=4-08-873734-2}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・者の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=[[集英社]]|series=ジャンプ・コミックス|year=2008|page=17|isbn=978-4-08-874247-2}}</ref>
* 生年不明 - 土田聡史、漫画・アニメ『[[黒子のバスケ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kurobasanime|1520422593358348288}}</ref>
* 生年不明 - マンダレイ、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group05/05-14/ |title=マンダレイ |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会会 |accessdate= 27 Jun 2023 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - 十倉恵、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|1388148640397643778}}</ref>
* 生年不明 - 犬飼澄晴、漫画・アニメ『ワールドトリガー』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|w_trigger_off|1388147391761682438}}</ref>
* 生年不明 - 百夜ミカエラ、漫画・アニメ『[[終わりのセラフ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|owarino_seraph|858698758393081857}}</ref>
* 生年不明 - 桜一馬、漫画・アニメ『[[貧乏神が!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 西園寺リカ、漫画・アニメ『[[山田くんと7人の魔女]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|yamajo_anime|593803372286717952}}</ref>
* 生年不明 - ユウギリ、漫画・アニメ『[[絶対可憐チルドレン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|zetchil_kousiki|1256111944836059136}}</ref>
*生年不明 - 木幡茜、漫画・アニメ『[[ふらいんぐうぃっち]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|flying_tv|726754623172681728}}</ref>
* 生年不明 - 渡辺末吉延、漫画・アニメ『[[tactics (漫画)|tactics]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 佐田杏里、漫画・アニメ『[[まちカドまぞく]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/anime/machikado/character/chara05.html |title=佐田杏里 |access-date=27 Jun 2023 |publisher=[[伊藤いづも]]・[[芳文社]]/まちカドまぞく 2丁目製作委員会 [[TBSテレビ]] |work=『まちカドまぞく 2丁目』}}</ref>
* 生年不明 - 河原中、漫画・アニメ『[[ディーふらぐ!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 昴宿、漫画・アニメ『[[ふしぎ遊戯]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|fushigiyugi_30|1652689275429982208}}</ref>
* 生年不明 - 福山和春、漫画・アニメ『[[GIRLSブラボー]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 南野まひる、漫画『[[EVE★少女のたまご★]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 乙宮草芽、漫画・アニメ『[[紳士同盟†]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 櫟井唯、漫画・アニメ『[[ゆゆ式]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=三上小又|year=2009|title=ゆゆ式|volume=第1巻|publisher=芳文社|page=2|series=まんがタイムKRコミックス|isbn=978-4-8322-7794-6}}</ref><ref>{{Twitter status|yuyushiki_anime|1255874550249566208}}</ref>
* 生年不明 - キルケ・シュタインホフ、小説・アニメ『[[シュヴァルツェスマーケン]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 玄霧皐月、小説・アニメ『[[空の境界]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 天河舞姫、小説・アニメ『[[クオリディア・コード]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 外川つくし、キャラクターコンテンツ『[[鉄道むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tateishi_ayame|723086080824643584}}</ref>
* 生年不明 - 犬吠埼風、アニメ『[[結城友奈は勇者である]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://yuyuyu.tv/season1/character/#fuu |title=犬吠埼風 |work=TVアニメ『結城友奈は勇者である』 |accessdate=27 Jun 2023 |publisher=Project 2H}}</ref>
* 生年不明 - ハヤテ(東颯)、アニメ『[[ハンドシェイカー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|hs_p_info|1123241480359792641}}</ref>
* 生年不明 - 愛抱夢(神道愛之介)、アニメ『[[SK∞ エスケーエイト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://sk8-project.com/character/detail/?id=7 |title=愛抱夢 |access-date=27 Jun 2023 |publisher=[[ボンズ (アニメ制作会社)|ボンズ]]・[[内海紘子]]/Project SK∞ |work=TVアニメ『SK∞ エスケーエイト』}}</ref>
* 生年不明 - GOTCHIMAN(ゴッチマン)、ゲーム・アニメ『[[たまごっち]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author1=ウィズ|authorlink1=ウィズ (玩具)|author2=バンダイ(監修)|authorlink2=バンダイ|title=テレビ超ひゃっか たまごっち!たまともプロフずかん|publisher=[[小学館]]|year=2011|page=35|isbn=978-4-09-751048-2}}</ref>
* 生年不明 - サツキ、ゲーム『[[クイズマジックアカデミー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://p.eagate.573.jp/game/qma/17/world/detail.html?c=200 |title=サツキ |access-date= 27 Jun 2023 |publisher=[[コナミグループ|KONAMI]] |work=『クイズマジックアカデミー 夢幻の鏡界』}}</ref>
* 生年不明 - 小牧愛佳、ゲーム・アニメ『[[ToHeart2]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aquaplus_jp|1123240598834520071}}</ref>
* 生年不明 - 皐ユリーシア、ゲーム・アニメ『[[ななついろ★ドロップス]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 板垣天使、ゲーム・アニメ『[[真剣で私に恋しなさい!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.minatosoft.com/majikoi-s/chara-angel.html |title=板垣天使 |access-date= 27 Jun 2023 |publisher=[[みなとそふと]] |work=『真剣で私に恋しなさい!S』}}</ref>
* 生年不明 - 武田小十郎、ゲーム・アニメ『真剣で私に恋しなさい!!』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.minatosoft.com/majikoi-s/chara-kojurou.html |title=武田小十郎 |access-date= 27 Jun 2023 |publisher=[[みなとそふと]] |work=『真剣で私に恋しさなさい!S』}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#難波笑美|難波笑美]]、ゲーム・アニメ『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20117 |title=難波 笑美(なんば えみ) |access-date= 27 Jun 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 稲葉りんね、ゲーム・アニメ『[[超速変形ジャイロゼッター]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ユカリ、ゲーム・アニメ『[[ディバインゲート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.marv.jp/special/divinegate/chara.html#05 |title=ユカリ |access-date=27 Jun 2023 |publisher=[[ガンホー・オンライン・エンターテイメント|GungHo Online Entertainment,Inc.]]/Divine Gate World Council |work=TVアニメ『ディバインゲート』}}</ref>
* 生年不明 - 鹿込オト、ゲーム・映画『[[Tokyo 7th シスターズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://t7s.jp/character/chara/52.html |title=鹿込オト |work=『Tokyo 7th シスターズ』 |accessdate=27 Jun 2023 |publisher=[[DONUTS (企業)|DONUTS]]}}</ref>
* 生年不明 - 不知火ハヅキ、ゲーム・アニメ『[[スクールガールストライカーズ|スクールガールストライカーズ2]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[スクウェア・エニックス|SQUARE ENIX]] |url=http://schoolgirlstrikers.jp/member/hazuki.html |title=不知火 ハヅキ CV:冨岡 美沙子 |work=『スクールガールストライカーズ2』 |accessdate= 27 Jun 2023}}</ref>
* 生年不明 - 榛名宗太郎、ゲーム・アニメ『[[DYNAMIC CHORD]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|dynamicchord|991151811087118336}}</ref>
* 生年不明 - リョウマ、ゲーム『[[ファイアーエムブレムif]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |title=ファイアーエムブレム if ファイナルパーフェクトガイド |publisher=[[KADOKAWA]] |year=2015 |pages=36,228 |isbn=978-4-04-869406-3}}</ref>
* 生年不明 - サイレンススズカ、ゲーム・アニメ『[[ウマ娘 プリティーダービー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://umamusume.jp/character/detail/?name=silencesuzuka |title=サイレンススズカ |publisher=[[Cygames]] |accessdate= 27 Jun 2023 |work=『ウマ娘 プリティーダービー』}}</ref>
* 生年不明 - 竜王更紗、メディアミックス『[[音楽少女]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://ongaku-shoujo.jp/#character |title=CHARACTER 竜王 更紗 |access-date=27 Jun 2023 |publisher=音楽少女製作委員会 |work=TVアニメ『音楽少女』}}</ref>
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
{{Commons&cat|May 1|1 May}}
{{新暦365日|4|30|5|2|[[4月1日]]|[[6月1日]]|[[5月1日 (旧暦)|5月1日]]|0501|5|01}}
{{1年の月と日}} | 2003-02-19T13:03:13Z | 2023-12-27T13:16:56Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/5%E6%9C%881%E6%97%A5 |
2,408 | 135 (バンド) | 135(いち・さん・ご)は、梶原茂人(ボーカル、アコースティック・ギター)、高木茂治(ボーカル、キーボード、ベース)、本田義博(ボーカル、パーカッション)によるバンド。アミューズに所属していた。
代表曲は『我愛你(ウォーアイニー)』。オリエンタルな楽曲とコーラスワークが特徴(この作品はマレーシアの歌手・巫啓賢によって北京語でカバー。テレサ・テンもカバーしており、2015年10月21日リリースのアルバム『ラブ & ポップス』に収録)。
1986年5月21日、シングル『0%麗人』でRVC株式会社(現・アリオラジャパン)よりメジャー・デビュー。
2003年3月、高木・本田脱退。所属メンバーは梶原のみ。梶原のソロユニットとしてシングル「境界線」を発表後は135名義での楽曲制作は確認されていない。
「境界線」の発売元だったインディーズレーベル「G-WAVE Factory」の公式サイトには一時期「135として2004年まで活動」との記載があり(その後レーベルを離れたことでHPの記載自体が削除)、以降135の解散・活動停止について明言されていないが、2020年9月16日にリリースされた梶原のソロアルバム『All Rise』に収録されている135『我愛你』のセルフカバーに本田が参加するなど、メンバー同士の交流は続いている。また『All Rise』のリリース同日、135の旧譜5作品(『135 +4』、『MIZ-INCO.』、『オーダーメイド』、『IV-fortune- + Pentangle』『moment +2』、いずれもリマスター版)のダウンロードおよびサブスクリプション配信が開始された。
バンド名の由来は、日本の標準子午線東経135度にちなんでいる。旧グループ名はWEST WOOD(ウェスト・ウッド)。当初はウェスト・コースト的な音楽を目指しており、そのためにロサンゼルスに行ったが、そこで日本人としての自覚を持ったことから帰国後に135と改名。高木はWEST WOOD時代は高木十喜男と名乗っていた。
当初、ローマ字表記は「ITI SAN GO」としていたが、「我愛你'97〜the Brand-new Dawn in Hong Kong〜」をリリースして以降は「ICHI SAN GO」とした。
「0%麗人」と「我愛你」のシングル版とアルバム版はバージョンが異なる。シングルバージョンは長らく135のアルバムには収録されていなかったが、2015年6月1日リリース『「135+4』にボーナス・トラックとして収録。「奈落へ」もボーナス・トラックとして収録(ミニ・アルバム『Pentangle』収録版とバージョンが異なる)。
アルバム『COVERS SPECIAL』は洋楽のカバーアルバム。収録曲は、「ホテル・カリフォルニア」「ユア・オンリー・ロンリー」「ジス・マジック・モーメント」「テイク・イット・トゥ・ザ・リミット」「カリフォルニアの青い空(原題はIT NEVER RAINS IN SOUTHERN CALIFORNIA)」「ダンス・ウィズ・ミー」「テイク・ミー・ホーム・カントリー・ロード」「リッスン・トゥ・ザ・ミュージック」「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」「カサブランカ」「デスペラード」。「カリフォルニア~~」「リッスン・トゥ~~」「デスペラード」の3曲を除き日本語歌詞による。
メンバーの本田義博は、2002年3月27日に「本田義博 from 135 -ICHI SAN GO-」として、「アイ ノ チカラ(ノの前後にスペースが入る。また、チカラの上に傍点が入るのが正しい)」でソロデビューした。
高校野球応援歌として全国大会常連校の智辯学園高校(奈良県)が現在に至るまで長年「夢未来」を定番の1曲として使用。楽曲名は前述のように「夢未来」だが、高校野球ファンの間では「天舞」と認識されていることが大半である。 | [
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] | 135(いち・さん・ご)は、梶原茂人(ボーカル、アコースティック・ギター)、高木茂治(ボーカル、キーボード、ベース)、本田義博(ボーカル、パーカッション)によるバンド。アミューズに所属していた。 代表曲は『我愛你(ウォーアイニー)』。オリエンタルな楽曲とコーラスワークが特徴。 | {{出典の明記|date=2014-12-22}}
'''135'''(いち・さん・ご)は、'''梶原茂人'''([[ボーカル]]、[[アコースティック・ギター]])、'''高木茂治'''(ボーカル、[[キーボード (楽器)|キーボード]]、[[ベース (弦楽器)|ベース]])、'''本田義博'''(ボーカル、[[パーカッション]])による[[バンド (音楽)|バンド]]<ref>アルバム『THE BRAND-NEW DAWN』のブックレットによる。なお、高木茂治は『135 IV--Fortune--』『天舞』『AI YAI YAI』『COVERS SPECIAL』『Eternity』ではマンドリンも、本田義博は『オーダーメイド』『135 IV--Fortune--』『天舞』『AI YAI YAI』ではキーボード、『COVERS SPECIAL』ではアコースティックピアノも担当した。</ref>。[[アミューズ]]に所属していた。
代表曲は『我愛你(ウォーアイニー)』。オリエンタルな楽曲とコーラスワークが特徴(この作品はマレーシアの歌手・[[巫啓賢]]によって北京語でカバー。[[テレサ・テン]]もカバーしており、2015年10月21日リリースのアルバム『ラブ & ポップス』に収録)。
== 略歴 ==
1986年5月21日、シングル『0%麗人』で[[BMG JAPAN|RVC株式会社]](現・[[アリオラジャパン]])より[[メジャー・デビュー (音楽家)|メジャー・デビュー]]。
2003年3月、高木・本田脱退。所属メンバーは梶原のみ。梶原のソロユニットとしてシングル「境界線」を発表後は135名義での楽曲制作は確認されていない。
「境界線」の発売元だったインディーズレーベル「G-WAVE Factory」の公式サイトには一時期「135として2004年まで活動」との記載があり(その後レーベルを離れたことでHPの記載自体が削除)、以降135の解散・活動停止について明言されていないが、2020年9月16日にリリースされた梶原のソロアルバム『All Rise』に収録されている135『我愛你』のセルフカバーに本田が参加する<ref>https://www.sonymusicshop.jp/m/item/itemShw.php?site=S&ima=0518&dS2SPH=1&cd=FMIP000000013</ref>など、メンバー同士の交流は続いている。また『All Rise』のリリース同日、135の旧譜5作品(『135 +4』、『MIZ-INCO.』、『オーダーメイド』、『IV-fortune- + Pentangle』『moment +2』、いずれもリマスター版)のダウンロードおよびサブスクリプション配信が開始された<ref>https://ameblo.jp/shigeto135/entry-12625294348.html</ref>。
== エピソード ==
バンド名の由来は、日本の標準[[子午線]]東経135度にちなんでいる。旧グループ名は'''WEST WOOD'''(ウェスト・ウッド)。当初は[[ウェスト・コースト]]的な音楽を目指しており、そのためにロサンゼルスに行ったが、そこで日本人としての自覚を持ったことから帰国後に135と改名。高木はWEST WOOD時代は高木十喜男と名乗っていた。
== ディスコグラフィー ==
=== アルバム ===
#「135」(1987年2月21日)
#「MIZ-INCO.」(1988年3月5日)
#「オーダーメイド」(1991年2月21日) - 収録曲「Will〜オーダーメイド」 [[横浜ゴム]][[スタッドレスタイヤ]] ガーデックス300IIスペシャル CM曲
#「135 IV--Fortune--」(1991年11月21日)
#「Pentangle」(1992年5月21日)
#「天舞」(1992年12月16日) - [[SEGA]]天舞MEGA-CDスペシャル([[ウルフ・チーム]])サウンドトラック
#「moment」(1993年1月21日)
#「AI YAI YAI」(1994年12月1日)
#「THE BRAND-NEW DAWN」(1997年8月21日) - 収録曲「CLOSING TIME」 アートランド FULL<math>^2</math> クロージングテーマ
#「COVERS SPECIAL」(1998年2月4日)
#「inside」(1998年7月23日)
#「Eternity」(2000年2月19日)
#「135+4」(2015年6月1日) - [[ボーナス・トラック]]4曲追加[[マスタリング|リマスター]]盤
#「MIZ-INCO.」(2015年7月27日) - リマスター盤
#「オーダーメイド」(2015年11月5日) - リマスター盤
#「IV-fortune- + Pentangle」(2016年3月3日) - リマスター盤
#「moment +2」(2016年5月30日) - ボーナス・トラック2曲追加リマスター盤
=== シングル ===
#「0%麗人」(1986年5月21日) - [[宝酒造]]・[[紹興酒]]CM曲
#「我愛你(ウォーアイニー)」(1987年2月1日) - [[日本ビクター]]・ロボットコンポCM曲
#「湾岸Night」(1987年4月21日) - テレビ朝日系・[[富田靖子]]主演ドラマ「[[痛快!婦警候補生やるっきゃないモン!]]」エンディングテーマ
#「砂上の伝説」(1988年2月21日) - テレビ朝日系「謎の砂漠タクラマカン」テーマ曲
#「Even」(1991年5月3日)
#「[[キャッチ〜次の夏が来るように〜|Catch〜次の夏が来るように〜]]」(1993年8月21日) - NHK[[みんなのうた]]1993年8月・9月
#「雨色の街から」(1994年7月21日) - TBS系「[[たけし・所のドラキュラが狙ってる]]」オープニングテーマ
#「Flowin'〜君に愛を誓いたい〜」(1994年11月21日)
#「我愛你'97〜the Brand-new Dawn in Hong Kong〜」(1997年5月8日)
#「星港愛(シンガポール・ラブ)」(1997年10月22日)
#「君から脱いで」(1998年5月21日)
#「ON THE WAY TO」(1998年11月21日) - マルチパチンコスペース コスモ/アパルダー/ユニバーサル 1999イメージソング
#「ACCESS」(2000年7月20日)
#「KITAI ST.(期待通り)」(2001年10月24日)
#「100万ビートLOVE」(2002年2月27日)
#「天風の唄」(2002年9月25日)
#「境界線」(2003年3月26日)
== その他 ==
=== 楽曲提供 ===
*「ディストピア西遊記」(S.E.T)
**[[三宅裕司]]主宰の劇団S.E.T([[劇団スーパー・エキセントリック・シアター]])の公演において、劇中の音楽を担当。西遊記テイストの世界観がオリエンタルな楽曲で構成された。サウンドトラックCDは劇団で発売。ミニ・アルバム『Pentangle』収録「奈落へ」は、このアルバムにおいて初収録。
* [[前川清]]
** 明日に(1999年7月23日発売) - 作詞・作曲(梶原茂人)、原曲はアルバム『Eternity』収録の「明日に君がいるだけで」。
* [[島津亜矢]]
** 風の祭(2007年10月17日発売) - 作曲(梶原茂人)、アルバム『鏡花水月』に収録。後に梶原のソロアルバム『All Rise』(2020年9月16日発売)にセルフカバー版が収録された。
=== 歌唱 ===
* 「[[若い力 (セガ)|若い力]]」([[セガ]][[社歌]])
: 歌唱のみ担当で、作詞・作曲には関与していない。
== トリビア ==
当初、ローマ字表記は「ITI SAN GO」としていたが、「我愛你'97〜the Brand-new Dawn in Hong Kong〜」をリリースして以降は「ICHI SAN GO」とした。
「0%麗人」と「我愛你」のシングル版とアルバム版はバージョンが異なる。シングルバージョンは長らく135のアルバムには収録されていなかったが、2015年6月1日リリース『「135+4』にボーナス・トラックとして収録。「奈落へ」もボーナス・トラックとして収録(ミニ・アルバム『Pentangle』収録版とバージョンが異なる)。
アルバム『COVERS SPECIAL』は洋楽のカバーアルバム。収録曲は、「ホテル・カリフォルニア」「ユア・オンリー・ロンリー」「ジス・マジック・モーメント」「テイク・イット・トゥ・ザ・リミット」「カリフォルニアの青い空(原題はIT NEVER RAINS IN SOUTHERN CALIFORNIA)」「ダンス・ウィズ・ミー」「テイク・ミー・ホーム・カントリー・ロード」「リッスン・トゥ・ザ・ミュージック」「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」「カサブランカ」「デスペラード」。「カリフォルニア~~」「リッスン・トゥ~~」「デスペラード」の3曲を除き日本語歌詞による。
メンバーの本田義博は、2002年3月27日に「本田義博 from 135 -ICHI SAN GO-」として、「アイ ノ チカラ(ノの前後にスペースが入る。また、チカラの上に傍点が入るのが正しい)」でソロデビューした。
高校野球応援歌として全国大会常連校の[[智辯学園中学校・高等学校|智辯学園高校]]([[奈良県]])が現在に至るまで長年「夢未来」を定番の1曲として使用。楽曲名は前述のように「夢未来」だが、高校野球ファンの間では「天舞」と認識されていることが大半である<ref>『天舞』は「夢未来」の楽曲が入ったアルバム名である。</ref><ref>[https://ameblo.jp/shigeto135/entry-12146782218.html 夢未来]</ref><ref>[https://ameblo.jp/shigeto135/entry-12150011408.html 夢未来⇨天舞]</ref>。
== 外部リンク ==
* [http://sound135.web.fc2.com/ 135 Official Home Page ICHI SAN GO]
* [https://ameblo.jp/shigeto135/ 梶原茂人 オフィシャルブログ]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===出典===
{{Reflist}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:いちさんこ}}
[[Category:日本の音楽バンド]]
[[Category:アリオラジャパンのアーティスト]]
[[Category:3人組の音楽グループ]]
[[Category:過去のアミューズ所属者]]
[[Category:1986年に結成した音楽グループ]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/135_(%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89) |
2,409 | 127 | 127(百二十七、ひゃくにじゅうしち、ひゃくにじゅうなな)は自然数、また整数において、126の次で128の前の数である。 | [
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'''127'''('''百二十七'''、ひゃくにじゅうしち、ひゃくにじゅうなな)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[126]]の次で[[128]]の前の数である。
== 性質 ==
* 127は31番目の[[素数]]であり、1つ前は[[113]]、次は[[131]]。
**[[約数の和]]は[[128]]。
***約数の和が[[2の累乗数]]になる6番目の数である。1つ前は[[93]]、次は[[217]]。
* 127 = 127 + 0 × ''i'' (''i''は[[虚数単位]])
** a + 0 × ''i'' (a > 0) で表される16番目の[[ガウス整数#ガウス素数|ガウス素数]]である。1つ前は[[107]]、次は131。
* 127 = [[2]]<sup>7</sup> − [[1]]
** 7番目の[[メルセンヌ数]]である。1つ前は[[63]]、次は[[255]]。
***4番目の[[メルセンヌ数|メルセンヌ素数]]である。1つ前は[[31]]、次は[[8191]]。
**** [[完全数]][[8128]]の約数である。1つ前は[[64]]、次は[[254]]。({{OEIS|A133024}})
*****完全数の約数とみたとき16番目の数である。1つ前は[[124]]、次は[[128]]。({{OEIS|A096360}})
*** 127 = 2<sup>0</sup> + 2<sup>1</sup> + 2<sup>2</sup> + 2<sup>3</sup> + 2<sup>4</sup> + 2<sup>5</sup> + 2<sup>6</sup>
**** ''n'' = 2 のときの ''n''{{sup|6}} + ''n''{{sup|5}} + ''n''{{sup|4}} + ''n''{{sup|3}} + ''n''{{sup|2}} + ''n''{{sup|1}} + ''n''{{sup|0}} の値とみたとき1つ前は[[7]]、次は1093。({{OEIS|A053716}})
***** ''n''{{sup|6}} + ''n''{{sup|5}} + ''n''{{sup|4}} + ''n''{{sup|3}} + ''n''{{sup|2}} + ''n''{{sup|1}} + ''n''{{sup|0}} の形の2番目の素数である。1つ前は[[7]]、次は1093。({{OEIS|A088550}})
***メルセンヌ数 2<sup>''n''</sup> − 1 は 1(=2<sup>0</sup>)から 2<sup>''n''−1</sup> までの[[2の累乗数]]の[[総和]]に等しい。
** 5番目の[[フリードマン数]]である。1つ前は[[126]]、次は[[128]]。また 127 = − 1 + 2<sup>7</sup>であり、最小の[[ナイスフリードマン数]]。次は[[343]]。
***素数のフリードマン数としては最小の数である。次は[[347]]。
*** 2通り以上の方式で表せる最小のフリードマン数である。次は[[1296]]。
* 127 = 5{{sup|3}} + 2
** 5{{sup|''n''}} + 2 の形の3番目の素数である。1つ前は[[7]]、次は762939453127。({{OEIS|A182330}})
* ''p'' = 127 のときの 2{{sup|''p''}} − 1 で表される 2<sup>127</sup> − 1 は12番目の[[メルセンヌ素数]]である。1つ前は[[107]]、次は[[521]]。<br> 2<sup>127</sup> − 1 = [[170141183460469231731687303715884105727]]
** これは手計算によって求められた最大の素数である。発見者は[[エドゥアール・リュカ|リュカ]]([[1876年]])。
* 11番目の[[スーパー素数]]である。1つ前は[[109]]、次は[[157]]。
* 2番目の[[モツキン数|モツキン素数]]である。1つ前は[[2]]、次は15511。({{OEIS|A092832}})
* 12…27 の形の最小の素数である。次は12227。ただし挟まれた数は無くてもいいとすると最小は[[17]]。({{OEIS|A102010}})
* 末尾の2桁が27の最小の素数である。次は[[227]]。({{OEIS|A268860}})
* 素数と前の素数[[113]]の間隔(14)が以前の数よりも大きくなる6番目の素数である。1つ前は[[89]]-[[97]](間隔は8)、次は[[523]]-[[541]](間隔は18)。({{OEIS2C|A002386}}-{{OEIS2C|A000101}})
* 127 = 5{{sup|3}} + 2
** ''n'' = 3 のときの 5{{sup|''n''}} + 2 の値とみたとき1つ前は[[27]]、次は[[627]]。({{OEIS|A242328}})
*** 5{{sup|''n''}} + 2 の形の3番目の素数である。1つ前は[[7]]、次は762939453127。({{OEIS|A182330}})
** 127 = 1{{sup|3}} + 1{{sup|3}} + 5{{sup|3}}
*** 3つの[[正の数]]の[[立方数]]の和1通りで表せる17番目の数である。1つ前は[[118]]、次は[[129]]。({{OEIS|A025395}})
*** 3つの[[正の数]]の[[立方数]]の和で表せる6番目の[[素数]]である。1つ前は[[73]]、次は[[179]]。({{OEIS|A007490}})
* {{sfrac|1|127}} = 0.<span style="text-decoration:underline;">007874015748031496062992125984251968503937</span>… (下線部は[[循環節]]で長さは42)
**[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が42になる3番目の数である。1つ前は[[98]]、次は[[147]]。
* 127 = [[7]]<sup>3</sup> − [[6]]<sup>3</sup>
** ''n'' = 7 のときの ''n''{{sup|3}} − (''n'' − 1){{sup|3}} の値とみたとき1つ前は[[91]]、次は[[169]]。({{OEIS|A003215}})
** 連続する[[立方数]]の差で表せる5番目の素数である。1つ前は[[61]]、次は[[271]]。
** 127 = 7{{sup|2}} + 7 × 6 + 6{{sup|2}}
***1辺7の[[立方体]]を1辺1の[[立方体]]343個を使って作ったとき、同時に見ることができる1辺1の[[立方体]]は最大127個である。
* 8番目の 8''n'' − 1 型の素数である。この類の素数は ''x''<sup>2</sup> − 2''y''<sup>2</sup> と表せるが、127 = 15<sup>2</sup> − 2 × 7<sup>2</sup> である。1つ前は[[103]]、次は[[151]]。
*約数の和が127になる数は1個ある。([[64]]) 約数の和1個で表せる30番目の数である。1つ前は[[121]]、次は[[133]]。
**約数の和が奇数になる13番目の奇数である。1つ前は[[121]]、次は[[133]]。
* [[1]]~[[12]]までの約数の和である。1つ前は[[99]]、次は[[141]]。
*[[各位の和]]が10になる12番目の数である。1つ前は[[118]]、次は[[136]]。
**各位の和が10になる数で[[素数]]になる5番目の数である。1つ前は[[109]]、次は[[163]]。({{OEIS|A107579}})
*各位の[[平方和]]が54になる最小の数である。次は[[172]]。({{OEIS|A003132}})
** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の53は[[27]]、次の55は1127。({{OEIS|A055016}})
*各位の[[立方和]]が352になる最小の数である。次は[[172]]。({{OEIS|A055012}})
** 各位の立方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の351は[[27]]、次の353は1127。({{OEIS|A165370}})
* 127 = 2 × 8{{sup|2}} − 1
** ''x'' = 8 のときの [[チェビシェフ多項式]]''T''{{sub|2}}(''x'') = 2''x''{{sup|2}} − 1 の値とみたとき1つ前は[[97]]、次は[[161]]。({{OEIS|A056220}})
== その他 127 に関連すること ==
* [[西暦]][[127年]]
* [[神武天皇]]は127歳で死んだと[[日本書紀]]に書かれる
* [[NCT 127]]は[[K-POP]]のアイドルの一つ
* 127フィルムは[[写真フィルム]]の1つ。裏紙付き・パーフォレーションなし・幅4cmのロールフィルム。ベスト判とも言う。→[[写真フィルム]]
* [[JR東日本E127系電車]]
* [[JR西日本キハ127系気動車]]
* 映画[[127時間]]
* 第127代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ステファヌス8世 (ローマ教皇)|ステファヌス8世]](在位:[[939年]][[7月14日]]~[[942年]][[10月]])である。
* [[ヨウ素]]の[[分子量]]はおよそ127である。
== 関連項目 ==
* [[数の一覧]]
* [[名数一覧]]
* [[1月27日]]
* [[12月7日]] | 2003-02-19T13:08:30Z | 2023-11-17T13:21:33Z | false | false | false | [
"Template:OEIS",
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"Template:整数"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/127 |
2,410 | 120 | 120(百二十、百廿、一二〇、ひゃくにじゅう、ももはた)は、自然数また整数において、119の次で121の前の数である。 | [
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] | 120(百二十、百廿、一二〇、ひゃくにじゅう、ももはた)は、自然数また整数において、119の次で121の前の数である。 | {{整数|Decomposition=2<sup>3</sup>×3×5}}
'''120'''('''百二十'''、'''百廿'''、'''一二〇'''、ひゃくにじゅう、ももはた)は、[[自然数]]また[[整数]]において、[[119]]の次で[[121]]の前の数である。
== 性質 ==
* 120は[[合成数]]であり、[[約数]]は [[1]], [[2]], [[3]], [[4]], [[5]], [[6]], [[8]], [[10]], [[12]], [[15]], [[20]], [[24]], [[30]], [[40]], [[60]], 120 である。
** 約数の和は[[360]]。
***28番目の[[過剰数]]である。1つ前は[[114]]、次は[[126]]。
****σ(''n'') ≧ 3''n'' を満たす ''n'' とみたとき最小の数である。次は[[180]]。(ただしσは[[約数関数]]、{{OEIS|A023197}})
*****''k'' = 3 のときの σ(''n'') ≧ ''kn'' を満たす最小の数である。1つ前の2倍は[[6]]、次の4倍は[[27720]]。(ただしσは[[約数関数]]、{{OEIS|A023199}})
***約数の和が元の数の3倍になる。そのような数を[[倍積完全数|3倍完全数]]といい、120は最小の数である、次は[[672]]。
**** 4番目の[[倍積完全数]]である。1つ前は[[28]]、次は[[496]]。
*** 約数の和が初めて[[300]]を超える数である。
****23番目の[[高度過剰数]]である。1つ前は[[108]]、次は[[144]]。
*** ''n''{{sup|2}} ÷ σ(''n'') が整数になる4番目の数である。1つ前は[[28]]、次は[[364]]。(ただしσは[[約数関数]])({{OEIS|A090777}})
***:例.120{{sup|2}} ÷ 360 = 40
** 約数を16個もつ最小の数である。次は[[168]]。
***[[約数]]を ''n'' 個もつ最小の数とみたとき、1つ前の15個は[[144]]、次の17個は[[65536]]。({{OEIS|A005179}})
*** 10番目の[[高度合成数]]である。1つ前は[[60]]、次は[[180]]。
***自分自身のすべての約数の積が自分自身の8乗になる最小の数である。1つ前の7乗は[[192]]、次の9乗は[[180]]。({{OEIS|A003680}})
**約数の積の値がそれ以前の数を上回る21番目の数である。1つ前は[[108]]、次は[[168]]。({{OEIS|A034287}})
* 10までの5つの[[偶数]]([[2]]、[[4]]、[[6]]、[[8]]、[[10]])の最小公倍数である。1つ前の8までは[[24]]、次の12までも120、その次の14までは[[840]]。({{OEIS|A051426}})
* 120 = 1 × 2 × 3 × 4 × 5
** [[階乗|階乗数]](5!)である。1つ前は[[24]]、次は[[720]]。
*** 5連続整数の積で表せる数である。自然数の範囲では最小、次は[[720]]。
** [[素数]] ''p'' = 5 のときの ''p''! とみたとき1つ前は[[6]]、次は[[5040]]。({{OEIS|A039716}})
** ''n'' = 5 のときの 5 × ''n''! の値とみたとき1つ前は[[30]]、次は[[600]]。({{OEIS|A052648}})
** 120 = 4 × 5 × 6
***3連続整数の積で表せる数である。1つ前は[[60]]、次は[[210]]。
***120 = 5{{sup|3}} − 5
*** 120 = {{sfrac|1 × 2 × 3 × 4 × 5 × 6|1 × 2 × 3}}
**** ''n'' = 3 のときの {{sfrac|(2''n'')!|''n''!}} の値とみたとき1つ前は[[12]]、次は[[1680]]。({{OEIS|A001813}})
*** ''n'' = 6 のときの {{sfrac|''n''!|3!}} の値とみたとき1つ前は[[20]]、次は[[840]]。({{OEIS|A001715}})
** 120 = 2 × 3 × 4 × 5
***4連続整数の積で表せる数である。1つ前は[[24]]、次は[[360]]。
** 120 = 3 × 5 × 8
***3連続[[フィボナッチ数]]の積で表せる数である。1つ前は[[30]]、次は[[520]]。
** 120 = 2{{sup|3}} × 3 × 5
***3つの異なる[[素因数]]の積で ''p''{{sup|3}} × ''q'' × ''r'' の形で表せる最小の数である。次は[[168]]。({{OEIS|A189975}})
** 120 = 15 × 2{{sup|3}}
*** ''n'' = 3 のときの 15 × 2{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[60]]、次は[[240]]。({{OEIS|A110286}})
* 120 = 1 + 2 + 3 + 4 + 5 + 6 + 7 + 8 + 9 + 10 + … + 14 + 15
** 15番目の[[三角数]]である。1つ前は[[105]]、次は[[136]]。
*** 三角数において三角数番目で表せる5番目の数である。1つ前は[[55]]、次は[[231]]。({{OEIS|A002817}})
****この数は ''n'' = 5 のときの {{sfrac|''n''(''n'' + 1)(''n''{{sup|2}} + ''n'' + 2)|8}} の値である。
*** [[三角数]]が[[三角錐数]]になる3番目の数である。1つ前は[[10]]、次は[[1540]]。
*** ''n''{{sup|2}} − 1 で表せる3番目の三角数である。1つ前は[[15]]、次は[[528]]。({{OEIS|A006454}})
**** 素数 ''p'' = 11 のときの ''p''{{sup|2}} − 1 で表せる2番目の三角数である。1つ前は[[3]]、次は[[528]]。({{OEIS|A227480}})
***[[三角数]]が[[過剰数]]になる4番目の数である。1つ前は[[78]]、次は[[210]]。({{OEIS|A074315}})
*** [[三角数]]が[[ハーシャッド数]]になる8番目の数である。1つ前は[[45]]、次は[[153]]。
*** 三角数において[[各位の和]]も三角数になる12番目の数である。1つ前は[[105]]、次は[[136]]。({{OEIS|A062099}})
***120 = 15 + 105
****2つの異なる三角数の和で表せる6番目の三角数である。1つ前は[[91]]、次は[[136]]。({{OEIS|A112352}})
*** 120 = 1 + 28 + 91 = 6 + 36 + 78
****3つの異なる[[三角数]]の和で表せる8番目の三角数である。1つ前は[[105]]、次は[[136]]。({{OEIS|A112353}})
** 8番目の[[六角数]]である。1つ前は[[91]]、次は[[153]]。
* 120 = 1 + 3 + 6 + 10 + 15 + 21 + 28 + 36
** 8番目の[[三角錐数]]である。1つ前は[[84]]、次は[[165]]。
** 120 = 2{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 6{{sup|2}} + 8{{sup|2}}
*** 4連続偶数の平方和で表せる数である。1つ前は[[56]]、ただし自然数の範囲では最小、次は[[216]]。
*** 120 = 0{{sup|2}} + 2{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 6{{sup|2}} + 8{{sup|2}}
****5連続偶数の平方和で表せる数である。1つ前は[[60]]、ただし負の数を含まないとき最小、次は[[220]]。
* 41番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[117]]、次は[[126]]。
** 3を基としたとき7番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[111]] 、次は[[201]] 。
*各位の[[立方和]]が[[平方数]]になる15番目の数である。1つ前は[[102]]、次は[[123]]。({{OEIS|A197039}})
*:1{{sup|3}} + 2{{sup|3}} + 0{{sup|3}} = 9 = 3{{sup|2}}
* 120 = 59 + 61
** [[双子素数]]の和で表せる7番目の数である。1つ前は[[84]]、次は[[144]]。
* 4連続[[素数]]の和で表せる数である。1つ前は[[102]]、次は[[138]]。<br>120 = 23 + 29 + 31 + 37
* 120 = 3<sup>1</sup> + 3<sup>2</sup> + 3<sup>3</sup> + 3<sup>4</sup>
** 3の自然数乗の和とみたとき1つ前は[[39]]、次は[[363]]。
** ''a'' = 3 のときの ''a''{{sup|1}} + ''a''{{sup|2}} + ''a''{{sup|3}} + ''a''{{sup|4}} の値とみたとき1つ前は[[30]]、次は[[340]]。
* 120<sup>2</sup> + 1 = 14401 であり、''n''<sup>2</sup> + 1 の形で[[素数]]を生む22番目の数である。1つ前は[[116]]、次は[[124]]。
* [[正三角形]]の[[中心角]]と[[外角]]は120°である。
* 正[[六角形]]の[[内角]]は120°である。
** [[正多角形|正 ''n'' 角形]]において[[内角]]が[[度数法]]で整数になる4番目の角度である。1つ前は[[108]]°、次は[[135]]°。({{OEIS|A110546}})
*[[角度]]では、1周の {{sfrac|1|3}} は120[[度 (角度)|°]]である([[360]]÷3 = 120)。
*cos120° + [[虚数単位|i]] sin120° は[[1の原始冪根|1の虚立方根]]のひとつである。
* [[三角関数]]では sin120° = {{sfrac|√{{overline|3}}|2}} , cos120° = − {{sfrac|1|2}} , tan120° = − √{{overline|3}} 。また 120° = {{sfrac|2π|3}} [[ラジアン|rad]] である。
* {{sfrac|1|120}} = 0.008<span style="text-decoration:underline;">3</span>… (下線部は循環節で長さは1)
**[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が1になる17番目の数である。1つ前は[[96]]、次は[[144]]。({{OEIS|A070021}})
* 120個の立体を持つ[[正多胞体]]は[[正百二十胞体]]である。次に立体の数が少ない正多胞体は[[正六百胞体]]である。
*[[約数]]の和が120になる数は4個ある。([[54]], [[56]], [[87]], [[95]]) [[約数]]の和4個で表せる2番目の数である。1つ前は[[96]]、次は[[180]]。
* 120 = 2<sup>3</sup> × (2<sup>4</sup> − 1)
** ''n'' = 4 のときの 2<sup>''n''−1</sup>(2<sup>''n''</sup> − 1) の値とみたとき1つ前は[[28]]、次は[[496]]。
**この形の数で[[完全数]]にならない2番目の数である。1つ前は[[1]]、次は[[2016]]。({{OEIS|A144858}})
** 120 = [[8]] × σ([[8]]) (ただし σ は[[約数関数]])
*** ''n'' = 8 のときの ''n'' × σ(''n'') の値とみたとき1つ前は[[56]]、次は[[117]]。({{OEIS|A064987}})
* 連続してある数に対して[[約数の和]]を求めていった場合15個の数が120になる。120より小さい数で15個ある数はない。1つ前は[[60]](14個)、次は[[168]](21個)。いいかえると <math>\sigma^m(n)=120~(m\geqq 1)</math> を満たす ''n'' が15個あるということである。(ただし σ は[[約数関数]])({{OEIS|A241954}})
* 120 = 11{{sup|2}} − 1
** ''n'' = 11 のときの ''n''{{sup|2}} − 1 の値とみたとき1つ前は[[99]]、次は[[143]]。({{OEIS|A005563}})
** ''n'' = 2 のときの 11{{sup|''n''}} − 1 の値とみたとき1つ前は[[10]]、次は1330。({{OEIS|A024127}})
*120 = 2{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 10{{sup|2}}
** 3つの[[平方数]]の和1通りで表せる50番目の数である。1つ前は[[116]]、次は[[133]]。({{OEIS|A025321}})
** 異なる3つの[[平方数]]の和1通りで表せる38番目の数である。1つ前は[[118]]、次は[[121]]。({{OEIS|A025339}})
* [[2]] と [[3]] を除く[[素数]]は全て 6''n'' ± 1 の形で表せるが、6''n'' ± 1 の形の素数がない最小の6の倍数である。次は[[144]]。({{OEIS|A259826}})
* [[パスカルの三角形]]([[二項係数]])に6回出現する最小の数である。次は[[210]]。({{OEIS|A098565}})
* ''n'' = 120 のとき ''n'' と ''n'' + 1 を並べた数を作ると[[素数]]になる。''n'' と ''n'' + 1 を並べた数が素数になる18番目の数である。1つ前は[[108]]、次は[[126]]。({{OEIS|A030457}})
* 連続[[整数]]からなる29番目の数である。1つ前は[[102]]、次は[[123]]。({{OEIS|A215014}})
* 120 = 13{{sup|2}} − 49
** ''n'' = 13 のときの ''n''{{sup|2}} − 49 の値とみたとき1つ前は[[95]]、次は[[147]]。({{OEIS|A098848}})
* 120 = 17{{sup|2}} − 169
** ''n'' = 17 のときの ''n''{{sup|2}} − 13{{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[87]]、次は[[155]]。({{OEIS|A132768}})
== その他 120 に関連すること ==
* [[西暦]][[120年]]
* [[120フィルム]]は、[[写真フィルム]]の1つ。裏紙付き・パーフォレーションなし・幅6cmのロールフィルム。
*120周年を[[大還暦]]という。[[還暦]]2回という意味である。
* [[フリーダイヤル]] - '''0120''' で始まる電話番号が多い。
*アニメ『[[宇宙戦艦ヤマト]]』の名台詞「エネルギー充填120%」
*[[チャイナエアライン120便炎上事故]]
*中国の小説『[[三国志演義]]』や『[[水滸伝]]』は全120回からなっている。(120回本)
*[[1月20日]]は[[大寒]]。
*[[年始]]から数えて120日目は[[4月30日]]、[[閏年]]の場合は[[祝日]][[昭和の日]]である[[4月29日]]。
*第120代[[天皇]]は[[仁孝天皇]]である。
*第120代[[教皇|ローマ教皇]]は[[アナスタシウス3世 (ローマ教皇)|アナスタシウス3世]](在位:[[911年]][[6月]]〜[[913年]][[8月]])である。
== 関連項目 ==
* [[数の一覧]]
** [[100]] [[110]] 120 [[130]] [[140]] [[150]] [[160]] [[170]] [[180]] [[190]]
* [[名数一覧]]
* [[1月20日]] | null | 2023-03-28T08:55:56Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/120 |
2,411 | 一眼レフカメラ | 一眼レフカメラ(いちがんレフカメラ、英:Single-lens reflex camera 、SLR)とはスチルカメラの構造による分類のひとつで、撮影に使用するレンズと撮像面(フィルムもしくは固体撮像素子)の間に鏡(ミラー)を置き、実際に撮影されるイメージを光学ファインダーで確認することができるものをいう。 撮影用の光学系とファインダー用の光学系が一系統であるため(一眼)、ファインダーから見える像が撮影される写真の像と一致する。
ドイツ語のシュピーゲル・レフレックス(Spiegel-reflex-kamera 、鏡の反射)という言葉通り、反射鏡を使ってファインダースクリーンに結像させる機構が特徴であり、レフの語源もここにある。
フィルムカメラ、デジタルカメラの両方に存在し、20世紀中盤以降から現在に至るまで、レンズ交換可能なカメラの主流となっている方式である。
なお、一眼レフと異なる構造を持つカメラとしては、二眼レフカメラやレンジファインダーカメラなどが挙げられる。また、ミラーレス一眼カメラはデジタルカメラの一種であり、構造が異なるため、ここでは取り上げない。
利点としては、
欠点としては、
これらの特徴のため、初期の一眼レフカメラはレンジファインダーカメラに不向きな接写用・望遠用といった特殊用途カメラとして使用されることが多かった。
現在はほとんどの機種にペンタプリズム(廉価機種ではペンタミラー)が装着されている(アイレベル)。ただし、これは一眼レフの機構として必須ではなく、初期の頃にはプリズムを持たないウエストレベルファインダーが主流であった。
一眼レフカメラの光学機構の源流は、カメラの前身であるカメラ・オブスクラの時代にさかのぼる。カメラ・オブスクラの中には光路の途中に反射鏡を設置し、レンズの光学軸に対して90度の方向に像を結ばせるようになっていたものがあるのである。
ダゲレオタイプの発明以降のカメラの歴史に限ってみると、一眼レフカメラの最初期のもののひとつは1861年にトーマス・サットン(英語版)によって考案された物だと考えられる。それ以前のカメラは像面にフォーカシングスクリーン(ピントグラス)を取り付けてレンズの操作を行った後、その場所にスクリーンと交換する形で感光材料を設置するものであったが、サットンは光路上に可動式の鏡を取り付けカメラボディ上面のスクリーンに像を結ばせるという工夫をし、これにより撮影直前まで像を見つづけることができるようになった。
初の実用一眼レフカメラとされているのは1885年にカルビン・レイ・スミスが発売した「パテント・モノキュラー・デュプレックス」である。このカメラはミラーをシャッターとして使う構造である。その後1890年代にかけてさまざまな一眼レフカメラが作られた。二眼レフカメラが登場したのもこのころである。
1890年代も終わるころになるとフォーカルプレーンシャッターの登場によって一眼レフカメラの高機能化が加速し、現代に通ずる一眼レフカメラの形式が確立してくる。
これらの一眼レフカメラは写真乾板を用いる木製箱型大型カメラでイギリス、アメリカなどで作られている。このころの代表的機種としては1898年登場の「グラフレックス」などがある。イギリスではジェームズ・F・シウのフォーカルプレーン・レフレクターが1902年に発売されて以来1904年にはマリオンのソホ・レフレックス、A・アダムスのマイネックスやヴァイデックス、ニューマン&ガーディアのスクエア・レフレックス、1908年にホートンのフォールディング・レフレックス、ソロントン・ピッカードのルビー・レフレックスと競合各社が追随した。またドイツを中心としてボディーを折畳式としたフォールディングタイプの一眼レフカメラも多く作られ、実例としてはメントール・カメラファブリーク・ゴルツ&ブロイトマンのメントール・フォールディング・レフレックス、イハゲーのパテント・クラップ・レフレックス、ツァイス・イコンのミロフレックスが挙げられる。
ナチス政権下のドイツにおいて、ドレスデンのイハゲーが1933年に発表し1934年に発売した「スタンダード・エクサクタ」がロールフィルムを用いた近代的一眼レフカメラの最初である。このカメラはバヨネットマウントによるレンズ交換式で、フォーカルプレンシャッターを装備しており、フィルムをレバー巻き上げし、裏蓋を開閉できるなど現代的一眼レフカメラの先鞭をつけた。127フィルムを使用し4×6.5cm判で8枚撮影できた。
35mmフィルムを使用した世界最初の一眼レフカメラはソ連・レニングラードのGOMZ(国立光学器械工場、後のロモ)が1935年に発表し1936年に発売した「スポルト」とされている。2枚の金属板を使い、ミラーアップ時に先幕が閉じ、続いて後幕が縦走行するという、縦走り方式のフォーカルプレーンシャッターを搭載、シャッター速度も最高1/500秒から最低1/25秒まで変えることができ、フィルム送りとシャッターチャージは上部の縦方向のダイヤルにより同時に行われる。バヨネット式の交換レンズ機能を有し、フィルム装填は普通の35mmフィルムを専用カートリッジに移し変えて装填、50枚まで連続して撮影できた。専用カートリッジは自作することもでき、ダークバッグ等で映画用35mmフィルムを最大50駒分切断し、リールに差し込めば容易に撮影できた。反射ミラーによる上部からの一眼レフ式ファインダーのほか標準レンズ用の透視式ファインダーも装備し、約16,000台販売された。
同年の1936年、「スポルト」に続いてイハゲーもスタンダード・エクサクタの基本性能をそのままに小型化し、ライカ判を使用するウエストレベルファインダーの一眼レフカメラ「キネ・エクサクタ」を発売した。この「(バヨネットマウントのライカ判)エクサクタ」シリーズは1950年にファインダー交換式としてペンタプリズム式をもラインナップし1960年代末まで連綿と製造販売され、多数の交換レンズ群をも提供し数多くのバリエーション機種を供した。
以降ほとんどの一眼レフカメラはこの135フィルムを用いたものが大勢を占めるが、高画質を求める用途では120フィルムを用いた6×7cm判や6×4.5cm判の中判一眼レフカメラや、110フィルムを用いたものも登場した。
最初の「正立正像アイレベルファインダーを持つ最初の一眼レフカメラ」「クイックリターンミラーを備える一眼レフカメラ」は1947年か1948年にハンガリーのガンマから発売されたデュフレックスである。どちらも画期的な機構ではあったが、生産数が非常に少数であったことと東西冷戦のため市場には全く影響を与えず、このカメラの存在が日本で認知されたのは1970年になってからである。このカメラは現在一般的であるペンタプリズムを使わずポロミラー式であった。
最初の「ペンタプリズム式一眼レフカメラ」は1948年の東ドイツ・ドレスデンのツァイス・イコンによるコンタックスSであり、デュフレックスより企画段階では先行していた。「コンタックスS」は現在においても最も普及しているスクリューマウント形式であるM42マウントを採用、フランジバック・内寸口径の国際規格を有する卓越したシステムカメラで、無数の世界中の各種交換レンズと互換性を有し、ロールフィルムを用いたペンタプリズム式一眼レフカメラの規範となった。
日本では一眼レフカメラが早くから開発されてきた。これはレンジファインダーカメラの分野ではライカM3など極めて完成度が高いものがすでに存在しており、日本のメーカーがその土俵での勝負を避けて別の方面からのアプローチをしたためだと言われている。
黎明期の一眼レフカメラは「撮影の際にブラックアウトする」「絞り込むとファインダーが暗い」ということが欠点として言われていたが、前者に関しては旭光学工業(現リコーイメージング)が1954年にクイックリターンミラーを装備したアサヒフレックスIIbを、後者に関してはズノー光学工業が1958年に自動絞り機構を装備したズノーペンタフレックスを発売して解決した。1957年には、旭光学工業から世界初のクイックリターンミラーとペンタプリズムを両方搭載したアサヒペンタックスが開発され、特に一眼レフカメラに大きな欠点を感じずに使えるようになった。ズノーペンタフレックスは歴史に名を残したものの故障が多く返品が相次いだと言われるが、1959年ニコンから発売されたニコンFは非常に頑強で、報道の世界からスピードグラフィックとローライフレックスを駆逐する等、業務用としても非常に広く使われた。以後クイックリターンミラー・自動絞りの双方を装備するのが当然となっていった。
広角レンズに関しては当初ミラーアップして装着する対称型レンズのみのラインナップであったが、アンジェニューが発明した逆望遠方式で設計されるようになってからは非常に充実したラインナップを持つようになった。
日本製カメラの攻勢に西ドイツのメーカーもようやく一眼レフカメラの重要性に目覚め、ツァイス・イコンは外部測光式ながら世界初の露出計連動型一眼レフカメラであるコンタレックスを、エルンスト・ライツ(現ライカ)はライカフレックスをやや遅れて登場させたが、登場直後から市場での競争力は不十分であった。結果としてエルンスト・ライツは倒産し、ツァイス・イコンはカメラ事業から撤退した。
ニコンFが業務用として非常に高い地位を得た一方、キヤノンはキヤノンフレックスを発売したもののあまり評価を受けなかったが、1971年にプロ用一眼レフカメラキヤノンF-1を発表した。交換レンズの色再現を揃えたスーパースペクトラコーティングを施し特にグラフィックの分野で高く評価され、以後ニコンF3とキヤノンニューF-1等ライバルとしてしのぎを削りつつ発展して行くこととなる。
1960年代から技術革新が進み、TTL露出計、自動露出、オートフォーカスなどの電子技術が一眼レフカメラに矢継ぎ早に搭載され、さらには低価格化した。これによりアマチュアにも扱いやすいカメラが多く発売され、一眼レフカメラユーザーの裾野を広げる一因となった。
1960年のフォトキナにおいて世界初のTTL露出計搭載一眼レフカメラ、アサヒペンタックスSP(発売は1964年)が発表されたのを皮切りに、1963年には東京光学(現トプコン)が最初のTTL露出計搭載一眼レフカメラトプコンREスーパーを発売、ニコンFも1965年にフォトミックファインダーTを発売するなどTTL露出計が浸透した。1975年にはオリンパス OM-2がフラッシュ光でもTTL露出が可能なTTLダイレクト測光を搭載して発売された。
自動露出自体は以前からあったが、キヤノンが1976年に発売したキヤノンAE-1は世界で初めてCPUを積む等徹底した電子化により低価格で発売、世界中で爆発的な売れ行きを記録しカメラ業界に地殻変動を起こした。
1985年にはミノルタ(現コニカミノルタ)が世界初の実用的なシステムを持つオートフォーカス一眼レフカメラα-7000を発売してカメラ業界全体へ大きな衝撃を与え、αショックと呼ばれるほどであった。ニコンは1986年従前のシステムと互換性のあるオートフォーカス一眼レフカメラニコンF-501を、キヤノンは1987年従前のシステムとは互換性がないもののレンズ内モーターで迅速なピント合わせが可能なEOS650を発売してこれに対抗。さらに同年、世界初の内蔵TTLフラッシュを搭載したペンタックスSFXが発売される。国内で販売される一眼レフカメラのうちオートフォーカスの割合は既に1986年4月末には50%を超えた。
機能を追い求めるうちいつしか「一眼レフカメラは重厚長大で当然」になってしまっていた1973年、ビスを真鍮から鉄製にする等、徹底した小型軽量化をしたオリンパスOM-1が発売され、以後一眼レフカメラの世界でも小型軽量化が進んだ。前述した電子化や、合成樹脂製造技術の進歩もカメラの小型軽量化に寄与した。
1993年にキヤノンが発売したEOS Kissは低価格かつボディの小型軽量化を実現し、主婦などこれまで一眼レフカメラを使ったことのない初心者層の開拓に成功している。他社もこれに追随し、普及版のオートフォーカス一眼レフカメラの小型軽量化が進んだ。
新規格であるAPSフィルムが登場すると、小型化により一層拍車がかかったモデルが各社から発売された。 新規格のフィルムということで各社のモデルもそれまでにない斬新かつ奇抜なものとなったが、なかでもオリンパス及びフジのCenturion/Epion4000シリーズはレンズ固定型を採用しており奇抜な外観を持っていた。レンズ交換式でも、専用マウントを用意したミノルタを筆頭にニコン・キヤノンも旧来のシステムとの互換性を維持した斬新なスタイルのカメラを販売していた。
こうしてメーカー側も力を入れていたAPS一眼レフカメラであったが、デジタルカメラの予想外に速い進化と互換性の高い135フィルムカメラの小型化に祟られAPSフィルムは衰退。結局APSは主流となりうることなく淘汰されたが、フォーマットとしてのAPSがデジタル一眼レフカメラの主流となる等、多彩なバリエーションへ繋がるものであった。
デジタルカメラの時代になってからは、これまで培ってきた一眼レフカメラ開発のノウハウとイメージセンサーや画像処理技術などデジタル技術の融合が行われデジタル一眼レフカメラ(英: Digital single-lens reflex camera 、digital SLR 、DSLR)が開発された。これにより、老舗カメラメーカーが電子機器大手に買収されたり、独自のイメージセンサー技術を持つメーカーがクローズアップされるなど、戦国時代の様相を呈してきた。
そのなかで、オリンパスとコダックがデジタル一眼レフカメラの統一規格フォーサーズシステムを策定・公開し、賛同会社の一つパナソニックがオリンパスと共同開発を行なって新たに参入したがその後撤退、オリンパスのみが残ったが、その後同社もミラーレス一眼カメラへの統合を表明し、両社とも小型軽量化を特徴のひとつとする、マイクロフォーサーズシステムに開発をシフトすることで事実上撤退した。 2005年、ソニーは、コニカミノルタとαマウントを採用したデジタル一眼レフをコニカミノルタと共同開発するとの発表を行なったが、2006年1月にコニカミノルタはデジタル一眼レフカメラ事業から撤退、ソニーがαマウントを引き継いだ。さらに韓国サムスン電子グループのサムスンテックウィンがペンタックスとデジタル一眼レフカメラを共同開発、部品の共通調達によるコスト削減が目的であったがその後サムスンは一眼レフからは撤退、ペンタックスはHOYAとの合併統合、リコーの子会社化という経緯を辿りながら、Kマウントと中判645マウントのデジタル一眼レフカメラの多マウント展開を継続している。
またカメラのデジタル化によって、これまでにない新たな機能が一眼レフカメラにも組み込まれることとなる。手ぶれによる映像の乱れを軽減させる手ぶれ補正機能は、一部の交換レンズに組み込まれる方式だけでなく、カメラ本体のイメージセンサーを手ぶれに応じて移動させ取り付けるレンズすべてを対応させる方式などフィルムカメラではできなかった技術が登場し、各社で方式は違うがデジタル一眼レフの一機能として定着している。一眼レフカメラは途中に反射鏡を組み込む構造上、コンパクトデジタルカメラのように背面の液晶モニターを使ったフルタイムライブビュー撮影は不可能とされてきたが、2004年にオリンパスから発売されたオリンパス E-330がレンズ交換式デジタル一眼レフカメラとして初めてフルタイムライブビュー機能を実現し、以後各メーカーがフルタイムライブビュー機能や一部の機種にバリアングル液晶を搭載するようになる。さらに2008年9月にはニコンがデジタル一眼レフカメラとして初めて動画撮影に対応したD90を発表。その後各メーカーが対応機種を発売しデジタル一眼レフカメラの一機能として定着している。
2009年以降は、キヤノン EOS 5D Mark IIなどの動画撮影機能が標準採用されているデジタル一眼レフカメラの登場に伴い、ビデオパッケージ(カラオケ用画像撮影・結婚式や説明用ビデオの撮影・等)など、コスト管理にシビアな映像を高画質で撮影することを主な目的とした撮影に業務用ビデオカメラの代わりにデジタル一眼レフカメラが、使用されつつある。デジタル一眼レフカメラ用のカメラスタビライザー(英: Steadicam、ステディカム)などカメラサポート機材やヘッドフォンやマイクロフォン/ICレコーダーなどのオーディオ機器や外部モニター/液晶ファインダーなどデジタル一眼レフカメラの動画撮影用の機材も登場している。
2008年以降、一眼レフカメラとは異なり光学ファインダーを廃してライブビューのみで撮影を行うレンズ交換式デジタルカメラの新形式としてミラーレス一眼カメラが登場し、その後各社からも様々な規格の機種が発売された。
そして一時は戦国時代の様相を呈したものの淘汰が進み、後発メーカーの主力製品はこのミラーレス一眼カメラへと移行、現在、デジタル一眼レフカメラはフィルム時代から続くメーカーの製品のみが残っている。具体的には、ニコン、キヤノン、リコーイメージング、シグマ、フェーズワン・ジャパン、ライカ、ハッセルブラッド、ローライの8社となる(2015年12月現在)。
デジタル一眼レフとミラーレス一眼カメラとでは、どちらもレンズ交換が可能であるという共通点があるものの、ファインダー部の有無や構造などをはじめ仕組みでは異なる部分も多い。デジタル一眼レフが勝る点としては、光学ファインダーによるクリアーな視野、位相差方式による高速で動体追従性の高いオートフォーカス、比較的豊富なレンズラインアップ、等があげられるのに対し、ミラーレス一眼カメラでは小型軽量性やデザイン自由度、撮影結果を見ながら撮影可能な電子ビューファインダー、機械部品が少ないことによるコスト面でのメリット等がある。なお、両システムを展開しているメーカーであってもレンズマウントはそれぞれ異なるのが一般的である。
スポーツ写真の分野において。2010年代半ば頃はキヤノンとニコンの一眼レフカメラがシェアを二分していたが、2013年にソニーが35ミリフルサイズの撮像素子を採用したミラーレス一眼カメラ「α9」を発売以降、高性能機種や交換レンズの投入・整備に伴い、急速にシェアを伸ばしている。2018年にはキヤノンとニコンも35ミリフルサイズの撮像素子に対応した新マウントのミラーレス一眼カメラを発売し、プロ用機材の新規開発も一眼レフからミラーレス一眼カメラに転換している。
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"text": "一眼レフカメラ(いちがんレフカメラ、英:Single-lens reflex camera 、SLR)とはスチルカメラの構造による分類のひとつで、撮影に使用するレンズと撮像面(フィルムもしくは固体撮像素子)の間に鏡(ミラー)を置き、実際に撮影されるイメージを光学ファインダーで確認することができるものをいう。 撮影用の光学系とファインダー用の光学系が一系統であるため(一眼)、ファインダーから見える像が撮影される写真の像と一致する。",
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"text": "ドイツ語のシュピーゲル・レフレックス(Spiegel-reflex-kamera 、鏡の反射)という言葉通り、反射鏡を使ってファインダースクリーンに結像させる機構が特徴であり、レフの語源もここにある。",
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"text": "フィルムカメラ、デジタルカメラの両方に存在し、20世紀中盤以降から現在に至るまで、レンズ交換可能なカメラの主流となっている方式である。",
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"text": "なお、一眼レフと異なる構造を持つカメラとしては、二眼レフカメラやレンジファインダーカメラなどが挙げられる。また、ミラーレス一眼カメラはデジタルカメラの一種であり、構造が異なるため、ここでは取り上げない。",
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"text": "利点としては、",
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"text": "欠点としては、",
"title": "利点と欠点"
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"text": "これらの特徴のため、初期の一眼レフカメラはレンジファインダーカメラに不向きな接写用・望遠用といった特殊用途カメラとして使用されることが多かった。",
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"text": "現在はほとんどの機種にペンタプリズム(廉価機種ではペンタミラー)が装着されている(アイレベル)。ただし、これは一眼レフの機構として必須ではなく、初期の頃にはプリズムを持たないウエストレベルファインダーが主流であった。",
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"text": "一眼レフカメラの光学機構の源流は、カメラの前身であるカメラ・オブスクラの時代にさかのぼる。カメラ・オブスクラの中には光路の途中に反射鏡を設置し、レンズの光学軸に対して90度の方向に像を結ばせるようになっていたものがあるのである。",
"title": "歴史"
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"text": "ダゲレオタイプの発明以降のカメラの歴史に限ってみると、一眼レフカメラの最初期のもののひとつは1861年にトーマス・サットン(英語版)によって考案された物だと考えられる。それ以前のカメラは像面にフォーカシングスクリーン(ピントグラス)を取り付けてレンズの操作を行った後、その場所にスクリーンと交換する形で感光材料を設置するものであったが、サットンは光路上に可動式の鏡を取り付けカメラボディ上面のスクリーンに像を結ばせるという工夫をし、これにより撮影直前まで像を見つづけることができるようになった。",
"title": "歴史"
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"text": "初の実用一眼レフカメラとされているのは1885年にカルビン・レイ・スミスが発売した「パテント・モノキュラー・デュプレックス」である。このカメラはミラーをシャッターとして使う構造である。その後1890年代にかけてさまざまな一眼レフカメラが作られた。二眼レフカメラが登場したのもこのころである。",
"title": "歴史"
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"text": "1890年代も終わるころになるとフォーカルプレーンシャッターの登場によって一眼レフカメラの高機能化が加速し、現代に通ずる一眼レフカメラの形式が確立してくる。",
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"text": "これらの一眼レフカメラは写真乾板を用いる木製箱型大型カメラでイギリス、アメリカなどで作られている。このころの代表的機種としては1898年登場の「グラフレックス」などがある。イギリスではジェームズ・F・シウのフォーカルプレーン・レフレクターが1902年に発売されて以来1904年にはマリオンのソホ・レフレックス、A・アダムスのマイネックスやヴァイデックス、ニューマン&ガーディアのスクエア・レフレックス、1908年にホートンのフォールディング・レフレックス、ソロントン・ピッカードのルビー・レフレックスと競合各社が追随した。またドイツを中心としてボディーを折畳式としたフォールディングタイプの一眼レフカメラも多く作られ、実例としてはメントール・カメラファブリーク・ゴルツ&ブロイトマンのメントール・フォールディング・レフレックス、イハゲーのパテント・クラップ・レフレックス、ツァイス・イコンのミロフレックスが挙げられる。",
"title": "歴史"
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"text": "ナチス政権下のドイツにおいて、ドレスデンのイハゲーが1933年に発表し1934年に発売した「スタンダード・エクサクタ」がロールフィルムを用いた近代的一眼レフカメラの最初である。このカメラはバヨネットマウントによるレンズ交換式で、フォーカルプレンシャッターを装備しており、フィルムをレバー巻き上げし、裏蓋を開閉できるなど現代的一眼レフカメラの先鞭をつけた。127フィルムを使用し4×6.5cm判で8枚撮影できた。",
"title": "歴史"
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"text": "35mmフィルムを使用した世界最初の一眼レフカメラはソ連・レニングラードのGOMZ(国立光学器械工場、後のロモ)が1935年に発表し1936年に発売した「スポルト」とされている。2枚の金属板を使い、ミラーアップ時に先幕が閉じ、続いて後幕が縦走行するという、縦走り方式のフォーカルプレーンシャッターを搭載、シャッター速度も最高1/500秒から最低1/25秒まで変えることができ、フィルム送りとシャッターチャージは上部の縦方向のダイヤルにより同時に行われる。バヨネット式の交換レンズ機能を有し、フィルム装填は普通の35mmフィルムを専用カートリッジに移し変えて装填、50枚まで連続して撮影できた。専用カートリッジは自作することもでき、ダークバッグ等で映画用35mmフィルムを最大50駒分切断し、リールに差し込めば容易に撮影できた。反射ミラーによる上部からの一眼レフ式ファインダーのほか標準レンズ用の透視式ファインダーも装備し、約16,000台販売された。",
"title": "歴史"
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"text": "同年の1936年、「スポルト」に続いてイハゲーもスタンダード・エクサクタの基本性能をそのままに小型化し、ライカ判を使用するウエストレベルファインダーの一眼レフカメラ「キネ・エクサクタ」を発売した。この「(バヨネットマウントのライカ判)エクサクタ」シリーズは1950年にファインダー交換式としてペンタプリズム式をもラインナップし1960年代末まで連綿と製造販売され、多数の交換レンズ群をも提供し数多くのバリエーション機種を供した。",
"title": "歴史"
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"text": "以降ほとんどの一眼レフカメラはこの135フィルムを用いたものが大勢を占めるが、高画質を求める用途では120フィルムを用いた6×7cm判や6×4.5cm判の中判一眼レフカメラや、110フィルムを用いたものも登場した。",
"title": "歴史"
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"text": "最初の「正立正像アイレベルファインダーを持つ最初の一眼レフカメラ」「クイックリターンミラーを備える一眼レフカメラ」は1947年か1948年にハンガリーのガンマから発売されたデュフレックスである。どちらも画期的な機構ではあったが、生産数が非常に少数であったことと東西冷戦のため市場には全く影響を与えず、このカメラの存在が日本で認知されたのは1970年になってからである。このカメラは現在一般的であるペンタプリズムを使わずポロミラー式であった。",
"title": "歴史"
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"text": "最初の「ペンタプリズム式一眼レフカメラ」は1948年の東ドイツ・ドレスデンのツァイス・イコンによるコンタックスSであり、デュフレックスより企画段階では先行していた。「コンタックスS」は現在においても最も普及しているスクリューマウント形式であるM42マウントを採用、フランジバック・内寸口径の国際規格を有する卓越したシステムカメラで、無数の世界中の各種交換レンズと互換性を有し、ロールフィルムを用いたペンタプリズム式一眼レフカメラの規範となった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "日本では一眼レフカメラが早くから開発されてきた。これはレンジファインダーカメラの分野ではライカM3など極めて完成度が高いものがすでに存在しており、日本のメーカーがその土俵での勝負を避けて別の方面からのアプローチをしたためだと言われている。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "黎明期の一眼レフカメラは「撮影の際にブラックアウトする」「絞り込むとファインダーが暗い」ということが欠点として言われていたが、前者に関しては旭光学工業(現リコーイメージング)が1954年にクイックリターンミラーを装備したアサヒフレックスIIbを、後者に関してはズノー光学工業が1958年に自動絞り機構を装備したズノーペンタフレックスを発売して解決した。1957年には、旭光学工業から世界初のクイックリターンミラーとペンタプリズムを両方搭載したアサヒペンタックスが開発され、特に一眼レフカメラに大きな欠点を感じずに使えるようになった。ズノーペンタフレックスは歴史に名を残したものの故障が多く返品が相次いだと言われるが、1959年ニコンから発売されたニコンFは非常に頑強で、報道の世界からスピードグラフィックとローライフレックスを駆逐する等、業務用としても非常に広く使われた。以後クイックリターンミラー・自動絞りの双方を装備するのが当然となっていった。",
"title": "歴史"
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"text": "広角レンズに関しては当初ミラーアップして装着する対称型レンズのみのラインナップであったが、アンジェニューが発明した逆望遠方式で設計されるようになってからは非常に充実したラインナップを持つようになった。",
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"text": "日本製カメラの攻勢に西ドイツのメーカーもようやく一眼レフカメラの重要性に目覚め、ツァイス・イコンは外部測光式ながら世界初の露出計連動型一眼レフカメラであるコンタレックスを、エルンスト・ライツ(現ライカ)はライカフレックスをやや遅れて登場させたが、登場直後から市場での競争力は不十分であった。結果としてエルンスト・ライツは倒産し、ツァイス・イコンはカメラ事業から撤退した。",
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},
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"text": "ニコンFが業務用として非常に高い地位を得た一方、キヤノンはキヤノンフレックスを発売したもののあまり評価を受けなかったが、1971年にプロ用一眼レフカメラキヤノンF-1を発表した。交換レンズの色再現を揃えたスーパースペクトラコーティングを施し特にグラフィックの分野で高く評価され、以後ニコンF3とキヤノンニューF-1等ライバルとしてしのぎを削りつつ発展して行くこととなる。",
"title": "歴史"
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"text": "1960年代から技術革新が進み、TTL露出計、自動露出、オートフォーカスなどの電子技術が一眼レフカメラに矢継ぎ早に搭載され、さらには低価格化した。これによりアマチュアにも扱いやすいカメラが多く発売され、一眼レフカメラユーザーの裾野を広げる一因となった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 25,
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"text": "1960年のフォトキナにおいて世界初のTTL露出計搭載一眼レフカメラ、アサヒペンタックスSP(発売は1964年)が発表されたのを皮切りに、1963年には東京光学(現トプコン)が最初のTTL露出計搭載一眼レフカメラトプコンREスーパーを発売、ニコンFも1965年にフォトミックファインダーTを発売するなどTTL露出計が浸透した。1975年にはオリンパス OM-2がフラッシュ光でもTTL露出が可能なTTLダイレクト測光を搭載して発売された。",
"title": "歴史"
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"text": "自動露出自体は以前からあったが、キヤノンが1976年に発売したキヤノンAE-1は世界で初めてCPUを積む等徹底した電子化により低価格で発売、世界中で爆発的な売れ行きを記録しカメラ業界に地殻変動を起こした。",
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"text": "1985年にはミノルタ(現コニカミノルタ)が世界初の実用的なシステムを持つオートフォーカス一眼レフカメラα-7000を発売してカメラ業界全体へ大きな衝撃を与え、αショックと呼ばれるほどであった。ニコンは1986年従前のシステムと互換性のあるオートフォーカス一眼レフカメラニコンF-501を、キヤノンは1987年従前のシステムとは互換性がないもののレンズ内モーターで迅速なピント合わせが可能なEOS650を発売してこれに対抗。さらに同年、世界初の内蔵TTLフラッシュを搭載したペンタックスSFXが発売される。国内で販売される一眼レフカメラのうちオートフォーカスの割合は既に1986年4月末には50%を超えた。",
"title": "歴史"
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"text": "機能を追い求めるうちいつしか「一眼レフカメラは重厚長大で当然」になってしまっていた1973年、ビスを真鍮から鉄製にする等、徹底した小型軽量化をしたオリンパスOM-1が発売され、以後一眼レフカメラの世界でも小型軽量化が進んだ。前述した電子化や、合成樹脂製造技術の進歩もカメラの小型軽量化に寄与した。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 29,
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"text": "1993年にキヤノンが発売したEOS Kissは低価格かつボディの小型軽量化を実現し、主婦などこれまで一眼レフカメラを使ったことのない初心者層の開拓に成功している。他社もこれに追随し、普及版のオートフォーカス一眼レフカメラの小型軽量化が進んだ。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "新規格であるAPSフィルムが登場すると、小型化により一層拍車がかかったモデルが各社から発売された。 新規格のフィルムということで各社のモデルもそれまでにない斬新かつ奇抜なものとなったが、なかでもオリンパス及びフジのCenturion/Epion4000シリーズはレンズ固定型を採用しており奇抜な外観を持っていた。レンズ交換式でも、専用マウントを用意したミノルタを筆頭にニコン・キヤノンも旧来のシステムとの互換性を維持した斬新なスタイルのカメラを販売していた。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "こうしてメーカー側も力を入れていたAPS一眼レフカメラであったが、デジタルカメラの予想外に速い進化と互換性の高い135フィルムカメラの小型化に祟られAPSフィルムは衰退。結局APSは主流となりうることなく淘汰されたが、フォーマットとしてのAPSがデジタル一眼レフカメラの主流となる等、多彩なバリエーションへ繋がるものであった。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "デジタルカメラの時代になってからは、これまで培ってきた一眼レフカメラ開発のノウハウとイメージセンサーや画像処理技術などデジタル技術の融合が行われデジタル一眼レフカメラ(英: Digital single-lens reflex camera 、digital SLR 、DSLR)が開発された。これにより、老舗カメラメーカーが電子機器大手に買収されたり、独自のイメージセンサー技術を持つメーカーがクローズアップされるなど、戦国時代の様相を呈してきた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "そのなかで、オリンパスとコダックがデジタル一眼レフカメラの統一規格フォーサーズシステムを策定・公開し、賛同会社の一つパナソニックがオリンパスと共同開発を行なって新たに参入したがその後撤退、オリンパスのみが残ったが、その後同社もミラーレス一眼カメラへの統合を表明し、両社とも小型軽量化を特徴のひとつとする、マイクロフォーサーズシステムに開発をシフトすることで事実上撤退した。 2005年、ソニーは、コニカミノルタとαマウントを採用したデジタル一眼レフをコニカミノルタと共同開発するとの発表を行なったが、2006年1月にコニカミノルタはデジタル一眼レフカメラ事業から撤退、ソニーがαマウントを引き継いだ。さらに韓国サムスン電子グループのサムスンテックウィンがペンタックスとデジタル一眼レフカメラを共同開発、部品の共通調達によるコスト削減が目的であったがその後サムスンは一眼レフからは撤退、ペンタックスはHOYAとの合併統合、リコーの子会社化という経緯を辿りながら、Kマウントと中判645マウントのデジタル一眼レフカメラの多マウント展開を継続している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "またカメラのデジタル化によって、これまでにない新たな機能が一眼レフカメラにも組み込まれることとなる。手ぶれによる映像の乱れを軽減させる手ぶれ補正機能は、一部の交換レンズに組み込まれる方式だけでなく、カメラ本体のイメージセンサーを手ぶれに応じて移動させ取り付けるレンズすべてを対応させる方式などフィルムカメラではできなかった技術が登場し、各社で方式は違うがデジタル一眼レフの一機能として定着している。一眼レフカメラは途中に反射鏡を組み込む構造上、コンパクトデジタルカメラのように背面の液晶モニターを使ったフルタイムライブビュー撮影は不可能とされてきたが、2004年にオリンパスから発売されたオリンパス E-330がレンズ交換式デジタル一眼レフカメラとして初めてフルタイムライブビュー機能を実現し、以後各メーカーがフルタイムライブビュー機能や一部の機種にバリアングル液晶を搭載するようになる。さらに2008年9月にはニコンがデジタル一眼レフカメラとして初めて動画撮影に対応したD90を発表。その後各メーカーが対応機種を発売しデジタル一眼レフカメラの一機能として定着している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2009年以降は、キヤノン EOS 5D Mark IIなどの動画撮影機能が標準採用されているデジタル一眼レフカメラの登場に伴い、ビデオパッケージ(カラオケ用画像撮影・結婚式や説明用ビデオの撮影・等)など、コスト管理にシビアな映像を高画質で撮影することを主な目的とした撮影に業務用ビデオカメラの代わりにデジタル一眼レフカメラが、使用されつつある。デジタル一眼レフカメラ用のカメラスタビライザー(英: Steadicam、ステディカム)などカメラサポート機材やヘッドフォンやマイクロフォン/ICレコーダーなどのオーディオ機器や外部モニター/液晶ファインダーなどデジタル一眼レフカメラの動画撮影用の機材も登場している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2008年以降、一眼レフカメラとは異なり光学ファインダーを廃してライブビューのみで撮影を行うレンズ交換式デジタルカメラの新形式としてミラーレス一眼カメラが登場し、その後各社からも様々な規格の機種が発売された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "そして一時は戦国時代の様相を呈したものの淘汰が進み、後発メーカーの主力製品はこのミラーレス一眼カメラへと移行、現在、デジタル一眼レフカメラはフィルム時代から続くメーカーの製品のみが残っている。具体的には、ニコン、キヤノン、リコーイメージング、シグマ、フェーズワン・ジャパン、ライカ、ハッセルブラッド、ローライの8社となる(2015年12月現在)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "デジタル一眼レフとミラーレス一眼カメラとでは、どちらもレンズ交換が可能であるという共通点があるものの、ファインダー部の有無や構造などをはじめ仕組みでは異なる部分も多い。デジタル一眼レフが勝る点としては、光学ファインダーによるクリアーな視野、位相差方式による高速で動体追従性の高いオートフォーカス、比較的豊富なレンズラインアップ、等があげられるのに対し、ミラーレス一眼カメラでは小型軽量性やデザイン自由度、撮影結果を見ながら撮影可能な電子ビューファインダー、機械部品が少ないことによるコスト面でのメリット等がある。なお、両システムを展開しているメーカーであってもレンズマウントはそれぞれ異なるのが一般的である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "スポーツ写真の分野において。2010年代半ば頃はキヤノンとニコンの一眼レフカメラがシェアを二分していたが、2013年にソニーが35ミリフルサイズの撮像素子を採用したミラーレス一眼カメラ「α9」を発売以降、高性能機種や交換レンズの投入・整備に伴い、急速にシェアを伸ばしている。2018年にはキヤノンとニコンも35ミリフルサイズの撮像素子に対応した新マウントのミラーレス一眼カメラを発売し、プロ用機材の新規開発も一眼レフからミラーレス一眼カメラに転換している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "アルファベット順に挙げる。",
"title": "一眼レフカメラを製造している、または製造したことのある主なメーカー"
}
] | 一眼レフカメラとはスチルカメラの構造による分類のひとつで、撮影に使用するレンズと撮像面(フィルムもしくは固体撮像素子)の間に鏡(ミラー)を置き、実際に撮影されるイメージを光学ファインダーで確認することができるものをいう。
撮影用の光学系とファインダー用の光学系が一系統であるため(一眼)、ファインダーから見える像が撮影される写真の像と一致する。 ドイツ語のシュピーゲル・レフレックスという言葉通り、反射鏡を使ってファインダースクリーンに結像させる機構が特徴であり、レフの語源もここにある。 フィルムカメラ、デジタルカメラの両方に存在し、20世紀中盤以降から現在に至るまで、レンズ交換可能なカメラの主流となっている方式である。 なお、一眼レフと異なる構造を持つカメラとしては、二眼レフカメラやレンジファインダーカメラなどが挙げられる。また、ミラーレス一眼カメラはデジタルカメラの一種であり、構造が異なるため、ここでは取り上げない。 | [[ファイル:Asahiflex.JPG|thumb|right|300px|日本で最初の[[35mmフルサイズ|ライカ判]]一眼レフカメラ「[[ペンタックスのカメラ製品一覧#アサヒフレックス|アサヒフレックス]]」]]
'''一眼レフカメラ'''(いちがんレフカメラ、英:''Single-lens reflex camera'' 、'''SLR''')とは[[カメラ|スチルカメラ]]の構造による分類のひとつで、撮影に使用する[[レンズ]]と撮像面([[写真フィルム|フィルム]]もしくは[[固体撮像素子]])の間に[[反射鏡|鏡]](ミラー)を置き、実際に撮影される[[イメージ]]を光学[[ファインダー]]で確認することができるものをいう。
撮影用の光学系とファインダー用の光学系が一系統であるため(一眼)、ファインダーから見える像が撮影される写真の像と一致する。
[[ドイツ語]]のシュピーゲル・レフレックス(''Spiegel-reflex-kamera'' 、鏡の反射)という言葉通り、'''反射鏡'''を使ってファインダースクリーンに結像させる機構が特徴であり、'''レフ'''の語源もここにある。
フィルムカメラ、[[デジタルカメラ]]の両方に存在し、20世紀中盤以降から現在に至るまで、<!--21世紀はじめにかけて-->レンズ交換可能なカメラの主流となっている方式である。
なお、一眼レフと異なる構造を持つカメラとしては、[[二眼レフカメラ]]や[[レンジファインダーカメラ]]などが挙げられる。また、[[ミラーレス一眼カメラ]]は[[デジタルカメラ]]の一種であり、構造が異なるため、ここでは取り上げない。
== 利点と欠点 ==
利点としては、
* 撮影用レンズの交換をするだけで、ファインダーもそれに対応する。
* [[視差]](パララックス<!--。ファインダーの位置とレンズの位置のずれから生ずる[[被写体]]の見え方の違い-->)がないので、実写像と同等の像を見ながら構図を決めることができる<!--(二眼レフやレンジファインダーカメラでは視差が生じるので正確に構図を決めることに困難が伴う)-->。
* 撮像面と光学的に同一の位置にフォーカシングスクリーンを設置することにより、厳密な[[ピント]]合わせと[[ボケ (写真)|ボケ]]の推測が可能となる(二眼レフの場合、ファインダー用レンズと撮影用レンズ間のパララックスを排除できず、またファインダー用レンズに絞り機構が無い場合は[[被写界深度]]を考慮した作画の確認ができない)。
* AF機構としては位相差AFが使用されるため、動体撮影時でも高精度に追従し続けられる。
欠点としては、
* 反射鏡やペンタプリズムなどの内部機構の分だけカメラ本体が大きく、かつ重くなること。
* 反射鏡が上下作動する空間が必要となり、[[広角レンズ]]など特に[[バックフォーカス]]が短いレンズに使用制限が発生すること。
* 撮影の瞬間(露光時)に<!--レンズから入ってくる光をファインダーに届ける-->ミラーが跳ね上がるため、ファインダーから像が消えてしまう。
* 撮影時、ミラーの跳ね上がりにより、[[振動]]と音が発生し、手ブレの原因になる。
これらの特徴のため、初期の一眼レフカメラはレンジファインダーカメラに不向きな[[接写]]用・[[望遠レンズ|望遠]]用といった特殊用途カメラとして使用されることが多かった。
現在はほとんどの機種に<!--、ファインダーに正像を結ばせるための-->[[ペンタプリズム]](廉価機種では[[ペンタミラー]])が装着されている('''アイレベル''')。ただし、これは一眼レフの機構として必須ではなく、初期の頃には[[プリズム]]を持たない[[ファインダー#ウエストレベルファインダー|ウエストレベルファインダー]]が主流であった<ref group="注釈">通常、中判カメラにはアイレベルとウエストレベルの両方が用意されており、ファインダーの交換が可能である。[[ライカ判|35mmカメラ]]のカメラにおいては、上級機種であるニコンFシリーズなどに、ウエストレベルがオプションとして用意されている。</ref>。
== 歴史 ==
=== 黎明期 ===
一眼レフカメラの光学機構の源流は、カメラの前身である[[カメラ・オブスクラ]]の時代にさかのぼる。カメラ・オブスクラの中には光路の途中に反射鏡を設置し、レンズの光学軸に対して90度の方向に像を結ばせるようになっていたものがあるのである<ref>『現代カメラ新書No.6、クラシックカメラ入門』p.79。</ref>。
[[ダゲレオタイプ]]の発明以降のカメラの歴史に限ってみると、一眼レフカメラの最初期のもののひとつは[[1861年]]に{{仮リンク|トーマス・サットン|en|Thomas Sutton (photographer)}}によって考案された物だと考えられる。それ以前のカメラは像面にフォーカシングスクリーン(ピントグラス)を取り付けてレンズの操作を行った後、その場所にスクリーンと交換する形で感光材料を設置するものであったが、サットンは光路上に可動式の鏡を取り付けカメラボディ上面のスクリーンに像を結ばせるという工夫をし、これにより撮影直前まで像を見つづけることができるようになった。
初の実用一眼レフカメラとされているのは[[1885年]]にカルビン・レイ・スミスが発売した「パテント・モノキュラー・デュプレックス」である。このカメラはミラーをシャッターとして使う構造である。その後1890年代にかけてさまざまな一眼レフカメラが作られた。[[二眼レフカメラ]]が登場したのもこのころである。
=== 一眼レフカメラの確立 ===
1890年代も終わるころになると[[シャッター (カメラ)#フォーカルプレーンシャッター|フォーカルプレーンシャッター]]の登場によって一眼レフカメラの高機能化が加速し、現代に通ずる一眼レフカメラの形式が確立してくる。
これらの一眼レフカメラは[[写真乾板]]を用いる木製箱型大型カメラで[[イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などで作られている。このころの代表的機種としては[[1898年]]登場の「[[グラフレックス]]」などがある。イギリスでは[[ジェームズ・F・シウ]]の'''フォーカルプレーン・レフレクター'''が1902年に発売されて以来1904年には[[マリオン (カメラ)|マリオン]]の'''ソホ・レフレックス'''<ref name="clacamenyuumon-80">『現代カメラ新書No.6、クラシックカメラ入門』p.80。</ref><ref name="clacamesenka1-144">『クラシックカメラ専科』p.144。</ref>、[[A・アダムス]]の'''マイネックス'''<ref name="clacamenyuumon-80" />や'''ヴァイデックス'''<ref name="clacamesenka1-144" />、[[ニューマン&ガーディア]]の'''スクエア・レフレックス'''<ref name="clacamesenka1-144" />、1908年に[[ホートン]]の'''フォールディング・レフレックス'''<ref name="clacamesenka1-144" />、[[ソロントン・ピッカード]]<ref name="clacamenyuumon-80" />の'''ルビー・レフレックス'''<ref name="clacamesenka1-144" />と競合各社が追随した。また[[ドイツ]]を中心としてボディーを折畳式としたフォールディングタイプの一眼レフカメラも多く作られ、実例としては[[メントール・カメラファブリーク・ゴルツ&ブロイトマン]]の'''メントール・フォールディング・レフレックス'''<ref name="clacamenyuumon-82">『現代カメラ新書No.6、クラシックカメラ入門』p.82。</ref>、[[イハゲー]]の'''パテント・クラップ・レフレックス'''<ref name="clacamenyuumon-82" />、[[ツァイス・イコン]]の'''ミロフレックス'''<ref name="clacamenyuumon-82" />が挙げられる。
=== ロールフィルムを用いた一眼レフカメラ ===
[[ファイル:Kine Exakta Typ 3 Bj. 1938 -2745.jpg|thumb|right|1938年製のエクサクタ・タイプ3。ロールフィルム・タイプの発売から数年でライカ判に移行したことがわかる。]]
[[ナチス・ドイツ|ナチス政権下のドイツ]]において、[[ドレスデン]]の[[イハゲー]]が[[1933年]]に発表<ref name="clacamesenka1-104">『クラシックカメラ専科』p.104。</ref>し[[1934年]]に発売した「'''スタンダード・エクサクタ'''」が[[ロールフィルム]]を用いた近代的一眼レフカメラの最初である<ref name="clacamesenka1-104" />。このカメラはバヨネットマウントによるレンズ交換式で、フォーカルプレンシャッターを装備しており、フィルムをレバー巻き上げし、裏蓋を開閉できるなど現代的一眼レフカメラの先鞭をつけた<ref name="clacamesenka1-104" />。[[127フィルム]]を使用し4×6.5cm判で8枚撮影できた<ref name="clacamesenka1-104" />。
[[35mmフィルム]]を使用した世界最初の一眼レフカメラは[[ソビエト連邦|ソ連]]・[[レニングラード]]のGOMZ(国立光学器械工場、後の[[ロモ]])が[[1935年]]に発表<ref name>『クラシックカメラで遊ぼう ボクが中古カメラ中毒者になったわけ』p.21。</ref>し[[1936年]]に発売した「スポルト」とされている<ref group="注釈">キネ・エクサクタとする見解もある。</ref>。2枚の金属板を使い、ミラーアップ時に先幕が閉じ、続いて後幕が縦走行するという、縦走り方式の[[フォーカルプレーンシャッター]]を搭載、[[シャッター速度]]も最高1/500秒から最低1/25秒まで変えることができ、フィルム送りとシャッターチャージは上部の縦方向のダイヤルにより同時に行われる。バヨネット式の交換レンズ機能を有し、フィルム装填は普通の35mmフィルムを専用カートリッジに移し変えて装填、50枚まで連続して撮影できた。専用カートリッジは自作することもでき、ダークバッグ等で映画用35mmフィルムを最大50駒分切断し、リールに差し込めば容易に撮影できた。反射ミラーによる上部からの一眼レフ式ファインダーのほか標準レンズ用の透視式ファインダーも装備し、約16,000台販売された。
同年の1936年、「スポルト」に続いて[[イハゲー]]もスタンダード・エクサクタの基本性能をそのままに小型化し、ライカ判を使用するウエストレベルファインダーの一眼レフカメラ「キネ・エクサクタ」を発売した。この「(バヨネットマウントのライカ判)エクサクタ」シリーズは[[1950年]]にファインダー交換式としてペンタプリズム式をもラインナップし1960年代末まで連綿と製造販売され、多数の交換レンズ群をも提供し数多くのバリエーション機種を供した。
以降ほとんどの一眼レフカメラはこの[[135フィルム]]を用いたものが大勢を占めるが、高画質を求める用途では[[120フィルム]]を用いた6×7cm判や6×4.5cm判の[[中判カメラ|中判]]一眼レフカメラや、[[110フィルム]]を用いたものも登場した。
{{main|135フィルム|写真フィルム}}
=== 正立正像のアイレベルファインダーを持つ一眼レフカメラ ===
==== デュフレックス ====
[[Image:DUFLEX640.jpg|200px|thumb|right|{{仮リンク|ハンガリー写真博物館|hu|Magyar Fotográfiai Múzeum}}所蔵のドゥフレックス]]最初の「正立正像アイレベルファインダーを持つ最初の一眼レフカメラ」「クイックリターンミラーを備える一眼レフカメラ」は[[1947年]]か[[1948年]]に[[ハンガリー]]のガンマ<ref group="注釈">イタリアのガンマとは何ら関係がない。</ref>から発売された'''[[デュフレックス]]'''である。どちらも画期的な機構ではあったが、生産数が非常に少数であったことと[[冷戦|東西冷戦]]のため市場には全く影響を与えず、このカメラの存在が日本で認知されたのは[[1970年]]になってからである。このカメラは現在一般的であるペンタプリズムを使わずポロミラー式であった。
==== コンタックスS ====
最初の「ペンタプリズム式一眼レフカメラ」は[[1948年]]の[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]・[[ドレスデン]]の[[ツァイス・イコン]]による'''[[コンタックス]]S'''であり、デュフレックスより企画段階では先行していた。「コンタックスS」は現在においても最も普及しているスクリュー[[レンズマウント|マウント]]形式であるM42マウントを採用、フランジバック・内寸口径の国際規格を有する卓越したシステムカメラで、無数の世界中の各種[[交換レンズ]]と[[互換性]]を有し、ロールフィルムを用いたペンタプリズム式一眼レフカメラの規範となった。
=== 戦後日本における一眼レフカメラの発展と隆盛 ===
[[ファイル:AsahiPentax AP right.jpg|thumb|right|200px|アサヒペンタックス(AP)]]
[[ファイル:Nikon F DSC 6498 (2).jpg|thumb|right|200px|ニコンF]]
==== 欠点の克服、クイックリターンと自動絞り ====
[[日本]]では一眼レフカメラが早くから開発されてきた。これは[[レンジファインダーカメラ]]の分野では[[ライカ]]M3など極めて完成度が高いものがすでに存在しており、日本のメーカーがその土俵での勝負を避けて別の方面からのアプローチをしたためだと言われている。
黎明期の一眼レフカメラは「撮影の際にブラックアウトする」「絞り込むとファインダーが暗い」ということが欠点として言われていたが、前者に関しては旭光学工業(現[[リコーイメージング]])が[[1954年]]に[[クイックリターンミラー]]を装備した'''アサヒフレックスIIb'''を、後者に関しては[[ズノー光学工業]]が[[1958年]]に[[自動絞り]]機構を装備した'''ズノーペンタフレックス'''を発売して解決した。[[1957年]]には、旭光学工業から世界初のクイックリターンミラーとペンタプリズムを両方搭載した'''アサヒペンタックス'''<ref group="注釈">当初はこれが機種名であったが後継機が出てブランドとなり、最初の型はアサヒペンタックスAP型と呼ばれるようになった。</ref>が開発され、特に一眼レフカメラに大きな欠点を感じずに使えるようになった。ズノーペンタフレックスは歴史に名を残したものの故障が多く返品が相次いだと言われるが、[[1959年]][[ニコン]]から発売された'''ニコンF'''は非常に頑強で、[[報道]]の世界から[[スピードグラフィック]]と[[ローライ#ローライフレックス6×6シリーズ|ローライフレックス]]を駆逐する等、業務用としても非常に広く使われた。以後クイックリターンミラー・自動絞りの双方を装備するのが当然となっていった。
[[ファイル:Nikon F of Bunyo Ishikawa WAR REMNANTS MUSEUM Bao Tang Chung Tich Chien Tranh 戦争証跡博物館(ホーチミン) DSCF9947.JPG|thumb|200px|right|[[石川文洋]]が[[ベトナム戦争]]で使用した[[Nikon]] F]]
[[広角レンズ]]に関しては当初ミラーアップして装着する<ref group="注釈">ミラーアップすることで一時的に一眼レフのシステムを使わなくなるため、一眼レフカメラの利点は全く失われる。</ref>対称型レンズのみのラインナップであったが、[[アンジェニュー]]が発明した[[逆望遠]]方式で設計されるようになってからは非常に充実したラインナップを持つようになった。
日本製カメラの攻勢に[[西ドイツ]]のメーカーもようやく一眼レフカメラの重要性に目覚め、[[ツァイス・イコン]]は外部測光式ながら世界初の露出計連動型一眼レフカメラである[[コンタレックス]]を、エルンスト・ライツ(現[[ライカ]])はライカフレックスをやや遅れて登場させたが、登場直後から市場での競争力は不十分であった。結果としてエルンスト・ライツは倒産し、ツァイス・イコンはカメラ事業から撤退した。
[[ファイル:Canon F-1 Los Angeles Olympics Edition.jpg|thumb|right|200px|キヤノンニューF-1]]
==== プロ用一眼レフカメラ、ニコンとキヤノン ====
ニコンFが業務用として非常に高い地位を得た一方、キヤノンは'''キヤノンフレックス'''を発売したもののあまり評価を受けなかったが、[[1971年]]にプロ用一眼レフカメラ'''キヤノンF-1'''を発表した。交換レンズの色再現を揃えたスーパースペクトラコーティングを施し特にグラフィックの分野で高く評価され、以後'''ニコンF3'''と'''キヤノンニューF-1'''等ライバルとしてしのぎを削りつつ発展して行くこととなる。
==== 電子化、TTL露出計と自動露出とオートフォーカス ====
1960年代から技術革新が進み、[[TTL露出計]]、[[自動露出]]、[[オートフォーカス]]などの[[電子技術]]が一眼レフカメラに矢継ぎ早に搭載され、さらには[[低価格化]]した。これにより[[アマチュア]]にも扱いやすいカメラが多く発売され、一眼レフカメラユーザーの裾野を広げる一因となった。
[[1960年]]の[[フォトキナ]]において世界初のTTL露出計搭載一眼レフカメラ、'''アサヒペンタックスSP'''(発売は1964年)が発表されたのを皮切りに、[[1963年]]には東京光学(現[[トプコン]])が最初のTTL露出計搭載一眼レフカメラ'''トプコンREスーパー'''を発売、ニコンFも[[1965年]]にフォトミックファインダーTを発売するなどTTL露出計が浸透した。[[1975年]]には'''[[オリンパス OM-2]]'''が[[エレクトロニックフラッシュ|フラッシュ]]光でもTTL露出が可能なTTLダイレクト測光を搭載して発売された。
[[自動露出]]自体は以前からあったが、キヤノンが[[1976年]]に発売した'''キヤノンAE-1'''は世界で初めて[[CPU]]を積む等徹底した電子化により低価格で発売、世界中で爆発的な売れ行きを記録しカメラ業界に地殻変動を起こした。
[[ファイル:Minolta7000.jpg|thumb|right|200px|ミノルタα-7000]]
[[1985年]]には[[ミノルタ]](現[[コニカミノルタ]])が世界初の実用的なシステムを持つオートフォーカス一眼レフカメラ'''α-7000'''を発売してカメラ業界全体へ大きな衝撃を与え、'''αショック'''と呼ばれるほどであった。ニコンは[[1986年]]従前のシステムと互換性のあるオートフォーカス一眼レフカメラ'''ニコンF-501'''を、キヤノンは[[1987年]]従前のシステムとは互換性がないもののレンズ内モーターで迅速なピント合わせが可能な'''EOS650'''を発売してこれに対抗。さらに同年、世界初の内蔵TTLフラッシュを搭載した'''ペンタックスSFX'''が発売される。国内で販売される一眼レフカメラのうちオートフォーカスの割合は既に1986年4月末には50%を超えた。
[[ファイル:Olympus OM-1.jpg|thumb|right|200px|オリンパスOM-1]]
==== 小型軽量化 ====
機能を追い求めるうちいつしか「一眼レフカメラは重厚長大で当然」になってしまっていた[[1973年]]、ビスを真鍮から鉄製にする等、徹底した小型軽量化をした'''オリンパスOM-1'''が発売され、以後一眼レフカメラの世界でも小型軽量化が進んだ。前述した電子化や、[[合成樹脂]]製造技術の進歩もカメラの小型軽量化に寄与した。
[[1993年]]にキヤノンが発売した'''EOS Kiss'''は低価格かつボディの小型軽量化を実現し、[[主婦]]などこれまで一眼レフカメラを使ったことのない初心者層の開拓に成功している。他社もこれに追随し、普及版のオートフォーカス一眼レフカメラの小型軽量化が進んだ。
==== APS一眼レフカメラの登場 ====
新規格である[[アドバンストフォトシステム|APS]]フィルムが登場すると、小型化により一層拍車がかかったモデルが各社から発売された。
新規格のフィルムということで各社のモデルもそれまでにない斬新かつ奇抜なものとなったが、なかでもオリンパス及びフジの'''Centurion'''/'''Epion4000'''シリーズはレンズ固定型を採用しており奇抜な外観を持っていた。レンズ交換式でも、専用マウントを用意したミノルタを筆頭にニコン<ref group="注釈">既存の一眼レフ用レンズの使用は可能だがAPS一眼レフ専用レンズを同社の他の一眼レフに使用するのは不可能。</ref>・キヤノンも旧来のシステムとの互換性を維持した斬新なスタイルのカメラを販売していた。
こうしてメーカー側も力を入れていたAPS一眼レフカメラであったが、[[デジタルカメラ]]の予想外に速い進化と互換性の高い[[135フィルム]]カメラの小型化に祟られAPSフィルムは衰退。結局APSは主流となりうることなく淘汰された<ref group="注釈">2012年5月末に[[富士フイルム]]もAPSフィルムの出荷を終了。</ref>が、フォーマットとしてのAPSがデジタル一眼レフカメラの主流となる等、多彩なバリエーションへ繋がるものであった。
[[ファイル:Nikon_Pronea_S_img_1320.jpg|thumb|right|200px|ニコン Pronea S]]
==== デジタル一眼レフカメラの時代 ====
デジタルカメラの時代になってからは、これまで培ってきた一眼レフカメラ開発のノウハウと[[イメージセンサー]]や画像処理技術など[[デジタル技術]]の融合が行われ'''デジタル一眼レフカメラ'''({{lang-en-short|''[[w:Digital single-lens reflex camera|Digital single-lens reflex camera]]''}} 、'''digital SLR''' 、'''DSLR''')が開発された。これにより、老舗カメラメーカーが電子機器大手に買収されたり、独自のイメージセンサー技術を持つメーカーがクローズアップされるなど、戦国時代の様相を呈してきた。
そのなかで、[[オリンパス]]と[[コダック]]がデジタル一眼レフカメラの統一規格[[フォーサーズシステム]]を策定・公開し、賛同会社の一つ[[パナソニック]]がオリンパスと共同開発を行なって新たに参入したがその後撤退、オリンパスのみが残ったが、その後同社も[[ミラーレス一眼カメラ]]への統合を表明し、両社とも小型軽量化を特徴のひとつとする、[[マイクロフォーサーズシステム]]に開発をシフトすることで事実上撤退した<ref>[http://www.olympus.co.jp/jp/news/2013b/nr130910em1j.jsp 従来型一眼レフを統合するミラーレスのフラッグシップ機「OLYMPUS OM-D E-M1」発売]オリンパスイメージング株式会社 2013年9月10日</ref>。
2005年、[[ソニー]]は、[[コニカミノルタ]]とαマウントを採用したデジタル一眼レフをコニカミノルタと共同開発するとの発表を行なったが、2006年1月にコニカミノルタはデジタル一眼レフカメラ事業から撤退、ソニーがαマウントを引き継いだ。さらに[[大韓民国|韓国]][[サムスン電子]]グループのサムスンテックウィンが[[ペンタックス]]とデジタル一眼レフカメラを共同開発、部品の共通調達によるコスト削減が目的であったがその後サムスンは一眼レフからは撤退、ペンタックスは[[HOYA]]との合併統合、[[リコー]]の子会社化という経緯を辿りながら、Kマウントと[[中判カメラ|中判]]645マウントのデジタル一眼レフカメラの多マウント展開を継続している。
またカメラのデジタル化によって、これまでにない新たな機能が一眼レフカメラにも組み込まれることとなる。手ぶれによる映像の乱れを軽減させる[[手ぶれ補正機能]]は、一部の交換レンズに組み込まれる方式だけでなく、カメラ本体のイメージセンサーを手ぶれに応じて移動させ取り付けるレンズすべてを対応させる方式などフィルムカメラではできなかった技術が登場し、各社で方式は違うがデジタル一眼レフの一機能として定着している。一眼レフカメラは途中に反射鏡を組み込む構造上、コンパクトデジタルカメラのように背面の液晶モニターを使ったフルタイムライブビュー撮影は不可能とされてきたが、2004年にオリンパスから発売された'''[[オリンパス E-330]]'''がレンズ交換式デジタル一眼レフカメラとして初めてフルタイムライブビュー機能を実現し<ref group="注釈">ライブビュー専用のイメージセンサーやミラーアップによる。</ref>、以後各メーカーがフルタイムライブビュー機能や一部の機種に[[バリアングル液晶]]を搭載するようになる。さらに2008年9月にはニコンがデジタル一眼レフカメラとして初めて[[動画]][[撮影]]に対応した'''D90'''を発表。その後各メーカーが対応機種を発売しデジタル一眼レフカメラの一機能として定着している。
===== デジタル一眼レフカメラとビデオグラフィ =====
2009年以降は、[[キヤノン EOS 5D Mark II]]などの動画撮影機能が標準採用されているデジタル一眼レフカメラの登場に伴い、ビデオパッケージ([[カラオケ]]用画像撮影・[[結婚式]]や説明用ビデオの撮影・等)など、コスト管理にシビアな映像を高画質で撮影することを主な目的とした撮影に[[ビデオカメラ|業務用ビデオカメラ]]の代わりにデジタル一眼レフカメラが、使用されつつある。デジタル一眼レフカメラ用の[[カメラ]][[スタビライザー]]({{lang-en-short|[[w:Steadicam|Steadicam]]}}、[[ステディカム]])などカメラサポート機材や[[ヘッドフォン]]や[[マイクロフォン]]/[[ICレコーダー]]などのオーディオ機器や外部モニター/[[ファインダー|液晶ファインダー]]などデジタル一眼レフカメラの動画撮影用の機材も登場している。
==== ミラーレス一眼カメラの登場 ====
2008年以降、一眼レフカメラとは異なり光学ファインダーを廃してライブビューのみで撮影を行うレンズ交換式デジタルカメラの新形式として[[ミラーレス一眼カメラ]]が登場し、その後各社からも様々な規格の機種が発売された。{{Main|ミラーレス一眼カメラ}}そして一時は戦国時代の様相を呈したものの淘汰が進み、後発メーカーの主力製品はこのミラーレス一眼カメラへと移行、現在、デジタル一眼レフカメラはフィルム時代から続くメーカーの製品のみが残っている。具体的には、[[ニコン]]、[[キヤノン]]、[[リコーイメージング]]<ref group="注釈">ペンタックスのブランド名で展開している。</ref>、シグマ、[[フェーズワン|フェーズワン・ジャパン]]、[[ライカ]]、[[ハッセルブラッド]]、[[ローライ]]の8社となる(2015年12月現在)。
デジタル一眼レフとミラーレス一眼カメラとでは、どちらもレンズ交換が可能であるという共通点があるものの、[[ファインダー]]部の有無や構造などをはじめ仕組みでは異なる部分も多い。デジタル一眼レフが勝る点としては、光学ファインダーによるクリアーな視野、位相差方式による高速で動体追従性の高いオートフォーカス、比較的豊富なレンズラインアップ、等があげられるのに対し、[[ミラーレス一眼カメラ]]では小型軽量性やデザイン自由度、撮影結果を見ながら撮影可能な電子ビューファインダー、機械部品が少ないことによるコスト面でのメリット等がある<ref>[http://www.monox.jp/digitalcamera-advice-dslr-single-lens-reflex.html デジタル一眼レフの構造と特徴]monoxデジカメ比較レビュー 2013年4月11日</ref>。なお、両システムを展開しているメーカーであってもレンズマウントはそれぞれ異なるのが一般的である<ref>[https://dc.watch.impress.co.jp/docs/review/lensmount/527033.html レンズマウント物語]デジカメWatch 2012年4月18日</ref>。
==== プロ用機材としての需要の変化 ====
スポーツ写真の分野において。2010年代半ば頃はキヤノンとニコンの一眼レフカメラがシェアを二分していたが、2013年にソニーが35ミリフルサイズの撮像素子を採用したミラーレス一眼カメラ「α9」を発売以降、高性能機種や交換レンズの投入・整備に伴い、急速にシェアを伸ばしている<ref>{{Cite web|和書|title=五輪のカメラに異変 ミラーレスに脚光、「新興勢力」が存在感:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASP833CCPP70UTQP02C.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2021-08-08|language=ja}}</ref>。2018年にはキヤノンとニコンも35ミリフルサイズの撮像素子に対応した新マウントのミラーレス一眼カメラを発売し、プロ用機材の新規開発も一眼レフからミラーレス一眼カメラに転換している。
== 一眼レフカメラを製造している、または製造したことのある主なメーカー ==
アルファベット順に挙げる。
*[[A・アダムス]]
*[[アルパ (カメラ)|アルパ]]
*[[キヤノン]] - [[キヤノンのカメラ製品一覧]]
*[[コーフィールド (カメラ)]]
*[[コシナ]] - [[コシナのカメラ製品一覧]]
*[[富士フイルム]] - [[富士フイルムのカメラ製品一覧]]
*ガンマ - [[デュフレックス]]
*[[グラフレックス]] - [[グラフレックスのカメラ製品一覧]]
*[[ハッセルブラッド]] - [[ハッセルブラッドのカメラ製品一覧]]
*[[ホートン]]
*[[イハゲー]] - [[エクサクタ]]
*[[ジェームズ・A・シンクレア]]
*[[ジェームズ・F・シウ]]
*[[コニカ]] - [[コニカのカメラ製品一覧]]
*[[興和]] - [[興和のカメラ製品一覧]]
*[[京セラ]] - [[コンタックス]]
*[[ライカ]] - [[ライカの一眼レフカメラ製品一覧]]
*[[マミヤ・デジタル・イメージング]] - Phase one([[フェーズワン]])
*[[マミヤ・オーピー]] - [[マミヤ・オーピーのカメラ製品一覧]]
*[[メントール・カメラファブリーク・ゴルツ&ブロイトマン]]
*[[ミランダカメラ]] - [[ミランダのカメラ製品一覧]]
*[[ニューマン&ガーディア]]
*[[マリオン (カメラ)]]
*[[ミノルタ]] - [[ミノルタのカメラ製品一覧]]
*[[ニコン]] - [[ニコンの銀塩一眼レフカメラ製品一覧]]、[[ニコンのデジタル一眼レフカメラ製品一覧]]
*[[OMデジタルソリューションズ]](旧・[[オリンパス]]) - [[オリンパスOMシステム]]、[[オリンパス・ペンF]]、[[オリンパスE-システム]]
*[[パナソニック]] - [[LUMIX]]
*[[ペトリカメラ]] (旧・栗林写真工業) - [[ペトリカメラのカメラ製品一覧]]
*[[レクタフレックス]]
*[[リコー]] - [[リコーのカメラ製品一覧]]
*[[リコーイメージング]] (旧・旭光学工業) - [[PENTAXのカメラ製品一覧]]、[[PENTAXのデジタルカメラ製品一覧]]
*[[ローライ]]
*[[シグマ (カメラ)|シグマ]]
*[[ソニー]] - [[Α (カメラ)|α]]
*[[タムロン]] - [[ゼンザブロニカ|ブロニカ(旧ゼンザブロニカ)]]
*[[ソロントン・ピッカード]]
*[[トプコン]] - [[トプコンのカメラ製品一覧]]
*[[フォクトレンダー]] - [[フォクトレンダーのカメラ製品一覧]]
*[[ヤシカ]] - [[ヤシカのカメラ製品一覧]]、[[コンタックス]]
*[[ツァイス・イコン]] - [[コンタックス]]、[[コンタフレックス]]、[[コンタレックス]]
== 注釈 ==
{{Reflist|group="注釈"}}
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*『クラシックカメラ専科』[[朝日ソノラマ]]
*[[鈴木八郎]]『現代カメラ新書No.6、クラシックカメラ入門』朝日ソノラマ
*山縣敏憲『クラシックカメラで遊ぼう ボクが中古カメラ中毒者になったわけ』[[青泉社|グリーンアロー出版]] ISBN 4-7663-3322-5
== 外部リンク ==
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E7%9C%BC%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9 |
2,412 | レンジファインダー | レンジファインダー(Range Finder )とは本来、距離計一般を意味する語であるが、日本においては、光学視差式の距離計に限定して指すことが多い。
大型のものは測距儀ともいう。対物レンズの後ろにある鏡(またはプリズム)の傾斜角度で距離を測定する。
カメラでは、レンジファインダーカメラと呼称されるカメラのファインダーを指して「レンジファインダー」と言うことがある。また、レンジファインダーカメラそのものをレンジファインダーと言う場合もある。
左右に離れた2個の対物レンズで取り込んだ画像を、距離計に連動して回転する鏡(またはプリズム)によって、合成プリズムに送る。接眼レンズから覗いた左右の画像を重ね合わせて、距離を測定する。覗いたときの画像は上下に分断して見えるものと、二重に重なって見えるものとがある。回転する鏡(またはプリズム)が片側だけのものと、両側とも回転するものがある。
かつてこのような距離測定はほとんど光学視差式距離計によっていたが、近年は他の原理を採用したものも出現するようになった。
左右の対物レンズ間の距離を基線長といい、これが長いほど精度を高くしやすい。カメラに組み込んである光学視差式距離計の基線長は長くとも10cm程度であり、船舶用などで手持ちの光学視差式距離計の場合30~40cm程度である。
基線長に光学系の倍率を掛けたものを有効基線長と呼ぶ。基線長が1/2でも倍率が2倍であれば理論的には同じ精度が得られるが、実際には倍率は誤差にも掛かるため理論そのままの精度にはならない。
ここでは主として海軍の艦砲のための測距儀について述べる。
砲術全般について述べると長くなるため省略するが、一般に、基本的には放物線を描いて飛ぶ(大気による、空気抵抗と風による擾乱、コリオリ力による偏差等が加わる)砲弾群の「散布界」に目標を捉え続けること、が要諦であり、目標と着弾点に対する測距はその重要な要素である。
大日本帝国海軍が初期に導入した測距儀は、イギリスのバー&ストラウド製で、日本海海戦で有名な、戦艦三笠のものは基線長1.5mのF.A.2型(制式名「武式1米半測距儀」)であった。射程の伸長に伴い基線長を長く取るため巨大化し、帝国海軍の末期の大和型戦艦では、ネームシップの大和・二番艦武蔵いずれも日本光学製の、基線長15.5m(詳細には、15.72mと15.28mの長短2種)という測距儀が艦橋の上に備わっていた。
陸上用も含めた世界最大の測距儀は、イギリス帝国が当時植民地としていたシンガポールのブラガン・マテ要塞に設置した、基線長100フィート(30.48メートル)のものである。これもバー&ストラウド製であった。
光学視差式距離計が組み込まれていて、撮影用レンズの焦点距離調節機構が内蔵距離計に連動しているため、焦点合わせに距離計を利用できるカメラをレンジファインダーカメラという。 | [
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] | レンジファインダーとは本来、距離計一般を意味する語であるが、日本においては、光学視差式の距離計に限定して指すことが多い。 大型のものは測距儀ともいう。対物レンズの後ろにある鏡(またはプリズム)の傾斜角度で距離を測定する。 カメラでは、レンジファインダーカメラと呼称されるカメラのファインダーを指して「レンジファインダー」と言うことがある。また、レンジファインダーカメラそのものをレンジファインダーと言う場合もある。 | {{出典の明記|date=2018年12月}}
[[ファイル:ORP Burza RF.jpg|thumb|200px|right|測距儀で測距中のポーランド海軍[[ブルザ級駆逐艦]]「ブルザ」の水兵]]
'''レンジファインダー'''(''Range Finder'' )とは本来、[[距離計]]一般を意味する語であるが、日本においては、光学視差式の距離計に限定して指すことが多い。
大型のものは'''測距儀'''ともいう。[[対物レンズ]]の後ろにある[[鏡]](または[[プリズム]])の傾斜角度で距離を測定する。
カメラでは、[[レンジファインダーカメラ]]と呼称されるカメラのファインダーを指して「レンジファインダー」と言うことがある。また、レンジファインダーカメラそのものをレンジファインダーと言う場合もある。
== 原理 ==
左右に離れた2個の対物レンズで取り込んだ画像を、距離計に連動して回転する鏡(または[[プリズム]])によって、合成プリズムに送る。[[接眼レンズ]]から覗いた左右の画像を重ね合わせて、距離を測定する。覗いたときの画像は上下に分断して見えるものと、二重に重なって見えるものとがある。回転する鏡(またはプリズム)が片側だけのものと、両側とも回転するものがある。
かつてこのような距離測定はほとんど光学視差式距離計によっていたが、近年は他の原理を採用したものも出現するようになった。
{{Main|距離計}}
== 基線長 ==
左右の対物レンズ間の距離を'''基線長'''といい、これが長いほど精度を高くしやすい。カメラに組み込んである光学視差式距離計の基線長は長くとも10cm程度であり、船舶用などで手持ちの光学視差式距離計の場合30~40cm程度である。
基線長に光学系の倍率を掛けたものを'''有効基線長'''と呼ぶ。基線長が1/2でも倍率が2倍であれば理論的には同じ精度が得られるが、実際には倍率は誤差にも掛かるため理論そのままの精度にはならない。
== 軍用測距儀 ==
ここでは主として海軍の艦砲のための測距儀について述べる。
砲術全般について述べると長くなるため省略するが、一般に、基本的には放物線を描いて飛ぶ(大気による、空気抵抗と風による擾乱、コリオリ力による偏差等が加わる)砲弾群の「散布界」に目標を捉え続けること、が要諦であり、目標と着弾点に対する測距はその重要な要素である。
[[大日本帝国海軍]]が初期に導入した測距儀は、イギリスの[[バー&ストラウド]]製で、[[日本海海戦]]で有名な、戦艦[[三笠 (戦艦)|三笠]]のものは基線長1.5mのF.A.2型(制式名「武式1米半測距儀」)であった。射程の伸長に伴い基線長を長く取るため巨大化し、帝国海軍の末期の[[大和型戦艦]]では、[[ネームシップ]]の[[大和 (戦艦)|大和]]・二番艦[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]いずれも[[ニコン|日本光学]]製の、基線長15.5m(詳細には、15.72mと15.28mの長短2種)という測距儀が艦橋の上に備わっていた<ref group="注釈">構造物としては最も高い位置であるが、それでも、最大射程は水平線の向こうになってしまうため、その砲の威力を十分に発揮するには航空支援が不可欠となってしまっていた。人類の地球における海戦史上、その次世代で現状では最後の世代である[[アイオワ級戦艦]]では、レーダーを[[射撃統制システム|火器管制装置]]の主力としている。</ref>。
陸上用も含めた[[世界]]最大の測距儀は、[[イギリス帝国]]が当時植民地としていた[[シンガポール]]のブラガン・マテ要塞に設置した、基線長100[[フィート]](30.48[[メートル]])のものである。これもバー&ストラウド製であった。
== カメラ ==
光学視差式距離計が組み込まれていて、撮影用レンズの焦点距離調節機構が内蔵距離計に連動しているため、焦点合わせに距離計を利用できるカメラを[[レンジファインダーカメラ]]という。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
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*[[小倉磐夫]]『新装版 現代のカメラとレンズ技術』[[写真工業出版社]] 1995年 ISBN 4-87956-043-X
== 関連項目 ==
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* [[ダズル迷彩]] - レンジファインダー対策として考案された[[迷彩]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC |
2,413 | 二眼レフカメラ | 二眼レフカメラ(にがんレフカメラ)は、撮影用の光学系の他に、それと同等のファインダー用光学系を持ち、ファインダー用光学系中にその光路を屈曲させるためのミラーなどの反射(レフレックス)光学系を持つカメラである。
マイナーなものまで含めれば何種類かの類型があるが、ここでは最も一般的なタイプについて述べる。ほとんどが中判フィルムを利用する縦長の箱型のカメラで、二つの光学系・レンズが縦に並んでいる。下の光学系が撮影用で焦点面にはフィルムがあり、上の光学系がファインダー用で焦点面にはスリガラスがある。両者は同じ焦点距離の写真レンズで連動するピント合わせ機構を持ち、ファインダー用光学系で狙った被写体にピントを合わせると撮影用光学系でもピントが合う。焦点距離以外も、両者の光学系は一致していたほうが撮影される像とファインダー像が一致するが、ファインダー像には引き伸ばしに耐える解像度は必要ない一方、明るい=被写界深度が浅いほうがピントの山をつかみやすいといったこともあり、両者を異なった設計としたい理由もある。ピント合わせ機構の連動の方法としては、一枚のレンズボードに両方のレンズを取り付けてそのレンズボードを繰り出す方式と、ファインダー用レンズと撮影用レンズそれぞれに歯車の歯を刻み、噛み合わせて連動させる方式がある。
ファインダー用レンズの後に光を上方に90度反射するミラーが置かれ、カメラ上部に置かれたファインダースクリーンに結像される。これを直接見るウエストレベルファインダーのモデルが多いが特に必然ではなく、ペンタプリズムを使ったアイレベルファインダーと交換できるものもある。多くのウエストレベルファインダーはスクリーンの像を拡大表示するためのルーペを内蔵する。併設されるビューファインダーに簡単に切り換えられるカメラも多い。
フィルム室の構造は、カメラ底部にフィルムを巻いた供給側スプールを収納し、直角に曲げて背面上部の巻取側スプールに向けて走行する方式が一般的である。従って三脚座の付いた裏ブタはL字型をしており、フィルム交換の度に三脚やフラッシュガンを取り外す必要がある。これは大変に面倒であり、ローライのローライフィックス(Rollei Fix )をはじめ、多くのメーカーが迅速脱着装置をオプションとして発売していた。またリコーフレックスなどに代表される板金ボディの二眼レフカメラの多くは裏ブタがL字型ではなく平板型で、フィルムを装てんする中枠をカメラから取り出せるようになっている。
操作系などが、カメラの向きを90度変えて撮影するのが困難な配置であることが多く、そのためほとんどが 1:1 の正方形のフレームである。120フィルムを使用し6×6 cm判のカメラが大多数だが、ローライフレックス4×4やプリモフレックスジュニア等、127フィルムを使用する4×4 cm判も多くある。例外として、極少数だがツァイス・イコンのコンタフレックス、アグフアのフレキシレッテ、ボルシーのボルシーC、ヤルー光学(後のアイレス写真機製作所)のヤルーフレックス、東郷堂のトヨカ35、同ホビックス35、三栄産業のサモカフレックス35は24×36 mm判(ライカ判)である。アルコ写真工業の24×36 mm判(ライカ判)レンジファインダーカメラアルコ35はオプションのビューアルコを装着することにより二眼レフカメラになった。ほかにフランス製のオントフレックス(1934年発売?)、ウェルタのスーパーフェクタなど6×9 cm判、小西六写真工業のコニオメガフレックスのような6×7 cm判の二眼レフカメラもあった。
また東郷堂のトヨカ35とメイカイレフは2つのレンズを横に並べた二眼レフカメラ、ウェルタのパーフェクタとスーパーフェクタとカメラ・ウェルクシュテーテン・グーテ&トルシュのピロートは折りたたみ式二眼レフカメラ、フォクトレンダーのスパーブはフィルム送りのみ横方向になっている二眼レフカメラ、コンパスカメラのコンパスカメラIとコンパスカメラIIは超小型二眼レフカメラ、フォスのフォスフレックスIはフォーカルプレーンシャッターを装備した二眼レフカメラで、いずれも極めて珍しい存在である。
おおむね1960年代やそれ以降の製品であればセレンやCdSを使った露出計を内蔵していることが多い。ローライフレックス2.8FXやローライフレックス4.0FWはシリコンフォトダイオードによるTTL露出計でTTL自動調光である。
一眼レフカメラと異なり、自動絞りやミラー上下機構も不要であり、撮影用レンズとファインダー用レンズが別なのでレンズシャッターを簡単に使用できるため、工作が容易で参入しやすい。一眼レフカメラ特有のブラックアウトやミラーの上下によるショックもない。一眼レフカメラほど複雑な機構でないため軽量で故障も少なく、製造が簡単なために価格も安い。しかし、撮影用レンズと同等のレンズがファインダーにも必要なため容積が大きくなる、レンズ交換機能を持たせることが困難である、近接撮影では視差が大きくなる、縦位置に構えるのが困難なためフォーマットが限定されるという欠点もある。
1882年頃にマリオンが製造したアカデミーカメラは最初単なる二眼カメラであったがドリフィールドの指導で二眼レフカメラに改良され、これが世界最初の二眼レフカメラとされる。
1890年のステレオスコピックが製造したアーティストカメラなども黎明期の二眼レフカメラとして知られる。
ただしその後の発展はなかった。
近代二眼レフカメラとして発売された最初のカメラは1929年にドイツでフランケ&ハイデッケ(現ローライ)から発売されたローライフレックスオリジナルである。これは同社がそれ以前に出していた三眼式ステレオカメラから撮影レンズを一つ取る形で開発され、スタイルは最初から洗練されかつほぼ完成していた。これに対抗しツァイス・イコンはイコフレックス、フォクトレンダーはスパーブを発売して名門メーカーの意地を見せたが使いにくく、前者の後継機はだんだんローライに似て行き、後者は後継機が出なかった。その後発売された二眼レフカメラの殆どはローライフレックスや、その普及版ローライコードの形式を踏襲したものである。
ローライフレックスシリーズはアタッチメントのバヨネット化、オートマット化、レンズの大口径化、220フィルム対応と順調に改良を続け、非常なるロングセラーとなった。
ローライコードシリーズは前述の通り本来ローライフレックスシリーズの普及版であったが、速写性があり軽量だったこともあって、一時報道用や旅行用カメラとして、単なる普及版以上の地位を占めた。ローライのアタッチメントのバヨネットマウントは事実上二眼レフアタッチメントの世界共通規格となった。
太平洋戦争後の日本においては、ボディを板金で作りベルトコンベアを導入して大量生産を実行し6,800円という低価格を実現したリコーフレックスIIIが1950年に発売された。当時の30歳代サラリーマンの月給から現在の価値に換算すれば約25,000円程度の金額であるが、当時ローライフレックスをはじめ、まともなカメラが軒並み30,000円以上の販売価格だったことに鑑みると驚異的な価格破壊と言える。あまりの人気にプレミアム価格で取引され、定価販売するリコー系列の銀座三愛前には行列ができる程であった。これが発端となって二眼レフカメラの大ブームが起きた。
製造者側にとっても構造が単純で簡単に組み立て可能、しかも型落ちの大手メーカー製ボディーやリコーが大量製造したレンズ、あちこちのメーカーで濫造されていた各種シャッターなどが手軽に手に入ったため、いわゆる「四畳半メーカー」と呼ばれる零細メーカーが乱立し、一時は「カメラ名のイニシャルがAからZまで揃っていた」と言われた程である。大手製品と酷似しているのにメーカー不明なカメラが多く現存することからもそれが窺える。ちなみにAはアイレス写真機製作所のアイレスフレックス、Zは第一光学のゼノビアフレックスが知られる。またJ、U、Xが頭文字のカメラは知られていない。
日本のカメラメーカーで二眼レフカメラを販売しなかったのは日本光学工業(現ニコン)、キヤノン、旭光学工業(現リコーイメージング)、ミランダカメラ等少数である。このうち日本光学工業は1946年(昭和21年)4月に後にニコン Iとなる距離計連動カメラとともに二眼レフカメラを製造することを予定していたが、二眼レフカメラの方は適当なシャッターを入手できず、新たにシャッターを設計して小林精機(現日本電産コパル)に製造委託したが、これにより開発は大きく遅れて最終的に二眼レフカメラの開発は中止となり、発売に至らなかった。余ったシャッターはオリンパスが引き取った。
このメーカー乱立時代を終わらせたのはヤシカが1954年(昭和29年)に発売したヤシカフレックスで、二眼レフカメラの人気が下火になりかけたところに10,000円を切る価格で投入されたため、結果として二眼レフカメラを見限るメーカーが続出した。
結論としては、135フィルムを使う小型カメラがハイエンドからローエンドまで広がったことで、「高性能な中判カメラ」の地位はハッセルブラッドに代表される中判一眼レフに集中し、安価で手軽なカメラの地位は35mmフィルムからの引き伸ばしが一般化したこともあり小型カメラで要求が満たされるようになって、中判二眼レフのブームは終わりニッチ的な存在となった。
多くの二眼レフカメラの基本構造はローライやリコーの模倣の域を出なかったが、いくつかのメーカーは模倣から脱却しようと努力していた。
ミノルタ(現コニカミノルタ)のミノルタコードシリーズではピント合わせをレンズ下のレバー式にすることによりピント合わせの迅速化を図った。このため目測に習熟すれば一瞬でピント合わせができる。
マミヤのCシリーズは二眼レフカメラでは珍しくレンズ交換が可能で、実際にいくつもの交換レンズが用意されていた。レンズ交換式のカメラは他にこのシリーズと同様に前板交換式だが日中レンズ交換ができないフォトレックスのレックスレフレックスシリーズ、コニカ(現コニカミノルタ)が製造した前玉交換式のコニフレックスシリーズ、ツァイス・イコンが製造したライカ判のコンタフレックスがあるが、どれも稀少品で、マミヤCシリーズが事実上唯一に近い。幅広い焦点距離のレンズに対応し接写撮影を実現するため、フォーカシングは蛇腹を使用するラック・アンド・ピニオン式とし、それらに対応した距離表示、露出倍数やパララックスの表示も実現していた。またマミヤCシリーズ用アクセサリーに、ビューレンズのあった場所にテイクレンズが来るようにカメラ本体を上昇させパララックスを補正するエレベーター状のアクセサリー「パラメンダー」があり、これを使えば速写性は損なわれるものの一眼レフカメラと同様パラララックスを根本的に解消できる。またフィルムは折り曲げず、背面下部から上部へ走行する方式のため、平面性の点でも有利であった。しかしこれらの特長の代償として重厚長大になってしまった。
ローライ自身もプログラム式の自動露出を装備して簡単撮影を実現した新シリーズのローライマジックを開発したが、コンパクトカメラの出現により販売は不振に終わった。
1955年(昭和30年)頃を境に大衆向けカメラの地位は35mm レンズシャッターカメラに代わっていったため二眼レフカメラの販売数は下降、ヤシカのヤシカマット124Gが1988年(昭和63年)に、マミヤC330Sが1994年(平成6年)1月31日に販売中止になり、日本で新規の生産は消滅した。
2008年(平成20年)にPowerShovelより発売された『blackbird, fly』というトイカメラは、一般にも写真店で容易に入手できる135フィルムで撮影できるのが大きな特徴であった。ただしこのカメラはピントが目測式であり、厳密な意味での二眼レフカメラではない。
2010年(平成22年)には大人の科学マガジンの付録に組立式、135フィルムを使用しライカ(24×36mm)判の二眼レフカメラが付録化された。 | [
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"text": "ローライフレックスシリーズはアタッチメントのバヨネット化、オートマット化、レンズの大口径化、220フィルム対応と順調に改良を続け、非常なるロングセラーとなった。",
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"text": "ローライ自身もプログラム式の自動露出を装備して簡単撮影を実現した新シリーズのローライマジックを開発したが、コンパクトカメラの出現により販売は不振に終わった。",
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] | 二眼レフカメラ(にがんレフカメラ)は、撮影用の光学系の他に、それと同等のファインダー用光学系を持ち、ファインダー用光学系中にその光路を屈曲させるためのミラーなどの反射(レフレックス)光学系を持つカメラである。 | [[ファイル:Rolleiflex Original.jpg|thumb|300px|世界初の近代二眼レフカメラ、ローライフレックスオリジナル]]
'''二眼レフカメラ'''(にがんレフカメラ)は、撮影用の光学系の他に、それと同等のファインダー用光学系を持ち、ファインダー用光学系中にその光路を屈曲させるためのミラーなどの反射(レフレックス)光学系を持つカメラである。
== 概要 ==
マイナーなものまで含めれば何種類かの類型があるが<ref group="注釈">たとえば、135フィルム利用でレンズが横に並ぶものなど。</ref>、ここでは最も一般的なタイプについて述べる。ほとんどが[[中判カメラ|中判]]フィルムを利用する縦長の箱型のカメラで、二つの光学系・レンズが縦に並んでいる。下の光学系が撮影用で焦点面にはフィルムがあり、上の光学系がファインダー用で焦点面にはスリガラスがある。両者は同じ焦点距離の[[写真レンズ]]で連動する[[ピント]]合わせ機構を持ち、ファインダー用光学系で狙った被写体にピントを合わせると撮影用光学系でもピントが合う。焦点距離以外も、両者の光学系は一致していたほうが撮影される像とファインダー像が一致するが、ファインダー像には引き伸ばしに耐える解像度は必要ない一方、明るい=被写界深度が浅いほうがピントの山をつかみやすいといったこともあり、両者を異なった設計としたい理由もある。ピント合わせ機構の連動の方法としては、一枚のレンズボードに両方のレンズを取り付けてそのレンズボードを繰り出す方式と、ファインダー用レンズと撮影用レンズそれぞれに[[歯車]]の歯を刻み、噛み合わせて連動させる方式がある。
ファインダー用レンズの後に光を上方に90度反射する[[鏡|ミラー]]が置かれ、カメラ上部に置かれたファインダースクリーンに結像される<ref name="clacamesenka1-191">『クラシックカメラ専科』p.191。</ref>。これを直接見る[[ファインダー#ウエストレベルファインダー|ウエストレベルファインダー]]のモデルが多いが特に必然ではなく、[[ペンタプリズム]]を使った[[ファインダー#アイレベルファインダー|アイレベルファインダー]]と交換できるものもある。多くのウエストレベルファインダーはスクリーンの像を拡大表示するための[[ルーペ]]を内蔵する。併設される[[ファインダー#ビューファインダー|ビューファインダー]]に簡単に切り換えられるカメラも多い。
<gallery>
ファイル:Rolleicord I type2.jpg|前面。ファインダーは収納状態。
ファイル:Rolleicord I type2-Kaihei01.jpg|前面。ファインダーフードを開く。
ファイル:Rolleicord I type2-Kaihei02.jpg|背面。ファインダーは上から覗くウエストレベルファインダー。
ファイル:Rolleicord I type2-Naibu.jpg|背面と底部。フィルムは底面から直角に曲がって、背面上部へ走行する。
</gallery>
フィルム室の構造は、カメラ底部にフィルムを巻いた供給側[[スプール]]を収納し、直角に曲げて背面上部の巻取側スプールに向けて走行する方式が一般的である。従って[[三脚]]座の付いた裏ブタはL字型をしており、フィルム交換の度に三脚や[[閃光電球|フラッシュガン]]を取り外す必要がある。これは大変に面倒であり、[[ローライ]]のローライフィックス(''Rollei Fix'' )をはじめ、多くのメーカーが迅速脱着装置をオプションとして発売していた。また[[リコー]]フレックスなどに代表される[[板金]]ボディの二眼レフカメラの多くは裏ブタがL字型ではなく平板型で、フィルムを装てんする中枠をカメラから取り出せるようになっている。
操作系などが、カメラの向きを90度変えて撮影するのが困難な配置であることが多く、そのためほとんどが 1:1 の正方形のフレームである。[[120フィルム]]を使用し6×6 cm判のカメラが大多数だが、[[ローライ#二眼レフカメラ|ローライフレックス]]4×4やプリモフレックスジュニア等、[[127フィルム]]を使用する4×4 cm判も多くある。例外として、極少数だが[[ツァイス・イコン]]の[[コンタフレックス]]、[[アグフア・ゲバルト|アグフア]]の'''フレキシレッテ'''、[[ボルシー]]の'''ボルシーC'''、ヤルー光学(後の[[アイレス写真機製作所]])の'''ヤルーフレックス'''<ref name="clacamesenka3-108">『クラシックカメラ専科No.3、戦後国産カメラの歩み』p.108。</ref>、東郷堂の'''トヨカ35'''、同'''ホビックス35'''、[[三栄産業 (カメラメーカー)|三栄産業]]の'''サモカフレックス35'''は24×36 mm判([[ライカ判]])である。[[アルコ写真工業]]の24×36 mm判(ライカ判)[[レンジファインダー]]カメラ'''アルコ35'''はオプションのビューアルコを装着することにより二眼レフカメラになった<ref>『クラシックカメラ専科No.3、戦後国産カメラの歩み』p.156。</ref>。ほかに[[フランス]]製の'''オントフレックス'''([[1934年]]発売?)、[[ウェルタ・カメラヴェルク|ウェルタ]]の'''スーパーフェクタ'''など6×9 cm判、[[コニカ|小西六写真工業]]の'''コニオメガフレックス'''のような6×7 cm判の二眼レフカメラもあった。
また東郷堂の'''トヨカ35'''と'''メイカイレフ'''は2つのレンズを横に並べた二眼レフカメラ、ウェルタの'''パーフェクタ'''と'''スーパーフェクタ'''<ref>『現代カメラ新書No.6、クラシックカメラ入門』p.91。</ref>と[[カメラ・ウェルクシュテーテン・グーテ&トルシュ]]の'''ピロート'''は折りたたみ式二眼レフカメラ、[[フォクトレンダー]]の[[フォクトレンダーの二眼レフカメラ製品一覧|スパーブ]]はフィルム送りのみ横方向になっている二眼レフカメラ<ref name="clacamesenka17-95">『クラシックカメラ専科No.17、フォクトレンダーのすべて』p.95。</ref>、[[コンパスカメラ]]の'''コンパスカメラI'''と'''コンパスカメラII'''は超小型二眼レフカメラ、フォスの'''フォスフレックスI'''はフォーカルプレーンシャッターを装備した二眼レフカメラで、いずれも極めて珍しい存在である。
おおむね[[1960年代]]やそれ以降の製品であれば[[セレン]]や[[硫化カドミウム|CdS]]を使った[[露出計]]を内蔵していることが多い。'''ローライフレックス2.8FX'''や'''ローライフレックス4.0FW'''は[[ケイ素|シリコン]][[フォトダイオード]]による[[TTL露出計]]で[[TTL自動調光]]である。
== 利点と欠点 ==
[[一眼レフカメラ]]と異なり、自動絞りやミラー上下機構も不要であり、撮影用レンズとファインダー用レンズが別なので[[シャッター (カメラ)#レンズシャッター|レンズシャッター]]を簡単に使用できるため、工作が容易で参入しやすい<ref>『現代カメラ新書No.6、クラシックカメラ入門』p.86。</ref>。一眼レフカメラ特有の[[ブラックアウト]]やミラーの上下によるショックもない<ref>『現代カメラ新書No.6、クラシックカメラ入門』p.88。</ref>。一眼レフカメラほど複雑な機構でないため軽量で故障も少なく、製造が簡単なために価格も安い。しかし、撮影用レンズと同等のレンズがファインダーにも必要なため容積が大きくなる、レンズ交換機能を持たせることが困難である、[[接写|近接撮影]]では[[視差]]が大きくなる、縦位置に構えるのが困難なためフォーマットが限定されるという欠点もある。
== 歴史 ==
=== 写真乾板を使用する二眼レフカメラ ===
[[1882年]]頃に[[マリオン (カメラ)|マリオン]]が製造した'''アカデミーカメラ'''は最初単なる二眼カメラであったがドリフィールドの指導で二眼レフカメラに改良され、これが世界最初の二眼レフカメラとされる<ref name="clacamesenka1-140">『クラシックカメラ専科』p.140。</ref>。
[[1890年]]のステレオスコピックが製造した'''アーティストカメラ'''なども黎明期の二眼レフカメラとして知られる<ref name="clacamesenka1-191" />。
ただしその後の発展はなかった<ref name="clacamesenka1-140" />。
=== ローライと初期の近代二眼レフカメラ ===
近代二眼レフカメラとして発売された最初のカメラは[[1929年]]にドイツでフランケ&ハイデッケ(現[[ローライ]])から発売された'''ローライフレックスオリジナル'''である<ref>『現代カメラ新書No.3、世界の珍品カメラ』p.132。</ref><ref name="clacamesenka1-191" />。これは同社がそれ以前に出していた三眼式[[ステレオカメラ]]から撮影レンズを一つ取る形で開発され、スタイルは最初から洗練されかつほぼ完成していた。これに対抗し[[ツァイス・イコン]]は[[イコフレックス]]、[[フォクトレンダー]]は[[フォクトレンダーの二眼レフカメラ製品一覧|スパーブ]]<ref name="clacamesenka17-95" />を発売して名門メーカーの意地を見せたが使いにくく、前者の後継機はだんだんローライに似て行き、後者は後継機が出なかった。その後発売された二眼レフカメラの殆どはローライフレックスや、その普及版ローライコードの形式を踏襲したものである。
[[ファイル:Rolleiflex camera.jpg|thumb|right|100px|1960年頃のローライフレックス]]
ローライフレックスシリーズはアタッチメントの[[レンズマウント#バヨネット式|バヨネット]]化、[[オートマット]]化、レンズの大口径化、[[220フィルム]]対応と順調に改良を続け、非常なるロングセラーとなった。
ローライコードシリーズは前述の通り本来ローライフレックスシリーズの普及版であったが、速写性があり軽量だったこともあって、一時[[報道]]用や[[旅行]]用カメラとして、単なる普及版以上の地位を占めた。ローライのアタッチメントのバヨネットマウントは事実上二眼レフアタッチメントの[[デファクトスタンダード|世界共通規格]]となった。
=== 戦後の二眼レフブーム ===
[[太平洋戦争]]後の日本においては、ボディを板金で作り[[ベルトコンベア]]を導入して[[大量生産]]を実行し6,800円<ref group="注釈">『クラシックカメラ専科』p.27は5,800円とする。</ref><ref group="注釈">『クラシックカメラ専科No.3、戦後国産カメラの歩み』p.116は7,600円とする。</ref>という低価格を実現した'''リコーフレックスIII'''が[[1950年]]に発売された<ref>『クラシックカメラ専科No.3、戦後国産カメラの歩み』p.116。</ref>。当時の30歳代[[サラリーマン]]の月給から現在の価値に換算すれば約25,000円程度の金額であるが、当時ローライフレックスをはじめ、まともなカメラが軒並み30,000円以上の販売価格だったことに鑑みると驚異的な[[価格破壊]]と言える。あまりの人気にプレミアム価格で取引され、定価販売するリコー系列の銀座三愛前には行列ができる程であった<ref name="clacamesenka3-155">『クラシックカメラ専科No.3、戦後国産カメラの歩み』p.155。</ref>。これが発端となって二眼レフカメラの大ブームが起きた。
製造者側にとっても構造が単純で簡単に組み立て可能、しかも型落ちの大手メーカー製ボディーやリコーが大量製造したレンズ、あちこちのメーカーで濫造されていた各種シャッターなどが手軽に手に入ったため、いわゆる「四畳半メーカー」<ref name="clacamesenka3-155" />と呼ばれる零細メーカーが乱立し、一時は「カメラ名のイニシャルがAからZまで揃っていた<ref name="clacamesenka3-110">『クラシックカメラ専科No.3、戦後国産カメラの歩み』p.110。</ref>」と言われた程である。大手製品と酷似しているのにメーカー不明なカメラが多く現存することからもそれが窺える。ちなみにAは[[アイレス写真機製作所]]の'''アイレスフレックス'''<ref name="clacamesenka3-108" />、Zは[[第一光学]]の'''ゼノビアフレックス'''<ref name="clacamesenka3-110" />が知られる。またJ、U、Xが頭文字のカメラは知られていない。
日本のカメラメーカーで二眼レフカメラを販売しなかったのは日本光学工業(現[[ニコン]])、[[キヤノン]]、旭光学工業(現[[リコーイメージング]])、[[ミランダカメラ]]等少数である。このうち日本光学工業は[[1946年]](昭和21年)4月に後に'''ニコン I'''となる距離計連動カメラとともに二眼レフカメラを製造することを予定していたが、二眼レフカメラの方は適当なシャッターを入手できず、新たにシャッターを設計して小林精機(現[[日本電産コパル]])に製造委託したが、これにより開発は大きく遅れて最終的に二眼レフカメラの開発は中止となり、発売に至らなかった。余ったシャッターは[[オリンパス]]が引き取った。
このメーカー乱立時代を終わらせたのは[[ヤシカ]]が[[1954年]](昭和29年)に発売した'''ヤシカフレックス'''で、二眼レフカメラの人気が下火になりかけたところに10,000円を切る価格で投入されたため、結果として二眼レフカメラを見限るメーカーが続出した<ref name="clacamesenka3-155" />。
結論としては、[[135フィルム]]を使う小型カメラがハイエンドからローエンドまで広がったことで、「高性能な中判カメラ」の地位はハッセルブラッドに代表される中判一眼レフに集中し、安価で手軽なカメラの地位は35mmフィルムからの引き伸ばしが一般化したこともあり小型カメラで要求が満たされるようになって、中判二眼レフのブームは終わりニッチ的な存在となった。
=== 模倣からの脱却 ===
多くの二眼レフカメラの基本構造はローライやリコーの[[コピー|模倣]]の域を出なかったが、いくつかのメーカーは模倣から脱却しようと努力していた。
[[ミノルタ]](現[[コニカミノルタ]])のミノルタコードシリーズではピント合わせをレンズ下のレバー式にすることによりピント合わせの迅速化を図った。このため目測に習熟すれば一瞬でピント合わせができる<ref>『間違いだらけのカメラ選び1993』p.267。</ref>。
[[マミヤ・オーピー|マミヤ]]のCシリーズは二眼レフカメラでは珍しくレンズ交換が可能で、実際にいくつもの[[交換レンズ]]が用意されていた。レンズ交換式のカメラは他にこのシリーズと同様に前板交換式だが日中レンズ交換ができない[[フォトレックス]]のレックスレフレックスシリーズ、[[コニカ]](現[[コニカミノルタ]])が製造した前玉交換式のコニフレックスシリーズ、[[ツァイス・イコン]]が製造したライカ判の[[コンタフレックス]]があるが、どれも稀少品で、マミヤCシリーズが事実上唯一に近い。幅広い焦点距離のレンズに対応し[[接写]]撮影を実現するため、[[フォーカシング]]は[[蛇腹]]を使用する[[ラック・アンド・ピニオン]]式とし、それらに対応した距離表示、露出倍数や[[パララックス]]の表示も実現していた。またマミヤCシリーズ用アクセサリーに、ビューレンズのあった場所にテイクレンズが来るようにカメラ本体を上昇させパララックスを補正するエレベーター状のアクセサリー「パラメンダー」があり、これを使えば速写性は損なわれるものの一眼レフカメラと同様パラララックスを根本的に解消できる。またフィルムは折り曲げず、背面下部から上部へ走行する方式のため、平面性の点でも有利であった。しかしこれらの特長の代償として[[重厚長大]]になってしまった。
ローライ自身もプログラム式の[[AEカメラ|自動露出]]を装備して簡単撮影を実現した新シリーズの'''ローライマジック'''を開発したが、コンパクトカメラの出現により販売は不振に終わった。
[[File:Gakken Otona no Kagaku Camera.JPG|thumb|150px|大人の科学 二眼レフカメラ]]
=== 日本での生産の停止 ===
[[1955年]](昭和30年)頃を境に大衆向けカメラの地位は35mm レンズシャッターカメラに代わっていったため二眼レフカメラの販売数は下降、[[ヤシカ]]の'''ヤシカマット124G'''が[[1988年]](昭和63年)に、'''マミヤC330S'''が[[1994年]](平成6年)[[1月31日]]に販売中止になり、日本で新規の生産は消滅した。
=== その後 ===
[[2008年]](平成20年)にPowerShovelより発売された『blackbird, fly』という[[トイカメラ]]は、一般にも写真店で容易に入手できる[[135フィルム]]で撮影できるのが大きな特徴であった。ただしこのカメラはピントが目測式であり、厳密な意味での二眼レフカメラではない。
[[2010年]](平成22年)には[[大人の科学]]マガジンの付録に組立式、[[135フィルム]]を使用しライカ(24×36mm)判の二眼レフカメラが付録化された。
== 注釈 ==
{{Reflist|group="注釈"}}
== 出典 ==
<references />
== 参考文献 ==
* 小倉磐夫『国産カメラ開発物語』朝日選書
* 北野邦雄『現代カメラ新書No.3、世界の珍品カメラ』朝日ソノラマ
* 鈴木八郎『現代カメラ新書No.6、クラシックカメラ入門』朝日ソノラマ
* 『クラシックカメラ専科』朝日ソノラマ
* 『クラシックカメラ専科No.2、名機105の使い方』朝日ソノラマ
* 『クラシックカメラ専科No.3、戦後国産カメラの歩み』朝日ソノラマ
* 『クラシックカメラ専科No.17、フォクトレンダーのすべて』朝日ソノラマ
* 田中長徳『間違いだらけのカメラ選び1993』IPC ISBN 4-87198-402-8
== 関連項目 ==
* [[一眼レフカメラ]]
* [[スプリングカメラ]]
* [[ステレオカメラ]]
* [[パノラマカメラ]]
* [[レンジファインダーカメラ]]
* [[ローライ]] - 元祖のメーカー。
== 外部リンク ==
{{commonscat|Twin-lens reflex cameras}}
* [http://www.rollei.com/ Rollei GmbH]
* [http://komamura.co-site.jp/Rollei/index.html 駒村商会 - ローライ]
* [http://www.superheadz.com/bbf/ Black Bird Fly]
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[[Category:カメラ]] | null | 2023-07-17T16:52:14Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E7%9C%BC%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9 |
2,415 | レンズ付きフィルム | レンズ付きフィルム(レンズつきフィルム)とは、フィルムを工場で最初から内蔵した状態で販売され、撮影後は筐体ごと現像工場もしくはラボ店で回収されることを前提とした構造の、軽便なカメラである。1980年代に出現し、一時は広く普及した。一般的に使い捨てカメラと呼ばれることもあるが、メーカーなどの写真業界ではそのような呼称はしていない(後述「レンズ付きフィルムの出現」を参照)。
筐体・内部構造共々大部分がプラスチックで製作されている。カメラとしては、ごく簡易な固定焦点式がほとんどで、シャッタースピードも固定されている。露出調整は機械的な調整によらず、ネガフィルムそのものの広いラティチュードに頼り、絞りもあらかじめ絞られて(F11 - 16程度)固定焦点によりピント調節を省略している。このため、ユーザーは最小限のカメラ操作で簡単に写真を撮影することができる。
フィルムは一般的な市販品でも高感度寄りのISO400規格のものが多く用いられる。ISO400以上の高感度フィルムは、かつてポピュラーだったISO100クラスのフィルムに比べてシャッタースピードを速くできる優位があるが、反面、フィルム粒子の関係で画質が粗い傾向があった。しかし1980年代には技術・品質の向上により、画質のザラツキ感がさほど感じられないようになった。これにより、焦点固定・シャッター速度固定のカメラでも、手ぶれや露光不足などの問題を伴わずに満足しうる質の写真を撮影できるようになった。
また、同じ頃にプラスチックレンズの品質が向上し、なおかつ低コストで量産できるようになった。高価なガラスレンズを用いることなく、射出成型技術で生産できるプラスチックレンズで機能を満たせるようになったことは重要なブレークスルーである。さらに像面湾曲によるアウトフォーカスボケ軽減のため、ミノックスなどで知られる手法であるが、フィルム面を意図的に湾曲させる技法も導入されるようになった。
装填されたフィルムは、工場での装填時にパトローネから全部引き出された状態でスプロケットに巻かれており、パトローネ中に巻き戻しながら使う方式である。このため、ユーザーによるフィルムの動作方向は巻き上げ一方向のみとなり、撮影済み分のパトローネ収納と相まって簡易化・フィルム保護を同時に実現している。
フィルムの巻き上げは撮影1枚ごとに指の腹でダイヤルを回転させる手動式で、使い切り式であるためフィルムの自在な巻き戻しや交換はできず、裏蓋もない。ただし、紙製の外装の下にはフィルムや電池の取出し口が存在する。
1群1枚のレンズであるが、非球面メニスカスレンズにすることで収差を抑えている。2群2枚としたものもある。
切替でピント・絞り・シャッター速度などを変更できる(だいたいこれらのどれかで、2種類のうちどちらかを選ぶ)製品も登場しているほか、フォトレジスタ式の光センサーを搭載して絞りを自動で行うものも登場している。
初期の製品は、フィルムの遮光に一般のカメラ同様モルトを使用していたが、1980年代後半よりモルトは不要になった。従来は高級なカメラでしか見られなかったような、壁が互い違いに高精度で重なる構造による遮光が、プラスチック部品の射出成型技術などの向上により安価にできるようになったためである。なおこの技術はコンパクトカメラでも大いに活用された。
1950年代以降、工業製品としてのフィルム式カメラの機能面においては、自動露光機構や自動焦点機構、カメラ内蔵式ストロボといった高度な自動化システムが、高級カメラよりもむしろ大衆機から率先して導入され、撮影自体の簡易化は著しく進行した。
そのようなカメラの進歩過程でもなお大衆ユーザーがしばしばつまづいたのが、フィルム装填の取り扱いであった。一般的なフィルム式カメラでは、あらかじめ購入しておいたカメラへ、別途購入したフィルムを使用者自身が装填する。フィルムのパトローネをはめ込み、フィルム両脇のパーフォレーションに送り出しギアを噛ませて巻き上げる装填作業には、逆の過程となる巻取り、取り出し共々、相応に慣れが必要である。
撮影後に現像やプリントを写真店などに依頼するには、使用者自身がフィルムを巻き戻して取り出さなくてはならないが、機械の苦手なユーザーの場合、装填ミスや、撮影済みフィルムの取り出し・巻取りミスによる曝露といったミスが起こりうる。このためカメラの取り扱いに自信のない大衆ユーザーには、行き付けの写真店でフィルム装填・取り出しを委ねたり、旅先の写真店に飛び込んでフィルムを買い、店員に撮影済みフィルムと詰替えてもらうような事例が少なからず見られた。
また時代と共に大衆向けカメラは低廉化が進んだが、ほぼ全てのカメラは、たとえ大衆機であっても精密加工技術を伴って生産される耐久消費財として、それに見合った価格水準で生産・販売されてきた。その多くが、1930年代に誕生した後、ライカが採用したことで広まり、後にはデファクトスタンダードとなった135フィルムを用いていた。何度も新たなパッケージングやフォーマットの提案はあったものの、ニッチなセクタを確保した110フィルム以外はいずれも短期に消えていった。
上記のような「カメラとフィルムは分離した製品であり、別個の部品である」という既成概念を破り、最初からカメラにフィルムを内蔵、取り出しは筐体の解体を前提としたのが「レンズ付きフィルム」である。使用者がフィルム装填・取り出しを行う必要はなく、撮影終了後はカメラごと現像・プリントの依頼先に引き渡し、通常のフィルムと同様、現像されたフィルムが返却されると同時にプリントされた写真が渡される(カメラ本体はメーカー側に回収される)。
外部のカメラ機能部分は現像後も返却されず、フィルムを使い切った時点でカメラとしての機能を果たさなくなることから「使い捨てカメラ」と一般からは呼ばれもしたが、フジの「写ルンです」は品名を「レンズ付フィルム」とし、他メーカーも「使い切りカメラ」などと称した(流通面において、カメラの一種ではなくフィルムの一種として扱う必要があるためもある)。写真業界では、1991年に「レンズ付フィルム」を統一呼称とした。資源浪費イメージの忌避や、実際にメーカーでは回収した機能部分を点検して再利用していることなどを示し「使い捨て」ではない点がアピールされている。
比較的廉価であるが、大衆ユーザーのスナップ写真レベルの撮影には支障ないだけの撮影能力を備えていたこと、そして写真店のみならずフィルムを販売する多様な流通網(観光地の土産物店やスーパーマーケット等)経由で購入でき、「買ってすぐに使用でき、満足できる水準の写真を撮影できる」低廉な簡易カメラとしての特性が、消費者のニーズを開拓したといえる。
当初は、構造を簡易化できる「110フィルム仕様」の製品からスタートしたが、すぐに135フィルム仕様の製品が展開され、市場の主流となった。なお1995年からは、新規格フィルムのAPSフィルムを用いた製品が出現したが、APS規格自体がコンパクトデジタルカメラの勃興で、カメラ市場で失敗したことから市場から無くなり、135フィルム仕様の製品のみが2013年時点でも存続している。
当初は通常のカメラの代用品といった位置付けであったが、ストロボ機能をはじめ、パノラマ、簡易な望遠、水中写真など、当時の普及品コンパクトカメラでは撮れない写真が撮れる、といったコンセプトの商品が現れるなど、デジタルカメラの普及以前には、多様なラインナップのある商品ジャンルに成長した。
レンズ付きフィルムは、インスタントカメラと誤って呼ばれることもあるが、これは「インスタントカメラ」という語が本来指す、ポラロイドカメラや富士フイルムの「フォトラマ」「チェキ」といったその場で描写したプリントが得られる方式のカメラのことを全く知らない層にまで普及し、かつ「インスタント」の意味を「即席」ではなく「簡易」と誤解しているためである。
コンセプトとしては、19世紀末のコダックの有名なキャッチ「You Press the Button, We Do the Rest」(あなたはボタンを押してください、我々が残りをやります)を、20世紀末の大量生産文化とDPEサービスの普及を背景に究極まで推し進めた商品と言えよう。
ジョージ・イーストマンが1888年に開発して商業的に大成功したオリジナル・コダックのシステムは、メーカーで100枚撮りロールフィルムを簡易なカメラに装填、ユーザーは撮影を終えるとメーカーにカメラを送り、メーカーは写真を現像して新フィルム装填済みのカメラと共にユーザーに送り返すというものであり、後年のレンズ付きフィルムに酷似した着想であった。やがてコダックのカメラシステムが世代交代してフィルムはユーザー自身が交換するものとなり、オリジナル・コダックの着想は過去のものとなった。
その後の写真史において、同じ趣旨の製品は数種類登場したが、現像の取り扱いの問題もあって普及しなかった。
例えば、1949年にPhoto-Pacという会社はH. M. Stilesが発明した$1.29で製造できるボール紙でできた使い捨てカメラ(8枚撮り)を販売したが、流行らなかった。
1960年代には、フランスのFEXという会社が"Photo Pack Matic"というプラスチック製の使い捨てカメラ(12枚撮り、4x4 cm)を発売した。これも一般化には至らなかった。
商品として一般的な存在になったのは、1986年に富士写真フイルム(現:富士フイルムホールディングス)が「写ルンです」(うつルンです、日本国外名:QuickSnap)を発売したことによる。外出時にカメラを忘れた場合などの際、臨時で買い求めるといった用途を想定した、一種のニッチ商品であったが、観光地など出先で買い求めて即座に撮影できる手軽さでヒット作となり、急速に普及していった。
初期モデルは、元からカートリッジ式の110フィルムを採用しており、言葉通り「フィルムケースにレンズ(と、フィルム面までの間の暗箱)を付けたもの」であった。その後すぐ、一般的な35ミリフィルムで当時の常用としては高感度のISO400を使用したモデルが登場し、そちらが主流となった(パンフォーカスの性能を成立させるために暗いレンズを用いたことから、これを高感度のISO400フィルムで補った)。
富士フイルムの成功を追って、各フィルムメーカーや他業種からも参入があった。
また、レンズ付きフィルムと同程度の機能・性能のカメラであれば従来のカメラより大幅に安価に作れる、という発想から、富士フイルムのスマートショット等、レンズ付きフィルムに類似した構造・クオリティで、ユーザーによるフィルム詰め替えが可能な「使い捨てないカメラ」とでも言うべき製品も現れたが、そちらは品質面からも商品のセクタ・レンジ的に近いトイカメラに吸収されるような形となった。
そのヒットに伴い、望遠・広角、ストロボ付き、流行となった「パノラマ」(擬似)、セピア調(単体でも市販されている特殊フィルムを使ったもの)、キャラクターもの、防水タイプなど、さまざまな付加機能やバリエーションを伴った製品が続々と発売された。
特にフラッシュは、固定焦点カメラが不得意な光量不足の状況において、撮影能力を補う面で非常に有効な対策となったことから、レンズ付きフィルムにおける標準的な装備品となった。
近年では、より高感度(ISO800 - 1600)なフィルムを使用して夜景を綺麗に写せるもの、光センサーを搭載して自動で絞りを調節するものなど、高性能な機種も登場している。これらの高機能化は後述するように、現在においてもレンズ付きフィルムに対する一定の需要を下支えする要素となっている。
1990年代初めから中頃にかけて、製造元メーカー以外のサードパーティがレンズ付きフィルムの撮影済み筐体を回収、フィルムを詰め替えて廉価に販売することが一時期行われた。メーカー側で再利用が難しい構造に変更されたり、特許となっている構造について、実施権を持たない者による特許の実施であるとして係争になったこともある(いわゆる「消尽理論」が争点となった)。オリジナルメーカーとサードパーティとの係争が続く間に、デジタルカメラが新たに普及して銀塩フィルム式カメラの市場自体が縮小、販売のうまみが乏しくなったこともありほぼ消滅している。
2000年代始めからは、デジタルカメラの実用化とデジタルカメラに必須となるデータメディアの低価格化・高性能化による急速な普及、携帯電話に搭載されるカメラ撮影機能の高性能化により、市場需要は減少に転じた。これにより、多くのメーカーがレンズ付きフィルムの生産販売から撤退し、継続展開している富士フイルムも製品の値上げやラインアップの縮小(2020年以降は1タイプのみ生産中)を実施している。
しかし、デジタルカメラと違い、撮影した画像の修正が非常に困難なこと、安価で入手しやすく扱いやすいこと、シンプルかつ堅牢な構造であることから、証拠写真としての利用や、デジタルカメラに適さない環境(例えば海岸・水中・砂漠・寒冷地・電子機器の利用が禁止されている環境など)での撮影には根強い需要がある。また海外旅行での撮影の場合、高価なデジタルカメラは盗難や紛失の危険があること、故障しても現地での修理が困難、電源方式の違いにより充電できない場合がある、といった事情から、盗まれても最小限の被害で済み、故障の少ないレンズ付きフィルムを使用する、もしくは予備として持ち歩く事例もある。石川直樹など、プロ写真家にも過酷な撮影地に強いレンズ付きフィルムを愛用する者がいる。石川によれば、気温がマイナス30度から40度に達する極地ではカメラの故障や電池切れに見舞われることは少なくなく、過酷な環境でも問題なく使用できるレンズ付きフィルムは重宝しているという。実際に南極では持参した3台の一眼レフカメラがいずれも故障してしまい、南極点に到達した際の写真はレンズ付きフィルムで撮影したものだった。エベレスト登頂や小笠原諸島での海中撮影の際にも防水タイプのレンズ付きフィルムが役立ったという。写真店の店主によると、デジタル世代に若者には「フィルムカメラは斬新」であり、現像の手間を楽しむ若者が多く購入しているという。
また、(当初のコンセプトである)カメラを忘れた場合に加え、カメラを紛失した、バッテリーが切れた等の際にも需要がある。東日本大震災でも、津波でカメラを失ったユーザーが罹災証明を取得するために必要な写真をレンズ付きフィルムで撮影した例が多数あるとされる。これは充電が不要という利点があり、ほかに内陸部でも地震でパソコンが故障し保存していた画像データが取り出し不能になったため代替利用された例もある。
レンズ付きフィルムが登場するまで、カメラは低価格化・操作の容易さが進んでいたとはいえ、基本的には高価な商品であるため、紛失・盗難による事故や事件を防ぐ目的から、一部の学校では修学旅行など学校行事への個人所有カメラの持参を、制限もしくは禁止していた所が多かった。また、教育上の視点から携帯電話の持参を禁止したり、それほど安くは無い商品であるデジタルカメラに関しても旅先での紛失や盗難に遭う事を考慮して、生徒の持参を禁止する考えを貫く学校もある。しかし、安価で生徒にも買える存在であるレンズ付きフィルムであれば、学校としても旅行への持参を許可する、あるいは旅行期間内の撮影用として、学校側から生徒へ配布するという傾向はある。
1990年代、高校生を中心として、レンズ付きフィルムを使っての自分撮り(自撮り)が流行り、超広角レンズと前面にミラーを配置して自分撮りがしやすい機種や、あるいはフィルムメーカー純正のセルフタイマー付き三脚などが登場した。しかしこちらは、プリクラの普及・自撮りを意識したカメラ機能付携帯電話の登場・さらには、デジタル化され取り直しや簡単な加工も可能になった自動証明写真撮影機などにその役割を取って代わられている。
レンズ付きフィルムは、特別に写真についての知識のないユーザーでも気軽に使えるように設計されているが、操作の簡略化を実現するためにカメラの性能はあくまで限定的なものとなっており、撮影時に以下のような制約がある。これらはいずれも、パッケージに注意事項として記載されている。
レンズ付きフィルムの大部分は、日中の屋外での一般的な被写体を撮影することを想定しており、内蔵のストロボは、日陰や逆光時の補助光源としての、ごく低出力のものである。また、ネガフィルムは露光過剰には強いが、露光不足には弱い。このため、フラッシュ使用時に、離れた被写体へ光が届きにくい。また、本格的な夜景を撮影することは難しく、屋内での撮影も露光不足を起こしやすい。
ほとんどのレンズ付きフィルムのピントが合う撮影距離は1m以上となっており、被写体に近づきすぎるとピンぼけになる。また、レンズがボディに埋没した形状のため、撮影時に指の位置に気をつけないと、撮影者の握り込んだ指がレンズに写り込んでしまう。
一般的なレンズ付きフィルムでは、巻き取り機構の簡素化と撮影済み画像の保護の目的から、フィルムはパトローネから引き出された状態で装填され、1枚撮影するごとに1コマずつパトローネに巻き込まれる(プレワインド方式の電動コンパクトカメラと同様)。従ってネガ上のナンバーと画像の撮影順が逆になり、小さいナンバーの画像ほど新しい画像になる。このため焼き増しなどの際にはネガフィルムの確認に注意を要するほか、CD書き込みサービスを利用する場合、CDへの書き込み順が撮影順と逆になることがある。
俗称「使い捨てカメラ」などもあり、大量消費社会の象徴として槍玉に挙げられることもあった。そういった事情から、回収し再利用していることがアピールされるようになった。現在は、各メーカー、ほとんどの商品がリサイクルされている。大半の部品は分解のうえ、点検して再利用、破砕して原料として用いるなどの手法でリサイクルされる。
特にストロボの電源の電池にはアルカリ乾電池(なお、海外製品の一部にはマンガン乾電池や、積層電池のものもある)が使われており、容量に余裕がある(最大枚数の39枚に全てをストロボ撮影したとしても、残容量がある)ことから、再利用の筆頭となっている。現像店舗によっては、電池をもらうことができるほか、障害者支援の一環として、電圧測定・梱包を委託した上、リサイクル乾電池として販売しているケースもある。
なお、富士フイルムではパナソニック製アルカリ単4電池(LR03(G)相当)若しくは単3電池(LR6(GW)、ウルトラアルカリAM3)が、使用され、コニカは三洋電機製アルカリ単3電池(LR6(A))、コダックはコダック製アルカリ単3(LR6(K))が使用されていた。パナソニック製の単4電池は、2013年現在一般に販売されているLR03(XJ)よりも若干容量の少ない業務用・機器組み込み用となっている。そういた電池はほとんどが、市販の電池のように使用推奨期限等の記載が無く、使用に関しては乾電池チェッカー等でチェックしてから利用するほうがよい。また当然ながら、メーカーでは流用について一切の保証をしていないので、自己責任で利用する必要がある。実際に利用してみても市販されているアルカリ乾電池と比すると明らかに電池寿命は短く懐中電灯、掛け時計、ラジオ、コンパクトカセットを再生できるヘッドホンステレオなど省電力機器に向いている。
一方で、メーカーの意図しないリサイクルがなされていた事例もある(前述のサードパーティによる詰め替え製品の節も参照)。1990年代前半頃から、メーカーとは無関係の企業によって、使用後の製品にフィルムを再装填した商品がディスカウント店などで市販されていた。見た目にはパッケージはほぼ透明のビニール袋に包まれ本体そのものに巻かれた紙パッケージには注意書きすら書かれていない、通常のサイズのパトローネが使え最初の巻き取りが容易な構造である初期型のフジカラーブランドのストロボ仕様のレンズ付きフィルムが圧倒的に多かった。実売価格は概ね500円程度とメーカー品よりも当然安かった。現在は、メーカー側が構造部品に再装填を防止する対策を施したため、近年ではこのような製品はほとんど見られなくなった。
フラッシュ内蔵の商品には、電池の電圧(1.5V)をフラッシュが点灯できる高電圧(数百V)まで昇圧させる回路が内蔵されている。チャージされた状態のコンデンサに触れると高電圧に感電するので、大変危険である。
メーカーの保証外となるものの、電子工作マニアなどはフラッシュ内蔵商品の昇圧回路(1.5Vを約420Vに昇圧)を利用してストロボスコープや高電圧発生器を製作したり、基板上の変圧器(トランス)や高耐圧コンデンサ、トランジスタやキセノン放電管を部品取りし、利用する例がある。ただし前述の電池容量(寿命)と同様、それらの部品も「ロールフィルム1本分+α」程度の耐久性をもって必要十分であるとして選択や設計がされているものもあり、実験的な使用を越える用途では注意が必要である。
上述のように、分解の際にコンデンサにチャージがあると電池を外しても感電するので、コンデンサの端子をショートし、放電させる必要がある。作業にあたっては必ず手を電気的に絶縁し、アークにより破損しても問題ない導線の切れ端等を使う等、感電防止及び部品の破損防止対策をする必要がある。できれば適切な電力定格と抵抗値の抵抗器を使うと火花や破裂音なく放電されるので良い。
また、紙製の外装を剥がすとフィルムと乾電池の取り出し用の蓋があり、蓋をマイナスドライバなどで起こして折り取ることにより、完全に分解しなくてもフィルムと電池は取り出しが可能である。『写ルンです』で当時単体販売されていないフィルムが使用されていた1990年代には、未使用のフィルムを取り出して一眼レフカメラに装填し、報道写真等に用いるプロカメラマンも多く見られた。ただし、パトローネ(マガジン)表面の印刷などは単体商品のものと異なるため、DPEによっては稀に拒否されることもありうる。
一部の電子部品販売店やカメラ店では、内蔵の基板を200円程度で販売している所や使用済みカメラそのものが無料で幾つも貰える所が存在する。
現在もなお、様々な流通チャネルで販売されていることも、一定の需要がある理由の1つといえる。カメラ店はもちろん、コンビニエンスストア、スーパーマーケット、ホームセンター、ディスカウントストア、観光地の土産物売り場などで販売されている。有名観光地にはレンズ付きフィルムの自動販売機が設置されている事があるが、近年は減少傾向にある。
ポラロイドに代表されるインスタントカメラは、感材の価格が高価で、プリントを即必要とする特殊用途での需要にとどまっていたが、レンズ付フィルムで流行した「自撮り」需要などのマーケット分析がなされた結果、フィルムサイズを小さくし、カメラも構造をシンプルにして、本体・感材価格を大幅に値下げしたインスタントカメラ・チェキなどは、自分撮りのメインユーザーであった若い女性、とりわけ女子高生のニーズを捉え、ヒット商品となった。しかし、カメラ機能付携帯電話には自分撮りが簡単に出来る機能が盛り込まれているため、レンズ付フィルムとは異なり、小型インスタントカメラのヒットは収束している(が、こちらもアイドルの地方巡業でのツーショットや、ストリップ劇場での撮影サービスなどで根強い需要がある。写ルンですとチェキは、富士フイルムが写真文化を残すために、意地で続けてきた側面もあるという)。ポラロイド社の倒産は、それを如実に物語る一つの事例である。
デジタルカメラを使い切りとする構想も存在し、いくつか製品化もなされているが、デジタルカメラの普及・低廉化により、大きな市場を形成するまでには至っていない。
2001年に旭光学工業、三洋電機、アルテックが共同で「撮ってもEG」を発表。当初2000台が用意され、デイリーヤマザキと三省堂書店の計8店舗で、同年10月から2002年2月末までの5か月弱試験販売された。2002年4月から本格販売を計画していたが、続報はなく立ち消えとなっている。
2003年にアメリカのPure Digital Technologiesが使い捨てデジタルカメラを開発。ウォルグリーンへ「Studio 35 Digital」として、カメラチェーン店のリッツカメラセンター(英語版)へ「リッツ・ダコタデジタル(英語版)」としてそれぞれ数十店舗でテスト販売された後、CVSやライトエイドといった他チェーン店向けにも出荷し、全国展開された。世界で初めて本格展開された使い切りデジカメとされる。ちなみに、Pure Digitalは2005年に使い切りカムコーダも開発している。
2008年にプラザクリエイトが防水使い切りデジカメ「ECO digi MODE」を発表。55ステーションおよびパレットプラザの50店舗で先行発売し、3000台が初日にほとんど完売したと報じられたが、その後本格展開はなされていない。
2012年ごろには、トイデジカメで知られるアメリカのVistaQuestが「VQ10」を発売していた。撮影後の本体を店舗に持ち込んで写真やデータを受け取る必要はなく、本体にUSBプラグを備え、直接PCへデータを取り込めるようになっている。ただし、取り込みを1度しか行えないようにすることで使い切りとしている。 | [
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"text": "レンズ付きフィルム(レンズつきフィルム)とは、フィルムを工場で最初から内蔵した状態で販売され、撮影後は筐体ごと現像工場もしくはラボ店で回収されることを前提とした構造の、軽便なカメラである。1980年代に出現し、一時は広く普及した。一般的に使い捨てカメラと呼ばれることもあるが、メーカーなどの写真業界ではそのような呼称はしていない(後述「レンズ付きフィルムの出現」を参照)。",
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"text": "筐体・内部構造共々大部分がプラスチックで製作されている。カメラとしては、ごく簡易な固定焦点式がほとんどで、シャッタースピードも固定されている。露出調整は機械的な調整によらず、ネガフィルムそのものの広いラティチュードに頼り、絞りもあらかじめ絞られて(F11 - 16程度)固定焦点によりピント調節を省略している。このため、ユーザーは最小限のカメラ操作で簡単に写真を撮影することができる。",
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"text": "フィルムは一般的な市販品でも高感度寄りのISO400規格のものが多く用いられる。ISO400以上の高感度フィルムは、かつてポピュラーだったISO100クラスのフィルムに比べてシャッタースピードを速くできる優位があるが、反面、フィルム粒子の関係で画質が粗い傾向があった。しかし1980年代には技術・品質の向上により、画質のザラツキ感がさほど感じられないようになった。これにより、焦点固定・シャッター速度固定のカメラでも、手ぶれや露光不足などの問題を伴わずに満足しうる質の写真を撮影できるようになった。",
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"text": "また、同じ頃にプラスチックレンズの品質が向上し、なおかつ低コストで量産できるようになった。高価なガラスレンズを用いることなく、射出成型技術で生産できるプラスチックレンズで機能を満たせるようになったことは重要なブレークスルーである。さらに像面湾曲によるアウトフォーカスボケ軽減のため、ミノックスなどで知られる手法であるが、フィルム面を意図的に湾曲させる技法も導入されるようになった。",
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"text": "装填されたフィルムは、工場での装填時にパトローネから全部引き出された状態でスプロケットに巻かれており、パトローネ中に巻き戻しながら使う方式である。このため、ユーザーによるフィルムの動作方向は巻き上げ一方向のみとなり、撮影済み分のパトローネ収納と相まって簡易化・フィルム保護を同時に実現している。",
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"text": "フィルムの巻き上げは撮影1枚ごとに指の腹でダイヤルを回転させる手動式で、使い切り式であるためフィルムの自在な巻き戻しや交換はできず、裏蓋もない。ただし、紙製の外装の下にはフィルムや電池の取出し口が存在する。",
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"text": "1群1枚のレンズであるが、非球面メニスカスレンズにすることで収差を抑えている。2群2枚としたものもある。",
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"text": "切替でピント・絞り・シャッター速度などを変更できる(だいたいこれらのどれかで、2種類のうちどちらかを選ぶ)製品も登場しているほか、フォトレジスタ式の光センサーを搭載して絞りを自動で行うものも登場している。",
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"text": "初期の製品は、フィルムの遮光に一般のカメラ同様モルトを使用していたが、1980年代後半よりモルトは不要になった。従来は高級なカメラでしか見られなかったような、壁が互い違いに高精度で重なる構造による遮光が、プラスチック部品の射出成型技術などの向上により安価にできるようになったためである。なおこの技術はコンパクトカメラでも大いに活用された。",
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"text": "1950年代以降、工業製品としてのフィルム式カメラの機能面においては、自動露光機構や自動焦点機構、カメラ内蔵式ストロボといった高度な自動化システムが、高級カメラよりもむしろ大衆機から率先して導入され、撮影自体の簡易化は著しく進行した。",
"title": "概要"
},
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"text": "そのようなカメラの進歩過程でもなお大衆ユーザーがしばしばつまづいたのが、フィルム装填の取り扱いであった。一般的なフィルム式カメラでは、あらかじめ購入しておいたカメラへ、別途購入したフィルムを使用者自身が装填する。フィルムのパトローネをはめ込み、フィルム両脇のパーフォレーションに送り出しギアを噛ませて巻き上げる装填作業には、逆の過程となる巻取り、取り出し共々、相応に慣れが必要である。",
"title": "概要"
},
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"text": "撮影後に現像やプリントを写真店などに依頼するには、使用者自身がフィルムを巻き戻して取り出さなくてはならないが、機械の苦手なユーザーの場合、装填ミスや、撮影済みフィルムの取り出し・巻取りミスによる曝露といったミスが起こりうる。このためカメラの取り扱いに自信のない大衆ユーザーには、行き付けの写真店でフィルム装填・取り出しを委ねたり、旅先の写真店に飛び込んでフィルムを買い、店員に撮影済みフィルムと詰替えてもらうような事例が少なからず見られた。",
"title": "概要"
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{
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"text": "また時代と共に大衆向けカメラは低廉化が進んだが、ほぼ全てのカメラは、たとえ大衆機であっても精密加工技術を伴って生産される耐久消費財として、それに見合った価格水準で生産・販売されてきた。その多くが、1930年代に誕生した後、ライカが採用したことで広まり、後にはデファクトスタンダードとなった135フィルムを用いていた。何度も新たなパッケージングやフォーマットの提案はあったものの、ニッチなセクタを確保した110フィルム以外はいずれも短期に消えていった。",
"title": "概要"
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{
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"text": "上記のような「カメラとフィルムは分離した製品であり、別個の部品である」という既成概念を破り、最初からカメラにフィルムを内蔵、取り出しは筐体の解体を前提としたのが「レンズ付きフィルム」である。使用者がフィルム装填・取り出しを行う必要はなく、撮影終了後はカメラごと現像・プリントの依頼先に引き渡し、通常のフィルムと同様、現像されたフィルムが返却されると同時にプリントされた写真が渡される(カメラ本体はメーカー側に回収される)。",
"title": "概要"
},
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"text": "外部のカメラ機能部分は現像後も返却されず、フィルムを使い切った時点でカメラとしての機能を果たさなくなることから「使い捨てカメラ」と一般からは呼ばれもしたが、フジの「写ルンです」は品名を「レンズ付フィルム」とし、他メーカーも「使い切りカメラ」などと称した(流通面において、カメラの一種ではなくフィルムの一種として扱う必要があるためもある)。写真業界では、1991年に「レンズ付フィルム」を統一呼称とした。資源浪費イメージの忌避や、実際にメーカーでは回収した機能部分を点検して再利用していることなどを示し「使い捨て」ではない点がアピールされている。",
"title": "概要"
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"text": "比較的廉価であるが、大衆ユーザーのスナップ写真レベルの撮影には支障ないだけの撮影能力を備えていたこと、そして写真店のみならずフィルムを販売する多様な流通網(観光地の土産物店やスーパーマーケット等)経由で購入でき、「買ってすぐに使用でき、満足できる水準の写真を撮影できる」低廉な簡易カメラとしての特性が、消費者のニーズを開拓したといえる。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 16,
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"text": "当初は、構造を簡易化できる「110フィルム仕様」の製品からスタートしたが、すぐに135フィルム仕様の製品が展開され、市場の主流となった。なお1995年からは、新規格フィルムのAPSフィルムを用いた製品が出現したが、APS規格自体がコンパクトデジタルカメラの勃興で、カメラ市場で失敗したことから市場から無くなり、135フィルム仕様の製品のみが2013年時点でも存続している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "当初は通常のカメラの代用品といった位置付けであったが、ストロボ機能をはじめ、パノラマ、簡易な望遠、水中写真など、当時の普及品コンパクトカメラでは撮れない写真が撮れる、といったコンセプトの商品が現れるなど、デジタルカメラの普及以前には、多様なラインナップのある商品ジャンルに成長した。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "レンズ付きフィルムは、インスタントカメラと誤って呼ばれることもあるが、これは「インスタントカメラ」という語が本来指す、ポラロイドカメラや富士フイルムの「フォトラマ」「チェキ」といったその場で描写したプリントが得られる方式のカメラのことを全く知らない層にまで普及し、かつ「インスタント」の意味を「即席」ではなく「簡易」と誤解しているためである。",
"title": "概要"
},
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"text": "コンセプトとしては、19世紀末のコダックの有名なキャッチ「You Press the Button, We Do the Rest」(あなたはボタンを押してください、我々が残りをやります)を、20世紀末の大量生産文化とDPEサービスの普及を背景に究極まで推し進めた商品と言えよう。",
"title": "歴史"
},
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"text": "ジョージ・イーストマンが1888年に開発して商業的に大成功したオリジナル・コダックのシステムは、メーカーで100枚撮りロールフィルムを簡易なカメラに装填、ユーザーは撮影を終えるとメーカーにカメラを送り、メーカーは写真を現像して新フィルム装填済みのカメラと共にユーザーに送り返すというものであり、後年のレンズ付きフィルムに酷似した着想であった。やがてコダックのカメラシステムが世代交代してフィルムはユーザー自身が交換するものとなり、オリジナル・コダックの着想は過去のものとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
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"text": "その後の写真史において、同じ趣旨の製品は数種類登場したが、現像の取り扱いの問題もあって普及しなかった。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "例えば、1949年にPhoto-Pacという会社はH. M. Stilesが発明した$1.29で製造できるボール紙でできた使い捨てカメラ(8枚撮り)を販売したが、流行らなかった。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "1960年代には、フランスのFEXという会社が\"Photo Pack Matic\"というプラスチック製の使い捨てカメラ(12枚撮り、4x4 cm)を発売した。これも一般化には至らなかった。",
"title": "歴史"
},
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"text": "商品として一般的な存在になったのは、1986年に富士写真フイルム(現:富士フイルムホールディングス)が「写ルンです」(うつルンです、日本国外名:QuickSnap)を発売したことによる。外出時にカメラを忘れた場合などの際、臨時で買い求めるといった用途を想定した、一種のニッチ商品であったが、観光地など出先で買い求めて即座に撮影できる手軽さでヒット作となり、急速に普及していった。",
"title": "歴史"
},
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"text": "初期モデルは、元からカートリッジ式の110フィルムを採用しており、言葉通り「フィルムケースにレンズ(と、フィルム面までの間の暗箱)を付けたもの」であった。その後すぐ、一般的な35ミリフィルムで当時の常用としては高感度のISO400を使用したモデルが登場し、そちらが主流となった(パンフォーカスの性能を成立させるために暗いレンズを用いたことから、これを高感度のISO400フィルムで補った)。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "富士フイルムの成功を追って、各フィルムメーカーや他業種からも参入があった。",
"title": "歴史"
},
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"tag": "p",
"text": "また、レンズ付きフィルムと同程度の機能・性能のカメラであれば従来のカメラより大幅に安価に作れる、という発想から、富士フイルムのスマートショット等、レンズ付きフィルムに類似した構造・クオリティで、ユーザーによるフィルム詰め替えが可能な「使い捨てないカメラ」とでも言うべき製品も現れたが、そちらは品質面からも商品のセクタ・レンジ的に近いトイカメラに吸収されるような形となった。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "そのヒットに伴い、望遠・広角、ストロボ付き、流行となった「パノラマ」(擬似)、セピア調(単体でも市販されている特殊フィルムを使ったもの)、キャラクターもの、防水タイプなど、さまざまな付加機能やバリエーションを伴った製品が続々と発売された。",
"title": "歴史"
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"text": "特にフラッシュは、固定焦点カメラが不得意な光量不足の状況において、撮影能力を補う面で非常に有効な対策となったことから、レンズ付きフィルムにおける標準的な装備品となった。",
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"text": "近年では、より高感度(ISO800 - 1600)なフィルムを使用して夜景を綺麗に写せるもの、光センサーを搭載して自動で絞りを調節するものなど、高性能な機種も登場している。これらの高機能化は後述するように、現在においてもレンズ付きフィルムに対する一定の需要を下支えする要素となっている。",
"title": "歴史"
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"text": "2000年代始めからは、デジタルカメラの実用化とデジタルカメラに必須となるデータメディアの低価格化・高性能化による急速な普及、携帯電話に搭載されるカメラ撮影機能の高性能化により、市場需要は減少に転じた。これにより、多くのメーカーがレンズ付きフィルムの生産販売から撤退し、継続展開している富士フイルムも製品の値上げやラインアップの縮小(2020年以降は1タイプのみ生産中)を実施している。",
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"text": "しかし、デジタルカメラと違い、撮影した画像の修正が非常に困難なこと、安価で入手しやすく扱いやすいこと、シンプルかつ堅牢な構造であることから、証拠写真としての利用や、デジタルカメラに適さない環境(例えば海岸・水中・砂漠・寒冷地・電子機器の利用が禁止されている環境など)での撮影には根強い需要がある。また海外旅行での撮影の場合、高価なデジタルカメラは盗難や紛失の危険があること、故障しても現地での修理が困難、電源方式の違いにより充電できない場合がある、といった事情から、盗まれても最小限の被害で済み、故障の少ないレンズ付きフィルムを使用する、もしくは予備として持ち歩く事例もある。石川直樹など、プロ写真家にも過酷な撮影地に強いレンズ付きフィルムを愛用する者がいる。石川によれば、気温がマイナス30度から40度に達する極地ではカメラの故障や電池切れに見舞われることは少なくなく、過酷な環境でも問題なく使用できるレンズ付きフィルムは重宝しているという。実際に南極では持参した3台の一眼レフカメラがいずれも故障してしまい、南極点に到達した際の写真はレンズ付きフィルムで撮影したものだった。エベレスト登頂や小笠原諸島での海中撮影の際にも防水タイプのレンズ付きフィルムが役立ったという。写真店の店主によると、デジタル世代に若者には「フィルムカメラは斬新」であり、現像の手間を楽しむ若者が多く購入しているという。",
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"text": "また、(当初のコンセプトである)カメラを忘れた場合に加え、カメラを紛失した、バッテリーが切れた等の際にも需要がある。東日本大震災でも、津波でカメラを失ったユーザーが罹災証明を取得するために必要な写真をレンズ付きフィルムで撮影した例が多数あるとされる。これは充電が不要という利点があり、ほかに内陸部でも地震でパソコンが故障し保存していた画像データが取り出し不能になったため代替利用された例もある。",
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"text": "レンズ付きフィルムが登場するまで、カメラは低価格化・操作の容易さが進んでいたとはいえ、基本的には高価な商品であるため、紛失・盗難による事故や事件を防ぐ目的から、一部の学校では修学旅行など学校行事への個人所有カメラの持参を、制限もしくは禁止していた所が多かった。また、教育上の視点から携帯電話の持参を禁止したり、それほど安くは無い商品であるデジタルカメラに関しても旅先での紛失や盗難に遭う事を考慮して、生徒の持参を禁止する考えを貫く学校もある。しかし、安価で生徒にも買える存在であるレンズ付きフィルムであれば、学校としても旅行への持参を許可する、あるいは旅行期間内の撮影用として、学校側から生徒へ配布するという傾向はある。",
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"text": "1990年代、高校生を中心として、レンズ付きフィルムを使っての自分撮り(自撮り)が流行り、超広角レンズと前面にミラーを配置して自分撮りがしやすい機種や、あるいはフィルムメーカー純正のセルフタイマー付き三脚などが登場した。しかしこちらは、プリクラの普及・自撮りを意識したカメラ機能付携帯電話の登場・さらには、デジタル化され取り直しや簡単な加工も可能になった自動証明写真撮影機などにその役割を取って代わられている。",
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"tag": "p",
"text": "レンズ付きフィルムは、特別に写真についての知識のないユーザーでも気軽に使えるように設計されているが、操作の簡略化を実現するためにカメラの性能はあくまで限定的なものとなっており、撮影時に以下のような制約がある。これらはいずれも、パッケージに注意事項として記載されている。",
"title": "使用時の注意点"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "レンズ付きフィルムの大部分は、日中の屋外での一般的な被写体を撮影することを想定しており、内蔵のストロボは、日陰や逆光時の補助光源としての、ごく低出力のものである。また、ネガフィルムは露光過剰には強いが、露光不足には弱い。このため、フラッシュ使用時に、離れた被写体へ光が届きにくい。また、本格的な夜景を撮影することは難しく、屋内での撮影も露光不足を起こしやすい。",
"title": "使用時の注意点"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ほとんどのレンズ付きフィルムのピントが合う撮影距離は1m以上となっており、被写体に近づきすぎるとピンぼけになる。また、レンズがボディに埋没した形状のため、撮影時に指の位置に気をつけないと、撮影者の握り込んだ指がレンズに写り込んでしまう。",
"title": "使用時の注意点"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "一般的なレンズ付きフィルムでは、巻き取り機構の簡素化と撮影済み画像の保護の目的から、フィルムはパトローネから引き出された状態で装填され、1枚撮影するごとに1コマずつパトローネに巻き込まれる(プレワインド方式の電動コンパクトカメラと同様)。従ってネガ上のナンバーと画像の撮影順が逆になり、小さいナンバーの画像ほど新しい画像になる。このため焼き増しなどの際にはネガフィルムの確認に注意を要するほか、CD書き込みサービスを利用する場合、CDへの書き込み順が撮影順と逆になることがある。",
"title": "使用時の注意点"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "俗称「使い捨てカメラ」などもあり、大量消費社会の象徴として槍玉に挙げられることもあった。そういった事情から、回収し再利用していることがアピールされるようになった。現在は、各メーカー、ほとんどの商品がリサイクルされている。大半の部品は分解のうえ、点検して再利用、破砕して原料として用いるなどの手法でリサイクルされる。",
"title": "リサイクル"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "特にストロボの電源の電池にはアルカリ乾電池(なお、海外製品の一部にはマンガン乾電池や、積層電池のものもある)が使われており、容量に余裕がある(最大枚数の39枚に全てをストロボ撮影したとしても、残容量がある)ことから、再利用の筆頭となっている。現像店舗によっては、電池をもらうことができるほか、障害者支援の一環として、電圧測定・梱包を委託した上、リサイクル乾電池として販売しているケースもある。",
"title": "リサイクル"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "なお、富士フイルムではパナソニック製アルカリ単4電池(LR03(G)相当)若しくは単3電池(LR6(GW)、ウルトラアルカリAM3)が、使用され、コニカは三洋電機製アルカリ単3電池(LR6(A))、コダックはコダック製アルカリ単3(LR6(K))が使用されていた。パナソニック製の単4電池は、2013年現在一般に販売されているLR03(XJ)よりも若干容量の少ない業務用・機器組み込み用となっている。そういた電池はほとんどが、市販の電池のように使用推奨期限等の記載が無く、使用に関しては乾電池チェッカー等でチェックしてから利用するほうがよい。また当然ながら、メーカーでは流用について一切の保証をしていないので、自己責任で利用する必要がある。実際に利用してみても市販されているアルカリ乾電池と比すると明らかに電池寿命は短く懐中電灯、掛け時計、ラジオ、コンパクトカセットを再生できるヘッドホンステレオなど省電力機器に向いている。",
"title": "リサイクル"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "一方で、メーカーの意図しないリサイクルがなされていた事例もある(前述のサードパーティによる詰め替え製品の節も参照)。1990年代前半頃から、メーカーとは無関係の企業によって、使用後の製品にフィルムを再装填した商品がディスカウント店などで市販されていた。見た目にはパッケージはほぼ透明のビニール袋に包まれ本体そのものに巻かれた紙パッケージには注意書きすら書かれていない、通常のサイズのパトローネが使え最初の巻き取りが容易な構造である初期型のフジカラーブランドのストロボ仕様のレンズ付きフィルムが圧倒的に多かった。実売価格は概ね500円程度とメーカー品よりも当然安かった。現在は、メーカー側が構造部品に再装填を防止する対策を施したため、近年ではこのような製品はほとんど見られなくなった。",
"title": "リサイクル"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "フラッシュ内蔵の商品には、電池の電圧(1.5V)をフラッシュが点灯できる高電圧(数百V)まで昇圧させる回路が内蔵されている。チャージされた状態のコンデンサに触れると高電圧に感電するので、大変危険である。",
"title": "リサイクル"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "メーカーの保証外となるものの、電子工作マニアなどはフラッシュ内蔵商品の昇圧回路(1.5Vを約420Vに昇圧)を利用してストロボスコープや高電圧発生器を製作したり、基板上の変圧器(トランス)や高耐圧コンデンサ、トランジスタやキセノン放電管を部品取りし、利用する例がある。ただし前述の電池容量(寿命)と同様、それらの部品も「ロールフィルム1本分+α」程度の耐久性をもって必要十分であるとして選択や設計がされているものもあり、実験的な使用を越える用途では注意が必要である。",
"title": "工作への応用"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "上述のように、分解の際にコンデンサにチャージがあると電池を外しても感電するので、コンデンサの端子をショートし、放電させる必要がある。作業にあたっては必ず手を電気的に絶縁し、アークにより破損しても問題ない導線の切れ端等を使う等、感電防止及び部品の破損防止対策をする必要がある。できれば適切な電力定格と抵抗値の抵抗器を使うと火花や破裂音なく放電されるので良い。",
"title": "工作への応用"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "また、紙製の外装を剥がすとフィルムと乾電池の取り出し用の蓋があり、蓋をマイナスドライバなどで起こして折り取ることにより、完全に分解しなくてもフィルムと電池は取り出しが可能である。『写ルンです』で当時単体販売されていないフィルムが使用されていた1990年代には、未使用のフィルムを取り出して一眼レフカメラに装填し、報道写真等に用いるプロカメラマンも多く見られた。ただし、パトローネ(マガジン)表面の印刷などは単体商品のものと異なるため、DPEによっては稀に拒否されることもありうる。",
"title": "工作への応用"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "一部の電子部品販売店やカメラ店では、内蔵の基板を200円程度で販売している所や使用済みカメラそのものが無料で幾つも貰える所が存在する。",
"title": "工作への応用"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "現在もなお、様々な流通チャネルで販売されていることも、一定の需要がある理由の1つといえる。カメラ店はもちろん、コンビニエンスストア、スーパーマーケット、ホームセンター、ディスカウントストア、観光地の土産物売り場などで販売されている。有名観光地にはレンズ付きフィルムの自動販売機が設置されている事があるが、近年は減少傾向にある。",
"title": "流通チャネル"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ポラロイドに代表されるインスタントカメラは、感材の価格が高価で、プリントを即必要とする特殊用途での需要にとどまっていたが、レンズ付フィルムで流行した「自撮り」需要などのマーケット分析がなされた結果、フィルムサイズを小さくし、カメラも構造をシンプルにして、本体・感材価格を大幅に値下げしたインスタントカメラ・チェキなどは、自分撮りのメインユーザーであった若い女性、とりわけ女子高生のニーズを捉え、ヒット商品となった。しかし、カメラ機能付携帯電話には自分撮りが簡単に出来る機能が盛り込まれているため、レンズ付フィルムとは異なり、小型インスタントカメラのヒットは収束している(が、こちらもアイドルの地方巡業でのツーショットや、ストリップ劇場での撮影サービスなどで根強い需要がある。写ルンですとチェキは、富士フイルムが写真文化を残すために、意地で続けてきた側面もあるという)。ポラロイド社の倒産は、それを如実に物語る一つの事例である。",
"title": "インスタントカメラへの間接的影響"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "デジタルカメラを使い切りとする構想も存在し、いくつか製品化もなされているが、デジタルカメラの普及・低廉化により、大きな市場を形成するまでには至っていない。",
"title": "デジタル版"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2001年に旭光学工業、三洋電機、アルテックが共同で「撮ってもEG」を発表。当初2000台が用意され、デイリーヤマザキと三省堂書店の計8店舗で、同年10月から2002年2月末までの5か月弱試験販売された。2002年4月から本格販売を計画していたが、続報はなく立ち消えとなっている。",
"title": "デジタル版"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2003年にアメリカのPure Digital Technologiesが使い捨てデジタルカメラを開発。ウォルグリーンへ「Studio 35 Digital」として、カメラチェーン店のリッツカメラセンター(英語版)へ「リッツ・ダコタデジタル(英語版)」としてそれぞれ数十店舗でテスト販売された後、CVSやライトエイドといった他チェーン店向けにも出荷し、全国展開された。世界で初めて本格展開された使い切りデジカメとされる。ちなみに、Pure Digitalは2005年に使い切りカムコーダも開発している。",
"title": "デジタル版"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2008年にプラザクリエイトが防水使い切りデジカメ「ECO digi MODE」を発表。55ステーションおよびパレットプラザの50店舗で先行発売し、3000台が初日にほとんど完売したと報じられたが、その後本格展開はなされていない。",
"title": "デジタル版"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2012年ごろには、トイデジカメで知られるアメリカのVistaQuestが「VQ10」を発売していた。撮影後の本体を店舗に持ち込んで写真やデータを受け取る必要はなく、本体にUSBプラグを備え、直接PCへデータを取り込めるようになっている。ただし、取り込みを1度しか行えないようにすることで使い切りとしている。",
"title": "デジタル版"
}
] | レンズ付きフィルム(レンズつきフィルム)とは、フィルムを工場で最初から内蔵した状態で販売され、撮影後は筐体ごと現像工場もしくはラボ店で回収されることを前提とした構造の、軽便なカメラである。1980年代に出現し、一時は広く普及した。一般的に使い捨てカメラと呼ばれることもあるが、メーカーなどの写真業界ではそのような呼称はしていない(後述「レンズ付きフィルムの出現」を参照)。 | {{独自研究|date=2022年3月}}
{{出典の明記|date=2011年8月}}
[[ファイル:Fujifilm's Disposable camera Vending machine.jpg|thumb|right|250px|[[自動販売機]]]]
'''レンズ付きフィルム'''(レンズつきフィルム)とは、[[写真フィルム|フィルム]]を工場で最初から内蔵した状態で販売され、撮影後は筐体ごと現像工場もしくはラボ店で回収されることを前提とした構造の、軽便な[[カメラ]]である。[[1980年代]]に出現し、一時は広く普及した。一般的に'''使い捨てカメラ'''と呼ばれることもあるが、メーカーなどの写真業界ではそのような呼称はしていない(後述「[[#レンズ付きフィルムの出現|レンズ付きフィルムの出現]]」を参照)。
== 構造 ==
筐体・内部構造共々大部分が[[合成樹脂|プラスチック]]で製作されている。カメラとしては、ごく簡易な固定焦点式がほとんどで、シャッタースピードも固定されている。露出調整は機械的な調整によらず、[[ネガフィルム]]そのものの広い[[ラティチュード]]に頼り、[[絞り (光学)|絞り]]もあらかじめ絞られて(F11 - 16程度)[[固定焦点]]によりピント調節を省略している。このため、ユーザーは最小限のカメラ操作で簡単に写真を撮影することができる。
フィルムは一般的な市販品でも高感度寄りの[[国際標準化機構|ISO]]400規格のものが多く用いられる。ISO400以上の高感度フィルムは、かつてポピュラーだったISO100クラスのフィルムに比べてシャッタースピードを速くできる優位があるが、反面、フィルム粒子の関係で画質が粗い傾向があった。しかし1980年代には技術・品質の向上により、画質のザラツキ感がさほど感じられないようになった。これにより、焦点固定・シャッター速度固定のカメラでも、手ぶれや露光不足などの問題を伴わずに満足しうる質の写真を撮影できるようになった。
また、同じ頃にプラスチックレンズの品質が向上し、なおかつ低コストで量産できるようになった。高価なガラスレンズを用いることなく、射出成型技術で生産できるプラスチックレンズで機能を満たせるようになったことは重要なブレークスルーである。さらに[[像面湾曲]]によるアウトフォーカスボケ軽減のため、[[ミノックス]]などで知られる手法であるが、フィルム面を意図的に湾曲させる技法も導入されるようになった。
装填されたフィルムは、工場での装填時にパトローネから全部引き出された状態でスプロケットに巻かれており、パトローネ中に巻き戻しながら使う方式である。このため、ユーザーによるフィルムの動作方向は巻き上げ一方向のみとなり、撮影済み分のパトローネ収納と相まって簡易化・フィルム保護を同時に実現している。
フィルムの巻き上げは撮影1枚ごとに指の腹でダイヤルを回転させる手動式<ref group="注">感覚的には[[オリンパス・ペン]]などに似ているが、ペンの巻き上げホイールはスプロケットギヤを駆動しているのに対し、「写ルンです」などの構造は単に巻き取り軸を回しているだけで別物である(カチカチと鳴るのは逆転防止ラッチ)。機構的にはペンよりリコーオートハーフに近い。</ref>で、使い切り式であるためフィルムの自在な巻き戻しや交換はできず、裏蓋もない。ただし、紙製の外装の下にはフィルムや電池の取出し口が存在する。
1群1枚のレンズであるが、[[非球面レンズ|非球面]][[メニスカス]]レンズにすることで収差を抑えている。2群2枚としたものもある。
切替でピント・絞り・シャッター速度などを変更できる(だいたいこれらのどれかで、2種類のうちどちらかを選ぶ)製品も登場しているほか、[[フォトレジスタ]]式の光センサーを搭載して絞りを自動で行うものも登場している。
初期の製品は、フィルムの遮光に一般のカメラ同様[[モルト]]を使用していたが、1980年代後半よりモルトは不要になった。従来は高級なカメラでしか見られなかったような、壁が互い違いに高精度で重なる構造による遮光が、プラスチック部品の射出成型技術などの向上により安価にできるようになったためである。なおこの技術はコンパクトカメラでも大いに活用された。
== 概要 ==
=== 大衆とカメラ ===
[[1950年代]]以降、工業製品としての[[写真フィルム|フィルム]]式[[カメラ]]の機能面においては、自動露光機構や自動焦点機構、カメラ内蔵式[[エレクトロニックフラッシュ|ストロボ]]といった高度な自動化システムが、高級カメラよりもむしろ大衆機から率先して導入され、撮影自体の簡易化は著しく進行した。
そのようなカメラの進歩過程でもなお大衆ユーザーがしばしばつまづいたのが、フィルム装填の取り扱いであった。一般的なフィルム式カメラでは、あらかじめ購入しておいたカメラへ、別途購入したフィルムを使用者自身が装填する。フィルムのパトローネをはめ込み、フィルム両脇のパーフォレーションに送り出しギアを噛ませて巻き上げる装填作業には、逆の過程となる巻取り、取り出し共々、相応に慣れが必要である。
撮影後に現像やプリントを写真店などに依頼するには、使用者自身がフィルムを巻き戻して取り出さなくてはならないが、機械の苦手なユーザーの場合、装填ミスや、撮影済みフィルムの取り出し・巻取りミスによる曝露といったミスが起こりうる。このためカメラの取り扱いに自信のない大衆ユーザーには、行き付けの写真店でフィルム装填・取り出しを委ねたり、旅先の写真店に飛び込んでフィルムを買い、店員に撮影済みフィルムと詰替えてもらうような事例が少なからず見られた。
また時代と共に大衆向けカメラは低廉化が進んだが、ほぼ全てのカメラは、たとえ大衆機であっても精密加工技術を伴って生産される耐久消費財として、それに見合った価格水準で生産・販売されてきた。その多くが、[[1930年代]]に誕生した後、ライカが採用したことで広まり、後にはデファクトスタンダードとなった[[135フィルム]]を用いていた。何度も新たなパッケージングやフォーマットの提案はあったものの、ニッチなセクタを確保した[[110フィルム]]以外はいずれも短期に消えていった。
=== レンズ付きフィルムの出現 ===
上記のような「カメラとフィルムは分離した製品であり、別個の部品である」という既成概念を破り、最初からカメラにフィルムを内蔵、取り出しは筐体の解体を前提としたのが「レンズ付きフィルム」である。使用者がフィルム装填・取り出しを行う必要はなく、撮影終了後はカメラごと現像・プリントの依頼先に引き渡し、通常のフィルムと同様、現像されたフィルムが返却されると同時にプリントされた写真が渡される(カメラ本体はメーカー側に回収される)。
外部のカメラ機能部分は現像後も返却されず、フィルムを使い切った時点でカメラとしての機能を果たさなくなることから「'''[[使い捨て]]カメラ'''」と一般からは呼ばれもしたが、[[富士フイルムホールディングス|フジ]]の「[[写ルンです]]」は品名を「レンズ付フィルム」とし、他メーカーも「使い切りカメラ」などと称した<ref group="注">ただし、コダックEasy35 など宣伝広告上で「使いすて」の文言を使用した製品も存在する。</ref>(流通面において、カメラの一種ではなくフィルムの一種として扱う必要があるためもある)。写真業界では、[[1991年]]に「レンズ付フィルム」を統一呼称とした<ref name="jcii">{{Cite web|和書|url=https://www.jcii-cameramuseum.jp/museum/special-exhibition/2014/10/28/8817/ |title=未来技術遺産登録記念「レンズ付フィルム展」 |website=[[日本カメラ博物館]] |publisher=日本カメラ財団 |accessdate=2020-07-25}}</ref>。資源浪費イメージの忌避や、実際にメーカーでは回収した機能部分を点検して[[再利用]]していることなどを示し「使い捨て」ではない点がアピールされている。
比較的廉価であるが、大衆ユーザーのスナップ写真レベルの撮影には支障ないだけの撮影能力を備えていたこと、そして写真店のみならずフィルムを販売する多様な流通網(観光地の土産物店やスーパーマーケット等)経由で購入でき、「買ってすぐに使用でき、満足できる水準の写真を撮影できる」低廉な簡易カメラとしての特性が、消費者のニーズを開拓したといえる。
当初は、構造を簡易化できる「110フィルム仕様」の製品からスタートしたが、すぐに135フィルム仕様の製品が展開され、市場の主流となった。なお[[1995年]]からは、新規格フィルムの[[アドバンストフォトシステム|APS]]フィルムを用いた製品が出現したが、APS規格自体がコンパクト[[デジタルカメラ]]の勃興で、カメラ市場で失敗したことから市場から無くなり、135フィルム仕様の製品のみが2013年時点でも存続している。
当初は通常のカメラの代用品といった位置付けであったが、ストロボ機能をはじめ、パノラマ、簡易な望遠、水中写真など、当時の普及品コンパクトカメラでは撮れない写真が撮れる、といったコンセプトの商品が現れるなど、デジタルカメラの普及以前には、多様なラインナップのある商品ジャンルに成長した。
=== インスタントカメラとの相違 ===
レンズ付きフィルムは、[[インスタントカメラ]]と誤って呼ばれることもあるが、これは「インスタントカメラ」という語が本来指す、[[ポラロイド]]カメラや富士フイルムの「フォトラマ」「[[インスタントカメラ・チェキ|チェキ]]」といったその場で描写したプリントが得られる方式のカメラのことを全く知らない層にまで普及し、かつ「インスタント」の意味を「即席」ではなく「簡易」と誤解しているためである。
== 歴史 ==
コンセプトとしては、[[19世紀]]末の[[コダック]]の有名なキャッチ「[[:en:You Press the Button, We Do the Rest|You Press the Button, We Do the Rest]]」(あなたはボタンを押してください、我々が残りをやります)を、[[20世紀]]末の大量生産文化とDPEサービスの普及を背景に究極まで推し進めた商品と言えよう。
[[ジョージ・イーストマン]]が[[1888年]]に開発して商業的に大成功したオリジナル・コダックのシステムは、メーカーで100枚撮りロールフィルムを簡易なカメラに装填、ユーザーは撮影を終えるとメーカーにカメラを送り、メーカーは写真を現像して新フィルム装填済みのカメラと共にユーザーに送り返すというものであり、後年のレンズ付きフィルムに酷似した着想であった。やがてコダックのカメラシステムが世代交代してフィルムはユーザー自身が交換するものとなり、オリジナル・コダックの着想は過去のものとなった。
その後の写真史において、同じ趣旨の製品は数種類登場したが、現像の取り扱いの問題もあって普及しなかった。
例えば、[[1949年]]にPhoto-Pacという会社はH. M. Stilesが発明した$1.29で製造できるボール紙でできた使い捨てカメラ(8枚撮り)を販売したが、流行らなかった<ref>{{Cite web
|url=http://blog.modernmechanix.com/the-first-disposable-camera/
|title=The First Disposable Camera
|accessdate=2016-06-22}}</ref>。
[[1960年代]]には、フランスのFEXという会社が"Photo Pack Matic"というプラスチック製の使い捨てカメラ(12枚撮り、4x4 cm)を発売した。これも一般化には至らなかった。
=== 「写ルンです」の成功と急速な普及 ===
商品として一般的な存在になったのは、[[1986年]]に富士写真フイルム(現:富士フイルムホールディングス)が「[[写ルンです]]」(うつルンです、日本国外名:QuickSnap)を発売したことによる。外出時にカメラを忘れた場合などの際、臨時で買い求めるといった用途を想定した、一種の[[ニッチ]]商品であったが、観光地など出先で買い求めて即座に撮影できる手軽さでヒット作となり、急速に普及していった。
初期モデルは、元からカートリッジ式の110フィルムを採用しており、言葉通り「フィルムケースにレンズ(と、フィルム面までの間の暗箱)を付けたもの」であった。その後すぐ、一般的な35ミリフィルムで当時の常用としては高感度のISO400を使用したモデルが登場し、そちらが主流となった(パンフォーカスの性能を成立させるために暗いレンズを用いたことから、これを高感度のISO400フィルムで補った)。
富士フイルムの成功を追って、各フィルムメーカーや他業種からも参入があった。
* [[コニカ]](後のコニカフォトイメージング→コニカミノルタフォトイメージング<ref group="注">[[2006年]]に[[コニカミノルタ]]が写真事業から撤退したことからDNPフォトマーケティング→DNPフォトルシオに事業継承され、海外メーカーのOEMによる「Torikkiri」シリーズとして引き継がれた。</ref>)
** 「よく撮れぞうくん」シリーズ
** 「撮りっきりコニカ」シリーズ
** 「撮りっきりmini」シリーズ(コニカミノルタ時代の商品)
* [[コダック]]
** 「スナップキッズ」シリーズ
* [[アグフア]]
* [[三菱製紙]]
** 三菱カラー フィルム入りカメラ パシャリコ(フィルム以外はコニカのOEM)
* 松下電器産業(現:[[パナソニック]])
** 「パナ撮る」(OEM。初期はコニカ「よく撮れぞうくん」、後に富士写真フイルム「写ルンです」がベースとなった。内蔵乾電池は松下電池工業(現:[[パナソニック オートモーティブ&インダストリアルシステムズ社]])製のナショナルウルトラアルカリ乾電池。なお、松下電器はフィルム式コンパクトカメラを発売していた時代もある。特に傘下でストロボを得意としていたウエスト電気(現:[[パナソニック ライティングデバイス]])の技術を活かし[[コンデンサ|キャパシタ]]を2個搭載してストロボの再発光に必要な時間を短縮したコンパクトカメラ(チャンス600クォーツデートなど)を発売していた)
* [[ジャスコ]]
** 「[[イオントップバリュ|トップバリュ]]使いきりカメラ」(DNPフォトルシオ経由のOEM)
* [[ダイエー]]
** 「セービング撮りっきりカメラ」(コニカOEM)
また、レンズ付きフィルムと同程度の機能・性能のカメラであれば従来のカメラより大幅に安価に作れる、という発想から、富士フイルムのスマートショット等、レンズ付きフィルムに類似した構造・クオリティで、ユーザーによるフィルム詰め替えが可能な「使い捨てないカメラ」とでも言うべき製品も現れたが、そちらは品質面からも商品のセクタ・レンジ的に近い[[トイカメラ]]に吸収されるような形となった。
=== 市場への展開 ===
そのヒットに伴い、望遠・広角、ストロボ付き、流行となった「パノラマ」(擬似<ref group="注">本物のパノラマではなく、25mm程度の広角レンズと、フィルムのコマの上下をカバーで覆って撮り、割増料金なしで幅広プリントのサービスが得られる、というもの。これは富士ではなくコダックがレンズ付きフィルムで先行し、コンパクトカメラにも広がるブームとなった。</ref>)、[[セピア調]](単体でも市販されている特殊フィルムを使ったもの)、キャラクターもの、防水タイプなど、さまざまな付加機能やバリエーションを伴った製品が続々と発売された。
特にフラッシュは、固定焦点カメラが不得意な光量不足の状況において、撮影能力を補う面で非常に有効な対策となったことから、レンズ付きフィルムにおける標準的な装備品となった。
近年では、より高感度(ISO800 - 1600)なフィルムを使用して夜景を綺麗に写せるもの、光センサーを搭載して自動で絞りを調節するものなど、高性能な機種も登場している。これらの高機能化は後述するように、現在においてもレンズ付きフィルムに対する一定の需要を下支えする要素となっている。
=== サードパーティによる詰め替え製品 ===
[[1990年代]]初めから中頃にかけて、製造元メーカー以外のサードパーティがレンズ付きフィルムの撮影済み筐体を回収、フィルムを詰め替えて廉価に販売することが一時期行われた。メーカー側で再利用が難しい構造に変更されたり、特許となっている構造について、実施権を持たない者による特許の実施であるとして係争になったこともある(いわゆる「[[消尽]]理論」が争点となった)。オリジナルメーカーとサードパーティとの係争が続く間に、デジタルカメラが新たに普及して銀塩フィルム式カメラの市場自体が縮小、販売のうまみが乏しくなったこともありほぼ消滅している。
=== デジタルカメラ普及に伴う市場縮小、そして再評価 ===
[[2000年代]]始めからは、[[デジタルカメラ]]の実用化とデジタルカメラに必須となるデータメディアの低価格化・高性能化による急速な普及、[[携帯電話]]に搭載されるカメラ撮影機能の高性能化により、市場需要は減少に転じた。これにより、多くのメーカーがレンズ付きフィルムの生産販売から撤退し、継続展開している富士フイルムも製品の値上げやラインアップの縮小(2020年以降は1タイプのみ生産中)を実施している。
しかし、デジタルカメラと違い、撮影した画像の修正が非常に困難なこと、安価で入手しやすく扱いやすいこと、シンプルかつ堅牢な構造であることから、証拠写真としての利用や、デジタルカメラに適さない環境(例えば海岸・水中・砂漠・寒冷地・電子機器の利用が禁止されている環境など)での撮影には根強い需要がある<ref name="hihyou201704">月刊「[[家電批評]]」2017年4月号53ページ</ref>。また海外旅行での撮影の場合、高価なデジタルカメラは盗難や紛失の危険があること、故障しても現地での修理が困難、電源方式の違いにより充電できない場合がある、といった事情から、盗まれても最小限の被害で済み、故障の少ないレンズ付きフィルムを使用する、もしくは予備として持ち歩く事例もある<ref>[https://www.mobell.co.jp/blog/2011/09/3092/ みんなが海外旅行に持っていくカメラ!] - モベルコミュニケーションズリミテッド 日本支店(2011年9月15日)</ref><ref>[https://tabippo.net/disposable-camera/ 旅行に持って行きたい使い捨てカメラ4選] - TABIPPO.NET(2017年9月24日)</ref><ref>[https://imatabi.jp/howto/2443/ カメラを持って海外旅行へ!持ち運びの注意点と目的別おすすめカメラ7選] - ガイドブックのような旅行お役立ちサイト IMATABI(株式会社VOYAGE MARKETING)</ref>。[[石川直樹 (探検家・写真家)|石川直樹]]など、プロ写真家にも過酷な撮影地に強いレンズ付きフィルムを愛用する者がいる<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/matome/20160329-OYT8T50000.html 健在「写ルンです」30歳…若者のおしゃれアイテム?] - 読売新聞(2016年4月4日)</ref><ref>[https://imaonline.jp/news/exhibition/20170809/#img1 石川直樹「いつでもどこでも写ルンです」展、“写ルンです”だから撮れた旅の記録] - IMA(2017年8月9日)</ref>。石川によれば、気温がマイナス30度から40度に達する極地ではカメラの故障や電池切れに見舞われることは少なくなく、過酷な環境でも問題なく使用できるレンズ付きフィルムは重宝しているという。実際に[[南極]]では持参した3台の[[一眼レフカメラ]]がいずれも故障してしまい、[[南極点]]に到達した際の写真はレンズ付きフィルムで撮影したものだった。[[エベレスト]]登頂や[[小笠原諸島]]での海中撮影の際にも防水タイプのレンズ付きフィルムが役立ったという<ref>[https://mt.webheibon.jp/bokunodogu/2012/11/2.html 第二回 レンズ付きフィルム] - 石川直樹【ぼくの道具】</ref><ref>[http://fujifilmsquare.jp/detail/1708110123.html FUJIFILM SQUARE 開館10周年記念写真展 石川直樹 写真展「いつでもどこでも写ルンです」](2017年8月11日から24日に開催)</ref>。写真店の店主によると、デジタル世代に若者には「フィルムカメラは斬新」であり、現像の手間を楽しむ若者が多く購入しているという<ref name="hihyou201704"/>。
また、(当初のコンセプトである)カメラを忘れた場合に加え、カメラを紛失した、バッテリーが切れた等の際にも需要がある。[[東日本大震災]]でも、津波でカメラを失ったユーザーが[[災害対策基本法#罹災証明書|罹災証明]]を取得するために必要な写真をレンズ付きフィルムで撮影した例が多数あるとされる。これは充電が不要という利点があり、ほかに内陸部でも地震でパソコンが故障し保存していた画像データが取り出し不能になったため代替利用された例もある<ref>[http://kirokueiga.seesaa.net/article/219429652.html 八木山で 写真を撮ろう 現像しよう] 八木山放送局Net(東北記録映画社) 2011年08月10日</ref>。
== 文化 ==
レンズ付きフィルムが登場するまで、カメラは低価格化・操作の容易さが進んでいたとはいえ、基本的には高価な商品であるため、紛失・盗難による事故や事件を防ぐ目的から、一部の学校では[[修学旅行]]など学校行事への個人所有カメラの持参を、制限もしくは禁止していた所が多かった。また、教育上の視点から携帯電話の持参を禁止したり、それほど安くは無い商品であるデジタルカメラに関しても旅先での紛失や盗難に遭う事を考慮して、生徒の持参を禁止する考えを貫く学校もある。しかし、安価で生徒にも買える存在であるレンズ付きフィルムであれば、学校としても旅行への持参を許可する、あるいは旅行期間内の撮影用として、学校側から生徒へ配布するという傾向はある。
1990年代、[[在籍者 (学習者)|高校生]]を中心として、レンズ付きフィルムを使っての[[自分撮り]](自撮り)が流行り、超広角レンズと前面にミラーを配置して自分撮りがしやすい機種や<ref group="注">ライカ判で焦点距離16mmという、超広角レンズが手軽に買えるとしてマニアの間では密かな人気機種であったが、メーカーはあえてそういう方向性の宣伝は避けていた。</ref>、あるいはフィルムメーカー純正のセルフタイマー付き三脚などが登場した。しかしこちらは、[[プリント倶楽部|プリクラ]]の普及・自撮りを意識したカメラ機能付携帯電話の登場・さらには、デジタル化され取り直しや簡単な加工も可能になった[[証明写真|自動証明写真撮影機]]などにその役割を取って代わられている。
== 使用時の注意点 ==
レンズ付きフィルムは、特別に写真についての知識のないユーザーでも気軽に使えるように設計されているが、操作の簡略化を実現するためにカメラの性能はあくまで限定的なものとなっており、撮影時に以下のような制約がある。これらはいずれも、パッケージに注意事項として記載されている。
レンズ付きフィルムの大部分は、日中の屋外での一般的な被写体を撮影することを想定しており、内蔵のストロボは、日陰や逆光時の補助光源としての、ごく低出力のものである。また、ネガフィルムは露光過剰には強いが、露光不足には弱い。このため、フラッシュ使用時に、離れた被写体へ光が届きにくい<ref group="注">特に記念写真などで大人数を写す場合、全員をフレームに収めようとするとどうしても撮影者は後ろへ下がる必要があり、フラッシュ光が届かなくなりやすい。</ref>。また、本格的な夜景を撮影することは難しく、屋内での撮影も露光不足を起こしやすい<ref group="注">近年の製品では、夜景撮影時には絞りを開くといった機構を組み込むなどの露光不足対策が進み、露光不足を起こしにくくなった。</ref>。
ほとんどのレンズ付きフィルムのピントが合う撮影距離は1m以上となっており、被写体に近づきすぎるとピンぼけになる。また、レンズがボディに埋没した形状のため、撮影時に指の位置に気をつけないと、撮影者の握り込んだ指がレンズに写り込んでしまう。
一般的なレンズ付きフィルムでは、巻き取り機構の簡素化と撮影済み画像の保護の目的から、フィルムはパトローネから引き出された状態で装填され、1枚撮影するごとに1コマずつパトローネに巻き込まれる(プレワインド方式の電動コンパクトカメラと同様)。従ってネガ上のナンバーと画像の撮影順が逆になり、小さいナンバーの画像ほど新しい画像になる。このため焼き増しなどの際にはネガフィルムの確認に注意を要するほか、CD書き込みサービスを利用する場合、CDへの書き込み順が撮影順と逆になることがある。
== リサイクル ==
俗称「使い捨てカメラ」などもあり、大量消費社会の象徴として槍玉に挙げられることもあった。そういった事情から、回収し再利用していることがアピールされるようになった。現在は、各メーカー、ほとんどの商品がリサイクルされている。大半の部品は分解のうえ、点検して再利用、破砕して原料として用いるなどの手法でリサイクルされる。
特にストロボの電源の電池にはアルカリ乾電池(なお、海外製品の一部にはマンガン乾電池や、積層電池のものもある)が使われており、容量に余裕がある(最大枚数の39枚に全てをストロボ撮影したとしても、残容量がある<ref group="注">後述のように通常の市販製品の乾電池のそれよりは少容量なのだが、それでも十分な余裕がある。マンガン電池としないのは容量だけでなく特性の問題がある。</ref>)ことから、再利用の筆頭となっている。現像店舗によっては、電池をもらうことができるほか、障害者支援の一環として、電圧測定・梱包を委託した上、リサイクル[[乾電池]]として販売しているケースもある。
なお、富士フイルムではパナソニック製アルカリ単4電池(LR03(G)相当)若しくは単3電池(LR6(GW)、ウルトラアルカリAM3)が、使用され、コニカは[[三洋電機]]製アルカリ単3電池(LR6(A))、コダックはコダック製アルカリ単3(LR6(K))が使用されていた。パナソニック製の単4電池は、2013年現在一般に販売されているLR03(XJ)よりも若干容量の少ない業務用・機器組み込み用となっている。そういた電池はほとんどが、市販の電池のように使用推奨期限等の記載が無く、使用に関しては乾電池チェッカー等でチェックして<!--電池の残容量チェックは、単なる電圧チェックではなく、あるていど電流を流しても電圧が下がらないかどうかチェックするものです-->から利用するほうがよい。また当然ながら、メーカーでは流用について一切の保証をしていないので、自己責任で利用する必要がある。実際に利用してみても市販されているアルカリ乾電池と比すると明らかに電池寿命は短く[[懐中電灯]]、[[掛け時計]]、ラジオ、[[コンパクトカセット]]を再生できる[[ヘッドホンステレオ]]など省電力機器に向いている。
一方で、メーカーの意図しないリサイクルがなされていた事例もある(前述の[[#サードパーティによる詰め替え製品|サードパーティによる詰め替え製品]]の節も参照)。1990年代前半頃から、メーカーとは無関係の企業によって、使用後の製品にフィルムを再装填した商品がディスカウント店などで市販されていた。見た目にはパッケージはほぼ透明のビニール袋に包まれ本体そのものに巻かれた紙パッケージには注意書きすら書かれていない、通常のサイズのパトローネが使え最初の巻き取りが容易な構造である初期型の[[フジカラー]]ブランドのストロボ仕様のレンズ付きフィルムが圧倒的に多かった。実売価格は概ね500円程度とメーカー品よりも当然安かった。現在は、メーカー側が構造部品に再装填を防止する対策を施したため、近年ではこのような製品はほとんど見られなくなった。
フラッシュ内蔵の商品には、電池の電圧(1.5V)をフラッシュが点灯できる高電圧(数百V)まで昇圧させる回路が内蔵されている。チャージされた状態のコンデンサに触れると高電圧に感電するので、大変危険である。
== 工作への応用 ==
メーカーの保証外となるものの、電子工作マニアなどはフラッシュ内蔵商品の昇圧回路(1.5Vを約420Vに昇圧)を利用して[[ストロボスコープ]]や高電圧発生器を製作したり、基板上の[[変圧器]](トランス)や高耐圧コンデンサ、[[トランジスタ]]や[[キセノン]]放電管を部品取りし、利用する例がある。ただし前述の電池容量(寿命)と同様、それらの部品も「ロールフィルム1本分+α」程度の耐久性をもって必要十分であるとして選択や設計がされているものもあり、実験的な使用を越える用途では注意が必要である。
上述のように、分解の際にコンデンサにチャージがあると電池を外しても感電するので、コンデンサの端子をショートし、放電させる必要がある。作業にあたっては必ず手を電気的に絶縁し、アークにより破損しても問題ない導線の切れ端等を使う等、感電防止及び部品の破損防止対策をする必要がある。できれば適切な電力定格と抵抗値の抵抗器を使うと火花や破裂音なく放電されるので良い。
また、紙製の外装を剥がすとフィルムと乾電池の取り出し用の蓋があり、蓋をマイナスドライバなどで起こして折り取ることにより、完全に分解しなくてもフィルムと電池は取り出しが可能である。『写ルンです』で当時単体販売されていないフィルムが使用されていた1990年代には、未使用のフィルムを取り出して一眼レフカメラに装填し、報道写真等に用いるプロカメラマンも多く見られた。ただし、パトローネ(マガジン)表面の印刷などは単体商品のものと異なるため、DPEによっては稀に拒否されることもありうる。
一部の電子部品販売店やカメラ店では、内蔵の基板を200円程度で販売している所や使用済みカメラそのものが無料で幾つも貰える所が存在する。
== 流通チャネル ==
現在もなお、様々な流通チャネルで販売されていることも、一定の需要がある理由の1つといえる。カメラ店はもちろん、[[コンビニエンスストア]]、[[スーパーマーケット]]、[[ホームセンター]]、[[ディスカウントストア]]<ref group="注">近年、一部のコンビニエンスストアでは、デジタルカメラ用のメディアや充電池代替となる乾電池を販売している店もあるが、多種多様なメディア種別・電池種別に対応できているわけではない。スーパーマーケットやホームセンターでも同様である。</ref>、観光地の土産物売り場などで販売されている。有名観光地にはレンズ付きフィルムの[[自動販売機]]が設置されている事があるが、近年は減少傾向にある。
== インスタントカメラへの間接的影響 ==
ポラロイドに代表されるインスタントカメラは、感材の価格が高価で、プリントを即必要とする特殊用途での需要にとどまっていたが、レンズ付フィルムで流行した「自撮り」需要などのマーケット分析がなされた結果、フィルムサイズを小さくし、カメラも構造をシンプルにして、本体・感材価格を大幅に値下げした[[インスタントカメラ・チェキ]]などは、自分撮りのメインユーザーであった若い女性、とりわけ女子高生のニーズを捉え、ヒット商品となった。しかし、カメラ機能付携帯電話には自分撮りが簡単に出来る機能が盛り込まれているため、レンズ付フィルムとは異なり、小型インスタントカメラのヒットは収束している(が、こちらもアイドルの地方巡業でのツーショットや、ストリップ劇場での撮影サービスなどで根強い需要がある。写ルンですとチェキは、富士フイルムが写真文化を残すために、意地で続けてきた側面もあるという)<ref name="hihyou201704"/>。ポラロイド社の[[倒産]]は、それを如実に物語る一つの事例である。
== デジタル版 ==
デジタルカメラを使い切りとする構想も存在し、いくつか製品化もなされているが、デジタルカメラの普及・低廉化により<ref name="jcii" />、大きな市場を形成するまでには至っていない。
[[2001年]]に[[旭光学工業]]、[[三洋電機]]、[[アルテック (卸売業)|アルテック]]が共同で「撮ってもEG」を発表<ref>{{Cite web|和書|date=2001年10月9日 |url=https://www.itmedia.co.jp/news/bursts/0110/09/sanyo.html |title=“レンズ付きフラッシュメモリ”──三洋,旭光学らが使い切りデジカメをテスト販売 |publisher=[[ITmedia]] |accessdate=2020-07-25}}</ref>。当初2000台が用意され<ref>{{Cite journal |和書 |title=3社共同でリユースデジカメ事業を試行 |date=2001-11 |publisher=[[日経BP]] |journal=[[日経デザイン]] |issue=173 |issn=0913-3429 |page=29}}</ref><ref name="cnn011011">{{Cite web |last=Miyake |first=Kuriko |date=2001-10-11 |url=https://edition.cnn.com/2001/TECH/ptech/10/11/disposable.digital.cameras.idg/ |title=Digital cameras go disposable |website=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN.com]] |publisher=[[ワーナーメディア]] |accessdate=2020-07-30 |language=英語}}</ref>、[[デイリーヤマザキ]]と[[三省堂書店]]の計8店舗で、同年10月から[[2002年]]2月末までの5か月弱<ref>{{Cite web|和書|date=2001-12-12 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20011212/eg.htm |title=使い切り型デジタルカメラ「撮ってもEG」でデータ保存が可能に |website=[[Impress Watch|PC Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2020-07-25}}</ref>試験販売された<ref name="jcii" />。[[2002年]]4月から本格販売を計画していたが<ref name="cnn011011" /><ref>{{Cite web |url=http://japan.cnet.com/Electronics/Story/011227/ce03.html |title=AV・デジタル家電:『撮ってもEG(イージー)』(旭光学工業株式会社・アルテック株式会社・三洋電機株式会社) |website=[[CNET|CNET Japan]] |publisher=[[NTTPCコミュニケーションズ]] |archivedate=2002-04-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20020415113120/http://japan.cnet.com/Electronics/Story/011227/ce03.html |accessdate=2020-07-30}}</ref>、続報はなく立ち消えとなっている。
[[2003年]]にアメリカのPure Digital Technologies<ref group="注">[[2009年]]、[[シスコシステムズ]]に買収された。</ref>が使い捨てデジタルカメラを開発<ref name="denver">{{Cite news|url=https://www.denverpost.com/2007/09/13/single-use-digital-cameras/ |title=Single-use digital cameras |accessdate=2020-07-26 | work=The Denver Post | date=2007-09-13 | language=英語}}</ref>。[[ウォルグリーン]]へ「Studio 35 Digital」として<ref>{{Cite news|url=https://www.baltimoresun.com/news/bs-xpm-2003-08-07-0308070076-story.html |title=Disposable digital |accessdate=2020-07-26 | work=The Baltimore Sun | date=2003-08-07 | language=英語}}</ref><ref>{{Cite web |last=Berger |first=Ivan |date=2003-07-31 |url=https://www.nytimes.com/2003/07/31/technology/news-watch-photography-take-vacation-snapshots-with-plenty-of-do-overs.html |title=NEWS WATCH: PHOTOGRAPHY; Take Vacation Snapshots With Plenty of Do-Overs |website=[[ニューヨーク・タイムズ]] |accessdate=2020-07-30 |language=英語}}</ref>、カメラチェーン店の{{仮リンク|リッツカメラセンター|en|Ritz Camera Center}}へ「{{仮リンク|リッツ・ダコタデジタル|en|Ritz Dakota Digital}}」としてそれぞれ数十店舗でテスト販売された後、[[CVS/ファーマシー|CVS]]<ref name="dc041015">{{Cite web|和書|author=塩田紳二 |date=2004-10-15 |url=https://dc.watch.impress.co.jp/cda/review/2004/10/15/262.html |title=【レポート】世界初の液晶付き使い切りデジカメ試用レポート |website=デジカメ Watch |publisher=インプレス |accessdate=2020-07-25}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.usatoday.com/tech/news/2004-08-18-puredigital_x.htm|title=A disposable digital camera enters the market at $19.99|accessdate=2020-07-26 | work=USA Today | first1=Jefferson | last1=Graham | date=2004-08-19 | language=英語}}</ref>や[[ライトエイド]]<ref name="denver" />といった他チェーン店向けにも出荷し、全国展開された。世界で初めて本格展開された使い切りデジカメとされる<ref name="denver" /><ref name="dc041015" />。ちなみに、Pure Digitalは[[2005年]]に使い切り[[カムコーダ]]も開発している<ref>{{Cite web|和書|date=2005年06月07日 |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0506/07/news063.html |title=“使い切り”デジタルビデオカメラが登場 |publisher=ITmedia |accessdate=2020-07-25}}</ref><ref group="注">のちに発展し、{{仮リンク|Flip Video|en|Flip Video}}として展開された。シスコ買収後の2011年に事業閉鎖され、展開終了。</ref>。
[[2008年]]に[[プラザクリエイト]]が防水使い切りデジカメ「ECO digi MODE」を発表<ref>{{Cite web|和書|date=2008年08月13日 |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0808/13/news031.html |title=「使い切りデジカメ」先行販売 プラザクリエイト |publisher=ITmedia |accessdate=2020-07-25}}</ref>。[[55ステーション]]およびパレットプラザの50店舗で先行発売し、3000台が初日にほとんど完売したと報じられたが<ref>{{Cite web|和書|date=2008-09-03 |url=https://ichigaya.keizai.biz/headline/385/ |title=「使い切りデジカメ」、初日でほぼ完売-次回は全国展開視野に |website=市ケ谷経済新聞 |publisher=コムブリッジ |accessdate=2020-07-25}}</ref>、その後本格展開はなされていない。
[[2012年]]ごろには、[[トイデジカメ]]で知られるアメリカのVistaQuestが「VQ10」を発売していた<ref>{{Cite web |last=Oliver |first=Dave |date=2012-11-16 |url=https://www.wired.co.uk/article/vistaquest-vq10-review |title=VistaQuest VQ10 disposable digital camera review |website=[[WIRED (雑誌)|WIRED UK]] |publisher=[[コンデナスト・パブリケーションズ|Condé Nast Britain]] |accessdate=2020-07-30 |language=英語}}</ref>。撮影後の本体を店舗に持ち込んで写真やデータを受け取る必要はなく、本体に[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]プラグを備え、直接PCへデータを取り込めるようになっている。ただし、取り込みを1度しか行えないようにすることで使い切りとしている。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[カメラ]]
* [[インスタントカメラ]]
{{写真}}
{{Camera-stub}}
{{デフォルトソート:れんすつきふいるむ}}
[[Category:カメラ]]
[[Category:写真フィルム]]
[[fr:Appareil photographique compact#Appareil photographique prêt-à-photographier]] | 2003-02-19T13:36:56Z | 2023-11-26T11:55:41Z | false | false | false | [
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"Template:Reflist",
"Template:出典の明記",
"Template:写真",
"Template:Camera-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%BA%E4%BB%98%E3%81%8D%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%A0 |
2,416 | コンパクトカメラ | コンパクトカメラとは、その名の通りコンパクト(小型)なカメラの総称。フィルムカメラにおいては、一眼レフカメラ・二眼レフカメラに対しビューファインダーカメラの通称として用いられることがある。 デジタルカメラにおいては、レンズ交換可能な一眼レフカメラ・ミラーレス一眼カメラ・中判カメラ・大判カメラなどに対して、大きさ如何に係らずレンズ交換が不可能なカメラの総称として用いられることが多い。安価な機種からプロ用の高級機まであり、中にはコンパクトと呼ぶには語弊がありそうな形状を持つものもある。
概ねレンズは、扱いやすく被写界深度が比較的深めの画角(30 - 50mm程)である広角〜標準レンズが作りつけになっており、ほとんどのモデルは交換できない。後に多くのモデルがズームレンズを搭載するようになり、画角の範囲も拡大していく。
採用されている焦点(ピント)合わせは固定焦点・目視ピント・ゾーンフォーカス・レンジファインダー・オートフォーカスなどに分かれる。 製造コストの観点から、低価格なカメラ(ハーフサイズカメラなど)には固定焦点 (パンフォーカス) 、ある程度以上の価格のカメラにはレンジファインダーやオートフォーカスが採用される傾向がある。
カメラの撮影は、 露出(シャッター速度と絞り)、焦点の各要素を適切に操作する必要があり、写真に関して専門知識のない人にはハードルが高いとされ、長年にわたって撮影操作を自動化する工夫が重ねられてきた。
1963年4月に小西六写真工業(のちのコニカ、現コニカミノルタ)が、世界初の自動露出カメラ(AEカメラ)「コニカ AutoS」を発売した。シャッター速度と絞りの自動化が実現し、残す自動化対象は焦点操作となった。AEカメラはアメリカで「休日に気軽に持ち出して使えるカメラ」との意味で「vacation camera」と呼ばれ流行した。
1977年11月30日に、同じく小西六写真工業が世界初のオートフォーカスカメラ「コニカ C35AF」を発売した。ジャストピントの意味から「ジャスピンコニカ」と愛称を付け宣伝し、女性を含む幅広い層に受け容れられた。その愛称から焦点操作の自動化が注目されがちであるが、自動露出機構を搭載したAEカメラでもあり、AE・AFをともに備えることで世界で初めて自動撮影を実現させたカメラである。
なお、日本のカメラメーカーのうち、ペンタックスとニコンはコンパクトカメラへの参入が他社と比べると遅かった。(ペンタックスは1982年、ニコンは1983年に発売)
全自動撮影が当たり前になり、1980年代末期になると、コンパクトカメラにズームレンズが搭載されるようになった。当初は1.5〜2倍程度の倍率であったが、1990年代後半になると望遠側が150mm、200mmといった焦点距離を持つ機種も発売され各メーカーがしのぎを削り合った。望遠側の倍率を伸ばすこともさながら、広角側も拡張することで倍率を高める機種も出現するなど、多様な機種が市場を沸かせた。
高倍率ズームとは逆に、単焦点や低倍率ズームながらも高品位なレンズを搭載するコニカのビッグミニシリーズや京セラ/ヤシカのTシリーズ、リコーのRシリーズ、フジのTIARAシリーズなども登場するようになる。
1996年に登場したAPSカメラはイメージサークルの縮小とフィルム自体の小型化によって、小型モデルを中心に普及が進んだ。中でもキヤノンのIXYシリーズは高品位なステンレスの外装と円をモチーフにしたデザイン、35mmフィルムカメラでは実現出来なかったような小型ボディによってヒットした。IXYのデザインと名称はデジタルカメラにも引き継がれ、これもヒットとなった。デジタルカメラの台頭により、APSコンパクトカメラはAPSフィルムの衰退と共に淘汰されていくこととなる。
デジタルカメラにおけるコンパクトカメラの名称はフィルム時代とは異なり、黎明期のレンズ固定式の小型機種でもそれなりの大きさを有していたため、現在でも大きさ如何にかかわらずレンズ固定式のカメラ全般に対し用いられるようになった。レンズ固定式のコンパクトカメラに対して、レンズ交換の可能なカメラは一眼カメラ等の名称で区別される。従って一部の大型のデジタルコンパクトカメラは、小型化が進んだミラーレス一眼カメラなどと体積の面での区分が曖昧になってきている。デジタルカメラにおいては、液晶ファインダーの搭載によって光学ファインダーの必須性は薄れるなどによって、従来のフィルムカメラのような光学面からのコンパクトカメラの区分が難しく、分類基準がレンズの脱着可不可ほどしかないことが理由として挙げられる。
デジタルコンパクトカメラのバリエーションは、フィルムという制約がなくなり、回転式レンズを備えたスイベル式の登場や縦に格納されるレンズ機構など、デザイン上での自由度が増え、フィルム時代にも増して提案されている。また小型モデルにおいては本体の縮小化も一層進み、より手軽に持ち歩く事が可能になった。
最初期はローライ 35シリーズやオリンパス XAシリーズ等に代表されるような、小型ではあるが高品位なレンズを搭載し、マニュアル操作である程度の自由がきき、プロカメラマンのサブカメラとなり得るようなカメラが草分けであった。
1984年に京セラがカール・ツァイスのゾナーを搭載したコンタックス Tを発売し高級コンパクトカメラと呼ばれるジャンルを築いた。1990年発売の後継T2は高級コンパクトカメラの代表的機種ともいえ、ジャンルを強固なものとした。T2は他メーカーにも大きな影響を与え追随製品が多数出現した。これらのカメラは
など、各メーカーの技術の粋を小さな筐体に集約したモデルであり、フィルム時代の全盛期および終焉を飾るにふさわしい機種群である。デジタルカメラにおいてもリコー GRデジタルシリーズやコンタックス TVSデジタルといった高級コンパクトカメラのコンセプトを受け継いだ機種が存在する。 デジタルカメラにおいても、とくに描写性能を重視した製品は以前からあったが、高級コンパクトとして明確に意識されるようになったのは、2005年10月に登場したリコー GR DIGITALや2007年3月にリリースされたシグマDP1の頃からである。高級コンパクトデジカメの明確な定義はないが、概ね次のようなカメラが相当する。
1980年代前半までは「バカチョンカメラ」という呼び名が一般において盛んに用いられていたが、当時の世代の人を中心に現在でも稀に呼称することがある。
1の説について、「『ちょん』が朝鮮人に対する蔑称である『チョン』『チョン公』の事を指している」とされ、「バカチョンカメラ」の呼称は使用が自粛されるようになった(現在「バカチョン」という表現は放送禁止用語となっている。詳述はバカチョンを参照)。
なお、デジタルコンパクトカメラのことを「コンデジ」と略称することがある。 | [
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"text": "コンパクトカメラとは、その名の通りコンパクト(小型)なカメラの総称。フィルムカメラにおいては、一眼レフカメラ・二眼レフカメラに対しビューファインダーカメラの通称として用いられることがある。 デジタルカメラにおいては、レンズ交換可能な一眼レフカメラ・ミラーレス一眼カメラ・中判カメラ・大判カメラなどに対して、大きさ如何に係らずレンズ交換が不可能なカメラの総称として用いられることが多い。安価な機種からプロ用の高級機まであり、中にはコンパクトと呼ぶには語弊がありそうな形状を持つものもある。",
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"text": "概ねレンズは、扱いやすく被写界深度が比較的深めの画角(30 - 50mm程)である広角〜標準レンズが作りつけになっており、ほとんどのモデルは交換できない。後に多くのモデルがズームレンズを搭載するようになり、画角の範囲も拡大していく。",
"title": "レンズについて"
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"text": "採用されている焦点(ピント)合わせは固定焦点・目視ピント・ゾーンフォーカス・レンジファインダー・オートフォーカスなどに分かれる。 製造コストの観点から、低価格なカメラ(ハーフサイズカメラなど)には固定焦点 (パンフォーカス) 、ある程度以上の価格のカメラにはレンジファインダーやオートフォーカスが採用される傾向がある。",
"title": "ピント合わせの種類について"
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"text": "カメラの撮影は、 露出(シャッター速度と絞り)、焦点の各要素を適切に操作する必要があり、写真に関して専門知識のない人にはハードルが高いとされ、長年にわたって撮影操作を自動化する工夫が重ねられてきた。",
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"text": "1963年4月に小西六写真工業(のちのコニカ、現コニカミノルタ)が、世界初の自動露出カメラ(AEカメラ)「コニカ AutoS」を発売した。シャッター速度と絞りの自動化が実現し、残す自動化対象は焦点操作となった。AEカメラはアメリカで「休日に気軽に持ち出して使えるカメラ」との意味で「vacation camera」と呼ばれ流行した。",
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"text": "1977年11月30日に、同じく小西六写真工業が世界初のオートフォーカスカメラ「コニカ C35AF」を発売した。ジャストピントの意味から「ジャスピンコニカ」と愛称を付け宣伝し、女性を含む幅広い層に受け容れられた。その愛称から焦点操作の自動化が注目されがちであるが、自動露出機構を搭載したAEカメラでもあり、AE・AFをともに備えることで世界で初めて自動撮影を実現させたカメラである。",
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"text": "なお、日本のカメラメーカーのうち、ペンタックスとニコンはコンパクトカメラへの参入が他社と比べると遅かった。(ペンタックスは1982年、ニコンは1983年に発売)",
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] | コンパクトカメラとは、その名の通りコンパクト(小型)なカメラの総称。フィルムカメラにおいては、一眼レフカメラ・二眼レフカメラに対しビューファインダーカメラの通称として用いられることがある。 デジタルカメラにおいては、レンズ交換可能な一眼レフカメラ・ミラーレス一眼カメラ・中判カメラ・大判カメラなどに対して、大きさ如何に係らずレンズ交換が不可能なカメラの総称として用いられることが多い。安価な機種からプロ用の高級機まであり、中にはコンパクトと呼ぶには語弊がありそうな形状を持つものもある。 | '''コンパクトカメラ'''とは、その名の通りコンパクト(小型)な[[カメラ]]の総称。[[写真フィルム|フィルム]]カメラにおいては、[[一眼レフカメラ]]・[[二眼レフカメラ]]に対し[[カメラ#ファインダー|ビューファインダーカメラ]]の通称として用いられることがある。 [[デジタルカメラ]]においては、レンズ交換可能な[[一眼レフカメラ]]・[[ミラーレス一眼カメラ]]・[[中判カメラ]]・[[大判カメラ]]などに対して、大きさ如何に係らずレンズ交換が不可能なカメラの総称として用いられることが多い。安価な機種<!--(3千円程度)-->からプロ用の高級機まであり、中にはコンパクトと呼ぶには語弊がありそうな形状を持つものもある。
== レンズについて ==
概ね[[写真レンズ|レンズ]]は、扱いやすく[[被写界深度]]が比較的深めの[[画角]](30 - 50mm程)である[[広角レンズ|広角]]〜[[標準レンズ]]が作りつけになっており、ほとんどのモデルは交換できない。後に多くのモデルがズームレンズを搭載するようになり、画角の範囲も拡大していく。
== ピント合わせの種類について ==
採用されている[[焦点 (光学)|焦点]](ピント)合わせは[[固定焦点]]・[[目視ピント]]・[[ゾーンフォーカス]]・[[レンジファインダー]]・[[オートフォーカス]]などに分かれる。
製造コストの観点から、低価格なカメラ([[ハーフサイズカメラ]]など)には[[固定焦点]] ([[パンフォーカス]]) 、ある程度以上の価格のカメラにはレンジファインダーやオートフォーカスが採用される傾向がある。
== 歴史について ==
=== 自動撮影の普及 ===
カメラの撮影は、 [[露出_(写真)|露出]]([[シャッター速度]]と[[絞り (光学)|絞り]])、焦点の各要素を適切に操作する必要があり、写真に関して専門知識のない人にはハードルが高いとされ、長年にわたって撮影操作を自動化する工夫が重ねられてきた。
1963年4月に[[コニカ|小西六写真工業]](のちのコニカ、現[[コニカミノルタ]])が、世界初の自動露出カメラ([[AEカメラ]])「コニカ AutoS」を発売した。シャッター速度と絞りの自動化が実現し、残す自動化対象は焦点操作となった。AEカメラはアメリカで「休日に気軽に持ち出して使えるカメラ」との意味で「<ruby lang="en">vacation camera<rp>(</rp><rt lang="en-Kana">ヴァケイション・キャメラ</rt><rp>)</rp></ruby>」と呼ばれ流行した。
1977年11月30日に、同じく小西六写真工業が世界初の[[オートフォーカス]]カメラ「コニカ C35AF」を発売した。ジャストピントの意味から「'''ジャスピンコニカ'''」と愛称を付け宣伝し、女性を含む幅広い層に受け容れられた。その愛称から焦点操作の自動化が注目されがちであるが、自動露出機構を搭載したAEカメラでもあり、AE・AFをともに備えることで世界で初めて自動撮影を実現させたカメラである。
なお、日本のカメラメーカーのうち、[[ペンタックス]]と[[ニコン]]はコンパクトカメラへの参入が他社と比べると遅かった。(ペンタックスは1982年、ニコンは1983年に発売)
=== ズーム競争と多様化 ===
全自動撮影が当たり前になり、1980年代末期になると、コンパクトカメラにズームレンズが搭載されるようになった。当初は1.5〜2倍程度の倍率であったが、[[1990年代]]後半になると望遠側が150mm、200mmといった焦点距離を持つ機種も発売され各メーカーがしのぎを削り合った。望遠側の倍率を伸ばすこともさながら、広角側も拡張することで倍率を高める機種も出現するなど、多様な機種が市場を沸かせた。
高倍率ズームとは逆に、単焦点や低倍率ズームながらも高品位なレンズを搭載する[[コニカ]]の'''ビッグミニ'''シリーズや[[京セラ]]/[[ヤシカ]]の'''[[ヤシカのカメラ製品一覧#京セラ/ヤシカTシリーズ|Tシリーズ]]'''、[[リコー]]の'''[[リコーのカメラ製品一覧#リコーR/GRシリーズ|Rシリーズ]]'''、[[富士フイルム|フジ]]の'''TIARAシリーズ'''なども登場するようになる。
=== APSコンパクトカメラの登場 ===
1996年に登場した[[アドバンストフォトシステム|APS]]カメラは[[イメージサークル]]の縮小とフィルム自体の小型化によって、小型モデルを中心に普及が進んだ。中でも[[キヤノン]]の'''[[キヤノンのカメラ製品一覧#IXYシリーズ|IXYシリーズ]]'''は高品位なステンレスの外装と円をモチーフにしたデザイン、[[135フィルム|35mmフィルム]]カメラでは実現出来なかったような小型ボディによってヒットした。IXYのデザインと名称は[[デジタルカメラ]]にも引き継がれ、これもヒットとなった。デジタルカメラの台頭により、APSコンパクトカメラはAPSフィルムの衰退と共に淘汰されていくこととなる。
=== デジタルカメラにおけるコンパクトカメラ ===
[[デジタルカメラ]]におけるコンパクトカメラの名称はフィルム時代とは異なり、黎明期のレンズ固定式の小型機種でもそれなりの大きさを有していたため、現在でも大きさ如何にかかわらずレンズ固定式のカメラ全般に対し用いられるようになった。レンズ固定式のコンパクトカメラに対して、レンズ交換の可能なカメラは'''一眼カメラ'''等の名称で区別される。従って一部の大型のデジタルコンパクトカメラは、小型化が進んだ[[ミラーレス一眼カメラ]]などと体積の面での区分が曖昧になってきている。デジタルカメラにおいては、液晶ファインダーの搭載によって光学ファインダーの必須性は薄れるなどによって、従来のフィルムカメラのような光学面からのコンパクトカメラの区分が難しく、分類基準がレンズの脱着可不可ほどしかないことが理由として挙げられる。
デジタルコンパクトカメラのバリエーションは、フィルムという制約がなくなり、回転式レンズを備えた[[スイベル]]式の登場や縦に格納されるレンズ機構など、デザイン上での自由度が増え、フィルム時代にも増して提案されている。また小型モデルにおいては本体の縮小化も一層進み、より手軽に持ち歩く事が可能になった。
{{節スタブ}}
== 高級コンパクトカメラについて ==
最初期は[[ローライ]]''' [[ローライ#ローライ35シリーズ|35シリーズ]]'''や[[オリンパス]]''' [[オリンパス#XAシリーズ|XAシリーズ]]'''等に代表されるような、小型ではあるが高品位なレンズを搭載し、マニュアル操作である程度の自由がきき、プロカメラマンのサブカメラとなり得るようなカメラが草分けであった。
[[画像:CONTAX T2.jpg|thumb|right|120px|コンタックス T2]]
1984年に[[京セラ]]が[[カール・ツァイス]]の[[ゾナー]]を搭載した[[コンタックス]] '''[[コンタックス#コンタックスTシリーズ|T]]'''を発売し高級コンパクトカメラと呼ばれるジャンルを築いた。1990年発売の後継'''T2'''は高級コンパクトカメラの代表的機種ともいえ、ジャンルを強固なものとした。T2は他メーカーにも大きな影響を与え追随製品が多数出現した。これらのカメラは
* 高級レンズを搭載
* 高品位な外装やメカニズム
* 全自動カメラが全盛期の時代において絞り優先AE、選択可能な複数の測光方式や[[マニュアルフォーカス]]などを搭載
など、各メーカーの技術の粋を小さな筐体に集約したモデルであり、フィルム時代の全盛期および終焉を飾るにふさわしい機種群である。デジタルカメラにおいても[[リコー]] '''[[リコー・GRデジタルシリーズ|GRデジタルシリーズ]]'''や[[コンタックス]] '''[[コンタックスTVSデジタル|TVSデジタル]]'''といった高級コンパクトカメラのコンセプトを受け継いだ機種が存在する。
デジタルカメラにおいても、とくに描写性能を重視した製品は以前からあったが、高級コンパクトとして明確に意識されるようになったのは、2005年10月に登場したリコー GR DIGITALや2007年3月にリリースされたシグマDP1の頃からである。高級コンパクトデジカメの明確な定義はないが、概ね次のようなカメラが相当する。
* 比較的大型のイメージセンサーを搭載(2014年4月時点では概ね1/1.7型以上)
* 単焦点レンズまたは広角端の開放F値が概ねF2.0程度よりも明るいこと
* 高品位な外装や機能を搭載
=== 主な高級コンパクトカメラ ===
====フィルムカメラ====
[[画像:Minilux.JPG|thumb|right|120px|ライカ minilux]]
* '''[[コンタックス]]''' '''[[コンタックス#コンタックスTシリーズ|Tシリーズ]]'''、'''[[コンタックス#コンタックスTVSシリーズ|TVSシリーズ]]''' - 高級コンパクトカメラの開拓者というべきシリーズ。T2からはチタン外装を纏った。TVSシリーズはズームレンズを搭載。TixというAPSの高級コンパクトカメラも存在した。
* '''[[ライカ]]''' '''miniluxシリーズ'''、'''CM''' - miniluxシリーズはT2を追随して企画された。生産は[[パナソニック|松下電器産業]]が請け負った。後継ともいえるCMは2003年発売と高級コンパクトカメラでは最後期の製品であったが、2007年に生産が終了した。
* '''[[ニコン]]''' '''[[ニコンの銀塩コンパクトカメラ製品一覧#Tiシリーズ|28Ti/35Ti]]''' - チタン外装。アナログ指針による撮影情報表示が特徴的。レンズは同社の銀塩コンパクトカメラでは唯一ニッコールの銘がつけられている。
* '''[[ミノルタ]]''' '''[[ミノルタのカメラ製品一覧#ミノルタTC-1|TC-1]]''' - 発売当時35mmフィルムカメラ世界最小を謳った機種。チタン外装、完全円形絞り等を搭載。搭載されたG-ROKKORはレンズ単体で[[Lマウント]]にて発売されるほどの性能を誇った。
* '''[[リコー]]''' '''[[リコーのカメラ製品一覧#リコーR/GRシリーズ|GRシリーズ]]''' - G-ROKKORレンズ同様、GRレンズも単体でLマウントにて発売された。グリップ部以外の本体の大部分はパトローネより薄いという形状をしていた。GR1シリーズのボディは堅牢なマグネシウムダイキャスト。
====デジタルカメラ====
*'''[[ソニー]][[サイバーショット]]''' - DSC-RX1 世界初の35mmフルサイズCMOSセンサを搭載したコンパクトデジタルカメラ。
*'''[[パナソニック]][[ルミックス]]'''
*'''[[カシオ計算機|カシオ]][[エクシリム]]'''他
== 呼称について ==
1980年代前半までは「'''[[バカチョン|バカチョンカメラ]]'''」という呼び名が一般において盛んに用いられていたが、当時の世代の人を中心に現在でも稀に呼称することがある。
*語源には下記のような説がある。
*#英語の[[信頼性設計|フール・プルーフ]]の訳語で、「カメラの使い方を知らなくても、絞りやシャッター速度の調整を気にせず使えるカメラ」つまり[[プログラムAE|プログラムEE]](当時の呼称。現在のプログラムAE)つきの、「ばかでもちょんでも使えるカメラ」という意味。
*#英語「<ruby lang="en">vacation camera<rp>(</rp><rt lang="en-Kana">ヴァケイション・キャメラ</rt><rp>)</rp></ruby>」の日本語読み。
*#[[F値]]・[[被写界深度]]・シャッター速度・[[エレクトロニックフラッシュ|ストロボ]]等の専門知識を要することなく、「バカでも(シャッターを)チョンと押せば撮影できる」の意
1の説について、「『ちょん』が[[朝鮮民族|朝鮮人]]に対する蔑称である『チョン』『チョン公』の事を指している」とされ、「バカチョンカメラ」の呼称は使用が自粛されるようになった(現在「バカチョン」という表現は[[放送禁止用語]]となっている。詳述は[[バカチョン]]を参照)。
なお、デジタルコンパクトカメラのことを「コンデジ」と略称することがある。
== 関連項目 ==
* [[レンジファインダーカメラ]]
* [[アルカリマンガン乾電池]]
* [[インスタマチック]]
* [[フラッシュマチック]]
* [[110フィルム]](110カメラ)
* [[APSフィルム]]
* [[レンズ付きフィルム]]
{{写真}}
{{デフォルトソート:こんはくとかめら}}
[[Category:カメラ]]
[[Category:写真]] | 2003-02-19T13:41:35Z | 2023-10-20T09:49:03Z | false | false | false | [
"Template:節スタブ",
"Template:写真"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%AF%E3%83%88%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9 |
2,417 | 126 | 126(百二十六、ひゃくにじゅうろく)は自然数、また整数において、125の次で127の前の数である。 | [
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] | 126(百二十六、ひゃくにじゅうろく)は自然数、また整数において、125の次で127の前の数である。 | {{整数|Decomposition=2×3<sup>2</sup>×7}}
'''126'''('''百二十六'''、ひゃくにじゅうろく)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[125]]の次で[[127]]の前の数である。
== 性質 ==
* 126は[[合成数]]であり、[[約数]]は [[1]], [[2]], [[3]], [[6]], [[7]], [[9]], [[14]], [[18]], [[21]], [[42]], [[63]] と 126 である。
**[[約数の和]]は[[312]]。
***29番目の[[過剰数]]である。1つ前は[[120]]、次は[[132]]。
* 6番目の[[五胞体数]]である。1つ前は[[70]]、次は[[210]]。
**126 = {{sfrac|6 × 7 × 8 × 9|1 × 2 × 3 × 4}}
* 126 = 2 × 3{{sup|2}} × 7
** 3つの異なる[[素因数]]の積で ''p''{{sup|2}} × ''q'' × ''r'' の形で表せる4番目の数である。1つ前は[[90]]、次は[[132]]。({{OEIS|A085987}})
** 126 = 21 × 6 であり、4番目の[[フリードマン数]]。1つ前は[[125]]、次は[[127]]。
* ([[125]], 126)は5番目の[[ルース=アーロン・ペア]]である。1つ前は([[77]], [[78]])、次は([[714]], [[715]])。
* 42番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[120]]、次は[[132]]。
** 9を基としたとき13番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[117]]、次は[[135]]。
*各位の[[立方和]]が225になる最小の数である。次は[[162]]。({{OEIS|A055012}})
** 各位の立方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の224は[[26]]、次の226は1126。({{OEIS|A165370}})
** 各位の[[立方和]]が[[平方数]]になる17番目の数である。1つ前は[[123]]、次は[[132]]。({{OEIS|A197039}})
* {{sfrac|1|126}} = 0.0<span style="text-decoration:underline;">079365</span>… (下線部は循環節で長さは6)
**[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が6になる23番目の数である。1つ前は[[117]]、次は[[130]]。
* 126<sup>2</sup> + 1 = 15877 であり、''n''<sup>2</sup> + 1 の形で[[素数]]を生む24番目の数である。1つ前は[[124]]、次は[[130]]。
* [[114]]から続いた以前の連続数を上回る13連続合成数のうち最後の数である。1つ前の7連続の最後は[[96]]、次の17連続の最後は[[540]]。({{OEIS|A008995}})
* 126 = 2{{sup|1}} + 2{{sup|2}} + 2{{sup|3}} + 2{{sup|4}} + 2{{sup|5}} + 2{{sup|6}}
** [[2]]の自然数乗の和とみたとき1つ前は[[62]]、次は[[254]]。
** ''a'' = 2 のときの ''a''{{sup|1}} + ''a''{{sup|2}} + ''a''{{sup|3}} + ''a''{{sup|4}} + ''a''{{sup|5}} + ''a''{{sup|6}} の値とみたとき1つ前は[[6]]、次は1092。
* 126 = 4{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 6{{sup|2}} + 7{{sup|2}}
**4連続平方和で表せる4番目の数である。1つ前は[[86]]、次は[[174]]。
** ''n'' から始まる ''n'' 連続整数の[[平方和]]で表せる数である。1つ前は[[50]]、次は[[255]]。({{OEIS|A050410}})
**126 = 1{{sup|2}} + 3{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 10{{sup|2}} = 1{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 6{{sup|2}} + 8{{sup|2}} = 2{{sup|2}} + 3{{sup|2}} + 7{{sup|2}} + 8{{sup|2}} = 2{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 9{{sup|2}} = 4{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 6{{sup|2}} + 7{{sup|2}}
***異なる4つの[[平方数]]の和5通りで表せる最小の数である。次は[[150]]。({{OEIS|A025380}})
****異なる4つの[[平方数]]の和 ''n'' 通りで表せる最小の数である。1つ前の4通りは[[142]]、次の6通りは[[174]]。({{OEIS|A025417}})
*[[約数]]の和が126になる数は2個ある。([[68]], [[82]]) [[約数]]の和2個で表せる13番目の数である。1つ前は[[124]]、次は[[128]]。
* 126 = 5{{sup|3}} + 1
** ''n'' = 3 のときの 5{{sup|''n''}} + 1 の値とみたとき1つ前は[[26]]、次は[[626]]。({{OEIS|A034474}})
** ''n'' = 5 のときの ''n''{{sup|3}} + 1 の値とみたとき1つ前は[[65]]、次は[[217]]。({{OEIS|A001093}})
** 126 = 1{{sup|3}} + 5{{sup|3}}
*** 2つの正の数の[[立方数]]の和で表せる10番目の数である。1つ前は[[91]]、次は[[128]]。({{OEIS|A003325}})
*** 異なる2つの正の数の[[立方数]]の和で表せる7番目の数である。1つ前は[[91]]、次は[[133]]。({{OEIS|A024670}})
*126 = 1<sup>2</sup> + 2<sup>2</sup> + 11<sup>2</sup> = 1<sup>2</sup> + 5<sup>2</sup> + 10<sup>2</sup> = 3<sup>2</sup> + 6<sup>2</sup> + 9<sup>2</sup>
** 3つの[[平方数]]の和3通りで表せる10番目の数である。1つ前は[[114]]、次は[[131]]。({{OEIS|A025323}})
** 異なる3つの[[平方数]]の和3通りで表せる3番目の数である。1つ前は[[110]]、次は[[134]]。({{OEIS|A025341}})
**126 = 3<sup>2</sup> + 6<sup>2</sup> + 9<sup>2</sup>
*** ''n'' = 2 のときの 3{{sup|''n''}} + 6{{sup|''n''}} + 9{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[18]]、次は972。({{OEIS|A074557}})
*126 = 2{{sup|3}} + 3{{sup|3}} + 3{{sup|3}} + 4{{sup|3}}
**4つの正の数の[[立方数]]の和で表せる24番目の数である。1つ前は[[119]]、次は[[128]]。({{OEIS|A003327}})
* 126 = [[6]] + [[120]]
** 異なる[[倍積完全数]]の和で表せる5番目の数である。(ただし1を除く)1つ前は[[120]]、次は[[148]]。({{OEIS|A083865}})
* 126 = 2{{sup|7}} − 2
** ''n'' = 2 のときの ''n''{{sup|7}} − ''n'' の値とみたとき1つ前は[[0]]、次は[[2184]]。({{OEIS|A133499}})
** ''n'' = 7 のときの 2{{sup|''n''}} − 2 の値とみたとき1つ前は[[62]]、次は[[254]]。({{OEIS|A000918}})
* ''n'' = 126 のとき ''n'' と ''n'' + 1 を並べた数を作ると[[素数]]になる。''n'' と ''n'' + 1 を並べた数が素数になる19番目の数である。1つ前は[[120]]、次は[[138]]。({{OEIS|A030457}})
* ''n'' = 6 のときの 2''n'' と ''n'' を並べてできる数である。1つ前は[[105]]、次は[[147]]。({{OEIS|A235497}})
* 126 = 5! + 6
** ''n'' = 5 のときの ''n''! + ''n'' + 1 の値とみたとき1つ前は[[29]]、次は[[727]]。({{OEIS|A213169}})
== その他 126 に関連すること ==
* [[126年|西暦126年]]
* 126フィルムは[[写真フィルム]]の1つ。[[インスタマチック]]カメラ向けで、カートリッジ入り。画面サイズ26cm×26cmのスクエアフォーマット。
* 126は、[[核物理学]]において、[[2]]、[[8]]、[[20]]、[[28]]、[[50]]、[[82]]と共に、[[原子核]]中の[[中性子]]の数がこれらの数である場合<!--本来は、陽子と中性子の数と説明すべきだが、陽子数126の原子核は地球上では安定しないので、魔法数の説明はリンク先に任せておいて、ここでは、「中性子の数」とだけ説明してある。-->、その原子核はなぜか安定しやすい、[[魔法数]]の1つとして知られている。これより大きな魔法数についての研究もあるが、2011年現在知られている中では126が最大である。
* [[年始]]から数えて126日目は[[5月6日]]、[[閏年]]は[[こどもの日]]である[[5月5日]]。
* 第126代[[教皇|ローマ教皇]]は[[レオ7世 (ローマ教皇)|レオ7世]](在位:[[936年]][[1月3日]]~[[939年]][[7月3日]])である。
* 日本の第126代天皇は[[徳仁]](在位:[[令和元年]][[2019年]][[5月1日]]~在位中)である。
* 126 × 10{{sup|−2}} = 1.26 は {{sfrac|log 4|log 3}} の[[近似値]]である。({{OEIS|A100831}})
** [[フラクタル図形]][[コッホ雪片]]の[[ハウスドルフ次元]]である。
== 関連項目 ==
* [[数の一覧]]
* [[名数一覧]]
* [[1月26日]]
* [[12月6日]] | null | 2022-01-13T13:11:45Z | false | false | false | [
"Template:Sfrac",
"Template:Sup",
"Template:OEIS",
"Template:整数"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/126 |
2,418 | バンド構造 | バンド構造(バンドこうぞう、英: band structure)は、以下の2通りの使われ方がある。
ここでは結晶などの固体の中の電子バンド構造(でんしバンドこうぞう、英: electronic band structure)を扱う。
例としてN個の炭素原子から成るダイアモンド結晶中の電子のバンド構造を考える。
もし炭素原子同士が互いに遠く離れていた場合、それぞれの炭素原子は同じエネルギーのs軌道とp軌道をもつ(縮退)。
炭素原子が互いに近づくと軌道が重なり、異なるエネルギーを持つN個の軌道に分裂する。 Nは非常に大きい数であるため分裂したエネルギーの間隔は非常に狭く、連続的な帯状であると見なすことができる。これをエネルギーバンドまたは単にバンドと呼ぶ。 原子間距離 a では、価電子帯と伝導帯と呼ばれる2つのバンドを作る。それぞれ化学結合における結合性軌道と反結合性軌道に対応する。
エネルギー的に隣り合うバンドのエネルギー差(エネルギーギャップ)はバンドギャップと呼ばれる。ダイアモンドの伝導帯と価電子帯のバンドギャップは5.5 eVである。バンドギャップにはエネルギー準位は存在しない。
一般的に波数kと対応するエネルギー固有値(固有エネルギー)εkとの関係を分散関係と言う。波数とバンド構造との関係はバンド曲線、E-k曲線(E-k分散)、バンド分散などと呼ばれることもある。
バンド構造は通常、縦軸がエネルギー、横軸が第一ブリュアンゾーンの適当に選んだいくつかの直線上のk点となっている(系の持つ対称性に依存する)。各k点上に電子の取り得る固有状態(バンド)があり、これらが繋がって曲線をなしている(繋がり方も重要)。バンド構造を見ることにより、バンドギャップが空いているかどうか(つまり対応する系が金属かそうでないか)、バンドの分散が強いか弱いかによる電子状態の違い(分散が弱いと、そのバンドの電子はより束縛された状態となっている。強いと逆)、異なる系同士のバンド構造を比較することにより、系の安定性(どちらがより安定か)などの議論が可能である(注:バンド構造だけでは判断できない場合もある)。
半導体(や絶縁体)においては、k空間を無視して、バンドギャップの周辺だけに注目した、より簡単な描写が良く用いられる。バンドギャップの項を参照。
電子のバンド構造と類似したものとして、フォノンの分散曲線(フォノニックバンド構造)やフォトニックバンド構造、プラズモニックバンド構造などがある。 | [
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"text": "炭素原子が互いに近づくと軌道が重なり、異なるエネルギーを持つN個の軌道に分裂する。 Nは非常に大きい数であるため分裂したエネルギーの間隔は非常に狭く、連続的な帯状であると見なすことができる。これをエネルギーバンドまたは単にバンドと呼ぶ。 原子間距離 a では、価電子帯と伝導帯と呼ばれる2つのバンドを作る。それぞれ化学結合における結合性軌道と反結合性軌道に対応する。",
"title": "実空間でのバンド構造"
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"text": "エネルギー的に隣り合うバンドのエネルギー差(エネルギーギャップ)はバンドギャップと呼ばれる。ダイアモンドの伝導帯と価電子帯のバンドギャップは5.5 eVである。バンドギャップにはエネルギー準位は存在しない。",
"title": "実空間でのバンド構造"
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"text": "一般的に波数kと対応するエネルギー固有値(固有エネルギー)εkとの関係を分散関係と言う。波数とバンド構造との関係はバンド曲線、E-k曲線(E-k分散)、バンド分散などと呼ばれることもある。",
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"text": "バンド構造は通常、縦軸がエネルギー、横軸が第一ブリュアンゾーンの適当に選んだいくつかの直線上のk点となっている(系の持つ対称性に依存する)。各k点上に電子の取り得る固有状態(バンド)があり、これらが繋がって曲線をなしている(繋がり方も重要)。バンド構造を見ることにより、バンドギャップが空いているかどうか(つまり対応する系が金属かそうでないか)、バンドの分散が強いか弱いかによる電子状態の違い(分散が弱いと、そのバンドの電子はより束縛された状態となっている。強いと逆)、異なる系同士のバンド構造を比較することにより、系の安定性(どちらがより安定か)などの議論が可能である(注:バンド構造だけでは判断できない場合もある)。",
"title": "波数空間"
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"text": "半導体(や絶縁体)においては、k空間を無視して、バンドギャップの周辺だけに注目した、より簡単な描写が良く用いられる。バンドギャップの項を参照。",
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"text": "電子のバンド構造と類似したものとして、フォノンの分散曲線(フォノニックバンド構造)やフォトニックバンド構造、プラズモニックバンド構造などがある。",
"title": "その他のバンド構造"
}
] | バンド構造は、以下の2通りの使われ方がある。 エネルギー差が非常に小さい数多くのエネルギー準位の集まりを、エネルギー的に連続であると見なしたもの。
ポテンシャルや誘電率などの周期的構造中に存在する波動(電子や電磁波など)の分散関係のこと。 ここでは結晶などの固体の中の電子バンド構造を扱う。 | {{出典の明記|date=2015年9月}}
{{about|[[波数ベクトル]]に対して図示された電子エネルギー|位置に対して図示された電子エネルギー|バンド図}}
{{Otheruses|[[結晶]]中の電子に対するバンド構造|[[フォトニック結晶]]中の[[電磁波]]に対するバンド構造|フォトニックバンド構造}}
'''バンド構造'''(バンドこうぞう、{{lang-en-short|band structure}})は、以下の2通りの使われ方がある。
* エネルギー差が非常に小さい数多くの[[エネルギー準位]]の集まりを、エネルギー的に連続であると見なしたもの。
* [[ポテンシャル]]や[[誘電率]]などの周期的構造中に存在する[[波動]]([[電子]]や[[電磁波]]など)の[[分散関係]]のこと。
ここでは結晶などの[[固体]]の中の'''電子バンド構造'''(でんしバンドこうぞう、{{lang-en-short|electronic band structure}})を扱う。
== 実空間でのバンド構造 ==
[[File:Solid state electronic band structure.svg|thumb|400px|数多くの炭素原子が結合してダイヤモンド結晶を作った場合のバンド構造。
(右図)炭素原子のp軌道とs軌道のエネルギーと実空間での原子間距離との関係。(左図)ダイアモンドの原子間距離 ''a'' でのバンド構造の簡略図]]
例としてN個の炭素原子から成る[[ダイアモンド]]結晶中の電子のバンド構造を考える。
もし炭素原子同士が互いに遠く離れていた場合、それぞれの炭素原子は同じエネルギーのs軌道とp軌道をもつ([[縮退]])。
炭素原子が互いに近づくと軌道が重なり、異なるエネルギーを持つN個の軌道に分裂する。
Nは非常に大きい数であるため分裂したエネルギーの間隔は非常に狭く、連続的な帯状であると見なすことができる。これを'''エネルギーバンド'''または単に'''バンド'''と呼ぶ。
原子間距離 ''a'' では、[[価電子帯]]と[[伝導帯]]と呼ばれる2つのバンドを作る。それぞれ化学結合における[[結合性軌道]]と[[反結合性軌道]]に対応する。
エネルギー的に隣り合うバンドのエネルギー差([[エネルギーギャップ]])は[[バンドギャップ]]と呼ばれる。ダイアモンドの伝導帯と価電子帯のバンドギャップは5.5 eVである。バンドギャップにはエネルギー準位は存在しない。
== 波数空間 ==
[[ファイル:Si-band-schematics.PNG|thumb|right|250px|例:[[シリコン]]結晶のバンド曲線(概形)]]
一般的に波数kと対応するエネルギー固有値(固有エネルギー)ε<sub>'''k'''</sub>との関係を[[分散関係]]と言う。波数とバンド構造との関係は'''バンド曲線'''、'''E-k曲線'''(E-k分散)、'''バンド分散'''などと呼ばれることもある。
バンド構造は通常、縦軸がエネルギー、横軸が第一[[ブリュアンゾーン]]の適当に選んだいくつかの直線上のk点となっている(系の持つ[[対称性]]に依存する)。各k点上に電子の取り得る固有状態('''バンド''')があり、これらが繋がって曲線をなしている(繋がり方も重要)。バンド構造を見ることにより、[[バンドギャップ]]が空いているかどうか(つまり対応する系が[[金属]]かそうでないか)、バンドの分散が強いか弱いかによる電子状態の違い(分散が弱いと、そのバンドの電子はより束縛された状態となっている。強いと逆)、異なる系同士のバンド構造を比較することにより、系の安定性(どちらがより安定か)などの議論が可能である(注:バンド構造だけでは判断できない場合もある)。
[[ファイル:BandDiagram-Semiconductors-J.PNG|thumb|right|250px|半導体のバンド構造。左図は[[状態密度]]の模式図で、右図は分散関係。Egが[[バンドギャップ]](禁制帯)、その下の[[充満帯]]が価電子帯。禁制帯のすぐ上の空帯が[[伝導帯]]となる。]]
[[半導体]](や[[絶縁体]])においては、k空間を無視して、[[バンドギャップ]]の周辺だけに注目した、より簡単な描写が良く用いられる。[[バンドギャップ]]の項を参照。
== その他のバンド構造 ==
電子のバンド構造と類似したものとして、[[フォノン]]の分散曲線(フォノニックバンド構造)や[[フォトニックバンド]]構造、プラズモニックバンド構造などがある。
== 関連項目 ==
* [[バンド理論]]
* [[フォトニックバンド構造]]
* [[ゴーストバンド]]
* [[エネルギー分散]]
* [[第一原理バンド計算]]
* [[フェルミ面]]
{{Condensed matter physics topics}}
{{半導体}}
{{Atomic models}}
{{DEFAULTSORT:はんとこうそう}}
[[Category:固体物理学]]
[[Category:半導体]]
[[Category:電子状態]] | null | 2023-02-16T09:56:08Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
"Template:About",
"Template:Otheruses",
"Template:Lang-en-short",
"Template:Condensed matter physics topics",
"Template:半導体",
"Template:Atomic models"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89%E6%A7%8B%E9%80%A0 |
2,419 | 620 | 620(六百二十、ろっぴゃくにじゅう)は自然数、また整数において、619の次で621の前の数である。 | [
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] | 620(六百二十、ろっぴゃくにじゅう)は自然数、また整数において、619の次で621の前の数である。 | {{整数|Decomposition=2<sup>2</sup>×5×31}}
'''620'''('''六百二十'''、ろっぴゃくにじゅう)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[619]]の次で[[621]]の前の数である。
== 性質 ==
* 620は[[合成数]]であり、[[約数]]は [[1]], [[2]], [[4]], [[5]], [[10]], [[20]], [[31]], [[62]], [[124]], [[155]], [[310]] と 620 である。
**[[約数の和]]は1344。
***151番目の[[過剰数]]である。1つ前は[[618]]、次は[[624]]。
* 約数の和が620になる数は3個ある。([[304]], [[475]], [[619]]) 約数の和3個で表せる18番目の数である。1つ前は[[558]]、次は[[640]]。
* [[各位の和]]が8になる42番目の数である。1つ前は[[611]]、次は[[701]]。
* 620 = 5{{sup|2}} + 6{{sup|2}} + 7{{sup|2}} + 8{{sup|2}} + 9{{sup|2}} + 10{{sup|2}} + 11{{sup|2}} + 12{{sup|2}}
** 8連続[[自然数]]の[[平方和]]とみたとき5番目の数である。1つ前は[[492]]、次は764。({{OEIS|A276026}})
* 620 = 6<sup>2</sup> + 10<sup>2</sup> + 22<sup>2</sup> = 10<sup>2</sup> + 14<sup>2</sup> + 18<sup>2</sup>
** 3つの[[平方数]]の和2通りで表せる141番目の数である。1つ前は[[616]]、次は[[625]]。({{OEIS|A025322}})
** 異なる3つの[[平方数]]の和2通りで表せる124番目の数である。1つ前は[[619]]、次は[[625]]。({{OEIS|A025340}})
* 620 = 3{{sup|3}} + 5{{sup|3}} + 5{{sup|3}} + 7{{sup|3}}
**4つの正の数の[[立方数]]の和で表せる163番目の数である。1つ前は[[613]]、次は[[621]]。({{OEIS|A003327}})
* 620 = 5{{sup|4}} − 5
** ''n'' = 5 のときの ''n''{{sup|4}} − ''n'' の値とみたとき1つ前は[[252]]、次は[[1290]]。({{OEIS|A058895}})
* 620 = 2{{sup|2}} × 5 × 31
** 3つの異なる[[素因数]]の積で ''p''{{sup|2}} × ''q'' × ''r'' の形で表せる44番目の数である。1つ前は[[585]]、次は[[636]]。({{OEIS|A085987}})
== その他 620 に関連すること ==
* [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]作曲の[[歌劇]]「[[魔笛]]」の[[ケッヘル番号]]。
* [[620フィルム]] - [[写真フィルム]]の規格の1つ。
** [[スーパーコダック620]] - 620フィルムを使用するカメラ。
== 関連項目 ==
* [[数の一覧]]
* [[620年|西暦620年]]
* [[6月20日]] | null | 2021-09-10T20:03:29Z | false | false | false | [
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"Template:Sup"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/620 |
2,420 | 35mm | 35mm(35ミリ、35ミリメートル) | [
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] | 35mm(35ミリ、35ミリメートル) 35mmフィルム
35mm判換算焦点距離
35mmフルサイズ
135フィルム
35mm2連装高射機関砲 L-90
35mmゲージ | '''35mm'''(35ミリ、35ミリメートル)
*[[35mmフィルム]]
*[[35mm判換算焦点距離]]
*[[35mmフルサイズ]]
*[[135フィルム]]
*[[35mm2連装高射機関砲 L-90]]
*[[35mmゲージ]]
{{aimai}} | null | 2011-04-15T03:34:27Z | true | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/35mm |
2,421 | 220 | 220(二百二十、にひゃくにじゅう)は自然数、また整数において、219の次で221の前の数である。 | [
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] | 220(二百二十、にひゃくにじゅう)は自然数、また整数において、219の次で221の前の数である。 | {{整数|Decomposition=2<sup>2</sup>×5×11}}
'''220'''('''二百二十'''、にひゃくにじゅう)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[219]]の次で[[221]]の前の数である。
== 性質 ==
* 220は[[合成数]]であり、[[約数]]は[[1]], [[2]], [[4]], [[5]], [[10]], [[11]], [[20]], [[22]], [[44]], [[55]], [[110]], 220である。
**[[約数の和]]は[[504]]。
***51番目の[[過剰数]]である。1つ前は[[216]]、次は[[222]]。
** ''n'' = 220 のとき σ(''n'') = σ(σ(''n'') − ''n'') が成り立つ3番目の数である。1つ前は[[28]]、次は[[284]]。(ただしσは[[約数関数]])({{OEIS|A206708}})
**:例.σ(σ(220) − 220) = σ(284) = 504 = σ(220)
*(220, 284) は最小の[[友愛数]]の組である。次は(1184, 1210) 。
** 220の自身を除く約数の和は[[284]]であり、284の自身を除いた約数の和は220である。即ちこの2つの数は[[友愛数]]の関係にある。
* 220 = 1 + 3 + 6 + 10 + 15 + 21 + 28 + 36 + 45 + 55
**10番目の[[三角錐数]]である。1つ前は[[165]]、次は[[286]]。
** 220 = 2{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 6{{sup|2}} + 8{{sup|2}} + 10{{sup|2}}
*** 5連続偶数の[[平方和]]で表せる数である。1つ前は[[120]]、ただし自然数の範囲では最小、次は[[360]]。
* {{sfrac|1|220}} = 0.00{{underline|45}}… (下線部は循環節で長さは2)
**[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が2になる14番目の数である。1つ前は[[198]]、次は[[264]]。({{OEIS|A070022}})
* 66番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[216]]、次は[[222]]。
** 4を基とする4番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[112]]、次は[[400]]。
***''n'' を基とする ''n'' 番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[21]]、次は[[320]]。({{OEIS|A82260}})
* [[1]]~[[16]]までの約数の和である。1つ前は[[189]]、次は[[238]]。
* [[各位の和]]が4になる12番目の数である。1つ前は[[211]]、次は[[301]]。
* 各位の[[立方和]]が[[平方数]]になる27番目の数である。1つ前は[[216]]、次は[[231]]。({{OEIS|A197039}})
* 220 = 1{{sup|2}} + 2{{sup|2}} + 3{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 6{{sup|2}} + 8{{sup|2}} + 9{{sup|2}}
** ''n'' = 2 のときの 1{{sup|''n''}} + 2{{sup|''n''}} + 3{{sup|''n''}} + 5{{sup|''n''}} + 6{{sup|''n''}} + 8{{sup|''n''}} + 9{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[34]]、次は1618。
** 220 = ({{sfrac|3−1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|5−1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|7−1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|11−1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|13−1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|17−1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|19−1|2}}){{sup|2}}
* 220 = 2{{sup|2}} × 5 × 11
** 3つの異なる[[素因数]]の積で ''p''{{sup|2}} × ''q'' × ''r'' の形で表せる11番目の数である。1つ前は[[204]]、次は[[228]]。({{OEIS|A085987}})
* 220 = 16{{sup|2}} − 36
** ''n'' = 16 のときの ''n''{{sup|2}} − 36 の値とみたとき1つ前は[[189]]、次は[[253]]。({{OEIS|A098847}})
== その他 220 に関連すること ==
* [[西暦]][[220年]]
* 220フィルムは[[写真フィルム]]の規格の1つ。フィルム両端のみ裏紙付き・パーフォレーションなし・幅6cmのロールフィルムで、対応カメラであれば120フィルムのほぼ倍の枚数が撮影可能。→[[120フィルム|220フィルム]]
* シグザウエル[[P220]]は、[[ミネベア 9mm自動拳銃]]の名で[[自衛隊]]に制式採用されている[[拳銃]]である。
* [[二百二十日]]:立春から数えて220日目の日。台風などの災害が起こりやすいといわれる。{{要出典|date=2019年7月}}[[2001年]]のこの日は[[9月11日]]であったが、この日、[[ニューヨーク]]で[[アメリカ同時多発テロ事件]]が発生した。
* '''[[1月1日]]''' から数えて220日目は[[8月8日]]である。
* [[新幹線0系電車]]の[[最高速度]]は、[[1986年]]に、220 km/hに引き上げられた。
* [[新幹線100系電車]]の最高速度は、V編成を除き、220 km/hである。
* 第220代[[教皇|ローマ教皇]]は[[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]](在位:[[1534年]][[10月13日]]~[[1549年]][[11月10日]])である。
* [[ジャガー・XJ220]]は最高速度220マイル/hを目標に作られたスポーツカーである。
* [[ヤード・ポンド法]]において、1[[ハロン (単位)|ハロン]]=220[[ヤード]]である。
== 関連項目 ==
* [[数の一覧]]
* [[名数一覧]]
* [[2月20日]]
** [[200]] [[210]] '''220''' [[230]] [[240]] [[250]] [[260]] [[270]] [[280]] [[290]] | null | 2023-04-26T05:00:06Z | false | false | false | [
"Template:OEIS",
"Template:Sup",
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"Template:Underline",
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"Template:整数"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/220 |
2,424 | 110 | 110(百十、ひゃくじゅう)は自然数、また整数において、109の次で111の前の数である。 | [
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] | 110(百十、ひゃくじゅう)は自然数、また整数において、109の次で111の前の数である。 | {{Otheruses|整数|電話番号|110番|日付|1月10日}}
{{整数|Decomposition=2×5×11}}
'''110'''('''百十'''、ひゃくじゅう)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[109]]の次で[[111]]の前の数である。
== 性質 ==
* 110は[[合成数]]であり、[[約数]]は [[1]], [[2]], [[5]], [[10]], [[11]], [[22]], [[55]], 110 である。
**[[約数の和]]は[[216]]。
***自身を除く約数の和は106より83番目の[[不足数]]である。1つ前は[[109]]、次は[[111]]。
***約数の和が[[立方数]]になる4番目の数である。1つ前は[[102]]、次は[[142]]。
* 8番目の[[楔数]]である。1つ前は[[105]]、次は[[114]]。
**楔数が3連続[[平方和]]になる最小の数である。次は[[434]]。
**楔数が[[ハーシャッド数]]になる5番目の数である。1つ前は[[102]]、次は[[114]]。
* 110 = 10 × 11
**10番目の[[矩形数]]である。1つ前は[[90]]、次は[[132]]。
**110 = 10{{sup|1}} + 10{{sup|2}} = 11{{sup|2}} − 11{{sup|1}}
***10の自然数乗の和とみたとき1つ前は[[10]]、次は1110。
**110 = 2 + 4 + 6 + 8 + 10 + 12 + 14 + 16 + 18 + 20
* 110<sup>2</sup> + 1 = 12101 であり、''n''<sup>2</sup> + 1 の形で[[素数]]を生む20番目の数である。1つ前は[[94]]、次は[[116]]。
* 110 = 5<sup>2</sup> + 6<sup>2</sup> + 7<sup>2</sup>
**3連続整数の[[平方和]]で表せる5番目の数である。1つ前は[[77]]、次は[[149]]。
***3連続整数の平方和が[[ハーシャッド数]]になる2番目の数である。1つ前は[[50]]、次は[[770]]。
**''n'' = 2 のときの 5<sup>''n''</sup> + 6<sup>''n''</sup> + 7<sup>''n''</sup> の値とみたとき1つ前は[[18]]、次は[[684]]。({{OEIS|A074571}})
**110 = 1<sup>2</sup> + 3<sup>2</sup> + 10<sup>2</sup> = 2<sup>2</sup> + 5<sup>2</sup> + 9<sup>2</sup> = 5<sup>2</sup> + 6<sup>2</sup> + 7<sup>2</sup>
*** 3つの[[平方数]]の和3通りで表せる8番目の数である。1つ前は[[101]]、次は[[114]]。({{OEIS|A025323}})
*** 異なる3つの[[平方数]]の和3通りで表せる2番目の数である。1つ前は[[101]]、次は[[126]]。({{OEIS|A025341}})
***110 = 2<sup>2</sup> + 5<sup>2</sup> + 9<sup>2</sup>
****''n'' = 2 のときの 2<sup>''n''</sup> + 5<sup>''n''</sup> + 9<sup>''n''</sup> の値とみたとき1つ前は[[16]]、次は[[862]]。({{OEIS|A074540}})
** 110 = 3{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 6{{sup|2}} + 7{{sup|2}}
*** ''n'' = 2 のときの 3{{sup|''n''}} + 4{{sup|''n''}} + 6{{sup|''n''}} + 7{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[20]]、次は[[650]]。
*** 110 = ({{sfrac|5+1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|7+1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|11+1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|13+1|2}}){{sup|2}}
* {{sfrac|1|110}} = 0.0<span style="text-decoration:underline;">09</span>… (下線部は循環節で長さは2)
**[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が2になる9番目の数である。1つ前は[[99]]、次は[[132]]。({{OEIS|A070022}})
* 36番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[108]]、次は[[111]]。
** 2を基としたときの3番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は [[20]]、次は [[200]] 。
** 110, [[111]], [[112]] の3連続で[[ハーシャッド数]]となる最も小さい数を表す9番目の数である。ただし1桁の数を除くと最小。1つ前は[[8]]、次は[[510]]。({{OEIS|A154701}})
*** ''n''連続でハーシャッド数となる最も小さな数を表す3番目の数である。1つ前は[[20]] (2連続)、次は[[510]] (4連続)。ただし1桁の数を除く。({{OEIS|A060159}})
** ハーシャッド数が11の倍数になる最小の数である。次は[[132]]。
* [[位取り記数法]]において、110{{sub|(''n'')}} を何進法で表記しても、110{{sub|(''n'')}} は必ずハーシャッド数となる。これは、110{{sub|(''n'')}} が何進法でも各位の和である2で割り切れるため。
*約数の和が110になる数は1個ある。([[109]]) 約数の和1個で表せる27番目の数である。1つ前は[[102]]、次は[[112]]。
*[[各位の和]]が2になる5番目の数である。1つ前は[[101]]、次は[[200]]。
== その他 110 に関連すること ==
* [[日本]]における、[[警察]]への[[緊急通報用電話番号]]([[110番]])。正式名称「警察通報用電話」。これにちなんで[[1月10日]]は[[110番の日]]とされる。また[[ドイツ]]や[[中国]]などでも警察への緊急通報用番号に割り当てられている。
* 『[[ダイヤル110番]]』は、日本初の[[刑事ドラマ]]である([[日本テレビ放送網]]が[[1957年]]に制作した)。
* [[110フィルム]]は[[写真フィルム]]の規格の1つ。一般に「ワンテン」と呼ばれる。[[1970年代]]に普及した小型[[カメラ]]向けのカートリッジ入りフィルム。
* [[110メートルハードル]]([[陸上競技]])
* [[メッサーシュミット Bf110]]は[[ドイツ]]の[[戦闘機]]。
* 第110代[[天皇]]は[[後光明天皇]]。
* 第110代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ステファヌス5世 (ローマ教皇)|ステファヌス5世]](在位:[[885年]][[9月]]〜[[891年]][[9月14日]])である。
* [[クルアーン]]における第110番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[援助 (クルアーン)|援助]]である。
* [[原子番号]]110の[[元素]]は[[ダームスタチウム]] (Ds) 。
* [[日本国有鉄道|国鉄]]の蒸気機関車、[[国鉄110形蒸気機関車|110形]]。
* 珍寿:110歳のお祝い。その由来は、文字通り珍しい事から。
* [[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]では[[受信]][[メールサーバ]]の[[通信プロトコル|プロトコル]][[Post Office Protocol|POP3]]の[[ポート番号]]。
* [[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の[[気動車]]:[[キハ110系]]
* [[空母]][[信濃 (空母)|信濃]]の母体となった[[大和型戦艦]]三番艦は、建造中は110号艦と呼ばれていた。
== 関連項目 ==
* [[数の一覧]]
* [[名数一覧]]
* [[110年|西暦110年]]
* [[紀元前110年]]
* [[1月10日]] | null | 2022-01-21T13:35:29Z | false | false | false | [
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2,427 | リカンベント | リカンベント(英語: recumbent bicycle)とは、自転車の一種である。通常の自転車がサドルに臀部を乗せ直立に近い状態で、足の上下の屈伸運動を動力とするのに対し、リカンベントはサドルの代わりとなる背もたれつきのシートにもたれるように坐り、足を前方に向けた姿勢での屈伸運動を動力とする。英単語の「recumbent」はもたれかかるという意味の言葉であり、もたれかかって運転することからその名が付いた。
リカンベントは通常の自転車に比べると運転者の着座位置が低く前面投影面積が小さいことから、空気抵抗が少ない。脚でペダルを押す反力をシートに支えられた腰や背中で受け止められるため、脚力の伝達効率が安定している。また、臀部だけでなく腰の広い範囲に体重を分散して支えるので長時間の走行でも負担が少ない。こうした特徴により、平坦で滑らかな道を巡航する用途には適している。一方でダンシング(立ちこぎ)ができない構造であるため瞬発的な駆動力を得難く、運転者の重心を左右に移動させにくいため極低速では不安定である。こぎ方(回転を意識したペダリング)やバランスの取り方が通常の自転車とは違うため、乗り慣れるまである程度の練習を要する。また、こうした特徴から、登坂に対する負担軽減は比較的低く、ギアを含めた調整難度が高めとされている。ただし、上記のとおりシートを支えにすることでペダルを蹴る力を高くすることもでき、膝への負担を考えない場合は坂道でも速度を出すことができる。
通常の自転車と同様にクランクから駆動輪へはチェーンで動力を伝達するが、車体の前方にクランクが配置されるリカンベントで後輪を駆動するとチェーンが長くなり、伝達効率やレイアウトなどの点で不利である。前輪駆動を採用している車種もあり、前輪駆動の車種には操舵輪を後輪とするものもある。
極低速で走行してもバランスを崩さない三輪の車種もあり、そのなかには登坂路などでは減速比を大きくして低速で登れるように81段の変速機を搭載した車種もある。
遠方を含めた前方視界は良好であるが、足元は見えづらい。また全高が低いモデルは、自動車などから確認しづらいために、視認性向上のため子供用自転車と同じく後方に旗を立てる事が多い。
値段は生産量が制限されるために、一般的なロードバイクと比較すると高めである。
リカンベントには二輪のものと三輪( 英: tricycle, trike)のものがあり、三輪のものはリカンベント・トライクと呼ばれ、前1輪のものをデルタ(英: delta)型、前2輪を「オタマジャクシ」を意味する英語の"tadpole"に由来してタドポールと呼ぶ。ペダルは前輪より前方、あるいは上方に位置しているものが多い一方、普通の自転車に比べると前寄りだが前輪の後方に位置したものもあり、セミ・リカンベントと呼ばれる。
リカンベントのハンドルは、通常の自転車のようにシートより高く、運転者の前にあるもの(OSS: Over Seat Steering / ASS: Above Seat Steering)とシートより低い位置にあるもの(USS: Under Seat Steering)とがある。シートより高いステアリングの場合はステムを前方に倒すことができる構造で乗り降りの際に運転者の体と干渉しないようにできているものが一般的であるが、一部に固定式のものも存在する。シートより低いステアリングの場合は、腕の力を使ってシートから腰がずれないように姿勢を保つことが容易であるが、舵角が制限される構造で、操縦感覚が一般の自転車と大きく異なる。競技用のものや三輪のものには後輪操舵のものも存在する(ツノダ「サイククルーザー」など)。
乗車位置の高さによりハイレーサー、ミッドレーサー、ローレーサーなどと分類する場合がある。乗車位置が低いほど前面投影面積が小さく、空気抵抗を受けにくくなる。ローレーサーの中には、地上から十数センチという低い位置に座面が設置された車両が販売されている。一方で、公道などでは自動車など他者から見落とされて事故に至る危険があるため、相手に目立つように旗を立てる必要もある。また、最低地上高が低くなるので路面の凹凸が大きい場合は車体の一部が路面に接触する可能性もある。
ローレーサーよりさらに空気抵抗を低くするため、車体全体をカーボンファイバー製などのスムーズなフェアリング(英語版)で覆ったストリームライナーという車種もある。全体を覆うのではなくシートの後ろやクランクの前に取り付けるフェアリングも市販されている。フルカバーの2輪のストリームライナーは量産されておらず、個人による製作がほとんどである。人力による最高速度記録に挑戦する競技用車両は軒並みこのタイプになるが、自動車の車体のようにほぼ密閉されているため運転者は地面に足をつくことができず、発進、停止には第三者の補助が必要となる。また、なるべくフェアリングを平滑にして空気抵抗を低減するために窓はなく、運転者はフェアリングに設置されたカメラを通してモニターで前方を視認する。
ストリームライナーと同様に車体全体がフェアリングで覆われているが、日常利用で使いやすいように自立できる3輪とし、サスペンションや荷物スペースなどを設けたものをベロモービルという。数社から組み立てキットなどが販売されている。 | [
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] | リカンベントとは、自転車の一種である。通常の自転車がサドルに臀部を乗せ直立に近い状態で、足の上下の屈伸運動を動力とするのに対し、リカンベントはサドルの代わりとなる背もたれつきのシートにもたれるように坐り、足を前方に向けた姿勢での屈伸運動を動力とする。英単語の「recumbent」はもたれかかるという意味の言葉であり、もたれかかって運転することからその名が付いた。 | {{独自研究|date=2012年9月}}
[[Image:Corsa bacchetta.jpg|thumb|right|250px|リカンベント(ホイールベースが小さいタイプで乗車位置はハイレーサー、ハンドル位置はOSS)]]
[[image:Canto_at_Niagara.JPG|thumb|right|[[自転車旅行]]装備のリカンベント]]
'''リカンベント'''({{Lang-en|recumbent bicycle}})とは、[[自転車]]の一種である。通常の自転車が[[サドル (自転車)|サドル]]に[[尻|臀部]]を乗せ直立に近い状態で、足の上下の屈伸運動を動力とするのに対し、リカンベントはサドルの代わりとなる背もたれつきのシートにもたれるように坐り、足を前方に向けた姿勢での屈伸運動を動力とする。英単語の「{{Lang|en|recumbent}}」はもたれかかるという意味の言葉であり、もたれかかって運転することからその名が付いた。
== 解説 ==
[[Image:Liegeraeder_1920er_Velorama.jpg|thumb|right|250px|1920年代のリカンベント({{仮リンク|ベェロラマ|en|Velorama}})]]
リカンベントは通常の自転車に比べると運転者の着座位置が低く前面投影面積が小さいことから、[[空気抵抗]]が少ない<ref name="norimonon201610">{{cite news|url=https://trafficnews.jp/post/58948 |title=「リカンベント」は本当に危険なのか? 特異すぎる自転車、そのカタチの理由|publisher= 乗りものニュース |date=2016-10-22}}</ref>。脚で[[ペダル (自転車)|ペダル]]を押す反力をシートに支えられた腰や背中で受け止められるため、脚力の伝達効率が安定している。また、臀部だけでなく腰の広い範囲に体重を分散して支えるので長時間の走行でも負担が少ない<ref name="norimonon201610"/>。こうした特徴により、平坦で滑らかな道を巡航する用途には適している。一方で[[ダンシング (自転車競技)|ダンシング]](立ちこぎ)ができない構造であるため瞬発的な駆動力を得難く、運転者の重心を左右に移動させにくいため極低速では不安定である<ref name="norimonon201610"/>。こぎ方(回転を意識したペダリング)やバランスの取り方が通常の自転車とは違うため、乗り慣れるまである程度の練習を要する。また、こうした特徴から、登坂に対する負担軽減は比較的低く、ギアを含めた調整難度が高めとされている<ref name="norimonon201610"/>。ただし、上記のとおりシートを支えにすることでペダルを蹴る力を高くすることもでき、膝への負担を考えない場合は坂道でも速度を出すことができる。
[[Image:Flevobike racer.jpg|thumb|right|前輪駆動式]]
通常の自転車と同様に[[クランク (機械要素)|クランク]]から駆動輪へは[[ローラーチェーン|チェーン]]で動力を伝達するが、車体の前方にクランクが配置されるリカンベントで後輪を駆動するとチェーンが長くなり、伝達効率やレイアウトなどの点で不利である。[[前輪駆動]]を採用している車種もあり、前輪駆動の車種には操舵輪を後輪とするものもある。
極低速で走行してもバランスを崩さない三輪の車種もあり<ref name="norimonon201610"/>、そのなかには登坂路などでは減速比を大きくして低速で登れるように81段の[[変速機 (自転車)|変速機]]を搭載した車種もある<ref>{{Cite web|url=http://www.twbents.com.tw/HTM/mantis.htm|title=2006|publisher=China Mascot Products Co., Ltd.|accessdate=2011-08-10}}</ref>。
遠方を含めた前方視界は良好であるが、足元は見えづらい<ref name="norimonon201610"/>。また全高が低いモデルは、自動車などから確認しづらいために、視認性向上のため子供用自転車と同じく後方に旗を立てる事が多い<ref name="norimonon201610"/>。
値段は生産量が制限されるために、一般的な[[ロードバイク]]と比較すると高めである<ref name="norimonon201610"/>。
== リカンベントの種類 ==
[[image:Faireds1.jpg|thumb|right|250px|リカンベント・トライク(タドポール型)。ハンドル位置はUSS]]
;車輪の数および配置、ペダルの位置
リカンベントには二輪のものと三輪( {{lang-en-short|tricycle, trike}})のものがあり、三輪のものは'''リカンベント・トライク'''と呼ばれ、前1輪のものをデルタ({{lang-en-short|delta}})型、前2輪を「[[オタマジャクシ]]」を意味する英語の"tadpole"に由来してタドポールと呼ぶ。ペダルは前輪より前方、あるいは上方に位置しているものが多い一方、普通の自転車に比べると前寄りだが前輪の後方に位置したものもあり、'''セミ・リカンベント'''と呼ばれる。
;ハンドルの位置
リカンベントのハンドルは、通常の自転車のようにシートより高く、運転者の前にあるもの({{En|OSS: Over Seat Steering / ASS: Above Seat Steering}})とシートより低い位置にあるもの({{En|USS: Under Seat Steering}})とがある。シートより高いステアリングの場合は[[ステム (自転車)|ステム]]を前方に倒すことができる構造で乗り降りの際に運転者の体と干渉しないようにできているものが一般的であるが、一部に固定式のものも存在する。シートより低いステアリングの場合は、腕の力を使ってシートから腰がずれないように姿勢を保つことが容易であるが、舵角が制限される構造で、操縦感覚が一般の自転車と大きく異なる。{{要出典範囲|date=2011年8月|競技用のもの}}や三輪のもの<ref>{{Cite web|url=https://www.asaproducts.com/ProductDetails.asp?ProductCode=TRI-501|title=Mobo Triton Pro The Ultimate Three-Wheeled Cruiser|publisher=ASA Products Inc.|accessdate=201108-10}}</ref>には後輪操舵のものも存在する([[ツノダ]]「サイククルーザー」など)。
;乗車位置・車高
乗車位置の高さにより'''ハイレーサー'''、'''ミッドレーサー'''、'''ローレーサー'''などと分類する場合がある。乗車位置が低いほど前面投影面積が小さく、空気抵抗を受けにくくなる。ローレーサーの中には、地上から十数センチという低い位置に座面が設置された車両が販売されている。一方で、公道などでは自動車など他者から見落とされて事故に至る危険があるため、相手に目立つように旗を立てる必要もある。また、最低地上高が低くなるので路面の凹凸が大きい場合は車体の一部が路面に接触する可能性もある。
[[File:Jersey Town Criterium 2010 recumbent 079.jpg|thumb|right|250px|ストリームライナー]]
[[File:VeloX3BM2013.JPG|thumb|right|250px|競技用のストリームライナー。自立できず、発進と停止時には補助が必要となる。]]
[[File:Go-one3.jpg|thumb|right|250px|ベロモービル]]
;フェアリングの有無など
ローレーサーよりさらに空気抵抗を低くするため、車体全体を[[炭素繊維強化プラスチック|カーボンファイバー]]製などのスムーズな{{仮リンク|フェアリング (自転車)|en|Bicycle fairing|label=フェアリング}}で覆った'''ストリームライナー'''という車種もある。全体を覆うのではなくシートの後ろやクランクの前に取り付けるフェアリングも市販されている。フルカバーの2輪のストリームライナーは量産されておらず、個人による製作がほとんどである。人力による最高速度記録に挑戦する競技用車両は軒並みこのタイプになるが、自動車の車体のようにほぼ密閉されているため運転者は地面に足をつくことができず、発進、停止には第三者の補助が必要となる。また、なるべくフェアリングを平滑にして空気抵抗を低減するために窓はなく、運転者はフェアリングに設置されたカメラを通してモニターで前方を視認する。
ストリームライナーと同様に車体全体がフェアリングで覆われているが、日常利用で使いやすいように自立できる3輪とし、サスペンションや荷物スペースなどを設けたものを'''[[ベロモービル]]'''という。数社から組み立てキットなどが販売されている。
== 主なメーカー ==
{{節スタブ}}
* [[アザブ]](Azub - {{Flag|CZE}})
* [[ビカッタ・バイシクル]](Bacchetta Bicycles - {{Flag|USA}})
* [[カートライク]](Catrike - {{Flag|USA}})
* [[クルーズバイク]](Cruzbike - {{Flag|USA}})
* [[イージー・レーサー]](Easy Racers - {{Flag|USA}})
* [[グリーンスピード]](Greenspeed - {{Flag|AUS}})
* [[HPベロテクニック]](HP Velotechnik - {{Flag|GER}})
* [[ICEトライク]](ICE Trikes - {{Flag|GB}})
* [[ライトニング・サイクル・ダイナミクス]](Lightning Cycle Dynamics - {{Flag|USA}})
* [[リニア・リカンベント]](Linear Recumbent - {{Flag|USA}})
* [[ナスカ・リグフィットセン]](Nazca Ligfietsen - {{Flag|NED}})
* [[マクサリア]](Maxarya - {{Flag|CAN}}カナダ)
* [[オプティマ (オランダの会社)|オプティマ]](Optima - {{Flag|NED}})
* [[チャレンジ (オランダの会社)|チャレンジ]](Challenge - {{Flag|NED}})
* [[ランス・デザイン]](Rans Designs - {{Flag|USA}})
* [[シュリッター]](Schlitter - {{Flag|USA}})
* [[サンシーカー・バイシクル]](Sunseeker Bicycles - {{Flag|USA}})
* [[テラトライク]](TerraTrike - {{Flag|USA}})
* [[ボラエ]](Volae - {{Flag|USA}})
* [[ウィンドチーター]](Windcheetah - {{Flag|GB}})
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 関連項目 ==
{{Commons category|Recumbent bicycles}}
* [[ベロモービル]]
* [[三輪車]]
* [[四輪自転車]]
* [[小径車]]
* [[折り畳み自転車]]
* [[ハンドサイクル]]
== 外部リンク ==
* [http://www.nikirin.com/rec_doc.htm リカンベントと交通ルールの基礎知識] - 日本教育輪店/NiKIRIN
{{Bicycle-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:りかんへんと}}
[[Category:自転車の形態]] | null | 2023-06-30T06:38:41Z | false | false | false | [
"Template:Cite web",
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"Template:En",
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"Template:節スタブ",
"Template:Flag",
"Template:Cite news",
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"Template:Normdaten",
"Template:独自研究",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88 |
2,428 | 国名コード | 国名コード(こくめいコード)とは、country(独立国や非独立地域)につけられる符号(コード〈code〉)のことである。国コード(くにコード)とも。
通常、ISO 3166-1 alpha-2の(ラテン文字)2文字国コードを指す。
国際標準化機構 (ISO) により規格化された国名コード。
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] | 国名コード(こくめいコード)とは、country(独立国や非独立地域)につけられる符号(コード〈code〉)のことである。国コード(くにコード)とも。 通常、ISO 3166-1 alpha-2の(ラテン文字)2文字国コードを指す。 | {{WikipediaPage|国旗と国名を表示するテンプレートの一覧|Wikipedia:Template国名3レターコード}}
{{国の象徴}}
'''国名コード'''(こくめいコード)とは、[[wikt:ja:country|country]]([[独立国]]や[[非独立地域]])につけられる[[符号]]([[コード#code|コード〈code〉]])のことである。'''国コード'''(くにコード)とも。
通常、[[ISO 3166-1]] alpha-2の([[ラテン文字]])2文字国コードを指す。
== 国名コードの例 ==
=== ISO ===
[[国際標準化機構]] (ISO) により規格化された国名コード。
* [[ISO 3166-1]]
** ISO 3166-1 alpha-2: 2文字コード。
** ISO 3166-1 alpha-3: 3文字コード。
** ISO 3166-1 numeric: 数字3桁コード。
* [[ISO 3166-3]]
=== ITU ===
[[国際電気通信連合]] (ITU) により規格化されたコード。日本ではJIS X 0304として[[日本語]]国名を含め[[日本産業規格]]として翻訳のうえ標準化されている。
* {{仮リンク|海上認識番号|en|Maritime identification digits}}: [[移動業務#定義|海上移動業務]]において国の識別に利用される数字3桁。
* [[国際電話番号の一覧|国際電話番号]]: [[ITU-T]]勧告[[E.164]]で定められている。数字1~3桁。
* [[世界のコールサイン割り当て一覧|ITUプレフィックス]]: ITUの[[無線通信規則]]で定められている。[[無線局]]の[[コールサイン]]で利用される。英数字2文字。
* {{仮リンク|ITU文字コード|en|List of ITU letter codes}}: [[ITU-R]]が加盟国の識別に利用している。ふつう英字3文字だが、8か国は1文字。
* {{仮リンク|Mobile Country Code|en|List of mobile country codes}} (MCC): ITU勧告[[E.212]]で定められている。数字3桁。[[International Mobile Subscriber Identity|IMSI]]の最初の3桁として利用される。
=== その他 ===
* [[国別コードトップレベルドメイン]] (ccTLD; country code Top Level Domain): 2文字コード。[[小文字]]を使うことを除けばISOとほぼ同じであるが、[[イギリス]]が "uk" であるなど一部例外がある。
* [[機体記号#国籍記号一覧|国籍記号]]: [[国際民間航空機関]] (ICAO) が定めた民間[[航空機]]に付与される機体番号の一部
* [[財務省統計国名符号表]]: [[財務省]]貿易統計に用いられる数字3桁のコード。
* [[国際識別記号|自動車の国際識別記号]]: 1~3文字。
* FIFAコード:[[国際サッカー連盟]]。[[FIFAコードの一覧]]を参照。一部の国・地域でISOとは異なる (例: [[ドイツ]] = GER)。
* {{仮リンク|FIPS 10-4|en|List of FIPS country codes}}: [[アメリカ合衆国|アメリカ]][[Federal Information Processing Standards|連邦情報処理標準]]による2文字国コード。ISOとは大きく異なる。
* IOCコード: [[国際オリンピック委員会]]。[[IOCコード一覧]]を参照。
* [[ISBN]]のグループ記号: 数字1~5桁。同じ言語圏の国はまとめられている。
* [[STANAG]] {{仮リンク|1059|en|List of NATO country codes}}: [[北大西洋条約機構]](NATO)による2文字国コードと3文字国コード。2004年の第8版で2文字コードは大きく改訂され、それまでFIPSとほぼ同じであったのが、ISOと完全に同じになった。3文字コードはISOと大きく異なる。
*[[UIC国別番号]]: [[国際鉄道連合]] (UIC) が加盟国の識別に使用している。
* {{仮リンク|UN M.49|en|UN M.49}}: [[国際連合]]の[[統計]]用標準国・地域コード。数字3桁で表現される。[[IETF言語タグ]]の "region" 下位タグで、ISO 3166-1 alpha-2で表現できない地域のために利用されている。
* {{仮リンク|UNDP 国別コード|en|List of UNDP country codes}}: [[国際連合開発計画]] (UNDP) にも独自の3文字コードがある。
* WMO country code: [[世界気象機関]] (WMO) は[[気象通報式]]のために、独自の国コードを利用している。
== 関連項目 ==
* [[ISO 3166-1|ISO国名コード一覧]](ISO 3166-1)
* [[言語コード]]、[[ISO 639]]、[[ISO 639-1コード一覧|ISO言語コード一覧]]
* [[通貨コード]]、[[ISO 4217]](ISO通貨コード)
== 外部リンク ==
* [https://www.iso.org/obp/ui/#search ISO3166 Code List]
* [https://unstats.un.org/unsd/methodology/m49/ UN_M.49], ''Standard Country or Area Codes for Statistical Use'', 国際連合経済社会局統計部
{{国の指標}}
{{デフォルトソート:こくめいこおと}}
[[Category:国名コード|*こおと]]
[[Category:国名|こおと]]
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[[Category:国の象徴]]
[[Category:識別子]] | null | 2023-03-25T10:12:29Z | false | false | false | [
"Template:国の象徴",
"Template:仮リンク",
"Template:国の指標",
"Template:WikipediaPage"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%90%8D%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89 |
2,429 | トップレベルドメイン | トップレベルドメイン(TLD : top-level domain)は、インターネットの階層型Domain Name Systemの最上位レベルのドメイン名である。トップレベルドメインは名前空間のDNSルートゾーンにインストールされる。これより下位のレベルの全てのドメインでは、トップレベルドメインはドメイン名の最後の部分、すなわち、つまり完全修飾ドメイン名の最後の部分である。例えば、ドメイン名www.example.comでは、トップレベルドメインはcomである。ほとんどのトップレベルドメインの管理に対する責任は、Internet Assigned Numbers Authority(IANA)を運営するInternet Corporation for Assigned Names and Numbers(ICANN)によって特定の組織に委任されており、DNSルートゾーンの維持を担当している。
IANAでは現在、トップレベルドメインを以下のグループに分類している。
元々、トップレベルドメインは、Countries(国)、Categories(カテゴリ)、Multiorganizations(マルチ組織)の3つの主要グループに編成されていた。それに加えて、arpaのみからなるtemporary(一時利用)グループがあり、DNSの安定化のための過渡的な目的のために使用された。
2015年現在、IANAはトップレベルドメインを以下のグループに分類している。
国は、2文字のISO国名コードによって指定されているが、.ukなどの例外もある。そのため、このドメイングループは一般に「国別コード」トップレベルドメイン(ccTLD)と呼ばれている。 2009年以降、ラテン文字以外の文字を使用している国では、国際化国別コードトップレベルドメインが申請できるようになった。これは、エンドユーザのアプリケーションには言語固有の文字で表示されるが、DNS内部ではPunycodeによりASCIIコードに変換した形で登録されている。
ジェネリックトップレベルドメインは、当初は.gov、.edu、.com、.mil、.org、.netから構成されていた。後に、.infoなどの他のgTLDが追加された。
ルートゾーンに現在存在するTLDの正式なリストは、IANAのWebサイト(https://www.iana.org/domains/root/db/)に公開されている。
国際化国別コードトップレベルドメイン(IDN ccTLD)は、Webブラウザなどのエンドユーザアプリケーションに、その言語固有の文字(アラビア文字、漢字など)で表示されるように特別に符号化されたトップレベルドメインである。IDN ccTLDは、それぞれの国また地域に割り当てられたトップレベルドメインに、国際化ドメイン名(IDN)を適用したものである。
ICANNは2009年11月にIDN ccTLDの申請の受付を開始し、2010年5月に最初のIDN ccTLDのをDNSにインストールした。最初のIDN ccTLDは、エジプト、サウジアラビア、アラブ首長国連邦に対するアラビア語での名前だった。2010年5月までに、21の国がICANNに申請書を提出した。
ドメイン.arpaは最初のトップレベルドメインの一つである。これは一時的な使用を意図しており、従来のARPANETのホスト名からドメイン名への移行のために使用されていた。しかし、DNSの逆引きに使用されるようになり、廃止するのは実用的ではないと考えられ、現在はIPv4用のin-addr.arpa、IPv6逆引きDNS解決用のip6.arpa、動的委任発見システム用のuri.arpaとurn.arpa、NAPTR(英語版)に基づく電話番号マッピング用のe164.arpaなど、様々なインターネットインフラ用に使用されている。歴史的な理由から、.arpaはジェネリックトップレベルドメインと見なされることがある。
RFC 6761 では、混乱や競合を避けるために、次の4つのトップレベルドメインを予約している。
RFC 6762 では、マルチキャストDNS名前解決プロトコルを介して解決できるリンクローカルホスト名に.local(英語版)の使用を予約している。
RFC 7686 では、TorのHidden Serviceの自己認証名のために.onionの使用を予約している。ユーザの匿名性を保護するためにオニオンルーティングを使用しているため、この名前はTorクライアントによってしか解決できない。
1980年代後半に、InterNICはNATO用に.natoドメインを作成した。当時存在していたどのTLDも、NATOの国際機関としての地位を十分に反映しているとみなせなかったからである。しかし、この追加後まもなく、InterNICは一般的な国際機関で使用するための.int TLDを作成し、NATOにセカンドレベルドメインnato.intを使用するよう説得した。.natoは1996年7月に削除された。
チェコスロバキアの.cs(現在はチェコの.czとスロバキアの.sk)、東ドイツの.dd(ドイツ再統一後は.deを使用)、ユーゴスラビアの.yu(現在はボスニア・ヘルツェゴビナの.ba、クロアチアの.hr、モンテネグロの.me、北マケドニアの.mk、セルビアの.rs、スロベニアの.si)、ザイールの.zr(現在はコンゴ民主共和国の.cd)も、国の消滅、改称等により現在は使用されていない。これらとは対照的に、.suはソビエト連邦が崩壊したにもかかわらず、今なお管理されており、使用されている。
2000年代後半にICANNが.aero、.biz、.coop、.info、.museum、.name、.proの導入について議論し、それを導入した頃、サイト所有者は、成人向けおよびポルノ用のWebサイトでも同様のTLDを利用可能にすべきだと主張した。xxx、sex、adultなどのいくつかの選択肢が提案され、.xxxドメインが2011年に稼働した。
2008年にパリで開催された第32回国際公開ICANN会議で、ICANNは「新しいジェネリックトップレベルドメインの導入を大きく前進させる」ための新しいTLD命名ポリシーのプロセスを開始した。2012年6月13日、ICANNは約2000の新しいトップレベルドメインを発表し、2013年中にインストールを開始した。ドーナツ社(英語版)は5700万ドルを投資して300以上のドメインを取得した。
新しいジェネリックトップレベルドメインの作成におけるICANNの進歩の遅れ、およびTLDに関連する高い導入コストから、異なるトップレベルドメインのセットを持つオルタネートルートが作られるようになった。オルタネートルートに登録されたドメインは、代替または追加のDNSサーバまたはWebブラウザ用のプラグインモジュールを使用してコンピュータを設定することによってアクセスできる。ブラウザプラグインはオルタネートルートのドメイン要求を検出し、そのような要求に対してオルタネートルートDNSサーバにアクセスする。
かつて、BITNET、CSNET、UUCPなど、コンピュータの専門家や学術ユーザーの間で広く使用されているネットワークがいくつかあったが、それらはインターネットと直接相互接続できず、特別な電子メールゲートウェイを介してしかインターネットとメールを交換できなかった。ゲートウェイでの中継を目的として、これらのネットワークに関連付けられたメッセージには、.bitnet、.oz、.csnet、.uucpなどのサフィックスが付いていたが、これらのドメインはインターネットのDNSにトップレベルドメインとして存在していなかった。
匿名ネットワークTorは、以前はTorのHidden Serviceにトップレベルの疑似ドメイン.onionを使用していたが、この疑似ドメインは2015年10月に正式に予約された。i2pは同様の隠し疑似ドメイン、.i2pを使用する。 | [
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"text": "トップレベルドメイン(TLD : top-level domain)は、インターネットの階層型Domain Name Systemの最上位レベルのドメイン名である。トップレベルドメインは名前空間のDNSルートゾーンにインストールされる。これより下位のレベルの全てのドメインでは、トップレベルドメインはドメイン名の最後の部分、すなわち、つまり完全修飾ドメイン名の最後の部分である。例えば、ドメイン名www.example.comでは、トップレベルドメインはcomである。ほとんどのトップレベルドメインの管理に対する責任は、Internet Assigned Numbers Authority(IANA)を運営するInternet Corporation for Assigned Names and Numbers(ICANN)によって特定の組織に委任されており、DNSルートゾーンの維持を担当している。",
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"text": "国は、2文字のISO国名コードによって指定されているが、.ukなどの例外もある。そのため、このドメイングループは一般に「国別コード」トップレベルドメイン(ccTLD)と呼ばれている。 2009年以降、ラテン文字以外の文字を使用している国では、国際化国別コードトップレベルドメインが申請できるようになった。これは、エンドユーザのアプリケーションには言語固有の文字で表示されるが、DNS内部ではPunycodeによりASCIIコードに変換した形で登録されている。",
"title": "種類"
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"text": "ジェネリックトップレベルドメインは、当初は.gov、.edu、.com、.mil、.org、.netから構成されていた。後に、.infoなどの他のgTLDが追加された。",
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"text": "国際化国別コードトップレベルドメイン(IDN ccTLD)は、Webブラウザなどのエンドユーザアプリケーションに、その言語固有の文字(アラビア文字、漢字など)で表示されるように特別に符号化されたトップレベルドメインである。IDN ccTLDは、それぞれの国また地域に割り当てられたトップレベルドメインに、国際化ドメイン名(IDN)を適用したものである。",
"title": "国際化国別コードトップレベルドメイン"
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"text": "ICANNは2009年11月にIDN ccTLDの申請の受付を開始し、2010年5月に最初のIDN ccTLDのをDNSにインストールした。最初のIDN ccTLDは、エジプト、サウジアラビア、アラブ首長国連邦に対するアラビア語での名前だった。2010年5月までに、21の国がICANNに申請書を提出した。",
"title": "国際化国別コードトップレベルドメイン"
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"text": "ドメイン.arpaは最初のトップレベルドメインの一つである。これは一時的な使用を意図しており、従来のARPANETのホスト名からドメイン名への移行のために使用されていた。しかし、DNSの逆引きに使用されるようになり、廃止するのは実用的ではないと考えられ、現在はIPv4用のin-addr.arpa、IPv6逆引きDNS解決用のip6.arpa、動的委任発見システム用のuri.arpaとurn.arpa、NAPTR(英語版)に基づく電話番号マッピング用のe164.arpaなど、様々なインターネットインフラ用に使用されている。歴史的な理由から、.arpaはジェネリックトップレベルドメインと見なされることがある。",
"title": "インフラ用ドメイン"
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"text": "RFC 6761 では、混乱や競合を避けるために、次の4つのトップレベルドメインを予約している。",
"title": "予約済みのドメイン"
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"text": "RFC 6762 では、マルチキャストDNS名前解決プロトコルを介して解決できるリンクローカルホスト名に.local(英語版)の使用を予約している。",
"title": "予約済みのドメイン"
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"text": "RFC 7686 では、TorのHidden Serviceの自己認証名のために.onionの使用を予約している。ユーザの匿名性を保護するためにオニオンルーティングを使用しているため、この名前はTorクライアントによってしか解決できない。",
"title": "予約済みのドメイン"
},
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"text": "1980年代後半に、InterNICはNATO用に.natoドメインを作成した。当時存在していたどのTLDも、NATOの国際機関としての地位を十分に反映しているとみなせなかったからである。しかし、この追加後まもなく、InterNICは一般的な国際機関で使用するための.int TLDを作成し、NATOにセカンドレベルドメインnato.intを使用するよう説得した。.natoは1996年7月に削除された。",
"title": "歴史的なドメイン"
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"text": "チェコスロバキアの.cs(現在はチェコの.czとスロバキアの.sk)、東ドイツの.dd(ドイツ再統一後は.deを使用)、ユーゴスラビアの.yu(現在はボスニア・ヘルツェゴビナの.ba、クロアチアの.hr、モンテネグロの.me、北マケドニアの.mk、セルビアの.rs、スロベニアの.si)、ザイールの.zr(現在はコンゴ民主共和国の.cd)も、国の消滅、改称等により現在は使用されていない。これらとは対照的に、.suはソビエト連邦が崩壊したにもかかわらず、今なお管理されており、使用されている。",
"title": "歴史的なドメイン"
},
{
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"text": "2000年代後半にICANNが.aero、.biz、.coop、.info、.museum、.name、.proの導入について議論し、それを導入した頃、サイト所有者は、成人向けおよびポルノ用のWebサイトでも同様のTLDを利用可能にすべきだと主張した。xxx、sex、adultなどのいくつかの選択肢が提案され、.xxxドメインが2011年に稼働した。",
"title": "提案中のドメイン"
},
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"text": "2008年にパリで開催された第32回国際公開ICANN会議で、ICANNは「新しいジェネリックトップレベルドメインの導入を大きく前進させる」ための新しいTLD命名ポリシーのプロセスを開始した。2012年6月13日、ICANNは約2000の新しいトップレベルドメインを発表し、2013年中にインストールを開始した。ドーナツ社(英語版)は5700万ドルを投資して300以上のドメインを取得した。",
"title": "提案中のドメイン"
},
{
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"text": "新しいジェネリックトップレベルドメインの作成におけるICANNの進歩の遅れ、およびTLDに関連する高い導入コストから、異なるトップレベルドメインのセットを持つオルタネートルートが作られるようになった。オルタネートルートに登録されたドメインは、代替または追加のDNSサーバまたはWebブラウザ用のプラグインモジュールを使用してコンピュータを設定することによってアクセスできる。ブラウザプラグインはオルタネートルートのドメイン要求を検出し、そのような要求に対してオルタネートルートDNSサーバにアクセスする。",
"title": "オルタネートルート"
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"text": "かつて、BITNET、CSNET、UUCPなど、コンピュータの専門家や学術ユーザーの間で広く使用されているネットワークがいくつかあったが、それらはインターネットと直接相互接続できず、特別な電子メールゲートウェイを介してしかインターネットとメールを交換できなかった。ゲートウェイでの中継を目的として、これらのネットワークに関連付けられたメッセージには、.bitnet、.oz、.csnet、.uucpなどのサフィックスが付いていたが、これらのドメインはインターネットのDNSにトップレベルドメインとして存在していなかった。",
"title": "疑似ドメイン"
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"text": "匿名ネットワークTorは、以前はTorのHidden Serviceにトップレベルの疑似ドメイン.onionを使用していたが、この疑似ドメインは2015年10月に正式に予約された。i2pは同様の隠し疑似ドメイン、.i2pを使用する。",
"title": "疑似ドメイン"
}
] | トップレベルドメインは、インターネットの階層型Domain Name Systemの最上位レベルのドメイン名である。トップレベルドメインは名前空間のDNSルートゾーンにインストールされる。これより下位のレベルの全てのドメインでは、トップレベルドメインはドメイン名の最後の部分、すなわち、つまり完全修飾ドメイン名の最後の部分である。例えば、ドメイン名www.example.comでは、トップレベルドメインはcomである。ほとんどのトップレベルドメインの管理に対する責任は、Internet Assigned Numbers Authority(IANA)を運営するInternet Corporation for Assigned Names and Numbers(ICANN)によって特定の組織に委任されており、DNSルートゾーンの維持を担当している。 IANAでは現在、トップレベルドメインを以下のグループに分類している。 国別コードトップレベルドメイン (ccTLD)
ジェネリックトップレベルドメイン (gTLD)
スポンサー付きトップレベルドメイン (sTLD)
スポンサーなしトップレベルドメイン
インフラ用トップレベルドメイン (.arpa) | {| class="wikitable" style="width:30%; float:right; margin:0 0 10px 10px;"
|-
| colspan='3' align='center' | 全てのトップレベルドメインについては、[[トップレベルドメイン一覧]]を参照。
|-
! ドメインの例
! 種類
! スポンサー機関
|-
| <tt>[[.arpa]]</tt>
| インフラ
| [[インターネットアーキテクチャ委員会]]。制限あり<ref name=IANA.arpa>{{cite web|title=Delegation Record for .ARPA|url=https://www.iana.org/domains/root/db/arpa.html|website=iana.org|publisher=Internet Corporation for Assigned Names and Numbers (ICANN)|accessdate=10 November 2015}}</ref>
|-
| <tt>[[.blue]]</tt>
| ジェネリック
| {{仮リンク|Afilias|en|Afilias}}。制限なし<ref name=IANA.blue>{{cite web|title=Delegation Record for .BLUE|url=https://www.iana.org/domains/root/db/blue.html|website=www.iana.org|publisher=Internet Corporation for Assigned Names and Numbers (ICANN)|accessdate=10 November 2015}}</ref><ref name=whyblue>{{cite web|url=https://dotblue.blue/why-blue|title=Why .BLUE?|publisher=Dotblue.blue|accessdate=10 November 2015|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141021134657/http://dotblue.blue/why-blue|archivedate=21 October 2014|df=dmy-all}}</ref>
|-
| <tt>[[.ovh]]</tt>
| ジェネリック
| [[OVH]]。{{仮リンク|フランス・インターネット・ドメイン名協議会|en|Association française pour le nommage Internet en coopération|label=AFNIC}}が運営。制限なし<ref name=IANA.ovh>{{cite web|title=Delegation Record for .OVH|url=https://www.iana.org/domains/root/db/ovh.html|website=www.iana.org|publisher=Internet Corporation for Assigned Names and Numbers (ICANN)|accessdate=10 November 2015}}</ref>
|-
| <tt>[[.name]]</tt>
| 制限付きジェネリック
| [[ベリサイン|VeriSign Information Services, Inc.]]。制限なし<ref name=IANA.name>{{cite web|title=Delegation Record for .NAME|url=https://www.iana.org/domains/root/db/name.html|website=www.iana.org|publisher=Internet Corporation for Assigned Names and Numbers (ICANN)|accessdate=10 November 2015}}</ref>
|-
| <tt>[[.ac]]</tt>
| 国別コード
| [[アセンション島]]。制限なし<ref name=IANA.ac>{{cite web|title=Delegation Record for .AC|url=https://www.iana.org/domains/root/db/ac.html|website=www.iana.org|publisher=Internet Corporation for Assigned Names and Numbers (ICANN)|accessdate=10 November 2015}}</ref>
|-
| <tt>[[.zw]]</tt>
| 国別コード
| [[ジンバブエ]]。制限なし<ref name=IANA.zw>{{cite web|title=Delegation Record for .ZW|url=https://www.iana.org/domains/root/db/zw.html|website=www.iana.org|publisher=Internet Corporation for Assigned Names and Numbers (ICANN)|accessdate=10 November 2015}}</ref>
|-
| <tt>[[.aero]]</tt>
| スポンサー付き
| [[SITA]]。制限なし<ref name=IANA.aero>{{cite web|title=Delegation Record for .AERO|url=https://www.iana.org/domains/root/db/aero.html|website=www.iana.org|publisher=Internet Corporation for Assigned Names and Numbers (ICANN)|accessdate=10 November 2015}}</ref>
|-
| <tt>[[.ไทย]]</tt>
| 国際化国別コード
| THNIC<ref name=IANA.xn--o3cw4h>{{cite web|title=Delegation Record for .ไทย|url=https://www.iana.org/domains/root/db/xn--o3cw4h|website=iana.org|publisher=Internet Corporation for Assigned Names and Numbers (ICANN)|accessdate=23 February 2017}}</ref>
|}
'''トップレベルドメイン'''('''TLD''' : top-level domain)は、[[インターネット]]の階層型[[Domain Name System]]の最上位レベルの[[ドメイン名]]である<ref name="rfc1591_2011">{{cite web | url=https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc1591 | title=Domain Name System Structure and Delegation | accessdate=7 February 2011 | last=Postel | first = Jon | authorlink = Jon Postel | date=March 1994 | work=Request for Comments | publisher=Network Working Group|quote=This memo provides some information on the structure of the names in the Domain Name System (DNS), specifically the top-level domain names; and on the administration of domains.}}</ref>。トップレベルドメインは名前空間の[[DNSルートゾーン]]にインストールされる。これより下位のレベルの全てのドメインでは、トップレベルドメインはドメイン名の最後の部分、すなわち、つまり[[Fully Qualified Domain Name|完全修飾ドメイン名]]の最後の部分である。例えば、ドメイン名[[example.com|www.example.com]]では、トップレベルドメインはcomである。ほとんどのトップレベルドメインの管理に対する責任は、[[Internet Assigned Numbers Authority]](IANA)を運営する[[Internet Corporation for Assigned Names and Numbers]](ICANN)によって特定の組織に委任されており、DNSルートゾーンの維持を担当している。
IANAでは現在、トップレベルドメインを以下のグループに分類している<ref>{{cite web |url=https://www.iana.org/domains/root/db/ |title=Root Zone Database |publisher=Interxxx Assigned Numbers Authority|access-date=2019-03-15}}</ref>。
*[[国別コードトップレベルドメイン]] (ccTLD)
*[[ジェネリックトップレベルドメイン]] (gTLD)
** [[スポンサー付きトップレベルドメイン]] (sTLD)
** {{仮リンク|スポンサーなしトップレベルドメイン|en|Unsponsored top-level domain}}
*[[トップレベルドメイン#インフラ用ドメイン|インフラ用トップレベルドメイン]] ([[.arpa]])
==歴史==
元々、トップレベルドメインは、''Countries''(国)、''Categories''(カテゴリ)、''Multiorganizations''(マルチ組織)の3つの主要グループに編成されていた<ref name="rfc920_2011">{{cite web | url=https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc920 | title=Domain Requirements | accessdate=7 February 2011 | author=Postel, J. |author2=Reynolds, J. | date=October 1984 | work=Request for Comments | publisher=Network Working Group}}</ref>。それに加えて、[[.arpa|arpa]]のみからなる''temporary''(一時利用)グループがあり<ref>{{cite web | url=https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc921 | title=Domain Name System Implementation Schedule - Revised | accessdate=7 February 2011 | author=Postel, J. | date=October 1984 | work=Request for Comments | publisher=Network Working Group | quote=This memo is a policy statement on the implementation of the Domain Style Naming System in the Internet. This memo is an update of RFC-881, and RFC-897. This is an official policy statement of the IAB and the DARPA.}}</ref>、DNSの安定化のための過渡的な目的のために使用された。
==種類==
2015年現在、IANAはトップレベルドメインを以下のグループに分類している<ref>{{cite web|url=https://www.iana.org/domains/root/db/ |title=IANA root zone database |website=Iana.org |publisher=[[Internet Assigned Numbers Authority]] |date= |accessdate=2015-11-10}}</ref>。
*[[トップレベルドメイン#インフラ用ドメイン|インフラ用トップレベルドメイン]] (ARPA): このグループは1つのドメイン、[[.arpa]]だけからなる。これは、[[Request for Comments]](RFC)に規定される様々な目的のために、[[Internet Engineering Task Force]]を代表してIANAによって管理されている。
*[[ジェネリックトップレベルドメイン]] (gTLD): 3文字以上のトップレベルドメイン
* 制限付きトップレベルドメイン (grTLD): このドメインは、公式のICANN認定登録機関の下で管理されている。
*[[スポンサー付きトップレベルドメイン]] (sTLD): このドメインは、TLDを使用する資格を制限する規則を制定し執行する民間機関・組織によって提案されスポンサーされている。使用はコミュニティテーマの概念に基づいている。このドメインは公式のICANN認定レジストラの下で管理されている。
*[[国別コードトップレベルドメイン]] (ccTLD): [[国]]または地域用に設定された2文字のドメイン。いくつかの歴史的な例外を除いて、[[ISO 3166]]の国名コードと同じ文字になっている。
**[[国際化国別コードトップレベルドメイン]] (IDN ccTLD): ラテン文字以外の文字セット(アラビア文字、キリル文字、ヘブライ文字、漢字など)によるccTLD。
*[[.test|テスト用トップレベルドメイン]] (tTLD): このドメインは、IDN開発プロセスのテスト目的で使用される。このドメインはルートゾーンには存在しない。
国は、2文字のISO[[国名コード]]によって指定されている<ref>''Codes for the Representation of Names of Countries'', ISO-3166, International Organization for Standardization. (May 1981)</ref>が、[[.uk]]などの例外もある。そのため、このドメイングループは一般に「国別コード」トップレベルドメイン(ccTLD)と呼ばれている。 2009年以降、ラテン文字以外の文字を使用している国では、[[国際化国別コードトップレベルドメイン]]が申請できるようになった。これは、エンドユーザのアプリケーションには言語固有の文字で表示されるが、DNS内部では[[Punycode]]によりASCIIコードに変換した形で登録されている。
[[ジェネリックトップレベルドメイン]]は、当初は[[.gov]]、[[.edu]]、[[.com]]、[[.mil]]、[[.org]]、[[.net]]から構成されていた。後に、[[.info]]などの他のgTLDが追加された。
ルートゾーンに現在存在する[[トップレベルドメイン一覧|TLDの正式なリスト]]は、IANAのWebサイト([https://www.iana.org/domains/root/db/ https://www.iana.org/domains/root/db/])に公開されている。
==国際化国別コードトップレベルドメイン==
[[国際化国別コードトップレベルドメイン]](IDN ccTLD)は、[[Webブラウザ]]などのエンドユーザアプリケーションに、その言語固有の文字([[アラビア文字]]、[[漢字]]など)で表示されるように特別に符号化されたトップレベルドメインである。IDN ccTLDは、それぞれの国また地域に割り当てられたトップレベルドメインに、[[国際化ドメイン名]](IDN)を適用したものである。
ICANNは2009年11月にIDN ccTLDの申請の受付を開始し<ref>{{cite press release|title=ICANN Bringing the Languages of the World to the Global Internet|url=https://www.icann.org/en/announcements/announcement-30oct09-en.htm|date=30 October 2009|publisher=Internet Corporation For Assigned Names and Numbers (ICANN)|accessdate=30 October 2009}}</ref>、2010年5月に最初のIDN ccTLDのをDNSにインストールした。最初のIDN ccTLDは、エジプト、サウジアラビア、アラブ首長国連邦に対するアラビア語での名前だった。2010年5月までに、21の国がICANNに申請書を提出した<ref>{{cite news
|title='Historic' day as first non-Latin web addresses go live
|publisher=BBC News|date=6 May 2010
|url=https://news.bbc.co.uk/2/hi/technology/10100108.stm
|accessdate=7 May 2010
}}</ref>。
==インフラ用ドメイン==
ドメイン[[.arpa]]は最初のトップレベルドメインの一つである。これは一時的な使用を意図しており、従来の[[ARPANET]]のホスト名からドメイン名への移行のために使用されていた。しかし、DNSの[[逆引き]]に使用されるようになり、廃止するのは実用的ではないと考えられ、現在は[[IPv4]]用のin-addr.arpa、[[IPv6]]逆引きDNS解決用のip6.arpa、[[動的委任発見システム]]用のuri.arpaとurn.arpa、{{仮リンク|NAPTR|en|NAPTR record}}に基づく[[ENUM|電話番号マッピング]]用のe164.arpaなど、様々なインターネットインフラ用に使用されている。歴史的な理由から、[[.arpa]]はジェネリックトップレベルドメインと見なされることがある。
==予約済みのドメイン==
{{IETF RFC|6761}} では、混乱や競合を避けるために、次の4つのトップレベルドメインを予約している<ref name="rfc">{{IETF RFC|6761}}, ''Special-Use Domain Names'', S. Cheshire, M. Krochmal, The Internet Society (February 2013)</ref>。
*[[.example]]: ドメイン名の例示のために予約されている。
*[[.invalid]]: 明らかに無効なドメイン名を使用するために予約されている。
*[[.localhost]]: 従来の[[localhost]]のホスト名としての使用との競合を避けるために予約されている。
*[[.test]]: テスト用に予約されている。
{{IETF RFC|6762}} では、マルチキャストDNS名前解決プロトコルを介して解決できるリンクローカルホスト名に{{仮リンク|.local|en|.local}}の使用を予約している<ref>{{IETF RFC|6762}}, ''Multicast DNS'', S. Cheshire, M. Krochmal, The Internet Society (February 2013)</ref>。
{{IETF RFC|7686}} では、[[Tor]]のHidden Serviceの自己認証名のために[[.onion]]の使用を予約している。ユーザの匿名性を保護するために[[オニオンルーティング]]を使用しているため、この名前はTorクライアントによってしか解決できない<ref>{{IETF RFC|7686}}, ''The ".onion" Special-Use Domain Name'', J. Appelbaum, A. Muffett, The Internet Society (October 2015)</ref>。
==歴史的なドメイン==
1980年代後半に、[[InterNIC]]は[[NATO]]用に[[.nato]]ドメインを作成した。当時存在していたどのTLDも、NATOの国際機関としての地位を十分に反映しているとみなせなかったからである。しかし、この追加後まもなく、InterNICは一般的な国際機関で使用するための[[.int]] TLDを作成し、NATOにセカンドレベルドメインnato.intを使用するよう説得した。.natoは1996年7月に削除された。
[[チェコスロバキア]]の[[.cs]](現在は[[チェコ]]の[[.cz]]と[[スロバキア]]の[[.sk]])、[[東ドイツ]]の[[.dd]]([[ドイツ再統一]]後は[[.de]]を使用)、[[ユーゴスラビア]]の[[.yu]](現在は[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の[[.ba]]、[[クロアチア]]の[[.hr]]、[[モンテネグロ]]の[[.me]]、[[北マケドニア]]の[[.mk]]、[[セルビア]]の[[.rs]]、[[スロベニア]]の[[.si]])、[[ザイール]]の[[.zr]](現在は[[コンゴ民主共和国]]の[[.cd]])も、国の消滅、改称等により現在は使用されていない。これらとは対照的に、[[.su]]は[[ソビエト連邦]]が崩壊したにもかかわらず、今なお管理されており、使用されている。
==提案中のドメイン==
{{further|en:Proposed top-level domain}}
2000年代後半に[[ICANN]]が[[.aero]]、[[.biz]]、[[.coop]]、[[.info]]、[[.museum]]、[[.name]]、[[.pro]]の導入について議論し、それを導入した<ref>{{cite web|url=https://www.internic.net/faqs/new-tlds.html |title=InterNIC FAQs on New Top-Level Domains |publisher=Internic.net |date=2002-09-25 |accessdate=2013-03-28}}</ref>頃、サイト所有者は、成人向けおよびポルノ用のWebサイトでも同様のTLDを利用可能にすべきだと主張した。xxx、sex、adultなどのいくつかの選択肢が提案され<ref>[https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc3675 RFC 3675:] .sex Considered Dangerous</ref>、[[.xxx]]ドメインが2011年に稼働した。
2008年にパリで開催された第32回国際公開ICANN会議で、ICANNは「新しいジェネリックトップレベルドメインの導入を大きく前進させる」ための新しいTLD命名ポリシーのプロセスを開始した<ref>{{cite web|url=https://archive.icann.org/en/meetings/paris2008/|title=32nd International Public ICANN Meeting|date=22 June 2008|publisher=ICANN|access-date=2019-03-15}}</ref>。2012年6月13日、ICANNは約2000の新しいトップレベルドメインを発表し、2013年中にインストールを開始した<ref>{{cite web|title=The Top 10 Proposed New Top Level Domains So Far|url=https://www.pcworld.com/article/257430/the_top_10_proposed_new_top_level_domains_so_far.html|accessdate=12 June 2012}}</ref><ref>{{cite web |url=https://newgtlds.icann.org/en/program-status/application-results/strings-1200utc-13jun12-en |title=Reveal Day 13 June 2012 – New gTLD Applied-For Strings |publisher=Newgtlds.icann.org |date= |accessdate=2013-03-28 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120615092059/https://newgtlds.icann.org/en/program-status/application-results/strings-1200utc-13jun12-en |archivedate=15 June 2012 |df=dmy-all }}</ref>。{{仮リンク|ドーナツ (企業)|en|Donuts (company)|label=ドーナツ社}}は5700万ドルを投資して300以上のドメインを取得した<ref name=Donuts>{{cite web|title=Donuts full application list|url=http://donuts.co/news/files/donuts_tld_application_list.pdf|publisher=Donuts Inc.|accessdate=18 August 2013|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130921061707/http://donuts.co/news/files/donuts_tld_application_list.pdf|archivedate=21 September 2013}}</ref><ref name=NYT81713>{{cite news|title=When You Can’t Tell Web Suffixes Without a Scorecard|url=https://www.nytimes.com/2013/08/18/technology/when-you-cant-tell-web-suffixes-without-a-scorecard.html|accessdate=18 August 2013|newspaper=The New York Times|date=17 August 2013|author=Natasha Singer}}</ref>。
==オルタネートルート==
{{further|オルタネートルート}}
新しいジェネリックトップレベルドメインの作成におけるICANNの進歩の遅れ、およびTLDに関連する高い導入コストから、異なるトップレベルドメインのセットを持つ[[オルタネートルート]]が作られるようになった。オルタネートルートに登録されたドメインは、代替または追加のDNSサーバまたはWebブラウザ用のプラグインモジュールを使用してコンピュータを設定することによってアクセスできる。ブラウザプラグインはオルタネートルートのドメイン要求を検出し、そのような要求に対してオルタネートルートDNSサーバにアクセスする。
==疑似ドメイン==
{{Main|疑似トップレベルドメイン}}
かつて、[[BITNET]]、[[CSNET]]、[[UUCP]]など、コンピュータの専門家や学術ユーザーの間で広く使用されているネットワークがいくつかあったが、それらはインターネットと直接相互接続できず、特別な電子メールゲートウェイを介してしかインターネットとメールを交換できなかった。ゲートウェイでの中継を目的として、これらのネットワークに関連付けられたメッセージには、[[.bitnet]]、[[.oz]]、[[.csnet]]、[[.uucp]]などのサフィックスが付いていたが、これらのドメインはインターネットのDNSにトップレベルドメインとして存在していなかった。
匿名ネットワーク[[Tor]]は、以前はTorのHidden Serviceにトップレベルの疑似ドメイン[[.onion]]を使用していたが、この疑似ドメインは2015年10月に正式に予約された。[[i2p]]は同様の隠し疑似ドメイン、[[.i2p]]を使用する。
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*[https://web.archive.org/web/20040124074709/http://www.addressingtheworld.info/ ''Addressing the World'']: ''National Identity and Internet Country Code Domains'', edited by Erica Schlesinger Wass (Rowman & Littlefield, 2003, {{ISBN2|0-7425-2810-3}}) examines connections between cultures and their ccTLDs.
