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2,626 | パラグアイ | パラグアイ共和国(パラグアイきょうわこく、スペイン語: República del Paraguay、グアラニー語: Tetã Paraguái)、通称パラグアイは、南アメリカ中央南部に位置する共和制国家である。東と北東をブラジル、西と北西をボリビア、南と南西をアルゼンチンに囲まれている内陸国である。首都はアスンシオン。
なお、パラグアイの国旗はデザインが表と裏とで異なっている(パラグアイの国旗を参照)。
正式名称はスペイン語でRepública del Paraguay(レプブリカ・デル・パラグアイ)である。通称はParaguay[paɾaˈɣwai] 。グアラニー語表記はTetã Paraguái(テタ・パラグアイ)である。通称はParaguái [paɾaˈɰwaj]。
公式の英語表記はRepublic of Paraguay(リパブリック・オブ・パラグアイ)[ˈpærəɡwaɪ]。
日本語の表記はパラグアイ共和国。同国の在日大使館が用いる正式片仮名表記はパラグァイ。日本では通常パラグアイ、パラグワイなどと表記され、漢字表記では巴拉圭、または巴羅貝となる。
パラグアイ(Paraguay)とは、もともとグアラニー語で「大きな川から」を意味する言葉であったという説が有力である。大きな川とはパラナ川のことである。そのほかにも「鳥の冠を被った人々」を意味するという説がある。
もともとこの地にはグアラニー人をはじめとするトゥピ・グアラニー系のインディヘナ諸集団が住んでいた。タワンティンスーユ(インカ帝国)の権威はこの地までは及ばなかったため、多くの人々は原始的な共同体を築きながら生活していた。しかし、16世紀初頭以降、この地にもセバスティアン・カボットをはじめとするヨーロッパ人がラ・プラタ川を遡って渡来するようになる。
1537年にブエン・アイレからの探検隊によりアスンシオンが建設されると、スペイン領となった。この建設はラ・プラタ川からアルト・ペルーへの陸路と存在すると思われた「銀の山」を探すためであり、かつポルトガルの領土拡張に対する防塞建設のための遠征の結果だった。
チャルーア人のようなラ・プラタ地域の狩猟インディヘナとは違って、粗放とはいえ農耕を営んでいたグアラニー人は文化程度も高く、スペイン人との同盟により敵対していたほかのインディヘナと対決することを決め、スペイン人もこれを受け入れたため両者の間に交流が生まれ、混血者(メスティーソ)も発生していった。
1617年にアスンシオンを中心とする総督領から、ブエノスアイレスを中心とするラ・プラタ総督領、サン・ミゲル・デ・トゥクマンを中心とするトゥクマン総督領が分離する。17世紀以降はイエズス会宣教師による先住民への布教活動が、農業活動なども含めて活発に展開された。現在も残るイエズス会布教所跡はこのときに建設されたものがほとんどである。イエズス会はブラジルのサンパウロからやってくる、バンデイランチ(ポルトガル語: Bandeirantes)と呼ばれた奴隷商人への抵抗のためにグアラニー人に武装させた。ポルトガル人奴隷商人によって多くのグアラニー人が奴隷となってブラジルに連行されたものの、この軍隊はしばしばポルトガル人を破ってスペイン植民地の辺境を防衛する役目を担った。ローマ教皇に直属し、以後スペイン王室や副王の役人も容易に口出しできなくなったイエズス会の伝道地は、原始共産主義的な様相を帯び、自主自立の独立国家のような存在として、その後もほかの地域のインディヘナが味わったような辛酸には至らず100年近く平和に存在し続けた。
1750年代以降は、グアラニー戦争により、バンダ・オリエンタル(現在のウルグアイに相当)からグアラニー人が撤退してきた。その後すぐ1768年のスペイン王室の決定によるイエズス会の追放によりイエズス会は南米から撤退することが決まり、当地のグアラニー人たちはスペイン・ポルトガルの直轄支配下に置かれることとなった。
1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領がペルー副王領から分離されるが、その後もパラグアイはあまり大きな発展もしないまま月日が流れていった。
1810年5月25日、ブエノスアイレスにてポルテーニョ(英語版)が五月革命を起こし、ラ・プラタ副王領のスペインからの自治を宣言した際に、パラグアイ州はバンダ・オリエンタル、アルト・ペルー、コルドバなどとともにブエノスアイレス主導の独立を認めず(マヌエル・ベルグラーノ将軍のパラグアイ攻略(スペイン語版、英語版)を撃退した)、1811年に共和国としてラテンアメリカで最初に正式に独立を宣言した。こうした混乱の中で国土の狭かったパラグアイは比較的早く国がまとまり、1814年にホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシア博士が執政官に就任し、1816年には終身執政官の職に就いた。
農民の支持を基盤にしたフランシアの長期独裁体制下では、政治的、経済的鎖国と土地の公有地化を進めた一方で、スペイン系白人(クリオージョ)の反乱を恐れたフランシアはグアラニー人とクリオージョの集団結婚を政策的に推進した。フランシアの政治は逆らうものは容赦なく追放し、処刑する恐怖政治に近いものであり、グアラニー人との混血やその他もろもろの要求を断った反対派のクリオージョ層は亡命したが、この時期の南米においてチリを除いたラテンアメリカ諸国が内戦を続けていたのとは対照的に、政治的には安定を保ち、義務教育が行われ、当時の旅行者が「パラグアイでは盗人も飢えた者もいなかった」との言葉を残すほどだった。対外政策も成功し、1838年にはアルゼンチンのミシオネス州を併合する。1840年にフランシアが死亡すると政治的混乱が発生したが、1844年にフランシア博士の甥のカルロス・アントニオ・ロペスが初代パラグアイ大統領に就任することで、国内情勢は再び安定した。カルロス・ロペスは前任者から続いた鎖国政策を解き、国家の保護の下の開放政策に転じて一躍パラグアイの近代化に取りかかった。
前任者の公有地化政策によりカルロス・ロペスの時代には国土の98%が公有地となっていたが、この土地制度を利用してマテ茶やタバコなどを栽培し、保護貿易によって莫大な黒字を上げた。カルロス・ロペスはこの貿易黒字を元手に鋳鉄や火砲を生産する工場を建設し、ヨーロッパに留学生を送り、1861年にはアスンシオンに鉄道が開通した。イギリスからの債務を負うことはなく、逆にイギリス人の技術者を雇って国家に役立て、パラグアイはラテンアメリカで唯一対外債務を負っていない国として自立的な発展を続けた。しかし、その治世の後半からはアルゼンチン、ブラジルからの圧力と内政干渉が激しいものになり、大事には至らなかったものの、ウルグアイの大戦争中に、ラ・プラタ川の封鎖をめぐってリトラル三州の反ロサス運動を支援していたことによって、アルゼンチンの独裁者フアン・マヌエル・デ・ロサスの軍と戦争したこともあり、こうした外圧を脅威に思って南米でもっとも強大な軍隊を組織した。
1862年にカルロス・ロペスが死亡。長男のフランシスコ・ソラーノ・ロペス元帥が後を継いで大統領になると、1864年にブラジルとアルゼンチンの内政干渉に悩むウルグアイのブランコ党政権から救援を求められたことをきっかけに、ソラノ・ロペスはパラグアイと似たような立場で悩むウルグアイの救援を決意した。ロペスはブラジル領内に侵攻し、ラテンアメリカでもっとも凄惨な戦争となった三国同盟戦争が始まった。このときロペスは、アルゼンチンの反体制派の首領フスト・ホセ・デ・ウルキーサ(英語版)らの協力を得ることができず、アルゼンチンとウルグアイを味方につけることに失敗することとなった。そしてさらに、かねてからパラグアイの発展を好ましく思っていなかった イギリス資本の支援を受け、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイが三国同盟を結ぶと、同盟軍はパラグアイに侵攻した。三方から攻められたパラグアイ軍は全滅するまで勇敢に戦い、アメリカ合衆国の公使がその勇気と愛国心を褒め称えたほどであった。途中でアルゼンチン北西部でロペスに共感したカウディージョのフェリペ・バレーラ(英語版)が反乱を起こすと、その鎮圧のためにアルゼンチン軍が離脱し、同国でバルトロメ・ミトレ(英語版)が大統領を辞任したことによって、付き合いで参戦していたウルグアイ軍が離脱するという事態も起きたが、ブラジル軍は追撃を重ね、1870年3月、パラグアイ人の一団を率いて敗走中のロペス大統領は戦死し、パラグアイの敗北を持ってこの戦争は終結した。パラグアイはブラジルとアルゼンチンに国土の4分の1にあたる14万kmを割譲し、開戦前の52万人の人口は21万人にまで減少した。成人男性に至っては3分の2以上(9割とも言われる)を失った。さらに敗戦とともにイギリスから借款が押しつけられ、パラグアイが誇った公有地を中心とした土地制度はアルゼンチン人などによって買い取られ、この国でもほかのラテンアメリカ諸国と同じように大土地所有制が確立した。こうしてパラグアイは国民のみならず、国土、関税率、工場、経済的独立のすべてを失い、これ以後50年に渡り国勢は停滞し、現在に至るまで傷跡は残っている。
アルゼンチンとブラジル、特に経済的には前者の、政治的には後者の衛星国として再スタートしたパラグアイだったが、戦争の代償はあまりにも大きかった。1879年にはアルゼンチン軍が撤退し、1880年代には自由党(英語版)とコロラド党が設立されたが、不正選挙が横行し民主主義からは程遠い状態にあった。軍事独裁政権の下で人口を補うために移民が導入され、スイス、ドイツ、イタリアなどから農業移民がやってきたが、その数は周辺国と比べるとはるかに少なかった。その後、20世紀に入ると自由党政権のもとで多少なりとも改革が行われたが、政情はいまだに不安定なまま、大量な石油の埋蔵があると仮説が立てられたグラン・チャコ地方をめぐって、次第にボリビアとの対立が大きくなっていった。
1932年、ボリビアがパラグアイに奇襲攻撃しチャコ戦争が始まった。パラグアイ軍は貧弱な装備ながらも辛うじてこの戦いに勝利し、1938年のブエノスイアレス講和条約では植民地時代からチャルカスとアスンシオンの間で争われていた、広大なグラン・チャコ地方の領有権を獲得する。しかし、この戦争による経済的な打撃と4万人にも及ぶ死者は社会を疲弊させ、その後、社会改革を求めて社会主義や国家社会主義を掲げた軍人が政治を動かしていくことになった。また、こうして生まれた政権はナショナリズムを称揚し、1936年にパラグアイ共産党などと結んで大統領になっていたチャコ戦争の英雄ラファエル・フランコ(英語版)大佐によってフランシスコ・ソラーノ・ロペスの完全な名誉回復がなされた。しかし、フランコの急進的過ぎる改革は寡頭支配層に嫌われ、1937年には1年足らずで追放された。
フランコのあとはチャコ戦争の英雄エスティガリビア将軍が後を継ぎ、1940年にエスティガリビアが事故死するとイヒニオ・モリニゴ(英語版)将軍は第二次世界大戦を連合国側で参戦して乗り切ったが、民主化の要求のために部分的に民主主義的な改革を余儀なくされた。しかし、こうした政策は二月党とコロラド党の対立を招き、ついには1947年に内戦に至って結局軍は内戦に勝利したものの(パラグアイ内戦)、20万人以上のパラグアイ人が国外に亡命することになった。その後、大統領になったフェデリコ・チャベス(英語版)が政権を握り混乱を収めたが、フアン・ペロンの影響を受けた経済政策への批判に対応を誤り、軍部からのクーデターでチャベスは追放された。
1954年にブラジル軍の後押しを受けたクーデターによりチャベスは追放され、アルフレド・ストロエスネル政権が誕生し、以後30年以上親ブラジル的独裁政権が続いた。軍とコロラド党を掌握して長期政権を可能にしたストロエスネルは、治安を回復し経済も成長したものの、一方で少数民族となっていたインディヘナの虐殺、反政府運動の弾圧などを重ね、一時はアメリカ合衆国からも経済制裁を受けた。ストロエスネルの時代に独裁体制は完成したが、1989年2月、突如としてストロエスネルの腹心だったアンドレス・ロドリゲス・ペドッティ(スペイン語版)将軍が決起し、チリ以外の周辺国の民政移管が完了したあとも権力を握っていたストロエスネルが市街戦を終えたあと失脚し、ブラジルに追放された。こうして35年に及んだ、ラテンアメリカでもまれに見る長期独裁は終わった。
ロドリゲス将軍が臨時大統領になると、ロドリゲス将軍はそれまでの路線を改めて民主化政策をとった。こうして1993年5月にはフアン・カルロス・ワスモシ(スペイン語版) (Juan Carlos Wasmosy) が大統領就任。パラグアイに39年ぶりに文民大統領が誕生したが、パラグアイの民主主義は前途多難であった。
1996年4月、ワシモシ大統領は、軍の政治力を削ぐために、軍の実力者で軍部の政治介入を公言して憚らないリノ・オビエド(英語版)(Lino Oviedo) を解任し、オビエドは6月には逮捕された。しかし、1998年8月にはオビエド派であるラウル・クーバス(英語版) (Raul Cubas) 大統領が就任し、同月大統領権限でオビエドを釈放した。
釈放されたオビエドは暗躍を重ね、1999年3月23日、ルイス・マリア・アルガーニャ(英語版) (Luis Maria Argaña) 副大統領がオビエド派によって暗殺されたとみられる事件が発生したあと、オビエドとクーバス大統領が亡命した。この後を受けて同月、ルイス・ゴンサレス・マキ(英語版) (Luis Gonzalez Macchi) 大統領が就任するも、2000年5月にはまたもクーデター未遂事件が発生した。その後、2003年4月にニカノル・ドゥアルテ・フルートス (Nicanor Duarte Frutos) 大統領が就任した。
2008年4月に大統領選挙が行われ、野党連合「変革のための愛国同盟(英語版)(APC)」の進歩派フェルナンド・ルゴが、与党コロラド党のブランカ・オベラル(英語版)、元陸軍司令官リノ・オビエド(英語版)を破って当選した。開票率92%の段階で、ルゴ40.83%、オベラル30.71%、オビエド21.98%であった。ルゴの選挙母体APCは、中道右派の自民党と左派連合が同盟を結んでいる。1947年から軍政時代も含めて61年間続いたコロラド党の支配は終わった。
2012年6月にはフェルナンド・ルゴへの議会による弾劾により大統領職を追われた。これはルゴ氏支持者からはクーデターであると非難されている。同時に副大統領であった真正急進自由党のフェデリコ・フランコが大統領に昇格。そして、2013年4月に行われた大統領選挙ではオラシオ・カルテスが勝利し、再び右翼政党であるコロラド党支配の時代へと回帰した。
2018年4月、オラシオ・カルテスが大統領選挙でマリオ・アブド・ベニテスに敗れる。これに伴い任期満了を待たずに上院議員へ転任しようと辞任することを宣言して混乱を招くも、同年8月までの任期を全うした。 同月、マリオ・アブド・ベニテスが大統領に就任した。
2023年4月に行われた大統領選挙では、元財務相のサンティアゴ・ペニャが大統領に選出され、同年8月に大統領に就任した。
国家元首である大統領は、行政府の長として実権を有する。任期は5年で再選禁止。2013年より大統領職にあったオラシオ・カルテスは、2018年の大統領選挙に向けて再選を可能とする憲法改正手続を進めていたが、大規模な反対運動が起きたため撤回された。
選挙は、大統領候補と副大統領候補がそれぞれペアとなり立候補し、国民は直接選挙により数組の中から1組を選出する。大統領が死亡や罷免により欠ける場合は、副大統領が大統領に昇格し、残りの任期を務める。首相職はなく、大統領が閣議を主宰する。
議会は、両院制。上院は全45議席を全国区で選出、代議院(下院)は全80議席を県単位の18選挙区に分けて選出する。両院とも議員の任期は5年で、大統領選挙と同じ日に選挙が行われる。前回投票は2023年4月30日に行われ、政党別の獲得議席数は以下の通り。
伝統的に、パラグアイの国政史上ほとんどの期間が、かつてシモン・ボリーバルが語ったように独裁か無政府状態のどちらかの状態であったが、ストロエスネルの失脚以降は多少風向きも変わってきているようである。しかし、それでも依然として軍の政治力は強く、問題になっている。
パラグアイ大統領はパラグアイ軍の最高司令官を兼任する。兵員は約2万人。徴兵制(15 - 49歳)が敷かれており、男性の国民は兵役の義務を有する。
西部グランチャコのマリスカル・エスティガリビア(英語版)にアメリカ空軍の基地が存在する。
国防予算(2000年):8,300万ドル(一人頭15ドル)
パラグアイ陸軍。兵員は1万5,000人。国内の治安維持や災害救助などの任務が多い。
パラグアイ海軍。兵員は3,600人。海軍は国境の川の防備が任務である。
パラグアイ空軍。兵員は1,700人。規模、稼動機ともに多くない。
メルコスール加盟国の1か国で、ブラジルやアルゼンチン、ウルグアイなどの近隣諸国と友好関係を維持している。
20世紀前半には背後にイギリス資本を抱えたアルゼンチンの、20世紀後半からは背後にアメリカ資本を抱えたブラジルの影響を強く受けてきた。
2005年5月から、グランチャコのマリスカル・エスティガリビア(英語版)にアメリカ空軍が駐留しており、これはボリビアのサンタクルス県の自治運動にアメリカ合衆国が介入するためだとみなされているため、この駐留アメリカ軍の存在は近隣諸国との間での外交問題となっている。
ストロエスネル政権時代の反共産主義政策が体制崩壊後も続き、南米で唯一、中華民国と国交を有しているが、近年は経済面から中華人民共和国との国交樹立を検討しているとも言われる。中華民国の承認国の中では、面積規模で最大である(人口規模だとグアテマラが最大となる)、駐韓国パラグアイ大使館が対中華人民共和国外交業務を兼任している。駐日パラグアイ大使館が対香港とマカオ外交業務を兼任している。
2020年、パラグアイで新型コロナウイルス感染症が拡大。2021年3月、パラグアイで中華人民共和国関係者を名乗る業者がCOVID-19ワクチン提供の条件として中華民国との断交を要求してきたが、その後、中華民国がパラグアイのワクチン獲得に協力している。
2022年9月28日、『フィナンシャル・タイムズ』は、マリオ・アブド・ベニテス大統領が台湾に対して、外交関係を維持するために10億ドルを投資するよう要請していると報じた。
2023年8月15日に行われたサンティアゴ・ペニャの大統領就任式では、中華民国の副総統頼清徳が出席。頼副総統は「パラグアイと台湾は地理的に遠く離れているが、66年以上続く友情が変わることはない」とSNSに投稿し、今後も両国関係が深まることに期待を示した。
日本とパラグアイの関係は1912年、日本からの永住者として初めてパラグアイに渡った佐幸田兼蔵がプエルト・カサードのタンニン工場に勤務したことに始まる。以来、日系パラグアイ人の貢献が高く評価されて伝統的に友好関係が続き、日本は非常に高い評価を受けており、現在、日系パラグアイ人は約1万人が住んでいる。1953年に日芭拓殖組合は日本人がパラグアイ南部のフェデリコチャベス、ラパス、フジに移住するのを援助した。また日本海外移住振興会社は1959年からイタプア市に農業移住地を開拓した。これらの移住地は地元の農業発展に大きな成功を収めたことから、1959年にパラグアイ政府と日本政府は移民協定を結び、1959年から1989年までの間に85,000人の農夫を日本からパラグアイに移民することで合意したが、日本経済が1960年代に回復したため、その30年間にパラグアイに移民したのは7000人にすぎなかった。1959年に締結された日本の国策による移民協定は、1989年に効力が無期限延長に改定され、85,000人の日本人が受け入れ可能となっている。なお、1976年以来、2004年、2011年、2014年を除き、日本が最大の経済援助国である。
1993年にパラグアイ人によって創設された、NIHON GAKKO(日本学校)がある。
経済面では、日本の矢崎総業、常石造船、住友電装など製造業が進出している。パラグアイの国内市場は小さいが、人件費が安いうえ、簡素な税制、メルコスール(南米南部共同市場)によりブラジル、アルゼンチンに原則として無関税で輸出できるといった利点がある。中南米で左派政権が増えた2000年代において、鉱物・エネルギー資源が乏しいパラグアイは外資誘致により経済成長を図る政策を選んだことも背景にある。
「パラグアイは日本から見て、地球のちょうど反対側にあって、おそらく日本から一番遠い国の1つである。また、一番知られていない国の1つかもしれない。しかし、もっとも親日的な国の1つである」という評価がある。
2011年3月11日の東日本大震災後に日系パラグアイ人農家を中心に「100万丁豆腐プロジェクト」として100万丁分の原料の大豆、製造加工費を日本へ支援した。また東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所事故を理由にパラグアイに移住する日本人が増えている。
2016年9月10日、パラグアイで日本人移住80周年式典が開かれ、日本からは眞子内親王が出席した。
2018年12月3日、安倍晋三が日本の総理大臣として初めてパラグアイ(とウルグアイ)を訪問し、マリオ・アブド・ベニテス大統領と会談、日本が医療機器を供与することなどで合意し、インフラ協力に関する文書の署名式に出席した。その後、現地の日系パラグアイ人と懇談をおこない、安倍晋三総理大臣は「日本とパラグアイは地理的な距離は遠く離れているが、心は近くに感じることができる。日本は常に皆さんと共にあることを忘れないでほしい」と呼びかけた。これについてMBS、BSN、TBSは「両国(パラグアイとウルグアイ)とも日本からの移民の多い国で、このうち、ウルグアイのバスケス大統領との会談では、牛肉の相互輸出を解禁することなどを確認しました」と報じた。
パラグアイの地方行政は、首都と17の県(departomentos)とに区分される。括弧内は県庁所在地。
主要な都市はアスンシオン(首都)、シウダー・デル・エステがある。
パラグアイはパラグアイ川によって、東西に東パラグアイ (Paraguay Oriental) と西パラグアイ (Occidental Paraguay) またはチャコと呼ばれる地域に分かれる。東部は国土の40%、人口の97%近くを有し、丘陵と平原が交錯する地形で、森林と肥沃な大地からなり、アマンバイ山脈がブラジルとの国境を形成している。西部はきわめて人口が過疎であり、乾燥した疎林地帯やアルゼンチンとの国境を流れるピルコマヨ川流域の湿地帯からなる。川沿いには北欧系やロシアの入植者や先住民が住み、チャコ地域全体でも総人口は10万人程度である。
南西はパラナ川が国境線となり、この川でブラジルとイタイプー・ダムを共有している。このダムは現在のところ水力発電をする世界最大のダムであり、パラグアイの電力需要のほぼすべてを賄っている。また、ジャスレタ・ダムがもうひとつパラナ川にあり、こちらはアルゼンチンと共有している。パラグアイは現在のところ世界でもっとも多く電力を輸出している国である。森林面積は約780万ヘクタールで、国土の20%を占める。
亜熱帯から温帯であり、東部の降水量は多いが、極西部はほとんど雨が降らないこともある。
メルコスール、南米共同体の加盟国である。2008年の経済成長率は5.8%で、農業が10.5%と高い。農業はGDPの27%、輸出の84%を占める。しかし、天候や市況に左右されることが、人口の4割に達する貧困層を生み出している。
パラグアイは内陸国でありながらもパラグアイ川とパラナ川を通して大西洋に出ることができるが、貿易の大部分(GDPの38%)を隣国ブラジルとアルゼンチンとの交易に頼っている。両国およびウルグアイとの協定により、パラグアイは各国に自由港を持つ。
パラグアイはブラジル・アルゼンチン・ボリビア人による辺境部の土地購入を除き、基本的に外国人による土地保有は自由である。しかし、規制の動きも出てきた。
エネルギー : 水力発電99.9%(2002年時点) - イタイプー・ダム(ブラジルとの共同開発)、ジャスレタ・ダム(アルゼンチンとの共同開発)
2008年8月に発足したルゴ政権は、2010年7月12日、民間部門の月額法定最低賃金を7%上げて、317ドルにする法令を出した。同国の労働組合は、最低賃金の10%引き上げを求めて政府と交渉していた。企業家団体は、賃上げは生産コストを引き上げ、雇用を困難にすると反対している。
パラグアイは経済的に不平等で貧しい国家であり、約4割の国民が貧困に喘いでいると見積もられている。農村部では41.2%が、都市部では27.6%が最低限の基本的なニーズを満たすための収入を得ることができない。上位10%の人間が国富の43%を牛耳るが、下位10%の人間はわずかに0.5%にすぎない。景気の後退はこうした状況をさらに悪化させ、1995年に0.56だったジニ係数は1999年には0.66に上昇した。10%の人口が国土の66%を所有する一方、地方の人口の30%は土地を持っていない。この不平等さはエリートと土地なし農民の間に強い緊張状態をもたらしている。隣国のブラジルやアルゼンチンへ出稼ぎに行く人も少なくない。
メルコスール加盟国のひとつである。パラグアイの産業でもっとも重要な働きをしているのは農業であり、パラグアイは世界でも3番目の大豆輸出国である。輸出品目は大豆、小麦、農畜、電力が主。近年は甘味料や健康食品、化粧品の原料としてしられるステビア生産にも力を入れている。
パラグアイの鉱業はまったく未開発の状態にある。長年にわたり、ごく小規模な鉄鉱床を除けばパラグアイには鉱物資源がほとんど存在しないと考えられてきた。鉄鉱石の採掘は古くは三国同盟戦争以前から続いていたが、1990年に至っても鉱業セクターはパラグアイのGDPのわずか0.5%を占めるに過ぎなかった。状況が変わったのは南西部のエンカルナシオンで埋蔵量3億トンに達する鉄鉱床が見つかった1990年代からである。しかしながら品位が35%と低いため、パラグアイの鉱業を活性化するには至っていない。近年、チャコ地方での油田の開発計画が浮かび上がっている。
木材生産は農牧地の拡大にともない年々増加しているが、利用される樹種はラパチョなど10種類程度しかなく、残りの樹種は焼却処分されている。利用される樹種においても加工用として使用されるのは3分の1に過ぎず、3分の2は燃料や農牧用として使用されている。また林業関連加工企業も数えるほどしか存在せず、木材乾燥技術や製材技術などは育成が不十分である。
パラグアイ国民の90%以上が、日本人と同じモンゴロイド系であるグアラニー人などのインディヘナの血が強い、スペイン人との間の混血(メスティーソ)である。
これは、征服当初この地に住んでいたグアラニー人が、やってきたスペイン人と同盟してほかのインディヘナを打ち破る過程で両者が積極的に混血を受け入れたこと、その後やってきたイエズス会の伝道師がグアラニー人を教化する過程でグアラニー文化が伝承・保存されたこと、イエズス会が追放されたあともパラグアイでは都市が育たず、ほかのラテンアメリカ植民地と比較してクリオージョ支配層があまり強力な存在にならなかったこと、1811年にブエノスアイレス主導の独立を拒否し独自の国家として独立したあとは、パラグアイの初代国家元首フランシア博士が政策的に異人種間の通婚を推奨・強制し、その際に抵抗勢力になりそうなクリオージョはほとんど追放してしまったためである。そのため現在のパラグアイ人は「グアラニー」の血を引くことを誇りに思っており、小柄でアジア的な風貌の人も少なくない。移民としてはドイツ人、イタリア人、スペイン人、日本人、中国人、アラブ人などがいるが、社会に及ぼす影響としてはブラジル人とアルゼンチン人の二集団の存在がもっとも大きい。
三国同盟戦争直前に約52万人と推定されているパラグアイの人口は、戦争終結後約21万人にまで減少した。その後、1946年推計で約122万人、1962年センサスで185万1,890人、1972年センサスで235万7,955人、1983年年央推計で約347万人となった。国民の大部分がカトリック教徒である影響で、母体に生命の危機が迫っている状態を例外として、人工妊娠中絶は認められていない。
スペイン語、グアラニー語が公用語であり、94%の国民はグアラニー語を話すことができ、スペイン語も75%の国民によって話されている。また、全人口の約2.5%に当たる16万人がドイツ語を話す。
宗教はローマカトリックが90%だが、メノニータ、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)なども存在する。宗教選択は自由である。
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は94%である。
おもな高等教育機関としては、国立アスンシオン大学(1889年)などが挙げられる。
スペイン人の父とグアラニー人の母を祖先に持つものが現在のパラグアイ国民の大多数であり、それゆえパラグアイの文化はこの2つの文化と伝統を根に持つ。現在のパラグアイ人の80%以上が両言語のバイリンガルである。
パラグアイ人にも近隣諸国の国民と同様にマテ茶を飲む習慣があるが、パラグアイ人は好んでテレレを飲む。肉食の傾向が強いパラグアイ人は血圧を下げるためや、ビタミンの補給、発汗作用のためにも飲んでいる。マテ茶はグアラニー人から受け継がれてきた飲み物であるが、テレレそのものはチャコ戦争のころに生まれたようである。またマンジョーカと呼ばれるイモや、マンジョーカを原料にしたチパというパンを食べる習慣がある。
パラグアイ出身の著名な作家としては、ガブリエル・カサクシアや、『汝、人の子よ』(1960)、『至高の存在たる余は』(1974)で1989年にセルバンテス賞を受賞したアウグスト・ロア・バストスの名が挙げられる。
グアラニアと呼ばれるアルパを使ったフォルクローレが盛んであり、ほかのラテン音楽によくあるようなアフリカ的な要素はあまり感じられない、哀愁を帯びた曲調が特徴的である。著名な音楽家としてはフェリックス・ペレス・カルドーソやアパリシオ・ゴンサレスが有名である。日本でもルシア塩満、上松美香などがプロのアルパ奏者として活躍している。
パラグアイ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産として、1993年に登録されたラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナとヘスース・デ・タバランゲのイエズス会伝道所群が存在する。2010年現在では国内唯一の世界遺産である。
パラグアイでも他のラテンアメリカ諸国と同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっており、1906年にプロサッカーリーグのリーガ・パラグアージャが創設された。主なクラブとしては、オリンピア、セロ・ポルテーニョ、リベルタ、グアラニーなどが挙げられる。著名な選手としては、ロケ・サンタ・クルス、ルーカス・バリオス、ミゲル・アルミロンなどが存在する。
パラグアイサッカー協会(APF)によって構成されるサッカーパラグアイ代表は、これまでFIFAワールドカップには8度出場しており、2010年大会ではラウンド16で日本代表と対戦し、スコアレスのままPK戦にまでもつれ込んだ激闘を制し初のベスト8に進出した。さらにコパ・アメリカでは、1953年大会と1979年大会で2度の優勝経験をもつ。なお、代表チームはグアラニー人に因んで、Los Guaraníes(グアラニー)の愛称で呼ばれている。 | [
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"text": "パラグアイ共和国(パラグアイきょうわこく、スペイン語: República del Paraguay、グアラニー語: Tetã Paraguái)、通称パラグアイは、南アメリカ中央南部に位置する共和制国家である。東と北東をブラジル、西と北西をボリビア、南と南西をアルゼンチンに囲まれている内陸国である。首都はアスンシオン。",
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"text": "なお、パラグアイの国旗はデザインが表と裏とで異なっている(パラグアイの国旗を参照)。",
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"text": "正式名称はスペイン語でRepública del Paraguay(レプブリカ・デル・パラグアイ)である。通称はParaguay[paɾaˈɣwai] 。グアラニー語表記はTetã Paraguái(テタ・パラグアイ)である。通称はParaguái [paɾaˈɰwaj]。",
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"text": "公式の英語表記はRepublic of Paraguay(リパブリック・オブ・パラグアイ)[ˈpærəɡwaɪ]。",
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"text": "日本語の表記はパラグアイ共和国。同国の在日大使館が用いる正式片仮名表記はパラグァイ。日本では通常パラグアイ、パラグワイなどと表記され、漢字表記では巴拉圭、または巴羅貝となる。",
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"text": "パラグアイ(Paraguay)とは、もともとグアラニー語で「大きな川から」を意味する言葉であったという説が有力である。大きな川とはパラナ川のことである。そのほかにも「鳥の冠を被った人々」を意味するという説がある。",
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"text": "もともとこの地にはグアラニー人をはじめとするトゥピ・グアラニー系のインディヘナ諸集団が住んでいた。タワンティンスーユ(インカ帝国)の権威はこの地までは及ばなかったため、多くの人々は原始的な共同体を築きながら生活していた。しかし、16世紀初頭以降、この地にもセバスティアン・カボットをはじめとするヨーロッパ人がラ・プラタ川を遡って渡来するようになる。",
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"text": "1537年にブエン・アイレからの探検隊によりアスンシオンが建設されると、スペイン領となった。この建設はラ・プラタ川からアルト・ペルーへの陸路と存在すると思われた「銀の山」を探すためであり、かつポルトガルの領土拡張に対する防塞建設のための遠征の結果だった。",
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"text": "チャルーア人のようなラ・プラタ地域の狩猟インディヘナとは違って、粗放とはいえ農耕を営んでいたグアラニー人は文化程度も高く、スペイン人との同盟により敵対していたほかのインディヘナと対決することを決め、スペイン人もこれを受け入れたため両者の間に交流が生まれ、混血者(メスティーソ)も発生していった。",
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"text": "1617年にアスンシオンを中心とする総督領から、ブエノスアイレスを中心とするラ・プラタ総督領、サン・ミゲル・デ・トゥクマンを中心とするトゥクマン総督領が分離する。17世紀以降はイエズス会宣教師による先住民への布教活動が、農業活動なども含めて活発に展開された。現在も残るイエズス会布教所跡はこのときに建設されたものがほとんどである。イエズス会はブラジルのサンパウロからやってくる、バンデイランチ(ポルトガル語: Bandeirantes)と呼ばれた奴隷商人への抵抗のためにグアラニー人に武装させた。ポルトガル人奴隷商人によって多くのグアラニー人が奴隷となってブラジルに連行されたものの、この軍隊はしばしばポルトガル人を破ってスペイン植民地の辺境を防衛する役目を担った。ローマ教皇に直属し、以後スペイン王室や副王の役人も容易に口出しできなくなったイエズス会の伝道地は、原始共産主義的な様相を帯び、自主自立の独立国家のような存在として、その後もほかの地域のインディヘナが味わったような辛酸には至らず100年近く平和に存在し続けた。",
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"text": "1750年代以降は、グアラニー戦争により、バンダ・オリエンタル(現在のウルグアイに相当)からグアラニー人が撤退してきた。その後すぐ1768年のスペイン王室の決定によるイエズス会の追放によりイエズス会は南米から撤退することが決まり、当地のグアラニー人たちはスペイン・ポルトガルの直轄支配下に置かれることとなった。",
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"text": "1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領がペルー副王領から分離されるが、その後もパラグアイはあまり大きな発展もしないまま月日が流れていった。",
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"text": "1810年5月25日、ブエノスアイレスにてポルテーニョ(英語版)が五月革命を起こし、ラ・プラタ副王領のスペインからの自治を宣言した際に、パラグアイ州はバンダ・オリエンタル、アルト・ペルー、コルドバなどとともにブエノスアイレス主導の独立を認めず(マヌエル・ベルグラーノ将軍のパラグアイ攻略(スペイン語版、英語版)を撃退した)、1811年に共和国としてラテンアメリカで最初に正式に独立を宣言した。こうした混乱の中で国土の狭かったパラグアイは比較的早く国がまとまり、1814年にホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシア博士が執政官に就任し、1816年には終身執政官の職に就いた。",
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"text": "農民の支持を基盤にしたフランシアの長期独裁体制下では、政治的、経済的鎖国と土地の公有地化を進めた一方で、スペイン系白人(クリオージョ)の反乱を恐れたフランシアはグアラニー人とクリオージョの集団結婚を政策的に推進した。フランシアの政治は逆らうものは容赦なく追放し、処刑する恐怖政治に近いものであり、グアラニー人との混血やその他もろもろの要求を断った反対派のクリオージョ層は亡命したが、この時期の南米においてチリを除いたラテンアメリカ諸国が内戦を続けていたのとは対照的に、政治的には安定を保ち、義務教育が行われ、当時の旅行者が「パラグアイでは盗人も飢えた者もいなかった」との言葉を残すほどだった。対外政策も成功し、1838年にはアルゼンチンのミシオネス州を併合する。1840年にフランシアが死亡すると政治的混乱が発生したが、1844年にフランシア博士の甥のカルロス・アントニオ・ロペスが初代パラグアイ大統領に就任することで、国内情勢は再び安定した。カルロス・ロペスは前任者から続いた鎖国政策を解き、国家の保護の下の開放政策に転じて一躍パラグアイの近代化に取りかかった。",
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"text": "前任者の公有地化政策によりカルロス・ロペスの時代には国土の98%が公有地となっていたが、この土地制度を利用してマテ茶やタバコなどを栽培し、保護貿易によって莫大な黒字を上げた。カルロス・ロペスはこの貿易黒字を元手に鋳鉄や火砲を生産する工場を建設し、ヨーロッパに留学生を送り、1861年にはアスンシオンに鉄道が開通した。イギリスからの債務を負うことはなく、逆にイギリス人の技術者を雇って国家に役立て、パラグアイはラテンアメリカで唯一対外債務を負っていない国として自立的な発展を続けた。しかし、その治世の後半からはアルゼンチン、ブラジルからの圧力と内政干渉が激しいものになり、大事には至らなかったものの、ウルグアイの大戦争中に、ラ・プラタ川の封鎖をめぐってリトラル三州の反ロサス運動を支援していたことによって、アルゼンチンの独裁者フアン・マヌエル・デ・ロサスの軍と戦争したこともあり、こうした外圧を脅威に思って南米でもっとも強大な軍隊を組織した。",
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"text": "1862年にカルロス・ロペスが死亡。長男のフランシスコ・ソラーノ・ロペス元帥が後を継いで大統領になると、1864年にブラジルとアルゼンチンの内政干渉に悩むウルグアイのブランコ党政権から救援を求められたことをきっかけに、ソラノ・ロペスはパラグアイと似たような立場で悩むウルグアイの救援を決意した。ロペスはブラジル領内に侵攻し、ラテンアメリカでもっとも凄惨な戦争となった三国同盟戦争が始まった。このときロペスは、アルゼンチンの反体制派の首領フスト・ホセ・デ・ウルキーサ(英語版)らの協力を得ることができず、アルゼンチンとウルグアイを味方につけることに失敗することとなった。そしてさらに、かねてからパラグアイの発展を好ましく思っていなかった イギリス資本の支援を受け、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイが三国同盟を結ぶと、同盟軍はパラグアイに侵攻した。三方から攻められたパラグアイ軍は全滅するまで勇敢に戦い、アメリカ合衆国の公使がその勇気と愛国心を褒め称えたほどであった。途中でアルゼンチン北西部でロペスに共感したカウディージョのフェリペ・バレーラ(英語版)が反乱を起こすと、その鎮圧のためにアルゼンチン軍が離脱し、同国でバルトロメ・ミトレ(英語版)が大統領を辞任したことによって、付き合いで参戦していたウルグアイ軍が離脱するという事態も起きたが、ブラジル軍は追撃を重ね、1870年3月、パラグアイ人の一団を率いて敗走中のロペス大統領は戦死し、パラグアイの敗北を持ってこの戦争は終結した。パラグアイはブラジルとアルゼンチンに国土の4分の1にあたる14万kmを割譲し、開戦前の52万人の人口は21万人にまで減少した。成人男性に至っては3分の2以上(9割とも言われる)を失った。さらに敗戦とともにイギリスから借款が押しつけられ、パラグアイが誇った公有地を中心とした土地制度はアルゼンチン人などによって買い取られ、この国でもほかのラテンアメリカ諸国と同じように大土地所有制が確立した。こうしてパラグアイは国民のみならず、国土、関税率、工場、経済的独立のすべてを失い、これ以後50年に渡り国勢は停滞し、現在に至るまで傷跡は残っている。",
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"text": "アルゼンチンとブラジル、特に経済的には前者の、政治的には後者の衛星国として再スタートしたパラグアイだったが、戦争の代償はあまりにも大きかった。1879年にはアルゼンチン軍が撤退し、1880年代には自由党(英語版)とコロラド党が設立されたが、不正選挙が横行し民主主義からは程遠い状態にあった。軍事独裁政権の下で人口を補うために移民が導入され、スイス、ドイツ、イタリアなどから農業移民がやってきたが、その数は周辺国と比べるとはるかに少なかった。その後、20世紀に入ると自由党政権のもとで多少なりとも改革が行われたが、政情はいまだに不安定なまま、大量な石油の埋蔵があると仮説が立てられたグラン・チャコ地方をめぐって、次第にボリビアとの対立が大きくなっていった。",
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"text": "1932年、ボリビアがパラグアイに奇襲攻撃しチャコ戦争が始まった。パラグアイ軍は貧弱な装備ながらも辛うじてこの戦いに勝利し、1938年のブエノスイアレス講和条約では植民地時代からチャルカスとアスンシオンの間で争われていた、広大なグラン・チャコ地方の領有権を獲得する。しかし、この戦争による経済的な打撃と4万人にも及ぶ死者は社会を疲弊させ、その後、社会改革を求めて社会主義や国家社会主義を掲げた軍人が政治を動かしていくことになった。また、こうして生まれた政権はナショナリズムを称揚し、1936年にパラグアイ共産党などと結んで大統領になっていたチャコ戦争の英雄ラファエル・フランコ(英語版)大佐によってフランシスコ・ソラーノ・ロペスの完全な名誉回復がなされた。しかし、フランコの急進的過ぎる改革は寡頭支配層に嫌われ、1937年には1年足らずで追放された。",
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"text": "フランコのあとはチャコ戦争の英雄エスティガリビア将軍が後を継ぎ、1940年にエスティガリビアが事故死するとイヒニオ・モリニゴ(英語版)将軍は第二次世界大戦を連合国側で参戦して乗り切ったが、民主化の要求のために部分的に民主主義的な改革を余儀なくされた。しかし、こうした政策は二月党とコロラド党の対立を招き、ついには1947年に内戦に至って結局軍は内戦に勝利したものの(パラグアイ内戦)、20万人以上のパラグアイ人が国外に亡命することになった。その後、大統領になったフェデリコ・チャベス(英語版)が政権を握り混乱を収めたが、フアン・ペロンの影響を受けた経済政策への批判に対応を誤り、軍部からのクーデターでチャベスは追放された。",
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"text": "1954年にブラジル軍の後押しを受けたクーデターによりチャベスは追放され、アルフレド・ストロエスネル政権が誕生し、以後30年以上親ブラジル的独裁政権が続いた。軍とコロラド党を掌握して長期政権を可能にしたストロエスネルは、治安を回復し経済も成長したものの、一方で少数民族となっていたインディヘナの虐殺、反政府運動の弾圧などを重ね、一時はアメリカ合衆国からも経済制裁を受けた。ストロエスネルの時代に独裁体制は完成したが、1989年2月、突如としてストロエスネルの腹心だったアンドレス・ロドリゲス・ペドッティ(スペイン語版)将軍が決起し、チリ以外の周辺国の民政移管が完了したあとも権力を握っていたストロエスネルが市街戦を終えたあと失脚し、ブラジルに追放された。こうして35年に及んだ、ラテンアメリカでもまれに見る長期独裁は終わった。",
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"text": "ロドリゲス将軍が臨時大統領になると、ロドリゲス将軍はそれまでの路線を改めて民主化政策をとった。こうして1993年5月にはフアン・カルロス・ワスモシ(スペイン語版) (Juan Carlos Wasmosy) が大統領就任。パラグアイに39年ぶりに文民大統領が誕生したが、パラグアイの民主主義は前途多難であった。",
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"text": "1996年4月、ワシモシ大統領は、軍の政治力を削ぐために、軍の実力者で軍部の政治介入を公言して憚らないリノ・オビエド(英語版)(Lino Oviedo) を解任し、オビエドは6月には逮捕された。しかし、1998年8月にはオビエド派であるラウル・クーバス(英語版) (Raul Cubas) 大統領が就任し、同月大統領権限でオビエドを釈放した。",
"title": "歴史"
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"text": "釈放されたオビエドは暗躍を重ね、1999年3月23日、ルイス・マリア・アルガーニャ(英語版) (Luis Maria Argaña) 副大統領がオビエド派によって暗殺されたとみられる事件が発生したあと、オビエドとクーバス大統領が亡命した。この後を受けて同月、ルイス・ゴンサレス・マキ(英語版) (Luis Gonzalez Macchi) 大統領が就任するも、2000年5月にはまたもクーデター未遂事件が発生した。その後、2003年4月にニカノル・ドゥアルテ・フルートス (Nicanor Duarte Frutos) 大統領が就任した。",
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"text": "2008年4月に大統領選挙が行われ、野党連合「変革のための愛国同盟(英語版)(APC)」の進歩派フェルナンド・ルゴが、与党コロラド党のブランカ・オベラル(英語版)、元陸軍司令官リノ・オビエド(英語版)を破って当選した。開票率92%の段階で、ルゴ40.83%、オベラル30.71%、オビエド21.98%であった。ルゴの選挙母体APCは、中道右派の自民党と左派連合が同盟を結んでいる。1947年から軍政時代も含めて61年間続いたコロラド党の支配は終わった。",
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"text": "2012年6月にはフェルナンド・ルゴへの議会による弾劾により大統領職を追われた。これはルゴ氏支持者からはクーデターであると非難されている。同時に副大統領であった真正急進自由党のフェデリコ・フランコが大統領に昇格。そして、2013年4月に行われた大統領選挙ではオラシオ・カルテスが勝利し、再び右翼政党であるコロラド党支配の時代へと回帰した。",
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"text": "2018年4月、オラシオ・カルテスが大統領選挙でマリオ・アブド・ベニテスに敗れる。これに伴い任期満了を待たずに上院議員へ転任しようと辞任することを宣言して混乱を招くも、同年8月までの任期を全うした。 同月、マリオ・アブド・ベニテスが大統領に就任した。",
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"text": "2023年4月に行われた大統領選挙では、元財務相のサンティアゴ・ペニャが大統領に選出され、同年8月に大統領に就任した。",
"title": "歴史"
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"text": "国家元首である大統領は、行政府の長として実権を有する。任期は5年で再選禁止。2013年より大統領職にあったオラシオ・カルテスは、2018年の大統領選挙に向けて再選を可能とする憲法改正手続を進めていたが、大規模な反対運動が起きたため撤回された。",
"title": "政治"
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"text": "選挙は、大統領候補と副大統領候補がそれぞれペアとなり立候補し、国民は直接選挙により数組の中から1組を選出する。大統領が死亡や罷免により欠ける場合は、副大統領が大統領に昇格し、残りの任期を務める。首相職はなく、大統領が閣議を主宰する。",
"title": "政治"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "議会は、両院制。上院は全45議席を全国区で選出、代議院(下院)は全80議席を県単位の18選挙区に分けて選出する。両院とも議員の任期は5年で、大統領選挙と同じ日に選挙が行われる。前回投票は2023年4月30日に行われ、政党別の獲得議席数は以下の通り。",
"title": "政治"
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"text": "伝統的に、パラグアイの国政史上ほとんどの期間が、かつてシモン・ボリーバルが語ったように独裁か無政府状態のどちらかの状態であったが、ストロエスネルの失脚以降は多少風向きも変わってきているようである。しかし、それでも依然として軍の政治力は強く、問題になっている。",
"title": "政治"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "パラグアイ大統領はパラグアイ軍の最高司令官を兼任する。兵員は約2万人。徴兵制(15 - 49歳)が敷かれており、男性の国民は兵役の義務を有する。",
"title": "軍事"
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"text": "西部グランチャコのマリスカル・エスティガリビア(英語版)にアメリカ空軍の基地が存在する。",
"title": "軍事"
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"text": "国防予算(2000年):8,300万ドル(一人頭15ドル)",
"title": "軍事"
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"text": "パラグアイ陸軍。兵員は1万5,000人。国内の治安維持や災害救助などの任務が多い。",
"title": "軍事"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "パラグアイ海軍。兵員は3,600人。海軍は国境の川の防備が任務である。",
"title": "軍事"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "パラグアイ空軍。兵員は1,700人。規模、稼動機ともに多くない。",
"title": "軍事"
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"text": "メルコスール加盟国の1か国で、ブラジルやアルゼンチン、ウルグアイなどの近隣諸国と友好関係を維持している。",
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"paragraph_id": 38,
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"text": "20世紀前半には背後にイギリス資本を抱えたアルゼンチンの、20世紀後半からは背後にアメリカ資本を抱えたブラジルの影響を強く受けてきた。",
"title": "国際関係"
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"text": "2005年5月から、グランチャコのマリスカル・エスティガリビア(英語版)にアメリカ空軍が駐留しており、これはボリビアのサンタクルス県の自治運動にアメリカ合衆国が介入するためだとみなされているため、この駐留アメリカ軍の存在は近隣諸国との間での外交問題となっている。",
"title": "国際関係"
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"text": "ストロエスネル政権時代の反共産主義政策が体制崩壊後も続き、南米で唯一、中華民国と国交を有しているが、近年は経済面から中華人民共和国との国交樹立を検討しているとも言われる。中華民国の承認国の中では、面積規模で最大である(人口規模だとグアテマラが最大となる)、駐韓国パラグアイ大使館が対中華人民共和国外交業務を兼任している。駐日パラグアイ大使館が対香港とマカオ外交業務を兼任している。",
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{
"paragraph_id": 41,
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"text": "2020年、パラグアイで新型コロナウイルス感染症が拡大。2021年3月、パラグアイで中華人民共和国関係者を名乗る業者がCOVID-19ワクチン提供の条件として中華民国との断交を要求してきたが、その後、中華民国がパラグアイのワクチン獲得に協力している。",
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{
"paragraph_id": 42,
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"text": "2022年9月28日、『フィナンシャル・タイムズ』は、マリオ・アブド・ベニテス大統領が台湾に対して、外交関係を維持するために10億ドルを投資するよう要請していると報じた。",
"title": "国際関係"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2023年8月15日に行われたサンティアゴ・ペニャの大統領就任式では、中華民国の副総統頼清徳が出席。頼副総統は「パラグアイと台湾は地理的に遠く離れているが、66年以上続く友情が変わることはない」とSNSに投稿し、今後も両国関係が深まることに期待を示した。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "日本とパラグアイの関係は1912年、日本からの永住者として初めてパラグアイに渡った佐幸田兼蔵がプエルト・カサードのタンニン工場に勤務したことに始まる。以来、日系パラグアイ人の貢献が高く評価されて伝統的に友好関係が続き、日本は非常に高い評価を受けており、現在、日系パラグアイ人は約1万人が住んでいる。1953年に日芭拓殖組合は日本人がパラグアイ南部のフェデリコチャベス、ラパス、フジに移住するのを援助した。また日本海外移住振興会社は1959年からイタプア市に農業移住地を開拓した。これらの移住地は地元の農業発展に大きな成功を収めたことから、1959年にパラグアイ政府と日本政府は移民協定を結び、1959年から1989年までの間に85,000人の農夫を日本からパラグアイに移民することで合意したが、日本経済が1960年代に回復したため、その30年間にパラグアイに移民したのは7000人にすぎなかった。1959年に締結された日本の国策による移民協定は、1989年に効力が無期限延長に改定され、85,000人の日本人が受け入れ可能となっている。なお、1976年以来、2004年、2011年、2014年を除き、日本が最大の経済援助国である。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 45,
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"text": "1993年にパラグアイ人によって創設された、NIHON GAKKO(日本学校)がある。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "経済面では、日本の矢崎総業、常石造船、住友電装など製造業が進出している。パラグアイの国内市場は小さいが、人件費が安いうえ、簡素な税制、メルコスール(南米南部共同市場)によりブラジル、アルゼンチンに原則として無関税で輸出できるといった利点がある。中南米で左派政権が増えた2000年代において、鉱物・エネルギー資源が乏しいパラグアイは外資誘致により経済成長を図る政策を選んだことも背景にある。",
"title": "国際関係"
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"text": "「パラグアイは日本から見て、地球のちょうど反対側にあって、おそらく日本から一番遠い国の1つである。また、一番知られていない国の1つかもしれない。しかし、もっとも親日的な国の1つである」という評価がある。",
"title": "国際関係"
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"tag": "p",
"text": "2011年3月11日の東日本大震災後に日系パラグアイ人農家を中心に「100万丁豆腐プロジェクト」として100万丁分の原料の大豆、製造加工費を日本へ支援した。また東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所事故を理由にパラグアイに移住する日本人が増えている。",
"title": "国際関係"
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"paragraph_id": 49,
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"text": "2016年9月10日、パラグアイで日本人移住80周年式典が開かれ、日本からは眞子内親王が出席した。",
"title": "国際関係"
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"text": "2018年12月3日、安倍晋三が日本の総理大臣として初めてパラグアイ(とウルグアイ)を訪問し、マリオ・アブド・ベニテス大統領と会談、日本が医療機器を供与することなどで合意し、インフラ協力に関する文書の署名式に出席した。その後、現地の日系パラグアイ人と懇談をおこない、安倍晋三総理大臣は「日本とパラグアイは地理的な距離は遠く離れているが、心は近くに感じることができる。日本は常に皆さんと共にあることを忘れないでほしい」と呼びかけた。これについてMBS、BSN、TBSは「両国(パラグアイとウルグアイ)とも日本からの移民の多い国で、このうち、ウルグアイのバスケス大統領との会談では、牛肉の相互輸出を解禁することなどを確認しました」と報じた。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 51,
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"text": "パラグアイの地方行政は、首都と17の県(departomentos)とに区分される。括弧内は県庁所在地。",
"title": "地方行政区分"
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{
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"text": "主要な都市はアスンシオン(首都)、シウダー・デル・エステがある。",
"title": "地方行政区分"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "パラグアイはパラグアイ川によって、東西に東パラグアイ (Paraguay Oriental) と西パラグアイ (Occidental Paraguay) またはチャコと呼ばれる地域に分かれる。東部は国土の40%、人口の97%近くを有し、丘陵と平原が交錯する地形で、森林と肥沃な大地からなり、アマンバイ山脈がブラジルとの国境を形成している。西部はきわめて人口が過疎であり、乾燥した疎林地帯やアルゼンチンとの国境を流れるピルコマヨ川流域の湿地帯からなる。川沿いには北欧系やロシアの入植者や先住民が住み、チャコ地域全体でも総人口は10万人程度である。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 54,
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"text": "南西はパラナ川が国境線となり、この川でブラジルとイタイプー・ダムを共有している。このダムは現在のところ水力発電をする世界最大のダムであり、パラグアイの電力需要のほぼすべてを賄っている。また、ジャスレタ・ダムがもうひとつパラナ川にあり、こちらはアルゼンチンと共有している。パラグアイは現在のところ世界でもっとも多く電力を輸出している国である。森林面積は約780万ヘクタールで、国土の20%を占める。",
"title": "地理"
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{
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"tag": "p",
"text": "亜熱帯から温帯であり、東部の降水量は多いが、極西部はほとんど雨が降らないこともある。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "メルコスール、南米共同体の加盟国である。2008年の経済成長率は5.8%で、農業が10.5%と高い。農業はGDPの27%、輸出の84%を占める。しかし、天候や市況に左右されることが、人口の4割に達する貧困層を生み出している。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 57,
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"text": "パラグアイは内陸国でありながらもパラグアイ川とパラナ川を通して大西洋に出ることができるが、貿易の大部分(GDPの38%)を隣国ブラジルとアルゼンチンとの交易に頼っている。両国およびウルグアイとの協定により、パラグアイは各国に自由港を持つ。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "パラグアイはブラジル・アルゼンチン・ボリビア人による辺境部の土地購入を除き、基本的に外国人による土地保有は自由である。しかし、規制の動きも出てきた。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "エネルギー : 水力発電99.9%(2002年時点) - イタイプー・ダム(ブラジルとの共同開発)、ジャスレタ・ダム(アルゼンチンとの共同開発)",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "2008年8月に発足したルゴ政権は、2010年7月12日、民間部門の月額法定最低賃金を7%上げて、317ドルにする法令を出した。同国の労働組合は、最低賃金の10%引き上げを求めて政府と交渉していた。企業家団体は、賃上げは生産コストを引き上げ、雇用を困難にすると反対している。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "パラグアイは経済的に不平等で貧しい国家であり、約4割の国民が貧困に喘いでいると見積もられている。農村部では41.2%が、都市部では27.6%が最低限の基本的なニーズを満たすための収入を得ることができない。上位10%の人間が国富の43%を牛耳るが、下位10%の人間はわずかに0.5%にすぎない。景気の後退はこうした状況をさらに悪化させ、1995年に0.56だったジニ係数は1999年には0.66に上昇した。10%の人口が国土の66%を所有する一方、地方の人口の30%は土地を持っていない。この不平等さはエリートと土地なし農民の間に強い緊張状態をもたらしている。隣国のブラジルやアルゼンチンへ出稼ぎに行く人も少なくない。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "メルコスール加盟国のひとつである。パラグアイの産業でもっとも重要な働きをしているのは農業であり、パラグアイは世界でも3番目の大豆輸出国である。輸出品目は大豆、小麦、農畜、電力が主。近年は甘味料や健康食品、化粧品の原料としてしられるステビア生産にも力を入れている。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 63,
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"text": "パラグアイの鉱業はまったく未開発の状態にある。長年にわたり、ごく小規模な鉄鉱床を除けばパラグアイには鉱物資源がほとんど存在しないと考えられてきた。鉄鉱石の採掘は古くは三国同盟戦争以前から続いていたが、1990年に至っても鉱業セクターはパラグアイのGDPのわずか0.5%を占めるに過ぎなかった。状況が変わったのは南西部のエンカルナシオンで埋蔵量3億トンに達する鉄鉱床が見つかった1990年代からである。しかしながら品位が35%と低いため、パラグアイの鉱業を活性化するには至っていない。近年、チャコ地方での油田の開発計画が浮かび上がっている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "木材生産は農牧地の拡大にともない年々増加しているが、利用される樹種はラパチョなど10種類程度しかなく、残りの樹種は焼却処分されている。利用される樹種においても加工用として使用されるのは3分の1に過ぎず、3分の2は燃料や農牧用として使用されている。また林業関連加工企業も数えるほどしか存在せず、木材乾燥技術や製材技術などは育成が不十分である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "パラグアイ国民の90%以上が、日本人と同じモンゴロイド系であるグアラニー人などのインディヘナの血が強い、スペイン人との間の混血(メスティーソ)である。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "これは、征服当初この地に住んでいたグアラニー人が、やってきたスペイン人と同盟してほかのインディヘナを打ち破る過程で両者が積極的に混血を受け入れたこと、その後やってきたイエズス会の伝道師がグアラニー人を教化する過程でグアラニー文化が伝承・保存されたこと、イエズス会が追放されたあともパラグアイでは都市が育たず、ほかのラテンアメリカ植民地と比較してクリオージョ支配層があまり強力な存在にならなかったこと、1811年にブエノスアイレス主導の独立を拒否し独自の国家として独立したあとは、パラグアイの初代国家元首フランシア博士が政策的に異人種間の通婚を推奨・強制し、その際に抵抗勢力になりそうなクリオージョはほとんど追放してしまったためである。そのため現在のパラグアイ人は「グアラニー」の血を引くことを誇りに思っており、小柄でアジア的な風貌の人も少なくない。移民としてはドイツ人、イタリア人、スペイン人、日本人、中国人、アラブ人などがいるが、社会に及ぼす影響としてはブラジル人とアルゼンチン人の二集団の存在がもっとも大きい。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "三国同盟戦争直前に約52万人と推定されているパラグアイの人口は、戦争終結後約21万人にまで減少した。その後、1946年推計で約122万人、1962年センサスで185万1,890人、1972年センサスで235万7,955人、1983年年央推計で約347万人となった。国民の大部分がカトリック教徒である影響で、母体に生命の危機が迫っている状態を例外として、人工妊娠中絶は認められていない。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "スペイン語、グアラニー語が公用語であり、94%の国民はグアラニー語を話すことができ、スペイン語も75%の国民によって話されている。また、全人口の約2.5%に当たる16万人がドイツ語を話す。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "宗教はローマカトリックが90%だが、メノニータ、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)なども存在する。宗教選択は自由である。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は94%である。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "おもな高等教育機関としては、国立アスンシオン大学(1889年)などが挙げられる。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "スペイン人の父とグアラニー人の母を祖先に持つものが現在のパラグアイ国民の大多数であり、それゆえパラグアイの文化はこの2つの文化と伝統を根に持つ。現在のパラグアイ人の80%以上が両言語のバイリンガルである。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "パラグアイ人にも近隣諸国の国民と同様にマテ茶を飲む習慣があるが、パラグアイ人は好んでテレレを飲む。肉食の傾向が強いパラグアイ人は血圧を下げるためや、ビタミンの補給、発汗作用のためにも飲んでいる。マテ茶はグアラニー人から受け継がれてきた飲み物であるが、テレレそのものはチャコ戦争のころに生まれたようである。またマンジョーカと呼ばれるイモや、マンジョーカを原料にしたチパというパンを食べる習慣がある。",
"title": "文化"
},
{
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"text": "パラグアイ出身の著名な作家としては、ガブリエル・カサクシアや、『汝、人の子よ』(1960)、『至高の存在たる余は』(1974)で1989年にセルバンテス賞を受賞したアウグスト・ロア・バストスの名が挙げられる。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "グアラニアと呼ばれるアルパを使ったフォルクローレが盛んであり、ほかのラテン音楽によくあるようなアフリカ的な要素はあまり感じられない、哀愁を帯びた曲調が特徴的である。著名な音楽家としてはフェリックス・ペレス・カルドーソやアパリシオ・ゴンサレスが有名である。日本でもルシア塩満、上松美香などがプロのアルパ奏者として活躍している。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 76,
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"text": "パラグアイ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産として、1993年に登録されたラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナとヘスース・デ・タバランゲのイエズス会伝道所群が存在する。2010年現在では国内唯一の世界遺産である。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "パラグアイでも他のラテンアメリカ諸国と同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっており、1906年にプロサッカーリーグのリーガ・パラグアージャが創設された。主なクラブとしては、オリンピア、セロ・ポルテーニョ、リベルタ、グアラニーなどが挙げられる。著名な選手としては、ロケ・サンタ・クルス、ルーカス・バリオス、ミゲル・アルミロンなどが存在する。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "パラグアイサッカー協会(APF)によって構成されるサッカーパラグアイ代表は、これまでFIFAワールドカップには8度出場しており、2010年大会ではラウンド16で日本代表と対戦し、スコアレスのままPK戦にまでもつれ込んだ激闘を制し初のベスト8に進出した。さらにコパ・アメリカでは、1953年大会と1979年大会で2度の優勝経験をもつ。なお、代表チームはグアラニー人に因んで、Los Guaraníes(グアラニー)の愛称で呼ばれている。",
"title": "スポーツ"
}
] | パラグアイ共和国、通称パラグアイは、南アメリカ中央南部に位置する共和制国家である。東と北東をブラジル、西と北西をボリビア、南と南西をアルゼンチンに囲まれている内陸国である。首都はアスンシオン。 なお、パラグアイの国旗はデザインが表と裏とで異なっている(パラグアイの国旗を参照)。 | {{出典の明記| date = 2022年3月}}
{{基礎情報 国
| 略名 = パラグアイ
| 日本語国名 = パラグアイ共和国
| 公式国名 = {{Lang|es|'''República del Paraguay'''}}<small>(スペイン語)</small><br />{{Lang|gn|'''Tetã Paraguái'''}}<small>(グアラニー語)</small>
| 国旗画像 = Flag of Paraguay.svg
| 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of Paraguay.svg|100px|パラグアイの国章]]
| 国章リンク =([[パラグアイの国章|国章]])
| 標語 = ''Paz y justicia''<br />(スペイン語: 平和と正義)
| 位置画像 = Paraguay (orthographic projection).svg
| 公用語 = [[スペイン語]]、[[グアラニー語]]
| 首都 = [[アスンシオン]]
| 最大都市 = アスンシオン
| 元首等肩書 = [[パラグアイの大統領|大統領]]
| 元首等氏名 = [[サンティアゴ・ペニャ]]
| 首相等肩書 = {{ill2|パラグアイの副大統領|en|Vice President of Paraguay|label=副大統領}}
| 首相等氏名 = {{ill2|ペドロ・アリアナ|en|Pedro Alliana}}
| 面積順位 = 58
| 面積大きさ = 1 E11
| 面積値 = 406,752
| 水面積率 = 2.3%
| 人口統計年 = 2019
| 人口順位 = 104
| 人口大きさ = 1 E6
| 人口値 = 713万2000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/py.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-11-7}}</ref>
| 人口密度値 = 15<ref name=population/>
| GDP統計年元 = 2019
| GDP値元 = 236兆5667億400万<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月19日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=288,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref>
| GDP統計年MER = 2019
| GDP順位MER = 93
| GDP値MER = 379億700万<ref name="economy" />
| GDP MER/人 = 5299.667<ref name="economy" />
| GDP統計年 = 2019
| GDP順位 = 101
| GDP値 = 926億2300万<ref name="economy" />
| GDP/人 = 1万2949.326<ref name="economy" />
| 建国形態 = [[独立]]
| 建国年月日 = [[スペイン]]から<br />[[1811年]][[5月14日]]
| 通貨 = [[グアラニー (通貨)|グアラニー]]
| 通貨コード = PYG
| 時間帯 = -4
| 夏時間 = -3
| 国歌 = [[パラグアイ人達よ、共和国か死か|{{lang|es|Paraguayos, República o Muerte}}]]{{es icon}}<br>''パラグアイ人達よ、共和国か死か''<br>{{center|[[File:Paraguayan National Anthem.oga]]}}
| ISO 3166-1 = PY / PRY
| ccTLD = [[.py]]
| 国際電話番号 = 595
| 注記 =
}}
'''パラグアイ共和国'''(パラグアイきょうわこく、{{Lang-es|República del Paraguay}}、{{Lang-gn|Tetã Paraguái}})、通称'''パラグアイ'''は、[[南アメリカ]]中央南部に位置する[[共和制]][[国家]]である。東と北東を[[ブラジル]]、西と北西を[[ボリビア]]、南と南西を[[アルゼンチン]]に囲まれている[[内陸国]]である。首都は[[アスンシオン]]。
なお、パラグアイの国旗はデザインが表と裏とで異なっている([[パラグアイの国旗]]を参照)。
== 国名 ==
正式名称はスペイン語で{{Lang|es|República del Paraguay}}(レプブリカ・デル・パラグアイ)である。通称は{{Lang|es|Paraguay}}{{IPA-es|paɾaˈɣwai|}} 。[[グアラニー語]]表記は{{Lang|gn|Tetã Paraguái}}(テタ・パラグアイ)である。通称は{{Lang|gn|Paraguái}} {{IPA-gn|paɾaˈɰwaj|}}。
公式の英語表記は{{Lang|en|Republic of Paraguay}}(リパブリック・オブ・パラグアイ){{IPA-en|ˈpærəɡwaɪ|}}。
日本語の表記は'''パラグアイ共和国'''。[[駐日パラグアイ大使館|同国の在日大使館]]が用いる正式片仮名表記は'''パラグァイ'''。日本では通常'''パラグアイ'''、'''パラグワイ'''などと表記され、[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]では'''巴拉圭'''、または'''巴羅貝'''となる。
パラグアイ(Paraguay)とは、もともとグアラニー語で「大きな川から」を意味する言葉であったという説が有力である。大きな川とは[[パラナ川]]のことである。そのほかにも「鳥の冠を被った人々」を意味するという説がある。
== 歴史 ==
{{main|パラグアイの歴史}}
=== 先コロンブス期 ===
もともとこの地には[[グアラニー人]]をはじめとするトゥピ・グアラニー系の[[インディヘナ]]諸集団が住んでいた。[[タワンティンスーユ]](インカ帝国)の権威はこの地までは及ばなかったため、多くの人々は原始的な共同体を築きながら生活していた。しかし、[[16世紀]]初頭以降、この地にも[[セバスティアン・カボット]]をはじめとする[[ヨーロッパ]]人がラ・プラタ川を遡って渡来するようになる。
=== スペイン植民地時代 ===
{{See also|スペインによるアメリカ大陸の植民地化}}
[[ファイル:ヘスース・デ・タバランゲの教会跡.jpg|thumb|upright|220px|パラグアイの[[イエズス会]]伝道所跡]]
[[1537年]]に[[ブエノスアイレス|ブエン・アイレ]]からの探検隊により[[アスンシオン]]が建設されると、[[スペイン]]領となった。この建設はラ・プラタ川から[[アルト・ペルー]]への陸路と存在すると思われた「銀の山」を探すためであり、かつ[[ポルトガル]]の領土拡張に対する防塞建設のための遠征の結果だった。
[[チャルーア人]]のようなラ・プラタ地域の狩猟インディヘナとは違って、粗放とはいえ農耕を営んでいたグアラニー人は文化程度も高く、スペイン人との同盟により敵対していたほかのインディヘナと対決することを決め、スペイン人もこれを受け入れたため両者の間に交流が生まれ、混血者([[メスティーソ]])も発生していった。
[[1617年]]にアスンシオンを中心とする総督領から、[[ブエノスアイレス]]を中心とするラ・プラタ総督領、[[サン・ミゲル・デ・トゥクマン]]を中心とするトゥクマン総督領が分離する。[[17世紀]]以降は[[イエズス会]]宣教師による先住民への布教活動が、農業活動なども含めて活発に展開された。現在も残る[[イエズス会布教所]]跡はこのときに建設されたものがほとんどである。イエズス会はブラジルの[[サンパウロ]]からやってくる、[[バンデイランテス|バンデイランチ]]({{lang-pt|Bandeirantes}})と呼ばれた奴隷商人への抵抗のためにグアラニー人に武装させた。ポルトガル人奴隷商人によって多くのグアラニー人が奴隷となってブラジルに連行されたものの、この軍隊はしばしばポルトガル人を破ってスペイン植民地の辺境を防衛する役目を担った。ローマ教皇に直属し、以後スペイン王室や副王の役人も容易に口出しできなくなったイエズス会の伝道地は、[[原始共産制|原始共産主義]]的な様相を帯び、自主自立の独立国家のような存在として、その後もほかの地域のインディヘナが味わったような辛酸には至らず100年近く平和に存在し続けた。
[[1750年代]]以降は、[[:en:Guarani_War|グアラニー戦争]]により、[[バンダ・オリエンタル]](現在の[[ウルグアイ]]に相当)からグアラニー人が撤退してきた。その後すぐ1768年のスペイン王室の決定による[[イエズス会#弾圧と復興|イエズス会の追放]]によりイエズス会は南米から撤退することが決まり、当地のグアラニー人たちはスペイン・ポルトガルの直轄支配下に置かれることとなった。
[[1776年]]に[[リオ・デ・ラ・プラタ副王領]]が[[ペルー副王領]]から分離されるが、その後もパラグアイはあまり大きな発展もしないまま月日が流れていった。
=== 独立とカウディージョの専制統治 ===
{{See also|近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立}}
<gallery widths="200px" heights="180px" style="float:right;">
José Gaspar Rodríguez de Francia.jpg|ホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシア
Carlos Antonio López.jpg|カルロス・アントニオ・ロペス
</gallery>[[1810年]][[5月25日]]、[[ブエノスアイレス]]にて{{仮リンク|ポルテーニョ|en|Porteño}}が[[五月革命 (アルゼンチン)|五月革命]]を起こし、ラ・プラタ副王領のスペインからの自治を宣言した際に、パラグアイ州は[[バンダ・オリエンタル]]、[[アルト・ペルー]]、[[コルドバ (アルゼンチン)|コルドバ]]などとともにブエノスアイレス主導の独立を認めず([[マヌエル・ベルグラーノ]]将軍の{{仮リンク|パラグアイ攻略|es|Expedición de Belgrano al Paraguay|en|Paraguay campaign}}を撃退した)、1811年に共和国としてラテンアメリカで最初に正式に独立を宣言した。こうした混乱の中で国土の狭かったパラグアイは比較的早く国がまとまり、[[1814年]]に[[ホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシア]]博士が執政官に就任し、[[1816年]]には終身執政官の職に就いた。
農民の支持を基盤にしたフランシアの長期[[独裁]]体制下では、政治的、経済的鎖国と土地の公有地化を進めた一方で、スペイン系白人([[クリオージョ]])の反乱を恐れたフランシアはグアラニー人とクリオージョの集団結婚を政策的に推進した。フランシアの政治は逆らうものは容赦なく追放し、処刑する恐怖政治に近いものであり、グアラニー人との混血やその他もろもろの要求を断った反対派のクリオージョ層は亡命したが、この時期の南米において[[チリ]]を除いたラテンアメリカ諸国が内戦を続けていたのとは対照的に、政治的には安定を保ち、義務教育が行われ、当時の旅行者が「パラグアイでは盗人も飢えた者もいなかった」との言葉を残すほどだった。対外政策も成功し、1838年には[[アルゼンチン]]の[[ミシオネス州]]を併合する。[[1840年]]にフランシアが死亡すると政治的混乱が発生したが、[[1844年]]にフランシア博士の甥の[[カルロス・アントニオ・ロペス]]が初代[[パラグアイ大統領]]に就任することで、国内情勢は再び安定した。カルロス・ロペスは前任者から続いた鎖国政策を解き、国家の保護の下の開放政策に転じて一躍パラグアイの近代化に取りかかった。
前任者の公有地化政策によりカルロス・ロペスの時代には国土の98%が公有地となっていたが、この土地制度を利用して[[マテ茶]]や[[タバコ]]などを栽培し、[[保護貿易]]によって莫大な黒字を上げた。カルロス・ロペスはこの貿易黒字を元手に鋳鉄や火砲を生産する工場を建設し、ヨーロッパに留学生を送り、[[1861年]]にはアスンシオンに鉄道が開通した。[[イギリス]]からの債務を負うことはなく、逆にイギリス人の技術者を雇って国家に役立て、パラグアイは[[ラテンアメリカ]]で唯一対外債務を負っていない国として自立的な発展を続けた。しかし、その治世の後半からは[[アルゼンチン]]、[[ブラジル]]からの圧力と内政干渉が激しいものになり、大事には至らなかったものの、[[ウルグアイ]]の[[大戦争]]中に、[[ラ・プラタ川]]の封鎖をめぐって[[リトラル三州]]の反ロサス運動を支援していたことによって、アルゼンチンの独裁者[[フアン・マヌエル・デ・ロサス]]の軍と戦争したこともあり、こうした外圧を脅威に思って南米でもっとも強大な軍隊を組織した。
=== 三国同盟戦争 ===
<gallery widths="200px" heights="180px" style="float:right;">
Solano Lopez ak.jpg|フランシスコ・ソラーノ・ロペス
José Ignacio Garmendia-Soldado paraguayo ante el cadáver de su hijo.jpeg|[[ホセ・イグナシオ・ガルメンディア]]''『我が子の遺体を前にするパラグアイ兵』''
</gallery>{{Main|パラグアイ戦争}}
[[1862年]]にカルロス・ロペスが死亡。長男の[[フランシスコ・ソラーノ・ロペス]]元帥が後を継いで大統領になると、[[1864年]]にブラジルとアルゼンチンの内政干渉に悩むウルグアイの[[ブランコ党]]政権から救援を求められたことをきっかけに、ソラノ・ロペスはパラグアイと似たような立場で悩むウルグアイの救援を決意した。ロペスはブラジル領内に侵攻し、ラテンアメリカでもっとも凄惨な戦争となった[[パラグアイ戦争|三国同盟戦争]]が始まった。このときロペスは、アルゼンチンの反体制派の首領{{仮リンク|フスト・ホセ・デ・ウルキーサ|en|Justo José de Urquiza}}らの協力を得ることができず、アルゼンチンとウルグアイを味方につけることに失敗することとなった。そしてさらに、かねてからパラグアイの発展を好ましく思っていなかった [[イギリス]]資本の支援を受け、[[ブラジル]]、[[アルゼンチン]]、[[ウルグアイ]]が三国同盟を結ぶと、同盟軍はパラグアイに侵攻した。三方から攻められたパラグアイ軍は全滅するまで勇敢に戦い、[[アメリカ合衆国]]の公使がその勇気と愛国心を褒め称えたほどであった。途中でアルゼンチン北西部でロペスに共感した[[カウディージョ]]の{{仮リンク|フェリペ・バレーラ|en|Felipe Varela}}が反乱を起こすと、その鎮圧のために[[アルゼンチン軍]]が離脱し、同国で{{仮リンク|バルトロメ・ミトレ|en|Bartolomé Mitre}}が大統領を辞任したことによって、付き合いで参戦していた[[ウルグアイ軍]]が離脱するという事態も起きたが、[[ブラジル軍]]は追撃を重ね、[[1870年]]3月、パラグアイ人の一団を率いて敗走中のロペス大統領は戦死し、パラグアイの敗北を持ってこの戦争は終結した。パラグアイはブラジルとアルゼンチンに国土の4分の1にあたる14万km{{sup|2}}を割譲し、開戦前の52万人の人口は21万人にまで減少した。成人男性に至っては3分の2以上(9割とも言われる)を失った。さらに敗戦とともに[[イギリス]]から借款が押しつけられ、パラグアイが誇った公有地を中心とした土地制度はアルゼンチン人などによって買い取られ、この国でもほかのラテンアメリカ諸国と同じように大土地所有制が確立した。こうしてパラグアイは国民のみならず、国土、関税率、工場、経済的独立のすべてを失い、これ以後50年に渡り国勢は停滞し、現在に至るまで傷跡は残っている。
=== 停滞とチャコ戦争 ===
アルゼンチンとブラジル、特に経済的には前者の、政治的には後者の[[衛星国]]として再スタートしたパラグアイだったが、戦争の代償はあまりにも大きかった。1879年にはアルゼンチン軍が撤退し、1880年代には{{仮リンク|自由党 (パラグアイ)|en|Liberal Party (Paraguay)|label=自由党}}と[[コロラド党 (パラグアイ)|コロラド党]]が設立されたが、不正選挙が横行し民主主義からは程遠い状態にあった。軍事独裁政権の下で人口を補うために移民が導入され、[[スイス]]、[[ドイツ]]、[[イタリア]]などから農業移民がやってきたが、その数は周辺国と比べるとはるかに少なかった。その後、20世紀に入ると自由党政権のもとで多少なりとも改革が行われたが、政情はいまだに不安定なまま、大量な石油の埋蔵があると仮説が立てられた[[グラン・チャコ]]地方をめぐって、次第に[[ボリビア]]との対立が大きくなっていった。
<gallery widths="200px" heights="180px" style="float:right;">
|ラファエル・フランコ
|ホセ・フェリクス・エスティガリビア・インサウラルデ
</gallery>
[[1932年]]、ボリビアがパラグアイに奇襲攻撃し[[チャコ戦争]]が始まった。[[パラグアイ軍]]は貧弱な装備ながらも辛うじてこの戦いに勝利し、[[1938年]]のブエノスイアレス講和条約では植民地時代から[[チャルカス]]とアスンシオンの間で争われていた、広大な[[グラン・チャコ]]地方の領有権を獲得する。しかし、この戦争による経済的な打撃と4万人にも及ぶ死者は社会を疲弊させ、その後、社会改革を求めて[[社会主義]]や[[国家社会主義]]を掲げた軍人が政治を動かしていくことになった。また、こうして生まれた政権はナショナリズムを称揚し、1936年に[[パラグアイ共産党]]などと結んで大統領になっていたチャコ戦争の英雄{{仮リンク|ラファエル・フランコ|en|Rafael Franco}}大佐によってフランシスコ・ソラーノ・ロペスの完全な名誉回復がなされた。しかし、[[フランコ]]の急進的過ぎる改革は寡頭支配層に嫌われ、[[1937年]]には1年足らずで追放された。
=== 1947年の内戦 ===
フランコのあとはチャコ戦争の英雄[[ホセ・フェリクス・エスティガリビア・インサウラルデ|エスティガリビア]]将軍が後を継ぎ、[[1940年]]にエスティガリビアが事故死すると{{仮リンク|イヒニオ・モリニゴ|en|Higinio Moríñigo}}将軍は[[第二次世界大戦]]を連合国側で参戦して乗り切ったが、民主化の要求のために部分的に民主主義的な改革を余儀なくされた。しかし、こうした政策は二月党とコロラド党の対立を招き、ついには1947年に内戦に至って結局軍は内戦に勝利したものの([[パラグアイ内戦]])、20万人以上のパラグアイ人が国外に亡命することになった。その後、大統領になった{{仮リンク|フェデリコ・チャベス|en|Federico Chávez}}が政権を握り混乱を収めたが、[[フアン・ペロン]]の影響を受けた経済政策への批判に対応を誤り、軍部からのクーデターでチャベスは追放された。
=== ストロエスネル時代 ===
[[File:Wasmosy 1990 (cropped).jpg|200px|thumb|{{仮リンク|フアン・カルロス・ワスモシ|es|Juan Carlos Wasmosy}}]]
[[1954年]]にブラジル軍の後押しを受けた[[クーデター]]によりチャベスは追放され、[[アルフレド・ストロエスネル]]政権が誕生し、以後30年以上親ブラジル的独裁政権が続いた。軍とコロラド党を掌握して長期政権を可能にしたストロエスネルは、治安を回復し経済も成長したものの、一方で少数民族となっていたインディヘナの虐殺、反政府運動の弾圧などを重ね、一時は[[アメリカ合衆国]]からも経済制裁を受けた。ストロエスネルの時代に独裁体制は完成したが、[[1989年]]2月、突如としてストロエスネルの腹心だった{{仮リンク|アンドレス・ロドリゲス・ペドッティ|es|Andrés Rodríguez Pedotti}}将軍が決起し、[[チリ]]以外の周辺国の民政移管が完了したあとも権力を握っていたストロエスネルが市街戦を終えたあと失脚し、ブラジルに追放された。こうして35年に及んだ、ラテンアメリカでもまれに見る長期独裁は終わった。
=== 民政移管以降 ===
ロドリゲス将軍が臨時大統領になると、ロドリゲス将軍はそれまでの路線を改めて民主化政策をとった。こうして[[1993年]]5月には{{仮リンク|フアン・カルロス・ワスモシ|es|Juan Carlos Wasmosy}} ({{Lang|es|Juan Carlos Wasmosy}}) が大統領就任。パラグアイに39年ぶりに文民大統領が誕生したが、パラグアイの民主主義は前途多難であった。
[[1996年]]4月、ワシモシ大統領は、軍の政治力を削ぐために、軍の実力者で軍部の政治介入を公言して憚らない{{仮リンク|リノ・オビエド|en|Lino Oviedo}}({{Lang|es|Lino Oviedo}}) を解任し、オビエドは6月には逮捕された。しかし、[[1998年]]8月にはオビエド派である{{仮リンク|ラウル・クーバス・グラウ|en|Raúl Cubas Grau|label=ラウル・クーバス}} ({{Lang|es|Raul Cubas}}) 大統領が就任し、同月大統領権限でオビエドを釈放した。
釈放されたオビエドは暗躍を重ね、[[1999年]][[3月23日]]、{{仮リンク|ルイス・マリア・アルガーニャ|en|Luis María Argaña}} ({{Lang|es|Luis Maria Argaña}}) 副大統領がオビエド派によって暗殺されたとみられる事件が発生したあと、オビエドとクーバス大統領が亡命した。この後を受けて同月、{{仮リンク|ルイス・ゴンサレス・マキ|en|Luis Ángel González Macchi}} ({{Lang|es|Luis Gonzalez Macchi}}) 大統領が就任するも、[[2000年]]5月にはまたもクーデター未遂事件が発生した。その後、[[2003年]]4月に[[ニカノル・ドゥアルテ・フルートス]] ({{Lang|es|Nicanor Duarte Frutos}}) 大統領が就任した。
[[2008年]]4月に大統領選挙が行われ、野党連合「{{仮リンク|変革のための愛国同盟|en|Patriotic Alliance for Change}}(APC)」の進歩派[[フェルナンド・ルゴ]]が、与党[[コロラド党 (パラグアイ)|コロラド党]]の{{仮リンク|ブランカ・オベラル|en|Blanca Ovelar}}、元陸軍司令官{{仮リンク|リノ・オビエド|en|Lino Oviedo}}を破って当選した。開票率92%の段階で、ルゴ40.83%、オベラル30.71%、オビエド21.98%であった。ルゴの選挙母体APCは、中道右派の自民党と左派連合が同盟を結んでいる。1947年から軍政時代も含めて61年間続いたコロラド党の支配は終わった。
2012年6月には[[フェルナンド・ルゴ]]への議会による弾劾により大統領職を追われた。これはルゴ氏支持者からは[[クーデター]]であると非難されている。同時に副大統領であった[[真正急進自由党]]の[[ːenːFederico Franco|フェデリコ・フランコ]]が大統領に昇格。そして、2013年4月に行われた大統領選挙では[[オラシオ・カルテス]]が勝利し、再び[[右翼]]政党である[[コロラド党 (パラグアイ)|コロラド党]]支配の時代へと回帰した。
2018年4月、オラシオ・カルテスが大統領選挙でマリオ・アブド・ベニテスに敗れる。これに伴い任期満了を待たずに上院議員へ転任しようと辞任することを宣言<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3176354 |title=パラグアイ「初の女性大統領」誕生へ 現職が上院議員に転身 |publisher=AFP |date=2018 |accessdate=2023-06-03}}</ref>して混乱を招くも、同年8月までの任期を全うした。
同月、マリオ・アブド・ベニテスが大統領に就任した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3188582?cx_part=search |title=パラグアイ、エルサレムから大使館撤退 イスラエルは閉鎖で対抗 |publisher=AFP |date=2018 |accessdate=2023-06-03}}</ref>。
[[2023年]]4月に行われた大統領選挙では、元財務相の[[サンティアゴ・ペニャ]]が大統領に選出され、同年8月に大統領に就任した<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=パラグアイ大統領 “台湾重視“示す 南米で唯一 外交関係もつ {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230816/k10014164331000.html |website=NHKニュース |date=2023-08-16 |access-date=2023-08-18 |last=日本放送協会}}</ref>。
== 政治 ==
{{main|{{仮リンク|パラグアイの政治|en|Politics of Paraguay}}}}
[[国家元首]]である大統領は、行政府の長として実権を有する。任期は5年で再選禁止。2013年より大統領職にあった[[オラシオ・カルテス]]は、2018年の大統領選挙に向けて再選を可能とする憲法改正手続を進めていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3123635 |title=パラグアイ上院、大統領再選認める改憲案を可決 騒乱で1人死亡|publisher=AFP |accessdate=2017-04-02}}</ref>が、大規模な反対運動が起きたため撤回された。
選挙は、大統領候補と副大統領候補がそれぞれペアとなり立候補し、国民は直接選挙により数組の中から1組を選出する。大統領が死亡や罷免により欠ける場合は、副大統領が大統領に昇格し、残りの任期を務める。首相職はなく、大統領が閣議を主宰する。
議会は、[[両院制]]。上院は全45議席を全国区で選出、代議院(下院)は全80議席を県単位の18選挙区に分けて選出する。両院とも議員の任期は5年で、大統領選挙と同じ日に選挙が行われる。前回投票は2023年4月30日に行われ、政党別の獲得議席数は以下の通り。
;上院
* 国民共和協会(通称:[[コロラド党 (パラグアイ)|コロラド党]]):23
* [[左派]]系政党連合:12
* {{仮リンク|国民十字軍党|es|Partido Cruzada Nacional}}(PCN):5
* {{仮リンク|国民交流党|es|Partido Encuentro Nacional}}:2
* {{仮リンク|最愛なる祖国党|en|Beloved Fatherland Party}}:1
* グアスー戦線:1
* Yo Creo運動:1
;代議院(下院)
* 国民共和協会(通称:コロラド党):48
* 左派系政党連合:23
* 国民十字軍党:4
* 最愛なる祖国党:1
* 国民交流党:2
* Yo Creo運動:2
伝統的に、パラグアイの国政史上ほとんどの期間が、かつて[[シモン・ボリーバル]]が語ったように[[独裁]]か[[無政府状態]]のどちらかの状態であったが、ストロエスネルの失脚以降は多少風向きも変わってきているようである。しかし、それでも依然として軍の政治力は強く、問題になっている。
== 軍事 ==
[[File:Paraguayan marines at Ancon Marine Base 2010-07-19.JPG|thumb|パラグアイ軍の兵士]]
{{main|パラグアイ軍}}
[[パラグアイ大統領]]はパラグアイ軍の最高司令官を兼任する。兵員は約2万人。[[徴兵制]](15 - 49歳)が敷かれており、男性の国民は兵役の義務を有する。
西部グランチャコの{{仮リンク|マリスカル・エスティガリビア|en|Mariscal Estigarribia}}に[[アメリカ空軍]]の基地が存在する。
国防予算(2000年):8,300万ドル(一人頭15ドル)
=== 陸軍 ===
[[パラグアイ陸軍]]。兵員は1万5,000人。国内の治安維持や災害救助などの任務が多い。
=== 海軍 ===
[[パラグアイ海軍]]。兵員は3,600人。海軍は国境の川の防備が任務である。
=== 空軍 ===
[[パラグアイ空軍]]。兵員は1,700人。規模、稼動機ともに多くない。
== 国際関係 ==
[[File:Paraguayan diplomatic missions.PNG|thumb|520px|パラグアイが外交使節を派遣している諸国の一覧図]]
[[メルコスール]]加盟国の1か国で、ブラジルやアルゼンチン、ウルグアイなどの近隣諸国と友好関係を維持している。
20世紀前半には背後にイギリス資本を抱えたアルゼンチンの、20世紀後半からは背後にアメリカ資本を抱えたブラジルの影響を強く受けてきた。
2005年5月から、グランチャコの{{仮リンク|マリスカル・エスティガリビア|en|Mariscal Estigarribia}}に[[アメリカ空軍]]が駐留しており、これはボリビアの[[サンタクルス]]県の自治運動に[[アメリカ合衆国]]が介入するためだとみなされているため、この駐留[[アメリカ軍]]の存在は近隣諸国との間での外交問題となっている。
=== 中華民国(台湾)との関係 ===
{{main|中華民国とパラグアイの関係}}
ストロエスネル政権時代の[[反共主義|反共産主義]]政策が体制崩壊後も続き、南米で唯一、[[中華民国]]と[[国交]]を有しているが、近年は経済面から[[中華人民共和国]]との国交樹立を検討しているとも言われる。中華民国の承認国の中では、面積規模で最大である(人口規模だと[[グアテマラ]]が最大となる)、駐韓国パラグアイ大使館が対[[中華人民共和国]]外交業務を兼任している。[[駐日パラグアイ大使館]]が対[[香港]]と[[マカオ]]外交業務を兼任している<ref>{{cite web|url=http://www.embaparcorea.org/esp/sub02/sub01.php |title=Embajador |publisher=巴拉圭共和國駐大韓民國大使館 |accessdate=2020-08-26 |archive-date=2021-12-12|archive-url=https://web.archive.org/web/20211212010802/http://www.embaparcorea.org/esp/sub02/sub01.php}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.embapar.jp/ja/consular_section/|title=領事部|publisher=在日パラグアイ共和国大使館|accessdate=2020-08-26|archive-date=2020-04-20|archive-url=https://web.archive.org/web/20200420141748/http://www.embapar.jp/ja/consular_section/|dead-url=no}}</ref>。
[[2020年]]、パラグアイで[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]が拡大。[[2021年]][[3月]]、パラグアイで[[中華人民共和国]]関係者を名乗る業者が[[COVID-19ワクチン]]提供の条件として[[中華民国]]との断交を要求してきたが、その後、[[中華民国]]がパラグアイのワクチン獲得に協力している<ref>{{Cite news|author=|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2021080300751|title=ワクチン供給「中国が破棄」 台湾との外交理由か―パラグアイ|newspaper=[[時事通信社|時事通信]]|publisher=|date=2021-08-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210803195651/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021080300751|archivedate=2021-08-03}}</ref>。
[[2022年]][[9月28日]]、『[[フィナンシャル・タイムズ]]』は、[[マリオ・アブド・ベニテス]][[パラグアイの大統領|大統領]]が台湾に対して、外交関係を維持するために10億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]を[[投資]]するよう要請していると報じた<ref>{{Cite news|author=|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2022093000180|title=外交維持へ「10億ドル投資を」 パラグアイ大統領が台湾に要請?―英紙|newspaper=|publisher=[[時事通信社|時事通信]]|date=2022-09-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220930095257/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022093000180|archivedate=2022-09-30}}</ref>。
[[2023年]][[8月15日]]に行われたサンティアゴ・ペニャの大統領就任式では、中華民国の[[中華民国副総統|副総統]][[頼清徳]]が出席。頼副総統は「パラグアイと台湾は地理的に遠く離れているが、66年以上続く友情が変わることはない」とSNSに投稿し、今後も両国関係が深まることに期待を示した<ref name=":0" />。
=== 日本国との関係 ===
{{Main|日本とパラグアイの関係}}
日本とパラグアイの関係は1912年、日本からの永住者として初めてパラグアイに渡った佐幸田兼蔵がプエルト・カサードの[[タンニン]]工場に勤務したことに始まる<ref name="ディスカバー・ニッケイ"/>。以来、[[日系パラグアイ人]]の貢献が高く評価されて伝統的に友好関係が続き、日本は非常に高い評価を受けており、現在、[[日系パラグアイ人]]は約1万人が住んでいる。[[1953年]]に日芭拓殖組合は[[日本人]]がパラグアイ南部の[[フェデリコチャベス]]、[[ラパス (イタプア県)|ラパス]]、フジに移住するのを援助した<ref name="ディスカバー・ニッケイ">{{Cite news |author=アケミ・キクムラ・ヤノ |url=http://www.discovernikkei.org/ja/journal/2014/4/18/paraguay/ |title=日系パラグアイ移民略史 |newspaper=[[ディスカバー・ニッケイ]] |publisher=|date=2014-04-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210521093325/http://www.discovernikkei.org/ja/journal/2014/4/18/paraguay/ |archivedate=2021-05-21 |deadurldate=}}</ref>。また日本海外移住振興会社は[[1959年]]からイタプア市に農業移住地を開拓した<ref name="ディスカバー・ニッケイ"/>。これらの移住地は地元の農業発展に大きな成功を収めたことから、1959年にパラグアイ政府と[[日本国政府|日本政府]]は移民協定を結び、[[1959年]]から[[1989年]]までの間に85,000人の[[農家|農夫]]を日本からパラグアイに移民することで合意したが、[[日本の経済|日本経済]]が[[1960年代]]に回復したため、その30年間にパラグアイに移民したのは7000人にすぎなかった<ref name="ディスカバー・ニッケイ"/>。1959年に締結された日本の国策による移民協定は、1989年に効力が無期限延長に改定され、85,000人の日本人が受け入れ可能となっている<ref name="外務省"/>。なお、1976年以来、[[2004年]]、[[2011年]]、[[2014年]]を除き、日本が最大の[[政府開発援助|経済援助国]]である<ref name="外務省">{{Cite news|author=|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/paraguay/data.html |title=パラグアイ共和国(Republic of Paraguay) 基礎データ |newspaper=|publisher=[[外務省]]|year=|month=|date=2020-11-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210607054604/https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/paraguay/data.html |archivedate=2021-06-07 |deadurldate=|page=}}</ref>。
[[1993年]]にパラグアイ人によって創設された、[[NIHON GAKKO]]([[日本学校]])がある。
経済面では、日本の[[矢崎総業]]、[[常石造船]]、[[住友電装]]など製造業が進出している。パラグアイの国内市場は小さいが、人件費が安いうえ、簡素な税制、[[メルコスール]](南米南部共同市場)によりブラジル、アルゼンチンに原則として無[[関税]]で[[輸出]]できるといった利点がある。中南米で左派政権が増えた2000年代において、鉱物・エネルギー資源が乏しいパラグアイは外資誘致により経済成長を図る政策を選んだことも背景にある<ref>対パラグアイ投資、高まる期待感/税制簡素、労働力安く/常石造船や住友電装が進出『[[日経産業新聞]]』2017年9月15日(アジア・グローバル面)</ref>。
「パラグアイは日本から見て、[[地球]]のちょうど反対側にあって、おそらく日本から一番遠い国の1つである。また、一番知られていない国の1つかもしれない。しかし、もっとも[[親日|親日的]]な国の1つである」という評価がある<ref>{{Cite news |author=[[北岡伸一]] |url=https://www.fsight.jp/articles/-/47598 |title=新・日本人のフロンティア (10) 不思議の「親日国」パラグアイ |newspaper=[[フォーサイト (雑誌)|フォーサイト]] |publisher=[[新潮社]] |date=2020-12-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20201217003211/https://www.fsight.jp/articles/-/47598 |archivedate=2020-12-17 }}</ref>。
[[2011年]][[3月11日]]の[[東日本大震災]]後に[[日系パラグアイ人]][[農家]]を中心に「100万丁[[豆腐]]プロジェクト」として100万丁分の原料の[[大豆]]、製造加工費を日本へ支援した<ref>{{Cite news |author= |url=https://www.nikkeyshimbun.jp/2011/110902-71colonia.html |title=豆腐100万丁を東日本被災地に=パラグアイ=イグアスの大豆から製造=すでに30万丁配布済み=包装に「心はひとつ」 |publisher=[[ニッケイ新聞]]|date=2011-09-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140919140736/https://www.nikkeyshimbun.jp/2011/110902-71colonia.html |archivedate=2014-09-19 |accessdate=}}</ref>。また[[東日本大震災]]に伴う[[福島第一原子力発電所事故]]を理由にパラグアイに移住する日本人が増えている<ref>{{Cite news|author=[[朴鐘珠]]|url=http://mainichi.jp/articles/20151126/dde/007/030/047000c|title=原発移民 日本からパラグアイへ 「息苦しさ」逃れ 3カ月で永住権、魅力|publisher=[[毎日新聞]]|date=2015-11-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160103101440/http://mainichi.jp/articles/20151126/dde/007/030/047000c|archivedate=2016-01-03|accessdate=}}</ref><ref>{{Cite news|author=[[朴鐘珠]]|url=http://mainichi.jp/articles/20151127/dde/007/030/055000c|title=原発移民 日本からパラグアイへ 無農薬で活路 収入源確保のレタス栽培|publisher=[[毎日新聞]]|date=2015-11-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160131171826/http://mainichi.jp/articles/20151127/dde/007/030/055000c|archivedate=2016-01-31|accessdate=}}</ref>。
[[2016年]][[9月10日]]、パラグアイで日本人移住80周年式典が開かれ、[[日本]]からは[[眞子内親王]]が出席した<ref>{{Cite news |author= |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3100453 |title=眞子さま、パラグアイ日本人移住80周年式典に出席 |publisher=[[フランス通信社|AFP]]|date=2016-09-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160914151828/https://www.afpbb.com/articles/-/3100453 |archivedate=2016-09-14 |accessdate=}}</ref>。
[[2018年]][[12月3日]]、[[安倍晋三]]が日本の[[内閣総理大臣|総理大臣]]として初めてパラグアイ(と[[ウルグアイ]])を訪問し、[[マリオ・アブド・ベニテス]][[パラグアイの大統領|大統領]]と会談、日本が[[医療機器]]を供与することなどで合意し、[[インフラストラクチャー|インフラ]]協力に関する文書の署名式に出席した<ref name="産経新聞1202"/><ref name="読売新聞1204"/>。その後、現地の[[日系パラグアイ人]]と懇談をおこない、[[安倍晋三]][[内閣総理大臣|総理大臣]]は「日本とパラグアイは地理的な距離は遠く離れているが、心は近くに感じることができる。日本は常に皆さんと共にあることを忘れないでほしい」と呼びかけた<ref name="産経新聞1202">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/politics/news/181202/plt1812020013-n1.html|title=安倍首相、ウルグアイを訪問 次はパラグアイへ|author=|publisher=[[産経新聞]]|date=2018-12-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181203055901/https://www.sankei.com/politics/news/181202/plt1812020013-n1.html|archivedate=2018-12-04|deadlinkdate=}}</ref><ref name="読売新聞1204">{{Cite news|url=https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20181204-OYTET50007/|title=パラグアイへ医療機材供与…首脳会談で合意|author=|publisher=[[読売新聞]]|date=2018-12-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181204162024/https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20181204-OYTET50007/|archivedate=2018-12-04|deadlinkdate=}}</ref>。これについて[[毎日放送|MBS]]、[[新潟放送|BSN]]、[[TBSテレビ|TBS]]は「両国(パラグアイと[[ウルグアイ]])とも日本からの移民の多い国で、このうち、ウルグアイの[[タバレ・バスケス|バスケス]][[ウルグアイの大統領|大統領]]との会談では、[[牛肉]]の相互輸出を解禁することなどを確認しました」と報じた<ref>{{Cite news|url=https://www.mbs.jp/news/zenkokunews/20181203/3539503.shtml|title=安倍首相、ウルグアイとパラグアイを訪問|author=|publisher=[[毎日放送|MBS]]|date=2018-12-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181203163916/https://www.mbs.jp/news/zenkokunews/20181203/3539503.shtml|archivedate=2018-12-04|deadlinkdate=}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.ohbsn.com/news/detail/jnnzenkoku20181203_3539503.php|title=安倍首相、ウルグアイとパラグアイを訪問|author=|publisher=[[新潟放送|BSN]]|date=2018-12-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181203164041/https://www.ohbsn.com/news/detail/jnnzenkoku20181203_3539503.php|archivedate=2018-12-04|deadlinkdate=}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://news.myjcom.jp/video/story/3539503.html|title=安倍首相、ウルグアイとパラグアイを訪問|author=|publisher=[[TBSテレビ|TBS]]|date=2018-12-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181203164350/https://news.myjcom.jp/video/story/3539503.html|archivedate=2018-12-04|deadlinkdate=}}</ref>。
== 地方行政区分 ==
[[ファイル:Paraguay departements.png|240px|thumb|プレシデンテ・アジェス県 (17) とコンセプシオン県(10)、サン・ペドロ県(18) の境界はパラグアイ川]]
[[ファイル:Paraguay rel location map.svg|240px|thumb|パラグアイの行政区画と標高図]]
{{main|パラグアイの行政区画}}
パラグアイの地方行政は、首都と17の県(departomentos)とに区分される。括弧内は県庁所在地。
# [[アルト・パラグアイ県]] ''Alto Paraguay'' (フエルテ・オリンポ)
# [[アルト・パラナ県]] ''Alto Paraná'' ([[シウダー・デル・エステ]])このほかプレシデンテ・フランコ市
# [[アマンバイ県]] ''Amambay''(ペドロ・フアン・カバジェーロ)このほかカピタン・バド市
# [[アスンシオン首都圏]] ''Departamento de Asunción'' ([[アスンシオン]])
# [[ボケローン県]] ''Boquerón'' (フィラデルフィア)
# [[カアグアスー県]] ''Caaguazú'' (コロネル・オビエド)
# [[カアサパー県]] ''Caazapá'' (カアサパ)
# [[カニンデジュー県]] ''Canindeyú''(サルト・デル・グアイラ)
# [[セントラル県]] ''Central''(アレグア)
# [[コンセプシオン県]] ''Concepción'' ([[コンセプシオン (パラグアイ)|コンセプシオン]])
# [[コルディリェラ県]] ''Cordillera''(カアクーペ)
# [[グアイラー県]] ''Guairá''(ビジャリカ)
# [[イタプーア県]] ''Itapúa'' ([[エンカルナシオン]])
# [[ミシオネス県]] ''Misiones''(サン・フアン・バウティスタ)
# [[ニェーンブク県]] ''Ñeembucú'' (ピラル)
# [[パラグアリー県]] ''Paraguarí''(パラグアリ)
# [[プレシデンテ・アジェス県]] ''Presidente Hayes''(ポソ・コロラド)
# [[サン・ペドロ県]] ''San Pedro''(サン・ペドロ・デ・ウクァマンディジュ)
===主要都市===
{{Main|パラグアイの都市の一覧}}
主要な都市は[[アスンシオン]](首都)、[[シウダー・デル・エステ]]がある。
== 地理 ==
{{main|{{仮リンク|パラグアイの地理|en|Geography of Paraguay}}}}
[[ファイル:Un-paraguay.png|thumb|300px|パラグアイ全図。国土の南部に[[パンアメリカンハイウェイ]](二重赤線)の支線が走る]]
[[ファイル:Chaco Boreal Paraguay.jpg|thumb|right|パラグアイの[[グラン・チャコ]]]]
パラグアイは[[パラグアイ川]]によって、東西に東パラグアイ (Paraguay Oriental) と西パラグアイ (Occidental Paraguay) または[[グラン・チャコ|チャコ]]と呼ばれる地域に分かれる<ref name="今井303">[[#大貫1987|ラテン・アメリカを知る事典]]、pp.303-305 パラグアイの項(今井圭子執筆)</ref>。東部は国土の40%、人口の97%近くを有し、丘陵と平原が交錯する地形で、[[森林]]と肥沃な大地からなり、アマンバイ山脈がブラジルとの国境を形成している<ref name="今井303" />。西部はきわめて人口が過疎であり、乾燥した疎林地帯やアルゼンチンとの国境を流れるピルコマヨ川流域の湿地帯からなる<ref name="今井303" />。川沿いには北欧系やロシアの入植者や先住民が住み、チャコ地域全体でも総人口は10万人程度である<ref name="今井303" />。
南西は[[パラナ川]]が国境線となり、この川でブラジルと[[イタイプー・ダム]]を共有している。このダムは現在のところ水力発電をする世界最大のダムであり、パラグアイの電力需要のほぼすべてを賄っている。また、[[ジャスレタ・ダム]]がもうひとつパラナ川にあり、こちらはアルゼンチンと共有している。パラグアイは{{いつ範囲|date=2022年6月|現在のところ}}世界でもっとも多く電力を輸出している国である。森林面積は約780万ヘクタールで、国土の20%を占める<REF name="padairi1995">パラグアイ国とウルグアイ国の木材事情 西村勝美 (森林総研) No.17 Page.23‑25 1995年10月 JST資料番号 : L1770A ISSN : 1347‑9504</REF>。
=== 河川 ===
* [[パラグアイ川]]
* [[パラナ川]]
* [[ピルコマジョ川]]
* [[アパ川]]
* [[イグアス川]]
=== 気候 ===
[[亜熱帯]]から[[温帯]]であり、東部の降水量は多いが、極西部はほとんど雨が降らないこともある。
=== 人口分布 ===
* [[都市人口率]]:50.3%(2000年度)
== 経済 ==
[[ファイル:Efificios en Asunción Paraguay.jpg|thumb|left|首都[[アスンシオン]]]]
[[メルコスール]]、[[南米共同体]]の加盟国である。2008年の経済成長率は5.8%で、農業が10.5%と高い。農業はGDPの27%、輸出の84%を占める。しかし、天候や市況に左右されることが、人口の4割に達する貧困層を生み出している。
パラグアイは内陸国でありながらも[[パラグアイ川]]と[[パラナ川]]を通して[[大西洋]]に出ることができるが、貿易の大部分(GDPの38%)を隣国ブラジルとアルゼンチンとの交易に頼っている。両国およびウルグアイとの協定により、パラグアイは各国に自由港を持つ。
パラグアイはブラジル・アルゼンチン・[[ボリビア人]]による辺境部の土地購入を除き、基本的に外国人による土地保有は自由である。しかし、規制の動きも出てきた。
エネルギー : 水力発電99.9%(2002年時点) - イタイプー・ダム(ブラジルとの共同開発)、ジャスレタ・ダム(アルゼンチンとの共同開発)
[[2008年]]8月に発足したルゴ政権は、[[2010年]][[7月12日]]、民間部門の月額法定[[最低賃金]]を7%上げて、317ドルにする法令を出した。同国の[[労働組合]]は、最低賃金の10%引き上げを求めて政府と交渉していた。企業家団体は、賃上げは生産コストを引き上げ、雇用を困難にすると反対している。
{{Clearleft}}
=== 社会問題 ===
パラグアイは経済的に不平等で貧しい国家であり、約4割の国民が貧困に喘いでいると見積もられている。農村部では41.2%が、都市部では27.6%が最低限の基本的なニーズを満たすための収入を得ることができない。上位10%の人間が国富の43%を牛耳るが、下位10%の人間はわずかに0.5%にすぎない。景気の後退はこうした状況をさらに悪化させ、1995年に0.56だった[[ジニ係数]]は1999年には0.66に上昇した。10%の人口が国土の66%を所有する一方、地方の人口の30%は土地を持っていない。この不平等さは[[エリート]]と土地なし農民の間に強い緊張状態をもたらしている。隣国のブラジルやアルゼンチンへ出稼ぎに行く人も少なくない。
=== 農業 ===
{{also|パラグアイにおけるコーヒー生産}}
[[File:ParaguayChaco Cattleranch3 PdeHayes.JPG|thumb|220px|放牧される牛の群れ([[グランチャコ]])]]
[[メルコスール]]加盟国のひとつである。パラグアイの産業でもっとも重要な働きをしているのは農業であり、パラグアイは世界でも3番目の大豆輸出国である。輸出品目は大豆、小麦、農畜、電力が主。近年は[[甘味料]]や[[健康食品]]、[[化粧品]]の原料としてしられる[[ステビア]]生産にも力を入れている。
=== 鉱業 ===
パラグアイの鉱業はまったく未開発の状態にある。長年にわたり、ごく小規模な鉄鉱床を除けばパラグアイには鉱物資源がほとんど存在しないと考えられてきた。[[鉄鉱石]]の採掘は古くは三国同盟戦争以前から続いていたが、1990年に至っても鉱業セクターはパラグアイのGDPのわずか0.5%を占めるに過ぎなかった。状況が変わったのは南西部のエンカルナシオンで埋蔵量3億トンに達する鉄鉱床が見つかった1990年代からである。しかしながら品位が35%と低いため、パラグアイの鉱業を活性化するには至っていない。近年、チャコ地方での[[油田]]の開発計画が浮かび上がっている。
=== 林業 ===
木材生産は農牧地の拡大にともない年々増加しているが<REF name="padairi1995"/>、利用される樹種は[[ラパチョ]]など10種類程度しかなく<REF name="padairi1995"/>、残りの樹種は焼却処分されている<REF name="padairi1995"/>。利用される樹種においても加工用として使用されるのは3分の1に過ぎず<REF name="padairi1995"/>、3分の2は燃料や農牧用として使用されている<REF name="padairi1995"/>。また林業関連加工企業も数えるほどしか存在せず、木材乾燥技術や製材技術などは育成が不十分である<REF name="padairi1995"/>。
== 国民 ==
[[File:Pai Tavytera Indians.jpg|thumb|220px|[[グアラニー人]]]]
[[File:Paraguay population density.png|thumb|220px|パラグアイの人口分布]]
{{main|パラグアイ人}}
=== 民族 ===
パラグアイ国民の90%以上が、[[日本人]]と同じ[[モンゴロイド]]系である[[グアラニー人]]などの[[インディヘナ]]の血が強い、[[スペイン]]人との間の混血([[メスティーソ]])である。
これは、征服当初この地に住んでいたグアラニー人が、やってきたスペイン人と同盟してほかのインディヘナを打ち破る過程で両者が積極的に混血を受け入れたこと、その後やってきたイエズス会の伝道師がグアラニー人を教化する過程でグアラニー文化が伝承・保存されたこと、イエズス会が追放されたあともパラグアイでは都市が育たず、ほかのラテンアメリカ植民地と比較してクリオージョ支配層があまり強力な存在にならなかったこと、1811年にブエノスアイレス主導の独立を拒否し独自の国家として独立したあとは、パラグアイの初代国家元首[[ホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシア|フランシア博士]]が政策的に異人種間の通婚を推奨・強制し、その際に抵抗勢力になりそうな[[クリオージョ]]はほとんど追放してしまったためである。そのため現在のパラグアイ人は「グアラニー」の血を引くことを誇りに思っており、小柄でアジア的な風貌の人も少なくない。移民としては[[ドイツ人]]、[[イタリア人]]、[[スペイン|スペイン人]]、[[日系パラグアイ人|日本人]]、[[中国人]]、[[アラブ人]]などがいるが、社会に及ぼす影響としては[[ブラジル人]]と[[アルゼンチン人]]の二集団の存在がもっとも大きい。
=== 人口・保健衛生 ===
三国同盟戦争直前に約52万人と推定されているパラグアイの人口は、戦争終結後約21万人にまで減少した。その後、1946年推計で約122万人、1962年センサスで185万1,890人、1972年センサスで235万7,955人、1983年年央推計で約347万人となった。国民の大部分がカトリック教徒である影響で、母体に生命の危機が迫っている状態を例外として、[[人工妊娠中絶]]は認められていない<ref>レイプ被害の11歳少女出産=中絶認められず-パラグアイ 時事通信 2015年8月14日</ref>。
* 出生率:31.3‰(1995年度から2000年度)
* 死亡率:5.4‰
* 人口増加率:2.3% (projected 1999-2015, UNDP)
=== 言語 ===
[[スペイン語]]、[[グアラニー語]]が公用語であり、94%の国民はグアラニー語を話すことができ、スペイン語も75%の国民によって話されている。また、全人口の約2.5%に当たる16万人が[[ドイツ語]]を話す。
=== 宗教 ===
宗教は[[カトリック教会|ローマカトリック]]が90%だが、[[メノニータ]]、[[末日聖徒イエス・キリスト教会]]([[モルモン教]])なども存在する。宗教選択は自由である。
=== 教育 ===
{{main|パラグアイの教育}}
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は94%である<ref>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/pa.html South America :: Paraguay — The World Factbook - Central Intelligence Agency] 2009年3月30日閲覧</ref>。
おもな高等教育機関としては、[[国立アスンシオン大学]](1889年)などが挙げられる。
== 文化 ==
{{main|{{仮リンク|パラグアイの文化|en|Culture of Paraguay}}}}
[[ファイル:Paraguay carreta.jpg|thumb|220px|伝統的な[[荷車]]]]
[[ファイル:Ilex_paraguariensis_-_Köhler–s_Medizinal-Pflanzen-074.jpg|thumb|220px|upright|[[マテ茶|ジェルバ・マテ]]]]
[[File:Paraguayan harp.jpg|thumb|220px|パラグアイの[[アルパ]]]]
スペイン人の父とグアラニー人の母を祖先に持つものが現在のパラグアイ国民の大多数であり、それゆえパラグアイの文化はこの2つの文化と伝統を根に持つ。現在のパラグアイ人の80%以上が両言語の[[二言語話者|バイリンガル]]である。
=== 食文化 ===
{{main|{{仮リンク|パラグアイ料理|en|Paraguayan cuisine}}}}
パラグアイ人にも近隣諸国の国民と同様に[[マテ茶]]を飲む習慣があるが、パラグアイ人は好んで[[テレレ]]を飲む。肉食の傾向が強いパラグアイ人は血圧を下げるためや、ビタミンの補給、発汗作用のためにも飲んでいる。マテ茶はグアラニー人から受け継がれてきた飲み物であるが、テレレそのものは[[チャコ戦争]]のころに生まれたようである。また[[マンジョーカ]]と呼ばれる[[イモ]]や、マンジョーカを原料にした[[チパ]]というパンを食べる習慣がある。
=== 文学 ===
{{main|パラグアイ文学|ラテンアメリカ文学}}
パラグアイ出身の著名な作家としては、[[ガブリエル・カサクシア]]や、『汝、人の子よ』(1960)、『至高の存在たる余は』(1974)で1989年に[[セルバンテス賞]]を受賞した[[アウグスト・ロア・バストス]]の名が挙げられる。
=== 音楽 ===
{{main|パラグアイの音楽|ラテン音楽}}
[[グアラニア]]と呼ばれる[[アルパ]]を使った[[フォルクローレ]]が盛んであり、ほかの[[ラテン音楽]]によくあるような[[アフリカ]]的な要素はあまり感じられない、哀愁を帯びた曲調が特徴的である。著名な音楽家としては[[フェリックス・ペレス・カルドーソ]]や[[アパリシオ・ゴンサレス]]が有名である。日本でも[[ルシア塩満]]、[[上松美香]]などがプロのアルパ奏者として活躍している。
=== 世界遺産 ===
[[ファイル:Trinidad (Paraguay).JPG|thumb|[[ラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナとヘスース・デ・タバランゲのイエズス会伝道所群]]]]
{{main|パラグアイの世界遺産}}
パラグアイ国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]として、1993年に登録された'''[[ラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナとヘスース・デ・タバランゲのイエズス会伝道所群]]'''が存在する。2010年現在では国内唯一の[[世界遺産]]である。
=== 祝祭日 ===
{{main|{{仮リンク|パラグアイの祝日|en|Public holidays in Paraguay}}}}
{| class="wikitable" style=
|+ style="font-weight: bold; font-size: 120%" |
|-
!日付
!日本語表記
!現地語表記
!備考
|-
| [[1月1日]]
| [[元日]]
| Año Nuevo
|
|-
| [[3月1日]]
| 英雄の日
| Día de los Héroes
|
|-
| [[移動祝日]]
| 聖木曜日
| Jueves Santo
| 2012年は 4月 5日(木)
|-
| [[移動祝日]]
| 聖金曜日
| Viernes Santo
| 2012年は 4月 6日(金)
|-
| [[5月1日]]
| [[メーデー]]
| Día del Trabajador
|
|-
| [[5月14日]]
| [[独立記念日]]
| Día de la Independencia
| 2012年に復活
|-
| [[5月15日]]
| [[独立記念日]]
| Día de la Independencia
|
|-
| [[6月12日]]
| [[チャコ戦争|チャコ休戦]]の日
| Dia de la Paz del Chaco
|
|-
| [[8月15日]]
| [[アスンシオン]]建設の日
| Fundación de Asunción
|
|-
| [[9月29日]]
| [[ボケロンの戦い|ボケロン戦勝]]記念日
| Día de la batalla de Boquerón
|
|-
| [[12月8日]]
| [[カアクーペ]]の聖母
| Virgen de Caacupe
|
|-
| [[12月25日]]
| [[クリスマス]]
| Navidad
|
|}
== スポーツ ==
{{Main|{{仮リンク|パラグアイのスポーツ|en|Sport in Paraguay}}}}
{{See also|オリンピックのパラグアイ選手団}}
=== サッカー ===
{{main|{{仮リンク|パラグアイのサッカー|en|Football in Paraguay}}}}
パラグアイでも他の[[ラテンアメリカ]]諸国と同様に、[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっており、[[1906年]]にプロサッカーリーグの[[リーガ・パラグアージャ]]が創設された。主なクラブとしては、[[クルブ・オリンピア|オリンピア]]、[[セロ・ポルテーニョ]]、[[クルブ・リベルタ|リベルタ]]、[[クルブ・グアラニー|グアラニー]]などが挙げられる。著名な選手としては、[[ロケ・サンタ・クルス]]、[[ルーカス・バリオス]]、[[ミゲル・アルミロン]]などが存在する。
[[パラグアイサッカー協会]](APF)によって構成される[[サッカーパラグアイ代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には8度出場しており、[[2010 FIFAワールドカップ|2010年大会]]ではラウンド16で[[サッカー日本代表|日本代表]]と対戦し、スコアレスのまま[[PK戦]]にまでもつれ込んだ激闘を制し初のベスト8に進出した。さらに[[コパ・アメリカ]]では、[[サッカー南米選手権1953|1953年大会]]と[[コパ・アメリカ1979|1979年大会]]で2度の優勝経験をもつ。なお、代表チームは[[グアラニー族|グアラニー人]]に因んで、''Los Guaraníes''(グアラニー)の愛称で呼ばれている。
== 著名な出身者 ==
{{Main|パラグアイ人の一覧}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
; 全般
* {{Cite book|和書
|author =
|others = [[大貫良夫]]ほか監修
|title = ラテン・アメリカを知る事典
|year = 1987
|publisher = [[平凡社]]
|isbn = 4-582-12609-X
|page = |ref = 大貫1987
}}
; 歴史
* {{Cite book|和書|author=伊藤滋子|authorlink=伊藤滋子|date=2001年8月|title=幻の帝国──南米イエズス会士の夢と挫折|series=|publisher=[[同成社]]|location=[[東京]]|isbn=4-88621-228-X|ref=伊藤(2001)}}
* {{Cite book|和書|author=エドゥアルド・ガレアーノ|authorlink=エドゥアルド・ガレアーノ|translator=大久保光夫|date=1986年9月|title=[[収奪された大地 ラテンアメリカ五百年|収奪された大地──ラテンアメリカ五百年]]|series=|publisher=[[新評論]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=ガレアーノ/大久保訳(1986)}}
* {{Cite book|和書|author1=中川文雄|authorlink1=中川文雄|author2=松下洋|authorlink2=松下洋|author3=遅野井茂雄|authorlink3=遅野井茂雄|date=1985年1月|title=ラテン・アメリカ現代史III|series=世界現代史34|publisher=[[山川出版社]]|location=[[東京]]|isbn=4-634-42280-8|ref=中川、松下、遅野井(1985)}}
* {{Cite book|和書|editor=増田義郎|editor-link=増田義郎|date=2000年7月|title=ラテンアメリカ史II|series=新版世界各国史26|publisher=[[山川出版社]]|location=[[東京]]|isbn=4-634-41560-7|ref=増田編(2000)}}
; 地理
* {{Cite book|和書|editor=下中彌三郎|editor-link=下中彌三郎|year=1954|title=ラテンアメリカ|series=世界文化地理体系24|publisher=[[平凡社]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=下中(1954)}}
* {{Cite book|和書|author1=P.E.ジェームズ|authorlink1=P.E.ジェームズ|translator=[[山本正三]]、[[菅野峰明]]|year=1979|title=ラテンアメリカII|publisher=[[二宮書店]]|isbn=|ref=ジェームズ/山本、菅野訳(1979)}}
* {{Cite book|和書|editor=野沢敬|editor-link=野沢敬|year=1986|title=ラテンアメリカ|series=朝日百科世界の地理12|publisher=[[朝日新聞社]]|location=[[東京]]|isbn=4-02-380006-6|ref=野沢(1986)}}
* {{Cite book|和書|editor=福井英一郎|editor-link=福井英一郎|year=1978|title=ラテンアメリカII|series=世界地理15|publisher=[[朝倉書店]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=福井(1978)}}
; 文化
* {{Cite book|和書|author=山本紀夫|authorlink=山本紀夫|date=2007年3月|title=中南米|series=世界の食文化13|publisher=[[農山漁村文化協会]]|location=[[東京]]|isbn=978-4-540-07001-3|ref=山本(2007)}}
; ジャーナリズム
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== 関連項目 ==
* [[パラグアイ関係記事の一覧]]
* [[駐日パラグアイ大使館]] - 東京都千代田区にあるパラグアイ大使館
<!--
* [[パラグアイの通信]]
* [[パラグアイの交通]]
* [[パラグアイの国際関係]]
-->
== 外部リンク ==
{{Wiktionary}}
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{{Wikivoyage|es:Paraguay|パラグアイ{{es icon}}}}
{{Wikivoyage|Paraguay|パラグアイ{{en icon}}}}
* 政府
** [https://www.presidencia.gov.py Presidencia de la República del Paraguay]:パラグアイ共和国大統領府 {{es icon}}
** [http://www.embapar.jp/ja/ 在日パラグアイ大使館] {{ja icon}}
* 日本政府
** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/paraguay/ パラグアイ共和国 | 外務省]
** [https://www.py.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在パラグアイ日本国大使館]
* 観光
** [http://www.turismo.comv.py/ パラグアイ] {{es icon}}
** [https://www.senatur.gov.py/ SENATUR | Secretaría Nacional de Turismo :: Portada]:パラグアイ政府観光局 {{es icon}}{{en icon}}
* その他
** {{CIA World Factbook link|pa|Paraguay}} {{en icon}}
** {{Curlie|Regional/South_America/Paraguay}} {{en icon}}
** {{Wikiatlas|Paraguay}} {{en icon}}
** [https://aja.org.py/wp/ パラグアイ・アスンシオン日本人会(日本語)]
** [http://paraguay.starfree.jp パラグアイに行こう (日本語)]
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2,627 | 未知語 | 未知語(みちご、英語: unknown words)は、自然言語処理において、辞書中に登録されていない語句や表記のことである。未知語は大きく「既知語から派生したもの」と「既知語と直接的な関係性を持たない純粋な未知語」の2つに分類することができる。TwitterなどのSNSにも数多くの未知語が見られており、それらの未知語を分析する研究も行われている。 | [
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== 未知語とみなされやすい表現 ==
* [[固有名詞]] (人名、地名、商品名など)
* [[擬音語|擬音、擬態語]]
* [[顔文字]]、[[アスキーアート]]
== 脚注 ==
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[[Category:自然言語処理]] | 2003-02-21T05:28:26Z | 2023-11-24T05:15:03Z | false | false | false | [
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2,632 | ビューカメラ | ビューカメラ(英: View camera)とは、独立したファインダーを持たないカメラのことである。
ビューカメラの構成は、基本的にレンズ、蛇腹、ガラス(フィルム挿入部)の三つの部分からなる。この三つを保持するためにモノレールを用い「モノレールカメラ」とも呼ばれる「(狭義の)ビューカメラ」と、組立暗箱のようにベース上に立ち上げる「フィールドカメラ」がある。
フレーミングとピントの確認は焦点面に磨りガラス(ピントグラス)などを置き、そこに写る像を直接見ることによって行なう。像は180°回転した状態でピントグラスに写る。
ビューカメラの多くはシートフィルムを用いることを前提とした構造になっており、撮影時にはピントグラスの前にシートフィルムホルダーを挿入するか、ピントグラスを外してロールフィルムホルダーやデジタルバックを装着する。
レンズの光軸と感光材料面を独立して移動できるあおり機構を持つカメラが多い。左右方向に光軸を傾けることをスイング、上下方向に光軸を傾けることをティルト、左右方向に平行移動させることをシフト、上方向に平行移動させることをライズ、下方向に平行移動させることをフォールという。ティルトとスイングはピント面を傾けられるので、斜めの平面に対してピントを合わせることができる。 | [
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] | ビューカメラとは、独立したファインダーを持たないカメラのことである。 ビューカメラの構成は、基本的にレンズ、蛇腹、ガラス(フィルム挿入部)の三つの部分からなる。この三つを保持するためにモノレールを用い「モノレールカメラ」とも呼ばれる「(狭義の)ビューカメラ」と、組立暗箱のようにベース上に立ち上げる「フィールドカメラ」がある。 | {{出典の明記|date=2022年11月}}
[[ファイル:View camera.svg|thumb|right|200px|ビューカメラの構造]]
'''ビューカメラ'''({{Lang-en-short|View camera}})とは、独立した[[ファインダー]]を持たない[[カメラ]]のことである。
ビューカメラの構成は、基本的にレンズ、[[蛇腹]]、ガラス(フィルム挿入部)の三つの部分からなる。この三つを保持するためにモノレールを用い「モノレールカメラ」とも呼ばれる「(狭義の)ビューカメラ」と、組立暗箱のようにベース上に立ち上げる「フィールドカメラ」がある。
== 特徴 ==
[[ファイル:Sinar F - visée.jpg|thumb|right|250px|被写体がピントグラスに左右上下逆像で写っている]]
[[フレーミング]]と[[ピント]]の確認は焦点面に磨りガラス(ピントグラス)などを置き、そこに写る像を直接見ることによって行なう。像は180°回転した状態でピントグラスに写る。
ビューカメラの多くは[[シートフィルム]]を用いることを前提とした構造になっており、撮影時にはピントグラスの前に[[シートフィルム]]ホルダーを挿入するか、ピントグラスを外して[[ロールフィルム]]ホルダーや[[デジタルバック]]を装着する。
レンズの光軸と[[感光]]材料面を独立して移動できる[[あおり (写真)|あおり]]機構を持つカメラが多い。左右方向に光軸を傾けることをスイング、上下方向に光軸を傾けることをティルト、左右方向に平行移動させることをシフト、上方向に平行移動させることをライズ、下方向に平行移動させることをフォールという。ティルトとスイングはピント面を傾けられるので、斜めの平面に対してピントを合わせることができる。
== 関連項目 ==
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*[[大判カメラ]]
*[[スタジオ (写真撮影)|スタジオ]]
*[[シャインプルーフの原理]]
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[[Category:カメラ]] | 2003-02-21T05:47:34Z | 2023-11-28T07:18:01Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9 |
2,633 | レンジファインダーカメラ | レンジファインダーカメラとは、光学視差式距離計が組み込まれており、距離測定に連動して撮影用レンズの焦点を合わせられるカメラのことである。
レンズの繰り出し量などを測定することで合焦装置と光学距離計を連動させ、スプリットイメージや二重像の重ね合わせによりピント合わせを行う。一眼レフカメラよりコンパクトでありながらきちんとピント合わせができるため、未だに愛用者が多い。一部オートフォーカスカメラでもこの機構を自動化したものがある。
利点としては本体を一眼レフカメラよりコンパクトにできること、一眼レフカメラのようなミラーボックスを持たないのでフィルム面直前にまで後玉が突き出したような設計のレンズも製造可能でレンズ設計の自由度が高いことが挙げられる。またミラーが存在しないのでシャッター時のショックや音が小さい傾向にあるため、カメラぶれを軽減することができる。
欠点としては撮影レンズとファインダーの光学系が分かれているため、撮影範囲を確認するにはレンズの焦点距離に見合ったビューファインダーを用意する必要があること、パララックスを完全には補正できないこと、撮影用レンズとファインダーのどちらかの調整が狂っても気付きにくく素早く対応できないこと、またピント合わせ方式の都合上最短撮影距離がある程度長くなることの他、レンズキャップを付けたままシャッターを切るミスに気づきにくい。接写用アタッチメントを用意することで近接撮影を可能にしたレンズも存在するが、超近接撮影に関してはレンジファインダーカメラでは対応できない。
後には複数の枠(フレーム)がファインダーに内蔵されるようになったが、枠が内蔵されていない焦点距離については外付けファインダーが必要になり、またその場合は距離計とファインダーが別になってしまうので迅速な撮影が不可能になる。
また距離計の基線長がカメラの大きさによって制限されるため、望遠レンズ装着時のピント精度に限界が生じる。一部メーカーではレンズとカメラの間に後付け装着して一眼レフカメラ化するアタッチメント(レフボックス)を用意しており、これを使用することにより望遠レンズでの確実なピント合わせが可能になるが、この場合利点であったコンパクトさは全く失われ、元々一眼レフカメラである製品と比較して自動化も限界がある。
一方標準~広角レンズにおいては、一眼レフカメラの測距精度が焦点距離の長さに左右されるのに対し、どのようなレンズをつけてもピント精度とは無関係のレンジファインダーカメラの方が光学的にはピント精度が高くなるために有利であるものの、レンジファインダーカメラは距離計との機械的連結が必要となり、その機械的精度を考慮すると一眼レフカメラに対する絶対的優位性は打ち消されるとの考え方もある。
またレンズのフォーカシングと連動しない単体距離計を内蔵しただけのカメラは、通常レンジファインダーカメラに含まれない。
主に小型(35mm)カメラにおける方式の様々について述べる。他にもスプリングカメラ等で本体とレンズボード間の機械的連結を必要としないドレーカイル式など様々な方式がある。
この記事では連動式を前提としているが、古いカメラなど距離計を内蔵しているだけで、フォーカシングが非連動のものもある。レンズ交換式で連動の場合、レンズによりフォーカシングと繰出し量の対応が変わるので、何らかの工夫が必要である。
一眼レフカメラ及び二眼レフカメラとは無関係である。測距機構のファインダー(レンジファインダー)とフレーミング用の(ビュー)ファインダーが、別になっていて外見上ファインダー接眼部が2個ある(並んでいるものがほとんど)ものを二眼式、兼用になっていてフレーミング用のファインダーの中に測距機構のための像が一緒に見える「距離計内蔵式ビューファインダー」になっているものを一眼式と言う。
フレーミング用のファインダーと測距用のレンジファインダーに対し、それぞれ専用の接眼窓がある。古いタイプのレンジファインダーカメラはもっぱらこちらで、代表的なライカの場合、ライカI~ライカIIIのいわゆるバルナック型ライカはこちらである(M型で一眼式になった)。
フレーミング用のビューファインダーと測距用のレンジファインダーの倍率をそれぞれ異なったものにできるため、レンジファインダー側の倍率を上げて高い測距精度を実現できるといった利点もあるが、フォーカシングとフレーミングでファインダーを覗き分けねばならないという不便のため1960年代以降は一眼式となった。
フレーミング用のビューファインダーの中に測距用のレンジファインダーが組み込まれており、測距とフレーミングが同時にでき、すばやく撮影できる。コンタックスII型を嚆矢とし、以来高級機・普及機を問わず今日まで広く普及した。ライカは1954年発表のライカM3以降のM型でこちらになった。
通常ファインダーの倍率は最大1倍であるため、視野の倍率を上げて測距精度を上げる(有効基線長を実基線長より伸ばす。レンジファインダー#基線長を参照のこと)ことができないという欠点がある。
フレーミング用のファインダーの中央部に、距離計二重像が見えるのが一般的だが、アグファ・カラート36のようにファインダー全体が距離計になっているものや、コダック・メダリストのようにファインダー下方に二重像があるものも存在する。
一眼式レンジファインダーにおいては、ファインダー内の二重像部分の方式について、虚像式と実像式に分けられる。ビームスプリッターと同様な光学系(スプリッターとは逆向きに、スプリット(分離)するのではなく合成する方向で使う)を利用する点は共通である。
二重像の部分のために、通常の(虚像式)ファインダーと同様の虚像式の光学系(の被写体側)を、単純にもう一系統用意したものである。単純なため、部品数が少なくコストが抑えられ、調整も簡単で済む。光学的な原理上、二重像の縁を綺麗に切り出すことができないため、その境界がはっきりしない。しかし通常の使用には問題がなく、多くのカメラがこの方式を採用している。
いったん空中に実像を結ばせ、それを観察するという方式のファインダーである「実像式ファインダー」と同様の方式で、二重像の部分の像を作る方式である。虚像式と比較して複雑となりコストがかかるが、実像面でマスクを掛けることで、境界がはっきりした像が得られることを利用して上下像合致式距離計(写真用ではない、専用測定器の距離計には多い方式である)のごとく使うことも可能で、より正確に測距可能であるとされるが、虚像式に慣れた人は苦手と感じることもある。通常、周辺部分の像は虚像式である。
周辺部も中央部も実像式として二重像式ではなく合致像式としたカメラも稀ではあるが、「ヴェラ」のように存在してはいる。
同じ距離にフォーカスを合わせる場合でもレンズの焦点距離が異なるとレンズの繰り出し量が変わるため、連動式でレンズ交換式のレンジファインダーカメラでは、レンズ交換機構と同時に、レンズの繰出し量をそのレンズの焦点距離に応じて距離計の動きに読み替える機構が必要である。
ライカの場合、マウント内側に移動する鏡筒の一部が露出しており、その後端面がカムになっている。本体側からは距離計機構からレバーが伸びていてそのレバーの先端にあるコロで鏡筒後端のカム面をなぞる。
コンタックスの場合、標準レンズは本体側のヘリコイドを使う。他種の交換レンズはレンズ側にヘリコイドを持ち、本体側とは距離環の角度により情報を伝え距離計機構が連動する。
戦前~1950年代前半まで、ライカ判を使用するレンジファインダーカメラを代表する機種といえばライカ(Lマウントライカ、現在はM型に対してバルナック型ライカといった通称でも呼ばれている)であった。小型軽量で機動性に富み、故障が少なかった。
当時のライカは、ドイツ国内に「コンタックス」というライバルが存在した。特に後のM型ライカ(1954年、M3を発表)の特長点のうち、コンタックスが先行していたものを挙げると、バヨネットマウントは1932年発売のコンタックスI型、距離計一体型ファインダーと一軸不回転式シャッターダイヤルは1936年発売のコンタックスII型ですでに実現している。しかしそのために、当時は高額商品であった小型精密カメラの中でも、ライカよりさらに高額なカメラであった。そもそも小型カメラばかりでなく、メーカーのツァイス・イコンは1930年代当時ドイツ最大の光学機器メーカーのカール・ツァイスのカメラ部門であり、ライカを製造していたエルンスト・ライツ(現ライカ)とは、開発競争や販売合戦を繰り広げていた仲であった。極論すればドイツの戦前のライカ判高級カメラはライカとコンタックスの2機種であり、日本のメーカーも大きな影響を受けた。
Lマウントライカは多数のコピー機が作られ、コピーライカと呼ばれた。コピーに当たって一番問題になったのは「距離計の2つの窓の間にファインダーを入れる」というライカが持っていた特許だったが、精機光学(現キヤノン)は飛び出し式ファインダー、昭和光学精機(レオタックス)は基線長が短くなるのを覚悟で距離計の外側にファインダーを持って来てライツの特許を回避した。また第二次世界大戦中ドイツからの輸入が止まり軍用カメラの必要性から各国で軍部が「特許を無視して製造せよ」と命じてアメリカのカードン、日本のニッポンカメラが作られた。戦後はドイツの特許が無効化されキヤノン、ニッカカメラ(後のヤシカ)、レオタックスカメラ、イギリスのリード&シギリスト(リード)などがこぞってライカを模倣し、互換機ないしはデッドコピーを作り続けて技術を磨き、さらには改良した機種を作り始めた。なお、こういったコピー機のブランド刻印等を削り取ってライカの刻印を偽装した偽物はフェイクライカと呼ばれている。
第二次世界大戦の終結は新たな形の戦争である東西冷戦の幕開けでもあった。東西に分割されたドイツは離散家族など多くの悲劇を見ることとなったが、その拠点が両ドイツに分散してしまったツァイス・イコン他の企業の運命もそのひとつに数えられ、カメラは軍事面との繋がりもあることなどから東ドイツのカメラについての情報は従来不十分であったが、リヒャルト・フンメルらの『東ドイツカメラの全貌』にドレスデンと一眼レフカメラを中心として詳細が述べられている。
一方で西ドイツの復興と軌を一にして復活したライツだが、日本メーカー等各社が独自の改良を続けて利便性を高める中、ライカは「伝統と信頼性は高いものの時代遅れなカメラ」になりかけていた。1954年のフォトキナで、ライツは設計のほとんどを刷新し、バヨネットマウント、装着レンズに応じて枠を自動で切り替える実像式距離計一体型ブライトフレームファインダー、一軸不回転等間隔シャッターダイヤル、等といったスペックのライカM3を発表した。
旧型ライカを至上として「追いつけ追い越せ」であった日本のカメラメーカー各社にとって、この新型ライカは衝撃であり、日本光学はその後の「ニコンSP」以降レンジファインダー機の大幅な改良は止め、一眼レフの「ニコンF」へと進んだ。ミノルタのM型ライカ対抗機「ミノルタスカイ」は生産されず「幻のカメラ」となり、同社もやはり一眼レフに進んだ。キヤノンは1959年の一眼レフ「フレックス」の後もしばらくレンジファインダー機の改良型を出し続けたが、1965年の「7S」が最後となった。
そのようにして高価格帯レンズ交換式35mmカメラの主流は一眼レフに移ったため、M型ライカはほぼ唯一の高級レンズ交換式レンジファインダーカメラとしてその後も改良を続け、主なモデルとしてはM4~M7まで進んだ後、M8でディジタルカメラとなった。他に小型化と一部電子化を図ったモデルとして、ミノルタとの提携によるライツミノルタCL(1973年)とミノルタCLE(1981年)があったが、直接の後続は無かった。
低価格帯のレンズ固定式のカメラでは、その後も下位モデルはビューファインダー・上位モデルは虚像式レンジファインダーというようにしてレンジファインダーモデルが存続したが、「ピッカリコニカ」(1975年)に始まる1970年代後半からのストロボ内蔵とほぼ入れ替わりにレンジファインダーモデルが消え始め、続く「ジャスピンコニカ」(1977年)や「キヤノンオートボーイ」(1979年)に代表されるオートフォーカス化によりレンジファインダーモデルはほぼ消滅した。
しかし皆無というわけでもなく、初代オリンパスXA(1978年)、Agfa Optima 1535 Sensor、京セラの初代コンタックスT(1984年、1990年のT2はオートフォーカス)といったレンジファインダー機があった。コンタックスT2からその後1990年代のいわゆる「高級コンパクト機」というジャンルが広がったが、それらはいずれもオートフォーカス機であった。
1990年代にちょっとしたクラシックカメラブームがあり、その波に乗って2000年前後にいくつかのレンズ交換式カメラが現れた。京セラのコンタックスG(1994年)はオートフォーカスレンジファインダーと銘打ったが、撮影者が目視して使える距離計は備えていない。コニカの高級機「ヘキサー」のレンズ交換式上位モデルである「ヘキサーRF」(1999年)、コシナのフォクトレンダーブランドの「ベッサ」シリーズ(1999年~、コシナ・フォクトレンダーのカメラ製品一覧を参照)、「安原一式」(1999年)などがまず挙げられる。続いてニコンが、ニコンS3を2000年、ニコンSPを2005年に、ともに限定品として復刻販売した。2005年にはコシナのツァイスブランドで「ツァイス・イコン」が発売された(ツァイス・イコン#新生ツァイスイコン)。コシナ「ツァイス・イコン」にはボディ左右端の形状に、前述のミノルタCLE及びミノルタの高級コンパクト機TC-1の影響がある。以上に挙げた機種は、コシナベッサのマニュアル機械式シャッター機であるR2M・R3M・R4Mの各機(モデルはファインダー倍率の違い)の2015年9月を最後に、全て生産終了している。
中判カメラでは、戦前からツァイス・イコンの「スーパーイコンタ」、フォクトレンダーの「スーパーベッサ」、プラウベルの「プラウベルマキナ」などが著名で、主に上位機種に搭載された。なお、これらの製品もライカ判カメラと同様に各国でコピー・模倣機が製造され、日本でも六桜社(コニカを経て現コニカミノルタホールディングス)の「セミパール」、千代田光学(ミノルタを経て現コニカミノルタホールディングス)のオートセミミノルタ、マミヤ光機(現マミヤ・オーピー)のマミヤ6など、数多くの製品が作られた。
ただし蛇腹を用いたフォールディングカメラが多い120フィルム使用カメラは構造上レンジファインダーをレンズに正確に連動させることが難しく、連動レンジファインダーの装備は一部上位機種にとどまり、単体距離計を内蔵しただけのカメラも多かった。
戦後になって二眼レフカメラを除く120フィルムを使用するカメラが高級機・プロ用機に限定されていくと、蛇腹カメラが通常の固定鏡胴のカメラに置き換わっていき連動機構の制約がなくなった。135フィルムと比較して重厚長大になりやすい120フィルムの分野では小型軽量化しやすいレンジファインダー式は有利であり、オートフォーカスが実用化されても長らくその必要性が薄いとされてきた経緯から、比較的遅い時期まで一般的であり続けた。戦後の日本の代表製品としてはマミヤプレス、ニューマミヤ6、フジカG690、トプコンホースマンプレス、プラウベルマキナ67シリーズ、ブロニカRF645等が挙げられる。
リンホフ・スーパーテヒニカシリーズやグラフレックス・スピードグラフィックシリーズ、ホースマン45Hシリーズなど蛇腹プレスカメラでも連動距離計を装備するものがある。これらはピントグラスによる測距やアオリ撮影対応など、フィールドカメラとレンジファインダーカメラの両方の性格を持ったカメラといえる。
スピードグラフィックシリーズは1950年代頃以降レンジファインダーに照明を組み込み、被写体に照射することで完全な暗闇でもピント合わせができる機構を持っている。
2004年にエプソンから世界初のレンジファインダー式デジタルカメラ「R-D1」が発売された。同機のシリーズは2014年のR-D1xG生産終了まで続いた。
また、ライカMシリーズがM7を最後のフィルムモデルとし、2006年のM8以降、レンジファインダー式デジタルカメラとして、M9、2013年の「ライカM」とシリーズを続けている。 | [
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"text": "レンジファインダーカメラとは、光学視差式距離計が組み込まれており、距離測定に連動して撮影用レンズの焦点を合わせられるカメラのことである。",
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"tag": "p",
"text": "利点としては本体を一眼レフカメラよりコンパクトにできること、一眼レフカメラのようなミラーボックスを持たないのでフィルム面直前にまで後玉が突き出したような設計のレンズも製造可能でレンズ設計の自由度が高いことが挙げられる。またミラーが存在しないのでシャッター時のショックや音が小さい傾向にあるため、カメラぶれを軽減することができる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "欠点としては撮影レンズとファインダーの光学系が分かれているため、撮影範囲を確認するにはレンズの焦点距離に見合ったビューファインダーを用意する必要があること、パララックスを完全には補正できないこと、撮影用レンズとファインダーのどちらかの調整が狂っても気付きにくく素早く対応できないこと、またピント合わせ方式の都合上最短撮影距離がある程度長くなることの他、レンズキャップを付けたままシャッターを切るミスに気づきにくい。接写用アタッチメントを用意することで近接撮影を可能にしたレンズも存在するが、超近接撮影に関してはレンジファインダーカメラでは対応できない。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "後には複数の枠(フレーム)がファインダーに内蔵されるようになったが、枠が内蔵されていない焦点距離については外付けファインダーが必要になり、またその場合は距離計とファインダーが別になってしまうので迅速な撮影が不可能になる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "また距離計の基線長がカメラの大きさによって制限されるため、望遠レンズ装着時のピント精度に限界が生じる。一部メーカーではレンズとカメラの間に後付け装着して一眼レフカメラ化するアタッチメント(レフボックス)を用意しており、これを使用することにより望遠レンズでの確実なピント合わせが可能になるが、この場合利点であったコンパクトさは全く失われ、元々一眼レフカメラである製品と比較して自動化も限界がある。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "一方標準~広角レンズにおいては、一眼レフカメラの測距精度が焦点距離の長さに左右されるのに対し、どのようなレンズをつけてもピント精度とは無関係のレンジファインダーカメラの方が光学的にはピント精度が高くなるために有利であるものの、レンジファインダーカメラは距離計との機械的連結が必要となり、その機械的精度を考慮すると一眼レフカメラに対する絶対的優位性は打ち消されるとの考え方もある。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "またレンズのフォーカシングと連動しない単体距離計を内蔵しただけのカメラは、通常レンジファインダーカメラに含まれない。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "主に小型(35mm)カメラにおける方式の様々について述べる。他にもスプリングカメラ等で本体とレンズボード間の機械的連結を必要としないドレーカイル式など様々な方式がある。",
"title": "ファインダーと距離計の方式"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "この記事では連動式を前提としているが、古いカメラなど距離計を内蔵しているだけで、フォーカシングが非連動のものもある。レンズ交換式で連動の場合、レンズによりフォーカシングと繰出し量の対応が変わるので、何らかの工夫が必要である。",
"title": "ファインダーと距離計の方式"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "一眼レフカメラ及び二眼レフカメラとは無関係である。測距機構のファインダー(レンジファインダー)とフレーミング用の(ビュー)ファインダーが、別になっていて外見上ファインダー接眼部が2個ある(並んでいるものがほとんど)ものを二眼式、兼用になっていてフレーミング用のファインダーの中に測距機構のための像が一緒に見える「距離計内蔵式ビューファインダー」になっているものを一眼式と言う。",
"title": "ファインダーと距離計の方式"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "フレーミング用のファインダーと測距用のレンジファインダーに対し、それぞれ専用の接眼窓がある。古いタイプのレンジファインダーカメラはもっぱらこちらで、代表的なライカの場合、ライカI~ライカIIIのいわゆるバルナック型ライカはこちらである(M型で一眼式になった)。",
"title": "ファインダーと距離計の方式"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "フレーミング用のビューファインダーと測距用のレンジファインダーの倍率をそれぞれ異なったものにできるため、レンジファインダー側の倍率を上げて高い測距精度を実現できるといった利点もあるが、フォーカシングとフレーミングでファインダーを覗き分けねばならないという不便のため1960年代以降は一眼式となった。",
"title": "ファインダーと距離計の方式"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "フレーミング用のビューファインダーの中に測距用のレンジファインダーが組み込まれており、測距とフレーミングが同時にでき、すばやく撮影できる。コンタックスII型を嚆矢とし、以来高級機・普及機を問わず今日まで広く普及した。ライカは1954年発表のライカM3以降のM型でこちらになった。",
"title": "ファインダーと距離計の方式"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "通常ファインダーの倍率は最大1倍であるため、視野の倍率を上げて測距精度を上げる(有効基線長を実基線長より伸ばす。レンジファインダー#基線長を参照のこと)ことができないという欠点がある。",
"title": "ファインダーと距離計の方式"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "フレーミング用のファインダーの中央部に、距離計二重像が見えるのが一般的だが、アグファ・カラート36のようにファインダー全体が距離計になっているものや、コダック・メダリストのようにファインダー下方に二重像があるものも存在する。",
"title": "ファインダーと距離計の方式"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "一眼式レンジファインダーにおいては、ファインダー内の二重像部分の方式について、虚像式と実像式に分けられる。ビームスプリッターと同様な光学系(スプリッターとは逆向きに、スプリット(分離)するのではなく合成する方向で使う)を利用する点は共通である。",
"title": "ファインダーと距離計の方式"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "二重像の部分のために、通常の(虚像式)ファインダーと同様の虚像式の光学系(の被写体側)を、単純にもう一系統用意したものである。単純なため、部品数が少なくコストが抑えられ、調整も簡単で済む。光学的な原理上、二重像の縁を綺麗に切り出すことができないため、その境界がはっきりしない。しかし通常の使用には問題がなく、多くのカメラがこの方式を採用している。",
"title": "ファインダーと距離計の方式"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "いったん空中に実像を結ばせ、それを観察するという方式のファインダーである「実像式ファインダー」と同様の方式で、二重像の部分の像を作る方式である。虚像式と比較して複雑となりコストがかかるが、実像面でマスクを掛けることで、境界がはっきりした像が得られることを利用して上下像合致式距離計(写真用ではない、専用測定器の距離計には多い方式である)のごとく使うことも可能で、より正確に測距可能であるとされるが、虚像式に慣れた人は苦手と感じることもある。通常、周辺部分の像は虚像式である。",
"title": "ファインダーと距離計の方式"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "周辺部も中央部も実像式として二重像式ではなく合致像式としたカメラも稀ではあるが、「ヴェラ」のように存在してはいる。",
"title": "ファインダーと距離計の方式"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "同じ距離にフォーカスを合わせる場合でもレンズの焦点距離が異なるとレンズの繰り出し量が変わるため、連動式でレンズ交換式のレンジファインダーカメラでは、レンズ交換機構と同時に、レンズの繰出し量をそのレンズの焦点距離に応じて距離計の動きに読み替える機構が必要である。",
"title": "ファインダーと距離計の方式"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ライカの場合、マウント内側に移動する鏡筒の一部が露出しており、その後端面がカムになっている。本体側からは距離計機構からレバーが伸びていてそのレバーの先端にあるコロで鏡筒後端のカム面をなぞる。",
"title": "ファインダーと距離計の方式"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "コンタックスの場合、標準レンズは本体側のヘリコイドを使う。他種の交換レンズはレンズ側にヘリコイドを持ち、本体側とは距離環の角度により情報を伝え距離計機構が連動する。",
"title": "ファインダーと距離計の方式"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "戦前~1950年代前半まで、ライカ判を使用するレンジファインダーカメラを代表する機種といえばライカ(Lマウントライカ、現在はM型に対してバルナック型ライカといった通称でも呼ばれている)であった。小型軽量で機動性に富み、故障が少なかった。",
"title": "代表的な機種"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "当時のライカは、ドイツ国内に「コンタックス」というライバルが存在した。特に後のM型ライカ(1954年、M3を発表)の特長点のうち、コンタックスが先行していたものを挙げると、バヨネットマウントは1932年発売のコンタックスI型、距離計一体型ファインダーと一軸不回転式シャッターダイヤルは1936年発売のコンタックスII型ですでに実現している。しかしそのために、当時は高額商品であった小型精密カメラの中でも、ライカよりさらに高額なカメラであった。そもそも小型カメラばかりでなく、メーカーのツァイス・イコンは1930年代当時ドイツ最大の光学機器メーカーのカール・ツァイスのカメラ部門であり、ライカを製造していたエルンスト・ライツ(現ライカ)とは、開発競争や販売合戦を繰り広げていた仲であった。極論すればドイツの戦前のライカ判高級カメラはライカとコンタックスの2機種であり、日本のメーカーも大きな影響を受けた。",
"title": "代表的な機種"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "Lマウントライカは多数のコピー機が作られ、コピーライカと呼ばれた。コピーに当たって一番問題になったのは「距離計の2つの窓の間にファインダーを入れる」というライカが持っていた特許だったが、精機光学(現キヤノン)は飛び出し式ファインダー、昭和光学精機(レオタックス)は基線長が短くなるのを覚悟で距離計の外側にファインダーを持って来てライツの特許を回避した。また第二次世界大戦中ドイツからの輸入が止まり軍用カメラの必要性から各国で軍部が「特許を無視して製造せよ」と命じてアメリカのカードン、日本のニッポンカメラが作られた。戦後はドイツの特許が無効化されキヤノン、ニッカカメラ(後のヤシカ)、レオタックスカメラ、イギリスのリード&シギリスト(リード)などがこぞってライカを模倣し、互換機ないしはデッドコピーを作り続けて技術を磨き、さらには改良した機種を作り始めた。なお、こういったコピー機のブランド刻印等を削り取ってライカの刻印を偽装した偽物はフェイクライカと呼ばれている。",
"title": "代表的な機種"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦の終結は新たな形の戦争である東西冷戦の幕開けでもあった。東西に分割されたドイツは離散家族など多くの悲劇を見ることとなったが、その拠点が両ドイツに分散してしまったツァイス・イコン他の企業の運命もそのひとつに数えられ、カメラは軍事面との繋がりもあることなどから東ドイツのカメラについての情報は従来不十分であったが、リヒャルト・フンメルらの『東ドイツカメラの全貌』にドレスデンと一眼レフカメラを中心として詳細が述べられている。",
"title": "代表的な機種"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "一方で西ドイツの復興と軌を一にして復活したライツだが、日本メーカー等各社が独自の改良を続けて利便性を高める中、ライカは「伝統と信頼性は高いものの時代遅れなカメラ」になりかけていた。1954年のフォトキナで、ライツは設計のほとんどを刷新し、バヨネットマウント、装着レンズに応じて枠を自動で切り替える実像式距離計一体型ブライトフレームファインダー、一軸不回転等間隔シャッターダイヤル、等といったスペックのライカM3を発表した。",
"title": "代表的な機種"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "旧型ライカを至上として「追いつけ追い越せ」であった日本のカメラメーカー各社にとって、この新型ライカは衝撃であり、日本光学はその後の「ニコンSP」以降レンジファインダー機の大幅な改良は止め、一眼レフの「ニコンF」へと進んだ。ミノルタのM型ライカ対抗機「ミノルタスカイ」は生産されず「幻のカメラ」となり、同社もやはり一眼レフに進んだ。キヤノンは1959年の一眼レフ「フレックス」の後もしばらくレンジファインダー機の改良型を出し続けたが、1965年の「7S」が最後となった。",
"title": "代表的な機種"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "そのようにして高価格帯レンズ交換式35mmカメラの主流は一眼レフに移ったため、M型ライカはほぼ唯一の高級レンズ交換式レンジファインダーカメラとしてその後も改良を続け、主なモデルとしてはM4~M7まで進んだ後、M8でディジタルカメラとなった。他に小型化と一部電子化を図ったモデルとして、ミノルタとの提携によるライツミノルタCL(1973年)とミノルタCLE(1981年)があったが、直接の後続は無かった。",
"title": "代表的な機種"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "低価格帯のレンズ固定式のカメラでは、その後も下位モデルはビューファインダー・上位モデルは虚像式レンジファインダーというようにしてレンジファインダーモデルが存続したが、「ピッカリコニカ」(1975年)に始まる1970年代後半からのストロボ内蔵とほぼ入れ替わりにレンジファインダーモデルが消え始め、続く「ジャスピンコニカ」(1977年)や「キヤノンオートボーイ」(1979年)に代表されるオートフォーカス化によりレンジファインダーモデルはほぼ消滅した。",
"title": "代表的な機種"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "しかし皆無というわけでもなく、初代オリンパスXA(1978年)、Agfa Optima 1535 Sensor、京セラの初代コンタックスT(1984年、1990年のT2はオートフォーカス)といったレンジファインダー機があった。コンタックスT2からその後1990年代のいわゆる「高級コンパクト機」というジャンルが広がったが、それらはいずれもオートフォーカス機であった。",
"title": "代表的な機種"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1990年代にちょっとしたクラシックカメラブームがあり、その波に乗って2000年前後にいくつかのレンズ交換式カメラが現れた。京セラのコンタックスG(1994年)はオートフォーカスレンジファインダーと銘打ったが、撮影者が目視して使える距離計は備えていない。コニカの高級機「ヘキサー」のレンズ交換式上位モデルである「ヘキサーRF」(1999年)、コシナのフォクトレンダーブランドの「ベッサ」シリーズ(1999年~、コシナ・フォクトレンダーのカメラ製品一覧を参照)、「安原一式」(1999年)などがまず挙げられる。続いてニコンが、ニコンS3を2000年、ニコンSPを2005年に、ともに限定品として復刻販売した。2005年にはコシナのツァイスブランドで「ツァイス・イコン」が発売された(ツァイス・イコン#新生ツァイスイコン)。コシナ「ツァイス・イコン」にはボディ左右端の形状に、前述のミノルタCLE及びミノルタの高級コンパクト機TC-1の影響がある。以上に挙げた機種は、コシナベッサのマニュアル機械式シャッター機であるR2M・R3M・R4Mの各機(モデルはファインダー倍率の違い)の2015年9月を最後に、全て生産終了している。",
"title": "代表的な機種"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "中判カメラでは、戦前からツァイス・イコンの「スーパーイコンタ」、フォクトレンダーの「スーパーベッサ」、プラウベルの「プラウベルマキナ」などが著名で、主に上位機種に搭載された。なお、これらの製品もライカ判カメラと同様に各国でコピー・模倣機が製造され、日本でも六桜社(コニカを経て現コニカミノルタホールディングス)の「セミパール」、千代田光学(ミノルタを経て現コニカミノルタホールディングス)のオートセミミノルタ、マミヤ光機(現マミヤ・オーピー)のマミヤ6など、数多くの製品が作られた。",
"title": "代表的な機種"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ただし蛇腹を用いたフォールディングカメラが多い120フィルム使用カメラは構造上レンジファインダーをレンズに正確に連動させることが難しく、連動レンジファインダーの装備は一部上位機種にとどまり、単体距離計を内蔵しただけのカメラも多かった。",
"title": "代表的な機種"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "戦後になって二眼レフカメラを除く120フィルムを使用するカメラが高級機・プロ用機に限定されていくと、蛇腹カメラが通常の固定鏡胴のカメラに置き換わっていき連動機構の制約がなくなった。135フィルムと比較して重厚長大になりやすい120フィルムの分野では小型軽量化しやすいレンジファインダー式は有利であり、オートフォーカスが実用化されても長らくその必要性が薄いとされてきた経緯から、比較的遅い時期まで一般的であり続けた。戦後の日本の代表製品としてはマミヤプレス、ニューマミヤ6、フジカG690、トプコンホースマンプレス、プラウベルマキナ67シリーズ、ブロニカRF645等が挙げられる。",
"title": "代表的な機種"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "リンホフ・スーパーテヒニカシリーズやグラフレックス・スピードグラフィックシリーズ、ホースマン45Hシリーズなど蛇腹プレスカメラでも連動距離計を装備するものがある。これらはピントグラスによる測距やアオリ撮影対応など、フィールドカメラとレンジファインダーカメラの両方の性格を持ったカメラといえる。",
"title": "代表的な機種"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "スピードグラフィックシリーズは1950年代頃以降レンジファインダーに照明を組み込み、被写体に照射することで完全な暗闇でもピント合わせができる機構を持っている。",
"title": "代表的な機種"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2004年にエプソンから世界初のレンジファインダー式デジタルカメラ「R-D1」が発売された。同機のシリーズは2014年のR-D1xG生産終了まで続いた。",
"title": "代表的な機種"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "また、ライカMシリーズがM7を最後のフィルムモデルとし、2006年のM8以降、レンジファインダー式デジタルカメラとして、M9、2013年の「ライカM」とシリーズを続けている。",
"title": "代表的な機種"
}
] | レンジファインダーカメラとは、光学視差式距離計が組み込まれており、距離測定に連動して撮影用レンズの焦点を合わせられるカメラのことである。 | {{複数の問題
|出典の明記=2020年11月|独自研究=2020年11月}}
[[ファイル:LeicaIIIf-600.jpg|thumb|right|300px|ライカIIIf]]
'''レンジファインダーカメラ'''とは、[[レンジファインダー|光学視差式距離計]]が組み込まれており、距離測定に連動して撮影用レンズの焦点を合わせられるカメラのことである。
== 構造 ==
レンズの繰り出し量などを測定することで合焦装置と光学距離計を連動させ、スプリットイメージや二重像の重ね合わせによりピント合わせを行う。[[一眼レフカメラ]]よりコンパクトでありながらきちんとピント合わせができるため、未だに愛用者が多い。一部オートフォーカスカメラでもこの機構を自動化したものがある。
== 特徴 ==
利点としては本体を[[一眼レフカメラ]]よりコンパクトにできること、一眼レフカメラのようなミラーボックスを持たないのでフィルム面直前にまで後玉が突き出したような設計のレンズも製造可能でレンズ設計の自由度が高いことが挙げられる。またミラーが存在しないのでシャッター時のショックや音が小さい傾向にあるため、カメラぶれを軽減することができる。
欠点としては撮影レンズと[[ファインダー]]の光学系が分かれているため、撮影範囲を確認するにはレンズの焦点距離に見合ったビューファインダーを用意する必要があること、[[パララックス]]を完全には補正できないこと、撮影用レンズとファインダーのどちらかの調整が狂っても気付きにくく素早く対応できないこと、またピント合わせ方式の都合上最短撮影距離がある程度長くなることの他、レンズキャップを付けたままシャッターを切るミスに気づきにくい。接写用アタッチメントを用意することで近接撮影を可能にしたレンズも存在するが、超近接撮影に関してはレンジファインダーカメラでは対応できない。
後には複数の枠(フレーム)がファインダーに内蔵されるようになったが、枠が内蔵されていない焦点距離については外付けファインダーが必要になり、またその場合は距離計とファインダーが別になってしまうので迅速な撮影が不可能になる。
また距離計の[[基線長]]がカメラの大きさによって制限されるため、望遠レンズ装着時のピント精度に限界が生じる。一部メーカーではレンズとカメラの間に後付け装着して一眼レフカメラ化するアタッチメント(レフボックス)を用意しており、これを使用することにより望遠レンズでの確実なピント合わせが可能になるが、この場合利点であったコンパクトさは全く失われ、元々一眼レフカメラである製品と比較して自動化も限界がある。
一方標準~広角レンズにおいては、一眼レフカメラの測距精度が焦点距離の長さに左右される<ref>一眼レフのファインダーを距離計に換算した場合、[[有効基線長]]がレンズ焦点距離の2乗に比例する。</ref>のに対し、どのようなレンズをつけてもピント精度とは無関係のレンジファインダーカメラの方が光学的にはピント精度が高くなるために有利であるものの、レンジファインダーカメラは距離計との機械的連結が必要となり、その機械的精度を考慮すると一眼レフカメラに対する絶対的優位性は打ち消されるとの考え方もある。
またレンズのフォーカシングと連動しない単体距離計を内蔵しただけのカメラは、通常レンジファインダーカメラに含まれない。
== ファインダーと距離計の方式 ==
主に小型(35mm)カメラにおける方式の様々について述べる。他にもスプリングカメラ等で本体とレンズボード間の機械的連結を必要としないドレーカイル式など様々な方式がある。
=== 連動と非連動 ===
この記事では連動式を前提としているが、古いカメラなど距離計を内蔵しているだけで、フォーカシングが非連動のものもある。レンズ交換式で連動の場合、レンズによりフォーカシングと繰出し量の対応が変わるので、何らかの工夫が必要である。
=== 二眼式と一眼式 ===
[[一眼レフカメラ]]及び[[二眼レフカメラ]]とは無関係である。測距機構の[[ファインダー]](レンジファインダー)とフレーミング用の(ビュー)ファインダーが、別になっていて外見上ファインダー接眼部が2個ある(並んでいるものがほとんど)ものを二眼式、兼用になっていてフレーミング用のファインダーの中に測距機構のための像が一緒に見える「距離計内蔵式ビューファインダー」になっているものを一眼式と言う。
{{Main2|ビューファインダー|ファインダー#ビューファインダー}}
==== 二眼式 ====
[[ファイル:Leica-III-p1030028.jpg|thumb|right|200px|ライカIII - ファインダーの接眼側。左のカメラ端にあるのが測距用、カメラ中央部にあるのがフレーミング用。その右の小さい丸はフラッシュ接点。後のモデルでは2つの接眼部がより接近するよう改良されている。]]
[[ファイル:Leica-III-p1030030.jpg|thumb|right|200px|ライカIII - ファインダーの被写体側。左右の丸い窓2つが測距用で、中央の四角い窓がフレーミング用。ライカIIIg以外はブライトフレームではないので、ブライトフレームの明り用の窓は無い。]]
フレーミング用のファインダーと測距用のレンジファインダーに対し、それぞれ専用の接眼窓がある。古いタイプのレンジファインダーカメラはもっぱらこちらで、代表的なライカの場合、ライカI~ライカIIIのいわゆるバルナック型ライカはこちらである(M型で一眼式になった)。
フレーミング用のビューファインダーと測距用のレンジファインダーの倍率をそれぞれ異なったものにできるため、レンジファインダー側の倍率を上げて高い測距精度を実現できるといった利点もあるが、フォーカシングとフレーミングでファインダーを覗き分けねばならないという不便のため1960年代以降は一眼式となった。
{{-}}
==== 一眼式 ====
[[ファイル:Rangefinder-Singleview.jpg|thumb|right|200px|キヤノンPの被写体側 - フレーミングと測距兼用の四角いファインダー窓1つと、丸い測距用窓1つを持つ。他の機種では、採光式ブライトフレームのための明かり窓やEE用の窓などがあるものもある。]]
フレーミング用のビューファインダーの中に測距用のレンジファインダーが組み込まれており、測距とフレーミングが同時にでき、すばやく撮影できる。コンタックスII型を嚆矢とし、以来高級機・普及機を問わず今日まで広く普及した。ライカは1954年発表のライカM3以降のM型でこちらになった。
通常ファインダーの倍率は最大1倍<ref>例外的に最大1.5倍程度までファインダー倍率を可変できるものがある。またM型ライカではファインダーと距離計窓の対物側に一種のテレコンバージョンレンズを追加してファインダー倍率を上げるアクセサリが用意された。</ref>であるため、視野の倍率を上げて測距精度を上げる(有効基線長を実基線長より伸ばす。[[レンジファインダー#基線長]]を参照のこと)ことができないという欠点がある。
フレーミング用のファインダーの中央部に、距離計二重像が見えるのが一般的だが、[[アグフア・ゲバルト|アグファ]]・カラート36のようにファインダー全体が距離計になっているものや、[[コダック]]・メダリストのようにファインダー下方に二重像があるものも存在する。
=== 虚像式と実像式 ===
一眼式レンジファインダーにおいては、ファインダー内の二重像部分の方式について、虚像式と実像式に分けられる<ref>二眼式レンジファインダーにおいては、距離計側は視野全体が二重像となるため実像式にするメリットがなく、すべて虚像式である。</ref>。[[ビームスプリッター]]と同様な光学系(スプリッターとは逆向きに、スプリット(分離)するのではなく合成する方向で使う)を利用する点は共通である。
==== 虚像式 ====
[[ファイル:Rangefinder-Virtual-image.gif|thumb|right|300px|虚像式レンジファインダーの視界の模式図 - 二重像の境界がぼやけている]]
二重像の部分のために、通常の(虚像式)ファインダーと同様の虚像式の光学系(の被写体側)を、単純にもう一系統用意したものである。単純なため、部品数が少なくコストが抑えられ、調整も簡単で済む。光学的な原理上、二重像の縁を綺麗に切り出すことができないため、その境界がはっきりしない。しかし通常の使用には問題がなく、多くのカメラがこの方式を採用している。
{{-}}
==== 実像式 ====
[[ファイル:Rangefinder-Real-image.gif|thumb|right|300px|実像式レンジファインダーの視界の模式図 - 二重像の境界がはっきりと見える]]
いったん空中に[[実像]]を結ばせ<ref>つまり、その場所にフィルムを入れれば像が得られる、ということ。</ref>、それを観察するという方式のファインダーである「実像式ファインダー」と同様の方式で、二重像の部分の像を作る方式である。虚像式と比較して複雑となりコストがかかるが、実像面でマスクを掛けることで、境界がはっきりした像が得られることを利用して上下像合致式距離計(写真用ではない、専用測定器の距離計には多い方式である)のごとく使うことも可能で、より正確に測距可能であるとされるが、虚像式に慣れた人は苦手と感じることもある。通常、周辺部分の像は虚像式である。
周辺部も中央部も実像式として二重像式ではなく合致像式としたカメラも稀ではあるが、「[[ヴェラ (カメラ)|ヴェラ]]」のように存在してはいる。
{{-}}
=== レンズ交換と連動 ===
同じ距離にフォーカスを合わせる場合でもレンズの焦点距離が異なるとレンズの繰り出し量が変わるため、連動式でレンズ交換式のレンジファインダーカメラでは、レンズ交換機構と同時に、レンズの繰出し量をそのレンズの焦点距離に応じて距離計の動きに読み替える機構が必要である。
ライカの場合、マウント内側に移動する鏡筒の一部が露出しており、その後端面がカムになっている。本体側からは距離計機構からレバーが伸びていてそのレバーの先端にあるコロで鏡筒後端のカム面をなぞる。
コンタックスの場合、標準レンズは本体側のヘリコイドを使う。他種の交換レンズはレンズ側にヘリコイドを持ち、本体側とは距離環の角度により情報を伝え距離計機構が連動する。
== 代表的な機種 ==
=== 135フィルムを使用するカメラ ===
戦前~1950年代前半まで、ライカ判を使用するレンジファインダーカメラを代表する機種といえば'''ライカ'''(Lマウントライカ、現在はM型に対してバルナック型ライカといった通称でも呼ばれている)であった。小型軽量で機動性に富み、故障が少なかった。
当時のライカは、ドイツ国内に「[[コンタックス]]」というライバルが存在した。特に後のM型ライカ(1954年、M3を発表)の特長点のうち、コンタックスが先行していたものを挙げると、バヨネットマウントは1932年発売のコンタックスI型、距離計一体型ファインダーと一軸不回転式シャッターダイヤルは1936年発売のコンタックスII型ですでに実現している。しかしそのために、当時は高額商品であった小型精密カメラの中でも、ライカよりさらに高額なカメラであった。そもそも小型カメラばかりでなく、メーカーの[[ツァイス・イコン]]は1930年代当時ドイツ最大の光学機器メーカーの[[カール・ツァイス]]のカメラ部門であり、ライカを製造していたエルンスト・ライツ(現[[ライカ]])とは、開発競争や販売合戦を繰り広げていた仲であった。極論すればドイツの戦前のライカ判高級カメラはライカとコンタックスの2機種であり、日本のメーカーも大きな影響を受けた。
Lマウントライカは多数のコピー機が作られ、[[コピーライカ]]と呼ばれた。コピーに当たって一番問題になったのは「距離計の2つの窓の間にファインダーを入れる」というライカが持っていた特許だったが、精機光学(現[[キヤノン]])は飛び出し式ファインダー、昭和光学精機([[レオタックスカメラ|レオタックス]])は基線長が短くなるのを覚悟で距離計の外側にファインダーを持って来てライツの特許を回避した。また第二次世界大戦中ドイツからの輸入が止まり軍用カメラの必要性から各国で軍部が「特許を無視して製造せよ」と命じてアメリカの[[カードン]]、日本の[[ニッカカメラ|ニッポンカメラ]]が作られた。戦後はドイツの特許が無効化され[[キヤノン]]、[[ニッカカメラ]](後の[[ヤシカ]])、[[レオタックスカメラ]]、イギリスのリード&シギリスト([[リード (カメラ)|リード]])などがこぞってライカを模倣し、互換機ないしはデッドコピーを作り続けて技術を磨き、さらには改良した機種を作り始めた。なお、こういったコピー機のブランド刻印等を削り取ってライカの刻印を偽装した偽物は[[フェイクライカ]]と呼ばれている。
第二次世界大戦の終結は新たな形の戦争である東西冷戦の幕開けでもあった。東西に分割されたドイツは離散家族など多くの悲劇を見ることとなったが、その拠点が両ドイツに分散してしまったツァイス・イコン他の企業の運命もそのひとつに数えられ、カメラは軍事面との繋がりもあることなどから東ドイツのカメラについての情報は従来不十分であったが、リヒャルト・フンメルらの『東ドイツカメラの全貌』にドレスデンと一眼レフカメラを中心として詳細が述べられている。
[[File:Leica_m3_50mm.jpg|thumb|right|200px|ライカM3]]
一方で西ドイツの復興と軌を一にして復活したライツだが、日本メーカー等各社が独自の改良を続けて利便性を高める中、ライカは「伝統と信頼性は高いものの時代遅れなカメラ」になりかけていた。1954年の[[フォトキナ]]で、ライツは設計のほとんどを刷新し、バヨネットマウント、装着レンズに応じて枠を自動で切り替える実像式距離計一体型ブライトフレームファインダー、一軸不回転等間隔シャッターダイヤル、等といったスペックの'''ライカM3'''を発表した。
旧型ライカを至上として「追いつけ追い越せ」であった日本のカメラメーカー各社にとって、この新型ライカは衝撃であり、日本光学はその後の「ニコンSP」以降レンジファインダー機の大幅な改良は止め、一眼レフの「ニコンF」へと進んだ。ミノルタのM型ライカ対抗機「ミノルタスカイ」は生産されず「幻のカメラ」となり、同社もやはり一眼レフに進んだ。キヤノンは1959年の一眼レフ「フレックス」の後もしばらくレンジファインダー機の改良型を出し続けたが、1965年の「7S」が最後となった。
そのようにして高価格帯レンズ交換式35mmカメラの主流は一眼レフに移ったため、M型ライカはほぼ唯一の高級レンズ交換式レンジファインダーカメラとしてその後も改良を続け、主なモデルとしてはM4~M7まで進んだ後、[[M8 (カメラ)|M8]]でディジタルカメラとなった。他に小型化と一部電子化を図ったモデルとして、ミノルタとの提携によるライツミノルタCL(1973年)とミノルタCLE(1981年)があったが、直接の後続は無かった。
低価格帯のレンズ固定式のカメラでは、その後も下位モデルはビューファインダー・上位モデルは虚像式レンジファインダーというようにしてレンジファインダーモデルが存続したが、「ピッカリコニカ」(1975年)に始まる1970年代後半からのストロボ内蔵とほぼ入れ替わりにレンジファインダーモデルが消え始め、続く「ジャスピンコニカ」(1977年)や「キヤノンオートボーイ」(1979年)に代表されるオートフォーカス化によりレンジファインダーモデルはほぼ消滅した。
しかし皆無というわけでもなく、初代オリンパスXA(1978年)<ref>初代以外、XA2~の後継機や廉価版のXA1などは全てレンジファインダーではないので注意</ref>、Agfa Optima 1535 Sensor、京セラの初代コンタックスT(1984年、1990年のT2はオートフォーカス)といったレンジファインダー機があった。コンタックスT2からその後1990年代のいわゆる「高級コンパクト機」というジャンルが広がったが、それらはいずれもオートフォーカス機であった。
[[File:Voigtländer Bessa R3a img 1386.jpg|thumb|right|200px|ベッサR3A]]
1990年代にちょっとしたクラシックカメラブームがあり、その波に乗って2000年前後にいくつかのレンズ交換式カメラが現れた。京セラの[[コンタックスG]](1994年)はオートフォーカスレンジファインダーと銘打ったが、撮影者が目視して使える距離計は備えていない。コニカの高級機「ヘキサー」のレンズ交換式上位モデルである「ヘキサーRF」(1999年)、[[コシナ]]のフォクトレンダーブランドの「ベッサ」シリーズ(1999年~、[[コシナ・フォクトレンダーのカメラ製品一覧]]を参照)、「[[安原製作所|安原]]一式」(1999年)などがまず挙げられる。続いてニコンが、ニコンS3を2000年、ニコンSPを2005年に、ともに限定品として復刻販売した。2005年にはコシナのツァイスブランドで「ツァイス・イコン」が発売された([[ツァイス・イコン#新生ツァイスイコン]])。コシナ「ツァイス・イコン」にはボディ左右端の形状に、前述のミノルタCLE及びミノルタの高級コンパクト機TC-1の影響がある。以上に挙げた機種は、コシナベッサのマニュアル機械式シャッター機であるR2M・R3M・R4Mの各機(モデルはファインダー倍率の違い)の2015年9月を最後に、全て生産終了している。
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=== 120/220フィルムを使用するカメラ ===
[[File:VoigtlBessaIIHeliar1.jpg|thumb|right|200px|スーパーベッサII]]
[[中判カメラ]]では、戦前からツァイス・イコンの「[[イコンタ|スーパーイコンタ]]」、[[フォクトレンダー]]の「スーパーベッサ」、[[プラウベル]]の「プラウベルマキナ」などが著名で、主に上位機種に搭載された。なお、これらの製品もライカ判カメラと同様に各国でコピー・模倣機が製造され、日本でも六桜社([[コニカ]]を経て現[[コニカミノルタホールディングス]])の「セミパール」、千代田光学([[ミノルタ]]を経て現[[コニカミノルタホールディングス]])のオートセミミノルタ、マミヤ光機(現[[マミヤ・オーピー]])のマミヤ6など、数多くの製品が作られた。
ただし蛇腹を用いたフォールディングカメラが多い120フィルム使用カメラは構造上レンジファインダーをレンズに正確に連動させることが難しく<ref>[[スプリングカメラ]]に詳しい記事がある。</ref>、連動レンジファインダーの装備は一部上位機種にとどまり、単体距離計を内蔵しただけのカメラも多かった。
戦後になって[[二眼レフカメラ]]を除く120フィルムを使用するカメラが高級機・プロ用機に限定されていくと、蛇腹カメラが通常の固定鏡胴のカメラに置き換わっていき連動機構の制約がなくなった。135フィルムと比較して重厚長大になりやすい120フィルムの分野では小型軽量化しやすいレンジファインダー式は有利であり、[[オートフォーカス]]が実用化されても長らくその必要性が薄いとされてきた経緯から、比較的遅い時期まで一般的であり続けた。戦後の日本の代表製品としてはマミヤプレス、ニューマミヤ6、フジカG690、トプコンホースマンプレス、プラウベルマキナ67シリーズ、ブロニカRF645等が挙げられる。
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=== 110フィルムを使用するカメラ ===
[[File:My Kodak Pocket Instamatic 60 (5776959757).jpg|thumb|right|200px|Kodak Pocket Instamatic 60]]
[[File:Minox 110S.JPG|thumb|right|200px|Minox 110 S]]
[[File:Canon 110 ED (51877190898).jpg|thumb|right|200px|キヤノン 110ED]]
[[File:My Canon 110ED 20 (5178215735).jpg|thumb|right|200px|キヤノン 110ED 20]]
*'''コダック ポケットインスタマチック 60'''(1972年発売) - [[コダック|コダック社]]が提唱した[[インスタマチック#ポケットインスタマチック|ポケットインスタマチック]]システム初の5機種のラインアップのうちの最上位機種。レンジファインダー機能付き、Ektar 26 mm /F2.7、EE露出、マジキューブフラッシュソケット付き。ISO(当時ASA/JIS)400には対応していない。
*'''コダック トリムライト 48'''(1975年発売) - ({{lang-en-short|''Kodak Trimlite 48''}}) レンジファインダー機能付き、Ektar 26 mm /F2.7、EE露出、フラッシュ接点をフリップフラッシュソケットに変更、ISO400に対応した。<ref>{{Cite web|title=Kodak Trimlite 48|url=http://mywebpages.comcast.net/youngds/110Cameras/Trimlite48/Trimlite48.htm|website=An Introduction to 110 Film Format Cameras|accessdate=2023-11-06|language=ja}}</ref>
*'''ミノックス 110 S'''(1974年発売) - [[ミノックス|ミノックス社]]唯一のレンジファインダー機能付きカメラ、Minoctar 25mm/F2.8、EE露出、マジキューブフラッシュソケット、専用エレクトロニックフラッシュF110用X接点特殊ホットシュー付き。ISO400に対応。<ref>{{Cite web|title=Minox 110S|url=http://www.submin.com/110/collection/minox110/cameras/110s_camera.htm|website=The Sub Club|accessdate=2023-11-06|language=ja}}</ref>
*'''キヤノン 110ED'''([[1975年]]3月発売) - レンジファインダー機能付き、26mm/F2.0のレンズを搭載したカメラで、当時110フィルムを使用するカメラの中では高級機に属した。デート機能付き。
*'''キヤノン 110ED 20'''([[1977年]]9月発売) - 110EDをモデルチェンジしたもの。ISO400のフィルム感度設定に対応。
*'''ポケットフジカ600'''(1975年3月発売) - レンジファインダー機能付き、FUJINON 25mm/F2.8、EE露出、セルフタイマー、X接点フラッシュホットシュー付き。ISO400に対応しておらず、フジカラー400ポケットフィルム発売時に外装はめ込み式のND(減光)フィルターが発売された。
*'''ポケットフジカ600ブラック'''(1975年7月発売) - 上記機種のブラック外装版。
*'''ポケットフジカ350ワイド'''([[1976]]年10月発売) - 基本的に固定焦点のFUJINON 20mm/F4.0のワイドレンズカメラであるが、クローズアップレンズ切替時のみ菱形の二重像合致式レンジファインダーが使えるようになる。被写体に対してカメラ本体を前後して撮影距離40cmで合焦する。
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=== シートフィルムを使用するカメラ ===
[[File:Linhof img 1876.jpg|thumb|right|200px|リンホフスーパーテヒニカ45]]
[[リンホフ]]・スーパーテヒニカシリーズや[[グラフレックス]]・スピードグラフィックシリーズ、ホースマン45Hシリーズなど蛇腹プレスカメラでも連動距離計を装備するものがある。これらはピントグラスによる測距やアオリ撮影対応など、フィールドカメラとレンジファインダーカメラの両方の性格を持ったカメラといえる。
スピードグラフィックシリーズは1950年代頃以降レンジファインダーに照明を組み込み、被写体に照射することで完全な暗闇でもピント合わせができる機構を持っている。
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=== レンジファインダー式デジタルカメラ ===
[[File:Epson R-D1 Digital Rangefinder Camera.jpg|thumb|right|200px|エプソンR-D1]]
2004年に[[セイコーエプソン|エプソン]]から世界初のレンジファインダー式[[デジタルカメラ]]「[[R-D1]]」が発売された。同機のシリーズは2014年のR-D1xG生産終了まで続いた。
また、[[ライカ]]MシリーズがM7を最後のフィルムモデルとし、2006年の[[M8 (カメラ)|M8]]以降、レンジファインダー式デジタルカメラとして、M9、2013年の「ライカM」とシリーズを続けている。
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== 注釈 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Rangefinder cameras}}
*[[一眼レフカメラ]]
*[[ミラーレス一眼カメラ]] - ミラーボックスを持たない点で共通している。
*[[ツァイス・イコン]]
**[[イコンタ]]
**[[コンタックス]]
*[[ライカ]]
*[[フォクトレンダー]]
*[[ライカマウントレンズの一覧]]
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2,635 | アルゼンチン | アルゼンチン政府は南極の1,000,000 kmおよびマルビナス諸島の領有を主張している。
アルゼンチン共和国(アルゼンチンきょうわこく、スペイン語: República Argentina)、通称アルゼンチンは、南アメリカ南部に位置する連邦共和制国家。位置は南米大陸から見ると南西側に位置しており、西と南にチリ、北にボリビア・パラグアイ、北東にブラジル・ウルグアイと国境を接し、東と南は大西洋に面する。ラテンアメリカではブラジルに次いで2番目に領土が大きく、世界全体でも第8位の領土面積を擁する。首都はブエノスアイレス。
チリとともに南アメリカ最南端に位置し、国土の全域がコーノ・スールの域内に収まる。国土南端のフエゴ島には世界最南端の都市ウシュアイアが存在する。アルゼンチンはイギリスが実効支配するマルビナス諸島(英語ではフォークランド諸島)の領有権を主張している。また、チリ・イギリスと同様に南極の一部に対して領有権を主張しており、アルゼンチン領南極として知られる。
正式名称は、República Argentina(レプブリカ・アルヘンティーナ)。通称、Argentina(アルヘンティーナ)。英語表記は公式にはArgentine Republic(アージェンタイン・リパブリック)、通称Argentina(アージェンティーナ)。
日本語の表記はアルゼンチン共和国。通称アルゼンチン。ほかにアルゼンティンとも表記され、原語音に即したアルヘンティーナと表記されることもある。漢字表記では、亜尓然丁、亜爾然丁、阿根廷(拼音: āgēntíng)など。
独立当時はリオ・デ・ラ・プラタ連合州(Provincias Unidas del Río de la Plata)と呼ばれ、あるいは南アメリカ連合州(Provincias Unidas de Sudamérica)とも名乗っていた。リオ・デ・ラ・プラタはスペイン語で「銀の川」を意味し、1516年にフアン・ディアス・デ・ソリスの率いるスペイン人征服者の一行がこの地を踏んだ際、銀の飾りを身につけたインディヘナ(チャルーア人)に出会い、上流に「銀の山脈(Sierra del Plata)」があると考えたことから名づけたとされる。これにちなみ、銀のラテン語表記「Argentum(アルゲントゥム)」に地名を表す女性縮小辞(-tina)を添えたものである。初出は、1602年に出版されたマルティン・デル・バルコ・センテネラ(スペイン語版、英語版)の叙事詩『アルヘンティーナとラ・プラタ川の征服』とされる。その後、1825年に正式国名とした。
国名をラテン語由来へと置き換えたのは、スペインによる圧政を忘れるためであり、フランスのスペインへの侵略を契機として、フランス語読みの「アルジャンティーヌ(Argentine)」に倣ったものでもあるとされる。しかしながら、現在でも「リオ・デ・ラ・プラタ連合州」や「アルゼンチン連合(Confederación Argentina)」などの歴史的呼称は、アルゼンチン共和国とともに正式国名として憲法に明記されている。
アルゼンチンの最初の住民は、紀元前11000年にベーリング海峡を渡ってアジアからやって来た人々だった。彼らは現在パタゴニアに残る「手の洞窟」を描いた人々であった。
その後、15世紀後半に現ペルーのクスコを中心に発展したケチュア人の国家クスコ王国(1197年 - 1438年)は、タワンティンスーユ(インカ帝国、1438年 - 1533年)の皇帝トゥパック・インカ・ユパンキとワイナ・カパックによって征服され、北西部のアンデス山脈地域はタワンティンスーユに編入された。征服された地域はタワンティンスーユ内の4州の内の1州、コジャ・スウユ(ケチュア語族: Colla Suyo、「南州」)の辺境の地となり、30万人ほどのケチュア人やアイマラ人が住むようになった。アルゼンチンにおけるコジャ・スウユの領域は北は現在のフフイ州から南はメンドーサ州、東はサンティアゴ・デル・エステロ州の北部にまで広がっていた。その一方でインカ帝国の権威が及ばなかったチャコやパンパやパタゴニアには、チャルーア人のような狩猟インディヘナがおもに居住しており、パンパやチャコにもグアラニー人のような粗放な農耕を営むインディヘナがいたが、全般的にこの地域に住む人間の数は少なかった。
16世紀に入ると、1516年にスペインの探検家、フアン・ディアス・デ・ソリスが最初のヨーロッパ人としてこの地を訪れたが、すぐに先住民といさかいを起こし、まもなく殺害された。その後もスペインによってこの地域の植民地化は進められた。1536年にラ・プラタ川の上流にあると思われた「銀の山」を攻めるために、バスク人貴族のペドロ・デ・メンドーサ(英語版)率いる植民団によって、ラ・プラタ川の河口にヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デル・ブエン・アイレ市が建設されたが、まもなくインディヘナの激しい攻撃に遭って放棄され、以後200年ほどラ・プラタ地域の中心は、1559年にアウディエンシアの設置されたパラグアイのアスンシオンとなった。
植民地政策の伸展に伴ってペルー副王領の一部に組み込まれたこの地は、ペルー方面からアンデス地域を軸に開拓が進み、1553年には現存するアルゼンチン最古の都市サンティアゴ・デル・エステロが建設された。アスンシオンからの内陸部開発も盛んになり、1580年には放棄されたブエノスアイレスが再建されたが、それでもこの地域はベネズエラなどと並んでイスパノアメリカではもっとも開発の遅れた地域だった。また、1541年に放された12頭の馬がパンパの牧草を食べて自然に大繁殖したこともあり、いつしかガウチョが現れるようになっていった。同じようにして繁殖した牛は、19世紀の始めにはラ・プラタ地域全体で2,000万頭ほどいたといわれている(ちなみにこのころの人口はアルゼンチン・ウルグアイ・パラグアイをあわせても100万人を超えないほどだった)。植民地政策の経過により、当初は大西洋岸よりも内陸部の発展が早かった。1613年には内陸のコルドバにコルドバ大学が建設され、以降19世紀までコルドバは南米南部の学問の中心となった。18世紀にはグアラニー戦争(英語版)などに代表されるように、ポルトガル領ブラジル(英語版)方面から攻撃を続けるポルトガルとの小競り合いが続き、スペイン当局がバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)を防衛するためもあって、1776年にペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領が分離されると、ブエノスアイレスは副王領の首府となって正式に開港され、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国との密貿易により空前の繁栄を遂げた。しかし、この時点においてアルゼンチンの産業の中心は北西部のトゥクマンや中央部のコルドバであり、リトラル地域やブエノスアイレスには見るべき工業はなかった。このブエノスアイレス港の正式開港は、のちに植民地時代に繁栄していた内陸部諸州に恐ろしい打撃をもたらすことになった。
1806年、1807年の2度にわたるイギリス軍のラプラタ侵略(英語版)を打ち破ったあと、スペインからの解放と自由貿易を求めたポルテーニョは1810年5月25日に五月革命を起こし、ブエノスアイレスは自治を宣言したが、ラ・プラタ副王領のパラグアイ、バンダ・オリエンタル、アルト・ペルー、コルドバはブエノスアイレス主導の自治に賛成しなかった。このためブエノスアイレス政府は各地に軍を送り、コルドバを併合することには成功したが、1811年のマヌエル・ベルグラーノ将軍のパラグアイ攻略(スペイン語版、英語版)は失敗した。1813年のサンロレンソの戦いにも勝利するとスペイン王党派軍との戦いが本格化するが、王党派の支配していたアルト・ペルー攻略(第一次アルト・ペルー攻略(スペイン語版、英語版)、第二次アルト・ペルー攻略(スペイン語版))は失敗した。
独立戦争が難航する中、1816年7月9日にはトゥクマンの議会(英語版)で南アメリカ連合州として正式に独立を宣言したが、まだこの時点では独立の方向も定まっておらず、インカ皇帝を復活させて立憲君主制を導入しようとしていたベルグラーノ将軍のような人物から、ホセ・アルティーガス(英語版)のようにアメリカ合衆国のような連邦共和制を求める勢力もあり、ブエノスアイレスは自由貿易、貿易独占を求めるなど、独立諸派の意見はまったく一致しなかった。ベルグラーノ将軍が第三次アルト・ペルー攻略(スペイン語版)に失敗し、北部軍(スペイン語版、英語版)司令官を辞任すると、後を継いだアンデス軍(英語版)司令官のホセ・デ・サン・マルティン将軍がアンデス山脈越え(英語版)を行い、王党派の牙城リマを攻略するために遠征を重ね、王党派軍を破ってチリ(チャカブコの戦い(英語版)、マイプーの戦い(英語版))、解放者シモン・ボリーバルのコロンビア共和国解放軍から派遣されたアントニオ・ホセ・デ・スクレがペルー(アヤクーチョの戦い(英語版))を解放していったが、本国ではブエノスアイレスの貿易独占に反対する東方州やリトラル三州のアルティーガス派(連邦同盟)とブエノスアイレス(トゥクマン議会派)の対立が激しさを増し、内戦が続いた。内戦の末、1821年にプエイレドン(英語版)が失脚すると中央政府は崩壊したが、中央政府が存在しないことは外交上不利であったため、各州の妥協により1825年にブエノスアイレス州が連合州の外交権を持つことを認められた。
その後、ブエノスイアレスと敵対していた東方州がポルトガル・ブラジル連合王国に併合されたことをブエノスアイレスが見過ごしたことへの批判が強まり、33人の東方人を率いて独立運動を開始したフアン・アントニオ・ラバジェハ(英語版)将軍のバンダ・オリエンタル潜入から、かの地をめぐって1825年にブラジル帝国との間にブラジル戦争が始まった。この戦争に際して挙国一致が図られ、ベルナルディーノ・リバダビア(英語版)を首班とした中央政府が一時的に成立し、このときに国名をリオ・デ・ラ・プラタからアルヘンティーナに改名したが、戦争の最中に制定された中央集権憲法と、ブエノスアイレスを正式に首都と定める首都令が国内のすべての層の反発を受けると、リバダビアは失脚し、再び中央政府は消滅した。戦局はアルゼンチン有利に進んだが、内政の混乱が災いし、最終的にはイギリスの介入によってバンダ・オリエンタルを独立国とするモンテビデオ条約が結ばれ、1828年にウルグアイ東方共和国が独立した。そしてこの地を以後再びアルゼンチンが奪回することはなかった。
ブラジルに対しての実質的な敗戦の影響もあって連邦派と統一派の戦いは激化する。1829年に統一派のブエノスアイレス州知事フアン・ラバージェ(英語版)を打倒した連邦派のフアン・マヌエル・デ・ロサスが州知事になると、ロサスはリトラル3州のカウディージョと同盟を結んで1831年11月に中央集権同盟を破り、ほぼ全アルゼンチンの指導者となった。この時期には中央政府こそ作られなかったもののアルゼンチン連合が成立し、以降内戦はしばらくの小康状態に入った。ロサスは1832年に州知事を辞すると、「荒野の征服作戦(英語版)」で敵対していたパンパのインディヘナを今日のブエノスアイレス州の領域から追い出して征服した土地を部下に分け与え、大土地所有制を強化した。
1835年にラ・リオハ州を中心とした内陸部の連邦派の指導者、フアン・ファクンド・キロガ(英語版)が暗殺されると再びアルゼンチン全土に内戦の危機が訪れた。この際のロサスの妻のドーニャ・エンカルナシオン(英語版)のクーデターもあり、最終的にはブエノスアイレス州議会に請われてロサスは1835年に再びブエノスアイレス州知事に返り咲いた。以降のロサスの政治は恐怖政治を敷き、統一派だと見られた多くの自由主義者や知識人が弾圧・追放され、2万5,000人にも及ぶ市民が粛清された。その一方でロサスはパンパの伝統を守り、自由主義者によって弾圧されていた黒人やガウチョを保護するなどの面もあった。独裁制はこうした政策により、ブエノスアイレス州の農民や都市下層民をはじめとする上流階級以外の各層から支持を得た。外交面では国粋主義と大アルゼンチン主義を貫き、移民を禁止するなどの政策をとった。1833年に マルビナス諸島を売るように要求したイギリス商人の申し出を断ったため、島はイギリスに占領されてしまった。しかしながらロサスは、ラ・プラタ地域に野心を持っていたイギリス、フランスとのウルグアイをめぐっての大戦争や、それに続くラ・プラタ川の封鎖、さらにはパタゴニアを植民地化するとのフランスから恫喝、1845年から1846年の戦争となって顕在化したカウディージョの支配するパラグアイとの対立、これらの相次ぐ国難すべてからアルゼンチン連合を守り抜いた。しかし戦争によって貿易が封鎖され、疲弊したリトラル諸州の怒りは激しく、まもなくブラジル帝国と同盟した腹心のフスト・ホセ・デ・ウルキーサ(英語版)がエントレ・リオス州から反乱を起こすと、1852年にカセーロスの戦い(英語版)でロサスは敗れ、失脚した。
カセーロスの戦い以後のアルゼンチン連合は、当時の自由主義知識人の意向により西欧化が進み、土着のスペイン的な伝統や、ガウチョや黒人やインディヘナは近代化の障害として大弾圧された。ウルキーサが設立したアルゼンチン連合の1853年憲法(英語版)は、事実上の起草者だったアルベルディ(英語版)の意向を反映し、きわめて自由主義的な憲法であった。ウルキーサがこの自由主義貿易によって自由貿易を導入すると、安い外国製品との競争に耐えられなかった国内産業はほとんど壊滅してしまった。
その後もブエノスアイレス国(英語版)と周辺諸州との間で内戦が続いたが、1861年にブエノスアイレス国がウルキーサを破り、アルゼンチン連合を併合して国家統一が達成された。このため、勝利した元ブエノスアイレス国知事ミトレ(英語版)ら自由主義者が完全な主導権を握ることになり、国家の西欧化のためにヨーロッパから移民が大量に導入されることが決定した。ミトレは周辺国への干渉と中央集権政策を進め、アルゼンチン・ブラジル2大国によるウルグアイへの内政干渉をきっかけにして1864年から始まったパラグアイとの三国同盟戦争を境に、土着勢力の抵抗も整備された連邦軍の軍事力の前に徐々に終わりを迎えて1880年には完全に鎮圧され、国家の近代化、中央集権化が進んだ。この時期に極端な集権化に抵抗した勢力には三国同盟戦争への反対を訴え、ラテンアメリカの連合を求めたフェリペ・バレーラ(英語版)などが存在する。1868年に大統領に就任した自由主義者のサルミエント(英語版)政権は、より自由主義的な経済政策や教育政策を成功に導き、ヨーロッパに倣った経済や社会の近代化が進んだが、反面土着文化の攻撃は激しさを増し、この時期に多くの黒人が出国してモンテビデオに向かうことになる。一方、パンパではいまだに敵対的インディヘナとの対立が続いていたが、1878年にロカ(英語版)将軍の指揮した砂漠の征服作戦(英語版)によってパンパからインディヘナが追いやられると、征服された土地は軍人や寡頭支配層の間で再分配され、より一層の大土地所有制拡大が進んだ。
1880年に正式にブエノスアイレスが国家の首都と定められ、首都問題が最終的に解決すると、このことが内政の安定につながり、外国資本と移民の流入が一気に加速した。これにより、イギリスの「非公式帝国」の一部として経済の従属化は進んだが、一方で農牧業を中心としたモノカルチャーによる奇跡と呼ばれるほどの経済発展も進んだ。こうしてヨーロッパからの大量の移民が「洪水」のようにブエノスアイレスになだれ込むと、それまではスペイン的で「偉大な田舎」に過ぎなかったブエノスアイレス市は、一挙にコスモポリタンな大都市の「南米のパリ」に転身し、1914年には実に国民の約30%が外国出身者となるほどであった。同時にこのころから、移民の流入や都市化以前のアルゼンチンを懐かしむ風潮が生まれ、1874年にはアルゼンチンの国民文学であるガウチョの叙事詩『マルティン・フィエロ(英語版)』が完成した。
また、この時期に生まれた中間層を基盤に、寡頭支配層の大地主の不正政治を改めて政治の民主化を求める声も強くなり、1890年の反政府反乱をきっかけに1891年には急進的人民同盟が組織され、これはのちの急進市民同盟(急進党)へと発展していった。また、1890年の反乱は政府証券を保有していたベアリングス銀行に損失を被らせ、結局1893年恐慌に発展させた。急進党は1905年の武装蜂起に失敗したが、この反乱を恐れた保守派のロケ・サエンス・ペーニャ(英語版)大統領は以降行政による選挙干渉をやめることを提案し、司法が行政に優越する新選挙法を成立させた。この選挙法が適用された1916年の選挙では急進党からイポリト・イリゴージェン大統領が選出され、寡頭支配が切り崩された。国民主義的な政策をもって政治に臨んだイリゴージェンは、第一次世界大戦を中立国として過ごした。
民主化の進展によって戦間期には政治も経済も安定に入り、イリゴージェンは1928年に再選され、アルゼンチンは1929年には世界第5位の富裕国となった。しかし、1929年の世界恐慌はアルゼンチンのモノカルチャー経済を襲い、政治は急速に不安定化した。
世界恐慌に対する対策を持たなかったイリゴージェンは、翌1930年に軍事クーデターで追放された。クーデターによって1930年に大統領に就任したウリブルはアルゼンチンにファシズム体制を築こうとしたが、この試みは失敗した。
ファシズム体制の失敗もあって1932年にフストが大統領に就任すると、伝統的な寡頭支配層の政治が復活した。1930年代には19世紀の不正選挙の伝統も復活し、1930年代は「忌まわしき10年間(英語版)」と形容された。
国際協調を旨としたフスト政権は1933年にイギリスとのロカ=ランシマン協定(英語版)で、アルゼンチンをイギリスのスターリング・ブロック(英語版)(Sterling bloc)に組み込んでもらうことに成功したが、見返りに多くの譲歩を強いられてアメリカ市場も失ってしまい、アルゼンチンはまるでイギリスの属国のような様相を呈するようになった。
このような潮流から次第に国民主義的な意識が国民の間に高まり、第二次世界大戦の最中にイギリスと戦う枢軸国への好意的な中立を標榜した統一将校団(英語版)(GOU)のフアン・ペロン大佐は徐々に人気を集め、ペロンは戦後1946年の選挙で大統領に就任した。なお第二次世界大戦はスペインやポルトガルなどと同じく中立国として生き永らえ、牛肉などの輸出で豊富な外貨を稼いだ。
大統領に就任したフアン・ペロンは、第二次世界大戦で得た莫大な外貨を梃子に工業化、鉄道などの国有化、労働者保護などの経済的積極国家政策を推し進めた。こうしたポプリスモ的な政策は当初成功したが、すぐに外資を使い果たしてしまい、さらにデスカミサードス(英語版)から聖母のように崇められていた妻エバ・ペロン(エビータ)が死去すると政策は傾きだしていった。
それまでもラ・プラタ市をエバ・ペロン市に改名するなどの個人崇拝を強要するような行為は批判を浴びていたが、1954年に離婚法を制定したことからカトリック教会との関係も破綻し、支持基盤の労働者からの失望が広まったこともあり、1955年の軍部保守派によるクーデター(リベルタドーラ革命(英語版))でペロンは亡命した。フアン・ペロンの失脚後、重工業化とモノカルチャー経済の産業構造転換に失敗したアルゼンチンの経済は下降期に入り、政治的にもペロニスタ(ペロン主義者)と軍部の対立が国家の混乱に拍車をかけた。1962年には急進党のフロンディシ(英語版)大統領が軍部のクーデターで失脚させられ、軍部が実権を握ったが、このときの軍事政権は長続きしなかった。
しかし、民政移管した急進党のイリア(英語版)大統領を追放した1966年のクーデター(英語版)(アルゼンチン革命)は様子が異なり、フアン・カルロス・オンガニーア(英語版)将軍はブラジル型の官僚主義的権威主義体制をアルゼンチンにも導入した。軍事政権は外資導入を基盤に衰退する経済を成長させようとしたが、軍事政権の厳しい統制に反対するペロニスタと軍部の戦いは激しさを増し、ペロニスタから生まれたモントネーロスやペロニスタ武装軍団をはじめとする都市ゲリラと軍部との抗争で多くの犠牲者が出るなど、さながら内戦の様相を呈していった。しかし、1969年にコルドバで起きたコルドバ暴動(英語版)(コルドバソ)を受けると軍事政権は穏健政策に転じ、テロの応酬を収めるためにペロニスタを議会に戻すことを決断した軍部は自由選挙を行った。
1973年のこの選挙では正義党(ペロン党)が勝利し、亡命先からフアン・ペロンが帰国して三たび大統領に就任した。しかし、ペロンは翌1974年に病死し、1974年に副大統領から世界初の女性大統領に昇格した妻のイサベル・ペロンは困難な政局を乗り切れないまま拙劣な政策を積み重ね、治安、経済ともに悪化の一途を辿った。
1976年3月にホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍がクーデター(アルゼンチン・クーデター(英語版))を起こしイサベル・ペロンをスペインに追い払い、再び官僚主義的権威主義体制(国家再編成プロセス)がアルゼンチンに生まれた。
ビデラ政権は1966年の軍事政権よりもさらに強い抑圧・弾圧を進め、周辺の軍事政権と協調した「汚い戦争」、コンドル作戦によりペロニスタや左翼を大弾圧したことで治安回復には成功したものの、ブラジル風に外資を導入して経済全体を拡大しようとした経済政策には大失敗し、天文学的なインフレーションを招いた。
軍事政権は行き詰まり、1982年に就任したガルティエリ大統領は、イギリスが1833年以来実効支配を続けているマルビナス諸島(英:フォークランド諸島)を奪還しようと軍を派遣して占領したが、当初うまくいくと思われたこの行動はサッチャー首相の決断によりフォークランド紛争(マルビナス戦争)に発展し、イギリスの反撃に遭って失敗した。建国以来初めての敗戦によって高まった国民の不満を受けたガルティエリ大統領は失脚し、軍事政権は崩壊した。しかし、この戦争はアルゼンチンとほかのラテンアメリカ諸国との絆を強め、ラテンアメリカの一員としてのアルゼンチンのアイデンティティのあり方に影響も与えた。
1983年に、大統領選挙と議会選挙が行われ、急進党が久々に政権に返り咲いた。大統領に就任したラウル・アルフォンシンは、軍政期からのインフレや対外債務問題、マルビナス戦争による国際的孤立などの厳しい政局の中、アウストラル計画に失敗し、経済面では成功を収めることができなかったものの、長年敵対関係が続いていたチリやブラジルとの関係を大幅に改善し、この融和路線はのちのメルコスール形成につながった。
また、アルフォンシンは軍政時代に人権侵害(投獄、拷問など)を行った軍人を裁き、軍の予算や人員、政治力を削減した。こうした政策に対して3度にわたる軍部の反乱もあったものの、アルフォンシンは結果として軍部を文民の統制下に置くことに成功した。アルフォンシンは任期を5か月残して1989年に辞任した。
1989年に就任した正義党(ペロン党)のカルロス・メネムは、1990年の湾岸戦争に南アメリカで唯一軍を派遣し、1991年には非同盟諸国首脳会議から脱退するなど、先進国との国際協調路線を標榜し、孤立していたアルゼンチンを国際社会に復帰させた。軍事面でもメネム時代には「汚い戦争」に携わった軍人の恩赦が認められた一方で、核軍縮や徴兵制の廃止など、軍部の権力の制限がさらに進んだ。
一方で経済面では、当初公約で掲げていたペロニスモ路線(社会民主主義)とは180度異なる新自由主義政策をとった。社会インフラや年金をも民営化した新自由主義政策は成功したかに見え、メネム特有のネオ・ポプリスモ政策と対ドルペッグ固定相場政策で長年の懸念だったインフレーションを抑制し、アルゼンチン経済を持ち直したかに見えたが、1997年ごろにはこの政策の無理が徐々に明らかになっていった。1999年の大統領選挙では急進党のフェルナンド・デ・ラ・ルアが勝利したが、すでに経済は危険な水準に達しており、IMFからの援助や公務員給与の削減なども効果はなく、最終的にはドルペッグ制の破綻をきっかけに、2001年にデ・ラ・ルアは債務不履行を決行した。なお、アルゼンチンはそれまでに6回の債務不履行(1827年、1890年、1951年、1956年、1982年、1989年)を経験しており、2001年の債務不履行は通算7回目となる。
アルゼンチン経済の崩壊後、アルゼンチンの世界的な評価は地に落ちた。政治面では大統領が次々と入れ替わる大混乱に陥り、社会的にもデモや暴動が多発する異常事態に陥った。しかし2003年に正義党左派から就任したネストル・キルチネルの下で、政治は安定を取り戻し、それまでの新自由主義、市場原理主義と決別した。富裕層優遇をやめ、国民の大多数を占めている貧困層を減らし、中間層へと移行させるなどより、公正な社会を目指す政策を実行した。経済的な再建も進んだ。
2007年10月、正義党からキルチネルの妻のクリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネルが、同国史上初の「選挙による」女性大統領に就任した。就任演説で「雇用と工業・輸出・農業を基礎とする新しい多様化した経済基盤」を構築すると述べた。2007年の経済成長率は8%を記録し、近年のアルゼンチンはリーマンショック以降の世界的不況とは裏腹に好調を維持していた。しかしアメリカ合衆国のヘッジファンドが、2001年におけるデフォルト時に債務削減に同意しなかった債権者から返還凍結中の債務を買い取り、全額支払いを求め2014年にアメリカ合衆国において訴訟を提起した。連邦最高裁判所はヘッジファンド側の訴えを認めた。アルゼンチン政府はヘッジファンド側との交渉を続けたが和解に漕ぎ着けず、防衛的措置として「計画的債務不履行」を決行した。
2015年11月の大統領選挙では、親米・新自由主義政策による経済復興を主張した中道右派のマウリシオ・マクリが勝利した。ルネル時代以前にとられていた格差縮小や富の再分配の重視といった社会主義的な政策よりも、国際金融資本・グローバル資本の利益を重視して経済成長を目指す新自由主義を中心とした政策へと回帰しつつあるとされた。しかしながら、緊縮財政により経済は崩壊しデフォルト危機になった。IMFの主導による社会保障削減策で国民への負担が重くのしかかる一方、マクリ大統領のパナマ文書での租税回避行為が暴露されたことで反政府デモが勃発した。
2019年の大統領選挙では左派のアルベルト・フェルナンデスがマクリ大統領を破って当選し、4年ぶりに左派政権が復活することになった。
新型コロナウイルスの感染拡大を理由に債務返済を停止。2020年5月22日、同日が期限だった約5億ドル相当の国債利払いが行われなかったことをもって、通算9回目のデフォルト(債務不履行)に陥った。
2023年8月25日には、アルゼンチンがサウジアラビアなどと共に2024年1月1日からBRICSに正式加盟することが決定した。アルゼンチンなどの6カ国共に加盟後も「BRICS」の名称に変更はないとされる。
大統領を元首とする連邦共和制国家であり、内閣、上下両院制の複数政党制議会を備える。大統領・副大統領ともに直接選挙で選ばれ、その任期は4年(かつては6年)。現職大統領の大統領選挙への再出馬(当選した場合は再選)は1回のみ認められている。
2007年10月の大統領選挙では、イサベル・ペロンに次ぐ同国2人目(選挙によるものでは初)の女性大統領、クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネルが誕生している。
2015年10月25日の大統領選挙(1回目の投票)では過半数の得票を獲得した候補者が現れず、翌11月22日に実施された上位2候補による決選投票の結果、「共和国の提案」「急進市民同盟」(以下、急進党)らが推す保守系のマウリシオ・マクリが当選した。ただし、大統領選(1回目)と同日に行われた議会選挙(上院の3分の1と下院の約2分の1を改選)では正義党が引き続き比較第一党の座を上下両院で維持したため、連立3党(急進党系の地域政党を含めると4党)は議会内では少数派となる。
大統領と内閣は行政権を行使し、内閣首席大臣(Jefe de Gabinete de Ministros)を含む内閣の大臣は大統領によって任命される。大統領による職務執行が一時的(療養など)または永続的(弾劾・辞任・死去に伴う欠位が発生した場合)に困難となったときは副大統領がそれを代行、もしくは大統領に昇格する。
内閣首席大臣(官房長官と和訳される場合も)職は、閣内の意見集約に加え、行政(中央政府)の代表者として立法(議会)および地方政府(連邦構成州・各種自治体)との渉外・調整も担当する。韓国における国務総理(首相)職に類似しているが、アルゼンチンでは副大統領が正職欠位時の代行者であると憲法で既定されているため、その権限はより限られたものとなっている。
下院の与党系会派から選出される場合が多いが、必須条件とはなっておらず、カピタニッチ(上院議員・州知事などを歴任)や経済学者のコロンボ(国立銀行総裁を経てルア政権2人目の首席大臣に就任)のように、非下院系および民間からの起用事例も存在する。
他の大臣職同様、議会に対しては責任を負わないため、仮に議会内で与党が少数派に転落しても野党側から首相を選ぶ義務はなく、所属勢力の異なる大統領と首相が併存する、いわゆる「ねじれ現象」は発生しないが、逆転の度合いによっては大統領の求心力が低下し、政情流動化の原因となる可能性はある。
急進党のラウル・アルフォンシンが政権を担当していた80年代後半ごろより首相制導入論(権限の一部を首相に移譲することで大統領を激務から解放するのがその趣旨)は存在していたが、構想が具体化したのは正義党(ペロン党)出身のカルロス・メネムに政権が引き継がれてからである。1994年に議会を通過、大統領の署名により成立した憲法改正案には、首相ポストの追設のほか、大統領任期の6年から4年への短縮と再選禁止条項の撤廃が含まれていた。施行直後に実施された大統領選挙(1995年5月)ではメネムが再選を果たし、翌々月の組閣でエドワルド・バウサを初代首相に任命した。
旧正義党政権(左派)を率いたキルチネル夫妻からの信任が厚く、ネストル・キルチネル政権ではネストルの大統領就任から退任まで、クリスティーナ・キルチネル政権でも再任(成立を目指していた輸出税関連の法案が上院で否決されたことなどを理由に中途辞任)されているアルベルト・フェルナンデス元内閣首席大臣の約5年2か月(2003年5月 - 2007年12月、2007年12月 - 2008年7月)を除くと、内閣首席大臣の平均的な在任期間は現在2年前後となっているが、経済が混乱を極めていた2000年代の初頭には短命の内閣が続き、現政権党(共和国の提案)の総裁・ウンベルト・チャボニの首相在任期間はわずか4日となっている。11年ぶりに内閣首席大臣職に復帰したホルヘ・カピタニッチ元首相(2013年11月 - )も、1度目(エドワルド・ドゥアルデを大統領代理とする暫定政権)の在任期間は約4か月(2002年1月 - 2002年5月)であった。
2015年12月に発足した現連立内閣では、内閣首席大臣を含む全21の大臣ポスト中、政権党の「共和国の提案」に首相・外相など10ポスト、与党第一党の「急進党」(国会の議席数では政権党を上回るため)に防衛・通信など4ポスト、「市民連合」には蔵相・公安の2ポストがそれぞれ割り当てられ、残りの5名は民間などからの起用となった。
立法権は国民議会(下院)と元老院(上院)に属し、国民議会は定数257人(任期4年)、元老院は定数72人(任期6年)である。下院では2年ごとに約半数の議席が、上院も同じく2年ごとに3分の1の議席がそれぞれ改選される。
下院の議席がドント方式によって比例配分(各州および首都圏を1選挙区とみなし、定数は選挙区ごとに異なる)されているのに対し、上院では、各州および首都圏にそれぞれ一律で3つの議席が割り当てられており、最大の得票を獲得した政党に3分の2(2議席)が、次点の政党に3分の1(1議席)がそれぞれ付与される仕組みになっている。
下院の議員総数(各選挙区の定数)は、10年ごとに行われる国勢調査の結果に応じて見直される。
2年周期で勢力図が更新されるたびに両院の正副議長ポストの顔ぶれも変わる。下院の議長は政権党会派から選出され、3名の副議長は政権党を除く上位3会派に割り当てられる。上院では、現職の副大統領が議長職を兼任し、上院仮議長及び3名の副議長は下院同様、政権党以外の上位3会派からの選出となる。
司法権は国家最高司法裁判所に属し、行政、立法から独立している。
議会における比較第一党である野党「正義党」(統一会派「勝利戦線」の基軸政党)のほか、連立関係にある「急進党」(比較第二党・与党第一党)と「共和国の提案」(現政権で正副大統領・首席大臣・上下両院の議長を輩出している保守政党)、「市民連合」、正義党より分派した保守系の「新たなる選択のための連合」、穏健左派の「拡大進歩戦線」(社会党系の連合体)、「統一」(急進党の分派を含むリベラル勢力)、「左翼労働戦線」(トロツキズム的な極左政党)、5議席未満の地域政党らが国会に議席を有している。
正義・急進両党によって政界の勢力図が二分されていた時期には、首都圏を中心に「中道民主連合」(1982年に故アルバロ・アルソガライが結成した穏健的な保守政党。以下、中民連)が一定の存在感を有していたが、事実上の与党として旧メネム政権(正義党)と協力関係に入った90年代より党勢が徐々に低迷した。2009年1月、過去2回の選挙で2%以上の得票率を獲得することができなかった同党は、司法判断によりブエノスアイレス州での政党資格が剥奪され、同年3月には、党の2007年度版収支報告書に不備があったことを理由に、政党助成金の給付も停止された。なお、前政権で副大統領を務めていたアマド・ボウドウは国政レベルの現役政治家では唯一の中民連出身者である。
相次ぐ国軍の反乱などや度重なるデフォルトなどに見られるように、歴史上「中進国」とされてきた国々の中ではもっとも政情の安定していない国のひとつであり、この政情不安定さは1983年の民政移管後の失政や、2001年11月の経済破綻など、一連の経済不安や現在の極度に拡大した貧富格差の元凶とされている。この不安定さを国民統合が成功していない(国民全体に受け入れられる国民文化が成立していない)ことに求める言説は多い。
2009年3月26日、上院は10月に予定されていた上・下両院の中間選挙を6月28日に行う法案を可決した。クリスティーナ・キルチネル前大統領は国際金融危機に対応する必要から議会選挙の前倒しを提案していた。
2012年4月16日、政府はレプソル傘下のアルゼンチン最大の石油会社YPFの株式の過半数にあたる51%を取得し、同社の経営権を取得する方針を明らかにした。
2023年11月19日(日本時間11月20日)行われた大統領選決選投票にて、ハビエル・ミレイ候補の当選が発表された。
アルゼンチン軍は国防大臣によって指揮され、大統領が最高指揮官を兼ねる。兵制は志願兵制を採用している。軍隊は陸海空の三軍のほかに国家憲兵隊から構成される。歴史的にアルゼンチン軍はチリやブラジルとの軍拡競争の結果もあり、ラテンアメリカでもっともよく整備された軍隊だった。
アルゼンチンはブラジルと同じように建国以来軍部の力が強く、クーデターが日常的に起きる不安定な国だった。1970年代のクーデター以降、アルゼンチン軍は都市ゲリラ排除のために国内で『汚い戦争』に従事し、8,000人とも3万人ともいわれる市民の犠牲者を出しており、これは現在でも五月広場の母の会などの訴えにより問題となっている。しかし、建国以来初の敗戦となったマルビナス戦争により軍の威信は落ち、民政移管後の1983年に長らく第一の仮想敵国だったチリとも国境線が確定され、核計画やアメリカ合衆国の肝煎りで進められていたミサイル計画が放棄されると軍は大幅に削減され、その後のいくつかの反乱計画も未然に終わるなど現在は政治力を減らしている。敗戦の結果から徴兵制を敷いていない国でもあるが、一部で復活を求める意見もある。
アルゼンチン陸軍 (Ejército Argentino)は兵員4万1,400人からなる。軍団3。空挺旅団1、機械化旅団1などを擁し、装備品はTAM200両、軽戦車150両。地対空ミサイルはタイガーキャットなど。
アルゼンチン陸軍は現在PKOのため、ハイチとキプロスに派遣されている。
アルゼンチン海軍 (Armada de la República Argentina (ARA)) は兵員1万7,200人からなる。8基地。潜水艦3隻、駆逐艦6隻、フリゲート7隻、航空隊作戦機21機、武装ヘリ14機、フランス製シュペルエタンダール11機、エグゾセ空対艦ミサイルなど。艦艇についてはアルゼンチン海軍艦艇一覧を参照のこと。20世紀初頭に起きた日露戦争の際には、編入される予定だったイタリア製装甲巡洋艦二隻(日進 (装甲巡洋艦)、春日 (装甲巡洋艦))を日本海軍に売却譲渡し、日露戦争の勝利に貢献したという歴史的関わりを持つ。
アルゼンチン空軍 (Fuerza Aérea Argentina)は兵員1万2,500人からなる。航空旅団8など。作戦機133機、武装ヘリ27機、戦闘機はA-4スカイホークなど。
2001年の債務不履行以来、アルゼンチンは諸外国に大きく不信感を持たれ、1982年のマルビナス戦争以来の国際的な孤立に陥ったが、現在は債務の返済などを軸に国際社会への復帰が進められている。アルゼンチンは南極条約締結国であるが、南極の領有権を主張している(アルゼンチン領南極)。またアルゼンチンは、フォークランド紛争に敗北したのちもなおイギリスが実効支配するマルビナス諸島の領有権も主張している。2007年12月、クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル大統領は、多国間主義とテロ根絶を強調した。
戦前はイギリスに周辺国化され半ば属国のような様相を呈していながらも、輸出で蓄えた経済力を背景に、スペイン語圏を代表する国家として旧宗主国スペインをしのぐ勢いで権勢を誇っていた。北米において似たような立場にあったアメリカ合衆国をライバル視し、同国がモンロー主義のもとで中南米を勢力圏に入れようとしていたのに対し、ヨーロッパ諸国を重視する独自外交のもとでアメリカ合衆国とは距離を置き、常にほかのラテンアメリカ諸国とは一線を画していた。
ビーグル水道で領土問題を抱えていたチリとは伝統的に関係が悪く、第二次大戦後は何度か戦争直前にまで陥ったこともあった。1984年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(フアン・パブロ2世)の仲介により、アルゼンチンが係争地のピクトン島・レノックス島・ヌエバ島のチリ帰属を認め、領土問題において妥協することにより友好関係が確立された。しかしその後、2004年に事前に連絡なくチリへの天然ガスの輸送を停止してしまったことが大きな外交問題となった。
アルゼンチンの最大のライバルは隣の大国ブラジルであり、オリンピックやサッカーの大会があるたび互いに強烈な対抗意識を持って争っていたが、ラウル・アルフォンシンの融和政策が功を奏して両者ともメルコスールに加盟するなどの経済統合が進んでいる。以上のような事情により、現在のアルゼンチンはブラジルを軸としたラテンアメリカ統合を受容し、その主要国として影響力を保っている。また対外政策では一線を画しながらも、石油や天然ガスなどの資源を背景にベネズエラの歴代政権との友好関係が続いている。
ヨーロッパとの関係も重要であり、もっとも関係のよい国家はスペインである。言語が共通するために多くのラテンアメリカ人がスペインに出稼ぎ、移民として居住しているが、アルゼンチンもその例外ではなく多くのアルゼンチン人が移住している。
アルゼンチンは23の州(provincia)と1つの自治市(Ciudad Autónoma)*からなる。
ほかにイギリス領のマルビナス諸島の領有権を主張している。国土統一直後の1853年に首都令があったものの、ブエノスアイレスは1880年までは正式な首都ではなかった。
各州は州内でさらに小さな行政単位に分割され、県(departomentos)は合計376県にもなる。ブエノスアイレス州は県に類似した134ものpartidosに分割される。departomentos・partidosともに市町村や地域の中から分割された区分である。
アルゼンチンは北西部のアンデス山脈周辺から開発が進められたが、独立後は歴史的に外港がブエノスアイレスしか存在しなかったことを反映して、19世紀、20世紀を通して内陸部の開発は進まず、現在も極端なブエノスアイレス一極集中である。1980年代のアルフォンシン時代に、パタゴニアのリオ・ネグロ州州都ビエドマへの遷都計画もあったが、結局実行されないまま計画は凍結された。
2005年におけるアルゼンチンの14の大都市圏
アルゼンチンの国土は、南北に3,500キロ以上の長さに及ぶ、ブラジルについで南米で2番目に大きい国で、面積は全体で276万6,890km2になり、陸地のみでは273万6,690km2に、水域のみでは3万200km2に及ぶ。
アルゼンチンでもっとも標高が高いのはメンドーサ州のアコンカグア山(6,962メートル)であり、これは米州と西半球全体でもっとも高い山でもある。反対にもっとも標高が低いのはサンタ・クルス州のカルボン湖であり、海抜マイナス105メートルは南アメリカ大陸全体でももっとも低い。国土の中心はラ・パンパ州の南西である。
アルゼンチンは、中華人民共和国と、北部の一部は中華民国(台湾)、南部の一部はモンゴル国やロシア(シベリア)の対蹠地である。
アルゼンチンは1904年から南極大陸の領有権を主張している。イギリスが実効支配しているマルビナス諸島の領有権も主張している。
アルゼンチンは伝統的にいくつかの地理的な区分に分けられる。北は亜熱帯に属し、熱帯雨林が形成されている。西にアンデス山脈、東にはパンパと呼ばれる大草原が広がる。パンパは国土の約25%を占める。ウルグアイ川とパラナ川に挟まれた地方は、メソポタミア地方でパンパと同じく草原地帯である。南緯40度付近に位置するコロラド川以南をパタゴニア地方と呼び、荒涼たる砂漠が広がっている。
パンパは国土の約25%を占め、アルゼンチンの富の多くを生み出している。ブエノスアイレスの西と南に広がる草原は湿潤パンパ(スペイン語版、英語版)と呼ばれ、ブエノスアイレス州とコルドバ州のほぼすべてと、サンタフェ州とラ・パンパ州の大部分を占める。ラ・パンパ州の西部は半乾燥パンパ(スペイン語版、英語版)になっている。
湿潤パンパ(スペイン語版、英語版)は年間降水量が750ミリ以上で、アルファルファ(マメ科・栄養があり、土地を豊かにする牧草)・トウモロコシなどを栽培し、牧牛をしている。半乾燥パンパ(スペイン語版、英語版)は年間降水量が550ミリ以下で乾燥に強い牧羊をしている。移行地帯では小麦(年間降水量が550 - 750ミリが適当)の栽培をしている。
コルドバ州西部のコルドバ山脈はサン・ルイス州まで延び、パンパの中ではもっとも重要な地域となっている。パンパとパタゴニアの境界線は、かつてはコロラド川だったが、現在はネグロ川となっている。
グラン・チャコ地方はアルゼンチン北部に位置し、雨季と乾季がはっきりと分かれ、おもに綿花の栽培や家畜の飼育が盛んである。こうした地域はチャコ州とフォルモサ州の大部分を占める。植生としては亜熱帯雨林や低木林地や湿地帯が点在し、多くの動植物が生息する。サンティアゴ・デル・エステロ州はグラン・チャコの中でもっとも乾燥した地域である。
パラナ川とウルグアイ川に囲まれた地域はメソポタミア地方と呼ばれ、ミシオネス州、コリエンテス州とエントレ・リオス州が属する。かつてはグアラニー人が多く住んでいた土地で、文化的にはパラグアイやウルグアイに近く、牧草地や植物の育ちやすい平坦な土地が特徴であり、コリエンテス州中部にイベラ湿地(英語版)が存在する。ミシオネス州はより熱帯に近く地理的にはブラジル高原に属し、イグアスの滝と亜熱帯雨林が特徴である。
ネウケン州、リオ・ネグロ州、チュブ州、サンタ・クルス州にまたがるパタゴニアのステップは先住民の地域である。多くの地域では雨が少なく、北は寒くて南は不毛の地であるが、西部の周辺には森林があり、後述するようにいくつかの大きい湖も点在する。ティエラ・デル・フエゴ州は寒く湿っており、大西洋からの海流の影響で多少は過ごしやすい。パタゴニア北部(ネグロ川以南のリオ・ネグロ州とネウケン州)はコマウエ地域と呼ばれることがある。
アルゼンチン中西部はそびえるアンデス山脈に支配されている。同地域の東部は乾燥したクージョ地域として知られており、クージョ(Cuyo)という名前もマプーチェ語で「砂地」という意味の言葉からきているとされている。高山から溶けてきた水は低地のオアシスの灌漑用水となり、メンドーサ州とサン・フアン州を豊かな果実とワインの生産の中心としている。さらに北の地域、ラ・リオハ州などは地理的な理由でより暑く、乾燥した地域になる。
北西部地域はアルゼンチンでもっとも海抜の高い地域であり、6,000メートルを超えるいくつかの平行なアンデス山脈が領域を貫いている。これらの山脈は北方に向かって延びており、それらは肥沃な流域によって分断され、その中でももっとも重要な渓谷はカタマルカ州、トゥクマン州、サルタ州に広がるカルチャキ渓谷(スペイン語版、英語版)である。フフイ州北部のボリビア国境付近からは、中央アンデスのアルティプラーノ高原が広がる。
国土西部を南北にアンデス山脈が貫き、アルゼンチンの山地や国内最高峰のアコンカグアをはじめとする高山の多くはこの地域に集中する。コルドバ州の西部にもコルドバ山脈が存在するが、標高はあまり高くない。
アルゼンチンの主要な河川はピルコマジョ川、パラグアイ川、ベルメホ川、 コロラド川、ネグロ川、サラド川、ウルグアイ川などであり、国内最長の河川はブラジルから流れるパラナ川である。ウルグアイ川とパラナ川は大西洋に流れ出る前に合流し、ラ・プラタ川の河口を形成する。各地域ごとに重要な河川としてはアトゥエル川(スペイン語版、英語版)、メンドーサ州と同名のメンドーサ川、パタゴニアのチュブ川、フフイ州のリオ・グランデ川(スペイン語版)、サルタ州のサン・フランシスコ川(スペイン語版)などがある。
パタゴニアを中心にいくつかの大きな湖が存在する。アルヘンティーノ湖とビエドマ湖がサンタ・クルス州に、ナウエル・ウアピ湖がリオ・ネグロ州に、ファグナーノ湖がティエラ・デル・フエゴ州に、コルウエ・ウアピ湖とムステル湖がチュブ州に、ブエノスアイレス湖とサン・マルティン湖はチリとの国境を形成している。国内でもっとも大きい塩湖はマール・チキータである。アルゼンチンの多数の貯水池がダムによって作られている。エントレ・リオス州にはテルマス・デ・リオ・オンドなど、水温は30°Cから65°Cの温泉があり、川を挟んで対岸のウルグアイ北部にも温泉がある。
アルゼンチンは4,665キロの海岸線を有している。大陸の上陸可能地点は非常に広く、アルゼンチンではこの広大な大西洋の浅瀬はアルゼンチン海と呼ばれる。海中には多くの魚が住み、炭化水素エネルギー資源を保有していると予想されている。アルゼンチンの沿岸は砂丘と崖に挟まれている。沿岸に影響を及ぼしている2つの海流のうち、暖流はブラジル海流であり、寒流はフォークランド海流(スペイン語では大西洋海流、もしくはマルビナス海流)である。沿岸の大地では不規則な形状のため、2つの海流は気候に対して相互に影響し、高緯度地方においても気温を下げさせない。ティエラ・デル・フエゴの南端はドレーク海峡の北岸を構成している。
アルゼンチンにはマルティン・ガルシア島という飛地がある。パラナ川とウルグアイ川の合流点付近に存在し、約1キロほどウルグアイの水域に入っており、3.5キロほど離れたウルグアイの沿岸にはマルティン・チコ(ヌエバ・パルミラとコロニア・デル・サクラメントの中間)が存在する。
一世紀にわたる両国紛糾の末に、アルゼンチンとウルグアイは1973年に島の管理権について合意に達した。協定に従って、マルティン・ガルシアは排他的自然保護区として用いられることとなった。面積は約2kmであり、住民は約200人である。
地域によって大きく異なるが、亜熱帯、温帯、乾燥帯、寒帯の4つに大別される。北部は非常に蒸し暑い夏と、穏やかで乾いた冬があり、周期的に旱魃に見舞われる。アルゼンチン中部では雷を伴う大嵐(西部では世界でもっとも多くの雹が降る)のある暑い夏と、涼しい冬がある。南部は暖かい夏と、特に山岳地帯では豪雪に見舞われる寒い冬がある。すべての緯度の地域において、標高の高い地点では冷たい気候となる。
南米における観測史上での最高気温と最低気温はともにアルゼンチンで観測された。最高気温の49.1°Cは1920年1月20日にコルドバ州のビジャ・デ・マリアで記録された。最低気温の-39°Cは1972年7月17日にサン・フアン州のビジャ・デ・ロス・パトース・スペリオールで記録された。
IMFの統計によると、2018年のアルゼンチンのGDPは約5,194億ドルと世界21位であり、南米ではブラジルに次ぐ2位である。一人当たりのGDPは1万1658ドルで、こちらはウルグアイ、チリに次いで南米3位である。アルゼンチンはメルコスール、南米共同体の加盟国である。
アルゼンチンでは幅広い産業が行われている。農産物は、主要輸出品目は小麦、トウモロコシ、牛肉、ワインなどに加え、2000年代以降は大豆の生産も盛んになっている。2019/2020年度時点で大豆の生産量がブラジル、アメリカに次いで3位の約13%を占めており、大豆輸出量世界第4位である。トウモロコシの生産量はアメリカ、中国、ブラジルに次いで4位。その他にも小麦、ヒマワリ油、グレーンソルガムなどがある。アルゼンチンは牛肉の生産量が2020年度世界4位で、国内消費も肉類の中では最多である。ただし、同年、豚肉や鶏肉の消費量も増加傾向にある。2020年の1人当たり年間豚肉消費量は10年前と比較して77%増であった。アルゼンチンは世界第8位の国土面積を持つ。その広大な土地を活かし、チリ近郊では鉱業が盛んである。鉱業生産は、パタゴニアの石油と、近年は天然ガスも有望視されている。また、2010年代以降、カタマルカ州やフフイ州の塩湖がリチウムの生産源として注目されている。しかし、水質汚染、先住民の人権侵害、開発に関する事前協議がないことなどの環境保護活動が活発なため、開発が不十分である。アルゼンチン国内にフォード、GM、トヨタなど完成車メーカー10社が自動車を生産している。主に国内農業で使用されるピックアップトラックや多目的車が製造されている。2020年に新型コロナウイルスの影響でバス・トラックを除く自動車生産台数は2004年以降初めての30万台を下回った。
2度の世界大戦にいずれも直接関与せず、各国への農畜産品の輸出により大きな利益を得た20世紀半ばまでは、世界有数の富裕国であった。第二次世界大戦後、国民主義志向のフアン・ペロン政権は、保護主義的な工業化偏重政策をとるが、産業構造の転換に成功せず、次第に経済が低迷した。ペロン以降顕著になった、福祉のための放漫財政や、彼の残した労働組合(CGT)の強さにより、投資のしづらい国となり、1960年代以降に頻発した政変に加え、1982年のフォークランド紛争とその敗北、民政移管後も長年の放漫財政のツケや敗戦のショックの影響で混迷する経済状況に安易なポプリスモで対処したため、累積債務は雪だるま式に増えていった。特に1988年から1989年の間には5,000%というハイパーインフレーションを記録、物品の価値は1年間で50倍に跳ね上がり、ペソは紙屑同然と化し、経済は崩壊状態となった。結局、アルゼンチンは1989年に対外債務のデフォルトを宣言した。この間の混迷による富裕層の没落、中産階級の海外流出が続くなど、経済は混迷の度を深めた。
その後、1988年から親米・親IMF路線を掲げたカルロス・メネム政権の新自由主義路線により、1990年代には年率9%にも達する経済成長を遂げるなど、一時的に回復した。しかし、1999年に起きたブラジルのレアル切り下げでペソが相対的に高くなり、輸出競争力を喪失、国際収支は悪化した。結果的に通貨危機(ペソの対米ドルペッグ制崩壊)により完全に暗転、2001年11月14日には国債をはじめとした債務のデフォルトを宣言する事態に陥り、経済が再び破綻。国際的な信用や評価は地に落ちた(アルゼンチン通貨危機)。
2度目のデフォルトにより国内の貧困も拡大し、1980年代に国民の約60%を占めていた中間層は、2005年には国民の約20%となり、他方貧困率は2002年には53%に達し、イタリアやスペインに職を求め大量の国民が流出、その中には医者・弁護士などの知識層も少なくなかった。かつてラテンアメリカで比類なき中流層の国であり、「南米の指導者」としての影響力も備えていたアルゼンチンは没落し、政経両面でチリやブラジルに抜かれる形となった。
このようにペロン政権以来、一貫した経済政策がとられなかったツケが回り、21世紀に入って早々に経済が破綻してしまったものの、2002年に変動相場制を導入し、通貨安のために輸出が拡大してからは持ち直し始め、2003年に就任したネストル・キルチネル政権は、IMFの干渉を排除するため、100億ドル近い債務を完済し、2000年末の経済破綻直後の失業率24%を、2006年5月には11.4%にまで改善した。さらに、2003年から2007年まで平均約8%の高成長を続け、2006年7月9日の独立190年記念式典でキルチネルは「われわれはIMFにチャオ(さよなら)を告げた」と演説するなど、経済危機から立ち直りつつあった。しかし、再び対外債務率が上昇、2010年には債務額を大幅にカットする形で債務交換を強行して9割以上の債務を再編、アメリカ合衆国との国際問題に発展した。
現在はメルコスール加盟国であることにより、南米諸国との経済交流の活発化による諸外国からの投資の増大に、経済の復活を賭けている。特にブラジル、ベネズエラとは政治面でも関係を深め、ベネズエラからの南米大陸縦断天然ガス輸送管の設立も計画している。アルゼンチンは一向に回復しない内需、および内需不振の主要な一因である人口の3〜4割に達する貧困層の存在など課題が山積している中で、これらを解消しつつ、どのようにして競争力のある新しい産業を育てるか、あるいは国内の法制度、政治文化などの歪みからくる投資リスクをいかに下げるかなどにかかっている。
2020年12月3日、アルゼンチン・カトリック大学の社会負債調査研究所が調査結果を公表し、貧困層が人口全体の44.2%(前年同期は40.8%で3.4ポイント増)に達していること、失業率は14.2%(前年同期は10.6%で3.6ポイント増)に悪化していることが示され、景気低迷に加えて新型コロナウイルス感染症の世界的流行の影響が指摘されている。2022年10月には、世界的な物価高騰の影響を受け、物価上昇率は前年同月比+88.0%になっており、年末には100%に達するとの予測が出されている。貧困率は、2022年上半期には36.5%に達した。
アルゼンチンの2021年の名目GDP(国内総生産)は4,867億ドル、実質GDP(国内総生産)は5,681億ドルである。これは、2021年世界の名目GDPランキングの29位である。2021年のGDP成長率は、前年比10.4%と2017年以来4年ぶりのプラス成長となった。
2021年の貿易収支は黒字で、輸出額は前年比42.0%増の779億3,400万ドル、輸入額は49.2%増の631億8,400万ドルである。
アルゼンチンの主要な輸出相手地域・国は、ブラジル (15.1%)、EU27 (12.7%)、中国 (8.1%) である。一方、アルゼンチンの主要な輸入相手国は、中国 (21.4%) 、ブラジル (19.6%) 、米国 (9.3%) であり、自動車及び同部品、燃料(ガス、軽油など)を主に輸入している。
2021年度全期の日本からアルゼンチンへの輸出額は、前年度比54.6%増の988億円で、自動車及び部品を主に輸出している。日本のアルゼンチンからの輸入額は、前年度全期額の約2.3倍の1,157億円で、トウモロコシ、大豆などの穀物、大豆油かすなどの食品加工品を輸入している。(前年度は新型コロナウイルスの感染拡大で経済が停滞した。)
日本は、アルゼンチンの輸出相手国として28位、輸入相手国としては11位である。
アルゼンチンのインフラは他のラテンアメリカ諸国に比べると良好である。約21万5,471キロの道路網と734キロの高速道路があり、その多くが民営化された。多車線の幹線道路は現在いくつかの主要都市を結び、さらに現在工事中である。
アルゼンチンの鉄道網は総延長3万1,000キロ以上である。ブエノスアイレスの地下鉄(Subte、スブテ)はスペイン語圏、ラテンアメリカ、南半球全域の中でもっとも早く建設された。
アルゼンチンには約3,000キロに及ぶ水路があり、多くはラ・プラタ川、パラナ川、ウルグアイ川、ネグロ川、パラグアイ川を通行する。
アルゼンチンの国民はヨーロッパ系が85%、メスティーソおよびインディヘナなどが15%である。もっともヨーロッパ系アルゼンチン人の占める比率は89.7%から97%と資料によって大きな差があり、近年の研究では実はアルゼンチン国民の56%に先住民の血が流れていることが明らかになっており、自らを白人だと認識しているアルゼンチン人の過半数に、実は先住民の血が流れていることになる。
ヨーロッパ系アルゼンチン人にはイタリア系、スペイン系、ドイツ系の住民が多く、中でもイタリア系が一番多い。このイタリア系統の荒い言葉遣いが現在のアルゼンチン人全体の性格に受け継がれているため、アルゼンチンのスペイン語にはイタリア語のナポリ方言の影響が強く見られる。イタリア移民が多いので第二のイタリアと認識されることもあった。
アルゼンチン人はしばしば「燃えたぎるような愛国者」と形容され、自国への批判に異常に敏感であるが、その一方で概して国を批判する傾向がある。強烈な個人主義者としても知られ、「ビベサ・クリオージャ」と呼ばれるクリオージョ的な人を出し抜く抜け目のなさと、アミーゴと家族以外の非人間的な政府や社会といった組織は信用できないという心性からくる、人を出し抜くような行為によって不快な思いをさせられ、アルゼンチン人はアミーゴ以外には不親切であるという人間も出るのである。これはアルゼンチン人が国家に代表される抽象的なものよりも、友情といった具体的な対象への強く忠誠を抱くことの裏返しでもある。
ペルーの文学者、マリオ・バルガス・リョサは「アルゼンチンの誇り高さは病癖であり、ほかのラテンアメリカ諸国から批判されても仕方がない」と述べた。アルゼンチン人は自国を選良であると思ってきたが、こうした優越感と劣等感はその選良意識の裏返しであり、強い愛国心の称揚の一方で行われる自国への強烈な批判は、国家が自分に十分な誇りをもたせてくれるには足りない存在であることの裏返しである。こうしたことの起きる原因としては、19世紀半ば以来の自由主義化、ヨーロッパ化がアルゼンチン国民全体に受け入れられるような国民文化を育てることができなかったためだといわれている。ただしガウチョのような例外もあり、アルゼンチン人はガウチョであることを誇る。
五月革命が起きた1810年に70万人だった人口は、ウルキーサがロサスを打倒した直後の1853年には90万人となり、その時点では純粋な白人は6万人ほどで残りはメスティーソや黒人やインディヘナだった。
カセーロス以降自由主義者の政権はヨーロッパから移民を大量導入すると、アルゼンチンの人口は増加し、1869年の初の公的な人口調査では約175万7,000人だった。その後、1900年には454万3,000人、1930年には1,200万5,000人、1940年には1,416万9,000人、1950年には約1,709万人、1960年センサスでは2,006万5,691人、1975年には約2,538万人、1983年年央推計では約2,963万人となった。2005年の見積もりによると、人口は3,874万7,000人と推測され、これは南米大陸の国家で3番目に多い。
2005年度の人口密度は1km2あたり14人になるが、人口は均衡を持って配分されているわけではなく、特にブエノスアイレス市周辺に集中しており、ブエノスアイレス市では人口密度が1万4,000人/km2になるのに対して、パタゴニアの最南部のサンタ・クルス州では1人/km2以下となる。アルゼンチンは南米で唯一純粋な移民の増加率が0.4%を超える国である。
2021年現在では4527.7万人になっている。
19世紀半ばの国家の西欧化=白人化を望んだ自由主義者が勝利し、1853年憲法の第25条や、1876年の移民法の制定によってヨーロッパ移民が大量導入されると、次第に都市からは黒人が、パンパからはインディヘナやガウチョが姿を消し、以降アルゼンチンは白人国家であることを誇り、アイデンティティにするようになった。
20世紀に入ってからマイノリティが特にブエノスアイレスで目立たない存在になると、自らをヨーロッパになぞらえて、(ヨーロッパから見れば)「文化のない」アメリカ合衆国や、人種的優越感やラテンアメリカ一の経済大国であったことによる自信により、ラテンアメリカ諸国を見下す傾向と、ラテンアメリカとの連帯よりもヨーロッパとのつながりを重視する傾向があり、折からのアルゼンチンの経済的な発展への羨望とあいまって、同国がラテンアメリカ諸国から嫌われる大きな原因となった。 純粋な南欧系と比較すると小柄で、風貌も若干異なる人が少なくないことから、先住民系の血も少なからず受け継がれていることがわかるが、それでも現在のところアルゼンチン人の主要意識は白人国家、南米のヨーロッパであることに変わりはない。ただし、マルビナス戦争でヨーロッパ(EC)と敵対し、反対にラテンアメリカ諸国の支援を受けたことから、状況は多少変わってきている。
1837年の世代や1880年の世代に代表される19世紀の自由主義者はアングロ・サクソン移民を多く招いてアルゼンチンを非ラテン化したかったようだが、現実的に1871年から1913年までに定着した317万人のヨーロッパ移民としてはイタリア人(イタリア系アルゼンチン人)、スペイン人が特に多かった。その他にはフランス人、ロシア人、ドイツ人、オーストリア人、イングランド人、ウェールズ人、クロアチア人、ポーランド人、ポルトガル人、スイス人、ベルギー人、アイルランド人などが続き、ロシア系はほとんどがアシュケナジムだった。そのほかにはレバノン、シリアから移民したアラブ人(アラブ系アルゼンチン人)やブラジルなどから再移住した日本人(日系アルゼンチン人)、スペイン内戦の共和派の亡命者や、第二次大戦前にナチスに追われて逃げてきたドイツからのユダヤ人、そして戦後ナチスの残党として亡命してきたドイツ人などがいる。
おもなマイノリティとしてパラグアイ、ボリビア、ペルーなどから出稼ぎにきた移民がいるほか、メスティーソ、ユダヤ人、アフリカ系アルゼンチン人、アジア系アルゼンチン人がおり、先住民としてアンデスにケチュア人とアイマラ人、パタゴニアにマプーチェ人やテウエルチェ人などがいる。19世紀後半までネグロ川北部に20万人ほどいたパンパの狩猟遊牧インディヘナは、1878年に開始されたフリオ・アルヘンティーノ・ロカ(英語版)将軍の砂漠の征服作戦(英語版)により2万人にまで減少し、以後パンパからはほとんどいなくなった。現在のインディヘナの総人口は42万人になっている。
アラブ系のコミュニティもあり、コミュニティからはカルロス・メネム大統領を出している。大部分のアラブ系アルゼンチン人はカトリック教会か正教、東方典礼カトリック教会などを信仰している。アジア系アルゼンチン人は日系、中国系、韓国系、ベトナム系などを合わせて13万人を超える。
ユダヤ人はヨーロッパからのアシュケナジムがほとんどだが、シリアからのセファルディムも15 - 20%ほどいる(詳細はユダヤ系アルゼンチン人を参照)。経済的にユダヤ系の力が強いため、アルゼンチン社会、特に軍部の反ユダヤ主義は根強く、軍事政権下では「汚い戦争」の中で、ユダヤ人がイスラエルの兵器で弾圧されるという矛盾も起きた。アルゼンチンへのユダヤ人移民は、モーリス・ヒルシュ男爵(英語版)の基金がスポンサーであった。
アルゼンチンの不法移民は大多数が国境を接するボリビア、パラグアイから来ており、少数はペルー、エクアドル、ルーマニアなどからもやってきている。アルゼンチン政府はこうした不法移民の数を75万人と見積もっている。
アルゼンチンの都市人口率は昔から非常に高く、それは現在まで変わっていない。353万人がブエノスアイレス市に、1,240万人が大ブエノスアイレス都市圏に住んでいる。第2、第3の都市圏はコルドバとロサリオであり、それぞれ130万人と110万人の都市圏を構成している。
19世紀以降に移民したほとんどのヨーロッパ移民は、大土地所有制が崩れずに入植地の所有権が手に入らなかったため、最終的に都市に落ち着き、仕事や教育などさまざまな機会を得て中間層となっていった。多くは鉄道網に沿って成長していた小都市に住み着いたが、1930年代に入ると小都市から大都市への国内移民が行われた。
1990年代に入り国営鉄道民営化が行われた結果、旅客列車の運行が中止された路線が増え、小規模工業が外国製の安い製品との競争に敗れて消えていくと、田舎町にはゴースト・タウンになるものも現れた。また、"Villa Miseria"と呼ばれる不法占拠の建物密集地(いわゆるスラム)が大都市の空き地に見られるようになり、鉄道民営化以降増加した。国営企業民営化および民間企業破綻で失業した下層労働者と北西部の小さな町からの移住者が最初にそこに家を建て、次にさらに大きな数の近隣諸国からの移民(移民の人々が住民の半数以上を占めるといわれる)がそこに新たに家を建てるか、増築するなどをしながら住んでいる。これらの家の中には電気がひかれ、エア・コンディショナーや冷蔵庫も存在し、営業店舗にもなっている建物もある。ただし、沼地のような場所の上に存在する建物は衛生上に問題があり、密集した環境が犯罪組織の温床になりかねないとして、政府はアパートを建設し、そこに不法占拠の住民を移住させる政策を行っているが、資金不足によりなかなか進んでいない。
アルゼンチンの都市はヨーロッパ移民の影響が反映されているため、非常にヨーロッパ的である。多くの都市はスペイン風に広場を中心に建設され、カテドラルと重要な役所(カビルド)は広場に面して建てられる(ただし、ブエノスアイレスは1850年代以降フランスのパリを忠実にモデルにして改造された)。一般的に都市の配置はダメロと呼ばれる碁盤目上であるが、19世紀末にワシントンD.C.をモデルに建設されたラ・プラタ市など近代的な計画都市はこの様式からかけ離れていることもある。
2022年度の都市人口率は92.23%である。
20世紀半ばまでは移民受け入れ国だったアルゼンチンも、20世紀中盤以降の社会、経済、政治の混乱により、多くのアルゼンチン人が祖国を離れて海外に移住した。特に国連ラテンアメリカ委員会の報告によると、アルゼンチンからの海外移住者の1,000人のうち191人が大学卒業者であるなど、留学生がそのまま海外移民になってしまうことや、大学卒業者に見合った職業の不足などを原因とした、高学歴者の移民による社会の空洞化が懸念されている。アルゼンチンからの移民先はおもにスペイン、アメリカ合衆国、カナダ、ブラジル、ポルトガル、オーストラリアなどである。
言語はスペイン語(リオプラテンセ・スペイン語)が公用語であり、アルゼンチンではエスパニョールではなくカステジャーノと呼ばれる。ポルテーニョ(ブエノスアイレス市民)のアクセントはイタリア語のナポリ方言の影響が強く、ヨーロッパ移民、特にイタリア移民の影響により、ラ・プラタ地域で話されるルンファルドと呼ばれる独特の俗語が形成されてきた。アルゼンチンはスペイン語圏でも二人称単数においてボセオ(Voseo)のみが全土で使用されている数少ない国であり、ボセオはアルゼンチンのアイデンティティとなっている。
スペイン語のほかには英語、イタリア語、ドイツ語、フランス語、および多少の先住民言語なども使用されている。
標準ドイツ語は140万人から150万人のドイツ系アルゼンチン人によって話されているが、180万人以上が話しているともいわれている。ドイツ語は今日のアルゼンチンで第3か第4に多くの人々に話されている言葉である。そのほかにも、調査によると、150万人がイタリア語を話し、100万人がシリア・レバノンのアラビア語を話している。ガリシア語、イディッシュ語、日本語なども話されているが、これらの言語は現在では話されることは少なくなってきている。パタゴニアのトレレウやガイマンといった町にはウェールズ語を話すコミュニティがある。近年のアジア系移民は中国語と韓国語をブエノスアイレスに持ち込んだ。
先住民言語はコリエンテス州、ミシオネス州でグアラニー語が話され、コリエンテス州では公用語となっている。ケチュア語は北西部のサンティアゴ・デル・エステロ州で話され、アイマラ語はボリビアからの移民のコミュニティなどで話されている。パタゴニアではマプーチェ語などが話されている。
英語、ブラジル・ポルトガル語、フランス語はあまり大きな存在感を持たない。英語は学校教育で教えられ、ポルトガル語とフランス語が後に続く。
国民の多数の93%がカトリック教徒だと申告しているが、教会はより正確には70%ぐらいだと見積もっている。現行憲法第二条によると、アルゼンチン共和国はカトリックを保護すべきであるとなっているが、これはアルゼンチンの国教がカトリックであるということではなく、圧倒的に信徒数が多いカトリックに国家の優先権があることを認めるのみとなっている。2013年に行われたコンクラーベでは、アルゼンチン人のブエノスアイレス大司教ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿がローマ教皇に選出されて第266代教皇フランシスコとなり、アルゼンチンが初のアメリカ大陸出身のローマ教皇を出した国となった。アルゼンチンでは、日曜日に、必ずミサに出向くことが習慣となっており、結婚式なども教会で行うしきたりになっている。
公務員は必ずしもカトリックを信仰しなければならないわけではないが、大統領はキリスト教徒しかなれない法律がある。この法律により、アラブ系だったカルロス・メネムはイスラーム教を棄教しなければならなかった。
1980年代からプロテスタントの福音派が足場を築き、現在総人口の約10%の330万人が信者である。
33万人以上がキリスト教系新宗教の末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)に所属しており、アルゼンチンは世界で7番目に末日聖徒イエス・キリスト教会の信者が多い国となっている。。
ラテンアメリカでもっとも多いユダヤ人人口を抱え、人口の約2%がユダヤ人である。
イスラーム教徒は総人口の1.5%を占め、50万人から80万人がいると推測されている(93%はスンナ派)。現在アルゼンチンはラテンアメリカでもっともモスクの多い国のひとつとなっている。
おおよそ12%が無宗教、もしくは世俗派とみなされている。
婚姻の際には夫婦別姓であるが、女性は、自己の姓の後に「de+夫の姓」を追加することができる。
2010年から、同性同士の結婚(同性結婚)が認められるようになった。
独立後、自由主義者が勝利した1860年代以降のアルゼンチンはドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント政権のもとで、ほかのラテンアメリカ諸国とは対照的に公教育の整備に力を注いだ。2001年のセンサスでは、15歳以上の国民の識字率は97.2%に達している。これはウルグアイやキューバ、チリとともにラテンアメリカでもっとも高い水準である。ただし、近年は機能的非識字の増加が問題となっている。
幼稚園から初等教育が始まり、5歳から14歳までの10年間の無償の初等教育・前期中等教育が義務教育期間となり、その後3年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。初等、中等教育の問題としては落第率の高さや、待遇の劣悪さから起きる教員のストライキと予算不足からくる十分な授業日数確保の不備、学級崩壊などが挙げられる。
2005年現在で、アルゼンチンには41校の国公立の大学と48校の私立大学があり、代表的な高等教育機関としてはブエノスアイレス大学(1821年)、コルドバ大学(1613年)、ラ・プラタ大学(1905年)、国立工科大学(英語版)(1959年)、ロサリオ大学(1968年)、教皇庁立アルゼンチンカトリック大学(1958年)、トルクァト・ディ・テラ大学(1991年)などが挙げられる。国公立の大学はアルフォンシン政権時に入試を廃止したため、学生数の増加による過密や、非効率な制度による学校運営の混乱が大きな問題となっている。大学進学率はチリと並び南米としてはきわめて高率である。
アルゼンチンの文化は、まず第一に多くのアルゼンチン人のルーツであるヨーロッパから導入され、ヨーロッパから大きな影響を受けている。ブエノスアイレスはヨーロッパの家系に連なる人々と、ヨーロッパのスタイルを模倣した建造物によって構成された結果として、しばしば南米でもっともヨーロッパ的な都市だといわれてきた。もうひとつの大きな影響はガウチョやインカ帝国の文化に代表される、パンパや北西部のアンデスでの伝統的な田園生活によるものである。最終的にインディヘナの伝統的な文化(マテ茶の回し飲みなど)はこの文化的領域に吸収された。
この2つのアルゼンチンは互いに相克しながらアルゼンチンの文化を形成してきた。どちらが真のアルゼンチンであるかというものではなく、どちらも本質的に異なる2つのアルゼンチンの精神を表しているものである。
アルゼンチン文学は1850年代からラテンアメリカ文学のリーダーであった。国家形成の時代の連邦派と統一派の争いが、当時のアルゼンチン文学のロマン主義文学のトーンを印象付けた。アルゼンチンにロマン主義を導入した自由主義者のエステバン・エチェベリーアの『エル・マタデーロ』(1840)ではロサスの圧政を寓意的に描き、同じく欧化主義者のドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエントによって亡命先で著された『ファクンド』(1845)は、統一派の視点でラ・リオハ州の連邦派カウディージョ、フアン・ファクンド・キロガを野蛮の象徴として描き、ガウチョやインディオは近代化のための巨大な障害物と見なされた。それに対してガウチョ文学(英語版)の傑作となったホセ・エルナンデスの叙事詩『マルティン・フィエロ(英語版)』(1874)は、連邦派の視点でガウチョをアルゼンチンの精神を体現する象徴として描き、現在後者の『マルティン・フィエロ』はアルゼンチンの聖書と呼ばれ、国民文学の基礎だと位置づけられている。
その他にもフアン・バウティスタ・アルベルディ、ロベルト・アルルト、エンリケ・バンチス、アドルフォ・ビオイ・カサレス、エウヘニオ・カンバセレス、レオポルド・ルゴネス、エドゥアルド・マジェーア、エセキエル・マルティネス・エストラーダ、トマス・エロイ・マルティネス、ビクトリア・オカンポ、エルネスト・サバト、オスバルド・ソリアーノ、アルフォンシナ・ストルニ、マリア・エレーナ・ワルシュ、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、フリオ・コルタサル、マヌエル・プイグのように、アルゼンチンは国際的に特筆される作家、詩人、知識人を生み出している。 キノ(ホアキン・サルバドール・ラバード)は世界中で多くの読者を楽しませている。文学においてもブエノスアイレスかそれ以外かという対立は、のちのモデルニスモ文学や20世紀の文学においても続いた。
正統な文学者ではないが、キューバ革命の指導者の1人であり、ラテンアメリカにおける社会主義理論家として知られ、文学でも『モーターサイクル・ダイアリーズ』や、革命中のゲリラ戦の経験をまとめた『ゲリラ戦争』(1961)、『ゲバラ日記』(1968)などを残し、キューバの閣僚を務めたこともあるエルネスト・チェ・ゲバラもアルゼンチン出身の文筆家として名高い。
世界初のアニメ映画は1917年に漫画家のキリーノ・クリスティアーニによってアルゼンチンで製作された。アルゼンチン映画は1930年代から1950年代にかけて黄金時代を迎え、映画産業はアルゼンチン映画初のスターとなり、タンゴの歌手でもある、リベルタ・ラマルケや、フローレン・デルベーネ、ティト・ルシアルド、ティタ・メレージョ、ロベルト・エスカラーダ、ウーゴ・デル・カリールのような俳優を輩出した。
その後も『ロス・インダドス』(1955)によりブラジルのネルソン・ペレイラ・ドス・サントスやキューバのフリオ・ガルシア・エスピノーサとともに新ラテンアメリカ映画運動の牽引者となったフェルナンド・ビッリや、アレハンドロ・アグリステ、エクトル・オリベラ、『スール/その先は......愛』(1988)のフェルナンド・E・ソラーナス、『ブエノスアイレスの夜』(2001)のフィト・パエスといった映画監督が活躍している。ラ・プラタ市とマル・デル・プラタで例年映画祭が催されている。
ブエノスアイレスの都市的な様子とは対照的なもうひとつのアルゼンチンを描いた画家としては、初めて本格的にガウチョを描いたプリリディアーノ・プエイレドンや、アンデス地方の牧場や、ガウチョを題材に描いたフェルナンド・フェデールなどの名が挙げられる。三国同盟戦争などを題材にした歴史絵画ではホセ・イグナシオ・ガルメンディアや、カンディード・ロペス(素朴派)などの名が挙げられる。ロペス、アントニオ・ペリーニ(en:neo figurative)、エミリオ・ペットルーティ(キュビスム)、フェデール、ギジェルモ・クイトカの作品は国際的に認知されている。そのほかにも「ボカ共和国」こと、ブエノスアイレスのラ・ボカ(La Boca、河口)地区出身のキンケラ・マルティンはラ・ボカ地区や労働者を描いた画家として名高い。
ルシオ・フォンタナとレオン・フェラーリは彫刻家かつコンセプチュアル・アーティストとして喝采された。シルエロ・カブラルは世界的に有名な幻想芸術家かつ彫刻家であり、エドゥアルド・マクリンティーレの幾何学的なデザインは1970年代以降の世界中の広告家に影響を与えた。
あまり日本では知られていないが、冷凍船の発明・普及とともに世界的な大畜産国として発展の基礎を築いただけあって、肉料理などを中心に充実した食文化の歴史がある。その一例として、多くのイタリア移民が持ち込んだパスタ類や、ドゥルセ・デ・レチェなどの菓子類などもバラエティに富んでいる。ブエノスアイレスと他地域とを問わずエンパナーダも広く食べられている。魚は、大きなスーパーや中国人街以外ではメルルーサ(タラ)かサケくらいしか売っていないが、イグアスの滝に近い北部の亜熱帯地方ではスルビ(ナマズの一種)、クージョのアンデス山脈付近ではトゥルーチャ(マス)など、川魚を食べる地方もある。
アルゼンチンの主菜である肉料理は実に多彩であり、特にアサード、ビフェ・デ・チョリソ(サーロインステーキ)、チョリソや臓物も含んだ焼肉の盛り合わせであるパリージャ(Parrilla)が有名である。
アルゼンチンは世界有数のワイン生産国である一方、ほとんどを国内消費するため海外にはあまり知られていない。アルゼンチンには肉料理が多いことから、それと相性がよいとされる赤ワインが特に多く、品質も優れている。アルゼンチンのワインの6割がメンドーサで生産され、残りのほとんどがカファヤテ(Kafajatė)で生産される。ヨーロッパではほとんどブレンドにしか用いないマルベック(Malbec)という品種は、アルゼンチンでもっとも味がいいとされている。近隣諸国と同様にグアラニー人由来のマテ茶を飲む習慣もある。食後に飲むマテ茶は、モチノキ科の常緑樹ゼルバマテという木をすりつぶして粉にし、専用の容器(マテ)に入れてお湯を加え、ストローで飲む。アルゼンチンでは砂糖を入れて飲むことが多いという。
ファストフードとしては、チョリソをパンに挟んだチョリパンという料理があり、チミチュリや野菜などのトッピングもなされる。アルゼンチンのソウルフードとも評される。
アルゼンチンはブラジル、コロンビアとともに南米の音楽大国の一角を占める。
世界的にウルグアイのモンテビデオとともに、ブエノスアイレス、特にラ・ボカとサン・テルモはタンゴ・リオプラテンセ(ラ・プラタ川風タンゴ。日本に限らず世界ではアルゼンチン・タンゴと呼ばれることが多い)の中心として知られるが、1850年代からカンドンベを下敷きにして、ハバネラ、ミロンガなどの影響を受けてボカで育ったこのリズムは、1920年代以降、カルロス・ガルデルのフランス公演が大成功するとヨーロッパでも大流行し、コンチネンタル・タンゴにもなった。1930年代の最盛期を過ぎるとこの流行は長くは続かずに1950年代ごろには下火になり、その後タンゴはアルゼンチンでも衰退をたどるが、アストル・ピアソラの登場により持ち直した。
このように、アルゼンチンといえばブエノスアイレスのヨーロッパ風のイメージとともに、まず第一にタンゴが連想されるが、しかしタンゴはやはりラ・プラタ川流域の音楽であり、内陸部ではサンバ、パジャドール、チャカレーラ、チャマメ、カルナバリート(実質ワイニョ)などのさまざまなフォルクローレ(民謡)が存在する。こうしたフォルクローレはいくつか隣国のウルグアイとも共通しており、タンゴの元になった黒人音楽カンドンベも、もともとはアルゼンチン・ウルグアイに共通する音楽だったが、アルゼンチンでの黒人人口の減少とともにアルゼンチンでは廃れていき、現在カンドンベはウルグアイの国民音楽になっている。
アンデスのフォルクローレの代表曲である花祭り (ウマウアカの男)はウマウアカのカルナバルを歌ったものだが、特にアンデス地方のフォルクローレではアルゼンチンのものが日本にもっとも早く紹介されたこともあり、世界の人々にとってフォルクローレと言えば本場のボリビアと並んでアルゼンチンのものが連想される要因ともなっている。アルゼンチンでの海外の声の代表を自認したアタウアルパ・ユパンキや、メルセデス・ソーサ、ウニャ・ラモスらは世界的に有名であり、日本ではグラシェラ・スサーナも有名である。チャランゴ奏者のハイメ・トーレスのように伝統的なフォルクローレを展開する表現者以外にも、近年は新世代のミュージシャンが、欧米のシンガー・ソングライターやジャズ、エレクトロニカなどに影響を受けた新しいフォルクローレを続々と生み出している。代表的なアーティストは、リリアナ・エレーロ、アカ・セカ・トリオ、マリアナ・バラフ、カルロス・アギーレなど。日本でも徐々に注目されており、『オーガニック・ブエノスアイレス』というコンピレーション・アルバムも発表された。
そしてそれだけがこの国の音楽のすべてではなく、クラシックやジャズやポップスの分野でも、作曲家のアルベルト・ヒナステラ、ピアニストのマルタ・アルゲリッチ、ラロ・シフリンなど、時折注目すべき人物を輩出することもある。そのほかに特筆されるべき音楽家としては、扇情的なサクソフォーンとフリージャズを構成するガトー・バルビエリが存在する。
ポップスの分野では特にロックが盛んな国であり、国外にもアルゼンチン・ロックの愛好家は多い。1960年代の初頭にはアルゼンチン・ロックはウルグアイ勢の進出により、ブエノスアイレスの音楽シーンはロス・シェイカーズやロス・モッカーズなどのウルグアイのロックバンドの草刈り場となったが(ウルグアヤン・インベイジョン)、ウルグアイ人の攻勢が終わったあとも、ロス・ガトースなどのアルゼンチン人のロックバンドが主導的な役割を果たしながらも、ラ・プラタ川を越えて多くのウルグアイのミュージシャンがブエノスアイレスで活躍する状況は変わっていない。
2000年代に入ってからは、アルゼンチン音響派がまるでかつてのブラジルにおけるトロピカリズモ運動のような新たなムーブメントとなっている。ファナ・モリーナやサンティアゴ・バスケス、フェルナンド・カブサッキ、アレハンドロ・フラノフなどは日本でも人気を博しており、山本精一や勝井祐二など日本人ミュージシャンとの交流がある。クラブシーンにおいてはコロンビア生まれのクンビアがブエノスアイレス近郊で発達を遂げ、デジタル・クンビアが生まれた。
アルゼンチンが発祥となった音楽ではないが、2002年には日本のロックバンド・THE BOOMの「島唄」が俳優のアルフレッド・カセーロに日本語のままカバーされ大ヒットした。彼の歌う島唄はその年に開催された日韓ワールドカップのアルゼンチン代表の応援歌としても採用された。
アルゼンチン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が5件、自然遺産が4件存在する。
註1: もし該当の日が火曜日か水曜日ならばその直前の月曜日、木曜日か金曜日ならばその直後の月曜日に移動する。
アルゼンチン国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとして君臨しており、世界に名だたるサッカー大国としてディエゴ・マラドーナとリオネル・メッシの両雄を筆頭に、サッカー史上に残る名選手を数多く輩出している。マラドーナやメッシ以外にも著名な選手としてガブリエル・バティストゥータ、ディエゴ・シメオネ、ハビエル・サネッティ、ワルテル・サムエル、フアン・ロマン・リケルメ、セルヒオ・アグエロ、ゴンサロ・イグアイン、アンヘル・ディ・マリアなど数多くのアルゼンチン人がヨーロッパのビッグクラブで活躍し歴史を彩って来た。
アルゼンチンサッカー協会(AFA)によって構成されるサッカーアルゼンチン代表は、FIFAワールドカップ出場の常連国であり優勝3回・準優勝3回を誇り、ブラジル代表と並ぶ南米の強豪として世界中に知れ渡っている。アルゼンチンは、初の自国開催となった1978年ワールドカップで大会初優勝を果たしている。コパ・アメリカにおいては、ウルグアイ代表と並んで大会最多15度の優勝に輝いている。さらにU-23アルゼンチン代表はオリンピック出場の常連国であり、2004年アテネ五輪と続く2008年北京五輪で「6戦全勝での連覇」を達成している。
1891年には国内リーグのプリメーラ・ディビシオンが創設され、1986年には下部リーグのプリメーラB・ナシオナルも開始された。主なクラブとしては、リーベル・プレート、ボカ・ジュニアーズ、ラシン・クルブ、エストゥディアンテス、サン・ロレンソなどが挙げられる。さらに南米大陸のクラブ王者を決めるコパ・リベルタドーレスでは、インデペンディエンテが大会最多となる7度の優勝を遂げている。
サッカーの次にはテニスが盛んであり、テニスを国技と称するスウェーデンと並んで、1970年代から現在に至るまで世界のテニス界をリードする存在である。1970年代後半のギジェルモ・ビラスをはじめ、男女問わず数多の名選手を輩出しており、2004年の全仏オープンにおいて、史上初のアルゼンチン勢同士の決勝戦が行われている。最近もアルゼンチン勢のテニスの躍進は目覚しく、クレーコート以外でも好成績を残す選手が続出している。
ラグビーはロス・プーマス(Los Pumas)の愛称で親しまれているアルゼンチン代表が、強豪国を破る実力をつけてきている。伝統的に屈強なフォワードと、意外性のあるバックスの選手を輩出している。1999年のワールドカップではベスト8に進出している。大会ではスタンドオフのゴンサロ・ケサダが、安定したキックで得点王にも輝いた。2007年のワールドカップでは開催国のフランス代表を2度下し、3位に輝いている。
ボクシングにおいても、アルゼンチン初の世界王者でフライ級のパスカル・ペレス、1960年代のWBA・WBC世界フライ級王者オラシオ・アカバリョ、ジュニア・ウェルター級の世界王者ニコリノ・ローチェ、1970年代のWBA・WBC世界ミドル級統一王者のカルロス・モンソンらを輩出している。さらに、2000年代にもフライ級でオマール・ナルバエスが長期政権を築いている。女子ボクシングも盛んであり、ジェシカ・ボップのような女子王者も輩出している。
アルゼンチンではバスケットボールも、第1回世界選手権の開催国ということもあって人気が高く、マヌ・ジノビリ、ファブリシオ・オベルト、アンドレス・ノシオーニなどのNBAプレイヤーも輩出している。さらに2004年のアテネオリンピックでは、アルゼンチン代表は悲願の金メダルを獲得している。FIBAアメリカップでは、これまでに2001年大会・2011年大会・2022年大会と、3度の優勝を達成している。
化学部門で3人のノーベル賞受賞者を出している。ルイス・フェデリコ・レロイル(ルイ・ルロワール)はノーベル化学賞受賞者であり、この化学賞はラテンアメリカ全体でも初めてのものだった。
ベルナルド・ウサイのような優れた研究者の残した業績の伝統もあって、現在でも医療の研究や、その他には原子力の研究なども進んでいる。ほかにも、素粒子物理学の指導的存在であるフアン・マルダセナがいる。
現在の問題は、大学の整備の遅れによる研究環境の不備や、海外への高学歴者の流出による基礎研究、応用研究の進展が遅れていることなどである。
アルゼンチンの印刷メディアは高度に発達し、独立している。200以上の新聞が存在し、地元の町や地域に影響を与えている。最主要紙はブエノスアイレスの中道紙「クラリン」であり、スペイン語圏でもっとも流通している新聞のうちのひとつとなっている。そのほかの新聞としては1870年創設の「ラ・ナシオン」(中道右派)、Página/12 (左派)、アンビト・フィナンシエロ (保守ビジネス紙), ドイツ語新聞のArgentinisches Tageblatt 、スペイン語とフランス語で発行されるLe Monde Diplomatique、クロニカ (ポピュリズム)。地方紙として重要なのは「ラ・カピタル」(ロサリオ)、「ロス・アンデス」(メンドーサ)、「内陸部の声」(コルドバ)、「エル・トリブノ」(サルタ)など。ブエノス・アイレス・ヘラルドは主要日刊英字新聞である。
アルゼンチンの出版業はスペイン・メキシコといったスペイン語圏の主要国の出版業とともにある。アルゼンチンには、エル・アテネオやジェニーといった、独立し、豊富な在庫を抱えたラテンアメリカ最大級の書店のチェーンがある。英語やその他の言語による書籍も多く流通している。雑多な趣味の領域をカバーした100を超える雑誌が出版され、書店や街頭のキオスクで販売されている。
アルゼンチンはラジオ放送を始めた国家のパイオニアだった。1920年8月27日、Sociedad Radio Argentinaは「われわれは今、ブエノスアイレスの下町のコリセオ劇場からのリヒャルト・ワーグナーのパルジファルオペラの実演をあなたの家に送っています」と発表した。もっとも市内の20家庭しかラジオ受信機を所持していなかった。世界初の放送局はそのときからRadio Culturaが放送されるようになる1922年まで、アルゼンチン唯一のラジオ局だった。その後、1925年までに12局がブエノスアイレスに、10局がそのほかの都市に開設された。1930年代はバラエティ、ニュース、ソープオペラ、スポーツなどアルゼンチンのラジオにとって「黄金時代」だった。
現在アルゼンチンでは1,500以上のラジオ局が認可されている。260局がAM局であり、1150局がFM局である。 ラジオはアルゼンチンでは重要なメディアとなっている。音楽と若者文化番組がFM放送を支配しており、ニュース・討論・スポーツはAM放送の内容として第一に来る。ラジオはいまだに情報、エンターテインメント、さらに最遠隔地のコミュニティーにおける人命救助にさえ重要なサービスとして役立っている。
アルゼンチンのテレビ業界は大きく多様であり、ラテンアメリカで広く見られていると同時に世界中で見ることができる。多くのローカル番組が他国で放送され、そのほかは外国人のプロデューサーが市場で権利を買っている。アルゼンチンには5つの主要ネットワークがある。すべての地方主要都市と大都市には、少なくとも1つの地方局がある。アルゼンチンでは北アメリカとほぼ同じぐらいのパーセンテージでケーブルテレビと衛星放送が浸透している。ケーブルネットワークはアルゼンチンとほかのスペイン語圏からもたらされ、ウルティマ・サテリタル、TyCスポーツ、スペイン語Foxスポーツ(合衆国、メキシコも同様)、MTVアルヘンティーナ、コスモポリタンTV、およびニュースネットワークのトド・ノティシアスなどがある。
アルゼンチン共和国の象徴となっているものを列挙する。 | [
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"text": "アルゼンチン政府は南極の1,000,000 kmおよびマルビナス諸島の領有を主張している。",
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"text": "アルゼンチン共和国(アルゼンチンきょうわこく、スペイン語: República Argentina)、通称アルゼンチンは、南アメリカ南部に位置する連邦共和制国家。位置は南米大陸から見ると南西側に位置しており、西と南にチリ、北にボリビア・パラグアイ、北東にブラジル・ウルグアイと国境を接し、東と南は大西洋に面する。ラテンアメリカではブラジルに次いで2番目に領土が大きく、世界全体でも第8位の領土面積を擁する。首都はブエノスアイレス。",
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"text": "チリとともに南アメリカ最南端に位置し、国土の全域がコーノ・スールの域内に収まる。国土南端のフエゴ島には世界最南端の都市ウシュアイアが存在する。アルゼンチンはイギリスが実効支配するマルビナス諸島(英語ではフォークランド諸島)の領有権を主張している。また、チリ・イギリスと同様に南極の一部に対して領有権を主張しており、アルゼンチン領南極として知られる。",
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"text": "正式名称は、República Argentina(レプブリカ・アルヘンティーナ)。通称、Argentina(アルヘンティーナ)。英語表記は公式にはArgentine Republic(アージェンタイン・リパブリック)、通称Argentina(アージェンティーナ)。",
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"text": "日本語の表記はアルゼンチン共和国。通称アルゼンチン。ほかにアルゼンティンとも表記され、原語音に即したアルヘンティーナと表記されることもある。漢字表記では、亜尓然丁、亜爾然丁、阿根廷(拼音: āgēntíng)など。",
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"text": "独立当時はリオ・デ・ラ・プラタ連合州(Provincias Unidas del Río de la Plata)と呼ばれ、あるいは南アメリカ連合州(Provincias Unidas de Sudamérica)とも名乗っていた。リオ・デ・ラ・プラタはスペイン語で「銀の川」を意味し、1516年にフアン・ディアス・デ・ソリスの率いるスペイン人征服者の一行がこの地を踏んだ際、銀の飾りを身につけたインディヘナ(チャルーア人)に出会い、上流に「銀の山脈(Sierra del Plata)」があると考えたことから名づけたとされる。これにちなみ、銀のラテン語表記「Argentum(アルゲントゥム)」に地名を表す女性縮小辞(-tina)を添えたものである。初出は、1602年に出版されたマルティン・デル・バルコ・センテネラ(スペイン語版、英語版)の叙事詩『アルヘンティーナとラ・プラタ川の征服』とされる。その後、1825年に正式国名とした。",
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"text": "国名をラテン語由来へと置き換えたのは、スペインによる圧政を忘れるためであり、フランスのスペインへの侵略を契機として、フランス語読みの「アルジャンティーヌ(Argentine)」に倣ったものでもあるとされる。しかしながら、現在でも「リオ・デ・ラ・プラタ連合州」や「アルゼンチン連合(Confederación Argentina)」などの歴史的呼称は、アルゼンチン共和国とともに正式国名として憲法に明記されている。",
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"text": "アルゼンチンの最初の住民は、紀元前11000年にベーリング海峡を渡ってアジアからやって来た人々だった。彼らは現在パタゴニアに残る「手の洞窟」を描いた人々であった。",