*[https://mitpress.mit.edu/books/ruling-root ''Ruling the Root''] by Milton Mueller (MIT Press, 2001, {{ISBN2|0-262-13412-8}}) discusses TLDs and domain name policy more generally.
== 関連項目 ==
*[[ドメインハック]]
*[[トップレベルドメイン一覧]]
*[[レジストラ]]
*[[セカンドレベルドメイン]]
== 外部リンク ==
{{Commons category|Top-level domains}}
{{Wikidata property|P78}}
* [https://data.iana.org/TLD/tlds-alpha-by-domain.txt IANA TLD List]
* [https://www.iana.org/domains/root/db IANA List of TLDs on the DNS Root Zone]
* [https://www.circleid.com/topics/top_level_domains Articles on CircleID about TLDs]
* {{cite web
|url = https://ftp.isc.org/www/survey/reports/current/bynum.txt
|date = January 2008
|title = Top-Level Domain Names by Host Count
|publisher = [[Internet Systems Consortium|ISC]]
|accessdate = 7 August 2008 }}
*[https://web.archive.org/web/20120615092059/http://newgtlds.icann.org/en/program-status/application-results/strings-1200utc-13jun12-en TLDs accepted in 2012]
{{GTLD}}
{{DEFAULTSORT:とつふれへるとめいん}}
[[Category:トップレベルドメイン|*]]
[[Category:識別子]]
[[Category:インターネットガバナンス]] | 2003-02-19T14:16:06Z | 2023-12-26T08:36:03Z | false | false | false | [
"Template:Wikidata property",
"Template:仮リンク",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3 |
2,430 | ビュー | ビューは、視点、眺望のこと。
三次元空間を二次元平面で表現する際の視点の位置により、以下のビューが存在する。
その他、カーナビゲーション、レースゲームやファーストパーソン・シューティングゲームなどで、以下のビューが使用されている。
また、ドライバーズビューとバードビュー、また操作対象の真後ろ方向からのビュー等を総称してフロントビューとも呼ぶ。 | [
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] | ビューは、視点、眺望のこと。 三次元空間を二次元平面で表現する際の視点の位置により、以下のビューが存在する。 その他、カーナビゲーション、レースゲームやファーストパーソン・シューティングゲームなどで、以下のビューが使用されている。 また、ドライバーズビューとバードビュー、また操作対象の真後ろ方向からのビュー等を総称してフロントビューとも呼ぶ。 | {{言葉を濁さない|date=2015年8月20日 (木) 09:56 (UTC)}}
{{出典の明記|date=2015年7月}}
{{Otheruses|視点、眺望|その他|View}}
'''ビュー'''は、[[視点]]、眺望のこと。
三次元空間を二次元平面で表現する際の視点の位置により、以下のビューが存在する。
;'''トップビュー''':真上(鉛直方向)または斜め上方からの視点で表し、画面の前後(上下)方向を天地と一致させる方式。
;'''クォータービュー''':斜め上方からの視点で表し、画面の前後(上下)方向を天地とは斜めにずらす方式。XYZ軸がそれぞれ120°の角度で表現されるのが一般的とされる。
:*元々は[[FZ戦記アクシス]]のキャッチコピーとして作られた[[造語]]であり、[[英語圏]]では'''アイソメトリックビュー'''({{Lang-en-short|isometric view}})と呼ぶ。
:*(関連)英語でスリークォータービュー(three-quarter view)と言った時は視点を指すのではなく、絵画や写真で対象物・被写体の正面が(厳密ではないが)3/4ほど見えていることを意味する。正面向きと横向きの中間を指し、例えば[[モナ・リザ]]の体の向きはスリークォータービューである。
;'''サイドビュー''':真横(水平方向)からの視点で表す方式。
その他、[[カーナビゲーション]]、[[レースゲーム]]や[[ファーストパーソン・シューティングゲーム]]などで、以下のビューが使用されている。
;'''ドライバーズビュー''':運転席から見たような視点。表示内に操作対象(カーナビであれば車)全体は映し出されない。
;'''バードビュー''':対象(車)を中心に、少し上空から見下ろしたような視点。操作対象が表示される。
また、ドライバーズビューとバードビュー、また操作対象の真後ろ方向からのビュー等を総称して'''フロントビュー'''とも呼ぶ。
;'''ファーストパーソンビュー''':主観視点の意味。日本での造語であり、英語圏では'''ファースト・パーソン・パースペクティブ'''({{Lang-en-short|First-person perspective}})などといい、そういった視点でプレイする[[ビデオゲーム]]のことを'''ファーストパーソン'''({{Lang-en-short|First person}})や'''ファースト・パーソン・シューター'''略して'''FPS'''({{Lang-en-short|First-person shooter}})と呼称している。
==関連項目==
* [[ビューカメラ]]
* [[等角図]]
* [[鳥瞰図]]
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ひゆう}}
[[Category:カメラ]]
[[Category:方向]]
[[Category:撮影技術]] | null | 2021-07-24T23:59:54Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC |
2,431 | 固定焦点 | 固定焦点(こていしょうてん)とは、ピントを合わせる機構を持たず、あらかじめ適当な位置でピントを固定してあるレンズやカメラのこと。
レンズはその焦点距離(要するに望遠か広角か)と明るさ(F値)に応じて被写界深度(ピントの合う距離の範囲)が決まっている。これには、以下のような規則がある。
(被写界深度が深いとは、ピントの合う範囲が広いこと。逆に浅いとは狭いこと)
そこで、
数人の人物がならんだ記念撮影(1.5~2メートル程度の距離)から、風景撮影(無限遠)までの範囲でピントが合い、多くの用途で問題なく使用できる。また、このような特に広い範囲にピントの合った状態をパンフォーカスと呼ぶ(ただし、パンフォーカスと呼んだ場合、必ずしも無限遠を含むとは限らず、あおりで実現しても良い)。
すべての写真撮影で上記のような組み合わせが使えるわけではない。例えば人物のポートレートで、バストショット(胸から上の範囲)として撮影する場合、広角レンズを使うと極端に近寄らなければならないし、近寄ると固定焦点でピントの合う範囲を超えてしまう。また、暗いレンズを使うと、室内の撮影ではフラッシュ撮影が必須となる。
そこでピント合わせを二段階、もしくは三段階といった大まかに調整可能としたものがある。これをゾーンフォーカスと呼ぶ。例えば三段階の場合、
といった具合である。
固定焦点やゾーンマークはコンパクトカメラやハーフサイズカメラ、ポケットカメラといった比較的安価なカメラで広く使用されていた。しかし、ハネウエルのビジトロニックモジュールが出現すると、コンパクトカメラにオートフォーカスが採用され始め、ズームレンズが採用されるに到ってはオートフォーカスが必須となった。
現在でも、極端に廉価なカメラ、いわゆるトイカメラやレンズ付きフィルムには固定焦点のものが多いが、固定焦点であっても適切な設計であればピントに問題はない。写りが悪い場合、設計に問題があるか、設計者の対象とした用途を外れた過剰な要求をしているか、ピント以外の原因である。
また、一度に広い範囲を写すタイプの防犯カメラも通常は固定焦点である。もちろん、ズームレンズや望遠レンズを使う防犯カメラもある。 | [
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] | 固定焦点(こていしょうてん)とは、ピントを合わせる機構を持たず、あらかじめ適当な位置でピントを固定してあるレンズやカメラのこと。 | '''固定焦点'''(こていしょうてん)とは、[[ピント]]を合わせる機構を持たず、あらかじめ適当な位置でピントを固定してあるレンズやカメラのこと。
== 原理 ==
レンズはその[[焦点距離]](要するに[[望遠レンズ|望遠]]か[[広角レンズ|広角]]か)と明るさ([[F値]])に応じて[[被写界深度]](ピントの合う距離の範囲)が決まっている。これには、以下のような規則がある。
*レンズの焦点距離が長いほど被写界深度が浅く、短いほど深い。
*レンズが明るいほど被写界深度が浅く、暗いほど深い。
*被写界深度は、手前は狭く(短く)、後ろに広い(長い)。
(被写界深度が深いとは、ピントの合う範囲が広いこと。逆に浅いとは狭いこと)
そこで、
*焦点距離の短い広角レンズで、
*適当に暗いレンズを使い、(もしくは[[絞り (光学)|絞り]]を入れて暗くして)
*ピントを数メートルの距離に合わせる(固定する)と、
数人の人物がならんだ記念撮影(1.5~2メートル程度の距離)から、風景撮影([[無限遠]])までの範囲でピントが合い、多くの用途で問題なく使用できる。また、このような特に広い範囲にピントの合った状態を[[パンフォーカス]]と呼ぶ(ただし、パンフォーカスと呼んだ場合、必ずしも無限遠を含むとは限らず、[[あおり (写真)|あおり]]で実現しても良い)。
== ゾーンフォーカス ==
すべての写真撮影で上記のような組み合わせが使えるわけではない。例えば人物の[[ポートレート]]で、[[バストショット]](胸から上の範囲)として撮影する場合、広角レンズを使うと極端に近寄らなければならないし、近寄ると固定焦点でピントの合う範囲を超えてしまう。また、暗いレンズを使うと、室内の撮影では[[エレクトロニックフラッシュ|フラッシュ]]撮影が必須となる。
そこでピント合わせを二段階、もしくは三段階といった大まかに調整可能としたものがある。これを[[ゾーンフォーカス]]と呼ぶ。例えば三段階の場合、
*山のマーク(無限遠から3メートル付近まで)
*人物三人のマーク(おおよそ3メートルから2メートル)
*人物一人のマーク(おおよそ2メートルから1メートル)
といった具合である。
== オートフォーカスとそれ以降 ==
固定焦点やゾーンマークは[[コンパクトカメラ]]や[[ハーフサイズカメラ]]、[[インスタマチック#ポケットインスタマチック|ポケットカメラ]]といった比較的安価なカメラで広く使用されていた。しかし、[[ハネウエル]]の[[ビジトロニックモジュール]]が出現すると、コンパクトカメラに[[オートフォーカス]]が採用され始め、[[ズームレンズ]]が採用されるに到ってはオートフォーカスが必須となった。
現在でも、極端に廉価なカメラ、いわゆる[[トイカメラ]]や[[レンズ付きフィルム]]には固定焦点のものが多いが、固定焦点であっても適切な設計<!--どんな?-->であればピントに問題はない。写りが悪い場合、設計に問題があるか、設計者の対象とした用途を外れた過剰な要求をしているか、ピント以外の原因である。
また、一度に広い範囲を写すタイプの[[防犯カメラ]]も通常は固定焦点である。もちろん、ズームレンズや望遠レンズを使う防犯カメラもある。
{{Camera-stub}}
{{DEFAULTSORT:こていしようてん}}
[[Category:カメラ]]
[[Category:撮影技術]] | null | 2022-09-01T18:40:31Z | false | false | false | [
"Template:Camera-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BA%E5%AE%9A%E7%84%A6%E7%82%B9 |
2,432 | パンフォーカス | パンフォーカスあるいはディープフォーカスとは、写真または映画の撮影において、被写界深度を深くする事によって、近くのものから遠くのものまでピントが合っているように見せる方法、またはその方法により撮影された写真・映画のこと。絞りを適切に絞ったうえで、焦点を無限遠よりも手前に調整することによって実現される。「パンフォーカス」は和製英語であり、英語では「ディープフォーカス」などと言う。絞りを絞ると被写界深度が深くなってボケが減る理由は、レンズ周辺から屈折して入ってくる光が遮断されることで、被写体からの直進光のみがイメージセンサーに取り込まれるため、イメージセンサー上での光線の拡散が抑えられる事による。これはピンホールを通った光がボケ無く結像する仕組みと同様である。
対義語はボケ表現。
右上の写真(図1)では手前のバラから奥の洋館まで画面のすべての位置のピントがあって見える。これはパンフォーカスの写真である。
一方、右下の写真(図2)は手前のバラにはピントが合っているが、背景はボケている。このような写真はパンフォーカスではない。
分野的にはパンフォーカスは風景写真によく用いられる。また、目視ピントのスナップ写真も存在する。これはピントを合わせる時間が節約でき、シャッターチャンスを逃さないという利点がある。
逆にあまりパンフォーカスが用いられない分野としては花の接写、女性のポートレート(やわらかい表現が求められる)などがある。また被写界深度が浅い超望遠レンズで速いシャッター速度が要求されるスポーツ写真では、結果的に背景がボケたものが多く見られる。
パンフォーカスの写真を撮るには次の3つの方法が用いられる。
大型センサーカメラでは、レンズの焦点距離が長く被写界深度が浅いため、特別に小絞りにできるように設計されており(F64、F128といった絞り値が使用できる)、絞り込むことでパンフォーカスを得ることができるほか、アオリを使って被写界面を傾け(ピントの合う面を地面などに沿わせて)擬似的なパンフォーカス描写を得ることもできる。
携帯電話に内蔵のカメラやレンズ付きフィルム、ハーフサイズカメラなど安価なカメラでは、ピント合わせ機構を省略した固定焦点レンズつきのカメラがあるが、これは固定された焦点距離の広角レンズを装着して、常にパンフォーカス撮影となるように設計されている。
このような構造のカメラは、主に近距離・中距離でのスナップ撮影を意識して設計されているため、ピント合わせができるカメラと比べると無限遠のピント精度が落ちるものが多い。ただし、通常は大伸ばししなければピントが外れているように見えることは無い。これらのカメラの実際のピントは、3メートル前後に合わせられていることが多い。
オートフォーカス普及以前の、マニュアル操作の普及機において、日中ならパンフォーカスで撮影できる距離と、マニュアル絞り機であれば適切な絞り値のところに、わかりやすい印が付けるなどされているゾーンフォーカスのカメラがあった。手軽に失敗無く程々の品質の撮影ができる工夫であった。
一般に被写界深度はフィルムまたは撮像素子(CCD、CMOSなど)のサイズにも影響されるといわれる。これはフィルムや撮像素子のサイズ自体の性質によるのではない。これは、同じレンズを使ったとき、サイズが小さいほど画角が狭くなる(APS-Cで約1.5倍、フォーサーズで2倍など)ため、例えば35ミリフィルムの場合と同じ画角にしたいときには焦点距離の短いレンズを用いなければならなくなるからである。特にコンパクトデジタルカメラや携帯電話つきのカメラの撮像素子は非常に小さいものが多いので、非常に焦点距離の短いレンズが用いられる。このためパンフォーカスになりやすいのである。(逆にボケ表現には向かない。)
デジタルカメラでも例えば35ミリ判より撮像素子の大きな中判カメラの場合、同じ画角を得るためには焦点距離のより長いレンズが必要となるため、ボケの量はより大きくなり、より大きく絞り込まないとパンフォーカスにならない。従って、デジタルだからといってパンフォーカスになりやすいということはいえない。フルサイズ以上の大型センサー搭載カメラの場合、パンフォーカスにする際の絞りでイメージセンサーに届く光量が大幅に減少するため、その分ISO感度を上げなければならず、信号増幅の過程でノイズが混入して画質が劣化しやすい。従って、構造上パンフォーカスに長けたコンデジやスマートフォンなどの小型カメラで撮影した画像と画質で区別が付かなくなることがある。
映画においては、絞りを絞ることにより一つのショットのアクションの多岐にわたってピントを合わせることができる。
多くの重要なアクションが奥行きの異なった焦点で同時に起こることを可能にし、シャロウフォーカスとは正反対である。シャロウフォーカスでは、カメラに最も近いただ一つのアクションのみに焦点が合っている(もっとも、その他のアクションもぼやけてはいるが見ることができる)。
パンフォーカスでは、観客が数多くの可能性と選択肢を手にすることができるため、映画におけるリアリズム技法の一つとみなされてきた。とりわけ、ロングテイク(長回し)と共に使われる場合はそうであった。
その反面、パンフォーカスは観客がそのショットあるいはミゼンセヌ(画面上の構成)の数多くの異なった地点にまなざしを向けることを可能にする。
パンフォーカスは初期のサイレント映画で用いられていたが、フィルム・ストックの質が変化したため、この技法を利用するのが困難になっていた。
しかし、1930年代になってはじめて撮影監督のグレッグ・トーランドが、演劇的なルックを求めたウィリアム・ワイラー監督の要望によってパンフォーカスの先駆的な仕事を成し遂げた。また、ソビエト連邦(当時)のエイゼンシュテイン監督、エドゥアルド・ティッセ撮影による『メキシコ万歳』において1931年にパンフォーカスの技術が採用されており、これが世界で最初にパンフォーカスを技法として利用した映画作品と唱える説もある。しかし、屋外撮影でのみ利用されていることや、元々はハリウッド資本で製作されたこの作品が日の目を見たのは1979年になってからであることなどから、パンフォーカスを用いた嚆矢の作品として論及されることは少ない。
そもそも、絞りをしぼって撮影すれば、明瞭に焦点が長くなるのは分かっていたが、そのためには、特に屋内の撮影ではより感度の高いフィルム、十分な照明が必要であったが、グレッグ・トーランドは『嵐が丘』(1939年)で初めてミッチェルBNCカメラを用い始める等、この技法の開発を始めていた。特に『市民ケーン』(1941年)でのパンフォーカスの教科書的な使用例は、今日でも引き合いに出されるほど映画史的には有名である。ヒッチコックや黒澤明も、好んで用いた事で知られている。黒澤の独特なパンフォーカス撮影については黒澤明を参照。 | [
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"text": "パンフォーカスあるいはディープフォーカスとは、写真または映画の撮影において、被写界深度を深くする事によって、近くのものから遠くのものまでピントが合っているように見せる方法、またはその方法により撮影された写真・映画のこと。絞りを適切に絞ったうえで、焦点を無限遠よりも手前に調整することによって実現される。「パンフォーカス」は和製英語であり、英語では「ディープフォーカス」などと言う。絞りを絞ると被写界深度が深くなってボケが減る理由は、レンズ周辺から屈折して入ってくる光が遮断されることで、被写体からの直進光のみがイメージセンサーに取り込まれるため、イメージセンサー上での光線の拡散が抑えられる事による。これはピンホールを通った光がボケ無く結像する仕組みと同様である。",
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"text": "右上の写真(図1)では手前のバラから奥の洋館まで画面のすべての位置のピントがあって見える。これはパンフォーカスの写真である。",
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"text": "一方、右下の写真(図2)は手前のバラにはピントが合っているが、背景はボケている。このような写真はパンフォーカスではない。",
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"text": "携帯電話に内蔵のカメラやレンズ付きフィルム、ハーフサイズカメラなど安価なカメラでは、ピント合わせ機構を省略した固定焦点レンズつきのカメラがあるが、これは固定された焦点距離の広角レンズを装着して、常にパンフォーカス撮影となるように設計されている。",
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"text": "このような構造のカメラは、主に近距離・中距離でのスナップ撮影を意識して設計されているため、ピント合わせができるカメラと比べると無限遠のピント精度が落ちるものが多い。ただし、通常は大伸ばししなければピントが外れているように見えることは無い。これらのカメラの実際のピントは、3メートル前後に合わせられていることが多い。",
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"text": "オートフォーカス普及以前の、マニュアル操作の普及機において、日中ならパンフォーカスで撮影できる距離と、マニュアル絞り機であれば適切な絞り値のところに、わかりやすい印が付けるなどされているゾーンフォーカスのカメラがあった。手軽に失敗無く程々の品質の撮影ができる工夫であった。",
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"text": "デジタルカメラでも例えば35ミリ判より撮像素子の大きな中判カメラの場合、同じ画角を得るためには焦点距離のより長いレンズが必要となるため、ボケの量はより大きくなり、より大きく絞り込まないとパンフォーカスにならない。従って、デジタルだからといってパンフォーカスになりやすいということはいえない。フルサイズ以上の大型センサー搭載カメラの場合、パンフォーカスにする際の絞りでイメージセンサーに届く光量が大幅に減少するため、その分ISO感度を上げなければならず、信号増幅の過程でノイズが混入して画質が劣化しやすい。従って、構造上パンフォーカスに長けたコンデジやスマートフォンなどの小型カメラで撮影した画像と画質で区別が付かなくなることがある。",
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"text": "多くの重要なアクションが奥行きの異なった焦点で同時に起こることを可能にし、シャロウフォーカスとは正反対である。シャロウフォーカスでは、カメラに最も近いただ一つのアクションのみに焦点が合っている(もっとも、その他のアクションもぼやけてはいるが見ることができる)。",
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"text": "パンフォーカスでは、観客が数多くの可能性と選択肢を手にすることができるため、映画におけるリアリズム技法の一つとみなされてきた。とりわけ、ロングテイク(長回し)と共に使われる場合はそうであった。",
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] | パンフォーカスあるいはディープフォーカスとは、写真または映画の撮影において、被写界深度を深くする事によって、近くのものから遠くのものまでピントが合っているように見せる方法、またはその方法により撮影された写真・映画のこと。絞りを適切に絞ったうえで、焦点を無限遠よりも手前に調整することによって実現される。「パンフォーカス」は和製英語であり、英語では「ディープフォーカス」などと言う。絞りを絞ると被写界深度が深くなってボケが減る理由は、レンズ周辺から屈折して入ってくる光が遮断されることで、被写体からの直進光のみがイメージセンサーに取り込まれるため、イメージセンサー上での光線の拡散が抑えられる事による。これはピンホールを通った光がボケ無く結像する仕組みと同様である。 | {{出典の明記|date=2023年11月}}
[[ファイル:Deepfocus.JPG|thumb|400px|'''図1:'''パンフォーカスの写真。[[焦点距離]]18ミリ(APS-Cサイズデジタル)、[[絞り]]F22。]][[ファイル:Furukawa-boke.jpg|thumb|400px|'''図2:'''パンフォーカスでない写真。[[焦点距離]]21ミリ(APS-Cサイズデジタル)、[[絞り]]F2.8]]
'''パンフォーカス'''あるいは'''ディープフォーカス'''とは、[[写真]]または[[映画]]の撮影において、[[被写界深度]]を深くする事によって、近くのものから遠くのものまで[[ピント]]が合っているように見せる方法、またはその方法により撮影された写真・映画のこと。絞りを適切に絞ったうえで、焦点を無限遠よりも手前に調整することによって実現される。「パンフォーカス」は和製英語であり、英語では「ディープフォーカス」などと言う。[[絞り (光学)|絞り]]を絞ると[[被写界深度]]が深くなって[[ボケ (写真)|ボケ]]が減る理由は、[[レンズ]]周辺から[[屈折]]して入ってくる[[光]]が遮断されることで、被写体からの直進光のみが[[撮像素子|イメージセンサー]]に取り込まれるため、[[撮像素子|イメージセンサー]]上での[[光線]]の[[拡散]]が抑えられる事による。これは[[ピンホールカメラ|ピンホール]]を通った[[光]]がボケ無く結像する仕組みと同様である。
== スチル写真 ==
対義語は[[ボケ (写真)|ボケ表現]]。
右上の写真(図1)では手前のバラから奥の洋館まで画面のすべての位置のピントがあって見える。これはパンフォーカスの写真である。
一方、右下の写真(図2)は手前のバラにはピントが合っているが、背景はボケている。このような写真はパンフォーカスではない。
=== ボケ表現とパンフォーカスの効果 ===
* ボケ表現の写真が、主たる被写体に対しスポットライトのように注意を集中させる効果があるのに対して、パンフォーカスの写真は全体に注意を分散させ、主たる被写体とその周囲の環境との関係を明確にするという効果を持つ。その結果、余計なものまで写りすぎてしまうという欠点ももつ。(右上の写真では他のカメラマンが中景にはっきり写りこんでいるが、右下の写真では背景の観光客はぼかされて不鮮明となり邪魔な感じが少ない。)
* ボケ表現は「柔らかい感じ」を、パンフォーカスは「硬い感じ」を表現するのに用いられることが多い。
* ボケ表現は人間の視覚の世界に近い表現、パンフォーカスは写真独自の表現である。日本ではボケ表現が好まれる傾向が強いが、[[リアリズム]]を主張した[[土門拳]]、[[山岳写真]]の[[白川義員]]などボケをできるだけ排し、パンフォーカスを多用する写真家も多い。欧米では近年、ボケ表現が注目されてきているが、従来はパンフォーカスを理想とする考え方が強かった。
分野的にはパンフォーカスは[[風景写真]]によく用いられる。また、[[目視ピント]]の[[スナップ写真]]も存在する。これはピントを合わせる時間が節約でき、[[シャッターチャンス]]を逃さないという利点がある。
逆にあまりパンフォーカスが用いられない分野としては花の[[接写]]、[[女性]]の[[ポートレート]](やわらかい表現が求められる)などがある。また被写界深度が浅い超望遠レンズで速い[[シャッター速度]]が要求される[[スポーツ写真]]では、結果的に背景がボケたものが多く見られる。
=== 撮影方法 ===
パンフォーカスの写真を撮るには次の3つの方法が用いられる。
# [[焦点距離]]の短いレンズを使う。露光面のサイズが同じカメラで比べた場合は'''広角'''よりなほど被写界深度が深く、パンフォーカスになりやすい。冒頭右上の写真では焦点距離18ミリの広角レンズを用いている。なお、レンズの被写界深度は画角ではなく、焦点距離によって決まる。そのため、コンパクト・デジタルカメラなど受光素子の小さいカメラでは画角に対し焦点距離が短くなるので、よりパンフォーカス効果を得やすくなっている。
# '''[[絞り (光学)|絞り]]'''を絞る。冒頭右上の写真ではF22まで絞り込んでいる。一方、パンフォーカスでない右下のほうの写真はF2.8まで開いている。絞れば絞るほど、被写界深度が深くなるのだが、[[シャッター速度]]を落とす必要があり、[[被写体ぶれ]]、[[手ぶれ]]などが起きやすくなるので、[[三脚]]を使ったり[[ISO感度|感度]]を上げる、強い照明を当てるなどの工夫が必要である。ただし、絞り込みすぎると[[回折]]現象が顕著にあらわれ、いわゆる[[小絞りボケ]]になり、画面全体がボケたような感じになることがあるので注意を要する。
# '''遠くから撮る'''。カメラと近景との距離が近いほど被写界深度は浅くなり、遠いほど深くなる。画面の中の近景が十分に遠い場合は、それほど絞らなくてもパンフォーカスを実現できる。
:: 特に[[望遠レンズ]]による撮影の場合は絞りだけでパンフォーカスを得ることはきわめて難しいので、撮影者が後ろに下がって被写体を相対的に遠距離に置くことでパンフォーカスを得ることができる。
=== 大型センサーカメラとパンフォーカス ===
[[大型センサーカメラ]]では、レンズの焦点距離が長く被写界深度が浅いため、特別に小絞りにできるように設計されており(F64、F128といった絞り値が使用できる)、絞り込むことでパンフォーカスを得ることができるほか、[[あおり (写真)|アオリ]]を使って被写界面を傾け(ピントの合う面を地面などに沿わせて)擬似的なパンフォーカス描写を得ることもできる。
=== パンフォーカスを利用したカメラ ===
[[携帯電話]]に内蔵のカメラや[[レンズ付きフィルム]]、[[ハーフサイズカメラ]]など安価なカメラでは、ピント合わせ機構を省略した[[固定焦点]]レンズつきのカメラがあるが、これは固定された焦点距離の広角レンズを装着して、常にパンフォーカス撮影となるように設計されている。
このような構造のカメラは、主に近距離・中距離での[[スナップ写真|スナップ撮影]]を意識して設計されているため、ピント合わせができるカメラと比べると[[無限遠]]のピント精度が落ちるものが多い。ただし、通常は大伸ばししなければピントが外れているように見えることは無い。これらのカメラの実際のピントは、3メートル前後に合わせられていることが多い。
[[オートフォーカス]]普及以前の、マニュアル操作の普及機において、日中ならパンフォーカスで撮影できる距離と、マニュアル絞り機であれば適切な絞り値のところに、わかりやすい印が付けるなどされている[[ゾーンフォーカス]]のカメラがあった。手軽に失敗無く程々の品質の撮影ができる工夫であった。
=== デジタルカメラとパンフォーカス ===
一般に被写界深度は[[フィルム]]または[[撮像素子]]([[CCDイメージセンサ|CCD]]、[[CMOS]]など)のサイズにも影響されるといわれる。これはフィルムや撮像素子のサイズ自体の性質によるのではない。これは、同じレンズを使ったとき、サイズが小さいほど[[画角]]が狭くなる([[APS-C]]で約1.5倍、[[フォーサーズ]]で2倍など)ため、例えば[[35ミリフィルム]]の場合と同じ画角にしたいときには焦点距離の短いレンズを用いなければならなくなるからである。特に[[コンパクトデジタルカメラ]]や[[携帯電話]]つきのカメラの撮像素子は非常に小さいものが多いので、非常に焦点距離の短いレンズが用いられる。このためパンフォーカスになりやすいのである。(逆にボケ表現には向かない。)
デジタルカメラでも例えば35ミリ判より撮像素子の大きな中判カメラの場合、同じ画角を得るためには焦点距離のより長いレンズが必要となるため、ボケの量はより大きくなり、より大きく絞り込まないとパンフォーカスにならない。従って、デジタルだからといってパンフォーカスになりやすいということはいえない。フルサイズ以上の大型センサー搭載カメラの場合、パンフォーカスにする際の絞りでイメージセンサーに届く光量が大幅に減少するため、その分ISO感度を上げなければならず、信号増幅の過程でノイズが混入して画質が劣化しやすい。従って、構造上パンフォーカスに長けた[[デジタルカメラ|コンデジ]]や[[スマートフォン]]などの小型カメラで撮影した画像と画質で区別が付かなくなることがある。
== 映画 ==
映画においては、絞りを絞ることにより一つの[[ショット]]のアクションの多岐にわたって[[ピント]]を合わせることができる。
多くの重要なアクションが奥行きの異なった焦点で同時に起こることを可能にし、[[シャロウフォーカス]]とは正反対である。シャロウフォーカスでは、カメラに最も近いただ一つのアクションのみに焦点が合っている(もっとも、その他のアクションもぼやけてはいるが見ることができる)。
パンフォーカスでは、観客が数多くの可能性と選択肢を手にすることができるため、映画における[[リアリズム]]技法の一つとみなされてきた。とりわけ、[[ロングテイク]]([[長回し]])と共に使われる場合はそうであった。
その反面、パンフォーカスは観客がそのショットあるいは[[ミザンセーヌ|ミゼンセヌ]](画面上の構成)の数多くの異なった地点にまなざしを向けることを可能にする。
パンフォーカスは初期の[[サイレント映画]]で用いられていたが、フィルム・ストックの質が変化したため、この技法を利用するのが困難になっていた。
しかし、[[1930年代]]になってはじめて撮影監督の[[グレッグ・トーランド]]が、演劇的なルックを求めた[[ウィリアム・ワイラー]]監督の要望によってパンフォーカスの先駆的な仕事を成し遂げた。また、[[ソビエト連邦]](当時)の[[エイゼンシュテイン]]監督、[[エドゥアルド・ティッセ]]撮影による『メキシコ万歳』において[[1931年]]にパンフォーカスの技術が採用されており、これが世界で最初にパンフォーカスを技法として利用した映画作品と唱える説もある。しかし、屋外撮影でのみ利用されていることや、元々は[[ハリウッド]]資本で製作されたこの作品が日の目を見たのは[[1979年]]になってからであることなどから、パンフォーカスを用いた嚆矢の作品として論及されることは少ない。
そもそも、[[絞り]]をしぼって撮影すれば、明瞭に焦点が長くなるのは分かっていたが、そのためには、特に屋内の撮影ではより[[ISO感度|感度]]の高いフィルム、十分な照明が必要であったが、グレッグ・トーランドは『[[嵐が丘 (1939年の映画)|嵐が丘]]』([[1939年]])で初めて[[ミッチェル撮影機|ミッチェル]]BNCカメラを用い始める等、この技法の開発を始めていた。特に『[[市民ケーン]]』([[1941年]])でのパンフォーカスの教科書的な使用例は、今日でも引き合いに出されるほど映画史的には有名である。[[アルフレッド・ヒッチコック|ヒッチコック]]や[[黒澤明]]も、好んで用いた事で知られている。黒澤の独特なパンフォーカス撮影については[[黒澤明]]を参照。
== 関連項目 ==
<!-- 本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク、ウィキリンク。出来る限り本文内に埋め込んで下さい。 -->
* [[被写界深度]]
* [[ボケ (写真)]]
* [[固定焦点]]
* [[ゾーンフォーカス]]
* [[土門拳]]
{{DEFAULTSORT:はんふおおかす}}
[[Category:撮影技術]]
[[Category:写真]]
[[Category:カメラ]] | 2003-02-19T14:23:20Z | 2023-11-03T06:10:39Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B9 |
2,433 | 目視ピント | 目視ピント(もくしピント)とは、カメラを用いた撮影の際に撮影者の目視により被写体までの距離を想像し、ピントリングなどに記載されている距離目盛でピント合わせをすること、またはその方法を指す。目測とも呼ばれる。
広角レンズは被写界深度が深く、距離計などを使用する必要が無い場合もあり、スナップ撮影などですばやくピント合わせをする場合は目視によるピント合わせのほうが有利とされることもある。しかし、当然ながら熟練しなければピント位置を誤ることも多くなる。 広角レンズまたは準広角レンズが固定されている、あるいは広角レンズを使用することが前提のカメラでは距離計など測距装置を装備せず、目視ピントのみで撮影するように作られているものも多い。これらのカメラでどうしても正確なピント合わせを要する時は、別体の距離計を利用する方法もある。 | [
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] | 目視ピント(もくしピント)とは、カメラを用いた撮影の際に撮影者の目視により被写体までの距離を想像し、ピントリングなどに記載されている距離目盛でピント合わせをすること、またはその方法を指す。目測とも呼ばれる。 | '''目視ピント'''(もくしピント)とは、[[カメラ]]を用いた撮影の際に撮影者の目視により被写体までの距離を想像し、ピントリングなどに記載されている距離目盛で[[ピント]]合わせをすること、またはその方法を指す。目測とも呼ばれる。
== 概要 ==
[[広角レンズ]]は[[被写界深度]]が深く、距離計などを使用する必要が無い場合もあり、[[スナップ写真|スナップ撮影]]などですばやくピント合わせをする場合は目視によるピント合わせのほうが有利とされることもある。しかし、当然ながら熟練しなければピント位置を誤ることも多くなる。
広角レンズまたは準広角レンズが固定されている、あるいは広角レンズを使用することが前提のカメラでは距離計など測距装置を装備せず、目視ピントのみで撮影するように作られているものも多い。これらのカメラでどうしても正確なピント合わせを要する時は、別体の距離計を利用する方法もある。
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[[Category:写真の技法]]
[[Category:撮影技術]]
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2,434 | コンパクト | コンパクト | [
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] | コンパクト | '''コンパクト'''
== compact ==
* ぎっしり詰める、圧縮する。転じて、小さくまとめること。また、その状態。例として[[コンパクトカー|コンパクト・カー]]、[[デジタルカメラ|コンパクトデジタルカメラ]]。
** [[コンパクト空間]]の略称。- [[数学]]における概念。
*** [[コンパクトな埋め込み]]
*** [[コンパクト化]]
** [[コンパクト化 (物理学)]]
** [[コンパクト (化粧品)]] - 化粧品の道具。掌サイズの、[[手鏡]](コンパクトミラー)が付いた携帯用[[ファンデーション (化粧品)|ファンデーション]]ケースのこと。
* [[盟約]]
** コンパクト - [[自由連合盟約]]([[:en:Compact Of Free Association]])の略称。
== Kompakt ==
* [[コンパクト (レコードレーベル)]] - [[ドイツ]]の[[レコードレーベル]]。
== 関連項目 ==
* {{前方一致ページ一覧|コンパクト}}
* {{intitle|コンパクト}}
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2,435 | ゾーンフォーカス | ゾーンフォーカス(英: Zone focus)とは、カメラでの撮影の際に、用いられるピント合わせの方法の一つである。
ピント合わせの位置を適当なイメージアイコンで示してあり、被写体までの距離に応じてそれらを選ぶ事でピント合わせを行おうとするもの。カメラに詳しくないユーザー向けのカメラに搭載されてきたが、オートフォーカスの性能が上がってくると、慣れが必要なゾーンフォーカスは廃れていった。
人のアップ、人間のグループ、遠景などのイメージが図示されている。このイメージはゾーンマークあるいは距離ピクトグラムといい、その数が3つのものを3点ゾーンフォーカス、4つなら4点ゾーンフォーカスなどと呼ぶ。ほとんどのゾーンフォーカスカメラはゾーンマークの部分にクリックをつけて、指標に簡単にゾーンマークをあわせられるようにしている。旧式のカメラでは、「PORTLAIT」「GROUP」「SCENE」などのように英語でゾーンを表している場合もある。 | [
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}
] | ゾーンフォーカスとは、カメラでの撮影の際に、用いられるピント合わせの方法の一つである。 | '''ゾーンフォーカス'''({{lang-en-short|Zone focus}})とは、[[カメラ]]での撮影の際に、用いられるピント合わせの方法の一つである。
==概要==
[[画像:Zone-Focus.jpg|right|300px|thumb|ゾーンフォーカスカメラのピントリング]]
ピント合わせの位置を適当なイメージアイコンで示してあり、被写体までの距離に応じてそれらを選ぶ事でピント合わせを行おうとするもの。カメラに詳しくないユーザー向けのカメラに搭載されてきたが、[[オートフォーカス]]の性能が上がってくると、慣れが必要なゾーンフォーカスは廃れていった。
人のアップ、人間のグループ、遠景などのイメージが図示されている。このイメージは'''ゾーンマーク'''あるいは'''距離ピクトグラム'''といい、その数が3つのものを3点ゾーンフォーカス、4つなら4点ゾーンフォーカスなどと呼ぶ。ほとんどのゾーンフォーカスカメラはゾーンマークの部分にクリックをつけて、指標に簡単にゾーンマークをあわせられるようにしている。旧式のカメラでは、「PORTLAIT」「GROUP」「SCENE」などのように英語でゾーンを表している場合もある。
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[[Category:撮影技術]]
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2,436 | オートフォーカス | オートフォーカス (Autofocus, AF) または自動焦点(じどうしょうてん)とは、カメラの焦点を、センサー・制御系・モーターなどを利用して自動的に合わせるシステムのこと。近年販売されているコンパクトカメラや一眼レフカメラのほとんどに装備されている。また、携帯電話やスマートフォンのカメラにも搭載されている場合が多い。アクティブ方式とパッシブ方式に大別される。AFと略されることがある。
尚、初期には焦点連動装置レンジファインダーの事を自動焦点装置やオートホーカス、或いはドイツ語風にアウトホークスと表記した例がある。これは主に戦前の表記で、現在、焦点連動装置はむしろマニュアルフォーカスに分類されるためオートフォーカスに含むことはない。
オートフォーカスの方式は、大きくアクティブ方式とパッシブ方式の2つに区分される。アクティブ方式、パッシブ方式を併用した製品もある。
一般にミラーで光路を曲げるタイプのカメラの場合、フィルム面(または固体撮像素子)とは反対側の光路上に、フォーカス用のラインセンサを配置する。実際に撮影する瞬間にはフォーカスセンサに光が当たらないため、撮影直前の情報でフォーカスサーボを駆動することになる。この駆動方式が、用途によりいくつか選択される。
世界で初めてオートフォーカスを搭載した市販カメラは1977年11月に発売された愛称「ジャスピンコニカ」ことコニカC35AFである。C35AFの開発に携わった人物として、内田康男、百瀬治彦等が挙げられている。百瀬は、テレビジョン学会誌にてC35AFを例にして、自動焦点カメラの動作原理や、今後の課題等について述べている。二つの窓から入った被写体像を二つのミラー(片方は固定、片方は可動)で捉え、その二つの像が合致する箇所を判断、そのピント位置にレンズを駆動する。すなわち二重像合致式の距離計を自動化した原理である。これがベストセラーとなりヤシカAFが1978年10月、フラッシュフジカAFが1978年11月、ミノルタハイマチックAFが1979年10月、キヤノン「オートボーイ」AF35Mが1979年11月、ローライフラッシュ35AFが1980年4月、マミヤ135AFが1981年5月、オリンパスC-AFが1981年3月、ペンタックスCP35AFが1982年11月、ニコン「ピカイチ」L35AFが1983年3月と各社追随した。ほぼ同時期ながら1978年ポラロイドSX-70は唯一超音波を被写体に投射して距離を測定するシステムにてオートフォーカスを実現した。
日本光学工業(現ニコン)はニコンF2時代オートフォーカスニッコール80mmF4.5を試作したが市販されなかった。「世界初の市販オートフォーカス一眼レフカメラ」はリコーの「スクープアイ」ことリコーXR6とAFリケノン50mmF2のセットである。AFリケノン50mmF2は交換レンズ側に測距と自動焦点機能を持ちKマウントのボディならどれに装着してもオートフォーカスが可能であったが、リコーXR6とセット販売された。しかしこれはマイナーメーカーであったせいか、あまり話題にならなかった。
1981年11月発売されたペンタックスME FとSMCペンタックスAFズーム35-70mmF2.8のセットは、カメラボディーにTTLフォーカスセンサーがあり、ここで検知したピントをマウントを通じてレンズに伝え、レンズ内のモーターがレンズを駆動する形式である。一般にはこれが「世界初の市販オートフォーカス一眼レフ」として知られている。オリンパスOM30とズイコー35-70mmF4AFのセットもほぼ同じ形式でオートフォーカスを実現した。
レンズメーカーであったコシナは、どのカメラでもオートフォーカス化できるようにAFリケノン50mmF2のようにレンズのみで完結する75-200F4.5AF、1987年にはコンパクトな標準ズーム28-70mmF3.5-4.8AFを発売した。マウントはニコン、キヤノン、ミノルタ等7種。
プロスペック機としてはニコンF3AFとAiAFニッコール80mmF2.8S、AiAFEDニッコール200mm3.5S、TC-16Sのセットが挙げられる。
しかしこれらは、いずれも爆発的な人気を得ることはできなかった。オートフォーカス一眼レフカメラが、完成した製品として消費者に迎えられたのは、1985年2月発売のミノルタα-7000が最初である。
変り種としては、ヤシカを吸収合併した京セラがコンタックスブランドで販売していた一眼レフボディで、「フィルム像面を移動」させる事でオートフォーカス動作を行なうコンタックス・AXがある。描写には定評がある従来のカールツァイス製レンズをそのまま使えてオートフォーカス動作が可能(機種専用のレンズを用意する必要が無い)という利点がある一方、ボディ内部は二重構造となり厚ぼったく、携帯性やデザインに難が発生したため、ヒットとはならなかった。
1987年、アメリカのハネウェルはミノルタ(現コニカミノルタ)が製造・販売していたオートフォーカス式一眼レフαシリーズの自動焦点機構が自社の特許を侵害しているとアメリカ連邦地裁に提訴、1992年特許侵害を認める評決が出て、最終的にミノルタは約165億円を支払う内容の和解に応じた。アメリカ流の訴訟社会の厳しさ、知的財産権の重要性を日本国内に知らしめた事件である。 | [
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"text": "オートフォーカス (Autofocus, AF) または自動焦点(じどうしょうてん)とは、カメラの焦点を、センサー・制御系・モーターなどを利用して自動的に合わせるシステムのこと。近年販売されているコンパクトカメラや一眼レフカメラのほとんどに装備されている。また、携帯電話やスマートフォンのカメラにも搭載されている場合が多い。アクティブ方式とパッシブ方式に大別される。AFと略されることがある。",
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"text": "尚、初期には焦点連動装置レンジファインダーの事を自動焦点装置やオートホーカス、或いはドイツ語風にアウトホークスと表記した例がある。これは主に戦前の表記で、現在、焦点連動装置はむしろマニュアルフォーカスに分類されるためオートフォーカスに含むことはない。",
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"text": "オートフォーカスの方式は、大きくアクティブ方式とパッシブ方式の2つに区分される。アクティブ方式、パッシブ方式を併用した製品もある。",
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"text": "一般にミラーで光路を曲げるタイプのカメラの場合、フィルム面(または固体撮像素子)とは反対側の光路上に、フォーカス用のラインセンサを配置する。実際に撮影する瞬間にはフォーカスセンサに光が当たらないため、撮影直前の情報でフォーカスサーボを駆動することになる。この駆動方式が、用途によりいくつか選択される。",
"title": "一眼レフカメラにおけるオートフォーカスモード"
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"text": "世界で初めてオートフォーカスを搭載した市販カメラは1977年11月に発売された愛称「ジャスピンコニカ」ことコニカC35AFである。C35AFの開発に携わった人物として、内田康男、百瀬治彦等が挙げられている。百瀬は、テレビジョン学会誌にてC35AFを例にして、自動焦点カメラの動作原理や、今後の課題等について述べている。二つの窓から入った被写体像を二つのミラー(片方は固定、片方は可動)で捉え、その二つの像が合致する箇所を判断、そのピント位置にレンズを駆動する。すなわち二重像合致式の距離計を自動化した原理である。これがベストセラーとなりヤシカAFが1978年10月、フラッシュフジカAFが1978年11月、ミノルタハイマチックAFが1979年10月、キヤノン「オートボーイ」AF35Mが1979年11月、ローライフラッシュ35AFが1980年4月、マミヤ135AFが1981年5月、オリンパスC-AFが1981年3月、ペンタックスCP35AFが1982年11月、ニコン「ピカイチ」L35AFが1983年3月と各社追随した。ほぼ同時期ながら1978年ポラロイドSX-70は唯一超音波を被写体に投射して距離を測定するシステムにてオートフォーカスを実現した。",
"title": "黎明期のオートフォーカスカメラ"
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"text": "日本光学工業(現ニコン)はニコンF2時代オートフォーカスニッコール80mmF4.5を試作したが市販されなかった。「世界初の市販オートフォーカス一眼レフカメラ」はリコーの「スクープアイ」ことリコーXR6とAFリケノン50mmF2のセットである。AFリケノン50mmF2は交換レンズ側に測距と自動焦点機能を持ちKマウントのボディならどれに装着してもオートフォーカスが可能であったが、リコーXR6とセット販売された。しかしこれはマイナーメーカーであったせいか、あまり話題にならなかった。",
"title": "黎明期のオートフォーカス一眼レフカメラ"
},
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"text": "1981年11月発売されたペンタックスME FとSMCペンタックスAFズーム35-70mmF2.8のセットは、カメラボディーにTTLフォーカスセンサーがあり、ここで検知したピントをマウントを通じてレンズに伝え、レンズ内のモーターがレンズを駆動する形式である。一般にはこれが「世界初の市販オートフォーカス一眼レフ」として知られている。オリンパスOM30とズイコー35-70mmF4AFのセットもほぼ同じ形式でオートフォーカスを実現した。",
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"text": "レンズメーカーであったコシナは、どのカメラでもオートフォーカス化できるようにAFリケノン50mmF2のようにレンズのみで完結する75-200F4.5AF、1987年にはコンパクトな標準ズーム28-70mmF3.5-4.8AFを発売した。マウントはニコン、キヤノン、ミノルタ等7種。",
"title": "黎明期のオートフォーカス一眼レフカメラ"
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"text": "プロスペック機としてはニコンF3AFとAiAFニッコール80mmF2.8S、AiAFEDニッコール200mm3.5S、TC-16Sのセットが挙げられる。",
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"paragraph_id": 9,
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"text": "しかしこれらは、いずれも爆発的な人気を得ることはできなかった。オートフォーカス一眼レフカメラが、完成した製品として消費者に迎えられたのは、1985年2月発売のミノルタα-7000が最初である。",
"title": "黎明期のオートフォーカス一眼レフカメラ"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "変り種としては、ヤシカを吸収合併した京セラがコンタックスブランドで販売していた一眼レフボディで、「フィルム像面を移動」させる事でオートフォーカス動作を行なうコンタックス・AXがある。描写には定評がある従来のカールツァイス製レンズをそのまま使えてオートフォーカス動作が可能(機種専用のレンズを用意する必要が無い)という利点がある一方、ボディ内部は二重構造となり厚ぼったく、携帯性やデザインに難が発生したため、ヒットとはならなかった。",
"title": "黎明期のオートフォーカス一眼レフカメラ"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1987年、アメリカのハネウェルはミノルタ(現コニカミノルタ)が製造・販売していたオートフォーカス式一眼レフαシリーズの自動焦点機構が自社の特許を侵害しているとアメリカ連邦地裁に提訴、1992年特許侵害を認める評決が出て、最終的にミノルタは約165億円を支払う内容の和解に応じた。アメリカ流の訴訟社会の厳しさ、知的財産権の重要性を日本国内に知らしめた事件である。",
"title": "ミノルタ・ハネウェル特許訴訟"
}
] | オートフォーカス または自動焦点(じどうしょうてん)とは、カメラの焦点を、センサー・制御系・モーターなどを利用して自動的に合わせるシステムのこと。近年販売されているコンパクトカメラや一眼レフカメラのほとんどに装備されている。また、携帯電話やスマートフォンのカメラにも搭載されている場合が多い。アクティブ方式とパッシブ方式に大別される。AFと略されることがある。 尚、初期には焦点連動装置レンジファインダーの事を自動焦点装置やオートホーカス、或いはドイツ語風にアウトホークスと表記した例がある。これは主に戦前の表記で、現在、焦点連動装置はむしろマニュアルフォーカスに分類されるためオートフォーカスに含むことはない。 | {{出典の明記|date=2023年3月}}
'''オートフォーカス''' (''Autofocus'', '''AF''') または'''自動焦点'''(じどうしょうてん)とは、[[カメラ]]の焦点を、[[センサー]]・[[制御系]]・[[電動機|モーター]]などを利用して自動的に合わせるシステムのこと。近年販売されている[[コンパクトカメラ]]や[[一眼レフカメラ]]のほとんどに装備されている。また、[[携帯電話]]や[[スマートフォン]]のカメラにも搭載されている場合が多い。アクティブ方式とパッシブ方式に大別される。AFと略されることがある。
尚、初期には焦点連動装置[[レンジファインダー]]の事を自動焦点装置やオートホーカス、或いはドイツ語風にアウトホークスと表記した例がある。これは主に戦前の表記で、現在、焦点連動装置はむしろマニュアルフォーカスに分類されるためオートフォーカスに含むことはない。
== 方式 ==
[[画像:AF-Sensor.jpg|right|300px|thumb|コンパクトカメラのアクティブ式センサー(上)とパッシブ式センサー(下)]]
オートフォーカスの方式は、大きく'''アクティブ方式'''と'''パッシブ方式'''の2つに区分される。アクティブ方式、パッシブ方式を併用した製品もある。
=== アクティブ方式 ===
:[[レーダー]]と同様の原理で、対象物(被写体)に[[赤外線]]・[[超音波]]などを照射し、その反射波が戻るまでの時間や照射角度により距離を検出する方式。フィルム式コンパクトカメラにおいては標準的な方式である。
:この方式では、暗い場所でもピントを合わせることが可能な反面、対象物との間に透明な板([[ガラス]]など)がある場合に距離検出を間違うことがある。また風景写真のような遠距離のピントは、反射波がカメラまで届かなかったり、届いても微弱なためにピントを合わせにくい。
=== パッシブ方式 ===
:アクティブ方式のように赤外線などを用いず、レンズを通過した光を利用して測距を行う方式。主に一眼レフカメラで使われる位相差検出方式や、コンパクトデジタルカメラで使われるコントラスト検出方式、フィルム式コンパクトカメラで用いられていたパッシブ外光方式などがある。これらの複数の方式を併用した製品もある(ハイブリッド方式)。
:アクティブ方式が苦手とする遠距離へのピントも合わせられるが、暗い場所や、コントラストが低いものにピントを合わせるのを苦手とする。暗い場所でのピント合わせを補助するために、照明(補助光)を内蔵しているカメラが多い。
==== 位相差AF ====
[[File:Autofocus phase detection.svg|thumb|300px|''位相差AFの原理''<br /><br />各図(縮尺比は同じでない)において、紫色の円は焦点を合わせる物体を表し、赤色の線および緑色の線はレンズ開口部を通過する光線を表し、黄色の長方形はAFセンサー(開口ごとに1つ)、グラフは各センサーによって検出される明暗度プロファイルを表す。<br /><br />図1から図4は、それぞれレンズが(1)近すぎる(後ピン)、(2)正しい(ジャスピン)、(3)遠すぎる(前ピン)、(4)さらに遠すぎる状態を示す。 2つの輪郭の間の位相差は、最適な焦点を得るためにレンズをどの方向に動かすかを決定するために使用することができる。]]
:位相差AF方式は、入射光を2つの画像に分割し、結像した2つの画像の間隔からピントの方向と量を判断する方式である。 入射光の分割にセパレータレンズを必要とし、また専用の位相差AFセンサーを必要とするため、位相差AF方式は一眼レフカメラに搭載される(像面位相差AF(後述)を除く)。AFセンサーはカメラの底部に搭載され、システムはカメラの底部のAFセンサーに光を向けるために、[[ビームスプリッター]](主反射ミラーの一部を半透過領域とし、入射光をAFセンサーに送る小さな副鏡と組み合わせて構成される)を使用する。 2つのマイクロレンズはレンズの反対側から来る光線を捕捉し、それをAFセンサーに向けて、レンズの直径内に基線を持つ簡単な[[レンジファインダー]]を作り出す。 次に、2つの画像を同様の光強度パターン(山と谷)について分析し、誤差を計算して被写体が前ピンか後ピンにあるかどうかを調べる。 これによりフォーカスリングの移動量と移動方向を判断する。
:コントラストAFと比べて、以下のような利点と欠点がある。
* 利点:
** 高速なAF動作が可能であり、動きのある被写体を撮る際に有効である
* 欠点:
** 一眼レフカメラにしか搭載できない
** ミラーで光を分岐させる必要があるため、反射ミラーを上げる必要がある動画撮影やライブビュー撮影では使用できない
** 測距点を多くすることが難しく、AF可能な位置は主に中心部に限られる
** 実際の画像を使用せずにAFを行うため、AF精度は劣る
** 原理的にセンサーに入る光の量が少なく、低照度でのAF動作を苦手とする
:上記の通り欠点は多いが、動きのある被写体はコントラストAFが苦手とするシーンであるため、高速なAFが可能という利点は極めて大きく、スポーツ撮影や動物撮影などを行う場合は必須と言える。
<!-- ここの箇所は意味がよくわからないのでコメント化
連続的にピントを合わせるモード(例えば、キヤノンの場合は「AIサーボ」、ニコン 、ペンタックスおよびソニーの場合は「AF-C」)における位相差AFは閉ループ制御プロセスである。位相差AFはフォーカスロックモード(キヤノンの場合は「ワンショット」、ニコンとソニーの場合は「AF-S」)は開ループ制御プロセスであると一般に認識されているが、焦点はAFセンサが合焦した被写体を見るときにのみ確認されます。2つのモードの間の唯一の明らかな違いは、フォーカス確認モードではフォーカスロックモードが停止し、連続的なフォーカスモードでは動きのあるターゲットで動作する予測要素があり、同じ閉ループプロセスであることが示唆されます。-->
:AFセンサーは一般的に1次元の感光性ストリップ(高さが数ピクセル、幅が数十ピクセル)であるが、近年のカメラ([[キヤノン EOS-1V]] 、[[キヤノン EOS-1D]] 、[[ニコンのデジタル一眼レフカメラ製品一覧#D1桁シリーズ|ニコン D2X]]など )では矩形のTTL-AREA-SIRとなっており、より精細な解析のために2次元の明暗度パターンを提供する。 クロス測距点は、互いに90°の方向を向いた一対のセンサーを有するが、一方のセンサーは通常他方のセンサーよりも大きな開口を必要とする。
:いくつかのカメラ([[ミノルタ]]7、キヤノンEOS-1V、1D、30D / 40D、[[Α (カメラ)|ソニーα]]700、α850、α900など)には、[[プリズム]]とセンサーを追加した「高精度」焦点がいくつかある。特定の[[開口 (光学)|開口]](通常は[[F値]]2.8以上)を持つ「高速レンズ」でのみ有効である。 高い精度は、「レンジファインダー」の有効な基線長の幅広さからもたらされる。
[[Image:US pat 5589909 fig 2.png|none|thumb|320px|位相差AFシステムの構成:7 - 焦点検出のための光学システム; 8 - イメージセンサ; 30 - 撮影光学系の射出瞳近傍の面 31,32 - 一対の領域 70 - ウィンドウ; 71 - 視野マスク; 72 - コンデンサーレンズ 73,74-一対の開口 75 - 開口マスク 76,77 - 再収斂レンズの対 80,81 - 一対の受光部]]
==== 像面位相差AF ====
:像面位相差AF方式は、位相差AFと同じく2つの画像の位相差を検出して合焦するが、位相差AFと異なり専用のAF機構を持たず、[[撮像素子]]にAFセンサーを組込んでいる方式である。通常、撮像素子の前にはマイクロレンズが組み込まれているが、さらにAFセンサーとなる画素の直前にスリットを配置し、AFセンサーへの入射光を制限することによって位相差を検出する仕組みである。なお、カメラによってはスリットを搭載せず、全画素を2分割して撮像素子と兼用とする方式もある(キヤノンの「デュアルピクセルCMOS AF」など)。像面位相差AFは、[[富士フイルム]] FinePix F300EXR、FinePix Z800EXRで世界で初めて実用化された。像面位相差AFは、コントラストAF、位相差AFと比べて以下のような利点と欠点がある。
*利点:
** 専用のAF機構を必要としないためコンパクトデジタルカメラや[[ミラーレス一眼カメラ]]、[[スマートフォン]]にも搭載可能である
** コントラストAFと比べて高速なAF動作を行える
** 位相差AFでは使用できない動画撮影やライブビュー撮影でも使用可能
** 位相差AFと比べてAF精度は高い
*欠点:
** 位相差AFと比べるとAF動作はやや劣る
** AFセンサーの数と画素数がトレードオフの関係にあり、画質を優先するとAF性能が落ち、AF性能を優先すると画質が落ちることになる
** 全画素を2分割する方式の場合、信号処理の負荷が高く消費電力量が多くなり、省電力性能に影響を与える
** 位相差AFと同じく低照度でのAF動作を不得意とする
==== コントラストAF ====
:コントラストAF方式は、レンズを通して、センサーフィールド内の[[コントラスト]]を測定することによって合焦する方式である。センサーの隣接画素間のコントラストは、画像の焦点が正しくなるに伴って自然に増加する。 これにより、最大コントラストが検出されるまでピントレンズを動かすことで合焦する。 この方法では、AFは実際の距離測定を全く行わない。 これは、コントラストの喪失が、被写体がカメラの方へ近寄ったことによるのか、またはカメラから遠ざったことによるのかが判別できないため、動く被写体を追跡する際に重大な問題を生じる。
:位相差AFのように専用のセンサーを使用せず、実際に撮像素子に映った画像そのものを利用してAFを行うので、コントラストAFは位相差AFよりAF精度が高い。しかし、コントラストAFでは何度もレンズを動かしてコントラストが最も高い位置を探すため、原理的に位相差AFより合焦が遅くなる。
:コントラストAFは[[シャッター (カメラ)|メカニカルシャッター]]や反射ミラーがないデジタルカメラでは一般的な方法である。ほとんどの一眼レフでは、ライブビューモードでピントを合わせるときに、この方法(またはコントラストと位相差AFの両方のハイブリッド)を使用する。 ミラーレス一眼レンズカメラは、通常コントラストAFを使用しているが、一部のモデルでは像面位相差AFを併用しているため、AF追尾性能が大幅に向上する。
:コントラストAFは、位相差AFと比較して、レンズ設計に異なる制約を課す。 位相差AFではレンズを素早く合焦位置に移動させる必要があるが、コントラストAFでは焦点領域をすばやく移動し、最大コントラストが検出された時点で正確に停止するレンズが使用される。これは、位相差AF用に設計されたレンズは、コントラストAFを使用するカメラ本体ではしばしば機能しないことを意味する。
:コントラストAFは、位相差AF、像面位相差AFと比べて以下のような利点と欠点を持つ。
*利点:
** 専用のAF機構を必要としないためコンパクトデジタルカメラやミラーレス一眼カメラ、スマートフォンにも搭載可能である
** 位相差AFでは使用できない動画撮影やライブビュー撮影でも使用可能
** 実際の画像を使用するため、位相差AF、像面位相差AFと比べてAF精度が高い
** 低照度でのAF動作も可能
*欠点:
** レンズを何度も動かして合焦するため、AF速度が遅い
== 一眼レフカメラにおけるオートフォーカスモード ==
一般にミラーで光路を曲げるタイプのカメラの場合、[[写真フィルム|フィルム]]面(または[[固体撮像素子]])とは反対側の光路上に、フォーカス用の[[ラインセンサ]]を配置する。実際に撮影する瞬間にはフォーカスセンサに光が当たらないため、撮影直前の情報でフォーカスサーボを駆動することになる。この駆動方式が、用途によりいくつか選択される。
;ワンショットオートフォーカス
:直前にフォーカスした位置でホールドする方式で、一般にレリーズを半押しした段階でロックされる。メーカーやレンズによっては、この状態のままでマニュアルでフォーカシングできるものもある。連続撮影した場合に、後半のショットのフォーカスが合っていないのはもちろん、単写においてもピンボケの画像となることがある。
;動体追従オートフォーカス(コンティニュアスオートフォーカス)
:直前のフォーカス情報の変化から撮影の瞬間でのピント位置を予測し、そこに合焦させる方式である。より高度なアルゴリズムを持つ製品では、ピント位置変化の加速度も測定する。いずれも、フォーカスセンサーへの入力が消失した後もフォーカスサーボを駆動し続けることで、移動している物体にピントを合わせ続けることを目的とする。
== 黎明期のオートフォーカスカメラ ==
世界で初めてオートフォーカスを搭載した市販カメラは1977年11月に発売された愛称「'''ジャスピンコニカ'''」ことコニカ'''C35AF'''である。C35AFの開発に携わった人物として、内田康男、百瀬治彦等が挙げられている<ref name="projext-X-auto-focus">
2000年8月29日放送 NHK[[プロジェクトX〜挑戦者たち〜の放送一覧#2000年|プロジェクトX 第20回]]『誕生!人の目を持つ夢のカメラ
オートフォーカス~14年目の逆転~』、[[2021年]](令和3年)[[7月13日]]放送 プロジェクトX 4Kリストア版
</ref>。百瀬は、テレビジョン学会誌にてC35AFを例にして、自動焦点カメラの動作原理や、今後の課題等について述べている<ref>{{Cite web|和書
|url = https://ci.nii.ac.jp/naid/110003698604
|title = 自動焦点カメラ Auto Focus Camera
| publisher = nii.ac.jp
| accessdate = 2021-07-18}}
</ref>。二つの窓から入った被写体像を二つのミラー(片方は固定、片方は可動)で捉え、その二つの像が合致する箇所を判断、そのピント位置にレンズを駆動する。すなわち二重像合致式の距離計を自動化した原理である。これがベストセラーとなりヤシカAFが1978年10月、フラッシュフジカAFが1978年11月、ミノルタハイマチックAFが1979年10月、キヤノン「オートボーイ」AF35Mが1979年11月、ローライフラッシュ35AFが1980年4月、マミヤ135AFが1981年5月、オリンパスC-AFが1981年3月、ペンタックスCP35AFが1982年11月、ニコン「ピカイチ」L35AFが1983年3月と各社追随した。ほぼ同時期ながら1978年ポラロイドSX-70は唯一超音波を被写体に投射して距離を測定するシステムにてオートフォーカスを実現した。
== 黎明期のオートフォーカス一眼レフカメラ ==
日本光学工業(現[[ニコン]])は'''ニコンF2'''時代'''オートフォーカスニッコール80mmF4.5'''を試作したが市販されなかった。「世界初の市販オートフォーカス一眼レフカメラ」は[[リコー]]の「スクープアイ」こと'''リコーXR6'''と'''AFリケノン50mmF2'''のセットである。'''AFリケノン50mmF2'''は交換レンズ側に測距と自動焦点機能を持ちKマウントのボディならどれに装着してもオートフォーカスが可能であったが、'''リコーXR6'''とセット販売された。しかしこれはマイナーメーカーであったせいか、あまり話題にならなかった。
1981年11月発売された'''ペンタックスME F'''と'''SMCペンタックスAFズーム35-70mmF2.8'''のセットは、カメラボディーにTTLフォーカスセンサーがあり、ここで検知したピントをマウントを通じてレンズに伝え、レンズ内のモーターがレンズを駆動する形式である。一般にはこれが「世界初の市販オートフォーカス一眼レフ」として知られている。'''オリンパスOM30'''と'''ズイコー35-70mmF4AF'''のセットもほぼ同じ形式でオートフォーカスを実現した。
レンズメーカーであったコシナは、どのカメラでもオートフォーカス化できるように'''AFリケノン50mmF2'''のようにレンズのみで完結する'''75-200F4.5AF'''、1987年にはコンパクトな標準ズーム'''28-70mmF3.5-4.8AF'''を発売した。マウントはニコン、キヤノン、ミノルタ等7種。
プロスペック機としては'''ニコンF3AF'''と'''AiAFニッコール80mmF2.8S'''、'''AiAFEDニッコール200mm3.5S'''、'''TC-16S'''のセットが挙げられる。
しかしこれらは、いずれも爆発的な人気を得ることはできなかった。オートフォーカス一眼レフカメラが、完成した製品として消費者に迎えられたのは、1985年2月発売の'''[[Α (カメラ)#フィルムカメラ・シリーズ|ミノルタα-7000]]'''が最初である。
変り種としては、[[ヤシカ]]を吸収合併した[[京セラ]]が[[コンタックス]]ブランドで販売していた一眼レフボディで、「フィルム像面を移動」させる事でオートフォーカス動作を行なう'''コンタックス・AX'''がある。描写には定評がある従来のカールツァイス製レンズをそのまま使えてオートフォーカス動作が可能(機種専用のレンズを用意する必要が無い)という利点がある一方、ボディ内部は二重構造となり厚ぼったく、携帯性やデザインに難が発生したため、ヒットとはならなかった。
== ミノルタ・ハネウェル特許訴訟 ==
[[1987年]]、アメリカの[[ハネウェル]]は[[ミノルタ]](現[[コニカミノルタ]])が製造・販売していたオートフォーカス式一眼レフαシリーズの自動焦点機構が自社の[[特許]]を侵害しているとアメリカ連邦地裁に提訴、[[1992年]]特許侵害を認める評決が出て、最終的にミノルタは約165億円を支払う内容の和解に応じた。アメリカ流の訴訟社会の厳しさ、[[知的財産権]]の重要性を日本国内に知らしめた事件である。{{main|ミノルタ・ハネウェル特許訴訟}}
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
*[[ハイブリッドオートフォーカス]]
*[[マニュアルフォーカス]]
*[[被写界深度]]
*[[パンフォーカス]]
{{DEFAULTSORT:おおとふおおかす}}
[[Category:写真]]
[[Category:カメラ]]
[[Category:撮影技術]]
[[Category:日本の発明]] | 2003-02-19T14:29:12Z | 2023-10-12T04:43:20Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
"Template:Main",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B9 |
2,445 | 陸 | 陸(りく、おか)とは、地球では、地表の恒常的に水で覆われていない部分、あるいは固体の水(氷雪)に覆われているが、その直下に液体の水が恒常的に存在しない部分をいう。陸地(りくち)。対義語は海である。
陸地は地球の表面の約28.9%を占め、面積は約1億4724万kmである。その面積から、大陸、島などに区別される。 | [
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"text": "陸(りく、おか)とは、地球では、地表の恒常的に水で覆われていない部分、あるいは固体の水(氷雪)に覆われているが、その直下に液体の水が恒常的に存在しない部分をいう。陸地(りくち)。対義語は海である。",
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"text": "陸地は地球の表面の約28.9%を占め、面積は約1億4724万kmである。その面積から、大陸、島などに区別される。",
"title": "概要"
}
] | 陸(りく、おか)とは、地球では、地表の恒常的に水で覆われていない部分、あるいは固体の水(氷雪)に覆われているが、その直下に液体の水が恒常的に存在しない部分をいう。陸地(りくち)。対義語は海である。 | {{Otheruses||[[漢数字]]([[大字 (数字)|大字]])について|6|漢姓|陸 (姓)}}
{{出典の明記|date=2012年4月12日 (木) 17:17 (UTC)}}
[[ファイル:Land hemisphere.png|thumb|200px|[[陸半球]]]]
'''陸'''(りく、おか)とは、[[地球]]では、地表の恒常的に[[水]]で覆われていない部分、あるいは[[固体]]の水(氷雪)に覆われているが、その直下に[[液体]]の水が恒常的に存在しない部分をいう。'''陸地'''(りくち)。対義語は[[海]]である。
== 概要 ==
陸地は地球の表面の約28.9%を占め、[[面積]]は約1億4724万km<sup>2</sup>である<ref name="理科年表 地5">[[理科年表]]地学部「世界各緯度帯の海陸の面積とその比」</ref>。その面積から、[[大陸]]、[[島]]などに区別される。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == {{Cite book}}、{{Cite journal}} -->
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
<!-- {{Commonscat|}} -->
* [[島]]
* [[大陸]]
* [[陸半球]]
* [[陸屋根]]
<!-- == 外部リンク == {{Cite web}} -->
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{{デフォルトソート:りく}}
[[Category:大陸]]
[[Category:島]] | 2003-02-19T15:46:53Z | 2023-11-24T01:11:40Z | false | false | false | [
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"Template:Geo-term-stub",
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2,446 | 魏志倭人伝 | 魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝()倭人条の略称。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。
『三国志』の中に「倭人伝」という独立した列伝が存在したわけではなく、『魏書』巻三十「烏丸鮮卑東夷伝」の一部に倭の記述がある。 中国の正史中で、はじめて日本列島に関するまとまった記事が書かれている。『後漢書』東夷伝のほうが扱う時代は古いが、『三国志』魏志倭人伝のほうが先に書かれた。なお講談社学術文庫『倭国伝』では『後漢書』を先に収録している。
当時の倭(後の日本とする説もある)に、女王の都する邪馬台国(邪馬壹国)を中心とした国が存在し、また女王に属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。また、本書には当時の倭人の風習や動植物の様子が記述されていて、3世紀の日本列島を知る史料となっている。
景初2年(238年)に、邪馬台国女王卑弥呼の使者が明帝への拝謁を求めて洛陽に到着したとあり、これが事実であれば、拝謁した皇帝は曹叡ということになるが、この遣使の年は景初3年であるという異説(梁書倭国伝など)もあり、その場合には使者が拝謁したのは曹芳ということになる。
しかし、必ずしも当時の日本列島の状況を正確に伝えているとは限らないことから、邪馬台国に関する論争の原因になっている。 また、一方で、岡田英弘など『魏志倭人伝』の史料としての価値に疑念を投げかける研究者が一定数いる。岡田は、位置関係や里程にズレが大きく信頼性に欠けるとの見解を述べている。宝賀寿男は「『魏志倭人伝』が完全ではなく、トータルで整合性が取れていないし、書写期間が長いのだから、手放しで同時代史料というわけにはいかない。『魏略』は『三国志』より先行成立は確実とされるが、現存の逸文には誤記も多い」ことを指摘している。さらに、『三国志』の研究者である渡邉義浩は、『三国志』の「魏書」と同様に魏志倭人伝は著者である陳寿が実際に朝鮮半島や日本に訪問して書かれた文献ではなく、あくまで噂や朝鮮半島や日本に訪問したことがある人々からの聞伝えで書かれていて信憑性には疑問があると述べている。また、『魏志倭人伝』には「卑弥呼が使者を派遣した当時の曹魏の内政・外交や史家の世界観に起因する、多くの偏向(歪んだ記述)が含まれている」との見解を述べている。
現存する数種の版本のうち、宮内庁書陵部蔵の「南宋紹煕年間の刻本」が最善本とされているが、後述のように異論もある。この刻本を「紹煕本」(しょうきぼん)という。
「紹煕本」を魏志倭人伝を含む正史『三国志』の最善本と鑑定したのは正史の原文校訂に尽力した民国時代の学者・張元済である。 張は各種の版本を検討した結果、「紹煕本」は非常に優れていると提唱した。清朝の武英殿版正史の校訂を行った考証学者の本文研究とも合致しているというのがその理由である。古田武彦は張の見解を支持し、「紹煕本」を含む全版本が一致していることから、倭の女王国の国号を「邪馬壹國」とするのが正しいと述べた。。
「紹煕本」を元に張元済が刊行したのが百衲本(ひゃくのうぼん)である。ただし、張は「紹煕本」の欠けている三巻をもう一つの善本である南宋紹興刻本で補っている。 古い研究では百衲本は紹煕本の忠実な影印とされてきたが、近年の研究では魏志倭人伝でも張元済が一部の字を変更していることが明らかにされた。
古田説には安本美典らによる批判がある。安本らは「紹煕本」を最善のテキストだと認めない。安本らは「紹煕本」を民間の粗雑な刻本(坊刻本)とし、しかも刊行年代は古田の説より下る慶元年間のものだとしている。安本らはもう一つの善本である南宋紹興本を評価している。
活字本としては現在の中国で諸本を校訂し、句読点を付した「中華書局本」が(初版1959年、北京)、日本でも入手可能である。また、返り点をつけたものとして、講談社学術文庫『倭国伝』(藤堂, 竹田 & 影山 2010)がある。
なお、版本ごとの主な異同を記せば以下のようになる。細かい異同はもっと多いが、論争になっている箇所のみをあげた。
「倭人伝」は、百衲本の影印版を見れば段落もなく書かれているが、中華書局版と講談社学術文庫版では6段落に分けられている。内容的には、大きく3段落に分けて理解されている。
元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こった(いわゆる「倭国大乱」と考えられている)。そこで、卑弥呼と言う一人の女子を王に共立することによってようやく混乱を鎮めた。
卑弥呼は、鬼道に事え衆を惑わした。年長で夫はいなかった。弟が国政を補佐した。王となって以来人と会うことは少なかった。1000人の従者が仕えていたが、居所である宮室には、ただ一人の男子が入って、飲食の給仕や伝言の取次ぎをした。樓観や城柵が厳めしく設けられ、常に兵士が守衛していた。
卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していた。
正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が徇葬した。その後男王を立てるが国中が服さず更に殺し合い1000余人が死んだ。再び卑弥呼の宗女(一族、または宗派の女性)である13歳の壹與を王に立て国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。
また、『日本書紀』の「神功紀」は、晋武帝泰初2年(泰始2年(266年)の誤り)の『晋起居注』(現存しない)に泰初2年10月、倭の女王が通訳を重ねて貢献したとの記述があるとしている。 現存する『晋書』武帝紀には、泰始2年11月、倭人が朝貢したという記事があり、四夷伝には泰始の初めに倭人が通訳を重ねて朝貢したともあるので(女王とは書かれていないが)、この女王は壹與と考えられている。魏に代って成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢したものと考えられる。
3世紀半ばの壹與の朝貢の記録を最後に、5世紀の義熙9年(413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)まで150年近く中国の史書からは倭国に関する記録はなくなる。この間を埋めるものとして広開土王碑がある、碑には391年に倭が百済、新羅を破り、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)と戦ったとある。
「魏志倭人伝」によると、倭人は山島に依って国邑とし、遼東郡太守公孫康が現ソウル付近に設置した帯方郡を介して朝貢を行い、記述の時点では30箇国が使者を通わせている。
帯方郡から倭に至る行程について、魏志韓伝(『三国志』魏書三十, 烏丸鮮卑東夷伝)は、帯方郡の南方の韓と倭の位置と境界に関して、
韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接。方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。
韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽き、南は倭と接する。方四千里ばかり。韓は三つに区分される。一つ目は馬韓、二つ目は辰韓、三つ目は弁韓という。
と述べ、「韓」は朝鮮半島中部以南の東海岸から西海岸に至る地域を占めるが、南は「倭」と接しているという。
『後漢書』東夷伝(列伝第七十五)は、三韓の位置関係をより具体的に、
馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。
馬韓は西部に在り、54国を有し、その北は楽浪郡と、南は倭と接する。辰韓は東部に在り、12国を有し、その北は濊貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十二国を有し、その南はまた倭と接する。
と述べ、「韓」の西部に馬韓、東部の北部に辰韓、南部に弁辰(辰韓)があるとする。馬韓と弁辰が各々その南方で「倭と接する」と述べ、ここでも「韓」は南で「倭」と接しているとしている。後漢献帝建安年間に創設された帯方郡は、認識されていないと見える。
官名等には諸説がある。 魏志倭人伝の原文(中華書局本)の抜粋と、石原道博編訳の「新訂 魏志倭人伝」を踏まえた日本語訳を収録した。「新訂 魏志倭人伝」には当時の倭国各国の推定位置も記されているが、ここでは大部分を省いた。
女王国の以北にある、狗邪韓国、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国と投馬国、邪馬台国の他に、遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国が記録されている。また、南の狗奴国の男王卑弥弓呼とは不和との記録もある。
奴国は2回記されているが同一の国とする説と別の国とする説がある。
John R. bentleyは、後漢中国語の再建に基づき、以下の読み方を提案している。
魏志倭人伝の原文の抜粋と、石原道博編訳の「新訂 魏志倭人伝」を踏まえた日本語訳を収録した。「新訂 魏志倭人伝」には当時の倭国各国の推定位置も記されているが、ここでは大部分を省いた。
魏志倭人伝の原文の抜粋と、石原道博編訳の「新訂 魏志倭人伝」を踏まえた日本語訳を収録した。訳文は一部修正してあります。
魏志倭人伝の原文の抜粋と、石原道博編訳の「新訂 魏志倭人伝」を踏まえた日本語訳を収録した。
倭および魏の使いを年代順に西暦で書くと、238年倭使、240年魏使、243年倭使、247年倭使・魏使・倭使となる。238年12月の文は詔が出された記事で、実際に届けられたのは240年である。同様に245年の難升米に黃幢を賜える記事も、この年に詔が出され、実際に届けられたのは247年であることに注意。またよく誤解されるが、247年に魏使が倭に来たのは245年の詔のせいであり、247年の倭使の訴えがあったためではない(ただし檄などはこれによるものであろう)。
「魏志倭人伝」に書かれた里数や日数を、不用意に適用すると、日本列島を越えて太平洋上になるため、邪馬台国の位置や道程の比定は決定的な説が見いだされていない。位置の比定について有力なものに「畿内説」と「九州説」がある。道程の比定について有力なものに「連続説」と「放射説」がある(邪馬台国#位置に関する論争を参照)。
范曄の『後漢書』「東夷伝」に、倭についての記述がある。 その内容は「魏志倭人伝」と共通点があるが、『後漢書』倭伝には「魏志倭人伝」には年代が特定されていない「桓霊間倭國大亂」等の記事もある。
『隋書倭国伝』では、『倭國(隋書は倭を“俀”につくる。倭国に訂正)』について、『倭国は百済・新羅の東南にあり。水陸三千里、大海の中において山島に依って居る。』・『その国境は東西五月行、南北三月行にして、各々海に至る。』・『邪靡堆(北史には邪摩堆とある。靡は摩の誤りであろう)に都す、則ち「魏志」のいわゆる邪馬台なる者なり。古より(北史では“又”)いう、「楽浪郡境および帯方郡を去ること並びに一万二千里にして、会稽の東にあり、儋耳と相近し」と。』とあり、倭国(邪馬台国と大和朝廷)の連続性を認めているとする見解がある。『隋書』は『魏略』『魏志』『後漢書』と『宋書』『梁書』とを参考にしながら、総合的に記述されているとのこと。
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"text": "「魏志倭人伝」に書かれた里数や日数を、不用意に適用すると、日本列島を越えて太平洋上になるため、邪馬台国の位置や道程の比定は決定的な説が見いだされていない。位置の比定について有力なものに「畿内説」と「九州説」がある。道程の比定について有力なものに「連続説」と「放射説」がある(邪馬台国#位置に関する論争を参照)。",
"title": "邪馬台国論争"
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"text": "范曄の『後漢書』「東夷伝」に、倭についての記述がある。 その内容は「魏志倭人伝」と共通点があるが、『後漢書』倭伝には「魏志倭人伝」には年代が特定されていない「桓霊間倭國大亂」等の記事もある。",
"title": "「魏志倭人伝」と『後漢書』倭伝との関係"
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"text": "『隋書倭国伝』では、『倭國(隋書は倭を“俀”につくる。倭国に訂正)』について、『倭国は百済・新羅の東南にあり。水陸三千里、大海の中において山島に依って居る。』・『その国境は東西五月行、南北三月行にして、各々海に至る。』・『邪靡堆(北史には邪摩堆とある。靡は摩の誤りであろう)に都す、則ち「魏志」のいわゆる邪馬台なる者なり。古より(北史では“又”)いう、「楽浪郡境および帯方郡を去ること並びに一万二千里にして、会稽の東にあり、儋耳と相近し」と。』とあり、倭国(邪馬台国と大和朝廷)の連続性を認めているとする見解がある。『隋書』は『魏略』『魏志』『後漢書』と『宋書』『梁書』とを参考にしながら、総合的に記述されているとのこと。",
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] | 魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。 | {{基礎情報 書籍
|title = 『魏志倭人伝』<br />(ぎしわじんでん)
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|id = (ちくま学芸文庫)ISBN 4-480-08044-9<br />(岩波文庫)ISBN 4-00-334011-6<br />(講談社学術文庫)ISBN 978-4-06-292010-0<br />(中公新書)ISBN 978-4-12-102164-9
|portal1 = 歴史
}}
'''魏志倭人伝'''(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』中の「魏書」第30巻{{読み仮名|烏丸鮮卑[[東夷伝]]|うがんせんびとういでん}}[[倭人]]条の略称<ref>[[岩波文庫]]では書名の一部として「魏志倭人伝」の五文字を採用している。{{Harv|和田|石原|1951}}、{{Harv|石原|1985}}。</ref>。当時、[[日本列島]]にいた民族・住民の[[倭人]]([[日本人]])の[[習俗]]や地理などについて書かれている。『三国志』は、[[西晋]]の[[陳寿]]により[[3世紀]]末(280年([[呉の滅亡 (三国)|呉の滅亡]])- [[297年]](陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では[[正史]]として重んじられた<ref>中華書局版『三国志』(北京、1959年)の「出版説明」にある。{{Harv|古田|1971}}。</ref>。
== 概要 ==
『三国志』の中に「倭人伝」という独立した[[列伝]]が存在したわけではなく<ref>ただし、岩波文庫に収録された影印には、「倭人伝」の文字があるので、倭人伝と呼ぶことに不都合はないとする考えもある。</ref>、『魏書』巻三十「烏丸鮮卑東夷伝」の一部に倭の記述がある。
中国の正史中で、はじめて日本列島に関するまとまった記事が書かれている。『[[後漢書]]』東夷伝のほうが扱う時代は古いが、『三国志』魏志倭人伝のほうが先に書かれた。なお[[講談社学術文庫]]『倭国伝』では『後漢書』を先に収録している<ref>「時代の順として冒頭にかかげた」{{Harv|藤堂|竹田|影山|2010|p=19}}</ref>。
当時の[[倭]](後の日本とする説もある)に、女王の都する[[邪馬台国]](邪馬壹国<ref>現存する『三国志(魏志倭人伝)』の版本では、「邪馬壹國」、「邪馬一國」。5世紀の『後漢書(倭伝)』では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書(倭伝)』では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』には魏志(魏志倭人伝)のいう「邪馬臺」(都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也)とある(各書の成立については、ウィキペディアの当該項目参照のこと)。[[古田武彦]]は「魏志倭人伝」における「邪馬壹國」が後出の史料における「邪馬臺国(邪馬台国)」とは異なるとの説を提唱している([[邪馬壹国説]])。{{Harvtxt|古田|1969}}、{{Harvtxt|古田|1971}}などを参照。</ref>)を中心とした国が存在し、また女王に属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。また、本書には当時の倭人の風習や動植物の様子が記述されていて、3世紀の日本列島を知る史料となっている。
[[景初]]2年([[238年]])に、[[邪馬台国]]女王[[卑弥呼]]の使者が明帝への拝謁を求めて[[洛陽]]に到着したとあり、これが事実であれば、拝謁した皇帝は[[曹叡]]ということになるが、この遣使の年は景初3年であるという異説(梁書倭国伝など)もあり、その場合には使者が拝謁したのは[[曹芳]]ということになる<ref>至魏景初三年、公孫淵誅後、卑彌呼始遣使朝貢、魏以爲親魏王、假金印紫綬。『梁書 巻五十四 列伝第四十八 諸夷伝 倭国伝』</ref>。
しかし、必ずしも当時の日本列島の状況を正確に伝えているとは限らないこと<ref>{{Harv|西尾|1999}}、{{Harv|西尾|2009a}}</ref>から、邪馬台国に関する論争<ref>{{Harvtxt|岡本|1995}}に各説の概要が記述されている。</ref>の原因になっている。
また、一方で、[[岡田英弘]]など『魏志倭人伝』の史料としての価値に疑念を投げかける研究者が一定数いる。岡田は、位置関係や里程にズレが大きく信頼性に欠けるとの見解<ref>{{Harvtxt|岡本|1995|p=76}}に岡田説が引かれている。</ref>を述べている。[[宝賀寿男]]は「『魏志倭人伝』が完全ではなく、トータルで整合性が取れていないし、書写期間が長いのだから、手放しで同時代史料というわけにはいかない。『魏略』は『三国志』より先行成立は確実とされるが、現存の逸文には誤記も多い」ことを指摘している<ref>宝賀寿男「[http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/yama-ronsou/yama-ichi1.htm 邪馬台国論争は必要なかった-邪馬台国所在地問題の解決へのアプローチ-]」『古樹紀之房間』、2015年。</ref>。さらに、『三国志』の研究者である[[渡邉義浩]]は、『三国志』の「魏書」と同様に魏志倭人伝は著者である陳寿が実際に朝鮮半島や日本に訪問して書かれた文献ではなく、あくまで噂や朝鮮半島や日本に訪問したことがある人々からの聞伝えで書かれていて信憑性には疑問があると述べている。『魏志倭人伝』には「[[卑弥呼]]が使者を派遣した当時の[[魏 (三国)|曹魏]]の内政・外交や史家の世界観に起因する、多くの偏向(歪んだ記述)が含まれている」との見解を述べている<ref name="渡邉2012pii" />。
少数意見として、倭国や邪馬台国に関する記述自体が中華思想による捏造であって、根拠が無いとする見方もある。そもそも日本で見つかった金印が捏造による捏造のであれば、いくつかある史書のそれぞれの信憑性を保証するものは何もないのである。この見解では、そもそも邪馬台国の存在が捏造なので、存在場所を特定しようとすることは無意味となる。
== 版本 ==
現存する数種の版本のうち、宮内庁書陵部蔵の「[[南宋]][[紹煕]]年間の刻本」が最善本とされているが、後述のように異論もある。この刻本を'''「紹煕本」'''(しょうきぼん)という。
「紹煕本」を魏志倭人伝を含む正史『三国志』の最善本と鑑定したのは正史の原文校訂に尽力した民国時代の学者・[[張元済]]である。
張は各種の版本を検討した結果、「紹煕本」は非常に優れていると提唱した。清朝の武英殿版正史の校訂を行った考証学者の本文研究とも合致しているというのがその理由である。<ref>張『百衲本二十四史 三國志』跋、台湾商務印書館本では巻末でページ番号なし、1937。張は「殿本考証に疑う字、一々(紹煕本)と吻合せり」「其の衆本に勝るところ、洵(まこと)に伯仲に堪える」(訳:武英殿版の校訂者がこれまでのテキストでは疑問としていたところは、全て「紹煕本」で解決できる。この本は他のテキストより格段に優れている)と称賛している。</ref>[[古田武彦]]は張の見解を支持し、「紹煕本」を含む全版本が一致していることから、倭の女王国の国号を「邪馬壹國」とするのが正しいと述べた。<ref>{{Harvtxt|古田|1971}}の章扉に百衲本の影印が写真版として収録されて以後、張・古田説を取り入れた新版の岩波文庫(1985年)にも、百衲本の影印が写真版として収録されている。</ref>。
「紹煕本」を元に張元済が刊行したのが百衲本(ひゃくのうぼん)である。ただし、張は「紹煕本」の欠けている三巻<ref>魏書武帝紀などで、魏志倭人伝とは無関係</ref>をもう一つの善本である南宋[[紹興]]刻本で補っている。<ref>『百衲本二十四史 三國志』、台湾商務印書館1937の扉裏の注記による</ref>
古い研究<ref>古田1971ほか</ref>では百衲本は紹煕本の忠実な影印とされてきたが、近年の研究では魏志倭人伝でも張元済が一部の字を変更していることが明らかにされた。<ref>古田史学の会『古田史学論集 古代に真実を求めて 第八集』2005、https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784750320816</ref>
古田説には[[安本美典]]らによる批判がある。安本らは「紹煕本」を最善のテキストだと認めない。安本らは「紹煕本」を民間の粗雑な刻本(坊刻本)とし、しかも刊行年代は古田の説より下る[[慶元]]年間のものだとしている。安本らはもう一つの善本である南宋[[紹興 (宋)|紹興]]本を評価している。<ref>『季刊邪馬台国』18号、「第二特集 邪馬台国のテキスト」梓書房、1983。なお、本書は複数の研究者による論文集であり、安本は責任編集をしたほか論文1篇を掲載している。</ref>
活字本としては現在の中国で諸本を校訂し、句読点を付した「中華書局本」が(初版1959年、北京)、日本でも入手可能である。また、返り点をつけたものとして、[[講談社学術文庫]]『倭国伝』{{Harv|藤堂|竹田|影山|2010}}がある。
なお、版本ごとの主な異同を記せば以下のようになる。細かい異同はもっと多いが、論争になっている箇所のみをあげた。
*紹煕本 朝鮮半島から初めて海を渡って着いた地名が「対'''海'''国」。
*百衲本 ほぼ「紹煕本」と同一だが細部に相違がある。
*紹興本 朝鮮半島から初めて海を渡って着いた地名が「対'''馬'''国」。
*中華書局本 紹興本によって「対馬国」とする以外は「紹煕本」に依拠。
「倭人伝」は、百衲本の影印版を見れば段落もなく書かれているが、中華書局版と講談社学術文庫版では6段落に分けられている。内容的には、大きく3段落に分けて理解されて<ref>最近の例として{{Harvtxt|吉村|2010|pp=8 f}}があげられる。</ref>いる。
== 倭と魏の関係 ==
=== 卑弥呼と壹與 ===
元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こった(いわゆる「[[倭国大乱]]」と考えられている)。そこで、[[卑弥呼]]と言う一人の女子を王に共立することによってようやく混乱を鎮めた。<!-- 一人の女子を王とした。それは卑弥呼という名。と書かれている。卑弥呼という女子を王とした、とは書かれていない。原文には「~することによって」にあたる部分はなく、主観で因果関係をつけてしまっていると同時に原文では卑弥呼のときに「混乱が鎮まった」とは書かれていない。卑弥呼は[[狗奴国]]と和していなかったと書かれている。国中が鎮まったというのは倭人の条の最後の文であり、その宗女が女王のときである。 -->
[[卑弥呼]]は、鬼道に事え衆を惑わした。年長で夫はいなかった。弟が国政を補佐した。王となって以来人と会うことは少なかった。1000人の従者が仕えていたが、居所である宮室には、ただ一人の男子が入って、飲食の給仕や伝言の取次ぎをした。樓観や城柵が厳めしく設けられ、常に兵士が守衛していた。
卑弥呼は[[景初]]2年([[238年]])以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「[[親魏倭王]]」に任じられた。正始8年([[247年]])には、[[狗奴国]]との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していた。
正始8年([[247年]])頃に卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が徇葬した。その後男王を立てるが国中が服さず更に殺し合い1000余人が死んだ。再び卑弥呼の宗女(一族、または宗派の女性)である13歳の[[台与|壹與]]を王に立て国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。<!-- 半島の国々というのがどことどこのことなのか、誰の解釈なのか。死去すると墓がつくられたのか死去するまえから墓を作っていたのか原文からは読み取れない。「そのため」という因果関係を説明する用語は原文にはなく、1000人あまりが死んだ「から」壹與を立てたとは読み取れない。また、国が鎮まったのは女王を立てた「ため」だという因果関係も原文にはない。因果関係を勝手に想定し、魏志倭人伝の編者のではなくこのページを書いた人間の筋書きで作られている記述となってしまっているにもかかわらず、出典がない。 -->
=== 魏・晋との外交 ===
*景初2年6月([[238年]])に女王は大夫の[[難升米]]と次使の[[都市牛利]]を[[帯方郡]]に派遣して天子に拝謁することを願い出た<ref>[[姚思廉]]の『[[梁書]]』巻54「諸夷伝」は、遣使の年を景初3年(239年)とし、『[[日本書紀]]』の[[神功皇后]]39年(年の干支は太歳己未)の分注で引用される『魏志』も、明帝景初3年6月とする(このほか『[[太平御覧]]』巻782「四夷部3・東夷3・倭」の条に引用する『魏志』も景初3年とする)。魏が帯方郡を治めたのは、[[景初]]2年初に劉昕を帯方太守に任じ派遣し占領した後である(『三国志』魏志公孫淵伝によれば[[公孫淵]]が[[司馬懿]]に殺されたのは8月23日)。これらのことから、講談社学術文庫の注では「『三国志』の誤り」としている。</ref>。帯方太守の[[劉夏 (帯方太守)|劉夏]]は彼らを都に送り、使者は男の[[生口]]([[奴隷]])4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。12月、皇帝はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、[[銅鏡]]100枚を含む莫大な下賜品を与え、難升米を率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為した。
**景初3年1月1日に12月8日から病床についていた(『三国志』裴注引用 習鑿歯『漢晋春秋』)魏の皇帝である明帝([[曹叡]])が死去。[[曹芳|斉王]]が次の皇帝となった。
*[[正始 (魏)|正始]]元年([[240年]])に帯方太守[[弓遵]]は建中校尉梯儁らを詔書と印綬を持って倭国に派遣し、倭王の位を仮授して下賜品を与えた。
*正始4年([[243年]])に女王は再び魏に使者として大夫[[伊聲耆]]、[[掖邪狗]]らを送り、奴隷と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将と為した。
*正始6年([[245年]])、皇帝(斉王)は、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜するよう詔した。しかし同年からの濊との戦いに続く韓との戦いにおいて、太守弓遵は戦死しているため、実行されていない。
*正始8年([[247年]])、新太守の[[王頎]]が着任する。女王は載斯烏越を使者として派遣して狗奴国との戦いを報告した。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣したが、この派遣は同年の倭の報告によるものではなく、正始6年の詔によるもの。
*女王位についた壹與(正始8年の派遣の時点で既に女王が壹與である可能性がある)は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
また、『[[日本書紀]]』の「神功紀」は、晋武帝泰初2年([[泰始 (晋)|泰始]]2年([[266年]])の誤り)の『晋起居注』(現存しない)に泰初2年10月、倭の女王が通訳を重ねて貢献したとの記述があるとしている。
現存する『[[晋書]]』武帝紀には、泰始2年11月、倭人が朝貢したという記事があり、四夷伝には泰始の初めに倭人が通訳を重ねて朝貢したともあるので(女王とは書かれていないが)、この女王は壹與と考えられている。<!-- 東夷が壹與であるとする根拠がない。また、日本書紀には壹與の名前はない。日本書紀にない名前である卑弥呼がイコール神功皇后とするのと、ここで日本書紀にない名前である壹與イコール神功皇后とするのとは、ほかの中国典籍を見よという同じ論拠でありながら同じ論拠であるために矛盾する。 -->魏に代って成立した[[西晋|晋]]の皇帝([[司馬炎|武帝]])に朝貢したものと考えられる。
=== 倭人のその後 ===
3世紀半ばの壹與の[[朝貢]]の記録を最後に、[[5世紀]]の[[義熙]]9年([[413年]])の倭王讃の朝貢([[倭の五王]])まで150年近く中国の史書からは倭国に関する記録はなくなる。この間を埋めるものとして[[好太王碑|広開土王碑]]がある、碑には391年に倭が[[百済]]、[[新羅]]を破り、[[高句麗]]の第19代の王である広開土王([[好太王]])と戦ったとある。
== 邪馬台国までの行程と倭国の様子 ==
「魏志倭人伝」によると、倭人は山島に依って国邑とし、遼東郡太守[[公孫康]]が現[[ソウル特別市|ソウル]]付近に設置した[[帯方郡]]を介して朝貢を行い、記述の時点では30箇国が使者を通わせている。
帯方郡から倭に至る行程について、魏志韓伝(『三国志』魏書三十, 烏丸鮮卑東夷伝)は、[[帯方郡]]の南方の[[三韓|韓]]と[[倭]]の位置と境界に関して、
'''''韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接。方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。'''''
''韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽き、南は倭と接する。方四千里ばかり。韓は三つに区分される。一つ目は馬韓、二つ目は辰韓、三つ目は弁韓という。''
と述べ、「韓」は朝鮮半島中部以南の東海岸から西海岸に至る地域を占めるが、南は「倭」と接しているという。
『後漢書』東夷伝(列伝第七十五)は、三韓の位置関係をより具体的に、
'''''馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。'''''
''馬韓は西部に在り、54国を有し、その北は楽浪郡と、南は倭と接する。辰韓は東部に在り、12国を有し、その北は濊貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十二国を有し、その南はまた倭と接する。''
と述べ、「韓」の西部に馬韓、東部の北部に辰韓、南部に弁辰(辰韓)があるとする。馬韓と弁辰が各々その南方で「倭と接する」と述べ、ここでも「韓」は南で「倭」と接しているとしている。後漢[[献帝 (漢)|献帝]][[建安 (漢)|建安]]年間に創設された[[帯方郡]]は、認識されていないと見える。
=== 邪馬台国までの国と行程 ===
官名等には諸説がある。
{{ws|[[s:魏志倭人伝|魏志倭人伝]]}}の原文(中華書局本)の抜粋と、石原道博編訳の「新訂 魏志倭人伝」を踏まえた日本語訳を収録した。「新訂 魏志倭人伝」には当時の倭国各国の推定位置も記されているが、ここでは大部分を省いた。
{| class="wikitable"
! style="width:50%" | 原文 !! style="width:50%" | 日本語訳
|-
| 倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。
| 倭人は帯方(今の韓国ソウル付近)の東南大海の中に住み、山島に依って国邑をつくる。もとは百余国。[[漢]]のときに朝見(参内して天子に拝謁)する者があり、いま使者と通訳を接触させているのは三十国。
|-
| 從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
| 郡(帯方郡)から倭に至るには、海岸に従って水行し、韓国(馬韓)を経て、あるいは南へ、あるいは東へ進み、その(=倭国の)北岸の[[狗邪韓国]](くやかんこく。伽耶・加羅・金海)に到着する。(帯方郡から隔たること)七千余里。
|-
| 始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶㠀、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸。無良田、食海物自活、乗船南北市糴。
| 始めて一海を渡ること千余里で、[[対馬国]]に至る。その大官を卑狗(ひこ。彦か)と言い、副官を卑奴母離(ひなもり。夷守・火守か)と言う。居るところは絶遠の島で、四方は四百余里ばかりか。土地は山が険しく、深林が多く、道路は鳥や鹿の径(みち)のようだ。千余戸ある。良い田はなく、海産物を食べて自活し、船に乗って南北に行き、米を買うなどする。
|-
| 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
| また南に一海を渡ること千余里、瀚海(かんかい。大海・対馬海峡)という名である。[[一大国]](一支・壱岐)に至る。官をまた卑狗と言い、副官を卑奴母離と言う。四方は三百里ばかりか。竹林・叢林が多く、三千あまりの家がある。やや田地があり、田を耕してもなお食べるには足らず、また南北に行き、米を買うなどする。
|-
| 又渡一海千餘里、至末廬國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。
| また一海をわたること千余里で[[末廬国]](まつろこく。松浦付近)に至る。四千余戸ある。山と海の間の海岸に居住する。草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない。好んで魚や[[アワビ]]を捕え、水は深くても浅くても、皆が潜って取る。
|-
| 東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
| 東南に陸行五百里で、[[伊都国]](いとこく・いつこく。糸島付近)に到着する。官を爾支(にき。稲置・県主か)といい、副官を泄謨觚(せもこ。島子・妹子か)・柄渠觚(へくこ。彦子・日桙か)と言う。千余戸ある。世に王がいた、みなは女王国に統属していた。(帯方)郡の使者が往来し、常駐する場所である。
|-
| 東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
| 東南の[[奴国]](なこく・ぬこく。博多付近)まで百里で至る。官を兕馬觚(しまこ。島子か)と言い、副官を卑奴母離と言う。二万余戸ある。{{efn|古代朝鮮の[[高句麗]]は'''那'''、'''奴'''といった地縁的政治集団から成り立っており、[[殉死]]の文化があり、248年まで[[東川王]]がいた。魏が240年代に高句麗を攻撃したときは、引き分けたものの国都は陥落し、王は[[沃沮]](東海・日本海側)に身を隠している。邪馬台国地域の国名にしばしば現われる'''奴'''の文字は、同じように(あるいは高句麗渡来の)地縁部族を示している可能性がある。}}
|-
| 東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
| 東行して[[不弥国]]に(ふみこく・ふやこく)まで百里で至る。官を多模(たま。玉・魂・玉造か)と言い、副官を卑奴母離と言う。千余家ある。
|-
| 南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
| 南へ[[投馬国]]に至る、水行二十日。官を彌彌(みみ。耳・美々か)と言い、副官を彌彌那利(みみなり。耳成・耳垂か)と言う。五万余戸ばかりか。
|-
| 南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。
| 南へ[[邪馬台国]](邪馬壹国)に至る。女王によって都べられる(この都は動詞なので統べるの意味)所である。水行十日・陸行一月。官に伊支馬(いきま)があり、次を弥馬升(みましょう)と言い、次を弥馬獲支(みまかくき)と言い、次を奴佳鞮(なかてい)と言う。七万余戸ばかりか。
|}
=== その他の国々 ===
女王国の以北にある、[[狗邪韓国]]、[[対馬国]]、[[一支国]]、[[末ら国|末盧国]]、[[伊都国]]、[[奴国]]、[[不弥国]]と[[投馬国]]、[[邪馬台国]]の他に、遠くに在って国名だけしか分からない国として[[斯馬国]]、[[己百支国]]、[[伊邪国]]、[[都支国]]、[[彌奴国]]、 [[好古都国]]、[[不呼国]]、[[姐奴国]]、[[對蘇国]]、[[蘇奴国]]、 [[呼邑国]]、[[華奴蘇奴国]]、[[鬼国]]、[[爲吾国]]、[[鬼奴国]]、 [[邪馬国]]、[[躬臣国]]、[[巴利国]]、[[支惟国]]、[[烏奴国]]、[[奴国]]が記録されている。また、南の[[狗奴国]]の男王[[卑弥弓呼]]とは不和との記録もある。
奴国は2回記されているが同一の国とする説と別の国とする説がある。
==== 国々の読み方の一例 ====
John R. bentleyは、後漢中国語の再建に基づき、以下の読み方を提案している。<ref>John R. Bentley『The Search for the Language of Yamatai』2008 https://www.researchgate.net/publication/272826563_The_Search_for_the_Language_of_Yamatai_Japanese_Language_and_Literature_421_pp_1-43</ref>
{| class="wikitable"
|+
!記載
!読み
|-
|對馬國
|*təsVma tusVma
|-
|一支國
|*ike
|-
|末盧國
|*matrɔ
|-
|伊都國
|*itɔ
|-
|奴國
|*nɔ
|-
|不彌國
|*pume
|-
|投馬國
|*toma
|-
|邪馬臺國
|*jamatə
|-
|斯馬國
|*sema
|-
|己百支國
|*kɨpake
|-
|伊邪國
|*ija
|-
|都支國
|*tɔke
|-
|彌奴國
|*menɔ
|-
|好古都國
|*hokɔtɔ
|-
|不呼國
|*puhɔ
|-
|姐奴國
|*sanɔ
|-
|對蘇國
|*təsɔ *tusɔ
|-
|蘇奴國
|*sɔnɔ
|-
|呼邑國
|*hɔipV
|-
|華奴蘇奴國
|*wanɔsɔnɔ
|-
|鬼國
|*kui
|-
|爲吾國
|*waiŋgɔ
|-
|鬼奴國
|*kuinɔ
|-
|邪馬國
|*jama
|-
|躬臣國
|*kuŋginV
|-
|巴利國
|*pari
|-
|支惟國
|*kewi
|-
|烏奴國
|*ɔnɔ
|-
|奴國
|*nɔ
|-
|狗奴國
|*konɔ
|}
{{ws|[[s:魏志倭人伝|魏志倭人伝]]}}の原文の抜粋と、石原道博編訳の「新訂 魏志倭人伝」を踏まえた日本語訳を収録した。「新訂 魏志倭人伝」には当時の倭国各国の推定位置も記されているが、ここでは大部分を省いた。
{| class="wikitable"
! style="width:50%" | 原文 !! style="width:50%" | 日本語訳
|-
| 自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。 此女王境界所盡。
| 女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが、それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない。次に斯馬国があり、次に己百支国があり、次に伊邪国があり、次に都支国があり、次に弥奴国があり、次に好古都国があり、次に不呼国があり、次に姐奴国があり、次に対蘇国があり、次に蘇奴国があり、次に呼邑国があり、次に華奴蘇奴国があり、次に鬼国があり、次に為吾国があり、次に鬼奴国があり、次に邪馬国があり、次に躬臣国があり、次に巴利国があり、次に支惟国があり、次に烏奴国があり、次に奴国(重出、また□奴国の誤脱か)がある。これが女王の境界の尽きるところである。
|-
| 其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王。
| その南に狗奴国があり、男を王とする。その官に[[狗古智卑狗]]がある。女王に属さない。
|}
=== 帯方郡から女王国(邪馬台国)までの里数 ===
{| class="wikitable"
|-
| 自郡至女王國、萬二千餘里。
| 帯方郡から女王国までは一万二千里。
|}
=== 倭国の様子 ===
{{ws|[[s:魏志倭人伝|魏志倭人伝]]}}の原文の抜粋と、石原道博編訳の「新訂 魏志倭人伝」を踏まえた日本語訳を収録した。訳文は一部修正してあります。
{| class="wikitable"
! style="width:50%" | 原文 !! style="width:50%" | 日本語訳
|-
| 男子無大小、皆黥面文身。
| 男子はどんな大小、みな顔や体に入墨をする。
|-
| 自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。
| 古代からこのかた、その使者が中国に訪問すると、みな自ら大夫(卿の下、士の上の位)と称する。
|-
| 夏后少康之子、封於會稽、斷髪文身、以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。
| 夏后[[少康]](夏第六代中興の主)の子が、會稽(浙江紹興)に封ぜられ、髪を断ち体に入墨をして、蛟竜(みずちとたつ)の害を避ける。いま倭の水人は、好んで潜って魚やはまぐりを捕らえ、体に入墨をして、大魚や水鳥の危害をはらう。後に入墨は飾りとなる。
|-
| 諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。
| 諸国の入墨は各々異なり、あるいは左に、あるいは右に、あるいは大きく、あるいは小さく、身分の上下によって差がある。
|-
| 計其道里、當在會稽東治之東。
| その道里を計ってみると、ちょうど會稽の東治(江蘇省紹興市)の東にあたる。
|-
| 其風俗不淫。男子皆露紒、以木緜頭。其衣橫幅、但結束相連、略無縫。婦人被髪屈紒、作衣如單被、穿其中央、[[貫頭衣]]之。
| その風俗は淫らではない。男子は皆髷を露わにし、[[木綿 (ゆう)]]の布を頭に掛けている。その衣服は横幅の広い布を結び束ねているだけであり、ほとんど縫いつけていない。婦人は、髪は結髪のたぐいで、衣服は単衣(一重)のように作られ、その中央に孔を明け、頭を突っ込んで着ている。
|-
| 種禾稻・紵麻、蠶桑緝績、出細紵・縑・緜。
| 稲・いちび・紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育て、糸を紡いで、織物を作る。
|-
| 其地無牛馬虎豹羊鵲。
| その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。
|-
| 兵用矛・楯・木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與儋耳・朱崖同。
| 兵器には、[[矛]]・[[盾]]・[[弓 (武器)|木弓]]を用いる。木弓は下を短く、上を長くし、竹の矢は、あるいは鉄の鏃(やじり)、あるいは骨の鏃である。風俗・習慣・産物等は儋耳(廣東儋県)・朱崖(廣東けい山県)と同じある。
|-
| 倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。
| 倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みな、裸足である。
|-
| 有屋室、父母兄弟臥息異處。以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。
| 家屋があり、父母兄弟は寝たり休んだりする場所を異にする。朱丹を身体に塗っており、中国で粉を用いるようなものだ。飲食では高坏(たかつき)を用い、手で食べる。
|-
| 其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘曰。當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、擧家詣水中澡浴、以如練沐。
| 人が死ぬと、棺はあるが槨(そとばこ)は無く、土で封じて塚をつくる。死してから十日余りもがり(喪)し、その期間は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他の人々は歌舞・飲酒する。埋葬が終わると、一家をあげて水中に入り、体を清める。これは練沐のようである。
|-
| 其行來渡海詣中國、恒使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人。名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。
| 倭の者が中国に詣るのに海を渡るときは、いつも一人の男子に、頭を櫛けずらず、[[シラミ|虱]]が湧いても取らず、衣服は垢で汚れ、肉は食べず、婦人を近づけず、喪人のようにさせる。これを[[持衰]](じさい)と名付ける。もし行く者が𠮷善であれば、生口や財物を与えるが。もし病気になり、災難にあえば、これを殺そうとする。その持衰が不謹慎だったからというのである。
|-
| 出真珠・青玉。其山有丹、其木有柟・杼・櫲樟・楺・櫪・投橿・烏號・楓香、其竹篠・簳・桃支。有薑・橘・椒・蘘荷、不知以爲滋味。有獼猴・黒雉。
| 真珠や青玉が産出される。山には丹(あかつち)がある。木には柟(だん。クス)、杼(ちょ。トチ)、櫲樟(よしょう。クスノキ)・楺(ぼう。ボケ)・櫪(れき。クヌギ)・投橿(とうきょう。カシ)・烏号(うごう。ヤマグワ)・楓香(ふうこう。オカツラ)がある。竹には篠(じょう)・簳(かん。ヤタケ)・桃支(とうし。カヅラダケ)がある。薑(きょう。ショウガ)・橘(きつ。タチバナ)・椒(しょう。サンショウ)・蘘荷(じょうか。ミョウガ)があるが、それで味の良い滋養になるものをつくることを知らない。猿、黒雉がいる。
|-
| 其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶。先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆。
| その習俗は、事業を始めるときや、往来などのときは、骨を灼いて卜し、吉凶を占い、まず卜するところを告げる。その辞は令亀の法のように、焼けて出来る裂け目を見て、兆(しるし)を占う。
|-
| 其會同坐起、父子男女無別。人性嗜酒。見大人所敬、但搏手以當跪拝。其人壽考、或百年、或八九十年。
| その会同・起坐には、父子男女の別は無い。人は酒好きである。大人の敬するところを見ると、ただ手を打って、跪拝(膝まづき拝する)の代わりにする。人は長生きで、あるいは百歳、あるいは八十、九十歳。
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| 其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不妒忌。不盗竊、少諍訟。其犯法、輕者没其妻子、重者滅其門戸及宗族。尊卑各有差序、足相臣服。
| 風習では、国の身分の高い者はみな四、五人の妻を持ち、身分の低い者もあるいは二、三人の妻を持つ。婦人は淫せず、やきもちを焼かず、盗みかすめず、訴え事は少ない。その法を犯すと、軽い者はその妻子を没収し、重い者は一家及び宗族を滅ぼす。身分の上下によって、各々差別・順序があり、互いに臣服するに足りる。
|-
| 收租賦、有邸閣。
| 租賦(ねんぐ)を収める邸閣が有った。
|-
| 國國有市、交易有無使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。
| 国々に市があり、貿易を行い、大倭(倭人中の大人)にこれを監督させていた。女王国より北には、特に一大率(いちだいそつ。王の士卒・中軍)を置き、諸国を検察させ、諸国はこれを畏れ憚かっていた。常に伊都国で治めていた。国中(中国)の[[刺史]]のようなものである。
|-
| 王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國。及郡使倭國、皆臨津捜露、傳送文書、賜遣之物詣女王、不得差錯。
| 王が使いを遣わして京都(魏都洛陽)・帯方郡・諸韓国に行ったり、また郡が倭国に使いするときは、みんなが津に臨んで捜露(そうろ。探し表す)し、文書を伝送し賜遺の物を女王に届けるので、差錯(誤る、間違う)することはない。
|-
| 下戸與大人相逢道路、逡巡入草。傳辭說事 或蹲或跪 兩手據地 爲之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾
| 下戸が大人と道路で互いに逢うと、ためらって草に入り、辞を伝え、事を説く場合には、あるいはうずくまり、あるいはひざまづき、両手は地につけ、恭敬の態度を示す。対応の声を噫(あい)と言い、それは、承知の意味である。
|-
| 其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、傳辭出入。居處宮室、樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。
| その国は、もとは男子を以て王となし、留まること七、八十年。倭国が乱れ、互いに攻伐すること歴年、そこで共に一女子を立てて王とした。卑弥呼という名である。鬼道につかえ、よく衆を惑わせる。年は既に長大だが、夫は無く、男弟がおり、補佐して国を治めている。王となってから、朝見する者は少なく、下女千人を自ら侍らせる。ただ男子一人がいて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入する。宮室・楼觀・城柵をおごそかに設け、いつも人がおり、兵器を持って守衛する。
|-
| 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里、又有裸國、黒齒國、復在其東南、船行一年可至。
| 女王国の東、海を渡ること千余里、復、国があり、みな倭種である、又、侏儒(こびと)国が、その南にある、人のたけ三、四尺、女王を去ること四千余里、又、裸国・黒歯国がある、復その東南にある、船で一年がかりで着くことができる。
|-
| 参問倭地、絶在海中洲㠀之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
| 倭の地について問いて集めるに、海中洲島の上に遠く離れて存在し、あるいは絶え、あるいは連なり、一周は五千余里ばかりか。
|}<!-- 墨や朱をぬっているのは男子の全員という文章とは別である。男女の髪型はそう書かれていない。着物は布を結び合わせているとは書かれていない。冬夏がどこにかかるか不明で判別できない原文である。持衰が船の帰りを待つとはどこにも記されていない。褒美の文章を読むと渡海の一行と共であると読み取れる。原文では「欲す」とあり、「~する」とは書いていない。 -->
=== 年表 ===
{{ws|[[s:魏志倭人伝|魏志倭人伝]]}}の原文の抜粋と、石原道博編訳の「新訂 魏志倭人伝」を踏まえた日本語訳を収録した。
{| class="wikitable"
! style="width:50%" | 原文 !! style="width:50%" | 日本語訳
|-
| 景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都
| 景初二年(西暦二百三十八年)六月、倭の女王が大夫難升米等を遣わし、(帯方)郡に詣り、天子に詣り朝献するよう求めた。太守(郡の長官)劉夏は役人を遣わし、京都まで送らせた。
|-
| 其年十二月 詔書報倭女王 曰(中略)
| その年の十二月、詔書で、倭の女王に報じていうには、
(中略)
|-
| 正始元年 太守弓遵遺建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拜假倭王 并齎詔賜金帛 錦 罽 刀 鏡 采物 倭王因使上表答謝詔恩
| 正始元年(西暦二四十年)、太守弓遵は、建中校尉の梯儁らを遺わし、詔書・印綬を奉じて倭国に行き、倭王に拝仮して詔をもたらし、金帛・錦・罽・刀・鏡・采物を賜った。倭王は、使いに因って上表文を奉り、詔恩(天子からの恩典)を答謝した。
|-
| 其四年 倭王復遺使大夫伊聲耆 掖邪狗等八人 上獻生口 倭錦 絳青縑 緜衣 帛布 丹木拊 短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬
| その四年、倭王はまた使者の大夫伊声耆・掖邪狗ら八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑・綿衣・帛布・丹木拊(搏拊)・短弓矢を献上した。掖邪狗らは率善中郎将の印綬を拝受した。
|-
| 其六年 詔賜倭難升米黃幢 付郡假授
| その六年、詔して、倭の難升米に黃幢を賜い、郡に付して仮に授けた。
|-
| 其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹
| その八年、太守王頎が官にやってきた。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼(彦尊か)と旧より不和である。倭の載斯烏越らを遣わして郡に行き、互いに攻擊する状態を説明した。塞曹掾史張政らを遣わして、詔書・黃幢を齎し、難升米に仮に授けて、檄(ふれぶみ)を作り、これを告喻(告げ諭す)した。
卑弥呼の死によって大いに塚が作られた。[[径]]は百余[[歩]]、殉死した奴婢は百余人。さらに男王を立てたが、国中が服さない。互いに誅殺し合い、当時千余人を殺した。また卑弥呼の宗女の壱与という歳十三の者を立てて王とすると、国中がついに平定した。政(張政)らは檄を以て壱与を告諭した。壱与は倭の大夫の善中郎将掖邪狗ら二十人を遣わし、政(張政)らが還るのを送らせた。よって台(魏都洛陽の中央官庁)に行き、男女生口三十人を献上し、白珠を五千孔、青大勾珠を二枚、異文雑錦を二十匹、貢いだ。
|}
倭および魏の使いを年代順に西暦で書くと、238年倭使、240年魏使、243年倭使、247年倭使・魏使・倭使となる。238年12月の文は詔が出された記事で、実際に届けられたのは240年である。同様に245年の難升米に黃幢を賜える記事も、この年に詔が出され、実際に届けられたのは247年であることに注意。またよく誤解されるが、247年に魏使が倭に来たのは245年の詔のせいであり、247年の倭使の訴えがあったためではない(ただし檄などはこれによるものであろう)。
== 邪馬台国論争 ==
「魏志倭人伝」に書かれた里数や日数を、不用意に適用すると、[[日本列島]]を越えて[[太平洋]]上になるため{{Sfn|岡本|1995|p=89}}、邪馬台国の位置や道程の比定は決定的な説が見いだされていない。位置の比定について有力なものに「畿内説」と「九州説」がある。道程の比定について有力なものに「連続説」と「放射説」がある([[邪馬台国#位置に関する論争]]を参照)。
== 「魏志倭人伝」と『後漢書』倭伝との関係 ==
[[范曄]]の『[[後漢書]]』「東夷伝」に、倭についての記述がある。
その内容は「魏志倭人伝」と共通点があるが、『後漢書』倭伝には「魏志倭人伝」には年代が特定されていない「桓霊間倭國大亂」等の記事もある。
== 「魏志倭人伝」と『隋書』倭国伝との関係 ==
『[[隋書倭国伝]]』では、『倭國(隋書は倭を“俀”につくる。倭国に訂正)』について、『倭国は百済・新羅の東南にあり。水陸'''三千里'''、大海の中において山島に依って居る。』・『その国境は東西五月行、'''南北三月行'''にして、各々海に至る。』・『[[邪靡堆]]([[北史倭国伝|北史]]には邪摩堆とある。靡は摩の誤りであろう)に都す、則ち「魏志」のいわゆる邪馬台なる者なり。古より(北史では“又”)いう、「楽浪郡境および帯方郡を去ること並びに'''一万二千里'''にして、会稽の東にあり、儋耳と相近し」と。』<ref >『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1) [[石原道博]]編訳 [[岩波文庫]]』P65</ref>とあり、[[倭国]]([[邪馬台国]]と[[大和朝廷]])の連続性を認めているとする見解がある。『[[隋書]]』は『魏略』『魏志』『後漢書』と『宋書』『梁書』とを参考にしながら、総合的に記述されている<ref >『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1) 石原道博編訳 [[岩波文庫]]』P31</ref>とのこと。
<br />
==脚注==
;注釈
{{notelist}}
;出典
{{Reflist|refs=
<ref name="渡邉2012pii">{{Harv|渡邉|2012|p=ii}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=岡本健一|authorlink=岡本健一 (考古学者)|date=1995-07|title=邪馬台国論争|series=講談社選書メチエ 52|publisher=講談社|isbn=4-06-258052-7|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000195012|ref={{Harvid|岡本|1995}}}}
*{{Cite book|和書|author=陳寿|authorlink=陳寿|others=[[裴松之]] 注、[[今鷹真]]・[[小南一郎]] 訳|date=1993-03|title=正史 三国志 4 魏書4|series=[[ちくま学芸文庫]]|publisher=筑摩書房|isbn=4-480-08044-9|url=http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480080448/|ref={{Harvid|陳|裴|1993}}}}
*{{Cite book|和書|author=藤堂明保|authorlink=藤堂明保|coauthors=[[竹田晃]]・[[影山輝國]]|date=2010-09|title=倭国伝 中国正史に描かれた日本|series=講談社学術文庫 2010|publisher=講談社|isbn=978-4-06-292010-0|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211490|ref={{Harvid|藤堂|竹田|影山|2010}}}}
*{{Cite book|和書|author=西尾幹二|authorlink=西尾幹二|editor=新しい歴史教科書をつくる会|editor-link=新しい歴史教科書をつくる会|date=1999-10|title=国民の歴史|publisher=産経新聞ニュースサービス(出版) 扶桑社(発売)|isbn=4-594-02781-4|ref={{Harvid|西尾|1999}}}}
**{{Cite book|和書|author=西尾幹二|authorlink=西尾幹二|date=2009-10|title=国民の歴史(上) 決定版|series=文春文庫|publisher=文藝春秋|isbn=978-4-16-750703-9|url=http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784167507039|ref={{Harvid|西尾|2009a}}}}
**{{Cite book|和書|author=西尾幹二|authorlink=西尾幹二|date=2009-10|title=国民の歴史(下) 決定版|series=文春文庫 |publisher=文藝春秋|isbn=978-4-16-750704-6|url=http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784167507046|ref={{Harvid|西尾|2009b}}}}
*{{Cite journal|和書|author=古田武彦|year=1969|month=9|title=邪馬壱国|journal=史学雑誌|volume=78|issue=9|pages=45-83|publisher=山川出版社|issn=0018-2478|ref={{Harvid|古田|1969}}}}
*{{Cite book|和書|author=古田武彦|authorlink=古田武彦|date=1971-11|title=「邪馬台国」はなかった 解読された倭人伝の謎|publisher=朝日新聞社|ncid=BN0237357X|ref={{Harvid|古田|1971}}}} {{main|「邪馬台国」はなかった}}
*{{Cite book|和書|author=松本清張|authorlink=松本清張|year=1968|title=古代史疑|publisher=中央公論社|asin=B000JA64RY|ref={{Harvid|松本|1968}}}}
**{{Cite book|和書|author=松本清張|authorlink=松本清張|date=1974-03|title=松本清張全集 33(古代史疑・古代探求)|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-509330-0|url=http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784165093305|ref={{Harvid|松本|1974a}}}}
**{{Cite book|和書|author=松本清張|authorlink=松本清張|year=1974|title=古代史疑|series=中公文庫|publisher=中央公論社|isbn=4-12-000357-4|ref={{Harvid|松本|1974b}}}}
*{{Cite book|和書|author=吉村武彦|authorlink=吉村武彦|date=2010-11|title=ヤマト王権 シリーズ 日本古代史②|series=岩波新書(新赤版)1272 |publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-431272-7|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/43/8/4312720.html|ref={{Harvid|吉村|2010}}}}
*{{Cite book|和書|others=[[和田清]]・[[石原道博]] 共編訳|date=1951-11|title=魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝|series=岩波文庫|publisher=岩波書店|asin=B000JBE2JU|ref={{Harvid|和田|石原|1951}}}}注記:附録に原文・参考原文・参考文献あり。
**{{Cite book|和書|others=[[石原道博]] 編訳|date=1985-05|title=魏志倭人伝・後漢書倭伝・ 宋書倭国伝・隋書倭国伝――中国正史日本伝1|edition=新訂|series=岩波文庫|publisher=岩波書店|isbn=4-00-334011-6|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/6/3340110.html|ref={{Harvid|石原|1985}}}}{{Harvtxt|和田|石原|1951}}の改訳版。
*{{Cite book|和書|author=渡邉義浩|authorlink=渡邉義浩|date=2012-05|title=魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国|series=中公新書 2164|publisher=中央公論新社|isbn=978-4-12-102164-9|url=http://www.chuko.co.jp/shinsho/2012/05/102164.html|ref={{Harvid|渡邉|2012}}}}
== 関連文献 ==
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== 関連項目 ==
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{{wikisource|魏志倭人伝|魏志倭人伝}}
*[[一支国]]
*[[伊都国]]
*[[台与]]
*[[黒歯国]]
*[[対馬国]]
*[[奴国]]
*[[卑弥呼]]
*[[末盧国]]
*[[邪馬台国]]
*[[九州王朝説]]
*[[「邪馬台国」はなかった]]
*[[倭国大乱]]
*[[倭・倭人関連の中国文献]]
*[[倭・倭人関連の朝鮮文献]]
== 外部リンク ==
*{{Kotobank|魏志倭人伝|2=世界大百科事典 第2版}}
*{{青空文庫|001477|50926|その他|魏志倭人伝}}
*[http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/index.html 弥生ミュージアム]
*[https://web.archive.org/web/20160817020531/http://kodai.sakura.ne.jp/ 日本建国史]
*[https://web.archive.org/web/20060208190652/http://www.geocities.jp/mikichan_ehime/_geo_contents_/yamat.html 松前邪馬臺国論]
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2,448 | 卑弥呼 | 卑弥呼(ひみこ/ひめこ、170年頃 - 248年)は、『魏志倭人伝』等の古代中国の史書に記されている「倭国の女王」と称された人物。魏志倭人伝によると、倭人の国は多くの男王が統治していた小国に分かれていたが、2世紀後半に小国同士が抗争したために倭人の国は大いに乱れた。そのため、卑弥呼を擁立した連合国家的組織をつくり安定した。「卑弥呼は鬼道に仕え、よく大衆を惑わし、その姿を見せなかった。生涯夫をもたず、政治は弟の補佐によって行なわれた」と記されている。諱も不明で、239年に三国時代の魏から与えられた封号は親魏倭王。247年に邪馬台国が南に位置する狗奴国と交戦した際には、魏が詔書と黄幢を贈り励ましている。古代の日本で記述された「古事記」「日本書紀」に卑弥呼は登場しないため、日本国内では別の名前で呼ばれていたとされる。
「魏志倭人伝」によると卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王之所都)、鬼道で衆を惑わしていたという(事鬼道、能惑衆)。また、卑弥呼は邪馬台国の王というのは間違いという説がある。魏志倭人伝で「輒灼骨而卜、以占吉凶」(骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う)とあるように卜術をよく行う巫女(シャーマン)であり、儒教の反迷信(鬼神信仰)的視点から「鬼道」と記された可能性が高い。
本人は人前に姿を現さず、弟だけにしか姿を見せなかった。
福岡県糸島市の平原遺跡から八咫の鏡と同じ直径の大型内行花文鏡5枚を始め大量の玉類や装身具が出土していることから原田大六は被葬者は太陽神を崇める巫女であったとしたが、魏志倭人伝における伊都国の重要な役割から、卑弥呼は伊都国に繋がる系統の巫女であった可能性がある。
既に年長大であり、夫はいない(年已長大、無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來、少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食の給仕や伝言を伝えるなどするとともに、彼女のもとに出入りをしていた(唯有男子一人、給飲食、傳辭出入)。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(居處宮室・樓觀、城柵嚴設)。
卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当し、約90m)の範囲に多数の塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人)。
『三國志』(三国志)の卷四 魏書四 三少帝紀第四には、正始四年に「冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」とある。
以下の3つの中華正史にも記事はあるが、いずれも倭国の歴史をふりかえるという文脈での記述であり、史料としての価値はない。
『三国志』魏書東夷伝、『後漢書』の通称倭伝(『後漢書』東夷傳)、『隋書』の通称倭国伝(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國)、『梁書』諸夷伝では「卑彌呼」、『三国史記』新羅本紀では「卑彌乎」、『三国志』魏書 帝紀では「俾彌呼」と表記されている。
一説には、差別意識ゆえ魏の史官が他国の地名、人名に蔑字を使って表記したため、この様な表記となっている。なお、同じく倭人に関する記録であった「面土国」や「壱与」などそのように当たらないケースもあるため、表記に使われる文字の意味の良し悪しは規則ではなく単純に史官個人の思想差によるものだったかもしれない。
また、他の一説には古代日本語を聞いた当時の者が、それに最も近い自国語の発音を当てた為に、また(中国から見て)単に外来語であることを表す目印として先頭の文字を特別なものとしているというものがある。これは現代日本語でのカタカナの使用や英語での固有名詞の表記、ドイツ語での名詞の表記に似た方法である。
現代日本語では一般に「ひみこ」と呼称されているが、当時の正確な発音は不明である。
など諸説あるが、その多くが太陽信仰との関連した名前であるとする。
一方、中国語発音を考慮する(呼にコという発音はない)と、当時の中国が異民族の音を記す時、「呼」は「wo」をあらわす例があり(匈奴語の記述例など)、卑弥呼は「ピミウォ」だったのではないかとする説もある。
また、中国史書に登場する倭の王の名がいづれも「呼」で終わることから、呉音による発音で、「卑」はヒ、「弥(彌)」の作り「爾」はニ、「呼」は作りの「乎」(三国史記では乎を用いている)はヲと発音することから、「卑弥呼」は「ヒニヲ」と読み、転訛を考慮し、「ヒノオオ」「火の王」であるという新説もある。
台湾人の学者によると古音では「ピェッ ミアー ハッ」であるという。
寺沢薫は卑弥呼が「夫婿なし」として、夫をもたなかったことは神聖性を保持するためだけではなく、女王の夫と子供が王位継承に関わることを回避するためであり、裏を返せばこの時代に部族的国家王たちの間で子に王位を世襲させる継承がすでにあった可能性を指摘している。 また同氏は弥生時代の北部九州のオウ族や王族の墓を分析した経験から、それまでの部族的国家であれば、弟は本来、男系王統の王位につくべき人物で、姉の卑弥呼は弟の王権を保証する国家的祭祀を執り行う女性最高祭司(祭主)だったのではないかと述べている。またこの姉と弟はある部族的国家の王統の生まれであるとした。
魏志倭人伝では、卑弥呼の死の前後に関し以下の様に記述されている。
この記述は、247年(正始8年)に邪馬台国からの使いが狗奴国との紛争を報告したことに発する一連の記述である。卑弥呼の死については年の記載はなく、その後も年の記載がないまま、1年に起こったとは考えにくい量の記述があるため、複数年にわたる記述である可能性が高いが、卑弥呼の死が247年か248年か(あるいはさらに後か)については説が分かれている。また247年(正始8年)の記述は、240年(正始元年)に梯儁が来てから以降の倭の出来事を伝えたものとすれば、卑弥呼の死も240年から246年ごろに起きた可能性が高い。
「以死」の訓読についても諸説ある。通説では、「以」に深い意味はないとするか、「死スルヲ以テ」つまり「死んだので」墓が造られた、あるいは、「スデニ死ス」と読み、直前に書かれている「拜假難升米 爲檄告諭之」(難升米が詔書・黄幢を受け取り檄で告諭した)の時点で卑弥呼はすでに死んでいた、と解釈する。この場合、死因は不明である。一方、「ヨッテ死ス」つまり「だから死んだ」と読んだ場合、この前に書かれている、卑弥弓呼との不和、狗奴国との紛争もしくは難升米の告諭が死の原因ということになる。そのため、狗奴国の男子王の卑弥弓呼に卑弥呼は殺されたと考える説もある。
天文学者の斎藤国治は、248年9月5日朝(日本時間。世界時では9月4日)に北部九州で皆既日食が起こったことを求め、これが卑弥呼の死に関係すると唱えた。さらに、橘高章と安本美典は、247年3月24日夕方にも北部九州で皆既日食が起こったことを指摘し、247年の日食が原因で魔力が衰えたと卑弥呼が殺され、248年の日食が原因で男王に代わり壹与が即位したと唱えた。これらの説は、邪馬台国北九州説や卑弥呼・天照大神説と密接に結びついている(ただし不可分ではない)。
しかし、現在の正確な計算によると皆既日食は日本付近において、247年の日食が朝鮮半島南岸から対馬付近まで、248年の日食が隠岐付近より能登半島から福島へ抜ける地域で観測されたと考えられ、いずれの日食も邪馬台国の主要な比定地である九州本島や畿内の全域で(欠ける率は大きいが)部分日食であり、部分日食は必ずしも希な現象ではないことから、日食と卑弥呼の死の関連性は疑問視されている。
琉球研究の泰斗・鳥越憲法三郎氏は卑弥呼と男弟の統治形態を見て卑弥呼の統治形態を琉球国の聞耳大君と琉球国王のような祭政二重主権の統治形態であると判断した。これを見た漢人がその独特な統治形態を理解できずに「女王国」だと報告したのだという。
寺沢薫氏も弥生時代の北部九州のオウ族や王族の墓を分析した経験から、それまでの部族的国家であれば、弟は本来、男系王統の王位につくべき人物で、姉の卑弥呼は弟の王権を保証する国家的祭祀を執り行う女性最高祭司(祭主)だったのではないかと述べている。
卑弥呼の墓がどこにあるのかについては様々な説がある。そして、まだ謎に包まれている。
卑弥呼は径百余歩の墓に葬られたとする。一歩の単位については、周代では約1.35メートル、秦・漢代では約1.38メートル、魏代では約1.44メートルと言われ(長里)、墓の径は約144メートルとなる。一方倭人伝の旅程記事などから倭韓地方では長里とは別の単位(短里)を使用していると考えられ、短里説の支持者は一歩を0.3メートル、墓の径は30メートル前後とする。なお、短里説「周髀算経・一寸千里法の一里(=約77m)」の支持者の中には、一歩については「周尺」を基準とした尺貫法の一歩(約1.2m)を採用している者もいる(かつて、帯方郡のあった朝鮮では、周の伝統が受け継がれていたと考える)。
「径」という表現から一応円墳とされるが、弥生時代の築造から楕円墳や方墳である可能性もある。なお、卑弥呼がヤマト王権の女王であるとする近畿説によって前方後円墳をその冢と見る説もあるが、「径」の表記から異論が多い。
「大作冢」の大は作に掛かるので「大に作る」と訳され、大に作るとは大きな冢を作るではなく多数の冢の意味であるので、「徑百余歩 徇葬者奴婢百余人」は径百余歩の範囲に殉葬者や奴婢が百余人、つまり卑弥呼の死によって多くの殉葬者が出て径百余歩の範囲に100人分ぐらいの冢が作られたと読み、「卑弥呼以死 大作冢 徑百余歩 徇葬者奴婢百余人」の記述は卑弥呼の墳墓に付いての記述ではなく、卑弥呼の死によって引き起こされた事の記述であるとの意見もある。この場合「卑弥呼は既に死んでいたので、径100歩余りの範囲に徇葬者の奴婢が100人余りと多くの冢が作られた。」と訳される。
卑弥呼の死んだ時期は西暦247年であり、一般に弥生時代の終末期、あるいは弥生時代から古墳時代への移行期とされる。日本書紀による近畿ヤマト王権の年代観では、崇神天皇治世の少し前となる。
魏志では殉葬者は「奴婢百餘人」と記述されており、卑弥呼の墓は、古墳に埴輪が導入される以前だったと考えられる。『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰(のみのすくね)が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したとあり、これを埴輪の起源とするためである。ただし森将軍塚古墳など墳丘に埴輪棺を埋葬した例が有り、殉葬の可能性も指摘されている。また主体部については「有棺無槨」とされており、槨の無い石棺・木棺または甕棺墓と考えられる。
邪馬台国が畿内にあるとすれば卑弥呼の墓は初期古墳の可能性があり、箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)に比定する説がある。四国説では徳島市国府町にある八倉比売神社を、九州説では平原遺跡の王墓(弥生墳丘墓) や九州最大・最古級の石塚山古墳、福岡県久留米市の祇園山古墳(弥生墳丘墓)などを卑弥呼の墓とする説がある。
邪馬台国畿内説の奈良県桜井市の箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説がある。箸墓古墳の後円部は約150メートルの巨大な前方後円墳であり、魏志倭人伝の規模「100歩=約140メートル」とほぼ一致する。全長は漢尺200歩で造られ、築造年代は3世紀第3四半期頃であるとの説がある。
また、箸墓古墳と同代もしくは先行して造営されたとされるホケノ山古墳は、有槨の木棺であることが倭人伝の記述と矛盾し、また発掘調査を行った橿原考古学研究所による2008年(平成20年)の発掘調査報告書では、出土遺物の検討から築造年代を3世紀中頃であると結論しつつ、木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告しているため、年代特定を疑問視する意見もある。
九州にある石塚山古墳 については、築造時期が3世紀中頃(古墳時代開始時期)〜4世紀初頭と一致するが、前方後円墳で長は120メートル〜130メートル前後と規模と形状が魏志倭人伝の記載と異なる(但し、周尺で換算した場合は百余歩は120メートル前後となる)。ヤマト皇権の象徴である前方後円墳(国内でも最古級)で九州にある一方、吉備地方に起源をもつ特殊土器類(特殊器台・特殊壺)や埴輪は確認されていないという特徴を持つ。九州にありながら130メートル超の出現期古墳は珍しい。墳頂周囲には中型の丹塗りの複合口縁壺形土器、甕形土器などが祭祀用として樹立していたと推定されている。高坏型・甕形土器は極めて在地的と評価されている。周濠は確認されていない。竪穴式石室であり、副葬品(玉、鏡、剣など)がある。出土鏡はすべて舶載鏡(中国鏡)と考えられており、他には素環頭大刀、銅鏃、細線式獣帯鏡片、琥珀製勾玉、碧玉製管玉、小札革綴冑片、鉄鏃なども出土している。
平原遺跡については古墳時代以前、弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓がある遺跡である。1号墓は副葬品の多くが勾玉や管玉、耳璫(耳飾り)などの装身具であり、武器類が少ないため、この墓に埋葬された人物は女性であると考えられている。 直径46.5センチメートル、円周が46.5×3.14 = 146.01センチメートル「大型内行花文鏡」が出土しているが、原田大六はヤマト王権の三種の神器の一つ「八咫鏡」と同じ大きさ・形状であることから、その起源であると主張している。咫(あた)は円周の単位で約0.8尺である。径1尺の円の円周を4咫としていたので「八咫鏡は直径2尺(約46センチメートル前後)の円鏡というこになる。『御鎮座伝記』では「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」と記載されており大型内行花文鏡と一致する。ただし墳墓の規模は魏志倭人伝の記載より小さく、また周囲には多人数の殉葬の墳墓が見つかっていない。
祇園山古墳は築造時期が3世紀中期と考えられ、一辺が23メートル-24メートル、基台を含めれば更に大きな方墳で形状や規模が一致し、石棺はあるが槨が無いこと、石棺に朱が塗られていること、周囲に数十名分の集団墓があること(宝賀寿男はこれを殉葬墓と推定している)、周囲の甕棺から後漢鏡片や大型勾玉などの豪華な装身具が出土していること、G1墓からは鉄製の武器や農機具が出土していること、などが魏志倭人伝の記載と良く一致する。しかし石室の副葬品が盗掘のため殆どが失われており、わずかに高良大社に出土品と伝えられる三角縁神獣鏡(33方格獣文帯 鈕座「天王日月日月」)があるのみである。
卑弥呼を宇那比姫命とする説で、六代孝安天皇は宇那比姫命の義理の弟である。したがって『魏志倭人伝』が「男弟有て佐(たすけ)て国を治」とする男弟を孝安天皇とする。
孝安天皇の宮は、室秋津嶋宮(むろのあきつしまみや)とされる。伝承地は奈良県御所市室(ごせしむろ)で、ここが卑弥呼の王宮であるとする。この秋津嶋宮伝承地の北東約1kmに、玉手山という山がある。ここは孝安天皇が葬られたとする山でもある。そこにお椀を伏せたような尾根があり、中心には墳丘が存在する。尾根は自然の尾根であるが、尾根全体を墓域とすれば、まさに径百余歩の円墳である。これを卑弥呼の墓とする説。
卑弥呼が『古事記』や『日本書紀』に書かれているヤマト王権の誰にあたるかが、江戸時代から議論されているが、そもそもヤマト王権の誰かであるという確証もなく、別の王朝だった可能性もある。また一方、北史(隋書)における「倭國」についての記述で、“居(都)於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也”「都は邪靡堆にあるが、魏志に則れば、いわゆる邪馬臺者である。」とあり、基本的には連続性のあるヤマト王権の誰かであるだろうとして『日本書紀』の編纂時から推定がなされている。卑弥呼が共立されたのは後漢書から西暦146年~189年の末頃で、卑弥呼の死去年は魏志倭人伝などから西暦247~248年頃と推定されているので、卑弥呼の倭国統治時期は2世紀の終わり頃から3世紀前半の60年ほどの期間である。
中華の史書に残るほどの人物であれば、日本でも特別の存在として記憶に残るはずで、日本の史書でこれに匹敵する人物は天照大神(アマテラスオオミカミ)しかないとする説。白鳥庫吉、和辻哲郎らに始まる。この場合、台与は天忍穂耳尊の后、万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)とするのが普通であるが、異説もあり、石原洋三郎の説では山幸彦の后豊玉姫とする。
卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命=天照大神の説もある。しかし『日本書紀』の「神功皇后紀」においては、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用しており、卑弥呼と神功皇后が同時代の人物と記述している(実際は誤り)。また百済の王は古尓王(234 - 286)、その子の責稽王(生年未詳 - 298年)などの部分はほぼ日本書紀の記述どおりである。また卑弥呼が魏の国に対して軍の派遣を要請した行為は国家反逆罪に問われるものであり、そのために日本書紀では詳細が記述されなかったと考える説も存在する。
アマテラスの別名は「大日孁貴」(オオヒルメノムチ)であり、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で、「日の女」となる。意味は太陽に仕える巫女のことであり、卑弥呼(陽巫女)と符合するとする。
卑弥呼の没したとされる近辺に、247年3月24日と248年9月5日の2回、北部九州で皆既日食がおきた可能性があることが天文学上の計算より明らかになっており(大和でも日食は観測されたが北九州ほどはっきりとは見られなかったとされる)、記紀神話に見る天岩戸にアマテラスが隠れたという記事(岩戸隠れ)に相当するのではないかという見解もある。ただし、過去の日食を算定した従来の天文学的計算が正しい答えを導いていたかについては近年異論も提出されている。
安本美典は、天皇の平均在位年数などから推定すると、卑弥呼が生きていた時代とアマテラスが生きていた時代が重なるという。また卑弥呼には弟がおり人々に託宣を伝える役を担っていたが、アマテラスにも弟スサノオがおり共通点が見出せるとしている(一方スサノオをアマテラスとの確執から、邪馬台国と敵対していた狗奴国王に比定する説もある)。ただし安本の計算する平均在位年数は生物学的に無理があるほど短く、計算にあたって引用した数値の選択にも疑問があり、また多くの古代氏族に伝わる系図の世代数を無視したものとの指摘がある。
魏志倭人伝には卑弥呼が死去した後、男王が立ったが治まらず、壹與が女王になってようやく治まったとある。この卑弥呼の後継者である壹與(臺與)はアマテラスの息子アメノオシホミミの妃となったヨロヅハタトヨアキツシヒメ(万幡豊秋津師比売)に比定できるとする。つまり卑弥呼の死後男子の王(息子か?)が即位したが治まらず、その妃が中継ぎとして即位したと考えられる。これは後のヤマト王権で女性が即位する時と同じ状況である。ちなみにヨロヅハタトヨアキツシヒメは伊勢神宮の内宮の三神の一柱であり(もう一柱はアマテラス)、単なる息子の妃では考えられない程の高位の神である。
安本美典は、卑弥呼がアマテラスだとすれば、邪馬台国は天(『日本書紀』)または高天原(『古事記』)ということになり、九州にあった邪馬台国が後に畿内へ移動してヤマト王権になったとする(邪馬台国東遷説)。それを伝えたのが記紀の神武東征であるとしている。
また、卑弥呼と天照大御神の登場の境遇が類似しているという説もある。卑弥呼は倭国大乱という激しい争いの後、共立されて女王となったが、一方で、天照大御神も国産みをしたイザナギ・イザナミの激しい争いの後、イザナギの「禊払え」により、高天原の支配者として登場する。『日本書紀』の本文ではイザナギ・イザナミの協力によって、日の神「大日孁貴」が誕生している。 魏志では、邪馬台国の支配地域は、『女王國以北』・『周旋可五千餘里』と記述されており、短里説で換算した場合、概ね、九州北部地域が支配地域と考えられる。そのため、「熊襲・出雲国」は支配地域外と考えられ、卑弥呼の時代背景としては天岩戸以前の時代背景となり、卑弥呼は天照大御神と人間関係が類似する(弟がおり、嫁がず)。新唐書や宋史においても、天照大御神は筑紫城(九州)に居ると記述されている。
能登比咩神社の主祭神、能登比咩(のとひめ)を卑弥呼とする説。能登比咩は社伝によると大己貴命、少彦名命と同時期の神である。能坂利雄がその著『北陸古代王朝の謎』で唱えた説。(台与が誰かについては不明)
『海部氏勘注系図』、『先代旧事本紀』尾張氏系譜に記される、彦火明六世孫、宇那比姫命(うなびひめ)を卑弥呼とする説。この人物は別名を大倭姫(おおやまとひめ)、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大海孁姫命(おおあまひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)ともある。この日女命を卑弥呼と音訳したとする。またこの説では、卑弥呼の後に王位に就いたとされる台与(とよ)を、系図の中で、宇那比姫命の二世代後に記される、天豊姫(あまとよひめ)とする。両系図の伝承を重んずる限り、宇那比姫はほぼ孝安天皇と同世代の人であり、孝安天皇は天足彦国押人命の実弟で、宇那比媛と孝安天皇は義理の姉弟という関係である。このことから魏志倭人伝に出てくる「卑弥呼の男弟」を孝安天皇のことだと解釈することもできる。
孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)は、『日本書紀』の倭迹迹日百襲姫命または倭迹迹姫命、『古事記』の夜麻登登母母曾毘賣命。この説の場合、台与は崇神天皇皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめみのこと)に比定される。
『日本書紀』により倭迹迹日百襲媛命の墓として築造したと伝えられる箸墓古墳は、邪馬台国の都の有力候補地である纏向遺跡の中にある。同時代の他の古墳に比較して規模が隔絶しており、また日本各地に類似した古墳が存在し、出土遺物として埴輪の祖形と考えられる吉備系の土器が見出せるなど、以後の古墳の標準になったと考えられる重要な古墳である。当古墳の築造により古墳時代が開始されたとする向きが多い。
この箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160メートルであり、「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」と言う記述に一致している。
『日本書紀』には、倭迹迹日百襲媛命についての三輪山の神との神婚伝説や、前記の箸墓が「日也人作、夜也神作(日中は人がつくり、夜は神がつくった)」という説話が記述されており、神秘的な存在として意識されている。また日本書紀では、倭迹迹日百襲媛命は崇神天皇に神意を伝える巫女の役割を果たしたとしており、これも「魏志倭人伝」中の「倭の女王に男弟有り、佐(助)けて国を治む」(有男弟佐治國)という、卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命と男弟=崇神天皇との関係に類似する。もっとも、倭迹迹日百襲媛命は崇神天皇の親戚にあたるが、姉ではない。そこで、『魏志倭人伝』は崇神天皇と百襲媛命との関係を間違って記述したのだという説(西川寿勝などが提唱)が存在する。さらに魏志倭人伝の「卑彌呼以て死す。(中略)徇葬する者、奴婢百余人。」と、日本書紀の「百襲」という表記の間になんらかの関連性を指摘する向きもある。
従来、上記の箸墓古墳の築造年代は古墳分類からは3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼の時代とは合わないとされてきた。しかし最近、年輪年代学や放射性炭素年代測定による科学的年代推定を反映して、古墳時代の開始年代が従来より早められた。箸墓古墳の築造年代についても、研究者により多少の前後はあるものの卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が最近では一般的になっている。
日本書紀によれば、倭迹迹日百襲媛命が亡くなった後、崇神天皇は群臣に「今は反いていた者たちはことごとく服した。畿内には何もない。ただ畿外の暴れ者たちだけが騒ぎを止めない。四道の将軍たちは今すぐ出発せよ」という詔を発し、四道将軍に各地方の敵を平定させており、国中に争いが起きたことは卑弥呼の死後に起こったという戦乱を思わせる。記紀は律令国家時代の編纂なので、初期の天皇も中華式の王朝として描き、天皇より上の権威を認めなかったが、上述のように箸墓古墳を倭迹迹日百襲媛命の墓だと仮定したら、崇神天皇陵より巨大であって、当時は天皇よりも権威をもっていた可能性が高い。
現在では畿内説論者でも、卑弥呼を具体的に記紀の登場人物にあてはめようとする説は多くないが、記紀の登場人物にあてはめる場合には倭迹迹日百襲媛命とされることがもっとも多い。
文献的にこの説の有利な点は、『古事記』の崩年干支から崇神天皇崩御の戊寅年については258年とみる説が少なくなく、この場合、卑弥呼は記紀でいう崇神天皇と同時代となるということが挙げられる。
熊襲梟帥が景行天皇の時代だとすると「男王」は在位期間が短かったので、卑弥呼は早くても垂仁天皇、遅くても景行天皇の頃となる。(台与については不明)
戦前の代表的な東洋史学者である内藤湖南は垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)を卑弥呼に比定した。この説の支持者には橘良平、坂田隆などがいるが、倭迹迹日百襲媛命説と比べると支持者は極めて少ない。垂仁天皇の皇女なので世代的には景行天皇の時代の人物ということになる。(台与については不明)
『日本国号考』の中で新井白石が邪馬台女王国を筑後国山門郡に比定したのを承けて、星野悟は、邪馬台連合国の女王卑弥呼は山門(ヤマト)を本拠とする土蜘蛛(土着の豪族)女王田油津媛(たぶらつひめ)の先々代女王にあたるとした。『日本書紀』によると田油津媛は仲哀天皇・神功皇后による西暦366年頃の九州遠征の際に成敗されたという。福岡県みやま市の老松神社には、田油津媛を葬ったとされる蜘蛛塚とよばれる古墳が残されている。若井敏明の説でも同じく田油津媛は邪馬台国(九州女王国)の最後の女王であり、神功皇后(畿内ヤマト政権)によって田油津媛が誅殺されたというのがすなわち「邪馬台国の滅亡」であるとする。(台与については不明)
『日本書紀』では田油津媛を土蜘蛛だというのみで熊襲とはしておらず、後述の熊襲の女酋説とは区別される。中国史料では卑弥呼の死去年は西暦247~8年頃である。
九州王朝説を唱えた古田武彦は、『筑後風土記逸文』に記されている筑紫君(筑紫国造)の祖「甕依姫」(みかよりひめ)が「卑弥呼(ひみか)」のことである可能性が高いと主張している。また「壹與(ゐよ)」(「臺與」)は、中国風の名「(倭)與」を名乗った最初の倭王であると主張しているが、それに該当する人物は日本側史料に登場してはいない(つまり台与については不明ということである)。久米邦武もまた甕依姫に触れてはいないが『住吉社は委奴の祖神』の中で卑弥呼を筑紫国造とした。『先代旧事本紀』国造本紀によれば筑紫国造は成務天皇の時、孝元天皇皇子大彦命の5世孫、田道命が任命されたという。甕依姫は筑紫君の祖とあるものの逸文の文面上ではすでに筑紫君氏は存在していることになっているので田道命からあまり遡った祖先とは考えられず、甕依姫はどんなに古くても田道命の妻か娘(もしくはせいぜい母親ぐらい)と思われる。仮に甕依姫を田道命の娘と同世代だとすると仲哀天皇や神功皇后の時代に相当する。(田道命の妻と同世代だとすると成務天皇と同時代)
『日本書紀』の「神功皇后紀」においては、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用しており、卑弥呼と神功皇后が同時代の人物と記述している。実際に神功皇后は200年に夫である仲哀天皇を失ってからは60年以上ずっと独身である。さらに弟もいた。また倭国大乱に当たる熊襲の戦いがあり、この戦いの最中に仲哀天皇は崩御した。一説によるとこれは熊襲との戦いでの矢の傷が元であるという。さらには日本書紀で出てくる百済の王の古尓王(234 - 286)も日本書記が示す時期とややずれがあるものの合致している。これを否定する説が井上光貞ほか一部から指摘されている。日本書紀の神功皇后の百済関係の枕流王(在位:384年 - 385年)の記述の部分が卑弥呼よりも120年(干支2回り)あとの時代のものであるためにそのような主張がなされている。しかし百済の王は古尓王(234 - 286)、その子の責稽王(生年未詳 - 298年)などの部分はほぼ日本書紀の記述どおりであり、子孫の枕流王の部分は切り離して考えるべきだとする説もある。さらに肖古王と近肖古王の名前は似ていて神功皇后元年の干支も201年と321年は同じものなので日本書紀の編纂者が誤って近肖古王とその後の系図を当ててしまった可能性も大いにある。実際に日本書紀でも出てくる百済の王の名前は肖古王である。故にいきなりここで120年の時代誤差が生まれたと考えられる。 また古事記では応神天皇の時に照古王が肖古王として貢物を献上する。現在でも、倭迹迹日百襲媛命説ほどではないがそれに次いで支持者が多い。また九州説論者でも神功皇后説を採る論者が何名もいる。またこの説の場合、九州各地に伝説の残る与止姫が神功皇后の妹虚空津比売と同一という伝承もあることから、この人物を台与に同定する(古田史学の会の代表の古賀達也も台与を「壱与」とするが同じ説であり「与止姫」のことだとしている)。
本居宣長、鶴峰戊申らが唱えた説。本居宣長、鶴峰戊申の説は卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」である。本居宣長は邪馬台国を畿内大和、卑弥呼を神功皇后に比定した上で、神功皇后を偽称するもう一人の卑弥呼がいたとした。ニセの卑弥呼は九州南部にいた熊襲の女酋長であって、勝手に本物の卑弥呼(=神功皇后)の使いと偽って魏と通交したとした。また、宣長は『日本書紀』の「神代巻」に見える火之戸幡姫児千々姫命(ヒノトバタヒメコチヂヒメノミコト)、あるいは萬幡姫児玉依姫命(ヨロツハタヒメコタマヨリヒメノミコト)等の例から、貴人の女性を姫児(ヒメコ)と呼称することがあり、神功皇后も同じように葛城高額姫児気長足姫(カヅラキタカヌカヒメコオキナガタラシヒメ)すなわち姫児(ヒメコ)と呼ばれたのではないかと憶測している。那珂通世も卑弥呼は鹿児島県姫木にいた熊襲の女酋であり朝廷や神功皇后とは無関係とする。神功皇后の実在を前提とした上で、その名を騙ったのだから、卑弥呼に該当する熊襲の女酋は当然神功皇后の同時代人として想定されている。(台与については不明)
安藤輝国はその著『邪馬台国と豊王国』の中で卑弥呼は応神天皇の一族であると唱えた。また、鳥越憲三郎はその著『古事記は偽書か』の中で物部氏の一族であると唱えた。この両説の、両方の条件に該当する者を系譜から探すと
の3人の候補が見つかる。この3人は応神天皇の皇女である。また3人の生母は記紀では和邇氏の娘ということになっているが『先代旧事本紀』によると物部氏の娘となっている。これら3人の女性より下の世代で名前の一部にイヨまたはトヨがつく女性は飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)がいる。 | [
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"text": "卑弥呼(ひみこ/ひめこ、170年頃 - 248年)は、『魏志倭人伝』等の古代中国の史書に記されている「倭国の女王」と称された人物。魏志倭人伝によると、倭人の国は多くの男王が統治していた小国に分かれていたが、2世紀後半に小国同士が抗争したために倭人の国は大いに乱れた。そのため、卑弥呼を擁立した連合国家的組織をつくり安定した。「卑弥呼は鬼道に仕え、よく大衆を惑わし、その姿を見せなかった。生涯夫をもたず、政治は弟の補佐によって行なわれた」と記されている。諱も不明で、239年に三国時代の魏から与えられた封号は親魏倭王。247年に邪馬台国が南に位置する狗奴国と交戦した際には、魏が詔書と黄幢を贈り励ましている。古代の日本で記述された「古事記」「日本書紀」に卑弥呼は登場しないため、日本国内では別の名前で呼ばれていたとされる。",
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"text": "「魏志倭人伝」によると卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王之所都)、鬼道で衆を惑わしていたという(事鬼道、能惑衆)。また、卑弥呼は邪馬台国の王というのは間違いという説がある。魏志倭人伝で「輒灼骨而卜、以占吉凶」(骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う)とあるように卜術をよく行う巫女(シャーマン)であり、儒教の反迷信(鬼神信仰)的視点から「鬼道」と記された可能性が高い。",
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"text": "本人は人前に姿を現さず、弟だけにしか姿を見せなかった。",
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"text": "福岡県糸島市の平原遺跡から八咫の鏡と同じ直径の大型内行花文鏡5枚を始め大量の玉類や装身具が出土していることから原田大六は被葬者は太陽神を崇める巫女であったとしたが、魏志倭人伝における伊都国の重要な役割から、卑弥呼は伊都国に繋がる系統の巫女であった可能性がある。",
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"text": "既に年長大であり、夫はいない(年已長大、無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來、少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食の給仕や伝言を伝えるなどするとともに、彼女のもとに出入りをしていた(唯有男子一人、給飲食、傳辭出入)。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(居處宮室・樓觀、城柵嚴設)。",
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"text": "卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当し、約90m)の範囲に多数の塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人)。",
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"text": "『三國志』(三国志)の卷四 魏書四 三少帝紀第四には、正始四年に「冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」とある。",
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"text": "以下の3つの中華正史にも記事はあるが、いずれも倭国の歴史をふりかえるという文脈での記述であり、史料としての価値はない。",
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"text": "『三国志』魏書東夷伝、『後漢書』の通称倭伝(『後漢書』東夷傳)、『隋書』の通称倭国伝(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國)、『梁書』諸夷伝では「卑彌呼」、『三国史記』新羅本紀では「卑彌乎」、『三国志』魏書 帝紀では「俾彌呼」と表記されている。",
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"text": "一説には、差別意識ゆえ魏の史官が他国の地名、人名に蔑字を使って表記したため、この様な表記となっている。なお、同じく倭人に関する記録であった「面土国」や「壱与」などそのように当たらないケースもあるため、表記に使われる文字の意味の良し悪しは規則ではなく単純に史官個人の思想差によるものだったかもしれない。",
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"text": "また、他の一説には古代日本語を聞いた当時の者が、それに最も近い自国語の発音を当てた為に、また(中国から見て)単に外来語であることを表す目印として先頭の文字を特別なものとしているというものがある。これは現代日本語でのカタカナの使用や英語での固有名詞の表記、ドイツ語での名詞の表記に似た方法である。",
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"text": "現代日本語では一般に「ひみこ」と呼称されているが、当時の正確な発音は不明である。",
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"text": "など諸説あるが、その多くが太陽信仰との関連した名前であるとする。",
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"text": "一方、中国語発音を考慮する(呼にコという発音はない)と、当時の中国が異民族の音を記す時、「呼」は「wo」をあらわす例があり(匈奴語の記述例など)、卑弥呼は「ピミウォ」だったのではないかとする説もある。",
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"text": "また、中国史書に登場する倭の王の名がいづれも「呼」で終わることから、呉音による発音で、「卑」はヒ、「弥(彌)」の作り「爾」はニ、「呼」は作りの「乎」(三国史記では乎を用いている)はヲと発音することから、「卑弥呼」は「ヒニヲ」と読み、転訛を考慮し、「ヒノオオ」「火の王」であるという新説もある。",
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"text": "台湾人の学者によると古音では「ピェッ ミアー ハッ」であるという。",
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"title": "呼び名"
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"text": "寺沢薫は卑弥呼が「夫婿なし」として、夫をもたなかったことは神聖性を保持するためだけではなく、女王の夫と子供が王位継承に関わることを回避するためであり、裏を返せばこの時代に部族的国家王たちの間で子に王位を世襲させる継承がすでにあった可能性を指摘している。 また同氏は弥生時代の北部九州のオウ族や王族の墓を分析した経験から、それまでの部族的国家であれば、弟は本来、男系王統の王位につくべき人物で、姉の卑弥呼は弟の王権を保証する国家的祭祀を執り行う女性最高祭司(祭主)だったのではないかと述べている。またこの姉と弟はある部族的国家の王統の生まれであるとした。",
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"title": "卑弥呼の出自"
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"text": "魏志倭人伝では、卑弥呼の死の前後に関し以下の様に記述されている。",
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"text": "この記述は、247年(正始8年)に邪馬台国からの使いが狗奴国との紛争を報告したことに発する一連の記述である。卑弥呼の死については年の記載はなく、その後も年の記載がないまま、1年に起こったとは考えにくい量の記述があるため、複数年にわたる記述である可能性が高いが、卑弥呼の死が247年か248年か(あるいはさらに後か)については説が分かれている。また247年(正始8年)の記述は、240年(正始元年)に梯儁が来てから以降の倭の出来事を伝えたものとすれば、卑弥呼の死も240年から246年ごろに起きた可能性が高い。",
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"text": "「以死」の訓読についても諸説ある。通説では、「以」に深い意味はないとするか、「死スルヲ以テ」つまり「死んだので」墓が造られた、あるいは、「スデニ死ス」と読み、直前に書かれている「拜假難升米 爲檄告諭之」(難升米が詔書・黄幢を受け取り檄で告諭した)の時点で卑弥呼はすでに死んでいた、と解釈する。この場合、死因は不明である。一方、「ヨッテ死ス」つまり「だから死んだ」と読んだ場合、この前に書かれている、卑弥弓呼との不和、狗奴国との紛争もしくは難升米の告諭が死の原因ということになる。そのため、狗奴国の男子王の卑弥弓呼に卑弥呼は殺されたと考える説もある。",
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"text": "天文学者の斎藤国治は、248年9月5日朝(日本時間。世界時では9月4日)に北部九州で皆既日食が起こったことを求め、これが卑弥呼の死に関係すると唱えた。さらに、橘高章と安本美典は、247年3月24日夕方にも北部九州で皆既日食が起こったことを指摘し、247年の日食が原因で魔力が衰えたと卑弥呼が殺され、248年の日食が原因で男王に代わり壹与が即位したと唱えた。これらの説は、邪馬台国北九州説や卑弥呼・天照大神説と密接に結びついている(ただし不可分ではない)。",
"title": "卑弥呼の死"
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"text": "しかし、現在の正確な計算によると皆既日食は日本付近において、247年の日食が朝鮮半島南岸から対馬付近まで、248年の日食が隠岐付近より能登半島から福島へ抜ける地域で観測されたと考えられ、いずれの日食も邪馬台国の主要な比定地である九州本島や畿内の全域で(欠ける率は大きいが)部分日食であり、部分日食は必ずしも希な現象ではないことから、日食と卑弥呼の死の関連性は疑問視されている。",
"title": "卑弥呼の死"
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"text": "琉球研究の泰斗・鳥越憲法三郎氏は卑弥呼と男弟の統治形態を見て卑弥呼の統治形態を琉球国の聞耳大君と琉球国王のような祭政二重主権の統治形態であると判断した。これを見た漢人がその独特な統治形態を理解できずに「女王国」だと報告したのだという。",
"title": "卑弥呼の統治形態 ―女王の国と祭政二重主権"
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"text": "寺沢薫氏も弥生時代の北部九州のオウ族や王族の墓を分析した経験から、それまでの部族的国家であれば、弟は本来、男系王統の王位につくべき人物で、姉の卑弥呼は弟の王権を保証する国家的祭祀を執り行う女性最高祭司(祭主)だったのではないかと述べている。",
"title": "卑弥呼の統治形態 ―女王の国と祭政二重主権"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "卑弥呼の墓がどこにあるのかについては様々な説がある。そして、まだ謎に包まれている。",
"title": "卑弥呼の墓"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "卑弥呼は径百余歩の墓に葬られたとする。一歩の単位については、周代では約1.35メートル、秦・漢代では約1.38メートル、魏代では約1.44メートルと言われ(長里)、墓の径は約144メートルとなる。一方倭人伝の旅程記事などから倭韓地方では長里とは別の単位(短里)を使用していると考えられ、短里説の支持者は一歩を0.3メートル、墓の径は30メートル前後とする。なお、短里説「周髀算経・一寸千里法の一里(=約77m)」の支持者の中には、一歩については「周尺」を基準とした尺貫法の一歩(約1.2m)を採用している者もいる(かつて、帯方郡のあった朝鮮では、周の伝統が受け継がれていたと考える)。",
"title": "卑弥呼の墓"
},
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "「径」という表現から一応円墳とされるが、弥生時代の築造から楕円墳や方墳である可能性もある。なお、卑弥呼がヤマト王権の女王であるとする近畿説によって前方後円墳をその冢と見る説もあるが、「径」の表記から異論が多い。",
"title": "卑弥呼の墓"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "「大作冢」の大は作に掛かるので「大に作る」と訳され、大に作るとは大きな冢を作るではなく多数の冢の意味であるので、「徑百余歩 徇葬者奴婢百余人」は径百余歩の範囲に殉葬者や奴婢が百余人、つまり卑弥呼の死によって多くの殉葬者が出て径百余歩の範囲に100人分ぐらいの冢が作られたと読み、「卑弥呼以死 大作冢 徑百余歩 徇葬者奴婢百余人」の記述は卑弥呼の墳墓に付いての記述ではなく、卑弥呼の死によって引き起こされた事の記述であるとの意見もある。この場合「卑弥呼は既に死んでいたので、径100歩余りの範囲に徇葬者の奴婢が100人余りと多くの冢が作られた。」と訳される。",
"title": "卑弥呼の墓"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "卑弥呼の死んだ時期は西暦247年であり、一般に弥生時代の終末期、あるいは弥生時代から古墳時代への移行期とされる。日本書紀による近畿ヤマト王権の年代観では、崇神天皇治世の少し前となる。",
"title": "卑弥呼の墓"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "魏志では殉葬者は「奴婢百餘人」と記述されており、卑弥呼の墓は、古墳に埴輪が導入される以前だったと考えられる。『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰(のみのすくね)が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したとあり、これを埴輪の起源とするためである。ただし森将軍塚古墳など墳丘に埴輪棺を埋葬した例が有り、殉葬の可能性も指摘されている。また主体部については「有棺無槨」とされており、槨の無い石棺・木棺または甕棺墓と考えられる。",
"title": "卑弥呼の墓"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "邪馬台国が畿内にあるとすれば卑弥呼の墓は初期古墳の可能性があり、箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)に比定する説がある。四国説では徳島市国府町にある八倉比売神社を、九州説では平原遺跡の王墓(弥生墳丘墓) や九州最大・最古級の石塚山古墳、福岡県久留米市の祇園山古墳(弥生墳丘墓)などを卑弥呼の墓とする説がある。",
"title": "卑弥呼の墓"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "邪馬台国畿内説の奈良県桜井市の箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説がある。箸墓古墳の後円部は約150メートルの巨大な前方後円墳であり、魏志倭人伝の規模「100歩=約140メートル」とほぼ一致する。全長は漢尺200歩で造られ、築造年代は3世紀第3四半期頃であるとの説がある。",
"title": "卑弥呼の墓"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "また、箸墓古墳と同代もしくは先行して造営されたとされるホケノ山古墳は、有槨の木棺であることが倭人伝の記述と矛盾し、また発掘調査を行った橿原考古学研究所による2008年(平成20年)の発掘調査報告書では、出土遺物の検討から築造年代を3世紀中頃であると結論しつつ、木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告しているため、年代特定を疑問視する意見もある。",
"title": "卑弥呼の墓"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "九州にある石塚山古墳 については、築造時期が3世紀中頃(古墳時代開始時期)〜4世紀初頭と一致するが、前方後円墳で長は120メートル〜130メートル前後と規模と形状が魏志倭人伝の記載と異なる(但し、周尺で換算した場合は百余歩は120メートル前後となる)。ヤマト皇権の象徴である前方後円墳(国内でも最古級)で九州にある一方、吉備地方に起源をもつ特殊土器類(特殊器台・特殊壺)や埴輪は確認されていないという特徴を持つ。九州にありながら130メートル超の出現期古墳は珍しい。墳頂周囲には中型の丹塗りの複合口縁壺形土器、甕形土器などが祭祀用として樹立していたと推定されている。高坏型・甕形土器は極めて在地的と評価されている。周濠は確認されていない。竪穴式石室であり、副葬品(玉、鏡、剣など)がある。出土鏡はすべて舶載鏡(中国鏡)と考えられており、他には素環頭大刀、銅鏃、細線式獣帯鏡片、琥珀製勾玉、碧玉製管玉、小札革綴冑片、鉄鏃なども出土している。",
"title": "卑弥呼の墓"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "平原遺跡については古墳時代以前、弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓がある遺跡である。1号墓は副葬品の多くが勾玉や管玉、耳璫(耳飾り)などの装身具であり、武器類が少ないため、この墓に埋葬された人物は女性であると考えられている。 直径46.5センチメートル、円周が46.5×3.14 = 146.01センチメートル「大型内行花文鏡」が出土しているが、原田大六はヤマト王権の三種の神器の一つ「八咫鏡」と同じ大きさ・形状であることから、その起源であると主張している。咫(あた)は円周の単位で約0.8尺である。径1尺の円の円周を4咫としていたので「八咫鏡は直径2尺(約46センチメートル前後)の円鏡というこになる。『御鎮座伝記』では「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」と記載されており大型内行花文鏡と一致する。ただし墳墓の規模は魏志倭人伝の記載より小さく、また周囲には多人数の殉葬の墳墓が見つかっていない。",
"title": "卑弥呼の墓"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "祇園山古墳は築造時期が3世紀中期と考えられ、一辺が23メートル-24メートル、基台を含めれば更に大きな方墳で形状や規模が一致し、石棺はあるが槨が無いこと、石棺に朱が塗られていること、周囲に数十名分の集団墓があること(宝賀寿男はこれを殉葬墓と推定している)、周囲の甕棺から後漢鏡片や大型勾玉などの豪華な装身具が出土していること、G1墓からは鉄製の武器や農機具が出土していること、などが魏志倭人伝の記載と良く一致する。しかし石室の副葬品が盗掘のため殆どが失われており、わずかに高良大社に出土品と伝えられる三角縁神獣鏡(33方格獣文帯 鈕座「天王日月日月」)があるのみである。",
"title": "卑弥呼の墓"
},
{
"paragraph_id": 38,
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"text": "卑弥呼を宇那比姫命とする説で、六代孝安天皇は宇那比姫命の義理の弟である。したがって『魏志倭人伝』が「男弟有て佐(たすけ)て国を治」とする男弟を孝安天皇とする。",
"title": "卑弥呼の墓"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "孝安天皇の宮は、室秋津嶋宮(むろのあきつしまみや)とされる。伝承地は奈良県御所市室(ごせしむろ)で、ここが卑弥呼の王宮であるとする。この秋津嶋宮伝承地の北東約1kmに、玉手山という山がある。ここは孝安天皇が葬られたとする山でもある。そこにお椀を伏せたような尾根があり、中心には墳丘が存在する。尾根は自然の尾根であるが、尾根全体を墓域とすれば、まさに径百余歩の円墳である。これを卑弥呼の墓とする説。",
"title": "卑弥呼の墓"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "卑弥呼が『古事記』や『日本書紀』に書かれているヤマト王権の誰にあたるかが、江戸時代から議論されているが、そもそもヤマト王権の誰かであるという確証もなく、別の王朝だった可能性もある。また一方、北史(隋書)における「倭國」についての記述で、“居(都)於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也”「都は邪靡堆にあるが、魏志に則れば、いわゆる邪馬臺者である。」とあり、基本的には連続性のあるヤマト王権の誰かであるだろうとして『日本書紀』の編纂時から推定がなされている。卑弥呼が共立されたのは後漢書から西暦146年~189年の末頃で、卑弥呼の死去年は魏志倭人伝などから西暦247~248年頃と推定されているので、卑弥呼の倭国統治時期は2世紀の終わり頃から3世紀前半の60年ほどの期間である。",
"title": "人物比定"
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{
"paragraph_id": 41,
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"text": "中華の史書に残るほどの人物であれば、日本でも特別の存在として記憶に残るはずで、日本の史書でこれに匹敵する人物は天照大神(アマテラスオオミカミ)しかないとする説。白鳥庫吉、和辻哲郎らに始まる。この場合、台与は天忍穂耳尊の后、万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)とするのが普通であるが、異説もあり、石原洋三郎の説では山幸彦の后豊玉姫とする。",
"title": "人物比定"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命=天照大神の説もある。しかし『日本書紀』の「神功皇后紀」においては、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用しており、卑弥呼と神功皇后が同時代の人物と記述している(実際は誤り)。また百済の王は古尓王(234 - 286)、その子の責稽王(生年未詳 - 298年)などの部分はほぼ日本書紀の記述どおりである。また卑弥呼が魏の国に対して軍の派遣を要請した行為は国家反逆罪に問われるものであり、そのために日本書紀では詳細が記述されなかったと考える説も存在する。",
"title": "人物比定"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "アマテラスの別名は「大日孁貴」(オオヒルメノムチ)であり、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で、「日の女」となる。意味は太陽に仕える巫女のことであり、卑弥呼(陽巫女)と符合するとする。",
"title": "人物比定"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "卑弥呼の没したとされる近辺に、247年3月24日と248年9月5日の2回、北部九州で皆既日食がおきた可能性があることが天文学上の計算より明らかになっており(大和でも日食は観測されたが北九州ほどはっきりとは見られなかったとされる)、記紀神話に見る天岩戸にアマテラスが隠れたという記事(岩戸隠れ)に相当するのではないかという見解もある。ただし、過去の日食を算定した従来の天文学的計算が正しい答えを導いていたかについては近年異論も提出されている。",
"title": "人物比定"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "安本美典は、天皇の平均在位年数などから推定すると、卑弥呼が生きていた時代とアマテラスが生きていた時代が重なるという。また卑弥呼には弟がおり人々に託宣を伝える役を担っていたが、アマテラスにも弟スサノオがおり共通点が見出せるとしている(一方スサノオをアマテラスとの確執から、邪馬台国と敵対していた狗奴国王に比定する説もある)。ただし安本の計算する平均在位年数は生物学的に無理があるほど短く、計算にあたって引用した数値の選択にも疑問があり、また多くの古代氏族に伝わる系図の世代数を無視したものとの指摘がある。",
"title": "人物比定"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "魏志倭人伝には卑弥呼が死去した後、男王が立ったが治まらず、壹與が女王になってようやく治まったとある。この卑弥呼の後継者である壹與(臺與)はアマテラスの息子アメノオシホミミの妃となったヨロヅハタトヨアキツシヒメ(万幡豊秋津師比売)に比定できるとする。つまり卑弥呼の死後男子の王(息子か?)が即位したが治まらず、その妃が中継ぎとして即位したと考えられる。これは後のヤマト王権で女性が即位する時と同じ状況である。ちなみにヨロヅハタトヨアキツシヒメは伊勢神宮の内宮の三神の一柱であり(もう一柱はアマテラス)、単なる息子の妃では考えられない程の高位の神である。",
"title": "人物比定"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "安本美典は、卑弥呼がアマテラスだとすれば、邪馬台国は天(『日本書紀』)または高天原(『古事記』)ということになり、九州にあった邪馬台国が後に畿内へ移動してヤマト王権になったとする(邪馬台国東遷説)。それを伝えたのが記紀の神武東征であるとしている。",
"title": "人物比定"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "また、卑弥呼と天照大御神の登場の境遇が類似しているという説もある。卑弥呼は倭国大乱という激しい争いの後、共立されて女王となったが、一方で、天照大御神も国産みをしたイザナギ・イザナミの激しい争いの後、イザナギの「禊払え」により、高天原の支配者として登場する。『日本書紀』の本文ではイザナギ・イザナミの協力によって、日の神「大日孁貴」が誕生している。 魏志では、邪馬台国の支配地域は、『女王國以北』・『周旋可五千餘里』と記述されており、短里説で換算した場合、概ね、九州北部地域が支配地域と考えられる。そのため、「熊襲・出雲国」は支配地域外と考えられ、卑弥呼の時代背景としては天岩戸以前の時代背景となり、卑弥呼は天照大御神と人間関係が類似する(弟がおり、嫁がず)。新唐書や宋史においても、天照大御神は筑紫城(九州)に居ると記述されている。",
"title": "人物比定"
},
{
"paragraph_id": 49,
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"text": "能登比咩神社の主祭神、能登比咩(のとひめ)を卑弥呼とする説。能登比咩は社伝によると大己貴命、少彦名命と同時期の神である。能坂利雄がその著『北陸古代王朝の謎』で唱えた説。(台与が誰かについては不明)",
"title": "人物比定"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "『海部氏勘注系図』、『先代旧事本紀』尾張氏系譜に記される、彦火明六世孫、宇那比姫命(うなびひめ)を卑弥呼とする説。この人物は別名を大倭姫(おおやまとひめ)、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大海孁姫命(おおあまひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)ともある。この日女命を卑弥呼と音訳したとする。またこの説では、卑弥呼の後に王位に就いたとされる台与(とよ)を、系図の中で、宇那比姫命の二世代後に記される、天豊姫(あまとよひめ)とする。両系図の伝承を重んずる限り、宇那比姫はほぼ孝安天皇と同世代の人であり、孝安天皇は天足彦国押人命の実弟で、宇那比媛と孝安天皇は義理の姉弟という関係である。このことから魏志倭人伝に出てくる「卑弥呼の男弟」を孝安天皇のことだと解釈することもできる。",
"title": "人物比定"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)は、『日本書紀』の倭迹迹日百襲姫命または倭迹迹姫命、『古事記』の夜麻登登母母曾毘賣命。この説の場合、台与は崇神天皇皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめみのこと)に比定される。",
"title": "人物比定"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "『日本書紀』により倭迹迹日百襲媛命の墓として築造したと伝えられる箸墓古墳は、邪馬台国の都の有力候補地である纏向遺跡の中にある。同時代の他の古墳に比較して規模が隔絶しており、また日本各地に類似した古墳が存在し、出土遺物として埴輪の祖形と考えられる吉備系の土器が見出せるなど、以後の古墳の標準になったと考えられる重要な古墳である。当古墳の築造により古墳時代が開始されたとする向きが多い。",
"title": "人物比定"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "この箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160メートルであり、「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」と言う記述に一致している。",
"title": "人物比定"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "『日本書紀』には、倭迹迹日百襲媛命についての三輪山の神との神婚伝説や、前記の箸墓が「日也人作、夜也神作(日中は人がつくり、夜は神がつくった)」という説話が記述されており、神秘的な存在として意識されている。また日本書紀では、倭迹迹日百襲媛命は崇神天皇に神意を伝える巫女の役割を果たしたとしており、これも「魏志倭人伝」中の「倭の女王に男弟有り、佐(助)けて国を治む」(有男弟佐治國)という、卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命と男弟=崇神天皇との関係に類似する。もっとも、倭迹迹日百襲媛命は崇神天皇の親戚にあたるが、姉ではない。そこで、『魏志倭人伝』は崇神天皇と百襲媛命との関係を間違って記述したのだという説(西川寿勝などが提唱)が存在する。さらに魏志倭人伝の「卑彌呼以て死す。(中略)徇葬する者、奴婢百余人。」と、日本書紀の「百襲」という表記の間になんらかの関連性を指摘する向きもある。",
"title": "人物比定"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "従来、上記の箸墓古墳の築造年代は古墳分類からは3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼の時代とは合わないとされてきた。しかし最近、年輪年代学や放射性炭素年代測定による科学的年代推定を反映して、古墳時代の開始年代が従来より早められた。箸墓古墳の築造年代についても、研究者により多少の前後はあるものの卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が最近では一般的になっている。",
"title": "人物比定"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "日本書紀によれば、倭迹迹日百襲媛命が亡くなった後、崇神天皇は群臣に「今は反いていた者たちはことごとく服した。畿内には何もない。ただ畿外の暴れ者たちだけが騒ぎを止めない。四道の将軍たちは今すぐ出発せよ」という詔を発し、四道将軍に各地方の敵を平定させており、国中に争いが起きたことは卑弥呼の死後に起こったという戦乱を思わせる。記紀は律令国家時代の編纂なので、初期の天皇も中華式の王朝として描き、天皇より上の権威を認めなかったが、上述のように箸墓古墳を倭迹迹日百襲媛命の墓だと仮定したら、崇神天皇陵より巨大であって、当時は天皇よりも権威をもっていた可能性が高い。",
"title": "人物比定"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "現在では畿内説論者でも、卑弥呼を具体的に記紀の登場人物にあてはめようとする説は多くないが、記紀の登場人物にあてはめる場合には倭迹迹日百襲媛命とされることがもっとも多い。",
"title": "人物比定"
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{
"paragraph_id": 58,
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"text": "文献的にこの説の有利な点は、『古事記』の崩年干支から崇神天皇崩御の戊寅年については258年とみる説が少なくなく、この場合、卑弥呼は記紀でいう崇神天皇と同時代となるということが挙げられる。",
"title": "人物比定"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "熊襲梟帥が景行天皇の時代だとすると「男王」は在位期間が短かったので、卑弥呼は早くても垂仁天皇、遅くても景行天皇の頃となる。(台与については不明)",
"title": "人物比定"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "戦前の代表的な東洋史学者である内藤湖南は垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)を卑弥呼に比定した。この説の支持者には橘良平、坂田隆などがいるが、倭迹迹日百襲媛命説と比べると支持者は極めて少ない。垂仁天皇の皇女なので世代的には景行天皇の時代の人物ということになる。(台与については不明)",
"title": "人物比定"
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "『日本国号考』の中で新井白石が邪馬台女王国を筑後国山門郡に比定したのを承けて、星野悟は、邪馬台連合国の女王卑弥呼は山門(ヤマト)を本拠とする土蜘蛛(土着の豪族)女王田油津媛(たぶらつひめ)の先々代女王にあたるとした。『日本書紀』によると田油津媛は仲哀天皇・神功皇后による西暦366年頃の九州遠征の際に成敗されたという。福岡県みやま市の老松神社には、田油津媛を葬ったとされる蜘蛛塚とよばれる古墳が残されている。若井敏明の説でも同じく田油津媛は邪馬台国(九州女王国)の最後の女王であり、神功皇后(畿内ヤマト政権)によって田油津媛が誅殺されたというのがすなわち「邪馬台国の滅亡」であるとする。(台与については不明)",
"title": "人物比定"
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{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "『日本書紀』では田油津媛を土蜘蛛だというのみで熊襲とはしておらず、後述の熊襲の女酋説とは区別される。中国史料では卑弥呼の死去年は西暦247~8年頃である。",
"title": "人物比定"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "九州王朝説を唱えた古田武彦は、『筑後風土記逸文』に記されている筑紫君(筑紫国造)の祖「甕依姫」(みかよりひめ)が「卑弥呼(ひみか)」のことである可能性が高いと主張している。また「壹與(ゐよ)」(「臺與」)は、中国風の名「(倭)與」を名乗った最初の倭王であると主張しているが、それに該当する人物は日本側史料に登場してはいない(つまり台与については不明ということである)。久米邦武もまた甕依姫に触れてはいないが『住吉社は委奴の祖神』の中で卑弥呼を筑紫国造とした。『先代旧事本紀』国造本紀によれば筑紫国造は成務天皇の時、孝元天皇皇子大彦命の5世孫、田道命が任命されたという。甕依姫は筑紫君の祖とあるものの逸文の文面上ではすでに筑紫君氏は存在していることになっているので田道命からあまり遡った祖先とは考えられず、甕依姫はどんなに古くても田道命の妻か娘(もしくはせいぜい母親ぐらい)と思われる。仮に甕依姫を田道命の娘と同世代だとすると仲哀天皇や神功皇后の時代に相当する。(田道命の妻と同世代だとすると成務天皇と同時代)",
"title": "人物比定"
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{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "『日本書紀』の「神功皇后紀」においては、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用しており、卑弥呼と神功皇后が同時代の人物と記述している。実際に神功皇后は200年に夫である仲哀天皇を失ってからは60年以上ずっと独身である。さらに弟もいた。また倭国大乱に当たる熊襲の戦いがあり、この戦いの最中に仲哀天皇は崩御した。一説によるとこれは熊襲との戦いでの矢の傷が元であるという。さらには日本書紀で出てくる百済の王の古尓王(234 - 286)も日本書記が示す時期とややずれがあるものの合致している。これを否定する説が井上光貞ほか一部から指摘されている。日本書紀の神功皇后の百済関係の枕流王(在位:384年 - 385年)の記述の部分が卑弥呼よりも120年(干支2回り)あとの時代のものであるためにそのような主張がなされている。しかし百済の王は古尓王(234 - 286)、その子の責稽王(生年未詳 - 298年)などの部分はほぼ日本書紀の記述どおりであり、子孫の枕流王の部分は切り離して考えるべきだとする説もある。さらに肖古王と近肖古王の名前は似ていて神功皇后元年の干支も201年と321年は同じものなので日本書紀の編纂者が誤って近肖古王とその後の系図を当ててしまった可能性も大いにある。実際に日本書紀でも出てくる百済の王の名前は肖古王である。故にいきなりここで120年の時代誤差が生まれたと考えられる。 また古事記では応神天皇の時に照古王が肖古王として貢物を献上する。現在でも、倭迹迹日百襲媛命説ほどではないがそれに次いで支持者が多い。また九州説論者でも神功皇后説を採る論者が何名もいる。またこの説の場合、九州各地に伝説の残る与止姫が神功皇后の妹虚空津比売と同一という伝承もあることから、この人物を台与に同定する(古田史学の会の代表の古賀達也も台与を「壱与」とするが同じ説であり「与止姫」のことだとしている)。",
"title": "人物比定"
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{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "本居宣長、鶴峰戊申らが唱えた説。本居宣長、鶴峰戊申の説は卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」である。本居宣長は邪馬台国を畿内大和、卑弥呼を神功皇后に比定した上で、神功皇后を偽称するもう一人の卑弥呼がいたとした。ニセの卑弥呼は九州南部にいた熊襲の女酋長であって、勝手に本物の卑弥呼(=神功皇后)の使いと偽って魏と通交したとした。また、宣長は『日本書紀』の「神代巻」に見える火之戸幡姫児千々姫命(ヒノトバタヒメコチヂヒメノミコト)、あるいは萬幡姫児玉依姫命(ヨロツハタヒメコタマヨリヒメノミコト)等の例から、貴人の女性を姫児(ヒメコ)と呼称することがあり、神功皇后も同じように葛城高額姫児気長足姫(カヅラキタカヌカヒメコオキナガタラシヒメ)すなわち姫児(ヒメコ)と呼ばれたのではないかと憶測している。那珂通世も卑弥呼は鹿児島県姫木にいた熊襲の女酋であり朝廷や神功皇后とは無関係とする。神功皇后の実在を前提とした上で、その名を騙ったのだから、卑弥呼に該当する熊襲の女酋は当然神功皇后の同時代人として想定されている。(台与については不明)",
"title": "人物比定"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "安藤輝国はその著『邪馬台国と豊王国』の中で卑弥呼は応神天皇の一族であると唱えた。また、鳥越憲三郎はその著『古事記は偽書か』の中で物部氏の一族であると唱えた。この両説の、両方の条件に該当する者を系譜から探すと",
"title": "人物比定"
},
{
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"text": "の3人の候補が見つかる。この3人は応神天皇の皇女である。また3人の生母は記紀では和邇氏の娘ということになっているが『先代旧事本紀』によると物部氏の娘となっている。これら3人の女性より下の世代で名前の一部にイヨまたはトヨがつく女性は飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)がいる。",
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] | 卑弥呼は、『魏志倭人伝』等の古代中国の史書に記されている「倭国の女王」と称された人物。魏志倭人伝によると、倭人の国は多くの男王が統治していた小国に分かれていたが、2世紀後半に小国同士が抗争したために倭人の国は大いに乱れた。そのため、卑弥呼を擁立した連合国家的組織をつくり安定した。「卑弥呼は鬼道に仕え、よく大衆を惑わし、その姿を見せなかった。生涯夫をもたず、政治は弟の補佐によって行なわれた」と記されている。諱も不明で、239年に三国時代の魏から与えられた封号は親魏倭王。247年に邪馬台国が南に位置する狗奴国と交戦した際には、魏が詔書と黄幢を贈り励ましている。古代の日本で記述された「古事記」「日本書紀」に卑弥呼は登場しないため、日本国内では別の名前で呼ばれていたとされる。 | {{Otheruses}}{{基礎情報 君主
|人名=卑弥呼
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|在位=[[188年]]頃〜[[248年]]
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'''卑弥呼'''(ひみこ/ひめこ、[[170年]]頃 - [[248年]])は、『[[魏志倭人伝]]』等の古代中国の史書に記されている「[[倭国]]の[[女王]]」と称された人物<ref>{{Cite web|和書|title=卑弥呼~むらからくにへ~ {{!}} 歴史にドキリ |url=https://www2.nhk.or.jp/school/watch/outline/?das_id=D0005120256_00000 |website=NHK for School |accessdate=2022-01-15 |language=ja |last=NHK}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【今週の注目記事】古代史の七五三論争 日本国はいつ誕生したか、天皇制につながる卑弥呼の統治 |url=https://www.sankei.com/article/20180324-SNTXE7QUEBP2HBLOQGMCDMNTBI/ |website=産経ニュース |date=2018-03-22 |accessdate=2022-01-15 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。魏志倭人伝によると、倭人の国は多くの男王が統治していた小国に分かれていたが、2世紀後半に[[倭国大乱|小国同士が抗争した]]ために倭人の国は大いに乱れた。そのため、卑弥呼を擁立した連合国家的組織をつくり安定した。「卑弥呼は鬼道に仕え、よく大衆を惑わし、その姿を見せなかった。生涯夫をもたず、政治は弟の補佐によって行なわれた」と記されている<ref>{{Cite web|和書|title=卑弥呼とは |url=https://kotobank.jp/word/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC-120826 |website=コトバンク |accessdate=2022-01-15 |language=ja |first=朝日日本歴史人物事典,日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,デジタル大辞泉,旺文社日本史事典 三訂版,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,日本の企業がわかる事典2014-2015,デジタル大辞泉プラス,防府市歴史用語集,世界大百科事典 |last=第2版,世界大百科事典内言及}}</ref><ref group="注釈">卑弥呼が閉じこもって祭祀のみ行い、実際の政治を男弟に委ねていたとする説に対しては、『[[日本書紀]]』の記述ではワカタケル([[雄略天皇]])も[[呉 (三国)|呉]]からの使者に面会しておらず、また[[稲荷山古墳出土鉄剣]]にも、豪族ヲワケがワカタケルを(男弟が卑弥呼に対したように)「左治」したとあることから、卑弥呼はワカタケルと同質の王であったとの反論がある{{Harv|義江|2018|pp= 92, 98, 100}}。</ref>。[[諱]]も不明で、239年に[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[魏 (三国)|魏]]から与えられた[[封号]]は'''[[親魏倭王]]'''。247年に邪馬台国が南に位置する[[狗奴国]]と交戦した際には、魏が詔書と黄幢を贈り励ましている。古代の日本で記述された「[[古事記]]」「[[日本書紀]]」に卑弥呼は登場しないため、日本国内では別の名前で呼ばれていたとされる<ref>{{Cite web|和書|title=邪馬台国の女王卑弥呼と天皇家の関係・卑弥呼の時代の天皇は誰か |url=https://mayonez.jp/topic/1021377 |website=Mayonez [マヨネーズ] |accessdate=2022-01-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=asahi.com:シンポジウム {{!}} 朝日新聞社インフォメーション |url=http://www.asahi.com/shimbun/sympo/100320/speech03.html |website=www.asahi.com |accessdate=2022-01-15}}</ref>。
== 史書の記述 ==
=== 『三国志』の卑弥呼 ===
==== 「魏志倭人伝」の卑弥呼 ====
[[ファイル:Text_of_the_Wei_Zhi_(魏志),_297.jpg|right|thumb|300px|[[魏志倭人伝]]の原文の抜粋]]
「[[魏志倭人伝]]」によると卑弥呼は[[邪馬台国]]に居住し(女王之所都)、[[鬼道]]で衆を惑わしていたという(事鬼道、能惑衆)。また、卑弥呼は邪馬台国の王というのは間違いという説がある。魏志倭人伝で「輒灼骨而卜、以占吉凶」(骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う)とあるように[[占い|卜術]]をよく行う巫女('''[[シャーマニズム|シャーマン]]''')であり、儒教の反迷信([[鬼神]]信仰)的視点から「鬼道」と記された可能性が高い。
本人は人前に姿を現さず、弟だけにしか姿を見せなかった。
[[福岡県]][[糸島市]]の[[平原遺跡]]から[[八咫の鏡]]と同じ直径の[[大型内行花文鏡]]5枚を始め大量の玉類や装身具が出土していることから[[原田大六]]は被葬者は太陽神を崇める巫女であったとしたが、[[魏志倭人伝]]における[[伊都国]]の重要な役割から、卑弥呼は伊都国に繋がる系統の巫女であった可能性がある。
既に年長大であり、夫はいない(年已長大、無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來、少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食の給仕や伝言を伝えるなどする<ref>小学館 小学生なら知っておきたい もっと 教養366 p136より</ref>とともに、彼女のもとに出入りをしていた(唯有男子一人、給飲食、傳辭出入)。宮室は[[楼観]]や[[城柵]]を厳しく設けていた(居處宮室・樓觀、城柵嚴設)。
卑弥呼が死亡したときには、[[倭人]]は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当し、約90m)の範囲に多数の塚を作り、[[奴婢]]百余人を[[殉葬]]したとされている(卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人)。
==== 「魏書帝紀」の俾弥呼 ====
『[[三国志|三國志]]』(三国志)の卷四 魏書四 三少帝紀第四には、正始四年に「冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」とある。
== 年譜 ==
=== 『後漢書』 ===
* [[建武中元]]二年([[57年]]) - [[奴国|倭奴国]]が金印を授与される。
* [[永初 (漢)|永初]]元年([[107年]]) - 倭国王の[[帥升]]が[[安帝 (漢)|安帝]]に拝謁を願う。
* [[桓帝 (漢)|桓帝]]と[[霊帝 (漢)|霊帝]]の間([[146年]] - [[189年]]) - [[倭国大乱]]。
* 桓帝と霊帝の間(146年 - 189年)の末頃 - 一女子がいて、名を卑弥呼という。成人で独身、鬼神道につかえよく人々を惑わしていた。各国は共同して卑弥呼を立て王と為した。
=== 『三国志』 ===
* [[中平]]五年([[188年]])頃 - 倭国で男性の王の時代が続いた(80年間)が、その後に内乱があり(6年間)、その後で一人の女子を立てて王とした(卑弥呼の即位)。その女子の名を卑弥呼といい既に成人(20代)で夫はいなかった、1,000人の侍女たちを使えさせたという。
* [[景初]]二年([[238年]])12月 - 卑弥呼、初めて[[難升米]]らを[[魏 (三国)|魏]]に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた<ref group=注釈>同三年([[239年]])の誤記とする説が有力</ref>。
* [[正始 (魏)|正始]]元年([[240年]]) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
* 正始四年([[243年]])12月 - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
* 正始六年([[245年]]) - [[難升米]]に黄幢を授与<ref group=注釈>ただし帯方郡に付託した状態でありこの段階では倭国にはまだ届けられてはいなかった。</ref>。
* 正始八年([[247年]]) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、当時、[[卑弥弓呼]](卑彌弓呼、ひみここ、ひみくこ)が治める[[狗奴国]]との戦いを報告した。魏は[[張政 (塞曹掾史)|張政]]を倭に派遣し、[[難升米]]に詔書、黄幢<ref group=注釈>この黄幢は正始六年に帯方郡に付託されていたもの。</ref> を授与。
* 正始八年([[247年]]) - 卑弥呼が死去。
* 正始八年([[247年]])以降 - 男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「[[台与|壹與]](台与、いよ、とよ)」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の[[生口]]30人と[[白珠]]5,000孔、[[青大句珠]]2枚、異文の[[雑錦]]20匹を貢いだ。
=== 『晋書』 ===
* [[泰始 (晋)|泰始]]二年([[266年]]) - 倭の遣使が入貢。[[邪馬台国]]からの最後の入貢。
=== 『三国史記』新羅本紀 ===
* [[173年]] - 倭の女王卑彌乎<ref group="注釈">卑弥呼が即位したのは180年代と推定されるので173年には未だ女王卑弥呼は誕生していないので、この年紀は干支1運60年繰り上がった233年ではないかと考えられる。</ref> が新羅に使者を派遣した<ref>新羅本紀第二阿達羅尼師今二十年夏五月 倭女王卑彌乎遣使来聘</ref>。
* [[193年]] - 倭人が飢えて食を求めて千人も新羅へ押し寄せた<ref group="注釈">192年から194年にかけて、新羅・高句麗・中国で異常気象や飢饉の記録があるので、[[山本武夫]]はこの頃東アジア一帯が小氷期に見舞われていたとして、倭人の飢饉もその一環とする説を唱えている。</ref><ref>新羅本紀第二伐休尼師今十年六月 倭人大饑来求食者千余人</ref>。
* [[208年]] - 倭軍が新羅を攻め、新羅は伊伐飡の昔利音を派遣して防いだ<ref>新羅本紀第二奈解尼師今十三年四月 倭人犯境遣伊伐飡利音将兵拒之</ref>。
* [[232年]] - 倭軍が新羅に侵入し、その王都金城を包囲した。新羅王自ら出陣し、倭軍は逃走した。新羅は軽騎兵を派遣して追撃、倭兵の死体と捕虜は合わせて千人にも及んだ。
* [[287年]] - 倭軍が新羅に攻め入り、一礼部(地名、場所は不明)を襲撃して火攻めにした。倭軍は新羅兵千人を捕虜にした。
=== 『三国史記』于老列伝 ===
* [[233年]] - 倭軍が新羅の東方から攻め入った。新羅の伊飡の[[昔于老]]<ref group=注釈>日本書紀の神功皇后紀に登場する「宇流助富利智干(うるそほりちか)」か。</ref> が沙道(地名)で倭軍と戦った。昔于老は火計をもって倭軍の船を焼いたので倭兵は溺れて全滅した。
* [[249年]] - 倭国使臣が新羅の舒弗邯の昔于老<ref group=注釈>日本書紀の「宇流助富利智干」は神功皇后に降伏した新羅王として出てくるが「一書曰く」で始まる別伝では、日本に殺される新羅王の話があり、これは『三国史記』の于老の話と筋立てが同じであるから同一の史実に基づくと考えられる。</ref> を殺した。
以下の3つの中華正史にも記事はあるが、いずれも倭国の歴史をふりかえるという文脈での記述であり、史料としての価値はない。
=== 『梁書』===
* 光和年間(178年 - [[184年]]) - 倭国の内乱。卑彌呼という一人の女性を共立して王とした。
* 正始年間([[240年]] - [[249年]]) - 卑弥呼死去。
=== 『隋書』===
* [[桓帝 (漢)|桓帝]]と[[霊帝 (漢)|霊帝]]の間([[146年]] - [[189年]]) - [[倭国大乱]]。
* [[189年]]前後か - 卑彌呼という名の女性がおり、鬼道を以てよく大衆を魅惑したが、ここに於いて国人は王に共立した。
=== 『[[北史倭国伝|北史]]』===
* 光和年間(178年 - [[184年]]) - 倭国の内乱。
* [[184年]]前後か? - 卑彌呼という名の女性がおり、よく鬼道を以て衆を惑わすので、国人は王に共立した。
* 正始年間([[240年]] - [[249年]]) - 卑弥呼死去。
== 日本列島における皆既日食 ==
* [[247年]]3月24日日没
* [[248年]]9月5日日出
== 呼び名 ==
『[[三国志]]』[[魏志倭人伝|魏書東夷伝]]、『[[後漢書]]』の通称倭伝(『後漢書』東夷傳)、『[[隋書]]』の通称倭国伝(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國)、『[[梁書]]』諸夷伝では「卑彌呼」、『[[三国史記]]』新羅本紀では「卑彌乎」、『三国志』魏書 帝紀では「俾彌呼」と表記されている。
一説には、差別意識ゆえ魏の史官が他国の地名、人名に[[蔑称|蔑字]]を使って表記したため、この様な表記となっている。なお、同じく倭人に関する記録であった「[[帥升|面土国]]」や「[[台与|壱与]]」などそのように当たらないケースもあるため、表記に使われる文字の意味の良し悪しは規則ではなく単純に史官個人の思想差によるものだったかもしれない。
また、他の一説には古代日本語を聞いた当時の者が、それに最も近い自国語の発音を当てた為に、また(中国から見て)単に外来語であることを表す目印として先頭の文字を特別なものとしているというものがある。これは現代日本語での[[カタカナ]]の使用や[[英語]]での固有名詞の表記、[[ドイツ語]]での名詞の表記に似た方法である。
現代日本語では一般に「ひみこ」と呼称されているが、当時の正確な発音は不明である。
* ひみこ(日巫女、日御子) - 「日巫女」は太陽に仕える巫女の意。「日御子」は太陽神の御子の意。
* ひめこ(日女子、姫子) - [[駒澤大学]]教授の[[三木太郎]]の説。男性の敬称「ヒコ(日子)」に対する女性の敬称。
* ひめこ(比咩子、比売子) - 古事記における音読み表現<ref>古事記</ref>。
* ひめみこ(日女御子、姫御子、女王)<ref>伊藤博文著『皇室典範義解』第三十一条解説は「・・・上古に考うるに皇子は『みこ』と称え、'''皇女は『ひめみこ』と称う'''」と指摘している [http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/tempan_gikai.htm 伊藤博文著『皇室典範義解』現代語訳] 参照</ref><ref>古事記では[[孝霊天皇]]以後「この天皇の御子等あわせて八柱。男王(ひこみこ)五、女王(ひめみこ)三」のように記した例が多く見られる。</ref>
* ひみか・ひむか([[日向国|日向]]) - [[松本清張]]が唱えた、日向(日向国)と関係するとの説。
* ひみか・ひむか([[日向峠|日向]]) - [[原田大六]]、[[古田武彦]]が唱えた、糸島の平原遺跡と福岡の奴の国を結ぶ[[日向峠]]に由来するとの説。
* ひみか(日甕) - [[古田武彦]]が唱えた、筑後[[風土記]]に登場する女性・[[甕依姫]]に該当するという説。聖なる甕という意。
* ぴやこ、みやこ(宮居) - 1937年に藤井尚治が「国史異論奇説新学説考」の中で唱えた説。中国の学者が、「宮居」を人名と誤解したとし<ref name="kisetsu"/>、卑弥弓呼は「ミヤツコ(宮仕)」に、卑狗が「ミコ(皇子)」になるとする<ref name="kisetsu">[https://books.google.co.jp/books?id=t0CnJ8S9iUMC&pg=frontcover 国史異論奇説新学説考] 藤井尚治 1937年</ref>。
* ひむか・ぴむか - [[長田夏樹]]『新稿 邪馬台国の言語 ―弥生語復元―』[[学生社]] 2010年。3世紀の[[洛陽音]]の復元による。
など諸説あるが、その多くが太陽信仰との関連した名前であるとする。
一方、中国語発音を考慮する(呼にコという発音はない)と、当時の中国が異民族の音を記す時、「呼」は「wo」をあらわす例があり([[匈奴]]語の記述例など)、卑弥呼は「ピミウォ」だったのではないかとする説もある。
また、中国史書に登場する倭の王の名がいづれも「呼」で終わることから、呉音による発音で、「卑」はヒ、「弥(彌)」の作り「爾」はニ、「呼」は作りの「乎」(三国史記では乎を用いている)はヲと発音することから、「卑弥呼」は「ヒニヲ」と読み、転訛を考慮し、「ヒノオオ」「火の王」であるという新説もある。
台湾人の学者によると古音では「ピェッ ミアー ハッ」であるという。
== 卑弥呼の出自==
[[寺沢薫]]は卑弥呼が「夫婿なし」として、夫をもたなかったことは神聖性を保持するためだけではなく、女王の夫と子供が王位継承に関わることを回避するためであり、裏を返せばこの時代に部族的国家王たちの間で子に王位を世襲させる継承がすでにあった可能性を指摘している<ref>「卑弥呼とヤマト王権」中央公論新社 342頁</ref>。
また同氏は[[弥生時代]]の北部九州のオウ族や王族の墓を分析した経験から、それまでの部族的国家であれば、弟は本来、[[男系]][[王統]]の王位につくべき人物で、姉の卑弥呼は弟の[[王権]]を保証する国家的[[祭祀]]を執り行う女性最高[[祭司]]([[祭主]])だったのではないかと述べている。またこの姉と弟はある部族的国家の王統の生まれであるとした<ref>「卑弥呼とヤマト王権」 中央公論新書 2023‐3‐10 272頁</ref>。
== 卑弥呼の死 ==
[[魏志倭人伝]]では、卑弥呼の死の前後に関し以下の様に記述されている。
{{Quotation|倭女王卑弥呼与狗奴国王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢 拝仮難升米為檄告諭之 '''卑弥呼以死''' 大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴婢百餘人}}
{{Cquote|倭の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみくこ) とは平素から不仲であった。それゆえ倭国は載斯烏越(さしあえ) らを帯方郡に派遣して狗奴国との戦闘状況を報告させた。これに対し(魏の朝廷は) 塞曹掾史の張政らを派遣した。邪馬台国に赴いた張政らは証書と黄幢を難升米(なしめ)に授け、檄文を作って諭した。'''卑弥呼が死んだので'''大いに冢を作った、径は100余歩である、殉葬された奴婢は100余人である。}}
この記述は、[[247年]](正始8年)に邪馬台国からの使いが[[狗奴国]]との紛争を報告したことに発する一連の記述である。卑弥呼の死については年の記載はなく、その後も年の記載がないまま、1年に起こったとは考えにくい量の記述があるため、複数年にわたる記述である可能性が高いが、卑弥呼の死が247年か[[248年]]か(あるいはさらに後か)については説が分かれている。また247年(正始8年)の記述は、[[240年]](正始元年)に梯儁が来てから以降の倭の出来事を伝えたものとすれば、卑弥呼の死も240年から[[246年]]ごろに起きた可能性が高い。
===「以死」について===
「以死」の[[訓読]]についても諸説ある。通説では、「以」に深い意味はないとするか、「死スルヲ以テ」つまり「死んだので」墓が造られた、あるいは、「スデニ死ス」と読み、直前に書かれている「拜假難升米 爲檄告諭之」(難升米が詔書・黄幢を受け取り檄で告諭した)の時点で卑弥呼はすでに死んでいた、と解釈する。この場合、死因は不明である。一方、「ヨッテ死ス」つまり「だから死んだ」と読んだ場合、この前に書かれている、[[卑弥弓呼]]との不和、[[狗奴国]]との紛争もしくは[[難升米]]の告諭が死の原因ということになる。そのため、[[狗奴国]]の男子王の[[卑弥弓呼]]に卑弥呼は殺されたと考える説もある。
また[[南宋]]の[[鄭樵]]が編纂した『[[通志]]』の「四夷伝(194巻)」において、現行の通行本魏志倭人伝に「卑弥呼以死」とある箇所が、「卑弥呼已死」と表記されていることが判明した <ref> [[iarchive:06059276.cn|浙江大学オンライン図書館、リンク先150ページ]](『[[通志]]』·一百九十四巻 [[鄭樵]])、(邪馬台国新聞16号「文献上における卑弥呼死亡時期の確定~通志の倭人伝解釈~」[[岡上佑]])</ref>。これは現行倭人伝の成立前後の[[類書]]の編者である鄭樵が、倭人伝本文を「正始八年時点で卑弥呼がすでに死んでいた」と解釈していたことの直接的な証左である。
=== 卑弥呼の死と皆既日食について ===
[[天文学者]]の[[斎藤国治]]は、[[248年]][[9月5日]]朝(日本時間。世界時では[[9月4日]])に[[北部九州]]で[[皆既日食]]が起こったことを求め、これが卑弥呼の死に関係すると唱えた。さらに、[[橘高章]]と[[安本美典]]は、[[247年]][[3月24日]]夕方にも北部九州で皆既日食が起こったことを指摘し、247年の日食が原因で魔力が衰えたと卑弥呼が殺され、248年の日食が原因で男王に代わり[[台与|壹与]]が即位したと唱えた。これらの説は、邪馬台国北九州説や卑弥呼・天照大神説と密接に結びついている(ただし不可分ではない)。
しかし、現在の正確な計算によると皆既日食は日本付近において、247年の日食が朝鮮半島南岸から対馬付近まで、248年の日食が隠岐付近より能登半島から福島へ抜ける地域で観測されたと考えられ、いずれの日食も邪馬台国の主要な比定地である九州本島や畿内の全域で(欠ける率は大きいが)部分日食であり<ref>[http://eclipse.gsfc.nasa.gov/SEatlas/SEatlas1/SEatlas0241.GIF NASAによる241~260年の皆既・金冠日食]。一般の天文シミュレータでも確認可能。</ref>、部分日食は必ずしも希な現象ではないことから、日食と卑弥呼の死の関連性は疑問視されている。
== 卑弥呼の統治形態 ―女王の国と祭政二重主権 ==
琉球研究の泰斗・[[鳥越憲三郎|鳥越憲三郎]]氏は卑弥呼と男弟の統治形態を見て卑弥呼の統治形態を[[琉球国]]の[[聞得大君|聞耳大君]]と[[琉球国王]]のような[[祭政二重主権]]の統治形態であると判断した。これを見た漢人がその独特な統治形態を理解できずに「女王国」だと報告したのだという<ref>「倭人・倭国伝全釈」 角川ソフィア文庫 令和2年7月25日 270‐271頁</ref>。
[[寺沢薫]]氏も[[弥生時代]]の北部九州のオウ族や王族の墓を分析した経験から、それまでの部族的国家であれば、弟は本来、[[男系]][[王統]]の王位につくべき人物で、姉の卑弥呼は弟の[[王権]]を保証する国家的[[祭祀]]を執り行う女性最高[[祭司]]([[祭主]])だったのではないかと述べている<ref>「卑弥呼とヤマト王権」 中央公論新書 2023‐3‐10 272頁</ref>。
== 卑弥呼の墓 ==
卑弥呼の墓がどこにあるのかについては様々な説がある。そして、まだ謎に包まれている。
=== 規模と形状 ===
卑弥呼は径百余歩の墓に葬られたとする。一[[歩 (尺貫法)|歩]]の単位については、周代では約1.35メートル、秦・漢代では約1.38メートル、魏代では約1.44メートルと言われ(長里)、墓の径は約144メートルとなる。一方倭人伝の旅程記事などから倭韓地方では長里とは別の単位(短里)を使用していると考えられ、短里説の支持者は一歩を0.3メートル、墓の径は30メートル前後とする。なお、短里説「[[周髀算経]]・一寸千里法の一里(=約77m)」の支持者の中には、一歩については「[[尺#中国の尺|周尺]]」を基準とした尺貫法の一歩(約1.2m)を採用している者もいる(かつて、帯方郡のあった朝鮮では、周の伝統が受け継がれていたと考える)<ref>『邪馬台国 』 [[石原洋三郎]] 令和元年十月八日 第一印刷</ref>。
「径」という表現から一応[[円墳]]とされるが、弥生時代の築造から楕円墳や[[方墳]]である可能性もある。なお、卑弥呼が[[ヤマト王権]]の女王であるとする近畿説によって[[前方後円墳]]をその冢と見る説もあるが、「径」の表記から異論が多い。
「大作冢」の大は作に掛かるので「大に作る」と訳され、大に作るとは大きな冢を作るではなく多数の冢の意味であるので、「徑百余歩 徇葬者奴婢百余人」は径百余歩の範囲に殉葬者や奴婢が百余人、つまり卑弥呼の死によって多くの殉葬者が出て径百余歩の範囲に100人分ぐらいの冢が作られたと読み、「卑弥呼以死 大作冢 徑百余歩 徇葬者奴婢百余人」の記述は卑弥呼の墳墓に付いての記述ではなく、卑弥呼の死によって引き起こされた事の記述であるとの意見もある。この場合「卑弥呼は既に死んでいたので、径100歩余りの範囲に徇葬者の奴婢が100人余りと多くの冢が作られた。」と訳される。
=== 造成時期 ===
卑弥呼の死んだ時期は西暦247年であり、一般に[[弥生時代]]の終末期、あるいは弥生時代から[[古墳時代]]への移行期とされる。日本書紀による近畿[[ヤマト王権]]の年代観では、[[崇神天皇]]治世の少し前となる。
=== 埋葬の特徴 ===
魏志では殉葬者は「奴婢百餘人」と記述されており、卑弥呼の墓は、[[古墳]]に[[埴輪]]が導入される以前だったと考えられる。『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰(のみのすくね)が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したとあり、これを埴輪の起源とするためである。ただし[[森将軍塚古墳]]など墳丘に埴輪棺を埋葬した例が有り、殉葬の可能性も指摘されている。また主体部については「有棺無槨」とされており、槨の無い石棺・木棺または甕棺墓と考えられる。
=== 主な比定古墳 ===
邪馬台国が畿内にあるとすれば卑弥呼の墓は初期[[古墳]]の可能性があり、[[箸墓古墳]]([[宮内庁]]指定では[[倭迹迹日百襲姫命]]墓)に比定する説がある。四国説では徳島市国府町にある[[八倉比売神社]]を、九州説では[[平原遺跡]]の王墓(弥生墳丘墓)<ref>[[奥野正男]]『邪馬台国は古代大和を征服した』、[http://www.okunomasao.com/itosima.html 糸島平原遺跡の研究] など。</ref> や九州最大・最古級の[[石塚山古墳]]<ref>『邪馬台国』[[石原洋三郎]] 2019年(令和元年)10月 第一印刷 p50-54 かつて帯方郡のあった朝鮮では、近年まで周尺を基準としており、六尺で一歩(=約1.2メートル)としていた。百余歩は120メートル前後となる。「歩」という単位は元々、右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の起点から踏み出した左足までの長さを言う。また「尺」という文字は、手を広げた際の親指の先から中指の先までの長さを尺とすることに由来している。</ref>、[[福岡県]][[久留米市]]の[[祇園山古墳]](弥生墳丘墓)などを卑弥呼の墓とする説がある。
;箸墓古墳
邪馬台国畿内説の[[奈良県]][[桜井市]]の[[箸墓古墳]]を卑弥呼の墓とする説がある。箸墓古墳の後円部は約150メートルの巨大な前方後円墳であり、魏志倭人伝の規模「100歩=約140メートル」とほぼ一致する。全長は漢尺200歩<ref>{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.15083/00079715 |title=前方後円墳の墳丘長の規格性 |author=柴原聡一郎 |date=2020-03 |journal=東京大学考古学研究室研究紀要 |ISSN=18803784 |publisher=東京大学大学院人文社会系研究科・文学部考古学研究室 |volume=33 |pages=155-182 |doi=10.15083/00079715 |id={{CRID|1390009224603755904}} |hdl=2261/00079715}}</ref>で造られ、築造年代は[[3世紀]]第3四半期頃であるとの説がある。
;ホケノ山古墳
また、箸墓古墳と同代もしくは先行して造営されたとされる[[ホケノ山古墳]]は、有槨の木棺であることが倭人伝の記述と矛盾し、また[[発掘調査]]を行った[[橿原考古学研究所]]による2008年(平成20年)の[[発掘調査報告書]]では、出土遺物の検討から築造年代を3世紀中頃であると結論しつつ{{Sfn|岡林, 水野 & 北山|2008|pp=289-291}}<ref>{{Cite web|和書|title=ホケノ山古墳と箸墓古墳|url=http://www.kashikoken.jp/museum/yamatonoiseki/kofun/hokenoyama-hashika.html|website=橿原考古学研究所附属博物館|accessdate=2019-10-28|language=ja}}</ref>、木槨木材の[[炭素年代測定]]結果の幅が[[4世紀]]前半をも含む範囲であることを報告しているため、年代特定を疑問視する意見もある<ref>{{Cite web|和書|title=『ホケノ山古墳の年代について』 平成12年3月28日 新聞各紙の報道 |url=http://yamataikokunokai.com/tousennsetu/hokenoyama.htm|website=邪馬台国の会|accessdate=2023-06-13|language=ja}}</ref>。
;石塚山古墳
九州にある[[石塚山古墳]]<ref>[http://www.crossroadfukuoka.jp/jp/event/?mode=detail&id=4000000001324&isSpot=1 石塚山古墳] - 福岡観光情報 クリスロードふくおか</ref><ref>[https://www.town.kanda.lg.jp/_3861/_3911/_3929.html 苅田町公式 石塚山古墳]</ref> については、築造時期が3世紀中頃([[古墳時代]]開始時期)〜4世紀初頭と一致するが、前方後円墳で長は120メートル〜130メートル前後と規模と形状が魏志倭人伝の記載と異なる(但し、周尺で換算した場合は百余歩は120メートル前後となる)。ヤマト皇権の象徴である[[前方後円墳]](国内でも最古級)で九州にある一方、吉備地方に起源をもつ特殊土器類(特殊器台・特殊壺)や[[埴輪]]は確認されていないという特徴を持つ<ref>『邪馬台国』[[石原洋三郎]]2019年(令和元年)10月 第一印刷 p52-54</ref>。九州にありながら130メートル超の出現期古墳は珍しい。墳頂周囲には中型の丹塗りの複合口縁壺形土器、甕形土器などが祭祀用として樹立していたと推定されている。高坏型・甕形土器は極めて在地的と評価されている<ref>「『復刻版 豊前石塚山古墳』苅田町・かんだ郷土史研究会 2016年8月」[[石塚山古墳]]は初期国家草創期に築造され、北部九州の中でも傑出している存在として考えられている。</ref>。周濠は確認されていない。[[竪穴式石室]]であり、副葬品([[玉]]、[[鏡]]、[[剣]]など)がある。出土鏡はすべて舶載鏡(中国鏡)と考えられており、他には素環頭大刀、銅鏃、細線式獣帯鏡片、琥珀製勾玉、碧玉製管玉、小札革綴冑片、鉄鏃なども出土している<ref>{{PDFlink|[https://www.town.kanda.lg.jp/var/rev0/0012/9696/201212717106.pdf 苅田町歴史資料館文化財ガイドブック]}}</ref><ref>『邪馬台国』[[石原洋三郎]] 2019年(令和元年)10月 第一印刷 p50-54 魏志では、[[倭人]]が死んだ際の葬儀の風習として『其死、有棺無槨、封土作冢。』と記述されている。そのため、卑弥呼の墓も棺(かんおけ)はあるが槨(そとばこ)はない可能性がある。しかしながら、卑弥呼は女王であり高貴な身分であるため、一般人の埋葬とは差があり、有棺無槨とは違う可能性もある。倭人の諸々の風俗の説明では、『尊卑有差』、『尊卑各有差序』とあるように、身分によって差があると記述されている。卑弥呼は奴婢100余人が共に埋葬されたり、径100余歩もの大きな塚が作られており、既に一般人とは大きく差がある埋葬のされ方をしている。</ref>。
;平原遺跡
[[平原遺跡]]については[[古墳時代]]以前、[[弥生時代]]後期から晩期の5つの[[墳丘墓]]がある遺跡である。1号墓は副葬品の多くが勾玉や管玉、耳璫(耳飾り)などの装身具であり、武器類が少ないため、この墓に埋葬された人物は女性であると考えられている。 直径46.5センチメートル、円周が46.5×3.14 = 146.01センチメートル「[[大型内行花文鏡]]」が出土しているが、[[原田大六]]はヤマト王権の[[三種の神器]]の一つ「[[八咫鏡]]」と同じ大きさ・形状であることから、その起源であると主張している。咫(あた)は円周の単位で約0.8尺である。径1尺の円の円周を4咫としていたので「八咫鏡は直径2尺(約46センチメートル前後)の円鏡というこになる。『御鎮座伝記』では「[[八咫鏡]]」の形は「八頭花崎八葉形也」と記載されており大型内行花文鏡と一致する。ただし墳墓の規模は魏志倭人伝の記載より小さく、また周囲には多人数の殉葬の墳墓が見つかっていない。
;祇園山古墳
[[祇園山古墳]]は築造時期が3世紀中期と考えられ、一辺が23メートル-24メートル、基台を含めれば更に大きな方墳で形状や規模が一致し、石棺はあるが槨が無いこと、石棺に朱が塗られていること、周囲に数十名分の集団墓があること([[宝賀寿男]]はこれを殉葬墓と推定している{{Sfn|宝賀|2001|pp=62-95}})、周囲の甕棺から後漢鏡片や大型勾玉などの豪華な装身具が出土していること、G1墓からは鉄製の武器や農機具が出土していること、などが魏志倭人伝の記載と良く一致する。しかし石室の副葬品が盗掘のため殆どが失われており、わずかに[[高良大社]]に出土品と伝えられる[[三角縁神獣鏡]](33方格獣文帯 鈕座「天王日月日月」)があるのみである。
;御所市玉手山説
卑弥呼を宇那比姫命とする説で、六代孝安天皇は宇那比姫命の義理の弟である。したがって『魏志倭人伝』が「男弟有て佐(たすけ)て国を治」とする男弟を孝安天皇とする。
孝安天皇の宮は、室秋津嶋宮(むろのあきつしまみや)とされる。伝承地は奈良県御所市室(ごせしむろ)で、ここが卑弥呼の王宮であるとする。この秋津嶋宮伝承地の北東約1㎞に、玉手山という山がある。ここは孝安天皇が葬られたとする山でもある。そこにお椀を伏せたような尾根があり、中心には墳丘が存在する。尾根は自然の尾根であるが、尾根全体を墓域とすれば、まさに径百余歩の円墳である。これを卑弥呼の墓とする説。
== 人物比定 ==
卑弥呼が『[[古事記]]』や『[[日本書紀]]』に書かれている[[ヤマト王権]]の誰にあたるかが、[[江戸時代]]から議論されているが、そもそも[[ヤマト王権]]の誰かであるという確証もなく、別の王朝だった可能性もある。また一方、北史(隋書)における「倭國」についての記述で、“居(都)於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也”「都は邪靡堆にあるが、魏志に則れば、いわゆる邪馬臺者である。」とあり、基本的には連続性のある[[ヤマト王権]]の誰かであるだろうとして『[[日本書紀]]』の編纂時から推定がなされている。卑弥呼が共立されたのは後漢書から西暦146年~189年の末頃で、卑弥呼の死去年は魏志倭人伝などから西暦247~248年頃と推定されているので、卑弥呼の倭国統治時期は2世紀の終わり頃から3世紀前半の60年ほどの期間である。
=== 天照大神説 ===
中華の史書に残るほどの人物であれば、日本でも特別の存在として記憶に残るはずで、日本の史書でこれに匹敵する人物は[[天照大神]](アマテラスオオミカミ)しかないとする説。[[白鳥庫吉]]、[[和辻哲郎]]らに始まる<ref>「倭女王卑弥呼考」『白鳥庫吉全集』 第1巻 岩波書店 [[1969年]]、[[和辻哲郎]]『新稿 日本古代文化』 [[岩波書店]][[1951年]]</ref>。この場合、[[台与]]は[[天忍穂耳尊]]の后、[[万幡豊秋津師比売命]](よろずはたとよあきつしひめのみこと)とするのが普通であるが、異説もあり、[[石原洋三郎]]の説では山幸彦の后[[豊玉姫]]とする。
卑弥呼=[[倭迹迹日百襲媛命]]=[[天照大神]]の説もある。しかし『日本書紀』の「神功皇后紀」においては、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用しており、卑弥呼と神功皇后が同時代の人物と記述している(実際は誤り)。また百済の王は[[古尓王]](234 - 286)、その子の[[責稽王]](生年未詳 - 298年)などの部分はほぼ日本書紀の記述どおりである。また卑弥呼が魏の国に対して軍の派遣を要請した行為は国家反逆罪に問われるものであり、そのために日本書紀では詳細が記述されなかったと考える説も存在する。
アマテラスの別名は「大日孁貴」(オオ'''ヒルメ'''ノムチ)であり、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で、「日の女」となる。意味は太陽に仕える巫女のことであり、卑弥呼(陽巫女)と符合するとする。
卑弥呼の没したとされる近辺に、[[247年]][[3月24日]]と[[248年]][[9月5日]]の2回、[[北部九州]]で[[皆既日食]]がおきた可能性があることが天文学上の計算より明らかになっており(大和でも日食は観測されたが北九州ほどはっきりとは見られなかったとされる)、[[日本神話|記紀神話]]に見る[[天岩戸]]にアマテラスが隠れたという記事([[岩戸隠れ]])に相当するのではないかという見解もある<ref>[[毎日新聞]](関西)朝刊 [[1995年]][[7月25日]]、[[8月5日]]</ref>。ただし、過去の日食を算定した従来の天文学的計算が正しい答えを導いていたかについては近年異論も提出されている<ref>[http://th.nao.ac.jp/~tanikawa/eclps/moment.pdf 「中国・日本の古代日食から推測される地球慣性能率の変動」第35回天体力学研究会集録, 282 - 295, 2003(論文)] 〜 [[名古屋大学]]の河鰭公昭、[[国立天文台]]の谷川清隆、相馬充は、[[慣性能率]]の変動によると疑定される有意な地球の自転速度変化を論じ、自転速度低下率が一定であると仮定していた過去の計算法の精確性に対して疑問を投げかけている。</ref>。
[[安本美典]]は、[[天皇]]の平均在位年数などから推定すると、卑弥呼が生きていた時代とアマテラスが生きていた時代が重なるという<ref>『卑弥呼の謎』[[講談社]]新書 [[1972年]]など。</ref>。また卑弥呼には弟がおり人々に託宣を伝える役を担っていたが、アマテラスにも弟[[スサノオ]]がおり共通点が見出せるとしている(一方スサノオをアマテラスとの確執から、[[邪馬台国]]と敵対していた[[狗奴国]]王に比定する説もある)。ただし安本の計算する平均在位年数は生物学的に無理があるほど短く、計算にあたって引用した数値の選択にも疑問があり、また多くの古代氏族に伝わる系図の世代数を無視したものとの指摘がある<ref>[[宝賀寿男]]『「神武東征」の原像』青垣出版、2006年。</ref>。
魏志倭人伝には卑弥呼が死去した後、男王が立ったが治まらず、壹與が女王になってようやく治まったとある。この卑弥呼の後継者である壹與(臺與)はアマテラスの息子[[アメノオシホミミ]]の妃となった[[栲幡千千姫命|ヨロヅハタトヨアキツシヒメ]](万幡豊秋津師比売)に比定できるとする。つまり卑弥呼の死後男子の王(息子か?)が即位したが治まらず、その妃が[[中継ぎ]]として即位したと考えられる。これは後の[[ヤマト王権]]で女性が即位する時と同じ状況である。ちなみにヨロヅハタトヨアキツシヒメは[[伊勢神宮]]の内宮の三神の一柱であり(もう一柱はアマテラス)、単なる息子の妃では考えられない程の高位の神である。
安本美典は、卑弥呼がアマテラスだとすれば、邪馬台国は天(『日本書紀』)または[[高天原]](『古事記』)ということになり、九州にあった邪馬台国が後に畿内へ移動してヤマト王権になったとする(邪馬台国東遷説)。それを伝えたのが[[記紀]]の[[神武東征]]であるとしている<ref>安本美典『神武東遷』(中公新書 [[中央公論新社]] 1982年 ISBN 9784121001788、徳間文庫 [[徳間書店]] 1988年 ISBN 9784195984840)</ref>。
また、卑弥呼と天照大御神の登場の境遇が類似しているという説もある<ref>『邪馬台国』 [[石原洋三郎]] 令和元年(2019年)10月 第一印刷p55</ref>。卑弥呼は[[倭国大乱]]という激しい争いの後、共立されて女王となったが、一方で、天照大御神も[[国産み]]をした[[イザナギ]]・[[イザナミ]]の激しい争いの後、イザナギの「禊払え」により、高天原の支配者として登場する。『日本書紀』の本文では[[イザナギ]]・[[イザナミ]]の協力によって、日の神「大日孁貴」が誕生している。
[[魏志]]では、邪馬台国の支配地域は、『女王國以北』・『周旋可五千餘里<ref>約385km 一里=約77m で換算(短里説[[周髀算経]]・一寸千里法」による)</ref>』と記述されており、短里説で換算した場合、概ね、九州北部地域が支配地域と考えられる<ref>『邪馬台国 』 [[石原洋三郎]] 令和元年十月八日 第一印刷 石原は[[北史倭国伝]]「其国境、東西五月行、南北三月行、各至於海」の概念により、[[魏志倭人伝]]で曖昧とされた旅程日数・方角・距離について明確化されたとしており、邪馬台国は九州「阿蘇山」であるとし、支配地域は「[[筑紫国]]・[[豊国]]・[[火国]]」の三面としている。</ref>。そのため、「[[熊襲]]・[[出雲国]]」は支配地域外と考えられ、卑弥呼の時代背景としては[[天岩戸]]以前の時代背景となり、卑弥呼は[[天照大御神]]と人間関係が類似する(弟がおり、嫁がず)。[[新唐書#日本について|新唐書]]や[[宋史]]においても、天照大御神は筑紫城(九州)に居ると記述されている<ref>『邪馬台国 』 [[石原洋三郎]] 令和元年十月八日 第一印刷 P54-56</ref>。
*問題点
:第一に、現代の[[神話学]]によると、[[天岩戸|天岩戸神話]]は中国西南部の少数民族や東南アジアの日食神話(太陽と月と悪い弟が3兄弟だとする)と同系のバリエーションである。当然、天照大神も神話上の神であって歴史上の人物ではない。
:第二に、天照大神は本来は男性の神とする説が鎌倉時代からあり、近代になっても複数の神話学者や歴史学者らが男神説を唱えた<ref>[[折口信夫]]『天照大神』 1952年、[[松前健]]『日本の神々』 中央公論社 1974年、松前健『日本神話の謎』 [[大和書房]] 1985年</ref>。また、「ヒルメ」を「日の女」であるから巫女である、とする説は他に「〜ノメ」を巫女とする用例がなく、根拠に乏しい([[津田左右吉]]によればヒルメのメはツキヨミの「ミ」やワタツミの「ミ」と同じく神霊をあらわす言葉であって女性の意味ではない。[[ミヅハノメ]]やイワツツノメなどは巫女とされた例もない)。「大日孁貴」の孁字が[[説文解字]]において巫女、妻の意があるとする説は[[説文解字]]に「女字也」とのみあることから、これも誤りである。
:第三に天照大神の神話を歴史とみる以上、天照大神と大和朝廷をつなぐ神話をも歴史とみざるをえなくなるため、神武東征伝承を邪馬台国の九州から大和への東遷を伝えたものだとする論者が必然的に多くなる。しかし九州にあった邪馬台国が東遷して畿内に到着したとは限定できず、また国家規模での東遷が果たして可能であったのか、何故東遷する必要があったのかという疑問もある。加えて『記紀』の系譜を信じる限り、一世代を25~30年として計算すると神武天皇は卑弥呼よりも遥かに古代の人物となり、系譜として繋がらない。
:第四に「[[皇祖神]]たる太陽女神」なる観念そのものがさして古いとはいえないとする説がある<ref>[[岡正雄]]、[[三品彰英]]は、本来の皇祖神は[[タカミムスビ]]であるとしている。</ref>。事実、『[[隋書]]』にあり『[[日本書紀]]』に記述がない第一回目の[[遣隋使]](名前の記述なし)の記事には、倭国の王<ref>隋書では俀國、俀王。</ref> [[多利思比孤]]が天を(倭王の)兄、日を(倭王の)弟としており(「俀王以天爲兄 以日爲弟」)倭王は日の出前に政治をして日の出になると「弟に委ねる」として退出していたとある。もしこれが事実なら太陽神を天皇の祖先とする記紀の伝承とまったく噛み合わないことになる<ref>天、王、日をこの順序で含む漢語として一部の[[神獣鏡]]に刻まれた「天王日月」がある。『日本書紀』神代上の本文ではイザナギとイザナミが「いかにぞ天下の主者を生まざらむ」と言って日神と月神の兄弟(姉弟)を産んだとされる。一書ではイザナギが白[[銅鏡]]を持って日と月を産んだとされる。</ref>。天照大神という神格は[[天武天皇]]の時代に始まるとする説もある<ref>筑紫申真『アマテラスの誕生』 講談社 2002年、佐藤弘夫『アマテラスの変貌―中世神仏交渉史の視座』 [[法藏館]] 2000年</ref>。
=== 能登比咩説 ===
能登比咩神社の主祭神、能登比咩(のとひめ)を卑弥呼とする説。能登比咩は社伝によると[[大己貴命]]、[[少彦名命]]と同時期の神である。[[能坂利雄]]がその著『北陸古代王朝の謎』で唱えた説。(台与が誰かについては不明)
=== 宇那比姫説 ===
『[[海部氏系図|海部氏勘注系図]]』、『[[先代旧事本紀]]』尾張氏系譜に記される、[[天火明命|彦火明]]六世孫、[[宇那比姫命]](うなびひめ)を卑弥呼とする説。この人物は別名を大倭姫(おおやまとひめ)、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大海孁姫命(おおあまひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)ともある。この日女命を卑弥呼と音訳したとする。またこの説では、卑弥呼の後に王位に就いたとされる台与(とよ)を、系図の中で、宇那比姫命の二世代後に記される、天豊姫(あまとよひめ)とする<ref>『古代海部氏の系図』(金久与市,1983年)</ref>。両系図の伝承を重んずる限り、宇那比姫はほぼ[[孝安天皇]]と同世代の人であり、孝安天皇は天足彦国押人命の実弟で、宇那比媛と孝安天皇は義理の姉弟という関係である。このことから魏志倭人伝に出てくる「卑弥呼の男弟」を孝安天皇のことだと解釈することもできる。
*問題点
:この説は名前や系譜の類似から出た憶測に過ぎず、日女命という名前も「太陽の女子」、「霊力のある女子」といった古代人の女性を表すもので、この人物だけを指す固有名詞ではない。また『海部氏勘注系図』自体に対する疑問もある<ref>『国宝「海部氏系図」への疑問』(2006年) [[宝賀寿男]]</ref>。
:また和邇系図では[[和珥氏|和邇氏]]の祖[[天足彦国押人命]]の子である[[押媛|押媛命]]と和爾日子押人命の母をこの宇那比媛命としており<ref>[[太田亮]]『姓氏家系大辞典』[[角川書店]] 1963年 第三巻P6661(原典は静岡県磐田市、國玉神社大久保氏系図)</ref>、宇那比媛命には配偶者がいたことになる。
=== 倭迹迹日百襲媛命説 ===
[[ファイル:Hashihaka kohun aerial.jpg|thumb|250px|倭迹迹日百襲媛命の墓と伝えられる、箸墓古墳([[奈良県]][[桜井市]])]]
[[孝霊天皇]]の皇女[[倭迹迹日百襲媛命]](やまとととひももそひめのみこと)は、『[[日本書紀]]』の倭迹迹日百襲姫命または倭迹迹姫命、『古事記』の夜麻登登母母曾毘賣命。この説の場合、台与は[[崇神天皇]]皇女[[豊鍬入姫命]](とよすきいりひめみのこと)に比定される。
『日本書紀』により[[倭迹迹日百襲媛命]]の墓として築造したと伝えられる[[箸墓古墳]]は、邪馬台国の都の有力候補地である[[纏向遺跡]]の中にある。同時代の他の[[古墳]]に比較して規模が隔絶しており、また日本各地に類似した古墳が存在し、出土遺物として[[埴輪]]の祖形と考えられる吉備系の土器が見出せるなど、以後の古墳の標準になったと考えられる重要な古墳である。当古墳の築造により[[古墳時代]]が開始されたとする向きが多い。
この箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160メートルであり、「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」と言う記述に一致している。
『[[日本書紀]]』には、[[倭迹迹日百襲媛命]]についての[[三輪山]]の神との神婚伝説や、前記の箸墓が「日也人作、夜也神作(日中は人がつくり、夜は神がつくった)」という説話が記述されており、神秘的な存在として意識されている。また日本書紀では、倭迹迹日百襲媛命は[[崇神天皇]]に神意を伝える巫女の役割を果たしたとしており、これも「魏志倭人伝」中の「倭の女王に男弟有り、佐(助)けて国を治む」(有男弟佐治國)という、卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命と男弟=崇神天皇との関係に類似する。もっとも、倭迹迹日百襲媛命は崇神天皇の親戚にあたるが、姉ではない。そこで、『魏志倭人伝』は崇神天皇と百襲媛命との関係を間違って記述したのだという説(西川寿勝などが提唱)が存在する。さらに魏志倭人伝の「卑彌呼以て死す。(中略)徇葬する者、奴婢百余人。」と、日本書紀の「百襲」という表記の間になんらかの関連性を指摘する向きもある。
従来、上記の箸墓古墳の築造年代は古墳分類からは3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼の時代とは合わないとされてきた。しかし最近、[[年輪年代学]]や[[放射性炭素年代測定]]による科学的年代推定を反映して、古墳時代の開始年代が従来より早められた。箸墓古墳の築造年代についても、研究者により多少の前後はあるものの卑弥呼の没年([[248年]]頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が最近では一般的になっている<ref>[https://megalodon.jp/2009-0530-1717-51/yamatonokuni.seesaa.net/article/32582582.html 2世紀後半の倭国大乱~孝霊天皇の吉備平定~卑弥呼(百襲姫)誕生]</ref><ref>[https://megalodon.jp/2009-0530-1712-58/www.sankei-kansai.com/2009/05/29/20090529-010451.php 邪馬台国 ナゾ解き続く 化学分析、畿内説に"軍配" 箸墓古墳][[産経新聞]] 2009年5月29日</ref>。
日本書紀によれば、倭迹迹日百襲媛命が亡くなった後、崇神天皇は群臣に「今は反いていた者たちはことごとく服した。畿内には何もない。ただ畿外の暴れ者たちだけが騒ぎを止めない。四道の将軍たちは今すぐ出発せよ」という詔を発し、四道将軍に各地方の敵を平定させており<ref>全現代語訳日本書紀上巻(宇治谷孟訳、講談社学術文庫、1988年)129頁。</ref>、国中に争いが起きたことは卑弥呼の死後に起こったという戦乱を思わせる。記紀は律令国家時代の編纂なので、初期の天皇も中華式の王朝として描き、天皇より上の権威を認めなかったが、上述のように箸墓古墳を倭迹迹日百襲媛命の墓だと仮定したら、崇神天皇陵より巨大であって、当時は天皇よりも権威をもっていた可能性が高い。
現在では畿内説論者でも、卑弥呼を具体的に記紀の登場人物にあてはめようとする説は多くないが、記紀の登場人物にあてはめる場合には倭迹迹日百襲媛命とされることがもっとも多い。
文献的にこの説の有利な点は、『古事記』の崩年干支から崇神天皇崩御の[[戊寅]]年については[[258年]]とみる説が少なくなく、この場合、卑弥呼は記紀でいう崇神天皇と同時代となるということが挙げられる。
*問題点
:卑弥呼の塚の径百余歩とは魏時代の尺度(短里)では30メートル程度であるとされ、もしこれが正しければ箸墓古墳のサイズにあわない。また長里で計算しても記述と一致せず、これだけ巨大な前方部を無視し、後円部だけの大きさを無視したことは不審である。
:箸墓古墳の年代論には疑問も多く、推定年代を100~150年以上繰り上げしている可能性も指摘されている。また[[宝賀寿男]]は、史書と規模や形状が一致しないこと、当時魏の属国であった倭国が果たして魏皇帝の陵墓よりも巨大な陵墓を造営できたかという疑問、殉葬の跡が見られないこと、周辺から出土した遺物が推定年代よりも後世のものであること、卑弥呼死亡後の内乱時において巨大な墳丘を伴う陵墓を造営する余裕は考えられないことなどから、箸墓を卑弥呼の墓とするには疑問があるとし、規模や形状のほか、墳丘裾部にある集団墓群を殉葬墓ではないかとして、[[福岡県]][[久留米市]]の[[祇園山古墳]]に比定する説を唱えている{{Sfn|宝賀|2001|pp=62-95}}。
:倭迹迹日百襲媛命が皇族の一人ではあっても「女王」と呼べるほどの地位と権威を有していたとは、考えにくい。[[安本美典]]の批判するところによれば、「「[[魏志倭人伝]]」には、卑弥呼が亡くなって国中に争いが起きたと記述があるが、「[[日本書紀]]」等我が国の文献では、百襲媛命は天皇の親戚の巫女に過ぎず、亡くなって国中に争いが起きるほどの重要人物だとはとうてい考えられず、両者を同一人物とするには矛盾がある」となる。
:崇神天皇の陵墓が、[[行燈山古墳]]または[[西殿塚古墳]]の可能性が高く、両古墳とも考古学的に4世紀前後であることから、崇神天皇は古事記の崩年干支[[戊寅]]から318年没で4世紀初頭の人物である可能性が高くなり<ref>ただし、古事記の崩年干支を重視しつつも、具体的にそれが西暦の何年なのかという点では様々な説が数多く存在する。</ref>、その場合には崇神治世まで生きた倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼である可能性はなくなる。
=== 熊襲梟帥の先代説 ===
熊襲梟帥が[[景行天皇]]の時代だとすると「男王」は在位期間が短かったので、卑弥呼は早くても[[垂仁天皇]]、遅くても[[景行天皇]]の頃となる。(台与については不明)
=== 倭姫命説 ===
戦前の代表的な[[歴史家の一覧|東洋史学者]]である[[内藤湖南]]は[[垂仁天皇]]の皇女[[倭姫命]](やまとひめのみこと)を卑弥呼に比定した。この説の支持者には橘良平、坂田隆などがいるが、倭迹迹日百襲媛命説と比べると支持者は極めて少ない。垂仁天皇の皇女なので世代的には[[景行天皇]]の時代の人物ということになる。(台与については不明)
=== 田油津媛の先々代説 ===
『日本国号考』の中で[[新井白石]]が邪馬台女王国を筑後国[[山門郡]]に比定したのを承けて、[[星野悟]]は、邪馬台連合国の女王卑弥呼は山門(ヤマト)を本拠とする[[土蜘蛛]](土着の豪族)女王[[田油津媛]](たぶらつひめ)の先々代女王にあたるとした。『[[日本書紀]]』によると[[田油津媛]]は仲哀天皇・神功皇后による西暦366年頃の九州遠征の際に成敗されたという。福岡県みやま市の老松神社には、田油津媛を葬ったとされる蜘蛛塚とよばれる古墳が残されている。[[若井敏明]]の説でも同じく田油津媛は邪馬台国(九州女王国)の最後の女王であり、神功皇后(畿内ヤマト政権)によって田油津媛が誅殺されたというのがすなわち「邪馬台国の滅亡」であるとする。(台与については不明)
『日本書紀』では田油津媛を土蜘蛛だというのみで熊襲とはしておらず、後述の熊襲の女酋説とは区別される。中国史料では卑弥呼の死去年は西暦247~8年頃である。
=== 甕依姫説(筑紫国造説) ===
[[九州王朝説]]を唱えた[[古田武彦]]は、『[[筑後風土記]]逸文』に記されている[[筑紫君]]([[筑紫国造]])の祖「[[甕依姫]]」(みかよりひめ)が「卑弥呼(ひみか)」のことである可能性が高いと主張している。また「壹與(ゐよ)」(「[[台与|臺與]]」)は、中国風の名「(倭)與」を名乗った最初の倭王であると主張しているが、それに該当する人物は日本側史料に登場してはいない(つまり台与については不明ということである)。[[久米邦武]]もまた甕依姫に触れてはいないが『住吉社は委奴の祖神』の中で卑弥呼を筑紫国造とした。『[[先代旧事本紀]]』国造本紀によれば筑紫国造は[[成務天皇]]の時、[[孝元天皇]]皇子[[大彦命]]の5世孫、田道命が任命されたという。甕依姫は筑紫君の祖とあるものの逸文の文面上ではすでに筑紫君氏は存在していることになっているので田道命からあまり遡った祖先とは考えられず、甕依姫はどんなに古くても田道命の妻か娘(もしくはせいぜい母親ぐらい)と思われる。仮に甕依姫を田道命の娘と同世代だとすると[[仲哀天皇]]や[[神功皇后]]の時代に相当する。<small>(田道命の妻と同世代だとすると[[成務天皇]]と同時代)</small>
=== 神功皇后説 ===
『日本書紀』の「[[神功皇后]]紀」においては、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用しており、卑弥呼と神功皇后が同時代の人物と記述している。実際に神功皇后は200年に夫である仲哀天皇を失ってからは60年以上ずっと独身である。さらに弟もいた。また倭国大乱に当たる熊襲の戦いがあり、この戦いの最中に仲哀天皇は崩御した。一説によるとこれは熊襲との戦いでの矢の傷が元であるという。さらには日本書紀で出てくる百済の王の古尓王(234 - 286)も日本書記が示す時期とややずれがあるものの合致している。これを否定する説が[[井上光貞]]ほか一部から指摘されている。日本書紀の神功皇后の百済関係の枕流王(在位:384年 - 385年)の記述の部分が卑弥呼よりも120年(干支2回り)あとの時代のものであるためにそのような主張がなされている。しかし百済の王は古尓王(234 - 286)、その子の責稽王(生年未詳 - 298年)などの部分はほぼ日本書紀の記述どおりであり、子孫の枕流王の部分は切り離して考えるべきだとする説もある。さらに[[肖古王]]と[[近肖古王]]の名前は似ていて神功皇后元年の干支も201年と321年は同じものなので日本書紀の編纂者が誤って近肖古王とその後の系図を当ててしまった可能性も大いにある。実際に日本書紀でも出てくる百済の王の名前は肖古王である。故にいきなりここで120年の時代誤差が生まれたと考えられる。
また古事記では応神天皇の時に照古王が[[肖古王]]として貢物を献上する。現在でも、倭迹迹日百襲媛命説ほどではないがそれに次いで支持者が多い。また九州説論者でも神功皇后説を採る論者が何名もいる。またこの説の場合、九州各地に伝説の残る[[与止姫]]が神功皇后の妹虚空津比売と同一という伝承もあることから、この人物を[[台与]]に同定する(古田史学の会の代表の[[古賀達也]]も台与を「壱与」とするが同じ説であり「与止姫」のことだとしている)。
*問題点
:これまでの諸説では多くの場合、神功皇后の説話を古代日本の女性指導者の姿を描いたものと捉え、「鬼道」の語を手掛かりに卑弥呼を巫女として捉えて卑弥呼が政治的・軍事的指導者であった可能性を否定したり、彼女の言葉を取り次いだという男弟が実際の政務を取ったと解釈したりしてきたが、[[義江明子]]はそれを批判して、卑弥呼もまた政治的・軍事的な実権を伴った指導者であったとする<ref>義江明子「"聖なる女"の思想的系譜」(初出:竹村和子・義江明子 編『ジェンダー史叢書3 思想と文化』(明石書店、2010年)/所収:義江『日本古代女帝論』(雄山閣、2017年) ISBN 978-4-8273-1290-4)。なお、義江は近代以降の卑弥呼研究が明治以降の欧米の原始女子シャーマン説や大元帥としての男性天皇像、戦後の象徴天皇制の下で盛んになった天皇不親政論やフェニミズムに基づく女性の霊性論などによって実態とかけ離れた方向に向かっていると批判している。</ref>。義江の論旨は「卑弥呼は単に祭祀を司掌した巫女だっただけでなく、王としての軍事的な実権、政治的な実権をもっていた。弟が政治を担当していたわけではない」ということであって、必ずしも「卑弥呼=神功皇后説」を主張しているわけではない。ただし「鬼道に事(つか)え」たという卑弥呼が巫女王としての色合いが強いのに対して、神功皇后は単に神憑りしたシャーマンに留まらず、勇壮な軍事指揮者という別の側面も同等に強くもっているのは義江の主張するとおりであるが、魏志による限り卑弥呼は宮殿に籠って祭祀に専心している様子は窺えるものの格別に神功皇后のような軍事指揮者としての強い属性があるような記述は一切みられない。
=== 熊襲の女酋説 ===
[[本居宣長]]<ref>誤解が流布しているが筑後国山門郡説を唱えたのは本居宣長ではなく新井白石である。</ref>、[[鶴峰戊申]]らが唱えた説。本居宣長、鶴峰戊申の説は卑弥呼は[[熊襲]]が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」である<ref>[[本居宣長]]『[[馭戒慨言]]』、[[鶴峯戊申]]『[[襲国偽僣考]]』、[[近藤芳樹]]『[[征韓起源]]』など。[[安本美典]]『江戸の邪馬台国』 [[柏書房]] [[1991年]]等を参照。</ref>。本居宣長は邪馬台国を畿内大和、卑弥呼を神功皇后に比定した上で、神功皇后を偽称するもう一人の卑弥呼がいたとした。ニセの卑弥呼は九州南部にいた熊襲の女酋長であって、勝手に本物の卑弥呼(=神功皇后)の使いと偽って魏と通交したとした。また、宣長は『[[日本書紀]]』の「神代巻」に見える火之戸幡'''姫児'''千々姫命(ヒノトバタ'''ヒメコ'''チヂヒメノミコト)、あるいは萬幡'''姫児'''玉依姫命(ヨロツハタ'''ヒメコ'''タマヨリヒメノミコト)等の例から、貴人の女性を姫児(ヒメコ)と呼称することがあり、神功皇后も同じように葛城高額'''姫児'''気長足姫(カヅラキタカヌカ'''ヒメコ'''オキナガタラシヒメ)すなわち姫児(ヒメコ)と呼ばれたのではないかと憶測している<ref>本居宣長『馭戎概言』</ref>。[[那珂通世]]も卑弥呼は鹿児島県姫木にいた熊襲の女酋であり朝廷や神功皇后とは無関係とする。神功皇后の実在を前提とした上で、その名を騙ったのだから、卑弥呼に該当する熊襲の女酋は当然神功皇后の同時代人として想定されている。(台与については不明)
*女酋・豪族説
:[[橋本増吉]]や[[津田左右吉]]は一女酋だとし、[[森浩一]]、岩下徳蔵は[[豪族]]だとし、[[山村正夫]]は女酋[[巫女]]、村山健治は[[教祖]]族長だとする。これらの諸説はとくに熊襲だとは限定していない。
*問題点
:宣長は日本は古来から独立を保った国という考えに立っており、「魏志倭人伝」の卑弥呼が魏へ朝貢し倭王に封じられたという記述は到底受け入れられるものではなかった<ref>本居や鶴峰は卑弥呼・壱与のみならず[[倭の五王]]も熊襲による僭称としており、これらの考えは[[古田武彦]]らの吉田史学へと引き継がれている。</ref>。
:当時の中国は高度文明をもち大国同士で真剣に戦っており、卑弥呼の朝貢も呉に対する高度な外交戦の一環であり、また治めがたい韓族への抑止力も期待されていた。そのような情況にある魏は朝貢国に対し当然に綿密な情報収集と調査を怠らなかったはずであり、弱小な辺陬の酋長が騙しきる等は不可能と思われる。
=== 応神天皇と物部氏の一族説 ===
安藤輝国はその著『邪馬台国と豊王国』の中で卑弥呼は[[応神天皇]]の一族であると唱えた。また、[[鳥越憲三郎]]はその著『古事記は偽書か』の中で[[物部氏]]の一族であると唱えた。この両説の、両方の条件に該当する者を系譜から探すと
#[[八田皇女|八田若郎女]](やたのわかいらつめ)
#[[雌鳥皇女|女鳥王]](めとりのみこ)
#宇遅之若郎女(うぢのわかいらつめ)
の3人の候補が見つかる。この3人は'''応神天皇の皇女'''である。また3人の生母は[[記紀]]では[[和邇氏]]の娘ということになっているが『[[先代旧事本紀]]』によると'''物部氏の娘'''となっている。これら3人の女性より下の世代で名前の一部にイヨまたはトヨがつく女性は[[飯豊青皇女]](いいとよあおのひめみこ)がいる。
== 登場作品 ==
[[File:Train_of_Amagi_Railway_stopping_at_Amagi_Station.JPG|thumb|甘木駅にて停車する甘鉄列車]]
[[File:隅田川_ヒミコ_Water_Bus_-_panoramio.jpg|thumb|水上バスのヒミコ、隅田川]]
=== 小説 ===
* [[日輪 (横光利一)|日輪]](1924年、[[横光利一]])1925年、1953年に映画化。
* 鬼道の女王 卑弥呼 (1996年、[[黒岩重吾]])
* 日御子(2012年、[[帚木蓬生]])
=== 漫画 ===
* [[火の鳥 (漫画)|火の鳥 黎明編]](漫画少年版・1954年-1955年、COM版・1967年、[[手塚治虫]])
* 卑弥呼 : まぼろしの女王(1981年、学研まんが人物日本史 16、監修:[[樋口清之]]、漫画:[[ムロタニツネ象]])
* 卑弥呼 : 邪馬台国のなぞの女王(1988年、立案・構成:木村茂光、シナリオ:柳川創造、漫画:[[ともち|すがともこ]])
* [[ナムジ]](1989年-1991年、[[安彦良和]])
* [[神武 (漫画)|神武]](1992年-1995年、安彦良和)
* [[ねこねこ日本史]](2014年-、[[そにしけんじ]])
* [[こううんりゅうすい〈徐福〉]](2017年-、[[本宮ひろ志]])
* 卑弥呼([[倉科遼]]、南恵夢)
* 卑弥呼(2018年-、リチャード・ウー([[長崎尚志]])、中村真理子)
=== 映画 ===
* [[卑弥呼 (映画)|卑弥呼]](1974年、監督:[[篠田正浩]]、主演:[[岩下志麻]])
* [[火の鳥 (漫画)#実写映画|火の鳥]](1978年、監督:[[市川崑]]、主演:[[高峰三枝子]])
* [[まぼろしの邪馬台国]](2008年、監督:[[堤幸彦]]、主演:[[吉永小百合]])
* [[トゥームレイダー ファースト・ミッション]](2018年、監督:ローアル・ユートハウグ、主演:[[アリシア・ヴィキャンデル]])
=== 特撮 ===
* [[仮面ライダーゴースト]](2015年〜2016年、[[テレビ朝日]]、声優:[[関智一]])
=== 舞台 ===
* 邪馬台国の風(2017年、[[宝塚歌劇団]]、演:[[仙名彩世]])
=== テレビアニメ ===
* [[火魅子伝]](1999年、[[テレビ東京]]、声優:[[音宮つばさ]])
* [[火の鳥 (漫画)#テレビアニメ|火の鳥・黎明編]](2004年、[[NHK-BSハイビジョン]]、声優:[[来宮良子]])
* [[ノブナガ・ザ・フール]](2014年、テレビ東京、声優:[[東山奈央]])
* [[ねこねこ日本史#テレビアニメ|ねこねこ日本史]](2016年-2018年、[[Eテレ]]、声優:[[小林ゆう]])
=== ゲーム ===
*[[無双OROCHIシリーズ]] (テレビゲーム)
* [[ドラゴンクエストIII そして伝説へ…|ドラゴンクエストIII]](1988年、[[エニックス]])
* [[beatmania IIDX]]16 EMPRESS(2008年)
* 超時空爆恋物語~door☆pi☆chu~ (2010年、声優:[[大花どん]])
* トゥームレイダー(2013年)
* [[モンスターストライク]](2014年)
* [[三国志大戦]](2010年(第1期)、2018年(第2期)、声優:[[日高里菜]](第2期))
* [[Fate/Grand Order]] (2020年、声優:[[田村ゆかり]])
* [[マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝]]「ピュエラ・ヒストリア 邪馬台国の跡目編」(2023年)
=== 音楽 ===
* [[NHK教育テレビジョン|Eテレ]]番組コーナー曲
** むらからくにへ([[歴史にドキリ]])(2014年)
** ひみつのヒミコちゃん([[みいつけた!]])(2018年)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==参考文献==
* {{cite book|和書|title= つくられた卑弥呼――〈女〉の創出と国家|year= 2018|origyear= 2005|publisher= 筑摩書房|series= ちくま学芸文庫|author= [[義江明子]]|ref= {{SfnRef|義江|2018}}}}
*{{Cite journal|和書|year=2001-12-20|date=2001-12-20|author=宝賀寿男|authorlink=宝賀寿男|title=卑弥呼の冢補論-祇園山古墳とその周辺-|url=http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm|journal=季刊・古代史の海|volume=26|pages=62-96|publisher=「古代史の海」の会|issn=13415522|naid=40005104602|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author1=岡林孝作|author2=水野敏典|author3=北山峰生|chapter=実年代について|title=ホケノ山古墳の研究|publisher=[[橿原考古学研究所]]|pages=289-291|year=2008-11|date=2008-11|isbn=9784902777611|ncid=BA89391331|ref={{sfnRef|岡林, 水野 & 北山|2008}} }}
*[[鳥越憲三郎]]『倭人・倭国伝全釈』東アジアの中の古代日本 角川ソフィア文庫 令和2年7月25日初版(原著2004年「中国正史 倭人倭国伝全釈」中央公論新社)
*[[寺沢薫]] 『卑弥呼とヤマト王権』 中央公論新社 2023年3月10日初版
== 関連項目 ==
* [[台与]]
* [[倭・倭人関連の中国文献]]
* [[倭・倭人関連の朝鮮文献]]
* [[倭国大乱]]
* [[倭国造]]
* [[弥生時代]]
* [[弥生時代の主な出来事]]
* [[西求女塚古墳]]
* [[公孫淵]]
* [[司馬懿]]
* [[多氏]]
* [[卑弥弓呼]]
* [[庵戸宮]]
* [[箸墓古墳]]
* [[纏向遺跡]]
* [[神功皇后]]
* [[ヒミコ (天体)]]
* [[光岡・ヒミコ]]
* [[卑弥弓呼]]
== 外部リンク ==
{{Commons Category|Himiko}}
* [http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/4643_11096.html 卑彌呼考 内藤湖南]、青空文庫
{{魏志倭人伝}}
{{DEFAULTSORT:ひみこ}}
[[Category:卑弥呼|*]]
[[Category:日本の君主]]
[[Category:邪馬台国女王]]
[[Category:2世紀日本の女性]]
[[Category:3世紀日本の女性]]
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[[Category:2世紀アジアの君主]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC |
2,449 | ネルソンスーパープロジェクト | ネルソンスーパープロジェクト (Nelson Super Project) は、1998年に山下達郎のライブツアー「Performance '98-'99」のバックバンドとして集まった9人のミュージシャンが意気投合し、結成されたバンド。
ライブを中心に活動していたが、2002年にアルバムを製作。メンバーの三谷泰弘の公式サイトを通じて発売するまでに至る。
プロジェクト名の「ネルソン」は、ドミニカ出身で小人症の俳優ネルソン・デ・ラ・ロッサ(英語版)から採られているが、これはツアー中メンバーの佐々木久美が以前テレビで見た「世界で一番背の小さいネルソンさん」の話をしたところ、バンドメンバー内でその話が大盛り上がりとなり、これをきっかけにバンドの結束が高まったというエピソードに由来するものである。
2001年に行なわれた竹内まりやの18年ぶりのコンサートにも参加しており(その時はこのメンバー+バンドマスターである山下達郎)、山下・竹内夫妻との縁は深い。
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ライブを中心に活動していたが、2002年にアルバムを製作。メンバーの三谷泰弘の公式サイトを通じて発売するまでに至る。
プロジェクト名の「ネルソン」は、ドミニカ出身で小人症の俳優ネルソン・デ・ラ・ロッサ([[:en:Nelson_de_la_Rosa|英語版]])から採られているが、これはツアー中メンバーの佐々木久美が以前テレビで見た「世界で一番背の小さいネルソンさん」の話をしたところ、バンドメンバー内でその話が大盛り上がりとなり、これをきっかけにバンドの結束が高まったというエピソードに由来するものである。
2001年に行なわれた[[竹内まりや]]の18年ぶりのコンサートにも参加しており(その時はこのメンバー+バンドマスターである山下達郎)、山下・竹内夫妻との縁は深い。
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==メンバー==
* [[青山純]](ドラムス)
* [[伊藤広規]](ベース)
* [[佐橋佳幸]](エレクトリック・ギター&アコースティック・ギター)
* [[難波弘之]](キーボード)
* [[重実徹]](キーボード)
* [[土岐英史]](アルトサックス&ソプラノサックス)
* [[佐々木久美 (ミュージシャン)|佐々木久美]](リードヴォーカル、バックグラウンドヴォーカル、ハモンドオルガン)
* [[国分友里恵]](リードヴォーカル&バックグラウンドヴォーカル)
* [[三谷泰弘]](リードヴォーカル、バックグラウンドヴォーカル、パーカッション)
==ディスコグラフィー==
* Nelson Magic(2002年)(廃盤)
**【収録曲】
***M-01. We Are Nelson (A Cappella)
***M-02. Our Music
***M-03. 浮気なルナ
***M-04. Oasis
***M-05. “T”
***M-06. Love Grows
***M-07. We Are Nelson
***M-08. Lesson#1
***M-09. I can Say I Love You
***M-10. さよならが言えない
***M-11. Dadly
* Nelson Magic DELUXE Editon(2008年10月8日)
**UICZ-4186 CD([[スーパー・ハイ・マテリアルCD|SHM-CD]]仕様)+ DVD 3,000円(税込)
**【収録曲】
***M-01. We Are Nelson (A Cappella)
***M-02. Our Music
***M-03. 浮気なルナ
***M-04. Oasis
***M-05. “T”
***M-06. Love Grows
***M-07. We Are Nelson
***M-08. Lesson#1
***M-09. I can Say I Love You
***M-10. さよならが言えない
***M-11. Dadly
***CDボーナス・トラック:
****M-12. On Matrix(重実徹のInstrumental楽曲)Live at STB139
****M-13. Work To Do([[アイズレー・ブラザーズ]]のカバー)Live at STB139
****M-14. [[LET'S DANCE BABY|Let's Dance Baby]](山下達郎のカバー)Live at STB139
***DVDボーナス・ディスク:ライヴ+レコーディング時オフショット(計32分)
****「Lesson #1」(Nelsonオリジナル)Live at 京都RAG
****「Dadly」(Nelsonオリジナル)Live at 京都RAG
****「[[THANK YOU (スターダストレビューのアルバム)|Thank You]]」([[スターダストレビュー]]のカバー) Live at 京都RAG
* Nelson Motown +(2008年10月29日)
**UICZ-4185(SHM-CD仕様) 3,000円 (税込)
**【収録曲】
***M-01. Dancing In The Street (Original Performance:Martha Reeves & The Vandella)
***M-02. Ain't No Mountain High Enough (スペシャル・ゲスト:竹内まりや) (Original Performance:Marvin Gaye Tammi Terrell)
***M-03. I'm Gonna Make You Love Me (Original Performance:The Supremes & Temptations)
***M-04. 夜を追いかけて (オリジナル新曲)
***M-05. Have A Good Time (オリジナル新曲)
***M-06. What Becomes Of The Brokenhearted (Original Performance:Jimmy Ruffin)
***M-07. Never Can Say Goodbye (Original Performance:Jackson 5)
***M-08. Signed, Sealed, Delivered I'm Yours (Original Performance:Stevie Wonder)
***M-09. [[悲しいうわさ|I Heard It Through The Grapevine]] (Original Performance:Marvin Gaye)
***M-10. It's A Shame (Original Performance:The Spinners)
***M-11. [[マーシー・マーシー・ミー|Mercy Mercy Me (THE ECOLOGY)]] (Original Performance:Marvin Gaye)
***M-12. I'll Be There (Original Performance:Jackson 5)
***M-13. Get Ready (Original Performance:Rare Earth)
==外部リンク==
* [http://www.esqlink.com/nelson/ 公式ページ]
* [http://www.universalmusicworld.jp/nsp/index.html ユニバーサル・ミュージックのページ]
{{デフォルトソート:ねるそんすうはあふろしえくと}}
[[Category:日本の音楽バンド]]
[[Category:山下達郎]]
[[Category:1998年に結成した音楽グループ]]
[[Category:9人組の音楽グループ]] | null | 2022-08-05T18:23:36Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88 |
2,450 | 15世紀 | 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。
ヨーロッパでは1453年、オスマン帝国により東ローマ帝国が滅ぼされ、古代から続いてきたローマ帝国は完全に滅亡した(これを以て「中世の終わり」とする場合がある)。オスマン帝国の勢力が拡大し地中海の交易を支配すると、15世紀中頃から新たな交易ルートの開拓を目指して、ポルトガル・スペインを中心に航海ブームが起き、大航海時代に突入した。1492年、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到達すると大きな転機となり、ヨーロッパ諸国はしのぎを削って新大陸への進出を開始することとなる。
またフィレンツェ・ミラノ・ヴェネツィア・ローマ・ナポリの連携によるローディの和約はイタリア半島の安定をもたらし、哲学・科学・芸術などにおけるルネサンス文化は各地で発展が見られた。その影響はアルプス以北の西ヨーロッパ諸国にも及び北方ルネサンスが形成された(イタリア・ルネサンス年表も参照のこと)。
石炭がエネルギー源、暖房用として大変重要になった。
室町時代の中期にあたる。応仁の乱(1467年)、または明応の政変(1493年)以後は戦国時代に区分される場合もある。戦国時代には室町幕府権力の著しい低下、幕府と守護の体制の崩壊などにより、戦国大名の乱立が起き全国動乱の時代に突入した。この動乱は約1世紀に渡り続くことになる。 | [
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[[ファイル:Columbus_Taking_Possession.jpg|right|thumb|250px|大航海時代。[[大西洋]]を渡り[[新世界]]に到達したコロンブス。]]
[[ファイル:80 - Machu Picchu - Juin 2009 - edit.jpg|right|thumb|250px|[[マチュ・ピチュ]]遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造された[[インカ帝国]]の技術の高さを反映している。]]
[[ファイル:Sun stone detail.JPG|right|thumb|250px|[[太陽の石]]。1479年に[[アステカ帝国]]皇帝[[アシャヤカトル]]が現[[メキシコシティ]]の中央広場の位置に奉献したもの([[メキシコ国立人類学博物館]]蔵)。]]
[[ファイル:Mississippian Underwater Panther ceramic.JPG|right|thumb|250px|後期[[ミシシッピ文化]]。北アメリカでは1450年代には[[カホキア]]遺跡にみられる巨大建築物マウンドでの祭祀が停滞し、社会が大きく変容した。画像はこの時代に作られた中空土器の水差しで、神話上の水中豹を表している([[アーカンソー州]]クロス郡出土)。]]
[[ファイル:Le livre des merveilles de Marco Polo-pepper.jpg|right|thumb|250px|[[香辛料]]の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『[[世界の記述]](東方見聞録)』の挿絵で、インドでの[[胡椒]]採収が取り上げられている。]]
[[ファイル:Painéis de São Vicente3.jpg|thumb|right|200px|[[エンリケ航海王子]]。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。[[サグレス]]に設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「[[サン・ヴィセンテの祭壇画]]」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子とされているが異論もある。]]
[[ファイル:GreatMosque.jpg|thumb|right|200px|インド洋の活況。東アフリカ沿岸部では[[キルワ王国]]などイスラム諸王朝がインド洋航路を保持し、それに伴い中国の明やポルトガルの船も姿を現していた。画像は[[キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群|キルワの大モスク跡]]。]]
[[ファイル:Ulugh Beg observatory 3.JPG|right|thumb|220px|[[サマルカンド]]近郊の[[ウルグ・ベク天文台]]。[[ティムール朝]]の君主[[ウルグ・ベク]]は天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。]]
[[File:Yusef Zuleykha.jpg|thumb|right|220px|[[ビフザード]]。ティムール朝からサファヴィー朝の[[ヘラート]]で活躍した細密画家で、その巧緻な技術で「第二のマニ」とも呼ばれている。画像は[[サアディー]]『[[果樹園]]』の[[ユースフ (クルアーン)|ユースフ]]とズライハ」の挿絵。]]
[[ファイル:Benjamin-Constant-The Entry of Mahomet II into Constantinople-1876.jpg|right|thumb|210px|[[コンスタンティノープルの陥落|コンスタンティノポリスの陥落]]。オスマン帝国の[[メフメト2世]]の占領により、1000年以上続いてきた[[東ローマ帝国]]はここに滅亡した。画像は[[ジャン=ジョセフ・バンジャマン=コンスタン]]の歴史画([[トゥールーズ]]の[[オーギュスタン美術館]]蔵)。]]
[[ファイル:Andrej Rublëv 001.jpg|right|thumb|210px|ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「[[タタールの軛]]」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派の[[イコン]](聖画像)で[[アンドレイ・ルブリョフ]]の「[[至聖三者]]」([[モスクワ]]の[[トレチャコフ美術館]]蔵)。]]
[[ファイル:Jan Matejko, Bitwa pod Grunwaldem.jpg|thumb|right|280px|[[タンネンベルクの戦い (1410年)|グルンヴァルトの戦い]](タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍が[[ドイツ騎士団]]を破り、[[東方植民]]の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家[[ヤン・マテイコ]]の歴史画([[ワルシャワ国立美術館]]蔵)。]]
[[ファイル:Johannes de Thurocz 164 Cod Pal germ 156 Chronica Hungarorum.jpg|thumb|right|210px|[[マーチャーシュ1世 (ハンガリー王)|正義王マーチャーシュ]]。ハプスブルク家に勝って領土の保全に力を尽くし、ルネサンス文化を導入して黄金期の立役者となった賢君。画像は『{{仮リンク|ハンガリー年代記|en|Chronica Hungarorum}}』の挿絵に描かれた正義王。]]
[[ファイル:Czech-2013-Prague-Astronomical clock face.jpg|thumb|right|220px|ヨーロッパの機械式時計。中世末期には歯車や脱進機の性能が向上し各地に大規模な時計が作られた。画像は「プラハのオルレイ」と呼ばれる[[プラハの天文時計|天文時計]]で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。]]
[[ファイル:Konstanzer Richental Chronik Verbrennung des Magisters Johannes Hus 58r.jpg|right|thumb|220px|[[プラハ大学]]学長[[ヤン・フス]]の火刑。[[コンスタンツ公会議]]の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。]]
[[ファイル:Joan of Arc miniature graded.jpg|thumb|right|210px|オルレアンの乙女[[ジャンヌ・ダルク]]。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが[[魔女裁判]]で火刑に処せられた。画像は15世紀に描かれたジャンヌの肖像の[[ミニアチュール]]([[フランス国立中央文書館]]蔵)。]]
[[ファイル:Choosing the Red and White Roses.jpg|thumb|right|210px|[[薔薇戦争]]。百年戦争に敗北したイングランドでは続いて薔薇戦争が起こった。画像は{{仮リンク|ヘンリ・ペイン|en|Henry Payne (artist)}}の歴史画で、ヨーク公リチャードが白薔薇を、サマセット公エドムンドが赤薔薇を選んでいる([[バーミンガム]]市美術館)。]]
[[ファイル:Champion des dames Vaudoises.JPG|thumb|right|210px|[[魔女]]のイメージの拡散。15世紀には魔女のイメージが変容して、「キリスト教徒の敵」としての位置づけがなされるようになり、[[異端審問]]官が介入する[[魔女裁判]]がしばしば行われた。画像は棒や箒にまたがった魔女図像の最初期のもので{{仮リンク|マルタン・ル・フラン|fr|Martin Le Franc}}の長編詩『女性の擁護者』の写本(1451年頃)より。]]
[[ファイル:Gutenberg Bible B42 Genesis.JPG|thumb|right|210px|[[活版印刷]]の始まり。ドイツの[[マインツ]]の技術者[[ヨハネス・グーテンベルク]]の発明が世界の情報を大きく変革した。画像は[[ベルリン]]国立図書館所蔵の『[[グーテンベルク聖書|グーテンベルク聖書(42行聖書)]]』の「[[創世記]]」。]]
[[ファイル:Nuremberg chronicles - Nuremberga.png|thumb|right|300px|帝国都市[[ニュルンベルク]]。神聖ローマ皇帝の滞在地として、[[帝国議会]]の開催地として、[[宗教改革]]が起こるまで繁栄の時代が続いた。画像は1493年に出版されたハルトマン・シェーデル『[[ニュルンベルク年代記]]』の挿絵に描かれた都市ニュルンベルクの眺望。]]
[[ファイル:Eyck madonna rolin.jpg|thumb|right|210px|『[[中世の秋]]』。歴史家[[ホイジンガ]]はこの題名でこの時代の[[ブルゴーニュ公国]]の歴史を描いた。画像は[[ヤン・ファン・エイク]]の「[[宰相ロランの聖母]]([[ルーヴル美術館]]蔵)」。{{仮リンク|ニコラ・ロラン|en|Nicolas Rolin}}はこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュの[[オータン]]の風景が広がる。]]
[[ファイル:Santa Maria del Fiore - 0968.jpg|300px|right|thumb|[[フィレンツェ共和国]]の繁栄。画像は[[フィリッポ・ブルネレスキ|ブルネレスキ]]の巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会([[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂]])」。]]
[[ファイル:Angel Appearing to Zacharias (detail) - 1486-90.JPG|thumb|right|260px|[[人文主義者]]たち。古典古代への憧れが人文主義を育み、数多くの学者や著作家を生み出した。画像は[[ドメニコ・ギルランダイオ]]の「神殿のザカリアス(サンタ・マリア・ノヴェッラ教会トルナブオーニ礼拝堂壁画)」に描かれた[[マルシリオ・フィチーノ]]ら人文主義者たち。]]
[[ファイル:Botticelli-primavera.jpg|300px|right|thumb|[[ボッティチェリ]]の「春([[プリマヴェーラ]])」。[[メディチ家]]などの文化支援活動に支えられて[[ルネサンス]]文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神[[ウェヌス]](ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる([[ウフィッツィ美術館]]蔵)。]]
[[ファイル:La Rendición de Granada - Pradilla.jpg|thumb|right|250px|[[レコンキスタ]]の完了。[[カトリック両王]]([[カスティーリャ]]女王[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル]]と[[アラゴン]]王[[フェルナンド]])によりイベリア半島のイスラム系王朝支配は終わった。画像はフランシスコ・プラディリャ・オルティスの歴史画「[[グラナダ]]征服」([[スペイン上院]]蔵)。]]
[[ファイル:Lodhi Garden - Muhammed Shah's Tomb.jpg|thumb|right|250px|[[サイイド朝]]から[[ローディー朝]]へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーの[[ローディー・ガーデン]]内にあるサイイド朝の君主[[ムハンマド・シャー]]の霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。]]
[[ファイル:Templo Phra Si Sanphet, Ayutthaya, Tailandia, 2013-08-23, DD 17.jpg|210px|right|thumb|[[アユタヤ王朝|アユタヤ朝]]の発展。[[スコータイ朝]]に代わり[[タイ王国|タイ]]を支配したアユタヤ朝は[[上座部仏教]]を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残る[[ワット・プラ・シーサンペット]]で、1448年に[[ボーロマトライローカナート]]王により建立された寺院である。]]
[[ファイル:TuahNatlHistoryMuseumKL.jpg|right|thumb|200px|[[マラッカ王国]]と大交易時代。中国の明や東南アジア諸国そしてポルトガルを惹きつけたのがこの時代随一の[[港市国家]]となったマラッカである。画像はマラッカ王国のスルタン・{{仮リンク|マンスール・シャー|en|Mahmud Shah of Malacca}}に仕え、この国の黄金時代を支えたマレー人の国民的英雄{{仮リンク|ハン・トゥア|en|Hang Tuah}}のブロンズ像。]]
[[ファイル:Great Wal at Mutianyu.jpg|260px|right|thumb|[[万里の長城]]。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「[[慕田峪長城]]」と名付けられた長城で[[北京市]]の北東に位置するもの。]]
[[ファイル:Portrait assis de l'empereur Ming Chengzu.jpg|thumb|right|200px|明の[[永楽帝]]。[[靖難の変]]により甥の[[建文帝]]から帝位を奪うと都を根拠地の[[北京]]に定めた。漠北への五度の親征や、宦官[[鄭和]]を派遣しての南海大遠征を通じて明の威光を周辺諸国に知らしめた傑出した君主であった。]]
[[ファイル:Tribute Giraffe with Attendant.jpg|180px|right|thumb|[[鄭和]]の南海大遠征。[[永楽帝]]は[[明]]の国威を示すため、大艦隊を[[インド洋]]沿岸に派遣した。画像は[[ベンガル]]から[[朝貢]]された[[キリン]]を描いた「[[瑞応麒麟図]]」。]]
[[ファイル:Bian Wenjin, Three Friends and a Hundred Birds.jpg|thumb|right|180px|明代の宮廷画家たち。明の初期には宮廷画家が画壇の中心となり、写実的な巧緻さを保ちつつ絢爛で装飾的な画風を確立した。画像は1413年に描かれた{{仮リンク|辺文進|zh|边景昭}}の「三友百禽図」([[台湾]][[紫禁城#故宮博物院|故宮博物院]]蔵)。]]
[[ファイル:Detail of The Emperor's Approach, Xuande period.jpg|220px|right|thumb|「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北[[国立故宮博物院]]蔵)。]]
[[ファイル:Former Shuri Castle Seiden Bell2.jpg|thumb|right|220px|[[万国津梁の鐘]]。1458年に[[琉球王国]]の[[尚泰久王]]が鋳造させた釣鐘で、「舟楫を以て万国の津梁となす」と刻まれた銘文は海洋国家琉球の気概を示すものとして名高い。現在は[[沖縄県立博物館・美術館]]に展示されている。]]
[[ファイル:Hyônen zu by Josetsu.jpg|220px|right|thumb|[[如拙]]「[[瓢鮎図]]」。禅宗の流入は「[[五山文学]]」や「舶来[[唐物]]」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍[[足利義持]]の命で描かれた[[水墨画]]で数多くの禅僧の画讃がつけられている。[[京都]][[妙心寺]]塔頭退蔵院の所蔵。]]
[[ファイル:Ashikaga Yoshinori.jpg|thumb|right|220px|「万人恐怖」。籤引きにより六代将軍に選ばれた[[足利義教]]は強権的な政治を行い「万人恐怖」と恐懼された。しかしそれが仇となって[[赤松満祐]]による[[嘉吉の乱]]で非業の死を迎えることになる。画像は愛知県妙興寺にある将軍義教の肖像画。]]
[[ファイル:Ginkakuji-M1981.jpg|220px|right|thumb|[[慈照寺]]銀閣。室町将軍足利義政は[[応仁の乱]]を引き起こすなど政治的才覚に欠けたが、東山山荘に隠棲してわびさびの[[東山文化|文化]]を極めた。将軍義政が賞翫した蒐集品は「[[東山御物]]」として珍重されることになる。]]
[[ファイル:Shinnyodō engi, vol.3 (part).jpg|300px|right|thumb|[[応仁の乱]]。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え[[下剋上]]の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」([[真正極楽寺]]蔵)。]]
[[ファイル:Ryoan-ji National Treasure World heritage Kyoto 国宝・世界遺産 龍安寺 京都25.JPG|thumb|right|250px|[[枯山水]]の庭。応仁の乱で東軍の総帥を務めた管領[[細川勝元]]は深く禅宗に帰依し、1450年に京都北西[[衣笠山 (京都府)|衣笠山]]山麓に創建したのが[[竜安寺]]である。この方丈庭園は禅の思想に基づくもので、1500年頃までに現在の形になったと伝える。]]
[[File:Portrait of Ikkyū Sōjun.jpg|thumb|right|250px|[[一休宗純]]。[[後小松天皇]]の落胤との出自に加え、五山の禅風に対する苛烈な批判精神と奇行で、一休宗純はこの時代きっての禅者として評価が高い。詩文を能くし『[[狂雲集]]』などでも有名である。画像は東京国立博物館所蔵の一休宗純の[[頂相]]。]]
'''15世紀'''(じゅうごせいき)とは、[[西暦]][[1401年]]から西暦[[1500年]]までの100年間を指す[[世紀]]。
== 15世紀の歴史 ==
=== 世界 ===
[[ヨーロッパ]]では1453年、[[オスマン帝国]]により[[東ローマ帝国]]が滅ぼされ、[[古代]]から続いてきた[[ローマ帝国]]は完全に滅亡した(これを以て「[[中世]]の終わり」とする場合がある)。オスマン帝国の勢力が拡大し[[地中海]]の交易を支配すると、15世紀中頃から新たな交易ルートの開拓を目指して、[[ポルトガル]]・[[スペイン]]を中心に[[航海]]ブームが起き、'''[[大航海時代]]'''に突入した。1492年、[[クリストファー・コロンブス]]が[[アメリカ大陸]]に到達すると大きな転機となり、ヨーロッパ諸国はしのぎを削って[[新大陸]]への進出を開始することとなる。
また[[フィレンツェ]]・[[ミラノ]]・[[ヴェネツィア]]・[[ローマ]]・[[ナポリ]]の連携による[[ローディの和|ローディの和約]]はイタリア半島の安定をもたらし、[[哲学]]・[[科学]]・[[芸術]]などにおける[[ルネサンス]][[文化_(代表的なトピック)|文化]]は各地で発展が見られた。その影響は[[アルプス山脈|アルプス]]以北の[[西ヨーロッパ]]諸国にも及び'''[[北方ルネサンス]]'''が形成された([[イタリア・ルネサンス年表]]も参照のこと)。
[[石炭]]がエネルギー源、暖房用として大変重要になった<ref>[[サイモン・ウィンチェスター]]著、[[野中邦子]]訳『世界を変えた地図 -ウィリアム・スミスと地質学の誕生-』早川書房 2004年 65ページ</ref>。
=== 日本 ===
[[室町時代]]の中期にあたる。[[応仁の乱]](1467年)、または[[明応の政変]](1493年)以後は'''[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]'''に区分される場合もある。戦国時代には[[室町幕府]]権力の著しい低下、幕府と[[守護]]の体制の崩壊などにより、[[戦国大名]]の乱立が起き全国動乱の時代に突入した。この動乱は約1世紀に渡り続くことになる。
== できごと ==
=== 1400年代 ===
{{main|1400年代}}
* 1401年
** [[足利義満]]により土御門内裏([[土御門東洞院殿]])の修繕拡張が始まり、諸国に造内裏段銭を課する。
** 足利義満が[[肥富|肥富某]]・[[祖阿|僧祖阿]]らを[[明]]に派遣する。足利義満が[[李氏朝鮮]]に使いを派遣する。
** 李氏朝鮮の[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]が中国の[[明]]より[[封号|朝鮮国王]]として[[冊封]]を授かり、王を名乗る事を正式に認められる。
** [[ティムール]]の[[ダマスカス]]占領・[[バグダード]]占領。
*** ダマスカスとの和平交渉でティムールと歴史家[[イブン・ハルドゥーン]]が会見。
** [[フィレンツェ]]の[[サン・ジョヴァンニ洗礼堂]]青銅扉の作成競技で[[ロレンツォ・ギベルティ|ギベルティ]]が優勝する。
** [[セビリア]]大聖堂の建設始まる( - [[1519年]])。
* 1402年
** [[アンカラの戦い]]で[[ティムール]]が[[オスマン帝国]]の[[バヤズィト1世]]を破る。
** 明の燕王が[[建文帝]]を倒して第3代[[永楽帝|成祖永楽帝]]として即位。
** 足利義満が中国の明より[[日本国王]]として[[冊封]]を授かり、王を名乗る事を正式に認められる。
** [[スマトラ島]]の[[シュリーヴィジャヤ王国|シュリーヴィジャヤ]]王室の{{仮リンク|パラメスワラ|en|Parameswara (king)}}王子が[[マラッカ王国]]を建国。
* 1403年
** 明の永楽帝が北平を都に定め[[北京]](順天府)と改称。
** フランス軍に包囲され[[対立教皇]][[ベネディクトゥス13世 (対立教皇)|ベネディクトゥス13世]]が[[アヴィニョン]]を退去。
* 1404年
**[[明]]の[[永楽帝]]が中山王[[武寧]]に[[琉球冊封使の一覧|冊封使]]を遣わす。
**[[日明貿易]](勘合貿易)始まる。
**[[カスティーリャ]]の外交官[[ルイ・ゴンザレス・デ・クラビホ]]が[[サマルカンド]]の[[ティムール]]を訪問する。
* 1405年
** 明への遠征途上の[[オトラル]]で[[ティムール]]が病没。
** 明の成祖永楽帝の命による[[鄭和]]の第1回南海遠征( - 1407年)。
** [[ヴェネツィア]]が[[パドヴァ]]を併合する。
* 1406年
** [[ベトナム]]の[[胡朝]]が崩壊し明へ下る。
** [[紫禁城]]の建設始まる。
** 中山王武寧を倒した[[尚巴志王|尚巴志]]が父の[[尚思紹王|尚思紹]]を王位に就ける(第一尚氏王統の成立)。
* 1407年
** パリで[[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|オルレアン公ルイ]]が[[ブルゴーニュ公]][[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン(無畏公)]]の配下によって[[暗殺]]される。
** 鄭和の艦隊がインドの[[コーリコード]](カリカット)に到着する。
** 足利義満[[正室]][[日野康子]]([[後小松天皇]][[准母]])が[[准三宮]]となり、女院([[北山院]])となる。
** 朝鮮で[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]の仏教弾圧(斥仏揚儒)。
* 1408年
** 「[[永楽大典]]」が成立する。
** 足利義満死去。朝廷から「[[太上天皇]]」の尊号を贈られるが、幕府はこれを辞退。
* 1409年
** [[ピサ教会会議]]。
** [[ツォンカパ]]により[[ガンデン寺]]が創建される。
** [[プラハ大学]]の[[チェコ人]]優遇策に反発したドイツ人教員・学生が辞職。
*** これら教員・学生を受け入れるために[[マイセン辺境伯]]フリードリヒ4世が[[ライプツィヒ大学]]を創建。
=== 1410年代 ===
{{main|1410年代}}
* 1410年
** [[タンネンベルクの戦い (1410年)|グルンヴァルド(タンネンベルク)の戦い]]、[[ポーランド王国]]が[[ドイツ騎士団]]を破る。
** 鄭和の艦隊と[[セイロン]]のライガマ王国軍が交戦、鄭和は国王アラカイスワラらを捕虜とする。
** [[南禅寺]]で[[太白真玄]]等十四名賛「[[芭蕉夜雨図]]([[東京国立博物館]]蔵)」が描かれる。
* 1411年
** 将軍足利義持が明使の入京拒否し国交断絶( - 1432年)。
** [[グジャラート・スルターン朝]]のアフマド・シャー1世が[[アフマダーバード]]を都に定める。
* 1412年
** [[後小松天皇]]が譲位し、第101代[[称光天皇]]が即位。
** ローマ派の教皇[[グレゴリウス12世]]が[[リミニ]]に逃亡。
** [[カスペの妥協]]。
* 1413年
** [[アムール川]]河口の奴児干(ヌルガン)に派遣された明の女真人宦官亦失哈(イシハ)が石碑「奴児干永寧寺碑記」を建てる。
** パリで{{仮リンク|カボシュの反乱|fr|Révolte des Cabochiens}}。
* 1414年
** [[コンスタンツ公会議]]始まる( - 1418年)。
** イングランドで[[オールドカースルの乱]]。
** マラッカ王国で{{仮リンク|イスカンダル・シャー|en|Megat Iskandar Shah of Malacca}}が即位。この時期までにマラッカ王国はイスラム教に改宗する。
* 1415年
** [[アジャンクールの戦い]]。
** ポルトガルの[[セウタ]]攻略。
** 宗教改革者[[ヤン・フス]]の火刑。
** [[ホーエンツォレルン家]]の[[フリードリヒ1世 (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ1世]]が世襲の[[ブランデンブルク選帝侯]]位を獲得。
** 鄭和の艦隊が[[ホルムズ]]に到着。
* 1415年以前
** [[如拙]]の「[[瓢鮎図]]([[妙心寺]]塔頭退蔵院蔵)」が描かれる。
* 1416年
** エンリケ航海王子が[[サグレス]]一帯に「王子の村」を建設し航海学校を開設。
** [[サヴォイア公国]]が成立。
** 京都の北山大塔が落雷で炎上する。
** [[上杉禅秀の乱]]。
* 1417年
** イングランドで[[ロラード派]]の[[ジョン・オールドカースル]]が処刑される。
** コンスタンツ公会議で「{{仮リンク|フレクエンス|de|Frequens}}」が採択され、新教皇に[[マルティヌス5世]]を選出。
** [[ポッジョ・ブラッチョリーニ]]がドイツの[[フルダ]]修道院にて古代ローマの著作家[[ルクレティウス]]の『物の本質について』を発見する。
* 1418年
** 鄭和の艦隊の分団が東アフリカの[[マリンディ]]に到達。
** 将軍足利義持の弟[[足利義嗣|義嗣]]が謀反の疑いで殺害される。
** [[ブルゴーニュ派]]のパリ制圧、[[アルマニャック派]]は王太子シャルルとともにパリから逃亡。
* 1419年
** [[応永の外寇]]。
** ポルトガルの[[マデイラ諸島]]発見。
** モントロー会議で、{{仮リンク|ブルゴーニュ公ジャンが暗殺される|en|Assassination of John the Fearless}}。
*** [[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ]]がブルゴーニュ公を継ぎ、宮廷は[[ディジョン]]から[[ブリュッセル]]に遷される。
** [[プラハ窓外投擲事件|第一次プラハ窓外投擲事件]]により[[フス戦争]]が勃発( - [[1439年]])。
=== 1420年代 ===
{{main|1420年代}}
* 1420年
** [[トロワ条約]]の締結。
*** イングランド王ヘンリー5世のフランス王位継承権が認められ、フランス王太子シャルルの王位継承権が否定される。
** [[ティムール朝]][[ギヤースッディーン・ナッカーシュ]]の遣明使節団が永楽帝に会見する。
** 明で宦官による特務警察の[[東廠]]が設置される。北京に[[天壇]]が設置される。
* 1421年
** 明の永楽帝が北平を[[北京市|北京]]と改名し正式に遷都する。
* 1422年
** [[雲南省|雲南]]地方で麓川の乱。
** イングランド王ヘンリー5世と、フランス王シャルル6世が相次いで死去。
*** イングランド王ヘンリー6世が、イングランド・フランス共通の君主に選出される。
** [[アスカーニエン家]]が断絶し、[[ヴェッティン家]]の[[フリードリヒ1世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ1世]]が[[ザクセン選帝侯]]を継承。
** [[ロマ]]の集団がイタリアの[[ボローニャ]]に出現する。
* 1423年
** [[足利義量]]が[[室町幕府]]第5代[[征夷大将軍|将軍]]となる。
** [[世宗 (朝鮮王)|世宗]]が朝鮮最初の[[銅銭]]「[[朝鮮通宝]]」の鋳造を開始。
* 1424年
** 明の[[洪熙帝]]が第4代皇帝に即位。
** 朝鮮で[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の仏教弾圧(斥仏揚儒の始まり)。
* 1425年
** 明の[[宣徳帝]]が第5代皇帝に即位。
** 将軍足利義量が死去、先代将軍であり父の足利義持が職務を代行。
* 1426年
** 明の宣徳帝の叔父漢王[[朱高煦]]が反乱を起こすが鎮圧される。
** イングランドで[[バット議会|棍棒議会]]。[[ヘンリー・ボーフォート (枢機卿)|ボーフォート]]枢機卿がローマに亡命。
* 1428年
** 足利義持死去、弟の[[青蓮院]][[門跡]]義円が足利義宣と還俗し将軍候補に内定する(籤引き将軍)。
** 称光天皇が死去し、[[伏見宮家]]から第102代[[後花園天皇]]が即位。伊勢国司[[北畠満雅]]の乱。
** [[正長の土一揆]]([[柳生の徳政碑文]]が刻まれる)。
** ベトナムのドンドー(東都、現[[ハノイ]])にて[[黎利]]が[[黎朝]]を建国。
* 1429年
** 足利義宣が改名し、[[足利義教]]として、室町幕府第6代将軍となる。
** [[大和永享の乱]]。
** 中山王[[尚巴志王|尚巴志]]が三山統一して[[琉球王国]]が成立する。
** ティムール朝君主[[ウルグ・ベク]]が[[サマルカンド]]に天文台を建設。
** [[ジャンヌ・ダルク]]が[[シノン]]城に出現、[[オルレアン]]を解放し、[[パテーの戦い]]に勝利。[[ランス大聖堂]]にてフランス王[[シャルル7世]]の戴冠。
=== 1430年代 ===
{{main|1430年代}}
* 1430年
** [[コンピエーニュ包囲戦]]で、ジャンヌ・ダルクが捕虜となる。
** ブルゴーニュ公フィリップにより[[金羊毛騎士団]]が設立される。
* 1431年
** [[バーゼル公会議]]。
** [[アゾレス諸島]]発見。
** [[ルーアン]]にてジャンヌ・ダルクが処刑される。
** [[アユタヤ朝]]により[[クメール王朝|クメール朝]]の都[[アンコール遺跡|アンコール]]が陥落する。
** [[但馬国|但馬]]守護[[山名宗全]]が配下の[[太田垣氏|太田垣光景]]に命じて[[竹田城]]を築かせる。
* 1432年
** [[ヤン・ファン・エイク|ファン・エイク兄弟]]による[[ヘントの祭壇画]]が完成する。
** 鄭和の艦隊の分団が[[ラスール朝]]支配の[[アデン]]から[[メッカ]]に到達。
** 足利義教により宣徳条約が結ばれ、[[日明貿易]]が復活する。
** [[関東管領]][[上杉憲実]]が[[足利学校]]を再興する。
* 1434年
** [[コジモ・デ・メディチ]]が[[フィレンツェ]]における支配権を確立( - 1494年)。
** [[リパニの戦い]]で、[[ウトラキスト]](穏健派フス派)が、[[ターボル派]](過激派フス派)を破り、ボヘミアが統一される。
** [[ジル・エアネス]]率いるポルトガル艦隊が{{仮リンク|ボハドル岬|en|Cape Bojador}}(ボジャドル岬)を通過。
** [[世阿弥]]が[[佐渡島]]に流される。
* 1435年
** [[スウェーデン]]のアルボガでエンゲルブレクト・エンゲルブレクトソンが身分制議会を開催。
*** デンマーク支配に反発し、スウェーデンは一時的に[[カルマル同盟]]を脱する。
** [[アラスの和約 (1435年)|アラスの和約]]でフランス王とブルゴーニュ公が和解。
** [[ナポリ]]女王[[ジョヴァンナ2世 (ナポリ女王)|ジョヴァンナ2世]]死去により、アンジュー王家とアラゴン王家が王位を争う。
** 明の[[英宗 (明)|英宗正統帝]]が第6代皇帝に即位。
* 1436年
** フィレンツェの[[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂]]が奉献される。
** シャルル7世率いるフランス軍が[[パリ]]をイングランド軍から奪回する。
* 1437年
** [[フィレンツェ公会議|フェラーラ公会議]]。
** 神聖ローマ皇帝[[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]が死去し、ルクセンブルク家が断絶。
*** ハプスブルク家出身の娘婿[[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルプレヒト2世]]がローマ王(ドイツ王)となる。
** ポルトガル王[[ドゥアルテ1世 (ポルトガル王)|ドゥアルテ1世]]の[[タンジェ]]遠征。
*** [[フェズ]]のワッタース家のアブー・ザカリヤーに撃退され、王弟[[フェルナンド聖王子|フェルナンド]]が捕虜となる。
* 1438年
** [[パチャクテク]]が[[サパ・インカ]](皇帝)として即位し、[[クスコ王国]]は[[インカ帝国]]に再編される。
* 1439年
** [[フィレンツェ公会議]]。
** フランス議会が{{仮リンク|ブールジュの国本勅諚|fr|Pragmatique Sanction de Bourges}}を採択。
** {{仮リンク|グロトニキの戦い|en|Battle of Grotniki}}で、ポーランド軍がフス派残党を壊滅させ、フス戦争終結。
** [[二十一代集]]の最後にあたる[[勅撰和歌集]]『[[新続古今和歌集]]』が成立する。
=== 1440年代 ===
{{main|1440年代}}
* 1440年
** [[結城合戦]]。
** 日蓮宗の僧[[日親]]が将軍足利義教に投獄され、[[本法寺 (京都市)|本法寺]]が破却される。
** 人文主義者[[ロレンツォ・ヴァッラ]]が『「[[コンスタンティヌスの寄進状]]」を論ず』を執筆。
** [[ニコラウス・クザーヌス]]が『{{仮リンク|学識ある無知|en|De Docta Ignorantia}}』を執筆。
** フランスで[[プラグリーの乱]]。
** イングランドの[[イートン・カレッジ]]が創設される。
* 1441年
** [[赤松満祐]]により将軍足利義教が殺害され、[[嘉吉の乱]]が勃発。
** [[嘉吉の徳政一揆]]。
** ポルトガル艦隊が{{仮リンク|ブランコ岬(モーリタニア)|pt|Cabo Branco (Mauritânia)}}に到達。
* 1442年
** [[足利義勝]]が室町幕府第7代将軍となる。
** アラゴン王[[アルフォンソ5世 (アラゴン王)|アルフォンソ5世]]が[[ルネ・ダンジュー]]を追放し、[[ナポリ王国|ナポリ王]]となり以後定住する。
*** [[シチリアの晩鐘|シチリアの晩禱]]事件(1282年)以来分裂していた[[ナポリ王国]]と[[シチリア王国]]が一旦統一される。
** [[ビスカヤ]]地方の[[ドゥランゴ]]でフランシスコ会士アロンソ・デ・メリャらによる異端運動が発生({{仮リンク|ドゥランゴの異端|es|Herejes de Durango}} - [[1444年]])。
* 1443年
** [[禁闕の変]]。
** [[朝鮮通信使]]の書状官として[[申叔舟]]が日本へ渡り、[[嘉吉条約]](癸亥約条)が結ばれる。
* 1444年
** [[ヴァルナの戦い]]。
** ポルトガル艦隊が[[セネガル川]]と[[ヴェルデ岬]]に到達。
* 1445年
** ヴェネツィアが[[フリウーリ]]地方を征服し、[[アクイレイア]]総大司教の世俗領を支配下に置く。
* 1446年
** 朝鮮の世宗のもとで「[[訓民正音]]」が公布される。
* 1448年
** {{仮リンク|鄧茂七|zh|邓茂七}}の乱。
** 教皇[[ニコラウス5世 (ローマ教皇)|ニコラウス5世]]により[[ヴァティカン図書館]]が創設される。
** 東西教会合同に反対したロシア教会会議が[[モスクワ府主教]]に{{仮リンク|イオナ(府主教)|en|Jonah of Moscow}}を選出。
*** ロシア正教会がコンスタンティノポリス教会から事実上の独立を果たす。
** [[ブランデンブルク選帝侯]]が[[ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル|ブランデンブルク]]から[[ベルリン]]に居城を遷す。
* 1449年
** 明で[[土木の変]]。
*** 皇帝[[英宗 (明)|英宗正統帝]]が[[オイラト]]の[[エセン・ハーン]]の捕虜となる。
*** [[景泰帝]]が第7代皇帝に即位。[[于謙]]らが{{仮リンク|北京防衛戦|zh|京师保卫战}}でエセンを撃退。
** ティムール朝の君主[[ウルグ・ベク]]が暗殺される。
** [[足利義政]]が室町幕府第8代将軍となる。[[足利成氏]]が鎌倉公方となる(1447年説あり)。
=== 1450年代 ===
{{main|1450年代}}
* 1450年頃
** [[コイルばね]]が発明される。この部品のおかげで後に[[懐中時計]]が発明された。{{Sfn|チャロナー|2011|p=162|ps=「コイルばね ヘンラインが、ぜんまい仕掛けの心臓部を完成させる。」}}
* 1450年
** [[フランチェスコ・スフォルツァ]]がミラノ公となる。
** [[フォルミニーの戦い]]で、フランス軍がイングランド軍を破り、[[ノルマンディー]]地方を奪回。
* 1451年
** この年までに鄭和の南海遠征を記録した馬歓の『[[瀛涯勝覧]]』がまとめられる。
** [[グラスゴー大学]]の創設。
* 1452年
** ローマで神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]の戴冠式と結婚式(ローマで行われた神聖ローマ皇帝の最後の戴冠式)。
* 1452年 - 1453年
** 南太平洋の[[バヌアツ]]・[[シェパード諸島]]の[[クワエ]]海底火山の爆発。
* 1453年
** オスマン帝国による[[コンスタンティノープルの陥落|コンスタンティノポリスの陥落]]。
*** 皇帝[[コンスタンティノス11世]]の戦死により、パレオロゴス朝[[東ローマ帝国]]滅亡。
*** オスマン帝国君主[[メフメト2世]]が[[エディルネ]]からコンスタンティノポリスへ遷都。
*** [[アヤソフィア|ハギア・ソフィア聖堂]]が[[モスク]]に転用される。
** [[カスティヨンの戦い]]でイングランド軍が敗北。
*** [[ボルドー]]がフランス軍に帰順し、フランスの勝利で[[百年戦争|英仏百年戦争]]が終結。
*** イングランドの大陸領土は[[カレー (フランス)|カレー]]に限定される。イングランド国王ヘンリ6世が発狂する。
** エセン・ハーンがモンゴルのハーンとして即位するが、反発が強く翌1454年に殺害される。
* 1454年
** [[享徳の土一揆]]が徳政を要求する。
** [[ローディの和]]で、[[イタリア]]の五[[大国]]による和平協定が結ばれる。
** ブルゴーニュ公フィリップが[[リール (フランス)|リール]]にて「雉の誓いの祝宴」を行う。
* 1455年
** [[イングランド]]で、[[ヨーク家]]と[[ランカスター家]]による王位争い([[薔薇戦争]])始まる。
** [[ヨハネス・グーテンベルク]]が[[活版印刷]]で[[聖書]]を印刷([[グーテンベルク聖書]])。
** 鎌倉公方足利成氏に[[関東管領]][[上杉憲忠]]が謀殺され、[[享徳の乱]]が起こる( - [[1483年]])。
*** 上杉派により追われた足利成氏が鎌倉から[[古河市|古河]]に本拠を移す([[古河公方]])。
*** 畿内に先行して関東における戦国時代が始まる。
* 1456年
** 復権裁判法廷により処刑されたジャンヌ・ダルクの無罪が宣告される。
* 1457年
** 明で[[奪門の変]]。
*** 景泰帝が廃され、[[英宗 (明)|英宗天順帝]]が第8代皇帝に[[重祚]]。[[于謙]]が処刑される。
** [[後南朝]]皇胤の[[尊秀王|自天王]]・忠義王が殺害され赤松氏遺臣により神璽が奪回される([[長禄の変]])。
** [[太田道灌]]が[[江戸城]]を築く。
** [[コシャマインの戦い]]。
** [[ドイツ騎士団]]領の都が[[マリーエンブルク]]から[[ケーニヒスベルク]]へと遷される。
* 1458年
** 将軍足利義政の異母兄[[足利政知]]が伊豆堀越に居を構える([[堀越公方]])。
** [[琉球国王]][[尚泰久]]が[[万国津梁の鐘]]を鋳造させる。
* 1459年
** {{仮リンク|マントヴァ教会会議 (1459年)|en|Council of Mantua (1459)}}で教皇[[ピウス2世]]がオスマン帝国に対する[[十字軍]]を呼びかける。
=== 1460年代 ===
{{main|1460年代}}
* 1460年
** ポルトガル艦隊が[[シエラレオネ]]に到達。
* 1461年
** [[曹欽]]の乱が鎮圧され、[[曹吉祥]]が自殺する。
** オスマン朝が[[トレビゾンド帝国]]を滅ぼす。
** [[長禄・寛正の飢饉|寛正の大飢饉]]。
** マーチ伯エドワードがイングランド王に選出され([[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]])、ヘンリー6世が廃位される。
* 1462年
** カスティーリャが[[ジブラルタル]]を占領。
* 1463年
** 琉球国王[[尚徳王|尚徳]]が[[マラッカ王国]]に貿易船を派遣。
* 1464年
** 後花園天皇が譲位し、第103代[[後土御門天皇]]が即位。
** 明の[[成化帝]]が第9代皇帝に即位。
* 1465年
** [[イスタンブル]]の[[トプカプ宮殿]]が建設される。
** 足利義政が「[[蘭奢待]]」を切り取る。[[武衛騒動]]。
* 1466年
** [[文正の政変]]。
* 1467年
** [[応仁の乱]]( - 1477年)。室町幕府が衰退し、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]へ。
** [[白羊朝]](アク・コユンル)の[[ウズン・ハサン]]が[[ムシュ]]平野で奇襲し、[[黒羊朝]](カラ・コユンル)の[[ジャハーン・シャー]]を倒す。
* 1468年
** [[雪舟]]が[[遣明船]]で明へ渡航する( - 1469年)。
** [[ソンガイ帝国]]の君主[[スンニ・アリ]]が[[トンブクトゥ]]を占領。
** ブルゴーニュのシャルル突進公による[[リエージュ司教領|リエージュ]]の占領と破壊。
* 1469年
** 琉球で政変が起こり金丸が国王[[尚円王|尚円]]となる([[第二尚氏]]王統の成立)。
** ティムール朝がサマルカンド政権とヘラート政権に分裂する。
** [[カスティーリャ]]王女[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル]]と[[アラゴン]]王子[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド]]の結婚。
=== 1470年代 ===
{{main|1470年代}}
* 1470年
** [[リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)|ウォリック伯]]と[[ジョージ・プランタジネット (クラレンス公)|クラレンス公]]によりヘンリー6世がイングランド王に復位。
*** しかし1年ももたずに政権は崩壊し、翌1471年にヘンリー6世は殺害される。
* 1471年
** 応仁の乱で後南朝皇胤の[[西陣南帝]]が西軍に擁立され入洛。
** [[黎聖宗]]が[[チャンパ王国]]の{{仮リンク|ヴィジャヤ王朝|en|Vijaya (Champa)}}を滅ぼし領土を併合する。
** チャンパ王国の王子シャー・パウ・リン(後のアリ・ムハヤット・シャー)が亡命し[[スマトラ島]]に[[アチェ王国]]を建国。
* 1472年
** モスクワ大公[[イヴァン3世]]が東ローマ帝国の皇女[[ゾイ・パレオロギナ|ソフィヤ]]と結婚。
*** 東ローマ帝国を継ぐ「[[モスクワ]]・[[第三のローマ]]説」の起源となる。
** [[ワッタース朝]][[フェズ王国]]が成立する。
* 1473年
** 山名宗全と細川勝元が相次いで死去。[[足利義尚]]が室町幕府第9代将軍となる。
* 1474年
** [[越前一向一揆]]。
** ポルトガル王[[アフォンソ5世 (ポルトガル王)|アフォンソ5世]]が北アフリカの[[タンジェ]]と[[アシラー]]を征服。
** イタリア人地理学者[[トスカネリ]]が[[地球球体説]]をもとに西回りの東洋航路をポルトガル王アフォンソ5世に提言する。
* 1475年
** オスマン帝国が[[クリム・ハン国]]を従属させ、[[クリミア半島]]の[[ジェノヴァ]]系植民地を編入する。
* 1476年
** 太田道灌が江戸貝塚[[青松寺]]を開創。
** 北小路室町の足利将軍邸「[[花の御所]]」が全焼する。
** [[能阿弥]]版『[[君台観左右帳記]]』(『[[群書類従]]』所収)が大内政弘宛に書かれる。
* 1477年
** [[ナンシーの戦い]]でブルゴーニュ公シャルル(突進公)がロレーヌ公ルネ2世に敗北し戦死。
*** ブルゴーニュ公国のうち[[ネーデルラント]]は娘のマリー女公とその夫君であるマクシミリアン1世(のちの神聖ローマ皇帝)が継承。
** マムルーク朝君主[[アシュラフ・カーイトバーイ]]により[[アレクサンドリア]]に[[カーイト・ベイの要塞]]が建設される。
** 明で宦官による特務警察の[[西廠]]が設置される。
** [[大内政弘]]が京から撤収して西軍が解体され、応仁の乱が終わる。
* 1478年
** [[パッツィ家の陰謀]]事件で、[[ジュリアーノ・デ・メディチ]]が暗殺される。
** [[スペイン異端審問]]の始まり。
** モスクワ大公[[イヴァン3世]]が[[ノヴゴロド公国]]を併合。
** オスマン皇帝メフメト2世により[[イスタンブル]]の[[トプカプ宮殿]]が完成する(1465年 - )
* 1479年
** [[スペイン|スペイン王国]]成立。
** {{仮リンク|アルカソヴァス条約|en|Treaty of Alcáçovas}}。
** モスクワの[[生神女就寝大聖堂 (モスクワ)|ウスペンスキー大聖堂(生神女就寝大聖堂)]]が完成する。
** [[オロモウツの和約]]で[[ハプスブルク家]]は[[オーストリア]]の支配権を失う( - 1490年)。
** [[アステカ]]皇帝[[アシャヤカトル]]が「[[太陽の石]]」を[[テノチティトラン]](現[[メキシコシティ]])に奉献する。
=== 1480年代 ===
{{main|1480年代}}
* 1480年
** [[ウグラ河畔の対峙]]により、[[モスクワ大公国]]の[[イヴァン3世]]が[[ジョチ・ウルス]]から自立([[ロシア帝国]]のおこり)。
** フィレンツェがナポリと平和協定を締結し、ローマ教皇の反メディチ包囲網は崩壊。
** オスマン帝国軍がイタリア半島東南端[[オトラント]]を占領([[オトラントの戦い]])。
** [[越中一向一揆]]。
* 1481年
** [[プロヴァンス伯]]領をフランス王[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]が相続する。
** オスマン朝のメフメト2世が死去、長子の[[バヤズィト2世]]がスルタンとなる。
*** 弟[[ジェム]]は帝位継承を主張するが、イェニシェヒル近郊で敗北し、マムルーク朝エジプトに亡命する。
* 1482年
** 足利義政が東山山荘(その一部が現在の[[慈照寺]]銀閣)の造営を始める。
* 1483年
** イングランド王エドワード4世が急死。
*** 息子の[[エドワード5世 (イングランド王)|エドワード5世]]が即位するも、叔父グロスター公により退位させられる。
*** グロスター公が[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]として即位する。
** スペイン人が[[カナリア諸島]]の[[グラン・カナリア島]]を征服し、先住民[[グアンチェ族]]を支配下に置く。
** 古河公方成氏と両上杉家との間で和議が成立し、享徳の乱が終わる(都鄙合体)。
* 1484年
** {{仮リンク|バニョーロの和議|en|War of Ferrara#Treaty of Bagnolo}}。
** イングランド王リチャード3世が[[紋章院]]を設置。
** 教皇[[インノケンティウス8世]]の回勅「{{仮リンク|スンミス・デジデランテス|en|Summis desiderantes affectibus}}」 が出される。
* 1485年
** [[ボズワースの戦い]]でヘンリー・テューダーがリチャード3世を倒す。
*** ヘンリー・テューダーがイングランド王[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]として即位。[[テューダー朝]]始まる。
** ハンガリー王[[マーチャーシュ]]の[[ウィーン]]占領( - [[1490年]])。
** [[山城国一揆]]( - [[1493年]])。
* 1486年
** ドミニコ会士[[ハインリヒ・クラーマー]]の『[[魔女に与える鉄槌]](Malleus Maleficarum)』が出版される。
** [[ピコ・デラ・ミランドラ]]によるローマでの神学討論会のための『人間の尊厳について』が執筆される。
** 文明の土一揆により[[東寺]]が炎上する。
* 1487年
** 明の[[弘治帝]]が第10代皇帝に即位。
** 六角征伐の[[長享・延徳の乱|鈎の陣]]( - [[1489年]])。山内・扇谷両上杉家をめぐる[[長享の乱]]が起こる。
** [[トマス・デ・トルケマダ]]がスペイン[[異端審問]]所長官となる。
* 1488年
** ポルトガル人[[バルトロメウ・ディアス]]が[[喜望峰]]に到達する。
** [[加賀一向一揆]]。
* 1489年
** [[メジナデルカンポ条約]]。
** [[キプロス]]女王[[カタリーナ・コルナーロ]]が退位し、支配権を[[ヴェネツィア]]に譲渡する。
** 鈎の陣にて将軍足利義尚死去。父の足利義政が将軍職を代行。
=== 1490年代 ===
{{main|1490年代}}
* 1490年
** 足利義政死去。[[足利義稙|足利義材]]が室町幕府第10代将軍となる。
** ハンガリー王マーチャーシュ1世急死、ハプスブルク家のフリードリヒ3世がウィーンを奪還。
* 1491年
** [[コンゴ]]王ンジンガ・ンクウがポルトガルの宣教師から洗礼を受け、洗礼名ジョアン1世を名乗る。
** フランス国王シャルル8世が[[アンヌ・ド・ブルターニュ]]と結婚。
** ドイツの[[マインツ]]でヤコブ・メイデンバッハが自然史百科事典『{{仮リンク|ホルトゥス・サニタティス|en|Hortus Sanitatis}}(健康の庭)』を出版する。
* 1492年
** スペインが[[ナスル朝]][[グラナダ王国]]を滅ぼし、[[レコンキスタ]]が完了。
** [[クリストファー・コロンブス]]が大西洋を横断し、[[サンサルバドル島]]ほか[[カリブ海]]の島々に到達(いわゆる新大陸の発見)。
** スペインからのユダヤ教徒追放令({{仮リンク|アルハンブラ勅令|en|Alhambra Decree}})。
** [[ニュルンベルク]]の[[マルティン・ベハイム]]により現存する世界最古の[[地球儀]]が作られる。
** ロレンツォ・デ・メディチ死去、息子の[[ピエロ・デ・メディチ]]が後継者となる。
** スコットランドで[[パース (スコットランド)|パース]]から[[エディンバラ]]に都が遷され、この地に議会が創設される。
* 1493年
** [[明応の政変]]により足利義材が将軍職から追放される。
*** 管領[[細川政元]]の[[京兆専制]]の始まり([[戦国時代 (日本)|日本の戦国時代]]の幕開けともされる)。
** 教皇[[アレクサンデル6世]]の[[回勅]]「インテル・カエテラ」により[[教皇子午線]](植民地分界線)が決定される。
** {{仮リンク|サンリスの和約|en|Treaty of Senlis}}により、ブルゴーニュ公遺領の正式分割が決定。
** インカ皇帝[[トゥパック・インカ・ユパンキ]]が死去し、[[ワイナ・カパック]]が即位。
*** この時期までにペルー北部の[[チムー王国]](中心は[[チャン・チャン]]遺跡)を滅ぼし、インカ帝国は最盛期を迎える。
* 1494年
** スペインとポルトガルが[[トルデシリャス条約]]を締結。
** フランス王[[シャルル8世]]のイタリア遠征([[イタリア戦争]]の始まり)。
*** その途上、[[フィレンツェ]]で[[メディチ家]]が追放される。フィレンツェで[[ドミニコ会|ドミニコ会士]][[サヴォナローラ]]の[[神権政治]]が成立。
*** フランス軍の侵攻を受けた[[ナポリ]]でヨーロッパ最初の[[梅毒]]の大流行が起こる( - [[1495年]])。
** [[足利義澄]]が室町幕府第11代将軍となる。
* 1495年
** 神聖ローマ帝国の{{仮リンク|ヴォルムス帝国議会 (1495年)|en|Diet of Worms (1495)}}。
*** 皇帝マクシミリアン1世による「帝国改造」として「永久[[ラント平和令]]」が布告され、帝国最高法院が設置される。
** [[北条早雲]](伊勢盛時)が[[足利茶々丸]]を追放し[[堀越公方]]を滅ぼす。
* 1496年
** ローマ教皇アレクサンデル6世により、スペイン国王夫妻フェルナンドとイサベルが「[[カトリック両王]]」の称号を授けられる。
* 1497年
** モスクワ大公イヴァン3世が「1497年法典(スヂェブニク)」を制定する。
*** 農民([[農奴]])の移動は「[[聖ユーリーの日]]」の前後それぞれ一週間のみが許される。
** [[ジョン・カボット]]が[[ニューファンドランド]]や[[ラブラドル半島]]を発見。
** サヴォナローラによる「[[虚栄の焼却]]」。サヴォナローラが教皇アレクサンデル6世に[[破門]]される。
* 1498年
** コロンブスが[[南アメリカ]]大陸を発見し[[ベネズエラ]]に上陸。
** [[ヴァスコ・ダ・ガマ]]が[[インド洋]]を経て[[カリカット]](コーリコード)に到着。
** フィレンツェで[[サヴォナローラ]]が処刑される。
** [[明応地震]]で、かつて淡水湖であった[[浜名湖]]が津波により太平洋とつながる。
* 1499年
** [[シュヴァーベン戦争]]での勝利によりスイスは神聖ローマ帝国からの事実上の独立を勝ち取る。
=== 1500年代 ===
{{main|1500年代}}
* 1500年
** [[ペドロ・アルヴァレス・カブラル]]が[[ブラジル]]に到着。
** 神聖ローマ帝国の[[アウクスブルク]]帝国議会。
*** [[帝国統治院]]が[[ニュルンベルク]]に設置され、[[帝国等族]]が参与する「[[帝国クライス]]」の制度が導入される。
** [[シャイバーニー朝]]によりティムール朝[[サマルカンド]]政権が崩壊。
** 後土御門天皇が没し、第104代[[後柏原天皇]]が即位。
* 1500年頃
** 応仁の乱で途絶えていた[[祇園祭]]が[[京都]]の[[町衆]]により再興される。
** [[アルゼンチン]]の[[ユーヤイヤコ]]山頂付近で「{{仮リンク|ユーヤイヤコの子供たち|en|Children of Llullaillaco||}}」が葬られる。
*** 「ラ・ドンセーヤ(La doncella)」ほか少年少女合わせて三体の保存の良い[[ミイラ]]を指す。人身供犠の目的による遺体と考えられる。
== 人物 ==
=== キリスト教世界 ===
==== フランス・フランドル ====
* [[ピエール・ダイイ]]([[1351年]] - [[1420年]]) - [[枢機卿]]・[[パリ大学]]総長・[[コンスタンツ公会議]]で主導的な役割を果たす・著作に『世界像』がある
* {{仮リンク|ジャン・プティ(神学者)|en|Jean Petit (theologian)}}([[1360年]]頃 - [[1411年]]) - パリ大学教授・ブルゴーニュ公ジャンによるオルレアン公ルイの暗殺に際して「[[モナルコマキ|暴君放伐論]]」を提唱
* [[ジャン・ジェルソン]]([[1363年]] - [[1429年]]) - パリ大学総長・ピエール・ダイイと並びコンスタンツ公会議を主導・著作に『神学の慰め』がある
* [[クリスティーヌ・ド・ピザン]]([[1365年]]頃 - [[1430年]]) - [[ヴェネツィア]]出身の女性詩人・『[[薔薇物語]]』に対抗し『薔薇のことば』で女性擁護を訴える
* [[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン1世]](無畏公)([[1371年]] - [[1419年]]) - [[ブルゴーニュ公]]・オルレアン公らアルマニャック派と対立・王太子シャルルによって暗殺される
* [[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|ルイ]]([[1372年]] - [[1407年]]) - [[オルレアン公]]・国王シャルル6世の弟・ブルゴーニュ公ジャンと対立し暗殺される
* [[リンブルク兄弟|ランブール兄弟]](15世紀初頭)(長男ヘルマン、二男ポル、三男ヨハン) - フランドルの[[装飾写本]]画家・「[[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]]」を作成
* ファン・エイク兄弟(兄[[フーベルト・ファン・エイク|フーベルト]]([[1366年]]頃 - [[1426年]])、弟[[ヤン・ファン・エイク|ヤン]]([[1395年]]頃 - [[1441年]])) - [[初期フランドル派]]の画家で油彩技法を大成
* [[アルテュール3世 (ブルターニュ公)|アルテュール・ド・リッシュモン]]([[1393年]] - [[1458年]]) - [[ブルターニュ公]]・フランス大元帥・パリ解放やアラスの和約などで百年戦争終結に活躍
* [[ジャック・クール]]([[1395年]] - [[1456年]]) - フランスの財政家・シャルル7世の貨幣鋳造や戦費調達を担当・後年に不正が発覚し財産没収の上で亡命
* [[フィリップ3世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ3世]](善良公)([[1396年]] - [[1467年]]) - [[ブルゴーニュ公]]・百年戦争で[[イングランド王国|イングランド]]側に接近・[[北方ルネサンス]]のパトロン
* [[ギヨーム・デュファイ]]([[1397年]] - [[1474年]]) - [[ブルゴーニュ楽派]]の作曲家・ミサ曲「アヴェ・レジーナ・チェロールム」他がある
* [[カルトゥジオ会]]の{{仮リンク|ドニ(法悦博士)|en|Denis the Carthusian}}(ディオニュシオス)([[1402年]] - [[1471年]]) - フランドルの神学者・霊的な著作を数多く執筆し「法悦博士」と呼ばれる
* [[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]](勝利王)([[1403年]] - [[1461年]]) - [[ヴァロワ朝]][[フランス王国|フランス]]の第5代国王(在位[[1422年]] - [[1461年]])・[[百年戦争]]で最終的に勝利
* [[ジル・ド・レ]]([[1404年]] - [[1440年]]) - フランスの貴族・百年戦争で活躍しフランス元帥となる・のちに多数の少年殺害の嫌疑で逮捕処刑される
* [[ヨハネス・オケゲム]]([[1410年]]頃 - [[1497年]]) - フランドル楽派の作曲家・フランス宮廷楽長などを務める・代表作に「死者のためのミサ曲」がある
* [[ジャンヌ・ダルク]]([[1412年]] - [[1431年]]) - フランスの農民の娘・「オルレアンの乙女」・[[百年戦争]]でフランス軍を鼓舞・[[魔女裁判]]で火刑
* [[フランソワ・ヴィヨン]]([[1431年]]? - [[1463年]]以降) - フランスの詩人・放浪無頼の生活を送り「泥棒詩人」として有名・代表作に『遺言詩集』
* [[ジョスカン・デ・プレ]]([[1440年]]? - [[1521年]]) - フランスの作曲家・フランス王や教皇庁などに仕える・ミサ曲「めでたし海の星」などがある
* [[ヒエロニムス・ボス]]([[1450年]]頃 - [[1516年]]) - 初期フランドル派の画家・寓意を暗示する幻想的な画風・代表作に「[[快楽の園]]」がある
* [[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]](温厚王)([[1470年]] - [[1498年]]) - [[ヴァロワ朝]]フランスの第7代国王(在位[[1483年]] - [[1498年]])・[[イタリア戦争]]を始める
==== イングランド ====
* [[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]([[1387年]] - [[1422年]]) - [[ランカスター朝]]の[[イングランド]]王(在位[[1413年]] - [[1422年]])・[[トロワ条約]]でフランス王位継承者となる
* [[ジョン・タルボット (初代シュルーズベリー伯)|初代シュールズベリー伯ジョン・タルボット]](? - [[1453年]]) - イングランドの貴族・百年戦争末期に英軍で活躍・[[カスティヨンの戦い]]で戦死する
* [[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]([[1421年]] - [[1471年]]) - ランカスター朝のイングランド王(在位[[1422年]] - [[1461年]]、[[1470年]] - [[1471年]])・狂疾から[[薔薇戦争]]勃発
* [[リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)|ウォリック伯リチャード・ネヴィル]]([[1428年]] - [[1471年]]) - イングランドの貴族・エドワード4世擁立やヘンリー6世復位を画策し「キングメーカー」と呼ばれる
* [[マーガレット・オブ・アンジュー]]([[1429年]] - [[1482年]]) - イングランド王ヘンリー6世の王妃・薔薇戦争でランカスター派を率い狂気の夫に代わりヨーク派と戦う
* [[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]]([[1442年]] - [[1483年]]) - ヨーク朝のイングランド王(在位[[1461年]] - [[1483年]])・[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]を退位させ[[ヨーク朝]]の祖となる
* [[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]([[1452年]] - [[1485年]]) - ヨーク朝のイングランド王(在位[[1483年]] - [[1485年]])・[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]に敗北・[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]劇では悪役
* [[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]([[1457年]] - [[1509年]]) - イングランド王(在位[[1485年]] - [[1509年]])・[[薔薇戦争]]に勝利し[[テューダー朝]]を開く
* [[エリザベス・オブ・ヨーク]]([[1466年]] - [[1503年]]) - エドワード4世の娘でヘンリー7世の妻・[[ランカスター家]]と[[ヨーク家]]を結びつける
* [[マージェリー・ケンプ]]([[1373年]]頃 - [[1438年]]以後) - イングランドの女性神秘家・『マージェリー・ケンプの書』は英語による最古の女性の自伝
* [[トマス・マロリー]]([[1399年]]頃 - [[1471年]]) - イングランドの作家・伝説をもとに『[[アーサー王の死]]』をまとめる
* [[ウィリアム・キャクストン]]([[1415年]]/[[1422年]]頃 - [[1492年]]) - イングランドの商人・外交官・著作家・この国で最初の印刷業者
* [[ジョン・カボット]]([[1450年]]頃 - [[1498年]]) - イタリア出身の探検家・ヘンリー7世の特許状で大西洋を渡り[[北アメリカ大陸]]を発見
==== 神聖ローマ帝国 ====
* {{仮リンク|ヨハネス・フォン・テープル|de|Johannes von Tepl}}([[1350年]]頃 - [[1414年]]) - ボヘミアの公証人・文筆家・妻を失ったことで死神と対決する『ボヘミアの農夫』を執筆
* [[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]([[1368年]] - [[1437年]]) - [[ルクセンブルク家]]の[[神聖ローマ皇帝]](在位[[1410年]] - [[1437年]])・コンスタンツ公会議を招集
* [[トマス・ア・ケンピス]]([[1380年]] - [[1471年]]) - ドイツ生まれの神秘思想家・聖書に次いで読まれた『[[キリストに倣いて]]』の著者
* {{仮リンク|ヨハネス・ニーダー|en|Johannes Nider}}([[1380年]]頃 - [[1438年]]) - ドイツのドミニコ会士・異端審問や教会刷新で活躍・著作『蟻塚』は魔術の研究としても重要
* [[ヨハネス・グーテンベルク]]([[1398年]]頃 - [[1468年]]) - [[ドイツ]]の[[マインツ]]出身の金属加工職人・[[活版印刷]]術を発明・『[[グーテンベルク聖書]]』を印刷
* [[ニコラウス・クザーヌス]]([[1401年]] - [[1464年]]) - ドイツの枢機卿・神学者・哲学者・[[フィレンツェ公会議]]で教会合同を推進・『学識ある無知』がある
* [[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]([[1415年]] - [[1493年]]) - [[ハプスブルク家]]の[[神聖ローマ皇帝]](在位[[1452年]] - [[1493年]])・半世紀の治世・婚姻政策で帝位を世襲化
* ニコラス・フォン・フリューエ([[1417年]] - [[1487年]]) - スイスの隠修士・調停者としてスタンスの盟約を結ばせスイス各連邦の同盟を強化・聖人となる
* [[ハインリヒ・クラーマー]]([[1430年]]頃 - [[1505年]]) - ドイツのドミニコ会士・異端審問官・『[[魔女に与える鉄槌]]』を執筆し[[魔女裁判]]に影響を与える
* [[レギオモンタヌス]]([[1436年]] - [[1476年]]) - ドイツの天文学者・『アルマゲスト注釈』や『三角法大全』の著作があり改暦や天文観測でも活躍
* ハルトマン・シェーデル([[1440年]] - [[1514年]]) - ドイツの人文主義者・歴史家・天地創造から15世紀までを『[[ニュルンベルク年代記]]』でまとめる
* セバスチャン・ブラント([[1457年]] - [[1521年]]) - ドイツの風刺作家・[[バーゼル大学]]教授・この当時の世相を風刺した『[[阿呆船]]』で知られる
* [[ハンス・ベーム]]([[1458年]]頃 - [[1476年]]) - ドイツの説教者・「ニクラスハウゼンの太鼓叩き」と呼ばれ民衆を扇動・[[ヴュルツブルク]]で火刑にされる
* [[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]([[1459年]] - [[1519年]]) - ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝(在位[[1493年]] - [[1519年]])・「中世最後の騎士」と呼ばれる
==== ローマ教皇・イタリア ====
* [[ニッコロ・ニッコリ]]([[1364年]] - [[1437年]]) - フィレンツェの蔵書家・[[人文主義者]]・[[コジモ・デ・メディチ]]の指示でその蔵書はサン・マルコ修道院図書館のもととなる
* [[ヨハネス23世 (対立教皇)|ヨハネス23世]]([[1370年]]頃 - [[1419年]]) - [[対立教皇]](在位[[1410年]] - [[1415年]])・[[ピサ公会議]]派として選出されるもコンスタンツ公会議では廃位される
* [[マルティヌス5世 (ローマ教皇)|マルティヌス5世]]([[1368年]] - [[1431年]]) - [[教皇|ローマ教皇]](在位[[1417年]] - [[1431年]])・コンスタンツ公会議で選出され[[教会大分裂]]は終結
* [[レオナルド・ブルーニ]]([[1370年]]頃 - [[1444年]]) - フィレンツェの政治家(書記官長)・人文主義者・『フィレンツェ史』で古代復興を唱える
* [[フランチェスコ・フォスカリ]] ([[1373年]] - [[1457年]]) - [[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]の元首・ミラノとの戦いを優位に進め[[ローディの和|和平]]を達成・息子の流刑で失脚
* [[フィリッポ・ブルネッレスキ]]([[1377年]] - [[1436年]]) - [[フィレンツェ共和国|フィレンツェ]]の建築家・[[ルネサンス様式]]の[[フィレンツェ大聖堂]]を建立
* {{仮リンク|シエナのベルナルディーノ|en|Bernardino of Siena}}([[1380年]] - [[1444年]]) - フランシスコ会士・説教家・修道会の刷新を行い「IHS」の御名の信仰を勧める
* [[ポッジョ・ブラッチョリーニ]]([[1380年]] - [[1459年]]) - イタリアの人文主義者・[[ルクレティウス]]をはじめ古代ラテン語文献を発見したことで有名
* [[カッシアのリタ]]([[1381年]] - [[1457年]]) - [[ウンブリア]]地方の[[聖アウグスチノ会]]修道女・虐待や絶望の淵にある人々の聖人となる
* [[ロレンツォ・ギベルティ]]([[1381年]]頃 - [[1455年]]) - フィレンツェの彫刻家・金細工師・[[サン・ジョヴァンニ洗礼堂]]門扉の製作競技で優勝する
* [[フランチェスコ・ブッソーネ・ダ・カルマニョーラ]]([[1381年]]頃 - [[1432年]]) - イタリアの[[コンドッティエーレ]]・各地を渡り歩くも[[ヴェネツィア]]で反逆罪で処刑される
* [[エウゲニウス4世 (ローマ教皇)|エウゲニウス4世]]([[1383年]] - [[1447年]]) - ローマ教皇(在位[[1431年]] - [[1447年]])・[[フィレンツェ公会議|フェラーラ・フィレンツェ公会議]]で東西教会合同を推進
* [[ニッコロ3世・デステ]]([[1383年]] - [[1441年]]) - [[フェラーラ]]の領主・教皇エウゲニウス4世に近侍し東西教会合同の公会議をフェラーラに誘致する
* [[ドナテッロ]]([[1386年]] - [[1466年]]) - フィレンツェの彫刻家・代表作に「ダヴィデ像」「カントリア」「[[ガッタメラータ]]像」がある
* [[コジモ・デ・メディチ]]([[1389年]] - [[1464年]]) - フィレンツェの銀行家・[[メディチ家]]のフィレンツェ支配を確立・パトロンとしても有名
* [[フラ・アンジェリコ]]([[1390年]]/[[1395年]]頃 - [[1455年]]) - フィレンツェの画家・ドミニコ会士でサン・マルコ修道院に所属・「[[受胎告知]]」が有名
* [[バルトロメオ・コッレオーニ]]([[1395年]]/[[1400年]]頃 - [[1475年]]) - ヴェネツィアに仕えたコンドッティエーレ・[[ヴェロッキオ]]により建てられた騎馬像は有名
* [[パオロ・ウッチェロ]]([[1397年]] - [[1475年]]) - フィレンツェの画家・代表作に「サン・ロマーノの戦い」「ジョン・ホークウッド像」がある
* [[パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ|トスカネリ]]([[1397年]] - [[1482年]]) - フィレンツェの地理学者・数学者・天文学者・実際よりも小さく[[地球]]の[[周長]]を見積りコロンブスに影響
* [[フランチェスコ・スフォルツァ]]([[1401年]] - [[1466年]]) - [[スフォルツァ家]]最初のミラノ公(在位[[1450年]] - [[1466年]])・ローディの和に協力
* [[マサッチオ]]([[1401年]] - [[1428年]]) - フィレンツェの画家・[[遠近法|透視遠近法]]を大成しブランカッチ礼拝堂フレスコ画などを手がける
* [[レオン・バッティスタ・アルベルティ]]([[1404年]] - [[1472年]]) - フィレンツェの人文主義者・建築家・他の学芸にも秀で「万能人」の典型とされる
* [[ピウス2世 (ローマ教皇)|ピウス2世]]([[1405年]] - [[1464年]]) - ローマ教皇(在位[[1458年]] - [[1464年]])・もとは[[人文主義者]]・オスマン朝に対する[[十字軍]]提唱
* [[ロレンツォ・ヴァッラ]]([[1407年]] - [[1457年]]) - ローマ出身の人文主義者・文献調査から『[[コンスタンティヌスの寄進状]]』を偽書と指摘
* [[ピエロ・デラ・フランチェスカ]]([[1412年]] - [[1492年]]) - [[ウルビーノ]]で活躍した画家・[[遠近法]]や[[幾何学]]に優れ代表作に「聖十字架伝説」がある
* {{仮リンク|バルトロメオ・プラティナ|en|Bartolomeo Platina}}([[1421年]] - [[1481年]]) - ローマで活躍した人文主義者・[[ヴァティカン図書館]]初代館長・『教皇伝』ほか料理本を執筆
* [[フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ]]([[1422年]] - [[1482年]]) - ウルビーノ公・傭兵隊長・パトロンとしてウルビーノ宮廷で文化を保護育成する
* {{仮リンク|デメトリオス・カルココンデュレス|en|Demetrios Chalkokondyles}}([[1423年]] - [[1511年]]) - アテネ出身のギリシア人人文学者・メディチ家ほかの庇護を受けギリシア語文献を翻訳
* [[クリストフォロ・ランディーノ]]([[1424年]] - [[1498年]]) - フィレンツェの人文主義者・[[プラトン・アカデミー]]に参加・[[ダンテ]]の『[[神曲]]』などに注釈をつける
* [[ジョヴァンニ・ベリーニ]]([[1430年]]頃 - [[1516年]]) - [[ヴェネツィア派]]の画家・油彩技法をこの地で拡げる・「[[レオナルド・ロレダン]]の肖像」がある
* [[アンドレア・マンテーニャ]]([[1431年]] - [[1506年]]) - [[マントヴァ]]で活躍した画家・遠近法や人体描写に優れ代表作に「[[死せるキリスト (マンテーニャ)|死せるキリスト]]」がある
* [[マルシリオ・フィチーノ]]([[1433年]] - [[1499年]]) - フィレンツェの人文主義者・哲学者・神学者・[[プラトン]]の著作を翻訳・代表作は『プラトン神学』
* [[アンドレア・デル・ヴェロッキオ]]([[1435年]]頃 - [[1488年]]) - フィレンツェの画家・彫刻家・建築家・[[レオナルド・ダ・ヴィンチ|レオナルド]]の師としても有名
* [[ルカ・パチョーリ]]([[1445年]] - [[1517年]]) - [[サンセポルクロ]]出身の数学者・『算術・幾何・比及び比例全書』を出版し「近代会計学の父」と呼ばれる
* [[サンドロ・ボッティチェッリ]]([[1445年]]? - [[1510年]]) - フィレンツェ出身の画家でルネサンスを代表する「[[プリマヴェーラ|春]]」「[[ヴィーナスの誕生]]」を描く
* {{仮リンク|ジェノヴァのカタリナ|en|Catherine of Genoa}}([[1447年]] - [[1510年]]) - [[ジェノヴァ]]の女性神秘家・結婚後に回心し夫もそれに続く・著作に『霊魂と体の対話』がある
* [[ロレンツォ・デ・メディチ]](イル・マニフィコ)([[1449年]] - [[1492年]]) - フィレンツェの銀行家・[[コジモ・デ・メディチ|コジモ]]の孫・事実上のフィレンツェの[[僭主]]
* [[アルドゥス・マヌティウス]]([[1450年]]頃 - [[1515年]]) - ヴェネツィアで活躍した出版人・アルド印刷所を設立し多くの名著を出版・「商業出版の父」
* [[ルドヴィーコ・スフォルツァ]]([[1452年]] - [[1508年]]) - ミラノ公(在位[[1494年]] - [[1500年]])・甥を追放して実権を握る・レオナルドのパトロンとして有名
* [[ジロラモ・サヴォナローラ]]([[1452年]] - [[1498年]]) - フィレンツェの修道院長・メディチ家が失脚してフィレンツェを支配・火刑に処される
* [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]([[1452年]] - [[1519年]]) - フィレンツェの画家・[[彫刻家]]・[[建築家]]など「万能の天才」・「[[モナリザ]]」他がある
* [[アンジェロ・ポリツィアーノ]]([[1454年]] - [[1494年]]) - フィレンツェの詩人・[[プラトン・アカデミー]]に参加・詩作に『騎馬試合の歌』がある
* [[ピコ・デラ・ミランドラ]]([[1463年]] - [[1494年]]) - フィレンツェで活躍した哲学者・プラトン・アカデミーに参加・『人間の尊厳について』を著す
* [[カテリーナ・スフォルツァ]]([[1463年]] - [[1509年]]) - フォルリとイーモラの女性領主・夫の死後は反乱を鎮圧し「イタリアの女傑」と呼ばれる
* [[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]([[1475年]] - [[1564年]]) - フィレンツェの画家・彫刻家・「ダヴィデ像」「ピエタ」「最後の審判」などの作品で知られる
==== イベリア半島 ====
* [[ハスダイ・クレスカス]]([[1340年]]頃 - [[1410年]]頃) - アラゴンのユダヤ教哲学者・キリスト教徒や教条的ユダヤ教徒と論戦・主著は『{{仮リンク|主の光|en|Or Adonai}}』
* [[エンリケ航海王子]]([[1394年]] - [[1460年]]) - [[ポルトガル王国|ポルトガル]]王[[ジョアン1世 (ポルトガル王)|ジョアン1世]]の王子・航海者の育成を支援し[[大航海時代]]を準備する
* {{仮リンク|ジュアノット・マルトゥレイ|en|Joanot Martorell}}([[1410年]] - [[1468年]]) - [[バレンシア王国|バレンシア]]の作家・[[騎士道文学]]『{{仮リンク|ティラン・ロ・ブラン|en|Tirant lo Blanch}}』の作者として知られる
* [[トマス・デ・トルケマダ]]([[1420年]] - [[1498年]]) - スペインの[[異端審問]]所長官・[[ドミニコ会]]士・[[カトリック両王]]に仕え激しい異端審問を行う
* [[バルトロメウ・ディアス]]([[1450年]]頃 - [[1500年]]) - ポルトガルの航海者でヨーロッパ人として初めて[[喜望峰]]に到達した
* [[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]]([[1451年]] - [[1504年]]) - [[トラスタマラ家]]の[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]女王(在位[[1474年]] - [[1504年]])・夫[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド]]との結婚で[[スペイン王国]]成立
* [[クリストファー・コロンブス]]([[1451年]]頃 - [[1506年]]) - [[ジェノヴァ]]出身の探検家・[[スペイン]]王の支援でいわゆる「[[アメリカ大陸]]を発見」
* [[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]([[1452年]] - [[1516年]]) - [[トラスタマラ家]]の[[アラゴン王国|アラゴン王]](在位[[1479年]] - [[1516年]])・妻[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル]]との結婚で[[スペイン|スペイン王国]]成立
* [[ディオゴ・カン]]([[1452年]]頃 - [[1486年]]頃) - ポルトガルの航海者・コンゴ川を遡り[[コンゴ王国]]との通商を始める・現[[ナミビア]]にまで到達したか
* [[ジョアン2世 (ポルトガル王)|ジョアン2世]](無欠王)([[1455年]] - [[1495年]]) - [[アヴィス王朝|アヴィス朝]]のポルトガル王(在位[[1481年]] -[[1495年]])・ポルトガル最盛期の王
* ペロ・デ・コヴィリャン([[1460年]]頃 - [[1526年]]以降) - ポルトガルの探検家・東方各地を歴訪した後に「プレステ・ジョアンの国」[[エチオピア]]に入国
* [[ペドロ・アルヴァレス・カブラル]]([[1467年]]/[[1468年]] - [[1520年]]) - ポルトガルの航海者・探検家・ヨーロッパ人で初めて[[ブラジル]]に到着
* [[ヴァスコ・ダ・ガマ]]([[1469年]]頃 - [[1524年]]) - ポルトガルの航海者・探検家・[[喜望峰]]を経て[[インド洋]]から[[インド]]のカリカット([[コーリコード]])に到着
==== 東ローマ帝国 ====
* [[ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン]]([[1360年]]? - [[1452年]]) - 東ローマ帝国末期の[[プラトン]]学者・「[[パレオロゴス朝ルネサンス]]」を代表する
* [[ヨハネス8世パレオロゴス]]([[1392年]] - [[1448年]]) - 東ローマ帝国の皇帝(在位[[1425年]] - [[1448年]])・[[フィレンツェ公会議|フェラーラ・フィレンツェ公会議]]で東西教会合同を推進
* [[ヨハンネス・ベッサリオン]]([[1399年]]? - [[1472年]]) - 東ローマ帝国から亡命した[[人文主義者]]・[[正教会]]から[[カトリック教会|カトリック]]に転じ枢機卿となる
* [[コンスタンティノス11世パレオロゴス]]([[1409年]] - [[1453年]]) - 東ローマ帝国最後の皇帝(在位[[1448年]] - [[1453年]])・オスマン朝との[[コンスタンティノープルの陥落|帝都攻防戦]]で戦死
* {{仮リンク|ヨハンネス・アルギュロプロス|en|John Argyropoulos}}([[1415年]] - [[1487年]]) - 東ローマ帝国から亡命した人文主義者・フィチーノらにギリシア語を教授し翻訳も行う
* [[ゲンナディオス2世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|ゲンナディオス2世]]([[1400年]] - [[1468年]]?) - 東ローマ帝国滅亡後で最初のコンスタンティノポリス総主教・東西教会合同には反対
==== 東欧 ====
* [[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ2世]]([[1351年]] - [[1434年]]) - [[ヤギェウォ朝]]の君主・[[タンネンベルクの戦い (1410年)|タンネンベルクの戦い]]で[[ドイツ騎士団]]に勝利
* [[ヤン・フス]]([[1369年]] - [[1415年]]) - [[ベーメン]]の[[カレル大学]]学長・[[宗教改革]]の先駆者とされる・コンスタンツ公会議で火刑に処される
* [[パヴェウ・ヴウォトコヴィツ]]([[1370年]]頃 - [[1435年]]) - ポーランドの教会法学者・[[クラクフ大学]]の学長・コンスタンツ公会議で異教徒の人権擁護を主張
* {{仮リンク|プラハのイェロニー|en|Jerome of Prague}}([[1379年]] - [[1416年]]) - ベーメンの神学者・フスの支持者でウィクリフ派との関係を結ぶ・フスに続いて処刑される
* [[ヤン・ジシュカ]]([[1374年]] - [[1424年]]) - ベーメンの軍人・ターボル派(急進フス支持派)を率い[[フス戦争]]で活躍する
* [[スカンデルベグ]]([[1405年]] - [[1468年]]) - [[アルバニア]]の君主・オスマン帝国に一時臣従するも反逆・アルバニアの民族的英雄
* [[フニャディ・ヤーノシュ]]([[1409年]]? - [[1456年]]) - [[ハンガリー]]の政治家(摂政)・オスマン帝国とたびたび交戦・[[ヴァルナの戦い]]では敗北
* [[ヴラド・ツェペシュ]]([[1431年]] - [[1476年]]) - [[ルーマニア]]の[[ワラキア]]公・通称ドラキュラ公または串刺し公・トルコから国を救った英雄
* [[マーチャーシュ1世 (ハンガリー王)|マーチャーシュ1世]](正義王)([[1443年]] - [[1490年]]) - ハンガリー王(在位[[1458年]] - [[1490年]])・[[ルネサンス]]文化をハンガリーに広げる
==== ロシア ====
* [[アンドレイ・ルブリョフ]]([[1360年]]頃 - [[1430年]]) - ロシアの修道士・モスクワ派(ルブリョフ派)のイコン画家・代表作に「[[至聖三者]]」がある
* サヴァーチィ(? - [[1453年]]) - ロシアの修道士・[[白海]]の[[ソロヴェツキー修道院]]の基礎を築きゾシマやゲルマンなどの同志を育てる
* {{仮リンク|イシドール|en|Isidore of Kiev}}([[1385年]]頃 - [[1464年]]) - モスクワ府主教・ギリシア人・フィレンツェ公会議に出席し東西教会合同宣言に署名・後に追放される
* {{仮リンク|ニル・ソルスキー|en|Nilus of Sora}}([[1433年]]頃 - [[1508年]]) - ロシアの修道士・東方各地を遍歴し{{仮リンク|非所有派|en|Non-possessors}}の中心人物となる
* [[イヴァン3世]]([[1440年]] - [[1505年]]) - [[モスクワ大公]](在位[[1462年]] - [[1505年]])・[[ゾイ・パレオロギナ]]と結婚し「[[ツァーリ]]」の称号を用いる
* [[マルファ・ボレツカヤ]](? - [[1478年]]以降) - [[ノヴゴロド]]市長夫人(女市長) ・イヴァン3世への抵抗の中心となるが敗北しノヴゴロドは併合される
=== イスラム世界 ===
* [[ティムール]]([[1336年]] - [[1405年]]) - 中央アジアの征服者で[[ティムール朝]]の建設者(在位[[1370年]] - [[1405年]])・[[アンカラの戦い]]で勝利
* [[ルイ・ゴンザレス・デ・クラビホ]](? - [[1412年]]) - カスティーリャ王エンリケ3世がティムール朝へ派遣した外交官・『ティムール帝国紀行』を残す
* ムハンマド・イブン・ムハンマド・アル・ナフザウィ(活躍時期[[1410年]] - [[1434年]]) - [[ハフス朝]]に仕えた文筆家・性愛文学『[[匂える園]]』を残す
* [[ヒズル・ハーン]](? - [[1421年]]) - [[サイイド朝]]の初代君主(在位[[1414年]] - [[1421年]])・もともとはティムール朝に仕えた軍人
* カラ・ユースフ(? - [[1420年]])- [[アナトリア半島|アナトリア]]の[[黒羊朝]](カラ・コユンル朝)の第3代君主(在位[[1389年]]/[[1390年]] - [[1400年]]、[[1406年]] - [[1420年]])
* [[カラ・ユルク・オスマン]](? - [[1435年]]) - アナトリアの[[白羊朝]](アク・コユンル朝)の初代君主(在位[[1378年]] - [[1435年]])
* [[アル=マクリーズィー]]([[1364年]]頃 - [[1435年]]) - マムルーク朝の地理歴史学者。『エジプト地誌』『エジプト社会救済の書』などがある
* [[シャー・ルフ]]([[1377年]] - [[1447年]]) - ティムール朝の第3代君主(在位[[1409年]] - [[1447年]])・[[サマルカンド]]から[[ヘラート]]に都を遷す
* [[ギヤースッディーン・ナッカーシュ]](生没年不詳) - [[ティムール朝]]の外交官・シャー・ルフから[[明]]の[[永楽帝]]に派遣され記録も残す
* ハーフェズ・アブルー(? - [[1430年]]) - ティムール朝の歴史家・[[シャー・ルフ]]に命じられ『歴史集成』を撰述
* [[アシュラフ・バルスバーイ]](? - [[1438年]]) - [[マムルーク朝]]の[[スルターン]](在位[[1422年]] - [[1438年]])・マムルーク朝の中興の祖
* [[ウルグ・ベク]]([[1394年]] - [[1449年]]) - ティムール朝の第4代君主(在位[[1447年]] - [[1449年]])・天文学者・歴史家としても知られる
* [[ムラト2世]]([[1404年]] - [[1451年]]) - [[オスマン帝国|オスマン朝]]の第6代スルターン(在位[[1421年]] - [[1444年]]、[[1446年]] - [[1451年]])・[[ヴァルナの戦い]]で勝利
* [[チャンダルル家|チャンダルル・ハリル・パシャ]](? - [[1453年]]) - オスマン帝国の大宰相・ムラト2世からメフメト2世に仕える・東ローマ帝国征服後に粛清される
* [[ジャーミー]]([[1414年]] - [[1492年]]) - ヘラートで活躍した神秘主義詩人・ペルシア語の恋愛詩「ユースフとズライハ」などの作品で知られる
* [[イブン・マージド]]([[1421年]] - [[1500年]]) - [[オマーン]]に属した航海士で著作家・ポルトガル人のインド航路開拓に協力・著作に『航海術の原則』がある
* [[ウズン・ハサン]]([[1423年]] - [[1478年]]) - 白羊朝の君主(在位[[1453年]] - [[1478年]])・黒羊朝を滅ぼしイラン西部まで領土を拡大
* [[アブー・サイード (ティムール朝)|アブー・サイード]]([[1424年]] - [[1469年]]) - ティムール朝の第7代君主(在位[[1451年]] - [[1469年]])・ティムール朝再統一・[[バーブル]]の祖父
* [[メフメト2世]](征服王)([[1432年]] - [[1481年]]) - オスマン朝のスルターン(在位[[1451年]] - [[1481年]])・[[東ローマ帝国]]を滅ぼしバルカンを平定
* [[バフルール・ローディー]](? - [[1489年]]) - [[ローディー朝]]の初代君主(在位[[1451年]] - [[1489年]])・アフガン系ローディー族の[[サルダール]](指導者)
* [[スンニ・アリ|スンニ・アリー・ベル]](? - [[1492年]]) - [[ソンガイ王国]]国王(在位[[1464年]] - [[1493年]])・[[ニジェール川]]流域の[[トンブクトゥ]]や[[ジェンネ]]を征服
* {{仮リンク|ミールホーンド|en|Mīr-Khvānd}}([[1433年]] - [[1498年]]) - ティムール朝の歴史家・天地創造からティムール朝までの歴史書『[[清浄の園]]』を著す
* [[フサイン・バイカラ]]([[1438年]] - [[1506年]]) - ティムール朝[[ヘラート]]政権の君主(在位[[1470年]] - [[1506年]])・最盛期の君主
* [[ミール・アリー・シール・ナヴァーイー]]([[1441年]] - [[1501年]]) - ティムール朝の政治家・詩集『諸思想の宝庫』や思想書『敬虔な信者の困惑』がある
* スユーティー([[1445年]] - [[1505年]]) - マムルーク朝の著作家・多方面にわたる著述活動で『コーランの注釈集』『講義の美徳』『カリフ史』を残す
* [[ボアブディル]](ムハンマド12世)([[1460年]]? - [[1527年]]) - [[ナスル朝]]([[グラナダ王国]])の最後の君主(在位[[1482年]] - [[1492年]])
=== 南アジア ===
* [[ラーマーナンダ]]([[1400年]]頃 - [[1470年]]頃) - インドの宗教家・[[ワーラーナシー]]で活躍し[[カースト制度]]を否定・[[カビール]]に影響を与える
* マハラナ・クンバ(? - [[1468年]]) - メーワール王国の王(在位[[1433年]] - [[1468年]])・ムスリム勢力に抵抗しラーナクンバ宮殿を建設
=== 東南アジア ===
* パラメスワラ(? - [[1414年]]) - マラッカ王国の初代国王(在位[[1402年]] - [[1414年]])・もとはシュリーヴィジャヤ王国の王子
* マウラナ・マリク・イブラヒーム(? - [[1419年]]) - [[サマルカンド]]出身の[[スーフィー]]・[[チャンパ]]を経て[[ジャワ]]に来訪し[[ワリ・サンガ]]の祖となる
* [[ボーロマトライローカナート]]([[1431年]] - [[1488年]]) - タイのアユタヤ朝の国王(在位[[1448年]] - [[1488年]])・[[サックディナー制度]]を完成させる
* {{仮リンク|ハン・トゥア|en|Hang Tuah}}([[1444年]] - [[1511年]]) - マラッカ王国の海軍提督・君主のマンスール・シャーに仕え王国の黄金時代を支える
=== 東アジア ===
==== 明 ====
* [[姚広孝]]([[1335年]] - [[1418年]]) - [[明]]の政治家・軍師・法名は道衍・[[靖難の変]]で永楽帝に挙兵を進言・第一の功臣とされる
* [[瞿佑]]([[1341年]] - [[1427年]]) - 明の文学者・地方県の訓導・怪異小説集『[[剪灯新話]]』の編者として知られる
* [[永楽帝]]([[1360年]] - [[1424年]]) - 明の第3代皇帝(成祖)(在位[[1402年]] - [[1424年]])・靖難の変に勝利し[[北京]]に都を遷す
* 楊士奇([[1365年]] - [[1444年]]) - 明の政治家・[[洪熙帝]]と[[宣徳帝]]の治世([[仁宣の治]])から[[正統帝]]初期を支えた「三楊」の一人
* [[陳誠 (明朝)|陳誠]]([[1365年]] - [[1457年]]) - 明の外交官・探検家・陸路からティムール朝を訪れその記録を『[[西域番国志]]』に残す
* 解縉([[1369年]] - [[1415年]]) - 明の官僚・「[[永楽大典]]」の編集を行う・書家として「立幅草書軸」があり明の三才子の一人とされる
* 楊栄([[1371年]] - [[1440年]]) - 明の政治家・洪熙帝と宣徳帝の治世(仁宣の治)から正統帝初期を支えた「三楊」の一人
* [[鄭和]]([[1371年]] - [[1434年]]) - 明の[[宦官]](太監)・探検家・永楽帝の命で南海大遠征を指揮し東南アジア・インド・アラビアなどに赴く
* 亦失哈(イシハ)(生没年不詳) - 明の宦官(女真族)・探検家・[[黒竜江]]流域に赴き奴児干都司を設置・石碑「奴児干永寧寺碑記」が残る
* 楊溥([[1372年]] - [[1446年]]) - 明の政治家・洪熙帝と宣徳帝の治世(仁宣の治)から正統帝初期を支えた「三楊」の一人
* 張輔([[1375年]] - [[1449年]]) - 明の将軍・永楽帝に仕え靖難の変で活躍・ベトナムの[[胡季犛]]の反乱を鎮圧する
* [[朱高煦]]([[1380年]] - [[1426年]]) - 明の皇族(漢王)・永楽帝の子で洪熙帝の弟・甥の宣徳帝から帝位簒奪を謀るが失敗し処刑される
* [[宣徳帝]]([[1398年]] - [[1435年]]) - 明の第5代皇帝(在位[[1425年]] - [[1435年]])・その治世が[[仁宣の治]]・[[鄭和]]の最後の南海大遠征を派遣
* [[于謙]]([[1398年]] - [[1457年]]) - 明の政治家・[[土木の変]]で[[正統帝]]が捕虜になると弟の[[景泰帝]]を擁立し[[北京]]に迫った[[オイラト]]軍を撃退
* [[王振]](? - [[1449年]]) - 明の[[宦官]]・正統帝の教育係としてオイラト遠征を勧め土木の変にて戦死する
* 鄧茂七(? - [[1449年]]) - 明の農民反乱指導者・[[福建省]]で小作料や徭役の減免を要求して蜂起(抗租)・[[曹吉祥]]の軍に鎮圧される
* [[曹吉祥]](? - [[1461年]]) - 明の宦官・武官[[石亨]]と共謀し[[奪門の変]]で天順帝を重祚させる・于謙らも粛清し権勢を誇るが処刑される
* [[李賢 (明)|李賢]]([[1408年]] - [[1466年]]) - 明の政治家・奪門の変で権勢を振るった石亨や曹吉祥を倒し天順帝の信任を得る
* [[英宗 (明)|正統・天順帝]]([[1427年]] - [[1464年]]) - 明の第6代・第8代皇帝(英宗)(在位[[1435年]] - [[1449年]]、[[1457年]] - [[1464年]])
* [[沈周]]([[1427年]] - [[1509年]]) - 明の[[文人]]・画家で[[呉派]]の中心人物・[[唐寅]]や[[祝允明]]や[[文徴明]]らは弟子
* [[万貴妃]]([[1430年]] - [[1487年]]) - 明の第9代皇帝[[成化帝]]の寵姫・後宮を支配し皇帝の後継者問題に容喙した
* 李東陽([[1447年]] - [[1516年]]) - 明の文学者・擬古主義の茶陵派を代表し前七子を指導・『大明会典』を編纂し『懐麓堂集』を残す
* [[弘治帝]]([[1470年]] - [[1505年]]) - 明の第10代皇帝(在位[[1487年]] - [[1505年]])・先帝までの弊を改め明の[[中興の祖]]と呼ばれる
==== 大越 ====
* [[黎利]]([[1385年]] - [[1433年]]) - [[ベトナム]](大越国)の[[後黎朝]]の初代皇帝(太祖)(在位[[1428年]] - [[1433年]])・明から独立を果たす
* [[黎聖宗]]([[1442年]] - [[1497年]]) - ベトナム(大越国)の後黎朝の第5代皇帝(在位[[1460年]] - [[1497年]])・[[チャンパ]]を屈服させ「光順中興」を現出
==== モンゴル ====
* [[エセン・ハーン]](? - [[1454年]]) - [[オイラト]]部の部族長・土木の変で明の正統帝を捕虜とする・後にハーンとなるが反対が多く殺される
* [[ダヤン・ハーン]]([[1464年]] - [[1524年]]) - [[モンゴル]]のハーン・長らく分裂状態にあったモンゴル諸部を再統一
==== 朝鮮 ====
* 宋希璟([[1376年]] - [[1446年]]) - [[李氏朝鮮]]の官僚・[[応永の外寇]]の処理のため派遣され来日・『老松堂日本行録』がある
* [[世宗 (朝鮮王)|世宗]](大王)([[1397年]] - [[1450年]]) - 李氏朝鮮の第4代国王(在位[[1418年]] - [[1450年]])・[[ハングル]]([[訓民正音]])を制定する
* 朴瑞生(生没年不詳) - 李氏朝鮮の官僚・1428年の第一回朝鮮通信使の正使として日本に渡る・帰国後に復命書を提出
* [[世祖 (朝鮮王)|世祖]]([[1417年]] - [[1468年]]) - 李氏朝鮮の第7代国王(在位[[1455年]] - [[1468年]])・[[癸酉靖難]]後に甥の[[端宗 (朝鮮王)|端宗]]を倒し即位する
* [[申叔舟]]([[1417年]] - [[1475年]]) - 李氏朝鮮の官僚・癸酉靖難では首陽大君(世祖)に協力・来日した記録に『[[海東諸国紀]]』がある
==== 琉球 ====
* [[尚巴志]]([[1372年]] - [[1439年]]) - 第一尚氏王統の第2代目中山王(在位[[1422年]] - [[1439年]])・北山国と南山国を倒し[[琉球]]を統一
=== 日本 ===
* [[吉山明兆]]([[1352年]] - [[1431年]]) - [[臨済宗]]の画僧・[[東福寺]]の殿主(兆殿主)・「聖一国師像」や「寒山拾得図」が残る
* [[満済]]([[1378年]] - [[1435年]]) - [[真言宗]]の僧・[[醍醐寺]]中興の祖・[[准后]]として将軍[[足利義教]]の選出に尽力
* [[赤松満祐]]([[1381年]]? - [[1441年]]) - [[守護大名]]・[[嘉吉の乱]]で将軍足利義教を暗殺・幕府軍に追討され自殺
* [[正徹]]([[1381年]] - [[1459年]]) - 臨済宗の僧・歌人であり古典学者・『[[正徹物語]]』がある・[[幽玄]]体の美意識を称揚
* [[上杉禅秀]](? - [[1417年]]) - 室町時代[[関東管領]]・[[鎌倉公方]][[足利持氏]]と対立し反乱を起こすが鎮圧される([[上杉禅秀の乱]])
* [[足利義持]]([[1386年]] - [[1428年]]) - [[室町幕府]]第4代将軍(在任[[1394年]] - [[1423年]])・父の[[足利義満]]の政策を否定
* [[善阿弥]]([[1386年]]? - [[1482年]]?) - 庭師・[[河原者]]という身分ながら将軍[[足利義政]]に重用される・[[花の御所]]庭園などを造営
* [[瑞渓周鳳]]([[1392年]] - [[1473年]]) - 臨済宗五山派の禅僧・[[相国寺]]住持・外交に関与し日本初の外交資料集『[[善隣国宝記]]』を編纂
* [[足利義教]]([[1394年]] - [[1441年]]) - 室町幕府第6代将軍(在任[[1429年]] - [[1441年]])・「万人恐怖」と呼ばれる強権政治を行う
* [[一休宗純]]([[1394年]] - [[1481年]]) - 臨済宗[[大徳寺]]派の禅僧・漢詩人として『[[狂雲集]]』がある・[[一休さん]]の[[頓智話|頓知話]]でも知られる
* [[楠葉西忍]]([[1395年]] - [[1486年]]) - 商人・[[天竺]]人の父を持ち興福寺大乗院に仕える・日明貿易で南京や北京にまで渡航する
* [[能阿弥]]([[1397年]] - [[1471年]]) - 室町幕府の同朋衆・水墨画家・鑑定家として[[東山御物]]を選定・子に[[芸阿弥]]・孫に[[相阿弥]]がいる
* [[周文]](生没年不詳) - [[水墨画]]家・禅僧・「水色巒光図」「竹斎読書図」が残る
* [[如拙]](生没年不詳) - 水墨画家・禅僧・将軍[[足利義持]]の命で書いた「[[瓢鮎図]]」が残る
* [[足利持氏]]([[1398年]] - [[1439年]]) - 室町幕府の[[鎌倉公方]]・[[永享の乱]]で室町将軍と対立し滅ぼされる
* [[東常縁]]([[1401年]]? - [[1484年]]) - 室町幕府[[奉公衆]]・[[美濃]][[篠脇城]]主・[[二条派]]の歌学を学び[[宗祇]]に[[古今伝授]]を行う
* [[一条兼良]]([[1402年]] - [[1481年]]) - [[公卿]]・[[摂政]]・[[関白]]・源氏物語注釈『[[花鳥余情]]』や政道論『樵談治要』がある
* [[結城氏朝]]([[1402年]] - [[1441年]]) - 守護大名・永享の乱後に足利持氏の遺児を擁して幕府と戦う([[結城合戦]])
* [[山名宗全]]([[1404年]] - [[1473年]]) - 室町幕府[[侍所]]頭人・守護大名・[[応仁の乱]]では西軍の総大将を務める
* [[心敬]]([[1406年]] - [[1475年]]) - 天台宗の僧・連歌師・『[[新撰菟玖波集]]』に最多入集・著作に『ささめごと』『老のくり言』がある
* [[日親]]([[1407年]] - [[1488年]]) - 日蓮宗の僧・京都[[本法寺 (京都市)|本法寺]]開山・将軍足利義教に拷問を受けた「鍋かぶり日親」の話が有名
* [[足利義量]]([[1407年]] - [[1425年]]) - 室町幕府第5代将軍(在任[[1423年]] - [[1425年]])
* [[上杉憲実]]([[1410年]]? - [[1466年]]?) - 室町幕府[[関東管領]]・[[鎌倉公方]][[足利持氏]]と対立・[[足利学校]]を再興
* [[斎藤妙椿]]([[1411年]] - [[1480年]]) - 権大僧都・美濃国守護代後見人・幕府奉公衆・主家土岐氏を凌ぎ応仁の乱では西軍で活躍
* [[蓮如]]([[1415年]] - [[1499年]]) - [[本願寺]]第8世・北陸地方で信者を開拓し[[一向一揆]]を指導する
* [[雪舟等楊]]([[1420年]] - [[1506年]]?) - 水墨画家・禅僧・渡明して技法を学ぶ・「秋冬山水図」や「天橋立図」で知られる
* [[宗祇]]([[1421年]] - [[1502年]]) - [[連歌]]師・[[東常縁]]より[[古今伝授]]を受ける・『[[新撰菟玖波集]]』を撰集
* [[村田珠光]]([[1422年]]/[[1423年]] - [[1502年]]) - [[茶人]]・[[一休宗純]]に参禅・[[唐物]]を賞玩する茶を否定し[[わび茶]]を創始
* [[池坊専慶]](活躍時期[[1457年]]頃 - [[1466年]]頃) - 京都[[頂法寺]](六角堂)の僧・[[池坊]][[華道]]の元祖とされ『[[碧山日録]]』に記録が残る
* [[今参局]]([[1426年]]? - [[1459年]]) - 将軍足利義政の乳母・[[烏丸資任]]や[[有馬持家]]とともに「三魔」と呼ばれる側近・追放殺害される
* [[朝倉孝景 (7代当主)|朝倉孝景]]([[1428年]] - [[1481年]]) - 守護大名・[[斯波義廉]]と組んで応仁の乱では西軍に属すが後に裏切る
* [[万里集九]]([[1428年]] - [[1507年]]?) - 臨済宗の禅僧・漢詩人・各地を遍歴し太田道灌ほかとの交流が『静勝軒記』『梅花無尽蔵』に残る
* [[日野勝光]]([[1429年]] - [[1476年]]) - 公卿(左大臣)・妹に日野富子がおり足利義尚は甥・「押大臣」と呼ばれ権勢を誇った
* [[細川勝元]]([[1430年]] - [[1473年]]) - 室町幕府[[管領]]・守護大名・応仁の乱では東軍の総大将を務める
* [[尋尊]]([[1430年]]- [[1508年]]) - [[興福寺]]別当・[[大乗院 (門跡寺院)|大乗院]]門跡・応仁の乱前後の根本史料「[[大乗院寺社雑事記]]」を残す
* [[骨皮道賢]](? - [[1468年]]) - [[足軽]]大将・応仁の乱では[[細川勝元]]の東軍に属す・略奪放火を繰り返し乱の被害を拡大させる
* [[太田道灌]]([[1432年]] - [[1486年]]) - 関東管領上杉氏の一族([[扇谷上杉家]])の家宰・[[江戸城]]を築く
* [[足利義勝]]([[1434年]] - [[1443年]]) - 室町幕府第7代将軍(在任[[1442年]] - [[1443年]])
* [[土佐光信]]([[1434年]] - [[1525年]]) - 室町幕府[[御用絵師]]・宮廷絵所預・[[土佐派]]中興の祖・「[[清水寺]]縁起絵巻」などがある
* [[狩野正信]]([[1434年]]? - [[1530年]]?) - 室町幕府御用絵師・[[狩野派]]の祖・「周茂叔愛蓮図」などがある
* [[斯波義敏]]([[1435年]] - [[1508年]]) - 守護大名・[[武衛騒動]]で[[斯波義廉]]と家督を争う・後に応仁の乱では東軍に属す
* [[吉田兼倶]]([[1435年]] - [[1511年]]) - 神道家・[[吉田神道]](唯一神道)の事実上の創始者として全国の神社を統括・著作に『[[神道大意]]』ほか
* [[足利政知]]([[1435年]] - [[1491年]]) - 室町幕府の初代[[堀越公方]]・足利義政の庶兄・後に子の[[足利義澄]]が11代将軍となる
* [[足利義政]]([[1436年]] - [[1490年]]) - 室町幕府第8代将軍(在任[[1449年]] - [[1473年]])・[[東山文化]]を代表する[[慈照寺]]銀閣を建てる
* [[足利成氏]]([[1438年]] - [[1497年]]) - 室町幕府の[[鎌倉公方]]・足利持氏の遺児・[[享徳の乱]]で鎌倉を出奔し初代[[古河公方]]となる
* [[足利義視]]([[1439年]] - [[1491年]]) - 足利義政の弟で将軍候補の一人・後に子の[[足利義稙]]が10代将軍となる
* [[日野富子]]([[1440年]] - [[1496年]]) - 足利義政の正室・将軍後継をめぐり実子の[[足利義尚]]を推し応仁の乱の原因をなす
* [[畠山政長]]([[1442年]] - [[1493年]]) - 守護大名・室町幕府管領・応仁の乱では東軍に属す・[[畠山義就]]との家督争いから[[山城国一揆]]を招く
* [[真盛]]([[1443年]] - [[1495年]]) - 天台宗の僧・天台宗真盛派の祖・[[近江国|近江]][[西教寺]]を再興する・諡号は慈摂大師
* [[肖柏|牡丹花肖柏]]([[1443年]] - [[1527年]]) - 連歌師・[[宗祇]]や[[宗長]]らと「水無瀬三吟百韻」を詠む・宗祇から[[古今伝授]]を受ける
* [[大内政弘]]([[1446年]] - [[1495年]]) - 守護大名・応仁の乱では西軍に属し動向を左右する・本拠地[[山口市|山口]]で[[大内文化]]を育む
* [[古市澄胤]]([[1452年]] - [[1508年]]) - 興福寺の衆徒・南山城の守護代・[[山城国一揆]]を鎮圧する・[[村田珠光]]の弟子で連歌にも通じた
* [[三条西実隆]]([[1455年]] - [[1537年]]) - 公卿・[[内大臣]]・宗祇から[[古今伝授]]を受ける・『[[実隆公記]]』を残す
* [[六角高頼]](? - [[1520年]]) - 守護大名・応仁の乱後に近江の領土を一元化して将軍義尚の[[六角征伐]]を招く
* [[足利義尚]]([[1465年]] - [[1489年]]) - 室町幕府第9代将軍(在任[[1473年]] - [[1489年]])・[[六角征伐]]の[[鈎の陣]]で病没
* [[足利義稙]]([[1466年]] - [[1523年]]) - 室町幕府第10代将軍(在任[[1490年]] - [[1493年]]、[[1508年]] - [[1521年]])・通称「流れ公方」
* [[足利義澄]]([[1480年]] - [[1511年]]) - 室町幕府第11代将軍(在任[[1493年]] - [[1508年]])・[[明応の政変]]で擁立される
== 架空のできごと ==
* 15世紀前半 - [[ヨーロッパ]]の「P王国」では「C教」という[[宗教]]が大きな力を持っていたため、[[地動説]]はその教義に反く考え方であり、研究するだけでも[[拷問]]を受けたり、[[火刑|火あぶり]]に処せられたりしていた。この時代を生きる主人公ラファウは12歳で大学に入学するという神童で、[[神学]]を専攻する予定であった。しかしある日地動説を研究していたフベルトに出会ったことで地動説の美しさに魅入られ、命を賭けた地動説の研究が始まる([[魚豊]]のマンガ『[[チ。-地球の運動について-]]』)。
* [[1402年]]以降 - [[靖難の変]]で叔父の[[永楽帝|燕王]]に敗北し、[[南京]]の宮殿から僧となって落ち延びた[[建文帝]]は[[雲南省|雲南]]ほか諸国を流浪するも、平穏なうちに一生を終える([[幸田露伴]]『[[運命 (幸田露伴)|運命]]』)。
* [[1405年]]以降 - [[始皇帝]]以来の[[伝国璽|伝国の玉璽]]を、元の[[順帝]]が持ち去った。この玉璽を奪い返すよう明の永楽帝が太監の[[鄭和]]に命じる。鄭和は大船団を組み、妖怪や神異に遭遇しつつ、西へ西へと進んでいく(明末の羅懋登による口語小説『[[三宝太監西洋記]]』)。
* [[1413年]] - 臆病者で酒飲みで強欲、狡猾で好色だが、限りない機知溢れた巨漢の老騎士[[フォルスタッフ]]は、ハル王子の放蕩仲間であった。王子がイングランド王ヘンリー5世となると王のもとから追放され、失意のうちに死んでいく(シェイクスピア『[[ヘンリー四世 (シェイクスピア)|ヘンリー四世]]』『[[ヘンリー五世 (シェイクスピア)|ヘンリー五世]]』。[[スピンオフ]]作品として『[[ウィンザーの陽気な女房たち]]』の主人公ともなる)。
* [[1424年]] - [[1437年]] - 25年以上に渡りスコットランドのギャロウェイの海岸で、徒党を組んで旅人を襲撃して惨殺、その肉まで食らっていたという[[ソニー・ビーン]]とその一族の事件が国王[[ジェームズ1世 (スコットランド王)|ジェームズ1世]]の耳に届いた。ことの重大さを理解した国王は自ら300名余の兵を率いて一族を追捕、彼らを極刑に処した(『[[ニューゲート・カレンダー]]』ほか)。
* [[1446年]] - 「[[聖杯]]の一族」であり[[テンプル騎士団]]の流れを引くスコットランドの{{仮リンク|シンクレア家|en|Clan Sinclair}}(サンクレール家)のウィリアムが[[エディンバラ]]近郊に{{仮リンク|ロスリン礼拝堂|en|Rosslyn Chapel}}を建設する。この礼拝堂には晦渋で謎めいた幾つもの象徴が仕掛けられており、この家がフリーメイソンの大本となることを意味しているという([[ダン・ブラウン]]『[[ダ・ヴィンチ・コード]]』)。
* [[1449年]] - [[若狭国]]出身の[[八百比丘尼]](白比丘尼)が京都に出現し評判をとる(654年に誕生し1454年に800歳で故郷の[[小浜]][[空印寺]]で往生を遂げたという)(中原安富『安富[[瑞渓周鳳]]『臥雲日件録』)。
* [[1450年]] - アテネ公爵夫人[[ジスモンダ]]は5歳の息子フランチェスコの摂政としてこの国を統治している。息子が陰謀に巻き込まれ虎の穴に落ちた時、彼女は息子を救った者との結婚を誓う(ヴィクトリアン・サルドゥの演劇「ジスモンダ」)。
* [[1458年]] - [[里見義実]]の娘・[[南総里見八犬伝の登場人物#伏姫|伏姫]]が割腹し、仁義八行の文字が記された珠が飛散する([[曲亭馬琴]]『[[南総里見八犬伝]]』)。
* [[1461年]] - [[1483年]] - イングランド王[[エドワード4世]]治世の[[ブリストル]]市長ウィリアム・ケアニングに庇護された詩人に修道士トマス・ローリーがいた。「慈善のバラード」を含むその詩作は18世紀に再発見され高い評価を得た(トマス・ローリーの詩とされるものは18世紀の詩人[[トーマス・チャタートン|トマス・チャタトン]]の贋作である。贋作と知られず高い評価を得たにもかかわらず貧困な生活を余儀なくされていたチャタトンは僅か18歳で自殺する。この顛末はピーター・アクロイドの小説『チャタトン偽書』に詳しい)。
* [[1462年]] - [[オスマン帝国]]に兵士[[イエニチェリ]]となる1000人の男子を差し出すよう命じられた[[ワラキア]]の君主[[ヴラド・ツェペシュ|ヴラド]]は、国の行く末と息子の身を案じ苦悩するが、洞窟に潜む悪魔と契約を交わして魔性の力を持つ吸血鬼となり、強大なオスマン帝国に戦いを挑んでいく(ゲイリー・ショア監督の映画「[[ドラキュラZERO]]」)。
* [[1478年]] - 兄王エドワード4世を廃位する陰謀をウォリック伯とともに企てた王弟[[ジョージ・プランタジネット (クラレンス公)|クラレンス公]]は、死刑に処されることになったが、本人の希望を容れて、マームジーのワインの酒樽で溺死させられることになった([[ウィリアム・シェイクスピア]]の戯曲『[[リチャード3世]]』)。
* [[1482年]] - パリの[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]][[助祭]]長フロロが[[ジプシー]]の踊り子エスメラルダを魔女裁判で処刑。大聖堂の鐘つきカジモドがそれに反発しフロロを殺害する([[ヴィクトル・ユーゴー]]『[[ノートルダム・ド・パリ]]』)。
* [[1483年]] - 八犬士が集結する(『南総里見八犬伝』)
* [[1484年]] - [[薔薇十字団]]の創設者である[[クリスチャン・ローゼンクロイツ]]が106歳で亡くなり、七角形の地下納骨堂に「我は120年後に開顕されるであろう」という文言を添えて秘密裏に葬られる([[ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ]]の小説『[[化学の結婚]]』)。
<!-- == 注釈 ==
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== 出典 ==
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== 参考文献 ==
* {{Cite book ja-jp |author=ジャック・チャロナー(編集) |year=2011 |title=人類の歴史を変えた発明 1001 |publisher=ゆまに書房 |isbn=978-4-8433-3467-6 |ref={{Sfnref|チャロナー|2011}}}}<!-- 2011年1月31日初版1刷 -->
== 関連項目 ==
* [[年表]]
== 外部リンク ==
* {{Commonscat-inline}}
{{十年紀と各年| 世紀 = 15 | 年代 = 1400 }}
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[[Category:15世紀|*]] | 2003-02-19T17:15:35Z | 2023-10-25T19:54:52Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/15%E4%B8%96%E7%B4%80 |
2,451 | ミール | ミール(露: Мир)は、ソビエト連邦によって1986年2月19日に打ち上げられ、2001年3月23日まで使われた宇宙ステーションである。ミールという名前は、ロシア語で「平和」「世界」を意味する。サリュートの後継機。
コアモジュールはサリュート6・7号とほぼ同じ構造を使用しているが、新たに5個のドッキングポートを有する球状のドッキング区画を装備した。サリュート6, 7号が2箇所のドッキングポートしかなかったのに対して、ミールのコアモジュールは計6箇所のドッキングポートを利用できた。これを利用して1996年までの10年間に5つの大型モジュールが打ち上げられ、それらを結合することによって規模を拡大させた。残りの1箇所とクバント1のドッキングポートには、ソユーズ宇宙船とプログレス補給船のドッキングに使用された。
1990年代にアメリカ合衆国主導の国際宇宙ステーション計画へロシア連邦が参加することが決定し、1997年のプログレス補給船衝突事故以降、施設の老朽化と陳腐化が関係者の間で問題となり、またロシア側が新たな基本モジュール(名称:ズヴェズダ。ミールのコアモジュールの改良型)の打ち上げに意欲を示したことから、国際宇宙ステーションに飛行士が滞在するのに合わせて廃棄する事となり、2001年3月23日に大気圏に突入した。15年もの間、旧東側諸国を中心にアメリカやヨーロッパからも100人以上の宇宙飛行士が訪れた。
宇宙飛行士の往復には主に有人宇宙船ソユーズ(ソユーズT、ソユーズTM)が使用され、補給品の輸送には無人貨物宇宙船プログレス(初代およびプログレスM、プログレスM1)も使用された。またスペースシャトルも8回のドッキングを行った。
ミールは、別々に打ち上げられた7つのモジュールを接続することで建設された。スペースシャトルで打ち上げられたドッキングモジュール以外は、すべてプロトンロケットで打ち上げられた。
ミールのコアモジュールとクバント1は予備機が製作され、宇宙飛行士の地上訓練や国外での展示などに使用された。
1989年、名古屋の世界デザイン博覧会に出展された予備機を堀江企画が購入、岩倉建設に転売された後、1998年に北海道苫小牧市へ寄贈された(なお、現・苫小牧市長の岩倉博文は岩倉建設の役員であった)。当初は苫小牧市科学センターの脇で屋外展示されていたが、1999年に「ミール展示館」が建設され、ミール滞在経験のある元宇宙飛行士なども訪れている。 | [
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] | ミールは、ソビエト連邦によって1986年2月19日に打ち上げられ、2001年3月23日まで使われた宇宙ステーションである。ミールという名前は、ロシア語で「平和」「世界」を意味する。サリュートの後継機。 | {{Otheruses|宇宙ステーション}}
{{脚注の不足|date=2018-04-07}}
{{Infobox space station
| station = ミール
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| station_image_caption = [[:en:STS-91|ディスカバリー]]から見たミール(1998年6月12日)
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| sign = ''Mir''
| crew = 3名
| launch = 1986–1996年
| launch_pad = [[バイコヌール宇宙基地]]・[[:en:Baikonur Cosmodrome Site 200|LC-200/39]]および[[:en:Baikonur Cosmodrome Site 81|LC-81/23]]<br />[[ケネディ宇宙センター]]・[[ケネディ宇宙センター第39発射施設|LC-39A]]
| reentry = 2001-03-23<br/>05:50:00 [[協定世界時|UTC]]
| mass = 124,340 kg<br/>(274,123 [[ポンド (質量)|lbs]])
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| volume = 350 m<sup>3</sup>
| pressure =
| perigee = 354 km (189[[海里]])
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| as_of = 2001年3月23日 04:57:10 [[協定世界時|UTC]]
| stats_ref = <ref>{{cite web|url=http://www.heavens-above.com/orbit.aspx?lat=48.213&lng=16.296&alt=302&loc=Kuffner-Sternwarte&TZ=CET&satid=16609|accessdate=June 30, 2009|publisher=Heavens-Above.com|date=March 23, 2001|title=Mir-Orbit Data}}</ref>
| configuration_image = Mir diagram.svg
| configuration_size =
| configuration_caption = [[スペースシャトル]]を除く、ミールの最終構成
}}
<!--[[画像:Mir mock up inside 2.jpg|thumb|right|250px|ミール モックアップ1]]
[[ファイル:Mir mock up inside 1.jpg|thumb|right|250px|ミール モックアップ2]]
[[ファイル:Damaged Spektr solar array.jpg|thumb|right|250px|破損画像1]]
[[ファイル:Damaged Spektr radiator.jpg|thumb|right|250px|破損画像2]]-->
'''ミール'''({{lang-ru-short|Мир}})は、[[ソビエト連邦]]によって[[1986年]][[2月19日]]に打ち上げられ、[[2001年]][[3月23日]]まで使われた[[宇宙ステーション]]である。ミールという名前は、ロシア語で「[[平和]]」「[[世界]]」を意味する。[[サリュート]]の後継機。
== 概要 ==
コアモジュールは[[サリュート6号|サリュート6]]・[[サリュート7号|7号]]とほぼ同じ構造を使用しているが、新たに5個のドッキングポートを有する球状のドッキング区画を装備した。サリュート6, 7号が2箇所のドッキングポートしかなかったのに対して、ミールのコアモジュールは計6箇所のドッキングポートを利用できた。これを利用して[[1996年]]までの10年間に5つの大型モジュールが打ち上げられ、それらを結合することによって規模を拡大させた。残りの1箇所とクバント1のドッキングポートには、ソユーズ宇宙船とプログレス補給船のドッキングに使用された。
[[1990年代]]に[[アメリカ合衆国]]主導の[[国際宇宙ステーション]]計画へ[[ロシア連邦]]が参加することが決定し、[[1997年]]の[[プログレス補給船]]衝突事故以降、施設の老朽化と陳腐化が関係者の間で問題となり、またロシア側が新たな基本モジュール(名称:[[ズヴェズダ (ISS)|ズヴェズダ]]。ミールのコアモジュールの改良型)の打ち上げに意欲を示したことから、国際宇宙ステーションに飛行士が滞在するのに合わせて廃棄する事となり、[[2001年]][[3月23日]]に大気圏に突入した。15年もの間、旧東側諸国を中心にアメリカやヨーロッパからも100人以上の宇宙飛行士が訪れた。
宇宙飛行士の往復には主に有人宇宙船[[ソユーズ]]([[ソユーズの一覧#ソユーズT|ソユーズT]]、[[ソユーズの一覧#ソユーズTM|ソユーズTM]])が使用され、補給品の輸送には無人貨物宇宙船[[プログレス補給船|プログレス]](初代およびプログレスM、プログレスM1)も使用された。またスペースシャトルも8回のドッキングを行った。
== 歴史 ==
* [[1986年]][[2月19日]][[協定世界時]]21時28分23秒([[モスクワ時間]][[2月20日]]0時28分23秒)、コアモジュールの打ち上げ。
* [[1990年]]12月には[[東京放送ホールディングス|TBS]]の[[秋山豊寛]]が宇宙特派員として[[日本人]]初の宇宙飛行を達成、ミールから9日間に渡る宇宙リポート『[[日本人初!宇宙へ]]』を行った。
* [[1994年]]1月から[[1995年]]3月まで[[ワレリー・ポリャコフ]]がミールに滞在し、437日間の連続宇宙滞在記録を樹立。
* [[1995年]][[6月30日]]、アメリカ合衆国の[[スペースシャトル]]「[[スペースシャトル・アトランティス|アトランティス]] ([[STS-71]])」がドッキングした。米露のドッキングは[[1975年]]の[[アポロ・ソユーズテスト計画]]以来であり、これ以降、[[STS-74]]、[[STS-76]]、[[STS-79]]、[[STS-81]]、[[STS-84]]、[[STS-86]]、[[STS-89]]がドッキングした。
* [[1997年]]2月23日、交代のためクルー6人が滞在していた時に、クバント1に装備していたバックアップ用の[[Vika酸素発生器|酸素発生]]キャニスター(SFOG)を使用した際に炎が噴き出し、一時、船内は煙で充満した。クルーは酸素マスクを装着して消火器を使って鎮火し、その後空気浄化装置を使って有害なガスを除去した<ref>{{cite news | title =Historical Incidents: The Mir Fire (クルーの証言映像あり)| url=http://www.spacesafetymagazine.com/2011/09/06/historical-incidents-the-mir-fire/ | publisher = Space Safety Magazine| accessdate = 2011-12-11}}</ref>。
* [[1997年]][[6月25日]]に無人宇宙輸送船[[プログレスM-34]]のミールからの[[TORU (ドッキングシステム)|TORUシステム]]を使用した手動ドッキングテスト時に、スペクトルモジュールに衝突する事故が発生し、空気漏れが生じたため、スペクトルモジュールを閉鎖した。この際、ハッチを緊急に閉鎖するにあたり電力ケーブルなどを切断したため電力不足にも陥った。その後、3回の船外活動でスペクトルモジュールからの電力供給をほぼ回復させる事はできたが、空気漏れの箇所の特定・修理は2000年4月までできず、スペクトルモジュールは使用できなくなった<ref>{{cite news | title =Progress M-34 collides with Mir (クルーの証言映像あり)| url=http://www.youtube.com/watch?v=Iu3oy6_v73M | accessdate = 2011-12-11}}</ref>。
* [[1998年]][[8月13日]]の[[ソユーズTM-28]]に乗り込んだ日本の[[ガチャピン]]が、[[ポンキッキーズ]] の「ガチャピン宇宙へ」企画で[[8月15日]]から[[8月20日]]までの5日間滞在。定期的に[[P-kiesワンダーランド]]会場([[臨海副都心]][[青海 (江東区)|青海]]Q地区)と中継する計画であったが、通信事情が劣悪でほとんど映像を伝送できず、帰還後の8月30日に予定していた特別番組の放送が中止された。
* [[1999年]][[8月28日]]に[[ソユーズTM-29]]が分離し、ミールは2000年4月6日まで無人となった。
* [[2000年]][[4月6日]]に[[ソユーズTM-30]]がドッキング。アメリカのMirCorp.が資金提供し、ミールの修理を行い、今後の商業利用の準備を整えた。2000年6月16日に帰還すると再び無人状態となった。
* [[2001年]][[3月23日]]に南太平洋上の[[大気圏再突入|大気圏に再突入]]、廃棄処分された。燃え尽きなかった部分は、[[到達不能極]]([[ポイント・ネモ]])付近に落下した。
== モジュール ==
ミールは、別々に打ち上げられた7つのモジュールを接続することで建設された。[[スペースシャトル]]で打ち上げられたドッキングモジュール以外は、すべて[[プロトン (ロケット)|プロトンロケット]]で打ち上げられた。
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+ ミールの各モジュール(見出しの背景色は右上の図と同じである)
|-
! モジュール
! 打ち上げ日・<br />ドッキング日
! 打ち上げ機
! 質量
! 結合時の[[ソユーズ]]ミッション
! 用途
! 単独画像
! 全体画像
|-
! style="background-color:#dfd" | [[ミール・コアモジュール|コアモジュール]]<br />[[:en:Mir Core Module|Core Module]]
| [[1986年]][[2月19日]]<br />-
| rowspan="5" | [[プロトン (ロケット)|プロトン 8K82K]]
| nowrap="nowrap" | 20,100 kg
| -
| 主要な居住区であり、全モジュールの中核となる。
| [[ファイル:Mir base block drawing.png|80px]]
| [[ファイル:Mir base block drawing.png|80px]]
|-
! style="background-color:#edf" | [[クバント1]]<br />[[:en:Kvant-1|Kvant-1]]
| [[1987年]][[3月31日]]<br />1987年[[4月12日]]<!--「4/5、4/7のドッキングは失敗。4/12に成功」-->
| 10,000 kg
| [[ソユーズTM-2]]
| コアモジュール後部に結合。X線と紫外線天体観測。姿勢制御用のジャイロダインを装備。後に姿勢制御スラスタパッケージを追加設置。
| [[ファイル:Kvant module drawing.png|80px]]
| [[ファイル:Mir 1987 configuration drawing.png|80px]]
|-
! style="background-color:#def" | [[クバント2]]<br />[[:en:Kvant-2|Kvant-2]]
| [[1989年]][[11月26日]]<br />1989年[[12月6日]]
| rowspan="3" | 19,640 kg
| [[ソユーズTM-8]]
| 新しく、より高度な生命維持装置、予備の科学実験設備、エアロック。
| [[ファイル:Kvant 2 module drawing.png|80px]]
| [[ファイル:Mir 1989 configuration drawing.png|80px]]
|-
! style="background-color:#fef" | [[クリスタル (ミール)|クリスタル]]<br />[[:en:Kristall|Kristall]]
| [[1990年]][[5月31日]]<br />1990年[[6月10日]]
| [[ソユーズTM-9]]
| 工学、材料処理、地球物理学、天文学の研究。端にドッキングポートを2基装備。
| [[ファイル:Kristall module drawing.png|80px]]
| [[ファイル:Mir 1990 configuration drawing.png|80px]]
|-
! style="background-color:#dff" | [[スペクトル (ミール)|スペクトル]]<br />[[:en:Spektr|Spektr]]
| [[1995年]][[5月20日]]<br />1995年[[6月1日]]
| [[ソユーズTM-21]]
| 地球観測用の実験モジュール。
| [[ファイル:Spektr module drawing.png|80px]]
| [[ファイル:Mir June 2 1995 configuration drawing.png|80px]]
|-
! style="background-color:#fed" nowrap="nowrap" | [[ミール・ドッキングモジュール|ドッキングモジュール]]<br />[[:en:Mir Docking Module|Docking Module]]
| nowrap="nowrap" | [[1995年]][[11月12日]]<br />1995年[[11月15日]]
| [[スペースシャトル]]・[[スペースシャトル・アトランティス|アトランティス]] ([[STS-74]])
| 6,134 kg
| [[ソユーズTM-22]]
| クリスタルに結合。スペースシャトルとのドッキング。
| [[ファイル:Mir Docking Module drawing.png|80px]]
|
|-
! style="background-color:#ffd" | [[プリローダ]]<br />[[:en:Priroda|Priroda]]
| [[1996年]][[4月23日]]<br />1996年[[4月26日]]
| プロトン 8K82K
| 19,000 kg
| [[ソユーズTM-23]]
| [[リモートセンシング]]
| [[ファイル:Priroda module drawing.png|80px]]
| [[ファイル:Mir May 7 1996 configuration drawing.png|80px]]
|}
== ミール予備機 ==
ミールのコアモジュールとクバント1は予備機が製作され、宇宙飛行士の地上訓練や国外での展示などに使用された。
1989年、名古屋の[[世界デザイン博覧会]]に出展された予備機を[[堀江企画]]が購入、[[イワクラホーム|岩倉建設]]に転売された後、1998年に[[北海道]][[苫小牧市]]へ寄贈された(なお、現・苫小牧市長の[[岩倉博文]]は岩倉建設の役員であった)。当初は[[苫小牧市科学センター]]の脇で屋外展示されていたが、1999年に「ミール展示館」が建設され、ミール滞在経験のある元宇宙飛行士なども訪れている。
== 搭載機器にまつわる話 ==
[[File:Interior of Mir Core Module.jpg|thumb|ミールのコアモジュール。左側の白い機材がHB-G900APと見られる(1996年3月)]]
* 画像編集などの用途で[[ソニー|Sony]]のHB-G900 ([[MSX2]]) が使用されていた(経緯に関しては[[MSX#MSXと冷戦|MSXと冷戦]]を参照)。[[MSX]]愛好家の間では愛着を込めて「MSXを使用している宇宙船」として認識されていた。1990年12月、日本のTV局である[[TBS]]の宇宙プロジェクト『[[日本人初!宇宙へ]]』にて撮影されたビデオの編集に使用されていたことが、スポンサーであるソニーの技術情報誌の特集記事として掲載された。
* 宇宙という場所にありながら、宇宙飛行士が数ヶ月単位で長期滞在するために、ゲーム、音楽の入ったCDやテープ、さらには[[酒]]や[[アダルトビデオ]]も持ち込まれたといわれる。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 『ドラゴンフライ―ミール宇宙ステーション・悪夢の真実〈上〉〈下〉』Bryan Burroug(原著)、小林 等(翻訳)、筑摩書房、ISBN 4-480-86057-6
== 外部リンク ==
{{commonscat|Mir}}
=== 日本語サイト ===
==== 国家機関 / 公共施設 ====
* [https://iss.jaxa.jp/mir/jmirdoc3.html ミール宇宙ステーションステータス情報(1997年7〜月2001年3月)JAXA HP] [[宇宙航空研究開発機構]] (JAXA)
* {{ wayback | date = 20070508181137 | url = https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/uchuu/minutes/honkai4.pdf | title = 宇宙ステーション「ミール」の情報収集の現状について }} [[文部科学省]]
* [http://www.city.tomakomai.hokkaido.jp/kagaku/mir 苫小牧市科学センター ミール展示館 公式HP]
* {{Archive.today|url=http://homepage2.nifty.com/photo-jimbo/miiru.htm |title=宇宙の方船に乗って・・・未来を探る旅へ|date=20130427114536}} 苫小牧市科学センター、科学センターパンフレットより抜粋
* {{Wayback|url=http://astro.ysc.go.jp/mir.html |title=ミールステーションの記録 |date=20031020215336}} はまぎんこども宇宙科学館 / (財)横浜市青少年育成協会
==== 企業 / TV番組 ====
* [http://www.mitsubishielectric.co.jp/dspace/column/c0301_3_b.html ダイニングテーブルを囲んで] 三菱電機 DSPACE/1月コラムVol.3[ISSの食事スタイル:林公代]
* {{Wayback|url=http://www.ntv.co.jp/FERC/research/20030720/kiseki007.html |title=宇宙ステーション落下を食い止めろ!地球を救った3人の男達! |date=20060616102811}} [[特命リサーチ200X]] 2003年7月20日付
* [https://style.nikkei.com/article/DGXMZO70520040R30C21A3000000 死まであと7分 旧ソ連の宇宙ステーション事故の真相(ナショナルジオグラフィック日本語記事、日経新聞、2021年4月17日記事)]
=== 英語サイト ===
* [http://www.cnn.com/SPECIALS/multimedia/cult3d/html/mir.html CNN - 3-D - Mir]
{{ミール}}
{{宇宙ステーション}}
{{シャトル・ミール計画}}
{{宇宙飛行}}
{{ソビエト連邦及びロシアの有人宇宙飛行計画}}
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[[Category:ミール|*]]
[[Category:現存しない建築物]]
[[Category:ロシアの宇宙開発]]
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2,452 | 12世紀 | 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。
西ヨーロッパでは、前世紀に続き二度、第2回と第3回の十字軍の遠征が行なわれた(詳しくは以下の「西アジア」の節を参照)。また古典の文化がイスラム・ビザンツの文化を経由してヨーロッパに伝えられ、哲学・美術・文学などの分野でも新しい動きを見せた(12世紀ルネサンス)。またアラビア語に翻訳された古典ギリシア語著作が、シチリア島やスペインのトレドで組織立ってラテン語訳された時代でもあるため、「大翻訳時代(英語版)」とも呼ばれている。
十字軍に対するイスラムの反撃が始まり、1144年にエデッサが陥落する。これを受け、第2回十字軍がシリアのダマスカスを攻撃したが、敗退した。1187年、アイユーブ朝のスルタン、サラーフッディーンによりエルサレム王国軍が壊滅し(ヒッティーンの戦い)、約90年ぶりにエルサレムがイスラム側によって奪還された。この事件は第3回十字軍遠征(1189年-1192年)に発展したが、イングランドとフランス、そして神聖ローマ帝国の十字軍は薄く延びる沿岸地域の奪還にとどまった(ただし、休戦協定によりキリスト教徒のエルサレム巡礼の自由は保証された)。
中国では、遼に服属していた女真が指導者完顔阿骨打により独立し金が建国された。金はその10年後には遼および北宋を滅ぼし北半を征服、新たに再興した南半を制する南宋と対峙することになる。
平安時代後期から鎌倉時代最初期にあたる。 天皇家・摂関家を巻き込む政争「保元の乱」「平治の乱」により武士の政治的地位が上昇した。両乱で活躍した平清盛の打ち立てた平氏政権が栄えたが、治承・寿永の乱(源平合戦)における最終決戦「壇ノ浦の戦い」で源氏を筆頭とする勢力が勝利し平家が滅亡したことにより、源氏の頭領源頼朝による新たな武家政権である鎌倉幕府の成立に至る。 | [
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] | 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。 | {{出典の明記|date=2023年3月}}
{{centurybox}}
[[ファイル:Bayon Angkor in Cambodia 001.JPG|thumb|280px|[[カンボジア]]の栄光。[[トンレサップ湖]]に面したこの[[アンコール遺跡|アンコール]]の地に[[アンコール朝]]の王[[スーリヤヴァルマン2世]]は[[アンコール・ワット]]の建設を行い、続く[[ジャヤーヴァルマン7世]]は[[アンコール・トム]]を築いた。画像はアンコール・トムの[[バイヨン]]四面像([[観世音菩薩]]像)。]]
[[File:Combat deuxième croisade.jpg|thumb|right|280px|[[十字軍国家]]の消長。イスラム教徒の反撃が始まったことで十字軍国家は重大な存亡の局面に立たされ、西欧に向けて幾度となく十字軍が勧請された。画像は[[ギヨーム・ド・ティール]]著『十字軍国家の歴史(海の向こう側([[ウトラメール]])の歴史)』写本に描かれた[[第2回十字軍]]。]]
[[File:Martorana Palermo msu2017-0166.jpg|thumb|200px|[[シチリア王国]]の繁栄。シチリア島ではギリシア・アラブ・ノルマンの文化が混交した。画像はノルマン人の王[[ルッジェーロ2世]]を描いた[[パレルモ]]の[[マルトラーナ教会]]の[[モザイク]]壁画。]]
'''12世紀'''(じゅうにせいき)とは、[[西暦]][[1101年]]から西暦[[1200年]]までの100年間を指す[[世紀]]。
== 12世紀の歴史 ==
=== ヨーロッパ ===
[[ファイル:Apóstoles del Pórtico de la Gloria.jpg|right|thumb|250px|[[巡礼]]の隆盛。スペインの[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ]]大聖堂の「栄光の門」の[[ロマネスク様式]]の彫刻群。この地は[[サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路]]の終点であり、多くの信者がここを訪れた。]]
[[西ヨーロッパ]]では、前世紀に続き二度、第2回と第3回の[[十字軍]]の遠征が行なわれた(詳しくは以下の「西アジア」の節を参照)。また[[古典]]の文化がイスラム・[[ビザンティン|ビザンツ]]の文化を経由してヨーロッパに伝えられ、[[哲学]]・[[美術]]・[[文学]]などの分野でも新しい動きを見せた([[12世紀ルネサンス]])。またアラビア語に翻訳された古典ギリシア語著作が、[[シチリア島]]や[[スペイン]]の[[トレド]]で組織立って[[ラテン語]]訳された時代でもあるため、「{{仮リンク|大翻訳時代|en|Latin translations of the 12th century}}」とも呼ばれている。
=== 西アジア ===
十字軍に対するイスラムの反撃が始まり、[[1144年]]に[[シャンルウルファ|エデッサ]]が陥落する。これを受け、[[第2回十字軍]]が[[シリア]]の[[ダマスカス]]を攻撃したが、敗退した。[[1187年]]、[[アイユーブ朝]]の[[スルタン]]、[[サラーフッディーン]]により[[エルサレム王国]]軍が壊滅し([[ヒッティーンの戦い]])、約90年ぶりに[[エルサレム]]が[[イスラム]]側によって奪還された。この事件は[[第3回十字軍]]遠征(1189年-1192年)に発展したが、[[イングランド]]と[[フランス]]、そして[[神聖ローマ帝国]]の十字軍は薄く延びる沿岸地域の奪還にとどまった(ただし、[[休戦協定]]により[[キリスト教徒]]のエルサレム巡礼の自由は保証された)。
=== 東アジア ===
==== 中国 ====
[[中国]]では、[[遼]]に服属していた[[女真]]が指導者[[完顔阿骨打]]により独立し[[金 (王朝)|金]]が建国された。金はその10年後には遼および[[北宋]]を滅ぼし北半を征服、新たに再興した南半を制する[[南宋]]と対峙することになる。
==== 日本 ====
[[ファイル:36poets collection MITSUNE1L.jpg|thumb|right|300px|[[院政期文化#書道|院政期の書]]。和歌を仮名でしたためる和様の書が確立されると、それに合わせて写本の料紙に彩色下絵・金銀の箔・雲母摺の地紋・墨流し・破り継ぎなど高度な装飾技法が施されるようになった。画像は「[[西本願寺本三十六人家集]]」の「[[躬恒集]](部分)」で[[白河天皇]]の[[女御]][[藤原道子]]の筆によるもの。]]
[[File:Kozanji 01.jpg|thumb|right|300px|[[絵巻物]]の流行。[[大和絵]]の手法により絵と詞書を書き連ねる絵巻物が一世を風靡した。画像は京都[[高山寺]]に[[鳥羽僧正覚猷]]の名で伝来した「[[鳥獣戯画]]」。[[院政期文化]]を代表する逸品で動物たちの躍動感ある姿態の描写から「[[漫画]]」の祖とも呼ばれている。]]
[[File:Heiji Monogatari Emaki - Sanjo scroll part 5 - v2.jpg|thumb|right|300px|「武者の世」の到来。[[保元の乱]]と続く[[平治の乱]]で皇族や摂関家の抗争を介して武士団の軍事力が政局で重要な面を握るようになった。画像は「平治物語絵巻(三条殿焼討)」([[ボストン美術館]]蔵)。]]
[[ファイル:Itsukushima_torii_angle.jpg|right|thumb|250px|[[厳島神社]]。保元・平治の乱の後、政権を指導したのは新興武士団の棟梁[[平清盛]]であった。平家一門の繁栄ぶりは現在も残る厳島神社の壮麗な社殿にも窺うことができる。]]
[[ファイル:AntokuTennou Engi.7&8 Dannoura Kassen.jpg|right|thumb|300px|[[治承・寿永の乱]]。平家の都落ちにより政局は流動化し「源平合戦」と通称される内乱が続いた。画像はこの内乱の終局を描いた伝[[土佐光信]]「安徳天皇縁起絵図」の[[壇ノ浦の戦い]]の場面。
この内乱の勝者源頼朝がやがて鎌倉幕府を開くことになる。]]
[[File:Seated Portrait of Minamoto no Yoritomo (Presumed) 1.jpg|right|thumb|300px|[[源頼朝]]。東国武士団をまとめ上げ、鎌倉を根拠地に選び幕府を開いたのが源頼朝である。かつては[[源頼朝]]が[[征夷大将軍]]に任じられた1192年を幕府の創設年としていたが、近年では[[守護]]・[[地頭]]を置いた1185年を創設年としている。画像は13世紀から14世紀に作られた源頼朝坐像([[東京国立博物館]]蔵)。]]
[[平安時代]]後期から[[鎌倉時代]]最初期にあたる。
[[皇室|天皇家]]・[[摂家|摂関家]]を巻き込む政争「[[保元の乱]]」「[[平治の乱]]」により[[武士]]の政治的地位が上昇した。両乱で活躍した[[平清盛]]の打ち立てた[[平氏政権]]が栄えたが、[[治承・寿永の乱]](源平合戦)における最終決戦「'''[[壇ノ浦の戦い]]'''」で[[清和源氏|源氏]]を筆頭とする勢力が勝利し[[平家]]が滅亡したことにより、源氏の頭領[[源頼朝]]による新たな[[武家政権]]である[[鎌倉幕府]]の成立に至る。
== できごと ==
[[ファイル:Along the River During the Qingming Festival (detail of original).jpg|right|thumb|310px|「[[清明上河図]]」。爛熟する[[北宋]]末期の徽宗皇帝「宣和時代」の[[開封]]の都を張択端が描いたもので現在は北京[[紫禁城#故宮博物院|故宮博物院]]に所蔵されている。]]
[[File:Momohatozu Huizong.JPG|thumb|right|230px|風流天子・[[徽宗]]。兄の[[哲宗 (宋) |哲宗]]の早世を受けて皇帝となった徽宗は名だたる芸術家として書画から骨董そして庭石に及ぶ鋭敏な感性を持っていたが、政治については凡庸で佞臣が跋扈する世情を招いた。画像は日本の個人が所蔵する徽宗の手による国宝「[[桃鳩図]]」。]]
[[File:岳飞像.jpg|thumb|right|180px|[[岳飛]]。[[靖康の変]]により南遷が避けられなくなった宋では金に対する主戦派と和平派が衝突した。主戦派の中心が岳飛で失地回復に努めたが、和平派の宰相[[秦檜]]により謀殺された。今でも「救国の英雄」岳飛に対する中国での人気は高い。]]
[[ファイル:Map of China 1142.jpg|right|thumb|250px|金と南宋。秦檜の主導した[[紹興の和議]]により宋は中国北部を失うが、[[臨安]]を都として経済的には大いに繁栄した。]]
[[ファイル:Zhu-xi1.gif|right|thumb|200px|[[宋学]]の大成。南宋では理気二元論が整備されるとともに[[大義名分論]]が盛んに唱えられた。画像は[[朱熹]]の肖像で、彼のもとで宋学が深められたことから「[[朱子学]]」とも呼ばれるようになった。]]
[[File:Jin Jun ware dish with splashed glazes.jpg|thumb|right|230px|{{仮リンク|鈞窯|en|Jun ware}}の展開。[[河南省]]禹州市にあったとされる宋の五大名窯の一つで、宋の南渡により金の支配するところとなり、空色の青磁に赤や紫の釉薬が交じる窯変の技術はこの時代に発展した。画像は[[大英博物館]]蔵の鈞窯紫紅釉盤。]]
[[File:Marcopolobridge.jpg|thumb|right|250px|[[盧溝橋]]。華北を占領した金では世宗と章宗の二代の安定期を迎えていた。画像は現在の盧溝橋で、章宗時代に完成したものが基礎となっている。金の都燕京の近郊永定河に架けられており、「マルコ・ポーロ橋」の名でも知られている。]]
[[ファイル:Goryeo Celadon.jpg|right|thumb|200px|高麗青磁。この世紀の後半には独自の象嵌青磁が誕生する。画像は[[ソウル特別市|ソウル]]の[[澗松美術館]]の「青瓷象嵌雲鶴文梅瓶」。]]
[[ファイル:Ornate wall panel relief at Hoysaleshwara temple, Halebidu.jpg|right|thumb|250px|[[ホイサラ朝]]の勃興。南インドのマイソール地方のホイサラ朝はこの時代に[[後期チャールキヤ朝]]の支配を脱し勢力を拡大した。画像は首都ドーラサムドラに建てたホイサレシューヴァラ寺院で細密な彫刻を全面に施すホイサラ様式が特徴である。]]
[[File:Minaret of jam 2009 ghor.jpg|thumb|right|200px|[[ゴール朝]]の興隆。[[ガズナ朝]]を滅ぼし[[ホラズム・シャー朝]]を屈服させたゴール朝の[[ギヤースッディーン・ムハンマド]]は中央アジアから北西インドにまたがる地域を支配した。画像はアフガニスタンのハリー川沿いに建てられた[[ジャームのミナレット]]。]]
[[ファイル:Krak des Chevaliers 01.jpg|thumb|right|250px|[[クラック・デ・シュヴァリエ]]。[[十字軍]]の支配下で[[シリア]]に築かれた城塞で、長らく[[聖ヨハネ騎士団]]の居城であった。この時代の築城技術の粋を集めた城塞で、サラ-フッディーンの猛攻をも退けた。]]
[[ファイル:Portrait of Saladin (before A.D. 1185; short).jpg|right|thumb|250px|[[サラーフッディーン]]。エジプトのファーティマ朝を倒して[[アイユーブ朝]]の[[スルタン]]となり[[スンナ派]]の信仰を復活させた。また十字軍と戦って[[エルサレム]]を奪回しイスラム世界を守った英雄として名高い。]]
[[File:Measure of men.jpg|right|thumb|220px|ユダヤ人哲学者[[マイモニデス]]。スペイン生まれのユダヤ教[[ラビ]]で、正式な名はモーシェ・ベン=マイモーン。ユダヤ教哲学に画期をなしただけでなく諸学に通じ、エジプトではサラーフッディーンの侍医も務めた。画像は「人間の尺度」について講義するマイモニデスの写本挿絵。]]
[[ファイル:TabulaRogeriana.jpg|thumb|right|350px|[[タブラ・ロジェリアナ]]。シチリア王[[ルッジェーロ2世]]のもとでイスラムの地理学者[[イドリースィー]]によって1154年に作成された世界地図。画像は14世紀の模本でアジア・アフリカ・ヨーロッパが描かれている(南が上、東が左)。]]
[[File:Cúpula almorávide (Marrakech) exterior.jpg|thumb|right|200px|[[ムラービト朝]]。北アフリカの[[マラケシュ]]を都としてイベリア半島にまで進出した[[ベルベル人]]の王朝。画像はこの王朝のもとで作られたマラケシュの墓廟{{仮リンク|クッバ・バアディン|en|Almoravid Koubba}}。]]
[[ファイル:Paseo por Córdoba (8176489072).jpg|right|thumb|250px|[[イブン・ルシュド]]。西方イスラム哲学を代表する学者で[[アリストテレス]]の注釈から[[二重真理]]説や知性単一論を発展させ、「アヴェロエス」の名で[[スコラ学]]にも大きな影響を与えた。画像は故郷[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]に建てられた彫像。]]
[[ファイル:Toledo Skyline Panorama, Spain - Dec 2006.jpg|right|thumb|300px|[[12世紀ルネサンス]]と[[トレド]]。1085年にイスラム教徒から奪回されたトレドはかつての[[西ゴート王国]]の首都で、この時期は[[レコンキスタ]]の最前線であった。イスラムを経由した学術的な著作がこの世紀には多数ラテン語訳された。画像は現在のトレド市街の眺望で左右にアルカサルとトレド大聖堂が見渡せる。]]
[[ファイル:Abelard and Heloise.jpeg|right|thumb|210px|[[アベラール]]と[[アルジャントゥイユのエロイーズ|エロイーズ]]。[[12世紀ルネサンス]]のスコラ学を代表するアベラールは[[唯名論]]者として名声を得ていた。エロイーズとの悲恋も有名である。]]
[[ファイル:Bernhard von Clairvaux (Initiale-B).jpg|right|thumb|300px|[[シトー会]]の世紀。シトー会は華美に流れたクリュニー会を批判し、厳格な修道規則と労働の重視により西欧の大開墾運動にも影響を与えた。画像はシトー会最盛期の指導者[[クレルヴォーのベルナルドゥス|クレルヴォーのベルナール]](ベルナルドゥス)を描いた13世紀の『[[黄金伝説]]』の細密画。]]
[[ファイル:Hildegard_von_Bingen.jpg|thumb|right|200px|[[ビンゲンのヒルデガルト]]。卓越した女子修道院長であるばかりでなく中世最大の神秘家であり作曲家・薬草研究家であった。画像は神からの啓示を受けるヒルデガルトと近侍する書記を描いた『道を知れ』の挿し絵。]]
[[File:The Leaning Tower of Pisa SB.jpeg|right|thumb|200px|[[ピサの斜塔]]。この塔はもともと[[ロマネスク建築]]を代表する[[ピサ大聖堂]]に付属した[[鐘楼]]で、1170年代の第一工期の終わりにはすでに傾き始めており、今あるような姿になったとされる。]]
[[ファイル:BL MS Royal 14 C VII f.9.jpg|right|thumb|200px|[[アンジュー帝国]]の一族。プランタジネット家のアンジュー伯アンリはイングランド王ヘンリ2世として選出されるとともに、王妃アリエノールとの婚姻を通じてフランス最大の領主ともなった。画像の上段左からヘンリ2世王と若ヘンリーとリチャード1世獅子心王、下段左からジョン欠地王とヘンリ3世。]]
[[ファイル:UigChessmen SelectionOfKings.jpg|right|thumb|270px|[[ルイス島のチェス駒]]。1831年に[[スコットランド]]北西部[[アウター・ヘブリディーズ]]のルイス島で発見されたもので12世紀[[ノルウェー]]支配下で造られたと推定される。全78個のうち67個が[[大英博物館]]に、11個がスコットランド国立博物館にある。]]
[[ファイル:Stabkirche Urnes 18.07.2008 8.jpg|thumb|right|270px|[[ウルネスの木造教会]]。ノルウェー西部の[[ソグン・オ・フィヨーラネ県]]にある最古の[[木造教会]]で、1130年頃に建造されたもの。キリスト教建築とヴァイキング様式の混交が見られ、独特な動物文様装飾はウルネス様式と呼ばれる。]]
[[ファイル:Vladimirskaya ikona.jpg|thumb|right|200px|[[ウラジーミルの生神女|ウラジーミルの聖母]](生神女)。1131年に[[コンスタンティノポリス総主教]]から[[キエフ大公]][[ユーリー・ドルゴルーキー]]に贈られたもので、長らくウラジーミルに保管された後にモスクワに移送され、ロシアを外敵から守護したイコンとして尊崇を受けた。現在は[[モスクワ]]の[[トレチャコフ美術館]]に所蔵されている。]]
[[ファイル:Igorsvyat.jpg|thumb|right|270px|『[[イーゴリ遠征物語]]』。1185年の春に[[ノヴゴロド・セヴェルスキー公]][[イーゴリ]]が遊牧民[[ポロヴェツ人]]との戦いで思わぬ大敗北を喫した事件をもとに作られた叙事詩で[[ロシア文学]]を代表する逸品とされる。画像は大敗したイーゴリ公を描く[[ヴィクトル・ヴァスネツォフ]]の歴史画([[サンクトペテルブルク]]・国立[[ロシア美術館]]蔵)。 ]]
[[ファイル:Arte yoruba, nigeria, testa da ife, 12-15mo secolo.JPG|right|thumb|150px|[[イフェ]]の青銅彫刻。イフェはナイジェリアにあった[[ヨルバ人]]の王国。[[ノク文化]]の影響を受けて発展させた高度な鋳造技術による青銅彫刻が有名。画像は大英博物館所蔵の人物像。]]
=== 12世紀全般 ===
* 日本では[[オーロラ (代表的なトピック)|オーロラ]]が見えやすい時代だった<ref>{{Cite web|和書|title=オーロラが最も見えやすかったのは「鎌倉時代」…藤原定家「明月記」にある「赤い光」と合致 : 科学・IT : ニュース|url=https://www.yomiuri.co.jp/science/20210917-OYT1T50161/|website=読売新聞オンライン|date=2021-09-17|accessdate=2021-09-17|language=ja}}</ref>。
* 北アメリカ大陸の中西部では「岩窟住居」で知られる[[プエブロ]]文化が発展する。
** [[コロラド州]][[メサ・ヴェルデ]]遺跡や、[[ニュー・メキシコ州]]の[[チャコ・キャニオン]]遺跡が代表例。
** [[エルドラード]]伝説のもととなった[[コロンビア]]のムイスカ文化の発展。
***「{{仮リンク|ムイスカの黄金の筏|en|Muisca raft}}」(コロンビア・[[ボゴタ]]黄金博物館蔵)が作られる。
=== 1100年代 ===
{{main|1100年代}}
* 1101年
** [[源義親の乱]](康和の乱)( - [[1108年]])。
** 大[[地震]]により[[興福寺]]金堂・大門倒壊する。興福寺と[[金峰山]]の僧徒争う。
** メルシヴァンの戦いで、[[ルーム・セルジューク朝]]軍が「[[1101年の十字軍]]」を壊滅させる。
* 1102年
** 北宋の[[蔡京]]が「元祐党籍碑」を建て、旧法党関係者を追放する。
** [[村上源氏]]が公卿の過半数を占める。
** ハンガリー王[[カールマーン (ハンガリー王)|カールマーン]]が[[クロアチア]]王を兼任する。
* 1103年 - 神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世による最古の[[ラント平和令]]。
* 1105年 - 北宋の徽宗皇帝の命により[[花石綱]]が始まる。
* 1106年 - [[タンシュブレーの戦い]]で、イングランド国王[[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]]が兄のノルマンディー公[[ロベール2世]]を破る。
* 1107年
** [[堀河天皇]]が没し、宗仁親王が即位(第74代[[鳥羽天皇]])。
** ウェストミンスター教会会議と{{仮リンク|ロンドン協約|en|Investiture Controversy#Concordat of London (1107)}}。
*** イングランドでの[[叙任権闘争]]が終結し、国王ヘンリー1世とカンタベリー大司教[[アンセルムス]]が和解。
** ノルウェー王シグール1世の十字軍遠征始まる([[ノルウェー十字軍]]。 - 1110年)。
* 1108年
** [[天仁]]元年の[[浅間山]]噴火。
** 中国の黄河大氾濫で河北省の[[鉅鹿]]が埋没。
=== 1110年代 ===
{{main|1110年代}}
* 1111年
** イランの[[ホラサン]]地方[[トゥース]]でイスラム神学者[[ガザーリー]]が死去。
** {{仮リンク|ポンテ・マンモロ|it|Ponte Mammolo}}協定の締結。
* 1112年 - 白河法皇の還暦祝いで「[[西本願寺本三十六人家集]]」が宮廷で制作される。
* 1112年頃 - パガン朝でパーリ語・モン語・ピュー語・ビルマ語の刻まれた[[ミャゼディ碑文]]が建てられる。
* 1113年
** [[永久の変]]。[[永久の強訴]]。
** [[聖ヨハネ騎士団]]が認可される(創設は1023年頃か)。
** [[キエフ洞窟修道院]]の修道士で年代記者ネストルにより『[[原初年代記]]』がまとめられる。
* 1115年
** 女真族の[[阿骨打|完顔阿骨打]]が金を建国。
** 異端とされた[[アントウェルペン]]の[[タンケルム]]が殺害される。
** [[クレルヴォーのベルナルドゥス|ベルナルドゥス]]により[[シトー会]]系クレルヴォー修道院が設立される。
* 1117年 - [[ホイサラ朝]]のヴィシュヌヴァルダナにより{{仮リンク|チェンナケーシェヴァ寺院|en|Chennakeshava Temple, Belur}}が建立される。
* 1118年
** アラゴン王[[アルフォンソ1世]]の[[サラゴサ]]占領。サラゴサはアラゴンの首都となる。
** 東ローマ皇帝[[ヨハネス2世コムネノス]]が即位。姉の[[アンナ・コムネナ]]の陰謀事件。
* 1119年 - 金の太祖阿骨打の命により完顔希尹や完顔耶魯らが[[女真文字|女真大字]]を作成(小字は1138年に[[熙宗 (金)|熙宗]]により制定)。
=== 1120年代 ===
{{main|1120年代}}
* 1120年
** 北宋と金との[[海上の盟]]が結ばれる。北宋で[[方臘の乱]]が起こる。
** 『[[元永本古今和歌集]]』の写本が書写される。
** [[保安元年の政変]]。
** [[ホワイトシップの遭難]]。
* 1120年頃
** [[ホイサラ朝]]のヴィシュヌヴァルダナがホイサレシューヴァラ寺院を建立する。
** [[バースのアデラード]]が[[アラビア語]]版[[エウクレイデス]]『[[原論]]』をラテン語に翻訳する。
* 1121年 - {{仮リンク|ソワソン教会会議|fr|Concile de Soissons}}でアベラールが異端宣告される。
* 1122年
** [[ヴォルムス協約]]。
*** 叙任権闘争全般が終結し、[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]と[[ローマ教皇]][[カリストゥス2世 (ローマ教皇)|カリストゥス2世]]が和解。
* 1123年
** 鳥羽天皇が譲位し、第75代[[崇徳天皇]]が即位する。
** 北宋から徐競らが高麗に使節として派遣される。
*** 翌年には徐競はこの見聞により『[[宣和奉使高麗図経]]』を執筆。
** [[第1ラテラン公会議]]。
** [[カタルーニャ]]の[[バル・デ・ボイ|ボイ渓谷]]タウル地区のサント・クリメント教会とサンタ・マリア教会が献堂される。
* 1124年 - [[藤原清衡]]が[[平泉]]の[[中尊寺金色堂]]を建立。
* 1125年 - 金の[[呉乞買|太宗]]が[[天祚帝]]を捕虜とし遼を滅ぼす。
* 1126年
** [[靖康の変]]により金が北宋を滅ぼす。徽宗・[[欽宗]]が金に連行される(二帝北行)。
** [[ナシ族]]により[[雲南省|雲南]]の[[麗江]]古城が造営される。
* 1127年
** 欽宗の弟[[高宗 (宋)|康王趙構]](高宗)が[[南京市|南京]]で南宋を立てる。
** 新立の[[荘園 (日本)|荘園]]を停止する(大治の荘園停止令)。
* 1128年 - [[トロワ]]教会会議で[[テンプル騎士団]]が認可される(創設は1119年)。
* 1129年
** 白河法皇が没し、鳥羽上皇が院政を開始する。
** 南宋で{{仮リンク|明受の変|zh|苗劉兵變}}。
=== 1130年代 ===
{{main|1130年代}}
* 1130年
** [[アナクレトゥス2世 (対立教皇)|アナクレトゥス]]の[[シスマ]]。
** [[ノルマン人]][[ルッジェーロ2世]]が南[[イタリア]]・[[シチリア]]に[[シチリア王国]]を建国。
** トランカヴェル家により[[歴史的城塞都市カルカソンヌ|カルカソンヌ]]の城塞都市の建設が始まる。
** 南モロッコのアトラス山脈付近に[[ムワッヒド朝]]が成立する。
* 1130年頃 - [[ノルウェー]]にある[[ウルネスの木造教会]]が建設される。
* 1131年
** コンスタンティノポリス総主教から[[キエフ大公]][[ユーリー・ドルゴルーキー]]に「[[ウラジーミルの聖母]]」が贈られる。
** [[アマルフィ公国]]がシチリア王国に併合される。
** {{仮リンク|和尚原の戦い|zh|和尚原之戰}}で呉玠・呉璘兄弟率いる南宋軍が金軍に勝利。
* 1132年
** 遼の皇族[[耶律大石]](徳宗)がエミルにて[[西遼]]を建国。
* 1134年
** 西遼が[[カラハン朝]]を臣従させ、[[ベラサグン]](クズオルド)に都を置く。
** 南宋が[[臨安]]([[杭州]])に都を定める。
** [[平忠盛]]が[[肥前国]][[神埼荘]]の預所となり[[日宋貿易]]に介入する。
* 1136年 - [[ノヴゴロド公国|ノヴゴロド公]]フセヴォロドが追放される(12世紀のノヴゴロドの革命)。
* 1136年頃 - [[ジェフリー・オブ・モンマス]]が『[[ブリタニア列王史]]』を執筆。
* 1137年 - アラゴン王国とバルセロナ伯国の連合によるアラゴン連合王国の成立。
* 1138年
**[[コンラート3世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート3世]]が[[ホーエンシュタウフェン朝]]の初代[[ドイツ]]王に即位。
** シリアの[[アレッポ]]で死者23万人の大地震。
** [[ポーランド大公]][[ボレスワフ3世クシヴォウスティ]]が死去。
***「[[ボレスワフ3世の遺言状]]」で年長者相続を決めるも、後継者争いが起こりポーランドの分裂時代始まる。
* 1139年
** [[オーリッケの戦い]]に勝利したポルトゥーカレ公[[アフォンソ1世 (ポルトガル王)|アフォンソ1世]]が[[ポルトガル]]王を称する。
** [[第2ラテラン公会議]]。
** [[ナポリ]]公国がシチリア王[[ルッジェーロ2世]]に征服される。
** ヘンリ1世の王女[[マティルダ (神聖ローマ皇后)|マティルダ]]がイングランドに上陸、イングランド王[[スティーブン (イングランド王)|スティーブン]]と王位を争う([[無政府時代]])。
=== 1140年代 ===
{{main|1140年代}}
* 1140年
** [[スコットランド]]王[[デイヴィッド1世 (スコットランド王)|デイヴィッド1世]]がイングランドより[[カーライル (イングランド)|カーライル]]の[[貨幣]]鋳造所を支配下に納め、スコットランドで初めて[[硬貨|コイン]]を製造。
** {{仮リンク|サンス教会会議|en|Councils of Sens}}でのクレルヴォーのベルナールの告発で、アベラールが再び異端宣告される。
** [[ヴァインスベルク]]の戦いで、[[ホーエンシュタウフェン家]]の[[コンラート3世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート3世]]が[[ヴェルフ家]]に勝利する。
*** この戦いでヴェルフ派は「ヴェルフ」とホーエンシュタウフェン派は「ウィーベリン」と呼ばれ、イタリアでは「教皇派(ゲルフ)」と「皇帝派(ギベリン)」と呼ばれるようになる。
** 錐揉みの乱で[[高野山]]から[[覚鑁]]らが追われ、弘田荘の豊福寺(後の[[根来寺]]の中心寺院)に拠点を遷す。
* 1141年
** [[カトワーンの戦い]]で西遼の耶律大石がセルジューク朝の[[アフマド・サンジャル]]に勝利する。
** 南宋で主戦派の[[岳飛]]が和平派の[[秦檜]]の陰謀により反逆罪で処刑される。
* 1142年
** 南宋と金の[[紹興の和議]]。
** 崇徳天皇が譲位し、第76代[[近衛天皇]]が即位。
** 聖ヨハネ騎士団が[[クラック・デ・シュヴァリエ]]を獲得。以後大幅な拡張工事を行う( - [[1170年]])。
* 1143年
** [[アフォンソ1世 (ポルトガル王)|アフォンソ1世]]が即位、[[ポルトガル王国]]成立。
** シチリア王国[[パレルモ]]の[[マルトラーナ教会]]が宰相であるアンティオキアのイグナティウスによって建立される。
** [[チェスターのロバート]]により[[クルアーン]]の最初の[[ラテン語]]訳がなされる。
* 1144年
** 最初の[[ゴシック建築]]とされるフランスの[[サン=ドニ大聖堂]]が完成する([[1136年]] - )。
** イスラム支配下のイベリア半島[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]地方[[シャティバ]]でヨーロッパ最初の製紙工場が作られる。
** [[モースル]]太守[[ザンギー]]が十字軍国家[[エデッサ伯国|エデッサ伯領]]を征服する。
* 1145年
** 高麗[[仁宗 (高麗王)|仁宗]]の命を受け[[金富軾]]が撰した『[[三国史記]]』が完成する。
** [[シトー会]]出身最初の教皇[[エウゲニウス3世]]が選出される。
* 1146年
** セルジューク系[[アルトゥク朝]]により[[ディヤルバクル]]の{{仮リンク|マラバディ橋|en|Malabadi Bridge}}が建設される。
* 1147年
** [[第2回十字軍]](-1149年)。[[ヴェンド十字軍]]。
** [[スーズダリ公]][[ユーリー・ドルゴルーキー]]が[[チェルニーヒウ公|チェルニゴフ公スヴャトスラフ・オレゴヴィチ]]と[[モスクワ]]で会見(年代記に登場する最古の[[モスクワ]]の記録)。
** [[ポルトガル]]王[[アフォンソ1世 (ポルトガル王)|アフォンソ1世]]が[[リスボン攻防戦]]で[[リスボン]]をイスラム勢力から奪回。
** [[ムワッヒド朝]]が[[マラケシュ]]を占領し[[ムラービト朝]]を滅ぼす。
** [[祇園闘乱事件]]。
* 1148年
** シチリア王国が北アフリカの[[マフディーヤ]]を制圧し[[ズィール朝]]が滅亡。
** [[ランス]]教会会議でクレルヴォーのベルナールがスコラ哲学者である{{仮リンク|ポワティエのジルベール|en|Gilbert de la Porrée}}を非難宣告する。
=== 1150年代 ===
{{main|1150年代}}
* 1150年
** [[ゴール朝]]のアラーウッディーンが[[カンダハール]]近郊の戦いで[[ガズナ朝]]に勝利。
*** ゴール朝は[[ガズナ]]を占領し、ガズナ朝は[[パンジャーブ]]地方の[[ラホール]]に遷都。
** [[バレンシア州|バレンシア]]地方の[[シャティバ]]でヨーロッパ最初の[[製紙]]工場が建てられる。
* 1152年
** アリエノール・ダキテーヌがフランス王ルイ7世と離婚し、同年アンジュー伯アンリと再婚する。
** [[シャンパーニュ伯]][[アンリ1世 (シャンパーニュ伯)|アンリ1世]]が伯位を継ぐ。[[シャンパーニュの大市]]などの振興政策を行う。
** シリアの[[アパメア]]が地震で壊滅する。
* 1153年
** 金の[[海陵王]]が[[上京会寧府|会寧]]から[[北京|燕都]](中都)へ都を遷す。
* 1154年
** アンジュー伯アンリがイングランド王ヘンリ2世となり[[プランタジネット朝]]を開く([[アンジュー帝国]])。
** [[シチリア王]][[ルッジェーロ2世]]の命により[[イドリースィー]]が世界地図「[[タブラ・ロジェリアナ]]」を完成させる。
** 東ローマ皇帝[[マヌエル1世コムネノス|マヌエル1世]]が[[ノルマン・東ローマ戦争|イタリア遠征]]を行うが失敗。
* 1155年
** [[スウェーデン]]王[[エリク9世 (スウェーデン王)|エーリク9世]]の[[フィンランド]]遠征。[[北方十字軍]]始まる。
** [[オーストリア辺境伯]][[ハインリヒ2世 (オーストリア公)|ハインリヒ2世]]が[[オーストリア公]]に昇爵。
*** この時期までにハインリヒ2世は[[クロスターノイブルク]]から[[ウィーン]]へ遷都する。
** ローマから急進的改革者[[アルノルド・ダ・ブレシア]]が追放され火刑に処せられる。
** 近衛天皇が死去し、第77代[[後白河天皇]]が即位。
* 1156年
** [[保元の乱]]。
*** 鳥羽法皇が死去し、兄崇徳上皇と弟後白河天皇の対立が激化。
*** 源氏平氏の諸将が[[白河北殿]]を襲撃し炎上、後白河天皇側が勝利。
*** 藤原頼長は横死、崇徳上皇は[[讃岐国]]に配流される。
*** [[信西]]を中心とした[[保元新制]]が成立。約350年ぶりに[[死刑]]が復活する。
** スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキーがモスクワに木製の城砦を築く([[クレムリン]]の始まり)。
* 1157年
** スルタンのアフマド・サンジャルの病没により、統一[[セルジューク朝]]が滅亡。
** [[ブランデンブルク辺境伯]]が設置され、[[アスカーニエン家]]の[[アルブレヒト1世 (ブランデンブルク辺境伯)|アルブレヒト熊公]]が封じられる。
* 1158年
** 後白河天皇が譲位し、第78代[[二条天皇]]が即位。
* 1159年
** [[平治の乱]]。
*** 三条殿の襲撃により信西政権崩壊、[[藤原信頼]]・[[源義朝]]らが政権奪取。
*** 平清盛の巻き返しによる[[六波羅]]合戦、藤原信頼処刑、源義朝殺害。
** [[ザクセン]]の[[ハインリヒ獅子公]]が[[リューベック]]市を建設。
=== 1160年代 ===
{{main|1160年代}}
* 1160年
** [[ウラジーミル (ウラジーミル州)|ウラジーミル]]の[[生神女就寝大聖堂 (ウラジーミル)|生神女就寝大聖堂]]が完成する。
** 南宋で会子が紙幣として発行される。
** [[太皇太后]][[藤原多子]]が二条天皇のもとに入内する(二代の后)。
** 平清盛が[[正三位]][[参議]]に補任され、武士として初めて[[公卿]]となる。
* 1161年 - 金が南宋との[[采石磯の戦い]]で敗北。海陵王が廃位殺害され世宗が即位。
* 1162年頃 - [[セーナ朝]]のバッラーラ・セーナ王が[[パーラ朝]]を滅ぼしベンガルを統一。
* 1163年 - パリの[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム大聖堂]]が着工される(最終的な完成は[[1345年]])。
* 1164年
** 平家一門が[[厳島神社]]に装飾経を寄進([[平家納経]])。
** 南宋と金の{{仮リンク|隆興の和議|zh|隆兴和议}}(乾道の和議)。
** [[スウェーデン]]の[[ガムラ・ウプサラ]]に[[大司教座]]が置かれる。
* 1165年
** 二条天皇が譲位し、第79代[[六条天皇]]が即位。
** 後白河院により[[三十三間堂|蓮華王院]]が完成する。
* 1165年頃 - [[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]][[マヌエル1世コムネノス]]のもとに[[プレスター・ジョン|司祭王ヨハネス]](プレスター・ジョン)を差出人とする書簡が届けられる。
* 1166年
** フランスの[[モンテギュ=ド=ケルシー|ケルシー]]地方[[ロカマドゥール]]にて聖アマドゥールの聖遺物が発見される。
** ハインリヒ獅子公が[[ニーダーザクセン]]の[[ブラウンシュヴァイク]]に{{仮リンク|獅子像|en|Brunswick Lion}}を建てる。
* 1167年
** 平清盛が[[太政大臣]]となる。
** 日本僧[[重源]]が南宋に渡る。
** 南フランスの[[サン=フェリックス=ロラゲ|カラマン]]にて[[カタリ派]]の教会会議が開催される。
*** この会議を主催したのは東方から来た[[ボゴミル派]](ドラゴヴィツァ派)のニケタスとされている。
* 1168年
** [[朱熹]]と[[陸九淵]]の鵞湖の会がもたれる。
** 日本僧[[明菴栄西]]が南宋に渡る。栄西と重源が合流しこの年に日本に帰国。
** 六条天皇が譲位し、第80代[[高倉天皇]]が即位。平清盛が出家し[[福原 (神戸市)|福原]]に退隠し、[[六波羅館]]を息子[[平重盛|重盛]]が継承。
** [[ロスキレ]]司教[[アブサロン]]の指揮でデンマーク軍がスラブ系異教徒[[ラーン人]]の根拠地[[リューゲン島]]を征服。
** ファーティマ朝宰相[[シャーワル]]が十字軍に対抗する焦土作戦で[[フスタート]]市を焼き尽くす。
* 1169年
** [[エジプト]]でサラーフッディーンが[[ファーティマ朝]]の宰相となる。
** [[シチリア島]]の[[エトナ山]]で大噴火。
=== 1170年代 ===
{{main|1170年代}}
* 1170年
** [[カンタベリー大司教]][[トマス・ベケット]]暗殺事件。
** [[殿下乗合事件]]。
* 1171年
** エジプトの[[ファーティマ朝]]が断絶。代わってサラーフッディーンが[[アイユーブ朝]]を興す。
** イングランド王として初めてヘンリ2世がアイルランドに上陸し東海岸地帯を支配。
* 1172年 - 南宋孝宗皇帝の兄で[[明州]][[刺史]]の[[趙伯圭]]から日本の後白河法皇と平清盛に供物が届けられる。
* 1173年 - [[ピサの斜塔]]が着工される(最終的な完成は[[1372年]])。
* 1174年
** 平清盛が[[大輪田泊]]([[神戸市|神戸]])に経が島(経ヶ島)を築く。
** シチリアの[[パレルモ]]・[[モンレアーレ大聖堂]]が完成する。
* 1176年
** [[レニャーノの戦い]]で、[[ロンバルディア同盟]]が神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に勝利。
** [[ミュリオケファロンの戦い]]で、ルーム・セルジューク朝軍が東ローマ皇帝マヌエル1世に勝利。
* 1177年
** 後白河法皇の[[院近臣|側近]]達が[[鹿ケ谷の陰謀]]を企てるが失敗。[[安元の大火]](太郎焼亡)。
** カスティーリャ王[[アルフォンソ8世]]が[[歴史的城塞都市クエンカ|要塞都市クエンカ]]を占領。
** [[モンジザールの戦い]]で、エルサレム国王[[ボードゥアン4世 (エルサレム王)|ボードゥアン4世]]がサラーフッディーンに勝利する。
* 1178年
** [[治承の大火]](次郎焼亡)。
** 高倉天皇の中宮[[平徳子|徳子]]が言仁親王(後の[[安徳天皇]])を出産。
* 1179年
** [[第3ラテラン公会議]]。この会議の決定で[[カタリ派]]が異端とされる。
** 日本の朝廷で[[宋銭]]流通に関する議論が行われる。
***『[[百練抄]]』にはこの治承三年六月の条に「近日、天下上下病に悩む、これ銭病と号す」との記録がある。
** [[治承三年の政変]]で、後白河法皇が幽閉される。
** 朱熹が[[江西省]][[廬山]]の麓にある[[白鹿洞書院]]を再建する。
=== 1180年代 ===
{{main|1180年代}}
* 1180年
** [[ゲルンハウゼン]]帝国議会。
*** 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が、ザクセン・バイエルン公ハインリヒ3世を帝国追放刑に処し所領を没収。
*** [[バイエルン公国|バイエルン]]は[[ヴィッテルスバッハ家]]が、[[ザクセン公国|ザクセン]]は[[アスカーニエン家]]が領有する。
** [[レバノン]]の[[マロン派]]教会が教会合同でローマ教会に復帰する。
** 高倉天皇が譲位し、第81代[[安徳天皇]]が即位。[[福原京#福原行幸|福原行幸]]。
** [[治承・寿永の乱|治承・寿永の内乱]](源平合戦)の始まり。
*** [[以仁王]]が[[令旨]]を下し[[源頼政]]らと挙兵([[以仁王の挙兵]])。
*** 源頼朝ら各地の源氏が[[平氏]]に対して挙兵。
*** [[石橋山の戦い]]、頼朝の[[鎌倉]]入り、[[富士川の戦い]]。
* 1181年
** [[南都焼討]]、平清盛死去、[[養和の大飢饉]]。
** クメール朝カンボジア国王に[[ジャヤーヴァルマン7世]]が即位。
*** 最初の仏教信者の王としてアンコール・トム([[バイヨン]]・[[象のテラス]]・[[ライ王のテラス]]他)の都城を建設。
** ハンガリー国王[[ベーラ3世 (ハンガリー王)|ベーラ3世]]が[[ザダル]](ザラ)を含む[[アドリア海]]沿岸の[[ダルマティア]]地方を占領する。
* 1182年
** [[アンドロニコス1世コムネノス|アンドロニコス・コムネノス]]が東ローマ帝国皇太后[[マリー・ダンティオケ|マリア]]を殺害。
*** 皇太后暗殺と同時にコンスタンティノポリス在留のヴェネツィアやジェノヴァなど{{仮リンク|ラテン人も虐殺する|en|Massacre of the Latins}}。
* 1183年
** [[倶利伽羅峠の戦い]]、[[源義仲]]が京に進軍し平氏が都落ち。
*** 平氏とともに西走した安徳天皇と並立して、第82代[[後鳥羽天皇]]が即位。
*** [[寿永二年十月宣旨]](寿永の宣旨)。
** 旅行家[[イブン・ジュバイル]]の第1回[[メッカ]]巡礼旅行。
* 1184年
** 源義仲の没落と平氏追討の再開。
*** [[水島の戦い]]、[[法住寺合戦]]、[[宇治川の戦い]]、[[粟津の戦い]]。
*** [[一ノ谷の戦い]]。
** {{仮リンク|ヴェローナ教会会議|en|Synod of Verona}}。
*** 教皇[[ルキウス3世 (ローマ教皇)|ルキウス3世]]の勅書「{{仮リンク|アド・アボレンダム|en|Ad abolendam}}」により[[カタリ派]]・[[ヴァルド派]]・{{仮リンク|フミリアーティ|en|Humiliati}}他が[[異端]]とされる。
* 1185年
** 治承・寿永の内乱の終結。
*** [[屋島の戦い]]。
*** [[壇ノ浦の戦い]]。
**** 平氏が滅亡、安徳天皇は祖母[[平時子]]に抱かれて入水し8歳で崩御。
*** [[守護]][[地頭]]の設置([[文治の勅許]])。 [[文治地震|元暦地震]](文治地震)。
*** 後白河法皇による東大寺大仏再建の開眼供養が行われる。
** ノルマン系シチリア国王[[グリエルモ2世]]が東ローマ帝国の[[テッサロニキ]]を陥落させる
*** これで狂乱状態となった首都市民により皇帝[[アンドロニコス1世コムネノス|アンドロニコス1世]]が殺害され、コムネノス朝が断絶する。
** [[アセンとペタルの蜂起]]。[[第二次ブルガリア帝国]]が建国され皇帝[[ペタル4世]]が即位。
** ロシアの[[イーホル・スヴャトスラーヴィチ|イーゴリ]]公が[[ポロヴェツ族]](キプチャク族)に大敗。
* 1186年
** [[大原御幸]]。
** [[摂政]][[近衛基通]]が失脚し、叔父の[[九条兼実]]が摂政になる。
*** [[摂関家]]が[[近衛家]]と[[九条家]]に分裂し、[[五摂家]]の始まりとなる。
** [[ラホール]]の[[ガズナ朝]]を[[ゴール朝]]が滅ぼす。
* 1187年
** [[クレッソン泉の戦い]]、[[ヒッティーンの戦い]]。
*** アイユーブ朝のサラーフッディーンがエルサレム王国の十字軍を壊滅させる。
*** エルサレム国王[[ギー・ド・リュジニャン]]は捕縛され、エルサレム市街はアイユーブ朝に降伏する。
*** イスラム教徒のエルサレム占領に対抗し、[[ザグウェ朝]][[エチオピア]]の王ゲブレ・マスケルが「新しきエルサレム」である新都[[ラリベラ]]を造営。
** [[山田寺]]講堂本尊[[薬師如来]]像が興福寺衆徒により強奪される(山田寺仏頭)。
* 1188年頃
** [[ミュンヘン]]と[[ブラウンシュヴァイク]]共同所有となっている「{{仮リンク|ハインリヒ獅子公の福音書|de|Evangeliar Heinrichs des Löwen}}」が完成する。
* 1189年
** スコットランド王[[ウィリアム1世 (スコットランド王)|ウィリアム1世]]がイングランドからの主権を回復(カンタベリー協定)。
** [[第3回十字軍]](-1192年)。
** [[衣川の戦い]]で[[源義経]]が殺害される。[[奥州合戦]]により[[奥州藤原氏]]滅亡。
** [[ホイサラ朝]]のバッラーラ2世が[[後期チャールキヤ朝]]を滅ぼす。
=== 1190年代 ===
{{main|1190年代}}
* 1190年
** [[キリキア]]の{{仮リンク|サレフ川(ギョクス川)|en|Göksu}}で神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が溺死。
** フランス王フィリップ2世の命で[[セーヌ川]]右岸の[[シテ島]]近辺に城砦を設置([[ルーヴル宮殿]]の始まり)。
* 1191年
** イングランド王リチャード1世が[[キプロス島]]を占領した後、フランス王フィリップとともに地中海東岸に到着。
*** [[アッコ包囲戦 (1189年-1191年)|アッコ包囲戦]]に勝利した十字軍からフランス王フィリップ2世が離脱して帰国。
*** [[アルスフの戦い]]で、イングランド王[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]の十字軍がサラーフッディーンを撃退。
** イングランドの[[アヴァロン|グラストンベリー]]修道院の墓地で[[アーサー王]]の古墓が発見されたとの報告がなされる。
** [[建久]][[新制]]。
* 1192年
** 後白河法皇が死去。源頼朝が[[征夷大将軍]]となる。
*** 一般的にはこれを以って、鎌倉時代の始まりとされる。
** サラーフッディーンとリチャード1世の休戦協定([[ヤッファ条約 (1192年)]])。
*** 十字軍はシリアの海岸の領土とエルサレム巡礼の許可を得るだけにとどまる。
** 帰国途中のリチャード1世をオーストリア公[[レオポルト5世 (オーストリア公)|レオポルト5世]]が拘束する。
** [[タラーインの戦い]]で、ゴール朝の[[シハーブッディーン・ムハンマド]]が[[チャーハマーナ朝]]の{{仮リンク|プリトヴィーラージャ3世|en|Prithviraj Chauhan}}に勝利する。
*** 翌年にはデリーを占領しゴール朝の北インド支配が確定、ラージプート勢力は支配に服する。
** 金の都[[燕京]](北京)の[[盧溝橋]]が完成する。
* 1193年
** 源頼朝の[[富士の巻狩り]]。[[曾我祐成]]・[[曾我時致]]兄弟が父の仇[[工藤祐経]]を討つ([[曾我兄弟の仇討ち]])。
** [[運慶]]作とされる[[栃木県]][[足利市]][[樺崎寺]]にあった木造大日如来坐像(現在は東京[[真如苑]]真澄寺所蔵)が作られる。
** [[ゴール朝]]の将軍[[ムハンマド・バフティヤール・ハルジー]]がインドの[[ナーランダ僧院]]を破却。
* 1194年
** 南宋の孝宗(太上皇帝)が死去。
*** 皇帝[[光宗]]が趙汝愚・韓侂冑らに廃位され[[寧宗]]が即位(紹熙の内禅)。
*** 朱熹が寧宗の[[侍講]]に任ぜられるも、49日で免職される。
** [[ホラズム・シャー朝]]が[[セルジューク朝]]を滅ぼし、[[イラン]]・[[イラク]]を制圧。
** 神聖ローマ皇帝[[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]]の[[シチリア]]遠征。[[パレルモ]]は降伏し[[オートヴィル朝]]は断絶。
* 1195年
** {{仮リンク|アラルコスの戦い|en|Battle of Alarcos}}でムワッヒド朝の[[ヤアクーブ・マンスール]]がカスティーリャ軍に勝利。
** 東ローマ皇帝[[イサキオス2世アンゲロス|イサキオス2世]]が廃位され、弟の[[アレクシオス3世アンゲロス|アレクシオス3世]]が即位。
** 南宋の宰相趙汝愚が韓侂冑により罷免され失脚する。
* 1196年
** [[慶元の党禁]]により[[朱熹]]の学派が弾圧される。
** 高麗で[[崔忠献]]の[[武臣政権]]が成立。
** [[建久七年の政変]]。
* 1197年
** ムワッヒド朝のヤアクーブ・マンスールが哲学を禁止し哲学者イブン・ルシュドを追放。
* 1198年
** 後鳥羽天皇が譲位し、第83代[[土御門天皇]]が即位。
** [[プシェミスル朝]]のボヘミア公[[オタカル1世 (ボヘミア王)|オタカル1世]]が陞爵して[[ボヘミア王]]となる。
** 教皇インノケンティウス3世がフランス国王[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]を離婚問題から聖務停止に処す。
** 修道士[[フィオーレのヨアキム|ヨアキム]]が[[カラブリア]]地方のシラ山にフィオーレ修道院を建立する。
* 1199年
** [[ハーリチ・ヴォルィーニ大公国]](ガリツィア・ロドメリア大公国)が成立。
** イングランド王リチャード1世が死去、弟[[ジョン (イングランド王) |ジョン]]が国王となる。
** 教皇インノケンティウス3世が[[ドイツ騎士団]]を[[騎士修道会]]として認可する。
** 源頼朝が死去。
*** 息子の[[源頼家|頼家]]が[[左中将]]になり家督を継ぐ。[[十三人の合議制]]が敷かれる。
*** [[三左衛門事件]]で[[文覚]]らが[[佐渡島|佐渡]]に流される。
=== 1200年代 ===
*1200年
** 朱熹が死去。
** [[梶原景時の変]]。
** [[北条政子]]が[[明菴栄西]]を開山に招き鎌倉[[寿福寺]]を創建。
** {{仮リンク|シトー会のアルベルト|en|Albert of Riga}}が[[北方十字軍]]を組織して[[リヴォニア]]に侵攻し[[リガ]]を制圧。
== 伝説・架空のできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年世紀12|date=2011年7月}}
* 1119年 - 1125年 - [[北宋]]の[[徽宗]]皇帝の[[宣和]]年間、様々な事情で世間からはじき出された[[宋江]]ら好漢(英雄)108人が義侠心で結びついて[[梁山泊]]に集結。やがて官吏の不正がはびこる世情に義憤を覚え官吏を打倒し国を救うことを目指すようになる(原典は『[[大宋宣和遺事]]』だが、やがて講談や小説の『[[水滸伝]]』に発展)。
* 1120年 - 1170年 - [[ホワイトシップの遭難]]から[[トマス・ベケット]]の暗殺までのイングランドのキングズブリッジで、トム・ビルダーとその仲間たちが大聖堂を建築する([[ケン・フォレット]]『[[大聖堂 (ケン・フォレットの小説)|大聖堂]]』)。
* 1135年 - 1154年 - イングランド王[[スティーブン (イングランド王)|スティーブン]]の時代、[[サフォーク州]]のウールピットのオオカミ穴から見知らぬ少年少女が出現した。二人とも全身が緑色で、見たこともない素材でできた衣服を身にまとい、言葉は全く通じなかった({{仮リンク|ニューバーグのウィリアム|en|William of Newburgh}}修道士の年代記『英国事件史(Historia rerum Anglicarum)』の「{{仮リンク|グリーン・チルドレン|en|Green children of Woolpit}}伝説」)。
* 1135年以降 - ヘンリー1世亡き後のイングランドを舞台に、第1回十字軍に参加した後に修道士となった経歴をもつカドフェルが東方より学んだ薬草学の知識や洞察力を駆使して難事件を解決していく([[エリス・ピーターズ]]の歴史ミステリー『[[修道士カドフェル]]』)。
* 1151年 - 1154年 - 近衛天皇の仁平年間に御所[[清涼殿]]に[[鵺]]が出現し、[[源頼政]]がこれを退治する(『[[平家物語]]』第四巻「鵺」)。
* 1154年 - 鳥羽上皇のもとへ絶世の美女[[玉藻前]]が現れ上皇に寵愛されるも、[[九尾の狐]]であることが露見し討伐されるが、[[那須]]の[[殺生石]]となってなおも人々を苦しめる(史書『神明鏡』・能『[[殺生石]]』・[[御伽草子]]『玉藻の草紙』ほか「九尾の狐」伝説)。
* 1165年 - [[保元の乱]]で敗れ[[伊豆大島]]に流された鎮西八郎[[源為朝]]は、後に[[古琉球|琉球]]に渡って大里按司の妹と結ばれ、琉球王国の始祖[[舜天]]の父となる(琉球王国の正史『[[中山世鑑]]』では事実として記載されているが真偽は不明。この伝説をもとに書かれたのが[[曲亭馬琴]]の『[[椿説弓張月]]』)。
* 1168年 - 歌人の僧[[西行]]が[[讃岐国]]に下り白峰にて[[崇徳天皇|崇徳上皇]]の怨霊に遭遇する([[上田秋成]]『[[雨月物語]]』「白峰」)。
* 1177年 - [[アヴィニョンのベネゼ]]が神の啓示を受け巨岩を持ち上げるなどの奇跡を起こしつつ[[サン・ベネゼ橋]]建設に着手( - [[1185年]]。唱歌『アヴィニョンの橋で』のもととなった伝説)。
* 1180年以前 - 平家追討以前に若き御曹子[[源義経]]は、庇護者である[[藤原秀衡]]より、北の国の都に「かねひら大王」が住み、「大日の法」と称する兵法書があることを聞かされ、旅に出る。裸の者ばかりの「裸島」、女ばかりが住む「女護の島」、背丈が扇ほどの者が住む「小さ子の島」などを経めぐった後、目的地である蝦夷が島に向かう([[室町時代]]の[[御伽草子]]『[[御曹子島渡]]』、後に成立する「[[義経=ジンギスカン説|義経北行伝説]]」にも影響を与える)。
* 1180年 - [[福原京]]に遷都されたこの年、いつものように[[平清盛]]がその邸宅で庭を眺めていると、折からいくつもの骸骨が出現し、さらには一つの[[大髑髏]]に合体し、清盛を睨みつけた。清盛も目を見開いて睨みつけると、大髑髏は不意に姿を消してしまった(原典は『平家物語』「物怪之沙汰」、後に[[鳥山石燕]]により「[[目競]]」という妖怪の名をつけられる)。
* 1185年 - 兄である[[源頼朝]]からの追討を避けるために、[[摂津国]][[大物浦]]から海路で落ち延びようとした[[源義経]]とその部下たち。しかし港を出てから暴風雨に巻き込まれ、義経によって西海に滅んだ平家一門の怨霊がこぞって出現する(謡曲「[[船弁慶]]」)。
* 1189年 - [[衣川の戦い]]で[[藤原泰衡]]に殺害された源義経であったが、義経に従っていた[[常陸坊海尊]]はその場に居合わせず死を免れた。以来、義経一行のことを語り継ぐ者として不老不死の命を得たという([[林羅山]]『[[本朝神社考]]』では[[残夢]]と言う僧侶がその人物だと記載され、『清悦物語』などに発展する)。
* 1190年以降 - [[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]は死んだのではなく、[[テューリンゲン]]地方のキュフホイザー山中に眠り続けている。帝国が危機に襲われた時には再び蘇り苦境から救い出すという([[グリム兄弟]]『ドイツ伝説集』)。
* 1193年 - [[saku saku]]に出てくるアパート「エスポワ〜ル横浜第2」が数々の名宮大工の手によって完成。
* 12世紀末 - [[第三回十字軍]]遠征が終わった[[エルサレム]]で、富と知恵を兼備したユダヤ商人ナータンは、イスラム教の名君[[サラディン]]による難問「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のいずれが真の宗教か?」に対し、真偽の識別がまったく不可能な三つの指輪のたとえ話を用いて、この問いの無意味さを説く([[ゴットホルト・エフライム・レッシング]]の劇詩『[[賢者ナータン]]』)。
== 人物 ==
=== キリスト教世界 ===
==== フランス ====
* {{仮リンク|ノジャンのギベール|en|Guibert of Nogent}}([[1055年]]頃 - [[1124年]]) - フランスの修道士・歴史家・十字軍の歴史『フランク人による神の業』や自叙伝などの著作で知られる
* [[シャルトルのベルナルドゥス|シャルトルのベルナール]](? - [[1124年]]以降) - [[シャルトル大聖堂]]付属学校学長・[[シャルトル学派]]の創始者・「[[巨人の肩の上]]」の成句で有名
* [[ギヨーム9世 (アキテーヌ公)|ギヨーム9世]]([[1071年]] - [[1126年]]) - 南フランスのアキテーヌ公(在位[[1088年]] - [[1126年]])・「最初の[[トルバドゥール]]」と称される
* [[ジャウフレ・リュデル]](? - [[1147年]]頃) - 南西フランスの貴族・トルバドゥール・[[トリポリ伯]]夫人に対する「遠くからの恋」の歌で有名
* [[ピエール・アベラール]]([[1079年]] - [[1142年]]) - [[神学者]]・[[スコラ学|スコラ学者]](唯名論者)・[[アルジャントゥイユのエロイーズ|エロイーズ]]との恋とそれに伴う[[去勢]]でも有名
* {{仮リンク|オータンのギスレヴェルトゥス|en|Gislebertus}}(12世紀前半) - フランスの彫刻家・[[ロマネスク様式]]で{{仮リンク|オータンのサン・ラザール大聖堂|en|Cathedral of Saint Lazarus of Autun}}を装飾する
* {{仮リンク|シャルトルのティエリ|en|Thierry of Chartres}}(? - [[1150年]]) - 神学者・哲学者・『七自由学芸の書(ヘプタテウコン)』による古典学芸の集大成を行う
* [[シュジェール]]([[1081年]]頃 - [[1151年]]) - [[サン=ドニ]]修道院長・国王ルイ7世不在の際の[[摂政]]・[[サン=ドニ大聖堂]]を建立・歴史家でもある
* [[クレルヴォーのベルナルドゥス|クレルヴォーのベルナール]]([[1090年]] - [[1153年]]) - [[シトー会]]修道院長・神学者・説教者・[[教会博士]](甘蜜博士)・第2回十字軍を勧請
* {{仮リンク|尊者ピエール|fr|Pierre le Vénérable}}([[1094年]] - [[1156年]]) - クリュニー修道院長・「トレド集成」の作成を指導し[[12世紀ルネサンス]]の学術活動に貢献する
* [[サン・ヴィクトルのフーゴー]]([[1096年]] - [[1141年]]) - キリスト教神学者・サン・ヴィクトル学派の創始者・著作に『ディダスカリコン』がある
* {{仮リンク|サン・ヴィクトルのリカルドゥス|en|Richard of Saint Victor}}(? - [[1173年]]) - キリスト教神学者・サン・ヴィクトルのフーゴーの後継者・著作に『三位一体論』がある
* {{仮リンク|アイメリ・ピコー|en|Aymeric Picaud}}(生没年不詳) - 修道士・「[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ]]巡礼案内記」を含む『[[カリクストゥス写本]]』を執筆する
* {{仮リンク|ペトルス・コメストル|en|Petrus Comestor}}(? - [[1178年]]) - キリスト教神学者・著作に『ヒストリア・スコラスティカ』がある・「[[煉獄]]」の語を最初に用いた
* [[ルイ7世 (フランス王)|ルイ7世]]([[1120年]] - [[1180年]]) - [[カペー朝]]のフランス国王(在位[[1137年]] - [[1180年]])・第2回十字軍に参加・[[アリエノール・ダキテーヌ|アリエノール]]の先夫
* {{仮リンク|ポワティエのペトルス|en|Peter of Poitiers}}([[1130年]]頃 - [[1215年]]) - パリ大学の神学者・聖書の記述を概念図化した『キリスト系図史要覧』で知られる
* [[クレティアン・ド・トロワ]]([[1135年]]頃 - [[1183年]]頃) - フランスの吟遊詩人・『聖杯の騎士ペルスヴァル』など[[騎士道物語]]を作品とする
* {{仮リンク|モーリス・ド・シュリー|en|Maurice de Sully}}(? - [[1196年]]) - パリ司教・パリの[[ノートルダム大聖堂]]の着工を推進・説教家としても有名
* ペトルス・カントール(? - [[1197年]]) - パリ大学の神学者・[[教会法]]の専門家として司牧や説教で活躍・「煉獄」の概念の形成にも影響を与える
* [[ピエール・ヴァルド|ピエール・ヴァルドー]]([[1140年]] - [[1218年]]?) - [[ヴァルド派]]の始祖・[[リヨン]]出身の商人だったが[[巡回説教者]]になり教会に破門される
* [[ベルトラン・デ・ボルン]]([[1140年]]頃 - [[1215年]]以前) - フランスの貴族・[[トルバドゥール]]・[[ヘンリー若王]]に反逆を教唆・『[[神曲]]』では首を持つ亡霊となった
* {{仮リンク|アンドレアス・カペラヌス|en|Andreas Capellanus}}([[1150年]] - [[1220年]]) - フランスの著述家・[[マリー・ド・フランス (1145-1198)|シャンパーニュ伯夫人]]に仕えた司祭・『宮廷風恋愛の技術』を執筆
* [[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]](尊厳王) ([[1165年]] - [[1223年]]) - フランス王(在位[[1180年]] - [[1223年]])・第3回十字軍参加・王権の強化を推進
==== イングランド ====
* [[スティーブン (イングランド王)|スティーブン]] ([[1096年]] - [[1154年]]) - [[ブロワ朝]]唯一のイングランド王(在位[[1135年]] - [[1154年]])・[[無政府時代 (イングランド)|無政府時代]]の内乱を招来
* [[マティルダ (神聖ローマ皇后)|マティルダ]]([[1102年]] - [[1167年]]) - イングランド王ヘンリー1世の王女・スティーブンと王位継承を争う・ヘンリー2世の母
* [[アリエノール・ダキテーヌ]]([[1122年]] - [[1204年]]) - [[アキテーヌ地域圏|アキテーヌ]]女公・フランス王[[ルイ7世 (フランス王)|ルイ7世]]王妃からイングランド王[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]王妃となる
* [[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]([[1133年]] - [[1189年]]) - アンジュー伯・[[プランタジネット朝]]の初代イングランド国王(在位[[1154年]] - [[1189年]])
* {{仮リンク|ギラルドゥス・カンブレンシス|en|Gerald of Wales}}([[1145年]] - [[1223年]]) - [[ウェールズ]]出身の聖職者・文人・ヘンリー2世以下に仕え『アイルランド地誌』を執筆
* [[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]](獅子心王)([[1157年]] - [[1199年]]) - イングランド王([[1189年]] - [[1199年]])・第3回十字軍でのサラーフッディーンとの対決が有名
* [[ジョン (イングランド王)|ジョン]](欠地王) ([[1167年]] - [[1216年]]) - イングランド王(在位[[1199年]] - [[1216年]])・兄リチャード1世不在の時期に国政を担当
* [[ロビン・フッド]](生没年不詳) - イングランドの伝説上の[[義賊]]・国王リチャード1世が十字軍で不在の時期に圧政に抵抗したとされる
* [[バースのアデラード]]([[1080年]]頃 - [[1152年]]頃) - イングランド出身の学者・[[エウクレイデス]]『[[原論]]』や[[フワーリズミー]]『天文表』を翻訳
* [[マームズベリのウィリアム]]([[1095年]]? - [[1143年]]) - イングランドの歴史家・ベネディクト会士・[[ベーダ]]を継いで『歴代イングランド王の事績』を執筆
* [[リヴォーのエセルレッド|リーヴォーのアエルレッド]]([[1100年]] - [[1167年]]) - シトー会修道院長・霊的著作として『霊的友情』が、歴史書として『イングランド王の系譜』がある
* [[ジェフリー・オブ・モンマス]]([[1100年]]頃 - [[1155年]]頃) - イングランドの聖職者・歴史家・[[アーサー王伝説]]に基づく『[[ブリタニア列王史]]』を執筆
* {{仮リンク|ソールズベリーのジョン|en|John of Salisbury}}([[1115年]]? - [[1180年]]) - イングランド出身の聖職者・[[シャルトル学派]]の一人・著作に『メタロギコン』がある
* [[トマス・ベケット]]([[1118年]] - [[1170年]]) - イングランドのカンタベリー大司教・教会勢力を擁護しヘンリー2世配下の騎士に暗殺される
* [[マリー・ド・フランス (詩人)|マリー・ド・フランス]](12世紀後半) - フランス生まれの女流詩人・ヘンリー2世の宮廷で活躍し「マリー・ド・フランスのレー」ほかを残す
==== スコットランド ====
* [[デイヴィッド1世 (スコットランド王)|デイヴィッド1世]] ([[1080年]] - [[1153年]]) - スコットランド王(在位[[1124年]] - [[1153年]])・カーライルの貨幣鋳造所を獲得
* [[ウィリアム1世 (スコットランド王)|ウィリアム1世]]([[1143年]] - [[1214年]]) - スコットランド王(在位[[1165年]] - [[1214年]])・イングランドとカンタベリー協定を締結
==== アイルランド ====
* [[聖マラキ|マラキ]] ([[1094年]]頃 - [[1148年]]) - [[アーマー]]大司教・アイルランドにシトー会修道制を導入・その名に仮託された[[全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言|預言書]]も有名
==== イタリア ====
* [[イルネリウス]]([[1055年]]? - [[1130年]]?) - [[ボローニャ]]の法学者で[[註釈学派]]の開祖・法実務から[[法学]]を独立させ「法の光」と呼ばれる
* [[カリストゥス2世 (ローマ教皇)|カリストゥス2世]]([[1065年]]/[[1068年]]? - [[1124年]]) - ローマ教皇(在位[[1119年]] - [[1124年]])・[[ヴォルムス協約]]により叙任権闘争を終わらせる
* ヴェネツィアのジャコモ(? - [[1147年]]以降) - 翻訳家・[[アリストテレス]]『分析論前書・後書』他の著作を[[ギリシア語]]から[[ラテン語]]に翻訳する
* [[ルッジェーロ2世]]([[1095年]] - [[1154年]]) - [[オートヴィル朝]]の初代シチリア王(在位[[1130年]] - [[1154年]])・[[パレルモ]]に[[ノルマンニ宮殿|カッペッラ・パラティーナ]]を建設
* [[アルノルド・ダ・ブレシア]]([[1100年]]? - [[1155年]]) - ローマの参事会員・教会改革を訴えて教皇を放逐し共和政を樹立・後に火刑にされる
* [[ヨハンネス・グラティアヌス]]([[1100年]]? - [[1150年]]?) - [[ボローニャ]]の法学者・『グラティアヌス教令集』を精選し「[[教会法|カノン法]]の父」と呼ばれる
* [[ペトルス・ロンバルドゥス]]([[1100年]]頃 - [[1160年]]) - キリスト教神学者・『命題集(センテンティエ)』を著し「命題集の師」と呼ばれる
* [[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]]([[1105年]]? - [[1181年]]) - ローマ教皇(在位[[1159年]] - [[1181年]])・[[第3ラテラン公会議]]を招集・皇帝フリードリヒ1世を破門
* [[フィオーレのヨアキム]]([[1135年]] - [[1202年]]) - [[シトー会]]修道院長・[[ヨアキム主義]]と呼ばれる[[終末論]]的神秘思想を唱えるが異端ともされる
==== イベリア半島 ====
* イシドロ・デ・メルロ([[1070年]]頃 - [[1130年]]) - スペインの[[マドリッド]]の農夫・生前からその敬虔さと徳行で知られ後にマドリッドの守護聖人とされる
* [[アブラハム・イブン・エズラ]]([[1090年]]/[[1092年]] - [[1164年]]/[[1167年]]) - スペインの[[トレド]]出身の[[ユダヤ教]][[ラビ]]・諸学に通じ聖書註解学に画期をなす
* {{仮リンク|カリンティアのヘルマン|en|Herman of Carinthia}}([[1100年]]頃 - [[1160年]]頃) - スペインで活躍した翻訳家・[[エウクレイデス]]『[[原論]]』や『[[コーラン]]』を翻訳
* [[クレモナのジェラルド]]([[1114年]]頃 - [[1187年]]) - [[トレド]]で活躍した翻訳家・[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]『[[アルマゲスト]]』他を翻訳・[[12世紀ルネサンス]]の代表
* [[チェスターのロバート]](生没年不詳) - トレドで活躍した翻訳家・『コーラン』のラテン語訳のほか天文学・数学・錬金術の文献も翻訳する
* [[アフォンソ1世 (ポルトガル王)|アフォンソ1世]]([[1109年]] - [[1185年]]) - ポルトガル王国[[ブルゴーニュ王朝|ボルゴーニャ朝]]初代国王(在位[[1139年]] - [[1185年]])・[[リスボン攻防戦]]で[[リスボン]]を獲得
==== 神聖ローマ帝国 ====
* [[レオポルト3世 (オーストリア辺境伯)|レオポルト3世]]([[1073年]] - [[1136年]]) - [[バーベンベルク家]]の[[オーストリア辺境伯]]・[[ヴォルムス協約]]で活躍・修道院の振興に努め聖人となる
* テオフィロス・プレスビテル(12世紀初頭) - ドイツのベネディクト会士・絵画や金工に関し『さまざまな技能について(諸技芸提要)』を著す
* ホノリウス・アウグストドゥネンシス(オータンのホノリウス)([[1180年]] - [[1154年]]) - ドイツの神学者・『世界像』ほか多くの著作がある
* クサンテンのノルベルトゥス([[1082年]] - [[1134年]]) - [[マクデブルク]]大司教・クサンテン聖堂参事会員・プレモントレ会を創設する
* [[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]([[1086年]] - [[1125年]]) - ザーリアー朝の神聖ローマ皇帝(在位[[1111年]] - [[1125年]])・ヴォルムス協約を締結
* [[コンラート3世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート3世]]([[1093年]] - [[1152年]]) - [[ホーエンシュタウフェン朝|シュタウフェン朝]]の神聖ローマ皇帝(在位[[1138年]] - [[1152年]])・第2回十字軍参加
* [[ヒルデガルト・フォン・ビンゲン|ビンゲンのヒルデガルト]]([[1098年]] - [[1179年]]) - ドイツの[[ベネディクト会]]系女子修道院長・神秘家・作曲家・薬学者・著作に『道を知れ』がある
* [[フライジングのオットー]]([[1114年]] - [[1158年]]) - フライジング司教・皇帝コンラート3世の異父弟・歴史家として[[普遍史]]『年代記』を執筆
* [[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]](赤髭王)([[1123年]] - [[1190年]]) - シュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝(在位[[1152年]] - [[1190年]])・第3回十字軍参加
* [[ハインリヒ3世 (ザクセン公)|ハインリヒ3世]](獅子公)([[1129年]] - [[1195年]]) - ザクセン公とバイエルン公を兼任・皇帝に次ぐ権力を持ったが所領を没収され追放される
* {{仮リンク|ランドゥスベルクのヘラデ|en|Herrad of Landsberg}}([[1130年]]頃 - [[1195年]]) - [[アルザス]]の修道女・ヴォーゲゼンのホーエンブルク修道院長・『喜びの庭』を執筆し挿絵も描く
==== 北欧 ====
* {{仮リンク|シグール1世|en|Sigurd the Crusader}}([[1090年]]頃 – [[1130年]]) - ノルウェー王(在位[[1103年]] - [[1130年]])・[[ノルウェー十字軍]]を率いて地中海各地を歴訪する
* [[アブサロン]]([[1128年]]頃 - [[1201年]]) - デンマークの[[ロスキレ]]司教・[[ルンド]]大司教・政治家・[[ヴェンド人]]と戦い[[コペンハーゲン]]の基礎を築く
* {{仮リンク|エリク9世(聖王)|en|Eric IX of Sweden}}(? - [[1160年]]) - エリク家のスウェーデン王(在位[[1150年]] - [[1160年]])・フィンランド遠征(北方十字軍)に参加
* [[サクソ・グラマティクス]]([[1150年]] - [[1220年]]) - デンマークの歴史家・[[北欧神話]]や[[ハムレット]]伝説も含めた『[[デンマーク人の事績]]』を執筆
==== 東ローマ帝国 ====
* {{仮リンク|エウティミオス・ジガベノス|en|Euthymios Zigabenos}}(? - [[1118年]]) - 東ローマ帝国の神学者・異端論駁書『パノプリア・ドグマティケー(教義の完全武装)』を執筆
* {{仮リンク|ヨハネス・ゾナラス|en|Joannes Zonaras}}(12世紀初頭) - 東ローマ帝国の歴史家・宮廷官房官・修道士となり天地創造から12世紀までの年代記『歴史梗概』を著述
* [[アンナ・コムネナ]]([[1083年]] - [[1153年]]) - 東ローマ皇帝[[アレクシオス1世コムネノス]]の皇女・女流歴史家で『アレクシアド』の著者
* [[ヨハネス2世コムネノス|ヨハネス2世]]([[1087年]] - [[1143年]]) - 東ローマ帝国[[コムネノス朝]]第2代皇帝(在位[[1118年]] - [[1143年]]) - カロヨハネスと呼ばれた名君
* {{仮リンク|ヨハネス・ツェツェス|en|John Tzetzes}}([[1110年]]頃 - [[1180年]]以降) - 東ローマ帝国の古典文献学者・詩人・『キリアデス(史書千巻)』などの著作を残す
* [[マヌエル1世コムネノス|マヌエル1世]]([[1118年]] - [[1180年]]) - 東ローマ帝国コムネノス朝第3代皇帝(在位[[1143年]] - [[1180年]])・帝国再興を目指しメガスと呼ばれる
* [[イサキオス2世アンゲロス|イサキオス2世]]([[1156年]] - [[1204年]]) - 東ローマ帝国[[アンゲロス朝]]初代皇帝(在位[[1185年]] - [[1195年]])・兄弟争いで[[第4回十字軍]]を招く
* {{仮リンク|ヤコボス・コッキノバフォス|en|Kokkinobaphos Master}}(生没年不詳) - 東ローマ帝国の修道士・ギリシア語による彩色写本『聖母マリア讃詞集』を作成
==== 東欧 ====
* {{仮リンク|プラハのコスマス|en|Cosmas of Prague}}([[1045年]]頃 - [[1125年]]) - [[ボヘミア]]の年代記作家・[[プラハ]]聖堂参事会長・『ボヘミア人の年代記』を執筆
* [[ウラジーミル2世モノマフ]]([[1053年]] - [[1125年]]) - [[キエフ大公]](在位[[1113年]] - [[1125年]])・キエフを再統一・「[[モノマフの冠|モノマフの帽子]]」伝説に仮託される
* [[年代記者ネストル]]([[1056年]]頃 - [[1114年]]) - [[キエフ]]の[[キエフ・ペチェールシク大修道院|洞窟修道院]]の修道士・ロシア最古の記録である『[[原初年代記]]』を編纂
* [[ユーリー・ドルゴルーキー]]([[1099年]] - [[1157年]]) - [[スーズダリ公]](在位[[1108年]] - [[1157年]])・キエフ大公ともなり[[モスクワ]]を建設
* [[ステファン・ネマニャ (セルビアの大ジュパン)|ステファン・ネマニャ]]([[1113年]] - [[1200年]]) - セルビア王国ネマニッチ朝初代国王(在位[[1171年]] - [[1196年]])・ヒランダル修道院を創建
* [[ベーラ3世 (ハンガリー王)|ベーラ3世]]([[1148年]]頃 - [[1196年]]) - [[ハンガリー王国]][[アールパード朝]]の国王(在位[[1172年]] - [[1196年]])・領土拡大により最盛期を現出
* [[イーホル・スヴャトスラーヴィチ|イーゴリ・スヴャトスラーヴィチ]]([[1151年]] - [[1202年]]) - ロシアの[[ノーウホロド=シーヴェルシクィイ|ノヴゴロド・セーヴェルスキイ]]公・『[[イーゴリ遠征物語]]』の主人公
==== 十字軍国家 ====
* ジェラール・タンク(トム)([[1040年]]頃 - [[1120年]]) - [[聖ヨハネ騎士団]]初代総長・病院と宿泊施設の提供をする修道騎士団を創設する
* [[ボードゥアン1世 (エルサレム王)|ボードゥアン1世]]([[1065年]]頃 - [[1118年]]) - [[第1回十字軍]]の指導者の一人・初代エルサレム王(在位[[1100年]] - [[1118年]])
* ユーグ・ド・パイヤン([[1070年]]頃 - [[1136年]]) - [[テンプル騎士団]]初代総長・巡礼者守護のための修道騎士団を創設する
* [[ルノー・ド・シャティヨン]]([[1125年]]頃 - [[1187年]]) - [[アンティオキア公]]・十字軍強硬派の中心・[[ハッティンの戦い]]を起こし捕虜となり処刑される
* [[ギヨーム・ド・ティール]]([[1130年]]頃 - [[1186年]]) - [[ティルス]]大司教・[[ボードゥアン4世 (エルサレム王)|ボードゥアン4世]]の家庭教師・歴史家として『エルサレム王国史』を残す
* [[イブラン家|バリアン・ディブラン]]([[1140年]]頃 - [[1193年]]) - ラムラ領主・サラーフッディーンとのエルサレム攻防戦では十字軍側の指揮をとるが敗北する
* [[ボードゥアン4世 (エルサレム王)|ボードゥアン4世]]([[1161年]] - [[1185年]]) - エルサレム国王(在位[[1174年]] - [[1185年]])・重病ながらも[[モンジザールの戦い]]では勝利を得る
* [[ギー・ド・リュジニャン]]([[1159年]] - [[1194年]]) - エルサレム国王(在位[[1186年]] - [[1192年]])・ハッティンの戦いで敗れてエルサレムを喪失
=== イスラム世界 ===
* [[アル・ハリーリー]]([[1054年]] - [[1122年]]) - [[バスラ]]生まれの詩人・著作家・[[マカーマ]]を大成した『マカーマート』や『潜水夫の真珠』がある
* [[ガザーリー]]([[1058年]] - [[1111年]]) - ペルシアのイスラム神学者・哲学者・神秘主義者([[スーフィー]])・著作に『哲学者の矛盾』がある
* [[イブン・トゥーマルト]]([[1080年]]頃 - [[1130年]]頃) - ベルベル人のマフディー(救世主)・[[タウヒード|神の唯一性]]を唱えムラービト朝に反抗
* [[サナーイー]](? - [[1131年]]/[[1134年]]/[[1150年]]) - ペルシアの神秘主義詩人・代表作に「真理の園」があり[[ファリードゥッディーン・アッタール|アッタール]]や[[ジャラール・ウッディーン・ルーミー|ルーミー]]に影響を与える
* [[アフマド・サンジャル]]([[1086年]] - [[1157年]]) - 大セルジューク朝の最後のスルタン(在位[[1118年]] - [[1157年]])・王朝の再興に一時的に成功する
* [[ザンギー]]([[1087年]]? - [[1146年]]) - [[アタベク]]政権[[ザンギー朝]]の初代君主(在位[[1127年]] - [[1146年]])・十字軍への組織的抵抗を開始
* アラー・ウッディーン・フサイン2世(? - [[1161年]]) - [[ゴール朝]]の君主(在位[[1149年]] - [[1161年]])・ガズナ朝に勝利しガズナを奪取する
* [[ニザーミー・アルーズィー]](生没年不詳) - サマルカンド出身でゴール朝に仕えた詩人・散文家・『四つの講話』の著者として知られる
* [[アブドゥルムウミン]]([[1094年]] - [[1163年]]) - ムワッヒド朝の初代[[アミール]](在位[[1130年]] - [[1163年]])でイブン・トゥーマルトの後継者
* ウサマ・イブン・ムンキズ([[1095年]] - [[1188年]]) - シャイザール出身の文人・十字軍時代のムスリム側の記録『キターブ・ル・ヤティバール』を残す
* [[イブン・バーッジャ]]([[1095年]]? - [[1138年]]) - ムラービト朝の宰相・西方イスラム哲学の始祖・著作に『孤独者の経綸』がある
* [[イドリースィー]]([[1099年]]/[[1100年]]? - [[1165年]]/[[1166年]]/[[1180年]]?) - シチリア王に仕えた地理学者・世界地図『ルッジェーロの書』を作成
* [[アフマド・ヤサヴィー]]([[1103年]] - [[1166年]]) - ブハラで活躍したテュルク語詩人・スーフィー・[[テュルキスタン]]に記念の[[ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟|霊廟]]が残る
* [[イブン・トファイル]]([[1105年]]-[[1185年]]) - ムワッヒド朝に仕えた侍医・西方イスラム哲学者・著作に『ヤクザーンの子ハイイの物語』がある
* [[ヌールッディーン]]([[1118年]] - [[1174年]]) - アタベク政権ザンギー朝の第2代君主(在位[[1146年]] - [[1174年]])・[[エデッサ伯国|エデッサ伯領]]を滅ぼす
* ディマシュキー(? - [[1175年]]以降) - ダマスクス出身の商人・イスラム式の貨幣論や経営論をまとめた『商業の功徳』を執筆する
* [[イブン・ルシュド]]([[1126年]] - [[1198年]]) - ムワッヒド朝の西方イスラム哲学の中心人物・ガザーリーの論敵・著作に『矛盾の矛盾』がある
* {{仮リンク|ルーズビハーン・バクリー|en|Ruzbihan Baqli}}([[1128年]] - [[1209年]]) - [[シーラーズ]]で活躍したペルシア語詩人・[[スーフィー]]・著作に自叙伝『秘密の開示(カシュフ・アル=アスラール)』がある
* [[モーシェ・ベン=マイモーン|マイモニデス]]([[1135年]] - [[1204年]]) - スペイン出身の[[ユダヤ教徒]][[ラビ]]・哲学者・サラーフッディーンの侍医・著作に『[[ミシュネー・トーラー]]』がある
* [[サラーフッディーン]]([[1138年]] - [[1193年]])- アイユーブ朝の初代君主(在位[[1171年]] - [[1193年]])・イェルサレムを十字軍から奪回
* ラーヴァンディー(生没年不詳) - ルーム・セルジューク朝の歴史家・セルジューク朝の歴史書『胸の安らぎと喜びの証し』を執筆
* [[ニザーミー]]([[1141年]] - [[1209年]]) - ペルシアの詩人・『[[ホスローとシーリーン]]』『[[ライラとマジュヌーン]]』の作者
* [[イブン・ジュバイル]]([[1145年]] - [[1217年]]) - ムワッヒド朝の旅行家・アラビアからエジプトそしてシチリアを遍歴した『旅行記』がある
* イブン・シャッダード([[1145年]] - [[1234年]]) - アイユーヴ朝の文筆家・サラーフッディーンに近侍し『サラーフッディーン伝』を執筆
* [[シハーブッディーン・ヤフヤー・スフラワルディー|スフラワルディー]]([[1155年]] - [[1191年]]) - ペルシアのイスラム神学者・神秘主義者で{{仮リンク|照明学派|en|Illuminationism}}(イシュラーク派)の祖・保守派と対立し獄死
* [[ヤアクーブ・マンスール]](? - [[1198年]]) - ムワッヒド朝のアミール(在位[[1184年]] - [[1198年]])・王朝の最盛期・哲学者[[イブン・ルシュド]]を追放
* [[アラーウッディーン・テキシュ]](? - [[1200年]]) - ホラズム・シャー朝の第6代君主(在位[[1172年]] - [[1200年]])・イラクのセルジューク朝を滅ぼす
* [[ギヤースッディーン・ムハンマド]](? - [[1203年]]) - ゴール朝の君主(在位[[1163年]] - [[1203年]])・イラクから北インドまで領土拡大
* [[シハーブッディーン・ムハンマド]](? - [[1206年]]) - ゴール朝のギヤースッディーンの弟・[[タラーインの戦い]]に勝利・後に兄の跡を継ぐ
=== 南アジア・チベット・東南アジア ===
* [[ラーマーヌジャ]]([[1017年]] - [[1137年]]) - インドの哲学者・バクティ信仰で[[ヒンドゥー教]]を変革し[[カビール]]や[[グル・ナーナク|ナーナク]]に影響を与える
* [[ミラレパ]]([[1052年]] - [[1135年]]) - チベット仏教の修行者・宗教詩人・四大宗派の一つである[[カギュ派]]の祖
* ヴィシュヌヴァルダナ(? - [[1152年]]) - [[ホイサラ朝]]の王(在位[[1110年]] - [[1152年]])・ホイサレシューヴァラ寺院を建立
* [[スーリヤヴァルマン2世]](? - [[1150年]]) - [[カンボジア]]の[[アンコール朝]]の国王(在位[[1113年]] - [[1150年]])・[[アンコール・ワット]]を建設
* [[バースカラ2世]]([[1114年]] - [[1185年]]) - インドの数学者・天文学者・『リーラーヴァティ』『ビージャガニタ』『シッダーンタ・シロマーニ』を著す
* [[ジャヤデーヴァ]](12世紀) - [[セーナ朝]]時代の詩人・叙情詩『[[ギータ・ゴーヴィンダ]]』(牛飼いの歌)でベンガル文学を代表し[[バクティ]]信仰に影響
* カンバン(12世紀) - [[チョーラ朝]]時代の詩人・叙事詩『イラーマーヴァダーラム(ラーマの降臨)』で[[タミル語|タミル文学]]([[サンガム文学]])を代表する
* カルハナ(12世紀) - [[カシミール]]出身の歴史家・古代からこの時代までの歴史叙事詩『ラージャタランギニー(王統の流れ)』を執筆する
* アッカ・マハーデーヴィー([[1130年]]頃 - [[1160年]]) - インドの女性神秘家・シヴァ神への熱烈な[[バクティ]]信仰で有名・[[カンナダ語]]の詩人でもある
* [[ジャヤーヴァルマン7世]]([[1130年]] - [[1218年]]) - カンボジアのアンコール朝の国王(在位[[1181年]] - [[1218年]])・[[アンコール・トム]]を建設
* プリトヴィーラージャ3世([[1149年]] - [[1192年]]) - [[チャーハマーナ朝]]の王(在位[[1165年]] - [[1192年]])・[[ラージプート]]を糾合しゴール朝と戦う
* チャンド・バルダーイー(12世紀末に活躍) - インドのヒンディー語の宮廷詩人・叙事詩的年代記『プリトヴィーラージ・ラーソー』の作者
=== 東アジア ===
==== 北宋・南宋 ====
* [[蔡京]]([[1047年]] - [[1126年]]) - 北宋末の政治家・宰相・書家・新法党に属し「元祐朋党碑」を建立・奸臣「六賊」の一人
* [[童貫]](? - [[1126年]]) - 北宋末の[[宦官]]で軍人・奸臣「六賊」の一人・方臘の乱を鎮圧するも北遼制圧に失敗し斬首される
* [[高俅]](? - [[1126年]]) - 北宋末の武官(殿帥府太尉)・食客から出世し軍政を掌握・『水滸伝』では「四奸臣」の一人で最大の憎まれ役
* 方臘(? - [[1121年]]) - 北宋末の[[方臘の乱]]の指導者・喫菜事魔([[マニ教]]の流れか)を行う・江南で反乱を起こすも童貫に制圧される
* [[宋江]](生没年不詳) - 北宋末の山東の反乱指導者・後に転じて方臘の乱の討伐に与したか・『[[水滸伝]]』では[[梁山泊]]の首領
* [[圜悟克勤]]([[1063年]] - [[1135年]]) - 北宋末期から南宋初期の禅僧・[[語録]]であり[[公案]]集でもある『[[碧巌録]]』を編纂・[[墨蹟]]「流れ圜悟」も有名
* [[元祐皇后]]([[1072年]] - [[1131年]]) - 北宋の哲宗の皇后(孟氏)・掖庭の獄で廃后・靖康の変を逃れて[[張邦昌]]に擁立され南宋の建国に寄与
* [[劉予]]([[1078年]] - [[1146年]]) - 北宋の政治家・張邦昌の楚の崩壊後に金の傀儡国家斉の皇帝となる・後に斉が解体され帝位を降りる
* [[張邦昌]]([[1081年]] - [[1127年]]) - 北宋の政治家・靖康の変後に金の傀儡国家楚の皇帝になる・退位するも許されず処刑される
* [[徽宗]] ([[1082年]] - [[1135年]]) - 北宋の第8代皇帝(在位[[1100年]] - [[1125年]])・「風流天子」と呼ばれ画家で書家でもある
* [[李綱]]([[1085年]] - [[1140年]]) - 南宋の宰相・靖康の変前から抗金の主戦派・高宗に仕え「十事」の刷新を唱えるが失脚
* [[李清照]]([[1084年]] - [[1153年]]) - 北宋末期から南宋初期の女流詩人(詞人)・靖康の変で江南に落ちのびる・詞集『漱玉集』がある
* 張択端([[1085年]] - [[1145年]]) - 北宋の画家・首都[[開封]]の繁栄を描いた「[[清明上河図]]」で知られる
* 孟元老(生没年不詳) - 北宋末期から南宋初期の文人・靖康の変で南渡し首都開封の記録である『[[東京夢華録]]』を執筆
* [[米友仁]]([[1086年]] - [[1165年]]) - 北宋末期から南宋初期の画家・書家・米芾の子・「瀟湘奇観図」や「雲山墨戯図」がある
* [[秦檜]]([[1090年]] - [[1155年]]) - 南宋の宰相・金との和平派・金に拉致されるが帰国し金と紹興の和議を結ぶ
* {{仮リンク|蘇漢臣|en|Su Hanchen}}([[1094年]] - [[1172年]]) - 北宋末期から南宋初期の画家・徽宗から高宗・孝宗に仕える・「秋庭嬰戯図」「貨郎図」などがある
* {{仮リンク|茅子元|zh|茅子元}}([[1096年]]? - [[1166年]]) - 南宋の僧侶・[[蘇州]]延祥寺の住持・[[阿弥陀]]信仰をもとに[[白蓮教]]を創始するが禁止される
* [[欽宗]]([[1100年]] - [[1161年]]) - 北宋の第9代皇帝(在位[[1125年]] - [[1127年]])・靖康の変で父徽宗らと金に連行される
* [[岳飛]]([[1103年]] - [[1141年]]) - 南宋の武将・金との主戦派・中原回復の機を窺うが和平派により処刑される
* [[高宗 (宋)|高宗]]([[1107年]] - [[1187年]]) - 南宋の初代皇帝(在位[[1127年]] - [[1162年]])・徽宗の子で欽宗の弟・靖康の変を逃れ[[臨安]]に遷都
* {{仮リンク|王日休|zh|王日休|}}([[1105年]] - [[1173年]]) - 南宋の国学進士・[[居士]]・[[浄土教]]の熱心な信者となり『龍舒浄土文』を執筆
* [[虞允文]]([[1110年]] - [[1174年]]) - 南宋の丞相・金の南進を阻止するべく軍事参謀として采石磯の戦いで海陵王を撃破する
* [[洪邁]]([[1123年]] - [[1202年]]) - 南宋の政治家・儒学者・秦檜を批判し左遷される・[[志怪小説]]『[[夷堅志]]』や『[[容斎随筆]]』で有名
* [[陸游]]([[1125年]] - [[1210年]]) - 南宋の政治家・詩人で「南宋四大家」の一人・詩集に『剣南詩稿』がある
* [[孝宗 (宋)|孝宗]]([[1127年]] - [[1194年]]) - 南宋の第2代皇帝(在位[[1162年]] - [[1189年]])・南宋の最盛期を現出・その治世が「乾淳の治」
* [[趙汝愚]](? - [[1196年]]) - 南宋の宰相・朱熹の庇護者・光宗を廃し寧宗の擁立を謀る・韓侂冑らにより慶元の党禁で失脚
* [[朱子|朱熹]]([[1130年]] - [[1200年]]) - 南宋の儒学者・[[朱子学]](新儒学)の大成者・弟子のまとめた『[[朱子語類]]』が知られる
* [[呂祖謙]]([[1137年]] - [[1181年]]) - 南宋の儒学者・朱熹と陸象山との会談(鵝湖の会)を準備したことで知られる
* [[陸象山]]([[1139年]] - [[1192年]]) - 南宋の儒学者・朱熹の論敵・「[[心即理]]」の概念は[[陽明学]]の淵源となる
* [[辛棄疾]]([[1140年]] - [[1207年]]) - 南宋の政治家・詞人・金の支配下に生まれ育つも武装蜂起して南宋に帰順・詞集『稼軒集』がある
* 李鳳娘([[1144年]] - [[1200年]]) - 南宋の光宗の皇后・寧宗の生母・光宗に代わって専権をふるい紹熙の内禅を招く
==== 金 ====
* [[阿骨打|完顔阿骨打]]([[1068年]] - [[1123年]]) - 女真族の金の初代皇帝(太祖)(在位[[1115年]] - [[1123年]])・[[猛安・謀克]]の制を整備し遼に大勝
* [[呉乞買|太宗]]([[1075年]] - [[1135年]]) - 女真族の金の第2代皇帝(在位[[1123年]] - [[1135年]])・阿骨打の弟・遼と北宋をそれぞれ滅ぼす
* 撻懶(? - [[1139年]]) - 金の皇族(太祖・太宗の叔父盈歌の子)・将軍・秦檜を南宋に帰国させて和議工作を進めるが反対派により処刑される
* [[斡啜]](兀朮)(? - [[1148年]]) - 金の皇族(太祖の子)・将軍・政治家・南宋との間に淮河から秦嶺以北を金の領土とする紹興の和議を締結
* [[王重陽]]([[1112年]] - [[1170年]]) - 金の道士・[[道教]]の一派である[[全真教]]の開祖・弟子に[[丘長春]](長春真人)がいる
* [[海陵王]]([[1122年]] - [[1161年]]) - 金の第4代皇帝(在位[[1150年]] - [[1161年]])・燕京に遷都・南宋と采石磯で戦うも敗北し廃位される
* [[世宗 (金)|世宗]]([[1123年]] - [[1189年]]) - 金の第5代皇帝(在位[[1161年]] - [[1189年]])・南宋と乾道の和約を結ぶ・その治世が「大定の治」
==== 遼・西遼 ====
* [[天祚帝]]([[1075年]] - [[1125年]]) - 遼の最後の皇帝(在位[[1101年]] - [[1125年]])・金と北宋に挟撃され降伏し遼は滅亡する
* [[耶律大石]]([[1087年]] - [[1143年]]) - [[西遼]](カラ・キタイ)の建国者・皇帝(徳宗)(在位[[1132年]] - [[1143年]])
==== 高麗 ====
* [[金富軾]]([[1075年]] - [[1151年]]) - 高麗の官僚・儒学者・[[仁宗 (高麗王)|仁宗]]の命で現存する朝鮮最古の歴史書『[[三国史記]]』を編纂
* [[知訥]]([[1158年]] - [[1210年]]) - 高麗の僧侶・韓国仏教で最も勢力を拡大した[[曹渓宗]]の宗祖・松広山(曹渓山)[[松広寺|吉祥寺]]を再興
==== 日本 ====
* [[白河天皇]]([[1053年]] - [[1129年]]) - 第72代天皇(在位[[1072年]] - [[1086年]])・[[太上天皇|上皇]]([[法皇]])として堀河・鳥羽・崇徳の三代で[[院政]]を行う
* [[覚猷]](鳥羽僧正)([[1053年]] - [[1140年]]) - 僧侶・[[天台座主]]・[[鳥獣人物戯画]]の作者に擬せられ戯画「[[鳥羽絵]]」の祖とされる
* [[藤原顕隆]]([[1072年]] - [[1129年]]) - 公卿・[[権中納言]]・白河院の[[院近臣|近臣]]・摂関を越えて政策を決定したので「夜の関白」と評される
* [[良忍]](聖応大師)([[1073年]] - [[1132年]]) - 僧侶・[[融通念仏宗]]の開祖・京都[[大原 (京都市)|大原]]の[[来迎院 (京都市左京区)|来迎院]]を再興・天台[[声明]]を統一する
* [[皇円]]([[1074年]]? - [[1169年]]) - 天台宗の僧侶(肥後阿闍梨)・日本初の編年体の歴史書『[[扶桑略記]]』を編纂・浄土宗の開祖[[法然]]の師
* [[藤原忠実]]([[1078年]] - [[1162年]]) - 公卿・[[摂政]]・[[関白]]・[[太政大臣]]・白河院に圧迫されながら摂関家を維持・忠通や頼長の父
* [[源義親]](? - [[1108年]]) - 武将・源義家の子・対馬守に任じられるが九州各地で狼藉を行い[[平正盛]]に追討される([[源義親の乱|康和の乱]])
* [[藤原定信]]([[1088年]] - [[1156年]]) - 書家([[世尊寺流]])・「[[西本願寺本三十六人家集]][[貫之集]](石山切)」や「金沢本万葉集」を残す
* [[覚鑁]](興教大師)([[1095年]] - [[1144年]]) - 僧侶・[[真言宗]]中興の祖にして[[新義真言宗]]の祖・[[根来寺]]開山
* [[源為義]]([[1096年]] - [[1156年]]) - 武将・左馬頭・[[河内源氏]]の棟梁・保元の乱で処刑される・義朝や為朝の父
* [[藤原忠通]]([[1097年]] - [[1164年]]) - 公卿・[[摂政]]・[[関白]]・太政大臣・[[書家]]([[法性寺流]])・直系子孫が[[五摂家]]に分立
* [[鳥羽天皇]]([[1103年]] - [[1156年]]) - 第74代天皇(在位[[1107年]] - [[1123年]])・[[院政]]を行う・崩御して保元の乱が発生
* [[源頼政]]([[1104年]] - [[1180年]]) - 武将・平治の乱では平氏方に与す・後に以仁王の挙兵に従い宇治平等院の戦いで敗死
* [[信西|藤原通憲(信西)]]([[1106年]]? - [[1160年]]) - 学者・僧侶・後白河院の近臣・[[保元新制]]を指導するが平治の乱で横死
* [[藤原俊成]]([[1114年]] - [[1204年]]) - 公卿・歌人・『[[千載和歌集]]』の選者・家集に『[[長秋詠藻]]』がある・[[藤原定家]]は子
* [[平清盛]]([[1118年]] - [[1181年]]) - 武将・公卿・太政大臣・平氏政権の全盛期・[[治承三年の政変]]や[[福原行幸|福原遷都]]で反発を招く
* [[西行]]([[1118年]] - [[1190年]]) - 僧侶・歌人で『[[新古今和歌集]]』最多入撰・私家集として『[[山家集]]』がある
* [[崇徳天皇]]([[1119年]] - [[1164年]]) - 第75代天皇(在位[[1123年]] - [[1142年]])・保元の乱で[[讃岐国]]に配流・[[怨霊]]伝説あり
* [[藤原頼長]]([[1120年]] - [[1156年]]) - 公卿・左大臣(悪左府)・保元の乱で横死・日記『[[台記]]』を残す
* [[重源]]([[1121年]] - [[1206年]]) - 僧侶・[[東大寺大勧進職]]・治承・寿永の乱で焼失した[[東大寺]]を再建
* [[藤原秀衡]]([[1122年]]? - [[1187年]]) - 奥州藤原氏第3代当主・治承・寿永の乱でも独立を維持・落ち延びた[[源義経]]を庇護
* [[源義朝]]([[1123年]] - [[1160年]]) - 武将・保元の乱では勝利するが平治の乱で敗死・頼朝や義経らの父
* [[後白河天皇]]([[1127年]] - [[1192年]]) - 第77代[[天皇]](在位[[1155年]] - [[1158年]])・治承・寿永の乱を生き残る・『[[梁塵秘抄]]』を撰述
* [[常盤光長]](生没年不詳) - 絵師([[土佐派]])・後白河院の命で『年中行事絵巻』『[[伴大納言絵詞]]』を描く・『[[吉備大臣入唐絵巻]]』も描いたか
* [[藤原信頼]]([[1133年]] - [[1160年]]) - 公卿・権中納言・後白河院の近臣・平治の乱で信西を倒すが政権を守れず乱後に処刑される
* [[平重盛]]([[1138年]] - [[1179年]]) - 武将・公卿・[[内大臣]](小松内大臣)・平清盛の長男・[[鹿ケ谷の陰謀]]で立場を失う
* [[藤原成親]]([[1138年]] - [[1177年]]) - 公卿・権大納言・後白河院の近臣・[[西光]]や[[俊寛]]らと鹿ケ谷の陰謀を企てたとして流される
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* [[梶原景時]]([[1140年]]? - [[1200年]]) - 武将・鎌倉幕府[[侍所]]所司・源頼朝に近侍し源義経と対立・[[梶原景時の変]]で滅ぼされる
* [[熊谷直実]]([[1141年]] - [[1207年]]) - 武将・御家人・源平合戦での[[一ノ谷の戦い]]での[[平敦盛]]との哀話は有名・後に[[法然]]に帰依する
* [[俊寛]]([[1143年]] - [[1179年]]) - 僧侶([[僧都]])・[[法勝寺]][[執行]]・後白河院の近臣・鹿ケ谷の謀議に加わり[[鬼界ヶ島]]に流刑・赦されずこの地で死去
* [[平宗盛]]([[1147年]] - [[1185年]]) - 武将・公卿・内大臣(屋島大臣)・清盛没後の平氏一門を統率・壇ノ浦の敗北後に斬首される
* [[源頼朝]]([[1147年]] - [[1199年]]) - 鎌倉幕府初代将軍(在任[[1192年]] - [[1199年]])・源義仲と平氏一門を滅ぼし奥州合戦に勝利
* [[九条兼実]]([[1149年]] - [[1207年]]) - 公卿・摂政・関白・太政大臣・[[九条家]]の祖・この時代の記録として『[[玉葉]]』を残す
* [[源通親]]([[1149年]] - [[1202年]]) - 公卿・後白河院の近臣・内大臣・「源博陸」・[[建久七年の政変]]で[[九条兼実]]を失脚させる
* [[運慶]](? - [[1224年]]) - 仏師・南都焼討からの復興で[[快慶]]らとともに活躍・代表作は東大寺南大門金剛力士像
* [[以仁王]]([[1151年]] - [[1180年]]) - 後白河院の皇子・「[[以仁王の挙兵|以仁王の令旨]]」により諸国の源氏に平氏打倒の挙兵を促したが敗死する
* [[高階栄子]]([[1151年]]? - [[1216年]]) - 後白河院の寵姫([[丹後局]])・宣陽門院の母・後鳥羽天皇の擁立や鎌倉幕府との交渉に影響力があった
* [[平知盛]]([[1152年]] - [[1185年]]) - 武将・公卿・[[権中納言]](新中納言)・兄宗盛を補佐し平氏都落ち以後は転戦・壇ノ浦で入水
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* [[源義経]]([[1159年]] - [[1189年]]) - 武将・[[検非違使]]・壇ノ浦の戦いで平氏一門を滅ぼす・後に奥州合戦で兄の頼朝に追討される
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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2,454 | マイクロソフト | マイクロソフト(英: Microsoft Corporation)は、アメリカ合衆国ワシントン州に本社を置く、ソフトウェアを開発、販売する会社である。1975年にビル・ゲイツとポール・アレンによって創業された。1985年にパソコン用OSのWindowsを開発。1990年にWindows向けのオフィスソフトとしてMicrosoft Officeを販売。1995年にウェブブラウザのInternet Explorerをリリース。2001年に家庭用ゲーム機のXboxを販売。2009年に検索エンジンのBingを設立。2010年にクラウドサービスとしてAzureを開始。2015年7月15日Microsoft Edgeを開発、そして展開。2021年11月時点での時価総額がAppleに次いで世界2位。
当初は世に登場して間もない8ビットのマイクロプロセッサを搭載したコンピュータ「アルテア (Altair)」上で動く、BASICインタプリタ「Altair BASIC」の開発・販売で成功を収めた。
当初はネイティブ環境(カセットテープベースでオペレーティングシステムはなくROM-BASICに近い環境のもの)だったが、CP/Mが標準プラットフォームとなると、CP/MベースのMBASICを発表する。グラフィックス機能をつけたGBASIC、16ビット用のGWBASICが登場する。なお、GWのWは16ビット(=2バイト)を意味するダブルバイト/ワードだとされている。
ついでIBM PC上のオペレーティングシステムの開発を請け負い、シアトルコンピュータプロダクツの86-DOSの権利を購入し改良、PC DOS(自社ブランドでMS-DOS)を開発。IBM PCとそれら互換機の普及とともにオペレーティングシステムの需要も伸び、現在に至る地固めを確かなものとした。86-DOSの開発者ティム・パターソンはのちにマイクロソフトに引き抜かれMS-DOSの開発メインスタッフとなる。
マイクロソフトはMS-DOSを改良するほかに各機種用のBASICやC言語・FORTRANなどのコンパイラの開発を手がける一方、Altoの見学などMS-DOS上で動作するGUIシステム「Windows」の開発に注力した。
またビジネス向けの表計算ソフトやワープロソフトなどを開発し、先行する他社と「買収か潰すか、どっちか」とまで言われた熾烈な競争を繰り広げ、各方面で賛否を仰ぎながらも多方面のビジネスソフトでシェアを独占するに至った。
黎明期の1970年代後半から1980年代前半には西和彦がビル・ゲイツと意気投合し、マイクロソフトの副社長を務めるなどした。このことはマイクロソフトの日本進出に大きく作用している。アスキーはMSXやAXの共同展開や日本法人設立までの日本代理店(実際は子会社のアスキーマイクロソフト株式会社が担当)を務めるなど、大きな貢献をしていた。しかし1986年にマイクロソフトが100%出資の日本法人(マイクロソフト株式会社)をアスキーから古川享や成毛眞ら一部の社員が独立する形で設立したため、提携を解消した。
OSに関しては、MS-DOSの後継として、IBMと共同でOS/2の開発を行いつつも、独自に後のWindowsにつながるOSの開発も行っていた。その後IBMと袂を分かち、IBMがOS/2を、マイクロソフトがWindowsを、それぞれ開発することとなった。Windowsは当初はMS-DOS上で動くものであったが、1995年に、WindowsとMS-DOSを一体化し、GUIを改良したWindows 95を発売した。これと並行して、デヴィッド・カトラー率いるDECの開発チームを移籍させるなどしてWindows NTを開発した。
その後もWindowsの改良を進め何度もマイナーチェンジを繰り返したほか、インターネット経由やCD-ROMなどで大量のモジュールを配布している。Windows NTによりサーバ市場への進出も果たした。2001年にはWindows XPの発売によりMS-DOS系のWindowsをWindows NT系に統合した。
また2000年代に入ると、障害者のアクセシビリティへの配慮を『企業の社会的責任』だと位置づけ、各国でマイクロソフト支援技術ベンダプログラムを展開した。
また、ゲーム機としてXboxを2001年に発売し、2005年12月にはXbox 360、2013年11月にはXbox One、2020年11月にはXbox Series X/Sを発売した。
従来とは違った分野での活躍として、フォーミュラ1への製品供給があげられる。マクラーレン・エレクトロニック・システムズと共同で、エンジンコントロールユニットを供給している。
2011年10月17日、どんな場所でもタッチスクリーンに変えてしまう新技術「OmniTouch」を公開した。同技術はマルチタッチに対応。手のひら、腕、壁、ノート、机などをタッチスクリーンとして活用することを目指している。
2013年9月3日、ノキアとノキアの携帯電話部門を54.4億ユーロ(約7,130億円)で買収することに合意したと発表。買収手続きの完了は、2014年第一四半期の予定。
2014年4月25日、ノキアのモバイル事業について買収完了を発表。
2015年5月11日、海底ケーブルネットワークへの投資について発表。Hibernia Networksと共同出資・敷設を協定。
2019年4月25日、史上3社目となる時価総額1兆ドル突破を記録した。
2021年3月31日、マイクロソフトは、HoloLensテクノロジーをベースにした何万台もの拡張現実ヘッドセットを米軍に提供する契約を獲得したことを発表。この契約は10年間で218億8000万ドルにもなるという。IVAS(統合視覚増強システム)準拠のARヘッドセット12万台を陸軍に納入。HoloLens2は現場将兵のニーズに合わせて機能がアップグレードされている。マイクロソフトが2018年に米軍に拡張現実テクノロジーを提供するために獲得した2年間、4億8000万ドルの契約に続く。IVASは、HoloLensの技術をベースに、クラウドサービスも活用する。
マウス、キーボード、ゲームパッドなどの入力機器の製造も手がけている。専用パッドを必要としない、現在の光学マウスは同社の発明であり、この発明以降、それまで一般的だったボール式マウスに代わり、光学マウスが世界の主流となった。X-Y方向の入力だけが一般的だったジョイスティックにZ軸の回転を加えた新しいジョイスティックなど、それまでの常識を覆す新製品の数々を送り込んでいる。数々のエポックメイキングをこなしていた当時のハード部門は社内ベンチャーだったが、光学マウスの成功により正式な部門に格上げとなった。
ハードウェアの最初の製品はApple II向けのZ80 SOFTCARDである。これは6502CPUを搭載したApple IIにZ80を搭載したカードを挿入するとCP/MベースのMicrosoft BASICなどを動かせるようにした商品で、一説ではシアトルコンピュータプロダクツのティム・パターソン(MS-DOSの設計者)が設計したという。
2000年、セガと入れ替わる形で、ゲーム業界への参入を発表。2001年に家庭用テレビゲーム専用機・Xboxを発売。アーケード向けにChihiroと呼ばれているXboxプラットフォーム基板がある。その後、次世代製品として2005年にXbox 360が発売された。
XboxやXbox 360の製造は、シンガポールや台湾などに本社があるEMS企業に委託している。
携帯型音楽再生端末Zuneシリーズをアメリカとカナダで販売している。また2010年には、新たにシャープとスマートフォン『KIN』シリーズを共同開発し発売した。
Windows Phoneは、かつてはWindows Mobileと呼ばれ、Pocket PCやスマートフォンに搭載されるWindows CEの発展版である。2010年に、米国をはじめいくつかの国でWindows Phoneが販売された。その後、2011年秋に行われたアップデートで多国語対応が進み、日本語版もリリースされたが、2019年12月をもってサポートが終了した。
自社製造のタブレット端末として、Surface/Surface Proの開発・販売が行われている。Surfaceは無償アップデートによりWindows RT 8.1に、またSurface Pro・Surface 3・Surface Laptopは無償アップデートによりWindows 10 ProにそれぞれOSをアップグレードできる。
1984年に出版部門「Microsoft Press」を設立、マイクロソフト関連製品の技術解説書を中心にコンピュータ関連書籍の出版を行っている。日本では日本進出の経緯からアスキー(現:角川アスキー総合研究所)が出版業務を担ってきたが、1998年に設立された日経BPの子会社「日経BPソフトプレス」が同年7月から出版業務を担当、現在は大半の出版物を日経BPソフトプレスが、PCゲーム関連書籍などごく一部を「KADOKAWA Game Linkage」が発行している。
マイクロソフトは、UNIX系システムのバイナリフォーマットとして用いられてきたCOFFを改良し、Portable Executable (PE)フォーマットを策定した。特定のハードウェアやOSに依存しない点が最大の特徴である。.NET FrameworkアプリケーションやUEFIアプリケーションの実行ファイルのフォーマットとしても用いられているほか、サードパーティー製OSのカーネルやブートローダの実行ファイルとしても用いられている。
マイクロソフトは1980年からAT&Tのライセンスを受けて世界初の商用UNIXベンダーとしてXENIXを開発・販売していた。しかし、1987年にXENIXの所有権をSCOに移した。2003年から2010年まで続いたSCOの対Linux訴訟ではSCOに資金を提供していたが、その訴訟においてSCOは敗訴している。
また、1999年以降Windows NT系向けにServices for UNIX(SFU)を提供している。コミュニティによってこれに対応したDebian Interix PortやGentoo/Interixなどが開発されたが、多くのパッケージは対応されていない。
2001年にシェアードソースを開始したが、これはオープンソースと呼べる代物ではなかった。2006年にCodePlex開始、2007年にMs-PL/Ms-RLがOSIのオープンソースライセンス認定を受けたことで、マイクロソフトのオープンソース戦略が始まった。現在までにTerrariumなどがオープンソース化されている。2009年にはCodePlex Foundationを設立した。
2008年、マイクロソフトはHyper-VのLinux統合コンポーネントを開発したが、2009年にカーネルモジュールのGPL違反が指摘されるとソースコードを公開し、Linuxカーネルのメインラインへの統合のためにLinux系のメーリングリストでの開発に参加することとなった。また、2009年にWindows 7 USB/DVD Download ToolのGPL違反が指摘されると、ソースコードをGPLで公開した。
マイクロソフトはハロウィーン文書やGET THE FACTSキャンペーンなどのFUD戦略を行っている。
2005年にマイクロソフトがSecurity Innovationへ依頼した調査結果がノベルに反論されたあとに、2006年からノベルと提携している。なお、ノベルはUNIXの知的財産を持ってはいたが、その当時はまだSCOとの裁判中であった。
2007年にマイクロソフトはオープンソースにおける特許問題を提起し、2009年にはLinuxカーネルを使用することに特許侵害があるとしてTomTomを訴訟した。また、複数の会社に「Linuxを使用することを認める」といった内容の契約を、訴訟を背景に結ばせている。
2010年11月、アタッチメイトがノベルを買収する際に、マイクロソフトが2010年11月4日にデラウェア州で設立した有限会社CPTNホールディングスはノベルの882個の特許を4億5,000万ドルで購入した。
なお近年では「Microsoft Loves Linux」(マイクロソフトはLinuxが大好き)といった投稿を公式で行うなど、Linuxに対して融和の姿勢を見せており、事実クラウドプラットフォームであるMicrosoft AzureではOSとしてLinuxも利用できるようになっている。また、The Linux Foundationではプラチナメンバーとして参加するとともに、ソースコードの提供も行うなど、Linuxをはじめとしたオープンソースコミュニティへの貢献も積極的に行っている。
2018年4月には、IoT向けのLinuxディストリビューションであるAzure Sphereが発表された。
マイクロソフトはエンタープライズ市場とコンシューマ市場の両方に参入しており、各分野のITベンダーと競合している。
事実上の標準が一企業に集中することは、ユーザーや社会全体が不利益を被る面も存在する。マイクロソフトは米国で反トラスト法違反として司法省に提訴された。一審では、OS会社とアプリケーション会社に2分割する是正命令が出たが、ワシントン連邦高等裁判所は一審を破棄して地方裁判所に差し戻した。現在では実質マイクロソフトの勝利の形となっている。
2004年3月、欧州連合の欧州委員会はマイクロソフトがWindowsの支配的地位を乱用し、競争法に違反しているとして約4億9,720万ユーロ(当時相場約795億円)の制裁金を科す決定をした。マイクロソフトは当初これを拒否していたが、2007年10月にこれを受け入れた(マイクロソフトの欧州連合における競争法違反事件も参照のこと)。しかし、2008年2月27日、欧州委員会はその後もマイクロソフト側が十分なWindowsの基礎情報を提供していないと判断し、8億9,900万ユーロ(当時相場約1,440億円)の新たな制裁金を科すと発表した。これは発表時において欧州委員会が1社に科した制裁金の最高額である。欧州委員競争政策担当のネリー・クルスは発表に際して「(命令に)従うというだけでは十分ではない。行動で示す必要がある。欧州委員会の要求はまだ満たされていない」と発言した。毎年、ビル・ゲイツが世界長者番付(Forbes誌)に名を連ねる一方で、マイクロソフトが全世界的にオペレーティングシステムの市場を独占し、また世界中のパソコンの新規購入費用にWindowsのライセンス費用が大抵含まれている様から、「マイクロソフト税」という揶揄する言葉が生まれた。2002年に公表された決算報告書から、Windowsの利益率が約85%であることなどが判明したところ、「ほとんど紙幣を刷っているようなものである」などと一部のメディアに揶揄される事態に至った。
1999年には、Windows Refund CenterというWebサイトを中心に、LinuxやFreeBSDなどのユーザーが、「PCにプリインストールされているWindowsは使わない」として、PCの価格からWindowsのライセンス料の返金を求める運動を起きている。また、フリーソフトウェア財団(FSF)は2009年10月22日に発表されたWindows 7については、アンチWindows 7キャンペーンを展開した。FSFは、Windows Vista発表時にも同様のキャンペーンを起こしている。
マイクロソフトは競合他社のAmazonやYahoo!などと連携し、Googleブックスによる電子書籍市場の独占化を懸念して反対運動を起こしている。事の発端は2005年、アメリカ合衆国最大・最古の著作家業界団体である全米作家協会などがGoogleを相手取り、著作権侵害で集団訴訟を起こしたことに始まる。総額1億2,500万米ドルで和解することで原告団と被告の当事者間では合意していたものの、その和解案には将来的な著作物のデジタル化ライセンス許諾が含まれていたことから、反トラスト法違反が新たに指摘された。マイクロソフトらは2009年にオープンブック連盟(英語版)を組成し、この和解案に異議を唱えている。また、同和解案にはフランスやドイツ政府からも批判が寄せられ、ドイツ法務省は「被害者救済や被害拡大防止に見せかけて、著作権が有効な世界中の全書籍に対する強制執行権をGoogleに獲得させるため集団訴訟が利用されている」と、マイクロソフトらに同調する意見書を提出している。
2009年6月26日には、FSFの創立者であるリチャード・ストールマンが、将来的にマイクロソフトがC#に対して特許を主張する可能性があるため、フリーのC#実装は、意識的に減らしてくべきという文章を発表した。これに対してマイクロソフトは、同社のCommunity Promiseを適用し、C#に関する特許は取得しないと発表した。
オフィススイートのフォーマットはオープンソースでODF(OpenDocument)の標準化が進められており、OpenOffice.org、StarOffice(StarSuite)、一太郎、KOfficeなど、これを採用したオフィススイート間での互換性は向上した。実際にOpenDocumentについては国内を含む各国の行政・自治体で採用の動きが強まっている。しかし、マイクロソフトがその流れに反してODFとはまったく互換性のない新規格「Open XML」を定義し、Office2007で標準フォーマットとして採用した。マイクロソフトはOpen XMLの優位性を主張しているが、GNU関連の団体は時代の流れと逆行するとしてマイクロソフトの行為をシェアの暴力と批判し、論争を呼んでいる。
2016年、マイクロソフトはWindows 10への無償アップグレードを2016年7月29日までとしていたが、アップグレードの通知メッセージが分かりにくく、誤ったまま半ば強制的にOSがアップグレードされてしまう事象が多発し、消費者団体からのクレームを受けた。また、国会でも質問主意書が発行されるなど、問題は大きく広がりを見せた。
2011年12月には、マイクロソフトディベロップメント社において、いわゆる「パワハラ」により解雇されたとして、裁判が発生している。
2013年11月、当時のCEOであったスティーブ・バルマーは、GEを模倣してトップダウンで導入したものの、社内外を問わず酷評されていた人事評価システム「スタックランキング」を廃止。
2019年4月、複数の女性がセクハラや差別を受けた経験を一連の電子メールで明かしたことを受けて、Microsoftの従業員グループが自社に抗議する騒動が起きている。
2019年4月12日、「Outlook」一部アカウントに不正アクセス、マイクロソフトが公表。対象は「Outlook.com」や「MSN」「Hotmail」。サポート担当者用のアカウントの認証情報が盗まれ、侵入に使われたという。当初の発表を訂正し、被害に遭ったアカウントのうち6%については、侵入者がメール本文や添付ファイルも見ることができる状態だったとしている。
日本マイクロソフト株式会社(英: Microsoft Japan Co., Ltd. 略称: MSJ)は、主に営業、マーケティング、サポート、社長室および法務などを担当する会社。
以前は「マイクロソフト株式会社」という社名で、オフィスが小田急サザンタワー(本社)、朝日生命代田橋ビル、赤坂ガーデンシティ、東京オペラシティの東京都内4か所に分散していた。これを解消するため、2011年2月1日付けで、テクノロジーセンターを除く4拠点と関連会社であるファストサーチ & トランスファ株式会社が入居している千代田区の霞が関オフィス(大同生命霞が関ビル)を統合集約し、新本社オフィスとして港区港南の品川グランドセントラルタワーに移転した。同時に、社名を日本マイクロソフト株式会社に変更した。さらに東京以外の各地にも支店が置かれている。拠点を港区港南に集約した2011年時点で、日本マイクロソフト社と調布市に存在する後述のマイクロソフトディベロップメント社を統合する予定であったが、2014年から2015年にかけて、マイクロソフトディベロップメント社に属する開発系部署と、日本マイクロソフトに属するサポート系部署がいずれも港区港南に移転し、統合の準備が続けられている。
現在はもはや非公式な通称であるが、改名前の略称はMSKK(Microsoft Kabushiki Kaishaの略)であった。
日本市場では日本オラクル・SAPジャパン・セールスフォースドットコム (Salesforce.com)・アマゾンウェブサービスジャパン・グーグル合同会社・日本IBM・Apple Japan・日本サムスンなどの外資系企業だけでなく、東芝・富士通・日立製作所・NEC・ソニーグループなど日系企業を含めた多くのITベンダーと競合しており、激しいシェア争いを繰り広げている。
なお、2008年以降、「コンピュータ」の表記を長音記号つきの「コンピューター」に変更した。小中学校教科書や新聞放送などの表記に従ったものであるが、業界内部では比較的珍しく、先駆となった。
マイクロソフトディベロップメント株式会社(英: Microsoft Development Ltd.)には、主に開発部署が所属している。日本マイクロソフト株式会社の子会社ではなく、Microsoft Corporation本社の子会社である。以前は、米Microsoft Product Development Ltd.の日本支社という位置づけだったが、2006年、会社法の改正に対応するために、日本の株式会社として改組された。
本社は、マイクロソフト調布技術センター(東京都調布市調布ヶ丘1-18-1)に置かれていたが、2014年に開発部門が日本マイクロソフト本社と同じ品川グランドセントラルタワーに移転し、2015年になってサポート部門が同様に品川に移転した。2018年5月現在、調布技術センターの表記はマイクロソフト社のウェブサイト上に存在するが、実際には機能していない。本社所在地は、2015年4月に品川本社と同じ港区港南に変更された。 | [
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"text": "2013年9月3日、ノキアとノキアの携帯電話部門を54.4億ユーロ(約7,130億円)で買収することに合意したと発表。買収手続きの完了は、2014年第一四半期の予定。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "2014年4月25日、ノキアのモバイル事業について買収完了を発表。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "2015年5月11日、海底ケーブルネットワークへの投資について発表。Hibernia Networksと共同出資・敷設を協定。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "2019年4月25日、史上3社目となる時価総額1兆ドル突破を記録した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2021年3月31日、マイクロソフトは、HoloLensテクノロジーをベースにした何万台もの拡張現実ヘッドセットを米軍に提供する契約を獲得したことを発表。この契約は10年間で218億8000万ドルにもなるという。IVAS(統合視覚増強システム)準拠のARヘッドセット12万台を陸軍に納入。HoloLens2は現場将兵のニーズに合わせて機能がアップグレードされている。マイクロソフトが2018年に米軍に拡張現実テクノロジーを提供するために獲得した2年間、4億8000万ドルの契約に続く。IVASは、HoloLensの技術をベースに、クラウドサービスも活用する。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "マウス、キーボード、ゲームパッドなどの入力機器の製造も手がけている。専用パッドを必要としない、現在の光学マウスは同社の発明であり、この発明以降、それまで一般的だったボール式マウスに代わり、光学マウスが世界の主流となった。X-Y方向の入力だけが一般的だったジョイスティックにZ軸の回転を加えた新しいジョイスティックなど、それまでの常識を覆す新製品の数々を送り込んでいる。数々のエポックメイキングをこなしていた当時のハード部門は社内ベンチャーだったが、光学マウスの成功により正式な部門に格上げとなった。",
"title": "製品とサービス"
},
{
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"text": "ハードウェアの最初の製品はApple II向けのZ80 SOFTCARDである。これは6502CPUを搭載したApple IIにZ80を搭載したカードを挿入するとCP/MベースのMicrosoft BASICなどを動かせるようにした商品で、一説ではシアトルコンピュータプロダクツのティム・パターソン(MS-DOSの設計者)が設計したという。",
"title": "製品とサービス"
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "2000年、セガと入れ替わる形で、ゲーム業界への参入を発表。2001年に家庭用テレビゲーム専用機・Xboxを発売。アーケード向けにChihiroと呼ばれているXboxプラットフォーム基板がある。その後、次世代製品として2005年にXbox 360が発売された。",
"title": "製品とサービス"
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"text": "XboxやXbox 360の製造は、シンガポールや台湾などに本社があるEMS企業に委託している。",
"title": "製品とサービス"
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{
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"text": "携帯型音楽再生端末Zuneシリーズをアメリカとカナダで販売している。また2010年には、新たにシャープとスマートフォン『KIN』シリーズを共同開発し発売した。",
"title": "製品とサービス"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "Windows Phoneは、かつてはWindows Mobileと呼ばれ、Pocket PCやスマートフォンに搭載されるWindows CEの発展版である。2010年に、米国をはじめいくつかの国でWindows Phoneが販売された。その後、2011年秋に行われたアップデートで多国語対応が進み、日本語版もリリースされたが、2019年12月をもってサポートが終了した。",
"title": "製品とサービス"
},
{
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"tag": "p",
"text": "自社製造のタブレット端末として、Surface/Surface Proの開発・販売が行われている。Surfaceは無償アップデートによりWindows RT 8.1に、またSurface Pro・Surface 3・Surface Laptopは無償アップデートによりWindows 10 ProにそれぞれOSをアップグレードできる。",
"title": "製品とサービス"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1984年に出版部門「Microsoft Press」を設立、マイクロソフト関連製品の技術解説書を中心にコンピュータ関連書籍の出版を行っている。日本では日本進出の経緯からアスキー(現:角川アスキー総合研究所)が出版業務を担ってきたが、1998年に設立された日経BPの子会社「日経BPソフトプレス」が同年7月から出版業務を担当、現在は大半の出版物を日経BPソフトプレスが、PCゲーム関連書籍などごく一部を「KADOKAWA Game Linkage」が発行している。",
"title": "製品とサービス"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "マイクロソフトは、UNIX系システムのバイナリフォーマットとして用いられてきたCOFFを改良し、Portable Executable (PE)フォーマットを策定した。特定のハードウェアやOSに依存しない点が最大の特徴である。.NET FrameworkアプリケーションやUEFIアプリケーションの実行ファイルのフォーマットとしても用いられているほか、サードパーティー製OSのカーネルやブートローダの実行ファイルとしても用いられている。",
"title": "マイクロソフトとOS"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "マイクロソフトは1980年からAT&Tのライセンスを受けて世界初の商用UNIXベンダーとしてXENIXを開発・販売していた。しかし、1987年にXENIXの所有権をSCOに移した。2003年から2010年まで続いたSCOの対Linux訴訟ではSCOに資金を提供していたが、その訴訟においてSCOは敗訴している。",
"title": "マイクロソフトとOS"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また、1999年以降Windows NT系向けにServices for UNIX(SFU)を提供している。コミュニティによってこれに対応したDebian Interix PortやGentoo/Interixなどが開発されたが、多くのパッケージは対応されていない。",
"title": "マイクロソフトとOS"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2001年にシェアードソースを開始したが、これはオープンソースと呼べる代物ではなかった。2006年にCodePlex開始、2007年にMs-PL/Ms-RLがOSIのオープンソースライセンス認定を受けたことで、マイクロソフトのオープンソース戦略が始まった。現在までにTerrariumなどがオープンソース化されている。2009年にはCodePlex Foundationを設立した。",
"title": "マイクロソフトとOS"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2008年、マイクロソフトはHyper-VのLinux統合コンポーネントを開発したが、2009年にカーネルモジュールのGPL違反が指摘されるとソースコードを公開し、Linuxカーネルのメインラインへの統合のためにLinux系のメーリングリストでの開発に参加することとなった。また、2009年にWindows 7 USB/DVD Download ToolのGPL違反が指摘されると、ソースコードをGPLで公開した。",
"title": "マイクロソフトとOS"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "マイクロソフトはハロウィーン文書やGET THE FACTSキャンペーンなどのFUD戦略を行っている。",
"title": "マイクロソフトとOS"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2005年にマイクロソフトがSecurity Innovationへ依頼した調査結果がノベルに反論されたあとに、2006年からノベルと提携している。なお、ノベルはUNIXの知的財産を持ってはいたが、その当時はまだSCOとの裁判中であった。",
"title": "マイクロソフトとOS"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2007年にマイクロソフトはオープンソースにおける特許問題を提起し、2009年にはLinuxカーネルを使用することに特許侵害があるとしてTomTomを訴訟した。また、複数の会社に「Linuxを使用することを認める」といった内容の契約を、訴訟を背景に結ばせている。",
"title": "マイクロソフトとOS"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2010年11月、アタッチメイトがノベルを買収する際に、マイクロソフトが2010年11月4日にデラウェア州で設立した有限会社CPTNホールディングスはノベルの882個の特許を4億5,000万ドルで購入した。",
"title": "マイクロソフトとOS"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "なお近年では「Microsoft Loves Linux」(マイクロソフトはLinuxが大好き)といった投稿を公式で行うなど、Linuxに対して融和の姿勢を見せており、事実クラウドプラットフォームであるMicrosoft AzureではOSとしてLinuxも利用できるようになっている。また、The Linux Foundationではプラチナメンバーとして参加するとともに、ソースコードの提供も行うなど、Linuxをはじめとしたオープンソースコミュニティへの貢献も積極的に行っている。",
"title": "マイクロソフトとOS"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2018年4月には、IoT向けのLinuxディストリビューションであるAzure Sphereが発表された。",
"title": "マイクロソフトとOS"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "マイクロソフトはエンタープライズ市場とコンシューマ市場の両方に参入しており、各分野のITベンダーと競合している。",
"title": "競合・提携"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "事実上の標準が一企業に集中することは、ユーザーや社会全体が不利益を被る面も存在する。マイクロソフトは米国で反トラスト法違反として司法省に提訴された。一審では、OS会社とアプリケーション会社に2分割する是正命令が出たが、ワシントン連邦高等裁判所は一審を破棄して地方裁判所に差し戻した。現在では実質マイクロソフトの勝利の形となっている。",
"title": "運動・議論・問題"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2004年3月、欧州連合の欧州委員会はマイクロソフトがWindowsの支配的地位を乱用し、競争法に違反しているとして約4億9,720万ユーロ(当時相場約795億円)の制裁金を科す決定をした。マイクロソフトは当初これを拒否していたが、2007年10月にこれを受け入れた(マイクロソフトの欧州連合における競争法違反事件も参照のこと)。しかし、2008年2月27日、欧州委員会はその後もマイクロソフト側が十分なWindowsの基礎情報を提供していないと判断し、8億9,900万ユーロ(当時相場約1,440億円)の新たな制裁金を科すと発表した。これは発表時において欧州委員会が1社に科した制裁金の最高額である。欧州委員競争政策担当のネリー・クルスは発表に際して「(命令に)従うというだけでは十分ではない。行動で示す必要がある。欧州委員会の要求はまだ満たされていない」と発言した。毎年、ビル・ゲイツが世界長者番付(Forbes誌)に名を連ねる一方で、マイクロソフトが全世界的にオペレーティングシステムの市場を独占し、また世界中のパソコンの新規購入費用にWindowsのライセンス費用が大抵含まれている様から、「マイクロソフト税」という揶揄する言葉が生まれた。2002年に公表された決算報告書から、Windowsの利益率が約85%であることなどが判明したところ、「ほとんど紙幣を刷っているようなものである」などと一部のメディアに揶揄される事態に至った。",
"title": "運動・議論・問題"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1999年には、Windows Refund CenterというWebサイトを中心に、LinuxやFreeBSDなどのユーザーが、「PCにプリインストールされているWindowsは使わない」として、PCの価格からWindowsのライセンス料の返金を求める運動を起きている。また、フリーソフトウェア財団(FSF)は2009年10月22日に発表されたWindows 7については、アンチWindows 7キャンペーンを展開した。FSFは、Windows Vista発表時にも同様のキャンペーンを起こしている。",
"title": "運動・議論・問題"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "マイクロソフトは競合他社のAmazonやYahoo!などと連携し、Googleブックスによる電子書籍市場の独占化を懸念して反対運動を起こしている。事の発端は2005年、アメリカ合衆国最大・最古の著作家業界団体である全米作家協会などがGoogleを相手取り、著作権侵害で集団訴訟を起こしたことに始まる。総額1億2,500万米ドルで和解することで原告団と被告の当事者間では合意していたものの、その和解案には将来的な著作物のデジタル化ライセンス許諾が含まれていたことから、反トラスト法違反が新たに指摘された。マイクロソフトらは2009年にオープンブック連盟(英語版)を組成し、この和解案に異議を唱えている。また、同和解案にはフランスやドイツ政府からも批判が寄せられ、ドイツ法務省は「被害者救済や被害拡大防止に見せかけて、著作権が有効な世界中の全書籍に対する強制執行権をGoogleに獲得させるため集団訴訟が利用されている」と、マイクロソフトらに同調する意見書を提出している。",
"title": "運動・議論・問題"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2009年6月26日には、FSFの創立者であるリチャード・ストールマンが、将来的にマイクロソフトがC#に対して特許を主張する可能性があるため、フリーのC#実装は、意識的に減らしてくべきという文章を発表した。これに対してマイクロソフトは、同社のCommunity Promiseを適用し、C#に関する特許は取得しないと発表した。",
"title": "運動・議論・問題"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "オフィススイートのフォーマットはオープンソースでODF(OpenDocument)の標準化が進められており、OpenOffice.org、StarOffice(StarSuite)、一太郎、KOfficeなど、これを採用したオフィススイート間での互換性は向上した。実際にOpenDocumentについては国内を含む各国の行政・自治体で採用の動きが強まっている。しかし、マイクロソフトがその流れに反してODFとはまったく互換性のない新規格「Open XML」を定義し、Office2007で標準フォーマットとして採用した。マイクロソフトはOpen XMLの優位性を主張しているが、GNU関連の団体は時代の流れと逆行するとしてマイクロソフトの行為をシェアの暴力と批判し、論争を呼んでいる。",
"title": "運動・議論・問題"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2016年、マイクロソフトはWindows 10への無償アップグレードを2016年7月29日までとしていたが、アップグレードの通知メッセージが分かりにくく、誤ったまま半ば強制的にOSがアップグレードされてしまう事象が多発し、消費者団体からのクレームを受けた。また、国会でも質問主意書が発行されるなど、問題は大きく広がりを見せた。",
"title": "運動・議論・問題"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2011年12月には、マイクロソフトディベロップメント社において、いわゆる「パワハラ」により解雇されたとして、裁判が発生している。",
"title": "運動・議論・問題"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2013年11月、当時のCEOであったスティーブ・バルマーは、GEを模倣してトップダウンで導入したものの、社内外を問わず酷評されていた人事評価システム「スタックランキング」を廃止。",
"title": "運動・議論・問題"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2019年4月、複数の女性がセクハラや差別を受けた経験を一連の電子メールで明かしたことを受けて、Microsoftの従業員グループが自社に抗議する騒動が起きている。",
"title": "運動・議論・問題"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2019年4月12日、「Outlook」一部アカウントに不正アクセス、マイクロソフトが公表。対象は「Outlook.com」や「MSN」「Hotmail」。サポート担当者用のアカウントの認証情報が盗まれ、侵入に使われたという。当初の発表を訂正し、被害に遭ったアカウントのうち6%については、侵入者がメール本文や添付ファイルも見ることができる状態だったとしている。",
"title": "運動・議論・問題"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "日本における展開"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "日本マイクロソフト株式会社(英: Microsoft Japan Co., Ltd. 略称: MSJ)は、主に営業、マーケティング、サポート、社長室および法務などを担当する会社。",
"title": "日本における展開"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "以前は「マイクロソフト株式会社」という社名で、オフィスが小田急サザンタワー(本社)、朝日生命代田橋ビル、赤坂ガーデンシティ、東京オペラシティの東京都内4か所に分散していた。これを解消するため、2011年2月1日付けで、テクノロジーセンターを除く4拠点と関連会社であるファストサーチ & トランスファ株式会社が入居している千代田区の霞が関オフィス(大同生命霞が関ビル)を統合集約し、新本社オフィスとして港区港南の品川グランドセントラルタワーに移転した。同時に、社名を日本マイクロソフト株式会社に変更した。さらに東京以外の各地にも支店が置かれている。拠点を港区港南に集約した2011年時点で、日本マイクロソフト社と調布市に存在する後述のマイクロソフトディベロップメント社を統合する予定であったが、2014年から2015年にかけて、マイクロソフトディベロップメント社に属する開発系部署と、日本マイクロソフトに属するサポート系部署がいずれも港区港南に移転し、統合の準備が続けられている。",
"title": "日本における展開"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "現在はもはや非公式な通称であるが、改名前の略称はMSKK(Microsoft Kabushiki Kaishaの略)であった。",
"title": "日本における展開"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "日本市場では日本オラクル・SAPジャパン・セールスフォースドットコム (Salesforce.com)・アマゾンウェブサービスジャパン・グーグル合同会社・日本IBM・Apple Japan・日本サムスンなどの外資系企業だけでなく、東芝・富士通・日立製作所・NEC・ソニーグループなど日系企業を含めた多くのITベンダーと競合しており、激しいシェア争いを繰り広げている。",
"title": "日本における展開"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "なお、2008年以降、「コンピュータ」の表記を長音記号つきの「コンピューター」に変更した。小中学校教科書や新聞放送などの表記に従ったものであるが、業界内部では比較的珍しく、先駆となった。",
"title": "日本における展開"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "マイクロソフトディベロップメント株式会社(英: Microsoft Development Ltd.)には、主に開発部署が所属している。日本マイクロソフト株式会社の子会社ではなく、Microsoft Corporation本社の子会社である。以前は、米Microsoft Product Development Ltd.の日本支社という位置づけだったが、2006年、会社法の改正に対応するために、日本の株式会社として改組された。",
"title": "日本における展開"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "本社は、マイクロソフト調布技術センター(東京都調布市調布ヶ丘1-18-1)に置かれていたが、2014年に開発部門が日本マイクロソフト本社と同じ品川グランドセントラルタワーに移転し、2015年になってサポート部門が同様に品川に移転した。2018年5月現在、調布技術センターの表記はマイクロソフト社のウェブサイト上に存在するが、実際には機能していない。本社所在地は、2015年4月に品川本社と同じ港区港南に変更された。",
"title": "日本における展開"
}
] | マイクロソフトは、アメリカ合衆国ワシントン州に本社を置く、ソフトウェアを開発、販売する会社である。1975年にビル・ゲイツとポール・アレンによって創業された。1985年にパソコン用OSのWindowsを開発。1990年にWindows向けのオフィスソフトとしてMicrosoft Officeを販売。1995年にウェブブラウザのInternet Explorerをリリース。2001年に家庭用ゲーム機のXboxを販売。2009年に検索エンジンのBingを設立。2010年にクラウドサービスとしてAzureを開始。2015年7月15日Microsoft Edgeを開発、そして展開。2021年11月時点での時価総額がAppleに次いで世界2位。 | {{複数の問題
| 出典の明記 = 2021年2月
| 更新 = 2021年2月
}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = マイクロソフト
| 英文社名 = Microsoft Corporation
| ロゴ = [[ファイル:Microsoft logo (2012).svg|200px|Microsoftロゴ]]
| 画像 = [[ファイル:Building92microsoft.jpg|320px]]
| 画像説明 = ワシントン州レドモンドの本社
| 種類 = [[公開会社]]
| 市場情報 = {{上場情報|NASDAQ|MSFT}}
| 略称 = MS、MSFT
| 国籍 = {{USA}}
| 本社郵便番号 = 98052-6399
| 本社所在地 = {{flag|Washington}} [[レドモンド (ワシントン州)|レドモンド]] ワンマイクロソフトウェイ
| 本社緯度度 = 47
| 本社緯度分 = 38
| 本社緯度秒 = 23
| 本社N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本社経度度 = 122
| 本社経度分 = 7
| 本社経度秒 = 42
| 本社E(東経)及びW(西経) = W
| 本社地図国コード = US
| 設立 = [[1975年]][[4月4日]]
| 業種 = 5250
| 事業内容 = [[情報技術]]の開発・販売
| 代表者 = [[サティア・ナデラ]]([[最高経営責任者|CEO]]兼[[会長]])
| 資本金 =
| 売上高 = 1,983億米ドル(2022年)
| 営業利益 = 834億米ドル(2022年)
| 純利益 = 727億米ドル(2022年)
| 総資産 = 3,648億米ドル(2022年)
| 従業員数 = 221,000名(2022年)
| 決算期 = [[6月30日]]
| 主要株主 = {{Ubl|[[スティーブ・バルマー]] 3.99%|[[ビル・ゲイツ]] 3.95%}}
| 主要子会社 = {{Ubl|マイクロソフト・キャピタル・グループLLC 100%|マイクロソフト・ライセンシングGP 99%|マイクロソフト・リージョナル・セールス・コーポレーション 100%|MOLコーポレーション 100%}}
| 関係する人物 = {{Ubl|[[ポール・アレン]]([[創業者|共同創業者]])|[[ビル・ゲイツ]]([[創業者|共同創業者]]兼[[顧問|技術担当アドバイザー]]兼前[[会長]]}}
| 外部リンク = JP:{{URL|https://www.microsoft.com/ja-jp/}}<br>US:{{URL|https://www.microsoft.com/en-us/}}
| 特記事項 = [[1975年]]に[[パートナーシップ]]として創業。1981年に設立。[[1986年]]に[[デラウェア州]]法人として再設立。[[1993年]]にワシントン州法人として現法人を再々設立。<ref group="注釈" name="notconfirmed" />
}}'''マイクロソフト'''({{Lang-en-short|Microsoft Corporation}})は、[[アメリカ合衆国]][[ワシントン州]]に本社を置く、[[ソフトウェア]]を開発、販売する会社である。[[1975年]]に[[ビル・ゲイツ]]と[[ポール・アレン]]によって創業された{{refnest|group="注釈"|name="notconfirmed"|創業日を1975年4月4日とすることがあるが、この日付を確認できる当時の文書は存在しない。ゲイツとアレンがパートナーシップ形成に関する契約書を交わしたのは、1977年2月3日のことであり、それ以前は口約束による非公式であいまいなものであった<ref>{{Cite book|和書|author=メイン&アンドリュー|title=帝王の誕生|publisher=三田出版会|date=1995|pages=137}}</ref>。
米国の法律では、パートナシップ形成にあたっては登記や当事者の契約書は必要とはされないため、口約束でも有効であり、1977年2月3日以前でもパートナーシップは存在していたと考えられる。
しかしながら、1975年7月22日にMITS社がBASICインタプリタに関して契約書を交わした際、その相手は個人であるゲイツとアレンであり、パートナーシップ事業体ではない<ref>{{Cite book|和書|title=帝王の誕生|pages=109}}</ref>。また、マイクロソフトという名前をアレンが考え出したのは1975年の夏であったとされ<ref>{{Cite book|和書|title=ぼくとビル・ゲイツとマイクロソフト|author=ポール・アレン|publisher=講談社|date=2013|pages=146}}</ref>、1975年4月4日の段階ではマイクロソフトという名称は存在しない。
当事者であるゲイツとアレンが、1975年4月4日をマイクロソフトの創業日と発言しているのは事実であるが、それらの発言は全て2005年以降のものであり、2005年より前には確認できない。また、1975年4月4日に当事者間でどのような合意があったかも語られていない。1990年代中ごろまでの資料で当事者に詳細な聞き取りを行ったものには、パートナーシップが形成された正確な日付は不明であるとされている<ref>{{Cite book|和書|title=帝王の誕生|pages=112}}</ref>。}}。[[1985年]]に[[パソコン]]用[[オペレーティングシステム|OS]]の[[Windows]]を開発。[[1990年]]にWindows向けの[[オフィススイート|オフィスソフト]]として[[Microsoft Office]]を販売。1995年に[[ウェブブラウザ]]の[[Internet Explorer]]をリリース。[[2001年]]に[[家庭用ゲーム機]]の[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]を販売。[[2009年]]に[[検索エンジン]]の[[Microsoft Bing|Bing]]を設立。2010年に[[クラウドコンピューティング|クラウドサービス]]として[[Microsoft Azure|Azure]]を開始。2015年7月15日[[Microsoft Edge]]を開発、そして展開。2021年11月時点での時価総額が[[Apple]]に次いで世界2位<ref>{{Cite web|和書|title=世界時価総額ランキング2021 ― World Stock Market Capitalization Ranking 2021|url=https://www.180.co.jp/world_etf_adr/adr/ranking.htm|website=www.180.co.jp|accessdate=2021-10-12}}</ref>。
== 歴史 ==
{{Main|マイクロソフトの歴史}}
当初は世に登場して間もない8[[ビット]]の[[マイクロプロセッサ]]を搭載したコンピュータ「[[Altair 8800|アルテア (Altair)]]」上で動く、[[BASIC]][[インタプリタ]]「[[Altair BASIC]]」の開発・販売で成功を収めた。
当初はネイティブ環境(カセットテープベースでオペレーティングシステムはなく[[ROM-BASIC]]に近い環境のもの)だったが、[[CP/M]]が標準プラットフォームとなると、CP/Mベースの[[MBASIC]]を発表する。グラフィックス機能をつけたGBASIC、16ビット用のGWBASICが登場する。なお、GWのWは16ビット(=2バイト)を意味するダブルバイト/ワードだとされている。
ついで[[IBM PC]]上の[[オペレーティングシステム]]の開発を請け負い、シアトルコンピュータプロダクツの[[86-DOS]]の権利を購入し改良、PC DOS(自社ブランドで[[MS-DOS]])を開発。IBM PCとそれら互換機の普及とともにオペレーティングシステムの需要も伸び、現在に至る地固めを確かなものとした。86-DOSの開発者[[ティム・パターソン]]はのちにマイクロソフトに引き抜かれMS-DOSの開発メインスタッフとなる。
マイクロソフトはMS-DOSを改良するほかに各機種用のBASICや[[C言語]]・[[FORTRAN]]などの[[コンパイラ]]の開発を手がける一方、[[Alto]]の見学などMS-DOS上で動作する[[GUI]]システム「[[Windows]]」の開発に注力した。
またビジネス向けの[[表計算ソフト]]や[[ワープロソフト]]などを開発し、先行する他社と「買収か潰すか、どっちか」とまで言われた熾烈な競争を繰り広げ、各方面で賛否を仰ぎながらも多方面の[[ビジネスソフト]]で[[市場占有率|シェア]]を独占するに至った。
黎明期の1970年代後半から1980年代前半には[[西和彦]]が[[ビル・ゲイツ]]と意気投合し、マイクロソフトの副社長を務めるなどした。このことはマイクロソフトの日本進出に大きく作用している。[[アスキー (企業)|アスキー]]は[[MSX]]や[[AX]]の共同展開や日本法人設立までの日本代理店(実際は子会社のアスキーマイクロソフト株式会社が担当)を務めるなど、大きな貢献をしていた。しかし[[1986年]]にマイクロソフトが100%出資の日本法人(マイクロソフト株式会社)をアスキーから[[古川享]]や[[成毛眞]]ら一部の社員が独立する形で設立したため、提携を解消した。
OSに関しては、MS-DOSの後継として、[[IBM]]と共同で[[OS/2]]の開発を行いつつも、独自に後のWindowsにつながるOSの開発も行っていた。その後IBMと袂を分かち、IBMがOS/2を、マイクロソフトがWindowsを、それぞれ開発することとなった。Windowsは当初はMS-DOS上で動くものであったが、1995年に、WindowsとMS-DOSを一体化し、GUIを改良した[[Windows 95]]を発売した。これと並行して、[[デヴィッド・カトラー]]率いる[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]の開発チームを移籍させるなどして[[Windows NT]]を開発した。
その後もWindowsの改良を進め何度もマイナーチェンジを繰り返したほか、[[インターネット]]経由や[[CD-ROM]]などで大量のモジュールを配布している。Windows NTにより[[サーバ]]市場への進出も果たした。2001年には[[Windows XP]]の発売により[[Windows 9x系|MS-DOS系のWindows]]を[[Windows NT系]]に統合した。
また[[2000年代]]に入ると、[[障害者]]の[[アクセシビリティ]]への配慮を『[[企業の社会的責任]]』だと位置づけ、各国で[[マイクロソフト支援技術ベンダプログラム]]を展開した<ref>三浦優子「マイクロソフト、Windows 7のアクセシビリティに対する説明会を実施」『[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/322828.html 【PC Watch】 マイクロソフト、Windows 7のアクセシビリティに対する説明会を実施 ]』[[Impress Watch]]、2009年10月20日。</ref>。
また、[[ゲーム機]]として[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]を[[2001年]]に発売し、[[2005年]]12月には[[Xbox 360]]、[[2013年]]11月には[[Xbox One]]、2020年11月には[[Xbox Series X/S]]を発売した。
従来とは違った分野での活躍として、[[フォーミュラ1]]への製品供給があげられる。[[マクラーレン・エレクトロニック・システムズ]]と共同で、[[エンジンコントロールユニット]]を供給している。
2011年10月17日、どんな場所でもタッチスクリーンに変えてしまう新技術「OmniTouch」を公開した。同技術はマルチタッチに対応。手のひら、腕、壁、ノート、机などをタッチスクリーンとして活用することを目指している。
2013年9月3日、[[ノキア]]とノキアの携帯電話部門を54.4億ユーロ(約7,130億円)で買収することに合意したと発表。買収手続きの完了は、2014年第一四半期の予定<ref>{{cite news|url=https://www.bloomberg.co.jp/news/123-MSJ62H6KLVR701.html|title=マイクロソフト、ノキアの携帯事業買収で合意-スマホで地歩|publisher=Bloomberg.co.jp|date=2013-09-03|accessdate=2013-09-07}}</ref>。
[[2014年]]4月25日、[[ノキア]]の[[モバイル]]事業について買収完了を発表<ref>{{Cite web|和書|title=マイクロソフトがついにNokiaの買収完了、注目ポイントは? (1/2) |url=https://ascii.jp/elem/000/000/889/889829/ |website=ASCII.jp |access-date=2023-02-19 |language=ja |author=末岡洋子}}</ref>。
2015年5月11日、[[海底ケーブル]]ネットワークへの投資について発表<ref>ITpro [https://xtech.nikkei.com/it/atcl/news/15/051201559/ Microsoft、クラウド事業強化に向けて海底ケーブルに投資] 2015/05/12</ref>。''[[:en:Hibernia Networks|Hibernia Networks]]''と共同出資・敷設を協定。
2019年4月25日、史上3社目となる時価総額1兆ドル突破を記録した<ref>{{cite news|title=マイクロソフト、時価総額1兆ドル超える 米企業で史上3社目|newspaper=日本経済新聞|date=2019-04-26|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASFL25I1L_V20C19A4000000/}}</ref>。
2021年3月31日、マイクロソフトは、HoloLens<ref>{{Cite web|和書|title=Microsoft HoloLens {{!}} ビジネスを支援する Mixed Reality テクノロジ|url=https://www.microsoft.com/ja-jp/hololens|website=www.microsoft.com|accessdate=2021-08-06|language=ja-jp}}</ref>テクノロジーをベースにした何万台もの拡張現実ヘッドセットを米軍に提供する契約を獲得したことを発表<ref>{{Cite web|和書|title=マイクロソフト、米国防総省とARヘッドセット生産契約 – DG Lab Haus|url=https://media.dglab.com/2021/04/01-afp-01-7|website=media.dglab.com|accessdate=2021-08-06}}</ref>。この契約は10年間で218億8000万ドルにもなるという。IVAS(統合視覚増強システム)準拠のARヘッドセット12万台を陸軍に納入<ref>{{Cite web|title=TechCrunch – Startup and Technology News|url=https://social.techcrunch.com/|website=TechCrunch|accessdate=2021-08-06|language=en-US}}</ref>。HoloLens2は現場将兵のニーズに合わせて機能がアップグレードされている。マイクロソフトが2018年に米軍に拡張現実テクノロジーを提供するために獲得した2年間、4億8000万ドルの契約に続く。IVASは、HoloLensの技術をベースに、クラウドサービスも活用する。
== 製品とサービス ==
=== クライアントソフトウェア ===
{{Main|マイクロソフトのソフトウェア一覧}}
=== サーバソフトウェア ===
{{Main|マイクロソフト サーバー}}
=== ハードウェア ===
[[マウス (コンピュータ)|マウス]]、[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]、[[ゲームパッド]]などの[[入力機器]]の製造も手がけている。専用パッドを必要としない、現在の光学マウスは同社の発明であり、この発明以降、それまで一般的だったボール式マウスに代わり、光学マウスが世界の主流となった。X-Y方向の入力だけが一般的だったジョイスティックにZ軸の回転を加えた新しいジョイスティックなど、それまでの常識を覆す新製品の数々を送り込んでいる。数々のエポックメイキングをこなしていた当時のハード部門は社内ベンチャーだったが、光学マウスの成功により正式な部門に格上げとなった。
[[ハードウェア]]の最初の製品は[[Apple II]]向けの[[Z-80 SoftCard|Z80 SOFTCARD]]である。これは[[MOS 6502|6502]]CPUを搭載したApple IIにZ80を搭載したカードを挿入すると[[CP/M]]ベースの[[Microsoft BASIC]]などを動かせるようにした商品で、一説ではシアトルコンピュータプロダクツのティム・パターソン(MS-DOSの設計者)が設計したという。
2000年、[[セガ]]と入れ替わる形で、ゲーム業界への参入を発表。2001年に家庭用[[テレビゲーム]]専用機・[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]を発売。アーケード向けに[[Chihiro]]と呼ばれているXboxプラットフォーム基板がある。その後、次世代製品として2005年に[[Xbox 360]]が発売された。
XboxやXbox 360の製造は、[[シンガポール]]や[[台湾]]などに本社がある[[EMS (製造業)|EMS]]企業に委託している。
携帯型音楽再生端末[[Zune]]シリーズをアメリカとカナダで販売している。また[[2010年]]には、新たに[[シャープ]]と[[スマートフォン]]『[[KIN (携帯電話)|KIN]]』シリーズを共同開発し発売した。
[[Windows Phone]]は、かつては[[Windows Mobile]]と呼ばれ、[[Pocket PC]]や[[スマートフォン]]に搭載される[[Windows CE]]の発展版である。2010年に、米国をはじめいくつかの国で[[Windows Phone]]が販売された。その後、2011年秋に行われたアップデートで多国語対応が進み、日本語版もリリースされたが、2019年12月をもってサポートが終了した<ref>{{Cite web|和書|title=Windows 10 Mobile のサポート終了: よくあるご質問|url=https://support.microsoft.com/ja-jp/windows/windows-10-mobile-%E3%81%AE%E3%82%B5%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88%E7%B5%82%E4%BA%86-%E3%82%88%E3%81%8F%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%94%E8%B3%AA%E5%95%8F-8c2dd1cf-a571-00f0-0881-bb83926d05c5|website=support.microsoft.com|accessdate=2021-10-25}}</ref>。
自社製造の[[タブレット端末]]として、[[Microsoft Surface|Surface]]/Surface Proの開発・販売が行われている。Surfaceは無償アップデートによりWindows RT 8.1に、またSurface Pro・Surface 3・Surface Laptopは無償アップデートによりWindows 10 ProにそれぞれOSをアップグレードできる。
=== 出版物 ===
[[1984年]]に出版部門「[[:en:Microsoft Press|Microsoft Press]]」を設立、マイクロソフト関連製品の技術解説書を中心にコンピュータ関連書籍の出版を行っている。[[日本]]では日本進出の経緯から[[アスキー・メディアワークス|アスキー]](現:[[角川アスキー総合研究所]])が出版業務を担ってきたが、[[1998年]]に設立された[[日経BP]]の子会社「日経BPソフトプレス」が同年7月から出版業務を担当、現在は大半の出版物を日経BPソフトプレスが、PCゲーム関連書籍などごく一部を「[[KADOKAWA Game Linkage]]」が発行している。
== マイクロソフトとOS ==
=== プラットフォーム非依存なバイナリフォーマットの策定 ===
マイクロソフトは、UNIX系システムのバイナリフォーマットとして用いられてきた[[COFF]]を改良し、[[Portable Executable (PE)]]フォーマットを策定した。特定のハードウェアやOSに依存しない点が最大の特徴である。[[.NET Framework]]アプリケーションや[[UEFI]]アプリケーションの実行ファイルのフォーマットとしても用いられているほか、[[サードパーティー]]製OSの[[カーネル]]や[[ブートローダ]]の実行ファイルとしても用いられている。
=== マイクロソフトとUNIX ===
マイクロソフトは1980年から[[AT&T]]のライセンスを受けて世界初の商用UNIXベンダーとして[[XENIX]]を開発・販売していた。しかし、1987年に[[XENIX]]の所有権を[[SCO]]に移した。2003年から2010年まで続いたSCOの対Linux訴訟ではSCOに資金を提供していた<ref>{{Cite web|title=マイクロソフト、SCOへの資金提供に関与--投資会社が認める|url=https://japan.cnet.com/article/20064825/|website=CNET Japan|date=2004-03-12|accessdate=2021-10-25|language=ja}}</ref>が、その訴訟においてSCOは敗訴している<ref>{{Cite web|title=Groklaw - Stewart Rules: Novell Wins! CASE CLOSED! - Updated|url=http://www.groklaw.net/article.php?story=20100610161411160|website=www.groklaw.net|accessdate=2021-10-25}}</ref>。
また、1999年以降Windows NT系向けに[[Services for UNIX]](SFU)を提供している。コミュニティによってこれに対応した[[Debian]] Interix Portや[[Gentoo]]/Interixなどが開発されたが、多くのパッケージは対応されていない。
=== マイクロソフトとオープンソース ===
2001年に[[シェアードソース]]を開始したが、これはオープンソースと呼べる代物ではなかった。2006年に[[CodePlex]]開始、2007年にMs-PL/Ms-RLがOSIのオープンソースライセンス認定を受けた<ref>{{Cite web|和書|title=Microsoftライセンス、OSIの認証を受けオープンソースライセンスへ|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20071017-a025/|website=TECH+|date=2007-10-17|accessdate=2021-10-25|language=ja}}</ref>ことで、マイクロソフトのオープンソース戦略が始まった。現在までにTerrariumなどがオープンソース化されている。2009年にはCodePlex Foundationを設立した<ref>{{Cite web|url=http://www.computerworld.jp/topics/osst/161749.html|title=マイクロソフト、オープンソース支援のための財団「CodePlex Foundation」を設立|publisher=Computerworld.jp|date=2009-09-11|accessdate=2023-11-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091124165529/http://www.computerworld.jp/topics/osst/161749.html|archivedate=2009-11-24}}</ref>。
2008年、マイクロソフトは[[Hyper-V]]のLinux統合コンポーネントを開発したが、2009年にカーネルモジュールのGPL違反が指摘される<ref>{{Cite web|url=http://www.computerworld.jp/topics/ms/156530.html|title=マイクロソフトが公開したLinuxコードはGPL違反――エンジニアが指摘|publisher=Computerworld.jp|date=2009-07-24|accessdate=2023-11-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090827065849/http://www.computerworld.jp/topics/ms/156530.html|archivedate=2009-08-27}}</ref>とソースコードを公開し<ref>{{Cite web|url=http://japan.internet.com/webtech/20090721/11.html|title=Microsoft、『Linux』相互運用性に向けソースコード公開|publisher=japan.internet.com|date=2009-07-21|accessdate=2023-11-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111226062648/http://japan.internet.com/webtech/20090721/11.html|archivedate=2011-12-26}}</ref>、Linuxカーネルのメインラインへの統合のためにLinux系のメーリングリストでの開発に参加することとなった。また、2009年にWindows 7 USB/DVD Download ToolのGPL違反が指摘されると、ソースコードをGPLで公開した<ref>{{Cite web|和書|title=米Microsoft、「Windows 7」のUSB/DVDダウンロードツールをGPLで公開|url=https://mag.osdn.jp/09/12/11/0844203|website=OSDN|date=2009-12-11|accessdate=2021-10-25|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190604055151/https://mag.osdn.jp/09/12/11/0844203|archivedate=2019-06-04}}</ref>。
=== マイクロソフトとLinux ===
マイクロソフトは[[ハロウィーン文書]]やGET THE FACTSキャンペーンなどの[[FUD|FUD戦略]]を行っている<ref>http://quaoar.ww7.be/ms_fud_of_the_year/569458-microsoft-attack-linux-retail-level-probably.html</ref>。
2005年にマイクロソフトがSecurity Innovationへ依頼した調査結果が[[ノベル (企業)|ノベル]]に反論された<ref>{{Cite web|和書|title=米Novell、米Microsoftの「Linuxには信頼性がない」比較調査に反論|url=https://cloud.watch.impress.co.jp/epw/cda/foreign/2005/11/22/6662.html|website=cloud.watch.impress.co.jp|accessdate=2021-10-25}}</ref>あとに、2006年からノベルと提携している<ref>{{Cite web|title=マイクロソフトとノベル、Linuxで提携--技術開発や特許で協力|url=https://japan.cnet.com/article/20300467/|website=CNET Japan|date=2006-11-03|accessdate=2021-10-25|language=ja}}</ref>。なお、ノベルはUNIXの知的財産を持ってはいたが、その当時はまだSCOとの裁判中であった。
2007年にマイクロソフトはオープンソースにおける特許問題を提起し<ref>{{Cite web|和書|title=「オープンソースの特許侵害235件」-Microsoftの公表に騒然|url=https://cloud.watch.impress.co.jp/epw/cda/infostand/2007/05/21/10303.html|website=cloud.watch.impress.co.jp|accessdate=2021-10-25}}</ref>、2009年にはLinuxカーネルを使用することに特許侵害があるとしてTomTomを訴訟した<ref>[https://japan.cnet.com/article/20390792/ マイクロソフトとTomTom、特許侵害訴訟で和解]</ref>。また、複数の会社に「Linuxを使用することを認める」といった内容の契約を、訴訟を背景に結ばせている。
2010年11月、アタッチメイトがノベルを買収する際に、マイクロソフトが2010年11月4日にデラウェア州で設立した有限会社CPTNホールディングスはノベルの882個の特許を4億5,000万ドルで購入した<ref>{{Cite web|title=Microsoft-led group to pay $450M for 882 Novell patents|url=https://www.computerworld.com/article/2514243/microsoft-led-group-to-pay--450m-for-882-novell-patents.html|website=Computerworld|date=2010-11-22|accessdate=2021-10-25|language=en|first=Chris Kanaracus and Joab|last=Jackson}}</ref>。
なお近年では「Microsoft Loves Linux」(マイクロソフトはLinuxが大好き)といった投稿を公式で行う<ref>{{Cite web|title=Microsoft Loves Linux|url=https://cloudblogs.microsoft.com/windowsserver/2015/05/06/microsoft-loves-linux/|website=Microsoft Windows Server Blog|date=2015-05-06|accessdate=2021-10-25|language=en-US}}</ref>など、Linuxに対して融和の姿勢を見せており、事実クラウドプラットフォームであるMicrosoft AzureではOSとしてLinuxも利用できるようになっている<ref>[https://azure.microsoft.com/ja-jp/overview/choose-azure-opensource/ Azure のオープン ソースのほかのオプションを見つける]</ref>。また、The Linux Foundationではプラチナメンバーとして参加するとともに<ref>{{Cite web|title=Linux Foundation Members|url=https://linuxfoundation.org/our-members-are-our-superpower-2/|website=Linux Foundation|accessdate=2021-10-25|language=en-US}}</ref>、ソースコードの提供も行うなど、Linuxをはじめとしたオープンソースコミュニティへの貢献も積極的に行っている。
2018年4月には、IoT向けのLinuxディストリビューションである[[Azure Sphere]]が発表された。
== 競合・提携 ==
マイクロソフトはエンタープライズ市場とコンシューマ市場の両方に参入しており、各分野のITベンダーと競合している。
* [[IBM]] - かつてはOSなどで争い、訴訟に発展していたが、現在はクラウド分野で協業している<ref>{{Cite web|和書|title=「MSはIBMに報復行為を行なっていた」|url=https://wired.jp/1999/05/28/「msはibmに報復行為を行なっていた」/|website=WIRED.jp|accessdate=2021-10-25|language=ja}}
</ref><ref>{{Cite web|和書|title=IBMとマイクロソフト、クラウドで提携 〜 互いの顧客企業にサービス提供 {{!}} U.S. FrontLine {{!}} フロントライン|url=http://usfl.com/news/57993|website=usfl.com|accessdate=2021-10-25}}</ref>。
* [[オラクル (企業)|Oracle]] - データベース管理システムやビジネスインテリジェンス、ERP、開発言語(Java)、クラウドサービスで競合。
* [[SAP (企業)|SAP]] - ERPやCRM、データベース管理システム、ビジネスインテリジェンスなどで競合する一方、長年協業関係にあり、2016年にはクラウド分野を含め協業範囲を拡大させている<ref>{{Cite web|和書|title=SAPジャパン公式ブログ {{!}} SAP Business Innovation Update|url=https://www.sapjp.com/blog/archives/14067|website=SAPジャパン ブログ|date=2016-05-18|accessdate=2021-10-25|language=ja}}</ref>。2017年12月にはマイクロソフトが[[SAP S/4HANA]] on Azureを社内業務に採用し、SAPが同社の複数のクラウドサービスの基盤としてAzureを採用することが発表された<ref>{{Cite news|title=MicrosoftとSAP、クラウドによるデジタル変革実現へ向けて協業|date=2017-12-01|url=https://news.sap.com/japan/2017/12/microsoftとsap、クラウドによるデジタル変革実現へ向け/|accessdate=2018-04-28|language=en-US|work=SAP Japan プレスルーム}}</ref>。
* [[Salesforce.com]] - CRMで競合。
* [[Google]] - 検索エンジンなどのオンラインサービス、ビジネス向けクラウドサービスやオフィス製品、モバイル端末およびモバイル向けOSなどで競合。
* [[Apple]] - 1997年8月に特許のクロスライセンスを結び提携。同年1億5,000万ドル分を出資し議決権のない株式を取得したが、2003年に売却している<ref>{{Cite news|title=What ever became of Microsoft's $150 million investment in Apple?|url=https://www.engadget.com/2014/05/20/what-ever-became-of-microsofts-150-million-investment-in-apple/|accessdate=2018-08-14|language=en-US|work=Engadget}}</ref>。その後もさまざまな分野で提携し、一時[[iCloud]]を提供するため[[Microsoft Azure|Azure]]を利用していた<ref>{{Cite news|title=Is Apple really using Windows Azure to power iCloud? {{!}} ZDNet|last=Foley|first=Mary Jo|url=https://www.zdnet.com/article/is-apple-really-using-windows-azure-to-power-icloud/|accessdate=2018-08-14|language=en|work=ZDNet}}</ref>ほか、2017年までBingをSiriの検索エンジンとして採用していた<ref>{{Cite news|title=Apple、Siriのウェブ検索をBingからGoogleに変更――iOS、Mac Spotlight、Safriの結果が一致 {{!}} TechCrunch Japan|last=Panzarino|first=Matthew|url=https://jp.techcrunch.com/2017/09/26/20170925apple-switches-from-bing-to-google-for-siri-web-search-results-on-ios-and-spotlight-on-mac/|accessdate=2018-08-14|language=ja|work=TechCrunch Japan}}</ref>。パソコンやオンラインサービスのほか、OSやオフィス製品でも競合している。
* [[Amazon.com|Amazon]] - パブリッククラウドサービスである[[Amazon Web Services|AWS]]と[[Microsoft Azure]]が熾烈なシェア争いを繰り広げている。
* [[ソニー|Sony]] - 家庭用ゲーム機や音楽配信など、[[エンターテインメント]]分野で競合。しかしながら2019年5月17日にはクラウドゲームや半導体、AI事業などで協業することになる<ref>[https://eggplantmagazine.com/2019/05/17/sony-and-microsoft-tied-up/ ソニーとマイクロソフトがクラウドゲームやAI分野で提携。競合同士が手を組む異例の事態]{{404|date=2023年2月}}</ref>。
== 買収企業 ==
=== Forethought.Inc ===
* Forethoughtは、マイクロソフトが最初に買収した会社である。この買収によって、マイクロソフトは[[Microsoft PowerPoint|PowerPoint]]を得た<ref name="Forethought">{{Cite web|和書|title=25周年目に明かされたPowerPointの知られざる歴史|url=https://wired.jp/2012/08/13/microsoft-powerpoint/|website=WIRED.jp|accessdate=2021-10-25|language=ja}}</ref>(PowerPointはForethoughtが開発したものである<ref name="Forethought" />)。
* この買収は今まで知られていなかったが、2012年にPowerPointの開発者であるロバート・ガスキンスが買収が成立した日である7月31日に「BBC News」で明かした<ref name="Forethought" />。
* Forethoughtはマイクロソフトの買収の申し出を一度断ったが、6か月の交渉の末、マイクロソフトが当初の額の3倍の1,400万ドルを提示して買収に応じた<ref name="Forethought" />。
=== Hotmail ===
{{See also|Hotmail}}
* 1997年末にマイクロソフトがHotmail社を買収し<ref name="Watch">{{Cite web|和書|date=1998-01-05 |url=https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/980105/hotmail.htm |title=MicrosoftがHotmailを買収 世界中のどこからでもメールを |publisher=INTERNET Watch |accessdate=2020-08-24}}</ref>、サービス名称を「HoTMaiL」から「Hotmail」という綴りに変更した。
* この買収と併せて、マイクロソフトは各国においてプロバイダ事業(MSN)も展開し、msn.comのドメイン名でWebメールを提供していたが、これも仕組みはHotmailそのものである。1999年5月6日、MSN Japanのリニューアルに伴い、MSN Hotmailの名前でページ上からも利用可能となった。
=== Skype ===
{{See also|Skype}}
* 2011年10月13日(現地時間)にマイクロソフトによる買収が完了し、Microsoftの新たな部門「Skype Division of Microsoft」となった<ref name="Skype">{{Cite web|和書|title=Microsoft、Skypeの買収を完了|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1110/17/news021.html|website=ITmedia NEWS|accessdate=2021-10-25|language=ja}}</ref>。
* 同年5月10日に、Skypeを85億ドルで買収するとマイクロソフトが発表した<ref name="Skype" />。
* この買収は、米連邦政府当局が6月に、欧州連合が10月7日に承認した<ref name="Skype" />。
* Skypeのトニー・ベイツCEOが同部門社長に就任<ref name="Skype" />。
=== Nokia ===
{{See also|ノキア}}
* 2013年9月2日(現地時間)に、Nokiaの携帯端末事業を買収すると発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM0301M_T00C13A9000000/ |title=マイクロソフト、ノキアの携帯事業買収 14年初めにも: 日本経済新聞 |accessdate=2022-1-20 |publisher=[[日本経済新聞]]}}</ref>。
* Microsoftは現金37億9,000万ユーロでNokiaの全社売上高のおよそ半分を占める携帯端末事業を買収するほか、Nokiaに特許使用料として16億5,000万ユーロを支払う。また、MicrosoftはNokiaから約3万2,000人の従業員を受け入れる。
* Nokiaのスマートフォンブランド「[[Microsoft Lumia|Lumia]]」は残す。
=== Mojang ===
{{Main|Mojang Studios}}
* 2014年9月15日(現地時間)に世界で1,700万本を販売する人気ゲーム「[[Minecraft]]」開発元、Mojangを25億ドル(約2,600億円)で買収したと発表<ref>{{Cite web|和書|url= https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/666780.html|title= 米Microsoft、「Minecraft」のMojangを25億ドルで買収 - GAME Watch|publisher= [[Impress Watch]] |accessdate=2022-01-19}}</ref>。
=== LinkedIn ===
{{Main|LinkedIn}}
* 2016年12月 マイクロソフトによって2011年のSkype買収に支払った85億ドルを大きく上回る262億ドルで買収された。<ref>{{Cite web|和書|title=Microsoftが2.8兆円もかけて「LinkedIn」を買収した理由 |url=https://www.itmedia.co.jp/pcuser/articles/1606/17/news068.html |website=ITmedia PC USER |access-date=2023-02-26 |language=ja}}</ref>
===ゼニマックス・メディア ===
{{Main|ゼニマックス・メディア}}
* 2020年9月21日(現地時間)に、[[The Elder Scrolls]]シリーズや[[Fallout シリーズ]]の開発元として知られる[[ベセスダ・ソフトワークス]]の親会社である[[ゼニマックス・メディア]]を75億ドルで買収したと発表<ref>{{Cite web|和書|date=2020-09-21 |url=https://www.gamespark.jp/article/2020/09/21/102343.html |title=マイクロソフトがベセスダ・ソフトワークスの親会社ZeniMax Mediaを買収…金額は約7,843億円 |publisher=Game*Spark |accessdate=2020-09-21}}</ref>。買収後もPlayStation 5独占タイトルの「Deathloop」と「GhostWire: Tokyo」はXboxでは販売せずにPlayStation 5独占を継続する予定<ref>{{Cite web|和書|date=2020-09-23|url=https://saiganak.com/ja/news/microsoft-to-buy-bethesda/ |title=Xbox Game Passが強化されるか!?MicrosoftがBethesdaの親会社を75億ドルで買収!「DEATHLOOP」と「GhostWire: Tokyo」はPS5独占を継続|publisher=Saiga NAK|accessdate=2021-03-10}}</ref>。
* 2021年3月9日(現地時間)に、ゼニマックス・メディアの買収が正式に完了したと発表<ref>{{Cite web|和書|date=2021-03-10|url=https://saiganak.com/ja/news/microsoft-to-buy-bethesda-complete/ |title=MicrosoftがBethesda Softworksの親会社ZeniMax Mediaの買収を正式に完了|publisher=Saiga NAK |accessdate=2021-03-10}}</ref>。
=== Clipchamp ===
{{Main|Clipchamp}}
* 2021年9月7日、[[Clipchamp]]社はマイクロソフトによって買収された<ref name="zdnet20210908">{{Cite web|和書|url=https://japan.zdnet.com/article/35176353/ |title=マイクロソフト、動画編集プラットフォームClipchampの買収を発表 |work=ZDNet Japan |publisher=朝日インタラクティブ |date=2021-09-08 |accessdate=2022-09-24}}</ref>。同年11月2日に開催された[[マイクロソフト・イグナイト]]にて、Clipchampを発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1364904.html |title=Microsoft、無償で始められるオンライン動画編集ツール「Clipchamp」を発表 |work=窓の杜 |publisher=インプレス |date=2021-11-09 |accessdate=2022-09-24}}</ref>。その後、[[Microsoft Windows 11のバージョン履歴#バージョン 22H2(2022 Update)|Windows 11 2022 Update(バージョン22H2)]]にて標準搭載アプリとしてClipchampが追加された。<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/topic/feature/1441763.html |title=【特集】ついに出た!Windows 11「22H2」の変更点まとめ。どこが変わって何が新しくなったのか? |access-date=2023-03-20 |publisher=[[インプレス]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20220924122115/https://pc.watch.impress.co.jp/docs/topic/feature/1441763.html |archive-date=2022-09-24 |work=PC Watch}}</ref>
=== アクティビジョン・ブリザード ===
{{Main|アクティビジョン・ブリザード}}
* 2022年1月18日(現地時間)に、[[コール オブ デューティシリーズ]]や[[クラッシュ・バンディクーシリーズ]]などの開発元として知られる[[アクティビジョン]]、[[ディアブロ (ゲーム)|ディアブロシリーズ]]や[[オーバーウォッチ|オーバーウォッチシリーズ]]などの開発元として知られる[[ブリザード・エンターテイメント]]の親会社である[[アクティビジョン・ブリザード]]を687億ドル(当時の為替では約7.87兆円)で買収すると発表した<ref>{{Cite web|和書|date=2021-01-18 |url=https://saiganak.com/ja/news/microsoft-acquire-activisionblizzard/ |title=【速報】Microsoftが世界トップクラスのゲーム会社「Activision Blizzard」の買収を発表 |publisher=[[Saiga NAK]] |accessdate=2021-01-18}}</ref>。
* 2023年10月13日(現地時間)に、アクティビジョン・ブリザードの買収が正式に完了したと発表<ref>{{Cite web|和書|date=2023-10-13|url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2023-10-13/S2GWJ7T0AFB401 |title=マイクロソフト、ゲーム大手アクティビジョン買収完了-10兆円超|publisher=Bloomberg |accessdate=2023-10-13}}</ref>。
== 運動・議論・問題 ==
=== 競争環境 ===
; 司法・行政からの指摘
{{See also|3E戦略|Microsoft Windows#マイクロソフトによる独占の問題}}
[[事実上の標準]]が一企業に集中することは、ユーザーや社会全体が不利益を被る面も存在する。マイクロソフトは米国で[[反トラスト法]]違反として[[アメリカ合衆国司法省|司法省]]に提訴された。[[一審]]では、[[オペレーティングシステム|OS]]会社と[[アプリケーション]]会社に2分割する是正命令が出たが、ワシントン連邦高等裁判所は一審を破棄して[[地方裁判所]]に差し戻した。現在では実質マイクロソフトの勝利の形となっている{{要出典|date=2019年3月}}。
[[2004年]]3月、[[欧州連合]]の[[欧州委員会]]はマイクロソフトがWindowsの支配的地位を乱用し、[[欧州連合競争法|競争法]]に違反しているとして約4億9,720万[[ユーロ]](当時相場約795億[[円 (通貨)|円]])の[[制裁金]]を科す決定をした。マイクロソフトは当初これを拒否していたが、[[2007年]]10月にこれを受け入れた([[マイクロソフトの欧州連合における競争法違反事件]]も参照のこと)。しかし、[[2008年]]2月27日、欧州委員会はその後もマイクロソフト側が十分なWindowsの基礎情報を提供していないと判断し、8億9,900万ユーロ(当時相場約1,440億円)の新たな制裁金を科すと発表した。これは発表時において欧州委員会が1社に科した制裁金の最高額である。欧州委員競争政策担当のネリー・クルスは発表に際して「(命令に)従うというだけでは十分ではない。行動で示す必要がある。欧州委員会の要求はまだ満たされていない」と発言した<ref>{{Cite news |url=https://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20080227-OYT1T00530.htm |title=欧州委、マイクロソフトに過去最高の新たな制裁金 |newspaper=YOMIURI ONLINE |publisher=読売新聞社 |date=2008-02-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080301164437/http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20080227-OYT1T00530.htm |archivedate=2008年3月1日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。毎年、[[ビル・ゲイツ]]が[[世界長者番付]]([[フォーブス (雑誌)|Forbes誌]])に名を連ねる一方で、マイクロソフトが全世界的にオペレーティングシステムの市場を独占し、また世界中のパソコンの新規購入費用にWindowsの[[ライセンス]]費用が大抵含まれている様から、「マイクロソフト税」という揶揄する言葉が生まれた<ref>{{Cite web |author=Stephen Shankland |url=http://www.news.com/2100-1040-227707.html |title=Makers of cheap machines flock to free Be |publisher=CNET News |date=1999-06-25 |accessdate=2011-10-16 }}</ref>。[[2002年]]に公表された決算報告書から、Windowsの利益率が約85%であることなどが判明したところ、「ほとんど紙幣を刷っているようなものである」などと一部のメディアに揶揄される事態に至った<ref>{{Cite web|和書|title=本当に許されるのか,WindowsとOfficeの驚異的な利益率 |url=https://xtech.nikkei.com/it/members/ITPro/USIT/20021124/1/ |website=日経クロステック(xTECH) |accessdate=2021-10-25 |language=ja |author=小林雅一}}</ref>。
; アンチWindows運動
1999年には、'''Windows Refund Center'''というWebサイトを中心<ref>{{Cite web|和書|author=Impress AKIBA Hotline|date=1999-01-30|url=https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/hotline/990130/news.html|title=Weekly News & Update|language=日本語 |accessdate=2009年12月30日 }} ページの一番下</ref>に、LinuxやFreeBSDなどのユーザーが、「PCにプリインストールされているWindowsは使わない」として、PCの価格からWindowsのライセンス料の返金を求める運動を起きている<ref>{{Cite web|和書|author=小槌 健太郎 |date=1999-02-02 |url=https://www.nikkeibp.co.jp/archives/049/49887.html |title=Windowsの返金求める運動始まる--Linuxなどのユーザーが2月半ばに一斉行動も |language=日本語 |accessdate=2009年12月30日 |archive-url=https://archive.is/20130501013140/http://www.nikkeibp.co.jp/archives/049/49887.html |archive-date=2013-05-01 |website=nikkei BPnet}}</ref>。また、[[フリーソフトウェア財団]](FSF)は2009年10月22日に発表された[[Windows 7]]については、アンチWindows 7キャンペーンを展開した<ref>{{Cite web|和書|author=ITmedia|date=2009-08-27|url=https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0908/27/news021.html|title=Windows 7を捨てて自由を:FSF、アンチWindows 7キャンペーンをスタート|language=日本語 |accessdate=2009年12月30日 }}</ref>。FSFは、[[Windows Vista]]発表時にも同様のキャンペーンを起こしている<ref>{{Cite web|和書|author=ITmedia|date=2006-12-19|url=https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0612/19/news013.html|title=FSF、アンチVistaサイト「BadVista.org」を立ち上げ|language=日本語 |accessdate=2009年12月30日 }}</ref>。
; 反Google運動
{{main|全米作家協会他対Google裁判}}
マイクロソフトは競合他社の[[Amazon.com|Amazon]]や[[Yahoo!]]などと連携し、[[Googleブックス]]による電子書籍市場の独占化を懸念して反対運動を起こしている。事の発端は2005年、アメリカ合衆国最大・最古の著作家業界団体である[[全米作家協会]]などがGoogleを相手取り、[[著作権侵害]]で[[集団訴訟]]を起こしたことに始まる。総額1億2,500万米ドルで和解することで原告団と被告の当事者間では合意していたものの、その和解案には将来的な著作物のデジタル化ライセンス許諾が含まれていたことから、反トラスト法違反が新たに指摘された。マイクロソフトらは2009年に{{仮リンク|オープンブック連盟|en|Open Book Alliance}}を組成し、この和解案に異議を唱えている<ref name="Diamond-OpenBookAlliance">{{Cite web|和書|title=われわれはなぜグーグル書籍検索和解案に反対するのか?{{~}}MS・ヤフー・アマゾン連合の影の立役者に聞く |url=https://diamond.jp/articles/-/1850 |author=瀧口範子 |publisher=ダイヤモンド社 |date=2009-10-16 |accessdate=2019-03-08}}</ref>。また、同和解案にはフランスやドイツ政府からも批判が寄せられ、ドイツ法務省は「被害者救済や被害拡大防止に見せかけて、著作権が有効な世界中の全書籍に対する強制執行権をGoogleに獲得させるため集団訴訟が利用されている」と、マイクロソフトらに同調する意見書を提出している<ref name="Akashi">{{Cite book |author=明石昇二郎 |title=グーグルに異議あり! |publisher=集英社 |date=2010-04 |ISBN=978-4087205374}}</ref>。
=== 技術・製品戦略 ===
2009年6月26日<ref name="CS">{{Cite web|和書|author=ITmedia|date=2009-07-08|url=https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0907/08/news040.html|title=Microsoft、C#とCLIに「Community Promise」を適用|language=日本語 |accessdate=2009年12月30日 }}</ref>には、FSFの創立者であるリチャード・ストールマンが、将来的にマイクロソフトが[[C Sharp|<nowiki>C#</nowiki>]]に対して特許を主張する可能性があるため、フリーの[[C Sharp|<nowiki>C#</nowiki>]]実装は、意識的に減らしてくべきという文章を発表した<ref>{{Cite web|和書|author=ITmedia|date=2009-06-30|url=https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0906/30/news046.html|title=リチャード・ストールマン、「MonoやC#への依存を減らそう」と呼びかけ|language=日本語 |accessdate=2009年12月30日 }}</ref>。これに対してマイクロソフトは、同社の'''[[Microsoft Open Specification Promise#Microsoft Community Promise|Community Promise]]'''を適用し、<nowiki>C#</nowiki>に関する特許は取得しないと発表した<ref name=CS />。
オフィススイートのフォーマットはオープンソースでODF([[OpenDocument]])の標準化が進められており、[[OpenOffice.org]]、StarOffice([[StarSuite]])、[[一太郎]]、[[Calligra Suite|KOffice]]など、これを採用したオフィススイート間での互換性は向上した。実際にOpenDocumentについては国内を含む各国の行政・自治体で採用の動きが強まっている。しかし、マイクロソフトがその流れに反してODFとはまったく互換性のない新規格「[[Office Open XML|Open XML]]」を定義し、Office2007で標準フォーマットとして採用した。マイクロソフトはOpen XMLの優位性を主張しているが、[[GNU]]関連の団体は時代の流れと逆行するとしてマイクロソフトの行為をシェアの暴力と批判し、論争を呼んでいる<ref>[https://www.fsf.org/campaigns/opendocument/ Support OpenDocument] 「What's wrong with Office Open XML?」の項 (Free Software Foundation)</ref>。
=== 顧客対応 ===
2016年、マイクロソフトはWindows 10への無償アップグレードを2016年7月29日までとしていたが、アップグレードの通知メッセージが分かりにくく、誤ったまま半ば強制的にOSがアップグレードされてしまう事象が多発し、消費者団体からのクレームを受けた。また、国会でも質問主意書が発行されるなど、問題は大きく広がりを見せた<ref>{{Cite web|和書|title=Windows 10にアップグレードしてトラブルが続出、消費者団体がMicrosoftに補償を求める事態に|url=https://gigazine.net/news/20160927-windows-10-upgrader-unhappy/|website=GIGAZINE|accessdate=2021-10-25|language=ja}}
</ref><ref>{{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20180712025414/https://www.yomiuri.co.jp/science/goshinjyutsu/20160610-OYT8T50059.html|date=2018年7月23日|title=Win10強制アップデート問題…マイクロソフトは「改善予定なし」 : 科学 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)}}</ref>。
=== 社内マネジメント ===
2011年12月には、マイクロソフトディベロップメント社において、いわゆる「[[パワーハラスメント|パワハラ]]」により解雇されたとして、[[裁判]]が発生している<ref>{{Cite web|和書|title=マイクロソフトディベロップメント「パワハラ解雇」訴訟 日本HP事件判例が示す被害妄想系社員への正しい対応|MyNewsJapan|url=http://www.mynewsjapan.com/reports/1617/|website=MyNewsJapan|accessdate=2021-10-25}}</ref>。
2013年11月、当時のCEOであった[[スティーブ・バルマー]]は、[[ゼネラルエレクトリック|GE]]を模倣してトップダウンで導入したものの、社内外を問わず酷評されていた<ref>{{Cite web|title=Why Stack Ranking Worked Better at GE Than Microsoft|url=https://www.forbes.com/sites/petercohan/2012/07/13/why-stack-ranking-worked-better-at-ge-than-microsoft/|website=Forbes|accessdate=2021-10-25|language=en|first=Peter|last=Cohan}}</ref><ref>{{Cite web|title=Microsoft's loyalty to Windows and Office blamed for a 'lost' decade, says Vanity Fair|url=https://www.theverge.com/2012/7/3/3134719/microsoft-windows-office-loyalty-lost-decade|website=The Verge|date=2012-07-03|accessdate=2021-10-25|language=en|first=Tom|last=Warren}}</ref>人事評価システム「[[スタックランキング]]」を廃止<ref>{{Cite web|和書|title=Microsoftが放棄したスタックランキングシステムでYahoo!が600人をレイオフ|url=https://www.infoq.com/jp/news/2013/11/stack-ranking-microsoft-yahoo/|website=InfoQ|accessdate=2021-10-25|language=ja}}</ref><ref>[http://hrogserver.net/201311151349.html 米マイクロソフト社 スタック・ランキング制度を廃止(アメリカ)]</ref>。
=== セクハラ/差別問題 ===
2019年4月、複数の女性が[[セクシャルハラスメント|セクハラ]]や差別を受けた経験を一連の電子メールで明かしたことを受けて、Microsoftの従業員グループが自社に抗議する騒動が起きている<ref>{{Cite web|和書|url=https://japan.zdnet.com/article/35135805/ |title=マイクロソフトCEO、差別やハラスメントの調査方法を改善へ |accessdate=2023-02-19 |publisher= |website=ZDNET Japan |date=2019-04-16}}</ref>。
=== 不正アクセス問題 ===
2019年4月12日、「Outlook」一部アカウントに不正アクセス、マイクロソフトが公表<ref>{{Cite web|和書|url=https://japan.zdnet.com/article/35135734/ |title=「Outlook」一部アカウントに不正アクセス、マイクロソフトが公表 |accessdate=2023-02-19 |publisher= |website=ZDNET Japan |date=2019-04-15}}</ref>。対象は「Outlook.com」や「MSN」「Hotmail」。サポート担当者用のアカウントの認証情報が盗まれ、侵入に使われたという。当初の発表を訂正し、被害に遭ったアカウントのうち6%については、侵入者がメール本文や添付ファイルも見ることができる状態だったとしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://wired.jp/2019/04/18/microsoft-email-hack-outlook-hotmail-customer-support/ |title=マイクロソフトのメールサーヴィスへの不正アクセスは、サポート部門に潜むリスクを浮き彫りにした |accessdate=2023-02-19 |website=WIRED.jp |date=2019-04-18}}</ref>。
== 日本における展開 ==
{{Anchors|日本におけるマイクロソフト}}{{Anchors|日本法人}}
=== 日本マイクロソフト ===
{{基礎情報 会社
| 社名 = 日本マイクロソフト株式会社
| 英文社名 = Microsoft Japan Co., Ltd.