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"text": "その後、15世紀後半に現ペルーのクスコを中心に発展したケチュア人の国家クスコ王国(1197年 - 1438年)は、タワンティンスーユ(インカ帝国、1438年 - 1533年)の皇帝トゥパック・インカ・ユパンキとワイナ・カパックによって征服され、北西部のアンデス山脈地域はタワンティンスーユに編入された。征服された地域はタワンティンスーユ内の4州の内の1州、コジャ・スウユ(ケチュア語族: Colla Suyo、「南州」)の辺境の地となり、30万人ほどのケチュア人やアイマラ人が住むようになった。アルゼンチンにおけるコジャ・スウユの領域は北は現在のフフイ州から南はメンドーサ州、東はサンティアゴ・デル・エステロ州の北部にまで広がっていた。その一方でインカ帝国の権威が及ばなかったチャコやパンパやパタゴニアには、チャルーア人のような狩猟インディヘナがおもに居住しており、パンパやチャコにもグアラニー人のような粗放な農耕を営むインディヘナがいたが、全般的にこの地域に住む人間の数は少なかった。",
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"text": "16世紀に入ると、1516年にスペインの探検家、フアン・ディアス・デ・ソリスが最初のヨーロッパ人としてこの地を訪れたが、すぐに先住民といさかいを起こし、まもなく殺害された。その後もスペインによってこの地域の植民地化は進められた。1536年にラ・プラタ川の上流にあると思われた「銀の山」を攻めるために、バスク人貴族のペドロ・デ・メンドーサ(英語版)率いる植民団によって、ラ・プラタ川の河口にヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デル・ブエン・アイレ市が建設されたが、まもなくインディヘナの激しい攻撃に遭って放棄され、以後200年ほどラ・プラタ地域の中心は、1559年にアウディエンシアの設置されたパラグアイのアスンシオンとなった。",
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"text": "植民地政策の伸展に伴ってペルー副王領の一部に組み込まれたこの地は、ペルー方面からアンデス地域を軸に開拓が進み、1553年には現存するアルゼンチン最古の都市サンティアゴ・デル・エステロが建設された。アスンシオンからの内陸部開発も盛んになり、1580年には放棄されたブエノスアイレスが再建されたが、それでもこの地域はベネズエラなどと並んでイスパノアメリカではもっとも開発の遅れた地域だった。また、1541年に放された12頭の馬がパンパの牧草を食べて自然に大繁殖したこともあり、いつしかガウチョが現れるようになっていった。同じようにして繁殖した牛は、19世紀の始めにはラ・プラタ地域全体で2,000万頭ほどいたといわれている(ちなみにこのころの人口はアルゼンチン・ウルグアイ・パラグアイをあわせても100万人を超えないほどだった)。植民地政策の経過により、当初は大西洋岸よりも内陸部の発展が早かった。1613年には内陸のコルドバにコルドバ大学が建設され、以降19世紀までコルドバは南米南部の学問の中心となった。18世紀にはグアラニー戦争(英語版)などに代表されるように、ポルトガル領ブラジル(英語版)方面から攻撃を続けるポルトガルとの小競り合いが続き、スペイン当局がバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)を防衛するためもあって、1776年にペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領が分離されると、ブエノスアイレスは副王領の首府となって正式に開港され、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国との密貿易により空前の繁栄を遂げた。しかし、この時点においてアルゼンチンの産業の中心は北西部のトゥクマンや中央部のコルドバであり、リトラル地域やブエノスアイレスには見るべき工業はなかった。このブエノスアイレス港の正式開港は、のちに植民地時代に繁栄していた内陸部諸州に恐ろしい打撃をもたらすことになった。",
"title": "歴史"
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"text": "1806年、1807年の2度にわたるイギリス軍のラプラタ侵略(英語版)を打ち破ったあと、スペインからの解放と自由貿易を求めたポルテーニョは1810年5月25日に五月革命を起こし、ブエノスアイレスは自治を宣言したが、ラ・プラタ副王領のパラグアイ、バンダ・オリエンタル、アルト・ペルー、コルドバはブエノスアイレス主導の自治に賛成しなかった。このためブエノスアイレス政府は各地に軍を送り、コルドバを併合することには成功したが、1811年のマヌエル・ベルグラーノ将軍のパラグアイ攻略(スペイン語版、英語版)は失敗した。1813年のサンロレンソの戦いにも勝利するとスペイン王党派軍との戦いが本格化するが、王党派の支配していたアルト・ペルー攻略(第一次アルト・ペルー攻略(スペイン語版、英語版)、第二次アルト・ペルー攻略(スペイン語版))は失敗した。",
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"paragraph_id": 12,
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"text": "独立戦争が難航する中、1816年7月9日にはトゥクマンの議会(英語版)で南アメリカ連合州として正式に独立を宣言したが、まだこの時点では独立の方向も定まっておらず、インカ皇帝を復活させて立憲君主制を導入しようとしていたベルグラーノ将軍のような人物から、ホセ・アルティーガス(英語版)のようにアメリカ合衆国のような連邦共和制を求める勢力もあり、ブエノスアイレスは自由貿易、貿易独占を求めるなど、独立諸派の意見はまったく一致しなかった。ベルグラーノ将軍が第三次アルト・ペルー攻略(スペイン語版)に失敗し、北部軍(スペイン語版、英語版)司令官を辞任すると、後を継いだアンデス軍(英語版)司令官のホセ・デ・サン・マルティン将軍がアンデス山脈越え(英語版)を行い、王党派の牙城リマを攻略するために遠征を重ね、王党派軍を破ってチリ(チャカブコの戦い(英語版)、マイプーの戦い(英語版))、解放者シモン・ボリーバルのコロンビア共和国解放軍から派遣されたアントニオ・ホセ・デ・スクレがペルー(アヤクーチョの戦い(英語版))を解放していったが、本国ではブエノスアイレスの貿易独占に反対する東方州やリトラル三州のアルティーガス派(連邦同盟)とブエノスアイレス(トゥクマン議会派)の対立が激しさを増し、内戦が続いた。内戦の末、1821年にプエイレドン(英語版)が失脚すると中央政府は崩壊したが、中央政府が存在しないことは外交上不利であったため、各州の妥協により1825年にブエノスアイレス州が連合州の外交権を持つことを認められた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "その後、ブエノスイアレスと敵対していた東方州がポルトガル・ブラジル連合王国に併合されたことをブエノスアイレスが見過ごしたことへの批判が強まり、33人の東方人を率いて独立運動を開始したフアン・アントニオ・ラバジェハ(英語版)将軍のバンダ・オリエンタル潜入から、かの地をめぐって1825年にブラジル帝国との間にブラジル戦争が始まった。この戦争に際して挙国一致が図られ、ベルナルディーノ・リバダビア(英語版)を首班とした中央政府が一時的に成立し、このときに国名をリオ・デ・ラ・プラタからアルヘンティーナに改名したが、戦争の最中に制定された中央集権憲法と、ブエノスアイレスを正式に首都と定める首都令が国内のすべての層の反発を受けると、リバダビアは失脚し、再び中央政府は消滅した。戦局はアルゼンチン有利に進んだが、内政の混乱が災いし、最終的にはイギリスの介入によってバンダ・オリエンタルを独立国とするモンテビデオ条約が結ばれ、1828年にウルグアイ東方共和国が独立した。そしてこの地を以後再びアルゼンチンが奪回することはなかった。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "ブラジルに対しての実質的な敗戦の影響もあって連邦派と統一派の戦いは激化する。1829年に統一派のブエノスアイレス州知事フアン・ラバージェ(英語版)を打倒した連邦派のフアン・マヌエル・デ・ロサスが州知事になると、ロサスはリトラル3州のカウディージョと同盟を結んで1831年11月に中央集権同盟を破り、ほぼ全アルゼンチンの指導者となった。この時期には中央政府こそ作られなかったもののアルゼンチン連合が成立し、以降内戦はしばらくの小康状態に入った。ロサスは1832年に州知事を辞すると、「荒野の征服作戦(英語版)」で敵対していたパンパのインディヘナを今日のブエノスアイレス州の領域から追い出して征服した土地を部下に分け与え、大土地所有制を強化した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 15,
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"text": "1835年にラ・リオハ州を中心とした内陸部の連邦派の指導者、フアン・ファクンド・キロガ(英語版)が暗殺されると再びアルゼンチン全土に内戦の危機が訪れた。この際のロサスの妻のドーニャ・エンカルナシオン(英語版)のクーデターもあり、最終的にはブエノスアイレス州議会に請われてロサスは1835年に再びブエノスアイレス州知事に返り咲いた。以降のロサスの政治は恐怖政治を敷き、統一派だと見られた多くの自由主義者や知識人が弾圧・追放され、2万5,000人にも及ぶ市民が粛清された。その一方でロサスはパンパの伝統を守り、自由主義者によって弾圧されていた黒人やガウチョを保護するなどの面もあった。独裁制はこうした政策により、ブエノスアイレス州の農民や都市下層民をはじめとする上流階級以外の各層から支持を得た。外交面では国粋主義と大アルゼンチン主義を貫き、移民を禁止するなどの政策をとった。1833年に マルビナス諸島を売るように要求したイギリス商人の申し出を断ったため、島はイギリスに占領されてしまった。しかしながらロサスは、ラ・プラタ地域に野心を持っていたイギリス、フランスとのウルグアイをめぐっての大戦争や、それに続くラ・プラタ川の封鎖、さらにはパタゴニアを植民地化するとのフランスから恫喝、1845年から1846年の戦争となって顕在化したカウディージョの支配するパラグアイとの対立、これらの相次ぐ国難すべてからアルゼンチン連合を守り抜いた。しかし戦争によって貿易が封鎖され、疲弊したリトラル諸州の怒りは激しく、まもなくブラジル帝国と同盟した腹心のフスト・ホセ・デ・ウルキーサ(英語版)がエントレ・リオス州から反乱を起こすと、1852年にカセーロスの戦い(英語版)でロサスは敗れ、失脚した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 16,
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"text": "カセーロスの戦い以後のアルゼンチン連合は、当時の自由主義知識人の意向により西欧化が進み、土着のスペイン的な伝統や、ガウチョや黒人やインディヘナは近代化の障害として大弾圧された。ウルキーサが設立したアルゼンチン連合の1853年憲法(英語版)は、事実上の起草者だったアルベルディ(英語版)の意向を反映し、きわめて自由主義的な憲法であった。ウルキーサがこの自由主義貿易によって自由貿易を導入すると、安い外国製品との競争に耐えられなかった国内産業はほとんど壊滅してしまった。",
"title": "歴史"
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"text": "その後もブエノスアイレス国(英語版)と周辺諸州との間で内戦が続いたが、1861年にブエノスアイレス国がウルキーサを破り、アルゼンチン連合を併合して国家統一が達成された。このため、勝利した元ブエノスアイレス国知事ミトレ(英語版)ら自由主義者が完全な主導権を握ることになり、国家の西欧化のためにヨーロッパから移民が大量に導入されることが決定した。ミトレは周辺国への干渉と中央集権政策を進め、アルゼンチン・ブラジル2大国によるウルグアイへの内政干渉をきっかけにして1864年から始まったパラグアイとの三国同盟戦争を境に、土着勢力の抵抗も整備された連邦軍の軍事力の前に徐々に終わりを迎えて1880年には完全に鎮圧され、国家の近代化、中央集権化が進んだ。この時期に極端な集権化に抵抗した勢力には三国同盟戦争への反対を訴え、ラテンアメリカの連合を求めたフェリペ・バレーラ(英語版)などが存在する。1868年に大統領に就任した自由主義者のサルミエント(英語版)政権は、より自由主義的な経済政策や教育政策を成功に導き、ヨーロッパに倣った経済や社会の近代化が進んだが、反面土着文化の攻撃は激しさを増し、この時期に多くの黒人が出国してモンテビデオに向かうことになる。一方、パンパではいまだに敵対的インディヘナとの対立が続いていたが、1878年にロカ(英語版)将軍の指揮した砂漠の征服作戦(英語版)によってパンパからインディヘナが追いやられると、征服された土地は軍人や寡頭支配層の間で再分配され、より一層の大土地所有制拡大が進んだ。",
"title": "歴史"
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"text": "1880年に正式にブエノスアイレスが国家の首都と定められ、首都問題が最終的に解決すると、このことが内政の安定につながり、外国資本と移民の流入が一気に加速した。これにより、イギリスの「非公式帝国」の一部として経済の従属化は進んだが、一方で農牧業を中心としたモノカルチャーによる奇跡と呼ばれるほどの経済発展も進んだ。こうしてヨーロッパからの大量の移民が「洪水」のようにブエノスアイレスになだれ込むと、それまではスペイン的で「偉大な田舎」に過ぎなかったブエノスアイレス市は、一挙にコスモポリタンな大都市の「南米のパリ」に転身し、1914年には実に国民の約30%が外国出身者となるほどであった。同時にこのころから、移民の流入や都市化以前のアルゼンチンを懐かしむ風潮が生まれ、1874年にはアルゼンチンの国民文学であるガウチョの叙事詩『マルティン・フィエロ(英語版)』が完成した。",
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"text": "また、この時期に生まれた中間層を基盤に、寡頭支配層の大地主の不正政治を改めて政治の民主化を求める声も強くなり、1890年の反政府反乱をきっかけに1891年には急進的人民同盟が組織され、これはのちの急進市民同盟(急進党)へと発展していった。また、1890年の反乱は政府証券を保有していたベアリングス銀行に損失を被らせ、結局1893年恐慌に発展させた。急進党は1905年の武装蜂起に失敗したが、この反乱を恐れた保守派のロケ・サエンス・ペーニャ(英語版)大統領は以降行政による選挙干渉をやめることを提案し、司法が行政に優越する新選挙法を成立させた。この選挙法が適用された1916年の選挙では急進党からイポリト・イリゴージェン大統領が選出され、寡頭支配が切り崩された。国民主義的な政策をもって政治に臨んだイリゴージェンは、第一次世界大戦を中立国として過ごした。",
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"text": "民主化の進展によって戦間期には政治も経済も安定に入り、イリゴージェンは1928年に再選され、アルゼンチンは1929年には世界第5位の富裕国となった。しかし、1929年の世界恐慌はアルゼンチンのモノカルチャー経済を襲い、政治は急速に不安定化した。",
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"text": "世界恐慌に対する対策を持たなかったイリゴージェンは、翌1930年に軍事クーデターで追放された。クーデターによって1930年に大統領に就任したウリブルはアルゼンチンにファシズム体制を築こうとしたが、この試みは失敗した。",
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"text": "ファシズム体制の失敗もあって1932年にフストが大統領に就任すると、伝統的な寡頭支配層の政治が復活した。1930年代には19世紀の不正選挙の伝統も復活し、1930年代は「忌まわしき10年間(英語版)」と形容された。",
"title": "歴史"
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"text": "国際協調を旨としたフスト政権は1933年にイギリスとのロカ=ランシマン協定(英語版)で、アルゼンチンをイギリスのスターリング・ブロック(英語版)(Sterling bloc)に組み込んでもらうことに成功したが、見返りに多くの譲歩を強いられてアメリカ市場も失ってしまい、アルゼンチンはまるでイギリスの属国のような様相を呈するようになった。",
"title": "歴史"
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"text": "このような潮流から次第に国民主義的な意識が国民の間に高まり、第二次世界大戦の最中にイギリスと戦う枢軸国への好意的な中立を標榜した統一将校団(英語版)(GOU)のフアン・ペロン大佐は徐々に人気を集め、ペロンは戦後1946年の選挙で大統領に就任した。なお第二次世界大戦はスペインやポルトガルなどと同じく中立国として生き永らえ、牛肉などの輸出で豊富な外貨を稼いだ。",
"title": "歴史"
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"text": "大統領に就任したフアン・ペロンは、第二次世界大戦で得た莫大な外貨を梃子に工業化、鉄道などの国有化、労働者保護などの経済的積極国家政策を推し進めた。こうしたポプリスモ的な政策は当初成功したが、すぐに外資を使い果たしてしまい、さらにデスカミサードス(英語版)から聖母のように崇められていた妻エバ・ペロン(エビータ)が死去すると政策は傾きだしていった。",
"title": "歴史"
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"text": "それまでもラ・プラタ市をエバ・ペロン市に改名するなどの個人崇拝を強要するような行為は批判を浴びていたが、1954年に離婚法を制定したことからカトリック教会との関係も破綻し、支持基盤の労働者からの失望が広まったこともあり、1955年の軍部保守派によるクーデター(リベルタドーラ革命(英語版))でペロンは亡命した。フアン・ペロンの失脚後、重工業化とモノカルチャー経済の産業構造転換に失敗したアルゼンチンの経済は下降期に入り、政治的にもペロニスタ(ペロン主義者)と軍部の対立が国家の混乱に拍車をかけた。1962年には急進党のフロンディシ(英語版)大統領が軍部のクーデターで失脚させられ、軍部が実権を握ったが、このときの軍事政権は長続きしなかった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "しかし、民政移管した急進党のイリア(英語版)大統領を追放した1966年のクーデター(英語版)(アルゼンチン革命)は様子が異なり、フアン・カルロス・オンガニーア(英語版)将軍はブラジル型の官僚主義的権威主義体制をアルゼンチンにも導入した。軍事政権は外資導入を基盤に衰退する経済を成長させようとしたが、軍事政権の厳しい統制に反対するペロニスタと軍部の戦いは激しさを増し、ペロニスタから生まれたモントネーロスやペロニスタ武装軍団をはじめとする都市ゲリラと軍部との抗争で多くの犠牲者が出るなど、さながら内戦の様相を呈していった。しかし、1969年にコルドバで起きたコルドバ暴動(英語版)(コルドバソ)を受けると軍事政権は穏健政策に転じ、テロの応酬を収めるためにペロニスタを議会に戻すことを決断した軍部は自由選挙を行った。",
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"paragraph_id": 28,
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"text": "1973年のこの選挙では正義党(ペロン党)が勝利し、亡命先からフアン・ペロンが帰国して三たび大統領に就任した。しかし、ペロンは翌1974年に病死し、1974年に副大統領から世界初の女性大統領に昇格した妻のイサベル・ペロンは困難な政局を乗り切れないまま拙劣な政策を積み重ね、治安、経済ともに悪化の一途を辿った。",
"title": "歴史"
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"text": "1976年3月にホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍がクーデター(アルゼンチン・クーデター(英語版))を起こしイサベル・ペロンをスペインに追い払い、再び官僚主義的権威主義体制(国家再編成プロセス)がアルゼンチンに生まれた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 30,
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"text": "ビデラ政権は1966年の軍事政権よりもさらに強い抑圧・弾圧を進め、周辺の軍事政権と協調した「汚い戦争」、コンドル作戦によりペロニスタや左翼を大弾圧したことで治安回復には成功したものの、ブラジル風に外資を導入して経済全体を拡大しようとした経済政策には大失敗し、天文学的なインフレーションを招いた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "軍事政権は行き詰まり、1982年に就任したガルティエリ大統領は、イギリスが1833年以来実効支配を続けているマルビナス諸島(英:フォークランド諸島)を奪還しようと軍を派遣して占領したが、当初うまくいくと思われたこの行動はサッチャー首相の決断によりフォークランド紛争(マルビナス戦争)に発展し、イギリスの反撃に遭って失敗した。建国以来初めての敗戦によって高まった国民の不満を受けたガルティエリ大統領は失脚し、軍事政権は崩壊した。しかし、この戦争はアルゼンチンとほかのラテンアメリカ諸国との絆を強め、ラテンアメリカの一員としてのアルゼンチンのアイデンティティのあり方に影響も与えた。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "1983年に、大統領選挙と議会選挙が行われ、急進党が久々に政権に返り咲いた。大統領に就任したラウル・アルフォンシンは、軍政期からのインフレや対外債務問題、マルビナス戦争による国際的孤立などの厳しい政局の中、アウストラル計画に失敗し、経済面では成功を収めることができなかったものの、長年敵対関係が続いていたチリやブラジルとの関係を大幅に改善し、この融和路線はのちのメルコスール形成につながった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "また、アルフォンシンは軍政時代に人権侵害(投獄、拷問など)を行った軍人を裁き、軍の予算や人員、政治力を削減した。こうした政策に対して3度にわたる軍部の反乱もあったものの、アルフォンシンは結果として軍部を文民の統制下に置くことに成功した。アルフォンシンは任期を5か月残して1989年に辞任した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 34,
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"text": "1989年に就任した正義党(ペロン党)のカルロス・メネムは、1990年の湾岸戦争に南アメリカで唯一軍を派遣し、1991年には非同盟諸国首脳会議から脱退するなど、先進国との国際協調路線を標榜し、孤立していたアルゼンチンを国際社会に復帰させた。軍事面でもメネム時代には「汚い戦争」に携わった軍人の恩赦が認められた一方で、核軍縮や徴兵制の廃止など、軍部の権力の制限がさらに進んだ。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "一方で経済面では、当初公約で掲げていたペロニスモ路線(社会民主主義)とは180度異なる新自由主義政策をとった。社会インフラや年金をも民営化した新自由主義政策は成功したかに見え、メネム特有のネオ・ポプリスモ政策と対ドルペッグ固定相場政策で長年の懸念だったインフレーションを抑制し、アルゼンチン経済を持ち直したかに見えたが、1997年ごろにはこの政策の無理が徐々に明らかになっていった。1999年の大統領選挙では急進党のフェルナンド・デ・ラ・ルアが勝利したが、すでに経済は危険な水準に達しており、IMFからの援助や公務員給与の削減なども効果はなく、最終的にはドルペッグ制の破綻をきっかけに、2001年にデ・ラ・ルアは債務不履行を決行した。なお、アルゼンチンはそれまでに6回の債務不履行(1827年、1890年、1951年、1956年、1982年、1989年)を経験しており、2001年の債務不履行は通算7回目となる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 36,
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"text": "アルゼンチン経済の崩壊後、アルゼンチンの世界的な評価は地に落ちた。政治面では大統領が次々と入れ替わる大混乱に陥り、社会的にもデモや暴動が多発する異常事態に陥った。しかし2003年に正義党左派から就任したネストル・キルチネルの下で、政治は安定を取り戻し、それまでの新自由主義、市場原理主義と決別した。富裕層優遇をやめ、国民の大多数を占めている貧困層を減らし、中間層へと移行させるなどより、公正な社会を目指す政策を実行した。経済的な再建も進んだ。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2007年10月、正義党からキルチネルの妻のクリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネルが、同国史上初の「選挙による」女性大統領に就任した。就任演説で「雇用と工業・輸出・農業を基礎とする新しい多様化した経済基盤」を構築すると述べた。2007年の経済成長率は8%を記録し、近年のアルゼンチンはリーマンショック以降の世界的不況とは裏腹に好調を維持していた。しかしアメリカ合衆国のヘッジファンドが、2001年におけるデフォルト時に債務削減に同意しなかった債権者から返還凍結中の債務を買い取り、全額支払いを求め2014年にアメリカ合衆国において訴訟を提起した。連邦最高裁判所はヘッジファンド側の訴えを認めた。アルゼンチン政府はヘッジファンド側との交渉を続けたが和解に漕ぎ着けず、防衛的措置として「計画的債務不履行」を決行した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2015年11月の大統領選挙では、親米・新自由主義政策による経済復興を主張した中道右派のマウリシオ・マクリが勝利した。ルネル時代以前にとられていた格差縮小や富の再分配の重視といった社会主義的な政策よりも、国際金融資本・グローバル資本の利益を重視して経済成長を目指す新自由主義を中心とした政策へと回帰しつつあるとされた。しかしながら、緊縮財政により経済は崩壊しデフォルト危機になった。IMFの主導による社会保障削減策で国民への負担が重くのしかかる一方、マクリ大統領のパナマ文書での租税回避行為が暴露されたことで反政府デモが勃発した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2019年の大統領選挙では左派のアルベルト・フェルナンデスがマクリ大統領を破って当選し、4年ぶりに左派政権が復活することになった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "新型コロナウイルスの感染拡大を理由に債務返済を停止。2020年5月22日、同日が期限だった約5億ドル相当の国債利払いが行われなかったことをもって、通算9回目のデフォルト(債務不履行)に陥った。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2023年8月25日には、アルゼンチンがサウジアラビアなどと共に2024年1月1日からBRICSに正式加盟することが決定した。アルゼンチンなどの6カ国共に加盟後も「BRICS」の名称に変更はないとされる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "大統領を元首とする連邦共和制国家であり、内閣、上下両院制の複数政党制議会を備える。大統領・副大統領ともに直接選挙で選ばれ、その任期は4年(かつては6年)。現職大統領の大統領選挙への再出馬(当選した場合は再選)は1回のみ認められている。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2007年10月の大統領選挙では、イサベル・ペロンに次ぐ同国2人目(選挙によるものでは初)の女性大統領、クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネルが誕生している。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2015年10月25日の大統領選挙(1回目の投票)では過半数の得票を獲得した候補者が現れず、翌11月22日に実施された上位2候補による決選投票の結果、「共和国の提案」「急進市民同盟」(以下、急進党)らが推す保守系のマウリシオ・マクリが当選した。ただし、大統領選(1回目)と同日に行われた議会選挙(上院の3分の1と下院の約2分の1を改選)では正義党が引き続き比較第一党の座を上下両院で維持したため、連立3党(急進党系の地域政党を含めると4党)は議会内では少数派となる。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "大統領と内閣は行政権を行使し、内閣首席大臣(Jefe de Gabinete de Ministros)を含む内閣の大臣は大統領によって任命される。大統領による職務執行が一時的(療養など)または永続的(弾劾・辞任・死去に伴う欠位が発生した場合)に困難となったときは副大統領がそれを代行、もしくは大統領に昇格する。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "内閣首席大臣(官房長官と和訳される場合も)職は、閣内の意見集約に加え、行政(中央政府)の代表者として立法(議会)および地方政府(連邦構成州・各種自治体)との渉外・調整も担当する。韓国における国務総理(首相)職に類似しているが、アルゼンチンでは副大統領が正職欠位時の代行者であると憲法で既定されているため、その権限はより限られたものとなっている。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "下院の与党系会派から選出される場合が多いが、必須条件とはなっておらず、カピタニッチ(上院議員・州知事などを歴任)や経済学者のコロンボ(国立銀行総裁を経てルア政権2人目の首席大臣に就任)のように、非下院系および民間からの起用事例も存在する。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "他の大臣職同様、議会に対しては責任を負わないため、仮に議会内で与党が少数派に転落しても野党側から首相を選ぶ義務はなく、所属勢力の異なる大統領と首相が併存する、いわゆる「ねじれ現象」は発生しないが、逆転の度合いによっては大統領の求心力が低下し、政情流動化の原因となる可能性はある。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "急進党のラウル・アルフォンシンが政権を担当していた80年代後半ごろより首相制導入論(権限の一部を首相に移譲することで大統領を激務から解放するのがその趣旨)は存在していたが、構想が具体化したのは正義党(ペロン党)出身のカルロス・メネムに政権が引き継がれてからである。1994年に議会を通過、大統領の署名により成立した憲法改正案には、首相ポストの追設のほか、大統領任期の6年から4年への短縮と再選禁止条項の撤廃が含まれていた。施行直後に実施された大統領選挙(1995年5月)ではメネムが再選を果たし、翌々月の組閣でエドワルド・バウサを初代首相に任命した。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "旧正義党政権(左派)を率いたキルチネル夫妻からの信任が厚く、ネストル・キルチネル政権ではネストルの大統領就任から退任まで、クリスティーナ・キルチネル政権でも再任(成立を目指していた輸出税関連の法案が上院で否決されたことなどを理由に中途辞任)されているアルベルト・フェルナンデス元内閣首席大臣の約5年2か月(2003年5月 - 2007年12月、2007年12月 - 2008年7月)を除くと、内閣首席大臣の平均的な在任期間は現在2年前後となっているが、経済が混乱を極めていた2000年代の初頭には短命の内閣が続き、現政権党(共和国の提案)の総裁・ウンベルト・チャボニの首相在任期間はわずか4日となっている。11年ぶりに内閣首席大臣職に復帰したホルヘ・カピタニッチ元首相(2013年11月 - )も、1度目(エドワルド・ドゥアルデを大統領代理とする暫定政権)の在任期間は約4か月(2002年1月 - 2002年5月)であった。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2015年12月に発足した現連立内閣では、内閣首席大臣を含む全21の大臣ポスト中、政権党の「共和国の提案」に首相・外相など10ポスト、与党第一党の「急進党」(国会の議席数では政権党を上回るため)に防衛・通信など4ポスト、「市民連合」には蔵相・公安の2ポストがそれぞれ割り当てられ、残りの5名は民間などからの起用となった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "立法権は国民議会(下院)と元老院(上院)に属し、国民議会は定数257人(任期4年)、元老院は定数72人(任期6年)である。下院では2年ごとに約半数の議席が、上院も同じく2年ごとに3分の1の議席がそれぞれ改選される。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "下院の議席がドント方式によって比例配分(各州および首都圏を1選挙区とみなし、定数は選挙区ごとに異なる)されているのに対し、上院では、各州および首都圏にそれぞれ一律で3つの議席が割り当てられており、最大の得票を獲得した政党に3分の2(2議席)が、次点の政党に3分の1(1議席)がそれぞれ付与される仕組みになっている。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "下院の議員総数(各選挙区の定数)は、10年ごとに行われる国勢調査の結果に応じて見直される。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2年周期で勢力図が更新されるたびに両院の正副議長ポストの顔ぶれも変わる。下院の議長は政権党会派から選出され、3名の副議長は政権党を除く上位3会派に割り当てられる。上院では、現職の副大統領が議長職を兼任し、上院仮議長及び3名の副議長は下院同様、政権党以外の上位3会派からの選出となる。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "司法権は国家最高司法裁判所に属し、行政、立法から独立している。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "議会における比較第一党である野党「正義党」(統一会派「勝利戦線」の基軸政党)のほか、連立関係にある「急進党」(比較第二党・与党第一党)と「共和国の提案」(現政権で正副大統領・首席大臣・上下両院の議長を輩出している保守政党)、「市民連合」、正義党より分派した保守系の「新たなる選択のための連合」、穏健左派の「拡大進歩戦線」(社会党系の連合体)、「統一」(急進党の分派を含むリベラル勢力)、「左翼労働戦線」(トロツキズム的な極左政党)、5議席未満の地域政党らが国会に議席を有している。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "正義・急進両党によって政界の勢力図が二分されていた時期には、首都圏を中心に「中道民主連合」(1982年に故アルバロ・アルソガライが結成した穏健的な保守政党。以下、中民連)が一定の存在感を有していたが、事実上の与党として旧メネム政権(正義党)と協力関係に入った90年代より党勢が徐々に低迷した。2009年1月、過去2回の選挙で2%以上の得票率を獲得することができなかった同党は、司法判断によりブエノスアイレス州での政党資格が剥奪され、同年3月には、党の2007年度版収支報告書に不備があったことを理由に、政党助成金の給付も停止された。なお、前政権で副大統領を務めていたアマド・ボウドウは国政レベルの現役政治家では唯一の中民連出身者である。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "相次ぐ国軍の反乱などや度重なるデフォルトなどに見られるように、歴史上「中進国」とされてきた国々の中ではもっとも政情の安定していない国のひとつであり、この政情不安定さは1983年の民政移管後の失政や、2001年11月の経済破綻など、一連の経済不安や現在の極度に拡大した貧富格差の元凶とされている。この不安定さを国民統合が成功していない(国民全体に受け入れられる国民文化が成立していない)ことに求める言説は多い。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "2009年3月26日、上院は10月に予定されていた上・下両院の中間選挙を6月28日に行う法案を可決した。クリスティーナ・キルチネル前大統領は国際金融危機に対応する必要から議会選挙の前倒しを提案していた。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "2012年4月16日、政府はレプソル傘下のアルゼンチン最大の石油会社YPFの株式の過半数にあたる51%を取得し、同社の経営権を取得する方針を明らかにした。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "2023年11月19日(日本時間11月20日)行われた大統領選決選投票にて、ハビエル・ミレイ候補の当選が発表された。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチン軍は国防大臣によって指揮され、大統領が最高指揮官を兼ねる。兵制は志願兵制を採用している。軍隊は陸海空の三軍のほかに国家憲兵隊から構成される。歴史的にアルゼンチン軍はチリやブラジルとの軍拡競争の結果もあり、ラテンアメリカでもっともよく整備された軍隊だった。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチンはブラジルと同じように建国以来軍部の力が強く、クーデターが日常的に起きる不安定な国だった。1970年代のクーデター以降、アルゼンチン軍は都市ゲリラ排除のために国内で『汚い戦争』に従事し、8,000人とも3万人ともいわれる市民の犠牲者を出しており、これは現在でも五月広場の母の会などの訴えにより問題となっている。しかし、建国以来初の敗戦となったマルビナス戦争により軍の威信は落ち、民政移管後の1983年に長らく第一の仮想敵国だったチリとも国境線が確定され、核計画やアメリカ合衆国の肝煎りで進められていたミサイル計画が放棄されると軍は大幅に削減され、その後のいくつかの反乱計画も未然に終わるなど現在は政治力を減らしている。敗戦の結果から徴兵制を敷いていない国でもあるが、一部で復活を求める意見もある。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチン陸軍 (Ejército Argentino)は兵員4万1,400人からなる。軍団3。空挺旅団1、機械化旅団1などを擁し、装備品はTAM200両、軽戦車150両。地対空ミサイルはタイガーキャットなど。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチン陸軍は現在PKOのため、ハイチとキプロスに派遣されている。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチン海軍 (Armada de la República Argentina (ARA)) は兵員1万7,200人からなる。8基地。潜水艦3隻、駆逐艦6隻、フリゲート7隻、航空隊作戦機21機、武装ヘリ14機、フランス製シュペルエタンダール11機、エグゾセ空対艦ミサイルなど。艦艇についてはアルゼンチン海軍艦艇一覧を参照のこと。20世紀初頭に起きた日露戦争の際には、編入される予定だったイタリア製装甲巡洋艦二隻(日進 (装甲巡洋艦)、春日 (装甲巡洋艦))を日本海軍に売却譲渡し、日露戦争の勝利に貢献したという歴史的関わりを持つ。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチン空軍 (Fuerza Aérea Argentina)は兵員1万2,500人からなる。航空旅団8など。作戦機133機、武装ヘリ27機、戦闘機はA-4スカイホークなど。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2001年の債務不履行以来、アルゼンチンは諸外国に大きく不信感を持たれ、1982年のマルビナス戦争以来の国際的な孤立に陥ったが、現在は債務の返済などを軸に国際社会への復帰が進められている。アルゼンチンは南極条約締結国であるが、南極の領有権を主張している(アルゼンチン領南極)。またアルゼンチンは、フォークランド紛争に敗北したのちもなおイギリスが実効支配するマルビナス諸島の領有権も主張している。2007年12月、クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル大統領は、多国間主義とテロ根絶を強調した。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "戦前はイギリスに周辺国化され半ば属国のような様相を呈していながらも、輸出で蓄えた経済力を背景に、スペイン語圏を代表する国家として旧宗主国スペインをしのぐ勢いで権勢を誇っていた。北米において似たような立場にあったアメリカ合衆国をライバル視し、同国がモンロー主義のもとで中南米を勢力圏に入れようとしていたのに対し、ヨーロッパ諸国を重視する独自外交のもとでアメリカ合衆国とは距離を置き、常にほかのラテンアメリカ諸国とは一線を画していた。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "ビーグル水道で領土問題を抱えていたチリとは伝統的に関係が悪く、第二次大戦後は何度か戦争直前にまで陥ったこともあった。1984年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(フアン・パブロ2世)の仲介により、アルゼンチンが係争地のピクトン島・レノックス島・ヌエバ島のチリ帰属を認め、領土問題において妥協することにより友好関係が確立された。しかしその後、2004年に事前に連絡なくチリへの天然ガスの輸送を停止してしまったことが大きな外交問題となった。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチンの最大のライバルは隣の大国ブラジルであり、オリンピックやサッカーの大会があるたび互いに強烈な対抗意識を持って争っていたが、ラウル・アルフォンシンの融和政策が功を奏して両者ともメルコスールに加盟するなどの経済統合が進んでいる。以上のような事情により、現在のアルゼンチンはブラジルを軸としたラテンアメリカ統合を受容し、その主要国として影響力を保っている。また対外政策では一線を画しながらも、石油や天然ガスなどの資源を背景にベネズエラの歴代政権との友好関係が続いている。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパとの関係も重要であり、もっとも関係のよい国家はスペインである。言語が共通するために多くのラテンアメリカ人がスペインに出稼ぎ、移民として居住しているが、アルゼンチンもその例外ではなく多くのアルゼンチン人が移住している。",
"title": "国際関係"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチンは23の州(provincia)と1つの自治市(Ciudad Autónoma)*からなる。",
"title": "地方行政区分"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "ほかにイギリス領のマルビナス諸島の領有権を主張している。国土統一直後の1853年に首都令があったものの、ブエノスアイレスは1880年までは正式な首都ではなかった。",
"title": "地方行政区分"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "各州は州内でさらに小さな行政単位に分割され、県(departomentos)は合計376県にもなる。ブエノスアイレス州は県に類似した134ものpartidosに分割される。departomentos・partidosともに市町村や地域の中から分割された区分である。",
"title": "地方行政区分"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチンは北西部のアンデス山脈周辺から開発が進められたが、独立後は歴史的に外港がブエノスアイレスしか存在しなかったことを反映して、19世紀、20世紀を通して内陸部の開発は進まず、現在も極端なブエノスアイレス一極集中である。1980年代のアルフォンシン時代に、パタゴニアのリオ・ネグロ州州都ビエドマへの遷都計画もあったが、結局実行されないまま計画は凍結された。",
"title": "地方行政区分"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "2005年におけるアルゼンチンの14の大都市圏",
"title": "地方行政区分"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチンの国土は、南北に3,500キロ以上の長さに及ぶ、ブラジルについで南米で2番目に大きい国で、面積は全体で276万6,890km2になり、陸地のみでは273万6,690km2に、水域のみでは3万200km2に及ぶ。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチンでもっとも標高が高いのはメンドーサ州のアコンカグア山(6,962メートル)であり、これは米州と西半球全体でもっとも高い山でもある。反対にもっとも標高が低いのはサンタ・クルス州のカルボン湖であり、海抜マイナス105メートルは南アメリカ大陸全体でももっとも低い。国土の中心はラ・パンパ州の南西である。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチンは、中華人民共和国と、北部の一部は中華民国(台湾)、南部の一部はモンゴル国やロシア(シベリア)の対蹠地である。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチンは1904年から南極大陸の領有権を主張している。イギリスが実効支配しているマルビナス諸島の領有権も主張している。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチンは伝統的にいくつかの地理的な区分に分けられる。北は亜熱帯に属し、熱帯雨林が形成されている。西にアンデス山脈、東にはパンパと呼ばれる大草原が広がる。パンパは国土の約25%を占める。ウルグアイ川とパラナ川に挟まれた地方は、メソポタミア地方でパンパと同じく草原地帯である。南緯40度付近に位置するコロラド川以南をパタゴニア地方と呼び、荒涼たる砂漠が広がっている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "パンパは国土の約25%を占め、アルゼンチンの富の多くを生み出している。ブエノスアイレスの西と南に広がる草原は湿潤パンパ(スペイン語版、英語版)と呼ばれ、ブエノスアイレス州とコルドバ州のほぼすべてと、サンタフェ州とラ・パンパ州の大部分を占める。ラ・パンパ州の西部は半乾燥パンパ(スペイン語版、英語版)になっている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "湿潤パンパ(スペイン語版、英語版)は年間降水量が750ミリ以上で、アルファルファ(マメ科・栄養があり、土地を豊かにする牧草)・トウモロコシなどを栽培し、牧牛をしている。半乾燥パンパ(スペイン語版、英語版)は年間降水量が550ミリ以下で乾燥に強い牧羊をしている。移行地帯では小麦(年間降水量が550 - 750ミリが適当)の栽培をしている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "コルドバ州西部のコルドバ山脈はサン・ルイス州まで延び、パンパの中ではもっとも重要な地域となっている。パンパとパタゴニアの境界線は、かつてはコロラド川だったが、現在はネグロ川となっている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "グラン・チャコ地方はアルゼンチン北部に位置し、雨季と乾季がはっきりと分かれ、おもに綿花の栽培や家畜の飼育が盛んである。こうした地域はチャコ州とフォルモサ州の大部分を占める。植生としては亜熱帯雨林や低木林地や湿地帯が点在し、多くの動植物が生息する。サンティアゴ・デル・エステロ州はグラン・チャコの中でもっとも乾燥した地域である。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "パラナ川とウルグアイ川に囲まれた地域はメソポタミア地方と呼ばれ、ミシオネス州、コリエンテス州とエントレ・リオス州が属する。かつてはグアラニー人が多く住んでいた土地で、文化的にはパラグアイやウルグアイに近く、牧草地や植物の育ちやすい平坦な土地が特徴であり、コリエンテス州中部にイベラ湿地(英語版)が存在する。ミシオネス州はより熱帯に近く地理的にはブラジル高原に属し、イグアスの滝と亜熱帯雨林が特徴である。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "ネウケン州、リオ・ネグロ州、チュブ州、サンタ・クルス州にまたがるパタゴニアのステップは先住民の地域である。多くの地域では雨が少なく、北は寒くて南は不毛の地であるが、西部の周辺には森林があり、後述するようにいくつかの大きい湖も点在する。ティエラ・デル・フエゴ州は寒く湿っており、大西洋からの海流の影響で多少は過ごしやすい。パタゴニア北部(ネグロ川以南のリオ・ネグロ州とネウケン州)はコマウエ地域と呼ばれることがある。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチン中西部はそびえるアンデス山脈に支配されている。同地域の東部は乾燥したクージョ地域として知られており、クージョ(Cuyo)という名前もマプーチェ語で「砂地」という意味の言葉からきているとされている。高山から溶けてきた水は低地のオアシスの灌漑用水となり、メンドーサ州とサン・フアン州を豊かな果実とワインの生産の中心としている。さらに北の地域、ラ・リオハ州などは地理的な理由でより暑く、乾燥した地域になる。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "北西部地域はアルゼンチンでもっとも海抜の高い地域であり、6,000メートルを超えるいくつかの平行なアンデス山脈が領域を貫いている。これらの山脈は北方に向かって延びており、それらは肥沃な流域によって分断され、その中でももっとも重要な渓谷はカタマルカ州、トゥクマン州、サルタ州に広がるカルチャキ渓谷(スペイン語版、英語版)である。フフイ州北部のボリビア国境付近からは、中央アンデスのアルティプラーノ高原が広がる。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "国土西部を南北にアンデス山脈が貫き、アルゼンチンの山地や国内最高峰のアコンカグアをはじめとする高山の多くはこの地域に集中する。コルドバ州の西部にもコルドバ山脈が存在するが、標高はあまり高くない。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチンの主要な河川はピルコマジョ川、パラグアイ川、ベルメホ川、 コロラド川、ネグロ川、サラド川、ウルグアイ川などであり、国内最長の河川はブラジルから流れるパラナ川である。ウルグアイ川とパラナ川は大西洋に流れ出る前に合流し、ラ・プラタ川の河口を形成する。各地域ごとに重要な河川としてはアトゥエル川(スペイン語版、英語版)、メンドーサ州と同名のメンドーサ川、パタゴニアのチュブ川、フフイ州のリオ・グランデ川(スペイン語版)、サルタ州のサン・フランシスコ川(スペイン語版)などがある。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "パタゴニアを中心にいくつかの大きな湖が存在する。アルヘンティーノ湖とビエドマ湖がサンタ・クルス州に、ナウエル・ウアピ湖がリオ・ネグロ州に、ファグナーノ湖がティエラ・デル・フエゴ州に、コルウエ・ウアピ湖とムステル湖がチュブ州に、ブエノスアイレス湖とサン・マルティン湖はチリとの国境を形成している。国内でもっとも大きい塩湖はマール・チキータである。アルゼンチンの多数の貯水池がダムによって作られている。エントレ・リオス州にはテルマス・デ・リオ・オンドなど、水温は30°Cから65°Cの温泉があり、川を挟んで対岸のウルグアイ北部にも温泉がある。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチンは4,665キロの海岸線を有している。大陸の上陸可能地点は非常に広く、アルゼンチンではこの広大な大西洋の浅瀬はアルゼンチン海と呼ばれる。海中には多くの魚が住み、炭化水素エネルギー資源を保有していると予想されている。アルゼンチンの沿岸は砂丘と崖に挟まれている。沿岸に影響を及ぼしている2つの海流のうち、暖流はブラジル海流であり、寒流はフォークランド海流(スペイン語では大西洋海流、もしくはマルビナス海流)である。沿岸の大地では不規則な形状のため、2つの海流は気候に対して相互に影響し、高緯度地方においても気温を下げさせない。ティエラ・デル・フエゴの南端はドレーク海峡の北岸を構成している。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチンにはマルティン・ガルシア島という飛地がある。パラナ川とウルグアイ川の合流点付近に存在し、約1キロほどウルグアイの水域に入っており、3.5キロほど離れたウルグアイの沿岸にはマルティン・チコ(ヌエバ・パルミラとコロニア・デル・サクラメントの中間)が存在する。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "一世紀にわたる両国紛糾の末に、アルゼンチンとウルグアイは1973年に島の管理権について合意に達した。協定に従って、マルティン・ガルシアは排他的自然保護区として用いられることとなった。面積は約2kmであり、住民は約200人である。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "地域によって大きく異なるが、亜熱帯、温帯、乾燥帯、寒帯の4つに大別される。北部は非常に蒸し暑い夏と、穏やかで乾いた冬があり、周期的に旱魃に見舞われる。アルゼンチン中部では雷を伴う大嵐(西部では世界でもっとも多くの雹が降る)のある暑い夏と、涼しい冬がある。南部は暖かい夏と、特に山岳地帯では豪雪に見舞われる寒い冬がある。すべての緯度の地域において、標高の高い地点では冷たい気候となる。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "南米における観測史上での最高気温と最低気温はともにアルゼンチンで観測された。最高気温の49.1°Cは1920年1月20日にコルドバ州のビジャ・デ・マリアで記録された。最低気温の-39°Cは1972年7月17日にサン・フアン州のビジャ・デ・ロス・パトース・スペリオールで記録された。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "IMFの統計によると、2018年のアルゼンチンのGDPは約5,194億ドルと世界21位であり、南米ではブラジルに次ぐ2位である。一人当たりのGDPは1万1658ドルで、こちらはウルグアイ、チリに次いで南米3位である。アルゼンチンはメルコスール、南米共同体の加盟国である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチンでは幅広い産業が行われている。農産物は、主要輸出品目は小麦、トウモロコシ、牛肉、ワインなどに加え、2000年代以降は大豆の生産も盛んになっている。2019/2020年度時点で大豆の生産量がブラジル、アメリカに次いで3位の約13%を占めており、大豆輸出量世界第4位である。トウモロコシの生産量はアメリカ、中国、ブラジルに次いで4位。その他にも小麦、ヒマワリ油、グレーンソルガムなどがある。アルゼンチンは牛肉の生産量が2020年度世界4位で、国内消費も肉類の中では最多である。ただし、同年、豚肉や鶏肉の消費量も増加傾向にある。2020年の1人当たり年間豚肉消費量は10年前と比較して77%増であった。アルゼンチンは世界第8位の国土面積を持つ。その広大な土地を活かし、チリ近郊では鉱業が盛んである。鉱業生産は、パタゴニアの石油と、近年は天然ガスも有望視されている。また、2010年代以降、カタマルカ州やフフイ州の塩湖がリチウムの生産源として注目されている。しかし、水質汚染、先住民の人権侵害、開発に関する事前協議がないことなどの環境保護活動が活発なため、開発が不十分である。アルゼンチン国内にフォード、GM、トヨタなど完成車メーカー10社が自動車を生産している。主に国内農業で使用されるピックアップトラックや多目的車が製造されている。2020年に新型コロナウイルスの影響でバス・トラックを除く自動車生産台数は2004年以降初めての30万台を下回った。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "2度の世界大戦にいずれも直接関与せず、各国への農畜産品の輸出により大きな利益を得た20世紀半ばまでは、世界有数の富裕国であった。第二次世界大戦後、国民主義志向のフアン・ペロン政権は、保護主義的な工業化偏重政策をとるが、産業構造の転換に成功せず、次第に経済が低迷した。ペロン以降顕著になった、福祉のための放漫財政や、彼の残した労働組合(CGT)の強さにより、投資のしづらい国となり、1960年代以降に頻発した政変に加え、1982年のフォークランド紛争とその敗北、民政移管後も長年の放漫財政のツケや敗戦のショックの影響で混迷する経済状況に安易なポプリスモで対処したため、累積債務は雪だるま式に増えていった。特に1988年から1989年の間には5,000%というハイパーインフレーションを記録、物品の価値は1年間で50倍に跳ね上がり、ペソは紙屑同然と化し、経済は崩壊状態となった。結局、アルゼンチンは1989年に対外債務のデフォルトを宣言した。この間の混迷による富裕層の没落、中産階級の海外流出が続くなど、経済は混迷の度を深めた。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "その後、1988年から親米・親IMF路線を掲げたカルロス・メネム政権の新自由主義路線により、1990年代には年率9%にも達する経済成長を遂げるなど、一時的に回復した。しかし、1999年に起きたブラジルのレアル切り下げでペソが相対的に高くなり、輸出競争力を喪失、国際収支は悪化した。結果的に通貨危機(ペソの対米ドルペッグ制崩壊)により完全に暗転、2001年11月14日には国債をはじめとした債務のデフォルトを宣言する事態に陥り、経済が再び破綻。国際的な信用や評価は地に落ちた(アルゼンチン通貨危機)。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "2度目のデフォルトにより国内の貧困も拡大し、1980年代に国民の約60%を占めていた中間層は、2005年には国民の約20%となり、他方貧困率は2002年には53%に達し、イタリアやスペインに職を求め大量の国民が流出、その中には医者・弁護士などの知識層も少なくなかった。かつてラテンアメリカで比類なき中流層の国であり、「南米の指導者」としての影響力も備えていたアルゼンチンは没落し、政経両面でチリやブラジルに抜かれる形となった。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "このようにペロン政権以来、一貫した経済政策がとられなかったツケが回り、21世紀に入って早々に経済が破綻してしまったものの、2002年に変動相場制を導入し、通貨安のために輸出が拡大してからは持ち直し始め、2003年に就任したネストル・キルチネル政権は、IMFの干渉を排除するため、100億ドル近い債務を完済し、2000年末の経済破綻直後の失業率24%を、2006年5月には11.4%にまで改善した。さらに、2003年から2007年まで平均約8%の高成長を続け、2006年7月9日の独立190年記念式典でキルチネルは「われわれはIMFにチャオ(さよなら)を告げた」と演説するなど、経済危機から立ち直りつつあった。しかし、再び対外債務率が上昇、2010年には債務額を大幅にカットする形で債務交換を強行して9割以上の債務を再編、アメリカ合衆国との国際問題に発展した。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "現在はメルコスール加盟国であることにより、南米諸国との経済交流の活発化による諸外国からの投資の増大に、経済の復活を賭けている。特にブラジル、ベネズエラとは政治面でも関係を深め、ベネズエラからの南米大陸縦断天然ガス輸送管の設立も計画している。アルゼンチンは一向に回復しない内需、および内需不振の主要な一因である人口の3〜4割に達する貧困層の存在など課題が山積している中で、これらを解消しつつ、どのようにして競争力のある新しい産業を育てるか、あるいは国内の法制度、政治文化などの歪みからくる投資リスクをいかに下げるかなどにかかっている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "2020年12月3日、アルゼンチン・カトリック大学の社会負債調査研究所が調査結果を公表し、貧困層が人口全体の44.2%(前年同期は40.8%で3.4ポイント増)に達していること、失業率は14.2%(前年同期は10.6%で3.6ポイント増)に悪化していることが示され、景気低迷に加えて新型コロナウイルス感染症の世界的流行の影響が指摘されている。2022年10月には、世界的な物価高騰の影響を受け、物価上昇率は前年同月比+88.0%になっており、年末には100%に達するとの予測が出されている。貧困率は、2022年上半期には36.5%に達した。",
"title": "経済"
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"tag": "p",
"text": "アルゼンチンの2021年の名目GDP(国内総生産)は4,867億ドル、実質GDP(国内総生産)は5,681億ドルである。これは、2021年世界の名目GDPランキングの29位である。2021年のGDP成長率は、前年比10.4%と2017年以来4年ぶりのプラス成長となった。",
"title": "経済"
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{
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"tag": "p",
"text": "2021年の貿易収支は黒字で、輸出額は前年比42.0%増の779億3,400万ドル、輸入額は49.2%増の631億8,400万ドルである。",
"title": "経済"
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"text": "アルゼンチンの主要な輸出相手地域・国は、ブラジル (15.1%)、EU27 (12.7%)、中国 (8.1%) である。一方、アルゼンチンの主要な輸入相手国は、中国 (21.4%) 、ブラジル (19.6%) 、米国 (9.3%) であり、自動車及び同部品、燃料(ガス、軽油など)を主に輸入している。",
"title": "経済"
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{
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"tag": "p",
"text": "2021年度全期の日本からアルゼンチンへの輸出額は、前年度比54.6%増の988億円で、自動車及び部品を主に輸出している。日本のアルゼンチンからの輸入額は、前年度全期額の約2.3倍の1,157億円で、トウモロコシ、大豆などの穀物、大豆油かすなどの食品加工品を輸入している。(前年度は新型コロナウイルスの感染拡大で経済が停滞した。)",
"title": "経済"
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"tag": "p",
"text": "日本は、アルゼンチンの輸出相手国として28位、輸入相手国としては11位である。",
"title": "経済"
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{
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"text": "アルゼンチンのインフラは他のラテンアメリカ諸国に比べると良好である。約21万5,471キロの道路網と734キロの高速道路があり、その多くが民営化された。多車線の幹線道路は現在いくつかの主要都市を結び、さらに現在工事中である。",
"title": "交通"
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{
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"text": "アルゼンチンの鉄道網は総延長3万1,000キロ以上である。ブエノスアイレスの地下鉄(Subte、スブテ)はスペイン語圏、ラテンアメリカ、南半球全域の中でもっとも早く建設された。",
"title": "交通"
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{
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"tag": "p",
"text": "アルゼンチンには約3,000キロに及ぶ水路があり、多くはラ・プラタ川、パラナ川、ウルグアイ川、ネグロ川、パラグアイ川を通行する。",
"title": "交通"
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{
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"tag": "p",
"text": "アルゼンチンの国民はヨーロッパ系が85%、メスティーソおよびインディヘナなどが15%である。もっともヨーロッパ系アルゼンチン人の占める比率は89.7%から97%と資料によって大きな差があり、近年の研究では実はアルゼンチン国民の56%に先住民の血が流れていることが明らかになっており、自らを白人だと認識しているアルゼンチン人の過半数に、実は先住民の血が流れていることになる。",
"title": "国民"
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"text": "ヨーロッパ系アルゼンチン人にはイタリア系、スペイン系、ドイツ系の住民が多く、中でもイタリア系が一番多い。このイタリア系統の荒い言葉遣いが現在のアルゼンチン人全体の性格に受け継がれているため、アルゼンチンのスペイン語にはイタリア語のナポリ方言の影響が強く見られる。イタリア移民が多いので第二のイタリアと認識されることもあった。",
"title": "国民"
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"paragraph_id": 118,
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"text": "アルゼンチン人はしばしば「燃えたぎるような愛国者」と形容され、自国への批判に異常に敏感であるが、その一方で概して国を批判する傾向がある。強烈な個人主義者としても知られ、「ビベサ・クリオージャ」と呼ばれるクリオージョ的な人を出し抜く抜け目のなさと、アミーゴと家族以外の非人間的な政府や社会といった組織は信用できないという心性からくる、人を出し抜くような行為によって不快な思いをさせられ、アルゼンチン人はアミーゴ以外には不親切であるという人間も出るのである。これはアルゼンチン人が国家に代表される抽象的なものよりも、友情といった具体的な対象への強く忠誠を抱くことの裏返しでもある。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 119,
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"text": "ペルーの文学者、マリオ・バルガス・リョサは「アルゼンチンの誇り高さは病癖であり、ほかのラテンアメリカ諸国から批判されても仕方がない」と述べた。アルゼンチン人は自国を選良であると思ってきたが、こうした優越感と劣等感はその選良意識の裏返しであり、強い愛国心の称揚の一方で行われる自国への強烈な批判は、国家が自分に十分な誇りをもたせてくれるには足りない存在であることの裏返しである。こうしたことの起きる原因としては、19世紀半ば以来の自由主義化、ヨーロッパ化がアルゼンチン国民全体に受け入れられるような国民文化を育てることができなかったためだといわれている。ただしガウチョのような例外もあり、アルゼンチン人はガウチョであることを誇る。",
"title": "国民"
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"text": "五月革命が起きた1810年に70万人だった人口は、ウルキーサがロサスを打倒した直後の1853年には90万人となり、その時点では純粋な白人は6万人ほどで残りはメスティーソや黒人やインディヘナだった。",
"title": "国民"
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"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "カセーロス以降自由主義者の政権はヨーロッパから移民を大量導入すると、アルゼンチンの人口は増加し、1869年の初の公的な人口調査では約175万7,000人だった。その後、1900年には454万3,000人、1930年には1,200万5,000人、1940年には1,416万9,000人、1950年には約1,709万人、1960年センサスでは2,006万5,691人、1975年には約2,538万人、1983年年央推計では約2,963万人となった。2005年の見積もりによると、人口は3,874万7,000人と推測され、これは南米大陸の国家で3番目に多い。",
"title": "国民"
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"paragraph_id": 122,
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"text": "2005年度の人口密度は1km2あたり14人になるが、人口は均衡を持って配分されているわけではなく、特にブエノスアイレス市周辺に集中しており、ブエノスアイレス市では人口密度が1万4,000人/km2になるのに対して、パタゴニアの最南部のサンタ・クルス州では1人/km2以下となる。アルゼンチンは南米で唯一純粋な移民の増加率が0.4%を超える国である。",
"title": "国民"
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"text": "2021年現在では4527.7万人になっている。",
"title": "国民"
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"paragraph_id": 124,
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"text": "19世紀半ばの国家の西欧化=白人化を望んだ自由主義者が勝利し、1853年憲法の第25条や、1876年の移民法の制定によってヨーロッパ移民が大量導入されると、次第に都市からは黒人が、パンパからはインディヘナやガウチョが姿を消し、以降アルゼンチンは白人国家であることを誇り、アイデンティティにするようになった。",
"title": "国民"
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"paragraph_id": 125,
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"text": "20世紀に入ってからマイノリティが特にブエノスアイレスで目立たない存在になると、自らをヨーロッパになぞらえて、(ヨーロッパから見れば)「文化のない」アメリカ合衆国や、人種的優越感やラテンアメリカ一の経済大国であったことによる自信により、ラテンアメリカ諸国を見下す傾向と、ラテンアメリカとの連帯よりもヨーロッパとのつながりを重視する傾向があり、折からのアルゼンチンの経済的な発展への羨望とあいまって、同国がラテンアメリカ諸国から嫌われる大きな原因となった。 純粋な南欧系と比較すると小柄で、風貌も若干異なる人が少なくないことから、先住民系の血も少なからず受け継がれていることがわかるが、それでも現在のところアルゼンチン人の主要意識は白人国家、南米のヨーロッパであることに変わりはない。ただし、マルビナス戦争でヨーロッパ(EC)と敵対し、反対にラテンアメリカ諸国の支援を受けたことから、状況は多少変わってきている。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 126,
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"text": "1837年の世代や1880年の世代に代表される19世紀の自由主義者はアングロ・サクソン移民を多く招いてアルゼンチンを非ラテン化したかったようだが、現実的に1871年から1913年までに定着した317万人のヨーロッパ移民としてはイタリア人(イタリア系アルゼンチン人)、スペイン人が特に多かった。その他にはフランス人、ロシア人、ドイツ人、オーストリア人、イングランド人、ウェールズ人、クロアチア人、ポーランド人、ポルトガル人、スイス人、ベルギー人、アイルランド人などが続き、ロシア系はほとんどがアシュケナジムだった。そのほかにはレバノン、シリアから移民したアラブ人(アラブ系アルゼンチン人)やブラジルなどから再移住した日本人(日系アルゼンチン人)、スペイン内戦の共和派の亡命者や、第二次大戦前にナチスに追われて逃げてきたドイツからのユダヤ人、そして戦後ナチスの残党として亡命してきたドイツ人などがいる。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 127,
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"text": "おもなマイノリティとしてパラグアイ、ボリビア、ペルーなどから出稼ぎにきた移民がいるほか、メスティーソ、ユダヤ人、アフリカ系アルゼンチン人、アジア系アルゼンチン人がおり、先住民としてアンデスにケチュア人とアイマラ人、パタゴニアにマプーチェ人やテウエルチェ人などがいる。19世紀後半までネグロ川北部に20万人ほどいたパンパの狩猟遊牧インディヘナは、1878年に開始されたフリオ・アルヘンティーノ・ロカ(英語版)将軍の砂漠の征服作戦(英語版)により2万人にまで減少し、以後パンパからはほとんどいなくなった。現在のインディヘナの総人口は42万人になっている。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "アラブ系のコミュニティもあり、コミュニティからはカルロス・メネム大統領を出している。大部分のアラブ系アルゼンチン人はカトリック教会か正教、東方典礼カトリック教会などを信仰している。アジア系アルゼンチン人は日系、中国系、韓国系、ベトナム系などを合わせて13万人を超える。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 129,
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"text": "ユダヤ人はヨーロッパからのアシュケナジムがほとんどだが、シリアからのセファルディムも15 - 20%ほどいる(詳細はユダヤ系アルゼンチン人を参照)。経済的にユダヤ系の力が強いため、アルゼンチン社会、特に軍部の反ユダヤ主義は根強く、軍事政権下では「汚い戦争」の中で、ユダヤ人がイスラエルの兵器で弾圧されるという矛盾も起きた。アルゼンチンへのユダヤ人移民は、モーリス・ヒルシュ男爵(英語版)の基金がスポンサーであった。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 130,
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"text": "アルゼンチンの不法移民は大多数が国境を接するボリビア、パラグアイから来ており、少数はペルー、エクアドル、ルーマニアなどからもやってきている。アルゼンチン政府はこうした不法移民の数を75万人と見積もっている。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 131,
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"text": "アルゼンチンの都市人口率は昔から非常に高く、それは現在まで変わっていない。353万人がブエノスアイレス市に、1,240万人が大ブエノスアイレス都市圏に住んでいる。第2、第3の都市圏はコルドバとロサリオであり、それぞれ130万人と110万人の都市圏を構成している。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 132,
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"text": "19世紀以降に移民したほとんどのヨーロッパ移民は、大土地所有制が崩れずに入植地の所有権が手に入らなかったため、最終的に都市に落ち着き、仕事や教育などさまざまな機会を得て中間層となっていった。多くは鉄道網に沿って成長していた小都市に住み着いたが、1930年代に入ると小都市から大都市への国内移民が行われた。",
"title": "国民"
},
{
"paragraph_id": 133,
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"text": "1990年代に入り国営鉄道民営化が行われた結果、旅客列車の運行が中止された路線が増え、小規模工業が外国製の安い製品との競争に敗れて消えていくと、田舎町にはゴースト・タウンになるものも現れた。また、\"Villa Miseria\"と呼ばれる不法占拠の建物密集地(いわゆるスラム)が大都市の空き地に見られるようになり、鉄道民営化以降増加した。国営企業民営化および民間企業破綻で失業した下層労働者と北西部の小さな町からの移住者が最初にそこに家を建て、次にさらに大きな数の近隣諸国からの移民(移民の人々が住民の半数以上を占めるといわれる)がそこに新たに家を建てるか、増築するなどをしながら住んでいる。これらの家の中には電気がひかれ、エア・コンディショナーや冷蔵庫も存在し、営業店舗にもなっている建物もある。ただし、沼地のような場所の上に存在する建物は衛生上に問題があり、密集した環境が犯罪組織の温床になりかねないとして、政府はアパートを建設し、そこに不法占拠の住民を移住させる政策を行っているが、資金不足によりなかなか進んでいない。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 134,
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"text": "アルゼンチンの都市はヨーロッパ移民の影響が反映されているため、非常にヨーロッパ的である。多くの都市はスペイン風に広場を中心に建設され、カテドラルと重要な役所(カビルド)は広場に面して建てられる(ただし、ブエノスアイレスは1850年代以降フランスのパリを忠実にモデルにして改造された)。一般的に都市の配置はダメロと呼ばれる碁盤目上であるが、19世紀末にワシントンD.C.をモデルに建設されたラ・プラタ市など近代的な計画都市はこの様式からかけ離れていることもある。",
"title": "国民"
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"paragraph_id": 135,
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"text": "2022年度の都市人口率は92.23%である。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 136,
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"text": "20世紀半ばまでは移民受け入れ国だったアルゼンチンも、20世紀中盤以降の社会、経済、政治の混乱により、多くのアルゼンチン人が祖国を離れて海外に移住した。特に国連ラテンアメリカ委員会の報告によると、アルゼンチンからの海外移住者の1,000人のうち191人が大学卒業者であるなど、留学生がそのまま海外移民になってしまうことや、大学卒業者に見合った職業の不足などを原因とした、高学歴者の移民による社会の空洞化が懸念されている。アルゼンチンからの移民先はおもにスペイン、アメリカ合衆国、カナダ、ブラジル、ポルトガル、オーストラリアなどである。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 137,
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"text": "言語はスペイン語(リオプラテンセ・スペイン語)が公用語であり、アルゼンチンではエスパニョールではなくカステジャーノと呼ばれる。ポルテーニョ(ブエノスアイレス市民)のアクセントはイタリア語のナポリ方言の影響が強く、ヨーロッパ移民、特にイタリア移民の影響により、ラ・プラタ地域で話されるルンファルドと呼ばれる独特の俗語が形成されてきた。アルゼンチンはスペイン語圏でも二人称単数においてボセオ(Voseo)のみが全土で使用されている数少ない国であり、ボセオはアルゼンチンのアイデンティティとなっている。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 138,
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"text": "スペイン語のほかには英語、イタリア語、ドイツ語、フランス語、および多少の先住民言語なども使用されている。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 139,
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"text": "標準ドイツ語は140万人から150万人のドイツ系アルゼンチン人によって話されているが、180万人以上が話しているともいわれている。ドイツ語は今日のアルゼンチンで第3か第4に多くの人々に話されている言葉である。そのほかにも、調査によると、150万人がイタリア語を話し、100万人がシリア・レバノンのアラビア語を話している。ガリシア語、イディッシュ語、日本語なども話されているが、これらの言語は現在では話されることは少なくなってきている。パタゴニアのトレレウやガイマンといった町にはウェールズ語を話すコミュニティがある。近年のアジア系移民は中国語と韓国語をブエノスアイレスに持ち込んだ。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 140,
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"text": "先住民言語はコリエンテス州、ミシオネス州でグアラニー語が話され、コリエンテス州では公用語となっている。ケチュア語は北西部のサンティアゴ・デル・エステロ州で話され、アイマラ語はボリビアからの移民のコミュニティなどで話されている。パタゴニアではマプーチェ語などが話されている。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 141,
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"text": "英語、ブラジル・ポルトガル語、フランス語はあまり大きな存在感を持たない。英語は学校教育で教えられ、ポルトガル語とフランス語が後に続く。",
"title": "国民"
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"paragraph_id": 142,
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"text": "国民の多数の93%がカトリック教徒だと申告しているが、教会はより正確には70%ぐらいだと見積もっている。現行憲法第二条によると、アルゼンチン共和国はカトリックを保護すべきであるとなっているが、これはアルゼンチンの国教がカトリックであるということではなく、圧倒的に信徒数が多いカトリックに国家の優先権があることを認めるのみとなっている。2013年に行われたコンクラーベでは、アルゼンチン人のブエノスアイレス大司教ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿がローマ教皇に選出されて第266代教皇フランシスコとなり、アルゼンチンが初のアメリカ大陸出身のローマ教皇を出した国となった。アルゼンチンでは、日曜日に、必ずミサに出向くことが習慣となっており、結婚式なども教会で行うしきたりになっている。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 143,
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"text": "公務員は必ずしもカトリックを信仰しなければならないわけではないが、大統領はキリスト教徒しかなれない法律がある。この法律により、アラブ系だったカルロス・メネムはイスラーム教を棄教しなければならなかった。",
"title": "国民"
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"paragraph_id": 144,
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"text": "1980年代からプロテスタントの福音派が足場を築き、現在総人口の約10%の330万人が信者である。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "33万人以上がキリスト教系新宗教の末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)に所属しており、アルゼンチンは世界で7番目に末日聖徒イエス・キリスト教会の信者が多い国となっている。。",
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"paragraph_id": 146,
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"text": "ラテンアメリカでもっとも多いユダヤ人人口を抱え、人口の約2%がユダヤ人である。",
"title": "国民"
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"paragraph_id": 147,
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"text": "イスラーム教徒は総人口の1.5%を占め、50万人から80万人がいると推測されている(93%はスンナ派)。現在アルゼンチンはラテンアメリカでもっともモスクの多い国のひとつとなっている。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 148,
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"text": "おおよそ12%が無宗教、もしくは世俗派とみなされている。",
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"paragraph_id": 149,
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"text": "婚姻の際には夫婦別姓であるが、女性は、自己の姓の後に「de+夫の姓」を追加することができる。",
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"paragraph_id": 150,
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"text": "2010年から、同性同士の結婚(同性結婚)が認められるようになった。",
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"paragraph_id": 151,
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"text": "独立後、自由主義者が勝利した1860年代以降のアルゼンチンはドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント政権のもとで、ほかのラテンアメリカ諸国とは対照的に公教育の整備に力を注いだ。2001年のセンサスでは、15歳以上の国民の識字率は97.2%に達している。これはウルグアイやキューバ、チリとともにラテンアメリカでもっとも高い水準である。ただし、近年は機能的非識字の増加が問題となっている。",
"title": "国民"
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"paragraph_id": 152,
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"text": "幼稚園から初等教育が始まり、5歳から14歳までの10年間の無償の初等教育・前期中等教育が義務教育期間となり、その後3年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。初等、中等教育の問題としては落第率の高さや、待遇の劣悪さから起きる教員のストライキと予算不足からくる十分な授業日数確保の不備、学級崩壊などが挙げられる。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "2005年現在で、アルゼンチンには41校の国公立の大学と48校の私立大学があり、代表的な高等教育機関としてはブエノスアイレス大学(1821年)、コルドバ大学(1613年)、ラ・プラタ大学(1905年)、国立工科大学(英語版)(1959年)、ロサリオ大学(1968年)、教皇庁立アルゼンチンカトリック大学(1958年)、トルクァト・ディ・テラ大学(1991年)などが挙げられる。国公立の大学はアルフォンシン政権時に入試を廃止したため、学生数の増加による過密や、非効率な制度による学校運営の混乱が大きな問題となっている。大学進学率はチリと並び南米としてはきわめて高率である。",
"title": "国民"
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{
"paragraph_id": 154,
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"text": "アルゼンチンの文化は、まず第一に多くのアルゼンチン人のルーツであるヨーロッパから導入され、ヨーロッパから大きな影響を受けている。ブエノスアイレスはヨーロッパの家系に連なる人々と、ヨーロッパのスタイルを模倣した建造物によって構成された結果として、しばしば南米でもっともヨーロッパ的な都市だといわれてきた。もうひとつの大きな影響はガウチョやインカ帝国の文化に代表される、パンパや北西部のアンデスでの伝統的な田園生活によるものである。最終的にインディヘナの伝統的な文化(マテ茶の回し飲みなど)はこの文化的領域に吸収された。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 155,
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"text": "この2つのアルゼンチンは互いに相克しながらアルゼンチンの文化を形成してきた。どちらが真のアルゼンチンであるかというものではなく、どちらも本質的に異なる2つのアルゼンチンの精神を表しているものである。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチン文学は1850年代からラテンアメリカ文学のリーダーであった。国家形成の時代の連邦派と統一派の争いが、当時のアルゼンチン文学のロマン主義文学のトーンを印象付けた。アルゼンチンにロマン主義を導入した自由主義者のエステバン・エチェベリーアの『エル・マタデーロ』(1840)ではロサスの圧政を寓意的に描き、同じく欧化主義者のドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエントによって亡命先で著された『ファクンド』(1845)は、統一派の視点でラ・リオハ州の連邦派カウディージョ、フアン・ファクンド・キロガを野蛮の象徴として描き、ガウチョやインディオは近代化のための巨大な障害物と見なされた。それに対してガウチョ文学(英語版)の傑作となったホセ・エルナンデスの叙事詩『マルティン・フィエロ(英語版)』(1874)は、連邦派の視点でガウチョをアルゼンチンの精神を体現する象徴として描き、現在後者の『マルティン・フィエロ』はアルゼンチンの聖書と呼ばれ、国民文学の基礎だと位置づけられている。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "その他にもフアン・バウティスタ・アルベルディ、ロベルト・アルルト、エンリケ・バンチス、アドルフォ・ビオイ・カサレス、エウヘニオ・カンバセレス、レオポルド・ルゴネス、エドゥアルド・マジェーア、エセキエル・マルティネス・エストラーダ、トマス・エロイ・マルティネス、ビクトリア・オカンポ、エルネスト・サバト、オスバルド・ソリアーノ、アルフォンシナ・ストルニ、マリア・エレーナ・ワルシュ、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、フリオ・コルタサル、マヌエル・プイグのように、アルゼンチンは国際的に特筆される作家、詩人、知識人を生み出している。 キノ(ホアキン・サルバドール・ラバード)は世界中で多くの読者を楽しませている。文学においてもブエノスアイレスかそれ以外かという対立は、のちのモデルニスモ文学や20世紀の文学においても続いた。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "正統な文学者ではないが、キューバ革命の指導者の1人であり、ラテンアメリカにおける社会主義理論家として知られ、文学でも『モーターサイクル・ダイアリーズ』や、革命中のゲリラ戦の経験をまとめた『ゲリラ戦争』(1961)、『ゲバラ日記』(1968)などを残し、キューバの閣僚を務めたこともあるエルネスト・チェ・ゲバラもアルゼンチン出身の文筆家として名高い。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 159,
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"text": "世界初のアニメ映画は1917年に漫画家のキリーノ・クリスティアーニによってアルゼンチンで製作された。アルゼンチン映画は1930年代から1950年代にかけて黄金時代を迎え、映画産業はアルゼンチン映画初のスターとなり、タンゴの歌手でもある、リベルタ・ラマルケや、フローレン・デルベーネ、ティト・ルシアルド、ティタ・メレージョ、ロベルト・エスカラーダ、ウーゴ・デル・カリールのような俳優を輩出した。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "その後も『ロス・インダドス』(1955)によりブラジルのネルソン・ペレイラ・ドス・サントスやキューバのフリオ・ガルシア・エスピノーサとともに新ラテンアメリカ映画運動の牽引者となったフェルナンド・ビッリや、アレハンドロ・アグリステ、エクトル・オリベラ、『スール/その先は......愛』(1988)のフェルナンド・E・ソラーナス、『ブエノスアイレスの夜』(2001)のフィト・パエスといった映画監督が活躍している。ラ・プラタ市とマル・デル・プラタで例年映画祭が催されている。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "ブエノスアイレスの都市的な様子とは対照的なもうひとつのアルゼンチンを描いた画家としては、初めて本格的にガウチョを描いたプリリディアーノ・プエイレドンや、アンデス地方の牧場や、ガウチョを題材に描いたフェルナンド・フェデールなどの名が挙げられる。三国同盟戦争などを題材にした歴史絵画ではホセ・イグナシオ・ガルメンディアや、カンディード・ロペス(素朴派)などの名が挙げられる。ロペス、アントニオ・ペリーニ(en:neo figurative)、エミリオ・ペットルーティ(キュビスム)、フェデール、ギジェルモ・クイトカの作品は国際的に認知されている。そのほかにも「ボカ共和国」こと、ブエノスアイレスのラ・ボカ(La Boca、河口)地区出身のキンケラ・マルティンはラ・ボカ地区や労働者を描いた画家として名高い。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "ルシオ・フォンタナとレオン・フェラーリは彫刻家かつコンセプチュアル・アーティストとして喝采された。シルエロ・カブラルは世界的に有名な幻想芸術家かつ彫刻家であり、エドゥアルド・マクリンティーレの幾何学的なデザインは1970年代以降の世界中の広告家に影響を与えた。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 163,
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"text": "あまり日本では知られていないが、冷凍船の発明・普及とともに世界的な大畜産国として発展の基礎を築いただけあって、肉料理などを中心に充実した食文化の歴史がある。その一例として、多くのイタリア移民が持ち込んだパスタ類や、ドゥルセ・デ・レチェなどの菓子類などもバラエティに富んでいる。ブエノスアイレスと他地域とを問わずエンパナーダも広く食べられている。魚は、大きなスーパーや中国人街以外ではメルルーサ(タラ)かサケくらいしか売っていないが、イグアスの滝に近い北部の亜熱帯地方ではスルビ(ナマズの一種)、クージョのアンデス山脈付近ではトゥルーチャ(マス)など、川魚を食べる地方もある。",
"title": "文化"
},
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"paragraph_id": 164,
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"text": "アルゼンチンの主菜である肉料理は実に多彩であり、特にアサード、ビフェ・デ・チョリソ(サーロインステーキ)、チョリソや臓物も含んだ焼肉の盛り合わせであるパリージャ(Parrilla)が有名である。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 165,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチンは世界有数のワイン生産国である一方、ほとんどを国内消費するため海外にはあまり知られていない。アルゼンチンには肉料理が多いことから、それと相性がよいとされる赤ワインが特に多く、品質も優れている。アルゼンチンのワインの6割がメンドーサで生産され、残りのほとんどがカファヤテ(Kafajatė)で生産される。ヨーロッパではほとんどブレンドにしか用いないマルベック(Malbec)という品種は、アルゼンチンでもっとも味がいいとされている。近隣諸国と同様にグアラニー人由来のマテ茶を飲む習慣もある。食後に飲むマテ茶は、モチノキ科の常緑樹ゼルバマテという木をすりつぶして粉にし、専用の容器(マテ)に入れてお湯を加え、ストローで飲む。アルゼンチンでは砂糖を入れて飲むことが多いという。",
"title": "文化"
},
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"text": "ファストフードとしては、チョリソをパンに挟んだチョリパンという料理があり、チミチュリや野菜などのトッピングもなされる。アルゼンチンのソウルフードとも評される。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 167,
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"text": "アルゼンチンはブラジル、コロンビアとともに南米の音楽大国の一角を占める。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 168,
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"text": "世界的にウルグアイのモンテビデオとともに、ブエノスアイレス、特にラ・ボカとサン・テルモはタンゴ・リオプラテンセ(ラ・プラタ川風タンゴ。日本に限らず世界ではアルゼンチン・タンゴと呼ばれることが多い)の中心として知られるが、1850年代からカンドンベを下敷きにして、ハバネラ、ミロンガなどの影響を受けてボカで育ったこのリズムは、1920年代以降、カルロス・ガルデルのフランス公演が大成功するとヨーロッパでも大流行し、コンチネンタル・タンゴにもなった。1930年代の最盛期を過ぎるとこの流行は長くは続かずに1950年代ごろには下火になり、その後タンゴはアルゼンチンでも衰退をたどるが、アストル・ピアソラの登場により持ち直した。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 169,
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"text": "このように、アルゼンチンといえばブエノスアイレスのヨーロッパ風のイメージとともに、まず第一にタンゴが連想されるが、しかしタンゴはやはりラ・プラタ川流域の音楽であり、内陸部ではサンバ、パジャドール、チャカレーラ、チャマメ、カルナバリート(実質ワイニョ)などのさまざまなフォルクローレ(民謡)が存在する。こうしたフォルクローレはいくつか隣国のウルグアイとも共通しており、タンゴの元になった黒人音楽カンドンベも、もともとはアルゼンチン・ウルグアイに共通する音楽だったが、アルゼンチンでの黒人人口の減少とともにアルゼンチンでは廃れていき、現在カンドンベはウルグアイの国民音楽になっている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 170,
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"text": "アンデスのフォルクローレの代表曲である花祭り (ウマウアカの男)はウマウアカのカルナバルを歌ったものだが、特にアンデス地方のフォルクローレではアルゼンチンのものが日本にもっとも早く紹介されたこともあり、世界の人々にとってフォルクローレと言えば本場のボリビアと並んでアルゼンチンのものが連想される要因ともなっている。アルゼンチンでの海外の声の代表を自認したアタウアルパ・ユパンキや、メルセデス・ソーサ、ウニャ・ラモスらは世界的に有名であり、日本ではグラシェラ・スサーナも有名である。チャランゴ奏者のハイメ・トーレスのように伝統的なフォルクローレを展開する表現者以外にも、近年は新世代のミュージシャンが、欧米のシンガー・ソングライターやジャズ、エレクトロニカなどに影響を受けた新しいフォルクローレを続々と生み出している。代表的なアーティストは、リリアナ・エレーロ、アカ・セカ・トリオ、マリアナ・バラフ、カルロス・アギーレなど。日本でも徐々に注目されており、『オーガニック・ブエノスアイレス』というコンピレーション・アルバムも発表された。",
"title": "文化"
},
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"paragraph_id": 171,
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"text": "そしてそれだけがこの国の音楽のすべてではなく、クラシックやジャズやポップスの分野でも、作曲家のアルベルト・ヒナステラ、ピアニストのマルタ・アルゲリッチ、ラロ・シフリンなど、時折注目すべき人物を輩出することもある。そのほかに特筆されるべき音楽家としては、扇情的なサクソフォーンとフリージャズを構成するガトー・バルビエリが存在する。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 172,
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"text": "ポップスの分野では特にロックが盛んな国であり、国外にもアルゼンチン・ロックの愛好家は多い。1960年代の初頭にはアルゼンチン・ロックはウルグアイ勢の進出により、ブエノスアイレスの音楽シーンはロス・シェイカーズやロス・モッカーズなどのウルグアイのロックバンドの草刈り場となったが(ウルグアヤン・インベイジョン)、ウルグアイ人の攻勢が終わったあとも、ロス・ガトースなどのアルゼンチン人のロックバンドが主導的な役割を果たしながらも、ラ・プラタ川を越えて多くのウルグアイのミュージシャンがブエノスアイレスで活躍する状況は変わっていない。",
"title": "文化"
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{
"paragraph_id": 173,
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"text": "2000年代に入ってからは、アルゼンチン音響派がまるでかつてのブラジルにおけるトロピカリズモ運動のような新たなムーブメントとなっている。ファナ・モリーナやサンティアゴ・バスケス、フェルナンド・カブサッキ、アレハンドロ・フラノフなどは日本でも人気を博しており、山本精一や勝井祐二など日本人ミュージシャンとの交流がある。クラブシーンにおいてはコロンビア生まれのクンビアがブエノスアイレス近郊で発達を遂げ、デジタル・クンビアが生まれた。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 174,
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"text": "アルゼンチンが発祥となった音楽ではないが、2002年には日本のロックバンド・THE BOOMの「島唄」が俳優のアルフレッド・カセーロに日本語のままカバーされ大ヒットした。彼の歌う島唄はその年に開催された日韓ワールドカップのアルゼンチン代表の応援歌としても採用された。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 175,
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"text": "アルゼンチン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が5件、自然遺産が4件存在する。",
"title": "文化"
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"paragraph_id": 176,
"tag": "p",
"text": "註1: もし該当の日が火曜日か水曜日ならばその直前の月曜日、木曜日か金曜日ならばその直後の月曜日に移動する。",
"title": "文化"
},
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"paragraph_id": 177,
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"text": "アルゼンチン国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとして君臨しており、世界に名だたるサッカー大国としてディエゴ・マラドーナとリオネル・メッシの両雄を筆頭に、サッカー史上に残る名選手を数多く輩出している。マラドーナやメッシ以外にも著名な選手としてガブリエル・バティストゥータ、ディエゴ・シメオネ、ハビエル・サネッティ、ワルテル・サムエル、フアン・ロマン・リケルメ、セルヒオ・アグエロ、ゴンサロ・イグアイン、アンヘル・ディ・マリアなど数多くのアルゼンチン人がヨーロッパのビッグクラブで活躍し歴史を彩って来た。",
"title": "スポーツ"
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"paragraph_id": 178,
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"text": "アルゼンチンサッカー協会(AFA)によって構成されるサッカーアルゼンチン代表は、FIFAワールドカップ出場の常連国であり優勝3回・準優勝3回を誇り、ブラジル代表と並ぶ南米の強豪として世界中に知れ渡っている。アルゼンチンは、初の自国開催となった1978年ワールドカップで大会初優勝を果たしている。コパ・アメリカにおいては、ウルグアイ代表と並んで大会最多15度の優勝に輝いている。さらにU-23アルゼンチン代表はオリンピック出場の常連国であり、2004年アテネ五輪と続く2008年北京五輪で「6戦全勝での連覇」を達成している。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 179,
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"text": "1891年には国内リーグのプリメーラ・ディビシオンが創設され、1986年には下部リーグのプリメーラB・ナシオナルも開始された。主なクラブとしては、リーベル・プレート、ボカ・ジュニアーズ、ラシン・クルブ、エストゥディアンテス、サン・ロレンソなどが挙げられる。さらに南米大陸のクラブ王者を決めるコパ・リベルタドーレスでは、インデペンディエンテが大会最多となる7度の優勝を遂げている。",
"title": "スポーツ"
},
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"paragraph_id": 180,
"tag": "p",
"text": "サッカーの次にはテニスが盛んであり、テニスを国技と称するスウェーデンと並んで、1970年代から現在に至るまで世界のテニス界をリードする存在である。1970年代後半のギジェルモ・ビラスをはじめ、男女問わず数多の名選手を輩出しており、2004年の全仏オープンにおいて、史上初のアルゼンチン勢同士の決勝戦が行われている。最近もアルゼンチン勢のテニスの躍進は目覚しく、クレーコート以外でも好成績を残す選手が続出している。",
"title": "スポーツ"
},
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"paragraph_id": 181,
"tag": "p",
"text": "ラグビーはロス・プーマス(Los Pumas)の愛称で親しまれているアルゼンチン代表が、強豪国を破る実力をつけてきている。伝統的に屈強なフォワードと、意外性のあるバックスの選手を輩出している。1999年のワールドカップではベスト8に進出している。大会ではスタンドオフのゴンサロ・ケサダが、安定したキックで得点王にも輝いた。2007年のワールドカップでは開催国のフランス代表を2度下し、3位に輝いている。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 182,
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"text": "ボクシングにおいても、アルゼンチン初の世界王者でフライ級のパスカル・ペレス、1960年代のWBA・WBC世界フライ級王者オラシオ・アカバリョ、ジュニア・ウェルター級の世界王者ニコリノ・ローチェ、1970年代のWBA・WBC世界ミドル級統一王者のカルロス・モンソンらを輩出している。さらに、2000年代にもフライ級でオマール・ナルバエスが長期政権を築いている。女子ボクシングも盛んであり、ジェシカ・ボップのような女子王者も輩出している。",
"title": "スポーツ"
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"paragraph_id": 183,
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"text": "アルゼンチンではバスケットボールも、第1回世界選手権の開催国ということもあって人気が高く、マヌ・ジノビリ、ファブリシオ・オベルト、アンドレス・ノシオーニなどのNBAプレイヤーも輩出している。さらに2004年のアテネオリンピックでは、アルゼンチン代表は悲願の金メダルを獲得している。FIBAアメリカップでは、これまでに2001年大会・2011年大会・2022年大会と、3度の優勝を達成している。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 184,
"tag": "p",
"text": "化学部門で3人のノーベル賞受賞者を出している。ルイス・フェデリコ・レロイル(ルイ・ルロワール)はノーベル化学賞受賞者であり、この化学賞はラテンアメリカ全体でも初めてのものだった。",
"title": "科学と技術"
},
{
"paragraph_id": 185,
"tag": "p",
"text": "ベルナルド・ウサイのような優れた研究者の残した業績の伝統もあって、現在でも医療の研究や、その他には原子力の研究なども進んでいる。ほかにも、素粒子物理学の指導的存在であるフアン・マルダセナがいる。",
"title": "科学と技術"
},
{
"paragraph_id": 186,
"tag": "p",
"text": "現在の問題は、大学の整備の遅れによる研究環境の不備や、海外への高学歴者の流出による基礎研究、応用研究の進展が遅れていることなどである。",
"title": "科学と技術"
},
{
"paragraph_id": 187,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチンの印刷メディアは高度に発達し、独立している。200以上の新聞が存在し、地元の町や地域に影響を与えている。最主要紙はブエノスアイレスの中道紙「クラリン」であり、スペイン語圏でもっとも流通している新聞のうちのひとつとなっている。そのほかの新聞としては1870年創設の「ラ・ナシオン」(中道右派)、Página/12 (左派)、アンビト・フィナンシエロ (保守ビジネス紙), ドイツ語新聞のArgentinisches Tageblatt 、スペイン語とフランス語で発行されるLe Monde Diplomatique、クロニカ (ポピュリズム)。地方紙として重要なのは「ラ・カピタル」(ロサリオ)、「ロス・アンデス」(メンドーサ)、「内陸部の声」(コルドバ)、「エル・トリブノ」(サルタ)など。ブエノス・アイレス・ヘラルドは主要日刊英字新聞である。",
"title": "通信とメディア"
},
{
"paragraph_id": 188,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチンの出版業はスペイン・メキシコといったスペイン語圏の主要国の出版業とともにある。アルゼンチンには、エル・アテネオやジェニーといった、独立し、豊富な在庫を抱えたラテンアメリカ最大級の書店のチェーンがある。英語やその他の言語による書籍も多く流通している。雑多な趣味の領域をカバーした100を超える雑誌が出版され、書店や街頭のキオスクで販売されている。",
"title": "通信とメディア"
},
{
"paragraph_id": 189,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチンはラジオ放送を始めた国家のパイオニアだった。1920年8月27日、Sociedad Radio Argentinaは「われわれは今、ブエノスアイレスの下町のコリセオ劇場からのリヒャルト・ワーグナーのパルジファルオペラの実演をあなたの家に送っています」と発表した。もっとも市内の20家庭しかラジオ受信機を所持していなかった。世界初の放送局はそのときからRadio Culturaが放送されるようになる1922年まで、アルゼンチン唯一のラジオ局だった。その後、1925年までに12局がブエノスアイレスに、10局がそのほかの都市に開設された。1930年代はバラエティ、ニュース、ソープオペラ、スポーツなどアルゼンチンのラジオにとって「黄金時代」だった。",
"title": "通信とメディア"
},
{
"paragraph_id": 190,
"tag": "p",
"text": "現在アルゼンチンでは1,500以上のラジオ局が認可されている。260局がAM局であり、1150局がFM局である。 ラジオはアルゼンチンでは重要なメディアとなっている。音楽と若者文化番組がFM放送を支配しており、ニュース・討論・スポーツはAM放送の内容として第一に来る。ラジオはいまだに情報、エンターテインメント、さらに最遠隔地のコミュニティーにおける人命救助にさえ重要なサービスとして役立っている。",
"title": "通信とメディア"
},
{
"paragraph_id": 191,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチンのテレビ業界は大きく多様であり、ラテンアメリカで広く見られていると同時に世界中で見ることができる。多くのローカル番組が他国で放送され、そのほかは外国人のプロデューサーが市場で権利を買っている。アルゼンチンには5つの主要ネットワークがある。すべての地方主要都市と大都市には、少なくとも1つの地方局がある。アルゼンチンでは北アメリカとほぼ同じぐらいのパーセンテージでケーブルテレビと衛星放送が浸透している。ケーブルネットワークはアルゼンチンとほかのスペイン語圏からもたらされ、ウルティマ・サテリタル、TyCスポーツ、スペイン語Foxスポーツ(合衆国、メキシコも同様)、MTVアルヘンティーナ、コスモポリタンTV、およびニュースネットワークのトド・ノティシアスなどがある。",
"title": "通信とメディア"
},
{
"paragraph_id": 192,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチン共和国の象徴となっているものを列挙する。",
"title": "国の象徴"
}
] | アルゼンチン共和国、通称アルゼンチンは、南アメリカ南部に位置する連邦共和制国家。位置は南米大陸から見ると南西側に位置しており、西と南にチリ、北にボリビア・パラグアイ、北東にブラジル・ウルグアイと国境を接し、東と南は大西洋に面する。ラテンアメリカではブラジルに次いで2番目に領土が大きく、世界全体でも第8位の領土面積を擁する。首都はブエノスアイレス。 チリとともに南アメリカ最南端に位置し、国土の全域がコーノ・スールの域内に収まる。国土南端のフエゴ島には世界最南端の都市ウシュアイアが存在する。アルゼンチンはイギリスが実効支配するマルビナス諸島(英語ではフォークランド諸島)の領有権を主張している。また、チリ・イギリスと同様に南極の一部に対して領有権を主張しており、アルゼンチン領南極として知られる。 | {{基礎情報 国
| 略名 = アルゼンチン
| 日本語国名 = アルゼンチン共和国
| 公式国名 = {{lang|es|'''República Argentina'''}}
| 国旗画像 = Flag of Argentina.svg
| 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of Argentina.svg|100px|アルゼンチンの国章]]
| 国章リンク =([[アルゼンチンの国章|国章]])
| 標語 = {{lang|es|En Unión y Libertad}}<br /> (スペイン語: 統一と自由において)
| 位置画像 = Argentina orthographic.svg
| 公用語 = [[スペイン語]]<ref group="注記">[[リオプラテンセ・スペイン語|アルゼンチンのスペイン語]]はEspañol(エスパニョール)ではなく、Castellano(カステジャーノ)と呼ばれる。[[コリエンテス州]]のみ[[グアラニー語]]もまた[[公用語]]となっている。</ref>
| 首都 = [[ブエノスアイレス]]
| 最大都市 = ブエノスアイレス
| 元首等肩書 = [[アルゼンチンの国家元首一覧|大統領]]
| 元首等氏名= [[ハビエル・ミレイ]]
| 首相等肩書 = [[アルゼンチンの副大統領|副大統領]]・[[国民議会 (アルゼンチン)|上院議長]]
| 首相等氏名 = [[ビクトリア・ビヤルエル]]
| 他元首等肩書1 = [[アルゼンチンの首相|内閣首席大臣]]
| 他元首等氏名1 = {{ill2|ニコラス・ポッセ|en|Nicolás Posse}}
| 他元首等肩書2 = [[国民議会 (アルゼンチン)|下院議長]]
| 他元首等氏名2 = {{ill2|マルティン・メネム|en|Martín Menem}}
| 他元首等肩書3 = [[国家最高司法裁判所 (アルゼンチン)|最高裁判所長官]]
| 他元首等氏名3 = {{ill2|オラシオ・ロザッティ|en|Horacio Rosatti}}
| 面積順位 = 8
| 面積大きさ = 1 E12
| 面積値 = 2,780,400
| 水面積率 = 1.1%
| 人口統計年 = 2020
| 人口順位 = 31
| 人口大きさ = 1 E7
| 人口値 = 45,276,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/ar.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-11 }}</ref>
| 人口密度値 = 16.5<ref name=population/>
| GDP統計年元 = 2019
| GDP値元 = 21兆8022億5600万<ref name="imf2019">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=213,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|accessdate=2021-10-16}}</ref>
| GDP統計年MER = 2019
| GDP順位MER = 30
| GDP値MER = 4518億1500万<ref name="imf2019" />
| GDP MER/人 = 1万54.023<ref name="imf2019" />
| GDP統計年 = 2019
| GDP順位 = 26
| GDP値 = 1兆333億7100万<ref name="imf2019" />
| GDP/人 = 2万2995.111<ref name="imf2019" />
| 建国形態 = [[独立]]<br /> - 第一議会<br /> - 独立宣言
| 建国年月日 = [[スペイン]]より<br />[[1810年]][[5月25日]]<br />[[1816年]][[7月9日]]<ref group="注記">[[連邦同盟]]は[[1815年]][[6月29日]]に独立を宣言した。</ref>
| 通貨 = [[アルゼンチン・ペソ]]($)
| 通貨コード = ARS
| 時間帯 = -3
| 夏時間 = なし
| 国歌 = [[アルゼンチンの国歌|{{lang|es|Himno Nacional Argentino}}]]{{es icon}}<br/>''アルゼンチンの国歌''<br/>{{center|[[ファイル:United States Navy Band - Himno Nacional Argentino.ogg]]}}
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| ccTLD = [[.ar]]
| 国際電話番号 = 54
| 注記 = <references group="注記" />
アルゼンチン政府は[[南極]]の1,000,000 [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]および[[マルビナス諸島]]の領有を主張している。
|位置画像説明=}}
'''アルゼンチン共和国'''<ref group="注釈">現行憲法第35条によると、''リオ・デ・ラ・プラタ連合州''、''アルゼンチン連合''といった歴史的な国名もまた正式な国名とされている。</ref>(アルゼンチンきょうわこく、{{lang-es|República Argentina}})、通称'''アルゼンチン'''は、[[南アメリカ]]南部に位置する[[連邦共和国|連邦共和制国家]]。位置は南米大陸から見ると南西側に位置しており、西と南に[[チリ]]、北に[[ボリビア]]・[[パラグアイ]]、北東に[[ブラジル]]・[[ウルグアイ]]と国境を接し、東と南は[[大西洋]]に面する。[[ラテンアメリカ]]ではブラジルに次いで2番目に領土が大きく、世界全体でも第8位の[[領土]]面積を擁する。首都は[[ブエノスアイレス]]。
[[チリ]]とともに南アメリカ最南端に位置し、国土の全域が[[コーノ・スール]]の域内に収まる。国土南端の[[フエゴ島]]には世界最南端の都市[[ウシュアイア]]が存在する。アルゼンチンは[[イギリス]]が実効支配する[[フォークランド諸島|マルビナス諸島]]([[英語]]ではフォークランド諸島)の領有権を主張している。また、チリ・イギリスと同様に[[南極]]の一部に対して領有権を主張しており、[[アルゼンチン領南極]]として知られる。
== 国名 ==
[[ファイル:La Argentina - Del Barco Centenera - Portada original.jpg|thumb|{{仮リンク|マルティン・デル・バルコ・センテネラ|en|Martín del Barco Centenera}}の[[叙事詩]]『[[アルヘンティーナとラ・プラタ川の征服]]』]]
正式名称は、{{Lang|es|República Argentina}}(レプブリカ・アルヘンティーナ)。通称、{{Lang|es|Argentina}}(アルヘンティーナ)。英語表記は公式にはArgentine Republic(アージェンタイン・リパブリック)、通称Argentina(アージェンティーナ)。
日本語の表記は'''アルゼンチン共和国'''。通称'''アルゼンチン'''。ほかに'''アルゼンティン'''とも表記され、原語音に即した'''アルヘンティーナ'''と表記されることもある。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]では、'''亜尓然丁'''、'''亜爾然丁'''、'''阿根廷'''({{ピンイン|āgēntíng}})など。
独立当時は'''リオ・デ・ラ・プラタ連合州'''(Provincias Unidas del Río de la Plata)と呼ばれ、あるいは'''南アメリカ連合州'''(Provincias Unidas de Sudamérica)とも名乗っていた。[[ラプラタ川|リオ・デ・ラ・プラタ]]は[[スペイン語]]で「'''[[銀]]の川'''」を意味し、[[1516年]]に[[フアン・ディアス・デ・ソリス]]の率いる[[コンキスタドール|スペイン人征服者]]の一行がこの地を踏んだ際、銀の飾りを身につけた[[インディヘナ]]([[チャルーア人]])に出会い、上流に「銀の山脈(Sierra del Plata)」があると考えたことから名づけたとされる。これにちなみ、銀の[[ラテン語]]表記「'''Argentum'''(アルゲントゥム)」に地名を表す女性[[縮小辞]](-tina)を添えたものである。初出は、[[1602年]]に出版された{{仮リンク|マルティン・デル・バルコ・センテネラ|es|Martín del Barco Centenera|en|Martín del Barco Centenera}}の[[叙事詩]]『[[アルヘンティーナとラ・プラタ川の征服]]』とされる。その後、[[1825年]]に正式国名とした。
国名をラテン語由来へと置き換えたのは、スペインによる圧政を忘れるためであり、[[半島戦争|フランスのスペインへの侵略]]を契機として、[[フランス語]]読みの「'''アルジャンティーヌ'''(Argentine)」に倣ったものでもあるとされる。しかしながら、現在でも「リオ・デ・ラ・プラタ連合州」や「[[アルゼンチン連合]](Confederación Argentina)」などの歴史的呼称は、アルゼンチン共和国とともに正式国名として[[憲法]]に明記されている。
== 歴史 ==
{{main|アルゼンチンの歴史}}
=== 先コロンブス期 ===
[[ファイル:SantaCruz-CuevaManos-P2210651b.jpg|thumb|220px|[[パタゴニア]]の[[クエバ・デ・ラス・マノス|手の洞窟]]]]
[[ファイル:Pucará de Tilcara 01.JPG|thumb|220px|[[アイマラ人]]が15世紀に築いた、アルゼンチン北西部[[フフイ州]]{{仮リンク|ティルカラ|en|Tilcara}}にある{{仮リンク|ティルカラのプカラ|en|Pucará de Tilcara}}(石壁)]]
アルゼンチンの最初の住民は、紀元前11000年に[[ベーリング海峡]]を渡って[[アジア]]からやって来た人々だった。彼らは現在パタゴニアに残る「手の洞窟」を描いた人々であった。
その後、[[15世紀]]後半に現[[ペルー]]の[[クスコ]]を中心に発展した[[ケチュア人]]の国家[[クスコ王国]](1197年 - 1438年)は、[[インカ帝国|タワンティンスーユ]](インカ帝国、1438年 - 1533年)の皇帝[[トゥパック・インカ・ユパンキ]]と[[ワイナ・カパック]]によって征服され、北西部の[[アンデス山脈]]地域はタワンティンスーユに編入された。征服された地域はタワンティンスーユ内の4州の内の1州、[[インカ帝国#国名|コジャ・スウユ]]({{lang-qu|Colla Suyo}}、「南州」)の辺境の地となり、30万人ほどのケチュア人や[[アイマラ人]]が住むようになった。アルゼンチンにおけるコジャ・スウユの領域は北は現在の[[フフイ州]]から南は[[メンドーサ州]]、東は[[サンティアゴ・デル・エステロ州]]の北部にまで広がっていた。その一方でインカ帝国の権威が及ばなかった[[グランチャコ|チャコ]]や[[パンパ]]や[[パタゴニア]]には、[[チャルーア人]]のような[[狩猟]][[インディヘナ]]がおもに居住しており、パンパやチャコにも[[グアラニー人]]のような粗放な農耕を営むインディヘナがいたが、全般的にこの地域に住む人間の数は少なかった。
=== スペイン植民地時代 ===
{{See also|スペインによるアメリカ大陸の植民地化}}
16世紀に入ると、1516年に[[スペイン]]の[[探検家]]、[[フアン・ディアス・デ・ソリス]]が最初の[[ヨーロッパ]]人としてこの地を訪れたが、すぐに先住民といさかいを起こし、まもなく殺害された。その後もスペインによってこの地域の植民地化は進められた。1536年にラ・プラタ川の上流にあると思われた「銀の山」を攻めるために、[[バスク人]]貴族の{{仮リンク|ペドロ・デ・メンドーサ|en|Pedro de Mendoza}}率いる植民団によって、[[ラ・プラタ川]]の河口に[[ブエノスアイレス|ヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デル・ブエン・アイレ]]市が建設されたが、まもなくインディヘナの激しい攻撃に遭って放棄され、以後200年ほどラ・プラタ地域の中心は、1559年に[[アウディエンシア]]の設置された[[パラグアイ]]の[[アスンシオン]]となった。
植民地政策の伸展に伴って[[ペルー副王領]]の一部に組み込まれたこの地は、[[ペルー]]方面からアンデス地域を軸に開拓が進み、1553年には現存するアルゼンチン最古の都市[[サンティアゴ・デル・エステロ]]が建設された。アスンシオンからの内陸部開発も盛んになり、1580年には放棄されたブエノスアイレスが再建されたが、それでもこの地域は[[ベネズエラ]]などと並んで[[イスパノアメリカ]]ではもっとも開発の遅れた地域だった。また、1541年に放された12頭の馬が[[パンパ]]の牧草を食べて自然に大繁殖したこともあり、いつしか[[ガウチョ]]が現れるようになっていった。同じようにして繁殖した牛は、19世紀の始めにはラ・プラタ地域全体で2,000万頭ほどいたといわれている(ちなみにこのころの人口はアルゼンチン・ウルグアイ・パラグアイをあわせても100万人を超えないほどだった)。植民地政策の経過により、当初は大西洋岸よりも内陸部の発展が早かった。1613年には内陸の[[コルドバ (アルゼンチン)|コルドバ]]に[[コルドバ国立大学|コルドバ大学]]が建設され、以降19世紀までコルドバは南米南部の学問の中心となった。18世紀には{{仮リンク|グアラニー戦争|en|Guaraní War}}などに代表されるように、{{仮リンク|ブラジル植民地|en|Colonial Brazil|label=ポルトガル領ブラジル}}方面から攻撃を続ける[[ポルトガル]]との小競り合いが続き、スペイン当局が[[バンダ・オリエンタル]](現在の[[ウルグアイ]])を防衛するためもあって、1776年にペルー副王領から[[リオ・デ・ラ・プラタ副王領]]が分離されると、ブエノスアイレスは副王領の首府となって正式に開港され、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国との密貿易により空前の繁栄を遂げた。しかし、この時点においてアルゼンチンの産業の中心は北西部の[[サン・ミゲル・デ・トゥクマン|トゥクマン]]や中央部のコルドバであり、[[リトラル (アルゼンチン)|リトラル]]地域やブエノスアイレスには見るべき工業はなかった。このブエノスアイレス港の正式開港は、のちに植民地時代に繁栄していた内陸部諸州に恐ろしい打撃をもたらすことになった。
=== 独立戦争と内戦 ===
{{main|[[アルゼンチン独立戦争]]}}
{{See also|近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立}}
[[ファイル:Manuel Belgrano.JPG|thumb|五月革命の実行者の一人となったブエノスアイレスの代表者 [[マヌエル・ベルグラーノ]]。[[アルゼンチンの国旗]]の制定者でもある]]
1806年、1807年の2度にわたる[[イギリス軍]]の{{仮リンク|イギリスのラプラタ侵略|en|British invasions of the Río de la Plata|label=ラプラタ侵略}}を打ち破ったあと、スペインからの解放と[[自由貿易]]を求めたポルテーニョは1810年5月25日に[[五月革命 (アルゼンチン)|五月革命]]を起こし、ブエノスアイレスは自治を宣言したが、ラ・プラタ副王領の[[パラグアイ]]、[[バンダ・オリエンタル]]、[[アルト・ペルー]]、[[コルドバ (アルゼンチン)|コルドバ]]はブエノスアイレス主導の自治に賛成しなかった。このためブエノスアイレス政府は各地に軍を送り、コルドバを併合することには成功したが、1811年の[[マヌエル・ベルグラーノ]]将軍の{{仮リンク|パラグアイ攻略|es|Expedición de Belgrano al Paraguay|en|Paraguay campaign}}は失敗した。1813年の[[サンロレンソの戦い]]にも勝利するとスペイン王党派軍との戦いが本格化するが、王党派の支配していた[[アルト・ペルー攻略]]({{仮リンク|第一次アルト・ペルー攻略|es|Primera expedición auxiliadora al Alto Perú|en|First Upper Peru campaign}}、{{仮リンク|第二次アルト・ペルー攻略|es|Segunda expedición auxiliadora al Alto Perú}})は失敗した。
[[ファイル:José de San Martín (retrato, c.1828).jpg|thumb|left|[[シモン・ボリーバル]]と並ぶ[[ラテンアメリカ]]の[[解放者]]、[[ホセ・デ・サン・マルティン]]]]
[[ファイル:Acta Independencia argentina quechua.jpg|thumb|[[スペイン語]]と[[ケチュア語]]で書かれた南アメリカ連合州の独立宣言]]
独立戦争が難航する中、1816年7月9日には{{仮リンク|トゥクマンの議会|en|Congress of Tucumán}}で[[リオ・デ・ラ・プラタ諸州連合|南アメリカ連合州]]として正式に独立を宣言したが、まだこの時点では独立の方向も定まっておらず、[[インカ皇帝]]を復活させて[[立憲君主制]]を導入しようとしていたベルグラーノ将軍のような人物から、{{仮リンク|ホセ・ヘルバシオ・アルティーガス|en|José Gervasio Artigas|label=ホセ・アルティーガス}}のようにアメリカ合衆国のような[[連邦]][[共和制]]を求める勢力もあり、ブエノスアイレスは自由貿易、貿易独占を求めるなど、独立諸派の意見はまったく一致しなかった。ベルグラーノ将軍が{{仮リンク|第三次アルト・ペルー攻略|es|Tercera expedición auxiliadora al Alto Perú}}に失敗し、{{仮リンク|北部軍 (リオ・デ・ラ・プラタ諸州連合)|es|Ejército del Norte (Provincias Unidas del Río de la Plata)|en|Army of the North|label=北部軍}}司令官を辞任すると、後を継いだ{{仮リンク|アンデス軍|en|Army of the Andes}}司令官の[[ホセ・デ・サン・マルティン]]将軍が'''{{仮リンク|アンデス山脈越え|en|Crossing of the Andes}}'''を行い、王党派の牙城[[リマ]]を攻略するために遠征を重ね、王党派軍を破って[[チリ]]({{仮リンク|チャカブコの戦い|en|Battle of Chacabuco}}、{{仮リンク|マイプーの戦い|en|Battle of Maipú}})、解放者[[シモン・ボリーバル]]の[[大コロンビア|コロンビア共和国]]解放軍から派遣された[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]が[[ペルー]]({{仮リンク|アヤクーチョの戦い|en|Battle of Ayacucho}})を解放していったが、本国ではブエノスアイレスの貿易独占に反対する[[東方州]]や[[リトラル三州]]のアルティーガス派([[連邦同盟]])とブエノスアイレス([[トゥクマン議会]]派)の対立が激しさを増し、内戦が続いた。内戦の末、1821年に{{仮リンク|フアン・マルティン・デ・プエイレドン|en|Juan Martín de Pueyrredón|label=プエイレドン}}が失脚すると中央政府は崩壊したが、中央政府が存在しないことは外交上不利であったため、各州の妥協により1825年に[[ブエノスアイレス州]]が連合州の外交権を持つことを認められた。
その後、ブエノスイアレスと敵対していた東方州が[[ポルトガル・ブラジル連合王国]]に併合されたことをブエノスアイレスが見過ごしたことへの批判が強まり、[[33人の東方人]]を率いて独立運動を開始した{{仮リンク|フアン・アントニオ・ラバジェハ|en|Juan Antonio Lavalleja}}将軍のバンダ・オリエンタル潜入から、かの地をめぐって1825年に[[ブラジル帝国]]との間に[[アルゼンチン・ブラジル戦争|ブラジル戦争]]が始まった。この戦争に際して挙国一致が図られ、{{仮リンク|ベルナルディーノ・リバダビア|en|Bernardino Rivadavia}}を首班とした中央政府が一時的に成立し、このときに国名を'''リオ・デ・ラ・プラタ'''から'''アルヘンティーナ'''に改名したが、戦争の最中に制定された[[中央集権]]憲法と、ブエノスアイレスを正式に首都と定める[[首都令]]が国内のすべての層の反発を受けると、リバダビアは失脚し、再び中央政府は消滅した。戦局はアルゼンチン有利に進んだが、内政の混乱が災いし、最終的にはイギリスの介入によって[[バンダ・オリエンタル]]を独立国とする[[モンテビデオ条約]]が結ばれ、1828年に[[ウルグアイ東方共和国]]が独立した。そしてこの地を以後再びアルゼンチンが奪回することはなかった。
=== ロサス時代 ===
[[ファイル:Juan Manuel de Rosas.jpg|thumb|left|ブエノスアイレス州知事にして「独裁王」[[フアン・マヌエル・デ・ロサス]]。批判されることが多いが、[[パンパ]]を代表とするアルゼンチンのもうひとつの精神を体現していた人物である。1835年から1852年まで鉄の統治を敷いた]]
[[ファイル:Flag of the Argentine Confederation.svg|thumb|ロサス時代の国旗]]
ブラジルに対しての実質的な敗戦の影響もあって連邦派と統一派の戦いは激化する。1829年に統一派の[[ブエノスアイレス州知事]]{{仮リンク|フアン・ラバージェ|en|Juan Lavalle}}を打倒した連邦派の[[フアン・マヌエル・デ・ロサス]]が州知事になると、ロサスはリトラル3州の[[カウディージョ]]と同盟を結んで1831年11月に[[中央集権同盟]]を破り、ほぼ全アルゼンチンの指導者となった。この時期には中央政府こそ作られなかったものの[[アルゼンチン連合]]が成立し、以降内戦はしばらくの小康状態に入った。ロサスは1832年に州知事を辞すると、「{{仮リンク|荒野の征服作戦|en|Desert Campaign (1833–34)}}」で敵対していた[[パンパ]]の[[インディヘナ]]を今日のブエノスアイレス州の領域から追い出して征服した土地を部下に分け与え、[[アシエンダ制|大土地所有制]]を強化した。
1835年にラ・リオハ州を中心とした内陸部の連邦派の指導者、{{仮リンク|フアン・ファクンド・キロガ|en|Facundo Quiroga}}が暗殺されると再びアルゼンチン全土に内戦の危機が訪れた。この際のロサスの妻の{{仮リンク|エンカルナシオン・エスクーラ|en|Encarnación Ezcurra|label=ドーニャ・エンカルナシオン}}のクーデターもあり、最終的にはブエノスアイレス州議会に請われてロサスは1835年に再びブエノスアイレス州知事に返り咲いた。以降のロサスの政治は[[恐怖政治]]を敷き、統一派だと見られた多くの自由主義者や知識人が弾圧・追放され、2万5,000人にも及ぶ市民が粛清された。その一方でロサスはパンパの伝統を守り、自由主義者によって弾圧されていた[[アフリカ系アルゼンチン人|黒人]]や[[ガウチョ]]を保護するなどの面もあった。独裁制はこうした政策により、ブエノスアイレス州の農民や都市下層民をはじめとする上流階級以外の各層から支持を得た。外交面では国粋主義と大アルゼンチン主義を貫き、移民を禁止するなどの政策をとった。1833年に [[マルビーナス諸島|マルビナス諸島]]を売るように要求したイギリス商人の申し出を断ったため、島はイギリスに占領されてしまった。しかしながらロサスは、ラ・プラタ地域に野心を持っていた[[イギリス]]、[[フランス]]とのウルグアイをめぐっての[[大戦争]]や、それに続くラ・プラタ川の封鎖、さらには[[パタゴニア]]を植民地化するとのフランスから恫喝、1845年から1846年の戦争となって顕在化したカウディージョの支配するパラグアイとの対立、これらの相次ぐ国難すべてからアルゼンチン連合を守り抜いた。しかし戦争によって貿易が封鎖され、疲弊したリトラル諸州の怒りは激しく、まもなくブラジル帝国と同盟した腹心の{{仮リンク|フスト・ホセ・デ・ウルキーサ|en|Justo José de Urquiza}}が[[エントレ・リオス州]]から反乱を起こすと、1852年に{{仮リンク|カセーロスの戦い|en|Battle of Caseros}}でロサスは敗れ、失脚した。
=== 国家統一と西欧化 ===
[[ファイル:Sarmiento (1873).jpg|thumb|220px|もっとも代表的な自由主義(欧化主義)者、{{仮リンク|ドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント|en|Domingo Faustino Sarmiento}}。1868年から1874年まで大統領を務めた]]
[[ファイル:José Ignacio Garmendia-Soldado paraguayo ante el cadáver de su hijo.jpeg|thumb|200px|left|『我が子の遺体を前にするパラグアイ兵』([[ホセ・イグナシオ・ガルメンディア]]画)]]
カセーロスの戦い以後のアルゼンチン連合は、当時の自由主義知識人の意向により西欧化が進み、土着のスペイン的な伝統や、ガウチョや黒人やインディヘナは近代化の障害として大弾圧された。ウルキーサが設立した[[アルゼンチン連合]]の{{仮リンク|アルゼンチン憲法 (1853年)|en|Argentine Constitution of 1853|label=1853年憲法}}は、事実上の起草者だった{{仮リンク|フアン・バウティスタ・アルベルディ|en|Juan Bautista Alberdi|label=アルベルディ}}の意向を反映し、きわめて自由主義的な憲法であった。ウルキーサがこの自由主義貿易によって自由貿易を導入すると、安い外国製品との競争に耐えられなかった国内産業はほとんど壊滅してしまった。
その後も{{仮リンク|ブエノスアイレス国|en|State of Buenos Aires}}と周辺諸州との間で内戦が続いたが、1861年にブエノスアイレス国がウルキーサを破り、アルゼンチン連合を併合して国家統一が達成された。このため、勝利した元ブエノスアイレス国知事{{仮リンク|バルトロメ・ミトレ|en|Bartolomé Mitre|label=ミトレ}}ら自由主義者が完全な主導権を握ることになり、国家の西欧化のために[[ヨーロッパ]]から移民が大量に導入されることが決定した。ミトレは周辺国への干渉と[[中央集権]]政策を進め、アルゼンチン・ブラジル2大国によるウルグアイへの内政干渉をきっかけにして1864年から始まったパラグアイとの[[パラグアイ戦争|三国同盟戦争]]を境に、土着勢力の抵抗も整備された連邦軍の軍事力の前に徐々に終わりを迎えて1880年には完全に鎮圧され、国家の近代化、中央集権化が進んだ。この時期に極端な集権化に抵抗した勢力には三国同盟戦争への反対を訴え、ラテンアメリカの連合を求めた{{仮リンク|フェリペ・バレーラ|en|Felipe Varela}}などが存在する。1868年に大統領に就任した自由主義者の{{仮リンク|ドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント|en|Domingo Faustino Sarmiento|label=サルミエント}}政権は、より自由主義的な経済政策や教育政策を成功に導き、ヨーロッパに倣った経済や社会の近代化が進んだが、反面土着文化の攻撃は激しさを増し、この時期に多くの黒人が出国して[[モンテビデオ]]に向かうことになる。一方、パンパではいまだに敵対的インディヘナとの対立が続いていたが、1878年に{{仮リンク|フリオ・アルヘンティーノ・ロカ|en|Julio Argentino Roca|label=ロカ}}将軍の指揮した{{仮リンク|砂漠の征服作戦|en|Conquest of the Desert}}によってパンパからインディヘナが追いやられると、征服された土地は軍人や寡頭支配層の間で再分配され、より一層の大土地所有制拡大が進んだ。
=== 西欧による搾取から民主化へ ===
[[ファイル:Hipólito Yrigoyen.jpg|thumb|left|民主化に努めた急進党の[[イポリト・イリゴージェン]](1916年 - 1922年、1928年 - 1930年に大統領を務めた)]]
1880年に正式にブエノスアイレスが国家の[[首都]]と定められ、首都問題が最終的に解決すると、このことが内政の安定につながり、[[アルゼンチンの歴史#急速な近代化と「移民の洪水」(1880年-1916年)|外国資本]]と移民の流入が一気に加速した。これにより、イギリスの「[[非公式帝国]]」の一部として経済の従属化は進んだが、一方で農牧業を中心とした[[モノカルチャー]]による奇跡と呼ばれるほどの経済発展も進んだ。こうしてヨーロッパからの大量の移民が「洪水」のようにブエノスアイレスになだれ込むと、それまではスペイン的で「偉大な田舎」に過ぎなかったブエノスアイレス市は、一挙に[[コスモポリタニズム|コスモポリタン]]な大都市の「南米のパリ」に転身し、1914年には実に国民の約30%が外国出身者となるほどであった。同時にこのころから、移民の流入や都市化以前のアルゼンチンを懐かしむ風潮が生まれ、1874年にはアルゼンチンの国民文学であるガウチョの叙事詩『{{仮リンク|マルティン・フィエロ|en|Martín Fierro}}』が完成した。
また、この時期に生まれた中間層を基盤に、寡頭支配層の大地主の不正政治を改めて政治の民主化を求める声も強くなり、1890年の反政府反乱をきっかけに1891年には急進的人民同盟が組織され、これはのちの[[急進市民同盟]](急進党)へと発展していった。また、1890年の反乱は政府証券を保有していた[[ベアリングス銀行]]に損失を被らせ、結局[[1893年恐慌]]に発展させた。急進党は1905年の武装蜂起に失敗したが、この反乱を恐れた保守派の{{仮リンク|ロケ・サエンス・ペーニャ|en|Roque Sáenz Peña}}大統領は以降行政による選挙干渉をやめることを提案し、司法が行政に優越する新選挙法を成立させた。この選挙法が適用された1916年の選挙では急進党から[[イポリト・イリゴージェン]]大統領が選出され、寡頭支配が切り崩された。[[ナショナリズム|国民主義]]的な政策をもって政治に臨んだイリゴージェンは、[[第一次世界大戦]]を中立国として過ごした。
=== 戦間期 ===
民主化の進展によって[[戦間期]]には政治も経済も安定に入り、イリゴージェンは1928年に再選され、アルゼンチンは1929年には世界第5位の富裕国となった<ref>増田義郎『略奪の海 カリブ』岩波文庫(岩波新書新赤版75)、1989年6月 p.214</ref>。しかし、1929年の[[世界恐慌]]はアルゼンチンのモノカルチャー経済を襲い、政治は急速に不安定化した。
世界恐慌に対する対策を持たなかったイリゴージェンは、翌1930年に軍事[[クーデター]]で追放された。クーデターによって1930年に大統領に就任した[[ホセ・フェリクス・ウリブル|ウリブル]]はアルゼンチンに[[ファシズム]]体制を築こうとしたが、この試みは失敗した。
=== 忌まわしき10年間 ===
ファシズム体制の失敗もあって1932年に[[アグスティン・ペドロ・フスト|フスト]]が大統領に就任すると、伝統的な寡頭支配層の政治が復活した。1930年代には19世紀の不正選挙の伝統も復活し、1930年代は「{{仮リンク|忌まわしき10年間|en|Infamous Decade}}」と形容された。
国際協調を旨としたフスト政権は1933年にイギリスとの{{仮リンク|ロカ=ランシマン協定|en|Roca–Runciman Treaty}}で、アルゼンチンをイギリスの{{仮リンク|スターリング・ブロック|en|Sterling area}}(Sterling bloc)に組み込んでもらうことに成功したが、見返りに多くの譲歩を強いられてアメリカ市場も失ってしまい、アルゼンチンはまるでイギリスの属国のような様相を呈するようになった。
=== ペロニスタと軍部の戦い ===
[[ファイル:Juan Peron con banda de presidente.jpg|thumb|left|[[フアン・ペロン]]。生涯に3回大統領を務めた(1946年 - 1952年、1952年 - 1955年、1973年 - 1974年)]]
このような潮流から次第に[[国民主義]]的な意識が国民の間に高まり、[[第二次世界大戦]]の最中にイギリスと戦う[[枢軸国]]への好意的な中立を標榜した{{仮リンク|統一将校団|en|United Officers' Group}}(GOU)の[[フアン・ペロン]][[大佐]]は徐々に人気を集め、ペロンは戦後1946年の選挙で大統領に就任した。なお第二次世界大戦はスペインや[[ポルトガル]]などと同じく[[中立国]]として生き永らえ、[[牛肉]]などの輸出で豊富な外貨を稼いだ。