| ロゴ = [[ファイル:Microsoft logo (2012).svg|225px|Microsoftロゴ]]
| 画像 = [[ファイル:Shinagawa Grand Central Tower 2014.JPG|250px|日本マイクロソフト本社]]
| 画像説明 = 日本マイクロソフト本社が入居している[[品川グランドセントラルタワー]]
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 略称 = 日本MS、MSKK、MSJP
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 108-0075
| 本社所在地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[港南 (東京都港区)|港南]]二丁目16番3号 品川グランドセントラルタワー
| 設立 = [[1986年]](昭和61年)[[2月17日]]
| 業種 = 5250
| 法人番号 = 2010401092245
| 事業内容 = ソフトウェアおよびクラウドサービス、デバイスの営業・マーケティング
| 代表者 = [[津坂美樹]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://news.microsoft.com/ja-jp/2023/02/01/230201-microsoft-japan-announces-new-management-structure/ |title= 日本マイクロソフトの新経営体制を発表 |publisher= Microsoft |date=1 Feb 2023 |accessdate=2023-03-02}}</ref>(代表取締役[[社長]])
| 資本金 = 4億9950万円
|売上高 = 1兆0223億円<br>(2023年6月期)<ref name="fy">[https://catr.jp/settlements/19386/332471 日本マイクロソフト株式会社 第38期決算公告]</ref>
|営業利益 = 465億円<br>(2023年6月期)<ref name="fy" />
|経常利益 = 458億円<br>(2023年6月期)<ref name="fy" />
|純利益 = 332億円<br>(2023年6月期)<ref name="fy" />
|純資産 = 935億円<br>(2023年6月期)<ref name="fy" />
|総資産 = 7832億円<br>(2023年6月期)<ref name="fy" />
| 従業員数 = 2,752名(2021年7月1日現在)
| 決算期 = [[6月30日]]
| 関係する人物 = {{Plainlist|*[[古川享]](初代社長)
*[[成毛眞]](元社長)
*[[阿多親市]](元社長)
*[[マイケル・ローディング]](元社長)
*[[ダレン・ヒューストン]](元社長)
*[[樋口泰行]](元社長)
*[[平野拓也]](元社長)
*[[堂山昌司]](元副社長)
}}
| 外部リンク = {{URL|https://news.microsoft.com/ja-jp/cp/outline/}}
| 特記事項 = 2011年2月1日に現商号へ商号変更。
}}
'''日本マイクロソフト株式会社'''({{Lang-en-short|Microsoft Japan Co., Ltd.}} 略称: '''MSJ''')は、主に[[営業]]、[[マーケティング]]、サポート、社長室および[[法務]]などを担当する会社。
[[File:Microsoft Japan HQ main entrance 20190406.jpg|thumb|日本マイクロソフト本社]]
以前は「マイクロソフト株式会社」という社名で、オフィスが[[小田急サザンタワー]](本社)、[[朝日生命]][[代田橋駅|代田橋]]ビル、赤坂ガーデンシティ、[[東京オペラシティ]]の東京都内4か所に分散していた。これを解消するため、2011年2月1日付けで、テクノロジーセンターを除く4拠点と関連会社である[[ファストサーチ & トランスファ|ファストサーチ & トランスファ株式会社]]が入居している千代田区の[[霞が関]]オフィス([[大同生命霞が関ビル]])を統合集約し、新本社オフィスとして港区港南の[[品川グランドセントラルタワー]]に移転した<ref>{{Webarchive|url=https://archive.is/20120909061826/http://www.microsoft.com/japan/presspass/detail.aspx?newsid=3828|date=2012年9月9日|title=東京都内のオフィス統合と本社オフィス移転について}}</ref>。同時に、社名を日本マイクロソフト株式会社に変更した<ref>{{Webarchive|url=https://archive.is/20130427074938/http://www.microsoft.com/japan/presspass/detail.aspx?newsid=3869|date=2013年4月27日|title=2011 年 2 月 1 日付で、社名を「日本マイクロソフト株式会社」に変更}}</ref>。さらに東京以外の各地にも支店が置かれている。拠点を港区港南に集約した2011年時点で、日本マイクロソフト社と調布市に存在する後述のマイクロソフトディベロップメント社を統合する予定であったが、2014年から2015年にかけて、マイクロソフトディベロップメント社に属する開発系部署と、日本マイクロソフトに属するサポート系部署がいずれも港区港南に移転し、統合の準備が続けられている。
現在はもはや非公式な通称であるが、改名前の略称はMSKK(Microsoft [[株式会社 (日本)|Kabushiki Kaisha]]の略)であった。
日本市場では[[日本オラクル]]・[[SAPジャパン]]・[[セールスフォース・ドットコム|セールスフォースドットコム (Salesforce.com)]]・[[Amazon Web Services|アマゾンウェブサービスジャパン]]・[[Google#日本法人|グーグル合同会社]]・[[日本アイ・ビー・エム|日本IBM]]・[[Apple Japan]]・[[日本サムスン]]などの外資系企業だけでなく、[[東芝]]・[[富士通]]・[[日立製作所]]・[[日本電気|NEC]]・[[ソニーグループ]]など日系企業を含めた多くのITベンダーと競合しており、激しいシェア争いを繰り広げている。
なお、2008年以降、「コンピュータ」の表記を長音記号つきの「コンピューター」に変更した。小中学校教科書や新聞放送などの表記に従ったものであるが、業界内部では比較的珍しく、先駆となった。
{| class="wikitable" style="text-align:left"
|-
! 事業所名!! 所在地
|-
| 本社|| [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[港南 (東京都港区)|港南]]二丁目16番3号 品川グランドセントラルタワー
|-
| [[大手町 (千代田区)|大手町]]テクノロジーセンター|| 東京都[[千代田区]]大手町 1-1-3 [[大手センタービル]] 1階および13階
|-
|-
|}
{{Clear}}
=== マイクロソフトディベロップメント ===
{{基礎情報 会社
| 社名 = マイクロソフトディベロップメント株式会社
| 英文社名 = Microsoft Development Ltd.
| ロゴ = [[ファイル:Microsoft logo (2012).svg|225px|Microsoftロゴ]]
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 108-0075
| 本社所在地 = 東京都港区港南二丁目16番3号 品川グランドセントラルタワー
| 設立 = [[2005年]](平成17年)[[11月16日]]
| 業種 = 5250
| 法人番号 = 2012401020961
| 事業内容 = コンピュータソフトウェアおよび関連製品の企画、開発
| 代表者 = 榊原 彰(代表取締役社長)
| 資本金 = 1000万円
| 純利益 = 1億1200万円(2021年6月期)<ref name="fy2">[https://catr.jp/settlements/55b08/232179 マイクロソフトディベロップメント株式会社 第16期決算公告]</ref>
| 総資産 = 8億9300万円(2021年6月30日現在)<ref name="fy2" />
| 決算期 = 6月30日
| 外部リンク = {{URL|https://news.microsoft.com/ja-jp/cp/msd/}}
}}
'''マイクロソフトディベロップメント株式会社'''({{Lang-en-short|Microsoft Development Ltd.}})には、主に開発部署が所属している。日本マイクロソフト株式会社の子会社ではなく、Microsoft Corporation本社の子会社である。以前は、米''Microsoft Product Development Ltd.''の日本支社という位置づけだったが、[[2006年]]、会社法の改正に対応するために、日本の株式会社として改組された。
本社は、'''マイクロソフト調布技術センター'''(東京都[[調布市]][[調布ヶ丘]]1-18-1)<ref name="chofu">{{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111123213627/https://www.microsoft.com/ja-jp/mscorp/branch/ctc.aspx|date=2011年11月23日|title=調布技術センター : マイクロソフトについて}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=マイクロソフトサポートの「中の人」に会いにいった(後編) |url=http://enterprisezine.jp/article/detail/4481 |website=EnterpriseZine |access-date=2023-02-19 |language=ja |author=吉村哲樹}}</ref>に置かれていたが、2014年に開発部門が日本マイクロソフト本社と同じ品川グランドセントラルタワーに移転し、2015年になってサポート部門が同様に品川に移転した。<!--2015年9月現在、-->2018年5月現在、調布技術センターの表記はマイクロソフト社のウェブサイト上に存在するが<ref name="chofu" />、実際には機能していない。本社所在地は、2015年4月に品川本社と同じ港区港南に変更された。
{{Clear}}
<!--
=== その他 ===
{{出典の明記|section=1|date=2010年7月}}
日本国内の事業所は全て賃貸契約でオフィスビルに入居しており、自社ビルは保有していない(但し、本社などでは外観に社名ロゴが掲げられている)。赤坂営業所が設置される以前は、[[京王線]]沿線に事業所を置くことが暗黙のルールとなっていた。そのため、社員もそこに住宅を持つことが多い。かつては[[中村屋|笹塚NAビル]]にも事業所が入居していた。
-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group="注釈"}}
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 関連項目 ==
* [[ビル・ゲイツ]]
* [[ポール・アレン]]
* [[スティーブ・バルマー]]
* [[西和彦]]
* [[成毛眞]]
* [[古川享]]
* [[Wintel]]
* [[ダレン・ヒューストン]]
* [[リチャード・ブロディ]]
* [[インターネット]]
* [[Amazon.com]]
* [[Google]]
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Microsoft}}
* {{Official website|https://www.microsoft.com/en-us/|Microsoft}}{{En icon}}
{{Finance links
| google = MSFT
| Nikkei = MSFT
| yahoo_jp = MSFT
| bloomberg_jp = MSFT:US
| reuters_jp = MSFT.OQ
| symbol = MSFT
| FTcom = MSFT:NSQ
| nasdaq = MSFT
| sec_cik = 789019
}}
* {{Official website|https://www.microsoft.com/ja-jp/|日本マイクロソフト株式会社}}{{ja icon}}
{{マイクロソフト}}
{{家庭用ゲーム機メーカー}}
{{DJIA}}
{{S&P 100}}
{{NASDAQ 100}}
{{Fortune Global 500|第30位}}
{{Forbes Global 2000|第9位}}
{{MATvp}}
{{ICANN公認レジストラ}}
{{コンピュータエンターテインメント協会}}
{{日本オンラインゲーム協会}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:まいくろそふと}}
[[Category:マイクロソフト|*]]
[[Category:アメリカ合衆国のソフトウェア会社]]
[[Category:アメリカ合衆国のインターネット企業]]
[[Category:アメリカ合衆国のブランド]]
[[Category:ワシントン州の企業]]
[[Category:レドモンド (ワシントン州)]]
[[Category:1975年設立の企業]]
[[Category:アメリカ合衆国の多国籍企業]]
[[Category:NASDAQ上場企業]]
[[Category:S&P 500]]
[[Category:ドメインのレジストラ]]
[[Category:Minecraft]] | 2003-02-19T18:07:02Z | 2023-12-29T13:36:01Z | false | false | false | [
"Template:See also",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite web",
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"Template:日本オンラインゲーム協会",
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"Template:家庭用ゲーム機メーカー"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%BD%E3%83%95%E3%83%88 |
2,457 | Xbox (ゲーム機) | Xbox(エックスボックス)は、マイクロソフトが開発および販売を行った家庭用ゲーム機である。「Xbox」と小文字で表記されることが多いが、ロゴ等は「XBOX」とすべて大文字で表記されている。
本機発売当初、Xboxは固定されたゲームプラットフォームのことを指していたが、その後同社から発売されたWindows 8ではエンターテインメントブランド、Windows 10では「Xbox Play Anywhere」といったゲームをコアとしたサービスプラットフォームへと広がった。
全世界での累計販売台数はニンテンドーゲームキューブを若干上回っており、北米をはじめ日本以外の地域ではPlayStation 2(以下、PS2)に次ぐシェアを獲得。最終的に日本国内で47万台、全世界では約2,400万台の売り上げを記録した。
当初、マイクロソフトはセガのドリームキャストに自社が開発したオペレーティングシステムのWindows CEを提供して技術協力していた。ドリームキャストが商業的に失敗すると、マイクロソフト自身がゲーム業界に参入するという噂が流れる。背景にはセガとの路線対立や、ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE・当時)や任天堂に提携を求めて断られたことがあるとも言われている。
当時のセガ会長・大川功がXbox開発の話を聞きつけ、マイクロソフトの当時社長ビル・ゲイツに何度も直談判し「セガのタイトル資産を提供するからドリームキャストの互換性をXboxで実現させてくれ」とドリームキャストの道筋を作ろうとした。だが、ドリームキャストはインターネット環境を有するのに対し、Xboxはインターネット環境を考えておらず、この話は結局破談となった。
2000年3月、日本国内のPS2発売のわずか数日後に、マイクロソフトがゲーム機参入を発表。当時ソニーグループはPS2でWintelに挑戦すると宣言しており(PS3でも同様)、マイクロソフトが逆に挑戦するという構図になったことで話題を集めた。一方で本体OSがWindowsから乖離した事が原因でビル・ゲイツが激怒し、プロジェクト中止の危険もあった。しかし、最終的にOSは独自規格のままとなり、Xbox OneでようやくWindowsのOSが採用されるまで約12年間を費やした。
日本発売時の初回出荷台数は25万台と発表された。一方、エンターブレインによれば、日本での発売開始から3日間の推定販売台数は12万3929本で、ソフト装着率(全ソフト販売台数÷本体販売台数)は1.45本である。また、日本はシェアがマイナスになった唯一の国でもある。
2005年、日本国外で初めてゲーム関連事業は単年度黒字を達成した。
製品仕様や発売前の技術デモなどは徹底的にPS2を意識していた。噂の段階から開発コードネームとして浸透した「X-BOX」が、そのまま実際の名称にも使われることとなった。マイクロソフト社内での最初期のコードネームは「プロジェクト・ミッドウェー」で、マイクロソフトならではのPCのノウハウを生かしたゲームコンソールとPCの中間(一般名詞midway)の存在を目指すこと、およびミッドウェー海戦になぞらえた日本への反攻開始が意味されていた。
PC/AT互換機用パーソナルコンピュータの部品をほぼそのまま流用した構成となっており、一部のメディアはほとんどPCと呼ぶほどだった。コントローラのポートは形状こそ異なるがPCでも一般的なUSB規格が使われている。製造はフレクストロニクスに委託された。ゲーム機としては初めて720p、1080iに対応した。
サウンド、HDD/DVDインターフェイス、イーサネットは、nForceのMCPに相当する集積チップのMCPXが処理する。
オペレーティングシステムとしてWindows 2000のカーネルをごく軽量化したものを搭載し、APIにはDirectXを採用している。OSそのものはカスタムOSであるが、Xbox 360ではPowerPC基準のOS、Xbox One以降ではWindowsとなった。
日本での発売当初の希望小売価格は34,800円だったが、2002年5月22日に価格改定され、希望小売価格24,800円となる。2003年5月29日から7月31日まで6,800円のキャッシュバックキャンペーンを実施し、2003年11月20日には本体価格は16,800円に値下げされた。その後、2004年5月に発売された「Xboxプラチナパック2」は、ゲームソフト2本や追加のコントローラ、DVDビデオ再生キットなどを追加した上、19,000円(税別)にまで希望小売価格を下げた。
ゲームディスクは、ディスク裏面にマイクロソフト製インストールディスクにあるような特殊な模様が付与されており、これは今後のXboxシリーズにも受け継がれることになった。ディスクはDVDとほぼ同じもので、ディスクの表面にはWindowsのインストールディスクと同じ「Genuine」ロゴも印字されていた(360以降は廃止)。CEROの発足後はディスクにも年齢規定のロゴを記載するようになった。XboxとXbox 360の初期のディスクを通常のDVDプレイヤーに挿入すると、専用の演出が流れたあと、「これは、Xbox(Xbox 360)のディスクです。このゲームをプレイするには、ディスクをXbox(Xbox 360)に入れてください。」と表示される。Xbox 360も同様にDVD規格であるが、独自技術により4.7GB以上の容量を同じディスク品質のまま記録できるようになっているが、ディスク表面の層が明確に見えるような形状となっている。。2層DVDの単純な採用ではディスクが痛みやすくなるためである。
本体の起動時に、記録媒体などに致命的なエラーが発生した場合は、起動ロゴが出て、メインメニューに遷移する前に「不具合が発生しました。カスタマーサポートにお問い合わせください。」と表示される。また、画面に二桁のエラーコード(初期のXbox Oneではさらに桁が多い)も同時に表記される。Xbox 360、初期OSのXbox Oneの場合は、前文が「システムエラー。」になる。
のちにマイクロソフトから発売されたXbox 360、Xbox One、Xbox Series X/Sは本機と互換性を持つ。
二軸の電源ケーブル。Xbox One S以降も二軸ケーブルが採用された。
全世界で最も売れたソフトは『Halo 2』の849万本で、日本国内で最も売れたソフトは『デッド オア アライブ3』の24万本である。
2002年11月に米国、2003年1月に日本、同3月に欧州各国で、それぞれ開始されたオンラインサービス。標準本体のみでオンラインサービスに接続できるのが最大のセールスポイントであった。さらに、Xbox Live対応ゲーム全てで共通のコミュニケーション手段としてプレイヤー同士の音声での会話、ボイスチャットを採用した。スターターキットにセガの人気タイトル『ファンタシースターオンライン』(Phantasy Star Online)を標準添付するなど、戦略的な施策も盛り込まれた。しかし、日本でのオンラインゲーム普及のペースが予想より遅かったことや、2002年9月に発表され、Xbox Liveのキラーソフトとして期待されていた『トゥルーファンタジー ライブオンライン』が開発中止になるなど、魅力的なソフトが存在しないことから、ライバル機に対し優位性を打ち出せなかった。また、他機種がウェブマネーや口座振替などの未成年者でも比較的利用しやすい決済方法を取り入れているのに対し、クレジット決済しか提供されていなかったことがハードルの高さにも繋がった。
初代XboxでのXbox Liveは、2010年4月15日にサービス終了となった。HALO1,2のオンライン対戦に関しては、後に発売されたHALO Master Chief Collectionで復活した。
Xbox、Xbox 360は本体にリージョンが存在し、一部作品にのみリージョンロックがかけられている。XboxはDVDプレイヤーの受光部を利用してゲーム用とはまた別にリージョンがかかる。Xbox One、Xbox Series Xではすべてのソフトでリージョンが存在せず、そもそも本体の中にDVD,Blu-rayを除くゲームのリージョンコードが埋め込まれていない。Xbox One以降のXboxシリーズでは、MultiVersusのベータテスト、HBOMaxなどのごく僅かなVPN制限によるリージョンロックされたゲーム・アプリの例外を除き、設定から「言語」を変更することでXbox Liveのサーバーの地域も自動的に変更される(Xbox Cloud Gamingも同様)。ただし、一部のゲームではVPNによるマッチング制限が引き続きかかる場合もある(ブラックオプス3など)。Xbox One以降のXbox 360下位互換作品でもリージョンフリーとなっており、他地域のXbox 360下位互換作品に対応したディスクを挿入しても認証が可能。
かつて、日本のゲーム機市場に他国メーカーが本格参入した例は少なく、Xboxの上陸は「黒船」に例えられて話題を集めた。2002年2月22日の日本市場発売に合わせてビル・ゲイツが来日し、『笑っていいとも!』に生出演したり、X JAPANのYOSHIKIを起用するなどの宣伝活動をした。
エミュレーターを経由し、全世界で発売された990本のゲームのうち、462本を遊ぶことが可能。エミュレーターはXbox 360本体の公式製の内臓HDDにしか記録されていないため、非正規のHDDを使用するか、HDDが付属していないアーケード・4GBモデルではプレイすること自体が不可能となる。Xboxの起動画面はエミュレーター起動であるため省略される。一部の作品はXbox MarketPlace上でも販売されている。
エミュレーターは経由されず、直起動でごく一部のゲームをオンライン上からダウンロードし、遊ぶことが可能。(ディスク版の経由でも対応した作品であれば可能。)990本のゲームのうち、63本(実質61本、バトルフィールド2とグランド・セフト・オート・サンアンドレアスはXbox版ディスクを挿入するとXbox 360版がインストール)を遊ぶことができ、2017年6月11日のE3 2017で初めてこの機能が発表された。ライセンス上の問題、エミュレーターを経由せずに起動するシステムから成る問題により遊べる作品はかなり少なめとなっているが、一部作品はMicrosoft Storeからダウンロード版を購入可能である。もともとのXboxのOSの仕様上、Xboxの作品はDirectXを必ず使用しているため、解像度がXbox 360の作品より上昇する場合もある。一部作品は16:9に対応しているため、対応作品は自動的にネイティブ画質が向上したり、画面サイズが変更されたりする。クラウドセーブはXbox One側の処理で自動的に行われ、システムリンクも引き続き可能である。 | [
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"title": "本体"
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"text": "ゲームディスクは、ディスク裏面にマイクロソフト製インストールディスクにあるような特殊な模様が付与されており、これは今後のXboxシリーズにも受け継がれることになった。ディスクはDVDとほぼ同じもので、ディスクの表面にはWindowsのインストールディスクと同じ「Genuine」ロゴも印字されていた(360以降は廃止)。CEROの発足後はディスクにも年齢規定のロゴを記載するようになった。XboxとXbox 360の初期のディスクを通常のDVDプレイヤーに挿入すると、専用の演出が流れたあと、「これは、Xbox(Xbox 360)のディスクです。このゲームをプレイするには、ディスクをXbox(Xbox 360)に入れてください。」と表示される。Xbox 360も同様にDVD規格であるが、独自技術により4.7GB以上の容量を同じディスク品質のまま記録できるようになっているが、ディスク表面の層が明確に見えるような形状となっている。。2層DVDの単純な採用ではディスクが痛みやすくなるためである。",
"title": "本体"
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"text": "本体の起動時に、記録媒体などに致命的なエラーが発生した場合は、起動ロゴが出て、メインメニューに遷移する前に「不具合が発生しました。カスタマーサポートにお問い合わせください。」と表示される。また、画面に二桁のエラーコード(初期のXbox Oneではさらに桁が多い)も同時に表記される。Xbox 360、初期OSのXbox Oneの場合は、前文が「システムエラー。」になる。",
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"title": "リージョン"
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"title": "下位互換性"
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] | Xbox(エックスボックス)は、マイクロソフトが開発および販売を行った家庭用ゲーム機である。「Xbox」と小文字で表記されることが多いが、ロゴ等は「XBOX」とすべて大文字で表記されている。 本機発売当初、Xboxは固定されたゲームプラットフォームのことを指していたが、その後同社から発売されたWindows 8ではエンターテインメントブランド、Windows 10では「Xbox Play Anywhere」といったゲームをコアとしたサービスプラットフォームへと広がった。 全世界での累計販売台数はニンテンドーゲームキューブを若干上回っており、北米をはじめ日本以外の地域ではPlayStation 2(以下、PS2)に次ぐシェアを獲得。最終的に日本国内で47万台、全世界では約2,400万台の売り上げを記録した。 | {{pathnav|Xbox|frame=1}}
{{Infobox コンシューマーゲーム機
|名称 = Xbox
|ロゴ = [[ファイル:Vectorial Xbox logo.svg|300px]]
|画像 = [[ファイル:Xbox console.png|320px]]
|画像コメント = Xbox
|メーカー = [[マイクロソフト]]
|種別 = [[ゲーム機|据置型ゲーム機]]
|世代 = [[ゲーム機#第6世代|第6世代]]
|発売日 = {{Flagicon|USA}} [[2001年]][[11月15日]]<br />{{Flagicon|JPN}} [[2002年]][[2月22日]]<br />{{Flagicon|EU}}{{Flagicon|AUS}} 2002年[[3月14日]]<br />{{Flagicon|KOR}} 2002年[[12月23日]]
|CPU = [[インテル]] [[Celeron|Mobile Celeron]] 733[[メガヘルツ|MHz]]<br />([[Pentium III]]ベース)
|GPU = [[NVIDIA]] NV2A 233MHz<br />([[GeForce|GeForce3]]改良型)
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|ストレージ = 8[[ギガバイト|GB]] [[ハードディスクドライブ|HDD]]<br />[[メモリーカード|メモリーユニット]]
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|売上台数 = [[File:Newworldmap.png|26px|全世界]] 約2,400万台<ref name="CESA">{{Cite book |和書 |title=2023 CESAゲーム白書 |year=2023 |month=7 |publisher=[[コンピュータエンターテインメント協会]] |isbn=978-4-902346-47-3 |page=83}}</ref><br />{{Flagicon|JPN}} 47万台<ref name="VGM">{{Cite web |url=https://www.videogameschronicle.com/news/japan-has-bought-2-3-million-xbox-consoles-in-the-last-20-years-new-report-reveals/ |title=Japan has bought 2.3 million Xbox consoles in the last 20 years, new report reveals |access-date=2023-12-04 |date=2022-03-03 |website=VGC |language=en-GB}}</ref>
|最高売上ソフト = [[File:Newworldmap.png|26px|全世界]] [[Halo 2]] / 849万本<ref>http://www.vgchartz.com/platform/8/xbox/</ref>{{出典無効|date=2023-12-04}}<br />{{Flagicon|JPN}} [[デッド オア アライブ3]] / 27万本<ref name="VGM" />
|互換ハード =
|前世代ハード =
|次世代ハード = [[Xbox 360]]
}}
'''Xbox'''(エックスボックス)は、[[マイクロソフト]]が開発および販売を行った[[ゲーム機|家庭用ゲーム機]]である。「Xbox」と小文字で表記されることが多いが、ロゴ等は「XBOX」とすべて大文字で表記されている。
本機発売当初、Xboxは固定されたゲームプラットフォームのことを指していたが、その後同社から発売された[[Microsoft Windows 8|Windows 8]]では[[エンターテインメント]]ブランド<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1205/30/news027.html 「Xbox」がMicrosoftの総合エンターテインメントブランドに]</ref>、[[Microsoft Windows 10|Windows 10]]では「Xbox Play Anywhere」<ref>{{Cite web|和書|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1035360.html |title=【特別企画】全ゲーマーに贈るPCゲーム環境アップグレードガイド(後編) |accessdate=2017-07-30}}</ref>といったゲームをコアとしたサービスプラットフォームへと広がった<ref>[https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/751473.html “Xbox”がハードウェアプラットフォームからサービスプラットフォームへ]</ref>。ブランドについては「[[Xbox]]」を参照。
全世界での累計販売台数は[[ニンテンドーゲームキューブ]]を若干上回っており、[[北アメリカ|北米]]をはじめ日本以外の地域では[[PlayStation 2]](以下、PS2)に次ぐシェアを獲得。最終的に日本国内で47万台<ref name="VGM" />、全世界では約2,400万台の売り上げを記録した<ref name="CESA" />。
== 歴史 ==
当初、[[マイクロソフト]]は[[セガ]]の[[ドリームキャスト]]に自社が開発した[[オペレーティングシステム]]の[[Microsoft Windows CE|Windows CE]]を提供して技術協力していた。ドリームキャストが商業的に失敗すると、マイクロソフト自身が<!--巨大産業である-->ゲーム業界に参入するという噂が流れる。背景にはセガとの路線対立や、[[ソニー・インタラクティブエンタテインメント|ソニー・コンピュータエンタテインメント]](SCE・当時)や[[任天堂]]に提携を求めて断られたことがあるとも言われている<ref>[http://jp.ign.com/xbox/3284/news/xbox マイクロソフト、Xboxをつくる前に任天堂・ソニーとパートナーシップを組もうとしていた]</ref>。<!--コンピューター用の[[オペレーティングシステム]]で圧倒的なシェアを握るマイクロソフトは、ゲーム機をプラットフォームにして、エンターテインメントビジネス、次世代のネット家電でも主導権を握ろうと経営戦略を大きく転換させた形である。-->
当時のセガ会長・[[大川功]]がXbox開発の話を聞きつけ、[[マイクロソフト]]の当時社長[[ビル・ゲイツ]]に何度も直談判し「セガのタイトル資産を提供するから[[ドリームキャスト]]の互換性をXboxで実現させてくれ」とドリームキャストの道筋を作ろうとした。だが、ドリームキャストはインターネット環境を有するのに対し、Xboxはインターネット環境を考えておらず、この話は結局破談となった<ref>{{Wayback|url=http://www.kotaku.jp/2010/01/dc_xbox_compatibility.html |title=幻に終わったXboxのドリームキャスト互換・今明かされるその理由:Kotaku JAPAN, ザ・ゲーム情報ブログ・メディア |date=20100115212602}}</ref>。
[[2000年]]3月、日本国内のPS2発売のわずか数日後に、マイクロソフトがゲーム機参入を発表。当時[[ソニーグループ]]はPS2で[[Wintel]]に挑戦すると宣言しており([[PlayStation 3|PS3]]でも同様<ref>[http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20061110/113488/ 久夛良木氏を見放したソニーの迷走]</ref>)、マイクロソフトが逆に挑戦するという構図になったことで話題を集めた。一方で本体OSがWindowsから乖離した事が原因で[[ビル・ゲイツ]]が激怒し、プロジェクト中止の危険もあった<ref>[http://wired.jp/2016/07/17/bill-gates-odiava-lxbox/ ビル・ゲイツはXboxを憎んでいた]</ref>。しかし、最終的にOSは独自規格のままとなり、[[Xbox One]]でようやくWindowsのOSが採用されるまで約12年間を費やした。
日本発売時の初回出荷台数は25万台と発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/game/news/2002/02/22/103,1014306057,3748,0,0.html|title=【ついに登場Xbox】ビル・ゲイツ氏と一問一答|publisher=KADOKAWA CORPORATION|work=FAMITSU.com|date=2002-02-22|accessdate=2014-09-08}}</ref>。一方、[[エンターブレイン]]によれば、日本での発売開始から3日間の推定販売台数は12万3929本で、ソフト装着率(全ソフト販売台数÷本体販売台数)は1.45本である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/game/news/2005/12/12/103,1134395397,46690,0,0.html|title=Xbox 360、発売2日間で約6.2万台を販売 〜 ソフトは『リッジ6』 |publisher=KADOKAWA CORPORATION|work=FAMITSU.com|date=2005-12-13|accessdate=2014-09-08}}</ref>。また、日本はシェアがマイナスになった唯一の国でもある<ref>{{Cite web|和書|url=http://jp.ign.com/xbox/4947/news/xboxxbox |title=Xboxの元トップ、初代Xbox時代の日本重視マーケティングについて語る |accessdate=2017-07-30}}</ref>。
2005年、日本国外で初めてゲーム関連事業は単年度黒字を達成した。
== ハードウェア ==
{{節スタブ}}
製品仕様や発売前の技術デモなどは徹底的にPS2を意識していた<ref name="impress20000310" />。噂の段階から開発[[コードネーム]]として浸透した「X-BOX」が、そのまま実際の名称にも使われることとなった。マイクロソフト社内での最初期のコードネームは「プロジェクト・[[ミッドウェー島|ミッドウェー]]」で、マイクロソフトならではのPCのノウハウを生かしたゲームコンソールとPCの中間(一般名詞midway)の存在を目指すこと、および[[ミッドウェー海戦]]になぞらえた日本への反攻開始が意味されていた<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2002/0523/kaigai01.htm 後藤弘茂のWeekly海外ニュース]</ref>。
=== 仕様 ===
[[PC/AT互換機]]用[[パーソナルコンピュータ]]の部品をほぼそのまま流用した構成となっており、一部のメディアはほとんどPCと呼ぶほどだった。[[ゲームコントローラ|コントローラ]]のポートは形状こそ異なるがPCでも一般的な[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]規格が使われている。製造は[[フレクストロニクス]]に委託された。ゲーム機としては初めて[[720p]]、[[1080i]]に対応した。
* CPU:Intel Mobile Celeron([[Pentium III]]ベース(Coppermine-128k))733[[MHz]]
* グラフィック:NVIDIA製 XGPU(X-Chip) 233MHz([[GeForce|GeForce3]]の改良版)
* [[ポリゴン]]描画能力:1億2500万ポリゴン/[[秒]](理論値)
* メモリ:[[DDR SDRAM]] 64MB(CPU、GPU共用)
* メモリ帯域幅:6.4GB/秒
* 記憶装置:5倍速DVD、8GBハードディスク、8MB[[メモリーユニット]]
* サウンド:[[ウォルフソン・マイクロエレクトロニクス]]社製 ステレオコーデック 256チャンネル
* インターフェース:コントローラポート×4、10/100Mbps[[イーサネット]]ポート
* 最大[[画面解像度|解像度]]:1920×1080
* 電源:100V,50/60Hz 消費電力:絶対最大定格200W
* 重量:3.86 [[キログラム|kg]]
* 外形寸法:324×265×90mm
サウンド、HDD/DVDインターフェイス、イーサネットは、[[nForce]]のMCPに相当する集積チップのMCPXが処理する。
[[オペレーティングシステム]]として[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]の[[カーネル]]をごく軽量化したものを搭載し、[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]には[[Microsoft DirectX|DirectX]]を採用している<ref name="impress20000310">[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20000310/xbox.htm マイクロソフト、コンシューマゲーム機「X-Box」を遂に発表]</ref>。OSそのものはカスタムOSであるが、Xbox 360では[[PowerPC]]基準のOS、Xbox One以降では[[Microsoft Windows|Windows]]となった。
== 本体 ==
{{Gallery
|File:Xbox-Console-wDuke-L.png|Xbox(コントローラ「Duke」バージョン)
|File:Xbox-Debug-Console-Set.jpg|Xbox Debug Kit
}}
日本での発売当初の希望小売価格は34,800円だったが、2002年5月22日に価格改定され、希望小売価格24,800円となる。2003年5月29日から7月31日まで6,800円のキャッシュバックキャンペーンを実施し、2003年11月20日には本体価格は16,800円に値下げされた。その後、2004年5月に発売された「Xboxプラチナパック2」は、ゲームソフト2本や追加のコントローラ、[[DVD-Video|DVDビデオ]]再生キットなどを追加した上、19,000円(税別)にまで希望小売価格を下げた。
ゲームディスクは、ディスク裏面にマイクロソフト製インストールディスクにあるような特殊な模様が付与されており、これは今後のXboxシリーズにも受け継がれることになった。ディスクはDVDとほぼ同じもので、ディスクの表面にはWindowsのインストールディスクと同じ「Genuine」ロゴも印字されていた(360以降は廃止)。CEROの発足後はディスクにも年齢規定のロゴを記載するようになった。XboxとXbox 360の初期のディスクを通常のDVDプレイヤーに挿入すると、専用の演出が流れたあと、「これは、Xbox(Xbox 360)のディスクです。このゲームをプレイするには、ディスクをXbox(Xbox 360)に入れてください。」と表示される。Xbox 360も同様にDVD規格であるが、独自技術により4.7GB以上の容量を同じディスク品質のまま記録できるようになっているが、ディスク表面の層が明確に見えるような形状となっている。。2層DVDの単純な採用ではディスクが痛みやすくなるためである。
本体の起動時に、記録媒体などに致命的なエラーが発生した場合は、起動ロゴが出て、メインメニューに遷移する前に「不具合が発生しました。カスタマーサポートにお問い合わせください。」と表示される。また、画面に二桁のエラーコード(初期のXbox Oneではさらに桁が多い)も同時に表記される。Xbox 360、初期OSのXbox Oneの場合は、前文が「システムエラー。」になる。
=== 互換機 ===
{{Gallery
|File:Microsoft-Xbox-360-Pro-Flat-wController-L.png|Xbox 360とコントローラ
|File:Xbox-360-Consoles-Infobox.png|Xbox 360 エリートとXbox 360 Sとコントローラ
|File:Microsoft-Xbox-360-E-wController.jpg|Xbox 360 Eとコントローラ
|File:Xbox-One-Console-wController-FL.jpg|Xbox Oneとコントローラ
|File:Microsoft-Xbox-One-S-Console-wController-L.jpg|Xbox One Sとコントローラ
|File:Xbox One X (51286738246).jpg|Xbox One Xとコントローラ
|File:Xbox Series X 2.jpg|Xbox Series Xとコントローラ
|File:Xbox Series S with controller.jpg|Xbox Series Sとコントローラ
}}
のちにマイクロソフトから発売された[[Xbox 360]]、[[Xbox One]]、[[Xbox Series X/S]]は本機と互換性を持つ。
== 周辺機器 ==
; Xbox コントローラ
: [[File:Xbox-Duke-Controller.jpg|thumb|200px|Xbox コントローラ「Duke」]]
: [[File:Xbox-s-controller.jpg|thumb|200px|Xbox コントローラS]]
: ブラックとグレーの2種類がある。[[ドリームキャスト]]からデザインや機能性を引き継いだため、LB,RBに該当するボタンはABXYの上にある白黒の二つのボタンになり、LRはトリガーとなっている。当初発売版では全世界で大型のコントローラが採用されたが、日本では本体同様に巨大なコントローラに関係者が懸念を感じ、より小型軽量な「コントローラS」が採用された。大型のコントローラは本国アメリカでも、のち2006年に[[IGN]]が掲載した記事「最悪なゲームコントローラー TOP10」で2位となる<ref>{{Cite web|和書
|author=RIKUSYO
|date=2007-07-28
|url=http://gs.inside-games.jp/news/131/13178.html
|title=Game*Spark - : 最悪なゲームコントローラー TOP10
|publisher=Game*Spark
|language=日本語
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080518015447/http://www.gamespark.jp/modules/news/index.php?p=3178
|archivedate=2008-05-18
|accessdate=2010-01-28
}}</ref><ref>{{Cite web
|last=Harris
|first=Craig
|date=2006-02-21
|url=http://xbox360.ign.com/articles/690/690449p1.html
|title=Top 10 Tuesday: Worst Game Controllers - Xbox360 Feature at IGN
|publisher=[[IGN]]
|language=英語
|accessdate=2010-01-28
}}</ref>など評判は芳しくなく、本体発売半年後、この日本仕様の「コントローラS」への変更が行われた。LB,RBに該当するボタンはABXYの下にある黒・白色の二つのボタンである。
: 差込端子部分が独自規格になっている。規格自体はUSBのため、配線の一部を半田づけするか変換用のコンバーターを使用すればPCでの使用も可能である。
: 大型コントローラはDukeと呼ばれているが、後に復刻された<ref>{{Cite web|和書|url=http://japanese.engadget.com/2017/06/19/xbox-duke-xbox-one-windows/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20181030084702/https://japanese.engadget.com/2017/06/19/xbox-duke-xbox-one-windows/|archivedate=2018-10-30|deadlinkdate=2022-05-01|title=初代Xboxの大型コントローラ『Duke』が何故か復刻。Xbox One / Windows 共用で年末発売へ |accessdate=2017-07-30}}</ref>。
:操作デバイスは正面に方向パッド(左下右側に配備)、2本のアナログスティック(左上左側と右下左側に配備。両方とも押し込み可能)、STARTボタン/BACKボタン(DUKEでは中央下側に、小型版では左下左側に配備。BACKボタンは他社製品でいうSELECTボタンに該当するもの)、A/B/X/Yボタン(右上右側に配備)、白/黒ボタン(DUKEでは右上右側に、小型版では右下左側に配備){{efn2|[[Xbox 360]]以降のXbox系列のコントローラではこのボタンは削除され、代わりに上面前側にLB/RBボタンが搭載されるようになった。}}を配備し、上面奥側には深押しが可能な左右(L/R)トリガーボタンを備える。
:内部には振動モーターを左右1つずつ(合計2つ)内蔵している。
; Xbox メモリーユニット
: 補助記憶装置。容量は8MB。ブロックという独特の単位を用いている。16KBを1ブロックとして、502ブロック使用出来る。各コントローラーに2つのスロットが有り、挿入して使用する。合わせて1004ブロック(16MB)使用可能。
; Xbox DVDビデオ再生キット
: リモコンと赤外線受信アダプターのセット。アダプターをXbox前面のコントローラー用の端子に接続して使用する。受光部にリージョンコードが埋め込まれており、日本で製造されていない本体に日本版の受光部を差し込むとエラーが発生し、反対も同様。また、本体に初めて受光部を差し込み、使用した際にDVD用のリージョンコードが本体に記録され、そのリージョンデータをリセットすることは公式による修理以外では不可能。<ref>{{Cite web|和書|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20020225/xbox.htm |title=日本版XboxのDVD再生機能を検証 ~北米版と機能は同じ、PAL-NTSC変換出力が可能~ |access-date=2023-05-26}}</ref>
; Xbox システムリンクケーブル
: 2台の本体を接続して、通信対戦を行うためのケーブル。
; Xbox RFアダプタ
: ビデオ入力端子の無いテレビに本体を[[RF接続]]するためのケーブル。
; Xbox 標準AVケーブル
: コンポジット映像と音声を出力するケーブル。AVケーブルは[[ドリームキャスト]]のものと似ている端子を使用しているが、Xbox 360用、ドリームキャスト用のものと互換性はない。
; Xbox 拡張AVパック
: 本体に接続して、[[S端子|S映像]]・[[S/PDIF|光デジタル音声]]出力する変換ボックス。
; Xbox コンポーネントAVパック
: 本体に接続して、[[コンポーネント端子|コンポーネント映像]]・[[S/PDIF|光デジタル音声]]出力する変換ボックス。
; 電源コード
二軸の電源ケーブル。[[Xbox One|Xbox One S]]以降も二軸ケーブルが採用された。
== ソフトウェア ==
{{Main|Xboxのゲームタイトル一覧}}
全世界で最も売れたソフトは『[[Halo 2]]』の849万本で、日本国内で最も売れたソフトは『[[デッド オア アライブ3]]』の24万本である。
=== Xbox Live ===
{{main|Xbox Live}}
2002年11月に米国、[[2003年]]1月に日本、同3月に[[ヨーロッパ|欧州]]各国で、それぞれ開始されたオンラインサービス。標準本体のみでオンラインサービスに接続できるのが最大のセールスポイントであった{{Efn2|その後発売されたPS2の新型機種でも[[Local Area Network|LAN]]端子を標準装備し本体のみで接続できるようになった。}}。さらに、Xbox Live対応ゲーム全てで共通のコミュニケーション手段としてプレイヤー同士の音声での会話、ボイスチャットを採用した。スターターキットにセガの人気タイトル『[[ファンタシースターオンライン]]』(Phantasy Star Online)を標準添付するなど、戦略的な施策も盛り込まれた。しかし、日本での[[オンラインゲーム]]普及のペースが予想より遅かったことや、2002年9月に発表され、Xbox Liveのキラーソフトとして期待されていた『[[トゥルーファンタジー ライブオンライン]]』が開発中止になるなど、魅力的なソフトが存在しないことから、ライバル機に対し優位性を打ち出せなかった。また、他機種がウェブマネーや口座振替などの未成年者でも比較的利用しやすい決済方法を取り入れているのに対し、[[クレジットカード|クレジット]]決済しか提供されていなかったことがハードルの高さにも繋がった{{Efn2|その反省を踏まえてか、次世代機[[Xbox 360]]にも共通して提供されているXbox Liveにおいてはクレジットカード決済の他、[[プリペイドカード]]、[[郵便局]]の[[現金自動預け払い機|ATM]]や[[コンビニエンスストア]]の決済などを用意している。}}。
初代XboxでのXbox Liveは、2010年4月15日にサービス終了となった。HALO1,2のオンライン対戦に関しては、後に発売された[[HALO Master Chief Collection]]で復活した。
== リージョン ==
Xbox、[[Xbox 360]]は本体にリージョンが存在し、一部作品にのみリージョンロックがかけられている。XboxはDVDプレイヤーの受光部を利用してゲーム用とはまた別にリージョンがかかる。[[Xbox One]]、[[Xbox Series X/S|Xbox Series X]]ではすべてのソフトでリージョンが存在せず、そもそも本体の中に[[DVD]],[[Blu-ray Disc|Blu-ray]]を除くゲームのリージョンコードが埋め込まれていない。Xbox One以降のXboxシリーズでは、[[マルチバーサス|MultiVersus]]のベータテスト、[[HBO Max|HBOMax]]などのごく僅かなVPN制限によるリージョンロックされたゲーム・アプリの例外を除き、設定から「言語」を変更することで[[Xbox ネットワーク|Xbox Live]]のサーバーの地域も自動的に変更される([[Xbox Cloud Gaming]]も同様)。ただし、一部のゲームではVPNによるマッチング制限が引き続きかかる場合もある([[コール オブ デューティ ブラックオプス3|ブラックオプス3]]など)。Xbox One以降のXbox 360下位互換作品でもリージョンフリーとなっており、他地域のXbox 360下位互換作品に対応したディスクを挿入しても認証が可能。
== 広告 ==
かつて、日本のゲーム機市場に他国メーカーが本格参入した例は少なく、Xboxの上陸は「[[黒船]]」に例えられて話題を集めた<ref>{{Cite web|和書||author=MU |url=https://www.4gamer.net/games/999/G999903/20211102066/ |title=Xbox 20周年企画。“黒船上陸”の当時を知るライター陣が綴る「初代Xboxの思い出のゲーム」 |website=4Gamer.net |publisher=Aetas |date=2021-11-15 |accessdate=2021-12-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=ウワーマン |url=https://www.famitsu.com/news/202111/15240414.html |title=Xboxが発売20周年。マイクロソフトの家庭用ゲーム機参入に誰もが驚かされた海外大ヒットの高スペックマシン【今日は何の日?】 |website=ファミ通.com |publisher=KADOKAWA Game Linkage |date=2021-11-15 |accessdate=2021-12-19}}</ref>。2002年2月22日の日本市場発売に合わせて[[ビル・ゲイツ]]が来日し、『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]』に生出演したり<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/bursts/0202/22/01.html 「ゲイツさん,おともだち」Xboxがタモリの手に]</ref>、[[X JAPAN]]の[[YOSHIKI]]を起用するなどの宣伝活動をした。
== 下位互換性 ==
=== [[Xbox 360]] ===
エミュレーターを経由し、全世界で発売された'''990本のゲームのうち、462本'''を遊ぶことが可能。エミュレーターはXbox 360本体の公式製の内臓HDDにしか記録されていないため、非正規のHDDを使用するか、HDDが付属していないアーケード・4GBモデルではプレイすること自体が不可能となる。Xboxの起動画面はエミュレーター起動であるため省略される。一部の作品はXbox MarketPlace上でも販売されている。
=== [[Xbox One]],[[Xbox Series X/S|XBOX Series X/S]] ===
エミュレーターは経由されず、直起動でごく一部のゲームをオンライン上からダウンロードし、遊ぶことが可能。(ディスク版の経由でも対応した作品であれば可能。)'''990本のゲームのうち、63本'''('''実質61本'''、[[バトルフィールド2]]と[[グランド・セフト・オート・サンアンドレアス]]はXbox版ディスクを挿入するとXbox 360版がインストール)を遊ぶことができ、2017年6月11日の[[Electronic Entertainment Expo|E3 2017]]で初めてこの機能が発表された。ライセンス上の問題、エミュレーターを経由せずに起動するシステムから成る問題により遊べる作品はかなり少なめとなっているが、一部作品は[[Microsoft Store]]からダウンロード版を購入可能である。もともとのXboxのOSの仕様上、Xboxの作品は[[Microsoft DirectX|DirectX]]を必ず使用しているため、解像度が[[Xbox 360]]の作品より上昇する場合もある。一部作品は16:9に対応しているため、対応作品は自動的にネイティブ画質が向上したり、画面サイズが変更されたりする。クラウドセーブは[[Xbox One]]側の処理で自動的に行われ、システムリンクも引き続き可能である。
== 不祥事 ==
* 発売直後に「プレイ中にDVDやCDのメディアに傷が付く」という問題が指摘される。MSは、当初「メディアに傷が付いても再生には支障が出ないので問題はない」と説明するなどの対応を行ったが<ref name="disk">[http://wired.jp/2002/03/05/%E3%80%8Exbox%E3%80%8F%E3%81%A7dvd%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%81%AB%E5%82%B7%EF%BC%9F/ 『Xbox』でDVDディスクに傷?]</ref>、最終的には無償での本体修理とメディア交換に応じた<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/bursts/0203/07/04.html Xbox,無償修理へ]</ref>。しかし、Xbox Series Xが発売されている現在でも、本体を動かすとディスクに傷がつくリスクは看過できないままとなっており、Xbox 360 S以降では新品本体のディスク挿入口の近くに、「本体を動かす前にかならずディスクを外してください。」という警告のシールが貼られている。
* 2005年2月17日、マイクロソフトは2003年10月23日以前に製造された1410万台の製品について、電源コードが異常発熱して火傷を負う人が発生していると発表し、電源コードの無料交換に応じた。
* 2002年2月に、アメリカでイマージョン社によりコントローラ振動機能の特許侵害訴訟をアメリカ連邦地裁に起こされるものの、2003年7月29日にマイクロソフト側がイマージョン社に2,600万ドルを支払うことで和解した。
* 2002年に[[イギリス]]で放送された本製品のCM{{efn2|生まれた新生児が病院の室内のガラスを突き破りかなりのスピードで空を飛びながら短期間で成長し、最後は老人となって墓に突っ込み、「Life is short. Play more.(人生は短い、もっと遊ぼう。)」とキャッチコピーが出る。}}に「ショッキング」等のクレームが136件寄せられ、放送が中止された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2|30em}}
=== 出典 ===
{{reflist|30em}}
== 関連項目 ==
* [[DirectX]]
* [[MSX]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Xbox}}
* [https://www.xbox.com/ja-JP/ Xbox オフィシャルサイト]
* {{Twitter|xbox_jp|Xbox Japan}}
* {{Facebook|XboxJapan|Xbox Japan}}
* {{YouTube|u=XboxJapan|Xbox Japan}}
{{マイクロソフト}}
{{家庭用ゲーム機/その他}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:Xbox}}
[[Category:Xbox|*]]
[[Category:ゲーム機]]
[[Category:2001年のコンピュータゲーム|*Xbox]]
[[Category:インターネットサービス]]
[[Category:2000年代の玩具]] | 2003-02-19T19:15:34Z | 2023-12-10T08:06:09Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Xbox_(%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%A9%9F) |
2,458 | 古琉球 | 古琉球 (こりゅうきゅう)は、「琉球」(現在の沖縄県(八重山列島)および、しばしば鹿児島県奄美群島を含む)の歴史区分である。
農耕社会の成立(12世紀頃)から、琉球王国の成立まで。島津氏の進入(1609年)までとする場合もある。
伊波普猷が1911年に出版した学術書『古琉球』に由来する。沖縄の言語・歴史・民俗・文学などを研究した書で、『おもろさうし』・『中山世鑑』と並ぶ沖縄学の古典文献と位置付けられている。 | [
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{{沖縄県の歴史}}
'''古琉球''' (こりゅうきゅう)は、「琉球」(現在の[[沖縄県]]([[八重山列島]])および、しばしば[[鹿児島県]][[奄美群島]]を含む)の歴史区分である。
[[農耕]]社会の成立([[12世紀]]頃)から、[[琉球王国]]の成立まで。[[島津氏]]の進入([[1609年]])までとする場合もある。
[[伊波普猷]]が[[1911年]]に出版した学術書『古琉球』に由来する。沖縄の[[言語]]・[[歴史]]・[[民俗学|民俗]]・[[文学]]などを[[研究]]した書で、『[[おもろさうし]]』・『[[中山世鑑]]』と並ぶ[[沖縄学]]の古典文献と位置付けられている。
== 新版 ==
*『伊波普猷全集 第一巻』収録、[[平凡社]]
*『古琉球』[[岩波文庫]]。ISBN 400381021X
== 関連項目 ==
* [[グスク時代]]
{{沖縄県の歴史一覧}}
{{Japanese-history-stub}}
{{DEFAULTSORT:こりゆうきゆう}}
[[Category:古琉球|*]]
[[Category:琉球王国]]
[[Category:沖縄県の歴史]]
[[Category:奄美群島の歴史]] | null | 2023-05-07T12:23:42Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
"Template:沖縄県の歴史",
"Template:沖縄県の歴史一覧",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E7%90%89%E7%90%83 |
2,459 | World Wide Web | World Wide Web(ワールド・ワイド・ウェブ、略名:WWW)はインターネット上で提供されているハイパーテキストシステムである。Web、ウェブ、W3(ダブリュー スリー)とも呼ばれる。
情報提供を担う者はウェブサーバを公開し、一般利用者はウェブブラウザを介してウェブサーバにある情報を閲覧するようなシステムが基本である。1990年代のマルチメディアブームで登場したシステムの内で最も普及したシステムの1つで、技術の進歩に合わせて現在も仕様が更新され続けている。今ではハイパーテキストの枠組みを超えた仕様も追加され、アプリケーションの基盤としても活用されている。また、1980年代に各国で独自に商業展開されていたビデオテックスを置き換えるに至った。
誤解に基づく俗称として「インターネット」という表現がWWWを指す場合もある。その逆で「ウェブ」という表現がインターネットを示す場合もある。Web会議はこれに相当する。
ワールドワイドウェブではドキュメント(ウェブページ)の記述には主にHTMLやXHTMLといったハイパーテキストの記述言語が使用される。ワールドワイドウェブで使われるハイパーテキストとは、文書中に別の文書のURLへの参照を埋め込むことで(これをハイパーリンクと呼ぶ)インターネット上に散在する文書同士を相互に参照可能にするシステムである。閲覧者は表示している文書中でハイパーリンクが付された箇所をクリックやタップなどする事でハイパーリンク先の文書を表示させることができる。
世界中に張り巡らしたような、文書間のつながり方が蜘蛛の巣を連想させることから、世界に広がる蜘蛛の巣を意味する「World Wide Web」と名付けられた。尚、蜘蛛の巣は現実のケーブルの配線を表しているわけではない。HTMLの記述方式は比較的単純なため、急速に広く普及した。
ワールドワイドウェブにアクセスするためのソフトウェア(ユーザーエージェント)は WWW クライアントと呼ばれる。そのうち、利用者による閲覧を目的としたものは特にウェブブラウザ(WWW ブラウザ、あるいは単にブラウザ)と呼ばれる。また、ワールドワイドウェブのサービスを提供するソフトウェアを「WWWサーバソフトウェア」あるいは単に「ウェブサーバ」という。
ポータル検索エンジンとウェブディレクトリの出現により、ワールドワイドウェブは徐々にその真価を発揮し始めた。数学的な理論に基礎付けられたウェブページの順位決定法を実用化することによって、検索エンジンの首座は一気呵成に確定した。それとは対照的に、すべての分野に亘って個々の事例の集積を要するウェブディレクトリの作成は、継続的で地道な作業によって成し遂げられる辞書の編纂と似ている。前者が数学的手法に依存しているのに対し、後者は分類学的手法によっている点が対照的である。
World Wide Webが実装するハイパーテキストの思想はザナドゥ計画に起源を持ち、その仕様はザナドゥ計画の縮小版とも説明される。但し、World Wide Webで実現されたWebアプリやクラウドコンピューティング等は、厳格なルール運用を想定したザナドゥ計画等の前世代のハイパーテキストシステムの思想を遥かに超えている。
World Wide Webは1950年前後にその起源をもち、1989年に欧州原子核研究機構 (CERN) のティム・バーナーズ=リーによって発明された。1990年後半にその発明は実装され、1990年12月20日に世界初のウェブページが公開された。その後各国でウェブページが続々と公開され、ビューアー(webブラウザ)の普及やプロトコルの仕様策定を経ながら爆発的に広がり、現在に至る。
ハイパーテキストの思想自体は1945年に発表されたMemexと、1959年に開発が開始されたoN Line System、1960年に開始されたザナドゥ計画に起源を持つが、World Wide Webの直接の起源については1980年にティム・バーナーズ=リーがロバート・カイリューと構築したENQUIRE (エンクワイア)に遡ることができる。その名称は「エンクワイア・ウィズィン・アポン・エブリシング」というビクトリア朝時代の日常生活のハウツー本に由来していて、バーナーズ=リーが幼少のころを思い出して付けたものである。それは現在のウェブとは大分違うが、根本的なアイデアの多くを含んでおり、更にはバーナーズ=リーの WWW 後のプロジェクトである セマンティック・ウェブ の考え方をも含んでいた。しかし、ENQUIRE は一般に公表されるまでには至らなかった。
1989年3月12日、欧州原子核研究機構 (CERN) のティム・バーナーズ=リーは「Information Management: A Proposal」(情報管理: 提案)を執筆し、ENQUIRE を参照しつつさらに進んだ情報管理システムを描いた。これによってWWWは1989年に発明された。
彼は1990年11月12日、World Wide Web をより具体化した提案書「WorldWideWeb: Proposal for a HyperText Project」を発表した。実装は1990年11月13日から開始され、その年のクリスマスまでにバーナーズ=リーらは WWW に必要なツール、ブラウザ(兼エディタ)WorldWideWeb とwebサーバ CERN httpd を構築した。そして1990年12月20日、NeXTコンピュータをサーバーとして人類初のウェブページ http://info.cern.ch/hypertext/WWW/TheProject.html が公開された。
1991年8月6日、彼は World Wide Web プロジェクトに関する簡単な要約をalt.hypertextニュースグループに投稿した。日本では1992年9月30日、高エネルギー加速器研究機構所属の森田洋平が日本最初のホームページを開設した。バーナーズ=リーらの主張により、1993年4月30日、CERN は World Wide Web を無料で誰にでも開放することを発表した。
バーナーズ=リーのブレイクスルーはハイパーテキストとインターネットを結合したことである。彼は著書「Weaving The Web」の中で、このふたつの技術の結合は双方の技術コミュニティの協力によって成立することを強調しているが、誰もこの提案を取り上げることはなく、最終的に自分自身でプロジェクトを実行したのである。この過程で彼はURIと呼ばれるグローバルな資源識別子を開発した。
World Wide Web は当時実現していた他のハイパーテキストシステムとはいくつかの点で異なる。
開発当初、WWW は文字情報を扱うだけの比較的単純なものであった(NeXT上で開発されたためOS自身が文字以外を適切に扱うため、WWW は情報を区別しなくてもよかったというのが真相)。しかし1992年、イリノイ大学の米国立スーパーコンピュータ応用研究所 (NCSA) によって、現在のように画像なども扱えるようになった。同校の学生であったマーク・アンドリーセンらは文字だけでなく画像なども扱える革新的なブラウザ Mosaic を開発。そしてこのソフトに改良を加えるために無料でソースコードを公開したため、Mosaic はたちまち普及し、WWW は誰でも手軽に使うことのできる世界的なメディアとなった。
静的な文字・画像の提供からより動的なコンテンツを提供するため、サン・マイクロシステムズの Java技術により、小さなプログラム(アプレット)を直接WWWサーバが提供する情報に埋め込むウェブページが登場した。のちにマクロメディアのFlashとそのプラグインが登場すると、Javaアプレットに取って代わった。アプレットやFlashプラグインを利用したプログラムはクライアント側のコンピュータ上で動作し、高速で豊かなユーザインタフェースを可能とした。Flashプラグインは2000年代に爆発的な普及をみせ、一時期はほぼ全てのウェブブラウザが初期状態で搭載するほどだったが、2010年代に入るとJavaScriptを応用したウェブアプリケーションの発展に押され、Flashプラグインを利用するウェブページは減少した。セキュリティ意識が向上しHTML5を始めとした標準化により同等以上の標準機能が提供されるようになり、Flashプラグインは歴史的役割を終え2020年末に廃止された。
様々な技術へ共通の方法でアクセスするためにウェブの標準化が長く進められてきた。当初すべてIETFのRFCにより標準化が進められ、その後ワールドワイドウェブ特有の技術、HTMLなどは非営利組織である World Wide Web Consortium (W3C) によって標準化が進められることになった。現在、バーナーズ=リーはW3Cを指導する立場である。W3Cは上記を含めた様々な標準を開発・保守し、ワールドワイドウェブ上のコンピュータが様々な形態の情報を格納してやりとりできるよう尽力している。HTML5の開発に前後してその役割はWHATWGへと引き継がれた。
ワールドワイドウェブはクライアントサーバモデルに基づくシステムである。
ワールドワイドウェブ上の文書などの資源にアクセスするには、まずウェブブラウザにURIを入力するか、文書のリンクをたどればよい。すると、第一段階としてURIのサーバ名を表す部分がドメイン・ネーム・システム (DNS) と呼ばれるインターネットの分散データベースによってIPアドレスに変換される(IPアドレスが直接指定されている場合はこの変換は行われない)。
次に、そのIPアドレスに対応する WWW サーバに対して、URIのスキーム(通信方法などの指定)に従い接続を試みる。プロトコルとしては主にHTTPが使用される。一般的なウェブページでは、文書を構成するHTMLファイルや画像ファイルが要求され、即座に要求元に転送される。
ウェブブラウザは、受け取ったHTMLファイルやCSSファイルにしたがってレンダリングし、画像をはめ込み、リンクをはめ込むなどの仕事を行う。これによって利用者が見ている画面上の「ページ」が生み出される。
多くのウェブページは他の関連する文書へのハイパーリンクを含んでいる。それは例えばダウンロードのページだったり、ソース文書だったり、他の定義だったり、ワールドワイドウェブ上の何かの資源だったりする。このハイパーリンクによって情報の網(ウェブ)が形成される。これによってワールドワイドウェブが構成されているのである。
ワールドワイドウェブを構成する様々な概念が標準規格化されている。その中でもインターネットを介したハイパーテキストを実現する、最も基礎的な概念として以下の3つが標準化されている。
他にもプログラムからのドキュメント操作を定義する DOM Standard、HTTPを抽象化した Fetch Standard など、様々な仕様が整備されている。
JavaScriptはウェブページ操作のためにネットスケープコミュニケーションズが開発したプログラミング言語である。
元来はHTML要素の動的操作(ダイナミックHTML)によるウェブページの装飾等が想定されていたが、JSを介したデータ交換(Ajax)、HTML読み込みに依らないJSによるDOMの全面的操作(シングルページアプリケーション)などの技術が発明された。結果、ネイティブアプリ相当の機能を提供するWeb上のアプリ(ウェブアプリケーション)を作るうえで、JavaScriptは欠かせないWebの要素となった。
2001年の研究によれば、ウェブ上の文書は5500億個以上も存在し、その多くは「深層Web」にあるという。
2002年の20億以上のウェブページを調査した結果によると、英語のコンテンツが56.4%で最も多く、以下、ドイツ語 (7.7%) 、フランス語 (5.6%) 、日本語 (4.9%) となっていた。これ以降、中国語のページの増加が目立っている。
2005年1月では、75種類の言語でウェブ検索を行ってサンプリングし、一般に検索可能なWebは少なくとも115億ページ存在するとの結果を得ている。
2006年2月では、静的なページだけでも150億ページ以上、動的に生成されるページを含めると350億ページ以上が存在するとの推定がある。
2014年9月16日には、世界のウェブサイトの総数が10億件を突破したと発表された。
ウェブは人類史上最大の規模で個人間の情報交換を可能とした。ウェブを通して、地球全体で多種多様な情報を自由に交換することができるようになったのである。
感情的な経験、政治的考え方、文化習慣、音楽の風習、ビジネスについての助言、芸術、写真、文学などが、人類史上最も安価にデジタル化されて共有・拡散される。ウェブはそれを支える技術と設備の上に成り立っているが、印刷物と違って物理的な形を持たない。そのため ウェブを通じた情報伝播は物理的な量に制限されず、情報を複写するのに大きな手間もかからない。またインターネットを使う利点として、ウェブ上の情報は簡単かつ効率的に検索でき、他のどんな通信手段(郵便、電話など)や実地の旅行よりも早く情報を集めることができる。
すなわちウェブは今まで地上に現れた個人の情報交換媒体としては最も広範囲で遠くまで伝達可能なものである。多くのユーザーが世界各地の人々と情報交換し、他の手段では不可能だったことを可能とするだろう。
ウェブは社会交流を促して、膨大な知識の集積を育み、個々人の地球規模の理解を深める役に立つと示唆する人もいる。一方、多くの人々を仮想世界に閉じこもらせ、好戦性を増大させ、地球規模の管理・支配体制を生み出すのに使われる可能性も持っているとも言われる。
「インターネット・サーフィン」という言葉は1992年6月に出版された「ウィルソン・ライブラリー・ビュレッティン」の中のジーン・アーマー・ポリー(司書)の書いた文章から発祥しているという。ポリーは独自にこの言葉を生み出したかもしれないが、1991年から1992年にかけて Usenet で同様の言葉が散見された。更にそれ以前にハッカーのコミュニティで使われていたという証言もある。
英語では、「worldwide」と一語で表記するのが普通だが、「World Wide Web」やその略記の「WWW」英語でも普通に使われるようになった。最初の頃は、単語を連続して書いて単語の先頭だけを大文字にした 「WorldWideWeb」(インターキャップとかキャメルケースといわれ、プログラマが好む命名規則)とか、ハイフンが入った 「World-Wide Web」(英語の本来の使用法に近い)と表記されることも多かった。
英語では「World Wide Web」より「WWW」の略称が一般的である。ただし、皮肉なことに、「WWW」の方が「World Wide Web」よりも音節数が多く、発音するのにかえって時間がかかる。バーナーズ=リーによれば、他の人はそれを理由に名前を変えるように助言したが、バーナーズ=リー本人がこの名称に固執したとのことである。
英語圏の多くの地域では、「WWW」は「ダブリュー・ダブリュー・ダブリュー」と発音されるが、ニュージーランドでは「ダブ・ダブ・ダブ」と発音されることが多い。 | [
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"text": "World Wide Web(ワールド・ワイド・ウェブ、略名:WWW)はインターネット上で提供されているハイパーテキストシステムである。Web、ウェブ、W3(ダブリュー スリー)とも呼ばれる。",
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"text": "情報提供を担う者はウェブサーバを公開し、一般利用者はウェブブラウザを介してウェブサーバにある情報を閲覧するようなシステムが基本である。1990年代のマルチメディアブームで登場したシステムの内で最も普及したシステムの1つで、技術の進歩に合わせて現在も仕様が更新され続けている。今ではハイパーテキストの枠組みを超えた仕様も追加され、アプリケーションの基盤としても活用されている。また、1980年代に各国で独自に商業展開されていたビデオテックスを置き換えるに至った。",
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"text": "誤解に基づく俗称として「インターネット」という表現がWWWを指す場合もある。その逆で「ウェブ」という表現がインターネットを示す場合もある。Web会議はこれに相当する。",
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"text": "ワールドワイドウェブではドキュメント(ウェブページ)の記述には主にHTMLやXHTMLといったハイパーテキストの記述言語が使用される。ワールドワイドウェブで使われるハイパーテキストとは、文書中に別の文書のURLへの参照を埋め込むことで(これをハイパーリンクと呼ぶ)インターネット上に散在する文書同士を相互に参照可能にするシステムである。閲覧者は表示している文書中でハイパーリンクが付された箇所をクリックやタップなどする事でハイパーリンク先の文書を表示させることができる。",
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"text": "世界中に張り巡らしたような、文書間のつながり方が蜘蛛の巣を連想させることから、世界に広がる蜘蛛の巣を意味する「World Wide Web」と名付けられた。尚、蜘蛛の巣は現実のケーブルの配線を表しているわけではない。HTMLの記述方式は比較的単純なため、急速に広く普及した。",
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"text": "ポータル検索エンジンとウェブディレクトリの出現により、ワールドワイドウェブは徐々にその真価を発揮し始めた。数学的な理論に基礎付けられたウェブページの順位決定法を実用化することによって、検索エンジンの首座は一気呵成に確定した。それとは対照的に、すべての分野に亘って個々の事例の集積を要するウェブディレクトリの作成は、継続的で地道な作業によって成し遂げられる辞書の編纂と似ている。前者が数学的手法に依存しているのに対し、後者は分類学的手法によっている点が対照的である。",
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"text": "World Wide Webが実装するハイパーテキストの思想はザナドゥ計画に起源を持ち、その仕様はザナドゥ計画の縮小版とも説明される。但し、World Wide Webで実現されたWebアプリやクラウドコンピューティング等は、厳格なルール運用を想定したザナドゥ計画等の前世代のハイパーテキストシステムの思想を遥かに超えている。",
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] | World Wide Webはインターネット上で提供されているハイパーテキストシステムである。Web、ウェブ、W3とも呼ばれる。 情報提供を担う者はウェブサーバを公開し、一般利用者はウェブブラウザを介してウェブサーバにある情報を閲覧するようなシステムが基本である。1990年代のマルチメディアブームで登場したシステムの内で最も普及したシステムの1つで、技術の進歩に合わせて現在も仕様が更新され続けている。今ではハイパーテキストの枠組みを超えた仕様も追加され、アプリケーションの基盤としても活用されている。また、1980年代に各国で独自に商業展開されていたビデオテックスを置き換えるに至った。 誤解に基づく俗称として「インターネット」という表現がWWWを指す場合もある。その逆で「ウェブ」という表現がインターネットを示す場合もある。Web会議はこれに相当する。 | {{Otheruses|2=インターネット自体|3=インターネット}}
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| 出典の明記 = 2023年7月11日 (火) 08:51 (UTC)
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[[File:Web_Page.png|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Web_Page.png|サムネイル|ウェブページは、ウェブブラウザーを使用することで閲覧できる。ウェブブラウザは、通常リンク部分に色を付け、下線を引く。また、ウェブページには画像を表示することができる。]]
[[File:World Map of Web Index 2014.svg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:World Map of Web Index 2014.svg|サムネイル|2014年時点での各国の{{仮リンク|ウェブ・インデックス|en|Web index}}を表した世界地図。]]
{{lang|en|'''World Wide Web'''}}('''ワールド・ワイド・ウェブ'''、略名:'''WWW''')は[[インターネット]]上で提供されている[[ハイパーテキスト]]システムである。{{lang|en|'''Web'''}}、'''ウェブ'''、{{lang|en|'''W3'''}}(ダブリュー スリー)<ref>http://www.w3.org/ {{lang|en|The World Wide Web Consortium}} (W3C)</ref>とも呼ばれる。
情報提供を担う者は[[Webサーバ|ウェブサーバ]]を公開し、一般利用者は[[ウェブブラウザ]]を介して[[Webサーバ|ウェブサーバ]]にある情報を閲覧するようなシステムが基本である。[[1990年代]]の[[マルチメディア]]ブームで登場したシステムの内で最も普及したシステムの1つで、技術の進歩に合わせて現在も仕様が更新され続けている。今ではハイパーテキストの枠組みを超えた仕様も追加され、[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]の基盤としても活用されている。また、[[1980年代]]に各国で独自に商業展開されていた[[ビデオテックス]]<ref>{{Cite web|和書|title=2 発展する画像通信 : [[1985年の日本|昭和60年]]版 通信白書|url=https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/s60/html/s60a02010200.html|website=www.soumu.go.jp|accessdate=2021-01-07}}</ref>を置き換えるに至った。
{{要出典範囲|誤解に基づく俗称として「インターネット」という表現がWWWを指す場合もある。その逆で「ウェブ」という表現がインターネットを示す場合もある。[[Web会議]]はこれに相当する。|date=2023年7月}}
== 概要 ==
[[ファイル:WorldWideWebAroundWikipedia.png|thumb|300px|ウィキペディアの周辺の World Wide Web をグラフィック表現したもの。[[複雑ネットワーク]]の一例でもある。]]
ワールドワイドウェブではドキュメント([[ウェブページ]])の記述には主に[[HyperText Markup Language|HTML]]や[[Extensible HyperText Markup Language|XHTML]]といった[[ハイパーテキスト]]の[[マークアップ言語|記述言語]]が使用される。ワールドワイドウェブで使われるハイパーテキストとは、文書中に別の文書の[[Uniform Resource Identifier|URL]]への参照を埋め込むことで(これを[[ハイパーリンク]]と呼ぶ)インターネット上に散在する文書同士を相互に参照可能にするシステムである<ref>「メディアリテラシ」(Computer Science Library 15)p122 植田祐子・増永良文著 サイエンス社 2013年8月10日初版発行</ref>。閲覧者は表示している文書中でハイパーリンクが付された箇所をクリックやタップなどする事でハイパーリンク先の文書を表示させることができる。
世界中に張り巡らしたような、文書間のつながり方が[[クモ|蜘蛛]]の巣を連想させることから、世界に広がる蜘蛛の巣を意味する「{{lang|en|World Wide Web}}」と名付けられた<ref>「インターネット」p70-71 村井純 岩波書店 1995年11月30日第1刷発行</ref>。尚、蜘蛛の巣は現実のケーブルの配線を表しているわけではない。{{要出典範囲|HTMLの記述方式は比較的単純なため、急速に広く普及した。|date=2023年7月}}
{{要出典範囲|ワールドワイドウェブにアクセスするための[[ソフトウェア]]([[ユーザーエージェント]])は WWW クライアントと呼ばれる。そのうち、利用者による閲覧を目的としたものは特に[[ウェブブラウザ]](WWW ブラウザ、あるいは単にブラウザ)と呼ばれる。また、ワールドワイドウェブのサービスを提供するソフトウェアを「[[Webサーバ|WWWサーバ]]ソフトウェア」あるいは単に「ウェブサーバ」という。|date=2023年7月}}
{{要出典範囲|ポータル[[検索エンジン]]と[[ウェブディレクトリ]]の出現により、ワールドワイドウェブは徐々にその真価を発揮し始めた。数学的な理論に基礎付けられたウェブページの順位決定法を実用化することによって、検索エンジンの首座は一気呵成に確定した。それとは対照的に、すべての分野に亘って個々の事例の集積を要するウェブディレクトリの作成は、継続的で地道な作業によって成し遂げられる辞書の編纂と似ている。前者が数学的手法に依存しているのに対し、後者は分類学的手法によっている点が対照的である。|date=2023年7月}}
{{要出典範囲|World Wide Webが実装する[[ハイパーテキスト]]の思想は[[ザナドゥ計画]]に起源を持ち、その仕様はザナドゥ計画の縮小版とも説明される。但し、World Wide Webで実現されたWebアプリやクラウドコンピューティング等は、厳格なルール運用を想定したザナドゥ計画等の前世代のハイパーテキストシステムの思想を遥かに超えている。|date=2023年7月}}
== 歴史 ==
{{要出典範囲|World Wide Webは1950年前後にその起源をもち、1989年に[[欧州原子核研究機構]] (CERN) の[[ティム・バーナーズ=リー]]によって発明された。1990年後半にその発明は実装され、1990年12月20日に世界初のウェブページが公開された。その後各国でウェブページが続々と公開され、ビューアー(webブラウザ)の普及やプロトコルの仕様策定を経ながら爆発的に広がり、現在に至る。|date=2023年7月}}
=== 前史 ===
{{要出典範囲|[[ハイパーテキスト]]の思想自体は[[1945年]]に発表された[[Memex]]と、[[1959年]]に開発が開始された[[NLS|oN Line System]]、[[1960年]]に開始された[[ザナドゥ計画]]に起源を持つが、World Wide Webの直接の起源については[[1980年]]に[[ティム・バーナーズ=リー]]が[[ロバート・カイリュー]]と構築した{{lang|en|[[ENQUIRE]]}} (エンクワイア)に遡ることができる。その名称は「エンクワイア・ウィズィン・アポン・エブリシング」<ref group="注釈">{{lang|en|Enquire Within Upon Everything}}</ref>というビクトリア朝時代の日常生活の[[ハウツー]]本に由来していて、バーナーズ=リーが幼少のころを思い出して付けたものである。それは現在のウェブとは大分違うが、根本的なアイデアの多くを含んでおり、更にはバーナーズ=リーの WWW 後のプロジェクトである [[セマンティック・ウェブ]] の考え方をも含んでいた。しかし、{{lang|en|ENQUIRE}} は一般に公表されるまでには至らなかった。|date=2023年7月}}
=== CERNでの発明・開発と公開 ===
==== 1989: WWWシステムの発明 ====
[[1989年]][[3月12日]]、[[欧州原子核研究機構]] (CERN) のティム・バーナーズ=リーは「{{lang|en|Information Management: A Proposal}}」(情報管理: 提案)を執筆し、{{lang|en|ENQUIRE}} を参照しつつさらに進んだ情報管理システムを描いた<ref>{{lang|en|[http://www.w3.org/History/1989/proposal.html The original proposal of the WWW, HTMLized]}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1903/12/news062.html|title=WWW誕生から30周年 Googleもロゴで祝福|publisher=ITmedia NEWS|date=2019-03-12|access-date=2019-03-12}}</ref>。これによってWWWは1989年に発明された<ref>Tim Berners-Lee, a British scientist, invented the World Wide Web (WWW) in 1989
CERN. The birth of the Web. [https://home.cern/science/computing/birth-web] 2019-09-04閲覧</ref>。
==== 1990: WWWの実装と公開 ====
彼は[[1990年]][[11月12日]]、{{lang|en|World Wide Web}} をより具体化した提案書「{{lang|en|WorldWideWeb: Proposal for a HyperText Project}}」<ref>http://www.w3.org/Proposal</ref>を発表した。実装は[[1990年]]11月13日から開始され、その年のクリスマスまでにバーナーズ=リーらは WWW に必要なツール、ブラウザ(兼エディタ)[[WorldWideWeb]] とwebサーバ [[CERN httpd]] を構築した<ref>{{lang|en|[http://www.w3.org/People/Berners-Lee/WorldWideWeb Tim Berners-Lee: WorldWideWeb, the first Web client]}}</ref>。そして'''1990年12月20日'''、[[NeXT]]コンピュータをサーバーとして人類初のウェブページ http://info.cern.ch/hypertext/WWW/TheProject.html <ref group="注釈">このウェブページは復刻版である(英語版wikipediaを参照)。</ref>が公開された<ref>20 12, 1990
By Christmas 1990, Sir Berners-Lee had defined the Web’s basic concepts, the html, http and URL, and he had written the first browser/editor and server software. info.cern.ch was the address of the world's first web server, running on a NeXT computer at CERN.
CERN. The birth of the World Wide Web. [https://timeline.web.cern.ch/taxonomy/term/90?page=1] 2019-09-04閲覧.</ref>。[[ファイル:First Web Server.jpg|thumb|right|バーナーズ=リーがCERNで使用していた[[NeXTcube]]。最初のWWWサーバとなった。]]
==== その後 ====
[[1991年]][[8月6日]]、彼は {{lang|en|World Wide Web}} プロジェクトに関する簡単な要約<ref>https://groups.google.com/g/alt.hypertext/c/-/m/bJGhZyooXzkJ</ref>を<code>alt.hypertext</code>[[ニュースグループ]]に投稿した<ref group="注釈">しばしばこの日がWWW公開の日と誤認識されている。</ref>。日本では1992年9月30日、[[高エネルギー加速器研究機構]]所属の[[森田洋平]]が[[日本最初のホームページ]]を開設した。バーナーズ=リーらの主張により、[[1993年]][[4月30日]]、{{lang|en|CERN}} は {{lang|en|World Wide Web}} を無料で誰にでも開放することを発表した<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/2385689?cx_part=search 「www一般開放15周年、発明者が語るウェブの理想」AFPBB 2008年5月1日 2021年3月5日閲覧</ref>。
{{要出典範囲|バーナーズ=リーのブレイクスルーはハイパーテキストとインターネットを結合したことである。彼は著書「{{lang|en|Weaving The Web}}」の中で、このふたつの技術の結合は双方の技術コミュニティの協力によって成立することを強調しているが、誰もこの提案を取り上げることはなく、最終的に自分自身でプロジェクトを実行したのである。この過程で彼は[[Uniform Resource Identifier|URI]]と呼ばれるグローバルな資源識別子を開発した。|date=2023年7月}}
{{lang|en|World Wide Web}} は当時実現していた他のハイパーテキストシステムとはいくつかの点で異なる。
* {{要出典範囲|WWW は、双方向ではなく単方向のリンクを使用する。これにより、何らかの資源の所有者と連絡を取らなくてもリンクすることが可能となった。これによって WWW サーバやブラウザの実装も簡単になっているが、同時にリンク先の資源がいつの間にか無くなるという問題も発生させることとなる。|date=2023年7月}}
* {{要出典範囲|[[HyperCard]]や[[Gopher]]とは違い、{{lang|en|World Wide Web}} は特定の個人や組織によって独占されておらず、サーバやクライアントを独自に開発し拡張するのも自由にできて許諾を得る必要も無い。|date=2023年7月}}
{{要出典範囲|開発当初、WWW は文字情報を扱うだけの比較的単純なものであった(NeXT上で開発されたためOS自身が文字以外を適切に扱うため、WWW は情報を区別しなくてもよかったというのが真相)。しかし[[1992年]]、[[イリノイ大学]]の[[National Center for Supercomputing Applications|米国立スーパーコンピュータ応用研究所]] (NCSA) によって、現在のように画像なども扱えるようになった。同校の学生であった[[マーク・アンドリーセン]]らは文字だけでなく画像なども扱える革新的なブラウザ {{lang|en|'''[[NCSA Mosaic|Mosaic]]'''}} を開発。そしてこのソフトに改良を加えるために無料で[[ソースコード]]を公開したため、{{lang|en|Mosaic}} はたちまち普及し、WWW は誰でも手軽に使うことのできる世界的な[[メディア (媒体)|メディア]]となった。|date=2023年7月}}
{{要出典範囲|静的な文字・画像の提供からより動的なコンテンツを提供するため、[[サン・マイクロシステムズ]]の {{lang|en|[[Java]]}}技術により、小さな[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]([[アプレット]])を直接WWWサーバが提供する情報に埋め込むウェブページが登場した。のちにマクロメディアの[[Adobe Flash|Flash]]とその[[プラグイン]]が登場すると、Javaアプレットに取って代わった。アプレットやFlashプラグインを利用したプログラムは[[クライアント (コンピュータ)|クライアント]]側のコンピュータ上で動作し、高速で豊かな[[ユーザインタフェース]]を可能とした。Flashプラグインは[[2000年代]]に爆発的な普及をみせ、一時期はほぼ全てのウェブブラウザが初期状態で搭載するほどだったが、[[2010年代]]に入るとJavaScriptを応用したウェブアプリケーションの発展に押され、Flashプラグインを利用するウェブページは減少した。[[コンピュータセキュリティ|セキュリティ]]意識が向上し[[HTML5]]を始めとした標準化により同等以上の標準機能が提供されるようになり、|date=2023年7月}}Flashプラグインは歴史的役割を終え2020年末に廃止された<ref>"アドビは2020年12月31日でFlash Playerのサポートを終了する" Adobe. Adobe Flash Playerサポート終了情報ページ. Adobe公式HP. 2023-01-03閲覧.</ref>。
{{要出典範囲|様々な技術へ共通の方法でアクセスするためにウェブの標準化が長く進められてきた。当初すべて[[Internet Engineering Task Force|IETF]]の[[Request for Comments|RFC]]により標準化が進められ、その後ワールドワイドウェブ特有の技術、HTMLなどは非営利組織である {{lang|en|[[World Wide Web Consortium]]}} (W3C) によって標準化が進められることになった。現在、バーナーズ=リーはW3Cを指導する立場である。W3Cは上記を含めた様々な標準を開発・保守し、ワールドワイドウェブ上のコンピュータが様々な形態の情報を格納してやりとりできるよう尽力している。HTML5の開発に前後してその役割は[[Web Hypertext Application Technology Working Group|WHATWG]]へと引き継がれた。|date=2023年7月}}
==技術==
===仕組み ===
{{要出典範囲|ワールドワイドウェブは[[クライアントサーバモデル]]に基づく[[システム]]である。|date=2023年7月}}
{{要出典範囲|ワールドワイドウェブ上の文書などの[[リソース (WWW)|資源]]に[[アクセス制御|アクセス]]するには、まずウェブブラウザに[[Uniform Resource Identifier|URI]]を入力するか、文書の[[ハイパーリンク|リンク]]をたどればよい。すると、第一段階としてURIのサーバ名を表す部分が[[Domain Name System|ドメイン・ネーム・システム]] (DNS) と呼ばれる[[インターネット]]の[[分散データベース]]によって[[IPアドレス]]に変換される(IPアドレスが直接指定されている場合はこの変換は行われない)。|date=2023年7月}}
{{要出典範囲|次に、そのIPアドレスに対応する WWW サーバに対して、URIのスキーム(通信方法などの指定)に従い接続を試みる。プロトコルとしては主に[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]が使用される。一般的なウェブページでは、文書を構成するHTMLファイルや画像ファイルが要求され、即座に要求元に転送される。|date=2023年7月}}
{{要出典範囲|ウェブブラウザは、受け取ったHTMLファイルや[[Cascading Style Sheets|CSS]]ファイルにしたがって[[レンダリング (コンピュータ)|レンダリング]]し、画像をはめ込み、リンクをはめ込むなどの仕事を行う。これによって利用者が見ている画面上の「ページ」が生み出される。|date=2023年7月}}
{{要出典範囲|多くのウェブページは他の関連する文書へのハイパーリンクを含んでいる。それは例えばダウンロードのページだったり、ソース文書だったり、他の定義だったり、ワールドワイドウェブ上の何かの資源だったりする。このハイパーリンクによって情報の網(ウェブ)が形成される。これによってワールドワイドウェブが構成されているのである。|date=2023年7月}}
===標準規格 ===
{{要出典範囲|ワールドワイドウェブを構成する様々な概念が[[標準化|標準規格]]化されている。その中でもインターネットを介した[[ハイパーテキスト]]を実現する、最も基礎的な概念として以下の3つが標準化されている。|date=2023年7月}}
{| class="wikitable"
|+表. 標準規格群
!名称
!略称
!内容
!標準化団体
|-
|{{lang|en|[[Uniform Resource Locator]]}}
|URL
|[[リソース (WWW)|リソース]]位置識別子
|[[Web Hypertext Application Technology Working Group|WHATWG]]
|-
|{{lang|en|[[Hypertext Transfer Protocol]]}}
|HTTP
|通信プロトコル
|[[IETF]]
|-
|{{lang|en|[[HyperText Markup Language]]}}
|HTML
|ハイパーテキストの構造
|[[Web Hypertext Application Technology Working Group|WHATWG]]
|}
{{要出典範囲|他にもプログラムからのドキュメント操作を定義する [[Document Object Model#WHATWG DOM Living Standard|DOM Standard]]、HTTPを抽象化した [https://fetch.spec.whatwg.org/ Fetch Standard] など、様々な仕様が整備されている。|date=2023年7月}}
===JavaScript===
{{Main|JavaScript|ダイナミックHTML|シングルページアプリケーション|ウェブアプリケーション}}
{{要出典範囲|[[JavaScript]]はウェブページ操作のために[[ネットスケープコミュニケーションズ]]が開発した[[プログラミング言語]]である。|date=2023年7月}}
{{要出典範囲|元来はHTML要素の動的操作([[ダイナミックHTML]])によるウェブページの装飾等が想定されていたが、JSを介したデータ交換([[Ajax]])、HTML読み込みに依らないJSによるDOMの全面的操作([[シングルページアプリケーション]])などの技術が発明された。結果、ネイティブアプリ相当の機能を提供するWeb上のアプリ([[ウェブアプリケーション]])を作るうえで、JavaScriptは欠かせないWebの要素となった。|date=2023年7月}}
== 統計 ==
2001年の研究<ref>{{lang|en|[http://www.brightplanet.com/technology/deepweb.asp BrightPlanet - The 'Deep' Web: Surfacing Hidden Value]}}</ref>によれば、ウェブ上の文書は5500億個以上も存在し、その多くは「[[深層Web]]」にあるという。
2002年の20億以上のウェブページを調査した結果によると<ref>{{lang|en|[http://www.netz-tipp.de/languages.html Distribution of languages on the Internet]}}</ref>、英語のコンテンツが56.4%で最も多く、以下、ドイツ語 (7.7%) 、フランス語 (5.6%) 、日本語 (4.9%) となっていた。これ以降、[[中国語]]のページの増加が目立っている。
2005年1月では<ref>{{lang|en|[http://www.cs.uiowa.edu/~asignori/web-size/ The Indexable Web is more than 11.5 billion pages]}}</ref>、75種類の言語でウェブ検索を行ってサンプリングし、一般に検索可能なWebは少なくとも115億ページ存在するとの結果を得ている。
[[2006年]][[2月]]では<ref>{{lang|en|[http://www.ieice.org/~de/DEWS/DEWS2006/doc/3B-i6.pdf Fact of The Web]}}</ref>、静的なページだけでも150億ページ以上、動的に生成されるページを含めると350億ページ以上が存在するとの推定がある。
[[2014年]][[9月16日]]には、世界のウェブサイトの総数が10億件を突破したと発表された<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/3026121?cx_part=search 「世界のウェブサイト数、10億件を突破」AFPBB 2014年9月17日 2021年3月5日閲覧</ref>。
== 社会的影響 ==
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2023年7月11日 (火) 09:47 (UTC)
| 大言壮語 = 2023年7月11日 (火) 09:47 (UTC)
| 独自研究 = 2023年7月11日 (火) 09:47 (UTC)
}}
{{要出典範囲|ウェブは人類史上最大の規模で個人間の情報交換を可能とした。ウェブを通して、地球全体で多種多様な情報を自由に交換することができるようになったのである。|date=2023年7月}}
{{要出典範囲|感情的な経験、政治的考え方、文化習慣、音楽の風習、ビジネスについての助言、芸術、写真、文学などが、人類史上最も安価にデジタル化されて共有・拡散される。ウェブはそれを支える技術と設備の上に成り立っているが、印刷物と違って物理的な形を持たない。そのため ウェブを通じた情報伝播は物理的な量に制限されず、情報を複写するのに大きな手間もかからない。またインターネットを使う利点として、ウェブ上の情報は簡単かつ効率的に[[検索]]でき、他のどんな通信手段([[郵便]]、[[電話]]など)や実地の旅行よりも早く情報を集めることができる。|date=2023年7月}}<!-- Webでは文字,音声,静止画,動画などのマルチメディアデータと各種センシングデータが気軽に伝送できるようになっただけで、感情的な経験や文化習慣や音楽の風習といった、人間の内面も大きく関係する非言語極まりない情報がデジタル化されて伝送できるというのは言い過ぎではないか?
Webが当たり前となった2020年代でも、ネットの情報から受ける印象と現場で受ける生の印象が大きく違うことは多いのだが?あと、同じ人に対してWebで会話する場合とオフラインで会話する場合を比較しても違う印象を受けることは多い。従ってWebでは非言語情報が大きく欠落していると言わざるを得ない。
Webでマインドアップロードが成功すれば別だが w
あと、Webで情報は早く大量に集まるけど、現地での実体験と比較すると浅くて不正確な情報もまた多い。恣意的な切り抜きや誇張表現などで世の中を扇動しようと試みる者も居る(あと変なデマも流れたり)。
どんな物事にも正負の両面があるので、早く情報が集まると言う正の側面を記載するのであれば、ネット知識だけで世の中を知った気になるのはまだまだ危険な現状があるという負の側面も具体的に記載するべき。 -->
{{要出典範囲|すなわちウェブは今まで地上に現れた個人の情報交換媒体としては最も広範囲で遠くまで伝達可能なものである。多くのユーザーが世界各地の人々と情報交換し、他の手段では不可能だったことを可能とするだろう。|date=2023年7月}}
{{要出典範囲|ウェブは社会交流を促して、膨大な知識の集積を育み、個々人の地球規模の理解を深める役に立つと示唆する人もいる。一方、多くの人々を[[仮想世界]]に閉じこもらせ、好戦性を増大させ、地球規模の管理・支配体制を生み出すのに使われる可能性も持っているとも言われる。|date=2023年7月}}<!-- 無出典の上にこの記載だと、Webから受ける安直な(SFチックな)想像だけで書いたんだなって感じ。 -->
==雑学==
{{出典の明記| date = 2023年1月}}
{{要出典範囲|「インターネット・サーフィン」という言葉は1992年6月に出版された「ウィルソン・ライブラリー・ビュレッティン」<ref group="注釈">{{lang|en|Wilson Library Bulletin}}</ref>の中の[[ジーン・アーマー・ポリー]]<ref group="注釈">{{lang|en|Jean Armour Polly}}</ref>(司書)の書いた文章から発祥しているという。ポリーは独自にこの言葉を生み出したかもしれないが、1991年から1992年にかけて {{lang|en|[[Usenet]]}} で同様の言葉が散見された。更にそれ以前にハッカーのコミュニティで使われていたという証言もある。|date=2023年7月}}
{{要出典範囲|英語では、「{{lang|en|worldwide}}」と一語で表記するのが普通だが{{要出典|date=2010年10月}}、「{{lang|en|World Wide Web}}」やその略記の「WWW」英語でも普通に使われるようになった{{要出典|date=2010年10月}}。最初の頃は、単語を連続して書いて単語の先頭だけを大文字にした 「{{lang|en|WorldWideWeb}}」(インターキャップとか[[キャメルケース]]といわれ、[[プログラマ]]が好む命名規則)とか、[[ハイフン]]が入った 「{{lang|en|World-Wide Web}}」(英語の本来の使用法に近い)と表記されることも多かった{{要出典|date=2010年10月}}。|date=2023年7月}}
英語では「<ruby lang="en">World Wide Web<rp>(</rp><rt lang="en-Kana">ワールド・ワイド・ウェブ</rt><rp>)</rp></ruby>」より「<ruby lang="en">WWW<rp>(</rp><rt lang="en-Kana">ダブリュー・ダブリュー・ダブリュー</rt><rp>)</rp></ruby>」の略称が一般的である{{要出典|date=2023年7月}}。ただし、皮肉なことに、「{{lang|en|WWW}}」の方が「{{lang|en|World Wide Web}}」よりも音節数が多く、発音するのにかえって時間がかかる{{要出典|date=2023年7月}}。[[ティム・バーナーズ=リー|バーナーズ=リー]]によれば、他の人はそれを理由に名前を変えるように助言したが、バーナーズ=リー本人がこの名称に固執したとのことである{{要出典|date=2023年7月}}。
{{要出典範囲|[[英語圏]]の多くの地域では、「WWW」は「ダブリュー・ダブリュー・ダブリュー」と発音されるが、[[ニュージーランド]]では「ダブ・ダブ・ダブ」と発音されることが多い。|date=2023年7月}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 関連項目 ==
{{Sisterlinks|commons=Category:World Wide Web}}
* [[ウェブサイト]]
* [[コーポレートサイト]]
* [[Webプログラミング]]
* [[コンテンツ管理システム]] (CMS)
* [[セマンティック・ウェブ]]
* [[検索エンジン]]
* [[ウェブディレクトリ]]
* [[ウェブマイニング]]
* [[ハイパーテキスト]]
* [[ストリーミング]]
* [[Web 2.0]] - {{要出典範囲|これはWWWが単なるWebサイトの集合体からWebアプリケーションを提供するプラットフォームへと変化していくことを表す用語として使われる。|date=2023年7月}}<!-- この説明だと対象を限定し過ぎているし、Webの利用者の変化について一切言及していないのも誤り。Web 1.0では情報の送り手と受け手が一方的だったのに対して、Web 2.0では誰もがWebサイトを通して情報の発信者になれるという抽象的な定義でしかない。 -->
== 外部リンク ==
* [http://info.cern.ch/hypertext/WWW/TheProject.html 最初のウェブサイト] {{en icon}}
* [http://www.tsukuba.org/www/ 日本最初のホームページ]
* [http://www.ibarakiken.gr.jp/www/history/ WWW黎明期の歴史と立役者]
* [https://weblab.t.u-tokyo.ac.jp/ 東京大学 松尾研究室]
* {{Kotobank|2=ASCII.jpデジタル用語辞典}}
* {{Kotobank|ワールドワイドウェブ|2=デジタル大辞泉}}
=== 標準規格 ===
以下は、{{lang|en|World Wide Web}} の基本的な3つの標準規格を定義した文書のリストである。
* {{lang|en|[[Uniform Resource Identifier]]}} (URI)
** {{lang|en|{{IETF RFC|3986}}, Uniform Resource Identifier (URI): Generic Syntax}}
** {{lang|en|[https://url.spec.whatwg.org/ WHATWG URL Stdanrd]}}
* {{lang|en|[[HyperText Markup Language]]}} (HTML)
** {{lang|en|[https://html.spec.whatwg.org/ WHATWG HTML Standard]}}
* {{lang|en|[[Hypertext Transfer Protocol]]}} (HTTP)
** {{lang|en|{{IETF RFC|9110}}, HTTP Semantics}}
** {{lang|en|{{IETF RFC|9111}}, HTTP Caching}}
** {{lang|en|{{IETF RFC|9112}}, HTTP/1.1}}
** {{lang|en|{{IETF RFC|9113}}, HTTP/2}}
** {{lang|en|{{IETF RFC|9114}}, HTTP/3}}
{{Telecommunications}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:わあるとわいとうえふ}}
[[Category:World Wide Web|*]]
[[Category:コンピュータネットワーク]]
[[Category:ハイパーテキスト]]
[[Category:ティム・バーナーズ=リー]] | 2003-02-19T19:49:15Z | 2023-11-26T14:16:36Z | false | false | false | [
"Template:要出典範囲",
"Template:要出典",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:Kotobank",
"Template:Normdaten",
"Template:Otheruses",
"Template:Redirect2",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Notelist",
"Template:En icon",
"Template:Telecommunications",
"Template:仮リンク",
"Template:Main",
"Template:Cite news",
"Template:複数の問題",
"Template:インターネット",
"Template:Lang",
"Template:出典の明記",
"Template:Sisterlinks"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/World_Wide_Web |
2,464 | メモリースティック | メモリースティック (Memory Stick) は、かつてソニー製を中心とするデジタルカメラやデジタルオーディオプレーヤー、携帯電話、携帯ゲーム機などの記録媒体として利用されていたフラッシュメモリを用いた小型メモリーカード、およびその関連規格・製品群の総称である。省略して「メモステ」「MS」などとも呼ばれる。1997年に発表されたが、すぐに競合規格であるSDメモリーカードに後塵を拝するようになった。
メモリースティックは1997年7月17日にソニーから発表された。ソニーのVAIOセンター、富士通などによる共同開発で、アイワ(初代法人)、オリンパス、カシオ計算機、三洋電機、シャープ、ソニーが発表時から協賛していた。
発表当時、既にメモリーカード市場ではコンパクトフラッシュ・スマートメディアなどがシェアを争っていたが、PC周辺機器での使用を前提として開発されたそれらの規格と違い、メモリースティックはさまざまなユーザーが利用することを想定した家電寄りのユニバーサルデザイン的な設計思想が特徴である。「メモリースティック」という規格名は、平易な単語で構成することで非英語話者でも理解しやすいよう試みたもの。
メモリースティックには、他のメモリーカード規格と同様にいくつかのバリエーションがある。まず、電気的仕様の違いから従来型「メモリースティック」系と上位規格「メモリースティック PRO」系に大別される。PRO規格は従来型規格の上位互換となっており、PRO機器では従来型メディアが利用できるが、一方で従来型規格の機器ではPROメディアは利用できない。また、メモリースティックPROにはさらなる拡張規格として、転送速度を強化したメモリースティック PRO-HGと、最大記録容量を強化したメモリースティックXCがある。
次に、物理サイズの違いから標準サイズとDuoサイズ、マイクロサイズの3種類がある。小型タイプのメディアは簡素な構造のアダプタを介することで、より大きいメディアに対応した機器で利用することができる。ただ、機器の小型化に伴って標準サイズのメディアはほとんど利用されなくなっており、現在は実質的にDuoサイズとマイクロサイズのみとなっている。
なお、初期のメモリースティックでは、著作権保護技術『MagicGate』に対応する製品と対応しない製品に分かれていたが、現在はMagicGate機能標準搭載で統一されている。
メモリースティック (Memory Stick) は、メモリースティック開発表明と同時に発表された、最初期の標準規格である。総称としての広義の「メモリースティック」と区別するため「青メモリースティック」「青メモステ」などとも呼ばれる。本項では「従来型メモリースティック」と表記している。
外形寸法は21.5mm×50mm×2.8mmで、長さは単3乾電池と同じに設定されている。ユニバーサルデザイン的な設計思想にもとづき、扱いやすさを考えてこのサイズ・形状にされた。メディア片面の仕上げをザラザラとした手触りにすることで、メディアを見なくても裏表が判断できるような工夫がなされ、また人為的な誤消去を防ぐためミニディスクやフロッピーディスクのような誤消去防止スイッチが設けられている。
接触不良を防ぐため端子数は10ピンにおさえ、指などが直接触れないよう端子をくぼみの奥に配置した。動作電圧は2.7V - 3.6Vとなっている。通信には独自のシリアルプロトコルを採用することで将来的な容量・素子の変更時にも互換性が確保でき、当時スマートメディアなどが頻繁に起こしていた互換性問題にも無縁であるとされた。また、メモリースティックへの静止画、音楽、動画などの記録については個別にアプリケーションフォーマットが規格化されており、メーカーや機器にかかわらず互換性を保つよう務められている。
転送速度は書き込みが最大1.5MB/s、読み出しが最大2.45MB/sである。
外観は、製造メーカーや容量を問わずほとんどの製品が青紫色のカラーリングで統一され、表面にフロッピーディスクと同様のラベル貼付エリアが設けられた。
1998年9月に最初の製品として4MBおよび8MBのメディアが発売され、その後128MBまでの大容量化が行われた。 2000年にソニーが発表したロードマップでは当初少なくとも1GBまでの大容量化が予定されていたが、規格上の問題から製品化できたのは128MBまでにとどまり、256MB以上の大容量メディアは「メモリースティック PRO」という新規格での発売となった。このため256MB相当の代替製品として、128MBメモリを内部に2つ内蔵し、物理的なスイッチで切り替えて使う「メモリースティック(メモリーセレクト機能付)」(Memory Stick Select) が用意された。なおソニーは128MBメモリを4つ内蔵した512MB相当モデルや、メモリとスイッチをさらに増やした大容量モデルも計画していたが、実際の製品化には至っていない。
マジックゲート メモリースティック (MagicGate Memory Stick) は、著作権保護が必要なセキュアデータの取り扱いに対応すべく、著作権保護機能MagicGate機能を搭載したメモリースティックである。MGメモリースティック、MGMSなどとも呼ばれる。MagicGate機能を持たない従来型メモリースティックと区別するために、ホワイトのカラーリングで統一された。MagicGate機能の有無以外の仕様は従来型メモリースティックと同一である。
メモリースティック ウォークマンの発売にあわせ、1999年12月に最初の製品として32MBおよび64MBがソニーから発売され、後に128MBが追加された。しかし、MGメモリースティックはMG非対応のメモリースティックに比べて割高で、MG非対応の青紫色メモリースティックも引き続き併売されたことなどから普及が進まず、また市場にこれら2製品が混在することによる混乱の声も聞かれた。
メモリースティック Duo (Memory Stick Duo) は、2000年4月13日に発表された、小型のメモリースティックである。「メモステDuo」あるいは単に「Duo」などと略される。
携帯電話などの小型機器用途を想定し、外形寸法は20mm×31mm×1.6mmとされた。初期のモデルは裏面に誤消去防止スイッチを搭載していたが、現在はメモリースティックPRO Duoも含めほとんどのモデルで誤消去防止スイッチが省略されている。電気的仕様は標準サイズのメモリースティックと同一であるため、物理サイズを標準サイズに揃えるための簡素な構造のアダプタを使用することにより、標準サイズ用の機器で使用することができるほか、一部にはメモリースティックDuoもアダプターを使わずに挿入できるよう構造が工夫されたスロットもある。
標準サイズのメモリースティック同様、登場初期のモデルはMagicGate機能に対応しておらず、MagicGate対応モデルは2003年2月に「マジックゲート メモリースティック Duo」(MagicGate Memory Stick Duo、MGMS-Duo)として登場した。
メモリースティックDuoの登場当初は、携帯電話やごく小型のデジタルカメラ、携帯音楽プレーヤーなどでのみ使用される特殊規格という位置付けであった。しかし、2005年ごろからは、ある程度の大きさを持つ機器においても、標準サイズをあえてサポートせずにDuoサイズのみ対応とする傾向が強くなり、標準サイズのメディアが販売されなくなった2007年ごろからはDuoサイズが事実上の標準メディアとなっている。
なお、標準サイズのメモリースティックと電気的仕様が同じであることから、Duoサイズも容量は128MBまでにとどまり、256MB以上の大容量メディアは「メモリースティック PRO Duo」という新規格での展開となった。
MagicGate機能の有無で複雑化していたラインナップの整理と、登場初期の仕様のままだった転送速度の向上のため、メモリースティックおよびMGメモリースティックは2004年5月に、メモリースティックDuoおよびMGメモリースティックDuoは2003年9月に、順次「メモリースティック(マジックゲート/高速データ転送対応)」へと切り替えられた。
本モデルではMagicGate機能を標準で搭載するとともに、メモリースティックPROと同様のパラレルデータ転送に対応し最大転送速度を160Mbpsへと引き上げた(ただし、これはあくまで理論値であり、実測値ではメモリースティックPROに及んでいない。また機器側もパラレル転送に対応する必要がある)。外形寸法はMGメモリースティックおよび同Duoと同一であり、仕様上の違いは転送速度のみとなっている。
本モデルのカラーリングは紺色で統一された(限定カラーモデルなど一部を除く)。
なお、メモリースティック規格自体に変更は加えられなかったため、一部サードパーティーの製品ではその後もMagicGate非対応のメモリースティックが残っていた時期があった。
メモリースティック PRO (Memory Stick PRO) は、サンディスクとソニーの共同開発により2003年1月10日に発表された、メモリースティックの上位規格である。メモステPRO、MS-PROなどと略される。 外形寸法は従来型メモリースティックと同じ21.5mm×50mm×2.8mmだが、従来型でラベル貼付エリアがあった部分に凹型のくぼみが設けられ、ユーザーが両者を識別しやすくなっている。なお、従来型メモリースティックおよびメモリースティックDuoに設けられていた誤消去防止スイッチはオプションとなったため、一部のメディアには備えられていない。
メモリースティックPROの「PRO」は、“Progressive”、“Professional”、“Protection”に由来し、従来型メモリースティックと比べて、最大容量の拡大、転送速度の向上、著作権保護技術MagicGate機能の強化、の3点が柱となっている。
まず、従来型メモリースティックでは最大容量が128MBにとどまっていたが、ファイルシステムとして新たにFAT32を採用したことなどから規格上の最大容量は32GBとなった。ファイルシステム上は従来のFAT16でも2GBまでの容量が実現可能であるため、本来であれば256MBというタイミングで規格を変更する必要はない。この点についてソニーによれば、論理アドレスおよび物理アドレスのマッピングの仕様をメモリースティックPROで変更したとしていることから、256MB以上の容量ではマッピングの仕様に問題が生じたとみられている。
次に転送速度については、最大転送速度を160Mbpsに引き上げるとともに、これまでにはなかった「最低速度保証」を導入することで、最適化された機器との組み合わせにおいて最低15Mbpsの転送速度を確保した。これにより、動画のリアルタイム記録などにも余裕をもって対応できるようになった。また、実際に利用できるユーザー領域に加えてシステムファイル領域を設けており、そこに一定間隔で管理データを書き込むことで動画記録中に突然メディアが抜かれたり電源が落ちたりした場合でも、データの喪失を最低限に抑えることができる。
そして、従来はオプション扱いだったMagicGate機能を全モデルで標準搭載とすることでラインナップの単純化を図り、アクセスコントロール機能など保護機能自体も強化された。
なお、発売当初は10MB/sの高速転送に対応したソニー製メモリースティックPROメディアがフラッシュメモリの供給状況の影響を受け、発売延期・生産終了・再発売などの発表が短期間に連続して行われる、大容量メディアと一部旧機器の間で互換性問題が発生するなど、いくつかの混乱が散見された。
機器の小型化の進行に伴い、次第に標準サイズからDuoサイズへ需要が移行したことなどから、標準サイズは4GBモデルをもって製品化が打ち切られ、以後の新規格はDuoサイズまたはマイクロサイズのみで展開されている。
従来型メモリースティックとは上位互換となっており、メモリースティックPRO対応機器では従来型メモリースティックも使用できるが、逆に従来型メモリースティック機器でメモリースティックPROメディアを使用することはできない。ソニーは混乱を避けるためメモリースティックPROメディアの容量は256MBを下限とし、128MBまでは従来型メモリースティックメディアのみとした。ただしこれは規格上の制限ではないため、過去にはサンディスクなど一部のメーカーが256MB未満の小容量メモリースティックPROメディアも生産していた。
また、MagicGate機能が強化されたことから、従来型メモリースティックのMagicGate機能とメモリースティックPROのMagicGate機能との間にも互換性がなく、当初はDRMのかかった音楽配信コンテンツやSonicStageでリッピングした楽曲ファイルは、従来の「マジックゲートメモリースティック」しか利用できず、メモリースティックPROの大容量を活かせなかった。最終的にメモリースティックPROのMagicGateへの対応は、2005年7月のPSPのシステムアップデートおよび同時期発売のVAIOからとなった。
ソニーが将来的に想定しているメモリースティックPRO独自の利用法として「アクセスコントロール機能(仮称)」がある。これは機能が強化されたメモリースティックPROのMagicGate機能を応用したもので、専用のロック装置(アクセスコントローラー)に挿入することでメディア内容の一括暗号化が行える。復号には、暗号化に使ったコントローラーが必要となるが、あらかじめ暗号化キーの複製作業を行うことで複数のコントローラーで暗号化メディアの共有も可能になる。長らく本機能を使用したメモリースティックは商品化されなかったが、2012年11月発売のミラーリングメモリースティックに、これと同様の機能(機器限定モード)が搭載された。
メモリースティック PRO Duo (Memory Stick PRO Duo) は、2003年8月19日に発表された小型のメモリースティックPROである。「メモステPRO Duo」もしくは単に「PRO Duo」などと略される。
外形寸法はメモリースティックDuoと同一のDuoサイズであり、電気的仕様はメモリースティックPROと同一である。アダプターを介することで標準サイズ用の機器で使用することができるほか、一部にはメモリースティックDuoもアダプターを使わずに挿入できるよう構造が工夫されたスロットもある。
ソニー・コンピュータエンタテインメントが発売した携帯ゲーム機「PlayStation Portable」(PSP) の記録メディアとして採用されたことで大きく普及した。標準サイズのメディアが販売されなくなった2007年ごろからはDuoサイズが事実上の標準となっており、また容量的に128MB以下はあまり扱われなくなったことから、現在は単に「メモリースティック」と言えばこのメモリースティックPRO Duoを指すことが多い。
2009年に規格上の上限容量である32GBまで到達、製品化された。32GBを超える容量はメモリースティックXC Duoでの展開となる。
最低保証速度を15Mbpsから32Mbpsに高速化して、AVCHDによるハイビジョン映像を安定して書き込めるメディアには「MARK2」のロゴが付いている。
メモリースティック マイクロ (Memory Stick Micro) は、メモリースティックPRO Duoよりさらに小型化したメモリースティックPROである。サンディスクおよびソニーによって2005年9月30日に発表された。略称はMemory Stick Microから略してMM、転じてM2となる。
外形寸法は12.5mm×15mm×1.2mm。携帯電話などの小型機器向けに開発されたメディアで、体積ではメモリースティック PRO Duoの4分の1程度となる。頻繁な交換を行う用途ではなく、内蔵メモリのようにほぼ挿しっぱなしでの使用を想定している。
電気的仕様はメモリースティックPRO、同PRO Duoと互換性を持ち、Duoサイズや標準サイズに変換するアダプタも用意される。なお動作電圧は従来の2.7 - 3.6Vに加え、より低電圧の1.7 - 1.95Vにも対応した。また、接続端子は標準サイズ、Duoサイズの各メディアより1ピン増えた11ピンとなっている。
2006年上半期より発売が開始されたものの、当初は海外市場向けソニー・エリクソン製携帯電話での利用がほとんどであった。日本国内向けでは2007年にau(KDDI/沖縄セルラー電話)向けのW52S(ウォークマンケータイ)、2009年よりPlayStation Portable goやリニアPCMに対応したICレコーダー「PCM-M10」といった採用機器が発売された。
2009年に16GBまで製品化されている。
メモリースティック PRO-HG (Memory Stick PRO-HG) は、サンディスクとソニーの共同開発により2006年12月11日に発表されたメモリースティックPROの拡張規格である。仕様上標準サイズは用意されておらず、Duoサイズとマイクロサイズのみである。
従来のメモリースティックPROと比較して転送速度が大きく向上しており、PROでは4bitパラレル転送・クロック周波数40MHz・最大転送単位512Byteだったのに対し、PRO-HGでは8bitパラレル転送・クロック周波数60MHz・最大転送単位2048Byteとなっている。これにより規格上の最大転送速度は480Mbps(60MB/s)、最低保証速度は8bitパラレル転送時で120Mbps(15MB/s)、4bitパラレル転送時で40Mbps(5MB/s)と大幅に引き上げられている。
メモリースティック PRO-HG Duo (Memory Stick PRO-HG Duo) は、PRO-HG規格公表と同時に発表された、高速データ転送対応のメモリースティックPRO Duoである。基本仕様や外形寸法はメモリースティックPRO Duoと同一であるが、端子数はPRO Duoの10ピンから14ピンに増えている。増加分のピンは従来のピンを前後2分割する形で配置したため、端子形状は従来のメモリースティックPROと同一である。そのため、PRO-HG対応機器で従来のメモリースティックPROを使用でき、従来のメモリースティックPRO対応機器でPRO-HGを使うことも出来る(後者の場合、転送速度はHG対応機器で使用した場合よりも落ちる)。
2007年8月より1GB、2GB、4GBの3タイプが発売され、2009年に規格上の上限容量である32GBまで到達、製品化された。32GBを超える容量については、後継規格であるメモリースティックXC-HG Duoでの展開となる。
メモリースティック HG マイクロ (Memory Stick HG Micro) は、2009年1月に発表された、高速データ転送対応のメモリースティックマイクロである。略称はM2-HG。M2の端子数が11ピンであるのに対し、M2-HGは20ピンとなっている。
規格が発表されて以降、具体的な製品化の発表は行われていない。
メモリースティックXC (Memory Stick XC) は、従来のメモリースティックPROの最大記録容量を拡張するために策定された、メモリースティックPROの拡張規格である。2009年1月に「メモリースティック高容量向け拡張フォーマット(仮称)」としてソニーとサンディスクが発表し、2009年8月に正式名称や仕様が公開された。仕様上標準サイズは用意されず、Duoサイズとマイクロサイズのみである。
メモリースティックPROはファイルシステムとしてFAT16またはFAT32を採用していたことなどから、規格上の最大容量は32GBとなっていた。しかし、デジタルカメラの高画素化やHD動画撮影機能の登場によって、更なる大容量化が求められるようになったため、ファイルシステムとして新たにexFATを採用し最大記録容量を2TBとした。ファイルシステムと最大記録容量以外は従来のメモリースティックPRO規格と同一である。PCで先行して普及していたFAT32とは違い、当時はまだexFATに対応する環境は限られていたが、やがて対応が図られたことで多くの環境で読み書きが可能になっていった。
メモリースティックXC Duo (Memory Stick XC Duo) は、メモリースティック XC仕様公開と同時に発表された、メモリースティックPRO Duoの高容量版である。規格が発表されて以降、具体的な製品化の発表は行われていない。
メモリースティックXC-HG Duo (Memory Stick XC-HG Duo) は、メモリースティック XC仕様公開と同時に発表された、メモリースティックPRO-HG Duoの高容量版である。8bitパラレルデータ転送にも対応する。
規格の発表後長らく製品化されていなかったが、2012年11月にミラーリングメモリースティックとして64GBタイプが発売された。
メモリースティックXC マイクロ (Memory Stick XC Micro) は、メモリースティック XC仕様公開と同時に発表された、メモリースティックマイクロの高容量版である。略称はM2 XC。規格が発表されて以降、具体的な製品化の発表は行われていない。
メモリースティックXC-HG マイクロ (Memory Stick XC-HG Micro) は、メモリースティック XC仕様公開と同時に発表された、メモリースティック HG マイクロの高容量版である。略称はM2 XC-HG。8bitパラレルデータ転送にも対応する。規格が発表されて以降、具体的な製品化の発表は行われていない。
メモリースティック-ROMは、2001年に発表された、コンテンツの配布用途などを想定したデータの読み出し専用のメモリースティックである。
2004年ごろから、BBeB Dictionary規格の辞書データが入ったタイプがソニーから販売されており、同社の電子辞書やLIBRIe、CLIEの各対応機種などで利用できる。しかし、現在はソニーが電子辞書やCLIE事業から撤退したため、新たなBBeB Dictionary規格のメモリースティック-ROMは発売されていない。
また、2006年度より行われている大学入試センター試験の英語リスニング試験に「メモリースティック-ROM」と専用のICプレーヤーが採用されていた(2010年からはSDカードに変更)。
2002年6月3日、ライトワンス型の「メモリースティック-R(仮称)」の開発表明が行われたが、製品化には至っていない。
メモリースティック I/O拡張モジュールは、メモリースティックのI/Oインターフェース規格である。日本で販売されたモジュール機器としては、ソニーがCLIE向けに販売したBluetoothモジュール、カメラモジュール、GPSモジュール、指紋照合モジュールなどがある。また、メモリースティック PROをベースにし、パラレル高速転送に対応した「メモリースティック PRO I/O拡張モジュール」規格も存在する。
近距離無線転送技術「TransferJet」の機能をカード本体に内蔵したメモリースティックである。対応機器に挿入すると、かざすだけでTransferJetによるワイヤレス転送が可能になる。2010年1月にPRO-HG Duoの8GBが発表されている。
記憶領域を二重化する「ミラーリング機能」や、記憶領域を暗号化してアクセスコントロールできる「機器限定モード」に対応した、業務用途向けのメモリースティックである。
2012年11月に16GBと32GBタイプがPRO-HG Duoとして、64GBタイプがXC-HG Duoとして発売された。
記憶領域を2分割し、各領域に同じ内容のデータを同時記録することにより、不測のデータ消失による損害を回避して安定したデータ記録を行う機能である。2分割するため、ユーザーが記録できる容量は半分となる。ミラーリング機能をオフにして全領域をフルに使用することもできる。
記憶領域へのアクセスを、事前に設定したPCもしくは本モードに対応した機器のみに限定する機能である。メモリースティックの紛失などによって第三者にデータを読み取られるリスクを最小限に抑えることが可能である。
PC用の変換アダプターとしては、フロッピーディスク用のアダプターやPCカードアダプター、ExpressCardアダプターがある。
他のメモリーカード規格への変換アダプターとしては、2003年からメモリースティックDuoをコンパクトフラッシュとして使用できるCFスロット用のアダプターがソニーから発売されている。
また、他のメモリーカードをメモリースティック規格へ変換するアダプタとしては、2006年後半ごろから、microSDをメモリースティックDuoとして利用できる変換アダプターが販売されている。ただし、このアダプターはメモリースティック規格を策定・運用する正規メーカーが用意したものではないため、カードと機器の組み合わせによっては正常に使用できないこともある。加えて、メモリースティックの著作権保護機能MagicGateとSDメモリーカードの著作権保護機能CPRMとは互換性がなく、著作権保護機能を利用するデータやPSPでの番組録画には使用できない。
メモリースティックに記録するうえで互換性を確保するため、音楽や動画、静止画などはフォーマットが定められている。
デジタルカメラ等で静止画を記録する際に用いられる。DCF規格に準拠。
カーナビやGPSロガーなどで移動軌跡や経路情報を記録する際に用いられる。
メモリースティック規格の立ち上げ当初は、その機能や設計思想などが評価され、多くのサードパーティーを味方に既存規格のコンパクトフラッシュ・スマートメディアからシェアを奪っていった。メモリースティック専用スロットはデジタルカメラや静止画記録対応のビデオカメラ、パーソナルコンピュータのほか、ペットロボットAIBOなど多様な製品に搭載された。
しかし2000年代になって、後発のSDメモリーカードとの競争で苦戦を強いられる。メモリースティックDuoをセーブデータやファイルの保存に利用する携帯型ゲーム機PlayStation Portable(PSP)の登場、半導体価格の下落などに伴う製品価格の低下により、若干ではあるが状況に改善が見られたものの、2005年ごろから携帯電話でのminiSDやmicroSD規格の採用が急増したこともあり、メモリースティック系列全体のシェアはメモリーカード市場では全体の1割強ほどにとどまり、業界2位ではあるものの、6割を占めるSD陣営に対して大きく水をあけられる状況となった。
2010年代になると、殆どのパソコンにおいて、メモリースティックやSDカードなど複数の規格に対応したマルチリーダーが採用されており、ソニーグループの製品でもVAIOやサイバーショット(2010年モデル以降)、日本国内向け携帯電話などがSDカード系にも対応するほか、2010年にはついにソニー自身が自社ブランドのSDメモリーカードの販売に踏み切った。また2011年には、メモリースティックに対応しないソニーグループの製品が登場し始めたことで、「脱メモリースティック」の流れは決定的となった。同年に発売されたPSP後継のPlayStation Vitaがメモリースティックではなく独自仕様の専用メモリーカードを採用したことも、この流れを後押しした。
なお、メモリースティックの製造はその後も継続しているが、事実上メモリースティックのみに対応する旧製品ユーザー向けの供給となっている。ソニー製品(とくにサイバーショット、ハンディカム)については、SDメモリーカードを主軸としつつ、メモリースティックとSDメモリーカードのデュアルスロットを搭載することで、2015年現在でも、メモリースティックのサポートを続けている。
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"text": "メモリースティック (Memory Stick) は、かつてソニー製を中心とするデジタルカメラやデジタルオーディオプレーヤー、携帯電話、携帯ゲーム機などの記録媒体として利用されていたフラッシュメモリを用いた小型メモリーカード、およびその関連規格・製品群の総称である。省略して「メモステ」「MS」などとも呼ばれる。1997年に発表されたが、すぐに競合規格であるSDメモリーカードに後塵を拝するようになった。",
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"text": "本モデルではMagicGate機能を標準で搭載するとともに、メモリースティックPROと同様のパラレルデータ転送に対応し最大転送速度を160Mbpsへと引き上げた(ただし、これはあくまで理論値であり、実測値ではメモリースティックPROに及んでいない。また機器側もパラレル転送に対応する必要がある)。外形寸法はMGメモリースティックおよび同Duoと同一であり、仕様上の違いは転送速度のみとなっている。",
"title": "メモリースティック"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "本モデルのカラーリングは紺色で統一された(限定カラーモデルなど一部を除く)。",
"title": "メモリースティック"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "なお、メモリースティック規格自体に変更は加えられなかったため、一部サードパーティーの製品ではその後もMagicGate非対応のメモリースティックが残っていた時期があった。",
"title": "メモリースティック"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "メモリースティック PRO (Memory Stick PRO) は、サンディスクとソニーの共同開発により2003年1月10日に発表された、メモリースティックの上位規格である。メモステPRO、MS-PROなどと略される。 外形寸法は従来型メモリースティックと同じ21.5mm×50mm×2.8mmだが、従来型でラベル貼付エリアがあった部分に凹型のくぼみが設けられ、ユーザーが両者を識別しやすくなっている。なお、従来型メモリースティックおよびメモリースティックDuoに設けられていた誤消去防止スイッチはオプションとなったため、一部のメディアには備えられていない。",
"title": "メモリースティック PRO"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "メモリースティックPROの「PRO」は、“Progressive”、“Professional”、“Protection”に由来し、従来型メモリースティックと比べて、最大容量の拡大、転送速度の向上、著作権保護技術MagicGate機能の強化、の3点が柱となっている。",
"title": "メモリースティック PRO"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "まず、従来型メモリースティックでは最大容量が128MBにとどまっていたが、ファイルシステムとして新たにFAT32を採用したことなどから規格上の最大容量は32GBとなった。ファイルシステム上は従来のFAT16でも2GBまでの容量が実現可能であるため、本来であれば256MBというタイミングで規格を変更する必要はない。この点についてソニーによれば、論理アドレスおよび物理アドレスのマッピングの仕様をメモリースティックPROで変更したとしていることから、256MB以上の容量ではマッピングの仕様に問題が生じたとみられている。",
"title": "メモリースティック PRO"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "次に転送速度については、最大転送速度を160Mbpsに引き上げるとともに、これまでにはなかった「最低速度保証」を導入することで、最適化された機器との組み合わせにおいて最低15Mbpsの転送速度を確保した。これにより、動画のリアルタイム記録などにも余裕をもって対応できるようになった。また、実際に利用できるユーザー領域に加えてシステムファイル領域を設けており、そこに一定間隔で管理データを書き込むことで動画記録中に突然メディアが抜かれたり電源が落ちたりした場合でも、データの喪失を最低限に抑えることができる。",
"title": "メモリースティック PRO"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "そして、従来はオプション扱いだったMagicGate機能を全モデルで標準搭載とすることでラインナップの単純化を図り、アクセスコントロール機能など保護機能自体も強化された。",
"title": "メモリースティック PRO"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "なお、発売当初は10MB/sの高速転送に対応したソニー製メモリースティックPROメディアがフラッシュメモリの供給状況の影響を受け、発売延期・生産終了・再発売などの発表が短期間に連続して行われる、大容量メディアと一部旧機器の間で互換性問題が発生するなど、いくつかの混乱が散見された。",
"title": "メモリースティック PRO"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "機器の小型化の進行に伴い、次第に標準サイズからDuoサイズへ需要が移行したことなどから、標準サイズは4GBモデルをもって製品化が打ち切られ、以後の新規格はDuoサイズまたはマイクロサイズのみで展開されている。",
"title": "メモリースティック PRO"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "従来型メモリースティックとは上位互換となっており、メモリースティックPRO対応機器では従来型メモリースティックも使用できるが、逆に従来型メモリースティック機器でメモリースティックPROメディアを使用することはできない。ソニーは混乱を避けるためメモリースティックPROメディアの容量は256MBを下限とし、128MBまでは従来型メモリースティックメディアのみとした。ただしこれは規格上の制限ではないため、過去にはサンディスクなど一部のメーカーが256MB未満の小容量メモリースティックPROメディアも生産していた。",
"title": "メモリースティック PRO"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "また、MagicGate機能が強化されたことから、従来型メモリースティックのMagicGate機能とメモリースティックPROのMagicGate機能との間にも互換性がなく、当初はDRMのかかった音楽配信コンテンツやSonicStageでリッピングした楽曲ファイルは、従来の「マジックゲートメモリースティック」しか利用できず、メモリースティックPROの大容量を活かせなかった。最終的にメモリースティックPROのMagicGateへの対応は、2005年7月のPSPのシステムアップデートおよび同時期発売のVAIOからとなった。",
"title": "メモリースティック PRO"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ソニーが将来的に想定しているメモリースティックPRO独自の利用法として「アクセスコントロール機能(仮称)」がある。これは機能が強化されたメモリースティックPROのMagicGate機能を応用したもので、専用のロック装置(アクセスコントローラー)に挿入することでメディア内容の一括暗号化が行える。復号には、暗号化に使ったコントローラーが必要となるが、あらかじめ暗号化キーの複製作業を行うことで複数のコントローラーで暗号化メディアの共有も可能になる。長らく本機能を使用したメモリースティックは商品化されなかったが、2012年11月発売のミラーリングメモリースティックに、これと同様の機能(機器限定モード)が搭載された。",
"title": "メモリースティック PRO"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "メモリースティック PRO Duo (Memory Stick PRO Duo) は、2003年8月19日に発表された小型のメモリースティックPROである。「メモステPRO Duo」もしくは単に「PRO Duo」などと略される。",
"title": "メモリースティック PRO"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "外形寸法はメモリースティックDuoと同一のDuoサイズであり、電気的仕様はメモリースティックPROと同一である。アダプターを介することで標準サイズ用の機器で使用することができるほか、一部にはメモリースティックDuoもアダプターを使わずに挿入できるよう構造が工夫されたスロットもある。",
"title": "メモリースティック PRO"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ソニー・コンピュータエンタテインメントが発売した携帯ゲーム機「PlayStation Portable」(PSP) の記録メディアとして採用されたことで大きく普及した。標準サイズのメディアが販売されなくなった2007年ごろからはDuoサイズが事実上の標準となっており、また容量的に128MB以下はあまり扱われなくなったことから、現在は単に「メモリースティック」と言えばこのメモリースティックPRO Duoを指すことが多い。",
"title": "メモリースティック PRO"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2009年に規格上の上限容量である32GBまで到達、製品化された。32GBを超える容量はメモリースティックXC Duoでの展開となる。",
"title": "メモリースティック PRO"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "最低保証速度を15Mbpsから32Mbpsに高速化して、AVCHDによるハイビジョン映像を安定して書き込めるメディアには「MARK2」のロゴが付いている。",
"title": "メモリースティック PRO"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "メモリースティック マイクロ (Memory Stick Micro) は、メモリースティックPRO Duoよりさらに小型化したメモリースティックPROである。サンディスクおよびソニーによって2005年9月30日に発表された。略称はMemory Stick Microから略してMM、転じてM2となる。",
"title": "メモリースティック PRO"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "外形寸法は12.5mm×15mm×1.2mm。携帯電話などの小型機器向けに開発されたメディアで、体積ではメモリースティック PRO Duoの4分の1程度となる。頻繁な交換を行う用途ではなく、内蔵メモリのようにほぼ挿しっぱなしでの使用を想定している。",
"title": "メモリースティック PRO"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "電気的仕様はメモリースティックPRO、同PRO Duoと互換性を持ち、Duoサイズや標準サイズに変換するアダプタも用意される。なお動作電圧は従来の2.7 - 3.6Vに加え、より低電圧の1.7 - 1.95Vにも対応した。また、接続端子は標準サイズ、Duoサイズの各メディアより1ピン増えた11ピンとなっている。",
"title": "メモリースティック PRO"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2006年上半期より発売が開始されたものの、当初は海外市場向けソニー・エリクソン製携帯電話での利用がほとんどであった。日本国内向けでは2007年にau(KDDI/沖縄セルラー電話)向けのW52S(ウォークマンケータイ)、2009年よりPlayStation Portable goやリニアPCMに対応したICレコーダー「PCM-M10」といった採用機器が発売された。",
"title": "メモリースティック PRO"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2009年に16GBまで製品化されている。",
"title": "メモリースティック PRO"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "メモリースティック PRO-HG (Memory Stick PRO-HG) は、サンディスクとソニーの共同開発により2006年12月11日に発表されたメモリースティックPROの拡張規格である。仕様上標準サイズは用意されておらず、Duoサイズとマイクロサイズのみである。",
"title": "メモリースティック PRO-HG"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "従来のメモリースティックPROと比較して転送速度が大きく向上しており、PROでは4bitパラレル転送・クロック周波数40MHz・最大転送単位512Byteだったのに対し、PRO-HGでは8bitパラレル転送・クロック周波数60MHz・最大転送単位2048Byteとなっている。これにより規格上の最大転送速度は480Mbps(60MB/s)、最低保証速度は8bitパラレル転送時で120Mbps(15MB/s)、4bitパラレル転送時で40Mbps(5MB/s)と大幅に引き上げられている。",
"title": "メモリースティック PRO-HG"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "メモリースティック PRO-HG Duo (Memory Stick PRO-HG Duo) は、PRO-HG規格公表と同時に発表された、高速データ転送対応のメモリースティックPRO Duoである。基本仕様や外形寸法はメモリースティックPRO Duoと同一であるが、端子数はPRO Duoの10ピンから14ピンに増えている。増加分のピンは従来のピンを前後2分割する形で配置したため、端子形状は従来のメモリースティックPROと同一である。そのため、PRO-HG対応機器で従来のメモリースティックPROを使用でき、従来のメモリースティックPRO対応機器でPRO-HGを使うことも出来る(後者の場合、転送速度はHG対応機器で使用した場合よりも落ちる)。",
"title": "メモリースティック PRO-HG"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2007年8月より1GB、2GB、4GBの3タイプが発売され、2009年に規格上の上限容量である32GBまで到達、製品化された。32GBを超える容量については、後継規格であるメモリースティックXC-HG Duoでの展開となる。",
"title": "メモリースティック PRO-HG"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "メモリースティック HG マイクロ (Memory Stick HG Micro) は、2009年1月に発表された、高速データ転送対応のメモリースティックマイクロである。略称はM2-HG。M2の端子数が11ピンであるのに対し、M2-HGは20ピンとなっている。",
"title": "メモリースティック PRO-HG"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "規格が発表されて以降、具体的な製品化の発表は行われていない。",
"title": "メモリースティック PRO-HG"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "メモリースティックXC (Memory Stick XC) は、従来のメモリースティックPROの最大記録容量を拡張するために策定された、メモリースティックPROの拡張規格である。2009年1月に「メモリースティック高容量向け拡張フォーマット(仮称)」としてソニーとサンディスクが発表し、2009年8月に正式名称や仕様が公開された。仕様上標準サイズは用意されず、Duoサイズとマイクロサイズのみである。",
"title": "メモリースティック XC"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "メモリースティックPROはファイルシステムとしてFAT16またはFAT32を採用していたことなどから、規格上の最大容量は32GBとなっていた。しかし、デジタルカメラの高画素化やHD動画撮影機能の登場によって、更なる大容量化が求められるようになったため、ファイルシステムとして新たにexFATを採用し最大記録容量を2TBとした。ファイルシステムと最大記録容量以外は従来のメモリースティックPRO規格と同一である。PCで先行して普及していたFAT32とは違い、当時はまだexFATに対応する環境は限られていたが、やがて対応が図られたことで多くの環境で読み書きが可能になっていった。",
"title": "メモリースティック XC"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "メモリースティックXC Duo (Memory Stick XC Duo) は、メモリースティック XC仕様公開と同時に発表された、メモリースティックPRO Duoの高容量版である。規格が発表されて以降、具体的な製品化の発表は行われていない。",
"title": "メモリースティック XC"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "メモリースティックXC-HG Duo (Memory Stick XC-HG Duo) は、メモリースティック XC仕様公開と同時に発表された、メモリースティックPRO-HG Duoの高容量版である。8bitパラレルデータ転送にも対応する。",
"title": "メモリースティック XC"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "規格の発表後長らく製品化されていなかったが、2012年11月にミラーリングメモリースティックとして64GBタイプが発売された。",
"title": "メモリースティック XC"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "メモリースティックXC マイクロ (Memory Stick XC Micro) は、メモリースティック XC仕様公開と同時に発表された、メモリースティックマイクロの高容量版である。略称はM2 XC。規格が発表されて以降、具体的な製品化の発表は行われていない。",
"title": "メモリースティック XC"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "メモリースティックXC-HG マイクロ (Memory Stick XC-HG Micro) は、メモリースティック XC仕様公開と同時に発表された、メモリースティック HG マイクロの高容量版である。略称はM2 XC-HG。8bitパラレルデータ転送にも対応する。規格が発表されて以降、具体的な製品化の発表は行われていない。",
"title": "メモリースティック XC"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "メモリースティック-ROMは、2001年に発表された、コンテンツの配布用途などを想定したデータの読み出し専用のメモリースティックである。",
"title": "特殊なメモリースティック"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "2004年ごろから、BBeB Dictionary規格の辞書データが入ったタイプがソニーから販売されており、同社の電子辞書やLIBRIe、CLIEの各対応機種などで利用できる。しかし、現在はソニーが電子辞書やCLIE事業から撤退したため、新たなBBeB Dictionary規格のメモリースティック-ROMは発売されていない。",
"title": "特殊なメモリースティック"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "また、2006年度より行われている大学入試センター試験の英語リスニング試験に「メモリースティック-ROM」と専用のICプレーヤーが採用されていた(2010年からはSDカードに変更)。",
"title": "特殊なメモリースティック"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2002年6月3日、ライトワンス型の「メモリースティック-R(仮称)」の開発表明が行われたが、製品化には至っていない。",
"title": "特殊なメモリースティック"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "メモリースティック I/O拡張モジュールは、メモリースティックのI/Oインターフェース規格である。日本で販売されたモジュール機器としては、ソニーがCLIE向けに販売したBluetoothモジュール、カメラモジュール、GPSモジュール、指紋照合モジュールなどがある。また、メモリースティック PROをベースにし、パラレル高速転送に対応した「メモリースティック PRO I/O拡張モジュール」規格も存在する。",
"title": "特殊なメモリースティック"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "近距離無線転送技術「TransferJet」の機能をカード本体に内蔵したメモリースティックである。対応機器に挿入すると、かざすだけでTransferJetによるワイヤレス転送が可能になる。2010年1月にPRO-HG Duoの8GBが発表されている。",
"title": "特殊なメモリースティック"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "記憶領域を二重化する「ミラーリング機能」や、記憶領域を暗号化してアクセスコントロールできる「機器限定モード」に対応した、業務用途向けのメモリースティックである。",
"title": "特殊なメモリースティック"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "2012年11月に16GBと32GBタイプがPRO-HG Duoとして、64GBタイプがXC-HG Duoとして発売された。",
"title": "特殊なメモリースティック"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "記憶領域を2分割し、各領域に同じ内容のデータを同時記録することにより、不測のデータ消失による損害を回避して安定したデータ記録を行う機能である。2分割するため、ユーザーが記録できる容量は半分となる。ミラーリング機能をオフにして全領域をフルに使用することもできる。",
"title": "特殊なメモリースティック"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "記憶領域へのアクセスを、事前に設定したPCもしくは本モードに対応した機器のみに限定する機能である。メモリースティックの紛失などによって第三者にデータを読み取られるリスクを最小限に抑えることが可能である。",
"title": "特殊なメモリースティック"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "PC用の変換アダプターとしては、フロッピーディスク用のアダプターやPCカードアダプター、ExpressCardアダプターがある。",
"title": "特殊なメモリースティック"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "他のメモリーカード規格への変換アダプターとしては、2003年からメモリースティックDuoをコンパクトフラッシュとして使用できるCFスロット用のアダプターがソニーから発売されている。",
"title": "特殊なメモリースティック"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "また、他のメモリーカードをメモリースティック規格へ変換するアダプタとしては、2006年後半ごろから、microSDをメモリースティックDuoとして利用できる変換アダプターが販売されている。ただし、このアダプターはメモリースティック規格を策定・運用する正規メーカーが用意したものではないため、カードと機器の組み合わせによっては正常に使用できないこともある。加えて、メモリースティックの著作権保護機能MagicGateとSDメモリーカードの著作権保護機能CPRMとは互換性がなく、著作権保護機能を利用するデータやPSPでの番組録画には使用できない。",
"title": "特殊なメモリースティック"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "メモリースティックに記録するうえで互換性を確保するため、音楽や動画、静止画などはフォーマットが定められている。",
"title": "アプリケーションフォーマット"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "デジタルカメラ等で静止画を記録する際に用いられる。DCF規格に準拠。",
"title": "アプリケーションフォーマット"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "カーナビやGPSロガーなどで移動軌跡や経路情報を記録する際に用いられる。",
"title": "アプリケーションフォーマット"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "メモリースティック規格の立ち上げ当初は、その機能や設計思想などが評価され、多くのサードパーティーを味方に既存規格のコンパクトフラッシュ・スマートメディアからシェアを奪っていった。メモリースティック専用スロットはデジタルカメラや静止画記録対応のビデオカメラ、パーソナルコンピュータのほか、ペットロボットAIBOなど多様な製品に搭載された。",
"title": "メモリーカード市場シェアの変遷"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "しかし2000年代になって、後発のSDメモリーカードとの競争で苦戦を強いられる。メモリースティックDuoをセーブデータやファイルの保存に利用する携帯型ゲーム機PlayStation Portable(PSP)の登場、半導体価格の下落などに伴う製品価格の低下により、若干ではあるが状況に改善が見られたものの、2005年ごろから携帯電話でのminiSDやmicroSD規格の採用が急増したこともあり、メモリースティック系列全体のシェアはメモリーカード市場では全体の1割強ほどにとどまり、業界2位ではあるものの、6割を占めるSD陣営に対して大きく水をあけられる状況となった。",
"title": "メモリーカード市場シェアの変遷"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "2010年代になると、殆どのパソコンにおいて、メモリースティックやSDカードなど複数の規格に対応したマルチリーダーが採用されており、ソニーグループの製品でもVAIOやサイバーショット(2010年モデル以降)、日本国内向け携帯電話などがSDカード系にも対応するほか、2010年にはついにソニー自身が自社ブランドのSDメモリーカードの販売に踏み切った。また2011年には、メモリースティックに対応しないソニーグループの製品が登場し始めたことで、「脱メモリースティック」の流れは決定的となった。同年に発売されたPSP後継のPlayStation Vitaがメモリースティックではなく独自仕様の専用メモリーカードを採用したことも、この流れを後押しした。",
"title": "メモリーカード市場シェアの変遷"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "なお、メモリースティックの製造はその後も継続しているが、事実上メモリースティックのみに対応する旧製品ユーザー向けの供給となっている。ソニー製品(とくにサイバーショット、ハンディカム)については、SDメモリーカードを主軸としつつ、メモリースティックとSDメモリーカードのデュアルスロットを搭載することで、2015年現在でも、メモリースティックのサポートを続けている。",
"title": "メモリーカード市場シェアの変遷"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "このほか、メモリースティックは切手ほどの大きさであることから安価な密輸が容易であるという特徴があり、インターネットオークションなどでソニーなど大手メーカーのロゴやパッケージを盗用した日本国外産のコピー商品が大量に出回っているという問題が報道されている。",
"title": "メモリーカード市場シェアの変遷"
}
] | メモリースティック は、かつてソニー製を中心とするデジタルカメラやデジタルオーディオプレーヤー、携帯電話、携帯ゲーム機などの記録媒体として利用されていたフラッシュメモリを用いた小型メモリーカード、およびその関連規格・製品群の総称である。省略して「メモステ」「MS」などとも呼ばれる。1997年に発表されたが、すぐに競合規格であるSDメモリーカードに後塵を拝するようになった。 | {{Otheruses|ソニーが提唱したメモリーカードの規格・製品群|一般名詞としてのメモリーカード|メモリーカード}}
[[Image:MSst_duo_m2.jpg|thumb|200px|各種メモリースティック製品。上から標準サイズ、Duoサイズ、マイクロサイズ。]]
'''メモリースティック''' (Memory Stick) は、かつて[[ソニー]]製を中心とする[[デジタルカメラ]]や[[デジタルオーディオプレーヤー]]、[[携帯電話]]、[[PlayStation Portable|携帯ゲーム機]]などの[[記録媒体]]として利用されていた[[フラッシュメモリ]]を用いた小型[[メモリーカード]]、およびその関連規格・製品群の総称である。省略して「メモステ」「MS」などとも呼ばれる。[[1997年]]に発表されたが、すぐに競合規格である[[SDメモリーカード]]に後塵を拝するようになった。
== 概要 ==
メモリースティックは[[1997年]][[7月17日]]に[[ソニー]]から発表された。ソニーの[[VAIO]]センター、[[富士通]]などによる共同開発で、[[アイワ]](初代法人)、[[オリンパス]]、[[カシオ計算機]]、[[三洋電機]]、[[シャープ]]、[[ソニー]]が発表時から協賛していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/970717/sony.htm|title=ソニー、デジタルカメラなどAV機器用の新規格ICメモリーカード|work=|author=|publisher=[[インプレス]]|date=1997-07-17|accessdate=2015-04-20|language=}}</ref>。
発表当時、既にメモリーカード市場では[[コンパクトフラッシュ]]・[[スマートメディア]]などがシェアを争っていたが、PC周辺機器での使用を前提として開発されたそれらの規格と違い、メモリースティックはさまざまなユーザーが利用することを想定した家電寄りの[[ユニバーサルデザイン]]的な設計思想が特徴である。「メモリースティック」という規格名は、平易な単語で構成することで非英語話者でも理解しやすいよう試みたもの。
メモリースティックには、他のメモリーカード規格と同様にいくつかのバリエーションがある。まず、電気的仕様の違いから従来型「'''[[#メモリースティック|メモリースティック]]'''」系と上位規格「'''[[#メモリースティック PRO|メモリースティック PRO]]'''」系に大別される。PRO規格は従来型規格の[[上位互換]]となっており、PRO機器では従来型メディアが利用できるが、一方で従来型規格の機器ではPROメディアは利用できない。また、メモリースティックPROにはさらなる拡張規格として、転送速度を強化した'''[[#メモリースティック PRO-HG|メモリースティック PRO-HG]]'''と、最大記録容量を強化した'''[[#メモリースティック XC|メモリースティックXC]]'''がある。
次に、物理サイズの違いから'''標準サイズ'''と'''[[#メモリースティック Duo|Duo]]サイズ'''、'''[[#メモリースティック マイクロ (M2)|マイクロ]]サイズ'''の3種類がある。小型タイプのメディアは簡素な構造のアダプタを介することで、より大きいメディアに対応した機器で利用することができる。ただ、機器の小型化に伴って標準サイズのメディアはほとんど利用されなくなっており、現在は実質的にDuoサイズとマイクロサイズのみとなっている。
なお、初期のメモリースティックでは、[[デジタル著作権管理|著作権保護技術]]『[[MagicGate]]』に対応する製品と対応しない製品に分かれていたが、現在はMagicGate機能標準搭載で統一されている。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+ メモリースティック、メモリースティックPROの比較
|-
! || style="white-space:nowrap" | メモリースティック系 || colspan="4" | メモリースティックPRO系
|-
| '''拡張規格'''
| なし
| 標準
| '''[[#メモリースティック PRO-HG|HG]]'''
| '''[[#メモリースティック XC|XC]]'''
| '''XC-HG'''
|-
| 標準サイズ
| [[#メモリースティック|メモリースティック]]
| [[#メモリースティック PRO|メモリースティックPRO]]
| なし
| なし
| なし
|-
| Duoサイズ
| [[#メモリースティック Duo|メモリースティックDuo]]
| [[#メモリースティック PRO Duo|メモリースティックPRO Duo]]
| [[#メモリースティック PRO-HG Duo|メモリースティックPRO-HG Duo]]
| [[#メモリースティック XC Duo|メモリースティックXC Duo]]
| [[#メモリースティック XC-HG Duo|メモリースティックXC-HG Duo]]
|-
| マイクロサイズ
| なし
| [[#メモリースティック マイクロ (M2)|メモリースティック マイクロ]]
| [[#メモリースティック HG マイクロ|メモリースティック HG マイクロ]]
| [[#メモリースティック XC マイクロ|メモリースティックXC マイクロ]]
| [[#メモリースティック XC-HG マイクロ|メモリースティックXC-HG マイクロ]]
|-
| style="white-space:nowrap" | MagicGate機能
| 一部対応<ref>[[#マジックゲート メモリースティック|MGメモリースティック]]および[[#メモリースティック Duo|MGメモリースティックDuo]]、[[#メモリースティック(マジックゲート/高速データ転送対応)|メモリースティック(MG/高速転送対応)]]が対応</ref>
| colspan="4" | 全モデル対応
|-
| style="white-space:nowrap" | 最大記録容量
| 128MB×2
| colspan="2" | 32GB
| colspan="2" | 2TB
|-
| style="white-space:nowrap" | 最大転送速度
| colspan="2" | 160Mbps(20MB/s)
| 480Mbps(60MB/s)
| 160Mbps(20MB/s)
| 480Mbps(60MB/s)
|-
| style="white-space:nowrap" | 最低保証速度
| なし
| 15Mbps(1.875MB/s)
| 120Mbps(15MB/s)
| 15Mbps(1.875MB/s)
| 120Mbps(15MB/s)
|}
== メモリースティック ==
=== 概要(メモリースティック) ===
[[Image:MSA-4A.jpg|thumb|200px|メモリースティック]]
'''メモリースティック''' (Memory Stick) は、メモリースティック開発表明と同時に発表された、最初期の標準規格である。総称としての広義の「メモリースティック」と区別するため「青メモリースティック」「青メモステ」などとも呼ばれる。本項では「従来型メモリースティック」と表記している。
外形寸法は21.5mm×50mm×2.8mmで、長さは単3乾電池と同じに設定されている。[[ユニバーサルデザイン]]的な設計思想にもとづき、扱いやすさを考えてこのサイズ・形状にされた。[[電子媒体|メディア]]片面の仕上げをザラザラとした手触りにすることで、メディアを見なくても裏表が判断できるような工夫がなされ、また人為的な誤消去を防ぐため[[ミニディスク]]や[[フロッピーディスク]]のような誤消去防止スイッチが設けられている。
接触不良を防ぐため端子数は10ピンにおさえ、指などが直接触れないよう端子をくぼみの奥に配置した。動作電圧は2.7V - 3.6Vとなっている。通信には独自のシリアルプロトコルを採用することで将来的な容量・素子の変更時にも互換性が確保でき、当時スマートメディアなどが頻繁に起こしていた互換性問題にも無縁であるとされた。また、メモリースティックへの静止画、音楽、動画などの記録については個別に[[#アプリケーションフォーマット|アプリケーションフォーマット]]が規格化されており、メーカーや機器にかかわらず互換性を保つよう務められている。
転送速度は書き込みが最大1.5[[メガバイト|MB]]/s、読み出しが最大2.45MB/sである<ref name=MS4MB>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/980730/sony1.htm|title=ソニー、新記憶媒体「メモリースティック」|work=|author=|publisher=インプレス|date=1998-07-30|accessdate=2015-04-20|language=}}</ref>。
外観は、製造メーカーや容量を問わずほとんどの製品が青紫色のカラーリングで統一され、表面にフロッピーディスクと同様のラベル貼付エリアが設けられた。
[[1998年]][[9月]]に最初の製品として4MBおよび8MBのメディアが発売され<ref name=MS4MB/>、その後128MBまでの大容量化が行われた。
2000年にソニーが発表したロードマップでは当初少なくとも1[[ギガバイト|GB]]までの大容量化が予定されていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20001025/sony.htm|title=ソニー、メモリースティックのロードマップを公開|work=|author=|publisher=インプレス|date=2000-10-25|accessdate=2015-04-20|language=}}</ref>が、規格上の問題から製品化できたのは128MBまでにとどまり、256MB以上の大容量メディアは「[[#メモリースティック PRO|メモリースティック PRO]]」という新規格での発売となった。このため256MB相当の代替製品として、128MBメモリを内部に2つ内蔵し、物理的なスイッチで切り替えて使う「'''メモリースティック(メモリーセレクト機能付)'''」(Memory Stick Select) が用意された。なおソニーは128MBメモリを4つ内蔵した512MB相当モデルや、メモリとスイッチをさらに増やした大容量モデルも計画していた<ref name=PRO>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/0301/10/njbt_01.html|title=News:ソニー、新世代の「メモリースティックPRO」を発表|work=|author=|publisher=[[ITmedia]]|date=2003-01-10|accessdate=2015-04-20|language=}}</ref>が、実際の製品化には至っていない。
==== メモリ容量(メモリースティック) ====
* 1998年: 4MB
* 1998年: 8MB
* 1999年: 16MB
* 1999年: 32MB
* 1999年: 64MB
* 2001年: 128MB
* 2003年: 128MBx2
=== マジックゲート メモリースティック ===
[[Image:MSG-128A.jpg|thumb|200px|MGメモリースティック]]
'''マジックゲート メモリースティック''' (MagicGate Memory Stick) は、著作権保護が必要なセキュアデータの取り扱いに対応すべく、著作権保護機能[[MagicGate]]機能を搭載したメモリースティックである。MGメモリースティック、MGMSなどとも呼ばれる。MagicGate機能を持たない従来型メモリースティックと区別するために、ホワイトのカラーリングで統一された。MagicGate機能の有無以外の仕様は[[#メモリースティック|従来型メモリースティック]]と同一である。
メモリースティック ウォークマンの発売にあわせ、[[1999年]][[12月]]に最初の製品として32MBおよび64MBがソニーから発売され、後に128MBが追加された。しかし、MGメモリースティックはMG非対応のメモリースティックに比べて割高で、MG非対応の青紫色メモリースティックも引き続き併売されたことなどから普及が進まず<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0405/21/news028.html|title=「今年こそメモリースティック普及元年」|work=|author=|publisher=ITmedia|date=2004-05-21|accessdate=2015-04-20|language=}}</ref>、また市場にこれら2製品が混在することによる混乱の声も聞かれた<ref name=MM>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0510/19/news025.html|title=メモステマイクロ、狙うは海外の小型携帯|work=|author=|publisher=ITmedia|date=2005-10-19|accessdate=2015-04-20|language=}}</ref>。
==== メモリ容量(マジックゲート) ====
* 1999年: 32MB
* 1999年: 64MB
* 2001年: 128MB
=== メモリースティック Duo ===
[[Image:MSA-M32A.jpg|thumb|200px|メモリースティックDuo]]
'''メモリースティック Duo''' (Memory Stick Duo) は、[[2000年]][[4月13日]]に発表された、小型の[[#メモリースティック|メモリースティック]]である。「メモステDuo」あるいは単に「Duo」などと略される。
[[携帯電話]]などの小型機器用途を想定し、外形寸法は20mm×31mm×1.6mmとされた。初期のモデルは裏面に誤消去防止スイッチを搭載していたが、現在は[[#メモリースティック PRO Duo|メモリースティックPRO Duo]]も含めほとんどのモデルで誤消去防止スイッチが省略されている。電気的仕様は標準サイズのメモリースティックと同一であるため、物理サイズを標準サイズに揃えるための簡素な構造のアダプタを使用することにより、標準サイズ用の機器で使用することができるほか、一部にはメモリースティックDuoもアダプターを使わずに挿入できるよう構造が工夫されたスロットもある。
標準サイズのメモリースティック同様、登場初期のモデルはMagicGate機能に対応しておらず、MagicGate対応モデルは2003年2月に「'''マジックゲート メモリースティック Duo'''」(MagicGate Memory Stick Duo、MGMS-Duo)として登場した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sony.jp/CorporateCruise/Press/200212/02-1210/|title=News and Information 内蔵メモリーに音楽CD約11枚分の長時間記録が可能、小型でさらに携帯性が向上した新スタイルネットワークウォークマン 発売|work=|author=|publisher=[[ソニー]]|date=2002-12-10|accessdate=2009-09-06|language=}}</ref>。
メモリースティックDuoの登場当初は、携帯電話やごく小型のデジタルカメラ、携帯音楽プレーヤーなどでのみ使用される特殊規格という位置付けであった。しかし、[[2005年]]ごろからは、ある程度の大きさを持つ機器においても、標準サイズをあえてサポートせずにDuoサイズのみ対応とする傾向が強くなり、標準サイズのメディアが販売されなくなった[[2007年]]ごろからはDuoサイズが事実上の標準メディアとなっている。
なお、標準サイズのメモリースティックと電気的仕様が同じであることから、Duoサイズも容量は128MBまでにとどまり、256MB以上の大容量メディアは「[[#メモリースティック PRO Duo|メモリースティック PRO Duo]]」という新規格での展開となった。
<gallery>
Image:MSG-M128A.jpg|MGメモリースティックDuo
Image:MSA-M32A_R2.jpg|誤消去防止スイッチ搭載タイプのメモリースティックDuo裏面
Image:MSAC-M1.jpg|メモリースティックDuoアダプター
</gallery>
==== メモリ容量 (Duo) ====
* 2002年: 8MB
* 2002年: 16MB
* 2002年: 32MB
* 2003年: 64MB
* 2003年: 128MB
=== メモリースティック(マジックゲート/高速データ転送対応) ===
[[Image:Sony Memory Stick MSH Series.jpg|thumb|180px|メモリースティック(マジックゲート/高速データ転送対応)]]
MagicGate機能の有無で複雑化していたラインナップの整理と、登場初期の仕様のままだった転送速度の向上のため、メモリースティックおよびMGメモリースティックは[[2004年]][[5月]]に<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sony.jp/CorporateCruise/Press/200404/04-0414B/|title=News and Information 高速データ転送に対応し、著作権保護技術「マジックゲート」を標準搭載した新 「メモリースティック」 を発売|work=|author=|publisher=[[ソニー]]|date=2004-04-14|accessdate=2009-09-06|language=}}</ref>、メモリースティックDuoおよびMGメモリースティックDuoは[[2003年]][[9月]]に<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sony.jp/CorporateCruise/Press/200308/03-0819B/|title=News and Information 「メモリースティック デュオ」のラインアップが一新高容量記録・高速データ転送の「メモリースティックPRO デュオ」を新たに発売|work=|author=|publisher=ソニー|date=2003-08-19|accessdate=2009-09-06|language=}}</ref>、順次「'''メモリースティック(マジックゲート/高速データ転送対応)'''」へと切り替えられた。
本モデルではMagicGate機能を標準で搭載するとともに、メモリースティックPROと同様のパラレルデータ転送に対応し最大転送速度を160Mbpsへと引き上げた(ただし、これはあくまで理論値であり、実測値ではメモリースティックPROに及んでいない。また機器側もパラレル転送に対応する必要がある)。外形寸法はMGメモリースティックおよび同Duoと同一であり、仕様上の違いは転送速度のみとなっている。
本モデルのカラーリングは紺色で統一された(限定カラーモデルなど一部を除く)。
なお、メモリースティック規格自体に変更は加えられなかったため、一部[[サードパーティー]]の製品ではその後もMagicGate非対応のメモリースティックが残っていた時期があった。
== メモリースティック PRO ==
=== 概要 (PRO) ===
[[Image:MSX-256N.jpg|thumb|200px|メモリースティックPRO]]
'''メモリースティック PRO''' (Memory Stick PRO) は、[[サンディスク]]とソニーの共同開発により[[2003年]][[1月10日]]に発表された、メモリースティックの上位規格である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sony.jp/CorporateCruise/Press/200301/03-0110B/|title=News and Information 高画質動画記録に対応可能な、高容量・高速書込みを実現する新世代メモリースティック「メモリースティックPRO(プロ)」発売~記録容量 1GB・512MB・256MBに対応~|work=|author=|publisher=ソニー|date=2003-01-10|accessdate=2009-09-12}}</ref><ref name=PRO/>。メモステPRO、MS-PROなどと略される。
外形寸法は従来型メモリースティックと同じ21.5mm×50mm×2.8mmだが、従来型でラベル貼付エリアがあった部分に凹型のくぼみが設けられ、ユーザーが両者を識別しやすくなっている。なお、従来型メモリースティックおよびメモリースティックDuoに設けられていた誤消去防止スイッチはオプションとなったため、一部のメディアには備えられていない。
メモリースティックPROの「PRO」は、“'''Pro'''gressive”、“'''Pro'''fessional”、“'''Pro'''tection”に由来し、[[#メモリースティック|従来型メモリースティック]]と比べて、最大容量の拡大、転送速度の向上、著作権保護技術[[MagicGate]]機能の強化、の3点が柱となっている。
まず、従来型メモリースティックでは最大容量が128MBにとどまっていたが、ファイルシステムとして新たに[[FAT32]]を採用したことなどから{{efn|ただし、実際にFAT32を使用しているのは4GB以上のメディアであり、2GB以下のメディアは従来通りFAT16である。このため当時はメモリースティックProを読み込める機器であってもFAT16までしか対応しておらず4GB以上のメディアを正常に扱えない場合もあった。}}規格上の最大容量は32GBとなった。ファイルシステム上は従来のFAT16でも2GBまでの容量が実現可能であるため、本来であれば256MBというタイミングで規格を変更する必要はない。この点についてソニーによれば、論理アドレスおよび物理アドレスのマッピングの仕様をメモリースティックPROで変更したとしていることから、256MB以上の容量ではマッピングの仕様に問題が生じたとみられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2005/1206/hot397.htm|title=元麻布春男の週刊PCホットライン|publisher=インプレス|date=2005-12-06|accessdate=2009-09-12}}</ref>。
次に転送速度については、最大転送速度を160Mbpsに引き上げるとともに、これまでにはなかった「最低速度保証」を導入することで、最適化された機器との組み合わせにおいて最低15Mbpsの転送速度を確保した。これにより、動画のリアルタイム記録などにも余裕をもって対応できるようになった{{efn|この最低速度保証は、後にSDHCメモリーカードでも[[SDメモリーカード#スピードクラス|SDスピードクラス]]として取り入れられている。}}。また、実際に利用できるユーザー領域に加えてシステムファイル領域を設けており、そこに一定間隔で管理データを書き込むことで動画記録中に突然メディアが抜かれたり電源が落ちたりした場合でも、データの喪失を最低限に抑えることができる。
そして、従来はオプション扱いだったMagicGate機能を全モデルで標準搭載とすることでラインナップの単純化を図り、[[#アクセスコントロール機能|アクセスコントロール機能]]など保護機能自体も強化された。
なお、発売当初は10MB/sの高速転送に対応したソニー製メモリースティックPROメディアがフラッシュメモリの供給状況の影響を受け、発売延期・生産終了・再発売などの発表が短期間に連続して行われる、大容量メディアと一部旧機器の間で互換性問題が発生するなど、いくつかの混乱が散見された。
機器の小型化の進行に伴い、次第に標準サイズからDuoサイズへ需要が移行したことなどから、標準サイズは4GBモデルをもって製品化が打ち切られ、以後の新規格はDuoサイズまたはマイクロサイズのみで展開されている。
====メモリースティックとの互換性====
従来型メモリースティックとは[[上位互換]]となっており、メモリースティックPRO対応機器では従来型メモリースティックも使用できるが、逆に従来型メモリースティック機器でメモリースティックPROメディアを使用することはできない。ソニーは混乱を避けるためメモリースティックPROメディアの容量は256MBを下限とし、128MBまでは従来型メモリースティックメディアのみとした。ただしこれは規格上の制限ではないため、過去にはサンディスクなど一部のメーカーが256MB未満の小容量メモリースティックPROメディアも生産していた。
また、MagicGate機能が強化されたことから、従来型メモリースティックのMagicGate機能とメモリースティックPROのMagicGate機能との間にも互換性がなく、当初は[[デジタル著作権管理|DRM]]のかかった[[音楽配信]]コンテンツや[[SonicStage]]で[[リッピング]]した楽曲ファイルは、従来の「[[#マジックゲート メモリースティック|マジックゲートメモリースティック]]」しか利用できず、メモリースティックPROの大容量を活かせなかった。最終的にメモリースティックPROのMagicGateへの対応は、2005年7月の[[PlayStation Portable|PSP]]のシステムアップデートおよび同時期発売のVAIOからとなった。
==== アクセスコントロール機能 ====
ソニーが将来的に想定しているメモリースティックPRO独自の利用法として「アクセスコントロール機能(仮称)」がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/0302/07/nj00_sony_mspro.html|title=“とんがった”メディアを目指す「メモリースティックPRO」|work=|author=|publisher=ITmedia|date=2003-02-07|accessdate=2015-04-20|language=}}</ref>。これは機能が強化されたメモリースティックPROのMagicGate機能を応用したもので、専用のロック装置(アクセスコントローラー)に挿入することでメディア内容の一括暗号化が行える。復号には、暗号化に使ったコントローラーが必要となるが、あらかじめ暗号化キーの複製作業を行うことで複数のコントローラーで暗号化メディアの共有も可能になる。長らく本機能を使用したメモリースティックは商品化されなかったが、2012年11月発売の[[#ミラーリングメモリースティック|ミラーリングメモリースティック]]に、これと同様の機能([[#機器限定モード|機器限定モード]])が搭載された。
==== メモリ容量 (PRO) ====
* 2003年: 256MB
* 2003年: 512MB
* 2003年: 1GB
* 2005年: 2GB
* 2005年: 4GB
=== メモリースティック PRO Duo ===
[[Image:Memory Stick Duo Adaptor.jpg|thumb|メモリースティック PRO Duo(下)とアダプタ(上)]]
'''メモリースティック PRO Duo''' (Memory Stick PRO Duo) は、[[2003年]][[8月19日]]に発表された小型の[[#メモリースティック PRO|メモリースティックPRO]]である。「メモステPRO Duo」もしくは単に「PRO Duo」などと略される。
外形寸法は[[#メモリースティック Duo|メモリースティックDuo]]と同一のDuoサイズであり、電気的仕様は[[#メモリースティック PRO|メモリースティックPRO]]と同一である。アダプターを介することで標準サイズ用の機器で使用することができるほか、一部にはメモリースティックDuoもアダプターを使わずに挿入できるよう構造が工夫されたスロットもある。
[[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]が発売した[[携帯ゲーム機]]「[[PlayStation Portable]]」(PSP) の記録メディアとして採用されたことで大きく普及した。標準サイズのメディアが販売されなくなった2007年ごろからはDuoサイズが事実上の標準となっており、また容量的に128MB以下はあまり扱われなくなったことから、現在は単に「メモリースティック」と言えばこのメモリースティックPRO Duoを指すことが多い。
[[2009年]]に規格上の上限容量である32GBまで到達、製品化された。32GBを超える容量は[[#メモリースティック XC Duo|メモリースティックXC Duo]]での展開となる。
最低保証速度を15Mbpsから32Mbpsに高速化して、[[AVCHD]]によるハイビジョン映像を安定して書き込めるメディアには「MARK2」のロゴが付いている。
==== メモリ容量 (PRO Duo) ====
* 2003年: 256MB
* 2003年: 512MB
* 2004年: 1GB
* 2005年: 2GB
* 2006年: 4GB
* 2007年: 8GB
* 2009年: 16GB
* 2009年: 32GB
=== メモリースティック マイクロ (M2) ===
[[Image:M2 adaptor.jpg|thumb|150px|M2(下)とM2アダプター(上:標準サイズ用、中:Duoサイズ用)]]
'''メモリースティック マイクロ''' (Memory Stick Micro) は、[[#メモリースティック PRO Duo|メモリースティックPRO Duo]]よりさらに小型化したメモリースティックPROである。サンディスクおよびソニーによって[[2005年]][[9月30日]]に発表された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press/200509/05-0930/|title=サンディスクとソニー、携帯電話向けにより小型化したIC記録メディア「メモリースティック マイクロ」(M2)フォーマットを開発|work=|author=|publisher=ソニー|date=2005-09-30|accessdate=2015-04-20|language=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0509/30/news046.html|title=ITmediaニュース:Duoより小さい「メモリースティックマイクロ」|work=|author=|publisher=ITmedia|date=2005-09-30|accessdate=2015-04-20|language=}}</ref>。略称は'''M'''emory Stick '''M'''icroから略してMM、転じて'''M2'''となる。
外形寸法は12.5mm×15mm×1.2mm。携帯電話などの小型機器向けに開発されたメディアで、体積ではメモリースティック PRO Duoの4分の1程度となる。頻繁な交換を行う用途ではなく、内蔵メモリのようにほぼ挿しっぱなしでの使用を想定している<ref name=MM/>。
電気的仕様は[[#メモリースティック PRO|メモリースティックPRO]]、[[#メモリースティック PRO Duo|同PRO Duo]]と互換性を持ち、Duoサイズや標準サイズに変換するアダプタも用意される。なお動作電圧は従来の2.7 - 3.6Vに加え、より低電圧の1.7 - 1.95Vにも対応した。また、接続端子は標準サイズ、Duoサイズの各メディアより1ピン増えた11ピンとなっている。
2006年上半期より発売が開始されたものの、当初は海外市場向け[[ソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズ|ソニー・エリクソン]]製携帯電話での利用がほとんどであった。日本国内向けでは2007年に[[au (携帯電話)|au]]([[KDDI]]/[[沖縄セルラー電話]])向けの[[W52S]]([[Walkman Phone|ウォークマンケータイ]]){{efn|付属の変換アダプタを利用することでmicroSDカードも使用することができる。}}、2009年より[[PlayStation Portable go]]や[[リニアPCM]]に対応した[[ICレコーダー]]「PCM-M10」{{efn|本機はメモリースティック マイクロの他、microSD/microSDHCカードにも対応する。}}といった採用機器が発売された。
2009年に16GBまで製品化されている。
==== メモリ容量 (M2) ====
* 2007年: 256MB
* 2007年: 512MB
* 2007年: 1GB
* 2007年: 2GB
* 2007年: 4GB
* 2007年: 8GB
* 2009年: 16GB
== メモリースティック PRO-HG ==
[[Image:SDMSHX3-008G-J31.jpg|thumb|200px|メモリースティックPRO-HG Duo]]
=== 概要 (PRO-HG) ===
'''メモリースティック PRO-HG''' (Memory Stick PRO-HG) は、サンディスクとソニーの共同開発により[[2006年]][[12月11日]]に発表された[[#メモリースティック PRO|メモリースティックPRO]]の拡張規格である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press/200612/06-1211/index.html|title=サンディスクとソニー、高速転送、高速書き込みを実現する「メモリースティックPRO-HG」を開発|work=|author=|publisher=ソニー|date=2006-12-11|accessdate=2009-08-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0612/11/news033.html|title=転送速度は「PRO」の3倍 「メモリースティックPRO-HG」開発|work=|author=|publisher=ITmedia|date=2006-12-11|accessdate=2015-04-20|language=}}</ref>。仕様上標準サイズは用意されておらず、Duoサイズとマイクロサイズのみである。
従来のメモリースティックPROと比較して転送速度が大きく向上しており、PROでは4bitパラレル転送・クロック周波数40MHz・最大転送単位512Byteだったのに対し、PRO-HGでは8bitパラレル転送・クロック周波数60MHz・最大転送単位2048Byteとなっている。これにより規格上の最大転送速度は480Mbps(60MB/s)、最低保証速度は8bitパラレル転送時で120Mbps(15MB/s)、4bitパラレル転送時で40Mbps(5MB/s)と大幅に引き上げられている。
[[Image:MemoryStick PRO-HG pin.jpg|thumb|200px|メモリースティックPRO-HG Duoの接続端子。左から4、6、7、8番目のピンが上下に分割されている。]]
=== メモリースティック PRO-HG Duo ===
'''メモリースティック PRO-HG Duo''' (Memory Stick PRO-HG Duo) は、PRO-HG規格公表と同時に発表された、高速データ転送対応の[[#メモリースティック PRO Duo|メモリースティックPRO Duo]]である。基本仕様や外形寸法はメモリースティックPRO Duoと同一であるが、端子数はPRO Duoの10ピンから14ピンに増えている。増加分のピンは従来のピンを前後2分割する形で配置したため、端子形状は従来のメモリースティックPROと同一である。そのため、PRO-HG対応機器で従来のメモリースティックPROを使用でき、従来のメモリースティックPRO対応機器でPRO-HGを使うことも出来る(後者の場合、転送速度はHG対応機器で使用した場合よりも落ちる<ref>{{Cite web|和書|url=https://dc.watch.impress.co.jp/cda/review/2007/07/11/6600.html|title=【新製品レビュー】ソニー「メモリースティックPRO-HGデュオ」+ExpressCardアダプター|work=|author=|publisher=インプレス|date=2007-07-11|accessdate=2010-12-29}}</ref>)。
[[2007年]][[8月]]より1GB、2GB、4GBの3タイプが発売され、[[2009年]]に規格上の上限容量である32GBまで到達、製品化された<ref>{{Cite web|和書|url=https://dc.watch.impress.co.jp/docs/news/302802.html|title=ソニー、32GBのメモリースティックPRO-HGデュオHXを国内発売|work=|author=|publisher=インプレス|date=2009-07-16|accessdate=2015-04-20|language=}}</ref>。32GBを超える容量については、後継規格である[[#メモリースティック XC-HG Duo|メモリースティックXC-HG Duo]]での展開となる。
==== メモリ容量 (PRO-HG Duo) ====
* 2007年: 1GB
* 2007年: 2GB
* 2007年: 4GB
* 2008年: 8GB
* 2009年: 16GB
* 2009年: 32GB
=== メモリースティック HG マイクロ ===
'''メモリースティック HG マイクロ''' (Memory Stick HG Micro) は、[[2009年]][[1月]]に発表された、高速データ転送対応の[[#メモリースティック マイクロ (M2)|メモリースティックマイクロ]]である。略称は'''M2-HG'''。M2の端子数が11ピンであるのに対し、M2-HGは20ピンとなっている<ref name=XC>{{Cite web|和書|url=http://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press/200901/09-0108/index.html|title=サンディスクとソニー、「メモリースティックPRO」と「メモリースティック マイクロ」の拡張フォーマットを共同開発|work=|author=|publisher=ソニー|date=2009-01-08|accessdate=2009-08-06}}</ref>。
規格が発表されて以降、具体的な製品化の発表は行われていない。
== メモリースティック XC ==
=== 概要 (XC) ===
'''メモリースティックXC''' (Memory Stick XC) は、従来のメモリースティックPROの最大記録容量を拡張するために策定された、[[#メモリースティック PRO|メモリースティックPRO]]の拡張規格である。2009年1月に「メモリースティック高容量向け拡張フォーマット(仮称)」としてソニーとサンディスクが発表<ref name=XC/>し、2009年8月に正式名称や仕様が公開された<ref>{{Cite web|和書|url=https://dc.watch.impress.co.jp/docs/news/307478.html|title=ソニー、最大2TBの「メモリースティックXC」仕様を公開|work=|author=|publisher=インプレス|date=2009-08-06|accessdate=2009-08-06}} </ref>。仕様上標準サイズは用意されず、Duoサイズとマイクロサイズのみである。
メモリースティックPROは[[ファイルシステム]]として[[File Allocation Table|FAT16またはFAT32]]を採用していたことなどから、規格上の最大容量は32GBとなっていた。しかし、デジタルカメラの高画素化やHD動画撮影機能の登場によって、更なる大容量化が求められるようになったため、ファイルシステムとして新たに[[exFAT]]を採用し最大記録容量を2TBとした。ファイルシステムと最大記録容量以外は従来のメモリースティックPRO規格と同一である。PCで先行して普及していたFAT32とは違い、当時はまだexFATに対応する環境は限られていたが、やがて対応が図られたことで多くの環境で読み書きが可能になっていった。
=== メモリースティック XC Duo ===
'''メモリースティックXC Duo''' (Memory Stick XC Duo) は、メモリースティック XC仕様公開と同時に発表された、[[#メモリースティック PRO Duo|メモリースティックPRO Duo]]の高容量版である。規格が発表されて以降、具体的な製品化の発表は行われていない。
=== メモリースティック XC-HG Duo ===
'''メモリースティックXC-HG Duo''' (Memory Stick XC-HG Duo) は、メモリースティック XC仕様公開と同時に発表された、[[#メモリースティック PRO-HG Duo|メモリースティックPRO-HG Duo]]の高容量版である。8bitパラレルデータ転送にも対応する。
規格の発表後長らく製品化されていなかったが、2012年11月に[[#ミラーリングメモリースティック|ミラーリングメモリースティック]]として64GBタイプが発売された<ref name=px>{{Cite web|和書|url=http://www.sony.jp/products/Professional/ProMedia/arc/121031_px.html|title=“ミラーリングメモリースティック”「PXシリーズ」発売のご案内|work=|author=|publisher=ソニー|date=2012-10-31|accessdate=2015-04-20|language=}}</ref>。
=== メモリースティック XC マイクロ ===
'''メモリースティックXC マイクロ''' (Memory Stick XC Micro) は、メモリースティック XC仕様公開と同時に発表された、[[#メモリースティック マイクロ (M2)|メモリースティックマイクロ]]の高容量版である。略称は'''M2 XC'''。規格が発表されて以降、具体的な製品化の発表は行われていない。
=== メモリースティック XC-HG マイクロ ===
'''メモリースティックXC-HG マイクロ''' (Memory Stick XC-HG Micro) は、メモリースティック XC仕様公開と同時に発表された、[[#メモリースティック HG マイクロ|メモリースティック HG マイクロ]]の高容量版である。略称は'''M2 XC-HG'''。8bitパラレルデータ転送にも対応する。規格が発表されて以降、具体的な製品化の発表は行われていない。
== 特殊なメモリースティック ==
=== メモリースティック-ROM ===
[[ファイル:ICplayer2007 (National Center Test for University Admissions).JPG|thumb|200px|メモリースティックROMを使用したセンター試験のICプレーヤー]]
'''メモリースティック-ROM'''は、[[2001年]]に発表された、コンテンツの配布用途などを想定したデータの読み出し専用のメモリースティックである<ref>{{Cite web|和書|url=http://ascii24.com/news/i/hard/article/2001/05/28/626471-000.html|title=ソニー、“メモリースティックROM”を発表|work=|author=|publisher=[[アスキー・メディアワークス|アスキー]]|date=2001-05-28|accessdate=2015-04-20|language=}}</ref>。
[[2004年]]ごろから、BBeB Dictionary規格の辞書データが入ったタイプがソニーから販売されており、同社の[[電子辞書]]や[[LIBRIe]]、[[CLIE]]の各対応機種などで利用できる。しかし、現在はソニーが電子辞書やCLIE事業から撤退したため、新たなBBeB Dictionary規格のメモリースティック-ROMは発売されていない。
また、[[2006年]]度より行われている[[大学入試センター試験]]の[[英語 (教科)|英語]][[リスニング]]試験に「メモリースティック-ROM」と専用の[[ICプレーヤー]]が採用されていた(2010年からは[[SDメモリーカード|SDカード]]に変更)。
=== メモリースティック-R ===
[[2002年]][[6月3日]]、[[Write Once Read Many|ライトワンス]]型の「'''メモリースティック-R'''(仮称)」の開発表明が行われた<ref>{{Cite web|和書|url=http://ascii24.com/news/i/tech/article/2002/06/03/636241-000.html|title=ソニー、“メモリースティック Duo”を7月に発売――“メモリースティック-R(仮称)”も開発中|work=|author=|publisher=アスキー|date=2002-06-03|accessdate=2015-04-20|language=}}</ref>が、製品化には至っていない。
=== メモリースティック I/O拡張モジュール ===
'''メモリースティック I/O拡張モジュール'''は、メモリースティックのI/Oインターフェース規格である。日本で販売されたモジュール機器としては、ソニーが[[CLIE]]向けに販売した[[Bluetooth]]モジュール、カメラモジュール、[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]モジュール、指紋照合モジュールなどがある。また、[[#メモリースティック PRO|メモリースティック PRO]]をベースにし、パラレル高速転送に対応した「'''メモリースティック PRO I/O拡張モジュール'''」規格も存在する。
=== TransferJet搭載メモリースティック ===
近距離無線転送技術「[[TransferJet]]」の機能をカード本体に内蔵したメモリースティックである。対応機器に挿入すると、かざすだけでTransferJetによるワイヤレス転送が可能になる。[[2010年]][[1月]]に[[#メモリースティック PRO-HG Duo|PRO-HG Duo]]の8GBが発表されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sony.jp/CorporateCruise/Press/201001/10-0118B/|title=フルハイビジョンの動画撮影を実現 デジタルスチルカメラ “サイバーショット”|プレスリリース|ソニー|work=|author=|publisher=ソニー|date=2010-01-10|accessdate=2010-01-28}}</ref>。
=== ミラーリングメモリースティック ===
記憶領域を二重化する「[[ミラーリング]]機能」や、記憶領域を暗号化してアクセスコントロールできる「機器限定モード」に対応した、業務用途向けのメモリースティックである。
2012年11月に16GBと32GBタイプが[[#メモリースティック PRO-HG Duo|PRO-HG Duo]]として、64GBタイプが[[#メモリースティック XC-HG Duo|XC-HG Duo]]として発売された<ref name=px/>。
==== ミラーリング機能 ====
記憶領域を2分割し、各領域に同じ内容のデータを同時記録することにより、不測のデータ消失による損害を回避して安定したデータ記録を行う機能である。2分割するため、ユーザーが記録できる容量は半分となる。ミラーリング機能をオフにして全領域をフルに使用することもできる。
==== 機器限定モード ====
記憶領域へのアクセスを、事前に設定したPCもしくは本モードに対応した機器のみに限定する機能である。メモリースティックの紛失などによって第三者にデータを読み取られるリスクを最小限に抑えることが可能である。
=== 変換アダプター ===
[[ファイル:Adaptateur Memory Stick.JPG|thumb|200px|フロッピーディスク用アダプター]]
PC用の変換アダプターとしては、[[フロッピーディスク]]用のアダプターや[[PCカード]]アダプター、[[ExpressCard]]アダプターがある。
他のメモリーカード規格への変換アダプターとしては、[[2003年]]からメモリースティックDuoを[[コンパクトフラッシュ]]として使用できるCFスロット用のアダプターがソニーから発売されている。
また、他のメモリーカードをメモリースティック規格へ変換するアダプタとしては、[[2006年]]後半ごろから、[[SDメモリーカード#microSDカード|microSD]]をメモリースティックDuoとして利用できる変換アダプターが販売されている。ただし、このアダプターはメモリースティック規格を策定・運用する正規メーカーが用意したものではないため、カードと機器の組み合わせによっては正常に使用できないこともある。加えて、メモリースティックの著作権保護機能[[MagicGate]]とSDメモリーカードの著作権保護機能[[CPRM]]とは互換性がなく、著作権保護機能を利用するデータやPSPでの番組録画には使用できない。
== アプリケーションフォーマット ==
{{節スタブ}}
メモリースティックに記録するうえで互換性を確保するため、音楽や動画、静止画などはフォーマットが定められている。
=== ビデオファイルフォーマット/セキュアビデオファイルフォーマット ===
{{Main|メモリースティックビデオ}}
=== オーディオファイルフォーマット ===
{{Main|メモリースティックオーディオ}}
=== 静止画ファイルフォーマット ===
デジタルカメラ等で静止画を記録する際に用いられる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oss-formats.org/memorystick/outline/file_still.html|title=静止画ファイルフォーマット | メモリースティック|publisher=[[ソニー]]|accessdate=2010-07-15}}</ref>。[[カメラファイルシステム規格|DCF規格]]に準拠。
=== 位置情報関連ファイルフォーマット ===
[[カーナビゲーション|カーナビ]]や[[データロガー|GPSロガー]]などで移動軌跡や経路情報を記録する際に用いられる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oss-formats.org/memorystick/outline/file_location.html|title=位置情報ファイルフォーマット | メモリースティック|publisher=[[ソニー]]|accessdate=2010-07-15}}</ref>。
== メモリーカード市場シェアの変遷 ==
メモリースティック規格の立ち上げ当初は、その機能や設計思想などが評価され、多くの[[サードパーティー]]を味方に既存規格の[[コンパクトフラッシュ]]・[[スマートメディア]]からシェアを奪っていった。メモリースティック専用スロットは[[デジタルカメラ]]や静止画記録対応の[[ビデオカメラ]]、[[パーソナルコンピュータ]]のほか、ペットロボット[[AIBO]]など多様な製品に搭載された。
しかし2000年代になって、後発の[[SDメモリーカード]]との競争で苦戦を強いられる。メモリースティックDuoをセーブデータやファイルの保存に利用する携帯型ゲーム機[[PlayStation Portable]](PSP)の登場、半導体価格の下落などに伴う製品価格の低下により、若干ではあるが状況に改善が見られたものの、2005年ごろから携帯電話でのminiSDやmicroSD規格の採用が急増したこともあり、メモリースティック系列全体のシェアはメモリーカード市場では全体の1割強ほどにとどまり、業界2位ではあるものの、6割を占めるSD陣営に対して大きく水をあけられる状況となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bcnretail.com/news/detail/051003_2320.html|title=SD連合がシェア65%で圧勝、メモリーカード規格対決、買い得なのは?|work=|author=|publisher=[[BCN (企業)|BCN]]|date=2005-10-03|accessdate=2015-04-20|language=}}</ref>。
2010年代になると、殆どのパソコンにおいて、メモリースティックやSDカードなど複数の規格に対応したマルチリーダーが採用されており、ソニーグループの製品でも[[VAIO]]やサイバーショット(2010年モデル以降)、日本国内向け携帯電話などがSDカード系にも対応するほか{{efn|なお、同社の[[スマートフォン]]である[[Xperia]]シリーズは、最初からmicroSDのみの対応である。}}、2010年にはついにソニー自身が自社ブランドのSDメモリーカードの販売に踏み切った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1001/07/news024.html|title=ソニーがSDカードを発売へ|work=|author=|publisher=ITmedia|date=2010-01-07|accessdate=2015-04-20|language=}}</ref>。また2011年には、メモリースティックに対応しないソニーグループの製品が登場し始めたことで、「脱メモリースティック」の流れは決定的となった。同年に発売されたPSP後継の[[PlayStation Vita]]がメモリースティックではなく独自仕様の専用メモリーカードを採用したこと<ref>{{Cite web|和書|title=使用できるメディアの種類 {{!}} PlayStation®Vita ユーザーズガイド |url=https://manuals.playstation.net/document/jp/psvita/basic/media.html |website=manuals.playstation.net |access-date=2022-07-13}}</ref>も、この流れを後押しした。
なお、メモリースティックの製造はその後も継続しているが、事実上メモリースティックのみに対応する旧製品ユーザー向けの供給となっている。ソニー製品(とくにサイバーショット、ハンディカム)については、SDメモリーカードを主軸としつつ、メモリースティックとSDメモリーカードのデュアルスロットを搭載することで、[[2015年]]現在でも、メモリースティックのサポートを続けている。
このほか、メモリースティックは切手ほどの大きさであることから安価な密輸が容易であるという特徴があり、[[インターネットオークション]]などでソニーなど大手メーカーのロゴやパッケージを盗用した日本国外産の[[コピー商品]]が大量に出回っているという問題が報道されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0607/18/news071.html|title=本物そっくり 偽造メモリースティックに注意|work=|author=|publisher=ITmedia|date=2006-07-16|accessdate=2015-04-20|language=}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
'''注釈'''
{{notelist|2}}
'''出典'''
{{reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[MagicGate]]
* [[SonicStage]]
* [[メモリースティックビデオ]]
* [[メモリースティックオーディオ]]
* [[メモリーカード]]
* [[SDメモリーカード]]
* [[デジタルカメラ]]
* [[TransferJet]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Memory Stick}}
* [https://www.sony.jp/rec-media/lineup/memorystick.html IC記録メディア Memory Stick“メモリースティック”] ソニー “MEMORY STICK”〈メモリースティック〉の公式ウェブサイト。
* [https://www.sony.jp/products/mobilemovie/ Sony MobileMovie Products Information]
{{メモリーカード}} {{Sony}}
{{DEFAULTSORT:めもりすていつく}}
[[Category:メモリーカード]]
[[Category:拡張カード]]
[[Category:ソニー]]
[[Category:登録商標]] | 2003-02-19T21:33:00Z | 2023-10-31T14:51:48Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF |
2,466 | Pentium 4 | Pentium 4(ペンティアム・フォー)は、インテルが製造したNetBurstマイクロアーキテクチャに基づくx86アーキテクチャのマイクロプロセッサ(CPU)に付された商標である。集積トランジスタ数は4200万。最初の製品は2000年11月20日に発表され、当初はその単一製品に付した商品名と目されていた。しかしその後も後継のプロセスルールで製造されたが同名で販売され、結果として一連の製品を指す商標になった。そのため、同じくPentium 4を冠するCPUであってもプロセスルール(すなわち製品世代)によって性能が大きく異なる。それら製品世代を区別して指す場合には、(自作パソコンユーザーなどがそうするように)インテルが用いた社内開発コードネームをそのまま用いることが多い。本項でも以降の節では開発コードネームを見出しに用いる。
2000年11月20日にリリースされた第一世代のPentium 4である。180nmプロセスルールで製造され、256KBのL2キャッシュメモリを持つ。 当初はサポートするチップセットが、高価なRDRAMしか利用できないIntel 850チップセットのみで、Pentium 4に128MB分(64MBが2枚)のRIMM(RDRAMモジュール)を安価なPC-133 SDRAMと同等価格で同梱するなどの様々な販促活動を行ったが、あまり普及しなかった。このため、インテルは安価なPC-133 SDRAMが利用可能なIntel 845チップセットを止む無く発売した。なお、Intel 865系以降のチップセットはWillametteに対応していない。開発コードネームはウィラメット川からとられた。
発売当初はSocket 423を採用していたが、後にSocket 478を採用し、これが主流となる。
2002年1月8日にリリースされた第二世代のPentium 4。Willametteのルビーをそのまま130nmプロセスルールで製造した製品。製造プロセスの微細化による消費電力低減とL2キャッシュメモリの倍増(256KBから512KB)による多少の性能向上を実現している。最大動作周波数は2004年2月販売開始品にて3.4GHzを達成した。 2002年11月にはXeonプロセッサに引き続きハイパースレッディング・テクノロジー(HT:Hyper-Threading Technology、同時マルチスレッディング)が利用可能なPentium 4がリリースされた。このHTに対応したチップセットとしてIntel 865/875シリーズが開発された。 後継製品のPrescottと比較してTDPと処理能力のバランスが良いとされ日本の自作パソコンユーザーにはPrescott登場後も根強い人気があったが、2005年3月をもって製造を終了した。
2004年1月1日にリリースされた90nmプロセスで製造される第三世代のPentium 4。L1データキャッシュを16KBに増量し、L2キャッシュメモリを1MBに増量し、さらなる高クロック化を想定してキャッシュアクセスのレイテンシとパイプライン段数を増加している。
パイプライン段数の増加による性能低下を抑えるため、間接分岐予測ユニット追加及び、トレースキャッシュBTBエントリー数の増量による分岐予測精度の向上、ストア - ロード・フォワーディングの強化、ハードウェアプリフェッチの強化などを行っている。このような改良を行ったものの、パイプラインの段数増加によって、1サイクルあたりの平均処理命令数は低下するため、同じ最大動作周波数のNorthwoodと比べると僅かながら性能は劣る。SSE2の拡張版にあたる「ストリーミングSIMD拡張命令3 (SSE3)」の他、一部製品ではバッファオーバーランを利用した攻撃プログラムの実行を防止する「エグゼキュート・ディスエーブル・ビット(XDビット)」や、AMD64互換の64ビット拡張である「Extended Memory 64bit Technology(EM64T、のちのIntel 64)」といった機能が追加されている。 初期の製品では従来のSocket 478に対応する製品も投入されたが、発売早々に775接点のLGAパッケージを採用するLGA775に移行している。LGA775はSocket Tとも呼ばれている。このTは次世代Pentium 4として開発していたTejas(後述)に由来する。Tejasではより消費電力が増えることから、電源供給ラインのコンタクト数を増加する目的でSocket Tの採用が予定されていたが、Prescottで既に同程度の消費電力になってしまったことに対する措置である。Prescottコアで発生したプロセッサの消費電力と発熱の問題を受けインテルはロードマップを大幅に変更した。以降、従来の動作クロックそのものの向上を重視する戦略から、1サイクルあたりの性能の向上を重視する方向へと開発方針を転換している。その時期を同じくして、製品名称に最高動作クロックを付けることを止め、代わりにプロセッサー・ナンバーを導入している。
対応するインテル チップセットは、
である。
ソケット478版
2005年2月20日にリリースされた第四世代のPentium 4。開発を中止したTejas(後述)の代替として、上位製品であったXeonシリーズのうち、2次キャッシュメモリを2MB実装した製品を流用して商品化した。Prescottとの比較では、2次キャッシュメモリを1MBから2MBへ倍増し拡張版 Intel SpeedStep テクノロジ(EIST:Enhanced Intel SpeedStep Technology)に対応させたものと考えてよい。XDビットも実装された。プロセッサー・ナンバーは600番台となる。
また、コンピュータの仮想化技術であるインテル バーチャライゼーション・テクノロジーを実装した製品(プロセッサー・ナンバーは6x2)も発表された。
対応するインテル チップセットは、
である。
2004年リリースを目標に第四世代のPentium 4としてIDF Spring 2003にてコンセプトが公開され、低消費電力で発熱量を抑えた静かなコンパクト筐体を実現できるとされたが、リーク電流増大による熱問題が解決できず、「デュアルコアの利点が以前より明確になった」として開発中止になった。
Tejasは以下の特徴を持ち、Hyper-Threadingの拡張によってTPC(Threads per Cycle)を高める方向であったと考えられている。当時、次世代Hyper-Threadingとしてシングルスレッドのアプリケーションでもヘルパースレッドと呼ばれる投機スレッドを実行し、前もってキャッシュにデータをコピーさせ、パイプラインストールの時間および回数を軽減することで処理性能も向上させる構想が発表されていた。
Tejas開発中止の代替として、市場への新製品投入スパン維持をPrescott-2Mが担い、それをMCMによってデュアルコアとしたPentium Dが投入された。
2006年1月5日にリリースされた第五世代のPentium 4。CedarMillはTejasの製造プロセスルールを微細化したものとして計画されていたが、Tejasが開発中止となったためPrescott-2Mをそのまま65nmプロセスルールに微細化したものに変更された。性能や機能はPrescott-2Mと同等で、プロセッサー・ナンバーも同等性能のPrescott-2Mよりも1大きいものに留まっている。Pentium Dの下位製品として位置付けされた。Prescottと同じく消費電力は多かったが、後に改良によって他社製品と特に変わらない程度まで低下している。その上価格もPrescottより大きく引き下げられており、コストパフォーマンスが高い商品となった。しかし事実上の後継製品であるIntel Core 2への市場移行を速やかに促すべく、大きく宣伝されることは無く終息を待つこととなる。
ステッピング(製造プロセス・ルール改訂)によって消費電力が大きく引き下げられた物は、Prescottに比べて優れたオーバークロック耐性を持つ事が知られている。
対応するインテル チップセットは、
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"title": "Northwood(ノースウッド)"
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"title": "Prescott(プレスコット)"
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"text": "2006年1月5日にリリースされた第五世代のPentium 4。CedarMillはTejasの製造プロセスルールを微細化したものとして計画されていたが、Tejasが開発中止となったためPrescott-2Mをそのまま65nmプロセスルールに微細化したものに変更された。性能や機能はPrescott-2Mと同等で、プロセッサー・ナンバーも同等性能のPrescott-2Mよりも1大きいものに留まっている。Pentium Dの下位製品として位置付けされた。Prescottと同じく消費電力は多かったが、後に改良によって他社製品と特に変わらない程度まで低下している。その上価格もPrescottより大きく引き下げられており、コストパフォーマンスが高い商品となった。しかし事実上の後継製品であるIntel Core 2への市場移行を速やかに促すべく、大きく宣伝されることは無く終息を待つこととなる。",
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"title": "CedarMill(シダーミル)"
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"text": "である。",
"title": "CedarMill(シダーミル)"
}
] | Pentium 4(ペンティアム・フォー)は、インテルが製造したNetBurstマイクロアーキテクチャに基づくx86アーキテクチャのマイクロプロセッサ(CPU)に付された商標である。集積トランジスタ数は4200万。最初の製品は2000年11月20日に発表され、当初はその単一製品に付した商品名と目されていた。しかしその後も後継のプロセスルールで製造されたが同名で販売され、結果として一連の製品を指す商標になった。そのため、同じくPentium 4を冠するCPUであってもプロセスルール(すなわち製品世代)によって性能が大きく異なる。それら製品世代を区別して指す場合には、(自作パソコンユーザーなどがそうするように)インテルが用いた社内開発コードネームをそのまま用いることが多い。本項でも以降の節では開発コードネームを見出しに用いる。 | {{出典の明記|date=2018年10月}}
{{Infobox CPU
| 名称 = Pentium 4
| 画像 = Intel_pentium4_1.5ghz_willamette_socek423.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 生産開始 = 2000年11/20
| 生産終了 = 2008年8/8
| 生産者 = インテル
| 最低周波数 = 1.3
| 最高周波数 = 3.8
| FSB最低周波数 = 400
| FSB最高周波数 = 1066
| FSB最低単位 = MHz
| FSB最高単位 = MHz
| 最大プロセスルール = 180nm
| 最小プロセスルール = 65nm
| 命令セット = [[x86]], [[x64]](x64はPrescott-2MとCedar Millのみ)
| マイクロアーキテクチャ = [[NetBurstマイクロアーキテクチャ|NetBurst]]
| コア数 = 1
| ソケット = [[Socket 423]]<br />[[Socket 478]]<br />[[LGA 775]]
| コードネーム = Willamette<br />Northwood<br />Prescott<br />Cedar Mill
|前世代プロセッサ=[[Pentium III]]|次世代プロセッサ=[[Pentium D]]|トランジスタ=42M 180 nm
55M 130 nm
169M 130 nm (P4EE)
125M 90 nm
188M 65 nm|拡張命令セット=MMX, SSE, SSE2, SSE3 (since Prescott).}}
'''Pentium 4'''(ペンティアム・フォー)は、[[インテル]]が製造した[[NetBurstマイクロアーキテクチャ]]に基づく[[x86]]アーキテクチャの[[マイクロプロセッサ]]([[CPU]])に付された[[商標]]である。集積[[トランジスタ]]数は4200万<ref name="intelhp">[http://japan.intel.com/contents/museum/hof/index.html インテルミュージアム「マイクロプロセッサーの歴史」] - [[インテル]]公式サイト.2013年12月5日閲覧。</ref>。最初の製品は[[2000年]][[11月20日]]に発表され、当初はその単一製品に付した商品名と目されていた。しかしその後も後継の[[プロセスルール]]で製造されたが同名で販売され、結果として一連の製品を指す商標になった。そのため、同じく'''Pentium 4'''を冠するCPUであってもプロセスルール(すなわち製品世代)によって性能が大きく異なる。それら製品世代を区別して指す場合には、([[自作パソコン]]ユーザーなどがそうするように)インテルが用いた社内開発[[コードネーム]]をそのまま用いることが多い。本項でも以降の節では開発コードネームを[[見出し]]に用いる。
== Willamette(ウィラメット) ==
2000年11月20日にリリースされた第一世代のPentium 4である。180[[ナノメートル|nm]][[プロセスルール]]で製造され<ref name="intelhp" />、256KBのL2[[キャッシュメモリ]]を持つ。
当初はサポートするチップセットが、高価な[[RDRAM]]しか利用できない'''[[Intel 850]]'''チップセットのみで、Pentium 4に128MB分(64MBが2枚)のRIMM(RDRAMモジュール)を安価なPC-133 [[Dynamic Random Access Memory|SDRAM]]と同等価格で同梱するなどの様々な販促活動を行ったが、あまり普及しなかった。このため、インテルは安価なPC-133 SDRAMが利用可能な'''[[Intel 845]]'''チップセットを止む無く発売した。<!--後にIntel 845を改良して[[DDR SDRAM]]をサポートしたi845 B-Step、通称Intel 845Dが投入された。-->なお、Intel 865系以降のチップセットはWillametteに対応していない。開発コードネームは[[ウィラメット川]]からとられた。
発売当初は[[Socket 423]]を採用していたが、後に[[Socket 478]]を採用し、これが主流となる。
; ソケット423版
[[ファイル:KL Intel Pentium 4 Wilamette.jpg|thumb|Pentium 4 1.50GHz (Socket423)]]
:{|class="wikitable"
|- align="center"
! [[クロック|最高動作周波数]](供給クロックx内部逓倍数) !! コア数 !! [[フロントサイドバス|FSB周波数]] !! [[L2キャッシュ|2次キャッシュ]]メモリ容量 !! [[熱設計電力|TDP]] (ステップ=[[集積回路#プロセス・ルール|プロセス・ルール]]改訂番号)
|-
| 2.00GHz (100MHz x20) || rowspan="8" | 1 || rowspan="8" | 400MHz || rowspan="8" | 256KB || 71.8W
|-
| 1.90GHz (100MHz x19) || 69.2W
|-
| 1.80GHz (100MHz x18) || 66.7W
|-
| 1.70GHz (100MHz x17) || 64W
|-
| 1.60GHz (100MHz x16) || 61W
|-
| 1.50GHz (100MHz x15) || 54.7W(B2/C1) 57.8W(D0)
|-
| 1.40GHz (100MHz x14) || 51.8W(B2) 54.7W(C1)
|-
| 1.30GHz (100MHz x13) || 48.9W(B2) 51.6W(C1)
|}
; ソケット478版
[[ファイル:Willamette.png|thumb|Pentium 4 1.80GHz (Socket478)]]
: ソケット423版に比して[[ヒートスプレッダ|インテグレーテッド ヒート スプレッダ(IHS)]]が大型化され、[[パッケージ (電子部品)#関連用語|インターポーザ(サブストレート)]]のほぼ全面を覆うようになり、以後[[LGA775|LGA775版]](コアを問わず)を含めこの形状が主流となる。
:{|class="wikitable"
|- align="center"
! 最高動作周波数(供給クロックx内部逓倍数) !! コア数 !! FSB周波数 !! 2次キャッシュメモリ容量 !! [[熱設計電力|TDP]] (ステップ=[[集積回路#プロセス・ルール|プロセス・ルール]]改訂番号)
|-
| 2.00GHz (100MHz x20) || rowspan="7" | 1 || rowspan="7" | 400MHz || rowspan="7" | 256KB || 75.3W
|-
| 1.90GHz (100MHz x19) || 72.8W
|-
| 1.80GHz (100MHz x18) || 66.1W
|-
| 1.70GHz (100MHz x17) || 63.5W(C1/D0/E0) 67.7W(SL62Z)
|-
| 1.60GHz (100MHz x16) || 57.9W(C1) 60.8W(D0/E0)
|-
| 1.50GHz (100MHz x15) || 57.9W(C1/D0/E0) 62.9W(DP)
|-
| 1.40GHz (100MHz x14) || 55.3W
|}
== Northwood(ノースウッド) ==
[[2002年]][[1月8日]]にリリースされた第二世代のPentium 4。Willametteの[[ルビー (半導体)|ルビー]]をそのまま130nmプロセスルールで製造した製品。製造プロセスの微細化による消費電力低減とL2キャッシュメモリの倍増(256KBから512KB)による多少の性能向上を実現している。最大動作周波数は[[2004年]][[2月]]販売開始品にて3.4GHzを達成した。
[[2002年]][[11月]]には[[Xeon]]プロセッサに引き続き[[ハイパースレッディング・テクノロジー]](HT:Hyper-Threading Technology、[[同時マルチスレッディング]])が利用可能なPentium 4がリリースされた。このHTに対応したチップセットとして'''[[インテル チップセット#Intel 865 チップセット ファミリ|Intel 865]]/[[インテル チップセット#Intel 875 チップセット ファミリ|875]]シリーズ'''が開発された。
後継製品のPrescottと比較してTDPと処理能力のバランスが良いとされ日本の[[自作パソコン]]ユーザーにはPrescott登場後も根強い人気があったが、[[2005年]][[3月]]をもって製造を終了した。
[[ファイル:Pentium4 northwood.png|thumb|Pentium 4 1.8AGHz (Socket478)]]
[[ファイル:Pentium 4 Northwood SL6SH.jpg|thumb|[[ヒートスプレッダ|インテグレーテッド ヒート スプレッダ]]を外したPentium 4 2.4GHz(FSB 533MHz Socket478)。<br />大きさ比較用の硬貨は[[ユーロ]] 2c、直径 18.75 mm, 0.74 in]]
:{|class="wikitable"
|- align="center"
! 最高動作周波数(供給クロックx内部逓倍数) !! コア数 !! FSB周波数!! 2次キャッシュメモリ容量 !! HT対応 !! [[熱設計電力|TDP]] (ステップ=[[集積回路#プロセス・ルール|プロセス・ルール]]改訂番号)
|-
| 3.40GHz (200MHz x17) || rowspan="21" | 1 || rowspan="2" | 800MHz || rowspan="21" | 512KB || ○ || 89W 82W(D1)
|-
| 3.20GHz (200MHz x16) || ○ / ×(SL792) || 82W
|-
| 3.06GHz (133MHz x23) || 533MHz || ○ || 81.8W
|-
| 3.00GHz (200MHz x15) || 800MHz || ○ / ×(SL78Z) || 81.9W(D1) 82W(M0)
|-
| 3.00GHz (100MHz x30) || 400MHz || × || 80W
|-
| 2.80GHz (200MHz x14) || 800MHz || ○ || 69.7W(D1) 75.1W(M0)
|-
| 2.80GHz (133MHz x21) || 533MHz || rowspan="3" | × || rowspan="2" | 68.4W
|-
| 2.80GHz (100MHz x28) || 400MHz
|-
| 2.66GHz (133MHz x20) || 533MHz || 66.1W
|-
| 2.60GHz (200MHz x13) || 800MHz || ○ || 69W
|-
| 2.60GHz (100MHz x26) || 400MHz || rowspan="3" | × || 62.6W
|-
| 2.53GHz (133MHz x19) || 533MHz || 59.3W(B0) 61.5W(C1/D1)
|-
| 2.50GHz (100MHz x25) || 400MHz || 61W
|-
| 2.40GHz (200MHz x12) || 800MHz || ○ / ×(SL6WR) || 66.2W(D1) 75.1W(M0)
|-
| 2.40GHz (133MHz x18) || 533MHz || rowspan="7" | × || 57.8W(B0) 59.8W(C1/D1/M0)
|-
| 2.40GHz (100MHz x24) || 400MHz || 57.8W(B0) 59.8W(C1/D1)
|-
| 2.26GHz (133MHz x17) || 533MHz || 56W(B0) 58W(C1/D1/M0)
|-
| 2.20GHz (100MHz x22) || rowspan="4" | 400MHz || 55.1W(B0) 57.1W(C1/D1)
|-
| 2.00GHz (100MHz x20) || 52.4W(B0) 54.3W(C1/D1) 43.7W(SL62Q) 75.3W(SL6SP)
|-
| 1.80GHz (100MHz x18) || 49.6W(B0) 66.1W(C1/D1) 40.9W(SL62R) 68.4W(SL6QL)
|-
| 1.60GHz (100MHz x16) || 38W(SL62S) 46.8W(SL668)
|}
== Prescott(プレスコット) ==
[[2004年]][[1月1日]]にリリースされた90nmプロセスで製造される第三世代のPentium 4。L1データキャッシュを16KBに増量し、L2キャッシュメモリを1MBに増量し、さらなる高クロック化を想定してキャッシュアクセスのレイテンシとパイプライン段数を増加している。
<!-- 専門的すぎるためコメントアウト
Prescottでは[[EM64T]]へ(Northwoodに比して新たに)対応するために、64bitの算術/論理演算をレイテンシ1で実行する必要があり、ALUの構成が従来の16bitの倍速サブALU x2から32bitの倍速サブALU x2という形に変更された<ref>PrescottはALUが等速化されたという誤解があるが、依然として倍速である。Prescott以降のALUの具体的な構成についてはCedarMillのものであるが論文"[http://ieeexplore.ieee.org/xpls/abs_all.jsp?arnumber=4039605 A 9-GHz 65-nm Intel Pentium 4 Processor Integer Execution Unit]"が詳しい。Prescottの回路については論文"[http://ieeexplore.ieee.org/xpls/abs_all.jsp?arnumber=1332640 Low-voltage-swing logic circuits for a 7GHz x86 integer core]"を参照。</ref>。この変更により、2つのサブALU間のレイテンシは従来通り0.5であるものの、後続命令へのフォワーディングのレイテンシが1になったため、スループットは従来の0.5を維持しつつもレイテンシは1に増加している。また、ALUの変更に伴いシフト/ローテート命令と整数乗算命令の性能が改善されている。シフト/ローテート命令はこれまでSIMDユニットのシフトユニットではなく、2基あるALUのうちの片方で実行することが可能となりレイテンシが改善した。整数乗算命令はFP乗算器の代わりに、新たに搭載した専用の整数乗算器で実行することが可能となり性能が向上した。
-->
パイプライン段数の増加による性能低下を抑えるため、間接分岐予測ユニット追加及び、トレースキャッシュBTBエントリー数の増量による分岐予測精度の向上、ストア - ロード・フォワーディングの強化、ハードウェアプリフェッチの強化などを行っている。このような改良を行ったものの、パイプラインの段数増加によって、1サイクルあたりの平均処理命令数は低下するため、同じ最大動作周波数のNorthwoodと比べると僅かながら性能は劣る。[[ストリーミングSIMD拡張命令#SSE2|SSE2]]の拡張版にあたる「[[ストリーミングSIMD拡張命令#SSE3|ストリーミングSIMD拡張命令3 (SSE3)]]」の他、一部製品では[[バッファオーバーラン]]を利用した攻撃プログラムの実行を防止する「エグゼキュート・ディスエーブル・ビット([[NXビット|XDビット]])」や、[[x64|AMD64]]互換の[[64ビット]]拡張である「Extended Memory 64bit Technology(EM64T、のちの[[x64|Intel 64]])」といった機能が追加されている。
初期の製品では従来のSocket 478に対応する製品も投入されたが、発売早々に775接点のLGAパッケージを採用する[[LGA775]]に移行している。LGA775は[[:en:Socket T|Socket T]]とも呼ばれている。このTは次世代Pentium 4として開発していたTejas([[#Tejas(テハス、テジャス)|後述]])に由来する。Tejasではより消費電力が増えることから、電源供給ラインのコンタクト数を増加する目的でSocket Tの採用が予定されていたが、Prescottで既に同程度の消費電力になってしまったことに対する措置である。Prescottコアで発生したプロセッサの消費電力と発熱の問題を受けインテルは[[ロードマップ]]を大幅に変更した。以降、従来の動作クロックそのものの向上を重視する戦略から、[[命令レベルの並列性|1サイクルあたりの性能の向上]]を重視する方向へと開発方針を転換している。その時期を同じくして、製品名称に最高動作クロックを付けることを止め、代わりに[[プロセッサー・ナンバー]]を導入している。
対応する[[インテル チップセット]]は、
* Intel 955X
* Intel 945シリーズ
* Intel 925Xシリーズ
* Intel 915シリーズ
* Intel 875P
* Intel 865シリーズ
である。
[[ファイル:Intel Pentium 4 3GHz Prescott SL7PM PGA478.jpg|thumb|Pentium 4 3.00GHz (Socket478)]]'''ソケット478版'''
:{|class="wikitable"
|- align="center"
! 最高動作周波数(供給クロックx内部逓倍数) !! コア数 !! FSB周波数 !! 2次キャッシュメモリ容量 !! HT対応 !! [[NXビット|XD-bit]]対応 !! Intel 64対応 !! [[熱設計電力|TDP]] (ステップ=[[集積回路#プロセス・ルール|プロセス・ルール]]改訂番号)
|-
| 3.40GHz (200MHz x17) || rowspan="8" | 1 || rowspan="4" | 800MHz || rowspan="7" | 1MB || ○ || rowspan="8" | × || × || 103W(C0/D0/E0) 89W(G1)
|-
| 3.20GHz (200MHz x16) || ○ / ×(SL88K) || × / ○(SL7QB) || 103W(C0/SL7PN) 89W(D0/G1/SL88K)
|-
| 3.00GHz (200MHz x15) || ○ / ×(SL88J) || rowspan="6" | × || rowspan="3" | 89W
|-
| 2.80GHz (200MHz x14) || ○
|-
| 2.80GHz (133MHz x21) || rowspan="4" | 533MHz || rowspan="2" | ×
|-
| 2.66GHz (133MHz x20) || 103W(C0) 89W(E0)
|-
| 2.40GHz (133MHz x18) || × / ○(SL7FY) || rowspan="2" | 89W
|-
| 2.26GHz (133MHz x17) || 512KB || ×
|}
; LGA775版
[[ファイル:P4LGA755.png|thumb|Pentium 4 551 (3.40GHz LGA775)]]
:{|class="wikitable"
|- align="center"
! プロセッサ・ナンバ !! 最高動作周波数(供給クロックx内部逓倍数) !! コア数 !! FSB周波数 !! 2次キャッシュ容量 !! HT対応 !! XD-bit対応 !! Intel 64対応 !! [[熱設計電力|TDP]]
|-
| 571 || rowspan="4" | 3.80GHz (200MHz x19) || rowspan="36" | 1 || rowspan="16" | 800MHz || rowspan="36" | 1MB || rowspan="17" | ○ || rowspan="2" | ○ || ○ || rowspan="8" | 115W
|-
| 570J || rowspan="2" | ×
|-
| 570 || rowspan="2" | ×
|-
| --- || rowspan="2" | ○
|-
| 561 || rowspan="4" | 3.60GHz (200MHz x18) || rowspan="2" | ○
|-
| 560J || rowspan="2" | ×
|-
| 560 || rowspan="2" | ×
|-
| --- || rowspan="2" | ○
|-
| 551 || rowspan="4" | 3.40GHz (200MHz x17) || rowspan="2" | ○ || rowspan="2" | 84W
|-
| 550J || rowspan="2" | ×
|-
| 550 || rowspan="2" | × || rowspan="2" | 115W
|-
| --- || rowspan="2" | ○
|-
| 541 || rowspan="4" | 3.20GHz (200MHz x16) || rowspan="2" | ○ || rowspan="3" | 84W
|-
| 540J || rowspan="2" | ×
|-
| 540 || rowspan="2" | ×
|-
| --- || rowspan="3" | ○ || 103W
|-
| 524 || rowspan="4" | 3.06GHz (133MHz x23) || rowspan="4" | 533MHz || rowspan="3" | ○ || rowspan="20" | 84W
|-
| 519K || rowspan="3" | ×
|-
| 519J || rowspan="2" | ×
|-
| 519 || ×
|-
| 531 || rowspan="3" | 3.00GHz (200MHz x15) || rowspan="3" | 800MHz || rowspan="4" | ○ || rowspan="2" | ○ || ○
|-
| 530J || rowspan="2" | ×
|-
| 530 || ×
|-
| 517 || rowspan="4" | 2.93GHz (133MHz x22) || rowspan="4" | 533MHz || rowspan="3" | ○ || rowspan="2" | ○
|-
| 516 || rowspan="3" | ×
|-
| 515J || rowspan="2" | ×
|-
| 515 || ×
|-
| 521 || rowspan="3" | 2.80GHz (200MHz x14) || rowspan="3" | 800MHz || rowspan="3" | ○ || rowspan="2" | ○ || ○
|-
| 520J || rowspan="2" | ×
|-
| 520 || ×
|-
| 511 || rowspan="3" | 2.80GHz (133MHz x21) || rowspan="6" | 533MHz || rowspan="6" | × || rowspan="2" | ○ || ○
|-
| 510J || rowspan="2" | ×
|-
| 510 || ×
|-
| 506 || rowspan="3" | 2.66GHz (133MHz x20) || rowspan="2" | ○ || ○
|-
| 505J || rowspan="2" | ×
|-
| 505 || ×
|}
== Prescott-2M ==
[[2005年]][[2月20日]]にリリースされた第四世代のPentium 4。開発を中止したTejas(後述)の代替として、上位製品であったXeonシリーズのうち、2次キャッシュメモリを2MB実装した製品を流用して商品化した。Prescottとの比較では、2次キャッシュメモリを1MBから2MBへ倍増し[[Intel SpeedStep テクノロジ#拡張版 Intel SpeedStep テクノロジ (EIST)|拡張版 Intel SpeedStep テクノロジ(EIST:Enhanced Intel SpeedStep Technology)]]に対応させたものと考えてよい。[[NXビット|XDビット]]も実装された。プロセッサー・ナンバーは600番台となる。
また、コンピュータの[[仮想化]]技術である[[インテル バーチャライゼーション・テクノロジー]]を実装した製品(プロセッサー・ナンバーは6x2)も発表された。
対応する[[インテル チップセット]]は、
* Intel 955X
* Intel 945シリーズ
* Intel 925Xシリーズ
* Intel 915シリーズ
である。
[[ファイル:HT-Pentium4.JPG|thumb|Pentium 4 670 (3.80GHz LGA775)]]
:{|class="wikitable"
|- align="center"
! プロセッサ・ナンバ !! 最高動作周波数(供給クロックx内部逓倍数) !! コア数 !! FSB周波数 !! 2次キャッシュメモリ容量 !! VT対応 !! HT対応 !! XD-bit対応 !! Intel 64対応 !! ソケット !! [[熱設計電力|TDP]] (ステップ=[[集積回路#プロセス・ルール|プロセス・ルール]]改訂番号)
|-
| 672 || rowspan="2" | 3.80GHz (200MHz x19) || rowspan="8" | 1 || rowspan="8" | 800MHz || rowspan="8" | 2MB || ○ || colspan="3" rowspan="8"| ○ || rowspan="8" | LGA775 || rowspan="2" | 115W
|-
| 670 || ×
|-
| 662 || rowspan="2" | 3.60GHz (200MHz x18) || ○ || 115W(SL8QB) 84W(SL8UP)
|-
| 660 || rowspan="5" | × || 115W
|-
| 650 || 3.40GHz (200MHz x17) || rowspan="4" | 84W
|-
| 640 || 3.20GHz (200MHz x16)
|-
| 630 || 3.00GHz (200MHz x15)
|-
| 620 || 2.80GHz (200MHz x14)
|}
== Tejas(テハスあるいはテジャス) ==
2004年リリースを目標に第四世代のPentium 4としてIDF Spring 2003にてコンセプトが公開<ref>[https://atmarkit.itmedia.co.jp/fsys/kaisetsu/020idf2003sp_cl/idf2003sp_cl02.html IDF Spring 2003レポート(2)見え始めた変貌する2004年のクライアントPCの姿]</ref>され、低消費電力で発熱量を抑えた静かなコンパクト筐体を実現できる<ref>[https://ascii.jp/elem/000/000/337/337230/ “IDF Japan 2003”開催――次々世代デスクトップ向けCPU“Tejas”をデモ]</ref>とされたが、[[リーク電流]]増大による熱問題が解決できず、「デュアルコアの利点が以前より明確になった」として開発中止<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0405/08/news011.html Intel、TejasとJayhawkの開発中止は「デュアルコア化のため」]</ref>になった。
Tejasは以下の特徴<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2004/0509/kaigai088.htm Intelが次世代デスクトップCPU「Tejas」をキャンセル]</ref><ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2004/1224/kaigai144.htm ポラックの法則に破れてキャンセルされた「Tejas」]</ref>を持ち、Hyper-Threadingの拡張によってTPC(Threads per Cycle)を高める方向であったと考えられている。当時、次世代Hyper-Threadingとしてシングルスレッドのアプリケーションでもヘルパースレッドと呼ばれる投機スレッドを実行し、前もってキャッシュにデータをコピーさせ、パイプラインストールの時間および回数を軽減することで処理性能も向上させる構想<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2003/0222/kaigai01.htm Intel、次世代Hyper-Threadingテクノロジを公開]</ref>が発表されていた。
* 90nm
* 4.4GHz~
* シングルコア
* 拡張版Hyper-Threading
* 大容量キャッシュ
* 8個の新命令 (Tejas New Instructions)
* FSBの高速化
* LGA 775
* TDP 100W
* 213mm2
Tejas開発中止の代替として、市場への新製品投入スパン維持をPrescott-2Mが担い、それをMCMによってデュアルコアとした[[Pentium D]]が投入された。
== CedarMill(シダーミル) ==
[[ファイル:Intel pentium 4 641 IMGP5032.jpg|thumb|Pentium 4 641 (3.20GHz LGA775)<br/>四辺から覗く黒い樹脂製の突起は、端子面を覆っている静電破壊防止用の端子カバーを留めている爪である(CPUの構造物ではない)]]
[[2006年]][[1月5日]]にリリースされた第五世代のPentium 4。CedarMillはTejasの製造プロセスルールを微細化したものとして計画されていたが、Tejasが開発中止となったためPrescott-2Mをそのまま65nmプロセスルールに微細化したものに変更された。性能や機能はPrescott-2Mと同等で、プロセッサー・ナンバーも同等性能のPrescott-2Mよりも1大きいものに留まっている。Pentium Dの下位製品として位置付けされた。Prescottと同じく消費電力は多かったが、後に改良によって他社製品と特に変わらない程度まで低下している。その上価格もPrescottより大きく引き下げられており、[[コストパフォーマンス]]が高い商品となった。しかし事実上の後継製品である[[Intel Core 2]]への市場移行を速やかに促すべく、大きく宣伝されることは無く終息を待つこととなる。
ステッピング(製造プロセス・ルール改訂)によって消費電力が大きく引き下げられた物は、Prescottに比べて優れた[[オーバークロック]]耐性を持つ事が知られている。
対応する[[インテル チップセット]]は、
* Intel 955X
* Intel 945シリーズ
* Intel 925Xシリーズ
* Intel 915シリーズ
である。
:{| border="1" cellpadding="5" class="wikitable"
|- align="center"
! プロセッサ・ナンバ !! 最高動作周波数(供給クロックx内部逓倍数) !! コア数 !! FSB周波数 !! 2次キャッシュメモリ容量 !! VT対応 !! HT対応 !! XD-bit対応 !! Intel 64対応 !! ソケット !! [[熱設計電力|TDP]] (ステップ=[[集積回路#プロセス・ルール|プロセス・ルール]]改訂番号)
|-
| 661 || 3.60GHz (200MHz x18) || rowspan="4" | 1 || rowspan="4" | 800MHz || rowspan="4" | 2MB || rowspan="4" | × || colspan="3" rowspan="4"| ○ || rowspan="4" | LGA775 || 86W
|-
| 651 || 3.40GHz (200MHz x17) || 86W(B1/C1) 65W(D0)
|-
| 641 || 3.20GHz (200MHz x16) || 86W(B1/C1) 65W(D0)
|-
| 631 || 3.00GHz (200MHz x15) || 86W(B1/C1) 65W(D0)
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
<references />
== 関連項目 ==
* [[NetBurstマイクロアーキテクチャ]]
* [[Pentium 4-M]]
* [[Pentium Extreme Edition#Pentium 4 Extreme Edition]]
* [[x64|Intel 64]] (EM64T)
* [[ハイパースレッディング・テクノロジー]]([[同時マルチスレッディング]])
* [[NXビット|エグゼキュート・ディスエーブル・ビット]](NXビット)
* [[Intel SpeedStep テクノロジ]]
* [[プロセッサー・ナンバー]]
* [[リプレイシステム]]
* [[Athlon]] / [[Athlon 64]]
* [[P4バス]]
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* [http://www.intel.com/p/ja_JP/support/highlights/processors/pentium4 インテル® Pentium® 4 プロセッサー ]
<!-- * [http://www.intel.co.jp/jp/products/processor/pentium4/index.htm インテル® Pentium® 4 プロセッサ 製品情報] -->
* [ftp://download.intel.com/technology/itj/q12001/pdf/art_2.pdf The Microarchitecture of the Pentium 4 Processor](PDFファイル、英語)
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2,467 | 中村八大 | 中村 八大(なかむら はちだい、1931年〈昭和6年〉1月20日 - 1992年〈平成4年〉6月10日)は、日本の作曲家、ジャズピアニスト。
『上を向いて歩こう』、『こんにちは赤ちゃん』、『遠くへ行きたい』、『明日があるさ』など、1950年代末から1960年代にかけての数々のヒット曲を作曲した。
兄の中村二大(1921 - 生死不明)はクラリネット奏者。妹の夫は漫画家の寺田ヒロオ。
1931年、青島にて誕生。父親は青島の日本人学校で校長を務めており、自宅にはピアノや蓄音機、レコードなどがあるという恵まれた音楽環境であった。音楽的素養を認めた父の勧めで1940年春、小学4年生に進級すると同時に日本へ単身留学、新宿の国民学校へ転校。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の附属児童学園に週2回通い、ピアノと作曲の英才教育を受ける。しかし、技術習得を重視するハードトレーニングの教育方針に疑問を抱き、学園でのレッスンをさぼって新宿、浅草などの劇場に足しげく通っていた。
1941年末に太平洋戦争が始まると、翌1942年には早くも帝都は空襲に見舞われ始め、音楽留学を続けるのは不可能になり、1943年夏、青島へ引き揚げた。1945年には父母の郷里である久留米市へ一家で引き揚げ、そこで終戦を迎える。再び大っぴらに音楽活動ができるようになった中村は、福岡県立中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)で音楽部を結成、熱心に活動に打ち込む。進駐軍とともに米国音楽が流れこんできた時代で、中村は自作の鉱石ラジオで進駐軍向けのラジオ放送を聴いたり、自宅近くの米軍のクラブで披露される演奏を漏れ聞くなど、米国音楽をむさぼるように聞いていた。
1948年春、当時売れっ子の作曲家であった利根一郎が北九州の炭鉱の慰問巡業を行うことになり、一座に加わっていた中村の兄・二大(当時、早大に在籍しながらジャズを行っていた)からの誘いで八大もこれに加わる。大宴会場での興行を会場の隅で見物し、小畑実のバックでピアノを弾いたこともあった。この年の秋の中学の文化祭では、クラシックのコンサートでのピアノ演奏、演劇グループの芝居での伴奏、のど自慢大会での全曲伴奏などをすべて引き受けて、度肝を抜かせた。なお、こののど自慢大会では生涯通じてほとんどなかった生歌の披露を行っており、『セコハン娘』の替え歌を歌った。
1949年春に上京、早稲田大学高等学院の3年に編入。生活費や学費の工面のためにキャバレーでジャズ・ピアノ演奏のアルバイトを始める。夏休みにはクラリネット奏者として独立していた二大の伝手で、大阪の名門ダンスホール『赤玉』に1ヶ月、『谷口安彦とプレミア・スウィング』のメンバーとして赴く。
1950年、早稲田大学へ入学。二大の紹介から渡辺晋の勧誘を受け、松本英彦、南廣、安藤八郎らとバンド『シックス・ジョーズ』を結成。1年後にはバンドの名は全国に知れ渡り、音楽雑誌『スイングジャーナル』の人気投票でバンドは部門2位、中村はピアニストとして1位を勝ち取った。しかし間もなく、ジャズの芸術性を追求しようとする中村と、あくまでジャズをエンターテインメントとして割り切り、ジャズメンの生活の安定を目指すマネジメント肌の渡辺との間で衝突が発生、中村は松本とともにシックス・ジョーズを脱退してしまう。
1953年、中村、松本、ジョージ川口、小野満の4人で『ビッグ・フォア』を結成。前述の人気投票の各部門の1位のメンバーの顔合わせは若者から熱狂的に歓迎され、日本で初めて野球場での単独コンサートを開催、1954年12月には、文化放送でレギュラー番組『トリス・ジャズ・ゲーム』を持つに至った。この番組には後にコンビを組む永六輔も放送作家として関わっており、曲のリクエストのコーナーでは一観客としてマイナーな曲のリクエストを連発して、メンバーを困らせたという。
しかし1950年代後半に入ると、ジャズ自体の人気が下降線をたどり始め、代わってロカビリーが主流に躍り出る。この人気を牽引したのは渡辺プロダクションを設立していた渡辺晋であった。1958年2月8日、ナベプロが企画した『日劇ウエスタン・カーニバル』で人気に火がつき、山下敬二郎、水原弘、坂本九らスターを続々輩出する。また、専属歌手の給料を歩合制から月給制に改め、草創期にあったテレビに進出して新たな市場を獲得するなど、ナベプロ主導で音楽業界のネットワークが大幅に変革した。
中村はジャズの世界では最後までトップクラスの人気であったが、ジャズが芸術性、前衛性を強めるとともに大衆性を失い、市場が縮小するという悪い流れが続いた。中村はジャズ復興を賭けて、自主リサイタルの開催を決意する。ジャズとクラシックの融合というテーマを掲げ、半年間は仕事をセーブ、リサイタルの準備に打ち込んだ。リサイタルのプログラムには、友人の三島由紀夫からメッセージが寄せられた。しかし意欲が空回りしてイメージと現実の間にギャップが生じ、準備が遅れ始める。精神的に追い詰められた中村はついに薬物に手を出すが、進捗は好転しなかった。仕上げが遅れたことにより譜面の完成は更に遅れ、オーケストラの練習も不十分であった。1958年6月5日、産経ホールで開かれた『中村八大リサイタル』は、公演後の評価はそこそこであったが、芸術肌の中村にとっては無残な失敗であった。その結果、中村に残ったのはジャズの斜陽という現実と膨大な借金、薬物依存という苦境であった。
翌1959年2月、TBSラジオの芸術祭参加作品『琴と日本の打楽器のための組曲』を担当した時、締切当日になってスタジオで作曲作業を行っていた中村は、衝動的に自殺を思い立つが、自身の曲がスタジオから流れてきたのを耳にして思いとどまる。自宅へ戻ると直ちに薬物を廃棄、2週間家に閉じこもって禁断症状に耐えた。精神の平静を取り戻すと同時に自身の音楽への向き合い方を内省し、過去に音楽教室を抜けだして観たエンターテインメントや巡業への帯同で学んだ、「音楽は観客と遊離するべきものではない」という考えを自ら破っていたことを悟り、失敗に終わったリサイタルのような芸術性の空回りは、二度とするまいと誓った。
かつて袂を分かった渡辺のもとに頭を下げに行くと、ロカビリーを勉強するよう命ぜられ、ウエスタン・カーニバルの鑑賞を始める。当時ナベプロはロカビリーをテーマにした映画の制作を進めていたが、肝心のロカビリーの曲という点で難題にぶち当たっていた。敗戦後の日本においては外国の曲の無断使用が横行しており、米国側も占領政策の文化面での効用の面から大目に見ていた。しかし日本が独立を回復し、復興が軌道に乗ってもなお野放図的にカバーされていたのが問題視され、1959年を境に著作権法が厳密に適用されるようになったのである。
渡辺は、丁度仕事をもらいに来た中村に映画の音楽担当を依頼した。中村は大喜びで引き受けたが、中村と面識がなかった東宝側の山本紫朗(1903年 - 1995年)(和田誠の伯父)から、オーディションとして翌日までに10曲楽曲を持ってくるよう求められた。それまでジャズ一筋でやってきた中村は作詞家との伝手はなく、思案に暮れているとたまたま永六輔とばったり出会った。永は放送作家一筋で作詞の経験は皆無だったが、中村の依頼に二つ返事で引き受けた。そのまま2人して中村の自宅へ向かい、朝までかかってそれぞれ10曲分の歌詞とメロディーを制作、そこから2人で原稿を突き合わせ、直しと並行して中村が編曲、写譜屋を3人呼んでオーケストラ用の譜面に書き起こすという突貫作業を一日中かかって行い、完成した10曲を持って中村が東宝撮影所へ直行、山本に楽譜を手渡した。山本に作品が認められて、中村は音楽監督に採用された。
中村が担当した映画は『檻の中の野郎たち』と『青春を賭けろ』の2作で、作中には永と共作した作品も流された。中でも、水原弘が歌った『黒い花びら』では水原の歌声と中村の新奇なアレンジが受けてヒットする。同曲は、同年に始まった第1回日本レコード大賞にノミネートされ、審査を勝ち抜き大賞に輝いた。なお、当時のノミネートの基準は、作曲家協会所属の作曲家による作品に限られており、フリーランスの中村の作品には権利がないことが審査中に発覚したため、急遽中村が協会に加盟するという措置がとられた。
後年判明したところでは、賞の趣旨は従来のレコード会社お抱えの作詞家・作曲家による似たり寄ったりの楽曲の世界の打破、日本の“新しい音楽”の創設であり、制定を主導した古賀政男と服部良一は当時の音楽家としては珍しい、音楽学校出身でない音楽人であった。審査中には「ロカビリーだから」という理由で「黒い花びら」が除外されかけたこともあったが、2人が「どのジャンルの曲だろうが、いい曲はいい曲だ」と擁護していた。擁護された中村と永も早稲田大学出身のアマチュアコンビであった。以降、2人は「六・八コンビ」として数多くのヒット曲を世に送り出してゆく。1961年に発売された『上を向いて歩こう』は、1963年に米国チャートで1位に輝き、日本の音楽が世界に通用することが証明された。2人の活躍により以降、専属作家による寡占状態は徐々に弱まってゆき、岩谷時子、宮川泰、いずみたく、浜口庫之助、加山雄三らが後に続いた。ロカビリーの後継として1960年代後半にブームになったグループ・サウンズに至ってはフリーランスの作家の登竜門と位置付けられており、この頃にはレコード会社の専属作家というシステムはほぼ終焉を迎えた。
1963年秋、中村は過労がたたって十二指腸潰瘍で入院する。11月に発売した永との共作『こんにちは赤ちゃん』(歌:梓みちよ)で2度目のレコード大賞受賞。翌年夏から1年間をニューヨークで過ごし、休養を兼ねて世界の音楽を学ぶ。
1960年代に入ると音楽を通じて自己表現を図る若者が登場し、シンガーソングライターが現れた。中村は歌詞とメロディーの時代は去り、ビートの時代が訪れたことを悟った。永は作詞家を辞めて放送作家に返り咲き、一方で中村は子供の頃からの夢であった交響曲に取り組み始める。中村は交響曲を「全ての音楽の集大成」と位置付けており、自身の音楽生活の集大成として臨んだ。しかし、交響曲披露演奏会が近づいた頃、ひどい風邪を引いて作曲作業が困難になったため、玉木宏樹のところに三段譜で書いた交響曲スケッチ譜面を持ち込んでオーケストレーションの完成を依頼し、玉木は40段のスコアにして完成させた。後年の玉木の回顧によると「曲調は少しプロコフィエフ風で、けして悪くない曲だった」という。また同時に、社会的作品として環境問題をテーマにした『水の歌』にも取り組み、構成には永に代わり谷川俊太郎を迎え入れた。リサイタルは中村本人にとっても満足が行く出来栄えであった。しかし達成感と同時に、疲労感と虚脱感も大きかった。リサイタルを終えて間もなくの1971年初頭、糖尿病を発症する。
1992年6月10日、心不全のため死去。61歳没。晩年は持病の糖尿病やうつ病に苦しみ音楽活動の一線からは退いていた。葬儀は浄土真宗で行ったが、77日忌は日蓮宗にて行われた。墓所は池上本門寺。
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] | 中村 八大は、日本の作曲家、ジャズピアニスト。 『上を向いて歩こう』、『こんにちは赤ちゃん』、『遠くへ行きたい』、『明日があるさ』など、1950年代末から1960年代にかけての数々のヒット曲を作曲した。 兄の中村二大はクラリネット奏者。妹の夫は漫画家の寺田ヒロオ。 | {{Infobox Musician<!--プロジェクト:音楽家を参照-->
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'''中村 八大'''(なかむら はちだい、[[1931年]]〈[[昭和]]6年〉[[1月20日]] - [[1992年]]〈[[平成]]4年〉[[6月10日]])は、[[日本]]の[[作曲家]]、[[ピアニスト|ジャズピアニスト]]。
『[[上を向いて歩こう]]』、『[[こんにちは赤ちゃん]]』、『[[遠くへ行きたい (曲)|遠くへ行きたい]]』、『[[明日があるさ]]』など、1950年代末から1960年代にかけての数々のヒット曲を作曲した。
兄の中村二大(1921 - 生死不明)は[[クラリネット]]奏者。妹の夫は漫画家の[[寺田ヒロオ]]。
== 経歴 ==
=== 音楽との出会い ===
1931年、青島にて誕生。父親は青島の[[日本人学校]]で校長を務めており、自宅にはピアノや蓄音機、レコードなどがあるという恵まれた音楽環境であった。音楽的素養を認めた父の勧めで1940年春、小学4年生に進級すると同時に日本へ単身留学、新宿の国民学校へ転校。[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]](現在の[[東京芸術大学]])の附属児童学園に週2回通い、ピアノと作曲の英才教育を受ける。しかし、技術習得を重視するハードトレーニングの教育方針に疑問を抱き、学園でのレッスンをさぼって新宿、浅草などの劇場に足しげく通っていた{{Sfn|佐藤|pp=58-61}}。
1941年末に[[太平洋戦争]]が始まると、翌1942年には早くも帝都は空襲に見舞われ始め、音楽留学を続けるのは不可能になり、1943年夏、青島へ引き揚げた。1945年には父母の郷里である[[久留米市]]へ一家で引き揚げ、そこで終戦を迎える<ref>{{Cite web|和書|date=2003-09-15|url=http://www3.city.kurume.fukuoka.jp/shisei/03_9_15/topix/top05.htm|title=中村八大夢逢会の活動準備が順調|work=|author=|publisher=広報くるめ |accessdate=2011-02-05 13:43}}</ref>。再び大っぴらに音楽活動ができるようになった中村は、福岡県立中学明善校(現在の[[福岡県立明善高等学校]])で音楽部を結成、熱心に活動に打ち込む。進駐軍とともに米国音楽が流れこんできた時代で、中村は自作の鉱石ラジオで進駐軍向けのラジオ放送を聴いたり、自宅近くの米軍のクラブで披露される演奏を漏れ聞くなど、米国音楽をむさぼるように聞いていた{{Sfn|佐藤|pp=65-68}}。
1948年春、当時売れっ子の作曲家であった[[利根一郎]]が北九州の炭鉱の慰問巡業を行うことになり、一座に加わっていた中村の兄・二大(当時、早大に在籍しながらジャズを行っていた)からの誘いで八大もこれに加わる。大宴会場での興行を会場の隅で見物し、小畑実のバックでピアノを弾いたこともあった{{Sfn|佐藤|pp=68-70}}。この年の秋の中学の文化祭では、クラシックのコンサートでのピアノ演奏、演劇グループの芝居での伴奏、のど自慢大会での全曲伴奏などをすべて引き受けて、度肝を抜かせた。なお、こののど自慢大会では生涯通じてほとんどなかった生歌の披露を行っており、『[[セコハン娘]]』の替え歌を歌った{{Sfn|佐藤|pp=74-75}}。
1949年春に上京、[[早稲田大学高等学院]]の3年に編入。生活費や学費の工面のためにキャバレーでジャズ・ピアノ演奏のアルバイトを始める。夏休みにはクラリネット奏者として独立していた二大の伝手で、大阪の名門ダンスホール『[[赤玉 (ダンスホール)|赤玉]]』に1ヶ月、『[[谷口安彦とプレミア・スウィング]]』のメンバーとして赴く{{Sfn|佐藤|pp=76-77}}。
=== ジャズマン時代 ===
1950年、[[早稲田大学]]へ入学。二大の紹介から[[渡辺晋]]の勧誘を受け、[[松本英彦]]、[[南廣]]、[[安藤八郎]]らとバンド『シックス・ジョーズ』を結成。1年後にはバンドの名は全国に知れ渡り、音楽雑誌『[[スイングジャーナル]]』の人気投票でバンドは部門2位、中村はピアニストとして1位を勝ち取った。しかし間もなく、ジャズの芸術性を追求しようとする中村と、あくまでジャズをエンターテインメントとして割り切り、ジャズメンの生活の安定を目指すマネジメント肌の渡辺との間で衝突が発生、中村は松本とともにシックス・ジョーズを脱退してしまう{{Sfn|佐藤|pp=78-82}}。
1953年、中村、松本、[[ジョージ川口]]、[[小野満]]の4人で『[[ビッグ・フォア]]』を結成。前述の人気投票の各部門の1位のメンバーの顔合わせは若者から熱狂的に歓迎され、日本で初めて野球場での単独コンサートを開催、1954年12月には、[[文化放送]]でレギュラー番組『[[トリスウイスキー|トリス]]・ジャズ・ゲーム』<ref group="注">この番組は毎週[[東京ヴィデオ・ホール]]からの公開録音で、[[江利チエミ]]がゲスト出演した1955年4月14日の放送回は、[[放送ライブラリー]]で聴取できる。また、1957年6月から7月にかけて、[[平岡精二]]、[[宮沢昭]]、[[渡辺貞夫]]がゲスト出演した録音は、[[キングレコード]]から『ジャズ・アット・ザ・トリス』のタイトルでレコード化され、現在もCDで入手できる。</ref>を持つに至った。この番組には後にコンビを組む[[永六輔]]も放送作家として関わっており、曲のリクエストのコーナーでは一観客としてマイナーな曲のリクエストを連発して、メンバーを困らせたという{{Sfn|佐藤|pp=83-84}}。
しかし1950年代後半に入ると、ジャズ自体の人気が下降線をたどり始め、代わってロカビリーが主流に躍り出る。この人気を牽引したのは[[渡辺プロダクション]]を設立していた渡辺晋であった。1958年2月8日、ナベプロが企画した『[[日劇ウエスタン・カーニバル]]』で人気に火がつき、[[山下敬二郎]]、[[水原弘]]、[[坂本九]]らスターを続々輩出する。また、専属歌手の給料を歩合制から月給制に改め、草創期にあったテレビに進出して新たな市場を獲得するなど、ナベプロ主導で音楽業界のネットワークが大幅に変革した{{Sfn|佐藤|pp=84-88}}。
中村はジャズの世界では最後までトップクラスの人気であったが、ジャズが芸術性、前衛性を強めるとともに大衆性を失い、市場が縮小するという悪い流れが続いた。中村はジャズ復興を賭けて、自主リサイタルの開催を決意する。ジャズとクラシックの融合というテーマを掲げ、半年間は仕事をセーブ、リサイタルの準備に打ち込んだ。リサイタルのプログラムには、友人の[[三島由紀夫]]からメッセージが寄せられた{{Sfn|佐藤|pp=88-91}}。しかし意欲が空回りしてイメージと現実の間にギャップが生じ、準備が遅れ始める。精神的に追い詰められた中村はついに薬物に手を出すが、進捗は好転しなかった。仕上げが遅れたことにより譜面の完成は更に遅れ、オーケストラの練習も不十分であった。1958年6月5日、産経ホールで開かれた『[[中村八大リサイタル]]』は、公演後の評価はそこそこであったが、芸術肌の中村にとっては無残な失敗であった。その結果、中村に残ったのはジャズの斜陽という現実と膨大な借金、薬物依存という苦境であった{{Sfn|佐藤|pp=92-93}}。
=== 作曲家への転身、レコード大賞受賞 ===
翌1959年2月、TBSラジオの芸術祭参加作品『[[琴と日本の打楽器のための組曲]]』を担当した時、締切当日になってスタジオで作曲作業を行っていた中村は、衝動的に自殺を思い立つが、自身の曲がスタジオから流れてきたのを耳にして思いとどまる。自宅へ戻ると直ちに薬物を廃棄、2週間家に閉じこもって禁断症状に耐えた。精神の平静を取り戻すと同時に自身の音楽への向き合い方を内省し、過去に音楽教室を抜けだして観たエンターテインメントや巡業への帯同で学んだ、「音楽は観客と遊離するべきものではない」という考えを自ら破っていたことを悟り、失敗に終わったリサイタルのような芸術性の空回りは、二度とするまいと誓った{{Sfn|佐藤|pp=93-94}}。
かつて袂を分かった渡辺のもとに頭を下げに行くと、ロカビリーを勉強するよう命ぜられ、[[ウエスタン・カーニバル]]の鑑賞を始める。当時ナベプロはロカビリーをテーマにした映画の制作を進めていたが、肝心のロカビリーの曲という点で難題にぶち当たっていた。敗戦後の日本においては外国の曲の無断使用が横行しており、米国側も占領政策の文化面での効用の面から大目に見ていた。しかし日本が独立を回復し、復興が軌道に乗ってもなお野放図的にカバーされていたのが問題視され、1959年を境に著作権法が厳密に適用されるようになったのである{{Sfn|佐藤|pp=98-100}}。
渡辺は、丁度仕事をもらいに来た中村に映画の音楽担当を依頼した。中村は大喜びで引き受けたが、中村と面識がなかった東宝側の[[山本紫朗]](1903年 - 1995年)([[和田誠]]の伯父)から、オーディションとして翌日までに10曲楽曲を持ってくるよう求められた。それまでジャズ一筋でやってきた中村は作詞家との伝手はなく、思案に暮れているとたまたま永六輔とばったり出会った。永は放送作家一筋で作詞の経験は皆無だったが、中村の依頼に二つ返事で引き受けた。そのまま2人して中村の自宅へ向かい、朝までかかってそれぞれ10曲分の歌詞とメロディーを制作、そこから2人で原稿を突き合わせ、直しと並行して中村が編曲、写譜屋を3人呼んでオーケストラ用の譜面に書き起こすという突貫作業を一日中かかって行い、完成した10曲を持って中村が東宝撮影所へ直行、山本に楽譜を手渡した。山本に作品が認められて、中村は音楽監督に採用された{{Sfn|佐藤|pp=100-104}}。
中村が担当した映画は『[[檻の中の野郎たち]]』と『[[青春を賭けろ]]』の2作で、作中には永と共作した作品も流された。中でも、[[水原弘]]が歌った『[[黒い花びら]]』では水原の歌声と中村の新奇なアレンジが受けてヒットする{{Sfn|佐藤|pp=104-114}}。同曲は、同年に始まった[[第1回日本レコード大賞]]にノミネートされ、審査を勝ち抜き大賞に輝いた。なお、当時のノミネートの基準は、作曲家協会所属の作曲家による作品に限られており、フリーランスの中村の作品には権利がないことが審査中に発覚したため、急遽中村が協会に加盟するという措置がとられた{{Sfn|佐藤|p=132}}。
後年判明したところでは、賞の趣旨は従来のレコード会社お抱えの作詞家・作曲家による似たり寄ったりの楽曲の世界の打破、日本の“新しい音楽”の創設であり、制定を主導した古賀政男と服部良一は当時の音楽家としては珍しい、音楽学校出身でない音楽人であった。審査中には「ロカビリーだから」という理由で「黒い花びら」が除外されかけたこともあったが、2人が「どのジャンルの曲だろうが、いい曲はいい曲だ」と擁護していた{{Sfn|佐藤|pp=136-143}}。擁護された中村と永も早稲田大学出身のアマチュアコンビであった。以降、2人は「六・八コンビ」として数多くのヒット曲を世に送り出してゆく。1961年に発売された『[[上を向いて歩こう]]』は、1963年に米国チャートで1位に輝き、日本の音楽が世界に通用することが証明された。2人の活躍により以降、専属作家による寡占状態は徐々に弱まってゆき、[[岩谷時子]]、[[宮川泰]]、[[いずみたく]]、[[浜口庫之助]]、[[加山雄三]]らが後に続いた。ロカビリーの後継として1960年代後半にブームになったグループ・サウンズに至ってはフリーランスの作家の登竜門と位置付けられており、この頃にはレコード会社の専属作家というシステムはほぼ終焉を迎えた{{Sfn|佐藤|pp=143-146}}。
1963年秋、中村は過労がたたって[[十二指腸潰瘍]]で入院する。11月に発売した永との共作『[[こんにちは赤ちゃん]]』(歌:[[梓みちよ]])で2度目のレコード大賞受賞。翌年夏から1年間をニューヨークで過ごし、休養を兼ねて世界の音楽を学ぶ{{Sfn|佐藤|p=221}}。
1960年代に入ると音楽を通じて自己表現を図る若者が登場し、シンガーソングライターが現れた。中村は歌詞とメロディーの時代は去り、ビートの時代が訪れたことを悟った。永は作詞家を辞めて放送作家に返り咲き、一方で中村は子供の頃からの夢であった[[交響曲]]に取り組み始める。中村は交響曲を「全ての音楽の集大成」と位置付けており、自身の音楽生活の集大成として臨んだ。しかし、交響曲披露演奏会が近づいた頃、ひどい風邪を引いて作曲作業が困難になったため、[[玉木宏樹]]のところに三段譜で書いた交響曲スケッチ譜面を持ち込んでオーケストレーションの完成を依頼し、玉木は40段のスコアにして完成させた。後年の玉木の回顧によると「曲調は少し[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]風で、けして悪くない曲だった」という。また同時に、社会的作品として環境問題をテーマにした『水の歌』にも取り組み、構成には永に代わり[[谷川俊太郎]]を迎え入れた。リサイタルは中村本人にとっても満足が行く出来栄えであった。しかし達成感と同時に、疲労感と虚脱感も大きかった。リサイタルを終えて間もなくの1971年初頭、糖尿病を発症する{{Sfn|佐藤|pp=221-227}}。
=== 晩年 ===
{{節スタブ}}
1992年6月10日、心不全のため死去。61歳没。晩年は持病の[[糖尿病]]や[[うつ病]]に苦しみ音楽活動の一線からは退いていた。[[葬儀]]は[[浄土真宗]]で行ったが、77日忌は[[日蓮宗]]にて行われた。墓所は[[池上本門寺]]。
現在は、長男の中村力丸が八大の個人事務所「八大コーポレーション」を引き継ぎ、当該会社で楽曲の権利を管理している<ref>[https://www.musicman.co.jp/interview/19680 「musicman-net」内インタビュー「Musicman's RELAY」第129回]</ref>。
== 上を向いて歩こう(Sukiyaki) ==
{{main|上を向いて歩こう}}
; 1961年 : 7月21日「第三回中村八大リサイタル」で初演。歌詞に秋の部分を加えると共に、構成とアレンジを練り上げ、NHKテレビ「[[夢であいましょう]]」の「今月の歌」で流れる。大反響を呼び10 - 11月の2ヵ月に延長。10月15日東芝レコードより発売 (作詞:永六輔、作曲:'''中村八大'''、歌:坂本九)
; 1962年 : フランスのパテ・マルコーニから発売
; 1963年 : 米国のキャピトル・レコードから発売され、日本人の曲として初の全米チャート1位を獲得 ([[ビルボード]]6月15日から3週連続、キャッシュボックス4週連続)
; 1981年 : 黒人女性デュオ「[[テイスト・オブ・ハニー (バンド)|テイスト・オブ・ハニー]]」が英語版を発売。 ビルボード最高位3位を獲得
; 1993年 : 黒人ラッパー「[[スヌープ・ドギー・ドッグ]]」がデビューアルバムで取り上げ、史上初の全米チャート初登場1位に輝く
; 1995年 : ボーカルグループ「4PM」がカバー。 ビルボード最高位8位を記録
== その他の作品 ==
* [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の『[[笑点]]』や、[[TBSテレビ|TBS]]の『[[JNNニュース]]』のテーマ曲(1975年 - 1984年)など、各テレビ番組のオープニングテーマも作曲している。
* [[東海テレビ放送|東海テレビ]]の開局5周年を記念して作られたステーションソング「楽しい1チャンネル」を作曲している<ref name="THK 50th">{{Cite|和書|author=東海テレビ放送/編集|title=東海テレビ放送開局50年史 つたえるつなぐ|date=2009|pages=45}}</ref>。
* [[CBCラジオ]]『[[0時半です松坂屋ですカトレヤミュージックです]]』などテレビ、ラジオのジングルの作曲数は膨大である。
* [[早稲田大学]]応援歌「吼えろ早稲田の獅子」や「いざ青春の生命のしるし」の作曲者でもある。
* [[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]公式連盟歌「[[白いボールのファンタジー]]」を作曲した(一般公募の歌詞に曲をつけたもの)。かなりの年月が経過していたためほぼ忘れ去られた存在であったが、[[2004年]]、[[プロ野球再編問題 (2004年)|プロ野球再編問題]]で世間が大騒ぎしていたとき、パ・リーグファンが歌い出したことから再び注目された。
* [[近畿日本鉄道]]の社歌「[[近鉄の歌]]」など、企業の楽曲も作曲した事例もある。なお、近鉄の歌の作詞者は永六輔である。
== 主な作曲作品 ==
* [[梓みちよ]]
** 「こんにちは赤ちゃん」 [[第5回日本レコード大賞]]受賞
** 「STVの歌」 [[札幌テレビ放送]]イメージソング
* [[北島三郎]]
** 「[[帰ろかな]]」
* [[九重佑三子]]
** 「コメットさん」 [[TBSテレビ|TBS]]『[[コメットさん]]』テーマソング
** 「ウェディング・ドレス」
** 「しあわせ」
** 「青い恋」
** 「抱きしめて」
* [[堺正章]]
** 「明日を祈る」
** 「なんでこんなに」
* [[坂本九]]
** 「[[上を向いて歩こう]]」 全米チャート・[[ビルボード]]3週連続1位。 世界70ヶ国でリリース
** 「[[明日があるさ]]」 2001年に[[ウルフルズ]]と[[Re:Japan]]のカバーで再ヒット
** 「一人ぼっちの二人」[[2008年]]の[[連続テレビ小説]]『[[だんだん]]』の中で使用されている。
** 「銀座の夜」
** 「さよならさよなら」
** 「[[世界の国からこんにちは]]」 [[日本万国博覧会]](大阪万博、EXPO'70)テーマソング
** 「そして想い出」日本初の手話による手話のための歌
** 「口笛だけが」「夢を育てよう」「フライパンの唄」「銀座の夜」「太陽と土と水を」
** 「生きていてよかった」ほか多数
* [[坂本スミ子]]
** 「夢であいましょう」 [[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]『[[夢であいましょう]]』テーマソング
* [[三遊亭小圓遊#4代目|4代目三遊亭小圓遊]]
** 「マドモアゼル」
* 4代目三遊亭小圓遊・[[三波伸介 (初代)|三波伸介]]・[[三遊亭圓楽 (5代目)|5代目三遊亭圓楽]]・[[桂歌丸]]・[[三遊亭圓窓|6代目三遊亭圓窓]]・[[林家こん平]]・林家木久蔵(現:[[林家木久扇]])・[[松崎真]]
** 「アリャリャン音頭」
* ヤング101(NHK総合テレビ『[[ステージ101]]』オリジナルソング)
** 「[[涙をこえて]]」 [[シング・アウト (日本のバンド)|シング・アウト]](第1回合歓ポピュラーフェスティバル・作曲グランプリ受賞曲)
** 「夕べの祈り」[[江崎英子]]
** 「恋人中心世界」[[小林啓子]]
** 「若い旅」[[ステージ101|塩見大治郎]]&ヤング101
**「おやすみなさい」[[若子内悦郎]]
**「朝が来た」[[ステージ101|井口典子]]
**「駄目ね!」[[ザ・チャープス]]
**「脱線列車にのり込んで」ヤング101
* [[ジャニーズ (グループ)|ジャニーズ]]
** 「[[若い涙]]」 デビュー曲。[[ジャニーズ事務所]]のスタートを飾った曲
* [[宝みつ子]](「嵯峨野れい」名義)
** 「しゃれた気分」
** 「東京-パリ」
** 「ルイサが知りたきゃ蛇にきけ」
* [[ダークダックス]]
** 「近鉄の歌」(近畿日本鉄道社歌)
* 田辺靖雄・梓みちよ
** 「いつもの小道で」
** 「ひとりだけの歌」
* [[デューク・エイセス]]
** 「おさななじみ」
** 「続・おさななじみ」
** 「おさななじみ…その後」
* [[中尾ミエ]]
** 「[[雨の遊園地]]」
* [[中山千夏]]
** 「宇宙にとびこめ」
* [[西田佐知子]]
** 「[[初めての街で]]」 [[菊正宗酒造]]の[[コマーシャルソング]]
** 「[[故郷のように]]」 NHK『夢であいましょう』[[夢であいましょう#今月のうた|今月のうた]]
* [[萩本欽一]]・[[真屋順子]]
** 「欽一・順子の子守唄」 [[テレビ朝日]]『[[欽ちゃんのどこまでやるの!?]]』挿入歌
** 「妻は夫をいたわりつ」
* [[ザ・ピーナッツ]]
** 「私と私」
** 「東京の四月」
** 「幸福のシッポ」
* [[弘田三枝子]]
** 「 [[ルックチョコレート]]の歌」不二家ルックチョコレートCMソング([[1962年]])
** 「ブルージン・ブルース」
** 「寝不足なの」
* [[ジェリー藤尾]]
** 「遠くへ行きたい」 [[第4回日本レコード大賞]]作曲賞受賞
** 「インディアン・ツイスト」
* [[松崎しげる]]
** 「ぼく達はこの星で出会った」 遺作。第1回古関裕而記念音楽祭・金賞受賞曲
* [[水原弘]]
** 「[[黒い花びら]]」 [[第1回日本レコード大賞]]受賞
** 「[[黒い落葉/黄昏のビギン|黄昏のビギン]]」(永六輔との共同作詞)
** 「[[黒い落葉/黄昏のビギン|黒い落葉]]」「青春を賭けろ」「暗い慕情」「野良犬の歌」「この青さこの若さ」「水にうつりし月」「恋のカクテル」「別離」「黒い貝殻」「男一匹旅がらす」「黒い三度笠」「黒い旅鴉」「星の下の瞳」「風に歌おう」「青春を賭けろ」「素晴らしい人生」「東京の夜」「何も云わないで」
* [[三波春夫]]
** 「[[世界の国からこんにちは]]」 [[日本万国博覧会]](大阪万博、EXPO'70)テーマソング
* [[森山加代子]]
** 「じんじろげ」
** 「青空を抱きしめよう」
** 「幸福のシッポ」
* その他
** [[東海テレビ放送]]のステーションソング「楽しい1チャンネル」([[1963年]])<ref name="THK 50th" />
**「振り向けば[[松坂屋]]」松坂屋CMソング([[1964年]])
** 「[[天才クイズ]]」([[CBCテレビ|中部日本放送]])のテーマソング「天才クイズの歌」([[1967年]])
** 「[[笑点]]」(日本テレビ系列)の[[笑点#笑点のテーマ|テーマ音楽]] ([[1969年]][[11月]] - 現在)
** 「[[遠くへ行きたい (曲)|遠くへ行きたい]]」(よみうりテレビ・日本テレビ系列)のテーマソング ([[1970年]][[10月]] - 現在)
** 「[[ステージ101]]」(NHK総合テレビ)のテーマソング ([[1970年]][[1月]] - [[1973年]][[4月]])
** 「[[JNNニュース]]」(TBS系列)のテーマBGM ([[1975年]]春 - [[1984年]]秋まで使用)
** 「想い出はいつも」([[埼玉県]][[草加市]]歌)
** 「[[川口市立新郷東小学校]]校歌」(作詞は[[岩谷時子]])
** 「[[柏市立柏高等学校]]校歌」(作詞・作曲)
** 「[[月隈こども園]]園歌」([[大分県]][[日田市]]にある[[認定こども園]]。作詞は当時の園長・武内一美)
** サンフランシスコ日本語補習校校歌「いつか世界の架け橋に」作曲 中村八大 作詞 サンフランシスコ日本語補習校生徒
** 「真壁町立真壁小学校(現:[[桜川市立桃山学園]])校歌」(作詞・作曲)
== 自身の作品 ==
=== シングル ===
* 太陽と土と水を(1971年、東芝音楽工業、TP-2578)
=== アルバム ===
* HACHIDAI NAKAMURA(1959年、キングレコード、KC 7)- 2004年8月4日に初CD化
* 中村八大のすべて 夢で逢いましょう(テイチクレコード、SL-1202)
* ミスティ Misty(TP-60301)- 1992年9月3日にCD化
* 愛の誓い(1992年9月3日、東芝EMI)
== 著書 ==
*『ぼく達はこの星で出会った』黒柳徹子, 永六輔 編. [[講談社]], 1992.9
== 演じた俳優 ==
* [[山崎銀之丞]] - 「[[上を向いて歩こう 坂本九物語]]」(2005年、[[テレビ東京]])
* [[ふかわりょう]] - 「[[ザ・ヒットパレード〜芸能界を変えた男・渡辺晋物語〜]]」(2006年5月、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系)
* [[崎本大海]] - 「[[トットちゃん!]]」(2017年、[[テレビ朝日]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist|20em}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book |和書 |author=佐藤剛|authorlink=佐藤剛 (音楽プロデューサー) |title=「黄昏のビギン」の物語 |date=2014年 |publisher=小学館 |series=小学館新書 |isbn=978-4-09-825214-5 |ref={{SfnRef|佐藤}} }}
== 外部リンク ==
* {{NHK人物録|D0009072582_00000}}
* [[上を向いて歩こう]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:なかむら はちたい}}
[[Category:日本の作詞家]]
[[Category:日本の男性作曲家]]
[[Category:日本のジャズ・ピアニスト]]
[[Category:日本の引揚者]]
[[Category:大阪万博に関係した人物]]
[[Category:福岡県立明善高等学校出身の人物]]
[[Category:早稲田大学高等学院・中学部出身の人物]]
[[Category:早稲田大学出身の人物]]
[[Category:福岡県出身の人物]]
[[Category:青島出身の人物]]
[[Category:1931年生]]
[[Category:1992年没]] | 2003-02-20T01:51:55Z | 2023-11-11T20:57:09Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%85%AB%E5%A4%A7 |
2,471 | 京都大学 |
京都大学(きょうとだいがく、英語: Kyoto University)は、京都府京都市左京区吉田本町36-1に本部を置く日本の国立大学である。1897年創立、1897年大学設置。略称は京大(きょうだい)。旧帝国大学7校の1つであり、文部科学省が実施しているスーパーグローバル大学事業のトップ型指定校ならびに指定国立大学法人に指定されている。
京都大学は、日本で2番目に創設された帝国大学である京都帝国大学の流れを汲んでいる国立大学で、精神的な基盤として「自由の学風」を謳っている。また、西部講堂のロックコンサートなどに代表される京都地区における文化発信地としての役割も担ってきた。
創立以来「自由の学風」を建学の精神としている。国立大学法人となった後に制定された京都大学の基本理念にも引き継がれた。
京都市内の繁華街から離れた古都の風情を残す落ち着いた環境の中にあり、何事も学生の自主性に任せるという「自由の学風」を標榜している。学生寮の入退寮選考を学生に任せた結果、無学籍者も居住するようになった。リベラルな学風の傾向にある。毎年行われる11月祭や折田先生像を巡る落書き、卒業式での仮装などにもその一端を垣間見ることができる。
京都大学や(前身の)京都帝国大学では、それらの自由の拡大あるいは縮小を巡る攻防戦が繰り返されてきた。滝川事件は最も有名な事例の一つである。
京都大学は学部・研究科以外に19の附置研究所・研究センターを設置している。2010年3月現在、国内の大学で最多である。2020年4月時点で、そのうちののべ14の研究所・研究センターは文部科学省「共同利用・共同研究拠点」に認定されており、国内の大学で最多である。
共同利用・共同研究拠点の前身に当たる「全国共同利用型附置研究所・研究施設」の仕組みを初めて採用したのは京都大学の基礎物理学研究所である。これらの事実について京都大学の関係者は「幅広い分野において日本を代表する学術研究拠点となってきた、京都大学の社会的特徴を表している」と考えている。
タイムズ・ハイアー・エデュケーションによる『THE世界大学ランキング 2023-2024』(2023年度)では、世界同点第55位、アジア同点第10位、国内第2位(同誌の世界大学名声ランキングでは第26位、アジア第5位、国内第2位)である。またQS世界大学ランキング 2024(2023年)では、世界第46位、アジア第9位、国内第2位である。
タイムズ・ハイヤー・エデュケーションがベネッセと連携して日本の大学の評価を発表している『THE世界大学ランキング日本版2023』では、前年に総合順位を4位から5位に繰り下げたままの結果となり、第5位に甘んじた。
2019年10月10日現在、卒業生から8人、ゆかりのある人物も含めると11人のノーベル賞受賞者(いずれも自然科学分野)を輩出している。これはアジアの大学で最多である。フィールズ賞、ラスカー賞、ガードナー国際賞の受賞者数も国内の大学で最多である。
(沿革節の主要な出典は公式サイト)
京都大学の起源は文久元年8月16日(1861年9月20日)に長崎に設立された長崎養生所(その後、長崎精得館へ改称)まで遡る。長崎精得館の理化学部門は、当初は江戸にあった開成所(現在の東京大学)へ「理化学校」として移設することになっていたが、明治維新の混乱で実現しなかった。慶応4年(1868年)に明治政府は「理化学校」を舎密局(せいみきょく、後の理学校)として大阪に開設することを決定、明治2年(1869年)に開校した。明治3年(1870年)、理学校は明治2年10月24日(1869年11月27日)に開設された洋学校と合併、開成所となる。開成所はその名称を大阪英語学校 (旧制)、大阪専門学校、大阪中学校、大学分校と変遷させ、1886年(明治19年)に公布された中学校令によって第三高等中学校と改称する。第三高等中学校は1889年8月1日に京都市吉田町に取得した新校地へ移転した。1894年に公布された高等学校令に基づいて第三高等中学校は旧制の第三高等学校(以下、本記事において「第三高等学校」は特に断りのない限り、旧制第三高等学校を指す)となる。
帝国大学令制定後、近畿地方にも帝国大学の設置を求める声が上がっていたが、財政難のため見送られ続けていた。1895年に西園寺公望は日清戦争で得た賠償金を基に第三高等学校を帝国大学へ昇格させる提案を行う。最終的に第三高等学校を東一条通の南側(現在の吉田南キャンパス)に移転し、高等学校の土地・建物を大学が利用するという案が採用され、翌年、予算処置が可決される。1897年6月18日に京都帝国大学設置に関する勅令(明治30年勅令第209号)が制定され、「京都帝国大学」が発足する。
創設時の計画では1898年にまず法科大学から設置する予定であったが、工科志望者の急増により1年前倒しという形で、創設と同年の1897年に京都帝国大学理工科大学が設置された。続いて1899年京都帝国大学法科大学および京都帝国大学医科大学、1906年京都帝国大学文科大学を設置し、約10年をかけて分科大学を設置した。初代総長(1897年 - 1907年)には文部省専門学務局長の木下広次が就任。事務局長に当たる「書記官」には中川小十郎が就任した。
当時の総長の意向もあって、「研究・教授・学修の自由を重んじるドイツ式」を採用、ドイツの大学のシステムに倣った。高根義人の主導によるこの方針は現在の「自由の学風」に影響を与えたといわれる。法科大学の卒業生の高等文官試験での不振を端として転換されたものの、京都大学に独特の学風を根付かせる端緒となったことは確かである。
1919年(大正8年)に分科大学制が学部制に変わった。その年には、経済学部が法学部から分離して独立の学部となり、1923年には農学部の設置と学部の増設が相次いだ。農学部増設と同じ年には本部構内に京都大学のシンボルとして親しまれている時計台を持つ大学本館が完成している。1926年には京都大学初の附置研究所に当たる化学研究所が設置された。
昭和に入ると思想関係の締め付けが強化された世相を反映して、京都大学でも思想事件が相次ぐ。1928年(昭和3年)、文部省はマルクス経済学者の河上肇教授の辞職を要求。教授会は河上の辞職を認める決議を出し、河上は大学を追われることになる。さらに1933年には鳩山一郎文部大臣が法学部の瀧川幸辰教授の刑法理論が「赤い思想」であるとして休職処分にしたことから、法学部の全教官が辞表を提出。総長も文相と会見、辞意を表明したものの文部省からの切り崩しに遭い、結局瀧川ら7人の教官が大学を去る事態となった(滝川事件)。
日中戦争激化に伴う戦時体制の強化に伴い、日本精神史(文学部)、東亜経済政策原論(経済学部)、航空学・燃料化学(工学部)などの国策に沿った講座が設けられた。太平洋戦争の開戦後、学生を軍隊風に編成する目的で「京都帝国大学報国隊」が結成される。
また、京大医学部出身の軍医である石井四郎は、満州国の関東軍に731部隊を設立し、化学兵器や生物兵器の開発や、捕虜や罪人に対する人体実験などを行った。これに対し、医学部長を務めた戸田正三や、石井の指導教員であった医学部教授の清野謙次は、京大医学部出身者を部隊の人材として送り込み、石井の活動を支援した。
1943年、文系大学生の徴兵猶予が停止され、学生が続々と戦場に赴いた。京都帝国大学の学徒出陣壮行会では、総長の羽田亨を先頭に平安神宮に参拝、必勝を祈願したという。
第二次世界大戦終結後、公職追放によって大学を免職になる教授が出る一方で、滝川事件で大学を去っていた瀧川幸辰らが大学に復帰した。1946年から女子の入学が認められた。創立五十周年に当たる1947年には大学名から「帝国」が削られて京都大学と改称。1949年には第三高等学校を統合して、新制大学となった。同年には、理学部教授湯川秀樹が日本人初のノーベル賞に輝き、京都大学ではこれを記念して湯川記念館を設置。その後、湯川記念館は基礎物理学研究所に改組されている。
1968年、青年医師連合の京都大学の支部による医学部大学院入試ボイコットの呼びかけに応じなかった受験生に青医連メンバーが暴行を働いたいわゆる「青医連事件」が発生。これを端緒として教養部は無期限ストに入り、学生部は閉鎖された。東大のような入試中止という事態は免れたものの、戦後初めて卒業式が中止に追い込まれ、さらに翌年度になってもいくつかの建物の閉鎖は依然続き、全面解除は9月まで持ち越されている。なお、1973年度は、入学式が中止になっている。
1992年(平成4年)、総合人間学部が設置され、翌年には教養部が廃止、同時に大学院大学への移行も行われ、現行の大学組織の形に改編された。1997年に京都大学は創立百周年を迎えた。そして2004年、時代の流れにより国の改革の一つとして国立大学法人法が施行され、その規定により京都大学は国立大学法人に改組した。2017年6月、指定国立大学法人に指定される。
本稿ではこれらの経緯から、創立は第三高等学校の前身である舎密局の設置年である1869年、設立は京都帝国大学が誕生した1897年としている。
一部の研究所、施設を除き、キャンパスは全て京都府内に所在する。
作詞 水梨彌久、作曲 下総皖一。1939年に出された『青少年学徒ニ賜ハリタル勅語』に応えるものとして1940年に制定された。歌詞は前年に学内で公募されたもので、卒業生の水梨の作品が一等に選ばれた。卒業式と入学式などで使われる。なお、卒業生で指揮者の朝比奈隆のファーストレコーディングは、この学歌である(テイチク。演奏は京都大学交響楽団)。旧帝国大学では唯一の学歌である。歌詞は京都大学の公式サイト上に紹介されている。 1997年の創立百周年を期に新しい学歌の制定を計画し、歌詞の募集も行われたが、結局『従来の学歌の方がよい』との意見が多数を占めたため、計画は中止された。
その他の京都大学に関係する歌としては以下がある。
第三高等学校のあるクラスのクラス歌が、全校に広まり、第三高等学校・京都大学を象徴する歌となった。1946年に黒澤明監督の映画『わが青春に悔なし』の挿入歌に使われたことで全国にも知られるようになった。当初の歌詞は現在伝わっているものと一部異なる。
第三高等学校水上部(現京都大学ボート部)部員の小口太郎が琵琶湖周航の途上に作詞した。曲は当時部員の間で流行していた歌『ひつじぐさ』(作曲 吉田千秋)を流用している。第三高等学校の寮生らに愛唱された。
アルト・ハイデルベルクを基にした学生歌。戦後、吉田寮の寮生らに愛唱された。
学歌と同じ趣旨で1940年に制定された。学旗の意匠は京都大学の公式サイト上に紹介されている。
スクールカラーは濃青 である。
吉田キャンパス時計台前のクスノキを図案化したものが大学のエンブレムとして使用されている。元々は1950年頃から「事務局シール」として印刷物などに用いられていたもので、1990年に正式にエンブレムとして了承された。
共同研究や研究者・学生の交流を行うため、170の大学・機関と大学間交流協定を結んでいる。また延べ965の大学・機関と部局間協定を結んでいる。()内の数字は締結年。
採択23件
採択13件
京都大学での学部段階での教育は、全学が対象の教養科目と各学部ごとの専門科目に大別される。このうち教養科目については、1993年の教養部廃止以降、全学共通科目を中心に再編された。教養科目と専門科目の分担は、1・2回生を教養課程、3回生以上を専門課程とするような学年による区分は行わず、1回生では教養科目を多く履修し、学年が上がるに従って専門科目の割合を徐々に増やし、卒業までに教養・専門のそれぞれで必要な単位を取得する方式を採っている。ただし学部によっては、途中の年次までに所定の教養科目の単位を取得していないと系登録・研究室配属などができない(事実上の留年)ことがある。
2013年度に全学共通で年間登録授業数の上限を定めるキャップ制が新規入学生に適用されることとなった。様々な科目を広く履修し、各学生が己の適性を探っていけるよう理学部や文学部は学科を細分せず単学科となっている。だが、キャップ制にはこれら既存の教育制度との齟齬があるとして、しばしば在学生の間で問題視されている。
教養科目の大半は全学共通科目であり、平成24年度までは以下の5群に分類されていた。
平成28年度からは以下のように分類されている。
教養科目の運営は、教養部廃止時には総合人間学部が担当していたが、2003年以降は新設された高等教育研究開発推進機構が担当している。
履修登録や休講・レポート・試験などの連絡を WEB 上で行うため、全学共通教育教務情報システム(略称 KULASIS = Kyoto University's Liberal Arts Syllabus Information System, クラシス)が運用されている。
1916年に設立された朝比奈隆の出身サークルとして交響楽に詳しい人々の間では著名な京都大学交響楽団や学生新聞に当たる『京都大学新聞』を発行している京都大学新聞社などが知られている。また、京都大学SF研究会はSFファンダムにおいてローカルコン「京都SFフェスティバル」の主催などで知られている。
また、京都大学では学生運動の名残が残っており、近年でも石垣カフェといった事例が発生している。
京都大学体育会が課外スポーツの振興に当たっており、現在51のクラブが所属している関西の強豪校である。しかし大学スポーツ協会には参加せず。京大のスクールカラーである濃青をシンボルカラーとし、濃青地に白で十字が染め抜かれた意匠「体育会十字」を旗などに使う。歌に関しては#学歌を参照。年に1度、4月に機関紙「濃青」を発行し、全新入生に配布している。全国七大学総合体育大会および近畿地区国公立大学体育大会の参加校である。また、2009年より、東京大学との間で、京都大学東京大学総合対校戦を開催している。
アメリカンフットボール部はギャングスターズの愛称を持ち、大学チャンピオン6回、日本チャンピオン4回の経験がある。特に1986年と1987年は、甲子園ボウル(東西大学王座決定戦)・ライスボウル(日本選手権)連覇を果たした。関西学生アメフト DIV1 所属。
硬式野球部は関西学生野球連盟に加盟し、旧関西六大学野球連盟時代に2度の優勝がある。帽子のロゴ「DB」は Dark Blue の略で、スクールカラー「濃青」に因んでいる。
ボート部は、全日本大学選手権大会などで男子舵手付きペアの優勝経験がある。
男子ラクロス部は、関西学生ラクロスリーグファイナルで2004年、2006年、2008年、2010年に優勝している。
京都大学キャップ投げ倶楽部が新スポーツ「キャップ投げ」を考案。
2013年優勝。毎年レベルの高いマシン作りに定評がある。新技術を搭載するために常に挑戦し続けるスタイルが京都大学の校風を表していると言えよう。
全学規模の同窓会として、京都大学同窓会が2006年11月に発足した。
また学部・研究科や専門分野ごとに以下のような同窓会がある。
また地域ごとの同窓会組織がいくつか存在する。
社団法人学士会は、旧帝国大学出身者、教授・助教授・学長(経験者含む)で構成されており、もちろん京都大学の卒業生、修了生も加盟することができる。
学部と大学院のほとんどが設置されているキャンパス。
旧陸軍の弾薬庫跡地を利用して1947年に開設された。1950年度から1960年度まで教養部1回生の講義が行われていたことがあったが、現在は学部の講義は行われていない(ただし夏休みなどに行われる全学共通科目の集中講義の中には宇治で行われるものもある。たとえば「ビーム科学入門」のように化学研究所提供のものなど。)。工学部や理学部、農学部の4回生は、配属された研究室によっては、ここで卒業研究を行うこともある。
1990年代には吉田・宇治の両キャンパスが手狭になったことから、「第3キャンパス」の建設が計画された。当初は京都府南部や滋賀県も候補地として検討されたが、京都市の提案により桂坂ニュータウンに隣接する、市が住宅地として開発していた「桂御陵坂」地区が建設地に選ばれた。2003年に化学系・電気系専攻の移転が完了し、使用が開始された。キャンパスはAからDの4つの「クラスター」に分かれている。物理系であるCクラスターは2012年秋に竣工、12月から移転を開始している。情報系であるDクラスターは整備開始の目処が立っておらず、未造成である。なお京都市営地下鉄東西線の桂キャンパス付近への延伸構想があるが、建設時期などは未定である。
元々は山であった場所を切り開いて建設したため、地形が起伏に富んでいる。桂駅側からの場合、長い坂道を登らなければならない。周囲から隔絶されている。
学生・教員向けに各キャンパス間の連絡バスが運行されている。吉田(本部構内)~宇治間(通称宇治バス)が1日6往復、吉田~桂間が1日7往復、宇治~桂間が1日3往復、所要時間はいずれも50分から1時間である。しかし、渋滞などにより定時制の確保が難しい、最終バスの時間が早いため、それ以降は自転車や原動機付きバイクなどがない学生は公共交通機関を利用しなければならないなど、学生の間には不満もある。
京大生協の食堂はそのメニューの数が日本一と自ら謳っている。特に学生食堂にはあまりないパフェが数多くメニューに並んでいる。西部講堂の付近にあるカフェテリアルネのパフェは16種類ものレギュラーメニューを取り揃えており、期間限定のメニューを含めると現在40種類近くが確認できている。また、南部食堂に併設される喫茶ブリュッケでも個性的なパフェが扱われている。中央食堂や吉田食堂、および本部キャンパスにあるカフェレストラン「カンフォーラ」でもパフェがオーダーできる。
2005年11月には、当時の尾池和夫第24代目総長自身がレシピをプロデュースした「総長カレー」が、大学内の食堂において、人気メニューとして話題となった。2年後の2007年9月には、レシピを再現したレトルトカレーが発売され、現在では京大生協・食堂のみならず、京都土産の人気商品となった他、KBS京都プロデュースのネットショップでも発売されている。
京都大学の学生寮は自治寮である。
※「(図書館)」とあるものは京都大学附属図書館保管、保管先注記のないものは京都大学総合博物館保管
産官学連携本部を設置して、出資やインキュベーション施設の運営などにより、京大発ベンチャー企業の育成や産学連携に取り組んでいる。2014年にベンチャーキャピタルの京都大学イノベーションキャピタルを設立した。また、2018年には産学連携を橋渡しする京大オリジナル株式会社を設立した。
京都にある各大学と連携して、首都圏での情報発信や交流の窓口となる「京都アカデミアフォーラム in 丸の内」を東京・丸の内に開設している。参画しているのは京都外国語大学、京都光華女子大学、京都工芸繊維大学、京都市立芸術大学、京都女子大学、京都精華大学、京都美術工芸大学、同志社女子大学。
京都大学の教授として多くの哲学者を育成した西田幾多郎と田辺元らは、京都学派と呼ばれる学派を形成し、日本における哲学の理論形成に影響を与えた。京都学派の思想については、今なお世界各国で研究が続いている。
京都帝国大学では学問の自由、大学の自治の観点から、慣行的に教授の任免を教授会が行ってきた。しかし1913年、文部省が任命した澤柳政太郎総長は、教授会の同意なく文科大学と理工科大学の7名の教授を免官した。法科大学(後の法学部)は「教授の人事権は教授会にあり」と澤柳に反旗を翻し、翌1914年1月には法科の全ての教授と助教授が抗議の連帯辞職を宣言した。教官を失いそうになった法科学生は、教官の復職と教授会自治の獲得等を目指し、法科支持の運動を繰り広げた。東大法科も京大法科を支援した。結局、奥田義人文相は法科の言い分を認め、後ろ盾を失った澤柳は辞任に追い込まれた。教授会自治を文相が公認したことにより、京大や他大学の自治の発展にも好ましい影響を及ぼした。なお、京大ではこの事件を契機に、総長の学内選出を求める運動が起こり、これも数年後に実現した。
1910年代、日本の大学・高校・専門学校等ではマルクス主義を研究する社会科学研究会がしばしば組織されていた。1924年、全国49校の社研が参加する学連が発足し、マルクス主義の研究や普及、労働争議や労働者教育に関する運動を活発に行った。しかし政府は学生達の活動を危険視し、徹底的な弾圧を開始した。1925年12月、特高警察が、京大や同大の社研会員の自宅や下宿を急襲し、学生33名を検挙した。寄宿舎(吉田寮)で立会人なしの家宅捜索を行ったことが批判され、一度は全員を釈放したものの、翌1926年1月には捜査態勢を立て直し、改めて多数を検挙した。検挙された学生のうち38名が出版法および治安維持法違反、不敬罪で起訴され、37名が有罪になった。社研と繋がりのあった教員も捜査の対象になった。この事件は日本内地で治安維持法が適用された最初の事例になった。政府は当初、治安維持法を利用してマルクス主義や共産主義を取り締まっていた。しかしやがて自由主義や民主主義、社会主義、反戦運動、新宗教、右翼も同様に弾圧するようになり、いつしか国民が政府を批判することは一切許されなくなってしまった。
澤柳事件を経て、京大を含む国内の大学は高度な自治を勝ち取った。しかし1930年代、ナショナリズムが高揚し軍国主義が台頭すると、政府は教育や学術研究を統制するため、学問の自由を担保する大学の自治、その総本山と見なされていた京大を攻撃した。1933年5月、鳩山一郎文相は、京大法学部の瀧川幸辰教授の講演や著書の内容が無政府主義的であるとして、小西重直総長に瀧川の罷免を要求した。法学部と小西総長は要求を拒絶したものの、文部省は瀧川の休職処分を強行した。法学部は澤柳事件に倣い、全教官・全学生が辞職届・退学届を提出するなどして激しく抵抗したが、瀧川の休職は解除されず、小西総長は辞職に追い込まれ、辞職届・退学届もたたき返されてしまった。言論弾圧の対象が、(従来の)マルクス主義的・共産主義的思想から自由主義的・反政府的思想へと拡大された瞬間だった。以降、政府は政権運営に都合の悪い言論・思想への弾圧をエスカレートさせていったが、統制下に置かれた大学に政府の暴走を指摘する自由はもはやなく、抑制を欠いた日本は日中戦争・太平洋戦争へとのめり込んでいった。この事件を基にして戦後、映画『わが青春に悔なし』(黒澤明監督)が製作された。
連合国軍占領下の日本において、GHQは新聞や雑誌等のメディアを検閲し、広島・長崎の原爆被害の実情が一般市民に伝わるのを妨害していた。そこで、京都大学の全学学生自治会(同学会)は原爆の実情と意味を世間に知らしめるため、1951年(昭和26年)7月に京都駅前の丸物百貨店で一般向けの原爆展「綜合原爆展」を開催した。この種の原爆展は世界で初めての試みだったとされるが、数万人の入場者を集めて大成功した。その後も同展覧会のパネルを利用して各地で小さな原爆展が開かれ、非常な注目を集めた。第五福竜丸がビキニ水爆実験で被爆し、反核運動に火がつくのは、その3年後のことだった。
1951年(昭和26年)、昭和天皇が来学した際に、見物に詰めかけた学生と警備の警察との間で一時的に緊張が高まった事件。実力行使はなく、違法行為も見られなかったが、文部大臣や保守派の議員などから不敬であると非難され、同学会が解散に追い込まれた。同学会はこの時に2度目の綜合原爆展を計画していたが、天皇の来学と同学会の解散の影響で実現はならなかった。
2018年2月、2017年の二次試験(物理)で出題ミスがあったことを認め、追加合格の措置を取ると公表。予備校講師から「解答不能の問題がある」と指摘され判明。
京都大学学生寄宿舎規程では、学生寮は副学長が管理し、寮生活の運営は「寮生の責任ある自治」によるものと規程されている。しかし、京都大学は熊野寮自治会に対して令和3年12月15日に「自治会としての責務を果たす意思と能力がない」と判断しておきながら、その後も同自治会に寮運営を任せ続けている。また、「入舎する者の選考は、寮生代表の意見をきいて、副学長が行う。」との条項に反して熊野寮の入退寮選考を寮生に任せており、熊野寮に無学籍者が多数居住しているとの宣言が熊野寮自治会から出されるに至った。
寄宿舎規程への違反について京都大学は遅くとも2018年3月15日には認めていたが、その後は女子寮の管理運営に関する改定がされたのみで、未だに違反は解消されていない。 | [
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"text": "京都大学(きょうとだいがく、英語: Kyoto University)は、京都府京都市左京区吉田本町36-1に本部を置く日本の国立大学である。1897年創立、1897年大学設置。略称は京大(きょうだい)。旧帝国大学7校の1つであり、文部科学省が実施しているスーパーグローバル大学事業のトップ型指定校ならびに指定国立大学法人に指定されている。",
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"text": "京都大学は、日本で2番目に創設された帝国大学である京都帝国大学の流れを汲んでいる国立大学で、精神的な基盤として「自由の学風」を謳っている。また、西部講堂のロックコンサートなどに代表される京都地区における文化発信地としての役割も担ってきた。",
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"text": "京都市内の繁華街から離れた古都の風情を残す落ち着いた環境の中にあり、何事も学生の自主性に任せるという「自由の学風」を標榜している。学生寮の入退寮選考を学生に任せた結果、無学籍者も居住するようになった。リベラルな学風の傾向にある。毎年行われる11月祭や折田先生像を巡る落書き、卒業式での仮装などにもその一端を垣間見ることができる。",
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"text": "京都大学は学部・研究科以外に19の附置研究所・研究センターを設置している。2010年3月現在、国内の大学で最多である。2020年4月時点で、そのうちののべ14の研究所・研究センターは文部科学省「共同利用・共同研究拠点」に認定されており、国内の大学で最多である。",
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"text": "共同利用・共同研究拠点の前身に当たる「全国共同利用型附置研究所・研究施設」の仕組みを初めて採用したのは京都大学の基礎物理学研究所である。これらの事実について京都大学の関係者は「幅広い分野において日本を代表する学術研究拠点となってきた、京都大学の社会的特徴を表している」と考えている。",
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"text": "タイムズ・ハイアー・エデュケーションによる『THE世界大学ランキング 2023-2024』(2023年度)では、世界同点第55位、アジア同点第10位、国内第2位(同誌の世界大学名声ランキングでは第26位、アジア第5位、国内第2位)である。またQS世界大学ランキング 2024(2023年)では、世界第46位、アジア第9位、国内第2位である。",
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"text": "タイムズ・ハイヤー・エデュケーションがベネッセと連携して日本の大学の評価を発表している『THE世界大学ランキング日本版2023』では、前年に総合順位を4位から5位に繰り下げたままの結果となり、第5位に甘んじた。",
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"text": "2019年10月10日現在、卒業生から8人、ゆかりのある人物も含めると11人のノーベル賞受賞者(いずれも自然科学分野)を輩出している。これはアジアの大学で最多である。フィールズ賞、ラスカー賞、ガードナー国際賞の受賞者数も国内の大学で最多である。",
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"text": "昭和に入ると思想関係の締め付けが強化された世相を反映して、京都大学でも思想事件が相次ぐ。1928年(昭和3年)、文部省はマルクス経済学者の河上肇教授の辞職を要求。教授会は河上の辞職を認める決議を出し、河上は大学を追われることになる。さらに1933年には鳩山一郎文部大臣が法学部の瀧川幸辰教授の刑法理論が「赤い思想」であるとして休職処分にしたことから、法学部の全教官が辞表を提出。総長も文相と会見、辞意を表明したものの文部省からの切り崩しに遭い、結局瀧川ら7人の教官が大学を去る事態となった(滝川事件)。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "日中戦争激化に伴う戦時体制の強化に伴い、日本精神史(文学部)、東亜経済政策原論(経済学部)、航空学・燃料化学(工学部)などの国策に沿った講座が設けられた。太平洋戦争の開戦後、学生を軍隊風に編成する目的で「京都帝国大学報国隊」が結成される。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "また、京大医学部出身の軍医である石井四郎は、満州国の関東軍に731部隊を設立し、化学兵器や生物兵器の開発や、捕虜や罪人に対する人体実験などを行った。これに対し、医学部長を務めた戸田正三や、石井の指導教員であった医学部教授の清野謙次は、京大医学部出身者を部隊の人材として送り込み、石井の活動を支援した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1943年、文系大学生の徴兵猶予が停止され、学生が続々と戦場に赴いた。京都帝国大学の学徒出陣壮行会では、総長の羽田亨を先頭に平安神宮に参拝、必勝を祈願したという。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦終結後、公職追放によって大学を免職になる教授が出る一方で、滝川事件で大学を去っていた瀧川幸辰らが大学に復帰した。1946年から女子の入学が認められた。創立五十周年に当たる1947年には大学名から「帝国」が削られて京都大学と改称。1949年には第三高等学校を統合して、新制大学となった。同年には、理学部教授湯川秀樹が日本人初のノーベル賞に輝き、京都大学ではこれを記念して湯川記念館を設置。その後、湯川記念館は基礎物理学研究所に改組されている。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1968年、青年医師連合の京都大学の支部による医学部大学院入試ボイコットの呼びかけに応じなかった受験生に青医連メンバーが暴行を働いたいわゆる「青医連事件」が発生。これを端緒として教養部は無期限ストに入り、学生部は閉鎖された。東大のような入試中止という事態は免れたものの、戦後初めて卒業式が中止に追い込まれ、さらに翌年度になってもいくつかの建物の閉鎖は依然続き、全面解除は9月まで持ち越されている。なお、1973年度は、入学式が中止になっている。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1992年(平成4年)、総合人間学部が設置され、翌年には教養部が廃止、同時に大学院大学への移行も行われ、現行の大学組織の形に改編された。1997年に京都大学は創立百周年を迎えた。そして2004年、時代の流れにより国の改革の一つとして国立大学法人法が施行され、その規定により京都大学は国立大学法人に改組した。2017年6月、指定国立大学法人に指定される。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "本稿ではこれらの経緯から、創立は第三高等学校の前身である舎密局の設置年である1869年、設立は京都帝国大学が誕生した1897年としている。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "一部の研究所、施設を除き、キャンパスは全て京都府内に所在する。",
"title": "基礎データ"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "作詞 水梨彌久、作曲 下総皖一。1939年に出された『青少年学徒ニ賜ハリタル勅語』に応えるものとして1940年に制定された。歌詞は前年に学内で公募されたもので、卒業生の水梨の作品が一等に選ばれた。卒業式と入学式などで使われる。なお、卒業生で指揮者の朝比奈隆のファーストレコーディングは、この学歌である(テイチク。演奏は京都大学交響楽団)。旧帝国大学では唯一の学歌である。歌詞は京都大学の公式サイト上に紹介されている。 1997年の創立百周年を期に新しい学歌の制定を計画し、歌詞の募集も行われたが、結局『従来の学歌の方がよい』との意見が多数を占めたため、計画は中止された。",
"title": "基礎データ"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "その他の京都大学に関係する歌としては以下がある。",
"title": "基礎データ"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "第三高等学校のあるクラスのクラス歌が、全校に広まり、第三高等学校・京都大学を象徴する歌となった。1946年に黒澤明監督の映画『わが青春に悔なし』の挿入歌に使われたことで全国にも知られるようになった。当初の歌詞は現在伝わっているものと一部異なる。",
"title": "基礎データ"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "第三高等学校水上部(現京都大学ボート部)部員の小口太郎が琵琶湖周航の途上に作詞した。曲は当時部員の間で流行していた歌『ひつじぐさ』(作曲 吉田千秋)を流用している。第三高等学校の寮生らに愛唱された。",
"title": "基礎データ"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "アルト・ハイデルベルクを基にした学生歌。戦後、吉田寮の寮生らに愛唱された。",
"title": "基礎データ"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "学歌と同じ趣旨で1940年に制定された。学旗の意匠は京都大学の公式サイト上に紹介されている。",
"title": "基礎データ"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "スクールカラーは濃青 である。",
"title": "基礎データ"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "吉田キャンパス時計台前のクスノキを図案化したものが大学のエンブレムとして使用されている。元々は1950年頃から「事務局シール」として印刷物などに用いられていたもので、1990年に正式にエンブレムとして了承された。",
"title": "基礎データ"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "共同研究や研究者・学生の交流を行うため、170の大学・機関と大学間交流協定を結んでいる。また延べ965の大学・機関と部局間協定を結んでいる。()内の数字は締結年。",
"title": "教育および研究"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "採択23件",
"title": "教育および研究"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "採択13件",
"title": "教育および研究"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "京都大学での学部段階での教育は、全学が対象の教養科目と各学部ごとの専門科目に大別される。このうち教養科目については、1993年の教養部廃止以降、全学共通科目を中心に再編された。教養科目と専門科目の分担は、1・2回生を教養課程、3回生以上を専門課程とするような学年による区分は行わず、1回生では教養科目を多く履修し、学年が上がるに従って専門科目の割合を徐々に増やし、卒業までに教養・専門のそれぞれで必要な単位を取得する方式を採っている。ただし学部によっては、途中の年次までに所定の教養科目の単位を取得していないと系登録・研究室配属などができない(事実上の留年)ことがある。",
"title": "教育および研究"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2013年度に全学共通で年間登録授業数の上限を定めるキャップ制が新規入学生に適用されることとなった。様々な科目を広く履修し、各学生が己の適性を探っていけるよう理学部や文学部は学科を細分せず単学科となっている。だが、キャップ制にはこれら既存の教育制度との齟齬があるとして、しばしば在学生の間で問題視されている。",
"title": "教育および研究"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "教養科目の大半は全学共通科目であり、平成24年度までは以下の5群に分類されていた。",
"title": "教育および研究"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "平成28年度からは以下のように分類されている。",
"title": "教育および研究"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "教養科目の運営は、教養部廃止時には総合人間学部が担当していたが、2003年以降は新設された高等教育研究開発推進機構が担当している。",
"title": "教育および研究"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "履修登録や休講・レポート・試験などの連絡を WEB 上で行うため、全学共通教育教務情報システム(略称 KULASIS = Kyoto University's Liberal Arts Syllabus Information System, クラシス)が運用されている。",
"title": "教育および研究"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1916年に設立された朝比奈隆の出身サークルとして交響楽に詳しい人々の間では著名な京都大学交響楽団や学生新聞に当たる『京都大学新聞』を発行している京都大学新聞社などが知られている。また、京都大学SF研究会はSFファンダムにおいてローカルコン「京都SFフェスティバル」の主催などで知られている。",
"title": "学生生活"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "また、京都大学では学生運動の名残が残っており、近年でも石垣カフェといった事例が発生している。",
"title": "学生生活"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "京都大学体育会が課外スポーツの振興に当たっており、現在51のクラブが所属している関西の強豪校である。しかし大学スポーツ協会には参加せず。京大のスクールカラーである濃青をシンボルカラーとし、濃青地に白で十字が染め抜かれた意匠「体育会十字」を旗などに使う。歌に関しては#学歌を参照。年に1度、4月に機関紙「濃青」を発行し、全新入生に配布している。全国七大学総合体育大会および近畿地区国公立大学体育大会の参加校である。また、2009年より、東京大学との間で、京都大学東京大学総合対校戦を開催している。",
"title": "学生生活"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "アメリカンフットボール部はギャングスターズの愛称を持ち、大学チャンピオン6回、日本チャンピオン4回の経験がある。特に1986年と1987年は、甲子園ボウル(東西大学王座決定戦)・ライスボウル(日本選手権)連覇を果たした。関西学生アメフト DIV1 所属。",
"title": "学生生活"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "硬式野球部は関西学生野球連盟に加盟し、旧関西六大学野球連盟時代に2度の優勝がある。帽子のロゴ「DB」は Dark Blue の略で、スクールカラー「濃青」に因んでいる。",
"title": "学生生活"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ボート部は、全日本大学選手権大会などで男子舵手付きペアの優勝経験がある。",
"title": "学生生活"
},
{
"paragraph_id": 49,
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"text": "男子ラクロス部は、関西学生ラクロスリーグファイナルで2004年、2006年、2008年、2010年に優勝している。",
"title": "学生生活"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "京都大学キャップ投げ倶楽部が新スポーツ「キャップ投げ」を考案。",
"title": "学生生活"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2013年優勝。毎年レベルの高いマシン作りに定評がある。新技術を搭載するために常に挑戦し続けるスタイルが京都大学の校風を表していると言えよう。",
"title": "学生生活"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "全学規模の同窓会として、京都大学同窓会が2006年11月に発足した。",
"title": "大学関係者と組織"
},
{
"paragraph_id": 53,
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"text": "また学部・研究科や専門分野ごとに以下のような同窓会がある。",
"title": "大学関係者と組織"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "また地域ごとの同窓会組織がいくつか存在する。",
"title": "大学関係者と組織"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "社団法人学士会は、旧帝国大学出身者、教授・助教授・学長(経験者含む)で構成されており、もちろん京都大学の卒業生、修了生も加盟することができる。",
"title": "大学関係者と組織"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "学部と大学院のほとんどが設置されているキャンパス。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "旧陸軍の弾薬庫跡地を利用して1947年に開設された。1950年度から1960年度まで教養部1回生の講義が行われていたことがあったが、現在は学部の講義は行われていない(ただし夏休みなどに行われる全学共通科目の集中講義の中には宇治で行われるものもある。たとえば「ビーム科学入門」のように化学研究所提供のものなど。)。工学部や理学部、農学部の4回生は、配属された研究室によっては、ここで卒業研究を行うこともある。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "1990年代には吉田・宇治の両キャンパスが手狭になったことから、「第3キャンパス」の建設が計画された。当初は京都府南部や滋賀県も候補地として検討されたが、京都市の提案により桂坂ニュータウンに隣接する、市が住宅地として開発していた「桂御陵坂」地区が建設地に選ばれた。2003年に化学系・電気系専攻の移転が完了し、使用が開始された。キャンパスはAからDの4つの「クラスター」に分かれている。物理系であるCクラスターは2012年秋に竣工、12月から移転を開始している。情報系であるDクラスターは整備開始の目処が立っておらず、未造成である。なお京都市営地下鉄東西線の桂キャンパス付近への延伸構想があるが、建設時期などは未定である。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "元々は山であった場所を切り開いて建設したため、地形が起伏に富んでいる。桂駅側からの場合、長い坂道を登らなければならない。周囲から隔絶されている。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "学生・教員向けに各キャンパス間の連絡バスが運行されている。吉田(本部構内)~宇治間(通称宇治バス)が1日6往復、吉田~桂間が1日7往復、宇治~桂間が1日3往復、所要時間はいずれも50分から1時間である。しかし、渋滞などにより定時制の確保が難しい、最終バスの時間が早いため、それ以降は自転車や原動機付きバイクなどがない学生は公共交通機関を利用しなければならないなど、学生の間には不満もある。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "京大生協の食堂はそのメニューの数が日本一と自ら謳っている。特に学生食堂にはあまりないパフェが数多くメニューに並んでいる。西部講堂の付近にあるカフェテリアルネのパフェは16種類ものレギュラーメニューを取り揃えており、期間限定のメニューを含めると現在40種類近くが確認できている。また、南部食堂に併設される喫茶ブリュッケでも個性的なパフェが扱われている。中央食堂や吉田食堂、および本部キャンパスにあるカフェレストラン「カンフォーラ」でもパフェがオーダーできる。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "2005年11月には、当時の尾池和夫第24代目総長自身がレシピをプロデュースした「総長カレー」が、大学内の食堂において、人気メニューとして話題となった。2年後の2007年9月には、レシピを再現したレトルトカレーが発売され、現在では京大生協・食堂のみならず、京都土産の人気商品となった他、KBS京都プロデュースのネットショップでも発売されている。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "京都大学の学生寮は自治寮である。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "※「(図書館)」とあるものは京都大学附属図書館保管、保管先注記のないものは京都大学総合博物館保管",
"title": "文化財"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "産官学連携本部を設置して、出資やインキュベーション施設の運営などにより、京大発ベンチャー企業の育成や産学連携に取り組んでいる。2014年にベンチャーキャピタルの京都大学イノベーションキャピタルを設立した。また、2018年には産学連携を橋渡しする京大オリジナル株式会社を設立した。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "京都にある各大学と連携して、首都圏での情報発信や交流の窓口となる「京都アカデミアフォーラム in 丸の内」を東京・丸の内に開設している。参画しているのは京都外国語大学、京都光華女子大学、京都工芸繊維大学、京都市立芸術大学、京都女子大学、京都精華大学、京都美術工芸大学、同志社女子大学。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "京都大学の教授として多くの哲学者を育成した西田幾多郎と田辺元らは、京都学派と呼ばれる学派を形成し、日本における哲学の理論形成に影響を与えた。京都学派の思想については、今なお世界各国で研究が続いている。",
"title": "社会との関わり"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "京都帝国大学では学問の自由、大学の自治の観点から、慣行的に教授の任免を教授会が行ってきた。しかし1913年、文部省が任命した澤柳政太郎総長は、教授会の同意なく文科大学と理工科大学の7名の教授を免官した。法科大学(後の法学部)は「教授の人事権は教授会にあり」と澤柳に反旗を翻し、翌1914年1月には法科の全ての教授と助教授が抗議の連帯辞職を宣言した。教官を失いそうになった法科学生は、教官の復職と教授会自治の獲得等を目指し、法科支持の運動を繰り広げた。東大法科も京大法科を支援した。結局、奥田義人文相は法科の言い分を認め、後ろ盾を失った澤柳は辞任に追い込まれた。教授会自治を文相が公認したことにより、京大や他大学の自治の発展にも好ましい影響を及ぼした。なお、京大ではこの事件を契機に、総長の学内選出を求める運動が起こり、これも数年後に実現した。",
"title": "社会との関わり"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "1910年代、日本の大学・高校・専門学校等ではマルクス主義を研究する社会科学研究会がしばしば組織されていた。1924年、全国49校の社研が参加する学連が発足し、マルクス主義の研究や普及、労働争議や労働者教育に関する運動を活発に行った。しかし政府は学生達の活動を危険視し、徹底的な弾圧を開始した。1925年12月、特高警察が、京大や同大の社研会員の自宅や下宿を急襲し、学生33名を検挙した。寄宿舎(吉田寮)で立会人なしの家宅捜索を行ったことが批判され、一度は全員を釈放したものの、翌1926年1月には捜査態勢を立て直し、改めて多数を検挙した。検挙された学生のうち38名が出版法および治安維持法違反、不敬罪で起訴され、37名が有罪になった。社研と繋がりのあった教員も捜査の対象になった。この事件は日本内地で治安維持法が適用された最初の事例になった。政府は当初、治安維持法を利用してマルクス主義や共産主義を取り締まっていた。しかしやがて自由主義や民主主義、社会主義、反戦運動、新宗教、右翼も同様に弾圧するようになり、いつしか国民が政府を批判することは一切許されなくなってしまった。",
"title": "社会との関わり"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "澤柳事件を経て、京大を含む国内の大学は高度な自治を勝ち取った。しかし1930年代、ナショナリズムが高揚し軍国主義が台頭すると、政府は教育や学術研究を統制するため、学問の自由を担保する大学の自治、その総本山と見なされていた京大を攻撃した。1933年5月、鳩山一郎文相は、京大法学部の瀧川幸辰教授の講演や著書の内容が無政府主義的であるとして、小西重直総長に瀧川の罷免を要求した。法学部と小西総長は要求を拒絶したものの、文部省は瀧川の休職処分を強行した。法学部は澤柳事件に倣い、全教官・全学生が辞職届・退学届を提出するなどして激しく抵抗したが、瀧川の休職は解除されず、小西総長は辞職に追い込まれ、辞職届・退学届もたたき返されてしまった。言論弾圧の対象が、(従来の)マルクス主義的・共産主義的思想から自由主義的・反政府的思想へと拡大された瞬間だった。以降、政府は政権運営に都合の悪い言論・思想への弾圧をエスカレートさせていったが、統制下に置かれた大学に政府の暴走を指摘する自由はもはやなく、抑制を欠いた日本は日中戦争・太平洋戦争へとのめり込んでいった。この事件を基にして戦後、映画『わが青春に悔なし』(黒澤明監督)が製作された。",
"title": "社会との関わり"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "連合国軍占領下の日本において、GHQは新聞や雑誌等のメディアを検閲し、広島・長崎の原爆被害の実情が一般市民に伝わるのを妨害していた。そこで、京都大学の全学学生自治会(同学会)は原爆の実情と意味を世間に知らしめるため、1951年(昭和26年)7月に京都駅前の丸物百貨店で一般向けの原爆展「綜合原爆展」を開催した。この種の原爆展は世界で初めての試みだったとされるが、数万人の入場者を集めて大成功した。その後も同展覧会のパネルを利用して各地で小さな原爆展が開かれ、非常な注目を集めた。第五福竜丸がビキニ水爆実験で被爆し、反核運動に火がつくのは、その3年後のことだった。",
"title": "社会との関わり"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "1951年(昭和26年)、昭和天皇が来学した際に、見物に詰めかけた学生と警備の警察との間で一時的に緊張が高まった事件。実力行使はなく、違法行為も見られなかったが、文部大臣や保守派の議員などから不敬であると非難され、同学会が解散に追い込まれた。同学会はこの時に2度目の綜合原爆展を計画していたが、天皇の来学と同学会の解散の影響で実現はならなかった。",
"title": "社会との関わり"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "2018年2月、2017年の二次試験(物理)で出題ミスがあったことを認め、追加合格の措置を取ると公表。予備校講師から「解答不能の問題がある」と指摘され判明。",
"title": "社会との関わり"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "京都大学学生寄宿舎規程では、学生寮は副学長が管理し、寮生活の運営は「寮生の責任ある自治」によるものと規程されている。しかし、京都大学は熊野寮自治会に対して令和3年12月15日に「自治会としての責務を果たす意思と能力がない」と判断しておきながら、その後も同自治会に寮運営を任せ続けている。また、「入舎する者の選考は、寮生代表の意見をきいて、副学長が行う。」との条項に反して熊野寮の入退寮選考を寮生に任せており、熊野寮に無学籍者が多数居住しているとの宣言が熊野寮自治会から出されるに至った。",
"title": "寄宿舎規程に違反した寮管理"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "寄宿舎規程への違反について京都大学は遅くとも2018年3月15日には認めていたが、その後は女子寮の管理運営に関する改定がされたのみで、未だに違反は解消されていない。",
"title": "寄宿舎規程に違反した寮管理"
}
] | 京都大学は、京都府京都市左京区吉田本町36-1に本部を置く日本の国立大学である。1897年創立、1897年大学設置。略称は京大(きょうだい)。旧帝国大学7校の1つであり、文部科学省が実施しているスーパーグローバル大学事業のトップ型指定校ならびに指定国立大学法人に指定されている。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
<!--この記事は[[プロジェクト:大学/大学テンプレート (日本国内)]]に従って作成されています。-->
{{日本の大学
|大学名 = 京都大学
|ロゴ = [[file:Kyoto University logo, 5.svg|220px]]
|画像 = Kyoto University Clock Tower.jpg
|pxl = 250px
|画像説明 = 百周年時計台記念館
|大学設置年 = [[1897年]]
|創立年 = [[1897年]]
|創立者 =
|廃止年 = <!--大学の廃止年-->
|学校種別 = 国立
|設置者 = [[国立大学法人|国立大学法人京都大学]]
|本部所在地 = [[京都府]][[京都市]][[左京区]][[吉田 (京都市)|吉田本町]]36-1
|緯度度 = 35 |緯度分 = 1 |緯度秒 = 34
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|キャンパス = [[京都大学吉田キャンパス|吉田]](京都府京都市左京区)<br />宇治(京都府[[宇治市]])<br />桂(京都府京都市[[西京区]])
|学部 = [[京都大学大学院人間・環境学研究科・総合人間学部|総合人間学部]]<br />[[京都大学大学院文学研究科・文学部|文学部]]<br />[[京都大学大学院教育学研究科・教育学部|教育学部]]<br />[[京都大学大学院法学研究科・法学部|法学部]]<br />[[京都大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学部]]<br />[[京都大学大学院理学研究科・理学部|理学部]]<br />[[京都大学大学院医学研究科・医学部|医学部]]<br />[[京都大学大学院薬学研究科・薬学部|薬学部]]<br />[[京都大学大学院工学研究科・工学部|工学部]]<br />[[京都大学大学院農学研究科・農学部|農学部]]
|研究科 = [[京都大学大学院文学研究科・文学部|文学研究科]]<br />[[京都大学大学院教育学研究科・教育学部|教育学研究科]]<br />[[京都大学大学院法学研究科・法学部|法学研究科]]<br />[[京都大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学研究科]]<br />[[京都大学大学院理学研究科・理学部|理学研究科]]<br />[[京都大学大学院医学研究科・医学部|医学研究科]]<br />[[京都大学大学院薬学研究科・薬学部|薬学研究科]]<br />[[京都大学大学院工学研究科・工学部|工学研究科]]<br />[[京都大学大学院農学研究科・農学部|農学研究科]]<br />[[京都大学大学院人間・環境学研究科・総合人間学部|人間・環境学研究科]]<br />[[京都大学大学院エネルギー科学研究科|エネルギー科学研究科]]<br />[[京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科|アジア・アフリカ地域研究研究科]]<br />[[京都大学大学院情報学研究科|情報学研究科]]<br />[[京都大学大学院生命科学研究科|生命科学研究科]]<br />[[京都大学大学院地球環境学堂・地球環境学舎・三才学林|地球環境学大学院]]<br />[[京都大学大学院公共政策連携研究部・公共政策教育部|公共政策大学院]]<br />[[京都大学経営管理大学院|経営管理大学院]]<br />[[京都大学大学院総合生存学館|総合生存学館]]
|全国共同利用施設 = 学術情報メディアセンター<br />放射線生物研究センター<br />生態学研究センター<br />地域研究統合情報センター<br />野生動物研究センター
|ウェブサイト = [https://www.kyoto-u.ac.jp/ja 京都大学]
}}
'''京都大学'''(きょうとだいがく、{{Lang-en|Kyoto University}})は、[[京都府]][[京都市]]に本部を置く[[日本]]の[[国立大学]]。[[大学の略称|略称]]は'''京大'''(きょうだい)。
[[1897年]]創立、[[1897年]]大学設置。[[旧帝国大学]]7校の1つであり、[[文部科学省]]が実施している[[スーパーグローバル大学]]事業のトップ型指定校ならびに[[国立大学法人#指定国立大学法人|指定国立大学法人]]に指定されている。
== 概観 ==
=== 大学全体 ===
[[画像:Kyoto University Main Gate.JPG|300px|thumb|吉田キャンパス本部にある正門。]]
[[画像:Kyoto University Campus.jpg|300px|thumb|吉田キャンパス本部構内。]]
京都大学は、日本で2番目に創設された[[帝国大学]]である京都帝国大学の流れを汲んでいる[[国立大学]]で、精神的な基盤として「'''自由の学風'''」を謳っている<ref name="gakufuu">[https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/about/operation/ideals/basic 基本理念] 京都大学 2021年8月12日閲覧。</ref>。また、[[京都大学西部講堂|西部講堂]]の[[ロック (音楽)|ロック]]コンサートなどに代表される京都地区における文化発信地としての役割も担ってきた。
=== 建学の精神(理念・学是) ===
創立以来「自由の学風」を建学の精神としている<ref name="gakufuu"/>。[[国立大学法人]]となった後に制定された京都大学の基本理念にも引き継がれた<ref name="gakufuu"/>。
=== 学風および特色 ===
京都市内の繁華街から離れた古都の風情を残す落ち着いた環境の中にあり、何事も学生の自主性に任せるという「[[自由]]の学風」を標榜している<ref>[https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/about/operation/ideals/basic 基本理念 — 京都大学] 2001年</ref>。学生寮の入退寮選考を学生に任せた結果、無学籍者も居住するようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news/2022-07-26-0|title=熊野寮における無学籍者の居住について|accessdate=2022-7-27|publisher=京都大学}}</ref>。[[自由主義|リベラル]]な学風の傾向にある<ref>『大学図鑑! 2010』著 オバタカズユキ([[ダイヤモンド社]])</ref>。毎年行われる11月祭や[[折田先生像]]を巡る落書き、卒業式での仮装などにもその一端を垣間見ることができる<ref name="akahon">1973年(昭和48年)度『京都大学』[[赤本 (教学社)|赤本]]([[教学社]])</ref>。
京都大学や(前身の)京都帝国大学では、それらの自由の拡大あるいは縮小を巡る攻防戦が繰り返されてきた。[[滝川事件]]は最も有名な事例の一つである<ref>京都大学百年史編集委員会『京都大学百年史:総説編』(1998年)</ref>。
=== 教育および研究 ===
==== 研究所・研究センター ====
京都大学は学部・研究科以外に19の附置研究所・研究センターを設置している<ref>[https://www.kurca.kyoto-u.ac.jp/ 附置研究所・センター - 京都大学研究連携基盤 Kyoto University Research Coordination Alliance]</ref>。2010年3月現在、国内の大学で最多である<ref>[http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/profile/intro/president/archive/060316.htm 京都大学附置研究所・センター主催シンポジウム 挨拶]</ref>。2020年4月時点で、そのうちののべ14の研究所・研究センターは[[文部科学省]]「[[共同利用・共同研究拠点]]」に認定されており、国内の大学で最多である<ref>[https://www.mext.go.jp/content/20220330-mxt_gakkikan-100001558_2.pdf.pdf 共同利用・共同研究拠点及び国際共同利用・共同研究拠点一覧(令和4年4月現在)]</ref>。
共同利用・共同研究拠点の前身に当たる「全国共同利用型附置研究所・研究施設」の仕組みを初めて採用したのは京都大学の[[京都大学基礎物理学研究所|基礎物理学研究所]]である。これらの事実について京都大学の関係者は「幅広い分野において日本を代表する学術研究拠点となってきた、京都大学の社会的特徴を表している」<ref name="akahon" />と考えている。
==== 国内・世界との比較 ====
[[タイムズ・ハイアー・エデュケーション]]による『[[THE世界大学ランキング]] 2023-2024』(2023年度)では、世界同点第55位、アジア同点第10位、国内第2位<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.timeshighereducation.com/world-university-rankings/2024/world-ranking#!/length/-1/sort_by/rank/sort_order/asc/cols/stats|title=World University Rankings 2024|publisher=タイムズ・ハイアー・エデュケーション|language=en|accessdate=2023-10-05}}
{|class="wikitable" style="text-align:center"
|+タイムズ・ハイアー・エデュケーション<br />世界大学ランキング 2004-2013
! !!2004年!!2005年!!2006年!!2007年!!2008年!!2009年!!2010年!!2011年!!2012年!!2013年
|-
!世界ランク
|29||31||29||25||25||25||57||52||54||52
|-
!アジア順位
|4||4||5||3||2||3||8||5||7||7
|-
!国内順位
|2||2||2||2||2||2||2||2||2||2
|}
{|class="wikitable" style="text-align:center"
|+タイムズ・ハイアー・エデュケーション<br />世界大学ランキング 2014-2023
! !!2014年!!2015年!!2016年!!2017年!!2018年!!2019年!!2020年!!2021年!!2022年!!2023年
|-
!世界ランク
|59||88||91||74||65||65||54||61||68||=55
|-
!アジア順位
|9||9||11||9||10||10||7||10||13||=10
|-
!国内順位
|2||2||2||2||2||2||2||2||2||2
|}{{中央|right|(注記)順位の数字の前に'''イコール記号'''が付く場合は、<br />原典の表記の通り、'''同点順位'''であることを表す。}}</ref>(同誌の世界大学名声ランキングでは第26位、アジア第5位、国内第2位<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.timeshighereducation.com/world-university-rankings/2022/reputation-ranking#!/length/-1/sort_by/rank/sort_order/asc/cols/stats|title=World Reputation Rankings 2022|publisher=タイムズ・ハイアー・エデュケーション|language=en|accessdate=2023-10-05}}</ref>)である。また[[QS世界大学ランキング]] 2024(2023年)では、世界第46位、アジア第9位、国内第2位である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.topuniversities.com/university-rankings/world-university-rankings/2024?&page=0|title=QS World University Rankings 2024: Top global universities|publisher={{仮リンク|クアクアレリ・シモンズ|en|Quacquarelli Symonds}}|language=en|accessdate=2023-10-05}}</ref>。
タイムズ・ハイヤー・エデュケーションが[[ベネッセコーポレーション|ベネッセ]]と連携して日本の大学の評価を発表している『THE世界大学ランキング日本版2023』では、前年に総合順位を4位から5位に繰り下げたままの結果となり、第5位に甘んじた<ref>{{Cite web|和書|url=https://japanuniversityrankings.jp/rankings/total-ranking/|title=THE 日本大学ランキング 総合ランキング|publisher=ベネッセコーポレーション|accessdate=2023-10-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.timeshighereducation.com/rankings/japan-university/2023#!/length/-1/sort_by/rank/sort_order/asc/cols/stats|title=Japan University Rankings 2023|work=Times Higher Education 2023|publisher=タイムズ・ハイアー・エデュケーション|language=en|accessdate=2023-10-05}}</ref>。
<!--
※大学の学問的な特徴の概略をこちらでまとめる。各学部ごとに詳細な内容をまとめる必要がある場合は後述の学部をまとめた項目で記すこと。さらに歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述する。-->
==== 受賞 ====
2019年10月10日現在、卒業生から8人、ゆかりのある人物も含めると11人の[[ノーベル賞]]受賞者(いずれも[[自然科学]]分野)を輩出している。これはアジアの大学で最多である。[[フィールズ賞]]、[[アルバート・ラスカー医学研究賞|ラスカー賞]]、[[ガードナー国際賞]]の受賞者数も国内の大学で最多である。
== 沿革 ==
(沿革節の主要な出典は公式サイト<ref name="enkaku">{{Cite web |url=https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/about/operation/history2/history |title=沿革|publisher=京都大学 |accessdate=2021-09-12}}</ref><ref name="chronology/5-1">{{Cite web|和書|url=https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/chronology/5-1.html |title=京都大学百年史 資料編3 5-1・1861年〜1900年(京都大学電子図書館 電子化テキスト)|publisher=京都大学 |accessdate=2019-03-13}}</ref><ref name="chronology/5-2">{{Cite web|和書|url=https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/chronology/5-2.html |title=京都大学百年史 資料編3 5-2・1901年〜1920年(京都大学電子図書館 電子化テキスト)|publisher=京都大学 |accessdate=2019-03-13}}</ref><ref name="chronology/5-3">{{Cite web|和書|url=https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/chronology/5-3.html |title=京都大学百年史 資料編3 5-3・1921年〜1940年(京都大学電子図書館 電子化テキスト)|publisher=京都大学 |accessdate=2019-03-13}}</ref><ref name="chronology/5-4">{{Cite web|和書|url=https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/chronology/5-4.html |title=京都大学百年史 資料編3 5-4・1941年〜1960年(京都大学電子図書館 電子化テキスト)|publisher=京都大学 |accessdate=2019-03-13}}</ref><ref name="chronology/5-5">{{Cite web|和書|url=https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/chronology/5-5.html |title=京都大学百年史 資料編3 5-5・1961年〜1980年(京都大学電子図書館 電子化テキスト)|publisher=京都大学 |accessdate=2019-03-13}}</ref><ref name="chronology/5-6">{{Cite web|和書|url=https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/chronology/5-6.html |title=京都大学百年史 資料編3 5-6・1981年〜2000年(京都大学電子図書館 電子化テキスト)|publisher=京都大学 |accessdate=2019-03-13}}</ref><!-- 別の出典で記事を追加するには出典をその追加記事の後に脚注を導入して付け加えて下さい。 -->)
=== 略歴 ===
{{出典の明記|date=2016-05|section=1}}
京都大学の起源は[[文久]]元年8月16日([[1861年]]9月20日)に[[長崎市|長崎]]に設立された[[長崎養生所]](その後、長崎精得館へ改称)まで遡る。長崎精得館の理化学部門は、当初は[[江戸]]にあった[[開成所]](現在の[[東京大学]])へ「理化学校」として移設することになっていたが、[[明治維新]]の混乱で実現しなかった。[[慶応]]4年([[1868年]])に[[明治維新#明治政府|明治政府]]は「理化学校」を[[舎密局]](せいみきょく、後の理学校)として[[大阪市|大阪]]に開設することを決定、[[明治]]2年([[1869年]])に開校した。明治3年([[1870年]])、理学校は明治2年10月24日(1869年11月27日)に開設された洋学校と合併、開成所となる。開成所はその名称を[[大阪英語学校 (旧制)]]、大阪専門学校、大阪中学校、大学分校と変遷させ、[[1886年]](明治19年)に公布された[[中学校令]]によって第三高等中学校と改称する。第三高等中学校は1889年8月1日に京都市吉田町に取得した新校地へ移転した。[[1894年]]に公布された[[高等学校令]]に基づいて第三高等中学校は[[第三高等学校 (旧制)|旧制の第三高等学校]](以下、本記事において「第三高等学校」は特に断りのない限り、旧制第三高等学校を指す)となる。
[[画像:Kyoto Imperial University-old1.jpg|190px|thumb|京都大学(1953年以降撮影)]]
[[画像:Konishi Shigenao (2).jpg|200px|thumb|第9代京都帝国大学総長 [[小西重直]]]]
[[帝国大学令]]制定後、[[近畿地方]]にも[[帝国大学]]の設置を求める声が上がっていたが、財政難のため見送られ続けていた。[[1895年]]に[[西園寺公望]]は[[日清戦争]]で得た[[戦争賠償|賠償金]]を基に第三高等学校を帝国大学へ昇格させる提案を行う。最終的に第三高等学校を[[東一条通]]の南側(現在の吉田南キャンパス)に移転し、高等学校の土地・建物を大学が利用するという案が採用され、翌年、予算処置が可決される。[[1897年]]6月18日に京都帝国大学設置に関する[[勅令]]([[明治時代の日本の勅令一覧#明治30年|明治30年勅令第209号]])が制定され、「'''京都帝国大学'''」が発足する。
創設時の計画では[[1898年]]にまず法科大学から設置する予定であったが、工科志望者の急増により1年前倒しという形で、創設と同年の1897年に京都帝国大学理工科大学が設置された。続いて[[1899年]]京都帝国大学法科大学および京都帝国大学医科大学、[[1906年]]京都帝国大学文科大学を設置し、約10年をかけて分科大学を設置した。初代総長(1897年 - 1907年)には[[文部省]][[専門学務局]]長の[[木下広次]]が就任。事務局長に当たる「書記官」には[[中川小十郎]]が就任した。
当時の総長の意向もあって、「研究・教授・学修の自由を重んじる[[ドイツ]]式」を採用、ドイツの大学のシステムに倣った。[[高根義人]]の主導によるこの方針は現在の「自由の学風」に影響を与えたといわれる。法科大学の卒業生の[[高等文官試験]]での不振を端として転換されたものの、京都大学に独特の学風を根付かせる端緒となったことは確かである。
[[1919年]]([[大正]]8年)に分科大学制が学部制に変わった。その年には、[[京都大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学部]]が法学部から分離して独立の学部となり、[[1923年]]には[[京都大学大学院農学研究科・農学部|農学部]]の設置と学部の増設が相次いだ。農学部増設と同じ年には本部構内に京都大学のシンボルとして親しまれている時計台を持つ大学本館が完成している。[[1926年]]には京都大学初の附置研究所に当たる[[京都大学化学研究所|化学研究所]]が設置された。
[[昭和]]に入ると思想関係の締め付けが強化された世相を反映して、京都大学でも思想事件が相次ぐ。[[1928年]](昭和3年)、[[文部省]]は[[マルクス経済学]]者の[[河上肇]]教授の辞職を要求。教授会は河上の辞職を認める決議を出し、河上は大学を追われることになる。さらに[[1933年]]には[[鳩山一郎]]文部大臣が法学部の[[瀧川幸辰]]教授の刑法理論が「赤い思想」であるとして休職処分にしたことから、法学部の全教官が辞表を提出。総長も文相と会見、辞意を表明したものの文部省からの切り崩しに遭い、結局瀧川ら7人の教官が大学を去る事態となった([[滝川事件]])。
[[日中戦争]]激化に伴う[[戦時体制]]の強化に伴い、日本精神史(文学部)、東亜経済政策原論(経済学部)、航空学・燃料化学(工学部)などの[[国策]]に沿った講座が設けられた。[[太平洋戦争]]の開戦後、学生を軍隊風に編成する目的で「京都帝国大学報国隊」が結成される。
また、京大医学部出身の軍医である[[石井四郎]]は、[[満州国]]の[[関東軍]]に[[731部隊]]を設立し、[[化学兵器]]や[[生物兵器]]の開発や、捕虜や罪人に対する[[人体実験]]などを行った。これに対し、医学部長を務めた[[戸田正三]]や、石井の指導教員であった医学部教授の[[清野謙次]]は、京大医学部出身者を部隊の人材として送り込み、石井の活動を支援した。
[[1943年]]、文系大学生の[[徴兵制度|徴兵]]猶予が停止され、学生が続々と戦場に赴いた。京都帝国大学の[[学徒出陣]]壮行会では、総長の[[羽田亨]]を先頭に[[平安神宮]]に参拝、必勝を祈願したという。
[[第二次世界大戦]]終結後、[[公職追放]]によって大学を[[免職]]になる教授が出る一方で、滝川事件で大学を去っていた瀧川幸辰らが大学に復帰した。1946年から女子の入学が認められた。創立五十周年に当たる[[1947年]]には大学名から「帝国」が削られて京都大学と改称。[[1949年]]には第三高等学校を統合して、[[新制大学]]となった。同年には、理学部教授[[湯川秀樹]]が日本人初の[[ノーベル賞]]に輝き、京都大学ではこれを記念して湯川記念館を設置。その後、湯川記念館は[[京都大学基礎物理学研究所|基礎物理学研究所]]に改組されている。
[[1968年]]、青年医師連合の京都大学の支部による医学部大学院入試ボイコットの呼びかけに応じなかった受験生に青医連メンバーが暴行を働いたいわゆる「青医連事件」が発生。これを端緒として教養部は無期限ストに入り、学生部は閉鎖された。東大のような入試中止という事態は免れたものの、戦後初めて卒業式が中止に追い込まれ、さらに翌年度になってもいくつかの建物の閉鎖は依然続き、全面解除は9月まで持ち越されている。なお、1973年度は、入学式が中止になっている。
[[1992年]]([[平成]]4年)、[[京都大学大学院人間・環境学研究科・総合人間学部|総合人間学部]]が設置され、翌年には教養部が廃止、同時に[[大学院大学]]への移行も行われ、現行の大学組織の形に改編された。[[1997年]]に京都大学は創立百周年を迎えた。そして[[2004年]]、時代の流れにより国の改革の一つとして[[国立大学法人法]]が施行され、その規定により京都大学は[[国立大学法人]]に改組した。[[2017年]]6月、[[国立大学法人#指定国立大学法人|指定国立大学法人]]に指定される。
本稿ではこれらの経緯から、創立は第三高等学校の前身である舎密局の設置年である[[1869年]]、設立は京都帝国大学が誕生した[[1897年]]としている。
=== 年表 ===
==== 明治 ====
* [[明治]]2年([[1869年]])
** 5月 [[舎密局]]設置
** 9月 [[洋学校]]設置
* 明治3年([[1870年]])
** 1月 舎密局を化学所に改組
** 5月 化学所を理学所に改組
** 10月 洋学校が理学所を併合、開成所に改組。
* 明治5年([[1872年]])8月 [[学制]]公布により、第四大学区第一番中学に改組。
* [[1873年]](明治6年)
** 4月 大学区分画改正により、第三大学区第一番中学に改称。
** 4月 開明学校に改組
* [[1874年]]
** 4月 大阪外国語学校に改組
** 12月 大阪英語学校に改組
* [[1879年]]4月 大阪専門学校に改組
* [[1880年]]12月 大阪中学校に改組
* [[1885年]]7月 大学分校に改組
* [[1886年]]4月 高等中学校官制公布により、第三高等中学校に改組。
* [[1895年]]9月 高等学校令公布により、[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]に改組。
* [[1897年]]
** 6月 京都帝国大学設置
** 9月 京都帝国大学内に、分科大学として理工科大学設置。
* [[1899年]]
** 9月 法科大学、医科大学設置。
** 12月 附属図書館、医科大学附属医院設置。
* [[1903年]]4月 医科大学を京都医科大学と福岡医科大学に分割。
* [[1906年]]9月 文科大学設置
* [[1907年]]3月 帝国大学特別会計法公布
* [[1909年]]11月 [[台湾総督府]]より台湾[[演習林]]を移管。
* [[1911年]]4月 [[九州大学|九州帝国大学]]開設に伴い福岡医科大学を分離、京都医科大学は旧称復帰。
==== 大正 ====
* [[1912年]](明治45年/[[大正]]元年)12月 [[朝鮮総督府]]より朝鮮演習林を貸与。
* [[1913年]]
** 8月 [[澤柳事件]]
** 9月 [[京都大学吉田寮|吉田寮]]開寮
* [[1914年]]7月 理工科大学を理科大学と工科大学に分割
* [[1915年]]12月 [[樺太庁]]より樺太演習林古丹岸森林を移管
* [[1916年]]12月 樺太庁より樺太演習林亞屯森林を移管
* [[1919年]]
** 2月 各分科大学を学部に改称
** 5月 経済学部設置
* [[1921年]]4月 京都府[[北桑田郡]][[知井村]]芦生に[[京都大学フィールド科学教育研究センター森林ステーション芦生研究林|芦生演習林]]を開設
* [[1923年]]
** 4月 第七臨時教員養成所設置
** 11月 [[京都大学大学院農学研究科・農学部|農学部]]設置
* [[1924年]]5月 農学部附属農場、農学部附属演習林設置
* [[1925年]]12月 [[京都学連事件]]
* [[1926年]]10月 [[京都大学化学研究所|化学研究所]]附置
==== 昭和 ====
* [[1929年]]([[昭和]]4年)
** 6月 [[昭和天皇]]が、[[和歌山県]][[西牟婁郡]][[白浜町]]の、理学部附属瀬戸臨海研究所を訪問
* [[1930年]]([[昭和]]5年)
** 3月 第七臨時教員養成所廃止
** 6月 [[京都大学フィールド科学教育研究センター瀬戸臨海実験所水族館|理学部附属瀬戸臨海研究所の水槽室]]を一般公開
* [[1931年]]9月 [[関西六大学野球連盟 (旧連盟)|関西六校野球連盟]]結成<ref>朝日新聞社 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1118438/49 運動年鑑 昭和七年度]』 1932年、40頁</ref>
* [[1933年]]5月 [[滝川事件]]
* [[1938年]]6月 [[清野謙次|清野事件]]。医学部教授の清野謙次が、京都の寺社からの窃盗の容疑で逮捕され、その結果、懲戒免職の処分を受ける。また、総長の[[濱田耕作]]も引責辞任する。
* [[1939年]]
** 5月 [[戦時中の医師不足対策#臨時医学専門部の設置|臨時附属医学専門部]]設置
** 8月 [[京都大学人文科学研究所|人文科学研究所]]附置
* [[1941年]]
** 3月 結核研究所附置
** 11月 工学研究所附置
* [[1943年]]
** 10月 [[研究生#旧制大学院における特別研究生|大学院特別研究生制度]]実施(1958年廃止)
** 11月 [[学徒出陣#出陣学徒壮行会|出陣学徒武運長久祈願祭並びに壮行会]]([[平安神宮]])に参加<ref>『京都新聞』 1943年11月22日朝刊</ref>。
* [[1944年]]
** 4月 臨時附属医学専門部を附属医学専門部に改組
** 5月 木材研究所附置
* [[1945年]][[9月17日]] [[広島市]]郊外の大野陸軍病院で[[原子爆弾]]の調査を行っていた真下俊一教授らが、[[枕崎台風]]による[[土石流]]被害に遭い殉職<ref>京大原爆総合調査団の真下教授ら殉職(昭和20年9月23日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p226 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000041267 |title=大野町で終戦直後にあった山津波について知りたい。 |publisher=レファレンス共同データベース |date= |accessdate=2022-02-02}}</ref>。
* [[1946年]]9月 食糧科学研究所附置。正規の学生として初めて女子が入学(入学者1505名中17名)<ref>河西秀哉、[https://doi.org/10.14989/68875 1953年11月 関西女子学生大会]」 『京都大学大学文書館研究紀要』2008年 第6号 p.100, {{doi|10.14989/68875}}</ref>。
* [[1947年]]10月 京都大学に改称
* [[1949年]]
** 1月 人文科学研究所に[[外務省]]所轄の東方文化研究所と民間機関の西洋文化研究所を統合。
** 5月 第三高等学校を統合、新制京都大学に改組。教育学部、分校設置。
* [[1951年]]
** 4月 [[京都大学防災研究所|防災研究所]]附置。医学部附属看護学校設置。
** 5月 [[綜合原爆展]]
** 11月 [[京大天皇事件]]
* [[1952年]]3月 附属医学専門部廃止
* [[1953年]]
** 4月 新制大学院設置(文学・教育学・法学・経済学・理学・薬学・工学・農学研究科を設置)
** 7月 [[京都大学基礎物理学研究所|基礎物理学研究所]]附置
** 11月 [[荒神橋事件]]
* [[1954年]]
** 3月 分校を教養部と改称
** 4月 医学部附属助産婦学校設置
* [[1955年]]4月 大学院医学研究科設置
* [[1956年]]4月 ウィルス研究所附置
* [[1959年]]4月 医学部附属衛生検査技師学校設置
* [[1960年]]4月 薬学部設置
* [[1961年]]5月 [[国立工業教員養成所|工業教員養成所]]設置
* [[1962年]]4月 [[京都大学経済研究所|経済研究所]]附置
* [[1963年]]4月 [[京都大学数理解析研究所|数理解析研究所]]、[[京都大学複合原子力科学研究所|原子炉実験所]]附置。
* [[1964年]] 熊野寮開寮
* [[1965年]]4月 東南アジア研究センター設置
* [[1966年]]4月 保健管理センター設置
* [[1967年]]6月 [[京都大学霊長類研究所|霊長類研究所]]附置。結核研究所を結核胸部疾患研究所に改称。
* [[1969年]]
** 1月 京大紛争
** 6月 大型計算機センター設置。工業教員養成所廃止。
** 11月7日 京大紛争の中で文学部新館第一講義室が[[放火]]される<ref>人文研などを捜索『朝日新聞』1969年(昭和44年)11月15日 3版 11面</ref>。
* [[1971年]]4月 [[放射性同位体|放射性同位元素]]総合センター設置。工学研究所を[[原子力|原子エネルギー]]研究所に改称。
* [[1972年]]
** 4月 医学部附属衛生検査技師学校を医学部附属[[臨床検査技師]]学校に改称。
** 5月 体育指導センター設置
* [[1975年]]4月 医療技術短期大学部設置、医学部附属[[助産師|助産婦]]学校および看護婦学校廃止。
* [[1976年]]5月 工学部附属超高温プラズマ研究施設を[[ヘリカル型|ヘリオトロン]][[核融合]]研究センターに改組。放射線生物研究センター設置。
* [[1977年]]
** 4月 環境保全センター設置
** 6月 評議会が[[竹本信弘]]経済学部助手の[[分限処分|分限免職処分]]決定(竹本処分事件、竹本処分粉砕とも)
** 7月 埋蔵文化財研究センター設置
* [[1978年]]
** 3月 医学部附属臨床検査技師学校廃止
** 4月 情報処理教育センター設置
* [[1980年]]4月 医用高分子研究センター設置
* [[1981年]]4月 工学部附属[[電離層]]研究施設を超高層電波研究センターに改組
* [[1986年]]4月 アフリカ地域研究センター設置
* [[1988年]]
** 4月 [[結核]]胸部疾患研究所を胸部疾患研究所と改称。遺伝子実験施設設置。
** 12月 国際交流センター設置
==== 平成 ====
* [[1990年]]([[平成]]2年)6月 生体医療工学研究センター、留学生センター設置。医用高分子研究センター、国際交流センター廃止。
* [[1991年]]4月 [[京都大学大学院人間・環境学研究科・総合人間学部|大学院人間・環境学研究科]]、生態学研究センター設置。木材研究所を木質科学研究所と改称。
* [[1992年]]10月 [[京都大学大学院人間・環境学研究科・総合人間学部|総合人間学部]]設置
* [[1993年]]
** 3月 教養部廃止
** 1月 [[矢野事件]]
* [[1994年]]6月 高等教育教授システム開発センター設置
* [[1996年]]4月 [[京都大学大学院エネルギー科学研究科|大学院エネルギー科学研究科]]、アフリカ地域研究資料センター設置。原子エネルギー研究所とヘリオトロン核融合研究センターを統合して[[京都大学エネルギー理工学研究所|エネルギー理工学研究所]]に改組。アフリカ地域研究センター廃止。
* [[1997年]]4月 [[京都大学総合博物館|総合博物館]]設置。情報処理教育センターと工学部附属高度情報開発実験施設を統合して総合情報メディアセンターに改組。
* [[1998年]]4月 [[京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科|大学院アジア・アフリカ地域研究研究科]]、情報学研究科設置。胸部疾患研究所と生体医療工学研究センターを統合して再生医科学研究所に改組。
* [[1999年]]4月 [[京都大学大学院生命科学研究科|大学院生命科学研究科]]設置
* [[2000年]]
** 4月 超高層電波研究センターを宙空電波科学研究センターに改組
** 11月 大学文書館設置
* [[2001年]]4月 食糧科学研究所を大学院農学研究科に統合。国際融合創造センター設置。
* [[2002年]]4月 [[京都大学大学院地球環境学堂・地球環境学舎・三才学林|地球環境学大学院]](大学院地球環境学堂・地球環境学舎・三才学林)、低温物質科学研究センター、[[福井謙一]]記念研究センター設置。大型計算機センター、総合情報メディアセンター、学術情報ネットワーク機構を統合し、学術情報メディアセンター設置。
* [[2003年]]4月 理学研究科附属瀬戸臨海実験所、農学研究科附属演習林、[[亜熱帯]]植物実験所、水産実験所を統合し、フィールド科学教育研究センターに改組。高等教育教授システム開発センター、学術情報メディアセンターの一部、総合人間学部の一部を改組して高等教育研究開発推進センターを設置。高等教育研究開発推進機構設置。体育指導センター廃止。
* [[2004年]]4月 木質科学研究所と宙空電波科学研究センターを統合し、[[京都大学生存圏研究所|生存圏研究所]]に改組。東南アジア研究センターが附置研究所に昇格。遺伝子実験施設を廃止。[[国立大学法人法]]の規定により[[国立大学法人]]となる。
* [[2005年]]
** 1月 [[石垣カフェ]]開店
** 4月 留学生センターを国際交流センターに改組。環境安全保健機構、国際イノベーション機構、国際交流機構、情報環境機構、図書館機構設置。
** 11月 事務本部を経営企画本部と教育研究推進本部に分割・改組
** 12月 [[京都大学アメフト部レイプ事件]]
* [[2006年]]
** 4月 薬学教育6年制移行により、薬学部薬学科を6年制に移行(総合薬学科廃止)4年制学科の薬科学科を設置。公共政策大学院(大学院公共政策連携研究部・公共政策教育部)と経営管理大学院(大学院経営管理研究部・経営管理教育部)設置。地域研究統合情報センターを設置し、[[国立民族学博物館]]より事業継承。本部事務組織を改組。生存基盤科学研究ユニット設置。
** 7月 次世代開拓研究ユニット設置
** 9月 女性研究者支援センター設置
* [[2007年]]
** 3月 医療短期大学部を廃止
** 4月 こころの未来研究センター、先端医工学研究ユニット、生命科学系キャリアパス形成ユニット設置。
* [[2010年]]4月 [[京都大学iPS細胞研究所|iPS細胞研究所]]設置
* [[2011年]][[3月11日]] [[東日本大震災]]発生。京都大学の設備に被害は無かったが、旅行で[[仙台空港]]の傍にいた4年生3人が[[津波]]に呑まれ、23日に死亡が判明した。京大は3人とも卒業要件を満たしていたことから、特例で卒業を認めた。
* [[2013年]]
** 4月 5年制博士課程の大学院[[京都大学大学院総合生存学館|総合生存学館]]設置
** 6月 [[東京大学]]とのスポーツ対校戦を[[双青戦]]と命名
* [[2016年]]
** [[4月1日]] 吉田キャンパス北部構内と大阪府高槻市にあった[[京都大学大学院農学研究科附属農場|農学研究科附属農場]]が[[木津川市]]に全面移転。
** [[10月1日]] ウイルス研究所と再生医科学研究所が統合して[[京都大学医生物学研究所|ウイルス・再生医科学研究所]]が発足。
* [[2017年]]
** [[1月1日]] 東南アジア研究所と地域研究統合情報センターが統合し、[[京都大学東南アジア地域研究研究所|東南アジア地域研究研究所]]が発足。
** 6月 [[国立大学法人#指定国立大学法人|指定国立大学法人]]に指定される。
* [[2018年]]
** 4月1日 原子炉実験所を[[京都大学複合原子力科学研究所|複合原子力科学研究所]]と改称。放射線生物研究センターを廃止し大学院生命科学研究科に統合。大学院横断教育プログラム推進センター設置。
** 10月 高等研究院ヒト生物学高等研究拠点設置。
* [[2019年]]4月 文化財総合研究センターを廃止し文学研究科に統合。
==== 令和 ====
* [[2019年]]7月 オープンイノベーション機構設置。
* [[2020年]]4月 [[SARSコロナウイルス2]]の感染拡大により入学式が中止となる(1969年以来51年ぶり。2021年4月7日に挙行)。
* [[2022年]]4月1日
** ウイルス・再生医科学研究所を[[京都大学医生物学研究所|医生物学研究所]]と改称<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.infront.kyoto-u.ac.jp/news/news-1609/ |title=研究所名の変更について |date=2022-04-01 |publisher=京都大学医生物学研究所 |accessdate=2022-04-07 |quote=ウイルス・再生医科学研究所は令和4年4月1日付けで「医生物学研究所」に改称いたしました。 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220407071517/https://www.infront.kyoto-u.ac.jp/news/news-1609/ |archivedate=2022-04-07 |url-status=live}}</ref>。
** 霊長類研究所を[[京都大学ヒト行動進化研究センター|ヒト行動進化研究センター]]などに改組<ref>[http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/index-j.html]</ref>。
** こころの未来研究センターを「人と社会の未来研究院」と改称<ref>[http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/20220404_kaiso/ 改組のお知らせ: 京都大学こころの未来研究センターは2022年4月1日より「京都大学人と社会の未来研究院」となりました。 | 京都大学 人と社会の未来研究院]</ref>。学生総合支援センターを学生総合支援機構に改組<ref>[https://www.gssc.kyoto-u.ac.jp/notice.html 京都大学 学生総合支援センター] 2022年8月27日閲覧</ref>。
== 基礎データ ==
=== 所在地 ===
一部の研究所、施設を除き、キャンパスは全て[[京都府]]内に所在する。<!--
ここではキャンパスの名称と所在地のみ記す。-->
* [[京都大学吉田キャンパス|吉田キャンパス]]([[京都市]][[左京区]]吉田本町ほか)
* 宇治キャンパス(京都府[[宇治市]]五ヶ庄)
* 桂キャンパス(京都市[[西京区]]京都大学桂)
=== 象徴 ===
==== 学歌 ====
作詞 水梨彌久、作曲 [[下総皖一]]。[[1939年]]に出された『[[青少年学徒ニ賜ハリタル勅語]]』に応えるものとして[[1940年]]に制定された。歌詞は前年に学内で公募されたもので、卒業生の水梨の作品が一等に選ばれた。[[卒業式]]と[[入学式]]などで使われる。なお、卒業生で指揮者の[[朝比奈隆]]のファーストレコーディングは、この[[校歌|学歌]]である([[テイチクエンタテインメント|テイチク]]。演奏は[[京都大学交響楽団]])。[[帝国大学|旧帝国大学]]では唯一の学歌である。歌詞は京都大学の公式サイト上に紹介されている。
[[1997年]]の創立百周年を期に新しい[[校歌|学歌]]の制定を計画し、歌詞の募集も行われたが、結局『従来の学歌の方がよい』との意見が多数を占めたため、計画は中止された。
その他の京都大学に関係する歌としては以下がある。
; 学生歌
: 作詞 長崎太郎、作曲 芥川徹。[[1953年]]制定。歌詞は公募によるもの。
; 応援歌『新生の息吹』
: 作詞 中川裕朗、作曲 [[多田武彦]]。[[1958年]]制定。歌詞は公募によるもの。
; 応援歌『花の香薫りぬ』
: 作詞 久保田規美夫、作曲 橋本崇志。[[1959年]]制定。
; 応援歌『ダークブルー 海の碧』
: 作詞 白石裕、作曲 元山邦夫。[[1961年]]制定。歌詞は公募によるもの。
; 応援歌『ひとつの魂』
: 作詞 酒井裕、作曲 京都大学吹奏楽団。[[1991年]]制定。歌詞は公募によるもの。
; [[逍遥の歌]](紅もゆる)
: 作詞 澤村胡夷、作曲 y.k(本名不明)。[[1904年]]。
第三高等学校のあるクラスのクラス歌が、全校に広まり、第三高等学校・京都大学を象徴する歌となった。[[1946年]]に[[黒澤明]]監督の映画『[[わが青春に悔なし]]』の挿入歌に使われたことで全国にも知られるようになった。当初の歌詞は現在伝わっているものと一部異なる。
; 月見草
: 作詞 岡本扇一、作曲 一高寮歌。[[1919年]]。
; [[琵琶湖周航の歌]]
: 作詞 [[小口太郎]]、作曲 [[吉田千秋]]。[[1917年]]。
第三高等学校水上部(現[[京都大学体育会ボート部|京都大学ボート部]])部員の小口太郎が[[琵琶湖]]周航の途上に作詞した。曲は当時部員の間で流行していた歌『ひつじぐさ』(作曲 吉田千秋)を流用している。第三高等学校の寮生らに愛唱された。
; アルトハイデルベルク
[[アルト・ハイデルベルク]]を基にした学生歌。戦後、[[京都大学吉田寮|吉田寮]]の寮生らに愛唱された。
; 京都大学寄宿舎寮歌
: 作詞 田淵昇、作曲 野崎始。[[1935年]]。
==== 学旗 ====
学歌と同じ趣旨で[[1940年]]に制定された。[[旗|学旗]]の意匠は京都大学の公式サイト上に紹介されている。
==== スクールカラー ====
[[スクールカラー]]は[[色名一覧 (の)|濃青]] {{color sample|#010066}}である。
==== エンブレム ====
吉田キャンパス時計台前の[[クスノキ]]を図案化したものが大学の[[エンブレム]]として使用されている。元々は[[1950年]]頃から「事務局シール」として印刷物などに用いられていたもので、[[1990年]]に正式にエンブレムとして了承された。
== 教育および研究 ==
=== 組織 ===
==== 学部 ====
* [[京都大学大学院人間・環境学研究科・総合人間学部|総合人間学部]]<ref group="注釈">「京都大学総合人間学部の組織に関する規程」によると、学科目として、人間科学系、国際文明学系、文化環境学系、認知情報学系、自然科学系がある。2017年度入学生用の大学案内「知と自由への誘い」によると、2年進級時に自らが学系を選択する。</ref>
** 総合人間学科
*** 人間科学系
*** 国際文明学系
*** 文化環境学系
*** 認知情報学系
*** 自然科学系
* [[京都大学大学院文学研究科・文学部|文学部]]<ref group="注釈">学系と専修の構成は、{{PDFlink|[https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/wp-content/uploads/2016/08/3cc11efa3567e2814fd78175c95212f2.pdf 「京都大学文学部専修案内2016」]}}による。2回生進級時に「系」に、3 回生進級時に「専修」に分属する。「京都大学文学部の組織に関する規程」によると、学科目として、哲学基礎文化学、東洋文化学、西洋文化学、歴史基礎文化学、行動・環境文化学、基礎現代文化学がある。</ref>
**人文学科
*** 哲学基礎文化学系
**** 哲学専修
**** 西洋哲学史(古代・中世・近世)専修
**** 日本哲学史専修
**** 倫理学専修
**** 宗教学専修
**** キリスト教学専修
**** 美学美術史学専修
*** 東洋文化学系
**** 国語学国文学専修
**** 中国語学中国文学専修
**** 中国哲学史専修
**** インド古典学専修
**** 仏教学専修
*** 西洋文化学系
**** 西洋古典学専修
**** スラブ語学スラブ文学専修
**** ドイツ語学ドイツ文学専修
**** 英語学英米文学専修
**** フランス語学フランス文学専修
**** イタリア語学イタリア文学専修
*** 歴史基礎文化学系
**** 日本史学専修
**** 東洋史学専修
**** 西南アジア史学専修
**** 西洋史学専修
**** 考古学専修
*** 行動・環境文化学系
**** 心理学専修
**** 言語学専修
**** 社会学専修
**** 地理学専修
*** 基礎現代文科学系
**** 科学哲学科学史専修
**** メディア文化学専修
**** 現代史学専修
* [[京都大学大学院教育学研究科・教育学部|教育学部]]<ref group="注釈">「京都大学教育学部の組織に関する規程」によると、学科目として、現代教育基礎学、教育心理学、相関教育システム論がある。2017年度入学生用の大学案内「知と自由への誘い」によると、3年次に系に分属する。</ref>
** 教育科学科
*** 現代教育基礎学系
*** 教育心理学系
*** 相関教育システム論系
* [[京都大学大学院法学研究科・法学部|法学部]]<ref group="注釈">「京都大学法学部の組織に関する規程」によると、学科目として、基礎法学、公法、民刑事法、政治学がある。なお、学科はない。</ref>
[[画像:Kyoto university - law faculty.jpg|200px|thumb|法経済学部本館(吉田キャンパス)]]
* [[京都大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学部]]<ref group="注釈">「京都大学経済学部の組織に関する規程」によると、学科目として、理論・情報、経済史・思想史、財政・金融、産業・労働、国際経済、経営、会計がある。</ref>
** [[経済経営学部|経済経営学科]]
* [[京都大学大学院理学研究科・理学部|理学部]]<ref group="注釈">「京都大学理学部の組織に関する規程」によると、学科目として、数学、物理学・宇宙物理学、地球惑星科学、化学、生物科学がある。2017年度入学生用の大学案内「知と自由への誘い」によると、3年次に系に分属する。</ref>
** [[理学科]]
*** 数理科学系(数学)
*** 物理科学系(物理学・宇宙物理学)
*** 地球惑星科学系(地球物理学・地質学鉱物学)
*** 化学系
*** 生物科学系
* [[京都大学大学院医学研究科・医学部|医学部]]
** [[医学科]](6年制)<ref group="注釈">「京都大学医学部の組織に関する規程」によると、学科目として、分子生物学、細胞学・組織学、発生学・遺伝学、人体構造機能学、臨床入門医学、環境・社会医学、内科学、外科学、眼科学、婦人科学・産科学、小児科学、皮膚科学、形成外科学、泌尿器科学、耳鼻咽喉科学、整形外科学、精神医学、放射線医学・核医学、麻酔学、臨床神経学、臨床検査医学、口腔外科学がある。</ref>
** 人間健康科学科
*** 2017年度入学生から<ref group="注釈">コース、講座の構成は、2017年度入学生用の大学案内「知と自由への誘い」による。</ref>
**** 先端看護科学コース
***** 基礎看護学講座
***** 臨床看護学講座
***** 家族看護学講座
***** 地域看護学講座
**** 先端リハビリテーション科学コース
***** 理学療法学講座
***** 作業療法学講座
**** 総合医療科学コース
***** 生命・基礎医科学講座
***** 臨床医科学講座
* [[京都大学大学院薬学研究科・薬学部|薬学部]]
** [[薬学科]](6年制)<ref group="注釈">「京都大学薬学部の組織に関する規程」によると、学科目として、医療薬科学がある。</ref>
** [[薬科学科]](4年制)<ref group="注釈">「京都大学薬学部の組織に関する規程」によると、学科目として、創薬科学がある。</ref>
* [[京都大学大学院工学研究科・工学部|工学部]]
** [[地球工学科]]<ref group="注釈">「京都大学工学部の組織に関する規程」によると、学科目として、土木工学、環境工学、資源工学がある。</ref>
** [[建築学科]]<ref group="注釈">「京都大学工学部の組織に関する規程」によると、学科目として、建築学がある。</ref>
** [[物理工学科]]<ref group="注釈">「京都大学工学部の組織に関する規程」によると、学科目として、機械システム学、材料科学、エネルギー応用工学、原子核工学、宇宙基礎工学がある。</ref>
** [[電気電子工学科]]<ref group="注釈">「京都大学工学部の組織に関する規程」によると、学科目として、電気電子工学がある。</ref>
** [[情報学科]]<ref group="注釈">「京都大学工学部の組織に関する規程」によると、学科目として、計算機科学、数理工学がある。</ref>
** [[工業化学科]]<ref group="注釈">「京都大学工学部の組織に関する規程」によると、学科目として、創成化学、工業基礎化学、化学プロセス工学がある。</ref><ref group="注釈">2024年4月から、理工化学科に名称が変更される。
{{Cite web|和書
| url = https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news/2023-07-26
| title = 工学部工業化学科は、2024(令和6)年4月より「理工化学科」に学科名称を変更します <nowiki>|</nowiki> 京都大学
| accessdate = 2023-08-25
}}</ref>
[[画像:Kyoto university.jpg|200px|thumb|工学部土木工学教室本館(吉田キャンパス)]]
* [[京都大学大学院農学研究科・農学部|農学部]]
** [[資源生物科学科]]<ref group="注釈">「京都大学農学部の組織に関する規程」によると、学科目として、資源生物科学がある。</ref>
** [[応用生命科学科]]<ref group="注釈">「京都大学農学部の組織に関する規程」によると、学科目として、応用生命科学がある。</ref>
** [[地域環境工学科]]<ref group="注釈">「京都大学農学部の組織に関する規程」によると、学科目として、地域環境工学がある。</ref>
** [[食料・環境経済学科]]<ref group="注釈">「京都大学農学部の組織に関する規程」によると、学科目として、食料・環境経済学がある。</ref>
** [[森林科学科]]<ref group="注釈">「京都大学農学部の組織に関する規程」によると、学科目として、森林科学がある。</ref>
** [[食品生物科学科]]<ref group="注釈">「京都大学農学部の組織に関する規程」によると、学科目として、食品生物科学がある。</ref>
==== 研究科 ====
* [[京都大学大学院文学研究科・文学部|文学研究科]]
** 文献文化学専攻
** 思想文化学専攻
** 歴史文化学専攻
** 行動文化学専攻
** 現代文化学専攻
** 京都大学・ハイデルベルク大学国際連携文化越境専攻(修士課程)
* [[京都大学大学院教育学研究科・教育学部|教育学研究科]]
** 教育学環専攻
* [[京都大学大学院法学研究科・法学部|法学研究科]]
** 法政理論専攻
** 法曹養成専攻([[専門職学位課程]]、[[法科大学院]])
* [[京都大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学研究科]]
** 経済学専攻
*** 研究者養成プログラム
*** 高度専門人材養成プログラム
*** 東アジア持続的経済発展研究コース
** 京都大学国際連携グローバル経済・地域創造専攻(修士課程)
* [[京都大学大学院理学研究科・理学部|理学研究科]]
** 数学・数理解析専攻
** 物理学・宇宙物理学専攻
** 地球惑星科学専攻
** 化学専攻
** 生物科学専攻
[[画像:Graduate School of Science Bldg. No.4 of Kyoto U.JPG|200px|thumb|理学研究科4号館(吉田キャンパス)]]
* [[京都大学大学院医学研究科・医学部|医学研究科]]
** 医学専攻([[4年制博士課程]])
** 医科学専攻(修士課程・博士後期課程)
** 社会健康医学系専攻(専門職学位課程、[[公衆衛生大学院]]・[[博士後期課程]])
** 人間健康科学系専攻
** 京都大学・マギル大学ゲノム医学国際連携専攻(4年制博士課程)
* [[京都大学大学院薬学研究科・薬学部|薬学研究科]]
** 薬科学専攻(平成22年度入学者以降)
** 薬学専攻(4年生博士課程、平成24年度入学者以降)
** 創発医薬科学専攻(5年一貫制博士課程)
* [[京都大学大学院工学研究科・工学部|工学研究科]]
** 社会基盤工学専攻
** 都市社会工学専攻
** 都市環境工学専攻
** 建築学専攻
** 機械理工学専攻
** マイクロエンジニアリング専攻
** 航空宇宙工学専攻
** 原子核工学専攻
** 材料工学専攻
** 電気工学専攻
** 電子工学専攻
** 材料化学専攻
** 物質エネルギー化学専攻
** 分子工学専攻
** 高分子化学専攻
** 合成・生物化学専攻
** 化学工学専攻
* [[京都大学大学院農学研究科・農学部|農学研究科]]
** 農学専攻
** 森林科学専攻
** 応用生命科学専攻
** 応用生物科学専攻
** 地域環境科学専攻
** 生物資源経済学専攻
** 食品生物科学専攻
* [[京都大学大学院人間・環境学研究科・総合人間学部|人間・環境学研究科]]
** 人間・環境学専攻(令和5年度入学者以降)
** 共生人間学専攻(令和4年度入学者以前)
** 共生文明学専攻(令和4年度入学者以前)
** 相関環境学専攻(令和4年度入学者以前)
* [[京都大学大学院エネルギー科学研究科|エネルギー科学研究科]]
** エネルギー社会・環境科学専攻
** エネルギー基礎科学専攻
** エネルギー変換科学専攻
** エネルギー応用科学専攻
* [[京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科|アジア・アフリカ地域研究研究科]](5年一貫制博士課程)
** 東南アジア地域研究専攻
** アフリカ地域研究専攻
** グローバル地域研究専攻
* [[京都大学大学院情報学研究科|情報学研究科]]
** 情報学専攻(令和5年度入学者以降)
** 知能情報学専攻(令和4年度入学者以前)
** 社会情報学専攻(令和4年度入学者以前)
** 先端数理科学専攻(令和4年度入学者以前)
** 数理工学専攻(令和4年度入学者以前)
** システム科学専攻(令和4年度入学者以前)
** 通信情報システム専攻(令和4年度入学者以前)
* [[京都大学大学院生命科学研究科|生命科学研究科]]
** 統合生命科学専攻
** 高次生命科学専攻
* [[京都大学大学院地球環境学堂・地球環境学舎・三才学林|地球環境学堂・地球環境学舎・三才学林]](「地球環境学大学院」)
** 地球環境学堂(地球環境学研究部)
*** 地球益学廊
*** 地球親和技術学廊
*** 資源循環学廊
** 地球環境学舎(地球環境学教育部)
*** 地球環境学専攻(博士課程)
*** 環境マネジメント専攻(修士課程・博士後期課程)
** 三才学林(教育・研究支援組織)
* [[京都大学大学院公共政策連携研究部・公共政策教育部|公共政策連携研究部・公共政策教育部]]
** 公共政策専攻(専門職学位課程、[[公共政策大学院]])
* [[京都大学大学院経営管理研究部・経営管理教育部|経営管理研究部・経営管理教育部]]
** 経営科学専攻
** 経営管理専攻(専門職学位課程、経営管理大学院)
* [[京都大学大学院総合生存学館|総合生存学館]](思修館)
** 総合生存学専攻
==== 短期大学部 ====
* [[京都大学医療技術短期大学部|医療技術短期大学部]](2007年3月閉部)
==== 附属機関 ====
* 附属図書館
; 機構
* 国際高等教育院
** 附属国際学術言語教育センター
** 附属日本語・日本文化教育センター
* 大学院教育支援機構
* 学生総合支援機構
* 環境安全保健機構
** 環境管理部門
** 安全管理部門
** 放射線管理部門
** 健康管理部門
** 低温物質管理部門
** 附属環境科学センター
** 附属安全科学センター
** 附属放射性同位元素総合センター
** 附属健康科学センター
** 附属物性科学センター
* 情報環境機構
** IT企画室
** 情報環境支援センター
* 図書館機構
* 産学官連携本部
* オープンイノベーション機構
* 国際戦略本部
* 人と社会の未来研究院
; 学部附属施設
: 医学部附属
:* 病院([[京都大学医学部附属病院|京大病院]])
; 大学院研究科附属施設
: 文学研究科附属
:* 文化遺産学・人文知連携センター
: 教育学研究科附属
:* 臨床教育実践研究センター
: 法学研究科附属
:* 国際法政文献資料センター
:* 法政実務交流センター
: 経済学研究科附属
:* プロジェクトセンター
:* 東アジア経済研究センター
: 理学研究科附属
:* 天文台
::* [[京都大学大学院理学研究科附属花山天文台|花山天文台]](京都市[[山科区]])
::* [[京都大学大学院理学研究科附属飛騨天文台|飛騨天文台]]([[岐阜県]][[高山市]])
:* [[地磁気]]世界資料解析センター
:*[[京都大学大学院理学研究科附属地球熱学研究施設|地球熱学研究施設]]([[大分県]][[別府市]])
::* [[火山]]研究センター([[熊本県]][[南阿蘇村]])
:* サイエンス連携探索センター
: 医学研究科附属
:* 動物実験施設
:* 先天異常標本解析センター
:* 総合解剖センター
:* 脳機能総合研究センター
:* [[ゲノム]]医学センター
:* 医学教育・国際化推進センター
:* インキュベーションハブ京都<ref>[http://www.ihk.med.kyoto-u.ac.jp/facilities インキュベーションハブ京都](2018年6月9日閲覧)</ref>
: 薬学研究科附属
:* 薬用植物園
:* 統合薬学教育開発センター
: 工学研究科附属
:* 光・電子理工学教育研究センター
:* 流域圏総合環境質研究センター([[滋賀県]][[大津市]])
:* 量子理工学教育研究センター
:* 桂インテックセンター
:* 情報センター
:* 環境安全衛生センター
:* グローバルリーダーシップ大学院工学教育推進センター
: 農学研究科附属
:* [[京都大学大学院農学研究科附属農場|農場]](京都府[[木津川市]])
::* 京都農場(北部構内)
:* 牧場(京都府[[船井郡]][[京丹波町]])
: 人間・環境学研究科附属
:* 学術越境センター
: 生命科学研究科附属
:* 放射線生物研究センター
:* 生命情報解析教育センター
: 経営管理研究部附属
:* 経営研究センター
; 研究連携基盤(附置研究所・研究センター)
* [[京都大学化学研究所|化学研究所]]
** 物質創製化学研究系
** 材料機能化学研究系
** 生体機能化学研究系
** 環境物質化学研究系
** 複合基盤化学研究系
** 附属先端ビームナノ科学センター
** 附属元素科学国際研究センター
** 附属バイオインフォマティクスセンター
* [[京都大学人文科学研究所|人文科学研究所]]
** 文化研究創成研究部門
** 文化生成研究部門
** 文化表象研究部門
** 文化構成研究部門
** 文化連関研究部門
** [[京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター|附属東アジア人文情報学研究センター]]
** 附属現代中国研究センター
* [[京都大学医生物学研究所|医生物学研究所]]
** ウイルス感染研究部門
** 再生組織構築研究部門
** 生命システム研究部門
** 附属感染症モデル研究センター
** 附属再生実験動物施設
** 附属ヒトES細胞研究センター
* [[京都大学エネルギー理工学研究所|エネルギー理工学研究所]]
** エネルギー生成研究部門
** エネルギー機能変換研究部門
** エネルギー利用過程研究部門
** 附属エネルギー複合機構研究センター
* [[京都大学生存圏研究所|生存圏研究所]]
** 中核研究部
*** 生存圏診断統御研究系
*** 生存圏戦略流動研究系
*** 生存圏開発創成研究系
** 開放型研究推進部
*** 信楽MU観測所([[滋賀県]][[甲賀市]][[信楽町]]神山)
**** MUレーダー(中層超高層大気観測用大型レーダー)
*** [[赤道]]大気レーダー(大気観測用[[ドップラー・レーダー|ドップラーレーダー]]、EAR)([[インドネシア]][[西スマトラ州]])
** 附属生存圏学際萌芽研究センター
*** 生存圏科学萌芽研究
*** 生存圏ミッション研究
* [[京都大学防災研究所|防災研究所]]
** 総合防災研究グループ
*** 社会防災研究部門
*** 附属巨大災害研究センター
** 地震・火山研究グループ
*** 地震防災研究部門
*** 附属地震災害研究センター
**** [[上宝村|上宝]]観測所(岐阜県高山市)
**** [[北陸]]観測所([[福井県]][[鯖江市]])
**** [[逢坂山]]観測所(滋賀県大津市)
**** [[屯鶴峯]]観測所([[奈良県]][[香芝市]])
**** 阿武山観測所([[大阪府]][[高槻市]])
**** 鳥取観測所([[鳥取県]][[鳥取市]])
**** 徳島観測所([[徳島県]][[石井町]])
**** 宮崎観測所([[宮崎県]][[宮崎市]])
*** 附属火山活動研究センター([[鹿児島県]][[鹿児島市]][[桜島横山町]])
**** [[桜島]]火山観測所
** 地盤研究グループ
*** 地盤災害研究部門
*** 附属斜面未災学研究センター
**** 徳島[[地すべり]]観測所(徳島県[[三好市]])
** 大気・水研究グループ
*** 気象・水象災害研究部門
*** 附属流域災害研究センター(京都市[[伏見区]])
**** [[淀川|宇治川]]オープンラボラトリー
**** 大潟波浪観測所([[新潟県]][[上越市]][[大潟区]])
**** 穂高砂防観測所(岐阜県[[高山市]])
**** 白浜海象観測所([[和歌山県]][[白浜町]])
**** [[潮岬]]風力実験所(和歌山県[[串本町]])
*** 附属水資源環境研究センター
* [[京都大学基礎物理学研究所|基礎物理学研究所]]
** 物理学基礎研究部門
** 物質構造研究部門
** 極限構造研究部門
* [[京都大学経済研究所|経済研究所]]
** 経済情報解析研究部門
** 経済制度研究部門
** 経済戦略研究部門
** ファイナンス研究部門
** 現代経済分析研究部門
** 附属[[複雑系]]経済研究センター
** 附属先端政策分析研究センター
* [[京都大学数理解析研究所|数理解析研究所]]
** 基礎数理研究部門
** 無限解析研究部門
** 応用数理研究部門
** 附属計算機構研究施設
* [[京都大学複合原子力科学研究所|複合原子力科学研究所]](大阪府[[熊取町]])
** 原子力基礎工学研究部門
** [[粒子線]]基礎物性研究部門
** 放射線生命科学研究部門
** 附属粒子線腫瘍学研究センター
** 附属安全原子力システム研究センター
* [[京都大学東南アジア地域研究研究所|東南アジア地域研究研究所]]
** 相関地域研究部門
** 政治経済共生研究部門
** 社会共生研究部門
** 環境共生研究部門
** グローバル生存基盤研究部門
* [[京都大学iPS細胞研究所|iPS細胞研究所]]
** 未来生命科学開拓部門
** 増殖分化機構研究部門
** 臨床応用研究部門
** 基盤技術研究部門<!--https://www.cira.kyoto-u.ac.jp/j/about/organization_chart.html-->
;全国共同利用施設<ref name="centers">[https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/about/organization/deans/centers 教育研究施設等 | 京都大学]</ref>
* 学術情報メディアセンター
** ネットワーク研究部門
** コンピューティング研究部門
** 社会情報解析基盤研究部門
** ディジタルコンテンツ研究部門
** 連携研究部門
* 生態学研究センター(滋賀県大津市)
* 野生動物研究センター
** 比較認知科学研究部門
** 動物園科学研究部門
** 保全生物学研究部門
** 人類進化科学研究部門
** 健康長寿科学研究部門
** [[幸島]]観察所(宮崎県[[串間市]])
** [[屋久島]]観察ステーション(鹿児島県[[屋久島町]])
** [[チンパンジー]]・サンクチュアリ宇土(熊本県[[宇城市]])
;学内共同教育研究施設<ref name="centers"/>
* 高等教育研究開発推進センター
** 高等教育教授システム研究開発部門
** 教育メディア研究開発部門
** 教育アセスメント室
* [[京都大学総合博物館|総合博物館]]
* フィールド科学教育研究センター
** 研究推進部門
** 森林生態系部門
** 里域生態系部門
** 海洋生態系部門
** [[京都大学フィールド科学教育研究センター森林ステーション芦生研究林|芦生研究林]](京都府[[南丹市]])
** 北海道研究林標茶区([[北海道]][[標茶町]])、北海道研究林白糠区(北海道[[白糠町]])
** 和歌山研究林(和歌山県[[有田川町]])
** [[上賀茂]]試験地(京都市北区)
** [[徳山市|徳山]]試験地([[山口県]][[周南市]])
** [[北白川]]試験地(京都市左京区)
** [[紀伊大島]]実験所(和歌山県串本町)
[[画像:Maizurusuisanjikkenjou-DSCF2612.JPG|200px|thumb|舞鶴水産実験所]]
:* 舞鶴水産実験所(京都府[[舞鶴市]])
:* 瀬戸臨海実験所(和歌山県白浜町)
::* [[京都大学白浜水族館|白浜水族館]]
* [[福井謙一]]記念研究センター
** 理論研究部門
** 総合研究部門
* [[京都大学ヒト行動進化研究センター|ヒト行動進化研究センター]]([[愛知県]][[犬山市]])
** 高次脳機能分野
** 統合脳システム分野
** ゲノム進化分野
** 附属人類進化モデルデンター
** 附属国際共同先端研究センター
; その他の学内組織<ref name="centers"/>等
* 大学文書館
* アフリカ地域研究資料センター
* 白眉センター
* [[学際]]融合教育研究推進センター
* 高大接続・入試センター
* 研究連携基盤
* 学術研究支援室
* 大学院横断教育プログラム推進センター
* 男女共同参画推進本部
; 高等研究院
* [[物質-細胞統合システム拠点]] (iCeMS)
** 附属メゾバイオ1分子イメジングセンター
** ケミカルスクリーニングセンター
* ヒト生物学高等研究拠点 (ASHBi)
* 理研-京大科学技術ハブ(連携拠点)
** 理研-京大数理科学連携拠点
** 豊田理研-京大連携拠点
** 医学物理・医工計測グローバル拠点
==== 学術交流提携校 ====
共同研究や研究者・学生の交流を行うため、170の大学・機関と大学間交流協定を結んでいる。また延べ965の大学・機関と部局間協定を結んでいる。()内の数字は締結年。
* [[アジア]]
** {{CHN}}
*** [[西北大学]] (1980)
*** [[武漢大学]] (1980)
*** [[北京大学]] (1983)
*** [[清華大学]] (1998)
*** [[復旦大学]] (2002)
*** [[浙江大学]] (2003)
*** [[中国科学技術大学]] (2005)
*** [[香港科技大学]] (2005)
*** [[南京大学]] (2006)
*** [[上海交通大学]] (2008)
*** [[西安交通大学]] (2008)
** {{TWN}}
*** [[国立台湾大学]] (2005)
*** [[国立清華大学]] (2006)
*** [[国立成功大学]] (2019)
*** [[中央研究院]] (2019)
*** [[国立中興大学]] (2020)
** {{KOR}}
*** [[慶北大学校]] (1980)
*** [[ソウル大学校]] (1991)
*** [[延世大学校]] (1998)
*** [[高麗大学校]] (2002)
*** [[KAIST]] (2005)
*** [[浦項工科大学校]] (2007)
*** [[建国大学校]] (2012)
*** [[梨花女子大学校]] (2020)
** {{PHL}}
*** [[フィリピン大学]] (2015)
** {{BRN}}
*** [[ブルネイ・ダルサラーム大学]] (2014)
** {{MYS}}
*** [[マラヤ大学]] (2008)
*** [[マレーシア工科大学]] (2016)
*** [[マレーシア国民大学]] (2017)
** {{SGP}}
*** [[シンガポール国立大学]] (1999)
** {{IDN}}
*** [[バンドン工科大学]] (2006)
*** [[インドネシア大学]] (2008)
*** [[ガジャ・マダ大学]] (2012)
*** [[ボゴール農科大学]] (2013)
*** [[ハサヌディン大学]] (2014)
*** [[インドネシア科学院]] (2014)
*** インドネシア泥炭復興庁 (2016)
*** [[リアウ大学]] (2020)
** {{VNM}}
*** [[ベトナム国家大学ハノイ校]] (2007)
*** [[フエ大学]] (2007)
*** [[ハノイ工科大学]] (2009)
*** [[ダナン大学]] (2014)
*** [[ベトナム社会科学院]] (VASS) (2020)
** {{LAO}}
*** [[ラオス国立大学]] (2002)
** {{THA}}
*** [[カセサート大学]] (1984)
*** [[タンマサート大学]] (2005)
*** [[チュラーロンコーン大学]] (2005)
*** [[マヒドン大学]] (2014)
*** [[チエンマイ大学]] (2014)
*** [[アジア工科大学院]] (2017)
*** [[タイ国立科学技術開発庁]] (2018)
** {{MMR}}
*** [[マンダレー工科大学]] (2013)
*** [[ヤンゴン工科大学]] (2013)
*** [[ヤンゴン大学]] (2015)
*** [[イェジン農業大学]] (2017)
** {{BTN}}
*** [[ブータン王立大学]] (2013)
** {{NPL}}
*** [[トリブバン大学]] (2015)
** {{IND}}
*** [[バラナシ・ヒンドゥー大学]] (2015)
*** [[インド工科大学]]ボンベイ校 (2015)
*** インド工科大学グワハチ校 (2016)
*** インド工科大学カーンプル校 (2016)
*** [[インド理科大学院]] (2017)
*** [[ノースイースタンヒル大学]] (2018)
** {{LKA}}
*** [[ペラデニア大学]] (2020)
* [[北アメリカ]]
** {{USA}}
*** [[ウェイン州立大学]] (1985)
*** [[スタンフォード大学]] (1989)
*** [[カリフォルニア大学]] (1990)
*** [[ポリテクニック大学]](現:[[ニューヨーク大学技術工科大学]])(1990)
*** [[ブラウン大学]] (1992)
*** [[ジョージ・ワシントン大学]] (1998)
*** [[タフツ大学]] (1998)
*** [[イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校]] (1999)
*** [[ペンシルベニア大学]] (1999)
*** [[ハワイ大学]] (2003)
*** [[ミシガン大学]] (2003)
*** [[ワシントン大学 (ワシントン州)|ワシントン大学]] (2011)
*** [[カリフォルニア大学デービス校]] (2011)
*** [[カリフォルニア大学サンディエゴ校]] (2014)
*** [[オーリン工科大学]] (2014)
*** [[ノートルダム大学]] (2014)
*** [[マサチューセッツ工科大学]] (2015)
*** [[カリフォルニア大学バークレー校]] (2015)
*** [[ライス大学]] (2017)
*** [[フロリダ大学]] (2019)
*** [[カリフォルニア大学ロサンゼルス校]] (2021)
** {{CAN}}
*** [[トロント大学]] (1991)
*** [[ケベック州大学学長校長協議会]] (1994)
*** [[ウォータールー大学]] (2003)
*** [[マギル大学]] (2014)
*** [[ブリティッシュコロンビア大学]] (2014)
*** [[コンコルディア大学]] (2014)
* [[ラテンアメリカ]]
** {{MEX}}
*** [[グアダラハラ大学]] (1983)
** {{BRA}}
*** [[サンパウロ大学]] (2014)
* [[ヨーロッパ]]
** {{GBR}}
*** [[サセックス大学]] (1989)
*** [[オックスフォード大学]] (1991)
*** [[ケンブリッジ大学]] (1997)
*** [[ノッティンガム大学]] (1999)
*** [[エディンバラ大学]] (2005)
*** [[シェフィールド大学]] (2006)
*** [[マンチェスター大学]] (2006)
*** [[ブリストル大学]] (2011)
*** [[ロンドン大学]]教育研究所 (2011)
*** [[グラスゴー大学]] (2013)
*** [[キングス・カレッジ・ロンドン]] (2014)
*** [[バーミンガム大学]] (2015)
*** [[リーズ大学]] (2016)
*** [[サウサンプトン大学]] (2017)
*** [[ロンドン大学クイーン・メアリー]] (2020)
** {{IRL}}
*** [[ユニバーシティ・カレッジ・ダブリン]] (2014)
*** [[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)]] (2014)
** {{FRA}}
*** [[ストラスブール大学]] (1991)
*** [[高等師範学校 (フランス)|エコール・ノルマル・シュペリウール]] (2009)
*** [[フランス国立科学研究センター]] (CNRS) (2013)
*** [[ボルドー大学]] (2014)
*** [[アグロポリス・インターナショナル]] (2014)
*** [[社会科学高等研究院]] (2015)
*** [[パリ国立高等鉱業学校]] (2016)
*** [[フランス国立東洋言語文化研究所]] (2016)
*** [[高等師範学校 (フランス)|高等師範学校]] パリ・サクレー (2017)
*** [[パリ・サクレー大学]] (2018)
*** [[グルノーブル・アルプ大学]] (2020)
** {{ESP}}
*** [[バルセロナ大学]] (2014)
*** [[バルセロナ自治大学]] (2017)
** {{DEU}}
*** [[ベルリン自由大学]] (1984)
*** [[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン]] (1989)
*** [[ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン]] (1990)
*** [[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク]] (1990)
*** [[フンボルト大学ベルリン]] (1998)
*** [[ミュンヘン工科大学]] (2006)
*** [[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン]] (2011)
*** [[カールスルーエ工科大学]] (2011)
*** [[ケルン大学]] (2013)
*** [[アーヘン工科大学]] (2014)
*** [[ベルリン工科大学]] (2016)
*** [[ハンブルク大学]] (2017)
*** [[ドレスデン工科大学]] (2018)
*** [[ドルトムント工科大学]] (2019)
** {{LUX}}
*** [[ルクセンブルク大学]] (2016)
** {{BEL}}
*** [[ルーヴァン・カトリック大学]](フランス語圏)(1997)
*** ルーヴェン・カトリック大学(オランダ語圏)(2020)
** {{NLD}}
*** [[ライデン大学]] (1997)
*** [[ユトレヒト大学]] (1997)
*** [[フローニンゲン大学]] (2013)
*** [[ワーヘニンゲン大学]] (2018)
** {{CHE}}
*** [[スイス連邦工科大学]] (1989)
*** [[ローザンヌ大学]] (1997)
*** [[チューリッヒ大学]] (2013)
*** [[スイス連邦工科大学ローザンヌ校]] (EPFL) (2015)
** {{ITA}}
*** [[シエナ大学]] (1989)
*** [[ボローニャ大学]] (1995)
*** [[ミラノ工科大学]] (2014)
*** [[ヴェネツィア大学]] (2015)
** {{AUT}}
*** [[ウィーン大学]] (1993)
** {{CZE}}
*** [[プラハ・カレル大学]] (1990)
*** [[チェコ科学アカデミー]] (2021)
** {{POL}}
*** [[ヤギェウォ大学]] (2013)
** {{UKR}}
*** [[キエフ工科大学]] (2013)
*** [[キエフ大学]] (2014)
** {{NOR}}
*** [[ノルウェー科学技術大学]] (2014)
** {{SWE}}
*** [[ウプサラ大学]] (1997)
*** [[ストックホルム大学]] (1997)
*** [[スウェーデン王立工科大学]] (KTH) (2005)
*** [[ルンド大学]] (2014)
** {{FIN}}
*** [[ヘルシンキ大学]] (2011)
** {{RUS}}
*** [[モスクワ大学]] (1987)
*** [[サンクトペテルブルク大学]] (2013)
* [[オセアニア]]
** {{AUS}}
*** [[クイーンズランド大学]] (1981)
*** [[メルボルン大学]] (1997)
*** [[ニューサウスウェールズ大学]] (1998)
*** [[シドニー大学]] (1999)
*** [[オーストラリア国立大学]] (2008)
** {{NZL}}
*** [[オークランド大学]] (1997)
* [[中東]]
** {{ISR}}
*** [[テルアビブ大学]] (1999)
** {{SAU}}
*** [[キング・アブドゥルアズィーズ大学]] (2014)
** {{TUR}}
*** [[コッチ大学]] (2011)
* [[アフリカ]]
** {{EGY}}
*** [[エジプト科学研究技術アカデミー]] (2010)
*** [[エジプト日本科学技術大学]] (2012)
** {{SDN}}
*** [[ハルツーム大学]] (2001)
** {{ETH}}
*** [[アディス・アベバ大学]] (2017)
** {{MAR}}
*** [[ムハンマド5世大学]] (2016)
** {{UGA}}
*** [[マケレレ大学]] (2015)
** {{TZA}}
*** [[ソコイネ農業大学]] (2019)
** {{COD}}
*** [[キンシャサ大学]] (2015)
** {{ZMB}}
*** [[ザンビア大学]] (2019)
** {{BWA}}
*** [[ボツワナ大学]] (2012)
** {{GHA}}
*** [[ガーナ大学]] (2017)
** {{GIN}}
*** [[コナクリ大学]] (2013)
** {{MDG}}
*** [[アンタナナリヴ大学]] (2019)
* その他
** 本部・日本
*** [[国際連合大学]] (2005)
*** [[国際協力機構]] (JICA) (2010)
** 本部・タイ王国
*** [[アセアン大学連合]] (AUN) (2009)
*** アセアン+3大学連合 (ASEAN+3 UNet) (2012)
***: ※ アセアン+3 とは、アセアン諸国に日本・中国・韓国を加えたものである。
** 本部・アメリカ
*** [[国際連合開発計画]] (UNDP) (2016)
** 本部・イタリア
*** [[国際連合食糧農業機関]] (FAO) (2016)
** 本部・フランス
*** [[国際連合教育科学文化機関]](ユネスコ)[インターンシップ](2012)
*** 国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)[チェア](2018)
*** [[経済協力開発機構]] (OECD) (2019)
*** [[国際核融合エネルギー機構]] (ITER) (2014)
** 本部・インドネシア
*** [[国際林業研究センター]] (CIFOR) (2016)
=== 研究 ===
==== 21世紀COEプログラム ====
{{See also|21世紀COEプログラム}}
採択23件
* 2002年
*; [[生命科学]]
** 先端生命科学の融合相互作用による拠点形成
** 生物多様性研究の統合のための拠点形成
*; [[化学]]、[[材料科学]]
** 京都大学化学連携研究教育拠点(新しい物質変換化学の基盤構築と展開)
** 学域統合による新材料科学の研究教育拠点
*; 情報、電気、電子
** 知識社会基盤構築のための情報学拠点形成
** 電気電子基盤技術の研究教育拠点形成
*; [[人文科学]]
** グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成
** 心の働きの総合的研究教育拠点
*; 学際、複合、新領域
** 世界を先導する総合的地域研究拠点の形成(フィールド・ステーションを活用した教育 ・研究体制の推進)
** 環境調和型エネルギーの研究教育拠点形成
** 災害学理の究明と防災学の構築
* 2003年
*; [[医学]]系
** 病態解明を目指す基礎医学研究拠点
** 融合的移植[[再生医学|再生治療]]を目指す国際拠点形成
*; [[数学]]、[[物理学]]、[[地球科学]]
** 先端数学の国際拠点形成と次世代研究者育成
** 物理学の多様性と普遍性の探求拠点
** 活地球圏の変動解明
*; 機械、土木、建築、その他工学
** 動的機能機械システムの数理モデルと設計論
*; [[社会科学]]
** 21世紀型法秩序形成プログラム
** 先端経済分析のインターフェイス拠点の形成
*; 学際、複合、新領域
** ゲノム科学の知的情報基盤・研究拠点形成
** 微生物機能の戦略的活用による生産基盤拠点
** 東アジア世界の人文情報学研究教育拠点
* 2004年
*; 革新的な学術分野
** [[昆虫科学]]が拓く未来型食料環境学の創生
==== グローバルCOEプログラム ====
{{See also|グローバルCOEプログラム}}
採択13件
* 2007年
*; 生命科学
** 生物の多様性と進化研究のための拠点形成
*; 化学、材料科学
** 物質科学の新基盤構築と次世代育成国際拠点
*; 情報、電気、電子
** 知識循環社会のための情報学教育研究拠点
** 光・電子理工学の教育研究拠点形成
*; 人文科学
** 心が活きる教育のための国際的拠点
*; 学際、複合、新領域
** 生存基盤持続型の発展を目指す地域研究拠点
* 2008年
*; 医学系
** 生命原理の解明を基とする医学研究教育拠点
*; 数学、物理学、地球科学
** 数学のトップリーダーの育成
** 普遍性と創発性から紡ぐ次世代物理学
*; 機械、土木、建築、その他工学
** アジア・[[メガシティ]]の人間安全保障工学拠点
*; 社会科学
** 親密圏と公共圏の再編成をめざすアジア拠点
*; 学際、複合、新領域
** [[地球温暖化]]時代のエネルギー科学拠点
* 2009年
*; 学際、複合、新領域
** 極端気象と適応社会の生存科学<!--
==== 私立大学学術研究高度化推進事業 ====
* 私立大学学術研究高度化推進事業の採択はない。-->
=== 教育 ===<!--
※以下のプログラムに指定されたプロジェクトがあれば、以下のように項目を作り記述する。採択がない場合、書いていないのか未採択なのかの区別をつけるために{{Nowiki|*○○プログラムの採択はない。}}」と記述する。歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述できる場合は、プログラムに関する列記以外に教育内容の特色を別途記すこともできる。-->
==== 教養科目 ====
京都大学での学部段階での教育は、全学が対象の教養科目と各学部ごとの専門科目に大別される。このうち教養科目については、1993年の教養部廃止以降、全学共通科目を中心に再編された。教養科目と専門科目の分担は、1・2回生を教養課程、3回生以上を専門課程とするような学年による区分は行わず、1回生では教養科目を多く履修し、学年が上がるに従って専門科目の割合を徐々に増やし、卒業までに教養・専門のそれぞれで必要な単位を取得する方式を採っている。ただし学部によっては、途中の年次までに所定の教養科目の単位を取得していないと系登録・研究室配属などができない(事実上の[[原級留置|留年]])ことがある。
2013年度に全学共通で年間登録授業数の上限を定めるキャップ制が新規入学生に適用されることとなった。様々な科目を広く履修し、各学生が己の適性を探っていけるよう理学部や文学部は学科を細分せず単学科となっている。だが、キャップ制にはこれら既存の教育制度との齟齬があるとして、しばしば在学生の間で問題視されている。
教養科目の大半は全学共通科目であり、平成24年度までは以下の5群に分類されていた。
* A群:[[人文科学]]・[[社会科学]]系科目
* B群:[[自然科学]]系科目
* C群:[[外国語]]科目。留学生対象の日本語教育も含む。
* D群:[[保健体育]]科目
* EX群:[[大学コンソーシアム京都]]単位互換科目
<!--ただし一部の科目はA・C群、B・D群など複数の群に属し、学生が履修登録時にどちらの群の科目として履修するかを選択する。学部ごとに各群から取得すべき単位数が定められている。学部によっては、一部の科目を卒業に必要な単位としては認めないことがある。たとえばB群には文系学生向けの数学の講義が含まれるが、これを理系学部の学生が履修しても単位として認められない。特に、工学部生は学部指定のB群科目以外は一切卒業単位に認定されない。
なお、総合人間学部生に対しては、C群を除いて群の概念そのものが適用されない。また、文学部生も平成16年度以前入学者については、A・B・D群が同一視されていた。-->
平成28年度からは以下のように分類されている。
* 人文・社会科学科目群
* 自然科学科目群
* 外国語科目群
* 情報学科目群
* 健康・スポーツ科目群
* キャリア形成科目群
* 統合科学科目群
* 少人数教育科目群
<!--このほか次のような科目が設けられている。--><!--科目内容によってA〜D群の単位として認定される。-->
<!--; ILASセミナー(旧ポケット・ゼミ)
: 1998年度より行われるようになった。異なる専門分野の教員と接することで視野を広げることを目的としている。
; 国際教育プログラム (KUINEP)
: ほぼ同数の留学生と日本人学生を対象に英語で講義を行う。-->
教養科目の運営は、教養部廃止時には総合人間学部が担当していたが、2003年以降は新設された高等教育研究開発推進機構が担当している。
履修登録や休講・レポート・試験などの連絡を WEB 上で行うため、全学共通教育教務情報システム(略称 KULASIS = Kyoto University's Liberal Arts Syllabus Information System, クラシス)が運用されている。
==== 採択されているプログラム ====
* [[特色ある大学教育支援プログラム]]
** 外国語教育の再構造化-自律学習型CALLと国際的人材養成-
** 相互研修型FDの組織化による教育改善
* [[現代的教育ニーズ取組支援プログラム]]
** 国際連携による地球・環境科学教育 -アジア地域の大学との同時進行型連携講義の構築と実践-
** 新しい蘇生教育の広域展開する薬剤師育成
* 大学教育の国際化推進プログラム
** 京都大学長期海外留学プログラム
* 法科大学院等専門職大学院形成支援プログラム
** 実践的理論教育高度化プロジェクト
** 実務基礎教育の在り方に関する調査研究
** 臨床研究者養成プログラム
* 地域医療等社会的ニーズに対応した医療人教育支援プログラム
** 先端医療の育・創薬を先導<!--
* 大学・大学院における教員養成推進プログラム
** ○○プロジェクト{{Nowiki|*○○プログラムの採択はない。}}-->
* 魅力ある大学院教育イニシアティブ
** 理論・実践融合型による教育学の研究者養成
** 学際的エネルギー科学研究者養成プログラム
** 社会との協創による情報システムデザイン
** 化学教育トリニティ
** 横断型系統的医学研究キャリアパス形成
** 臨地教育研究による実践的地域研究者の養成
** シミュレーション科学を支える高度人材育成
** 生命科学キャリアディベロップメント
* 派遣型高度人材育成協同プラン
** 大学院地球環境学舎インターンシップ
== 学生生活 ==
=== サークル活動 ===
1916年に設立された[[朝比奈隆]]の出身サークルとして交響楽に詳しい人々の間では著名な[[京都大学交響楽団]]や[[学生新聞]]に当たる『京都大学新聞』を発行している[[京都大学新聞社]]などが知られている。また、[[京都大学SF研究会]]は[[SFファンダム]]においてローカルコン「[[京都SFフェスティバル]]」の主催などで知られている。
また、京都大学では[[日本の学生運動|学生運動]]の名残が残っており、近年でも[[石垣カフェ]]といった事例が発生している。
=== 学園祭 ===
; 京都大学11月祭 (November Festival:NF)
: 例年11月下旬に4日間、吉田キャンパス内、吉田南構内および本部構内にて行われる最大級の学園祭である。京都大学11月祭全学実行委員会が主催する。
; 北部祭典
: 11月祭と同時期に北部構内で行われる。農学部自治会と理学部自治会が主催する。
; 京都大学11月祭前夜祭
: 11月祭の前日に吉田グラウンド内で行われる。応援団が主催する。
; 紅萠祭
: 例年4月上旬の数日間、吉田キャンパス内で行われる。体育会が主催する。
=== スポーツ ===
京都大学体育会が課外スポーツの振興に当たっており、現在51のクラブが所属している関西の強豪校である。しかし大学スポーツ協会には参加せず。京大のスクールカラーである濃青をシンボルカラーとし、濃青地に白で十字が染め抜かれた意匠「体育会十字」を旗などに使う。歌に関しては[[#学歌]]を参照。年に1度、4月に機関紙「濃青」を発行し、全新入生に配布している。[[全国七大学総合体育大会]]および近畿地区国公立大学体育大会の参加校である。また、2009年より、東京大学との間で、[[京都大学東京大学総合対校戦]]を開催している。
[[京都大学ギャングスターズ|アメリカンフットボール部]]はギャングスターズの愛称を持ち、大学チャンピオン6回、日本チャンピオン4回の経験がある。特に[[1986年]]と[[1987年]]は、[[甲子園ボウル]](東西大学王座決定戦)・[[ライスボウル]](日本選手権)連覇を果たした。関西学生アメフト DIV1 所属。
[[京都大学体育会硬式野球部|硬式野球部]]は[[関西学生野球連盟]]に加盟し、[[関西六大学野球連盟 (旧連盟)|旧関西六大学野球連盟]]時代に2度の優勝がある。帽子のロゴ「DB」は Dark Blue の略で、スクールカラー「濃青」に因んでいる。
[[京都大学体育会ボート部|ボート部]]は、全日本大学選手権大会などで男子舵手付きペアの優勝経験がある。
[[京都大学男子ラクロス部|男子ラクロス部]]は、関西学生ラクロスリーグファイナルで2004年、2006年、2008年、2010年に優勝している。
京都大学キャップ投げ倶楽部が新スポーツ「[[キャップ投げ]]」を考案。
=== 学生フォーミュラ ===
2013年優勝。毎年レベルの高いマシン作りに定評がある。新技術を搭載するために常に挑戦し続けるスタイルが京都大学の校風を表していると言えよう。
== 大学関係者と組織 ==
=== 学内組織 ===
==== 京都大学学術出版会 ====
{{See|京都大学学術出版会}}
=== 学生団体 ===
==== 公認団体 ====
* 体育会(55団体)
* 体育系サークル(32団体)
* 文化系サークル(98団体)
==== 非公認団体 ====
* 吉田寮自治会
{{main|京都大学吉田寮}}
=== 卒業生 ===
==== 同窓会 ====
全学規模の同窓会として、京都大学同窓会が2006年11月に発足した。
また学部・研究科や専門分野ごとに以下のような同窓会がある。
* 京都大学 総合人間学部 人間・環境学研究科同窓会
* 有信会(法学部)
* 芝蘭会(医学部) - 同窓会施設として芝蘭会舘を保有する。
* 以文会(文学部)
* 経済学部同窓会
* 京エネ会(エネルギー科学研究科)
* 京友会(教育学部)
* 京大建築会(工学部建築学科など)
* 京機会(京都大学機械系工学会)
* 京都大学地球物理学教室同窓会(大学院理学研究科地球物理学教室)
* 四明会(農学部・農学研究科)
* 中陽会(農学研究科食品生物科学専攻など)
* [[京都大学土木会|京土会]](工学部土木工学科など)
* 京都大学水曜会(工学部 資源工学・材料工学など)
* 京大薬友会(薬学部・薬学研究科)
* 洛友会(大学院工学研究科電気・電子工学専攻など)
* 工化会(工学部工業化学科・工学研究科化学系)
* 京大情報学同窓会(大学院情報学研究科)
* 鴻鵠会(公共政策大学院)
* 京都大学同窓会若手会(学部学科を問わず満45歳以外の卒業生限定)
また地域ごとの同窓会組織がいくつか存在する。
==== 学士会 ====
社団法人[[学士会]]は、[[旧帝大|旧帝国大学]]出身者、教授・助教授・学長(経験者含む)で構成されており、もちろん京都大学の卒業生、修了生も加盟することができる。
{{main|学士会}}
=== 大学関係者一覧 ===
{{See|京都大学の人物一覧}}
== 施設 ==
=== キャンパス ===
==== 吉田キャンパス ====<!--
新規に項目ができたので、リンク作成の上、内容を削除-->
[[画像:Yoshida Minami Sougoukan.jpg|250px|thumb|吉田南総合館北棟・エントランス]]
学部と大学院のほとんどが設置されているキャンパス。
{{See|京都大学吉田キャンパス}}
==== 宇治キャンパス ====
[[画像:Kyoto University Uji Campus 20160918.jpg|240px|thumb|宇治キャンパス入口]]
; 使用学部:なし
; 使用研究科
* 理学研究科(一部)
* 工学研究科(一部)
* 農学研究科(一部)
* エネルギー科学研究科(一部)
* 情報学研究科(一部)
; 使用附属施設
* [[京都大学生存圏研究所|生存圏研究所]]
* [[京都大学化学研究所|化学研究所]]
* [[京都大学エネルギー理工学研究所|エネルギー理工学研究所]]
* [[京都大学防災研究所|防災研究所]]
* 生存基盤科学研究ユニット
* 次世代開拓研究ユニット
; 交通アクセス
* JR[[奈良線]]、[[京阪宇治線]][[黄檗駅]]から徒歩5分。
[[大日本帝国陸軍|旧陸軍]]の弾薬庫跡地を利用して[[1947年]]に開設された。1950年度から1960年度まで教養部1回生の講義が行われていたことがあったが、現在は学部の講義は行われていない(ただし夏休みなどに行われる全学共通科目の集中講義の中には宇治で行われるものもある。たとえば「ビーム科学入門」のように化学研究所提供のものなど。)。工学部や理学部、農学部の4回生は、配属された研究室によっては、ここで卒業研究を行うこともある。
==== 桂キャンパス ====
; 使用学部
* 工学部(物理工学の機械工作実習を機械工場で実施の他、4回生の卒業研究を実施)
; 使用研究科
* 工学研究科(電気系、化学系、建築系、地球系、物理系〈ただし材料工学専攻を除く〉)
* 工学研究科附属施設
** 量子理工学教育研究センター
** 桂インテックセンター
** 情報センター
** 環境安全衛生センター
** グローバルリーダーシップ大学院工学教育推進センター
; 使用附属施設
* 国際融合創造センター
; 交通アクセス
* [[京阪京都交通]]、[[ヤサカバス]]、[[京都市営バス]]の桂イノベーションパーク、京大桂キャンパス前、桂御陵坂バス停下車
** 京阪京都交通、京都市営バスは主に[[阪急京都本線|阪急京都線]][[桂駅]]から(昼間で10分に1本程度、所要時間約15分)
** ヤサカバスはJR[[桂川駅 (京都府)|桂川駅]]から(昼間で1時間に1本程度、所要時間約20分)
[[1990年代]]には吉田・宇治の両キャンパスが手狭になったことから、「第3キャンパス」の建設が計画された。当初は京都府南部や滋賀県も候補地として検討されたが、京都市の提案により[[桂坂ニュータウン]]に隣接する、市が住宅地として開発していた「桂御陵坂」地区が建設地に選ばれた。[[2003年]]に化学系・電気系専攻の移転が完了し、使用が開始された。キャンパスはAからDの4つの「クラスター」に分かれている。物理系であるCクラスターは2012年秋に竣工<ref>[http://www.kyoto-np.co.jp/education/article/20130106000096 10年かけ桂移転ほぼ完了 京大工学研究科]『[[京都新聞]]』</ref>、12月から移転を開始している<ref>{{PDFlink|[http://www.keikikai.jp/honbu/news/news31.pdf 『京機会ニュース』 No.31 平成24年(2012年)秋号]}}</ref>。情報系であるDクラスターは整備開始の目処が立っておらず、未造成である。なお[[京都市営地下鉄東西線]]の桂キャンパス付近への延伸構想があるが、建設時期などは未定である。
[[画像:View of Kyoto from Kyoto University Katura Cluster C (cropped).jpg|800px|thumb|center|Cクラスターからの眺め。中央の茶色の建物がBクラスター。]]
元々は山であった場所を切り開いて建設したため、地形が起伏に富んでいる。桂駅側からの場合、長い坂道を登らなければならない。周囲から隔絶されている。
==== キャンパス間の交通 ====
学生・教員向けに各キャンパス間の[[スクールバス|連絡バス]]が運行されている。吉田(本部構内)~宇治間(通称宇治バス)が1日6往復、吉田~桂間が1日7往復、宇治~桂間が1日3往復、所要時間はいずれも50分から1時間である。しかし、渋滞などにより定時制の確保が難しい、最終バスの時間が早いため、それ以降は自転車や原動機付きバイクなどがない学生は公共交通機関を利用しなければならないなど、学生の間には不満もある。
=== 学生食堂 ===<!--
※学食に関する特記事項がある場合は、歴史的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述可能な場合、この節にまとめる。-->
京大生協の食堂はそのメニューの数が日本一と自ら謳っている{{要出典|date=2023年6月}}。特に学生食堂にはあまりない[[パフェ]]が数多くメニューに並んでいる。西部講堂の付近にあるカフェテリアルネのパフェは16種類ものレギュラーメニューを取り揃えており、期間限定のメニューを含めると現在40種類近くが確認できている。また、南部食堂に併設される喫茶ブリュッケでも個性的なパフェが扱われている。中央食堂や吉田食堂、および本部キャンパスにあるカフェレストラン「カンフォーラ」でもパフェがオーダーできる。
2005年11月には、当時の[[尾池和夫]]第24代目総長自身がレシピをプロデュースした「総長カレー」が、大学内の食堂において、人気メニューとして話題となった。2年後の2007年9月には、レシピを再現した[[レトルトカレー]]が発売され、現在では京大生協・食堂のみならず、京都土産の人気商品となった他、[[京都放送|KBS京都]]プロデュースのネットショップでも発売されている。<!--
※以下の内容に関しては上記テンプレートの基準に従った表現が私にはできないので一旦コメントアウト。食堂に関してよくご存じの方はお手数ですがテンプレートの基準に適合するように修正をお願いします。
本部のある左京区吉田周辺には、北から理学・農学部のある北部キャンパスに位置する北部食堂、本部キャンパスに位置する中央食堂、吉田南キャンパスに位置する吉田食堂、医学部キャンパスに位置する南部食堂、そして体育館および西部講堂の付近にあるカフェテリアルネが点在する。また、本部キャンパスにはカフェレストラン「カンフォーラ」もあり、以上が京都大学生活協同組合の経営である。なお、時計台に店を構えるフレンチレストラン「ラ・トゥール」はレストランまどいの系列店であり、[[大学生協]]の経営ではない。
宇治市五ヶ庄にある宇治キャンパスには京大生協の経営による宇治食堂がある。
西京区京都大学桂にある桂キャンパスには京大生協経営のカフェテリア「セレネ」、カフェ「アルテ」、およびベーカリーカフェ「リューヌ」、民間業者の経営によるフレンチレストラン「ラ・コリーヌ」がある。なお「ラ・コリーヌ」もレストランまどいの系列店である。
=== 講堂 ===
○○大学のホールは…
※講堂やホールに関する特記事項がある場合は、歴史的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述可能な場合、この節にまとめる。
=== 学生会館 ===
○○大学には学生会館があり…
※学生会館に関する特記事項がある場合は、歴史的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述可能な場合、この節にまとめる。-->
=== 寮 ===
京都大学の学生寮は[[自治寮]]である。
<!--吉田寮に関する記事は当該項目にまとめ、ここでの記述は極力最小限にとどめること。-->
* [[京都大学吉田寮|吉田寮]]
: 1913年に建設された「現棟」、1889年建設の「食堂」、そして2015年建設の「西寮」からなる。平成30年1月以降、新規入寮は認められていない<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/education-campus/campuslife/Life |title= 住まい・食と購買 |accessdate=2022-10-25|publisher=京都大学}}</ref>。現棟は日本最古の現役学生寮、食堂は京大最古の大学建築として知られる。現棟について、吉田寮自治会や建築学の専門家{{誰|date=2022年10月}}は文化財としての補修を要求しているが、京都大学は応じていない。定員147+97名。
* [[熊野寮]]
: 鉄筋4階建。A棟・B棟・C棟・食堂からなる。定員422名。運営主体である熊野寮自治会は京都大学によって「'''自治会としての責務を果たす意思と能力がない'''」と判断されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news/2021-12-15-2|title=熊野寮自治会関係者による暴力的な行為について|accessdate=2021-12-29|publisher=京都大学}}</ref>。
* [[地塩寮]]
: YMCA寮。定員30名。
* 女子寮
: 女子学生のみ入寮可能。定員35名。
* 室町寮
: 大学院生向けの寮。定員19名。
== 文化財 ==
; 国宝
* [[今昔物語集]] - 鈴鹿本9冊(図書館)
* 山科[[西野山古墓|西野山古墳]]出土品 一括
; 重要文化財
* [[清風荘]]
** 主屋、離れ、土蔵、附属屋、詰所、納屋、茶室、供待、袴付および待合、第一中門、第二中門、正門
* 紙本著色聖母十五玄義・聖体秘跡図1面 附:竹筒等1合2本
* [[古今集]]注(藤原教長撰)(図書館)
* [[万葉集]]巻十六(尼崎本)(図書館)
* 幼学指南鈔(巻第七、第二十二中)(図書館)
* [[孝経]]述議(図書館)
* [[中庸]](朱熹章句)(図書館)
* [[周礼]]疏(単疏本)(図書館)
* [[永昌記]] 6巻
* [[為房卿記|大御記]]〈自筆本([[永保]]元年[[具注暦]])1巻、古写本5巻〉
* [[清原氏 (広澄流)|清原家]]家学書 31種(図書館)
* [[平知信朝臣記|知信記]]([[天承]]二年春記)(図書館)
* [[平範国|範国記]]([[長元]]九年夏秋冬記)(図書館)
* [[兵範記]](自筆本19巻、古写本6巻)(図書館)
* [[長講堂領]]目録
* [[教王護国寺]]文書 354巻、27帖、6幅
* 朝鮮国書 3通
* 過所船旗([[文永]]九年二月日(麻布))・秦家文書108通
* [[檜扇]]2握([[壬生家]]伝来)附:[[三条実万]]書状1通
* [[安祥寺 (京都市)|安祥寺]][[資財帳]]
* 大和[[唐古・鍵遺跡|唐古遺跡]]出土品 一括
* 長持形石棺 京都府[[城陽市]][[久津川車塚古墳]]出土
* 京都府[[椿井大塚山古墳]]出土品 一括
* 金銅骨蔵器・石櫃 兵庫県宝塚市米谷出土
* [[ジョサイア・コンドル]]建築図面 468枚(建築学科保管)
※「(図書館)」とあるものは京都大学附属図書館保管、保管先注記のないものは京都大学総合博物館保管
; 登録有形文化財
* [[楽友会館]]
* [https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/136968 基督教青年会会館] 大学にあるYMCA館の現存最古例
* 人文科学研究所附属漢字情報研究センター
* 総合人間学部正門(旧第三高等学校正門)、総合人間学部門衛所(旧第三高等学校門番所)
* [[尊攘堂]]
* 農学部演習林事務室
* 農学部表門および門衛所
* 文学部陳列館
* 本部構内正門(旧第三高等中学校正門)
* 理学部附属地球熱学研究施設
== 対外関係 ==
=== 産官学連携・ベンチャー支援 ===
産官学連携本部を設置して、出資や[[インキュベーター (起業)|インキュベーション施設]]の運営などにより、京大発[[ベンチャー]]企業の育成や[[産学連携]]に取り組んでいる<ref>[http://www.saci.kyoto-u.ac.jp/ 京大発ベンチャー支援](2019年3月7日閲覧)。</ref>。2014年に[[ベンチャーキャピタル]]の[[京都大学イノベーションキャピタル]]を設立した。また、2018年には産学連携を橋渡しする京大オリジナル株式会社を設立した<ref>[https://www.kyodai-original.co.jp/ 京大オリジナル株式会社](2019年3月7日閲覧)。</ref>。
=== 他大学との協力 ===
京都にある各大学と連携して、[[首都圏 (日本)|首都圏]]での情報発信や交流の窓口となる「京都アカデミアフォーラム in 丸の内」を東京・[[丸の内]]に開設している。参画しているのは[[京都外国語大学]]、[[京都光華女子大学]]、[[京都工芸繊維大学]]、[[京都市立芸術大学]]、[[京都女子大学]]、[[京都精華大学]]、[[京都美術工芸大学]]、[[同志社女子大学]]<ref>[http://www.kyoto-af.jp/about/ 京都アカデミアフォーラム in 丸の内 とは](2019年4月26日閲覧)。</ref>。<!--
=== 他大学との協定 ===
Stub
※他の大学と何らかの文章による調印のなされた協定が締結されている場合にはこちらの項目に列挙する。
Stub
=== 姉妹校 ===
* ○○大学
=== 関係校 ===
* ○○大学
=== 系列校 ===
* ○○大学
※姉妹校・関係校・系列校は大学あるいは設置者が正式に発表しているものをその表現で扱う。創立者が同一など歴史的に関係があるとしても大学あるいは設置者が正式にその事実を明確に発表していないものは掲載しない。たとえ地方公共団体やマスメディアが記事として取り上げていた内容であっても大学が正式に公表していない事例は掲載しない。-->
== 社会との関わり ==<!--
※これまでの節で言及されず、かつ特記する事象がある場合、この節を設ける。
※この節で取り扱う内容は、歴史的にどのような価値を持つのかがその大学をほとんど知らない人にも理解でき、かつ、学外で取り上げられた事象とする。具体的には
* 政治・経済・国際関係・戦争
* 哲学・科学・教育・学芸文化
* 文学・音楽・芸術・スポーツ
* 社会通念・制度・宗教・地域社会
等とその大学がどのように関わったかという事例が考えられる。
※当該大学にとって不名誉な内容であってもそれが社会的に大きな意味を持つ場合には、その事象が大学とどのように関わり、社会的・歴史的にどのような意義を持ち、さらにWikipediaを利用する人に理解できる文章で記述できるのであれば掲載可能である。逆に大学にとって広報したい名誉な内容についてもその事象が大学とどのように関わり、Wikipediaで掲載しておく必要性を社会的・歴史的な意義をきちんと明示しながらWikipediaを利用する人に理解できる文章で記述できるのであれば掲載可能である。
という基準に従って以下の節を立てた。-->
=== 京都学派 ===
[[ファイル:Portrait-of-Kitaro-Nishida.png|サムネイル|134x134ピクセル|西田幾多郎]]
京都大学の教授として多くの哲学者を育成した[[西田幾多郎]]と[[田辺元]]らは、[[京都学派]]と呼ばれる学派を形成し、日本における哲学の理論形成に影響を与えた。京都学派の思想については、今なお世界各国で研究が続いている。
{{main|京都学派}}
=== 社会に影響を与えた事件・出来事 ===
==== 澤柳事件 ====
京都帝国大学では[[学問の自由]]、[[学問の自由#大学の自治|大学の自治]]の観点から、慣行的に教授の任免を教授会が行ってきた。しかし1913年、文部省が任命した[[澤柳政太郎]]総長は、教授会の同意なく文科大学と理工科大学の7名の教授を免官した。法科大学(後の法学部)は「教授の人事権は教授会にあり」と澤柳に反旗を翻し、翌1914年1月には法科の全ての教授と助教授が抗議の連帯辞職を宣言した。教官を失いそうになった法科学生は、教官の復職と教授会自治の獲得等を目指し、法科支持の運動を繰り広げた。東大法科も京大法科を支援した。結局、[[奥田|奥田義人]]文相は法科の言い分を認め、後ろ盾を失った澤柳は辞任に追い込まれた。教授会自治を文相が公認したことにより、京大や他大学の自治の発展にも好ましい影響を及ぼした。なお、京大ではこの事件を契機に、総長の学内選出を求める運動が起こり、これも数年後に実現した。
{{main|澤柳事件}}
==== 京都学連事件 ====
[[1910年代]]、日本の大学・高校・専門学校等では[[マルクス主義]]を研究する[[社会科学研究会]]がしばしば組織されていた。1924年、全国49校の社研が参加する学連が発足し、マルクス主義の研究や普及、労働争議や労働者教育に関する運動を活発に行った。しかし政府は学生達の活動を危険視し、徹底的な弾圧を開始した。1925年12月、[[特別高等警察|特高警察]]が、京大や同大の社研会員の自宅や下宿を急襲し、学生33名を検挙した。寄宿舎(吉田寮)で立会人なしの家宅捜索を行ったことが批判され、一度は全員を釈放したものの、翌1926年1月には捜査態勢を立て直し、改めて多数を検挙した。検挙された学生のうち38名が[[出版法]]および[[治安維持法]]違反、[[不敬罪]]で起訴され、37名が有罪になった。社研と繋がりのあった教員も捜査の対象になった。この事件は日本内地で治安維持法が適用された最初の事例になった。政府は当初、治安維持法を利用してマルクス主義や[[共産主義]]を取り締まっていた。しかしやがて[[自由主義]]や[[民主主義]]、[[社会主義]]、[[反戦運動]]、[[新宗教]]、[[右翼]]も同様に弾圧するようになり、いつしか国民が政府を批判することは一切許されなくなってしまった。
{{main|京都学連事件}}
==== 滝川事件 ====
澤柳事件を経て、京大を含む国内の大学は高度な自治を勝ち取った。しかし[[1930年代]]、[[ナショナリズム]]が高揚し[[軍国主義]]が台頭すると、政府は教育や学術研究を統制するため、学問の自由を担保する大学の自治、その総本山と見なされていた京大を攻撃した。1933年5月、[[鳩山一郎]]文相は、京大法学部の[[瀧川幸辰]]教授の講演や著書の内容が[[アナキズム|無政府主義]]的であるとして、[[小西重直]]総長に瀧川の罷免を要求した。法学部と小西総長は要求を拒絶したものの、文部省は瀧川の休職処分を強行した。法学部は澤柳事件に倣い、全教官・全学生が辞職届・退学届を提出するなどして激しく抵抗したが、瀧川の休職は解除されず、小西総長は辞職に追い込まれ、辞職届・退学届もたたき返されてしまった。[[言論統制|言論弾圧]]の対象が、(従来の)マルクス主義的・[[共産主義]]的思想から[[自由主義]]的・反政府的思想へと拡大された瞬間だった。以降、政府は政権運営に都合の悪い言論・思想への弾圧をエスカレートさせていったが、統制下に置かれた大学に政府の暴走を指摘する自由はもはやなく、抑制を欠いた日本は[[日中戦争]]・[[太平洋戦争]]へとのめり込んでいった。この事件を基にして戦後、映画『[[わが青春に悔なし]]』([[黒澤明]]監督)が製作された。
{{main|滝川事件}}
==== 綜合原爆展(京大原爆展) ====
[[連合国軍占領下の日本]]において、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]は新聞や雑誌等のメディアを[[検閲]]し、[[広島市への原子爆弾投下|広島]]・[[長崎市への原子爆弾投下|長崎の原爆被害]]の実情が一般市民に伝わるのを妨害していた。そこで、京都大学の全学学生自治会(同学会)は原爆の実情と意味を世間に知らしめるため、[[1951年]](昭和26年)7月に[[京都駅]]前の[[丸物]]百貨店で一般向けの原爆展「[[綜合原爆展]]」を開催した。この種の原爆展は世界で初めての試みだったとされるが、数万人の入場者を集めて大成功した。その後も同展覧会のパネルを利用して各地で小さな原爆展が開かれ、非常な注目を集めた。[[第五福竜丸]]がビキニ水爆実験で被爆し、[[反核運動]]に火がつくのは、その3年後のことだった。
{{main|綜合原爆展}}
===== 京大天皇事件 =====
[[1951年]](昭和26年)、[[昭和天皇]]が来学した際に、見物に詰めかけた学生と警備の警察との間で一時的に緊張が高まった事件。実力行使はなく、違法行為も見られなかったが、文部大臣や保守派の議員などから不敬であると非難され、同学会が解散に追い込まれた。同学会はこの時に2度目の綜合原爆展を計画していたが、天皇の来学と同学会の解散の影響で実現はならなかった。
{{main|京大天皇事件}}
==== 2017年入試における出題ミス ====
2018年2月、2017年の二次試験(物理)で出題ミスがあったことを認め、追加合格の措置を取ると公表。予備校講師から「解答不能の問題がある」と指摘され判明<ref>[https://www.sankei.com/smp/west/news/180201/wst1802010011-s1.html 京大でも入試ミス、追加合格へ 約20人の合否に影響 予備校講師が「解答不能」と指摘][[産経新聞|産経WEST]] 2018年2月1日</ref>。
== 評価 ==
;人事担当者からの評価
* 2021年[[日本経済新聞社]]と[[日経HR]]が実施した、「企業の人事担当者からみたイメージ調査」<ref name="日経HR">{{Cite web|和書|title=《日経HR》企業の人事担当者から見た大学イメージ調査 『就職力ランキング』|url=https://www.nikkeihr.co.jp/news/2021/0602435.html |accessdate=2021-07-18 |archivedate=2021-06-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210602073856/https://www.nikkeihr.co.jp/news/2021/0602435.html |url-status=live}}</ref>(全[[上場企業]]と一部有力未上場企業4,850社の人事担当者を対象に、2019年4月から2021年3月までの間に採用した学生から見た大学のイメージなどを聞いた調査)において、京都大学は、「全国総合」で788大学<ref>{{Cite journal|和書 |url=http://eic.obunsha.co.jp/resource/viewpoint-pdf/202104.pdf |title=日本の大学数 2021年度は788大学 |journal=今月の視点|issue=172 |date=2021-04-01 |publisher=旺文社 教育情報センター |accessdate=2021-07-18 |format=PDF}}</ref>中、第2位<ref name="日経HR" />にランキングされた。
* 2022年日本経済新聞社と日経HRが行った調査では、総合1位となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC02AT50S2A500C2000000/ |title=人事が見る大学イメージ、京都大学が1位 7年ぶり |accessdate=2022-06-01 |date=2022-06-01 |website=日本経済新聞}}</ref>。
;国際機関
*イギリスの新聞社[[タイムズ]]の高等教育雑誌『[[タイムズ・ハイアー・エデュケーション]]』では、Impact Rankings zero hunger (SDG 2) のランキングを設けて、飢餓対策の研究に貢献があった大学を評価しており、2022年度において3位にランキングした<ref>{{Cite web |url=https://www.timeshighereducation.com/rankings/impact/2022/zero-hunger |title=Impact Rankings: Zero hunger |accessdate=2022-05-22 |date=2022-04-03 |website=Times Higher Education (THE) |language=en}}</ref>。
;出世力
*[[ダイヤモンド社]]の2006年年9月23日発行のビジネス誌『[[週刊ダイヤモンド]]』94巻36号(通巻4147号)「出世できる大学」と題された特集の出世力ランキング(日本の全上場企業3,800社余の代表取締役を全調査<ref>[https://www.otaru-journal.com/2006/11/5_25/ 小樽ジャーナル]</ref><ref>[http://univrank2.blog.shinobi.jp/ランキング/出世できる大学ランキング 週間ダイヤモンド「大学出世ランキング」]</ref><ref>[https://mazba.com/10369/ 週刊ダイヤモンド「出世できる大学」 神戸商科大学は5位、大阪市立大学は27位 大阪府立大学は14位]</ref>)で、京都大学は、2006年時点で存在する744大学<ref>[https://www.janu.jp/univ/gaiyou/20180130-pkisoshiryo-japanese_2.pdf 大学数・学生数|国立大学協会]</ref>中、第4位<ref>[http://www.businesshacks.com/2006/09/post_65bb.html 週刊ダイヤモンド 出世できる大学ランキング]</ref>にランキングされた。
*『[[週刊エコノミスト]]』(2010年8月31日号)に掲載された、「卒業生数の割に役員・管理職の人数が多い度合い」で、京都大学は、2010年時点で存在する全国の778大学<ref name="reform">[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/jinsei100nen/dai5/siryou1.pdf 日本の人口推移と大学数の推移|大学改革 参考資料 平成30年2月 内閣官房人生100年時代構想推進室 14/17頁]</ref>中、第13位にランキングされた<ref>[https://www.r-agent.com/guide/news/20120105_1_2.html 「有名大学卒ほど出世しやすい」はもはや昔の話?小樽商科、滋賀、大阪市立――地方の意外な実力校|週刊エコノミスト(2010年8月31日号)より]</ref>。
== 寄宿舎規程に違反した寮管理 ==
京都大学学生寄宿舎規程では、学生寮は副学長が管理し、寮生活の運営は「寮生の責任ある自治」によるものと規程されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyoto-u.ac.jp/uni_int/kitei/reiki_honbun/w002RG00000290.html|title=京都大学学生寄宿舎規程|publisher=京都大学|accessdate=2022-08-15}}</ref>。しかし、京都大学は熊野寮自治会に対して令和3年12月15日に「自治会としての責務を果たす意思と能力がない」と判断<ref name="bouryoku">{{Cite web|和書|url=https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news/2021-12-15-2|title=熊野寮自治会関係者による暴力的な行為について|accessdate=2021-12-29|publisher=京都大学}}</ref>しておきながら、その後も同自治会に寮運営を任せ続けている。また、「入舎する者の選考は、寮生代表の意見をきいて、副学長が行う。」との条項に反して熊野寮の入退寮選考を寮生に任せており、熊野寮に無学籍者が多数居住しているとの宣言が熊野寮自治会から出されるに至った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news/2022-07-26-0|title=熊野寮における無学籍者の居住について|accessdate=2022-7-27|publisher=京都大学}}</ref>。
寄宿舎規程への違反について京都大学は遅くとも2018年3月15日には認めていたが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyoto-u.ac.jp/sites/default/files/embed/jaeducation-campusclimaildocuments2017a0189.pdf|title=吉田寮の入寮状況と京都大学学生寄宿舎規程との間での矛盾について|publisher=京都大学|accessdate=2022-11-10}}</ref>、その後は女子寮の管理運営に関する改定がされたのみで、未だに違反は解消されていない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|40em}}
==参考文献==
* {{cite book|和書|author=京都大学百年史編集委員会, 京都大学 |url=https://hdl.handle.net/2433/152877 |title=京都大学百年史 |publisher=京都大学後援会 |year=1997 |hdl=2433/152877 |CRID=1130000797014279040 |ref={{harvid|『京都大学百年史』}}}}
== Wiki関係他プロジェクトリンク ==<!--
※Wikipedia以外の姉妹プロジェクトへのリンクはここでまとめる。具体的な姉妹プロジェクトはメインページ参照。 -->
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{{Commons|Representation of Imperial University (Japan)|博士の肖像 (帝国大学)}}
* [[Commons:メインページ|ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)]]
** [[Commons:Category:Kyoto University|京都大学]]
* [[b:メインページ|ウィキブックス (Wikibooks)]]
** [[b:京大対策|京大対策]]<!--
== 関連項目 ==
※大学に関する関連項目は原則として本文中にリンクする。関連項目は原則として使用しない。たとえば何かの説明をするために創立者の出身地を紹介する必要がある場合には必要とする項目へ記載する。本文では説明できないが関連項目として他の記事にリンクをする必要がある場合には事前にノートで理由とともに提案を行い、同意が得られた場合にのみ掲載できる。 -->
== 外部リンク ==<!--
※ここには大学の公式サイトのみ入れる。校友会・保護者会・教職員組合・学生自治会などのサイトは入れない。通常、大学公式サイトは1ドメインになっているはずだが、何らかの理由で大学公式サイトが複数のドメインに分かれている場合は、その理由や背景が関係者以外にも判るように明記した上で追加することが可能である。 -->
*{{Official website|name=京都大学}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%A4%A7%E5%AD%A6 |
2,472 | World Wide Web Consortium | World Wide Web Consortium(ワールド・ワイド・ウェブ・コンソーシアム)は、World Wide Webで使用される各種技術の標準化を推進するために設立された標準化団体、非営利団体である。W3C(ダブリュースリーシー)と略称される。
ティム・バーナーズ=リーが創設し、率いている。本コンソーシアムは企業や団体が会員として加入し、専任スタッフと共にWorld Wide Webの標準策定を行っている。2022年1月8日現在、456の組織が会員として加入している。
W3Cは教育活動も行っており、ソフトウェアを開発してWebに関するオープンな議論の場を提供している。HTML、XML、MathML、DOM等の規格を勧告する。HTMLは、従来IETFでRFCとして標準化されていたが、HTML 3.2以降はW3Cへ引き継がれた。
XHTMLの規格に反する企業などがW3Cに対抗するWHATWGを組織しているが、両者はHTML5の策定で協力関係にあり、WHATWGが2004年に定めたWeb Applications 1.0にWeb Forms 2.0を取り入れたものがW3Cの専門委員会に採用され、W3Cより2008年1月22日にドラフトが発表された。
慶應義塾大学SFC研究所が中国を除くアジア圏を担当している。
World Wide Web Consortium の設立は、今日のインターネットの基礎技術を確立して無償で公開したティム・バーナーズ=リーの努力が大きい。ティムは欧州原子核研究機構 (CERN) で中心的な活動に係わった。
ティムはスイスのCERNで勤務時に研究論文が膨大に蓄積されており目的の文書を探すのに苦労したことから、文書から文書へ跳べる仕組みのハイパーリンクを開発した。1989年にグローバルハイパーテキストプロジェクトが始動した。
1993年にMosaicが開発されると広く売れた。ブラウザの開発者らは次々と新しいタグを導入、Webページ開発者は苦労し始めてタグを標準化する必要性があると感じ、W3Cを設立した。
World Wide Web Consortium (W3C) は、CERNを離れたティム・バーナーズ=リーが1994年10月1日に創設した。場所はMITコンピュータ科学研究所 (MIT/LCS) の中で、欧州委員会とインターネットの生みの親でもある国防高等研究計画局 (DARPA) が資金援助した。
W3Cは、業界の会員が新たな標準に合意し、互換性を確保することを目的として生まれた。
もともと、W3Cのヨーロッパ支部はCERNが担うことが期待されていたが、CERNは本来の量子物理学に注力したいと辞退している。1995年4月にはフランス国立情報学自動制御研究所 (INRIA) が欧州担当の共同運営機関(ホスト)、1996年9月には慶應義塾大学SFC研究所がアジア担当のホストとなり、以降2013年1月まで3機関による共同運営体制となった。1997年以降、W3Cは世界中に地域事務所を設立している。2016年2月現在、19の地域事務所があり、オーストラリア、ベネルクス(オランダ、ルクセンブルク、ベルギー)、ブラジル、フィンランド、フランス、ドイツとオーストリア、ギリシャ、ハンガリー、インド、イタリア、イスラエル、大韓民国、モロッコ、ロシア、セネガル、南アフリカ、スペイン、スウェーデン、イギリスとアイルランドをカバーしている。
2003年1月、欧州担当ホストはINRIAから欧州情報処理数学研究コンソーシアム(ERCIM)に移管された。ERCIMはヨーロッパの国立計算機科学研究所に相当する組織である。2013年1月から北京航空航天大学が中国担当のホストとなった。
W3C Process Document によれば、勧告までの過程には以下の5つの段階がある。
勧告は別途公表される正誤表 (Errata) で更新され、複数の更新を束ねて新たな版 (edition) が作られる。W3Cは標準として扱われることを意図していないノート (Notes) と呼ばれる各種文書も公表している。
勧告に従うかどうかは製造業者に任されている。多くの標準は準拠レベルが定義され、製品にW3C準拠を銘打ちたい場合は準拠せねばならない。他の標準化団体の規格と同様、W3C勧告は部分的に実装されることがある。勧告は特許使用料を徴収しないライセンスで提供され、誰でも実装可能である。
インターネット協会(ISOC)や他の国際規格団体とは異なり、W3Cは認証プログラムを用意していない。認証プログラムには利点と欠点がある。W3Cは今のところ、認証プログラムを開始することはコミュニティにとって害の方が大きくなる危険性が高いと考えられている。
コンソーシアムはアメリカのMITコンピュータ科学・人工知能研究所 (CSAIL)、フランスの欧州情報処理数学研究コンソーシアム (ERCIM)、日本の慶應義塾大学が共同で運営し、世界18の地域に支部がある。各支部は地域のWebコミュニティと協力し、W3Cの技術を地域言語に対応させてW3Cへ参加を奨励するなど活動している。
Compete.com の調査によれば、2008年1年間で1100万人以上が w3.org のドメインにアクセスしている。
コンソーシアムの運営資金は会員の会費で賄い、2022年1月現在で456の組織が会員で会員一覧は公開されている。会員は営利企業、非営利団体、大学、政府機関などが含まれ、個人会員制度はない。
会員資格は、W3Cが参加申し込みを審査・承認する。各種ガイドラインや条件が詳細に述べられているが、承認可否のガイドラインは明らかではない。
会費は一律ではなく組織の性格と所在地により、世界銀行が発表する国民1人当たりの国民総所得 (GNI) の最新版を基に分類される。
W3Cの標準策定作業は大企業の意向が強く反映されているとの批判記事が掲載される事がある。
W3C/インターネット技術標準化委員会 (IETF) 標準による (インターネット・プロトコル・スイート)。
現在標準化が進む産業とは、自動車産業、印刷関連産業、エンターテインメント産業(テレビを含む放送)。Web空間では、テレコミュニケーション、決済、ウェブ・オブ・データ、ウェブ・オブ・シングズ(英語版)、電子商取引、セキュリティに関して融合や標準化が図られている。 | [
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"text": "1993年にMosaicが開発されると広く売れた。ブラウザの開発者らは次々と新しいタグを導入、Webページ開発者は苦労し始めてタグを標準化する必要性があると感じ、W3Cを設立した。",
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"text": "Compete.com の調査によれば、2008年1年間で1100万人以上が w3.org のドメインにアクセスしている。",
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"text": "コンソーシアムの運営資金は会員の会費で賄い、2022年1月現在で456の組織が会員で会員一覧は公開されている。会員は営利企業、非営利団体、大学、政府機関などが含まれ、個人会員制度はない。",
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{
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"text": "W3Cの標準策定作業は大企業の意向が強く反映されているとの批判記事が掲載される事がある。",
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"text": "W3C/インターネット技術標準化委員会 (IETF) 標準による (インターネット・プロトコル・スイート)。",
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"tag": "p",
"text": "現在標準化が進む産業とは、自動車産業、印刷関連産業、エンターテインメント産業(テレビを含む放送)。Web空間では、テレコミュニケーション、決済、ウェブ・オブ・データ、ウェブ・オブ・シングズ(英語版)、電子商取引、セキュリティに関して融合や標準化が図られている。",
"title": "Webと産業"
}
] | World Wide Web Consortium(ワールド・ワイド・ウェブ・コンソーシアム)は、World Wide Webで使用される各種技術の標準化を推進するために設立された標準化団体、非営利団体である。W3C(ダブリュースリーシー)と略称される。 ティム・バーナーズ=リーが創設し、率いている。本コンソーシアムは企業や団体が会員として加入し、専任スタッフと共にWorld Wide Webの標準策定を行っている。2022年1月8日現在、456の組織が会員として加入している。 W3Cは教育活動も行っており、ソフトウェアを開発してWebに関するオープンな議論の場を提供している。HTML、XML、MathML、DOM等の規格を勧告する。HTMLは、従来IETFでRFCとして標準化されていたが、HTML 3.2以降はW3Cへ引き継がれた。 XHTMLの規格に反する企業などがW3Cに対抗するWHATWGを組織しているが、両者はHTML5の策定で協力関係にあり、WHATWGが2004年に定めたWeb Applications 1.0にWeb Forms 2.0を取り入れたものがW3Cの専門委員会に採用され、W3Cより2008年1月22日にドラフトが発表された。 慶應義塾大学SFC研究所が中国を除くアジア圏を担当している。 | {{基礎情報 非営利団体
| 名称 = World Wide Web Consortium
| ロゴ = [[ファイル:W3C Icon.svg|200px|W3Cロゴ]]
| 標語 = Webの可能性を全て引き出す
| 設立 = [[1994年]][[10月]]
| 団体種類 = [[標準化団体]]
| 活動内容 = Webの長期的成長を確かにするプロトコルやガイドラインの開発
| 所在地 = {{USA}} [[マサチューセッツ工科大学]]/[[MITコンピュータ科学・人工知能研究所|CSAIL]]<br/>{{FRA}} [[:fr:European Research Consortium for Informatics and Mathematics |ERCIM]]<br />{{JPN}} [[慶應義塾大学SFC研究所]]<br />{{CHN}} [[北京航空航天大学]]<br />(以上共同運営機関。その他世界各国にオフィスがある。)
| 活動地域 = 全世界
| 会員数 = 456の団体が加入<ref name="MembersList"> {{cite web|url = http://www.w3.org/Consortium/Member/List|title = World Wide Web Consortium (W3C) Members|accessdate = 2018-05-14|last = W3C|authorlink = |year = 2018|month = January}}</ref>
| 主要人物 = [[ティム・バーナーズ=リー]]
| 従業員数 = 64 <ref>{{cite web|url = http://www.w3.org/People/|title = People of the W3C|accessdate = 2018-05-14|}}</ref>
| ウェブサイト = {{URL|https://www.w3.org/}}
}}
{{HTML}}
'''World Wide Web Consortium'''(ワールド・ワイド・ウェブ・コンソーシアム)は、[[World Wide Web]]で使用される各種技術の標準化を推進するために設立された[[標準化団体 (コンピュータと通信)|標準化団体]]、[[非営利団体]]である。'''W3C'''(ダブリュースリーシー)と略称される。
[[ティム・バーナーズ=リー]]が創設し、率いている<ref name=consortium> {{cite web|url = http://www.w3.org/Consortium/|title = World Wide Web Consortium (W3C) About the Consortium|accessdate = 2009-09-08|last = W3C|authorlink = |year = 2009|month = September}}</ref>。本[[コンソーシアム]]は企業や団体が会員として加入し、専任スタッフと共にWorld Wide Webの標準策定を行っている。2022年1月8日現在、456の組織が会員として加入している<ref name="MembersList" />。
W3Cは教育活動も行っており、[[ソフトウェア]]を開発してWebに関するオープンな議論の場を提供している。[[HyperText Markup Language|HTML]]、[[Extensible Markup Language|XML]]、[[Mathematical Markup Language|MathML]]、[[Document Object Model|DOM]]等の規格を勧告する。HTMLは、従来[[Internet Engineering Task Force|IETF]]で[[Request for Comments|RFC]]として標準化されていたが、HTML 3.2以降はW3Cへ引き継がれた。
[[XHTML]]の規格に反する企業などがW3Cに対抗する[[Web Hypertext Application Technology Working Group|WHATWG]]を組織しているが、両者は[[HTML5]]の策定で協力関係にあり、WHATWGが2004年に定めたWeb Applications 1.0にWeb Forms 2.0を取り入れたものがW3Cの専門委員会に採用され、W3Cより[[2008年]]1月22日に[[草案|ドラフト]]が発表された。
[[慶應義塾大学SFC研究所]]が中国を除くアジア圏を担当している。
== 歴史 ==
World Wide Web Consortium の設立は、今日の[[インターネット]]の基礎技術を確立して無償で公開したティム・バーナーズ=リーの努力が大きい。ティムは[[欧州原子核研究機構]] (CERN) で中心的な活動に係わった。
ティムはスイスのCERNで勤務時に研究論文が膨大に蓄積されており目的の文書を探すのに苦労したことから、文書から文書へ跳べる仕組みの[[ハイパーリンク]]を開発した。[[1989年]]にグローバルハイパーテキストプロジェクトが始動した。
[[1993年]]に[[NCSA Mosaic|Mosaic]]が開発されると広く売れた。[[ブラウザ]]の開発者らは次々と新しい[[タグ]]を導入、[[Web]]ページ開発者は苦労し始めて[[タグ]]を標準化する必要性があると感じ、W3Cを設立した。
World Wide Web Consortium (W3C) は、CERNを離れたティム・バーナーズ=リーが[[1994年]]10月1日に創設した。場所は[[マサチューセッツ工科大学|MIT]][[Project MAC|コンピュータ科学研究所]] (MIT/LCS) の中で、[[欧州委員会]]とインターネットの生みの親でもある[[国防高等研究計画局]] (DARPA) が資金援助した。
W3Cは、業界の会員が新たな標準に合意し、互換性を確保することを目的として生まれた。
もともと、W3Cのヨーロッパ支部はCERNが担うことが期待されていたが、CERNは本来の量子物理学に注力したいと辞退している。[[1995年]]4月には[[フランス国立情報学自動制御研究所]] (INRIA) が欧州担当の共同運営機関(ホスト)、[[1996年]]9月には[[慶應義塾大学SFC研究所]]がアジア担当のホストとなり、以降2013年1月まで3機関による共同運営体制となった。[[1997年]]以降、W3Cは世界中に地域事務所を設立している。[[2016年]]2月現在、19の地域事務所があり、[[オーストラリア]]、[[ベネルクス]]([[オランダ]]、[[ルクセンブルク]]、[[ベルギー]])、[[ブラジル]]、[[フィンランド]]、[[フランス]]、[[ドイツ]]と[[オーストリア]]、[[ギリシャ]]、[[ハンガリー]]、[[インド]]、[[イタリア]]、[[イスラエル]]、[[大韓民国]]、[[モロッコ]]、[[ロシア]]、[[セネガル]]、[[南アフリカ]]、[[スペイン]]、[[スウェーデン]]、[[イギリス]]と[[アイルランド]]をカバーしている<ref name="Offices"> {{cite web|url = https://www.w3.org/Consortium/Offices/staff/|title = Addresses for W3C Offices’ Staff|accessdate = 2017-02-16|authorlink = }}</ref>。
[[2003年]]1月、欧州担当ホストは[[INRIA]]から欧州情報処理数学研究コンソーシアム([[:fr:European Research Consortium for Informatics and Mathematics|ERCIM]])に移管された。ERCIMはヨーロッパの国立計算機科学研究所に相当する組織である。2013年1月から[[北京航空航天大学]]が中国担当のホストとなった<ref>{{cite web|url = https://www.w3.org/2013/01/china-host.html.en|title = W3C Invites Chinese Web Developers, Industry, Academia to Assume Greater Role in Global Web Innovation|accessdate = 2017-02-16}}</ref>。
== 勧告と準拠 ==
W3C Process Document によれば、勧告までの過程には以下の5つの段階がある。
# 作業草稿 (''Working Draft, WD)''
# 最終草案 (''Last Call Working Draft)''
# 勧告候補 (''Candidate Recommendation, CR)''
# 勧告案 (''Proposed Recommendation, PR)''
# [[W3C勧告]] (''W3C Recommendation, REC)''
勧告は別途公表される正誤表 (Errata) で更新され、複数の更新を束ねて新たな版 (edition) が作られる。W3Cは標準として扱われることを意図していないノート (Notes) と呼ばれる各種文書も公表している。
勧告に従うかどうかは製造業者に任されている。多くの標準は準拠レベルが定義され、製品にW3C準拠を銘打ちたい場合は準拠せねばならない。他の標準化団体の規格と同様、W3C勧告は部分的に実装されることがある。勧告は特許使用料を徴収しないライセンスで提供され、誰でも実装可能である。
[[インターネットソサエティ|インターネット協会]](ISOC)や他の国際規格団体とは異なり、W3Cは認証プログラムを用意していない。認証プログラムには利点と欠点がある。W3Cは今のところ、認証プログラムを開始することはコミュニティにとって害の方が大きくなる危険性が高いと考えられている{{要出典|date=2012年12月|}}。
== 管理運営 ==
コンソーシアムはアメリカの[[MITコンピュータ科学・人工知能研究所]] (CSAIL)、[[フランス]]の欧州情報処理数学研究コンソーシアム (ERCIM)、日本の慶應義塾大学が共同で運営し、世界18の地域に支部がある。各支部は地域のWebコミュニティと協力し、W3Cの技術を地域言語に対応させてW3Cへ参加を奨励するなど活動している。
== 会員 ==
Compete.com の調査によれば、2008年1年間で1100万人以上が ''w3.org'' のドメインにアクセスしている<ref>[http://siteanalytics.compete.com/w3.org?metric=uv W3C attracts 11m visitors online yearly]</ref>。
コンソーシアムの運営資金は会員の会費で賄い、2022年1月現在で456の組織が会員で会員一覧は公開されている<ref name="MembersList" />。会員は営利企業、非営利団体、大学、政府機関などが含まれ、個人会員制度はない<ref name="membershipreq"> {{cite web|url = http://www.w3.org/Consortium/membership|title = About W3C Membership|accessdate = 2008-09-14|last = W3C |authorlink = |year = 2008}}</ref>。
会員資格は、W3Cが参加申し込みを審査・承認する。各種ガイドラインや条件が詳細に述べられているが、承認可否のガイドラインは明らかではない<ref name="membershipjoin"> {{cite web|url = http://www.w3.org/Consortium/join|title = How to Become a W3C Member|accessdate = 2008-09-14|last = Jacobs| first = Ian |authorlink = |year = 2008}}</ref>。
会費は一律ではなく組織の性格と所在地により<ref>[http://www.w3.org/Consortium/fees.php W3C Membership Fee Calculator]</ref>、[[世界銀行]]が発表する国民1人当たりの[[国民総所得]] (GNI) の最新版を基に分類される<ref>[http://web.worldbank.org/WBSITE/EXTERNAL/DATASTATISTICS/0,,contentMDK:20420458~menuPK:64133156~pagePK:64133150~piPK:64133175~theSitePK:239419,00.html World Bank Country Classification]</ref>。
== 批判 ==
W3Cの標準策定作業は大企業の意向が強く反映されているとの批判記事が掲載される事がある。<ref>[http://www.alistapart.com/articles/tohellwithwcag2/ Joe Clark writing in ''A List Apart'']</ref> <ref>[http://www.news.com/2100-1023-834990.html Critics clamor for Web services standards] - CNET News.com</ref>
== 主な規格 ==
<!--Copied to translate from [https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=World_Wide_Web_Consortium&oldid=896723059 enwp oldid=896723059 at 13:11, 12 May 2019 (UTC)] by Macrakis (+source).
翻訳のため英語版から転写します。
==Standards== --><!-- ABC順でお願いします。 -->
W3C/[[IETF|インターネット技術標準化委員会 (IETF)]] 標準による ([[インターネット・プロトコル・スイート]])。
{{columns-list|3|
* [[Common Gateway Interface|CGI]]
* [[Cascading Style Sheets|CSS]]
* [[Document Object Model|DOM]]
* [[Encrypted Media Extensions|EME]]
* {{仮リンク|Gleaning Resource Descriptions from Dialects of Languages|en|GRDDL|label=GRDDL}}
* [[HyperText Markup Language|HTML]]
* [[Mathematical Markup Language|MathML]]
* [[OWL]]
* {{仮リンク|Platform for Privacy Preferences Project|en|Platform for Privacy Preferences Project|label=P3P}}
* {{仮リンク|PROV (Provenance)|en|PROV (Provenance)|label=PROV}}{{efn|Provenance の略語。}}<ref>{{Cite web |url=https://www.w3.org/TR/2013/NOTE-prov-overview-20130430/ |title=PROV-Overview: An Overview of the PROV Family of Documents |accessdate=April 8, 2016 |last=Groth |first=Paul |date=April 30, 2013 |website=World Wide Web Consortium |last2=Moreau |first2=Luc}}</ref>
* [[Resource Description Framework|RDF]]
* {{仮リンク|Semantic Interpretation for Speech Recognition|en|Semantic Interpretation for Speech Recognition|label=SISR}}
* {{仮リンク|Simple Knowledge Organization System|en|SKOS|label=SKOS}}
* [[Synchronized Multimedia Integration Language|SMIL]]
* [[SOAP (プロトコル)|SOAP]]
* [[SPARQL]]
* {{仮リンク|Speech Recognition Grammar Specification|en|Speech Recognition Grammar Specification|label=SRGS}}
* [[Speech Synthesis Markup Language|SSML]]
* [[Scalable Vector Graphics|SVG]]
* [[VoiceXML]]
* [[WAI-ARIA]]
* [[WebVTT]]
* [[Web Content Accessibility Guidelines|WCAG]]
* [[Web Services Description Language|WSDL]]
* [[XAdES]]
* [[XForms]]
* [[Extensible HyperText Markup Language|XHTML]]
* {{仮リンク|XHTML+Voice|en|XHTML+Voice|label=X+V}}
* [[XLink]]
* [[Extensible Markup Language|XML]]
** {{仮リンク|XMLイベント|en|XML Events|label=XMLイベント}}{{efn|訳注: [[Extensible Markup Language#XMLインフォメーションセッ|XMLインフォメーションセット]]と同様、親項目のページに小見出し[[Extensible Markup Language|Extensible Markup Language#XMLイベント]]として追加が適当と思われます。 2019年6月12日 (水) 06:34 (UTC)}}
** [[Extensible Markup Language#XMLインフォメーションセット|XMLインフォメーションセット]]
* [[XML Schema]]
* [[XML Path Language|XPath]]
* [[XPointer]]
* [[XQuery]]
* [[Extensible Stylesheet Language|XSL]]
* [[XSL Formatting Objects]]
* [[XSL Transformations|XSLT]]
}}
== Webと産業 ==
現在標準化が進む産業とは、[[自動車産業]]、[[印刷|印刷関連産業]]、[[エンターテインメント産業]]([[テレビ]]を含む[[放送]])。Web空間では、[[電気通信|テレコミュニケーション]]、[[決済]]、[[セマンティック・ウェブ|ウェブ・オブ・データ]]、{{仮リンク|ウェブ・オブ・シングズ|en|Web of Things}}、[[電子商取引]]、[[保安|セキュリティ]]に関して融合や標準化が図られている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|W3C}}
*[[Request for Comments]] (リクエスト フォー コメンツ、略称:'''RFC''')
*[[セマンティック・ウェブ]]
*[[ウェブページ]]
*[[Webサーバ]]
*[[Webサービス]]
*[[Webテンプレート]]
*[[:En:Web of Things|ウェブ・オブ・シングズ]] {{Languageicon|en}}
*[[XMLHttpRequest]] (XHR)
== 外部リンク ==
* [https://www.w3.org/ World Wide Web Consortium] {{Languageicon|en}}
**[https://www.w3.org/Consortium/ About W3C] {{Languageicon|en}}
**[https://www.w3.org/TR/ W3C ALL STANDARDS AND DRAFTS] {{Languageicon|en}}
**[https://www.w3.org/Consortium/Process/ W3C Process Document] {{Languageicon|en}}
*[https://alistapart.com/article/readspec How to read W3C specs] {{Languageicon|en}}
{{W3C標準}}
{{学校法人慶應義塾}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:わあるとわいとうえふこんそおしあむ}}
[[Category:国際NGO]]
[[Category:国際NPO]]
[[Category:標準化団体]]
[[Category:World Wide Web|*こんそおしあむ]]
[[Category:W3C勧告|*こんそおしあむ]]
[[Category:HTML]]
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[[Category:1994年設立の組織]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/World_Wide_Web_Consortium |
2,474 | ユーザーグループ | ユーザーグループ(英: User Group)とは、ある製品に対してのユーザーのコミュニティ。1つの製品に対して複数のユーザーグループが構成されることは普通のことで、主に地域毎に構成されることが多い。ユーザーズグループ(英: Users' Group)ともいわれる。
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] | ユーザーグループとは、ある製品に対してのユーザーのコミュニティ。1つの製品に対して複数のユーザーグループが構成されることは普通のことで、主に地域毎に構成されることが多い。ユーザーズグループともいわれる。 | {{WikipediaPage|ウィキペディア日本語版のユーザーグループについては、[[Wikipedia:日本語版ユーザーグループ]]をご覧ください。}}
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'''ユーザーグループ'''({{Lang-en-short|User Group}})とは、ある[[製品]]に対しての[[ユーザー]]の[[コミュニティ]]。1つの製品に対して複数のユーザーグループが構成されることは普通のことで、主に[[地域]]毎に構成されることが多い。'''ユーザーズグループ'''({{Lang-en-short|Users' Group}})ともいわれる。
<!-- == 脚注 ==
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[ユーザー]]
* [[共同体]]
<!-- == 外部リンク == -->
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2,477 | 赤窓 | 赤窓(あかまど)とは、裏紙式のフィルムを使うカメラについている、コマ数を確認するための窓のことである。
120フィルム、127フィルム、828フィルム、ボルタフィルムなどの裏紙つきフィルムを使うカメラについている。赤色のものが多いので赤窓と呼ばれるが、橙色や暗緑色のものも存在する。赤色のものが多いのは、初期の写真フィルムが赤い光に感光しないことを利用し赤が安全色として採用されたためであるが、フィルムは裏紙によって遮光されており、現在の赤い光にも感光するフィルムを赤窓式カメラで使用しても基本的に感光することはない。ただし限度もあり、赤窓確認時は直射日光に当てない、赤窓蓋がない機種ではテープ等により必要時以外赤窓を塞いで遮光しておくなどの注意が必要である。
使用するフォーマットにより窓の位置は異なり、複数のフォーマットを切り替えできるカメラでは赤窓も複数存在する。
赤窓は単なるフィルムカウンターではなく、フィルム送り機構の一部となっている。赤窓でフィルムコマ数を表示するカメラはフィルムを1コマ分の送り幅で自動的に巻き上げる自動巻き止め機構がないので、赤窓を見ながらフィルムを巻き上げ、赤窓の中心にコマ番号が来たところで巻上げを手動で停止しなければならない。間違って巻き上げ過ぎても、フィルムをカメラから取り出さない限り巻き戻すことは不可能である。
120フィルムの場合、今日では6×9cm判、6×6cm判、6×4.5cm判用にコマ数が印刷されている。
220フィルムは120フィルムと同じフィルム幅であるが、裏紙がないので、120フィルムを使う赤窓式カメラには使用することはできない。
110フィルムや126フィルムを使用するカメラも背面に裏紙直読窓があるが、これらは無色で赤窓とも呼ばれない。
120フィルムは元々6×9cm判8枚撮りのフィルムであり、当初は枚数番号も6×9cm判用にしか印刷されていなかった。6×6判用の枚数番号が印刷されるようになったのは1933年頃であり、その前には装填時一駒目を出すためだけに使って後は決まった量を巻き上げ自動巻止めになるよう設計されたものや、また6×9cm判用の枚数番号を使用し他のフォーマットに流用するため特殊な送り方を指定した製品もある。特殊な送り方のカメラの場合、
で16枚を撮影する。
で12枚を撮影する。
また特殊なフォーマットのカメラも他の判用の番号を流用する場合があり、例えば富山製作所のカメラで6×12cm判は6×6cm判用の番号を使用し「2」「4」「6」「8」「10」「12」で6枚を撮影、6×17cm判は̟6×6cm判用の番号を使用し「3」「6」「9」「12」で4枚を撮影する。 | [
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] | 赤窓(あかまど)とは、裏紙式のフィルムを使うカメラについている、コマ数を確認するための窓のことである。 | '''赤窓'''(あかまど)とは、裏紙式の[[写真フィルム|フィルム]]を使うカメラについている、コマ数を確認するための窓のことである<ref name="clacamesenka1-189">『クラシックカメラ専科』p.189。</ref>。
== 概要 ==
[[ファイル:TLR Redwindow.JPG|thumb|right|200px|赤窓 - 上のつまみは赤窓を閉めるシャッター]]
[[120フィルム]]、[[127フィルム]]、[[828フィルム]]、[[ボルタフィルム]]などの裏紙つきフィルムを使うカメラについている。赤色のものが多いので赤窓と呼ばれるが、橙色や暗緑色のものも存在する<ref name="clacamesenka1-189" />。赤色のものが多いのは、初期の写真フィルムが赤い光に感光しないことを利用し赤が安全色として採用されたためであるが、フィルムは裏紙によって遮光されており、現在の赤い光にも感光するフィルムを赤窓式カメラで使用しても基本的に感光することはない<ref name="clacamesenka1-189" />。ただし限度もあり<ref group="注釈">19世紀末に開発された頃の[[ロールフィルム]]は感度が低かったが、21世紀の現在では裏紙つきのフィルムでも[[ISO感度]]400程度のものが常用されている。</ref>、赤窓確認時は直射日光に当てない、赤窓蓋がない機種ではテープ等により必要時以外赤窓を塞いで遮光しておくなどの注意が必要である。
使用するフォーマットにより窓の位置は異なり、複数のフォーマットを切り替えできるカメラでは赤窓も複数存在する。
赤窓は単なるフィルムカウンターではなく、フィルム送り機構の一部となっている。赤窓でフィルムコマ数を表示するカメラはフィルムを1コマ分の送り幅で自動的に巻き上げる[[セミオートマット|自動巻き止め機構]]がないので、赤窓を見ながらフィルムを巻き上げ、赤窓の中心にコマ番号が来たところで巻上げを手動で停止しなければならない。間違って巻き上げ過ぎても、フィルムをカメラから取り出さない限り巻き戻すことは不可能である。
120フィルムの場合、今日では6×9cm判、6×6cm判、6×4.5cm判用にコマ数が印刷されている。
220フィルムは120フィルムと同じフィルム幅であるが、裏紙がないので、120フィルムを使う赤窓式カメラには使用することはできない。
[[110フィルム]]や[[126フィルム]]を使用するカメラも背面に裏紙直読窓があるが、これらは無色で赤窓とも呼ばれない。
== 120フィルムにおける特殊な送り方 ==
120フィルムは元々6×9cm判8枚撮りのフィルムであり、当初は枚数番号も6×9cm判用にしか印刷されていなかった<ref name="clacamesenka11-161">『クラシックカメラ専科No.11、コレクターズ情報満載』p.161。</ref>。6×6判用の枚数番号が印刷されるようになったのは[[1933年]]頃<ref group="注釈">初期のローライフレックスにはこれ以前の製品でも̟6×6cm判用の赤窓を持つ製品が存在するが、これは6×6cm判6枚撮りの117フィルムのための窓である。</ref>であり、その前には装填時一駒目を出すためだけに使って後は決まった量を巻き上げ自動巻止めになるよう設計されたものや、また6×9cm判用の枚数番号を使用し他のフォーマットに流用するため特殊な送り方を指定した製品もある<ref name="clacamesenka11-161" />。特殊な送り方のカメラの場合、
*6×4.5cm判カメラでは二つの赤窓があり
**「送出軸側の窓に1を表示する」
**「巻取軸側の窓に1を表示する」
**「送出軸側の窓に2を表示する」
**「巻取軸側の窓に2を表示する」
**「送出軸側の窓に3を表示する」
**「巻取軸側の窓に3を表示する」
**「送出軸側の窓に4を表示する」
**「巻取軸側の窓に4を表示する」
**「送出軸側の窓に5を表示する」
**「巻取軸側の窓に5を表示する」
**「送出軸側の窓に6を表示する」
**「巻取軸側の窓に6を表示する」
**「送出軸側の窓に7を表示する」
**「巻取軸側の窓に7を表示する」
**「送出軸側の窓に8を表示する」
**「巻取軸側の窓に8を表示する」
で16枚を撮影する。
*6×6cm判カメラでは三つの赤窓があり
**「送出軸側窓に1を表示する」
**「巻取軸側窓に1を表示する」
**「中央窓に2を表示する」
**「送出軸側窓に3を表示する」
**「巻取軸側窓に3を表示する」
**「中央窓に4を表示する」
**「送出軸側窓に5を表示する」
**「巻取軸側窓に5を表示する」
**「中央窓に6を表示する」
**「送出軸側窓に7を表示する」
**「巻取軸側窓に7を表示する」
**「中央窓に8を表示する」
で12枚を撮影する<ref name="clacamesenka11-161" />。
また特殊なフォーマットのカメラも他の判用の番号を流用する場合があり、例えば[[富山製作所]]のカメラで6×12cm判は6×6cm判用の番号を使用し「2」「4」「6」「8」「10」「12」で6枚を撮影、6×17cm判は̟6×6cm判用の番号を使用し「3」「6」「9」「12」で4枚を撮影する。
== 注釈 ==
{{Reflist|group="注釈"}}
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 ==
*『クラシックカメラ専科』朝日ソノラマ
*『クラシックカメラ専科No.11、コレクターズ情報満載』朝日ソノラマ
{{デフォルトソート:あかまと}}
[[category:カメラ]]
[[category:写真フィルム]] | null | 2021-03-05T01:47:54Z | false | false | false | [
"Template:Reflist",
"Template:脚注ヘルプ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%AA%93 |
2,480 | サンフランシスコ | サンフランシスコ市郡(サンフランシスコしぐん、英語: City and County of San Francisco、漢字表記「桑港」)、通称サンフランシスコ(San Francisco) は、アメリカ合衆国西海岸にあるカリフォルニア州の北部に位置する都市であり、北米有数の世界都市。
ロサンゼルスと共にカリフォルニア州の経済、工業の中心地として知られている。2022年9月にイギリスのシンクタンクが公表した調査によると、サンフランシスコは世界5位の金融センターである。
サンフランシスコ自体の人口は80万5235人(2010年国勢調査)だが、対岸のオークランドなどを含めた都市圏(MSA)の人口は472万9483人にも上り、全米第12位の規模。更に南岸のサンノゼを加えたサンフランシスコ・ベイエリア全体の人口は966万6055人で広域都市圏(合同統計地域: CSA)としては全米6番目の規模である(いずれも2010年国勢調査)。それゆえに大規模なダウンタウンが形成されており、近代的なビルが建ち並ぶ。シリコンバレーやカリフォルニア大学バークレー校にも近く、コンピュータ系の企業も多い。
気候は地中海性気候に属し、一年を通して気温の差が比較的小さく、住みやすい都市である。急な坂が多く、深い霧に覆われることでも有名である。都心から20kmほど南下すると、サンフランシスコ国際空港がある。
観光地としての評価も非常に高い都市であり、外国人のみならず、アメリカ人の間でも訪れたい都市の上位にランクされている。有名な観光スポットとしてゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)やフィッシャーマンズワーフ、ツインピークス等が挙げられる。市内を走る伝統あるケーブルカーも人気が高い。
アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界13位の都市と評価された。アメリカの都市ではニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴに次ぐ4位である。
地名はキリスト教のフランシスコ会の修道士が創設者の聖フランシスコにちなみ名付けた。
漢字では、桑港や旧金山と表記される。桑港は、「サンフランシスコ」を音訳した「桑方西斯哥」の頭文字「桑」(サン)に、港町である事を示す「港」を加えたものである。この漢字表記は、現地の日系社会の商店や日本語学校などの名称によく見られる。一例として、ジャパンタウン(日本人街)にある曹洞宗の寺院「日本山桑港寺(そうこうじ)」がある。一方の旧金山(舊金山)は、1849年に起こったカリフォルニア・ゴールドラッシュに由来する。
アメリカの他地域では頭文字の「SF」「フリスコ(Frisco)」「サンフラン」(San-Fran)の略称で呼ばれることもある。日本では、特に(航空機での渡航の対象として)「シスコ」の略称で呼ばれることも多い。地元とベイエリア周辺では単純に愛情を込めて「the city」と呼ぶ。
サンフランシスコは、アメリカ西海岸、サンフランシスコ半島の先端に位置し、半島の周囲をめぐる太平洋とサンフランシスコ湾の広い海域も市の領域に含まれる。 アルカトラズ島、トレジャー島、イェルバ・ブエナ島(英語版)、アラメダ島の一部、レッドロック島、エンジェル島といった島々も市に属する。また、太平洋の43km沖合にある無人島のファラロン諸島も、同様に市に属する。本土部分はおおまかに7マイル(11.3キロメートル)四方の正方形をなしているとよく表現される。ただし、水域を含む総面積は232mi (600km) である。
サンフランシスコは、丘が多いことで有名である。市内には50以上の丘がある。ノブ・ヒル、パシフィック・ハイツ(英語版)、ロシアン・ヒルなど、丘の名前からとられた町名もある。市の地理的中央部(ダウンタウンから見て南東方面)には、高い丘が連なっており、この辺りは人口密度が低い。ツインピークスは、市の中でも高い場所に二つ並ぶ丘であり、展望場所として人気がある。標高が最も高い丘はマウント・デビッドソン(英語版)で、282メートル(925フィート)であるが、1934年、頂上に高さ31メートル(103フィート)の十字架が建てられた。この付近には、赤と白に塗られたラジオ・テレビ電波塔のスートロ・タワーがそびえ立っている。
サンアンドレアス断層とヘイワード断層(英語版)という二つの断層が、市域の近くを走っており、これが、多くの地震を引き起こすこととなっている。1906年と1989年の大地震を引き起こしたのは、いずれもサンアンドレアス断層のずれが原因であった。小規模の地震は、日常的に起こっている。大地震の脅威にどう対処するかが、市のインフラ整備の上でも重要な要素となっている。市はこれまで度々建物の耐震基準を引き上げており、古い建物については補強工事を、新規の建設については高い耐震技術水準を求めている。しかし、今でも耐震性の弱い中小の建物が何千棟も残っている。
サンフランシスコの陸地は、埋立てによって広がっている。マリナ地区、ハンターズ・ポイント地区のそれぞれ全部、またエンバーカデロ(英語版)地区の大部分は、埋立地にある。トレジャー島は、湾内から浚渫した土砂や、ベイ・ブリッジ建設中にイェルバ・ブエナ島のトンネルを掘削した際の土砂で作られた人工島である。これらの土地は地震に対してもろく、液状化現象によって建物等に甚大な被害が及ぶことは、1989年のロマ・プリータ地震の時、マリナ地区で見られたとおりである。
サンフランシスコの気候は、地中海性気候であり、ケッペンの気候区分ではCsbに当たる。冬は温暖で降水量が多く、夏は気温が低く、乾燥している。三方を海水面に囲まれているため、太平洋の冷たいカリフォルニア海流の影響により、季節による温度変化が少ない穏やかな気候である。気温が24°Cを超えるのは、年平均わずか29日である。アメリカの主要都市の中では夏の気温が最も低い。5月から10月までは乾燥しており、平均最高気温は月によって18°C から21°C 、平均最低気温は月によって11°C から13°Cである。一方,11月から4月までは雨が多く、平均最高気温は月によって14°Cから18°C、平均最低気温は月によって8°Cから11°Cである。雨の日は年平均67日、年平均降水量は538mm。雪が降ることは極めて稀で、記録の残る1852年以来、わずか10回しかない。
アメリカ国立気象局による記録史上の最高気温は、1988年7月17日及び2000年6月14日の39°C、最低気温は1932年12月11日の零下3°Cである。
カリフォルニア内陸の渓谷地帯で、暖められた空気が上昇して気圧が低くなるため、北太平洋高気圧からの風がゴールデン・ゲート海峡を通って内陸に向かい流れ込む。これによって、サンフランシスコ特有の夏期の霧が発生する。ただし、市の中央部に連なる高い丘が海風をさえぎるため、市東部では霧は少なく、晴れの日が多く、降水量も西部より少ない。
2000年現在の国勢調査で、この都市は人口776,733人、329,700世帯及び145,068家族が暮らしている。人口密度は合衆国内で2番目の密集都市(および5番目の密集郡)である、6,423.2/km(16,634.4/mi)。2,865.6/km(7,421.2/mi)の平均的な密度に346,527軒の住宅が建っている。この都市の人種的な構成は白人49.66%、黒人7.79%、インディアン0.45%、アジア30.84%、太平洋諸島系0.49%、その他の人種6.48%、混血4.28%である。人口の14.10%はヒスパニックまたはラテン系である。
民族構成は中華系19.6%、アイルランド系8.8%、ドイツ系7.7%、及びWASP6.1%である。サンフランシスコはアメリカ合衆国内で最大の中華系人口でありハワイ州以外で最大のアジア系人口を持っている。リッチモンド内のGeary ブルーバードは栄えたロシア系コミュニティーの本拠地となっている。
329,700世帯のうち、16.6%が18歳未満の子供と一緒に生活しており、31.6%は夫婦で生活している。8.9%は未婚の女性が世帯主であり、56.0%は結婚していない。38.6%は1人以上の独身の居住者が住んでおり、9.8%は65歳以上で独身である。1世帯の平均人数は2.30人であり、結婚している家庭の場合は3.22人である。
住民は14.5%が18歳未満の未成年、18歳以上24歳以下が9.1%、25歳以上44歳以下が40.5%、45歳以上64歳以下が22.3%、および65歳以上が13.7%にわたっている。中央値年齢は36歳である。女性100人ごとに対して男性は103.4人である。18歳以上の女性100人ごとに対して男性は103.1人である。
世帯ごとの平均的な収入は55,221米ドルであり、家族ごとの平均的な収入は63,545米ドルである。男性は46,260米ドルに対して女性は40,049米ドルの平均的な収入がある。一人当たりの収入は34,556米ドルである。人口の11.3%及び世帯の7.8% は貧困線以下である。全人口のうち18歳未満の13.5%及び65歳以上の10.5%は貧困線以下の生活を送っている。
サンフランシスコは、不法移民に対して比較的寛容なスタンスを採る聖域都市のひとつである。2017年にドナルド・トランプ大統領が、各聖域都市に対する補助金の打ち切りを指示する大統領令に署名した際も、大統領令の差し止めを求める訴訟を起こすなど移民を保護する姿勢を見せた。
サンフランシスコの沿岸部から山間部、モントレーには、スペイン人が「コスタノ族」と名付けたインディアン部族の「オーロネ族」が、葦を編んで家屋やカヌーを作り、漁猟や狩猟採集を営んで生活していた。しかし、19世紀に押し寄せた白人による土地収奪によって衰退し、20世紀初頭には「絶滅した」として、保留地(Reservation)など、アメリカ連邦政府との連邦規定に準ずるすべての権利を剥奪された。
サンフランシスコ・ベイエリアには、このオーロネ族の「ムウェクマ・バンド」の部族員約400人が暮らしているが、彼らも「絶滅した」ことになっているので保留地を領有出来ない。彼らの伝統的な墓地と貝の土塁は「遺跡」扱いされて1980年代に破壊され、部族の猛抗議を無視してショッピング・センター「ベイ・ストリート・モール」が建てられた。この「遺跡」から奪われたオーロネ族の先祖数万人分の遺骨は、カリフォルニア大学バークレー校で展示されている。
2006年9月21日に、彼らはアメリカ連邦政府から認定に関して「好意的な対応」をされており、連邦登録と「復活」への期待が高まっている。
1958年以降、保留地の解消方針に沿った「インディアン移住計画」がアメリカ連邦政府によって施行され、オーロネ族以外の多数のインディアンが周辺から流入した。現在、彼らの互助組織として「アメリカインディアンの友好の家協会(Friendship House Association of American Indian Inc)」が設置されている。
1960年代に起こったインディアンたちの権利回復要求運動「レッド・パワー運動(Red Power movement)」は、同州でも高まりを見せ、1969年には、サンフランシスコ湾に浮かぶアルカトラズ島で、アルカトラズ島占拠事件が決行された。この1969年は、コロンブスの上陸を祝う「コロンブス・デー」の記念祝祭に対し、「インディアンを弔う日」として、サンフランシスコのインディアンたちが黒い腕章をつけ、ティピーを建てて抗議を行った最初の年となった。
1995年には、ディズニーのアニメ映画「ポカホンタス」の公開に抗議して、全米のインディアンたちによる大規模なデモ行進が行われた。
市街を、36余あるサンフランシスコの地区、有名サンフランシスコの道路(英語版)などを中心に見ていくと、サンフランシスコの古くからの中心地は、市北東部の、マーケット・ストリートより北側の地域である。ここにはフィナンシャル地区があり、その近くには、ショッピング・スポットやホテルの集まったユニオン・スクエアもある。かつて金持ちの邸宅地だったノブ・ヒル地区と、海沿いのフィッシャーマンズワーフとを結ぶ急な坂には、ケーブルカーが走っている。フィッシャマンズワーフは、ダンジネスクラブ(アメリカイチョウガニ)を使った料理などで有名な観光エリアである。同じく市北東部には、曲がりくねったロンバード・ストリートの坂道で知られるロシアン・ヒル、サンフランシスコのリトル・イタリー地区であるノースビーチ、コイト・タワーのあるテレグラフ・ヒルといった地区がある。またその近くには1860年代にできたサンフランシスコのチャイナタウンもある。
ミッション地区は、19世紀、「カリフォルニオ」と呼ばれるラテンアメリカ系市民や、ドイツ、アイルランド、イタリア、スカンディナヴィアからの移民労働者が住む街であった。1910年代、中央アメリカ系移民がこの街に住みつき、1950年代にはメキシコからの移民が取って代わった。現在はヴァレンシア通りを中心にジェントリフィケーションが急速に進んでいる。1960年代のヒッピー文化を育てたヘイト・アシュベリー地区は、高級なブティックが立ち並ぶ街へと変貌し、チェーン店の開業に当たっては論争も起きた。一方ではボヘミアンな雰囲気も残っている。カストロ通り付近(昔はユーレカ・バレーと呼ばれていた地域)はゲイカルチャーの中心地である。
ポスト・ストリート沿いには、サンフランシスコ・ジャパンタウン(日本人街)がある。第二次世界大戦の時には、ここに住む日系人たちも強制収容された。そのころ、その近くのウェスタン・アディション地区には多くのアフリカ系アメリカ人が流れ込んできた。アラモ・スクエア(英語版)の近くには「ペインテッド・レディー(化粧をした婦人たち)」と呼ばれるビクトリア様式の建物が並び、パシフィック・ハイツには1906年サンフランシスコ地震の後に富裕層が邸宅を構えるようになった。その更に北、マリナ・ディストリクトは、若いビジネスマンたちが住む活気のある街である。
ゴールデン・ゲート・パークの北に位置し、西は太平洋まで広がる広大な地域がリッチモンド・ディストリクトであり、その中には「ニュー・チャイナタウン」と呼ばれる場所もあるが、その他のアジアやロシア系移民もたくさん住んでいる。ゴールデン・ゲート・パークの南には、アジア系住民が多く住むサンセット・ディストリクトが広がる。リッチモンドとサンセットの両地区は、中流階級の居住地である。西側を「アウター・リッチモンド」と「アウター・サンセット」、東側を「インナー・リッチモンド」と「インナー・サンセット」と呼ぶこともある。一方、市南東部のベイビュー・ハンターズポイント地区は最貧地区で、高い犯罪率が問題となっている。ここには都市再開発の計画があるが、賛否をめぐり議論の的となっている。
SoMa(サウス・オブ・マーケット)地区は、再開発によって古い工業の街から生まれ変わり、1990年代後半のインターネットバブルを経て超高層ビルが立ち並ぶようになった。サウスビーチ地区も発展しており、さらに続いてミッション・ベイ地区も カリフォルニア大学サンフランシスコ校の第2キャンパス設置を中心に再開発が進んでいる。ミッション・ベイの南東にあるポトレロ・ヒルからは、サンフランシスコのダウンタウンを見渡すことができる。
サンフランシスコ市レクリエーション・公園局が管理する市立公園は、200を超える。その中でも最大で、かつ最も有名なのが、ゴールデン・ゲート・パークである。市の中央部から、西に向かい太平洋まで帯状に広がっている。昔は自然の草木や砂丘に覆われていたが、1860年代に公園としての整備が始まり、何千種もの植物が移植された。ジャパニーズ・ティー・ガーデン、花の温室、サンフランシスコ植物園などの施設がある。淡水湖のマーセド湖の近くには、250種以上の動物(多くが絶滅危惧種)がいる市立のサンフランシスコ動物園がある。
一方、カリフォルニア州公園・レクリエーション局の運営する州立公園は、キャンドルスティック・ポイント州立レクリエーション地域だけである。
ゴールデン・ゲート国立保養地は、面積3万3000haの自然保護区である。アメリカの国立公園の中でも訪問者が多く、年間1300万人が訪れる。サンフランシスコ市内にあるいくつかの公園と、ほとんどのビーチがこの国立レクリエーション地域に属する。オーシャン・ビーチは太平洋に面し、サーフィンがさかんである。ベーカー・ビーチは、ゴールデン・ゲート海峡の西の入江にあり、昔の要塞であるプレシディオの一部に当たる。プレシディオの中には、クリッシー・フィールドという公園もある。ここは、以前は飛行場であったが、自然の姿であった塩沼を復元している。国立レクリエーション地域の中には、そのほかフォート・ファンストン、ランズ・エンド、フォート・メイソン、アルカトラズ島もある。これとは別に、アメリカ合衆国国立公園局が管理する公園としてサンフランシスコ国立海洋歴史公園がある。
この土地に人が居住していた最古の痕跡は、紀元前3000年に遡る。
ガスパル・デ・ポルトラ率いるスペイン人の入植者が1769年11月2日に到達した。記録されている中ではヨーロッパ人による最初のサンフランシスコ湾到達ではある。 しかし、それまではインディアン部族オーロネ族のグループがいくつかの小さな村に分かれて住んでいる状態であった。 その7年後の1776年3月28日、スペイン人によってサンフランシスコ要塞(英語版)が築かれ、続いてサンフランシスコ・デ・アッシス伝道所が建設された。
1821年、スペインからのメキシコ独立革命により、この地はメキシコの一部となった。メキシコの統治の下、伝道所の制度は徐々に廃止され、その土地は民営の牧場に転換されていった。 1835年、イギリス人ウィリアム・リチャードソンが現在のポーツマス・スクエアに当たる船着場近くに初めて独立の自作農場を作った。 彼は、フランシスコ・デ・ハロ市長とともに街路計画を立て、「イェルバ・ブエナ」と名付けられたこの街にアメリカの入植者が集まってくるようになった。 米墨戦争中の1846年7月7日、アメリカ軍のジョン・スロート代将がカリフォルニアをアメリカの領土と宣言した。翌1847年、イェルバ・ブエナはサンフランシスコと改名され、メキシコはグアダルーペ・イダルゴ条約で正式にこの一帯の領地をアメリカに割譲した。サンフランシスコは、港として、また海軍基地としても絶好の立地にあったが、当時はまだ住みにくい小さな植民地であった。
ところが、カリフォルニア・ゴールドラッシュによって、金を求めて多くの人が押し寄せた。 サワードウ・ブレッドを携えた人夫 がこの街に集まり、人口は1848年の1000人から1849年には2万5000人へと増加し、競合するベニシアを超えるようになった。莫大な富を手に入れられるという望みは大きく、船で到着した者は金鉱へと駆け出し、港にはたくさんの船のマストが立ち並んだ。 サンフランシスコに市場ができると東海岸と西海岸を「陸路のパナマ」で繋いだ航路ができ、米国は本格的に太平洋航路の開拓に乗り出すことになる。
一方、短期間に多くの移民が殺到したことから、1850年代には財産や自由、人倫を保護する名目で自警団がたびたび組織された。 1856年5月には連邦政府の警察権や司法権を超越した数千人規模の自警団が作られ、約3か月の間事実上の軍政状態となった。 1850年協定によってカリフォルニアは州の資格を得、アメリカ軍はサンフランシスコ湾を防衛するためゴールデンゲート海峡の砦フォート・ポイントと、アルカトラズ島の砦を築いた。 1859年のカムストック鉱脈をはじめとする銀の発見も、急速な人口増大を更に後押しした。 鉱山の一旗組の中には無法者も多く、バーバリコースト地区は、犯罪、売春、ギャンブルの巣窟として悪名をとった。
ゴールドラッシュで成功した多くの企業家が、その財を元手に事業を展開した。 1852年にはウェルズ・ファーゴが設立され、1864年にはカリフォルニア銀行が設立された。
サンフランシスコ港の発展により、街は交易の中心地となった。 リーヴァイ・ストラウスは衣類の事業を、ドミンゴ・ギラーデリーはチョコレート製造業を始めた。 様々な移民労働者の存在により、街には多様な文化が入り交じり、例えば中国人の鉄道労働者によってチャイナタウンが生まれた。 1873年にケーブルカーが敷かれ、クレイ・ストリートの急な坂を上るようになった。ビクトリア様式の家々が立ち並ぶようになり、広い公園の必要が叫ばれるようになって、ゴールデン・ゲート・パークの計画につながった。 学校、教会、劇場、その他様々な施設が建てられた。
また、サンフランシスコ要塞は、太平洋岸におけるアメリカの最も重要な軍事施設となった。 20世紀を迎える時点で、サンフランシスコは、その華やかさ、豪華なホテル、ノブヒル地区のけばけばしい邸宅、そして芸術の繁栄で知られるようになった。
1906年4月18日午前5時12分、サンフランシスコ地震がサンフランシスコ市内及びカリフォルニア北部を襲った。建物は倒壊し、破裂したガス管が引火して火災が発生し、数日間にわたって街中を焼き尽くした。水道管は使えなくなっていたので、サンフランシスコ要塞の砲兵隊は建物をダイナマイトで破壊することで防火帯を作り、火を封じ込めようとした。 街の4分の3以上が灰燼に帰し、ダウンタウンの中心部はほとんど焼けてしまった。 当時の記録によれば、498人が命を落としたとされるが、現代の推計では死者は数千人に上るだろうと考えられている。市の人口40万人のうち半数以上が住む家を失った。 避難者は、しばらくの間、ゴールデン・ゲート・パークや、要塞や、海岸などに設けられた間に合わせのテント村で生活した。また、サンフランシスコの東のイーストベイまで移住した人も多い。
その後、復興が急ピッチで進んだ。街路を一から設計しなおすよう求める声もあったが、サンフランシスコ市民は、スピードを優先した。 アマデオ・ジアニーニが創設したバンク・オブ・イタリー(後のバンク・オブ・アメリカ)は、生計の手段を奪われた人々に貸出しを行った。ノブヒル地区の倒壊した邸宅は、豪華ホテルとなった。サンフランシスコ市庁舎は、見事なボザール様式で再建され、1915年のサンフランシスコ万国博覧会でその再生が祝われた。
その後、サンフランシスコは、金融センターとしての地位を強固なものにしていった。 1929年のウォール街大暴落の時でさえ、サンフランシスコの銀行は一つも破綻しなかった。 世界恐慌の最中も、サンフランシスコではサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ(1936年完成)とゴールデン・ゲート・ブリッジ(1937年完成)という2大プロジェクトが同時に進行していた。
なお、同じころ、軍事施設だったアルカトラズ島が連邦刑務所となり、アル・カポネ、マシンガン・ケリー、「バードマン」と呼ばれたロバート・フランクリン・ストラウドなどがここに収容された。さらに、1939年から1940年にかけては2度目の国際博覧会となるゴールデン・ゲート国際博覧会が開かれ、その会場として湾内に人工島トレジャー島が造成された。
第二次世界大戦中、ハンターズ・ポイント海軍造船所は軍事活動のハブとなり、フォート・メイソンが太平洋戦域に出発する兵士の乗船場となった。 雇用の爆発的な増大により、特に南部からのアフリカ系アメリカ人が職を求めて集まってきた。 戦後、港に帰ってきた復員兵や、それまでに集まっていた労働者の多くが、そのままサンフランシスコに留まった。1945年、国際連合憲章がこの地で起草され、署名されたほか、太平洋戦争を正式に終結させるサンフランシスコ平和条約が締結された。
1950年代・1960年代の都市開発プロジェクトにより、市西部の取り壊しと再開発が進み、新しい高速道路の建設が始まった。 もっとも、間もなく市民の反対運動が起こり、建設は間もなく停止に追い込まれた。
1972年、トランスアメリカ・ピラミッドビルが完成した。
1980年代にはサンフランシスコの「マンハッタン化」が進み、ダウンタウンに多数の高層ビルが立ち並ぶようになり。
港湾機能が次第にオークランド港に移転していくに伴って、市の製造業人口は減少を始め、代わって市の経済における重要性を増したのが観光である。 郊外の発展が著しく、白人人口が市内を去り、アジア系・ラテンアメリカ系移民が流入した。
また、戦後、サンフランシスコはアメリカのカウンターカルチャーの舞台でもあった。 1950年代、ビート・ジェネレーションの作家たちによってサンフランシスコ・ルネッサンスが提唱され、ノースビーチ地区がその中心地となった。 バークリーやオークランドとともに、サンフランシスコはアメリカでもベイエリアのリベラルな都市として知られるようになった。 1960年代には、ヒッピーがヘイト・アシュベリー地区に集まり、1967年のサマー・オブ・ラブでその頂点を迎えた。 1970年代には、サンフランシスコは性的少数者(LGBT)の権利運動の中心地となり、カストロ通りはゲイ・タウンとして著名になった。活動家のハーヴェイ・ミルクがサンフランシスコ市会議員に当選したが、1978年、ジョージ・マスコーニ市長とともに暗殺された。
1989年にはロマ・プリータ地震が、サンフランシスコを含むベイ・エリアを襲った。マリナ地区やSoMa(サウス・オブ・マーケット)地区では建物の倒壊が激しく、エンバカデロ・フリーウェイ(州道480号)や、セントラル・フリーウェイの多くの部分が崩落した。なお、こうした高速道路の破壊を機に、市は歴史的な街並みの再建へ転じることになった。
1990年代後半のインターネット・バブル(ドットコム・バブル)の中、ベンチャー企業が経済の原動力となった。多くの起業家やコンピューター・アプリケーション企業がこの街に集まり、続いてマーケティングや営業の専門職が住むようになって、一時期は荒廃していた地区でジェントリフィケーションが進んだ。
しかしながら、2001年頃にバブルが崩壊すると、これらの企業の多くが倒産し、その従業員も街を去った。中心市街地では貧困と荒廃が進み、かつての華やかさは失われつつある。
とはいえ、その後もハイテク産業と起業家精神はサンフランシスコの経済を支える屋台骨であり続けている。2008年からウィキメディア財団も事務局を置く。
1950年代におけるビート・ジェネレーションと言われる作家・芸術家らの流入、1960年代のヘイト・アシュブリーにおけるサマー・オブ・ラブでピークに達した社会変動を経て、サンフランシスコはリベラル派の牙城となった。
2006年、サンフランシスコの監理委員会(郡行政執行機関)は「ヘルシー・サンフランシスコ」プログラムを制定し、健康保険のない市民への医療に補助金を支給することを決めた。
元はポピュラーソングや映画主題歌であった2曲が制定されている。
市政を握っているのは民主党及びアメリカ緑の党であり、1988年以来の大統領選挙や上院議員選挙で共和党の得票率は20%未満である。
サンフランシスコは Sister Cities International, Inc. (SCI) によって指定された、15の姉妹都市を有している。
以下はサンフランシスコ市のホームページに掲載はされているが、相手側自治体は姉妹都市解消を主張している。
Japantown(日本町, Little Osaka, J town)サンフランシスコの Western Addition にある6平方ブロックの地域。 日本や韓国、中華のレストラン、スーパーマーケット、ショッピングモール、ホテル、銀行、紀伊國屋書店の支店など多数の店がある。 Post Street が大通りで、中心には1968年開設の Japan Center(3つの日系ショッピングセンターと Peace Pagoda がある)がある。パゴダは大阪の人々によって寄贈された。
カリフォルニア州北部最大の日本町で、第二次世界大戦前からある日本町である。
日本人のサンフランシスコ移住は、19世紀末に始まり、1884年には約200人ほどいた、1886年には領事館調べで約500人、実際には1000人近くがいた。
日本人の居住はその後も増え続け、サンフランシスコは排日の本場と言われるほど米国白人からの反発を買うようになった。
日本の真珠湾攻撃後、アメリカ政府は日系アメリカ人を強制収容所に収容した(日系人の強制収容)。 その後は軍需産業を探しに来たアフリカ系アメリカ人が居住するようになった。
戦後になると、一部の日本人は戻り地域の再復興を行った。1960年代から1980年代の大規模な再開発の時期になると、多くのアフリカ系アメリカ人は今日の居住地や西部(Filmore District)、東部(Tenderloin)、南部(Hunters Point)へ移動した。
同時に多くの日系アメリカ人は戻り、新日本移民の移住、日本政府、企業による投資が行われた。
サンフランシスコは半島に突き出た丘陵地帯という地形から、アメリカ国内ではニューヨークに次いで公共交通機関への依存度が高い大都市である。また、市内人口がそこまで多くはなく、事業所もサンフランシスコの中心部だけではなくベイエリア全体に分散していることから、地下鉄はBARTやMuniのマーケットストリート区間を除いて発達せず、路面電車やトロリーバスの比重が高い。
サンフランシスコ国際空港にはユナイテッド航空やアメリカン航空、デルタ航空やアラスカ航空などの国内線が多数発着するほか、全日空(ANA)、日本航空やチャイナエアライン、ブリティッシュ・エアウェイズやエールフランスをはじめとする国際線も多く発着している。 また、対岸のオークランド国際空港もサンフランシスコ地域の主要空港の1つとして使用されている。
サンフランシスコ湾をはさんだ対岸のエメリービル(またはオークランド)からアムトラックの列車が発着している。それらの列車を利用するためにサンフランシスコのダウンタウンから連絡バスが運行されている。
サンフランシスコは水路に遮られているために、通過する道路は少ない。
主要な高速道路としては、ベイブリッジのサンフランシスコ側を基点としてベイブリッジを渡り東に伸びる州間高速道路80号線(I-80)、サンフランシスコ中心街から南に延びるインターステート280号線、中心街から南部と北部に延びる国道101号線がある。
市内は坂が多い上に半島であるため土地もないため、駐車場料金が非常に高い。そのため、後述のBARTやカルトレインなどの郊外の駅の多くに駐車場が併設されていて、これを使ったパークアンドライドが盛んである。
サンフランシスコフェリービルはアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定される文化財で、それ自体が観光名所となっている。サンフランシスコ湾内の各地に向かう便がある。
フィナンシャル・ディストリクトやユニオン・スクエア周辺のような商業・ショッピングの中心地は、世界的に知られている。同時に、それを取り巻く多用途(商業・居住混在)地域も文化的な多様性があり、中心部から気軽に歩いて足を延ばせることから、サンフランシスコの特色となっている。そのため、サンフランシスコに対しては「最も歩きやすい街」という評価もある。
これらの多用途地区には、ビジネス、レストラン、コンサート会場などがあり、多くの市民や観光客が利用している。カウ・ホロー地区のユニオン・ストリートや、ノイ・バレー地区の24番ストリートのように、ブティック、カフェ、ナイトスポットが混じる街もある。こうした街づくりは、SOMA(サウス・オブ・マーケット)地区におけるビジネスと住民サービスが並行する都市再開発などにも影響を及ぼしている。
シリコンバレーを中心としたITブームや、最近のインターネットバブルによりサンフランシスコの生活水準は向上し、世界中から大卒クラスの若いホワイトカラー層が集まってきている。
サウスビーチ地区からミッション・ベイ地区にかけて、エンバーカデロの再開発が進んだ。それにつれて、ブルーカラー層、中・低所得者層が住んでいた地区の多くでも、ジェントリフィケーションが進行した。不動産価格と世帯所得はいずれもアメリカ国内トップクラスへ跳ね上がった。
大型のレストラン、小売店、エンターテインメント施設が誕生した。生活費の高騰により、中・低所得者層は街中を去ってベイ・エリアの郊外や、カリフォルニアセントラルヴァレーへ移り住んでいった。
サンフランシスコは、誕生以来、今日に至るまで、アジアやラテンアメリカの移民を多く受け入れ、国際色あふれる街となっている。 市民の39%が海外生まれで、こうした市民の需要に応える会社や施設が集まった地区も多い。 中でも、1970年代から急増した中国系移民は、古くからチャイナタウンを中心に栄えてきたコミュニティを活性化し、毎年行われる旧正月の祭りは、中国国外で最大のものに成長した。
また、ゲイ人口が多く、その政治的・文化的な影響力も大きい。 世界のゲイの人々にとっては最も人気のある観光地であり、世界最大・最古のプライド・パレードである「サンフランシスコ・プライド」が開かれる。 | [
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"text": "サンフランシスコ市郡(サンフランシスコしぐん、英語: City and County of San Francisco、漢字表記「桑港」)、通称サンフランシスコ(San Francisco) は、アメリカ合衆国西海岸にあるカリフォルニア州の北部に位置する都市であり、北米有数の世界都市。",
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"text": "ロサンゼルスと共にカリフォルニア州の経済、工業の中心地として知られている。2022年9月にイギリスのシンクタンクが公表した調査によると、サンフランシスコは世界5位の金融センターである。",
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"text": "サンフランシスコ自体の人口は80万5235人(2010年国勢調査)だが、対岸のオークランドなどを含めた都市圏(MSA)の人口は472万9483人にも上り、全米第12位の規模。更に南岸のサンノゼを加えたサンフランシスコ・ベイエリア全体の人口は966万6055人で広域都市圏(合同統計地域: CSA)としては全米6番目の規模である(いずれも2010年国勢調査)。それゆえに大規模なダウンタウンが形成されており、近代的なビルが建ち並ぶ。シリコンバレーやカリフォルニア大学バークレー校にも近く、コンピュータ系の企業も多い。",
"title": "概要"
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"text": "気候は地中海性気候に属し、一年を通して気温の差が比較的小さく、住みやすい都市である。急な坂が多く、深い霧に覆われることでも有名である。都心から20kmほど南下すると、サンフランシスコ国際空港がある。",
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"text": "観光地としての評価も非常に高い都市であり、外国人のみならず、アメリカ人の間でも訪れたい都市の上位にランクされている。有名な観光スポットとしてゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)やフィッシャーマンズワーフ、ツインピークス等が挙げられる。市内を走る伝統あるケーブルカーも人気が高い。",
"title": "概要"
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"text": "アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界13位の都市と評価された。アメリカの都市ではニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴに次ぐ4位である。",
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"text": "地名はキリスト教のフランシスコ会の修道士が創設者の聖フランシスコにちなみ名付けた。",
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"text": "漢字では、桑港や旧金山と表記される。桑港は、「サンフランシスコ」を音訳した「桑方西斯哥」の頭文字「桑」(サン)に、港町である事を示す「港」を加えたものである。この漢字表記は、現地の日系社会の商店や日本語学校などの名称によく見られる。一例として、ジャパンタウン(日本人街)にある曹洞宗の寺院「日本山桑港寺(そうこうじ)」がある。一方の旧金山(舊金山)は、1849年に起こったカリフォルニア・ゴールドラッシュに由来する。",
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"text": "アメリカの他地域では頭文字の「SF」「フリスコ(Frisco)」「サンフラン」(San-Fran)の略称で呼ばれることもある。日本では、特に(航空機での渡航の対象として)「シスコ」の略称で呼ばれることも多い。地元とベイエリア周辺では単純に愛情を込めて「the city」と呼ぶ。",
"title": "概要"
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"text": "サンフランシスコは、アメリカ西海岸、サンフランシスコ半島の先端に位置し、半島の周囲をめぐる太平洋とサンフランシスコ湾の広い海域も市の領域に含まれる。 アルカトラズ島、トレジャー島、イェルバ・ブエナ島(英語版)、アラメダ島の一部、レッドロック島、エンジェル島といった島々も市に属する。また、太平洋の43km沖合にある無人島のファラロン諸島も、同様に市に属する。本土部分はおおまかに7マイル(11.3キロメートル)四方の正方形をなしているとよく表現される。ただし、水域を含む総面積は232mi (600km) である。",
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"text": "サンフランシスコは、丘が多いことで有名である。市内には50以上の丘がある。ノブ・ヒル、パシフィック・ハイツ(英語版)、ロシアン・ヒルなど、丘の名前からとられた町名もある。市の地理的中央部(ダウンタウンから見て南東方面)には、高い丘が連なっており、この辺りは人口密度が低い。ツインピークスは、市の中でも高い場所に二つ並ぶ丘であり、展望場所として人気がある。標高が最も高い丘はマウント・デビッドソン(英語版)で、282メートル(925フィート)であるが、1934年、頂上に高さ31メートル(103フィート)の十字架が建てられた。この付近には、赤と白に塗られたラジオ・テレビ電波塔のスートロ・タワーがそびえ立っている。",
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"text": "サンアンドレアス断層とヘイワード断層(英語版)という二つの断層が、市域の近くを走っており、これが、多くの地震を引き起こすこととなっている。1906年と1989年の大地震を引き起こしたのは、いずれもサンアンドレアス断層のずれが原因であった。小規模の地震は、日常的に起こっている。大地震の脅威にどう対処するかが、市のインフラ整備の上でも重要な要素となっている。市はこれまで度々建物の耐震基準を引き上げており、古い建物については補強工事を、新規の建設については高い耐震技術水準を求めている。しかし、今でも耐震性の弱い中小の建物が何千棟も残っている。",
"title": "地理"
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"text": "サンフランシスコの陸地は、埋立てによって広がっている。マリナ地区、ハンターズ・ポイント地区のそれぞれ全部、またエンバーカデロ(英語版)地区の大部分は、埋立地にある。トレジャー島は、湾内から浚渫した土砂や、ベイ・ブリッジ建設中にイェルバ・ブエナ島のトンネルを掘削した際の土砂で作られた人工島である。これらの土地は地震に対してもろく、液状化現象によって建物等に甚大な被害が及ぶことは、1989年のロマ・プリータ地震の時、マリナ地区で見られたとおりである。",
"title": "地理"
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"text": "サンフランシスコの気候は、地中海性気候であり、ケッペンの気候区分ではCsbに当たる。冬は温暖で降水量が多く、夏は気温が低く、乾燥している。三方を海水面に囲まれているため、太平洋の冷たいカリフォルニア海流の影響により、季節による温度変化が少ない穏やかな気候である。気温が24°Cを超えるのは、年平均わずか29日である。アメリカの主要都市の中では夏の気温が最も低い。5月から10月までは乾燥しており、平均最高気温は月によって18°C から21°C 、平均最低気温は月によって11°C から13°Cである。一方,11月から4月までは雨が多く、平均最高気温は月によって14°Cから18°C、平均最低気温は月によって8°Cから11°Cである。雨の日は年平均67日、年平均降水量は538mm。雪が降ることは極めて稀で、記録の残る1852年以来、わずか10回しかない。",
"title": "地理"
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"text": "アメリカ国立気象局による記録史上の最高気温は、1988年7月17日及び2000年6月14日の39°C、最低気温は1932年12月11日の零下3°Cである。",
"title": "地理"
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"text": "カリフォルニア内陸の渓谷地帯で、暖められた空気が上昇して気圧が低くなるため、北太平洋高気圧からの風がゴールデン・ゲート海峡を通って内陸に向かい流れ込む。これによって、サンフランシスコ特有の夏期の霧が発生する。ただし、市の中央部に連なる高い丘が海風をさえぎるため、市東部では霧は少なく、晴れの日が多く、降水量も西部より少ない。",
"title": "地理"
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"text": "2000年現在の国勢調査で、この都市は人口776,733人、329,700世帯及び145,068家族が暮らしている。人口密度は合衆国内で2番目の密集都市(および5番目の密集郡)である、6,423.2/km(16,634.4/mi)。2,865.6/km(7,421.2/mi)の平均的な密度に346,527軒の住宅が建っている。この都市の人種的な構成は白人49.66%、黒人7.79%、インディアン0.45%、アジア30.84%、太平洋諸島系0.49%、その他の人種6.48%、混血4.28%である。人口の14.10%はヒスパニックまたはラテン系である。",
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"text": "民族構成は中華系19.6%、アイルランド系8.8%、ドイツ系7.7%、及びWASP6.1%である。サンフランシスコはアメリカ合衆国内で最大の中華系人口でありハワイ州以外で最大のアジア系人口を持っている。リッチモンド内のGeary ブルーバードは栄えたロシア系コミュニティーの本拠地となっている。",
"title": "地理"
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"text": "329,700世帯のうち、16.6%が18歳未満の子供と一緒に生活しており、31.6%は夫婦で生活している。8.9%は未婚の女性が世帯主であり、56.0%は結婚していない。38.6%は1人以上の独身の居住者が住んでおり、9.8%は65歳以上で独身である。1世帯の平均人数は2.30人であり、結婚している家庭の場合は3.22人である。",
"title": "地理"
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"text": "住民は14.5%が18歳未満の未成年、18歳以上24歳以下が9.1%、25歳以上44歳以下が40.5%、45歳以上64歳以下が22.3%、および65歳以上が13.7%にわたっている。中央値年齢は36歳である。女性100人ごとに対して男性は103.4人である。18歳以上の女性100人ごとに対して男性は103.1人である。",
"title": "地理"
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"text": "世帯ごとの平均的な収入は55,221米ドルであり、家族ごとの平均的な収入は63,545米ドルである。男性は46,260米ドルに対して女性は40,049米ドルの平均的な収入がある。一人当たりの収入は34,556米ドルである。人口の11.3%及び世帯の7.8% は貧困線以下である。全人口のうち18歳未満の13.5%及び65歳以上の10.5%は貧困線以下の生活を送っている。",
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"text": "サンフランシスコは、不法移民に対して比較的寛容なスタンスを採る聖域都市のひとつである。2017年にドナルド・トランプ大統領が、各聖域都市に対する補助金の打ち切りを指示する大統領令に署名した際も、大統領令の差し止めを求める訴訟を起こすなど移民を保護する姿勢を見せた。",
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"text": "サンフランシスコの沿岸部から山間部、モントレーには、スペイン人が「コスタノ族」と名付けたインディアン部族の「オーロネ族」が、葦を編んで家屋やカヌーを作り、漁猟や狩猟採集を営んで生活していた。しかし、19世紀に押し寄せた白人による土地収奪によって衰退し、20世紀初頭には「絶滅した」として、保留地(Reservation)など、アメリカ連邦政府との連邦規定に準ずるすべての権利を剥奪された。",
"title": "地理"
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"text": "サンフランシスコ・ベイエリアには、このオーロネ族の「ムウェクマ・バンド」の部族員約400人が暮らしているが、彼らも「絶滅した」ことになっているので保留地を領有出来ない。彼らの伝統的な墓地と貝の土塁は「遺跡」扱いされて1980年代に破壊され、部族の猛抗議を無視してショッピング・センター「ベイ・ストリート・モール」が建てられた。この「遺跡」から奪われたオーロネ族の先祖数万人分の遺骨は、カリフォルニア大学バークレー校で展示されている。",
"title": "地理"
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"text": "2006年9月21日に、彼らはアメリカ連邦政府から認定に関して「好意的な対応」をされており、連邦登録と「復活」への期待が高まっている。",
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"text": "1958年以降、保留地の解消方針に沿った「インディアン移住計画」がアメリカ連邦政府によって施行され、オーロネ族以外の多数のインディアンが周辺から流入した。現在、彼らの互助組織として「アメリカインディアンの友好の家協会(Friendship House Association of American Indian Inc)」が設置されている。",
"title": "地理"
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"text": "1960年代に起こったインディアンたちの権利回復要求運動「レッド・パワー運動(Red Power movement)」は、同州でも高まりを見せ、1969年には、サンフランシスコ湾に浮かぶアルカトラズ島で、アルカトラズ島占拠事件が決行された。この1969年は、コロンブスの上陸を祝う「コロンブス・デー」の記念祝祭に対し、「インディアンを弔う日」として、サンフランシスコのインディアンたちが黒い腕章をつけ、ティピーを建てて抗議を行った最初の年となった。",
"title": "地理"
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"text": "1995年には、ディズニーのアニメ映画「ポカホンタス」の公開に抗議して、全米のインディアンたちによる大規模なデモ行進が行われた。",
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"text": "市街を、36余あるサンフランシスコの地区、有名サンフランシスコの道路(英語版)などを中心に見ていくと、サンフランシスコの古くからの中心地は、市北東部の、マーケット・ストリートより北側の地域である。ここにはフィナンシャル地区があり、その近くには、ショッピング・スポットやホテルの集まったユニオン・スクエアもある。かつて金持ちの邸宅地だったノブ・ヒル地区と、海沿いのフィッシャーマンズワーフとを結ぶ急な坂には、ケーブルカーが走っている。フィッシャマンズワーフは、ダンジネスクラブ(アメリカイチョウガニ)を使った料理などで有名な観光エリアである。同じく市北東部には、曲がりくねったロンバード・ストリートの坂道で知られるロシアン・ヒル、サンフランシスコのリトル・イタリー地区であるノースビーチ、コイト・タワーのあるテレグラフ・ヒルといった地区がある。またその近くには1860年代にできたサンフランシスコのチャイナタウンもある。",
"title": "地理"
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"text": "ミッション地区は、19世紀、「カリフォルニオ」と呼ばれるラテンアメリカ系市民や、ドイツ、アイルランド、イタリア、スカンディナヴィアからの移民労働者が住む街であった。1910年代、中央アメリカ系移民がこの街に住みつき、1950年代にはメキシコからの移民が取って代わった。現在はヴァレンシア通りを中心にジェントリフィケーションが急速に進んでいる。1960年代のヒッピー文化を育てたヘイト・アシュベリー地区は、高級なブティックが立ち並ぶ街へと変貌し、チェーン店の開業に当たっては論争も起きた。一方ではボヘミアンな雰囲気も残っている。カストロ通り付近(昔はユーレカ・バレーと呼ばれていた地域)はゲイカルチャーの中心地である。",
"title": "地理"
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"text": "ポスト・ストリート沿いには、サンフランシスコ・ジャパンタウン(日本人街)がある。第二次世界大戦の時には、ここに住む日系人たちも強制収容された。そのころ、その近くのウェスタン・アディション地区には多くのアフリカ系アメリカ人が流れ込んできた。アラモ・スクエア(英語版)の近くには「ペインテッド・レディー(化粧をした婦人たち)」と呼ばれるビクトリア様式の建物が並び、パシフィック・ハイツには1906年サンフランシスコ地震の後に富裕層が邸宅を構えるようになった。その更に北、マリナ・ディストリクトは、若いビジネスマンたちが住む活気のある街である。",
"title": "地理"
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"text": "ゴールデン・ゲート・パークの北に位置し、西は太平洋まで広がる広大な地域がリッチモンド・ディストリクトであり、その中には「ニュー・チャイナタウン」と呼ばれる場所もあるが、その他のアジアやロシア系移民もたくさん住んでいる。ゴールデン・ゲート・パークの南には、アジア系住民が多く住むサンセット・ディストリクトが広がる。リッチモンドとサンセットの両地区は、中流階級の居住地である。西側を「アウター・リッチモンド」と「アウター・サンセット」、東側を「インナー・リッチモンド」と「インナー・サンセット」と呼ぶこともある。一方、市南東部のベイビュー・ハンターズポイント地区は最貧地区で、高い犯罪率が問題となっている。ここには都市再開発の計画があるが、賛否をめぐり議論の的となっている。",
"title": "地理"
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"text": "SoMa(サウス・オブ・マーケット)地区は、再開発によって古い工業の街から生まれ変わり、1990年代後半のインターネットバブルを経て超高層ビルが立ち並ぶようになった。サウスビーチ地区も発展しており、さらに続いてミッション・ベイ地区も カリフォルニア大学サンフランシスコ校の第2キャンパス設置を中心に再開発が進んでいる。ミッション・ベイの南東にあるポトレロ・ヒルからは、サンフランシスコのダウンタウンを見渡すことができる。",
"title": "地理"
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"text": "サンフランシスコ市レクリエーション・公園局が管理する市立公園は、200を超える。その中でも最大で、かつ最も有名なのが、ゴールデン・ゲート・パークである。市の中央部から、西に向かい太平洋まで帯状に広がっている。昔は自然の草木や砂丘に覆われていたが、1860年代に公園としての整備が始まり、何千種もの植物が移植された。ジャパニーズ・ティー・ガーデン、花の温室、サンフランシスコ植物園などの施設がある。淡水湖のマーセド湖の近くには、250種以上の動物(多くが絶滅危惧種)がいる市立のサンフランシスコ動物園がある。",
"title": "地理"
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"text": "一方、カリフォルニア州公園・レクリエーション局の運営する州立公園は、キャンドルスティック・ポイント州立レクリエーション地域だけである。",
"title": "地理"
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"text": "ゴールデン・ゲート国立保養地は、面積3万3000haの自然保護区である。アメリカの国立公園の中でも訪問者が多く、年間1300万人が訪れる。サンフランシスコ市内にあるいくつかの公園と、ほとんどのビーチがこの国立レクリエーション地域に属する。オーシャン・ビーチは太平洋に面し、サーフィンがさかんである。ベーカー・ビーチは、ゴールデン・ゲート海峡の西の入江にあり、昔の要塞であるプレシディオの一部に当たる。プレシディオの中には、クリッシー・フィールドという公園もある。ここは、以前は飛行場であったが、自然の姿であった塩沼を復元している。国立レクリエーション地域の中には、そのほかフォート・ファンストン、ランズ・エンド、フォート・メイソン、アルカトラズ島もある。これとは別に、アメリカ合衆国国立公園局が管理する公園としてサンフランシスコ国立海洋歴史公園がある。",
"title": "地理"
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"text": "この土地に人が居住していた最古の痕跡は、紀元前3000年に遡る。",
"title": "歴史"
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"text": "ガスパル・デ・ポルトラ率いるスペイン人の入植者が1769年11月2日に到達した。記録されている中ではヨーロッパ人による最初のサンフランシスコ湾到達ではある。 しかし、それまではインディアン部族オーロネ族のグループがいくつかの小さな村に分かれて住んでいる状態であった。 その7年後の1776年3月28日、スペイン人によってサンフランシスコ要塞(英語版)が築かれ、続いてサンフランシスコ・デ・アッシス伝道所が建設された。",
"title": "歴史"
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"text": "1821年、スペインからのメキシコ独立革命により、この地はメキシコの一部となった。メキシコの統治の下、伝道所の制度は徐々に廃止され、その土地は民営の牧場に転換されていった。 1835年、イギリス人ウィリアム・リチャードソンが現在のポーツマス・スクエアに当たる船着場近くに初めて独立の自作農場を作った。 彼は、フランシスコ・デ・ハロ市長とともに街路計画を立て、「イェルバ・ブエナ」と名付けられたこの街にアメリカの入植者が集まってくるようになった。 米墨戦争中の1846年7月7日、アメリカ軍のジョン・スロート代将がカリフォルニアをアメリカの領土と宣言した。翌1847年、イェルバ・ブエナはサンフランシスコと改名され、メキシコはグアダルーペ・イダルゴ条約で正式にこの一帯の領地をアメリカに割譲した。サンフランシスコは、港として、また海軍基地としても絶好の立地にあったが、当時はまだ住みにくい小さな植民地であった。",
"title": "歴史"
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"text": "ところが、カリフォルニア・ゴールドラッシュによって、金を求めて多くの人が押し寄せた。 サワードウ・ブレッドを携えた人夫 がこの街に集まり、人口は1848年の1000人から1849年には2万5000人へと増加し、競合するベニシアを超えるようになった。莫大な富を手に入れられるという望みは大きく、船で到着した者は金鉱へと駆け出し、港にはたくさんの船のマストが立ち並んだ。 サンフランシスコに市場ができると東海岸と西海岸を「陸路のパナマ」で繋いだ航路ができ、米国は本格的に太平洋航路の開拓に乗り出すことになる。",
"title": "歴史"
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"text": "一方、短期間に多くの移民が殺到したことから、1850年代には財産や自由、人倫を保護する名目で自警団がたびたび組織された。 1856年5月には連邦政府の警察権や司法権を超越した数千人規模の自警団が作られ、約3か月の間事実上の軍政状態となった。 1850年協定によってカリフォルニアは州の資格を得、アメリカ軍はサンフランシスコ湾を防衛するためゴールデンゲート海峡の砦フォート・ポイントと、アルカトラズ島の砦を築いた。 1859年のカムストック鉱脈をはじめとする銀の発見も、急速な人口増大を更に後押しした。 鉱山の一旗組の中には無法者も多く、バーバリコースト地区は、犯罪、売春、ギャンブルの巣窟として悪名をとった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 41,
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"text": "ゴールドラッシュで成功した多くの企業家が、その財を元手に事業を展開した。 1852年にはウェルズ・ファーゴが設立され、1864年にはカリフォルニア銀行が設立された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "サンフランシスコ港の発展により、街は交易の中心地となった。 リーヴァイ・ストラウスは衣類の事業を、ドミンゴ・ギラーデリーはチョコレート製造業を始めた。 様々な移民労働者の存在により、街には多様な文化が入り交じり、例えば中国人の鉄道労働者によってチャイナタウンが生まれた。 1873年にケーブルカーが敷かれ、クレイ・ストリートの急な坂を上るようになった。ビクトリア様式の家々が立ち並ぶようになり、広い公園の必要が叫ばれるようになって、ゴールデン・ゲート・パークの計画につながった。 学校、教会、劇場、その他様々な施設が建てられた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 43,
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"text": "また、サンフランシスコ要塞は、太平洋岸におけるアメリカの最も重要な軍事施設となった。 20世紀を迎える時点で、サンフランシスコは、その華やかさ、豪華なホテル、ノブヒル地区のけばけばしい邸宅、そして芸術の繁栄で知られるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1906年4月18日午前5時12分、サンフランシスコ地震がサンフランシスコ市内及びカリフォルニア北部を襲った。建物は倒壊し、破裂したガス管が引火して火災が発生し、数日間にわたって街中を焼き尽くした。水道管は使えなくなっていたので、サンフランシスコ要塞の砲兵隊は建物をダイナマイトで破壊することで防火帯を作り、火を封じ込めようとした。 街の4分の3以上が灰燼に帰し、ダウンタウンの中心部はほとんど焼けてしまった。 当時の記録によれば、498人が命を落としたとされるが、現代の推計では死者は数千人に上るだろうと考えられている。市の人口40万人のうち半数以上が住む家を失った。 避難者は、しばらくの間、ゴールデン・ゲート・パークや、要塞や、海岸などに設けられた間に合わせのテント村で生活した。また、サンフランシスコの東のイーストベイまで移住した人も多い。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "その後、復興が急ピッチで進んだ。街路を一から設計しなおすよう求める声もあったが、サンフランシスコ市民は、スピードを優先した。 アマデオ・ジアニーニが創設したバンク・オブ・イタリー(後のバンク・オブ・アメリカ)は、生計の手段を奪われた人々に貸出しを行った。ノブヒル地区の倒壊した邸宅は、豪華ホテルとなった。サンフランシスコ市庁舎は、見事なボザール様式で再建され、1915年のサンフランシスコ万国博覧会でその再生が祝われた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "その後、サンフランシスコは、金融センターとしての地位を強固なものにしていった。 1929年のウォール街大暴落の時でさえ、サンフランシスコの銀行は一つも破綻しなかった。 世界恐慌の最中も、サンフランシスコではサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ(1936年完成)とゴールデン・ゲート・ブリッジ(1937年完成)という2大プロジェクトが同時に進行していた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 47,
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"text": "なお、同じころ、軍事施設だったアルカトラズ島が連邦刑務所となり、アル・カポネ、マシンガン・ケリー、「バードマン」と呼ばれたロバート・フランクリン・ストラウドなどがここに収容された。さらに、1939年から1940年にかけては2度目の国際博覧会となるゴールデン・ゲート国際博覧会が開かれ、その会場として湾内に人工島トレジャー島が造成された。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 48,
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"text": "第二次世界大戦中、ハンターズ・ポイント海軍造船所は軍事活動のハブとなり、フォート・メイソンが太平洋戦域に出発する兵士の乗船場となった。 雇用の爆発的な増大により、特に南部からのアフリカ系アメリカ人が職を求めて集まってきた。 戦後、港に帰ってきた復員兵や、それまでに集まっていた労働者の多くが、そのままサンフランシスコに留まった。1945年、国際連合憲章がこの地で起草され、署名されたほか、太平洋戦争を正式に終結させるサンフランシスコ平和条約が締結された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1950年代・1960年代の都市開発プロジェクトにより、市西部の取り壊しと再開発が進み、新しい高速道路の建設が始まった。 もっとも、間もなく市民の反対運動が起こり、建設は間もなく停止に追い込まれた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 50,
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"text": "1972年、トランスアメリカ・ピラミッドビルが完成した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 51,
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"text": "1980年代にはサンフランシスコの「マンハッタン化」が進み、ダウンタウンに多数の高層ビルが立ち並ぶようになり。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 52,
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"text": "港湾機能が次第にオークランド港に移転していくに伴って、市の製造業人口は減少を始め、代わって市の経済における重要性を増したのが観光である。 郊外の発展が著しく、白人人口が市内を去り、アジア系・ラテンアメリカ系移民が流入した。",
"title": "歴史"
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"text": "また、戦後、サンフランシスコはアメリカのカウンターカルチャーの舞台でもあった。 1950年代、ビート・ジェネレーションの作家たちによってサンフランシスコ・ルネッサンスが提唱され、ノースビーチ地区がその中心地となった。 バークリーやオークランドとともに、サンフランシスコはアメリカでもベイエリアのリベラルな都市として知られるようになった。 1960年代には、ヒッピーがヘイト・アシュベリー地区に集まり、1967年のサマー・オブ・ラブでその頂点を迎えた。 1970年代には、サンフランシスコは性的少数者(LGBT)の権利運動の中心地となり、カストロ通りはゲイ・タウンとして著名になった。活動家のハーヴェイ・ミルクがサンフランシスコ市会議員に当選したが、1978年、ジョージ・マスコーニ市長とともに暗殺された。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "1989年にはロマ・プリータ地震が、サンフランシスコを含むベイ・エリアを襲った。マリナ地区やSoMa(サウス・オブ・マーケット)地区では建物の倒壊が激しく、エンバカデロ・フリーウェイ(州道480号)や、セントラル・フリーウェイの多くの部分が崩落した。なお、こうした高速道路の破壊を機に、市は歴史的な街並みの再建へ転じることになった。",
"title": "歴史"
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"text": "1990年代後半のインターネット・バブル(ドットコム・バブル)の中、ベンチャー企業が経済の原動力となった。多くの起業家やコンピューター・アプリケーション企業がこの街に集まり、続いてマーケティングや営業の専門職が住むようになって、一時期は荒廃していた地区でジェントリフィケーションが進んだ。",
"title": "歴史"
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"text": "しかしながら、2001年頃にバブルが崩壊すると、これらの企業の多くが倒産し、その従業員も街を去った。中心市街地では貧困と荒廃が進み、かつての華やかさは失われつつある。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "とはいえ、その後もハイテク産業と起業家精神はサンフランシスコの経済を支える屋台骨であり続けている。2008年からウィキメディア財団も事務局を置く。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "1950年代におけるビート・ジェネレーションと言われる作家・芸術家らの流入、1960年代のヘイト・アシュブリーにおけるサマー・オブ・ラブでピークに達した社会変動を経て、サンフランシスコはリベラル派の牙城となった。",
"title": "政治"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2006年、サンフランシスコの監理委員会(郡行政執行機関)は「ヘルシー・サンフランシスコ」プログラムを制定し、健康保険のない市民への医療に補助金を支給することを決めた。",
"title": "政治"
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{
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"text": "元はポピュラーソングや映画主題歌であった2曲が制定されている。",
"title": "政治"
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{
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"tag": "p",
"text": "市政を握っているのは民主党及びアメリカ緑の党であり、1988年以来の大統領選挙や上院議員選挙で共和党の得票率は20%未満である。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 62,
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"text": "サンフランシスコは Sister Cities International, Inc. (SCI) によって指定された、15の姉妹都市を有している。",
"title": "対外関係"
},
{
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"text": "以下はサンフランシスコ市のホームページに掲載はされているが、相手側自治体は姉妹都市解消を主張している。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 64,
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"text": "Japantown(日本町, Little Osaka, J town)サンフランシスコの Western Addition にある6平方ブロックの地域。 日本や韓国、中華のレストラン、スーパーマーケット、ショッピングモール、ホテル、銀行、紀伊國屋書店の支店など多数の店がある。 Post Street が大通りで、中心には1968年開設の Japan Center(3つの日系ショッピングセンターと Peace Pagoda がある)がある。パゴダは大阪の人々によって寄贈された。",
"title": "対外関係"
},
{
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"tag": "p",
"text": "カリフォルニア州北部最大の日本町で、第二次世界大戦前からある日本町である。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "日本人のサンフランシスコ移住は、19世紀末に始まり、1884年には約200人ほどいた、1886年には領事館調べで約500人、実際には1000人近くがいた。",
"title": "対外関係"
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{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "日本人の居住はその後も増え続け、サンフランシスコは排日の本場と言われるほど米国白人からの反発を買うようになった。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "日本の真珠湾攻撃後、アメリカ政府は日系アメリカ人を強制収容所に収容した(日系人の強制収容)。 その後は軍需産業を探しに来たアフリカ系アメリカ人が居住するようになった。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "戦後になると、一部の日本人は戻り地域の再復興を行った。1960年代から1980年代の大規模な再開発の時期になると、多くのアフリカ系アメリカ人は今日の居住地や西部(Filmore District)、東部(Tenderloin)、南部(Hunters Point)へ移動した。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "同時に多くの日系アメリカ人は戻り、新日本移民の移住、日本政府、企業による投資が行われた。",
"title": "対外関係"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "サンフランシスコは半島に突き出た丘陵地帯という地形から、アメリカ国内ではニューヨークに次いで公共交通機関への依存度が高い大都市である。また、市内人口がそこまで多くはなく、事業所もサンフランシスコの中心部だけではなくベイエリア全体に分散していることから、地下鉄はBARTやMuniのマーケットストリート区間を除いて発達せず、路面電車やトロリーバスの比重が高い。",
"title": "交通"
},
{
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"tag": "p",
"text": "サンフランシスコ国際空港にはユナイテッド航空やアメリカン航空、デルタ航空やアラスカ航空などの国内線が多数発着するほか、全日空(ANA)、日本航空やチャイナエアライン、ブリティッシュ・エアウェイズやエールフランスをはじめとする国際線も多く発着している。 また、対岸のオークランド国際空港もサンフランシスコ地域の主要空港の1つとして使用されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "サンフランシスコ湾をはさんだ対岸のエメリービル(またはオークランド)からアムトラックの列車が発着している。それらの列車を利用するためにサンフランシスコのダウンタウンから連絡バスが運行されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "サンフランシスコは水路に遮られているために、通過する道路は少ない。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "主要な高速道路としては、ベイブリッジのサンフランシスコ側を基点としてベイブリッジを渡り東に伸びる州間高速道路80号線(I-80)、サンフランシスコ中心街から南に延びるインターステート280号線、中心街から南部と北部に延びる国道101号線がある。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "市内は坂が多い上に半島であるため土地もないため、駐車場料金が非常に高い。そのため、後述のBARTやカルトレインなどの郊外の駅の多くに駐車場が併設されていて、これを使ったパークアンドライドが盛んである。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "サンフランシスコフェリービルはアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定される文化財で、それ自体が観光名所となっている。サンフランシスコ湾内の各地に向かう便がある。",
"title": "交通"
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{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "フィナンシャル・ディストリクトやユニオン・スクエア周辺のような商業・ショッピングの中心地は、世界的に知られている。同時に、それを取り巻く多用途(商業・居住混在)地域も文化的な多様性があり、中心部から気軽に歩いて足を延ばせることから、サンフランシスコの特色となっている。そのため、サンフランシスコに対しては「最も歩きやすい街」という評価もある。",
"title": "観光"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "これらの多用途地区には、ビジネス、レストラン、コンサート会場などがあり、多くの市民や観光客が利用している。カウ・ホロー地区のユニオン・ストリートや、ノイ・バレー地区の24番ストリートのように、ブティック、カフェ、ナイトスポットが混じる街もある。こうした街づくりは、SOMA(サウス・オブ・マーケット)地区におけるビジネスと住民サービスが並行する都市再開発などにも影響を及ぼしている。",
"title": "観光"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "シリコンバレーを中心としたITブームや、最近のインターネットバブルによりサンフランシスコの生活水準は向上し、世界中から大卒クラスの若いホワイトカラー層が集まってきている。",
"title": "文化・名物"
},
{
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"tag": "p",
"text": "サウスビーチ地区からミッション・ベイ地区にかけて、エンバーカデロの再開発が進んだ。それにつれて、ブルーカラー層、中・低所得者層が住んでいた地区の多くでも、ジェントリフィケーションが進行した。不動産価格と世帯所得はいずれもアメリカ国内トップクラスへ跳ね上がった。",
"title": "文化・名物"
},
{
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"tag": "p",
"text": "大型のレストラン、小売店、エンターテインメント施設が誕生した。生活費の高騰により、中・低所得者層は街中を去ってベイ・エリアの郊外や、カリフォルニアセントラルヴァレーへ移り住んでいった。",
"title": "文化・名物"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "サンフランシスコは、誕生以来、今日に至るまで、アジアやラテンアメリカの移民を多く受け入れ、国際色あふれる街となっている。 市民の39%が海外生まれで、こうした市民の需要に応える会社や施設が集まった地区も多い。 中でも、1970年代から急増した中国系移民は、古くからチャイナタウンを中心に栄えてきたコミュニティを活性化し、毎年行われる旧正月の祭りは、中国国外で最大のものに成長した。",
"title": "文化・名物"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また、ゲイ人口が多く、その政治的・文化的な影響力も大きい。 世界のゲイの人々にとっては最も人気のある観光地であり、世界最大・最古のプライド・パレードである「サンフランシスコ・プライド」が開かれる。",
"title": "文化・名物"
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] | サンフランシスコ市郡、通称サンフランシスコ は、アメリカ合衆国西海岸にあるカリフォルニア州の北部に位置する都市であり、北米有数の世界都市。 | {{Otheruses|アメリカ合衆国のサンフランシスコ|その他|サンフランシスコ (曖昧さ回避)}}
{{世界の市
|正式名称 = サンフランシスコ市郡
|公用語名称 = {{lang|en|City and County of San Francisco}}
|愛称 = {{lang|en|The City by the Bay, Fog City}}
|標語 =
|画像 = San Francisco Collage Av9.jpg
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|市旗 = Flag of San Francisco.svg
|市章 = SFSEAL.svg
|位置図 = California county map (San Francisco County enlarged).svg
|位置図サイズ指定 = 200px
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|下位区分名 = {{USA}}
|下位区分種類1 = [[アメリカ合衆国の州|州]]
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|最高行政執行者称号 = [[サンフランシスコ市長|市長]]
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|総面積(平方キロ) = 600.6
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|市街地面積(平方マイル) =
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|標高(フィート) = 52
|公式ウェブサイト = {{URL|https://sfgov.org}}
|備考 =
}}
'''サンフランシスコ市郡'''(サンフランシスコしぐん、{{lang-en|City and County of San Francisco}}、[[漢字|漢字表記]]「'''桑港'''」)、通称'''サンフランシスコ'''({{lang|en|San Francisco|}})<ref>{{IPA-en|ˌsæn frənˈsɪskoʊ|}}、{{IPA-en|ˌsan franˈsɪskəʊ|}}</ref> は、[[アメリカ合衆国]]西海岸にある[[カリフォルニア州]]の北部に位置する[[都市]]であり、北米有数の[[世界都市]]。
== 概要 ==
[[ロサンゼルス]]と共にカリフォルニア州の経済、工業の中心地として知られている。2022年9月に[[イギリス]]の[[シンクタンク]]が公表した調査によると、サンフランシスコは世界5位の[[金融センター]]である<ref>[https://www.longfinance.net/programmes/financial-centre-futures/global-financial-centres-index/ The Global Financial Centres Index] 2022年9月24日閲覧。</ref>。
サンフランシスコ自体の人口は80万5235人(2010年国勢調査)だが、対岸の[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]などを含めた都市圏([[アメリカ合衆国大都市統計地域|アメリカ合衆国大都市統計地域:MSA]])の人口は472万9483人にも上り、全米第12位の規模。更に南岸の[[サンノゼ]]を加えた[[サンフランシスコ・ベイエリア]]全体の人口は966万6055人で広域都市圏([[合同統計地域|合同統計地域: CSA]])としては全米6番目の規模である(いずれも2010年国勢調査)。それゆえに大規模な[[ダウンタウン (曖昧さ回避)|ダウンタウン]]が形成されており、近代的なビルが建ち並ぶ。[[シリコンバレー]]や[[カリフォルニア大学バークレー校]]にも近く、コンピュータ系の企業も多い。
気候は[[地中海性気候]]に属し、一年を通して気温の差が比較的小さく、住みやすい都市である。急な坂が多く、深い[[霧]]に覆われることでも有名である。都心から20kmほど南下すると、[[サンフランシスコ国際空港]]がある。
観光地としての評価も非常に高い都市であり、外国人のみならず、アメリカ人の間でも訪れたい都市の上位にランクされている。有名な観光スポットとして[[ゴールデン・ゲート・ブリッジ]](金門橋)や[[フィッシャーマンズワーフ (サンフランシスコ)|フィッシャーマンズワーフ]]、[[ツインピークス]]等が挙げられる。市内を走る伝統ある[[サンフランシスコ・ケーブルカー|ケーブルカー]]も人気が高い。
アメリカの[[シンクタンク]]が[[2017年]]に発表した総合的な[[世界都市]]ランキングにおいて、世界13位の都市と評価された<ref>[http://www.joneslanglasalle.co.jp/japan/ja-jp/Documents/New%20Release/20171023-JLL-DecodingCityPerformance.pdf JLL、世界の都市比較インデックスを分析「都市パフォーマンスの解読」を発表] JLL 2017年10月25日閲覧。</ref>。アメリカの都市では[[ニューヨーク]]、[[ロサンゼルス]]、[[シカゴ]]に次ぐ4位である。<gallery>
File:San Francisco City Hall September 2013 panorama 3.jpg|[[サンフランシスコ市庁舎]]
File:Ferry Building - San Francisco - California.jpg|[[サンフランシスコフェリービル]]
File:Alcatraz 2020 01.jpg|[[アルカトラズ島]]
ファイル:SF Japanese Garden.JPG|[[ジャパニーズ・ティー・ガーデン|日本茶庭園]]
</gallery>
===地名について===
地名は[[キリスト教]]の[[フランシスコ会]]の[[修道士]]が創設者の[[アッシジのフランチェスコ|聖フランシスコ]]にちなみ名付けた。
漢字では、'''桑港'''や'''旧金山'''と表記される。'''桑港'''は、「サンフランシスコ」を音訳した「桑方西斯哥」の頭文字「桑」(サン)に、[[港町]]である事を示す「港」を加えたものである。この漢字表記は、現地の[[日系]]社会の商店や[[日本語学校]]などの名称によく見られる。一例として、ジャパンタウン(日本人街)にある曹洞宗の寺院「日本山桑港寺(そうこうじ)」がある。一方の'''旧金山'''('''舊金山''')は、[[1849年]]に起こった[[カリフォルニア・ゴールドラッシュ]]に由来する。
アメリカの他地域では頭文字の「SF」「フリスコ(Frisco)」「サンフラン」(San-Fran)の略称で呼ばれることもある。日本では、特に(航空機での渡航の対象として)「シスコ」の略称で呼ばれることも多い。地元とベイエリア周辺では単純に愛情を込めて「the city」と呼ぶ。
==地理==
===地勢===
[[ファイル:San Francisco Landsat7 Lg.jpg|right|upright|thumb|200px|サンフランシスコ半島の衛星写真。]]
サンフランシスコは、[[アメリカ西海岸]]、[[サンフランシスコ半島]]の先端に位置し、半島の周囲をめぐる[[太平洋]]と[[サンフランシスコ湾]]の広い海域も市の領域に含まれる。 [[アルカトラズ島]]、[[トレジャー島]]、{{仮リンク|イェルバ・ブエナ島|en|Yerba Buena Island}}、[[アラメダ (カリフォルニア州)|アラメダ島]]の一部、レッドロック島、エンジェル島といった島々も市に属する。また、太平洋の43km沖合にある無人島のファラロン諸島も、同様に市に属する。本土部分はおおまかに7マイル(11.3キロメートル)四方の正方形をなしているとよく表現される。ただし、水域を含む総面積は232[[平方マイル|mi<sup>2</sup>]] (600[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]) である。
[[ファイル:Lombardst.jpeg|thumb|upright|left|ロシアン・ヒルから、ロンバード・ストリートの曲がりくねった坂道を下ってくる車。]]
サンフランシスコは、丘が多いことで有名である。市内には50以上の丘がある<ref name=peak_experience>{{Cite news | last = Graham | first = Tom | title = Peak Experience | work = San Francisco Chronicle | page = PK-23 | publisher = Hearst Communications | date = 2004-11-07 | url = http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?file=/chronicle/archive/2004/11/07/PKGJ99K7KD1.DTL | accessdate = 2008-06-13}}</ref>。[[ノブ・ヒル]]、{{仮リンク|パシフィック・ハイツ (サンフランシスコ)|label=パシフィック・ハイツ|en|Pacific Heights, San Francisco}}、[[ロシアン・ヒル]]など、丘の名前からとられた町名もある。市の地理的中央部(ダウンタウンから見て南東方面)には、高い丘が連なっており、この辺りは人口密度が低い。[[ツインピークス]]は、市の中でも高い場所に二つ並ぶ丘であり、展望場所として人気がある。標高が最も高い丘は{{仮リンク|マウント・デビッドソン|en|Mount Davidson, San Francisco, California}}で、282メートル(925フィート)であるが、1934年、頂上に高さ31メートル(103フィート)の十字架が建てられた<ref>{{Cite news | first=Henry K. | last = Lee | title = Mount Davidson Cross Called Landmark by Panel | url = http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/1997/01/16/MN71385.DTL | publisher = San Francisco Chronicle | date = 1997-01-16 | accessdate = 2008-06-17}}</ref>。この付近には、赤と白に塗られたラジオ・テレビ電波塔の[[スートロ・タワー]]がそびえ立っている。
[[サンアンドレアス断層]]と{{仮リンク|ヘイワード断層|en|Hayward Fault}}という二つの[[断層]]が、市域の近くを走っており、これが、多くの[[地震]]を引き起こすこととなっている。1906年と1989年の大地震を引き起こしたのは、いずれもサンアンドレアス断層のずれが原因であった。小規模の地震は、日常的に起こっている。大地震の脅威にどう対処するかが、市のインフラ整備の上でも重要な要素となっている。市はこれまで度々建物の耐震基準を引き上げており、古い建物については補強工事を、新規の建設については高い耐震技術水準を求めている<ref>{{Cite news | first = Charles | last = Smith | title = What San Francisco didn't learn from the '06 quake | url = http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2006/04/15/HOGQ9I7P2T1.DTL | publisher = San Francisco Chronicle | date = 2006-04-15 | accessdate = 2008-06-30}}</ref>。しかし、今でも耐震性の弱い中小の建物が何千棟も残っている<ref>{{Cite news | first = Robert | last = Selna | title = S.F. leaders ignore weak buildings' quake risk | url = http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?file=/c/a/2008/06/29/MNDD110U2E.DTL | page = A-1 | publisher=San Francisco Chronicle | date = 2008-06-29 | accessdate = 2008-06-30}}</ref>。
サンフランシスコの陸地は、埋立てによって広がっている。マリナ地区、ハンターズ・ポイント地区のそれぞれ全部、また{{仮リンク|エンバーカデロ|en|Embarcadero (San Francisco)}}地区の大部分は、埋立地にある。トレジャー島は、湾内から浚渫した土砂や、ベイ・ブリッジ建設中にイェルバ・ブエナ島のトンネルを掘削した際の土砂で作られた人工島である。これらの土地は地震に対してもろく、[[液状化現象]]によって建物等に甚大な被害が及ぶことは、1989年の[[ロマ・プリータ地震]]の時、マリナ地区で見られたとおりである<ref>{{Cite web | title = Liquefaction Damage in the Marina District during the 1989 Loma Prieta earthquake | publisher = California Geological Survey | url = http://www.conservation.ca.gov/cgs/information/outreach/Documents/Marina%20Poster%2011x17rw2b.pdf | format = PDF | accessdate = 2008-06-17}}</ref>。
=== 気候 ===
[[ファイル:San francisco in fog with rays.jpg|thumb|200px|サンフランシスコの霧は夏の風物詩である。]]
サンフランシスコの気候は、[[地中海性気候]]であり、[[ケッペンの気候区分]]では'''Csb'''に当たる。冬は温暖で降水量が多く、夏は気温が低く、乾燥している<ref>{{Cite web |url=http://ggweather.com/sf/narrative.html |title=Climate of San Francisco: Narrative Description |publisher=Golden Gate Weather Services |accessdate=2006-09-05}}</ref>。三方を海水面に囲まれているため、太平洋の冷たい[[カリフォルニア海流]]の影響により、季節による温度変化が少ない穏やかな気候である。気温が24°Cを超えるのは、年平均わずか29日である<ref name="Weatherbase">{{Cite web | url = http://www.weatherbase.com/weather/weather.php3?s=149427&refer= | title = Weatherbase: Historical Weather for San Francisco, California. Summary of weather data. | publisher = weatherbase.com |accessdate=2010-08-18}}</ref>。アメリカの主要都市の中では夏の気温が最も低い<ref>{{Cite web|url= http://www.currentresults.com/Weather-Extremes/US/coldest-cities-summer.php |title= Coolest US Cities in Summer |publisher=Current Results Nexus |author= Liz Osborn |accessdate=2010-08-20 }}</ref>。5月から10月までは乾燥しており、平均最高気温は月によって18°C から21°C 、平均最低気温は月によって11°C から13°Cである。一方,11月から4月までは雨が多く、平均最高気温は月によって14°Cから18°C、平均最低気温は月によって8°Cから11°Cである。雨の日は年平均67日、年平均降水量は538mm。雪が降ることは極めて稀で、記録の残る1852年以来、わずか10回しかない<ref>{{Cite web |url=http://ggweather.com/sf/snow.html |title=Climate of San Francisco: Snowfall |publisher= Golden Gate Weather Services |accessdate=2006-12-03}}</ref>。
[[アメリカ国立気象局]]による記録史上の最高気温は、1988年7月17日及び2000年6月14日の39°C、最低気温は1932年12月11日の零下3°Cである<ref>{{Cite web | url = http://www.wrcc.dri.edu/cgi-bin/cliGCStT.pl?ca7772 | title = San Fran Mission Dolore, California (047772) Period of Record General Climate Summary - Temperature
| work = Western Regional Climate Center | publisher = Desert Research Institute | year = 2010 | accessdate = 2010-07-25}}</ref>。
カリフォルニア内陸の渓谷地帯で、暖められた空気が上昇して気圧が低くなるため、[[北太平洋高気圧]]からの風がゴールデン・ゲート海峡を通って内陸に向かい流れ込む。これによって、サンフランシスコ特有の夏期の霧が発生する<ref>{{Cite web | last = Gilliam | first = Harold | author = Harold Gilliam | publisher= Bay Nature |title = Cutting Through the Fog: Demystifying the Summer Spectacle | year = 2002 | month = 07 | url = http://baynature.org/articles/jul-sep-2002/cutting-through-the-fog |accessdate=2010-08-19}}</ref>。ただし、市の中央部に連なる高い丘が海風をさえぎるため、市東部では霧は少なく、晴れの日が多く、降水量も西部より少ない。{{Weather box|location=サンフランシスコの気候|metric first=Y|single line=Y|Jan high C=13.6|Feb high C=15.4|Mar high C=16.4|Apr high C=17.1|May high C=17.7|Jun high C=18.9|Jul high C=18.8|Aug high C=19.3|Sep high C=21.0|Oct high C=20.6|Nov high C=17.6|Dec high C=14.1|year high C=17.5|Jan mean C=10.6|Feb mean C=12.2|Mar mean C=12.9|Apr mean C=13.4|May mean C=14.2|Jun mean C=15.3|Jul mean C=15.4|Aug mean C=15.9|Sep mean C=17.1|Oct mean C=16.6|Nov mean C=14.1|Dec mean C=11.1|year mean C=14.1|Jan low C=7.6|Feb low C=8.8|Mar low C=9.4|Apr low C=9.8|May low C=10.6|Jun low C=11.6|Jul low C=12.1|Aug low C=12.5|Sep low C=13.1|Oct low C=12.4|Nov low C=10.6|Dec low C=8.2|year low C=10.6|precipitation colour=green|Jan precipitation mm=112|Feb precipitation mm=97|Mar precipitation mm=72|Apr precipitation mm=36|May precipitation mm=14|Jun precipitation mm=4|Jul precipitation mm=0|Aug precipitation mm=1|Sep precipitation mm=6|Oct precipitation mm=27|Nov precipitation mm=65|Dec precipitation mm=104|Jan rain days=11|Feb rain days=11|Mar rain days=10|Apr rain days=6|May rain days=3|Jun rain days=1|Jul rain days=0|Aug rain days=1|Sep rain days=1|Oct rain days=4|Nov rain days=8|Dec rain days=11|source 1=https://www.weatherbase.com/weather/weatherall.php3?s=149427&units=metric}}
===人口===
;人口動態
{{Historical populations|type=USA
|1848|1000
|1849|25000
|1852|34776
|1860|56802
|1870|149473
|1880|233959
|1890|298997
|1900|342782
|1910|416912
|1920|506676
|1930|634394
|1940|634536
|1950|775357
|1960|740316
|1970|715674
|1980|678974
|1990|723959
|2000|776733
|2010|805235
|2012|825863
|footnote=Sources:<!--<ref name="2012-pop-estimate"/> 典拠の詳細不明のためCO--><ref name="1849pop">{{cite book
| last = Richards
| first = Rand
| title = Historic San Francisco: A Concise History and Guide
| publisher=Heritage House
| year = 1992
| isbn = 978-1-879367-00-5
| oclc = 214330849
}}</ref><ref name="SFCensus2010">{{cite web | last = Gibson | first = Campbell | title = Population of the 100 Largest Cities and Other Urban Places in the United States: 1790 to 1990 | publisher=U.S. Census Bureau | year = 1998 | month = June | accessdate =January 29, 2006|url=http://www.census.gov/population/www/documentation/twps0027/twps0027.html}}</ref><ref name="1852pop">Official 1850 census results were destroyed by fire. This 1852 figure is from a state Census. [http://www.census.gov/population/www/documentation/twps0027/tab08.txt].</ref>
{{See also|File:SFPopulation.svg|l1=Population Graph}}
}}
[[2000年]]現在の[[国勢調査]]{{GR|2}}で、この都市は人口776,733人、329,700世帯及び145,068家族が暮らしている。[[人口密度]]は合衆国内で2番目の密集都市(および5番目の密集郡)である、6,423.2/km<sup>2</sup>(16,634.4/mi<sup>2</sup>)<ref>http://gislounge.com/features/aa041101c.shtml</ref>。2,865.6/km<sup>2</sup>(7,421.2/mi<sup>2</sup>)の平均的な密度に346,527軒の住宅が建っている。この都市の人種的な構成は[[白人]]49.66%、[[黒人]]7.79%、[[インディアン]]0.45%、[[アジア]]30.84%、[[太平洋諸島]]系0.49%、その他の人種6.48%、[[混血]]4.28%である。人口の14.10%は[[ヒスパニック]]または[[ラテン系]]である。
民族構成は[[中華]]系19.6%、[[アイルランド]]系8.8%、[[ドイツ]]系7.7%、及び[[WASP]]6.1%である。サンフランシスコはアメリカ合衆国内で最大の中華系人口でありハワイ州以外で最大のアジア系人口を持っている。リッチモンド内のGeary ブルーバードは栄えた[[ロシア人|ロシア系]]コミュニティーの本拠地となっている。
329,700世帯のうち、16.6%が18歳未満の子供と一緒に生活しており、31.6%は夫婦で生活している。8.9%は未婚の女性が世帯主であり、56.0%は結婚していない。38.6%は1人以上の独身の居住者が住んでおり、9.8%は65歳以上で独身である。1世帯の平均人数は2.30人であり、結婚している家庭の場合は3.22人である。
住民は14.5%が18歳未満の未成年、18歳以上24歳以下が9.1%、25歳以上44歳以下が40.5%、45歳以上64歳以下が22.3%、および65歳以上が13.7%にわたっている。中央値年齢は36歳である。女性100人ごとに対して男性は103.4人である。18歳以上の女性100人ごとに対して男性は103.1人である。
世帯ごとの平均的な収入は55,221米ドルであり、家族ごとの平均的な収入は63,545米ドルである。男性は46,260米ドルに対して女性は40,049米ドルの平均的な収入がある。一人当たりの収入は34,556米ドルである。人口の11.3%及び世帯の7.8% は[[貧困線]]以下である。全人口のうち18歳未満の13.5%及び65歳以上の10.5%は貧困線以下の生活を送っている。
====移民====
サンフランシスコは、[[不法移民]]に対して比較的寛容なスタンスを採る[[聖域都市]]のひとつである。[[2017年]]に[[ドナルド・トランプ]]大統領が、各聖域都市に対する[[補助金]]の打ち切りを指示する[[大統領令 (アメリカ合衆国)|大統領令]]に署名した際も、大統領令の差し止めを求める訴訟を起こすなど移民を保護する姿勢を見せた<ref>{{Cite web|和書|date=2017-04-26 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM26H12_W7A420C1EAF000/ |title=米大統領令また差し止め 聖域都市への補助金停止認めず |publisher=日本経済新聞 |accessdate=2019-04-13}}</ref>。
===インディアン部族(先住民族)===
[[ファイル:Mission San Jose natives.jpg|left|200px|thumb|サンホセ伝道教会にある、「オーロネ族の踊り」の絵]]
サンフランシスコの沿岸部から山間部、モントレーには、スペイン人が「[[コスタノ族]]」と名付けた[[インディアン]]部族の「オーロネ族」が、葦を編んで家屋や[[カヌー]]を作り、漁猟や狩猟採集を営んで生活していた。しかし、19世紀に押し寄せた白人による土地収奪によって衰退し、20世紀初頭には「絶滅した」として、[[インディアン居留地|保留地]](Reservation)など、アメリカ連邦政府との連邦規定に準ずるすべての権利を剥奪された。
[[ファイル:Emeryfromhilton.jpg|right|200px|thumb|サンフランシスコ対岸の[[エメリービル]]の観光名所であるショッピング・センター「ベイ・ストリート・モール」は、ムウェクマ・オーロネ族の伝統墓地と貝塚土塁を破壊して建てられた]]
[[サンフランシスコ・ベイエリア]]には、このオーロネ族の「ムウェクマ・バンド」の部族員約400人が暮らしているが、彼らも「絶滅した」ことになっているので保留地を領有出来ない。彼らの伝統的な墓地と貝の土塁は「遺跡」扱いされて1980年代に破壊され、部族の猛抗議を無視してショッピング・センター「[[w:Bay Street Emeryville|ベイ・ストリート・モール]]」が建てられた。この「遺跡」から奪われたオーロネ族の先祖数万人分の遺骨は、[[カリフォルニア大学バークレー校]]で展示されている。
2006年9月21日に、彼らはアメリカ連邦政府から認定に関して「好意的な対応」をされており、連邦登録と「復活」への期待が高まっている。
1958年以降、保留地の解消方針に沿った「インディアン移住計画」がアメリカ連邦政府によって施行され、オーロネ族以外の多数のインディアンが周辺から流入した。現在、彼らの互助組織として「アメリカインディアンの友好の家協会(Friendship House Association of American Indian Inc)」が設置されている。
1960年代に起こったインディアンたちの権利回復要求運動「レッド・パワー運動([[:w:Red Power movement|Red Power movement]])」は、同州でも高まりを見せ、1969年には、サンフランシスコ湾に浮かぶ[[アルカトラズ島]]で、[[アルカトラズ島占拠事件]]が決行された。この1969年は、コロンブスの上陸を祝う「[[コロンブス・デー]]」の記念祝祭に対し、「インディアンを弔う日」として、サンフランシスコのインディアンたちが黒い腕章をつけ、[[ティピー]]を建てて抗議を行った最初の年となった。
1995年には、[[ディズニー]]のアニメ映画「[[ポカホンタス (映画)|ポカホンタス]]」の公開に抗議して、全米のインディアンたちによる大規模なデモ行進が行われた。
===都市景観===
{{Wide image|SanFrancisco from TwinPeaks dusk MC.jpg|800px|<center>[[ツインピークス]]からのサンフランシスコ中心部の眺望。 2006年10月</center>}}
{{Wide image|San Francisco (Evening).jpg|800px|<center>[[ツインピークス]]からのサンフランシスコ中心部の眺望。(夜) 2011年6月</center>}}
====市街====
[[ファイル:SF Chinatown CA.jpg|thumb|200px|サンフランシスコの[[チャイナタウン]]。北アメリカ最古、且つ最大規模。]]
市街を、36余ある[[サンフランシスコの地区]]、有名{{仮リンク|サンフランシスコの道路|en|List of streets in San Francisco}}などを中心に見ていくと、サンフランシスコの古くからの中心地は、市北東部の、[[マーケット・ストリート (サンフランシスコ)|マーケット・ストリート]]より北側の地域である。ここには[[フィナンシャル地区 (サンフランシスコ)|フィナンシャル地区]]があり、その近くには、ショッピング・スポットやホテルの集まった[[ユニオン・スクエア (サンフランシスコ)|ユニオン・スクエア]]もある。かつて金持ちの邸宅地だった[[ノブ・ヒル]]地区と、海沿いの[[フィッシャーマンズワーフ (サンフランシスコ)|フィッシャーマンズワーフ]]とを結ぶ急な坂には、[[ケーブルカー]]が走っている。フィッシャマンズワーフは、ダンジネスクラブ(アメリカイチョウガニ)を使った料理などで有名な観光エリアである。同じく市北東部には、曲がりくねった[[ロンバード・ストリート (サンフランシスコ)|ロンバード・ストリート]]の坂道で知られる[[ロシアン・ヒル]]、サンフランシスコの[[リトル・イタリー (サンフランシスコ)|リトル・イタリー]]地区である[[ノースビーチ (サンフランシスコ)|ノースビーチ]]、[[コイト・タワー]]のある[[テレグラフ・ヒル]]といった地区がある。またその近くには1860年代にできたサンフランシスコの[[中華街|チャイナタウン]]もある。
[[ミッション地区]]は、19世紀、「カリフォルニオ」と呼ばれるラテンアメリカ系市民や、[[ドイツ]]、[[アイルランド]]、[[イタリア]]、[[スカンディナヴィア]]からの移民労働者が住む街であった。1910年代、中央アメリカ系移民がこの街に住みつき、1950年代には[[メキシコ]]からの移民が取って代わった<ref>{{cite web | url = http://www.qualityoflife-themovie.com/website/mission.html | title = Quality of Life (film website) | work = Mission District History | author = Morgan, Benjamin (Director) | year = 2007 | accessdate = 2010-07-25}}</ref>。現在はヴァレンシア通りを中心に[[ジェントリフィケーション]]が急速に進んでいる。1960年代の[[ヒッピー]]文化を育てた[[ヘイト・アシュベリー]]地区は、高級なブティックが立ち並ぶ街へと変貌し<ref>{{cite news | title = The Haight | work = SFGate San Francisco Neighborhood Guide | publisher = Sfgate.com | url = http://www.sfgate.com/neighborhoods/sf/haight/ | accessdate = 2009-08-03}}</ref>、チェーン店の開業に当たっては論争も起きた<ref>{{cite news | first = Katherine | last = Bishop | title = Haight-Ashbury Journal; Love and Hate Linger In Ex-Hippie District | url = http://www.nytimes.com/1988/10/13/us/haight-ashbury-journal-love-and-hate-linger-in-ex-hippie-district.html?sec=&spon= | publisher = New York Times | date = 1988-10-13 | accessdate = 2009-08-03}}</ref>。一方では[[ボヘミアニズム|ボヘミアン]]な雰囲気も残っている。[[カストロ通り]]付近(昔はユーレカ・バレーと呼ばれていた地域)は[[ゲイ]]カルチャーの中心地である<ref>{{cite news | title = The Castro | work = SFGate San Francisco Neighborhood Guide | publisher = Sfgate.com | url = http://www.sfgate.com/neighborhoods/sf/castro/ | accessdate = 2009-08-03}}</ref>。
ポスト・ストリート沿いには、[[ジャパンタウン (サンフランシスコ)|サンフランシスコ・ジャパンタウン]](日本人街)がある。[[第二次世界大戦]]の時には、ここに住む[[日系人の強制収容|日系人たちも強制収容]]された。そのころ、その近くの[[ウェスタン・アディション]]地区には多くの[[アフリカ系アメリカ人]]が流れ込んできた。{{仮リンク|アラモ・スクエア|en|Alamo Square, San Francisco}}の近くには「ペインテッド・レディー(化粧をした婦人たち)」と呼ばれるビクトリア様式の建物が並び<ref>{{Cite book|和書 |year = 2015 |title = 世界の美しい色の町、愛らしい家 |publisher = [[エクスナレッジ (出版社)|エクスナレッジ]] |page = 159 |isbn = 978-4-7678-1932-7}}</ref>、[[パシフィック・ハイツ]]には1906年[[サンフランシスコ地震]]の後に富裕層が邸宅を構えるようになった。その更に北、[[マリナ・ディストリクト]]は、若いビジネスマンたちが住む活気のある街である<ref>{{cite news | title = The Marina | work = SFGate San Francisco Neighborhood Guide | publisher = SFgate.com | url = http://www.sfgate.com/traveler/guide/sf/neighborhoods/marina.shtml | accessdate = 2008-06-27}}</ref>。
[[ゴールデン・ゲート・パーク]]の北に位置し、西は太平洋まで広がる広大な地域が[[リッチモンド・ディストリクト]]であり、その中には「ニュー・チャイナタウン」と呼ばれる場所もあるが、その他のアジアや[[ロシア]]系移民もたくさん住んでいる。ゴールデン・ゲート・パークの南には、アジア系住民が多く住む[[サンセット・ディストリクト]]が広がる<ref>{{cite news | last = Chow | first = Andrew | title = Dismal APA Turnout at First Redistricting Meetings | publisher = Asian Week | date = 2002-03-22}}</ref>。リッチモンドとサンセットの両地区は、中流階級の居住地である。西側を「アウター・リッチモンド」と「アウター・サンセット」、東側を「インナー・リッチモンド」と「インナー・サンセット」と呼ぶこともある。一方、市南東部のベイビュー・ハンターズポイント地区は最貧地区で、高い犯罪率が問題となっている。ここには[[都市再開発]]の計画があるが、賛否をめぐり議論の的となっている。
SoMa(サウス・オブ・マーケット)地区は、再開発によって古い工業の街から生まれ変わり、1990年代後半の[[インターネットバブル]]を経て超高層ビルが立ち並ぶようになった。サウスビーチ地区も発展しており、さらに続いてミッション・ベイ地区も [[カリフォルニア大学サンフランシスコ校]]の第2キャンパス設置を中心に再開発が進んでいる。ミッション・ベイの南東にあるポトレロ・ヒルからは、サンフランシスコのダウンタウンを見渡すことができる。
====公園====
[[ファイル:SF Conservatory of Flowers 2.jpg|thumb|200px|left|[[ゴールデン・ゲート・パーク]]の「花の温室」]]
[[ファイル:Alamo Square with Painted Ladies, SF, CA, jjron 26.03.2012.jpg|thumb|200px|アラモ・スクエアはサンフランシスコの最も有名な公園の1つ]]
サンフランシスコ市レクリエーション・公園局が管理する市立公園は、200を超える<ref>{{cite web | url = http://sf-recpark.org/index.aspx?page=56 | title = Facility Listings | accessdate = 2010-07-25 | work = San Francisco Recreation and Parks Department | publisher = City and County of San Francisco}}</ref>。その中でも最大で、かつ最も有名なのが、[[ゴールデン・ゲート・パーク]]である<ref>{{cite web | url = http://www.tpl.org/content_documents/ccpe_Most_Visited_Parks.pdf | format = PDF | title = The Most Visited City Parks | accessdate = 2008-06-17 | date = 2007-10-11 | work = Center for City Park Excellence | publisher = The Trust for Public Land}}</ref>。市の中央部から、西に向かい太平洋まで帯状に広がっている。昔は自然の草木や砂丘に覆われていたが、1860年代に公園としての整備が始まり、何千種もの植物が移植された。[[ジャパニーズ・ティー・ガーデン]]、花の温室、[[サンフランシスコ植物園]]などの施設がある。淡水湖のマーセド湖の近くには、250種以上の動物(多くが絶滅危惧種)がいる市立の[[サンフランシスコ動物園]]がある<ref>{{cite web | title = What to See at the Zoo | publisher = San Francisco Zoo | url = http://www.sfzoo.org/openrosters/ViewOrgPageLink.asp?LinkKey=15015&orgkey=1821 | accessdate = 2008-06-14}}</ref>。
一方、カリフォルニア州公園・レクリエーション局の運営する州立公園は、キャンドルスティック・ポイント州立レクリエーション地域だけである<ref>{{cite web | title = Candlestick Point SRA | publisher = California State Parks Department | url = http://parks.ca.gov/default.asp?page_id=519 | accessdate = 2009-01-27}}</ref>。
[[ゴールデン・ゲート国立保養地]]は、面積3万3000haの自然保護区である。アメリカの[[アメリカ合衆国国立公園|国立公園]]の中でも訪問者が多く、年間1300万人が訪れる。サンフランシスコ市内にあるいくつかの公園と、ほとんどのビーチがこの国立レクリエーション地域に属する。[[オーシャン・ビーチ]]は太平洋に面し、[[サーフィン]]がさかんである。[[ベーカー・ビーチ]]は、ゴールデン・ゲート海峡の西の入江にあり、昔の要塞である[[プレシディオ (サンフランシスコ)|プレシディオ]]の一部に当たる。プレシディオの中には、クリッシー・フィールドという公園もある。ここは、以前は[[飛行場]]であったが、自然の姿であった[[塩沼]]を復元している。国立レクリエーション地域の中には、そのほかフォート・ファンストン、ランズ・エンド、フォート・メイソン、[[アルカトラズ島]]もある。これとは別に、[[アメリカ合衆国国立公園局]]が管理する公園としてサンフランシスコ国立海洋歴史公園がある。
== 歴史 ==
===先史===
この土地に人が居住していた最古の痕跡は、紀元前3000年に遡る<ref>{{cite web | url=http://www.sonoma.edu/asc/projects/pointreyes/overview2.pdf | title=Archaeological Research Issues For The Point Reyes National Seashore - Golden Gate National Recreation Area | accessdate=2008-06-12 | last=Stewart | first=Suzanne B. | year= 2003 | month=12 | format=PDF | publisher=Sonoma State University - Anthropological Studies Center}}</ref>。
===スペイン入植===
[[File:Mission San Francisco de Asis old.jpg|thumb|left|200px|サンフランシスコ・ド・アッシス伝道所]]
[[ガスパル・デ・ポルトラ]]率いる[[スペインによるアメリカ大陸の植民地化|スペイン人の入植者]]が1769年11月2日に到達した。記録されている中ではヨーロッパ人による最初の[[サンフランシスコ湾]]到達ではある。
しかし、それまでは[[インディアン]]部族[[オーロネ族]]のグループがいくつかの小さな村に分かれて住んでいる状態であった<ref name="Portola">{{cite web | title= Visitors: San Francisco Historical Information | url= http://www.sfgov.org/site/visitor_index.asp?id=8091 | date= n.d. | accessdate=2008-06-10 | publisher = City and County of San Francisco}}</ref>。
その7年後の1776年3月28日、スペイン人によって{{仮リンク|サンフランシスコ要塞|en|Presidio of San Francisco}}が築かれ、続いてサンフランシスコ・デ・アッシス伝道所が建設された。
===メキシコ統治からアメリカ領土化===
1821年、スペインからの[[メキシコ独立革命]]により、この地は[[メキシコ]]の一部となった。メキシコの統治の下、伝道所の制度は徐々に廃止され、その土地は民営の牧場に転換されていった。
1835年、イギリス人ウィリアム・リチャードソンが現在のポーツマス・スクエアに当たる船着場近くに初めて独立の自作農場を作った<ref name="Richardson">{{cite web
| last = The Virtual Museum of the City of San Francisco | title = From the 1820s to the Gold Rush | date = 2004-07-16 | url = http://www.sfmuseum.org/hist1/early.html
| accessdate = 2008-06-13 | publisher = The Virtual Museum of the City of San Francisco}}</ref>。
彼は、フランシスコ・デ・ハロ市長とともに街路計画を立て、「イェルバ・ブエナ」と名付けられたこの街にアメリカの入植者が集まってくるようになった。
[[米墨戦争]]中の1846年7月7日、アメリカ軍のジョン・スロート[[代将 (アメリカ海軍)|代将]]がカリフォルニアをアメリカの領土と宣言した。翌1847年、イェルバ・ブエナはサンフランシスコと改名され<ref>{{cite web | url = http://www.yerbabuenagardens.com/history.html | title = History of Yerba Buena Gardens | accessdate = 2008-06-13 | publisher = MJM Management Group | year = 2004}}</ref>、メキシコは[[グアダルーペ・イダルゴ条約]]で正式にこの一帯の領地をアメリカに[[メキシコ割譲地|割譲]]した。サンフランシスコは、港として、また海軍基地としても絶好の立地にあったが、当時はまだ住みにくい小さな植民地であった<ref>{{cite book | last = Wiley | first = Peter Booth | title = National trust guide- San Francisco: America’s guide for architecture and history travelers | publisher = John Wiley & Sons, Inc. | year = 2000 | location = New York | pages = 4–5 | oclc = 44313415 | isbn = 9780471191209}}</ref>。
===ゴールドラッシュ===
[[ファイル:SanFrancisco1851a.jpg|thumb|right|200px|1851年のポーツマス・スクエア。]]
ところが、[[カリフォルニア・ゴールドラッシュ]]によって、金を求めて多くの人が押し寄せた。
[[サワードウ|サワードウ・ブレッド]]を携えた人夫<ref group="注">サワードウ・ブレッドは、19世紀の西部の開拓者、鉱夫たちの必需品だった。現在ではサンフランシスコのシンボル的存在になっており、今でも市民の必需品である。{{Cite journal | last = Tamony | first = Peter | title = Sourdough and French Bread | journal = Western Folklore | volume = 32 | issue = 4 | pages = 265–270 | publisher = Western States Folklore Society | year = 1973 |month = 12 | accessdate = 2008-06-08 | doi = 10.2307/1498306}}</ref> がこの街に集まり、人口は1848年の1000人から1849年には2万5000人へと増加し<ref name="1949pop">{{cite book | last = Richards | first = Rand | title = Historic San Francisco: A Concise History and Guide | publisher = Heritage House | year = 1992 | isbn = 1-879367-00-9 | oclc = 214330849}}</ref>、競合する[[ベニシア (カリフォルニア州)|ベニシア]]を超えるようになった<ref>{{cite web | title = San Francisco's First Brick Building | publisher = The Virtual Museum of the City of San Francisco | date = 2004-07-16 | url = http://www.sfmuseum.org/hist1/brick.html | accessdate = 2008-06-13}}</ref>。莫大な富を手に入れられるという望みは大きく、船で到着した者は金鉱へと駆け出し、港にはたくさんの船のマストが立ち並んだ<ref name="buriedships">{{cite news | last = Harris | first = Ron | title = Crews Unearth Shipwreck on San Francisco Condo Project | publisher = Associated Press | date = 2005-11-14 | url = http://www.constructionequipmentguide.com/story.asp?story=6287&headline=Crews | accessdate = 2006-09-04}}</ref>。
サンフランシスコに市場ができると東海岸と西海岸を「陸路のパナマ」で繋いだ航路ができ、米国は本格的に太平洋航路の開拓に乗り出すことになる。
一方、短期間に多くの移民が殺到したことから、[[1850年代]]には財産や自由、[[人倫]]を保護する名目で[[自警団]]がたびたび組織された。
1856年5月には連邦政府の[[警察権]]や[[司法権]]を超越した数千人規模の自警団が作られ、約3か月の間事実上の[[戒厳|軍政]]状態となった<ref>田中きく代、中井義明、朝治啓三、[[高橋秀寿]](編著)『境界域から見る西洋世界』〈西洋史ライブラリー〉 ミネルヴァ書房 2012年、ISBN 978-4-623-06122-8 pp.63-76.</ref>。
[[1850年協定]]によってカリフォルニアは州の資格を得、アメリカ軍はサンフランシスコ湾を防衛するため[[ゴールデンゲート海峡]]の砦[[フォート・ポイント]]と、[[アルカトラズ島]]の砦を築いた。
1859年のカムストック鉱脈をはじめとする銀の発見も、急速な人口増大を更に後押しした<ref>{{Cite book | last = Wiley | first = Peter Booth | title = National trust guide- San Francisco: America’s guide for architecture and history travelers | publisher = John Wiley & Sons, Inc. | year = 2000 | location = New York | pages = 31–33 | oclc = 44313415 | isbn = 9780471191209}}</ref>。
鉱山の一旗組の中には無法者も多く、[[バーバリコースト]]地区は、犯罪、売春、ギャンブルの巣窟として悪名をとった<ref>{{cite book | last = Wiley | first = Peter Booth | title = National trust guide- San Francisco: America’s guide for architecture and history travelers | publisher = John Wiley & Sons, Inc. | year = 2000 | location = New York | pages = 237–238 | oclc = 44313415 | isbn = 9780471191209}}</ref>。
ゴールドラッシュで成功した多くの企業家が、その財を元手に事業を展開した。
1852年には[[ウェルズ・ファーゴ]]が設立され、1864年には[[カリフォルニア銀行]]が設立された。
===交易都市として発展===
[[サンフランシスコ港]]の発展により、街は交易の中心地となった。
[[リーヴァイ・ストラウス]]は衣類の事業を、[[ドミンゴ・ギラーデリー]]はチョコレート製造業を始めた。
様々な移民労働者の存在により、街には多様な文化が入り交じり、例えば中国人の鉄道労働者によってチャイナタウンが生まれた。
1873年に[[ケーブルカー]]が敷かれ、クレイ・ストリートの急な坂を上るようになった。ビクトリア様式の家々が立ち並ぶようになり、広い公園の必要が叫ばれるようになって、[[ゴールデン・ゲート・パーク]]の計画につながった。
学校、教会、劇場、その他様々な施設が建てられた。
また、サンフランシスコ要塞は、太平洋岸におけるアメリカの最も重要な軍事施設となった<ref>{{cite web | title = Under Three Flags | work = Golden Gate National Recreation Area Brochures | publisher = US Department of the Interior | year = 2004 | month = 11 | url = http://www.nps.gov/goga/planyourvisit/upload/3flags_7-03.pdf | format = PDF | doi = | accessdate = 2008-06-13}}</ref>。
20世紀を迎える時点で、サンフランシスコは、その華やかさ、豪華なホテル、[[ノブヒル (サンフランシスコ)|ノブヒル]]地区のけばけばしい邸宅、そして芸術の繁栄で知られるようになった<ref>{{Cite book | last = Wiley | first = Peter Booth | title = National trust guide- San Francisco: America’s guide for architecture and history travelers | publisher = John Wiley & Sons, Inc. | year = 2000 | location = New York | pages = 44–55 | oclc = 44313415 | isbn = 9780471191209}}</ref>。
===震災と火災===
[[ファイル:San francisco fire 1906.jpg|left|thumb|200px|1906年の[[サンフランシスコ地震]]とそれによる火災。]]
1906年4月18日午前5時12分、[[サンフランシスコ地震]]がサンフランシスコ市内及びカリフォルニア北部を襲った。建物は倒壊し、破裂したガス管が引火して火災が発生し、数日間にわたって街中を焼き尽くした。水道管は使えなくなっていたので、サンフランシスコ要塞の砲兵隊は建物をダイナマイトで破壊することで防火帯を作り、火を封じ込めようとした<ref name="Funston">{{cite web | title = Presidio of San Francisco: Firefighting and Dynamiting | work = Golden Gate National Recreation Area | publisher = US Department of the Interior | date = 2003-12-24 | url = http://www.nps.gov/archive/prsf/history/1906eq/firedyn.htm | accessdate = 2008-06-13}}</ref>。
街の4分の3以上が灰燼に帰し、ダウンタウンの中心部はほとんど焼けてしまった<ref name="Montagne">{{cite news | last = Montagne | first = Renée | title = Remembering the 1906 San Francisco Earthquake | work = People & Places | publisher = National Public Radio | date = 2006-04-11 | url = http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=5334411 | accessdate = 2008-06-13}}</ref>。
当時の記録によれば、498人が命を落としたとされるが、現代の推計では死者は数千人に上るだろうと考えられている<ref>{{cite web | title = Casualties and Damage after the 1906 earthquake | work = Earthquake Hazards Program - Northern California | publisher = US Geological Survey | date = 2008-01-25 | url = http://earthquake.usgs.gov/regional/nca/1906/18april/casualties.php | accessdate = 2008-06-13}}</ref>。市の人口40万人のうち半数以上が住む家を失った<ref>{{cite web
| title = Presidio of San Francisco:1906 Earthquake and Fire | work = Golden Gate National Recreation Area | publisher = US Department of the Interior | date =2004-08-25 | url = http://www.nps.gov/archive/prsf/history/1906eq/index.htm | accessdate = 2008-06-13}}</ref>。
避難者は、しばらくの間、ゴールデン・ゲート・パークや、要塞や、海岸などに設けられた間に合わせのテント村で生活した。また、サンフランシスコの東の[[イーストベイ (サンフランシスコ・ベイエリア)|イーストベイ]]まで移住した人も多い。
===災害からの復興===
[[ファイル:PalaceofFineArts1915.jpg|thumb|left|200px|1915年[[サンフランシスコ万国博覧会]]のパレス・オブ・ファイン・アーツ。]]
その後、復興が急ピッチで進んだ。街路を一から設計しなおすよう求める声もあったが、サンフランシスコ市民は、スピードを優先した<ref name="NatTrust1">{{Cite book | last = Wiley | first = Peter Booth | title = National trust guide- San Francisco: America’s guide for architecture and history travelers | publisher = John Wiley & Sons, Inc. | year = 2000 | location = New York | pages = 56–62 | oclc = 44313415 | isbn = 9780471191209}}</ref>。
アマデオ・ジアニーニが創設したバンク・オブ・イタリー(後の[[バンク・オブ・アメリカ]])は、生計の手段を奪われた人々に貸出しを行った。ノブヒル地区の倒壊した邸宅は、豪華ホテルとなった。[[サンフランシスコ市庁舎]]は、見事な[[ボザール様式]]で再建され、1915年の[[サンフランシスコ万国博覧会]]でその再生が祝われた<ref>{{Cite book | last = Wiley | first = Peter Booth | title = National trust guide- San Francisco: America’s guide for architecture and history travelers | publisher = John Wiley & Sons, Inc. | year = 2000 | location = New York | oclc = 44313415 | isbn = 9780471191209 | pages = 9}}</ref>。
===金融都市としての発展===
その後、サンフランシスコは、[[金融センター]]としての地位を強固なものにしていった。
1929年の[[ウォール街大暴落 (1929年)|ウォール街大暴落]]の時でさえ、サンフランシスコの銀行は一つも破綻しなかった<ref>{{Cite web | title = San Francisco Gold Rush Banking - 1849 | publisher = The Virtual Museum of the City of San Francisco | date = 2004-06-24 | url = http://www.sfmuseum.net/hist9/banking.html | accessdate = 2008-06-13}}</ref>。
[[世界恐慌]]の最中も、サンフランシスコでは[[サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ]](1936年完成)と[[ゴールデン・ゲート・ブリッジ]](1937年完成)という2大プロジェクトが同時に進行していた。
なお、同じころ、軍事施設だった[[アルカトラズ島]]が連邦刑務所となり、[[アル・カポネ]]、[[マシンガン・ケリー]]、「バードマン」と呼ばれた[[ロバート・フランクリン・ストラウド]]などがここに収容された。さらに、1939年から1940年にかけては2度目の[[国際博覧会]]となる[[ゴールデン・ゲート国際博覧会]]が開かれ、その会場として湾内に人工島[[トレジャー島]]が造成された。
===軍港から戦争の終結===
[[ファイル:USS San Francisco (CA-38) enters San Francisco Bay, December 1942.jpg|thumb|200px|ゴールデン・ゲート・ブリッジの下を通る重巡洋艦[[サンフランシスコ (重巡洋艦)|サンフランシスコ]]。第二次世界大戦中の1942年。]]
第二次世界大戦中、[[サンフランシスコ海軍造船所|ハンターズ・ポイント海軍造船所]]は軍事活動のハブとなり、[[フォート・メイソン]]が太平洋戦域に出発する兵士の乗船場となった<ref name="WWII">{{Cite web | title = Port of Embarkation Essay—World War II in the San Francisco Bay Area | work = A National Register of Historic Places Travel Itinerary: | publisher = US Department of the Interior | date = 2007-08-28 | url = http://www.nps.gov/history/nr/travel/wwIIbayarea/embarkation.htm | accessdate = 2008-06-13}}</ref>。
雇用の爆発的な増大により、特に南部からの[[アフリカ系アメリカ人]]が職を求めて集まってきた。
戦後、港に帰ってきた復員兵や、それまでに集まっていた労働者の多くが、そのままサンフランシスコに留まった。1945年、[[国際連合憲章]]がこの地で起草され、署名されたほか、[[太平洋戦争]]を正式に終結させる[[サンフランシスコ平和条約]]が締結された。
===現代===
[[File:The skyline of downtown San Francisco.jpg|thumb|200px|left|サンフランシスコの[[ダウンタウン]]]]
1950年代・1960年代の都市開発プロジェクトにより、市西部の取り壊しと再開発が進み、新しい高速道路の建設が始まった。
もっとも、間もなく市民の反対運動が起こり、建設は間もなく停止に追い込まれた<ref>{{Cite news | last = Fang | first = Eric | title = Urban Renewal Revisited: A Design Critique | work = SPUR Newsletter | publisher = San Francisco Planning and Urban Research Association | year = 1999 | month = 02 | url = http://www.spur.org/publications/library/article/urbanrenewalrevisited02011999 | accessdate = 2009-08-03}}</ref>。
1972年、[[トランスアメリカ・ピラミッド]]ビルが完成した<ref>{{Cite web | title = Pyramid Facts and Figures | work = Company Profile | publisher = Transamerica Insurance and Investment Group | url = http://www.transamerica.com/company_profile/about_the_pyramid/pyramid_facts_and_figures.asp | accessdate = 2008-06-13}}</ref>。
1980年代にはサンフランシスコの「マンハッタン化」が進み、ダウンタウンに多数の高層ビルが立ち並ぶようになり<ref name="NatTrust2">{{Cite book | last = Wiley | first = Peter Booth | title = National trust guide- San Francisco: America’s guide for architecture and history travelers | publisher = John Wiley & Sons, Inc. | year = 2000 | location = New York | pages = 95–96 | oclc = 44313415 | isbn = 9780471191209}}</ref>。
港湾機能が次第に[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]港に移転していくに伴って、市の製造業人口は減少を始め、代わって市の経済における重要性を増したのが観光である。
郊外の発展が著しく、白人人口が市内を去り、アジア系・ラテンアメリカ系移民が流入した<ref>{{Cite web | last = Willis | first = James | coauthors = Habib, Jerry, Brittan, Jeremy | title = San Francisco Planning Department Census Data Analysis | publisher = San Francisco State University | date = 2004-04-19 | url = http://bss.sfsu.edu/pamuk/SFDemographics.ppt#1 | format = PPT | accessdate = 2008-06-13}}</ref><ref>{{Cite news | last = Minton | first = Torri | title = Race Through Time | work = San Francisco Chronicle | page = SC-4 | publisher = Hearst Communications | date = 1998-09-20 | url = http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?file=/chronicle/archive/1998/09/20/SC72759.DTL | accessdate = 2008-06-13}}</ref>。
また、戦後、サンフランシスコはアメリカの[[カウンターカルチャー]]の舞台でもあった。
1950年代、[[ビート・ジェネレーション]]の作家たちによって[[サンフランシスコ・ルネッサンス]]が提唱され、[[ノースビーチ (サンフランシスコ)|ノースビーチ]]地区がその中心地となった<ref>{{cite book | last = Wiley | first = Peter Booth | title = National trust guide- San Francisco: America’s guide for architecture and history travelers | publisher = John Wiley & Sons, Inc. | year = 2000 | location = New York | pages = 240–242 | oclc = 44313415 | isbn = 9780471191209}}</ref>。
バークリーやオークランドとともに、サンフランシスコはアメリカでもベイエリアのリベラルな都市として知られるようになった。
1960年代には、[[ヒッピー]]が[[ヘイト・アシュベリー]]地区に集まり、1967年の[[サマー・オブ・ラブ]]でその頂点を迎えた<ref>{{Cite web | url = http://www.pbs.org/wgbh/amex/love/filmmore/fd.html | title = American Experience: Summer of Love: Film Description | accessdate = 2008-06-17 | date = 2007-03-14 | work = Website for American Experience documentary on the Summer of Love | publisher = PBS}}</ref>。
1970年代には、サンフランシスコは性的少数者([[LGBT]])の権利運動の中心地となり、[[カストロ通り]]は[[ゲイ・タウン]]として著名になった。活動家の[[ハーヴェイ・ミルク]]がサンフランシスコ市会議員に当選したが、1978年、[[ジョージ・マスコーニ]]市長とともに暗殺された<ref>{{Cite web | url = https://web.archive.org/web/20070612230434/http://www.frommers.com/destinations/sanfrancisco/0029033660.html | title = San Francisco History: The 1970s and 1980s: Gay Rights | accessdate = 2008-06-17 | work = Destinations: San Francisco | publisher = Frommers.com}}</ref>。
1989年には[[ロマ・プリータ地震]]が、サンフランシスコを含むベイ・エリアを襲った。マリナ地区やSoMa(サウス・オブ・マーケット)地区では建物の倒壊が激しく、エンバカデロ・フリーウェイ(州道480号)や、セントラル・フリーウェイの多くの部分が崩落した。なお、こうした高速道路の破壊を機に、市は歴史的な街並みの再建へ転じることになった。
===IT都市===
1990年代後半の[[インターネット・バブル]](ドットコム・バブル)の中、[[ベンチャー企業]]が経済の原動力となった。多くの起業家やコンピューター・アプリケーション企業がこの街に集まり、続いてマーケティングや営業の専門職が住むようになって、一時期は荒廃していた地区で[[ジェントリフィケーション]]が進んだ。
しかしながら、2001年頃にバブルが崩壊すると、これらの企業の多くが倒産し、その従業員も街を去った。中心市街地では貧困と荒廃が進み、かつての華やかさは失われつつある<ref>[https://jp.reuters.com/article/san-francisco-ai-idJPKBN2YU0BU アングル:AIブームで街再生、衰退するサンフランシスコの誤算 | ロイター]</ref><ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/articles/feature/2023/09/26/34645.html サンフランシスコが陥った負の“スパイラル” | NHK]</ref>。
とはいえ、その後もハイテク産業と起業家精神はサンフランシスコの経済を支える屋台骨であり続けている<ref>{{cite web | url = http://www.sfeconomicstrategy.org/site/uploadedfiles/moed/economic_strat/ExecutiveSummary_EconomicPerformanceReview.pdf | title = City and County of San Francisco: An Overview of San Francisco’s Recent Economic Performance | accessdate = 2008-06-19 | author = Ted Egan | date = 2006-04-03 | format = PDF | work = Report prepared for Mayor’s Office of Economic and Workforce Development | publisher = ICF Consulting}}</ref>。2008年から[[ウィキメディア財団]]も事務局を置く。
==政治==
===行政===
1950年代における[[ビート・ジェネレーション]]と言われる作家・芸術家らの流入、1960年代のヘイト・アシュブリーにおける[[サマー・オブ・ラブ]]でピークに達した社会変動を経て、サンフランシスコはリベラル派の牙城となった。
====政策====
2006年、サンフランシスコの監理委員会(郡行政執行機関)は「ヘルシー・サンフランシスコ」プログラムを制定し、健康保険のない市民への医療に補助金を支給することを決めた<ref>{{Cite web | url = http://www.kff.org/uninsured/upload/7760.pdf | format = PDF | title = Key Facts: Healthy San Francisco | accessdate = 2008-03-14 | year = 2008 | publisher = Kaiser Commission on Medicaid and the Uninsured}}</ref>。
====市歌====
元は[[ポピュラーソング]]や[[映画]]主題歌であった2曲が制定されている。
;[[想い出のサンフランシスコ]]([[:en:I Left My Heart in San Francisco|I Left My Heart in San Francisco]])
:[[1954年]]にダグラス・クロス(Douglass A. Cross)が作詞、ジョージ・コリー(George Cory)が作曲した。サンフランシスコへの懐旧の想いを歌った[[バラード]]であるが、作られた当時はヒットしなかった。その後[[1962年]]、歌手の[[トニー・ベネット]]がサンフランシスコに巡業した際、専属[[ピアニスト]]のラルフ・シャロンの勧めで歌ったところ非常な好評を博した。そこでレコーディングすると300万枚を越える大ヒット曲になり、この曲を収めたベネットの同名アルバムは同年の[[グラミー賞]]を受賞した。諸外国でもヒットし、サンフランシスコのイメージアップに大きく貢献した名歌で、[[1969年]][[10月6日]]、サンフランシスコ市歌に制定された。
;[[:en:San Francisco (film)#Music|San Francisco, open your Golden Gate]]
:[[1906年]]の[[サンフランシスコ地震|サンフランシスコ大地震]]を題材に[[1936年]]に製作された[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]社の大作映画『[[桑港 (映画)|桑港]](サンフランシスコ)』([[W・S・ヴァン・ダイク]]監督、[[クラーク・ゲーブル]]主演)の主題歌として、 ガス・カーン(Gus Kahn)が作詞、ウォルター・ユールマン(Walter Jurmann)とブロニスロウ・ケイパー(Bronislaw Kaper)が作曲した軽快な曲で、劇中で女性歌手役の[[ジャネット・マクドナルド]]によって歌われ、当時非常に流行した。懐メロ的なナンバーとして長く親しまれ、[[1984年]][[5月15日]]に、サンフランシスコ市歌に制定された。
===議会===
市政を握っているのは[[民主党 (アメリカ)|民主党]]及び[[アメリカ緑の党]]であり、1988年以来の大統領選挙や上院議員選挙で[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の得票率は20%未満である<ref>{{Cite web | last = Leip | first = Dave | title = Dave Leip's Atlas of U.S. Presidential Elections | publisher = Dave Leip | date = 2008-06-04 | url = http://www.uselectionatlas.org/ | accessdate = 2008-06-14}}</ref>。
==対外関係==
===姉妹都市・提携都市===
サンフランシスコは [http://www.sister-cities.org Sister Cities International, Inc. (SCI)] によって指定された、15の[[姉妹都市]]を有している。
{{Col-begin}}
{{Col-2}}
* {{Flagicon|CIV}} [[アビジャン]]([[コートジボワール|コートジボワール共和国]])
* {{Flagicon|ITA}} [[アッシジ]]([[イタリア|イタリア共和国]])
* {{Flagicon|VEN}} [[カラカス]]([[ベネズエラ|ベネズエラ・ボリバル共和国]])
* {{Flagicon|IRL}} [[コーク (アイルランド)|コーク]]([[アイルランド|アイルランド共和国]])
* {{Flagicon|ISR}} [[ハイファ]]([[イスラエル|イスラエル国]])
* {{Flagicon|VIE}} [[ホーチミン市|ホーチミン]]([[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]])
* {{Flagicon|PHI}} [[マニラ]]([[フィリピン|フィリピン共和国]])
* {{Flagicon|SUI}} [[チューリッヒ]]([[スイス|スイス連邦]])
* {{Flagicon|CHN}} [[マカオ]]([[中華人民共和国]])
* {{Flagicon|BOL}} [[コチャバンバ]]([[ボリビア|ボリビア多民族国]])
{{Col-2}}
* {{Flagicon|FRA}} [[パリ]]([[フランス|フランス共和国]])
* {{Flagicon|KOR}} [[ソウル特別市|ソウル]]([[大韓民国]])
* {{Flagicon|CHI}} [[バルパライソ]]([[チリ共和国]])
* {{Flagicon|CHN}} [[上海市|上海]]([[中華人民共和国]])
* {{Flagicon|AUS}} [[シドニー]]([[オーストラリア|オーストラリア連邦]])
* {{Flagicon|ROC}} [[台北市|台北]]([[中華民国]])
* {{Flagicon|GRE}} [[テッサロニキ]]([[ギリシャ|ギリシャ共和国]])
* {{Flagicon|CHN}} [[長沙市|長沙]]([[中華人民共和国]])
{{Col-end}}
以下はサンフランシスコ市のホームページに掲載はされているが<ref>{{Cite news|url=https://sf.gov/information/international-sector-businesses-development|title= International sector businesses development San Francisco |accessdate=2023-03-29}}</ref>、相手側自治体は姉妹都市解消を主張している<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20230326/k00/00m/040/085000c|title= 大阪市に絶縁されたはずが…米サンフランシスコ市HPに意外な事実|newspaper=毎日新聞|publisher=松本紫帆 |date=2023-03-27|accessdate=2023-03-29}}</ref>。
*{{Flagicon|JPN}} [[大阪市]]([[日本国]] [[近畿地方]] [[大阪府]])
:[[慰安婦像#カリフォルニア州 サンフランシスコ市|慰安婦像]]などの寄贈の受け入れを承認したことを受け、大阪市側が姉妹都市を解消したと主張している。{{Main|慰安婦像#カリフォルニア州 サンフランシスコ市}}
===日本との関係===
[[File:Posted Japanese American Exclusion Order.jpg|thumb|200px|right|日系人をサンフランシスコから追い出す旨の公報(1942年4月1日)]]
====日本人街====
{{see also|ジャパンタウン (サンフランシスコ)}}
{{Commons category|Japantown, San Francisco}}
Japantown(日本町, Little Osaka, J town)サンフランシスコの Western Addition にある6平方ブロックの地域。
日本や[[大韓民国|韓国]]、[[中華]]の[[レストラン]]、[[スーパーマーケット]]、[[ショッピングモール]]、[[ホテル]]、[[銀行]]、[[紀伊國屋書店]]の支店など多数の店がある。
Post Street が大通りで、中心には[[1968年]]開設の Japan Center(3つの日系ショッピングセンターと Peace Pagoda がある)がある。[[パゴダ]]は[[大阪]]の人々によって寄贈された。
[[カリフォルニア州]]北部最大の日本町で、[[第二次世界大戦]]前からある日本町である。
日本人のサンフランシスコ移住は、19世紀末に始まり、1884年には約200人ほどいた<ref>[{{NDLDC|1920354/278}} 桑港在留の邦人]『新聞集成明治編年史. 第五卷』 (林泉社, 1940)</ref>、1886年には領事館調べで約500人、実際には1000人近くがいた<ref>[{{NDLDC|1920367/142}} 桑港の日本人]『新聞集成明治編年史. 第六卷』 (林泉社, 1940)</ref>。
日本人の居住はその後も増え続け、サンフランシスコは[[排日]]の本場と言われるほど米国白人からの反発を買うようになった<ref>[{{NDLDC|958817/22}} 黄金門、桑港]『世界一周』(青年文庫 ; 第1編) / 日本青年教育会編 (日本青年教育会, 1918)</ref>。
日本の[[真珠湾攻撃]]後、[[アメリカ合衆国の政治|アメリカ政府]]は[[日系アメリカ人]]を[[強制収容所]]に収容した([[日系人の強制収容]])。
その後は[[軍需産業]]を探しに来た[[アフリカ系アメリカ人]]が居住するようになった。
戦後になると、一部の日本人は戻り地域の再復興を行った。[[1960年代]]から[[1980年代]]の大規模な再開発の時期になると、多くのアフリカ系アメリカ人は今日の居住地や西部(Filmore District)、東部(Tenderloin)、南部(Hunters Point)へ移動した。
同時に多くの日系アメリカ人は戻り、新日本移民の移住、[[日本政府]]、企業による投資が行われた。
==教育==
[[ファイル:Lone Mountain Campus.jpg|thumb|200px|サンフランシスコ大学のローンマウンテンキャンパス]]
===大学===
* [[サンフランシスコ大学]](University of San Francisco、私立大学、通称「USF」)
* [[サンフランシスコ州立大学]](San Francisco State University, 通称「SFSU」)
* [[カリフォルニア大学サンフランシスコ校]](University of California, San Francisco, メディカル・スクール、通称「UCSF」)
* [[カリフォルニア大学ヘイスティングス・カレッジ・オブ・ザ・ロー]](University of California Hastings College of the Law,ロー・スクール、通称「UC Hastings」)
* [[シティカレッジオブサンフランシスコ]](City College of San Francisco、二年制短大、通称「CCSF」「シティカレ」)
* [[カリフォルニア美術大学]](California College of the Arts、私立美術大学、通称「CCA」)
* [[アカデミーオブアートユニバーシティ]](The Academy of Art University、総合芸術大学)
* [[ゴールデンゲート大学]](Golden Gate University、私立大学 通称「GGU」)
* [[サンフランシスコ音楽院]](San Francisco Conservatory of Music、音楽大学 通称「SFCM」)
* [[ミネルバ大学]](Minerva University、通信大学)
{{-}}
==交通==
[[File:SFOApril2005.JPG|thumb|200px|サンフランシスコ国際空港]]
[[File:Bay Area Transit.png|thumb|200px|サンフランシスコ周辺の主要交通]]
[[File:Cable Car.jpg|thumb|200px|サンフランシスコの[[ケーブルカー]]]]
[[File:GGT ferry Del Norte.JPG|thumb|200px|ゴールデン・ゲート・フェリー M / V ·デル·ノルテ(フェリービル)]]
サンフランシスコは半島に突き出た丘陵地帯という地形から、アメリカ国内では[[ニューヨーク]]に次いで公共交通機関への依存度が高い大都市である。また、市内人口がそこまで多くはなく、事業所もサンフランシスコの中心部だけではなくベイエリア全体に分散していることから、地下鉄は[[バート (鉄道)|BART]]や[[サンフランシスコ市営鉄道|Muni]]のマーケットストリート区間を除いて発達せず、路面電車やトロリーバスの比重が高い。
===空路===
====空港====
[[サンフランシスコ国際空港]]には[[ユナイテッド航空]]や[[アメリカン航空]]、[[デルタ航空]]や[[アラスカ航空]]などの国内線が多数発着するほか、[[全日本空輸|全日空]](ANA)、[[日本航空]]や[[チャイナエアライン]]、[[ブリティッシュ・エアウェイズ]]や[[エールフランス]]をはじめとする国際線も多く発着している。
また、対岸の[[オークランド国際空港 (カリフォルニア州)|オークランド国際空港]]もサンフランシスコ地域の主要空港の1つとして使用されている。
===鉄道===
====長距離鉄道路線====
[[サンフランシスコ湾]]をはさんだ対岸の[[エメリービル駅|エメリービル]](または[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]])から[[アムトラック]]の列車が発着している。それらの列車を利用するためにサンフランシスコのダウンタウンから連絡バスが運行されている。
* [[カリフォルニア・ゼファー]] : エメリービル~[[ソルトレーク・シティ]]~[[デンバー]]~[[シカゴ]]
* [[コースト・スターライト]] : [[ロサンゼルス]]~[[サンタバーバラ]]~オークランド~エメリービル~[[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]~[[シアトル]]
* [[サン・ホアキン (列車)|サン・ホアキン]] : オークランド~エメリービル~[[ストックトン (カリフォルニア州)|ストックトン]]~[[ベーカーズフィールド (カリフォルニア州)|ベーカーズフィールド]] (ロサンゼルスへはコースト・スターライトよりもこの列車に乗ってベーカーズフィールドから連絡バスを利用した方が所要時間は短い)
* [[キャピトル・コリドー]] : [[オーバーン (カリフォルニア州)|オーバーン]]~[[サクラメント (カリフォルニア州)|サクラメント]]~エメリービル~オークランド~[[サンノゼ]]
====近郊鉄道路線====
*[[サンフランシスコ市営鉄道]](Muni) - サンフランシスコ市内の[[路面電車]]、[[ケーブルカー]]、[[バス (交通機関)|バス]]、[[トロリーバス]]を運行
*[[バート (鉄道)|BART]] - ミルブレー、サンフランシスコ国際空港、オークランド、バークレー、フリーモント方面
*[[カルトレイン]] - サンノゼ、[[ギルロイ (カリフォルニア州)|ギルロイ]]方面
===道路===
サンフランシスコは水路に遮られているために、通過する道路は少ない。
====高速道路====
主要な高速道路としては、[[サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ|ベイブリッジ]]のサンフランシスコ側を基点としてベイブリッジを渡り東に伸びる[[州間高速道路]]80号線([[州間高速道路80号線|I-80]])、サンフランシスコ中心街から南に延びるインターステート280号線、中心街から南部と北部に延びる国道101号線がある。
====市内道路====
市内は坂が多い上に半島であるため土地もないため、駐車場料金が非常に高い。そのため、後述のBARTやカルトレインなどの郊外の駅の多くに駐車場が併設されていて、これを使った[[パークアンドライド]]が盛んである。
<gallery>
ファイル:Golden Gate Bridge 1926.jpg|ゴールデンゲートブリッジ
ファイル:San Francisco Oakland Bay Bridge at night.jpg|ベイブリッジ
</gallery>
===航路===
====フェリー====
[[サンフランシスコフェリービル]]は[[アメリカ合衆国国家歴史登録財]]に指定される文化財で、それ自体が観光名所となっている。サンフランシスコ湾内の各地に向かう便がある。
==観光==
{{See also|#概要}}
===都市観光===
[[File:Fillmore-sidewalk-1.jpg|thumb|left|パシフィックハイツのフィルモア・ストリートには、ブティックが並ぶ。]]
フィナンシャル・ディストリクトやユニオン・スクエア周辺のような商業・ショッピングの中心地は、世界的に知られている。同時に、それを取り巻く多用途(商業・居住混在)地域も文化的な多様性があり、中心部から気軽に歩いて足を延ばせることから、サンフランシスコの特色となっている。そのため、サンフランシスコに対しては「最も歩きやすい街」という評価もある<ref>{{Cite news | first = James | last = Temple | title = S.F. a step ahead as most 'walkable' U.S. city | url = http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2008/07/16/MN3J11Q3N8.DTL | page = A-1 | publisher = San Francisco Chronicle | date = 2008-07-17 | accessdate = 2008-07-18}}</ref><ref>{{Cite web | url = http://www.walkscore.com/rankings/San_Francisco | title = WalkScore #1 San Francisco | accessdate = 2008-07-18 | publisher = Walkscore.com}}</ref>。
これらの多用途地区には、ビジネス、レストラン、コンサート会場などがあり、多くの市民や観光客が利用している。カウ・ホロー地区のユニオン・ストリートや、ノイ・バレー地区の24番ストリートのように、ブティック、カフェ、ナイトスポットが混じる街もある。こうした街づくりは、SOMA(サウス・オブ・マーケット)地区におけるビジネスと住民サービスが並行する[[都市再開発]]などにも影響を及ぼしている<ref name="FogDev">{{Cite news | last = Wach | first = Bonnie | title = Fog City rises from the funk. | work = USA Today | publisher = Gannett Company, Inc. | date = 2003-10-03 | url = http://www.usatoday.com/travel/destinations/cityguides/sanfrancisco/worthdoing.htm | accessdate = 2006-09-04}}</ref>。
=== 美術館とパフォーミング・アーツ ===
[[ファイル:SFWMOHLobbySouth.jpg|thumb|left|戦争記念オペラハウスのロビー、米国にて[[ボザール様式]]で建てられた最後の建物の一つ]]
[[ファイル:San Francisco Museum of Modern Art in 2011.jpg|thumb|イエルバ·ブエナ·ガーデンから見たサンフランシスコ近代美術館の赤レンガとの中央の円形構造。アールデコ様式のパシフィックテレフォンビル(1925)が博物館の後ろに建っている。]]
* [[サンフランシスコ近代美術館]](San Francisco Museum of Modern Art, 通称「SFMoMA」)
* [[アジア美術館]](Asian Art Museum of San Francisco)
* [[デ・ヤング美術館]](De Young Museum)
* [[パレスオブファインアート]](Palace of Fine Arts)
* [[サンフランシスコ・オペラ]](San Francisco Opera)
* [[サンフランシスコ交響楽団]](San Francisco Symphony)
* [[ロックの殿堂]], サンフランシスコ
==文化・名物==
===現代的な生活===
[[ファイル:South of Market, San Francisco.jpg|thumb|left|200px|サウスオブマーケットの高層ビルに囲まれた[[イェルバブエナガーデン]]]]
[[シリコンバレー]]を中心としたITブームや、最近の[[インターネットバブル]]によりサンフランシスコの生活水準は向上し、世界中から大卒クラスの若いホワイトカラー層が集まってきている<ref>{{cite news | last = Schwarzer | first = Michelle | title = San Francisco by the Numbers: Planning After the 2000 Census | work = SPUR Newsletter | publisher = San Francisco Planning and Urban Research Association | year = 2001 | url = http://www.spur.org/documents/010701_article_03.shtm | archiveurl=https://web.archive.org/web/20050211032911/http://spur.org/documents/010701_article_03.shtm | archivedate = 2005-02-11 | accessdate = 2010-07-25}}</ref>。
サウスビーチ地区からミッション・ベイ地区にかけて、[[エンバーカデロ]]の再開発が進んだ。それにつれて、[[ブルーカラー]]層、中・低所得者層が住んでいた地区の多くでも、[[ジェントリフィケーション]]が進行した。不動産価格と世帯所得はいずれもアメリカ国内トップクラスへ跳ね上がった<ref>{{cite web | last = Sadovi | first = Maura Webber | title = San Francisco's Home Prices Remain Among the Highest in U.S. | work = Real Estate Journal | publisher = The Wall Street Journal | date = 2006-04-12 | url = http://www.realestatejournal.com/columnists/livingthere/20060412-livingthere.html | accessdate = 2008-06-14}}</ref><ref name="MedianIncome">{{cite web | title = Median Family Income (In 2003 Inflation-adjusted Dollars) | work = American Community Survey | publisher = US Census Bureau | date = 2007-08-22 | url = http://www.census.gov/acs/www/Products/Ranking/2003/R14T160.htm | accessdate = 2008-06-14}}</ref><ref>{{cite web | last = Hawn | first = Carleen | title = It may not feel like it, but your shot at the good life is getting better. Here's why | work = San Francisco magazine | publisher = Modern Luxury | year = 2007 | url = http://www.sanfran.com/archives/view_story/1068/ | archiveurl = https://web.archive.org/web/20070224105246/http://www.sanfran.com/archives/view_story/1068/ | archivedate = 2007-02-24 | accessdate = 2008-06-14}}</ref>。
大型のレストラン、小売店、エンターテインメント施設が誕生した。生活費の高騰により、中・低所得者層は街中を去ってベイ・エリアの郊外や、[[カリフォルニアセントラルヴァレー]]へ移り住んでいった<ref name="MiddleClass">{{cite news | last = Hendricks | first = Tyche | title = Rich City Poor City: Middle-class neighborhoods are disappearing from the nation's cities, leaving only high- and low-income districts, new study says. | work = San Francisco Chronicle | page = A-1 | publisher = Hearst Communications | date = 2006-06-22 | url = http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?file=/c/a/2006/06/22/MNG6HJIDMM1.DTL | accessdate = 2008-06-14}}</ref>。
===移民文化===
[[File:Castro Rainbow Flag.jpg|thumb|upright|right|[[LGBT]]運動のシンボルである[[レインボーフラッグ (LGBT)|レインボーフラッグ]]は、サンフランシスコで生まれた。[[カストロ通り]]にはこうした旗が多く掲げられている。]]
サンフランシスコは、誕生以来、今日に至るまで、アジアやラテンアメリカの移民を多く受け入れ、国際色あふれる街となっている。
市民の39%が海外生まれで<ref name="SFEconomicStrategy">{{Cite web | last = Egan | first = Ted | title = An Overview of San Francisco's Recent Economic Performance - Executive Summary | publisher = ICF Consulting | date = 2006-04-03 | url = http://www.sfgov.org/site/uploadedfiles/moed/economic_strat/ExecutiveSummary_EconomicPerformanceReview.pdf | format = PDF | accessdate = 2008-06-14}}</ref>、こうした市民の需要に応える会社や施設が集まった地区も多い。
中でも、1970年代から急増した中国系移民は、古くからチャイナタウンを中心に栄えてきたコミュニティを活性化し、毎年行われる[[旧正月]]の祭りは、中国国外で最大のものに成長した<ref>{{cite news | last = Lam | first = Eric | title = San Francisco Chinese New Year Parade Embroiled in Controversy | publisher = The Epoch Times | date = 2005-12-22 | url = http://en.epochtimes.com/news/5-12-22/36073.html | accessdate = 2008-06-14}}</ref>。
また、ゲイ人口が多く、その政治的・文化的な影響力も大きい。
世界のゲイの人々にとっては最も人気のある観光地であり、世界最大・最古の[[プライド・パレード]]である「サンフランシスコ・プライド」が開かれる。
===スポーツ===
* [[アメリカンフットボール]]([[NFL]])チームの[[サンフランシスコ・フォーティナイナーズ]](本拠地は[[サンタクララ]])
* [[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]](MLB)の[[野球]]チーム、[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]
* [[バスケットボール]]([[NBA]])の[[ゴールデンステート・ウォリアーズ]]
* [[メジャーリーグクリケット]](MLC)の[[クリケット]]チーム、[[サンフランシスコ・ユニコーンズ]]
<gallery>
ファイル:Candlestick Park aerial.jpg|キャンドルスティック·パークは、2013年までジャイアンツとフォーティナイナーズの試合を開催した。
ファイル:AT&T Park July 24, 2016.jpg|オラクル・パークは、 2000年にオープンした。
ファイル:Chase Center - Warriors.jpg|ウォリアーズの本拠地は2019年より[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]からサンフランシスコのミッション・ベイに移転した。写真は[[チェイス・センター]]と奥にはサンフランシスコのダウンタウンが見える。
ファイル:USF WMG.JPG|サンフランシスコ大学ドンズの男子バスケットボールチーム、戦争記念体育館にて。
ファイル:Olympic Club 18th hole lakeside.jpg|{{仮リンク|オリンピッククラブ|en|Olympic Club}}の18番ホール
</gallery>
==出身関連著名人==
===出身者===
{{Main|Category:サンフランシスコ出身の人物}}
*[[ロドニー・アノアイ]](または[[ロドニー・アノアイ|ヨコズナ]]、プロレスラー):1966年、サンフランシスコ生まれ。
*[[クリント・イーストウッド]](俳優、映画監督):1930年、サンフランシスコ生まれ。
*[[ドナート・カブレラ]](指揮者)
*[[スティーブ・ジョブズ]](起業家、実業家。[[Apple]]共同創業者)
*[[O・J・シンプソン]]([[NFL]]選手、俳優):1947年、サンフランシスコ生まれ。ロサンゼルスで発生した「[[O・J・シンプソン事件]]」の主要人物。
*[[日野聡]](日本の声優)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=691|title=日野聡のアニメキャラ・最新情報まとめ|publisher=アニメイトタイムズ|accessdate=2021-10-21}}</ref>
*[[ダン・ファウツ]](NFL選手):1951年、サンフランシスコ生まれ。
*[[マリエル・ヘミングウェイ]](女優):作家[[アーネスト・ヘミングウェイ]]の孫。近郊ミル・バレー ([[:en:Mill Valley, California|en]]) 生まれ。
====サンフランシスコ出身のロックバンド====
*[[サンタナ (バンド)|サンタナ]]
*[[スティーヴ・ミラー・バンド]]
*[[グレイトフル・デッド]]
*[[クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス]]
*[[ジャーニー (バンド)|ジャーニー]]
*[[ジェファーソン・エアプレイン]] /ジェファーソン・スターシップ /[[スターシップ (バンド)|スターシップ]]:但し、結成されたのはサンフランシスコだが、メンバーで同市出身はジェファーソン・エアプレイン、ヴォーカルとリズムギターを担当していた[[ポール・カントナー]]だけである。スターシップは、[[1980年代]]に『シスコはロックシティ』(“We built this city”)というヒット曲を生んでいることで有名。曲中に「サンフランシスコはゴージャスな快晴、ゴールデン・ゲート・ブリッジは車が大渋滞しています」というDJの声が入る。
*[[ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース]]
*[[タワー・オブ・パワー]]
===居住その他ゆかりある人物===
*[[チェスター・ニミッツ]](海軍元帥):1885生。同地で死去。
*[[ジョー・ディマジオ]](プロ野球選手):1914年、郊外[[マーティネズ (カリフォルニア州)|マーティネズ]]生まれ。1932年から3年ほど[[サンフランシスコ・シールズ]]でプレーをし、[[ニューヨーク・ヤンキース]]に移籍。
*[[オリビア・デ・ハビランド]](女優) - 1916生。下記ジョーン・フォンテインは妹。1919年、東京から郊外[[サラトガ (カリフォルニア州)|サラトガ]]に移住。のちロス移住<ref name="olijo">{{Cite web|url=https://www.architecturaldigest.com/story/joan-fontaine-article-032006 |title=FROM THE ARCHIVES Look Inside Joan Fontaine's House in California |author=Peter Haldeman |publisher=Architectural Digest |date=SEPTEMBER 7, 2016 4:00 PM |accessdate=4-7-2023}}</ref>。
*[[ジョーン・フォンテイン]](女優)- 1917生。同上。のち東京、ロス<ref name="olijo" />と移住。
*{{仮リンク|ビル・グレアム|en|Bill Graham (promoter)}}(ロックコンサートの[[プロモーター]]、[[興行]]主):1931生。上記ロックバンドのプロモートに関わった。[[ベルリン]]生まれ、NY[[ブロンクス区|ブロンクス]]育ち。1991年、サンフランシスコ近郊でヘリコプター事故死。
*[[カマラ・ハリス]](政治家〈[[アメリカ合衆国副大統領|米国副大統領]]〉、検察官〈カリフォルニア州司法長官〉):1964生。2004年から第27代サンフランシスコ市郡地方検事 ([[:en:San Francisco District Attorney's Office|en]]) を務めた。近郊[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]出身。
*[[山田わか]](日本の女性運動家、福祉活動家):1879生。渡米後騙され[[シアトル]]の苦界に身を沈めたサンフランシスコに脱出。現地で英学塾を開いていた[[山田嘉吉]]と結婚。
*[[オノ・ヨーコ]](前衛芸術家):1933生。2歳頃から2年ほど同地に居住。
*[[村上雅則]](プロ野球選手):1944生。1964-65年、[[サンフランシスコ・ジャイアンツ|SFジャイアンツ]]に在籍し、アジア人初の[[メジャーリーガー]]。
==サンフランシスコを舞台とした作品==
{{See also|サンフランシスコを舞台とした作品一覧}}
===映画===
; [[めまい (映画)|めまい]] (1958)
: [[アルフレッド・ヒッチコック|ヒッチコック]]によるホラー映画。[[ゴールデン・ゲート・ブリッジ]]、リージョン・オブ・オナー美術館、ミュアウッズ国定公園などが舞台として登場。
:
; [[鳥 (1963年の映画)|鳥]] (1963)
: [[アルフレッド・ヒッチコック|ヒッチコック]]によるホラー映画。市内ユニオンスクエアのペットショップが冒頭に登場。メインとなる舞台はサンフランシスコ北にある[[ソノマ郡 (カリフォルニア州)|ソノマカウンティ]]のボデガベイで、現在もその家は残されている。
:
; [[卒業 (1967年の映画)|卒業]] (1967)
: [[ダスティン・ホフマン]]主演。UCバークレー、ベイブリッジ、[[サンフランシスコ動物園]]などが舞台として登場。
:
; [[ブリット]] (1968)
: [[スティーブ・マックイーン]]主演。ポリスアクション。マックイーン自らスタントに挑んだ、市街地の坂道を爆走する激しいカーチェイスは圧巻。
:
; [[ダーティ・ハリー]]シリーズ (1971 - 1988)
: [[クリント・イーストウッド]]主演。ポリスアクション。
:
; [[タワーリング・インフェルノ]] (1974)
: [[スティーブ・マックイーン]]、[[ポール・ニューマン]]主演。舞台となる高層ビルが市内ファイナンシャルディストリクトにあるという設定。主な撮影はLAで行われたが、旧バンクオブアメリカビルやハイアットリージェンシーホテル、エンバカデロなどが登場。
:
; [[アルカトラズからの脱出]] (1979)
: [[クリント・イーストウッド]]主演。実話を基に制作されたものである。舞台は、サンフランシスコ湾に浮かぶ[[アルカトラズ島|アルカトラズ連邦刑務所]]である。そこは、脱出困難な刑務所と謳われていた。そこに[[フランク・モリス]]という囚人が収容されるが、彼が他の囚人たちの情報を元に計画的な脱獄を試みるストーリーである。なお、当時の刑務所に実在した囚人の一部は、名前を変えられている。
:
; [[48時間 (映画)|48時間]] (1982)
: [[ニック・ノルティ]]主演。[[エディ・マーフィ]]の映画デビュー作。
:
; [[スタートレックIV 故郷への長い道]] (1986)
: [[ウィリアム・シャトナー]]主演。[[エンタープライズ (スタートレック)|宇宙船エンタープライズ]]のクルー達は、23世紀の[[地球]]を救うために[[1986年]]のサンフランシスコへのタイム・トラベルを決行する。作中では、約150の惑星が加盟する[[惑星連邦]]の連邦評議会がサンフランシスコに置かれている設定である。
:
; [[インナースペース (映画)|インナースペース]] (1987)
: [[デニス・クエイド]]、[[メグ・ライアン]]主演。SF冒険コメディ。ゴールデン・ゲート・ブリッジや、市街地のケーブルカーが登場する。
:
; [[恋のドッグファイト]] (1991)
: [[リヴァー・フェニックス]]主演。ラブコメディ。[[ベトナム]]出征直前の[[海兵隊]]新兵と、フォークソングを愛するウェイトレスが、ドタバタ騒ぎを起こしつつ、恋に落ちる一夜を描く。
:
; [[氷の微笑]] (1992)
: [[シャロン・ストーン]]、[[マイケル・ダグラス]]主演。市内コロンバスアベニューの「Tosca Cafe」等。ストーン本人はサンフランシスコクロニクル編集部長と結婚。
:
; [[天使にラブ・ソングを…]] (1992)
: [[ウーピー・ゴールドバーグ]]主演。チャーチストリートのセントポール教会が舞台。第2作ではノースビーチのセントピーターアンドポールチャーチに舞台が変更されている。
:
; [[愛という名の疑惑]] (1992)
: [[リチャード・ギア]]、[[キム・ベイシンガー]]、[[ユマ・サーマン]]主演。ラブ・サスペンス。[[ゴールデン・ゲート・ブリッジ]]の袂の灯台(実在しない架空の施設)が、クライマックスの舞台となっている。
:
; [[ミセス・ダウト]] (1993)
: [[ロビン・ウィリアムズ]]主演。舞台となった一軒家 (2640 Steiner St.) は現在観光名所となっている。
:
; [[インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア]] (1994)
: [[トム・クルーズ]]、[[ブラッド・ピット]]出演。吸血鬼だと名乗る男が、記者に語ったミステリー。ゴールデン・ゲート・ブリッジやフェリービルディングなどが登場。原作・脚本を手がけた[[アン・ライス]]は[[サンフランシスコ州立大学]]出身。
:
; [[告発 (映画)|告発]] (1994)
: [[ケビン・ベーコン]]出演。アルカトラズ島、市庁舎、パレスオブファインアート、アラモ・スクエアなど。
:
; [[9か月]] (1995)
: [[ヒュー・グラント]]出演。友人の売れない画家([[ジェフ・ゴールドブラム]])が アルカトラズ島を描き、看板見たいといわれて捨てるシーンがある。
:
; [[ザ・ロック (映画)|ザ・ロック]] (1996)
: [[ショーン・コネリー]]、[[ニコラス・ケイジ]]主演。アルカトラズ刑務所が主要舞台。また、前半では市街地での追跡劇が展開され、ここではサンフランシスコ名物のケーブルカーも登場。
:
; [[奇跡の旅2/サンフランシスコの大冒険]] (1996)
: 『[[奇跡の旅]]』の続編で山野ではなく都会が舞台になっている。犬のチャンスがメスののディライラに街を案内してもらう。
:
; [[スウィート・ノベンバー]] (2001)
: [[キアヌ・リーブス]]、[[シャーリーズ・セロン]]主演。広告代理店に務める男性と、偶然出会った女性とのラブロマンス。主人公の住むアパートはポトレロヒルにある。ラストシーンはミッションドロレスパークの鉄橋。
:
; [[プリティ・プリンセス]] (2001)
: [[アン・ハサウェイ]]主演。主人公の住むアパートはソーマエリアにある。主人公の通う高校はパシフィックハイツにあるHamlin School。
:
; [[SAYURI]] (2005)
: [[章子怡|チャン・ツィイー]]主演。物語の舞台は架空の日本の街(京都・[[祇園]]のイメージ)だが、ゴールデン・ゲート・パーク内の日本庭園や、サンフランシスコ南のサラトガにある箱根ガーデン等で撮影が行われた。
:
; [[幸せのちから (映画)|幸せのちから]] (2006)
: [[ウィル・スミス]]主演。グレンパーク駅、中華街、ファイナンシャルディストリクト他。主人公が駆け込む駅の概観は、デュボースパークに撮影用に立てられたもので実在しない。
:
; [[ゾディアック (映画)|ゾディアック]] (2007)
: [[ジェイク・ギレンホール]]主演。1960年代にサンフランシスコ、ナパ、バレイホなどベイエリア広域で実際に起きた連続殺人事件を題材にしている。[[サンフランシスコ・クロニクル]]本社、プレシディオ、ゴールデン・ゲート・ブリッジなど。
:
; [[ニード・フォー・スピード (映画)|ニード・フォー・スピード]](2014年)
: [[アーロン・ポール]]主演。レースゲーム「[[ニード・フォー・スピード]]」を題材としている。架空のレース大会「デレオン」の開催地で主人公が搭乗する[[シェルビー・マスタング]]を大破させられ、その際にライバルが使用していた[[ケーニグセグ・アゲーラ|ケーニグセグ・アゲーラR]]に乗り換える。
===音楽===
;「サンフランシスコ・ベイ・ブルース」:San Francisco Bay Blues
:ジェシー・フラー、[[フィービ・スノウ]]ほか多数<ref>https://www.discogs.com/Jesse-Fuller-San-Francisco-Bay-Blues/release/8862969</ref>
;「[[花のサンフランシスコ]]」:{{Lang|en|San Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair)}}
:[[スコット・マッケンジー]]の楽曲。1960年代のフラワー・ムーブメントを象徴する一曲。
;「霧のサンフランシスコ」:I left my heart in San Francisco
:[[トニー・ベネット]]の楽曲、ほか1曲が市歌になっている (前述) 。
;「サンフランシスコ」:San Francisco
::ヴィレッジ・ピープルの楽曲。
;「[[桑港のチャイナ街]](シスコのチャイナタウン)」
::[[渡辺はま子]]の楽曲。日本においてサンフランシスコという名が一般大衆に広まるきっかけとなった曲。
=== ドラマ ===
; [[私立探偵ハリー]]
: サンフランシスコを舞台としたミステリードラマ。詳しくは[[私立探偵ハリー]]の項目を参照。
; [[刑事ナッシュ・ブリッジス]]
: サンフランシスコ市警を舞台としたポリスアクションドラマ。コメディ要素も強い。詳しくは[[刑事ナッシュ・ブリッジス]]の項目を参照。
; [[ダーマ&グレッグ]]
: サンフランシスコの地下鉄([[ミュニ]]と思われる)で出会った上流階級出身の弁護士、グレッグとヒッピーの両親の元に生まれた自由奔放な女性、ダーマの夫婦二人織り成すコメディー。サンフランシスコ市内の映像が方々に映り、かなりディフォルメされているものの、ベイエリアのヒッピー文化、多様性を見て取れる。
; [[フルハウス (1987年のテレビドラマ)|フルハウス]]
: サンフランシスコ市内のヴィクトリア様式の1軒の家に住む父と3人姉妹とその親類にまつわるドタバタコメディー。以前[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]](Eテレ)で何度も放送され、人気であった。一家の大黒柱ダニー・タナーは、サンフランシスコにあるケーブルテレビのキャスターという設定。このショーからの出身者に、[[オルセン姉妹]]などがいる。
; [[フラーハウス]]
: 上記『フルハウス』のスピンオフシリーズ。
;[[サンフランシスコの空の下]]
:両親を失った5人の兄弟の物語。
;[[名探偵モンク]]
:[[神経症]]のため休職中の刑事が犯罪コンサルタントとして活躍するミステリー。コメディ要素も強い。
;「[[スタートレック]]」シリーズ(テレビシリーズ、映画版シリーズともに)
:各シリーズの劇中では、22世紀後半(の2161年)以降、[[惑星連邦]]の首都とされており、連邦最高評議会、[[惑星連邦#宇宙艦隊|宇宙艦隊]]司令本部、宇宙艦隊士官アカデミーなどが設置されている。なお、5番目のテレビシリーズである『[[スタートレック:エンタープライズ]]』の舞台となる22世紀中期(の2150年代)の時点では、惑星連邦・宇宙艦隊の前身である[[地球連合]]の宇宙艦隊司令本部などが設置されているという設定になっている。
===ゲーム===
;[[クレイジータクシー]]
:サンフランシスコが舞台のドライビングゲーム。プレイヤーはタクシードライバーとして制限時間内に客を目的地に届ける。当初アーケードゲームとしてリリースされ、その後各種コンシューマ機に移植された。
;[[Driver 潜入!カーチェイス大作戦]]
:プレイステーションの[[オープンワールド]]の[[レースゲーム]]。舞台の一つがサンフランシスコである。
;[[ソニックアドベンチャー2]]
:劇中、主人公達がサンフランシスコに酷似した街中を[[GUN]]の追手から逃走する場面がある。
;[[グランド・セフト・オート・サンアンドレアス]](2004年)
:オープンワールド型のクライムアクションゲーム。サンフランシスコをモデルとした[[サンアンドレアス (グランド・セフト・オート)|サンフィエロ]]という都市が登場する。
;[[ドライバー:サンフランシスコ]] (2011年)
:サンフランシスコが舞台であるオープンワールドのレースゲーム。[[ゴールデン・ゲート・ブリッジ]]、市北部地域までを含む20kmの道路が再現されていて、ランドマークである、[[トランスアメリカ・ピラミッド]]やピア39、[[チャイナタウン]]などの観光名所も網羅されている。サンフランシスコ以外でも、[[マリン郡 (カリフォルニア州)|マリン郡]]と[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]も再現されている。
;[[ニード・フォー・スピード ザ・ラン]] (2011年)
:アメリカ大陸全土を横断するレースゲーム。架空のレース大会「ザ・ラン」の開催地でありスタート地点。レース開始時、ザ・ランに参加しているレーサーを確保しようと警察がサンフランシスコを封鎖し始める
;[[ウォッチドッグス2]](2016年)
:オープンワールド型アクションゲーム。忠実に再現したサンフランシスコが登場する。
== その他 ==
* ファイナンシャルディストリクトに第12地区[[連邦準備制度|連邦準備銀行]]がおかれている。
* '''合衆国皇帝にしてメキシコの庇護者ノートン1世'''を名乗った男、[[ジョシュア・ノートン]]が住んでいた都市。
* 日米親善の功績を認められた[[浅野七之助]]を記念して、[[5月16日]]を'''浅野七之助デー'''と定めた。
==ギャラリー==
<gallery>
File:San Francisco downtown aerial 2015.jpg|サンフランシスコの[[中心業務地区]]
File:San Francisco skyline from Twin Peaks 2021.jpg|サンフランシスコの[[スカイライン (風景)|スカイライン]](2021年)
File:Memorial Day 2020 - San Francisco Under Quarantine (49936445422).jpg|サンフランシスコの[[商業地|ダウンタウン]](2020年)
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
<!--
== 参考文献 ==
-->
== 関連項目 ==
* [[サンフランシスコ市長]]
** 2011年1月 - 2017年12月の間は中国系の[[エドウィン・リー]]が市長だったが在任中に死去。その前任の市長は[[ギャビン・ニューサム]]で、2011年から[[カリフォルニア州副知事]]、2019年から[[カリフォルニア州知事]]。
* [[サンフランシスコ市庁舎|サンフランシスコ市役所]]
* [[サンフランシスコ市警察]]
* [[サンフランシスコ統一学区]]
* [[サンフランシスコ (重巡洋艦)]]
* [[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]
* [[ジャパンタウン (サンフランシスコ)|サンフランシスコ・ジャパンタウン]] - [[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]
* [[在サンフランシスコ日本国総領事館]]
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|San_Francisco}}
<!--商業サイトは不要-->
; 公式
:* [https://sfgov.org/ サンフランシスコ市公式サイト] {{en icon}}
:
; 日本政府
:* [https://www.sf.us.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在サンフランシスコ日本国総領事館] {{ja icon}}
:
; 観光
:*[http://jp.sftravel.com/ サンフランシスコ観光局・国際空港] {{ja icon}}
:* [https://www.visitcalifornia.com/jp/region/%e3%82%b5%e3%83%b3%e3%83%95%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%b7%e3%82%b9%e3%82%b3%e3%83%bb%e3%83%99%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%83%aa%e3%82%a2%e3%81%ae%e9%ad%85%e5%8a%9b カリフォルニア州観光局 - サンフランシスコ] {{ja icon}}
:*[https://www.dylanstours.com サンフランシスコツアー]
{{カリフォルニア州}}
{{カリフォルニア州の郡庁所在地}}
{{アメリカ50大都市}}
{{Authority control}}
{{DEFAULTSORT:さんふらんしすこ}}
[[Category:サンフランシスコ|*]]
[[Category:サンフランシスコ・ベイエリアの郡]]
[[Category:カリフォルニア州の都市]]
[[Category:アメリカ合衆国の観光地]]
[[Category:アメリカ合衆国の港町]]
[[Category:太平洋の港町]]
[[Category:日系アメリカ人]]
[[Category:日本人街]]
[[Category:アメリカ合衆国の市郡]]
[[Category:アッシジのフランチェスコ]] | 2003-02-20T05:37:58Z | 2023-12-07T14:55:15Z | false | false | false | [
"Template:GR",
"Template:Flagicon",
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"Template:See also",
"Template:Ja icon",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3 |
2,482 | 歌手 | 歌手(かしゅ、英語: singer)は、歌を歌うことを職業とする人。歌手の声は歌手それぞれの主要な声種および声域により分類される(後述)。
歌い手(うたいて)とも呼ばれるが、これは歌を歌うことを職業としていない人も含めた呼び方である。なお、YouTubeやニコニコ動画では「歌い手」は「歌ってみた」と呼ばれる動画を投稿するユーザーを表す言葉として定着しており、プロを表す「歌手」とは区別されている(歌ってみたを参照)。
ボーカリスト(英語: vocalist)は歌手と同じだが、演歌歌手のようなソロで歌っている人のことは含まない場合が多い。基本的にバンドやユニットに所属している人を指される。
ボーカルが複数人いるグループの場合、中心的ボーカルを「リードボーカル」(または「メインボーカル」)と言い、その他のボーカルを「サブボーカル」と言う。全員がリードボーカルのグループもある。
その他にもホーミーなど特殊な発声もあり、民族音楽に顕著である。デスヴォイスなど新たな発声法も生まれている。 | [
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] | 歌手は、歌を歌うことを職業とする人。歌手の声は歌手それぞれの主要な声種および声域により分類される(後述)。 歌い手(うたいて)とも呼ばれるが、これは歌を歌うことを職業としていない人も含めた呼び方である。なお、YouTubeやニコニコ動画では「歌い手」は「歌ってみた」と呼ばれる動画を投稿するユーザーを表す言葉として定着しており、プロを表す「歌手」とは区別されている(歌ってみたを参照)。 ボーカリストは歌手と同じだが、演歌歌手のようなソロで歌っている人のことは含まない場合が多い。基本的にバンドやユニットに所属している人を指される。 ボーカルが複数人いるグループの場合、中心的ボーカルを「リードボーカル」(または「メインボーカル」)と言い、その他のボーカルを「サブボーカル」と言う。全員がリードボーカルのグループもある。 | {{Redirect|ヴォーカリスト|[[徳永英明]]のアルバム|VOCALIST}}
{{複数の問題|出典の明記=2015年3月26日 (木) 21:36 (UTC)|独自研究=2015年3月26日 (木) 21:36 (UTC)}}
'''歌手'''(かしゅ、{{lang-en|singer}})は、[[歌]]を歌うことを[[職業]]とする人。歌手の[[声]]は歌手それぞれの主要な[[声種]]および[[声域]]により分類される(後述)。
'''歌い手'''(うたいて)とも呼ばれるが、これは歌を歌うことを職業としていない人も含めた呼び方である<ref>[https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%AD%8C%E3%81%84%E6%89%8B/#jn-19051 歌い手(うたいて)の意味 - goo国語辞書]</ref>。なお、[[YouTube]]や[[ニコニコ動画]]では「歌い手」は「[[歌ってみた]]」と呼ばれる動画を投稿するユーザーを表す言葉として定着しており、プロを表す「歌手」とは区別されている([[歌ってみた]]を参照)<ref name="itmedia">{{Cite web|和書|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1902/27/news134.html|title=この10年間で“歌い手”という存在はどう変わったのか 歌い手「そらる」に聞く“歌ってみた”の可能性|date=2019-03-06|accessdate=2020-01-10|work=ねとらぼ(ITmedia)}}</ref><ref name=":0">[http://nicodb.jp/u/bgm/alllist/1 ランク順の歌い手一覧] - 歌い手DB</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|url=http://ure.pia.co.jp/articles/-/7229|title=【ニコ動】「歌ってみた」の歴史を振り返る~デビューしていく歌い手たち|date=2012-07-06|accessdate=2020-01-10|work=ウレぴあ総研}}</ref><ref name="RIAJ201402">[https://web.archive.org/web/20140311075804/http://www.riaj.or.jp/data/others/gold/201402.html ゴールド等認定作品一覧 2014年2月]</ref><ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/158042|title=「ETA」初の日本武道館に8000人熱狂!歌い手やボカロPら総勢45組出演|date=2015-08-25|accessdate=2020-01-10|work=音楽ナタリー}}</ref><ref name="mafumafu">[http://uni-mafumafu.jp/live/ LIVE] まふまふ Official Website</ref>。
'''ボーカリスト'''({{lang-en|vocalist}})は歌手と同じだが、演歌歌手のようなソロで歌っている人のことは含まない場合が多い。基本的にバンドやユニットに所属している人を指される。
[[ボーカル]]が複数人いるグループの場合、中心的ボーカルを「リードボーカル」(または「メインボーカル」)と言い、その他のボーカルを「サブボーカル」と言う。全員がリードボーカルのグループもある。
== 歌声の区分 ==
=== 性別と声域による区分 ===
{{See also|声楽}}
==== 男声 ====
* [[ソプラニスタ]]
* [[カウンターテナー]]([[カウンターテノール]])
* [[テノール]]
* [[バリトン]]
* [[バス (声域)|バス]]
* [[カストラート]]
* [[ボーイソプラノ]]
==== 女声 ====
* [[ソプラノ]]
* [[メゾソプラノ]]
* [[アルト]]([[コントラルト]])
* [[バス (声域)|バス]]
* [[バリトン]]
* [[コロラトゥーラ]]
=== 発声法による区分 ===
{{See also|発声法}}
* [[胸声]]
* [[頭声]]
* [[地声]]
* [[裏声]]
* [[ファルセット]]
* [[ミックスボイス]]
その他にも[[ホーミー]]など特殊な発声もあり、[[民族音楽]]に顕著である。[[デスヴォイス]]など新たな発声法も生まれている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[演歌歌手]]
*[[アイドル]]
*[[アイドル歌謡曲]]
*[[歌謡曲]]
*[[シンガーソングライター]]
*[[ミュージシャン一覧]]
*[[ボーカル]]
*[[声楽]]
*[[音楽]] - [[ポピュラー音楽]]・[[クラシック音楽]]
*[[音楽家]]
*[[合唱]]
*[[童謡歌手]]
*[[MC (ヒップホップ)|MC]]
*[[個人事業主]]
{{音楽}}
{{singer-stub|*かしゆ}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かしゆ}}
[[Category:歌手|*かしゆ]]
[[Category:音楽関連の職業]]
[[fi:Laulu#Laulaja]] | 2003-02-20T05:54:04Z | 2023-11-07T19:08:38Z | false | false | false | [
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"Template:音楽"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E6%89%8B |
2,483 | パズル | パズル(英語:Puzzle)は、あらかじめ出された問題を、論理的な考察と試行錯誤によって解くことを目的とした、ゲームやクイズに似た娯楽の一種。
論理学的には、複数解が矛盾してしまう「ジレンマ」、論理的に解けそうでいて不思議と解答が見つからない「パラドックス」に対して、唯一解が出せるものを「パズル」と定義することができる。しかし一般的にパズルといえば、娯楽として提供される問題や謎全般を指すことが多い。「学問的な命題に対して娯楽の要素が強いものがパズル」、または「知識に頼るものがクイズで思考で解くものがパズル」など多くの意見がある(ちなみに20世紀前半には、クロスワードパズルの様にクイズとパズルの中間と思われる問題を「クイズル(Quizzle)」という造語で呼んだこともある)。パズルといった場合、問題は幾何的であり、図を用いて、もしくは実際にその状況を作り出して出題されることが多いとも考えられる。パズル性の強いコンピューターゲームの登場などもあり、娯楽としてのパズルの範囲を厳密に定義するのは困難と言える。
他に特徴として、ほとんどの場合1人で試行錯誤から正解判定までが可能であることなどが挙げられる。
日本で「パズル作家」という場合、ペンシルパズルの作者をさすことが多い。 | [
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] | パズルは、あらかじめ出された問題を、論理的な考察と試行錯誤によって解くことを目的とした、ゲームやクイズに似た娯楽の一種。 | {{Otheruses|娯楽の「パズル」|その他|パズル (曖昧さ回避)}}
{{出典の明記|date=2023年3月}}
'''パズル'''([[英語]]:Puzzle)は、あらかじめ出された[[問題]]を、論理的な考察と試行錯誤によって解くことを目的とした、[[ゲーム]]や[[クイズ]]に似た[[エンターテインメント|娯楽]]の一種。
== パズルの定義 ==
論理学的には、複数解が矛盾してしまう「[[ジレンマ]]」、論理的に解けそうでいて不思議と解答が見つからない「[[パラドックス]]」に対して、唯一解が出せるものを「パズル」と定義することができる。しかし一般的にパズルといえば、娯楽として提供される問題や謎全般を指すことが多い。「学問的な[[命題]]に対して娯楽の要素が強いものがパズル」、または「知識に頼るものがクイズで思考で解くものがパズル」など多くの意見がある{{要出典範囲|(ちなみに20世紀前半には、クロスワードパズルの様にクイズとパズルの中間と思われる問題を「クイズル(Quizzle)」という[[造語]]で呼んだこともある)|date=2018年3月}}。パズルといった場合、問題は幾何的であり、図を用いて、もしくは実際にその状況を作り出して出題されることが多いとも考えられる。パズル性の強い[[コンピューターゲーム]]の登場などもあり、娯楽としてのパズルの範囲を厳密に定義するのは困難と言える。
他に特徴として、ほとんどの場合1人で試行錯誤から正解判定までが可能であることなどが挙げられる。
== パズルの種類 ==
* [[ペンシルパズル]]
** [[クロスワードパズル]]
**[[ナンバークロスワードパズル]]
** [[迷路]]
** [[数独]]
** [[お絵かきロジック]]
** [[スリザーリンク]]
** [[点つなぎ]]
* [[ソリティア]]
** [[ペグ・ソリテール]]
* [[数学パズル]]
**[[ロジックパズル]]
***[[モンティ・ホール問題]]
*** [[川渡り問題]]
*** [[贋金と天秤]]
*** 油分け算
*** 正直村とうそつき村
*** [[シチュエーションパズル]]
** 計算を伴うパズル
*** [[魔方陣]]
*** [[虫食い算]]・[[覆面算]]
*** [[小町算]]
*** [[4つの4]](Four Fours)
*** [[カックロ]]
* [[ボードゲーム]]を使ったパズル
** [[将棋パズル]]
*** [[詰将棋]]
** [[詰碁]]
** [[チェス]]のパズル
*** [[チェス・プロブレム]]
*** [[エイト・クイーン]]
*** [[ナイト・ツアー]]
* [[メカニカルパズル]]
** 並べるパズル
*** [[ジグソーパズル]]
*** [[敷き詰めパズル]](箱詰めパズルともいうが後述する立体のものではない)
**** [[ポリフォーム]]
***** [[ポリオミノ]]
****** [[ペントミノ]]
***** [[ポリイアモンド]]
*** [[シルエットパズル]]
**** 智恵の板
***** [[タングラム]]
***** ラッキーパズル
***** [[清少納言知恵の板]]
**** [[裁ち合わせ]]
*** [[マッチングパズル]]
** 動かすパズル
*** [[スライディングブロックパズル]]
**** [[箱入り娘 (パズル)|箱入り娘]]
**** [[15パズル]]
*** [[マッチ棒パズル|マッチパズル]]
*** [[コインパズル]]
*** [[ハノイの塔]]
** 立体パズル
*** [[知恵の輪]]
**** [[チャイニーズリング]]
*** [[箱詰めパズル]]
**** [[ポリキューブ]]
***** [[ソーマキューブ]]
*** [[組み立てパズル]]
*** [[ルービックキューブ]]
*** [[秘密箱]]
* [[パズルゲーム]](cf. [[テーブルゲーム]]、[[ボードゲーム]]、[[コンピューターゲーム]])
** [[アクションパズル]]
*** [[落ち物パズル]]
* [[言葉遊び]]
** [[アナグラム]]
** [[回文]]
** [[パングラム]]
== 著名なパズル作家 ==
<!--とりあえず50音順-->
{{Div col}}
*[[サム・ロイド]]
*[[ヘンリー・アーネスト・デュードニー]]
*[[マーティン・ガードナー]]
*[[ルビク・エルネー]]
*[[レイモンド・スマリヤン]]
{{Div col end}}
=== 日本のパズル作家およびパズル工房 ===
日本で「パズル作家」という場合、[[ペンシルパズル]]の作者をさすことが多い。
<!--とりあえず50音順-->
{{Div col}}
*[[あさみ順子]]
*[[岡田光雄 (作家)|岡田光雄]]
*[[小野寺紳]]
*[[多湖輝]]
*[[田守伸也]]
*[[ニコリ]]
*[[西尾徹也]]
*[[雅孝司]]
*[[白峰良介]]
*[[芦ヶ原伸之]]
*[[吉川めいろ]]{{Div col end}}
== 関連文献 ==
*{{Cite book|和書
|last=デュードニー
|first=H. E.