大統領に就任したフアン・ペロンは、第二次世界大戦で得た莫大な外貨を梃子に工業化、鉄道などの国有化、労働者保護などの経済的積極国家政策を推し進めた。こうした[[ポプリスモ]]的な政策は当初成功したが、すぐに外資を使い果たしてしまい、さらに{{仮リンク|デスカミサードス|en|Descamisado}}<ref group="注釈">貧民を指す。直訳すれば「シャツなし」だが、ここでは「上着なし」の意</ref>から[[聖母]]のように崇められていた妻[[エバ・ペロン]](エビータ)が死去すると政策は傾きだしていった。
それまでも[[ラ・プラタ市]]をエバ・ペロン市に改名するなどの[[個人崇拝]]を強要するような行為は批判を浴びていたが、1954年に[[離婚法]]を制定したことから[[カトリック教会]]との関係も破綻し、支持基盤の労働者からの失望が広まったこともあり、1955年の軍部保守派によるクーデター({{仮リンク|リベルタドーラ革命|en|Revolución Libertadora}})でペロンは亡命した。フアン・ペロンの失脚後、重工業化とモノカルチャー経済の産業構造転換に失敗したアルゼンチンの経済は下降期に入り、政治的にも[[ペロニスタ]](ペロン主義者)と[[アルゼンチンの軍事|軍部]]の対立が国家の混乱に拍車をかけた。1962年には急進党の{{仮リンク|アルトゥーロ・フロンディシ|en|Arturo Frondizi|label=フロンディシ}}大統領が軍部のクーデターで失脚させられ、軍部が実権を握ったが、このときの軍事政権は長続きしなかった。
しかし、民政移管した急進党の{{仮リンク|アルトゥーロ・ウンベルト・イリア|en|Arturo Umberto Illia|label=イリア}}大統領を追放した{{仮リンク|アルゼンチン革命|en|Argentine Revolution|label=1966年のクーデター}}(アルゼンチン革命)は様子が異なり、{{仮リンク|フアン・カルロス・オンガニーア|en|Juan Carlos Onganía}}将軍はブラジル型の官僚主義的権威主義体制をアルゼンチンにも導入した。軍事政権は外資導入を基盤に衰退する経済を成長させようとしたが、軍事政権の厳しい統制に反対するペロニスタと軍部の戦いは激しさを増し、ペロニスタから生まれた[[モントネーロス]]や[[ペロニスタ武装軍団]]をはじめとする[[都市ゲリラ]]と軍部との抗争で多くの犠牲者が出るなど、さながら内戦の様相を呈していった。しかし、1969年にコルドバで起きた{{仮リンク|コルドバ暴動|en|Cordobazo}}(コルドバソ)を受けると軍事政権は穏健政策に転じ、テロの応酬を収めるためにペロニスタを議会に戻すことを決断した軍部は自由選挙を行った。
1973年のこの選挙では[[正義党]](ペロン党)が勝利し、亡命先からフアン・ペロンが帰国して三たび大統領に就任した。しかし、ペロンは翌1974年に病死し、1974年に副大統領から世界初の女性大統領に昇格した妻の[[イサベル・ペロン]]は困難な政局を乗り切れないまま拙劣な政策を積み重ね、治安、経済ともに悪化の一途を辿った。
=== 汚い戦争 ===
1976年3月に[[ホルヘ・ラファエル・ビデラ]]将軍がクーデター({{仮リンク|アルゼンチン・クーデター (1976年)|en|1976 Argentine coup d'état|label=アルゼンチン・クーデター}})を起こしイサベル・ペロンをスペインに追い払い、再び官僚主義的権威主義体制([[国家再編成プロセス]])がアルゼンチンに生まれた。
ビデラ政権は1966年の軍事政権よりもさらに強い抑圧・弾圧を進め、周辺の軍事政権と協調した「[[汚い戦争]]」、[[コンドル作戦]]により[[ペロニスタ]]や[[左翼]]を大弾圧したことで治安回復には成功したものの、ブラジル風に外資を導入して経済全体を拡大しようとした経済政策には大失敗し、天文学的な[[インフレーション]]を招いた。
軍事政権は行き詰まり、1982年に就任した[[レオポルド・ガルチェリ|ガルティエリ]]大統領は、イギリスが1833年以来実効支配を続けている[[マルビーナス諸島|マルビナス諸島]](英:フォークランド諸島)を奪還しようと軍を派遣して占領したが、当初うまくいくと思われたこの行動は[[マーガレット・サッチャー|サッチャー首相]]の決断により[[フォークランド紛争|フォークランド紛争(マルビナス戦争)]]に発展し、イギリスの反撃に遭って失敗した。建国以来初めての敗戦によって高まった国民の不満を受けたガルティエリ大統領は失脚し、軍事政権は崩壊した。しかし、この戦争はアルゼンチンとほかのラテンアメリカ諸国との絆を強め、ラテンアメリカの一員としてのアルゼンチンのアイデンティティのあり方に影響も与えた。
=== 民政移管 ===
1983年に、大統領選挙と議会選挙が行われ、急進党が久々に政権に返り咲いた。大統領に就任した[[ラウル・アルフォンシン]]は、軍政期からのインフレや[[対外債務]]問題、マルビナス戦争による国際的孤立などの厳しい政局の中、アウストラル計画に失敗し、経済面では成功を収めることができなかったものの、長年敵対関係が続いていたチリやブラジルとの関係を大幅に改善し、この融和路線はのちの[[メルコスール]]形成につながった。
また、アルフォンシンは軍政時代に人権侵害(投獄、拷問など)を行った軍人を裁き、軍の予算や人員、政治力を削減した。こうした政策に対して3度にわたる軍部の反乱もあったものの、アルフォンシンは結果として軍部を文民の統制下に置くことに成功した。アルフォンシンは任期を5か月残して1989年に辞任した。
1989年に就任した正義党(ペロン党)の[[カルロス・メネム]]は、1990年の[[湾岸戦争]]に[[南アメリカ]]で唯一[[アルゼンチン軍|軍]]を派遣し、1991年には[[非同盟諸国首脳会議]]から脱退するなど、先進国との国際協調路線を標榜し、孤立していたアルゼンチンを国際社会に復帰させた。軍事面でもメネム時代には「[[汚い戦争]]」に携わった軍人の恩赦が認められた一方で、[[核軍縮]]や[[徴兵制]]の廃止など、軍部の権力の制限がさらに進んだ。
=== 2001年の債務不履行 ===
[[ファイル:Cacerolazo Argentina 2001-2002.jpg|thumb|デモに参加する人々(2001年)]]
一方で経済面では、当初公約で掲げていた[[ペロン主義|ペロニスモ]]路線([[社会民主主義]])とは180度異なる[[新自由主義]]政策をとった。社会インフラや年金をも民営化した新自由主義政策は成功したかに見え、メネム特有のネオ・ポプリスモ政策と対ドルペッグ固定相場政策で長年の懸念だった[[インフレーション]]を抑制し、アルゼンチン経済を持ち直したかに見えたが、1997年ごろにはこの政策の無理が徐々に明らかになっていった。1999年の大統領選挙では急進党の[[フェルナンド・デ・ラ・ルア]]が勝利したが、すでに経済は危険な水準に達しており、[[国際通貨基金|IMF]]からの援助や公務員給与の削減なども効果はなく、最終的には[[ドルペッグ制]]の破綻をきっかけに、2001年にデ・ラ・ルアは[[債務不履行]]を決行した。なお、アルゼンチンはそれまでに6回の債務不履行(1827年、1890年、1951年、1956年、1982年、1989年)を経験しており、2001年の債務不履行は通算7回目となる<ref>「[http://toyokeizai.net/articles/-/45863 アルゼンチン、「デフォルト危機」の顛末]」。2014年8月23日、[[東洋経済新報社]]。2014年8月26日閲覧。</ref>。
アルゼンチン経済の崩壊後、アルゼンチンの世界的な評価は地に落ちた。政治面では大統領が次々と入れ替わる大混乱に陥り、社会的にもデモや暴動が多発する異常事態に陥った。しかし2003年に正義党左派から就任した[[ネストル・キルチネル]]の下で、政治は安定を取り戻し、それまでの新自由主義、[[市場原理主義]]と決別した。富裕層優遇をやめ、国民の大多数を占めている貧困層を減らし、中間層へと移行させるなどより、公正な社会を目指す政策を実行した。経済的な再建も進んだ。
=== 2014年の債務不履行 ===
2007年10月、正義党からキルチネルの妻の[[クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル]]が、同国史上初の「選挙による」女性大統領に就任した。就任演説で「雇用と工業・輸出・農業を基礎とする新しい多様化した経済基盤」を構築すると述べた。2007年の[[経済成長率]]は8%を記録し、近年のアルゼンチンは[[リーマンショック]]以降の世界的不況とは裏腹に好調を維持していた。しかしアメリカ合衆国の[[ヘッジファンド]]が、2001年におけるデフォルト時に債務削減に同意しなかった債権者から返還凍結中の債務を買い取り、全額支払いを求め2014年にアメリカ合衆国において訴訟を提起した<ref>[https://megalodon.jp/2019-0817-1610-14/https://www.afpbb.com:443/articles/-/3021804 アルゼンチン、デフォルトした場合の影響は? 2014年7月30日 9:25 AFP BBニュース]</ref>。[[連邦最高裁判所]]はヘッジファンド側の訴えを認めた。アルゼンチン政府はヘッジファンド側との交渉を続けたが和解に漕ぎ着けず、防衛的措置として「計画的債務不履行」を決行した。
=== 新自由主義への回帰と経済の破綻 ===
2015年11月の大統領選挙では、親米・新自由主義政策による経済復興を主張した中道右派の[[マウリシオ・マクリ]]が勝利<ref>{{Cite news|title=アルゼンチン大統領選、右派野党マクリ氏が勝利 経済自由化訴え|url=https://jp.reuters.com/article/argentina-election-idJPL3N13I1N020151123|work=Reuters|date=2015-11-23|access-date=2022-07-20|language=ja}}</ref>した。ルネル時代以前にとられていた格差縮小や[[富の再分配]]の重視といった社会主義的な政策よりも、国際金融資本・グローバル資本の利益を重視して経済成長を目指す新自由主義を中心とした政策へと回帰しつつあるとされた<ref>{{citenews|url=http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/12/post-4230.php|title=アルゼンチンから吹いてきた中南米左派政権の終焉の風|publisher=ニューズウィーク|date=2015-12-10|accessdate=2015-12-11}}</ref>。しかしながら、緊縮財政により経済は崩壊しデフォルト危機になった。[[国際通貨基金|IMF]]の主導による社会保障削減策で国民への負担が重くのしかかる一方、マクリ大統領の[[パナマ文書]]での[[租税回避行為]]が暴露されたことで反政府デモが勃発した。
=== 反米左派政権の復活へ ===
[[:en:2019 Argentine general election|2019年の大統領選挙]]では左派の[[アルベルト・フェルナンデス]]がマクリ大統領を破って当選<ref>{{citenews|url=https://jp.reuters.com/article/argentina-election-idJPKBN1X60U2|title=アルゼンチン大統領選、フェルナンデス氏圧勝 左派政権復活へ|publisher=ロイター通信|date=2019-10-28|accessdate=2019-10-29}}</ref>し、4年ぶりに左派政権が復活することになった。
=== 2020年の債務不履行 ===
[[2019新型コロナウイルス|新型コロナウイルス]]の感染拡大を理由に債務返済を停止。[[2020年]][[5月22日]]、同日が期限だった約5億ドル相当の国債利払いが行われなかったことをもって、通算9回目のデフォルト(債務不履行)に陥った<ref>{{Cite web|和書|date=2020-05-23 |url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2020-05-22/QAR8SEDWLU6801?srnd=cojp-v2 |title=アルゼンチン、9回目のデフォルト-債権者との交渉は継続 |publisher=ブルームバーグ |accessdate=2020-05-22}}</ref>。
=== BRICSへの加盟 ===
[[2023年]][[8月25日]]には、アルゼンチンがサウジアラビアなどと共に[[2024年]][[1月1日]]から[[BRICS]]に正式加盟することが決定した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2023-08-24/RZVRTAT0AFB401|wesite=bloomberg|title=BRICS、サウジやイランが加盟へ-24年から11カ国体制|date=2023-8-24|accessdate=2023-10-28}}</ref>。しかしアルゼンチンのBRICS加盟に否定的な[[ハビエル・ミレイ]]が2023年12月10日に大統領に就任し方針を転換、同年中に加盟しない方針を文書で通知した<ref name=kyodo20231230>{{Cite news|url=https://www.47news.jp/10330726.html|title=BRICS「非加盟」を決定 アルゼンチン、書簡で伝達|work=47NEWS|agency=[[共同通信社]]|date=2023-12-30|accessdate=2023-12-30}}</ref>。
== 政治 ==
{{main|{{仮リンク|アルゼンチンの政治|en|Politics of Argentina}}}}
[[ファイル:Casa Rosada, frente.jpg|thumb|180px|アルゼンチン大統領府、[[カサ・ロサダ]]]]
[[ファイル:Buenos Aires-Plaza Congreso-Pensador de Rodin.jpg|thumb|180px|[[国会議事堂 (アルゼンチン)|国会議事堂]]]]
[[大統領]]を[[元首]]とする[[連邦]][[共和制]][[国家]]であり、[[内閣]]、上下[[両院制]]の[[複数政党制]][[議会]]を備える。大統領・副大統領ともに直接選挙で選ばれ、その任期は4年(かつては6年)。現職大統領の大統領選挙への再出馬(当選した場合は再選)は1回のみ認められている。
2007年10月の大統領選挙では、[[イサベル・ペロン]]に次ぐ同国2人目(選挙によるものでは初)の女性大統領、[[クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル]]が誕生している。{{See also|アルゼンチンの大統領|アルゼンチンの副大統領}}
2015年10月25日の大統領選挙(1回目の投票)では過半数の得票を獲得した候補者が現れず、翌11月22日に実施された上位2候補による決選投票の結果、「共和国の提案」「[[急進市民同盟]]」(以下、急進党)らが推す保守系のマウリシオ・マクリが当選した。ただし、大統領選(1回目)と同日に行われた議会選挙(上院の3分の1と下院の約2分の1を改選)では正義党が引き続き比較第一党の座を上下両院で維持したため、連立3党(急進党系の地域政党を含めると4党)は議会内では少数派となる。
大統領と内閣は[[行政]]権を行使し、[[アルゼンチンの首相|内閣首席大臣]](Jefe de Gabinete de Ministros)を含む内閣の大臣は大統領によって任命される。大統領による職務執行が一時的(療養など)または永続的([[弾劾]]・辞任・死去に伴う欠位が発生した場合)に困難となったときは副大統領がそれを代行、もしくは大統領に昇格する。
内閣首席大臣([[官房長官]]と和訳される場合も)職は、閣内の意見集約に加え、行政(中央政府)の代表者として立法(議会)および地方政府(連邦構成州・各種自治体)との渉外・調整も担当する。[[大韓民国|韓国]]における[[国務総理 (大韓民国)|国務総理(首相)]]職に類似しているが、アルゼンチンでは[[アルゼンチンの副大統領|副大統領]]が正職欠位時の代行者であると憲法で既定されているため、その権限はより限られたものとなっている。
下院の与党系会派から選出される場合が多いが、必須条件とはなっておらず、カピタニッチ(上院議員・州知事などを歴任)や経済学者のコロンボ(国立銀行総裁を経てルア政権2人目の首席大臣に就任)のように、非下院系および民間からの起用事例も存在する。
他の大臣職同様、議会に対しては責任を負わないため、仮に議会内で与党が少数派に転落しても野党側から首相を選ぶ義務はなく、所属勢力の異なる大統領と首相が併存する、いわゆる「ねじれ現象」は発生しないが、逆転の度合いによっては大統領の求心力が低下し、政情流動化の原因となる可能性はある。
急進党の[[ラウル・アルフォンシン]]が政権を担当していた80年代後半ごろより首相制導入論(権限の一部を首相に移譲することで大統領を激務から解放するのがその趣旨)は存在していたが、構想が具体化したのは[[正義党]](ペロン党)出身の[[カルロス・メネム]]に政権が引き継がれてからである。1994年に議会を通過、大統領の署名により成立した憲法改正案には、首相ポストの追設のほか、大統領任期の6年から4年への短縮と再選禁止条項の撤廃が含まれていた。施行直後に実施された大統領選挙(1995年5月)ではメネムが再選を果たし、翌々月の組閣でエドワルド・バウサを初代首相に任命した。
旧正義党政権(左派)を率いたキルチネル夫妻からの信任が厚く、[[ネストル・キルチネル]]政権ではネストルの大統領就任から退任まで、[[クリスティーナ・キルチネル]]政権でも再任(成立を目指していた輸出税関連の法案が上院で否決されたことなどを理由に中途辞任)されているアルベルト・フェルナンデス元内閣首席大臣の約5年2か月(2003年5月 - 2007年12月、2007年12月 - 2008年7月)を除くと、内閣首席大臣の平均的な在任期間は現在2年前後となっているが、経済が混乱を極めていた2000年代の初頭には短命の内閣が続き、現政権党(共和国の提案)の総裁・ウンベルト・チャボニの首相在任期間はわずか4日となっている。11年ぶりに内閣首席大臣職に復帰したホルヘ・カピタニッチ元首相(2013年11月 - )も、1度目(エドワルド・ドゥアルデを大統領代理とする暫定政権)の在任期間は約4か月(2002年1月 - 2002年5月)であった。
2015年12月に発足した現連立内閣では、内閣首席大臣を含む全21の大臣ポスト中、政権党の「共和国の提案」に首相・外相など10ポスト、与党第一党の「急進党」(国会の議席数では政権党を上回るため)に防衛・通信など4ポスト、「市民連合」には蔵相・公安の2ポストがそれぞれ割り当てられ、残りの5名は民間などからの起用となった。
[[立法権]]は[[国民議会 (アルゼンチン)|国民議会]](下院)と[[元老院 (アルゼンチン)|元老院]](上院)に属し、国民議会は定数257人(任期4年)、元老院は定数72人(任期6年)である。下院では2年ごとに約半数の議席が、上院も同じく2年ごとに3分の1の議席がそれぞれ改選される。
下院の議席が[[ドント方式]]によって比例配分(各州および首都圏を1選挙区とみなし、定数は選挙区ごとに異なる)されているのに対し、上院では、各州および首都圏にそれぞれ一律で3つの議席が割り当てられており、最大の得票を獲得した政党に3分の2(2議席)が、次点の政党に3分の1(1議席)がそれぞれ付与される仕組みになっている。
下院の議員総数(各選挙区の定数)は、10年ごとに行われる国勢調査の結果に応じて見直される。
2年周期で勢力図が更新されるたびに両院の正副議長ポストの顔ぶれも変わる。下院の議長は政権党会派から選出され、3名の副議長は政権党を除く上位3会派に割り当てられる。上院では、現職の[[アルゼンチンの副大統領|副大統領]]が議長職を兼任し、上院仮議長及び3名の副議長は下院同様、政権党以外の上位3会派からの選出となる。
[[司法権]]は[[国家最高司法裁判所 (アルゼンチン)|国家最高司法裁判所]]に属し、行政、立法から独立している。
議会における比較第一党である野党「正義党」(統一会派「勝利戦線」の基軸政党)のほか、連立関係にある「急進党」(比較第二党・与党第一党)と「共和国の提案」(現政権で正副大統領・首席大臣・上下両院の議長を輩出している保守政党)、「市民連合」、正義党より分派した保守系の「新たなる選択のための連合」、穏健左派の「拡大進歩戦線」([[社会党 (アルゼンチン)|社会党]]系の連合体)、「統一」(急進党の分派を含むリベラル勢力)、「左翼労働戦線」([[トロツキズム]]的な極左政党)、5議席未満の地域政党らが国会に議席を有している。
正義・急進両党によって政界の勢力図が二分されていた時期には、首都圏を中心に「中道民主連合」(1982年に故アルバロ・アルソガライが結成した穏健的な保守政党。以下、中民連)が一定の存在感を有していたが、事実上の与党として旧メネム政権(正義党)と協力関係に入った90年代より党勢が徐々に低迷した。2009年1月、過去2回の選挙で2%以上の得票率を獲得することができなかった同党は、司法判断によりブエノスアイレス州での政党資格が剥奪され、同年3月には、党の2007年度版収支報告書に不備があったことを理由に、政党助成金の給付も停止された。なお、前政権で副大統領を務めていたアマド・ボウドウは国政レベルの現役政治家では唯一の中民連出身者である。
{{See also|アルゼンチンの政党}}
相次ぐ国軍の反乱などや度重なるデフォルトなどに見られるように、歴史上「中進国」とされてきた国々の中ではもっとも政情の安定していない国のひとつであり、この政情不安定さは1983年の民政移管後の失政や、2001年11月の経済破綻など、一連の経済不安や現在の極度に拡大した貧富格差の元凶とされている。この不安定さを国民統合が成功していない(国民全体に受け入れられる国民文化が成立していない)ことに求める言説は多い。
2009年3月26日、上院は10月に予定されていた上・下両院の中間選挙を6月28日に行う法案を可決した。クリスティーナ・キルチネル前大統領は国際金融危機に対応する必要から議会選挙の前倒しを提案していた。
2012年4月16日、政府は[[レプソル]]傘下のアルゼンチン最大の石油会社YPFの株式の過半数にあたる51%を取得し、同社の経営権を取得する方針を明らかにした<ref>AFP BB NEWS [https://www.afpbb.com/articles/-/2872390?pid=8800957 アルゼンチン、スペイン石油大手傘下YPFを実質国営化へ] 2014年閲覧</ref>。
2023年11月19日(日本時間11月20日)行われた大統領選決選投票にて、[[ハビエル・ミレイ]]候補の当選が発表された<ref>{{Cite web|title=外務省 岸田総理大臣発ミレイ・アルゼンチン共和国次期大統領宛祝辞の発出 |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/la_c/sa/ar/page5_000500.html|accessdate=2023-11-21}}</ref>。
== 軍事 ==
{{main|アルゼンチンの軍事}}
[[ファイル:Granaderos-san-martin.JPG|thumb|250x180px|ブエノスアイレスのサン・マルティン公園を閲兵する、独立戦争時に[[サン=マルティン]]将軍が創設した擲弾騎兵連隊]]
アルゼンチン軍は国防大臣によって指揮され、大統領が最高指揮官を兼ねる。兵制は[[志願兵制]]を採用している。軍隊は陸海空の三軍のほかに[[アルゼンチン国家憲兵隊|国家憲兵隊]]から構成される。歴史的にアルゼンチン軍はチリやブラジルとの軍拡競争の結果もあり、ラテンアメリカでもっともよく整備された軍隊だった。
アルゼンチンはブラジルと同じように建国以来軍部の力が強く、クーデターが日常的に起きる不安定な国だった。1970年代のクーデター以降、アルゼンチン軍は[[都市ゲリラ]]排除のために国内で『[[汚い戦争]]』に従事し、8,000人とも3万人ともいわれる市民の犠牲者を出しており、これは現在でも[[五月広場の母の会]]などの訴えにより問題となっている。しかし、建国以来初の敗戦となったマルビナス戦争により軍の威信は落ち、民政移管後の1983年に長らく第一の仮想敵国だったチリとも国境線が確定され、核計画やアメリカ合衆国の肝煎りで進められていた[[ミサイル]]計画が放棄されると軍は大幅に削減され、その後のいくつかの反乱計画も未然に終わるなど現在は政治力を減らしている。敗戦の結果から[[徴兵制]]を敷いていない国でもあるが、一部で復活を求める意見もある。
* 国防予算 : 38億ドル(2000年)
* 兵員 : 7万1,100人(2000年)
=== 陸軍 ===
'''[[アルゼンチン陸軍]]''' ('''Ejército Argentino''')は兵員4万1,400人からなる。[[軍団]]3。[[空挺]][[旅団]]1、機械化旅団1などを擁し、装備品は[[TAM (戦車)|TAM]]200両、軽戦車150両。[[地対空ミサイル]]は[[タイガーキャット (ミサイル)|タイガーキャット]]など。
アルゼンチン陸軍は現在[[PKO]]のため、[[ハイチ]]と[[キプロス]]に派遣されている。
=== 海軍 ===
'''[[アルゼンチン海軍]]''' ('''Armada de la República Argentina''' (ARA)) は兵員1万7,200人からなる。8基地。[[潜水艦]]3隻、[[駆逐艦]]6隻、[[フリゲート]]7隻、航空隊作戦機21機、武装ヘリ14機、フランス製[[シュペルエタンダール]]11機、[[エグゾセ]][[空対艦ミサイル]]など。艦艇については[[アルゼンチン海軍艦艇一覧]]を参照のこと。20世紀初頭に起きた[[日露戦争]]の際には、編入される予定だったイタリア製装甲巡洋艦二隻([[日進 (装甲巡洋艦)]]、[[春日 (装甲巡洋艦)]])を日本海軍に売却譲渡し、日露戦争の勝利に貢献したという歴史的関わりを持つ。
=== 空軍 ===
'''[[アルゼンチン空軍]]''' ('''Fuerza Aérea Argentina''')は兵員1万2,500人からなる。航空旅団8など。作戦機133機、武装[[ヘリコプター|ヘリ]]27機、[[戦闘機]]は[[A-4 (航空機)|A-4]]スカイホークなど。
== 国際関係 ==
{{main|{{仮リンク|アルゼンチンの国際関係|en|Foreign relations of Argentina}}}}
[[File:Diplomatic relations of Argentina.svg|thumb|520px|アルゼンチンが外交使節を派遣している諸国の一覧図(2019年)]]
2001年の債務不履行以来、アルゼンチンは諸外国に大きく不信感を持たれ、1982年のマルビナス戦争以来の国際的な孤立に陥ったが、現在は債務の返済などを軸に国際社会への復帰が進められている。アルゼンチンは[[南極条約]]締結国であるが、[[南極]]の領有権を主張している([[アルゼンチン領南極]])。またアルゼンチンは、[[フォークランド紛争]]に敗北したのちもなおイギリスが実効支配するマルビナス諸島の領有権も主張している。2007年12月、[[クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル]]大統領は、多国間主義とテロ根絶を強調した。
戦前はイギリスに周辺国化され半ば[[属国]]のような様相を呈していながらも、輸出で蓄えた経済力を背景に、スペイン語圏を代表する国家として旧宗主国スペインをしのぐ勢いで権勢を誇っていた。[[北アメリカ|北米]]において似たような立場にあった[[アメリカ合衆国]]をライバル視し、同国が[[モンロー主義]]のもとで中南米を勢力圏に入れようとしていたのに対し、ヨーロッパ諸国を重視する独自外交のもとでアメリカ合衆国とは距離を置き、常にほかのラテンアメリカ諸国とは一線を画していた。
[[ビーグル水道]]で領土問題を抱えていたチリとは伝統的に関係が悪く、第二次大戦後は何度か戦争直前にまで陥ったこともあった。1984年に[[ローマ教皇]][[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]](フアン・パブロ2世)の仲介により、アルゼンチンが係争地の[[ピクトン島・レノックス島・ヌエバ島]]のチリ帰属を認め、領土問題において妥協することにより友好関係が確立された。しかしその後、2004年に事前に連絡なくチリへの天然ガスの輸送を停止してしまったことが大きな外交問題となった。
アルゼンチンの最大のライバルは隣の大国ブラジルであり、[[近代オリンピック|オリンピック]]やサッカーの大会があるたび互いに強烈な対抗意識を持って争っていたが、ラウル・アルフォンシンの融和政策が功を奏して両者とも[[メルコスール]]に加盟するなどの経済統合が進んでいる。以上のような事情により、現在のアルゼンチンはブラジルを軸としたラテンアメリカ統合を受容し、その主要国として影響力を保っている。また対外政策では一線を画しながらも、石油や天然ガスなどの資源を背景に[[ベネズエラ]]の歴代政権との友好関係が続いている。
ヨーロッパとの関係も重要であり、もっとも関係のよい国家は[[スペイン]]である。言語が共通するために多くのラテンアメリカ人がスペインに出稼ぎ、移民として居住しているが、アルゼンチンもその例外ではなく多くのアルゼンチン人が移住している。
=== 日本との関係 ===
{{Main|日本とアルゼンチンの関係}}
== 地方行政区分 ==
{{main|アルゼンチンの地方行政区画}}
[[ファイル:Map of Argentina with provinces.svg|270px|thumb|アルゼンチンの州の一覧(数字はABC順)。黒点は州都]]
[[ファイル:Regiones de Argentina.svg|サムネイル|445x445ピクセル|{{仮リンク|アルゼンチンの政治的な地域区分|es|Regiones integradas (Argentina)}}。この区分では5つの地方に分けられる。後述の地理的な区分とは違うことに注意<br />(Ⅰ)[[:es:Región del Norte Grande Argentino|Norte Grande Argentino]]<br />(Ⅱ)[[:es:Región del Nuevo Cuyo|Nuevo Cuyo]]<br />(Ⅲ)[[:es:Región Centro (Argentina)|Centro]]<br />(Ⅳ)[[:es:Región de la Patagonia|Patagonia]]<br />(Ⅴ)[[ブエノスアイレス州]]]]
アルゼンチンは23の州(provincia)と1つの自治市(Ciudad Autónoma)*からなる。
# {{Flagicon|Buenos Aires City}} ブエノスアイレス自治市* (Buenos Aires City)
# {{Flagicon|Buenos Aires}} [[ブエノスアイレス州]] (Buenos Aires)
# {{Flagicon|Catamarca}} [[カタマルカ州]] (Catamarca)
# {{Flagicon|Chaco}} [[チャコ州]] (Chaco)
# {{Flagicon|Chubut}} [[チュブ州]] (Chubut)
# {{Flagicon|Córdoba}} [[コルドバ州]] (Córdoba)
# {{Flagicon|Corrientes}} [[コリエンテス州]] (Corrientes)
# {{Flagicon|Entre Ríos}} [[エントレ・リオス州]] (Entre Ríos)
# {{Flagicon|Formosa}} [[フォルモサ州]] (Formosa)
# {{Flagicon|Jujuy}} [[フフイ州]] (Jujuy)
# {{Flagicon|La Pampa}} [[ラ・パンパ州]] (La Pampa)
# {{Flagicon|La Rioja (ARG)}} [[ラ・リオハ州 (アルゼンチン)|ラ・リオハ州]] (La Rioja)
# {{Flagicon|Mendoza}} [[メンドーサ州]] (Mendoza)
# {{Flagicon|Misiones}} [[ミシオネス州]] (Misiones)
# {{Flagicon|Neuquén}} [[ネウケン州]] (Neuquén)
# {{Flagicon|Río Negro}} [[リオネグロ州]] (Río Negro)
# {{Flagicon|Salta}} [[サルタ州]] (Salta)
# {{Flagicon|San Juan}} [[サンフアン州 (アルゼンチン)|サンフアン州]] (San Juan)
# {{Flagicon|San Luis}} [[サンルイス州]] (San Luis)
# {{Flagicon|Santa Cruz}} [[サンタクルス州]] (Santa Cruz)
# {{Flagicon|Santa Fe}} [[サンタフェ州]] (Santa Fe)
# {{Flagicon|Santiago del Estero}} [[サンティアゴ・デル・エステロ州]] (Santiago del Estero)
# {{Flagicon|Tierra del Fuego}} [[ティエラ・デル・フエゴ州|ティエラ・デル・フエゴ、アンタルティダ・エ・イスラス・デル・アトランティコ・スール州]]([[フエゴ島]]、[[南極]]および[[南大西洋]]諸島、Tierra del Fuego, Antártida e Islas del Atlántico Sur)
# {{Flagicon|Tucumán}} [[トゥクマン州]] (Tucumán)
ほかにイギリス領のマルビナス諸島の領有権を主張している。<!-- 州の名前は、 http://www.embargentina.or.jp/infoar/info.html を参考にした -->国土統一直後の1853年に首都令があったものの、ブエノスアイレスは1880年までは正式な首都ではなかった。
各州は州内でさらに小さな行政単位に分割され、県(departomentos)は合計376県にもなる。ブエノスアイレス州は県に類似した134ものpartidosに分割される。departomentos・partidosともに市町村や地域の中から分割された区分である。
=== 主要都市 ===
{{Main|アルゼンチンの都市の一覧}}
アルゼンチンは北西部のアンデス山脈周辺から開発が進められたが、独立後は歴史的に外港がブエノスアイレスしか存在しなかったことを反映して、19世紀、20世紀を通して内陸部の開発は進まず、現在も極端なブエノスアイレス一極集中である。1980年代のアルフォンシン時代に、パタゴニアのリオ・ネグロ州州都[[ビエドマ]]への遷都計画もあったが、結局実行されないまま計画は凍結された。
* [[ブエノスアイレス]] ''[[:es:Buenos Aires|Buenos Aires]] (1,180.2万人、1995年)''
* [[コルドバ (アルゼンチン)|コルドバ]] ''[[:es:Córdoba (Argentina)|Córdoba]]'' (約130万)
* [[ロサリオ]] ''[[:es:Rosario|Rosario]]'' (約116万)
* [[ラプラタ (アルゼンチン)|ラプラタ]] ''[[:es:La Plata|La Plata]]'' (約54万)
* [[サン・ミゲル・デ・トゥクマン]] ''[[:es:San Miguel de Tucumán|San Miguel de Tucumán]]'' (都心人口約47万)
* [[メンドーサ]] ''[[:es:Ciudad de Mendoza|Mendoza]]'' (都心人口約12万)
=== 都市と都市圏 ===
<div style="text-align:center">
'''2005年におけるアルゼンチンの14の大都市圏'''
{| class="wikitable" style="margin-right:60px"
! 順位!! 都市 !! 州
! 人口!! 地域
|-
!align="center"| 1
| [[ブエノスアイレス]] || 市域 + [[ブエノスアイレス州]] の24の管区
|align="right"| 11,453,725 ||align="center"| パンパ
|-
!align="center"| 2
| [[コルドバ (アルゼンチン)|コルドバ]] || [[コルドバ州]]
|align="right"| 1,513,200 ||align="center"| パンパ
|-
!align="center"| 3
| [[ロサリオ]] || [[サンタフェ州]]
|align="right"| 1,295,100 ||align="center"| パンパ
|-
!align="center"| 4
| [[ラプラタ (アルゼンチン)|ラ・プラタ]] || [[ブエノスアイレス州]]
|align="right"| 857,800 ||align="center"| パンパ
|-
!align="center"| 5
| [[サン・ミゲル・デ・トゥクマン]] || [[トゥクマン州]]
|align="right"| 833,100 ||align="center"| 北西部
|-
!align="center"| 6
| [[マル・デル・プラタ]] || [[ブエノスアイレス州]]
|align="right"| 699,600 ||align="center"| パンパ
|-
!align="center"| 7
| [[サルタ (アルゼンチン)|サルタ]] || [[サルタ州]]
|align="right"| 531,400 ||align="center"| 北西部
|-
!align="center"| 8
| [[サンタフェ (アルゼンチン)|サンタフェ]] || [[サンタフェ州]]
|align="right"| 524,300 ||align="center"| パンパ
|-
!align="center"| 9
| [[サンフアン (アルゼンチン)|サン・フアン]] || [[サンフアン州 (アルゼンチン)|サン・フアン州]]
|align="right"| 456,400 ||align="center"| クージョ
|-
!align="center"| 10
| [[レシステンシア]] || [[チャコ州]]
|align="right"| 399,800 ||align="center"| グラン・チャコ
|-
!align="center"| 11
| [[ネウケン]] || [[ネウケン州]]
|align="right"| 391,600 ||align="center"| パタゴニア
|-
!align="center"| 12
| [[サンティアゴ・デル・エステロ]] || [[サンティアゴ・デル・エステロ州]]
|align="right"| 389,200 ||align="center"| グラン・チャコ
|-
!align="center"| 13
| [[コリエンテス]] || [[コリエンテス州]]
|align="right"| 332,400 ||align="center"| メソポタミア
|-
!align="center"| 14
| [[バイア・ブランカ]] || [[ブエノスアイレス州]]
|align="right"| 310,200 ||align="center"| パンパ
|}
</div>
== 地理 ==
{{出典の明記| date = 2022年12月|section=1}}
{{main|アルゼンチンの地理}}
[[ファイル:ViñedoCafayate.jpg|thumb|250x180px|[[サルタ州]]]]
[[ファイル:Landschaft von Patagonien.jpg|thumb|250x180px|パタゴニア]]
[[ファイル:Lake Argentino northern arm Lago Argentino Brazo Norte Patagonia Argentina Luca Galuzzi 2005.JPG|thumb|250x180px|パタゴニアの氷湖]]
[[ファイル:Perito moreno.jpg|thumb|250x180px|ペリート・モレノ氷河]]
[[ファイル:Salta-VallesCalchaquies-P3140151.JPG|thumb|250x180px|サルタ州のカルチャキ渓谷]]
[[ファイル:Purmamarca 01.JPG|thumb|250x180px|プルママルカの七色の丘]]
[[ファイル:Bariloche- Argentina2.jpg|thumb|250x180px|[[バリローチェ]]から見た[[ナウエル・ウアピ湖]]の光景]]
[[ファイル:Aconcagua from base.jpg|thumb|アルゼンチン最高峰[[アコンカグア]] (6,962メートル)。南北アメリカ、および西半球最高峰でもある]]
アルゼンチンの国土は、南北に3,500キロ以上の長さに及ぶ、ブラジルについで南米で2番目に大きい国で、面積は全体で276万6,890km²になり、陸地のみでは273万6,690km²に、水域のみでは3万200km²に及ぶ。
アルゼンチンでもっとも標高が高いのはメンドーサ州の[[アコンカグア|アコンカグア山]](6,962メートル)であり、これは米州と西半球全体でもっとも高い山でもある。反対にもっとも標高が低いのはサンタ・クルス州の[[カルボン湖]]であり、海抜マイナス105メートルは南アメリカ大陸全体でももっとも低い。国土の中心はラ・パンパ州の南西である。
アルゼンチンは、[[中華人民共和国]]と、北部の一部は[[中華民国]]([[台湾]])、南部の一部は[[モンゴル国]]や[[ロシア]]([[シベリア]])の[[対蹠地]]である。
アルゼンチンは[[1904年]]から[[南極]]大陸の領有権を主張している。イギリスが実効支配している[[マルビーナス諸島|マルビナス諸島]]の領有権も主張している。
=== 地理的な国土 ===
アルゼンチンは伝統的にいくつかの地理的な区分に分けられる。北は[[亜熱帯]]に属し、[[熱帯雨林]]が形成されている。西に[[アンデス山脈]]、東には[[パンパ]]と呼ばれる大草原が広がる。パンパは国土の約25%を占める。[[ウルグアイ川]]と[[パラナ川]]に挟まれた地方は、[[メソポタミア (アルゼンチン)|メソポタミア地方]]でパンパと同じく草原地帯である。南緯40度付近に位置する[[コロラド川 (アルゼンチン)|コロラド川]]以南を[[パタゴニア]]地方と呼び、荒涼たる[[砂漠]]が広がっている。
==== パンパ ====
[[パンパ]]は国土の約25%を占め、アルゼンチンの富の多くを生み出している。ブエノスアイレスの西と南に広がる草原は{{仮リンク|湿潤パンパ|es|Pampa húmeda|en|Humid Pampas}}と呼ばれ、ブエノスアイレス州とコルドバ州のほぼすべてと、サンタフェ州とラ・パンパ州の大部分を占める。ラ・パンパ州の西部は{{仮リンク|半乾燥パンパ|es|Pampa seca|en|Semi-arid Pampas}}になっている。
{{仮リンク|湿潤パンパ|es|Pampa húmeda|en|Humid Pampas}}は年間降水量が750ミリ以上で、[[アルファルファ]](マメ科・栄養があり、土地を豊かにする牧草)・トウモロコシなどを栽培し、牧牛をしている。{{仮リンク|半乾燥パンパ|es|Pampa seca|en|Semi-arid Pampas}}は年間降水量が550ミリ以下で乾燥に強い牧羊をしている。[[移行地帯]]では小麦(年間降水量が550 - 750ミリが適当)の栽培をしている。
コルドバ州西部の[[コルドバ山脈]]はサン・ルイス州まで延び、パンパの中ではもっとも重要な地域となっている。パンパとパタゴニアの境界線は、かつては[[コロラド川 (アルゼンチン)|コロラド川]]だったが、現在は[[ネグロ川 (アルゼンチン)|ネグロ川]]となっている。
==== グラン・チャコ ====
[[グランチャコ|グラン・チャコ]]地方はアルゼンチン北部に位置し、雨季と乾季がはっきりと分かれ、おもに[[綿花]]の栽培や家畜の飼育が盛んである。こうした地域はチャコ州とフォルモサ州の大部分を占める。植生としては[[亜熱帯雨林]]や[[低木林地]]や[[湿地]]帯が点在し、多くの動植物が生息する。サンティアゴ・デル・エステロ州はグラン・チャコの中でもっとも乾燥した地域である。
==== メソポタミア ====
パラナ川とウルグアイ川に囲まれた地域は[[メソポタミア (アルゼンチン)|メソポタミア地方]]と呼ばれ、ミシオネス州、コリエンテス州とエントレ・リオス州が属する。かつてはグアラニー人が多く住んでいた土地で、文化的にはパラグアイやウルグアイに近く、牧草地や植物の育ちやすい平坦な土地が特徴であり、コリエンテス州中部に{{仮リンク|イベラ湿地|en|Iberá Wetlands}}が存在する。ミシオネス州はより熱帯に近く地理的には[[ブラジル高原]]に属し、[[イグアスの滝]]と[[亜熱帯雨林]]が特徴である。
==== パタゴニア ====
ネウケン州、リオ・ネグロ州、チュブ州、サンタ・クルス州にまたがる[[パタゴニア]]の[[ステップ (地形)|ステップ]]は先住民の地域である。多くの地域では雨が少なく、北は寒くて南は不毛の地であるが、西部の周辺には森林があり、後述するようにいくつかの大きい湖も点在する。ティエラ・デル・フエゴ州は寒く湿っており、大西洋からの海流の影響で多少は過ごしやすい。パタゴニア北部(ネグロ川以南のリオ・ネグロ州とネウケン州)はコマウエ地域と呼ばれることがある。
==== クージョ ====
アルゼンチン中西部はそびえる[[アンデス山脈]]に支配されている。同地域の東部は乾燥した[[クージョ (アルゼンチン)|クージョ]]地域として知られており、クージョ(Cuyo)という名前も[[マプーチェ語]]で「砂地」という意味の言葉からきているとされている。高山から溶けてきた水は低地の[[オアシス]]の灌漑用水となり、メンドーサ州とサン・フアン州を豊かな果実と[[ワイン]]の生産の中心としている。さらに北の地域、ラ・リオハ州などは地理的な理由でより暑く、乾燥した地域になる。
==== 北西部 ====
[[アルゼンチン北西部|北西部]]地域はアルゼンチンでもっとも海抜の高い地域であり、6,000メートルを超えるいくつかの平行なアンデス山脈が領域を貫いている。これらの山脈は北方に向かって延びており、それらは肥沃な流域によって分断され、その中でももっとも重要な渓谷はカタマルカ州、トゥクマン州、サルタ州に広がる{{仮リンク|カルチャキ渓谷|es|Valles Calchaquíes|en|Calchaquí Valleys}}である。[[フフイ州]]北部の[[ボリビア]]国境付近からは、中央アンデスの[[アルティプラーノ]]高原が広がる。
=== 山 ===
国土西部を南北に[[アンデス山脈]]が貫き、アルゼンチンの山地や国内最高峰の[[アコンカグア]]をはじめとする高山の多くはこの地域に集中する。コルドバ州の西部にも[[コルドバ山脈]]が存在するが、標高はあまり高くない。
=== 河川と湖 ===
アルゼンチンの主要な河川は[[ピルコマジョ川]]、[[パラグアイ川]]、[[ベルメホ川]]、 [[コロラド川 (アルゼンチン)|コロラド川]]、[[ネグロ川 (アルゼンチン)|ネグロ川]]、[[サラド川 (アルゼンチン)|サラド川]]、[[ウルグアイ川]]などであり、国内最長の河川はブラジルから流れる[[パラナ川]]である。ウルグアイ川とパラナ川は[[大西洋]]に流れ出る前に合流し、[[ラプラタ川|ラ・プラタ川]]の河口を形成する。各地域ごとに重要な河川としては{{仮リンク|アトゥエル川|es|Río Atuel|en|Atuel River}}、メンドーサ州と同名の[[メンドーサ川]]、パタゴニアの[[チュブ川]]、フフイ州の{{仮リンク|リオ・グランデ川 (フフイ州)|es|Río Grande (Jujuy)|label=リオ・グランデ川}}、サルタ州の{{仮リンク|サン・フランシスコ川 (フフイ州)|es|Río San Francisco (Jujuy)|label=サン・フランシスコ川}}などがある。
パタゴニアを中心にいくつかの大きな湖が存在する。[[アルヘンティーノ湖]]と[[ビエドマ湖]]がサンタ・クルス州に、[[ナウエル・ウアピ湖]]がリオ・ネグロ州に、[[ファグナーノ湖]]がティエラ・デル・フエゴ州に、コルウエ・ウアピ湖とムステル湖がチュブ州に、[[ブエノスアイレス湖]]と[[サン・マルティン湖]]はチリとの国境を形成している。国内でもっとも大きい[[塩湖]]は[[マール・チキータ]]である。アルゼンチンの多数の貯水池が[[ダム]]によって作られている。エントレ・リオス州には[[テルマス・デ・リオ・オンド]]など、水温は30℃から65℃の[[温泉]]があり、川を挟んで対岸のウルグアイ北部にも温泉がある。
=== 沿岸部と海 ===
アルゼンチンは4,665キロの海岸線を有している。大陸の上陸可能地点は非常に広く、アルゼンチンではこの広大な大西洋の浅瀬は[[アルゼンチン海]]と呼ばれる。海中には多くの魚が住み、[[炭化水素]]エネルギー資源を保有していると予想されている。アルゼンチンの沿岸は砂丘と崖に挟まれている。沿岸に影響を及ぼしている2つの[[海流]]のうち、[[暖流]]は[[ブラジル海流]]であり、[[寒流]]は[[フォークランド海流]](スペイン語では大西洋海流、もしくはマルビナス海流)である。沿岸の大地では不規則な形状のため、2つの海流は気候に対して相互に影響し、高緯度地方においても気温を下げさせない。[[ティエラ・デル・フエゴ]]の南端は[[ドレーク海峡]]の北岸を構成している。
=== 飛地 ===
アルゼンチンには[[マルティン・ガルシア島]]という[[マルティン・ガルシア島|飛地]]がある。パラナ川とウルグアイ川の合流点付近に存在し、約1キロほどウルグアイの水域に入っており、3.5キロほど離れたウルグアイの沿岸には[[マルティン・チコ]]([[ヌエバ・パルミラ]]と[[コロニア・デル・サクラメント]]の中間)が存在する。
一世紀にわたる両国紛糾の末に、アルゼンチンとウルグアイは1973年に島の管理権について合意に達した。協定に従って、マルティン・ガルシアは排他的自然保護区として用いられることとなった。面積は約2km<sup>2</sup>であり、住民は約200人である。
=== 気候 ===
地域によって大きく異なるが、[[亜熱帯]]、[[温帯]]、[[乾燥帯]]、[[寒帯]]の4つに大別される。北部は非常に蒸し暑い夏と、穏やかで乾いた冬があり、周期的に旱魃に見舞われる。アルゼンチン中部では雷を伴う大嵐(西部では世界でもっとも多くの雹が降る)のある暑い夏と、涼しい冬がある。南部は暖かい夏と、特に山岳地帯では豪雪に見舞われる寒い冬がある。すべての緯度の地域において、標高の高い地点では冷たい気候となる。
南米における観測史上での最高気温と最低気温はともにアルゼンチンで観測された。最高気温の49.1℃は1920年1月20日にコルドバ州のビジャ・デ・マリアで記録された。最低気温の-39℃は1972年7月17日にサン・フアン州のビジャ・デ・ロス・パトース・スペリオールで記録された。
<!--
== 植物と動物 ==
=== 植物 ===
=== 動物 ===
[[ファイル:Florida Panther.jpg|thumb|250x180px|北東部に生息するピューマ。]]
-->
== 経済 ==
{{main|{{仮リンク|アルゼンチンの経済|en|Economy of Argentina}}}}
{{See also|[[アルゼンチン経済の歴史]]}}
[[ファイル:Buenos Aires-Av. 9 de julio.jpg|thumb|250x180px|ブエノスアイレスの中心にある、世界でもっとも幅が広い道路である[[7月9日大通り]]。中央に見えるのは[[オベリスク|オベリスコ]]]]
[[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2018年]]のアルゼンチンの[[国内総生産|GDP]]は約5,194億ドルと世界21位であり、南米では[[ブラジル]]に次ぐ2位である。[[一人当たりのGDP]]は1万1658ドルで、こちらは[[ウルグアイ]]、[[チリ]]に次いで南米3位である。アルゼンチンは[[メルコスール]]、[[南米共同体]]の加盟国である。
アルゼンチンでは幅広い産業が行われている。農産物は、主要輸出品目は[[コムギ|小麦]]、[[トウモロコシ]]、[[牛肉]]、[[ワイン]]などに加え、2000年代以降は[[大豆]]の生産も盛んになっている<ref>{{Cite web|和書|date= 2017年7月3日|url= http://www.maff.go.jp/j/kokusai/kokusei/kaigai_nogyo/k_gaikyo/attach/pdf/arg-2.pdf|title= アルゼンチンの農林水産業概況 |publisher= 農林水産省|accessdate=2018-04-08}}</ref>。2019/2020年度時点で大豆の生産量がブラジル、アメリカに次いで3位の約13%を占めており、大豆輸出量世界第4位である<ref>{{Cite web|和書|title=世界の大豆需給予測(2021年9月)|農畜産業振興機構 |url=https://www.alic.go.jp/chosa-c/joho01_003058.html |website=農畜産業振興機構 |access-date=2022-12-13 |language=ja}}</ref>。トウモロコシの生産量はアメリカ、中国、ブラジルに次いで4位<ref>{{Cite web|和書|title=2021/22年度の世界のトウモロコシ生産量、前年度からかなりの程度増加する見込み|農畜産業振興機構 |url=https://www.alic.go.jp/joho-c/joho05_001891.html |website=農畜産業振興機構 |access-date=2022-12-13 |language=ja}}</ref>。その他にも小麦、ヒマワリ油、グレーンソルガム<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/ext_images/world/cs_america/ar/ar_2107.pdf |title=アルゼンチンの主要産業(2021年7月) |access-date=2021.11.29 |publisher=JETRO}}</ref><ref>2009年以降、動物飼料・ヘルシー雑穀として生産されている。抗酸化作用の研究にも活用されている。</ref>などがある。アルゼンチンは牛肉の生産量が2020年度世界4位<ref>{{Cite web|和書|title=アルゼンチンの家畜・畜産物生産量 統計データ |url=https://www.globalnote.jp/post-2359.html?cat_no=208 |website=GLOBAL NOTE |access-date=2022-12-13 |language=ja}}</ref>で、国内消費も肉類の中では最多である。ただし、同年、豚肉や鶏肉の消費量も増加傾向にある。2020年の1人当たり年間豚肉消費量は10年前と比較して77%増であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/ext_images/world/cs_america/ar/ar_2107.pdf |title=アルゼンチンの主要産業(2021年7月) |access-date=2022.11.29 |publisher=JETRO}}</ref>。アルゼンチンは世界第8位の国土面積を持つ<ref>{{Cite web|和書|title=(キッズ外務省)面積の大きい国|外務省 |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/ranking/men_o.html |website=www.mofa.go.jp |access-date=2022-12-13}}</ref>。その広大な土地を活かし、チリ近郊では鉱業が盛んである。鉱業生産は、パタゴニアの[[石油]]と、近年は[[天然ガス]]も有望視されている。また、2010年代以降、[[カタマルカ州]]や[[フフイ州]]の[[塩湖]]が[[リチウム]]の生産源として注目されている<ref>{{Cite web|和書|date=2018 |url=http://www.argentina.jp/new-arrivals/資源投資誘致に改革路線拡張 |title=資源投資誘致に改革路線拡張/ |publisher=日本アルゼンチン協会 |accessdate=2019-09-04}}</ref>。しかし、水質汚染、先住民の人権侵害、開発に関する事前協議がないことなどの環境保護活動が活発なため、開発が不十分である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/ext_images/world/cs_america/ar/ar_2107.pdf |title=アルゼンチンの主要産業(2021年7月) |access-date=2022.11.29 |publisher=JETRO ブエノスアイレス事務所}}</ref>。アルゼンチン国内にフォード、GM、トヨタなど完成車メーカー10社が自動車を生産している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/ext_images/world/cs_america/ar/ar_2107.pdf |title=アルゼンチンの主要産業(2021年7月) |access-date=2022.11.29 |publisher=JETRO ブエノスアイレス事務所}}</ref>。主に国内農業で使用されるピックアップトラックや多目的車が製造されている。2020年に新型コロナウイルスの影響でバス・トラックを除く自動車生産台数は2004年以降初めての30万台を下回った<ref>{{Cite web|和書|title=2020年は自動車生産、販売、輸出ともに減少(アルゼンチン) {{!}} 地域・分析レポート - 海外ビジネス情報 |url=https://www.jetro.go.jp/biz/areareports/2021/35b5caa1ab599dbc.html |website=ジェトロ |access-date=2022-12-13 |language=ja}}</ref>。
2度の[[世界大戦]]にいずれも直接関与せず、各国への農畜産品の輸出により大きな利益を得た20世紀半ばまでは、世界有数の富裕国であった。[[第二次世界大戦]]後、国民主義志向の[[フアン・ペロン]]政権は、[[保護主義]]的な工業化偏重政策をとるが、産業構造の転換に成功せず、次第に経済が低迷した。ペロン以降顕著になった、福祉のための放漫財政や、彼の残した労働組合(CGT)の強さにより、投資のしづらい国となり、[[1960年代]]以降に頻発した政変に加え、[[1982年]]のフォークランド紛争とその敗北、民政移管後も長年の放漫財政のツケや敗戦のショックの影響で混迷する経済状況に安易な[[ポピュリズム|ポプリスモ]]で対処したため、累積債務は雪だるま式に増えていった。特に[[1988年]]から[[1989年]]の間には5,000%という[[ハイパーインフレーション]]を記録、物品の価値は1年間で50倍に跳ね上がり、ペソは紙屑同然と化し、経済は崩壊状態となった。結局、アルゼンチンは1989年に対外債務の[[デフォルト (金融)|デフォルト]]を宣言した。この間の混迷による富裕層の没落、中産階級の海外流出が続くなど、経済は混迷の度を深めた。
その後、1988年から[[親米]]・親IMF路線を掲げた[[カルロス・メネム]]政権の[[新自由主義]]路線により、[[1990年代]]には年率9%にも達する経済成長を遂げるなど、一時的に回復した。しかし、[[1999年]]に起きたブラジルの[[レアル]][[平価切下げ|切り下げ]]でペソが相対的に高くなり、輸出競争力を喪失、国際収支は悪化した。結果的に通貨危機(ペソの対米ドル[[固定相場制|ペッグ制]]崩壊)により完全に暗転、[[2001年]][[11月14日]]には[[国債]]をはじめとした債務のデフォルトを宣言する事態に陥り、経済が再び破綻。国際的な信用や評価は地に落ちた([[アルゼンチン通貨危機]])。
2度目のデフォルトにより国内の貧困も拡大し、1980年代に国民の約60%を占めていた中間層は、2005年には国民の約20%となり<ref>アルベルト松本『アルゼンチンを知るための54章』明石書店、2005年 p.202</ref>、他方[[貧困率]]は[[2002年]]には53%に達し<ref>アルベルト松本『アルゼンチンを知るための54章』明石書店、2005年 p.199</ref>、[[イタリア]]や[[スペイン]]に職を求め大量の国民が流出、その中には医者・弁護士などの知識層も少なくなかった。かつてラテンアメリカで比類なき中流層の国であり、「南米の指導者」としての影響力も備えていたアルゼンチンは没落し、政経両面でチリやブラジルに抜かれる形となった。
このようにペロン政権以来、一貫した経済政策がとられなかったツケが回り、21世紀に入って早々に経済が破綻してしまったものの、[[2002年]]に[[変動相場制]]を導入し、通貨安のために輸出が拡大してからは持ち直し始め、[[2003年]]に就任した[[ネストル・キルチネル]]政権は、IMFの干渉を排除するため、100億ドル近い債務を完済し、2000年末の経済破綻直後の失業率24%を、2006年5月には11.4%にまで改善した。さらに、2003年から2007年まで平均約8%の高成長を続け、[[2006年]][[7月9日]]の独立190年記念式典でキルチネルは「われわれはIMFにチャオ(さよなら)を告げた」と演説するなど、経済危機から立ち直りつつあった。しかし、再び対外債務率が上昇、[[2010年]]には債務額を大幅にカットする形で[[ユーロクリア#アルゼンチンの債務整理|債務交換を強行]]して9割以上の債務を再編、[[アメリカ合衆国]]との国際問題に発展した。
現在はメルコスール加盟国であることにより、南米諸国との経済交流の活発化による諸外国からの投資の増大に、経済の復活を賭けている。特にブラジル、[[ベネズエラ]]とは政治面でも関係を深め、ベネズエラからの南米大陸縦断天然ガス輸送管の設立も計画している。アルゼンチンは一向に回復しない内需、および内需不振の主要な一因である人口の3〜4割に達する貧困層の存在など課題が山積している中で、これらを解消しつつ、どのようにして競争力のある新しい産業を育てるか、あるいは国内の法制度、政治文化などの歪みからくる投資リスクをいかに下げるかなどにかかっている。
[[2020年]]12月3日、アルゼンチン・カトリック大学の社会負債調査研究所が調査結果を公表し、貧困層が人口全体の44.2%(前年同期は40.8%で3.4ポイント増)に達していること、[[失業率]]は14.2%(前年同期は10.6%で3.6ポイント増)に悪化していることが示され、景気低迷に加えて[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の世界的流行]]の影響が指摘されている<ref>{{Cite web|和書|date=2020-12-14 |url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2020/12/6f3682a4ff52099f.html |title=アルゼンチンの貧困率は44.2%、さらなる悪化を懸念 |publisher=JETRO |accessdate=2020-12-30}}</ref>。2022年10月には、世界的な物価高騰の影響を受け、物価上昇率は前年同月比+88.0%になっており<ref>{{Cite web|和書|title=10月はインフレ再加速で年率88.0%増、新たな価格凍結制度を導入(アルゼンチン) {{!}} ビジネス短信 ―ジェトロの海外ニュース |url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2022/11/6befaace2ae20f71.html |website=ジェトロ |access-date=2022-11-28 |language=ja |editor=山木シルビア |date=2022-11-28}}</ref>、年末には100%に達するとの予測が出されている<ref>{{Cite web|和書|title=8月のインフレ率が年率78.5%に、年末には100%超えの予測も(アルゼンチン) {{!}} ビジネス短信 ―ジェトロの海外ニュース |url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2022/09/ba002e52f7603a66.html |website=ジェトロ |access-date=2022-11-28 |language=ja |editor=山木シルビア |date=2022-9-21}}</ref>。貧困率は、2022年上半期には36.5%に達した<ref>{{Cite web|和書|title=高インフレによる実質所得低下で2022年上半期の極貧率が悪化(アルゼンチン) {{!}} ビジネス短信 ―ジェトロの海外ニュース |url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2022/10/4c428662ac4ce80d.html |website=ジェトロ |access-date=2022-11-28 |language=ja |editor=山木シルビア |date=2022-10-11}}</ref>。
=== 近年の経済指標 ===
アルゼンチンの2021年の名目GDP(国内総生産)は4,867億ドル<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.globalnote.jp/post-2359.html |title=アルゼンチンの統計データ |access-date=2023年1月12日 |publisher=GLOBAL NOTE}}</ref>、実質GDP(国内総生産)は5,681億ドルである<ref>{{Cite web |url=https://data.worldbank.org/indicator/NY.GDP.MKTP.KD |title=GDP (constant 2015 US$) |access-date=2023-01-12 |publisher=THE WORLD BANK}}</ref>。これは、2021年世界の名目GDPランキングの29位である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.globalnote.jp/post-1409.html |title=世界の名目GDP 国別ランキング・推移(IMF) |access-date=2023-01-12 |publisher=GLOBAL NOTE}}</ref>。2021年のGDP成長率は、前年比10.4%と2017年以来4年ぶりのプラス成長となった<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/ext_images/world/gtir/2022/27.pdf |title=世界貿易投資動向シリーズ アルゼンチン |access-date=2023-01-12 |publisher=JETRO |author=海外調査部・ブエノスアイレス事務所 |date=2022-08-30}}</ref>。
=== 貿易 ===
2021年の貿易収支は黒字で、輸出額は前年比42.0%増の779億3,400万ドル、輸入額は49.2%増の631億8,400万ドルである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2022/02/41e8415163eacdc4.html |title=2021年は輸出の大幅増で147億ドル超の貿易黒字に(アルゼンチン) |access-date=2023-01-12 |publisher=JETRO |date=2022年02月01日 |author=山木シルビア}}</ref>。
アルゼンチンの主要な輸出相手地域・国は、ブラジル (15.1%)、EU27 (12.7%)、中国 (8.1%) である。一方、アルゼンチンの主要な輸入相手国は、中国 (21.4%) 、ブラジル (19.6%) 、米国 (9.3%) であり、自動車及び同部品、燃料(ガス、軽油など)を主に輸入している<ref name=":1" />。
==== 日本 ====
2021年度全期の日本からアルゼンチンへの輸出額は、前年度比54.6%増の988億円で、自動車及び部品を主に輸出している。日本のアルゼンチンからの輸入額は、前年度全期額の約2.3倍の1,157億円で<ref>{{Cite web|和書|title=財務省貿易統計(検索ページ) :財務省貿易統計 Trade Statistics of Japan |url=https://www.customs.go.jp/toukei/srch/index.htm?M=23&P=1,,,,,,,,,5,1,2021,0,0,0,,,,,,,,,,,,6,413,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,20 |website=www.customs.go.jp |access-date=2023-01-12}}</ref>、トウモロコシ、大豆などの穀物、大豆油かすなどの食品加工品を輸入している。(前年度は新型コロナウイルスの感染拡大で経済が停滞した。)
日本は、アルゼンチンの輸出相手国として28位、輸入相手国としては11位である<ref name=":1" />。
== 交通 ==
{{main|{{仮リンク|アルゼンチンの交通|en|Transport in Argentina}}}}
[[ファイル:Puente Rosario-Victoria 2.jpg|thumb|260px|[[ロサリオ]]のビクトリア橋を通る貨物船]]
アルゼンチンのインフラは他のラテンアメリカ諸国に比べると良好である<ref>[http://www.nationsencyclopedia.com/economies/Americas/Argentina-INFRASTRUCTURE-POWER-AND-COMMUNICATIONS.html Infrasturcture. Argentina]. National Economies Encyclopedia</ref>。約21万5,471キロ<ref>[http://encarta.msn.com/encyclopedia_761556250_8/Argentina.html Argentina - MSN Encarta<!-- Bot generated title -->]</ref>の道路網と734キロの高速道路<ref name="ciatrans">[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ar.html#Trans Argentina. Transportation] CIA Factbook]</ref>があり、その多くが民営化された。多車線の幹線道路は現在いくつかの主要都市を結び、さらに現在工事中である<ref name="cc83">{{cite web | author = La república digital | title = Se dará inicio a las obras de la Autopista Mesopotámica | url = http://www.larepublicadigital.com.ar/spip.php?article3058 | accessdate=2008-06-03}}</ref>。
[[アルゼンチンの鉄道|アルゼンチンの鉄道網]]は総延長3万1,000キロ以上である。[[メトロビアスS.A.|ブエノスアイレスの地下鉄]](Subte、スブテ)はスペイン語圏、ラテンアメリカ、南半球全域の中でもっとも早く建設された<ref>[http://www.kwintessential.co.uk/articles/article/Argentina/Buenos-Aires-Transport--Subway/26 Buenos Aires Transport Subway]</ref>。
アルゼンチンには約3,000キロに及ぶ水路があり、多くはラ・プラタ川、パラナ川、ウルグアイ川、ネグロ川、パラグアイ川を通行する。
== 国民 ==
{{main|[[アルゼンチン人]]}}
{{See also|{{仮リンク|アルゼンチンの民族|en|Ethnography of Argentina}}}}
アルゼンチンの国民は[[コーカソイド|ヨーロッパ系]]が85%、[[メスティーソ]]および[[インディヘナ]]などが15%である。もっともヨーロッパ系アルゼンチン人の占める比率は89.7%<ref>[http://www.worldstatesmen.org/Argentina.html Argentina<!-- Bot generated title -->]</ref>から97%<ref>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/print/ar.html CIA - The World Factbook - Argentina<!-- Bot generated title -->]</ref>と資料によって大きな差があり、近年の研究では実はアルゼンチン国民の56%に先住民の血が流れていることが明らかになっており<ref>{{cite news | first=Silvina | last=Henguy | title=El 56% de los argentinos tiene antepasados indígenas | url =http://www.clarin.com/diario/2005/01/16/sociedad/s-03415.htm | work =Clarin.com | accessdate = 2007-11-07 | language = Spanish }}</ref>、自らを白人だと認識しているアルゼンチン人の過半数に、実は先住民の血が流れていることになる。
ヨーロッパ系アルゼンチン人にはイタリア系、スペイン系、ドイツ系の住民が多く、中でもイタリア系が一番多い。このイタリア系統の荒い言葉遣いが現在の[[アルゼンチン人]]全体の性格に受け継がれているため{{要出典|date=2022年11月}}、アルゼンチンの[[スペイン語]]には[[イタリア語]]の[[ナポリ方言]]の影響が強く見られる。イタリア移民が多いので第二のイタリアと認識されることもあった{{要出典|date=2022年11月}}。
アルゼンチン人はしばしば「燃えたぎるような愛国者」と形容され、自国への批判に異常に敏感であるが<ref name="marta1995">松下マルタ「アルゼンチン文化の諸相」『ラテンアメリカ人と社会』中川文雄、三田千代子 :編、新評論、1995年10月</ref>、その一方で概して国を批判する傾向がある。強烈な個人主義者としても知られ、「ビベサ・クリオージャ」と呼ばれる[[クリオージョ]]的な人を出し抜く抜け目のなさと<ref>アルベルト松本『アルゼンチンを知るための54章』明石書店、2005年 pp.106-111</ref>、アミーゴと家族以外の非人間的な政府や社会といった組織は信用できないという心性からくる、人を出し抜くような行為によって不快な思いをさせられ<ref name=marta1995/>、アルゼンチン人はアミーゴ以外には不親切であるという人間も出るのである。これはアルゼンチン人が国家に代表される抽象的なものよりも、友情といった具体的な対象への強く忠誠を抱くことの裏返しでもある<ref name=marta1995/>。
[[ペルー]]の文学者、[[マリオ・バルガス・リョサ]]は「アルゼンチンの誇り高さは病癖であり、ほかのラテンアメリカ諸国から批判されても仕方がない」と述べた<ref name=marta1995/>。アルゼンチン人は自国を選良であると思ってきたが<ref name=marta1995/>、こうした優越感と劣等感はその選良意識の裏返しであり<ref name=marta1995/>、強い愛国心の称揚の一方で行われる自国への強烈な批判は、国家が自分に十分な誇りをもたせてくれるには足りない存在であることの裏返しである<ref name=marta1995/>。こうしたことの起きる原因としては、19世紀半ば以来の自由主義化、ヨーロッパ化がアルゼンチン国民全体に受け入れられるような国民文化を育てることができなかったためだといわれている<ref name=marta1995/>。ただし[[ガウチョ]]のような例外もあり、アルゼンチン人はガウチョであることを誇る<ref name=marta1995/>。
=== 人口 ===
{{main|{{仮リンク|アルゼンチンの人口統計|en|Demographics of Argentina}}}}
[[ファイル:Población Argentina 1950-2015.jpg|thumb|right|250px|INDECによる1950年から2015年までのアルゼンチンの人口の推移グラフ]]
五月革命が起きた1810年に70万人だった人口は、ウルキーサがロサスを打倒した直後の1853年には90万人となり、その時点では純粋な白人は6万人ほどで残りはメスティーソや黒人やインディヘナだった。
カセーロス以降自由主義者の政権はヨーロッパから移民を大量導入すると、アルゼンチンの人口は増加し、1869年の初の公的な人口調査では約175万7,000人だった。その後、1900年には454万3,000人、1930年には1,200万5,000人、1940年には1,416万9,000人、1950年には約1,709万人、1960年センサスでは2,006万5,691人、1975年には約2,538万人、1983年年央推計では約2,963万人となった。2005年の見積もりによると、人口は3,874万7,000人と推測され、これは南米大陸の国家で3番目に多い。
2005年度の人口密度は1km²あたり14人になるが、人口は均衡を持って配分されているわけではなく、特に[[ブエノスアイレス]]市周辺に集中しており、ブエノスアイレス市では人口密度が1万4,000人/km²になるのに対して、パタゴニアの最南部のサンタ・クルス州では1人/km²以下となる。アルゼンチンは南米で唯一純粋な移民の増加率が0.4%を超える国である<ref>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ar.html#People]</ref>。
2021年現在では4527.7万人になっている。
=== 移民 ===
{{main|{{仮リンク|アルゼンチンの移民|en|Immigration to Argentina}}}}
19世紀半ばの国家の西欧化=白人化を望んだ自由主義者が勝利し、1853年憲法の第25条や、1876年の移民法の制定によってヨーロッパ移民が大量導入されると、次第に都市からは黒人が、パンパからはインディヘナやガウチョが姿を消し、以降アルゼンチンは白人国家であることを誇り、アイデンティティにするようになった。
20世紀に入ってからマイノリティが特にブエノスアイレスで目立たない存在になると、自らをヨーロッパになぞらえて、(ヨーロッパから見れば)「文化のない」アメリカ合衆国や、人種的優越感やラテンアメリカ一の経済大国であったことによる自信により、ラテンアメリカ諸国を見下す傾向と、ラテンアメリカとの連帯よりもヨーロッパとのつながりを重視する傾向があり<ref name=marta1995/><ref>津田正夫 『ボカ共和国見聞記 知られざるアルゼンチン』(中公文庫、1984年)</ref>、折からのアルゼンチンの経済的な発展への羨望とあいまって、同国がラテンアメリカ諸国から嫌われる大きな原因となった。
純粋な南欧系と比較すると小柄で、風貌も若干異なる人が少なくないことから、先住民系の血も少なからず受け継がれていることがわかるが、それでも現在のところアルゼンチン人の主要意識は白人国家、南米のヨーロッパであることに変わりはない。ただし、マルビナス戦争でヨーロッパ([[ヨーロッパ共同体|EC]])と敵対し、反対にラテンアメリカ諸国の支援を受けたことから、状況は多少変わってきている<ref name=marta1995/>。
1837年の世代や1880年の世代に代表される19世紀の自由主義者は[[アングロ・サクソン]]移民を多く招いてアルゼンチンを非ラテン化したかったようだが、現実的に1871年から1913年までに定着した317万人のヨーロッパ移民としては[[イタリア人]]([[イタリア系アルゼンチン人]])、[[スペイン|スペイン人]]が特に多かった。その他には[[フランス人]]、[[ロシア人]]、[[ドイツ人]]、[[オーストリア人]]、[[イングランド人]]、[[ウェールズ人]]、[[クロアチア人]]、[[ポーランド人]]、[[ポルトガル人]]、[[スイス人]]、[[ベルギー人]]、[[アイルランド人]]などが続き、ロシア系はほとんどが[[アシュケナジム]]だった。そのほかには[[レバノン]]、[[シリア]]から移民した[[アラブ人]]([[アラブ系アルゼンチン人]])や[[ブラジル]]などから再移住した[[日本人]]([[日系アルゼンチン人]])、[[スペイン内戦]]の[[スペイン第二共和政|共和派]]の亡命者や、第二次大戦前に[[ナチス]]に追われて逃げてきたドイツからのユダヤ人、そして戦後ナチスの残党として亡命してきたドイツ人などがいる<ref name=yotsunoya1995>乗浩子「ラテンアメリカのユダヤ人」『ラテンアメリカ人と社会』中川文雄、三田千代子 :編、新評論、1995年10月</ref><ref>国本伊代「近代ヨーロッパ移民とラテンアメリカ」『ラテンアメリカ人と社会』中川文雄、三田千代子 :編、新評論、1995年10月</ref>。
=== マイノリティ ===
{{出典の明記| date = 2022年12月|section=1}}
[[ファイル:Urville-Patagonians2.jpg|thumb|220px|left|[[テウエルチェ]]人の一群 (1832年)]]
おもな[[マイノリティ]]としてパラグアイ、ボリビア、ペルーなどから出稼ぎにきた移民がいるほか、[[メスティーソ]]、[[ユダヤ人]]、[[アフリカ系アルゼンチン人]]、[[アジア系アルゼンチン人]]がおり、先住民としてアンデスに[[ケチュア人]]と[[アイマラ人]]、パタゴニアに[[マプチェ族|マプーチェ人]]や[[テウエルチェ人]]などがいる。19世紀後半までネグロ川北部に20万人ほどいたパンパの狩猟遊牧インディヘナは、[[1878年]]に開始された{{仮リンク|フリオ・アルヘンティーノ・ロカ|en|Julio Argentino Roca}}将軍の{{仮リンク|砂漠の征服作戦|en|Conquest of the Desert}}により2万人にまで減少し、以後パンパからはほとんどいなくなった。現在のインディヘナの総人口は42万人になっている。
アラブ系のコミュニティもあり、コミュニティからはカルロス・メネム大統領を出している。大部分の[[アラブ系アルゼンチン人]]は[[カトリック教会]]か[[正教]]、[[東方典礼カトリック教会]]などを信仰している。[[アジア系アルゼンチン人]]は[[日系アルゼンチン人|日系]]、中国系、[[大韓民国|韓国]]系、[[ベトナム]]系などを合わせて13万人を超える。
ユダヤ人はヨーロッパからのアシュケナジムがほとんどだが、[[シリア]]からの[[セファルディム]]も15 - 20%ほどいる(詳細は[[ユダヤ系アルゼンチン人]]を参照)。経済的にユダヤ系の力が強いため、アルゼンチン社会、特に軍部の[[反ユダヤ主義]]は根強く、軍事政権下では「[[汚い戦争]]」の中で、[[ユダヤ人]]が[[イスラエル]]の兵器で弾圧されるという矛盾も起きた<ref name=yotsunoya1995/>。アルゼンチンへのユダヤ人移民は、{{仮リンク|モーリス・ヒルシュ男爵|en|Maurice de Hirsch}}の基金がスポンサーであった。
=== 不法移民 ===
アルゼンチンの不法移民は大多数が国境を接するボリビア、パラグアイから来ており、少数はペルー、[[エクアドル]]、[[ルーマニア]]などからもやってきている。アルゼンチン政府はこうした不法移民の数を75万人と見積もっている。
=== 都市化 ===
<gallery mode="packed">
ファイル:Buenos Aires at night.JPG|1,200万人が住む[[大ブエノスアイレス都市圏]]
ファイル:Rosario monu bandera.jpg|110万人が住む[[大ロサリオ都市圏]]
ファイル:Mar-del-plata.JPG|大西洋のビーチ、[[マル・デル・プラタ]]
ファイル:La Plata desde el aire.JPG|[[ラプラタ (アルゼンチン)|ラプラタ]]市。典型的な[[計画都市]]である
</gallery>
アルゼンチンの都市人口率は昔から非常に高く、それは現在まで変わっていない。353万人が[[ブエノスアイレス]]市に、1,240万人が大ブエノスアイレス都市圏に住んでいる。第2、第3の都市圏は[[コルドバ (アルゼンチン)|コルドバ]]と[[ロサリオ]]であり、それぞれ130万人と110万人の都市圏を構成している{{要出典|date=2023年3月}}。
19世紀以降に移民したほとんどのヨーロッパ移民は、大土地所有制が崩れずに入植地の所有権が手に入らなかったため、最終的に都市に落ち着き、仕事や教育などさまざまな機会を得て中間層となっていった。多くは鉄道網に沿って成長していた小都市に住み着いたが、1930年代に入ると小都市から大都市への国内移民が行われた。
1990年代に入り[[国営鉄道]]民営化が行われた結果、旅客列車の運行が中止された路線が増え、小規模工業が外国製の安い製品との競争に敗れて消えていくと、田舎町には[[ゴースト・タウン]]になるものも現れた。また、"[[Villa Miseria]]"と呼ばれる不法占拠の建物密集地(いわゆる[[スラム]])が大都市の空き地に見られるようになり、鉄道民営化以降増加した。国営企業民営化および民間企業破綻で失業した下層労働者と北西部の小さな町からの移住者が最初にそこに家を建て、次にさらに大きな数の近隣諸国からの移民(移民の人々が住民の半数以上を占めるといわれる)がそこに新たに家を建てるか、増築するなどをしながら住んでいる。これらの家の中には電気がひかれ、[[エア・コンディショナー]]や冷蔵庫も存在し、営業店舗にもなっている建物もある。ただし、沼地のような場所の上に存在する建物は衛生上に問題があり、密集した環境が犯罪組織の温床になりかねないとして、政府はアパートを建設し、そこに不法占拠の住民を移住させる政策を行っているが、資金不足によりなかなか進んでいない。
アルゼンチンの都市はヨーロッパ移民の影響が反映されているため、非常にヨーロッパ的である。多くの都市はスペイン風に広場を中心に建設され、[[カテドラル]]と重要な役所([[カビルド]])は広場に面して建てられる(ただし、[[ブエノスアイレス]]は1850年代以降[[フランス]]の[[パリ]]を忠実にモデルにして改造された)。一般的に都市の配置はダメロと呼ばれる碁盤目上であるが、19世紀末に[[ワシントンD.C.]]をモデルに建設された[[ラ・プラタ市]]など近代的な計画都市はこの様式からかけ離れていることもある。
2022年度の[[都市人口率]]は92.23%である。<ref>{{Cite web|和書|title=グラフで見るアルゼンチンの都市人口は多い?少ない? |url=https://graphtochart.com/population/argentina-urban.php |website=GraphToChart |access-date=2022-12-20 |language=ja-jp}}</ref>
=== アルゼンチン人移民 ===
20世紀半ばまでは移民受け入れ国だったアルゼンチンも、20世紀中盤以降の社会、経済、政治の混乱により、多くのアルゼンチン人が祖国を離れて海外に移住した。特に[[国際連合|国連]][[ラテンアメリカ]]委員会の報告によると、アルゼンチンからの海外移住者の1,000人のうち191人が大学卒業者であるなど<ref>アルベルト松本『アルゼンチンを知るための54章』明石書店、2005年 p.175</ref>、留学生がそのまま海外移民になってしまうことや、大学卒業者に見合った職業の不足などを原因とした、高学歴者の移民による社会の空洞化が懸念されている。アルゼンチンからの移民先はおもにスペイン、アメリカ合衆国、カナダ、ブラジル、ポルトガル、オーストラリアなどである。
=== 言語 ===
{{main|{{仮リンク|アルゼンチンの言語|en|Languages of Argentina}}}}
[[ファイル:GuerrilleroHeroico.jpg|thumb|[[チェ・ゲバラ|エルネスト・ゲバラ]]は'''チェ・ゲバラ'''と呼ばれることが多いが、この'''チェ'''とはアルゼンチンのスペイン語特有の表現のひとつである]]
言語は[[スペイン語]]([[リオプラテンセ・スペイン語]])が[[公用語]]であり、アルゼンチンではエスパニョールではなくカステジャーノと呼ばれる。[[ポルテーニョ]](ブエノスアイレス市民)のアクセントは[[イタリア語]]の[[ナポリ]]方言の影響が強く、ヨーロッパ移民、特にイタリア移民の影響により、ラ・プラタ地域で話される[[ルンファルド]]と呼ばれる独特の俗語が形成されてきた。アルゼンチンはスペイン語圏でも二人称単数において[[ボセオ]](Voseo)のみが全土で使用されている数少ない国であり、ボセオはアルゼンチンのアイデンティティとなっている。
スペイン語のほかには[[英語]]、[[イタリア語]]、[[ドイツ語]]、[[フランス語]]、および多少の[[アメリカ先住民諸語|先住民言語]]なども使用されている。
標準ドイツ語は140万人から150万人のドイツ系アルゼンチン人によって話されているが、180万人以上が話しているともいわれている。ドイツ語は今日のアルゼンチンで第3か第4に多くの人々に話されている言葉である。そのほかにも、調査によると、150万人がイタリア語を話し、100万人がシリア・レバノンの[[アラビア語]]を話している。[[ガリシア語]]、[[イディッシュ語]]、[[日本語]]なども話されているが、これらの言語は現在では話されることは少なくなってきている。パタゴニアの[[トレレウ]]や[[ガイマン]]といった町には[[ウェールズ語]]を話すコミュニティがある。近年のアジア系移民は[[中国語]]と[[韓国語]]をブエノスアイレスに持ち込んだ。
先住民言語はコリエンテス州、ミシオネス州で[[グアラニー語]]が話され、コリエンテス州では[[公用語]]となっている。[[ケチュア語]]は北西部のサンティアゴ・デル・エステロ州で話され、[[アイマラ語]]はボリビアからの移民のコミュニティなどで話されている。パタゴニアでは[[マプーチェ語]]などが話されている。
[[英語]]、[[ブラジル・ポルトガル語]]、フランス語はあまり大きな存在感を持たない。英語は学校教育で教えられ、[[ポルトガル語]]とフランス語が後に続く。
=== 宗教 ===
{{出典の明記|date=2012年1月|section=1}}
{{main|{{仮リンク|アルゼンチンの宗教|en|Religion in Argentina}}}}
[[File:Pope Francis with Cristina Fernandez de Kirchner 7.jpg|thumb|250x180px|266代[[ローマ教皇]][[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]](右)とキルチネル大統領(左)。アルゼンチンは新大陸でローマ教皇を出した最初の国となった]]
国民の多数の93%がカトリック教徒だと申告しているが、教会はより正確には70%ぐらいだと見積もっている。現行憲法第二条によると、アルゼンチン共和国はカトリックを保護すべきであるとなっているが、これはアルゼンチンの[[国教]]がカトリックであるということではなく、圧倒的に信徒数が多いカトリックに国家の優先権があることを認めるのみとなっている<ref>奥山恭子「家族と国家-法制度からみたラテンアメリカの家族」『ラテンアメリカ家族と社会』(新評論、1992年)</ref>。2013年に行われた[[コンクラーベ]]では、アルゼンチン人の[[ブエノスアイレス大司教区|ブエノスアイレス大司教]]ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ[[枢機卿]]が[[ローマ教皇]]に選出されて第266代教皇[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]となり、アルゼンチンが初のアメリカ大陸出身のローマ教皇を出した国となった。アルゼンチンでは、日曜日に、必ずミサに出向くことが習慣となっており、結婚式なども教会で行うしきたりになっている。<ref name=":0">{{Cite book|edition=Shohan|title=Kokusai jōhō daijiten : Pasupo = Paspo.|url=https://www.worldcat.org/oclc/31669709|publisher=Gakken|date=1992|location=Tōkyō|isbn=4-05-106027-6|oclc=31669709|others=Gakushū Kenkyūsha, 学習研究社.}}</ref>
公務員は必ずしもカトリックを信仰しなければならないわけではないが、大統領はキリスト教徒しかなれない法律がある。この法律により、アラブ系だった[[カルロス・メネム]]はイスラーム教を棄教しなければならなかった。
1980年代からプロテスタントの[[福音派]]が足場を築き、現在総人口の約10%の330万人が信者である。
33万人以上が[[キリスト教系の新宗教|キリスト教系新宗教]]の[[末日聖徒イエス・キリスト教会]]([[モルモン教]])に所属しており、アルゼンチンは世界で7番目に[[末日聖徒イエス・キリスト教会]]の信者が多い国となっている。。
ラテンアメリカでもっとも多いユダヤ人人口を抱え、人口の約2%がユダヤ人である。<!-- 宗教と関係のない文章 -->
[[アルゼンチンのイスラム教|イスラーム]]教徒は総人口の1.5%を占め、50万人から80万人がいると推測されている(93%は[[スンナ派]])。現在アルゼンチンはラテンアメリカでもっとも[[モスク]]の多い国のひとつとなっている。
おおよそ12%が[[無宗教]]、もしくは世俗派とみなされている。
=== 婚姻 ===
婚姻の際には[[夫婦別姓]]であるが、女性は、自己の姓の後に「de+夫の姓」を追加することができる。
2010年から、同性同士の結婚([[同性結婚]])が認められるようになった。
=== 教育 ===
{{main|{{仮リンク|アルゼンチンの教育|en|Education in Argentina}}}}
[[ファイル:Delantales blancos 2.jpg|thumb|250x180px|街のいたるところで見られる子どもたちの白い制服は、アルゼンチンの学校教育の象徴である]]
独立後、自由主義者が勝利した1860年代以降のアルゼンチンは[[ドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント]]政権のもとで、ほかのラテンアメリカ諸国とは対照的に公教育の整備に力を注いだ。2001年のセンサスでは、15歳以上の国民の[[識字率]]は97.2%<ref>https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ar.html 2009年3月30日閲覧</ref>に達している。これはウルグアイや[[キューバ]]、チリとともにラテンアメリカでもっとも高い水準である。ただし、近年は[[機能的非識字]]の増加が問題となっている<ref>[http://www.diplo.jp/articles02/0201-2.html 『アルゼンチン、全面的危機に突入』ル・モンド・ディプロマティーク日本語版2002年1月号 カルロス・ガベッタ(Carlos Gabetta) ル・モンド・ディプロマティーク南米南部版編集長/北浦春香訳] 2009年3月30日閲覧</ref>。
[[幼稚園]]から[[初等教育]]が始まり、5歳から14歳までの10年間の無償の初等教育・[[前期中等教育]]が義務教育期間となり、その後3年間の[[後期中等教育]]を経て[[高等教育]]への道が開ける。初等、中等教育の問題としては[[落第]]率の高さや、待遇の劣悪さから起きる教員のストライキと予算不足からくる十分な授業日数確保の不備、[[学級崩壊]]などが挙げられる<ref>[[アルベルト松本]]『アルゼンチンを知るための54章』明石書店、2005年 pp.158-164</ref>。
2005年現在で、アルゼンチンには41校の国公立の[[大学]]と48校の[[私立大学]]があり、代表的な高等教育機関としては[[ブエノスアイレス大学]](1821年)、[[コルドバ国立大学|コルドバ大学]](1613年)、[[ラ・プラタ大学]](1905年)、{{仮リンク|国立工科大学 (アルゼンチン)|label=国立工科大学|en|National Technological University}}(1959年)、[[ロサリオ大学]](1968年)、[[教皇庁立アルゼンチンカトリック大学]](1958年)、[[トルクァト・ディ・テラ大学]](1991年)などが挙げられる。国公立の大学はアルフォンシン政権時に[[大学受験|入試]]を廃止したため、学生数の増加による過密や、非効率な制度による学校運営の混乱が大きな問題となっている<ref>[[アルベルト松本]]『アルゼンチンを知るための54章』明石書店、2005年 pp.165-170</ref>。大学進学率は[[チリ]]と並び南米としてはきわめて高率である。
== 文化 ==
{{出典の明記| date = 2022年12月|section=1}}
{{main|{{仮リンク|アルゼンチンの文化|en|Culture of Argentina}}}}
[[ファイル:Buenos Aires Décembre 2007 - Avenida 5 de Mayo.jpg|thumb|250x180px|ブエノスアイレスは南米でもっともヨーロッパ的な都市である]]
アルゼンチンの文化は、まず第一に多くのアルゼンチン人のルーツである[[ヨーロッパ]]から導入され、ヨーロッパから大きな影響を受けている。[[ブエノスアイレス]]はヨーロッパの家系に連なる人々と、ヨーロッパのスタイルを模倣した建造物によって構成された結果として、しばしば南米でもっともヨーロッパ的な都市だといわれてきた。もうひとつの大きな影響は[[ガウチョ]]や[[インカ帝国]]の文化に代表される、[[パンパ]]や北西部の[[アンデス山脈|アンデス]]での伝統的な田園生活によるものである。最終的にインディヘナの伝統的な文化(マテ茶の回し飲みなど)はこの文化的領域に吸収された。
この2つのアルゼンチンは互いに相克しながらアルゼンチンの文化を形成してきた。どちらが真のアルゼンチンであるかというものではなく、どちらも本質的に異なる2つのアルゼンチンの精神を表しているものである。
=== 文学 ===
{{see|アルゼンチン文学|ラテンアメリカ文学}}
[[ファイル:Jorge Luis Borges Hotel.jpg|thumb|180px|[[ホルヘ・ルイス・ボルヘス]]]]
[[ファイル:José Hernández.jpg|thumb|160px|left|『マルティン・フィエロ』(1874)の作者、[[ホセ・エルナンデス]]]]
アルゼンチン文学は1850年代から[[ラテンアメリカ文学]]のリーダーであった。国家形成の時代の連邦派と統一派の争いが、当時のアルゼンチン文学の[[ロマン主義]]文学のトーンを印象付けた。アルゼンチンにロマン主義を導入した自由主義者の[[エステバン・エチェベリーア]]の『エル・マタデーロ』(1840)ではロサスの圧政を寓意的に描き、同じく欧化主義者の[[ドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント]]によって亡命先で著された『ファクンド』(1845)は、統一派の視点でラ・リオハ州の連邦派カウディージョ、[[フアン・ファクンド・キロガ]]を野蛮の象徴として描き、[[ガウチョ]]やインディオは近代化のための巨大な障害物と見なされた。それに対して{{仮リンク|ガウチョ文学|en|Gaucho literature}}の傑作となった[[ホセ・エルナンデス]]の叙事詩『{{仮リンク|マルティン・フィエロ|en|Martín Fierro}}』(1874)は、連邦派の視点でガウチョをアルゼンチンの精神を体現する象徴として描き、現在後者の『マルティン・フィエロ』はアルゼンチンの聖書と呼ばれ、国民文学の基礎だと位置づけられている。
その他にも[[フアン・バウティスタ・アルベルディ]]、[[ロベルト・アルルト]]、[[エンリケ・バンチス]]、[[アドルフォ・ビオイ・カサレス]]、[[エウヘニオ・カンバセレス]]、[[レオポルド・ルゴネス]]、[[エドゥアルド・マジェーア]]、[[エセキエル・マルティネス・エストラーダ]]、[[トマス・エロイ・マルティネス]]、[[ビクトリア・オカンポ]]、[[エルネスト・サバト]]、[[オスバルド・ソリアーノ]]、[[アルフォンシナ・ストルニ]]、[[マリア・エレーナ・ワルシュ]]、[[ホルヘ・ルイス・ボルヘス]]、[[フリオ・コルタサル]]、[[マヌエル・プイグ]]のように、アルゼンチンは国際的に特筆される作家、詩人、知識人を生み出している。 [[キノ]](ホアキン・サルバドール・ラバード)は世界中で多くの読者を楽しませている。文学においてもブエノスアイレスかそれ以外かという対立は、のちの[[モデルニスモ文学]]や[[20世紀の文学]]においても続いた。
正統な文学者ではないが、[[キューバ革命]]の指導者の1人であり、ラテンアメリカにおける[[社会主義]]理論家として知られ、文学でも『[[モーターサイクル・ダイアリーズ]]』や、革命中のゲリラ戦の経験をまとめた『[[ゲリラ戦争]]』(1961)、『[[ゲバラ日記]]』(1968)などを残し、[[キューバ]]の閣僚を務めたこともある[[チェ・ゲバラ|エルネスト・チェ・ゲバラ]]もアルゼンチン出身の文筆家として名高い。
=== 映画 ===
{{see|アルゼンチンの映画}}
世界初の[[アニメーション映画|アニメ映画]]は1917年に漫画家の[[キリーノ・クリスティアーニ]]によってアルゼンチンで製作された。アルゼンチン映画は1930年代から1950年代にかけて黄金時代を迎え、[[映画産業]]はアルゼンチン映画初のスターとなり、タンゴの歌手でもある、[[リベルタ・ラマルケ]]や、[[フローレン・デルベーネ]]、[[ティト・ルシアルド]]、[[ティタ・メレージョ]]、[[ロベルト・エスカラーダ]]、[[ウーゴ・デル・カリール]]のような俳優を輩出した。
その後も『[[ロス・インダドス]]』(1955)によりブラジルの[[ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス]]やキューバの[[フリオ・ガルシア・エスピノーサ]]とともに新ラテンアメリカ映画運動の牽引者となった[[フェルナンド・ビッリ]]や、[[アレハンドロ・アグリステ]]、[[エクトル・オリベラ]]、『[[スール/その先は……愛 (映画)|スール/その先は……愛]]』(1988)の[[フェルナンド・E・ソラーナス]]、『[[ブエノスアイレスの夜]]』(2001)の[[フィト・パエス]]といった映画監督が活躍している。ラ・プラタ市とマル・デル・プラタで例年映画祭が催されている。
=== 絵画と彫刻 ===
[[ファイル:Fader003.JPG|thumb|250x180px|[[フェルナンド・フェデール]]画]]
ブエノスアイレスの都市的な様子とは対照的なもうひとつのアルゼンチンを描いた画家としては、初めて本格的にガウチョを描いた[[プリリディアーノ・プエイレドン]]や、アンデス地方の牧場や、ガウチョを題材に描いた[[フェルナンド・フェデール]]などの名が挙げられる。[[三国同盟戦争]]などを題材にした歴史絵画では[[ホセ・イグナシオ・ガルメンディア]]や、[[カンディード・ロペス]]([[素朴派]])などの名が挙げられる。ロペス、[[アントニオ・ペリーニ]]([[:en:neo figurative]])、[[エミリオ・ペットルーティ]]([[キュビスム]])、フェデール、[[ギジェルモ・クイトカ]]の作品は国際的に認知されている。そのほかにも「ボカ共和国」こと、ブエノスアイレスの[[ラ・ボカ]](La Boca、河口)地区出身の[[キンケラ・マルティン]]はラ・ボカ地区や労働者を描いた画家として名高い。
[[ルシオ・フォンタナ]]と[[レオン・フェラーリ]]は彫刻家かつ[[コンセプチュアル・アート|コンセプチュアル・アーティスト]]として喝采された。[[シルエロ・カブラル]]は世界的に有名な幻想芸術家かつ彫刻家であり、[[エドゥアルド・マクリンティーレ]]の[[幾何学]]的なデザインは1970年代以降の世界中の広告家に影響を与えた。
=== 食文化 ===
{{see|アルゼンチン料理}}
[[ファイル:Argentinean asado.jpg|thumb|left|[[アサード]]]]
[[ファイル:Mate000000.JPG|thumb|[[マテ茶]]]]
あまり日本では知られていないが、[[冷凍船]]の発明・普及とともに世界的な大[[畜産]]国として発展の基礎を築いただけあって、肉料理などを中心に充実した食文化の歴史がある。その一例として、多くの[[イタリア]][[移民]]が持ち込んだ[[パスタ]]類や、[[ドゥルセ・デ・レチェ]]などの[[菓子]]類などもバラエティに富んでいる。ブエノスアイレスと他地域とを問わず[[エンパナーダ]]も広く食べられている。魚は、大きなスーパーや中国人街以外ではメルルーサ([[タラ]])か[[サケ]]くらいしか売っていないが、[[イグアスの滝]]に近い北部の亜熱帯地方ではスルビ([[ナマズ]]の一種)、クージョのアンデス山脈付近ではトゥルーチャ([[マス]])など、川魚を食べる地方もある。
アルゼンチンの主菜である肉料理は実に多彩であり、特に[[アサード]]、ビフェ・デ・チョリソ(サーロインステーキ)、[[ソーセージ|チョリソ]]や臓物も含んだ焼肉の盛り合わせである[[パリージャ]](Parrilla)が有名である。
アルゼンチンは世界有数の[[ワイン]]生産国である一方、ほとんどを国内消費するため海外にはあまり知られていない。アルゼンチンには肉料理が多いことから、それと相性がよいとされる赤ワインが特に多く、品質も優れている。アルゼンチンのワインの6割が[[メンドーサ]]で生産され、残りのほとんどが[[カファヤテ]](Kafajatė)で生産される。ヨーロッパではほとんどブレンドにしか用いないマルベック(Malbec)という品種は、アルゼンチンでもっとも味がいいとされている。近隣諸国と同様に[[グアラニー人]]由来の[[マテ茶]]を飲む習慣もある。食後に飲むマテ茶は、モチノキ科の常緑樹ゼルバマテ<ref>{{Cite web|和書|title=マテ茶 {{!}} 成分情報 |url=https://himitsu.wakasa.jp/contents/mate-tea/ |website=わかさの秘密 |access-date=2022-12-20 |language=ja}}</ref>という木をすりつぶして粉にし、専用の容器(マテ)に入れてお湯を加え、ストローで飲む。<ref name=":0" />アルゼンチンでは砂糖を入れて飲むことが多いという。
[[ファストフード]]としては、[[チョリソ]]を[[パン]]に挟んだ[[チョリパン]]という料理があり、[[チミチュリ]]や野菜などの[[トッピング]]もなされる。アルゼンチンの[[ソウルフード]]とも評される<ref>
{{Citation|和書
|year=2013
|periodical=[[Hanako]]
|number=1040
|page=126
|publisher=[[マガジンハウス]]
}}
</ref>。
=== 音楽 ===
{{see|{{仮リンク|アルゼンチンの音楽|en|Music of Argentina}}|ラテン音楽}}
[[ファイル:Tango-Show-Buenos-Aires-01.jpg|thumb|180px|[[タンゴ]]]]
[[ファイル:Astor Piazzolla.jpg|thumb|180px|[[アストル・ピアソラ]]]]
[[ファイル:Mercedes Sosa 2.jpg|thumb|180px|[[メルセデス・ソーサ]]]]
アルゼンチンはブラジル、[[コロンビア]]とともに南米の音楽大国の一角を占める。
世界的にウルグアイの[[モンテビデオ]]とともに、ブエノスアイレス、特に[[ラ・ボカ]]とサン・テルモは[[タンゴ|タンゴ・リオプラテンセ]](ラ・プラタ川風タンゴ。日本に限らず世界では[[アルゼンチン・タンゴ]]と呼ばれることが多い)の中心として知られるが、1850年代から[[カンドンベ]]を下敷きにして、[[ハバネラ]]、[[ミロンガ]]などの影響を受けてボカで育ったこのリズムは、1920年代以降、[[カルロス・ガルデル]]のフランス公演が大成功するとヨーロッパでも大流行し、[[コンチネンタル・タンゴ]]にもなった。1930年代の最盛期を過ぎるとこの流行は長くは続かずに1950年代ごろには下火になり、その後タンゴはアルゼンチンでも衰退をたどるが、[[アストル・ピアソラ]]の登場により持ち直した。
このように、アルゼンチンといえばブエノスアイレスのヨーロッパ風のイメージとともに、まず第一にタンゴが連想されるが、しかしタンゴはやはりラ・プラタ川流域の音楽であり、内陸部では[[サンバ (アルゼンチン)|サンバ]]、[[パジャドール]]、[[チャカレーラ]]、[[チャマメ]]、[[カルナバリート]](実質[[ワイニョ]])などのさまざまな[[フォルクローレ]](民謡)が存在する。こうしたフォルクローレはいくつか隣国のウルグアイとも共通しており、タンゴの元になった黒人音楽カンドンベも、もともとはアルゼンチン・ウルグアイに共通する音楽だったが、アルゼンチンでの黒人人口の減少とともにアルゼンチンでは廃れていき、現在カンドンベはウルグアイの国民音楽になっている。
アンデスのフォルクローレの代表曲である[[ウマウアケーニョ|花祭り (ウマウアカの男)]]は[[ウマウアカ]]の[[カルナバル]]を歌ったものだが、特にアンデス地方のフォルクローレではアルゼンチンのものが日本にもっとも早く紹介されたこともあり、世界の人々にとってフォルクローレと言えば本場のボリビアと並んでアルゼンチンのものが連想される要因ともなっている。アルゼンチンでの海外の声の代表を自認した[[アタウアルパ・ユパンキ]]や、[[メルセデス・ソーサ]]、[[ウニャ・ラモス]]らは世界的に有名であり、日本では[[グラシェラ・スサーナ]]も有名である。[[チャランゴ]]奏者の[[ハイメ・トーレス]]のように伝統的なフォルクローレを展開する表現者以外にも、近年は新世代のミュージシャンが、欧米の[[シンガー・ソングライター]]や[[ジャズ]]、[[エレクトロニカ]]などに影響を受けた新しいフォルクローレを続々と生み出している。代表的なアーティストは、[[リリアナ・エレーロ]]、[[アカ・セカ・トリオ]]、[[マリアナ・バラフ]]、[[カルロス・アギーレ]]など。日本でも徐々に注目されており、『[[オーガニック・ブエノスアイレス]]』という[[コンピレーション・アルバム]]も発表された。
そしてそれだけがこの国の音楽のすべてではなく、[[クラシック音楽|クラシック]]や[[ジャズ]]やポップスの分野でも、作曲家の[[アルベルト・ヒナステラ]]、[[ピアニスト]]の[[マルタ・アルゲリッチ]]、[[ラロ・シフリン]]など、時折注目すべき人物を輩出することもある。そのほかに特筆されるべき音楽家としては、扇情的な[[サクソフォーン]]と[[フリージャズ]]を構成する[[ガトー・バルビエリ]]が存在する。
[[ポピュラー音楽|ポップス]]の分野では特に[[ロック (音楽)|ロック]]が盛んな国であり、国外にも[[アルゼンチン・ロック]]の愛好家は多い。1960年代の初頭にはアルゼンチン・ロックはウルグアイ勢の進出により、ブエノスアイレスの音楽シーンは[[ロス・シェイカーズ]]や[[ロス・モッカーズ]]などのウルグアイのロックバンドの草刈り場となったが([[ウルグアヤン・インベイジョン]])、[[ウルグアイ人]]の攻勢が終わったあとも、[[ロス・ガトース]]などのアルゼンチン人のロックバンドが主導的な役割を果たしながらも、ラ・プラタ川を越えて多くのウルグアイのミュージシャンがブエノスアイレスで活躍する状況は変わっていない。
2000年代に入ってからは、[[アルゼンチン音響派]]がまるでかつてのブラジルにおける[[トロピカリズモ]]運動のような新たなムーブメントとなっている。[[ファナ・モリーナ]]や[[サンティアゴ・バスケス]]、[[フェルナンド・カブサッキ]]、[[アレハンドロ・フラノフ]]などは日本でも人気を博しており、[[山本精一]]や[[勝井祐二]]など日本人ミュージシャンとの交流がある。クラブシーンにおいては[[コロンビア]]生まれの[[クンビア]]がブエノスアイレス近郊で発達を遂げ、[[デジタル・クンビア]]が生まれた。
アルゼンチンが発祥となった音楽ではないが、[[2002年]]には[[日本]]の[[バンド (音楽)|ロックバンド]]・[[THE BOOM]]の「[[島唄 (THE BOOM)|島唄]]」が俳優の[[アルフレッド・カセーロ]]に[[日本語]]のまま[[カバー]]され大ヒットした。彼の歌う島唄はその年に開催された[[2002 FIFAワールドカップ|日韓ワールドカップ]]の[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]の応援歌としても採用された。
=== 世界遺産 ===
{{see|アルゼンチンの世界遺産}}
アルゼンチン国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が5件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が4件存在する。
<gallery mode="packed">
ファイル:Tour to the Quebrada de las Conchas.jpg|アンデスの道路網カパック・ニャン(2014年、文化遺産)
ファイル:SantaCruz-Upsala-P2140135b.jpg|[[ロス・グラシアレス]]の国立公園(1981年、自然遺産)
ファイル:Sanignaciomini01.JPG|[[サン・イグナシオ・ミニ]]のイエズス会伝道所(1983年/1984年、文化遺産)
ファイル:Iguazu.jpg|[[イグアス国立公園 (アルゼンチン)|イグアス国立公園]](1984年、自然遺産)
ファイル:Robben-001.jpg|[[バルデス半島]]の[[オタリア]]たち(1999年、自然遺産)
ファイル:SantaCruz-CuevaManos-P2210651b.jpg|リオ・ピントゥラスの[[クエバ・デ・ラス・マノス|リオ・ピントゥラスのクエバ・デ・ラス・マノス]](1999年、文化遺産)
ファイル:Talampaya1.jpg|[[イスキグアラスト/タランパヤ自然公園群]](2000年、自然遺産)
ファイル:AltaGracia.jpg|[[コルドバのイエズス会伝道所とエスタンシア群]](2000年、文化遺産)
ファイル:Jujuy-Purmamarca-P3120033.JPG|[[ウマウアカ|ウマウアカの渓谷]](2003年、文化遺産)
</gallery>
=== 祝祭日 ===
{{see|{{仮リンク|アルゼンチンの祝日|en|Public holidays in Argentina}}}}
{| border="1" frame="box" rules="all" align="center" cellpadding="2" cellspacing="0"
|+ '''この国の祝祭日の一覧を以下の表に示す'''
|-
! style="background:#efefef" | 日付
! style="background:#efefef" | 日本語表記
! style="background:#efefef" | 現地語表記
! style="background:#efefef" | 備考
|-
| [[1月1日]] || [[元日]] || Año Nuevo ||
|-
| 移動祝日 || [[聖金曜日]] || Viernes Santo ||
|-
| [[4月2日]]<sup>1</sup> || 退役軍人の日およびマルビナス戦争戦没者追悼の日 || Día del Veterano de Guerra y de los Caídos en la Guerra de las Malvinas || [[マルビナス戦争]]での死者を追悼する日。
|-
| [[5月1日]] || [[メーデー]] || Día del Trabajador ||
|-
| [[5月25日]] || 最初の政府を記念する日([[五月革命 (アルゼンチン)|五月革命]]記念日) || Primer Gobierno Nacional (Revolución de Mayo)||
|-
| style="white-space:nowrap;" | 6月第3月曜日
| 国旗の日 || Día de la Bandera ||
|-
| [[7月9日]] || [[独立記念日]] || Día de la Independencia ||
|-
| 8月第3月曜日(8月17日)
| style="white-space:nowrap;" | [[ホセ・デ・サン=マルティン|サン=マルティン]]将軍の命日 || Muerte del general José de San Martín ||
|-
| [[10月12日]]<sup>1</sup> || 民族の日 || Día de la Raza ||
|-
| [[12月8日]] || [[聖母の無原罪の御宿り|無原罪の聖母]] || Inmaculada Concepción de María ||
|-
| [[12月25日]] || [[クリスマス]] || Navidad ||
|}
{{Small|註1: もし該当の日が火曜日か水曜日ならばその直前の月曜日、木曜日か金曜日ならばその直後の月曜日に移動する。}}
== スポーツ ==
{{Main|アルゼンチンのスポーツ}}
{{See also|オリンピックのアルゼンチン選手団}}
=== サッカー ===
{{Main|アルゼンチンのサッカー|サッカーアルゼンチン代表の歴史}}
[[ファイル:Maradona cup azteca.jpg|250px|thumb|right|[[ディエゴ・マラドーナ]]([[1986 FIFAワールドカップ|1986年メキシコW杯]])]]
アルゼンチン国内では[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]として君臨しており、世界に名だたるサッカー大国として'''[[ディエゴ・マラドーナ]]'''と'''[[リオネル・メッシ]]'''の両雄を筆頭に<ref>[https://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20211130/1592757.html メッシが最多記録更新、7度目のバロンドール受賞! レヴァンドフスキやジョルジーニョら抑える] サッカーキング 2022年10月3日閲覧</ref>、[[サッカーの歴史|サッカー史上]]に残る名選手を数多く輩出している<ref>{{cite news |url=http://members.jcom.home.ne.jp/wcup/WORLDSOCCERGreatest.htm |title=英『ワールド・サッカー』誌:史上グレーテストゴール:トップ10 |publisher=World Cup's World |accessdate=2010-11-04}}</ref>。マラドーナやメッシ以外にも著名な選手として[[ガブリエル・バティストゥータ]]、[[ディエゴ・シメオネ]]、[[ハビエル・サネッティ]]、[[ワルテル・サムエル]]、[[フアン・ロマン・リケルメ]]、[[セルヒオ・アグエロ]]、[[ゴンサロ・イグアイン]]、[[アンヘル・ディ・マリア]]など数多くの[[アルゼンチン人]]が[[ヨーロッパ]]の[[ビッグクラブ]]で活躍し歴史を彩って来た<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.footballchannel.jp/2017/09/10/post230651/|title=アグエロ、プレミア新記録の通算124ゴールに! 欧州圏外選手の最多得点を更新|date=2017-09-10|access-date=2017-11-12}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200113-00010010-goal-socc|title=シアラー&アンリの記録更新!アグエロ「これからもゴールを奪い続けたい」|publisher=フットボールゾーンウェブ|date=2019-02-04|access-date=2020-01-13}}</ref>。
{{See also|マラドーナ教|マラドーナ2世}}
[[ファイル:ARG Line-up - ARG vs MEX for 2022 FIFA WC.jpg|250px |thumb|right|[[サッカーアルゼンチン代表]]([[2022 FIFAワールドカップ|2022年カタールW杯]])]]
[[アルゼンチンサッカー協会]](AFA)によって構成される[[サッカーアルゼンチン代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]出場の常連国であり優勝3回・準優勝3回を誇り、[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]と並ぶ[[南アメリカ|南米]]の強豪として世界中に知れ渡っている。アルゼンチンは、初の自国開催となった[[1978 FIFAワールドカップ|1978年ワールドカップ]]で大会初優勝を果たしている。[[コパ・アメリカ]]においては、[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ代表]]と並んで大会最多15度の優勝に輝いている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/copa-america-final-argentina-brazil-20210711/1l1vx0zpnq60g1dr0krprhb7bs|title=メッシ、5度目の決勝戦で悲願の代表初タイトル…!アルゼンチンがブラジル下し28年ぶりコパ・アメリカ制覇|publisher=ゴールコム|date=2021-07-11|accessdate=2021-07-11}}</ref>。さらに[[U-23サッカーアルゼンチン代表|U-23アルゼンチン代表]]は[[オリンピックのサッカー競技|オリンピック]]出場の常連国であり、[[2004年アテネオリンピックのサッカー競技・男子|2004年アテネ五輪]]と続く[[2008年北京オリンピックのサッカー競技・男子|2008年北京五輪]]で「6戦全勝での連覇」を達成している<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2432222?pid=3255832 アルゼンチン男子 ナイジェリア下し五輪2連覇] AFP BB News、2008年8月23日</ref>。
[[1891年]]には国内リーグの[[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|プリメーラ・ディビシオン]]が創設され、[[1986年]]には下部リーグの[[プリメーラB・ナシオナル]]も開始された。主なクラブとしては、[[CAリーベル・プレート|リーベル・プレート]]、[[ボカ・ジュニアーズ]]、[[ラシン・クルブ]]、[[エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタ|エストゥディアンテス]]、[[CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ|サン・ロレンソ]]などが挙げられる。さらに[[南アメリカ大陸|南米大陸]]のクラブ王者を決める[[コパ・リベルタドーレス]]では、[[CAインデペンディエンテ|インデペンディエンテ]]が大会最多となる7度の優勝を遂げている。
=== テニス ===
サッカーの次には[[テニス]]が盛んであり、テニスを[[国技]]と称する[[スウェーデン]]と並んで、[[1970年代]]から現在に至るまで世界のテニス界をリードする存在である。1970年代後半のギジェルモ・ビラスをはじめ、男女問わず数多の名選手を輩出しており、[[2004年]]の[[全仏オープン]]において、史上初のアルゼンチン勢同士の決勝戦が行われている。最近もアルゼンチン勢のテニスの躍進は目覚しく、クレーコート以外でも好成績を残す選手が続出している。
=== ラグビー ===
[[ラグビーフットボール|ラグビー]]はロス・プーマス(''Los Pumas'')の愛称で親しまれている[[ラグビーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]が、強豪国を破る実力をつけてきている。伝統的に屈強な[[ラグビーユニオンのポジション #フォワード (FW)|フォワード]]と、意外性のある[[ラグビーユニオンのポジション #バックス (BK)|バックス]]の選手を輩出している。[[1999年]]の[[ラグビーワールドカップ1999|ワールドカップ]]ではベスト8に進出している。大会では[[スタンドオフ]]のゴンサロ・ケサダが、安定したキックで得点王にも輝いた。[[2007年]]の[[ラグビーワールドカップ2007|ワールドカップ]]では開催国の[[ラグビーフランス代表|フランス代表]]を2度下し、3位に輝いている。
=== ボクシング ===
[[ボクシング]]においても、アルゼンチン初の世界王者で[[フライ級]]の[[パスカル・ペレス (ボクサー)|パスカル・ペレス]]、[[1960年代]]の[[世界ボクシング協会|WBA]]・[[世界ボクシング評議会|WBC]]世界フライ級王者[[オラシオ・アカバリョ]]、[[ジュニア・ウェルター級]]の世界王者[[ニコリノ・ローチェ]]、1970年代の[[世界ボクシング協会|WBA]]・[[世界ボクシング評議会|WBC]]世界[[ミドル級]][[統一世界王者|統一王者]]の[[カルロス・モンソン]]らを輩出している。さらに、[[2000年代]]にもフライ級で[[オマール・ナルバエス]]が長期政権を築いている。[[女子ボクシング]]も盛んであり、[[ジェシカ・ボップ]]のような女子王者も輩出している。
=== バスケットボール ===
アルゼンチンでは[[バスケットボール]]も、[[1950年バスケットボール世界選手権|第1回世界選手権]]の開催国ということもあって人気が高く、[[マヌ・ジノビリ]]、[[ファブリシオ・オベルト]]、[[アンドレス・ノシオーニ]]などの[[NBA]]プレイヤーも輩出している。さらに[[2004年]]の[[2004年アテネオリンピックのバスケットボール競技|アテネオリンピック]]では、[[バスケットボールアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]は悲願の金メダルを獲得している。[[バスケットボールアメリカ選手権|FIBAアメリカップ]]では、これまでに2001年大会・2011年大会・2022年大会と、3度の優勝を達成している。
== 科学と技術 ==
{{Main|{{仮リンク|アルゼンチンの科学技術|en|Science and technology in Argentina}}}}
[[ファイル:Luis Federico Leloir - young.jpg|thumb|160px|left|[[ルイス・フェデリコ・レロイル]]]]
化学部門で3人の[[ノーベル賞]]受賞者を出している。[[ルイス・フェデリコ・レロイル]](ルイ・ルロワール)は[[ノーベル化学賞]]受賞者であり、この化学賞はラテンアメリカ全体でも初めてのものだった。
[[ベルナルド・ウサイ]]のような優れた研究者の残した業績の伝統もあって、現在でも医療の研究や、その他には原子力の研究なども進んでいる。ほかにも、[[素粒子物理学]]の指導的存在である[[フアン・マルダセナ]]がいる。
現在の問題は、大学の整備の遅れによる研究環境の不備や、海外への高学歴者の流出による基礎研究、応用研究の進展が遅れていることなどである。
== 通信とメディア ==
{{main|{{仮リンク|アルゼンチンの通信|en|Communications in Argentina}}}}
=== 出版 ===
[[ファイル:Clarin 30 07 52.jpg|thumb|クラリン紙に報じられたエバ・ペロン大統領夫人の葬儀の様子。今日クラリンはスペイン語圏でもっとも多く流通している新聞となっている]]
アルゼンチンの印刷メディアは高度に発達し、独立している。200以上の新聞が存在し、地元の町や地域に影響を与えている。最主要紙はブエノスアイレスの中道紙「[[クラリン]]」であり、スペイン語圏でもっとも流通している新聞のうちのひとつとなっている。{{要出典|date=2008年4月}}そのほかの新聞としては1870年創設の「[[ラ・ナシオン]]」(中道右派)、''Página/12'' (左派)、''アンビト・フィナンシエロ'' (保守ビジネス紙), ドイツ語新聞の''Argentinisches Tageblatt'' 、スペイン語とフランス語で発行される''Le Monde Diplomatique''、''[[クロニカ]]'' (ポピュリズム)。地方紙として重要なのは「ラ・カピタル」(ロサリオ)、「ロス・アンデス」(メンドーサ)、「内陸部の声」(コルドバ)、「エル・トリブノ」(サルタ)など。ブエノス・アイレス・ヘラルドは主要日刊英字新聞である。
アルゼンチンの出版業はスペイン・[[メキシコ]]といったスペイン語圏の主要国の出版業とともにある。アルゼンチンには、エル・アテネオやジェニーといった、独立し、豊富な在庫を抱えたラテンアメリカ最大級の書店のチェーンがある。英語やその他の言語による書籍も多く流通している。雑多な趣味の領域をカバーした100を超える雑誌が出版され、書店や街頭のキオスクで販売されている。
=== ラジオとテレビ ===
[[ファイル:Canal 7 Argentina.JPG|thumb|250px|left|ブエノスアイレスの公共放送局[[カナル7]]。アルゼンチンのテレビ放映開始は1951年で、ラテンアメリカ初だった]]
アルゼンチンは[[ラジオ]]放送を始めた国家のパイオニアだった。1920年8月27日、''Sociedad Radio Argentina''は「われわれは今、ブエノスアイレスの下町のコリセオ劇場からのリヒャルト・ワーグナーのパルジファルオペラの実演をあなたの家に送っています」と発表した。もっとも市内の20家庭しかラジオ受信機を所持していなかった。世界初の放送局はそのときからRadio Culturaが放送されるようになる1922年まで、アルゼンチン唯一のラジオ局だった。その後、1925年までに12局がブエノスアイレスに、10局がそのほかの都市に開設された。1930年代はバラエティ、ニュース、ソープオペラ、スポーツなどアルゼンチンのラジオにとって「黄金時代」だった<ref>[http://www.swl.net/patepluma/south/misc/argendx.html Radio With a Past in Argentina] Don Moore</ref>。
現在アルゼンチンでは1,500以上のラジオ局が認可されている。260局がAM局であり、1150局がFM局である。{{要出典|date=2008年4月}} ラジオはアルゼンチンでは重要なメディアとなっている。音楽と若者文化番組がFM放送を支配しており、ニュース・討論・スポーツはAM放送の内容として第一に来る。ラジオはいまだに情報、エンターテインメント、さらに最遠隔地のコミュニティーにおける人命救助にさえ重要なサービスとして役立っている。
アルゼンチンの[[テレビ]]業界は大きく多様であり、ラテンアメリカで広く見られていると同時に世界中で見ることができる。多くのローカル番組が他国で放送され、そのほかは外国人のプロデューサーが市場で権利を買っている。アルゼンチンには5つの主要ネットワークがある。すべての地方主要都市と大都市には、少なくとも1つの地方局がある。アルゼンチンでは北アメリカとほぼ同じぐらいのパーセンテージでケーブルテレビと衛星放送が浸透している<ref>[http://lanic.utexas.edu/project/tilan/statistics/cable_table.html Homes with Cable TV in Latin America] Trends in Latin American networking</ref>。ケーブルネットワークはアルゼンチンとほかのスペイン語圏からもたらされ、ウルティマ・サテリタル、TyCスポーツ、スペイン語Foxスポーツ(合衆国、メキシコも同様)、MTVアルヘンティーナ、コスモポリタンTV、およびニュースネットワークのトド・ノティシアスなどがある。
== 国の象徴 ==
[[ファイル:Erythrina crista-galli2.jpg|thumb|[[アメリカデイゴ]]の花]]
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アルゼンチン共和国の象徴となっているものを列挙する。
* [[アルゼンチンの国旗]]
* [[アルゼンチンの国章]]
* [[アルゼンチンの帽章]]
* [[アルゼンチンの国歌]]
* 国花: [[アメリカデイゴ]]
== 著名な出身者 ==
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
; 学術
: 歴史
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; ジャーナリズム
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== 関連項目 ==
* [[アルゼンチン関係記事の一覧]]
* [[ラテンアメリカ]]
* [[南アメリカ]]
** [[南アメリカのスポーツ]]
* [[アルゼンチンのスポーツ]]
** [[アルゼンチンのサッカー]]
** [[サッカーアルゼンチン代表]]
== 外部リンク ==
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2,636 | 原子 | 原子(げんし、英: atom)は化学的手段では分割できない元素の最小単位であり、陽子と中性子からなる原子核と、それを取り囲む電磁気的に束縛された電子の雲から構成される。原子は化学元素の基本粒子であり、化学元素は原子に含まれる陽子の数によって区別される。たとえば、11個の陽子を含む原子はナトリウムであり、29個の陽子を含む原子は銅である。中性子の数によって元素の同位体が定義される。
原子は非常に小さく、直径は通常100ピコメートル(pm)程度である。人間の毛髪の幅は、約100万個の炭素原子を並べた距離に相当する。これは可視光の最短波長よりも小さいため、従来の顕微鏡では原子を見ることはできない。原子は非常に小さく、量子効果による作用を受けるため、古典物理学では原子の挙動を正確に予測することは不可能である。
原子の質量の99.94%以上は原子核にある。原子核の陽子は正の電荷を、電子は負の電荷を持つが、中性子はあっても電荷を持たない。陽子と電子の数が通常のように等しい場合、原子は電気的に中性である。陽子より電子が多い原子は全体として負の電荷を持ち、陰イオン(または負イオン、アニオン)と呼ばれる。逆に、電子より陽子が多い原子は全体として正の電荷を持ち、陽イオン(または正イオン、カチオン)と呼ばれる。
原子を構成する電子は電磁気力によって原子核内の陽子に引き寄せられる。原子核内の陽子と中性子は核力によって互いに引き合っている。この核力は通常、正電荷を帯びた陽子どうしが反発する電磁気力よりも強い。しかし特定の状況下では、反発する電磁気力が核力よりも強くなる。この場合、原子核は分裂して、さまざまな元素が残る。これは原子核崩壊の一形態である。
原子は化学結合によって1つまたは複数の他の原子と結合し、分子や結晶などの化合物を形成することができる。自然界で観察されるほとんどの物理的変化は、原子が互いに結合したり分離する能力が引き起こしている。化学は、こうした変化を研究する学問である。
物質が不可分の小さな粒子からできているという基本的な考え方は、多くの古代文化に登場する古い考え方である。アトム(atom)という言葉は、古代ギリシア語で「切断できない」という意味のアトモス(atomos)に由来する。この古代の考えは、科学的な推論というよりも、むしろ哲学的な推論に基づいていた。現代の原子論は、こうした古い概念に基づいているわけではない。19世紀初頭、科学者ジョン・ドルトンは、化学元素が重量の離散的な単位で結合しているように見えることに気づき、これを物質の基本単位な単位と考え、その単位を指す言葉として「原子」という言葉を使うことにした。約1世紀後、ドルトンの原子は、実際には分割不可能ではないことが発見されたが、この言葉が定着した。
1800年代初頭、イギリスの化学者ジョン・ドルトンは、自身や他の科学者が集めた実験データをまとめ、現在「倍数比例の法則」として知られる法則を発見した。彼は、ある化学元素を含む化合物について、化合物中の元素の含有量を重量で表現したとき、小さな整数の比率で異なることに気づいた。この法則から、各化学元素が重量の基本単位によって他の元素と結合していることが示唆され、ドルトンはこれらの単位を「原子」と呼ぶことにした。
たとえば、酸化スズには2種類あり、一方はスズ88.1%と酸素11.9%の灰色の粉末で、もう一方はスズ78.7%と酸素21.3%の白い粉末である。これらの数値を整理すると、灰色粉末にはスズ100 gに対して約13.5 gの酸素が、白色粉末にはスズ100 gに対して約27gの酸素が含まれる。13.5と27の比率は 1:2 である。ドルトンは、これらの酸化物には、スズ原子1個につき1個または2個の酸素原子が存在すると結論づけた(SnO と SnO2)。
ドルトンは酸化鉄も分析した。酸化鉄には、鉄78.1%と酸素21.9%の黒色粉末と、鉄70.4%と酸素29.6%の赤色粉末がある。この数値を整理すると、黒色粉末には鉄100 gに対して約28 gの酸素が、赤色粉末には鉄100 gに対して約42 gの酸素が含まれる。28と42の比率は 2:3 である。ドルトンは、これらの酸化物には、鉄原子2個につき2個または3個の酸素原子が存在すると結論づけた(Fe2O2 と Fe2O3)。
最後の例として、亜酸化窒素は窒素63.3%と酸素36.7%、一酸化窒素は窒素44.05%と酸素55.95%、そして二酸化窒素は窒素29.5%と酸素70.5%である。これらの数値を整理すると、亜酸化窒素では窒素140 gに対して酸素が80 g、一酸化窒素では窒素140 gに対して酸素が約160 g、二酸化窒素では窒素140 gに対して酸素が320 g含まれる。80、160、320の比率は 1:2:4 である。これらの酸化物のそれぞれの化学式は、N2O、NO、そして NO2 である。
科学者たちは、物質の中には、全く同じ化学含有量でありながら異なる性質を持つものがあることを発見した。たとえば、1827年、フリードリヒ・ヴェーラーは、雷酸銀とシアン酸銀がともに銀107部、炭素12部、窒素14部、酸素12部であることを発見した(現在では、両者の化学式はともにAgCNOであることがわかっている)。1830年、イェンス・ヤコブ・ベルセリウスは、この現象を説明するために異性(isomerism)という言葉を導入した。1860年、ルイ・パスツールは、異性体の分子は組成は同じだが、原子の配置が異なるのではないかという仮説を立てた。
1874年、ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフは、炭素原子が四面体配置で他の原子と結合することを提案した。彼は、これに基づいて有機分子の構造を説明し、化合物がいくつの異性体を持ち得るかを予測することができた。ペンタン(C5H12)を例に考えてみよう。ファント・ホッフの分子モデリング法によると、ペンタンには3つの配置が可能であると予測でき、科学者たちは実際に3つのペンタンの異性体を発見した。
1827年、イギリスの植物学者ロバート・ブラウンは、水中に浮遊する花粉粒から流出した微粒子が、明確な理由もなく絶えず揺れ動くことを観察した。1905年、アルベルト・アインシュタインは、このブラウン運動は水の分子が微粒子に絶え間なく衝突することによって引き起こされると理論化し、それを記述する数学モデルを開発した。このモデルは1908年、フランスの物理学者ジャン・ペランによって実験的に検証され、彼はアインシュタインの方程式を使用して、1モルに含まれる原子の数と原子の大きさを計算した。
1897年、J.J.トムソンは、電場や磁場によって陰極線が偏向されることから、陰極線は電磁波ではなく粒子であることを発見した。彼は、この粒子が水素(最も軽い原子)の1,800倍軽いことを測定した。トムソンは、これらの粒子は陰極の原子から来たもので、亜原子粒子(subatomic particles)であると結論づけた。彼はこれらの新しい粒子を微粒子(corpuscles)と呼んだが、後に電子(electrons)と改名された。トムソンはまた、電子が光電物質や放射性物質から放出される粒子と同一であることも示した。やがて、電子が金属線に電流を流す粒子であることが認識された。トムソンは、これらの電子が測定器の陰極の原子そのものから発生しており、このことは、原子はドルトンが考えていたような不可分なものではないことを意味していると結論づけた。
J. J.トムソンは、負電荷を帯びた電子は、原子の体積全体に分布する正電荷の海の中に分布していると考えた。このモデルはプラム・プディングモデルとして知られている。
アーネスト・ラザフォードと、同僚のハンス・ガイガーとアーネスト・マースデンは、アルファ粒子(ラジウムなど特定の放射性物質から放出される正電荷を帯びた粒子)の電荷質量比を測定する装置を製作する際に困難に出会ったことから、トムソンのモデルに疑問を抱いた。アルファ粒子が検出器内の空気によって散乱され、測定の信頼性が低下していた。トムソンの場合、陰極線の研究で同様の問題に遭遇したが、装置内をほぼ完全な真空にして解決していた。ラザフォードは、アルファ粒子が電子よりはるかに重いため、これと同じ問題に出会うとは考えられなかった。トムソンの原子モデルによれば、原子内の正電荷はアルファ粒子を偏向させるほど強い電場を発生させるだけ集中しておらず、また電子は非常に軽いので、はるかに重いアルファ粒子によって簡単に押しのけられるはずである。しかし散乱はあったので、ラザフォードと同僚たちは、この散乱を注意深く調べることにした。
1908年から1913年にかけて、ラザフォードらは、薄い金属箔にアルファ粒子を衝突させる一連の実験を行った。その結果、彼らは、90度以上の角度で偏向を受けるアルファ粒子を発見した。これを説明するために、ラザフォードは、原子の正電荷は、トムソンが考えていたように原子の体積全体に分布しているのではなく、中心にある小さな原子核に集中していると提案した。観測されたようにアルファ粒子を偏向させるほど十分な強い電場を作り出すことができるのは、このような極端な電荷の集中だけである。このモデルはラザフォード・モデルとして知られている。
1913年、放射化学者のフレデリック・ソディは、放射性崩壊の生成物について実験していたとき、周期表の各位置に数種類の原子が存在することを発見した。これらの原子は同じ性質を持っていたが、原子量は異なっていた。同位体(isotopes)という言葉は、このように同じ元素に属する重さの異なる原子を表すのに適切な名前として、マーガレット・トッド(英語版)によって命名された。J.J.トムソンは、電離気体に関する研究を通じて同位体を分離する技術(英語版)を確立し、その後、安定同位体の発見へとつながった。
1913年、物理学者ニールス・ボーアは、原子の電子は原子核の周りを周回しているが、その軌道は有限であり、光子の吸収または放射に対応するエネルギーの離散的な変化でしか軌道間を移行することができないと仮定した原子モデルを提唱した。この量子化は、電子の軌道が安定である理由や、元素が吸収または放出する電磁波のスペクトルが不連続である理由を説明するために考案された。
同じ年の暮れ、ヘンリー・モーズリーはニールス・ボーアの理論を支持する新たな実験的証拠を提示した。モーズリーは、これらの結果を基に、アーネスト・ラザフォードやアントニウス・ファン・デン・ブルーク(英語版)のモデルを改良し、原子は原子核に周期表の原子番号と等しい数の正の核電荷(英語版)を持つと提案した。この実験が行われるまで、原子番号が物理的かつ実験的な量であることは知られていなかった。今日でも受け入れられている原子モデルは、この原子番号と原子の核電荷が等しいというものである。
1916年、ギルバート・ニュートン・ルイスによって、原子間の化学結合は、構成電子間の相互作用により形成されると説明された。元素の化学的性質(英語版)は、周期律にほぼ従って繰り返されることが知られていたことから、1919年、アメリカの化学者アーヴィング・ラングミュアは、原子内の電子が何らかの方法で結びついているもしくは集まっていれば、この現象を説明できると提案した。原子核を中心に周囲にある電子殻を電子の集団が占めると考えられた。
ボーアの原子モデルは原子の最初で完全な物理モデルであった。これは、原子の全体構造、原子どうしの結合方法、水素のスペクトル線を説明するものである。ボーアのモデルは完全ではなく、より正確なシュレーディンガーモデルにすぐに取って代わられたが、物質が原子で構成されているという疑問を払拭するには十分だった。化学者にとっては、原子という概念は有用な発見的ツールであったが、物理学者にとっては、まだ誰も原子の完全な物理モデルを開発していなかったので、物質が本当に原子からできているのかどうかは疑問であった。
1925年、ヴェルナー・ハイゼンベルクは、量子力学の最初の一貫した数学的定式化(行列力学)を提唱した。その1年前、ルイ・ド・ブロイが、すべての粒子はある程度波のように振る舞うことを提案していた。1926年、エルヴィン・シュレーディンガーはこの考えを用いて、電子を空間の点ではなく三次元の波形として記述する原子の数学的モデル、シュレーディンガー方程式に発展させた。
波形を用いて粒子を記述することの結果として、ある時点における粒子の位置と運動量の両方を正確に求めることは数学的に不可能となる。このことは、1927年にヴェルナー・ハイゼンベルクが定式化した不確定性原理として知られるようになった。この概念では、位置の測定精度が一定であれば、運動量については可能性のある値の範囲(つまり確率値)しか得られず、逆もまた同様である。このモデルは、水素よりも大きな原子の特定の構造パターンやスペクトルパターンなど、従来のモデルでは説明できなかった原子の挙動に関する観測結果を説明することができた。こうして、原子の惑星型モデルは破棄され、「特定の電子」が最も観測されやすい原子核周辺の原子軌道ゾーンを記述するモデルが採用された。
原子の質量は、質量分析法の開発によって、より正確に測定できるようになった。この装置は磁石を使ってイオンビームの軌道を偏向させるもので、原子の質量と電荷の比によって偏向量が決まる。化学者フランシス・ウィリアム・アストンはこの装置を使用して、同位体の質量が異なることを示した。これらの同位体の原子質量は整数の量だけ異なり、整数則(英語版)として知られている。これらの異なる同位体の説明は、1932年に物理学者ジェームズ・チャドウィックによる、陽子(proton)とほぼ同じ質量を持つが荷電していない粒子である中性子(neutron)の発見を待たなくてはならなかった。そして同位体は、原子核内の陽子数は同じで、中性子の数が異なる元素として説明された。
1938年、ラザフォードの門下生であったドイツの化学者オットー・ハーンは、超ウラン元素を得る目的でウラン原子に中性子を照射した。その代わりに、彼の化学実験では生成物としてバリウムの存在が示された。1年後、リーゼ・マイトナーと甥のオットー・フリッシュが、ハーンの結果が最初の実験的な核分裂反応であることを検証した。1944年、ハーンはノーベル化学賞を受賞した。ハーンの努力にもかかわらず、マイトナーとフリッシュの貢献は認められなかった。
1950年代、改良された粒子加速器と粒子検出器の開発により、科学者は高エネルギーで運動する原子の影響を研究できるようになった。中性子と陽子はハドロンまたはクォークと呼ばれる小さな粒子の複合体であることがわかった。素粒子物理学における標準モデルが開発され、これらの素粒子とその相互作用を支配する力の観点から、原子核の性質を説明することに成功している。
原子(atom)という言葉はもともと、小さな粒子に切断できない粒子を意味するが、現代の科学的用法では、原子はさまざまな亜原子粒子(英: subatomic particles)から構成される物質の基本的な構成要素を指す。原子を構成する粒子は、電子、陽子、そして中性子である。
電子は負の電荷を持ち、質量が 9.11×10 kg で、これらの粒子の中で圧倒的に小さく、そのため利用可能な技術で大きさを測定することができない。ニュートリノの質量が発見されるまで、電子は正の静止質量が測定された最も軽い粒子であった。通常の条件下において、電子は、正電荷を帯びた原子核に、その反対電荷から生じる引力によって束縛される。原子の電子数がその原子番号より大きい(または小さい)場合、原子は全体として負(または正)に帯電し、帯電した原子はイオンと呼ばれる。電子は19世紀後半から知られていたが、J.J.トムソンの貢献が大きかった(素粒子物理学の歴史(英語版)を参照)。
陽子は正の電荷を持ち、質量は1.6726×10 kg、電子の質量の1,836倍である。原子内の陽子の数を原子番号という。アーネスト・ラザフォードは、1917-1919年にかけ、アルファ粒子の衝突を受けた窒素から水素原子核と考えられるものが放出されることを観測した。1920年までに、彼は水素原子核が原子内の別個の粒子であると考え、これを陽子と名付けた。
中性子は電荷を持たず、自由質量は 1.6749×10 kgで、電子の質量の1,839倍である。中性子は3つの構成粒子の中で最も重いが、その質量は核結合エネルギー(英語版)によって減る可能性がある。中性子と陽子(総称して核子という)は、どちらも 2.5×10 m 程度の大きさを持つが、これらの粒子の「表面」は明確に定義されていない。中性子は1932年にイギリスの物理学者ジェームズ・チャドウィックによって発見された。
物理学の標準モデルでは、電子は内部構造を持たない真の素粒子であり、陽子と中性子はクォークと呼ばれる素粒子から構成される複合粒子である。原子には2種類のクォークがあり、それぞれが分数の電荷を持っている。陽子は、2個のアップクォーク(それぞれの電荷は+2/3)と1個のダウンクォーク(電荷は−1/3)で構成されている。中性子は、1個のアップクォークと2個のダウンクォークで構成されている。この区別で、2種類の粒子の質量と電荷の違いが説明される。
クォークは、グルーオンを介した強い相互作用(強い力ともいう)によって結合している。陽子と中性子は、原子核の中で核力によって互いに結びついている。核力は強い力が残留したもので、その範囲や性質は多少異なる(詳しくは核力(英語版)を参照)。グルーオンは、物理的な力を媒介する素粒子であるゲージ粒子の一種である。
原子中で、すべての陽子と中性子は結合して、小さな原子核を構成する。原子核の半径はおよそ 1.07 A 3 {\displaystyle 1.07{\sqrt[{3}]{A}}} フェムトメートル(fm)で、ここに A {\displaystyle A} は核子の総数である。原子核の半径は、10 fm オーダーの原子の半径よりはるかに小さい。核子どうしは、強い残留力と呼ばれる短距離型の引力ポテンシャルによって結合している。2.5 fm 未満の距離では、この力は正電荷を帯びた陽子どうしが反発し合う静電気力よりもはるかに強い。
同じ元素の原子は、原子番号と呼ばれる陽子の数が同じである。同じ元素でも、中性子の数が異なることがあり、それによってその元素の同位体が決まる。陽子と中性子の総数が核種を決定する。陽子に対する中性子の数が原子核の安定性を決定し、ある種の同位体は放射性崩壊を起こす。
陽子、中性子、電子はフェルミ粒子(英: fermion、フェルミオン)として分類される。フェルミ粒子はパウリの排他原理に従っており、複数の陽子のような同一のフェルミ粒子が同時に同じ量子状態を占めることを禁止される。したがって、原子核内のすべての陽子は、他のすべての陽子とは異なる量子状態をとらなければならず、原子核内のすべての中性子や、電子雲のすべての電子についても同様である。
陽子の数と中性子の数が異なる原子核は、放射性崩壊によって陽子と中性子の数がより近くなることで、より低いエネルギー状態に変化する可能性がある。その結果、陽子と中性子の数が一致する原子は崩壊に対してより安定するが、原子番号が増えるにつれて、陽子の相互反発にともなう原子核の安定性を維持するために、中性子の割合が増加する。
原子核内の陽子と中性子の数を変えることができるが、それには強い力が働くため、非常に高いエネルギーを必要とする。核融合は、2つの原子核のエネルギー的な衝突などにより、複数の原子粒子が結合してより重い原子核を形成するときに起こる。たとえば、太陽の中心部では、陽子が相互反発(クーロン障壁)を乗り越えて融合し、1つの原子核を形成するために、3-10 keVのエネルギーを必要とする。核分裂はその逆のプロセスで、通常は放射性崩壊によって原子核が2つの小さな原子核に分裂する。また、原子核は、高エネルギーの亜原子粒子や光子との衝突によっても変化することがある。これによって原子核内の陽子の数が変わると、原子は別の化学元素に変化する。
核融合反応後の原子核の質量が、個々の粒子の合計質量よりも小さい場合、2つの質量差は、アルベルト・アインシュタインの質量とエネルギー等価性の式、e=mc(ここで m は質量損失、 c は光速)で説明されるように、利用可能なエネルギーの一種(ガンマ線やベータ粒子の運動エネルギーなど)として放出される。この欠損は新しい原子核の結合エネルギーの一部であり、融合粒子が分離するためにこのエネルギーを必要とする状態で一緒に留まるのは、このエネルギーの回復不可能な損失のためである。
鉄やニッケルよりも原子番号が小さな原子核(核子数の合計が約60以下)を作り出す2個の原子核の核融合は、通常、発熱プロセスであり、2つの原子核を融合させるのに必要なエネルギーよりも多くのエネルギーを放出する。恒星の核融合を自立反応にしているのは、このエネルギー放出プロセスである。より重い原子核では、核子あたりの結合エネルギーは減少し始める(上のグラフを参照)。このことは、原子番号が約26より大きく、質量数が約60より大きな原子核を生成する核融合プロセスは吸熱プロセスであることを意味する。したがって、より質量が大きな原子核は、恒星の静水圧平衡を維持するのに必要なエネルギーを生み出す核融合反応を起こすことができない。
原子内の電子は、電磁気力によって原子核内の陽子に引き寄せられる。この力によって電子は、小さな原子核を取り囲む静電ポテンシャル井戸(英語版)の中に束縛され、電子が脱出するためには外部のエネルギー源が必要となる。電子が原子核に近づくほど、この引力は大きくなる。したがって、ポテンシャル井戸の中心付近に束縛された電子は、それよりも離れた位置にある電子よりも、脱出するのに多くのエネルギーを必要とする。