|authorlink=ヘンリー・アーネスト・デュードニー
|translator=[[伴田良輔]]
|date=2009-03
|title=カンタベリー・パズル
|series=ちくま学芸文庫 テ7-1 Math & Science
|publisher=筑摩書房
|isbn=978-4-480-09203-8
|ref={{Harvid|デュードニー|2009}}
}}
*{{Cite book|和書
|author=中村義作|authorlink=中村義作
|date=2017-11
|title=世界の名作 数理パズル100 推理力・直観力を鍛える
|series=ブルーバックス B-2039
|publisher=講談社
|isbn=978-4-06-502039-5
|ref={{Harvid|中村|2017}}
}}
*{{Cite book|和書
|author=伴田良輔|authorlink=伴田良輔
|date=2008-01
|title=巨匠の傑作パズルベスト100
|series=文春新書 615
|publisher=文藝春秋
|isbn=978-4-16-660615-3
|ref={{Harvid|伴田|2008}}
}}
== 関連項目 ==
{{Div col}}
*[[暗号]]
*[[クイズ]]
*[[なぞなぞ]]
*[[ファイ・ブレイン 神のパズル]]
*[[真に最難関の論理パズル]]
{{Div col end}}
== 外部リンク ==
*{{Kotobank|パズル}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はする}}
[[Category:パズル|*]]
[[Category:英語の語句]] | null | 2023-03-25T09:47:06Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
"Template:要出典範囲",
"Template:Div col",
"Template:Div col end",
"Template:Cite book",
"Template:Kotobank",
"Template:Normdaten",
"Template:Otheruses"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%BA%E3%83%AB |
2,484 | トリックテイキングゲーム | トリックテイキングゲームは、トランプを初めとするカードゲームの、遊び方の一分類である。
トリックテイキングゲームにはカードゲームとほぼ同じ長さの歴史が存在する。タロットも、もともとはトリックテイキングゲームを遊ぶために作られたカードである。
トリックテイキングゲームには様々な変種があるため、まずは最も簡単なルールを説明する。これは後述の分類でいう「切り札のないプレイントリックゲーム」にあたる。
トリックテイキングゲームではまず、各プレイヤーに同じ枚数の手札を裏向きに配る。枚数は遊戯毎に違う。札を配り終わったら、札が無くなるまでトリックと呼ばれるミニゲームを繰り返し、各ミニゲーム毎に勝者を決める。勝った(テイクした)トリックの数が最も多い人がゲームの勝者になる。
各トリックの手順は以下を行う。まず定められた1人が任意のカードを1枚、場に表向きに出す(カードをリードする という)。そしてその後左周りに順々に、1人1枚ずつ札を出していく。この際、以下のルールに従わねばならない。
たとえばハートがリードされたら、ハートを持っているプレイヤーはハートの札を出さねばならないが、そうでないプレイヤーはどの札を出してよい。フォローできるのにフォローしないのは反則である(マストフォロー・ルール)。
全員が一人ずつ札を出し終わったら、そのトリックは終了である。リードされたスートと同じスートの札(すなわち、リードした札もしくはフォローした札)の中で最もランクが高い札を出した人がそのトリックの勝者になる(多くのゲームではランクはA>K>Q>...>3>2の順)。よってカードをディスカードしたプレイヤーは、どんなに高いランクの札を出そうが、決してそのトリックで勝つことができない。特に誰一人フォローしなかった場合は、リードした人が自動的にそのトリックの勝者になる。
トリックが終了したら、そのトリックで使った札を裏返して場の端に置いておく。これらの札はゲーム中、二度と使用しない。
トリックの勝者が次のトリックでカードをリードする。なお、ゲームの最初に行なうリードをオープニング・リードという。どのプレイヤーがオープニング・リードを行なうのかは遊戯毎に異なる。
多くのトリックテイキングゲームでは、事前に切り札スートと呼ばれているスートが決まっていて、切り札スートの札(切り札)は他のスートのカードよりも強い。切り札スートの決め方は遊戯毎に異なる。 切り札スートのないルールを切り札スートのあるルールと区別するため、切り札のないルールをノートランプ・ルールという。なお、ノートランプのトランプとは切り札のことを指す。日本語ではカード52枚を全てトランプというので、混同しないように注意する必要がある。
切り札スートの決まっているトリックテイキングゲームでも、基本的な流れは切り札なしのトリックテイキングゲームの場合と同じで、各プレイヤーにあらかじめ同じ枚数の手札をディールし、札をディールし終わったら札が無くなるまでトリックと呼ばれるミニゲームを繰り返す。勝ったトリックの数が最も多い人がゲームの勝者になる。
各トリックでは、以下を行う。まず一人がカードをリードする(切り札でもよい)。そしてその後左周りに順々に各プレイヤーがカードを場に1枚ずつ表向きに出してゆく。前回同様、リードされたスートと同じスートの札を出すことをフォローするという。
フォローできるときはフォローしなければならない(マストフォロー・ルール)が、そうでないときは任意の札を出す。そして「切り札スート>リードされたスート」の順でトリックの勝者を決める。より正確に言うと、以下のルールで札を出し、勝者を決める。
前回同様、カードをディスカードしたプレイヤーは、どんなに高いランクの札を出そうが、決してそのトリックで勝つことができない。
切り札のあるゲームの基本戦略として、切り札狩りが知られている。これは、切り札を多く持っているプレイヤーが切り札を何度もリードする、という戦略である。リードには可能なら必ずフォローしなければならないので、切り札をリードされると、他のプレイヤーは可能なら必ず切り札を出さねばならない。よって切り札リードを繰り返すうちに他のプレイヤーの切り札が全て無くなり、切り札を持っているのは自分だけという状況を生み出すことができる。
プレイヤーがさらにA、K、Qのような高位の切り札を独り占めしてるときは、切り札狩りがしやすい。というのも、高位の切り札から順にリードしていくと、毎回自分がトリックで勝利して次のトリックのリード権を獲得し、切り札の連続リードが可能になるからである。
パーラットは、トリックテイキングゲームを以下の3種類に大別している。
そのほかに、下位分類として以下のような類型を認めている。
通常「マストフォロー」と言った場合は、「フォローできるならばしなければならない。なければ何を出してもよい」という意味で、大部分のトリックテイキングゲームがこの方式に従う。しかし、これ以外の原則に従うトリックテイキングゲームもある。
シュナプセンのように、山札の有無によってマストフォロールールが変わるゲームもある。
以下、特に断りが無い限り、プレイントリックテイキングゲームを想定して説明するが、他の種類のトリックテイキングゲームでも同様である。
札を配って(トリックテイキング)ゲームを行い、全ての札が無くなって勝敗がつくまでをディールという(札を配る行為そのものもディールと呼ばれる)。多くのトリックテイキングゲームのディールは、次の4つのフェーズからなる。
定められた条件(例:事前に決められた回数だけ上の4フェーズを繰り返す、誰かが事前に決められた得点に到達する、等)が満たされたら、ゲームは終了である。
ビディングとは、今回のディールで勝てると思うトリック数を各々のプレイヤーがビッド(入札)するフェーズのことで、その目的はそのディールのディクレアラー(宣言者、すなわち最高位のビッドをしたプレイヤー)を決めることである。ビディング終了後は「ディクレアラー1人」対「他の人全て」でトリックテイキングが開始される。ディクレアラーの目標は宣言を達成することで、残りの人の共通目標はそれを阻止することである。したがってディクレアラー以外の人は、このディール限定の共同戦線を張ることになる。トリックテイキングが終了したら、ディクレアラーが宣言を達成したかどうかに応じてスコアがつけられる。
誤解をまねきやすい所を強調しておくと、大抵の遊戯のビディングでは各プレイヤーは複数回ビッドすることが可能である。ただし、後のビッドほど高いビッドでなければならない。また、ビディング終了後はディクレアラーが最後にしたビッドのみが有効になり、(ディクレアラーもしくは他の人によってなされた)他の全てのビッドは忘れられる。
ビディングの典型的なルールは以下の通りである。各プレイヤーは順に時計回りで、自分が今回のゲームで勝てると思うトリック数をビッドするか、もしくはパスする。ただし多くの遊戯では、ビットできる最低限のトリック数が決まっているので、プレイヤーはその最低限以上のトリック数をビッドしなければならない。最初になされた(パス以外の)ビッドのことをオープニングビッドと言う。なお、全員がパスをした場合は、この回のディールは流れてしまい、カードが配り直しになる。以下は誰かがオープニングビッドした場合について説明する。
各プレイヤーは(オープニングビッド以外の)ビッドをする場合、これまでになされたいずれのビッドよりも高いビッドをしなければならない。たとえばこれまでになされたビッドが「7トリック取る」、「パス」、「8トリック取る」であれば、9トリックないしそれ以上のビッドをしなければならない。
ビディングはパス以外の新しいビッドが出続けている限り、時計回りに何周もする。各プレイヤーは2周目以降、前回のビッドをつりあげてもよい。例えば1周目に「7トリック取る」とビッドしても、2周目でそれをつり上げて「10トリック取る」と言ってもよい。ただしこれはもちろん、それまでに他のプレイヤーが10以上のビッドをしていない場合に限る。
最後に(パス以外の)ビッドをしたプレイヤー以外の全てのプレイヤーがパスをしたら、ビディングは終了である。例えば4人で遊んでる場合は3人が連続してパスをすればビディングは終了である。最後に(パス以外の)ビッドをしたプレイヤーがディクレアラーになる。
多くの遊戯では切り札スートはディクレアラーが決める。遊戯によってはビッド時に、獲得できると思うトリック数のみならず、自分が指定したい切り札スートもあわせてビッドする。この際スートに順番がついていて、同じトリック数のビッドならスートの順番が高いビッドの方が高いビッドとみなされる。たとえばコントラクトブリッジでは、スートの順番はNT、 ♠ {\displaystyle \spadesuit } 、 ♡ {\displaystyle \heartsuit } 、 ♢ {\displaystyle \diamondsuit } 、 ♣ {\displaystyle \clubsuit } の順である。したがって例えば「クラブで7トリック取る」というビッドよりも「ハートで7トリック取る」というビッドの方が高いビッドとみなされる。なお、スートの順番はビディング中のみ有効で、スートの順番はトリックの勝敗とは無関係である。
ビディングが終了したら、前述のように「ディクレアラー1人」対「他の人全て」でトリックテイキングが開始される。トリックテイキングが終了したら、ディクレアラーが(最後の)宣言を達成したかどうかに応じてスコアがつけられる。多くの遊戯ではディクレアラーが宣言を守ったときのみ、ディクレアラーに点が入る。たとえばディクレアラーの宣言が「7」である場合、ディクレアラーが7トリック以上勝利したときのみディクレアラーのスコアに点が入り、そうでなければディクレアラーのスコアには1点も入らない(遊戯によってはむしろマイナス点が入る)。なお、宣言が「7」であるのにディクレアラーが8トリック以上勝利しても7トリック分の点数しか入らない遊戯が多い。したがって高得点を取るには、勝率を考えながら可能なかぎり高い宣言をしておく必要がある。また、ディクレアラー以外の人はディクレアラーが宣言を達成しようがしまいが、1点も入らないのが普通である。したがって点数を取るにはディクレアラーになるしかない。
遊戯によっては特定の宣言を達成するとボーナス点が入る。典型的なのはスラムを宣言した場合で、これは「全てのトリックで勝利する」という宣言である(ポイントトリックゲームなら全てのプラス点を集める)。この手のボーナス点もあらかじめ宣言していた場合のみ入る。スラムを宣言しなかったのに偶然全てのトリックで勝利した場合は、スラム・ボーナスは入らない。なお、ハーツでは特定の札を集めれば集めるほどマイナスが増えていくが、全てのマイナス札を集めたときだけ例外的にプラス点が入る。これもスラムと呼ばれる。逆に1トリックも取らないことを宣言できる遊戯もあり、これは「ミゼール」と呼ばれる。
遊戯によっては他のプレイヤーとパートナーを組む。典型的なのはコントラクトブリッジで、この遊戯は2対2のパートナー戦である(向い側の人とパートナーを組む)。この遊戯ではパートナーがゲーム中に変わることはなく、完全なチーム戦で、「12トリック勝つ」という宣言は「パートナー2人分を合計して12トリック勝つ」の意味である。ただし遊び方によっては、全てのパートナーの組み合わせでチーム戦を順に行い、それらのチーム戦の得点の合計値で個人の勝敗を決める。中には、うんすんカルタの八人メリのように4対4の団体戦で行われるものもある。
遊戯によっては、各ディール毎にディクレアラーがそのディール限りのパートナーを決めるものがある。決め方は遊戯毎に様々だが、例えばディクレアラーが指定した札を持っている人がディクレアラーのパートナーになるというルールがある。こうした遊戯では多くの場合、指定した札を持っている人は自分がパートナーであることを皆に明かす。しかし、5人版ファイブハンドレッドや日本式ナポレオンでは、自分がパートナーであることを誰にも明かさず、影でこっそりとディクレアラーを助ける。 | [
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"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "トリックテイキングゲームには様々な変種があるため、まずは最も簡単なルールを説明する。これは後述の分類でいう「切り札のないプレイントリックゲーム」にあたる。",
"title": "最も簡単なルール"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "トリックテイキングゲームではまず、各プレイヤーに同じ枚数の手札を裏向きに配る。枚数は遊戯毎に違う。札を配り終わったら、札が無くなるまでトリックと呼ばれるミニゲームを繰り返し、各ミニゲーム毎に勝者を決める。勝った(テイクした)トリックの数が最も多い人がゲームの勝者になる。",
"title": "最も簡単なルール"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "各トリックの手順は以下を行う。まず定められた1人が任意のカードを1枚、場に表向きに出す(カードをリードする という)。そしてその後左周りに順々に、1人1枚ずつ札を出していく。この際、以下のルールに従わねばならない。",
"title": "最も簡単なルール"
},
{
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"tag": "p",
"text": "たとえばハートがリードされたら、ハートを持っているプレイヤーはハートの札を出さねばならないが、そうでないプレイヤーはどの札を出してよい。フォローできるのにフォローしないのは反則である(マストフォロー・ルール)。",
"title": "最も簡単なルール"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "全員が一人ずつ札を出し終わったら、そのトリックは終了である。リードされたスートと同じスートの札(すなわち、リードした札もしくはフォローした札)の中で最もランクが高い札を出した人がそのトリックの勝者になる(多くのゲームではランクはA>K>Q>...>3>2の順)。よってカードをディスカードしたプレイヤーは、どんなに高いランクの札を出そうが、決してそのトリックで勝つことができない。特に誰一人フォローしなかった場合は、リードした人が自動的にそのトリックの勝者になる。",
"title": "最も簡単なルール"
},
{
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"tag": "p",
"text": "トリックが終了したら、そのトリックで使った札を裏返して場の端に置いておく。これらの札はゲーム中、二度と使用しない。",
"title": "最も簡単なルール"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "トリックの勝者が次のトリックでカードをリードする。なお、ゲームの最初に行なうリードをオープニング・リードという。どのプレイヤーがオープニング・リードを行なうのかは遊戯毎に異なる。",
"title": "最も簡単なルール"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "多くのトリックテイキングゲームでは、事前に切り札スートと呼ばれているスートが決まっていて、切り札スートの札(切り札)は他のスートのカードよりも強い。切り札スートの決め方は遊戯毎に異なる。 切り札スートのないルールを切り札スートのあるルールと区別するため、切り札のないルールをノートランプ・ルールという。なお、ノートランプのトランプとは切り札のことを指す。日本語ではカード52枚を全てトランプというので、混同しないように注意する必要がある。",
"title": "切り札のあるルール"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "切り札スートの決まっているトリックテイキングゲームでも、基本的な流れは切り札なしのトリックテイキングゲームの場合と同じで、各プレイヤーにあらかじめ同じ枚数の手札をディールし、札をディールし終わったら札が無くなるまでトリックと呼ばれるミニゲームを繰り返す。勝ったトリックの数が最も多い人がゲームの勝者になる。",
"title": "切り札のあるルール"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "各トリックでは、以下を行う。まず一人がカードをリードする(切り札でもよい)。そしてその後左周りに順々に各プレイヤーがカードを場に1枚ずつ表向きに出してゆく。前回同様、リードされたスートと同じスートの札を出すことをフォローするという。",
"title": "切り札のあるルール"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "フォローできるときはフォローしなければならない(マストフォロー・ルール)が、そうでないときは任意の札を出す。そして「切り札スート>リードされたスート」の順でトリックの勝者を決める。より正確に言うと、以下のルールで札を出し、勝者を決める。",
"title": "切り札のあるルール"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "前回同様、カードをディスカードしたプレイヤーは、どんなに高いランクの札を出そうが、決してそのトリックで勝つことができない。",
"title": "切り札のあるルール"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "切り札のあるゲームの基本戦略として、切り札狩りが知られている。これは、切り札を多く持っているプレイヤーが切り札を何度もリードする、という戦略である。リードには可能なら必ずフォローしなければならないので、切り札をリードされると、他のプレイヤーは可能なら必ず切り札を出さねばならない。よって切り札リードを繰り返すうちに他のプレイヤーの切り札が全て無くなり、切り札を持っているのは自分だけという状況を生み出すことができる。",
"title": "切り札のあるルール"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "プレイヤーがさらにA、K、Qのような高位の切り札を独り占めしてるときは、切り札狩りがしやすい。というのも、高位の切り札から順にリードしていくと、毎回自分がトリックで勝利して次のトリックのリード権を獲得し、切り札の連続リードが可能になるからである。",
"title": "切り札のあるルール"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "パーラットは、トリックテイキングゲームを以下の3種類に大別している。",
"title": "勝敗の決め方の分類"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "そのほかに、下位分類として以下のような類型を認めている。",
"title": "勝敗の決め方の分類"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "通常「マストフォロー」と言った場合は、「フォローできるならばしなければならない。なければ何を出してもよい」という意味で、大部分のトリックテイキングゲームがこの方式に従う。しかし、これ以外の原則に従うトリックテイキングゲームもある。",
"title": "マストフォローの変種"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "シュナプセンのように、山札の有無によってマストフォロールールが変わるゲームもある。",
"title": "マストフォローの変種"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "以下、特に断りが無い限り、プレイントリックテイキングゲームを想定して説明するが、他の種類のトリックテイキングゲームでも同様である。",
"title": "ビディング"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "札を配って(トリックテイキング)ゲームを行い、全ての札が無くなって勝敗がつくまでをディールという(札を配る行為そのものもディールと呼ばれる)。多くのトリックテイキングゲームのディールは、次の4つのフェーズからなる。",
"title": "ビディング"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "定められた条件(例:事前に決められた回数だけ上の4フェーズを繰り返す、誰かが事前に決められた得点に到達する、等)が満たされたら、ゲームは終了である。",
"title": "ビディング"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "ビディングとは、今回のディールで勝てると思うトリック数を各々のプレイヤーがビッド(入札)するフェーズのことで、その目的はそのディールのディクレアラー(宣言者、すなわち最高位のビッドをしたプレイヤー)を決めることである。ビディング終了後は「ディクレアラー1人」対「他の人全て」でトリックテイキングが開始される。ディクレアラーの目標は宣言を達成することで、残りの人の共通目標はそれを阻止することである。したがってディクレアラー以外の人は、このディール限定の共同戦線を張ることになる。トリックテイキングが終了したら、ディクレアラーが宣言を達成したかどうかに応じてスコアがつけられる。",
"title": "ビディング"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "誤解をまねきやすい所を強調しておくと、大抵の遊戯のビディングでは各プレイヤーは複数回ビッドすることが可能である。ただし、後のビッドほど高いビッドでなければならない。また、ビディング終了後はディクレアラーが最後にしたビッドのみが有効になり、(ディクレアラーもしくは他の人によってなされた)他の全てのビッドは忘れられる。",
"title": "ビディング"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "ビディングの典型的なルールは以下の通りである。各プレイヤーは順に時計回りで、自分が今回のゲームで勝てると思うトリック数をビッドするか、もしくはパスする。ただし多くの遊戯では、ビットできる最低限のトリック数が決まっているので、プレイヤーはその最低限以上のトリック数をビッドしなければならない。最初になされた(パス以外の)ビッドのことをオープニングビッドと言う。なお、全員がパスをした場合は、この回のディールは流れてしまい、カードが配り直しになる。以下は誰かがオープニングビッドした場合について説明する。",
"title": "ビディング"
},
{
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"tag": "p",
"text": "各プレイヤーは(オープニングビッド以外の)ビッドをする場合、これまでになされたいずれのビッドよりも高いビッドをしなければならない。たとえばこれまでになされたビッドが「7トリック取る」、「パス」、「8トリック取る」であれば、9トリックないしそれ以上のビッドをしなければならない。",
"title": "ビディング"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "ビディングはパス以外の新しいビッドが出続けている限り、時計回りに何周もする。各プレイヤーは2周目以降、前回のビッドをつりあげてもよい。例えば1周目に「7トリック取る」とビッドしても、2周目でそれをつり上げて「10トリック取る」と言ってもよい。ただしこれはもちろん、それまでに他のプレイヤーが10以上のビッドをしていない場合に限る。",
"title": "ビディング"
},
{
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"tag": "p",
"text": "最後に(パス以外の)ビッドをしたプレイヤー以外の全てのプレイヤーがパスをしたら、ビディングは終了である。例えば4人で遊んでる場合は3人が連続してパスをすればビディングは終了である。最後に(パス以外の)ビッドをしたプレイヤーがディクレアラーになる。",
"title": "ビディング"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "多くの遊戯では切り札スートはディクレアラーが決める。遊戯によってはビッド時に、獲得できると思うトリック数のみならず、自分が指定したい切り札スートもあわせてビッドする。この際スートに順番がついていて、同じトリック数のビッドならスートの順番が高いビッドの方が高いビッドとみなされる。たとえばコントラクトブリッジでは、スートの順番はNT、 ♠ {\\displaystyle \\spadesuit } 、 ♡ {\\displaystyle \\heartsuit } 、 ♢ {\\displaystyle \\diamondsuit } 、 ♣ {\\displaystyle \\clubsuit } の順である。したがって例えば「クラブで7トリック取る」というビッドよりも「ハートで7トリック取る」というビッドの方が高いビッドとみなされる。なお、スートの順番はビディング中のみ有効で、スートの順番はトリックの勝敗とは無関係である。",
"title": "ビディング"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ビディングが終了したら、前述のように「ディクレアラー1人」対「他の人全て」でトリックテイキングが開始される。トリックテイキングが終了したら、ディクレアラーが(最後の)宣言を達成したかどうかに応じてスコアがつけられる。多くの遊戯ではディクレアラーが宣言を守ったときのみ、ディクレアラーに点が入る。たとえばディクレアラーの宣言が「7」である場合、ディクレアラーが7トリック以上勝利したときのみディクレアラーのスコアに点が入り、そうでなければディクレアラーのスコアには1点も入らない(遊戯によってはむしろマイナス点が入る)。なお、宣言が「7」であるのにディクレアラーが8トリック以上勝利しても7トリック分の点数しか入らない遊戯が多い。したがって高得点を取るには、勝率を考えながら可能なかぎり高い宣言をしておく必要がある。また、ディクレアラー以外の人はディクレアラーが宣言を達成しようがしまいが、1点も入らないのが普通である。したがって点数を取るにはディクレアラーになるしかない。",
"title": "ビディング"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "遊戯によっては特定の宣言を達成するとボーナス点が入る。典型的なのはスラムを宣言した場合で、これは「全てのトリックで勝利する」という宣言である(ポイントトリックゲームなら全てのプラス点を集める)。この手のボーナス点もあらかじめ宣言していた場合のみ入る。スラムを宣言しなかったのに偶然全てのトリックで勝利した場合は、スラム・ボーナスは入らない。なお、ハーツでは特定の札を集めれば集めるほどマイナスが増えていくが、全てのマイナス札を集めたときだけ例外的にプラス点が入る。これもスラムと呼ばれる。逆に1トリックも取らないことを宣言できる遊戯もあり、これは「ミゼール」と呼ばれる。",
"title": "ビディング"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "遊戯によっては他のプレイヤーとパートナーを組む。典型的なのはコントラクトブリッジで、この遊戯は2対2のパートナー戦である(向い側の人とパートナーを組む)。この遊戯ではパートナーがゲーム中に変わることはなく、完全なチーム戦で、「12トリック勝つ」という宣言は「パートナー2人分を合計して12トリック勝つ」の意味である。ただし遊び方によっては、全てのパートナーの組み合わせでチーム戦を順に行い、それらのチーム戦の得点の合計値で個人の勝敗を決める。中には、うんすんカルタの八人メリのように4対4の団体戦で行われるものもある。",
"title": "パートナーシップ"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "遊戯によっては、各ディール毎にディクレアラーがそのディール限りのパートナーを決めるものがある。決め方は遊戯毎に様々だが、例えばディクレアラーが指定した札を持っている人がディクレアラーのパートナーになるというルールがある。こうした遊戯では多くの場合、指定した札を持っている人は自分がパートナーであることを皆に明かす。しかし、5人版ファイブハンドレッドや日本式ナポレオンでは、自分がパートナーであることを誰にも明かさず、影でこっそりとディクレアラーを助ける。",
"title": "パートナーシップ"
}
] | トリックテイキングゲームは、トランプを初めとするカードゲームの、遊び方の一分類である。 トリックテイキングゲームにはカードゲームとほぼ同じ長さの歴史が存在する。タロットも、もともとはトリックテイキングゲームを遊ぶために作られたカードである。 | {{複数の問題
|出典の明記=2022年5月12日 (木) 15:57 (UTC)
|独自研究=2022年5月12日 (木) 15:57 (UTC)
}}
'''トリックテイキングゲーム'''は、[[トランプ]]を初めとする[[カードゲーム]]の、遊び方の一分類である。
トリックテイキングゲームには[[カードゲーム]]とほぼ同じ長さの歴史が存在する。[[タロット]]も、もともとはトリックテイキングゲームを遊ぶために作られた[[カード]]である。
== 最も簡単なルール ==
トリックテイキングゲームには様々な変種があるため、まずは最も簡単なルールを説明する。これは後述の分類でいう「[[切り札]]のないプレイントリックゲーム」にあたる。
トリックテイキングゲームではまず、各プレイヤーに同じ枚数の手札を裏向きに配る。枚数は遊戯毎に違う。札を配り終わったら、札が無くなるまで'''トリック'''と呼ばれるミニゲームを繰り返し、各ミニゲーム毎に勝者を決める。勝った(テイクした)トリックの数が最も多い人がゲームの勝者になる。
各トリックの手順は以下を行う。まず定められた1人が任意のカードを1枚、場に表向きに出す(カードを'''リード'''する
という)。そしてその後左周りに順々に、1人1枚ずつ札を出していく。この際、以下のルールに従わねばならない。
* リードされた[[スート]](=マーク)と同じスートの札があれば、その中から1枚任意に選んで表向きに出す('''フォロー'''するという)。
* そのような札が無ければ、任意の1枚を表向きに出す('''ディスカード'''するという)。
たとえばハートがリードされたら、ハートを持っているプレイヤーはハートの札を出さねばならないが、そうでないプレイヤーはどの札を出してよい。フォローできるのにフォローしないのは反則である('''マストフォロー'''・ルール)。
全員が一人ずつ札を出し終わったら、そのトリックは終了である。リードされたスートと同じスートの札(すなわち、リードした札もしくはフォローした札)の中で最もランクが高い札を出した人がそのトリックの勝者になる(多くのゲームではランクはA>K>Q>…>3>2の順)。よってカードをディスカードしたプレイヤーは、どんなに高いランクの札を出そうが、決してそのトリックで勝つことができない。特に誰一人フォローしなかった場合は、リードした人が自動的にそのトリックの勝者になる。
トリックが終了したら、そのトリックで使った札を裏返して場の端に置いておく。これらの札はゲーム中、二度と使用しない。
トリックの勝者が次のトリックでカードをリードする。なお、ゲームの最初に行なうリードを'''オープニング・リード'''という。どのプレイヤーがオープニング・リードを行なうのかは遊戯毎に異なる。
== 切り札のあるルール ==
多くのトリックテイキングゲームでは、事前に'''切り札スート'''と呼ばれているスートが決まっていて、切り札スートの札('''切り札''')は他のスートのカードよりも強い。切り札スートの決め方は遊戯毎に異なる。
切り札スートのないルールを切り札スートのあるルールと区別するため、切り札のないルールを'''ノートランプ・ルール'''という。なお、ノートランプのトランプとは切り札のことを指す。日本語ではカード52枚を全てトランプというので、混同しないように注意する必要がある。
切り札スートの決まっているトリックテイキングゲームでも、基本的な流れは切り札なしのトリックテイキングゲームの場合と同じで、各プレイヤーにあらかじめ同じ枚数の手札をディールし、札をディールし終わったら札が無くなるまでトリックと呼ばれるミニゲームを繰り返す。勝ったトリックの数が最も多い人がゲームの勝者になる。
各トリックでは、以下を行う。まず一人がカードをリードする('''切り札でもよい''')。そしてその後左周りに順々に各プレイヤーがカードを場に1枚ずつ表向きに出してゆく。前回同様、リードされたスートと同じスートの札を出すことを'''フォロー'''するという。
フォローできるときはフォローしなければならない(マストフォロー・ルール)が、そうでないときは任意の札を出す。そして「切り札スート>リードされたスート」の順でトリックの勝者を決める。より正確に言うと、以下のルールで札を出し、勝者を決める。
* 切り札以外がリードされた場合
** リードされたスートと同じスートの札があれば、'''たとえ切り札を持っていても'''、リードされたスートの札を任意に選んで出す。
** リードされたスートと同じスートの札がなければ、切り札を出してもその他の札を出してもよい。切り札以外の札を出す事を'''ディスカード'''するという。
** 切り札スートが場に出ていれば、切り札スートで一番高いランクの札を出した人がトリックの勝者。
** 切り札スートが場に出ていなければ、リードされたスートで一番高いランクの札を出した人がトリックの勝者。
* 切り札がリードされた場合
** リードされたスートと同じスートの札があれば、リードされたスートの札を任意に選んで出す。リードされたスート=切り札スートなので、もちろん切り札を出してもよいし、出さねばならない。
** リードされたスートと同じスートの札がなければ、任意の札を出す('''ディスカード'''するという)。リードされたスート=切り札スートなので、ここで切り札が出ることはありえない。
** 切り札スート=リードされたスートで一番高いランクの札を出した人がトリックの勝者。
前回同様、カードをディスカードしたプレイヤーは、どんなに高いランクの札を出そうが、決してそのトリックで勝つことができない。
=== 切り札狩り ===
切り札のあるゲームの基本戦略として、'''切り札狩り'''が知られている。これは、切り札を多く持っているプレイヤーが切り札を何度もリードする、という戦略である。リードには可能なら必ずフォローしなければならないので、切り札をリードされると、他のプレイヤーは可能なら必ず切り札を出さねばならない。よって切り札リードを繰り返すうちに他のプレイヤーの切り札が全て無くなり、切り札を持っているのは自分だけという状況を生み出すことができる。
プレイヤーがさらにA、K、Qのような高位の切り札を独り占めしてるときは、切り札狩りがしやすい。というのも、高位の切り札から順にリードしていくと、毎回自分がトリックで勝利して次のトリックのリード権を獲得し、切り札の連続リードが可能になるからである。
== 勝敗の決め方の分類 ==
パーラットは、トリックテイキングゲームを以下の3種類に大別している<ref>{{cite book
|last=Parlett
|first=David
|year=1992
|title=A Dictionary of Card Games
|publisher=Oxford University Press
|isbn=0198691734
|pages=xviii-xix
}}</ref>。
; プレイントリックゲーム
: トリックに勝利した数によって勝敗が決まるもの。上記の例はこの方式に従っていた。[[コントラクトブリッジ]]・[[スペード (トランプゲーム)|スペード]]・[[ユーカー]]などがこの類型に属する。
; ポイントトリックゲーム
: トリックで獲得したカードの点数によって勝敗が決まるもの。[[スカート (トランプゲーム)|スカート]]・[[ピノクル]]・[[ナポレオン (日本のトランプゲーム)|日本式ナポレオン]]など。
; トリックアボイダンスゲーム(またはペナルティトリックゲーム<ref>新版である「The A-Z of Card Games」での呼び名</ref>)
: 通常と逆に、トリックをなるべく取らないようにするもの。[[ハーツ (トランプゲーム)|ハーツ]]など。
そのほかに、下位分類として以下のような類型を認めている。
; トリックアンドブラフ
: トリックで勝つ以外に、勝った時の点数を釣り上げることによって相手を降参させることができるもの。[[トルーコ]]など。
; トリックアンドメルド
: トリック以外に手札の中にある役('''メルド'''という。例えばAAAのスリーカード)で点がつくもの。[[ピケ (トランプゲーム)|ピケ]]・[[ピノクル]]・[[シュナプセン]]など。
; オークションゲーム
: 切り札やゲームの目的を競りによって決めるもの。[[コントラクトブリッジ]]・[[スカート (トランプゲーム)|スカート]]など。
== マストフォローの変種 ==
通常「マストフォロー」と言った場合は、「フォローできるならばしなければならない。なければ何を出してもよい」という意味で、大部分のトリックテイキングゲームがこの方式に従う。しかし、これ以外の原則に従うトリックテイキングゲームもある。
# 切り札はいつでも出せる(たとえリードと同じスートのカードを持っていても、それを出さずに切り札のカードを出せる)。切り札を出さない場合、フォローできるならばしなければならないが、なければ何を出してもよい。[[セブンアップ (トランプゲーム)|セブンアップ]]・[[ヤス (トランプゲーム)|ヤス]]など。(ただしヤスでは台札が切り札でなく、かつ切り札を出す場合、いままで場に出ているカードに勝てる切り札を持っているならそれを出さねばならない)
# フォローできるならばしなければならない。フォローできないとき、切り札を持っていればそれを出さなければならない。切り札もなければ何を出してもよい('''マストフォロー'''・'''マストラフ'''・ルール)。[[プレフェランス]]など。[[タロット]]ゲームの多くもこの類型に属する。
# フォローできるならばしなければならない。フォローできないとき、切り札を持っていればそれを出さなければならない。切り札もなければ何を出してもよい。切り札を出す場合は、いままでに場に出ているカードに勝てる切り札を持っているならばそれを出さなければならない('''マストフォロー'''・'''マストラフ'''・'''マストウィン'''・ルールの一種)。フランス式タロット・[[ブロット]]・[[クラーフェルヤス]]など。
# フォローできるならばしなければならない。フォローできないとき、切り札を持っていればそれを出さなければならない。切り札もなければ何を出してもよい。かつ、いままでに場に出ているカードよりも強いカードを持っている場合は、それを出さなければならない('''マストフォロー'''・'''マストラフ'''・'''マストウィン'''・ルールの一種)。[[ピノクル]]など。
# いつでも何を出してもよい。[[ブリスコラ]]など。
[[シュナプセン]]のように、山札の有無によってマストフォロールールが変わるゲームもある。
==ビディング==
以下、特に断りが無い限り、プレイントリックテイキングゲームを想定して説明するが、他の種類のトリックテイキングゲームでも同様である。
札を配って(トリックテイキング)ゲームを行い、全ての札が無くなって勝敗がつくまでを'''ディール'''という(札を配る行為そのものもディールと呼ばれる)。多くのトリックテイキングゲームのディールは、次の4つのフェーズからなる。
# カードを配る。
# '''ビディング'''(後述)を行う。
# 前述したルールでトリックテイキングを行う。
# スコアをつけ、1.に戻る。
定められた条件(例:事前に決められた回数だけ上の4フェーズを繰り返す、誰かが事前に決められた得点に到達する、等)が満たされたら、ゲームは終了である。
'''ビディング'''とは、今回のディールで勝てると思うトリック数を各々のプレイヤーが'''ビッド'''(入札)するフェーズのことで、その目的はそのディールの'''ディクレアラー'''(宣言者、すなわち最高位のビッドをしたプレイヤー)を決めることである。ビディング終了後は「ディクレアラー1人」対「他の人全て」でトリックテイキングが開始される。ディクレアラーの目標は宣言を達成することで、残りの人の共通目標はそれを阻止することである。したがってディクレアラー以外の人は、このディール限定の共同戦線を張ることになる。トリックテイキングが終了したら、ディクレアラーが宣言を達成したかどうかに応じてスコアがつけられる。
誤解をまねきやすい所を強調しておくと、大抵の遊戯のビディングでは各プレイヤーは''複数回''ビッドすることが可能である。ただし、後のビッドほど高いビッドでなければならない。また、ビディング終了後は''ディクレアラーが最後にしたビッドのみが有効''になり、(ディクレアラーもしくは他の人によってなされた)他の全てのビッドは忘れられる。
ビディングの典型的なルールは以下の通りである。各プレイヤーは順に時計回りで、自分が今回のゲームで勝てると思うトリック数をビッドするか、もしくはパスする。ただし多くの遊戯では、ビットできる最低限のトリック数が決まっているので、プレイヤーはその最低限以上のトリック数をビッドしなければならない。最初になされた(パス以外の)ビッドのことを'''オープニングビッド'''と言う。なお、全員がパスをした場合は、この回のディールは流れてしまい、カードが配り直しになる。以下は誰かがオープニングビッドした場合について説明する。
各プレイヤーは(オープニングビッド以外の)ビッドをする場合、これまでになされたいずれのビッドよりも高いビッドをしなければならない。たとえばこれまでになされたビッドが「7トリック取る」、「パス」、「8トリック取る」であれば、9トリックないしそれ以上のビッドをしなければならない。
ビディングはパス以外の新しいビッドが出続けている限り、時計回りに何周もする。各プレイヤーは2周目以降、前回のビッドをつりあげてもよい。例えば1周目に「7トリック取る」とビッドしても、2周目でそれをつり上げて「10トリック取る」と言ってもよい。ただしこれはもちろん、それまでに他のプレイヤーが10以上のビッドをしていない場合に限る。
最後に(パス以外の)ビッドをしたプレイヤー以外の全てのプレイヤーがパスをしたら、ビディングは終了である。例えば4人で遊んでる場合は3人が''連続して''パスをすればビディングは終了である。最後に(パス以外の)ビッドをしたプレイヤーがディクレアラーになる。
多くの遊戯では切り札スートはディクレアラーが決める。遊戯によってはビッド時に、獲得できると思うトリック数のみならず、自分が指定したい切り札スートもあわせてビッドする。この際スートに順番がついていて、同じトリック数のビッドならスートの順番が高いビッドの方が高いビッドとみなされる。たとえば[[コントラクトブリッジ]]では、スートの順番はNT、<math>\spadesuit</math>、<math>\heartsuit</math>、<math>\diamondsuit</math>、<math>\clubsuit</math>の順である。したがって例えば「クラブで7トリック取る」というビッドよりも「ハートで7トリック取る」というビッドの方が高いビッドとみなされる。なお、スートの順番はビディング中のみ有効で、スートの順番はトリックの勝敗とは無関係である。
ビディングが終了したら、前述のように「ディクレアラー1人」対「他の人全て」でトリックテイキングが開始される。トリックテイキングが終了したら、ディクレアラーが(最後の)宣言を達成したかどうかに応じてスコアがつけられる。多くの遊戯ではディクレアラーが宣言を守ったときのみ、ディクレアラーに点が入る。たとえばディクレアラーの宣言が「7」である場合、ディクレアラーが7トリック以上勝利したときのみディクレアラーのスコアに点が入り、そうでなければディクレアラーのスコアには1点も入らない(遊戯によってはむしろマイナス点が入る)。なお、宣言が「7」であるのにディクレアラーが8トリック以上勝利しても7トリック分の点数しか入らない遊戯が多い。したがって高得点を取るには、勝率を考えながら可能なかぎり高い宣言をしておく必要がある。また、ディクレアラー以外の人はディクレアラーが宣言を達成しようがしまいが、1点も入らないのが普通である。したがって点数を取るにはディクレアラーになるしかない。
遊戯によっては特定の宣言を達成するとボーナス点が入る。典型的なのは'''スラム'''を宣言した場合で、これは「全てのトリックで勝利する」という宣言である(ポイントトリックゲームなら全てのプラス点を集める)。この手のボーナス点もあらかじめ宣言していた場合のみ入る。スラムを宣言しなかったのに偶然全てのトリックで勝利した場合は、スラム・ボーナスは入らない。なお、[[ハーツ (トランプゲーム)|ハーツ]]では特定の札を集めれば集めるほどマイナスが増えていくが、全てのマイナス札を集めたときだけ例外的にプラス点が入る。これも'''スラム'''と呼ばれる。逆に1トリックも取らないことを宣言できる遊戯もあり、これは「ミゼール」と呼ばれる。
==スコアリングの例==
* [[コントラクトブリッジ]]では、最も多くのトリックを取れると宣言した者が、宣言した以上のトリックを取れた場合に、宣言したトリック数に応じた点数を手にする。
* [[オークションブリッジ]]では、最も多くのトリックを取れると宣言した者が、宣言した以上のトリックを取れた場合に、取ったトリック数に応じた点数を手にする。
* Oh Hell! ([[:en:Oh Hell|英語版記事]])では、全員が何トリック取れるかを宣言する(競りを行うわけではない)。宣言したのと同じ数のトリックを取ったら得点が得られるが、宣言したより多くのトリックを取ると0点になる。[[スペード (トランプゲーム)|スペード]]でも宣言より多くのトリックを取るとペナルティがつく。
* Truc([[:en:Truc|英語版記事]])は、2人の競技者のうち、より多くのトリックを取った側が勝ちになるゲームだが、各トリックの開始前に、勝った時に得られるスコアを各競技者が釣り上げることができる。相手はそのスコアを受け入れるか降りるかを選択しなければならない。ゲームの進行はむしろ[[ポーカー]]に近く、勝つこと自身よりも、有利なときにどれだけ点数を釣り上げられるかが重要になる。
* Toepen ([[:en:Toepen|英語版記事]])では、多くのトリックを取っても点数は得られず、最後のトリックを取ったものが勝つ。Truc と同様に、各トリックの開始前にスコアを釣り上げることができる。
* [[ゴニンカン]]では、手札にジョーカーを持っていたものが、絵札を9枚以上取った場合に勝ちとなる。
* [[ナポレオン (イギリスのトランプゲーム)|ナポレオン]](イギリス式): 配られた手札5枚のうち、自分が取れるトリック数。2以上、最大5になる。5トリック全て取るという宣言の事をナポレオンと呼び、その後のビディングで5トリック全て取るウェリントンを宣言することもできる。ウェリントンの宣言後に更に5トリック取るブリュッヒャーの宣言もある。
* [[ナポレオン (日本のトランプゲーム)|ナポレオン]](日本式): 各スートの10、J、Q、K、A全20枚のうち、最も多くの枚数を取れると宣言した者が、指名した副官とともに宣言した以上の枚数を取れた場合に勝ちとなる。
* [[ハーツ (トランプゲーム)|ブラックレディ]]にはビディングはなし。ハート(各1点)とスペードのQ(13点)を取らされただけ罰点を受ける。
* カリプソというゲームでは、取ったカードを利用して、特定のスートのカードによる組み合わせを作ることで得点が得られる<ref>Parlett, David (1992,2004) 『The A-Z of Card Games』 Oxford University Press. p.67</ref>。
==パートナーシップ==
遊戯によっては他のプレイヤーとパートナーを組む。典型的なのは[[コントラクトブリッジ]]で、この遊戯は2対2のパートナー戦である(向い側の人とパートナーを組む)。この遊戯ではパートナーがゲーム中に変わることはなく、完全なチーム戦で、「12トリック勝つ」という宣言は「パートナー2人分を合計して12トリック勝つ」の意味である。ただし遊び方によっては、全てのパートナーの組み合わせでチーム戦を順に行い、それらのチーム戦の得点の合計値で個人の勝敗を決める。中には、[[うんすんカルタ]]の八人メリのように4対4の団体戦で行われるものもある。
遊戯によっては、各ディール毎にディクレアラーがそのディール限りのパートナーを決めるものがある。決め方は遊戯毎に様々だが、例えばディクレアラーが指定した札を持っている人がディクレアラーのパートナーになるというルールがある。こうした遊戯では多くの場合、指定した札を持っている人は自分がパートナーであることを皆に明かす。しかし、5人版[[ファイブハンドレッド]]や日本式[[ナポレオン (日本のトランプゲーム)|ナポレオン]]では、自分がパートナーであることを誰にも明かさず、影でこっそりとディクレアラーを助ける。
== 各国でトリックテイキングの呼称 ==
* フランス ‥‥ [[:fr:Jeu_de_levées|levées]](レビー)「札を集める」という意味
* ドイツ ‥‥ [[:de:Stich_(Kartenspiel)|Stich]](スティッヒ)「刺す」という意味
* イタリア ‥‥ [[:it:Briscola|Briscola]](ブリスコラ)「切札」という意味
* オランダ ‥‥ [[:nl:Slag_(kaartterm)|Slag]](スラフ)「戦い」という意味
* ポルトガル ‥‥ [[:pt:Vaza|Vaza]](バァーザ)「一巡」という意味
* 日本 ‥‥ トリテ(トリックテイキングの略称)
== 脚注 ==
{{reflist}}
==関連項目==
*[[ゲーム]]
*[[トランプ]]
*[[うんすんカルタ]]
*[[タロット]]
*[[切り札]]
{{トランプ}}
{{デフォルトソート:とりつきんくけえむ}}
[[Category:トリックテイキングゲーム|*]]
[[Category:カードゲーム]]
[[Category:トランプ]] | 2003-02-20T06:58:27Z | 2023-12-05T18:02:38Z | false | false | false | [
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2,485 | 3月20日 | 3月20日(さんがつはつか、さんがつにじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から79日目 (閏年では80日目)にあたり、年末まであと286日ある。
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'''3月20日'''(さんがつはつか、さんがつにじゅうにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から79日目 ([[閏年]]では80日目)にあたり、年末まであと286日ある。
== できごと ==
[[Image:Sakaotosi.jpg|thumb|200px|[[一ノ谷の戦い]](1184)、[[源義経]]らは平氏に圧勝。画像は『源平合戦図屏風』]]
[[Image:Voc.jpg|thumb|240px|[[オランダ東インド会社]](1602)設立。画像は1750年頃の造船所]]
<!--[[Image:Ueno-zoo.jpg|thumb|300px|[[恩賜上野動物園]]開園(1882)]]-->
<!--[[Image:Lennon_Ono_Trudeau_1969_c.jpg|thumb|150px|[[ジョン・レノン]]と[[オノ・ヨーコ]]結婚(1969)]]-->
* [[235年]] - [[マクシミヌス・トラクス]]がローマ皇帝に即位{{要出典|date=2021-03}}。
* [[1184年]]([[元暦]]元年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]) - [[一ノ谷の戦い]]。[[源義経]]らが「鵯越(ひよどりごえ)の奇襲」により平氏に圧勝。
<!-- ヘンリー5世即位は3月21日。3月20日はヘンリー4世死去の日 * [[1413年]] - [[イングランド]]国王[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー4世]]の死去に伴い、[[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]が即位。 -->
* [[1602年]] - [[オランダ]]が[[オランダ東インド会社|東インド会社]]を設立。
* [[1703年]]([[元禄]]16年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) - [[赤穂浪士]]が預かりの[[武家屋敷|大名屋敷]]で[[切腹]]する。
* [[1754年]]([[宝暦]]4年[[2月27日 (旧暦)|2月27日]]) - [[宝暦治水事件]]: [[薩摩藩]]による[[木曽三川]]の[[治水]]事業が始まる。
* [[1815年]] - [[エルバ島]]を脱出した[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が軍勢を伴って[[パリ]]に入城。[[百日天下]]が始まる。
* [[1848年]] - [[ドイツにおける1848年革命]]。[[バイエルン王国|バイエルン]]国王[[ルートヴィヒ1世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ1世]]が息子の[[マクシミリアン2世 (バイエルン王)|マクシミリアン2世]]に[[退位|譲位]]する。
* [[1852年]] - [[ハリエット・ビーチャー・ストウ]]の『[[アンクル・トムの小屋]]』が刊行。
* [[1882年]] - 日本初の[[動物園]]、[[恩賜上野動物園|上野動物園]]が開園。
* [[1883年]] - [[工業所有権の保護に関するパリ条約]]調印。
* 1883年 - [[高田事件]]。[[新潟県]][[高田市|高田]]・[[頸城郡|頸城]]地方の[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党員]]20名を、反乱謀議の嫌疑で[[逮捕]]。
* [[1890年]] - [[ドイツ帝国]]皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が首相[[オットー・フォン・ビスマルク]]を解任。
* [[1906年]] - 上野公園内に[[帝国図書館]]の新館庁舎(現 [[国際子ども図書館]])が竣工し移転。
* [[1913年]] - [[国民党 (宋教仁)|国民党]]のリーダー・[[宋教仁]]が[[袁世凱]]の放った刺客により銃撃される。[[3月22日]]に死亡。
* [[1914年]] - [[コネチカット州]][[ニューヘイブン (コネチカット州)|ニューヘイブン]]で第1回[[全米フィギュアスケート選手権]]が開催。
<!-- と、英語版にあるが、どの論文のこと? * [[1916年]] - [[アルベルト・アインシュタイン]]が[[一般相対性理論]]を発表。 -->
* [[1926年]] - [[蔣介石]]が反共[[クーデター]]を起こす。([[中山艦事件]])
* [[1933年]] - [[ダッハウ強制収容所]]の設置を発表。
* 1951年 - [[日本生活協同組合連合会]]設立。
* [[1952年]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]議会が[[日本国との平和条約]]を[[批准]]。
* [[1956年]] - [[チュニジア]]が[[フランス]]から[[独立]]。
* [[1964年]] - [[欧州宇宙機関]] (ESA) の前身の[[欧州宇宙研究機構]]が発足。
* 1964年 - [[学習院大学ヨット遭難事故|学習院大学ヨット部遭難事故]]が起こる。
* [[1969年]] - [[ジョン・レノン]]と[[オノ・ヨーコ]]が結婚。
* [[1970年]] - [[東京都]][[葛飾区]][[四つ木]]の工事現場で[[水道管]]の本館が破裂。周辺の住宅で床上・床下浸水約200戸、都内約23万戸で水道の水圧が下がる、濁水が出る被害<ref>また寝水に大水 葛飾では200戸浸水 水道工事本館こわす 23万戸が減、濁水『朝日新聞』1970年(昭和45年)3月20日夕刊 3版 11面</ref>。
* [[1972年]] - [[御殿場市]]で[[富士山大量遭難事故 (1972年)|富士山大量遭難事故]]が発生。
* [[1973年]] - [[小松左京]]の[[小説]]([[書き下ろし]])「[[日本沈没]]」が発売される。
* [[1979年]] - [[上越新幹線]]の[[大清水トンネル]]建設現場で[[火災]]が発生。16人が死亡<ref>黒煙が、炎が突っ走る 大清水トンネル惨事『朝日新聞』1979年(昭和54年)3月22日夕刊 3版 15面</ref>。
* [[1981年]] - [[神戸市]]で[[神戸ポートアイランド博覧会|ポートピア'81]]が開幕。
* [[1985年]] - [[広島自動車道]]が全線開通。
<!-- * [[1988年]] - [[瀬戸大橋]]の開通を記念した[[瀬戸大橋架橋記念博覧会]]が[[岡山県]][[倉敷市]]と[[香川県]][[坂出市]]で開幕する。 -->
* [[1988年]] - <!-- 瀬戸大橋架橋記念博覧会への観客輸送のため -->[[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[瀬戸大橋線]]([[岡山駅]] - [[児島駅]])が部分開業。
* [[1990年]] - [[Osaka Metro長堀鶴見緑地線|大阪市営地下鉄鶴見緑地線]](現・長堀鶴見緑地線) [[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]] - [[鶴見緑地駅]]間が開業。
* [[1995年]] - [[地下鉄サリン事件]]。13人が死亡、5,510人が重軽傷。
* [[1996年]] - 大阪近郊の民鉄・地下鉄5社局で共通カード乗車券システム「[[スルッとKANSAI]]」の使用開始。
<!-- * [[1998年]] - [[東名高速道路]]の[[横浜青葉インターチェンジ]]が供用開始。 -->
* [[2003年]] - [[イラク戦争]]勃発。
<!-- * [[2004年]] - [[中部横断自動車道]]の[[白根インターチェンジ]] - [[南アルプスインターチェンジ]]間が開通。 -->
* [[2005年]] - [[福岡県西方沖地震]]発生。
* [[2006年]] - [[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)]]決勝で[[野球日本代表|日本代表]]チームが[[野球キューバ代表|キューバ代表]]を下し、初代王者となる(現地時間)。
* 2006年 - 新ICパスポート導入。パスポートへの[[旧姓]]併記の基準が緩和。
* [[2009年]] - [[阪神電気鉄道]][[阪神なんば線]] [[西九条駅]] - [[大阪難波駅]]間が開業。同時に[[近畿日本鉄道]][[近鉄難波線|難波線]]・[[近鉄奈良線|奈良線]]と相互乗り入れ開始。また[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]] - 西九条間の区間は西大阪線から阪神なんば線に改称。
<!-- 駅名の改称までは一々書かなくて良いかと→ さらに、近鉄難波駅は[[大阪難波駅]]に、上本町駅は[[大阪上本町駅]]に、富洲原駅は[[川越富洲原駅]]に改称。-->
<!-- * 2009年 - [[新名神高速道路]]の[[甲南インターチェンジ]]が供用開始。 -->
* [[2010年]] - [[第二京阪道路]]が全線開通。
<!-- * 2010年 - [[国道17号]]の[[前橋渋川バイパス]]が暫定2車線で開通。 -->
<!-- * 2010年 - [[小郡萩道路]]の[[美祢東ジャンクション|美祢東JCT]] - [[十文字インターチェンジ (山口県)|十文字IC]]間が開通。 -->
<!-- 3月19日? * [[2011年]] - [[リビア内戦]]: [[北大西洋条約機構|NATO]]軍が[[リビア]]に軍事行動([[オデッセイの夜明け作戦]])を発動。 -->
* [[2019年]] - [[カザフスタン]]、[[ソビエト連邦の崩壊]]後の独立以来、同国大統領を務めていた[[ヌルスルタン・ナザルバエフ]]が退任を発表<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3216579|title=カザフ大統領、電撃の辞任発表 約30年政権握る|newspaper=AFPBB NEWS|date=2019-03-20|accessdate=2019-03-21}}</ref>。
* [[2021年]] - [[宮城県沖地震 (2021年3月)|宮城県沖地震]]発生。
=== 日本の自治体改編 ===
* [[1951年]] - 山梨県[[富士吉田市]]が[[市制]]施行。
* [[1954年]] - 福島県[[原町市]]、茨城県[[龍ケ崎市]]が市制施行。
* [[2005年]] - 福岡県[[うきは市]]が市制施行。
* [[2006年]] - 千葉県[[南房総市]]、愛知県[[北名古屋市]]、兵庫県[[加東市]]、佐賀県[[神埼市]]が市制施行。福岡県[[甘木市]]ほか2町が合併して[[朝倉市]]、鹿児島県[[名瀬市]]ほか2町村が合併して[[奄美市]]が発足。
<!--* 2006年 - 隣接市町村を合併し、新[[日光市]]が誕生。 -->
<!-- * 2006年 - [[鹿児島県]][[出水郡]]の隣接町である旧[[東町 (鹿児島県)|東町]]と旧[[長島町]]が合併し新町制による長島町が誕生。 -->
== 誕生日 ==
[[Image:Publius_Ovidius_Naso.jpg|thumb|160px|『[[変身物語]]』を著した[[古代ローマ]]の詩人[[オウィディウス]](BC43-AD17)誕生]]
[[Image:FK Hiemer - Friedrich Hölderlin - (Pastell 1792).jpg|thumb|upright|ドイツの詩人[[フリードリヒ・ヘルダーリン]](1770-1843)誕生。哲学者に強い影響を与えた]]
[[Image:Nap-receis_50.jpg|thumb|upright|[[ナポレオン2世]](1811-1832)誕生。3歳時にボナパルトは失脚し孤独な幼年期を送る]]
[[Image:Ibsen-by-Bergen.jpg|thumb|upright|劇作家[[ヘンリック・イプセン]](1828-1906)。代表作『[[人形の家]]』(1879)]]
[[Image:Salmon by Takahashi Yuichi (Geidai Museum).jpg|thumb|120px|洋画家[[高橋由一]](1828-1894)誕生。画像は『鮭』(1877)]]
[[Image:Sir_Edward_John_Poynter_%E2%80%94_Cave_of_the_Storm_Nymphs.jpg|thumb|200px|画家[[エドワード・ポインター]](1836-1919)誕生。画像は『嵐の洞窟 ニンフ』(1903)]]
[[Image:Saigo_Shirou.jpg|thumb|upright|柔道家、[[西郷四郎]](1866-1922)。『[[姿三四郎]]』のモデル]]
[[Image:B.F. Skinner at Harvard circa 1950 (cropped).jpg|thumb|upright|[[行動分析|行動分析学]]の創始者、[[バラス・スキナー]](1904-1990)]]
[[Image:%D0%A1%D0%B2%D1%8F%D1%82%D0%BE%D1%81%D0%BB%D0%B0%D0%B2_%D0%A0%D0%B8%D1%85%D1%82%D0%B5%D1%80.jpg|thumb|upright|[[ソビエト連邦]]のピアニスト、[[スヴャトスラフ・リヒテル]](1915-1997)]]
=== 人物 ===
* [[紀元前43年]] - [[オウィディウス]]、[[詩人]](+ [[17年]])
* [[203年]] - [[ヘリオガバルス]]{{要出典|date=2021-03}}、[[ローマ帝国]][[セウェルス朝]]皇帝(+ [[222年]])
* [[1142年]] - [[マルカム4世 (スコットランド王)|マルカム4世]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(+ [[1165年]])
* [[1695年]]([[元禄]]8年[[2月6日 (旧暦)|2月6日]]) - [[土岐頼稔]]、初代[[沼田藩|沼田藩主]](+ [[1744年]])
* [[1737年]] - [[ラーマ1世]]、[[タイ王国|タイ]]・[[チャクリー王朝]]の初代[[国王]](+ [[1809年]])
* [[1741年]] - [[ジャン=アントワーヌ・ウードン]]、[[彫刻家]](+ [[1828年]])
* [[1770年]] - [[フリードリヒ・ヘルダーリン]]、[[詩人]](+ [[1843年]])
* [[1811年]] - [[ナポレオン2世]]、[[フランス皇帝]](+ [[1832年]])
* [[1828年]] - [[ヘンリック・イプセン]]、[[劇作家]](+ [[1906年]])
* 1828年([[文政]]11年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]) - [[高橋由一]]、[[洋画家]](+ [[1894年]])
* [[1836年]] - [[エドワード・ポインター]]、画家、[[デザイナー]](+ [[1919年]])
* [[1838年]] - [[フェルディナント・ツィルケル]]、[[地質学|地質学者]](+ [[1912年]])
* [[1843年]] - [[アントン・ヨハネス・ゲールツ]]、[[薬学|薬学者]](+ [[1883年]])
* [[1859年]]([[安政]]6年[[2月16日 (旧暦)|2月16日]]) - [[藤沢幾之輔]]、[[衆議院議長]](+ [[1940年]])
* [[1863年]] - [[エルネスト・ナザレー]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](+ [[1934年]])
* [[1866年]]([[慶応]]2年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) - [[西郷四郎]]、[[柔道|柔道家]](+ [[1922年]])
* [[1870年]] - [[パウル・フォン・レットウ=フォルベック]]、[[軍人]](+ [[1964年]])
* [[1871年]] - [[ジョー・マクギニティ]]、元プロ野球選手(+ [[1929年]])
* [[1875年]] - [[曽我量深]]、[[真宗大谷派]][[僧|僧侶]]、仏教思想家(+ [[1971年]])
* [[1878年]] - [[牧野英一]]、[[法学者]](+ [[1970年]])
* [[1879年]] - [[モード・メンテン]]、[[生化学|生化学者]](+ [[1960年]])
* [[1882年]] - [[ルネ・コティ]]、[[フランスの大統領|フランス大統領]](+ [[1962年]])
* [[1884年]] - [[近藤浩一路]]、[[日本画家]](+ [[1962年]])
* [[1887年]] - [[ハルトフ・ハンバーガー]]、プロ野球選手(+ [[1924年]])
* [[1890年]] - [[ベニャミーノ・ジーリ]]、[[テノール]]歌手(+ [[1957年]])
* [[1891年]] - [[エドマンド・グールディング]]、[[映画監督]](+ [[1959年]])
* [[1892年]] - [[市川正一 (社会運動家)|市川正一]]、[[共産主義|共産主義者]](+ [[1945年]])
* [[1897年]] - [[荒木俊馬]]、[[天文学者]](+ [[1978年]])
* 1897年 - [[重政誠之]]、[[政治家]](+ [[1981年]])
* [[1900年]] - [[太田光二]]、政治家(+ [[1973年]]<ref>『愛知新聞』1973年1月9日、「太田前岡崎市長 地方政治に生涯かける」。</ref>)
* [[1901年]] - [[マックス・エーワ]]、第5代[[チェスの世界チャンピオン一覧|チェスの世界チャンピオン]](+ [[1981年]])
* 1901年 - [[島田謹二]]、[[比較文学|比較文学者]]、[[英文学者]](+ [[1993年]])
* [[1904年]] - [[バラス・スキナー]]、[[心理学者]](+ [[1990年]])
* 1904年 - [[ウォルター・エルサッサー]]、[[物理学者]](+ [[1991年]])
* [[1907年]] - [[出羽湊利吉]]、元[[大相撲]][[力士]](+ [[1964年]])
* 1907年 - [[山下実]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1995年]])
* [[1908年]] - [[マイケル・レッドグレイヴ]]、[[俳優]](+ [[1985年]])
* [[1911年]] - [[斎藤喜博]]、[[教育者]](+ [[1981年]])
* 1911年 - [[アルフォンソ・ガルシア・ロブレス]]、[[政治家]]、[[外交官]](+ [[1991年]])
* [[1915年]] - [[スヴャトスラフ・リヒテル]]、[[ピアニスト]](+ [[1997年]])
* [[1917年]] - [[イガエル・ヤディン]]、軍人、政治家、[[考古学|考古学者]](+ [[1984年]])
* 1917年 - [[ヴェラ・リン]]、[[歌手]](+ [[2020年]])
* [[1918年]] - [[ベルント・アロイス・ツィンマーマン]]、[[作曲家]](+ [[1970年]])
* 1918年 - [[伊藤庄七]]、元プロ野球選手(+ [[1999年]])
* [[1919年]] - [[木下貞一]]、元プロ野球選手(+ [[2007年]])
* 1919年 - [[ゲルハルト・バルクホルン]]、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]の[[エース・パイロット]](+ [[1983年]])
* [[1920年]] - [[樋笠一夫]]、元プロ野球選手(+ [[2007年]])
* [[1924年]] - [[桜井センリ]]、[[コメディアン]]、俳優(元[[ハナ肇とクレージーキャッツ]])(+ [[2012年]])
* [[1925年]] - [[梅原猛]]、[[哲学|哲学者]](+ [[2019年]])
* 1925年 - [[工藤幸雄]]、[[ロシア]]・[[ポーランド]][[文学者]](+ [[2008年]])
* 1925年 - [[月丘千秋]]、女優(+ [[2015年]])
* [[1926年]] - [[安野光雅]]、[[画家]]、[[絵本作家]](+ [[2020年]])
* [[1928年]] - [[野平祐二]]、[[騎手]]、[[調教師]](+ [[2001年]])
* 1928年 - [[渡辺茂男]]、[[児童文学作家一覧|児童文学者]]、[[翻訳家]](+ [[2006年]])
* [[1929年]] - [[高橋和枝]]、[[声優]] (+ [[1999年]])
* [[1932年]] - [[萩山教嚴]]、政治家(+ [[2015年]])
* [[1933年]] - [[雪代敬子]]、女優
* 1933年 - [[渡邊守章]]、[[フランス文学者]]、[[演出家]](+ [[2021年]])
* 1933年 - [[ジョージ・アルトマン]]、元プロ野球選手
* [[1936年]] - [[蒲池猛夫]]、[[射撃]]選手(+ [[2014年]])
* 1936年 - [[リー・ペリー]]、[[レゲエ]][[ミュージシャン]](+ [[2021年]])
<!-- 特筆性は? * 1936年 - 林夏介、[[漫画家]] -->
* [[1937年]] - [[雪村いづみ]]、[[歌手]]
* 1937年 - [[ロイス・ローリー]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]]
* [[1938年]] - [[セルゲイ・ノヴィコフ (数学者)|セルゲイ・ノヴィコフ]]、[[数学者]]
* [[1939年]] - [[ブライアン・マルルーニー]]、政治家
* [[1940年]] - [[片岡義男]]、[[小説家]]
* [[1941年]] - [[君原健二]]、[[マラソン]]選手
* 1941年 - [[山本要]]、政治家
* [[1942年]] - [[上岡龍太郎]]、元[[タレント]]、[[漫才師]](+ [[2023年]])
* [[1943年]] - [[二井関成]]、政治家、元[[山口県知事一覧|山口県知事]]
* [[1944年]] - [[ボビー・テーラー]]、元プロ野球選手
* 1944年 - [[エルヴィン・ネーアー]]、[[生物学者の一覧|生物学者]]
* [[1945年]] - [[パット・ライリー]]、元[[バスケットボール]]選手、監督
* 1945年 - [[林明子]]、絵本作家
* [[1946年]] - [[神谷郁代]]、ピアニスト
* 1946年 - [[倉田保昭]]、俳優
* [[1947年]] - [[景山民夫]]、[[小説家]](+ [[1998年]])
* 1947年 - [[小杉健治]]、小説家
* 1947年 - [[大悟法久志]]、高校野球指導者(+ [[2011年]])
* [[1948年]] - [[ボビー・オア]]、[[アイスホッケー選手]]
* [[1949年]] - [[新藤恵美]]、女優
* 1949年 - [[中道善博]]、[[競艇選手]]、[[競艇]]解説者、評論家
* 1949年 - [[マーシャ・ボール]]、[[ピアニスト]]、[[歌手|シンガー]]
* 1949年 - [[高泉秀輝]]、元プロ野球選手
* 1949年 - [[佐々木茂 (野球)|佐々木茂]]、元プロ野球選手
* [[1950年]] - [[畑中純]]、漫画家(+ [[2012年]])
* 1950年 - [[三上寛]]、[[シンガーソングライター]]、俳優
* 1950年 - [[カール・パーマー]]、[[ドラマー]]
* 1950年 - [[ウィリアム・ハート]]、俳優
* [[1951年]] - [[今泉敏郎]]、[[作曲家]] (+ [[2008年]])
* 1951年 - [[鎌田東二]]、[[哲学者]]、[[宗教学者]]
* [[1955年]] - [[竹内まりや]]、[[シンガーソングライター]]
* 1955年 - [[塚越孝]]、[[アナウンサー]](+ [[2012年]])
* 1955年 - [[筒井良紀]]、元プロ野球選手
* [[1956年]] - [[竹中直人]]、俳優、[[映画監督]]
* [[1957年]] - [[スパイク・リー]]、映画監督
* [[1958年]] - [[ホリー・ハンター]]、女優
* 1958年 - [[石井啓一]]、政治家
* 1958年 - [[井上茂徳]]、[[競輪選手]]、[[競輪]]解説者、評論家
* [[1959年]] - [[大原まり子]]、[[SF作家]]
* [[1960年]] - [[マイク・ヤング (外野手)|マイク・ヤング]]、元プロ野球選手(+ [[2023年]])
* [[1961年]] - [[矢作芳人]]、[[調教師]]
* [[1962年]] - [[郭泰源]]、元プロ野球選手
* 1962年 - [[金蓮花]]、小説家
* 1962年 - [[スティーヴン・ソマーズ]]、[[映画監督]]、[[脚本家]]
* [[1963年]] - [[渡邉貢]]、ベーシスト([[PERSONZ]])
* 1963年 - [[渡洋史]]、俳優
* 1963年 - [[デヴィッド・シューリス]]、俳優
* [[1964年]] - [[真柴あずき]]、脚本家、演出家
* 1964年 - [[村山大値]]、[[レフェリー]]
* 1964年 - [[川島智太郎]]、政治家、空手家
* [[1965年]] - [[川田妙子]]、声優
* [[1966年]] - [[神山健治]]、[[アニメ監督]]、演出家
* 1966年 - [[宇津木えり]]、[[ファッションデザイナー]]
* 1966年 - [[大泉潤]]、政治家、[[函館市|函館市長]]
* [[1967年]] - [[馬場俊英]]、[[シンガーソングライター]]
* 1967年 - [[木城ゆきと]]、[[漫画家]]
* 1967年 - [[松井寛]]、[[作曲家]]、[[編曲家]]
* [[1970年]] - [[松谷彼哉]]、声優
* 1970年 - [[麻生祥一郎]]、ドラマー
* [[1971年]] - [[太田真一郎]]、声優
* [[1972年]] - [[曽我部直樹]]、元プロ野球選手
* [[1973年]] - [[大石恵]]、タレント
* 1973年 - [[ジェーン・マーチ]]、女優
* 1973年 - [[ユーリス・ラザグリアエフ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1974年]] - [[柳原愛子 (歌手)|柳原愛子]]、[[歌手]]
* 1974年 - [[カルステン・ラメロウ]]、[[サッカー選手一覧|サッカー選手]]
* [[1975年]] - [[浅川悠]]<ref name="goo人名事典">{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/浅川悠/|title=浅川悠(あさかわゆう)の解説 - goo人名事典|accessdate=2020-10-30}}</ref>、声優
* 1975年 - [[照井裕隆]]、俳優、[[ダンサー]]
* [[1976年]] - [[美咲留衣]]、元[[AV女優]]
* 1976年 - [[三宅綾子]]、ダンサー
* 1976年 - [[チェスター・ベニントン]]、ミュージシャン([[LINKIN PARK]])(+ [[2017年]])
* [[1978年]] - 引地洋輔、[[歌手]]([[RAG FAIR]])
* 1978年 - [[奥華子]]、[[シンガーソングライター]]
<!-- 特筆性は? * 1978年 - Ayumu、ミュージシャン([[Zwei]]) -->
* 1978年 - [[太田敦士]]、元プロ野球選手
* 1978年 - [[鈴木慎吾]]、元サッカー選手
* [[1979年]] - [[阿部慎之助]]、元プロ野球選手、監督
* 1979年 - [[国光文乃]]、政治家
* [[1980年]] - [[田上秀則]]、元プロ野球選手
* 1980年 - [[アレクサンダー・コブリン]]、[[ピアニスト]]
* [[1981年]] - [[大湯みほ]]、お笑いタレント(元[[チェリー☆パイ]])
* 1981年 - [[衣川篤史]]、元プロ野球選手
* 1981年 - [[高崧 (フィギュアスケート選手)|高崧]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1982年]] - [[トマシュ・クシュチャク]]、[[サッカー選手]]
* 1982年 - [[ジョゼ・モレイラ]]、サッカー選手
* [[1983年]] - [[水落朋大]]、[[プロ野球審判員]]
* 1983年 - [[川島永嗣]]、サッカー選手
* 1983年 - [[白鳥さくら]]、元AV女優
* [[1984年]] - [[野村佑香]]、女優
* 1984年 - [[フェルナンド・トーレス]]、サッカー選手
* 1984年 - [[後藤淳平]]、お笑いタレント([[ジャルジャル]])
* [[1985年]] - 山口智史、ミュージシャン([[RADWIMPS]])
* 1985年 - [[岸本梓]]、タレント、[[ディスクジョッキー|DJ]]
* 1985年 - [[水嶋友香]]、タレント、[[グラビアアイドル]]
* 1985年 - [[方丹]]、フィギュアスケート選手
* [[1986年]] - [[宮咲志帆]]、元AV女優
* [[1987年]] - [[遠藤雄弥]]、俳優(元[[D-BOYS]])
* 1987年 - [[ジョアン・アウヴェス・デ・アシス・シウヴァ|ジョー]]、サッカー選手
* 1987年 - 土井隆、お笑い芸人、俳優([[リスナップ]])
* [[1988年]] - [[ディエゴ・バストス・リベイロ]]、サッカー選手
* [[1989年]] - [[井上正大]]、俳優
* 1989年 - [[泊明日菜]]、声優
* [[1990年]] - [[今井仁美]]、タレント(元f-windy)
* 1990年 - [[平川舞弥]]、タレント
* 1990年 - [[鎧坂哲哉]]、陸上競技選手
* 1990年 - [[マルコス・ロホ]]、サッカー選手
* 1990年 - [[湊あかね]]、アイドル(元[[predia]])
* 1990年 - [[小田飛鳥]]、女優、グラビアアイドル
* [[1991年]] - [[吉川智恵]]、ファッションモデル
* 1991年 - [[清武功暉]]、サッカー選手
* [[1992年]] - [[二見宏志]]、サッカー選手
* 1992年 - [[諸國沙代子]]、アナウンサー
* [[1994年]] - [[吉川あいみ]]、元AV女優、元グラビアアイドル
* [[1995年]] - [[阿部龍]]、騎手
* 1995年 - [[エフゲーニヤ・コスイギナ]]、フィギュアスケート選手
* [[1997年]] - 都築拓紀、お笑い芸人([[四千頭身]])
* [[1998年]] - [[加藤梨里香]]、女優
* 1998年 - [[枢木あおい]]、AV女優
* [[1999年]] - [[梅田綾乃]]、元女優、元アイドル(元[[AKB48]])
* 1999年 - [[宮﨑雅也]]、声優
* [[2000年]] - ヒョンジン、アイドル([[Stray Kids]])
* [[2002年]] - [[青柿響]]、[[陸上競技]]選手
* 2002年 - [[石川澪]]、AV女優
* [[2007年]] - [[小久保柚乃]]、アイドル([[私立恵比寿中学]])
* 2007年 - ハン・ユジン、アイドル([[ZEROBASEONE]])
* 生年不明 - [[みやま零]]、[[イラストレーター]]
* 生年不明 - [[小林直樹 (声優)|小林直樹]]、声優
* 生年不明 - [[岩﨑春奈]]、声優
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2001年]] - [[キングカメハメハ]]、[[競走馬]]、[[種牡馬]](+ [[2019年]])
* [[2003年]] - [[スーパーホーネット]]、競走馬、種牡馬
* [[2007年]] - [[ペルーサ]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://db.netkeiba.com/horse/2007102705/|title=ペルーサ|publisher=株式会社ネットドリーマーズ|website=netkeiba.com|accessdate=2020-12-03}}</ref>、競走馬
== 忌日 ==
[[Image:NyakuichiJinjyaTairanoKiyomori.jpg|thumb|200px|[[平清盛]](1118-1181)、熱病で没す]]
[[Image:Sengakuji_Ronin_Graves.jpg|thumb|280px|[[赤穂浪士]]が[[切腹]](1703)。画像は[[花岳寺]]の義士墓所]]
[[Image:Czechowicz_St._John_Nepomuk.jpg|thumb|260px|[[ネポムクのヨハネ]](1340頃-1393)殉教。画像は[[:en:Szymon Czechowicz|Szymon Czechowicz]]画『ネポムクの聖ヨハネの殉教』(1750頃)]]
[[Image:Julius_Robert_von_Mayer.jpg|thumb|180px|[[ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー]](1814-1878)没。[[エネルギー保存の法則]]を発表]]
[[Image:A Forge 1894 Fernand Cormon.jpg|thumb|280px|[[アカデミック絵画]]の画家[[フェルナン・コルモン]](1845-1924)没。画像は『鉄工所』(1894)]]
=== 人物 ===
* [[1181年]]([[治承]]5年閏[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) - [[平清盛]]、[[武将]]、[[太政大臣]](* [[1118年]])
* [[1184年]]([[元暦]]元年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]) - [[平敦盛]]、武将(* [[1169年]])
* 1184年(元暦元年2月7日) - [[平忠度]]、武将(* [[1144年]])
* [[1393年]] - [[ネポムクのヨハネ]]、[[カトリック教会]]の[[聖人]](* [[1340年]]頃)
* [[1413年]] - [[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー4世]]、[[イングランド王国|イングランド]]王 (* [[1367年]])
* [[1568年]] - [[アルブレヒト (プロイセン公)|アルブレヒト]]、[[ドイツ騎士団]]総長、[[プロイセン公]](* [[1490年]])
* [[1619年]] - [[マティアス (神聖ローマ皇帝)|マティアス]]、[[神聖ローマ皇帝]](* [[1557年]])
* [[1687年]] - [[ロベール=カブリエ・ド・ラ・サール]]、[[探検家]](* [[1643年]])
* [[1703年]]([[元禄]]16年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) - [[大石良雄]]、[[播磨国]][[赤穂藩]]藩士、赤穂藩家老(* [[1659年]])
* 1703年 - [[吉田兼亮]]、赤穂藩士、足軽頭、郡奉行(* [[1641年]])
* 1703年 - [[原元辰]]、赤穂藩士、足軽頭(* [[1648年]])
* 1703年 - [[片岡高房]]、赤穂藩士、内証側用人兼小姓頭(* [[1667年]])
* 1703年 - [[間瀬正明]]、赤穂藩士、大目附(* [[1641年]])
* 1703年 - [[小野寺秀和]]、赤穂藩士、京都留守居(* [[1643年]])
* 1703年 - [[間光延]]、赤穂藩士、馬廻勝手方吟味役、山奉行(* [[1635年]])
* 1703年 - [[礒貝正久]]、赤穂藩士、物頭並側用人(* [[1679年]])
* 1703年 - [[堀部金丸]]、赤穂藩士、江戸留守居役(* [[1627年]])
* 1703年 - [[近松行重]]、赤穂藩士、馬廻(* [[1670年]])
* 1703年 - [[富森正因]]、赤穂藩士、馬廻兼使番(* [[1670年]])
* 1703年 - [[潮田高教]]、赤穂藩士、国絵図奉行兼郡奉行(* [[1669年]])
* 1703年 - [[早水満尭]]、赤穂藩士、馬廻(* [[1664年]])
* 1703年 - [[赤埴重賢]]、赤穂藩士、馬廻(* [[1669年]])
* 1703年 - [[奥田重盛]]、赤穂藩士、江戸詰武具奉行(* [[1647年]])
* 1703年 - [[矢田助武]]、赤穂藩士、江戸詰武具奉行(* [[1675年]])
* 1703年 - [[大石信清]]、赤穂藩士、馬廻(* [[1677年]])
* 1703年 - [[大石良金]]、赤穂藩士、大石良雄の子(* [[1688年]])
* 1703年 - [[堀部武庸]]、赤穂藩士、江戸常詰馬廻(* [[1670年]])
* 1703年 - [[中村正辰]]、赤穂藩士、祐筆役(* [[1656年]])
* 1703年 - [[菅谷政利]]、赤穂藩士、馬廻兼郡代(* [[1660年]])
* 1703年 - [[不破正種]]、赤穂藩士、馬廻、浜辺奉行、普請奉行(* [[1670年]])
* 1703年 - [[千馬光忠]]、赤穂藩士、馬廻兼宗門改役(* [[1653年]])
* 1703年 - [[木村貞行]]、赤穂藩士、馬廻役、国絵図奉行(* [[1658年]])
* 1703年 - [[岡野包秀]]、赤穂藩士(* [[1680年]])
* 1703年 - [[貝賀友信]]、赤穂藩士、中小姓兼蔵奉行(* [[1650年]])
* 1703年 - [[大高忠雄]]、赤穂藩士、膳番元方、腰物方、金奉行(* [[1672年]])
* 1703年 - [[岡島常樹]]、赤穂藩士、札座勘定奉行(* [[1666年]])
* 1703年 - [[吉田兼貞]]、赤穂藩士、蔵奉行(* [[1675年]])
* 1703年 - [[武林隆重]]、赤穂藩士、馬廻、中小姓(* [[1672年]])
* 1703年 - [[倉橋武幸]]、赤穂藩士、扶持奉行兼中小姓(* [[1670年]])
* 1703年 - [[間光風]]、赤穂浪士(* [[1680年]])
* 1703年 - [[村松秀直]]、赤穂藩士、江戸常詰扶持方奉行(* [[1642年]])
* 1703年 - [[杉野次房]]、赤穂藩士、札座横目(* [[1676年]])
* 1703年 - [[勝田武尭]]、赤穂藩士、中小姓、札座横目(* [[1680年]])
* 1703年 - [[前原宗房]]、赤穂藩士、中小姓、扶持方奉行(* [[1664年]])
* 1703年 - [[小野寺秀富]]、赤穂藩士(* [[1676年]])
* 1703年 - [[間光興]]、赤穂藩士(* [[1678年]])
* 1703年 - [[奥田行高]]、赤穂藩士、加東郡勘定方(* [[1678年]])
* 1703年 - [[矢頭教兼]]、赤穂藩士(* [[1686年]])
* 1703年 - [[村松高直]]、赤穂藩士(* [[1677年]])
* 1703年 - [[間瀬正辰]]、赤穂藩士(* [[1681年]])
* 1703年 - [[茅野常成]]、赤穂藩士、横目(徒士目附)(* [[1667年]])
* 1703年 - [[横川宗利]]、赤穂藩士、徒士横目、焔硝蔵奉行(* [[1667年]])
* 1703年 - [[三村包常]]、赤穂藩士、台所役、酒奉行(* [[1667年]])
* 1703年 - [[神崎則休]]、赤穂藩士、足軽徒士目付、郡目附(* [[1666年]])
<!-- グレゴリオ暦では3月31日にあたり3月31日の忌日にもニュートンが挙げられてるのでコメントアウト* [[1727年]] ([[ユリウス暦]]) - [[アイザック・ニュートン]]、物理学者・[[万有引力]]の発見者 (* [[1642年]])-->
* [[1730年]] - [[アドリエンヌ・ルクヴルール]]、[[俳優|女優]](* [[1692年]])
* [[1799年]]([[寛政]]11年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - [[市村羽左衛門 (10代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1748年]])
* [[1829年]]([[文政]]12年[[2月16日 (旧暦)|2月16日]]) - [[高橋景保]]、[[天文学者]] (* [[1785年]])
* [[1844年]] - [[ピーター・ビューエル・ポーター]]、第12代[[アメリカ合衆国陸軍長官]](* [[1773年]])
* [[1857年]] - [[アルマン・デュフレノア]]、[[地質学|地質学者]]、[[鉱物学|鉱物学者]](* [[1792年]])
* [[1865年]]([[元治]]2年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]) - [[山南敬助]]、[[新選組]]副長 (* [[1833年]])
* 1865年([[元治]]2年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]) - [[藤田小四郎]]、[[水戸藩|水戸]][[藩士]]、[[天狗党の乱|天狗党]]首領格 (* [[1842年]])
* [[1874年]] - [[ハンス・クリスチャン・ロンビ]]、[[作曲家]](* [[1810年]])
* [[1878年]] - [[ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー]]、[[物理学者]](* [[1814年]])
* [[1880年]] - [[神戸の長吉]]、[[侠客]](* [[1814年]])
* [[1894年]] - [[ラヨシュ・コッシュート]]、[[ハンガリー]]独立の指導者(* [[1802年]])
* [[1895年]] - [[チャールズ・ワグナー]]、[[電気工学]]研究者
* [[1898年]] - [[イヴァン・シーシキン]]、[[画家]](* [[1832年]])
* [[1919年]] - [[高木徳子]]、[[舞踏家]](* [[1891年]])
* [[1924年]] - [[フェルナン・コルモン]]、画家(* [[1845年]])
* [[1927年]] - [[楠瀬幸彦]]、[[陸軍大臣]](* [[1858年]])
* [[1934年]] - [[エンマ・フォン・ヴァルデック=ピルモント]]、[[オランダ]]王[[ウィレム3世 (オランダ王)|ヴィレム3世]]の妃(* [[1858年]])
* [[1935年]] - [[速水御舟]]、[[日本画家]](* [[1894年]])
* [[1936年]] - [[能久親王妃富子]]、[[皇族]](* [[1862年]])
* [[1938年]] - [[アレクサンドル・マリノフ]]、[[ブルガリア首相一覧|ブルガリア首相]](* [[1867年]])
* [[1940年]] - [[桂三八]]、[[落語家]](* [[1877年]])
* [[1943年]] - [[森下博]]、実業家、[[森下仁丹]] 創業者(* [[1869年]])
* [[1962年]] - [[チャールズ・ミルズ]]、[[社会学者の一覧|社会学者]](* [[1916年]])
* [[1963年]] - [[柳さく子]]、[[俳優|女優]](* [[1902年]])
* [[1975年]] - [[中川善之助]]、[[法学者]](* [[1897年]])
* [[1976年]] - [[細川ちか子]]、女優(* [[1905年]])
* [[1977年]] - [[正田建次郎]]、[[数学者]](* [[1902年]])
* [[1982年]] - [[加藤明]]、[[バレーボール]]選手(* [[1933年]])
* 1982年 - [[マリエッタ・シャギニャン]]、[[作家]]、[[社会運動家一覧|社会運動家]](* [[1888年]])
* [[1984年]] - [[スタン・コベレスキ]]、元プロ野球選手(* [[1889年]])
* [[1985年]] - [[稲川誠一]]、[[歴史家|歴史学者]](* [[1926年]])
* [[1989年]] - [[五島昇]]、[[実業家]](* [[1916年]])
* [[1990年]] - [[レフ・ヤシン]]、元[[サッカー]]選手(* [[1929年]])
* 1990年 - [[ヴィクター・ロスチャイルド (第3代ロスチャイルド男爵)|第3代ロスチャイルド男爵ヴィクター・ロスチャイルド]]、[[銀行家]]、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員(* [[1910年]])
* [[1992年]] - [[ジョルジュ・ドルリュー]]、[[作曲家]](* [[1925年]])
* [[1993年]] - [[ポリカプ・クッシュ]]、物理学者(* [[1911年]])
* [[1995年]] - [[花山信勝]]、[[仏教学者]](* [[1898年]])
* 1995年 - [[三原順]]、[[漫画家]](* [[1952年]])
* [[1997年]] - [[トニー・ゼール]]、[[プロボクサー]](* [[1913年]])
* 1997年 - [[カルロ・ファッシ]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1929年]])
* [[1998年]] - [[須賀敦子]]、[[随筆家]](* [[1929年]])
* 1998年 - [[愛野興一郎]]、[[実業家]]、[[政治家]]、元[[衆議院議員]]、元[[経済企画庁]]長官(* [[1928年]])
* [[1999年]] - [[鎌田典三郎]]、[[教育者]]、[[西六郷少年少女合唱団]]創設者(* 1928年)
* [[2001年]] - [[水谷準]]、[[小説家]] (* [[1904年]])
* 2001年 - [[小山田健一]]、元プロ野球選手(* [[1950年]])
* [[2004年]] - [[ユリアナ (オランダ女王)|ユリアナ]]、[[オランダ]]女王(* [[1909年]])
* 2004年 - [[いかりや長介]]、[[俳優]]、[[コメディアン]]([[ザ・ドリフターズ]])(* [[1931年]])
* [[2007年]] - [[鴨志田穣]]、[[エッセイスト]]、[[ジャーナリスト]]、[[写真家]](* [[1964年]])
* [[2008年]] - [[小沢重雄]]、俳優、[[声優]](* [[1926年]])
* 2008年 - [[砂田弘]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](* [[1933年]])
* 2008年 - [[草森紳一]]、[[評論家]](* [[1938年]])
* [[2009年]] - [[伊藤計劃]]、[[SF作家]](* 1974年)
* [[2010年]] - [[ロビン・ミルナー]]、[[計算機科学|計算機科学者]](* [[1934年]])
* [[2014年]] - [[井口洋夫]]、[[化学者]](* [[1927年]])
* [[2015年]] - [[今江祥智]]<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/west/news/150320/wst1503200064-n1.html|title=児童文学作家 今江祥智さん|publisher=産経WEST|date=2015-03-20|accessdate=2020-11-18}}</ref>、[[児童文学作家]](* [[1932年]])
* [[2017年]] - [[デイヴィッド・ロックフェラー]]<ref name="obituary">[https://www.nytimes.com/2017/03/20/business/david-rockefeller-dead-chase-manhattan-banker.html David Rockefeller, Philanthropist and Head of Chase Manhattan, Dies at 101 - The New York Times] {{en icon}} - 2017年3月20日</ref>、銀行家、実業家、ロックフェラー家当主(* [[1915年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1969年]] - [[スージー (チンパンジー)|スージー]]、[[チンパンジー]](* [[1948年]]頃)
* [[1987年]] - [[タウザー (猫)|タウザー]]、世界一[[ネズミ]]を捕った[[ネコ|猫]](* [[1963年]])
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:Vinyl_record_LP_10inch.JPG|thumb|200px|日本初の[[LPレコード]]発売(1951)を記念したLPレコードの日]]
* [[春分]]([[2016年]]・[[2017年]]・[[2020年]]・[[2021年]]・[[2024年]]・[[2025年]]など)
*: [[二十四節気]]のひとつ。昼と夜の長さがほぼ同じになる日。
* [[春分の日]]({{JPN}})※春分の場合
*: [[国民の祝日]]の一つ。「自然をたたえ、生物をいつくしむ」日。
* イラン・中央アジアの正月([[ノウルーズ]])
*: 中央アジアの多くの国では[[3月21日]]を新年の始まりの日としている。
** ノウルーズ({{IRN}} 2008年・2012年・2016年)
*: [[イラン暦]]の元日。春分と同日。
* [[国際幸福デー]] ([[国際連合]])
* 国際フランコフォニーの日([[フランコフォニー国際機関]])
* [[上野動物園]]開園記念日({{JPN}})
*: [[1882年]](明治15年)のこの日、東京都台東区に日本初の近代動物園である、上野動物園が[[上野恩賜公園|上野公園]]内に開園した。
* [[サブレー|サブレ]]の日
*: [[日清シスコ]]が制定。「サ(3)ブ(2)レ(0)」の語呂合せ。同社の主力製品であるサブレをPRすることが目的。記念日は一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
* [[独立記念日]]({{TUN}})
*: [[1956年]]のこの日、チュニジアがフランスから独立した。
* [[電卓]]の日({{JPN}})
*: [[1974年]]のこの日、電卓の生産量が世界一になったことに由来。日本事務機械工業会(現:JBMIA)が制定。
* [[LPレコード]]の日({{JPN}})
*: [[1951年]]のこの日、[[日本コロムビア]]から日本で初めてLPレコードが発売されたことに由来{{要出典|date=2015年3月}}。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0320|date=2011年6月}}
* 年不明 - [[隅田川]]にかかる[[吾妻橋]]の蒸気船発着場の水中から[[実業家]]・小山田六郎の[[変死体]]が発見される。(『[[陰獣]]』第6章)
* 1947年(昭和22年)- [[東京]]G町で長谷川[[巡査]]が[[酒場]]「黒猫」の庭で蓮華院の[[僧]]・日兆が掘っている穴から[[死体]]を発見する。(『[[黒猫亭事件]]』第1章)
*2004年 - ハチベエたちズッコケ三人組6年1組生徒全員が花山第二小学校を卒業。同時に宅和先生が教員を退職。(小説『[[ズッコケ三人
組]]』)
*2011年 - 主人公の岩戸鈴芽が常世に迷い込み12年後の自分と会い、椅子を渡される。(映画『[[すずめの戸締まり]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1971年]] - 臼井薫子、ゲーム・漫画『[[ROBOTICS;NOTES]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |year = 2012 |title = ROBOTICS;NOTES 【ロボティクス・ノーツ】 公式設定資料集:Childhood Dreams |page = 93 |publisher = [[アスキー・メディアワークス]] |isbn = 978-4-04-886756-6 }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=浅川圭司(漫画)|author2=5pb.(原作)|authorlink2=5pb.|title=ROBOTICS;NOTES|volume=2巻|publisher=[[マッグガーデン]]|series=ブレイドコミックス|year=2012|page=105|isbn=978-4-8000-0062-0}}</ref>
* [[1986年]] - 玉井ユキ、特撮『[[仮面ライダーカブト]]』に登場する人物<ref>第3話より</ref>
* [[1995年]] - 高倉冠葉・高倉晶馬・荻野目苹果・夏芽真砂子、アニメ『[[輪るピングドラム]]』に登場するキャラクター
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=== 忌日(フィクション) ===
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== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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2,486 | ジョン・レノン | ジョン・ウィンストン・オノ・レノン(英語: John Winston Ono Lennon、1940年10月9日 - 1980年12月8日)は、イギリス出身のシンガーソングライター、ギタリスト、キーボディスト、平和運動家。ビートルズを立ち上げたリーダーでボーカル、ギターなどを担当するとともに、ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」としてソングライティング・チームを組み、多くの楽曲を作曲した。1965年にはMBE・大英帝国第5級勲位を受章した。
1970年のビートルズ解散後はアメリカを主な活動拠点とし、ソロとして、また妻で芸術家のオノ・ヨーコ(小野洋子)と共に活動した。1975年から約5年間音楽活動を休止した後、1980年に活動を再開するも、同年12月8日ニューヨークの自宅アパート前において銃撃され死亡した。
前妻シンシアとの間に生まれた長男ジュリアンと、ヨーコとの間に生まれた次男ショーンの2人の息子がいる。
主な代表曲としては、ビートルズ時代の「抱きしめたい」「シー・ラヴズ・ユー」「フロム・ミー・トゥ・ユー」、リード・ボーカルをとる「プリーズ・プリーズ・ミー」「ハード・デイズ・ナイト」「エイト・デイズ・ア・ウィーク」「ヘルプ!」「涙の乗車券」「イン・マイ・ライフ」「ノルウェーの森」「ひとりぼっちのあいつ」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「アイ・アム・ザ・ウォルラス」「愛こそはすべて」「レボリューション」「カム・トゥゲザー」「ドント・レット・ミー・ダウン」「アクロス・ザ・ユニバース」「ジョンとヨーコのバラード」、また、ソロ時代は「平和を我等に」「インスタント・カーマ」「ラヴ」「イマジン」「パワー・トゥ・ザ・ピープル」「ハッピー・クリスマス(戦争は終った)」「真夜中を突っ走れ」「スターティング・オーヴァー」「ウーマン」などが挙げられる。
1940年10月9日18時30分、第二次世界大戦のナチス・ドイツによる空襲下に置かれたリヴァプールで誕生。出生時、アイルランド系の父のアルフレッド・フレディ・レノン(英語版)(1912年 - 1976年)は労働者階級で商船の乗組員として航海中で不在。イングランド人である母のジュリア・スタンリーも他の男性と同棲していたため、母親の長姉で「ミミ伯母」と呼ばれた中流階級であるメアリー(英語版)(1903年 - 1991年)夫婦に育てられる。ファーストネーム(ジョン)は、父方の祖父のジョン・ジャック・レノン、さらにミドルネーム(ウィンストン)は、当時のイギリスの首相のウィンストン・チャーチルにちなむ。また、スコットランド人の血も引いている。
ジョン・レノンは、伯母夫妻が中流家庭であった。ビートルズの他の3人のメンバーは労働者階級出身である。1946年、父が帰国し、そのまま父に引き取られて数週間一緒に暮らしたが母がジョンを連れ戻す。しかし母と暮らすことはできず、ふたたびミミ夫妻に育てられる。その一方、父は家出して、行方知らずとなった。
ジョンは1952年9月、グラマー・スクールのクオリー・バンク校(英語版)に入学した。父親代わりだったミミの夫・ジョージ(英語版)(1903年 - 1955年)が1955年に死去した。
ジョン・レノンのティーンエイジャー時代のイギリスでは、ロニー・ドネガン(英語版)の「ロック・アイランド・ライン」が1956年に大ヒットとなり、スキッフル・ブームが起きた。さらにジョンは1956年、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールの洗礼を受け、初めてのギターとなるギャロトーン・チャンピオンを新聞の通信販売で購入した。このころ、ジュリアが近くに住んでいることを知ったジョンは、ジュリアの家へ行き来するようになった。夫・フレッドからバンジョーのコードを教わっていたジュリアは、ジョンにバンジョーのコードをいくつか教え音楽に関心を向けさせた。
1957年、第1作にあたる「ハロー・リトル・ガール」を作曲。当時からギター、ヴォーカルを担当していた。
3月、クオリー・バンク校で、級友たちとスキッフルバンド「クオリーメン」を結成した。ジョン以外のメンバーは固定されないまま活動を続けていた7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会(英語版)で行ったクオリーメンのコンサートで共通の友人たるアイヴァン・ボーンにポール・マッカートニーを紹介される。10月18日にポールはクオリーメンに加入した。エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、バディ・ホリー、ジーン・ヴィンセントなどアメリカのロックンロールに夢中になった。またジョンは、自分が大きな影響を受けた一人として、ルー・クリスティをあげている。1958年2月、ポールにジョージ・ハリスンを紹介される。まもなくして彼のギターの腕を買い、クオリーメンへの加入を認めた。
1958年7月15日、非番の警察官が運転する車が母・ジュリアをはねて死亡させる事件が起こった。母・ジュリアの死はジョンに大きく影響し、すでに(1956年、14歳のとき)母を乳癌で亡くしていたポールとの友情を固める要因にもなった。
1958年9月、ジョンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいで美術専門学校であるリヴァプール・カレッジ・オブ・アート (Liverpool College of Art)に入学する。そこで最初の妻となるシンシア・パウエルと出会った。1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージの3人だけになった。
このころからリヴァプールだけでなく、西ドイツのハンブルクのクラブなどでも演奏活動を始めている。このころ、ジョンはハンブルクの楽器店でデビュー時まで使用することとなるエレキギターリッケンバッカー・325を購入。1960年1月、ジョンの説得により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの友人、スチュアート・サトクリフがメンバーに加わりヘフナーNo.333ベースを演奏した。なお、ボブ・ディランがビートルズにドラッグを教えたという俗説は誤りであり、メンバーはハンブルク時代からドラッグ、女性、ロックンロール、アルコールを楽しんでいた。バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」や「ザ・シルヴァー・ビートルズ」と名乗るようになり8月「ビートルズ」になりピート・ベストが加入した。
1961年4月、スチュアートはハンブルクにて脱退し、画家を目指した。ジョンは、すぐにポールを説得してベーシストに転向させた。またジョンはこのとき、クラウス・フォアマンの加入の希望を断っている。なお、スチュアートは恋人とハンブルクに残るがまもなく21歳で脳出血のため死去した。6月、ドイツで活動していたイギリス人歌手トニー・シェリダンのバック・バンドとして「マイ・ボニー」などの曲を録音した。
1961年12月、ジョンたちは「マイ・ボニー」を買いにきた客からビートルズを知ったレコード店経営者のブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結び、これからロンドンのレコード会社へのビートルズの売り込みが始まった。1962年元日に、デッカ・レコードのオーディションを受けるが不合格。6月に、パーロフォンとレコーディング契約を結ぶ。8月16日にピートを解雇した。以前から付き合いのあった、「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」のドラマーであるリンゴ・スターが8月18日に加入した。10月5日、「ビートルズ」としてレコード・デビューを果たした。
シンシア・パウエルと1962年8月23日に結婚。しかしシンシアの存在は、数年間隠されていた。
長男・ジュリアン・レノンが1963年4月8日に誕生。しかし、両親と生活したことがないジョンは、ジュリアンにどう接していいかわからなかった。「『どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか?やり方がわからないんだ』とジョンに質問された」とポールは述べている。ジュリアンものちに「ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ、父さんよりね。僕らはいい友人だった。そのころの僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、父さんとの写真よりもはるかに多い」と述べている。ヒッピー文化に影響されたジョンとビートルズのメンバーは、ドノヴァン、マイク・ラヴ、ミア・ファロー、ジェーン・アッシャー、パティ・ボイド、シンシア・レノンらとインドへ行っている。
1966年3月4日、ロンドン・イブニング・スタンダード(英語版)紙のモーリーン・クリーブ(英語版)とのインタビューでジョンは次のような発言をした。
この発言はイギリスではほとんど問題にならなかったが、同年7月にアメリカのファンマガジン『デートブック』に再収録されると、キリスト教右派が信奉されるアメリカ南部や中西部の保守的宗教団体によるアンチ・ビートルズ活動に結びついた。ラジオ局はビートルズの曲の放送を禁止し、ビートルズのレコードやグッズが燃やされた。スペインおよびヴァチカンはジョンの言葉を非難し、南アフリカ共和国はビートルズの音楽のラジオ放送を禁止した。最終的に、1966年8月11日にジョンはシカゴで以下のように釈明会見を行いヴァチカンも彼の謝罪を受容した。
「たまたま友人と話をしていて、“ビートルズ”という言葉を自分とはかけ離れた存在として使っただけなんだ。“今のビートルズは何にもまして大きな影響を若者や状況に与えている、あのキリストよりも”って言ったんだ。そう言ったことが間違って解釈された。」
1966年にビートルズがライヴ・ツアーを休止したあと、ジョンは映画『ジョン・レノンの 僕の戦争』に出演した。11月にはロンドンのインディカ・ギャラリー(英語版)で、彼はのちに2人目の妻となる小野洋子に出会う。美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいたこともあり、ジョンは日本や東洋文化に興味を持ち、禅宗や空の概念に強い好奇心を寄せていた。これを色濃く反映させた小野洋子のアートに強い興味を示した。洋子の個展に出かけたジョンが見た彼女の現代アート作品に、白い部屋の真ん中に天井まで届くハシゴが置いてあって、天井から虫眼鏡がぶら下がっているものがある。白い天井には裸眼では見えないほど小さな文字で何かが書いてあり、虫眼鏡を使って見ると、YESとだけ書かれている。Noとかの否定的な言葉でも、何かを罵る言葉でもなく、乱暴な言葉でもなく、肯定的で短いYESだったことに衝撃を受けた、と、ジョンがそれをいたく気に入ったという逸話は有名である。ジョンは、「Noとかの否定的な言葉だったら気に入らなかった。」と後に語っている。
2人は同年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音期間に小野洋子の個展にジョンが出資するなどして交際を始めた。ジョンは、1968年2〜4月のインドでの修行中も、小野洋子と文通していた。5月、小野洋子への思慕を募らせたジョンは、シンシアに旅行に行くように言って、シンシアの旅行中にヨーコを自宅に招き入れ、以後ヨーコはジョンとの同棲生活を始めた。シンシアとは7月に離婚申請、11月8日に離婚が成立した。
1969年3月にジョンとヨーコはジブラルタルで挙式し、新婚旅行で訪れたパリでジョンとヨーコのバラードを書きアムステルダムとモントリオールで「ベッド・イン」という平和を訴えるパフォーマンスを行った。
結婚後まもなく、ジョンは「ミドルネームのWinstonをOnoに変更したい」と申請したが、変更は認められなかった。パスポート・グリーンカードなど公文書にはJohn Winston Ono Lennonという表記のままだった。
彼らは多くのマスコミから奇妙なカップルとして格好の餌食にされる一方、反戦運動における重要人物ともみなされるようになった。また、左翼団体の国際マルクス主義グループ(英語版)と関係を持っていたことからFBIの監視対象にもなっていた。1969年以降は、ジョンはヨーコとともにプラスチック・オノ・バンドとしての活動やベトナム戦争に対する反対と平和を求める活動に参加した。イギリスのベトナム戦争支持を受け、大英帝国勲章を返上。「バギズム」や「ドングリ・イヴェント」(ともに1969年)などヨーコと共同で行ったパフォーマンス・アート、「ベッド・イン」(1969年)や 「War Is Over (If You Want it)」(1971年)の街頭広告を行った。
ジョンの本格的なソロ活動前に、2人は前衛的な『トゥー・ヴァージンズ』『ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ(英語版)』『ウェディング・アルバム』の3作のアルバムを発表した。また、ジョンのソロ時代発表されたアルバムと対になって『ヨーコの心(英語版)』(1970年)、『フライ(英語版)』(1971年)、『無限の大宇宙(英語版)』(1972年)、『空間の感触(英語版)』(1973年)が発表され、それぞれにジョンが参加した。
2人の共同名義の音楽作品として、ほかに『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』(1972年)、『ダブル・ファンタジー』(1980年)、『ミルク・アンド・ハニー』(1984年)が発表された。
ビートルズ時代の1968年にソロ活動を開始。1969年から1976年までプラスティック・オノ・バンド(Plastic Ono Band)の名義で作品を発売。名称に若干の推移はあるが、このプラスティック・オノ・バンドはヨーコとのユニットで、メンバーは流動的だった。初期はベースにビートルズ・デビュー以前からの知り合いであるクラウス・フォアマン、ドラムはアラン・ホワイトまたはジム・ケルトナー、ピアノはニッキー・ホプキンスが担当することが多かった。
1969年、シングル『平和を我等に』『コールド・ターキー』を、12月にはトロントで行われた同バンドのステージを収録したライヴ・アルバム『平和の祈りをこめて〜ライヴ・ピース・イン・トロント1969〜』を発表した。このライヴにはクラウス・フォアマン、エリック・クラプトン、アラン・ホワイトが参加しており、その模様の映像はDVD『スウィート・トロント』に収録されている。
ビートルズ存続中の1970年2月に、メンバーのジョージ・ハリスンも参加した『インスタント・カーマ』を発表、『レット・イット・ビー』とほぼ同時期に発表されチャートを上昇し、米英でトップ5ヒットとなり、ゴールドディスクを獲得した。
1970年4月10日、ポールが脱退を発表しビートルズが事実上解散した後、アメリカのアーサー・ヤノフ博士が提唱した精神療法である原初療法(英語版)を受けた。約半年後、ビートルズのメンバーであったリンゴ・スター(ドラムス)、クラウス・フォアマン(ベース)、ゲストにビリー・プレストンを迎え、アルバム『ジョンの魂』を制作し発表した(米6位、英8位)。「マザー」がシングルとして発表された。
1971年6月、アルバム『イマジン』の制作を開始した(発表は10月)。ここではジョージ・ハリスン(ギター)、アラン・ホワイト(ドラムス)、ジム・ケルトナー(ドラムス)、キング・カーティス(サキソフォーン)らが参加した。米国1位、英国1位、日本1位(オリコン総合チャート)と大ヒットを記録した。9月、ジョンは活動の拠点をアメリカのニューヨークに移し、グリニッジ・ヴィレッジのアパートで暮らし始めた。ここでジェリー・ルービンやアビー・ホフマン、ボビー・シールら多くの反体制活動家やミュージシャンと知り合い、政治的活動(公務員に対して禁止されている政治活動の行動類型)に積極的に参加した。ジョンはルービン、ホフマン、シールらのイメージが、自分のイメージと同様に、マス・メディアによって悪く歪曲されていることを知った。大麻所持で通常よりも重い10年間の禁固刑を受けた反体制活動家ジョン・シンクレアの救済コンサートへの出演、アッティカ刑務所の入所者家族のための慈善コンサート(ともに1971年12月)なども行った。ジョンは、公式に特定政党を支持したことは一度もなかったが、「人々に力を、民衆に権力を」と主張しアメリカ国内でデモ行進をした。大統領リチャード・ニクソンはロナルド・レーガンと同じく、50年代にマッカーシーの赤狩りに協力したような政治家だった。ニクソン時代のFBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーとFBIによる監視については、ジョンの死後に関係者の訴訟により膨大な量の調査報告書が公開されている。このような理由から、ジョンの大麻不法所持による逮捕歴を理由としたアメリカへの再入国禁止処分について再延長の手続きをとり続けた。
1971年6月にはパーティーでマイルス・デイヴィスと会い、一対一のバスケット・ボールを楽しんだ。この様子は、動画サイトに残っている。1972年2月に、テレビ番組「マイク・ダグラス・ショー」に出演、少年時代から敬愛するチャック・ベリーと共演した。5月にワシントン・スクエアの教会で慈善コンサートに出演した。6月発表の次作「サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ」は(ニューヨークのローカル・バンドのエレファンツ・メモリー(英語版)がバックを務めた)、刑務所での暴動、人種問題や性差問題、北アイルランド紛争、アメリカ合衆国のグリーンカードについて歌われているだけでなく、アルバム・ジャケットは裸踊りをするリチャード・ニクソンと毛沢東の合成写真が使われた。1972年8月30日、ジョンはエレファンツ・メモリーとともに、精神発達遅滞児童を援助する2回の慈善コンサート「ワン・トウ・ワン」をニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行い、スティーヴィー・ワンダーとは「平和を我等に」を共演したほか、ビートルズ時代の「カム・トゥゲザー」を披露した。このコンサートのもようは「ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ」として1986年に発表された。9月に筋ジストロフィーの患者のためのテレビ番組に出演した。
1973年4月1日、ジョンはヨーコとニューヨークで会見を開き、架空の国家「ヌートピア」の建国を宣言した。また、リンゴのソロ・アルバム『リンゴ』に参加し、「アイ・アム・ザ・グレーテスト(英語版)」を提供。ジョージ、リンゴと共演した。11月、アルバム『マインド・ゲームス』を発表した。その前9月に、ジョンはヨーコのもとを離れ、ジョンとヨーコの個人秘書で、愛人となったメイ・パンとともにロサンゼルスのマンションで同棲生活を始め、いわゆる「失われた週末("Lost Weekend")」をリンゴやハリー・ニルソン、ザ・フーのキース・ムーンらと過ごした。この時期には、前妻シンシアとの間に生まれたジュリアンと再会を果たし、ビートルズのメンバーとも交流した。
1974年3月からはハリー・ニルソンの「プシー・キャッツ」をプロデュースした。同年、セルフ・プロデュースしたアルバム『心の壁、愛の橋』を発表した。このアルバムは、ローリング・ストーン誌でレノンの最高傑作と評価され、「イマジン」以来、ソロとして2作目の全米1位を獲得した。また、この中で「真夜中を突っ走れ」と「予期せぬ驚き」でエルトン・ジョンと共演した。ハリー・ニルソンとも「枯れた道」を共作した。このアルバムからは11月に「真夜中を突っ走れ」(全米1位)、「夢の夢」(同9位)がそれぞれシングルカットされた。
同時期、ビートルズ時代の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」をエルトン・ジョンと共演した。同曲はシングルカットされ、エルトンは3枚目の全米1位を獲得した。その後、11月にエルトン・ジョンのコンサートにゲストとして出演、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「真夜中を突っ走れ」で共演した。コンサート後、ジョンはヨーコと再会したと一説には言われており、1975年1月には「失われた週末」を終えてヨーコのもとへ戻った。この時期にはさらにミック・ジャガーの曲「トゥー・メニー・クックス」をプロデュースする。長く未発表で、2007年発表の「ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー」に収録された。また、リンゴのアルバム『グッドナイト・ウィーン』にも参加し「オンリー・ユー」をプロデュースした(全米6位)。
1975年2月、カヴァー・アルバム『ロックン・ロール』を発表。ここからは「スタンド・バイ・ミー」のヒットが生まれた。デヴィッド・ボウイと知り合い、ボウイの『ヤング・アメリカンズ』(3月発表)でビートルズ時代の「アクロス・ザ・ユニバース」を共演、さらにボウイ、カルロス・アロマー(英語版)と「フェイム」を共作し、コーラスとギターで参加した。この作品でボウイは初の全米1位を獲得した。ボウイによると、スタジオでの作業でジョンの発した「フェイム!」というかけ声から着想を得たという。ボウイはインタビューで「あれほどオリジナリティのある人は将来現れないであろう」と述べている。6月にはテレビ番組「サリュート・トウ・サー・リュー・グレイド」に出演した。10月9日、本人の誕生日と同じ日にショーン・レノンが誕生した。10月にはベスト曲集「シェイヴド・フィッシュ〜ジョン・レノンの軌跡」を発表した。
1976年にリンゴのソロ・アルバム『リンゴズ・ロートグラヴィア』に「クッキン」を提供したあと、75年に誕生した次男・ショーンの養育に専念にするため音楽活動を休止した。7月27日にアメリカの永住権を取得した。その後、ほぼ5年間ジョンはハウス・ハズバンド業に専念していたが、その間も自宅で作曲活動は続けており、暇を見つけてはテープに録音していた。その時期に作られた楽曲のデモ・テープの数々は1998年に『ジョン・レノン・アンソロジー』で発表されている。
1979年、ヴァルトハイム国連事務総長から、インドシナ難民救済コンサートにビートルズとしての出演を依頼されるが、趣旨には賛同するが4人で演奏するのは断りたいとして参加を辞退した。
約5年間の音楽活動休止を経て、1980年に活動を再開、友人のデヴィッド・ピールのアルバム『ジョン・レノン・フォー・プレジデント』に作曲で全面参加した。80年6月にはバミューダ諸島で、8月にはスタジオで新曲のレコーディングを開始した。ジョンはB-52's、リーナ・ラヴィッチ、現代音楽のメレディス・モンクらに興味を持っており、B-52sの「ロック・ロブスター」を気に入っていたという。ショーンが、偶然友達の家で観た映画『イエローサブマリン』の中でジョンを見つけ、「パパは本当にビートルズだったの?」と発した一言がきっかけとなったとする説があるが、本人は同年のインタビューの中で否定している。11月、ジョンはヨーコとの共作名義のアルバム『ダブル・ファンタジー』(米1位・英1位・日1位)を発表した。このアルバムは全世界で500万枚以上セールスを記録、「スターティング・オーヴァー」(米1位・英1位)、「ウーマン」(米1位・英1位)、「ウォッチング・ザ・ホイールズ」(米9位)などの大ヒット曲が生まれた。
1980年12月8日22時50分(米国東部時間)にニューヨークの自宅アパート「ダコタ・ハウス」前においてファンを名乗るマーク・チャップマンに撃たれ、30分後に死亡が宣告された。(詳細は、#死亡事件を参照)
1960年代、ビートルズはポップ・カルチャー、ロック・ミュージック、ロックを目指す若者たちに大きな影響をもたらし、音楽と若者文化の発展に大きく貢献した。ジョンが単独あるいは中心となって書いた曲は、内省的であり、一人称で書かれた個人的な内容であることも多い。ジョンのこうした作風と、ポールの明るくポジティブな作風は、ビートルズの楽曲に多様性をもたらしていた。
ビートルズ初期におけるレノン=マッカートニーの共作においては「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」「エイト・デイズ・ア・ウィーク」などにおける開放感のあるメロディーを生み出した。
ビートルズ初の大ヒット曲「プリーズ・プリーズ・ミー」のほか、「涙の乗車券」「アイ・フィール・ファイン」「ア・ハード・デイズ・ナイト」「ヘルプ!」は実質的にはレノンが書いた曲である。ポール作曲の「ミッシェル」などで聴かれる感傷的で哀愁漂うメロディーは、ポールの楽天的に聴こえるメロディーに、ジョンの性格や音楽性が陰影をつけ、曲に哀愁感をもたらした。
ビートルズ中期には、ドラッグとインド音楽の影響から、幻想的でサイケデリック色の強い作品が増える。「アイ・アム・ザ・ウォルラス」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「トゥモロー・ネバー・ノウズ」「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」などは多くのアーティストに影響を与えた当時の傑作群と言える。
1967年6月、ビートルズは世界初の衛星中継テレビ番組に出演した。全世界で4億人が見たとも言われるこの番組で「愛こそはすべて」を披露。原題の“All You Need Is Love”はビートルズやジョンを語るときの代名詞ともなった。
後期は単独作が増え、「グッド・ナイト」「アクロス・ザ・ユニヴァース」「ビコーズ」のような美しいメロディーを持つ曲や、「ヤー・ブルース」「カム・トゥゲザー」「ドント・レット・ミー・ダウン」のようなブルース・ロックの曲を発表した。
こうしたビートルズ時代に比べ、ソロではよりシンプルな和声の進行と、個性的な歌詞に特徴づけられる曲調へと変化し、「マザー」「コールド・ターキー」「真実が欲しい」のような曲を発表している。そして、「インスタント・カーマ」のようなロカビリー・ヴォイスが特徴のロックも創作された。
また「ラヴ」のような美しいメロディーの曲や、ビートルズ時代の「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「ジュリア」のように繊細なメロディーで、かつ個性的な和声進行を示す独特の曲調は、同時期(1967 - 1968年) に原曲が書かれたとされる「ジェラス・ガイ」へと発展した。
さらにエルトン・ジョンとの「ルーシー・イン・ザ・スカイ~」の間奏部分や、「インテューイション」(1973)における本格的なレゲエの導入へと至った。1980年のインタビューではレゲエのリズムを共演ミュージシャンに説明することを要したとの発言がある。「心の壁、愛の橋」の「愛を生き抜こう」ではビートルズの「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」の通作形式を踏襲した楽曲構成を行った。
わずか15分で書かれたといわれる「ウーマン」は、単純ながら、最終部で半音階上昇などカデンツ(終止形、コード・パターン)にテクニックが使用された楽曲となった。曲の着想はビートルズ時代の「ガール」を発展させたとレノンが1980年のインタビューで述べている。
「レット・イット・ビー」でのフィル・スペクターによるアレンジを高く評価したレノンは、ビートルズ末期のシングル「インスタント・カーマ」とソロ前期の「ジョンの魂」「イマジン」でスペクターをプロデューサーに起用した。スペクターは、ストリングスや多数の楽器を何層にも重ねた「ウォール・オブ・サウンド」(Wall of Sound: 音の壁)とも形容される厚い音による編曲で知られている。しかし、両作品ともアレンジはそれとは異なり、レノンの目指すシンプルな音作りがなされた。
ソロ後期の「マインド・ゲームス」「心の壁、愛の橋」「ロックンロール」、復帰後の「ダブル・ファンタジー」では、セルフ・プロデュース(「ロックンロール」では一部をフィル・スペクターが担当、「ダブル・ファンタジー」はジャック・ダグラス(英語版)、ヨーコが共同プロデュース)により共演者に敬意を払いながらセッションの中でアレンジを組み立てていった。これが、共演者の敬意を得ていたという多くの発言(デヴィッド・スピノザ、トニー・レヴィンなど)がある。「マインド・ゲームス」に参加したスピノザによれば、レノンはスタジオミュージシャンを使って基本ラインを録音したあと、レノン自身のギター、スライドギターなどによる音を緻密に重ねてオーケストレーションを造り出し、大人向けのロックを創造した。ビートルズ以来の作曲語法となったベースのクリシェ、分散和音的なアプローチも取り入れている。「心の壁、愛の橋」ではストリングス、ホーンも多用した編曲を行った。
また、エコーを効かせた「インスタント・カーマ」「マザー」「愛の不毛」「スターティング・オーヴァー」などの作品は、レノン自身が中音域における豊かな声質の再現、倍音の効果を意識していたことが伺える。
ビートルズ解散直後の二人の確執はファンやマスコミにも知られていた。解散後しばらくは互いの楽曲中で中傷しあったり、ポールがニューヨーク滞在中、ジョンに電話して口論になったりするなど深い確執が存在したが、ビートルズのアラン・クレインとのマネージメント問題、アップルレコードの管理など一連の訴訟が解決に向かうなか、1970年代も中ごろになると、ポールが自分のバンド「ウイングス」でアメリカ・ツアーを行った際には時折ジョンのもとを訪れるなど親交を取り戻すようになった。また1974年にはスティーヴィー・ワンダーらとともにジャム・セッションを行い、「スタンド・バイ・ミー」や「ルシール」などロックンロールのスタンダードを一緒に演奏したテープも残されている。現在では、ポールはビートルズの楽曲を歌う際にジョンのパートを歌ったり、ジョンのソロ曲をカバーするなどしている。
ポールがジョンの家を訪れたある日、テレビ番組のネタで「『サタデー・ナイト・ライヴ』にビートルズを出演させるとしたらいくら払う?」「一流クラスの標準ギャラで3200ドル」という話をした。2人は盛り上がり、「ダウンタウンならすぐ近くだ。これから2人で乗り込もうぜ!」と意気投合し、盛り上がった。実現はしなかったがポールは「昔に戻れたみたいでとても嬉しかった」と述べている。
またジョンは「ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ。他の奴が言うのは許さない」と発言した。ハリー・ニルソンや秘書・メイ・パンにでさえ、ポールの悪口を言うことは許さなかったという。またジョンが殺害された1980年12月8日には、取材にて「人生のうちで2回、すばらしい選択をした。ポールとヨーコだ。それはとてもよい選択だった」と述べている。
ロック界でもっとも影響力のあったミュージシャンの一人として知られる。ジョンが影響を与えたミュージシャンとして、同僚のポールとジョージ、ニール・ヤング、70年代に共演したエルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、ハリー・ニルソン、クイーンらが挙げられる。ほかにもラズベリーズ、ELO、10cc、デヴィッド・ピールら、影響を受けたミュージシャンは数知れない。
反ビートルズだったパンクスたちもレノンから刺激を受けている。ジョン・ライドンは「労働者階級の英雄」を聴いて「この怒りと悔しさは本物だと生まれて初めて感じた。ピストルズの方向性が決まった」と語っている。同曲をカバーしたグリーンデイのビリー・ジョー・アームストロングはジョンから「真実とは何かを学んだ」と述べている。クラッシュのジョー・ストラマーは「彼が遺したものの一つは、夢見ることを許されなかった人々に扉を開いたことだ。僕らは永遠に新たな天才が登場するたびにあの天才と比較し続けるだろう」と評している。
ジャクソン・ブラウンはローリングストーン誌によると「彼はつねに真実を語った」と賛辞を送っている。U2の代表作の一つ「Sunday Bloody Sunday」はジョンの同名曲にインスパイアされたものである。Nowhere誌の中で、元ポリスのスティングは「我々のようなロックミュージシャンが何ごとかを言えるのはジョンのおかげである」と語ったと報じている。リアム・ギャラガーは「もしもジョン・レノンに会えたら舐め回してやる」ほど好きだと述べている。
1995年発売のジョン・レノンのトリビュート・アルバム『Working Class Hero』のライナーノーツはTimes誌の記事を紹介し、「聞き手と非常に親密で個人的な関係を築く希有なミュージシャン」「複雑なリズム、コード進行によってロックの限界を拡張し、その発展に貢献した」と評した。また、ヴォーカルの二重録音にヒントを得たエフェクターの一種のフランジャー開発への貢献、ボーカルの電気処理を導入したことでも知られる。
1966年のビートルズとしての初訪日以降も、ヨーコと頻繁に訪日した。アルバム『ジョンの魂』発表直後の1971年1月13日から21日に訪日した際、同作品への俳句の影響を示唆し、日本語で「しぶいアルバム」と表現している。
音楽活動休止中の1977年から1979年には、ヨーコ、ショーンと毎夏訪日し、小野家の別荘があった長野県軽井沢を中心に過ごし、東京や京都、箱根などにも足を運んだ(合計約9か月(うち6ヶ月近くが軽井沢))。
軽井沢滞在中における、サイクリング姿や、行きつけのベーカリーやカフェや付近の景勝地に立ち寄った様子などは、プライベート写真として多く残されており、なかには森の中でギターの弾き語りをする様子まで収められている。これらの写真の多くは、当時レノン一家のプライベート・アシスタントであった写真家の西丸文也によるものであった。
古くから数多くの外国人や著名人を滞在客として迎え入れてきた軽井沢では、町でレノン一家を見かけるのもごく日常的な光景として受け入れられ、干渉されることもなかったため、その心地よい空間は彼らに安息を与えた。ジョン自身、その気候風土から軽井沢を故郷の英国リヴァプール郊外と重ね合わせていたようで、滞在中「この辺りに土地を買い軽井沢で暮らしたい」とも口にしていたという。万平ホテルの旧館2階にも宿泊し、ホテル併設のカフェにはジョン直伝のロイヤルミルクティーがあり、ホテル内の記念館にはジョンのサインを始め、欲しがったといわれるピアノなどが収められている。
ジョンがエルヴィス・プレスリーの訃報を知ったのも、軽井沢に滞在中のことであった。そのとき各国メディアの特派員が軽井沢に飛び、レノン夫妻を訪ねたが、2人は「コメントが流れることで日本での楽しい生活が壊される恐れがある」として言及を避けたと、当時のサンケイスポーツは紙面で報じている。
日本人の知己としては、ビートルズとして訪日時にともにインタビューを受けた加山雄三(初対面で、いきなりジョンが加山の後ろから目隠しをして加山を驚かせた)、ニューヨークのジョン夫妻のもとで過ごした時期のある横尾忠則、訪日時に食事をともにした内田裕也・樹木希林夫妻、シンコーミュージック(当時)の星加ルミ子らが挙げられる。また、音楽評論家の湯川れい子とジョン夫妻の交流は広く知られ、1980年12月5日にも、FM東京のラジオインタビューを受けている。写真家の篠山紀信は、アルバム『ダブル・ファンタジー』『ミルク・アンド・ハニー』のカバー写真を撮影している。なお、ビートルズ訪日時にメンバー全員とすき焼きを食べたエピソードで知られる加山雄三は、オノ・ヨーコを通じてジョンと遠い親戚であることが後に判明している。
また、古美術商・木村東介の誘いで夫妻で歌舞伎隅田川を観劇し、終幕で感涙したというエピソードもある。その際に歌舞伎役者中村歌右衛門の楽屋を訪れたことが縁となり、ジョンは1975年に行われた歌右衛門の英国公演を支援している。
日本での売り上げで、シングルでは「マザー」「イマジン」「スターティング・オーヴァー」「ラヴ」が上位を占める。アルバムは「イマジン」のほかもオリコン総合チャートで「ジョンの魂」が5位、「マインド・ゲームズ」が6位、「ダブル・ファンタジー」が2位(単日では1位)、「ミルク・アンド・ハニー」が3位と洋楽アーティストの中でも有数の人気を誇っている。シングルとアルバムの合計で、オリコン誌では210万枚以上に達している。
1980年12月8日の午前中、自宅アパートのダコタ・ハウスでジョンはアニー・リーボヴィッツによる「ローリング・ストーン」掲載用写真のフォトセッションに臨んだ。11月に発売されたニューアルバム『ダブル・ファンタジー』では、整髪料をまったくつけないマッシュルームカットのヘアスタイルにトレードマークの眼鏡を外し、ビートルズ全盛期のころのように若返った姿が話題を呼んだが、この日のジョンはさらに短く髪をカットし、グリースでリーゼント風に整え、眼鏡を外して撮影に臨んだ。その姿はデビュー前、ハンブルク時代を彷彿とさせるものであった(10月ごろには伯母ミミに電話で、「学生のころのネクタイを出しておいてよ」と頼んでいる)。
フォトセッションを終えてしばらく自宅でくつろいだあと、17時にはヨーコの新曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミックスダウン作業のため、ジョンはニューヨーク市内にあるレコーディングスタジオ「ザ・ヒット・ファクトリー」へ出かけた。
一方、レノン夫妻は「ザ・ヒット・ファクトリー」にてラジオ番組のインタビューを受ける。この最期のインタビューで、ジョンは新作や近況についてや、クオリーメン時代のこと、ポールやジョージとの出会いについて語っている。そして、「死ぬならヨーコより先に死にたい」「死ぬまではこの仕事を続けたい」などと発言をしている。
22時50分、スタジオ作業を終えたジョンとヨーコの乗ったリムジンがアパートの前に到着した。2人が車から降りたとき、その場に待ち構えていたマーク・チャップマンが暗闇から「レノンさんですか?(Mr Lennon?)」と呼び止めると同時に拳銃を両手で構え5発を発射、4発がジョンの胸、背中、腕に命中し、彼は「撃たれた!(I'm shot!)」と2度叫びアパートの入り口に数歩進んで倒れた。警備員は直ちに911番に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分で到着した。
警官の到着時、ジョンはまだかすかに意識があったが、一刻を争う危険な状態であった。そのため、2人の警官が彼をパトカーの後部に乗せ、近くのルーズヴェルト病院(英語版)に搬送した。1人の警官が瀕死のジョンの意識を保たせるため質問すると、声にならない声で「俺はジョン・レノンだ。背中が痛い」と述べたが声は次第に弱まっていった。病院到着後、医師は心臓マッサージと輸血を行ったが、ジョンは全身の8割の血液を失い、失血性ショックによりルーズヴェルト病院で23時すぎに死亡した。満40歳没(享年41)。ジョンの死亡時に病院のタンノイ・スピーカーから流れていた曲はビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」だったという。
事件後、チャップマンは現場から逃走せず、手にしていた「ダブル・ファンタジー」を放り出し、警官が到着するまで『ライ麦畑でつかまえて』を読んだり、歩道をあちこちそわそわしながら歩いたりしていた。彼は逮捕時にも抵抗せず、"I just shot John Lennon."(ええ、僕がジョン・レノンを撃ったんです)と自分の単独犯行であることを警官に伝えた。被害者がジョンであることを知った警官が、「お前は自分が何をしでかしたのか分かっているのか?」と聞いたときには、「悪かった。君たちの友達だっていうことは知らなかったんだ」と答えた。
病院でジョンの死を伝えられたヨーコは「彼は眠ってるっていう事?」と質問したという。のちに病院で記者会見が行われ、スティーヴン・リン医師はジョンが死亡したことを確認し、「蘇生のために懸命な努力をしたが、輸血および多くの処置にもかかわらず、彼を蘇生させる事はできなかった」と語った。
ジョンの殺害に関して、彼の反戦運動やその影響力を嫌った「CIA関与説」などの陰謀説も推測されたが、公式には単独犯行と断定されている。ニューヨーク州法に基づいてチャップマンに仮釈放があり得る無期刑が下った。チャップマンは服役開始から20年経過した2000年から2020年に至るまで2年ごとに仮釈放審査を受けたが、本人の精神に更生や反省が見られないこと、妻子への再犯の確率が高いこと、ジョンの遺族が釈放に強く反対していること、もし釈放されたらジョンのファンに報復で殺害される危険性があるとして仮釈放申請を却下され、2023年現在も服役中である。
この事件は、元ビートルズの3人にも大きなショックを与えた。イギリス、サセックスの農家に滞在中のポール・マッカートニーは「ジョンは偉大だった」と一言述べた後絶句。カナダに滞在中だったリンゴはのちに妻となる女優のバーバラ・バックとともにニューヨークに飛び、ヨーコとショーンを見舞った。ロキシー・ミュージックのブライアン・フェリーは「ジェラス・ガイ」を、ポール・マッカートニーは「ヒア・トゥデイ」を、ジョージ・ハリスンは「過ぎ去りし日々」(ポール、妻リンダ、デニー・レイン、ジョージ・マーティンがバック・コーラスで、リンゴがドラムで参加)をジョンの追悼曲としてそれぞれ発表した。
また世界中のミュージシャンたちもこの事件にショックを受けた。ビートルズと人気を二分したザ・ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズも憤りを隠せなかった。音楽メディアはビートルズとストーンズをライバルと報道したが、実際には曲を提供したり、『ロックンロール・サーカス』で共演するなど、旧友だった。キースの怒りと悲しみは、多くのロック・ファンの心情を代弁していた。
日本ではビートルズ・シネ・クラブにファンからの電話が殺到し、12月24日、同クラブ主催の追悼集会が日比谷野外音楽堂で行われた。ステージには「心の壁、愛の橋」のフォト・セッションで撮られたジョンの写真が大きく掲げられ、集会後、参加者がキャンドル片手に街を行進した。その後も節目ごとに追悼イベントが行われている。 | [
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"text": "ジョン・ウィンストン・オノ・レノン(英語: John Winston Ono Lennon、1940年10月9日 - 1980年12月8日)は、イギリス出身のシンガーソングライター、ギタリスト、キーボディスト、平和運動家。ビートルズを立ち上げたリーダーでボーカル、ギターなどを担当するとともに、ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」としてソングライティング・チームを組み、多くの楽曲を作曲した。1965年にはMBE・大英帝国第5級勲位を受章した。",
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"text": "1970年のビートルズ解散後はアメリカを主な活動拠点とし、ソロとして、また妻で芸術家のオノ・ヨーコ(小野洋子)と共に活動した。1975年から約5年間音楽活動を休止した後、1980年に活動を再開するも、同年12月8日ニューヨークの自宅アパート前において銃撃され死亡した。",
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"text": "前妻シンシアとの間に生まれた長男ジュリアンと、ヨーコとの間に生まれた次男ショーンの2人の息子がいる。",
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"text": "主な代表曲としては、ビートルズ時代の「抱きしめたい」「シー・ラヴズ・ユー」「フロム・ミー・トゥ・ユー」、リード・ボーカルをとる「プリーズ・プリーズ・ミー」「ハード・デイズ・ナイト」「エイト・デイズ・ア・ウィーク」「ヘルプ!」「涙の乗車券」「イン・マイ・ライフ」「ノルウェーの森」「ひとりぼっちのあいつ」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「アイ・アム・ザ・ウォルラス」「愛こそはすべて」「レボリューション」「カム・トゥゲザー」「ドント・レット・ミー・ダウン」「アクロス・ザ・ユニバース」「ジョンとヨーコのバラード」、また、ソロ時代は「平和を我等に」「インスタント・カーマ」「ラヴ」「イマジン」「パワー・トゥ・ザ・ピープル」「ハッピー・クリスマス(戦争は終った)」「真夜中を突っ走れ」「スターティング・オーヴァー」「ウーマン」などが挙げられる。",
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"text": "1940年10月9日18時30分、第二次世界大戦のナチス・ドイツによる空襲下に置かれたリヴァプールで誕生。出生時、アイルランド系の父のアルフレッド・フレディ・レノン(英語版)(1912年 - 1976年)は労働者階級で商船の乗組員として航海中で不在。イングランド人である母のジュリア・スタンリーも他の男性と同棲していたため、母親の長姉で「ミミ伯母」と呼ばれた中流階級であるメアリー(英語版)(1903年 - 1991年)夫婦に育てられる。ファーストネーム(ジョン)は、父方の祖父のジョン・ジャック・レノン、さらにミドルネーム(ウィンストン)は、当時のイギリスの首相のウィンストン・チャーチルにちなむ。また、スコットランド人の血も引いている。",
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"text": "ジョン・レノンは、伯母夫妻が中流家庭であった。ビートルズの他の3人のメンバーは労働者階級出身である。1946年、父が帰国し、そのまま父に引き取られて数週間一緒に暮らしたが母がジョンを連れ戻す。しかし母と暮らすことはできず、ふたたびミミ夫妻に育てられる。その一方、父は家出して、行方知らずとなった。",
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"text": "ジョンは1952年9月、グラマー・スクールのクオリー・バンク校(英語版)に入学した。父親代わりだったミミの夫・ジョージ(英語版)(1903年 - 1955年)が1955年に死去した。",
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"text": "ジョン・レノンのティーンエイジャー時代のイギリスでは、ロニー・ドネガン(英語版)の「ロック・アイランド・ライン」が1956年に大ヒットとなり、スキッフル・ブームが起きた。さらにジョンは1956年、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールの洗礼を受け、初めてのギターとなるギャロトーン・チャンピオンを新聞の通信販売で購入した。このころ、ジュリアが近くに住んでいることを知ったジョンは、ジュリアの家へ行き来するようになった。夫・フレッドからバンジョーのコードを教わっていたジュリアは、ジョンにバンジョーのコードをいくつか教え音楽に関心を向けさせた。",
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"text": "1957年、第1作にあたる「ハロー・リトル・ガール」を作曲。当時からギター、ヴォーカルを担当していた。",
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"text": "3月、クオリー・バンク校で、級友たちとスキッフルバンド「クオリーメン」を結成した。ジョン以外のメンバーは固定されないまま活動を続けていた7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会(英語版)で行ったクオリーメンのコンサートで共通の友人たるアイヴァン・ボーンにポール・マッカートニーを紹介される。10月18日にポールはクオリーメンに加入した。エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、バディ・ホリー、ジーン・ヴィンセントなどアメリカのロックンロールに夢中になった。またジョンは、自分が大きな影響を受けた一人として、ルー・クリスティをあげている。1958年2月、ポールにジョージ・ハリスンを紹介される。まもなくして彼のギターの腕を買い、クオリーメンへの加入を認めた。",
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"text": "1958年7月15日、非番の警察官が運転する車が母・ジュリアをはねて死亡させる事件が起こった。母・ジュリアの死はジョンに大きく影響し、すでに(1956年、14歳のとき)母を乳癌で亡くしていたポールとの友情を固める要因にもなった。",
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"text": "1958年9月、ジョンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいで美術専門学校であるリヴァプール・カレッジ・オブ・アート (Liverpool College of Art)に入学する。そこで最初の妻となるシンシア・パウエルと出会った。1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージの3人だけになった。",
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"text": "このころからリヴァプールだけでなく、西ドイツのハンブルクのクラブなどでも演奏活動を始めている。このころ、ジョンはハンブルクの楽器店でデビュー時まで使用することとなるエレキギターリッケンバッカー・325を購入。1960年1月、ジョンの説得により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの友人、スチュアート・サトクリフがメンバーに加わりヘフナーNo.333ベースを演奏した。なお、ボブ・ディランがビートルズにドラッグを教えたという俗説は誤りであり、メンバーはハンブルク時代からドラッグ、女性、ロックンロール、アルコールを楽しんでいた。バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」や「ザ・シルヴァー・ビートルズ」と名乗るようになり8月「ビートルズ」になりピート・ベストが加入した。",
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"text": "1961年4月、スチュアートはハンブルクにて脱退し、画家を目指した。ジョンは、すぐにポールを説得してベーシストに転向させた。またジョンはこのとき、クラウス・フォアマンの加入の希望を断っている。なお、スチュアートは恋人とハンブルクに残るがまもなく21歳で脳出血のため死去した。6月、ドイツで活動していたイギリス人歌手トニー・シェリダンのバック・バンドとして「マイ・ボニー」などの曲を録音した。",
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"text": "1961年12月、ジョンたちは「マイ・ボニー」を買いにきた客からビートルズを知ったレコード店経営者のブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結び、これからロンドンのレコード会社へのビートルズの売り込みが始まった。1962年元日に、デッカ・レコードのオーディションを受けるが不合格。6月に、パーロフォンとレコーディング契約を結ぶ。8月16日にピートを解雇した。以前から付き合いのあった、「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」のドラマーであるリンゴ・スターが8月18日に加入した。10月5日、「ビートルズ」としてレコード・デビューを果たした。",
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"text": "シンシア・パウエルと1962年8月23日に結婚。しかしシンシアの存在は、数年間隠されていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 16,
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"text": "長男・ジュリアン・レノンが1963年4月8日に誕生。しかし、両親と生活したことがないジョンは、ジュリアンにどう接していいかわからなかった。「『どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか?やり方がわからないんだ』とジョンに質問された」とポールは述べている。ジュリアンものちに「ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ、父さんよりね。僕らはいい友人だった。そのころの僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、父さんとの写真よりもはるかに多い」と述べている。ヒッピー文化に影響されたジョンとビートルズのメンバーは、ドノヴァン、マイク・ラヴ、ミア・ファロー、ジェーン・アッシャー、パティ・ボイド、シンシア・レノンらとインドへ行っている。",
"title": "生涯"
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"text": "1966年3月4日、ロンドン・イブニング・スタンダード(英語版)紙のモーリーン・クリーブ(英語版)とのインタビューでジョンは次のような発言をした。",
"title": "生涯"
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"text": "この発言はイギリスではほとんど問題にならなかったが、同年7月にアメリカのファンマガジン『デートブック』に再収録されると、キリスト教右派が信奉されるアメリカ南部や中西部の保守的宗教団体によるアンチ・ビートルズ活動に結びついた。ラジオ局はビートルズの曲の放送を禁止し、ビートルズのレコードやグッズが燃やされた。スペインおよびヴァチカンはジョンの言葉を非難し、南アフリカ共和国はビートルズの音楽のラジオ放送を禁止した。最終的に、1966年8月11日にジョンはシカゴで以下のように釈明会見を行いヴァチカンも彼の謝罪を受容した。",
"title": "生涯"
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"text": "「たまたま友人と話をしていて、“ビートルズ”という言葉を自分とはかけ離れた存在として使っただけなんだ。“今のビートルズは何にもまして大きな影響を若者や状況に与えている、あのキリストよりも”って言ったんだ。そう言ったことが間違って解釈された。」",
"title": "生涯"
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"text": "1966年にビートルズがライヴ・ツアーを休止したあと、ジョンは映画『ジョン・レノンの 僕の戦争』に出演した。11月にはロンドンのインディカ・ギャラリー(英語版)で、彼はのちに2人目の妻となる小野洋子に出会う。美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいたこともあり、ジョンは日本や東洋文化に興味を持ち、禅宗や空の概念に強い好奇心を寄せていた。これを色濃く反映させた小野洋子のアートに強い興味を示した。洋子の個展に出かけたジョンが見た彼女の現代アート作品に、白い部屋の真ん中に天井まで届くハシゴが置いてあって、天井から虫眼鏡がぶら下がっているものがある。白い天井には裸眼では見えないほど小さな文字で何かが書いてあり、虫眼鏡を使って見ると、YESとだけ書かれている。Noとかの否定的な言葉でも、何かを罵る言葉でもなく、乱暴な言葉でもなく、肯定的で短いYESだったことに衝撃を受けた、と、ジョンがそれをいたく気に入ったという逸話は有名である。ジョンは、「Noとかの否定的な言葉だったら気に入らなかった。」と後に語っている。",
"title": "生涯"
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"text": "2人は同年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音期間に小野洋子の個展にジョンが出資するなどして交際を始めた。ジョンは、1968年2〜4月のインドでの修行中も、小野洋子と文通していた。5月、小野洋子への思慕を募らせたジョンは、シンシアに旅行に行くように言って、シンシアの旅行中にヨーコを自宅に招き入れ、以後ヨーコはジョンとの同棲生活を始めた。シンシアとは7月に離婚申請、11月8日に離婚が成立した。",
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"text": "1969年3月にジョンとヨーコはジブラルタルで挙式し、新婚旅行で訪れたパリでジョンとヨーコのバラードを書きアムステルダムとモントリオールで「ベッド・イン」という平和を訴えるパフォーマンスを行った。",
"title": "生涯"
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"text": "結婚後まもなく、ジョンは「ミドルネームのWinstonをOnoに変更したい」と申請したが、変更は認められなかった。パスポート・グリーンカードなど公文書にはJohn Winston Ono Lennonという表記のままだった。",
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"text": "彼らは多くのマスコミから奇妙なカップルとして格好の餌食にされる一方、反戦運動における重要人物ともみなされるようになった。また、左翼団体の国際マルクス主義グループ(英語版)と関係を持っていたことからFBIの監視対象にもなっていた。1969年以降は、ジョンはヨーコとともにプラスチック・オノ・バンドとしての活動やベトナム戦争に対する反対と平和を求める活動に参加した。イギリスのベトナム戦争支持を受け、大英帝国勲章を返上。「バギズム」や「ドングリ・イヴェント」(ともに1969年)などヨーコと共同で行ったパフォーマンス・アート、「ベッド・イン」(1969年)や 「War Is Over (If You Want it)」(1971年)の街頭広告を行った。",
"title": "生涯"
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"text": "ジョンの本格的なソロ活動前に、2人は前衛的な『トゥー・ヴァージンズ』『ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ(英語版)』『ウェディング・アルバム』の3作のアルバムを発表した。また、ジョンのソロ時代発表されたアルバムと対になって『ヨーコの心(英語版)』(1970年)、『フライ(英語版)』(1971年)、『無限の大宇宙(英語版)』(1972年)、『空間の感触(英語版)』(1973年)が発表され、それぞれにジョンが参加した。",
"title": "生涯"
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"text": "2人の共同名義の音楽作品として、ほかに『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』(1972年)、『ダブル・ファンタジー』(1980年)、『ミルク・アンド・ハニー』(1984年)が発表された。",
"title": "生涯"
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"text": "ビートルズ時代の1968年にソロ活動を開始。1969年から1976年までプラスティック・オノ・バンド(Plastic Ono Band)の名義で作品を発売。名称に若干の推移はあるが、このプラスティック・オノ・バンドはヨーコとのユニットで、メンバーは流動的だった。初期はベースにビートルズ・デビュー以前からの知り合いであるクラウス・フォアマン、ドラムはアラン・ホワイトまたはジム・ケルトナー、ピアノはニッキー・ホプキンスが担当することが多かった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "1969年、シングル『平和を我等に』『コールド・ターキー』を、12月にはトロントで行われた同バンドのステージを収録したライヴ・アルバム『平和の祈りをこめて〜ライヴ・ピース・イン・トロント1969〜』を発表した。このライヴにはクラウス・フォアマン、エリック・クラプトン、アラン・ホワイトが参加しており、その模様の映像はDVD『スウィート・トロント』に収録されている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "ビートルズ存続中の1970年2月に、メンバーのジョージ・ハリスンも参加した『インスタント・カーマ』を発表、『レット・イット・ビー』とほぼ同時期に発表されチャートを上昇し、米英でトップ5ヒットとなり、ゴールドディスクを獲得した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "1970年4月10日、ポールが脱退を発表しビートルズが事実上解散した後、アメリカのアーサー・ヤノフ博士が提唱した精神療法である原初療法(英語版)を受けた。約半年後、ビートルズのメンバーであったリンゴ・スター(ドラムス)、クラウス・フォアマン(ベース)、ゲストにビリー・プレストンを迎え、アルバム『ジョンの魂』を制作し発表した(米6位、英8位)。「マザー」がシングルとして発表された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "1971年6月、アルバム『イマジン』の制作を開始した(発表は10月)。ここではジョージ・ハリスン(ギター)、アラン・ホワイト(ドラムス)、ジム・ケルトナー(ドラムス)、キング・カーティス(サキソフォーン)らが参加した。米国1位、英国1位、日本1位(オリコン総合チャート)と大ヒットを記録した。9月、ジョンは活動の拠点をアメリカのニューヨークに移し、グリニッジ・ヴィレッジのアパートで暮らし始めた。ここでジェリー・ルービンやアビー・ホフマン、ボビー・シールら多くの反体制活動家やミュージシャンと知り合い、政治的活動(公務員に対して禁止されている政治活動の行動類型)に積極的に参加した。ジョンはルービン、ホフマン、シールらのイメージが、自分のイメージと同様に、マス・メディアによって悪く歪曲されていることを知った。大麻所持で通常よりも重い10年間の禁固刑を受けた反体制活動家ジョン・シンクレアの救済コンサートへの出演、アッティカ刑務所の入所者家族のための慈善コンサート(ともに1971年12月)なども行った。ジョンは、公式に特定政党を支持したことは一度もなかったが、「人々に力を、民衆に権力を」と主張しアメリカ国内でデモ行進をした。大統領リチャード・ニクソンはロナルド・レーガンと同じく、50年代にマッカーシーの赤狩りに協力したような政治家だった。ニクソン時代のFBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーとFBIによる監視については、ジョンの死後に関係者の訴訟により膨大な量の調査報告書が公開されている。このような理由から、ジョンの大麻不法所持による逮捕歴を理由としたアメリカへの再入国禁止処分について再延長の手続きをとり続けた。",
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"paragraph_id": 32,
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"text": "1971年6月にはパーティーでマイルス・デイヴィスと会い、一対一のバスケット・ボールを楽しんだ。この様子は、動画サイトに残っている。1972年2月に、テレビ番組「マイク・ダグラス・ショー」に出演、少年時代から敬愛するチャック・ベリーと共演した。5月にワシントン・スクエアの教会で慈善コンサートに出演した。6月発表の次作「サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ」は(ニューヨークのローカル・バンドのエレファンツ・メモリー(英語版)がバックを務めた)、刑務所での暴動、人種問題や性差問題、北アイルランド紛争、アメリカ合衆国のグリーンカードについて歌われているだけでなく、アルバム・ジャケットは裸踊りをするリチャード・ニクソンと毛沢東の合成写真が使われた。1972年8月30日、ジョンはエレファンツ・メモリーとともに、精神発達遅滞児童を援助する2回の慈善コンサート「ワン・トウ・ワン」をニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行い、スティーヴィー・ワンダーとは「平和を我等に」を共演したほか、ビートルズ時代の「カム・トゥゲザー」を披露した。このコンサートのもようは「ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ」として1986年に発表された。9月に筋ジストロフィーの患者のためのテレビ番組に出演した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1973年4月1日、ジョンはヨーコとニューヨークで会見を開き、架空の国家「ヌートピア」の建国を宣言した。また、リンゴのソロ・アルバム『リンゴ』に参加し、「アイ・アム・ザ・グレーテスト(英語版)」を提供。ジョージ、リンゴと共演した。11月、アルバム『マインド・ゲームス』を発表した。その前9月に、ジョンはヨーコのもとを離れ、ジョンとヨーコの個人秘書で、愛人となったメイ・パンとともにロサンゼルスのマンションで同棲生活を始め、いわゆる「失われた週末(\"Lost Weekend\")」をリンゴやハリー・ニルソン、ザ・フーのキース・ムーンらと過ごした。この時期には、前妻シンシアとの間に生まれたジュリアンと再会を果たし、ビートルズのメンバーとも交流した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1974年3月からはハリー・ニルソンの「プシー・キャッツ」をプロデュースした。同年、セルフ・プロデュースしたアルバム『心の壁、愛の橋』を発表した。このアルバムは、ローリング・ストーン誌でレノンの最高傑作と評価され、「イマジン」以来、ソロとして2作目の全米1位を獲得した。また、この中で「真夜中を突っ走れ」と「予期せぬ驚き」でエルトン・ジョンと共演した。ハリー・ニルソンとも「枯れた道」を共作した。このアルバムからは11月に「真夜中を突っ走れ」(全米1位)、「夢の夢」(同9位)がそれぞれシングルカットされた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "同時期、ビートルズ時代の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」をエルトン・ジョンと共演した。同曲はシングルカットされ、エルトンは3枚目の全米1位を獲得した。その後、11月にエルトン・ジョンのコンサートにゲストとして出演、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「真夜中を突っ走れ」で共演した。コンサート後、ジョンはヨーコと再会したと一説には言われており、1975年1月には「失われた週末」を終えてヨーコのもとへ戻った。この時期にはさらにミック・ジャガーの曲「トゥー・メニー・クックス」をプロデュースする。長く未発表で、2007年発表の「ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー」に収録された。また、リンゴのアルバム『グッドナイト・ウィーン』にも参加し「オンリー・ユー」をプロデュースした(全米6位)。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "1975年2月、カヴァー・アルバム『ロックン・ロール』を発表。ここからは「スタンド・バイ・ミー」のヒットが生まれた。デヴィッド・ボウイと知り合い、ボウイの『ヤング・アメリカンズ』(3月発表)でビートルズ時代の「アクロス・ザ・ユニバース」を共演、さらにボウイ、カルロス・アロマー(英語版)と「フェイム」を共作し、コーラスとギターで参加した。この作品でボウイは初の全米1位を獲得した。ボウイによると、スタジオでの作業でジョンの発した「フェイム!」というかけ声から着想を得たという。ボウイはインタビューで「あれほどオリジナリティのある人は将来現れないであろう」と述べている。6月にはテレビ番組「サリュート・トウ・サー・リュー・グレイド」に出演した。10月9日、本人の誕生日と同じ日にショーン・レノンが誕生した。10月にはベスト曲集「シェイヴド・フィッシュ〜ジョン・レノンの軌跡」を発表した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1976年にリンゴのソロ・アルバム『リンゴズ・ロートグラヴィア』に「クッキン」を提供したあと、75年に誕生した次男・ショーンの養育に専念にするため音楽活動を休止した。7月27日にアメリカの永住権を取得した。その後、ほぼ5年間ジョンはハウス・ハズバンド業に専念していたが、その間も自宅で作曲活動は続けており、暇を見つけてはテープに録音していた。その時期に作られた楽曲のデモ・テープの数々は1998年に『ジョン・レノン・アンソロジー』で発表されている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1979年、ヴァルトハイム国連事務総長から、インドシナ難民救済コンサートにビートルズとしての出演を依頼されるが、趣旨には賛同するが4人で演奏するのは断りたいとして参加を辞退した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "約5年間の音楽活動休止を経て、1980年に活動を再開、友人のデヴィッド・ピールのアルバム『ジョン・レノン・フォー・プレジデント』に作曲で全面参加した。80年6月にはバミューダ諸島で、8月にはスタジオで新曲のレコーディングを開始した。ジョンはB-52's、リーナ・ラヴィッチ、現代音楽のメレディス・モンクらに興味を持っており、B-52sの「ロック・ロブスター」を気に入っていたという。ショーンが、偶然友達の家で観た映画『イエローサブマリン』の中でジョンを見つけ、「パパは本当にビートルズだったの?」と発した一言がきっかけとなったとする説があるが、本人は同年のインタビューの中で否定している。11月、ジョンはヨーコとの共作名義のアルバム『ダブル・ファンタジー』(米1位・英1位・日1位)を発表した。このアルバムは全世界で500万枚以上セールスを記録、「スターティング・オーヴァー」(米1位・英1位)、「ウーマン」(米1位・英1位)、「ウォッチング・ザ・ホイールズ」(米9位)などの大ヒット曲が生まれた。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1980年12月8日22時50分(米国東部時間)にニューヨークの自宅アパート「ダコタ・ハウス」前においてファンを名乗るマーク・チャップマンに撃たれ、30分後に死亡が宣告された。(詳細は、#死亡事件を参照)",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1960年代、ビートルズはポップ・カルチャー、ロック・ミュージック、ロックを目指す若者たちに大きな影響をもたらし、音楽と若者文化の発展に大きく貢献した。ジョンが単独あるいは中心となって書いた曲は、内省的であり、一人称で書かれた個人的な内容であることも多い。ジョンのこうした作風と、ポールの明るくポジティブな作風は、ビートルズの楽曲に多様性をもたらしていた。",
"title": "音楽性の発展"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ビートルズ初期におけるレノン=マッカートニーの共作においては「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」「エイト・デイズ・ア・ウィーク」などにおける開放感のあるメロディーを生み出した。",
"title": "音楽性の発展"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ビートルズ初の大ヒット曲「プリーズ・プリーズ・ミー」のほか、「涙の乗車券」「アイ・フィール・ファイン」「ア・ハード・デイズ・ナイト」「ヘルプ!」は実質的にはレノンが書いた曲である。ポール作曲の「ミッシェル」などで聴かれる感傷的で哀愁漂うメロディーは、ポールの楽天的に聴こえるメロディーに、ジョンの性格や音楽性が陰影をつけ、曲に哀愁感をもたらした。",
"title": "音楽性の発展"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ビートルズ中期には、ドラッグとインド音楽の影響から、幻想的でサイケデリック色の強い作品が増える。「アイ・アム・ザ・ウォルラス」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「トゥモロー・ネバー・ノウズ」「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」などは多くのアーティストに影響を与えた当時の傑作群と言える。",
"title": "音楽性の発展"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1967年6月、ビートルズは世界初の衛星中継テレビ番組に出演した。全世界で4億人が見たとも言われるこの番組で「愛こそはすべて」を披露。原題の“All You Need Is Love”はビートルズやジョンを語るときの代名詞ともなった。",
"title": "音楽性の発展"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "後期は単独作が増え、「グッド・ナイト」「アクロス・ザ・ユニヴァース」「ビコーズ」のような美しいメロディーを持つ曲や、「ヤー・ブルース」「カム・トゥゲザー」「ドント・レット・ミー・ダウン」のようなブルース・ロックの曲を発表した。",
"title": "音楽性の発展"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "こうしたビートルズ時代に比べ、ソロではよりシンプルな和声の進行と、個性的な歌詞に特徴づけられる曲調へと変化し、「マザー」「コールド・ターキー」「真実が欲しい」のような曲を発表している。そして、「インスタント・カーマ」のようなロカビリー・ヴォイスが特徴のロックも創作された。",
"title": "音楽性の発展"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "また「ラヴ」のような美しいメロディーの曲や、ビートルズ時代の「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「ジュリア」のように繊細なメロディーで、かつ個性的な和声進行を示す独特の曲調は、同時期(1967 - 1968年) に原曲が書かれたとされる「ジェラス・ガイ」へと発展した。",
"title": "音楽性の発展"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "さらにエルトン・ジョンとの「ルーシー・イン・ザ・スカイ~」の間奏部分や、「インテューイション」(1973)における本格的なレゲエの導入へと至った。1980年のインタビューではレゲエのリズムを共演ミュージシャンに説明することを要したとの発言がある。「心の壁、愛の橋」の「愛を生き抜こう」ではビートルズの「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」の通作形式を踏襲した楽曲構成を行った。",
"title": "音楽性の発展"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "わずか15分で書かれたといわれる「ウーマン」は、単純ながら、最終部で半音階上昇などカデンツ(終止形、コード・パターン)にテクニックが使用された楽曲となった。曲の着想はビートルズ時代の「ガール」を発展させたとレノンが1980年のインタビューで述べている。",
"title": "音楽性の発展"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "「レット・イット・ビー」でのフィル・スペクターによるアレンジを高く評価したレノンは、ビートルズ末期のシングル「インスタント・カーマ」とソロ前期の「ジョンの魂」「イマジン」でスペクターをプロデューサーに起用した。スペクターは、ストリングスや多数の楽器を何層にも重ねた「ウォール・オブ・サウンド」(Wall of Sound: 音の壁)とも形容される厚い音による編曲で知られている。しかし、両作品ともアレンジはそれとは異なり、レノンの目指すシンプルな音作りがなされた。",
"title": "音楽性の発展"
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"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ソロ後期の「マインド・ゲームス」「心の壁、愛の橋」「ロックンロール」、復帰後の「ダブル・ファンタジー」では、セルフ・プロデュース(「ロックンロール」では一部をフィル・スペクターが担当、「ダブル・ファンタジー」はジャック・ダグラス(英語版)、ヨーコが共同プロデュース)により共演者に敬意を払いながらセッションの中でアレンジを組み立てていった。これが、共演者の敬意を得ていたという多くの発言(デヴィッド・スピノザ、トニー・レヴィンなど)がある。「マインド・ゲームス」に参加したスピノザによれば、レノンはスタジオミュージシャンを使って基本ラインを録音したあと、レノン自身のギター、スライドギターなどによる音を緻密に重ねてオーケストレーションを造り出し、大人向けのロックを創造した。ビートルズ以来の作曲語法となったベースのクリシェ、分散和音的なアプローチも取り入れている。「心の壁、愛の橋」ではストリングス、ホーンも多用した編曲を行った。",
"title": "音楽性の発展"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "また、エコーを効かせた「インスタント・カーマ」「マザー」「愛の不毛」「スターティング・オーヴァー」などの作品は、レノン自身が中音域における豊かな声質の再現、倍音の効果を意識していたことが伺える。",
"title": "音楽性の発展"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "ビートルズ解散直後の二人の確執はファンやマスコミにも知られていた。解散後しばらくは互いの楽曲中で中傷しあったり、ポールがニューヨーク滞在中、ジョンに電話して口論になったりするなど深い確執が存在したが、ビートルズのアラン・クレインとのマネージメント問題、アップルレコードの管理など一連の訴訟が解決に向かうなか、1970年代も中ごろになると、ポールが自分のバンド「ウイングス」でアメリカ・ツアーを行った際には時折ジョンのもとを訪れるなど親交を取り戻すようになった。また1974年にはスティーヴィー・ワンダーらとともにジャム・セッションを行い、「スタンド・バイ・ミー」や「ルシール」などロックンロールのスタンダードを一緒に演奏したテープも残されている。現在では、ポールはビートルズの楽曲を歌う際にジョンのパートを歌ったり、ジョンのソロ曲をカバーするなどしている。",
"title": "ポール・マッカートニーとの関係"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "ポールがジョンの家を訪れたある日、テレビ番組のネタで「『サタデー・ナイト・ライヴ』にビートルズを出演させるとしたらいくら払う?」「一流クラスの標準ギャラで3200ドル」という話をした。2人は盛り上がり、「ダウンタウンならすぐ近くだ。これから2人で乗り込もうぜ!」と意気投合し、盛り上がった。実現はしなかったがポールは「昔に戻れたみたいでとても嬉しかった」と述べている。",
"title": "ポール・マッカートニーとの関係"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "またジョンは「ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ。他の奴が言うのは許さない」と発言した。ハリー・ニルソンや秘書・メイ・パンにでさえ、ポールの悪口を言うことは許さなかったという。またジョンが殺害された1980年12月8日には、取材にて「人生のうちで2回、すばらしい選択をした。ポールとヨーコだ。それはとてもよい選択だった」と述べている。",
"title": "ポール・マッカートニーとの関係"
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{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ロック界でもっとも影響力のあったミュージシャンの一人として知られる。ジョンが影響を与えたミュージシャンとして、同僚のポールとジョージ、ニール・ヤング、70年代に共演したエルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、ハリー・ニルソン、クイーンらが挙げられる。ほかにもラズベリーズ、ELO、10cc、デヴィッド・ピールら、影響を受けたミュージシャンは数知れない。",
"title": "他のミュージシャンへの影響"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "反ビートルズだったパンクスたちもレノンから刺激を受けている。ジョン・ライドンは「労働者階級の英雄」を聴いて「この怒りと悔しさは本物だと生まれて初めて感じた。ピストルズの方向性が決まった」と語っている。同曲をカバーしたグリーンデイのビリー・ジョー・アームストロングはジョンから「真実とは何かを学んだ」と述べている。クラッシュのジョー・ストラマーは「彼が遺したものの一つは、夢見ることを許されなかった人々に扉を開いたことだ。僕らは永遠に新たな天才が登場するたびにあの天才と比較し続けるだろう」と評している。",
"title": "他のミュージシャンへの影響"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ジャクソン・ブラウンはローリングストーン誌によると「彼はつねに真実を語った」と賛辞を送っている。U2の代表作の一つ「Sunday Bloody Sunday」はジョンの同名曲にインスパイアされたものである。Nowhere誌の中で、元ポリスのスティングは「我々のようなロックミュージシャンが何ごとかを言えるのはジョンのおかげである」と語ったと報じている。リアム・ギャラガーは「もしもジョン・レノンに会えたら舐め回してやる」ほど好きだと述べている。",
"title": "他のミュージシャンへの影響"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1995年発売のジョン・レノンのトリビュート・アルバム『Working Class Hero』のライナーノーツはTimes誌の記事を紹介し、「聞き手と非常に親密で個人的な関係を築く希有なミュージシャン」「複雑なリズム、コード進行によってロックの限界を拡張し、その発展に貢献した」と評した。また、ヴォーカルの二重録音にヒントを得たエフェクターの一種のフランジャー開発への貢献、ボーカルの電気処理を導入したことでも知られる。",
"title": "他のミュージシャンへの影響"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "1966年のビートルズとしての初訪日以降も、ヨーコと頻繁に訪日した。アルバム『ジョンの魂』発表直後の1971年1月13日から21日に訪日した際、同作品への俳句の影響を示唆し、日本語で「しぶいアルバム」と表現している。",
"title": "日本との関わり"
},
{
"paragraph_id": 62,
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"text": "音楽活動休止中の1977年から1979年には、ヨーコ、ショーンと毎夏訪日し、小野家の別荘があった長野県軽井沢を中心に過ごし、東京や京都、箱根などにも足を運んだ(合計約9か月(うち6ヶ月近くが軽井沢))。",
"title": "日本との関わり"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "軽井沢滞在中における、サイクリング姿や、行きつけのベーカリーやカフェや付近の景勝地に立ち寄った様子などは、プライベート写真として多く残されており、なかには森の中でギターの弾き語りをする様子まで収められている。これらの写真の多くは、当時レノン一家のプライベート・アシスタントであった写真家の西丸文也によるものであった。",
"title": "日本との関わり"
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{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "古くから数多くの外国人や著名人を滞在客として迎え入れてきた軽井沢では、町でレノン一家を見かけるのもごく日常的な光景として受け入れられ、干渉されることもなかったため、その心地よい空間は彼らに安息を与えた。ジョン自身、その気候風土から軽井沢を故郷の英国リヴァプール郊外と重ね合わせていたようで、滞在中「この辺りに土地を買い軽井沢で暮らしたい」とも口にしていたという。万平ホテルの旧館2階にも宿泊し、ホテル併設のカフェにはジョン直伝のロイヤルミルクティーがあり、ホテル内の記念館にはジョンのサインを始め、欲しがったといわれるピアノなどが収められている。",
"title": "日本との関わり"
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"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "ジョンがエルヴィス・プレスリーの訃報を知ったのも、軽井沢に滞在中のことであった。そのとき各国メディアの特派員が軽井沢に飛び、レノン夫妻を訪ねたが、2人は「コメントが流れることで日本での楽しい生活が壊される恐れがある」として言及を避けたと、当時のサンケイスポーツは紙面で報じている。",
"title": "日本との関わり"
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"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "日本人の知己としては、ビートルズとして訪日時にともにインタビューを受けた加山雄三(初対面で、いきなりジョンが加山の後ろから目隠しをして加山を驚かせた)、ニューヨークのジョン夫妻のもとで過ごした時期のある横尾忠則、訪日時に食事をともにした内田裕也・樹木希林夫妻、シンコーミュージック(当時)の星加ルミ子らが挙げられる。また、音楽評論家の湯川れい子とジョン夫妻の交流は広く知られ、1980年12月5日にも、FM東京のラジオインタビューを受けている。写真家の篠山紀信は、アルバム『ダブル・ファンタジー』『ミルク・アンド・ハニー』のカバー写真を撮影している。なお、ビートルズ訪日時にメンバー全員とすき焼きを食べたエピソードで知られる加山雄三は、オノ・ヨーコを通じてジョンと遠い親戚であることが後に判明している。",
"title": "日本との関わり"
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"tag": "p",
"text": "また、古美術商・木村東介の誘いで夫妻で歌舞伎隅田川を観劇し、終幕で感涙したというエピソードもある。その際に歌舞伎役者中村歌右衛門の楽屋を訪れたことが縁となり、ジョンは1975年に行われた歌右衛門の英国公演を支援している。",
"title": "日本との関わり"
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"text": "日本での売り上げで、シングルでは「マザー」「イマジン」「スターティング・オーヴァー」「ラヴ」が上位を占める。アルバムは「イマジン」のほかもオリコン総合チャートで「ジョンの魂」が5位、「マインド・ゲームズ」が6位、「ダブル・ファンタジー」が2位(単日では1位)、「ミルク・アンド・ハニー」が3位と洋楽アーティストの中でも有数の人気を誇っている。シングルとアルバムの合計で、オリコン誌では210万枚以上に達している。",
"title": "日本との関わり"
},
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"paragraph_id": 69,
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"text": "1980年12月8日の午前中、自宅アパートのダコタ・ハウスでジョンはアニー・リーボヴィッツによる「ローリング・ストーン」掲載用写真のフォトセッションに臨んだ。11月に発売されたニューアルバム『ダブル・ファンタジー』では、整髪料をまったくつけないマッシュルームカットのヘアスタイルにトレードマークの眼鏡を外し、ビートルズ全盛期のころのように若返った姿が話題を呼んだが、この日のジョンはさらに短く髪をカットし、グリースでリーゼント風に整え、眼鏡を外して撮影に臨んだ。その姿はデビュー前、ハンブルク時代を彷彿とさせるものであった(10月ごろには伯母ミミに電話で、「学生のころのネクタイを出しておいてよ」と頼んでいる)。",
"title": "死亡事件"
},
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"text": "フォトセッションを終えてしばらく自宅でくつろいだあと、17時にはヨーコの新曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミックスダウン作業のため、ジョンはニューヨーク市内にあるレコーディングスタジオ「ザ・ヒット・ファクトリー」へ出かけた。",
"title": "死亡事件"
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"text": "一方、レノン夫妻は「ザ・ヒット・ファクトリー」にてラジオ番組のインタビューを受ける。この最期のインタビューで、ジョンは新作や近況についてや、クオリーメン時代のこと、ポールやジョージとの出会いについて語っている。そして、「死ぬならヨーコより先に死にたい」「死ぬまではこの仕事を続けたい」などと発言をしている。",
"title": "死亡事件"
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"text": "22時50分、スタジオ作業を終えたジョンとヨーコの乗ったリムジンがアパートの前に到着した。2人が車から降りたとき、その場に待ち構えていたマーク・チャップマンが暗闇から「レノンさんですか?(Mr Lennon?)」と呼び止めると同時に拳銃を両手で構え5発を発射、4発がジョンの胸、背中、腕に命中し、彼は「撃たれた!(I'm shot!)」と2度叫びアパートの入り口に数歩進んで倒れた。警備員は直ちに911番に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分で到着した。",
"title": "死亡事件"
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"text": "警官の到着時、ジョンはまだかすかに意識があったが、一刻を争う危険な状態であった。そのため、2人の警官が彼をパトカーの後部に乗せ、近くのルーズヴェルト病院(英語版)に搬送した。1人の警官が瀕死のジョンの意識を保たせるため質問すると、声にならない声で「俺はジョン・レノンだ。背中が痛い」と述べたが声は次第に弱まっていった。病院到着後、医師は心臓マッサージと輸血を行ったが、ジョンは全身の8割の血液を失い、失血性ショックによりルーズヴェルト病院で23時すぎに死亡した。満40歳没(享年41)。ジョンの死亡時に病院のタンノイ・スピーカーから流れていた曲はビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」だったという。",
"title": "死亡事件"
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"text": "事件後、チャップマンは現場から逃走せず、手にしていた「ダブル・ファンタジー」を放り出し、警官が到着するまで『ライ麦畑でつかまえて』を読んだり、歩道をあちこちそわそわしながら歩いたりしていた。彼は逮捕時にも抵抗せず、\"I just shot John Lennon.\"(ええ、僕がジョン・レノンを撃ったんです)と自分の単独犯行であることを警官に伝えた。被害者がジョンであることを知った警官が、「お前は自分が何をしでかしたのか分かっているのか?」と聞いたときには、「悪かった。君たちの友達だっていうことは知らなかったんだ」と答えた。",
"title": "死亡事件"
},
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"text": "病院でジョンの死を伝えられたヨーコは「彼は眠ってるっていう事?」と質問したという。のちに病院で記者会見が行われ、スティーヴン・リン医師はジョンが死亡したことを確認し、「蘇生のために懸命な努力をしたが、輸血および多くの処置にもかかわらず、彼を蘇生させる事はできなかった」と語った。",
"title": "死亡事件"
},
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"text": "ジョンの殺害に関して、彼の反戦運動やその影響力を嫌った「CIA関与説」などの陰謀説も推測されたが、公式には単独犯行と断定されている。ニューヨーク州法に基づいてチャップマンに仮釈放があり得る無期刑が下った。チャップマンは服役開始から20年経過した2000年から2020年に至るまで2年ごとに仮釈放審査を受けたが、本人の精神に更生や反省が見られないこと、妻子への再犯の確率が高いこと、ジョンの遺族が釈放に強く反対していること、もし釈放されたらジョンのファンに報復で殺害される危険性があるとして仮釈放申請を却下され、2023年現在も服役中である。",
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{
"paragraph_id": 77,
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"text": "この事件は、元ビートルズの3人にも大きなショックを与えた。イギリス、サセックスの農家に滞在中のポール・マッカートニーは「ジョンは偉大だった」と一言述べた後絶句。カナダに滞在中だったリンゴはのちに妻となる女優のバーバラ・バックとともにニューヨークに飛び、ヨーコとショーンを見舞った。ロキシー・ミュージックのブライアン・フェリーは「ジェラス・ガイ」を、ポール・マッカートニーは「ヒア・トゥデイ」を、ジョージ・ハリスンは「過ぎ去りし日々」(ポール、妻リンダ、デニー・レイン、ジョージ・マーティンがバック・コーラスで、リンゴがドラムで参加)をジョンの追悼曲としてそれぞれ発表した。",
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"text": "また世界中のミュージシャンたちもこの事件にショックを受けた。ビートルズと人気を二分したザ・ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズも憤りを隠せなかった。音楽メディアはビートルズとストーンズをライバルと報道したが、実際には曲を提供したり、『ロックンロール・サーカス』で共演するなど、旧友だった。キースの怒りと悲しみは、多くのロック・ファンの心情を代弁していた。",
"title": "死亡事件"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "日本ではビートルズ・シネ・クラブにファンからの電話が殺到し、12月24日、同クラブ主催の追悼集会が日比谷野外音楽堂で行われた。ステージには「心の壁、愛の橋」のフォト・セッションで撮られたジョンの写真が大きく掲げられ、集会後、参加者がキャンドル片手に街を行進した。その後も節目ごとに追悼イベントが行われている。",
"title": "死亡事件"
}
] | ジョン・ウィンストン・オノ・レノンは、イギリス出身のシンガーソングライター、ギタリスト、キーボディスト、平和運動家。ビートルズを立ち上げたリーダーでボーカル、ギターなどを担当するとともに、ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」としてソングライティング・チームを組み、多くの楽曲を作曲した。1965年にはMBE・大英帝国第5級勲位を受章した。 1970年のビートルズ解散後はアメリカを主な活動拠点とし、ソロとして、また妻で芸術家のオノ・ヨーコ(小野洋子)と共に活動した。1975年から約5年間音楽活動を休止した後、1980年に活動を再開するも、同年12月8日ニューヨークの自宅アパート前において銃撃され死亡した。 前妻シンシアとの間に生まれた長男ジュリアンと、ヨーコとの間に生まれた次男ショーンの2人の息子がいる。 主な代表曲としては、ビートルズ時代の「抱きしめたい」「シー・ラヴズ・ユー」「フロム・ミー・トゥ・ユー」、リード・ボーカルをとる「プリーズ・プリーズ・ミー」「ハード・デイズ・ナイト」「エイト・デイズ・ア・ウィーク」「ヘルプ!」「涙の乗車券」「イン・マイ・ライフ」「ノルウェーの森」「ひとりぼっちのあいつ」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「アイ・アム・ザ・ウォルラス」「愛こそはすべて」「レボリューション」「カム・トゥゲザー」「ドント・レット・ミー・ダウン」「アクロス・ザ・ユニバース」「ジョンとヨーコのバラード」、また、ソロ時代は「平和を我等に」「インスタント・カーマ」「ラヴ」「イマジン」「パワー・トゥ・ザ・ピープル」「ハッピー・クリスマス(戦争は終った)」「真夜中を突っ走れ」「スターティング・オーヴァー」「ウーマン」などが挙げられる。 | {{otheruses}}
{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照-->
| 名前 = ジョン・レノン
| 画像 = John Lennon at the Ed Sullivan Show in 1964 (cropped).jpg
| 画像説明 = [[1964年]]に[[エド・サリヴァン・ショー]]に出演した際に撮影
| 画像サイズ = 200px
| 画像補正 =
| 背景色 = singer
| 出生名 = ジョン・ウィンストン・レノン
| 別名 = {{Plainlist|
* ジョニー・シルヴァー<!-- シルヴァー・ビートルズ時代 --><ref>{{Cite news |title=Fim dos Beatles foi anunciado por Paul McCartney há 50 anos |url=https://www.correiodopovo.com.br/arteagenda/fim-dos-beatles-foi-anunciado-por-paul-mccartney-h%C3%A1-50-anos-1.411871 |newspaper=Correio do Povo |publisher=Grupo Record |date=2020-04-10 |accessdate=2020-12-17 }}</ref>
* ロング・ジョン・シルヴァー<ref>{{Cite news |title=THE SILVER BEATLES, BY ANY OTHER NAME |url=https://buffalonews.com/news/the-silver-beatles-by-any-other-name/article_2387cc96-3eba-5d2f-baa0-1cc1722cac12.html |newspaper=[[:en:The Buffalo News|buffalonews.com]] |publisher=Lee Enterprises |date=1994-01-16 |accessdate=2020-12-20 }}</ref><!-- シルヴァー・ビートルズ時代 -->
* ウィンストン・レッグサイ<!-- ザ・ダーティー・マックでの名義 --><ref>{{Cite news|title=Why The Rolling Stones Hosted An All-Star Concert But Didn't Release It For 30 Years|url=https://liveforlivemusic.com/features/why-the-rolling-stones-hosted-an-all-star-concert-but-didnt-release-it-for-30-years/|publisher=Live For Live Music|date=2015-12-11|accessdate=2022-06-08}}</ref>
* ジョエル・ノーン<ref>{{Cite web|和書|title=ヨーコ・オノ『無限の大宇宙』(1973年作品)アルバム詳細解説 {{!}} ヨーコ・オノ |url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/yokoono/info/484085 |website=ソニーミュージックオフィシャルサイト |publisher=ソニー・ミュージックエンタテインメント |accessdate=2022-06-08 }}</ref>
* ジョン・オーシャン<ref name=Listen127>{{cite book|last=Blaney|first=John|title=John Lennon: Listen to This Book|year=2005|publisher=Paper Jukebox|location=[S.l.]|isbn=9780954452810|edition=illustrated|page=127|chapter=1973 to 1975: The Lost Weekend Starts Here}}<!--|access-date=27 January 2013--></ref>
* ドクター・ウィンストン・オーブギー<ref>{{Cite book| first=Kenneth| last=Womack| authorlink=:en:Kenneth Womack| title=The Beatles Encyclopedia: Everything Fab Four |publisher=Greenwood Pub Group |year=2014 |isbn=0-3133-9171-8 |page=590 }}</ref>、ほか{{Efn|1974年リリースのアルバム『心の壁、愛の橋』においては、収録曲の自身の演奏者クレジットを全て変名で行っている。}}
}}
| 学歴 = [[リヴァプール・カレッジ・オブ・アート]]卒業
| 出生 = {{生年月日と年齢|1940|10|9|no}}
| 死没 = {{Plainlist|
* {{死亡年月日と没年齢|1940|10|9|1980|12|8}}
* {{USA}} [[ニューヨーク州]][[ニューヨーク]]
}}
| 出身地 = {{ENG}} [[マージーサイド]][[リヴァプール]]
| 担当楽器 = {{Hlist-comma|[[ボーカル]]|[[ギター]]|[[ハーモニカ]]|[[鍵盤楽器]]}}
| ジャンル = {{Hlist-comma|[[ロック (音楽)|ロック]]<ref name="allmusic">{{Cite web |first=Stephen Thomas |last=Erlewine |url={{AllMusic|artist|john-lennon-mn0000232564/biography|pure_url=yes}} |title=John Lennon {{!}} Biography & History |website=[[オールミュージック|AllMusic]] |publisher=All Media Group |accessdate=2020-12-17 }}</ref>|[[ポップ・ミュージック|ポップ]]<ref name="allmusic" />|[[ロックンロール]]<ref name="allmusic" />|[[実験音楽]]<ref name="allmusic" />}}
| 職業 = {{Hlist-comma|[[シンガーソングライター]]|[[ギタリスト]]}}
| 活動期間 = {{Plainlist|
* [[1957年]] - [[1975年]]
* [[1980年]]
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| レーベル = {{Hlist-comma|[[EMI]]|[[パーロフォン]]|[[アップル・レコード|アップル]]|[[ゲフィン・レコード|ゲフィン]]|[[ポリドール・レコード|ポリドール]]}}
| 配偶者 = {{Plainlist|
* [[シンシア・レノン|シンシア・パウエル]](1962年 - 1968年)
* [[オノ・ヨーコ]](1969年 - )
}}
| 著名な家族 = {{Plainlist|
* [[ジュリアン・レノン]](長男)
* [[ショーン・レノン]](次男)
}}
| 共同作業者 = {{Plainlist|
* [[クオリーメン]]
* [[ビートルズ]]
* [[プラスティック・オノ・バンド]]
}}
| 公式サイト = [http://www.johnlennon.com ジョン・レノン 公式サイト]
| 著作使用楽器 = {{Plainlist|
* [[リッケンバッカー・325]]
* [[エピフォン・カジノ]]
* [[ギブソン・J-160E]]
* [[ギブソン・レスポール・ジュニア]]
}}
}}
[[ファイル:John Lennon en zijn echtgenote Yoko Ono op huwelijksreis in Amsterdam hielden pe, Bestanddeelnr 922-2301.jpg|サムネイル|ジョン・レノン、妻のオノ·ヨーコ(1969年)]]
[[File:Firma de John Lennon.svg|thumb|280px|ジョン・レノンのサイン]]
'''ジョン・ウィンストン・オノ・レノン'''({{Lang-en|''John Winston Ono Lennon''}}、[[1940年]][[10月9日]] - [[1980年]][[12月8日]]){{Efn|出生名は'''ジョン・ウィンストン・レノン'''であるが、ヨーコとの結婚に際し改名した。}}は、[[イギリス]]出身の[[シンガーソングライター]]、[[ギタリスト]]、キーボディスト、[[平和運動]]家。[[ビートルズ]]を立ち上げたリーダーで[[ボーカル]]、[[ギター]]などを担当するとともに、[[ポール・マッカートニー]]と「[[レノン=マッカートニー]]」としてソングライティング・チームを組み、多くの楽曲を作曲した{{Efn|『[[ギネス・ワールド・レコーズ]]』では、もっとも成功したソングライティングチームの一人として、「[[ヒットチャート|チャート]]1位の曲が[[アメリカ合衆国|米国]]で盟友のポール・マッカートニーが32曲、レノンが26曲 (共作は23曲)、英国チャートでレノンが29曲、マッカートニーが28曲 (共作が25曲)」と紹介されている。}}。1965年には[[大英帝国勲章|MBE・大英帝国第5級勲位]]を受章した{{Efn|のちに英国の[[ベトナム戦争]]支持への反対を理由に返上した。}}。
1970年のビートルズ解散後はアメリカを主な活動拠点とし、ソロとして、また妻で芸術家の[[オノ・ヨーコ|オノ・ヨーコ(小野洋子)]]と共に活動した。1975年から約5年間音楽活動を休止した後、1980年に活動を再開するも、同年12月8日[[ニューヨーク]]の自宅アパート前において銃撃され死亡した。
前妻[[シンシア・レノン|シンシア]]との間に生まれた長男[[ジュリアン・レノン|ジュリアン]]と、ヨーコとの間に生まれた次男[[ショーン・レノン|ショーン]]の2人の息子がいる。
主な代表曲としては、ビートルズ時代の「[[抱きしめたい (代表的なトピック)|抱きしめたい]]<!-- 「WP:CARMEN」に基づく内部リンクの設定ですので、変更しないでください。 -->」「[[シー・ラヴズ・ユー]]」「[[フロム・ミー・トゥ・ユー]]」、リード・ボーカルをとる「[[プリーズ・プリーズ・ミー (曲)|プリーズ・プリーズ・ミー]]」「[[ア・ハード・デイズ・ナイト (曲)|ハード・デイズ・ナイト]]」「[[エイト・デイズ・ア・ウィーク]]」「[[ヘルプ! (ビートルズの曲)|ヘルプ!]]」「[[涙の乗車券]]」「[[イン・マイ・ライフ (代表的なトピック)|イン・マイ・ライフ]]<!-- 「WP:CARMEN」に基づく内部リンクの設定ですので、変更しないでください。 -->」「[[ノルウェーの森]]」「[[ひとりぼっちのあいつ]]」「[[ストロベリー・フィールズ・フォーエバー]]」「[[アイ・アム・ザ・ウォルラス]]」「[[愛こそはすべて]]」「[[レボリューション (ビートルズの曲)|レボリューション]]」「[[カム・トゥゲザー]]」「[[ドント・レット・ミー・ダウン]]」「[[アクロス・ザ・ユニバース]]」「[[ジョンとヨーコのバラード]]」、また、ソロ時代は「[[平和を我等に]]」「[[インスタント・カーマ]]」「[[ラヴ (ジョン・レノンの曲)|ラヴ]]」「[[イマジン (ジョン・レノンの曲)|イマジン]]」「[[パワー・トゥ・ザ・ピープル]]」「[[ハッピー・クリスマス(戦争は終った)]]」「[[真夜中を突っ走れ]]」「[[スターティング・オーヴァー]]」「[[ウーマン (ジョン・レノンの曲)|ウーマン]]」などが挙げられる。
== 生涯 ==
=== ビートルズデビュー以前 ===
==== 幼年期 ====
[[1940年]][[10月9日]]18時30分、[[第二次世界大戦]]の[[ナチス・ドイツ]]による空襲下に置かれた[[リヴァプール]]で誕生。出生時、[[アイルランド人#海外への移住|アイルランド系]]の父の{{仮リンク|アルフレッド・レノン|en|Alfred Lennon|label=アルフレッド・フレディ・レノン}}([[1912年]] - [[1976年]])は労働者階級で[[商船]]の乗組員<ref>{{Cite news |author=名取由恵 |title=ビートルズ誕生の地 リヴァプールを征く |url=https://www.japanjournals.com/feature/holiday/10432-liverpool-the-beatles.html |newspaper=Onlineジャーニー |publisher=ジャパン・ジャーナルズ |accessdate=2020-12-13 }}</ref>として航海中で不在。[[イングランド人]]である母の[[ジュリア・レノン|ジュリア・スタンリー]]も他の男性と同棲していたため、母親の長姉で「ミミ伯母」と呼ばれた[[中流階級]]である{{仮リンク|ミミ・スミス|en|Mimi Smith|label=メアリー}}([[1903年]] - [[1991年]])夫婦に育てられる。[[人名#キリスト教圏の名前|ファーストネーム]](ジョン)は、父方の祖父のジョン・ジャック・レノン<ref name="lennon">[https://gejirin.com/beatles/history/1926-1959/19401009_john_birth.html ビートルズ詳解]</ref>、さらに[[ミドルネーム]](ウィンストン)は、当時の[[イギリス]]の首相の[[ウィンストン・チャーチル]]にちなむ<ref name="lennon"/>。また、[[スコットランド人]]の血も引いている<ref>{{cite web |url=https://www.scotland.com/blog/john-lennon-northern-lights-festival-in-durness/ |title=John Lennon Northern Lights Festival in Durness |publisher=Scotland homepage |accessdate=25 December 2007}}</ref>。
[[File:Freddie Lennon (1966).jpg|thumb|240px|ジョンの父・アルフレッド([[1966年]])]]
ジョン・レノンは、伯母夫妻が中流家庭であった<ref>{{Cite news |title= |url=https://www.theguardian.com/music/musicblog/2007/jan/08/post17 |newspaper=[[ガーディアン|The Guardian]] |publisher=[[ガーディアン・メディア・グループ|Guardian Media Group]] |date=2007-01-08 |accessdate=2020-12-13 }}</ref>。ビートルズの他の3人のメンバーは[[労働者階級]]出身である。1946年、父が帰国し、そのまま父に引き取られて数週間一緒に暮らしたが母がジョンを連れ戻す。しかし母と暮らすことはできず、ふたたびミミ夫妻に育てられる。その一方、父は家出して、行方知らずとなった。
==== 少年時代 ====
ジョンは1952年9月、[[グラマー・スクール]]の{{仮リンク|クオリー・バンク校|en|Calderstones School}}に入学した。父親代わりだったミミの夫・{{仮リンク|ジョージ・トゥーグッド・スミス|en|George Toogood Smith|label=ジョージ}}([[1903年]] - [[1955年]])が1955年に死去した。
ジョン・レノンの[[ティーンエイジャー]]時代のイギリスでは、{{仮リンク|ロニー・ドネガン|en|Lonnie Donegan}}の「ロック・アイランド・ライン」が1956年に大ヒットとなり、[[スキッフル]]・ブームが起きた<ref>https://www.allmusic.com/artist/lonnie-donegan-mn0000277549/biography</ref>。さらにジョンは1956年、[[エルヴィス・プレスリー]]の「[[ハートブレイク・ホテル]]」を聴き、[[ロックンロール]]の洗礼を受け、初めてのギターとなる[[ギャロトーン・ギター|ギャロトーン・チャンピオン]]を新聞の通信販売で購入した。このころ、ジュリアが近くに住んでいることを知ったジョンは、ジュリアの家へ行き来するようになった。夫・フレッドからバンジョーのコードを教わっていたジュリアは、ジョンに[[バンジョー]]のコードをいくつか教え音楽に関心を向けさせた。
1957年、第1作にあたる「[[ハロー・リトル・ガール]]」<ref group="注釈">この曲は、1962年に[[デッカ・レコード|デッカ]]のオーディションの際に歌われ、『[[ザ・ビートルズ・アンソロジー1]]』で公式に発表された。</ref>を作曲。当時からギター、ヴォーカルを担当していた。
==== ポール、ジョージとの出会い ====
3月、クオリー・バンク校で、級友たちと[[スキッフル]]バンド「[[クオリーメン]]」を結成した。ジョン以外のメンバーは固定されないまま活動を続けていた7月6日、ウールトンの{{仮リンク|セント・ピーターズ教会|en|St Peter's Church, Woolton, Liverpool}}で行ったクオリーメンのコンサートで共通の友人たるアイヴァン・ボーンに[[ポール・マッカートニー]]を紹介される<ref group="注釈">ジョンとポールは近所で生まれ育っていたが、この日まで一度も会ったことはなかったという。</ref>。10月18日にポールはクオリーメンに加入した。[[エルヴィス・プレスリー]]、[[チャック・ベリー]]、[[バディ・ホリー]]、ジーン・ヴィンセントなど[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ロックンロール]]に夢中になった。またジョンは、自分が大きな影響を受けた一人として、ルー・クリスティをあげている<ref>[http://www.classicbands.com/LouChristieInterview.html ルー・クリスティ インタビュー] 2021年1月14日閲覧</ref>。1958年2月、ポールに[[ジョージ・ハリスン]]を紹介される。まもなくして彼のギターの腕を買い、クオリーメンへの加入を認めた。
==== 母の死 ====
1958年7月15日、非番の警察官が運転する車が母・ジュリアをはねて死亡させる事件が起こった<ref group="注釈">最初の妻シンシアの回顧本「ジョン・レノンに恋して」(2007年) によると、ジュリアに気づいた警官が、慌ててブレーキとアクセルを踏み違えたことで起こった事故とされている。警官に下った判決は「無罪」。</ref>。母・ジュリアの死はジョンに大きく影響し、すでに(1956年、14歳のとき)母を[[乳癌]]で亡くしていたポールとの友情を固める要因にもなった。
1958年9月、ジョンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいで美術専門学校である[[リヴァプール・カレッジ・オブ・アート]] (Liverpool College of Art)に入学する。そこで最初の妻となる[[シンシア・レノン|シンシア・パウエル]]と出会った。1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージの3人だけになった。
==== ハンブルク時代 ====
このころからリヴァプールだけでなく、西ドイツの[[ハンブルク]]のクラブなどでも演奏活動を始めている。このころ、ジョンはハンブルクの楽器店でデビュー時まで使用することとなるエレキギター[[リッケンバッカー・325]]を購入。1960年1月、ジョンの説得により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの友人、[[スチュアート・サトクリフ]]がメンバーに加わりヘフナーNo.333ベースを演奏した。なお、[[ボブ・ディラン]]がビートルズにドラッグを教えたという俗説は誤りであり、メンバーはハンブルク時代からドラッグ、女性、ロックンロール、アルコールを楽しんでいた<ref>ドキュメンタリー「ビートルズ・シークレット・ストーリー」</ref>。バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」や「ザ・シルヴァー・ビートルズ」と名乗るようになり8月「ビートルズ」になり[[ピート・ベスト]]が加入した。
1961年4月、スチュアートはハンブルクにて脱退し、画家を目指した。ジョンは、すぐにポールを説得してベーシストに転向させた<ref group="注釈">スチュアートと並んでベースを演奏している写真がある。</ref>。またジョンはこのとき、[[クラウス・フォアマン]]の加入の希望を断っている。なお、スチュアートは恋人とハンブルクに残るがまもなく21歳で[[脳出血]]のため死去した。6月、ドイツで活動していたイギリス人歌手[[トニー・シェリダン]]のバック・バンドとして「[[マイ・ボニー]]」などの曲を録音した。
=== ビートルズ時代 ===
==== ブライアン・エプスタインとの出会い ====
1961年12月、ジョンたちは「[[マイ・ボニー]]」を買いにきた客からビートルズを知ったレコード店経営者の[[ブライアン・エプスタイン]]とマネージメント契約を結び<ref name="名前なし-1">[John Lennon:The Life] Philip Norlan著</ref>、これからロンドンのレコード会社へのビートルズの売り込みが始まった。1962年元日に、[[デッカ・レコード]]のオーディションを受けるが不合格。6月に、パーロフォンとレコーディング契約を結ぶ。8月16日にピートを解雇した。以前から付き合いのあった、「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」のドラマーである[[リンゴ・スター]]が8月18日に加入した。10月5日、「ビートルズ」としてレコード・デビューを果たした。
==== 最初の結婚 ====
[[シンシア・レノン|シンシア・パウエル]]と1962年8月23日に結婚<ref name="名前なし-1"/>。しかしシンシアの存在は、数年間隠されていた<ref>ドキュメンタリー映画「ビートルズ・シークレット・ストーリー」より。</ref>。
[[ファイル:Cynthia_Lennon_2010.jpg|right|thumbnail|最初の妻の[[シンシア・レノン|シンシア・パウエル]]]]
[[File:Julian_Lennon.png|thumb|長男のジュリアン・レノン]]
長男・[[ジュリアン・レノン]]が1963年4月8日に誕生。しかし、両親と生活したことがないジョンは、ジュリアンにどう接していいかわからなかった。「『どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか?やり方がわからないんだ』とジョンに質問された」とポールは述べている。ジュリアンものちに「ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ、父さんよりね。僕らはいい友人だった。そのころの僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、父さんとの写真よりもはるかに多い」と述べている。[[ヒッピー]]文化に影響されたジョンとビートルズのメンバーは、[[ドノヴァン]]、[[マイク・ラヴ]]、[[ミア・ファロー]]、[[ジェーン・アッシャー]]、[[パティ・ボイド]]、シンシア・レノンらと[[インド]]へ行っている<ref>https://thebeatlesinindia.com/stories/meeting-the-beatles/</ref>。
==== キリスト発言 ====
{{main|キリスト発言}}
1966年3月4日、{{仮リンク|ロンドン・イブニング・スタンダード|en|Evening Standard}}紙の{{仮リンク|モーリーン・クリーブ|en|Maureen Cleave}}との[[インタビュー]]でジョンは次のような発言をした<ref>「ジョン・レノン その生と死と音楽」河出書房新社</ref>。
: 「[[キリスト教]]は逝っちゃうだろうね。議論の余地はないね。僕は正しいし、僕が正しい事は証明されるさ。今やビートルズは[[ナザレのイエス|イエス]]より人気がある。ロックン・ロールとキリスト教、どちらが先に逝っちゃうかはわからないけどね。イエスはまぁイケてたんじゃない?けど[[使徒#キリスト教における使徒|弟子]]たちはバカで凡人だった。僕に言わせれば、ヤツらがキリスト教を捻じ曲げて滅ぼしたのさ。」
この発言はイギリスではほとんど問題にならなかったが、同年7月にアメリカのファンマガジン『デートブック』に再収録されると、キリスト教右派が信奉されるアメリカ南部や[[アメリカ中西部|中西部]]の[[保守]]的[[宗教]]団体によるアンチ・ビートルズ活動に結びついた。[[ラジオ]]局はビートルズの曲の放送を禁止し、ビートルズの[[レコード]]やグッズが燃やされた。[[スペイン]]および[[バチカン|ヴァチカン]]はジョンの言葉を非難し、[[南アフリカ共和国]]はビートルズの音楽のラジオ放送を禁止した。最終的に、1966年8月11日にジョンは[[シカゴ]]で以下のように釈明会見を行いヴァチカンも彼の謝罪を受容した。
: 「もし"[[テレビ]]がイエスより人気がある" と言ったなら何事もなかったかもしれない。あの発言には後悔してるよ。[[神]]を否定していないし、[[反キリスト]]でもなければ、反[[教会 (キリスト教)|教会]]でもない。イエスを攻撃したわけでもなければ、貶めたわけでもない。ただ事実を話しただけで、実際アメリカよりイギリスではそうなんだ。ビートルズがイエスより良くて偉大だとは言ってないし、イエスを人として僕らと比べたりもしてない。言ったことは間違ってたと話したし、話したことは悪く取られた。そして今に至る、ってことさ。」
「たまたま友人と話をしていて、“ビートルズ”という言葉を自分とはかけ離れた存在として使っただけなんだ。“今のビートルズは何にもまして大きな影響を若者や状況に与えている、あのキリストよりも”って言ったんだ。そう言ったことが間違って解釈された。」
==== ジョンとヨーコ:ベトナム反戦運動 ====
[[ファイル:Yokoono2.jpg|right|thumbnail|2人目の妻の小野洋子]]
1966年にビートルズがライヴ・ツアーを休止したあと、ジョンは映画『[[ジョン・レノンの 僕の戦争]]』に出演した。11月にはロンドンの{{仮リンク|インディカ・ギャラリー|en|Indica Gallery}}で、彼はのちに2人目の妻となる小野洋子に出会う。美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいたこともあり、ジョンは日本や東洋文化に興味を持ち、[[禅宗]]や[[空 (仏教)|空]]の概念に強い好奇心を寄せていた。これを色濃く反映させた小野洋子のアートに強い興味を示した。洋子の個展に出かけたジョンが見た彼女の現代アート作品に、白い部屋の真ん中に天井まで届くハシゴが置いてあって、天井から虫眼鏡がぶら下がっているものがある。白い天井には裸眼では見えないほど小さな文字で何かが書いてあり、虫眼鏡を使って見ると、YESとだけ書かれている。Noとかの否定的な言葉でも、何かを罵る言葉でもなく、乱暴な言葉でもなく、肯定的で短いYESだったことに衝撃を受けた、と、ジョンがそれをいたく気に入ったという逸話は有名である。ジョンは、「Noとかの否定的な言葉だったら気に入らなかった。」と後に語っている。
2人は同年の『[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (代表的なトピック)|サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]<!-- 「WP:CARMEN」に基づく内部リンクの設定ですので、変更しないでください。 -->』の[[録音]]期間に小野洋子の個展にジョンが出資するなどして交際を始めた。ジョンは、1968年2〜4月のインドでの修行中も、小野洋子と文通していた。5月、小野洋子への思慕を募らせたジョンは、シンシアに旅行に行くように言って、シンシアの旅行中にヨーコを自宅に招き入れ、以後ヨーコはジョンとの同棲生活を始めた。シンシアとは7月に[[離婚]]申請、11月8日に離婚が成立した。
[[ファイル:John Lennon performing Give Peace a Chance 1969.jpg|right|300px|thumbnail|ベッド・イン風景、(奥左)ジョン・レノン、(奥右)[[オノ・ヨーコ]]、(中央)[[ティモシー・リアリー]]。「[[平和を我等に]]」のレコーディング中(1969年)]]
[[ファイル:JohnLennonpeace.jpg|right|180px|thumbnail|「平和を我等に」を歌うジョン・レノン(1969年)]]
1969年3月にジョンとヨーコは[[ジブラルタル]]で挙式し、[[新婚旅行]]で訪れた[[パリ]]で[[ジョンとヨーコのバラード]]を書き[[アムステルダム]]と[[モントリオール]]で「[[ベッド・イン]]」という平和を訴えるパフォーマンスを行った。
結婚後まもなく、ジョンは「ミドルネームのWinstonをOnoに変更したい」と申請したが、変更は認められなかった。パスポート・グリーンカードなど公文書にはJohn Winston Ono Lennonという表記のままだった。
彼らは多くの[[マスメディア|マスコミ]]から奇妙な[[カップル]]として格好の餌食にされる一方、[[反戦]]運動における重要人物ともみなされるようになった。また、[[左翼]]団体の{{仮リンク|国際マルクス主義グループ|en|International Marxist Group}}と関係を持っていたことから[[FBI]]の監視対象にもなっていた<ref>Ali, Tariq (20 December 2006). "John Lennon, the FBI and me". The Guardian. UK. Retrieved 18 August 2010.</ref>。1969年以降は、ジョンはヨーコとともに[[プラスチック・オノ・バンド]]としての活動や[[ベトナム戦争]]に対する反対と平和を求める活動に参加した。イギリスのベトナム戦争支持を受け、大英帝国勲章を返上。「[[バギズム]]」や「ドングリ・イヴェント」(ともに1969年)などヨーコと共同で行ったパフォーマンス・アート、「ベッド・イン」(1969年)や 「War Is Over (If You Want it)」(1971年)の街頭広告を行った。
ジョンの本格的なソロ活動前に、2人は前衛的な『[[トゥー・ヴァージンズ]]』『{{仮リンク|ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ|en|Unfinished Music No. 2: Life with the Lions}}』『[[ウェディング・アルバム]]』の3作のアルバムを発表した。また、ジョンのソロ時代発表されたアルバムと対になって『{{仮リンク|ヨーコの心|en|Yoko Ono/Plastic Ono Band}}』(1970年)、『{{仮リンク|フライ(オノ・ヨーコ アルバム)|en|Fly (Yoko Ono album)|label=フライ}}』(1971年)、『{{仮リンク|無限の大宇宙|en|Approximately Infinite Universe}}』(1972年)、『{{仮リンク|空間の感触|en|Feeling the Space}}』(1973年)が発表され、それぞれにジョンが参加した。
2人の共同名義の音楽作品として、ほかに『[[サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ]]』(1972年)、『[[ダブル・ファンタジー]]』(1980年)、『[[ミルク・アンド・ハニー]]』(1984年)が発表された。
ビートルズ時代の1968年にソロ活動を開始。1969年から1976年まで[[プラスティック・オノ・バンド]](Plastic Ono Band)の名義で作品を発売。名称に若干の推移はあるが、このプラスティック・オノ・バンドはヨーコとのユニットで、メンバーは流動的だった。初期はベースにビートルズ・デビュー以前からの知り合いである[[クラウス・フォアマン]]、ドラムは[[アラン・ホワイト]]<!-- (後に[[イエス (バンド)|イエス]]に参加)、-->または[[ジム・ケルトナー]]、ピアノは[[ニッキー・ホプキンス]]が担当することが多かった。
1969年、シングル『[[平和を我等に]]』『[[コールド・ターキー]]』を、12月には[[トロント]]で行われた同バンドのステージを収録したライヴ・アルバム『平和の祈りをこめて〜ライヴ・ピース・イン・トロント1969〜』を発表した。このライヴにはクラウス・フォアマン、[[エリック・クラプトン]]、アラン・ホワイトが参加しており、その模様の映像は[[DVD]]『[[スウィート・トロント]]』に収録されている。
=== ビートルズ解散後 ===
==== 1970年代 ====
ビートルズ存続中の1970年2月に、メンバーの[[ジョージ・ハリスン]]も参加した『[[インスタント・カーマ]]』を発表、『[[レット・イット・ビー (代表的なトピック)|レット・イット・ビー]]<!-- 「WP:CARMEN」に基づく内部リンクの設定ですので、変更しないでください。 -->』とほぼ同時期に発表されチャートを上昇し、米英でトップ5ヒットとなり、ゴールドディスクを獲得した。
1970年4月10日、ポールが脱退を発表しビートルズが事実上解散した後、アメリカの[[アーサー・ヤノフ]]博士が提唱した精神療法である{{仮リンク|原初療法|en|Primal therapy}}を受けた。約半年後、ビートルズのメンバーであった[[リンゴ・スター]](ドラムス)、クラウス・フォアマン(ベース)、ゲストに[[ビリー・プレストン]]を迎え、アルバム『[[ジョンの魂]]』を制作し発表した(米6位、英8位)。「[[マザー (ジョン・レノンの曲)|マザー]]」がシングルとして発表された。
1971年6月、アルバム『[[イマジン (アルバム)|イマジン]]』の制作を開始した(発表は10月)。ここでは[[ジョージ・ハリスン]](ギター)、アラン・ホワイト(ドラムス)、ジム・ケルトナー(ドラムス)、[[キング・カーティス]](サキソフォーン)らが参加した。米国1位、英国1位、日本1位(オリコン総合チャート)と大ヒットを記録した。9月、ジョンは活動の拠点をアメリカのニューヨークに移し、[[グリニッジ・ヴィレッジ]]のアパートで暮らし始めた。ここでジェリー・ルービンやアビー・ホフマン、ボビー・シールら多くの反体制活動家やミュージシャンと知り合い、政治的活動(公務員に対して禁止されている政治活動の行動類型)に積極的に参加した。ジョンはルービン、ホフマン、シールらのイメージが、自分のイメージと同様に、マス・メディアによって悪く歪曲されていることを知った。大麻所持で通常よりも重い10年間の禁固刑を受けた反体制活動家[[ジョン・シンクレア]]の救済コンサートへの出演、[[アッティカ刑務所]]の入所者家族のための慈善コンサート(ともに1971年12月)なども行った。ジョンは、公式に特定政党を支持したことは一度もなかったが、「人々に力を、民衆に権力を」と主張しアメリカ国内でデモ行進をした。大統領リチャード・ニクソンはロナルド・レーガンと同じく、50年代にマッカーシーの赤狩りに協力したような政治家だった。ニクソン時代のFBI長官[[ジョン・エドガー・フーヴァー]]と[[コインテルプロ|FBIによる監視]]については、ジョンの死後に関係者の訴訟により膨大な量の調査報告書が公開されている<ref>『ジョン・レノンの真実 ― FBI監視記録 DE‐4〜HQ‐33』 (ジョン・ウィーナー著、[[角川書店]]、2000年)。また、一連の事件をまとめた映画『PEACE BED/アメリカ vs ジョン・レノン』が2006年に公開された (日本公開は翌年)。</ref>。このような理由から、ジョンの大麻不法所持による逮捕歴を理由としたアメリカへの再入国禁止処分について再延長の手続きをとり続けた<ref group="注釈">ジョンは再入国禁止処分に対する抗告と裁判を1975年10月まで行い、最終的にジョン側が勝訴した。</ref>。
1971年6月にはパーティーでマイルス・デイヴィスと会い、一対一のバスケット・ボールを楽しんだ。この様子は、動画サイトに残っている。1972年2月に、テレビ番組「マイク・ダグラス・ショー」に出演、少年時代から敬愛する[[チャック・ベリー]]と共演した。5月にワシントン・スクエアの教会で慈善コンサートに出演した。6月発表の次作「[[サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ]]」は(ニューヨークのローカル・バンドの{{仮リンク|エレファンツ・メモリー|en|Elephant's Memory}}がバックを務めた)、刑務所での暴動、人種問題や性差問題、[[北アイルランド紛争]]、[[アメリカ合衆国]]の[[永住権#アメリカ合衆国|グリーンカード]]について歌われているだけでなく、アルバム・ジャケットは裸踊りをする[[リチャード・ニクソン]]と[[毛沢東]]の合成写真が使われた。1972年8月30日、ジョンはエレファンツ・メモリーとともに、精神発達遅滞児童を援助する2回の慈善コンサート「ワン・トウ・ワン」をニューヨークの[[マディソン・スクエア・ガーデン]]で行い、[[スティーヴィー・ワンダー]]とは「平和を我等に」を共演したほか、ビートルズ時代の「[[カム・トゥゲザー]]」を披露した。このコンサートのもようは「[[ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ]]」として1986年に発表された。9月に[[筋ジストロフィー]]の患者のためのテレビ番組に出演した。
[[File:May Pang 2002.jpg|right|thumbnail|個人秘書の[[メイ・パン]]]]
1973年4月1日、ジョンはヨーコとニューヨークで会見を開き、架空の国家「[[ヌートピア]]」の建国を宣言した。また、リンゴのソロ・アルバム『[[リンゴ (アルバム)|リンゴ]]』に参加し、「{{仮リンク|アイ・アム・ザ・グレーテスト|en|I'm the Greatest}}」を提供。ジョージ、リンゴと共演した。11月、アルバム『[[マインド・ゲームス]]』を発表した。その前9月に、ジョンはヨーコのもとを離れ、ジョンとヨーコの個人秘書で、愛人となった[[メイ・パン]]とともに[[ロサンゼルス]]のマンションで同棲生活を始め<ref>[https://encount.press/archives/91096/ ジョン・レノン元愛人のマンション、約5億7000万円で売りに出される | ENCOUNT]</ref>、いわゆる「失われた週末("Lost Weekend")」をリンゴや[[ハリー・ニルソン]]、[[ザ・フー]]の[[キース・ムーン]]らと過ごした。この時期には、前妻シンシアとの間に生まれたジュリアンと再会を果たし、ビートルズのメンバーとも交流した。
1974年3月からはハリー・ニルソンの「[[プシー・キャッツ]]」をプロデュースした。同年、セルフ・プロデュースしたアルバム『[[心の壁、愛の橋]]』を発表した。このアルバムは、[[ローリング・ストーン]]誌でレノンの最高傑作と評価され、「イマジン」以来、ソロとして2作目の全米1位を獲得した。また、この中で「真夜中を突っ走れ」と「[[予期せぬ驚き]]」で[[エルトン・ジョン]]と共演した。ハリー・ニルソンとも「[[枯れた道]]」を共作した。このアルバムからは11月に「[[真夜中を突っ走れ]]」(全米1位)、「夢の夢」(同9位)がそれぞれシングルカットされた。
同時期、ビートルズ時代の「[[ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ]]」をエルトン・ジョンと共演した。同曲はシングルカットされ、エルトンは3枚目の全米1位を獲得した。その後、11月にエルトン・ジョンのコンサートにゲストとして出演、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「[[アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア]]」「真夜中を突っ走れ」で共演した。コンサート後、ジョンはヨーコと再会したと一説には言われており、1975年1月には「失われた週末」を終えてヨーコのもとへ戻った。この時期にはさらに[[ミック・ジャガー]]の曲「トゥー・メニー・クックス」をプロデュースする。長く未発表で、2007年発表の「[[ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー]]」に収録された。また、リンゴのアルバム『[[グッドナイト・ウィーン]]』にも参加し「[[オンリー・ユー (プラターズの曲)|オンリー・ユー]]」をプロデュースした(全米6位)。
[[File:Sean_Lennon_Saint_Asbury_Park_NJ_09272013_LHCollins_400.jpg|right|thumbnail|息子のショーン・レノン]]
1975年2月、カヴァー・アルバム『[[ロックン・ロール (ジョン・レノンのアルバム)|ロックン・ロール]]』を発表。ここからは「[[スタンド・バイ・ミー (ベン・E・キングの曲)|スタンド・バイ・ミー]]」のヒットが生まれた。[[デヴィッド・ボウイ]]と知り合い、ボウイの『[[ヤング・アメリカンズ (アルバム)|ヤング・アメリカンズ]]』(3月発表)でビートルズ時代の「[[アクロス・ザ・ユニバース]]」を共演、さらにボウイ、{{仮リンク|カルロス・アロマー|en|Carlos Alomar}}と「[[フェイム (曲)|フェイム]]」を共作し、コーラスとギターで参加した。この作品でボウイは初の全米1位を獲得した。ボウイによると、スタジオでの作業でジョンの発した「フェイム!」というかけ声から着想を得たという。ボウイはインタビューで「あれほどオリジナリティのある人は将来現れないであろう」と述べている。6月にはテレビ番組「サリュート・トウ・サー・リュー・グレイド」に出演した。10月9日、本人の誕生日と同じ日にショーン・レノンが誕生した。10月にはベスト曲集「シェイヴド・フィッシュ〜ジョン・レノンの軌跡」を発表した。
1976年にリンゴのソロ・アルバム『[[リンゴズ・ロートグラヴィア]]』に「クッキン」を提供したあと、75年に誕生した次男・ショーンの養育に専念にするため音楽活動を休止した。7月27日にアメリカの永住権を取得した。その後、ほぼ5年間ジョンはハウス・ハズバンド業に専念していたが、その間も自宅で作曲活動は続けており、暇を見つけてはテープに録音していた。その時期に作られた楽曲のデモ・テープの数々は1998年に『[[ジョン・レノン・アンソロジー]]』で発表されている。
1979年、[[クルト・ヴァルトハイム|ヴァルトハイム]][[国際連合事務総長|国連事務総長]]から、[[インドシナ難民]]救済コンサートにビートルズとしての出演を依頼されるが、趣旨には賛同するが4人で演奏するのは断りたいとして参加を辞退した<ref>ビートルズ よみがえる『朝日新聞』1979年(昭和54年)9月22日夕刊 3版 15面</ref>。
==== 1980年代 ====
約5年間の音楽活動休止を経て、1980年に活動を再開、友人の[[:en:David Peel (musician)|デヴィッド・ピール]]のアルバム『ジョン・レノン・フォー・プレジデント』に作曲で全面参加した。80年6月には[[バミューダ諸島]]で、8月にはスタジオで新曲のレコーディングを開始した。ジョンは[[B-52's]]、リーナ・ラヴィッチ、現代音楽のメレディス・モンクらに興味を持っており、B-52sの「[[ロック・ロブスター]]」を気に入っていたという。ショーンが、偶然友達の家で観た映画『[[イエロー・サブマリン (映画)|イエローサブマリン]]』の中でジョンを見つけ、「パパは本当にビートルズだったの?」と発した一言がきっかけとなったとする説があるが、本人は同年のインタビューの中で否定している。11月、ジョンはヨーコとの共作名義のアルバム『[[ダブル・ファンタジー]]』(米1位・英1位・日1位)を発表した。このアルバムは全世界で500万枚以上セールスを記録、「[[スターティング・オーヴァー]]」(米1位・英1位)、「[[ウーマン (ジョン・レノンの曲)|ウーマン]]」(米1位・英1位)、「[[ウォッチング・ザ・ホイールズ]]」(米9位)などの大ヒット曲が生まれた{{Efn|没後、1982年の[[グラミー賞]]年間最優秀アルバム賞を2人で獲得し、授賞式に参加したヨーコは謝辞を述べた。}}。
{{See also|#死亡事件}}
1980年12月8日22時50分(米国東部時間)に[[ニューヨーク]]の自宅アパート「[[ダコタ・ハウス]]」前においてファンを名乗る[[マーク・チャップマン]]に撃たれ、30分後に死亡が宣告された<ref>{{Cite web|和書|title=ジョンは政府に殺された… オノ・ヨーコ、惨劇を回想 |url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO65492280X21C20A0000000/ |website=NIKKEI STYLE |publisher=[[日本経済新聞社]]、[[日経BP]] |date=2020-10-30 |accessdate=2020-12-13 }}</ref><ref name="newsweek20201208">{{Cite web|和書|title=1980年12月8日、ジョン・レノンが「神」になった日【没後40周年特集より】 |url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/culture/2020/12/40-34_3.php |website=ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト |publisher=CCCメディアハウスCCCメディアハウス |date=2020-12-08 |accessdate=2020-12-13 }}</ref>。(詳細は、[[#死亡事件]]を参照)
== 音楽性の発展 ==
=== ビートルズ時代 ===
1960年代、[[ビートルズ]]はポップ・カルチャー、ロック・ミュージック、ロックを目指す若者たちに大きな影響をもたらし、音楽と若者文化の発展に大きく貢献した。ジョンが単独あるいは中心となって書いた曲は、内省的であり、一人称で書かれた個人的な内容であることも多い。ジョンのこうした作風と、ポールの明るくポジティブな作風は、ビートルズの楽曲に多様性をもたらしていた。
ビートルズ初期におけるレノン=マッカートニーの共作においては「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」「[[エイト・デイズ・ア・ウィーク]]」などにおける開放感のあるメロディーを生み出した。
ビートルズ初の大ヒット曲「プリーズ・プリーズ・ミー」のほか、「[[涙の乗車券]]」「[[アイ・フィール・ファイン]]」「ア・ハード・デイズ・ナイト」「ヘルプ!」は実質的にはレノンが書いた曲である。ポール作曲の「[[ミッシェル (曲)|ミッシェル]]」などで聴かれる感傷的で哀愁漂うメロディーは、ポールの楽天的に聴こえるメロディーに、ジョンの性格や音楽性が陰影をつけ、曲に哀愁感をもたらした<ref name="playboy">{{Cite book |和書 |last= |first= |author=PLAYBOY編集部 |authorlink= |coauthors= |translator= |date=1981-3-10 |title=ジョン・レノンPLAYBOYインタビュー |publisher=[[集英社]] |page=33 |id= |isbn= |quote= }}</ref>。
ビートルズ中期には、[[ドラッグ]]と[[インドの伝統音楽|インド音楽]]の影響から、幻想的で[[サイケデリック]]色の強い作品が増える。「アイ・アム・ザ・ウォルラス」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「[[トゥモロー・ネバー・ノウズ (代表的なトピック)|トゥモロー・ネバー・ノウズ]]<!-- 「WP:CARMEN」に基づく内部リンクの設定ですので、変更しないでください。 -->」「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」などは多くのアーティストに影響を与えた当時の傑作群と言える。
1967年6月、ビートルズは世界初の衛星中継テレビ番組に出演した。全世界で4億人が見たとも言われるこの番組で「愛こそはすべて」を披露。原題の“All You Need Is Love”はビートルズやジョンを語るときの代名詞ともなった。
後期は単独作が増え、「[[グッド・ナイト (ビートルズの曲)|グッド・ナイト]]」「アクロス・ザ・ユニヴァース」「[[ビコーズ (ビートルズの曲)|ビコーズ]]」のような美しいメロディーを持つ曲や、「[[ヤー・ブルース]]」「カム・トゥゲザー」「[[ドント・レット・ミー・ダウン]]」のような[[ブルースロック|ブルース・ロック]]の曲を発表した。
=== ソロ時代 ===
こうしたビートルズ時代に比べ、ソロではよりシンプルな[[和声]]の進行と、個性的な歌詞に特徴づけられる曲調へと変化し、「マザー」「コールド・ターキー」「[[真実が欲しい]]」のような曲を発表している。そして、「インスタント・カーマ」のようなロカビリー・ヴォイスが特徴のロックも創作された。
また「[[ラヴ (ジョン・レノンの曲)|ラヴ]]」のような美しいメロディーの曲や、ビートルズ時代の「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「[[ジュリア (ビートルズの曲)|ジュリア]]」のように繊細なメロディーで、かつ個性的な和声進行を示す独特の曲調は、同時期(1967 - 1968年) に原曲が書かれたとされる「[[ジェラス・ガイ]]」へと発展した。
さらにエルトン・ジョンとの「ルーシー・イン・ザ・スカイ~」の間奏部分や、「[[インテューイション]]」(1973)における本格的な[[レゲエ]]の導入へと至った。1980年のインタビューではレゲエのリズムを共演ミュージシャンに説明することを要したとの発言がある<ref name="lastinterview">ジョン・レノンラスト・インタビュー (文庫) ジョン・レノン (著)、John Lennon (著)、オノ・ヨーコ (著)、アンディ・ピーブルズ (著)、Andy Peebles (著)、池澤 夏樹 (著) 中公文庫</ref>。「心の壁、愛の橋」の「[[愛を生き抜こう]]」ではビートルズの「[[ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン]]」の通作形式<ref>ビートルズ音楽論―音楽学的視点から、田村和紀夫著 東京書籍</ref>を踏襲した楽曲構成を行った。
わずか15分で書かれたといわれる「[[ウーマン (ジョン・レノンの曲)|ウーマン]]」は、単純ながら、最終部で半音階上昇など[[カデンツ]](終止形、コード・パターン)にテクニックが使用された楽曲となった。曲の着想はビートルズ時代の「[[ガール (ビートルズの曲)|ガール]]」を発展させたとレノンが1980年のインタビューで述べている<ref name="lastinterview"/>。
=== 編曲・プロデュース ===
「レット・イット・ビー」での[[フィル・スペクター]]によるアレンジを高く評価したレノンは、ビートルズ末期のシングル「インスタント・カーマ」とソロ前期の「ジョンの魂」「イマジン」でスペクターをプロデューサーに起用した。スペクターは、ストリングスや多数の楽器を何層にも重ねた「[[ウォール・オブ・サウンド]]」(Wall of Sound: 音の壁)とも形容される厚い音による編曲で知られている。しかし、両作品ともアレンジはそれとは異なり、レノンの目指すシンプルな音作りがなされた<ref name="lastinterview"/>。
ソロ後期の「マインド・ゲームス」「心の壁、愛の橋」「ロックンロール」、復帰後の「ダブル・ファンタジー」では、セルフ・プロデュース(「ロックンロール」では一部をフィル・スペクターが担当、「ダブル・ファンタジー」は{{仮リンク|ジャック・ダグラス|en|Jack Douglas (record producer)}}、ヨーコが共同プロデュース)により共演者に敬意を払いながらセッションの中でアレンジを組み立てていった<ref name="全曲解説">シンコーミュージック刊: ジョン・レノン全曲解説 ジョニー ローガン (著)、Johnny Rogan (原著)、丸山 京子 (翻訳)</ref>。これが、共演者の敬意を得ていたという多くの発言([[デヴィッド・スピノザ]]、[[トニー・レヴィン]]など)がある<ref>シンコーミュージック刊: ギターマガジン、トニー・レヴィン特集、インタヴュー所収記事</ref>。「マインド・ゲームス」に参加したスピノザによれば、レノンはスタジオミュージシャンを使って基本ラインを録音したあと、レノン自身のギター、[[スライドギター]]などによる音を緻密に重ねてオーケストレーションを造り出し<ref>シンコーミュージック刊: ギターマガジン、ジョンレノン特集、スピノザ・インタヴュー所収記事</ref>、大人向けのロックを創造した<ref>ミュージックマガジン刊: レコードコレクターズ2002 vol.12, No.12, 96ー99[[サエキけんぞう]]</ref>。ビートルズ以来の作曲語法となったベースの[[クリシェ#音楽における用法|クリシェ]]<ref>ビートルズ音楽論―音楽学的視点から、田村和紀夫著</ref>、[[分散和音]]的なアプローチも取り入れている。「心の壁、愛の橋」ではストリングス、ホーンも多用した編曲を行った。
また、[[リバーブレーター|エコー]]を効かせた「インスタント・カーマ」「マザー」「[[愛の不毛]]」「スターティング・オーヴァー」などの作品は、レノン自身が中音域における豊かな声質の再現、[[倍音]]の効果を意識していたことが伺える<ref>ビートルズのつくり方」1994 山下邦彦 著</ref>。
== ポール・マッカートニーとの関係 ==
ビートルズ解散直後の二人の確執はファンやマスコミにも知られていた。解散後しばらくは互いの楽曲中で中傷しあったり<ref group="注釈">『[[ラム (アルバム)|ラム]]』でのマッカートニーのジョンへの皮肉は『イマジン』における『ラム』のパロディー、「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」におけるポールの作品が軽音楽のようだという歌詞、『ウィングス・ワイルド・ライフ』における「ディア・フレンド」がジョンを指すなど。</ref>、ポールがニューヨーク滞在中、ジョンに電話して口論になったりするなど深い確執が存在したが、ビートルズの[[アラン・クレイン]]とのマネージメント問題、アップルレコードの管理など一連の訴訟が解決に向かうなか、1970年代も中ごろになると、ポールが自分のバンド「ウイングス」でアメリカ・ツアーを行った際には時折ジョンのもとを訪れるなど親交を取り戻すようになった。また1974年にはスティーヴィー・ワンダーらとともにジャム・セッションを行い、「[[スタンド・バイ・ミー (ベン・E・キングの曲)|スタンド・バイ・ミー]]」や「[[ルシール (曲)|ルシール]]」などロックンロールのスタンダードを一緒に演奏したテープも残されている。現在では、ポールはビートルズの楽曲を歌う際にジョンのパートを歌ったり、ジョンのソロ曲をカバーするなどしている。
ポールがジョンの家を訪れたある日、テレビ番組のネタで「『サタデー・ナイト・ライヴ』にビートルズを出演させるとしたらいくら払う?」「一流クラスの標準ギャラで3200ドル」という話をした。2人は盛り上がり、「ダウンタウンならすぐ近くだ。これから2人で乗り込もうぜ!」と意気投合し、盛り上がった。実現はしなかったがポールは「昔に戻れたみたいでとても嬉しかった」と述べている。
またジョンは「ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ。他の奴が言うのは許さない」と発言した。ハリー・ニルソンや秘書・メイ・パンにでさえ、ポールの悪口を言うことは許さなかったという。またジョンが殺害された1980年12月8日には、取材にて「人生のうちで2回、すばらしい選択をした。ポールとヨーコだ。それはとてもよい選択だった」<ref>「ジョンレノン 愛の遺言」 (講談社1980年12月8日収録インタヴュー、1981年刊行) </ref>と述べている。
== 他のミュージシャンへの影響 ==
ロック界でもっとも影響力のあったミュージシャンの一人として知られる。ジョンが影響を与えたミュージシャンとして、同僚のポールとジョージ、[[ニール・ヤング]]、70年代に共演したエルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、ハリー・ニルソン、クイーンらが挙げられる<ref>雑誌「ローリングストーン」において。</ref>。ほかにもラズベリーズ、ELO、10cc、デヴィッド・ピールら、影響を受けたミュージシャンは数知れない。
反ビートルズだったパンクスたちもレノンから刺激を受けている。ジョン・ライドンは「労働者階級の英雄」を聴いて「この怒りと悔しさは本物だと生まれて初めて感じた。ピストルズの方向性が決まった」と語っている。同曲をカバーしたグリーンデイのビリー・ジョー・アームストロングはジョンから「真実とは何かを学んだ」と述べている。クラッシュのジョー・ストラマーは「彼が遺したものの一つは、夢見ることを許されなかった人々に扉を開いたことだ。僕らは永遠に新たな天才が登場するたびにあの天才と比較し続けるだろう」と評している。
[[ジャクソン・ブラウン]]はローリングストーン誌によると「彼はつねに真実を語った」と賛辞を送っている<ref>[https://www.rollingstone.com/music/music-lists/100-greatest-singers-of-all-time-147019/]</ref>。U2の代表作の一つ「Sunday Bloody Sunday」はジョンの同名曲にインスパイアされたものである。Nowhere誌の中で、元[[ポリス (バンド)|ポリス]]の[[スティング (ミュージシャン)|スティング]]は「我々のようなロックミュージシャンが何ごとかを言えるのはジョンのおかげである」と語ったと報じている。[[リアム・ギャラガー]]は「もしもジョン・レノンに会えたら舐め回してやる」ほど好きだと述べている。
1995年発売のジョン・レノンのトリビュート・アルバム『[[労働階級の英雄|Working Class Hero]]』のライナーノーツはTimes誌の記事を紹介し、「聞き手と非常に親密で個人的な関係を築く希有なミュージシャン」「複雑なリズム、コード進行によってロックの限界を拡張し、その発展に貢献した」と評した。また、ヴォーカルの二重録音にヒントを得た[[エフェクター]]の一種の[[フランジャー]]開発への貢献、ボーカルの電気処理を導入したことでも知られる。
== 日本との関わり ==
1966年の[[ビートルズ]]としての初訪日以降も、[[オノ・ヨーコ|ヨーコ]]と頻繁に訪日した。アルバム『[[ジョンの魂]]』発表直後の1971年1月13日から21日に訪日した際、同作品への俳句の影響を示唆し、日本語で「しぶいアルバム」と表現している<ref>シンコーミュッジック刊、1972年 ビートルズの軌跡所収、水原健二インタヴュー、1971 (昭和46) 年1月21日、372p</ref>。
=== 軽井沢 ===
音楽活動休止中の1977年から1979年には、ヨーコ、[[ショーン・レノン|ショーン]]と毎夏訪日し、[[小野英二郎|小野家]]の別荘があった[[長野県]][[軽井沢町|軽井沢]]を中心に過ごし、東京や京都、箱根などにも足を運んだ(合計約9か月(うち6ヶ月近くが軽井沢))<ref>[https://www.sonymusic.co.jp/artist/yokoono/info/525780 ジョンとヨーコの「日本との関わり」] ソニーミュージック</ref>。
軽井沢滞在中における、[[サイクリング]]姿や、行きつけの[[ベーカリー]]や[[カフェ]]や付近の景勝地に立ち寄った様子などは、プライベート写真として多く残されており、なかには森の中でギターの[[弾き語り]]をする様子まで収められている。これらの写真の多くは、当時レノン一家のプライベート・アシスタントであった写真家の[[西丸文也]]によるものであった。
古くから数多くの外国人や著名人を滞在客として迎え入れてきた軽井沢では、町でレノン一家を見かけるのもごく日常的な光景として受け入れられ、干渉されることもなかったため、その心地よい空間は彼らに安息を与えた。ジョン自身、その気候風土から軽井沢を故郷の英国[[リヴァプール]]郊外と重ね合わせていたようで<ref>[https://www.tfm.co.jp/yes/smartphone/?id=44 第四十二話『ジョン・レノンからもらったyes!』] TokyoFM</ref>、滞在中「この辺りに土地を買い軽井沢で暮らしたい」とも口にしていたという<ref>[https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=Lsqec_6LBc4 ジョン・レノンが愛した「軽井沢」] WATCHY×BSフジ ESPRIT JAPON</ref>。[[万平ホテル]]の旧館2階にも宿泊し、ホテル併設のカフェにはジョン直伝の[[ロイヤルミルクティー]]があり、ホテル内の記念館にはジョンのサインを始め、欲しがったといわれるピアノなどが収められている<ref group="注釈">[[ニューヨーク]]で[[日本語]]を学んでいた際に、ジョンが使用していたノートは、[[Ai 〜 ジョン・レノンが見た日本]](ちくま文庫・2001年)として出版された。</ref>。
ジョンが[[エルヴィス・プレスリー]]の訃報を知ったのも、軽井沢に滞在中のことであった。そのとき各国メディアの特派員が軽井沢に飛び、レノン夫妻を訪ねたが、2人は「コメントが流れることで日本での楽しい生活が壊される恐れがある」として言及を避けたと、当時の[[サンケイスポーツ]]は紙面で報じている<ref group="注釈">その後、東京の[[ホテルオークラ]]で公式に会見を開き、プレスリーの死について言及している。</ref><ref>サンケイスポーツ1977年10月5日</ref>。
=== 交友関係 ===
[[日本人]]の知己としては、ビートルズとして訪日時にともにインタビューを受けた[[加山雄三]](初対面で、いきなりジョンが加山の後ろから目隠しをして加山を驚かせた)、ニューヨークのジョン夫妻のもとで過ごした時期のある[[横尾忠則]]<ref name="別冊文藝"/>、訪日時に食事をともにした[[内田裕也]]・[[樹木希林]]夫妻、[[シンコーミュージック・エンタテイメント|シンコーミュージック]](当時)の[[星加ルミ子]]らが挙げられる。また、[[音楽評論家]]の[[湯川れい子]]とジョン夫妻の交流は広く知られ、1980年12月5日にも、[[FM東京]]のラジオインタビューを受けている<ref>ミュージックマガジン、ジョンレノンを抱きしめて、1981年、2000年復刊所収</ref>。[[写真家]]の[[篠山紀信]]は、アルバム『[[ダブル・ファンタジー]]』『[[ミルク・アンド・ハニー]]』のカバー写真を撮影している。なお、ビートルズ訪日時にメンバー全員と[[すき焼き]]を食べたエピソードで知られる加山雄三は、オノ・ヨーコを通じてジョンと遠い親戚であることが後に判明している。
また、古美術商・[[木村東介]]の誘いで夫妻で[[歌舞伎]][[隅田川物|隅田川]]を観劇し、終幕で感涙したというエピソードもある。その際に[[歌舞伎役者]][[中村歌右衛門 (6代目)|中村歌右衛門]]の楽屋を訪れたことが縁となり、ジョンは1975年に行われた歌右衛門の英国公演を支援している<ref name="別冊文藝">河出書房新社刊 別冊文藝 ジョンレノン所収</ref>。
=== 売り上げ ===
日本での売り上げで、シングルでは「マザー」「イマジン」「スターティング・オーヴァー」「ラヴ」が上位を占める。アルバムは「イマジン」のほかもオリコン総合チャートで「ジョンの魂」が5位、「マインド・ゲームズ」が6位、「ダブル・ファンタジー」が2位(単日では1位)、「ミルク・アンド・ハニー」が3位と洋楽アーティストの中でも有数の人気を誇っている。シングルとアルバムの合計で、オリコン誌では210万枚以上に達している。
== 死亡事件 ==
{{main|ジョン・レノンの殺害}}
1980年12月8日の午前中、自宅アパートの[[ダコタ・ハウス]]でジョンは[[アニー・リーボヴィッツ]]による「[[ローリング・ストーン]]」掲載用写真のフォトセッションに臨んだ。11月に発売されたニューアルバム『ダブル・ファンタジー』では、[[整髪料]]をまったくつけない[[マッシュルームカット]]の[[ヘアスタイル]]にトレードマークの眼鏡を外し、ビートルズ全盛期のころのように若返った姿が話題を呼んだが、この日のジョンはさらに短く髪をカットし、[[グリース]]で[[リーゼント]]風に整え、眼鏡を外して撮影に臨んだ。その姿はデビュー前、[[ハンブルク]]時代を彷彿とさせるものであった(10月ごろには伯母ミミに電話で、「学生のころのネクタイを出しておいてよ」と頼んでいる)。
[[ファイル:Lennon apartment.jpg|thumb|250px|レノンの自宅のあったダコタ・ハウス]]
フォトセッションを終えてしばらく自宅でくつろいだあと、17時にはヨーコの新曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミックスダウン作業のため、ジョンはニューヨーク市内にあるレコーディングスタジオ「[[ザ・ヒット・ファクトリー]]」へ出かけた。
一方、レノン夫妻は「ザ・ヒット・ファクトリー」にてラジオ番組のインタビューを受ける。この最期のインタビューで、ジョンは新作や近況についてや、クオリーメン時代のこと、ポールやジョージとの出会いについて語っている。そして、「死ぬならヨーコより先に死にたい」「死ぬまではこの仕事を続けたい」などと発言をしている<ref group="注釈">このインタヴューの一部は2001年にリリースされたアルバム『ミルク・アンド・ハニー』のリマスター盤に収録されている。</ref>。
22時50分、スタジオ作業を終えたジョンとヨーコの乗った[[リムジン]]がアパートの前に到着した<ref name="Badman">{{Cite book |last=Badman |first=Keith |title=The Beatles After the Breakup 1970-2000: A Day-by-Day Diary |publisher=[[:en:Omnibus Press|Omnibus Press]] |year=2001 | pages= 270-272 | isbn=978-0-7119-8307-6}}</ref>。2人が車から降りたとき、その場に待ち構えていた[[マーク・チャップマン]]が暗闇から「レノンさんですか?(Mr Lennon?)」と呼び止めると同時に拳銃を両手で構え5発を発射、4発がジョンの胸、背中、腕に命中し<ref name="newsweek20201208" />、彼は「撃たれた!(I'm shot!)」と2度叫び<ref>{{cite web|url=https://www.dailymail.co.uk/news/article-1335479/Was-John-Lennons-murderer-Mark-Chapman-CIA-hitman-Thirty-years-theres-extraordinary-new-theory.html |title=Was John Lennon's murderer Mark Chapman a CIA hitman? Thirty years on, there's an extraordinary new theory |publisher=Daily Mail |date=4 December 2010 |accessdate=4 December 2011}}</ref>アパートの入り口に数歩進んで倒れた。警備員は直ちに911番に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分で到着した。
警官の到着時、ジョンはまだかすかに[[意識]]があったが、一刻を争う危険な状態であった。そのため、2人の警官が彼を[[パトロールカー|パトカー]]の後部に乗せ、近くの{{仮リンク|ルーズヴェルト病院|en|St. Luke's-Roosevelt Hospital Center}}に搬送した。1人の警官が瀕死のジョンの意識を保たせるため質問すると、声にならない声で「俺はジョン・レノンだ。背中が痛い」と述べたが声は次第に弱まっていった。病院到着後、医師は[[心臓マッサージ]]と[[輸血]]を行ったが、ジョンは全身の8割の[[血液]]を失い、[[ショック|失血性ショック]]によりルーズヴェルト病院で23時すぎに死亡した<ref name="newsweek20201208" />。満40歳没([[享年]]41)。ジョンの死亡時に病院の[[タンノイ|タンノイ・スピーカー]]から流れていた曲はビートルズの「[[オール・マイ・ラヴィング]]」だったという。
事件後、チャップマンは現場から逃走せず、手にしていた「ダブル・ファンタジー」を放り出し、警官が到着するまで『[[ライ麦畑でつかまえて]]』を読んだり、歩道をあちこちそわそわしながら歩いたりしていた。彼は[[逮捕]]時にも抵抗せず、"I just shot John Lennon."(ええ、僕がジョン・レノンを撃ったんです)と自分の単独犯行であることを警官に伝えた。被害者がジョンであることを知った警官が、「お前は自分が何をしでかしたのか分かっているのか?」と聞いたときには、「悪かった。君たちの友達だっていうことは知らなかったんだ」<!--事も無げに (「ジョン・レノンを撃っただけさ」) -->と答えた<ref>Albert Goldman, ''The Lives of John Lennon'', Chicago Review Press, 2001 (1988), p. 687.</ref>。
病院でジョンの死を伝えられたヨーコは「彼は眠ってるっていう事?」と質問したという<ref>Albert Goldman, ''The Lives of John Lennon'', Chicago Review Press, 2001 (1988), p. 688.</ref><!--泣き叫んだという-->。のちに病院で記者会見が行われ、スティーヴン・リン医師はジョンが死亡したことを確認し、「蘇生のために懸命な努力をしたが、輸血および多くの処置にもかかわらず、彼を蘇生させる事はできなかった」と語った。
ジョンの殺害に関して、彼の反戦運動やその影響力を嫌った「[[中央情報局|CIA]]関与説」などの[[陰謀説]]も推測されたが、公式には単独犯行と断定されている。ニューヨーク州法に基づいてチャップマンに[[仮釈放]]があり得る[[無期刑]]が下った。チャップマンは服役開始から20年経過した2000年から2020年に至るまで2年ごとに仮釈放審査を受けたが、本人の精神に更生や反省が見られないこと、妻子への再犯の確率が高いこと、ジョンの遺族が釈放に強く反対していること、もし釈放されたらジョンのファンに報復で殺害される危険性があるとして仮釈放申請を却下され、2023年現在も服役中である。
[[ファイル:John Lennon new york.JPG|thumb|left|250px|ダコタ・ハウスからすぐの[[セントラルパーク]]にあるジョンを偲ぶ「イマジンの碑」]]
この事件は、元ビートルズの3人にも大きなショックを与えた。[[イギリス]]、[[サセックス]]の農家に滞在中の[[ポール・マッカートニー]]は「ジョンは偉大だった」と一言述べた後絶句<ref>『20世紀全記録 クロニック』[[小松左京]]、[[堺屋太一]]、[[立花隆]]企画委員。[[講談社]]、1987年9月21日、p1163。</ref>。[[カナダ]]に滞在中だったリンゴはのちに妻となる女優の[[バーバラ・バック]]とともにニューヨークに飛び、ヨーコとショーンを見舞った。ロキシー・ミュージックのブライアン・フェリーは「ジェラス・ガイ」を、ポール・マッカートニーは「[[ヒア・トゥデイ_(ポール・マッカートニーの曲)|ヒア・トゥデイ]]」を、ジョージ・ハリスンは「[[過ぎ去りし日々]]」(ポール、妻[[リンダ・マッカートニー|リンダ]]、[[デニー・レイン]]、[[ジョージ・マーティン]]がバック・コーラスで、リンゴがドラムで参加)をジョンの追悼曲としてそれぞれ発表した。
また世界中のミュージシャンたちもこの事件にショックを受けた。ビートルズと人気を二分した[[ザ・ローリング・ストーンズ]]のギタリスト、[[キース・リチャーズ]]も憤りを隠せなかった。音楽メディアはビートルズとストーンズをライバルと報道したが、実際には曲を提供したり、『ロックンロール・サーカス』で共演するなど、旧友だった。キースの怒りと悲しみは、多くのロック・ファンの心情を代弁していた。
日本では[[ザ・ビートルズ・クラブ|ビートルズ・シネ・クラブ]]にファンからの電話が殺到し、12月24日、同クラブ主催の追悼集会が[[日比谷野外音楽堂]]で行われた<ref>{{Cite web|和書|title=ジョン・レノンの追悼集会(東京・千代田区の日比谷…:ジョン・レノン 写真特集 |url=https://www.jiji.com/jc/d4?p=joh100-jlp01119342&d=d4_topics |website=[[時事通信|時事ドットコム]] |publisher=[[時事通信社]] |accessdate=2021-01-13 }}</ref>。ステージには「心の壁、愛の橋」のフォト・セッションで撮られたジョンの写真が大きく掲げられ、集会後、参加者がキャンドル片手に街を行進した。その後も節目ごとに追悼イベントが行われている。{{-}}
== ディスコグラフィ ==
{{Main|ジョン・レノンの作品}}
=== シングル ===
* [[平和を我等に]] Give Peace A Chance(1969)
* [[コールド・ターキー]] Cold Turkey(1969)
* [[インスタント・カーマ]] Instant Karma (We All Shine On)(1970)
* [[マザー (ジョン・レノンの曲)|マザー]] Mother(1970)
* [[パワー・トゥ・ザ・ピープル]] Power To The People(1971)
* [[イマジン (ジョン・レノンの曲)|イマジン]] Imagine(1971)
* [[ハッピー・クリスマス(戦争は終った)]] Happy Xmas(1971)
* [[女は世界の奴隷か!]] Woman Is The Nigger Of The World(1972)
* [[マインド・ゲームス]] Mind Games(1973)
* [[真夜中を突っ走れ]] Whatever Gets You Thru The Night(1974)
* [[夢の夢]] #9 Dream(1974)
* [[スタンド・バイ・ミー (ベン・E・キングの曲)|スタンド・バイ・ミー]] Stand By Me(1975)
* [[スターティング・オーヴァー]] (Just Like) Starting Over(1980)
* [[ウーマン|ウーマン_(ジョン・レノンの曲)]] Woman(1981)
* [[ウォッチング・ザ・ホイールズ]] Watching The Wheels(1981)
* [[ノーバディ・トールド・ミー]] Nobody Told Me(1984)
* [[ボロード・タイム]] Borrowed Time(1984)
* [[アイム・ステッピング・アウト]] I'm Stepping Out(1984)
* エヴリ・マン・ハズ・ア・ウーマン・フー・ラヴズ・ヒム [[:en:Every Man Has A Woman Who Loves Him|Every Man Has A Woman Who Loves Him]](1984)
=== オリジナル・アルバム ===
* [[トゥー・ヴァージンズ|未完成作品第1番 トゥー・ヴァージンズ]] - ''[[:en:Unfinished Music No. 1: Two Virgins|Unfinished Music No. 1: Two Virgins]]''(1968)
* 未完成作品第2番 ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ - ''[[:en:Unfinished Music No. 2: Life With The Lions|Unfinished Music No. 2: Life With The Lions]]''(1969)
* [[ウェディング・アルバム]] - ''[[:en:Wedding Album|Wedding Album]]''(1969)
* [[ジョンの魂]] - ''[[:en:John Lennon/Plastic Ono Band|John Lennon/Plastic Ono Band]]''(1970)
* [[イマジン (アルバム)|イマジン]] - ''[[:en:Imagine (John Lennon album)|Imagine]]''(1971)
* [[サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ]] - ''[[:en:Some Time in New York City|Sometime In New York City]] (with Yoko Ono)''(1972)
* [[マインド・ゲームス]] - ''[[:en:Mind Games (John Lennon album)|Mind Games]]''(1973)「邦題:ヌートピア宣言」
* [[心の壁、愛の橋]] - ''[[:en:Walls and Bridges|Walls And Bridges]]''(1974)
* [[ロックン・ロール (ジョン・レノンのアルバム)|ロックン・ロール]] - ''[[:en:Rock 'n' Roll (John Lennon album)|Rock 'n' Roll]]''(1975)
* [[ダブル・ファンタジー]] - ''[[:en:Double Fantasy|Double Fantasy]] (with Yoko Ono)''(1980)
* [[ミルク・アンド・ハニー]] - ''[[:en:Milk and Honey (album)|Milk And Honey]] (with Yoko Ono)''(1984)
== 映像作品 ==
=== フィクション ===
* [[ジョン・レノンの 僕の戦争]] - ''How I Won The War''(1967年)
=== 音楽ビデオ・クリップ集 ===
* {{仮リンク|ジョン・レノン・ビデオ・コレクション|en|Lennon Legend: The Very Best of John Lennon (DVD)}} - ''THE JOHN LENNON VIDEO COLLECTION''
* [[レノン・レジェンド]] - ''LENNON LEGEND''(2003年)
=== ライヴ演奏 ===
* [[スウィート・トロント]] - ''[[:en:Sweet Toronto|SWEET TORONTO]]''
* [[ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ|ジョン・レノン・ライヴ]] - ''LIVE IN NEW YORK CITY''(1986年)
* ワン・トゥ・ワン - ''ONE TO ONE''
=== ドキュメンタリー・記録 ===
* [[イマジン (映画)|イマジンージョン・レノンー]] - ''[[:en:Imagine: John Lennon|IMAGINE: JOHN LENNON]]''(1988年)
* ザ・ビートルズ・アンド・ビヨンド - ''THE BEATLES AND BEYOND''
* [[ギミ・サム・トゥルース]] - ''GIMME SOME TRUTH''(2000年)
* JOHN&YOKO ザ・ディック・キャベット・ショー
* ジョン&ヨーコ イン マイク・ダグラス ショー - ''The Mike Douglas Show with John Lennon & Yoko Ono''
* ジョン・レノン&オノ・ヨーコ イヤー・オブ・ピース (2002年)
* [[PEACE BED アメリカVSジョン・レノン]] - ''[[:en:The U.S. vs. John Lennon|THE U.S. VS JOHN LENNON]]''(2006年)
* {{仮リンク|クラシック・アルバムズ|en|classic Albums}} [[メイキング・オブ・『ジョンの魂』]] - (2008年)
* {{仮リンク|ジョン・レノン,ニューヨーク|en|LennoNYC}}(2010年)
* ジョン・レノン~音楽で世界を変えた男の真実~ - ''Looking for Lennon''(2018年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://lookingforlennon.jp/|title=JOHN LENNON 音楽で世界を変えた男の真実|publisher=lookingforlennon.jp|date=|accessdate=2022-12-10}}</ref>
=== ジョン・レノンを題材とした作品 ===
; 映画
* 『[[僕たちの時間]]』(1991年)
* 『[[バック・ビート]]』(1994年)
* 『[[ジョン・レノン/青春のビートルズ]]』(2000年)
* 『{{仮リンク|ジョン・レノンを撃った男|en|The Killing of John Lennon}}』(2007年)
* 『[[チャプター27]]』(2007年)
* 『[[ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ]]』(2009年)
; テレビドラマ
* 『[[ジョン・レノンの魂〜アーティストへの脱皮 苦悩の時代〜]]』([[:en:Lennon Naked|Lennon Naked]])(2010年)
== 書籍 ==
=== 自著 ===
* 『[[絵本ジョン・レノンセンス]]』 [[片岡義男]]、加藤直訳 [[晶文社]] 1975年12月 のち筑摩書房(ちくま文庫)2011年 のち晶文社 新版 2013年11月 - ''[[:en:In His Own Write|In His Own Write]]''(1964年)
* 『[[らりるれレノン ジョン・レノン・ナンセンス作品集]]』 [[佐藤良明]]訳 [[筑摩書房]] 2002年12月 - ''[[:en:A Spaniard in the Works|A Spaniard in the Works]]''(1965年)
* 『[[空に書く ジョン・レノン自伝&作品集]]』森田義信訳 [[筑摩書房]] 2002年12月 - ''[[:en:Skywriting by Word of Mouth|Skywriting by Word of Mouth]]''(1986年)
* 『Ai ジョン・レノンが見た日本』(序:[[オノ・ヨーコ]])筑摩書房([[ちくま文庫]])2001年12月 - ''Ai: Japan Through John Lennon's Eyes: A Personal Sketchbook''(1992年)
* 『リアル・ラヴ ショーンのために描いた絵』(序:オノ・ヨーコ)[[徳間書店]] 2000年5月 - ''Real Love: The Drawings for Sean''(1999年)
* 『[[ザ・ビートルズ・アンソロジー]]』ザ・ビートルズ・クラブ、[[島田陽子]]訳 [[リットーミュージック]] 2000年9月 - ''The Beatles Anthology''(2000年)
=== インタビュー ===
* ヤーン・ウェナー著 [[片岡義男]]訳『ビートルズ革命』 [[草思社]] 1972年4月<br> のち改題『回想するジョン・レノン : ジョン・レノンの告白』新版 1974年6月<br> のち改題『レノン・リメンバーズ』(序:[[オノ・ヨーコ]])同社 2001年7月<br> - ''Lennon Remembers: The Full Rolling Stone Interviews from 1970''(2000年)
* アンディ・ピーブルズ著 [[北山修]]訳『All that John Lennon』[[中央公論新社]] 1981年2月<br> のち改題文庫版『ジョン・レノン ラスト・インタビュー』同社([[中公文庫]])2001年11月<br> - ''Lennon Tapes Paperback''(1981年)
* 『ジョン・レノン PLAYBOYインタビュー』[[PLAYBOY]]編集部編 [[集英社]] 1981年3月<br> のち全貌版 デービッド・シェフ著 [[石田泰子]]訳『ジョンとヨーコ ラストインタビュー : Love & peace』同社 1990年11月<br> - ''The Playboy Interviews With John Lennon and Yoko Ono''(1981年)
* 『ジョン・レノン 音楽と思想を語る 精選インタビュー1964-1980』 [[ジェフ・バーガー]]編 [[DU BOOKS]] 2018年3月<br> ''Lennon on Lennon: Conversations with John Lennon''(2016年)
=== 第三者による伝記 ===
* [[シンシア・レノン]]著 江口大行、シャーロット・デューク共訳『素顔のジョン・レノン : 瓦解へのプレリュード』 [[シンコーミュージック・エンタテイメント]] 1981年4月<br> - ''A Twist of Lennon''(1980年)
* レイ・コールマン著 岡山徹訳『ジョン・レノン』 [[音楽之友社]] 1986年8月<br> - ''John Winston Lennon Volume 1 1940-66''(1984年)
* トニー・ブラッドマン著 坂本真理訳『ジョン・レノン : 愛こそはすべて』(解説:[[片岡義男]])佑学社 1987年11月
* ケヴィン・ホウレット、マーク・ルイソン著 [[中江昌彦]]訳 『ジョン・レノン IN MY LIFE』 [[日本放送出版協会]] 1991年11月
* マイケル・ホワイト著 [[乾侑美子]]訳『ジョン・レノン 』 [[偕成社]](伝記 世界の作曲家12)1999年4月
* レイ・コールマン著 岡山徹訳『ジョン・レノン』 音楽之友社 2002年5月
*: - ''Lennon: The Definitive Biography : Anniversary Edition''(2000年)
* ジェフリー・ジュリアーノ著 遠藤梓訳『ジョン・レノン : アメリカでの日々』 [[WAVE出版]] 2003年11月
*: - ''Lennon in America: 1971-1980, Based in Part on the Lost Lennon Diaries''(2001年)
* [[シンシア・レノン]]著 吉野由樹訳『ジョン・レノンに恋して』 [[河出書房新社]] 2007年3月<br> - ''JOHN''(2005年)
* [[メイ・パン]]著 山川真理訳『ジョン・レノン ロスト・ウィークエンド *: 『Instamatic Karma』 [[河出書房新社]] 2008年11月
* ジョナサン・コット著 [[栩木玲子]]訳『忘れがたき日々 : ジョン・レノン、オノ・ヨーコと過ごして』 [[岩波書店]] 2015年12月
== 主な使用楽器 ==
=== アコースティック・ギター ===
; [[ギブソン・J-200]]
: アルバム『[[ザ・ビートルズ (アルバム)|ザ・ビートルズ]]』の[[レコーディング]]・セッションからメインに使われた。ジョージも使用しており、ジョージが所有していたものを借りたという説があるが、ジョンとジョージがこのギターを同時に持っている写真が確認されている。
; [[フラマス]]・[[12弦ギター]]
: 映画『[[ヘルプ!4人はアイドル]]』の「[[悲しみはぶっとばせ]]」演奏シーンにも登場したギター。
; [[マーティン D-28|マーティン・D-28]]
: 2台の所有が写真で確認され、1台目はポールと同時期のもので67年製、もう1台は解散後に入手したものであろう1950年代中期から後期のものである。
=== エレクトリック・ギター ===
; [[カール・ヘフナー|ヘフナー]]・クラブ40(Hofner Club40)
: ジョンが初めて入手したエレキギター。1959年製。ショートスケール。1959年にジョンが伯母のミミと一緒にリバプールのフランク・ヘッシー楽器店に行き、分割払いで購入した。2台目のリッケンバッカー・325を手に入れると、ジョンはクラブ40をしばらくポールに貸したあとに売却した。