電子は、他の粒子と同様に、粒子と波の両方の性質を持っている。電子雲は、ポテンシャル井戸の内側にある領域で、各電子が一種の三次元定在波(原子核に対して相対的に動かない波形)を形成している。この挙動は原子軌道によって規定される。原子軌道とは、電子の位置を測定したときに、その電子が特定の位置にあるように見える確率を記述する数学的関数である。原子核の周りには、このような離散的な(または量子化された)軌道の集合だけが存在する(他の考えられる波動パターンは、より安定した形へと急速に減衰するため)。軌道は1つまたは複数のリング構造またはノード構造を持つことができ、大きさ、形状、方向がそれぞれ異なる。
それぞれの原子軌道は、電子の特定のエネルギー準位に対応している。電子は、新しい量子状態に遷移するのに十分なエネルギーの光子を吸収することで、その状態をより高いエネルギー準位に変えることができる。同様に、高いエネルギー準位にある電子は、自然放出によって余剰なエネルギーを光子として放射しながら、低いエネルギー準位に落ちることができる。量子状態のエネルギーの違いによって規定されるこれらの特徴的なエネルギー値が、原子スペクトル線 (en:英語版) が生じる原因である。
原子から電子を除去または追加するのに必要なエネルギー量(電子結合エネルギー (en:英語版) )は、核子の結合エネルギーよりもはるかに小さい。たとえば、水素原子から基底状態の電子を取り除くのに必要なエネルギーはわずか 13.6 eV であるのに対し、重水素の原子核を分裂させるのに必要なエネルギーは 223万eV に達する。陽子と電子が同数であれば、原子は電気的に中性である。電子が不足または過剰な原子はイオンと呼ばれる。原子核から最も遠い電子は、近くにある別の原子に移動したり、原子間で共有されることがある。この機構により、原子が結合して分子を構成したり、イオン結晶やネットワーク共有結合結晶のような他の種類の化合物と結合することができる。
定義により、原子核内の陽子の数が同じ2つの原子は同じ化学元素に属する。陽子の数が同じで中性子の数が異なる原子は、同じ元素の異なる同位体である。たとえば、すべての水素原子は陽子を1個だけ含んでいるが、中性子を含まない同位体(水素1。圧倒的に一般的な形。プロチウムとも呼ばれる)、中性子を1つ含むもの(重水素)、中性子を2つ含むもの(トリチウム)、中性子を2つ以上含むものがある。既知の元素は、1陽子の水素から118陽子のオガネソンまで、一連の原子番号を形成している。原子番号82を超える元素の既知の同位体はすべて放射性であるが、83番元素(ビスマス)の放射性はわずかであり、事実上無視できる。
地球上には約339の核種が天然に存在し、そのうち251(約74%)は崩壊は観測されておらず、「安定同位体」と呼ばれる。理論的(英語版)に安定な核種は90に過ぎず、他の161核種(合計251)は、理論的にはエネルギー的に可能であるにも関わらず、崩壊は観測されていない。これらも正式には「安定」に分類される。さらに35の放射性核種は半減期が1億年以上であり、太陽系の誕生時から存在していた可能性があるほど長寿命である。これらの286核種の集まりは原始核種(英語版)として知られている。最後に、さらに53の短寿命核種が、原始核種崩壊の娘核種として(例: ウランからのラジウム)、あるいは宇宙線衝突のような地球上の自然エネルギー過程の生成物として(例: 炭素14)、天然に存在することが知られている。
80種類の化学元素には、少なくとも1つの安定同位体が存在する。概して、これらの元素の安定同位体はそれぞれ少数で、1元素あたり平均3.1種類の安定同位体が存在する。26個のモノアイソトピック元素 (en:英語版) は安定同位体が1つしかない。対して、1つの元素で観測された安定同位体の最大数は、スズの10である。43番、61番、そして83番以降のすべての元素には安定同位体がない。
同位体の安定性は、陽子と中性子の比率に影響を受け、また、量子殻が満たされる(閉殻という)ような中性子と陽子の特定数(魔法数)の存在にも影響を受ける。これらの量子殻は、原子核の殻モデル内の一連のエネルギー準位に対応している。スズの陽子50個で満たされた殻のように、充填殻(じゅうてんかく)はその核種に著しい安定性を与える。既知の251の安定核種のうち、陽子数と中性子数がともに奇数であるものは、水素2(重水素)、リチウム6、ホウ素10、窒素14の4つだけである。(タンタル180mは奇数で、観測的には安定しているが、非常に長い半減期で崩壊すると予測されている。)また、天然に存在する放射性奇-奇核種のうち、半減期が10億年を超えるものは、カリウム40、バナジウム50、ランタン138、ルテチウム176の4つだけである。ほとんどの奇-奇核種はベータ崩壊で非常に不安定であるが、これは、崩壊生成物が偶-偶核種であるため、核子対効果 (en:英語版) によってより強く結合することによる。
原子の質量の大部分は、それを構成する陽子と中性子に由来する。ある原子に含まれるこれらの粒子(核子という)の総数を質量数(mass number)という。質量数は数を表す正整数で、(質量の次元を持つではなく)無次元である。質量数の例として、12個の核子(6個の陽子と6個の中性子)を持つ「炭素12」がある。
静止状態にある原子の実際の質量は、ダルトン(Da)の単位(統一原子質量単位(u)ともいう)で表されることが多い。この単位は、炭素12の自由な中性原子の質量の12分の1と定義され、約1.66×10 kgである。水素1(水素の最も軽い同位体であり、最も質量の小さい核種でもある)の原子量は1.007825 Da である。この数を原子質量(atomic mass)という。原子の原子質量は、その質量数と原子質量単位の積にほぼ等しく(1%以内)、たとえば窒素14の質量はおよそ14 Daである。しかし(定義により)炭素12の場合を除いては、この数値は正確な整数にならない。最も重い安定原子は鉛208で、質量は 207.9766521 Da である。
最も重い原子でさえ直接扱うには軽すぎるため、化学者は代わりにモル(mole)という単位を使う。どの元素でも、1モルの原子数は常に同じである(約6.022×10)。この数は、ある元素の原子質量が 1 u であれば、その元素の原子1モルの質量が1グラムに近くなるように選ばれた。統一原子質量単位の定義から、炭素12原子の原子質量は正確に 12 Da であり、1モルの炭素12原子の質量は正確に 0.012 kg である。
原子には明確な外側の境界がないため、その大きさは通常、原子半径で表される。原子半径は、原子核から広がる電子雲までの距離を表す尺度である。これは原子が球形であることを前提としており、真空中や自由空間内の原子のみ当てはまる。原子半径は、2つの原子が化学結合で結合したときの2つの原子核間の距離から導き出される。この半径は、周期表上の原子の位置、化学結合の種類、隣接する原子の数(配位数)、スピンと呼ばれる量子力学的性質によって変化する。周期表上では、原子の大きさは列を上から下に移動するほど大きくなり、行を横切るにつれて(左から右に移動)小さくなる傾向がある。たとえば、最も小さい原子は半径は 31 pm のヘリウムで、最も大きい原子のひとつは半径 298 pm のセシウムである。
電場のような外力を受けると、原子の形状が球対称 (en:英語版) から外れることがある。この変形は、群論的な考察によって示されるように、電場の強さと外殻電子の軌道型に依存する。非球対称性の変形は、たとえば結晶内において、対称性の低い(英語版)格子部位に大きな結晶電場が発生することで誘発される可能性がある。パイライト型化合物中の硫黄イオンやカルコゲンイオンでは、顕著な楕円変形が起こることが示されている。
原子の大きさは光の波長(400-700 nm)より数千倍も小さく、従来の顕微鏡では見ることができないが、走査型トンネル顕微鏡を使えば個々の原子を観察することができる。原子の微細さを視覚化するために、典型的な人間の毛髪の幅は、約100万個の炭素原子を並べた距離に相当することを考えてみよう。一滴の水には約20垓個(2×10)の酸素原子と、その2倍の水素原子が含まれている。質量 2×10 kg の1カラットのダイヤモンドには、約100垓個(10)の炭素原子が含まれている。リンゴを地球の大きさに拡大すると、リンゴの中の原子は元のリンゴとほぼ同じ大きさになる。
すべての元素には、不安定な原子核を持っていて放射性崩壊を起こし、原子核から粒子や電磁波を放出する同位体が1つ以上存在する。放射性は、原子核の半径が、1 fm オーダーの距離にしか作用しない強い力の範囲よりも大きい場合に生じる。
放射性崩壊の最も一般的な形態は次のとおりである。
その他に、稀な種類の放射性崩壊として、原子核から中性子や陽子、原子核クラスターが放出されるものや、複数のベータ粒子が放出されるものがある。励起核が別の方法でエネルギーを失うことを可能にするガンマ線放出の類似型は、内部転換である(ベータ線ではない高速電子を生成し、続いてガンマ線ではない高エネルギー光子を生成する放射性崩壊の形式)。いくつかの大きな原子核は、自発核分裂と呼ばれる崩壊で、さまざまな質量の2つ以上の荷電した分裂片と数個の中性子に分裂する。
それぞれの放射性同位元素には特徴的な崩壊時間、すなわち半減期があり、試料の半分が崩壊するのにかかる時間で決まる。これは指数関数的な減衰過程であり、半減期ごとに残りの同位体の割合が50%ずつ着実に減少してゆく。したがって、半減期が2回経過すると、同位体の25%しか存在しなくなる。
素粒子にはスピンと呼ばれる固有の量子力学的性質が内在している。これは、質量中心の周りを回転する物体の角運動量に似ているが、厳密に言えば、これらの粒子は点状であり、回転しているとは言えないと考えられる。スピンは換算プランク定数(ħ)の単位で測定され、電子、陽子、中性子はすべてスピン⁄2 ħ または スピン⁄2 を持つ。原子の場合、原子核の周りを周回する電子はスピンに加えて軌道角運動量を持っており、原子核自体は核スピンによる角運動量を持っている。
原子が生成する磁場(磁気モーメント)は、古典的に回転する荷電物体が磁場を生成するのと同様に、これらのさまざまな形の角運動量によって決定されるが、最も支配的な寄与は電子スピンによるものである。電子はパウリの排他原理に従うという性質があるため、2つの電子が同じ量子状態をとることはなく、束縛電子は互いに対となり、それぞれの対の一方がスピンアップ状態、他方はその反対のスピンダウン状態にある。したがって、これらのスピンは互いに打ち消し合い、偶数の電子を持つ原子では全磁気双極子モーメントがゼロになる。
鉄、コバルト、ニッケルなどの強磁性元素では、電子の数が奇数の場合は不対電子が生じ、全体としての正味磁気モーメントが生じる。隣接する原子の軌道が重なり合い、不対電子のスピンが揃うことで、より低いエネルギー状態を生じる。これは交換相互作用として知られる自発過程である。強磁性原子の磁気モーメントが整列すると、その材料は測定可能な巨視的磁場を発生する。常磁性物質は、磁場が存在しないときには原子の磁気モーメントがランダムな方向を向いているが、磁場が存在するときには個々の原子の磁気モーメントが整列する。
原子核は、中性子と陽子の数がそれぞれ偶数の場合はスピンを持たないが、それ以外の奇数の場合はスピンを持つ可能性がある。通常、スピンを持つ原子核は、熱平衡 (en:英語版) によりランダムな方向を向いているが、ある種の元素では(キセノン129など)、核スピン状態のかなりの割合を分極させ、同じ方向を向くように整列することが可能である(過分極(英語版)と呼ばれる状態)。この現象は核磁気共鳴イメージングの分野で応用されている。
原子内の電子のポテンシャルエネルギーは、原子核からの距離が無限大になるにつれて相対的に負となり、その位置依存性は距離にほぼ反比例し、原子核内部で最小となる。量子力学モデルでは、束縛電子は原子核を中心とした一連の状態のみをとることができ、それぞれの状態は特定のエネルギー準位に対応する(理論的な説明は、時間に依存しないシュレーディンガー方程式を参照)。エネルギー準位は、電子を原子からの束縛を解くのに必要なエネルギー量によって測定することができ、通常は電子ボルト(eV)の単位で表される。束縛電子の最低エネルギー状態を基底状態(すなわち定常状態)と呼び、電子がより高い準位に遷移したときを励起状態という。原子核までの(平均)距離が遠くなることから、電子のエネルギーは主量子数(n)とともに大きくなる。エネルギーの方位量子数( l {\displaystyle \ell } )依存性は、原子核の静電ポテンシャルによるものではなく、電子間の相互作用によるものである。
ボーア・モデルによれば、電子が2つの異なる状態間を遷移(英語版)するためには(たとえば基底状態から第一励起状態へ)、電子はこれらの準位のポテンシャルエネルギーの差(シュレーディンガー方程式によって正確に計算できる)に一致するエネルギーで光子を吸収または放出しなくてはならない。電子は粒子のように軌道から軌道へ飛び越える。たとえば、1個の光子が電子に衝突した場合、光子に反応して状態を変える電子は1個だけである(英語版 Atomic orbital(電子軌道) を参照)。
放出される光子のエネルギーはその周波数に比例するため、特定のエネルギー準位は電磁スペクトルの異なるバンドとして現れる。各元素は、核電荷、電子で満たされた亜殻(部分殻)、電子間の電磁相互作用、そしてその他の要因に依存する特徴的なスペクトルを持っている。
連続スペクトルのエネルギーをガスやプラズマに通過させると、その原子は光子の一部を吸収し、原子内に束縛された電子のエネルギー準位が変化する。引き続いて励起電子は、このエネルギーを光子として自発的に放出してより低いエネルギー準位に戻り、光子はランダムな方向に移動する。こうして原子は、エネルギー出力に一連の暗い吸収帯(英語版)を形成するフィルターのように作用する。(背景の連続スペクトルを含まない視点から原子を見ている観測者は、代わりに原子から放出された光子からの一連の輝線を見ることになる)。原子スペクトル線(英語版)の強度と幅を分光学的に測定することで、物質の組成や物理的性質を決定することができる。
スペクトル線を詳しく調べると、微細構造分裂を示すものがあることがわかる。これは、スピン軌道相互作用、すなわち最外殻電子のスピンと運動との相互作用によって起こるものである。原子が外部磁場の中にあるとき、スペクトル線は3つ以上の成分に分裂する(ゼーマン効果と呼ばれる現象)。これは、磁場が原子とその電子の磁気モーメントと相互作用することによって起こる。原子の中には、同じエネルギー準位を持つ複数の電子配置を持つものがあり、それらは単一のスペクトル線として現れる。磁場と原子の相互作用によって、電子配置がわずかに異なるエネルギー準位にシフトし、複数のスペクトル線が生じることもある。また、外部電場が存在するとき、電子のエネルギー準位が変化することにより、スペクトル線に同様の分裂やシフトが表れることがある。これはシュタルク効果と呼ばれる現象である。
束縛電子が励起状態にあるときに、適切なエネルギーを持つ光子が相互作用することで、エネルギー準位が一致する光子が誘導放出されることがある。そのためには、電子が、相互作用する光子のエネルギーと一致するエネルギー差を持った、より低いエネルギー状態に遷移しなくてはならない。その後、放出された光子と相互作用した光子は、位相をそろえながら平行に移動する。言い換えれば、2つの光子の波動パターンは同調する。この物理的特性は、狭い周波数帯域でコヒーレントな光エネルギーを放出できるレーザー発生装置に利用されている。
原子価とは、原子が他の原子と結合する能力の尺度である。原子価は一般的に、他の原子や原子団と形成できる化学結合の数として理解される。非結合状態にある原子の一番外側の電子殻を原子価殻(価電子殻とも)といい、その殻内の電子を価電子と呼ぶ。価電子の数によって、他の原子との結合挙動が決まる。原子は、その外側の原子価殻を満たす(または空にする)ように、互いに化学反応する傾向がある。たとえば、塩化ナトリウム化合物やその他の化学イオン塩で見られるような原子間での1電子の移動は、閉殻よりも1電子多い原子と、閉殻よりも1電子足りない原子との間で形成される結合に対して有効な近似である。多くの元素は複数の原子価を持ち、すなわち化合物によって異なる数の電子を共有する傾向がある。したがって、これらの元素間の化学結合は、単純な電子移動にとどまらず、さまざまな電子共有の形態をとる。たとえば、炭素の同素体や有機化合物などである。
化学元素を周期表で表わすことがよくある。周期表は、元素の化学的性質が繰り返されるように配列された表で、価電子数が同じ元素は表の同じ列にグループを成している。表の水平方向の行は、量子殻電子の充填に対応する。表の右端の元素は、外殻が完全に電子で満たされているため化学的に不活性であり、希ガスとして知られる。
たくさんの原子は、温度や圧力などの物理的条件によって異なる物質状態をとる。物質は条件を変えることで、固体、液体、気体、プラズマの間を転移することがある。物質はまた、ある状態のもとで、異なる同素体が存在することもある。たとえば、固体の炭素は、グラファイトやダイヤモンドのような同素体が存在する。二酸素(英語版)やオゾンのように、気体の同素体も存在する。
絶対零度に近い温度では、原子はボース=アインシュタイン凝縮体を形成する可能性がある。このとき、通常は原子スケールでしか観測されない量子力学的効果が、巨視的スケールで表れる。この過冷却状態にある原子の集団が形成する単一の超原子の振る舞いが、量子力学的な挙動の基本的な観察を可能とするかも知れない。
原子は小さすぎて目で見ることはできないが、走査型トンネル顕微鏡(STM)のような装置を使用して、固体表面の原子を視覚化することができる。この顕微鏡は量子トンネル現象を利用したもので、それによって、古典的な観点からは乗り越えられないような障壁を粒子が通り抜けることを可能にする。電子は、2つのバイアス電極間の真空を超えて伝播し、 距離に指数関数的に依存するトンネル電流を生成する。一方の電極は、鋭い先端を持つ探針で、理想的には単一原子で終わる。表面の走査の各点で、トンネル電流を設定値に保つように探針の高さを調整する。探針が表面からどれだけ近づいているか、あるいは離れているかを、標高プロファイルとして解釈する。低バイアスの場合、顕微鏡は、密集したエネルギー準位を横切って平均化された電子軌道、つまりフェルミ準位近傍の電子の局所状態密度を画像化する。距離が関係するため、個々の原子に対応する周期性を観察するためには、両方の電極が極めて安定していなくてはならない。この方法だけでは化学的な特異性を欠き、表面に存在する原子種を特定することはできない。
原子は質量によって容易に識別することができる。原子から電子を1つ取り除いてイオン化すると、磁場を通過する際に軌道が曲げられる。移動するイオンの軌道が磁場によって曲げられる半径は、原子の質量によって決まる。質量分析法はこの原理を利用して、イオンの質量電荷比を測定する。試料に複数の同位体が含まれる場合、質量分析計で異なるイオンビームの強度を測定することで、試料中の各同位体の割合を決定することができる。原子気化法には、誘導結合プラズマ発光分析法と誘導結合プラズマ質量分析法があり、どちらもプラズマを使って試料を気化させて分析する。
アトムプローブ・トモグラフィー(英語版)(atom-probe tomograph、アトムプローブ断層撮影法)は、3次元でサブナノメートルの分解能を持ち、飛行時間型質量分析法を使用して個々の原子を化学的に同定することができる。
内殻電子の結合エネルギーを測定するX線光電子分光法(XPS)やオージェ電子分光法(AES)などの電子放出技術は、試料中に存在する原子種を非破壊的に同定するために使用される。適切な集束をすることで、どちらも特定領域の分析が可能である。もう一つの方法、電子エネルギー損失分光法(EELS)は、透過型電子顕微鏡(TEM)内で電子ビームが試料の一部と相互作用したときのエネルギー損失を測定する方法である。
励起状態のスペクトルは、遠方の恒星の原子組成を分析することにも使われている。恒星からの観測光に含まれる特定の光の波長を分離し、自由気体原子における量子化された遷移と対応付けることができる。これらの色は、同じ元素を含むガス放電ランプ(英語版)を使って再現することができる。こうしてヘリウムは、地球で発見される23年前に太陽スペクトルから発見された。
バリオン物質(英語版)(バリオンで構成されたあらゆる種類の原子)は、観測可能な宇宙の全エネルギー密度の約4%を占め、その平均密度は約0.25個/m(主に陽子と電子)である。天の川のような銀河系内では、粒子の濃度ははるかに高く、星間物質(ISM)の物質密度は10-10 原子/m である。太陽は局所泡(ローカル・バブル)の中にあると考えられているため、太陽近傍における密度はわずか約10原子/m である。恒星はISM内の高密度の雲から形成され、恒星の進化の過程でISMは水素やヘリウムよりも重い元素で着実に濃縮される。
天の川銀河に存在するバリオン物質の最大95%は恒星の内部に集中しており、すなわち原子物質にとって不利な条件下にある。銀河系の質量の約10%はバリオン物質の総質量であり、残りは未知の暗黒物質の質量である。恒星内部の高温は、ほとんどの「原子」を完全に電離させる、つまり原子核から「すべての電子」を分離させる。白色矮星、中性子星、ブラックホールなど、恒星の残骸(総称してコンパクト星という)では、その表面層を除き、巨大な圧力が電子殻の形成を不可能にしている。
電子はビッグバンの初期から宇宙に存在していたと考えられている。原子核は原子核合成と呼ばれる反応で形成される。ビッグバン原子核合成の理論によると、ビッグバンの約3分後から、宇宙に存在するヘリウム、リチウム、重水素の大部分と、おそらくベリリウムとホウ素の一部が形成されたという。
原子の偏在性と安定性は、その結合エネルギーに依存する。すなわち、原子のエネルギーは、原子核と電子の非結合系よりもエネルギーが低いことを意味する。温度がイオン化ポテンシャルよりはるかに高い場合、物質はプラズマの形で存在する。プラズマは、正電荷を帯びたイオン(場合によっては裸の原子核)と電子からなる気体である。温度がイオン化ポテンシャルより下がると、原子は統計的に有利な状態になる。ビッグバンから38万年後(再結合と呼ばれる時期)、膨張する宇宙が十分に冷えて電子が原子核に束縛されるようになり、原子(束縛電子を持つ)が荷電粒子よりも優位に立つようになった。
ビッグバンでは炭素やそれより重い元素は生成されなかったが、それ以降、恒星内部での核融合プロセスを経て原子核どうしが結合し、さらなるヘリウム元素や、(トリプルアルファ反応を経て)炭素から鉄に至る一連の元素を生成した。詳細は恒星内元素合成を参照されたい。
リチウム6や、ベリリウム、ホウ素などの一部の同位体は、宇宙線による核破砕によって宇宙空間で生成された。これは、高エネルギーの陽子が原子核に衝突し、大量の核子が放出されることで起こる。
鉄より重い元素は、超新星や合体中性子星では r過程 によって、またAGB星では s過程 によって生成し、いずれも原子核による中性子捕獲を伴う。鉛などの元素は、主により重い元素の放射性崩壊によって形成された。
地球とその生息生物を構成する原子のほとんどは、太陽系を形成するために分子雲から崩壊した星雲の中に、現在の形で存在していた。残りの原子は放射性崩壊の結果として生成した。それらの相対的な割合は、放射年代測定によって地球の年齢を決定するために使用することができる。地球の地殻に含まれるヘリウムの大部分(ガス井から採取されるヘリウムの約99%)は、アルファ崩壊の産物であり、それはヘリウム3の存在量が低いことからも示される。
地球上には、最初には存在せず(つまり「原始」でない)、放射性崩壊の産物でもないような、微量原子がいくつか存在する。炭素14は、宇宙線によって大気中で絶え間なく生成される。地球上の原子の中には、実験環境で意図的に、あるいは原子炉や核爆発の副産物として人工的に生成されたものもある。超ウラン元素(原子番号92を超える元素)のうち、地球上に天然に存在するのはネプツニウムとプルトニウムのみである。超ウラン元素の放射性寿命は現在の地球年齢よりも短いため、宇宙塵によって堆積した可能性のある微量のプルトニウム244を除いて、これらの元素の特定可能な量はずっと前に崩壊している。ネプツニウムとプルトニウムの天然鉱床は、ウラン鉱石中で中性子捕獲によって生成される。
地球には約1.33×10 個の原子が存在する。大気中には、アルゴン、ネオン、ヘリウムのような希ガスとよばれる独立原子が少数存在するが、大気の99%は二酸化炭素、二原子酸素、窒素などの分子の形に結合した原子が占める。地球の表面では、圧倒的多数の原子が結合して、水、塩、ケイ酸塩、酸化物などのさまざまな化合物を形成している。原子が結合して、結晶や金属のように個別の分子で構成されていない物質を作り出すこともできる。こうした原子物質はネットワーク状の配列を形成しているが、分子物質に見られるような小規模で断続性の秩序を持たない。
原子番号が82(鉛)よりも大きな核種はすべて放射性であることが知られている。原子番号92(ウラン)を超える核種は、原始核種(英語版)としては地球上に存在しない。一般に重い元素ほど半減期は短い傾向があるが、原子番号110から114の超重元素の比較的長寿命の同位体を含む「安定の島」の存在が考えられている。この島で最も安定な核種の半減期は数分から数百万年と予測されている。いずれにせよ、この安定化効果がなければ、クーロン反発力の増加により(その結果、半減期がますます短くなって自発核分裂が起こる)、超重元素(Z > 104)は存在しなくなる。
物質の各粒子には、反対の電荷を持つ対応する反物質粒子がある。たとえば、陽電子は正電荷を帯びた反電子の同等物であり、反陽子は負電荷を帯びた陽子の同等物である。物質粒子と対応する反物質粒子が出会うと、互いに消滅する。このため、物質粒子と反物質粒子の数は不均衡になり、反物質粒子は宇宙では希少なものとなる。この不均衡の最初の原因はまだ完全には解明されていないが、バリオン数生成の理論で説明が試みられている。結果的には、自然界で反物質原子は発見されていない。1996年、ジュネーブの欧州原子核研究機構(CERN)で水素原子の反物質原子(反水素)が合成された。
陽子、中性子、電子のいずれか1つを同じ電荷を持つ他の粒子と置き換えることで、別の異種原子が作られてきた。たとえば、電子をより質量の大きいミューオンと置き換えて、ミューオン原子(英語版)を形成することができる。この種の原子は、物理学の基本的な予測を検証するために使うことができる。 | [
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"text": "原子(げんし、英: atom)は化学的手段では分割できない元素の最小単位であり、陽子と中性子からなる原子核と、それを取り囲む電磁気的に束縛された電子の雲から構成される。原子は化学元素の基本粒子であり、化学元素は原子に含まれる陽子の数によって区別される。たとえば、11個の陽子を含む原子はナトリウムであり、29個の陽子を含む原子は銅である。中性子の数によって元素の同位体が定義される。",
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"text": "原子は非常に小さく、直径は通常100ピコメートル(pm)程度である。人間の毛髪の幅は、約100万個の炭素原子を並べた距離に相当する。これは可視光の最短波長よりも小さいため、従来の顕微鏡では原子を見ることはできない。原子は非常に小さく、量子効果による作用を受けるため、古典物理学では原子の挙動を正確に予測することは不可能である。",
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"text": "原子の質量の99.94%以上は原子核にある。原子核の陽子は正の電荷を、電子は負の電荷を持つが、中性子はあっても電荷を持たない。陽子と電子の数が通常のように等しい場合、原子は電気的に中性である。陽子より電子が多い原子は全体として負の電荷を持ち、陰イオン(または負イオン、アニオン)と呼ばれる。逆に、電子より陽子が多い原子は全体として正の電荷を持ち、陽イオン(または正イオン、カチオン)と呼ばれる。",
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"text": "原子を構成する電子は電磁気力によって原子核内の陽子に引き寄せられる。原子核内の陽子と中性子は核力によって互いに引き合っている。この核力は通常、正電荷を帯びた陽子どうしが反発する電磁気力よりも強い。しかし特定の状況下では、反発する電磁気力が核力よりも強くなる。この場合、原子核は分裂して、さまざまな元素が残る。これは原子核崩壊の一形態である。",
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"text": "原子は化学結合によって1つまたは複数の他の原子と結合し、分子や結晶などの化合物を形成することができる。自然界で観察されるほとんどの物理的変化は、原子が互いに結合したり分離する能力が引き起こしている。化学は、こうした変化を研究する学問である。",
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"text": "物質が不可分の小さな粒子からできているという基本的な考え方は、多くの古代文化に登場する古い考え方である。アトム(atom)という言葉は、古代ギリシア語で「切断できない」という意味のアトモス(atomos)に由来する。この古代の考えは、科学的な推論というよりも、むしろ哲学的な推論に基づいていた。現代の原子論は、こうした古い概念に基づいているわけではない。19世紀初頭、科学者ジョン・ドルトンは、化学元素が重量の離散的な単位で結合しているように見えることに気づき、これを物質の基本単位な単位と考え、その単位を指す言葉として「原子」という言葉を使うことにした。約1世紀後、ドルトンの原子は、実際には分割不可能ではないことが発見されたが、この言葉が定着した。",
"title": "原子論の歴史"
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"text": "1800年代初頭、イギリスの化学者ジョン・ドルトンは、自身や他の科学者が集めた実験データをまとめ、現在「倍数比例の法則」として知られる法則を発見した。彼は、ある化学元素を含む化合物について、化合物中の元素の含有量を重量で表現したとき、小さな整数の比率で異なることに気づいた。この法則から、各化学元素が重量の基本単位によって他の元素と結合していることが示唆され、ドルトンはこれらの単位を「原子」と呼ぶことにした。",
"title": "原子論の歴史"
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"text": "たとえば、酸化スズには2種類あり、一方はスズ88.1%と酸素11.9%の灰色の粉末で、もう一方はスズ78.7%と酸素21.3%の白い粉末である。これらの数値を整理すると、灰色粉末にはスズ100 gに対して約13.5 gの酸素が、白色粉末にはスズ100 gに対して約27gの酸素が含まれる。13.5と27の比率は 1:2 である。ドルトンは、これらの酸化物には、スズ原子1個につき1個または2個の酸素原子が存在すると結論づけた(SnO と SnO2)。",
"title": "原子論の歴史"
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"text": "ドルトンは酸化鉄も分析した。酸化鉄には、鉄78.1%と酸素21.9%の黒色粉末と、鉄70.4%と酸素29.6%の赤色粉末がある。この数値を整理すると、黒色粉末には鉄100 gに対して約28 gの酸素が、赤色粉末には鉄100 gに対して約42 gの酸素が含まれる。28と42の比率は 2:3 である。ドルトンは、これらの酸化物には、鉄原子2個につき2個または3個の酸素原子が存在すると結論づけた(Fe2O2 と Fe2O3)。",
"title": "原子論の歴史"
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"text": "最後の例として、亜酸化窒素は窒素63.3%と酸素36.7%、一酸化窒素は窒素44.05%と酸素55.95%、そして二酸化窒素は窒素29.5%と酸素70.5%である。これらの数値を整理すると、亜酸化窒素では窒素140 gに対して酸素が80 g、一酸化窒素では窒素140 gに対して酸素が約160 g、二酸化窒素では窒素140 gに対して酸素が320 g含まれる。80、160、320の比率は 1:2:4 である。これらの酸化物のそれぞれの化学式は、N2O、NO、そして NO2 である。",
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"text": "科学者たちは、物質の中には、全く同じ化学含有量でありながら異なる性質を持つものがあることを発見した。たとえば、1827年、フリードリヒ・ヴェーラーは、雷酸銀とシアン酸銀がともに銀107部、炭素12部、窒素14部、酸素12部であることを発見した(現在では、両者の化学式はともにAgCNOであることがわかっている)。1830年、イェンス・ヤコブ・ベルセリウスは、この現象を説明するために異性(isomerism)という言葉を導入した。1860年、ルイ・パスツールは、異性体の分子は組成は同じだが、原子の配置が異なるのではないかという仮説を立てた。",
"title": "原子論の歴史"
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"text": "1874年、ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフは、炭素原子が四面体配置で他の原子と結合することを提案した。彼は、これに基づいて有機分子の構造を説明し、化合物がいくつの異性体を持ち得るかを予測することができた。ペンタン(C5H12)を例に考えてみよう。ファント・ホッフの分子モデリング法によると、ペンタンには3つの配置が可能であると予測でき、科学者たちは実際に3つのペンタンの異性体を発見した。",
"title": "原子論の歴史"
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"text": "1827年、イギリスの植物学者ロバート・ブラウンは、水中に浮遊する花粉粒から流出した微粒子が、明確な理由もなく絶えず揺れ動くことを観察した。1905年、アルベルト・アインシュタインは、このブラウン運動は水の分子が微粒子に絶え間なく衝突することによって引き起こされると理論化し、それを記述する数学モデルを開発した。このモデルは1908年、フランスの物理学者ジャン・ペランによって実験的に検証され、彼はアインシュタインの方程式を使用して、1モルに含まれる原子の数と原子の大きさを計算した。",
"title": "原子論の歴史"
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{
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"text": "1897年、J.J.トムソンは、電場や磁場によって陰極線が偏向されることから、陰極線は電磁波ではなく粒子であることを発見した。彼は、この粒子が水素(最も軽い原子)の1,800倍軽いことを測定した。トムソンは、これらの粒子は陰極の原子から来たもので、亜原子粒子(subatomic particles)であると結論づけた。彼はこれらの新しい粒子を微粒子(corpuscles)と呼んだが、後に電子(electrons)と改名された。トムソンはまた、電子が光電物質や放射性物質から放出される粒子と同一であることも示した。やがて、電子が金属線に電流を流す粒子であることが認識された。トムソンは、これらの電子が測定器の陰極の原子そのものから発生しており、このことは、原子はドルトンが考えていたような不可分なものではないことを意味していると結論づけた。",
"title": "原子論の歴史"
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"text": "J. J.トムソンは、負電荷を帯びた電子は、原子の体積全体に分布する正電荷の海の中に分布していると考えた。このモデルはプラム・プディングモデルとして知られている。",
"title": "原子論の歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "アーネスト・ラザフォードと、同僚のハンス・ガイガーとアーネスト・マースデンは、アルファ粒子(ラジウムなど特定の放射性物質から放出される正電荷を帯びた粒子)の電荷質量比を測定する装置を製作する際に困難に出会ったことから、トムソンのモデルに疑問を抱いた。アルファ粒子が検出器内の空気によって散乱され、測定の信頼性が低下していた。トムソンの場合、陰極線の研究で同様の問題に遭遇したが、装置内をほぼ完全な真空にして解決していた。ラザフォードは、アルファ粒子が電子よりはるかに重いため、これと同じ問題に出会うとは考えられなかった。トムソンの原子モデルによれば、原子内の正電荷はアルファ粒子を偏向させるほど強い電場を発生させるだけ集中しておらず、また電子は非常に軽いので、はるかに重いアルファ粒子によって簡単に押しのけられるはずである。しかし散乱はあったので、ラザフォードと同僚たちは、この散乱を注意深く調べることにした。",
"title": "原子論の歴史"
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"paragraph_id": 16,
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"text": "1908年から1913年にかけて、ラザフォードらは、薄い金属箔にアルファ粒子を衝突させる一連の実験を行った。その結果、彼らは、90度以上の角度で偏向を受けるアルファ粒子を発見した。これを説明するために、ラザフォードは、原子の正電荷は、トムソンが考えていたように原子の体積全体に分布しているのではなく、中心にある小さな原子核に集中していると提案した。観測されたようにアルファ粒子を偏向させるほど十分な強い電場を作り出すことができるのは、このような極端な電荷の集中だけである。このモデルはラザフォード・モデルとして知られている。",
"title": "原子論の歴史"
},
{
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"text": "1913年、放射化学者のフレデリック・ソディは、放射性崩壊の生成物について実験していたとき、周期表の各位置に数種類の原子が存在することを発見した。これらの原子は同じ性質を持っていたが、原子量は異なっていた。同位体(isotopes)という言葉は、このように同じ元素に属する重さの異なる原子を表すのに適切な名前として、マーガレット・トッド(英語版)によって命名された。J.J.トムソンは、電離気体に関する研究を通じて同位体を分離する技術(英語版)を確立し、その後、安定同位体の発見へとつながった。",
"title": "原子論の歴史"
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{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "1913年、物理学者ニールス・ボーアは、原子の電子は原子核の周りを周回しているが、その軌道は有限であり、光子の吸収または放射に対応するエネルギーの離散的な変化でしか軌道間を移行することができないと仮定した原子モデルを提唱した。この量子化は、電子の軌道が安定である理由や、元素が吸収または放出する電磁波のスペクトルが不連続である理由を説明するために考案された。",
"title": "原子論の歴史"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "同じ年の暮れ、ヘンリー・モーズリーはニールス・ボーアの理論を支持する新たな実験的証拠を提示した。モーズリーは、これらの結果を基に、アーネスト・ラザフォードやアントニウス・ファン・デン・ブルーク(英語版)のモデルを改良し、原子は原子核に周期表の原子番号と等しい数の正の核電荷(英語版)を持つと提案した。この実験が行われるまで、原子番号が物理的かつ実験的な量であることは知られていなかった。今日でも受け入れられている原子モデルは、この原子番号と原子の核電荷が等しいというものである。",
"title": "原子論の歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1916年、ギルバート・ニュートン・ルイスによって、原子間の化学結合は、構成電子間の相互作用により形成されると説明された。元素の化学的性質(英語版)は、周期律にほぼ従って繰り返されることが知られていたことから、1919年、アメリカの化学者アーヴィング・ラングミュアは、原子内の電子が何らかの方法で結びついているもしくは集まっていれば、この現象を説明できると提案した。原子核を中心に周囲にある電子殻を電子の集団が占めると考えられた。",
"title": "原子論の歴史"
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{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ボーアの原子モデルは原子の最初で完全な物理モデルであった。これは、原子の全体構造、原子どうしの結合方法、水素のスペクトル線を説明するものである。ボーアのモデルは完全ではなく、より正確なシュレーディンガーモデルにすぐに取って代わられたが、物質が原子で構成されているという疑問を払拭するには十分だった。化学者にとっては、原子という概念は有用な発見的ツールであったが、物理学者にとっては、まだ誰も原子の完全な物理モデルを開発していなかったので、物質が本当に原子からできているのかどうかは疑問であった。",
"title": "原子論の歴史"
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{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1925年、ヴェルナー・ハイゼンベルクは、量子力学の最初の一貫した数学的定式化(行列力学)を提唱した。その1年前、ルイ・ド・ブロイが、すべての粒子はある程度波のように振る舞うことを提案していた。1926年、エルヴィン・シュレーディンガーはこの考えを用いて、電子を空間の点ではなく三次元の波形として記述する原子の数学的モデル、シュレーディンガー方程式に発展させた。",
"title": "原子論の歴史"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "波形を用いて粒子を記述することの結果として、ある時点における粒子の位置と運動量の両方を正確に求めることは数学的に不可能となる。このことは、1927年にヴェルナー・ハイゼンベルクが定式化した不確定性原理として知られるようになった。この概念では、位置の測定精度が一定であれば、運動量については可能性のある値の範囲(つまり確率値)しか得られず、逆もまた同様である。このモデルは、水素よりも大きな原子の特定の構造パターンやスペクトルパターンなど、従来のモデルでは説明できなかった原子の挙動に関する観測結果を説明することができた。こうして、原子の惑星型モデルは破棄され、「特定の電子」が最も観測されやすい原子核周辺の原子軌道ゾーンを記述するモデルが採用された。",
"title": "原子論の歴史"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "原子の質量は、質量分析法の開発によって、より正確に測定できるようになった。この装置は磁石を使ってイオンビームの軌道を偏向させるもので、原子の質量と電荷の比によって偏向量が決まる。化学者フランシス・ウィリアム・アストンはこの装置を使用して、同位体の質量が異なることを示した。これらの同位体の原子質量は整数の量だけ異なり、整数則(英語版)として知られている。これらの異なる同位体の説明は、1932年に物理学者ジェームズ・チャドウィックによる、陽子(proton)とほぼ同じ質量を持つが荷電していない粒子である中性子(neutron)の発見を待たなくてはならなかった。そして同位体は、原子核内の陽子数は同じで、中性子の数が異なる元素として説明された。",
"title": "原子論の歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1938年、ラザフォードの門下生であったドイツの化学者オットー・ハーンは、超ウラン元素を得る目的でウラン原子に中性子を照射した。その代わりに、彼の化学実験では生成物としてバリウムの存在が示された。1年後、リーゼ・マイトナーと甥のオットー・フリッシュが、ハーンの結果が最初の実験的な核分裂反応であることを検証した。1944年、ハーンはノーベル化学賞を受賞した。ハーンの努力にもかかわらず、マイトナーとフリッシュの貢献は認められなかった。",
"title": "原子論の歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1950年代、改良された粒子加速器と粒子検出器の開発により、科学者は高エネルギーで運動する原子の影響を研究できるようになった。中性子と陽子はハドロンまたはクォークと呼ばれる小さな粒子の複合体であることがわかった。素粒子物理学における標準モデルが開発され、これらの素粒子とその相互作用を支配する力の観点から、原子核の性質を説明することに成功している。",
"title": "原子論の歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "原子(atom)という言葉はもともと、小さな粒子に切断できない粒子を意味するが、現代の科学的用法では、原子はさまざまな亜原子粒子(英: subatomic particles)から構成される物質の基本的な構成要素を指す。原子を構成する粒子は、電子、陽子、そして中性子である。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "電子は負の電荷を持ち、質量が 9.11×10 kg で、これらの粒子の中で圧倒的に小さく、そのため利用可能な技術で大きさを測定することができない。ニュートリノの質量が発見されるまで、電子は正の静止質量が測定された最も軽い粒子であった。通常の条件下において、電子は、正電荷を帯びた原子核に、その反対電荷から生じる引力によって束縛される。原子の電子数がその原子番号より大きい(または小さい)場合、原子は全体として負(または正)に帯電し、帯電した原子はイオンと呼ばれる。電子は19世紀後半から知られていたが、J.J.トムソンの貢献が大きかった(素粒子物理学の歴史(英語版)を参照)。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "陽子は正の電荷を持ち、質量は1.6726×10 kg、電子の質量の1,836倍である。原子内の陽子の数を原子番号という。アーネスト・ラザフォードは、1917-1919年にかけ、アルファ粒子の衝突を受けた窒素から水素原子核と考えられるものが放出されることを観測した。1920年までに、彼は水素原子核が原子内の別個の粒子であると考え、これを陽子と名付けた。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "中性子は電荷を持たず、自由質量は 1.6749×10 kgで、電子の質量の1,839倍である。中性子は3つの構成粒子の中で最も重いが、その質量は核結合エネルギー(英語版)によって減る可能性がある。中性子と陽子(総称して核子という)は、どちらも 2.5×10 m 程度の大きさを持つが、これらの粒子の「表面」は明確に定義されていない。中性子は1932年にイギリスの物理学者ジェームズ・チャドウィックによって発見された。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "物理学の標準モデルでは、電子は内部構造を持たない真の素粒子であり、陽子と中性子はクォークと呼ばれる素粒子から構成される複合粒子である。原子には2種類のクォークがあり、それぞれが分数の電荷を持っている。陽子は、2個のアップクォーク(それぞれの電荷は+2/3)と1個のダウンクォーク(電荷は−1/3)で構成されている。中性子は、1個のアップクォークと2個のダウンクォークで構成されている。この区別で、2種類の粒子の質量と電荷の違いが説明される。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "クォークは、グルーオンを介した強い相互作用(強い力ともいう)によって結合している。陽子と中性子は、原子核の中で核力によって互いに結びついている。核力は強い力が残留したもので、その範囲や性質は多少異なる(詳しくは核力(英語版)を参照)。グルーオンは、物理的な力を媒介する素粒子であるゲージ粒子の一種である。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "原子中で、すべての陽子と中性子は結合して、小さな原子核を構成する。原子核の半径はおよそ 1.07 A 3 {\\displaystyle 1.07{\\sqrt[{3}]{A}}} フェムトメートル(fm)で、ここに A {\\displaystyle A} は核子の総数である。原子核の半径は、10 fm オーダーの原子の半径よりはるかに小さい。核子どうしは、強い残留力と呼ばれる短距離型の引力ポテンシャルによって結合している。2.5 fm 未満の距離では、この力は正電荷を帯びた陽子どうしが反発し合う静電気力よりもはるかに強い。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "同じ元素の原子は、原子番号と呼ばれる陽子の数が同じである。同じ元素でも、中性子の数が異なることがあり、それによってその元素の同位体が決まる。陽子と中性子の総数が核種を決定する。陽子に対する中性子の数が原子核の安定性を決定し、ある種の同位体は放射性崩壊を起こす。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "陽子、中性子、電子はフェルミ粒子(英: fermion、フェルミオン)として分類される。フェルミ粒子はパウリの排他原理に従っており、複数の陽子のような同一のフェルミ粒子が同時に同じ量子状態を占めることを禁止される。したがって、原子核内のすべての陽子は、他のすべての陽子とは異なる量子状態をとらなければならず、原子核内のすべての中性子や、電子雲のすべての電子についても同様である。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "陽子の数と中性子の数が異なる原子核は、放射性崩壊によって陽子と中性子の数がより近くなることで、より低いエネルギー状態に変化する可能性がある。その結果、陽子と中性子の数が一致する原子は崩壊に対してより安定するが、原子番号が増えるにつれて、陽子の相互反発にともなう原子核の安定性を維持するために、中性子の割合が増加する。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "原子核内の陽子と中性子の数を変えることができるが、それには強い力が働くため、非常に高いエネルギーを必要とする。核融合は、2つの原子核のエネルギー的な衝突などにより、複数の原子粒子が結合してより重い原子核を形成するときに起こる。たとえば、太陽の中心部では、陽子が相互反発(クーロン障壁)を乗り越えて融合し、1つの原子核を形成するために、3-10 keVのエネルギーを必要とする。核分裂はその逆のプロセスで、通常は放射性崩壊によって原子核が2つの小さな原子核に分裂する。また、原子核は、高エネルギーの亜原子粒子や光子との衝突によっても変化することがある。これによって原子核内の陽子の数が変わると、原子は別の化学元素に変化する。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "核融合反応後の原子核の質量が、個々の粒子の合計質量よりも小さい場合、2つの質量差は、アルベルト・アインシュタインの質量とエネルギー等価性の式、e=mc(ここで m は質量損失、 c は光速)で説明されるように、利用可能なエネルギーの一種(ガンマ線やベータ粒子の運動エネルギーなど)として放出される。この欠損は新しい原子核の結合エネルギーの一部であり、融合粒子が分離するためにこのエネルギーを必要とする状態で一緒に留まるのは、このエネルギーの回復不可能な損失のためである。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "鉄やニッケルよりも原子番号が小さな原子核(核子数の合計が約60以下)を作り出す2個の原子核の核融合は、通常、発熱プロセスであり、2つの原子核を融合させるのに必要なエネルギーよりも多くのエネルギーを放出する。恒星の核融合を自立反応にしているのは、このエネルギー放出プロセスである。より重い原子核では、核子あたりの結合エネルギーは減少し始める(上のグラフを参照)。このことは、原子番号が約26より大きく、質量数が約60より大きな原子核を生成する核融合プロセスは吸熱プロセスであることを意味する。したがって、より質量が大きな原子核は、恒星の静水圧平衡を維持するのに必要なエネルギーを生み出す核融合反応を起こすことができない。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "原子内の電子は、電磁気力によって原子核内の陽子に引き寄せられる。この力によって電子は、小さな原子核を取り囲む静電ポテンシャル井戸(英語版)の中に束縛され、電子が脱出するためには外部のエネルギー源が必要となる。電子が原子核に近づくほど、この引力は大きくなる。したがって、ポテンシャル井戸の中心付近に束縛された電子は、それよりも離れた位置にある電子よりも、脱出するのに多くのエネルギーを必要とする。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "電子は、他の粒子と同様に、粒子と波の両方の性質を持っている。電子雲は、ポテンシャル井戸の内側にある領域で、各電子が一種の三次元定在波(原子核に対して相対的に動かない波形)を形成している。この挙動は原子軌道によって規定される。原子軌道とは、電子の位置を測定したときに、その電子が特定の位置にあるように見える確率を記述する数学的関数である。原子核の周りには、このような離散的な(または量子化された)軌道の集合だけが存在する(他の考えられる波動パターンは、より安定した形へと急速に減衰するため)。軌道は1つまたは複数のリング構造またはノード構造を持つことができ、大きさ、形状、方向がそれぞれ異なる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "それぞれの原子軌道は、電子の特定のエネルギー準位に対応している。電子は、新しい量子状態に遷移するのに十分なエネルギーの光子を吸収することで、その状態をより高いエネルギー準位に変えることができる。同様に、高いエネルギー準位にある電子は、自然放出によって余剰なエネルギーを光子として放射しながら、低いエネルギー準位に落ちることができる。量子状態のエネルギーの違いによって規定されるこれらの特徴的なエネルギー値が、原子スペクトル線 (en:英語版) が生じる原因である。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "原子から電子を除去または追加するのに必要なエネルギー量(電子結合エネルギー (en:英語版) )は、核子の結合エネルギーよりもはるかに小さい。たとえば、水素原子から基底状態の電子を取り除くのに必要なエネルギーはわずか 13.6 eV であるのに対し、重水素の原子核を分裂させるのに必要なエネルギーは 223万eV に達する。陽子と電子が同数であれば、原子は電気的に中性である。電子が不足または過剰な原子はイオンと呼ばれる。原子核から最も遠い電子は、近くにある別の原子に移動したり、原子間で共有されることがある。この機構により、原子が結合して分子を構成したり、イオン結晶やネットワーク共有結合結晶のような他の種類の化合物と結合することができる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "定義により、原子核内の陽子の数が同じ2つの原子は同じ化学元素に属する。陽子の数が同じで中性子の数が異なる原子は、同じ元素の異なる同位体である。たとえば、すべての水素原子は陽子を1個だけ含んでいるが、中性子を含まない同位体(水素1。圧倒的に一般的な形。プロチウムとも呼ばれる)、中性子を1つ含むもの(重水素)、中性子を2つ含むもの(トリチウム)、中性子を2つ以上含むものがある。既知の元素は、1陽子の水素から118陽子のオガネソンまで、一連の原子番号を形成している。原子番号82を超える元素の既知の同位体はすべて放射性であるが、83番元素(ビスマス)の放射性はわずかであり、事実上無視できる。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "地球上には約339の核種が天然に存在し、そのうち251(約74%)は崩壊は観測されておらず、「安定同位体」と呼ばれる。理論的(英語版)に安定な核種は90に過ぎず、他の161核種(合計251)は、理論的にはエネルギー的に可能であるにも関わらず、崩壊は観測されていない。これらも正式には「安定」に分類される。さらに35の放射性核種は半減期が1億年以上であり、太陽系の誕生時から存在していた可能性があるほど長寿命である。これらの286核種の集まりは原始核種(英語版)として知られている。最後に、さらに53の短寿命核種が、原始核種崩壊の娘核種として(例: ウランからのラジウム)、あるいは宇宙線衝突のような地球上の自然エネルギー過程の生成物として(例: 炭素14)、天然に存在することが知られている。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "80種類の化学元素には、少なくとも1つの安定同位体が存在する。概して、これらの元素の安定同位体はそれぞれ少数で、1元素あたり平均3.1種類の安定同位体が存在する。26個のモノアイソトピック元素 (en:英語版) は安定同位体が1つしかない。対して、1つの元素で観測された安定同位体の最大数は、スズの10である。43番、61番、そして83番以降のすべての元素には安定同位体がない。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "同位体の安定性は、陽子と中性子の比率に影響を受け、また、量子殻が満たされる(閉殻という)ような中性子と陽子の特定数(魔法数)の存在にも影響を受ける。これらの量子殻は、原子核の殻モデル内の一連のエネルギー準位に対応している。スズの陽子50個で満たされた殻のように、充填殻(じゅうてんかく)はその核種に著しい安定性を与える。既知の251の安定核種のうち、陽子数と中性子数がともに奇数であるものは、水素2(重水素)、リチウム6、ホウ素10、窒素14の4つだけである。(タンタル180mは奇数で、観測的には安定しているが、非常に長い半減期で崩壊すると予測されている。)また、天然に存在する放射性奇-奇核種のうち、半減期が10億年を超えるものは、カリウム40、バナジウム50、ランタン138、ルテチウム176の4つだけである。ほとんどの奇-奇核種はベータ崩壊で非常に不安定であるが、これは、崩壊生成物が偶-偶核種であるため、核子対効果 (en:英語版) によってより強く結合することによる。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "原子の質量の大部分は、それを構成する陽子と中性子に由来する。ある原子に含まれるこれらの粒子(核子という)の総数を質量数(mass number)という。質量数は数を表す正整数で、(質量の次元を持つではなく)無次元である。質量数の例として、12個の核子(6個の陽子と6個の中性子)を持つ「炭素12」がある。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "静止状態にある原子の実際の質量は、ダルトン(Da)の単位(統一原子質量単位(u)ともいう)で表されることが多い。この単位は、炭素12の自由な中性原子の質量の12分の1と定義され、約1.66×10 kgである。水素1(水素の最も軽い同位体であり、最も質量の小さい核種でもある)の原子量は1.007825 Da である。この数を原子質量(atomic mass)という。原子の原子質量は、その質量数と原子質量単位の積にほぼ等しく(1%以内)、たとえば窒素14の質量はおよそ14 Daである。しかし(定義により)炭素12の場合を除いては、この数値は正確な整数にならない。最も重い安定原子は鉛208で、質量は 207.9766521 Da である。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "最も重い原子でさえ直接扱うには軽すぎるため、化学者は代わりにモル(mole)という単位を使う。どの元素でも、1モルの原子数は常に同じである(約6.022×10)。この数は、ある元素の原子質量が 1 u であれば、その元素の原子1モルの質量が1グラムに近くなるように選ばれた。統一原子質量単位の定義から、炭素12原子の原子質量は正確に 12 Da であり、1モルの炭素12原子の質量は正確に 0.012 kg である。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "原子には明確な外側の境界がないため、その大きさは通常、原子半径で表される。原子半径は、原子核から広がる電子雲までの距離を表す尺度である。これは原子が球形であることを前提としており、真空中や自由空間内の原子のみ当てはまる。原子半径は、2つの原子が化学結合で結合したときの2つの原子核間の距離から導き出される。この半径は、周期表上の原子の位置、化学結合の種類、隣接する原子の数(配位数)、スピンと呼ばれる量子力学的性質によって変化する。周期表上では、原子の大きさは列を上から下に移動するほど大きくなり、行を横切るにつれて(左から右に移動)小さくなる傾向がある。たとえば、最も小さい原子は半径は 31 pm のヘリウムで、最も大きい原子のひとつは半径 298 pm のセシウムである。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "電場のような外力を受けると、原子の形状が球対称 (en:英語版) から外れることがある。この変形は、群論的な考察によって示されるように、電場の強さと外殻電子の軌道型に依存する。非球対称性の変形は、たとえば結晶内において、対称性の低い(英語版)格子部位に大きな結晶電場が発生することで誘発される可能性がある。パイライト型化合物中の硫黄イオンやカルコゲンイオンでは、顕著な楕円変形が起こることが示されている。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "原子の大きさは光の波長(400-700 nm)より数千倍も小さく、従来の顕微鏡では見ることができないが、走査型トンネル顕微鏡を使えば個々の原子を観察することができる。原子の微細さを視覚化するために、典型的な人間の毛髪の幅は、約100万個の炭素原子を並べた距離に相当することを考えてみよう。一滴の水には約20垓個(2×10)の酸素原子と、その2倍の水素原子が含まれている。質量 2×10 kg の1カラットのダイヤモンドには、約100垓個(10)の炭素原子が含まれている。リンゴを地球の大きさに拡大すると、リンゴの中の原子は元のリンゴとほぼ同じ大きさになる。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "すべての元素には、不安定な原子核を持っていて放射性崩壊を起こし、原子核から粒子や電磁波を放出する同位体が1つ以上存在する。放射性は、原子核の半径が、1 fm オーダーの距離にしか作用しない強い力の範囲よりも大きい場合に生じる。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "放射性崩壊の最も一般的な形態は次のとおりである。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "その他に、稀な種類の放射性崩壊として、原子核から中性子や陽子、原子核クラスターが放出されるものや、複数のベータ粒子が放出されるものがある。励起核が別の方法でエネルギーを失うことを可能にするガンマ線放出の類似型は、内部転換である(ベータ線ではない高速電子を生成し、続いてガンマ線ではない高エネルギー光子を生成する放射性崩壊の形式)。いくつかの大きな原子核は、自発核分裂と呼ばれる崩壊で、さまざまな質量の2つ以上の荷電した分裂片と数個の中性子に分裂する。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "それぞれの放射性同位元素には特徴的な崩壊時間、すなわち半減期があり、試料の半分が崩壊するのにかかる時間で決まる。これは指数関数的な減衰過程であり、半減期ごとに残りの同位体の割合が50%ずつ着実に減少してゆく。したがって、半減期が2回経過すると、同位体の25%しか存在しなくなる。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "素粒子にはスピンと呼ばれる固有の量子力学的性質が内在している。これは、質量中心の周りを回転する物体の角運動量に似ているが、厳密に言えば、これらの粒子は点状であり、回転しているとは言えないと考えられる。スピンは換算プランク定数(ħ)の単位で測定され、電子、陽子、中性子はすべてスピン⁄2 ħ または スピン⁄2 を持つ。原子の場合、原子核の周りを周回する電子はスピンに加えて軌道角運動量を持っており、原子核自体は核スピンによる角運動量を持っている。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "原子が生成する磁場(磁気モーメント)は、古典的に回転する荷電物体が磁場を生成するのと同様に、これらのさまざまな形の角運動量によって決定されるが、最も支配的な寄与は電子スピンによるものである。電子はパウリの排他原理に従うという性質があるため、2つの電子が同じ量子状態をとることはなく、束縛電子は互いに対となり、それぞれの対の一方がスピンアップ状態、他方はその反対のスピンダウン状態にある。したがって、これらのスピンは互いに打ち消し合い、偶数の電子を持つ原子では全磁気双極子モーメントがゼロになる。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "鉄、コバルト、ニッケルなどの強磁性元素では、電子の数が奇数の場合は不対電子が生じ、全体としての正味磁気モーメントが生じる。隣接する原子の軌道が重なり合い、不対電子のスピンが揃うことで、より低いエネルギー状態を生じる。これは交換相互作用として知られる自発過程である。強磁性原子の磁気モーメントが整列すると、その材料は測定可能な巨視的磁場を発生する。常磁性物質は、磁場が存在しないときには原子の磁気モーメントがランダムな方向を向いているが、磁場が存在するときには個々の原子の磁気モーメントが整列する。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "原子核は、中性子と陽子の数がそれぞれ偶数の場合はスピンを持たないが、それ以外の奇数の場合はスピンを持つ可能性がある。通常、スピンを持つ原子核は、熱平衡 (en:英語版) によりランダムな方向を向いているが、ある種の元素では(キセノン129など)、核スピン状態のかなりの割合を分極させ、同じ方向を向くように整列することが可能である(過分極(英語版)と呼ばれる状態)。この現象は核磁気共鳴イメージングの分野で応用されている。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "原子内の電子のポテンシャルエネルギーは、原子核からの距離が無限大になるにつれて相対的に負となり、その位置依存性は距離にほぼ反比例し、原子核内部で最小となる。量子力学モデルでは、束縛電子は原子核を中心とした一連の状態のみをとることができ、それぞれの状態は特定のエネルギー準位に対応する(理論的な説明は、時間に依存しないシュレーディンガー方程式を参照)。エネルギー準位は、電子を原子からの束縛を解くのに必要なエネルギー量によって測定することができ、通常は電子ボルト(eV)の単位で表される。束縛電子の最低エネルギー状態を基底状態(すなわち定常状態)と呼び、電子がより高い準位に遷移したときを励起状態という。原子核までの(平均)距離が遠くなることから、電子のエネルギーは主量子数(n)とともに大きくなる。エネルギーの方位量子数( l {\\displaystyle \\ell } )依存性は、原子核の静電ポテンシャルによるものではなく、電子間の相互作用によるものである。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "ボーア・モデルによれば、電子が2つの異なる状態間を遷移(英語版)するためには(たとえば基底状態から第一励起状態へ)、電子はこれらの準位のポテンシャルエネルギーの差(シュレーディンガー方程式によって正確に計算できる)に一致するエネルギーで光子を吸収または放出しなくてはならない。電子は粒子のように軌道から軌道へ飛び越える。たとえば、1個の光子が電子に衝突した場合、光子に反応して状態を変える電子は1個だけである(英語版 Atomic orbital(電子軌道) を参照)。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "放出される光子のエネルギーはその周波数に比例するため、特定のエネルギー準位は電磁スペクトルの異なるバンドとして現れる。各元素は、核電荷、電子で満たされた亜殻(部分殻)、電子間の電磁相互作用、そしてその他の要因に依存する特徴的なスペクトルを持っている。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "連続スペクトルのエネルギーをガスやプラズマに通過させると、その原子は光子の一部を吸収し、原子内に束縛された電子のエネルギー準位が変化する。引き続いて励起電子は、このエネルギーを光子として自発的に放出してより低いエネルギー準位に戻り、光子はランダムな方向に移動する。こうして原子は、エネルギー出力に一連の暗い吸収帯(英語版)を形成するフィルターのように作用する。(背景の連続スペクトルを含まない視点から原子を見ている観測者は、代わりに原子から放出された光子からの一連の輝線を見ることになる)。原子スペクトル線(英語版)の強度と幅を分光学的に測定することで、物質の組成や物理的性質を決定することができる。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "スペクトル線を詳しく調べると、微細構造分裂を示すものがあることがわかる。これは、スピン軌道相互作用、すなわち最外殻電子のスピンと運動との相互作用によって起こるものである。原子が外部磁場の中にあるとき、スペクトル線は3つ以上の成分に分裂する(ゼーマン効果と呼ばれる現象)。これは、磁場が原子とその電子の磁気モーメントと相互作用することによって起こる。原子の中には、同じエネルギー準位を持つ複数の電子配置を持つものがあり、それらは単一のスペクトル線として現れる。磁場と原子の相互作用によって、電子配置がわずかに異なるエネルギー準位にシフトし、複数のスペクトル線が生じることもある。また、外部電場が存在するとき、電子のエネルギー準位が変化することにより、スペクトル線に同様の分裂やシフトが表れることがある。これはシュタルク効果と呼ばれる現象である。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "束縛電子が励起状態にあるときに、適切なエネルギーを持つ光子が相互作用することで、エネルギー準位が一致する光子が誘導放出されることがある。そのためには、電子が、相互作用する光子のエネルギーと一致するエネルギー差を持った、より低いエネルギー状態に遷移しなくてはならない。その後、放出された光子と相互作用した光子は、位相をそろえながら平行に移動する。言い換えれば、2つの光子の波動パターンは同調する。この物理的特性は、狭い周波数帯域でコヒーレントな光エネルギーを放出できるレーザー発生装置に利用されている。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "原子価とは、原子が他の原子と結合する能力の尺度である。原子価は一般的に、他の原子や原子団と形成できる化学結合の数として理解される。非結合状態にある原子の一番外側の電子殻を原子価殻(価電子殻とも)といい、その殻内の電子を価電子と呼ぶ。価電子の数によって、他の原子との結合挙動が決まる。原子は、その外側の原子価殻を満たす(または空にする)ように、互いに化学反応する傾向がある。たとえば、塩化ナトリウム化合物やその他の化学イオン塩で見られるような原子間での1電子の移動は、閉殻よりも1電子多い原子と、閉殻よりも1電子足りない原子との間で形成される結合に対して有効な近似である。多くの元素は複数の原子価を持ち、すなわち化合物によって異なる数の電子を共有する傾向がある。したがって、これらの元素間の化学結合は、単純な電子移動にとどまらず、さまざまな電子共有の形態をとる。たとえば、炭素の同素体や有機化合物などである。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "化学元素を周期表で表わすことがよくある。周期表は、元素の化学的性質が繰り返されるように配列された表で、価電子数が同じ元素は表の同じ列にグループを成している。表の水平方向の行は、量子殻電子の充填に対応する。表の右端の元素は、外殻が完全に電子で満たされているため化学的に不活性であり、希ガスとして知られる。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "たくさんの原子は、温度や圧力などの物理的条件によって異なる物質状態をとる。物質は条件を変えることで、固体、液体、気体、プラズマの間を転移することがある。物質はまた、ある状態のもとで、異なる同素体が存在することもある。たとえば、固体の炭素は、グラファイトやダイヤモンドのような同素体が存在する。二酸素(英語版)やオゾンのように、気体の同素体も存在する。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "絶対零度に近い温度では、原子はボース=アインシュタイン凝縮体を形成する可能性がある。このとき、通常は原子スケールでしか観測されない量子力学的効果が、巨視的スケールで表れる。この過冷却状態にある原子の集団が形成する単一の超原子の振る舞いが、量子力学的な挙動の基本的な観察を可能とするかも知れない。",
"title": "特性"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "原子は小さすぎて目で見ることはできないが、走査型トンネル顕微鏡(STM)のような装置を使用して、固体表面の原子を視覚化することができる。この顕微鏡は量子トンネル現象を利用したもので、それによって、古典的な観点からは乗り越えられないような障壁を粒子が通り抜けることを可能にする。電子は、2つのバイアス電極間の真空を超えて伝播し、 距離に指数関数的に依存するトンネル電流を生成する。一方の電極は、鋭い先端を持つ探針で、理想的には単一原子で終わる。表面の走査の各点で、トンネル電流を設定値に保つように探針の高さを調整する。探針が表面からどれだけ近づいているか、あるいは離れているかを、標高プロファイルとして解釈する。低バイアスの場合、顕微鏡は、密集したエネルギー準位を横切って平均化された電子軌道、つまりフェルミ準位近傍の電子の局所状態密度を画像化する。距離が関係するため、個々の原子に対応する周期性を観察するためには、両方の電極が極めて安定していなくてはならない。この方法だけでは化学的な特異性を欠き、表面に存在する原子種を特定することはできない。",
"title": "識別"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "原子は質量によって容易に識別することができる。原子から電子を1つ取り除いてイオン化すると、磁場を通過する際に軌道が曲げられる。移動するイオンの軌道が磁場によって曲げられる半径は、原子の質量によって決まる。質量分析法はこの原理を利用して、イオンの質量電荷比を測定する。試料に複数の同位体が含まれる場合、質量分析計で異なるイオンビームの強度を測定することで、試料中の各同位体の割合を決定することができる。原子気化法には、誘導結合プラズマ発光分析法と誘導結合プラズマ質量分析法があり、どちらもプラズマを使って試料を気化させて分析する。",
"title": "識別"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "アトムプローブ・トモグラフィー(英語版)(atom-probe tomograph、アトムプローブ断層撮影法)は、3次元でサブナノメートルの分解能を持ち、飛行時間型質量分析法を使用して個々の原子を化学的に同定することができる。",
"title": "識別"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "内殻電子の結合エネルギーを測定するX線光電子分光法(XPS)やオージェ電子分光法(AES)などの電子放出技術は、試料中に存在する原子種を非破壊的に同定するために使用される。適切な集束をすることで、どちらも特定領域の分析が可能である。もう一つの方法、電子エネルギー損失分光法(EELS)は、透過型電子顕微鏡(TEM)内で電子ビームが試料の一部と相互作用したときのエネルギー損失を測定する方法である。",
"title": "識別"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "励起状態のスペクトルは、遠方の恒星の原子組成を分析することにも使われている。恒星からの観測光に含まれる特定の光の波長を分離し、自由気体原子における量子化された遷移と対応付けることができる。これらの色は、同じ元素を含むガス放電ランプ(英語版)を使って再現することができる。こうしてヘリウムは、地球で発見される23年前に太陽スペクトルから発見された。",
"title": "識別"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "バリオン物質(英語版)(バリオンで構成されたあらゆる種類の原子)は、観測可能な宇宙の全エネルギー密度の約4%を占め、その平均密度は約0.25個/m(主に陽子と電子)である。天の川のような銀河系内では、粒子の濃度ははるかに高く、星間物質(ISM)の物質密度は10-10 原子/m である。太陽は局所泡(ローカル・バブル)の中にあると考えられているため、太陽近傍における密度はわずか約10原子/m である。恒星はISM内の高密度の雲から形成され、恒星の進化の過程でISMは水素やヘリウムよりも重い元素で着実に濃縮される。",
"title": "起源と現状"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "天の川銀河に存在するバリオン物質の最大95%は恒星の内部に集中しており、すなわち原子物質にとって不利な条件下にある。銀河系の質量の約10%はバリオン物質の総質量であり、残りは未知の暗黒物質の質量である。恒星内部の高温は、ほとんどの「原子」を完全に電離させる、つまり原子核から「すべての電子」を分離させる。白色矮星、中性子星、ブラックホールなど、恒星の残骸(総称してコンパクト星という)では、その表面層を除き、巨大な圧力が電子殻の形成を不可能にしている。",
"title": "起源と現状"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "電子はビッグバンの初期から宇宙に存在していたと考えられている。原子核は原子核合成と呼ばれる反応で形成される。ビッグバン原子核合成の理論によると、ビッグバンの約3分後から、宇宙に存在するヘリウム、リチウム、重水素の大部分と、おそらくベリリウムとホウ素の一部が形成されたという。",
"title": "起源と現状"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "原子の偏在性と安定性は、その結合エネルギーに依存する。すなわち、原子のエネルギーは、原子核と電子の非結合系よりもエネルギーが低いことを意味する。温度がイオン化ポテンシャルよりはるかに高い場合、物質はプラズマの形で存在する。プラズマは、正電荷を帯びたイオン(場合によっては裸の原子核)と電子からなる気体である。温度がイオン化ポテンシャルより下がると、原子は統計的に有利な状態になる。ビッグバンから38万年後(再結合と呼ばれる時期)、膨張する宇宙が十分に冷えて電子が原子核に束縛されるようになり、原子(束縛電子を持つ)が荷電粒子よりも優位に立つようになった。",
"title": "起源と現状"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "ビッグバンでは炭素やそれより重い元素は生成されなかったが、それ以降、恒星内部での核融合プロセスを経て原子核どうしが結合し、さらなるヘリウム元素や、(トリプルアルファ反応を経て)炭素から鉄に至る一連の元素を生成した。詳細は恒星内元素合成を参照されたい。",
"title": "起源と現状"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "リチウム6や、ベリリウム、ホウ素などの一部の同位体は、宇宙線による核破砕によって宇宙空間で生成された。これは、高エネルギーの陽子が原子核に衝突し、大量の核子が放出されることで起こる。",
"title": "起源と現状"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "鉄より重い元素は、超新星や合体中性子星では r過程 によって、またAGB星では s過程 によって生成し、いずれも原子核による中性子捕獲を伴う。鉛などの元素は、主により重い元素の放射性崩壊によって形成された。",
"title": "起源と現状"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "地球とその生息生物を構成する原子のほとんどは、太陽系を形成するために分子雲から崩壊した星雲の中に、現在の形で存在していた。残りの原子は放射性崩壊の結果として生成した。それらの相対的な割合は、放射年代測定によって地球の年齢を決定するために使用することができる。地球の地殻に含まれるヘリウムの大部分(ガス井から採取されるヘリウムの約99%)は、アルファ崩壊の産物であり、それはヘリウム3の存在量が低いことからも示される。",
"title": "起源と現状"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "地球上には、最初には存在せず(つまり「原始」でない)、放射性崩壊の産物でもないような、微量原子がいくつか存在する。炭素14は、宇宙線によって大気中で絶え間なく生成される。地球上の原子の中には、実験環境で意図的に、あるいは原子炉や核爆発の副産物として人工的に生成されたものもある。超ウラン元素(原子番号92を超える元素)のうち、地球上に天然に存在するのはネプツニウムとプルトニウムのみである。超ウラン元素の放射性寿命は現在の地球年齢よりも短いため、宇宙塵によって堆積した可能性のある微量のプルトニウム244を除いて、これらの元素の特定可能な量はずっと前に崩壊している。ネプツニウムとプルトニウムの天然鉱床は、ウラン鉱石中で中性子捕獲によって生成される。",
"title": "起源と現状"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "地球には約1.33×10 個の原子が存在する。大気中には、アルゴン、ネオン、ヘリウムのような希ガスとよばれる独立原子が少数存在するが、大気の99%は二酸化炭素、二原子酸素、窒素などの分子の形に結合した原子が占める。地球の表面では、圧倒的多数の原子が結合して、水、塩、ケイ酸塩、酸化物などのさまざまな化合物を形成している。原子が結合して、結晶や金属のように個別の分子で構成されていない物質を作り出すこともできる。こうした原子物質はネットワーク状の配列を形成しているが、分子物質に見られるような小規模で断続性の秩序を持たない。",
"title": "起源と現状"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "原子番号が82(鉛)よりも大きな核種はすべて放射性であることが知られている。原子番号92(ウラン)を超える核種は、原始核種(英語版)としては地球上に存在しない。一般に重い元素ほど半減期は短い傾向があるが、原子番号110から114の超重元素の比較的長寿命の同位体を含む「安定の島」の存在が考えられている。この島で最も安定な核種の半減期は数分から数百万年と予測されている。いずれにせよ、この安定化効果がなければ、クーロン反発力の増加により(その結果、半減期がますます短くなって自発核分裂が起こる)、超重元素(Z > 104)は存在しなくなる。",
"title": "起源と現状"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "物質の各粒子には、反対の電荷を持つ対応する反物質粒子がある。たとえば、陽電子は正電荷を帯びた反電子の同等物であり、反陽子は負電荷を帯びた陽子の同等物である。物質粒子と対応する反物質粒子が出会うと、互いに消滅する。このため、物質粒子と反物質粒子の数は不均衡になり、反物質粒子は宇宙では希少なものとなる。この不均衡の最初の原因はまだ完全には解明されていないが、バリオン数生成の理論で説明が試みられている。結果的には、自然界で反物質原子は発見されていない。1996年、ジュネーブの欧州原子核研究機構(CERN)で水素原子の反物質原子(反水素)が合成された。",
"title": "起源と現状"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "陽子、中性子、電子のいずれか1つを同じ電荷を持つ他の粒子と置き換えることで、別の異種原子が作られてきた。たとえば、電子をより質量の大きいミューオンと置き換えて、ミューオン原子(英語版)を形成することができる。この種の原子は、物理学の基本的な予測を検証するために使うことができる。",
"title": "起源と現状"
}
] | 原子は化学的手段では分割できない元素の最小単位であり、陽子と中性子からなる原子核と、それを取り囲む電磁気的に束縛された電子の雲から構成される。原子は化学元素の基本粒子であり、化学元素は原子に含まれる陽子の数によって区別される。たとえば、11個の陽子を含む原子はナトリウムであり、29個の陽子を含む原子は銅である。中性子の数によって元素の同位体が定義される。 原子は非常に小さく、直径は通常100ピコメートル(pm)程度である。人間の毛髪の幅は、約100万個の炭素原子を並べた距離に相当する。これは可視光の最短波長よりも小さいため、従来の顕微鏡では原子を見ることはできない。原子は非常に小さく、量子効果による作用を受けるため、古典物理学では原子の挙動を正確に予測することは不可能である。 原子の質量の99.94%以上は原子核にある。原子核の陽子は正の電荷を、電子は負の電荷を持つが、中性子はあっても電荷を持たない。陽子と電子の数が通常のように等しい場合、原子は電気的に中性である。陽子より電子が多い原子は全体として負の電荷を持ち、陰イオン(または負イオン、アニオン)と呼ばれる。逆に、電子より陽子が多い原子は全体として正の電荷を持ち、陽イオン(または正イオン、カチオン)と呼ばれる。 原子を構成する電子は電磁気力によって原子核内の陽子に引き寄せられる。原子核内の陽子と中性子は核力によって互いに引き合っている。この核力は通常、正電荷を帯びた陽子どうしが反発する電磁気力よりも強い。しかし特定の状況下では、反発する電磁気力が核力よりも強くなる。この場合、原子核は分裂して、さまざまな元素が残る。これは原子核崩壊の一形態である。 原子は化学結合によって1つまたは複数の他の原子と結合し、分子や結晶などの化合物を形成することができる。自然界で観察されるほとんどの物理的変化は、原子が互いに結合したり分離する能力が引き起こしている。化学は、こうした変化を研究する学問である。 | {{Otheruses}}
{{Infobox particle
| 背景色 =
| 名前 = 原子
| 画像 = [[Image:Helium atom QM.svg|300px|Helium atom ground state]]
| 説明 = [[ヘリウム]]原子の[[原子核]] (赤) と[[電子雲]]の分布 (黒) を描いた模式図。ヘリウム4の原子核 (右上) は実際には電子雲とよく似た球対称である。また、より複雑な原子核は必ずしも球対称とならない。黒い横帯は1[[オングストローム]] ({{val|e=-10|u=m}}または{{val|100|ul=pm}}) の長さを示す。
| 型数 =
| 分類 = 化学元素の最小単位<!-- Smallest recognized division of a chemical element -->
| 組成 = [[陽子]]と[[中性子]]からなる[[原子核]]および[[電子]]<!-- [[Electron]]s and a compact [[atomic nucleus|nucleus]] of [[proton]]s and [[neutron]]s -->
| 統計 =
| グループ =
| 世代 =
| 相互作用 = [[弱い相互作用]]<br/>[[強い相互作用]]<br/>[[電磁相互作用]]<br/>[[重力相互作用]]
| 粒子 =
| 反粒子 = 反原子
| ステータス =
| 理論化 = [[ジョン・ドルトン]](19世紀)
| 発見 =
| 記号 =
| 質量 = {{val|1.67|e=-27}} - {{val|4.52|e=-25|u=kg}}
| 平均寿命 =
| 崩壊粒子 =
| 電荷 = ゼロ(中性)または[[イオン]]電荷<!-- zero (neutral), or [[ion]] charge -->
| 荷電半径 = 31 pm ([[ヘリウム|He]]) - 298 pm ([[セシウム|Cs]]) ([[原子半径]])<!-- [[Diameter]] range => 62 pm ([[Helium|He]]) to 520 pm ([[Caesium|Cs]]) ([[Atomic radii of the elements (data page)|data page]]) -->
| 電気双極子モーメント =
| 電気的分極率 =
| 磁気モーメント =
| 磁気的分極率 =
| 色荷 =
| スピン =
| スピン状態数 =
| レプトン数 =
| バリオン数 =
| ストレンジネス =
| チャーム =
| ボトムネス =
| トップネス =
| アイソスピン =
| 弱アイソスピン =
| 弱アイソスピン_3 =
| 超電荷 =
| 弱超電荷 =
| カイラリティ =
| B-L =
| X荷 =
| パリティ =
| Gパリティ =
| Cパリティ =
| Rパリティ =
}}
'''原子'''(げんし、{{Lang-en-short|atom}})は化学的手段では分割できない[[元素]]の最小単位であり、[[陽子]]と[[中性子]]からなる[[原子核]]と、それを取り囲む電磁気的に束縛された[[電子]]の雲から構成される<ref>{{Cite web |url=https://www.nrc.gov/reading-rm/basic-ref/glossary/atom.html |title=Atom {{!}} Glossary {{!}} Basic References {{!}} NRC Library |access-date=2023-10-22 |publisher=[[アメリカ合衆国原子力規制委員会|米国原子力規制委員会]] |quote=''Atom - The smallest particle of an element that cannot be divided or broken up by chemical means. It consists of a central core (or nucleus), containing protons and neutrons, with electrons revolving in orbits in the region surrounding the nucleus.'' |website=NRC.gov}}</ref>。原子は[[化学元素]]の基本粒子であり、化学元素は原子に含まれる陽子の数によって区別される。たとえば、11個の陽子を含む原子は[[ナトリウム]]であり、29個の陽子を含む原子は[[銅]]である。[[中性子]]の数によって元素の[[同位体]]が定義される。
原子は非常に小さく、直径は通常100[[ピコメートル]](pm)程度である。人間の毛髪の幅は、約100万個の炭素原子を並べた距離に相当する。これは可視光の最短波長よりも小さいため、従来の[[顕微鏡]]では原子を見ることはできない。原子は非常に小さく、[[量子効果]]による作用を受けるため、[[古典物理学]]では原子の挙動を正確に予測することは不可能である。
原子の[[質量]]の99.94%以上は原子核にある。原子核の陽子は正の[[電荷]]を、電子は負の電荷を持つが、中性子はあっても電荷を持たない。陽子と電子の数が通常のように等しい場合、原子は電気的に中性である。陽子より電子が多い原子は全体として負の電荷を持ち、陰[[イオン]](または負イオン、アニオン)と呼ばれる。逆に、電子より陽子が多い原子は全体として正の電荷を持ち、陽イオン(または正イオン、カチオン)と呼ばれる。
原子を構成する電子は[[電磁気学|電磁気力]]によって原子核内の陽子に引き寄せられる。原子核内の陽子と中性子は[[核力]]によって互いに引き合っている。この核力は通常、正電荷を帯びた陽子どうしが反発する電磁気力よりも強い。しかし特定の状況下では、反発する電磁気力が核力よりも強くなる。この場合、原子核は[[核分裂反応|分裂]]して、[[核種変換|さまざまな元素が残る]]。これは[[原子核崩壊]]の一形態である。
原子は[[化学結合]]によって1つまたは複数の他の原子と結合し、[[分子]]や[[結晶]]などの[[化合物]]を形成することができる。自然界で観察されるほとんどの物理的変化は、原子が互いに結合したり分離する能力が引き起こしている。[[化学]]は、こうした変化を研究する学問である。
== 原子論の歴史 ==
{{Main|原子論 (科学)}}
=== 哲学において ===
{{Main|原子論<!--Atomism-->}}
物質が不可分の小さな粒子からできているという基本的な考え方は、多くの古代文化に登場する古い考え方である。アトム(''atom'')という言葉は、[[古代ギリシア語]]で「切断できない」という意味のアトモス(''atomos'')に由来する{{efn|否定語「a-」と「切断」を意味する「{{Lang|grc|τομή}}」の組み合わせ。<!-- a combination of the negative term "a-" and "τομή," the term for "cut" -->}}。この古代の考えは、科学的な推論というよりも、むしろ哲学的な推論に基づいていた。現代の原子論は、こうした古い概念に基づいているわけではない<ref>{{cite book|last1=Pullman|first1=Bernard|title=The Atom in the History of Human Thought|date=1998|publisher=Oxford University Press|location=Oxford, England|isbn=978-0-19-515040-7|pages=31–33|url=https://books.google.com/books?id=IQs5hur-BpgC&q=Leucippus+Democritus+atom&pg=PA56|access-date=25 October 2020|archive-date=5 February 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20210205165029/https://books.google.com/books?id=IQs5hur-BpgC&q=Leucippus+Democritus+atom&pg=PA56|url-status=live}}</ref><ref>[[#refMelsen1952|Melsen (1952). ''From Atomos to Atom'', pp. 18–19]]</ref>。19世紀初頭、科学者[[ジョン・ドルトン]]は、化学元素が重量の離散的な単位で結合しているように見えることに気づき、これを物質の基本単位な単位と考え、その単位を指す言葉として「原子」という言葉を使うことにした<ref>[[#refPullman1998|Pullman (1998). ''The Atom in the History of Human Thought'', p. 198]]: "Dalton reaffirmed
that atoms are indivisible and indestructible and are the ultimate constituents of matter."</ref>。約1世紀後、ドルトンの原子は、実際には分割不可能ではないことが発見されたが、この言葉が定着した。
=== ドルトンの倍数比例の法則 ===
[[File:A New System of Chemical Philosophy fp.jpg|right|thumb|[[ジョン・ドルトン]]の『化学哲学の新体系(''New System of Chemical Philosophy'')』に描かれたさまざまな原子と分子 (1808年)]]
1800年代初頭、イギリスの化学者[[ジョン・ドルトン]]は、自身や他の科学者が集めた実験データをまとめ、現在「[[倍数比例の法則]]」として知られる法則を発見した。彼は、ある化学元素を含む化合物について、化合物中の元素の含有量を重量で表現したとき、小さな整数の比率で異なることに気づいた。この法則から、各化学元素が重量の基本単位によって他の元素と結合していることが示唆され、ドルトンはこれらの単位を「原子」と呼ぶことにした。
たとえば、[[酸化スズ]]には2種類あり、一方はスズ88.1%と酸素11.9%の灰色の粉末で、もう一方はスズ78.7%と酸素21.3%の白い粉末である。これらの数値を整理すると、灰色粉末にはスズ100 gに対して約13.5 gの酸素が、白色粉末にはスズ100 gに対して約27gの酸素が含まれる。13.5と27の比率は 1:2 である。ドルトンは、これらの酸化物には、スズ原子1個につき1個または2個の酸素原子が存在すると結論づけた([[酸化スズ(II)|SnO]] と [[酸化スズ(IV)|SnO<sub>2</sub>]])<ref>[[#refDalton1817|Dalton (1817). ''A New System of Chemical Philosophy'' vol. 2, p. 36]]</ref><ref>[[#refMelsen1952|Melsen (1952). ''From Atomos to Atom'', p. 137]]</ref>。
ドルトンは[[酸化鉄]]も分析した。酸化鉄には、鉄78.1%と酸素21.9%の黒色粉末と、鉄70.4%と酸素29.6%の赤色粉末がある。この数値を整理すると、黒色粉末には鉄100 gに対して約28 gの酸素が、赤色粉末には鉄100 gに対して約42 gの酸素が含まれる。28と42の比率は 2:3 である。ドルトンは、これらの酸化物には、鉄原子2個につき2個または3個の酸素原子が存在すると結論づけた([[酸化鉄(II)|Fe<sub>2</sub>O<sub>2</sub>]] と [[酸化鉄(III)|Fe<sub>2</sub>O<sub>3</sub>]]){{efn|説明をわかりやすくするため、酸化鉄(II)の式を、従来のFeOではなく「Fe<sub>2</sub>O<sub>2</sub>」と表記した。<!--Iron(II) oxide's formula is written here as "Fe<sub>2</sub>O<sub>2</sub>" rather than the more conventional "FeO" because this better illustrates the explanation.-->}}<ref>[[#refDalton1817|Dalton (1817). ''A New System of Chemical Philosophy'' vol. 2, p. 28]]</ref><ref>[[#refMillington1906|Millington (1906). ''John Dalton'', p. 113]]</ref>。
最後の例として、[[亜酸化窒素]]は窒素63.3%と酸素36.7%、[[一酸化窒素]]は窒素44.05%と酸素55.95%、そして[[二酸化窒素]]は窒素29.5%と酸素70.5%である。これらの数値を整理すると、亜酸化窒素では窒素140 gに対して酸素が80 g、一酸化窒素では窒素140 gに対して酸素が約160 g、二酸化窒素では窒素140 gに対して酸素が320 g含まれる。80、160、320の比率は 1:2:4 である。これらの酸化物のそれぞれの化学式は、[[亜酸化窒素|N<sub>2</sub>O]]、[[一酸化窒素|NO]]、そして [[二酸化窒素|NO<sub>2</sub>]] である<ref>[[#refDalton1808|Dalton (1808). ''A New System of Chemical Philosophy'' vol. 1, pp. 316–319]]</ref><ref>[[#refHolbrowEtAl2010|Holbrow et al. (2010). ''Modern Introductory Physics'', pp. 65–66]]</ref>。
=== 異性 ===
科学者たちは、物質の中には、全く同じ化学含有量でありながら異なる性質を持つものがあることを発見した。たとえば、1827年、[[フリードリヒ・ヴェーラー]]は、[[雷酸銀(I)|雷酸銀]]と[[シアン酸銀]]がともに銀107部、炭素12部、窒素14部、酸素12部であることを発見した(現在では、両者の化学式はともにAgCNOであることがわかっている)。1830年、[[イェンス・ヤコブ・ベルセリウス]]は、この現象を説明するために[[異性体|異性]](''isomerism'')という言葉を導入した。1860年、[[ルイ・パスツール]]は、異性体の分子は組成は同じだが、原子の配置が異なるのではないかという仮説を立てた<ref>[[#refPullman1998|Pullman (1998). ''The Atom in the History of Human Thought'', p. 230]]</ref>。
1874年、[[ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフ]]は、炭素原子が四面体配置で他の原子と結合することを提案した。彼は、これに基づいて有機分子の構造を説明し、化合物がいくつの異性体を持ち得るかを予測することができた。[[ペンタン]](C<sub>5</sub>H<sub>12</sub>)を例に考えてみよう。ファント・ホッフの分子モデリング法によると、ペンタンには3つの配置が可能であると予測でき、科学者たちは実際に3つのペンタンの異性体を発見した<ref>[[#refMelsen1952|Melsen (1952). ''From Atomos to Atom'', pp. 147–148]]</ref><ref>Henry Enfield Roscoe, Carl Schorlemmer (1895). [https://books.google.com/books?id=JU1KAAAAYAAJ&pg=PA121 ''A Treatise on Chemistry'', Volume 3, Part 1, pp. 121–122]</ref>。
{{multiple image
| align = center
| total_width = 600
| footer = [[ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフ]]の分子構造モデリング法は、[[ペンタン]] (C<sub>5</sub>H<sub>12</sub>) について3つの異性体の可能性を正しく予測した。
| image1 = Pentane-3D-balls.png
| alt1 =
| caption1 = [[n-ペンタン]]
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| alt2 =
| caption2 = [[イソペンタン]]
| image3 = Neopentane-3D-balls.png
| caption3 = [[ネオペンタン]]
}}
=== ブラウン運動 ===
1827年、イギリスの植物学者[[ロバート・ブラウン]]は、水中に浮遊する花粉粒から流出した微粒子が、明確な理由もなく絶えず揺れ動くことを観察した。1905年、[[アルベルト・アインシュタイン]]は、この[[ブラウン運動]]は[[水]]の分子が微粒子に絶え間なく衝突することによって引き起こされると理論化し、それを記述する数学モデルを開発した<ref name="einstein">{{cite journal|last1=Einstein|first1=A.|title=Über die von der molekularkinetischen Theorie der Wärme geforderte Bewegung von in ruhenden Flüssigkeiten suspendierten Teilchen|journal=Annalen der Physik|volume=322|pages=549–560|year=1905|doi=10.1002/andp.19053220806|bibcode = 1905AnP...322..549E|issue=8 |hdl=10915/2785|url=http://sedici.unlp.edu.ar/bitstream/handle/10915/2785/Documento_completo__.pdf?sequence=1|doi-access=free}}</ref>。このモデルは1908年、フランスの物理学者[[ジャン・ペラン]]によって実験的に検証され、彼はアインシュタインの方程式を使用して、1[[モル]]に含まれる原子の数と原子の大きさを計算した<ref>{{Cite web |title=The Nobel Prize in Physics 1926 |url=https://www.nobelprize.org/prizes/physics/1926/perrin/lecture/ |access-date=2023-02-08 |website=NobelPrize.org |language=en-US}}</ref><ref>[[#refPerrin1909|Perrin (1909). ''Brownian Movement and Molecular Reality'', p. 50]]</ref>。
=== 電子の発見 ===
{{Main|{{ill2|電磁気理論の歴史|en|History of electromagnetic theory}}}}
1897年、[[J.J.トムソン]]は、電場や磁場によって[[陰極線]]が偏向されることから、陰極線は電磁波ではなく粒子であることを発見した。彼は、この粒子が[[水素]](最も軽い原子)の1,800倍軽いことを測定した。トムソンは、これらの粒子は陰極の原子から来たもので、[[亜原子粒子]](''subatomic particles'')であると結論づけた。彼はこれらの新しい粒子を微粒子(''corpuscles'')と呼んだが、後に[[電子]](''electrons'')と改名された。トムソンはまた、電子が[[光電効果|光電物質]]や放射性物質から放出される粒子と同一であることも示した<ref name="Thomson">{{cite journal|last=Thomson|first=J.J.|title=On bodies smaller than atoms|journal=The Popular Science Monthly|pages=323–335|date=August 1901|url=https://books.google.com/books?id=3CMDAAAAMBAJ&pg=PA323|access-date=21 June 2009|archive-date=1 December 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20161201152039/https://books.google.com/books?id=3CMDAAAAMBAJ&pg=PA323|url-status=live}}</ref>。やがて、電子が金属線に[[電流]]を流す粒子であることが認識された<ref>[http://library.thinkquest.org/C0111709/English/DC-Circuts/mechanism.html "The Mechanism Of Conduction In Metals"] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20121025004809/http://library.thinkquest.org/ |date=25 October 2012 }}, Think Quest.</ref>。トムソンは、これらの電子が測定器の陰極の原子そのものから発生しており、このことは、原子はドルトンが考えていたような不可分なものではないことを意味していると結論づけた。
=== 原子核の発見 ===
[[File:Geiger-Marsden experiment expectation and result (Japanese).svg|thumb|right|[[ガイガー=マースデンの実験]]<br />(左) 予測される結果:アルファ粒子は[[プラム・プディングモデル]]を通過し、偏向はごくわずかである。<br />(右) 観測された結果:ごく一部のアルファ粒子が強い偏向を示した。]]
{{Main|ガイガー=マースデンの実験}}
[[J・J・トムソン|J. J.トムソン]]は、負電荷を帯びた電子は、原子の体積全体に分布する正電荷の海の中に分布していると考えた<ref>[[#refNavarro2012|Navarro (2012). ''A History of the Electron'', p. 94]]</ref>。このモデルは[[プラム・プディングモデル]]として知られている。
[[アーネスト・ラザフォード]]と、同僚の[[ハンス・ガイガー]]と[[アーネスト・マースデン]]は、[[アルファ粒子]]([[ラジウム]]など特定の放射性物質から放出される正電荷を帯びた粒子)の[[電荷質量比]]を測定する装置を製作する際に困難に出会ったことから、トムソンのモデルに疑問を抱いた。アルファ粒子が検出器内の空気によって散乱され、測定の信頼性が低下していた。トムソンの場合、陰極線の研究で同様の問題に遭遇したが、装置内をほぼ完全な真空にして解決していた。ラザフォードは、アルファ粒子が電子よりはるかに重いため、これと同じ問題に出会うとは考えられなかった。トムソンの原子モデルによれば、原子内の正電荷はアルファ粒子を偏向させるほど強い電場を発生させるだけ集中しておらず、また電子は非常に軽いので、はるかに重いアルファ粒子によって簡単に押しのけられるはずである。しかし散乱はあったので、ラザフォードと同僚たちは、この散乱を注意深く調べることにした<ref name="Heilbron2003p64-68">[[#refHeilbron2003|Heilbron (2003). ''Ernest Rutherford and the Explosion of Atoms'', pp. 64–68]]</ref>。
1908年から1913年にかけて、ラザフォードらは、薄い金属箔にアルファ粒子を衝突させる一連の実験を行った。その結果、彼らは、90度以上の角度で偏向を受けるアルファ粒子を発見した。これを説明するために、ラザフォードは、原子の正電荷は、トムソンが考えていたように原子の体積全体に分布しているのではなく、中心にある小さな原子核に集中していると提案した。観測されたようにアルファ粒子を偏向させるほど十分な強い電場を作り出すことができるのは、このような極端な電荷の集中だけである<ref name="Heilbron2003p64-68" />。このモデルは[[ラザフォードの原子模型|ラザフォード・モデル]]として知られている。
=== 同位体の発見 ===
{{Main|同位体}}
1913年、[[放射化学|放射化学者]]の[[フレデリック・ソディ]]は、[[放射性崩壊]]の生成物について実験していたとき、[[周期表]]の各位置に数種類の原子が存在することを発見した<ref name="npc1921" />。これらの原子は同じ性質を持っていたが、原子量は異なっていた。[[同位体]](isotopes)という言葉は、このように同じ元素に属する重さの異なる原子を表すのに適切な名前として、{{Ill2|マーガレット・トッド (医師)|en|Margaret Todd (doctor)|label=マーガレット・トッド}}によって命名された。J.J.トムソンは、[[電離気体]]に関する研究を通じて{{Ill2|同位体分離|en|Isotope separation|label=同位体を分離する技術}}を確立し、その後、[[安定同位体]]の発見へとつながった<ref name="prsA_89_1_1913" />。
=== ボーア・モデル ===
[[File:Bohr atom animation 2.gif|right|thumb|[[ボーア・モデル]]では、電子がある軌道から別の軌道へ瞬時に「量子跳躍」し、その過程でエネルギーを得たり失ったりする。電子が軌道上にあるこの原子モデルは時代遅れとなった。]]
{{Main|ボーア・モデル}}
1913年、物理学者[[ニールス・ボーア]]は、原子の電子は原子核の周りを周回しているが、その軌道は有限であり、光子の吸収または放射に対応するエネルギーの離散的な変化でしか軌道間を移行することができないと仮定した原子モデルを提唱した<ref name="stern20050516" />。この量子化は、電子の軌道が安定である理由や{{Efn|通常、円運動する電荷は、加速時に電磁波を放出することで運動エネルギーを失う ([[シンクロトロン放射]]を参照)}}、元素が吸収または放出する電磁波の[[スペクトル線|スペクトル]]が不連続である理由を説明するために考案された<ref name="bohr19221211" />。
同じ年の暮れ、[[ヘンリー・モーズリー (物理学者)|ヘンリー・モーズリー]]はニールス・ボーアの理論を支持する新たな実験的証拠を提示した。モーズリーは、これらの結果を基に、[[アーネスト・ラザフォード]]や{{ill2|アントニウス・ファン・デン・ブルーク|en|Antonius van den Broek}}のモデルを改良し、原子は原子核に周期表の原子番号と等しい数の正の{{Ill2|核電荷|en|Nuclear charge}}を持つと[[モーズリーの法則|提案]]した。この実験が行われるまで、[[原子番号]]が物理的かつ実験的な量であることは知られていなかった。今日でも受け入れられている原子モデルは、この原子番号と原子の核電荷が等しいというものである<ref name="Pais">{{Cite book|last=Pais|first=Abraham|year=1986|location=New York|title=Inward Bound: Of Matter and Forces in the Physical World|publisher=Oxford University Press|isbn=978-0-19-851971-3|pages=[https://archive.org/details/inwardboundofmat00pais_0/page/228 228–230]|url=https://archive.org/details/inwardboundofmat00pais_0/page/228}}</ref>。
1916年、[[ギルバート・ニュートン・ルイス]]によって、原子間の[[化学結合]]は、構成電子間の相互作用により形成されると説明された<ref name="jacs38_4_762" />。元素の{{Ill2|化学的性質|en|Chemical property}}は、[[周期律]]にほぼ従って繰り返されることが知られていたことから<ref>{{cite book|last=Scerri|first=Eric R.|title=The periodic table: its story and its significance|publisher=Oxford University Press US|year=2007|isbn=978-0-19-530573-9|pages=[https://archive.org/details/periodictableits0000scer/page/205 205–226]|url=https://archive.org/details/periodictableits0000scer/page/205}}</ref>、1919年、アメリカの化学者[[アーヴィング・ラングミュア]]は、原子内の電子が何らかの方法で結びついているもしくは集まっていれば、この現象を説明できると提案した。原子核を中心に周囲にある[[電子殻]]を電子の集団が占めると考えられた<ref name="jacs41_6_868" />。
ボーアの原子モデルは原子の最初で完全な物理モデルであった。これは、原子の全体構造、原子どうしの結合方法、水素のスペクトル線を説明するものである。ボーアのモデルは完全ではなく、より正確なシュレーディンガーモデルにすぐに取って代わられたが、物質が原子で構成されているという疑問を払拭するには十分だった。化学者にとっては、原子という概念は有用な発見的ツールであったが、物理学者にとっては、まだ誰も原子の完全な物理モデルを開発していなかったので、物質が本当に原子からできているのかどうかは疑問であった。
=== シュレーディンガー・モデル ===
{{Main|行列力学}}
1925年、[[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]は、[[量子力学]]の最初の一貫した数学的定式化([[行列力学]])を提唱した<ref name="Pais" />。その1年前、[[ルイ・ド・ブロイ]]が、すべての粒子はある程度[[ド・ブロイ波|波のように振る舞う]]ことを提案していた<ref>{{cite book |title=Introducing Quantum Theory |author1=McEvoy, J. P. |author2=Zarate, Oscar |publisher=Totem Books |year=2004 |isbn=978-1-84046-577-8 |pages=110–114}}</ref>。1926年、[[エルヴィン・シュレーディンガー]]はこの考えを用いて、電子を空間の点ではなく三次元の[[波形]]として記述する原子の数学的モデル、[[シュレーディンガー方程式]]に発展させた<ref>{{cite web |last=Kozłowski |first=Miroslaw |year=2019 |title=The Schrödinger equation A History |url=https://www.researchgate.net/publication/332241721|accessdate=2020-06-16}}</ref>。
波形を用いて粒子を記述することの結果として、ある時点における粒子の[[点 (数学)|位置]]と[[運動量]]の両方を正確に求めることは数学的に不可能となる。このことは、1927年に[[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]が定式化した[[不確定性原理]]として知られるようになった<ref name="Pais" />。この概念では、位置の測定精度が一定であれば、運動量については可能性のある値の範囲(つまり確率値)しか得られず、逆もまた同様である<ref>{{cite web|author=Chad Orzel|url=https://www.youtube.com/watch?v=TQKELOE9eY4|title=What is the Heisenberg Uncertainty Principle?|website=TED-Ed|date=16 September 2014|via=YouTube|archive-url=https://web.archive.org/web/20150913185956/https://www.youtube.com/watch?v=TQKELOE9eY4|archive-date=13 September 2015|url-status=live|accessdate=2015-10-26}}</ref>。このモデルは、水素よりも大きな原子の特定の構造パターンや[[スペクトル線|スペクトル]]パターンなど、従来のモデルでは説明できなかった原子の挙動に関する観測結果を説明することができた。こうして、原子の惑星型モデルは破棄され、「特定の電子」が最も観測されやすい原子核周辺の[[原子軌道]]ゾーンを記述するモデルが採用された<ref name="brown2007" /><ref name="harrison2000" />。
=== 中性子の発見 ===
{{Main|中性子の発見}}
原子の質量は、[[質量分析法]]の開発によって、より正確に測定できるようになった。この装置は磁石を使ってイオンビームの軌道を偏向させるもので、原子の[[質量電荷比|質量と電荷の比]]によって偏向量が決まる。化学者[[フランシス・ウィリアム・アストン]]はこの装置を使用して、同位体の質量が異なることを示した。これらの同位体の[[原子質量]]は整数の量だけ異なり、{{Ill2|整数則|en|Whole number rule}}として知られている<ref name="pm39_6_449" />。これらの異なる同位体の説明は、1932年に物理学者[[ジェームズ・チャドウィック]]による、陽子(''proton'')とほぼ同じ質量を持つが荷電していない粒子である[[中性子]](''neutron'')の発見を待たなくてはならなかった。そして同位体は、原子核内の陽子数は同じで、中性子の数が異なる元素として説明された<ref name="chadwick1935" />。
=== 核分裂反応、素粒子物理学 ===
{{Main|核分裂反応|素粒子物理学|{{ill2|素粒子物理学の歴史|en|History of subatomic physics}}}}
1938年、ラザフォードの門下生であったドイツの化学者[[オットー・ハーン]]は、[[超ウラン元素]]を得る目的でウラン原子に中性子を照射した。その代わりに、彼の化学実験では生成物として[[バリウム]]の存在が示された<ref name="Bowden" /><ref name="CHF" />。1年後、[[リーゼ・マイトナー]]と甥の[[オットー・フリッシュ]]が、ハーンの結果が最初の実験的な[[核分裂反応]]であることを検証した。1944年、ハーンは[[ノーベル化学賞]]を受賞した<ref name="nature143_3615_239" /><ref name="schroeder" />。ハーンの努力にもかかわらず、マイトナーとフリッシュの貢献は認められなかった<ref name="pt50_9_26" />。
1950年代、改良された[[粒子加速器]]と[[粒子検出器]]の開発により、科学者は高エネルギーで運動する原子の影響を研究できるようになった<ref name="kullander2001" />。中性子と陽子は[[ハドロン]]または[[クォーク]]と呼ばれる小さな粒子の複合体であることがわかった。[[素粒子物理学]]における[[標準モデル]]が開発され、これらの[[素粒子]]とその相互作用を支配する力の観点から、原子核の性質を説明することに成功している<ref name="npp1990" />。
== 構造 ==
=== 亜原子粒子 ===
{{Main|亜原子粒子}}原子(''atom'')という言葉はもともと、小さな粒子に切断できない粒子を意味するが、現代の科学的用法では、原子はさまざまな[[亜原子粒子]]({{Lang-en-short|subatomic particles}})から構成される物質の基本的な構成要素を指す。原子を構成する粒子は、[[電子]]、[[陽子]]、そして[[中性子]]である。
電子は負の[[電荷]]を持ち、質量が {{val|9.11|e=-31|u=kg}} で、これらの粒子の中で圧倒的に小さく、そのため利用可能な技術で大きさを測定することができない<ref>{{cite book|last=Demtröder|first=Wolfgang|year=2002|title=Atoms, Molecules and Photons: An Introduction to Atomic- Molecular- and Quantum Physics|url=https://archive.org/details/atomsmoleculesph00demt_277|url-access=limited|publisher=Springer|edition=1st|isbn=978-3-540-20631-6|oclc=181435713|pages=[https://archive.org/details/atomsmoleculesph00demt_277/page/n51 39]–42}}</ref>。[[ニュートリノ]]の質量が発見されるまで、電子は正の静止質量が測定された最も軽い粒子であった。通常の条件下において、電子は、正電荷を帯びた原子核に、その反対電荷から生じる引力によって束縛される。原子の電子数がその原子番号より大きい(または小さい)場合、原子は全体として負(または正)に帯電し、帯電した原子は[[イオン]]と呼ばれる。電子は19世紀後半から知られていたが、[[ジョゼフ・ジョン・トムソン|J.J.トムソン]]の貢献が大きかった({{Ill2|素粒子物理学の歴史|en|History of subatomic physics}}を参照)。
陽子は正の電荷を持ち、質量は{{val|1.6726|e=-27|u=kg}}、電子の質量の1,836倍である。原子内の陽子の数を[[原子番号]]という。[[アーネスト・ラザフォード]]は、1917-1919年にかけ、アルファ粒子の衝突を受けた窒素から水素原子核と考えられるものが放出されることを観測した。1920年までに、彼は水素原子核が原子内の別個の粒子であると考え、これを[[陽子]]と名付けた。
中性子は電荷を持たず、自由質量は {{val|1.6749|e=-27|u=kg}}で、電子の質量の1,839倍である<ref>{{cite book|last=Woan|first=Graham|year=2000|title=The Cambridge Handbook of Physics|publisher=Cambridge University Press|isbn=978-0-521-57507-2|oclc=224032426|page=[https://archive.org/details/cambridgehandboo0000woan/page/8 8]|url=https://archive.org/details/cambridgehandboo0000woan/page/8}}</ref><ref name="2014 CODATA">Mohr, P.J.; Taylor, B.N. and Newell, D.B. (2014), [http://physics.nist.gov/constants "The 2014 CODATA Recommended Values of the Fundamental Physical Constants"] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120211083747/http://physics.nist.gov/cuu/Constants/index.html |date=11 February 2012 }} (Web Version 7.0). The database was developed by J. Baker, M. Douma, and [[:en:Svetlana Kotochigova|S. Kotochigova]]. (2014). National Institute of Standards and Technology, Gaithersburg, Maryland 20899.</ref>。中性子は3つの構成粒子の中で最も重いが、その質量は{{Ill2|核結合エネルギー|en|Nuclear binding energy}}によって減る可能性がある。中性子と陽子(総称して[[核子]]という)は、どちらも {{val|2.5|e=-15|u=m}} 程度の大きさを持つが、これらの粒子の「表面」は明確に定義されていない<ref>{{cite book|last=MacGregor|first=Malcolm H.|year=1992|title=The Enigmatic Electron|publisher=Oxford University Press|isbn=978-0-19-521833-6|oclc=223372888|pages=[https://archive.org/details/astronomyencyclo0000unse/page/33 33–37]|url=https://archive.org/details/astronomyencyclo0000unse/page/33}}</ref>。中性子は1932年にイギリスの物理学者[[ジェームズ・チャドウィック]]によって発見された。
物理学の[[標準モデル]]では、電子は内部構造を持たない真の素粒子であり、陽子と中性子は[[クォーク]]と呼ばれる[[素粒子]]から構成される[[複合粒子]]である。原子には2種類のクォークがあり、それぞれが分数の電荷を持っている。陽子は、2個の[[アップクォーク]](それぞれの電荷は+{{sfrac|2|3}})と1個の[[ダウンクォーク]](電荷は−{{sfrac|1|3}})で構成されている。中性子は、1個のアップクォークと2個のダウンクォークで構成されている。この区別で、2種類の粒子の質量と電荷の違いが説明される<ref name="pdg2002" /><ref name="schombert2006" />。
クォークは、[[グルーオン]]を介した[[強い相互作用]]([[強い力]]ともいう)によって結合している。陽子と中性子は、原子核の中で[[核力]]によって互いに結びついている。核力は強い力が残留したもので、その範囲や性質は多少異なる(詳しくは[[:en:Nuclear_force#The_nuclear_force_as_a_residual_of_the_strong_force|核力<small>(英語版)</small>]]を参照)。グルーオンは、物理的な力を媒介する素粒子である[[ゲージ粒子]]の一種である<ref name="pdg2002" /><ref name="schombert2006" />。
=== 原子核 ===
{{Main|原子核}}
[[File:Binding energy curve - common isotopes.svg|thumb|さまざまな同位体の[[結合エネルギー]]曲線。核子が原子核から脱出するのに要する結合エネルギーは同位体によって異なる。X軸は原子核中の核子数、Y軸は核子あたりの平均結合エネルギー(MeV)]]<!-- 「結合エネルギー」についてはセクションの最後まで説明されないため、ここで簡単に説明する。 -->
原子中で、すべての陽子と中性子は結合して、小さな[[原子核]]を構成する。原子核の半径はおよそ <math>1.07 \sqrt[3]{A}</math> [[フェムトメートル]](fm)で、ここに <math>A</math> は核子の総数である<ref>{{cite book|last=Jevremovic|first=Tatjana|year=2005|title=Nuclear Principles in Engineering|url=https://archive.org/details/nuclearprinciple00jevr_450|url-access=limited|publisher=Springer|isbn=978-0-387-23284-3|oclc=228384008|page=[https://archive.org/details/nuclearprinciple00jevr_450/page/n83 63]}}</ref>。原子核の半径は、10<sup>5</sup> fm [[オーダー (物理学)|オーダー]]の原子の半径よりはるかに小さい。核子どうしは、[[核力|強い残留力]]と呼ばれる短距離型の引力ポテンシャルによって結合している。2.5 fm 未満の距離では、この力は正電荷を帯びた陽子どうしが反発し合う[[静電気力]]よりもはるかに強い<ref>{{cite book|last1=Pfeffer|first1=Jeremy I.|last2=Nir|first2=Shlomo|year=2000|title=Modern Physics: An Introductory Text|publisher=Imperial College Press|isbn=978-1-86094-250-1|oclc=45900880|pages=330–336}}</ref>。
同じ[[元素]]の原子は、[[原子番号]]と呼ばれる陽子の数が同じである。同じ元素でも、中性子の数が異なることがあり、それによってその元素の[[同位体]]が決まる。陽子と中性子の総数が[[核種]]を決定する。陽子に対する中性子の数が原子核の安定性を決定し、ある種の同位体は[[放射性崩壊]]を起こす<ref name="wenner2007" />。
陽子、中性子、電子は[[フェルミ粒子]]({{Lang-en-short|fermion}}、フェルミオン)として分類される。フェルミ粒子は[[パウリの排他原理]]に従っており、複数の陽子のような[[同種粒子|同一]]のフェルミ粒子が同時に同じ量子状態を占めることを禁止される。したがって、原子核内のすべての陽子は、他のすべての陽子とは異なる量子状態をとらなければならず、原子核内のすべての中性子や、[[電子雲]]のすべての電子についても同様である<ref name="raymond" />。
陽子の数と中性子の数が異なる原子核は、放射性崩壊によって陽子と中性子の数がより近くなることで、より低いエネルギー状態に変化する可能性がある。その結果、陽子と中性子の数が一致する原子は崩壊に対してより安定するが、原子番号が増えるにつれて、陽子の相互反発にともなう原子核の安定性を維持するために、中性子の割合が増加する<ref name="raymond" />。[[File:Wpdms physics proton proton chain 1.svg|right|thumb|upright|2個の陽子 (p) から1個の陽子と1個の中性子 (n) からなる重水素原子核を形成する核融合プロセスを示す。[[反物質]]電子である[[陽電子]] (e<sup>+</sup>) が、電子[[ニュートリノ]]とともに放出される。]]
原子核内の陽子と中性子の数を変えることができるが、それには強い力が働くため、非常に高いエネルギーを必要とする。[[核融合反応|核融合]]は、2つの原子核のエネルギー的な衝突などにより、複数の原子粒子が結合してより重い原子核を形成するときに起こる。たとえば、[[太陽]]の中心部では、陽子が相互反発([[クーロン障壁]])を乗り越えて融合し、1つの原子核を形成するために、3-10 keVのエネルギーを必要とする<ref name="mihos2002" />。[[核分裂反応|核分裂]]はその逆のプロセスで、通常は放射性崩壊によって原子核が2つの小さな原子核に分裂する。また、原子核は、高エネルギーの亜原子粒子や光子との衝突によっても変化することがある。これによって原子核内の陽子の数が変わると、原子は別の化学元素に変化する<ref name="lbnl20070330" /><ref name="makhijani_saleska2001" />。
核融合反応後の原子核の質量が、個々の粒子の合計質量よりも小さい場合、2つの質量差は、[[アルベルト・アインシュタイン]]の[[質量とエネルギーの等価性|質量とエネルギー等価性]]の式、''e=mc<sup>2</sup>''(ここで ''m'' は質量損失、 ''c'' は[[光速]])で説明されるように、利用可能なエネルギーの一種([[ガンマ線]]や[[ベータ粒子]]の運動エネルギーなど)として放出される。この欠損は新しい原子核の[[結合エネルギー]]の一部であり、融合粒子が分離するためにこのエネルギーを必要とする状態で一緒に留まるのは、このエネルギーの回復不可能な損失のためである<ref>{{cite book|last1=Shultis|first1=J. Kenneth|last2=Faw|first2=Richard E.|title=Fundamentals of Nuclear Science and Engineering|year=2002|publisher=CRC Press|isbn=978-0-8247-0834-4|oclc=123346507|pages=10–17}}</ref>。
[[鉄]]や[[ニッケル]]よりも原子番号が小さな原子核(核子数の合計が約60以下)を作り出す2個の原子核の核融合は、通常、[[発熱反応|発熱プロセス]]であり、2つの原子核を融合させるのに必要なエネルギーよりも多くのエネルギーを放出する<ref name="ajp63_7_653" />。[[恒星]]の核融合を自立反応にしているのは、このエネルギー放出プロセスである。より重い原子核では、[[核子]]あたりの結合エネルギーは減少し始める(上のグラフを参照)。このことは、原子番号が約26より大きく、[[質量数]]が約60より大きな原子核を生成する核融合プロセスは[[吸熱反応|吸熱プロセス]]であることを意味する。したがって、より質量が大きな原子核は、恒星の[[静水圧平衡]]を維持するのに必要なエネルギーを生み出す核融合反応を起こすことができない<ref name="raymond" />。
=== 電子雲 ===
{{Main|電子配置|電子殻|原子軌道}}{{See also|電気陰性度}}[[File:Potential energy well.svg|right|thumb|[[古典力学]]に従って、各位置 ''x'' に到達するのに必要な最小エネルギー ''V''(''x'') を示すポテンシャル井戸。古典的には、エネルギー ''E'' を持つ粒子は、''x''<sub>1</sub> と ''x''<sub>2</sub> の間の位置範囲に束縛される。]]
原子内の電子は、[[電磁気学|電磁気力]]によって原子核内の陽子に引き寄せられる。この力によって電子は、小さな原子核を取り囲む[[静電気学|静電]]{{Ill2|ポテンシャル井戸|en|Potential well}}の中に束縛され、電子が脱出するためには外部のエネルギー源が必要となる。電子が原子核に近づくほど、この引力は大きくなる。したがって、ポテンシャル井戸の中心付近に束縛された電子は、それよりも離れた位置にある電子よりも、脱出するのに多くのエネルギーを必要とする。
電子は、他の粒子と同様に、[[粒子と波動の二重性|粒子と波]]の両方の性質を持っている。[[電子雲]]は、ポテンシャル井戸の内側にある領域で、各電子が一種の三次元[[定常波|定在波]](原子核に対して相対的に動かない波形)を形成している。この挙動は[[原子軌道]]によって規定される。原子軌道とは、電子の位置を測定したときに、その電子が特定の位置にあるように見える[[確率]]を記述する数学的関数である<ref name="science157_3784_13" />。原子核の周りには、このような離散的な(または[[量子化 (物理学)|量子化]]された)軌道の集合だけが存在する(他の考えられる波動パターンは、より安定した形へと急速に減衰するため)<ref name="Brucat2008" />。軌道は1つまたは複数のリング構造またはノード構造を持つことができ、大きさ、形状、方向がそれぞれ異なる<ref name="manthey2001" />。[[File:Atomic-orbital-clouds spdf m0.png|thumb|upright=1.5|[[水素様原子]]の原子軌道の確率密度と位相を示す3次元の図 ('''g'''軌道とそれ以上は表示されない)]]
それぞれの原子軌道は、電子の特定の[[エネルギー準位]]に対応している。電子は、新しい量子状態に遷移するのに十分なエネルギーの[[光子]]を吸収することで、その状態をより高いエネルギー準位に変えることができる。同様に、高いエネルギー準位にある電子は、[[自然放出]]によって余剰なエネルギーを光子として放射しながら、低いエネルギー準位に落ちることができる。量子状態のエネルギーの違いによって規定されるこれらの特徴的なエネルギー値が、原子スペクトル線{{Enlink|Spectroscopy#Atoms|英語版|en}}が生じる原因である<ref name="Brucat2008" />。
原子から電子を除去または追加するのに必要なエネルギー量(電子結合エネルギー{{Enlink|Ionization energy#Electron binding energy|英語版|en}})は、[[結合エネルギー|核子の結合エネルギー]]よりもはるかに小さい。たとえば、水素原子から[[基底状態]]の電子を取り除くのに必要なエネルギーはわずか 13.6 eV であるのに対し<ref name="herter_8" />、[[重水素]]の原子核を分裂させるのに必要なエネルギーは 223万eV に達する<ref name="pr79_2_282" />。陽子と電子が同数であれば、原子は[[電荷|電気的]]に中性である。電子が不足または過剰な原子は[[イオン]]と呼ばれる。原子核から最も遠い電子は、近くにある別の原子に移動したり、原子間で共有されることがある。この機構により、原子が[[化学結合|結合]]して[[分子]]を構成したり、[[イオン結晶]]やネットワーク[[共有結合]]結晶のような他の種類の化合物と結合することができる<ref>{{cite book|last=Smirnov|first=Boris M.|year=2003|title=Physics of Atoms and Ions|url=https://archive.org/details/physicsatomsions00smir|url-access=limited|publisher=Springer|isbn=978-0-387-95550-6|pages=[https://archive.org/details/physicsatomsions00smir/page/n262 249]–272}}</ref>。
== 特性 ==
=== 原子核の性質 ===
{{Main|同位体<!-- Isotope -->|安定同位体<!-- Stable isotope -->|{{ill2|核種のリスト|en|List of nuclides}}|{{ill2|同位体の安定性による元素のリスト|en|List of elements by stability of isotopes}}}}
定義により、原子核内の陽子の数が同じ2つの原子は同じ[[化学元素]]に属する。陽子の数が同じで中性子の数が異なる原子は、同じ元素の異なる同位体である。たとえば、すべての水素原子は陽子を1個だけ含んでいるが、中性子を含まない同位体([[水素の同位体#水素1(軽水素)|水素1]]。圧倒的に一般的な形。プロチウムとも呼ばれる<ref name="matis2000" />)、中性子を1つ含むもの([[水素の同位体#水素2(重水素)|重水素]])、中性子を2つ含むもの([[水素の同位体#水素3(三重水素)|トリチウム]])、[[水素の同位体|中性子を2つ以上含むもの]]がある。既知の元素は、1陽子の[[水素]]から118陽子の[[オガネソン]]まで、一連の原子番号を形成している<ref name="weiss20061017" />。原子番号82を超える元素の既知の同位体はすべて放射性であるが、83番元素([[ビスマス]])の放射性はわずかであり、事実上無視できる<ref name="s131">{{cite book|last=Sills|first=Alan D.|year=2003|title=Earth Science the Easy Way|publisher=Barron's Educational Series|isbn=978-0-7641-2146-3|oclc=51543743|pages=[https://archive.org/details/earthscienceeasy00alan/page/131 131–134]|url=https://archive.org/details/earthscienceeasy00alan/page/131}}</ref><ref name="dume20030423" />。
[[地球]]上には約339の核種が天然に存在し<ref name="lidsay20000730" />、そのうち251(約74%)は崩壊は観測されておらず、「[[安定同位体]]」と呼ばれる。{{ill2|核種のリスト|en|List of nuclides|label=理論的}}に安定な核種は90に過ぎず、他の161核種(合計251)は、理論的にはエネルギー的に可能であるにも関わらず、崩壊は観測されていない。これらも正式には「安定」に分類される。さらに35の放射性核種は半減期が1[[地球の年齢|億年]]以上であり、[[太陽系]]の誕生時から存在していた可能性があるほど長寿命である。これらの286核種の集まりは{{Ill2|原始核種|en|Primordial nuclide}}として知られている。最後に、さらに53の短寿命核種が、原始核種崩壊の娘核種として(例: [[ウラン]]からの[[ラジウム]])、あるいは宇宙線衝突のような地球上の自然エネルギー過程の生成物として(例: 炭素14)、天然に存在することが知られている<ref name="tuli2005" />{{Efn|最近の更新情報については、[[ブルックヘブン国立研究所]]の [http://www.nndc.bnl.gov/chart Interactive Chart of Nuclides] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20200725182342/https://www.nndc.bnl.gov/nudat2/ |date=25 July 2020 }} を参照。}}。<!-- {{ill2|核種の一覧|en|List of nuclides}}を参照。これらの数字は[[WP:OR|独自研究]]ではなく、日常的な計算(表を数える)によって導き出されたものである。-->
80種類の化学元素には、少なくとも1つの[[安定同位体]]が存在する。概して、これらの元素の安定同位体はそれぞれ少数で、1元素あたり平均3.1種類の安定同位体が存在する。26個のモノアイソトピック元素{{Enlink|Monoisotopic element|英語版|en}}は安定同位体が1つしかない。対して、1つの元素で観測された安定同位体の最大数は、[[スズ]]の10である。[[テクネチウム|43]]番、[[プロメチウム|61]]番、そして[[ビスマス|83]]番以降のすべての元素には安定同位体がない<ref name="CRC">CRC Handbook (2002).</ref>{{rp|1–12}}。
同位体の安定性は、陽子と中性子の比率に影響を受け、また、量子殻が満たされる([[閉殻]]という)ような中性子と陽子の特定数([[魔法数]])の存在にも影響を受ける。これらの量子殻は、原子核の[[殻模型|殻モデル]]内の一連のエネルギー準位に対応している。スズの陽子50個で満たされた殻のように、充填殻(じゅうてんかく)はその核種に著しい安定性を与える。既知の251の安定核種のうち、陽子数と中性子数がともに奇数であるものは、[[水素2]](重水素)、[[リチウム6]]、[[ホウ素の同位体|ホウ素10]]、[[窒素の同位体|窒素14]]の4つだけである。([[タンタルの同位体|タンタル180m]]は奇数で、観測的には安定しているが、非常に長い半減期で崩壊すると予測されている。)また、天然に存在する放射性奇-奇核種のうち、半減期が10億年を超えるものは、[[カリウム40]]、[[バナジウムの同位体|バナジウム50]]、[[ランタンの同位体|ランタン138]]、[[ルテチウムの同位体|ルテチウム176]]の4つだけである。ほとんどの奇-奇核種は[[ベータ崩壊]]で非常に不安定であるが、これは、崩壊生成物が偶-偶核種であるため、核子対効果{{Enlink|Semi-empirical mass formula#Pairing term|英語版|en}}によってより強く結合することによる<ref>{{cite book |last=Krane |first=K. |year=1988 |title=Introductory Nuclear Physics |url=https://archive.org/details/introductorynucl00kran |url-access=limited |publisher=[[:en:John Wiley & Sons|John Wiley & Sons]] |isbn=978-0-471-85914-7 |pages=[https://archive.org/details/introductorynucl00kran/page/n90 68]}}</ref>。
=== 質量 ===
{{Main|原子質量<!-- Atomic mass-->|質量数<!-- mass number -->}}
原子の質量の大部分は、それを構成する陽子と中性子に由来する。ある原子に含まれるこれらの粒子(核子という)の総数を[[質量数]](''mass number'')という。質量数は数を表す正整数で、(質量の次元を持つではなく)無次元である。質量数の例として、12個の核子(6個の陽子と6個の中性子)を持つ「[[炭素12]]」がある。
[[不変質量|静止状態にある原子の実際の質量]]は、[[統一原子質量単位|ダルトン]](Da)の単位(統一原子質量単位(u)ともいう)で表されることが多い。この単位は、[[炭素12]]の自由な中性原子の質量の12分の1と定義され、約{{val|1.66|e=-27|u=kg}}である<ref name="iupac" />。[[水素原子|水素1]](水素の最も軽い同位体であり、最も質量の小さい核種でもある)の原子量は1.007825 Da である<ref name="chieh2001" />。この数を[[原子質量]](''atomic mass'')という。原子の原子質量は、その質量数と原子質量単位の積にほぼ等しく(1%以内)、たとえば窒素14の質量はおよそ14 Daである。しかし(定義により)炭素12の場合を除いては、この数値は正確な整数にならない<ref name="nist_wc" />。最も重い[[安定同位体|安定原子]]は鉛208で<ref name="s131" />、質量は {{val|207.9766521|u=Da}} である<ref name="audi2003" />。
最も重い原子でさえ直接扱うには軽すぎるため、化学者は代わりに[[モル]](mole)という単位を使う。どの元素でも、1モルの原子数は常に同じである(約[[:en:Avogadro constant|{{val|6.022|e=23}}]])。この数は、ある元素の原子質量が 1 u であれば、その元素の原子1モルの質量が1グラムに近くなるように選ばれた。[[統一原子質量単位]]の定義から、炭素12原子の原子質量は正確に 12 Da であり、1モルの炭素12原子の質量は正確に 0.012 kg である<ref name="iupac">{{cite book
|last=Mills
|first=Ian
|author2=Cvitaš, Tomislav
|author3=Homann, Klaus
|author4=Kallay, Nikola
|author5=Kuchitsu, Kozo
|title=Quantities, Units and Symbols in Physical Chemistry
|publisher=[[:en:International Union of Pure and Applied Chemistry|International Union of Pure and Applied Chemistry]], Commission on Physiochemical Symbols Terminology and Units, Blackwell Scientific Publications
|location=Oxford
|edition=2nd
|year=1993
|isbn=978-0-632-03583-0
|oclc=27011505
|url=https://archive.org/details/quantitiesunitss0000unse/page/70
|page=[https://archive.org/details/quantitiesunitss0000unse/page/70 70]
}}</ref>。
=== 形状と大きさ ===
{{Main|原子半径<!-- Atomic radius -->}}
原子には明確な外側の境界がないため、その大きさは通常、[[原子半径]]で表される。原子半径は、原子核から広がる電子雲までの距離を表す尺度である<ref name="Ghosh02">{{cite journal | author = Ghosh, D.C. |author2= Biswas, R. | title = Theoretical calculation of Absolute Radii of Atoms and Ions. Part 1. The Atomic Radii | journal = Int. J. Mol. Sci. | volume = 3 |issue= 11 | pages = 87–113 | year = 2002 | doi=10.3390/i3020087| doi-access = free }}</ref>。これは原子が球形であることを前提としており、真空中や自由空間内の原子のみ当てはまる。原子半径は、2つの原子が[[化学結合]]で結合したときの2つの原子核間の距離から導き出される。この半径は、[[周期表]]上の原子の位置、化学結合の種類、隣接する原子の数([[配位数]])、[[スピン角運動量|スピン]]と呼ばれる[[量子力学]]的性質によって変化する<ref name="aca32_5_751" />。周期表上では、原子の大きさは列を上から下に移動するほど大きくなり、行を横切るにつれて(左から右に移動)小さくなる傾向がある<ref name="dong1998" />。たとえば、最も小さい原子は半径は 31 [[ピコメートル|pm]] の[[ヘリウム]]で、最も大きい原子のひとつは半径 298 pm の[[セシウム]]である<ref name="clem67">
{{cite journal
|last1=Clementi |first1=E.
|last2=Raimond |first2=D. L.
|last3=Reinhardt |first3=W. P.
|year=1967
|title=Atomic Screening Constants from SCF Functions. II. Atoms with 37 to 86 Electrons
|journal=[[Journal of Chemical Physics]]
|volume=47 |issue=4 |pages=1300–1307
|bibcode = 1967JChPh..47.1300C
|doi=10.1063/1.1712084
}}</ref>。
[[電場]]のような外力を受けると、原子の形状が[[球対称]]{{Enlink|Spherical symmetry|英語版|en}}から外れることがある。この変形は、[[群論|群論的]]な考察によって示されるように、電場の強さと外殻電子の軌道型に依存する。非球対称性の変形は、たとえば[[結晶]]内において、{{Ill2|結晶対称|en|Crystal symmetry|label=対称性の低い}}格子部位に大きな結晶電場が発生することで誘発される可能性がある<ref name="Bethe1929">{{cite journal|author = Bethe, Hans|title = Termaufspaltung in Kristallen|journal = Annalen der Physik|volume = 3|issue = 2|pages = 133–208|year = 1929|doi = 10.1002/andp.19293950202|bibcode = 1929AnP...395..133B }}</ref><ref name="ZPB1995a">{{cite journal | author = Birkholz, Mario | title = Crystal-field induced dipoles in heteropolar crystals – I. concept | journal = Z. Phys. B | volume = 96 | issue = 3 | pages = 325–332 | year = 1995 | doi = 10.1007/BF01313054 |bibcode = 1995ZPhyB..96..325B | url=https://www.researchgate.net/publication/227050494| citeseerx = 10.1.1.424.5632 | s2cid = 122527743 }}</ref>。[[パイライト]]型化合物中の硫黄イオン<ref name="pssb2008">{{cite journal | author = Birkholz, M. | author2 = Rudert, R. | title = Interatomic distances in pyrite-structure disulfides – a case for ellipsoidal modeling of sulfur ions | journal = Physica Status Solidi B | volume = 245 | issue = 9 | pages = 1858–1864 | year = 2008 | url = https://www.mariobirkholz.de/pssb2008.pdf | doi = 10.1002/pssb.200879532 | bibcode = 2008PSSBR.245.1858B | s2cid = 97824066 | access-date = 2 May 2021 | archive-date = 2 May 2021 | archive-url = https://web.archive.org/web/20210502151542/https://www.mariobirkholz.de/pssb2008.pdf | url-status = live }}</ref>や[[カルコゲン]]イオンでは<ref name="mdpi2014">{{cite journal | author = Birkholz, M. | title = Modeling the Shape of Ions in Pyrite-Type Crystals| journal = Crystals | volume = 4 | issue = 3| pages = 390–403 | year = 2014 | doi = 10.3390/cryst4030390| doi-access = free}}</ref>、顕著な[[楕円体|楕円]]変形が起こることが示されている。
原子の大きさは光の波長(400-700 [[ナノメートル|nm]])より数千倍も小さく、従来の[[顕微鏡]]では見ることができないが、[[走査型トンネル顕微鏡]]を使えば個々の原子を観察することができる。原子の微細さを視覚化するために、典型的な人間の毛髪の幅は、約100万個の炭素原子を並べた距離に相当することを考えてみよう<ref name="osu2007" />。一滴の水には約20[[垓]]個<!-- 2 sextillion, 2E21 -->({{val|2|e=21}})の酸素原子と、その2倍の水素原子が含まれている<ref>{{cite book
|last=Padilla|first=Michael J.
|author2=Miaoulis, Ioannis|author3= Cyr, Martha|year = 2002
|title = Prentice Hall Science Explorer: Chemical Building Blocks
|publisher = Prentice-Hall, Inc.
|location = Upper Saddle River, New Jersey
|isbn = 978-0-13-054091-1
|oclc=47925884|page=32
|quote=There are 2,000,000,000,000,000,000,000 (that's 2 sextillion) atoms of oxygen in one drop of water—and twice as many atoms of hydrogen.}}</ref>。質量 {{val|2|e=-4|u=kg}} の1[[カラット]]の[[ダイヤモンド]]には、約100垓個<!-- 10 sextillion, 1E22 -->(10<sup>22</sup>)の[[炭素]]原子が含まれている{{Efn|1カラットは200 mg。[[統一原子質量単位|定義]]によれば、炭素12は1 molあたり 0.012 kg である。[[アボガドロ定数]]は1 mol当たり{{val|6|e=23}}個の原子を含むと定義される。}}。リンゴを地球の大きさに拡大すると、リンゴの中の原子は元のリンゴとほぼ同じ大きさになる<ref>{{Cite web |url=https://feynmanlectures.caltech.edu/I_01.html#Ch1-S2-p3 |title=The Feynman Lectures on Physics Vol. I Ch. 1: Atoms in Motion |access-date=3 May 2022 |archive-date=30 July 2022 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220730092955/https://www.feynmanlectures.caltech.edu/I_01.html#Ch1-S2-p3 |url-status=live }}</ref>。
=== 放射性崩壊 ===
{{Main|放射性崩壊}}
[[File:Isotopes and half-life.svg|right|thumb|''Z''個の陽子と''N''個の中性子を持つさまざまな同位体の[[半減期]] (T<sub>{{frac|1|2}}</sub>) を示す]]
すべての元素には、不安定な原子核を持っていて放射性崩壊を起こし、原子核から粒子や電磁波を放出する[[同位体]]が1つ以上存在する。放射性は、原子核の半径が、1 [[フェムトメートル|fm]] オーダーの距離にしか作用しない[[強い力]]の範囲よりも大きい場合に生じる<ref name="splung" />。
放射性崩壊の最も一般的な形態は次のとおりである<ref>{{cite book
|last=L'Annunziata<!-- Note: the single quote mark before the name is correct. -->
|first=Michael F.
|year=2003|title=Handbook of Radioactivity Analysis
|url=https://archive.org/details/handbookradioact00lann|url-access=limited|publisher=Academic Press|isbn=978-0-12-436603-9
|oclc=16212955|pages=[https://archive.org/details/handbookradioact00lann/page/n22 3]–56}}</ref><ref name="firestone20000522" />。
* [[アルファ崩壊]]: この過程は、原子核がアルファ粒子を放出するときに起こる。アルファ粒子は2個の陽子と2個の中性子からなるヘリウム原子核である。放出された結果、[[原子番号]]がより小さな新しい元素が生成する。
* [[ベータ崩壊]](および[[電子捕獲]]): これらの過程は[[弱い力]]によって支配され、中性子から陽子、あるいは陽子から中性子へ変換することによって起こる。中性子から陽子への遷移は電子と[[反ニュートリノ]]の放出を伴い、陽子から中性子への遷移(電子捕獲を除く)は[[陽電子]]と[[ニュートリノ]]の放出を引き起こす。電子または陽電子の放出はベータ粒子と呼ばれる。ベータ崩壊により、原子核の原子番号が1つ増加するか減少する。一方、電子捕獲は陽電子放出よりも多く見られるが、これはベータ崩壊よりも少ないエネルギーですむためである。この形式の崩壊では、原子核から陽電子が放出される代わりに、電子が原子核に吸収される。この過程でもニュートリノが放出され、陽子は中性子に転換する。
* [[ガンマ崩壊]]: この過程は、原子核のエネルギー準位がより低い状態に遷移することで起こり、ガンマ線と呼ばれる電磁放射線が放出される。ガンマ線を放射する原子核の[[励起状態]]は、通常、アルファ粒子またはベータ粒子の放出に続いて引き起こされる。したがって、ガンマ崩壊は通常、アルファ崩壊またはベータ崩壊の後に起こる。
その他に、稀な種類の[[放射性崩壊]]として、原子核から中性子や陽子、[[核子|原子核]]クラスターが放出されるものや、複数の[[ベータ粒子]]が放出されるものがある。励起核が別の方法でエネルギーを失うことを可能にするガンマ線放出の類似型は、[[内部転換|内部転換である]](ベータ線ではない高速電子を生成し、続いてガンマ線ではない高エネルギー光子を生成する放射性崩壊の形式)。いくつかの大きな原子核は、[[自発核分裂]]と呼ばれる崩壊で、さまざまな質量の2つ以上の荷電した分裂片と数個の中性子に分裂する。
それぞれの[[放射性同位元素]]には特徴的な崩壊時間、すなわち[[半減期]]があり、試料の半分が崩壊するのにかかる時間で決まる。これは[[指数関数的減衰|指数関数的な減衰]]過程であり、半減期ごとに残りの同位体の割合が50%ずつ着実に減少してゆく。したがって、半減期が2回経過すると、同位体の25%しか存在しなくなる<ref name="splung" />。
=== 磁気モーメント ===
{{Main|{{ill2|電子磁気モーメント|en|Electron magnetic moment}}|核磁気モーメント<!-- Nuclear magnetic moment -->}}
素粒子には[[スピン角運動量|スピン]]と呼ばれる固有の量子力学的性質が内在している。これは、[[質量中心]]の周りを回転する物体の[[角運動量]]に似ているが、厳密に言えば、これらの粒子は点状であり、回転しているとは言えないと考えられる。スピンは換算[[プランク定数]](ħ)の単位で測定され、電子、陽子、中性子はすべてスピン{{frac|1|2}} ħ または スピン{{frac|1|2}} を持つ。原子の場合、原子核の周りを周回する電子はスピンに加えて軌道[[角運動量]]を持っており、原子核自体は核スピンによる角運動量を持っている<ref name="hornak2006" />。
原子が生成する[[磁場]]([[磁気モーメント]])は、古典的に回転する荷電物体が磁場を生成するのと同様に、これらのさまざまな形の角運動量によって決定されるが、最も支配的な寄与は電子スピンによるものである。電子は[[パウリの排他原理]]に従うという性質があるため、2つの電子が同じ[[量子状態]]をとることはなく、束縛電子は互いに対となり、それぞれの対の一方がスピンアップ状態、他方はその反対のスピンダウン状態にある。したがって、これらのスピンは互いに打ち消し合い、偶数の電子を持つ原子では全磁気双極子モーメントがゼロになる<ref name="schroeder2" />。
鉄、コバルト、ニッケルなどの[[強磁性]]元素では、電子の数が奇数の場合は[[不対電子]]が生じ、全体としての正味磁気モーメントが生じる。隣接する原子の軌道が重なり合い、不対電子のスピンが揃うことで、より低いエネルギー状態を生じる。これは[[交換相互作用]]として知られる自発過程である。強磁性原子の磁気モーメントが整列すると、その材料は測定可能な巨視的磁場を発生する。[[常磁性]]物質は、磁場が存在しないときには原子の磁気モーメントが[[ランダム]]な方向を向いているが、磁場が存在するときには個々の原子の磁気モーメントが整列する<ref name="schroeder2" /><ref name="goebel20070901" />。
原子核は、中性子と陽子の数がそれぞれ偶数の場合はスピンを持たないが、それ以外の奇数の場合はスピンを持つ可能性がある。通常、スピンを持つ原子核は、熱平衡{{Enlink|Thermal equilibrium|英語版|en}}によりランダムな方向を向いているが、ある種の元素では([[キセノン|キセノン129]]など)、核スピン状態のかなりの割合を[[スピン偏極|分極]]させ、同じ方向を向くように整列することが可能である({{Ill2|過分極 (物理学)|en|Hyperpolarization (physics)|label=過分極}}と呼ばれる状態)。この現象は[[核磁気共鳴画像法|核磁気共鳴イメージング]]の分野で応用されている<ref name="yarris1997" /><ref>{{cite book
|last1=Liang|first1=Z.-P.|last2=Haacke|first2=E.M.
|editor=Webster, J.G.|year=1999
|volume=2
|title=Encyclopedia of Electrical and Electronics Engineering: Magnetic Resonance Imaging
|publisher=John Wiley & Sons
|isbn=978-0-471-13946-1|pages=412–426}}</ref>。
=== エネルギー準位 ===
{{Main|エネルギー準位|電子軌道|[[:en:Atomic orbital]]}}[[File:Atomic orbital energy levels.svg|thumb|right|原子のエネルギー準位とそのサブ準位を表す模式図 (エネルギー準位の縮尺は一定でない)。[[カドミウム]] (5s<sup>2</sup> 4d<sup>10</sup>) までの原子の基底状態を包括するのに十分である。高いエネルギー準位のs軌道は、低いエネルギー準位のd軌道よりもわずかに低いエネルギーを持つ。なお、図の一番上でも、非束縛電子の状態よりも低いことに注意を要する。]]
原子内の電子の[[ポテンシャルエネルギー]]は、原子核からの[[距離]]が[[関数の極限#無限遠点における挙動|無限大になる]]につれて相対的に[[負の数|負]]となり、その[[位置]]依存性は距離にほぼ[[反比例]]し、原子核内部で[[最小]]となる。[[量子力学]]モデルでは、束縛電子は原子核を中心とした一連の状態のみをとることができ、それぞれの状態は特定の[[エネルギー準位]]に対応する(理論的な説明は、[[シュレーディンガー方程式#時間に依存しないシュレーディンガー方程式|時間に依存しないシュレーディンガー方程式]]を参照)。エネルギー準位は、電子を原子からの[[イオン化エネルギー|束縛を解くのに必要なエネルギー量]]によって測定することができ、通常は[[電子ボルト]](eV)の単位で表される。束縛電子の最低エネルギー状態を[[基底状態]](すなわち[[定常状態]])と呼び、電子がより高い準位に遷移したときを[[励起状態]]という<ref name="zeghbroeck1998" />。原子核までの(平均)距離が遠くなることから、電子のエネルギーは[[主量子数]](''n'')とともに大きくなる。エネルギーの[[方位量子数]](<math>\ell</math>)依存性は、原子核の[[静電ポテンシャル]]によるものではなく、電子間の相互作用によるものである。
[[ボーアモデル|ボーア・モデル]]によれば、電子が{{Ill2|原子内の電子遷移|en|Atomic electron transition|label=2つの異なる状態間を遷移}}するためには(たとえば基底状態から第一励起状態へ)、電子はこれらの準位のポテンシャルエネルギーの差([[シュレーディンガー方程式]]によって正確に計算できる)に一致するエネルギーで[[光子]]を吸収または放出しなくてはならない。電子は粒子のように軌道から軌道へ飛び越える。たとえば、1個の光子が電子に衝突した場合、光子に反応して状態を変える電子は1個だけである(英語版 [[:en:Atomic orbital|Atomic orbital]](電子軌道) を参照)。
放出される光子のエネルギーはその[[周波数]]に比例するため、特定のエネルギー準位は[[電磁スペクトル]]の異なるバンドとして現れる<ref>{{cite book
|last=Fowles|first=Grant R.|year=1989
|title=Introduction to Modern Optics
|url=https://archive.org/details/introductiontomo00fowl_441|url-access=limited|publisher=Courier Dover Publications
|isbn=978-0-486-65957-2
|oclc=18834711|pages=[https://archive.org/details/introductiontomo00fowl_441/page/n233 227]–233}}</ref>。各元素は、核電荷、電子で満たされた[[亜殻]](部分殻)、電子間の電磁相互作用、そしてその他の要因に依存する特徴的なスペクトルを持っている<ref name="martin2007" />。[[File:Fraunhofer lines.svg|right|thumb|upright=1.5|スペクトル吸収線の例 (詳細は[[フラウンホーファー線]]を参照)]]
[[電磁スペクトル|連続スペクトルのエネルギー]]をガスやプラズマに通過させると、その原子は光子の一部を吸収し、原子内に束縛された電子のエネルギー準位が変化する。引き続いて励起電子は、このエネルギーを光子として自発的に放出してより低いエネルギー準位に戻り、光子はランダムな方向に移動する。こうして原子は、エネルギー出力に一連の暗い{{Ill2|吸収帯|en|Absorption band}}を形成するフィルターのように作用する。(背景の連続スペクトルを含まない視点から原子を見ている観測者は、代わりに原子から放出された光子からの一連の[[スペクトル密度|輝線]]を見ることになる)。{{Ill2|原子スペクトル線|en|Atomic spectral line}}の強度と幅を[[分光法|分光学]]的に測定することで、物質の組成や物理的性質を決定することができる<ref name="avogadro" />。
スペクトル線を詳しく調べると、[[微細構造]]分裂を示すものがあることがわかる。これは、[[スピン軌道相互作用]]、すなわち最外殻電子のスピンと運動との相互作用によって起こるものである<ref name="fitzpatrick20070216" />。原子が外部磁場の中にあるとき、スペクトル線は3つ以上の成分に分裂する([[ゼーマン効果]]と呼ばれる現象)。これは、磁場が原子とその電子の磁気モーメントと相互作用することによって起こる。原子の中には、同じエネルギー準位を持つ複数の[[電子配置]]を持つものがあり、それらは単一のスペクトル線として現れる。磁場と原子の相互作用によって、電子配置がわずかに異なるエネルギー準位にシフトし、複数のスペクトル線が生じることもある<ref name="weiss2001" />。また、外部[[電場]]が存在するとき、電子のエネルギー準位が変化することにより、スペクトル線に同様の分裂やシフトが表れることがある。これは[[シュタルク効果]]と呼ばれる現象である<ref>{{cite book
|last1=Beyer|first1=H.F.
|last2=Shevelko|first2=V.P.
|year=2003
|title=Introduction to the Physics of Highly Charged Ions
|publisher=CRC Press|isbn=978-0-7503-0481-8
|oclc=47150433|pages=232–236}}</ref>。
束縛電子が励起状態にあるときに、適切なエネルギーを持つ光子が相互作用することで、エネルギー準位が一致する光子が[[誘導放出]]されることがある。そのためには、電子が、相互作用する光子のエネルギーと一致するエネルギー差を持った、より低いエネルギー状態に遷移しなくてはならない。その後、放出された光子と相互作用した光子は、位相をそろえながら平行に移動する。言い換えれば、2つの光子の波動パターンは同調する。この物理的特性は、狭い周波数帯域で[[コヒーレンス#コヒーレント光|コヒーレント]]な光エネルギーを放出できる[[レーザー]]発生装置に利用されている<ref name="watkins_sjsu" />。
=== 価数と結合挙動 ===
{{Main|原子価|化学結合}}
原子価とは、原子が他の原子と結合する能力の尺度である。原子価は一般的に、他の原子や[[官能基|原子団]]と形成できる化学結合の数として理解される<ref>{{GoldBookRef|title=valence|file=V06588}}</ref>。非結合状態にある原子の一番外側の電子殻を[[原子価殻]](価電子殻とも)といい、その殻内の電子を[[価電子]]と呼ぶ。価電子の数によって、他の原子との[[化学結合|結合]]挙動が決まる。原子は、その外側の原子価殻を満たす(または空にする)ように、互いに[[化学反応]]する傾向がある<ref name="reusch20070716" />。たとえば、[[塩化ナトリウム]]化合物やその他の化学イオン塩で見られるような原子間での1電子の移動は、閉殻よりも1電子多い原子と、閉殻よりも1電子足りない原子との間で形成される結合に対して有効な[[近似]]である。多くの元素は複数の原子価を持ち、すなわち化合物によって異なる数の電子を共有する傾向がある。したがって、これらの元素間の[[化学結合]]は、単純な電子移動にとどまらず、さまざまな電子共有の形態をとる。たとえば、[[炭素同素体|炭素の同素体]]や[[有機化合物]]などである<ref name="chemguide" />。
[[化学元素]]を[[周期表]]で表わすことがよくある。周期表は、元素の化学的性質が繰り返されるように配列された表で、価電子数が同じ元素は表の同じ列にグループを成している。表の水平方向の行は、量子殻電子の充填に対応する。表の右端の元素は、外殻が完全に電子で満たされているため化学的に不活性であり、[[希ガス]]として知られる<ref name="husted20031211" /><ref name="baum2003" />。
=== 状態 ===
{{Main|物質の状態|相 (物質)}}
[[File:Bose Einstein condensate.png|right|thumb|[[ボース=アインシュタイン凝縮]]の兆候。[[ルビジウム]]原子を絶対零度にごく近い温度(170 nK)に冷却することで個々の原子は凝縮し、単一体として振る舞う超原子となった。この図は、原子が密度の低い赤-黄-緑の領域から密度の高い青-白の領域へと凝縮していく様子を、連続した3次元画像で示す<ref>{{Cite journal|last=Anderson|first=M. H.|last2=Ensher|first2=J. R.|last3=Matthews|first3=M. R.|last4=Wieman|first4=C. E.|last5=Cornell|first5=E. A.|date=1995-07-14|title=Observation of Bose-Einstein Condensation in a Dilute Atomic Vapor|url=https://www.science.org/doi/10.1126/science.269.5221.198|journal=Science|volume=269|issue=5221|pages=198–201|language=en|doi=10.1126/science.269.5221.198|issn=0036-8075}}</ref>。 ]]
たくさんの原子は、[[温度]]や[[圧力]]などの物理的条件によって異なる[[物質の状態|物質状態]]をとる。物質は条件を変えることで、[[固体]]、[[液体]]、[[気体]]、[[プラズマ]]の間を転移することがある<ref>{{cite book
|last=Goodstein|first=David L.|year=2002
|title=States of Matter|url=https://archive.org/details/statesmatter00good_082|url-access=limited|publisher=Courier Dover Publications
|isbn=978-0-13-843557-8|pages=[https://archive.org/details/statesmatter00good_082/page/n445 436]–438}}</ref>。物質はまた、ある状態のもとで、異なる[[同素体]]が存在することもある。たとえば、固体の炭素は、[[グラファイト]]や[[ダイヤモンド]]のような同素体が存在する<ref name="pu49_7_719" />。{{Ill2|酸素の同素体|en|Allotropes of oxygen|label=二酸素}}や[[オゾン]]のように、気体の同素体も存在する。
[[絶対零度]]に近い温度では、原子は[[ボース=アインシュタイン凝縮|ボース=アインシュタイン凝縮体]]を形成する可能性がある。このとき、通常は原子スケールでしか観測されない量子力学的効果が、巨視的スケールで表れる<ref>{{cite book
|last=Myers|first=Richard|year=2003
|title=The Basics of Chemistry|url=https://archive.org/details/basicschemistry00myer|url-access=limited|publisher=Greenwood Press
|isbn=978-0-313-31664-7
|oclc=50164580|page=[https://archive.org/details/basicschemistry00myer/page/n98 85]}}</ref><ref name="nist_bec" />。この過冷却状態にある原子の集団が形成する単一の[[超原子]]の振る舞いが、量子力学的な挙動の基本的な観察を可能とするかも知れない<ref name="colton_fyffe1999" /><ref>{{Cite journal|last=Georgescu|first=Iulia|date=2020-08|title=25 years of BEC|url=https://www.nature.com/articles/s42254-020-0211-7|journal=Nature Reviews Physics|volume=2|issue=8|pages=396–396|language=en|doi=10.1038/s42254-020-0211-7|issn=2522-5820}}</ref>。{{Clear}}
== 識別 ==
[[File:Atomic resolution Au100.JPG|right|thumb|[[金]]([[ミラー指数|100]])の表面を構成する個々の原子を示す[[走査型トンネル顕微鏡]]像。表面原子はそのバルク[[結晶構造]]から外れ、溝を挟み数原子幅に並んだ列に配置している ([[表面再構成]]を参照)]]
原子は小さすぎて目で見ることはできないが、[[走査型トンネル顕微鏡]](STM)のような装置を使用して、固体表面の原子を視覚化することができる。この顕微鏡は[[量子トンネル]]現象を利用したもので、それによって、古典的な観点からは乗り越えられないような[[ポテンシャル障壁|障壁]]を粒子が通り抜けることを可能にする。電子は、2つの[[バイアス (電子工学)|バイアス]]電極間の真空を超えて伝播し、 距離に指数関数的に依存するトンネル電流を生成する。一方の電極は、鋭い先端を持つ探針で、理想的には単一原子で終わる。表面の走査の各点で、トンネル電流を設定値に保つように探針の高さを調整する。探針が表面からどれだけ近づいているか、あるいは離れているかを、標高プロファイルとして解釈する。低バイアスの場合、顕微鏡は、密集したエネルギー準位を横切って平均化された電子軌道、つまり[[フェルミ準位]]近傍の電子の[[局所状態密度]]を画像化する<ref name="jacox1997" /><ref name="nf_physics1986" />。距離が関係するため、個々の原子に対応する周期性を観察するためには、両方の電極が極めて安定していなくてはならない。この方法だけでは化学的な特異性を欠き、表面に存在する原子種を特定することはできない。
原子は質量によって容易に[[元素分析|識別]]することができる。原子から電子を1つ取り除いて[[イオン化]]すると、[[磁場]]を通過する際に軌道が曲げられる。移動するイオンの軌道が磁場によって曲げられる半径は、原子の質量によって決まる。[[質量分析法]]はこの原理を利用して、イオンの[[質量電荷比]]を測定する。試料に複数の同位体が含まれる場合、質量分析計で異なるイオンビームの強度を測定することで、試料中の各同位体の割合を決定することができる。原子気化法には、[[誘導結合プラズマ発光分析|誘導結合プラズマ発光分析法]]と[[誘導結合プラズマ質量分析法]]があり、どちらもプラズマを使って[[誘導結合プラズマ|試料を気化させて]]分析する<ref name="sab53_13_1739" />。
{{Ill2|アトムプローブ|en|Atom probe|label=アトムプローブ・トモグラフィー}}(atom-probe tomograph、アトムプローブ断層撮影法)は、3次元でサブナノメートルの分解能を持ち、[[飛行時間型質量分析法]]を使用して個々の原子を化学的に同定することができる<ref name="rsi39_1_83" />。
[[内殻電子]]の結合エネルギーを測定する[[X線光電子分光法]](XPS)や[[オージェ電子分光|オージェ電子分光法]](AES)などの電子放出技術は、試料中に存在する原子種を非破壊的に同定するために使用される。適切な集束をすることで、どちらも特定領域の分析が可能である。もう一つの方法、[[電子エネルギー損失分光法]](EELS)は、[[透過型電子顕微鏡]](TEM)内で[[電子ビーム]]が試料の一部と相互作用したときのエネルギー損失を測定する方法である。
[[励起状態]]のスペクトルは、遠方の[[恒星]]の原子組成を分析することにも使われている。恒星からの観測光に含まれる特定の光の[[波長]]を分離し、自由気体原子における量子化された遷移と対応付けることができる。これらの色は、同じ元素を含む{{Ill2|ガス放電ランプ|en|Gas-discharge lamp}}を使って再現することができる<ref name="lochner2007" />。こうして[[ヘリウム]]は、地球で発見される23年前に太陽スペクトルから発見された<ref name="winter2007" />。
== 起源と現状 ==
{{Ill2|バリオン物質|en|Baryonic matter}}([[バリオン]]で構成されたあらゆる種類の原子)は、[[観測可能な宇宙]]の全エネルギー密度の約4%を占め、その平均密度は約0.25個/m<sup>3</sup>(主に[[陽子]]と電子)である<ref name="hinshaw20060210" />。[[天の川]]のような[[銀河系]]内では、粒子の濃度ははるかに高く、[[星間物質]](ISM)の物質密度は10<sup>5</sup>-10<sup>9</sup> 原子/m<sup>3</sup> である<ref>{{cite book
|last1=Choppin|first1=Gregory R.
|last2=Liljenzin|first2=Jan-Olov|last3=Rydberg|first3=Jan
|year=2001|title=Radiochemistry and Nuclear Chemistry
|publisher=Elsevier|isbn=978-0-7506-7463-8
|oclc=162592180|page=441}}</ref>。太陽は[[局所泡]](ローカル・バブル)の中にあると考えられているため、[[局所恒星間雲|太陽近傍]]における密度はわずか約10<sup>3</sup>原子/m<sup>3</sup> である<ref name="science259_5093_327" />。恒星はISM内の高密度の雲から形成され、恒星の進化の過程でISMは水素やヘリウムよりも重い元素で着実に濃縮される。
天の川銀河に存在するバリオン物質の最大95%は恒星の内部に集中しており、すなわち原子物質にとって不利な条件下にある。銀河系の質量の約10%はバリオン物質の総質量であり<ref>{{cite book
|last=Lequeux|first=James|year=2005
|title=The Interstellar Medium
|url=https://archive.org/details/interstellarmedi00ryte|url-access=limited|publisher=Springer|isbn=978-3-540-21326-0
|oclc=133157789|page=[https://archive.org/details/interstellarmedi00ryte/page/n411 4]}}</ref>、残りは未知の[[暗黒物質]]の質量である<ref name="nigel2000" />。[[恒星の構造|恒星内部]]の[[温度|高温]]は、ほとんどの「原子」を完全に電離させる、つまり原子核から「すべての電子」を分離させる。白色矮星、中性子星、ブラックホールなど、[[コンパクト星|恒星の残骸]](総称してコンパクト星という)では、その表面層を除き、巨大な[[圧力]]が電子殻の形成を不可能にしている。
=== 形成 ===
{{Main|元素合成|恒星内元素合成}}
[[File:Nucleosynthesis periodic table.svg|thumb|600px|各元素の起源を示した周期表。炭素から硫黄までの元素は、小さな恒星で[[アルファ反応]]によって形成される。鉄より重い元素は、大きな恒星で遅い中性子捕獲 ([[s過程]]) によって形成される。鉄より重い元素は、中性子星合体<!-- neutron star mergers -->や超新星で[[r過程]]によって形成される。]]
電子は[[ビッグバン]]の初期から宇宙に存在していたと考えられている。原子核は[[元素合成|原子核合成]]と呼ばれる反応で形成される。[[ビッグバン原子核合成]]の理論によると、ビッグバンの約3分後から、宇宙に存在する[[ヘリウム]]、[[リチウム]]、[[重水素]]の大部分と、おそらく[[ベリリウム]]と[[ホウ素]]の一部が形成されたという<ref name="ns1794_42" /><ref name="science267_5195_192" /><ref name="hinshaw20051215" />。
原子の偏在性と安定性は、その[[結合エネルギー]]に依存する。すなわち、原子のエネルギーは、原子核と電子の非結合系よりもエネルギーが低いことを意味する。[[温度]]が[[イオン化ポテンシャル]]よりはるかに高い場合、物質は[[プラズマ]]の形で存在する。プラズマは、正電荷を帯びたイオン(場合によっては裸の原子核)と電子からなる気体である。温度がイオン化ポテンシャルより下がると、原子は[[統計力学|統計的]]に有利な状態になる。ビッグバンから38万年後([[再結合 (宇宙論)|再結合]]と呼ばれる時期)、膨張する宇宙が十分に冷えて電子が原子核に束縛されるようになり、原子(束縛電子を持つ)が[[荷電粒子]]よりも優位に立つようになった<ref name="abbott20070530" />。
ビッグバンでは[[炭素]]やそれより[[原子番号|重い元素]]は生成されなかったが、それ以降、[[恒星]]内部での[[核融合]]プロセスを経て原子核どうしが結合し、さらなる[[ヘリウム]]元素や、([[トリプルアルファ反応]]を経て)炭素から鉄に至る一連の元素を生成した<ref name="mnras106_343" />。詳細は[[恒星内元素合成]]を参照されたい。
リチウム6や、ベリリウム、ホウ素などの一部の同位体は、[[宇宙線による核破砕]]によって宇宙空間で生成された<ref name="nature405_656" />。これは、高エネルギーの陽子が原子核に衝突し、大量の核子が放出されることで起こる。
鉄より重い元素は、[[超新星]]や合体[[中性子星]]<!-- colliding neutron stars -->では [[r過程]] によって、また[[AGB星]]では [[s過程]] によって生成し、いずれも原子核による[[中性子捕獲]]を伴う<ref name="mashnik2000" />。[[鉛]]などの元素は、主により重い元素の放射性崩壊によって形成された<ref name="kgs20050504" />。
=== 地球 ===
[[地球]]とその生息生物を構成する原子のほとんどは、[[太陽系]]を形成するために[[分子雲]]から崩壊した[[星雲]]の中に、現在の形で存在していた。残りの原子は放射性崩壊の結果として生成した。それらの相対的な割合は、[[放射年代測定]]によって[[地球の年齢]]を決定するために使用することができる<ref name="Manuel2001pp511-519">[[#refManuel2001|Manuel (2001). ''Origin of Elements in the Solar System'', pp. 40–430, 511–519]]</ref><ref name="gs190_1_205" />。地球の地殻に含まれる[[ヘリウム]]の大部分(ガス井から採取されるヘリウムの約99%)は、[[アルファ崩壊]]の産物であり、それは[[ヘリウム3]]の存在量が低いことからも示される<ref name="anderson_foulger_meibom2006" />。
地球上には、最初には存在せず(つまり「原始」でない)、放射性崩壊の産物でもないような、微量原子がいくつか存在する。[[炭素14]]は、宇宙線によって大気中で絶え間なく生成される<ref name="pennicott2001" />。地球上の原子の中には、実験環境で意図的に、あるいは原子炉や核爆発の副産物として人工的に生成されたものもある<ref name="yarris2001" /><ref name="pr119_6_2000" />。[[超ウラン元素]](原子番号92を超える元素)のうち、地球上に天然に存在するのは[[ネプツニウム]]と[[プルトニウム]]のみである<ref name="poston1998" /><ref name="cz97_10_522" />。超ウラン元素の放射性寿命は現在の地球年齢よりも短いため<ref>{{cite book|last1=Zaider|first1=Marco|last2=Rossi|first2=Harald H.|year=2001|title=Radiation Science for Physicians and Public Health Workers|publisher=Springer|isbn=978-0-306-46403-4|oclc=44110319|page=[https://archive.org/details/radiationscience0000zaid/page/17 17]|url=https://archive.org/details/radiationscience0000zaid/page/17}}</ref>、[[宇宙塵]]によって堆積した可能性のある微量の[[プルトニウム244]]を除いて、これらの元素の特定可能な量はずっと前に崩壊している<ref name="Manuel2001pp511-519" />。ネプツニウムとプルトニウムの天然鉱床は、[[ウラン鉱石]]中で中性子捕獲によって生成される<ref name="ofr_cut" />。
地球には約{{val|1.33|e=50}} 個の原子が存在する<ref name="weisenberger" />。[[地球の大気|大気]]中には、[[アルゴン]]、[[ネオン]]、ヘリウムのような[[希ガス]]とよばれる独立原子が少数存在するが、大気の99%は[[二酸化炭素]]、[[二原子分子|二原子]][[酸素]]、[[窒素]]などの分子の形に結合した原子が占める。地球の表面では、圧倒的多数の原子が結合して、[[水]]、[[塩]]、[[ケイ酸塩]]、[[酸化物]]などのさまざまな化合物を形成している。原子が結合して、[[結晶]]や[[金属]]のように個別の分子で構成されていない物質を作り出すこともできる<ref name="pidwirnyf" /><ref name="pnas99_22_13966" />。こうした原子物質はネットワーク状の配列を形成しているが、分子物質に見られるような小規模で断続性の秩序を持たない<ref>{{cite book
|last=Pauling|first=Linus|year=1960
|title=The Nature of the Chemical Bond
|publisher=Cornell University Press
|isbn=978-0-8014-0333-0
|oclc=17518275|pages=5–10}}</ref>。
=== 希少元素と理論的形態 ===
==== 超重元素 ====
{{Main|超重元素}}
原子番号が82([[鉛]])よりも大きな核種はすべて放射性であることが知られている。原子番号92([[ウラン]])を超える核種は、{{Ill2|原始核種|en|Primordial nuclide}}としては地球上に存在しない。一般に重い元素ほど半減期は短い傾向があるが、原子番号[[ダームスタチウム|110]]から[[フレロビウム|114]]の超重元素の比較的長寿命の同位体を含む「[[安定の島]]」<ref name="cern28509" />の存在が考えられている<ref name="KarpovSHE">{{cite journal|last1=Karpov|first1=A. V.|last2=Zagrebaev|first2=V. I.|last3=Palenzuela|first3=Y. M.|last4=Ruiz|first4=L. F.|last5=Greiner|first5=W.|title=Decay properties and stability of the heaviest elements|journal=International Journal of Modern Physics E|date=2012|volume=21|issue=2|pages=1250013-1–1250013-20<!-- Deny Citation Bot-->|doi=10.1142/S0218301312500139|url=http://nrv.jinr.ru/karpov/publications/Karpov12_IJMPE.pdf|bibcode=2012IJMPE..2150013K|display-authors=3|access-date=24 March 2020|archive-date=3 December 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20161203230540/http://nrv.jinr.ru/karpov/publications/Karpov12_IJMPE.pdf|url-status=live}}</ref>。この島で最も安定な核種の半減期は数分から数百万年と予測されている<ref name="physorg">{{cite web |url=http://newscenter.lbl.gov/2009/09/24/114-confirmed/ |title=Superheavy Element 114 Confirmed: A Stepping Stone to the Island of Stability |date=2009 |publisher=[[:en:Lawrence Berkeley National Laboratory|Berkeley Lab]] |access-date=24 March 2020 |archive-date=20 July 2019 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190720200414/https://newscenter.lbl.gov/2009/09/24/114-confirmed/ |url-status=live }}</ref>。いずれにせよ、この安定化効果がなければ、[[クーロン]]反発力の増加により(その結果、半減期がますます短くなって[[自発核分裂]]が起こる)、超重元素(''Z'' > 104)は存在しなくなる<ref name="liquiddrop">{{cite journal |last=Möller |first=P. |date=2016 |title=The limits of the nuclear chart set by fission and alpha decay |journal=EPJ Web of Conferences |volume=131 |pages=03002-1–03002-8<!-- Deny Citation Bot--> |url=http://inspirehep.net/record/1502715/files/epjconf-NS160-03002.pdf |doi=10.1051/epjconf/201613103002 |bibcode=2016EPJWC.13103002M |doi-access=free |access-date=24 March 2020 |archive-date=11 March 2020 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200311130852/http://inspirehep.net/record/1502715/files/epjconf-NS160-03002.pdf |url-status=live }}</ref>。
==== 異種物質 ====
{{Main|1=[[エキゾチック物質|異種物質]]}}
物質の各粒子には、反対の電荷を持つ対応する[[反物質]]粒子がある。たとえば、[[陽電子]]は正電荷を帯びた[[反電子]]の同等物であり、反陽子は負電荷を帯びた[[陽子]]の同等物である。物質粒子と対応する反物質粒子が出会うと、互いに消滅する。このため、物質粒子と反物質粒子の数は不均衡になり、反物質粒子は宇宙では希少なものとなる。この不均衡の最初の原因はまだ完全には解明されていないが、[[バリオン数生成]]の理論で説明が試みられている。結果的には、自然界で反物質原子は発見されていない<ref name="koppes1999" /><ref name="cromie20010816" />。1996年、[[ジュネーヴ|ジュネーブ]]の[[欧州原子核研究機構]](CERN)で水素原子の反物質原子([[反水素]])が合成された<ref name="nature419_6906_439" /><ref name="BBC20021030" />。
陽子、中性子、電子のいずれか1つを同じ電荷を持つ他の粒子と置き換えることで、別の[[異種原子]]が作られてきた。たとえば、電子をより質量の大きい[[ミューオン]]と置き換えて、{{Ill2|ミューオン原子|en|Muonic atom}}を形成することができる。この種の原子は、物理学の基本的な予測を検証するために使うことができる<ref name="ns1728_77" /><ref name="psT112_1_20" /><ref name="ripin1998" />。
== 関連項目 ==
{{cmn|colwidth=21em|
* [[量子力学の歴史]] - 現代物理学の根幹をなす量子力学が生まれた歴史的なできごと{{Enlink|History of quantum mechanics|英語版が優れる|en}}
* {{Ill2|無限回分解可能|en|Infinite divisibility}} - 哲学、物理学、経済学、秩序理論、確率論など、さまざまな分野で語られる話題
* {{Ill2|化学の概要|en|Outline of chemistry}} - 化学の概要およびトピックガイド
* [[運動 (物理学)]] - 物体が時間に対してその位置を変化させること
* [[原子・亜原子物理学の年表]]
* [[原子核]] - 原子の中心にある陽子と中性子からなる小さく密な領域
* [[放射性同位体]] - 過剰な核エネルギーを持ち、不安定な核種
}}
== 注釈 ==
{{reflist|group="note"}}
{{notelist}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!-- this 'empty' section displays references defined elsewhere -->
{{reflist|30em|refs=
<!-- unused <ref name=adp322_8_549>{{cite journal|last=Einstein|first=Albert|year=1905|title=Über die von der molekularkinetischen Theorie der Wärme geforderte Bewegung von in ruhenden Flüssigkeiten suspendierten Teilchen|journal=[[:en:Annalen der Physik|Annalen der Physik]]|volume=322|issue=8|pages=549–560|language=de|url=http://www.zbp.univie.ac.at/dokumente/einstein2.pdf|doi=10.1002/andp.19053220806|bibcode=1905AnP...322..549E|archive-url=https://web.archive.org/web/20070718202731/http://www.zbp.univie.ac.at/dokumente/einstein2.pdf|archive-date=18 July 2007|url-status=live|doi-access=free}}</ref> -->
<!-- unused <ref name=lee_hoon1995>{{cite web|last=Lee|first=Y.K.|year=1995|author2=Hoon, K.|title=Brownian Motion|url=http://www.doc.ic.ac.uk/~nd/surprise_95/journal/vol4/ykl/report.html|publisher=[[:en:Imperial College|Imperial College]]|archive-url=https://web.archive.org/web/20071218061408/http://www.doc.ic.ac.uk/~nd/surprise_95/journal/vol4/ykl/report.html|archive-date=18 December 2007|url-status=dead}}</ref> -->
<!-- unused <ref name=e31_2_50>{{cite journal|last=Patterson|first=G.|year=2007 |title=Jean Perrin and the triumph of the atomic doctrine|journal=[[:en:Endeavour (journal)|Endeavour]]|volume=31|issue=2|pages=50–53|doi=10.1016/j.endeavour.2007.05.003|pmid=17602746}}</ref> -->
<ref name=npc1921>{{cite web|url=http://nobelprize.org/nobel_prizes/chemistry/laureates/1921/soddy-bio.html|title=Frederick Soddy, The Nobel Prize in Chemistry 1921|publisher=[[ノーベル財団]]|access-date=18 January 2008|archive-url=https://web.archive.org/web/20080409210519/http://nobelprize.org/nobel_prizes/chemistry/laureates/1921/soddy-bio.html|archive-date=9 April 2008|url-status=live}}</ref>
<ref name=prsA_89_1_1913>{{cite journal|doi=10.1098/rspa.1913.0057|last=Thomson|first=Joseph John|title=Rays of positive electricity|url=http://web.lemoyne.edu/~giunta/canal.html|series=A|journal=[[:en:Proceedings of the Royal Society|Proceedings of the Royal Society]]|year=1913|volume=89|issue=607|pages=1–20|bibcode=1913RSPSA..89....1T|doi-access=free|archive-url=https://web.archive.org/web/20161104174348/http://web.lemoyne.edu/~giunta/canal.html|archive-date=4 November 2016|url-status=live}}</ref>
<ref name=stern20050516>{{cite web|last=Stern|first=David P.|date=16 May 2005|title=The Atomic Nucleus and Bohr's Early Model of the Atom|url=http://www-spof.gsfc.nasa.gov/stargaze/Q5.htm|publisher=[[NASA]]/[[ゴダード宇宙飛行センター]]|archive-url=https://web.archive.org/web/20070820084047/http://www-spof.gsfc.nasa.gov/stargaze/Q5.htm|archive-date=20 August 2007|url-status=live|accessdate=2022-02-17}}</ref>
<ref name=bohr19221211>{{cite web|last=Bohr|first=Niels|date=11 December 1922|title=Niels Bohr, The Nobel Prize in Physics 1922, Nobel Lecture|url=http://nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/1922/bohr-lecture.html|publisher=[[ノーベル財団]]|archive-url=https://web.archive.org/web/20080415183736/http://nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/1922/bohr-lecture.html|archive-date=15 April 2008|url-status=live|accessdate=2008-02-16}}</ref>
<ref name=jacs38_4_762>{{cite journal|last=Lewis|first=Gilbert N.|year=1916|title=The Atom and the Molecule|journal=[[:en:Journal of the American Chemical Society|Journal of the American Chemical Society]]|volume=38|issue=4|pages=762–786|doi=10.1021/ja02261a002|s2cid=95865413 |url=https://zenodo.org/record/1429068|archive-url=https://web.archive.org/web/20190825132554/https://zenodo.org/record/1429068/files/article.pdf|archive-date=25 August 2019|url-status=live}}</ref>
<ref name=jacs41_6_868>{{cite journal|last=Langmuir|first=Irving|year=1919|title=The Arrangement of Electrons in Atoms and Molecules|journal=[[:en:Journal of the American Chemical Society|Journal of the American Chemical Society]]|volume=41|issue=6|pages=868–934|doi=10.1021/ja02227a002|url=https://zenodo.org/record/1429026|archive-url=https://web.archive.org/web/20190621192330/https://zenodo.org/record/1429026|archive-date=21 June 2019|url-status=live}}</ref>
<!--
<ref name=fop17_6_575>{{cite journal|last=Scully|first=Marlan O. |author2=Lamb, Willis E.|author3= Barut, Asim|year=1987|title=On the theory of the Stern-Gerlach apparatus|journal=[[:en:Foundations of Physics|Foundations of Physics]]|volume=17|issue=6|pages=575–583|doi=10.1007/BF01882788|bibcode = 1987FoPh...17..575S |s2cid=122529426 }}</ref>
-->
<ref name=brown2007>{{cite web|last=Brown|first=Kevin|year=2007|url=http://www.mathpages.com/home/kmath538/kmath538.htm|title=The Hydrogen Atom|publisher=MathPages|archive-url=https://archive.today/2012.09.05-172648/http://www.mathpages.com/home/kmath538/kmath538.htm|archive-date=5 September 2012|url-status=live|accessdate=2008-01-02}}</ref>
<ref name=harrison2000>{{cite web|last=Harrison|first=David M.|year=2000|title=The Development of Quantum Mechanics|url=http://www.upscale.utoronto.ca/GeneralInterest/Harrison/DevelQM/DevelQM.html|publisher=[[トロント大学]]| archive-url= https://web.archive.org/web/20071225095938/http://www.upscale.utoronto.ca/GeneralInterest/Harrison/DevelQM/DevelQM.html| archive-date= 25 December 2007 | url-status= live|accessdate=2008-01-02}}</ref>
<ref name=pm39_6_449>{{cite journal|last=Aston|first=Francis W.|year=1920|title=The constitution of atmospheric neon|journal=[[:en:Philosophical Magazine|Philosophical Magazine]]|volume=39|issue=6|pages=449–455|doi=10.1080/14786440408636058|url=https://zenodo.org/record/1430720|access-date=25 October 2020|archive-date=27 April 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20210427095842/https://zenodo.org/record/1430720|url-status=live}}</ref>
<ref name=chadwick1935>{{cite web|last=Chadwick|first=James|date=12 December 1935|title=Nobel Lecture: The Neutron and Its Properties|url=http://nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/1935/chadwick-lecture.html|publisher=[[ノーベル財団]]|archive-url=https://web.archive.org/web/20071012100351/http://nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/1935/chadwick-lecture.html|archive-date=12 October 2007|url-status=live|accessdate=2008-01-02}}</ref>
<ref name="CHF">{{cite web|title=Otto Hahn, Lise Meitner, and Fritz Strassmann|url=https://www.sciencehistory.org/historical-profile/otto-hahn-lise-meitner-and-fritz-strassmann|website=Science History Institute|date=June 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20180321130950/https://www.sciencehistory.org/historical-profile/otto-hahn-lise-meitner-and-fritz-strassmann|archive-date=21 March 2018|url-status=live|accessdate=2018-03-21}}</ref>
<ref name=Bowden>{{cite book|last1=Bowden|first1=Mary Ellen|title=Chemical achievers : the human face of the chemical sciences|date=1997|publisher=Chemical Heritage Foundation|location=Philadelphia, PA|isbn=978-0-941901-12-3|chapter=Otto Hahn, Lise Meitner, and Fritz Strassmann|pages=[https://archive.org/details/chemicalachiever0000bowd/page/76 76–80, 125]|chapter-url=https://archive.org/details/chemicalachiever0000bowd/page/76}}</ref>
<ref name=nature143_3615_239>{{cite journal |last1=Meitner|first1=Lise|last2=Frisch|first2=Otto Robert|year=1939|title=Disintegration of uranium by neutrons: a new type of nuclear reaction|journal=[[:en:Nature (journal)|Nature]]|volume=143 |issue=3615 |pages=239–240 |doi=10.1038/143239a0 |bibcode = 1939Natur.143..239M |s2cid=4113262}}</ref>
<ref name=schroeder>{{cite web|last=Schroeder|first=M.|title=Lise Meitner – Zur 125. Wiederkehr Ihres Geburtstages|url=http://www.physik3.gwdg.de/~mrs/Vortraege/Lise_Meitner-Vortrag-20031106/|language=de|access-date=4 June 2009|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20110719034227/http://www.physik3.gwdg.de/~mrs/Vortraege/Lise_Meitner-Vortrag-20031106/|archive-date=19 July 2011}}</ref>
<ref name=schroeder2>{{cite web |last=Schroeder|first=Paul A.
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<ref name=pt50_9_26>{{cite journal|last1=Crawford |first1=E.| year=1997|title=A Nobel tale of postwar injustice|url=https://www.researchgate.net/publication/260861491|journal=[[:en:Physics Today|Physics Today]]|volume=50|issue=9|pages=26–32|doi=10.1063/1.881933|last2=Sime|first2=Ruth Lewin|author-link2=Ruth Lewin Sime|last3=Walker|first3=Mark |bibcode = 1997PhT....50i..26C }}</ref>
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<ref name=wenner2007>{{cite web|last=Wenner|first=Jennifer M.|date=10 October 2007|url=http://serc.carleton.edu/quantskills/methods/quantlit/RadDecay.html|title=How Does Radioactive Decay Work?|publisher=Carleton College|archive-url=https://web.archive.org/web/20080511173156/http://serc.carleton.edu/quantskills/methods/quantlit/RadDecay.html|archive-date=11 May 2008|url-status=live|accessdate=2008-01-09}}</ref>
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* {{cite book
|author=John Dalton
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|url=https://library.si.edu/digital-library/book/newsystemofchemi12dalt
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|title=A New System of Chemical Philosophy vol. 2
|url=https://library.si.edu/digital-library/book/newsystemofchemi21dalt
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* {{cite book
|author=John L. Heilbron
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* {{cite book|author=Bernard Pullman |translator=Axel Reisinger |year=1998 |title=The Atom in the History of Human Thought |publisher=Oxford University Press |isbn=0-19-511447-7 |ref=refPullman1998}}
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|author=Jean Perrin
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== 推薦文献 ==
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* {{cite book
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* {{cite book
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|title=Dictionary of World Philosophy
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* {{cite book|last=Teresi|first=Dick|publisher=Simon & Schuster|title=Lost Discoveries: The Ancient Roots of Modern Science|year=2003|isbn=978-0-7432-4379-7|url=https://books.google.com/books?id=pheL_ubbXD0C|pages=213–214|access-date=25 October 2020|archive-date=4 August 2020|archive-url=https://web.archive.org/web/20200804145606/https://books.google.com/books?id=pheL_ubbXD0C|url-status=live}}
* {{cite book
|last=Wurtz|first=Charles Adolphe|year=1881
|title=The Atomic Theory
|publisher=D. Appleton and company
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== 外部リンク ==
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[[Category:哲学の和製漢語]] | 2003-02-21T06:29:55Z | 2023-12-27T04:17:07Z | false | false | false | [
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2,639 | 問い合わせ言語 | 問い合わせ言語(といあわせげんご、英: query language)とは、コンピュータのデータに対して問い合わせをするためのコンピュータ言語である。
データの構造(データモデル)によってさまざまである。たとえば、関係データベースに対する問い合わせ言語は、関係代数の集合演算、比較、ソートといった機能を持つものが多い。
なお、コンピュータのデータベースを扱うためのコンピュータ言語をデータベース言語という。
問い合わせ言語とデータベース言語は、概念的に重なる部分もあるが、同義ではない。 | [
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] | 問い合わせ言語とは、コンピュータのデータに対して問い合わせをするためのコンピュータ言語である。 データの構造(データモデル)によってさまざまである。たとえば、関係データベースに対する問い合わせ言語は、関係代数の集合演算、比較、ソートといった機能を持つものが多い。 なお、コンピュータのデータベースを扱うためのコンピュータ言語をデータベース言語という。 問い合わせ言語とデータベース言語は、概念的に重なる部分もあるが、同義ではない。 | {{出典の明記|date=2020年2月17日 (月) 09:04 (UTC)}}
'''問い合わせ言語'''(といあわせげんご、{{lang-en-short|query language}})とは、[[コンピュータ]]のデータに対して問い合わせをするための[[コンピュータ言語]]である。
[[データ構造|データの構造]]([[データモデル]])によってさまざまである。たとえば、[[関係データベース]]に対する問い合わせ言語は、[[関係代数 (関係モデル)|関係代数]]の集合演算、比較、[[ソート]]といった機能を持つものが多い。
なお、コンピュータの[[データベース]]を扱うための[[コンピュータ言語]]を[[データベース言語]]という。
問い合わせ言語とデータベース言語は、概念的に重なる部分もあるが、同義ではない。
==問い合わせ言語の例==
*[[SQL]]
*[[例示による問い合わせ|例示による問い合わせ (QBE, Query by Example)]]
*[[QUEL]]
*[[Tutorial D]]
*[[XQuery]]
*[[SPARQL]] - RDF形式のデータに対しての問合せ言語
*[[LINQ]] - [[C Sharp|C♯]]や[[Visual Basic .NET|VB.NET]]などの言語内拡張
==関連項目==
*[[コンピュータ言語]]
*[[データベース言語]]
*[[オブジェクト問い合わせ言語]]
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[[Category:問い合わせ言語|*]]
[[no:Database#Spørrespråk]] | null | 2022-01-22T11:13:19Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%8F%E3%81%84%E5%90%88%E3%82%8F%E3%81%9B%E8%A8%80%E8%AA%9E |
2,640 | 線型探索 | 線型探索(せんけいたんさく、英: linear search, sequential search)は、検索のアルゴリズムの一つ。 リストや配列に入ったデータに対する検索を行うにあたって、 先頭から順に比較を行い、それが見つかれば終了する。
n {\displaystyle n} 個のデータから m {\displaystyle m} 個のデータを検索する場合、時間計算量は O ( n m ) {\displaystyle O(nm)} 、空間計算量は O ( 1 ) {\displaystyle O(1)} である。
「馬鹿サーチ」とも呼ばれるものの、データ数が少ない場合は優秀なアルゴリズムだと謂える。プログラミング言語の予約語探索などでは、理論的にはハッシュ法のほうが早いが、全体の効率を考えると、あまり影響はない。
下のような7個のデータを持つリストがある。このときに今要素1がどこにあるか、検索したい。
線形探索では、
最悪のケースは、このリストの場合、要素3を見つけるときで、7個のデータ全てを見ないと、見つけることができない。 | [
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] | 線型探索は、検索のアルゴリズムの一つ。
リストや配列に入ったデータに対する検索を行うにあたって、
先頭から順に比較を行い、それが見つかれば終了する。 n 個のデータから m 個のデータを検索する場合、時間計算量は O 、空間計算量は O である。 「馬鹿サーチ」とも呼ばれるものの、データ数が少ない場合は優秀なアルゴリズムだと謂える。プログラミング言語の予約語探索などでは、理論的にはハッシュ法のほうが早いが、全体の効率を考えると、あまり影響はない。 | {{pathnav|探索|frame=1}}
'''線型探索'''(せんけいたんさく、{{lang-en-short|linear search, sequential search}})は、[[検索]]の[[アルゴリズム]]の一つ。
[[リスト (抽象データ型)|リスト]]や[[配列]]に入ったデータに対する検索を行うにあたって、
先頭から順に比較を行い、それが見つかれば終了する。
<math>n</math>個のデータから<math>m</math>個のデータを検索する場合、時間計算量は <math>O(nm)</math> 、空間計算量は <math>O(1)</math> である。
{{独自研究範囲|date=2023年8月|「馬鹿サーチ」とも呼ばれるものの、データ数が少ない場合は優秀なアルゴリズムだと謂える。プログラミング言語の予約語探索などでは、理論的にはハッシュ法のほうが早いが、全体の効率を考えると、あまり影響はない}}。
==アルゴリズムの流れ==
下のような7個のデータを持つリストがある。このときに今要素1がどこにあるか、検索したい。
{|class=wikitable
|style="min-width:1.5em;text-align:center"|10
|style="min-width:1.5em;text-align:center"|7
|style="min-width:1.5em;text-align:center"|12
|style="min-width:1.5em;text-align:center"|6
|style="min-width:1.5em;text-align:center"|1
|style="min-width:1.5em;text-align:center"|4
|style="min-width:1.5em;text-align:center"|3
|}
線形探索では、
*最初の要素である10を見る。
*10は1ではないので、次の要素7を見る。
*7は1ではないので、次の要素12を見る。
*12は1ではないので、次の要素6を見る。
*6は1ではないので、次の要素1を見る。1を見つけることができた。
最悪のケースは、このリストの場合、要素3を見つけるときで、7個のデータ全てを見ないと、見つけることができない。
==プログラム例==
===Common Lisp===
<syntaxhighlight lang="lisp">
(defun linear-search (list x)
(dolist (e list)
(when (equal e x)
(return-from linear-search T))) ;found
NIL) ;not found
</syntaxhighlight>
===F#===
<syntaxhighlight lang="fsharp">
// For basic sequence:
let find value (vs: seq<_>) =
use e = vs.GetEnumerator()
let rec ifind index =
if e.MoveNext() then
if e.Current = value then Some index else ifind (index + 1)
else None
ifind 0
// For list:
let find2 value vl =
let rec ifind2 index vl =
if List.isEmpty vl then None
else if (List.head vl) = value then Some index
else ifind2 (index + 1) (List.tail vl)
ifind2 0 vl
</syntaxhighlight>
===C===
<syntaxhighlight lang="c">
/* for integer array: */
int
find(
int array[],
int array_size,
int value)
{
int i;
for (i = 0; i < array_size; ++i)
{
if (array[i] == value) { return i; }
}
return -1;
}
</syntaxhighlight>
==関連項目==
* [[grep]]
* [[二分探索]]
* [[情報検索]]
{{アルゴリズム}}
{{デフォルトソート:せんけいたんさく}}
[[Category:検索アルゴリズム]] | 2003-02-21T07:16:39Z | 2023-08-03T02:49:50Z | false | false | false | [
"Template:Pathnav",
"Template:Lang-en-short",
"Template:独自研究範囲",
"Template:アルゴリズム"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%9A%E5%9E%8B%E6%8E%A2%E7%B4%A2 |
2,642 | ネットワーク | ネットワーク (英:network)
net ネット(=網)状の、work ワーク(=作られたものごと)の総称。 | [
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"text": "ネットワーク (英:network)",
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"text": "net ネット(=網)状の、work ワーク(=作られたものごと)の総称。",
"title": null
}
] | ネットワーク (英:network) net ネット(=網)状の、work ワーク(=作られたものごと)の総称。 | {{Wiktionary pipe}}
'''ネットワーク''' (英:'''network''')
net ネット(=[[網]])状の、work ワーク(=作られたものごと<ref>この「work」は、「作られた何か」を漠然と指すための表現。<br />framework [[フレームワーク]](=frame 枠 状に<u>作られたもの</u>)。つまり「枠組み」)<br />
patchwork [[パッチワーク]](=patchパッチ、つまり「切り貼り」状に<u>作られたもの</u>)
</ref>)の総称<ref>概して、[[線]]状のところと[[結び目]]状(あるいは[[交点]]状)のところからなる。</ref><ref>IT用語については「節点(ノード)と経路(リンク又はエッジ)からなる」とも。ここはあくまで「ネットワーク」というさまざまに用いられる用語の曖昧ページなので、IT視点に凝り固まって書かず、IT詳細はあくまで【[[コンピュータネットワーク]]】に記入すべし。</ref>。
== 一般概念 ==
* 人やものごとを網状につなげた系、システム<ref name="oxford_dic">[http://www.oxforddictionaries.com/definition/english/network] {{404|date=2023-8}}</ref>。理論的枠組み→'''[[ネットワーク理論]]'''
**人間や組織のつなげた系→'''[[社会的ネットワーク]]'''
***人と人をつなげるしくみ。「サポートネットワーク」(=援助のための人のつながり)など。
***人と人が連絡するための網状のしくみ → '''[[連絡網]]'''
***人と人のつながり →[[人脈]]
*** 企業の、[[本社]]・支社・[[支店]]・[[営業所]]などを網状につなぐしくみ。サービス拠点や、販売用店舗のつながり。
*** 本部と地方にある部署とを連絡するための体系の総称。→[[連絡網]]
**交通に関して(鉄道、道路 等々を)網状につなげたシステム<ref name="oxford_dic" />。→[[:en:Transport network]](英語版、独立記事あり)、[[交通網]](日本語版、独立記事無し)。{{仮リンク|道路網|en|Street network}}、[[鉄道網]]、{{仮リンク|航空網|en|Air Transport Network}}。[[迂回]]
** 番組を同時に[[放送]]するための放送局のグループのこと<ref name="oxford_dic" />。→{{仮リンク|放送網|en|Broadcast network}}、'''[[ネットワーク (放送)]]'''
** 通信のための網状のしくみ。→'''{{仮リンク|通信網|en|Telecommunications network}}'''。([[有線通信]]、[[無線通信]])
** コンピュータをつないだものや機械をつないだもの<ref name="oxford_dic" />。→'''[[コンピュータネットワーク]]'''
** 電気伝導体をつないだもの<ref name="oxford_dic" />。→[[電気回路]]
*** 回路部品が複数、網状に含まれる複合素子のこと。→[[抵抗器|抵抗]]ネットワーク、[[スピーカー|クロスオーバーネットワーク]]など。
** [[データベースモデル|データモデル]]の一種で、網状のそれのこと →[[ネットワーク型データモデル]]
*蜘蛛がつくる網状のそれ<ref name="oxford_dic" />。→[[蜘蛛の網]]、[[蜘蛛の巣]]
== 特定の製品名、サービス名、グループ名、作品名など ==
*[[旅行会社]]・アップオンが主催していた[[ツアーバス]]、及びそれが移行した高速路線バスの愛称。
** 東京・新宿 - 京都・心斎橋線は[[中央交通 (大阪府)]]を参照。
** 東京・新宿 - 京都・USJ線、東京・新宿 - 名古屋線、新宿 - 新潟線は[[泉観光バス (新潟県)]]を参照。
*[[TBSテレビ|TBS]] ([[Japan News Network|JNN]]) で放送されたニュース。→[[ネットワーク (ニュース番組)]]
*1976年のアメリカ映画 ( ピーター・フィンチ、フェイ・ダナウェイ主演、シドニー・ルメット監督)→『[[ネットワーク (映画)]]』
* [[日本ビクター]]がかつて販売していたテレビの名称。→[[NETWORK (テレビ)]]
* 2004年にリリースされた[[TM NETWORK]]の通算36枚目のシングル。→[[NETWORK™]]
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[特別:検索/intitle:ネットワーク|「ネットワーク」を含む記事名一覧]]
* [[網]]
* [[インターネット]]
{{Aimai}}
{{デフォルトソート:ねつとわあく}}
[[Category:同名の作品]] | 2003-02-21T07:41:39Z | 2023-08-13T00:35:44Z | true | false | false | [
"Template:Wiktionary pipe",
"Template:仮リンク",
"Template:404",
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF |
2,646 | ロードバイク | ロードバイク(英: road bike)とは国際自転車競技連合(UCI)が定めたロードレース用自転車またはそれに準じた物。「ロードレーサー」と呼ばれることもある(80年代までは「レーサー」の呼称の方が一般的だった。「バイク」は自動二輪車の呼称のため)。ツール・ド・フランスなどのUCI管轄の自転車ロードレースで用いられる。
競技用としてのロードバイクの原型が完成したのは1900年代頃と考えられる。当初、ロードレースは土道、トラックレースは陸上競技と共用の踏み固められた土のトラックで行われており、一方に特化した機材は存在せず、双方ともブレーキのない固定ギアの自転車が用いられていた。しかし、ロードレース用の自転車にブレーキが装備されるようになり、トラックレースではそれを禁じたことから双方の機材特化が始まった。ハンドルはセミドロップハンドルに近いものであったが、1910年代に入るとロードレースに適したドロップハンドルが開発された。また、この時代になるとダブルコグと呼ばれる左右で歯数の違うギアを装備した車両が一般的となり、起伏にもある程度対応できるようになった。しかし、ダブルコグ式は坂に差し掛かるたびに後輪を逆に取り付ける必要があるため交換に時間を要し、また固定に用いられるウィングナットは低温状況下において、かじかんだ手での着脱が困難なものであった。
1930年代になると、現在のロードバイク用ハンドルとして一般的なマースバーが使われ始め、1933年にウィングナット留めの欠点を補ったカンパニョーロの原点ともいえるクイックリリースシステムが登場した。
4年後の1937年には、ツール・ド・フランスにおいて変速機が使用できるようになった。
第二次世界大戦によってロードレースの開催が一時中断するものの、1947年にツール・ド・フランスが再開されるとふたたび技術革新が進み、フロントギアへの変速機構の導入や、木製リムから金属製リムへの移行などが行われた。
1950年頃になると、クランクを逆転させて変速する必要がないスライド式のディレーラーが前後とも主流となり、まもなくリアはタケノコ式のディレーラーに移り変わっていった。
1960年代初頭には、変速性能が良いパンタグラフ式が前後とも主流になった。こうして変速機構が進化するなか、ブレーキを備える固定ギアを用いる選手もまた1960年代前半頃まで少数ではあるが存在した。
1970年代に入ると、1971年にコンポーネントという概念を形にしたパーツセット「ヌーボレコード」(nouvo record。イタリア語で「新記録」)をカンパニョーロが発売し、翌年にはシマノがデュラエースを発売。カンパニョーロはこれに対抗して、1973年に「スーパーレコード」を発売するなど、ロードバイク業界は一気に変化を遂げた。1978年には、シマノが現在主流となっている「カセットフリー」(スプロケット)を実用化。デュラエースEXシリーズの一部として発売された。1980年代以降、ロードバイクもマウンテンバイクで培われた新しい技術を採り入れ、軽量化や新素材の開発も進み、信頼性・操作性が格段に向上した。
UCIが主催するロードレース用自転車に準じる。UCIの規定の範囲内に置いて高速走行性能を優先して設計されるため、決してロードバイクが最速ではなく、空気抵抗の点ではさらに先鋭化させたリカンベントも存在する。ドロップハンドルと呼ばれる特徴的な形状のハンドルをもち、泥よけやスタンドなど、走ることに不要な部品は装備せず、前照灯や後部反射板も装備していない。溝が浅く少ない、幅の細い高圧タイヤを履き、転がり抵抗の減少を図っている。部品や素材は開発が続けられており、軽量化が進んでいる。1990年代までは「ロードレーサー」と呼ばれていた。
UCIのロードレースとしての範囲以外に対しては拘束力は無い、そのため「UCIが管轄しないロードレース」や「トライアスロンのバイクセクション」、「単なる街乗り」などに対しては拘束力は無い。ただし、ロードバイクは比較的速く走行でき、入手性も高いためUCIに管轄されない範囲でも活用されることが多いが、参加する競技や生活する自治体の要件を満たした自転車である必要はある。
運転に当たって前傾姿勢を取るため前方視界が限られることなどから、シティサイクルなどに比べて事故の当事者となり得る可能性が高いため、一般道での走行には細心の注意を必要とする。
車体質量が小さいほど加速や登坂に要するエネルギーは少なくて済むために、ロードバイクでは軽量性が重視される。現在では、新素材・設計の導入によりその質量は非常に小さく、一般的なシティサイクル、実用車の1/2 - 1/3(もしくはそれ以下)の質量になる。軽量なものでは5kgを切るような車体を作成することも可能である。どこまで実用的なのかは不明だが、2Kg台のロードバイクも存在する。
国際自転車競技連合(UCI)の規定では、過度な機材の軽量化を防止するために質量の最低重量を6.8kgと設定している。2000年代以降は炭素繊維強化プラスチックなど軽量な素材が登場し、最低重量を下回ることも容易となった。プロ競技においてはバラストとしてGPSやルート表示機能を備えたサイクルコンピュータやパワー測定装置、ディスクブレーキなどの機材を装着して規定をクリアする場合もある。
ほぼすべてがシンプルなダイヤモンドフレームを採用しているといってもよい。これにはロードレースではUCIの規定によりダイヤモンドフレーム以外の機材を用いることが許されていないという理由もある。ただし、そのような規制がなかった1990年代には、個性的なフレームの自転車がタイムトライアル競技で採用されていた。UCIでなく国際トライアスロン連合が統括するトライアスロン競技用として、非ダイヤモンドフレームの製品もあるが、以前に比べると減少傾向にある。1cm刻みのフレームサイズを用意できたパイプ接合の頃に比べ、サイズ別の成型型を用意しなければならないCFRP製一体成型が普及することに伴い、粗いサイズ展開になりつつある。
ロードバイク(ロードレーサー)は、源流を同じくするトラックレーサーとともに、現存する競技用、あるいはそれに準ずる自転車の最も古い形態であるということができ、最もシンプルな形をしている。より速く走るためにできるだけ軽くし、無駄なものを可能な限り排除した設計がなされている。そのため、積載能力や走行以外の二次的な用途を前提とした設計はあまり考慮されていない。なかには乗り手の体重制限を設けてまで素材の肉厚を切り詰め、軽量化を図ったフレームも存在する。
フレーム素材は、クロムモリブデン鋼(クロモリ)に代表される鋼(スチール)、アルミニウム合金、カーボンが主流である。またかつてはアルミ+スチールやアルミ+カーボンなどのハイブリッドフレームも販売されていた。2014年現在、トップカテゴリーではフルカーボンフレームが主流だが、入門用のものではアルミフレームも多く、スチールフレームは軽量化の面でアルミやカーボンに劣るためレースではほとんど使用されなくなったが、一般的に耐久性が高く長い期間使用できることやクラシカルな細身のフレームは独特の美しさを感じさせることもあり根強い人気がある。わずかだが荒れた路面での振動吸収を狙ったサスペンション機構を搭載する物も存在する。
プロレース、ハイレベルなアマチュアにおいては、コースに応じて高速巡航時の空力性能に優れたエアロホイールや、ヒルクライムに適した軽量ホイールなどが使い分けられる。また、規定で認められている場合には直径が違うホイールを使い分けることもある。この場合には、規格の違うホイールはフレームに適合しないため、車両ごと交換が行われる。
ロードバイクのタイヤは、700C、650C(26インチWO)。主流は700Cであり、ロードレースなどUCI管轄の自転車競技で700C以外が使われることは稀だが、トライアスロン用機材を中心に650Cのものが存在する。650Cのホイールは、700Cよりも径が小さいことで空気抵抗の少ないポジションがとりやすくなるため、集団走行やドラフティング(他の競技者の真後ろについて空気抵抗を軽減する技術)が原則として禁止されているトライアスロンでは、650Cは合理的な選択である。また、650Cはタイヤの外径が小さいため、タイヤを回転させるためのトルクが小さく、さらにギア比も小さくなることから加速の点では有利である。そのため、一時期ロードレースでも山岳での勾配が険しいコースで用いる選手もいた。しかし、直進安定性、高速巡航性能、コーナリング特性は700Cに比べて劣っているというのが定説である。
ホイールには大きく分けて2種類の製品がある。技術的な分類ではなく、流通や製造箇所による分類である。
ホイールはハブ本体、リム、スポーク、ニップルから成り立っている。
基本的に仏式のバルブが使用され、高い空気圧を必要とする。チューブラー、クリンチャー(またはワイヤード・オン、略してWO)、チューブレスタイヤの三つの方式がある。
軽量性と地面との摩擦量を減らすことを重視されるため、トラックレーサーと並んで細いタイヤが用いられる。タイヤ幅は18~28mm程度である。主流は長らく23mm幅であったが、2015年頃より25mm幅に移り変わっている。ただし、タイムトライアル用のフレームなど、設計によってはチェーンステイ長をギリギリまで切り詰めているため、23mm幅のタイヤでさえ取り付けられないフレームも存在する。
レース用機材としてはチューブラーが一般的であるが、近年はクリンチャータイヤの性能も大きく向上しており、整備性やコスト面から、ホビーレーサーの間ではクリンチャーを採用するロードバイクも少なくない。チューブレスは対応ホイールの少なさと、タイヤ脱着の難易度が高いことから性能の割に普及が進まず、チューブレスほどかみ合わせをタイトにしない代わりに、シーラントでエア漏れを防ぐチューブレスレディという規格も誕生している。
コンポーネントとは、クランク、チェーン、前後変速機、前後ブレーキ、ブレーキレバー、多段ギア(カセットスプロケット)、前後輪ハブなど、自転車を構成する主要な部品をまとめた呼び方である。
コンポーネントそのものは1970年代から存在していたが、1980年代までは各種変速機のみ製造していたメーカーが存在し、好みに応じて選択することもあった。現在では、コンポーネントとしてひとまとめに選択・使用するのが普通である。
主なメーカーにシマノ、カンパニョーロ、SRAMがある。
かつてはロードバイクでも一枚革をサドルフレームに鋲で張った革サドルが主流であったが、1970年代頃よりプラスチックベースに緩衝材を挟み込んで表面に薄い革もしくは合成皮革を張ったプラスチックサドルが出回り始める。サンマルコ社のコンコール、ロールスや、セラ・イタリア社のターボシリーズなど定番商品が登場し、完全にプラスチックサドルが主流となった。
現在では、サドルのレールやベースにカーボンやチタンといった軽く振動吸収の高い素材を使用したモデルもあり、合成皮革すら貼っていない「成型されたカーボンの板」そのものを用いることによって軽量性に特化したサドルも存在する。
ロードバイクは軽量に作られるため、サドルも薄く固く、乗り心地もさほど良くないものであった。これらは尿道や会陰部などを圧迫し、ライダーが苦痛を感じることもある。この対策として、サドルの中央から後部に溝を入れたり、中央に縦に穴を空けたサドルが登場している。サドルの前の方、尿道などがあたる部分に溝や穴を設け、圧力がかからないように工夫し、また、女性ライダーの増加にあわせて、サドルの後部を広くした女性用モデルも発売されている。
サドルの相性は個人差が大きく、価格や使用する人数の多寡だけでは必ずしもその性能を評価できない(自分に最も合った物を探し、いくつものモデルを付けて乗ってみては交換を繰り返すユーザーも多く、これを「サドル沼にはまる」と呼ぶ。相性が一致した物に行き当たると、体力の限り走り続けられる)。一方で気に入ったサドルを長年使い続ける選手も多く、ランス・アームストロングが愛用したセラサンマルコ(Selle San Marco)・コンコールライト(刺繡なし)やマリオ・チポリーニに愛用されたセラサンマルコ・リーガルなどが有名である。日本人でも藤野智一は引退までロールスを愛用し続けた。
アルミもしくはカーボンのドロップハンドルが採用されている。通常はステムを介してフロントフォークと結合されるが、近年ではプロ用機材を中心にステム一体型のハンドルも登場している。1900年代のツール・ド・フランスに使われた自転車ではドロップハンドルはまだ主流ではなく、セミドロップハンドルに近い形をしており、ハンドル形態は未完成だった。1910年代になって、ドロップハンドルがロードバイクのハンドルとして定着し、現在に至っている。
一般的な自転車で使われる「フラットペダル」と呼ばれる固定機構が無い物、競輪用レーサーにも用いられるトゥークリップとシュープレートで完全に固定する物、固定されるが、定められた方向に力を加えると外すことが出来るビンディングペダル(クリップレスペダル)を使用する。多種多様なビンディングペダルが市場に出回っており、好みに応じて選択できる。ロードバイク用のビンディングペダルは力をあますことなく伝達することに特化しており、留め具であるクリートが大きく、サイクリングシューズを履いたままでの歩行は難しい。そのため歩行の容易なMTB用のビンディングもホビーサイクリストには広く使用されている。比較的新しい固定機構である「ストラップ」は禁止はされていないが、ロードバイクでは使用されることが少ない。
2022年現在、ギア板の枚数は3メーカー共にフラグシップにフロント2枚、リア12枚を投入している。しかしシマノはフロント54-40というビックギアを用意、カンパニョーロは伝統的な53-39、SRAMはリア10T導入に伴いフロントが最大50Tになるなど、メーカーによって大きく違いが出ている。
あらゆる場面、用途、レースに対応する最もスタンダードなモデル。メーカーによって「ノーマル」「レーシング」「コンペティション」などと呼称は様々である。各メーカーのフラグシップモデルや看板のモデルシリーズは基本的にオールラウンダータイプであることが多い。
長距離走行の快適性に優れたモデル。一般的なロードバイクと比べアップライトポジション(深い前傾姿勢とならない高さにハンドルが位置する)であり、振動吸収性を高めたものが多い。エンデューロレースやロングライドに適している。
空力性能を高めたモデル。空気抵抗を極力減らすためフレームやホイールは扁平状となっている。平地での高速走行に優れる。
空力性能を重視しているという点で後述のタイムトライアルバイクと類似するが、こちらはあくまでも一般的なロードバイクの設計・機材を基調としており、タイムトライアル競技に限定されない汎用性を持つ。
タイムトライアル競技用のスポーツバイク。空力性能に優れ、平地の短距離を高速で走行することに特化している。ハンドルはブルホーン型でダウンヒルバー(DHバー)が標準搭載されているほか、ディープリムホイール、ディスクホイールが多く採用される。
シクロクロス競技用のスポーツバイク。オフロードの走破性が高い太いタイヤ、カンチレバーブレーキあるいはディスクブレーキが用いられる。
ドロップハンドルではなくフラットハンドルを装着したロードバイク。クロスバイクと形状は似ているが、ジオメトリ、コンポーネント、タイヤなどはロードバイクのものが用いられている。
ツーリング用に特化したスポーツバイク。フレームは溶接が容易な素材で作られており、フェンダー(泥除け)が標準で装備されていることがほとんどである。キャリアなどを取りつけるためのダボ穴が多く開いている。一般的なロードバイクと異なり、タイヤのバルブが英式である。
オンロードとオフロード両方の走行性を兼ねそろえたスポーツバイク。メーカーによって「アドベンチャーロード」「オールロード」などと呼称は様々である。砂利道(グラベル)を走破できるように設計されたバイクで、グラベルバイクとも呼ばれている。
基本的にクリアランスが広く設計されているため、700Cのほか650Bのホイールの装着が可能であり、タイヤは28〜47mm幅程度のものまで装着できる。そのためオフロード寄りのタイヤであったりオンロード寄りのタイヤであったり両方への汎用性が高いものであったりと、様々な種類のタイヤを好みや状況に応じて選択することが可能である。
アップライトポジションで振動吸収性を高めたモデルが多いため長距離走行に優れるほか、ダボ穴が多く、ツーリングやバイクパッキング用の自転車として適正がある。
ドロップハンドルでオフロード走破能力が高いという点でシクロクロスと類似するが、シクロクロスが競技用として特化したものであることに対し、グラベルロードは競技用にとらわれないつくりとなっている(ただしグラベルロード向けのレースやイベントも存在する)。ツーリング向きの自転車という点でランドナーとも類似するが、ランドナーが保守的な機材・設計であることに対し、グラベルロードでは最新のロードバイク機材・技術が多く採用されている。
シマノのGRX、カンパニョーロのEKARといったグラベル専用のコンポーネントも開発されている。ブレーキはディスクブレーキである。 | [
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"text": "ロードバイク(英: road bike)とは国際自転車競技連合(UCI)が定めたロードレース用自転車またはそれに準じた物。「ロードレーサー」と呼ばれることもある(80年代までは「レーサー」の呼称の方が一般的だった。「バイク」は自動二輪車の呼称のため)。ツール・ド・フランスなどのUCI管轄の自転車ロードレースで用いられる。",
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"text": "競技用としてのロードバイクの原型が完成したのは1900年代頃と考えられる。当初、ロードレースは土道、トラックレースは陸上競技と共用の踏み固められた土のトラックで行われており、一方に特化した機材は存在せず、双方ともブレーキのない固定ギアの自転車が用いられていた。しかし、ロードレース用の自転車にブレーキが装備されるようになり、トラックレースではそれを禁じたことから双方の機材特化が始まった。ハンドルはセミドロップハンドルに近いものであったが、1910年代に入るとロードレースに適したドロップハンドルが開発された。また、この時代になるとダブルコグと呼ばれる左右で歯数の違うギアを装備した車両が一般的となり、起伏にもある程度対応できるようになった。しかし、ダブルコグ式は坂に差し掛かるたびに後輪を逆に取り付ける必要があるため交換に時間を要し、また固定に用いられるウィングナットは低温状況下において、かじかんだ手での着脱が困難なものであった。",
"title": "歴史"
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"text": "1930年代になると、現在のロードバイク用ハンドルとして一般的なマースバーが使われ始め、1933年にウィングナット留めの欠点を補ったカンパニョーロの原点ともいえるクイックリリースシステムが登場した。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "4年後の1937年には、ツール・ド・フランスにおいて変速機が使用できるようになった。",
"title": "歴史"
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"text": "第二次世界大戦によってロードレースの開催が一時中断するものの、1947年にツール・ド・フランスが再開されるとふたたび技術革新が進み、フロントギアへの変速機構の導入や、木製リムから金属製リムへの移行などが行われた。",
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"text": "1960年代初頭には、変速性能が良いパンタグラフ式が前後とも主流になった。こうして変速機構が進化するなか、ブレーキを備える固定ギアを用いる選手もまた1960年代前半頃まで少数ではあるが存在した。",
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"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "1970年代に入ると、1971年にコンポーネントという概念を形にしたパーツセット「ヌーボレコード」(nouvo record。イタリア語で「新記録」)をカンパニョーロが発売し、翌年にはシマノがデュラエースを発売。カンパニョーロはこれに対抗して、1973年に「スーパーレコード」を発売するなど、ロードバイク業界は一気に変化を遂げた。1978年には、シマノが現在主流となっている「カセットフリー」(スプロケット)を実用化。デュラエースEXシリーズの一部として発売された。1980年代以降、ロードバイクもマウンテンバイクで培われた新しい技術を採り入れ、軽量化や新素材の開発も進み、信頼性・操作性が格段に向上した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "UCIが主催するロードレース用自転車に準じる。UCIの規定の範囲内に置いて高速走行性能を優先して設計されるため、決してロードバイクが最速ではなく、空気抵抗の点ではさらに先鋭化させたリカンベントも存在する。ドロップハンドルと呼ばれる特徴的な形状のハンドルをもち、泥よけやスタンドなど、走ることに不要な部品は装備せず、前照灯や後部反射板も装備していない。溝が浅く少ない、幅の細い高圧タイヤを履き、転がり抵抗の減少を図っている。部品や素材は開発が続けられており、軽量化が進んでいる。1990年代までは「ロードレーサー」と呼ばれていた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 9,
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"text": "UCIのロードレースとしての範囲以外に対しては拘束力は無い、そのため「UCIが管轄しないロードレース」や「トライアスロンのバイクセクション」、「単なる街乗り」などに対しては拘束力は無い。ただし、ロードバイクは比較的速く走行でき、入手性も高いためUCIに管轄されない範囲でも活用されることが多いが、参加する競技や生活する自治体の要件を満たした自転車である必要はある。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "運転に当たって前傾姿勢を取るため前方視界が限られることなどから、シティサイクルなどに比べて事故の当事者となり得る可能性が高いため、一般道での走行には細心の注意を必要とする。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "車体質量が小さいほど加速や登坂に要するエネルギーは少なくて済むために、ロードバイクでは軽量性が重視される。現在では、新素材・設計の導入によりその質量は非常に小さく、一般的なシティサイクル、実用車の1/2 - 1/3(もしくはそれ以下)の質量になる。軽量なものでは5kgを切るような車体を作成することも可能である。どこまで実用的なのかは不明だが、2Kg台のロードバイクも存在する。",
"title": "特徴"
},
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"text": "国際自転車競技連合(UCI)の規定では、過度な機材の軽量化を防止するために質量の最低重量を6.8kgと設定している。2000年代以降は炭素繊維強化プラスチックなど軽量な素材が登場し、最低重量を下回ることも容易となった。プロ競技においてはバラストとしてGPSやルート表示機能を備えたサイクルコンピュータやパワー測定装置、ディスクブレーキなどの機材を装着して規定をクリアする場合もある。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 13,
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"text": "ほぼすべてがシンプルなダイヤモンドフレームを採用しているといってもよい。これにはロードレースではUCIの規定によりダイヤモンドフレーム以外の機材を用いることが許されていないという理由もある。ただし、そのような規制がなかった1990年代には、個性的なフレームの自転車がタイムトライアル競技で採用されていた。UCIでなく国際トライアスロン連合が統括するトライアスロン競技用として、非ダイヤモンドフレームの製品もあるが、以前に比べると減少傾向にある。1cm刻みのフレームサイズを用意できたパイプ接合の頃に比べ、サイズ別の成型型を用意しなければならないCFRP製一体成型が普及することに伴い、粗いサイズ展開になりつつある。",
"title": "構成部品"
},
{
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"text": "ロードバイク(ロードレーサー)は、源流を同じくするトラックレーサーとともに、現存する競技用、あるいはそれに準ずる自転車の最も古い形態であるということができ、最もシンプルな形をしている。より速く走るためにできるだけ軽くし、無駄なものを可能な限り排除した設計がなされている。そのため、積載能力や走行以外の二次的な用途を前提とした設計はあまり考慮されていない。なかには乗り手の体重制限を設けてまで素材の肉厚を切り詰め、軽量化を図ったフレームも存在する。",
"title": "構成部品"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "フレーム素材は、クロムモリブデン鋼(クロモリ)に代表される鋼(スチール)、アルミニウム合金、カーボンが主流である。またかつてはアルミ+スチールやアルミ+カーボンなどのハイブリッドフレームも販売されていた。2014年現在、トップカテゴリーではフルカーボンフレームが主流だが、入門用のものではアルミフレームも多く、スチールフレームは軽量化の面でアルミやカーボンに劣るためレースではほとんど使用されなくなったが、一般的に耐久性が高く長い期間使用できることやクラシカルな細身のフレームは独特の美しさを感じさせることもあり根強い人気がある。わずかだが荒れた路面での振動吸収を狙ったサスペンション機構を搭載する物も存在する。",
"title": "構成部品"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "プロレース、ハイレベルなアマチュアにおいては、コースに応じて高速巡航時の空力性能に優れたエアロホイールや、ヒルクライムに適した軽量ホイールなどが使い分けられる。また、規定で認められている場合には直径が違うホイールを使い分けることもある。この場合には、規格の違うホイールはフレームに適合しないため、車両ごと交換が行われる。",
"title": "構成部品"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "ロードバイクのタイヤは、700C、650C(26インチWO)。主流は700Cであり、ロードレースなどUCI管轄の自転車競技で700C以外が使われることは稀だが、トライアスロン用機材を中心に650Cのものが存在する。650Cのホイールは、700Cよりも径が小さいことで空気抵抗の少ないポジションがとりやすくなるため、集団走行やドラフティング(他の競技者の真後ろについて空気抵抗を軽減する技術)が原則として禁止されているトライアスロンでは、650Cは合理的な選択である。また、650Cはタイヤの外径が小さいため、タイヤを回転させるためのトルクが小さく、さらにギア比も小さくなることから加速の点では有利である。そのため、一時期ロードレースでも山岳での勾配が険しいコースで用いる選手もいた。しかし、直進安定性、高速巡航性能、コーナリング特性は700Cに比べて劣っているというのが定説である。",
"title": "構成部品"
},
{
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"text": "ホイールには大きく分けて2種類の製品がある。技術的な分類ではなく、流通や製造箇所による分類である。",
"title": "構成部品"
},
{
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"text": "ホイールはハブ本体、リム、スポーク、ニップルから成り立っている。",
"title": "構成部品"
},
{
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"tag": "p",
"text": "基本的に仏式のバルブが使用され、高い空気圧を必要とする。チューブラー、クリンチャー(またはワイヤード・オン、略してWO)、チューブレスタイヤの三つの方式がある。",
"title": "構成部品"
},
{
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"tag": "p",
"text": "軽量性と地面との摩擦量を減らすことを重視されるため、トラックレーサーと並んで細いタイヤが用いられる。タイヤ幅は18~28mm程度である。主流は長らく23mm幅であったが、2015年頃より25mm幅に移り変わっている。ただし、タイムトライアル用のフレームなど、設計によってはチェーンステイ長をギリギリまで切り詰めているため、23mm幅のタイヤでさえ取り付けられないフレームも存在する。",
"title": "構成部品"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "レース用機材としてはチューブラーが一般的であるが、近年はクリンチャータイヤの性能も大きく向上しており、整備性やコスト面から、ホビーレーサーの間ではクリンチャーを採用するロードバイクも少なくない。チューブレスは対応ホイールの少なさと、タイヤ脱着の難易度が高いことから性能の割に普及が進まず、チューブレスほどかみ合わせをタイトにしない代わりに、シーラントでエア漏れを防ぐチューブレスレディという規格も誕生している。",
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},
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"text": "コンポーネントとは、クランク、チェーン、前後変速機、前後ブレーキ、ブレーキレバー、多段ギア(カセットスプロケット)、前後輪ハブなど、自転車を構成する主要な部品をまとめた呼び方である。",
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},
{
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"text": "コンポーネントそのものは1970年代から存在していたが、1980年代までは各種変速機のみ製造していたメーカーが存在し、好みに応じて選択することもあった。現在では、コンポーネントとしてひとまとめに選択・使用するのが普通である。",
"title": "構成部品"
},
{
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"text": "主なメーカーにシマノ、カンパニョーロ、SRAMがある。",
"title": "構成部品"
},
{
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"text": "かつてはロードバイクでも一枚革をサドルフレームに鋲で張った革サドルが主流であったが、1970年代頃よりプラスチックベースに緩衝材を挟み込んで表面に薄い革もしくは合成皮革を張ったプラスチックサドルが出回り始める。サンマルコ社のコンコール、ロールスや、セラ・イタリア社のターボシリーズなど定番商品が登場し、完全にプラスチックサドルが主流となった。",
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},
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"text": "現在では、サドルのレールやベースにカーボンやチタンといった軽く振動吸収の高い素材を使用したモデルもあり、合成皮革すら貼っていない「成型されたカーボンの板」そのものを用いることによって軽量性に特化したサドルも存在する。",
"title": "構成部品"
},
{
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"text": "ロードバイクは軽量に作られるため、サドルも薄く固く、乗り心地もさほど良くないものであった。これらは尿道や会陰部などを圧迫し、ライダーが苦痛を感じることもある。この対策として、サドルの中央から後部に溝を入れたり、中央に縦に穴を空けたサドルが登場している。サドルの前の方、尿道などがあたる部分に溝や穴を設け、圧力がかからないように工夫し、また、女性ライダーの増加にあわせて、サドルの後部を広くした女性用モデルも発売されている。",
"title": "構成部品"
},
{
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"text": "サドルの相性は個人差が大きく、価格や使用する人数の多寡だけでは必ずしもその性能を評価できない(自分に最も合った物を探し、いくつものモデルを付けて乗ってみては交換を繰り返すユーザーも多く、これを「サドル沼にはまる」と呼ぶ。相性が一致した物に行き当たると、体力の限り走り続けられる)。一方で気に入ったサドルを長年使い続ける選手も多く、ランス・アームストロングが愛用したセラサンマルコ(Selle San Marco)・コンコールライト(刺繡なし)やマリオ・チポリーニに愛用されたセラサンマルコ・リーガルなどが有名である。日本人でも藤野智一は引退までロールスを愛用し続けた。",
"title": "構成部品"
},
{
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"text": "アルミもしくはカーボンのドロップハンドルが採用されている。通常はステムを介してフロントフォークと結合されるが、近年ではプロ用機材を中心にステム一体型のハンドルも登場している。1900年代のツール・ド・フランスに使われた自転車ではドロップハンドルはまだ主流ではなく、セミドロップハンドルに近い形をしており、ハンドル形態は未完成だった。1910年代になって、ドロップハンドルがロードバイクのハンドルとして定着し、現在に至っている。",
"title": "構成部品"
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"text": "一般的な自転車で使われる「フラットペダル」と呼ばれる固定機構が無い物、競輪用レーサーにも用いられるトゥークリップとシュープレートで完全に固定する物、固定されるが、定められた方向に力を加えると外すことが出来るビンディングペダル(クリップレスペダル)を使用する。多種多様なビンディングペダルが市場に出回っており、好みに応じて選択できる。ロードバイク用のビンディングペダルは力をあますことなく伝達することに特化しており、留め具であるクリートが大きく、サイクリングシューズを履いたままでの歩行は難しい。そのため歩行の容易なMTB用のビンディングもホビーサイクリストには広く使用されている。比較的新しい固定機構である「ストラップ」は禁止はされていないが、ロードバイクでは使用されることが少ない。",
"title": "構成部品"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2022年現在、ギア板の枚数は3メーカー共にフラグシップにフロント2枚、リア12枚を投入している。しかしシマノはフロント54-40というビックギアを用意、カンパニョーロは伝統的な53-39、SRAMはリア10T導入に伴いフロントが最大50Tになるなど、メーカーによって大きく違いが出ている。",
"title": "構成部品"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "あらゆる場面、用途、レースに対応する最もスタンダードなモデル。メーカーによって「ノーマル」「レーシング」「コンペティション」などと呼称は様々である。各メーカーのフラグシップモデルや看板のモデルシリーズは基本的にオールラウンダータイプであることが多い。",
"title": "ロードバイクの種類"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "長距離走行の快適性に優れたモデル。一般的なロードバイクと比べアップライトポジション(深い前傾姿勢とならない高さにハンドルが位置する)であり、振動吸収性を高めたものが多い。エンデューロレースやロングライドに適している。",
"title": "ロードバイクの種類"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "空力性能を高めたモデル。空気抵抗を極力減らすためフレームやホイールは扁平状となっている。平地での高速走行に優れる。",
"title": "ロードバイクの種類"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "空力性能を重視しているという点で後述のタイムトライアルバイクと類似するが、こちらはあくまでも一般的なロードバイクの設計・機材を基調としており、タイムトライアル競技に限定されない汎用性を持つ。",
"title": "ロードバイクの種類"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "タイムトライアル競技用のスポーツバイク。空力性能に優れ、平地の短距離を高速で走行することに特化している。ハンドルはブルホーン型でダウンヒルバー(DHバー)が標準搭載されているほか、ディープリムホイール、ディスクホイールが多く採用される。",
"title": "ロードバイクの種類"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "シクロクロス競技用のスポーツバイク。オフロードの走破性が高い太いタイヤ、カンチレバーブレーキあるいはディスクブレーキが用いられる。",
"title": "ロードバイクの種類"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ドロップハンドルではなくフラットハンドルを装着したロードバイク。クロスバイクと形状は似ているが、ジオメトリ、コンポーネント、タイヤなどはロードバイクのものが用いられている。",
"title": "ロードバイクの種類"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ツーリング用に特化したスポーツバイク。フレームは溶接が容易な素材で作られており、フェンダー(泥除け)が標準で装備されていることがほとんどである。キャリアなどを取りつけるためのダボ穴が多く開いている。一般的なロードバイクと異なり、タイヤのバルブが英式である。",
"title": "ロードバイクの種類"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "オンロードとオフロード両方の走行性を兼ねそろえたスポーツバイク。メーカーによって「アドベンチャーロード」「オールロード」などと呼称は様々である。砂利道(グラベル)を走破できるように設計されたバイクで、グラベルバイクとも呼ばれている。",
"title": "ロードバイクの種類"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "基本的にクリアランスが広く設計されているため、700Cのほか650Bのホイールの装着が可能であり、タイヤは28〜47mm幅程度のものまで装着できる。そのためオフロード寄りのタイヤであったりオンロード寄りのタイヤであったり両方への汎用性が高いものであったりと、様々な種類のタイヤを好みや状況に応じて選択することが可能である。",
"title": "ロードバイクの種類"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "アップライトポジションで振動吸収性を高めたモデルが多いため長距離走行に優れるほか、ダボ穴が多く、ツーリングやバイクパッキング用の自転車として適正がある。",
"title": "ロードバイクの種類"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ドロップハンドルでオフロード走破能力が高いという点でシクロクロスと類似するが、シクロクロスが競技用として特化したものであることに対し、グラベルロードは競技用にとらわれないつくりとなっている(ただしグラベルロード向けのレースやイベントも存在する)。ツーリング向きの自転車という点でランドナーとも類似するが、ランドナーが保守的な機材・設計であることに対し、グラベルロードでは最新のロードバイク機材・技術が多く採用されている。",
"title": "ロードバイクの種類"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "シマノのGRX、カンパニョーロのEKARといったグラベル専用のコンポーネントも開発されている。ブレーキはディスクブレーキである。",
"title": "ロードバイクの種類"
}
] | ロードバイクとは国際自転車競技連合(UCI)が定めたロードレース用自転車またはそれに準じた物。「ロードレーサー」と呼ばれることもある(80年代までは「レーサー」の呼称の方が一般的だった。「バイク」は自動二輪車の呼称のため)。ツール・ド・フランスなどのUCI管轄の自転車ロードレースで用いられる。 | {{出典の明記|date=2015年1月}}
[[ファイル:Orbea Orca.jpg|250px|サムネイル|右|ロードバイクの例、[[オルベア|Orbea]] Orca]]
'''ロードバイク'''({{Lang-en-short|road bike}})とは[[国際自転車競技連合]](UCI)が定めた[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]用自転車またはそれに準じた物。「ロードレーサー」と呼ばれることもある<ref>大辞林</ref>(80年代までは「レーサー」の呼称の方が一般的だった。「バイク」は自動二輪車の呼称のため)。[[ツール・ド・フランス]]などのUCI管轄の自転車[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]で用いられる。
== 歴史 ==
{{節スタブ}}
競技用としてのロードバイクの原型が完成したのは[[1900年代]]頃と考えられる。当初、ロードレースは土道、トラックレースは陸上競技と共用の踏み固められた土のトラックで行われており、一方に特化した機材は存在せず、双方ともブレーキのない固定ギアの自転車が用いられていた。しかし、ロードレース用の自転車にブレーキが装備されるようになり、トラックレースではそれを禁じたことから双方の機材特化が始まった。ハンドルはセミドロップハンドルに近いものであったが、[[1910年代]]に入るとロードレースに適したドロップハンドルが開発された。また、この時代になるとダブルコグと呼ばれる左右で歯数の違うギアを装備した車両が一般的となり、起伏にもある程度対応できるようになった<ref group="注釈">変速機もすでに登場していたが、[[ツール・ド・フランス]]では禁止されていた。</ref>。しかし、ダブルコグ式は坂に差し掛かるたびに後輪を逆に取り付ける必要があるため交換に時間を要し、また固定に用いられるウィングナットは低温状況下において、かじかんだ手での着脱が困難なものであった。
[[1930年代]]になると、現在のロードバイク用ハンドルとして一般的なマースバーが使われ始め、[[1933年]]にウィングナット留めの欠点を補った[[カンパニョーロ]]の原点ともいえる[[クイックリリース]]システムが登場した。
4年後の[[1937年]]には、ツール・ド・フランスにおいて変速機が使用できるようになった<ref group="注釈">当時はフロントはシングル、リア3速が一般的だった。</ref>。
[[第二次世界大戦]]によってロードレースの開催が一時中断するものの、[[1947年]]にツール・ド・フランスが再開されるとふたたび技術革新が進み、フロントギアへの変速機構の導入や、木製リムから金属製リムへの移行などが行われた。
[[1950年]]頃になると、クランクを逆転させて変速する必要がないスライド式のディレーラーが前後とも主流となり、まもなくリアはタケノコ式のディレーラーに移り変わっていった。
[[1960年代]]初頭には、変速性能が良いパンタグラフ式<ref group="注釈">正確には、パンタグラフ=菱形、ではなく、平行四辺形=パラレログラム</ref>が前後とも主流になった。こうして変速機構が進化するなか、ブレーキを備える[[固定ギア]]を用いる選手もまた1960年代前半頃まで少数ではあるが存在した。
[[1970年代]]に入ると、[[1971年]]にコンポーネントという概念を形にしたパーツセット「ヌーボレコード」(nouvo record。イタリア語で「新記録」)をカンパニョーロが発売し、翌年には[[シマノ]]が[[シマノ・デュラエース|デュラエース]]を発売。カンパニョーロはこれに対抗して、[[1973年]]に「スーパーレコード」を発売するなど、ロードバイク業界は一気に変化を遂げた。[[1978年]]には、シマノが現在主流となっている「カセットフリー」([[スプロケット]])を実用化。デュラエースEXシリーズの一部として発売された。[[1980年代]]以降、ロードバイクも[[マウンテンバイク]]で培われた新しい技術を採り入れ、軽量化や新素材の開発も進み、信頼性・操作性が格段に向上した。
== 特徴 ==
UCIが主催する[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]用自転車に準じる。UCIの規定の範囲内に置いて高速走行性能を優先して設計されるため、決してロードバイクが最速ではなく、空気抵抗の点ではさらに先鋭化させた[[リカンベント]]も存在する。[[ハンドルバー (自転車)|ドロップハンドル]]と呼ばれる特徴的な形状のハンドルをもち、泥よけやスタンドなど、走ることに不要な部品は装備せず、前照灯や後部反射板も装備していない。溝が浅く少ない、幅の細い高圧タイヤを履き、[[転がり抵抗]]の減少を図っている。部品や素材は開発が続けられており、軽量化が進んでいる。1990年代までは「ロード'''レーサー'''」と呼ばれていた。
UCIのロードレースとしての範囲以外に対しては拘束力は無い、そのため「UCIが管轄しないロードレース」や「トライアスロンのバイクセクション」、「単なる街乗り」などに対しては拘束力は無い。ただし、ロードバイクは比較的速く走行でき、入手性も高いためUCIに管轄されない範囲でも活用されることが多いが、参加する競技や生活する自治体の要件を満たした自転車である必要はある。
=== 安全性 ===
運転に当たって前傾姿勢を取るため前方視界が限られることなどから、[[シティサイクル]]などに比べて事故の当事者となり得る可能性が高いため、一般道での走行には細心の注意を必要とする{{Refnest|group="注釈"|2010年1月に東京都稲城市で起きたロードバイクとの衝突による歩行者の死亡事故では、「前傾姿勢で信号が見えにくい。仕方がない」<ref>{{Cite web|和書|url=https://profile.ameba.jp/ameba/azumin827/|accessdate=2015-03-24|title=自転車に家族を殺されるということ|author=東光宏}}</ref>「自転車の構造上、下向きになり、ヘルメットもかぶっていたので、信号が見えにくかった」<ref name="yomiuri20150305"/>という加害者側の主張が一部認められ、禁錮2年、執行猶予3年の有罪判決で結審している<ref name="yomiuri20150305">{{Cite web|和書|title=命奪う一瞬の不注意|url=http://www.yomiuri.co.jp/osaka/feature/CO014151/20150305-OYTAT50016.html|publisher=[[読売新聞]]|date=2015-03-05|accessdate=2015-03-24}}{{404|date=2020-04}}</ref>}}。
=== 質量 ===
車体質量が小さいほど加速や登坂に要する[[エネルギー]]は少なくて済むために、ロードバイクでは軽量性が重視される。現在では、新素材・設計の導入によりその質量は非常に小さく、一般的な[[シティサイクル]]、[[実用車]]の1/2 - 1/3(もしくはそれ以下)の質量になる。軽量なものでは5kgを切るような車体を作成することも可能である<ref>{{Cite web|title=WEIGHTWEENIES|url=http://weightweenies.starbike.com/articles.php?category=roadbikes Weight Weenies|accessdate=2015-03-24}}</ref>。どこまで実用的なのかは不明だが、2Kg台のロードバイクも存在する。
==== 競技主催者が定める重量制限 ====
[[国際自転車競技連合]](UCI)の規定では、過度な機材の軽量化を防止するために質量の最低重量を6.8kgと設定している。2000年代以降は[[炭素繊維強化プラスチック]]など軽量な素材が登場し、最低重量を下回ることも容易となった。プロ競技においてはバラストとしてGPSやルート表示機能を備えた[[サイクルコンピュータ]]やパワー測定装置、[[ディスクブレーキ#自転車|ディスクブレーキ]]などの機材を装着して規定をクリアする場合もある。
== 構成部品 ==
=== フレーム ===
{{Main|フレーム (自転車)|フレーム素材 (自転車)}}
ほぼすべてがシンプルなダイヤモンド[[フレーム (自転車)|フレーム]]を採用しているといってもよい。これにはロードレースではUCIの規定によりダイヤモンドフレーム以外の機材を用いることが許されていないという理由もある。ただし、そのような規制がなかった1990年代には、個性的なフレームの自転車がタイムトライアル競技で採用されていた。UCIでなく[[国際トライアスロン連合]]が統括する[[トライアスロン]]競技用として、非ダイヤモンドフレームの製品もあるが、以前に比べると減少傾向にある。1cm刻みのフレームサイズを用意できたパイプ接合の頃に比べ、サイズ別の成型型を用意しなければならないCFRP製一体成型が普及することに伴い、粗いサイズ展開になりつつある。
ロードバイク(ロードレーサー)は、源流を同じくするトラックレーサーとともに、現存する競技用、あるいはそれに準ずる自転車の最も古い形態であるということができ、最もシンプルな形をしている。より速く走るためにできるだけ軽くし、無駄なものを可能な限り排除した設計がなされている。そのため、積載能力や走行以外の二次的な用途を前提とした設計はあまり考慮されていない。なかには乗り手の体重制限を設けてまで素材の肉厚を切り詰め、軽量化を図ったフレームも存在する。
[[フレーム素材 (自転車)|フレーム素材]]は、[[クロムモリブデン鋼]](クロモリ)に代表される[[鋼]](スチール)、[[アルミニウム合金]]、[[炭素繊維強化プラスチック|カーボン]]が主流である。またかつてはアルミ+スチールやアルミ+カーボンなどのハイブリッドフレームも販売されていた。2014年現在、トップカテゴリーではフルカーボンフレームが主流だが、入門用のものではアルミフレームも多く、スチールフレームは軽量化の面でアルミやカーボンに劣るためレースではほとんど使用されなくなったが、一般的に耐久性が高く長い期間使用できることやクラシカルな細身のフレームは独特の美しさを感じさせることもあり根強い人気がある。わずかだが荒れた路面での振動吸収を狙ったサスペンション機構を搭載する物も存在する。
=== ホイール ===
プロレース、ハイレベルなアマチュアにおいては、コースに応じて高速巡航時の空力性能に優れたエアロホイールや、[[ヒルクライム]]に適した軽量ホイールなどが使い分けられる。また、規定で認められている場合には直径が違うホイールを使い分けることもある。この場合には、規格の違うホイールはフレームに適合しないため、車両ごと交換が行われる。
==== 規格 ====
ロードバイクのタイヤは、700C、650C(26インチWO)。主流は700Cであり、ロードレースなどUCI管轄の自転車競技で700C以外が使われることは稀だが、[[トライアスロン]]用機材を中心に650Cのものが存在する。650Cのホイールは、700Cよりも径が小さいことで空気抵抗の少ないポジションがとりやすくなるため、集団走行やドラフティング(他の競技者の真後ろについて空気抵抗を軽減する技術)が原則として禁止されているトライアスロンでは、650Cは合理的な選択である。また、650Cはタイヤの外径が小さいため、タイヤを回転させるためのトルクが小さく、さらにギア比も小さくなることから加速の点では有利である。そのため、一時期ロードレースでも山岳での勾配が険しいコースで用いる選手もいた。しかし、直進安定性、高速巡航性能、コーナリング特性は700Cに比べて劣っているというのが定説である。
==== 流通・製造箇所による分類 ====
ホイールには大きく分けて2種類の製品がある。技術的な分類ではなく、流通や製造箇所による分類である。
; 手組み(てぐみ)ホイール
: 従来からのタイプで、販売店のメカニック等によって文字通り一つ一つのパーツから手で組まれたものをいう。ほぼすべてのパーツを自分の好みや用途、体型などさまざまな要素に合わせて選べるため、自分に合ったホイールを作ることができるという利点がある。また市販されている部品を使うため、補修、整備も容易である。現在では補修、整備の容易さからツーリング用に使われたり、完組みホイールに比べて安価なために練習に使われたりする場合が多い。全体としてのバランスはよいが、特化した性質がないのが欠点ともいえる。全く同一の物でも、工場生産されたものは後述の「完組ホイール」である。
; 完組み(かんぐみ)ホイール
: 1990年代に登場した、工場生産による市販の既製品である。機械による製造、あるいは熟練の担当作業員による組み立てによって、安定した品質の製品を大量に供給することが可能で、現在ではこのタイプが主流になりつつある<ref group="注釈">しかし、特別な製品を除き、大多数の製品は競技など高いレベルでの使用を考慮した場合、手組ホイール同様にメカニックによる調律は必要である。</ref>。すべてのパーツを専用に設計することもできるためスポークの本数を大きく減らしたホイールなども生産でき、平地巡航目的、山岳コース対応の軽量モデルなど、競技の設定に応じて専用設計が行える利点があるため、手組みに比べてレースに用いられることが多い。