; [[リッケンバッカー・325]](Rickenbacker 325)(1本目)
: ジョンが初めて入手したリッケンバッカー。1958年製。ショートスケール。元々、購入当時はナチュラルカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「メイプル・グロー」)で、コフマン・ヴァイブローラがつけられていた(のちにビグスビーB5・トレモロユニットに交換)。[[トゥーツ・シールマンス]]をハンブルク巡業で見て影響されて購入した。1962年後半にはブラックの塗装を施し、1964年までメインギターとして使用。その後2本目のリッケンバッカー・325に移行してから、一度も表舞台へ出ることがなかったため、「[[エド・サリヴァン・ショー]]」の収録現場で盗難にあったとの説が長い間語られていた。しかし近年になり、ジョンが保管し続けていたことが判明。1970年代初頭にブラックから、元のナチュラル塗装へ戻すリペアが施されていた。ピックガードもオリジナルは1964年時点ですでに割れが生じていたためか、白い[[アクリル樹脂|アクリル]]製のものに交換されていた。この状態で、2000年10月9日から2010年9月30日まで、[[さいたまスーパーアリーナ]]内に存在したジョン・レノン・ミュージアムにて展示されていた。
: また、2002年にはリッケンバッカー社からジョンが購入当時の仕様を再現した「リッケンバッカー325C58」(Cシリーズ)が発売された。当時の仕様を再現するため、日本でビートルズ使用楽器をおもに扱っているギター・ショップ「with」でリペアを担当する大金直樹に依頼。大金がジョン・レノン・ミュージアムに何度か通い、その調査のメモを参考に再現された。現在は生産終了となっている。
; リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(2本目)
: 2本目のリッケンバッカー。1964年の初訪米の際に入手。当初はジョージの360-12と同様、赤色系のぼかし(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「ファイア・グロー」)だったが、ジョンがブラック(ジェット・グロー)を希望したため、急いでリフィニッシュされた後、マイアミでの「エド・サリヴァン・ショー」出演時より使用。1本目の325よりもボディは薄くなっており、台形のブリッジにトレモロアームがついているなど、細かい点で仕様が異なる。ネックは、3ピース・メープル・ネック。1964年のクリスマスショーの最中にジョンが落としてしまい、ネックが破損する。1965年いっぱいまでメインギターとして使用された。1967年の「サージェント・ペパーズ〜」レコーディングセッション中にスタジオ内に置かれている写真が残されているものの、実際に使用されたかどうかは不明。
: 1本目のリッケンバッカー・325とともに、ジョン・レノン・ミュージアムに展示されていた。裏から見ると、ネック裏の傷がはっきり見て取れる。また、ビートルズの1965年のイギリス公演のセットリスト(曲名は略記してある)が書かれた小さな紙が、向かって左の[[カッタウェイ]]側面にテープで貼られたままになっている。
; リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(3本目)
: 1965年、ポール・マッカートニーに贈られた[[リッケンバッカー・4001|4001]]ベースと同時に、リッケンバッカー社よりイギリス代理店のローズ・モーリス社を通じて提供されたもの。当時のヨーロッパ市場での市販品で、欧州でのモデル名は1996となっている。仕様は基本的に2本目に準じるが、カラーが4001ベースやジョージ・ハリスンの360-12と同じファイア・グロー(チェリー・サンバースト)で、ボディの左側にfホールが開けられている。1965年のイギリス公演で2本目と併用された。使われなくなった1966年以降、リンゴ・スターに譲渡された。
; リッケンバッカー・325-12(Rickenbacker 325-12)
: ジョンが、リッケンバッカー社に特注した、325の12弦タイプ。1964年製ブラックカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「ジェット・グロー」。
: 本来、325など末尾に5がつくモデルはトレモロ・アームつきだが、このギターが製作された時期はまだそれが徹底されておらず、このギターもアームがついていないにもかかわらず325-12となっている。1964年より、末尾に5がつくモデルはアームつきであることが徹底されたため、320-12と改番された。
: 現在はオノ・ヨーコが所有。
; [[ギブソン・J-160E]](1本目)
: 1962年9月にジョージと一緒に購入した[[エレクトリック・ギター]]。ボディ・カラーはサンバースト。ボディ・シェイプは[[ギブソン・J-45|J-45]]と同じだが、ネックのジョイント位置が異なり、ボディ内部の構造も異なる。J-45がXブレイシングに対してJ-160Eがラダーブレイシングとなる。ヘッドシェイブは大型でインレイも入りJ-45とはまったく違う、糸巻きもJ-45が三連に対し独立型になる、糸巻のツマミ部分もコブが2つあるタイプ。
: ボディ・トップはハウリング防止のため、合板を使用している。そのため生音で鳴らした場合、通常の[[アコースティック・ギター]]より鳴りが抑えられ音量も小さいが、J-160Eでしか出せない独特の生音であり、ビートルズ・サウンドの大きな要素となっている。
<!-- 使用していた弦も通常のアコーステイック用の弦ではなく3弦が巻き弦のエレキ用の弦を使用する、これも独特な生音を生む要因であろう。映画HELPでは6弦だけがアコギ用の弦が張られているのが野外演奏の場面で確認できる、予備の弦がロケ地に無かったのであろうか? この記述は検討を要す。-->
: カヴァーのない[[P-90 (ピックアップ)|P-90]]ピック・アップがフィンガーボードの付け根の所に付けられており、そこから音を拾って[[アンプ (楽器用)|アンプ]]などへ出力する。この音もまた初期ビートルズ・サウンドを生み出している要素である。1963年末に紛失。当時は盗難説と破損説があり、ジョンは盗まれたと発言していたが、ジョージは「運搬中の[[貨物自動車|トラック]]の荷台からケースごと落下しバラバラになった」と発言していた。実際には盗難されており、カリフォルニア州在住の男性が中古店に転売されていたジョンのギターを購入していた。2015年にこのギターはアメリカで発見され、ビートルズ専門家の鑑定の結果、ジョンの使用していた現物であると正式に認定され、その後オークションにかけられ、約3億円という価格で落札された。最近の調査で、現在ジョージの遺族が保管するジョージのJ-160Eは、元々購入時にはジョンのものであったことがシリアル・ナンバーから判明した。この2本はまったく同じ仕様であったため、いつの間にか互いのギターを取り違えて使っていたようである。
; ギブソン・J-160E(2本目)
: 2本目のJ-160Eは1本目とは若干仕様が異なる。大きな違いはサウンドホール周りのリング、1台目がワンリングに対して2台目はツーリング、ブリッジも1台目が木製に対して2台目が黒いプラスチック製になる。
: ジョンが生涯愛したギターである。1966年にはピック・アップがサウンド・ホール後方に移設される。1967年には波形のサイケデリック・ペイントが施されるが、1968年にはエピフォン・カジノらとともに塗装を剥がされ、ピック・アップの位置も復元される。ピック・ガードも形状の異なる新たなものが取りつけられた。1969年のベッド・インのときには、ボディにジョンとヨーコの似顔絵イラストが描かれていた。「ジョン・レノン・ミュージアム」にそのときの状態の[[レプリカ]]が展示されていた。実物はアメリカ・[[オハイオ州]][[クリーヴランド]]にある[[ロックの殿堂]]に展示されている。
; [[フェンダー・ストラトキャスター]]
: ボディ・カラーは、ソニック・ブルー。主に『[[ラバー・ソウル]]』のレコーディング・セッションで、ヴォックスAC30に繋いで使用。映画『イマジン』など、アルバム『イマジン』制作風景を納めたフィルムにおいて、ジョージ・ハリスンが使用している、ネックを50年代製のメイプル・フィンガーボードのものに交換されたモデル(さらにリフィニッシュして「コンサート・フォー・バングラデシュ」で使用)のボディとアッセンブリが、それと同一品とする説がある。1980年のフォト・セッションで、当時の新品であった赤いザ・ストラトを弾いているものがある。
; [[エピフォン・カジノ]]
: 以前から同器を使用していたポール・マッカートニーに勧められ、ジョージ・ハリスンとともに1965年に購入。ジョージのカジノとは色合いや仕様(トレモロアームの有無など)で若干の違いがある。同年の「ラバー・ソウル」セッションにおいて使い始め1966年からはジョージと共にコンサートでのメインギターとしても使用。日本公演でも使用した。
: 元々のボディ・カラーは黄色味がかったサンバーストであったが、1967年の「サージェント・ペパーズ〜」レコーディングセッション中に、ボディ裏面を白くスプレーしている。同年の「愛こそはすべて」の衛星中継リハーサルにて、ジョージがこのギターを借りて使用している(本番では自身のストラトキャスターを使用)。翌1968年の「ヘイ・ブルドッグ」レコーディング直後にボディのサンバースト塗装をはがして木の地肌を露出させたナチュラル仕上げにする。このころビートルズのメンバーは、ギターの塗装をはがすことによる音質の変化に期待していたようで、ジョージ・ハリスンのカジノとポール・マッカートニーのリッケンバッカー4001Sも塗装をはがしナチュラル仕上げを施している。同時に、リアピックアップのヴォリューム・ノブを、標準のゴールドからブラックに差し替えた。その後、1971年の「イマジン」レコーディング・セッションまで使用。その後、コレクションとして大切に保管していた。
: ブリッジ・サドルは現行の仕様とは異なり、プラスティック樹脂を使用している。そのため、音が若干柔らかめになっている。
: ジョン・レノン・ミュージアムに、ブラックノブとともに展示されていた。
; [[ギブソン・レスポール|ギブソン・レスポール・ジュニア]]
: 1971年、ニューヨークに移住してから入手。当時ジョンは、[[ボブ・マーリー]]をはじめとしたレゲエに心酔しており、マーリーが同じモデルを使用していたため、それにならって入手したという。ギブソンJ-160Eやエピフォン・カジノと同じくP-90ピック・アップを搭載しており、ジョンのギター・サウンドにおける指向が窺える。フロントに、ギブソンES-150用のオールドタイプのピック・アップ(通称チャーリー・クリスチャンPU)を追加、PUセレクターの増設、ブリッジとテイルピースの交換を施し、より実用性を高めている。カラーは、当初サンバーストだったが、チェリー・レッドにリフィニッシュされた。アルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』レコーディングや、1972年のTV番組『マイク・ダグラス・ショー』出演時に使用されたが、1972年8月30日にニューヨークの[[マディソン・スクエア・ガーデン]]で行われたチャリティ・コンサート「ワン・トゥ・ワン」での使用がもっとも有名。
: ジョン・レノン・ミュージアムに展示されていた。
: また、実物を再現したシグネイチャー・モデルが発売されており、[[福山雅治]]や[[ASIAN KUNG-FU GENERATION]]の後藤正文らが愛用している。
=== アンプ ===
; [[ヴォックス (楽器メーカー)|ヴォックス]]・AC30(VOX AC30)
: ビートルズ・デビュー前から初期まで(中期では[[フェンダー (楽器メーカー)|フェンダー]]などのアンプと併用)のレコーディングにおいてもっともよく使用されたアンプ。[[真空管]]を使用しているため独特な粘りのあるサウンドで、個々のギターの特徴と混じり合って音を出す。なおライヴでも使用されることはあったが出力が低いため、当時のSR(PA)システムでは巨大な会場でのライヴには向かなかった。
; ヴォックス・AC50(VOX AC50)
; ヴォックス・スーパー・ビートル(VOX SUPER BEATLE、VOX AC100、VOX AC200)
: ライブにおいて観客からほとんど音が聞こえない状況を打開するため、出力の低いAC30などのアンプに代わって、ヴォックス社よりビートルズのライヴのために開発・提供された大型で高出力のスタックアンプ。100Wのものと200Wのものがあり真空管を使用し粘りのあるサウンド。ヴォリュームを最高にして使用しているようで、その分、アンプの持つサウンドより箱鳴りのサウンドの方が大きく聞こえる。1966年の日本公演の1日目と2回目公演でAC100を使用。現在は生産停止。
; [[フェンダー・ツインリヴァーブ]]
: おもにビートルズ中期以降に使用。中期ではヴォックス社との契約上の理由から、ライヴや映像では出てこないが、レコーディングではフェンダー社製アンプも使用されていた。ビートルズ活動末期に撮影された映画『[[レット・イット・ビー (映画)|レット・イット・ビー]]』にて使用されている様子を確認できる。ジョンは、[[フェンダー・ベースVI]]を接続して演奏していた。
=== その他 ===
; ホーナー・ブルース・ハープ(M.HOHNER BLUES HARP)
: いくつかの書籍などにホーナー・マリンバンドと書かれていることがあるが、レノンが所有していたのはブルース・ハープ。「ブルース・ハープ」は10穴ハーモニカの総称ではなく、ホーナー社の10穴ハーモニカの機種名のひとつ。
: レノン50回目の誕生記念に愛用品の展示会が行われたとき、なぜかマリンバンドと紹介されていたが、そこにあったのは3本の「M.HOHNER BLUES HARP」と刻印されたハープで「MARINE BAND」と刻印されたハープではなかった。同カタログ本にもブルース・ハープの写真にマリンバンドと間違いで紹介されている。初期によく使っていたCのブルースハープは、ハンブルクの楽器店で万引きしたもの。
; ホーナー・クロモニカ(M.HOHNER Chromonica 具体的なモデル名は不詳)
: 「ラヴ・ミードゥ」や「プリーズ・プリーズ・ミー」においてはブルース・ハープではなくホーナー社製のクロマチック・ハーモニカを使用している。これは、ブルース・ハープなどの10穴ハーモニカでは、出すのに高度な技術を必要とする音がフレーズ中に含まれるため、すべての音階を一本でカヴァーできるクロマチック・ハーモニカを曲によって使用していたものと思われる。レノン自身もBBCライヴにおける司会者とのやり取りのなかで、10穴ハーモニカを「ハープ」、クロマチック・ハーモニカを「ハーモニカ」と呼んで区別している。
<!-- ピアノ -->
<gallery widths="180px" heights="140px" perrow="4" caption="ジョン・レノン使用ギター(本人モデルと仕様が似たもの)">
ファイル:Gallotone Champion guitar body.jpg|'''ギャロトーン・チャンピオン'''<br /><small>ジョンが最初に入手したギター(叔母のミミに買ってもらった)で、ポールとの出会いの場でも使われたギター。写真はジョンのものとほぼ同一の仕様だがテールピースの形状が異なる。現物は[[ジョン・レノン・ミュージアム]]にて展示</small>
ファイル:Guitarras de Lennon.jpg|'''リッケンバッカー・325'''(58年製改造)と'''ギブソン・J-160E'''と'''ヴォックス・アンプ'''<br /><small>購入時の325はメイプル・グローだが、後に黒く塗った。</small>
ファイル:Rickenbacker 325C64.jpg|'''リッケンバッカー・325C64'''<br /><small>64年製(ジョン使用の2台目)の復刻。</small>
ファイル:Gibson J-160E 1964(SB).jpg|'''ギブソン・J-160E'''<br />1964年製
ファイル:Gibson J-200.jpg|'''ギブソン・J-200'''
ファイル:Epiphone Casino SB.jpg|'''エピフォン・カジノ'''(サンバースト)<br />塗装を剥がす前の仕様に近く、ピックガードのEマークも現行のものと異なり、ジョンモデルと同様にフラットなタイプ。
ファイル:Epiphone Casino Revolution.jpg|'''エピフォン・カジノ'''<br /><small>レヴォリューションモデル。塗装を剥がした状態のレプリカモデル。</small>
ファイル:Gibson Les Paul John Lennon Jr.jpg|'''ギブソン・レスポール・ジュニア'''<br /><small>写真のはその仕様を復刻したモデル。</small>
ファイル:YAMAHA Dragon Guitar.jpg|'''ヤマハ・ドラゴンギター'''<br /><small>オノ・ヨーコが、[[ヤマハ]]に特注したフォークギター。写真は、ジョンに影響を受けた[[ゆず (音楽グループ)|ゆず]]の[[北川悠仁]]が、ジョンと同じ仕様のものをヤマハにつくらせたもの。</small>
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 外部リンク ==
{{commons&cat|John Lennon}}
* [http://www.johnlennon.com Official John Lennon] website, courtesy of Yoko Ono and EMI/Capitol Records
* [https://www.universal-music.co.jp/john-lennon/ ジョン・レノン - UNIVERSAL MUSIC JAPAN]
* {{Facebook|johnlennon}}
* {{Discogs artist | artist = John Lennon}}
* {{Wayback|url=https://mei-nichi.com/rip/in/j-lennon |title=命日コム ジョンレノンのページ|date=20130615221515}}
{{ジョン・レノン}}
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{{100名の最も偉大な英国人}}
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[[Category:ジョン・レノン|*]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%8E%E3%83%B3 |
2,489 | 料理 | 料理(りょうり)は、食物をこしらえることで同時にこしらえた結果である食品そのもの。調理ともいう。
すなわち、食材、調味料などを組み合わせて加工を行うこと、およびそれを行ったものの総称である。
料理は、民族、地域、時代などにより、使用する食材や道具などが大きく異なり、調理の仕方にも差がある。同一民族内の階層によって異なる料理が存在する例もある。特に君主や貴族などがある場合、特殊な料理が発達する例が多く、それらは宮廷料理などと呼ばれる。また、料理の種類も多様であり、地域や民族による調理や道具などとの関連、入手可能な調味料などの食材の差、気候との関連、あるいは宗教的等の制約によって異なる。一方で、牡蠣の殻を取り除き柑橘類を合わせた酢牡蠣という料理は、遺跡である貝塚が全世界に分布するように、地域や時代において幅広く存在する料理もある。
料理と類似するものに菓子があり、多くの文化において料理とは別のものと考えられている。主に食事として食べるためのものか、間食として食べるためのものかの違いによる。例えば、クリ属は自然に分布していて秋の季語でもあり、旬の栗拾いや栗名月をへて備蓄し、この栗の実の皮をむき煮た栗金団という食品は、正月に用いれば御節料理となるし、菓子となることもある。
食品や食材などの加工には加熱、発酵、冷却、撹拌など様々なものがある。この加工の過程は「調理」というが、区別されず「料理する」と呼ばれることもある。加工のうち、特に加熱されたものを「料理」とし、加熱されていないものを「生」(なま)と呼んで対照する場合もある。
料理の定義は曖昧であり、「加熱処理(焼く、炒める、揚げる、茹でる、煮る、蒸す、炊くなど)の施されている食品」のみを「料理」と呼ぶ場合や、前述の調理法を使う物に加え「生ではあるが、なんらかの処理(切る、種を取る、骨を抜くなど)を施した食品」、「冷やした食品及び冷やし固めた食品」も料理と言われることがある。 学校の家庭科の授業及び、家庭科の教科書では、 「加熱処理や和えるなどの工程を経た食品」及び、その行為自体が料理と定義されている
ただ、いずれの調理過程を経ているとしても、「茹で卵」「目玉焼き」などの簡単に作れる物、「即席麺(インスタント麺、乾麺、カップ麺)」「冷凍食品」などの類は料理に含まれないことが多い(料理を作る宿題などで認められない)。また、狭義では「惣菜」「テイクアウト」「宅配」など、自分で手を加えないものも料理とは呼ばない。こうしたものは手抜き料理と呼ばれる。しかし、冷凍ピザに「様々なものをトッピングする」などのアレンジが加えられていれば、料理と呼ばれたりする。
また、住んでる地域によっても考え方が変わる。具体的には「刺身は日本では料理として認知されているものの、刺身を食べない国では料理として認知されていない」などである。
食材についている土やほこりなどの汚れを洗浄する。
食材をナイフ・包丁などで切り、可食部を取り出したり、用途の違いにより選別を行う。食べやすい大きさに切ったり、形を整え食感に統一感を与えたり、視覚的な美しさのための成型も併せて行う。切る以外に「おろす」(すりおろす)、叩くなどの方法もある。
味付けをすること。そのための素材を調味料という。食塩は多くの場合使われる。味付けは、基本的に下ごしらえの最中か直後に一度行われ、それ以降、加熱中などに味を確認し、必要がある場合は追加される。調味料を加えるタイミングや順番は重要で、間違えると目指す味にならない場合がある。
多くの料理は加熱が行われる。加熱には、まず第一に、寄生虫や微生物を殺したり殺菌する、という重要な役割があり、食中毒防止、食の安全のために非常に大切な段階である(肉の中でも特に豚肉は生食は厳禁で、しっかりと加熱する必要があるということが世界各国で知られている)。食材を適切に加熱することで、たんぱく質やデンプン等々の栄養素や食物繊維等の質的な変化を適度におこし、固すぎる食材を適度に柔らかくしたりするなど食感を良くしたり、うまみや香ばしさを増すことができる。
加熱は火を使って行われるのが普通だが、直接に火にかけない例もある。以下のような方法がある。
皿や椀、鉢などの食器に盛り付ける。食器を冷却や加熱することもある。
料理は献立によって、一品料理のアラカルトと、定食と呼ばれるコース料理のメニュー (料理)とに分類される。お任せや食べ放題といった形態もある。移動するものや仮設のものとして、中食や出前や弁当、屋台やケータリングや納涼床などがある。食堂車や機内食、クルーズ客船や屋形船でも料理が提供される。家庭における料理や、自ら作った料理は、手料理や家庭料理と呼ばれる。食べる人や調理側の状態によっては、非常食、離乳食や流動食などが提供される。
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"title": "料理の提供形態"
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] | 料理(りょうり)は、食物をこしらえることで同時にこしらえた結果である食品そのもの。調理ともいう。 すなわち、食材、調味料などを組み合わせて加工を行うこと、およびそれを行ったものの総称である。 | [[ファイル:Les huîtres de Saint-Germain-sur-Ay ERNOUF Guillaume.JPG|thumb|right|[[酢]][[カキ (貝)|牡蠣]]]]
'''料理'''(りょうり)は、食物をこしらえることで同時にこしらえた結果である食品そのもの<ref name=kojien>[[広辞苑]]第5版</ref>。[[調理]]ともいう<ref name=kojien />。
すなわち、[[食材]]、[[調味料]]などを組み合わせて加工を行うこと、およびそれを行ったものの総称である。
== 概要 ==
<!--[[ファイル:Oysters served on ice, with lemon and parsley.jpg|thumb|right|酢[[カキ (貝)|牡蠣]]]]-->
<!--[[ファイル:Kuri02.jpg|thumb|right|[[クリ属|栗]]の実]]-->
[[File:Kuri-kinton 001.jpg|thumb|[[栗金団]]]]
料理は、[[民族]]、[[地域]]、[[時代]]などにより、使用する食材や道具などが大きく異なり、調理の仕方にも差がある。同一民族内の階層によって異なる料理が存在する例もある。特に君主や貴族などがある場合、特殊な料理が発達する例が多く、それらは宮廷料理などと呼ばれる。また、料理の種類も多様であり、地域や民族による調理や道具などとの関連、入手可能な調味料などの食材の差、気候との関連、あるいは宗教的等の制約によって異なる。一方で、[[カキ (貝)|牡蠣]]の殻を取り除き[[柑橘類]]を合わせた酢牡蠣という料理<ref name=kojien />は、[[遺跡]]である[[貝塚]]が全世界に分布するように<ref name=kojien />、地域や時代において幅広く存在する料理もある。
料理と類似するものに[[菓子]]があり、多くの[[文化_(代表的なトピック)|文化]]において料理とは別のものと考えられている。主に[[食事]]として食べるためのものか、[[間食]]として食べるためのものかの違いによる。例えば、[[クリ属]]は自然に分布していて秋の[[季語]]でもあり<ref name="saijiki">『俳句歳時記 第4版』角川学芸出版、2008年、ISBN 978-4-04-621167-5</ref>、[[旬]]の栗拾いや[[月見|栗名月]]をへて[[備蓄]]し<ref name=kojien /><ref name=saijiki>『俳句歳時記 第4版』角川学芸出版、2008年、ISBN 978-4-04-621167-5</ref><ref name="shiki_aki">『四季日本の料理 秋』講談社 ISBN 4-06-267453-X</ref><ref name="shun_kudamono">『旬の食材 四季の果物』講談社 ISBN 4-06-270137-5</ref>、この栗の実の皮を[[食材の切り方一覧|むき]][[煮物|煮た]][[栗金団]]という[[食品]]は<ref name=kojien />、[[正月]]に用いれば[[御節料理]]となるし<ref name="shiki_fuyu">『四季日本の料理 冬』講談社 ISBN 4-06-267454-8</ref>、菓子となることもある。
食品や食材などの加工には加熱、[[発酵]]、[[冷却]]、[[撹拌]]など様々なものがある。この加工の過程は「[[調理]]」というが、区別されず「料理する」と呼ばれることもある。加工のうち、特に加熱されたものを「料理」とし、加熱されていないものを「[[生]]」(なま)と呼んで対照する場合もある。
料理の定義は曖昧であり、「加熱処理(焼く、炒める、揚げる、茹でる、煮る、蒸す、炊くなど)の施されている食品」のみを「料理」と呼ぶ場合や、前述の調理法を使う物に加え「生ではあるが、なんらかの処理(切る、種を取る、骨を抜くなど)を施した食品」、「冷やした食品及び冷やし固めた食品」も料理と言われることがある。
学校の家庭科の授業及び、家庭科の教科書では、
「加熱処理や和えるなどの工程を経た食品」及び、その行為自体が料理と定義されている
ただ、いずれの調理過程を経ているとしても、「茹で卵」「目玉焼き」などの簡単に作れる物、「即席麺(インスタント麺、乾麺、カップ麺)」「冷凍食品」などの類は料理に含まれないことが多い(料理を作る宿題などで認められない)。また、狭義では{{要出典範囲|「惣菜」「テイクアウト」「宅配」など、自分で手を加えないものも料理とは呼ばない。こうしたものは[[手抜き料理]]と呼ばれる。しかし、冷凍ピザに「様々なものをトッピングする」などのアレンジが加えられていれば、料理と呼ばれたりする。|date=2020年5月}}
また、住んでる地域によっても考え方が変わる。具体的には「刺身は日本では料理として認知されているものの、刺身を食べない国では料理として認知されていない」などである。
== 料理の方法 ==
=== 洗浄 ===
[[食材]]についている土やほこりなどの汚れを洗浄する。
=== 選別と成型 ===
<!--[[ファイル:DebaBocho.Cleaver.Japan.jpg|thumb|魚の[[三枚おろし]]に用いる[[包丁]]]]-->
[[File:3mai after.JPG|thumb|魚を身と骨とに切り分けたもの]]
食材をナイフ・包丁などで切り、可食部を取り出したり、用途の違いにより選別を行う。食べやすい大きさに切ったり、形を整え食感に統一感を与えたり、視覚的な美しさのための成型も併せて行う。切る以外に「おろす」(すりおろす)、叩くなどの方法もある。
;野菜
:[[皮]]を剥いたり、葉・実(果実)・茎・根などを分けたりして、食べられる部位をさらに成型する。
;魚
:骨・内臓などを取り除き、身(肉)の部分を切り分ける。[[日本料理]]では[[三枚おろし]]が一般的である。魚ごとの性質や、次に焼くのか煮るのか、といったことに応じて、それに適した形に切っていく。[[刺身]]は、包丁だけで料理が完結し、包丁の切れ具合や「包丁さばき」によって食感、味が大きく異なるとされる。
;肉
:適切な大きさ・形に切る。[[ミートハンマー]](肉たたき)でたたき、柔らかくする。あるいは[[ミンサー(挽肉)]]で[[挽き肉]]にする。ひき肉はしばしばボール状や平たくまとめ、後で焼いたり揚げたりする手順へすすむ。
;[[穀物]]
:粉砕する場合もあり、これは多くの場合料理以前にまとめて行われる。これは「擂る」と言うが、これによってできた粉末は練って固めて塊や[[麺]]の形で用いられる。この加工過程も料理に含まれる。
=== 調味 ===
味付けをすること。そのための素材を[[調味料]]という。[[食塩]]は多くの場合使われる<ref group="注">近年は、健康のための[[減塩]]の重要性が認識され、以前より量が減ったり、他の風味で代用することが増えてきた</ref>。味付けは、基本的に下ごしらえの最中か直後に一度行われ、それ以降、加熱中などに味を確認し、必要がある場合は追加される。調味料を加えるタイミングや順番は重要で、間違えると目指す味にならない場合がある。
=== 加熱 ===
[[ファイル:囲炉裏 (16881754050).jpg|thumb|right|加熱に用いる[[いろり]]]]
多くの料理は加熱が行われる。加熱には、まず第一に、[[寄生虫]]や[[微生物]]を殺したり[[殺菌]]する、という重要な役割があり、[[食中毒]]防止、[[食の安全]]のために非常に大切な段階である(肉の中でも特に[[豚肉]]は生食は厳禁で、しっかりと加熱する必要があるということが世界各国で知られている)。食材を適切に加熱することで、[[たんぱく質]]や[[デンプン]]等々の栄養素や食物繊維等の質的な変化を適度におこし、固すぎる食材を適度に柔らかくしたりするなど食感を良くしたり、うまみや香ばしさを増すことができる。
加熱は火を使って行われるのが普通だが、直接に火にかけない例もある。以下のような方法がある。
* [[焼き物 (料理)|焼く]]:[[食品]]を串に刺したり、網の上に置き、直接に火の熱を当てる直火焼きと、[[フライパン]]等の上で焼く間接焼きとがある<ref name="shun_natsu">『旬の食材 夏の魚』講談社 ISBN 4-06-270132-4</ref>。
* [[炒め物|炒める]]:[[フライパン]]等に少量の油を使って食品を加熱する<ref name=kojien>[[広辞苑]]第5版</ref>。
* [[揚げ物|揚げる]]:容器に多量の油を入れ、それに食品を浸して加熱する<ref name=kojien>[[広辞苑]]第5版</ref>。
* [[煮物|煮る]]・[[茹で物|茹でる]]・[[炊く]]:容器に多量の水と食品を入れ、その中で加熱する<ref name=kojien>[[広辞苑]]第5版</ref>。
* [[蒸す]]:食品を容器に入れてその内部の高温の空気や水蒸気で加熱する<ref name=kojien>[[広辞苑]]第5版</ref>。
<!--[[ファイル:Atagawa Onsen 02.jpg|thumb|right|[[盛り付け]]られた[[刺身]]]]-->
<!--[[ファイル:Kamado4816.jpg|thumb|right|[[かまど]]]]-->
<!--[[ファイル:囲炉裏 (16881754050).jpg|thumb|right|[[いろり]]]]-->
=== 盛り付け ===
[[皿]]や[[椀]]、[[鉢]]などの[[食器]]に[[盛り付け]]る。食器を冷却や加熱することもある。
{{Seealso|調理}}
== 料理の提供形態 ==
[[ファイル:Kibune Kawadoko01s5s4272.jpg|thumb|right|[[納涼床]]]]
料理は[[献立]]によって、一品料理の[[アラカルト]]と、[[定食]]と呼ばれるコース料理の[[メニュー (料理)]]とに分類される。[[お任せ]]や[[食べ放題]]といった形態もある。移動するものや仮設のものとして、[[中食]]や[[出前]]や[[弁当]]、[[屋台]]や[[ケータリング]]や[[納涼床]]などがある。[[食堂車]]や[[機内食]]、[[クルーズ客船]]や[[屋形船]]でも料理が提供される。家庭における料理や、自ら作った料理は、手料理や[[家庭料理]]と呼ばれる。食べる人や[[調理]]側の状態によっては、[[非常食]]、[[離乳食]]や[[流動食]]などが提供される<ref name=kojien>[[広辞苑]]第5版</ref>。
== 地域別料理一覧 ==
<!-- 個別の一品はそれぞれのページに書くようにすると記事としてまとまりやすくなる。 -->
=== 中東・アジア ===
{{Columns-list|3|
* [[トルコ料理]]
* [[サウジアラビア料理]]
* [[イラク料理]]
* [[イラン料理]]
* {{仮リンク|アフガニスタン料理|en|Afghan cuisine}}
* [[オマーン料理]]
* [[イエメン料理]]
* {{仮リンク|カタール料理|en|Qatari cuisine}}
* [[シリア料理]]
* [[バーレーン料理]]
* {{仮リンク|ヨルダン料理|en|Jordanian cuisine}}
* {{仮リンク|パレスチナ料理|en|Palestinian cuisine}}
* [[レバノン料理]]
* [[クウェート料理]]
* {{仮リンク|イスラエル料理|en|Israeli cuisine}}
=== [[日本料理]]===
* [[御節料理]]
* [[有職料理]]
* [[精進料理]]
** [[普茶料理]]
* [[本膳料理]]
* [[懐石|懐石料理]]
* [[会席料理]]
* [[郷土料理]]
** [[卓袱料理]]
** [[沖縄料理]]
** [[アイヌ料理]]
** [[奄美料理]]
** [[薩摩料理]]
** [[皿鉢料理]]
* [[ウイグル料理]]
* [[チベット料理]]
* [[中華料理]]
** [[四川料理]]
** [[北京料理]]
** [[広東料理]]
** [[上海料理]]
** [[台湾料理]]
* [[モンゴル料理]]
* [[インド料理]]
** [[パンジャブ料理]]
** {{仮リンク|ムグライ料理|en|Mughlai cuisine}}
** {{仮リンク|南インド料理|en|South Indian cuisine}}
** {{仮リンク|ベンガル料理|en|Bengali cuisine}}
* [[スリランカ料理]]
* [[パキスタン料理]]
* [[バングラデシュ料理]]
* [[ウズベキスタン料理]]
* [[インドネシア料理]]
* [[ベトナム料理]]
* [[ラオス料理]]
* [[ミャンマー料理]]
* [[カンボジア料理]]
* [[マレーシア料理]]
* [[フィリピン料理]]
* [[ネパール料理]]
* [[ブータン料理]]
* [[ブルネイ料理]]
* [[タイ料理]]
** [[イーサーン料理]]
* [[朝鮮料理]]
* [[洋食]]
}}
=== ヨーロッパ ===
{{Columns-list|3|
* [[西洋料理]]
** [[アルバニア料理]]
** [[イタリア料理]]
** [[スペイン料理]]
** [[ポルトガル料理]]
** [[バスク料理]]
** [[フランス料理]]
** [[ベルギー料理]]
** [[ドイツ料理]]
** [[スイス料理]]
** [[オランダ料理]]
** [[イギリス料理]]
** [[アイルランド料理]]
** [[アイスランド料理]]
** [[スウェーデン料理]]
** [[デンマーク料理]]
** [[ノルウェー料理]]
** [[フィンランド料理]]
** [[オーストリア料理]]
** [[チェコ料理]]
** [[スロバキア料理]]
** [[スロベニア料理]]
** [[ポーランド料理]]
** [[ラトビア料理]]
** [[リトアニア料理]]
** [[ギリシア料理]]
** [[ブルガリア料理]]
** [[ルーマニア料理]]
** [[ハンガリー料理]]
** [[ウクライナ料理]]
** [[ロシア料理]]
}}
=== 南北アメリカ ===
{{Columns-list|3|
* [[メキシコ料理]]
* [[ブラジル料理]]
* [[コスタリカ料理]]
* {{仮リンク|パナマ料理|en|Panamanian cuisine}}
* [[コロンビア料理]]
* [[ボリビア料理]]
* [[ペルー料理]]
* [[アルゼンチン料理]]
* [[アメリカ料理]]
** [[ケイジャン#ケイジャン料理|ケイジャン料理]]
** [[クレオール料理]]
** [[テクス・メクス料理]]
** [[ソウルフード (アフリカ系アメリカ人)|ソウルフード]]([[アフリカ系アメリカ人]]の料理)
** [[ハワイ料理]]
* [[カナダ料理]]
** [[アカディ#文化|アカディア料理]]
* [[キューバ料理]]
* [[ハイチ料理]]
* {{仮リンク|プエルトリコ料理|en|Puerto Rican cuisine}}
* [[ジャマイカ料理]]
}}
=== 太平洋・オセアニア ===
{{Columns-list|3|
* [[オーストラリア料理]]
* [[ニュージーランド料理]]
* [[ハワイ料理]]
* [[ミクロネシア料理]]
* [[ポリネシア料理]]
}}
=== アフリカ ===
{{Columns-list|3|
* [[モロッコ料理]]
* [[エジプト料理]]
* [[チュニジア料理]]
* [[アルジェリア料理]]
* [[マリ料理]]
* [[エチオピア料理]]
* [[南アフリカ料理]]
* [[モルディブ料理]]
* [[ジブチ料理]]
}}
== 料理(調理)の競技 ==
*[[ボキューズ・ドール]] - 2年毎(奇数年)の1月にフランス・リヨンで開催される世界最高峰の料理コンクール。
*[[世界料理オリンピック]] - 4年に一度、ドイツで行われる料理コンテスト。
*[[中国料理世界大会]] - 中華料理の世界大会。
*[[料理の鉄人]] - 料理人同士の対決を前面に打ち出した[[テレビ番組]]。米国などでも放送された。架空の団体「美食アカデミー」が主催、しているという設定。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 『[[広辞苑]]』第5版
* 『四季日本の料理 秋』講談社 ISBN 4-06-267453-X
* 『四季日本の料理 冬』講談社 ISBN 4-06-267454-8
* 『旬の食材 夏の魚』講談社 ISBN 4-06-270132-4
* 『旬の食材 四季の果物』講談社 ISBN 4-06-270137-5
* 『俳句歳時記 第4版』角川学芸出版、2008年、ISBN 978-4-04-621167-5
== 関連項目 ==
{{Sisterlinks|commons=Category:Cuisine}}
* {{仮リンク|料理美術|en|Culinary arts}}
* {{仮リンク|料理史|en|Culinary history}}
* {{仮リンク|世界の料理一覧|en|List of cuisines}}
* {{仮リンク|古代料理の一覧|en|List of ancient dishes}}
* {{仮リンク|歴史的な料理の一覧|en|List of historical cuisines}}
* [[世界三大料理]]
* [[調理]]
* [[調理法]]
* [[料理本]]
* [[食事]]
* [[食文化]]
* [[ガストロノミー]]
* [[食器]]
* [[食肉|肉]]、[[野菜]]、[[魚介類]]、[[調味料]]、[[ハーブ]]、[[香辛料]]
* [[肴]]
* [[料理研究家]]
* [[白物家電]]
* [[家電機器]]
* {{ill2|リチャード・ランガム|en|Richard Wrangham}} - ヒトが他の動物に比べ、カロリーが必要な脳を発達・維持させた原因として、料理によってカロリー摂取が効率的になったからという「料理仮説」を提唱した。
== 外部リンク ==
* [https://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper04/ryouri.html 料理の語源と敦煌医書] 中国科学史の真柳研究室
{{料理}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:りようり}}
[[Category:料理|*]]
[[Category:クッキング|**りようり]]
[[nl:Kookkunst]] | 2003-02-20T08:59:01Z | 2023-12-12T07:08:34Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%99%E7%90%86 |
2,491 | 1917年 | 1917年(1917 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。大正6年。
※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場で使用されていない。 ※主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。 | [
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] | 1917年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。大正6年。 | {{出典の明記|date=2023年5月}}
{{otheruses||交響曲『1917年』|交響曲第12番 (ショスタコーヴィチ)}}
{{年代ナビ|1917}}
{{YearInTopic
| BC =
| 千年紀 = 2
| 世紀 = 20
| 年代 = 1910
| 年 = 1917
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{{year-definition|1917}}
== 他の紀年法 ==
* [[干支]]:[[丁巳]]
* [[日本]](月日は一致)
** [[大正]]6年
** [[皇紀]]2577年
* [[中国]](月日は一致)
** [[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]:[[民国紀元|中華民国]]6年
** [[清]]([[張勲復辟]]):[[宣統]]9年
* [[朝鮮]](月日は一致)
** [[檀君紀元|檀紀]]4250年
** [[主体暦|主体]]6年
* [[阮朝]]([[ベトナム]])
** [[啓定]]元年12月8日 - 啓定2年11月18日
* [[仏滅紀元]] : 2459年10月9日 - 2460年閏10月3日
* [[ヒジュラ暦]](イスラム暦) : 1335年3月7日 - 1336年3月17日
* [[ユダヤ暦]] : 5677年4月7日 - 5678年4月16日
* [[修正ユリウス日]](MJD):21229 - 21593
* [[リリウス日]](LD):122070 - 122434
<div style="font-size:smaller">
※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場で使用されていない。<br />
※主体暦は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[1997年]]に制定された。
</div>
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1917}}
== できごと ==
=== 1月 ===
* [[1月11日]] - [[第一次世界大戦]]:駐日英国大使が日本艦隊の欧州派遣を[[本野一郎|本野]]外相に要請{{要出典|date=2021-05}}
* [[1月17日]] - [[アメリカ合衆国]]が[[デンマーク]]から[[アメリカ領ヴァージン諸島|ヴァージン諸島]]を2,500万ドルで買収
* [[1月20日]] - [[日本興業銀行]]・[[朝鮮銀行]]・[[台湾銀行]]が[[中華民国]]に借款を提供([[西原亀三]]の仲介による[[西原借款]])
* [[1月22日]] - 第一次大戦: [[アメリカ合衆国大統領|米大統領]][[ウッドロウ・ウィルソン]]が「勝利なき平和」を提唱
* [[1月31日]] - [[ドイツ]]が[[無制限潜水艦作戦]]の開始を発表
=== 2月 ===
* [[2月1日]] - 第一次大戦: ドイツが無制限潜水艦作戦を宣言
* [[2月3日]] - 米国がドイツと国交断絶
* [[2月5日]] - [[メキシコ]]で[[メキシコ憲法|新憲法]]制定
* [[2月7日]] - 日本海軍が欧州派遣に向け第1・第2[[特務艦隊]]を編成
* [[2月10日]] - [[寺内内閣]]が日本艦隊の欧州派遣を閣議決定
* [[2月12日]] - 神戸衛生実験所(後の[[ビオフェルミン製薬]])設立
* [[2月24日]] - [[イルマ殺し]]が発生。[[福岡県]][[福岡市]]で[[日独戦ドイツ兵捕虜]]の妻が殺害される
* [[2月26日]] - [[オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド]]が、[[ニューヨーク]]にて、[[ジャズ]]界では初となる商業用[[レコード]]をレコーディング
=== 3月 ===
* [[3月11日]] - [[大日本帝国海軍|日本海軍]]第2特務艦隊がシンガポールを出発
* [[3月12日]](ロシア暦2月27日)- [[ロシア革命]]: [[2月革命 (1917年)|二月革命]](三月革命)勃発(国会臨時委員会が政権掌握を開始)
* [[3月12日]] - 第一次大戦: [[第十次イゾンツォの戦い]]([[6月8日]] まで)
* [[3月15日]](ロシア暦3月2日)- ロシア革命: 国会臨時委員会が臨時政府を樹立。[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]が[[皇帝]]を退位([[ロマノフ朝]]滅亡)
* [[理化学研究所]]創立
=== 4月 ===
* [[4月4日]] - 日本が[[ロシア臨時政府|ロシアの臨時政府]]を承認
* [[4月6日]] - 第一次大戦: [[アメリカ合衆国|米国]]がドイツに対して[[アメリカ合衆国の対独宣戦布告 (1917年)|宣戦布告]]
* [[4月13日]] - アメリカ海軍の戦艦「[[ニューメキシコ (戦艦)|ニューメキシコ]]」が進水。
* [[4月16日]] - [[明治製糖]]が房総煉乳に資本参加、乳業部門(のちに[[明治乳業]]となる事業)に進出
* [[4月16日]] - [[慶應義塾大学大学院医学研究科・医学部|慶應義塾大学部医学科]]発足(学長・[[北里柴三郎]])
* [[4月17日]](ロシア暦4月4日) - ロシア革命: ロシアに帰国した [[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]が四月テーゼを発表(戦争を続ける臨時政府を[[ソビエト]]が全権力を握るべきだと主張)
* [[4月20日]] - [[第13回衆議院議員総選挙]]
=== 5月 ===
* [[5月9日]] - 第3回[[極東選手権競技大会|極東選手権大会]]で[[東京高等師範学校]]のサッカー部が日本代表として中華民国チームと対戦(結果:0-5)(日本サッカー初めての国際試合)
*[[5月15日]] - 東洋陶器(現・[[TOTO (企業)|TOTO]])設立。
* [[5月17日]] - バレエ「[[パラード (バレエ)|パラード]]」が[[パリ]]で初演(台本[[ジャン・コクトー]]、音楽[[エリック・サティ]]、美術[[パブロ・ピカソ]])
* 「思潮」創刊([[阿部次郎]])
=== 6月 ===
* [[6月10日]] - 第一次大戦: [[オルティガーラ山の戦い]]([[6月25日]]まで)
* [[6月17日]] - [[鈴木三郎助]]、株式会社鈴木商店を設立(合資会社鈴木商店の事業権を譲渡。[[味の素]]創立の日)
* [[6月21日]] - [[帝国議会|第39特別議会]]召集
* [[6月30日]] - 短編アニメーション映画「[[塙凹内名刀之巻|なまくら刀]]」公開(現存する日本最古のアニメ)
=== 7月 ===
* [[7月1日]] - [[安徽省 (中華民国)|安徽]]督軍[[張勲 (清末民初)|張勲]]の後ろ盾により[[清]]の元皇帝[[愛新覚羅溥儀]]が復辟を宣言([[張勲復辟]])
* [[7月6日]] - 第一次大戦: [[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル・イブン・フサイン]]と[[イギリス軍|英軍]][[トーマス・エドワード・ロレンス|ロレンス]]大尉が率いる対[[オスマン帝国]]反乱軍が[[アカバ]]を奪取
* [[7月12日]] - 張勲復辟: [[北京政府]]国務総理[[段祺瑞]]率いる討逆軍が張勲軍を破り[[北京市|北京]]に入城、溥儀が退位を宣言
* [[7月17日]] - [[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の命で英王室の家名がサクス・コバーグ・ゴータからウィンザーに改称([[ウィンザー朝]]の始まり)
* [[7月21日]] - ロシア革命: ロシア臨時政府首班に[[アレクサンドル・ケレンスキー|ケレンスキー]]が就任
* [[7月25日]] - 日本光学工業株式会社(現 株式会社[[ニコン]])設立
=== 8月 ===
* [[8月14日]] - 第一次大戦: 中華民国がドイツに宣戦布告
* [[8月19日]] - 第一次大戦: [[第十一次イゾンツォの戦い]]([[9月12日]]まで)
* [[8月28日]] - [[長門型戦艦]]「[[長門 (戦艦)|長門]]」起工
=== 9月 ===
* [[9月1日]] - 日本煉乳株式会社(現在の[[森永乳業]])創立
* [[9月10日]] - 中華民国で[[孫文]]が広東軍政府を樹立
* [[9月10日]](ロシア暦8月27日)- ロシア革命:ロシアで帝政派の[[ラーヴル・コルニーロフ]]が反乱を起こす
* [[9月12日]] - 日本で金・地金輸出取締令が出され、[[金本位制]]が停止
* [[9月30日]] - 東京湾岸一帯で[[高潮]]水害([[大正6年の高潮災害]])
=== 10月 ===
* [[10月13日]] - [[ポルトガル]]、ファティマで[[太陽の奇跡]]が起こる
* [[10月24日]] - 第一次大戦: [[カポレットの戦い]]([[11月7日]]まで)
=== 11月 ===
* [[11月2日]]
** 第一次大戦: [[イギリス]]が[[バルフォア宣言]]を発表([[ユダヤ人]]国家建設を約束することに同意)
** 日米間で[[石井・ランシング協定]]締結(中華民国の独立,門戸開放・機会均等の尊重を約し、[[満州]]における日本の権益を米国が承認)
* [[11月7日]](ロシア暦10月25日)- [[ロシア革命]]: [[ボリシェヴィキ]]が武装蜂起し、[[十月革命]](十一月革命)が起こる。[[ソビエト]]政権が樹立される。
* [[11月8日]](ロシア暦10月26日)- ロシア革命: ソビエト政権が[[平和に関する布告]]、[[土地に関する布告]]を発表
* [[11月20日]] - [[ウクライナ人民共和国]]が独立宣言
* 11月20日 - 第一次大戦: [[カンブレーの戦い]]はじまる
=== 12月 ===
* [[12月6日]] - [[フィンランド]]がロシアから独立を宣言
* [[12月21日]] - 極東練乳株式会社(のちに[[明治乳業]]を経て、現在の[[明治 (企業)|明治]])創立
* [[12月25日]] - [[帝国議会|第40議会]]召集
* [[左右田喜一郎]]「経済哲学の諸問題」
=== 日付不詳 ===
* [[本多光太郎]]が[[KS磁石鋼]]を発明
* [[ヴィルフレード・パレート]]「一般社会学概論」第1巻
* [[萩原朔太郎]]『月に吠える』
* [[志賀直哉]]『[[城の崎にて]]』
* [[洞部落]]が移転
* [[神戸市]]を中心に[[天然痘]]が流行。患者5121人、死者935人<ref>下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p322 河出書房新社 2003年11月30日刊 {{全国書誌番号|20522067}}</ref>。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1917年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
=== 1月 ===
* [[1月5日]] - [[ヴィーラント・ワーグナー]]、[[演出家]](+ [[1966年]])
* 1月5日 - [[片山栄次]]、[[プロ野球選手]](+ 生死不明)
* 1月5日 - [[家村相太郎]]、プロ野球選手(+ [[2005年]])
* [[1月8日]] - [[田村三郎]]、[[農芸化学|農芸化学者]](+ [[2015年]])
* [[1月12日]] - [[秋山ちえ子]]、[[ラジオパーソナリティー]]・[[エッセイスト]](+ [[2016年]])
* 1月12日 - [[岡晴夫]]、[[歌手]](+ [[1970年]])
* [[1月13日]] - [[上林繁次郎]]、プロ野球選手、政治家(+ [[2002年]])
* [[1月14日]] - [[小田野柏]]、元プロ野球選手(+ [[2013年]])
* [[1月15日]] - [[牧野潔]]、プロ野球選手(+ 生死不明)
* [[1月16日]] - [[中村民雄 (野球)|中村民雄]]、プロ野球選手(+ [[2003年]])
*[[1月17日]] - [[谷よしの]]、女優(+ [[2006年]])
* [[1月18日]] - [[ヴァシーリー・ミシン]]、宇宙工学者(+ [[2001年]])
* [[1月20日]] - [[中村歌右衛門 (6代目)]]、[[歌舞伎]]役者(+ 2001年)
* [[1月23日]] - [[近藤次郎]]、航空工学者(+ 2015年)
* [[1月24日]] - [[冨久正二]]、マスターズ陸上競技選手(+ [[2022年]])
* [[1月24日]] - [[アーネスト・ボーグナイン]]、アメリカ合衆国の俳優、1955年[[アカデミー主演男優賞]]受賞者(+ [[2012年]])
* [[1月25日]] - [[イリヤ・プリゴジン]]、[[化学者]]・[[物理学者]](+ 2003年)
* 1月25日 - [[斎藤隆介]]、[[作家]](+ [[1985年]])
* [[1月28日]] - [[望月優子]]、女優・政治家(+ [[1977年]])
=== 2月 ===
* [[2月1日]] - [[澤村榮治]]、[[プロ野球選手]](+ [[1944年]])
* [[2月5日]] - [[山田五十鈴]]、[[俳優#性別での分類|女優]](+ [[2012年]])
* 2月5日 - [[上杉隆憲]]、[[米沢藩|米沢]][[上杉氏|上杉家]]16代目当主、元[[東京都児童会館]]長(+ [[1995年]])
* 2月5日 - [[新海希典]]、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]](+ [[1945年]])
* [[2月8日]] - [[丘灯至夫]]、[[作詞家]](+ [[2009年]])
* [[2月11日]] - [[シドニィ・シェルダン]]、[[脚本家]]・[[小説家]](+ [[2007年]])
* 2月11日 - [[小野登]]、[[映画監督]](+ [[2008年]])
* [[2月12日]] - [[松野頼三]]、[[政治家]](+ [[2006年]])
* [[2月13日]] - [[吉阪隆正]]、[[建築家]](+ [[1980年]])
* [[2月15日]] - [[小佐野賢治]]、[[実業家]]、[[国際興業]]の創業者(+ [[1986年]])
* [[2月18日]] - [[柳宗玄]]、[[美術史|美術史家]](+ [[2019年]]<ref>{{Cite news|title=美術史家の柳宗玄さん死去 父は柳宗悦氏、兄は宗理氏|url=https://www.asahi.com/articles/ASM5S5JHMM5SUCLV00G.html?ref=tw_asahi|newspaper=朝日新聞社|date=2019-5-24|accessdate=2020-10-27}}</ref>)
* [[2月19日]] - [[峠三吉]]、[[詩人]](+ [[1953年]])
* 2月19日 - [[カーソン・マッカラーズ]]、作家(+ [[1967年]])
* [[2月20日]] - [[マニー・ファーバー]]、[[画家]]・[[美術評論家]]・[[映画評論家]](+ 2008年)
* 2月20日 - [[山本茂実]]、[[小説家]](+ [[1998年]])
* [[2月25日]] - [[茅野健一]]、プロ野球選手(+ 没年不詳)
* [[2月27日]] - [[朝吹登水子]]、[[フランス文学者]]・[[随筆家]](+ [[2005年]])
* [[2月28日]] - [[横山泰三]]、[[漫画家]](+ 2007年)
*2月28日 - [[中馬兼四]]、海軍軍人・[[特殊潜航艇によるシドニー港攻撃]]で戦死した士官の一人(+ [[1942年]])
=== 3月 ===
* [[3月2日]] - [[ジム・コンスタンティー]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1976年]])
* [[3月8日]] - [[呉振宇]]、元・[[朝鮮民主主義人民共和国]][[人民武力部#歴代人民武力部長|人民武力部長(国防大臣)]](+ [[1995年]])
* [[3月12日]] - [[岡田宗芳]]、[[プロ野球選手]](+ [[1942年]])
* 3月12日 - [[内堀保]]、プロ野球選手(+ [[1997年]])
* [[3月14日]] - [[芦田伸介]]、[[俳優]](+ [[1999年]])
* [[3月15日]] - [[ハンス・ラムバーグ]]、[[地球物理学者]](+ [[1998年]])
* [[3月18日]] - [[リッカルド・ブレンゴーラ]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[2004年]])
* [[3月19日]] - [[ディヌ・リパッティ]]、[[ピアニスト]](+ [[1950年]])
* [[3月20日]] - [[ヴェラ・リン]]、[[歌手]] (+ [[2020年]])
* [[3月21日]] - [[チャールズ・リンドブロム]]、[[政治学者]](+ [[2018年]])
* [[3月22日]] - [[村上一治]]、プロ野球選手(+ [[1965年]])
* [[3月25日]] - [[加藤春雄]]、プロ野球選手(+ [[1961年]])
* [[3月26日]] - [[柴田錬三郎]]、[[小説家]](+ [[1978年]])
* [[3月27日]] - [[大沢清輝]]、[[日本の天文学者の一覧|天文学者]](+ [[2005年]])
* [[3月28日]] - [[安部徹]]、俳優(+ [[1993年]])
* [[3月31日]] - [[ドロシー・ディレイ]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[2002年]])
=== 4月 ===
* [[4月1日]] - [[内海倫]]、[[官僚]](+ [[2012年]])
* [[4月2日]] - [[加藤信夫 (野球)|加藤信夫]]、[[プロ野球選手]](+ 戦死)
* [[4月3日]] - [[菊川章陽]]、[[書家]](+ [[2011年]])
* [[4月5日]] - [[ロバート・ブロック]]、小説家(+ [[1994年]])
* [[4月9日]] - [[大館勲]]、プロ野球選手(+ [[2000年]])
* [[4月10日]] - [[宇野光雄]]、プロ野球選手(+ 1994年)
* 4月10日 - [[ロバート・バーンズ・ウッドワード]]、化学者(+ [[1979年]])
* [[4月12日]] - [[富永嘉郎]]、プロ野球選手(+ [[2010年]])
* [[4月13日]] - [[安西愛子]]、[[童謡]][[歌手]]・[[声楽家]]・[[政治家]](+ [[2017年]])
* [[4月14日]] - [[マービン・ミラー]]、MLB選手会会長(+ 2012年<ref>{{Cite web|url=https://www.mlb.com/news/hall-of-fame-modern-baseball-era-announcement|title=Marvin Miller, Ted Simmons elected to Hall of Fame|language=英語||work=MLB.com |accessdate=2020年12月9日}}</ref>)
* [[4月15日]] - [[ハンス・コンリード]]、[[俳優]](+ [[1982年]])
* [[4月17日]] - [[南村侑広]]、プロ野球選手(+ [[1990年]])
* [[4月18日]] - [[島尾敏雄]]、小説家(+ [[1986年]])
* [[4月21日]] - [[辻井弘]]、プロ野球選手(+ [[1993年]])
* [[4月25日]] - [[鬼頭数雄]]、プロ野球選手(+ [[1944年]])
* 4月25日 - [[岡田福吉]]、プロ野球選手(+ 1944年)
* [[4月26日]] - [[サル・マグリー]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1992年]])
* 4月26日 - [[イオ・ミン・ペイ]]、建築家 (+ [[2019年]])
* [[4月28日]] - [[千秋実]]、俳優(+ [[1999年]])
* [[4月29日]] - [[伊賀上良平]]、プロ野球選手(+ 2000年)
* 4月29日 - [[藤野文三郎]]、プロ野球選手(+ [[1948年]])
* [[4月30日]] - [[宋平]]、[[中華人民共和国]] 政治家
=== 5月 ===
* [[5月5日]] - [[加藤馨]]、[[実業家]]・カトー電気販売社長・[[ケーズホールディングス]][[名誉会長]](+ [[2016年]])
* [[5月7日]] - [[宮崎康平|宮﨑康平]]、古代史研究家・作家(+ [[1980年]])
* [[5月12日]] - [[長沢節]]、[[水彩画]]家・[[デザイナー]]・[[エッセイスト]]・ファッション評論家・映画評論家(+ [[1999年]])
* [[5月15日]] - [[門前眞佐人]]、[[プロ野球選手]](+ [[1984年]])
* [[5月17日]] - [[宮本丈靖]]、日本の宗教家、[[妙智会教団]]会長(+ [[2015年]])
* [[5月23日]] - [[オスカー・シュムスキー]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[2000年]])
* [[5月25日]] - [[宇野錦次]]、プロ野球選手(+ [[1997年]])
* [[5月29日]] - [[ジョン・F・ケネディ]]、第35代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1963年]])
=== 6月 ===
* [[6月2日]] - [[ハインツ・ジールマン]]、[[写真家]]・[[動物学者]](+ [[2006年]])
* [[6月5日]] - [[中島河太郎]]、ミステリー文学[[評論家]]・[[国文学]]者(+ [[1999年]])
* [[6月6日]] - [[小森邦夫]]、[[彫刻家]](+ [[1993年]])
* 6月6日 - [[成田友三郎]]、[[プロ野球選手]](+ [[1989年]])
* [[6月8日]] - [[美ち奴]]、芸者[[歌手]](+ [[1996年]])
* [[6月9日]] - [[エリック・ホブズボーム]]、[[歴史家]](+ [[2012年]])
* [[6月17日]] - [[アトル・セルバーグ]]、[[数学者]](+ [[2007年]])
* 6月17日 - [[ディーン・マーティン]]、俳優(+ [[1995年]])
* [[6月20日]] - [[奈良友夫]]、元プロ野球選手(+ 生死不明)
* [[6月23日]] - [[溝部武夫]]、元プロ野球選手(+ 生死不明)
=== 7月 ===
* [[7月3日]] - [[中山正嘉]]、[[プロ野球選手]](+ [[1994年]])
* [[7月10日]] - [[市田夏生]]、プロ野球選手(+ 生死不明)
* [[7月12日]] - [[富松信彦]]、プロ野球選手(+ [[1983年]])
* 7月12日 - [[アンドリュー・ワイエス]]、[[画家]](+ [[2009年]])
* 7月12日 - [[斜里錦菊三]]、[[大相撲力士]](+ [[1950年]])
* [[7月14日]] - [[田中実 (投手)|田中実]]、プロ野球選手(+ 生死不明)
* [[7月15日]] - [[佐藤平七]]、元プロ野球選手(+ [[2007年]])
* [[7月17日]] - [[ドミトリ・ベリャーエフ]]、[[遺伝学者]](+ [[1985年]])
* 7月17日 - [[ルー・ブードロー]]、[[メジャーリーガー]](+ [[2001年]])
* [[7月21日]] - [[松尾敬宇]]、海軍軍人・[[特殊潜航艇によるシドニー港攻撃]]で戦死した士官の一人(+ [[1942年]])
* [[7月22日]] - [[浜口庫之助]]、[[作曲家]](+ [[1990年]])
=== 8月 ===
* [[8月4日]] - [[多々良純]]、俳優(+ [[2006年]])
* [[8月6日]] - [[野口明]]、[[プロ野球選手]](+ [[1996年]])
* 8月6日 - [[ロバート・ミッチャム]]、俳優(+ [[1997年]])
* [[8月7日]] - [[チャールズ・シブリー]]、[[生物学者]](+ [[1998年]])
* [[8月10日]] - [[青木正一]]、プロ野球選手(+ [[2004年]])
* [[8月14日]] - [[上田トシコ]]、[[漫画家]](+ [[2008年]])
* [[8月16日]] - [[安藤仁子]]、[[日清食品]]創業者・[[安藤百福]]の妻(+ [[2010年]])
* [[8月23日]] - [[伊藤桂一]]、小説家(+ [[2016年]])
* [[8月25日]] - [[メル・ファーラー]]、俳優(+ 2008年)
* [[8月28日]] - [[原正市]]、篤農家(+ [[2002年]])
=== 9月 ===
* [[9月2日]] - [[阿部重四郎]]、[[プロ野球選手]](+ 生死不明)
* [[9月9日]] - [[比留木虎雄]]、元プロ野球選手(+ 生死不明)
* 9月9日 - [[釣常雄]]、プロ野球選手(+ [[1996年]])
* [[9月10日]] - [[木村政彦]]、[[柔道家]](+ [[1993年]])
* [[9月11日]] - [[岩澤健吉]]、数学者(+ [[1998年]])
* 9月11日 - [[轟夕起子]]、女優(+ [[1967年]])
* 9月11日 - [[フェルディナンド・マルコス]]、第10代[[フィリピンの大統領|フィリピン大統領]](+ [[1989年]])
* [[9月13日]] - [[ロバート・ウォード]]、作曲家(+ [[2013年]])
* [[9月14日]] - [[ルドルフ・バウムガルトナー]]、[[指揮者]]・[[ヴァイオリニスト]](+ [[2002年]])
* [[9月15日]] - [[稲川善一]]、俳優(+ [[1997年]])
* [[9月17日]] - [[ボブ・ブロートン]]、[[撮影監督]](+ [[2009年]])
* 9月17日 - [[尹伊桑]]、作曲家(+ [[1995年]])
* [[9月20日]] - [[堤千代]]、[[直木三十五賞|直木賞]]受賞作家(+ [[1955年]])
* 9月20日 - [[遠藤忠二郎]]、プロ野球選手(+ 戦死)
* [[9月25日]] - [[フィル・リズート]]、[[メジャーリーガー]](+ [[2007年]])
* [[9月29日]] - [[ハリー・シャウプ]]、[[アメリカ合衆国]]の軍人。階級は大佐。[[北アメリカ航空宇宙防衛司令部|NORAD]]で司令官を務めていた際に、初の「サンタ追跡」を行った。(+ 2009年)
* 9月29日 - [[矢野口文雄]]、[[録音技師]](+ [[1985年]])
* [[9月30日]] - [[岩崎利夫]]、プロ野球選手(+ 没年不詳)
=== 10月 ===
* [[10月2日]] - [[下元勉]]、俳優(+ [[2000年]])
* [[10月7日]] - [[ジューン・アリソン]]、女優(+ [[2006年]])
* 10月7日 - [[久保田一竹]]、[[染色]]家(+ [[2003年]])
* [[10月10日]] - [[セロニアス・モンク]]、[[ジャズ]]ピアニスト(+ [[1982年]])
* [[10月12日]] - [[筒井修]]、[[プロ野球選手]](+ [[1990年]])
* [[10月14日]] - [[トニー谷]]、[[コメディアン]](+ [[1987年]])
* [[10月17日]] - [[アーサー・シュレジンジャー]]、[[アメリカ合衆国]]の歴史家(+ [[2007年]])
* 10月17日 - [[柏木雄介]]、[[大蔵省|大蔵]][[官僚]](+ [[2004年]])
* [[10月19日]] - [[佐藤喜久雄]]、プロ野球選手(+ [[1936年]])
* [[10月21日]] - [[ディジー・ガレスピー]]、ジャズ[[トランペット]]奏者(+ [[1993年]])
* [[10月22日]] - [[ジョーン・フォンテイン]]、[[東京府]]出身の[[アカデミー賞]]女優(+ [[2013年]])
* 10月22日 - [[丸尾千年次]]、プロ野球選手(+ 2000年)
* [[10月31日]] - [[桜井長一郎]]、[[声帯模写]]芸人(+ [[1999年]])
=== 11月 ===
* [[11月8日]] - [[ミハイル・ゴルトシュタイン]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[作曲家]](+ [[1989年]])
* [[11月14日]] - [[五味芳夫]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1988年]])
* 11月14日(旧暦[[9月30日 (旧暦)|9月30日]]) - [[朴正煕]]、第5-9代[[大統領 (大韓民国)|韓国大統領]](+ [[1979年]])
* [[11月17日]] - [[丸林久信]]、映画監督、脚本家、文筆家(+ [[1999年]])
* 11月17日 - [[清原初男]]、元プロ野球選手(+ 生死不明)
* [[11月19日]] - [[インディラ・ガンディー]]、第3代[[インド]][[首相]](+ [[1984年]])
* [[11月20日]] - [[二本柳寛]]、俳優(+ [[1970年]])
* 11月20日 - [[国兼孝治|國兼孝治]]、[[政治家]]、元[[岩見沢市]]市長(+[[1994年]])
* [[11月22日]] - [[武藤英司]]、俳優(+ 1999年)
* [[11月23日]] - [[横山薫範]]、海軍軍人・[[真珠湾攻撃]]で戦死した[[九軍神]]の一人(+ [[1941年]])
* [[11月26日]] - [[佐藤泰正]]、文芸評論家(+ [[2015年]])
* [[11月30日]] - [[竹内藤男]]、元[[茨城県]][[知事]](+ [[2004年]])
=== 12月 ===
* [[12月1日]] - [[マーティ・マリオン]]、[[メジャーリーガー]](+ [[2011年]])
* [[12月15日]] - [[宝生あやこ]]、女優(+ [[2015年]])
* [[12月16日]] - [[アーサー・C・クラーク]]、[[SF作家]](+ [[2008年]])
* [[12月19日]] - [[ヘンリー・グラハム・シャープ]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1995年]])
* [[12月21日]] - [[クルト・ヴァルトハイム]]、[[政治家]]、第4代国連事務総長(+ [[2007年]])
* [[12月22日]] - [[矢野幸夫]]、元[[調教師]]・馬の[[整体師]](+ [[2004年]])
* [[12月23日]] - [[浜田知明]]、[[版画家]]・[[彫刻家|彫刻家(+ 2018年)]]
* 12月23日 - [[水野良一]]、[[プロ野球選手]](+ [[1999年]])
=== 時期不明 ===
* 日付不明 - [[ジュルジュ・ルマール]]<ref>[[ブレイブウィッチーズ]]に登場した「ジョーゼット・ルマール」のイメージモデルとなった人物。</ref>。、[[エース・パイロット]](+ [[1948年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1917年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月10日]] - [[バッファロー・ビル]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[西部開拓時代]]の[[ガンマン]](* [[1846年]])
* [[1月31日]] - [[オットー・フィンシュ]]、[[民俗学者]]・[[博物学者]]・[[探検家]](* [[1839年]])
* [[2月7日]] - [[ジョゼフ・アレヴィ]]、[[言語学者]]・[[東洋学]]者(* [[1827年]])
* [[2月10日]] - [[ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス]]、[[画家]](* [[1849年]])
* [[2月16日]] - [[オクターヴ・ミルボー]]、[[作家]]・[[劇作家]](* [[1848年]])
* [[3月8日]] - [[フェルディナント・フォン・ツェッペリン]]、[[ツェッペリン]][[飛行船]]開発者(* [[1838年]])
* [[3月15日]] - [[山路愛山]]、[[評論家]]・[[歴史家]](* [[1865年]])
* [[3月27日]] - [[モージズ・イジーキエル]]、[[彫刻家]](* [[1844年]])
* [[3月31日]] - [[エミール・アドルフ・フォン・ベーリング]]、[[医学者]](* [[1854年]])
* [[4月1日]] - [[スコット・ジョプリン]]、[[作曲家]]・[[ピアニスト]](* [[1868年]])
* [[4月14日]] - [[ルドヴィコ・ザメンホフ]]、[[エスペラント]]考案者・[[眼科学|眼科]][[医師|医]](* [[1859年]])
* [[5月3日]] - [[伊沢修二]]、[[教育学者]]・[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]]及び[[東京盲唖学校]]校長(* [[1851年]])
* [[7月12日]] - [[ヒューゴ・シンベリ]]、画家(* [[1873年]])
* [[8月2日]] - [[三富朽葉]]、[[詩人]](* [[1889年]])
* 8月2日 - [[今井白楊]]、詩人(* 1889年)
* [[8月19日]] - [[菊池大麓]]、[[数学者]]・[[文部省|文部]][[官僚]]・[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員・[[政治家]](* [[1855年]])
*[[9月11日]]-[[ジョルジュ・ギンヌメール]]、[[パイロット]]{{要曖昧さ回避|date=2023年6月}}(*[[1894年]])
* [[9月27日]] - [[エドガー・ドガ]]、画家(* [[1834年]])
* [[10月8日]] - [[セルヒー・ヴァシリキウシキー]]、画家(* [[1854年]])
* [[10月15日]] - [[マタ・ハリ]]、[[スパイ]](* [[1876年]])
* [[10月23日]] - [[ウジェーヌ・グラッセ]]、装飾芸術家(* [[1845年]])
* 10月23日 - [[片山東熊]]、[[建築家]](* [[1854年]])
* [[11月9日]] - [[マッジ・サイアーズ]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1881年]])
* [[11月11日]] - [[リリウオカラニ]]、第8代[[ハワイ王国]]女王(* 1838年)
* [[11月15日]] - [[エミール・デュルケーム]]、[[社会学者]](* [[1858年]])
* [[11月17日]] - [[オーギュスト・ロダン]]、[[彫刻家]](* [[1840年]])
* [[12月13日]] - [[青山胤通]]、[[医学者]](* [[1859年]])
* [[12月21日]] - [[山尾庸三]]、[[政治家]](* [[1837年]])
== ノーベル賞 ==
* [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[チャールズ・バークラ]]([[イギリス]])
* [[ノーベル化学賞|化学賞]] - 該当者なし
* [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - 該当者なし
* [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[ヘンリク・ポントピダン]]([[デンマーク]])、[[カール・ギェレルプ]](デンマーク)
* [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[赤十字国際委員会]]
== フィクションのできごと ==
* 9月 - [[ウクライナ]]西部のヴルタフェル台地にて塹壕を構築中だった[[ロシア帝国陸軍|ロシア軍]]部隊が、いかなる動物のものにも該当しない「[[ユニコーン|一角獣]]の頭骨」を偶然に発掘。生物学を学んでいた部隊指揮官の大尉によって、[[サンクトペテルブルク大学|ペトログラード大学]]の生物学主任教授に報告される。(小説『[[世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 村上春樹|authorlink=村上春樹 |title = 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上) |publisher = [[新潮社]] |year = 1988 |pages = 172-176 |isbn = 978-4-10-100134-0}}</ref>
* いちご坂がノワールの手によって闇に落ちるも、当時のプリキュア・ルミエルがノワールと戦い、その一方でいちご坂の人々にスイーツを作って勇気付ける。(アニメ『[[キラキラ☆プリキュアアラモード]]』)
* アニメ 『[[名探偵コナン 世紀末の魔術師]]』に登場する[[インペリアル・イースター・エッグ]]の「ボスポミナーニエ」は1917年製である([[ピーター・カール・ファベルジェ|ファベルジェ]]のカタログに記録が残るという設定)。
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|3}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1917}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1902365 国民年鑑] - 1917年刊
{{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:1917ねん}}
[[Category:1917年|*]] | 2003-02-20T09:43:17Z | 2023-11-28T22:57:09Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1917%E5%B9%B4 |
2,492 | SFアニメ | SFアニメ(エスエフアニメ)は、科学、もしくはサイエンス・フィクションをテーマとしたり、あるいは舞台背景や小道具に用いたアニメ作品を指す。
SF自身の定義が曖昧なためSF小説と同じく、ある作品がSFか否かの明確な線引きは難しい。製作者側からジャンルとして名乗る場合もあれば、「SFだと売れないから」と他のジャンル名を名乗る場合もある。 | [
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"title": "概要"
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] | SFアニメ(エスエフアニメ)は、科学、もしくはサイエンス・フィクションをテーマとしたり、あるいは舞台背景や小道具に用いたアニメ作品を指す。 | {{出典の明記|date=2019年7月10日 (水) 02:13 (UTC)}}
'''SFアニメ'''(エスエフアニメ)は、[[科学]]、もしくは[[サイエンス・フィクション]]をテーマとしたり、あるいは舞台背景や小道具に用いた[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]作品を指す。
== 概要 ==
SF自身の定義が曖昧なため[[サイエンス・フィクション|SF小説]]と同じく、ある作品がSFか否かの明確な線引きは難しい。製作者側からジャンルとして名乗る場合もあれば、「SFだと売れないから」と他のジャンル名を名乗る場合もある。
{{Seealso|サイエンス・フィクション#SFアニメはSFか?}}
{{サイエンス・フィクション}}
{{DEFAULTSORT:えすえふあにめ}}
[[Category:SFアニメ|*]] | null | 2022-04-18T12:13:24Z | false | false | false | [
"Template:サイエンス・フィクション",
"Template:出典の明記",
"Template:Seealso"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/SF%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1 |
2,493 | 1911年 | 1911年(1911 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。明治44年。
この項目では、国際的な視点に基づいた1911年について記載する。
※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。 | [
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"title": "他の紀年法"
}
] | 1911年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。明治44年。 この項目では、国際的な視点に基づいた1911年について記載する。 | {{Otheruses||日本ローカルの事柄|1911年の日本}}
{{年代ナビ|1911}}
{{YearInTopic
| BC =
| 千年紀 = 2
| 世紀 = 20
| 年代 = 1910
| 年 = 1911
}}
{{year-definition|1911}}
この項目では、国際的な視点に基づいた1911年について記載する。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[辛亥]]<!--(かのと い)-->
* [[日本]](月日は一致)
** [[明治]]44年
** [[皇紀]]2571年
* [[中国]]
** [[清]]:[[宣統]]2年12月1日 - 宣統3年11月12日
* [[朝鮮]](月日は一致)
** [[檀君紀元|檀紀]]4244年
* [[ベトナム]]
** [[阮朝]] :[[維新 (阮朝)|維新]]4年12月1日 - 維新5年11月12日
* [[仏滅紀元]] : 2453年10月2日 - 2454年10月11日
* [[ヒジュラ暦]](イスラム暦) : 1328年12月29日 - 1330年1月10日
* [[ユダヤ暦]] : 5671年4月1日 - 5672年4月10日
* [[修正ユリウス日]](MJD) : 19037 - 19401
* [[リリウス日]](LD) : 119878 - 120242
<div style="font-size:smaller">
※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。
</div>
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1911}}
== できごと ==
=== 1月 ===
* 1月某日 - [[フリードリヒ・ニーチェ]]「ツアラツウストラ」 (「[[ツァラトゥストラはこう語った|ツァラトゥストラはかく語りき]]」) 日本語訳。
=== 2月 ===
* [[2月21日]] - [[日米通商航海条約]]が調印され、日本の[[関税自主権]]が回復される。([[小村壽太郎|小村寿太郎]])
=== 3月 ===
* [[3月29日]] - [[コルト・ファイヤーアームズ|コルト]][[M1911]]が[[アメリカ軍]]に制式採用される。
=== 4月 ===
* [[4月22日]] - 清華学堂(現・[[清華大学]])設立。
=== 5月 ===
* [[5月9日]] - [[清]]が[[幹線鉄道国有化令]]を発布する。
=== 6月 ===
* [[6月15日]] - [[ニューヨーク州]]でC-T-R(現・[[IBM]])創業。
=== 7月 ===
* [[7月1日]] - [[ドイツ帝国]]軍艦が[[モロッコ]]のアガディール港に寄港し、[[フランス]]を威嚇する([[アガディール事件]])。
* [[7月13日]] - 第3次[[日英同盟]]協約締結。
* [[7月24日]] - [[イェール大学]]の歴史家[[ハイラム・ビンガム3世]]が[[マチュ・ピチュ]]遺跡を発見。
=== 8月 ===
* [[8月18日]] - [[イギリス]]で議会法が制定され、[[下院]]の優越が法制化される。
* [[8月21日]] - イタリア人[[ビンセンツォ・ペルージャ]]により[[ルーブル美術館]]から「[[モナリザ]]」が盗まれる。
=== 9月 ===
* [[9月14日]] - [[ロシア帝国]]首相[[ストルイピン]]が狙撃される。
* [[9月29日]] - 北アフリカのオスマン帝国領をめぐって、[[イタリア王国]]が[[オスマン帝国]]に宣戦布告する([[イタリア・トルコ戦争]])
=== 10月 ===
* [[10月10日]] - 清で[[武昌新軍]]が蜂起する。[[辛亥革命]]の始まり。
=== 11月 ===
* [[11月4日]] - モロッコに関する独仏協定が結ばれる。モロッコではフランスの権益が認められ、ドイツが[[仏領コンゴ]]の一部を獲得する。
* [[11月30日]] - [[外モンゴル]](後の[[モンゴル国]])が[[清]]から独立宣言
* 11月某日 - [[メキシコ革命]]で、農民派の[[エミリアーノ・サパタ|サパタ]]が蜂起する。
* 11月某日 - [[フランス映画]]『[[ジゴマ]]』日本公開、大ヒット。
=== 12月 ===
* [[12月14日]] - [[ロアール・アムンセン]]が[[南極点]]に到達
=== 日付不詳 ===
* [[ヘイケ・カメルリング・オネス]]が[[超伝導]]現象を発見。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1911年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
=== 1月 ===
* [[1月1日]] - [[ハンク・グリーンバーグ]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1986年]])
* [[1月11日]] - [[鈴木善幸]]、第70代[[内閣総理大臣]](+ [[2004年]])
* [[1月19日]] - [[藤牧義夫]]、[[版画]]家(+ [[1935年]])
* [[1月26日]] - [[柴田勝治]]、[[アマチュアボクシング]]選手・指導者、第11代[[日本オリンピック委員会]]委員長 (+ [[1994年]])
* [[1月29日]] - [[ブロニスワフ・ギンペル]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1979年]])
=== 2月 ===
* [[2月4日]] - [[馬淵薫]]、[[脚本家]](+ [[1987年]])
* [[2月6日]] - [[ロナルド・レーガン]]、俳優、第40代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[2004年]])
* [[2月26日]] - [[岡本太郎]]、[[芸術家]](+ [[1996年]])
=== 3月 ===
* [[3月9日]] - [[ジョン・ラウンズベリー]]、[[アニメーター]](+ [[1976年]])
* [[3月24日]] - [[ジョセフ・バーベラ]]、[[アニメーター]](+ [[2006年]])
* [[3月26日]] - [[テネシー・ウィリアムズ]]、[[劇作家]](+ [[1983年]])
* 3月26日 - [[ベルンハルト・カッツ]]、[[生理学]]者(+ [[2003年]])
=== 4月 ===
* [[4月8日]] - [[メルヴィン・カルヴィン]]、[[化学者]](+ [[1997年]])
* 4月8日 - [[エミール・シオラン]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1995年]])
* 4月8日 - [[藤山一郎]]、[[声楽家]](+[[1993年]])
* [[4月23日]] - [[シモーヌ・シモン]]、[[俳優|女優]](+ [[2005年]])
=== 5月 ===
* [[5月1日]] - [[アンソニー・サレルノ]]、[[マフィア]]の指導者(+ [[1992年]])
* [[5月8日]] - [[ロバート・ジョンソン]]、ブルースマン(+ [[1938年]])
* [[5月15日]] - [[マックス・フリッシュ]]、[[作家]]・[[建築家]](+ [[1991年]])
* [[5月24日]] - [[ハロルド・コンウェイ]]、俳優(+ [[1996年]])
* 5月24日 - [[ネ・ウィン]]、ビルマの[[政治家]]・[[軍人]](+ [[2002年]])
=== 6月 ===
* [[6月4日]] - [[ミロヴァン・ジラス]]、[[ユーゴスラビア]]の政治家・理論家(+ [[1995年]])
* [[6月9日]] - [[フランク・マコーミック]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1982年]])
* [[6月10日]] - [[テレンス・ラティガン]]、[[劇作家]](+ [[1977年]])
* [[6月15日]] - [[ウィルバート・オードリー]]、[[汽車のえほん]]作者(+ [[1997年]])
* [[6月24日]] - [[ファン・マヌエル・ファンジオ]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー(+ [[1995年]])
* [[6月29日]] - [[バーナード・ハーマン]]、[[作曲家]](+ [[1975年]])
=== 7月 ===
* [[7月2日]] - [[ディエゴ・ファッブリ]]、[[作家]]・[[脚本家]](+ [[1980年]])
* [[7月5日]] - [[ジョルジュ・ポンピドゥー]]、[[政治家]]、フランス第五共和政第2代大統領(+ [[1974年]])
* [[7月9日]] - [[マーヴィン・ピーク]]、[[ファンタジー]][[作家]]・[[画家]]・[[詩人]]・[[イラストレーター]](+ [[1968年]])
* [[7月21日]] - [[マーシャル・マクルーハン]]、[[英文学者]]・文明批評家(+ 1980年)
=== 8月 ===
* [[8月7日]] - [[ニコラス・レイ]]、[[映画監督]](+ [[1979年]])
* [[8月17日]] - [[ミハイル・ボトヴィニク]]、第7・9・11代[[チェスの世界チャンピオン一覧|チェスの公式世界チャンピオン]](+ [[1995年]])
* [[8月25日]] - [[ビビ=アンネ・フルテン]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[2003年]])
* 8月25日 - [[ヴォー・グエン・ザップ]]、ベトナムの[[軍人]]・[[政治家]](+ [[2013年]])
=== 9月 ===
* [[9月19日]] - [[ウィリアム・ゴールディング]]、イギリスの[[作家]](+ [[1993年]])
* [[9月24日]] - [[コンスタンティン・チェルネンコ]]、[[ソビエト連邦]][[書記長]](+ [[1985年]])
* [[9月24日]] - [[巖金四郎]]、[[声優]](+ [[1994年]])
* [[9月29日]] - [[ドン・ダグラディ]]、[[アニメーター]](+ [[1991年]])
=== 10月 ===
* [[10月5日]] - [[徳大寺伸]]、[[俳優]](+ [[1995年]])
* [[10月12日]] - [[マリベル・ビンソン]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1961年]])
* [[10月13日]] - [[アンドレ・ナヴァラ]]、[[チェリスト]](+ [[1988年]])
* [[10月21日]] - [[メアリー・ブレア]]、[[芸術家]](+ [[1978年]])
* [[10月30日]] - [[アイリーン・アッシュ]]、[[クリケット]]選手(+ [[2021年]])
=== 11月 ===
* [[11月1日]] - [[富田仲次郎]]、[[俳優]](+ [[1990年]])
* [[11月2日]] - [[オデッセアス・エリティス]]、[[詩人]](+ [[1996年]])
* [[11月11日]]- [[マルタ・ゲネンゲル]]、[[競泳]]選手(+ [[1995年]])
* [[11月24日]] - [[ジョー・メドウィック]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1975年]])
* [[11月26日]] - [[サミュエル・ハーマン・レシェフスキー]]、[[チェス]]の選手(+ [[1992年]])
=== 12月 ===
* [[12月1日]] - [[ウォルター・オルストン]]、[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]][[監督]](+ [[1984年]])
* [[12月3日]] - [[ニーノ・ロータ]]、[[作曲家]](+ [[1979年]])
* [[12月5日]] - [[ウワディスワフ・シュピルマン]]、[[ピアニスト]](+ [[2000年]])
* [[12月11日]] - [[銭学森]]、[[航空力学]]研究者(+ [[2009年]])
* [[12月14日]] - [[ハンス・フォン・オハイン]]、航空エンジニア(+ [[1998年]])
* [[12月21日]] - [[ジョシュ・ギブソン]]、[[野球選手]](+ [[1947年]])
* [[12月23日]] - [[村上冬樹]]、[[俳優]](+ [[2007年]])
* [[12月25日]] - [[ルイーズ・ブルジョワ]]、[[彫刻家]](+ [[2010年]])
=== 日付不詳 ===
* 日付不詳 - [[呉明捷]]、[[野球選手]](+ [[1983年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1911年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
=== 2月 ===
* [[2月19日]] - [[ポール・モートン]]、[[アメリカ合衆国海軍長官]](* [[1857年]])
* [[2月24日]] - [[ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル]]、[[画家]](* [[1836年]])
=== 3月 ===
* [[3月1日]] - [[ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフ]]、[[化学者]]・[[ノーベル化学賞]]受賞者(* [[1852年]])
* [[3月29日]] - [[アレクサンドル・ギルマン]]、[[オルガニスト]]・作曲家(* [[1837年]])
=== 4月 ===
* [[4月10日]] - [[ミカロユス・チュルリョーニス]]、[[画家]]・[[作曲家]](* [[1875年]])
* [[4月13日]] - [[アディ・ジョス]]、[[メジャーリーガー]](* [[1880年]])
=== 5月 ===
* [[5月18日]] - [[グスタフ・マーラー]]、作曲家・[[指揮者]](* [[1860年]])
* [[5月21日]] - [[ウィリアミーナ・フレミング]]、[[天文学者]](* [[1857年]])
* [[5月22日]] - [[エリザベス・スミス・ミラー]]、[[女性解放運動|女性解放運動家]](* [[1822年]])
* [[5月24日]] - [[エルンスト・レーマク]]、[[医学博士]](* [[1849年]])
* [[5月25日]] - [[ヴァシリー・クリュチェフスキー]]、[[歴史家]](* [[1841年]])
=== 6月 ===
* 6月11日 - [[ジェームス・カーティス・ヘボン]]、[[宣教師]]・[[医師]](* [[1815年]])
* [[6月14日]] - [[ヨハン・スヴェンセン]]、作曲家・指揮者・[[クラシック音楽の演奏家一覧#ヴァイオリン奏者|ヴァイオリニスト]](* [[1840年]])
* [[6月21日]] - [[ロベルト・ラデッケ]]、[[音楽家]](* [[1830年]])
=== 7月 ===
* [[7月5日]] - [[マリア・ピア・デ・サボイア]]、[[ポルトガル]]国王[[ルイス1世 (ポルトガル王)|ルイス1世]]王妃(* [[1847年]])
* [[7月11日]] - [[メリット・ギフィン]]、[[陸上競技選手]](* [[1887年]])
=== 8月 ===
* [[8月5日]] - [[ボブ・カラザーズ]]、[[メジャーリーガー]](* [[1864年]])
* [[8月29日]] - [[マフブーブ・アリー・ハーン]]、[[ニザーム王国|ニザーム藩王国]]の君主(* [[1866年]])
* [[8月31日]] - [[ウィル・ホワイト]]、[[メジャーリーガー]](* [[1854年]])
=== 9月 ===
* [[9月18日]] - [[ピョートル・ストルイピン]]、[[ロシア帝国]][[首相]](* [[1862年]])
* [[9月22日]] - [[オスカル・ケルネル]]、[[農芸化学|農芸化学者]](* [[1851年]])
=== 10月 ===
* [[10月1日]] - [[ヴィルヘルム・ディルタイ]]、[[哲学者]](* [[1833年]])
* [[10月8日]] - [[楊文会]]、[[仏教学者]](* [[1837年]])
* [[10月18日]] - [[アルフレッド・ビネー]]、[[心理学者]](* [[1857年]])
* [[10月24日]] - [[アイダ・ルイス]]、[[灯台|灯台守]](* [[1842年]])
* [[10月29日]] - [[ジョーゼフ・ピューリツァー]]、ジャーナリスト(* [[1847年]])
=== 11月 ===
=== 12月 ===
* [[12月1日]] - [[ワシーリー・マクシモフ]]、[[画家]](* [[1844年]])
* [[12月5日]] - [[アイシングラス (競走馬)|アイシングラス]]、[[競走馬]]・[[種牡馬]](* [[1890年]])
* [[12月10日]] - [[ジョセフ・ダルトン・フッカー]]、[[植物学|植物学者]](* [[1817年]])
* [[12月13日]] - [[トーマス・ブレーク・グラバー]]、[[商人]](* [[1838年]])
* [[12月21日]] - [[ロドルフ・ラドー]]、[[数学者]]・天文学者(* [[1835年]])
=== 日付不詳 ===
* 日付不詳 - [[マルク・ドラフォンテーヌ]]、化学者(* [[1837年]])
== ノーベル賞 ==
* [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[ヴィルヘルム・ヴィーン]]
* [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[マリ・キュリー]]
* [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[アルヴァル・グルストランド]]
* [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[モーリス・メーテルリンク]]
* [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[トビアス・アッセル]]、[[アルフレッド・フリート|アルフレッド・ヘルマン・フリート]]
== フィクションのできごと ==
* [[火星]]で封印されていた破壊神スーテックが科学者マーカスに憑依する。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』)
* 空間のひずみを利用して飛行する宇宙船を用いることによって、[[太陽系]]内のすべての生存可能な惑星に人類が到達。その過程で[[月]]・[[金星]]・[[火星]]にて[[宇宙人|知能を持つ生物]]と接触し、そのうち敵対的だった火星人との間で火星を戦場とした惑星間戦争が勃発する。(小説『[[発狂した宇宙]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= フレドリック・ブラウン|authorlink=フレドリック・ブラウン |title = 発狂した宇宙 |publisher = [[早川書房]] |year = 1977 |pages = 98,102,103,106-108 |isbn = 978-4-15-010222-7}}</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1911}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
{{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}}
{{デフォルトソート:1911ねん}}
[[Category:1911年|*]] | 2003-02-20T09:52:50Z | 2023-10-13T20:04:05Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1911%E5%B9%B4 |
2,494 | 1906年 | 1906年(1906 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。明治39年。
※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。
以下に、過去の主な出来事からの区切りの良い年数(周年)を記す。 | [
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] | 1906年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。明治39年。 | {{出典の明記|date=2023年5月}}
{{年代ナビ|1906}}
{{YearInTopic
| BC =
| 千年紀 = 2
| 世紀 = 20
| 年代 = 1900
| 年 = 1906
}}
{{year-definition|1906}}
== 他の紀年法 ==
* [[干支]]:[[丙午]]
* [[日本]](月日は一致)
** [[明治]]39年
** [[皇紀]]2566年
* [[清]]
** [[光緖]]31年12月7日 - 光緖32年11月16日
* [[朝鮮]](月日は一致)
** [[大韓帝国]]・[[光武 (元号)|光武]]10年
** [[檀君紀元|檀紀]]4239年
* [[阮朝]]([[ベトナム]])
** [[成泰]]17年12月7日 - 成泰18年11月16日
* [[仏滅紀元]]:2448年10月7日 - 2449年閏10月1日
* [[ヒジュラ暦]](イスラム暦):1323年11月5日 - 1324年11月15日
* [[ユダヤ暦]]:5666年4月4日 - 5667年4月14日
* [[修正ユリウス日]](MJD):17211 - 17575
* [[リリウス日]](LD):118052 - 118416
<div style="font-size:smaller">
※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。
</div>
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1906}}
== できごと ==
=== 1月 ===
* [[1月7日]] - [[第1次西園寺内閣]]成立
* [[1月16日]] - [[アルヘシラス会議]]が開催(〜4月7日)
* [[1月28日]] - [[日本社会党]]結成([[堺利彦]]ら)
* [[1月31日]] - [[コロンビア]]沖で[[マグニチュード]]8.8の[[巨大地震|大地震]]
=== 2月 ===
* [[2月10日]] - 英海軍の戦艦「[[ドレッドノート (戦艦)|ドレッドノート]]」が進水。
* [[2月16日]] - 英国で労働代表委員会が[[労働党 (イギリス)|労働党]]と改称
* [[2月17日]] - [[文芸協会]]設立([[島村抱月]]ら)
=== 3月 ===
* [[3月3日]] - [[伊藤博文]]が[[韓国統監府]]の初代統監に就任
* [[3月10日]] - 第一回[[陸軍記念日]]
* [[3月14日]] - [[白洋舍]]創業
* [[3月19日]] - [[イギリス]]が[[満洲]]の門戸開放を要求
* [[3月20日]] - [[帝国図書館]]開館(上野に移転)
* [[3月26日]] - [[大日本麦酒|大日本麦酒会社]]設立([[札幌麦酒]]・[[日本麦酒]]・[[大阪麦酒]]が合併)
* [[3月31日]] - [[鉄道国有法]]公布(4月20日施行)
=== 4月 ===
* [[4月16日]] - [[東海道本線]]で[[最急行]]を設定(急行料金を初めて徴収)
* [[4月18日]] - [[サンフランシスコ地震]]
* [[4月22日]] - [[アテネオリンピック (1906年)|アテネオリンピック]]開催(〜5月2日)
* [[4月28日]] - [[ミラノ万国博覧会 (1906年)|ミラノ万国博覧会]]開催(〜11月11日)
=== 5月 ===
* [[5月1日]] - [[新宿御苑]]開苑式
=== 6月 ===
* [[6月12日]] - 在韓日本軍が[[崔益鉉]]らの排日暴動を鎮圧
=== 7月 ===
* [[7月12日]] - [[フランス]]で[[ドレフュス事件]]の[[冤罪]]確定
* [[7月20日]] - 日本初の[[専用線]]電話が[[日本銀行]]と[[横浜正金銀行]]本店間に設置
=== 8月 ===
* [[8月4日]] – [[帝国ドイツ海軍]]の第1[[潜水艦]][[SM U-1 (ドイツ)|U-1]]が進水した。
=== 9月 ===
* [[9月1日]] - [[ゴールデンバット]]販売開始
* [[9月11日]] - [[マハトマ・ガンディー]]が[[南アフリカ]]にて非暴力の抵抗運動を組織。
* [[9月28日]] - [[新渡戸稲造]]が[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]][[校長]]に就任
=== 10月 ===
* [[10月11日]] - [[サンフランシスコ]]市が日本人学童の隔離を命令
* [[10月16日]] - ケペニックの大尉事件([[ヴィルヘルム・フォークト]])
=== 11月 ===
* [[11月1日]] - [[日本鉄道]]国有化
* [[11月3日]] - [[ベルリン]]で開かれた第一回国際無線電信会議において世界統一の[[遭難信号]]として[[SOS]]を採択。
* [[11月10日]] - 応援の過熱により[[早慶戦]]中止([[1925年]]まで復活せず)。
* [[11月26日]] - [[南満洲鉄道]]設立
=== 12月 ===
* [[12月8日]] - 旧[[函館中華会館]]が完成(但し翌年[[火災|大火]]により消失、現在の建物は[[1910年]]に完成)
* [[12月15日]] - [[逓信省]]、[[年賀状|年賀郵便]]の受付を初めて開始。
* [[12月26日]] - [[徳川光圀]]以来続けられてきた『[[大日本史]]』の編纂完了が[[明治天皇]]に報告される。
* [[12月28日]] - インドで[[国民会議派]]カルカッタ大会開催(英貨排斥・[[スワラージ]]・[[スワデーシー]]・民族教育の4綱領を採択)
* [[12月30日]] - インドの親英的なイスラム教徒によって[[インド・ムスリム連盟]]が創立される。
=== 日付不詳 ===
* 1月 - 在米公使館が大使館に昇格(初代在米大使は[[青木周蔵]])
* 1月 - 在独公使館が大使館に昇格(初代在独大使は[[井上勝之助]])
* 1月 - 在仏公使館が大使館に昇格(初代在仏大使は[[栗野慎一郎]])
* 1月 - [[桑木厳翼]]、論文「プラグマティズムに就いて」(「哲学雑誌」)。
* 5月 - [[岡倉天心|岡倉覚三]] ''The Book of Tea''(「[[茶の本]]」)。
* 6月 - [[幸徳秋水]]が米国から帰国。[[無政府主義]]の影響を受けた。
* 11月 - [[ロシア]]で[[ストルイピン]]による農業改革が始まる。
* [[ド・フォレスト]]が三極[[真空管]]を発明。
* [[東久邇宮稔彦王]]が東久邇宮家を創立。
* [[フィンランド]]で[[女性参政権]]を付与
* ビルマで青年仏教連盟 (YMBA) 結成
* [[夏目漱石]]『[[坊っちゃん]]』『草枕』
* [[アプトン・シンクレア|シンクレア]]『ジャングル』
* [[島崎藤村]]『破戒』
* [[薄田泣菫]]『白羊宮』
* 国民会議派のカルカッタ大会が行われた([[インド国民会議]])
* [[レオ・ベークランド]]が[[ベークライト]]を発明する。ベークランドは[[化学反応]]の[[温度]]と[[圧力]]を[[調整]]できる[[ベークライザー]]を[[作成]]し、ベークライトを[[化学合成|合成]]した。ベークライトは世界初の[[合成物質]]だった。{{Sfn|ゴーガン|2012|pp=108-111|ps=「初の合成物質ベークライトの発明」}}
* [[救世軍]]が東京の[[芝 (東京都港区)|芝]]で無料の[[職業紹介所]]を開設<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.shokugyo-kyokai.or.jp/shiryou/gyouseishi/07-1.html |title=職業安定行政史 第7章総括 |publisher=日本食業協会 |date= |accessdate=2022-06-09}}</ref>。後に公設の職業紹介所(戦前)、[[公共職業安定所]](戦後)の設置に影響を与えた。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1906年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
=== 1月 ===
* [[1月2日]] - [[三島雅夫]]、[[俳優]](+ [[1973年]])
* [[1月3日]] - [[豊田四郎]]、[[映画監督]](+ [[1977年]])
* 1月3日 - [[田中伊三次]]、[[弁護士]]・[[法学者]]・[[政治家]]・[[ロッキード事件]]調査委員長(+ [[1987年]])
* [[1月6日]] - [[杉村春子]]、[[俳優|女優]](+ [[1997年]])
* 1月6日 - [[ジョージ・レドヤード・ステビンズ]]、[[植物学者]]・[[遺伝学者]](+ [[2000年]])
* [[1月9日]] - [[オスカー・ドミンゲス]]、[[画家]]・[[美術家]](+ [[1957年]])
* [[1月11日]] - [[アルバート・ホフマン (化学者)|アルバート・ホフマン]]、[[化学者]](+ [[2008年]])
* [[1月13日]] - [[周有光]]、[[経済学者]]・[[言語学者]](+ [[2017年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/smp/life/news/170114/lif1701140062-s1.html|title=中国語ピンインの父、周有光氏死去|publisher=産経ニュース|date=2017-01-14|accessdate=2020-11-04}}</ref>)
* [[1月14日]] - [[小谷正雄]]、[[物理学者]](+ [[1993年]])
* [[1月15日]] - [[アリストテレス・オナシス]]、ギリシャの[[実業家]](+ [[1975年]])
* [[1月20日]] - [[四家文子]]、[[歌手]]・[[声楽家]](+ [[1981年]])
* [[1月21日]] - [[永田雅一]]、[[映画]]製作者・[[千葉ロッテマリーンズ|大毎・東京・ロッテオリオンズ]]オーナー(+ [[1985年]])
* [[1月22日]] - [[ロバート・E・ハワード]]、[[SF作家]]・[[ファンタジー]]作家(+ [[1936年]])
* [[1月24日]] - [[ウィルフレッド・ジャクソン]]、[[映画監督]](+ [[1988年]])
* [[1月27日]] - [[山中直治]]、[[作曲家]](+ [[1937年]])
=== 2月 ===
* [[2月4日]] - [[ディートリヒ・ボンヘッファー]]、[[ルター派]]の[[牧師]]・[[神学者]](+ [[1945年]])
* 2月4日 - [[クライド・トンボー]]、[[天文学者の一覧|天文学者]](+ [[1997年]])
* [[2月5日]] - [[ジョン・キャラダイン]]、アメリカの[[俳優]](+ [[1988年]])
* [[2月6日]] - [[岩佐凱実]]、[[銀行家]](+ [[2001年]])
* [[2月7日]] - [[愛新覚羅溥儀]]、[[清朝]]最後の[[皇帝]]、[[満洲国]]皇帝(+ [[1967年]])
* 2月7日 - [[オリェーク・アントーノフ]]、[[航空機]]設計者(+ [[1984年]])
* 2月7日 - [[浜村純]]、[[俳優]](+ [[1995年]])
* [[2月8日]] - [[野長瀬正夫]]、[[詩人]]・[[児童文学者]](+ 1984年)
* [[2月10日]] - [[ロン・チェイニー・ジュニア]]、俳優(+ [[1973年]])
* [[2月12日]] - [[薮内清]]、[[日本の天文学者の一覧|天文学者]]・[[科学史|科学史家]](+ [[2000年]])
* [[2月14日]] - [[林正義]]、[[大日本帝国海軍|海軍]][[軍人]](最終階級:海軍[[中尉]]) (+ [[1980年]])
* [[2月18日]] - [[ハンス・アスペルガー]]、[[医学者]](+ 1980年)
* [[2月23日]] - [[藤井丙午]]、[[実業家]]・[[財界人]](+ 1980年)
* [[2月24日]] - [[日向方斎]]、経営者・財界人(+ [[1993年]])
* [[2月26日]] - [[川崎守之助]]、[[東京川崎財閥]]3代目当主(+ [[1977年]])
* [[2月28日]] - [[ベンジャミン・シーゲル]]、[[ギャング|ギャングスタ]](+ [[1947年]])
=== 3月 ===
* [[3月4日]] - [[瀧花久子]]、[[俳優#性別での分類|女優]](+ [[1985年]])
* [[3月5日]] - [[中山素平]]、銀行家(+ [[2005年]])
* [[3月10日]] - [[横沢四郎]]、[[プロ野球選手]](+ [[1981年]])
* 3月10日 - [[大貫賢]]、プロ野球選手(+ [[1975年]])
* [[3月12日]] - [[印順]]、[[僧]]・[[仏教学者]](+ [[2005年]])
* [[3月16日]] - [[ポール・ウェイナー]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1965年]])
* [[3月18日]] - [[森茂雄]]、プロ野球選手(+ [[1977年]])
* [[3月19日]] - [[アドルフ・アイヒマン]]、[[ナチス・ドイツ]][[親衛隊中佐]](+ [[1962年]])
* [[3月20日]] - [[エイブラハム・ビーム]]、[[ニューヨーク市長]](+ [[2001年]])
* [[3月21日]] - [[ジョン・ロックフェラー3世]]、[[実業家]](+ [[1978年]])
* 3月21日 - [[久保田孝]]、[[コピーライター]](+ [[1966年]])
* [[3月28日]] - [[田部武雄]]、野球選手(+ 1945年)
* 3月28日 - [[伊藤真乗]]、[[宗教家]](+ [[1989年]])
* [[3月31日]] - [[朝永振一郎]]、[[物理学者]](+ [[1979年]])
* 3月31日 - [[瀬川美能留]]、[[実業家]](+ [[1991年]])
=== 4月 ===
* [[4月6日]] - [[和田芳恵]]、[[小説家]](+ [[1977年]])
* [[4月9日]] - [[アンタル・ドラティ]]、[[指揮者]](+ [[1988年]])
* [[4月13日]] - [[サミュエル・ベケット]]、[[劇作家]]・[[小説家]](+ [[1989年]])
* [[4月16日]] - [[ヤコブ・ギンペル]]、[[ピアニスト]](+ 1989年)
* [[4月22日]] - [[エディ・アルバート]]、俳優(+ [[2005年]])
* [[4月28日]] - [[クルト・ゲーデル]]、[[数学者]](+ 1978年)
* 4月28日 - [[パウル・ザッハー]]、指揮者(+ [[1999年]])
=== 5月 ===
* [[5月3日]] - [[メアリー・アスター]]、女優(+ [[1987年]])
* [[5月6日]] - [[アンドレ・ヴェイユ]]、数学者(+ [[1998年]])
* [[5月8日]] - [[ロベルト・ロッセリーニ]]、[[映画監督]](+ [[1977年]])
* [[5月9日]] - [[金子鷗亭]]、[[書家]](+ [[2001年]])
* [[5月10日]] - [[吉行エイスケ]]、小説家(+ [[1940年]])
* [[5月11日]] - [[ジャクリーン・コクラン]]、[[パイロット (航空)|パイロット]](+ [[1980年]])
* [[5月24日]] - [[川島芳子]]、[[清|清朝]]王女(+ [[1948年]])
* 5月24日 - [[ハリー・ハモンド・ヘス]]、[[海洋科学者]](+ [[1969年]])
* [[5月25日]] - [[村上朝一]]、第6代[[最高裁判所長官]](+ 1987年)
=== 6月 ===
* [[6月1日]] - [[ウォルター・レッグ]]、レコーディング・プロデューサー(+ [[1979年]])
* [[6月2日]] - [[橋本龍伍]]、元[[文部大臣]]・[[厚生大臣]](+ [[1962年]])
* [[6月3日]] - [[ジョセフィン・ベーカー]]、[[ジャズ]][[歌手]](+ [[1975年]])
* 6月3日 - [[八田一朗]]、[[アマチュアレスリング]]選手・[[政治家]](+ [[1983年]])
* [[6月7日]] - [[渋谷天外 (2代目)]]、[[喜劇俳優]]・[[劇作家]](+ [[1983年]])
* [[6月9日]] - [[陸定一]]、中華人民共和国の政治家(+ [[1996年]])
* [[6月10日]] - [[テクラ・ユニェヴィチ]]、[[スーパーセンテナリアン]](+ [[2022年]])
* [[6月17日]] - [[トーマス・カウリング]]、天文学者(+ [[1990年]])
* [[6月19日]] - [[エルンスト・ボリス・チェーン]]、[[生化学|生化学者]](+ [[1979年]])
* [[6月22日]] - [[ビリー・ワイルダー]]、映画監督(+ [[2002年]])
* [[6月24日]] - [[ピエール・フルニエ]]、[[チェロ]]奏者(+ [[1986年]])
* [[6月28日]] - [[マリア・ゲッパート=メイヤー]]、物理学者(+ [[1972年]])
* [[6月30日]] - [[アンソニー・マン]]、映画監督(+ [[1967年]])
=== 7月 ===
* [[7月1日]] - [[エスティ・ローダー]]、[[エスティローダー]]創業者(+ [[2004年]])
* [[7月2日]] - [[ハンス・ベーテ]]、物理学者(+ [[2005年]])
* [[7月4日]] - [[ヴェロ・コプナー・ウィン=エドワーズ]]、[[動物行動学|動物行動学者]](+ [[1997年]])
* [[7月7日]] - [[サチェル・ペイジ]]、野球選手(+ [[1982年]])
* [[7月8日]] - [[村上実]]、プロ野球監督(+ [[1999年]])
* [[7月18日]] - [[シドニー・ダーリントン]]、[[電子工学]]研究者(+ [[1997年]])
* [[7月20日]] - [[西郷吉之助]]、元[[法務大臣]](+ [[1997年]])
* [[7月28日]] - [[木俣修]]、[[歌人]](+ [[1983年]])
=== 8月 ===
* [[8月5日]] - [[ジョン・ヒューストン]]、[[映画監督]]・[[脚本家]]・[[俳優]](+ [[1987年]])
* [[8月6日]] - [[杉山昌三九]]、俳優(+ [[1992年]])
* [[8月9日]] - [[田中千代 (教育者)|田中千代]]、[[教育者]]・服飾[[デザイナー]](+ [[1999年]])
* [[8月14日]] - [[ホルスト・P・ホルスト]]、[[写真家]](+ 1999年)
* [[8月16日]] - [[曻地三郎]]、[[教育者]]・[[教育学者]](+ [[2013年]])
* [[8月18日]] - [[野口元夫]]、俳優、[[寿司]]研究家(+ [[1991年]])
=== 9月 ===
* [[9月1日]] - [[大谷智子]]、元皇族、[[大谷光暢]]の妻(+ [[1989年]])
* [[9月8日]] - [[ロッテル・エミーリア]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[2003年]])
* [[9月15日]] - [[ジャック・ベッケル]]、フランスの[[映画監督]](+ [[1960年]])
* [[9月20日]] - [[酒井田柿右衛門|第十三代酒井田柿右衛門]]、[[陶芸家]](+ [[1982年]])
* [[9月24日]] - [[宇都宮徳馬]]、[[政治家]]・[[実業家]](+ [[2000年]])
* [[9月25日]] - [[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]]、[[作曲家]](+ [[1975年]])
* [[9月28日]] - [[フーベルト・バルワーザー]]、[[フルート奏者]](+ [[1985年]])
=== 10月 ===
* [[10月1日]] - [[小野寺百合子]]、[[翻訳家]](+ [[1998年]])
* [[10月12日]] - [[ジョー・クローニン]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1984年]])
* [[10月15日]] - [[見明凡太朗]]、[[俳優]](+ [[1987年]])
* [[10月20日]] - [[坂口安吾]]、[[小説家]](+ [[1955年]])
*[[10月22日]] - [[ヴァランティーヌ・リニー]]、[[フランス]]の[[スーパーセンテナリアン]](+ [[2022年]])
* [[10月27日]] - [[大野一雄]]、[[舞踏家]](+ [[2010年]])
* [[10月30日]] - [[ジュゼッペ・ファリーナ]]、[[フォーミュラ1|F1]]レーサー(+ [[1966年]])
* 10月30日 - [[須藤克三]]、[[教育者]]・[[児童文学者]](+ [[1982年]])
=== 11月 ===
* [[11月1日]] - [[西園寺公一]]、[[政治家]](+ [[1993年]])
* [[11月2日]] - [[ルキノ・ヴィスコンティ]]、映画監督(+ [[1976年]])
* [[11月3日]] - [[アルマ・ロゼ]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1944年]])
* 11月3日 - [[滑川道夫]]、教育家・[[児童文学者]](+ [[1992年]])
* [[11月6日]] - [[江上波夫]]、[[考古学者]](+ [[2002年]])
* [[11月13日]] - [[久保喬]]、[[児童文学作家]](+ [[1998年]])
* 11月13日 - [[滝沢修]]、俳優・[[演出家]](+ [[2000年]])
* [[11月15日]] - [[野々村一男]]、[[彫刻家]](+ [[2008年]])
* [[11月17日]] - [[本田宗一郎]]、[[本田技研工業]]創業者(+ [[1991年]])
* [[11月18日]] - [[アレック・イシゴニス]]、自動車技術者(+ [[1988年]])
* [[11月19日]] - [[森部静武]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1994年]])
* [[11月24日]] - [[鈴木真砂女]]、[[俳人]](+ [[2003年]])
* [[11月29日]] - [[高橋赫一]]、[[大日本帝国海軍|海軍]][[軍人]](最終階級:海軍[[大佐]]) (+ [[1942年]])
* [[11月30日]] - [[ジョン・ディクスン・カー]]、[[推理作家]](+ [[1977年]])
=== 12月 ===
* [[12月7日]] - [[松井潤子]]、女優(+ [[1989年]])
* [[12月9日]] - [[グレース・ホッパー]]、[[軍人]]・[[計算機科学]]者(+ [[1992年]])
* [[12月10日]] - [[伊東静雄]]、[[詩人]](+ [[1953年]])
* [[12月18日]] - [[兼子一]]、[[法学者]](+ [[1973年]])
* [[12月21日]] - [[林竹二]]、[[教育哲学]]者(+ [[1985年]])
* [[12月25日]] - [[エルンスト・ルスカ]]、[[物理学者]](+ [[1988年]])
* [[12月29日]] - [[山本安英]]、[[新劇]][[俳優|女優]](+ [[1993年]])
* [[12月30日]] - [[セルゲイ・コロリョフ]]、[[ロケット]]開発指導者(+ [[1966年]])
* 12月30日 - [[キャロル・リード]]、イギリスの映画監督(+ [[1976年]])
<!-- ユリウス暦* [[12月19日]] - [[レオニード・ブレジネフ]]、[[ソビエト連邦|ソ連]][[ソビエト連邦共産党|共産党]][[書記長]](+ [[1982年]])-->
== 周年 ==
<!-- 周年であること自体に特筆性のある項目(元のトピックの特筆性ではありません)のみ記述してください。また期間限定イベント(五輪、万博など)は開幕日-閉幕日起点で記述してください。 -->
以下に、過去の主な出来事からの区切りの良い年数([[周年]])を記す。
* [[4月1日]] - [[田端駅]]開業10周年。
== 死去 ==
{{see also|Category:1906年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
=== 1月 ===
* [[1月4日]] - [[岩村高俊]]、[[武士]]・[[陸援隊]]・[[官僚]]・[[華族]]・[[貴族院 (日本)|貴族院議員]](* [[1845年]])
* 1月4日 - [[九条道孝]]、[[公卿]]・[[左大臣]]・貴族院議員・華族・[[東京海上日動火災保険|東京海上保険会社]]創業者(* [[1839年]])
* 1月4日 - [[福地源一郎]]、[[幕臣]]・[[ジャーナリスト]]・[[作家]](* [[1841年]])
* [[1月10日]] - [[京極高典]]、[[多度津藩|多度津藩主]]・華族(* [[1836年]])
* [[1月13日]] - [[アレクサンドル・ポポフ (物理学者)|アレクサンドル・ポポフ]]、[[物理学者]](* [[1859年]])
* [[1月14日]] - [[ウラディーミル・スターソフ]]、[[評論家|芸術評論家]](* [[1824年]])
* [[1月29日]] - [[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]、[[デンマーク君主一覧|デンマーク国王]](* [[1818年]])
=== 2月 ===
* [[2月27日]] - [[サミュエル・ラングレー]]、天文学者(* [[1834年]])
=== 3月 ===
* [[3月13日]] - [[ジョゼフ・モニエ]]、発明家(* [[1823年]])
* [[3月27日]] - [[トード・ラムゼイ]]、[[メジャーリーガー]](* [[1864年]])
=== 4月 ===
* [[4月10日]] - [[ゲオルギー・ガポン]]、[[司祭]](* [[1870年]])
* [[4月11日]] - [[フランシス・チャーチ]]、[[新聞記者]](* [[1839年]])
* [[4月13日]] - [[ウォルター・ウェルドン]]、[[生物学者]](* [[1860年]])
* [[4月17日]] - [[磯部百鱗]]、[[日本画家]](* [[1836年]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E7%A3%AF%E9%83%A8%E7%99%BE%E9%B1%97-1053994|title=磯部百鱗(いそべ ひゃくりん)とは|work=[[コトバンク]]|accessdate=2015-02-05}}</ref>
* [[4月18日]] - [[横井時冬]]、[[歴史家|歴史学者]](* [[1860年]])
* [[4月19日]] - [[ピエール・キュリー]]、物理学者・[[ノーベル物理学賞]]受賞者(* [[1859年]])
* 4月19日 - [[スペンサー・ゴア]]、[[テニス]]選手(* [[1850年]])
* [[4月25日]] - [[ジョン・ノウルズ・ペイン]]、[[作曲家]](* [[1839年]])
* [[4月27日]] - [[木村荘平]]、実業家・政治家(* [[1841年]])
* [[4月]] - [[松浦脩]]、[[平戸新田藩|平戸新田藩主]](* [[1832年]])
=== 5月 ===
* [[5月23日]] - [[ヘンリック・イプセン]]、[[劇作家]](* [[1828年]])
* [[5月29日]] - [[沖牙太郎]]、[[技術者]]・[[明工舎]]創業者(* [[1848年]])
=== 6月 ===
* [[6月5日]] - [[パウル・ドルーデ]]、物理学者(* [[1863年]])
* 6月5日 - [[エドゥアルト・フォン・ハルトマン]]、[[哲学者]](* [[1842年]])
* [[6月10日]] - [[相良知安]]、[[医師|医者]](* [[1836年]])
* [[6月14日]] - [[ジョルジュ・ライエ]]、天文学者(* [[1839年]])
* [[6月]] - [[サイゾンビー]]、[[競走馬]](* [[1902年]])
=== 7月 ===
* [[7月3日]] - [[中村覚之助 (サッカー指導者)|中村覚之助]]、[[サッカー]]紹介者(* [[1878年]])
* [[7月5日]] - [[クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル]]、[[軍人]](* [[1842年]])
* [[7月14日]] - [[林学斎]]、[[儒学者]]・[[林家 (儒学者)|林家]](大学頭家)12代目当主 (* [[1833年]])
* [[7月23日]] - [[児玉源太郎]]、軍人・[[陸軍省#陸軍大臣|陸軍大臣]]・[[参謀本部 (日本)#歴代参謀総長|参謀総長]]・[[台湾総督府#歴代台湾総督|台湾総督]]・華族(* [[1852年]])
* [[7月24日]] - [[乃美織江]]、武士(* [[1822年]])
* [[7月29日]] - [[アレクサンドル・ルイジーニ]]、作曲家・[[クラシック音楽の演奏家一覧#ヴァイオリン奏者|ヴァイオリニスト]](* [[1850年]])
=== 8月 ===
* [[8月20日]] - [[徳川茂承]]、[[紀州藩#歴代藩主|紀州藩主]](* [[1844年]])
* [[8月25日]] - [[荒井宣行]]、武士・[[額兵隊]]隊士(* [[1832年]])
=== 9月 ===
* [[9月1日]] - [[ジュゼッペ・ジャコーザ]]、[[詩人]]・劇作家(* [[1847年]])
* [[9月5日]] - [[ルートヴィッヒ・ボルツマン]]、物理学者・哲学者(* [[1844年]])
* [[9月13日]] - [[アルブレヒト・フォン・プロイセン (1837-1906)|アルブレヒト・フォン・プロイセン]]、[[ホーエンツォレルン家]]王族・軍人(* [[1837年]])
* [[9月28日]] - [[佐々友房]]、[[教育者]]・[[衆議院議員]](* [[1854年]])
=== 10月 ===
* [[10月18日]] - [[フリードリヒ・バイルシュタイン]]、[[化学者]](* [[1838年]])
* [[10月20日]] - [[バック・ユーイング]]、[[メジャーリーガー]](* [[1859年]])
* [[10月22日]] - [[ポール・セザンヌ]]、[[画家]](* [[1839年]])
* [[10月27日]] - [[海江田信義]]、武士・[[奈良県]][[都道府県知事|知事]]・貴族院議員・華族(* [[1832年]])
=== 11月 ===
* [[11月15日]] - [[楢崎龍|お龍]]、[[坂本龍馬]]の妻(* [[1841年]])
=== 12月 ===
* [[12月7日]] - [[エリー・デュコマン]]、[[ジャーナリスト]]・[[平和運動|平和運動家]](* [[1833年]])
<!--できごとへの転載が望ましい* [[12月25日]] - [[帝国議会|第23議会]]召集。-->
=== 日時不詳 ===
* 日時不詳 - [[安里安恒]]、[[空手道|空手家]](* [[1828年]]か[[1827年]])没年も[[1903年]]の可能性もあり
* 日時不詳 - [[荒川亀斎]]、[[彫刻家]]・[[発明家]](* [[1827年]])
== ノーベル賞 ==
* [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[ジョセフ・ジョン・トムソン]] (Sir Joseph John Thomson)
* [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[アンリ・モアッサン]] (Henri Moissan)
* [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[カミッロ・ゴルジ]] (Camillo Golgi), [[サンティアゴ・ラモン・イ・カハール]] (Santiago Ramón y Cajal)
* [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[ジョズエ・カルドゥッチ]] (Giosuè Carducci)
* [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[セオドア・ルーズベルト]] (Theodore Roosevelt)
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1906|date=2011年7月}}
* [[8月19日]] - 2005年8月19日から曽我淳が無理矢理タイムトラベルさせられる。その際に現代の大学の場所である当時の沼に溺れてエアコンのリモコンを紛失。さらに河童に間違われたことで未来に影響を与えて命からがら2005年へ帰還する。(戯曲・映画『[[サマータイムマシン・ブルース]]』)
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book ja-jp |author=リチャード・ゴーガン |year=2012 |title=天才科学者のひらめき36 世界を変えた大発見物語 |publisher=創元社 |isbn=978-4-422-40022-8 |ref={{Sfnref|ゴーガン|2012}}}}<!-- 2012年4月10日第1版第1刷発行 -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1906}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
{{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}}
{{デフォルトソート:1906ねん}}
[[Category:1906年|*]] | 2003-02-20T10:00:32Z | 2023-09-16T22:48:38Z | false | false | false | [
"Template:Cite web",
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"Template:十年紀と各年",
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"Template:Cite book ja-jp"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1906%E5%B9%B4 |
2,495 | 1901年 | 1901年(1901 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。明治34年。20世紀最初の年である。
※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。
航空エンジニア(+ 1973年) | [
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] | 1901年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。明治34年。20世紀最初の年である。 | {{年代ナビ|1901}}
{{YearInTopic
| BC =
| 千年紀 = 2
| 世紀 = 20
| 年代 = 1900
| 年 = 1901
}}
{{year-definition|1901}}[[20世紀]]最初の年である。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[辛丑]]
* [[日本]](月日は一致)
** [[明治]]34年
** [[皇紀]]2561年
* [[清]] : [[光緖]]26年11月11日 - 光緖27年11月21日
* [[朝鮮]](月日は一致)
** [[大韓帝国]] : [[光武 (元号)|光武]]5年
** [[檀君紀元|檀紀]]4234年
* [[阮朝]]([[ベトナム]]) : [[成泰]]12年11月11日 - 成泰13年11月21日
* [[仏滅紀元]] : 2443年10月12日 - 2444年閏9月6日
* [[ヒジュラ暦]](イスラム暦) : 1318年9月10日 - 1319年9月20日
* [[ユダヤ暦]] : 5661年4月10日 - 5662年4月21日
* [[修正ユリウス日]](MJD) : 15385 - 15749
* [[リリウス日]](LD) : 116226 - 116590
<div style="font-size:smaller">
※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。
</div>
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1901}}
== できごと ==
=== 1月 ===
* [[1月1日]]
** [[イギリス]][[自治領]]の[[オーストラリア|オーストラリア連邦]]が成立。
** [[ナイジェリア]]がイギリスの[[保護国]]になる。
* [[1月3日]] - アンドリュー・カーネギーがカーネギー財団を設立。
* [[1月22日]] - イギリス[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]女王崩御{{Sfn|ファータド|2013|p=615|ps=「ヴィクトリア女王死去」}}。長男エドワード王子が[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]として即位。
* [[1月28日]] - [[アメリカ合衆国]]で[[メジャーリーグベースボール|MLB]]・[[アメリカンリーグ]]設立。
=== 2月 ===
* [[2月3日]] - 国家主義団体・[[黒龍会]]が[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]らによって創立される。
* [[2月5日]] - 日本の[[重工業]]発展の要となる、[[官営八幡製鐵所|官営八幡製鉄所]]操業開始。
* [[2月24日]] - [[奥村五百子]]らにより[[愛国婦人会]]が結成される。
* [[2月25日]] - [[ジョン・モルガン|J・P・モルガン]]が[[USスチール]]を設立。
=== 3月 ===
* [[3月2日]] - アメリカ合衆国が{{仮リンク|プラット修正条項|en|Platt Amendment}}を[[キューバ]]に強制。その後、[[6月12日]]にキューバはアメリカの保護国となる。
* [[3月28日]] - [[北海道法]]公布
=== 4月 ===
* [[4月1日]] - [[東京都]]に府立第三中学校(現・[[東京都立両国高等学校]])が開校。
* [[4月15日]] - [[栃木県]]に栃木県第四中学校(現・[[栃木県立佐野高等学校・附属中学校|栃木県立佐野高等学校]])が開校。
* [[4月20日]] - [[成瀬仁蔵]]により、日本女子大学校(現・[[日本女子大学]])が創立。
* [[幸徳秋水]]『二十世紀之怪物 帝国主義』(廿世紀之怪物帝国主義)出版。序文は[[内村鑑三]]。
=== 5月 ===
* [[5月3日]] - [[第4次伊藤内閣]]総辞職
* [[5月5日]] - [[ユカタン半島]]での[[マヤ人]]の反乱が公式に終了。
* [[5月9日]] - [[オーストラリア]]の[[メルボルン]]で最初の国会が開かれる。
* [[5月16日]] - [[井上馨]]に組閣命令([[5月23日]]辞退)。
* [[5月18日]] - [[片山潜]]・[[幸徳秋水]]らが[[社会民主党 (日本 1901年)|社会民主党]]を結成([[5月20日]]禁止)。
* [[5月25日]] - [[アルゼンチン]]でサッカークラブ・[[CAリーベル・プレート]]設立。
* [[5月26日]] - [[桂太郎]]に組閣命令。
* [[5月27日]] - [[山陽鉄道]]が[[下関駅|下関]]まで開通。
=== 6月 ===
* [[6月2日]] - [[第1次桂内閣]]成立
* [[6月21日]] - [[星亨]]が[[伊庭想太郎]]に暗殺される。
* [[登張竹風]]、論文「フリイドリッヒ・ニーチェを論ず」(『帝国文学』)。日本に於ける[[フリードリヒ・ニーチェ]]の紹介が盛んになる。
=== 7月 ===
* [[7月1日]]
** [[フランス]]が[[結社法]]を制定し、[[宗教団体]]などを許可制にする。
** 電報通信社(後の[[電通]])設立([[光永星郎]])
* [[7月4日]] - [[カナダ]]の[[ハートランド (ニューブランズウィック州)|ハートランド]]で世界一長い[[屋根付橋]]が開通。
* [[7月14日]] - [[マシュー・ペリー|ペリー]]上陸記念碑建立([[ペリー公園|久里浜]])
* [[7月15日]] - [[高峰譲吉]]が[[アドレナリン]]の製法の特許を取得。
=== 8月 ===
=== 9月 ===
* [[9月2日]] - アメリカの[[セオドア・ルーズベルト|ルーズベルト]]副大統領が[[棍棒外交]]を示唆。
* [[9月6日]] - [[マッキンリー大統領暗殺事件]]、アメリカの[[ウィリアム・マッキンリー]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が無政府主義者[[レオン・チョルゴシュ]]に狙撃される{{Sfn|ファータド|2013|p=616a|ps=「マッキンリー大統領、銃撃される」}}。これがもとで9月14日に死亡。
* [[9月7日]] - [[清]]が列国(英国・仏国・米国・[[ロシア]]・[[ドイツ]]・日本などの11か国)と[[北京議定書]](辛丑条約)に調印(外国軍隊の[[北京市|北京]]駐留を承認)。
* [[9月14日]]
** W・マッキンリーの死去に伴い、[[セオドア・ルーズベルト]]がアメリカ大統領に就任。
** [[サマール島]]でバランギガの虐殺が発生。
=== 10月 ===
* [[10月1日]] - [[舞鶴鎮守府]]開庁
* [[10月4日]] - アメリカの[[セオドア・ルーズベルト]]大統領が[[アフリカ系アメリカ人]]指導者[[ブッカー・T・ワシントン]]を[[ホワイトハウス]]に招待する。
* [[10月16日]] - [[日英同盟]]交渉開始
* [[10月23日]] - [[田中正造]]が[[足尾銅山鉱毒事件]]で衆議院議員を辞職。
=== 11月 ===
* [[11月14日]] - [[カール・ラントシュタイナー]]が[[ABO式血液型]]を発表(発見は前年)、この時点では血液型がA型、B型、C型の3つであるとされた。
* [[波多野精一]]『西洋哲学史要』出版
=== 12月 ===
* [[12月2日]] - [[伊藤博文]]が日露協商交渉開始。
* [[12月7日]] - [[帝国議会|第16議会]]召集
* [[12月10日]] - [[田中正造]]が[[足尾銅山鉱毒事件]]について[[明治天皇]]に直訴。
* [[12月12日]] - [[グリエルモ・マルコーニ]]が大西洋を横断した無線通信に成功{{Sfn|ファータド|2013|p=616b|ps=「マルコーニ、無線通信に成功」}}。
* [[12月23日]] - [[伊藤博文]]が日露協商交渉打切りを通告。
* [[ロシア]]で[[エスエル]]([[社会革命党]])結成。
* 豪州が[[白豪主義]]政策にもとづく移民制限法を制定。
=== 日付不詳 ===
* [[ノーベル賞]]が創設される。
* [[オランダ]]の[[デン・ハーグ|ハーグ]]に[[常設仲裁裁判所]]設立。
* 東京専門学校が[[早稲田大学]]に改称。
* アメリカ合衆国の[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]] (MLB) チーム・[[デトロイト・タイガース]]、[[クリーブランド・ガーディアンズ|クリーブランド・インディアンス]]創設。
* アメリカ合衆国のMLBで、[[ウィリー・キーラー]]が8年連続シーズン200安打を達成。
* [[北海道]]で[[ハマダラカ]]([[マラリア]]原虫を媒介する[[カ|蚊]])の生息が確認された。
== 文学 ==
* [[トーマス・マン]]『[[ブッデンブローク家の人びと]]』
* [[与謝野晶子]]『[[みだれ髪]]』
== 誕生 ==
{{see also|Category:1901年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
=== 1月 ===
* [[1月1日]] - [[アレクサンドル・ドイチュ]]、[[ソビエト連邦]]の[[天文学者]](+ [[1986年]])
* 1月1日 - [[安宅英一]]、{{JPN}}の実業家。[[安宅産業]]の会長(+ [[1994年]])
* 1月1日 - [[三木茂 (植物学者)|三木茂]]、{{JPN}}の[[植物学|植物学者]](+ [[1974年]])
* 1月1日 - [[酒井正三郎]]、{{JPN}}の[[経済学者]](+ [[1981年]])
* 1月1日 - [[殿岡利男]]、{{JPN}}の実業家。<!--栃木県足利市出身の-->[[アキレス (化学工業)|アキレス]]創設者(+ [[1982年]])
* [[1月2日]] - [[谷口五郎]]、{{JPN}}の[[野球選手]](+ [[1980年]])
* 1月2日 - [[久保栄]]、{{JPN}}の[[戯曲作家]](+ [[1958年]])
* [[1月3日]] - [[ゴ・ディン・ジエム]]、[[ベトナム共和国]]の初代[[大統領]](+ [[1963年]])
* 1月3日 - [[エリック・フェーゲリン]]、{{USA}}の政治哲学者(+ [[1985年]])
* [[1月4日]] - [[C・L・R・ジェームズ]]、{{TTO}}の[[歴史学者]]・社会主義者(+ [[1989年]])
* 1月4日 - [[北村小松]]、{{JPN}}の劇作家、[[小説家]]、[[脚本家]](+ [[1964年]])
* [[1月6日]] - [[三村明]]、{{JPN}}の[[映画監督]](+ [[1985年]])
* 1月6日 - [[ニコライ・クリューチコフ]]、{{RUS}}の俳優(+ [[1994年]])
* [[1月7日]]− [[工藤俊作 (海軍軍人)|工藤俊作]]、{{JPN}}の[[軍人]](最終階級:海軍[[中佐]]) (+ [[1979年]])
* [[1月10日]] - [[ヘニング・フォン・トレスコウ]]、ナチスドイツ[[軍人]]・[[貴族]](+ [[1944年]])
* 1月10日 - [[渡辺啓助]]、{{JPN}}の[[推理作家]](+ [[2002年]])
* 1月10日 - [[ポーリン・スターク]]、{{USA}}の女優(+ [[1977年]])
* [[1月11日]] - [[永川重幸]]、{{JPN}}の[[実業家]]、政治家(+ [[没年不明]])
* 1月11日 - [[クォン・キオク]]、朝鮮の独立運動家、パイロット(+ [[1988年]])
* 1月11日 - [[ヨアヒム・エルンスト (アンハルト公)]]、[[アンハルト公国]]最後の公爵(+ [[1947年]])
* [[1月12日]] - [[三池信]]、{{JPN}}の[[政治家]]、[[郵政大臣]](+ [[1988年]])
* [[1月13日]] - [[小坂奇石]]、{{JPN}}の[[書家]](+ [[1991年]])
* [[1月14日]] - [[アルフレト・タルスキ]]、{{POL}}及び{{USA}}の[[数学者]]・[[論理学|論理学者]](+ [[1983年]])
* 1月14日 - [[ビーブ・ダニエルズ]]、{{USA}}の女優(+ [[1971年]])
* [[1月16日]] - [[フルヘンシオ・バティスタ]]、[[キューバ]]大統領(+ [[1973年]])
* 1月16日 - [[フランク・ザンボニー]]、{{USA}}の発明家、技術者(+ [[1988年]])
* 1月16日 - [[ナルヴェ・ボンナ]]、{{NOR}}のスキージャンプ選手(+ [[1976年]])
* [[1月17日]] - [[アロン・ギュルヴィッチ]]、{{LTU}}出身の{{USA}}の哲学者、現象学者(+ [[1973年]])
* [[1月18日]] - [[村山知義]]、{{JPN}}の小説家・[[画家]]・[[デザイナー]]・[[劇作家]]・[[演出家]]・舞台装置家(+ [[1977年]])
* [[1月20日]] - [[セシル・グリフィス]]、{{GBR}}の[[陸上競技選手]](+ 1973年)
* [[1月21日]] - [[リカルド・サモラ]]、{{ESP}}の[[サッカー選手一覧|サッカー選手]](+ [[1978年]])
* [[1月22日]] - [[ハンス・エーリッヒ・アポステル]]、{{DEU}}の作曲家(+ [[1972年]])
*[[1月24日]] - [[朝井閑右衛門]]、{{JPN}}の[[洋画家]](+ [[1983年]])
* 1月24日 - [[アドルフ・ムーロン・カッサンドル]]、{{FRA}}のグラフィックデザイナー、舞台芸術家、版画家、タイポグラファー(+ [[1968年]])
* 1月24日 - [[ミハイル・ロンム]]、[[ソビエト連邦]]の映画監督、脚本家(+ [[1971年]])
* [[1月25日]] - [[石川冷]]、{{JPN}}の[[俳優|映画俳優]](+ 没年不明)
* 1月25日 - [[イツァーク・シュテルン]]、{{POL}}の会計士(+ [[1969年]])
* [[1月26日]] - [[ピエール・ボスト]]、{{FRA}}の[[作家]]・[[ジャーナリスト]](+ [[1975年]])
* [[1月27日]] - [[高野実]]、{{JPN}}の[[労働運動家]](+ [[1974年]])
* 1月27日 - [[千宗左 (13代)]]、[[表千家|茶道家13世表千家]](+ [[1979年]])
* 1月27日 - [[ヴィリー・フリッチ]]、{{DEU}}の俳優(+ [[1973年]])
* [[1月28日]] - [[高橋新吉]]、{{JPN}}の[[詩人]](+ [[1987年]]<ref>大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)p.127</ref>)
* [[1月29日]] - [[エドワード・プランケット・テイラー]]、{{CAN}}の実業家、馬産家(+ [[1989年]])
* [[1月30日]] - [[ルドルフ・カラツィオラ]]、{{DEU}}の[[レーシングドライバー]](+ [[1959年]])
* 1月30日 - [[ハンス・エーリヒ・ノサック]]、{{DEU}}の小説家(+ [[1977年]])
=== 2月 ===
* [[2月1日]] - [[クラーク・ゲーブル]]、{{USA}}の俳優(+ [[1960年]])
* [[2月2日]] - [[ヤッシャ・ハイフェッツ]]、{{RUS}}帝国出身の{{USA}}の[[ヴァイオリニスト]](+ [[1987年]])
* 2月2日 - [[木村禧八郎]]、{{JPN}}の政治家・[[経済評論家]](+ [[1975年]])
* 2月2日 - [[久邇宮朝融王]]、[[皇族]]・軍人(+ [[1959年]])
* 2月2日 - [[中村翫右衛門 (3代目)]]、{{JPN}}の[[俳優]]、[[前進座]]共同創立者(+ [[1982年]])
* 2月2日 - [[ルートヴィヒ・フィリップ・フォン・トゥルン・ウント・タクシス]]、ドイツの旧諸侯トゥルン・ウント・タクシス家の侯子(+ [[1933年]])
* [[2月4日]] - [[李海泉]]、香港の俳優。ブルース・リーの父(+ [[1965年]])
* [[2月5日]] - [[宇佐美洵]]、{{JPN}}の実業家。[[三菱銀行]][[頭取]]・[[日本銀行]][[総裁]](+ [[1983年]])
* [[2月7日]] - [[伊志井寛]]、{{JPN}}の俳優(+ [[1972年]])
* [[2月9日]] - [[ブライアン・ドンレヴィ]]、北アイルランド出身で、主に{{USA}}で活躍した俳優(+ [[1972年]])
* [[2月10日]] - [[ステラ・アドラー]]、{{USA}}の女優(+ [[1992年]])
* [[2月12日]] - [[清水雅]]、{{JPN}}の[[実業家]](+ [[1994年]])
* [[2月13日]] - [[ポール・ラザースフェルド]]、{{USA}}の社会学者(+ [[1976年]])
* 2月15日 - [[犬塚稔]]、{{JPN}}の脚本家、映画監督(+ [[2007年]])
* [[2月16日]] - [[島耕二]]、{{JPN}}の俳優・映画監督(+ [[1986年]])
* [[2月17日]] - [[梶井基次郎]]、{{JPN}}の小説家(+ [[1932年]])
* [[2月19日]] - [[:en:Florence Green|フローレンス・グリーン]] 大英帝国イギリス空軍女性部隊元隊員、第1次世界大戦従軍者最後の生存者(+ [[2012年]])
* [[2月20日]] - [[ヘンリー・アイリング]]、{{USA}}の[[科学者|理論化学者]](+ [[1981年]])
* 2月20日 - [[ルイス・I・カーン]]、{{EST}}出身で{{USA}}の[[建築家]](+ [[1974年]])
* 2月20日 - [[葉梨新五郎]]、{{JPN}}の政治家(+ [[1956年]])
* 2月20日 - [[ムハンマド・ナギーブ]]、{{EGY}}の軍人、政治家(+ [[1984年]])
* 2月20日 - [[ルネ・デュボス]]、{{USA}}の細菌学者、病理学者、環境保護活動家、人道主義者(+ [[1982年]])
* [[2月22日]] - [[オルゴニシュタ・オルガ]]、{{HUN}}の[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1978年]])
* 2月22日 - [[ミルドレッド・デイヴィス]]、{{USA}}の女優(+ [[1969年]])
* [[2月23日]] - [[エドガー・エンデ]]、{{DEU}}の画家・[[児童文学作家]](+ [[1965年]])
* 2月23日 - [[北島忠治]]、{{JPN}}の[[ラグビー日本代表]][[監督]](+ [[1996年]])
* 2月23日 - [[エアハルト・ハイデン]]、ナチスドイツの軍人(+ [[1933年]])
* [[2月25日]] - [[ゼッポ・マルクス]]、{{USA}}のコメディアン・俳優・[[マルクス兄弟]]のメンバー(+ [[1979年]])
* [[2月27日]] - [[岡田光玉]]、{{JPN}}の宗教家。[[世界真光文明教団]][[教祖]](+ [[1974年]])
* 2月27日 - [[マリノ・マリーニ]]、[[彫刻家]]・画家・[[版画家]](+ [[1980年]])
* 2月27日 - [[ホレイショ・ルロ]]、{{USA}}と{{CAN}}で活動していたサラブレッド競馬の調教師(+ [[1991年]])
* [[2月28日]] - [[ライナス・ポーリング]]、{{USA}}の[[物理化学|物理化学者]]・[[ノーベル化学賞]]、[[ノーベル平和賞]]受賞者(+ [[1994年]])
* 2月28日 - [[柳家金語楼]]、{{JPN}}の[[喜劇]]俳優・[[落語家]]・作家・脚本家・[[発明家]]・[[陶芸家]](+ [[1972年]])
=== 3月 ===
* [[3月3日]] - [[クロード・チョールズ]] {{GBR}}の軍人、第1次世界大戦経験者のうち最後の生存者(+ 2011年)
* 3月3日 - [[阿波根昌鴻]]、{{JPN}}の[[平和運動]]家(+ [[2002年]])
* [[3月4日]] - [[芦原義重]]、{{JPN}}の実業家。[[関西電力]]会長(+ [[2003年]])
* [[3月5日]] - [[橋本登美三郎]]、{{JPN}}の政治家・[[内閣官房長官]]・[[自由民主党幹事長]](+ [[1990年]])
* [[3月10日]] - [[小林十九二]]、{{JPN}}の俳優(+ [[1964年]])
* 3月10日 - [[伊能繁次郎]]、{{JPN}}の[[政治家]](+ 1981年)
* [[3月11日]] - [[ローゼ・アウスレンダー]]、作家(+ 1988年)
* 3月11日 - [[御手洗毅]]、{{JPN}}の[[医師]]・[[キヤノン]]創設者・初代キヤノン社長(+ [[1984年]])
* [[3月13日]] - [[入江直祐]]、{{JPN}}の[[英文学者]]、[[翻訳家]](+ 1989年以降)
* 3月13日 - 初代[[柳家金語楼]]、{{JPN}}の落語家(+ [[1972年]])
* 3月13日 - [[ポール・フィックス (俳優)|ポール・フィックス]]、{{USA}}の俳優(+ [[1983年]])
* 3月13日 - [[アルフレッド・ニューマン]]、{{USA}}の作曲家、指揮者(+ [[1970年]])
* 3月13日 - [[咸錫憲]]、{{KOR}}のキリスト教思想家、独立運動家(+ [[1989年]])
* [[3月14日]] - [[小栗虫太郎]]、{{JPN}}の小説家(+ [[1946年]])
* [[3月16日]] - [[鈴木静一]]、{{JPN}}の[[作曲家]](+ 1980年)
* [[3月17日]] - [[アルフレッド・ニューマン]]、[[作曲家]](+ [[1970年]])
* 3月18日 - [[三宅藤九郎|九世三宅藤九郎]]、{{JPN}}の[[能楽師]](+ 1990年)
* [[3月19日]] - [[中村梅吉]]、{{JPN}}の政治家・[[衆議院議長]](+ 1984年)
* [[3月20日]] - [[マックス・エーワ]]、{{NLD}}の[[チェスの世界チャンピオン一覧|第5代チェス世界チャンピオン]](+ 1981年)
* 3月20日 - [[島田謹二]]、{{JPN}}の[[比較文学者]]、[[英文学者]](+ [[1993年]])
* [[3月21日]] - [[津村博]]、{{JPN}}の[[劇映画]][[俳優]](+ 没年不明)
* 3月21日 - [[カール・アルノルト]]、{{DEU}}の政治家、(+ 1958年)
* [[3月23日]] - [[森澤信夫]]、{{JPN}}の[[実業家]]。[[モリサワ]]創業者(+ [[2000年]])
* [[3月24日]] - [[アブ・アイワークス]]、{{USA}}のアニメーター、ディズニー作品のアニメーター・漫画家(+ [[1971年]])
* [[3月25日]] - [[太郎山勇吉]]、[[大相撲]]の[[力士]](+ [[1964年]])
* 3月25日 - [[エド・ベグリー]]、{{USA}}の俳優(+ [[1970年]])
* [[3月27日]] - [[佐々木直次郎]]、{{JPN}}の[[翻訳家]](+ [[1943年]])
* 3月27日 - [[佐藤栄作]]、{{JPN}}の[[官僚]]・政治家・[[内閣総理大臣]]・ノーベル平和賞受賞者(+ 1975年)
* 3月27日 - [[エーリッヒ・オレンハウアー]]、{{DEU}}の[[政治家]](+ [[1963年]])
* 3月27日 - [[カール・バークス]]、{{USA}}の漫画家、脚本家、イラストレーター。ディズニー作品の[[漫画家]](+ [[2000年]])
* 3月27日 - [[エンリケ・サントス・ディセポロ]]、{{ARG}}の作詞家、音楽家、俳優(+ [[1951年]])
* [[3月29日]] - [[羽仁五郎]]、{{JPN}}の[[歴史家]](+ 1983年)
=== 4月 ===
* [[4月5日]] - [[メルヴィン・ダグラス]]、{{USA}}の[[俳優]](+ [[1981年]])
* 4月5日 - [[クルト・ボウワ]]、{{DEU}}の[[俳優]](+ [[1991年]])
* [[4月7日]] - [[クリストファー・ウッド (画家)|クリストファー・ウッド]]、{{GBR}}の[[画家]](+ [[1930年]])
* [[4月8日]] - [[ジャン・プルーヴェ]]、{{FRA}}の[[建築家]]、[[デザイナー]](+ 1984年)
* [[4月11日]] - [[ドナルド・メンゼル]]、{{USA}}の[[天文学者]](+ [[1976年]])
* [[4月13日]] - [[ジャック・ラカン]]、{{FRA}}の[[精神医学|精神科医]]・[[精神分析家]]・[[思想家]](+ [[1981年]])
* 4月13日 - [[小島鉦作]]、{{JPN}}の歴史学者(+ [[1996年]])
* 4月13日 - [[薩摩治郎八]]、{{JPN}}の[[実業家]](+ [[1976年]])
* 4月13日 - [[于斌]]、中国のカトリック教会の聖職者(+ [[1976年]])
* [[4月14日]] - [[松下正寿]]、{{JPN}}の[[国際政治学者]](+ [[1986年]])
* 4月14日 - [[小川鼎三]]、{{JPN}}の[[解剖学|解剖学者]]・医史学者(+ 1984年)
* [[4月15日]] - {{仮リンク|ジョー・デイヴィス|en|Joe Davis}}、{{USA}}の[[スヌーカー]]選手(+ [[1978年]])
* 4月14日 - [[ルネ・プレヴァン]]、{{FRA}}の[[政治家]](+ [[1993年]])
* [[4月16日]] - [[ディンニェーシュ・ラヨシュ]]、{{HUN}}の[[政治家]](+ [[1961年]])
* [[4月17日]] - [[ラウル・プレビッシュ]]、{{ARG}}の[[経済学者]](+ [[1986年]])
* [[4月19日]] - [[福島哲]]、{{JPN}}の[[教育者]](+ 没年不明)
* 4月19日 - [[岡潔]]、{{JPN}}の数学者(+ [[1978年]])
* [[4月20日]] - [[ミシェル・レリス]]、{{FRA}}の[[詩人]]、[[民族学者]](+ 1990年)
* 4月20日 - [[アドルフ・ブーゼマン]]、{{DEU}}の航空技術者で、超音速の空気力学のパイオニア(+ 1986年)
* [[4月21日]] - [[フリアン・バウティスタ]]、{{ESP}}の[[作曲家]](+ 1961年)
* [[4月22日]] - [[テイラー・ドゥーシット]]、{{USA}}の[[メジャーリーガー]](+ [[1986年]])
* [[4月23日]] - [[エドモンド・ブリスコ・フォード]]、{{GBR}}の[[生態学|生態学者]]・[[遺伝学|遺伝学者]](+ [[1988年]])
* [[4月25日]] - [[ヴラディーミル・ソフロニツキー]]、[[ソビエト連邦]]の[[ピアニスト]](+ [[1961年]])
* 4月25日 - [[竹山祐太郎]]、{{JPN}}の政治家・[[建設省|建設大臣]]・[[静岡県]][[都道府県知事|知事]](+ [[1982年]])
* 4月25日 - [[高橋掬太郎]]、{{JPN}}の[[作詞家]](+ [[1970年]])
* [[4月27日]] - [[龍胆寺雄]]、{{JPN}}の[[作家]]・[[サボテン]]研究家(+ [[1992年]])
* [[4月29日]] - [[原実 (市民運動家)]]、{{JPN}}の市民運動家(+ 不明)
* [[4月29日]] - [[昭和天皇]]、第124代[[天皇]](+ 1989年)
* 4月29日 - [[尾崎秀実]]、{{JPN}}の[[評論家]]・[[ジャーナリスト]](+ [[1944年]])
* 4月29日 - [[一本松珠璣]]、{{JPN}}の[[電気工学|電気工学者]]・[[日本原子力発電]]最高顧問(+ [[1985年]])
* [[4月30日]] - [[有田喜一]]、{{JPN}}の官僚・政治家・[[文部大臣]](+ [[1986年]])
* 4月30日 - [[サイモン・クズネッツ]]、{{USA}}の[[経済学者]]・[[統計学|統計学者]]・[[ノーベル経済学賞]]受賞者(+ [[1985年]])
=== 5月 ===
* [[5月2日]] - [[都千代]]、世界最高齢の人物。{{JPN}}のスーパーセンテナリアン(+ [[2018年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO33451750W8A720C1CC1000/|title=都千代さんが死去 国内最高齢|publisher=日本経済新聞|date=2018-07-26|accessdate=2020-11-13}}</ref>)
* [[5月3日]] - [[ヒューゴー・フリードホーファー]]、{{USA}}の作曲家(+ [[1981年]])
* [[5月4日]] - [[富永太郎]]、{{JPN}}の詩人・画家(+ [[1925年]])
* [[5月5日]] - [[ブラインド・ウィリー・マクテル]]、{{USA}}の[[ブルース]]歌手・ギタリスト(+ [[1959年]])
* [[5月7日]] - [[ゲイリー・クーパー]]、{{USA}}の俳優(+ [[1961年]])
* [[5月8日]] - [[オットー・カイザー]]、{{AUT}}の[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1977年]])
* 5月8日 - [[ヴラディーミル・ソフロニツキー]]、[[ソビエト連邦]]の[[ピアニスト]](+ [[1961年]])
* [[5月9日]] - [[足利惇氏]]、{{JPN}}の[[インド]]学者(+ [[1983年]])
* 5月9日 - [[グスタフ・マハティ]]、[[チェコスロバキア]]の[[映画監督]]・[[脚本家]]・[[俳優]](+ [[1963年]])
* [[5月10日]] - [[ジョン・デスモンド・バナール]]、{{UK}}の物理学者、生物物理学者、結晶学者(+ [[1971年]])
* 5月10日 - [[マックス・ロレンツ]]、{{DEU}}のテノール歌手(+ [[1975年]])
* [[5月11日]] - [[ローゼ・アウスレンダー]]、ユダヤ系ドイツ人の作家、詩人(+ [[1988年]])
* 5月11日 - [[ジョスリン・ヘイ (第22代エロル伯爵)]]、{{UK}}の貴族(+ [[1941年]])
* [[5月13日]] - [[ヴィトルト・ピレツキ]]、{{POL}}のの軍人、諜報部員、[[レジスタンス運動]]リーダー(+ [[1948年]])
* [[5月14日]] - [[河野謙三]]、{{JPN}}の政治家・[[参議院議長]](+ [[1983年]])
* 5月14日 - [[橋本乾三]]、{{JPN}}の官僚・[[検事]]・[[弁護士]](+ [[1983年]])
* 5月14日 - [[クリストフ・フォン・ヘッセン]]、{{DEU}}の[[ヘッセン=カッセル方伯領|ヘッセン=カッセル]]家の公子、軍人(+ [[1943年]])
* 5月14日 - [[ロベルト・リッター]]、{{DEU}}の[[心理学者]]、[[医師]](+ [[1951年]])
* [[5月15日]] - [[ザビア・ハーバート]]、{{AUS}}の[[作家]](+ [[1984年]])
* 5月15日 - [[コンラート・マイヤー]]、{{DEU}}の[[農学者]](+ [[1973年]])
* 5月15日 - [[ルイス・モンティ]]、{{ARG}}のの[[サッカー選手]]、サッカー指導者+ [[1983年]])
* [[5月17日]] - [[ヴェルナー・エック]]、{{DEU}}の作曲家(+ [[1983年]])
* 5月17日 - [[古在由重]]、{{JPN}}の[[哲学者]]、元[[名古屋大学]]教授(+ 1990年)
* [[5月18日]] - [[アンリ・ソーゲ]]、{{FRA}}の作曲家(+ 1989年)
* 5月18日 - [[ヴィンセント・デュ・ヴィニョー]]、{{USA}}の[[生化学|生化学者]]・ノーベル化学賞受賞者(+ [[1978年]])
* [[5月19日]] - [[ユーリー・ビリビン]]、{{RUS}}の[[地質学者]](+ [[1952年]])
* 5月19日 - [[オットー・アンブローズ]]、{{DEU}}の化学者(+ [[1990年]])
* 5月19日 - [[メフメト・アブデュルアズィズ・オスマンオウル]]、[[オスマン帝国]]の帝家(+ [[1977年]])
* [[5月20日]] - [[島秀雄]]、{{JPN}}の鉄道技術者・[[日本国有鉄道|国鉄]]技師長・[[宇宙開発事業団]]理事長(+ [[1998年]])
* 5月20日 - [[マックス・エーワ]]、{{NLD}}の第5代[[チェスの世界チャンピオン一覧|チェス世界チャンピオン]]、[[数学者]](+ [[1981年]])
* [[5月21日]] - [[セルゲイ・トゥマーンスキー]]、[[ソビエト連邦]]の
[[航空エンジニア]](+ [[1973年]])
* [[5月23日]] - [[エドマンド・ラッブラ]]、{{UK}}の作曲家(+ [[1986年]])
* 5月23日 - [[アルフレード・グァリーニ]]、{{ITA}}の[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[映画プロデューサー]](+ [[1981年]])
* 5月23日 - [[チャールズ・W・モリス]]、{{USA}}の[[哲学者]]・[[記号学|記号論]]研究者(+ [[1979年]])
* [[5月24日]] - [[ホセ・ナサシ]]、{{URY}}の[[サッカー選手一覧|サッカー選手]](+ [[1968年]])
* 5月24日 - [[アントン・パウリク]]、{{AUT}}の指揮者(+ [[1975年]])
* 5月24日 - [[ヘルマン・プリース]]、ナチス・ドイツの武装親衛隊の将軍(+ [[1985年]])
* [[5月29日]] - [[ヴォルフガング・シュミーダー]]、{{DEU}}の[[音楽学者]](+ 1990年)
* [[5月30日]] - [[イツィク・マンゲル]]、{{POL}}の[[イディッシュ語]]作家(+ [[1969年]])
* 5月30日 - [[ヴァルター・フェルゼンシュタイン]]、{{AUT}}の[[演出家]](+ [[1975年]])
* [[5月31日]] - [[丸山定夫]]、{{JPN}}の俳優(+ [[1945年]])
=== 6月 ===
* [[6月1日]] - [[ヨランダ・マルゲリータ・ディ・サヴォイア]]、[[イタリア王国|イタリア王]][[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]とその王妃でモンテネグロ王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]の娘である[[エレナ・デル・モンテネグロ|エレナ]]の間の長女(+ [[1986年]])
* [[6月3日]] - [[張学良]]、[[中華民国]]の[[軍人]]・[[政治家]](+ [[2001年]])
* 6月3日 - [[モーリス・エヴァンス (俳優)|モーリス・エヴァンス]]、{{UK}}の[[俳優]](+ [[1989年]])
* [[6月4日]] - [[北脇昇]]、{{JPN}}の画家(+ [[1951年]])
* [[6月5日]] - [[カール・ヨアヒム・フリードリッヒ]]、{{DEU}}の政治学者(+ [[1984年]])
* [[6月6日]] - [[スカルノ]]、{{IDN}}の初代大統領(+ [[1970年]])
* 6月6日 - [[ヘルムート・シュティーフ]]、{{DEU}}の軍人(+ [[1944年]])
* [[6月7日]] - [[比嘉秀平]]、{{JPN}}の[[教育者]]・政治家・[[琉球政府]][[行政主席]](+ [[1956年]])
* 6月7日 - [[石田民三]]、{{JPN}}の映画監督(+ [[1972年]])
* [[6月8日]] - [[岩田専太郎]]、挿絵[[画家]](+ [[1974年]])
* 6月8日 - [[サルスティアーノ・サンチェス]]、世界最高齢の男性(+ [[2013年]])
* [[6月9日]] - [[エーリッヒ・ラーデマッハー]]、{{DEU}}の水泳選手(+ [[1979年]])
* [[6月10日]] - [[赤星六郎]]、{{JPN}}の[[ゴルフ|ゴルファー]](+ [[1944年]])
* 6月10日 - [[アントニーン・ベチュヴァーシュ]]、{{SVK}}で活躍した{{CZE}}の[[天文学者]]、[[気象学者]](+ [[1965年]])
* [[6月12日]] - [[クライド・ジェロニミ]]、{{USA}}の[[映画監督]](+ [[1989年]])
* 6月12日 - [[山際正道]]、日本銀行総裁・[[大蔵省|大蔵]][[事務次官|次官]](+ [[1975年]])
* [[6月16日]] - [[アンリ・ルフェーヴル]]、{{FRA}}の[[マルクス主義]][[社会学者]]、[[知識人]]、[[哲学者]](+ [[1991年]])
* [[6月18日]] - [[アナスタシア・ニコラエヴナ|アナスタシア]]、[[ロマノフ朝]]皇族(+ [[1918年]])
* [[6月20日]] - [[丸木位里]]、日本画家(+ [[1995年]])
* 6月20日 - [[ニーナ・ゲオルギエヴナ]]、[[ロシア帝国|ロシア]]の皇族(+ [[1974年]])
* [[6月22日]] - [[エリアス・カッツ]]、{{FIN}}の[[陸上競技]]選手(+ [[1947年]])
* [[6月23日]] - [[天野潔]]、{{JPN}}の実業家(+ 没年不明)
* 6月23日 - [[オットー・ヘックマン]]、{{DEU}}の[[天文学者]](+ [[1983年]])
* 6月23日 - [[アフメト・ハムディ・タンプナル]]、トルコ近代文学における最も重要な小説家・随筆家(+ [[1962年]])
* [[6月24日]] - [[マルセル・ミュール]]、{{FRA}}の[[クラシック音楽|クラシック]][[サクソフォーン]]奏者・[[教員|音楽教師]](+ [[2001年]])
* 6月24日 - [[朴敬元]]、[[日本統治時代の朝鮮]]で[[大日本帝国|日本]]の操縦士資格を取得した[[パイロット (航空)|操縦士]](+ [[1933年]])
* 6月24日 - [[ハリー・パーチ]]、{{USA}}の[[作曲家]](+ [[1974年]])
* [[6月26日]] - [[ドナルド・トムソン]]、{{AUS}}の[[人類学者]]、[[鳥類学]]者(+ [[1970年]])
* [[6月29日]] - [[ネルソン・エディ]]、{{USA}}の[[声楽家]](+ [[1967年]])
=== 7月 ===
* [[7月3日]] - [[ルース・クロフォード=シーガー]]、作曲家(+ [[1953年]])
* [[7月7日]] - [[円谷英二]]、[[映画監督]]・[[円谷プロダクション|円谷プロ]]創設者(+ [[1970年]])※戸籍上は7月10日生まれ
* 7月7日 - [[ヴィットリオ・デ・シーカ]]、映画監督・俳優(+ [[1974年]])
* [[7月8日]] - [[渡辺大陸]]、プロ野球監督(+ [[1955年]])
* [[7月9日]] - [[バーバラ・カートランド]]、ロマンス小説家(+ [[2000年]])
* [[7月12日]] - [[川勝傳]]、[[南海電気鉄道]]会長・[[日本民営鉄道協会]]会長・[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]オーナー(+ [[1988年]])
* 7月12日 - [[稲森宗太郎]]、[[歌人]](+ [[1930年]])
* [[7月13日]] - [[小山いと子]]、作家(+ [[1989年]])
* [[7月14日]] - [[ジェラルド・フィンジ]]、作曲家(+ [[1956年]])
* [[7月16日]] - [[青柳菁々]]、[[俳人]](+ [[1957年]])
* [[7月17日]] - [[荒木万寿夫]]、政治家・文部大臣(+ [[1973年]])
* 7月17日 - [[ジョージ・フィリップ・ウェルズ]]、[[動物学者]](+ [[1985年]])
* [[7月18日]] - [[日野草城]]、俳人(+ [[1956年]])
* [[7月20日]] - [[ヘイニー・マナシュ]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1971年]])
* [[7月23日]] - [[下山定則]]、初代国鉄総裁(+ [[1949年]])
* 7月23日 - [[雲井浪子]]、[[宝塚歌劇団]][[卒業生]](+ [[2003年]])
* [[7月24日]] - [[中村草田男]]、俳人(+ [[1983年]]<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)239頁</ref>)
* [[7月25日]] - [[津田市正]]、法学者(+ 没年不明)
* [[7月28日]] - [[伊藤公平]]、[[歌人]]・[[随筆家]]・[[小説家]]・[[作詞家]](+ [[1984年]])
* [[7月31日]] - [[ジャン・デュビュッフェ]]、画家(+ [[1985年]])
=== 8月 ===
* [[8月3日]] - [[ジョン・C・ステニス]]、政治家・検察官・[[判事]](+ [[1995年]])
* [[8月4日]] - [[田村道美]]、[[映画俳優]]、[[映画プロデューサー]]、(+ 没年不明)
* 8月4日 - [[ルイ・アームストロング]]、[[ジャズ]][[歌手]](+ [[1971年]])
* 8月4日 - [[エリザベス・ボーズ=ライアン]]、イギリス王ジョージ6世妃(+ [[2002年]])
* [[8月5日]] - [[クロード・オータン=ララ]]、映画監督(+ [[2000年]])
* [[8月8日]] - [[大岡怪童]]、[[俳優]]、(+ 没年不明)
* 8月8日 - [[アーネスト・ローレンス]]、[[物理学者]]・[[ノーベル物理学賞]]受賞者(+ [[1958年]])
* [[8月9日]] - [[杉本栄一]]、経済学者(+ [[1952年]])
* 8月9日 - [[山下春江]]、政治家(+ [[1985年]])
* [[8月10日]] - [[フランコ・ラゼッティ]]、物理学者(+ [[2001年]])
* [[8月13日]] - [[高橋信三]]、[[毎日放送]]会長(+ [[1980年]])
* [[8月14日]] - [[フランツ・コンヴィチュニー]]、[[指揮者]](+ [[1962年]])
* [[8月15日]] - [[木村庄之助 (24代)|木村庄之助]]、[[立行司]](+ [[1973年]])
* 8月15日 - [[浅野晃]]、[[詩人]]、[[日本文学]]研究者、[[国文学者]](+ [[1990年]])
* [[8月17日]] - [[アンリ・トマジ]]、作曲家・指揮者(+ [[1971年]])
* [[8月19日]] - [[佐藤観次郎]]、[[ジャーナリスト]]、[[政治家]](+ [[1970年]])
* [[8月20日]] - [[サルヴァトーレ・クァジモド]]、[[作家]]・[[詩人]](+ [[1968年]])
* 8月20日 - [[宮崎市定]]、[[東洋]][[歴史家|史学者]](+ [[1995年]])
* [[8月22日]] - [[桐原眞二]]、[[野球選手]](+ [[1945年]])
* [[8月23日]] - [[ジョン・シャーマン・クーパー]]、政治家(+ [[1991年]])
* [[8月26日]] - [[陳毅]]、軍人・[[外交官]]・政治家(+ [[1972年]])
* 8月26日 - [[マクスウェル・D・テイラー]]、軍人・外交官(+ [[1987年]])
* [[8月28日]] - [[反町茂雄]]、[[古書]][[鑑定|鑑定人]](+ [[1991年]])
* [[8月29日]] - [[シャーウィン・バジャー]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1972年]])
* 8月29日 - [[太田忠]]、作曲家、[[ピアニスト]](+ [[1994年]])
* 8月29日 - [[中井朝一]]、[[撮影監督]](+ 1988年)
* 8月29日 - [[森田優三]]、経済学者(+ 1994年)
* [[8月31日]] - [[二出川延明]]、[[日本のプロ野球選手一覧|野球選手]]・[[プロ野球審判員|野球審判員]](+ 1989年)
=== 9月 ===
* [[9月3日]] - [[エドゥアルト・ファン・ベイヌム]]、指揮者(+ [[1959年]])
* [[9月4日]] - [[ウィリアム・ライオンズ]]、[[ジャガー (自動車)|ジャガー]]創業者(+ [[1985年]])
* [[9月8日]] - [[ヘンドリック・フルウールト]]、[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]首相(+ [[1966年]])
* [[9月9日]] - [[小熊秀雄]]、詩人・小説家(+ [[1940年]])
* [[9月13日]] - [[ジェームズ・マッコーブレー]]、男性世界第2位の[[長寿]]のアメリカ人(+ [[2013年]])
* [[9月16日]] - [[アンドレ・ブリュネ]]、フィギュアスケート選手(+ [[1993年]])
* [[9月17日]] - [[堀内寿郎]]、[[化学者]](+ [[1979年]])
* [[9月19日]] - [[ルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィ]]、[[生物学者の一覧|生物学者]](+ [[1972年]])
* 9月19日 - [[沢田美喜]]、社会事業家(+ [[1980年]])
* [[9月21日]] - [[王登美]]、王貞治の母(+ [[2010年]])
* [[9月22日]] - [[ナジェージダ・アリルーエワ]] - [[ヨシフ・スターリン]]の妻(+ [[1932年]])
* 9月22日 - [[チャールズ・ハギンズ]]、生理学者(+ [[1997年]])
* [[9月23日]] - [[細川一]]、医師(+ 1970年)
* 9月23日 - [[ヤロスラフ・サイフェルト]]、作家・詩人(+ [[1986年]])
* [[9月24日]] - [[服部之総]]、[[歴史家]](+ [[1956年]])
* [[9月25日]] - [[ロベール・ブレッソン]]、映画監督(+ [[1999年]])
* [[9月28日]] - [[エド・サリヴァン]]、テレビ番組司会者(+ [[1974年]])
* 9月28日 - [[筑土鈴寛]]、[[僧侶]]、[[民俗学|民俗学者]](+ [[1947年]])
* [[9月29日]] - [[エンリコ・フェルミ]]、物理学者・ノーベル物理学賞受賞者(+ [[1954年]])
* 9月29日 - [[岡松成太郎]]、官僚・[[商工省]][[事務次官|次官]]・[[北海道電力]]会長(+ [[1991年]])
=== 10月 ===
* [[10月1日]] - [[ホーマー・ブライトマン]]、[[脚本家]](+ [[1988年]])
* [[10月1日]] - [[中谷孝雄]]、小説家(+ [[1995年]])
* [[10月2日]] - [[アリス・プラン]]、歌手・俳優・[[モデル (職業)|モデル]]・画家(+ [[1953年]])
* [[10月3日]] - [[西田税]]、軍人・思想家(+ [[1937年]])
* [[10月6日]] - [[安西浩]]、[[実業家]](+ 1990年)
* 10月6日 - [[エベリーン・ド・ボリス=レイモンド・マルコス]]、[[生物学者]](+ 1990年)
* [[10月7日]] - [[村野四郎]]、[[詩人]](+ [[1975年]])
* 10月7日 - [[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]、歴史家(+ [[1987年]])
* [[10月8日]] - [[田中栄一]]、政治家・[[警視総監]](+ [[1980年]])
* 10月8日 - [[マーク・オリファント]]、物理学者(+ [[2000年]])
* [[10月10日]] - [[羅門光三郎]]、俳優(+ [[1976年]])
* 10月10日 - [[アルベルト・ジャコメッティ]]、彫刻家(+ [[1966年]])
* [[10月19日]] - [[アーレイ・バーク]]、軍人(+ [[1996年]])
* [[10月24日]] - [[松前重義]]、[[科学者]]・教育者・[[工学]][[博士]]・[[東海大学]]創設者(+ [[1991年]])
* [[10月31日]] - [[浅野安子]]、元皇族(+ [[1974年]])
=== 11月 ===
* [[11月1日]] - [[ヨアヒム・エルンスト (アンハルト公)|ヨアヒム・エルンスト]]、[[アンハルト公国]]君主(+ [[1947年]])
* [[11月3日]] - [[アンドレ・マルロー]]、作家・[[冒険家]]・政治家(+ [[1976年]])
* 11月3日 - [[秋元不死男]]、俳人(+ [[1977年]])
* 11月3日 - [[レオポルド3世 (ベルギー王)|レオポルド3世]]、[[ベルギー]][[ベルギーの国王|国王]](+ [[1983年]])
* 11月3日 - [[緒方富雄]]、[[血液学|血清学者]](+ 1989年)
* 11月3日 - [[山口誓子]]、俳人(+ [[1994年]])
* [[11月4日]] - [[有吉義弥]]、[[日本郵船]]会長(+ [[1984年]])
* 11月4日 - [[李方子]]、[[李氏朝鮮]][[皇太子]]妃・皇族(+ 1989年)
* [[11月5日]] - [[海音寺潮五郎]]、小説家(+ [[1977年]])※戸籍上は3月13日生まれ
* 11月5日 - [[ウィリアム・ジョセフ・シーボルド]]、外交官(+ [[1980年]])
* [[11月6日]] - [[キャスリーン・メアリー・ドリュー=ベーカー]]、[[藻類学|藻類学者]](+ [[1957年]])
* 11月6日 - [[楊開慧]]、女性革命家、政治活動家(+ [[1930年]])
* [[11月8日]] - [[徐向前]]、軍人(+ 1990年)
* [[11月10日]] - [[日野吉夫]]、政治家・社会運動家(+ [[1978年]])
* [[11月11日]] - [[サム・スピーゲル]]、[[映画監督]](+ [[1985年]])
* 11月11日 - [[マクダ・ゲッベルス]]、[[ナチス・ドイツ]]の[[宣伝大臣|宣伝相]]の妻(+ [[1945年]])
* [[11月14日]] - [[仁木他喜雄]]、[[作曲家]](+ [[1958年]])
* [[11月16日]] - [[近藤鶴代]]、政治家・[[科学技術庁|科学技術庁長官]](+ [[1970年]])
* [[11月17日]] - [[リー・ストラスバーグ]]、俳優・演出家・演技指導者(+ [[1982年]])
* [[11月18日]] - [[ジョージ・ギャラップ]]、統計学者(+ 1984年)
* [[11月21日]] - [[高橋正雄 (経済学者)|高橋正雄]]、経済学者(+ [[1995年]])
* [[11月22日]] - [[ホアキン・ロドリーゴ]]、作曲家(+ [[1999年]])
* [[11月25日]] - [[宮崎奕保]]、僧侶・[[曹洞宗]][[大本山]][[永平寺]]78世貫首(+ [[2008年]])
* 11月25日 - [[シェルイ・ティボール]]、[[作曲家]]・[[ヴァイオリニスト]]・[[ヴィオリスト]](+ [[1978年]])
* [[11月30日]] - [[荻須高徳]]、[[洋画家]](+ [[1986年]])
* 11月30日 - [[向井潤吉]]、洋画家(+ [[1995年]])
=== 12月 ===
* [[12月1日]] - [[田中百畝]]、[[京急百貨店|京浜百貨店]]社長・[[京浜急行電鉄]]社長(+ [[1964年]])
* [[12月2日]] - [[ライムンド・オルシ]]、サッカー選手(+ [[1986年]])
* [[12月5日]] - [[ウォルト・ディズニー]]、[[漫画家]]・映画監督・[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]創設者(+ [[1966年]])
* 12月5日 - [[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]、物理学者・ノーベル物理学賞受賞者(+ [[1976年]])
* 12月5日 - [[ミルトン・エリクソン]]、[[催眠療法|催眠療法家]](+ [[1980年]])
* [[12月8日]] - [[安藤喜市]]、[[牧師]](+ [[没年不明]])
* [[12月9日]] - [[ジャン・メルモーズ]]、[[パイロット (航空)|操縦士]](+ [[1936年]])
* [[12月10日]] - [[浜崎真二]]、野球選手・[[プロ野球監督|野球監督]](+ [[1981年]])
* [[12月11日]] - [[マイケル・オークショット]]、[[思想家|政治哲学者]](+ 1990年)
* [[12月12日]] - [[木村伊兵衛]]、[[写真家]](+ [[1974年]])
* [[12月13日]] - [[豊田隈雄]]、軍人(+ [[1995年]])
* 12月13日 - [[妻木松吉]]、説教強盗(+ [[1989年]])
* [[12月14日]] - [[阪東妻三郎]]、俳優(+ [[1953年]])
* 12月14日 - [[パウロス1世 (ギリシャ王)|パウロス1世]]、[[ギリシャ王国]]国王(+ [[1964年]])
* 12月14日 - [[アンリ・コシェ]]、[[テニス]]選手(+ [[1987年]])
* [[12月16日]] - [[マーガレット・ミード]]、[[文化人類学|文化人類学者]](+ [[1978年]])
* [[12月20日]] - [[保利茂]]、政治家・衆議院議長(+ [[1979年]])
* [[12月22日]] - [[アンドレ・コステラネッツ]]、指揮者・[[編曲家]](+ [[1980年]])
* [[12月24日]] - [[ソフィー=カルメン・エックハルト=グラマッテ]]、ピアニスト・ヴァイオリニスト・作曲家(+ [[1974年]])
* [[12月25日]] - [[島田叡]]、[[沖縄県|沖縄]]官選知事(+ [[1945年]])
* 12月25日 - [[アリス (グロスター公爵夫人)|アリス]]、[[イギリス王室]]構成員(+ [[2004年]])
* [[12月26日]] - [[ピート・ファンデカンプ]]、天文学者(+ [[1995年]])
* [[12月27日]] - [[マレーネ・ディートリヒ]]、俳優・歌手(+ [[1992年]])
=== 生月日不明 ===
* 生月日不明 - [[貴島桃隆]]、[[政治運動家]](+ 没年不明)
* 生月日不明 - [[谷口節道]]、日本の[[曹洞宗]]の[[僧侶]](+ [[1986年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1901年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
=== 1月 ===
* [[1月1日]] - [[石井忠亮]]、[[武士]]・[[和歌山県]][[都道府県知事|知事]](* [[1840年]])
* [[1月2日]] - [[尾高惇忠 (実業家)| 尾高惇忠]]、[[実業家]](* [[1830年]])
* [[1月11日]] - [[ヴァシリー・カリンニコフ]]、[[作曲家]](* [[1866年]])
* [[1月14日]] - [[シャルル・エルミート]]、[[数学者]](* [[1822年]])
* [[1月16日]] - [[アルノルト・ベックリン]]、[[画家]](* [[1827年]])
* [[1月20日]] - [[伊藤圭介 (理学博士)|伊藤圭介]]、[[理学博士]]・[[男爵]](* [[1803年]])
* [[1月21日]] - [[イライシャ・グレイ]]、[[発明家]]・[[技術者]](* [[1835年]])
* [[1月22日]] - [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]、[[イギリス君主一覧|英国女王]](* [[1819年]])
* [[1月27日]] - [[ジュゼッペ・ヴェルディ]]、作曲家(* [[1813年]])
=== 2月 ===
* [[2月3日]] - [[福澤諭吉]]、[[思想家]]・初代[[日本学士院|東京学士会院]]院長・[[慶應義塾]]創設者(* [[1835年]])
* [[2月9日]] - [[マックス・フォン・ペッテンコーファー]]、[[衛生|衛生学者]]・[[科学者]](* [[1818年]])
* [[2月11日]] - [[ミラン1世 (セルビア王)|ミラン1世]]、[[セルビア]]王(* [[1854年]])
* [[2月16日]] - [[三吉慎蔵]]、武士(* [[1831年]])
* [[2月18日]] - [[早矢仕有的]]、[[丸善雄松堂|丸善]]創業者(* [[1837年]])
* [[2月21日]] - [[ジョージ・フィッツジェラルド]]、[[物理学者]](* [[1851年]])
* [[2月25日]] - [[ヴォイチェフ・ゲルソン]]、[[画家]](* [[1831年]])
=== 3月 ===
* [[3月2日]] - [[ジョージ・マーサー・ドーソン]]、[[科学者]]・[[探検家]](* [[1849年]])
* [[3月8日]] - [[江馬天江]]、[[書家|書道家]]・[[漢詩|漢詩人]]・[[医師]](* [[1825年]])
* [[3月13日]] - [[ベンジャミン・ハリソン]]、[[軍人]]・[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1833年]])
* [[3月31日]] - [[ジョン・ステイナー]]、作曲家・[[オルガニスト]](* [[1840年]])
=== 4月 ===
* [[4月16日]] - [[ヘンリー・ローランド]]、物理学者(* [[1848年]])
* [[4月19日]] - [[細川利永]]、[[熊本藩|熊本新田藩]]藩主(* [[1829年]])
* [[4月20日]] - [[パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ]]、[[言語学者]]・[[外交官]](* [[1847年]])
* [[4月24日]] - [[リチャード・ブラントン]]、[[建築家]](* [[1841年]])
=== 5月 ===
* [[5月22日]] - [[ガエタノ・ブレーシ]]、[[アナキズム|無政府主義者]](* [[1869年]])
* [[5月24日]] - [[渡辺洪基]]、[[東京都知事一覧|東京府知事]]・[[東京大学|東京帝国大学]][[総長]](* [[1847年]])
* [[5月25日]] - [[中島湘煙]]、[[フェミニスト]]・[[作家]](* [[1864年]])
=== 6月 ===
* [[6月1日]] - [[大橋乙羽]]、[[小説家]]・[[編集者]](* [[1869年]])
* [[6月2日]] - [[大河内正質]]、[[大多喜藩|大多喜藩主]]・[[江戸幕府]][[老中]]格・[[貴族]](* [[1844年]])
* 6月2日 - [[馬偕]]、[[宣教師]]・[[教育者]](* [[1844年]])
* [[6月16日]] - [[ヘルマン・グリム]]、文化史家・[[著作家|著述家]](* [[1828年]])
* [[6月17日]] - [[コルネリウス・グルリット]]、作曲家(* [[1820年]])
* [[6月21日]] - [[星亨]]、[[衆議院議長]](* [[1850年]])
=== 7月 ===
* [[7月4日]] - [[ヨハネス・シュミット]]、[[言語学者]](* [[1843年]])
* [[7月6日]] - [[クロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト|ホーエンローエ=シリングスフュルスト]]、[[ドイツ帝国]]首相(* [[1819年]])
* [[7月7日]] - [[ヨハンナ・スピリ]]、作家(* [[1827年]])
=== 8月 ===
* [[8月4日]] - [[フランチェスコ・クリスピ]]、[[イタリア]]首相(* [[1819年]])
* [[8月5日]] - [[ヴィクトリア (ドイツ皇后)|ヴィクトリア]]、[[イギリス王室]]王女・[[ドイツ皇帝]]妃(* [[1840年]])
* [[8月9日]] - [[アンリ・ドルレアン (1867-1901)|アンリ・ドルレアン]]、[[探検家]](* [[1867年]])
* [[8月12日]] - [[アドルフ・エリク・ノルデンショルド]]、[[地質学|鉱山学者]]・[[探検家]](* [[1832年]])
* [[8月19日]] - [[尚泰王]]、[[琉球国王]](* [[1843年]])
* [[8月21日]] - [[アドルフ・オイゲン・フィック]]、[[生理学者]]・物理学者(* [[1829年]])
* [[8月27日]] - [[ルドルフ・ハイム]]、思想家(* [[1821年]])
=== 9月 ===
* [[9月9日]] - [[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック]]、画家・[[貴族]](* [[1864年]])
* [[9月14日]] - [[ウィリアム・マッキンリー]]、[[教員|教師]]・軍人・[[弁護士]]・[[検察官]]・アメリカ合衆国大統領(* [[1843年]])
=== 10月 ===
* [[10月1日]] - [[アブドゥッラフマーン・ハーン]]、[[アフガニスタン]]国王(* [[1844年]])
* [[10月7日]] - [[中上川彦次郎]]、[[時事新報]]社長・[[山陽鉄道]]社長(* [[1854年]])
* [[10月18日]] - [[アーギュスト・マルムストレム]]、[[画家]](* [[1829年]])
* [[10月28日]] - [[パウル・レー]]、思想家・医師(* [[1849年]])
* [[10月29日]] - [[レオン・チョルゴシュ]]、[[アナーキスト|無政府主義者]]・[[ウィリアム・マッキンリー]]暗殺者(* [[1873年]])
=== 11月 ===
* [[11月6日]] - [[ケイト・グリーナウェイ]]、[[挿絵]]作家・[[絵本作家]](* [[1846年]])
* [[11月7日]] - [[李鴻章]]、[[政治家]](* [[1823年]])
* [[11月25日]] - [[ヨーゼフ・ラインベルガー]]、作曲家・オルガニスト(* [[1839年]])
* [[11月30日]] - [[エドワード・ジョン・エア]]、[[探検家]](* [[1815年]])
=== 12月 ===
* [[12月2日]] - [[谷周平]]、[[新撰組]]隊士(* [[1848年]])
* [[12月9日]] - [[木村芥舟]]、[[幕臣]](* [[1830年]])
* 12月9日 - [[駒井重格]]、[[官僚]]・[[経済学者]]・[[専修大学]]創設者(* [[1853年]])
* [[12月13日]] - [[中江兆民]]、思想家・[[ジャーナリスト]]・政治家(* [[1847年]])
* [[12月17日]] - [[本多忠明]]、[[山崎藩]]藩主(* [[1833年]])
* [[12月24日]] - [[クラレンス・キング]]、[[地質学者]](* [[1842年]])
== ノーベル賞 ==
* [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[ヴィルヘルム・レントゲン]]
* [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフ]]
* [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[エミール・アドルフ・フォン・ベーリング]]
* [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[シュリ・プリュドム]] (Sully Prudhomme)
* [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[アンリ・デュナン]]、[[フレデリック・パシー]]
== フィクションのできごと ==
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* リリアン女学園創立。(小説『[[マリア様がみてる]]』)
=== 誕生 ===
* 月日不明 - 田倉しん(テレビドラマ『[[おしん]]』の主人公)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* 都築甚之助、大町文興著『我邦ニ於ケル麻剌里亜蚊伝搬ノ証明』[[英蘭堂書店]]。1901年(明治34年)10月29日発行(2008年1月21日現在、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で閲覧可能)
* {{Cite book ja-jp |author=ピーター・ファータド(編集) |year=2013 |title=世界の歴史を変えた日 1001 |publisher=ゆまに書房 |isbn=978-4-8433-4198-8 |ref={{Sfnref|ファータド|2013}}}}<!-- 2013年10月15日初版1刷 -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
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[[Category:1901年|*]] | 2003-02-20T10:04:55Z | 2023-09-16T22:47:49Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1901%E5%B9%B4 |
2,496 | とんねるずのみなさんのおかげです | 『とんねるずのみなさんのおかげです。』は、フジテレビ系列で1988年10月13日から1997年3月27日まで毎週木曜日 21:00 - 21:54 (JST) に放送されたバラエティ番組である。
略称は『おかげです』もしくは『みなさん』と呼ばれている。
お笑いコンビのとんねるず(石橋貴明・木梨憲武)と多彩なゲスト陣によるコントを中心に構成された。
1989年から1994年までの6年間、バラエティ番組で年間平均視聴率1位を記録した。『ねるとん紅鯨団』、『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』と並ぶ、とんねるずの代表番組の一つである。
元々は火曜日の19:30-20:54に放送されていた『火曜ワイドスペシャル』(後の『カスペ!』)のスペシャル番組だった(パート1 - 4まで)。パート4の1コーナー「仮面ノリダー」のウケも良く、パート5を待たずにレギュラー番組へと昇格した(鹿内春雄会長死去後の混乱もあり、半年後の放送開始となった)。とんねるずの肖像権の複雑化の絡みや、実際のテレビ番組・映画・ドラマ・洋邦の音楽のMVのパロディコントが多い関係で再放送がないものの、放送ライブラリーで番組レギュラー初回の1988年10月13日放送分を閲覧する事ができる。
番組名は本番組の誕生のきっかけだった『火曜ワイドスペシャル』のとんねるず起用を決定した日枝久の名を冠して『ヒエダさんのおかげです』にしようと、とんねるずが提案したがスタッフや当時の会長・鹿内宏明(春雄の義弟)の反対により『みなさんのおかげです』に落ち着いた。一方で当時のとんねるずが結成6周年と言う節目もあって『みなさんのおかげです』になったと言われている。
レギュラー放送の放送時間は、当初はTBS『ザ・ベストテン』の他にも、NHK『大河ドラマ』や日本テレビ『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の裏番組に設定することも検討されていたが、『大河ドラマ』と『元気が出るテレビ!!』には視聴率では太刀打ちできないと判断し、最終的に石田弘と険悪の関係にあり、かつ出演拒否が相次ぐなど低迷傾向にあった『ベストテン』の裏番組に落ち着いた(『なんてったって好奇心』は日曜20時台へ移動)。港浩一は放送時間決定直後に「『ザ・ベストテン』じゃねえかよ!」と、当初は『ベストテン』に太刀打ちできずに、早期打ち切りになるのではないかと不安に感じていたという。放送開始前に石田はTBSへ出向き、石田は「『ベストテン』のチャートに入ってるうちは、その歌手をうちが触ることはない。入る前とか、落ちた後とかに出演させるんで、どうか理解してほしい」と説明し、これに対してTBSは了承したが、後にその約束は本番組によって破られることになる(後述)。また、港の予想に反して、開始直後から高視聴率を叩き出すことになる(後述)。
レギュラー番組に昇格した1988年10月からは、コントがメインの番組としてはまだ当時珍しかったステレオ放送で放映された。当時はドラマコントがメインの番組構成で、番組後半にゲストの歌を1曲流すなどの放送内容が中心であり、音声の臨場感を伝える役割を果たしていた。この体制は後番組『とんねるずのみなさんのおかげでした』に至るまで続けられた。後に音楽企画やドラマコントが事実上廃止状態となり、通常のバラエティ番組と同様の内容になったことから、2005年夏頃以降は総集編スペシャルと音楽企画の回を除いてモノラル放送(地上デジタルテレビ放送はモノステレオ放送)へと変更されたが、2008年6月5日以降は、再びステレオ放送へと変更されている。
1990年4月から同年9月までにかけてはとんねるずが日本テレビ系ドラマ『火の用心』の出演に専念するためいったん打ち切り。『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』が代わりに放送され、ドラマ収録終了後の10月に番組が復活した。他に1994年4月から9月まで『ラスタとんねるず'94』、1997年4月から6月19日までは『とんねるずの本汁でしょう!!』が放送された。石橋貴明によれば、どちらもプロデューサー・石田弘の糖尿病療養期間のつなぎ番組だとネタにされているが、『ラスタとんねるず'94』の方は表向きの理由であり、放送の裏には1993年12月に宜保タカ子のロケで富士山麓の天然記念物生息地(氷穴)を爆薬などで荒らし、撮影セットのゴミを不法投棄したことが問題となり、当時、各局や各新聞でニュース報道され、スタッフが処分されて番組も半年間収録が出来なくなったというのが実情である。この件に関しては翌1994年1月13日の放送終了時、ブルーバックにお詫びテロップを表示している。
その後、フジテレビお台場社屋移転後の1997年6月26日から、『とんねるずのみなさんのおかげでした』にリニューアルして放送を再開。それに伴い、『おかげです』の最終回は、新聞のラテ欄では終マークはなかった。『おかげでした』では、コントなしでゲストの嫌いな食べ物を見抜く「新・食わず嫌い王決定戦」や「モジモジくん」のコーナーが人気になっている。
コントに登場する名物キャラクターは他のバラエティ番組の追随を許さなかった。チェッカーズや宮沢りえなど、当時一世を風靡した豪華なゲストも毎週出演していた。
木曜21時台という当時では子供向けと言うにはやや遅めの時間帯の番組であったが、「仮面ノリダー」を中心にさまざまなコントキャラクターが子供にも絶大な人気を誇っていた。宮沢りえ、牧瀬里穂、観月ありさ、ともさかりえ、松嶋菜々子などを、まだ知名度が高くない時代から抜擢し人気タレントに駆け上がっていった。その一方で、本来ならば子供人気や新人清純派タレントとは相容れない下ネタも多かったが、意味を理解しないまま子供受けしていたのも事実であり、子供人気、新人タレント、下ネタという綺麗なトライアングルを形成できたのはとんねるずのキャラクターによるある種の奇跡である。石橋が女性ゲストにキスをしたり、押し倒したり添い寝をしたり、口に入れたお粥を牧瀬里穂の顔に垂らしたり、赤ちゃん役に扮していた小泉今日子が咥えていたおしゃぶりやイチゴなどを石橋が取り上げて自分の口に入れ「...おいし〜い!」と至福の表情で言う、松嶋菜々子などに下ネタを言わせるなどといったセクハラも目立った。子供への絶大な人気を受け『コミックボンボン』で1990年1月号から4月号にかけてミスター=ヒロ(かみやたかひろの別名義)による漫画が連載され、『月刊コロコロコミック』などでも特集記事が組まれたりしていたが、下ネタギャグに関してはほとんど触れられていなかった。
スペシャル版の放送は、人気絶頂期においては通常の延長よりも長くされており、75分拡大の放送とされることが多く、子供からの人気が高かったことから深夜時間帯に差し掛かる直前にエンディングが流れるなどの配慮がされていたほか、稀に夜19時からの放送となることもあった。
2018年3月21日、放送開始30周年記念として、3枚組のDVD-BOX「とんねるずのみなさんのおかげでBOX」が発売。「観賞用」と「保存用」の2パターンがあり、「保存用」に関しては、箱がシールで封がされている。剥がす事は可能だが、その際箱に傷がつく恐れがあり、その際の責任は一切負いかねる。
2019年5月22日には第2弾となる9枚組のDVD-BOX「とんねるずのみなさんのおかげでBOX コンプライアンス」が発売。第1弾のBOXに封入していた「何かあるかも券」3枚を今回のBOXに封入されている専用ハガキに貼って応募すると、スペシャルDVD3枚が応募者全員にプレゼントされる。
上述のように実際のテレビ番組・映画・ドラマ・洋邦の音楽のMVのパロディコントを多く行っていたため、権利をクリアできないそれらに関してはDVDに一切収録されていない(「太陽にほえるな」「北の国から」など収録が許されたコントもある)。
レギュラー版全体を通しての放送回数は363回。
1986年秋に石橋が当時フジテレビの編成局長であった日枝久に「僕らにゴールデンタイムの2時間番組を下さい、視聴率30%とってみせます」と編成部まで行って頼み込んだという。ちなみにこの際、日枝局長に「もし取れなかったらどうする?」と聞かれた石橋は、番組プロデューサーである石田弘を「彫刻の森美術館に飛ばしてください」と言った(石田はその場には居なかった。一方で、30%を達成したらフジテレビの食堂で何を食べてもいいという約束を取り付けた)。
まもなく『火曜ワイドスペシャル』で番組を持たせてもらい、放送が始まった。結果、視聴率30%には及ばなかったものの常に高視聴率を獲得し(平均20.3%。この結果は放送翌日の「夕やけニャンニャン」で石橋の口から発表され、「まあこんなもんだろ、よしよし」と二人は結果に満足していた)、定期的にスペシャルを行った後に1988年10月からレギュラー番組としてスタート。もう一説によるとこの公約を叩きつけた石橋は「20%に届かなかったら笑いの世界から身を引く」と後年TBSの特別番組でそのまんま東の発言によって語られた。
当初の視聴率は15%台を目標としていた。番組開始当初から「仮面ノリダー」のコーナーなどで人気を博し、視聴率も回を追うごとに上昇し、1988年11月3日放送分では24%を記録した。1989年2月2日放送分では27.7%を記録し、開始から半年が経過した1989年3月30日(『とんねるずのみなさんのおかげです春休みスペシャル』)に最高視聴率29.5%(関東地区)を記録した(ただし、普段の時間ではなく午後7時スタートのスペシャル版にて)。その後、「仮面ノリダー」終了後も他のコーナーも大人気となり、1989年から1994年まではバラエティ番組年間平均視聴率の第一位を保持、2度にわたる充電期間を経ても人気を保った他、放送開始前に高視聴率を誇っていた『ザ・ベストテン』を開始直後から低視聴率に追いやり、開始から1年後の1989年9月に『ザ・ベストテン』を打ち切りに追い込んだ。
番組晩年にあたる1995年以降も全盛期ほど視聴率は取れなくなったものの安定した数字を残していた。95年は平均視聴率で番組開始以来初となる1位から陥落したものの、4位(3位に「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」がランクイン)と高視聴率をキープその後も番組終了まで常にベスト5以内の地位を保った。
1997年3月に放送終了(4月に内容変更・改題などのリニューアル)した。 「おかげです」(8年半を通じて)としての平均視聴率は20.2%(最終回の前週に発表)。9年間で使った予算は186億8900万円(こちらは最終回でダーイシが発言)。
1997年3月27日放送の『おかげです』としての最終回はかつての人気コント「仮面ノリダー」、「保毛尾田保毛男」、「最終回によくある風景」、「太陽にほえるな!」、「貧乏家の人々」など番組の人気コントを全て新作、完結編として放送した。また、番組の冒頭と最後にかつての常連ゲストで番組を愛していた小泉今日子を迎え、石橋扮する石田(ゼネラル)プロデューサーと木梨扮する小港ディレクター(兼プロデューサー)とともに局内に入り「石田プロデューサーの引越しと『みなさん』が終わっちまって大変なんだよォ日記」なるコントを放送。最後は番組を作り終えた石田プロデューサーがテレビマンとして燃え尽き死んでしまいその霊がバブルスとなって木梨、小泉とともに「最後のバァーイ、センキュー」のコールとともに本編は終了。ちなみにこの時、石橋が「以上、みなさんのおかげでした」と発言しているが、これが後継番組のタイトルとして使用されているのと関係があるかどうかは不明である。
そして、ラストはフジテレビ社屋が河田町から現在のお台場に移転したこともあり、とんねるずが歌う当時の番組のエンディングテーマ『テレビ〜時々の神よ〜』をバックに『おかげです』と共に使命を終えた旧社屋の表情を映し、最後は現お台場社屋の屋上でとんねるずが歌っているシーンに繋がるという映像で番組を締めくくった。
『おかげです』終了から20年後、『おかげでした』2017年12月7日放送分で2018年3月22日をもってとんねるずのみなさんシリーズを完結することを発表した。その際に、港浩一が社長を務める共同テレビジョンの社長室にて前述の「ちょっと北の国から」以来15年ぶりに往年のダーイシと小港さんによるコント形式で完結を発表した。
「PITCH&JAB」(第2期) 1990年10月11日~1991年7月?
1994年10月13日〜1996年3月?
1996年4月〜1997年3月20日 | [
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"text": "コントに登場する名物キャラクターは他のバラエティ番組の追随を許さなかった。チェッカーズや宮沢りえなど、当時一世を風靡した豪華なゲストも毎週出演していた。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 11,
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"text": "木曜21時台という当時では子供向けと言うにはやや遅めの時間帯の番組であったが、「仮面ノリダー」を中心にさまざまなコントキャラクターが子供にも絶大な人気を誇っていた。宮沢りえ、牧瀬里穂、観月ありさ、ともさかりえ、松嶋菜々子などを、まだ知名度が高くない時代から抜擢し人気タレントに駆け上がっていった。その一方で、本来ならば子供人気や新人清純派タレントとは相容れない下ネタも多かったが、意味を理解しないまま子供受けしていたのも事実であり、子供人気、新人タレント、下ネタという綺麗なトライアングルを形成できたのはとんねるずのキャラクターによるある種の奇跡である。石橋が女性ゲストにキスをしたり、押し倒したり添い寝をしたり、口に入れたお粥を牧瀬里穂の顔に垂らしたり、赤ちゃん役に扮していた小泉今日子が咥えていたおしゃぶりやイチゴなどを石橋が取り上げて自分の口に入れ「...おいし〜い!」と至福の表情で言う、松嶋菜々子などに下ネタを言わせるなどといったセクハラも目立った。子供への絶大な人気を受け『コミックボンボン』で1990年1月号から4月号にかけてミスター=ヒロ(かみやたかひろの別名義)による漫画が連載され、『月刊コロコロコミック』などでも特集記事が組まれたりしていたが、下ネタギャグに関してはほとんど触れられていなかった。",
"title": "概要"
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"text": "スペシャル版の放送は、人気絶頂期においては通常の延長よりも長くされており、75分拡大の放送とされることが多く、子供からの人気が高かったことから深夜時間帯に差し掛かる直前にエンディングが流れるなどの配慮がされていたほか、稀に夜19時からの放送となることもあった。",
"title": "概要"
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"text": "2018年3月21日、放送開始30周年記念として、3枚組のDVD-BOX「とんねるずのみなさんのおかげでBOX」が発売。「観賞用」と「保存用」の2パターンがあり、「保存用」に関しては、箱がシールで封がされている。剥がす事は可能だが、その際箱に傷がつく恐れがあり、その際の責任は一切負いかねる。",
"title": "概要"
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"text": "2019年5月22日には第2弾となる9枚組のDVD-BOX「とんねるずのみなさんのおかげでBOX コンプライアンス」が発売。第1弾のBOXに封入していた「何かあるかも券」3枚を今回のBOXに封入されている専用ハガキに貼って応募すると、スペシャルDVD3枚が応募者全員にプレゼントされる。",
"title": "概要"
},
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"text": "上述のように実際のテレビ番組・映画・ドラマ・洋邦の音楽のMVのパロディコントを多く行っていたため、権利をクリアできないそれらに関してはDVDに一切収録されていない(「太陽にほえるな」「北の国から」など収録が許されたコントもある)。",
"title": "概要"
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"text": "レギュラー版全体を通しての放送回数は363回。",
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"text": "1986年秋に石橋が当時フジテレビの編成局長であった日枝久に「僕らにゴールデンタイムの2時間番組を下さい、視聴率30%とってみせます」と編成部まで行って頼み込んだという。ちなみにこの際、日枝局長に「もし取れなかったらどうする?」と聞かれた石橋は、番組プロデューサーである石田弘を「彫刻の森美術館に飛ばしてください」と言った(石田はその場には居なかった。一方で、30%を達成したらフジテレビの食堂で何を食べてもいいという約束を取り付けた)。",
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"text": "まもなく『火曜ワイドスペシャル』で番組を持たせてもらい、放送が始まった。結果、視聴率30%には及ばなかったものの常に高視聴率を獲得し(平均20.3%。この結果は放送翌日の「夕やけニャンニャン」で石橋の口から発表され、「まあこんなもんだろ、よしよし」と二人は結果に満足していた)、定期的にスペシャルを行った後に1988年10月からレギュラー番組としてスタート。もう一説によるとこの公約を叩きつけた石橋は「20%に届かなかったら笑いの世界から身を引く」と後年TBSの特別番組でそのまんま東の発言によって語られた。",
"title": "視聴率"
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"text": "当初の視聴率は15%台を目標としていた。番組開始当初から「仮面ノリダー」のコーナーなどで人気を博し、視聴率も回を追うごとに上昇し、1988年11月3日放送分では24%を記録した。1989年2月2日放送分では27.7%を記録し、開始から半年が経過した1989年3月30日(『とんねるずのみなさんのおかげです春休みスペシャル』)に最高視聴率29.5%(関東地区)を記録した(ただし、普段の時間ではなく午後7時スタートのスペシャル版にて)。その後、「仮面ノリダー」終了後も他のコーナーも大人気となり、1989年から1994年まではバラエティ番組年間平均視聴率の第一位を保持、2度にわたる充電期間を経ても人気を保った他、放送開始前に高視聴率を誇っていた『ザ・ベストテン』を開始直後から低視聴率に追いやり、開始から1年後の1989年9月に『ザ・ベストテン』を打ち切りに追い込んだ。",
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"text": "番組晩年にあたる1995年以降も全盛期ほど視聴率は取れなくなったものの安定した数字を残していた。95年は平均視聴率で番組開始以来初となる1位から陥落したものの、4位(3位に「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」がランクイン)と高視聴率をキープその後も番組終了まで常にベスト5以内の地位を保った。",
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"text": "1997年3月に放送終了(4月に内容変更・改題などのリニューアル)した。 「おかげです」(8年半を通じて)としての平均視聴率は20.2%(最終回の前週に発表)。9年間で使った予算は186億8900万円(こちらは最終回でダーイシが発言)。",
"title": "視聴率"
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"text": "1997年3月27日放送の『おかげです』としての最終回はかつての人気コント「仮面ノリダー」、「保毛尾田保毛男」、「最終回によくある風景」、「太陽にほえるな!」、「貧乏家の人々」など番組の人気コントを全て新作、完結編として放送した。また、番組の冒頭と最後にかつての常連ゲストで番組を愛していた小泉今日子を迎え、石橋扮する石田(ゼネラル)プロデューサーと木梨扮する小港ディレクター(兼プロデューサー)とともに局内に入り「石田プロデューサーの引越しと『みなさん』が終わっちまって大変なんだよォ日記」なるコントを放送。最後は番組を作り終えた石田プロデューサーがテレビマンとして燃え尽き死んでしまいその霊がバブルスとなって木梨、小泉とともに「最後のバァーイ、センキュー」のコールとともに本編は終了。ちなみにこの時、石橋が「以上、みなさんのおかげでした」と発言しているが、これが後継番組のタイトルとして使用されているのと関係があるかどうかは不明である。",
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"text": "そして、ラストはフジテレビ社屋が河田町から現在のお台場に移転したこともあり、とんねるずが歌う当時の番組のエンディングテーマ『テレビ〜時々の神よ〜』をバックに『おかげです』と共に使命を終えた旧社屋の表情を映し、最後は現お台場社屋の屋上でとんねるずが歌っているシーンに繋がるという映像で番組を締めくくった。",
"title": "最終回"
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"text": "『おかげです』終了から20年後、『おかげでした』2017年12月7日放送分で2018年3月22日をもってとんねるずのみなさんシリーズを完結することを発表した。その際に、港浩一が社長を務める共同テレビジョンの社長室にて前述の「ちょっと北の国から」以来15年ぶりに往年のダーイシと小港さんによるコント形式で完結を発表した。",
"title": "最終回"
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"text": "「PITCH&JAB」(第2期) 1990年10月11日~1991年7月?",
"title": "テーマソング"
},
{
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"text": "1994年10月13日〜1996年3月?",
"title": "テーマソング"
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"text": "1996年4月〜1997年3月20日",
"title": "テーマソング"
}
] | 『とんねるずのみなさんのおかげです。』は、フジテレビ系列で1988年10月13日から1997年3月27日まで毎週木曜日 21:00 - 21:54 (JST) に放送されたバラエティ番組である。 略称は『おかげです』もしくは『みなさん』と呼ばれている。 お笑いコンビのとんねるず(石橋貴明・木梨憲武)と多彩なゲスト陣によるコントを中心に構成された。 1989年から1994年までの6年間、バラエティ番組で年間平均視聴率1位を記録した。『ねるとん紅鯨団』、『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』と並ぶ、とんねるずの代表番組の一つである。 | {{出典の明記|date=2016年6月2日 (木) 14:02 (UTC)}}
{{基礎情報 テレビ番組
|番組名=とんねるずの<br />みなさんのおかげです。
|ジャンル=[[バラエティ番組]] / [[お笑い番組]]
|放送時間=
|放送分=
|放送枠=
|放送期間=
|放送回数=
|放送国={{JPN}}
|制作局=[[フジテレビジョン|フジテレビ]]
|企画=石橋貴明、木梨憲武
|構成=[[秋元康]]<br /><small>ほか</small>
|製作総指揮=
|監督=
|演出=[[港浩一]]、石井正幸
|原作=
|脚本=
|プロデューサー=[[石田弘]]、[[港浩一]]
|出演者=[[とんねるず]]<br>([[石橋貴明]]・[[木梨憲武]])<br><small>ほか</small>
|音声=[[ステレオ放送]](※レギュラー版)
|字幕=
|データ放送=
|OPテーマ=
|EDテーマ=
|外部リンク=
|外部リンク名=
|特記事項=
|番組名1=[[火曜ワイドスペシャル]]版
|放送時間1=[[火曜日]] 19:30 - 20:54
|放送分1=84
|放送期間1=[[1986年]][[11月11日]](パート1)<br>[[1987年]][[4月7日]](パート2)<br>1987年[[10月13日]](パート3)<br>1988年[[3月8日]](パート4)
|番組名2=レギュラー版 (363回)<br>(第1期)
|放送時間2=[[木曜日]] 21:00 - 21:54
|放送分2=54
|放送期間2=[[1988年]][[10月13日]] - [[1990年]][[4月5日]]
|番組名3=(第2期)
|放送時間3=同上
|放送期間3=1990年[[10月11日]] - [[1994年]][[3月31日]]
|番組名4=(第3期)
|放送時間4=同上
|放送期間4=1994年10月13日 - [[1997年]][[3月27日]]
|次作 = [[とんねるずのみなさんのおかげでした]]
}}
『'''とんねるずのみなさんのおかげです。'''』<ref group="注">番組タイトルは『'''とんねるずのみなさんのおかげです'''』と表記されることが多いが、初期のタイトルロゴが表すように最後に『'''。'''』が付くのが正式とされている。ただし後期のタイトルロゴでは『'''。'''』は省略されている。</ref>は、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列で1988年10月13日から1997年3月27日まで毎週[[木曜日]] 21:00 - 21:54 ([[日本標準時|JST]]) に放送された[[バラエティ番組]]である。
略称は『'''おかげです'''』もしくは『'''みなさん'''』と呼ばれている<ref group="注">『'''みなおか'''』と略すケースもあるが、2018年3月1日放送の『[[ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン]]』にゲスト出演した石橋が『'''みなおか'''』とは呼ばないと正式に否定していた。</ref>。
お笑いコンビの[[とんねるず]]([[石橋貴明]]・[[木梨憲武]])と多彩なゲスト陣によるコントを中心に構成された。
1989年から1994年までの6年間、バラエティ番組で年間平均視聴率1位を記録した。『[[ねるとん紅鯨団]]』、『[[とんねるずの生でダラダラいかせて!!]]』と並ぶ、とんねるずの代表番組の一つである。
== 概要 ==
;不定期特番時代
元々は火曜日の19:30-20:54に放送されていた『[[火曜ワイドスペシャル]]』(後の『[[カスペ!]]』)のスペシャル番組だった(パート1 - 4まで)。パート4の1コーナー「[[仮面ノリダー]]」のウケも良く、パート5を待たずにレギュラー番組へと昇格した([[鹿内春雄]]会長死去後の混乱もあり、半年後の放送開始となった)。とんねるずの肖像権の複雑化の絡みや、実際のテレビ番組・映画・ドラマ・洋邦の音楽のMVのパロディコントが多い関係で再放送がないものの、[[放送ライブラリー]]で番組レギュラー初回の[[1988年]][[10月13日]]放送分を閲覧する事ができる。
番組名は本番組の誕生のきっかけだった『火曜ワイドスペシャル』のとんねるず起用を決定した[[日枝久]]の名を冠して『ヒエダさんのおかげです』にしようと、とんねるずが提案したがスタッフや当時の会長・[[鹿内宏明]](春雄の義弟)の反対により『みなさんのおかげです』に落ち着いた。一方で当時のとんねるずが結成6周年と言う節目もあって『みなさんのおかげです』になったと言われている。
;レギュラー放送開始まで
レギュラー放送の放送時間は、当初は[[TBSテレビ|TBS]]『[[ザ・ベストテン]]』の他にも、[[NHK総合テレビジョン|NHK]]『[[大河ドラマ]]』や[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]『[[天才・たけしの元気が出るテレビ!!]]』の裏番組に設定することも検討されていたが、『大河ドラマ』と『元気が出るテレビ!!』には視聴率では太刀打ちできないと判断し、最終的に[[石田弘]]と険悪の関係にあり<ref group="注">石田と『[[オレたちひょうきん族]]』のプロデューサーを務めていた[[横澤彪]]、『[[なるほど!ザ・ワールド]]』のプロデューサーを務めていた[[王東順]]との関係は良くなかった。横澤と王は『ザ・ベストテン』の追っかけ中継の立ち入りを許可させていたが、皮肉にも『オレたちひょうきん族』は、『ザ・ベストテン』終了と同じ1989年10月に『[[加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ]]』(TBS)によって打ち切りに追い込まれている。</ref>、かつ出演拒否が相次ぐなど低迷傾向にあった『ベストテン』の裏番組に落ち着いた(『[[なんてったって好奇心]]』は日曜20時台へ移動)<ref name="mynavi">[https://news.mynavi.jp/article/20170928-cx_dahishi/ フジ・石田弘EP、大いに語る -『とんねるずのみなさんのおかげ』30年続いてきた"悪ふざけ"]マイナビニュース 2017年9月28日</ref>。[[港浩一]]は放送時間決定直後に「『ザ・ベストテン』じゃねえかよ!」と、当初は『ベストテン』に太刀打ちできずに、早期打ち切りになるのではないかと不安に感じていたという<ref name="sintyo">[https://www.dailyshincho.jp/article/2018/01060630/?all=1 「とんねるず」を見出した名物プロデューサーが語る「みなおか」の“人気と終焉”]デイリー新潮 2018年1月6日</ref>。放送開始前に石田はTBSへ出向き、石田は「『ベストテン』のチャートに入ってるうちは、その歌手をうちが触ることはない。入る前とか、落ちた後とかに出演させるんで、どうか理解してほしい」と説明し、これに対してTBSは了承したが<ref name="mynavi" />、後にその約束は本番組によって破られることになる(後述)。また、港の予想に反して、開始直後から高視聴率を叩き出すことになる(後述)。
;レギュラー放送時代
レギュラー番組に昇格した1988年10月からは、コントがメインの番組としてはまだ当時珍しかった[[ステレオ放送]]<ref group="注">第2期途中までステレオ放送のテロップ表示は後述するオープニングクリップの途中でFNS系列各局でローカル別に表示していた。なお、[[北海道文化放送]]のサービスエリアのうち[[札幌市|札幌]]以外の地区ならびにステレオ放送未整備の一部系列局は放送開始から最終回まで一貫してモノラルでの放送であった。</ref>で放映された。当時のキャッチコピーであった「'''ギャグる、コントる、アドリブる。'''」の通り、ドラマコントがメインの番組構成で、番組後半にゲストの歌を1曲流すなどの放送内容が中心であり、音声の臨場感を伝える役割を果たしていた。この体制は後番組『[[とんねるずのみなさんのおかげでした]]』に至るまで続けられた。後に音楽企画やドラマコントが事実上廃止状態となり、通常のバラエティ番組と同様の内容になったことから、2005年夏頃以降は総集編スペシャルと音楽企画の回を除いて[[モノラル放送]]([[地上デジタルテレビ放送]]はモノステレオ放送)へと変更されたが、2008年6月5日以降は、再びステレオ放送へと変更されている。
;放送休止
[[1990年]]4月から同年9月までにかけてはとんねるずが[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系ドラマ『[[火の用心]]』の出演に専念するためいったん[[打ち切り]]。『[[ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!]]』が代わりに放送され、ドラマ収録終了後の10月に番組が復活した。他に1994年4月から9月まで『[[ラスタとんねるず'94]]』、1997年4月から[[6月19日]]までは『[[とんねるずの本汁でしょう!!]]』が放送された。[[石橋貴明]]によれば、どちらもプロデューサー・[[石田弘]]の糖尿病療養期間の[[つなぎ番組]]だとネタにされているが、『ラスタとんねるず'94』の方は表向きの理由であり、放送の裏には[[1993年]]12月に宜保タカ子のロケで[[富士山_(代表的なトピック)|富士山麓]]の[[天然記念物]]生息地(氷穴)を爆薬などで荒らし、撮影セットのゴミを[[不法投棄]]したことが問題となり、当時、各局や各新聞でニュース報道され、スタッフが処分されて番組も半年間収録が出来なくなったというのが実情である。この件に関しては翌1994年1月13日の放送終了時、ブルーバックにお詫びテロップを表示している。
;内容
その後、フジテレビお台場社屋移転後の1997年[[6月26日]]から、『とんねるずのみなさんのおかげでした』にリニューアルして放送を再開。それに伴い、『おかげです』の最終回は、新聞のラテ欄では終マークはなかった。『おかげでした』では、コントなしでゲストの嫌いな食べ物を見抜く「[[とんねるずのみなさんのおかげでしたのコーナー一覧#新・食わず嫌い王決定戦|新・食わず嫌い王決定戦]]」や「モジモジくん」のコーナーが人気になっている。
コントに登場する名物キャラクターは他のバラエティ番組の追随を許さなかった。[[チェッカーズ]]や[[宮沢りえ]]など、当時一世を風靡した豪華なゲストも毎週出演していた。
;エトセトラ
木曜21時台という当時では子供向けと言うにはやや遅めの時間帯の番組であったが、「仮面ノリダー」を中心にさまざまなコントキャラクターが子供にも絶大な人気を誇っていた。[[宮沢りえ]]、[[牧瀬里穂]]、[[観月ありさ]]、[[ともさかりえ]]、[[松嶋菜々子]]などを、まだ知名度が高くない時代から抜擢し人気タレントに駆け上がっていった。その一方で、本来ならば子供人気や新人清純派タレントとは相容れない[[下ネタ]]も多かったが、意味を理解しないまま子供受けしていたのも事実であり、子供人気、新人タレント、下ネタという綺麗なトライアングルを形成できたのはとんねるずのキャラクターによるある種の奇跡である。石橋が女性ゲストにキスをしたり、押し倒したり添い寝をしたり、口に入れたお粥を[[牧瀬里穂]]の顔に垂らしたり、赤ちゃん役に扮していた[[小泉今日子]]が咥えていたおしゃぶりやイチゴなどを石橋が取り上げて自分の口に入れ「…おいし〜い!」と至福の表情で言う、松嶋菜々子などに下ネタを言わせるなどといった[[セクシャルハラスメント|セクハラ]]も目立った。子供への絶大な人気を受け『[[コミックボンボン]]』で1990年1月号から4月号にかけてミスター=ヒロ([[かみやたかひろ]]の別名義)による漫画が連載され、『[[月刊コロコロコミック]]』などでも特集記事が組まれたりしていたが、下ネタギャグに関してはほとんど触れられていなかった。
スペシャル版の放送は、人気絶頂期においては通常の延長よりも長くされており、75分拡大の放送とされることが多く<ref group="注">実際はミニ番組放送の関係上70分延長し、予告編を含めて21:00 - 23:05放送だった。</ref>、子供からの人気が高かったことから[[深夜番組|深夜]]時間帯に差し掛かる直前にエンディングが流れるなどの配慮がされていたほか、稀に夜19時からの放送となることもあった。
;映像ソフト化
2018年3月21日、放送開始30周年記念として、3枚組のDVD-BOX「とんねるずのみなさんのおかげでBOX」が発売。「観賞用」と「保存用」の2パターンがあり、「保存用」に関しては、箱がシールで封がされている。剥がす事は可能だが、その際箱に傷がつく恐れがあり、その際の責任は一切負いかねる<ref>[https://minasan.ponycanyon.co.jp/ とんねるずのみなさんのおかげBOX]ポニーキャニオン公式サイト</ref>。
2019年5月22日には第2弾となる9枚組のDVD-BOX「とんねるずのみなさんのおかげでBOX コンプライアンス」が発売。第1弾のBOXに封入していた「何かあるかも券」3枚を今回のBOXに封入されている専用ハガキに貼って応募すると、スペシャルDVD3枚が応募者全員にプレゼントされる。
上述のように実際のテレビ番組・映画・ドラマ・洋邦の音楽のMVのパロディコントを多く行っていたため、権利をクリアできないそれらに関してはDVDに一切収録されていない(「太陽にほえるな」「北の国から」など収録が許されたコントもある)。
== 出演者 ==
=== とんねるず ===
* [[石橋貴明]]・[[木梨憲武]] ※91年末から92年初頭期にかけて名前のテロップの上に「オリコン初登場1位歌手」「ミリオンセラー歌手」「'91[[日本歌謡大賞]]受賞歌手」「'91[[紅白歌合戦]]出場歌手」「'91[[FNS歌謡祭]]大トリ歌手」「[[日本卓球協会]]名誉初段」(後に2段に変更)と肩書が徐々に増えて表記されていた。
=== 準レギュラー ===
{{colbegin|2}}
*[[渡辺満里奈]]
*[[小林昭二]]※「仮面ノリダー」
*[[岡田真澄]]※「仮面ノリダー」
*[[宮沢りえ]] ※第1期に月一で、主に学園物コントに出演。
*[[チェッカーズ]]
*[[松本伊代]]
*[[飯島愛]]
*[[田坂都]](わが青春の1ページ)
*[[保積ぺぺ]](わが青春の1ページ/われら定時制高校野球部)
*[[森川正太]](わが青春の1ページ/われら定時制高校野球部)
*[[岸田今日子]](保毛尾田家の人々/われら定時制高校野球部)
*[[清水アキラ]](サンバーダード)
*[[鳥塚しげき]](サンバーダード)
*[[別所毅彦]](涙目怪人選手権/われら定時制高校野球部)
*[[土橋正幸]](涙目怪人選手権/われら定時制高校野球部)
*[[佐野泰臣]](ペンション「ミルキー」物語)
*[[荒井注]](保毛太郎侍他)
*[[直江喜一]](われら定時制高校野球部)
*[[定岡正二]](われら定時制高校野球部)
*[[杉田かおる]](われら定時制高校野球部)
*[[香川伸行]](われら定時制高校野球部)
*[[柳生博]](われら定時制高校野球部)
*[[山本譲二]](われら定時制高校野球部)
*[[ベンガル (俳優)|ベンガル]]
*[[小林稔侍]](キャプテンウルタカ)
*[[小野みゆき]](デビルタカマン/必殺仕事人他)
*[[細川ふみえ]](デビルタカマン他)
*[[地井武男]](「ちょっと北の国から」/「太陽にほえろ」一連のパロディ)
*[[伊藤淳史]] ※第1期は「仮面ノリダー」のみの出演。第2期ではさまざまなコントに顔を出すようになったが、「仮面ノリダーV2」には未出演。
*[[倉田プロモーション]](ジョッカーのみなさん/ベンガル星人)
*[[劇団ひまわり]](島田雄一郎/麻生雅人/[[萩野志保子]]ほか)
*[[茶魔男]]
*[[小泉今日子]]
*[[荻野目洋子]](貧乏家の人々)
*[[観月ありさ]]
*[[ブラザー・コーン]](SOULとんねるず)
*[[坂口良子]](前略おふくろ様'93)
*[[梅宮辰夫]](前略おふくろ様'93)
*[[関根勤]](前略おふくろ様'93)
*[[ともさかりえ]](聖オゲレツ学園/ニューモジモジくん)
*[[松嶋菜々子]](近未来警察072)
*[[長門裕之]](近未来警察072)
*[[菅井きん]](近未来警察072)
*[[諸星和己]](関東石橋組見参!!→石橋組に挑戦!人間射的ゲーム!!)
*[[谷津勲]](関東石橋組見参!!)
*[[片桐はいり]](春一番)
*[[中井美穂]](GOKANOH)
*[[結城貢]](CURRY MASTERS -わが家のカレーは日本一決定戦-)
{{colend}}
=== フジテレビアナウンサー ===
{{colbegin|2}}
*[[寺田理恵子]]
*[[有賀さつき]]
*[[八木亜希子]]
*[[塩原恒夫]]
*[[青嶋達也]]
*[[河野景子]]
*[[大川和彦]]
*[[須田哲夫]]
*[[城ヶ崎祐子]]
*[[佐藤里佳]]
*[[野崎昌一]]
*[[境鶴丸]]
*[[西山喜久恵]]
*[[中村江里子]](番組内でのあだ名は「ひな」)
*[[牧原俊幸]]
*[[三宅正治]]
*[[福井謙二]]
*[[奥寺健]]
*[[福原直英]]
*[[近藤サト]]
*[[平松あゆみ]]
*[[木佐彩子]]
*[[富永美樹]]
*[[高木広子|杉浦広子]]
*[[佐々木恭子]]
{{colend}}
=== 番組に出演したゲスト(五十音順) ===
{{colbegin|2}}
*[[あいざわかおり]]
*[[赤堀元之]]
*[[あき竹城]]
*[[浅野ゆう子]]
*[[穂高あゆみ|麻生あゆみ]]
*[[天本英世]]
*[[安室奈美恵]]
*[[粟津號]]
*[[ウォーレン・クロマティ]]
*[[五十嵐いづみ]]
*[[池上誠一]]
*[[いしだあゆみ]]
*[[石田純一]]
*[[石田ひかり]]
*[[石原真理子]]
*[[市毛良枝]]
*[[逸見政孝]]
*[[伊東四朗]]
*[[井上陽水]]
*[[今井美樹]]
*[[今宮純]]
*[[植田あつき]]
*[[内田有紀]]
*[[梅津栄]]
*[[江藤博利]]
*[[M.C.ハマー|MCハマー]]
*[[大石恵]]
*[[大竹しのぶ]]
*[[大塚寧々]]
*[[大原麗子]]
*[[緒形拳]]
*[[岡村隆史]]([[ナインティナイン]])
*[[岡本夏生]]
*[[鹿賀丈史]]
*[[賀来千香子]]
*[[ガッツ石松]]
*[[桂文枝 (6代目)|桂三枝]]
*[[かとうれいこ]]
*[[唐沢寿明]]
*[[川井一仁]]
*[[川島なお美]]
*[[川谷拓三]]
*[[川津祐介]]
*[[岸本加世子]]
*[[喜多嶋舞]]
*[[キラー・カーン|キラーカン]]
*[[グッチ裕三]]([[ビジーフォー|ビジー・フォースペシャル]])
*[[工藤静香]]
*[[久保田利伸]]
*[[黒鉄ヒロシ]]
*[[黒木瞳]]
*[[甲賀瑞穂]]
*[[郷ひろみ]]
*[[古手川祐子]]
*[[小林千登勢]]
*[[小松政夫]]
*[[紺野美沙子]]
*[[斉藤慶子]]
*[[斉藤由貴]]
*[[坂井真紀]]
*[[相楽晴子]]
*[[佐竹雅昭]]
*[[佐野慈紀|佐野重樹]]
*[[沢口靖子]]
*[[沢田研二]]
*[[THE ALFEE]]
*[[椎名桔平]]
*[[シェイプUPガールズ]]
*[[篠原涼子]]
*[[柴田恭兵]]
*[[渋谷哲平]]
*[[嶋田久作]]
*[[志村けん]]
*[[シャ乱Q]]
*[[ジャンボ尾崎]]
*[[陣内貴美子]]
*[[杉本清]]
*[[勝呂誉]]
*[[頭師佳孝]]
*[[鈴木杏樹]]
*[[鈴木紗理奈]]
*[[関山耕司]]
*[[セクシーメイツ]]
*[[瀬戸朝香]]
*[[東国原英夫|そのまんま東]]
*[[高岡由香]]
*[[髙嶋政宏]]
*[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]
*[[高村祐]]
*[[多岐川裕美]]
*[[田口計]]
*[[武豊]]
*[[伊達正三郎]]
*[[田中美佐子]]
*[[田中裕子]]
*[[田中好子]]
*[[谷隼人]]
*[[玉置浩二]]
*[[丹古母鬼馬二]]
*[[団しん也]]
*[[ダンプ松本]]
*[[大久保博元|デーブ大久保]]
*[[華原朋美|遠峯ありさ]]
*[[十勝花子]]
*[[毒蝮三太夫]]
*[[所ジョージ]]
*[[土佐ノ海敏生|土佐ノ海]]
*[[鳥羽一郎]]
*[[鳥越マリ]]
*[[中井貴一]]
*[[中野英雄]]
*[[中森明菜]]
*[[中山美穂]]
*[[七瀬なつみ]]
*[[野茂英雄]]
*[[BY-SEXUAL]]
*[[HOUND DOG]]
*[[羽田惠理香]]
*[[林家正蔵 (9代目)|林家こぶ平]]
*[[原田知世]]
*[[B21スペシャル]]
*[[久本雅美]]
*[[左時枝]]
*[[広澤克実|広沢克己]]
*[[布川敏和]]
*[[福井敏雄]]
*[[福岡翼]]
*[[藤谷美和子]]
*[[藤原紀香]]
*[[藤原喜明]]
*[[古田敦也]]
*[[ポール牧]]
*[[細川直美]]
*[[マイケル富岡]]
*[[牧瀬里穂]]
*[[益子直美]]
*[[松坂慶子]]
*[[松崎真]]
*[[松田聖子]]
*[[松村邦洋]]
*[[真理アンヌ]]
*[[丸山茂樹]]
*[[美川憲一]]
*[[水野美紀]]
*[[三田佳子]]
*[[南果歩]]
*[[南野陽子]]
*[[みのもんた]]
*[[武双山正士|武双山]]
*[[村井國夫|村井国夫]]
*[[本木雅弘]]
*[[森進一]]
*[[薬師寺保栄]]
*[[薬師丸ひろ子]]
*[[薬丸裕英]]
*[[八千草薫]]
*[[柳沢慎吾]]
*[[柳葉敏郎]]
*[[山口美江]]
*[[由紀さおり]]
*[[由利徹]]
*[[ライオネス飛鳥]]
*[[ラモス瑠偉]]
*[[ルビー・モレノ]]
*[[イエロー・マジック・オーケストラ|YMO]]
*[[和田アキ子]]
*[[渡辺美奈代]]
*[[渡哲也]]
*他多数
{{colend}}
== 放送期間 ==
=== 火曜ワイドスペシャル版 ===
*パート1
**[[1986年]][[11月11日]]放送
*パート2
**[[1987年]][[4月7日]]放送
*パート3
**1987年[[10月13日]]放送
*パート4
**1988年[[3月8日]]放送
=== レギュラー版 ===
*第1期
**1988年10月13日 - 1990年4月5日
*第2期
**1990年10月11日 - 1994年3月31日
*第3期
**1994年10月13日 - 1997年3月27日
レギュラー版全体を通しての放送回数は363回。
== コント・コーナー ==
*基本的にゲストが出演しているドラマ・映画のパロディが多い。ゲストが演ずる役はそのままで、他の役をとんねるずが演じるのが大まかのパターンである。全盛期になると番組スタッフが積極的に駆り出されたりもしていたが、末期になると石橋・木梨が一人で数役も演じるコントが多くなった。
{{main|[[とんねるずのみなさんのおかげですのコーナー一覧]]}}
== 人気キャラクター ==
; 石橋
*'''保毛尾田保毛男'''(ほもおだほもお) - 話し方のモデルは[[井上陽水]](相方の木梨は井上陽水の物真似もする)。七三分けと青ヒゲがトレードマーク。ホモということを問いただされると、「あくまでも噂で・・・」とはぐらかすのがお決まりのパターン。市役所勤務の姉([[岸田今日子]])と二人暮らし、時折ネタにしていた。あまりの人気ぶりから放送当時実際の「ホモ」の人たちが学校などで弄りの対象にされる事態も起きていたようで、[[#エピソード|後述]]のように後年「おかげでした」でこのキャラクターを復活させた際には、設定などを理由に賛否両論を巻き起こすことになった。一方[[ミッツ・マングローブ]]はこのキャラクターがきっかけで、同級生から「お前もホモなの?」とからかわれたり訊かれたりした際には、「それはあくまで噂でございます」と答えられるぐらいの優雅さを持とうと思ったという<ref name="mangrove" />。
*'''ダーイシ男''' - モデルは[[石田弘]](番組[[テレビプロデューサー|プロデューサー]])。豪放な性格で「[[糖尿病|糖がきてる]]」という。 「すまなかった!」が口癖。後に『[[まるまるちびまる子ちゃん]]』にも出演。ちなみにコント内での言動やエピソードは全て石田の実話に基づいているという。
*'''[[バブルス]]''' - 元ネタは[[マイケル・ジャクソン]]のペットのチンパンジー。タバコを吸うなどふてぶてしい態度を取る。後にガールフレンド([[小泉今日子]])も登場した。
*'''[[田村正和|田村マサカズ]]''' - モデルは「[[ニューヨーク恋物語]]」での[[田村正和]]。ドラマ内での口調を誇張した異様に舌っ足らずなしゃべり方をし、終始クールに振舞おうとするが空回りして失敗するキャラクター。「後ろ髪長いですか?」が口癖。「新畑任三郎」では大幅に違うキャラクターになっていた。
*'''ストロベリー''' - モヒカン風のアフロヘアーがトレードマークの黒人ダンサー。
*'''[[中村江里子]](ひな)''' - モデルは本人。「もう、台無し」が口癖。「おかげですカルトQ」に出場した際に、司会の判定に不満を持つあまり途中で収録をボイコットしている。
; 木梨
*'''ノリユキ''' - 度が過ぎた[[アイドル]][[オタク]]で、その言動は[[ストーカー]]に近い。コントに脈絡なく現れてはアイドルに対し「息くれよ」とせがむが、大抵マネージャーもしくは恋人役の石橋にどつかれる。体当たりが得意技で、石橋に「飛ぶぞ」と挑発する。
*'''小港さん''' - モデルは[[港浩一]](プロデューサー兼[[ディレクター]])。常に腕を組み、口を尖らせながら競馬の予想を気にしている。ダーイシの部下だが、時々衝突する。
*'''サブ北島''' - モデルは[[北島三郎]]。本人が出演していたちらし寿司の素のCMのワンフレーズをよく口ずさむ。「ひとりものまね王座」以降はなぜか身長が縮む。
*'''ひろし5木''' - モデルは[[五木ひろし]]。パンストを被った上にカツラをかぶった顔つきで、常に怪しげな動作をする。「演歌のあぜ道」で、水中に落ちた際にパンストが息を通さなくなり死にかけ、口の部分を開けて破ることで九死に一生を得た。
*'''森進一郎''' - モデルは[[森進一]]。モデルの歌声を極端に誇張したような野太い奇声と異様に力の入った表情が印象的。
*'''みのりもんた''' - モデルは[[みのもんた]]。本人より威圧的なツッコミを飛ばす。
*'''スーさん''' - モデルは鈴木正人(ディレクター)。長髪と白い服という出で立ちで様々なコントに出没。「スイスイスー」が口癖。鈴木ほかスタッフ数名と「寝ちゃダメ隊」を結成している。
*'''縦山弁護士''' - モデルは当時話題の人物だった[[横山昭二]](弁護士)。様々なコントに出没してはマスコミの取材攻めにあうという役回り。「馬鹿者!」が口癖。
*'''ノリゴロウ''' - モデルはムツゴロウこと[[畑正憲]]。「[[ムツゴロウとゆかいな仲間たち]]」のパロディ「ノリゴロウとゆかいな仲間たち」では、動物と触れ合うが、ノリゴロウの場合は動物を怖がる事が多く、最終回には本物のムツゴロウさんが登場している。
; その他
*'''玉井しのぶ([[玉井貴代志]])''' - 一時期コントにたびたび登場し劇中歌を歌っていた。
*'''帰りなおばちゃん(稲村さち子)''' - 石橋に対して「とっととお帰りよ!」などと説教するが、芝居が出来ないので石橋をしばしば激昂させた。後述の騒動以降登場しなくなった。
*'''[[渋谷哲平]]とdeep隊''' - 毎回コントの途中で脈絡なく現れては往年のヒット曲「[[Deep (ディープ)|Deep]]」を熱唱して去っていく。
*'''スーさん(鈴木正人)''' - 「北の国から'92朝立ち」で初登場して以降あらゆるコントに出没した。コントではほとんど女性の役が多かった。長髪が特徴で、散髪のためだけにコントが作られ、そのコント中で木梨によって髪を切られた。
== エピソード ==
;「ザ・ベストテン」にチャートインしていた歌手の出演など
:レギュラー放送開始前に石田弘は、フジテレビ開局30周年企画である「[[オリエント・エクスプレス '88]]」のイメージソングである「[[旅立ちはフリージア]]」で『ザ・ベストテン』のチャートに入っていた松田聖子に対してレギュラー初回の出演オファーを入れた。松田の当時の所属事務所は「『おかげです』に出演したら『ベストテン』に出演できなくなる」と反対したが、松田は「「旅立ちはフリージア」はフジテレビのイベントで作った曲だから、フジテレビに出演するのは当然だ」とコメントし、レギュラー放送開始直前になって出演を決定し、レギュラー放送初回である1988年10月13日放送分にゲスト出演した<ref name="mynavi" />。視聴率も14.2%を記録し、『ザ・ベストテン』の12.1%を上回り<ref name="post">[https://www.news-postseven.com/archives/20180323_661453.html?DETAIL 『みなさん』の功績 『ザ・ベストテン』に引導を渡した意味]NEWSポストセブン 2018年3月23日</ref>、その後も20%台の視聴率を叩き出すなど、『ベストテン』の追随を許さなかった(後述)。その後も、同年11月3日放送分では「[[MUGO・ん…色っぽい]]」で『ベストテン』のチャートに入っていた工藤静香がゲスト出演し、当日の視聴率も初の20%台を記録した<ref name="sintyo" />。工藤はその後もゲスト出演した他、『ベストテン』のチャートの常連であった小泉今日子やチェッカーズも準レギュラーとして出演するようになる<ref name="sintyo" />。『ベストテン』の楽屋でも、『ベストテン』よりも『おかげです』を見ていた歌手がほとんどであったという<ref name="sintyo" />。
:その後、『ベストテン』は「おかげです」に視聴率で上回る事が出来ず、1989年9月28日にレギュラー放送が終了。同年10月5日に放送された一周年スペシャルにて、『ベストテン』のパロディ企画である「怪人何でもザ・ベストテン」(仮面ノリダーに登場した怪人ランキングを発表する企画)を「さよならベストテン」の裏にぶつけた。
;爆薬演出でのトラブル
:「おかげです」時代のコントでは爆薬を大量に使用する演出がよく行われ、トラブルもたびたび起きていた。これらは[[港浩一]]が演出したものであるといい、爆薬を大量に使う撮影では、通常は何度もリハーサルを重ねて撮影するが、港の場合は適当に爆薬を設置して、すぐに本番へと移るといった手法をとっていた。こういったこともあって、「仮面ノリダー」の後半ロケで撮影許可が取れなくなり、当時のフジテレビ本社(当時は新宿区にあった)の屋上で撮影をし、あまりの爆発音に驚かれて近隣病院の入院患者全員にフジテレビ社屋を窓越しから覗かれるといった出来事があったり、フジテレビ社屋移転前のお台場で警察とトラブルを起こしたり<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/10304213/ 石橋貴明が身の危険を感じたフジ番組の収録を明かす 木梨憲武は死を覚悟]ライブドアニュース</ref>、前述の宜保タカ子ロケでのトラブルなどが発生していた。また、石橋がセットの下敷きにされた挙句ムチ打ちになったり、木梨の至近距離で爆薬が爆発して木梨が死の恐怖を覚えるなど、出演者に対しても危険が及んでいた。
;ニンジン事件
:沢口靖子と共演したコント[[1991年]][[1月17日]]放送「ノリ江婆 あのドキドキ愛人日記」で、木梨が噛み砕いて吐き出したニンジンの煮物を石橋が「'''頂きます'''」と食べてしまった事件。木梨・沢口はおろかスタッフも大いに驚き、木梨は「何故こんなことができるかというと(石橋が)朝から呑んでるからだよ」とコメント<ref group="注">この日はフジテレビ以外の民放在京キー局では同日発生した[[湾岸戦争]]の[[報道特別番組]]を放送していた。</ref>。
;木梨憲武の[[虫垂炎|盲腸]]緊急追悼特番・騒動事件
:1991年[[10月31日]]、木梨が盲腸による休養から復帰することになっていた放送で、冒頭から『'''緊急放送!盲腸で倒れる 木梨憲武さんを偲んで…'''』と題し、木梨が死亡したという設定で、[[生放送]]で追悼特番を模した[[ドッキリ]]を放送した。石橋と当時フジテレビアナウンサーだった[[野崎昌一]]が、深刻な気配で会話し2分半程経過したところで、青の[[ジャージ]]を着た木梨が現れるという[[シュール]]なコントであった。木梨が登場した後も2分程無視して喋り続けるものの、石橋が「出口3箇所ふさがれてましたから・・・」といった直後笑い出して木梨に気付き、セットチェンジ。以降この日の放送分は『'''木梨憲武盲腸記念'91 憲武を笑わせろスペシャル 爆笑総集編'''』のタイトルで、番組の総集編として放送された。また、終盤には『ガラガラヘビがやってくる』を収録したカセットテープの視聴者プレゼントの当選者発表(抽選で3名と説明していたが4万通のハガキが来たという。結果この生放送では3通を超えて4枚以上の当選者名が発表された)もなされた。
:この放送を見ていた当時同局アナウンサーで番組レギュラーだった[[中村江里子]]は、途中まで本当に信じていたという。もし本当だった場合これだけのタレントなら新聞やニュースで大きく取り上げられるので、ネタであることが誰にでも分かると制作スタッフは踏んでいたようだが、冒頭に野崎が木梨の死亡時刻を「今日、午後5時30分過ぎ」としており直近であることを示唆したことや、この前日に[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]のレギュラー番組である『[[とんねるずの生でダラダラいかせて!!]]』(後年はオールロケの収録番組となるが、開始間もないこの頃はスタジオからの公開生放送だった)に木梨が一時退院して生出演したこと、この日の『[[タイム3]]』で木梨退院のニュースが大々的に報じられていたことなどもあり、緊急性を含んだドッキリとして視聴者を信じさせる要素もあった。
:放送中からフジテレビには「本当ですか!?」との質問や、「ふざけるな!」等の抗議の電話が約800件と殺到した<ref name="mynavi" />。盲腸により木梨が入院して放送するネタがなかったことからこのドッキリが企画されたが、多数の菊の花と大きな遺影に似せた造りの木梨の写真(番組スタッフの「憲武の寂しそうな写真ないか」という依頼を受けてマネージャーが提供した木梨の運転免許証の写真をモノクロで引き延ばして使用。引き延ばした時には周囲が「(遺影の)感じ出てるね」とこぼしていたという<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20180321-minato/2 『みなさん』初代演出・港浩一氏、30年続いた理由はとんねるずの"愛情" ]マイナビニュース</ref>)を配した大きな祭壇を組んだ追悼セット、暗いBGM([[川井憲次]]作曲・[[人魚シリーズ|人魚伝説]]から「T鬼母の哀歌」)、現役局アナの出演など、あまりにも悪ふざけが過ぎるとの声が多かった。すでに最初のCM明けで苦情が多数来ていることが説明されており、石橋は「頭のアレでフジテレビに随分抗議の電話が来ている」と発言している。また翌週のエンディングでは木梨が「新聞に載る程度が過ぎた」と謝罪し、「木梨死んでおりません!」の一言で締めくくっている。なお、セットチェンジの際は派手なBGMに切り替わって照明・冷却ガス・キャノン砲から発射される紙吹雪の演出と共に写真が上昇しながら菊の花が割れて総集編用のセットに転換するという流れだった。写真はその後終了までスタジオの天井から吊るしたままでCM前に映り込むこともあった。
:放送内において野崎は「死亡した」とは一言も発しておらず、代わりに冒頭で「'''信じられないことになってしまいました'''」と表現している。ただし、本編前の木梨の生涯を辿る前編(BGMとして[[ダイアナ・ロス]]の『[[イフ・ウィ・ホールド・オン・トゥゲザー]]』)では、ナレーションで「'''あまりにも短い生涯であった'''」という一節が放送されていた。このコントについて木梨は「おかげでした」時代にこの回の映像を流した際「親戚のおばあちゃんに凄い怒られた」と語っている。
:木梨登場後のやりとりでは元々は野崎ではなく、当時役員待遇だった[[露木茂]]の出演を予定していたが逃げてしまい、アナウンス部長の[[野間脩平]]にも逃げられたため、『[[プロ野球ニュース]]』の生放送で本番前待機中だった野崎が急遽呼ばれた。よりリアリティを持たせるため[[森光子]]にもオファーを出したが断られたという。
:この回の視聴率は23%で多くの視聴者を驚かす結果となった。プロデューサーの[[石田弘]]は後年「ふざけると言っても超えてはならない一線があり、悪ふざけにはならないようにしなければならない」という発言をした一方で、この放送について「普通に復帰するのは面白くないから」という理由でこの企画をした事と、当時の反響を「あれくらい怒られたことはないよ」と振り返る発言をしている<ref name="mynavi" />。
;それいけマサカズ・ボヤ事件
:「それいけマサカズ」のコーナーで、石橋が[[田村正和]]のものまねで、燃えたカツラをかぶりながら何食わぬ顔で通り過ぎるというコントを撮影したが、[[消防法]]上大変危険であるとして、当時のフジテレビ本社を管轄していた[[東京消防庁]]牛込消防署から抗議を受けた。
;石橋貴明の試合放棄事件
:[[カルトQ]]「おかげです全般」で、司会者の木梨が石橋の解答に対して「正確じゃないとだめです」と何度も不正解とし、怒った石橋が「'''もういやだ'''」と言って途中で帰りそのまま試合放棄した事件。退場後は女児の人形が置かれコーナーは最後まで進行した<ref group="注">これは『[[ロンパールーム]]』(日本テレビ)の都市伝説のパロディである。{{see also|ロンパールーム#残されたぬいぐるみの都市伝説}}</ref>。このとき石橋は「ひな」(中村江里子の愛称)という名前で出場していた<ref group="注">次回も「バミューダ」の名前で出場した石橋が正誤判定の厳格さに腹を立て退場しようとしたが、結局木梨らに説得され未遂に終わった。退場しようとした時に木梨が「ほっといたらいいんです!どうせ人形になるんですから!」と相槌の突っ込みを入れている。</ref>。
;セクシャルハラスメント訴訟事件
:[[1992年]][[11月4日]]、石橋とチーフディレクターが[[セクシャルハラスメント]]をしたとして、[[東京地方裁判所]]に民事提訴された事件。原告は「'''帰りなおばちゃん'''」として番組に準レギュラーで出演していた当時56歳の稲村さち子で、訴えの理由は、同年[[10月29日]]放送の番組内、露出度の高い[[ビキニ (水着)|ビキニ]]を着せられた稲村に対し、石橋が「ヘアが見える」と発言しテロップで「素人のおばちゃんですからヘアの手入れはしていません」と流されたこと、CMやテレビドラマで芸歴が10年あるにもかかわらず「素人のおばちゃん」と2度テロップを流されたことだった。稲村は石橋とチーフディレクターに対し200万円の損害賠償と番組内で名誉回復のコーナーを設けることを請求した。石田は取材に対し「素人のおばちゃん役で出演してもらった。傷つけたことは申し訳ない」と回答し、石橋の所属事務所は「本人と連絡が取れないのでコメントできません」とした<ref>「石橋さん(とんねるず)らを提訴 「番組の中で性差別発言」共演女優」『[[読売新聞]]』[[1992年]][[11月5日]]朝刊。</ref><ref>「とんねるずのおかげでセクハラ フジテレビ出演の女性 石橋さんらを訴え」『[[中日新聞]]』1992年11月5日朝刊。</ref>。後に示談が成立し稲村は提訴を取り下げたことが報じられた<ref>「TVセクハラ取り下げ」『中日新聞』1992年12月9日朝刊。</ref>。元々当番組は下ネタ傾向が強く、事件後下ネタ禁止令が下されたと言われる事もあるが、実際には後年に「[[とんねるずのみなさんのおかげですのコーナー一覧#近未来警察072|近未来警察072]]」などが制作されており、その傾向はほとんど変わらなかった。
;保毛尾田保毛男ネタに対する賛否
:「おかげでした」時代の[[2017年]]9月28日、「とんねるずのみなさんのおかげでした30周年記念スペシャル」でのワンコーナーで保毛尾田保毛男を登場させた。しかし「おかげです」がレギュラー放映されていた[[バブル時代|バブル期]]から[[平成]]中期の時代とは異なり、[[LGBT]]の認知と理解が日本のみならず世界的にも深まりつつあった平成最末期の当時においては、物議を巻き起こし、LGBT支援団体から「性的少数者への差別・偏見を助長するもの」との抗議申し入れがあり<ref>[http://rainbowaction.blog.fc2.com/blog-entry-282.html レインボー・アクションは、フジテレビ「とんねるずのみなさんのおかげでした 30周年SP」の放送内容に関し、断固抗議いたします。] 特定非営利活動法人レインボー・アクション</ref><ref>{{PDFlink|[http://sogihara.com/style/pdf/170929.pdf 2017年9月28日放送 フジテレビ系列「とんねるずのみなさんのおかげでした 30周年記念SP」の番組内容に関する抗議文]}}「なくそう!SOGIハラ」実行委員会</ref>、それを受け翌日の定例会見で[[宮内正喜]]社長が謝罪する事態となった<ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170929/k10011161751000.html フジテレビ番組の同性愛キャラクター LGBT団体が抗議] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20170929103035/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170929/k10011161751000.html |date=2017年9月29日 }} NHKニュース2017年9月29日</ref>。視聴者からは「このご時世にどうなんだ」という批判や、「懐かしいキャラクターで大変うれしい」といった好意的な意見が出るなど、賛否両論となった<ref>[https://www.daily.co.jp/gossip/2017/09/29/0010598462.shtml とんねるず「保毛尾田」フジには賛否両論 不快に思った人には「謝罪を」 とんねるず「保毛尾田」フジには賛否両論 不快に思った人には「謝罪を」]デイリースポーツ2017年9月29日</ref>。そのうちタレントで同性愛者の[[ミッツ・マングローブ]]はこの件に関する批判的な意見に対して反論のコメントを出した<ref name="mangrove">[https://dot.asahi.com/articles/-/112922 ミッツ・マングローブ「保毛尾田保毛男を狩る、分別できない人たち」] AERA dot. 2017年10月15日</ref>。
== 視聴率 ==
[[1986年]]秋に石橋が当時フジテレビの編成局長であった日枝久に「'''僕らにゴールデンタイムの2時間番組を下さい、視聴率30%とってみせます'''」と編成部まで行って頼み込んだという。ちなみにこの際、日枝局長に「もし取れなかったらどうする?」と聞かれた石橋は、番組プロデューサーである石田弘を「[[箱根 彫刻の森美術館|彫刻の森美術館]]に飛ばしてください」と言った(石田はその場には居なかった。一方で、30%を達成したらフジテレビの食堂で何を食べてもいいという約束を取り付けた)。
まもなく『火曜ワイドスペシャル』で番組を持たせてもらい、放送が始まった。結果、視聴率30%には及ばなかったものの常に高視聴率を獲得し(平均20.3%。この結果は放送翌日の「[[夕やけニャンニャン]]」で石橋の口から発表され、「まあこんなもんだろ、よしよし」と二人は結果に満足していた)、定期的にスペシャルを行った後に[[1988年]]10月からレギュラー番組としてスタート。もう一説によるとこの公約を叩きつけた石橋は「20%に届かなかったら笑いの世界から身を引く」と後年[[TBSテレビ|TBS]]の特別番組で[[東国原英夫|そのまんま東]]の発言によって語られた。
当初の視聴率は15%台を目標としていた<ref name="sintyo" />。番組開始当初から「仮面ノリダー」のコーナーなどで人気を博し、視聴率も回を追うごとに上昇し、[[1988年]][[11月3日]]放送分では24%を記録した<ref name="sintyo" />。[[1989年]][[2月2日]]放送分では27.7%を記録し、開始から半年が経過した[[1989年]][[3月30日]](『とんねるずのみなさんのおかげです春休みスペシャル』)に最高視聴率'''29.5%'''<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20180322-604861/ 『みなさん』シリーズ最高は29.5% - 各歴代視聴率ベスト5]マイナビニュース 2018年3月22日</ref>(関東地区)を記録した(ただし、普段の時間ではなく午後7時スタートのスペシャル版にて)。その後、「仮面ノリダー」終了後も他のコーナーも大人気となり、1989年から[[1994年]]まではバラエティ番組年間平均視聴率の第一位を保持、2度にわたる充電期間を経ても人気を保った他、放送開始前に高視聴率を誇っていた『ザ・ベストテン』を開始直後から低視聴率に追いやり、開始から1年後の1989年9月に『ザ・ベストテン』を打ち切りに追い込んだ<ref name="post" />。
番組晩年にあたる[[1995年]]以降も全盛期ほど視聴率は取れなくなったものの安定した数字を残していた。95年は平均視聴率で番組開始以来初となる1位から陥落したものの、4位(3位に「[[とんねるずの生でダラダラいかせて!!]]」がランクイン)と高視聴率をキープその後も番組終了まで常にベスト5以内の地位を保った。
[[1997年]]3月に放送終了(4月に内容変更・改題などのリニューアル)した。
「おかげです」(8年半を通じて)としての平均視聴率は20.2%(最終回の前週に発表)。9年間で使った予算は186億8900万円(こちらは最終回でダーイシが発言)。
== 最終回 ==
1997年[[3月27日]]放送の『おかげです』としての最終回はかつての人気コント「仮面ノリダー」、「保毛尾田保毛男」、「最終回によくある風景」、「太陽にほえるな!」、「貧乏家の人々」など番組の人気コントを全て新作、完結編として放送した。また、番組の冒頭と最後にかつての常連ゲストで番組を愛していた小泉今日子を迎え、石橋扮する石田(ゼネラル)プロデューサーと木梨扮する小港ディレクター(兼プロデューサー)とともに局内に入り「石田プロデューサーの引越しと『みなさん』が終わっちまって大変なんだよォ日記」なるコントを放送。最後は番組を作り終えた石田プロデューサーがテレビマンとして燃え尽き死んでしまいその霊がバブルスとなって木梨、小泉とともに「最後のバァーイ、センキュー」のコールとともに本編は終了。ちなみにこの時、石橋が「以上、みなさんのおかげでした」と発言しているが、これが後継番組のタイトルとして使用されているのと関係があるかどうかは不明である。
そして、ラストはフジテレビ社屋が河田町から現在のお台場に移転したこともあり、とんねるずが歌う当時の番組のエンディングテーマ『[[ガニ|テレビ〜時々の神よ〜]]』をバックに『おかげです』と共に使命を終えた旧社屋の表情を映し、最後は現お台場社屋の屋上でとんねるずが歌っているシーンに繋がるという映像で番組を締めくくった。
『おかげです』終了から20年後、『おかげでした』[[2017年]][[12月7日]]放送分で[[2018年]][[3月22日]]をもってとんねるずのみなさんシリーズを完結することを発表した。その際に、[[港浩一]]が社長を務める[[共同テレビジョン]]の社長室にて前述の「ちょっと北の国から」以来15年ぶりに往年のダーイシと小港さんによるコント形式で完結を発表した。
== ネット局 ==
;放送局社名および系列は放送終了時点(打ち切りの場合はその時点)のもの。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!放送対象地域
!放送局
!系列
!ネット形態
!備考
|-
|[[広域放送|関東広域圏]]
|[[フジテレビジョン|フジテレビ]]
|rowspan="2"|[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]
|'''制作局'''
|
|-
|[[北海道]]
|[[北海道文化放送]]
|同時ネット
|
|-
|[[青森県]]
|[[青森放送]]
|[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]
|遅れネット
|1991年9月まではテレビ朝日系列との[[クロスネット局]]<ref group="注">開始当初から1995年の春改編までは平日の夕方(金曜日16:00-16:55が多かった)に放送されていたが、翌月の『[[@なまてれ|出会いふれあい生テレビ]]』開始に伴い末期まで火曜日深夜0:45-1:40で放送されていた。</ref><ref group="注">開始後1年ほどでネットを開始したことから、放送の遅れを埋める為に夏休みや冬休みの期間中に平日夕方に集中放送を行っていた時期がある。</ref>
|-
|[[岩手県]]
|[[岩手めんこいテレビ]]
| rowspan="6" |フジテレビ系列
| rowspan="6" |同時ネット
|1991年4月開局から<ref group="注">実質的には1991年3月のサービス放送時から。それ以前は岩手放送(現・[[IBC岩手放送]])で土曜日の夕方に遅れネット放送がされていたが、IBCの編成の都合で番組が休止になった場合は該当の回はそのまま飛ばされて放送された為、めんこいテレビ開局前に平日夕方に飛ばされた回がまとめて放送された。ちなみにIBCでは同じ土曜日の昼に『[[ねるとん紅鯨団]]』もめんこいテレビ開局まで遅れネットで放送されていた。</ref>
|-
|[[宮城県]]
|[[仙台放送]]
|
|-
|[[秋田県]]
|[[秋田テレビ]]
|
|-
| rowspan="2" |[[山形県]]
|[[山形テレビ]]
|1993年3月25日打ち切り<ref>『山形新聞平成5年3月号』「[[山形新聞社|山形新聞]]」(山形新聞社)、646頁(1993年(平成5年)3月25日、朝刊18面)。</ref><ref group="注">1993年3月31日まではフジテレビ([[フジネットワーク|FNS]])系列。翌4月1日からは[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]局に移行。</ref><ref group="注">[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]へのネットチェンジに伴い打ち切り。ネットチェンジ後は『[[木曜ドラマ (テレビ朝日)|木曜ドラマ]]』に移行し、さくらんぼテレビの開局前のサービス放送開始(後述)まで4年余り放送中断。</ref>
|-
|[[さくらんぼテレビ]]
|開局前サービス放送期間中の1997年3月20日・27日のみ<ref>『山形新聞平成9年3月号』「[[山形新聞社|山形新聞]]」(山形新聞社)、550・746頁(1997年(平成9年)3月20日朝刊22面、3月20日朝刊24面)。</ref>
|-
|[[福島県]]
|[[福島テレビ]]
|
|-
|[[山梨県]]
|[[テレビ山梨]]
|[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]
|遅れネット
|
|-
|[[新潟県]]
|[[NST新潟総合テレビ|新潟総合テレビ]]
|rowspan="10"|フジテレビ系列
|rowspan="10"|同時ネット
|
|-
|[[長野県]]
|[[長野放送]]
|
|-
|[[静岡県]]
|[[テレビ静岡]]
|
|-
|[[富山県]]
|[[富山テレビ放送|富山テレビ]]
|
|-
|[[石川県]]
|[[石川テレビ放送|石川テレビ]]
|
|-
|[[福井県]]
|[[福井テレビジョン放送|福井テレビ]]
|
|-
|[[広域放送|中京広域圏]]
|[[東海テレビ放送|東海テレビ]]
|
|-
|[[広域放送|近畿広域圏]]
|[[関西テレビ放送|関西テレビ]]
|
|-
|[[鳥取県]]<br/>[[島根県]]
|[[山陰中央テレビジョン放送|山陰中央テレビ]]
|
|-
|[[広島県]]
|[[テレビ新広島]]
|
|-
|[[山口県]]
|[[テレビ山口]]
|TBS系列
|rowspan="2"|遅れネット
|
|-
|[[徳島県]]
|[[四国放送]]
|日本テレビ系列
|途中打ち切り
|-
|[[岡山県・香川県の放送|岡山県<br/>香川県]]
|[[岡山放送]]
|rowspan="2"|フジテレビ系列
|rowspan="2"|同時ネット
|
|-
|[[愛媛県]]
|[[テレビ愛媛|愛媛放送]]
|
|-
| rowspan="2" |[[高知県]]
|[[高知放送]]
|日本テレビ系列
|遅れネット
|1996年9月打ち切り<ref group="注">スポーツ中継等の日本テレビ側の編成の都合上、一部未放送の回が発生した。</ref>
|-
|[[高知さんさんテレビ]]
| rowspan="5" |フジテレビ系列
| rowspan="5" |同時ネット
|1997年3月の開局前サービス放送期間中のみ
|-
|[[福岡県]]
|[[テレビ西日本]]
|
|-
|[[佐賀県]]
|[[サガテレビ]]
|
|-
|[[長崎県]]
|[[テレビ長崎]]
|1990年9月までは日本テレビ系列とのクロスネット局
|-
|[[熊本県]]
|[[テレビ熊本|テレビくまもと]]
|1989年9月まではテレビ朝日系列とのクロスネット局
|-
|[[大分県]]
|[[テレビ大分]]
|日本テレビ系列<br />フジテレビ系列
|遅れネット<ref group="注">1993年9月までは日曜10:00からの遅れネット(このため毎年8月最終週は[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」|24時間テレビ]]を放送するため休止していた。1989年1月8日放送分も[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の[[昭和天皇]][[崩御]]ならびに[[明仁|明仁天皇]][[即位]]の[[日本ニュースネットワーク#報道特別番組|特別番組]]が放送されたため休止している)。</ref><br />→同時ネット<ref group="注">1993年10月から同時ネット。テレビ大分での同時ネット化に伴い、フジテレビ系列加盟全局での同時ネットを達成した。なお本番組の同時ネット化と同時期に、当時とんねるずのレギュラー番組だった『[[とんねるずの生でダラダラいかせて!!]]』(日本テレビ系列)も同時ネットでレギュラー放送を開始し(それ以前までは不定期放送だった)、これにより水曜・木曜と21時台にとんねるずのレギュラー番組を2日連続で視聴することができた。</ref>
|1993年9月までは、テレビ朝日系列を加えた3系列クロスネット局
|-
|[[宮崎県]]
|[[テレビ宮崎]]
|フジテレビ系列<br />日本テレビ系列<br />[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]
|rowspan="3"|同時ネット
|
|-
|[[鹿児島県]]
|[[鹿児島テレビ放送|鹿児島テレビ]]
| rowspan="2" |フジテレビ系列
|1994年3月までは、日本テレビ系列とのクロスネット局
|-
|[[沖縄県]]
|[[沖縄テレビ放送|沖縄テレビ]]
|
|}
* 1994年3月に先述の理由により一旦休止するが、FNS加盟26局と青森放送・テレビ山梨・テレビ山口・高知放送はそのまま『[[ラスタとんねるず'94]]』のネット局となり、同年10月の本番組の再開時のネット局も同様だった。
== 歴代スタッフ(とんねるずのみなさんのおかげでしたの最終回の時は過去のスタッフ) ==
*企画:石橋貴明、木梨憲武
*構成:[[秋元康]] / [[遠藤察男]]、[[沢口義明]]、井辺清、西川晋、[[吉野晃章]]、[[成田はじめ]]、笠博勝、池田裕幾、[[三谷幸喜]]、[[西条昇]]、[[菊原共基]]、小川浩之→オガワ★ヒロユキ for men、[[小原信治]]、[[浅野吉朗]]、[[玉井貴代志]]、武良勇兒、[[大倉利晴]]、小野沢実、アラヤ★ダイスケ HOMME、[[岩崎夏海]]、[[柄沢正典]]、丸山桜奈、小板橋健、野口昌良、海老克哉、[[堀田延]]
*TD・SW:堀田満之・[[馬場直幸]]・石田智男(全員フジテレビ)、島本健司
*カメラ:藤江雅和、島本健司、小山茂明、高田治、花島和弘、北井勇作、長瀬正人、小林光行、野々村知彦、河野昌寿、秋山勇人/伊澤明男・勝村信之・長田崇・二見健二・岸田花子(フジテレビ)
*映像:原啓教、石井利幸、高瀬義美、田中十内、谷古宇利勝、瀧本恵司、田畑司、水野博道、斉藤雄一、塚本修、宮本学、西脇貴美孝、青木洋子、高草木直樹
*録画:原啓教、油谷忍
*音声:間野目政孝、篠良一、杉山直樹、石井俊二、松本政利、深谷高史、森田篤、海老沢俊彦、高橋幸則、本間祥吾、戸山善裕、奈良岡純一、福沢寿三、平沢晃
*PA:唐松秀弥、後藤龍幸
*照明:蓑島公男、小田原敬、谷川富也、高木一成、吉川知孝、富沢宴令、中原淳一、森本勝、安藤雅夫、安藤雄郎、土倉潤一、岩本泰和、藤本潤一、穴田健二、黒井宏行、谷口明美、佐藤博樹、堀田耕二、宗像徹馬、牧野隆、[[藪木健太郎]]、毛利克也
*カメラクレーン:佐藤史郎、[[高久誠司]]
*美術制作:石鍋伸一朗・重松照英(共にフジテレビ)
*デザイン:[[根本研二]]・越野幸栄(共にフジテレビ)、[[別所晃吉]]、藤森信之
*美術進行:伊藤則緒、小野秀樹、安藤典和、古賀飛、工藤圭介、中村秀美
*大道具:鈴木康之、成井一浩、塩山勝之、竹島正夫、工藤圭介、[[関口正晴]]、畠山健、[[大原隆]]、石黒勇二郎、三上晋
*装飾:三浦清隆、小池長寿、今村文孝、加藤登、菊池保、望月富夫、門間誠、大串武士
*持道具:若林一也、網野高久、平井文朗、山本健史、藤井直也、斉藤広治
*衣裳:土田清、武藤直樹、[[神波憲人]]、加藤文男、青木幸雄、沖田正次、小林幸子、永野美紀、中山美和、大吉明美
*メイク:塩幡万里子、浜崎真弥、興山洋子
*かつら:牧野勇、川田明子、矢津田一寛、郡司敏幸、植竹圭一
*視覚効果:大関晃、飯塚生臣、内山栄一、坂井郁美、中里義明
*電飾:須藤義光、田中信太郎、飯田修一、菰原大裕、中沢千恵子、小沢崇、崎本光成
*アクリル装飾:高信作、[[平山晃哉]]、上川洋行、今井輝彦、木谷伸三
*生花装飾:春川興司、坂口曜子、武笠博子
*植木装飾:須田信治(二)、広田明
*アートフレーム:津田忠直
*楽器:磯元洋一、佐野武史、岩崎滋
*特殊効果:水尾一雄
*特殊美術:中島豪章(CAVIN)、佐藤むさく、スタジオ・モア
*タイトル:川崎利治、三好登久昭、原野真理子
*タイトルロゴ:染谷淳一
*CGタイトル:Go Go H.I.P.
*編集:伊五澤守雄・正木俊行・頼信良三・管野邦大・真壁一郎・二宮嘉郎・清水良浩・飯星岳・永吉敬文・今村猛彦・喜多彰宣・奥山なほみ・松田和茂・上野譲・原靖・大橋一明・小野貴志・吉田亨・吉川奈津子(全員[[IMAGICA]])
*[[スキャニメイト]]:後藤和夫・大沢宏次郎(共にIMAGICA)
*ペイント:菊池大介・山口由紀子(共にIMAGICA)
*MAV:寺尾享泰・植松厳・新野真・森岡浩人・遠山正(全員IMAGICA)
*オープニングタイトル・CG:金田全央、森まさあき、香川かづあき、アニメーションスタッフルーム、熊田勇、村上明彦、大槻浩、中島信也、電波倶楽部
*オープニングタイトル編集:オムニバスジャパン
*音響効果:鈴木真、[[松下俊彦]]、張替正美、波多野精二
*コーナーテーマ:辻陽
*車輌:ほしのみちあき、桑山朗、島村達也、柏田武士、高村徹、岡本貴幸、風見高広、諸星寿伸、倉田知己、本田浩光、小池清治、駒崎浩宣、大塚修、福島真、奥山道明、森泉澄人、渡辺美夏子
*ナレーター:[[戸谷公次]]、[[田中信夫]](火曜ワイドSP「貧乏家の人々」)、[[中江真司]](仮面ノリダー/仮面ノリダーV2)、[[皆口裕子]](仮面ノリダー内「ねるとん紅鯨団」)、[[久米明]](眠狂四郎だマサカズ!/一杯のかけうどん/仮面ノリダー「恐怖すっぽん男」など)、[[納谷悟朗]](仮面ノリダー「恐怖バレーボール女」/新巨人の星)、[[中西妙子]](演歌のあぜ道)、[[青野武]](保毛太郎侍最終回)、[[高岡健二]](CMパロディ)、[[矢島正明]](カメラがとらえた決定的瞬間/ボレロ・タケノリ教)、[[大平透]](スパイ大作戦'90)、[[山本圭]](ノリゴロウとゆかいな仲間たち)、[[屋良有作]](ゲロゲロの鬼太郎)、[[野島卓]]、[[野沢那智]]、[[キャプテン・ジョージ]](マジックくんと手品くんのビックリショー)、[[柴田秀勝]](宜保タカ子/デビルタカマン/近未来警察072)、[[野田圭一]]、[[桑原たけし]](キャプテンウルタカ)、[[牧原俊幸]](キャプテンウルタカ/おかげですカルトQ出題)、[[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]](憲武を笑わせろスペシャル)、[[大坪千夏]](ゴウゴウガール)、[[田中康郎]](必殺仕事人)、[[郷里大輔]](宜保タカ子)、[[坂口哲夫]](食わず嫌い王決定戦)、[[金丸日向子]]、[[太田真一郎]]、[[神奈延年|林延年]]、[[バッキー木場]](GOKANOH)、[[篠原正典]]、[[寺瀬めぐみ]]、秦尭昭(飛龍女体麻雀)、[[銀河万丈]](最終回スペシャル予告)、[[ケイ・グラント]](10 YEARS HISTORY)ほか
*殺陣:多賀谷渉、菊地竜志、[[岡田勝]]ほか
*コレオグラファー:[[西条満 (振付師)|西条満]]ほか
*編成:原岡健一郎・小林義和・鈴木専哉・[[石井浩二]](全員フジテレビ)
*広報:石井道夫・森隆志・大貫伊都子・八木祐子(全員フジテレビ)
*スチルカメラ:村山篤人、半田一道
*タイムキーパー:杉山清美、安富弘江、江野澤郁子
*デスク:鈴木桂子、長谷川薫、関根弘之、生雲理愛
*制作スタッフ→ディレクター(1989年4月 - ):鈴木正人、和久津一成、時宗大、北村要、篠原一成、石田英史、小澤俊一、鈴木智、小松伸一、白石一幸、清水勇、佐々木裕哉、[[松村匠]]、加賀義則、佐々木俊、太田一矢、[[李闘士男]](第3期)、[[神原孝]]、[[濵田俊也]]、河津潔、澤田親宏、神尾昌宏(コント「'''太陽にほえるな!'''」のメンバーの一部)
*ディレクター→演出→ディレクター:[[光野道夫]]
*ディレクター→演出(1989年4月 - 第2期まで)→アシスタントプロデューサー→ディレクター・プロデューサー:石井正幸(フジテレビ)
*制作デスク:関根弘之
*アシスタントプロデューサー:尾崎充(第3期)
*演出→演出・プロデューサー(1989年4月 - )→チーフディレクター・プロデューサー:[[港浩一]](フジテレビ)
*プロデューサー:増田晴男(フジテレビ、1988年10月 - 1989年4月)
*プロデューサー→ゼネラルプロデューサー:[[石田弘]](フジテレビ)
*演出協力:[[イキナ|ウイルスプロダクション]]
*技術協力:[[ニユーテレス]]
*制作協力:[[オフィスAtoZ]](1986年11月 - 1994年3月)、[[アライバル (企業)|アライバル]](1994年10月 - 1997年3月)
*制作:フジテレビ第二制作部
*制作著作:フジテレビ
**一部のスタッフについては[[野猿]]も参照。
== テーマソング ==
=== オープニング ===
; 曲名不詳1(第1期) 1988年10月13日~1989年6月15日
:* 作曲:[[後藤次利]]
:* 基本的にインストゥルメンタルだが「ゲロゲロ~」など石橋と木梨の台詞が随所に挟まれている。
:* ロゴが巨大な足に踏まれて潰れるなど、「[[空飛ぶモンティ・パイソン]]」をパロディしたシーンが多い。
; 曲名不詳2(第1期) 1989年6月22日~1990年4月5日
:* 作曲:後藤次利
:* ほぼ全編クレイアニメで、不思議な生物が住むジャングルから、神殿のような建物に進む。本編のダイジェストを見ていた二匹の怪物が、巨大な龍に丸呑みされる。
:* 初回のみ前バージョン同様に石橋と木梨の台詞が随所にあった。
'''「PITCH&JAB」(第2期)''' 1990年10月11日~1991年7月?