==== 構造 ====
ホイールはハブ本体、リム、スポーク、ニップルから成り立っている。
; ハブ本体
: ホイールの中心にある回転部分。良いホイールはハブ本体のベアリングの精度が良いか、ハブ本体が軽量に作られている。ハブの本体はアルミ製が多いが、軽量を謳っているモデルは負荷の少ない部分にカーボンを用いることもある。前輪用のオーバーロックナット寸法は長らく100mmが続いているが、後輪用は120-142mmと幅があり、時代を遡るほど狭い傾向がある。2022年時点ではリムブレーキモデルで130mm、ディスクブレーキモデルで142mmというのが定番。
; リム
: ホイールの外周部にあたる[[リム (機械)|リム]]は、素材として主にアルミが用いられるが、高級モデルを中心にカーボンを用いたものも存在する。ちなみに、レースの世界ではほとんどがカーボン製のリムを使用している。また昔ながらの木製リムもわずかではあるが流通している。マグネシウムのリムも一部流通しているが主流となり得るほどのバリエーションは存在しない。さまざまな形状があるが、大別すると通常のリムと平地巡航能力を上げたディープリムがある。ディープリムは重量で劣るが、空気抵抗の減少によって高速巡航能力が上がるように設計がなされている。
; スポーク
: スポークの材質には、ステンレスや鉄、[[チタニウム|チタン]]などがある。一般的にはステンレスが使われているが、完組みホイールではアルミスポークを採用したものもある。チタンは大変高価でありながら伸びやすいため、普及してはいない。また、わずかではあるが非金属製スポークも存在する。また、空力抵抗の問題から、スポークの中心部を平らにつぶして空気抵抗を減らしたエアロスポークも利用されるほか、スポークではなく一体成形のディスクを採用したホイールも存在する。ただし、ディスクホイールは風が抜けないので、横から強風を受けると転倒の原因にもなり、また、質量面でも不利であるため[[トライアスロン]]や[[タイムトライアル]](TT)<!--Time Trialの略-->など、使用環境は限定的といえる。
=== タイヤ ===
{{Main|自転車用タイヤ}}
基本的に仏式のバルブが使用され、高い空気圧を必要とする。[[自転車用タイヤ#チューブラー|チューブラー]]、[[自転車用タイヤ#クリンチャー|クリンチャー]](またはワイヤード・オン、略してWO)、[[自転車用タイヤ#チューブレス|チューブレスタイヤ]]の三つの方式がある。
軽量性と地面との摩擦量を減らすことを重視されるため、トラックレーサーと並んで細いタイヤが用いられる。タイヤ幅は18~28mm程度である。主流は長らく23mm幅であったが、2015年頃より25mm幅に移り変わっている。ただし、タイムトライアル用のフレームなど、設計によっては[[フレーム (自転車)#チェーンステー長|チェーンステイ長]]をギリギリまで切り詰めているため、23mm幅のタイヤでさえ取り付けられないフレームも存在する。
レース用機材としてはチューブラーが一般的であるが、近年はクリンチャータイヤの性能も大きく向上しており、整備性やコスト面から、ホビーレーサーの間ではクリンチャーを採用するロードバイクも少なくない。チューブレスは対応ホイールの少なさと、タイヤ脱着の難易度が高いことから性能の割に普及が進まず、チューブレスほどかみ合わせをタイトにしない代わりに、シーラントでエア漏れを防ぐチューブレスレディという規格も誕生している。
=== コンポーネント ===
{{Main|コンポーネント (自転車)}}
コンポーネントとは、クランク、チェーン、前後変速機、前後ブレーキ、ブレーキレバー、多段ギア(カセットスプロケット)、前後輪ハブなど、自転車を構成する主要な部品をまとめた呼び方である。
[[コンポーネント (自転車)|コンポーネント]]そのものは[[1970年代]]から存在していたが、[[1980年代]]までは各種変速機のみ製造していたメーカーが存在し、好みに応じて選択することもあった。現在では、コンポーネントとしてひとまとめに選択・使用するのが普通である。
主なメーカーに[[シマノ]]、[[カンパニョーロ]]、[[SRAM (自転車メーカー)|SRAM]]がある。
=== サドル ===
{{Main|サドル (自転車)}}
かつてはロードバイクでも一枚革を[[サドル (自転車)|サドル]]フレームに鋲で張った革サドルが主流であったが、1970年代頃よりプラスチックベースに緩衝材を挟み込んで表面に薄い革もしくは合成皮革を張ったプラスチックサドルが出回り始める。サンマルコ社のコンコール、ロールスや、セラ・イタリア社のターボシリーズなど定番商品が登場し、完全にプラスチックサドルが主流となった。
現在では、サドルのレールやベースにカーボンやチタンといった軽く振動吸収の高い素材を使用したモデルもあり、合成皮革すら貼っていない「成型されたカーボンの板」そのものを用いることによって軽量性に特化したサドルも存在する。
ロードバイクは軽量に作られるため、サドルも薄く固く、乗り心地もさほど良くないものであった。これらは[[尿道]]や[[会陰]]部などを圧迫し、ライダーが苦痛を感じることもある。この対策として、サドルの中央から後部に溝を入れたり、中央に縦に穴を空けたサドルが登場している。サドルの前の方、尿道などがあたる部分に溝や穴を設け、圧力がかからないように工夫し、また、女性ライダーの増加にあわせて、サドルの後部を広くした女性用モデルも発売されている。
サドルの相性は個人差が大きく、価格や使用する人数の多寡だけでは必ずしもその性能を評価できない(自分に最も合った物を探し、いくつものモデルを付けて乗ってみては交換を繰り返すユーザーも多く、これを「サドル沼にはまる」と呼ぶ。相性が一致した物に行き当たると、体力の限り走り続けられる)。一方で気に入ったサドルを長年使い続ける選手も多く、[[ランス・アームストロング]]が愛用したセラサンマルコ(Selle San Marco)・コンコールライト(刺繡なし)や[[マリオ・チポリーニ]]に愛用されたセラサンマルコ・リーガルなどが有名である。日本人でも[[藤野智一]]は引退までロールスを愛用し続けた。
=== ハンドル ===
{{Main|ハンドルバー (自転車)}}
アルミもしくはカーボンのドロップハンドルが採用されている。通常は[[ステム (自転車)|ステム]]を介して[[フロントフォーク (自転車)|フロントフォーク]]と結合されるが、近年ではプロ用機材を中心にステム一体型のハンドルも登場している。[[1900年代]]の[[ツール・ド・フランス]]に使われた自転車ではドロップハンドルはまだ主流ではなく、セミドロップハンドルに近い形をしており、ハンドル形態は未完成だった。[[1910年代]]になって、ドロップハンドルがロードバイクのハンドルとして定着し、現在に至っている<ref group="注釈">ただし、UCI管轄のロードレースでもタイムトライアル競技では空気抵抗を少しでも減らすためにブルホーンハンドルをもとに、[[ダウンヒルバー]]というアタッチメントがハンドル上部に装着する事が許される。UCIが管轄するロードレース以外の事に関してはUCIは関与できないため一般的に拘束できない。このため、一般的な街乗りやトライアスロン競技等ではブルホーンハンドルやダウンヒルバーを使うことは許される。</ref>。
=== ペダル ===
{{Main|ペダル (自転車)}}
一般的な自転車で使われる「フラットペダル」と呼ばれる固定機構が無い物、[[競輪#競輪用自転車|競輪用レーサー]]にも用いられるトゥークリップとシュープレートで完全に固定する物、固定されるが、定められた方向に力を加えると外すことが出来る[[ビンディングペダル]](クリップレスペダル)を使用する。多種多様なビンディングペダルが市場に出回っており、好みに応じて選択できる。ロードバイク用のビンディングペダルは力をあますことなく伝達することに特化しており、留め具であるクリートが大きく、[[サイクリングシューズ]]を履いたままでの歩行は難しい。そのため歩行の容易なMTB用のビンディングもホビーサイクリストには広く使用されている。比較的新しい固定機構である「ストラップ」は禁止はされていないが、ロードバイクでは使用されることが少ない。
==== ギア ====
2022年現在、ギア板の枚数は3メーカー共にフラグシップにフロント2枚、リア12枚を投入している。しかしシマノはフロント54-40というビックギアを用意、カンパニョーロは伝統的な53-39、SRAMはリア10T導入に伴いフロントが最大50Tになるなど、メーカーによって大きく違いが出ている。
== ロードバイクの種類 ==
=== 基本的なロードバイク ===
==== オールラウンダー ====
あらゆる場面、用途、レースに対応する最もスタンダードなモデル。メーカーによって「ノーマル」「レーシング」「コンペティション」などと呼称は様々である。各メーカーの[[フラグシップ機|フラグシップモデル]]や看板のモデルシリーズは基本的にオールラウンダータイプであることが多い。
==== エンデュランスロード ====
長距離走行の快適性に優れたモデル。一般的なロードバイクと比べアップライトポジション(深い前傾姿勢とならない高さにハンドルが位置する)であり、振動吸収性を高めたものが多い。[[エンデューロレース]]やロングライドに適している。
==== エアロロード ====
[[空力]]性能を高めたモデル。[[空気抵抗]]を極力減らすためフレームやホイールは扁平状となっている。平地での高速走行に優れる。
空力性能を重視しているという点で後述のタイムトライアルバイクと類似するが、こちらはあくまでも一般的なロードバイクの設計・機材を基調としており、タイムトライアル競技に限定されない汎用性を持つ。
=== 特定の競技用として特化したもの ===
==== タイムトライアルバイク(TTバイク) ====
{{Main|タイムトライアルバイク}}[[タイムトライアル]]競技用のスポーツバイク。空力性能に優れ、平地の短距離を高速で走行することに特化している。ハンドルはブルホーン型でダウンヒルバー(DHバー)が標準搭載されているほか、ディープリムホイール、ディスクホイールが多く採用される。
==== シクロクロス ====
{{Main|シクロクロス}}シクロクロス競技用のスポーツバイク。オフロードの走破性が高い太いタイヤ、カンチレバーブレーキあるいはディスクブレーキが用いられる。
=== その他 ===
==== フラットバーロード ====
{{Main|フラットバーロード}}ドロップハンドルではなくフラットハンドルを装着したロードバイク。[[クロスバイク]]と形状は似ているが、ジオメトリ、コンポーネント、タイヤなどはロードバイクのものが用いられている。
==== ランドナー ====
{{Main|ランドナー}}ツーリング用に特化したスポーツバイク。フレームは溶接が容易な素材で作られており、フェンダー(泥除け)が標準で装備されていることがほとんどである。キャリアなどを取りつけるためのダボ穴が多く開いている。一般的なロードバイクと異なり、タイヤのバルブが英式である。
==== グラベルロード ====
オンロードとオフロード両方の走行性を兼ねそろえたスポーツバイク。メーカーによって「アドベンチャーロード」「オールロード」などと呼称は様々である。砂利道(グラベル)を走破できるように設計されたバイクで、[[w:Gravel bicycle|グラベルバイク]]とも呼ばれている。
基本的に[[クリアランス]]が広く設計されているため、700Cのほか650Bのホイールの装着が可能であり、タイヤは28〜47mm幅程度のものまで装着できる。そのためオフロード寄りのタイヤであったりオンロード寄りのタイヤであったり両方への汎用性が高いものであったりと、様々な種類のタイヤを好みや状況に応じて選択することが可能である。
アップライトポジションで振動吸収性を高めたモデルが多いため長距離走行に優れるほか、ダボ穴が多く、ツーリングやバイクパッキング用の自転車として適正がある。
ドロップハンドルでオフロード走破能力が高いという点でシクロクロスと類似するが、シクロクロスが競技用として特化したものであることに対し、グラベルロードは競技用にとらわれないつくりとなっている(ただしグラベルロード向けのレースやイベントも存在する)。ツーリング向きの自転車という点でランドナーとも類似するが、ランドナーが保守的な機材・設計であることに対し、グラベルロードでは最新のロードバイク機材・技術が多く採用されている。
[[シマノ]]のGRX、[[カンパニョーロ]]のEKARといったグラベル専用のコンポーネントも開発されている。ブレーキはディスクブレーキである。
== 主なロードバイク・ブランド ==
<!--五十音順。きりがなくなる可能性が高いため、主要なメーカーに留め、全リストのようなものへ発展させたい場合には自転車のほうで記述したほうが良いと思います。-->
{|
|
* {{Flagicon|JPN}}[[ブリヂストン・アンカー|アンカー]]
* {{Flagicon|SPA}}[[オルベア]]
* {{Flagicon|GER}}{{仮リンク|キャニオン (自転車メーカー)|label=キャニオン|en|Canyon Bicycles}}
* {{Flagicon|USA}}[[キャノンデール]]
* {{Flagicon|ITA}}{{仮リンク|クォータ (自転車メーカー)|label=クォータ|en|Kuota}}
||
* {{Flagicon|ITA}}[[コルナゴ]]
* {{Flagicon|CAN}}[[サーベロ]]
* {{Flagicon|CHN1928}}[[ジャイアント・マニュファクチャリング|ジャイアント]]
* {{Flagicon|SUI}}[[スコット (企業)|スコット]]
* {{Flagicon|USA}}[[スペシャライズド]]
||
* {{Flagicon|FRA}}{{仮リンク|タイム (自転車メーカー)|label=タイム|en|Time (bicycles)}}
* {{Flagicon|ITA}}[[ウーゴ・デ・ローザ・エ・フィーリ|デローザ]]
* {{Flagicon|USA}}[[トレック・バイシクル|トレック]]
* {{Flagicon|ITA}}[[ビアンキ]]
* {{Flagicon|ITA}}[[ピナレロ]]
||
* {{Flagicon|SPA}}[[BH Bikes|BH]]
* {{Flagicon|SUI}}[[BMC (自転車メーカー)|BMC]]
* {{Flagicon|GER}}[[フェルト (自転車メーカー)|フェルト]]
* {{Flagicon|UK}}[[ボードマン]]
* {{Flagicon|ITA}}{{仮リンク|ボッテキア|en|Bottecchia}}
||
* {{Flagicon|CHN1928}}[[メリダ・インダストリー|メリダ]]
* {{Flagicon|BEL}}[[リドレー]]
* {{Flagicon|FRA}}[[LOOKサイクルインターナショナル|ルック]]
*{{Flagicon|ITA}}[[ウィリエール・トリエスティーナ]]
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[国際自転車競技連合]]
* [[ロードレース (自転車競技)]]
* [[サンツアー]]
* [[クロスバイク]]
* [[マウンテンバイク]]
*[[タイムトライアルバイク]]
* [[シクロクロス]]
* [[フラットバーロード]]
* [[ピスト]]
== 外部リンク ==
* {{Britannica|technology|racing-bicycle|racing-bicycle}}
* {{Kotobank|2=デジタル大辞泉}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ろとはいく}}
[[Category:自転車競技]]
[[Category:自転車の形態]] | 2003-02-21T08:29:00Z | 2023-11-01T22:49:06Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%AF |
2,649 | 軍人将棋 | 軍人将棋(ぐんじんしょうぎ)とは、通常2人で行うボードゲームの一種。軍事将棋(ぐんじしょうぎ)、または行軍将棋(こうぐんしょうぎ)とも呼ばれる。軍隊の階級や兵種を元にした駒を用いて盤上にて競う。欧米圏ではストラテゴ(Stratego)という名称の同種のボードゲームがプレイされている。
軍人将棋では、両プレイヤーが駒を裏返した状態で自分の陣地に自由に並べ、先攻から交互に駒を動かしていく。駒にはそれぞれ相性関係があり、同じ升目で駒が重なったときは、相性に従って片方または両方の駒が盤上から排除される。プレイヤーは相手の駒を見ることができないため、双方の駒を確認する審判役をおく。ゲームは相手の陣地最奥の総司令部を占領するか、相手の動ける駒を全滅させた方が勝ちとなる。最後に同種の駒同士が残った場合は相打ちとなるため、両方とも全滅する場合もあり得る。
駒には、少尉から大将までの各階級の軍人、およびタンク、飛行機、騎兵、工兵、地雷などの種類があり、種類によって勝てる相手が決まっている。基本的には位が高い軍人の方が強いが、最下位のスパイは最上位の大将を撃破できる、地雷には飛行機と工兵しか勝てないなど細かい規則がある。軍人将棋のセットには、このルールを一覧表にしたものが付属している。審判役はそれを見ながら勝ち負けを判定することが多い。
ルールはそのままに、駒の形状をアレンジしたものもある。駒を箱状にすることで手前側のみに駒の種類がわかるようになっており、底の空洞に仕込まれた数本のピンの凸凹を付属の勝敗判定機により判定するという、審判役を必要としない工夫がされている。現在は市販されていない。
審判役を必要とすることからコンピュータゲーム化への適性が高い。これまでに、ファミコン、Windows、ニンテンドーDS (『だれでもアソビ大全』)などのプラットフォームでゲーム化されている。
将棋をはじめとする多くの伝統的なボードゲームが完全情報ゲームであるのに対して、軍人将棋は不完全情報ゲームである。そのため、勝敗には純粋な実力のみでなく、運の要素が絡む性質がある。
一般的には敵の総司令部マスを大将、中将、少将、大佐、中佐、少佐のいずれかの駒で占拠する(これら以外の駒で、相手の総司令部に侵入できたとしても、占拠したことにはならない。)(駒を総司令部マスに置く)か、動かせる駒を全滅させることが目的である。なお、前記の駒が相手の総司令部に入った時点で占拠したとみなされるので、後からその駒を取ることはできず、ゲーム終了となる。総司令部が占拠されれば、残った駒の種類や数に関係なくゲームの負けとなる。
ルールによっては相手の大将を倒すことを目的とするものもある。また、25枚型では相手の防御を破り、総司令部マスにいる元帥を倒すことを目的とする。
軍人将棋は駒、盤からなり、対局者2人と審判1人の3人で遊ぶ。近年は電子機器による勝敗の判定ができるタイプもある。
軍人将棋には、突入口の形の違いと駒の種類の組み合わせにより、数多くの種類が存在する。また、大行軍将棋という、普通の軍人将棋よりも駒数の多いものも存在する。
盤は変形8×8を使う。
短時間で終わらせることができ、盤は変形8×6を使う。
盤は変形9×9を使う。
これら以外にも様々な種類があるが、ここでは31枚型・23枚型・25枚型について説明する。
などの種類がある。
このゲームの要となるのが駒の配置である。一般の将棋のように開始時の配置が決まっているのではなく、自分の陣地内であれば以下の禁止事項を除き、どの駒をどこに置いてもよい。
このうち、後者は禁止事項ではあるが、最後列の軍旗はどの駒にも負ける無駄駒になってしまい、開始時から他の駒1つ分の威力を失っている事になるため、一般的には罰則を設けないことが多い。
総司令部は通常、2マス分の広さがあるが、他のマスと同様、1つしか駒を置けない。前述の通り、将官や佐官を相手の司令部に入れることを目的とする。よって、尉官、騎兵、工兵は佐官や将官に必ず負けるので総司令部は置かないほうがよい。スパイは大将だけには勝てるがそれ以外にはことごとく負けるため、総司令部に置いたとき、残った駒の条件によるが、負けて占領される確率が圧倒的に高い。飛行機や工兵にも負けるので、地雷確認のために前もって倒される恐れもある。少佐や中佐も、司令部を占領できる駒の中では弱いので負ける確率が高い。タンクは佐官には勝てるが、敵の飛行機や工兵によって排除される可能性もあり、将官にも負けて占領される。
更には、司令部の防御を飛行機だけに任せることも好ましくないとされる。一見すると、2列のどちらにも飛ぶことができ、敵司令部を常に狙えるベストポジションのように見えるが、飛んだ時点で司令部は空になるので、司令部に隣接するマスに敵の佐官があった時も(飛行機は佐官に負けることはないが)、その隙に侵入されることもある(佐官でも敵司令部に侵入すれば、その時点でゲームの勝ちであり、その後倒すことはできない)。また、司令部やその周辺は地雷除去のためや、道を作るために敵の飛行機に攻撃されることも多く、すぐ近くに将官がいない限り飛行機同士が相打ちして、司令部が開いてしまう恐れもある。こうなると、司令部のすぐ近くが弱い駒しかないときは、簡単に占領されやすくなる。また、工兵や、尉官、騎兵で地雷確認をされた後(飛行機ならばこれらの駒に勝てるが、将官には負けるため)、すぐ近くのマスに敵の将官がいれば負けが確定したようなものである。
地雷は司令部を占領できる駒に勝てるので、司令部に置けば1回だけ占領を防ぐことができる。飛行機や工兵、あるいは尉官や騎兵による相打ちで地雷を除去しても余分に手数がかかるので、手数稼ぎにはなる。しかし、地雷は1度限りの手段であるため、地雷が司令部から除去された後、回りが弱い駒ばかりならば上記の例と同様に占領されやすくなる。従って司令部に地雷を置く場合は、地雷がなくなった後のことも考えなければならない。
以上の理由から、司令部またはその近くには将官が1枚以上あるとよい。特に初心者は、大将を置くことが最も勧められる(司令部に地雷などを置き、その隣に大将を置くのもよい)。大将を置けば、中将以下による占領は単独で防ぐことができ、スパイには負ける代わりに占領されない。中将は大将に負けるので、近くにスパイを置いて守らなければいけないが、スパイが飛行機などで倒された時には、敵の大将が地雷を踏むことを祈るしかなくなってしまう。大将の天敵はスパイであるが、スパイは大将以外のどの駒にも負けるので、種類がわからない敵の駒が大将に向かって来たときには、大将とスパイ以外の駒を当てて、スパイかどうかを確認するのがよい。その味方の駒が負けた時には相手はスパイでないと分かる。(スパイは大将よりも排除しやすいので、司令部の防御には大将が最も向いているといえる)
同じ駒同士の戦い(大将対大将、飛行機対飛行機、スパイ対スパイなど)は相打ちとみなしてどちらも盤上から撤去する。撤去した駒は再び使うことが出来ず、撤去した駒は自分の駒しか見ることが出来ない。また。本将棋とは異なり持ち駒がなく、相手から取った駒を自分の駒にはできない。地雷が勝った場合は爆発したとみなし撤去されるのが一般的である。
○は勝ち、×は負け、=は引き分けを意味する。地雷は動くことができないので、地雷同士が戦うことはない。勝つ種類、負ける種類、引き分ける種類の数もそれぞれ示した。飛行機とタンクは少将以上に負けて大佐以下に勝つため、少将と大佐では強さの差が大きく、少佐と大尉では差が大きくないことがわかる。ただし、種類によって枚数が異なるため実際の勝率とは若干異なる。
地雷はほとんどの種類に引き分けるので、強さ順位からは除外した。便宜的に、中将は大将よりも強いとしている。
駒を動かしていき、相手の駒がある場所に自分の駒を進める場合、一般の将棋では駒の種類にかかわらず、新しくそのマスに駒を動かした方が、前からいた相手の駒を取ることが出来る。しかし軍人将棋では、新しく動かした駒と前からいた相手の駒を、一度審判に見せ、審判は上記の規則に基いて駒の勝敗を判断する。プレイヤー二人は自分の負けた駒、または勝った駒によって相手の駒を推理していく。
このゲームにおいては、何枚駒を取ったかよりも、相手の強力な駒(将官、飛行機)がどの駒かを見分けることがより重要である。見分け方の一例として、相手の動いた駒にタンクおよび尉官または騎兵を当てるという方法がある。タンクは将官・飛行機・工兵以外に勝ち、尉官や騎兵は工兵に勝つので、これらの駒がどちらも倒されたら相手の駒は飛行機以上とわかる。他にも大佐および工兵を当てるという方法がある。また、飛行機を倒した駒は将官と判断できる。地雷が負けて、なおかつ尉官や騎兵を倒した駒、あるいは高飛び(他の駒を飛び越すこと)した駒は飛行機以外ありえない。なお、大佐を倒した相手はタンク以上の強い駒とわかるが、タンクを倒した相手は工兵の可能性もあるので、早とちりで強い駒と判断しないようにする。
どの種類の駒を倒したか推測することも必要になる。例えば、大尉を倒した駒にタンクを当てて勝ったときの相手は佐官、大佐を倒した駒に工兵を当てて勝った相手はタンク(つまり相手のタンクが一つ減った)、というかたちで推測できる。特に、弱い駒を当てて勝った相手は限定されるので分かりやすい。騎兵が勝てば相手は工兵かスパイ、工兵が勝てば相手はタンク、スパイ、地雷、少尉が勝てば相手は騎兵、工兵、スパイしかない。一方で、将官や飛行機は勝つ確率は高いが、倒した相手を限定しにくいことが多い。
強力な駒が判明した場合はその駒を覚えておく必要がある。特に、将官以外の駒は相手の将官を避けるように動かすとよい。尉官や騎兵は倒されても、支障が大きくないので、より価値が高い佐官やタンク、飛行機を優先的に相手の将官から逃がす。相手が大将ならば可能な限りスパイを当てるようにして、味方の中将または少将は逃げ場があれば、最優先で逃げられるようにする。しかし、相手が飛行機の場合は味方の佐官やタンクを逃がそうとしても、(飛行機は高飛びができるため)、追いつかれて倒されてしまうこともある。逃げ場がないときはその駒をあきらめて、他の手を打つほうがよいこともある。
また、相手の駒が飛行機であることが判明して、隣接するマスに味方の将官があれば必ず倒すようにする(さもなければ、味方の駒を次々と倒されて取り返しがつかないこともある)。近くに味方の将官がないときは、味方の飛行機を当てて相打ちにする方法がある。自軍も飛行機を失ってしまうが、他の駒への被害を軽減できる。
相手の中将や少将が突入口をふさいでいるときは、別の突入口から少将、飛行機、タンクなどを突入させる。どちらの突入口も中将や少将でふさがれているときは、敵陣の奥に飛行機を飛ばす手もある。
攻撃には中将が最も向いている。動いた駒の大部分を中将かそれ以下の駒と見なし、中将を積極的に動いた駒にぶつける。勝てばそれでよし、負けたのなら相手の駒は大将であり、中将同士ならば相打ちとなる。中将同士が相打ちしたら、次は少将を動いた駒にぶつけるようにする。なお、中将同士が相打ちした後、少将が負けたときも相手は大将である。相手の駒が大将と判明した場合、スパイをぶつけて相手の大将を排除することができれば、かなり有利に展開できる。しかし、常に中将の近くにスパイを置いておくと、そのことを相手に読まれやすく、スパイが相手の飛行機やタンク、工兵などに狙われる危険もある。特に、飛行機は他の駒を飛び越すことができるので、スパイにとっては大きな脅威となる。また、工兵は横にも何マスも進めるので、スパイを動かす際には注意を払わなければいけない。スパイを失ってしまうと、相手の大将を倒すことが難しくなる。それを避けるために、中将の近くに尉官などを置いて、スパイの振りをさせる手段もある。また、上記のように、スパイと悟られやすい動かし方をするのではなく、スパイを中将からある程度離れた場所に置いて(相手の大将も最終的には総司令部を目指してくるので)、大将が来るのを待ち構える作戦もある。大将が近づいて来なければ、スパイを最後まで温存して敵の駒が少なくなったときに倒す方法もある。
中将を大将のように、少将を中将のように、飛行機を(他の駒と同じように1マスずつ動かし)少将のように1ランク上であるかのように動かして相手をだます戦略もある。この作戦が成功している間、敵の駒数を減少させ動く駒と動かない駒がはっきりしてくると、勝負が決まることが多い。
また、倒された駒よりも1ランク強い駒を当てないようにする。例えば、味方の中尉を倒した駒に、自ら大尉を当てることは、駒や手数を無駄にしてしまうだけである。中尉が負けたという条件から、相手の駒は少なくとも大尉以上であり、勝つことはない。また、少佐以上の駒は(大尉よりも)数が多いので、負ける確率が圧倒的に高い。よって、ほとんどの場合は自分から駒を捨てることになる。逆に相手にとっては、動かなくても駒を取ることができた上に次の手に移るのが早くなるので、好都合になってしまう。偶然相打ちしたとしても、相手の大尉が確実に減った事しか分からない。相打ちになれば相手にも同じ情報を与えるので、自分が有利になることはない。
大将は中将や少将、飛行機などに比べ攻撃に向いていない。特に初心者は、攻撃の前線に出すべきではない。中将と少将は負けたときに、相手の大将または中将を特定できるという利点があるが、大将にはそれがない。スパイを特定できても、大将が倒された後では意味がない。大将同士が相殺するならばともかく、スパイで大将を倒されると、敗北に直結してしまうことも多い。大将は、敵の中将や少将を倒した後は、スパイに狙われる破目になる。勝てる相手が多いゆえに、敵の中将や少将をいつ倒したか判断するのは難しいので、いつスパイに狙われるかがわからない。
また、スパイを倒したかどうかを判断することは、ほとんどできない。数少ない例外として、スパイ同士が相殺したときと大将の前にある軍旗が負けたときがあるが、特に前者の確率は非常に低い。
大将を最後まで生き残らせることは基本である。大将さえ残っていれば、司令部の占領を阻止できる。中将を最後まで生き残らせるのも良いが、相手の大将が生き残っていたときは負けてしまう。スパイは弱い駒なので、最後まで残すことが強い駒に比べて難しい。
将官が地雷を踏むと著しく不利になるため、1度も動いていない駒には、将官ではなく飛行機を当てるのがよい(飛行機は地雷に勝ち、その他にも勝てる種類が多いため)。将官は地雷ではないと判明した駒にのみ当てるようにする。運任せに駒を当てているのでは上達できない。多数の動かない駒を持っており地雷とその他の駒が解らない状態を維持していくことが鍵となる。
序盤や中盤において、一度も動いていない駒が地雷かどうかを判断するには、騎兵や尉官といった弱い駒を当てる方法がある(同じ弱い駒でも、スパイと工兵はそれぞれ、敵の大将を倒す、地雷を除去するという大きな役目があるため、種類がわからない駒に当てるべきではない)。これらの駒が相打ちになったときは相手が地雷であった可能性がある。負けたときや勝ったときは地雷ではないと判断できる。例えば、少尉を当てて負けたときの相手は中尉以上(軍旗の可能性もある)、勝ったときの相手は騎兵、工兵、スパイのいずれか、相打ちしたときは少尉または地雷であったと考える(中尉、大尉、騎兵を当てたときも同じ考え方)。終盤になって動かせる駒が少なくなると、地雷とそれ以外の駒の判断がつきやすくなるため、このときに工兵を動いていない駒に当てるのがよい。
敵司令部にある駒が地雷の可能性があるとき、乗り込む前に飛行機か工兵を使い、その駒が地雷かを確認することも必要になる(地雷を踏んでしまうと、将官や佐官を失ってしまうため)。地雷は司令部を占領できる駒には勝てるため、司令部に設置した場合、1回に限り占領を阻止できるが、飛行機と工兵には、占領されない代わりに負けてしまう。この点から、敵司令部に地雷が設置されている可能性を考慮し、将官や佐官が敵司令部に乗り込む前に飛行機や工兵を当てて、地雷を除去する。もし、工兵を当てて負けたら、その駒は地雷やスパイ、タンク、工兵ではないとわかる。飛行機や工兵がないときは尉官や騎兵といった司令部を占領できない駒を当てて、相打ちにして地雷を除去する。初心者は、敵司令部にある駒が地雷かどうかを確認するために、飛行機を飛ばすことも多いが、騎兵が2マス進める利点を生かして、司令部の前が開いた時を狙って騎兵を当てる方法もある。尉官は一度に1マスしか進めないので敵の駒が多いうちは、司令部にたどり着く前に倒されやすい。
飛行機と工兵は移動力が優れているが、飛行機は高飛びをすると、工兵は前に3マス以上および後ろか横に2マス以上移動すると、他の駒にはそれ以上の移動力がないため相手には即時に駒を判断されてしまう。戦況を見極めて多用するのか控えるのか、その点は注意すべきである。工兵は飛行機とは異なり高飛びができないので、序盤は動きが限られるが、終盤に近づいて駒の数が減ると本来もつ移動力を発揮できる。飛行機はゲーム開始時から飛ぶことができるが、始めから飛ばして相手に正体を明かしてしまうのは好ましくない。序盤のうちは、他の駒と同じように動かすことが望ましい。しかし、例えば味方の少将を倒した(つまり、明らかに将官と判明した)敵の駒が、逃げ場のない飛行機に近づいてきたときなど、その場にいても倒されるとわかったときなどは、飛行機を逃がすために他の場所に飛ばした方がよい。(飛行機を失うことは戦力の大きな損失になるため)また、その場所に敵の将官がいれば飛行機は負けるが、その代償として相手の将官がどの駒かを知ることができる。
軍旗を自陣の最後列に置くことが許されるルールもあるが(一般的には禁止されている)、前述の通り、最後列の軍旗はどの駒にも負けるので軍旗は最後列に置かないようにする。
地雷の前に軍旗を置く戦術もある。この場合は地雷が1個多くあるのと同じになる(ただし、軍旗の後ろの地雷が先に除去された場合は、地雷の能力が失なわれる)。このとき、工兵が当てられて軍旗が負けた場合、騎兵や尉官などの駒で工兵を排除できる(もし、騎兵や尉官、佐官が負けたら、相手は工兵ではなく飛行機である。)。
地雷以外ならば、大将または中将を置くことが考えられる。中将の場合軍旗の近くにスパイがあると突破は困難となる。しかし、この戦術は中盤以降はやや読まれやすく、中将や大将が攻撃に使いにくいことが多いので一長一短といえる。
基本駒同士が戦えばすぐに勝敗を判断できるが、それ以外の駒が戦いに絡むと勝敗の付け方が特殊なため、初心者やルールを把握していない者が審判を務めると、時間がかかったり、その都度勝敗表を確認したりするなどをして相手の駒の予想を立てやすくなる場合もある。また、場合によっては勝敗判定を誤ってしまう恐れもある。そのため、審判役はある程度の熟練者が務めるのが望ましい。
軍人将棋には数々のローカルルールがある。
軍人将棋では突入口付近で将官がにらみ合う場合などに、いわゆる千日手のような膠着状態になることがあるが、この場合の一般的なルールはなく様々なローカルルールがある。
一つの方法としては千日手の直前に攻撃を受けた(駒をぶつけられた)方が打開しなければならない、というものがある。このルールでは先述のような将官同士が対峙している場合などに千日手を意識した戦術がとられることがしばしばある。
また、駒が少くなった終盤の千日手の場合、すべての駒を表にして一番強い駒が残っている側を勝ちをする方法もある(例えば大佐と少佐が残っていた場合、大佐を持つ側を勝ちとする)。この場合タンクや飛行機などをどう扱うかなどは地域によって異なる。
軍人将棋には様々なバリエーションがあり、独自の駒を含むものも多い。有名な駒には次のようなものがある。
他にも製品によっては代将、MP、砲兵、ジェット機などの駒がある。
ラタックでは軍人将棋と違い、審判を必要とせず、コマと敵のコマとがぶつかった時に両コマを表にして勝敗を決め、以後それらのコマは表を向けたままにする。
このゲームがいつ、誰によって発明されたかは正確にはわかっていないが、1895年(明治28年)には製造・販売され、遊ばれていた記録があり、類似のゲームの中では最も古いものである。
中国のボードゲームである軍棋、および欧米のボードゲームであるStratego (en:Stratego) には盤の形や駒の種類、勝敗で類似点が見られる。闘獣棋もよく似た中国のボードゲームである。いずれも盤には河に相当する部分があり、将棋やチェスよりもシャンチーに似ている。
また、シャンチーの駒を裏返して行う中国のボードゲームとして暗棋がある。駒の動かし方や勝敗は軍人将棋などと似かよっており、これらのボードゲームの起源となっている可能性が考えられる。
1907年(明治40年)に書かれた書物「世界遊戯法大全」には「いくさ将棋」の名で紹介されている。その中では『これは日清戦争の頃に出来たものかと思うが、仕組みが中々面白い所から、今は全国に普及して居るのでここに説く必要がない』のように書かれている。遊ぶ方法を紹介しない代わりに『当たり前の将棋のように駒を表に向けて置くと審判もいらないし闇死にもない』と駒を伏せずに遊ぶ方法を紹介している。
太平洋戦争中には「戦時国民智的遊具・戦争将棋」と名付けた改良品が売り出され、奨励されていた。 | [
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"text": "軍人将棋(ぐんじんしょうぎ)とは、通常2人で行うボードゲームの一種。軍事将棋(ぐんじしょうぎ)、または行軍将棋(こうぐんしょうぎ)とも呼ばれる。軍隊の階級や兵種を元にした駒を用いて盤上にて競う。欧米圏ではストラテゴ(Stratego)という名称の同種のボードゲームがプレイされている。",
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"text": "軍人将棋では、両プレイヤーが駒を裏返した状態で自分の陣地に自由に並べ、先攻から交互に駒を動かしていく。駒にはそれぞれ相性関係があり、同じ升目で駒が重なったときは、相性に従って片方または両方の駒が盤上から排除される。プレイヤーは相手の駒を見ることができないため、双方の駒を確認する審判役をおく。ゲームは相手の陣地最奥の総司令部を占領するか、相手の動ける駒を全滅させた方が勝ちとなる。最後に同種の駒同士が残った場合は相打ちとなるため、両方とも全滅する場合もあり得る。",
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"text": "駒には、少尉から大将までの各階級の軍人、およびタンク、飛行機、騎兵、工兵、地雷などの種類があり、種類によって勝てる相手が決まっている。基本的には位が高い軍人の方が強いが、最下位のスパイは最上位の大将を撃破できる、地雷には飛行機と工兵しか勝てないなど細かい規則がある。軍人将棋のセットには、このルールを一覧表にしたものが付属している。審判役はそれを見ながら勝ち負けを判定することが多い。",
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"text": "ルールはそのままに、駒の形状をアレンジしたものもある。駒を箱状にすることで手前側のみに駒の種類がわかるようになっており、底の空洞に仕込まれた数本のピンの凸凹を付属の勝敗判定機により判定するという、審判役を必要としない工夫がされている。現在は市販されていない。",
"title": "概要"
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"text": "審判役を必要とすることからコンピュータゲーム化への適性が高い。これまでに、ファミコン、Windows、ニンテンドーDS (『だれでもアソビ大全』)などのプラットフォームでゲーム化されている。",
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"text": "将棋をはじめとする多くの伝統的なボードゲームが完全情報ゲームであるのに対して、軍人将棋は不完全情報ゲームである。そのため、勝敗には純粋な実力のみでなく、運の要素が絡む性質がある。",
"title": "概要"
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"text": "一般的には敵の総司令部マスを大将、中将、少将、大佐、中佐、少佐のいずれかの駒で占拠する(これら以外の駒で、相手の総司令部に侵入できたとしても、占拠したことにはならない。)(駒を総司令部マスに置く)か、動かせる駒を全滅させることが目的である。なお、前記の駒が相手の総司令部に入った時点で占拠したとみなされるので、後からその駒を取ることはできず、ゲーム終了となる。総司令部が占拠されれば、残った駒の種類や数に関係なくゲームの負けとなる。",
"title": "ゲームの目的"
},
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"text": "ルールによっては相手の大将を倒すことを目的とするものもある。また、25枚型では相手の防御を破り、総司令部マスにいる元帥を倒すことを目的とする。",
"title": "ゲームの目的"
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"text": "軍人将棋は駒、盤からなり、対局者2人と審判1人の3人で遊ぶ。近年は電子機器による勝敗の判定ができるタイプもある。",
"title": "形態"
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"text": "軍人将棋には、突入口の形の違いと駒の種類の組み合わせにより、数多くの種類が存在する。また、大行軍将棋という、普通の軍人将棋よりも駒数の多いものも存在する。",
"title": "種類"
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{
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"text": "盤は変形8×8を使う。",
"title": "種類"
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"text": "短時間で終わらせることができ、盤は変形8×6を使う。",
"title": "種類"
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"text": "盤は変形9×9を使う。",
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"text": "これら以外にも様々な種類があるが、ここでは31枚型・23枚型・25枚型について説明する。",
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"text": "などの種類がある。",
"title": "種類"
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"text": "このゲームの要となるのが駒の配置である。一般の将棋のように開始時の配置が決まっているのではなく、自分の陣地内であれば以下の禁止事項を除き、どの駒をどこに置いてもよい。",
"title": "駒の配置"
},
{
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"text": "このうち、後者は禁止事項ではあるが、最後列の軍旗はどの駒にも負ける無駄駒になってしまい、開始時から他の駒1つ分の威力を失っている事になるため、一般的には罰則を設けないことが多い。",
"title": "駒の配置"
},
{
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"text": "総司令部は通常、2マス分の広さがあるが、他のマスと同様、1つしか駒を置けない。前述の通り、将官や佐官を相手の司令部に入れることを目的とする。よって、尉官、騎兵、工兵は佐官や将官に必ず負けるので総司令部は置かないほうがよい。スパイは大将だけには勝てるがそれ以外にはことごとく負けるため、総司令部に置いたとき、残った駒の条件によるが、負けて占領される確率が圧倒的に高い。飛行機や工兵にも負けるので、地雷確認のために前もって倒される恐れもある。少佐や中佐も、司令部を占領できる駒の中では弱いので負ける確率が高い。タンクは佐官には勝てるが、敵の飛行機や工兵によって排除される可能性もあり、将官にも負けて占領される。",
"title": "駒の配置"
},
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"text": "更には、司令部の防御を飛行機だけに任せることも好ましくないとされる。一見すると、2列のどちらにも飛ぶことができ、敵司令部を常に狙えるベストポジションのように見えるが、飛んだ時点で司令部は空になるので、司令部に隣接するマスに敵の佐官があった時も(飛行機は佐官に負けることはないが)、その隙に侵入されることもある(佐官でも敵司令部に侵入すれば、その時点でゲームの勝ちであり、その後倒すことはできない)。また、司令部やその周辺は地雷除去のためや、道を作るために敵の飛行機に攻撃されることも多く、すぐ近くに将官がいない限り飛行機同士が相打ちして、司令部が開いてしまう恐れもある。こうなると、司令部のすぐ近くが弱い駒しかないときは、簡単に占領されやすくなる。また、工兵や、尉官、騎兵で地雷確認をされた後(飛行機ならばこれらの駒に勝てるが、将官には負けるため)、すぐ近くのマスに敵の将官がいれば負けが確定したようなものである。",
"title": "駒の配置"
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"text": "地雷は司令部を占領できる駒に勝てるので、司令部に置けば1回だけ占領を防ぐことができる。飛行機や工兵、あるいは尉官や騎兵による相打ちで地雷を除去しても余分に手数がかかるので、手数稼ぎにはなる。しかし、地雷は1度限りの手段であるため、地雷が司令部から除去された後、回りが弱い駒ばかりならば上記の例と同様に占領されやすくなる。従って司令部に地雷を置く場合は、地雷がなくなった後のことも考えなければならない。",
"title": "駒の配置"
},
{
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"text": "以上の理由から、司令部またはその近くには将官が1枚以上あるとよい。特に初心者は、大将を置くことが最も勧められる(司令部に地雷などを置き、その隣に大将を置くのもよい)。大将を置けば、中将以下による占領は単独で防ぐことができ、スパイには負ける代わりに占領されない。中将は大将に負けるので、近くにスパイを置いて守らなければいけないが、スパイが飛行機などで倒された時には、敵の大将が地雷を踏むことを祈るしかなくなってしまう。大将の天敵はスパイであるが、スパイは大将以外のどの駒にも負けるので、種類がわからない敵の駒が大将に向かって来たときには、大将とスパイ以外の駒を当てて、スパイかどうかを確認するのがよい。その味方の駒が負けた時には相手はスパイでないと分かる。(スパイは大将よりも排除しやすいので、司令部の防御には大将が最も向いているといえる)",
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"text": "同じ駒同士の戦い(大将対大将、飛行機対飛行機、スパイ対スパイなど)は相打ちとみなしてどちらも盤上から撤去する。撤去した駒は再び使うことが出来ず、撤去した駒は自分の駒しか見ることが出来ない。また。本将棋とは異なり持ち駒がなく、相手から取った駒を自分の駒にはできない。地雷が勝った場合は爆発したとみなし撤去されるのが一般的である。",
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},
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"text": "○は勝ち、×は負け、=は引き分けを意味する。地雷は動くことができないので、地雷同士が戦うことはない。勝つ種類、負ける種類、引き分ける種類の数もそれぞれ示した。飛行機とタンクは少将以上に負けて大佐以下に勝つため、少将と大佐では強さの差が大きく、少佐と大尉では差が大きくないことがわかる。ただし、種類によって枚数が異なるため実際の勝率とは若干異なる。",
"title": "駒の勝敗"
},
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"text": "地雷はほとんどの種類に引き分けるので、強さ順位からは除外した。便宜的に、中将は大将よりも強いとしている。",
"title": "駒の勝敗"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "駒を動かしていき、相手の駒がある場所に自分の駒を進める場合、一般の将棋では駒の種類にかかわらず、新しくそのマスに駒を動かした方が、前からいた相手の駒を取ることが出来る。しかし軍人将棋では、新しく動かした駒と前からいた相手の駒を、一度審判に見せ、審判は上記の規則に基いて駒の勝敗を判断する。プレイヤー二人は自分の負けた駒、または勝った駒によって相手の駒を推理していく。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "このゲームにおいては、何枚駒を取ったかよりも、相手の強力な駒(将官、飛行機)がどの駒かを見分けることがより重要である。見分け方の一例として、相手の動いた駒にタンクおよび尉官または騎兵を当てるという方法がある。タンクは将官・飛行機・工兵以外に勝ち、尉官や騎兵は工兵に勝つので、これらの駒がどちらも倒されたら相手の駒は飛行機以上とわかる。他にも大佐および工兵を当てるという方法がある。また、飛行機を倒した駒は将官と判断できる。地雷が負けて、なおかつ尉官や騎兵を倒した駒、あるいは高飛び(他の駒を飛び越すこと)した駒は飛行機以外ありえない。なお、大佐を倒した相手はタンク以上の強い駒とわかるが、タンクを倒した相手は工兵の可能性もあるので、早とちりで強い駒と判断しないようにする。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "どの種類の駒を倒したか推測することも必要になる。例えば、大尉を倒した駒にタンクを当てて勝ったときの相手は佐官、大佐を倒した駒に工兵を当てて勝った相手はタンク(つまり相手のタンクが一つ減った)、というかたちで推測できる。特に、弱い駒を当てて勝った相手は限定されるので分かりやすい。騎兵が勝てば相手は工兵かスパイ、工兵が勝てば相手はタンク、スパイ、地雷、少尉が勝てば相手は騎兵、工兵、スパイしかない。一方で、将官や飛行機は勝つ確率は高いが、倒した相手を限定しにくいことが多い。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "強力な駒が判明した場合はその駒を覚えておく必要がある。特に、将官以外の駒は相手の将官を避けるように動かすとよい。尉官や騎兵は倒されても、支障が大きくないので、より価値が高い佐官やタンク、飛行機を優先的に相手の将官から逃がす。相手が大将ならば可能な限りスパイを当てるようにして、味方の中将または少将は逃げ場があれば、最優先で逃げられるようにする。しかし、相手が飛行機の場合は味方の佐官やタンクを逃がそうとしても、(飛行機は高飛びができるため)、追いつかれて倒されてしまうこともある。逃げ場がないときはその駒をあきらめて、他の手を打つほうがよいこともある。",
"title": "戦術"
},
{
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"text": "また、相手の駒が飛行機であることが判明して、隣接するマスに味方の将官があれば必ず倒すようにする(さもなければ、味方の駒を次々と倒されて取り返しがつかないこともある)。近くに味方の将官がないときは、味方の飛行機を当てて相打ちにする方法がある。自軍も飛行機を失ってしまうが、他の駒への被害を軽減できる。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "相手の中将や少将が突入口をふさいでいるときは、別の突入口から少将、飛行機、タンクなどを突入させる。どちらの突入口も中将や少将でふさがれているときは、敵陣の奥に飛行機を飛ばす手もある。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "攻撃には中将が最も向いている。動いた駒の大部分を中将かそれ以下の駒と見なし、中将を積極的に動いた駒にぶつける。勝てばそれでよし、負けたのなら相手の駒は大将であり、中将同士ならば相打ちとなる。中将同士が相打ちしたら、次は少将を動いた駒にぶつけるようにする。なお、中将同士が相打ちした後、少将が負けたときも相手は大将である。相手の駒が大将と判明した場合、スパイをぶつけて相手の大将を排除することができれば、かなり有利に展開できる。しかし、常に中将の近くにスパイを置いておくと、そのことを相手に読まれやすく、スパイが相手の飛行機やタンク、工兵などに狙われる危険もある。特に、飛行機は他の駒を飛び越すことができるので、スパイにとっては大きな脅威となる。また、工兵は横にも何マスも進めるので、スパイを動かす際には注意を払わなければいけない。スパイを失ってしまうと、相手の大将を倒すことが難しくなる。それを避けるために、中将の近くに尉官などを置いて、スパイの振りをさせる手段もある。また、上記のように、スパイと悟られやすい動かし方をするのではなく、スパイを中将からある程度離れた場所に置いて(相手の大将も最終的には総司令部を目指してくるので)、大将が来るのを待ち構える作戦もある。大将が近づいて来なければ、スパイを最後まで温存して敵の駒が少なくなったときに倒す方法もある。",
"title": "戦術"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "中将を大将のように、少将を中将のように、飛行機を(他の駒と同じように1マスずつ動かし)少将のように1ランク上であるかのように動かして相手をだます戦略もある。この作戦が成功している間、敵の駒数を減少させ動く駒と動かない駒がはっきりしてくると、勝負が決まることが多い。",
"title": "戦術"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "また、倒された駒よりも1ランク強い駒を当てないようにする。例えば、味方の中尉を倒した駒に、自ら大尉を当てることは、駒や手数を無駄にしてしまうだけである。中尉が負けたという条件から、相手の駒は少なくとも大尉以上であり、勝つことはない。また、少佐以上の駒は(大尉よりも)数が多いので、負ける確率が圧倒的に高い。よって、ほとんどの場合は自分から駒を捨てることになる。逆に相手にとっては、動かなくても駒を取ることができた上に次の手に移るのが早くなるので、好都合になってしまう。偶然相打ちしたとしても、相手の大尉が確実に減った事しか分からない。相打ちになれば相手にも同じ情報を与えるので、自分が有利になることはない。",
"title": "戦術"
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"text": "大将は中将や少将、飛行機などに比べ攻撃に向いていない。特に初心者は、攻撃の前線に出すべきではない。中将と少将は負けたときに、相手の大将または中将を特定できるという利点があるが、大将にはそれがない。スパイを特定できても、大将が倒された後では意味がない。大将同士が相殺するならばともかく、スパイで大将を倒されると、敗北に直結してしまうことも多い。大将は、敵の中将や少将を倒した後は、スパイに狙われる破目になる。勝てる相手が多いゆえに、敵の中将や少将をいつ倒したか判断するのは難しいので、いつスパイに狙われるかがわからない。",
"title": "戦術"
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"text": "また、スパイを倒したかどうかを判断することは、ほとんどできない。数少ない例外として、スパイ同士が相殺したときと大将の前にある軍旗が負けたときがあるが、特に前者の確率は非常に低い。",
"title": "戦術"
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"text": "大将を最後まで生き残らせることは基本である。大将さえ残っていれば、司令部の占領を阻止できる。中将を最後まで生き残らせるのも良いが、相手の大将が生き残っていたときは負けてしまう。スパイは弱い駒なので、最後まで残すことが強い駒に比べて難しい。",
"title": "戦術"
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"text": "将官が地雷を踏むと著しく不利になるため、1度も動いていない駒には、将官ではなく飛行機を当てるのがよい(飛行機は地雷に勝ち、その他にも勝てる種類が多いため)。将官は地雷ではないと判明した駒にのみ当てるようにする。運任せに駒を当てているのでは上達できない。多数の動かない駒を持っており地雷とその他の駒が解らない状態を維持していくことが鍵となる。",
"title": "戦術"
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"text": "序盤や中盤において、一度も動いていない駒が地雷かどうかを判断するには、騎兵や尉官といった弱い駒を当てる方法がある(同じ弱い駒でも、スパイと工兵はそれぞれ、敵の大将を倒す、地雷を除去するという大きな役目があるため、種類がわからない駒に当てるべきではない)。これらの駒が相打ちになったときは相手が地雷であった可能性がある。負けたときや勝ったときは地雷ではないと判断できる。例えば、少尉を当てて負けたときの相手は中尉以上(軍旗の可能性もある)、勝ったときの相手は騎兵、工兵、スパイのいずれか、相打ちしたときは少尉または地雷であったと考える(中尉、大尉、騎兵を当てたときも同じ考え方)。終盤になって動かせる駒が少なくなると、地雷とそれ以外の駒の判断がつきやすくなるため、このときに工兵を動いていない駒に当てるのがよい。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 38,
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"text": "敵司令部にある駒が地雷の可能性があるとき、乗り込む前に飛行機か工兵を使い、その駒が地雷かを確認することも必要になる(地雷を踏んでしまうと、将官や佐官を失ってしまうため)。地雷は司令部を占領できる駒には勝てるため、司令部に設置した場合、1回に限り占領を阻止できるが、飛行機と工兵には、占領されない代わりに負けてしまう。この点から、敵司令部に地雷が設置されている可能性を考慮し、将官や佐官が敵司令部に乗り込む前に飛行機や工兵を当てて、地雷を除去する。もし、工兵を当てて負けたら、その駒は地雷やスパイ、タンク、工兵ではないとわかる。飛行機や工兵がないときは尉官や騎兵といった司令部を占領できない駒を当てて、相打ちにして地雷を除去する。初心者は、敵司令部にある駒が地雷かどうかを確認するために、飛行機を飛ばすことも多いが、騎兵が2マス進める利点を生かして、司令部の前が開いた時を狙って騎兵を当てる方法もある。尉官は一度に1マスしか進めないので敵の駒が多いうちは、司令部にたどり着く前に倒されやすい。",
"title": "戦術"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "飛行機と工兵は移動力が優れているが、飛行機は高飛びをすると、工兵は前に3マス以上および後ろか横に2マス以上移動すると、他の駒にはそれ以上の移動力がないため相手には即時に駒を判断されてしまう。戦況を見極めて多用するのか控えるのか、その点は注意すべきである。工兵は飛行機とは異なり高飛びができないので、序盤は動きが限られるが、終盤に近づいて駒の数が減ると本来もつ移動力を発揮できる。飛行機はゲーム開始時から飛ぶことができるが、始めから飛ばして相手に正体を明かしてしまうのは好ましくない。序盤のうちは、他の駒と同じように動かすことが望ましい。しかし、例えば味方の少将を倒した(つまり、明らかに将官と判明した)敵の駒が、逃げ場のない飛行機に近づいてきたときなど、その場にいても倒されるとわかったときなどは、飛行機を逃がすために他の場所に飛ばした方がよい。(飛行機を失うことは戦力の大きな損失になるため)また、その場所に敵の将官がいれば飛行機は負けるが、その代償として相手の将官がどの駒かを知ることができる。",
"title": "戦術"
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"text": "軍旗を自陣の最後列に置くことが許されるルールもあるが(一般的には禁止されている)、前述の通り、最後列の軍旗はどの駒にも負けるので軍旗は最後列に置かないようにする。",
"title": "戦術"
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"text": "地雷の前に軍旗を置く戦術もある。この場合は地雷が1個多くあるのと同じになる(ただし、軍旗の後ろの地雷が先に除去された場合は、地雷の能力が失なわれる)。このとき、工兵が当てられて軍旗が負けた場合、騎兵や尉官などの駒で工兵を排除できる(もし、騎兵や尉官、佐官が負けたら、相手は工兵ではなく飛行機である。)。",
"title": "戦術"
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"text": "地雷以外ならば、大将または中将を置くことが考えられる。中将の場合軍旗の近くにスパイがあると突破は困難となる。しかし、この戦術は中盤以降はやや読まれやすく、中将や大将が攻撃に使いにくいことが多いので一長一短といえる。",
"title": "戦術"
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"text": "基本駒同士が戦えばすぐに勝敗を判断できるが、それ以外の駒が戦いに絡むと勝敗の付け方が特殊なため、初心者やルールを把握していない者が審判を務めると、時間がかかったり、その都度勝敗表を確認したりするなどをして相手の駒の予想を立てやすくなる場合もある。また、場合によっては勝敗判定を誤ってしまう恐れもある。そのため、審判役はある程度の熟練者が務めるのが望ましい。",
"title": "戦術"
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"text": "軍人将棋には数々のローカルルールがある。",
"title": "ローカルルール"
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"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "軍人将棋では突入口付近で将官がにらみ合う場合などに、いわゆる千日手のような膠着状態になることがあるが、この場合の一般的なルールはなく様々なローカルルールがある。",
"title": "ローカルルール"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "一つの方法としては千日手の直前に攻撃を受けた(駒をぶつけられた)方が打開しなければならない、というものがある。このルールでは先述のような将官同士が対峙している場合などに千日手を意識した戦術がとられることがしばしばある。",
"title": "ローカルルール"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "また、駒が少くなった終盤の千日手の場合、すべての駒を表にして一番強い駒が残っている側を勝ちをする方法もある(例えば大佐と少佐が残っていた場合、大佐を持つ側を勝ちとする)。この場合タンクや飛行機などをどう扱うかなどは地域によって異なる。",
"title": "ローカルルール"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "軍人将棋には様々なバリエーションがあり、独自の駒を含むものも多い。有名な駒には次のようなものがある。",
"title": "ローカルルール"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "他にも製品によっては代将、MP、砲兵、ジェット機などの駒がある。",
"title": "ローカルルール"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "ラタックでは軍人将棋と違い、審判を必要とせず、コマと敵のコマとがぶつかった時に両コマを表にして勝敗を決め、以後それらのコマは表を向けたままにする。",
"title": "ラタックとの違い"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "このゲームがいつ、誰によって発明されたかは正確にはわかっていないが、1895年(明治28年)には製造・販売され、遊ばれていた記録があり、類似のゲームの中では最も古いものである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "中国のボードゲームである軍棋、および欧米のボードゲームであるStratego (en:Stratego) には盤の形や駒の種類、勝敗で類似点が見られる。闘獣棋もよく似た中国のボードゲームである。いずれも盤には河に相当する部分があり、将棋やチェスよりもシャンチーに似ている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "また、シャンチーの駒を裏返して行う中国のボードゲームとして暗棋がある。駒の動かし方や勝敗は軍人将棋などと似かよっており、これらのボードゲームの起源となっている可能性が考えられる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1907年(明治40年)に書かれた書物「世界遊戯法大全」には「いくさ将棋」の名で紹介されている。その中では『これは日清戦争の頃に出来たものかと思うが、仕組みが中々面白い所から、今は全国に普及して居るのでここに説く必要がない』のように書かれている。遊ぶ方法を紹介しない代わりに『当たり前の将棋のように駒を表に向けて置くと審判もいらないし闇死にもない』と駒を伏せずに遊ぶ方法を紹介している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "太平洋戦争中には「戦時国民智的遊具・戦争将棋」と名付けた改良品が売り出され、奨励されていた。",
"title": "歴史"
}
] | 軍人将棋(ぐんじんしょうぎ)とは、通常2人で行うボードゲームの一種。軍事将棋(ぐんじしょうぎ)、または行軍将棋(こうぐんしょうぎ)とも呼ばれる。軍隊の階級や兵種を元にした駒を用いて盤上にて競う。欧米圏ではストラテゴ(Stratego)という名称の同種のボードゲームがプレイされている。 | {{otheruses||コンピュータゲーム|軍人将棋 (MSX2)}}
{{Infobox game
| subject_name=軍人将棋
| image_link=[[ファイル:Gunjin Shogi.jpg|280px|軍人将棋盤の一例。手前(オレンジ)は駒の種類がわかるように表向けに配置しているが、対局するときには奥(黄色)のように裏向けに配置する]]
| image_caption=軍人将棋盤の一例。手前(オレンジ)は駒の種類がわかるように表向けに配置しているが、対局するときには奥(黄色)のように裏向けに配置する
| players=3人(内1人は審判)
| setup_time=2-8分程度
| playing_time=10-40分程度
| random_chance=多少あり
| skills=推理、戦略
}}
'''軍人将棋'''(ぐんじんしょうぎ)とは、通常2人で行う[[ボードゲーム]]の一種。'''軍事将棋'''(ぐんじしょうぎ)、または'''行軍将棋'''(こうぐんしょうぎ)とも呼ばれる。[[軍隊]]の[[軍隊の階級|階級]]や[[兵種]]を元にした[[駒]]を用いて盤上にて競う。欧米圏では[[ストラテゴ]]([[w:Stratego|Stratego]])という名称の同種のボードゲームがプレイされている。
== 概要 ==
軍人将棋では、両プレイヤーが駒を裏返した状態で自分の陣地に自由に並べ、先攻から交互に駒を動かしていく。駒にはそれぞれ相性関係があり、同じ升目で駒が重なったときは、相性に従って片方または両方の駒が盤上から排除される。プレイヤーは相手の駒を見ることができないため、双方の駒を確認する[[審判]]役をおく。ゲームは相手の陣地最奥の総司令部を占領するか、相手の動ける駒を全滅させた方が勝ちとなる。最後に同種の駒同士が残った場合は相打ちとなるため、両方とも全滅する場合もあり得る。
駒には、[[少尉]]から[[大将]]までの各階級の軍人、および[[戦車|タンク]]<ref group="注釈">軍人将棋においては戦車をタンクと呼ぶことも少なくない。</ref>、[[飛行機]]、[[騎兵]]、[[工兵]]、[[地雷]]などの種類があり、種類によって勝てる相手が決まっている。基本的には位が高い軍人の方が強いが、最下位のスパイは最上位の大将を撃破できる、地雷には飛行機と工兵しか勝てないなど細かい規則がある。軍人将棋のセットには、このルールを一覧表にしたものが付属している。審判役はそれを見ながら勝ち負けを判定することが多い。
ルールはそのままに、駒の形状をアレンジしたものもある。駒を箱状にすることで手前側のみに駒の種類がわかるようになっており、底の空洞に仕込まれた数本のピンの凸凹を付属の勝敗判定機により判定するという、審判役を必要としない工夫がされている。現在は市販されていない。
審判役を必要とすることからコンピュータゲーム化への適性が高い。これまでに、[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]、[[Microsoft Windows|Windows]]、[[ニンテンドーDS]] (『[[だれでもアソビ大全]]』)などのプラットフォームでゲーム化されている。
将棋をはじめとする多くの伝統的なボードゲームが[[完全情報ゲーム]]であるのに対して、軍人将棋は[[不完全情報ゲーム]]である。そのため、勝敗には純粋な実力のみでなく、運の要素が絡む性質がある。
== ゲームの目的 ==
一般的には敵の[[総司令部]]マスを'''[[大将]]、[[中将]]、[[少将]]、[[大佐]]、[[中佐]]、[[少佐]]のいずれかの駒で占拠する'''(これら以外の駒で、相手の総司令部に侵入できたとしても、占拠したことにはならない。)(駒を総司令部マスに置く)か、'''動かせる駒を全滅させる'''ことが目的である。なお、前記の駒が相手の総司令部に入った時点で占拠したとみなされるので、後からその駒を取ることはできず、ゲーム終了となる。総司令部が占拠されれば、残った駒の種類や数に関係なくゲームの負けとなる。
ルールによっては'''相手の大将を倒す'''ことを目的とするものもある。また、25枚型では相手の防御を破り、[[総司令部]]マスにいる元帥を倒すことを目的とする<ref>[http://www.tanken.com/gunjin.html 軍人将棋の世界] "軍人将棋連盟"</ref>。
== 形態 ==
軍人将棋は駒、盤からなり、対局者2人と審判1人の3人で遊ぶ。近年は電子機器による勝敗の判定ができるタイプもある。
* 駒は先攻、後攻の駒が識別できるように2色(例えば、橙色と黄色、青と紫<!-- 例えば、フリーソフト『ADV軍人将棋』では駒の色は水色と紫です -->)に分けられている。駒の形状は一般の将棋と同じ左右対称の[[変形五角形]]。しかし種類別に大きさの違いはなく、全て同じ大きさである。以前はその多くが木製であった<ref group="注釈">木製の駒は、[[木目]]に沿って割れ目や欠け等が発生した場合、それが目印になって駒の種類をプレーヤーに記憶されてしまう状況が頻繁に起こった。また木目は駒によって異なるので、そのことも判断材料になることもあった。プラスティックならば、傷や割れ目、汚れがない限り、どの駒も一様にできるので、上記のような心配がなくなった。</ref>が、現在販売されているものの大半は[[プラスティック]]製である。
* 盤は以下に表す駒の種類によって、また突入口の種類によって数多くの種類がある。共通して言えるのは自陣と敵陣に分かれており、その間を行き来するためには飛行機を除き突入口(突撃口)を通らなければならない。それぞれの陣地には総司令部(種類によっては総司令部と[[大本営]])がある。総司令部は陣の最後列中央にあり通常、2マス分の広さがある。場合によっては、3マス分の広さがあるものもある。
== 種類 ==
軍人将棋には、突入口の形の違いと駒の種類の組み合わせにより、数多くの種類が存在する。また、[[大行軍将棋]]という、普通の軍人将棋よりも駒数の多いものも存在する。
=== 駒数の種類 ===
{| class="wikitable" border="1"
|+31枚型
|-
!種類!!数!!種類!!数!!種類!!数!!種類!!数
|-
|[[大将]]||1||[[大佐]]||2||[[大尉]]||2||工兵||3
|-
|[[中将]]||1||[[中佐]]||2||[[中尉]]||2||地雷||3
|-
|[[少将]]||2||[[少佐]]||2||[[少尉]]||2||飛行機||2
|-
|軍旗||1||騎兵||2||タンク||3||スパイ||1
|-
|}
盤は変形8×8を使う。
{| class="wikitable" border="1"
|+23枚型
|-
!種類!!数!!種類!!数!!種類!!数!!種類!!数
|-
|大将||1||大佐||1||大尉||2||工兵||2
|-
|中将||1||中佐||1||中尉||2||地雷||2
|-
|少将||1||少佐||1||少尉||2||飛行機||2
|-
|軍旗||1||騎兵||1||タンク||2||スパイ||1
|-
|}
短時間で終わらせることができ、盤は変形8×6を使う。
{| class="wikitable" bordea="1"
|+25枚型
|-
!種類!!数!!種類!!数!!種類!!数!!種類!!数
|-
|元帥||1||大将||1||中将||1||少将||1
|-
|大佐||2||中佐||2||少佐||2||砲兵||2
|-
|工兵||3||地雷||2||ミサイル||2||原爆||1
|-
|ジェット機||2||タンク||2||スパイ||1
|-
|}
盤は変形9×9を使う。
これら以外にも様々な種類があるが、ここでは31枚型・23枚型・25枚型について説明する。
=== 突入口の種類 ===
* 突入口が自陣に4つあるX型(Xの形をした突入口が2つある。8×8の盤はこれが多い)
* 突入口が自陣に3つあるY型(Yと逆Yの形をした突入口が1つずつある)
* 突入口が自陣に2つあるI型(直線の突入口が2つある。)
* またそれぞれに浮島(X型、Y型の、道が交わるところにあるマス)のあるもの(25枚型がこれに含まれる。また、X型のものの場合、直進の場合は一度に渡れるが、曲がる場合は一旦浮島で止まる必要がある)
などの種類がある。
== 駒の配置 ==
このゲームの要となるのが駒の配置である。一般の将棋のように開始時の配置が決まっているのではなく、自分の陣地内であれば以下の禁止事項を除き、どの駒をどこに置いてもよい。
* '''突入口に地雷もしくは軍旗を置く'''
* 自陣最後尾列に軍旗を置く
このうち、後者は禁止事項ではあるが、最後列の軍旗はどの駒にも負ける無駄駒になってしまい、開始時から他の駒1つ分の威力を失っている事になるため、一般的には罰則を設けないことが多い。
<!-- *総司令部に地雷を置く (多くの場合は総司令部にも地雷を置くことができます。例えば、フリーソフト『通信軍人将棋』等では総司令部に地雷を置くことが可能です。しかし、総司令部に地雷を置けないローカルルールがあることは確かです。温暖水無月)-->
=== 総司令部に置く駒について ===
====31枚型・23枚型====
{{独自研究|section=1|date=2017年5月23日 (火) 07:36 (UTC)}}
総司令部は通常、2マス分の広さがあるが、他のマスと同様、1つしか駒を置けない。[[軍人将棋#ゲームの目的|前述]]の通り、将官や佐官を相手の司令部に入れることを目的とする。よって、尉官、騎兵、工兵は佐官や将官に必ず負けるので総司令部は置かないほうがよい。スパイは大将だけには勝てるがそれ以外にはことごとく負けるため、総司令部に置いたとき、残った駒の条件によるが、負けて占領される確率が圧倒的に高い。飛行機や工兵にも負けるので、地雷確認のために前もって倒される恐れもある。少佐や中佐も、司令部を占領できる駒の中では弱いので負ける確率が高い。タンクは佐官には勝てるが、敵の飛行機や工兵によって排除される可能性もあり、将官にも負けて占領される。
更には、司令部の防御を飛行機だけに任せることも好ましくないとされる。一見すると、2列のどちらにも飛ぶことができ、敵司令部を常に狙えるベストポジションのように見えるが、飛んだ時点で司令部は空になるので、司令部に隣接するマスに敵の佐官があった時も(飛行機は佐官に負けることはないが)、その隙に侵入されることもある(佐官でも敵司令部に侵入すれば、その時点でゲームの勝ちであり、その後倒すことはできない)。また、司令部やその周辺は地雷除去のためや、道を作るために敵の飛行機に攻撃されることも多く、すぐ近くに将官がいない限り飛行機同士が相打ちして、司令部が開いてしまう恐れもある。こうなると、司令部のすぐ近くが弱い駒しかないときは、簡単に占領されやすくなる。また、工兵や、尉官、騎兵で地雷確認をされた後(飛行機ならばこれらの駒に勝てるが、将官には負けるため)、すぐ近くのマスに敵の将官がいれば負けが確定したようなものである。
地雷は司令部を占領できる駒に勝てるので、司令部に置けば1回だけ占領を防ぐことができる。飛行機や工兵、あるいは尉官や騎兵による相打ちで地雷を除去しても余分に手数がかかるので、手数稼ぎにはなる。しかし、地雷は1度限りの手段であるため、地雷が司令部から除去された後、回りが弱い駒ばかりならば上記の例と同様に占領されやすくなる。従って司令部に地雷を置く場合は、地雷がなくなった後のことも考えなければならない。
以上の理由から、司令部またはその近くには将官が1枚以上あるとよい。特に初心者は、大将を置くことが最も勧められる(司令部に地雷などを置き、その隣に大将を置くのもよい)。大将を置けば、中将以下による占領は単独で防ぐことができ、スパイには負ける代わりに占領されない。中将は大将に負けるので、近くにスパイを置いて守らなければいけないが、スパイが飛行機などで倒された時には、敵の大将が地雷を踏むことを祈るしかなくなってしまう。大将の天敵はスパイであるが、スパイは大将以外のどの駒にも負けるので、種類がわからない敵の駒が大将に向かって来たときには、大将とスパイ以外の駒を当てて、スパイかどうかを確認するのがよい。その味方の駒が負けた時には相手はスパイでないと分かる。(スパイは大将よりも排除しやすいので、司令部の防御には大将が最も向いているといえる)
== 駒の動かし方 ==
===31枚型・23枚型===
; 将官、佐官、尉官、スパイ
: 前後左右に1マス動ける。
; [[戦車|タンク]]、[[騎兵]]
: 前後左右の1マス、または2マス前に動ける。手前に駒がある場合は飛び越えて2マス前に進むことはできない。
; [[戦闘機|飛行機]]
: 前後には何マスでも動ける。左右は1マス動ける。この駒のみ、途中の駒を飛び越えられ、突入口を無視してどこからでも敵陣に攻め込むことが出来る。
; [[工兵]]
: 前後左右に何マスでも動ける。将棋の[[飛車]]と同じ動きをする。途中の駒は飛び越せない。
; [[軍旗]]、[[地雷]]
: 動かせない。
===25枚型===
; 将官、佐官
: 前後左右に1マス動ける。
; タンク、工兵、[[砲兵]]、[[スパイ]]
: 前後左右に何マスでも動ける。途中の駒は飛び越せない。
; [[ジェット機]]、[[ミサイル]]
: 味方の駒と相手の[[元帥]]がいるマスをのぞき、全てのマスに動ける。
; [[原子爆弾|原爆]]
: 動けない。ただし、隣に自分のミサイルがあれば、それに連動して移動できる。
; 地雷、[[元帥]]
: 動けない。
== 駒の勝敗 ==
===31枚型・23枚型===
; 基本駒
: 大将>中将>少将>大佐>中佐>少佐>大尉>中尉>少尉
: の順に強い。例えば、少将と中佐が戦うと、少将が勝つ。また、将官、佐官は司令部を占領できるので、尉官に比べ駒の価値が高い。
; 特殊駒
:* 飛行機は将官以外には全て勝つ。将官のみに負ける。
:* タンクは将官、飛行機、工兵、地雷に負け、その他には全て勝つ。
:* 地雷は飛行機と工兵に負け、その他の駒に勝つ(相打ち)。
:* 工兵は地雷とスパイ、タンクに勝ち、その他には全て負ける。
:* 騎兵はスパイと工兵だけに勝ち、その他には全て負ける。
:* スパイは大将だけに勝ち、その他には全て負ける。動ける駒の中では最も弱い。
:* 軍旗はすぐ後ろにある味方の駒と同じ威力となる。たとえば軍旗とタンクが戦うとき、軍旗のすぐ後ろが少将ならば軍旗が勝つ。軍旗のすぐ後ろが大佐のときはタンクが勝つ。このとき、大佐は同時に撤去されない。軍旗の後ろが地雷のときは、タンクと軍旗が相打ちになり、両者とも盤から除去される。このとき、地雷は撤去されずその場に残る。また、軍旗のすぐ後ろが敵の駒か何もない場合、あるいは軍旗が自陣の最後列(総司令部も含む)にある場合は、どの駒と戦っても負ける。
同じ駒同士の戦い(大将対大将、飛行機対飛行機、スパイ対スパイなど)は相打ちとみなしてどちらも盤上から撤去する。撤去した駒は再び使うことが出来ず、撤去した駒は自分の駒しか見ることが出来ない。また。[[本将棋]]とは異なり[[持ち駒]]がなく、相手から取った駒を自分の駒にはできない。地雷が勝った場合は爆発したとみなし撤去されるのが一般的である。
=== 勝敗表 ===
○は勝ち、×は負け、=は引き分けを意味する。地雷は動くことができないので、地雷同士が戦うことはない。勝つ種類、負ける種類、引き分ける種類の数もそれぞれ示した。飛行機とタンクは少将以上に負けて大佐以下に勝つため、少将と大佐では強さの差が大きく、少佐と大尉では差が大きくないことがわかる。ただし、種類によって枚数が異なるため実際の勝率とは若干異なる。
地雷はほとんどの種類に引き分けるので、強さ順位からは除外した。便宜的に、中将は大将よりも強いとしている。
{| class="wikitable" border="1" style="text-align:center;"
|-
! !!大将!!中将!!少将!!大佐!!中佐!!少佐!!大尉!!中尉!!少尉!!飛行機!!タンク!!騎兵!!工兵!!スパイ!!地雷!! !!勝ち!!引き分け!!負け!! !!強さ順位
|-
!大将
|=||○||○||○||○||○||○||○||○||○||○||○||○||×||=|| ||12||2||1|| ||2
|-
!中将
|×||=||○||○||○||○||○||○||○||○||○||○||○||○||=|| ||12||2||1|| ||1
|-
!少将
|×||×||=||○||○||○||○||○||○||○||○||○||○||○||=|| ||11||2||2|| ||3
|-
!大佐
|×||×||×||=||○||○||○||○||○||×||×||○||○||○||=|| ||8||2||5|| ||5
|-
!中佐
|×||×||×||×||=||○||○||○||○||×||×||○||○||○||=|| ||7||2||6|| ||7
|-
!少佐
|×||×||×||×||×||=||○||○||○||×||×||○||○||○||=|| ||6||2||7|| ||8
|-
!大尉
|×||×||×||×||×||×||=||○||○||×||×||○||○||○||=|| ||5||2||8|| ||9
|-
!中尉
|×||×||×||×||×||×||×||=||○||×||×||○||○||○||=|| ||4||2||9|| ||10
|-
!少尉
|×||×||×||×||×||×||×||×||=||×||×||○||○||○||=|| ||3||2||10|| ||11
|-
!飛行機
|×||×||×||○||○||○||○||○||○||=||○||○||○||○||○|| ||11||1||3|| ||4
|-
!タンク
|×||×||×||○||○||○||○||○||○||×||=||○||×||○||=|| ||8||2||5|| ||5
|-
!騎兵
|×||×||×||×||×||×||×||×||×||×||×||=||○||○||=|| ||2||2||11|| ||13
|-
!工兵
|×||×||×||×||×||×||×||×||×||×||○||×||=||○||○|| ||3||1||11|| ||12
|-
!スパイ
|○||×||×||×||×||×||×||×||×||×||×||×||×||=||=|| ||1||2||12|| ||14
|-
!地雷
|=||=||=||=||=||=||=||=||=||×||=||=||×||=|| || ||0||12||2
|-
|}
== 戦術 ==
{{複数の問題|section=1
|独自研究=2022年9月19日 (月) 11:58 (UTC)
|出典の明記=2022年9月19日 (月) 11:58 (UTC)
|言葉を濁さない=2022年9月19日 (月) 11:58 (UTC)
}}
駒を動かしていき、相手の駒がある場所に自分の駒を進める場合、一般の将棋では駒の種類にかかわらず、新しくそのマスに駒を動かした方が、前からいた相手の駒を取ることが出来る。しかし軍人将棋では、新しく動かした駒と前からいた相手の駒を、一度審判に見せ、審判は上記の規則に基いて駒の勝敗を判断する。プレイヤー二人は自分の負けた駒、または勝った駒によって相手の駒を推理していく。
=== 強力な駒の見分け方について ===
このゲームにおいては、何枚駒を取ったかよりも、相手の強力な駒(将官、飛行機)がどの駒かを見分けることがより重要である。見分け方の一例として、相手の動いた駒にタンクおよび尉官または騎兵を当てるという方法がある。タンクは将官・飛行機・工兵以外に勝ち、尉官や騎兵は工兵に勝つので、これらの駒がどちらも倒されたら相手の駒は飛行機以上とわかる。他にも大佐および工兵を当てるという方法がある。また、飛行機を倒した駒は将官と判断できる。地雷が負けて、なおかつ尉官や騎兵を倒した駒、あるいは高飛び(他の駒を飛び越すこと)した駒は飛行機以外ありえない。なお、大佐を倒した相手はタンク以上の強い駒とわかるが、タンクを倒した相手は工兵の可能性もあるので、早とちりで強い駒と判断しないようにする。
=== 倒した駒の推測について ===
どの種類の駒を倒したか推測することも必要になる。例えば、大尉を倒した駒にタンクを当てて勝ったときの相手は佐官、大佐を倒した駒に工兵を当てて勝った相手はタンク(つまり相手のタンクが一つ減った)、というかたちで推測できる。特に、弱い駒を当てて勝った相手は限定されるので分かりやすい。騎兵が勝てば相手は工兵かスパイ、工兵が勝てば相手はタンク、スパイ、地雷、少尉が勝てば相手は騎兵、工兵、スパイしかない。一方で、将官や飛行機は勝つ確率は高いが、倒した相手を限定しにくいことが多い。
=== 強力な駒への対処について ===
'''強力な駒が判明した場合はその駒を覚えておく必要がある'''。特に、将官以外の駒は相手の将官を避けるように動かすとよい。尉官や騎兵は倒されても、支障が大きくないので、より価値が高い佐官やタンク、飛行機を優先的に相手の将官から逃がす。相手が大将ならば可能な限りスパイを当てるようにして、味方の中将または少将は逃げ場があれば、最優先で逃げられるようにする。しかし、相手が飛行機の場合は味方の佐官やタンクを逃がそうとしても、(飛行機は高飛びができるため)、追いつかれて倒されてしまうこともある。逃げ場がないときはその駒をあきらめて、他の手を打つほうがよいこともある。
また、相手の駒が飛行機であることが判明して、隣接するマスに味方の将官があれば必ず倒すようにする(さもなければ、味方の駒を次々と倒されて取り返しがつかないこともある)。近くに味方の将官がないときは、味方の飛行機を当てて相打ちにする方法がある。自軍も飛行機を失ってしまうが、他の駒への被害を軽減できる。
相手の中将や少将が突入口をふさいでいるときは、別の突入口から少将、飛行機、タンクなどを突入させる。どちらの突入口も中将や少将でふさがれているときは、敵陣の奥に飛行機を飛ばす手もある。
=== 基本的な戦術について ===
'''攻撃には中将が最も向いている'''。動いた駒の大部分を中将かそれ以下の駒と見なし、中将を積極的に動いた駒にぶつける。勝てばそれでよし、負けたのなら相手の駒は大将であり、中将同士ならば相打ちとなる。中将同士が相打ちしたら、次は少将を動いた駒にぶつけるようにする。なお、中将同士が相打ちした後、少将が負けたときも相手は大将である。相手の駒が大将と判明した場合、スパイをぶつけて相手の大将を排除することができれば、かなり有利に展開できる。しかし、常に中将の近くにスパイを置いておくと、そのことを相手に読まれやすく、スパイが相手の飛行機やタンク、工兵などに狙われる危険もある。特に、飛行機は他の駒を飛び越すことができるので、スパイにとっては大きな脅威となる。また、工兵は横にも何マスも進めるので、スパイを動かす際には注意を払わなければいけない。スパイを失ってしまうと、相手の大将を倒すことが難しくなる。それを避けるために、中将の近くに尉官などを置いて、スパイの振りをさせる手段もある。また、上記のように、スパイと悟られやすい動かし方をするのではなく、スパイを中将からある程度離れた場所に置いて(相手の大将も最終的には総司令部を目指してくるので)、大将が来るのを待ち構える作戦もある。大将が近づいて来なければ、スパイを最後まで温存して敵の駒が少なくなったときに倒す方法もある。
中将を大将のように、少将を中将のように、飛行機を(他の駒と同じように1マスずつ動かし)少将のように1ランク上であるかのように動かして相手をだます戦略もある。この作戦が成功している間、敵の駒数を減少させ動く駒と動かない駒がはっきりしてくると、勝負が決まることが多い。
また、倒された駒よりも1ランク強い駒を当てないようにする。例えば、味方の中尉を倒した駒に、自ら大尉を当てることは、駒や手数を無駄にしてしまうだけである。中尉が負けたという条件から、相手の駒は少なくとも大尉以上であり、勝つことはない。また、少佐以上の駒は(大尉よりも)数が多いので、負ける確率が圧倒的に高い。よって、ほとんどの場合は自分から駒を捨てることになる。逆に相手にとっては、動かなくても駒を取ることができた上に次の手に移るのが早くなるので、好都合になってしまう。偶然相打ちしたとしても、相手の大尉が確実に減った事しか分からない。相打ちになれば相手にも同じ情報を与えるので、自分が有利になることはない。
=== 大将の使い方について ===
'''大将は中将や少将、飛行機などに比べ攻撃に向いていない'''。特に初心者は、攻撃の前線に出すべきではない。中将と少将は負けたときに、相手の大将または中将を特定できるという利点があるが、大将にはそれがない。スパイを特定できても、大将が倒された後では意味がない。大将同士が相殺するならばともかく、スパイで大将を倒されると、敗北に直結してしまうことも多い。大将は、敵の中将や少将を倒した後は、スパイに狙われる破目になる。勝てる相手が多いゆえに、敵の中将や少将をいつ倒したか判断するのは難しいので<ref group="注釈">特に、始めから大将を使ったときは、どの駒を倒したかわからない。</ref>、いつスパイに狙われるかがわからない。
また、スパイを倒したかどうかを判断することは、ほとんどできない。数少ない例外として、スパイ同士が相殺したとき<ref group="注釈">例えば極端な例として、互いにスパイと大将だけが生き残っていたとき、互いにスパイを出して相殺することがありえる。</ref>と大将の前にある軍旗が負けたときがあるが、特に前者の確率は非常に低い。
'''大将を最後まで生き残らせることは基本'''である。大将さえ残っていれば、司令部の占領を阻止できる。中将を最後まで生き残らせるのも良いが、相手の大将が生き残っていたときは負けてしまう。スパイは弱い駒なので、最後まで残すことが強い駒に比べて難しい。
=== 地雷対策について ===
将官が地雷を踏むと著しく不利になるため、1度も動いていない駒には、将官ではなく飛行機を当てるのがよい(飛行機は地雷に勝ち、その他にも勝てる種類が多いため)。'''将官は地雷ではないと判明した駒にのみ当てるようにする'''。運任せに駒を当てているのでは上達できない。多数の動かない駒を持っており地雷とその他の駒が解らない状態を維持していくことが鍵となる。
序盤や中盤において、一度も動いていない駒が地雷かどうかを判断するには、騎兵や尉官といった弱い駒を当てる方法がある(同じ弱い駒でも、スパイと工兵はそれぞれ、敵の大将を倒す、地雷を除去するという大きな役目があるため、種類がわからない駒に当てるべきではない)。これらの駒が相打ちになったときは相手が地雷であった可能性がある。負けたときや勝ったときは地雷ではないと判断できる。例えば、少尉を当てて負けたときの相手は中尉以上(軍旗の可能性もある)、勝ったときの相手は騎兵、工兵、スパイのいずれか、相打ちしたときは少尉または地雷であったと考える(中尉、大尉、騎兵を当てたときも同じ考え方)。終盤になって動かせる駒が少なくなると、地雷とそれ以外の駒の判断がつきやすくなるため、このときに工兵を動いていない駒に当てるのがよい。
敵司令部にある駒が地雷の可能性があるとき、乗り込む前に飛行機か工兵を使い、その駒が地雷かを確認することも必要になる(地雷を踏んでしまうと、将官や佐官を失ってしまうため)。地雷は司令部を占領できる駒には勝てるため、司令部に設置した場合、1回に限り占領を阻止できるが、飛行機と工兵には、占領されない代わりに負けてしまう。この点から、敵司令部に地雷が設置されている可能性を考慮し、将官や佐官が敵司令部に乗り込む前に飛行機や工兵を当てて、地雷を除去する。もし、工兵を当てて負けたら、その駒は地雷やスパイ、タンク、工兵ではないとわかる。飛行機や工兵がないときは尉官や騎兵といった司令部を占領できない駒を当てて、相打ちにして地雷を除去する。初心者は、敵司令部にある駒が地雷かどうかを確認するために、飛行機を飛ばすことも多いが、騎兵が2マス進める利点を生かして、司令部の前が開いた時を狙って騎兵を当てる方法もある。尉官は一度に1マスしか進めないので敵の駒が多いうちは、司令部にたどり着く前に倒されやすい。
=== 飛行機と工兵の動かし方について ===
飛行機と工兵は移動力が優れているが、飛行機は高飛びをすると、工兵は前に3マス以上および後ろか横に2マス以上移動すると、他の駒にはそれ以上の移動力がないため相手には即時に駒を判断されてしまう。戦況を見極めて多用するのか控えるのか、その点は注意すべきである。工兵は飛行機とは異なり高飛びができないので、序盤は動きが限られるが、終盤に近づいて駒の数が減ると本来もつ移動力を発揮できる。飛行機はゲーム開始時から飛ぶことができるが、始めから飛ばして相手に正体を明かしてしまうのは好ましくない。序盤のうちは、他の駒と同じように動かすことが望ましい。しかし、例えば味方の少将を倒した(つまり、明らかに将官と判明した)敵の駒が、逃げ場のない飛行機に近づいてきたときなど、その場にいても倒されるとわかったときなどは、飛行機を逃がすために他の場所に飛ばした方がよい。(飛行機を失うことは戦力の大きな損失になるため)また、その場所に敵の将官がいれば飛行機は負けるが、その代償として相手の将官がどの駒かを知ることができる。
=== 軍旗の後ろに置く駒について ===
軍旗を自陣の最後列に置くことが許されるルールもあるが(一般的には禁止されている)、[[軍人将棋#駒の勝敗|前述]]の通り、最後列の軍旗はどの駒にも負けるので軍旗は最後列に置かないようにする<ref group="注釈">殊に、総司令部に軍旗を置いてしまうと、味方の駒が入れない上に、そこに何もないことと同じになってしまうので、総司令部には絶対に置かないこと。</ref>。
地雷の前に軍旗を置く戦術もある。この場合は地雷が1個多くあるのと同じになる(ただし、軍旗の後ろの地雷が先に除去された場合は、地雷の能力が失なわれる)。このとき、工兵が当てられて軍旗が負けた場合、騎兵や尉官などの駒で工兵を排除できる(もし、騎兵や尉官、佐官が負けたら、相手は工兵ではなく飛行機である。)。
地雷以外ならば、大将または中将を置くことが考えられる。中将の場合軍旗の近くにスパイがあると突破は困難となる。しかし、この戦術は中盤以降はやや読まれやすく、中将や大将が攻撃に使いにくいことが多いので一長一短といえる。
=== 審判について ===
基本駒同士が戦えばすぐに勝敗を判断できるが、それ以外の駒が戦いに絡むと勝敗の付け方が特殊なため、初心者やルールを把握していない者が審判を務めると、時間がかかったり、その都度勝敗表を確認したりするなどをして相手の駒の予想を立てやすくなる場合もある。また、場合によっては勝敗判定を誤ってしまう恐れもある。そのため、審判役はある程度の熟練者が務めるのが望ましい。
== ローカルルール ==
軍人将棋には数々の[[ローカルルール]]がある。
* 味方の大将(または元帥)が倒されたら(総司令部を占領されていなくても)その時点で負けとなる。
* 地雷が勝った場合、撤去しない<ref group="注釈">すぐには地雷と悟られない意味合いもある。 極端な例として、相打ちではなく 中将とスパイ(または、大将+少尉、大将+騎兵など)を当てても勝てないとなると もう地雷しかない、と言うかたちで推理する。これにより、時には早いうちから強い駒が撤去される可能性もあり、片方(あるいは双方)の難易度が上がる事もある。 反面、一般ルールと同様に騎兵または尉官+工兵(飛行機は勝てる駒が多いので勝った時に それが地雷か判断し難い)を当てる戦術もあるが、地雷だと確信するまでは可能な限り被害を少なくしなければならない。よって、このルールではまだ動いていない駒に飛行機以外の駒を当てることは駒の損失につながる恐れがあるため、特に将官は動いている駒にのみ当てるようにする(これは一般ルールにも共通して言える。)。 総じて、尉官など弱い駒で(判定は負けだが事実上の相打ちにより)地雷を撤去できる一般ルールと比較すると、地雷を残すルールは難易度が高くなるといえる。</ref>。
<!--* 地雷も動くことができる。(例えば、DSiのレーダーウォーシリーズ軍人将棋では、『爆弾』という地雷と同じ強さ(飛行機と工兵以外に引き分け)の、動ける駒が存在します。しかし、あくまでも地雷とは異なる駒であり、地雷はゲーム開始からは動かさないのが鉄則です。-->
* 軍旗も動くことができる。(更に、補足的に次のようなローカルルールも存在する。)
** 開始前の初期配置時に置いた後ろの駒と(ゲーム終了まで)同じ威力となる<ref group="注釈">一例として、地雷の場合は一般ルールと同じでゲーム終了まで動かせないが、中将の場合は 動ける中将の駒が2つ存在する事になる。</ref>。
*少尉で軍旗を倒した場合、その時点でゲームの勝ちとする<ref group="注釈">旧陸軍において、少尉が連隊旗手を務めていたことを意識していると思われる。</ref>。
* 工兵は前後左右にすきまのある範囲に限り自由にどこへでも行ける<ref group="注釈">このルールでは、敵司令部までの経路が開いていれば、一手で工兵は司令部にたどり着いて地雷確認ができる。一般ルールに比べて敵司令部にたどり着きやすい。一方で自軍の司令部に地雷やスパイを置いたときには、工兵から守るために、回りを他の駒で囲んで守る必要がある。</ref>。
* 工兵・タンク・騎兵は前後左右1マスしか動けない(基本駒やスパイと同じ動きにする)<ref group="注釈">一般ルールでは、工兵はほかの駒に比べて少ない手数で敵司令部にたどり着くことができるが、このルールでは1マスずつしか進めないのでたどり着きにくくなる。</ref>。
* 騎兵、タンクは横や後ろにも2マス動ける。
* 騎兵、タンクは途中に駒がなければ、前後左右に自由に進める(工兵と同じ動きにする)。
* '''タンクが工兵に勝つ'''<ref group="注釈">ただし、このタンクにおける勝敗は 現在まで登場した各種のTVゲームのメディアを含め一般ルールとして定着しており、ソフトメーカーは既に[[デファクトスタンダード]]ルールとして認めている事になる。TVゲームからユーザーが増加していけば混乱を招くおそれもある。以上の事から、将来的には公式に覆る可能性も否定できず、今やローカルルールとは言えない状況にある。なお、この問題を打開する方法として、タンクを[[重戦車]]と[[軽戦車]](あるいは重戦車とタンク)に分けて、前者が工兵に勝ち、後者は負けるようにするルールも提案されている。</ref>。
* 騎兵の強さを地雷の強さと同じとする。
* 飛行機は工兵に負ける。
* 飛行機は横に動けない。
* 飛行機は横にも何マスでも動ける(途中の駒も飛び越せる)。
* 飛行機は味方の駒がない場所なら任意のマスに移動できる<ref group="注釈">このルールでは、飛行機をどこに置いても、狙った駒を直接攻撃できる。スパイを動かす際には、飛行機に狙われる危険が大きくなる。</ref>。
<!-- * 飛行機は地雷に負ける。(軍人将棋の飛行機は常に離陸しているとみなされていますので、飛行機が地雷に負けることはないでしょう。) -->
<!-- *突入口の前のマスには軍旗と地雷は置けない。-->
<!--* 前後左右に隣り合う駒同士ならば地雷と軍旗を除き、場所を交代できる(これも1手に数える)。-->
* 総司令部に関連するローカルルールは以下のものがある。その内いくつ含むかは地域によって異なる。
** 総司令部に地雷や飛行機を置けない。
** 飛行機以外の駒なら、いずれの駒でも総司令部を占領できる。
** 開始前の初期配置時に総司令部に置いた駒は、地雷以外の(本来ならば動ける)駒でも二度と動かせない。(総司令部の外に出る事が出来ない。)
** 総司令部の自軍駒が撤去された後でも、残りの駒の強弱に関わらず総司令部に入る事が出来ない。(自軍の駒で総司令部を内部から防衛できず、外の通常マスで防衛しなければならず、一般ルールに比べ総司令部を守るのが難しい。)
** 総司令部には必ず将官を置かなければいけない。
=== 千日手関連のローカルルール ===
軍人将棋では突入口付近で将官がにらみ合う場合などに、いわゆる[[千日手]]のような膠着状態になることがあるが、この場合の一般的なルールはなく様々なローカルルールがある。
一つの方法としては千日手の直前に攻撃を受けた(駒をぶつけられた)方が打開しなければならない、というものがある。このルールでは先述のような将官同士が対峙している場合などに千日手を意識した戦術がとられることがしばしばある。
また、駒が少くなった終盤の千日手の場合、すべての駒を表にして一番強い駒が残っている側を勝ちをする方法もある(例えば大佐と少佐が残っていた場合、大佐を持つ側を勝ちとする)。この場合タンクや飛行機などをどう扱うかなどは地域によって異なる。
=== 一部の製品に存在する駒 ===
軍人将棋には様々なバリエーションがあり、独自の駒を含むものも多い。有名な駒には次のようなものがある。
; [[元帥]]
: 元帥には大きく分けて二通りのルールがあり、一つは大将に代わる最上位の駒とするものである。このルールでは他の駒と同様に一マスずつ動くことができ、元帥は地雷とスパイを除くすべての駒に勝ち、スパイは元帥のみに勝つ(大将には負ける)駒となる。
: もう一つは総司令部を守るための駒とするものである。ゲームが始まると元帥は(表向きにして)総司令部に置かれ、ここから動くことはできないが隣接するマスに味方の駒がいるならあらゆる駒に勝ち、いない場合は将官と佐官に敗れる<ref group="注釈">この場合あらゆる駒に敗れる、とされることもある。</ref>。総司令部の元帥を倒した場合はゲームの勝ちとなる。
: なお、古い製品では元帥を「元師」と表記しているものもあるがこれは誤りである(“帥”と“師”は別字)。
; [[原爆]]
: 原爆 (水爆)は戦後に発売された一部の製品にある駒である。
: この駒は自ら動くことができないが、隣に[[ミサイル]]があるとそれに連動して動かすことができる。ミサイルが敵陣に入ると、移動したマスとその上下左右斜めのマスの駒を倒し、ミサイルと原爆の駒は相打ちとなる。ただし、攻撃したマスの中に相手のミサイルがあると「空中衝突」とみなされ原爆と両者のミサイルだけが相打ちとなる。
他にも製品によっては[[代将]]、[[憲兵|MP]]、[[砲兵]]、[[ジェット機]]などの駒がある。
== ラタックとの違い ==
[[ラタック]]では軍人将棋と違い、審判を必要とせず、コマと敵のコマとがぶつかった時に両コマを表にして勝敗を決め、以後それらのコマは表を向けたままにする。
== 歴史 ==
このゲームがいつ、誰によって発明されたかは正確にはわかっていないが、[[1895年]](明治28年)には製造・販売され、遊ばれていた記録があり、類似のゲームの中では最も古いものである<ref>{{Cite journal|和書 |author=高橋浩徳 |title=日本と世界の行軍将棋 : 軍人将棋の発祥は日本だった |journal=大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要 |ISSN=1881-1949 |publisher=大阪商業大学アミューズメント産業研究所 |year=2016 |month=jun |issue=18 |pages=101-176 |naid=120006468668 |url=http://id.nii.ac.jp/1297/00000560/}}</ref>。
中国のボードゲームである[[軍棋]]、および欧米のボードゲームであるStratego ([[:en:Stratego]]) には盤の形や駒の種類、勝敗で類似点が見られる。[[闘獣棋]]もよく似た中国のボードゲームである。いずれも盤には河に相当する部分があり、[[将棋]]や[[チェス]]よりも[[シャンチー]]に似ている。
また、シャンチーの駒を裏返して行う中国のボードゲームとして[[暗棋]]がある。駒の動かし方や勝敗は軍人将棋などと似かよっており、これらのボードゲームの起源となっている可能性が考えられる。
[[1907年]](明治40年)に書かれた書物「[[世界遊戯法大全]]」には「いくさ将棋」の名で紹介されている。その中では『これは[[日清戦争]]の頃に出来たものかと思うが、仕組みが中々面白い所から、今は全国に普及して居るのでここに説く必要がない』のように書かれている。遊ぶ方法を紹介しない代わりに『当たり前の将棋のように駒を表に向けて置くと審判もいらないし闇死にもない』と駒を伏せずに遊ぶ方法を紹介している。
[[太平洋戦争]]中には「戦時国民智的遊具・戦争将棋」と名付けた改良品が売り出され、奨励されていた<ref>{{cite book|和書|pages=276-277|title=日本遊戯史 古代から現代までの遊びと社会|isbn=978-4-582-46814-4|publisher=平凡社|author=増川宏一|year=2012}}</ref>。
== 派生作品 ==
* [[帰ってきた!軍人将棋なんやそれ!?]] - [[ソフエル]]より発売された[[ファミリーコンピュータ]]用ゲームソフト。土俵(ボード)では「軍旗」が「軍配」、「地雷」が「親方」、「スパイ」が「物言い」など駒の名前が異なる。
* 作戦将棋 - [[トミー]]より発売された[[ボードゲーム]]。[[審判]]がいなくても、勝敗が自動判定される機能つき。
* [[こちら葛飾区亀有公園前派出所]] - [[秋本治]]による漫画。コミックス99巻「軍人将棋名人!!の巻」、197巻「軍人刑事(デカ)の巻」で軍人将棋が題材となっている。
== 注釈 ==
{{Notelist}}
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [http://www.momokka.com/index.php?c=1-2#Momokka ももっかどっとこむ::軍人将棋::軍人将棋戦術論] "脱初心者への心得"
<!-- 駒の配置や戦術を執筆する上での参考にいたしました。温暖水無月 -->
== 外部リンク ==
* [http://www.momokka.com/ ももっかどっとこむ] "通信軍人将棋"
* [http://www.ストランド.com/app_gunjin.php StranD ストランド / リギング・アクション・ロープアクセス・高所作業のことなら] "軍人将棋Online"
== 関連項目 ==
* [[将棋]]
* [[将校]]
{{将棋類}}
{{デフォルトソート:くんしんしようき}}
[[Category:チャトランガ系統のゲーム]]
[[Category:戦争ゲーム]] | 2003-02-21T09:10:56Z | 2023-09-17T07:13:37Z | false | false | false | [
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2,651 | スクリプト言語 | スクリプト言語(スクリプトげんご、英語: scripting language)とは、アプリケーションソフトウェアを作成するための簡易的なプログラミング言語の一種を指す。
スクリプト(英語で「台本・脚本」の意味)とは、その簡易的な言語記述方法を指してそう呼ばれるようになった。
上記の意味より、さらに転じて、比較的単純なプログラムを記述するための、簡易的なプログラミング言語全般をいう。変数に型をつけないなど、動的型付け言語をスクリプト言語と呼ぶ定義もある。ただし、厳密な定義ないし区別は存在しない。インタプリタ方式を採用しているものが多いが、性能向上のため実行時コンパイルなどの利用も盛んである。またGo言語の様にコンパイラ方式だが go run ソースファイル とソースファイルを1コマンドで実行できるという言語もあるが、一般に「Goはスクリプト言語的な使い方もできる」と言えても「Goはスクリプト言語である」とは言わない。
前者(アプリケーションソフトウェアの動作内容を、台本のように記述し制御するためのプログラミング言語)の例としては、UNIXのシェルに対するシェルスクリプト、Emacsに対するLISP、Webブラウザなどに対するJavaScriptが挙げられる。また、機能を付け加える形で制御する場合もあり、HTTPサーバに機能を付け加えるために考えられたのがSSIやPHPである。特にスクリプトを名前に冠している言語は下記の表のように制御対象となるプログラムをもつ傾向にある。
後者(転じて意味付けされた、比較的単純なプログラムを記述するためのプログラミング言語全般)の例としては、PerlやPHPが挙げられる。Perlは、その初期においては、テキスト処理ツールの動作を記述するという前者の意味が強かったが、近年では主にCGIを利用して動的なウェブサイト(掲示板など)を構築するためのプログラミング言語として、後者の意味の点で発展したといえる。
なお、大変まれながら、特定のソフトウェアを実装するために使用したプログラミング言語のことを、スクリプト言語と呼ぶことがあるので注意したい。この意味では、「記述言語」と呼ぶ方が望ましい。たとえば、UNIXの記述言語はC言語であるといえる。
世界初の対話型シェルは、タイムシェアリングシステムの遠隔操作のため、1960年代に開発された。そして、オペレータが同じコマンド列を端末のキーボードから何度も打ち込む手間を省くためスクリプティングの需要が生まれ、単純なマクロコマンドやコマンド列を格納したファイルを使う方式が開発された。これが最終的にシェルスクリプトの開発へと繋がった。また、大規模で複雑なアプリケーションの開発において、人間が介在しないバッチモードの操作を容易にするため、非常に基本的な埋め込み型スクリプト機能が開発された。すなわち、プログラムの一部としてユーザーが書いた命令列を解釈実行する機能を備えるようにした。この場合の命令列は非常に特殊な言語で書かれ、プログラムの中にプログラムを埋め込むようなものであった。
歴史的には、C言語などの高速なプログラミング言語とBourne ShellやAWKで書かれた低速なスクリプトは、明らかに性能に差があった。しかし技術の進歩に伴って性能差は縮まり、Perl、Ruby、Pythonといったインタプリタ型言語が汎用プログラミング言語として広く使われるようになっていった。
TclやLuaといった言語は、汎用スクリプト言語として設計されており、アプリケーションに埋め込む形で使うこともできるし、単独で使うこともできる。Visual Basic for Applications (VBA) などのシステムは、基盤となるシステムの自動化機構と強く結びついている。アプリケーション毎に新たな言語を開発せずに汎用スクリプト言語を埋め込むことには、明らかな長所がある。開発者が言語を解釈する機能を一から開発する手間を省き、ユーザーは既知の言語を使えるので学習の手間が省ける。
Common Gateway Interface (CGI) は、Webサーバをスクリプト言語で制御することを可能とする。早くからCGI用として使われたスクリプト言語としては、Perl、ASP、PHPなどがある。
ソフトウェアによっては、複数の異なるスクリプト言語に対応している。最近のウェブブラウザにはブラウザ自身を拡張できる言語があり、ブラウザ制御用の標準埋め込み言語として、ECMAScript (JavaScript) やCSSやHTMLがある。
スクリプト言語の一種は、ジョブ制御の自動化から生み出されたもので、システムプログラムの起動と制御を行う。そういう意味ではシェルの祖先としてIBMの Job Control Language(JCL、ジョブ制御言語)があるとも言える。この種の言語の処理系(インタプリタ)の多くは、UNIXのシェルやMS-DOSのCOMMAND.COMといったコマンドラインインタプリタと呼ばれるものである。他にも英語のようなコマンドでスクリプトを書ける AppleScript などもある。macOS では、CocoaとAppleScript或いはJavaScriptを使ってアプリケーション全体を構築することもできる。
GUIの出現により、コンピュータの制御のための特殊なスクリプト言語も生み出された。それは、ウィンドウ、メニュー、ボタンなどのシステムが生成したものとやり取りする言語であり、人間の手が行うことをシミュレーションする。これらの言語はユーザーが行うことを自動化し標準化するもので、一般にマクロ言語などと呼ばれる。
原理的にはGUIベースのコンピュータ上で動作する任意のアプリケーションを制御できるが、一般に特定のアプリケーションやオペレーティングシステムに対応してマクロ言語が存在する。しかし、中には画面上のピクセル配置からグラフィカルなオブジェクトを認識して操作する言語もあり、その場合はOSやアプリケーションに依存することなく操作可能である。
大規模なアプリケーションプログラムの多くは、固有のスクリプト言語を備えており、そのアプリケーションのユーザーが必要に応じてそれを使う。同様に、コンピュータゲームシステムの多くに固有のスクリプト言語があり、NPCの振る舞いや環境のプログラミングに使われている。このような言語は1つのアプリケーションのためだけに設計されている。表面上は特定の汎用言語に似ているものもあるが(例えばQuakeにはC言語に良く似たQuakeCがある)、汎用言語にはない特有の機能を有していることが多い。Emacs Lisp は機能を完備したLISP言語の方言だが、Emacsの機能の拡張や変更に便利な特殊機能を数多く備えている。アプリケーション専用のスクリプト言語は、特定アプリケーションに特化したドメイン固有言語と見ることもできる。
Webブラウザは、ウェブページを表示するためのアプリケーションである。その操作を制御するための専用言語が開発されてきた。例えば、JavaScript、マイクロソフトのVBScript(Internet Explorer でのみ動作)、MozillaプロジェクトのXUL(Firefoxでのみ動作)、XMLコンテンツを新たな形式に変換して表示するためのXSLTなどがある。ユーザーの印象を良くして反応を引き出すためにXMLとJavaScriptの組合せを利用した技法が広く採用されるようになり、Ajaxという名前まで付けられるようになっている。
HTTPリンクにおけるサーバ側では、アプリケーションサーバやCMSなどの動的コンテンツサーバでも、様々なスクリプティング技法を活用している。この領域でよく使われるのは、PHP、JSP、ASP などだが、他にも Ruby on Rails などが一部で人気を得ている。
テキスト処理は古くからあるスクリプト言語の用途の1つである。UNIXのツールであるAWK、sed、grep 向けに書かれたスクリプトは、テキスト形式の設定ファイルやログファイルに関する処理を自動化するのに使われてきた。この分野では正規表現が重要である。テキスト処理用スクリプト言語では、正規表現を使って処理対象の構造を形式的に表現する。
Perlはもともと、テキスト処理ツールの限界を超えることを目的として開発されたが、現在ではより汎用的な言語に成長している。
Perlなどの言語はスクリプト言語として生まれたが、より広い用途に使えるプログラミング言語に成長していった。Perlとよく似た言語で、実行中に解釈され、メモリ管理機能があり、動的な言語は、それぞれ相互に似ていることから「スクリプト言語」と呼ばれることもある。しかし、実際にはアプリケーション本体の記述に使われることが多い言語もある。一般に、それらの言語の作者が自ら「スクリプト言語」と呼ぶことはない。
アプリケーション専用のスクリプト言語の代替として、アプリケーションプログラムに埋め込める言語は、これまでいくつも設計されてきた。(C言語などを主に使う)アプリケーションプログラマが、そのアプリケーションを制御させるためにスクリプト言語用「フック」をプログラムに作りこむ。そのような言語はアプリケーション専用の拡張言語と同じ用途に使用されるが、別のアプリケーションとスクリプトについてのスキルを共有できるという利点がある。JavaScriptはウェブブラウザ内のスクリプト言語として生まれ、今もその用途が大半だが、ECMAScriptとして標準化されたことで、汎用の埋め込み用言語としても広まった。特にMozillaが実装したSpiderMonkeyは Yahoo! Widget Engine などいくつかの環境に埋め込まれている。ECMAScriptの実装(処理系)を埋め込んでいる他の例としては、アドビの製品であるAdobe Flash(ActionScript)やAdobe Acrobat(PDFファイルのスクリプティング用)がある。
Tclは拡張言語として生まれたが、Python、Perl、Ruby などと同じように汎用言語として使われることが多い。
複雑で用途が限定されたアプリケーションでは、通常のユーザインタフェースで提供可能な機能とは別に埋め込み型プログラミング言語を備え、ユーザーにさらなる制御手段を提供している。例えば、3DオーサリングツールMayaはMELというスクリプト言語を内蔵している。また、Blenderはその用途にPythonを採用している。
機能を頻繁に追加する場合や、色々試しては実行してみるような場合(例えば、ゲームエンジン)も、埋め込み型言語を利用している。開発中のプロトタイピングに威力を発揮し、プログラムの中核部を知らなくてもアプリケーションの機能をいじることができる。この用途のスクリプト言語としては、LuaやPythonが有名だが、他にもAngelScriptやSquirrelなどがある。 | [
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"text": "GUIの出現により、コンピュータの制御のための特殊なスクリプト言語も生み出された。それは、ウィンドウ、メニュー、ボタンなどのシステムが生成したものとやり取りする言語であり、人間の手が行うことをシミュレーションする。これらの言語はユーザーが行うことを自動化し標準化するもので、一般にマクロ言語などと呼ばれる。",
"title": "スクリプト言語の種類"
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"text": "原理的にはGUIベースのコンピュータ上で動作する任意のアプリケーションを制御できるが、一般に特定のアプリケーションやオペレーティングシステムに対応してマクロ言語が存在する。しかし、中には画面上のピクセル配置からグラフィカルなオブジェクトを認識して操作する言語もあり、その場合はOSやアプリケーションに依存することなく操作可能である。",
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"text": "大規模なアプリケーションプログラムの多くは、固有のスクリプト言語を備えており、そのアプリケーションのユーザーが必要に応じてそれを使う。同様に、コンピュータゲームシステムの多くに固有のスクリプト言語があり、NPCの振る舞いや環境のプログラミングに使われている。このような言語は1つのアプリケーションのためだけに設計されている。表面上は特定の汎用言語に似ているものもあるが(例えばQuakeにはC言語に良く似たQuakeCがある)、汎用言語にはない特有の機能を有していることが多い。Emacs Lisp は機能を完備したLISP言語の方言だが、Emacsの機能の拡張や変更に便利な特殊機能を数多く備えている。アプリケーション専用のスクリプト言語は、特定アプリケーションに特化したドメイン固有言語と見ることもできる。",
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"text": "Webブラウザは、ウェブページを表示するためのアプリケーションである。その操作を制御するための専用言語が開発されてきた。例えば、JavaScript、マイクロソフトのVBScript(Internet Explorer でのみ動作)、MozillaプロジェクトのXUL(Firefoxでのみ動作)、XMLコンテンツを新たな形式に変換して表示するためのXSLTなどがある。ユーザーの印象を良くして反応を引き出すためにXMLとJavaScriptの組合せを利用した技法が広く採用されるようになり、Ajaxという名前まで付けられるようになっている。",
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"text": "HTTPリンクにおけるサーバ側では、アプリケーションサーバやCMSなどの動的コンテンツサーバでも、様々なスクリプティング技法を活用している。この領域でよく使われるのは、PHP、JSP、ASP などだが、他にも Ruby on Rails などが一部で人気を得ている。",
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"text": "テキスト処理は古くからあるスクリプト言語の用途の1つである。UNIXのツールであるAWK、sed、grep 向けに書かれたスクリプトは、テキスト形式の設定ファイルやログファイルに関する処理を自動化するのに使われてきた。この分野では正規表現が重要である。テキスト処理用スクリプト言語では、正規表現を使って処理対象の構造を形式的に表現する。",
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"text": "Perlはもともと、テキスト処理ツールの限界を超えることを目的として開発されたが、現在ではより汎用的な言語に成長している。",
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"text": "アプリケーション専用のスクリプト言語の代替として、アプリケーションプログラムに埋め込める言語は、これまでいくつも設計されてきた。(C言語などを主に使う)アプリケーションプログラマが、そのアプリケーションを制御させるためにスクリプト言語用「フック」をプログラムに作りこむ。そのような言語はアプリケーション専用の拡張言語と同じ用途に使用されるが、別のアプリケーションとスクリプトについてのスキルを共有できるという利点がある。JavaScriptはウェブブラウザ内のスクリプト言語として生まれ、今もその用途が大半だが、ECMAScriptとして標準化されたことで、汎用の埋め込み用言語としても広まった。特にMozillaが実装したSpiderMonkeyは Yahoo! Widget Engine などいくつかの環境に埋め込まれている。ECMAScriptの実装(処理系)を埋め込んでいる他の例としては、アドビの製品であるAdobe Flash(ActionScript)やAdobe Acrobat(PDFファイルのスクリプティング用)がある。",
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"text": "複雑で用途が限定されたアプリケーションでは、通常のユーザインタフェースで提供可能な機能とは別に埋め込み型プログラミング言語を備え、ユーザーにさらなる制御手段を提供している。例えば、3DオーサリングツールMayaはMELというスクリプト言語を内蔵している。また、Blenderはその用途にPythonを採用している。",
"title": "スクリプト言語の種類"
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"text": "機能を頻繁に追加する場合や、色々試しては実行してみるような場合(例えば、ゲームエンジン)も、埋め込み型言語を利用している。開発中のプロトタイピングに威力を発揮し、プログラムの中核部を知らなくてもアプリケーションの機能をいじることができる。この用途のスクリプト言語としては、LuaやPythonが有名だが、他にもAngelScriptやSquirrelなどがある。",
"title": "スクリプト言語の種類"
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] | スクリプト言語とは、アプリケーションソフトウェアを作成するための簡易的なプログラミング言語の一種を指す。 スクリプト(英語で「台本・脚本」の意味)とは、その簡易的な言語記述方法を指してそう呼ばれるようになった。 | {{wikipediaPage|ウィキペディア上での[[Lua]]スクリプトの利用については→「[[Wikipedia:Lua]]」を参照。}}
'''スクリプト言語'''(スクリプトげんご、{{lang-en|scripting language}})とは、[[アプリケーションソフトウェア]]を作成するための簡易的な[[プログラミング言語]]の一種を指す。
'''スクリプト'''(英語で「[[台本]]・[[脚本]]」の意味)とは、その簡易的な言語記述方法を指してそう呼ばれるようになった。
<!--[[アプリケーションソフトウェア]]の動作内容を、[[台本]]({{lang-en-short|[[wikt:script|script]]}})のように記述し制御するための、簡易的な[[プログラミング言語]]である。-->
== 概要 ==
上記の意味より、さらに転じて、比較的単純な[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]を記述するための、簡易的なプログラミング言語全般をいう。[[変数]]に[[データ型|型]]をつけないなど、[[動的型付け]]言語をスクリプト言語と呼ぶ定義もある。ただし、厳密な定義ないし区別は存在しない。[[インタプリタ]]方式を採用しているものが多いが、性能向上のため[[実行時コンパイラ|実行時コンパイル]]などの利用も盛んである。また[[Go (プログラミング言語)|Go言語]]の様に[[コンパイラ]]方式だが <code>go run ソースファイル</code> とソースファイルを1コマンドで実行できるという言語もあるが、一般に「Goはスクリプト言語的な使い方もできる」と言えても「Goはスクリプト言語である」とは言わない。
前者(アプリケーションソフトウェアの動作内容を、台本のように記述し制御するためのプログラミング言語)の例としては、[[UNIX]]の[[シェル]]に対する[[シェルスクリプト]]、[[Emacs]]に対する[[LISP]]、[[ウェブブラウザ|Webブラウザ]]などに対する[[JavaScript]]が挙げられる。また、機能を付け加える形で制御する場合もあり、HTTPサーバに機能を付け加えるために考えられたのが[[Server Side Includes|SSI]]やPHPである。特にスクリプトを名前に冠している言語は下記の表のように制御対象となるプログラムをもつ傾向にある。
後者(転じて意味付けされた、比較的単純なプログラムを記述するためのプログラミング言語全般)の例としては、[[Perl]]や[[PHP (プログラミング言語)|PHP]]が挙げられる。Perlは、その初期においては、テキスト処理ツールの動作を記述するという前者の意味が強かったが、近年{{いつ|date=2014年5月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->では主に[[Common Gateway Interface|CGI]]を利用して動的な[[ウェブサイト]]([[電子掲示板|掲示板]]など)を構築するためのプログラミング言語として、後者の意味の点で発展したといえる。
なお、大変まれながら、特定のソフトウェアを実装するために使用したプログラミング言語のことを、'''スクリプト言語'''と呼ぶことがあるので注意したい。この意味では、「記述言語」と呼ぶ方が望ましい。たとえば、UNIXの記述言語は[[C言語]]であるといえる。
{| class="wikitable"
|+
!言語
!制御対象
|-
|シェルスクリプト
|シェル(bash等)
|-
|AppleScript
|OSAX
|-
|ActionScript
|Flash
|-
|JavaScript
|ウェブブラウザー
|-
|JScript
|WSH
|-
|VBScript
|WSH
|-
|PostScript
|印刷機
|-
|Vim script
|Vim
|-
|Drawscript
|Illustrator
|-
|AutoCAD Script
|AutoCAD
|-
|MaxScript
|FinalRender
|}
== 歴史 ==
世界初の対話型[[シェル]]は、[[タイムシェアリングシステム]]の遠隔操作のため、1960年代に開発された。そして、オペレータが同じコマンド列を[[端末]]のキーボードから何度も打ち込む手間を省くためスクリプティングの需要が生まれ、単純なマクロコマンドやコマンド列を格納したファイルを使う方式が開発された。これが最終的に[[シェルスクリプト]]の開発へと繋がった。また、大規模で複雑なアプリケーションの開発において、人間が介在しない[[バッチ処理|バッチモード]]の操作を容易にするため、非常に基本的な埋め込み型スクリプト機能が開発された。すなわち、プログラムの一部としてユーザーが書いた命令列を解釈実行する機能を備えるようにした。この場合の命令列は非常に特殊な言語で書かれ、プログラムの中にプログラムを埋め込むようなものであった。
歴史的には、[[C言語]]などの高速なプログラミング言語と[[Bourne Shell]]や[[AWK]]で書かれた低速なスクリプトは、明らかに性能に差があった。しかし技術の進歩に伴って性能差は縮まり、[[Perl]]、[[Ruby]]、[[Python]]といったインタプリタ型言語が汎用プログラミング言語として広く使われるようになっていった。
[[Tcl]]や[[Lua]]といった言語は、汎用スクリプト言語として設計されており、アプリケーションに埋め込む形で使うこともできるし、単独で使うこともできる。[[Visual Basic for Applications]] (VBA) などのシステムは、基盤となるシステムの自動化機構と強く結びついている。アプリケーション毎に新たな言語を開発せずに汎用スクリプト言語を埋め込むことには、明らかな長所がある。開発者が言語を解釈する機能を一から開発する手間を省き、ユーザーは既知の言語を使えるので学習の手間が省ける。
[[Common Gateway Interface]] (CGI) は、[[Webサーバ]]をスクリプト言語で制御することを可能とする。早くからCGI用として使われたスクリプト言語としては、Perl、[[Active Server Pages|ASP]]、[[PHP (プログラミング言語)|PHP]]などがある。
ソフトウェアによっては、複数の異なるスクリプト言語に対応している。最近の[[ウェブブラウザ]]にはブラウザ自身を拡張できる言語があり、ブラウザ制御用の標準埋め込み言語として、[[ECMAScript]] ([[JavaScript]]) や[[Cascading Style Sheets|CSS]]や[[HyperText Markup Language|HTML]]がある。
== スクリプト言語の種類 ==
=== ジョブ制御言語とシェル ===
{{Main|シェルスクリプト}}
スクリプト言語の一種は、ジョブ制御の自動化から生み出されたもので、システムプログラムの起動と制御を行う。そういう意味ではシェルの祖先としてIBMの {{lang|en|[[Job Control Language]]}}(JCL、ジョブ制御言語)があるとも言える。この種の言語の処理系([[インタプリタ]])の多くは、[[UNIX]]の[[シェル]]やMS-DOSの<code>[[COMMAND.COM]]</code>といった[[コマンドラインインタプリタ]]と呼ばれるものである。他にも英語のようなコマンドでスクリプトを書ける [[AppleScript]] などもある。[[macOS]] では、[[Cocoa (API)|Cocoa]]と[[AppleScript]]或いは[[JavaScript]]<ref>{{Cite web |url= https://developer.apple.com/library/prerelease/mac/releasenotes/interapplicationcommunication/rn-javascriptforautomation/index.html |title=JavaScript for Automation Release Note|format=HTML|publisher=Apple Inc. |accessdate=2014-09-04}}</ref>を使ってアプリケーション全体を構築することもできる。
=== GUIスクリプト ===
[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]の出現により、コンピュータの制御のための特殊なスクリプト言語も生み出された。それは、ウィンドウ、メニュー、ボタンなどのシステムが生成したものとやり取りする言語であり、人間の手が行うことをシミュレーションする。これらの言語はユーザーが行うことを自動化し標準化するもので、一般に[[マクロ言語]]などと呼ばれる。
原理的にはGUIベースのコンピュータ上で動作する任意のアプリケーションを制御できるが、一般に特定のアプリケーションや[[オペレーティングシステム]]に対応してマクロ言語が存在する。しかし、中には画面上の[[ピクセル]]配置からグラフィカルなオブジェクトを認識して操作する言語もあり、その場合はOSやアプリケーションに依存することなく操作可能である。
=== アプリケーション専用言語 ===
大規模なアプリケーションプログラムの多くは、固有のスクリプト言語を備えており、そのアプリケーションのユーザーが必要に応じてそれを使う。同様に、[[コンピュータゲーム]]システムの多くに固有のスクリプト言語があり、[[ノンプレイヤーキャラクター|NPC]]の振る舞いや環境のプログラミングに使われている。このような言語は1つのアプリケーションのためだけに設計されている。表面上は特定の汎用言語に似ているものもあるが(例えば[[Quake]]にはC言語に良く似たQuakeCがある)、汎用言語にはない特有の機能を有していることが多い。[[Emacs Lisp]] は機能を完備した[[LISP]]言語の方言だが、[[Emacs]]の機能の拡張や変更に便利な特殊機能を数多く備えている。アプリケーション専用のスクリプト言語は、特定アプリケーションに特化した[[ドメイン固有言語]]と見ることもできる。
=== Webブラウザ ===
Webブラウザは、ウェブページを表示するためのアプリケーションである。その操作を制御するための専用言語が開発されてきた。例えば、[[JavaScript]]、[[マイクロソフト]]の[[VBScript]]([[Internet Explorer]] でのみ動作)、[[Mozilla]]プロジェクトの[[XUL]]([[Firefox]]でのみ動作)、XMLコンテンツを新たな形式に変換して表示するための[[XSL Transformations|XSLT]]などがある。ユーザーの印象を良くして反応を引き出すためにXMLとJavaScriptの組合せを利用した技法が広く採用されるようになり、[[Ajax]]という名前まで付けられるようになっている。
=== Webサーバ ===
HTTPリンクにおけるサーバ側では、[[アプリケーションサーバ]]や[[コンテンツ管理システム|CMS]]などの動的コンテンツサーバでも、様々なスクリプティング技法を活用している。この領域でよく使われるのは、[[PHP (プログラミング言語)|PHP]]、[[Java Server Pages|JSP]]、[[Active Server Pages|ASP]] などだが、他にも [[Ruby on Rails]] などが一部で人気を得ている。
=== テキスト処理言語 ===
テキスト処理は古くからあるスクリプト言語の用途の1つである。[[UNIX]]のツールである[[AWK]]、[[sed (コンピュータ)|sed]]、[[grep]] 向けに書かれたスクリプトは、テキスト形式の設定ファイルやログファイルに関する処理を自動化するのに使われてきた。この分野では[[正規表現]]が重要である。テキスト処理用スクリプト言語では、正規表現を使って処理対象の構造を形式的に表現する。
[[Perl]]はもともと、テキスト処理ツールの限界を超えることを目的として開発されたが、現在ではより汎用的な言語に成長している。
=== 汎用動的言語 ===
{{See also|動的プログラミング言語}}
Perlなどの言語はスクリプト言語として生まれたが、より広い用途に使えるプログラミング言語に成長していった。Perlとよく似た言語で、実行中に解釈され、メモリ管理機能があり、[[動的プログラミング言語|動的]]な言語は、それぞれ相互に似ていることから「スクリプト言語」と呼ばれることもある。しかし、実際にはアプリケーション本体の記述に使われることが多い言語もある。一般に、それらの言語の作者が自ら「スクリプト言語」と呼ぶことはない。
=== 拡張/埋め込み型言語 ===
アプリケーション専用のスクリプト言語の代替として、アプリケーションプログラムに埋め込める言語は、これまでいくつも設計されてきた。(C言語などを主に使う)アプリケーションプログラマが、そのアプリケーションを制御させるためにスクリプト言語用「フック」をプログラムに作りこむ。そのような言語はアプリケーション専用の拡張言語と同じ用途に使用されるが、別のアプリケーションとスクリプトについてのスキルを共有できるという利点がある。JavaScriptは[[ウェブブラウザ]]内のスクリプト言語として生まれ、今もその用途が大半だが、[[ECMAScript]]として標準化されたことで、汎用の埋め込み用言語としても広まった。特に[[Mozilla]]が実装した[[SpiderMonkey]]は [[Yahoo! Widget Engine]] などいくつかの環境に埋め込まれている。ECMAScriptの実装(処理系)を埋め込んでいる他の例としては、[[アドビ]]の製品である[[Adobe Flash]]([[ActionScript]])や[[Adobe Acrobat]]([[Portable Document Format|PDF]]ファイルのスクリプティング用)がある。
[[Tcl]]は拡張言語として生まれたが、[[Python]]、[[Perl]]、[[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]] などと同じように汎用言語として使われることが多い。
複雑で用途が限定されたアプリケーションでは、通常のユーザインタフェースで提供可能な機能とは別に埋め込み型プログラミング言語を備え、ユーザーにさらなる制御手段を提供している。例えば、3Dオーサリングツール[[Maya]]はMELというスクリプト言語を内蔵している。また、[[Blender]]はその用途に[[Python]]を採用している。
機能を頻繁に追加する場合や、色々試しては実行してみるような場合(例えば、[[ゲームエンジン]])も、埋め込み型言語を利用している。開発中の[[プロトタイピング]]に威力を発揮し、プログラムの中核部を知らなくてもアプリケーションの機能をいじることができる。この用途のスクリプト言語としては、[[Lua]]や[[Python]]が有名だが、他にも[[AngelScript]]や[[Squirrel]]などがある。
=== その他のスクリプト言語 ===
* [[ColdFusion Markup Language|CFML]]
* [[Enterprise Generation Language]]
* [[Euphoria (プログラミング言語)|Euphoria]]
* [[ファルコン_(プログラミング言語)|Falcon]]
* [[Ferite (プログラミング言語)|Ferite]]
* [[Fiona]]
* [[Groovy]]
* [[Hot Soup Processor|HSP]]
* [[HyperTalk]]
* [[LotusScript]]
* [[REXX]]
* [[Lingo (プログラミング言語)|Lingo]]
* [[Scheme]]
* [[SuperTalk]]
*Ichigojam script
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[軽量プログラミング言語]]
* [[動的プログラミング言語]]
* [[アーキテクチャ記述言語]]
* [[ビルド (ソフトウェア)]]
* [[ドメイン固有言語]]
* [[グルー言語]] と [[グルーコード]]
* [[プログラミング言語一覧]]
* [[マクロ (コンピュータ用語)|マクロ]]/[[マクロ言語]] と [[プリプロセッサ]]
* [[シバン (Unix)]]
* [[シェルスクリプト]]
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20041010125419/http://www.doc.ic.ac.uk/~np2/patterns/scripting/ Patterns for Scripted Applications]
* [http://merd.sourceforge.net/pixel/language-study/scripting-language/ A study of the Script-Oriented Programming (SOP) suitability of selected languages] — from The Scriptometer
* [http://www.softpanorama.org/Articles/a_slightly_skeptical_view_on_scripting_languages.shtml A Slightly Skeptical View on Scripting Languages] by Dr. Nikolai Bezroukov
* [http://www.robvanderwoude.com/ Rob van der Woude's Scripting Pages] — 管理用スクリプトに関する情報
* [http://page.mi.fu-berlin.de/~prechelt/Biblio/jccpprt2_advances2003.pdf Are Scripting Languages Any Good? A Validation of Perl, Python, Rexx, and Tcl against C, C++, and Java (PDF)] — 2003 study
* [http://home.pacbell.net/ouster/scripting.html Scripting: Higher Level Programming for the 21st Century]{{リンク切れ|date=2021年2月}} by John K. Ousterhout
* [http://knol.google.com/k/rajamanickam-antonimuthu/quick-test-professional-software-test/14dmp09oqdm08/2#Basics_of_vbscript Use of VBScript in QTP automation]{{リンク切れ|date=2021年2月}}
* [http://www.javaworld.com/javaworld/jw-11-2007/jw-11-jsr223.html Scripting on the Java platform]{{リンク切れ|date=2021年2月}} — JavaWorld
* [http://www.perl.com/pub/a/2007/12/06/soto-11.html "Programming is Hard - Let's Go Scripting" by Larry Wall] - Perl.com transcript of his State of the Onion speech.