:* 作曲:後藤次利
:* 石橋と木梨の二人が、様々な色の[[塗料|ペンキ]]を使い、白い壁などを自由に塗っていく実写のシーンと水族館風のアニメのシーンがあった。
; 「ガラガラヘビがやってくる」(第2期)1991年8月?〜1992年9月24日・12月24日
:* 作詞:秋元康 / 作編曲:後藤次利 / 歌:とんねるず
:* 歌詞にも登場するガラガラヘビと二匹のヒヨコが、「[[トムとジェリー]]」のような攻防を繰り広げる。
:* 本編ダイジェストを除き、とんねるずの二人が出演していない。
; 「がじゃいも」(第2期)1992年10月1日〜1993年12月23日
:* 作詞:秋元康 / 作編曲:後藤次利 / 歌:とんねるず
:* 歌詞の世界観を忠実にクレイアニメで再現している。
:* こちらも、とんねるずの二人は出演していない。
; 「フッフッフッってするんです」(第2期)1993年12月30日、1994年1月13日〜1994年3月24日
:* 作詞:秋元康 / 作編曲:後藤次利 / ブラス・ストリングスアレンジ:[[若草恵]] / 歌:とんねるず
:* とんねるずが「[[ピンポンパン]]」のお兄さん風に扮したPVが使用された。
:* このOPのみロゴが変更され、「。」が省略される。
; 「ガニ」(第3期)
1994年10月13日〜1996年3月?
:* 作詞:秋元康 / 作編曲:後藤次利 / 歌:とんねるず
:* アメコミ風の石橋と木梨が対決するアニメーション。
:* このOPからロゴが筆文字風に変更。
:* 当OPの途中からタイトルバックと提供シーンのみに簡略化される。
:*第3期開始当初は白黒アニメーションだったが、途中でカラーアニメーションに変更される。
; 「うなちん」(第3期)
1996年4月〜1997年3月20日
:* 作詞:秋元康 / 作編曲:後藤次利 / 歌:とんねるず
:*コンサート会場で様々な楽器演奏、コーラス含めてとんねるずが担当し歌う一方で、格闘ゲーム風の映像も挿入される。
:*シングルとしてリリース予定も諸事情で中止になった。また前述の「ガニ」のOP期間よりも早く変更から僅か3ヵ月ほどで省略OPへ変更となっている。
=== エンディング ===
; 「星降る夜にセレナーデ」(第1期) 1988年10月13日~1989年9月28日
:* 作詞:[[松井五郎]] / 作曲:[[玉置浩二]] / 編曲:[[星勝]] / 歌:とんねるず
:*[[1989年]] [[8月10日]]放送EDでゲストだった作曲した玉置浩二と共に歌唱。この際に玉置が「今度新しい曲作るよ」と発言したことから後述の「あした元気になーれ」に繋がる。
:*歌唱時以外で番組で使用された音源はCD音源とは違うものが使用されていた。
:*[[1997年]][[3月27日]]放送の最終回ED後の提供クレジットもこの曲を使用。
; 「あした元気になーれ」(第1期)1989年10月5日~1990年4月5日
:* 作詞:松井五郎 / 作曲:玉置浩二 / 編曲:武部聡志 / 歌:とんねるず
:*「星降る夜にセレナーデ」と同様に歌唱時以外の番組で使用された音源はCD音源と違うものが使用されていた。
; 「こんな男でよかったら」(第2期) 1990年10月11日~
:* 作詞:松井五郎 / 作編曲:後藤次利 / 歌:とんねるず
:*[[1990年]][[12月27日]]放送の年末SPにてゲストだった[[井上陽水]]と共に歌唱している。
:*こちらも前2曲と同様に番組ではCD音源と違うものが使用されていた。
; 「情けねえ」(第2期) 1991年5月2日~
:* 作詞:秋元康 / 作編曲:後藤次利 / 歌:とんねるず
:*EDテーマは基本的に2時間SPなどの特番放送時のみで歌唱していたが、この曲からはシングル曲と言うこともあってかレギュラー放送時にも歌唱する機会が増える。
:*[[2018年]][[3月22日]]放送の[[とんねるずのみなさんのおかげでした]]の最終回EDで歌詞を変えてフルコーラスで歌われた。
:*こちらの曲も番組で使用された音源はCD音源とは異なるものが使用されたが、途中でCD音源に変更された。
; 「はっぴぃ ばあすでぃ」(第2期)
:* 歌:とんねるず
:*ミニアルバム[[3歳からのとんねるず]]発売に際しての使用。この後すぐに後述の曲がリリースされた為、使用期間は歴代でも一番短い。
; 「セブンスコードを天国にくれ」(第2期)
:* 作詞:秋元康 / 作編曲:後藤次利 / 歌:とんねるず
:*アルバム[[がむしゃら]]発売に際しての使用。
; 「一番偉い人へ」(第2期)
:* 作詞:秋元康 / 作編曲:後藤次利 / 歌:とんねるず
:*前述の「情けねえ」と同様にレギュラー放送でもEDで歌唱する機会が多かった。また[[2007年]][[9月27日]]放送の放送開始20周年突入記念SPのEDや2013年のFNS歌謡祭でも歌われた。
; 「俺がいる」(第2期)
:* 作詞:秋元康 / 作編曲:後藤次利 / 歌:とんねるず
:*アルバム[[悪い噂]]発売に際しての使用。
; 「おまえ百までわしゃ九十九まで」(第3期)
:* 作詞:秋元康 / 作編曲:後藤次利 / 歌:とんねるず
; 「nothing around -成せば成る-」(第3期)
:* 作詞:野茂英雄 / 作編曲:ジェームス下地 / 歌:とんねるず
; 「Ba・Ca」(第3期)
:* 作詞:じんましんや / 作編曲:ジェームス下地 / 歌:とんねるず
; 「テレビ~時々の神よ~」(第3期)
:* 作詞:秋元康 / 作編曲:後藤次利 / 歌:とんねるず
:*[[1997年]][[3月27日]]放送の最終回EDではフジテレビ本社が河田町からお台場に移転した頃で、取り壊される河田町本社内をとんねるずの二人が当曲を歌いながら第6スタジオやテレビモニターが一斉に消える事務フロア、メインビルの屋上など思い出深い場所を歩き(この部分は白黒映像)、最終的にお台場本社屋上で歌う二人が空撮で映し出され、アウトロで遠ざかっていきお台場本社全体が映るという内容だった。その後の提供クレジットでは同じく空撮で捉えたお台場本社の屋上でスタッフと共に記念撮影をする姿が映されて締めくくった。
=== BGM ===
* 仮面ノリダー
** 『Dragnet』[[アート・オブ・ノイズ]](ジョッカー秘密基地)
* モジモジくん
** 『タンクポリスの懲りない面々』[[右寺修|D-Crew]] ※『[[ドミニオン (漫画)|Dominion]]犯罪軍団/犯罪戦争[[サウンドトラック]]』[[東芝EMI]]・[[1988年]]に収録。
* 貧乏家の人々
** 『[[ダンシング・ヒーロー (Eat You Up)]]』[[荻野目洋子]]
** 『[[コーヒールンバ]]』YO-CO(荻野目洋子)
*博士と助手
** 『[[TRUTH (T-SQUAREの曲)|TRUTH]]』[[T-SQUARE]]
== DVD ==
* とんねるずのみなさんのおかげでBOX【鑑賞用】&【保存用】(2018年3月21日発売、[[ポニーキャニオン]])
* とんねるずのみなさんのおかげでBOX コンプライアンス 1〜3(2019年5月22日発売、ポニーキャニオン)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
==関連項目==
*[[とんねるずのみなさんのおかげですのコーナー一覧]]
*[[邦ちゃんのやまだかつてないテレビ]] - 同じフジテレビ系にて放送されていたバラエティ番組で、本番組と同じく火曜ワイドスペシャルからレギュラー昇格した。
{{前後番組
| 放送局=[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[フジネットワーク|系列]]
| 放送枠=[[木曜日|木曜]]21:00 - 21:54枠
| 番組名=とんねるずの<br />みなさんのおかげです<br />(第1期)
| 前番組=[[なんてったって好奇心]]
| 次番組=[[ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!|ウッチャンナンチャンの<br />誰かがやらねば!]]
| 2番組名=とんねるずの<br />みなさんのおかげです<br />(第2期)
| 2前番組=ウッチャンナンチャンの<br />誰かがやらねば!
| 2次番組=[[ラスタとんねるず'94]]
| 3番組名=とんねるずの<br />みなさんのおかげです<br />(第3期)
| 3前番組=ラスタとんねるず'94
| 3次番組=[[とんねるずの本汁でしょう!!]]
}}
{{Navboxes
|list=
{{とんねるずのみなさんのおかげです}}
{{とんねるず}}
{{松本伊代}}
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{{荻野目洋子}}
{{観月ありさ}}
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{{河野景子}}
{{中村江里子}}
{{牧原俊幸}}
{{秋元康}}
}}
{{DEFAULTSORT:とんねるすのみなさんのおかけてす}}
[[Category:とんねるずのみなさん|*]]
[[Category:1988年のテレビ番組 (日本)]]
[[Category:フジテレビのバラエティ番組の歴史]]
[[Category:フジテレビのトーク番組]]
[[Category:火曜ワイドスペシャル]]
[[Category:とんねるず|みなさんのおかけてす]]
[[Category:秋元康]]
[[Category:三谷幸喜]] | 2003-02-20T10:06:47Z | 2023-11-03T12:37:01Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8B%E3%81%9A%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%81%8B%E3%81%92%E3%81%A7%E3%81%99 |
2,497 | とんねるず | とんねるず(TUNNELS)は、石橋貴明と木梨憲武からなる日本のお笑いコンビ、ボーカルデュオ、マルチタレント。
1980年結成。所属事務所は石橋がアライバル、木梨がキナシコッカ。レコードレーベルはポニーキャニオン。
コンビ名は、TakaakiのTから「TUN」、NoritakeのNから「NEL」、複数形「S」で二人の下の名前のイニシャルを用いて名付けられた。略称「TN」。
1980年代初頭に起こった漫才ブーム衰退後の日本のお笑い界の新世代を代表するコンビの筆頭で、80年代中盤から破竹の勢いで時代を席巻していった。ウッチャンナンチャン、ダウンタウンら「お笑い第三世代」と称されるこの3組は、現代のお笑い界に大きな影響を与えている。
1980年、私立帝京高校の同級生である2人によりコンビ結成。1982年に『お笑いスター誕生!!』でグランプリを獲得。1980年代半ばに『オールナイトフジ』『夕やけニャンニャン』の出演によって若者を中心に爆発的な人気を獲得。同時期の1985年に始まった『とんねるずのオールナイトニッポン』は、目玉のフリートークと数々の名物コーナーが受け「ハガキ職人」を多数輩出、多くのリスナーに多大な影響を与える深夜ラジオ史に残る名番組となる。1987年には『ねるとん紅鯨団』が始まり「ねるとんブーム」を起こし、深夜番組ながら視聴率上位常連の大ヒット番組となる。翌1988年には彼らの代表番組となる『とんねるずのみなさんのおかげです』が始まり、開始直後から20%越えの高視聴率を記録。社会現象になるほどのお化け番組と化し、彼らの地位を確立した。その後も『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』『とんねるずのハンマープライス』『とんねるずのみなさんのおかげでした』などの名番組を輩出する。
一方歌手としても活躍し、数々のヒット曲を生み出している。1991年「情けねえ」は第22回日本歌謡大賞大賞を受賞、1992年「ガラガラヘビがやってくる」はミリオンヒットを達成した。全国コンサートツアーも1995年まで毎年開催しており、1989年11月には東京ドーム公演を成功させている。
コンビ名の由来は、当時日本テレビのゼネラルプロデューサーであった井原高忠が貴明のTと憲武のNをもじった「とんまとのろま」と「とんねるず」を提案して本人たちに選ばせたことから。「とんねるず」というコンビ名に関して井原は(脱線トリオ、てんぷくトリオに続く)次代のお笑いスターになって欲しいという願いと、素の2人を見て「暗い奴ら」と思ったのをかけたという。
コンビだがボケとツッコミの役割は特に分かれていないスタイルで、ネタ作りは石橋が担当している。デビュー当時のプロフィールには「カリスマ芸人」と記載していた。二度目の下積み時代(新宿御苑のパフォーマンスバー「昆」時代など)を経て破天荒な芸風へと変わっていった。
『オールナイトフジ』出演以降に若さとエネルギー全開「──ナ! わけだァ!」節炸裂の過激トークや、スタジオで所狭しと暴れるなどの行動が日常的だったがこれと伴って同時に人気を獲得することとなった。特に『夕やけニャンニャン』ではアイドルによって態度が激しく違うため、自分が好みのアイドルが不本意なイジられ方をすると「あの石橋や木梨の態度は絶対に許さない」とアイドルファンから不平不満を買った。一方でスタジオ観覧の若者が「とんねるずに蹴られた」のを自慢する時代でもあった。
とんねるずのトークの中にはその時代の流行を反映した言葉が多く用いられている。例えば「○○みたいな。」と語尾に「みたいな」を付ける言葉は若者中心に使われているが、これは主に東京近郊の女子大生が使う言葉を敢えてとんねるずがテレビで誇張して用いる事で、全国的に広まった。他にも『ねるとん紅鯨団』から端を発した「ねるとんパーティ」「ツーショット」、『ねる様の踏み絵』で使われた「元サヤ」など彼らが発信元となった言葉は数多い。
また芸能界・テレビ界でよく使われる専門用語、いわゆる「業界用語」を多用して広めた経緯があり、今では一般でも使われている事がある。彼らのファンを『ワンフー』と呼んでいるのもここから起因している。
「内輪ネタ」もとんねるずの大きな特徴。ただしこれは一部の放送関係者だけに理解できる発言であることも多く、その発言内容は一般視聴者にはいまいち分かりづらいものである事も多かった(古くは『オレたちひょうきん族』でもこの傾向は見られ、当時は「楽屋落ちネタ」と呼ばれた)。また、『とんねるずのオールナイトニッポン』ではトーク内容がほとんどスタッフ(放送作家・マネージャー・プロデューサー・高校時代の友人など)の話題で占めるため、ハガキ職人の書くネタの内容もその話題を受ける格好で放送関係者絡みのネタが目立った。
業界の慣例だった製作会社社員・スタッフに支給される弁当とタレントの弁当にあった区別をとんねるずが取っ払った。そのスタイル「各業界に壁などない」「スタッフ、素人が同じ舞台に居る」という形が『ねるとん紅鯨団』、「野猿」の結成でありその「一般人、スタッフネタ」から生まれた番組企画、コントも多数企画された。
2人とも幼少時からテレビ好きであり、特に『8時だョ!全員集合』のザ・ドリフターズをはじめ『カックラキン大放送!!』の堺正章・井上順・ラビット関根や、「ベンジャミン伊東」の伊東四朗、「小松の親分」の小松政夫、萩本欽一(コント55号)、密室芸人時代のタモリなど漫才ブーム以前のバラエティ番組全盛の時代の影響が強い。漫才ブームの時期は共に部活動で多忙を極めていた事もあり、ビートたけし(ツービート)以外に受けた影響は少ない。
デビュー当初は喜劇俳優である由利徹と絡む事が多く、共演時のとんねるずは素人時代に戻ったかのように彼の芸を心から笑ってしまう場面も多々あり、前にあまり出る事はしなかった(時代背景としてあまり前に出られなかった環境でもあった)。そのほか若手の時代には、由利徹やクレイジーキャッツのハナ肇、植木等らのエンターテイナーや喜劇俳優、美空ひばりや堺正章・タモリらには公私共に可愛がられていた。また、一時期からは共演NGも噂されたが、若手時代には明石家さんまとも「兄貴」と呼ぶほど親交が公私にわたって存在し、さんまと木梨は現在でもゴルフをする仲である。木梨は所ジョージや志村けんといったのちのお笑い界の大御所と呼ばれる人々とも親密な関係である。また、笑福亭鶴瓶と木梨は一時期毎週のように遊ぶ関係であったが、意外にも若手時代は親密というほどの関係ではない。また、とんねるず飛躍の要因の一つとして、業界の裏方の実力者とも若手時代から特に石橋が親交を築いた。フジテレビの名物プロデューサーの石田弘をはじめとする港浩一などの通称石田班、秋元康・テリー伊藤などは若手時代から深い繋がりを持った。
1991年から2000年にかけて、苗場プリンスホテルのブリザーディウムで開催していた、コントライブ『こんと いん なえば』は、テレビとは違った本格的コントを生の舞台で客を笑わせることを重視していたが、元々舞台上に一切のセットを置かず、己の体ひとつで笑いや感動を与えていたイッセー尾形の『一人芝居』に触発されている。
バラエティ以外で影響を受けた者としては長嶋茂雄、矢沢永吉、アントニオ猪木、『傷だらけの天使』の萩原健一、江川卓らが挙げられる。
共に東京都出身で帝京高等学校卒業。在学中の石橋は野球部、木梨はサッカー部へ所属。この2つの部は互いに交流が盛んで、部室内でのモノマネや一発芸などの披露を通じ、それぞれの部の「一番面白いヤツ」とお互い認識したのが出会いのきっかけ。当時は主に先輩や先生のモノマネなどで、共に校内の人気者だったという。
石橋は高校在学中から『ぎんざNOW!』(TBS)や『TVジョッキー』(日本テレビ)をはじめとした、素人参加番組の常連であり、アントニオ猪木のモノマネやスポーツ選手の形態模写をはじめとする芸で一部の視聴者から注目されていた。なお同時代のライバルには竹中直人がおり、『TVジョッキー』のザ・チャレンジ(素人お笑い勝ち抜きコーナー)の第1回グランドチャンピオン大会では、第3代チャンピオン石橋と初代チャンピオン竹中が対決している。このときの勝者は石橋で、初代グランドチャンピオンを獲得した。また、木梨も第5代チャンピオンを獲得。木梨が出場した第2回グランドチャンピオン大会には、石橋も出演している。
石橋ほどの頻度ではないが、主に和田アキ子のモノマネで素人参加番組に顔を出していた木梨を高校卒業の記念として石橋が誘い、所ジョージ司会の『ドバドバ大爆弾』(テレビ東京)に出演したのがコンビとして初めてのテレビ出演となる。『お笑いスター誕生!!』の出演までは、賞金を合計で多く得ようと意図的にバラバラで出演することもあったという。
帝京高校卒業後、西武ライオンズのトライアウトで不合格となっていた石橋はホテルセンチュリーハイアットに入社しホテルオークラで研修、木梨はダイハツ工業に入社と、2人とも一般企業に就職するものの、『お笑いスター誕生!!』へのチャレンジ決意を機に2人とも退社して再会。当時のコンビ名は「貴明&憲武」。漫才だけではなく、モノマネや一発ギャグ、アニメの『魔法使いサリー』や『サンダーバード』のパロディ、学校やアイドルタレントの一コマを演じるコントなど面白いものは何でもエネルギッシュに演る多彩さで、素人ながら4週目まで勝ち抜く。それを契機に2人は勤務先を退社し、プロデビューへと意志を固める。
退社後の1980年に正式にコンビ結成。コンビ名も「とんねるず」と改め『お笑いスター誕生!!』にプロとして再挑戦して挑むが、10週目で落選してしまう。またこの時期、同番組担当の日本テレビ・赤尾プロデューサーの紹介で日企に所属、赤坂のクラブ「コルドンブルー」におぼん・こぼんの後釜として所属したが、クラブの客層に芸風が合わずハマらなかった。
『お笑いスター誕生!!』では、1981年に開催されたゴールデンルーキー賞の15組にエントリー。決勝まで進むが、アゴ&キンゾーに敗れて特別敢闘賞(事実上の第2位)に終わった。1982年4月10日には10週目に合格、グランプリを獲得した。その後も1983年末まで歌合戦などの企画や、グランプリ受賞者のネタ披露コーナーなどへ定期的に出演した。
1981年には西城秀樹司会の朝の情報番組『モーニングサラダ』(日本テレビ)にレギュラー出演したが、些細な事から赤尾プロデューサーと衝突。一貫して日本テレビ系番組出演タレントだったとんねるずは、同局から完全に干されることになる。この間は新宿御苑のパフォーマンスバー「昆」(後にKONと改名)に出演するなど、下積み時代を過ごした。また、この頃は同じショーパブ系タレントであるビジーフォー(いそがしバンド)やアゴ&キンゾーらと交流を持ち、特に石橋はグッチ裕三、ウガンダトラ宅に居候していたこともある。石橋とグッチは当時のグッチの妻にゲイと誤解されるほど、仲が大変良かった。
1983年頃、所属事務所を通さず友人の結婚式の司会をコンビで引き受け、これを知った事務所社長が激怒して一時期テレビに出演できなくなってしまった。
スーパーの駐車場やデパートの屋上などで木箱をステージ代わりにして、営業回りをしていたこともあった。しかし営業は結構いいお金稼ぎになり、食べていくには苦労しなかったと明かしている。さらにこの頃は既に『オールナイトフジ』への出演が決まっていたので、夜は連日豪遊していた。
その後、西城秀樹の初代マネージャーだった秦野嘉王が設立した新事務所「オフィスAtoZ」の所属第一号タレントになり再浮上の機を窺うことになった。秦野は当時のお笑い芸人には無縁だったスタイリストをとんねるずに付け、派手なブランドの代名詞でもあったK-FACTORYの衣装をコンセプトとするなど、イメージプロデュース戦略を図った。また現在に至るまでとんねるずの重要なブレーンであり、彼らの楽曲の作詞を行っている秋元康との出会いもこの時期である。
1983年12月、フジテレビ系の深夜番組『オールナイトフジ』を皮切りにテレビ復帰。当初は番組後半に5分のコーナー「とんねるずの見栄講座」をもらったものの、番組内での些細なトラブル(石橋曰く「誤解によるもの」)によって、1984年1月に一旦降板。半年後の同年6月にレギュラーへと復帰している。その後「とんねるずの何でもベストテン」「とんねるずなっわけだぁ!」とコーナーや番組内の放送時間が早まるにつれ人気を集め、翌年に放送した同番組の「女子高生スペシャル」の発展形としてスタートした『夕やけニャンニャン』(フジテレビ、1985年 - 1987年)では片岡鶴太郎や吉田照美を脇役に追い立てるほどだった。
その後も『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)『深夜劇場・トライアングル・ブルー』(テレビ朝日)などレギュラー番組を増やしていく。『とんねるずのオールナイトニッポン』(1985年 - 1992年)では火曜1部を担当し、数々のコーナーを輩出。聴取率ランキングでは当時絶大な人気を誇っていた『ビートたけしのオールナイトニッポン』を抜き、『小泉今日子のオールナイトニッポン』と熾烈な競争をしていた。『トライアングル・ブルー』では可愛かずみ・川上麻衣子・前田耕陽などと共演する。
またこの頃、『新・ど根性ガエル』(日本テレビ)のテーマ「ピョン吉・ロックンロール」の後にリリースされた「ヤバシびっちな女(め)デイト・ナイト」以来のシングル「一気!」をリリース。その際には、TBS系の音楽番組『ザ・ベストテン』でのコーナー「今週のスポットライト」に登場。この出演をきっかけに、深夜番組だけでなく、本格的にとんねるずが世に知られることとなった。同曲は『オールナイトフジ』のコーナーでも毎回歌われ、勢い余ってセットの高所や吊り下げられた照明によじ登ったり、1500万円のテレビカメラを壊すなどの行動や、自ら勝手に「カリスマ芸人」と名乗るなどの行動や言動を見せた。1985年には、「一気!」の人気から断交状態にあった日本テレビが動き、ビートたけし司会の『スーパージョッキー』に歌手としてとんねるずを呼ぶことで、当時の関係者だけが知る「確執の事実上の“手打ち”」となった。この際、ビートたけしととんねるず(特に石橋)はお互いに意識しあい打ち解けるような雰囲気ではなく、常に緊張感が漂っていたという。後にこの2組は番組で共演することになる。
『オールナイトフジ』 - 『夕やけニャンニャン』などいわゆる石田班の看板的存在になっていたため、当時確執があった横澤彪率いる横澤班の本丸的な番組であった『オレたちひょうきん族』に「一気!」で「ひょうきんベストテン」に出演した際、ひょうきん族レギュラー陣にリンチに等しい、過激なリアクションを課された。その際に2人は「もう日テレには出ないから勘弁してくれ」と漏らしており、日本テレビの出演解禁により蜜月のフジテレビとの関係が冷えることを危惧した石田が、横澤にとんねるずの出演を派閥の壁を越えて懇願し実現した出演であった。なお当時石田班、横澤班両方の番組に出演できたタレントは、片岡鶴太郎ら数人しかおらずこの派閥争いにより横澤班の代表番組の1つで若手タレントの登竜門的な存在である『笑っていいとも!』のレギュラーにはなれなかった。しかし石田・横澤とも第一線から退いた2014年(横澤は2011年死去)、29年ぶりに『笑っていいとも!』へ出演した際にタモリに対して直訴、番組終了まで念願のレギュラーとなっている。
この当時は『新春かくし芸大会』(フジテレビ)にも出場しており、映画『南極物語』のパロディに、ペンギンの着ぐるみ姿で顔すら判別しにくい状態でセリフなしの数秒のチョイ役出演や、中森明菜と体を張ったカマヌンチャク芸を披露するなどしていた。彼らは不遇な扱いを受けていた頃を皮肉る時に「あの時はペンギンでした」と例に挙げることがある。1986年には第14回『ホノルルマラソン』に、ザ・ドリフターズのメンバーと参加するなど、まだまだ若手扱いされる時期だった。
1980年代、巷でタレントショップブームが巻き起こった際には彼らも、「セシカ」や、当時の番組『ねるとん紅鯨団』(関西テレビ)とのタイアップショップ「バレンタインハウス」を原宿や京都に出店しており、関連グッズをヒットさせた。
女性からの人気も獲得しており、『ザテレビジョン』(角川書店)や『明星』(集英社)などさまざまな雑誌の表紙を飾った。
1987年10月『上海紅鯨団が行く』を引き継ぐ形でスタートした『ねるとん紅鯨団』(関西テレビ放送制作、フジテレビ系)がヒット。初年度から深夜枠ながらバラエティ年間平均視聴率ランキング3位にランクインした。当時IVSテレビ制作で番組の企画・総合演出などをしていた伊藤輝夫(現:テリー伊藤)や後藤喜男と出会ったのがこの時期。一般参加者による集団お見合い形式の企画が好評を得、集団お見合いパーティーそのものが『ねるとんパーティー』と呼ばれることもある。また1986年から火曜ワイドスペシャルで数回特番を行い、1988年10月からは、『とんねるずのみなさんのおかげです』がレギュラー放送を開始。番組内では、『仮面ノリダー』『保毛尾田保毛男』などのコントやパロディを披露した。当時裏番組として、国民的人気番組であるザ・ベストテンがTBS系列で放送されていたが、2週目の放送で辛勝。3週目でダブルスコアをつけての完勝となった。初年度から年間平均視聴率21.4%という驚異的な数字を叩き出し、1989年から94年にかけて年間平均視聴率ランキングで、全局・全ジャンルで1位をキープした。1989年3月のスペシャル時には番組シリーズで過去最高29.5%の視聴率を記録した。更にこの頃には、13本のCM契約もしていた。1991年10月には、『闘牛』『カートグランプリ』『PK対決』などロケ主体のコーナーが人気を得た『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』(日本テレビ)が開始した。
1995年には、一時期疎遠状態になっていたTBSでの初のレギュラー番組『ねる様の踏み絵』(その後番組名『とんねるずのカバチ』に変更)が開始。さらに同年1月には『ねるとん紅鯨団』の後継番組として開始したバラエティ番組『とんねるずのハンマープライス』(『ねるとん』と同じく関西テレビ制作、フジテレビ系)も開始した。
レギュラー番組をこなしながら、並行して音楽活動や俳優活動などのマルチタレントとしての活動も行い、「情けねえ」「ガラガラヘビがやってくる」をはじめとする曲がヒット。また1995年まで毎年全国コンサートツアーも開催する。1991年大晦日には『NHK紅白歌合戦』に初出場を果たした。
テレビ、ラジオ、歌、CMなどメディア上での活動の傍らで、1991年から2000年の10年間、毎年3月初旬に苗場プリンスホテルのブリザーディウムにて、単独コントライブ『こんと いん なえば』を開催する。
1994年には独立して個人事務所「アライバル」を設立。石橋が社長、木梨が副社長、残る所属タレントや事務員が平社員を務めた。当時の事務所に向かっていた途中、六本木・星条旗通りでお互い運転していた車を降り、「独立すればもっと正しい方向に向かう」と考えた石橋が、立ち話で木梨に独立の話を持ちかけた。木梨は「貴明がいいならいいよ」と二つ返事で了承したというエピソードがある。その後1997年2月に関西テレビを定年退職したフリーアナウンサーの杉本清を迎え入れ、その3年後の2000年には女猿のメンバー4人がいずれも平社員として所属した(女猿は2004年に解散し同時にアライバルを退社)。2008年12月には女優の鈴木保奈美を同じく平社員として迎え入れるものの、2018年に木梨がアライバルを退社した。これにより副社長は空席となっている。
コンビ人気が安定期を迎えていた1990年代後半(特に1996年以降)に差し掛かると、ピンでの活動も活発になり始める。
木梨は1996年5月、「憲三郎&ジョージ山本」という演歌ユニットでヒットし、同年のNHK紅白歌合戦出場を果たしている。また1998年1月にはドラマ『甘い結婚』(フジテレビ)で個人初主演を果たした。
一方石橋は、1996年10月に初の単独司会によるレギュラー音楽番組『うたばん』(TBS)の放送が始まり、2010年3月まで13年半続いたメジャー音楽番組となった。また1997年2月に工藤静香とのユニット「Little Kiss」がヒット。1998年7月には三谷幸喜脚本のドラマ『今夜、宇宙の片隅で』(フジテレビ)に主演した。
1997年3月、『とんねるずのみなさんのおかげです』が完全終了した。同年6月に『とんねるずのみなさんのおかげでした』と改題、リニューアルし放送開始。この頃には出演する番組が軒並み高視聴率を記録している。なお、とんねるずのみなさんのおかげでしたはスタート初年度から年間平均視聴率ランキングでは3位にランクインし、とんねるずの生でダラダラいかせて!!も1999年まで常にベスト5をキープ、とんねるずのハンマープライスも裏番組に苦戦しつつもベスト10常連の番組であった。石橋単独出演のうたばんも音楽番組では2000年まで最も平均視聴率が高く、その後も1位争いを繰り広げていた。またコンビ・個人合わせて最もレギュラー番組を抱えていたのがこの時期である。
2人揃っての活動としては、フジテレビの番組スタッフと組んだ音楽ユニット『野猿』で1998年4月にデビューし、2001年までCDのリリースやコンサート開催などの活動を展開した。2人が音楽活動で揃うのは1996年にシングル「おまえが欲しい」を発売して以来2年ぶりとなった。
2000年1月3日に、『夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル』(テレビ朝日)が、正月番組として開始。番組内ではとんねるずが、一年を通して活躍した話題のプロスポーツ選手を迎えて様々な競技で対決している。10周年を迎えた2009年以降は5時間の大型特番として放送されている。2012年からは夏版も放送が開始。そして2019年には正月版が20回目を迎えている。
2004年の『FNS27時間テレビ』(フジテレビ)内で放送された『笑わず嫌い王決定戦』で、久しぶりにコンビ漫才を披露した。
2004年 - 2007年、木梨は歌・コント・フリートークを交えたソロライブ「NORITAKE GUIDE LIVE」を開催した。
2008年10月、フジテレビの木曜9時枠で冠番組をスタートさせてから丸20周年を迎えた。なお、同枠は1988年10月に『とんねるずのみなさんのおかげです』が正式なレギュラー番組となって以来、途中ドラマ出演による半年間の充電期間や『ラスタとんねるず'94』『とんねるずの本汁でしょう!!』などを挟み、『とんねるずのみなさんのおかげでした』まで続いており、厳密には2009年3月で20周年となる。
2008年9月25日、同年5月から『とんねるずのみなさんのおかげでした』の企画として始動していた『矢島美容室』をDJ OZMAと結成する事を発表し10月29日にデビュー。2人が揃って音楽活動するのは2001年に野猿が解散して以来であり、実に7年半ぶり。CDリリースやライブもさることながら、2010年には当ユニット名義の映画を公開した。
2012年3月、木梨は5年ぶりとなるソロライブ「NORITAKE GUIDE 5.0」を開催。最終日には石橋がサプライズ出演し、1995年のコンサートツアー以来のとんねるずとしての客前歌披露を行った。
2012年9月10日、視聴者参加型特別番組『ハレバレとんねるず 略してテレとん』(テレビ東京)が放送される。テレビ東京へのコンビとしての出演は、同じく素人参加番組だった『ドバドバ大爆弾』以来32年ぶりとなり、プロになってからは初めての同局での冠番組となる。
2013年10月、『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ)が放送25周年を迎える。2013年11月7日の放送では、放送25周年を記念してとんねるずvs矢沢永吉の「新・食わず嫌い王決定戦」特別対決が行われた。
2014年1月14日、『笑っていいとも!』(フジテレビ)放送第8000回目のテレフォンショッキングにて、不定期として番組レギュラーでの出演が決定した。自身がメインではない番組でのテレビでのレギュラー番組は『夕やけニャンニャン』の終了時(1987年)以来27年ぶりとなる。またテレフォンショッキングの史上最長記録は1984年以来、長らく黒柳徹子(46分)が最長となっていたが、番組終了を目前にして彼らが48分22秒で更新した。2014年3月31日「笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号」をもって幕を閉じた。
2017年6月、『とんねるずのみなさんのおかげでした』が単独放送開始20周年を迎える。
2017年9月、『とんねるずのみなさんのおかげでした』が『とんねるずのみなさんのおかげです』『ラスタとんねるず'94』『とんねるずの本汁でしょう!!』時代を含めて放送開始30周年を迎える。
2018年3月22日、『とんねるずのみなさんのおかげでした』が放送終了。放送回数は「おかげです」時代を含めて全1340回。木梨は2018年1月26日放送の『あさイチ』(NHK総合テレビ)にて『みなさんのおかげでした』終了後のとんねるずの活動について、「また新しい話があれば、企画できそうなことがあればやろうって」と石橋とも話している旨を明かした。
木梨が自身の個人事務所『コッカ』(現:キナシコッカ)に移籍、石橋とは所属事務所が別々となる。また約30年続いてきた公式ファンクラブ「TN Lounge」は2018年末をもって閉会。2018年4月以降は専ら個人活動がメインで、メンバー各々が活躍の場を広げている。
2019年9月、2人が個々で歌活動を開始することが同時期に発表された。 木梨は同年9月14日、自身が出演していた「氣志團万博2019」にて発表され、自社レーベル「木梨レコード」を立ち上げ、同年10月24日配信EP「木梨ファンク 〜NORI NORI NO-RI〜」でソロデビュー。現在精力的な歌手活動を展開しており、様々な歌手とのコラボや、2021年に始まった『木梨フェス』が話題になっている。一方石橋も同年9月17日、元野猿メンバーだった平山晃哉と神波憲人との3人組グループ『B Pressure』を結成し、同年11月1日に1stシングル「Freeze」でデビュー。以後1stアルバムリリース、ライブを行っていたが、2021年2月新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大により活動休止。また演出家マッコイ斎藤氏と『Ku-Wa de MOMPE』を組みデジタルシングルを配信リリースした。
2020年、コンビ結成40周年を迎える。
2020年1月22日、ポニーキャニオン時代のとんねるずやソロの活動曲を含む全189曲が、サブスクリプションサービス(サブスク)で一斉配信を開始、続く2021年7月28日には歌手デビュー時に在籍していたビクター時代の音源も一斉配信された。
現在、石橋は得意分野の知識を生かしたテレビ・ラジオのMC・パーソナリティ、木梨はテレビ・ラジオのMC・パーソナリティ、歌手活動、個展開催など活躍中。また『夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!!』(テレビ朝日)は2023年で24回目を迎える。※2012年開始の夏版は含まず。
その中で近年、石橋が「ABEMA」「YouTube」、木梨が「GYAO!」「Instagram」といった動画配信サービスやSNSなどのインターネットメディア進出が大きな話題となっており、時代の変化とともに活躍するフィールドも広がってきている。
2005年に制作されていた幻の未発表曲『ゆうがたフレンド』(作詞:糸井重里/作曲:大滝詠一)が、2023年3月21日リリースの「大滝詠一 NOVELTY SONG BOOK/NIAGARA ONDO BOOK」に収録される。1996年2月リリースのシングル『おまえが欲しい』以来、27年ぶりのとんねるず楽曲となる。
石橋は素人時代に『TVジョッキー』で竹中直人と知り合い、以後親交が続いている。また『お笑いスター誕生!!』の出演者らとも交流を深めた。特にシティボーイズとはお互いネタを見せ合い評論し合う仲だった。他に小柳トム(現:バブルガム・ブラザーズのブラザートム)やコロッケ、草野球の友達としてツーツーレロレロ等と交流があった。バブルガムブラザーズや同い年のTRFのSAMとはディスコ仲間でもある。1983年の再デビューまではショーパブ出演で知り合ったビジーフォーなどと親交を深めた。特に石橋とグッチ裕三との関係は仲が非常に良く、元妻・鈴木保奈美と含めて家族ぐるみの付き合いをしている。大木こだまとは『お笑いスター誕生!!』以来の交友がある。
基本的に他のお笑いタレントと共演することを選ばず、主に番組の中にコーナーを設けて個別に好きなことをさせてもらえる環境を選び、新しいタイプのタレントの価値を模索することになる。そのため表面上は漫才ブーム系のタレントとの共演はあまりなく、同業者の交流も前出の『お笑いスター誕生』系タレントが中心だった。ただし同年代のタレントとは盛んに交流を深め、水谷豊・田原俊彦・久保田利伸・元チェッカーズのメンバーなどはプライベートでも会う友人である。
BIG3(タモリ・ビートたけし・明石家さんま)や笑福亭鶴瓶、所ジョージ、関根勤といったお笑い第二世代との共演は比較的多い。島田紳助との共演はあまりなく、これは紳助が『26時間テレビ』内で放送された『笑っていいとも!増刊号』の「テレフォンショッキング」にゲスト出演した際に語っている。紳助とは『オレたちひょうきん族』や『歌のトップテン』などで頻度は少なかったものの共演経験はある。2000年代以降、さんまと共演することもほとんどなくなっていたが、2014年3月31日放送の『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』で約15年ぶりの共演を果たした。
また、横山やすしとは『うちの子にかぎってパート2』の第2話で最初で最後の共演を果たしている。また、やすしと同学年の田村正和と関口宏とも共演した。やすしが演じた居作新太郎が経営する新聞配達店の店員の青年役を演じた。なお、やすしの相方の西川きよしとは『ぐうたらママ』、2002年11月21日放送『とんねるずのみなさんのおかげでした』「食わず嫌い王決定戦」で共演を果たしている。
若手芸人との共演は、当時無名だったナインティナイン、よゐこ、ココリコ、ネプチューンの原田泰造(ネプチューン結成以前の素人時代)が『ねるとん紅鯨団』出演を境に積極的になる。ナインティナインはこれを機に、東京での知名度上昇に成功している。その後、岡村隆史は1997年3月の『とんねるずのみなさんのおかげです』最終回の「仮面ノリダー最終回スペシャル」にてノリダーの分身役を演じた。その後も、ナインティナインの番組にはとんねるずが出演するなどしている。
また1990年代からは吉本興業所属の芸人とも共演が多くなり、「ダウンタウンファミリー」と呼ばれる今田耕司、東野幸治、130R、木村祐一、リットン調査団、雨上がり決死隊、ココリコ、千原ジュニアとも、共演する機会がある。爆笑問題、さまぁ〜ず、ナインティナイン、ロンドンブーツ1号2号、ネプチューン、タカアンドトシ、FUJIWARA、おぎやはぎ、アンジャッシュ、次長課長、千鳥、バナナマン、バッドボーイズ、ダイノジ、くっきー!(野性爆弾)、リリー(見取り図)、長谷川雅紀(錦鯉)らは自らも語る通り、とんねるずの影響を直接受けた世代であり彼らの多くはとんねるずの番組へ多く出演するなどしている。
その一方でダウンタウン(浜田雅功・松本人志)との共演はほとんどなく、共演したのは1987年5月4日の『MBSヤングタウンVSとんねるず野球大会』(ラジオ同時生放送・テレビでは深夜にダイジェストが放送)でダウンタウンが「ヤンタンオールスターズ」の一員として出演、1994年10月3日放送の『FNS番組対抗!なるほど!ザ・秋の祭典スペシャル』の2回のみだった(共演はないものの同年の春の祭典や一部の年の『FNS27時間テレビ』では両コンビが揃って出演している)。また、個人同士の共演も長年なかったが、2014年3月31日放送の『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』で約20年ぶりの共演を果たし、これがテレビでは3回目の共演となった。2016年7月29日放送の『ダウンタウンなう』で浜田の息子と石橋の娘が同じ学校で、よく会っていたことを明かし「普通の時は全然、普通に喋ってるよ」と語っている。2022年5月6日にYouTube公式チャンネルでダウンタウンについて石橋は「誰と不仲とかそういうことではないんだよ。別にダウンタウンと誰と仲が悪いだの、へったくれだのということはないんだから」と不仲を否定した。
ウッチャンナンチャン(内村光良・南原清隆)とはお笑い第三世代の括りで並べられるものの、厳密には年齢、デビュー年、デビュー後の経緯を見るととんねるずの方が先輩にあたる。共に「お笑いスター誕生」出身者であり、とんねるずも出演していた『オールナイトフジ』『夕やけニャンニャン』にも数回ではあるが新人のウッチャンナンチャンは出演していた。初共演は『オールナイトフジ』である。その後『ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポン』がスタートするにあたり、1989年4月11日放送の『とんねるずのオールナイトニッポン』に飛び入り出演した。また1990年4月の『とんねるずのみなさんのおかげです』半年間休止のピンチヒッターとして『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』で彼らが抜擢されたのがきっかけで、続編『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』に繋がった。また『とんねるずのみなさんのおかげです』の再開予告CMの終わりには、石橋が「ウッチャンナンチャンさん、ありがとうございました」と礼を述べた。1980年代・1990年代は頻繁に共演していたが、2000年代以降はコンビの共演がなくなったが、はっぱ隊が『うたばん』に出演する等単独では度々共演している。ダウンタウンと同じく『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』にて、久しぶりにコンビ揃っての共演を果たした。
とんねるずは美空ひばりとも生前は親交が非常に深く、「お嬢」「タカ」「ノリ」と呼び合う間柄だった。
両者の出会いのきっかけは、とんねるずの大ファンだったひばりの息子・加藤和也(現:ひばりプロ社長)の誕生会に2人が呼ばれたことである。その後も『とんねるずのオールナイトニッポン』にひばりが急遽飛び入り出演し、とんねるずが出演していた同番組の生放送中にひばり本人から電話が入るなどの過去もある。
彼らが出演していた番組を見ていたひばりから放送終了後に2人の元へ電話がかかってきて、深夜にも拘らずひばりの自宅に呼び出され夜11時頃から番組内での行き過ぎた歌パフォーマンスに対して説教を受けたことがある。その際にはひばりのコンサートビデオを延々と見させられ、ひばりが席をはずすなり石橋がビデオを早送りして何とか見終わったと思いきや、そのビデオは上巻で、続けて下巻のビデオを結局翌朝5時頃まで見させられたというエピソードがある。
1988年に東京ドームの単独コンサート第一号として、不死鳥コンサートが行われ、政界・芸能界から沢山の有名人が駆けつけていた中、とんねるずも来ており石橋は隣に居た木梨に感動で泣くところを見られたくなかったので、必死に我慢していたがついに堪え切れず涙腺が崩壊しかけ、「ヤバい」と隣の木梨を見たところ木梨の方が先に号泣していたという。石橋はひばりに『(芸歴は)売れてから数えなさい』と言われて以来、「雨の西麻布」がヒットした1985年からを芸歴としてカウントすることがある。
とんねるずが素人時代に『お笑いスター誕生!!』へ出演した際、審査員からの評価は芳しくなかったが審査員の1人であったタモリは「お前らなんだかわからねえけど面白い」と評した。この当時、とんねるずを評価していたのはタモリとその世話人の赤塚不二夫だけだった。タモリに誘われて『タモリのオールナイトニッポン』の見学にとんねるずが行った際、このままお笑い芸人として本格的に活動するべきかどうかタモリに相談を持ちかけて、「やりたかったらやってみればいい」というタモリの言葉に後押しされて本格的にプロの道を進む決心をしたという。ブレイク後も『笑っていいとも!』や『ミュージックステーション』といったタモリの冠番組にゲスト出演する機会が多く、2007年10月4日放送の『とんねるずのみなさんのおかげでした』でタモリと共演した際には、「タモさんがお笑いスター誕生の審査員じゃなかったら僕たちはこの世に出てなかった」と語っている。またその話を聞いたタモリは、『(ここまで伸びるとは思わなかったから)あの時つぶしとけばよかった』とユーモアをこめて話している。このときの対戦相手は松田聖子で、勝負に負け罰ゲームで約30年ぶりにイグアナとコンドルの着地のものまねを披露した。その後、木梨は2008年に『オールナイトニッポン40周年SP・タモリのオールナイトニッポン』にゲスト出演をしたり、タモリの誕生日のお祝いもしている。2014年1月14日、『笑っていいとも!』放送8000回のゲストでコンビとして29年ぶりに出演し、放送終了の3月までの不定曜日レギュラーを務めた。
『お笑いスター誕生』時代に草野球の助っ人要員としての始まりで交流のあったビートたけしを元祖マルチタレントの先輩として尊敬している。このことはとんねるずの著書に記載されている。若手の頃、お笑いスター誕生出演後、偶然飲み屋で会ったたけしから「東京芸人、頑張れよ!」と激励されたことがある。この言葉には「当時はたけし後の東京の漫才師で大ブレークした者が大阪芸人に比べ少なかったため、とんねるずには東京芸人の火を消さないように」とのメッセージが込められていた。ブレイク後、オールナイトニッポンの第一部担当パーソナリティー全員が集まるスペシャル番組で共演した際には、恐縮して静かなとんねるずに対して、たけしは歌を披露し「歌だして、とんねるずの人気を落としてやろうと思ったけど、俺はムリだな」と発言し、とんねるずを苦笑させている。現在も交流は続いており年1回程度、『とんねるずのみなさんのおかげでした』スペシャルで共演していた。
また、たけしの最初の弟子であるそのまんま東(東国原英夫)とは、彼がまだたけし軍団に入る前に組んでいたツーツーレロレロで同時期に『お笑いスター誕生!!』に出場していた戦友であり、深い交流関係にある。『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』のレギュラーでもあった。
なお、たけしの芸風からの影響はほとんど受けていない。2012年秋、『日曜ゴールデンで何やってんだテレビ』では、レギュラー番組としてたけしと石橋が共演を果たした。
石橋の中学生素人時代の相方(島崎伸一・現制作プロダクション経営)がドリフターズの付き人になったことから、志村けんは当初石橋と付き合いが深かった。しかし後に木梨との付き合いも深まり、木梨自身もキャラクター設定、コントの作り方などで志村から影響を受けたこともあり一時は「コンビ結成」の噂が立つほどだった。この件について石橋自身が志村本人に抗議して終息した。ただこの付き合いの過程の中でとんねるずはイザワオフィスとつながりを強め、これが後の独立へとつながる。
『とんねるずのみなさんのおかげでした』の「食わず嫌い王決定戦」等で共演を果たしている。
番組リニューアル直後の1985年4月17日放送に「一気!」で初登場。以来、1989年にかけて、20回以上にわたり番組に出演し、さまざまな話題を提供した。石橋・木梨ともに『ベストテン』と同様に『夜ヒット』に対しても相当の思い入れがあり、「みなさんのおかげでした」など自身の番組ではこの番組に関連したエピソードをよく紹介している。
1984年の第21回以降一時期常連のように出場しており、1996年の第33回で司会を務めたこともあった。
2014年にレギュラーに。『笑っていいとも!』が終了する直前でもある。以降、石橋、木梨共に出演中(番組終了までの記録)。
番組のスタッフはほぼ大半が大卒者である。自分たちが高卒でありながら芸能界で大成功したことを「むしろ出世だ」とギャグとして強調することが、特に石橋は多かった。弟子に東大生(現在タレント・医師の吉田たかよし)がいたのも「東大生が高卒の俺たちの弟子だぜ」とギャグとして使用。
ただし『ザ・ベストテン』(TBS)出演時に高卒発言をした際には、共演者の小泉今日子に「あたしは中卒」(実際には高校中退)、吉川晃司に「ボクは高校中退ですよ」などと切り返される場面もあり、思わずとんねるずは沈黙してしまった。司会の黒柳徹子は「中学卒業でも偉い人はたくさんいるんだから威張らないで!!」と、とんねるずを叱責した。
『オールナイトフジ』のとんねるずコーナーで募集を行った舎弟軍団。応募条件は大学生。ここでも高卒が大学生を自由に扱う下克上美学が炸裂。当初は4チーム存在していたが、途中で突然解散を告げられ『もっこりーず&ぺにーず』だけが残る。
石橋曰く「俺達のガンバルマンズだ!」との通り、カニを口でくわえたりさせられたり体力型の試練ゲームをチーム対戦型で『憲武チーム』と『貴明チーム』に振り分けて展開した。メンバーは古賀薬局、ボッキー潮田等。ユニフォームはもっこりーずが上半身裸で赤いタイツ、ぺにーずが同じく黒いタイツ。双方登場のテーマ曲があり、もっこりーずが『♪も、も、も、も、もっこり〜ず〜♪』とボッキー潮田がフォークギターを弾きながら本日のテーマに合わせた歌詞にアレンジして熱唱しつつ皆で組み体操のような振り付けを決める。というもの。対してぺにーずは宴会ノリで『♪ぺぺぺい、ぺぺぺい、ぺぺぺいぺい♪ぺにーずの、ちょっといいとこ見てみたい♪(アレンジが入り最後に)あんたはお強い♪』である。特定のメンバーはそのまま夕ニャンにも出演。このメンバーの中にはそのままオールナイターズと結婚したメンバーもいる。オールナイトフジの最終回に可能な限りのメンバーを集め一度だけ再結成された。
それから時を経て、2005年9月に放送された『とんねるずのみなさんのおかげでした』の特番「とんねるずの石田さんのおかげでしたオールスター大感謝祭」に古賀とボッキーが出演。とんねるずの二人と再会を果たすが、その際木梨に「懐かしすぎて誰かわかりません」と言われた。なお、ボッキー潮田のみ現在音楽活動を東京都内を中心に継続している。
版権については厳しく、例として2004年に発売された『夕やけニャンニャン』のDVDでは出演箇所はモザイクで消され、CSで再放送されている番組(『ひょうきん族』など)でも彼らのシーンはカットされるか、放送されない回も多い。TBSの『王様のブランチ』の瞬間最高視聴率ランキングや『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』のゲストの過去のアーカイブ映像紹介でも、『うたばん』での石橋部分を、『ゲンセキ』での木梨部分を極力カットするなどしていた。また自身の冠番組の再放送や、外部への二次使用的な映像放出も少ない。
これは一説に、版権管理に厳しいイザワオフィス傘下で独立し事務所を構えたことや、それまでにも所属事務所を転々としてきたため版権関係が複雑化しているのが原因とされている。実際、ベストアルバムが発売される際には「○○所属時代のベストアルバム」と分類されることがほとんどである。記載されている通り過去映像などはほぼ再放送はされていなかったが、2012年1月1日から1月3日までCS放送のホームドラマチャンネルでとんねるずがデビュー当時に出演していた日本テレビの『お笑いスター誕生!!』の選りすぐりの3本を放送した「お笑いスター誕生!! セレクション」の1月3日に放送されたとんねるずが10週勝ち抜きグランプリを獲得した放送分が放送され、2017年からTBSチャンネル2で出演作の「時間ですよふたたび」「~たびたび」の再放送が行われるようになった。
1983年に新事務所所属となった頃、とんねるずを面白いとテレビ局の一室に呼ぶよう手配した人物がいた。それが当時新進の放送作家だった秋元康であり、ネタ見せ後そのネタからつかこうへいの影響を洞察した秋元は本人らにこれを確認するが、彼らはつかこうへいの名前すら知らなかった。その事実が秋元を驚かせ、それを機に秋元はとんねるずに可能性を感じ、以後彼らの筆頭ブレーンとして番組構成や作詞をはじめとした様々なアイデアをとんねるずと共に形にしていくこととなる。
とんねるずに関しての初期文献広告批評とんねるず特集では、彼らを「下克上タレント」と評している。芸人間では通常上下関係に関しては非常に厳しいが、とんねるずは「生意気」、「成り上がり」、「下克上」など媚びぬことをスタンスに定めている部分があり、志村けんや笑福亭鶴瓶などの先輩芸人相手にすら、番組中志村けんへ突然攻撃を仕掛けたり、鶴瓶へ「ねぇ、笑福亭」と屋号だけで名前を呼ぶなど、なかば意図的に芸人の礼儀を裏切ることがある。しかしとんねるずは体育会系であり、芸として無礼にふるまったとしても控え室では「志村さん」、「鶴瓶師匠」と呼びきちんと礼を踏まえている。
お笑いタレントがバラエティ番組の中で出演アイドルを面と向かって呼び捨てにする場面は、礼儀として、また業界の暗黙のルールとしても“御法度”だった。これは旧世代の芸人/漫才師のあり方に由来する。とんねるずが台頭するまでの1980年代前半以前のお笑い芸人の仕事は演歌歌手の前座が多く、正月の隠し芸大会などでもあくまで歌手や人気アイドルを引き立てる幇間であり、「歌手のおかげで食べさせてもらえる」という色物意識が強かった時代の名残である。これは、萩本欽一、タモリ、ビートたけしでさえも、誰かを呼び捨てにするのは、本やラジオ、テレビの各メディアで本人がいない場所に限られていた。これは明石家さんまを含めた漫才ブーム系芸人でも同様に守られており、呼び捨てはあくまでも芸人の先輩後輩や仲間の“同業者間”でのみ許されるものだった。これを侵せば業界から抹殺されかねないほどの約束事とも言え、対スポーツ選手でもこれは同様だった。
この状況の変化は、ビートたけしの登場から始まっている。大学生活を経験したという意味で、当時の芸人としては異色の存在だったビートたけしは、歌手やアイドルが実は間抜けで頭が悪いという面をどんどんネタにすることと、本格的な哲学をも怖じずに知的に語る活躍によって、お笑いタレントの地位を徐々に上げていった。たけしが開拓したマルチタレントカテゴリに位置するとんねるずのルールは明快で、体育会系のルールをそのまま芸能界へ持ち込み「年齢が上か下か」という点にのみ基準を置いている。年下は問答無用で呼び捨て、そしてスタッフや関係者には目上であっても“ちゃん”付けかあだ名を付けて呼ぶというものである。素人系のオールナイターズからおニャン子までは躊躇なく呼び捨て、アイドルに対しても、当初から比較的絡む率が高かったシブがき隊辺りから、「薬丸、テメー!」のような呼び捨てもハッキリと確認されるようになる。それ以後は、必要に応じて呼び捨てにしている。
とんねるずとしての出演作品を記載。個別での出演作品は「石橋貴明の出演作品」、「木梨憲武の出演作品」を参照。
スペシャル番組
1979年
1980年
1981年
1982年
1985年
1986年
1987年
1988年
1989年
1991年
1996年
1999年
とんねるず以前にも、お笑い芸人(コメディアン)の音楽活動はあったが、企画物としてではなく、まったくの独立したプロアーティストとしての成功した前例は無かった。コンスタントにランキング上位入りさせるヒット曲を量産、音楽賞受賞、数十か所に及ぶ全国コンサートツアーを開催するなど、音楽界での実績も残している。(お笑い芸人音楽作品総売上枚数(ソロ・参加ユニット込み)歴代1位※オリコン調べ)
1981年、コンビ名を「貴明&憲武」から「とんねるず」へと改名し、『お笑いスター誕生!!』に挑戦していた最中に、テレビ番組で初レギュラーとなった『モーニングサラダ』に出始めの駆け出しの無名新人だった彼らが、テレビアニメ『新・ど根性ガエル』の主題歌にいきなり抜擢され「ピョン吉・ロックンロール」を初のシングルとして発売。翌年、1982年には徳間ジャパンから企画物シングル「ヤバシびっちな女デイト・ナイト」を発売する。その後コンビの人気が開花し始めた時期に、ビクター音楽産業に籍を置き、1984年12月リリースの「一気!」(一気ブームを巻き起こす)を皮切りに音楽活動が本格始動していく。自身最初のオリコンTOP10入り(5位)となった「雨の西麻布」で歌手としての知名度も一段と上がり、ランキングの上位常連となっていった。
評価を受けた彼らは、数々の音楽賞レースにノミネートされ、賞を獲得していった。(受賞歴 を参照。)
当時は多くの音楽番組にも出演していき『ザ・ベストテン』(TBS)、『夜のヒットスタジオ』『FNS歌謡祭』(フジテレビ)、『トップテン』(日本テレビ)、『ミュージックステーション』(テレビ朝日)などに出演。
1986年5月リリースの「やぶさかでない」から、レコード会社をビクター音楽産業からキャニオンレコード(現:ポニーキャニオン)に移籍している。
1988年秋、『ザ・ベストテン』と同時間帯で『とんねるずのみなさんのおかげです』を始めたこともあり、それ以降は『ザ・ベストテン』に配慮して同番組が放送終了した1989年9月まではシングル発売を控えた。コンスタントにシングルを出してきた彼らであったが、結局『ザ・ベストテン』が放送終了後もシングルは暫く発売されず、1988年7月発売の「YAZAWA」から1991年5月発売の「情けねえ」までの約3年間で発売したシングルは、『とんねるずのみなさんのおかげです』を半年間休止(代替番組は『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』)していた間に放送された日本テレビ系列土曜グランド劇場『火の用心』の主題歌「どうにかなるさ」(伊集院静作詞)のみであった。
1989年11月7日には「とんねるず NO TEUCHI」と題して東京ドームでの単独コンサートを行っている。
音楽活動開始初期(ビクター在籍時からキャニオン移籍初期)は「一気」などのコミックソングのような曲を歌っており、「雨の西麻布」「歌謡曲」「迷惑でしょうが...」などの日本歌謡、「嵐のマッチョマン」「炎のエスカルゴ」などのラテン系ディスコソングなど、様々なジャンルを展開した。
人気絶頂を迎えていた彼らは本業のお笑いタレント活動に再び軸足を置いた事もあり、一時期歌手活動は減り(但しコンサートツアーは毎年コンスタントに開催している)、1990年前後のシングル発売はほとんど無かったが、久々のシングル発売となった1991年5月リリース「情けねえ」を転機に、歌手としてもさらに大きな飛躍を迎える。「情けねえ」では数か月もの間オリコンチャートの上位に位置するロングヒットを記録。同曲にてその年の第22回日本歌謡大賞の大賞を受賞。ついには第42回NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。紅白ではパンツ1丁で出演して「受信料を払おう」というペインティングをして話題になり、歌手別視聴率では2位を記録した(なお1位は大トリの谷村新司)。
次のシングル「ガラガラヘビがやってくる」では初のオリコン1位を獲得し、ミリオンセラーを記録する自身最大のヒット曲となった。1992年度の年間シングルチャートでは6位を獲得。当初この楽曲は『とんねるずのみなさんのおかげです』のオープニングテーマ用としてサビのみ書き下ろされ、CD化されるにあたり、その後サビ以外の部分も作曲して発売された。番組オープニングで曲といっしょに映像で流れていたクレイアニメーションは、その後「がじゃいも」等々で使われる。
その後、「一番偉い人へ」では2週連続1位を獲得。「がじゃいも」でも1位を獲得した。続く「フッフッフッってするんです」もヒット。1990年代に入ってからは「ガラガラヘビがやってくる」や「がじゃいも」などのコミックソングの一方で、「情けねえ」や「一番偉い人へ」などの社会風刺を含んだメッセージ色の強い曲が主体になっていく。
1996年シングル「おまえが欲しい」のリリースを最後に、「とんねるず」名義での音楽活動は事実上休止しているが、以降も様々なスタイルのユニットを組んで活動を続けている。
木梨は1996年に山本譲二との演歌デュオ「憲三郎&ジョージ山本」を結成。北島三郎(原譲二名義)作詞作曲による「浪漫-ROMAN-」で、売上20万枚超のヒットを飛ばし、その年の『第47回NHK紅白歌合戦』に出場を果たしている。歌手別視聴率では4位を記録した。一方石橋は、自らがプロデューサーとなってヒットを生みだすと意気込んで始まった企画で、1997年に工藤静香とのデュオ「Little Kiss」を結成する。三貴・カメリアダイヤモンドのコマーシャルソングとなった「A.S.A.P.」はオリコンランキングでトップ3入りし、売上50万枚のヒット。また定岡正二とデビット伊東との3人組バンドで、作曲に佐野元春が参加した「ANDY'S」(当初のユニット名は「生殺(なまごろし)」だったが、神戸連続児童殺傷事件の影響で改名)も結成しており、シングル「FREEDOM」をトップ10入りさせるなどヒットさせている(全て『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』内で結成)。1997年暮れには、当番組で結成した全ての音楽ユニット(CD発売されなかった「サーフノリダーズ」などを含む)が集結し、合同コンサートを渋谷公会堂で開き完結した。その後、音楽系の企画は「とんねるずのみなさんのおかげでした」に引き継がれていく。『生ダラ』でのユニットは全て石橋か木梨のどちらか一方のみが参加するというユニット形態での音楽活動だった。
1998年、『とんねるずのみなさんのおかげでした』内で番組スタッフと結成した「野猿(やえん)」で、2年ぶりに2人揃って音楽活動を再開することになる。当時番組のコーナーでとんねるずがKinKi Kidsのパロディをした際、バックダンサーとして踊っていた番組スタッフが2人の目に止まり、「CDデビューあるか?」と話が盛り上がりスタートした。元々スタッフのみで結成する予定だったが、ボーカルを決めるオーディションを行った際、まともに歌えるメンバーが少なかったために、ボーカル面で不安を感じた秋元の助言で、一緒に審査していたとんねるずが急遽歌収録に参加することになり、そのまま加入する運びとなった。当初は1曲限定の思い出作りであったが反響が大きく、最終的には98年から01年までの約3年間活動が行われた。当グループでは、メンバーの脱退や加入など、曲リリース毎に様々な展開がなされた。活動期間内に計11枚のシングル、3枚のアルバムがリリースされ、全てのCDがオリコンチャートトップ10入りを果たす。NHK紅白歌合戦にも1999年と2000年に2年連続で出場。また1999年には横浜アリーナ、2000年には日本武道館3デイズ、2001年にはコンサートツアー「撤収」を開催し大阪城ホール、名古屋レインボーホール、国立代々木競技場第一体育館3デイズ、更に「完全撤収」と題して同所で追加公演2デイズと大きな会場でのライブも行われた。この代々木でのライブを最後に野猿は解散(『撤収』と呼んでいる)した。そして撤収して10年の節目を迎えた2011年3月9日には、全ての楽曲(全50曲)の着うた配信を開始した。野猿撤収後は再び、それぞれが単独で音楽活動を継続する。(単独での音楽活動は石橋貴明、木梨憲武を参照。)
2008年、『とんねるずのみなさんのおかげでした』内でDJ OZMAと「矢島美容室」を結成。7年以上の月日を経て2人が揃って音楽活動を再開。「矢島工務店」を見てバンドを始めたというDJ OZMAと話が盛り上がり企画がスタートした。とんねるずとDJ OZMAのプロデュースで、ネバダ州から来た母娘による3人ユニットである。楽曲は作詞が脚本家・放送作家の遠藤察男が担当、作曲はDJ OZMA自らが担当している。デビュー曲「ニホンノミカタ -ネバダカラキマシタ-」は、音楽配信で170万ダウンロードを記録(2008年当時)。オリコンCDチャートでトップ3入りのヒットを飛ばす。同年12月20日には国立代々木競技場第一体育館でライブを開催。その後も活動は継続され、計5枚のシングル、2枚のアルバムがリリースされている。2010年にはスクリーンデビューを果たす。彼女達がデビューを果たすまでを描いた映画『矢島美容室 THE MOVIE 〜夢をつかまネバダ〜』が4月29日から全国公開。全国上映に先駆けて3月22日に東京国際フォーラム、4月11日に建設中の東京スカイツリーで初めてのイベントとなった映画公開イベントを開催。また舞台挨拶が東京、福岡、大阪、名古屋で開催された。 その後、フジテレビ社屋移転15周年音楽番組『とんねるずが生放送!音楽番組全部見せます!〜名曲で元気になろう!』にて復活。「ニホンノミカタ」を披露した。
しかし実は、野猿解散(2001年3月)と矢島美容室初披露(2008年9月)の間の時期にあたる2005年、大瀧詠一が作曲、糸井重里が作詞し、二人のレコーディングまで済ませていたとんねるずの新曲「ゆうがたフレンド」が存在していた事が後に石橋の口から明かされる。「とんねるずのみなさんのおかげでした」のOP曲として石橋が大滝詠一に依頼したこの曲は、石橋が意図していた方向性とは違うフォーク調の楽曲だったことから世に出ずお蔵入りとなり、翌2006年、詞とタイトルはそのままでムーンライダーズの楽曲として発表されていた。
目立った歌手活動は行っていなかったが、2012年3月の木梨のソロライブ『NORITAKE GUIDE 5.0』の最終日に石橋がサプライズ登場し、「一番偉い人へ」「迷惑でしょうが」「情けねえ」を久しぶりに客前でライブパフォーマンスした。また自身のテレビ番組や『FNS歌謡祭』に2012年から3年連続で出演するなど、二人で歌のステージに立つ機会は度々あった。2018年3月の「とんねるずのみなさんのおかげでした」最終回では、作曲家の後藤次利、藤井尚之ら豪華メンバーによる生バンドで「情けねえ」を披露している。
2019年秋、同時期に二人が個々の歌活動を開始した。
木梨は9月14日、自身が出演していた「氣志團万博2019」にて、自社レーベル『木梨レコード』を立ち上げ初のソロ歌手デビューすることを発表。10月24日に配信EP『木梨ファンク 〜NORI NORI NO-RI〜』でデビューし配信系チャートで6冠、12月11日発売のアルバム『木梨ファンク ザ・ベスト』では8冠を獲得した。2022年現在、計4作のEP、1作のアルバムをリリースしている。また音楽番組の出演、ライブや『木梨フェス』を開催するなど、歌手活動を活発に行っている。
石橋は9月17日、元野猿メンバーの平山晃哉と神波憲人との3人組ユニット『B Pressure』の結成を発表。彼らの楽曲を数多く手がけてきた秋元康、後藤次利コンビによる1stシングル『Freeze』で11月1日にインディーズからデビュー。御披露目ライブ『サビ落とし』と題したライブハウスツアーを行う。しかしその直後に新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大で活動が困難となり活動休止となった。その後自身のYouTubeチャンネル「貴ちゃんねるず」で演出家のマッコイ斎藤氏と『Ku-Wa de MOMPE』というユニットを組み、2020年10月2日に配信シングル『Stranger to the city』をリリースし、配信ランキングでランクインする。
その中、とんねるずとしては、2020年1月22日からポニーキャニオン時代の楽曲、2021年7月28日からビクター時代の楽曲が、各種インターネット配信サイト(サブスクリプションサービスを含む)にて配信が開始された。
また、前述の幻の曲『ゆうがたフレンド』も、2023年3月21日リリースの大瀧詠一の企画アルバム『大滝詠一 NOVELTY SONG BOOK/NIAGARA ONDO BOOK』に収録され、制作から18年後にようやく日の目を見ることとなった。とんねるずの楽曲としては1996年リリースの『おまえが欲しい』以来27年ぶりとなる。
※木梨は3回初出場をしており、NHK紅白歌合戦最多『初出場』記録を持っている。後に、後藤真希もこれに並んでいる。
とんねるずや関連ユニット(野猿など)全般の楽曲の作詞を担当している秋元康、作曲を担当している後藤次利などのほか、のちに美空ひばりの「川の流れのように」を秋元と共に生みだすことになる見岳章や、友人であるアーティスト(高見沢俊彦、玉置浩二、藤井フミヤ、久保田利伸)らが楽曲を提供している。これは、ビクター時代から一貫しており、「バックの音源をしっかり作って、その中でとんねるずを自由に暴れさせる」という音楽制作コンセプトがあったためである。
1995年にリリースしたアルバム『おまえ百までわしゃ九十九まで』は歌謡活動10周年を記念するアルバムとあって、武豊、野茂英雄、畑正憲、由利徹、所ジョージ、落合信子(落合博満の妻)、アントニオ猪木などが詞を提供している。これは『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』の企画として、制作から完成までの過程が放映されていた。
アルバム収録の「ブラックキャッツ!」では石橋と木梨の共作での作詞・作曲、シングル「YAZAWA」のカップリング「かき氷は宇治金時」では作詞石橋、作曲木梨(実際は後藤次利が作曲の大部分をサポートしているがクレジットはされていない。しかしこの件に関して後藤は了承している)という自作曲も少ないながら存在する。
また世に出る事は無かったが、レコーディングまで済ませていた大瀧詠一作曲、糸井重里作詞の幻のとんねるず楽曲がある事を後に石橋が明かしている。しかし2023年3月に大滝詠一の企画アルバムに収録され発売された。ちなみにこの曲が大瀧詠一の遺作となった。
他の関連作品については、「石橋貴明」、「木梨憲武」、「野猿」、「矢島美容室」の作品を参照。順位はオリコン週間ランキング最高位。
公式
非公式
発売
未発売
ワンマンライブや、数ヶ月に渡るコンサートツアーも毎年開催しており、数々の有名会場のステージに立っており、『ライブの聖地』と言われる日本武道館や、1989年には東京ドームで5万人の大規模ライブを行っている。お笑いタレント単独の東京ドームライブはいまだに彼らだけの偉業である。 | [
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"text": "とんねるず(TUNNELS)は、石橋貴明と木梨憲武からなる日本のお笑いコンビ、ボーカルデュオ、マルチタレント。",
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"text": "1980年結成。所属事務所は石橋がアライバル、木梨がキナシコッカ。レコードレーベルはポニーキャニオン。",
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"text": "コンビ名は、TakaakiのTから「TUN」、NoritakeのNから「NEL」、複数形「S」で二人の下の名前のイニシャルを用いて名付けられた。略称「TN」。",
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"text": "1980年代初頭に起こった漫才ブーム衰退後の日本のお笑い界の新世代を代表するコンビの筆頭で、80年代中盤から破竹の勢いで時代を席巻していった。ウッチャンナンチャン、ダウンタウンら「お笑い第三世代」と称されるこの3組は、現代のお笑い界に大きな影響を与えている。",
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"text": "1980年、私立帝京高校の同級生である2人によりコンビ結成。1982年に『お笑いスター誕生!!』でグランプリを獲得。1980年代半ばに『オールナイトフジ』『夕やけニャンニャン』の出演によって若者を中心に爆発的な人気を獲得。同時期の1985年に始まった『とんねるずのオールナイトニッポン』は、目玉のフリートークと数々の名物コーナーが受け「ハガキ職人」を多数輩出、多くのリスナーに多大な影響を与える深夜ラジオ史に残る名番組となる。1987年には『ねるとん紅鯨団』が始まり「ねるとんブーム」を起こし、深夜番組ながら視聴率上位常連の大ヒット番組となる。翌1988年には彼らの代表番組となる『とんねるずのみなさんのおかげです』が始まり、開始直後から20%越えの高視聴率を記録。社会現象になるほどのお化け番組と化し、彼らの地位を確立した。その後も『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』『とんねるずのハンマープライス』『とんねるずのみなさんのおかげでした』などの名番組を輩出する。",
"title": "概要"
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"text": "一方歌手としても活躍し、数々のヒット曲を生み出している。1991年「情けねえ」は第22回日本歌謡大賞大賞を受賞、1992年「ガラガラヘビがやってくる」はミリオンヒットを達成した。全国コンサートツアーも1995年まで毎年開催しており、1989年11月には東京ドーム公演を成功させている。",
"title": "概要"
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"text": "コンビ名の由来は、当時日本テレビのゼネラルプロデューサーであった井原高忠が貴明のTと憲武のNをもじった「とんまとのろま」と「とんねるず」を提案して本人たちに選ばせたことから。「とんねるず」というコンビ名に関して井原は(脱線トリオ、てんぷくトリオに続く)次代のお笑いスターになって欲しいという願いと、素の2人を見て「暗い奴ら」と思ったのをかけたという。",
"title": "概要"
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"text": "コンビだがボケとツッコミの役割は特に分かれていないスタイルで、ネタ作りは石橋が担当している。デビュー当時のプロフィールには「カリスマ芸人」と記載していた。二度目の下積み時代(新宿御苑のパフォーマンスバー「昆」時代など)を経て破天荒な芸風へと変わっていった。",
"title": "概要"
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"text": "『オールナイトフジ』出演以降に若さとエネルギー全開「──ナ! わけだァ!」節炸裂の過激トークや、スタジオで所狭しと暴れるなどの行動が日常的だったがこれと伴って同時に人気を獲得することとなった。特に『夕やけニャンニャン』ではアイドルによって態度が激しく違うため、自分が好みのアイドルが不本意なイジられ方をすると「あの石橋や木梨の態度は絶対に許さない」とアイドルファンから不平不満を買った。一方でスタジオ観覧の若者が「とんねるずに蹴られた」のを自慢する時代でもあった。",
"title": "概要"
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"text": "とんねるずのトークの中にはその時代の流行を反映した言葉が多く用いられている。例えば「○○みたいな。」と語尾に「みたいな」を付ける言葉は若者中心に使われているが、これは主に東京近郊の女子大生が使う言葉を敢えてとんねるずがテレビで誇張して用いる事で、全国的に広まった。他にも『ねるとん紅鯨団』から端を発した「ねるとんパーティ」「ツーショット」、『ねる様の踏み絵』で使われた「元サヤ」など彼らが発信元となった言葉は数多い。",
"title": "概要"
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"text": "また芸能界・テレビ界でよく使われる専門用語、いわゆる「業界用語」を多用して広めた経緯があり、今では一般でも使われている事がある。彼らのファンを『ワンフー』と呼んでいるのもここから起因している。",
"title": "概要"
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"text": "「内輪ネタ」もとんねるずの大きな特徴。ただしこれは一部の放送関係者だけに理解できる発言であることも多く、その発言内容は一般視聴者にはいまいち分かりづらいものである事も多かった(古くは『オレたちひょうきん族』でもこの傾向は見られ、当時は「楽屋落ちネタ」と呼ばれた)。また、『とんねるずのオールナイトニッポン』ではトーク内容がほとんどスタッフ(放送作家・マネージャー・プロデューサー・高校時代の友人など)の話題で占めるため、ハガキ職人の書くネタの内容もその話題を受ける格好で放送関係者絡みのネタが目立った。",
"title": "概要"
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"text": "業界の慣例だった製作会社社員・スタッフに支給される弁当とタレントの弁当にあった区別をとんねるずが取っ払った。そのスタイル「各業界に壁などない」「スタッフ、素人が同じ舞台に居る」という形が『ねるとん紅鯨団』、「野猿」の結成でありその「一般人、スタッフネタ」から生まれた番組企画、コントも多数企画された。",
"title": "概要"
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"text": "2人とも幼少時からテレビ好きであり、特に『8時だョ!全員集合』のザ・ドリフターズをはじめ『カックラキン大放送!!』の堺正章・井上順・ラビット関根や、「ベンジャミン伊東」の伊東四朗、「小松の親分」の小松政夫、萩本欽一(コント55号)、密室芸人時代のタモリなど漫才ブーム以前のバラエティ番組全盛の時代の影響が強い。漫才ブームの時期は共に部活動で多忙を極めていた事もあり、ビートたけし(ツービート)以外に受けた影響は少ない。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 14,
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"text": "デビュー当初は喜劇俳優である由利徹と絡む事が多く、共演時のとんねるずは素人時代に戻ったかのように彼の芸を心から笑ってしまう場面も多々あり、前にあまり出る事はしなかった(時代背景としてあまり前に出られなかった環境でもあった)。そのほか若手の時代には、由利徹やクレイジーキャッツのハナ肇、植木等らのエンターテイナーや喜劇俳優、美空ひばりや堺正章・タモリらには公私共に可愛がられていた。また、一時期からは共演NGも噂されたが、若手時代には明石家さんまとも「兄貴」と呼ぶほど親交が公私にわたって存在し、さんまと木梨は現在でもゴルフをする仲である。木梨は所ジョージや志村けんといったのちのお笑い界の大御所と呼ばれる人々とも親密な関係である。また、笑福亭鶴瓶と木梨は一時期毎週のように遊ぶ関係であったが、意外にも若手時代は親密というほどの関係ではない。また、とんねるず飛躍の要因の一つとして、業界の裏方の実力者とも若手時代から特に石橋が親交を築いた。フジテレビの名物プロデューサーの石田弘をはじめとする港浩一などの通称石田班、秋元康・テリー伊藤などは若手時代から深い繋がりを持った。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "1991年から2000年にかけて、苗場プリンスホテルのブリザーディウムで開催していた、コントライブ『こんと いん なえば』は、テレビとは違った本格的コントを生の舞台で客を笑わせることを重視していたが、元々舞台上に一切のセットを置かず、己の体ひとつで笑いや感動を与えていたイッセー尾形の『一人芝居』に触発されている。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "バラエティ以外で影響を受けた者としては長嶋茂雄、矢沢永吉、アントニオ猪木、『傷だらけの天使』の萩原健一、江川卓らが挙げられる。",
"title": "概要"
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"tag": "p",
"text": "共に東京都出身で帝京高等学校卒業。在学中の石橋は野球部、木梨はサッカー部へ所属。この2つの部は互いに交流が盛んで、部室内でのモノマネや一発芸などの披露を通じ、それぞれの部の「一番面白いヤツ」とお互い認識したのが出会いのきっかけ。当時は主に先輩や先生のモノマネなどで、共に校内の人気者だったという。",
"title": "経歴"
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"text": "石橋は高校在学中から『ぎんざNOW!』(TBS)や『TVジョッキー』(日本テレビ)をはじめとした、素人参加番組の常連であり、アントニオ猪木のモノマネやスポーツ選手の形態模写をはじめとする芸で一部の視聴者から注目されていた。なお同時代のライバルには竹中直人がおり、『TVジョッキー』のザ・チャレンジ(素人お笑い勝ち抜きコーナー)の第1回グランドチャンピオン大会では、第3代チャンピオン石橋と初代チャンピオン竹中が対決している。このときの勝者は石橋で、初代グランドチャンピオンを獲得した。また、木梨も第5代チャンピオンを獲得。木梨が出場した第2回グランドチャンピオン大会には、石橋も出演している。",
"title": "経歴"
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"text": "石橋ほどの頻度ではないが、主に和田アキ子のモノマネで素人参加番組に顔を出していた木梨を高校卒業の記念として石橋が誘い、所ジョージ司会の『ドバドバ大爆弾』(テレビ東京)に出演したのがコンビとして初めてのテレビ出演となる。『お笑いスター誕生!!』の出演までは、賞金を合計で多く得ようと意図的にバラバラで出演することもあったという。",
"title": "経歴"
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"text": "帝京高校卒業後、西武ライオンズのトライアウトで不合格となっていた石橋はホテルセンチュリーハイアットに入社しホテルオークラで研修、木梨はダイハツ工業に入社と、2人とも一般企業に就職するものの、『お笑いスター誕生!!』へのチャレンジ決意を機に2人とも退社して再会。当時のコンビ名は「貴明&憲武」。漫才だけではなく、モノマネや一発ギャグ、アニメの『魔法使いサリー』や『サンダーバード』のパロディ、学校やアイドルタレントの一コマを演じるコントなど面白いものは何でもエネルギッシュに演る多彩さで、素人ながら4週目まで勝ち抜く。それを契機に2人は勤務先を退社し、プロデビューへと意志を固める。",
"title": "経歴"
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"text": "退社後の1980年に正式にコンビ結成。コンビ名も「とんねるず」と改め『お笑いスター誕生!!』にプロとして再挑戦して挑むが、10週目で落選してしまう。またこの時期、同番組担当の日本テレビ・赤尾プロデューサーの紹介で日企に所属、赤坂のクラブ「コルドンブルー」におぼん・こぼんの後釜として所属したが、クラブの客層に芸風が合わずハマらなかった。",
"title": "経歴"
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"text": "『お笑いスター誕生!!』では、1981年に開催されたゴールデンルーキー賞の15組にエントリー。決勝まで進むが、アゴ&キンゾーに敗れて特別敢闘賞(事実上の第2位)に終わった。1982年4月10日には10週目に合格、グランプリを獲得した。その後も1983年末まで歌合戦などの企画や、グランプリ受賞者のネタ披露コーナーなどへ定期的に出演した。",
"title": "経歴"
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"text": "1981年には西城秀樹司会の朝の情報番組『モーニングサラダ』(日本テレビ)にレギュラー出演したが、些細な事から赤尾プロデューサーと衝突。一貫して日本テレビ系番組出演タレントだったとんねるずは、同局から完全に干されることになる。この間は新宿御苑のパフォーマンスバー「昆」(後にKONと改名)に出演するなど、下積み時代を過ごした。また、この頃は同じショーパブ系タレントであるビジーフォー(いそがしバンド)やアゴ&キンゾーらと交流を持ち、特に石橋はグッチ裕三、ウガンダトラ宅に居候していたこともある。石橋とグッチは当時のグッチの妻にゲイと誤解されるほど、仲が大変良かった。",
"title": "経歴"
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"text": "1983年頃、所属事務所を通さず友人の結婚式の司会をコンビで引き受け、これを知った事務所社長が激怒して一時期テレビに出演できなくなってしまった。",
"title": "経歴"
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"text": "スーパーの駐車場やデパートの屋上などで木箱をステージ代わりにして、営業回りをしていたこともあった。しかし営業は結構いいお金稼ぎになり、食べていくには苦労しなかったと明かしている。さらにこの頃は既に『オールナイトフジ』への出演が決まっていたので、夜は連日豪遊していた。",
"title": "経歴"
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"text": "その後、西城秀樹の初代マネージャーだった秦野嘉王が設立した新事務所「オフィスAtoZ」の所属第一号タレントになり再浮上の機を窺うことになった。秦野は当時のお笑い芸人には無縁だったスタイリストをとんねるずに付け、派手なブランドの代名詞でもあったK-FACTORYの衣装をコンセプトとするなど、イメージプロデュース戦略を図った。また現在に至るまでとんねるずの重要なブレーンであり、彼らの楽曲の作詞を行っている秋元康との出会いもこの時期である。",
"title": "経歴"
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"text": "1983年12月、フジテレビ系の深夜番組『オールナイトフジ』を皮切りにテレビ復帰。当初は番組後半に5分のコーナー「とんねるずの見栄講座」をもらったものの、番組内での些細なトラブル(石橋曰く「誤解によるもの」)によって、1984年1月に一旦降板。半年後の同年6月にレギュラーへと復帰している。その後「とんねるずの何でもベストテン」「とんねるずなっわけだぁ!」とコーナーや番組内の放送時間が早まるにつれ人気を集め、翌年に放送した同番組の「女子高生スペシャル」の発展形としてスタートした『夕やけニャンニャン』(フジテレビ、1985年 - 1987年)では片岡鶴太郎や吉田照美を脇役に追い立てるほどだった。",
"title": "経歴"
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"text": "その後も『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)『深夜劇場・トライアングル・ブルー』(テレビ朝日)などレギュラー番組を増やしていく。『とんねるずのオールナイトニッポン』(1985年 - 1992年)では火曜1部を担当し、数々のコーナーを輩出。聴取率ランキングでは当時絶大な人気を誇っていた『ビートたけしのオールナイトニッポン』を抜き、『小泉今日子のオールナイトニッポン』と熾烈な競争をしていた。『トライアングル・ブルー』では可愛かずみ・川上麻衣子・前田耕陽などと共演する。",
"title": "経歴"
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"text": "またこの頃、『新・ど根性ガエル』(日本テレビ)のテーマ「ピョン吉・ロックンロール」の後にリリースされた「ヤバシびっちな女(め)デイト・ナイト」以来のシングル「一気!」をリリース。その際には、TBS系の音楽番組『ザ・ベストテン』でのコーナー「今週のスポットライト」に登場。この出演をきっかけに、深夜番組だけでなく、本格的にとんねるずが世に知られることとなった。同曲は『オールナイトフジ』のコーナーでも毎回歌われ、勢い余ってセットの高所や吊り下げられた照明によじ登ったり、1500万円のテレビカメラを壊すなどの行動や、自ら勝手に「カリスマ芸人」と名乗るなどの行動や言動を見せた。1985年には、「一気!」の人気から断交状態にあった日本テレビが動き、ビートたけし司会の『スーパージョッキー』に歌手としてとんねるずを呼ぶことで、当時の関係者だけが知る「確執の事実上の“手打ち”」となった。この際、ビートたけしととんねるず(特に石橋)はお互いに意識しあい打ち解けるような雰囲気ではなく、常に緊張感が漂っていたという。後にこの2組は番組で共演することになる。",
"title": "経歴"
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"text": "『オールナイトフジ』 - 『夕やけニャンニャン』などいわゆる石田班の看板的存在になっていたため、当時確執があった横澤彪率いる横澤班の本丸的な番組であった『オレたちひょうきん族』に「一気!」で「ひょうきんベストテン」に出演した際、ひょうきん族レギュラー陣にリンチに等しい、過激なリアクションを課された。その際に2人は「もう日テレには出ないから勘弁してくれ」と漏らしており、日本テレビの出演解禁により蜜月のフジテレビとの関係が冷えることを危惧した石田が、横澤にとんねるずの出演を派閥の壁を越えて懇願し実現した出演であった。なお当時石田班、横澤班両方の番組に出演できたタレントは、片岡鶴太郎ら数人しかおらずこの派閥争いにより横澤班の代表番組の1つで若手タレントの登竜門的な存在である『笑っていいとも!』のレギュラーにはなれなかった。しかし石田・横澤とも第一線から退いた2014年(横澤は2011年死去)、29年ぶりに『笑っていいとも!』へ出演した際にタモリに対して直訴、番組終了まで念願のレギュラーとなっている。",
"title": "経歴"
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"text": "この当時は『新春かくし芸大会』(フジテレビ)にも出場しており、映画『南極物語』のパロディに、ペンギンの着ぐるみ姿で顔すら判別しにくい状態でセリフなしの数秒のチョイ役出演や、中森明菜と体を張ったカマヌンチャク芸を披露するなどしていた。彼らは不遇な扱いを受けていた頃を皮肉る時に「あの時はペンギンでした」と例に挙げることがある。1986年には第14回『ホノルルマラソン』に、ザ・ドリフターズのメンバーと参加するなど、まだまだ若手扱いされる時期だった。",
"title": "経歴"
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"tag": "p",
"text": "1980年代、巷でタレントショップブームが巻き起こった際には彼らも、「セシカ」や、当時の番組『ねるとん紅鯨団』(関西テレビ)とのタイアップショップ「バレンタインハウス」を原宿や京都に出店しており、関連グッズをヒットさせた。",
"title": "経歴"
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"text": "女性からの人気も獲得しており、『ザテレビジョン』(角川書店)や『明星』(集英社)などさまざまな雑誌の表紙を飾った。",
"title": "経歴"
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"text": "1987年10月『上海紅鯨団が行く』を引き継ぐ形でスタートした『ねるとん紅鯨団』(関西テレビ放送制作、フジテレビ系)がヒット。初年度から深夜枠ながらバラエティ年間平均視聴率ランキング3位にランクインした。当時IVSテレビ制作で番組の企画・総合演出などをしていた伊藤輝夫(現:テリー伊藤)や後藤喜男と出会ったのがこの時期。一般参加者による集団お見合い形式の企画が好評を得、集団お見合いパーティーそのものが『ねるとんパーティー』と呼ばれることもある。また1986年から火曜ワイドスペシャルで数回特番を行い、1988年10月からは、『とんねるずのみなさんのおかげです』がレギュラー放送を開始。番組内では、『仮面ノリダー』『保毛尾田保毛男』などのコントやパロディを披露した。当時裏番組として、国民的人気番組であるザ・ベストテンがTBS系列で放送されていたが、2週目の放送で辛勝。3週目でダブルスコアをつけての完勝となった。初年度から年間平均視聴率21.4%という驚異的な数字を叩き出し、1989年から94年にかけて年間平均視聴率ランキングで、全局・全ジャンルで1位をキープした。1989年3月のスペシャル時には番組シリーズで過去最高29.5%の視聴率を記録した。更にこの頃には、13本のCM契約もしていた。1991年10月には、『闘牛』『カートグランプリ』『PK対決』などロケ主体のコーナーが人気を得た『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』(日本テレビ)が開始した。",
"title": "経歴"
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"tag": "p",
"text": "1995年には、一時期疎遠状態になっていたTBSでの初のレギュラー番組『ねる様の踏み絵』(その後番組名『とんねるずのカバチ』に変更)が開始。さらに同年1月には『ねるとん紅鯨団』の後継番組として開始したバラエティ番組『とんねるずのハンマープライス』(『ねるとん』と同じく関西テレビ制作、フジテレビ系)も開始した。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "レギュラー番組をこなしながら、並行して音楽活動や俳優活動などのマルチタレントとしての活動も行い、「情けねえ」「ガラガラヘビがやってくる」をはじめとする曲がヒット。また1995年まで毎年全国コンサートツアーも開催する。1991年大晦日には『NHK紅白歌合戦』に初出場を果たした。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 37,
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"text": "テレビ、ラジオ、歌、CMなどメディア上での活動の傍らで、1991年から2000年の10年間、毎年3月初旬に苗場プリンスホテルのブリザーディウムにて、単独コントライブ『こんと いん なえば』を開催する。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "1994年には独立して個人事務所「アライバル」を設立。石橋が社長、木梨が副社長、残る所属タレントや事務員が平社員を務めた。当時の事務所に向かっていた途中、六本木・星条旗通りでお互い運転していた車を降り、「独立すればもっと正しい方向に向かう」と考えた石橋が、立ち話で木梨に独立の話を持ちかけた。木梨は「貴明がいいならいいよ」と二つ返事で了承したというエピソードがある。その後1997年2月に関西テレビを定年退職したフリーアナウンサーの杉本清を迎え入れ、その3年後の2000年には女猿のメンバー4人がいずれも平社員として所属した(女猿は2004年に解散し同時にアライバルを退社)。2008年12月には女優の鈴木保奈美を同じく平社員として迎え入れるものの、2018年に木梨がアライバルを退社した。これにより副社長は空席となっている。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "コンビ人気が安定期を迎えていた1990年代後半(特に1996年以降)に差し掛かると、ピンでの活動も活発になり始める。",
"title": "経歴"
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"text": "木梨は1996年5月、「憲三郎&ジョージ山本」という演歌ユニットでヒットし、同年のNHK紅白歌合戦出場を果たしている。また1998年1月にはドラマ『甘い結婚』(フジテレビ)で個人初主演を果たした。",
"title": "経歴"
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"text": "一方石橋は、1996年10月に初の単独司会によるレギュラー音楽番組『うたばん』(TBS)の放送が始まり、2010年3月まで13年半続いたメジャー音楽番組となった。また1997年2月に工藤静香とのユニット「Little Kiss」がヒット。1998年7月には三谷幸喜脚本のドラマ『今夜、宇宙の片隅で』(フジテレビ)に主演した。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "1997年3月、『とんねるずのみなさんのおかげです』が完全終了した。同年6月に『とんねるずのみなさんのおかげでした』と改題、リニューアルし放送開始。この頃には出演する番組が軒並み高視聴率を記録している。なお、とんねるずのみなさんのおかげでしたはスタート初年度から年間平均視聴率ランキングでは3位にランクインし、とんねるずの生でダラダラいかせて!!も1999年まで常にベスト5をキープ、とんねるずのハンマープライスも裏番組に苦戦しつつもベスト10常連の番組であった。石橋単独出演のうたばんも音楽番組では2000年まで最も平均視聴率が高く、その後も1位争いを繰り広げていた。またコンビ・個人合わせて最もレギュラー番組を抱えていたのがこの時期である。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 43,
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"text": "2人揃っての活動としては、フジテレビの番組スタッフと組んだ音楽ユニット『野猿』で1998年4月にデビューし、2001年までCDのリリースやコンサート開催などの活動を展開した。2人が音楽活動で揃うのは1996年にシングル「おまえが欲しい」を発売して以来2年ぶりとなった。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 44,
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"text": "2000年1月3日に、『夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル』(テレビ朝日)が、正月番組として開始。番組内ではとんねるずが、一年を通して活躍した話題のプロスポーツ選手を迎えて様々な競技で対決している。10周年を迎えた2009年以降は5時間の大型特番として放送されている。2012年からは夏版も放送が開始。そして2019年には正月版が20回目を迎えている。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2004年の『FNS27時間テレビ』(フジテレビ)内で放送された『笑わず嫌い王決定戦』で、久しぶりにコンビ漫才を披露した。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2004年 - 2007年、木梨は歌・コント・フリートークを交えたソロライブ「NORITAKE GUIDE LIVE」を開催した。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2008年10月、フジテレビの木曜9時枠で冠番組をスタートさせてから丸20周年を迎えた。なお、同枠は1988年10月に『とんねるずのみなさんのおかげです』が正式なレギュラー番組となって以来、途中ドラマ出演による半年間の充電期間や『ラスタとんねるず'94』『とんねるずの本汁でしょう!!』などを挟み、『とんねるずのみなさんのおかげでした』まで続いており、厳密には2009年3月で20周年となる。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2008年9月25日、同年5月から『とんねるずのみなさんのおかげでした』の企画として始動していた『矢島美容室』をDJ OZMAと結成する事を発表し10月29日にデビュー。2人が揃って音楽活動するのは2001年に野猿が解散して以来であり、実に7年半ぶり。CDリリースやライブもさることながら、2010年には当ユニット名義の映画を公開した。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 49,
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"text": "2012年3月、木梨は5年ぶりとなるソロライブ「NORITAKE GUIDE 5.0」を開催。最終日には石橋がサプライズ出演し、1995年のコンサートツアー以来のとんねるずとしての客前歌披露を行った。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 50,
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"text": "2012年9月10日、視聴者参加型特別番組『ハレバレとんねるず 略してテレとん』(テレビ東京)が放送される。テレビ東京へのコンビとしての出演は、同じく素人参加番組だった『ドバドバ大爆弾』以来32年ぶりとなり、プロになってからは初めての同局での冠番組となる。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 51,
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"text": "2013年10月、『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ)が放送25周年を迎える。2013年11月7日の放送では、放送25周年を記念してとんねるずvs矢沢永吉の「新・食わず嫌い王決定戦」特別対決が行われた。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 52,
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"text": "2014年1月14日、『笑っていいとも!』(フジテレビ)放送第8000回目のテレフォンショッキングにて、不定期として番組レギュラーでの出演が決定した。自身がメインではない番組でのテレビでのレギュラー番組は『夕やけニャンニャン』の終了時(1987年)以来27年ぶりとなる。またテレフォンショッキングの史上最長記録は1984年以来、長らく黒柳徹子(46分)が最長となっていたが、番組終了を目前にして彼らが48分22秒で更新した。2014年3月31日「笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号」をもって幕を閉じた。",
"title": "経歴"
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{
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"tag": "p",
"text": "2017年6月、『とんねるずのみなさんのおかげでした』が単独放送開始20周年を迎える。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2017年9月、『とんねるずのみなさんのおかげでした』が『とんねるずのみなさんのおかげです』『ラスタとんねるず'94』『とんねるずの本汁でしょう!!』時代を含めて放送開始30周年を迎える。",
"title": "経歴"
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"tag": "p",
"text": "2018年3月22日、『とんねるずのみなさんのおかげでした』が放送終了。放送回数は「おかげです」時代を含めて全1340回。木梨は2018年1月26日放送の『あさイチ』(NHK総合テレビ)にて『みなさんのおかげでした』終了後のとんねるずの活動について、「また新しい話があれば、企画できそうなことがあればやろうって」と石橋とも話している旨を明かした。",
"title": "経歴"
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"text": "木梨が自身の個人事務所『コッカ』(現:キナシコッカ)に移籍、石橋とは所属事務所が別々となる。また約30年続いてきた公式ファンクラブ「TN Lounge」は2018年末をもって閉会。2018年4月以降は専ら個人活動がメインで、メンバー各々が活躍の場を広げている。",
"title": "経歴"
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"tag": "p",
"text": "2019年9月、2人が個々で歌活動を開始することが同時期に発表された。 木梨は同年9月14日、自身が出演していた「氣志團万博2019」にて発表され、自社レーベル「木梨レコード」を立ち上げ、同年10月24日配信EP「木梨ファンク 〜NORI NORI NO-RI〜」でソロデビュー。現在精力的な歌手活動を展開しており、様々な歌手とのコラボや、2021年に始まった『木梨フェス』が話題になっている。一方石橋も同年9月17日、元野猿メンバーだった平山晃哉と神波憲人との3人組グループ『B Pressure』を結成し、同年11月1日に1stシングル「Freeze」でデビュー。以後1stアルバムリリース、ライブを行っていたが、2021年2月新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大により活動休止。また演出家マッコイ斎藤氏と『Ku-Wa de MOMPE』を組みデジタルシングルを配信リリースした。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "2020年、コンビ結成40周年を迎える。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2020年1月22日、ポニーキャニオン時代のとんねるずやソロの活動曲を含む全189曲が、サブスクリプションサービス(サブスク)で一斉配信を開始、続く2021年7月28日には歌手デビュー時に在籍していたビクター時代の音源も一斉配信された。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "現在、石橋は得意分野の知識を生かしたテレビ・ラジオのMC・パーソナリティ、木梨はテレビ・ラジオのMC・パーソナリティ、歌手活動、個展開催など活躍中。また『夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!!』(テレビ朝日)は2023年で24回目を迎える。※2012年開始の夏版は含まず。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "その中で近年、石橋が「ABEMA」「YouTube」、木梨が「GYAO!」「Instagram」といった動画配信サービスやSNSなどのインターネットメディア進出が大きな話題となっており、時代の変化とともに活躍するフィールドも広がってきている。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 62,
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"text": "2005年に制作されていた幻の未発表曲『ゆうがたフレンド』(作詞:糸井重里/作曲:大滝詠一)が、2023年3月21日リリースの「大滝詠一 NOVELTY SONG BOOK/NIAGARA ONDO BOOK」に収録される。1996年2月リリースのシングル『おまえが欲しい』以来、27年ぶりのとんねるず楽曲となる。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "石橋は素人時代に『TVジョッキー』で竹中直人と知り合い、以後親交が続いている。また『お笑いスター誕生!!』の出演者らとも交流を深めた。特にシティボーイズとはお互いネタを見せ合い評論し合う仲だった。他に小柳トム(現:バブルガム・ブラザーズのブラザートム)やコロッケ、草野球の友達としてツーツーレロレロ等と交流があった。バブルガムブラザーズや同い年のTRFのSAMとはディスコ仲間でもある。1983年の再デビューまではショーパブ出演で知り合ったビジーフォーなどと親交を深めた。特に石橋とグッチ裕三との関係は仲が非常に良く、元妻・鈴木保奈美と含めて家族ぐるみの付き合いをしている。大木こだまとは『お笑いスター誕生!!』以来の交友がある。",
"title": "交流関係"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "基本的に他のお笑いタレントと共演することを選ばず、主に番組の中にコーナーを設けて個別に好きなことをさせてもらえる環境を選び、新しいタイプのタレントの価値を模索することになる。そのため表面上は漫才ブーム系のタレントとの共演はあまりなく、同業者の交流も前出の『お笑いスター誕生』系タレントが中心だった。ただし同年代のタレントとは盛んに交流を深め、水谷豊・田原俊彦・久保田利伸・元チェッカーズのメンバーなどはプライベートでも会う友人である。",
"title": "交流関係"
},
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"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "BIG3(タモリ・ビートたけし・明石家さんま)や笑福亭鶴瓶、所ジョージ、関根勤といったお笑い第二世代との共演は比較的多い。島田紳助との共演はあまりなく、これは紳助が『26時間テレビ』内で放送された『笑っていいとも!増刊号』の「テレフォンショッキング」にゲスト出演した際に語っている。紳助とは『オレたちひょうきん族』や『歌のトップテン』などで頻度は少なかったものの共演経験はある。2000年代以降、さんまと共演することもほとんどなくなっていたが、2014年3月31日放送の『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』で約15年ぶりの共演を果たした。",
"title": "交流関係"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "また、横山やすしとは『うちの子にかぎってパート2』の第2話で最初で最後の共演を果たしている。また、やすしと同学年の田村正和と関口宏とも共演した。やすしが演じた居作新太郎が経営する新聞配達店の店員の青年役を演じた。なお、やすしの相方の西川きよしとは『ぐうたらママ』、2002年11月21日放送『とんねるずのみなさんのおかげでした』「食わず嫌い王決定戦」で共演を果たしている。",
"title": "交流関係"
},
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"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "若手芸人との共演は、当時無名だったナインティナイン、よゐこ、ココリコ、ネプチューンの原田泰造(ネプチューン結成以前の素人時代)が『ねるとん紅鯨団』出演を境に積極的になる。ナインティナインはこれを機に、東京での知名度上昇に成功している。その後、岡村隆史は1997年3月の『とんねるずのみなさんのおかげです』最終回の「仮面ノリダー最終回スペシャル」にてノリダーの分身役を演じた。その後も、ナインティナインの番組にはとんねるずが出演するなどしている。",
"title": "交流関係"
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"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "また1990年代からは吉本興業所属の芸人とも共演が多くなり、「ダウンタウンファミリー」と呼ばれる今田耕司、東野幸治、130R、木村祐一、リットン調査団、雨上がり決死隊、ココリコ、千原ジュニアとも、共演する機会がある。爆笑問題、さまぁ〜ず、ナインティナイン、ロンドンブーツ1号2号、ネプチューン、タカアンドトシ、FUJIWARA、おぎやはぎ、アンジャッシュ、次長課長、千鳥、バナナマン、バッドボーイズ、ダイノジ、くっきー!(野性爆弾)、リリー(見取り図)、長谷川雅紀(錦鯉)らは自らも語る通り、とんねるずの影響を直接受けた世代であり彼らの多くはとんねるずの番組へ多く出演するなどしている。",
"title": "交流関係"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "その一方でダウンタウン(浜田雅功・松本人志)との共演はほとんどなく、共演したのは1987年5月4日の『MBSヤングタウンVSとんねるず野球大会』(ラジオ同時生放送・テレビでは深夜にダイジェストが放送)でダウンタウンが「ヤンタンオールスターズ」の一員として出演、1994年10月3日放送の『FNS番組対抗!なるほど!ザ・秋の祭典スペシャル』の2回のみだった(共演はないものの同年の春の祭典や一部の年の『FNS27時間テレビ』では両コンビが揃って出演している)。また、個人同士の共演も長年なかったが、2014年3月31日放送の『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』で約20年ぶりの共演を果たし、これがテレビでは3回目の共演となった。2016年7月29日放送の『ダウンタウンなう』で浜田の息子と石橋の娘が同じ学校で、よく会っていたことを明かし「普通の時は全然、普通に喋ってるよ」と語っている。2022年5月6日にYouTube公式チャンネルでダウンタウンについて石橋は「誰と不仲とかそういうことではないんだよ。別にダウンタウンと誰と仲が悪いだの、へったくれだのということはないんだから」と不仲を否定した。",
"title": "交流関係"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "ウッチャンナンチャン(内村光良・南原清隆)とはお笑い第三世代の括りで並べられるものの、厳密には年齢、デビュー年、デビュー後の経緯を見るととんねるずの方が先輩にあたる。共に「お笑いスター誕生」出身者であり、とんねるずも出演していた『オールナイトフジ』『夕やけニャンニャン』にも数回ではあるが新人のウッチャンナンチャンは出演していた。初共演は『オールナイトフジ』である。その後『ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポン』がスタートするにあたり、1989年4月11日放送の『とんねるずのオールナイトニッポン』に飛び入り出演した。また1990年4月の『とんねるずのみなさんのおかげです』半年間休止のピンチヒッターとして『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』で彼らが抜擢されたのがきっかけで、続編『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』に繋がった。また『とんねるずのみなさんのおかげです』の再開予告CMの終わりには、石橋が「ウッチャンナンチャンさん、ありがとうございました」と礼を述べた。1980年代・1990年代は頻繁に共演していたが、2000年代以降はコンビの共演がなくなったが、はっぱ隊が『うたばん』に出演する等単独では度々共演している。ダウンタウンと同じく『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』にて、久しぶりにコンビ揃っての共演を果たした。",
"title": "交流関係"
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"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "とんねるずは美空ひばりとも生前は親交が非常に深く、「お嬢」「タカ」「ノリ」と呼び合う間柄だった。",
"title": "交流関係"
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"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "両者の出会いのきっかけは、とんねるずの大ファンだったひばりの息子・加藤和也(現:ひばりプロ社長)の誕生会に2人が呼ばれたことである。その後も『とんねるずのオールナイトニッポン』にひばりが急遽飛び入り出演し、とんねるずが出演していた同番組の生放送中にひばり本人から電話が入るなどの過去もある。",
"title": "交流関係"
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"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "彼らが出演していた番組を見ていたひばりから放送終了後に2人の元へ電話がかかってきて、深夜にも拘らずひばりの自宅に呼び出され夜11時頃から番組内での行き過ぎた歌パフォーマンスに対して説教を受けたことがある。その際にはひばりのコンサートビデオを延々と見させられ、ひばりが席をはずすなり石橋がビデオを早送りして何とか見終わったと思いきや、そのビデオは上巻で、続けて下巻のビデオを結局翌朝5時頃まで見させられたというエピソードがある。",
"title": "交流関係"
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"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "1988年に東京ドームの単独コンサート第一号として、不死鳥コンサートが行われ、政界・芸能界から沢山の有名人が駆けつけていた中、とんねるずも来ており石橋は隣に居た木梨に感動で泣くところを見られたくなかったので、必死に我慢していたがついに堪え切れず涙腺が崩壊しかけ、「ヤバい」と隣の木梨を見たところ木梨の方が先に号泣していたという。石橋はひばりに『(芸歴は)売れてから数えなさい』と言われて以来、「雨の西麻布」がヒットした1985年からを芸歴としてカウントすることがある。",
"title": "交流関係"
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"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "とんねるずが素人時代に『お笑いスター誕生!!』へ出演した際、審査員からの評価は芳しくなかったが審査員の1人であったタモリは「お前らなんだかわからねえけど面白い」と評した。この当時、とんねるずを評価していたのはタモリとその世話人の赤塚不二夫だけだった。タモリに誘われて『タモリのオールナイトニッポン』の見学にとんねるずが行った際、このままお笑い芸人として本格的に活動するべきかどうかタモリに相談を持ちかけて、「やりたかったらやってみればいい」というタモリの言葉に後押しされて本格的にプロの道を進む決心をしたという。ブレイク後も『笑っていいとも!』や『ミュージックステーション』といったタモリの冠番組にゲスト出演する機会が多く、2007年10月4日放送の『とんねるずのみなさんのおかげでした』でタモリと共演した際には、「タモさんがお笑いスター誕生の審査員じゃなかったら僕たちはこの世に出てなかった」と語っている。またその話を聞いたタモリは、『(ここまで伸びるとは思わなかったから)あの時つぶしとけばよかった』とユーモアをこめて話している。このときの対戦相手は松田聖子で、勝負に負け罰ゲームで約30年ぶりにイグアナとコンドルの着地のものまねを披露した。その後、木梨は2008年に『オールナイトニッポン40周年SP・タモリのオールナイトニッポン』にゲスト出演をしたり、タモリの誕生日のお祝いもしている。2014年1月14日、『笑っていいとも!』放送8000回のゲストでコンビとして29年ぶりに出演し、放送終了の3月までの不定曜日レギュラーを務めた。",
"title": "交流関係"
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{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "『お笑いスター誕生』時代に草野球の助っ人要員としての始まりで交流のあったビートたけしを元祖マルチタレントの先輩として尊敬している。このことはとんねるずの著書に記載されている。若手の頃、お笑いスター誕生出演後、偶然飲み屋で会ったたけしから「東京芸人、頑張れよ!」と激励されたことがある。この言葉には「当時はたけし後の東京の漫才師で大ブレークした者が大阪芸人に比べ少なかったため、とんねるずには東京芸人の火を消さないように」とのメッセージが込められていた。ブレイク後、オールナイトニッポンの第一部担当パーソナリティー全員が集まるスペシャル番組で共演した際には、恐縮して静かなとんねるずに対して、たけしは歌を披露し「歌だして、とんねるずの人気を落としてやろうと思ったけど、俺はムリだな」と発言し、とんねるずを苦笑させている。現在も交流は続いており年1回程度、『とんねるずのみなさんのおかげでした』スペシャルで共演していた。",
"title": "交流関係"
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"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "また、たけしの最初の弟子であるそのまんま東(東国原英夫)とは、彼がまだたけし軍団に入る前に組んでいたツーツーレロレロで同時期に『お笑いスター誕生!!』に出場していた戦友であり、深い交流関係にある。『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』のレギュラーでもあった。",
"title": "交流関係"
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"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "なお、たけしの芸風からの影響はほとんど受けていない。2012年秋、『日曜ゴールデンで何やってんだテレビ』では、レギュラー番組としてたけしと石橋が共演を果たした。",
"title": "交流関係"
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{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "石橋の中学生素人時代の相方(島崎伸一・現制作プロダクション経営)がドリフターズの付き人になったことから、志村けんは当初石橋と付き合いが深かった。しかし後に木梨との付き合いも深まり、木梨自身もキャラクター設定、コントの作り方などで志村から影響を受けたこともあり一時は「コンビ結成」の噂が立つほどだった。この件について石橋自身が志村本人に抗議して終息した。ただこの付き合いの過程の中でとんねるずはイザワオフィスとつながりを強め、これが後の独立へとつながる。",
"title": "交流関係"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "『とんねるずのみなさんのおかげでした』の「食わず嫌い王決定戦」等で共演を果たしている。",
"title": "交流関係"
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{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "番組リニューアル直後の1985年4月17日放送に「一気!」で初登場。以来、1989年にかけて、20回以上にわたり番組に出演し、さまざまな話題を提供した。石橋・木梨ともに『ベストテン』と同様に『夜ヒット』に対しても相当の思い入れがあり、「みなさんのおかげでした」など自身の番組ではこの番組に関連したエピソードをよく紹介している。",
"title": "エピソード"
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{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "1984年の第21回以降一時期常連のように出場しており、1996年の第33回で司会を務めたこともあった。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "2014年にレギュラーに。『笑っていいとも!』が終了する直前でもある。以降、石橋、木梨共に出演中(番組終了までの記録)。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "番組のスタッフはほぼ大半が大卒者である。自分たちが高卒でありながら芸能界で大成功したことを「むしろ出世だ」とギャグとして強調することが、特に石橋は多かった。弟子に東大生(現在タレント・医師の吉田たかよし)がいたのも「東大生が高卒の俺たちの弟子だぜ」とギャグとして使用。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "ただし『ザ・ベストテン』(TBS)出演時に高卒発言をした際には、共演者の小泉今日子に「あたしは中卒」(実際には高校中退)、吉川晃司に「ボクは高校中退ですよ」などと切り返される場面もあり、思わずとんねるずは沈黙してしまった。司会の黒柳徹子は「中学卒業でも偉い人はたくさんいるんだから威張らないで!!」と、とんねるずを叱責した。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "『オールナイトフジ』のとんねるずコーナーで募集を行った舎弟軍団。応募条件は大学生。ここでも高卒が大学生を自由に扱う下克上美学が炸裂。当初は4チーム存在していたが、途中で突然解散を告げられ『もっこりーず&ぺにーず』だけが残る。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "石橋曰く「俺達のガンバルマンズだ!」との通り、カニを口でくわえたりさせられたり体力型の試練ゲームをチーム対戦型で『憲武チーム』と『貴明チーム』に振り分けて展開した。メンバーは古賀薬局、ボッキー潮田等。ユニフォームはもっこりーずが上半身裸で赤いタイツ、ぺにーずが同じく黒いタイツ。双方登場のテーマ曲があり、もっこりーずが『♪も、も、も、も、もっこり〜ず〜♪』とボッキー潮田がフォークギターを弾きながら本日のテーマに合わせた歌詞にアレンジして熱唱しつつ皆で組み体操のような振り付けを決める。というもの。対してぺにーずは宴会ノリで『♪ぺぺぺい、ぺぺぺい、ぺぺぺいぺい♪ぺにーずの、ちょっといいとこ見てみたい♪(アレンジが入り最後に)あんたはお強い♪』である。特定のメンバーはそのまま夕ニャンにも出演。このメンバーの中にはそのままオールナイターズと結婚したメンバーもいる。オールナイトフジの最終回に可能な限りのメンバーを集め一度だけ再結成された。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "それから時を経て、2005年9月に放送された『とんねるずのみなさんのおかげでした』の特番「とんねるずの石田さんのおかげでしたオールスター大感謝祭」に古賀とボッキーが出演。とんねるずの二人と再会を果たすが、その際木梨に「懐かしすぎて誰かわかりません」と言われた。なお、ボッキー潮田のみ現在音楽活動を東京都内を中心に継続している。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "版権については厳しく、例として2004年に発売された『夕やけニャンニャン』のDVDでは出演箇所はモザイクで消され、CSで再放送されている番組(『ひょうきん族』など)でも彼らのシーンはカットされるか、放送されない回も多い。TBSの『王様のブランチ』の瞬間最高視聴率ランキングや『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』のゲストの過去のアーカイブ映像紹介でも、『うたばん』での石橋部分を、『ゲンセキ』での木梨部分を極力カットするなどしていた。また自身の冠番組の再放送や、外部への二次使用的な映像放出も少ない。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "これは一説に、版権管理に厳しいイザワオフィス傘下で独立し事務所を構えたことや、それまでにも所属事務所を転々としてきたため版権関係が複雑化しているのが原因とされている。実際、ベストアルバムが発売される際には「○○所属時代のベストアルバム」と分類されることがほとんどである。記載されている通り過去映像などはほぼ再放送はされていなかったが、2012年1月1日から1月3日までCS放送のホームドラマチャンネルでとんねるずがデビュー当時に出演していた日本テレビの『お笑いスター誕生!!』の選りすぐりの3本を放送した「お笑いスター誕生!! セレクション」の1月3日に放送されたとんねるずが10週勝ち抜きグランプリを獲得した放送分が放送され、2017年からTBSチャンネル2で出演作の「時間ですよふたたび」「~たびたび」の再放送が行われるようになった。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "1983年に新事務所所属となった頃、とんねるずを面白いとテレビ局の一室に呼ぶよう手配した人物がいた。それが当時新進の放送作家だった秋元康であり、ネタ見せ後そのネタからつかこうへいの影響を洞察した秋元は本人らにこれを確認するが、彼らはつかこうへいの名前すら知らなかった。その事実が秋元を驚かせ、それを機に秋元はとんねるずに可能性を感じ、以後彼らの筆頭ブレーンとして番組構成や作詞をはじめとした様々なアイデアをとんねるずと共に形にしていくこととなる。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "とんねるずに関しての初期文献広告批評とんねるず特集では、彼らを「下克上タレント」と評している。芸人間では通常上下関係に関しては非常に厳しいが、とんねるずは「生意気」、「成り上がり」、「下克上」など媚びぬことをスタンスに定めている部分があり、志村けんや笑福亭鶴瓶などの先輩芸人相手にすら、番組中志村けんへ突然攻撃を仕掛けたり、鶴瓶へ「ねぇ、笑福亭」と屋号だけで名前を呼ぶなど、なかば意図的に芸人の礼儀を裏切ることがある。しかしとんねるずは体育会系であり、芸として無礼にふるまったとしても控え室では「志村さん」、「鶴瓶師匠」と呼びきちんと礼を踏まえている。",
"title": "エピソード"
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"tag": "p",
"text": "お笑いタレントがバラエティ番組の中で出演アイドルを面と向かって呼び捨てにする場面は、礼儀として、また業界の暗黙のルールとしても“御法度”だった。これは旧世代の芸人/漫才師のあり方に由来する。とんねるずが台頭するまでの1980年代前半以前のお笑い芸人の仕事は演歌歌手の前座が多く、正月の隠し芸大会などでもあくまで歌手や人気アイドルを引き立てる幇間であり、「歌手のおかげで食べさせてもらえる」という色物意識が強かった時代の名残である。これは、萩本欽一、タモリ、ビートたけしでさえも、誰かを呼び捨てにするのは、本やラジオ、テレビの各メディアで本人がいない場所に限られていた。これは明石家さんまを含めた漫才ブーム系芸人でも同様に守られており、呼び捨てはあくまでも芸人の先輩後輩や仲間の“同業者間”でのみ許されるものだった。これを侵せば業界から抹殺されかねないほどの約束事とも言え、対スポーツ選手でもこれは同様だった。",
"title": "エピソード"
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"text": "この状況の変化は、ビートたけしの登場から始まっている。大学生活を経験したという意味で、当時の芸人としては異色の存在だったビートたけしは、歌手やアイドルが実は間抜けで頭が悪いという面をどんどんネタにすることと、本格的な哲学をも怖じずに知的に語る活躍によって、お笑いタレントの地位を徐々に上げていった。たけしが開拓したマルチタレントカテゴリに位置するとんねるずのルールは明快で、体育会系のルールをそのまま芸能界へ持ち込み「年齢が上か下か」という点にのみ基準を置いている。年下は問答無用で呼び捨て、そしてスタッフや関係者には目上であっても“ちゃん”付けかあだ名を付けて呼ぶというものである。素人系のオールナイターズからおニャン子までは躊躇なく呼び捨て、アイドルに対しても、当初から比較的絡む率が高かったシブがき隊辺りから、「薬丸、テメー!」のような呼び捨てもハッキリと確認されるようになる。それ以後は、必要に応じて呼び捨てにしている。",
"title": "エピソード"
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"text": "とんねるずとしての出演作品を記載。個別での出演作品は「石橋貴明の出演作品」、「木梨憲武の出演作品」を参照。",
"title": "メディア出演"
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"text": "スペシャル番組",
"title": "メディア出演"
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"text": "1979年",
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"text": "1980年",
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"text": "1999年",
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"paragraph_id": 109,
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"text": "とんねるず以前にも、お笑い芸人(コメディアン)の音楽活動はあったが、企画物としてではなく、まったくの独立したプロアーティストとしての成功した前例は無かった。コンスタントにランキング上位入りさせるヒット曲を量産、音楽賞受賞、数十か所に及ぶ全国コンサートツアーを開催するなど、音楽界での実績も残している。(お笑い芸人音楽作品総売上枚数(ソロ・参加ユニット込み)歴代1位※オリコン調べ)",
"title": "音楽活動"
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"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "1981年、コンビ名を「貴明&憲武」から「とんねるず」へと改名し、『お笑いスター誕生!!』に挑戦していた最中に、テレビ番組で初レギュラーとなった『モーニングサラダ』に出始めの駆け出しの無名新人だった彼らが、テレビアニメ『新・ど根性ガエル』の主題歌にいきなり抜擢され「ピョン吉・ロックンロール」を初のシングルとして発売。翌年、1982年には徳間ジャパンから企画物シングル「ヤバシびっちな女デイト・ナイト」を発売する。その後コンビの人気が開花し始めた時期に、ビクター音楽産業に籍を置き、1984年12月リリースの「一気!」(一気ブームを巻き起こす)を皮切りに音楽活動が本格始動していく。自身最初のオリコンTOP10入り(5位)となった「雨の西麻布」で歌手としての知名度も一段と上がり、ランキングの上位常連となっていった。",
"title": "音楽活動"
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"text": "評価を受けた彼らは、数々の音楽賞レースにノミネートされ、賞を獲得していった。(受賞歴 を参照。)",
"title": "音楽活動"
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{
"paragraph_id": 112,
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"text": "当時は多くの音楽番組にも出演していき『ザ・ベストテン』(TBS)、『夜のヒットスタジオ』『FNS歌謡祭』(フジテレビ)、『トップテン』(日本テレビ)、『ミュージックステーション』(テレビ朝日)などに出演。",
"title": "音楽活動"
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"text": "1986年5月リリースの「やぶさかでない」から、レコード会社をビクター音楽産業からキャニオンレコード(現:ポニーキャニオン)に移籍している。",
"title": "音楽活動"
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"text": "1988年秋、『ザ・ベストテン』と同時間帯で『とんねるずのみなさんのおかげです』を始めたこともあり、それ以降は『ザ・ベストテン』に配慮して同番組が放送終了した1989年9月まではシングル発売を控えた。コンスタントにシングルを出してきた彼らであったが、結局『ザ・ベストテン』が放送終了後もシングルは暫く発売されず、1988年7月発売の「YAZAWA」から1991年5月発売の「情けねえ」までの約3年間で発売したシングルは、『とんねるずのみなさんのおかげです』を半年間休止(代替番組は『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』)していた間に放送された日本テレビ系列土曜グランド劇場『火の用心』の主題歌「どうにかなるさ」(伊集院静作詞)のみであった。",
"title": "音楽活動"
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"text": "1989年11月7日には「とんねるず NO TEUCHI」と題して東京ドームでの単独コンサートを行っている。",
"title": "音楽活動"
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"paragraph_id": 116,
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"text": "音楽活動開始初期(ビクター在籍時からキャニオン移籍初期)は「一気」などのコミックソングのような曲を歌っており、「雨の西麻布」「歌謡曲」「迷惑でしょうが...」などの日本歌謡、「嵐のマッチョマン」「炎のエスカルゴ」などのラテン系ディスコソングなど、様々なジャンルを展開した。",
"title": "音楽活動"
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"paragraph_id": 117,
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"text": "人気絶頂を迎えていた彼らは本業のお笑いタレント活動に再び軸足を置いた事もあり、一時期歌手活動は減り(但しコンサートツアーは毎年コンスタントに開催している)、1990年前後のシングル発売はほとんど無かったが、久々のシングル発売となった1991年5月リリース「情けねえ」を転機に、歌手としてもさらに大きな飛躍を迎える。「情けねえ」では数か月もの間オリコンチャートの上位に位置するロングヒットを記録。同曲にてその年の第22回日本歌謡大賞の大賞を受賞。ついには第42回NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。紅白ではパンツ1丁で出演して「受信料を払おう」というペインティングをして話題になり、歌手別視聴率では2位を記録した(なお1位は大トリの谷村新司)。",
"title": "音楽活動"
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"text": "次のシングル「ガラガラヘビがやってくる」では初のオリコン1位を獲得し、ミリオンセラーを記録する自身最大のヒット曲となった。1992年度の年間シングルチャートでは6位を獲得。当初この楽曲は『とんねるずのみなさんのおかげです』のオープニングテーマ用としてサビのみ書き下ろされ、CD化されるにあたり、その後サビ以外の部分も作曲して発売された。番組オープニングで曲といっしょに映像で流れていたクレイアニメーションは、その後「がじゃいも」等々で使われる。",
"title": "音楽活動"
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"paragraph_id": 119,
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"text": "その後、「一番偉い人へ」では2週連続1位を獲得。「がじゃいも」でも1位を獲得した。続く「フッフッフッってするんです」もヒット。1990年代に入ってからは「ガラガラヘビがやってくる」や「がじゃいも」などのコミックソングの一方で、「情けねえ」や「一番偉い人へ」などの社会風刺を含んだメッセージ色の強い曲が主体になっていく。",
"title": "音楽活動"
},
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"text": "1996年シングル「おまえが欲しい」のリリースを最後に、「とんねるず」名義での音楽活動は事実上休止しているが、以降も様々なスタイルのユニットを組んで活動を続けている。",
"title": "音楽活動"
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"paragraph_id": 121,
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"text": "木梨は1996年に山本譲二との演歌デュオ「憲三郎&ジョージ山本」を結成。北島三郎(原譲二名義)作詞作曲による「浪漫-ROMAN-」で、売上20万枚超のヒットを飛ばし、その年の『第47回NHK紅白歌合戦』に出場を果たしている。歌手別視聴率では4位を記録した。一方石橋は、自らがプロデューサーとなってヒットを生みだすと意気込んで始まった企画で、1997年に工藤静香とのデュオ「Little Kiss」を結成する。三貴・カメリアダイヤモンドのコマーシャルソングとなった「A.S.A.P.」はオリコンランキングでトップ3入りし、売上50万枚のヒット。また定岡正二とデビット伊東との3人組バンドで、作曲に佐野元春が参加した「ANDY'S」(当初のユニット名は「生殺(なまごろし)」だったが、神戸連続児童殺傷事件の影響で改名)も結成しており、シングル「FREEDOM」をトップ10入りさせるなどヒットさせている(全て『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』内で結成)。1997年暮れには、当番組で結成した全ての音楽ユニット(CD発売されなかった「サーフノリダーズ」などを含む)が集結し、合同コンサートを渋谷公会堂で開き完結した。その後、音楽系の企画は「とんねるずのみなさんのおかげでした」に引き継がれていく。『生ダラ』でのユニットは全て石橋か木梨のどちらか一方のみが参加するというユニット形態での音楽活動だった。",
"title": "音楽活動"
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"text": "1998年、『とんねるずのみなさんのおかげでした』内で番組スタッフと結成した「野猿(やえん)」で、2年ぶりに2人揃って音楽活動を再開することになる。当時番組のコーナーでとんねるずがKinKi Kidsのパロディをした際、バックダンサーとして踊っていた番組スタッフが2人の目に止まり、「CDデビューあるか?」と話が盛り上がりスタートした。元々スタッフのみで結成する予定だったが、ボーカルを決めるオーディションを行った際、まともに歌えるメンバーが少なかったために、ボーカル面で不安を感じた秋元の助言で、一緒に審査していたとんねるずが急遽歌収録に参加することになり、そのまま加入する運びとなった。当初は1曲限定の思い出作りであったが反響が大きく、最終的には98年から01年までの約3年間活動が行われた。当グループでは、メンバーの脱退や加入など、曲リリース毎に様々な展開がなされた。活動期間内に計11枚のシングル、3枚のアルバムがリリースされ、全てのCDがオリコンチャートトップ10入りを果たす。NHK紅白歌合戦にも1999年と2000年に2年連続で出場。また1999年には横浜アリーナ、2000年には日本武道館3デイズ、2001年にはコンサートツアー「撤収」を開催し大阪城ホール、名古屋レインボーホール、国立代々木競技場第一体育館3デイズ、更に「完全撤収」と題して同所で追加公演2デイズと大きな会場でのライブも行われた。この代々木でのライブを最後に野猿は解散(『撤収』と呼んでいる)した。そして撤収して10年の節目を迎えた2011年3月9日には、全ての楽曲(全50曲)の着うた配信を開始した。野猿撤収後は再び、それぞれが単独で音楽活動を継続する。(単独での音楽活動は石橋貴明、木梨憲武を参照。)",
"title": "音楽活動"
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"paragraph_id": 123,
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"text": "2008年、『とんねるずのみなさんのおかげでした』内でDJ OZMAと「矢島美容室」を結成。7年以上の月日を経て2人が揃って音楽活動を再開。「矢島工務店」を見てバンドを始めたというDJ OZMAと話が盛り上がり企画がスタートした。とんねるずとDJ OZMAのプロデュースで、ネバダ州から来た母娘による3人ユニットである。楽曲は作詞が脚本家・放送作家の遠藤察男が担当、作曲はDJ OZMA自らが担当している。デビュー曲「ニホンノミカタ -ネバダカラキマシタ-」は、音楽配信で170万ダウンロードを記録(2008年当時)。オリコンCDチャートでトップ3入りのヒットを飛ばす。同年12月20日には国立代々木競技場第一体育館でライブを開催。その後も活動は継続され、計5枚のシングル、2枚のアルバムがリリースされている。2010年にはスクリーンデビューを果たす。彼女達がデビューを果たすまでを描いた映画『矢島美容室 THE MOVIE 〜夢をつかまネバダ〜』が4月29日から全国公開。全国上映に先駆けて3月22日に東京国際フォーラム、4月11日に建設中の東京スカイツリーで初めてのイベントとなった映画公開イベントを開催。また舞台挨拶が東京、福岡、大阪、名古屋で開催された。 その後、フジテレビ社屋移転15周年音楽番組『とんねるずが生放送!音楽番組全部見せます!〜名曲で元気になろう!』にて復活。「ニホンノミカタ」を披露した。",
"title": "音楽活動"
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"text": "しかし実は、野猿解散(2001年3月)と矢島美容室初披露(2008年9月)の間の時期にあたる2005年、大瀧詠一が作曲、糸井重里が作詞し、二人のレコーディングまで済ませていたとんねるずの新曲「ゆうがたフレンド」が存在していた事が後に石橋の口から明かされる。「とんねるずのみなさんのおかげでした」のOP曲として石橋が大滝詠一に依頼したこの曲は、石橋が意図していた方向性とは違うフォーク調の楽曲だったことから世に出ずお蔵入りとなり、翌2006年、詞とタイトルはそのままでムーンライダーズの楽曲として発表されていた。",
"title": "音楽活動"
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"paragraph_id": 125,
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"text": "目立った歌手活動は行っていなかったが、2012年3月の木梨のソロライブ『NORITAKE GUIDE 5.0』の最終日に石橋がサプライズ登場し、「一番偉い人へ」「迷惑でしょうが」「情けねえ」を久しぶりに客前でライブパフォーマンスした。また自身のテレビ番組や『FNS歌謡祭』に2012年から3年連続で出演するなど、二人で歌のステージに立つ機会は度々あった。2018年3月の「とんねるずのみなさんのおかげでした」最終回では、作曲家の後藤次利、藤井尚之ら豪華メンバーによる生バンドで「情けねえ」を披露している。",
"title": "音楽活動"
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"paragraph_id": 126,
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"text": "2019年秋、同時期に二人が個々の歌活動を開始した。",
"title": "音楽活動"
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"paragraph_id": 127,
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"text": "木梨は9月14日、自身が出演していた「氣志團万博2019」にて、自社レーベル『木梨レコード』を立ち上げ初のソロ歌手デビューすることを発表。10月24日に配信EP『木梨ファンク 〜NORI NORI NO-RI〜』でデビューし配信系チャートで6冠、12月11日発売のアルバム『木梨ファンク ザ・ベスト』では8冠を獲得した。2022年現在、計4作のEP、1作のアルバムをリリースしている。また音楽番組の出演、ライブや『木梨フェス』を開催するなど、歌手活動を活発に行っている。",
"title": "音楽活動"
},
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"paragraph_id": 128,
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"text": "石橋は9月17日、元野猿メンバーの平山晃哉と神波憲人との3人組ユニット『B Pressure』の結成を発表。彼らの楽曲を数多く手がけてきた秋元康、後藤次利コンビによる1stシングル『Freeze』で11月1日にインディーズからデビュー。御披露目ライブ『サビ落とし』と題したライブハウスツアーを行う。しかしその直後に新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大で活動が困難となり活動休止となった。その後自身のYouTubeチャンネル「貴ちゃんねるず」で演出家のマッコイ斎藤氏と『Ku-Wa de MOMPE』というユニットを組み、2020年10月2日に配信シングル『Stranger to the city』をリリースし、配信ランキングでランクインする。",
"title": "音楽活動"
},
{
"paragraph_id": 129,
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"text": "その中、とんねるずとしては、2020年1月22日からポニーキャニオン時代の楽曲、2021年7月28日からビクター時代の楽曲が、各種インターネット配信サイト(サブスクリプションサービスを含む)にて配信が開始された。",
"title": "音楽活動"
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{
"paragraph_id": 130,
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"text": "また、前述の幻の曲『ゆうがたフレンド』も、2023年3月21日リリースの大瀧詠一の企画アルバム『大滝詠一 NOVELTY SONG BOOK/NIAGARA ONDO BOOK』に収録され、制作から18年後にようやく日の目を見ることとなった。とんねるずの楽曲としては1996年リリースの『おまえが欲しい』以来27年ぶりとなる。",
"title": "音楽活動"
},
{
"paragraph_id": 131,
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"text": "※木梨は3回初出場をしており、NHK紅白歌合戦最多『初出場』記録を持っている。後に、後藤真希もこれに並んでいる。",
"title": "音楽活動"
},
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"paragraph_id": 132,
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"text": "とんねるずや関連ユニット(野猿など)全般の楽曲の作詞を担当している秋元康、作曲を担当している後藤次利などのほか、のちに美空ひばりの「川の流れのように」を秋元と共に生みだすことになる見岳章や、友人であるアーティスト(高見沢俊彦、玉置浩二、藤井フミヤ、久保田利伸)らが楽曲を提供している。これは、ビクター時代から一貫しており、「バックの音源をしっかり作って、その中でとんねるずを自由に暴れさせる」という音楽制作コンセプトがあったためである。",
"title": "音楽活動"
},
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"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "1995年にリリースしたアルバム『おまえ百までわしゃ九十九まで』は歌謡活動10周年を記念するアルバムとあって、武豊、野茂英雄、畑正憲、由利徹、所ジョージ、落合信子(落合博満の妻)、アントニオ猪木などが詞を提供している。これは『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』の企画として、制作から完成までの過程が放映されていた。",
"title": "音楽活動"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "アルバム収録の「ブラックキャッツ!」では石橋と木梨の共作での作詞・作曲、シングル「YAZAWA」のカップリング「かき氷は宇治金時」では作詞石橋、作曲木梨(実際は後藤次利が作曲の大部分をサポートしているがクレジットはされていない。しかしこの件に関して後藤は了承している)という自作曲も少ないながら存在する。",
"title": "音楽活動"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "また世に出る事は無かったが、レコーディングまで済ませていた大瀧詠一作曲、糸井重里作詞の幻のとんねるず楽曲がある事を後に石橋が明かしている。しかし2023年3月に大滝詠一の企画アルバムに収録され発売された。ちなみにこの曲が大瀧詠一の遺作となった。",
"title": "音楽活動"
},
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"paragraph_id": 136,
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"text": "他の関連作品については、「石橋貴明」、「木梨憲武」、「野猿」、「矢島美容室」の作品を参照。順位はオリコン週間ランキング最高位。",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 137,
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"text": "公式",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "非公式",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 139,
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"text": "発売",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "未発売",
"title": "作品"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "ワンマンライブや、数ヶ月に渡るコンサートツアーも毎年開催しており、数々の有名会場のステージに立っており、『ライブの聖地』と言われる日本武道館や、1989年には東京ドームで5万人の大規模ライブを行っている。お笑いタレント単独の東京ドームライブはいまだに彼らだけの偉業である。",
"title": "コンサート"
}
] | とんねるず(TUNNELS)は、石橋貴明と木梨憲武からなる日本のお笑いコンビ、ボーカルデュオ、マルチタレント。 1980年結成。所属事務所は石橋がアライバル、木梨がキナシコッカ。レコードレーベルはポニーキャニオン。 コンビ名は、TakaakiのTから「TUN」、NoritakeのNから「NEL」、複数形「S」で二人の下の名前のイニシャルを用いて名付けられた。略称「TN」。 1980年代初頭に起こった漫才ブーム衰退後の日本のお笑い界の新世代を代表するコンビの筆頭で、80年代中盤から破竹の勢いで時代を席巻していった。ウッチャンナンチャン、ダウンタウンら「お笑い第三世代」と称されるこの3組は、現代のお笑い界に大きな影響を与えている。 | {{Infobox お笑いコンビ
| コンビ名 = とんねるず<!-- 英表記は不要。「Template‐ノート:Infobox お笑いコンビ」を参照。 -->
| 画像 =
| キャプション =
| メンバー = [[石橋貴明]]<br />[[木梨憲武]]
| 別名 =
| 結成年 = [[1980年]]
| 解散年 =
| 事務所 = [[アライバル (企業)|アライバル]](石橋)<br />[[木梨憲武#キナシコッカ|キナシコッカ]](木梨)
| 活動時期 = 1980年 -
| 師匠 =
| 出身 = [[お笑いスター誕生!!]]
| 影響 =
| 出会い = [[帝京高等学校]]
| 旧コンビ名 = 貴明&憲武
| 現在の活動状況 =
| 芸種 = [[コント]]、[[パロディ]]、[[物真似|ものまね]]
| ネタ作成者 = 石橋貴明
| 現在の代表番組 = <small>'''スペシャル番組'''</small><br />[[夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル|とんねるずのスポーツ王は俺だ!!]]
| 過去の代表番組 = [[#過去に出演したテレビ/ラジオ/CM/映画/舞台|後述]]
| 同期 = [[コロッケ (タレント)|コロッケ]]、[[Bro.TOM|ブラザートム]]<br />他「お笑いスター誕生!!」1980年デビュー組
| 受賞歴 = 1982年 お笑いスター誕生!!10週勝ち抜きグランプリ<br />1985年 第23回[[ゴールデン・アロー賞]]芸能賞新人賞<br />1985年 第18回[[日本有線大賞]]最優秀新人賞<br />1985年 第18回[[全日本有線放送大賞]]最優秀新人賞<br />1985年 第14回[[FNS歌謡祭]]特別賞<br />1985年 第11回[[全日本歌謡音楽祭]]話題賞<br />1985年 第18回全日本有線放送大賞上半期新人賞<br />1986年 第14回[[銀座音楽祭]]特別賞<br />1986年 第5回[[メガロポリス歌謡祭]]特別賞<br />1986年 第12回全日本歌謡音楽祭特別賞<br />1987年 第10回[[日本アカデミー賞]]話題賞<br />1988年 第26回ゴールデンアロー賞芸能賞<br />1989年 第6回[[ATP賞]]タレント部門賞、番組部門賞<br />1991年 第22回[[日本歌謡大賞]]大賞
}}
{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照-->
| Name = とんねるず
| Background = group
| Alias =
| Origin = {{JPN}}
| Genre = [[J-POP]]
| Years_active = [[1981年]] -
| Label = [[バップ]](1981年)<br />[[徳間ジャパンコミュニケーションズ|徳間ジャパン]](1982年)<br />[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター音楽産業]](1984年 - 1986年)<br />[[ポニーキャニオン]](1986年 - )
| Production = [[日企]]<br />[[オフィスAtoZ]](1983年 - 1994年)<br />[[アライバル (企業)|アライバル]](1994年 - 2018年)<br />(2018年 - )※石橋<br />[[木梨憲武#キナシコッカ|キナシコッカ]](2018年 - )※木梨
| Associated_acts = [[秋元康]](作詞)<br />[[後藤次利]](作曲・編曲)<br />[[見岳章]](作曲・編曲)
| Influences =
| URL =
| Current_members = [[石橋貴明]]<br />[[木梨憲武]]
| Past_members =
| Notable_instruments =
}}
'''とんねるず'''({{Lang|en|''TUNNELS''}})<ref group="注">シングル『一番偉い人へ』などクレジットで度々アルファベット表記を使用している。</ref>は、'''[[石橋貴明]]'''と'''[[木梨憲武]]'''からなる[[日本]]の[[お笑いタレント|お笑いコンビ]]、[[ボーカル]][[二人組|デュオ]]、[[マルチタレント]]。
[[1980年]]結成<ref group="注">1980年3月、石橋が高校の卒業記念に出演しようとした素人参加番組『ドバドバ大爆弾』(テレビ東京)が二人揃っての初テレビ出演。しかしこれは二人でなければオーディションを受けられないために石橋が木梨を誘い合格したもので、この時点が正式なコンビ結成かは不明。その後同番組スタッフから再び声がかかり、同年7月に『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ)にてコンビでの出場を果たす。</ref>。所属事務所は石橋が[[アライバル (企業)|アライバル]]、木梨が[[木梨憲武#キナシコッカ|キナシコッカ]]。[[レコードレーベル]]は[[ポニーキャニオン]]。
コンビ名は、Takaakiの'''T'''から「'''T'''UN」、Noritakeの'''N'''から「'''N'''EL」、複数形「S」で二人の下の名前の[[イニシャル]]を用いて名付けられた。略称「'''TN'''」<ref group="注">ファンクラブ名『TN Lounge』(2018年12月閉会)で用いられている。</ref>。
[[1980年代]]初頭に起こった[[漫才ブーム]]衰退後の日本のお笑い界の新世代を代表するコンビの筆頭で、80年代中盤から破竹の勢いで時代を席巻していった。[[ウッチャンナンチャン]]、[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]ら「[[お笑い第三世代]]<ref group="注">デビュー時期(漫才ブームが始まった1980年)、売れた時期(1985年)でいくととんねるずは第二世代と第三世代の間にあたるが、漫才ブーム後の新しいお笑いのスタイルを築いていった事から、1980年代終盤~90年代前半にブレイクした世代を「お笑い第三世代」と定めた言葉が生まれ、その世代を代表する一組とされた。</ref>」と称されるこの3組は、現代のお笑い界に大きな影響を与えている。
== 概要 ==
1980年、私立[[帝京高校]]の同級生である2人によりコンビ結成。1982年に『[[お笑いスター誕生!!]]』でグランプリを獲得。1980年代半ばに『[[オールナイトフジ]]』『[[夕やけニャンニャン]]』の出演によって若者を中心に爆発的な人気を獲得。同時期の1985年に始まった『[[とんねるずのオールナイトニッポン]]』は、目玉のフリートークと数々の名物コーナーが受け「[[ハガキ職人]]」を多数輩出、多くのリスナーに多大な影響を与える深夜ラジオ史に残る名番組となる。1987年には『[[ねるとん紅鯨団]]』が始まり「ねるとんブーム」を起こし、深夜番組ながら視聴率上位常連の大ヒット番組となる。翌1988年には彼らの代表番組となる『[[とんねるずのみなさんのおかげです]]』が始まり、開始直後から20%越えの高視聴率を記録。社会現象になるほどの[[お化け番組]]と化し、彼らの地位を確立した。その後も『[[とんねるずの生でダラダラいかせて!!]]』『[[とんねるずのハンマープライス]]』『[[とんねるずのみなさんのおかげでした]]』などの名番組を輩出する。
一方歌手としても活躍し、数々のヒット曲を生み出している。1991年「[[情けねえ]]」は第22回[[日本歌謡大賞]]大賞を受賞、1992年「[[ガラガラヘビがやってくる]]」はミリオンヒットを達成した。全国コンサートツアーも1995年まで毎年開催しており、1989年11月には[[東京ドーム]]公演を成功させている。
=== コンビ名の由来 ===
コンビ名の由来は、当時[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の[[テレビプロデューサー|ゼネラルプロデューサー]]であった[[井原高忠]]が貴明のTと憲武のNをもじった「'''とんまとのろま'''」<ref group="注">『[[クイズダービー]]』([[1986年]]4月放送分)三択問題より。当番組にとんねるずは出場者として登場。</ref>と「'''とんねるず'''」を提案して本人たちに選ばせたことから。「とんねるず」というコンビ名に関して井原は([[脱線トリオ]]、[[てんぷくトリオ]]に続く)次代のお笑いスターになって欲しいという願いと、素の2人を見て「暗い奴ら」と思ったのをかけたという<ref>[[小林信彦]]著『時代観察者の冒険』より</ref>。
=== 芸風 ===
コンビだがボケとツッコミの役割は特に分かれていないスタイルで、ネタ作りは石橋が担当している。デビュー当時のプロフィールには「カリスマ芸人」と記載していた。二度目の下積み時代(新宿御苑のパフォーマンスバー「昆」時代など)を経て破天荒<!--奇抜←多くの同業者、視聴者から破天荒な芸風と評されており、破天荒の本来の意味「誰も成し得なかった事を初めてする」も問題ない。破天荒な芸人=とんねるず、は定着している印象。「奇抜」はどこから来たのか説明できない印象、芸風を表わすには若干マイナスイメージもある。-->な芸風へと変わっていった<ref>西条昇『東京コメディアンの逆襲』(光文社文庫){{要出典|title=書籍名だけでは出典の示し方として不適切です。|date=2015年7月}}</ref>。
『[[オールナイトフジ]]』出演以降に若さとエネルギー全開「──ナ! わけだァ!」節炸裂の過激トークや、スタジオで所狭しと暴れるなどの行動が日常的だったがこれと伴って同時に人気を獲得することとなった。特に『[[夕やけニャンニャン]]』ではアイドルによって態度が激しく違うため、自分が好みのアイドルが不本意なイジられ方をすると「あの石橋や木梨の態度は絶対に許さない」とアイドルファンから不平不満を買った。一方でスタジオ観覧の若者が「とんねるずに蹴られた」のを自慢する時代でもあった。
とんねるずのトークの中にはその時代の流行を反映した言葉が多く用いられている。例えば「○○みたいな。」と語尾に「みたいな」を付ける言葉は若者中心に使われているが、これは主に東京近郊の女子大生が使う言葉を敢えてとんねるずがテレビで誇張して用いる事で、全国的に広まった。他にも『[[ねるとん紅鯨団]]』から端を発した「[[ねるとんパーティ]]」「[[ツーショット]]」、『[[ねる様の踏み絵]]』で使われた「元サヤ」など彼らが発信元となった言葉は数多い。
また芸能界・テレビ界でよく使われる専門用語、いわゆる「[[業界用語]]」を多用して広めた経緯があり、今では一般でも使われている事がある。彼らのファンを『'''ワンフー'''』と呼んでいるのもここから起因している。
「'''内輪ネタ'''」もとんねるずの大きな特徴。ただしこれは一部の放送関係者だけに理解できる発言であることも多く、その発言内容は一般視聴者にはいまいち分かりづらいものである事も多かった(古くは『[[オレたちひょうきん族]]』でもこの傾向は見られ、当時は「楽屋落ちネタ」と呼ばれた)。また、『[[とんねるずのオールナイトニッポン]]』ではトーク内容がほとんどスタッフ([[放送作家]]・[[マネージャー]]・[[プロデューサー]]・高校時代の友人など)の話題で占めるため、[[ハガキ職人]]の書くネタの内容もその話題を受ける格好で放送関係者絡みのネタが目立った。
業界の慣例だった製作会社社員・スタッフに支給される弁当とタレントの弁当にあった区別をとんねるずが取っ払った。そのスタイル「各業界に壁などない」「スタッフ、素人が同じ舞台に居る」という形が『[[ねるとん紅鯨団]]』、「[[野猿]]」の結成でありその「一般人、スタッフネタ」から生まれた番組企画、コントも多数企画された。
=== とんねるずを育んだもの ===
2人とも幼少時から[[テレビ番組|テレビ]]好きであり、特に『[[8時だョ!全員集合]]』の[[ザ・ドリフターズ]]をはじめ『[[カックラキン大放送!!]]』の[[堺正章]]・[[井上順]]・[[関根勤|ラビット関根]]や、「ベンジャミン伊東」の[[伊東四朗]]、「小松の親分」の[[小松政夫]]、[[萩本欽一]]([[コント55号]])、密室芸人時代の[[タモリ]]など漫才ブーム以前のバラエティ番組全盛の時代の影響が強い。漫才ブームの時期は共に部活動で多忙を極めていた事もあり、[[ビートたけし]]([[ツービート]])以外に受けた影響は少ない。
デビュー当初は[[コメディアン|喜劇俳優]]である[[由利徹]]と絡む事が多く、共演時のとんねるずは素人時代に戻ったかのように彼の芸を心から笑ってしまう場面も多々あり、前にあまり出る事はしなかった(時代背景としてあまり前に出られなかった環境でもあった)。そのほか若手の時代には、由利徹や[[ハナ肇とクレージーキャッツ|クレイジーキャッツ]]の[[ハナ肇]]、[[植木等]]らのエンターテイナーや喜劇俳優、[[美空ひばり]]や[[堺正章]]・[[タモリ]]らには公私共に可愛がられていた。また、一時期からは共演NGも噂されたが、若手時代には[[明石家さんま]]とも「兄貴」と呼ぶほど親交が公私にわたって存在し、さんまと木梨は現在でもゴルフをする仲である。木梨は[[所ジョージ]]や[[志村けん]]といったのちのお笑い界の大御所と呼ばれる人々とも親密な関係である。また、[[笑福亭鶴瓶]]と木梨は一時期毎週のように遊ぶ関係であったが、意外にも若手時代は親密というほどの関係ではない。また、とんねるず飛躍の要因の一つとして、業界の裏方の実力者とも若手時代から特に石橋が親交を築いた。フジテレビの名物プロデューサーの[[石田弘]]をはじめとする[[港浩一]]などの通称石田班、[[秋元康]]・[[テリー伊藤]]などは若手時代から深い繋がりを持った。
1991年から2000年にかけて、[[苗場プリンスホテル]]の[[ブリザーディウム]]で開催していた、コントライブ『'''こんと いん なえば'''』は、テレビとは違った本格的コントを生の舞台で客を笑わせることを重視していたが、元々舞台上に一切のセットを置かず、己の体ひとつで笑いや感動を与えていた[[イッセー尾形]]の『一人芝居』に触発されている。
バラエティ以外で影響を受けた者としては[[長嶋茂雄]]、[[矢沢永吉]]、[[アントニオ猪木]]、『[[傷だらけの天使]]』の[[萩原健一]]、[[江川卓 (野球)|江川卓]]らが挙げられる。
== メンバー ==
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
! 名前
! 生年月日
! 出身地
! 血液型
! 愛称
|-
|'''[[石橋貴明|石橋 貴明]]'''<br><small>いしばし たかあき</small>
| [[1961年]]([[昭和36年]])[[10月22日]]({{年数|1961|10|22}}歳)
| {{JPN}} [[東京都]][[板橋区]][[成増]]
| A型
| {{Ruby|貴|タカ}}{{Ruby|さん|}}
|-
|'''[[木梨憲武|木梨 憲武]]'''<br><small>きなし のりたけ</small>
| [[1962年]]([[昭和37年]])[[3月9日]]({{年数|1962|3|9}}歳)
| {{JPN}} 東京都[[世田谷区]][[千歳台]]
| O型
| {{Ruby|憲|ノリ}}{{Ruby|さん|}}
|}
== 経歴 ==
=== 素人時代 ===
共に[[東京都]]出身で[[帝京中学校・高等学校|帝京高等学校]]卒業。在学中の石橋は野球部、木梨はサッカー部へ所属。この2つの部は互いに交流が盛んで、部室内でのモノマネや一発芸などの披露を通じ、それぞれの部の「一番面白いヤツ」とお互い認識したのが出会いのきっかけ。当時は主に先輩や先生のモノマネなどで、共に校内の人気者だったという<ref name="tunnels">とんねるず 『とんねるず 大志』 1988年6月7日発行{{要出典|title=書籍名だけでは出典の示し方として不適切です。|date=2015年7月}}</ref>。
石橋は高校在学中から『[[ぎんざNOW!]]』([[TBSテレビ|TBS]])や『[[TVジョッキー]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])をはじめとした、素人参加番組の常連であり、[[アントニオ猪木]]のモノマネやスポーツ選手の形態模写をはじめとする芸で一部の視聴者から注目されていた<ref name="tunnels" />。なお同時代の[[ライバル]]には[[竹中直人]]がおり<ref>[https://mnsatlas.com/?p=48058 2011年12月27日配信 TBSラジオ「JUNK バナナマンのバナナムーンGOLD」ポッドキャスト とんねるず石橋貴明、パルコ劇場でビートたけしと初めて会った日] ATLAS</ref>、『TVジョッキー』のザ・チャレンジ(素人お笑い勝ち抜きコーナー)の第1回グランドチャンピオン大会では、第3代チャンピオン石橋と初代チャンピオン竹中が対決している。このときの勝者は石橋で、初代グランドチャンピオンを獲得した。また、木梨も第5代チャンピオンを獲得。木梨が出場した第2回グランドチャンピオン大会には、石橋も出演している。
石橋ほどの頻度ではないが、主に[[和田アキ子]]のモノマネで素人参加番組に顔を出していた木梨を高校卒業の記念として石橋が誘い、[[所ジョージ]]司会の『[[ドバドバ大爆弾]]』([[テレビ東京]])に出演<ref name="tunnels" />したのがコンビとして初めてのテレビ出演となる。『[[お笑いスター誕生!!]]』の出演までは、賞金を合計で多く得ようと意図的にバラバラで出演することもあったという<ref name="tunnels" />。
=== お笑いスター誕生への挑戦 ===
[[帝京高校]]卒業後、[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]の[[トライアウト]]で不合格となっていた<ref>[https://hochi.news/amp/articles/20210411-OHT1T50024.html 石橋貴明、18歳で西武の入団テストを受けた秘話を明かす「根本監督に投球を見てもらっていた」]スポーツ報知2021年4月11日</ref>石橋は[[ホテルセンチュリーハイアット]]に入社し[[ホテルオークラ]]で研修、木梨は[[ダイハツ工業]]に入社と、2人とも一般企業に就職するものの、『[[お笑いスター誕生!!]]』へのチャレンジ決意を機に2人とも退社して再会<ref name="tunnels" />。当時のコンビ名は「貴明&憲武」。[[漫才]]だけではなく、[[モノマネ]]や[[一発ギャグ]]、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]の『[[魔法使いサリー]]』や『[[サンダーバード (テレビ番組)|サンダーバード]]』のパロディ、学校やアイドルタレントの一コマを演じる[[コント]]など面白いものは何でもエネルギッシュに演る多彩さで、素人ながら4週目まで勝ち抜く。それを契機に2人は勤務先を退社し、プロデビューへと意志を固める<ref name="tunnels" />。
=== 「とんねるず」結成、プロデビュー ===
退社後の[[1980年]]に正式にコンビ結成<ref name="tunnels" />。コンビ名も「とんねるず」と改め『お笑いスター誕生!!』にプロとして再挑戦して挑むが、10週目で落選してしまう。またこの時期、同番組担当の日本テレビ・[[赤尾健一 (プロデューサー)|赤尾プロデューサー]]の紹介で日企に所属、赤坂のクラブ「[[赤坂コルドンブルー|コルドンブルー]]」に[[おぼん・こぼん]]の後釜として所属したが、クラブの客層に芸風が合わずハマらなかった。
『お笑いスター誕生!!』では、1981年に開催されたゴールデンルーキー賞の15組にエントリー。決勝まで進むが、[[アゴ&キンゾー]]に敗れて特別敢闘賞(事実上の第2位)に終わった。1982年4月10日には10週目に合格、グランプリを獲得した。その後も1983年末まで歌合戦などの企画や、グランプリ受賞者のネタ披露コーナーなどへ定期的に出演した。
1981年には[[西城秀樹]]司会の朝の情報番組『[[モーニングサラダ]]』(日本テレビ)にレギュラー出演したが、些細な事から赤尾プロデューサーと衝突。一貫して日本テレビ系番組出演タレントだったとんねるずは、同局から完全に干されることになる<ref name="tunnels" />。この間は新宿御苑のパフォーマンスバー「昆」(後にKONと改名)に出演するなど、下積み時代を過ごした。また、この頃は同じショーパブ系タレントである[[ビジーフォー]](いそがしバンド)やアゴ&キンゾーらと交流を持ち、特に石橋は[[グッチ裕三]]、ウガンダトラ宅に居候していたこともある。石橋とグッチは当時のグッチの妻に[[ゲイ]]と誤解されるほど、仲が大変良かった。
1983年頃、所属事務所を通さず友人の結婚式の司会をコンビで引き受け、これを知った事務所社長が激怒して一時期テレビに出演できなくなってしまった<ref>[https://www.nishinippon.co.jp/item/n/593994/ “自分も干されるかも・・・それでも協力した“とんねるず”の魅力”]. ''西日本新聞'' (西日本新聞社). (2020年4月22日) 2020年5月8日閲覧。</ref>。
スーパーの駐車場やデパートの屋上などで木箱をステージ代わりにして、営業回りをしていたこともあった。しかし営業は結構いいお金稼ぎになり、食べていくには苦労しなかったと明かしている。さらにこの頃は既に『オールナイトフジ』への出演が決まっていたので、夜は連日豪遊していた。
その後、西城秀樹の初代マネージャーだった秦野嘉王が設立した新事務所「[[オフィスAtoZ]]」の所属第一号タレントになり再浮上の機を窺うことになった<ref name="tunnels" />。秦野は当時のお笑い芸人には無縁だったスタイリストをとんねるずに付け、派手なブランドの代名詞でもあったK-FACTORYの衣装をコンセプトとするなど、イメージプロデュース戦略を図った。また現在に至るまでとんねるずの重要な[[ブレーン]]であり、彼らの楽曲の作詞を行っている[[秋元康]]との出会いもこの時期である<ref name="tunnels" />。
=== 人気の拡大(全盛期) ===
1983年12月、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系の深夜番組『[[オールナイトフジ]]』を皮切りにテレビ復帰。当初は番組後半に5分のコーナー「とんねるずの見栄講座」をもらったものの、番組内での些細なトラブル(石橋曰く「誤解によるもの」)によって、1984年1月に一旦降板。半年後の同年6月にレギュラーへと復帰している。その後「とんねるずの何でもベストテン」「とんねるずなっわけだぁ!」とコーナーや番組内の放送時間が早まるにつれ人気を集め、翌年に放送した同番組の「女子高生スペシャル」の発展形としてスタートした『[[夕やけニャンニャン]]』(フジテレビ、1985年 - 1987年)では[[片岡鶴太郎]]や[[吉田照美]]を脇役に追い立てるほどだった。
その後も『[[オールナイトニッポン]]』([[ニッポン放送]])『[[トライアングル・ブルー|深夜劇場・トライアングル・ブルー]]』([[テレビ朝日]])などレギュラー番組を増やしていく。『[[とんねるずのオールナイトニッポン]]』(1985年 - 1992年)では火曜1部を担当し、数々のコーナーを輩出。聴取率ランキングでは当時絶大な人気を誇っていた『[[ビートたけしのオールナイトニッポン]]』を抜き、『[[小泉今日子のオールナイトニッポン]]』と熾烈な競争をしていた。『トライアングル・ブルー』では[[可愛かずみ]]・[[川上麻衣子]]・[[前田耕陽]]などと共演する。
またこの頃、『[[新・ど根性ガエル]]』(日本テレビ)のテーマ「[[ピョン吉・ロックンロール]]」の後にリリースされた「[[ヤバシびっちな女(め)デイト・ナイト]]」以来のシングル「[[一気!]]」をリリース。その際には、[[TBSテレビ|TBS]]系の音楽番組『[[ザ・ベストテン]]』でのコーナー「今週のスポットライト」に登場。この出演をきっかけに、深夜番組だけでなく、本格的にとんねるずが世に知られることとなった。同曲は『オールナイトフジ』のコーナーでも毎回歌われ、勢い余ってセットの高所や吊り下げられた照明によじ登ったり、1500万円のテレビカメラを壊すなどの行動や、自ら勝手に「カリスマ芸人」と名乗るなどの行動や言動を見せた。1985年には、「一気!」の人気から断交状態にあった日本テレビが動き、ビートたけし司会の『[[スーパージョッキー]]』に歌手としてとんねるずを呼ぶことで、当時の関係者だけが知る「確執の事実上の“手打ち”」となった。この際、ビートたけしととんねるず(特に石橋)はお互いに意識しあい打ち解けるような雰囲気ではなく、常に緊張感が漂っていたという。後にこの2組は番組で共演することになる。
『オールナイトフジ』 - 『夕やけニャンニャン』などいわゆる[[石田弘|石田班]]の看板的存在になっていたため、当時確執があった[[横澤彪]]率いる横澤班の本丸的な番組であった『[[オレたちひょうきん族]]』に「一気!」で「ひょうきんベストテン」に出演した際、ひょうきん族レギュラー陣に[[私刑|リンチ]]に等しい、過激なリアクションを課された。その際に2人は「もう日テレには出ないから勘弁してくれ」と漏らしており、日本テレビの出演解禁により蜜月のフジテレビとの関係が冷えることを危惧した石田が、横澤にとんねるずの出演を派閥の壁を越えて懇願し実現した出演であった。なお当時石田班、横澤班両方の番組に出演できたタレントは、[[片岡鶴太郎]]ら数人しかおらずこの派閥争いにより横澤班の代表番組の1つで若手タレントの登竜門的な存在である『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]』のレギュラーにはなれなかった。しかし石田・横澤とも第一線から退いた2014年(横澤は2011年死去)、29年ぶりに『笑っていいとも!』へ出演した際にタモリに対して直訴、番組終了まで念願のレギュラーとなっている。
この当時は『[[新春かくし芸大会]]』(フジテレビ)にも出場しており、映画『[[南極物語]]』のパロディに、ペンギンの着ぐるみ姿で顔すら判別しにくい状態でセリフなしの数秒のチョイ役出演や、[[中森明菜]]と体を張ったカマヌンチャク芸を披露するなどしていた。彼らは不遇な扱いを受けていた頃を皮肉る時に「あの時はペンギンでした」と例に挙げることがある。1986年には第14回『[[ホノルルマラソン]]』に、ザ・ドリフターズのメンバーと参加する{{Efn2|この模様は火曜ワイドスペシャル『ドリフのホノルルマラソン』(フジテレビ)で放送}}など、まだまだ若手扱いされる時期だった。
1980年代、巷で[[タレントショップ]]ブームが巻き起こった際には彼らも、「セシカ」や、当時の番組『ねるとん紅鯨団』(関西テレビ)とのタイアップショップ「バレンタインハウス」を原宿や京都に出店しており、関連グッズをヒットさせた。
女性からの人気も獲得しており、『[[ザテレビジョン]]』([[角川書店]])や『[[Myojo|明星]]』([[集英社]])などさまざまな雑誌の表紙を飾った。
=== 黄金期(1987年 - 1995年) ===
1987年10月『[[上海紅鯨団が行く]]』を引き継ぐ形でスタートした『[[ねるとん紅鯨団]]』([[関西テレビ放送]]制作、フジテレビ系)がヒット。初年度から深夜枠ながらバラエティ年間平均視聴率ランキング3位にランクインした。当時[[IVSテレビ制作]]で番組の企画・総合演出などをしていた伊藤輝夫(現:[[テリー伊藤]])や後藤喜男と出会ったのがこの時期。一般参加者による集団お見合い形式の企画が好評を得、集団お見合いパーティーそのものが『[[カップリングパーティー|ねるとんパーティー]]』と呼ばれることもある。また1986年から[[火曜ワイドスペシャル]]で数回特番を行い、1988年10月からは、『[[とんねるずのみなさんのおかげです]]』がレギュラー放送を開始。番組内では、『[[仮面ノリダー]]』『'''保毛尾田保毛男'''』などのコントやパロディを披露した。当時裏番組として、国民的人気番組である[[ザ・ベストテン]]がTBS系列で放送されていたが、2週目の放送で辛勝。3週目でダブルスコアをつけての完勝となった。初年度から年間平均視聴率21.4%という驚異的な数字を叩き出し、1989年から94年にかけて年間平均視聴率ランキングで、全局・全ジャンルで1位をキープした。1989年3月のスペシャル時には番組シリーズで過去最高29.5%の視聴率を記録した。更にこの頃には、13本のCM契約もしていた。1991年10月には、『闘牛』『カートグランプリ』『PK対決』などロケ主体のコーナーが人気を得た『[[とんねるずの生でダラダラいかせて!!]]』(日本テレビ)が開始した。
1995年には、一時期疎遠状態になっていたTBSでの初のレギュラー番組『[[ねる様の踏み絵]]』(その後番組名『とんねるずのカバチ』に変更)が開始。さらに同年1月には『ねるとん紅鯨団』の後継番組として開始したバラエティ番組『[[とんねるずのハンマープライス]]』(『ねるとん』と同じく関西テレビ制作、フジテレビ系)も開始した。
レギュラー番組をこなしながら、並行して音楽活動や俳優活動などのマルチタレントとしての活動も行い、「[[情けねえ]]」「[[ガラガラヘビがやってくる]]」をはじめとする曲がヒット。また1995年まで毎年全国コンサートツアーも開催する。1991年大晦日には『[[第42回NHK紅白歌合戦|NHK紅白歌合戦]]』に初出場を果たした。
テレビ、ラジオ、歌、CMなどメディア上での活動の傍らで、1991年から2000年の10年間、毎年3月初旬に[[苗場プリンスホテル]]のブリザーディウムにて、単独コントライブ『'''こんと いん なえば'''』を開催する。
1994年には独立して個人事務所「[[アライバル (企業)|アライバル]]」を設立。石橋が社長、木梨が副社長、残る所属タレントや事務員が平社員を務めた。当時の事務所に向かっていた途中、六本木・星条旗通りでお互い運転していた車を降り、「独立すればもっと正しい方向に向かう」と考えた石橋が、立ち話で木梨に独立の話を持ちかけた。木梨は「貴明がいいならいいよ」と二つ返事で了承したというエピソードがある。その後1997年2月に関西テレビを定年退職したフリーアナウンサーの[[杉本清]]を迎え入れ、その3年後の2000年には[[女猿]]のメンバー4人がいずれも平社員として所属した(女猿は2004年に解散し同時にアライバルを退社)。2008年12月には女優の[[鈴木保奈美]]を同じく平社員として迎え入れるものの、2018年に木梨がアライバルを退社した。これにより副社長は空席となっている。
=== 安定期(1996年 - 1999年) ===
コンビ人気が安定期を迎えていた1990年代後半(特に1996年以降)に差し掛かると、ピンでの活動も活発になり始める。
木梨は1996年5月、「[[浪漫-ROMAN-|憲三郎&ジョージ山本]]」という演歌ユニットでヒットし、同年の[[第47回NHK紅白歌合戦|NHK紅白歌合戦]]出場を果たしている。また1998年1月にはドラマ『[[甘い結婚]]』(フジテレビ)で個人初主演を果たした。
一方石橋は、1996年10月に初の単独司会によるレギュラー音楽番組『[[うたばん]]』(TBS)の放送が始まり、2010年3月まで13年半続いたメジャー音楽番組となった。また1997年2月に工藤静香とのユニット「[[A.S.A.P. (曲)|Little Kiss]]」がヒット。1998年7月には[[三谷幸喜]]脚本のドラマ『[[今夜、宇宙の片隅で]]』(フジテレビ)に主演した。
1997年3月、『とんねるずのみなさんのおかげです』が完全終了した。同年6月に『[[とんねるずのみなさんのおかげでした]]』と改題、リニューアルし放送開始。この頃には出演する番組が軒並み高視聴率を記録している。なお、[[とんねるずのみなさんのおかげでした]]はスタート初年度から年間平均視聴率ランキングでは3位にランクインし、[[とんねるずの生でダラダラいかせて!!]]も1999年まで常にベスト5をキープ、[[とんねるずのハンマープライス]]も裏番組に苦戦しつつもベスト10常連の番組であった。石橋単独出演の[[うたばん]]も音楽番組では2000年まで最も平均視聴率が高く、その後も1位争いを繰り広げていた。またコンビ・個人合わせて最もレギュラー番組を抱えていたのがこの時期である。
2人揃っての活動としては、フジテレビの番組スタッフと組んだ音楽ユニット『[[野猿]]』で1998年4月にデビューし、2001年までCDのリリースやコンサート開催などの活動を展開した。2人が音楽活動で揃うのは1996年にシングル「[[おまえが欲しい]]」を発売して以来2年ぶりとなった。
=== 2000年代 ===
2000年1月3日に、『[[夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル]]』(テレビ朝日)が、正月番組として開始。番組内ではとんねるずが、一年を通して活躍した話題のプロスポーツ選手を迎えて様々な競技で対決している。10周年を迎えた2009年以降は5時間の大型特番として放送されている。2012年からは夏版も放送が開始。そして2019年には正月版が20回目を迎えている。
2004年の『[[FNS27時間テレビ (2004年)|FNS27時間テレビ]]』(フジテレビ)内で放送された『[[笑わず嫌い王決定戦]]』で、久しぶりにコンビ漫才を披露した。
2004年 - 2007年、木梨は歌・コント・フリートークを交えたソロライブ「NORITAKE GUIDE LIVE」を開催した。
2008年10月、フジテレビの木曜9時枠で[[冠番組]]をスタートさせてから丸20周年を迎えた。なお、同枠は1988年10月に『とんねるずのみなさんのおかげです』が正式なレギュラー番組となって以来、途中ドラマ出演による半年間の充電期間や『[[ラスタとんねるず'94]]』『[[とんねるずの本汁でしょう!!]]』などを挟み、『とんねるずのみなさんのおかげでした』まで続いており、厳密には2009年3月で20周年となる。
2008年9月25日、同年5月から『とんねるずのみなさんのおかげでした』の企画として始動していた『[[矢島美容室]]』を[[DJ OZMA]]と結成する事を発表し10月29日にデビュー。2人が揃って音楽活動するのは2001年に野猿が解散して以来であり、実に7年半ぶり。CDリリースやライブもさることながら、2010年には当ユニット名義の映画を公開した。
=== 2010年代( - 2018年3月) ===
2012年3月、木梨は5年ぶりとなるソロライブ「NORITAKE GUIDE 5.0」を開催。最終日には石橋がサプライズ出演し、1995年のコンサートツアー以来のとんねるずとしての客前歌披露を行った。
2012年9月10日、視聴者参加型特別番組『[[ハレバレとんねるず 略してテレとん]]』([[テレビ東京]])が放送される。テレビ東京へのコンビとしての出演は、同じく素人参加番組だった『ドバドバ大爆弾』以来32年ぶりとなり、プロになってからは初めての同局での冠番組となる<ref>[https://natalie.mu/owarai/news/74729 とんねるずが32年ぶりテレ東出演、9月に初冠特番放送決定],お笑いナタリー,2012年8月15日</ref>。
2013年10月、『[[とんねるずのみなさんのおかげでした]]』(フジテレビ)が放送25周年を迎える。2013年11月7日の放送では、放送25周年を記念してとんねるずvs[[矢沢永吉]]の「[[とんねるずのみなさんのおかげでしたのコーナー一覧|新・食わず嫌い王決定戦]]」特別対決が行われた。
2014年1月14日、『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]』(フジテレビ)放送第8000回目の[[テレフォンショッキング]]にて、不定期として番組レギュラーでの出演が決定した。自身がメインではない番組でのテレビでのレギュラー番組は『[[夕やけニャンニャン]]』の終了時(1987年)以来27年ぶりとなる。またテレフォンショッキングの史上最長記録は[[1984年]]以来、長らく[[黒柳徹子]](46分)が最長となっていたが、番組終了を目前にして彼らが48分22秒で更新した<ref>[https://natalie.mu/owarai/news/107666 とんねるず「笑っていいとも!」不定期レギュラー出演決定],お笑いナタリー,2014年1月14日</ref>。2014年3月31日「[[笑っていいとも!特大号#笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号|笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号]]」をもって幕を閉じた。
2017年6月、『とんねるずのみなさんのおかげでした』が単独放送開始20周年を迎える。
2017年9月、『とんねるずのみなさんのおかげでした』が『とんねるずのみなさんのおかげです』『ラスタとんねるず'94』『とんねるずの本汁でしょう!!』時代を含めて放送開始30周年<ref group="注">実際には29年目(とんねるずが出演しない別番組を放送していた『おかげでした』の第1・2期の中断期間半年を除いて28年半)である。</ref>を迎える。
2018年3月22日、『とんねるずのみなさんのおかげでした』が放送終了。放送回数は「おかげです」時代を含めて全1340回。木梨は2018年1月26日放送の『[[あさイチ]]』([[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]])にて『みなさんのおかげでした』終了後のとんねるずの活動について、「また新しい話があれば、企画できそうなことがあればやろうって」と石橋とも話している旨を明かした<ref>[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201801260000414.html 木梨憲武、とんねるずの今後「やり方は変わらない」],日刊スポーツ,2018年1月26日</ref>。
=== 変革期(2018年4月 - 現在) ===
木梨が自身の個人事務所『コッカ』(現:キナシコッカ)に移籍、石橋とは所属事務所が別々となる。また約30年続いてきた公式ファンクラブ「TN Lounge」は2018年末をもって閉会<ref>[https://www.j-cast.com/2018/10/02340220.html?p=all とんねるず公式FC閉会で憶測相次ぐも... 事務所は「解散危機」否定] J-CASTニュース 2018/10/ 2 20:43(株式会社ジェイ・キャスト、2018年10月4日閲覧)</ref>。2018年4月以降は専ら個人活動がメインで、メンバー各々が活躍の場を広げている。
2019年9月、2人が個々で歌活動を開始することが同時期に発表された。 木梨は同年9月14日、自身が出演していた「[[氣志團万博]]2019」にて発表され、自社レーベル「[[UNIVERSAL MUSIC JAPAN|木梨レコード]]」を立ち上げ<ref>{{cite news |url= https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/80075/2 |title=木梨憲武、ソロ・アーティストとしてデビュー【氣志團万博】ステージで発表 |publisher=Billboard JAPAN |date=2019-09-15 |accessdate=2023-01-12}}</ref>、同年10月24日配信EP「[[木梨ファンク 〜NORI NORI NO-RI〜]]」でソロデビュー。現在精力的な歌手活動を展開しており、様々な歌手とのコラボや、2021年に始まった『'''木梨フェス'''』が話題になっている。一方石橋も同年9月17日、元野猿メンバーだった平山晃哉と神波憲人との3人組グループ『[[B Pressure]]』を結成し、同年11月1日に1stシングル「[[Freeze (B Pressureの曲)|Freeze]]」でデビュー<ref>{{cite news |url=https://www.oricon.co.jp/news/2144593/full/ |title=石橋貴明、元野猿2人と新ユニット「B Pressure」結成 シングル発売&ライブ決定 |newspaper=ORICON NEWS |publisher=ORICON MUSIC |date=2019-09-17 |accessdate=2023-01-12}}</ref>。以後1stアルバムリリース、ライブを行っていたが、2021年2月[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス(COVID-19)]]の感染拡大により活動休止。また演出家[[マッコイ斎藤]]氏と『[[Ku-Wa de MOMPE]]』を組みデジタルシングルを配信リリースした。
2020年、コンビ結成40周年を迎える。
2020年1月22日、ポニーキャニオン時代のとんねるずやソロの活動曲を含む全189曲が、[[サブスクリプション|サブスクリプションサービス]](サブスク)で一斉配信を開始<ref>{{cite news |url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1230610.html |title=とんねるずの楽曲がサブスク解禁。ポニーキャニオン時代の全189曲 |newspaper=AV Watch |publisher=[[Impress Watch]] |date=2020-01-22 |accessdate=2023-01-12}}</ref>、続く2021年7月28日には歌手デビュー時に在籍していたビクター時代の音源も一斉配信された<ref>{{cite news |url= https://www.oricon.co.jp/news/2201679/full/ |title=とんねるず 初期ビクター時代の全音源サブスク解禁 「一気!」「雨の西麻布」など |newspaper=ORICON NEWS |publisher=ORICON MUSIC |date=2021-07-28 |accessdate=2023-01-12}}</ref>。
現在、石橋は得意分野の知識を生かしたテレビ・ラジオのMC・パーソナリティ、木梨はテレビ・ラジオのMC・パーソナリティ、歌手活動、個展開催など活躍中。また『夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!!』(テレビ朝日)は2023年で24回目を迎える。※2012年開始の夏版は含まず。
その中で近年、石橋が「[[ABEMA]]」「[[YouTube]]」、木梨が「[[GYAO!]]」「[[Instagram]]」といった動画配信サービスや[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]などのインターネットメディア進出が大きな話題となっており、時代の変化とともに活躍するフィールドも広がってきている。
2005年に制作されていた幻の未発表曲『ゆうがたフレンド』(作詞:[[糸井重里]]/作曲:[[大滝詠一]])が、2023年3月21日リリースの「[[大滝詠一 NOVELTY SONG BOOK/NIAGARA ONDO BOOK]]」に収録される。1996年2月リリースのシングル『おまえが欲しい』以来、27年ぶりのとんねるず楽曲となる。
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
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!colspan="2" style="background:#FFFFFF"|近年の活動実績(ゲスト出演除く)
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!colspan="2" style="background:#80ffff"|コンビ
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! 特番
| 『とんねるずのスポーツ王は俺だ!!』(テレビ朝日)
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! colspan="2" style="font-size:small; background:#00ff99"|石橋
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! レギュラー
| 『[[石橋貴明のGATE7|SPORTS BULL presents 石橋貴明のGATE7]]』(TBSラジオ)
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! 特番
| 『[[博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜|ザ・細かすぎて伝わらないモノマネ]]』(フジテレビ)<br>『[[とんねるずのみなさんのおかげでしたのコーナー一覧#2億4千万のものまねメドレー選手権|2億4千万のものまねメドレーGP]]』(フジテレビ)<br>『[[石橋貴明お礼参りTHEWORLD]]』(ABEMA)
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! YouTube
| 『[https://www.youtube.com/channel/UCbXUEjBdbrn4BEbLSKJuSpw 貴ちゃんねるず]』
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! 歌
| 『[[B Pressure]]』<br>『[[Ku-Wa de MOMPE]]』
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! CM
|『[[プロ野球スピリッツA]]』([[KONAMI]])<br>『[[リゲイン]]』([[第一三共ヘルスケア]]([[アイム (企業)|アイム]])<br>『[[おっとっと]]』『[[チョコボール]]』([[森永製菓]])
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!その他
| 『プロ野球スピリッツA』(KONAMI)コラボ「対決!石橋貴明のプロスピ王は俺だ!」
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! colspan="2" style="font-size:small; background:#ffff66"|木梨
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! レギュラー
| 『[[木梨の会]]。』(TBSラジオ)<br>『木梨の貝。』(GYAO)<br>『[[〜夢のオーディションバラエティー〜Dreamer Z]]』(テレビ東京)<br>『木に梨はなる〜頭の中の大宇宙〜』(WOWOW)
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! 特番
|『[[木梨目線! 憲sunのHAWAII]]』(BSフジ)<br>『豊さんと憲武ちゃん!旅する相棒』(テレビ朝日)<br>『憲武 フミヤ ヒロミの突撃!仲間のスターん家』(フジテレビ)<br>『ノリさんのみんな何やってんスか?』(テレビ東京)
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!歌
| ・木梨憲武<br>『木梨ミュージック コネクション最終章 〜御年60周年記念盤〜』(2022年6月1日リリース)<br>・木梨憲武 DJシーナ (CV:久野美咲) & ウィンディ(CV:井口裕香)<br>『ゲット・オン・ザ・風呂』(2022年10月4日 - 配信)[[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]]『[[オトッペ]]』エンディングテーマ
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!CM
| 『クラウド人事労務ソフト「SmartHR」』(SmartHR)<br>『クリアアサヒ』([[アサヒビール]])<br>『[[ジーユー|GU]]』2021-22年秋冬キャンペーン
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!個展
| 『GOKAN 〜5感〜 木梨憲武』東京都・代官山ヒルサイドフォーラム(2023年6月7-25日)
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!音楽フェス
|『第二回木梨フェス 大音楽会』両国国技館(2022年4月2-3日)
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!その他
|「木梨憲武 交響楽団 THE CURTAIN CALL SHOW」東京文化会館・大ホール(2022年5月2日)
|}
== 交流関係 ==
=== 戦友・仲間 ===
石橋は素人時代に『[[TVジョッキー]]』で[[竹中直人]]と知り合い、以後親交が続いている。また『[[お笑いスター誕生!!]]』の出演者らとも交流を深めた。特に[[シティボーイズ]]とはお互いネタを見せ合い評論し合う仲だった。他に[[Bro.TOM|小柳トム]](現:[[バブルガム・ブラザーズ]]のブラザートム)や[[コロッケ (タレント)|コロッケ]]、草野球の友達として[[ツーツーレロレロ]]等と交流があった。[[バブルガムブラザーズ]]や同い年の[[TRF]]の[[SAM (ダンサー)|SAM]]とはディスコ仲間でもある。1983年の再デビューまではショーパブ出演で知り合った[[ビジーフォー]]などと親交を深めた。特に石橋と[[グッチ裕三]]との関係は仲が非常に良く、元妻・[[鈴木保奈美]]と含めて家族ぐるみの付き合いをしている。[[大木こだま・ひびき|大木こだま]]とは『[[お笑いスター誕生!!]]』以来の交友がある。
基本的に他のお笑いタレントと共演することを選ばず、主に番組の中にコーナーを設けて個別に好きなことをさせてもらえる環境を選び、新しいタイプのタレントの価値を模索することになる。そのため表面上は漫才ブーム系のタレントとの共演はあまりなく、同業者の交流も前出の『お笑いスター誕生』系タレントが中心だった。ただし同年代のタレントとは盛んに交流を深め、[[水谷豊]]・[[田原俊彦]]・[[久保田利伸]]・元[[チェッカーズ]]のメンバーなどはプライベートでも会う友人である。
=== 先輩 ===
[[ビッグ3 (日本のお笑いタレント)|BIG3]]([[タモリ]]・[[ビートたけし]]・[[明石家さんま]])や[[笑福亭鶴瓶]]、[[所ジョージ]]、[[関根勤]]といった[[お笑い第二世代]]との共演は比較的多い。[[島田紳助]]との共演はあまりなく、これは紳助が『[[FNS26時間テレビ (2009年)|26時間テレビ]]』内で放送された『[[笑っていいとも!増刊号]]』の「[[テレフォンショッキング]]」にゲスト出演した際に語っている。紳助とは『[[オレたちひょうきん族]]』や『[[歌のトップテン]]』などで頻度は少なかったものの共演経験はある。2000年代以降、さんまと共演することもほとんどなくなっていたが、[[2014年]][[3月31日]]放送の『[[笑っていいとも!特大号|笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号]]』で約15年ぶりの共演を果たした。
また、[[横山やすし]]とは『[[うちの子にかぎって]]パート2』の第2話で最初で最後の共演を果たしている。また、やすしと同学年の[[田村正和]]と[[関口宏]]とも共演した。やすしが演じた居作新太郎が経営する新聞配達店の店員の青年役を演じた。なお、やすしの相方の[[西川きよし]]とは『[[ぐうたらママ]]』、2002年11月21日放送『とんねるずのみなさんのおかげでした』「[[とんねるずのみなさんのおかげでしたのコーナー一覧#新・食わず嫌い王決定戦|食わず嫌い王決定戦]]」で共演を果たしている。
=== 後輩 ===
若手芸人との共演は、当時無名だった[[ナインティナイン]]、[[よゐこ]]、[[ココリコ]]、[[ネプチューン (お笑いトリオ)|ネプチューン]]の[[原田泰造]](ネプチューン結成以前の素人時代)が『[[ねるとん紅鯨団]]』出演を境に積極的になる。ナインティナインはこれを機に、東京での知名度上昇に成功している。その後、[[岡村隆史]]は1997年3月の『とんねるずのみなさんのおかげです』最終回の「[[仮面ノリダー]]最終回スペシャル」にてノリダーの分身役を演じた。その後も、ナインティナインの番組にはとんねるずが出演するなどしている。
また1990年代からは[[吉本興業]]所属の芸人とも共演が多くなり、「[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]ファミリー」と呼ばれる[[今田耕司]]、[[東野幸治]]、[[130R]]、[[木村祐一]]、[[リットン調査団 (お笑いコンビ)|リットン調査団]]、[[雨上がり決死隊]]、ココリコ、[[千原ジュニア]]とも、共演する機会がある。[[爆笑問題]]、[[さまぁ〜ず]]、ナインティナイン、[[ロンドンブーツ1号2号]]、ネプチューン、[[タカアンドトシ]]、[[FUJIWARA]]、[[おぎやはぎ]]、[[アンジャッシュ]]、[[次長課長]]、[[千鳥 (お笑いコンビ)|千鳥]]、[[バナナマン]]、[[バッドボーイズ (お笑いコンビ)|バッドボーイズ]]、[[ダイノジ]]、[[くっきー!]]([[野性爆弾]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://times.abema.tv/articles/-/8671545|title=くっきー!、共演を経て石橋貴明の印象に変化「最初はピーター・アーツ」「今は大林素子」|website=ABEMA TIMES|publisher=AbemaTV|date=2021-08-24|accessdate=2022-06-26}}</ref>、リリー([[見取り図 (お笑いコンビ)|見取り図]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/owarai/news/479362|title=木梨憲武「おしゃれクリップ」登場、見取り図リリーがVTRで木梨愛を語る|website=お笑いナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-05-28|accessdate=2022-06-04}}</ref>、長谷川雅紀([[錦鯉 (お笑いコンビ)|錦鯉]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/06/12/kiji/20220612s00041000732000c.html|title=「錦鯉」の長谷川雅紀 家賃5万円の6畳一間から高級マンションに引っ越し 費用総額326万|website=スポニチアネックス|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2022-06-12|accessdate=2022-06-13}}</ref>らは自らも語る通り、とんねるずの影響を直接受けた世代であり彼らの多くはとんねるずの番組へ多く出演するなどしている。
その一方で[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]([[浜田雅功]]・[[松本人志]])との共演はほとんどなく、共演したのは1987年5月4日の『[[MBSヤングタウン]]VSとんねるず野球大会』(ラジオ同時生放送・テレビでは深夜にダイジェストが放送)でダウンタウンが「ヤンタンオールスターズ」の一員として出演<ref>{{Cite journal|和書|title=ローソン,ハウス食品~異業種タイアップイベント(毎日放送)|journal=企業と広告|volume=13|issue=8|publisher=チャネル|date=1987-08-01|pages=22 - 23|id={{NDLJP|2853053/14}}}}</ref>、1994年10月3日放送の『[[FNS番組対抗!なるほど!ザ・春秋の祭典スペシャル#1994年|FNS番組対抗!なるほど!ザ・秋の祭典スペシャル]]』の2回のみだった(共演はないものの同年の春の祭典や一部の年の『[[FNSの日|FNS27時間テレビ]]』では両コンビが揃って出演している)。また、個人同士の共演も長年なかったが、2014年3月31日放送の『[[笑っていいとも!特大号|笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号]]』で約20年ぶりの共演を果たし、これがテレビでは3回目の共演となった。2016年7月29日放送の『[[ダウンタウンなう]]』で浜田の息子と石橋の娘が同じ学校で、よく会っていたことを明かし「普通の時は全然、普通に喋ってるよ」と語っている<ref>“[https://www.asagei.com/excerpt/63395 とんねるずとの不仲より視聴者が知りたい松本人志とあの因縁の男との関係性]”. ''アサ芸プラス''. 徳間書店 (2016年8月4日). 2021年8月21日閲覧。</ref>。2022年5月6日に[[YouTube]]公式チャンネルでダウンタウンについて石橋は「誰と不仲とかそういうことではないんだよ。別にダウンタウンと誰と仲が悪いだの、へったくれだのということはないんだから」と不仲を否定した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/178794|title=石橋貴明 ダウンタウンと「不仲ではない」 いいとも最終回〝乱入〟はフジへの怒り|website=東スポWeb|publisher=東京スポーツ新聞社|date=2022-05-06|accessdate=2022-05-07}}</ref>。
[[ウッチャンナンチャン]]([[内村光良]]・[[南原清隆]])とはお笑い第三世代の括りで並べられるものの、厳密には年齢、デビュー年、デビュー後の経緯を見るととんねるずの方が先輩にあたる。共に「お笑いスター誕生」出身者であり、とんねるずも出演していた『オールナイトフジ』『夕やけニャンニャン』にも数回ではあるが新人のウッチャンナンチャンは出演していた。初共演は『オールナイトフジ』である。その後『[[ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポン]]』がスタートするにあたり、1989年4月11日放送の『とんねるずのオールナイトニッポン』に飛び入り出演した。また1990年4月の『とんねるずのみなさんのおかげです』半年間休止のピンチヒッターとして『[[ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!]]』で彼らが抜擢されたのがきっかけで、続編『[[ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!]]』に繋がった。また『とんねるずのみなさんのおかげです』の再開予告CMの終わりには、石橋が「ウッチャンナンチャンさん、ありがとうございました」と礼を述べた。1980年代・1990年代は頻繁に共演していたが、2000年代以降はコンビの共演がなくなったが、[[はっぱ隊]]が『うたばん』に出演する等単独では度々共演している。ダウンタウンと同じく『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』にて、久しぶりにコンビ揃っての共演を果たした。
=== 美空ひばり ===
とんねるずは[[美空ひばり]]とも生前は親交が非常に深く、「お嬢」「タカ」「ノリ」と呼び合う間柄だった。
両者の出会いのきっかけは、とんねるずの大ファンだったひばりの息子・[[加藤和也 (ひばりプロダクション)|加藤和也]](現:[[ひばりプロ]]社長)の誕生会に2人が呼ばれたことである。その後も『[[とんねるずのオールナイトニッポン]]』にひばりが急遽飛び入り出演し、とんねるずが出演していた同番組の生放送中にひばり本人から電話が入るなどの過去もある。
彼らが出演していた番組を見ていたひばりから放送終了後に2人の元へ電話がかかってきて、深夜にも拘らずひばりの自宅に呼び出され夜11時頃から番組内での行き過ぎた歌パフォーマンスに対して説教を受けたことがある。その際にはひばりのコンサートビデオを延々と見させられ、ひばりが席をはずすなり石橋がビデオを早送りして何とか見終わったと思いきや、そのビデオは上巻で、続けて下巻のビデオを結局翌朝5時頃まで見させられたというエピソードがある。
1988年に東京ドームの単独コンサート第一号として、不死鳥コンサートが行われ、政界・芸能界から沢山の有名人が駆けつけていた中、とんねるずも来ており石橋は隣に居た木梨に感動で泣くところを見られたくなかったので、必死に我慢していたがついに堪え切れず涙腺が崩壊しかけ、「ヤバい」と隣の木梨を見たところ木梨の方が先に号泣していたという。石橋はひばりに『(芸歴は)売れてから数えなさい』と言われて以来、「[[雨の西麻布]]」がヒットした1985年からを芸歴としてカウントすることがある<ref>{{Cite web|和書|title=「とんねるずは死にました」―戦力外通告された石橋貴明58歳、「新しい遊び場」で生き返るまで|url=https://news.yahoo.co.jp/feature/1798/|website=Yahoo!ニュース|accessdate=2020-09-13|language=ja}}</ref>。
=== タモリ ===
とんねるずが素人時代に『[[お笑いスター誕生!!]]』へ出演した際、審査員からの評価は芳しくなかったが審査員の1人であった[[タモリ]]は「お前らなんだかわからねえけど面白い」と評した。この当時、とんねるずを評価していたのはタモリとその世話人の[[赤塚不二夫]]だけだった。タモリに誘われて『[[タモリのオールナイトニッポン]]』の見学にとんねるずが行った際、このままお笑い芸人として本格的に活動するべきかどうかタモリに相談を持ちかけて、「やりたかったらやってみればいい」というタモリの言葉に後押しされて本格的にプロの道を進む決心をしたという。ブレイク後も『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]』や『[[ミュージックステーション]]』といったタモリの冠番組にゲスト出演する機会が多く、2007年10月4日放送の『とんねるずのみなさんのおかげでした』でタモリと共演した際には、「タモさんがお笑いスター誕生の審査員じゃなかったら僕たちはこの世に出てなかった」と語っている。またその話を聞いたタモリは、『(ここまで伸びるとは思わなかったから)あの時つぶしとけばよかった』とユーモアをこめて話している。このときの対戦相手は[[松田聖子]]で、勝負に負け罰ゲームで約30年ぶりにイグアナとコンドルの着地のものまねを披露した。その後、木梨は2008年に『[[俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル|オールナイトニッポン40周年SP]]・タモリのオールナイトニッポン』にゲスト出演をしたり、タモリの誕生日のお祝いもしている<ref>[https://ameblo.jp/hiromi515/entry-11335339722.html ヒロミオフィシャルブログ「何年ぶりかな」(2012年8月22日)]</ref>。[[2014年]][[1月14日]]、『笑っていいとも!』放送8000回のゲストでコンビとして29年ぶりに出演し、放送終了の3月までの不定曜日レギュラーを務めた。
=== ビートたけし ===
『お笑いスター誕生』時代に草野球の助っ人要員としての始まりで交流のあった[[ビートたけし]]を元祖マルチタレントの先輩として尊敬している。このことはとんねるずの著書に記載されている。若手の頃、お笑いスター誕生出演後、偶然飲み屋で会ったたけしから「東京芸人、頑張れよ!」と激励されたことがある。この言葉には「当時はたけし後の東京の漫才師で大ブレークした者が大阪芸人に比べ少なかったため、とんねるずには東京芸人の火を消さないように」とのメッセージが込められていた。ブレイク後、オールナイトニッポンの第一部担当パーソナリティー全員が集まるスペシャル番組で共演した際には、恐縮して静かなとんねるずに対して、たけしは歌を披露し「歌だして、とんねるずの人気を落としてやろうと思ったけど、俺はムリだな」と発言し、とんねるずを苦笑させている。現在も交流は続いており年1回程度、『とんねるずのみなさんのおかげでした』スペシャルで共演していた。
また、たけしの最初の弟子であるそのまんま東([[東国原英夫]])とは、彼がまだ[[たけし軍団]]に入る前に組んでいた[[ツーツーレロレロ]]で同時期に『お笑いスター誕生!!』に出場していた戦友であり、深い交流関係にある。『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』のレギュラーでもあった。
なお、たけしの芸風からの影響はほとんど受けていない。2012年秋、『[[日曜ゴールデンで何やってんだテレビ]]』では、レギュラー番組としてたけしと石橋が共演を果たした。
=== 志村けん ===
石橋の中学生素人時代の相方([[島崎伸一]]・現制作プロダクション経営)がドリフターズの付き人になったことから、[[志村けん]]は当初石橋と付き合いが深かった。しかし後に木梨との付き合いも深まり、木梨自身もキャラクター設定、コントの作り方などで志村から影響を受けたこともあり一時は「コンビ結成」の噂が立つほどだった。この件について石橋自身が志村本人に抗議して終息した。ただこの付き合いの過程の中でとんねるずは[[イザワオフィス]]とつながりを強め、これが後の独立へとつながる。
『とんねるずのみなさんのおかげでした』の「食わず嫌い王決定戦」等で共演を果たしている。
== エピソード ==
{{存命人物の出典明記|date=2022年5月}}
=== 日本テレビ系番組でのエピソード・ハプニング ===
* 『[[歌のトップテン]]』にて、「[[やぶさかでない]]」の歌唱中にカメラを強奪するというハプニングがあった。当時の司会者[[徳光和夫]]と[[石野真子]]、さらには番組スタッフに迷惑をかけてしまい、のちのマネジャーが番組終了後に謝罪した。先にカメラを強奪したのは木梨だが、石橋もつられて強奪。木梨が石橋の局部を映していた。
* 正月の特別番組『とんねるずの仁義なき花の芸能界全部乗っ取らせていただきます』では馬風師匠([[鈴々舎馬風]])と石橋との遺恨が演出のひとつとして勃発し、銭湯で石橋の襲撃を受けた馬風師匠は逃げる石橋を裸で追った(この他にも、ドッキリ企画で相模湖に落とされたことがある)。なお、この番組では[[笑福亭鶴光]]や[[マイケル富岡]]なども同じ企画で湖に落とされている。
=== TBS系番組でのエピソード・ハプニング ===
==== ザ・ベストテン ====
* 「[[一気!]]」の歌唱中にテレビカメラを倒している。石橋は弁償を考えたが、テレビ局にとってはこのようなアクシデントもそう珍しいことではなく、また故意にやったわけではないと判断され、結局は保険によって解決された。
* 1985年10月17日の400回記念、[[日本平]]([[静岡市]][[清水区]]、当時は[[清水市]])からの生放送に出演。とんねるずがスタッフの担ぐ御輿の上に乗り、客席の間の通路を通ってステージに向かう演出だったが、神輿に観客が殺到して衣装を引っ張るなどしたために石橋が御輿に乗れず、激高して観客に掴みかかる事態にまでなった。ステージ上でも石橋は怒りが収まらず「ふざけんじゃねぇぞ!この野郎!!」、「てめぇら最低だ!!」と吐き捨てて衣装の飾りを客席に投げつけたり、怒鳴り声で「雨の西麻布」を歌った。なお、この放送翌々日に放送された『[[オールナイトフジ]]』にて、番組宛に数百本の苦情電話が寄せられたことを石橋が明かしている。当時の『オールナイトフジ』は静岡にもネットされており、地元の視聴者への謝罪も同様に本人達から行われていた。
* 1987年10月1日の500回記念、[[仙台市|仙台]]からの生放送に出演した時、この500回記念出たさに、シングル「[[おらおら]]」が初登場時にランクインするよう発売日を合わせたことを公言している。当時出演していたラジオ番組『[[オールナイトニッポン]]』でも、リスナーにランクインできるよう、レコードの購入と番組宛てにリクエストを送るよう求めていた。
==== うたばん / とくばん ====
* 木梨が番組内で獲得した商品をカメラにぶつけ転倒させている。木梨は「大丈夫ですか?保険に入っていますよね?」とマネジャーの尾崎に確認し、逃げるように撤収した。カメラは無事だった。[[中居正広]]が観客を煽ったことで、場内は「オールナイトフジ以来!」コールになった。なお、当該放送回はスペシャルのため、番組名は「とくばん」である。
==== クイズダービー ====
* 1986年、ギャンブラーとして出場したとき、番組史上初めて第1問でいきなり持ち点3000点全部を[[はらたいら]]に賭けようとした。はらは確実に答えると見てこの行動に出たが、司会の[[大橋巨泉]]が「'''おまえらふざけるんじゃないぞ、少しは番組のことを考えろ、はずれたらなくなっちゃうからやめなさい!'''」と怒られたため、賭けることはできなかった。なお、番組の歴史上第1問で3000点を賭けようとしたのはとんねるずと[[若山富三郎]](とんねるずとは逆で、番組に参加する気が全くなかったという理由)のみである。なお、とんねるずは後に『[[とんねるずのみなさんのおかげでした]]』(フジテレビ)で、クイズダービーの[[パロディ]]である「トークダービー」の企画を始めることになる。
=== フジテレビ系番組でのエピソード・ハプニング ===
==== オールナイトフジ ====
* 1985年1月19日「[[一気!]]」の歌唱中、興奮した石橋が1台1500万円するテレビカメラの雲台を強く握って揺さぶっているうちに、雲台がバランスを崩し横倒しに。後にスタッフによって「正直に石橋の悪ふざけと申請したため、カメラはフジテレビが掛けていた[[保険]]では修繕されなかった」と話されているものの、フジテレビ側が経緯や状況を話したところ、どうにか保険は下りたという。それから数年はフジテレビのNG名場面集番組などでその場面が、倒したカメラを前におののく二人の姿と共に、繰り返し流されている。また同番組では「[[青年の主張 (曲)|青年の主張]]」を歌いながら、建物2階分程度の高さのセットの上や、天井から吊り下げられていた照明によじ登るなどのパフォーマンスを行い、1989年3月26日の放送では登場時にフロアサブへよじ登ろうとして転倒、親指を突き指している。セットの上によじ登った際は、カメラクレーンに乗り移り、救助されている。カメラ転倒事件から約30年後の2014年11月3日放送の『'''ライオンのごきげんよう'''』にゲスト出演した際、石橋が「カメラは倒したのではなく、カメラのクレーンを持った際、カメラが誤って浮いてしまい倒れた」と釈明している。
* 1986年4月3日、石橋は泥酔状態で出演した作家の[[野坂昭如]]から平手打ちをされそうになる。さらに、野坂が石橋の家庭環境を持ち出してなじり始めたことが発端で、暫くはお互いが睨み合っていた。なお補足として、実際には平手打ちでは無く拳を握ってのパンチで当たっていたが、若い石橋は当たる瞬間に上体を逸らし除けたこともあり、さらに生放送で石橋が司会進行中ということもあって、その場はとりあえず取り繕って進行されたものの、CM中に野坂はスタジオ外へ退出した。
==== 夕やけニャンニャン ====
*「ニャンニャン腕相撲」で、恒例の木梨の「ロッキー!」の掛け声をきっかけにした大騒ぎに乗じて石橋に跳び蹴りをした観客の一人を、石橋とマネジャーのボブ市川がはがい締めにしたことがある。
* 同じく「ニャンニャン腕相撲」で、石橋の服に観客からケチャップをかけられ、番組終了後に観客を全員残してVTRを確認した後にスタッフと共に説教を行ったことがある(ケチャップ事件)。
==== 夜のヒットスタジオ ====
番組リニューアル直後の1985年4月17日放送に「一気!」で初登場。以来、1989年にかけて、20回以上にわたり番組に出演し、さまざまな話題を提供した。石橋・木梨ともに『ベストテン』と同様に『夜ヒット』に対しても相当の思い入れがあり、「みなさんのおかげでした」など自身の番組ではこの番組に関連したエピソードをよく紹介している。
* コーナーのひとつであるオープニングメドレーでは[[ヒッピー]]風、羽織袴姿などといった怒髪天な衣装で登場し、次に登場する歌手の持ち歌をあえて音程を全て外して歌ったり、DJ風のアナウンスで次の歌手の紹介を行うなどの振舞いを行っていた。
* オープニングメドレー終了後に行われる季節の風物詩を紹介するセクションで、価格にしてウン十万ともウン百万とも言われる高級[[胡蝶蘭]]を紹介した際、木梨がいきなりこの花びらを食べてしまい、司会の[[芳村真理]]に真剣に注意されたことがある(当時、この番組で使う植物の大半は、芳村のコネクションを活用して提供されていたと伝えられている)。また同様にカブトムシを紹介した際にはそのカブトムシを生で木梨が食べようとしたところ、口にハサミの部分が挟まってしまい、唇から出血したこともある。
* 疋田拓プロデューサー時代はよく彼の言動に関連した小ネタ(「今日は疋田ちゃん、○○なんだよ〜」(例:「時間が押しちゃってて不機嫌なんだよ〜」など)を披露していた。
* 番組を見ていた[[美空ひばり]]から放送終了後2人に電話がかかってきて、深夜であるにもかかわらずひばりの自宅に呼び出され、番組内での行き過ぎたパフォーマンスなどに対して説教を受けたことがある。
*「オールナイトフジ」同様のカメラいじりパフォーマンスを画策したものの、プロデューサーの[[疋田拓]]の持つあまりの威圧感に萎縮してしまい、カメラ転倒パフォーマンスを行うことはできず、石橋がカメラに近づき、木梨が「危ねえぞ!」と注意するに留まっている。
* 1986年6月、「やぶさかでない」での出演時に、歌が佳境に差し掛かった辺りで意図的な演出として、共演していた大勢の女性バックダンサーに一斉に襲いかかられ、石橋はズボンを脱がされ、下半身はブリーフパンツ一枚という姿になり、その姿のままスタジオを走り回って歌を締めくくるという「オチ」が付いた。これには、視聴者から賛否両論の意見があったようで、番組史上に残る「迷」シーンの一つとして後年の総集編でも定番ネタとなっていた。
* 1987年3月、「嵐のマッチョマン」で初の番組トリで歌を披露。この際、[[郷ひろみ]]ら他の出演者が途中から歌に参加して、一気にヒートアップし、賑やかに番組を締めくくった。
* 1987年10月、マンスリーゲストとして出演していた[[久保田利伸]]に[[五木ひろし]]が後ろから何度も蹴りを入れているのを見兼ねた石橋・木梨の二人は、久保田をかばってすかさず仲裁に入り、事態は収束した。久保田はこの一件以降、とんねるずの二人に対し深い恩義を感じ、親交を持つようになった。
* 1987年12月、[[つのだ☆ひろ]]の作品「メリー・ジェーン」をそのままもじった「ジャニー・ジェーン」なる歌を披露。この際、サプライズゲストとしてつのだ本人が階段から「メリー・ジェーン」を歌いながら登場した。
* 1989年5月17日、「[[市川と宮嶋|律子に乾杯~スピーチの代わりに~]]」の3番目の歌詞を歌唱中に番組前半(21時台)部分の提供クレジットが被ってしまい、フルコーラスで歌えないままCMに行ってしまうハプニングが起きた。しかし、これはとんねるずが画策した[[ドッキリ]]的パフォーマンスであり、本来は2コーラスの演奏のみであった。このドッキリはとんねるず2人とプロデューサーの[[渡邉光男]]しか知らなかった。CM明けでとんねるずがネタバラシをしたが、事前にそれを知らなかった司会の[[古舘伊知郎]]と[[柴俊夫]]は大いに困惑し、古舘に至っては歌えなくなってしまったことに責任を感じ激怒した。この回においては、『仮面ノリダー』で共演していた[[小林昭二]]とチビノリダーの[[伊藤淳史]]が応援ゲストとして駆けつけた。
==== スターどっきり㊙報告 ====
* コラおじさんショートネタで引っかかった時に唖然として怒りそうになる石橋に木梨が「これ12チャン(現:テレビ東京)のどっきりじゃないよ、疋田どっきり(この番組の制作班が夜ヒット班という意味)だよ、挨拶しておいたほうがいいよ。」と言って宥めていた。それを聞いた石橋はすぐさま「ありがとうございまーす!よろしくお願いいたします!」とカメラに向かって頭を何回も下げていた。
==== 新春スターかくし芸大会 ====
1984年の第21回以降一時期常連のように出場しており、1996年の第33回で司会を務めたこともあった。
* 1984年の第21回
: [[南極物語|難極物語]] - 二人でペンギンの衣装を着て出演した。ちなみに、当時のプロデューサー[[王東順]]にセリフもない台本読みに呼ばれたことが相当悔しくて、ラ・ポルトのサンドイッチが食えなかったそう。これを売れていなかった時代の汚点として、以後、かくし芸に出るたびに「○年前はペンギンでした」と発言している。後に、仮面ノリダーの「ペンギン男」の回では石橋が第2制作部(当時)に乗り込み、王から謝罪を勝ち取っている。
* 1987年の第24回
** ワンスアポンアタイムインジャパン - [[田原俊彦]]、[[中森明菜]]、とんねるず、[[中山美穂]]、[[中村繁之]]、[[前田美波里]]
*** とんねるずの石橋が最後のシーンで「今、夜中の4時です。〜3年前はペンギンでした。」と、ロケのための待ち時間を嘆くコメントを言っていた。
** 曲芸PartII カマヌンチャク - 中森明菜、とんねるず
*** とんねるずの石橋はここで右手にカマのかすり傷を負ってしまった。「3年前はペンギンでした。」をここでも連発していた。 中森明菜は蛍光灯の上に乗ったまま静止する芸等をやった。
==== 森田一義アワー 笑っていいとも! ====
2014年にレギュラーに。『笑っていいとも!』が終了する直前でもある。以降、石橋、木梨共に出演中('''番組終了までの記録''')。
* 1月14日([[火曜日]])放送にて、名物コーナー「テレフォンショッキング」に[[黒柳徹子]]が1984年3月に記録した46分を上回る48分22秒出演。その中で[[タモリ]]に直訴し、番組レギュラーになった。なお、その未公開シーン(19日)で、「(残り)10週なんで、2人で5週ずつ」と宣言した<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/01/19/kiji/K20140119007417190.html?feature=related 『石橋貴明 いいとも出演プラン披露!残り10週、交互に5週ずつ』スポニチ 2014年1月19日 15時30分配信]</ref>。
* 1月23日(木曜日)放送にて、木梨がレギュラー初出演。笑福亭鶴瓶が話そうとした瞬間にスタジオの天井からワイヤで降下し、彼の首を絞め上げるというドッキリの形で登場シーンで木梨が登場した。総合司会のタモリによると、(この登場方法は)いいとも史上初めて、とのことである<ref>{{Cite news |url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140120-00000303-oric-ent |title=木梨憲武、『いいとも!』に“降臨” タモリ「いいとも史上初めて」 |newspaper=Yahoo!ニュース |agency=オリコン |publisher=Yahoo Japan |date=2014-01-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140127045711/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140120-00000303-oric-ent |archivedate=2014-01-27}}</ref>。
* 1月29日(水曜日)放送にて、石橋がレギュラー初出演。水曜日のレギュラーコーナーに次々と参加した。「[[爆笑問題]]」[[太田光]]より「転校生を紹介します。帝京高校をタバコを吸って退学になった石橋貴明君です」と紹介、それに対し「迷惑かけないようにします」とあいさつ<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/01/29/kiji/K20140129007480910.html?feature=related 『石橋貴明 「いいとも」レギュラー初出演はおとなしく「迷惑かけないように」』スポニチ 2014年1月29日13時07分配信]</ref>。
* 2月3日(月曜日)放送にて、木梨が2度目の出演。今度は、突然箱の中から現れるというドッキリの形で再び登場した<ref>{{Cite news |url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140203-00000308-oric-ent |title=木梨憲武、「いいとも」で再びサプライズ 箱から登場し三村・さしこら仰天 |newspaper=Yahoo!ニュース |agency=オリコン |publisher=Yahoo Japan |date=2014-02-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140221030549/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140203-00000308-oric-ent |archivedate=2014-02-21}}</ref>。
* 2月6日(木曜日)放送にて、木梨が3度目の出演。歌手の郷ひろみも出演のテレフォンショッキングのコーナーで、「お嫁サンバ」のブラジルサンバの踊り子に紛れ込んで木梨が3度目の出演。『郷は「実は2日前にのりちゃんに電話して…」というと「手伝えって電話が来た」と木梨が返し「2日間打ち合わせしました」』ということである<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/02/06/kiji/K20140206007530820.html 『木梨「いいとも!」今週2度目サプライズ登場 サンバダンサーになりきる』スポニチ 2014年2月6日 12時39分配信]</ref>。
* 2月14日(金曜日)放送にて、石橋が2度目の出演。タモリが「貴明、金曜日はどう?」と質問すると「いいですね。金曜日。俺、金曜日にします」と金曜日出演が決まった<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/02/14/kiji/K20140214007587440.html 『石橋貴明 2度目のいいともレギュラー出演「俺、金曜日にします」』スポニチ 2014年2月14日 13時52分配信]</ref>。
* 2月18日(火曜日)放送にて、木梨が4度目の出演。木梨の仮面をかぶった10人の中から本物を当てるクイズを実施。ところが、そこにはおらず、実際には「noon boyz」の[[野澤祐樹]]に扮し登場した<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/02/18/kiji/K20140218007615170.html 『「いいとも!」4度目サプライズ登場は“10人の木梨憲武”本物は誰?』スポニチ 2014年2月18日 12時37分配信]</ref>。
* 2月24日(月曜日)放送にて、石橋が3度目の出演。転んだ時に骨折したというアンケートで7連続クリアを果たした。
* 3月7日(金曜日)放送にて、木梨が5度目の出演。今回は木梨がスタジオではなくハワイからの中継で出演した。
* 3月13日(木曜日)放送にて、石橋が4度目の出演。タモリ(福岡)、鶴瓶(大阪)、石橋の3人のフリートークコーナーの東京都代表として出演していた。
* 3月18日(火曜日)放送にて、石橋が5度目の出演。インフルエンザで欠席の[[バナナマン]]の[[日村勇紀]]に代わり、コーナーの司会をした。
* 3月20日(木曜日)放送にて、木梨が6度目の出演。木梨が同じく不定期レギュラーである岡村と2人で、スパイダーマンになって、鶴瓶にドッキリを仕掛けた。
* 3月31日(月曜日)放送『[[笑っていいとも!特大号#笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号|グランドフィナーレ特大号]]』にて、とんねるずが出演。コンビでのレギュラーとしての出演はこれが最初で最後だった。また、[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]([[浜田雅功]]・[[松本人志]])と約20年ぶりに共演、元レギュラーの[[明石家さんま]]・[[ウッチャンナンチャン]]([[内村光良]]・[[南原清隆]])・[[ナインティナイン]]([[岡村隆史]]・[[矢部浩之]])や現レギュラーの[[笑福亭鶴瓶]]・[[中居正広]]([[SMAP]])・[[爆笑問題]]([[太田光]]・[[田中裕二 (お笑い芸人)|田中裕二]])との共演も果たした。
==== その他の番組 ====
* 2001年の『[[FNS27時間テレビ]]』では、石田弘(通称ダーイシ)に扮した石橋が港浩一(通称小港)に扮した木梨とのゴルフパター対決で、石橋がわざと大振りでスイングしたゴルフボールが大型モニターに直撃し大きく割って破壊している。しかしこの時はオールナイトフジのようには動じず石田と港のキャラを演じつづけ笑いをとっていた。
* 2008年10月29日、矢島美容室が『笑っていいとも!』に出演した際、「曜日対抗いいとも!選手権」にて、ストロベリーが競技中に風船を割ってしまうハプニングが発生した。生放送であるため番組放送内に再度行うことができなくなり、放送終了後に再チャレンジすることとなった。
=== テレビ朝日系番組でのハプニング ===
==== ミュージックステーション ====
* 1988年3月11日放送で、『[[炎のエスカルゴ]]』を当時のテレビ朝日六本木センター屋上で披露した際、[[金網]]の[[柵|フェンス]]をよじ登り、石橋はフェンスの上にまたがり、木梨に至ってはフェンスの外に落ちてしまい、スタジオでこの様子を見ていた[[諸星和己]]は唖然としていた。エンディングでは、木梨が指を切ってしまったため、靴下を[[ギプス]]する形で登場し、「26(歳)にもなって準備体操なしにやったから」と発言した。
* 1994年12月9日放送では、派手な衣装で登場。「ガニ」を絶叫しながら披露し、セットを破壊した。
==== その他の番組 ====
* 1989年1月30日放送の『[[大爆笑!テレビ30年夢のオールスター大集合 (生) スペシャル]]』では、他の出演者がオリジナルソング(番組内では『お祝いの歌』と表す)を普通に歌っていたのに対して、木梨が『[[仮面ノリダー|仮面ノリダーぶっとばすぞのテーマ]]』の1番の歌詞に変えて歌い始めてしまい、会場からは大爆笑が巻き起こった。司会の芳村真理は、もう一度歌うよう促すも、その後木梨はアドリブの替え歌を歌い出し、会場を盛り上げた。またこのとき石橋が、番組のビッグバンドからエレキギターを借り、弾く真似をしたため、もう一人の司会であったタモリからは「ギターの弦が切れた」と伝えられた。
=== 高卒キャラ ===
番組のスタッフはほぼ大半が大卒者である。自分たちが高卒でありながら芸能界で大成功したことを「むしろ出世だ」とギャグとして強調することが、特に石橋は多かった。弟子に東大生(現在タレント・医師の[[吉田たかよし]])がいたのも「東大生が高卒の俺たちの弟子だぜ」とギャグとして使用。
ただし『ザ・ベストテン』(TBS)出演時に高卒発言をした際には、共演者の[[小泉今日子]]に「あたしは中卒」(実際には高校中退)、[[吉川晃司]]に「ボクは高校中退ですよ」などと切り返される場面もあり、思わずとんねるずは沈黙してしまった。司会の[[黒柳徹子]]は「中学卒業でも偉い人はたくさんいるんだから威張らないで!!」と、とんねるずを叱責した。
=== 舎弟軍団「もっこりーず&ぺにーず」 ===
『オールナイトフジ』のとんねるずコーナーで募集を行った舎弟軍団。応募条件は大学生。ここでも高卒が大学生を自由に扱う下克上美学が炸裂。当初は4チーム存在していたが、途中で突然解散を告げられ『もっこりーず&ぺにーず』だけが残る。
石橋曰く「俺達の[[スーパージョッキー#THEガンバルマン|ガンバルマンズ]]だ!」との通り、カニを口でくわえたりさせられたり体力型の試練ゲームをチーム対戦型で『憲武チーム』と『貴明チーム』に振り分けて展開した。メンバーは古賀薬局、ボッキー潮田等。ユニフォームはもっこりーずが上半身裸で赤いタイツ、ぺにーずが同じく黒いタイツ。双方登場のテーマ曲があり、もっこりーずが『♪も、も、も、も、もっこり〜ず〜♪』とボッキー潮田がフォークギターを弾きながら本日のテーマに合わせた歌詞にアレンジして熱唱しつつ皆で組み体操のような振り付けを決める。というもの。対してぺにーずは宴会ノリで『♪ぺぺぺい、ぺぺぺい、ぺぺぺいぺい♪ぺにーずの、ちょっといいとこ見てみたい♪(アレンジが入り最後に)あんたはお強い♪』である。特定のメンバーはそのまま夕ニャンにも出演。このメンバーの中にはそのままオールナイターズと結婚したメンバーもいる。オールナイトフジの最終回に可能な限りのメンバーを集め一度だけ再結成された。
それから時を経て、2005年9月に放送された『とんねるずのみなさんのおかげでした』の特番「とんねるずの石田さんのおかげでしたオールスター大感謝祭」に古賀とボッキーが出演。とんねるずの二人と再会を果たすが、その際木梨に「懐かしすぎて誰かわかりません」と言われた。なお、ボッキー潮田のみ現在音楽活動を東京都内を中心に継続している。
=== 過去の出演作品・CDなど ===
版権については厳しく、例として2004年に発売された『[[夕やけニャンニャン]]』のDVDでは出演箇所はモザイクで消され、CSで再放送されている番組(『[[オレたちひょうきん族|ひょうきん族]]』など)でも彼らのシーンはカットされるか、放送されない回も多い。TBSの『[[王様のブランチ]]』の瞬間最高視聴率ランキングや『[[中居正広の金曜日のスマイルたちへ]]』のゲストの過去のアーカイブ映像紹介でも、『うたばん』での石橋部分を、『ゲンセキ』での木梨部分を極力カットするなどしていた。また自身の冠番組の再放送や、外部への二次使用的な映像放出も少ない。
これは一説に、版権管理に厳しい[[イザワオフィス]]傘下で独立し事務所を構えたこと<!--[[イザワオフィス]]はドリフターズやとんねるずに関しての映像使用許可依頼に対し、数秒でも高額を要求すると言われている-->や、それまでにも所属事務所を転々としてきたため版権関係が複雑化しているのが原因とされている{{誰2|date=2015年7月}}。実際、ベストアルバムが発売される際には「○○所属時代のベストアルバム」と分類されることがほとんどである。記載されている通り過去映像などはほぼ再放送はされていなかったが、2012年1月1日から1月3日までCS放送の[[ホームドラマチャンネル]]でとんねるずがデビュー当時に出演していた[[日本テレビ]]の『お笑いスター誕生!!』の選りすぐりの3本を放送した「'''お笑いスター誕生!! セレクション'''」の1月3日に放送されたとんねるずが10週勝ち抜きグランプリを獲得した放送分が放送され、2017年から[[TBSチャンネル2]]で出演作の「[[時間ですよ|時間ですよふたたび」「~たびたび]]」の再放送が行われるようになった。
=== 秋元康との出逢い ===
1983年に新事務所所属となった頃、とんねるずを面白いとテレビ局の一室に呼ぶよう手配した人物がいた。それが当時新進の放送作家だった[[秋元康]]であり、ネタ見せ後そのネタから[[つかこうへい]]の影響を洞察した秋元は本人らにこれを確認するが、彼らはつかこうへいの名前すら知らなかった。その事実が秋元を驚かせ、それを機に秋元はとんねるずに可能性を感じ、以後彼らの筆頭ブレーンとして番組構成や作詞をはじめとした様々なアイデアをとんねるずと共に形にしていくこととなる。
=== 下克上タレント ===
とんねるずに関しての初期文献[[広告批評]]とんねるず特集では、彼らを「下克上タレント」と評している。芸人間では通常上下関係に関しては非常に厳しいが、とんねるずは「生意気」、「成り上がり」、「下克上」など媚びぬことをスタンスに定めている部分があり、[[志村けん]]や[[笑福亭鶴瓶]]などの先輩芸人相手にすら、番組中志村けんへ突然攻撃を仕掛けたり、鶴瓶へ「ねぇ、笑福亭」と屋号だけで名前を呼ぶなど、なかば意図的に芸人の礼儀を裏切ることがある。しかしとんねるずは[[体育会系]]であり、芸として無礼にふるまったとしても控え室では「志村さん」、「鶴瓶師匠」と呼びきちんと礼を踏まえている。
=== 元祖アイドル呼び捨て芸人 ===
お笑いタレントがバラエティ番組の中で出演アイドルを面と向かって呼び捨てにする場面は、礼儀として、また業界の暗黙のルールとしても“御法度”だった。これは旧世代の芸人/漫才師のあり方に由来する。とんねるずが台頭するまでの1980年代前半以前のお笑い芸人の仕事は演歌歌手の前座が多く、正月の隠し芸大会などでもあくまで歌手や人気アイドルを引き立てる[[幇間]]であり、「歌手のおかげで食べさせてもらえる」という[[色物]]意識が強かった時代の名残である。これは、[[萩本欽一]]、[[タモリ]]、[[ビートたけし]]でさえも、誰かを呼び捨てにするのは、本やラジオ、テレビの各メディアで本人がいない場所に限られていた。これは[[明石家さんま]]を含めた漫才ブーム系芸人でも同様に守られており、呼び捨てはあくまでも芸人の先輩後輩や仲間の“同業者間”でのみ許されるものだった。これを侵せば業界から抹殺されかねないほどの約束事とも言え、対スポーツ選手でもこれは同様だった。
この状況の変化は、ビートたけしの登場から始まっている。大学生活を経験したという意味で、当時の芸人としては異色の存在だったビートたけしは、歌手やアイドルが実は間抜けで頭が悪いという面をどんどんネタにすることと、本格的な哲学をも怖じずに知的に語る活躍によって、お笑いタレントの地位を徐々に上げていった。たけしが開拓した[[マルチタレント]]カテゴリに位置するとんねるずのルールは明快で、体育会系のルールをそのまま芸能界へ持ち込み「年齢が上か下か」という点にのみ基準を置いている。年下は問答無用で呼び捨て、そしてスタッフや関係者には目上であっても“ちゃん”付けかあだ名を付けて呼ぶというものである。素人系のオールナイターズから[[おニャン子クラブ|おニャン子]]までは躊躇なく呼び捨て、アイドルに対しても、当初から比較的絡む率が高かった[[シブがき隊]]辺りから、「[[薬丸裕英|薬丸]]、テメー!」のような呼び捨てもハッキリと確認されるようになる。それ以後は、必要に応じて呼び捨てにしている。
== メディア出演 ==
とんねるずとしての出演作品を記載。個別での出演作品は''「[[石橋貴明#出演番組|石橋貴明の出演作品]]」''、''「[[木梨憲武#出演作品|木梨憲武の出演作品]]」''を参照。
=== 現在の出演作品 ===
'''スペシャル番組'''
* [[夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル|夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!!スペシャル]](2000年1月 - 、[[テレビ朝日]])'''MC'''
=== 過去に出演したテレビ/ラジオ/CM/映画/舞台 ===
<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align: left;">テレビドラマ</div>
<div class="NavContent" style="text-align: left;">
* [[ぐうたらママ]](1983年7月4日、フジテレビ「[[月曜ドラマランド]]」枠)
* [[あ!Myみかん]](1984年9月3日、フジテレビ「月曜ドラマランド」枠)
* [[おじゃまんが山田くん#実写ドラマ|元祖おじゃまんが山田くん]](1984年11月12日、フジテレビ「月曜ドラマランド」枠)
* [[あ!Myみかん2]](1985年2月4日、フジテレビ「月曜ドラマランド」枠)
* [[トライアングル・ブルー]](1984年 - 1986年、[[テレビ朝日]])
* [[ハーフムーン]]([[1985年]]、[[テレビ朝日]])
* [[TVオバケてれもんじゃ]](1985年1月10日、フジテレビ)第1話「ザンゲの神様 クラッシュも真っ青!!」
* [[幕末青春グラフィティ 福沢諭吉]](1985年2月11日、[[TBSテレビ]])
* [[おかわりシスターズ解散特別企画 アイドルを探せ!]](1985年3月11日、フジテレビ「月曜ドラマランド」枠)
* [[うちの子にかぎって|うちの子にかぎって…]](1985年、[[TBSテレビ]])
** 第2話「俗悪テレビ番組 文句あるなら云うてみい」(4月19日放送)
** 第7話「キャプテン翼物語」(5月31日放送)
* [[お坊っチャマにはわかるまい!]](1986年4月15日 - 7月22日、[[TBSテレビ]])
* [[ぶんぶくちゃがま]]([[1986年]]、テレビ朝日)
* [[ギョーカイ君が行く!]](1987年10月5日 - 11月9日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])
* [[青春を東海岸にかけた野郎たち! アメリカン・ランナウェイ]](1987年12月17日、日本テレビ「[[木曜スペシャル]]」枠)
* [[時間ですよ|時間ですよスペシャル 春の女神がやって来た]](1988年3月30日、[[TBSテレビ]])
* [[時間ですよ|時間ですよ・たびたび]](1988年7月11日 - 1988年10月3日、TBSテレビ)
* [[時間ですよ|時間ですよ・新春スペシャル 梅の湯はギャグでいっぱい]](1989年1月2日、TBSテレビ)
* [[火の用心]](1990年7月7日 - 9月29日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])
* [[蒲田行進曲|銀ちゃんが行く 続・蒲田行進曲]](1991年12月30日、TBSテレビ)
</div></div>
<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align: left;">レギュラー番組</div>
<div class="NavContent" style="text-align: left;">
* [[モーニングサラダ]](1981年 - 1985年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])※初レギュラー番組
* ダントツ笑撃隊!! (1981年、日本テレビ)
* [[アップルシティ500]](1982年10月 - 1983年5月、[[TBSテレビ]])
* [[爆笑!!ドットスタジオ]](1982年10月 - 1983年6月、[[テレビ朝日]])
* [[ザ・ヒットステージ]](1983年4月 - 1984年3月、TBSテレビ)
* [[オールナイトフジ]](1983年12月 - 1991年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])
* [[とんねるずの子供は寝なさい!?]](1985年7月 - 9月、日本テレビ)
* [[EXPOスクランブル]](1985年、TBSテレビ)
* [[夕やけニャンニャン]](1985年 - 1987年、フジテレビ)
* [[コラーッ!とんねるず]](1985年 - 1989年、日本テレビ)
* [[コムサ・DE・とんねるず]](1986年 - 1987年、フジテレビ)
* [[ねるとん紅鯨団]](1987年 - 1994年、フジテレビ【関西テレビ制作】)
* [[とんねるずのみなさんのおかげです]](1988年 - 1997年、フジテレビ)
* [[とんねるずの生でダラダラいかせて!!]](1991年 - 2001年、日本テレビ)
* [[ラスタとんねるず'94]](1994年、フジテレビ)
* [[とんねるずのハンマープライス]](1995年1月 - 1998年9月、フジテレビ【関西テレビ制作】)
* [[ねる様の踏み絵]](1995年10月 - 1996年3月、TBSテレビ)
* [[とんねるずのカバチ]](1996年、TBSテレビ)
* [[とんねるずの本汁でしょう!!]](1997年、フジテレビ)
* [[Grade-A]](1997年、フジテレビ)
* [[とんねるずのみなさんのおかげでした]](1997年6月 - 2018年3月、フジテレビ)
* [[JAPAN BOYS]](1998年10月 - 1999年3月、フジテレビ【関西テレビ制作】)
* [[森田一義アワー 笑っていいとも!]](2014年1月 - 2014年3月、フジテレビ)- [[ナインティナイン]][[岡村隆史]]同様曜日不定レギュラー
** [[笑っていいとも!増刊号]](2014年1月 - 2014年3月、フジテレビ)
** [[笑っていいとも!特大号#笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号|笑っていいとも! グランドフィナーレ感謝の超特大号]](2014年3月31日、フジテレビ)
</div></div>
<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align: left;">司会またはメイン出演した単発/スペシャル番組</div>
<div class="NavContent" style="text-align: left;">
* [[とんねるずのみなさんのおかげです]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]「[[火曜ワイドスペシャル]]」枠)
** とんねるずのみなさんのおかげです PART1(1986年11月11日)
** とんねるずのみなさんのおかげです PART2(1987年4月7日)
** とんねるずのみなさんのおかげです PART3(1987年10月13日)
** とんねるずのみなさんのおかげです PART4(1988年3月8日)
* [[生放送!タモリ&とんねるずオールスター告白大会]](1987年4月8日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])
* [[さんま・鶴瓶のラ・テ 二元生放送〜ヤンタン・とんねるず野球大会]](1987年5月3日、[[MBSテレビ|毎日放送]]/関西ローカル)
* [[FNNニュース工場]](1987年8月、フジテレビ)<ref group="注">夏休み中の[[佐々木信也]]と[[みのもんた]]の代行で出演</ref>
* [[プロ野球ニュース|スポーツワイド プロ野球ニュース]](フジテレビ)<ref group="注">佐々木信也、みのもんたの代行</ref>
* [[とんねるずの輝け!そっくり大賞]] (1988年12月、日本テレビ)
* [[ナンノこれしきとんねるず]](1988年1月3日、[[テレビ朝日]])
* 新春とんねるずスペシャル 仁義なき花の芸能界全部乗っとらせていただきます(日本テレビ)
** 新春とんねるずスペシャル 仁義なき花の芸能界全部乗っとらせていただきます!!(1989年1月3日)
** 新春とんねるずスペシャル 仁義なき花の芸能界全部乗っとらせていただきますPART II(1990年1月4日)
** 新春とんねるずスペシャル 仁義なき花の芸能界全部乗っとらせていただきますPART III(1991年1月5日)
* [[とんねるずの私たち芸能人もこんな恋がしてみたい!]](1989年10月、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]])
* [[とんねるず初上陸!!Oh!ニューヨーク⇒ロンドンお殴り込みでございます]](1990年7月、フジテレビ)
* [[新春スターかくし芸大会]](1996年、フジテレビ) - 司会
* [[FNS番組対抗!春秋の祭典スペシャル|FNS30周年'99秋の祭典&FNS春秋の祭典2000]](1999年秋 - 2000年秋、フジテレビ) - 司会
* [[東京風〜TOKYO WINDS〜]](2010年12月27日・2011年4月3日、フジテレビ)
* [[とんねるずが生放送!音楽番組全部見せます!!-名曲で元気になろう-]](2012年3月21日、フジテレビ) - 司会
* [[ハレバレとんねるず 略してテレとん]]([[2012年]][[9月10日]]・[[2013年]][[3月11日]]、テレビ東京)
* [[とんねるず×さまぁ〜ずの一文無しジャーニー2×2]](2013年9月24日・2014年2月25日・7月19日 、フジテレビ)
* [[オールナイトフジ#FNS 正月だよ!オールハワイナイトフジ2015 ハワイにいる芸能人大集合!お年玉つき生放送SP|FNS 正月だよ!オールハワイナイトフジ2015 ハワイにいる芸能人大集合!お年玉つき生放送SP]](2015年1月1日、フジテレビ)
</div></div>
<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align: left;">ゲスト出演した番組</div>
<div class="NavContent" style="text-align: left;">
* [[ドバドバ大爆弾]](1980年3月、[[テレビ東京|東京12チャンネル]]※テレビデビュー<ref group="注">[[所ジョージ]]司会の[[視聴者参加型番組]]に、初めて2人揃って出演した番組。</ref>
* [[お笑いスター誕生!!]](1980年7月 - 1982年4月、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])<ref group="注">1981年5月9日放送分に「'''貴明&憲武'''」から「'''とんねるず'''」改名で初出演。</ref>
* [[JanJanサタデー]](1981年9月11日、[[静岡第一テレビ]]/静岡ローカル)
* [[花王名人劇場]](1982年7月11日・1988年7月、1989年4月・1990年、[[関西テレビ放送|関西テレビ]])
* [[ヤングおー!おー!]](1982年、毎日放送)
* [[お笑いベストテン]](1982年、テレビ東京)
* [[もっとものまねショー]](1983年6月20日、フジテレビ)<ref group="注">フジテレビ初出演。</ref>
* [[ものまね王座決定戦]] (1983年10月18日、1984年10月9日、1985年10月8日、フジテレビ「[[火曜ワイドスペシャル]]」枠)
* [[スーパーJOCKEY]](1984年、日本テレビ)
* [[世界の超豪華・珍品料理]](1984年11月1日、フジテレビ)
* お笑い秋の祭典 (1984年11月4日、TBS)
* [[新春かくし芸大会]](1984年 - 1989年・1993年、フジテレビ)
* 火曜ワイドスペシャル 「第12回 オールスター寒中水泳大会」 (1985年2月12日、フジテレビ)
* [[森田一義アワー 笑っていいとも!]](1985年2月25日、2014年1月14日、フジテレビ)
* [[オレたちひょうきん族]](1985年3月2日、フジテレビ)
* [[ザ・トップテン]](1985年10月14日、日本テレビ)
* [[徹子の部屋]](1986年、テレビ朝日)
* [[歌のトップテン]](1986年11月10日、1986年11月17日、 日本テレビ)
* [[時間ですよ|時間ですよ・ふたたび]](1987年、TBSテレビ)
* [[加山雄三ショー]](1987年11月7日、NHK総合)
* [[歌謡ゴールデン大賞・新人グランプリ]](1988年9月20日、テレビ朝日)
* [[華麗にAh!so]](1988年、テレビ朝日)
* [[FNS番組対抗!なるほど!ザ・春秋の祭典スペシャル]](フジテレビ)
** [[とんねるずのみなさんのおかげです]]チームとして出場(1988年秋 1989年春秋 1990年秋 1991年春 1993年春 1994年秋)
** [[ねるとん紅鯨団]]からのクイズ出題と番宣をかねてVTR出演(1990年春)
* [[大爆笑!テレビ30年夢のオールスター大集合 (生) スペシャル]] (1989年1月30日、テレビ朝日)
* [[花王ファミリースペシャル 美空ひばりドキュメント 歌・栄光・永遠の人生]] (1991年12月29日、関西テレビ制作:フジテレビ系列)
* [[スーパークイズスペシャル]](1993年秋 - 1994年秋、日本テレビ)<ref group="注">敗者復活戦の出題VTRで登場</ref>
* [[FNS年末スペシャル フジテレビにしか出来ない20世紀の黄金バラエティ大全集!]](2000年12月31日、フジテレビ)
* [[FNSの日|FNS27時間テレビ]](フジテレビ)
** [[FNS27時間テレビ|FNS ALLSTARS 27時間笑いの夢列島]](2001年7月21日 - 22日) - 「グランドオープニング」、「ハンマープライス一夜限りの生放送SP」、「グランドエンディング」などに出演。
** [[FNS27時間テレビ (2004年)|FNS27時間テレビ めちゃ<sup>2</sup>オキてるッ! 楽しくなければテレビじゃないじゃ〜ん!!]](2004年7月24日) - 「[[笑わず嫌い王決定戦]]」に出演。
** [[FNS27時間テレビ (2011年)|FNS27時間テレビ めちゃ<sup>2</sup>デジッてるッ! 笑顔になれなきゃテレビじゃないじゃ〜ん!!]](2011年7月23日) - 「[[とんねるずのみなさんのおかげでしたのコーナー一覧#モジモジくんHYPER → モジモジくん|モジモジくん]]」に出演。
** [[FNS27時間テレビ (2012年)|FNS27時間テレビ 笑っていいとも! 真夏の超団結特大号!! 徹夜でがんばっちゃってもいいかな?]](2012年7月21日) - 「[[とんねるずのみなさんのおかげでしたのコーナー一覧#男気ジャンケンシリーズ|男気ジャンケン]]」に出演。
** [[FNS27時間テレビ (2015年)|FNS27時間テレビ めちゃ<sup>2</sup>ピンチってるッ! 1億2500万人の本気になれなきゃテレビじゃないじゃ〜ん!!]](2015年7月26日) - 「女気ジャンケン」に出演。
* [[ワンナイR&R]]スペシャル(2002年3月27日、フジテレビ)
* [[フジテレビ50ッスth!|バラエティルーツの旅・あなたがいたから僕がいる 半世紀大感謝祭!!]](2009年2月28日、フジテレビ)VTR出演
* [[VS嵐]](2011年4月7日、2013年1月3日、フジテレビ)
* [[もしものシミュレーションバラエティー お試しかっ!]](2012年12月24日、2013年12月23日、2014年12月22日、テレビ朝日)
* [[FNS歌謡祭]](フジテレビ)
** [[1985 FNS歌謡祭]](1985年12月3日・12月17日)
** [[1991 FNS歌謡祭|'91 FNS歌謡祭]](1991年12月10日)
** [[1992 FNS歌謡祭|'92 FNS歌謡祭]](1992年12月8日)
** [[1993 FNS歌謡祭|'93 FNS歌謡祭]](1993年12月7日)
** [[1994 FNS歌謡祭|'94 FNS歌謡祭]](1994年12月6日)
** [[2012 FNS歌謡祭]](2012年12月5日)
** [[2013 FNS歌謡祭]](2013年12月4日)
** [[2014 FNS歌謡祭]](2014年12月3日)
* [[レッツGOアイドル]](テレビ東京)
* [[クイズダービー]](TBS)
* [[ザ・ベストテン]](TBS)
* [[夜のヒットスタジオ]](フジテレビ)
* [[ミュージックステーション]](テレビ朝日)
* [[ライオンのごきげんよう]](2014年11月3日、フジテレビ)
</div></div>
<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align: left;">ラジオ番組</div>
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* [[とんねるずのちゃだわ王国]]([[TBSラジオ|TBS]])
* [[とんねるずの二酸化マンガンクラブ]]([[文化放送]])
* とんねるずの一気スペシャル 天狗の友引大放送(1985年8月、[[ニッポン放送]])
* [[とんねるずのオールナイトニッポン]](1985年10月 - 1992年10月までの火曜1部を担当、ニッポン放送)
* [[もお! たいへん とんねるず]](ニッポン放送)
</div></div>
<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align: left;">CM</div>
<div class="NavContent" style="text-align: left;">
* [[森永製菓]]、[[おっとっと]]・[[ハイチュウ]]・[[チョコボール]]・[[パックンチョ]]・ドーナッチョ・ゾロ・アーモンドボールなど。CMデビュー作品。(1980年 - )
* [[ミドリのセパラー]](1982年)
* [[セガゲームス]](当時:セガ・エンタープライゼス) [[SC-3000]] (1983年)
* [[出光興産]]、SKIDGUARD(子会社が製造していたオリジナルブランドのタイヤ)CM、91’夏の洗車篇CM、ゼアス及びスーパーゼアスガソリン、出光 UCARD、まいどカード、出光カード、企業CM(89’動き始める・MOTION篇、94’なんで?出光なんで?篇他)
* [[カシオ計算機|カシオ]]、WHAT'S NEW
* [[ダイハツ工業]]、[[ダイハツ・シャレード#2代目 G11系(1983年 - 1987年)|シャレード「ラブリー」「ル・ブラン」]] (1986年)
* [[日清食品]]、[[日清焼そばU.F.O.|焼そばUFO]]
* [[富士フイルム]]、ビデオテープ「DCシリーズ」(SUPER HG、SUPER AG)
* [[ミズノ]]、ランバード、ランバードプロケードED
* [[UCカード]]、CLUB[ef]
* [[ヤクルト本社]]、珈琲たいむ
* [[資生堂]]、メンズムース、ウェットフィニッシュ、メンズリンプー
* [[サッポロビール]]、黒ラベル
* [[サントリー]]、レゼルブワイン、モルツ
* [[ミツカン]]、ミツカン酢、おむすび山
* [[パイオニア]]、[[レーザーディスク|LASER DISK]]「CLD-100」(1989年)、「CLD-110」(1990年)、「CLD-313/CLD-616/CLD-919」(1990年)
* [[東芝]]、BAZOOKA
* [[リクルートホールディングス|リクルート]]、週刊就職情報
* [[NTTパーソナル]]、パルディオ
* [[清水建設]]
* インターナショナル・トレーディング(G.T.ホーキンス日本総代理店)、ホーキンストラベラー
* [[日本ケンタッキー・フライド・チキン|ケンタッキーフライドチキン]]
* [[日本中央競馬会]](JRA)、夏競馬
* [[日産自動車]] [[ブルーバード販売会社]](1991年)
* [[スズキ (企業)|スズキ]] [[カルタス]](1990年)「とんねるずのみなさんのおかげです」の企画CM。当時の[[トヨタ・セリカ]]のCMの[[パロディ]]。
* [[マツダ]] [[マツダ・ファミリア|ファミリア]] (1995年)
* [[ROUND1]](1999年)
* [[明治安田生命保険|明治生命]]「ライフアカウントL.A.」(2000年 - 2001年)
* [[ロッテ]]、SPASH(2008年9月26日- )[[矢島美容室]]として出演。[[長澤まさみ]]・[[DJ OZMA]]・[[古田新太]]と共演。
</div></div>
<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align: left;">映画</div>
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* [[そろばんずく]]([[1986年]]、[[東宝]])
# 第10回[[日本アカデミー賞]]話題賞
# 第26回(1988年度)[[ゴールデン・アロー賞]]芸能賞
# [[ザテレビジョン]]ATP'89タレント部門賞番組部門特別賞
* [[ウルトラマンゼアス]]([[1996年]]、[[松竹]])
* [[ウルトラマンゼアス2 超人大戦・光と影]]([[1997年]]、[[松竹]])
* [[銃声 LAST DROP OF BLOOD]]([[2003年]]、[[ザナドゥー (企業)|ザナドゥー]])
</div></div>
<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align: left;">舞台</div>
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* こんと いん なえば(1991年 - 2000年)
*: 1991年より苗場プリンスホテルで10年間続いたコントライブ。2000年以外(2月11日 - 2月13日)は毎年3月初旬に金土日の3日間で開催。木梨の誕生日や翌日の松田聖子の誕生日に重なることがあり、毎年木梨がそのことに触れていた。
*: きっかけはプライベートで作曲家の後藤次利と見に行った[[松任谷由実]]の苗場ライブで、見に行った年がちょうど10回目だったことから、石橋は「こんな素敵なステージで10年間コントライブをやってみたい。」とライブ後ユーミンといっしょにお酒を飲んでいた席で話をして、ユーミンが苗場プリンス関係者を紹介し、翌年から始まった。
*: 元々舞台上に一切のセット無しで己の体ひとつで笑いや感動を与えている[[イッセー尾形]]の『一人芝居』に触発されていた。
*: 2000年ファイナルの模様が収められたビデオが全2巻で発売されている。
</div></div>
{{節スタブ}}
== 受賞歴 ==
; 素人時代
1979年
* [[TVジョッキー]]ザ・チャレンジ第3代チャンピオン獲得(石橋)
* TVジョッキーザ・チャレンジ第1回グランドチャンピオン大会にて初代グランドチャンピオン獲得(石橋)
1980年
* TVジョッキーザ・チャレンジ第5代チャンピオン獲得(木梨)
* TVジョッキーザ・チャレンジ第3回グランドチャンピオン大会にて第3代グランドチャンピオン獲得(木梨)
; デビュー後
1981年
* [[お笑いスター誕生!!]]第2回ゴールデンルーキー賞特別敢闘賞
1982年
* お笑いスター誕生!!10週勝ち抜き第6代グランプリ獲得
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!colspan=3 style="background:#A4FF3C;"|お笑いスター誕生での戦歴
|-
| 1980年7月12日 -
! 貴明&憲武
| (グランプリシリーズ)アマチュアとして挑戦。5週目で落選。
|-
| 1981年5月9日 -
! rowspan="3"|とんねるず
| (グランプリシリーズ)改名しプロとして挑戦。5週目から再挑戦、10週目で落選。
|-
| 1981年7月4日 - 82年1月3日
| ●第2回ゴールデンルーキー賞<br>「激突シリーズ」(グランプリシリーズ「銀賞」<ref group="注">「銀賞」とは、グランプリシリーズを5週勝ち抜きした者が貰える賞。</ref>獲得者から15組エントリー)と<br>「決戦シリーズ」を勝ち抜き「最終決戦」へ。<br>優勝は[[アゴ&キンゾー]]となり特別敢闘賞(事実上の第2位)。
|-
| 1982年4月10日
|(グランプリシリーズ)10週目再挑戦合格、グランプリ獲得。
|}
1985年
* 第18回[[全日本有線放送大賞]]上半期新人賞「一気!」
* 第18回[[日本有線大賞]]最優秀新人賞 「雨の西麻布」
* 第18回全日本有線放送大賞最優秀新人賞 「雨の西麻布」
* 第14回[[FNS歌謡祭]]特別賞「雨の西麻布」
* 第11回[[全日本歌謡音楽祭]]話題賞
* 第23回[[ゴールデン・アロー賞]]芸能賞新人賞
1986年
* 第14回[[銀座音楽祭]]特別賞
* 第5回[[メガロポリス歌謡祭]]特別賞
* 第12回全日本歌謡音楽祭特別賞
1987年
* 第10回[[日本アカデミー賞]]話題賞 「そろばんずく」
1988年
* 第26回ゴールデンアロー賞芸能賞
1989年
* 第6回[[ATP賞]]'89タレント部門賞
* 第6回ATP賞'89番組部門賞 「ねるとん紅鯨団(IVSテレビ制作/KTV)」
1991年
* 第22回[[日本歌謡大賞]]大賞 「情けねえ」
1996年
* [[第38回日本レコード大賞]]企画賞(憲三郎&ジョージ山本) 「浪漫〜ROMAN〜」
1999年
* [[第41回日本レコード大賞]]企画賞(野猿) 「STAFF ROLL」
== 音楽活動 ==
とんねるず以前にも、お笑い芸人(コメディアン)の音楽活動はあったが、企画物としてではなく、まったくの独立したプロアーティストとしての成功した前例は無かった。コンスタントにランキング上位入りさせるヒット曲を量産、音楽賞受賞、数十か所に及ぶ全国コンサートツアーを開催するなど、音楽界での実績も残している。(お笑い芸人音楽作品総売上枚数(ソロ・参加ユニット込み)歴代1位※[[オリコンチャート|オリコン]]調べ)
=== 変遷 ===
==== 1980年代 ====
1981年、コンビ名を「貴明&憲武」から「とんねるず」へと改名し、『お笑いスター誕生!!』に挑戦していた最中に、テレビ番組で初レギュラーとなった『[[モーニングサラダ]]』に出始めの駆け出しの無名新人だった彼らが、テレビアニメ『[[ど根性ガエル|新・ど根性ガエル]]』の主題歌にいきなり抜擢され「[[ピョン吉・ロックンロール]]」を初のシングルとして発売。翌年、1982年には[[徳間ジャパンコミュニケーションズ|徳間ジャパン]]から企画物シングル「[[ヤバシびっちな女(め)デイト・ナイト|ヤバシびっちな{{Ruby|女|め}}デイト・ナイト]]」を発売する。その後コンビの人気が開花し始めた時期に、[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター音楽産業]]に籍を置き、1984年12月リリースの「[[一気!]]」(一気ブームを巻き起こす)を皮切りに音楽活動が本格始動していく。自身最初の[[オリコン]]TOP10入り(5位)となった「[[雨の西麻布]]」で歌手としての知名度も一段と上がり、ランキングの上位常連となっていった。
評価を受けた彼らは、[[音楽に関する賞|数々の音楽賞]]レースにノミネートされ、賞を獲得していった。(''[[とんねるず#受賞歴|受賞歴]] を参照''。)
当時は多くの音楽番組にも出演していき『[[ザ・ベストテン]]』([[TBSテレビ|TBS]])、『[[夜のヒットスタジオ]]』『[[FNS歌謡祭]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]])、『[[トップテンシリーズ|トップテン]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])、『[[ミュージックステーション]]』([[テレビ朝日]])などに出演。
1986年5月リリースの「やぶさかでない」から、レコード会社をビクター音楽産業から[[ポニーキャニオン|キャニオンレコード(現:ポニーキャニオン)]]に移籍している。
1988年秋、『ザ・ベストテン』と[[裏番組|同時間帯]]で『とんねるずのみなさんのおかげです』を始めたこともあり、それ以降は『ザ・ベストテン』に配慮して同番組が放送終了した1989年9月まではシングル発売を控えた。コンスタントにシングルを出してきた彼らであったが、結局『ザ・ベストテン』が放送終了後もシングルは暫く発売されず、1988年7月発売の「[[YAZAWA (とんねるずの曲)|YAZAWA]]」から1991年5月発売の「[[情けねえ]]」までの約3年間で発売したシングルは、『とんねるずのみなさんのおかげです』を半年間休止(代替番組は『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』)していた間に放送された日本テレビ系列土曜グランド劇場『[[火の用心]]』の主題歌「[[どうにかなるさ (とんねるずの曲)|どうにかなるさ]]」([[伊集院静]]作詞)のみであった。
1989年11月7日には「とんねるず NO TEUCHI」と題して[[東京ドーム]]での単独コンサートを行っている。
音楽活動開始初期(ビクター在籍時からキャニオン移籍初期)は「一気」などのコミックソングのような曲を歌っており、「[[雨の西麻布]]」「[[歌謡曲 (とんねるずの曲)|歌謡曲]]」「[[迷惑でしょうが…]]」などの日本歌謡、「[[嵐のマッチョマン]]」「[[炎のエスカルゴ]]」などのラテン系ディスコソングなど、様々なジャンルを展開した。
==== 1990年代 ====
人気絶頂を迎えていた彼らは本業のお笑いタレント活動に再び軸足を置いた事もあり、一時期歌手活動は減り(但しコンサートツアーは毎年コンスタントに開催している)、1990年前後のシングル発売はほとんど無かったが、久々のシングル発売となった1991年5月リリース「[[情けねえ]]」を転機に、歌手としてもさらに大きな飛躍を迎える。「情けねえ」では数か月もの間[[オリコンチャート]]の上位に位置するロングヒットを記録。同曲にてその年の第22回[[日本歌謡大賞]]の大賞を受賞。ついには[[第42回NHK紅白歌合戦]]に初出場を果たした。紅白では[[パンツ]]1丁で出演して「[[受信料]]を払おう」というペインティングをして話題になり、歌手別視聴率では2位を記録した(なお1位は大トリの[[谷村新司]])。
次のシングル「[[ガラガラヘビがやってくる]]」では初のオリコン1位を獲得し、[[ミリオンセラー]]を記録する自身最大のヒット曲となった。1992年度の年間シングルチャートでは6位を獲得。当初この楽曲は『とんねるずのみなさんのおかげです』のオープニングテーマ用としてサビのみ書き下ろされ、CD化されるにあたり、その後サビ以外の部分も作曲して発売された。番組オープニングで曲といっしょに映像で流れていた[[クレイアニメ|クレイアニメーション]]は、その後「がじゃいも」等々で使われる。
その後、「[[一番偉い人へ]]」では2週連続1位を獲得。「[[がじゃいも]]」でも1位を獲得した。続く「[[フッフッフッってするんです]]」もヒット。1990年代に入ってからは「ガラガラヘビがやってくる」や「がじゃいも」などのコミックソングの一方で、「情けねえ」や「一番偉い人へ」などの社会風刺を含んだメッセージ色の強い曲が主体になっていく。
==== 活動休止後(企画ユニット時代) ====
1996年シングル「[[おまえが欲しい]]」のリリースを最後に、「とんねるず」名義での音楽活動は事実上休止しているが、以降も様々なスタイルのユニットを組んで活動を続けている。
* '''生ダラ発ユニット(1996 - 1997年)'''
木梨は1996年に[[山本譲二]]との演歌デュオ「[[憲三郎&ジョージ山本]]」を結成。[[北島三郎]](原譲二名義)作詞作曲による「[[浪漫-ROMAN-]]」で、売上20万枚超のヒットを飛ばし、その年の『[[第47回NHK紅白歌合戦]]』に出場を果たしている。歌手別視聴率では4位を記録した。一方石橋は、自らがプロデューサーとなってヒットを生みだすと意気込んで始まった企画で、1997年に[[工藤静香]]とのデュオ「[[Little Kiss]]」を結成する。[[三貴|三貴・カメリアダイヤモンド]]のコマーシャルソングとなった「[[A.S.A.P. (曲)|A.S.A.P.]]」はオリコンランキングでトップ3入りし、売上50万枚のヒット。また[[定岡正二]]と[[デビット伊東]]との3人組バンドで、作曲に[[佐野元春]]が参加した「[[ANDY'S]]」(当初のユニット名は「生殺(なまごろし)」だったが、[[神戸連続児童殺傷事件]]の影響で改名)も結成しており、シングル「[[FREEDOM (ANDY'Sの曲)|FREEDOM]]」をトップ10入りさせるなどヒットさせている(全て『[[とんねるずの生でダラダラいかせて!!]]』内で結成)。1997年暮れには、当番組で結成した全ての音楽ユニット(CD発売されなかった「サーフノリダーズ」などを含む)が集結し、合同コンサートを[[渋谷公会堂]]で開き完結した。その後、音楽系の企画は「とんねるずのみなさんのおかげでした」に引き継がれていく。『生ダラ』でのユニットは全て石橋か木梨のどちらか一方のみが参加するというユニット形態での音楽活動だった。
* '''野猿(1998 - 2001年)'''
1998年、『[[とんねるずのみなさんのおかげでした]]』内で番組スタッフと結成した「[[野猿]](やえん)」で、2年ぶりに2人揃って音楽活動を再開することになる。当時番組のコーナーでとんねるずが[[KinKi Kids]]のパロディをした際、バックダンサーとして踊っていた番組スタッフが2人の目に止まり、「CDデビューあるか?」と話が盛り上がりスタートした。元々スタッフのみで結成する予定だったが、ボーカルを決めるオーディションを行った際、まともに歌えるメンバーが少なかったために、ボーカル面で不安を感じた秋元の助言で、一緒に審査していたとんねるずが急遽歌収録に参加することになり、そのまま加入する運びとなった。当初は1曲限定の思い出作りであったが反響が大きく、最終的には98年から01年までの約3年間活動が行われた。当グループでは、メンバーの脱退や加入など、曲リリース毎に様々な展開がなされた。活動期間内に計11枚のシングル、3枚のアルバムがリリースされ、全てのCDがオリコンチャートトップ10入りを果たす。NHK紅白歌合戦にも1999年と2000年に2年連続で出場。また1999年には[[横浜アリーナ]]、2000年には[[日本武道館]]3デイズ、2001年にはコンサートツアー「撤収」を開催し[[大阪城ホール]]、[[名古屋レインボーホール]]、[[国立代々木競技場第一体育館]]3デイズ、更に「完全撤収」と題して同所で追加公演2デイズと大きな会場でのライブも行われた。この代々木でのライブを最後に野猿は解散(『撤収』と呼んでいる)した。そして撤収して10年の節目を迎えた2011年3月9日には、全ての楽曲(全50曲)の着うた配信を開始した。野猿撤収後は再び、それぞれが単独で音楽活動を継続する。(''単独での音楽活動は[[石橋貴明]]、[[木梨憲武]]を参照。'')
* '''矢島美容室(2008年 - 2010年、2012年3月)'''
2008年、『とんねるずのみなさんのおかげでした』内で[[DJ OZMA]]と「[[矢島美容室]]」を結成。7年以上の月日を経て2人が揃って音楽活動を再開。「矢島工務店」を見てバンドを始めたというDJ OZMAと話が盛り上がり企画がスタートした。とんねるずとDJ OZMAのプロデュースで、[[ネバダ州]]から来た母娘による3人ユニットである。楽曲は作詞が脚本家・放送作家の[[遠藤察男]]が担当、作曲はDJ OZMA自らが担当している。デビュー曲「[[ニホンノミカタ -ネバダカラキマシタ-]]」は、音楽配信で170万ダウンロードを記録(2008年当時)。オリコンCDチャートでトップ3入りのヒットを飛ばす。同年12月20日には国立代々木競技場第一体育館でライブを開催。その後も活動は継続され、計5枚のシングル、2枚のアルバムがリリースされている。2010年にはスクリーンデビューを果たす。彼女達がデビューを果たすまでを描いた映画『[[矢島美容室 THE MOVIE 〜夢をつかまネバダ〜]]』が4月29日から全国公開。全国上映に先駆けて3月22日に[[東京国際フォーラム]]、4月11日に建設中の[[東京スカイツリー]]で初めてのイベントとなった映画公開イベントを開催。また舞台挨拶が東京、福岡、大阪、名古屋で開催された。
その後、フジテレビ社屋移転15周年音楽番組『とんねるずが生放送!音楽番組全部見せます!〜名曲で元気になろう!』にて復活。「ニホンノミカタ」を披露した。
==== 幻の楽曲(2005年) ====
しかし実は、野猿解散(2001年3月)と矢島美容室初披露(2008年9月)の間の時期にあたる2005年、[[大瀧詠一]]が作曲、[[糸井重里]]が作詞し、二人のレコーディングまで済ませていたとんねるずの新曲「ゆうがたフレンド」が存在していた事が後に石橋の口から明かされる{{Efn2|2023年3月19日放送『石橋貴明のGATE7』(TBSラジオ)にて石橋により明かされた。}}。「とんねるずのみなさんのおかげでした」のOP曲として石橋が大滝詠一に依頼したこの曲は、石橋が意図していた方向性とは違うフォーク調の楽曲だったことから世に出ずお蔵入りとなり、翌2006年、詞とタイトルはそのままで[[ムーンライダーズ]]の楽曲として発表されていた。
==== 2010年代 ====
目立った歌手活動は行っていなかったが、2012年3月の木梨のソロライブ『NORITAKE GUIDE 5.0』の最終日に石橋がサプライズ登場し、「一番偉い人へ」「迷惑でしょうが」「情けねえ」を久しぶりに客前でライブパフォーマンスした。また自身のテレビ番組や『FNS歌謡祭』に2012年から3年連続で出演するなど、二人で歌のステージに立つ機会は度々あった。2018年3月の「とんねるずのみなさんのおかげでした」最終回では、作曲家の後藤次利、藤井尚之ら豪華メンバーによる生バンドで「情けねえ」を披露している。
==== 令和元年 - 現在 ====
2019年秋、同時期に二人が個々の歌活動を開始した。
木梨は9月14日、自身が出演していた「[[氣志團万博]]2019」にて、自社レーベル『[[UNIVERSAL MUSIC JAPAN|木梨レコード]]』を立ち上げ初のソロ歌手デビューすることを発表。10月24日に配信EP『[[木梨ファンク 〜NORI NORI NO-RI〜]]』でデビューし配信系チャートで6冠、12月11日発売のアルバム『[[木梨ファンク ザ・ベスト]]』では8冠を獲得した。2022年現在、計4作のEP、1作のアルバムをリリースしている。また音楽番組の出演、ライブや『'''木梨フェス'''』を開催するなど、歌手活動を活発に行っている。
石橋は9月17日、元野猿メンバーの平山晃哉と神波憲人との3人組ユニット『[[B Pressure]]』の結成を発表。彼らの楽曲を数多く手がけてきた秋元康、後藤次利コンビによる1stシングル『[[Freeze (B Pressureの曲)|Freeze]]』で11月1日にインディーズからデビュー。御披露目ライブ『サビ落とし』と題したライブハウスツアーを行う。しかしその直後に[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス(COVID-19)]]の感染拡大で活動が困難となり活動休止となった。その後自身のYouTubeチャンネル「貴ちゃんねるず」で演出家の[[マッコイ斎藤]]氏と『[[Ku-Wa de MOMPE]]』というユニットを組み、2020年10月2日に配信シングル『[[Stranger to the city]]』をリリースし、配信ランキングでランクインする。
その中、とんねるずとしては、2020年1月22日からポニーキャニオン時代の楽曲、2021年7月28日からビクター時代の楽曲が、各種インターネット配信サイト([[サブスクリプション]]サービスを含む)にて配信が開始された<ref>[https://news.ponycanyon.co.jp/2020/01/36567 とんねるず、2020年1月22日、音楽配信開始! | PONYCANYON NEWS]</ref>。
また、前述の幻の曲『ゆうがたフレンド』も、2023年3月21日リリースの大瀧詠一の企画アルバム『[[大滝詠一 NOVELTY SONG BOOK/NIAGARA ONDO BOOK]]』に収録され、制作から18年後にようやく日の目を見ることとなった。とんねるずの楽曲としては1996年リリースの『おまえが欲しい』以来27年ぶりとなる。
=== NHK紅白歌合戦出場歴 ===
{| class="wikitable"
|-
!年度/放送回!!名義!!回!!曲目!!出演順!!対戦相手
|-
|[[1991年]](平成3年)/[[第42回NHK紅白歌合戦|第42回]]||'''とんねるず'''||'''初'''||情けねえ||22/56||山本リンダ
|-
|[[1996年]](平成8年)/[[第47回NHK紅白歌合戦|第47回]]||'''憲三郎&ジョージ山本'''(木梨)||'''初'''||浪漫〜ROMAN〜||31/50||瀬川瑛子
|-
|[[1999年]](平成11年)/[[第50回NHK紅白歌合戦|第50回]]||rowspan="4"|'''野猿'''||'''初'''||Be Cool!||27/54||浜崎あゆみ
|-
|[[2000年]](平成12年)/[[第51回NHK紅白歌合戦|第51回]]||2||Chicken guys||32/56||鈴木あみ
|}
※木梨は3回初出場をしており、NHK紅白歌合戦最多『初出場』記録を持っている。後に、[[後藤真希]]もこれに並んでいる。
=== 作家陣 ===
とんねるずや関連ユニット(野猿など)全般の楽曲の作詞を担当している[[秋元康]]、作曲を担当している[[後藤次利]]などのほか、のちに美空ひばりの「[[川の流れのように]]」を秋元と共に生みだすことになる[[見岳章]]や、友人であるアーティスト([[高見沢俊彦]]、[[玉置浩二]]、[[藤井フミヤ]]、[[久保田利伸]])らが楽曲を提供している。これは、ビクター時代から一貫しており、「バックの音源をしっかり作って、その中でとんねるずを自由に暴れさせる」という音楽制作コンセプトがあったためである。
1995年にリリースしたアルバム『おまえ百までわしゃ九十九まで』は歌謡活動10周年を記念するアルバムとあって、[[武豊]]、[[野茂英雄]]、[[畑正憲]]、[[由利徹]]、[[所ジョージ]]、[[落合信子]]([[落合博満]]の妻)、[[アントニオ猪木]]などが詞を提供している。これは『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』の企画として、制作から完成までの過程が放映されていた。
アルバム収録の「ブラックキャッツ!」では石橋と木梨の共作での作詞・作曲、シングル「[[YAZAWA (とんねるずの曲)|YAZAWA]]」のカップリング「[[YAZAWA (とんねるずの曲)|かき氷は宇治金時]]」では作詞石橋、作曲木梨(実際は後藤次利が作曲の大部分をサポートしているがクレジットはされていない。しかしこの件に関して後藤は了承している)という自作曲も少ないながら存在する。
また世に出る事は無かったが、レコーディングまで済ませていた[[大瀧詠一]]作曲、[[糸井重里]]作詞の幻のとんねるず楽曲がある事を後に石橋が明かしている<ref>{{cite news |url= https://hochi.news/articles/20200902-OHT1T50036.html?page=1|title=「とんねるず」石橋貴明、大瀧詠一さんが作曲した「とんねるず」の幻の曲を明かす「多分、大瀧さんの家のライブラリーにあります」 |publisher=スポーツ報知 |date=2020-09-02 |accessdate=2020-09-03}}</ref>。しかし2023年3月に大滝詠一の企画アルバムに収録され発売された。ちなみにこの曲が大瀧詠一の遺作となった。
=== その他 ===
* 音楽活動時のツアーバックバンドには[[DREAMS COME TRUE]]結成前の[[吉田美和]](1988年参加)と[[中村正人]](1985年 - 1988年参加)の2人が在籍していた。中村は当時デビュー前の吉田に、大勢の観客との一体感、雰囲気を体感させるため、バックコーラスとしてとんねるずのライブツアーに同行させた。
== 作品 ==
他の関連作品については、「[[石橋貴明#音楽作品|石橋貴明]]」''、''「[[木梨憲武#音楽作品|木梨憲武]]」''、''「[[野猿#作品|野猿]]」''、''「[[矢島美容室#作品|矢島美容室]]」''の作品を参照。順位はオリコン週間ランキング最高位。
=== シングル ===
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
! # !! 発売日 !! タイトル !! 形態 !! 規格品番 !! レーベル !! 順位 !! サブスク配信
|-
! 1
| 1981年8月25日 || ''' [[ピョン吉・ロックンロール]]''' || rowspan="2" | EP || 10007-07<br>10214-07 || [[バップ]] ||――|| ――――――――
|-
! 2
| 1982年7月25日 || ''' [[ヤバシびっちな女(め)デイト・ナイト|ヤバシびっちな{{Ruby|女|め}}デイト・ナイト]] ''' || JAS-2036 || [[徳間ジャパン]] ||――|| ――――――――
|-
!colspan="8" style="background:#E3FCFF;"|正式デビュー
|-
! 3
| 1984年12月5日 || ''' [[一気!]] ''' || rowspan="2" | EP || SV-7459 || rowspan="4"| [[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター音楽産業]] ||19位||rowspan="4"|2021年7月28日 -
|-
! 4
| 1985年4月21日 || ''' [[青年の主張 (曲)|青年の主張]] ''' || SV-9009 || 15位
|-
! 5
| 1985年9月5日 || ''' [[雨の西麻布]] ''' || EP<br>8cmCD|| SV-9054<br>VIDL-10391 || 5位
|-
! 6
| 1986年1月21日 || ''' [[歌謡曲 (とんねるずの曲)|歌謡曲]] ''' || EP || SV-9088 || 2位
|-
! 7
| 1986年5月28日 || ''' [[やぶさかでない]] '''|| rowspan="9" | EP<br>8cmCD || 7A-0587<br>S10A-0073 || rowspan="17"|[[ポニーキャニオン]] || 2位 || rowspan="17"|2020年1月22日 -
|-
! 8
| 1986年8月5日 || ''' [[寝た子も起きる子守唄]] ''' || 7A-0612<br>S10A-0074 || 4位
|-
! 9
| 1986年10月21日 || ''' [[人情岬]] ''' || 7A-0643<br>S10A-0075 || 2位
|-
! 10
| 1987年2月25日 || ''' [[嵐のマッチョマン]] ''' || 7A-0693<br>S10A-0076 || 2位
|-
! 11
| 1987年4月5日 || ''' [[迷惑でしょうが…]] ''' || 7A-0721<br>S10A-0077 || 5位
|-
! 12
| 1987年6月5日 || ''' [[大きなお世話サマー]] ''' || 7A-0734<br>S10A-0078 || 3位
|-
! 13
| 1987年9月17日 || ''' [[おらおら]] ''' || 7A-0768<br>S10A-0079 || 3位
|-
! 14
| 1988年2月25日 || ''' [[炎のエスカルゴ]] ''' || 7A-0816<br>S10A-0006 || 7位
|-
! 15
| 1988年7月6日 || ''' [[YAZAWA (とんねるずの曲)|YAZAWA]] ''' || 7A-0864<br>S10A-0104 || 9位
|-
! 16
| 1990年8月8日 || ''' [[どうにかなるさ (とんねるずの曲)|どうにかなるさ]] ''' ||rowspan="8"|8cmCD || PCDA-00104 || 7位
|-
! 17
| 1991年5月29日 || ''' [[情けねえ]] ''' ||PCDA-00191 || 3位
|-
! 18
| 1992年1月24日 || ''' [[ガラガラヘビがやってくる]] ''' || PCDA-00279 || 1位
|-
! 19
| 1992年9月3日 || ''' [[一番偉い人へ]] ''' || PCDA-00355 || 1位
|-
! 20
| 1993年1月28日 || ''' [[がじゃいも]] ''' || PCDA-00397 || 1位
|-
! 21
| 1994年2月24日 || ''' [[フッフッフッってするんです]] ''' || PCDA-00515 || 2位
|-
! 22
| 1994年12月7日 || ''' [[ガニ]] ''' || PCDA-00683 || 6位
|-
! 23
| 1996年2月12日 || ''' [[おまえが欲しい]] ''' || PCDA-00829 || 12位
|}
=== アルバム ===
==== オリジナル・アルバム ====
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
! # !! 発売日 !! タイトル !! 形態 !! 規格品番 !! レーベル !! 順位 !! サブスク配信
|-
! 1
| 1985年3月21日 || ''' [[成増 (アルバム)|成増]] '''|| rowspan="2" | LP<br>12cmCD<br>12cmCD || SJX-30265<br>VICL-18112<br>VDR-1018 || rowspan="2"| ビクター音楽産業 || 10位||rowspan="2"|2021年7月28日 -
|-
! 2
| 1985年11月1日 || ''' [[仏滅そだち]] ''' || SJX-31280<br>VICL-18113<br>VDR-1096 || 5位
|-
! 3
| 1986年12月28日 || ''' [[キャニオン初]] ''' || LP<br>12cmCD || C28A-0544<br>D32A-00263 || rowspan="10"| ポニーキャニオン ||10位|| rowspan="10"|2020年1月22日 -
|-
! 4
| 1987年10月21日 || ''' [[河口湖 (アルバム)|河口湖]] ''' || rowspan="2" | LP<br>12cmCD || C28A-0598<br>D32A-0318 || 5位
|-
! 5
| 1988年4月29日 || ''' [[428 (アルバム)|428]] ''' || C28A-0635<br>D32A-0360 || 5位
|-
! 6
| 1989年5月17日 || ''' [[市川と宮嶋]] ''' ||rowspan="7"|12cmCD || D29A-1011 || 5位
|-
! 7
| 1990年6月27日 || ''' [[ほのちゃんにはがはえた。]] ''' || PCCA-00089 || 13位
|-
! 8
| 1991年7月10日 || ''' [[みのもんたの逆襲]] ''' || PCCA-00284 || 4位
|-
! 9
| 1992年7月24日 || ''' [[がむしゃら]] ''' || PCCA-00381 || 5位
|-
! 10
| 1993年9月17日 || ''' [[悪い噂]] ''' || PCCA-00484 || 6位
|-
! 11
| 1994年9月15日 || ''' [[Arrival (とんねるずのアルバム)|Arrival]] ''' || PCCA-00632 || 10位
|-
! 12
| 1995年7月5日 || ''' [[おまえ百までわしゃ九十九まで]] ''' || PCCA-00778 || 6位
|}
==== ミニ・アルバム ====
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
! # !! 発売日 !! タイトル !! 形態 !! 規格品番 !! レーベル !! 順位 !! サブスク配信
|-
! 1
| 1988年1月1日 || ''' [[御年賀]] ''' || LP || C15A-0619 || rowspan="2"|ポニーキャニオン || 7位 || rowspan="2"|2020年1月22日 -
|-
! 2
| 1992年5月5日 || ''' [[無痛音楽教育 3才からのとんねるず]] ''' || 12cmCD || PCCA-00367 || 5位
|}
==== 企画アルバム ====
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
! # !! 発売日 !! タイトル !! 形態 !! 規格品番 !! レーベル !! 順位 !! サブスク配信
|-
! 1
| 1986年8月21日 || ''' [[そろばんずく#サウンドトラック|そろばんずく]] ''' || LP<br>12cmCD || 28P-6568<br>D32A-0216 || rowspan="2"|ポニーキャニオン || 15位 || 2020年1月22日 -
|-
! 2
| 1987年3月21日 || ''' [[真塩]] ''' || CT || 28P-6647 || ―― || ――――――――
|}
==== ベスト・アルバム ====
'''公式'''
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
! # !! 発売日 !! タイトル !! 形態 !! 規格品番 !! レーベル !! 順位 !! サブスク配信
|-
! 1
| 1986年4月25日 || '''[[自歌自賛 ザ・ベスト・オブとんねるず]] ''' || LP<br>12cmCD || SJX-30293<br>VDR-1205 || ビクター音楽産業 || 9位 || 2021年7月28日 -
|-
! 2
| 1994年6月17日 || ''' [[とんねるずベスト 足跡]] ''' || 12cmCD || PCCA-00606 || ポニーキャニオン || 5位 || 2020年1月22日 -
|}
'''非公式'''
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
! # !! 発売日 !! タイトル !! 形態 !! 規格品番 !! レーベル
|-
! 1
| 1986年12月16日 || ''' 紅白! ''' || rowspan="4"|12cmCD || VDR-1313 || ビクター音楽産業
|-
! 2
| 1987年12月5日 || ''' とんねるずベスト ''' || D32P-6158<br>D35A-0503 || ポニーキャニオン
|-
! 3
| 1989年3月21日 || ''' CD FILE とんねるず ''' || VDR-25032 || rowspan="4"|ビクター音楽産業<br>(ビクターエンタテインメント)
|-
! 4
| 1991年11月7日 || '''とんねるずの世界 アーリー・ベスト・オブ・とんねるず ''' || VDR-28002
|-
! 5
| 2005年3月24日<br />2016年2月17日|| '''[[COLEZO! とんねるず]] ''' || 12cmCD<br />[[スーパー・ハイ・マテリアルCD|SHM-CD]]|| VICL-23107<br />VICL-70207
|-
! 6
| 2009年9月16日<br />2016年2月17日 || '''[[GOLDEN☆BEST とんねるず 〜ビクター・イヤーズ・コンプリート]] ''' || 12cmCD<br />SHM-CD|| VICL-63425/6<br />VICL-70208/9
|}
=== 映像 ===
==== ライブ ====
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
! # !! 発売日 !! タイトル !! 形態 !! 規格品番 !! レーベル
|-
! 1
| 1986年2月21日 <br> 1986年3月21日 || ''' [[とんねるずの裏ビデオ in 武道館]] ''' || VHS<br>VHD || VTM-93<br>0DM-1037 || rowspan="2"|ビクター音楽産業
|-
! 2
| 1986年10月21日 || ''' [[気分は盆と正月]] ''' || VHS || V88M1430
|-
! 3
| 1990年12月27日 || ''' [[とんねるずの手打ちライブ|とんねるずの手打ちライブ PART1]] ''' || VHS || PCVP-10131 || rowspan="3"|ポニーキャニオン
|-
! 4
| 1991年3月21日 || ''' [[とんねるずの手打ちライブ|とんねるずの手打ちライブ PART2]] ''' || VHS || PCVP-10132
|-
! 5
| 1996年2月21日 || ''' [[おまえ百までわしゃ九十九まで 〜歌謡活動十周年記念コンサート〜]] ''' || VHS || PCVP-51852
|-
! 6
| 2002年6月30日 || ''' [[とんねるずのコント 〜こんと いん なえば 10年の凝縮LIVE〜|とんねるずのコント1 〜こんと いん なえば 10年の凝縮LIVE〜]] ''' || VHS || ZMVJ-1088 || rowspan="2"|[[メディアファクトリー]]
|-
! 7
| 2002年6月30日 || ''' [[とんねるずのコント 〜こんと いん なえば 10年の凝縮LIVE〜|とんねるずのコント2 〜こんと いん なえば 10年の凝縮LIVE〜]] ''' || VHS || ZMVJ-1089
|}
==== テレビ・映画 ====
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
! # !! 発売日 !! タイトル !! 形態 !! 規格品番 !! レーベル
|-
! 1
| 1986年11月21日 <br /> 2002年3月20日 || ''' そろばんずく ''' || VHS<br />DVD || V128F1429<br />PCBC-50194 || ポニーキャニオン
|-
! 2
| 1997年1月1日 || ''' [[ウルトラマンゼアス]] ''' || VHS || JVS-25011 || [[ソニー・ピクチャーズエンタテインメント|ソニー・ピクチャーズ<br />エンタテインメント]]
|-
! 3
| 1997年10月22日 <br /> 1998年8月21日 || ''' ウルトラマンゼアス2 ''' || VHS<br />VHD || SRVD-1949<br />SVWV-3015 || [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージック<br />エンタテインメント]]
|-
! 4
| 2004年8月27日 || ''' ウルトラマンゼアス1&2''' || DVD || BCBS-1964 || [[バンダイビジュアル]]
|-
! 5<br>6<br>7
| 2010年12月3日 || ''' [[博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜|とんねるずのみなさんのおかげでした<br>博士と助手 細かすぎて伝わらないモノマネ選手権]]'''<br>vol.1 「リカコと過ごした夏」 EPISODE1 - 5<br>vol.2 「ヴァ〜ヴァヴァンヴァヴァヴァヴァヴァ〜ヴァ〜ヴァン」 EPISODE6 - 8<br>vol.3 「平泉の乱」 EPISODE9 - 10 || DVD || ――――――<br>AVBD-91823<br>AVBD-91824<br>AVBD-91825 || rowspan="3"|[[エイベックス・エンタテインメント|エイベックス・<br>エンタテインメント]]
|-
! 8<br>9<br>10
| 2010年12月17日 || ''' とんねるずのみなさんのおかげでした<br>博士と助手 細かすぎて伝わらないモノマネ選手権'''<br />vol.4 「部屋と優香とリアルゴリラ」 EPISODE11 - 12<br />vol.5 「エイシャラエイシャー!」 EPISODE13 - 14<br>vol.6 「シーズン1ファイナル〜穴と哀しみの果てに〜」 EPISODE15|| DVD || ――――――<br>AVBD-91826<br>AVBD-91827<br>AVBD-91828
|-
! 11<br>12
| 2011年12月21日 || ''' とんねるずのみなさんのおかげでした<br>博士と助手 細かすぎて伝わらないモノマネ選手権Season2'''<br>vol.1「デオデオデオデオ」<br>vol.2 「紅白モノマネ合戦〜深夜3時の奇跡編」<br>|| DVD || ――――――<br>AVBF-49396<br>AVBF-49397
|-
! 13
| 2012年12月21日 || ''' [[夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル|とんねるずのスポーツ王は俺だ!!]]'''<br>「超一流アスリートに土下座させるぜ!<br>日本代表にだって絶対に負けられない戦いがここにはあるの巻」|| DVD || TCED-1638 || [[TCエンタテインメント]]
|-
! 14<br>15<br>16<br>17<br>18
| 2014年12月24日 || ''' とんねるずのみなさんのおかげでした 全落・水落オープンDVD-BOX'''<br>全落オープン 1巻<br>全落オープン 2巻<br>水落オープン 1巻<br>水落オープン 2巻 || DVD || PCBC-61734<br>PCBC-52393<br>PCBC-52394<br>PCBC-52395<br>PCBC-52396 || rowspan="3"|ポニーキャニオン
|-
! 19<br>20
| 2018年3月21日 || ''' とんねるずのみなさんのおかげでBOX'''<br>鑑賞用<br>保存用|| DVD ||――――――<br>PCBC-61768<br>PCBC-61769
|-
! 21<br>22<br>23<br>24
| 2019年5月22日 || ''' とんねるずのみなさんのおかげでBOX コンプライアンス(1.2.3)'''<br>1<br>2<br>3|| DVD ||PCBC-61777<br>PCBC-61778<br>PCBC-61779<br>PCBC-61780
|}
=== その他 ===
'''発売'''
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
! # !! 発売日 !! タイトル !! 形態 !! 規格品番 !! レーベル !! 収録アルバム
|-
! 1
| 2023年3月21日 || ''' ゆうがたフレンド''' || 12cmCD || SRCL-12450 || ソニー・ミュージック|| [[大滝詠一 NOVELTY SONG BOOK/NIAGARA ONDO BOOK]]
|}
'''未発売'''
{| class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
! # !! タイトル !! 生産番号 !! 備考
|-
! 1
| ''' [[これが出光のまいどCDだ。]] ''' || DC-0121<br />DC-0142 || 当時出光興産のガソリンスタンドのキャンペーン利用客のみが入手できたCD。
|-
! 2
| ''' [[ウルトラまいどCD]] ''' || DC-0157 || 非売品CD。
|-
! 3
| ''' うなちん ''' || || 「とんねるずのみなさんのおかげです」オープニングテーマ曲。<br />当初発売予定だったが、諸事情により中止となった。
|-
! 4
| ''' My Days''' || || 「とんねるずの本汁でしょう!」のコーナードラマ「なにわ広告しぐれ」テーマ曲。<br />作詞:じんましんや 作曲:後藤次利
|}
== コンサート ==
ワンマンライブや、数ヶ月に渡るコンサートツアーも毎年開催しており、数々の有名会場のステージに立っており、『ライブの聖地』と言われる[[日本武道館]]や、[[1989年]]には[[東京ドーム]]で5万人の大規模ライブを行っている。お笑いタレント単独の東京ドームライブはいまだに彼らだけの偉業である。
{|class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
! 開催年 !! 開催日 !! タイトル !! 会場
|-
| rowspan="2"|1985年
|
!colspan="1" style="background:#E3FCFF;"|とんねるず世直し行脚コンサート
| (公演日・会場等不明)
|-
| 5月3日
!colspan="1" style="background:#E3FCFF;"|カリスマとんねるずと1万3千人と信者たち
| [[よみうりランド]]EAST
|-
| rowspan="3"|1986年
| 1月4日
!colspan="1" style="background:#E3FCFF;"|ダフ屋も並べ
| 日本武道館
|-
|
!colspan="1" style="background:#E3FCFF;"|俺たちは眠らない
| (公演日・会場等不明)
|-
| 8月10日
!colspan="1" style="background:#E3FCFF;"|気分は盆と正月
| [[横浜スタジアム]]
|-
| rowspan="2"|1987年
|
!colspan="1" style="background:#E3FCFF;"|心の旅路
| (公演日・会場等不明)
|-
| 12月06日 - 1月3日
!colspan="1" style="background:#E3FCFF;"|世界大とんねるず博 TUNNELS WORLD SUPER EXPO `87-88
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;">一覧</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center;">
[[静岡市民文化会館]] [[宮城県民会館]] [[福岡サンパレス]] [[さっぽろ芸術文化の館|北海道厚生年金会館]] [[新潟県民会館]] [[愛知県勤労会館]] [[大阪厚生年金会館]](大) 日本武道館(2days)
</div></div>
|-
| rowspan="2"|1988年
| 5月15日 - 10月30日
!colspan="1" style="background:#E3FCFF;"|歓迎とんねるず様御一行ツアー
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;">一覧</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center;">
[[千葉県文化会館]] [[青森市文化会館]] [[八戸市公会堂]] [[宮崎市民会館]] [[鹿児島市民文化ホール]] [[九州厚生年金会館]] [[熊本市民会館]] [[岐阜市民会館]] [[四日市市文化会館]] [[茨城県民文化センター]] [[大宮ソニックシティ|埼玉産業文化センター]] [[群馬音楽センター]] [[長岡市立劇場]] [[福島県文化センター]] [[山形県民会館]] [[秋田県民会館]] [[高松市民会館]] [[倉敷市民会館]] [[島根県民会館]] [[舞鶴市総合文化会館]] [[京都会館]] [[フェニックス・プラザ|福井フェニックスプラザ]] [[富山市公会堂]] [[神奈川県民ホール]] [[徳山市文化会館]] [[神戸国際会館]] [[和歌山県民文化会館]] 北海道厚生年金会館 [[青函トンネル開通記念博覧会#函館EXPO|青函博 函館EXPO]] [[宇都宮市文化会館]] [[岩手産業文化センター]] [[名古屋市民会館]](2days) 新潟県民会館 [[渋谷公会堂]](2days) [[松山市民会館]] [[広島県立文化芸術ホール|広島郵便貯金会館]] 福岡サンパレス [[長崎市公会堂]] 大阪厚生年金会館(2days) [[金沢歌劇座|金沢市観光会館]] [[川崎市産業文化会館]] 静岡市民文化会館 宮城県民会館 [[郡山市民文化センター]] [[久留米市民会館]] [[下関市民会館]] [[姫路市文化センター]] [[沼津市民文化センター]] [[市川市文化会館]] [[越谷コミュニティセンター]] [[厚木市文化会館]] [[長野県民文化会館]] [[山梨県民文化ホール]] [[平市民会館]] 渋谷公会堂(2days)
</div></div>
|-
| 7月2日
!colspan="1" style="background:#E3FCFF;"|LOVE STAR DAY
| [[日比谷野外音楽堂]]
|-
| rowspan="2"|1989年
| 5月26日 - 8月27日
!colspan="1" style="background:#E3FCFF;"|<small>[[ヤクルト本社|ヤクルト]]珈琲たいむSpecial</small><br/>とんねるずがやってくる ヤア!ヤア!ヤア!
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;">一覧</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center;">
[[MZA有明]](2days)[[大宮ソニックシティ]] 郡山市民文化センター 宇都宮市文化会館 山梨県民文化ホール 宮城県民会館 神奈川県民ホール 富山市公会堂 金沢市観光会館 福井フェニックスプラザ 新潟県民会館 千葉県民会館 鹿児島市民文化ホール 熊本市民会館 宮崎市民会館 広島郵便貯金会館 [[愛知厚生年金会館]](2days) 京都会館 第一ホール 長崎市公会堂 福岡サンパレス 秋田県民会館 青森市文化会館 北海道厚生年金会館 大阪厚生年金会館(2days) [[愛媛県県民文化会館]] 静岡市民文化会館 [[群馬県民会館]] 渋谷公会堂(4days)
</div></div>
|-
| 11月7日
!colspan="1" style="background:#E3FCFF;"|とんねるず NO TEUCHI
| [[東京ドーム]]
|-
| rowspan="1"|1990年
| 8月2日 - 10月30日
!colspan="1" style="background:#E3FCFF;"|<small>ヤクルト珈琲たいむSpecial</small><br/>ROCK SHOW
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;">一覧</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center;">
越谷コミュニティセンター 宮崎市民会館 鹿児島市民文化ホール 熊本市民会館 静岡市民文化会館 横浜アリーナ 富山公会堂 金沢市観光会館 福井フェニックスプラザ 大阪厚生年金会館(3days) 愛媛県県民文化会館 [[香川県県民ホール]] [[広島県立文化芸術ホール|メルパルクホール広島]] 倉敷市民会館 [[千葉県文化会館]] 茨城県立文化県民センター 福岡サンパレス 長崎市公会堂 [[名古屋センチュリーホール]] 大宮ソニックシティ 群馬県民会館 郡山市民文化センター [[岩手県民会館]] 京都会館 神戸国際会館 北海道厚生年金会館 青森市文化会館 秋田県民会館 [[国立代々木競技場第一体育館]](2days)
</div></div>
|-
| rowspan="1"|1991年
| 7月27日 - 10月7日
!colspan="1" style="background:#E3FCFF;"|<small>[[日産自動車|NISSAN]] [[日産店|BLUEBIRD DEARERS]] SPECIAL</small><br/>日産に乗るのが夢だった
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;">一覧</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center;">
[[福生市民会館]](大) 渋谷公会堂 [[広島市文化交流会館|広島厚生年金会館]] 神戸国際会館 金沢市観光会館 神奈川県立県民ホール(大) 福岡サンパレス 宮崎市民会館 鹿児島市民文化ホール(第1) 熊本市民会館(大) 千葉県文化会館(大) 北海道厚生年金会館 郡山市民文化センター(大) 名古屋センチュリーホール 静岡市民文化会館(大) 大宮ソニックシティホール 青森市文化会館 秋田県民会館 [[仙台サンプラザ|仙台サンプラザホール]] 大阪厚生年金会館(大)(2days) 新潟県民会館 日本武道館
</div></div>
|-
| rowspan="1"|1992年
| 8月17日 - 10月6日
!colspan="1" style="background:#E3FCFF;"|<small>[[出光興産|出光]] MOTION SPECIAL</small><br/>あなたに会えてよかった状態
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;">一覧</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center;">
市川市文化会館 神奈川県民ホール 長崎市公会堂 宮崎市民会館 熊本市民会館 北海道厚生年金会館 青森市文化会館 大宮ソニックシティ 京都会館第一ホール [[北陸電力会館 本多の森ホール|石川厚生年金会館]] 名古屋センチュリーホール 神戸国際会館 静岡市民文化会館 福岡サンパレス 鹿児島市民文化ホール(大) 広島厚生年金会館 [[宜野湾市海浜公園]]野外劇場 仙台サンプラザホール 渋谷公会堂(2days)[[大阪城ホール]]
</div></div>
|-
| rowspan="1"|1993年
| 10月10日 - 11月4日
!colspan="1" style="background:#E3FCFF;"|<small>[[出光クレジット|出光MYDO CARD]] SPECIAL</small><br/>ナイアガラ ドロップ キック ツアー<ref group="注">ツアー名の「ナイアガラドロップキック」は、[[とんねるずの生でダラダラいかせて!!]]で石橋が[[定岡正二]]とのPK対決の際に定岡がその場で考えたシュート名であり、そのままツアー名に使われた。また、定岡は同番組の石橋との闘牛対決の罰ゲームで、同コンサートツアーの日本武道館にて前説を行なっている。</ref>
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;">一覧</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center;">
渋谷公会堂(2days) 市川市文化会館 仙台サンプラザ 大宮ソニックシティ 大阪厚生年金会館(大) 金沢市観光会館 名古屋センチュリー 福岡サンパレス 郡山市民文化センター 日本武道館
</div></div>
|-
| rowspan="1"|1994年
| 10月2日 - 12月17日
!colspan="1" style="background:#E3FCFF;"|<small>出光ゼアススペシャル</small><br/>CONCERT TOUR '94 Arrival
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;">一覧</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center;">
[[綾瀬市文化会館]] 静岡市民文化会館(大) 広島厚生年金会館 大阪厚生年金会館(大)(2days) 長崎市公会堂 福岡サンパレス(2days) 熊本市民会館 大宮ソニックシティーホール 市川市文化会館 [[山形市総合スポーツセンター]] [[大分文化会館]] [[鹿児島市民文化ホール]]第一ホール 宮崎市民会館 北海道厚生年金会館 青森市文化会館 渋谷公会堂(2days)仙台サンプラザ 神奈川県立県民ホール(大) 郡山市民文化センター 神戸国際会館 金沢市観光会館 名古屋国際会議場センチュリーホール 京都会館 第一ホール [[NHKホール]]
</div></div>
|-
| rowspan="2"|1995年
| 7月8日 - 9月14日
!colspan="1" style="background:#E3FCFF;"|<small>出光ゼアススペシャル</small><br/>とんねるず歌謡活動10周年記念コンサート<br/>CONCERT TOUR '95 おまえ百までわしゃ九十九まで
| <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;">一覧</div>
<div class="NavContent" style="text-align:center;">
[[成田国際文化会館]] [[浦和市文化センター]] 鹿児島市民文化ホール第一ホール 宮崎市民会館 徳島市文化センター 香川県県民ホール 名古屋センチュリーホール 静岡市民文化会館 大阪厚生年金会館(2days)大分文化会館 福岡サンパレス 仙台サンプラザ 青森市文化会館 日本武道館
</div></div>
|-
|<br/>7月15日<br/>7月29日<br/>8月6日<br/>8月19日
!colspan="1" style="background:#E3FCFF;"|<small>'95 野外ライブ </small>'''<br/>SOUND PARADISE IN OKINAWA '95<br/>OKURAYAMA SOUND FRASH '95<br/>SOUND STADIUM '95<br/>遠野 夏の陣 '95
|<br/>宜野湾海浜公園野外劇場<br/>大倉山90M級ジャンプ競技野外特設ステージ<br/>長野県東筑摩郡四賀村村民グランド特設ステージ<br/>岩手県遠野市営野球場
</div></div>
|}
== 書籍 ==
* '''天狗のホルマリン漬け'''(1985年7月、発売元:[[集英社]])ISBN 4087800865
* '''とんねるずのおいにい鼻にツーン'''(1986年7月、ニッポン放送出版、[[扶桑社]])ISBN 4893530984
* '''とんねるず 大志'''(1988年6月、ニッポン放送出版、扶桑社)ISBN 4594002927
*: とんねるずの生い立ちを第1章〜第4章に分けてまとめたもの。
* '''とんねるずのおいにい2〜ん'''(1989年12月、ニッポン放送出版、扶桑社)ISBN 459400508X
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連人物 ==
* [[秋元康]](放送作家、作詞家、作家、プロデューサー)
* [[後藤次利]](ミュージシャン、作曲家)
* [[井原高忠]](日本テレビ、元第一制作局長 / 現株式会社井原高忠事務所取締役)
* [[中島銀兵]](日本テレビ、元プロデューサー / 1996年死去)
* [[土屋敏男]](日本テレビ、元編成局専門局長 / 現日テレラボ室ゼネラルプロデューサー)
* [[日枝久]](フジテレビ代表取締役会長)
* [[石田弘]](フジテレビ、エグゼクティブプロデューサー)
* [[港浩一]](フジテレビ、元編成制作局バラエティ制作局長 / 常務取締役、元共同テレビジョン代表取締役社長、現フジテレビジョン代表取締役社長)
* [[松村匠]](フジテレビ、元ディレクター、事業局企画部長 / 現株式会社[[AKS]]コンテンツビジネス本部・本部長)
* [[吉野晃章]](放送作家、元帝京高校サッカー部)
* [[遠藤察男]](放送作家、脚本家)
* [[菊原共基]](放送作家)
* [[ジョイマン (企業)|後藤喜男]](TV制作、プロデューサー)
* [[中島信也]] ([[東北新社]]代表取締役社長、CMディレクター、映画監督)
* [[テリー伊藤]](TV制作、タレント)
* [[堤幸彦]](元TBSディレクター、テレビ・映画監督)
* [[杉本清]](元関西テレビアナウンサー、競馬関連、同一事務所所属者)
* 尾崎充(元マネージャー兼付き人、元[[HKT48]]劇場支配人 / 株式会社AKS、現芸能事務所株式会社充's代表取締役)
* [[関口正晴]](元マネージャー、放送作家)
* [[宮本幸一]] (ニッポン放送常務取締役)
* [[吉岡雄二]] (プロ野球選手、とんねるずの後輩)
* [[太田一平 (プロデューサー)|太田一平]](フジテレビ、編成制作局バラエティ制作部→制作局第2制作センタープロデューサー)
* [[マッコイ斎藤]](演出家、ディレクター)
* [[ガッツエンターテイメント|安西義裕]](演出家、ディレクター、プロデューサー)
* [[佐々木敦規]](演出家、ディレクター)
* [[真璃子]](歌手)
== 関連項目 ==
* [[東京都出身の人物一覧]]
* [[帝京高等学校]] - 2人の出身校
* [[日本お笑い史]]
* [[お笑い第二世代]]
* [[お笑い第三世代]]
* [[ハイスクール!奇面組]] - 「[[ハイスクール!奇面組の登場人物一覧#その他の登場人物|あわれ!ハイスクールジャックの巻]]」に登場した強盗2人組は、とんねるずがモデルとされている。
== 外部リンク ==
* {{Instagram|takaakiishibashi_official|石橋貴明}}
* {{Twitter|ishibashi_desho|石橋貴明}}
* {{Instagram|noritakekinashi_official|木梨憲武}}
* [https://www.vip-times.co.jp/?talent_id=G94-0124 とんねるず - 日本タレント名鑑]
* [https://natalie.mu/owarai/artist/6029 とんねるず] - [[お笑いナタリー]]
* [https://www.oricon.co.jp/prof/29854/ とんねるず] - [[ORICON NEWS]]
* {{Wayback|url=www.tnlounge.net|title=とんねるずオフィシャルファンクラブ}}(2018年末で閉会[https://news.mynavi.jp/article/20181002-700363/])
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{{とんねるず}}
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{{ベストヒット歌謡祭最優秀新人賞|全日本有線放送大賞}}
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{{とんねるずのみなさんのおかげです}}
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{{矢島美容室}}
{{笑っていいとも!}}
}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:とんねるす}}
[[Category:とんねるず|*]]
[[Category:NHK紅白歌合戦出演者]]
[[Category:日本のお笑いコンビ]]
[[Category:日本の男性歌手グループ]]
[[Category:2人組の音楽グループ]]
[[Category:ビクターエンタテインメントのアーティスト]]
[[Category:ポニーキャニオンのアーティスト]]
[[Category:日本のラジオパーソナリティ]]
[[Category:過去の渡辺プロ系列所属者]]
[[Category:1981年に結成した音楽グループ]] | 2003-02-20T10:11:39Z | 2023-12-20T10:00:40Z | false | false | false | [
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