* [http://msdn.microsoft.com/ja-jp/library/ms971094.aspx スクリプティングのすべて] MSDN
{{プログラミング言語の関連項目}}
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[[Category:スクリプト言語|*]]
[[Category:プログラミング言語の分類]] | 2003-02-21T09:18:11Z | 2023-12-28T17:29:01Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%97%E3%83%88%E8%A8%80%E8%AA%9E |
2,652 | リーナス・トーバルズ | リーナス・ベネディクト・トーバルズ(Linus Benedict Torvalds、1969年12月28日 - 、 [ˈliːnɵs ˈtuːrvalds])はフィンランド、ヘルシンキ出身のアメリカ合衆国のプログラマ。Linuxカーネルを開発し、1991年に一般に公開した。その後も、公式のLinuxカーネルの最終的な調整役(もしくは「優しい終身の独裁者」)を務める。
アンドリュー・タネンバウムが開発したカーネルとオペレーティングシステム (OS) であるMINIXに刺激を受け、自宅のパーソナルコンピュータ上で動作可能なUNIX OSの必要性を感じ、自分の趣味の時間と自宅の設備でLinuxカーネルの初期の開発を行った。
1969年12月28日、フィンランドの首都ヘルシンキで生まれた。父親はジャーナリストのニルス・トーバルズで母はアンナ。祖父は詩人のオーレ・トーバルズ(英語版)。両親は1960年代にヘルシンキ大学の左翼活動家であり、父親は1970年代中頃にモスクワに一年留学している共産主義者である(後のリーナスの考えに父親が間接的に影響していることを本人は認めている)。
家族はフィンランド人口のおよそ6%のスウェーデン語を話す少数派(スウェーデン系)に属しており、リーナスの名はライナス・ポーリングにちなんだものだった。1988年から1996年までヘルシンキ大学で学び、Linuxに関する修士論文「Linux: A Portable Operating System(Linux: 移植性の高いオペレーティングシステム)」を書き、計算機科学の修士号を得た。
1990年、ヘルシンキ大学在学中に読んだアンドリュー・S・タネンバウムの『オペレーティングシステム‐設計と理論およびMINIXによる実装』を「人生を変えた本」と述べている。
アメリカ・カリフォルニア州サンノゼに長年住んだあと、2004年6月にオレゴン州ビーバートンの家を購入し、この地域の学校に娘たちを通学させている。家族は、空手で6度のフィンランド選手権優勝経験を持つ妻トーベと、3人の娘・パトリシア・ミランダ、ダニエラ・ヨランダ、セレスタ・アマンダである。
1997年2月から2003年6月までトランスメタ社で働いたあと、オレゴン州ビーバートンにあるOSDLに移籍した。その後OSDLはFSGと合併し、Linux Foundationとなりそのまま在籍している。
シリコンバレーではスティーブ・ジョブスやビル・ジョイに会っている。
リーナスの個人的なマスコットとして、Tuxと名づけられたペンギンがいて、LinuxコミュニティからはLinuxのマスコットとして広く受け入れられている。
リーナスの活動にインスパイアされたエリック・S・レイモンドがその論文「伽藍とバザール」で述べ著名となったリーナスの法則に「Given enough eyeballs, all bugs are shallow.(目玉の数さえ十分あれば、どんなバグも深刻ではない)」というものがある。深刻なバグというのは見つけづらいもののことを言うが、深刻なバグを探すのに大勢の人がいれば、どんなバグも深刻なものとはならないだろうという希望を述べたものであり、ほぼ経験則として受け入れられている。レイモンドとリーナスは、この信念を基盤にしたオープンソース思想を共有している。
他のオープンソース普及活動家たちとは違って、リーナスは比較的控えめな姿勢を保っているように見られているが、度々マイクロソフトのWindows やAppleのmacOSのような競合するオペレーティングシステム (OS) についての辛辣な批判をしてきた。一方、GNUプロジェクトとは度々対立し、特にトランスメタでの独占的ソフトウェアの開発への従事や、BitKeeperの利用と擁護は、GNU側から批判の的とされている。しかし、マイクロソフトやSCOのような独占的ソフトウェア開発企業による反Linuxを意図したFUDに対しては強く反論する声明を発表してきた。また2004年にはサン・マイクロシステムズが自社開発のSolaris OSをオープンソースにするという発表について「誰もSolarisの出来損ないみたいなOSで遊びたいとは思わないと思うよ。明らかなことは、彼らはコミュニティの立ち上げには相当な時間がかかるだろうということだと思うよ」と述べた。更に続けてデバイスドライバサポートの問題が足を引っ張るだろうという点を指摘し、CNETニュースのインタビューに答えて「Linuxでドライバが足りないとかなんとかいっているようなら、Solaris/x86を見てみるといいよ」と述べるなど、競合している他のOSへの批判には容赦がない。
他の例では、マイクロソフトの上級副社長クレイグ・マンディがオープンソースソフトウェアには新規性はなく、知的財産権を破壊するものだと批判したのに対する反論として送ったEメールの中で次のように述べた。「マンディはアイザック・ニュートン卿について聞いたことがあるのかねえ。彼は古典力学の基礎の構築、りんごの木の話で有名な万有引力の法則を発見した点で著名であるだけでなく、彼がその業績に対して先人への感謝を示したやり方でも有名なんだ。『私がはるかかなたを見渡すことができたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩に乗っていたからだ。』(...中略...)私はマンディよりもむしろニュートンの意見を聞いてみたいよ。亡くなってから300年もたちましたけど、あなたの意見はまだ古臭くなってませんよねってね」。
リーナスは元々自身のシステムとしてMINIX OSを使っており、これを自分で作成したOSと置き換え、この自作OSにLinux(Linus's Minix)という作業用の名前をつけた。しかし、この名前はあまりに自己中心的すぎると感じたため、freeとfreakを混ぜてUnixシステムを示すXの文字を足した「Freax」と名づけようとしていた。友人のアリ・レンクはリーナスにそのOSを簡単にダウンロードできるようにネットワークに置くことを勧め、リーナスに自分のFTPサーバを提供したが、アリはFreaxという名前が気に入っていなかったため、リーナスに linux というディレクトリを与えた。
1991年8月、リーナスはこの成果物をUsenetニュースグループ comp.os.minix で公開した 。
現在ではリーナス本人が書いたコードはLinuxカーネルのたった2%程度しかないものの、カーネルに新しいコードを追加する際の最終的な決定者としての役割を担っている。なお、X Window Systemやgccやパッケージ管理といった、オペレーティングシステム全体にかかわる事項については他の者が行っている。また、多くのLinuxディストリビューションはディストリビューションごとに独自のカーネルバージョンを持っている。リーナスはたとえ開発者の間で行われたものであっても、カーネルに関係しない議論からは距離を置くようにしているようである。リーナスが書き主導してきたLinuxカーネルと、他の大勢の開発者によるソフトウェア(特にGNUソフトウェア)とを一緒にしてLinuxディストリビューションと通称する。さらにこれを単にLinuxと呼ぶものも多い。またGNU/Linuxと呼ぶこともある。リーナス自身およびGNUの創設者リチャード・ストールマンは、GNUベースのディストリビューションは"GNU/Linux"という名称を残すべきだとの姿勢をとっている。
リーナスは「Linux」の商標を保有しており、世界中のLinuxコミュニティの助けも借りて、その使用(および不正使用)を主に非営利団体Linux Internationalを通じて監視している。オープンソース本来の原則からリーナスは、Linuxに商標をつけることそのものを嫌っていたが、1995年に商標を取った。これは赤の他人がLinuxを商標登録したり、脅迫されたりする事態を避けるためである。
Linuxファンの中にはリーナスを神のごとく崇め奉っているものも多いが、彼自身は自著"Just For Fun"(邦題『それがぼくには楽しかったから』)の中でそういう対応に困惑しており迷惑だと感じていると述べている。 | [
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"text": "リーナス・ベネディクト・トーバルズ(Linus Benedict Torvalds、1969年12月28日 - 、 [ˈliːnɵs ˈtuːrvalds])はフィンランド、ヘルシンキ出身のアメリカ合衆国のプログラマ。Linuxカーネルを開発し、1991年に一般に公開した。その後も、公式のLinuxカーネルの最終的な調整役(もしくは「優しい終身の独裁者」)を務める。",
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"text": "アンドリュー・タネンバウムが開発したカーネルとオペレーティングシステム (OS) であるMINIXに刺激を受け、自宅のパーソナルコンピュータ上で動作可能なUNIX OSの必要性を感じ、自分の趣味の時間と自宅の設備でLinuxカーネルの初期の開発を行った。",
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"text": "1969年12月28日、フィンランドの首都ヘルシンキで生まれた。父親はジャーナリストのニルス・トーバルズで母はアンナ。祖父は詩人のオーレ・トーバルズ(英語版)。両親は1960年代にヘルシンキ大学の左翼活動家であり、父親は1970年代中頃にモスクワに一年留学している共産主義者である(後のリーナスの考えに父親が間接的に影響していることを本人は認めている)。",
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"text": "1990年、ヘルシンキ大学在学中に読んだアンドリュー・S・タネンバウムの『オペレーティングシステム‐設計と理論およびMINIXによる実装』を「人生を変えた本」と述べている。",
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] | リーナス・ベネディクト・トーバルズはフィンランド、ヘルシンキ出身のアメリカ合衆国のプログラマ。Linuxカーネルを開発し、1991年に一般に公開した。その後も、公式のLinuxカーネルの最終的な調整役(もしくは「優しい終身の独裁者」)を務める。 アンドリュー・タネンバウムが開発したカーネルとオペレーティングシステム (OS) であるMINIXに刺激を受け、自宅のパーソナルコンピュータ上で動作可能なUNIX OSの必要性を感じ、自分の趣味の時間と自宅の設備でLinuxカーネルの初期の開発を行った。 | {{Infobox Engineer
|氏名 = リーナス・トーバルズ
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|画像 = LinuxCon Europe Linus Torvalds 03 (cropped).jpg
|画像のサイズ =
|画像の説明 = リーナス・トーバルズ(2014年撮影)
|国籍 = {{FIN}}、
{{USA}}
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1969|12|28}}
|生誕地 = {{FIN}}、[[ヘルシンキ]]
|死没日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢||||||}} -->
|死没地 =
|居住地 = {{USA}}、[[オレゴン州]][[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]
|最終学歴 = [[ヘルシンキ大学]]
|配偶者 = トーベ・トーバルズ
|両親 = [[ニルス・トーバルズ]](父)<br />[[アンナ・トーバルズ]](母)<ref name="linuxonlinebio">{{cite web |url=http://www.linux.org/info/linus.html |title=Linux Online - Linus Torvalds Bio |publisher=Linux.org |date= |accessdate=2010-03-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040626044423/http://www.linux.org/info/linus.html |archivedate=2004年6月26日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>
|子供 = パトリシア・ミランダ、ダニエラ・ヨランダ、セレスタ・アマンダ
|専門分野 =
|所属機関 =
|勤務先 =
|雇用者 = [[Linux Foundation]]
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|成果 = [[Linuxカーネル]]、[[Git]]
|受賞歴 = [[武田賞]](2001年)<br>[[C&C賞]](2010年)<br>[[ミレニアム技術賞]](2012年)
|署名 =
|公式サイト = [https://torvalds-family.blogspot.com/ torvalds-family.blogspot.com]<br />[http://www.cs.helsinki.fi/u/torvalds/ cs.helsinki.fi/u/torvalds]
}}
'''リーナス・ベネディクト・トーバルズ'''('''Linus Benedict Torvalds'''、[[1969年]][[12月28日]] - 、{{Audio|Sv-Linus Torvalds.ogg|{{IPA|ˈliːnɵs ˈtuːrvalds}}}})は[[フィンランド]]、[[ヘルシンキ]]出身の[[アメリカ合衆国]]の[[プログラマ]]。[[Linuxカーネル]]を開発し、[[1991年]]に一般に公開した。その後も、公式のLinuxカーネルの最終的な調整役(もしくは「[[優しい終身の独裁者]]」)を務める。
[[アンドリュー・タネンバウム]]が開発した[[カーネル]]と[[オペレーティングシステム]] (OS) である[[MINIX]]に刺激を受け、自宅の[[パーソナルコンピュータ]]上で動作可能な[[UNIX]] OSの必要性を感じ、自分の趣味の時間と自宅の設備でLinuxカーネルの初期の開発を行った。
== 半生 ==
{{出典の明記
| date = 2016年9月
| section = 1
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[[1969年]][[12月28日]]、[[フィンランド]]の首都[[ヘルシンキ]]で生まれた。父親は[[ジャーナリスト]]の[[ニルス・トーバルズ]]で母はアンナ。祖父は詩人の{{仮リンク|オーレ・トーバルズ|en|Ole Torvalds}}。両親は[[1960年代]]に[[ヘルシンキ大学]]の[[左翼]]活動家であり、父親は[[1970年代]]中頃に[[モスクワ]]に一年留学している[[共産主義]]者である(後のリーナスの考えに父親が間接的に影響していることを本人は認めている)。
家族はフィンランド人口のおよそ6%の[[スウェーデン語]]を話す少数派([[スウェーデン系フィンランド人|スウェーデン系]])に属しており、リーナスの名は[[ライナス・ポーリング]]にちなんだものだった。[[1988年]]から[[1996年]]までヘルシンキ大学で学び、Linuxに関する修士論文「Linux: A Portable Operating System(Linux: 移植性の高いオペレーティングシステム)」を書き、[[計算機科学]]の修士号を得た。
1990年、ヘルシンキ大学在学中に読んだアンドリュー・S・タネンバウムの『オペレーティングシステム‐設計と理論およびMINIXによる実装』を「人生を変えた本」と述べている。
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[カリフォルニア州]][[サンノゼ]]に長年住んだあと、2004年6月に[[オレゴン州]][[ビーバートン (オレゴン州)|ビーバートン]]の家を購入し、この地域の学校に娘たちを通学させている。家族は、[[空手]]で6度のフィンランド選手権優勝経験を持つ妻トーベと、3人の娘・パトリシア・ミランダ、ダニエラ・ヨランダ、セレスタ・アマンダである。
[[1997年]]2月から[[2003年]]6月まで[[トランスメタ]]社で働いたあと、オレゴン州ビーバートンにある[[Open Source Development Labs|OSDL]]に移籍した。その後OSDLは[[Free Standards Group|FSG]]と合併し、[[Linux Foundation]]となりそのまま在籍している。
シリコンバレーでは[[スティーブ・ジョブス]]や[[ビル・ジョイ]]に会っている。
リーナスの個人的なマスコットとして、[[Tux]]と名づけられた[[ペンギン]]がいて、LinuxコミュニティからはLinuxのマスコットとして広く受け入れられている。
== ソフトウェア開発に関する思想 ==
リーナスの活動にインスパイアされた[[エリック・レイモンド|エリック・S・レイモンド]]がその論文「[[伽藍とバザール]]」で述べ著名となった[[リーナスの法則]]に「''Given enough eyeballs, all bugs are shallow.''(目玉の数さえ十分あれば、どんなバグも深刻ではない)」というものがある。深刻なバグというのは見つけづらいもののことを言うが、深刻なバグを探すのに大勢の人がいれば、どんなバグも深刻なものとはならないだろうという希望を述べたものであり、ほぼ経験則として受け入れられている。レイモンドとリーナスは、この信念を基盤にした[[オープンソース]]思想を共有している。
他のオープンソース普及活動家たちとは違って、リーナスは比較的控えめな姿勢を保っているように見られているが{{要出典|date=2016年9月}}、度々[[マイクロソフト]]の[[Microsoft Windows|Windows]] や[[Apple]]の[[macOS]]のような競合する[[オペレーティングシステム]] (OS) についての辛辣な批判をしてきた<ref>参考文献参照</ref><ref>[https://www.smh.com.au/technology/torvalds-pans-apple-with-utter-crap-putdown-20080206-gdrzsd.html Torvalds pans Apple with 'utter crap' putdown]</ref>。<!--この姿勢は中立的すぎると[[GNUプロジェクト]]によって批判を受けるほどである。-->一方、[[GNUプロジェクト]]とは度々対立し、特にトランスメタでの独占的ソフトウェアの開発への従事や、[[BitKeeper]]の利用と擁護は、GNU側から批判の的とされている。しかし、マイクロソフトや[[SCO]]のような独占的ソフトウェア開発企業による反Linuxを意図した[[FUD]]に対しては強く反論する声明を発表してきた。また2004年には[[サン・マイクロシステムズ]]が自社開発の[[Solaris]] OSをオープンソースにするという発表について「誰もSolarisの出来損ないみたいなOSで遊びたいとは思わないと思うよ。明らかなことは、彼らはコミュニティの立ち上げには相当な時間がかかるだろうということだと思うよ」と述べた。更に続けて[[デバイスドライバ]]サポートの問題が足を引っ張るだろうという点を指摘し、[[CNET]]ニュースのインタビューに答えて「Linuxでドライバが足りないとかなんとかいっているようなら、Solaris/x86を見てみるといいよ」と述べるなど、競合している他のOSへの批判には容赦がない。
他の例では、マイクロソフトの上級副社長[[クレイグ・マンディ]]が[[オープンソースソフトウェア]]には新規性はなく、[[知的財産権]]を破壊するものだと批判したのに対する反論として送ったEメールの中で次のように述べた。「マンディは[[アイザック・ニュートン]]卿について聞いたことがあるのかねえ。彼は[[古典力学]]の基礎の構築、りんごの木の話で有名な[[万有引力|万有引力の法則]]を発見した点で著名であるだけでなく、彼がその業績に対して先人への感謝を示したやり方でも有名なんだ。『[[巨人の肩の上|私がはるかかなたを見渡すことができたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩に乗っていたからだ。]]』(…中略…)私はマンディよりもむしろニュートンの意見を聞いてみたいよ。亡くなってから300年もたちましたけど、あなたの意見はまだ古臭くなってませんよねってね」。
== Linuxの開発 ==
リーナスは元々自身のシステムとしてMINIX OSを使っており、これを自分で作成したOSと置き換え、この自作OSにLinux(Linus's Minix)という作業用の名前をつけた。しかし、この名前はあまりに自己中心的すぎると感じたため、freeとfreakを混ぜて[[Unix系|Unixシステム]]を示すXの文字を足した「Freax」と名づけようとしていた<ref>{{Cite book|和書
| author = グリン ムーディ
| translator = 小山祐司(監訳者)、宮崎裕子(翻訳者)、真藤由香(翻訳者)
| title = ソースコードの反逆―Linux開発の軌跡とオープンソース革命
| year = 2002
| date = 2002-6-11
| page = 48
| publisher = [[アスキー (企業)|株式会社アスキー]]
| isbn = 4-7561-4100-5 }}</ref>。友人のアリ・レンクはリーナスにそのOSを簡単にダウンロードできるようにネットワークに置くことを勧め、リーナスに自分の[[File Transfer Protocol|FTP]][[サーバ]]を提供したが、アリはFreaxという名前が気に入っていなかったため、リーナスに linux という[[ディレクトリ]]を与えた。
[[1991年]][[8月]]、リーナスはこの成果物を[[Usenet]][[ニュースグループ]] <code>comp.os.minix</code> で公開した <ref group="※">[https://groups.google.com/g/comp.os.minix/c/dlNtH7RRrGA/m/SwRavCzVE7gJ?hl=en What would you like to see most in minix?]</ref>。
現在ではリーナス本人が書いたコードはLinuxカーネルのたった2%程度しかないものの、カーネルに新しいコードを追加する際の最終的な決定者としての役割を担っている。なお、[[X Window System]]や[[GNUコンパイラコレクション|gcc]]や[[パッケージ管理]]といった、オペレーティングシステム全体にかかわる事項については他の者が行っている。また、多くの[[Linuxディストリビューション]]はディストリビューションごとに独自のカーネルバージョンを持っている。リーナスはたとえ開発者の間で行われたものであっても、カーネルに関係しない議論からは距離を置くようにしているようである。リーナスが書き主導してきたLinuxカーネルと、他の大勢の開発者によるソフトウェア(特に[[GNU]]ソフトウェア)とを一緒にしてLinuxディストリビューションと通称する。さらにこれを単にLinuxと呼ぶものも多い。またGNU/Linuxと呼ぶこともある。リーナス自身およびGNUの創設者[[リチャード・ストールマン]]は、GNUベースのディストリビューションは"GNU/Linux"という名称を残すべきだとの姿勢をとっている。
リーナスは「Linux」の[[商標]]を保有しており、世界中のLinuxコミュニティの助けも借りて、その使用(および不正使用)を主に[[非営利団体]][[Linux International]]を通じて監視している。オープンソース本来の原則からリーナスは、Linuxに商標をつけることそのものを嫌っていたが、[[1995年]]に商標を取った。これは赤の他人がLinuxを商標登録したり、脅迫されたりする事態を避けるためである。
== 社会的な認知 ==
Linuxファンの中にはリーナスを神のごとく崇め奉っているものも多いが、彼自身は自著"Just For Fun"(邦題『[[それがぼくには楽しかったから]]』)の中でそういう対応に困惑しており迷惑だと感じていると述べている。
* [[タイム (雑誌)|タイム]]誌の[[2000年]]の「今世紀の100人」のインターネット投票で17位に選出された<ref>http://www.time.com/time/time100/poc/century.html</ref>。
* [[2000年]]に、[[Apple]]社の[[スティーブ・ジョブス]]から引き抜きの打診があった。「アップルの[[macOS|Mac OS X]]はもっともユーザー数が多い[[UNIX]]、というのが口説き文句だった」とリーナスは振り返っている。しかし条件としてLinuxの開発をやめることを求められたことと、Mac OS Xに使われている[[Mach]]カーネルが大嫌いであったことを理由に、この打診を断った<ref>{{Cite web|和書|url=https://wired.jp/2012/03/29/mr-linux-4/|title=リーナス・トーバルズ:「ギークの王様」は3児の父に(その4)|publisher=WIRED.jp|date=2012-03-29|accessdate=2022-06-18}}</ref>。
* [[2001年]]には[[武田賞]]を[[リチャード・ストールマン]]、[[坂村健]]とともに受賞した。
* [[2004年]]には、タイム誌の世界中で最も影響力のある一人として挙げられた。
* 2004年夏に行われた史上最も偉大なフィンランド人100人の投票で16位に挙げられた。
* [[2005年]]には[[ビジネスウィーク]]誌の最も優秀な経営者の一人に選ばれた<ref>http://www.businessweek.com/magazine/toc/05_02/B39150502manager.htm</ref>。
* [[2006年]]に、[[タイム誌]]の「60 Years Of Heroes」に選ばれた<ref>http://www.time.com/time/europe/hero2006/torvalds.html</ref>。
* [[2010年]]には[[C&C賞]]を受賞した。
* [[2012年]]には[[ミレニアム技術賞]]を受賞した。
* [[2018年]]には[[IEEE井深大コンシューマー・エレクトロニクス賞]]を受賞した。
== 注釈 ==
{{Reflist|group="※"}}
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* Linus Torvalds, David Diamond: <cite>[[:en:Just for Fun|Just for Fun: The Story of an Accidental Revolutionary]]</cite>, New York, HarperBusiness, 2001, ISBN 0-06-662072-4
** (和訳版)リーナス・トーバルズ, デビッド・ダイヤモンド [[風見潤]] 訳: <cite>[[それがぼくには楽しかったから]]</cite>, 東京, 小学館, 2001, ISBN 4-7968-8001-1
== 関連項目 ==
{{Portal|FLOSS|[[ファイル:FLOSS logo.svg|41px]]}}
* [[Git]] - Linuxカーネル管理のために開発したバージョン管理システム
== 外部リンク ==
{{commons|Linus Torvalds}}
* [https://torvalds-family.blogspot.com Linus' blog] - トーバルズのブログ{{En icon}}
* [https://www.cs.helsinki.fi/u/torvalds/ The homepage of a WWW-illiterate] - トーバルズのヘルシンキ大学のページ{{En icon}}
{{Linux}}
{{典拠管理}}
{{DEFAULTSORT:とおはるす りいなす}}
[[Category:リーナス・トーバルズ|*]]
[[Category:フィンランドのプログラマ]]
[[Category:EFFパイオニア賞の受賞者]]<!-- 1998年 -->
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[[Category:ミレニアム技術賞の受賞者]]<!-- 2012年 -->
[[Category:コンピュータパイオニア賞の受賞者]]<!-- 2014年 -->
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[[Category:Linux]]
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[[Category:C&C賞の受賞者]] | 2003-02-21T09:22:22Z | 2023-11-01T12:08:30Z | false | false | false | [
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2,654 | モード系 | モード系(モードけい)は、各ブランドやシーズンや集団毎に異なる服装や髪型などの流行を意味するモード(mode)に、系統や体系を表す系という語を加えた複合語。 後述するように具体的な形式などはなく、また同じような服装をしていても時代や集団によってモードではなくなるため、実態の無い言葉。逆説的にモード系とくくられるような特徴であれば、既に陳腐化してモードではない可能性が高い。 | [
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] | モード系(モードけい)は、各ブランドやシーズンや集団毎に異なる服装や髪型などの流行を意味するモード(mode)に、系統や体系を表す系という語を加えた複合語。
後述するように具体的な形式などはなく、また同じような服装をしていても時代や集団によってモードではなくなるため、実態の無い言葉。逆説的にモード系とくくられるような特徴であれば、既に陳腐化してモードではない可能性が高い。 モードを含む服飾は商品伝播の理論では、革新者による台頭期、初期採用者による台頭から成長期、初期追随者による成長期、後期追随者による成熟期、遅延者による衰退期があり、同じような細く丈が短いブラックスーツでも、ディオールなどが発表した当時は台頭期でモードであるが、洋服の青山などが模倣し遅延者が着るようになると衰退期でありもはやモードではなく陳腐化する。
モード(MODE)はフランス語で流行やファッションを意味し、英語のファッション(FASHION)である。転じて流行の源のひとつである各ブランドがファッションショーや実際の製品で提案する印象や着こなし。各ブランド等やシーズン毎にそれぞれ異なる複数のモードがあり、系統建てて分類される基準があるわけではない。
系は系統や体系などで、具体的には太陽系や消化器系など組織や階層などの分類。
髪型においては各国の理美容団体が毎年、または春・夏と秋・冬の年2回、その年のモードコレクションや流行色などのトレンドにあわせた髪型が発表される。 | '''モード系'''(モードけい)は、各ブランドやシーズンや集団毎に異なる服装や髪型などの流行を意味するモード(mode)に、系統や体系を表す系という語を加えた複合語。
後述するように具体的な形式などはなく、また同じような服装をしていても時代や集団によってモードではなくなるため、実態の無い言葉。逆説的にモード系とくくられるような特徴であれば、既に陳腐化してモードではない可能性が高い。
* モードを含む[[服飾]]は商品伝播の理論では、革新者による台頭期、初期採用者による台頭から成長期、初期追随者による成長期、後期追随者による成熟期、遅延者による衰退期があり、同じような細く丈が短い[[ブラックスーツ]]でも、[[ディオール]]などが発表した当時は台頭期でモードであるが、[[青山商事|洋服の青山]]などが模倣し遅延者が着るようになると衰退期でありもはやモードではなく陳腐化する。<ref>http://www.smrj.go.jp/keiei/dbps_data/_material_/common/chushou/b_keiei/keieiseni/pdf/rite007.pdf</ref>
* モード(MODE)はフランス語で流行やファッションを意味し、英語の[[ファッション]](FASHION)である。転じて流行の源のひとつである各[[ブランド]]が[[ファッションショー]]や実際の製品で提案する印象や着こなし。各ブランド等やシーズン毎にそれぞれ異なる複数のモードがあり、系統建てて分類される基準があるわけではない。<ref>
[https://www.vogue.co.jp/collection/trends/2018ss-wear1 vogue]</ref>
* 系は系統や体系などで、具体的には太陽系や消化器系など組織や階層などの分類。<ref>[https://dictionary.goo.ne.jp/jn/65929/meaning/m0u/ goo辞書]</ref>
* [[髪型]]においては各国の理美容団体が毎年、または春・夏と秋・冬の年2回、その年のモードコレクションや流行色などのトレンドにあわせた髪型が発表される。<ref>[http://www.riyo.or.jp/technique/s_menu.html 全理連ニューヘア]</ref><ref>[http://www.nhdk.or.jp/newhair/index.html 日本ヘアーデザイン協会ニューヘアモード]</ref>
== 脚注 ==
<references/>
== 関連項目 ==
* [[ファッション用語]]
* [[美容]]
{{被服}}
{{DEFAULTSORT:もおとけい}}
[[Category:ファッションの傾向を表す言葉]] | 2003-02-21T10:48:52Z | 2023-10-24T18:31:20Z | false | false | false | [
"Template:被服"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%89%E7%B3%BB |
2,657 | オセロ (ボードゲーム) | オセロ(Othello)は、2人のプレイヤーが交互に盤面へ石を打ちながら、相手の石を自分の石で挟むことによって自分の石へと換えていき、最終的な盤上の石の個数を競うボードゲームである。オセロゲーム(Othello Game)とも呼ぶ。ほぼ同様のゲームにリバーシ(Reversi)がある。
オセロはボードゲームの1つである。8×8の正方形の盤と、表裏を黒と白に塗り分けた平たい円盤状の石を使用する。それぞれ黒と白を担当する2人のプレイヤーが交互に盤面へ石を置いていき、最終的に盤上の石が多かったほうが勝ちとなる。相手の石を自分の石で挟んだときは、相手の石を裏返すことで、自分の石にする。「挟んだら裏返す」という基本原理が解れば、初期配置やパスなどいくつかのルールを知るだけで、すぐにオセロをプレイできる。なお、公式戦では、さらに細かい競技規則も定められている。
オセロとほぼ同様のゲームは、元々リバーシとして知られていた。リバーシは、ジョン・モレット (John Mollett) とルイス・ウォーターマン (Lewis Waterman) によって19世紀にイギリスのロンドンで考案された。その後、水戸市出身のボードゲーム研究家・長谷川五郎によって1970年頃に東京都で現在知られているパッケージが開発され、その父・四郎によって「オセロ」(ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『オセロ』に由来)と命名された。完成したオセロは、1973年にツクダ(後のツクダオリジナル→パルボックス→メガハウス)から発売され、ヒット商品となった。
長谷川がオセロ開発に当たりリバーシを参照したのかどうかは不明であり、オセロとリバーシの関係性をどう位置付けるべきか争いがある。また、オセロ発祥の地についても、ロンドン、東京、水戸という3つの説がある。いずれにしても、「オセロ」「Othello」という名称はメガハウスの登録商標であるため、他社からはリバーシとしてほぼ同様のゲームが発売されている。
オセロは、抽象戦略ゲーム(アブストラクトゲーム)の一つであり、運の要素がなく、2人のプレイヤーが互いに知恵を絞り実力だけを頼りに勝敗を決する。ゲームのルールは単純明快だが、多数の戦術が生み出され、日々戦略的な進歩を続けている。このことを端的に表した「覚えるのに一分、極めるのに一生 (A minute to learn, a lifetime to master)」という言葉がキャッチフレーズになっている。著名な戦術としては、定石や偶数理論などがある。
数学的には、オセロは囲碁・将棋・チェスなどと同様に二人零和有限確定完全情報ゲームに分類され、コンピュータによる研究も行われている。コンピュータオセロは、1997年に人間の世界チャンピオンに勝利しており、人間のトッププレイヤーを上回る実力を持つ。もっとも、コンピュータが発達した2022年現在もオセロの完全解析はなされておらず、なお未知なる奥深さを持つ。
世界各国で子供から老人まで様々な人によってプレイされており、世界のオセロ競技人口は約6億人と推計されている。特に、日本では遊びの文化として定着しており、競技人口が多いだけでなく、オセロを題材にした数々の文化的活動も行われている。
オセロは、遊びであると同時にマインドスポーツの一つとしても知られている。世界各国で多くの大会が開催されており、日本では囲碁や将棋などと同様に複数のタイトル戦が存在する。最も大きな大会は、1977年から毎年開催されている世界オセロ選手権である。
このほか、オセロ・リバーシには、ニップ、グランドオセロ、エイトスターズオセロ、ロリットなどの派生ゲームも存在し、様々な形で人々から親しまれている。
オセロをプレイするために必要な用具は、盤と石である。オセロの盤は、8×8の正方形のマス目が描かれた緑色のものを使用する。
オセロの石は、表裏を黒と白に塗り分けた平たい円盤状のものを使用する。
メガハウスによる公式のオセロ用具は、表のようにプレイヤーの便宜を図るために様々な工夫を凝らした製品が順次追加されている。
また、視覚障害者向けに触って石を識別できるもの(表の「カラーオセロ」も該当)、石をつまむことのできない肢体不自由者向けに盤と一体化した石を回すことでプレイできるもの(表の「一体オセロ」も該当)など、バリアフリーを意識した用具も開発・発売されている。
オセロの基本ルールは以下の通りである。なお、以下では符号を用いて説明することがあるが、図の盤面外に記載されている列と行を表す。例えば、f5はf列5行目のことである。
事前準備として、以下の2つが必要である。
事前準備を終えたらゲームを開始する。
初手は黒番が打つ。この際、今打った石と他の自分の色の石とで縦・横・斜めのいずれかの方向で挟んだ相手の色の石は、裏返して自分の色に変える。例えば、図1の局面で、黒番がf5に打てば、今打った黒石とd5の黒石によってe5の白石を横に挟んでいるので、これを裏返して黒石に変える(図2)。
2手目は白番が打つ。さきほどと同じように、挟んだ相手の色の石を裏返して自分の色に変える。例えば、図2から白番がd6に打てば、今打った白石とd4の白石によってd5の黒石を縦に挟んでいるので、これを裏返して白石に変える(図3)。
後は同様に、相手の石を挟みながら、黒番と白番が交互に空きマスに自分の色の石を打っていく。例えば、図3から黒番がc3に打てば、d4の白石を斜めに挟んでいるので、これを裏返して黒石に変える。
複数の石を一度に挟むことも可能である。この場合、挟んだ石はすべて自分の色に変えなければならない。例えば、図4の局面で黒番がg5に打つと、f5とe5の白石を横に挟み、f4の白石を斜めに挟んでいるので、これら3つの石をすべて黒石に変える(図5)。
石を打つときは、必ず相手の色の石を1つ以上挟むように打たなければならない。例えば、図5で仮に白番がh5に打ったとしても黒石を1つも挟めないから、白番がh5に打つことはできない。
挟める石がなければパスとなり、相手の手番になる。例えば、図6の局面で、黒番は挟める白石がないのでパスとなる。パスに回数制限はないが、挟める石があるときはパスできない。なお、相手のパスによって自分の着手が続くと手元の石が足りなくなることがあるが、相手の手元の石を使ってもよい。
このようにしてプレイを続けていき、盤上のすべてのマスが石で埋まって空きマスがなくなれば、ゲーム終了(終局)となる。例えば、図7では、すべてのマスが石で埋まっているため、終局である。
空きマスがあっても、両者ともに挟める石がないときは終局となる。例えば、図8では、まだ空きマスがあるが、黒番も白番も相手の色の石を挟む方法がないから、終局である。なお、一方の石が全滅してしまった場合も、両者ともに挟める石がないときに該当するから終局である。
ゲームが終了したら黒石・白石の数を数え、多いほうが勝ちとなる。同数の場合は、通常の対局では引き分け、引き分けでは不都合のある対局(勝ち上がり式トーナメントの大会等)では黒番・白番の決定時に「終局時に石の数が同数だった場合に勝者となる権利」(後述)を得ていた側の勝ちとなる。
成績は、石数もしくは石差で記録される。例えば、図7ならば34対30(4石差)で黒番の勝ちである。空きマスがある場合には、その数が勝者の石数に加算される。例えば、図8ならば63対1(62石差)で黒番の勝ちである。
実力差がある場合にはハンデキャップ(ハンデ)をつけて対局することもできる。ハンデキャップ戦では、実力差に応じて図のように盤面の隅に黒石を置いた状態からゲームを開始する。
ハンデキャップ戦の場合は、下手が黒番、上手が白番を持つが、通常の対局とは異なり、白番(上手)の先手で対局を開始する。
オセロは黒と白の石を用いるが、基本ルールで説明したように黒を担当するプレイヤーが先手、白を担当するプレイヤーが後手として、プレイヤーの手番が色と合わせて定められている。手番を含めた両プレイヤーの地位をそれぞれ黒番・白番と呼ぶ。
大会などの公式戦では、「伏せ石」と呼ばれる囲碁のニギリに近い方法で黒番・白番を決定する。伏せ石のやり方は、引き分けありの対局と引き分けなしの対局でそれぞれ異なっており、以下のように決まっている。
オセロでは、挟んだ石を裏返すのを忘れるといった不正な着手が起きることがあり、公式戦で不正着手がなされた場合のルールが定められている。相手が不正着手をした場合、対局時計のボタンを押して相手に手番を戻したうえで、不正の内容を告げて相手に訂正を求めることができる。なお、日本オセロ連盟は不正着手を「自分の打つ石色の間違い、手番の間違い、打てない箇所への着手、返し忘れ、返しすぎ、打てる箇所がある局面でのパス」と定義している。
主要な国際大会等では、リーグ戦で勝ち星の数が並んだ際、イギリス代表選手で数学者のグラハム・ブライトウェルが考案したブライトウェル・ポイントと呼ばれる点数を計算して順位を決定する 。ブライトウェル・ポイントは、以下の数式で計算される。
ブライトウェル・ポイント = 石数合計 + 対戦相手の勝数合計 × C
定数Cは、オセロ盤のマス目の数 (64) を1人のプレイヤーの試合数で割った値に最も近い整数である。例えば、各プレイヤーが10試合を行うリーグ戦ならば、Cは「64 / 10 = 6.4」に最も近い整数の6である。
現在普及しているオセロのパッケージは、日本オセロ連盟元会長の長谷川五郎が1970年頃に東京都で完成させてゲーム会社のツクダに持ち込み、1973年に発売されたものである。長谷川がオセロを開発するに至った経緯については本人の説明が二転三転しており、定かではない。特に、オセロのルーツについては、
という2つの説がある。
オセロ発売当初、長谷川はリバーシがオセロの原型であるとしていたが、2000年頃からは、自身が考案した挟み碁がオセロの原型であると主張するようになっている。なお、2000年以降の長谷川の発言以外に挟み碁というゲームが実在したことを裏付ける根拠はない。このような経緯から、オセロとリバーシの関係やオセロ発祥の地については争いがある(詳しくはオセロとリバーシの節で後述)。
アネクゼイション、リバーシ、挟み碁、オセロは、いずれも「挟んだら裏返す」という基本原理に共通点があるが、細かい部分では表のような違いがある。
ここでは、リバーシに基づく歴史と挟み碁に基づく歴史の双方を対等に紹介する。
オセロに似たゲームとして記録に残る最古のものは、1870年にイギリスのロンドンでジョン・モレット (John Mollett) が開発したアネクゼイション (Annexation) というボードゲームである。アネクゼイションは、十字形の盤面を用いていたが、現在のオセロと同様に「挟んだら裏返す」という基本原理に基づくゲームだった。開発から6年後の1876年にF・H・エアーズがこれを発売した。
1883年、同じくロンドンのルイス・ウォーターマン (Lewis Waterman) がアネクゼイションの盤面をチェッカー盤(チェスボードと同じ8×8の正方形)に改良してリバーシ (Reversi) を開発した。リバーシは、1886年にロンドンのサタデー・レビュー紙に掲載され、世に知られることになった。ウォーターマンは、1888年にリバーシを商品化し、ジャック・アンド・サン(現・ジャック・オブ・ロンドン)から発売した。なお、リバーシ発売後にF・H・エアーズがアネクゼイションの改良版として「Annex a Game of Reverses」という名前でリバーシとほぼ同一のゲームを販売したため、商標をめぐって訴訟となったが、「リバーシ」は「裏返す」という意味の単語「Reverse」に由来し、16世紀からフランスでプレイされていた伝統的トランプゲームのリバーシス(ハーツの原型)の別名でもあることから商標権は認められず、両者はともにこのゲームを販売できることになった。
商品化から2年後の1890年にウォーターマンが承認したリバーシの解説書によると、当時のリバーシと現在のオセロとのルール上の違いは、以下の2点のみである。
同書によると当時のリバーシの石の色は黒と白 (black and white) であり、現在のオセロと同様である。もっとも、ジャック・アンド・サンから発売されたオリジナルのリバーシは、チェッカーと同様に黒白、黒赤、赤白という少なくとも3通りのバージョンが存在していたことがボードゲーム収集家のリチャード・バラムのコレクションで確認できる。
リバーシが考案されてから20年ほどの間にルールの変遷があった。まず、着手回数32手制限ルールはすぐに廃止され、相手がパスした場合には相手の手元の石を使ってもよいことになった。1900年頃のF・H・エアーズのリバーシに添付されたルール説明書には、「彼が打つことができないでいる限り、対戦相手は彼の石を使用して打つ」と明記されている。また、初期配置に関しては、簡便のために最初から中央4マスに石を置いてからゲームを開始するのが主流となった。この結果、20世紀初頭には、現在のオセロとのルール上の違いはほぼなくなっており、1907年に編纂された『世界遊戯法大全』では現在のオセロと完全に同一のルールが定められている。
もっとも、初期配置に関しては、図の3つのルールがローカルルールとして併存しており、どのルールを採用するかは競技団体・競技者や開発メーカーによって違いがあった。なお、クロス・ルールを採用した場合(『世界遊戯法大全』など)には現在のオセロと完全に同一のルールとなる。
石の色については、黒白のものもあったが、世界的には黒赤が主流となり、日本では源平になぞらえて主に紅白(赤白)の石を使った。
リバーシは、早くから日本にも輸入され、「源平碁」という名前で発売された。なお、名称は「源平碁」であるが、碁石ではなく表裏が別の色に塗り分けられた通常通りのリバーシの石でプレイされた。
リバーシ(源平碁)は現在のオセロとよく似たゲームである。しかし、現在のオセロほどの支持を得ることはできず、忘れられた存在となっていった。オセロ発売当初の説明によれば、長谷川は幼少期に兄がプレイしているのを見てリバーシのことを知った。そして、忘れられたゲームだったリバーシの道具を1970年頃に東京で改良して復活させたものがオセロである。
近年の長谷川の主張によれば、オセロのルーツは、第二次世界大戦が終わって間もない1945年の夏に茨城県水戸市で長谷川が考案した簡易囲碁ゲーム挟み碁である。
長谷川によれば、当時の長谷川と同級生たちは相手の石を囲んだら取れるという囲碁のルールがよく分からなかった。そこで、長谷川の発案により、相手の石を挟んだら取れるという簡易ルールで遊んでいた。その後、石を取るのではなく、相手の石を挟んだら自分の石と置き換えるというルールに改良し、現在のオセロに近いものとなった。さらに、自分の石と置き換える作業を簡単にするため、碁石ではなく表裏を黒白に塗り分けた紙の石を裏返すというアイデアに至った。
挟み碁には「挟んだら裏返す」という基本原理以外に定まったルールはなかった。盤面は長谷川が自作した8×8、8×9、9×10、八角形など多様な形状のものを使用し、「複数の石を挟んだときも裏返せる石は1個のみ」あるいは「挟んだ石のうち裏返したくない石は裏返さなくていい」など、そのときどきで様々なルールを採用してプレイしていた。
長谷川は、中学・高校・大学で級友とこのゲームを楽しんでいたが、大学卒業によって遊ぶ機会がなくなり、挟み碁は一旦姿を消すことになった。
これが2000年頃から長谷川が主張するようになったオセロの起源である。
1964年当時、東京都で中外製薬の営業担当として仕事をしていた長谷川は、同僚の女子社員たちから何かゲームを教えて欲しいと頼まれた。長谷川は囲碁・将棋ともに五段の腕前を誇り、最初はこれらのゲームを教えたが、難しすぎるとのことで上手く行かなかった。また、妻にも囲碁を教えたが、これも上手く行かなかった。そんな折に少年時代の記憶にあったリバーシもしくは挟み碁のことを思い出した。そこで、自宅で妻と家庭の牛乳瓶の紙蓋を集めて石を自作し、女子社員たちにルールを教えたところ、彼女らが昼休みにこのゲームを楽しむようになった。
さらに、営業先の病院でもこのゲームを紹介したところ、入院中の患者の時間潰しやリハビリテーションに使えるとのことで好評を博した。長谷川が担当していたある病院の医局長からは「このゲームは社会復帰を目指す患者のリハビリに適し華がある」と太鼓判を押されたという。
手応えを覚えた長谷川は、仲間たちとともに実験・研究を繰り返し、このゲームをさらに改良することにした。当初長谷川は自作の8×9の盤を使っていたが、1970年10月にメルク(西ドイツの製薬会社)からチェスセットが日本の薬品関係者に贈られると、8×8のチェスボードを採用して、チェスボードに合った牛乳瓶の紙蓋を使用するようになった。さらに、当初長谷川は間接挟みでも石を返すという現在よりもやや複雑なルールを採用していたが、直接挟みのみに限定した簡明なルールに変更した。これにより、1970年頃、東京で現在のオセロと同様のゲームが完成した。
完成したゲームには、当初黒と白の石をジャイアントパンダに見立てて「ランラン・カンカン」という名前(上野動物園のカンカンとランランに由来)が検討されていたが、長谷川の父親で旧制水戸高等学校(水高)の英国文学教授であった長谷川四郎の発案で「オセロ」に変更された。これは、英国文学の代表作であるウィリアム・シェイクスピアの戯曲『オセロ』に由来する。緑の平原が広がるイギリスを舞台にして、黒人の将軍・オセロと白人の妻・デズデモーナを中心に敵味方がめまぐるしく寝返るという戯曲のストーリーに、緑の盤面上で黒白の石が裏返って形勢が変わっていくゲーム性をなぞらえたものである。
1972年10月、長谷川が玩具メーカーのツクダにオセロを持ち込んだところ、これが認められ、商品化が決まった。
商品化に先立ち、1973年1月には日本オセロ連盟が設立され、同年4月7日には第1回全日本オセロ選手権大会が開催された。
同年4月25日に三越本店と伊勢丹本店で販売を開始し、4月29日に全国で「オフィシャルオセロ」が発売された。ツクダの商品企画部門の責任者だった和久井威によると、当時玩具に対してキャラクター以外のロイヤルティーを払うという意識が業界にはほとんどなく、オセロについても特許権や実用新案権は取得されていなかったが、ツクダのオーナーは「おもちゃはアイデアだから」と支払を認めたという。玩具業界には子供向けのボードゲームは4人以上で遊べるべきという意識があったため、2人用ゲームであるオセロは大人をターゲットとして、パッケージ表面にはたばこやライターを写したデザインが採用された。価格は2200円に設定された。
初期ロットは在庫を残さないよう3,000個で、経費の都合でテレビCMも打たなかったものの、百貨店の店頭などで実演販売をすると着実に売れていった。これに自信を得た和久井がその年の年末商戦に向けてテレビCMを製作したところ、オンエア後の10月からの3か月間で38万個、翌1974年に120万個以上、1975年に280万個が売れる大ヒット商品となった。『日経流通新聞』(現『日経MJ』)のヒット商品番付では、1973年、1974年と2年連続で「大関」に選出された。
1977年にアメリカ合衆国でも発売され、その年のうちに100万個が売れたという。この年から、世界オセロ選手権大会も始まった。
ツクダの玩具製造部門は1974年からツクダオリジナルとして独立。2002年、ツクダオリジナルはバンダイの子会社となり、2003年3月には和久井が経営するワクイコーポレーションと経営統合してパルボックスとなった。さらに2005年には、パルボックスはバンダイの子会社メガハウスに統合され、2020年現在はメガハウスがオセロを販売している。なお、アメリカ合衆国ではゲイブリルが最初の販売元だったが、その後数社の変遷を経て、2007年時点ではマテルが欧米での販売権を所有している。
和久井によると、2007年時点でもオセロは年間40から50万個は売れ続けているという。
リバーシ(Reversi、レヴァルシー、源平碁)は、オセロ発売以前からあるほぼ同様のゲームである。リバーシは、19世紀と20世紀でわずかに異なる(細かい変遷については、歴史の節を参照)。
20世紀のリバーシは、石の色について黒白、黒赤、赤白という3パターンの配色があり、初期配置についてクロス、パラレル、オリジナルという3種類のローカルルールが存在した。オセロは、このうち、石の色に黒白、初期配置にクロスを採用したものと同一である。黒白の石、クロス配置はともに1907年以前の文献に掲載されており、オセロが初出ではない。
なお、「リバーシは盤面の大きさが自由であった」「リバーシはパスができなかった」などとされることがあるが、誤りである。実際には、1890年刊行の最初期の解説書の時点から「盤面は8×8の正方形」「打てる箇所がない場合はパス」というルールが定められており、この点は現在のオセロと同一である。
オセロは、リバーシよりも後発のゲームであり、そのルールは初期配置クロス・ルールを採用したリバーシと完全に同一である。そのため、オセロは先行するリバーシに依拠して開発されたのか、リバーシに依拠しているならば別ゲームと言えるほどの違いがあるのかという点がしばしば議論される。オセロ開発者の長谷川五郎の説明が一貫しないことから明確な結論は出ておらず、オセロとリバーシの関係性およびオセロ発祥の地については、以下の3つの見解がある。
長谷川は、1973年にツクダからオセロを発売した当初、リバーシの影響下にあること自体は認めたうえで、改良による独自性をアピールし、新ゲームとしてこれを宣伝した。長谷川は1973年の雑誌記事でオセロ開発の経緯について以下のように記し、源平碁(リバーシ)を土台にゲームを改良したと明言している。
1981年の著書『オセロの打ち方』でも、長谷川はリバーシがオセロの原型であると認めたうえで、ゲームの面白さは、ルールが3分の1、名称・用具・環境などの要素が3分の2を占めることを指摘し、後者が不十分であったリバーシは子供の玩具以外の何物でもなかったが、オセロはすべてを整備して大人でも遊べるゲームとして完成させたものであるとアピールしている。
これに対し、複数の専門家がオセロはリバーシと別のゲームと言いうるほどの独自性はなく、リバーシの商品名の一つにすぎないと指摘し、新ゲームとして喧伝されていることに批判的な見解を示した。
小説家の都筑道夫は、オセロ発売直後に疑問を抱いて独自の調査を行い、娯楽研究家である矢野目源一の著書『娯楽大百科』の記述などに基づいて、オセロはリバーシとそのまま同一のゲームであるといち早く指摘した。都筑は、ツクダが海外輸出を目指していることに触れ、以下のようにオセロを批判している。
小説家でパズル・ゲーム研究家の田中潤司は、都筑に対して、リバーシは昔から日本でも源平碁として親しまれており、1968年(オセロ発売の5年前)のハナヤマの商品カタログにも掲載されているという事実を紹介した。田中は、以下のように述べ、発売元のツクダが長谷川にロイヤルティーを支払ったことについて疑問を呈している。
アメリカ合衆国の数学者でパズル・ゲーム研究家のマーティン・ガードナーは、オセロがアメリカ合衆国で発売された年に、サイエンティフィック・アメリカンの連載「数学ゲーム」の中で以下のように記し、わざわざ高額のオセロを購入しなくても同じゲームがプレイできると読者にアドバイスしている。
なお、長谷川はオセロ発売前の1971年にオセロの実用新案を出願(のちに拒絶査定が確定)しているが、その出願書類の中では、日本では半世紀にわたって源平碁が行われているとの見解を示したうえで、自身の新案を源平碁用具(石、盤、計算表)の改良であると説明し、「源平碁」という名称で出願をしている。
また、リバーシとオセロのルール上の唯一の違いである、クロス配置への限定については、肯定的な評価も否定的な評価も存在する。元オセロ世界チャンピオンのベン・シーリーは、パラレル配置では白番が完勝してしまう展開があるが、クロス配置では黒白の利点が拮抗して引き分けに至る展開が多いことを指摘し、クロス配置を採用した長谷川を高く評価している。一方、ゲーム研究家の草場純は、クロス配置がパラレル配置に劣る理由として、初期配置の状態で180度回転させても同じだから上下が区別できなくなってしまう点、初手がすべて対称形なので選択の余地がない無意味な一手になってしまう点を指摘し、長谷川が初期配置をクロスに限定したことを「オセロはリバーシの改悪」と断じ、厳しく批判している。
ゲームとしての独自性の有無はともかくとして、長谷川の構築した名称・用具・環境を伴うブランド力によってオセロは全世界に普及した。オセロの認知度が向上するに伴い、次第にリバーシ自体がオセロの影響を受けるようになった。
20世紀のリバーシにはクロス、パラレル、オリジナルの3つの初期配置ルールが存在することは前述したが、現代ではパラレルやオリジナルのルールでプレイされることはほとんどなく、オセロと同様のクロス配置が主流となっている。また、石の色も黒白、黒赤、赤白の3パターンがあったが、こちらも現代ではオセロと同じ黒白が主流となっている。つまり、もはや両者に違いはなく、実質的にリバーシはオセロの別名と言いうる状況となっている。
これは、オセロの商標権を持つツクダ(ツクダオリジナル、パルボックス、メガハウス)以外の各社が、商標権との抵触を避けつつオセロと同様の商品を販売するためにリバーシの名を借りたためである。1973年のオセロ発売当初、「オセロ」という商品名は商標として、黒白の石や緑の盤面などのデザインは意匠として、ともにツクダによって登録され、権利保護の対象となっていた。その後、意匠権は保護期間の20年が満了したため、他社も同一のデザインを使用することができるようになったが、商標権はなおも保護が続いている。そこで、他社は、オセロはリバーシの商品名の一つであるとする見解に基づき、「リバーシ」の商品名でオセロと同一デザインの商品を発売するのが一般的となっているのである。
1999年には、日本最大手のオセロ情報サイトを運営していた元タイトルホルダーのオセロ選手に対し、ツクダオリジナルが商標権侵害であるとして内容証明郵便を送り付けたことがきっかけとなって、日本で商標権のないリバーシに着目する動きが広まり、元タイトルホルダー4名を含む多数の高段者たちが集まって日本リバーシ協会を設立した。日本リバーシ協会の理事に対して「リバーシ禁止—オセロ連盟を除名」と題した脅迫状が送り付けられる事件が発生し、日本オセロ連盟の一部幹部からは、リバーシはオセロと敵対するゲームであるとして日本リバーシ協会を排斥する主張がなされたとされる。その後、日本リバーシ協会は活動を停止した。
なお、日本の公共放送NHKでは、オセロの商標を避けるために「黒と白の石を取り合うゲーム」などと言い換えて報道していたことがある。2022年10月7日にNHK総合テレビで放送された「チコちゃんに叱られる!」では「オセロはなぜ白と黒か」を扱い、番組内で終始「オセロ」と表現した。
2014年にリリースされたスマートフォン向けアプリの「リバーシ大戦」は、メガハウスの許諾を得て2018年に「オセロクエスト」に改称した。
発売当初はリバーシの影響下にあることを公言していた長谷川だが、次第にそれを伏せるようになった。そして、2000年頃、長谷川はリバーシとは無関係に1945年に水戸で自身が独立にゲームを考案したとする新たな見解を示した。当時、日本オセロ連盟のウェブサイトには「オセロの起源はリバーシ」と明記されていたが、連盟会長の長谷川が執筆した「戦後、水戸、碁石」という新しい文章に差し替えられた。長谷川は、この文章の中で以下のように主張した。
この件に関し、連盟HP委員として差し替え作業を担当したhaseraは次のように語っている。
これ以降、オセロはリバーシとは独立に水戸で考案されたとする情報が広く拡散した。
オセロ販売元のメガハウスは、2020年現在、オセロは長谷川が水戸で独立に考案したとする説を採っている。水戸市は、同説に基づき、「オセロ発祥の地」を自称し、オセロにまつわる様々なイベントを開催している。
一方、世界オセロ連盟は、2020年現在オセロの歴史に関する項を空欄にしており、態度を明らかにしていないが、長谷川が死去した2016年には、当時の世界オセロ連盟会長だったトール・ビルゲル・スコーゲンが、長谷川はリバーシに基づいてオセロを開発したとする見解を示しつつ長谷川に哀悼の意を示す声明を発表した。
なお、オセロがリバーシに依拠して開発されたのかどうかはともかくとして、いずれにしても長谷川がオセロを発売した時点ですでにリバーシの開発者はこの世におらず、特に権利関係が問題視されることはない。
オセロは単純なルールでありながら、勝つためには頭脳、読み合い、駆け引きが要求される。非常に多彩な戦術が知られており、「覚えるのに一分、極めるのに一生 (A minute to learn, a lifetime to master)」という言葉がキャッチフレーズとなっている。
1890年のリバーシの解説書には、すでにいくつかの戦術が掲載されていた。隅の重要性や序盤での注意点など基本的な戦術が解説されている。さらに進んで、現在知られている詳細な戦術を体系的に整備したのは、オセロのパッケージを開発した長谷川五郎である。長谷川は、1974年に『オセロの打ち方』を著し、この中で、様々な棋譜とともに勝つための戦術を体系的に解説した。その後、オセロの流行とともに様々な強豪プレイヤーが自らの理論を書籍として出版し、オセロ戦術は日々進歩を遂げている。
ここでは、標準的な戦術書でよく解説される基礎的な概念を説明することで、オセロ戦術の全体像を概観する。
図は、序盤の3手目の局面である。ルール上、ここで黒番にはc4、d3、e6、f7の4つの選択肢がある。しかしながら、c4、d3、f7の進行は白番が正しく対応すればいずれも黒番必敗となることが判明しているため、初心者を除けば黒番は必ずe6と打つ。
このように、不利にならない手は限られているから、双方がある程度の実力を有していれば序盤の進行はいくつかの決まったパターンに収束しやすい。そういったパターン化された進行を「定石」という。上級者同士の対局では、基本的な定石を双方が覚えたうえで、どの定石を選択するか、どこで定石から変化するかなど細かい駆け引きを行う。
主要な定石には、盤上の石の形を動物などに見立てて、名前が与えられている。中でも、兎定石、虎定石、牛定石、鼠定石の4つは最も基本的なものであり、四大定石と呼ばれている。
兎定石は、比較的変化が少なく、王道を往く基本形が深く研究されているため、初級者にも好まれる。
虎定石は非常に変化が多く、相手の研究を外す目的で上級者が好んで採用する。
牛定石は、シンプルな展開からスリリングな展開まで様々な展開が考えられる。
鼠定石は、現在では黒番が有利であることが判明しており、白番が避ける傾向にあるため、ほとんど打たれない。
図の局面は一見すると黒石がとても多く、初心者には黒番がリードしているように見えるかもしれない。しかし、黒番はここでg7以外に打てる箇所がない。そこで仕方なく黒番がg7に打つと白番がh8の隅を取れる状態になるから、黒番は圧倒的不利となる。
このように、オセロでは序盤・中盤の局面で石が多いからといって必ずしも有利というわけではない。多くの場合はその逆であり、石が多すぎる側は不利となる。オセロは相手の石を挟まなければ着手できないため、相手の石が少なかったり、相手の石が自分の石で囲まれていたりすると、着手可能な箇所が少なくなり、本来打ちたくない箇所に打つしかなくなってしまうのである。逆に言えば、序盤・中盤では、石を取りすぎず、自分の石が相手の石に囲まれた状態を目指すのが基本となる。
例えば、図は兎定石の9手目の局面であるが、ここで黒番の定石手はe6である。この手は、e5の白石1つだけを挟む手であるから自分の石を増やしすぎることはない。また、e5はすでに周囲を他の石で囲まれているから、自分の石を相手の石の中に潜り込ませることができる。したがって、理想的な好手である。
このような典型的好手の類型として「一石返し」と「中割り」が有名である。一石返しは、相手の石を1つだけ挟むように打つことである。中割りは、周囲をほぼ他の石に囲まれている相手の石だけを挟むように打つことである。一石返しは自分の石を必要以上に増やさない手であり、中割りは自分の石を相手の石で囲ませる手であるため、これらを意識することで好手を発見しやすくなる。図でのe6という手は、一石返しでなおかつ中割りである。
図の局面で、黒石はどれも終局までに白石に挟まれてしまう可能性があるが、10個の白石はもはや黒石で挟むことができない。したがって、これらの白石は終局まで白石であることが確定している。
このような、挟まれることがないから終局まで色が変わらないと確定した石のことを「確定石」という。確定石を増やしていくことは、勝利に直結するので重要である。
オセロで勝つために大切な要素の一つとして「隅」がある。オセロ盤のうち四隅のマス(a1、a8、h1、h8)については、挟むことができないから、隅に石を置けば必ず確定石となる。また、図のように隅から隣接するマスに同じ色の石が置かれている場合には、それらも確定石となることがある。したがって、隅を狙うのはオセロの基本となる。
隅と関連して重要な概念として、CとXがある。図で黒石を置いたマス(隅と縦横に隣接するマス)がC、白石を置いたマス(隅と斜めに隣接するマス)がXである。
当然のことながら、CやXに自分が石を打たなければ、相手に隅を取られることはない。したがって、初心者の間は、CやXを極力避け、相手がCやXに打ってきたら隅を取りに行くという戦術がよく使われる。しかし、初心者を脱すると、あえてXに打って相手に隅を取らせたうえで自分はCを取り、Cを基点に隣接する大量のマスを自分のものにするといった勝負手も必要となってくる。いずれにしても、隅、C、Xに関する攻防は初心者から上級者まで注目されるポイントである。
図のような局面を考える。ここで黒番が左下のb7に打ち込むと、c7、d7、e7の3つの石を黒石にすることができる。そして、b7の周辺にはもう空きマスがないから、これらの石が再び白番に返される心配はなく、良い手であると考えられる。
このように、隣接する空きマスが他にないマスに打ち込むことを「手止まり」と言い、終盤戦では手止まりを打つのが一つの目標となる。
終盤戦において重要となるのは、まずは先を読み切って地道に石を数えることである。しかし、石を数えることのほかに、互いに隣接する空きマスの数に着目することである程度類型的に好手を見つけることができる。手止まりを打つこともその一つである。
図は、さきほどの局面から黒番がb7に打った局面である。ここで互いに隣接する空きマスの数を見ると、左上には3つ(奇数)の空きマスがあり、中央上には2つ(偶数)の空きマスがある。この局面で白番が打つべき最善手は、左上の空きマスの数を2つ(偶数)にするa1である。次に黒番b2に対して、すかさずb1とすれば手止まりが打てるし、さらに黒番d1に対してe1とすればまた手止まりが打てる。
重要なのは、白番は互いに隣接する空きマスの数を偶数にしていることである。偶数にしておけば空きマスが1つのときに自分の手番になるから、そこで手止まりが打てるというわけである。これを「偶数理論」と呼び、手止まりをたくさん打つために有効な理論である。
オセロの戦略は、黒番と白番でそれぞれ違いがある。
まず、黒番の初手は、どこへ打っても対称形になるため、実質的意味はない。白番の2手目には縦取り、斜め取り、並び取りの3つの選択肢がある。
縦取りは兎定石・虎定石、斜め取りは牛定石、並び取りは鼠定石を志向した手であり、白番が得意な定石を選択できる。縦取りの場合、これに対して黒番はc5として兎定石にするか、c3として虎定石にするかを選択できる。兎・虎・牛・鼠のいずれの定石においても様々な変化があるが、黒番が変化を選択できることが多いため、どちらかと言うと黒番が定石の主導権を握りやすいと言われている。
終盤戦では、白番は偶数理論を使って積極的に手止まりを狙っていくことができる。終局までパスがなければ、偶数理論を使うことができるのは後攻の白番のみであるため、一般に終盤戦は白番が打ちやすいと言われている。もっとも、白番が打てない空きマスを作ることで黒番が偶数理論を逆用する「逆偶数理論」などの戦術もある。
このように、黒番・白番それぞれに強みとなる部分があり、どちらが有利か一概には言えない。コンピュータによる完全解析はなされておらず、部分的な解析結果からは引き分けが結論となる可能性が高いと言われている。なお、これまでに行われた対局の統計では、白番が1%から2%ほど勝ち越している。
オセロは、シンプルなルールがコンピュータのプログラミングに適しているため、プログラミングの教材あるいはコンピュータゲームの製品として、これまで数々のコンピュータ・プログラムが開発されてきた。
オセロがアメリカ合衆国で発売された1977年、早くも4月にはN・J・D・ジェイコブスが世界初とされるコンピュータオセロのプログラムをサイエンティフィック・アメリカン誌に掲載した。翌1978年にはアーケードゲーム(任天堂)、1980年には家庭用ゲーム(Atari 2600)としてコンピュータオセロが製品化された。1983年には、ツクダオリジナルからオセロ専用ゲーム機の『オセロマルチビジョン』が発売された。
また、1980年10月からアスキーの主催でオセロ・プログラム同士を対局させる「マイクロオセロリーグ」が定期的に開催され、その模様は記事として掲載された。1986年には同社からオセロを題材とした思考ゲームのプログラミング解説書も出版された。
最古のコンピュータオセロは特別強いものではなかったが、すぐにビットボードや評価関数などのアルゴリズムが整理され、終盤の正確な読みによって人間の上級者とも戦えるようになった。
コンピュータオセロの開発が始まってから3年後の1980年、オセロ・プログラムのムーア (Moor) が当時の世界チャンピオン・井上博と対戦し、1勝を挙げた(6番勝負で1勝5敗)。1982年には森田和郎の開発した森田オセロが全日本選手権2位の北島秀樹ら強豪プレイヤーたちが集う大会にゲスト参加して6戦全勝で優勝した。その後、ハードウェアの進歩とソフトウェアの改良によってコンピュータオセロは着実に力を伸ばしたが、1980年の井上戦から17年間、公の場で人間の世界チャンピオンと対戦する機会はなかった。
1997年5月、コンピュータチェスのディープ・ブルーがチェス世界チャンピオンのガルリ・カスパロフを破ったその3週間後、NEC北米研究所のマイケル・ブロが開発したオセロ・プログラムのロジステロ (Logistello) と当時の世界チャンピオン・村上健が対戦することが発表された。対戦は同年8月4日から7日にかけて実施され、ロジステロが6番勝負で6勝0敗の成績で勝利し、コンピュータオセロの実力がすでに人間のトッププレイヤーを超えていることを証明した。実際には、それ以前からコンピュータの実力が人間を上回っていたことは明らかであり、村上は「もはや人間が及ぶレベルではありませんでした。負けると思っていました」とロジステロを称えた。なお、この対局は日本オセロ連盟の許可を得ていなかったため、無断で人類を代表して敗北した村上に対する批判の声もあったが、村上はオセロが知的ゲームの歴史に名を残すために必要な敗北であったと主張している。
2005年頃からは、それまでに5度の世界選手権優勝経験のある古豪・為則英司がコンピュータオセロを研究に活用するようになり、世界選手権を連覇。為則によってコンピュータ研究の重要性が知らしめられ、オセロ戦術が大きく進歩した。現在では、多数のプレイヤーが、コンピュータと対決するのではなく、コンピュータを教師として積極的に学んでいる。なお、タイトル戦準優勝経験のある中森弘樹によると、2016年の時点で多くのトッププレイヤーが研究に使用している最強のオセロ・プログラムはエダックス (Edax)である。
このほか、2019年には、コンピュータが人類よりも強いことを逆手にとって、負けることに特化した「最弱オセロ」が公開されて話題になるなど、多様な取り組みが進められている。
オセロは二人零和有限確定完全情報ゲームに分類され、ゲーム木複雑性は10の58乗程度である。
二人零和有限確定完全情報ゲームは、理論上、双方最善手(最善進行)ならば先手必勝・後手必勝・引き分けのいずれかの結論が下せるはずだが、オセロは2019年時点で未だにコンピュータによる完全解析はされておらず、結論は不明である。部分的には、最善進行を前提として以下の事実が判明している。
これらの事実に基づき、8×8のオセロは最善進行で引き分けになる可能性が高いと予想されている。オセロ日本代表選手の佐谷哲は、2019年に「『オセロは最善進行で引き分け』という説が今後覆ることはほぼ無いだろう」と述べている。
2023年10月30日、日本のPreferred Networks社の滝沢拓己により、8×8のオセロが最善進行で引き分けになる事を証明した(弱解決(英語版)した)と主張する査読前論文がarXivに投稿された。
オセロは国際的に普及している。2015年時点で、世界36の国と地域に連盟があり、世界競技人口は約6億人と推計されている。
特に日本の競技人口は多く、長谷川五郎によると2001年頃の時点で約6000万人である。長谷川は、日本国内の競技人口は、将棋が約1500万人、囲碁が約1000万人、チェスが約500万人であり、オセロはこれらを上回っていると主張している。なお、公益財団法人日本生産性本部余暇創研が発行している『レジャー白書2018』によれば、日本国内の競技人口は、トランプ・オセロ・カルタ・花札などが約2370万人、将棋が約700万人、囲碁が約190万人、チェスが調査対象外となっている。
日本の著名人の中には、佐藤健、小島瑠璃子、永山瑛太、田中カ子(後述)など、オセロ好きを公言している者も多い。また、日本の皇族である明仁親王(のちの天皇・上皇)も幼少期に父の昭和天皇とリバーシで遊んでいたことで知られる。
ツクダでオセロの商品化を担当した和久井威は、オセロがロングセラーとなった要因に対象年齢が幅広いことを挙げている。オセロは、石の誤飲の危険性を考慮して対象年齢を6歳以上としているが、実際には何歳からでもプレイは可能である。通常10分間以内に決着がつくため、学校の休み時間などで楽しむことも可能である。
また、高齢者にも人気があり、老人福祉施設などでもプレイされている。なお2022年4月に天寿を全うした福岡県の田中カ子(119歳没)はオセロゲーム愛好者の最高齢者として知られ、生前の田中はオセロを毎日プレイしていると語っていた。
オセロと同様のゲーム(ただし石のサイズ等はオセロの公式規定とやや異なることもある)は、「リバーシ」などの名前で安価なポータブルゲームとして日本のコンビニエンスストアなど様々な店舗で販売されている。また、インターネットでのオンライン対戦やコンピュータゲームとしても各国でプレイされている。Microsoft Windowsの1.0、2.0、2.1、3.0、Me、XPの各バージョンには、「リバーシ」という名称でオセロが標準搭載された。
日本では、以下のように様々な物事をオセロになぞらえて表現することがある。
また、オセロを直接的あるいは間接的に題材として、様々な文化活動が行われている。
このほか、 1975年から放送されている『パネルクイズ アタック25』、2017年から放送されている『東大王』の「難問オセロ」など、オセロ形式あるいはオセロに似た形式で対戦するクイズ番組がある。
世界オセロ選手権 (World Othello Championship) はアメリカ合衆国でオセロが発売された1977年に始まった。当初は世界チャンピオンを決める無差別部門だけで、代表枠も各国1人だったが、1987年からは代表枠が3人に増えて団体部門が始まった。さらに、2005年からは女子部門、2016年からはユース部門(15歳以下)が新設された(女子やユースが無差別部門に出場することも可能)。2022年現在、世界オセロ選手権は世界オセロ連盟が主催している。2020年と2021年はコロナ禍のため中止された。
第1回大会は日本の東京で開催された。また、10回、20回、30回、40回の記念大会はいずれも日本で開催されている。記念大会は、第20回大会までは長谷川五郎が1970年頃に現在のオセロのパッケージを開発した東京で開催されていたが、既述の通り2000年頃から長谷川が「オセロの発祥は1945年に茨城県水戸市で自身が考案した挟み碁である」と主張するようになったことを受け、三十(みと)の語呂合わせとなる2006年の第30回大会を機に、それ以降は水戸で開催されている。
2023年時点の最多記録は、以下の通りである。
これまでの大会結果は以下の通り。
オセロワールドカップ (Othello World Cup) は、オセロの発売40周年を記念し、世界オセロ選手権と並ぶもう一つの世界大会として日本オセロ連盟とニッポン放送の主催で2013年に始まり、2014年まで開催された。通常のオセロ以外にも、10×10の盤面を用いるグランドオセロ、八角形の盤面を用いるエイトスターズオセロも競技種目となっていた。このほか、オセロ開発者の長谷川五郎が新たに開発した全く別のゲームであるミラクルファイブの大会も併せて開催された。
これまでの大会結果は以下の通り。
オセロの大会の歴史は、1973年の全日本オセロ選手権から始まった。その後、日本ではオセロ名人戦とオセロ王座戦が新設され、三大タイトルとされている。
これまでの大会結果は以下の通り。
日本オセロ連盟は段級位制を採用しており、主要な世界大会・日本大会の結果に基づき、選手に段位・級位を与えている。2023年現在、最高位の九段を保持しているのは、以下の8名である。
なお、将棋の段級では、棋士、女流棋士、アマチュアの段級位はそれぞれ別個の制度であるが、オセロの段級位はすべて共通である。
ニップ (Nip) は、盤面の形を変更したリバーシの派生ゲームである。オセロに先行する類似ゲームとして、オセロ開発者の長谷川五郎がその名を挙げている。
このゲームには、
の2種類がある。
八角形のニップは、隅を増やすことで競技を多様化するとの意図により、松本彌助によって考案され、1933年に実用新案登録がなされた。なお、リバーシとは異なり、両者ともに打つ箇所がない場合には、ゲームを終了するのではなく、好きなところに打って良いというルールが採用されていた。
黒井千次は戦時中に八角形のニップで遊んでいたと語っている。また、1966年に廃業したホテル和光荘は、歴史的建造物として内装がそのまま保存されており、ホテル内で遊ばれていた当時のニップが展示されている。和光荘に展示されているニップは、八角形の盤面であり、石の色は赤白である。なお、オセロ発売前にもかかわらず、オセロと同様の緑の盤面を使用している。
一方、現在主流となっているのは円形のニップである。このタイプは、隅がないゆえに自分の石を確定させることができず、終盤でいつ逆転が起きてもおかしくないスリリングな展開を特徴としている。円形ニップは、1953年にゲーム会社ハナヤマの創業者である花山直康および蜂須賀千博、中村九蔵によって実用新案出願がなされている。ハナヤマのニップは、実用新案の時点ではピン状の駒を盤面に刺してプレイするゲームであったが、その後はリバーシと同様に石を裏返すゲームとなり、複数のゲームが遊べる「ダブルクインテットNEO」や「ゲーム12」といったパッケージの中に収録されて発売された。
メガハウス(ツクダ、ツクダオリジナル、パルボックス)によるオセロの公式派生ゲームは、これまでに様々なものが発売されてきた。代表的なものは以下の通りである。
グランドオセロとエイトスターズオセロは、オセロワールドカップで公式種目に採用された。
4人対戦可能なオセロ派生ゲームとしては、前述のみんなでオセロ→4人対戦オセロがメガハウス公式の商品として存在するが、このほかにロリット (Rolit) と呼ばれる球体の石を用いたものがある。
非公式の派生ゲームとしては、東京農工大学教授のパズル・ゲーム研究者である小谷善行が1983年に考案したフェアリーオセロが知られている。小谷は、オセロという名前は「-Own(自分の石を打つ) Set-Enemy(相手の石を裏返す) Reset-Own(自分の石はそのまま)」というルールを示しているものと意図的に誤読し、これらの単語を様々に組み合わせることで数十種類の派生ゲームのルールを作成した。例えば、オセレ「-Own(自分の石を打つ) Set-Enemy(相手の石を裏返す) Reset-Enemy(相手の石はそのまま)」であれば、自分の石 (Own) と相手の石 (Reset-Enemy) に挟まれた相手の石 (Set-Enemy) を裏返すというルールになる。
また、佐藤周二は、オセロ用具を使用した新ゲーム4・7を考案し、解説書を出版している。
最近では、アナログゲームの販売強化手法の一つとして、複数のボードゲームを抱き合わせにして製品化することもある。この場合、オセロの石を使って、盤面を縮小した囲碁、はさみ将棋、おはじき、積木崩し、トランプのチップ等として遊ぶこともあるが、これらはあくまでパッケージとしてのおまけにすぎず、独立して大会などが開かれるものではない。
このほか、長谷川五郎が開発した全く新しい別ゲームであるミラクルファイブ(原型はセルゴ、ソクラテス)もオセロの派生ゲームとしてオセロの大会内でプレイされることがある。 | [
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"text": "オセロ(Othello)は、2人のプレイヤーが交互に盤面へ石を打ちながら、相手の石を自分の石で挟むことによって自分の石へと換えていき、最終的な盤上の石の個数を競うボードゲームである。オセロゲーム(Othello Game)とも呼ぶ。ほぼ同様のゲームにリバーシ(Reversi)がある。",
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"text": "オセロはボードゲームの1つである。8×8の正方形の盤と、表裏を黒と白に塗り分けた平たい円盤状の石を使用する。それぞれ黒と白を担当する2人のプレイヤーが交互に盤面へ石を置いていき、最終的に盤上の石が多かったほうが勝ちとなる。相手の石を自分の石で挟んだときは、相手の石を裏返すことで、自分の石にする。「挟んだら裏返す」という基本原理が解れば、初期配置やパスなどいくつかのルールを知るだけで、すぐにオセロをプレイできる。なお、公式戦では、さらに細かい競技規則も定められている。",
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"text": "オセロとほぼ同様のゲームは、元々リバーシとして知られていた。リバーシは、ジョン・モレット (John Mollett) とルイス・ウォーターマン (Lewis Waterman) によって19世紀にイギリスのロンドンで考案された。その後、水戸市出身のボードゲーム研究家・長谷川五郎によって1970年頃に東京都で現在知られているパッケージが開発され、その父・四郎によって「オセロ」(ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『オセロ』に由来)と命名された。完成したオセロは、1973年にツクダ(後のツクダオリジナル→パルボックス→メガハウス)から発売され、ヒット商品となった。",
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"text": "長谷川がオセロ開発に当たりリバーシを参照したのかどうかは不明であり、オセロとリバーシの関係性をどう位置付けるべきか争いがある。また、オセロ発祥の地についても、ロンドン、東京、水戸という3つの説がある。いずれにしても、「オセロ」「Othello」という名称はメガハウスの登録商標であるため、他社からはリバーシとしてほぼ同様のゲームが発売されている。",
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"text": "オセロは、抽象戦略ゲーム(アブストラクトゲーム)の一つであり、運の要素がなく、2人のプレイヤーが互いに知恵を絞り実力だけを頼りに勝敗を決する。ゲームのルールは単純明快だが、多数の戦術が生み出され、日々戦略的な進歩を続けている。このことを端的に表した「覚えるのに一分、極めるのに一生 (A minute to learn, a lifetime to master)」という言葉がキャッチフレーズになっている。著名な戦術としては、定石や偶数理論などがある。",
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"text": "数学的には、オセロは囲碁・将棋・チェスなどと同様に二人零和有限確定完全情報ゲームに分類され、コンピュータによる研究も行われている。コンピュータオセロは、1997年に人間の世界チャンピオンに勝利しており、人間のトッププレイヤーを上回る実力を持つ。もっとも、コンピュータが発達した2022年現在もオセロの完全解析はなされておらず、なお未知なる奥深さを持つ。",
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"text": "世界各国で子供から老人まで様々な人によってプレイされており、世界のオセロ競技人口は約6億人と推計されている。特に、日本では遊びの文化として定着しており、競技人口が多いだけでなく、オセロを題材にした数々の文化的活動も行われている。",
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"text": "オセロは、遊びであると同時にマインドスポーツの一つとしても知られている。世界各国で多くの大会が開催されており、日本では囲碁や将棋などと同様に複数のタイトル戦が存在する。最も大きな大会は、1977年から毎年開催されている世界オセロ選手権である。",
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"text": "このほか、オセロ・リバーシには、ニップ、グランドオセロ、エイトスターズオセロ、ロリットなどの派生ゲームも存在し、様々な形で人々から親しまれている。",
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"text": "オセロをプレイするために必要な用具は、盤と石である。オセロの盤は、8×8の正方形のマス目が描かれた緑色のものを使用する。",
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"text": "オセロの石は、表裏を黒と白に塗り分けた平たい円盤状のものを使用する。",
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"text": "メガハウスによる公式のオセロ用具は、表のようにプレイヤーの便宜を図るために様々な工夫を凝らした製品が順次追加されている。",
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"text": "また、視覚障害者向けに触って石を識別できるもの(表の「カラーオセロ」も該当)、石をつまむことのできない肢体不自由者向けに盤と一体化した石を回すことでプレイできるもの(表の「一体オセロ」も該当)など、バリアフリーを意識した用具も開発・発売されている。",
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{
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"text": "オセロの基本ルールは以下の通りである。なお、以下では符号を用いて説明することがあるが、図の盤面外に記載されている列と行を表す。例えば、f5はf列5行目のことである。",
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"text": "事前準備として、以下の2つが必要である。",
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"text": "事前準備を終えたらゲームを開始する。",
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"text": "初手は黒番が打つ。この際、今打った石と他の自分の色の石とで縦・横・斜めのいずれかの方向で挟んだ相手の色の石は、裏返して自分の色に変える。例えば、図1の局面で、黒番がf5に打てば、今打った黒石とd5の黒石によってe5の白石を横に挟んでいるので、これを裏返して黒石に変える(図2)。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "2手目は白番が打つ。さきほどと同じように、挟んだ相手の色の石を裏返して自分の色に変える。例えば、図2から白番がd6に打てば、今打った白石とd4の白石によってd5の黒石を縦に挟んでいるので、これを裏返して白石に変える(図3)。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "後は同様に、相手の石を挟みながら、黒番と白番が交互に空きマスに自分の色の石を打っていく。例えば、図3から黒番がc3に打てば、d4の白石を斜めに挟んでいるので、これを裏返して黒石に変える。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "複数の石を一度に挟むことも可能である。この場合、挟んだ石はすべて自分の色に変えなければならない。例えば、図4の局面で黒番がg5に打つと、f5とe5の白石を横に挟み、f4の白石を斜めに挟んでいるので、これら3つの石をすべて黒石に変える(図5)。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "石を打つときは、必ず相手の色の石を1つ以上挟むように打たなければならない。例えば、図5で仮に白番がh5に打ったとしても黒石を1つも挟めないから、白番がh5に打つことはできない。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "挟める石がなければパスとなり、相手の手番になる。例えば、図6の局面で、黒番は挟める白石がないのでパスとなる。パスに回数制限はないが、挟める石があるときはパスできない。なお、相手のパスによって自分の着手が続くと手元の石が足りなくなることがあるが、相手の手元の石を使ってもよい。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "このようにしてプレイを続けていき、盤上のすべてのマスが石で埋まって空きマスがなくなれば、ゲーム終了(終局)となる。例えば、図7では、すべてのマスが石で埋まっているため、終局である。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "空きマスがあっても、両者ともに挟める石がないときは終局となる。例えば、図8では、まだ空きマスがあるが、黒番も白番も相手の色の石を挟む方法がないから、終局である。なお、一方の石が全滅してしまった場合も、両者ともに挟める石がないときに該当するから終局である。",
"title": "ルール"
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{
"paragraph_id": 24,
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"text": "ゲームが終了したら黒石・白石の数を数え、多いほうが勝ちとなる。同数の場合は、通常の対局では引き分け、引き分けでは不都合のある対局(勝ち上がり式トーナメントの大会等)では黒番・白番の決定時に「終局時に石の数が同数だった場合に勝者となる権利」(後述)を得ていた側の勝ちとなる。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "成績は、石数もしくは石差で記録される。例えば、図7ならば34対30(4石差)で黒番の勝ちである。空きマスがある場合には、その数が勝者の石数に加算される。例えば、図8ならば63対1(62石差)で黒番の勝ちである。",
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},
{
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"text": "実力差がある場合にはハンデキャップ(ハンデ)をつけて対局することもできる。ハンデキャップ戦では、実力差に応じて図のように盤面の隅に黒石を置いた状態からゲームを開始する。",
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"paragraph_id": 27,
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"text": "ハンデキャップ戦の場合は、下手が黒番、上手が白番を持つが、通常の対局とは異なり、白番(上手)の先手で対局を開始する。",
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "オセロは黒と白の石を用いるが、基本ルールで説明したように黒を担当するプレイヤーが先手、白を担当するプレイヤーが後手として、プレイヤーの手番が色と合わせて定められている。手番を含めた両プレイヤーの地位をそれぞれ黒番・白番と呼ぶ。",
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"text": "大会などの公式戦では、「伏せ石」と呼ばれる囲碁のニギリに近い方法で黒番・白番を決定する。伏せ石のやり方は、引き分けありの対局と引き分けなしの対局でそれぞれ異なっており、以下のように決まっている。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "オセロでは、挟んだ石を裏返すのを忘れるといった不正な着手が起きることがあり、公式戦で不正着手がなされた場合のルールが定められている。相手が不正着手をした場合、対局時計のボタンを押して相手に手番を戻したうえで、不正の内容を告げて相手に訂正を求めることができる。なお、日本オセロ連盟は不正着手を「自分の打つ石色の間違い、手番の間違い、打てない箇所への着手、返し忘れ、返しすぎ、打てる箇所がある局面でのパス」と定義している。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "主要な国際大会等では、リーグ戦で勝ち星の数が並んだ際、イギリス代表選手で数学者のグラハム・ブライトウェルが考案したブライトウェル・ポイントと呼ばれる点数を計算して順位を決定する 。ブライトウェル・ポイントは、以下の数式で計算される。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ブライトウェル・ポイント = 石数合計 + 対戦相手の勝数合計 × C",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "定数Cは、オセロ盤のマス目の数 (64) を1人のプレイヤーの試合数で割った値に最も近い整数である。例えば、各プレイヤーが10試合を行うリーグ戦ならば、Cは「64 / 10 = 6.4」に最も近い整数の6である。",
"title": "ルール"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "現在普及しているオセロのパッケージは、日本オセロ連盟元会長の長谷川五郎が1970年頃に東京都で完成させてゲーム会社のツクダに持ち込み、1973年に発売されたものである。長谷川がオセロを開発するに至った経緯については本人の説明が二転三転しており、定かではない。特に、オセロのルーツについては、",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "という2つの説がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "オセロ発売当初、長谷川はリバーシがオセロの原型であるとしていたが、2000年頃からは、自身が考案した挟み碁がオセロの原型であると主張するようになっている。なお、2000年以降の長谷川の発言以外に挟み碁というゲームが実在したことを裏付ける根拠はない。このような経緯から、オセロとリバーシの関係やオセロ発祥の地については争いがある(詳しくはオセロとリバーシの節で後述)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "アネクゼイション、リバーシ、挟み碁、オセロは、いずれも「挟んだら裏返す」という基本原理に共通点があるが、細かい部分では表のような違いがある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ここでは、リバーシに基づく歴史と挟み碁に基づく歴史の双方を対等に紹介する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "オセロに似たゲームとして記録に残る最古のものは、1870年にイギリスのロンドンでジョン・モレット (John Mollett) が開発したアネクゼイション (Annexation) というボードゲームである。アネクゼイションは、十字形の盤面を用いていたが、現在のオセロと同様に「挟んだら裏返す」という基本原理に基づくゲームだった。開発から6年後の1876年にF・H・エアーズがこれを発売した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1883年、同じくロンドンのルイス・ウォーターマン (Lewis Waterman) がアネクゼイションの盤面をチェッカー盤(チェスボードと同じ8×8の正方形)に改良してリバーシ (Reversi) を開発した。リバーシは、1886年にロンドンのサタデー・レビュー紙に掲載され、世に知られることになった。ウォーターマンは、1888年にリバーシを商品化し、ジャック・アンド・サン(現・ジャック・オブ・ロンドン)から発売した。なお、リバーシ発売後にF・H・エアーズがアネクゼイションの改良版として「Annex a Game of Reverses」という名前でリバーシとほぼ同一のゲームを販売したため、商標をめぐって訴訟となったが、「リバーシ」は「裏返す」という意味の単語「Reverse」に由来し、16世紀からフランスでプレイされていた伝統的トランプゲームのリバーシス(ハーツの原型)の別名でもあることから商標権は認められず、両者はともにこのゲームを販売できることになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "商品化から2年後の1890年にウォーターマンが承認したリバーシの解説書によると、当時のリバーシと現在のオセロとのルール上の違いは、以下の2点のみである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "同書によると当時のリバーシの石の色は黒と白 (black and white) であり、現在のオセロと同様である。もっとも、ジャック・アンド・サンから発売されたオリジナルのリバーシは、チェッカーと同様に黒白、黒赤、赤白という少なくとも3通りのバージョンが存在していたことがボードゲーム収集家のリチャード・バラムのコレクションで確認できる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "リバーシが考案されてから20年ほどの間にルールの変遷があった。まず、着手回数32手制限ルールはすぐに廃止され、相手がパスした場合には相手の手元の石を使ってもよいことになった。1900年頃のF・H・エアーズのリバーシに添付されたルール説明書には、「彼が打つことができないでいる限り、対戦相手は彼の石を使用して打つ」と明記されている。また、初期配置に関しては、簡便のために最初から中央4マスに石を置いてからゲームを開始するのが主流となった。この結果、20世紀初頭には、現在のオセロとのルール上の違いはほぼなくなっており、1907年に編纂された『世界遊戯法大全』では現在のオセロと完全に同一のルールが定められている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "もっとも、初期配置に関しては、図の3つのルールがローカルルールとして併存しており、どのルールを採用するかは競技団体・競技者や開発メーカーによって違いがあった。なお、クロス・ルールを採用した場合(『世界遊戯法大全』など)には現在のオセロと完全に同一のルールとなる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "石の色については、黒白のものもあったが、世界的には黒赤が主流となり、日本では源平になぞらえて主に紅白(赤白)の石を使った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "リバーシは、早くから日本にも輸入され、「源平碁」という名前で発売された。なお、名称は「源平碁」であるが、碁石ではなく表裏が別の色に塗り分けられた通常通りのリバーシの石でプレイされた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "リバーシ(源平碁)は現在のオセロとよく似たゲームである。しかし、現在のオセロほどの支持を得ることはできず、忘れられた存在となっていった。オセロ発売当初の説明によれば、長谷川は幼少期に兄がプレイしているのを見てリバーシのことを知った。そして、忘れられたゲームだったリバーシの道具を1970年頃に東京で改良して復活させたものがオセロである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "近年の長谷川の主張によれば、オセロのルーツは、第二次世界大戦が終わって間もない1945年の夏に茨城県水戸市で長谷川が考案した簡易囲碁ゲーム挟み碁である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "長谷川によれば、当時の長谷川と同級生たちは相手の石を囲んだら取れるという囲碁のルールがよく分からなかった。そこで、長谷川の発案により、相手の石を挟んだら取れるという簡易ルールで遊んでいた。その後、石を取るのではなく、相手の石を挟んだら自分の石と置き換えるというルールに改良し、現在のオセロに近いものとなった。さらに、自分の石と置き換える作業を簡単にするため、碁石ではなく表裏を黒白に塗り分けた紙の石を裏返すというアイデアに至った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "挟み碁には「挟んだら裏返す」という基本原理以外に定まったルールはなかった。盤面は長谷川が自作した8×8、8×9、9×10、八角形など多様な形状のものを使用し、「複数の石を挟んだときも裏返せる石は1個のみ」あるいは「挟んだ石のうち裏返したくない石は裏返さなくていい」など、そのときどきで様々なルールを採用してプレイしていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "長谷川は、中学・高校・大学で級友とこのゲームを楽しんでいたが、大学卒業によって遊ぶ機会がなくなり、挟み碁は一旦姿を消すことになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "これが2000年頃から長谷川が主張するようになったオセロの起源である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1964年当時、東京都で中外製薬の営業担当として仕事をしていた長谷川は、同僚の女子社員たちから何かゲームを教えて欲しいと頼まれた。長谷川は囲碁・将棋ともに五段の腕前を誇り、最初はこれらのゲームを教えたが、難しすぎるとのことで上手く行かなかった。また、妻にも囲碁を教えたが、これも上手く行かなかった。そんな折に少年時代の記憶にあったリバーシもしくは挟み碁のことを思い出した。そこで、自宅で妻と家庭の牛乳瓶の紙蓋を集めて石を自作し、女子社員たちにルールを教えたところ、彼女らが昼休みにこのゲームを楽しむようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "さらに、営業先の病院でもこのゲームを紹介したところ、入院中の患者の時間潰しやリハビリテーションに使えるとのことで好評を博した。長谷川が担当していたある病院の医局長からは「このゲームは社会復帰を目指す患者のリハビリに適し華がある」と太鼓判を押されたという。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "手応えを覚えた長谷川は、仲間たちとともに実験・研究を繰り返し、このゲームをさらに改良することにした。当初長谷川は自作の8×9の盤を使っていたが、1970年10月にメルク(西ドイツの製薬会社)からチェスセットが日本の薬品関係者に贈られると、8×8のチェスボードを採用して、チェスボードに合った牛乳瓶の紙蓋を使用するようになった。さらに、当初長谷川は間接挟みでも石を返すという現在よりもやや複雑なルールを採用していたが、直接挟みのみに限定した簡明なルールに変更した。これにより、1970年頃、東京で現在のオセロと同様のゲームが完成した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "完成したゲームには、当初黒と白の石をジャイアントパンダに見立てて「ランラン・カンカン」という名前(上野動物園のカンカンとランランに由来)が検討されていたが、長谷川の父親で旧制水戸高等学校(水高)の英国文学教授であった長谷川四郎の発案で「オセロ」に変更された。これは、英国文学の代表作であるウィリアム・シェイクスピアの戯曲『オセロ』に由来する。緑の平原が広がるイギリスを舞台にして、黒人の将軍・オセロと白人の妻・デズデモーナを中心に敵味方がめまぐるしく寝返るという戯曲のストーリーに、緑の盤面上で黒白の石が裏返って形勢が変わっていくゲーム性をなぞらえたものである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "1972年10月、長谷川が玩具メーカーのツクダにオセロを持ち込んだところ、これが認められ、商品化が決まった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "商品化に先立ち、1973年1月には日本オセロ連盟が設立され、同年4月7日には第1回全日本オセロ選手権大会が開催された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "同年4月25日に三越本店と伊勢丹本店で販売を開始し、4月29日に全国で「オフィシャルオセロ」が発売された。ツクダの商品企画部門の責任者だった和久井威によると、当時玩具に対してキャラクター以外のロイヤルティーを払うという意識が業界にはほとんどなく、オセロについても特許権や実用新案権は取得されていなかったが、ツクダのオーナーは「おもちゃはアイデアだから」と支払を認めたという。玩具業界には子供向けのボードゲームは4人以上で遊べるべきという意識があったため、2人用ゲームであるオセロは大人をターゲットとして、パッケージ表面にはたばこやライターを写したデザインが採用された。価格は2200円に設定された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "初期ロットは在庫を残さないよう3,000個で、経費の都合でテレビCMも打たなかったものの、百貨店の店頭などで実演販売をすると着実に売れていった。これに自信を得た和久井がその年の年末商戦に向けてテレビCMを製作したところ、オンエア後の10月からの3か月間で38万個、翌1974年に120万個以上、1975年に280万個が売れる大ヒット商品となった。『日経流通新聞』(現『日経MJ』)のヒット商品番付では、1973年、1974年と2年連続で「大関」に選出された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "1977年にアメリカ合衆国でも発売され、その年のうちに100万個が売れたという。この年から、世界オセロ選手権大会も始まった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ツクダの玩具製造部門は1974年からツクダオリジナルとして独立。2002年、ツクダオリジナルはバンダイの子会社となり、2003年3月には和久井が経営するワクイコーポレーションと経営統合してパルボックスとなった。さらに2005年には、パルボックスはバンダイの子会社メガハウスに統合され、2020年現在はメガハウスがオセロを販売している。なお、アメリカ合衆国ではゲイブリルが最初の販売元だったが、その後数社の変遷を経て、2007年時点ではマテルが欧米での販売権を所有している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "和久井によると、2007年時点でもオセロは年間40から50万個は売れ続けているという。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "リバーシ(Reversi、レヴァルシー、源平碁)は、オセロ発売以前からあるほぼ同様のゲームである。リバーシは、19世紀と20世紀でわずかに異なる(細かい変遷については、歴史の節を参照)。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "20世紀のリバーシは、石の色について黒白、黒赤、赤白という3パターンの配色があり、初期配置についてクロス、パラレル、オリジナルという3種類のローカルルールが存在した。オセロは、このうち、石の色に黒白、初期配置にクロスを採用したものと同一である。黒白の石、クロス配置はともに1907年以前の文献に掲載されており、オセロが初出ではない。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "なお、「リバーシは盤面の大きさが自由であった」「リバーシはパスができなかった」などとされることがあるが、誤りである。実際には、1890年刊行の最初期の解説書の時点から「盤面は8×8の正方形」「打てる箇所がない場合はパス」というルールが定められており、この点は現在のオセロと同一である。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "オセロは、リバーシよりも後発のゲームであり、そのルールは初期配置クロス・ルールを採用したリバーシと完全に同一である。そのため、オセロは先行するリバーシに依拠して開発されたのか、リバーシに依拠しているならば別ゲームと言えるほどの違いがあるのかという点がしばしば議論される。オセロ開発者の長谷川五郎の説明が一貫しないことから明確な結論は出ておらず、オセロとリバーシの関係性およびオセロ発祥の地については、以下の3つの見解がある。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "長谷川は、1973年にツクダからオセロを発売した当初、リバーシの影響下にあること自体は認めたうえで、改良による独自性をアピールし、新ゲームとしてこれを宣伝した。長谷川は1973年の雑誌記事でオセロ開発の経緯について以下のように記し、源平碁(リバーシ)を土台にゲームを改良したと明言している。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "1981年の著書『オセロの打ち方』でも、長谷川はリバーシがオセロの原型であると認めたうえで、ゲームの面白さは、ルールが3分の1、名称・用具・環境などの要素が3分の2を占めることを指摘し、後者が不十分であったリバーシは子供の玩具以外の何物でもなかったが、オセロはすべてを整備して大人でも遊べるゲームとして完成させたものであるとアピールしている。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "これに対し、複数の専門家がオセロはリバーシと別のゲームと言いうるほどの独自性はなく、リバーシの商品名の一つにすぎないと指摘し、新ゲームとして喧伝されていることに批判的な見解を示した。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "小説家の都筑道夫は、オセロ発売直後に疑問を抱いて独自の調査を行い、娯楽研究家である矢野目源一の著書『娯楽大百科』の記述などに基づいて、オセロはリバーシとそのまま同一のゲームであるといち早く指摘した。都筑は、ツクダが海外輸出を目指していることに触れ、以下のようにオセロを批判している。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "小説家でパズル・ゲーム研究家の田中潤司は、都筑に対して、リバーシは昔から日本でも源平碁として親しまれており、1968年(オセロ発売の5年前)のハナヤマの商品カタログにも掲載されているという事実を紹介した。田中は、以下のように述べ、発売元のツクダが長谷川にロイヤルティーを支払ったことについて疑問を呈している。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国の数学者でパズル・ゲーム研究家のマーティン・ガードナーは、オセロがアメリカ合衆国で発売された年に、サイエンティフィック・アメリカンの連載「数学ゲーム」の中で以下のように記し、わざわざ高額のオセロを購入しなくても同じゲームがプレイできると読者にアドバイスしている。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "なお、長谷川はオセロ発売前の1971年にオセロの実用新案を出願(のちに拒絶査定が確定)しているが、その出願書類の中では、日本では半世紀にわたって源平碁が行われているとの見解を示したうえで、自身の新案を源平碁用具(石、盤、計算表)の改良であると説明し、「源平碁」という名称で出願をしている。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "また、リバーシとオセロのルール上の唯一の違いである、クロス配置への限定については、肯定的な評価も否定的な評価も存在する。元オセロ世界チャンピオンのベン・シーリーは、パラレル配置では白番が完勝してしまう展開があるが、クロス配置では黒白の利点が拮抗して引き分けに至る展開が多いことを指摘し、クロス配置を採用した長谷川を高く評価している。一方、ゲーム研究家の草場純は、クロス配置がパラレル配置に劣る理由として、初期配置の状態で180度回転させても同じだから上下が区別できなくなってしまう点、初手がすべて対称形なので選択の余地がない無意味な一手になってしまう点を指摘し、長谷川が初期配置をクロスに限定したことを「オセロはリバーシの改悪」と断じ、厳しく批判している。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "ゲームとしての独自性の有無はともかくとして、長谷川の構築した名称・用具・環境を伴うブランド力によってオセロは全世界に普及した。オセロの認知度が向上するに伴い、次第にリバーシ自体がオセロの影響を受けるようになった。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "20世紀のリバーシにはクロス、パラレル、オリジナルの3つの初期配置ルールが存在することは前述したが、現代ではパラレルやオリジナルのルールでプレイされることはほとんどなく、オセロと同様のクロス配置が主流となっている。また、石の色も黒白、黒赤、赤白の3パターンがあったが、こちらも現代ではオセロと同じ黒白が主流となっている。つまり、もはや両者に違いはなく、実質的にリバーシはオセロの別名と言いうる状況となっている。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "これは、オセロの商標権を持つツクダ(ツクダオリジナル、パルボックス、メガハウス)以外の各社が、商標権との抵触を避けつつオセロと同様の商品を販売するためにリバーシの名を借りたためである。1973年のオセロ発売当初、「オセロ」という商品名は商標として、黒白の石や緑の盤面などのデザインは意匠として、ともにツクダによって登録され、権利保護の対象となっていた。その後、意匠権は保護期間の20年が満了したため、他社も同一のデザインを使用することができるようになったが、商標権はなおも保護が続いている。そこで、他社は、オセロはリバーシの商品名の一つであるとする見解に基づき、「リバーシ」の商品名でオセロと同一デザインの商品を発売するのが一般的となっているのである。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "1999年には、日本最大手のオセロ情報サイトを運営していた元タイトルホルダーのオセロ選手に対し、ツクダオリジナルが商標権侵害であるとして内容証明郵便を送り付けたことがきっかけとなって、日本で商標権のないリバーシに着目する動きが広まり、元タイトルホルダー4名を含む多数の高段者たちが集まって日本リバーシ協会を設立した。日本リバーシ協会の理事に対して「リバーシ禁止—オセロ連盟を除名」と題した脅迫状が送り付けられる事件が発生し、日本オセロ連盟の一部幹部からは、リバーシはオセロと敵対するゲームであるとして日本リバーシ協会を排斥する主張がなされたとされる。その後、日本リバーシ協会は活動を停止した。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "なお、日本の公共放送NHKでは、オセロの商標を避けるために「黒と白の石を取り合うゲーム」などと言い換えて報道していたことがある。2022年10月7日にNHK総合テレビで放送された「チコちゃんに叱られる!」では「オセロはなぜ白と黒か」を扱い、番組内で終始「オセロ」と表現した。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "2014年にリリースされたスマートフォン向けアプリの「リバーシ大戦」は、メガハウスの許諾を得て2018年に「オセロクエスト」に改称した。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "発売当初はリバーシの影響下にあることを公言していた長谷川だが、次第にそれを伏せるようになった。そして、2000年頃、長谷川はリバーシとは無関係に1945年に水戸で自身が独立にゲームを考案したとする新たな見解を示した。当時、日本オセロ連盟のウェブサイトには「オセロの起源はリバーシ」と明記されていたが、連盟会長の長谷川が執筆した「戦後、水戸、碁石」という新しい文章に差し替えられた。長谷川は、この文章の中で以下のように主張した。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "この件に関し、連盟HP委員として差し替え作業を担当したhaseraは次のように語っている。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "これ以降、オセロはリバーシとは独立に水戸で考案されたとする情報が広く拡散した。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "オセロ販売元のメガハウスは、2020年現在、オセロは長谷川が水戸で独立に考案したとする説を採っている。水戸市は、同説に基づき、「オセロ発祥の地」を自称し、オセロにまつわる様々なイベントを開催している。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "一方、世界オセロ連盟は、2020年現在オセロの歴史に関する項を空欄にしており、態度を明らかにしていないが、長谷川が死去した2016年には、当時の世界オセロ連盟会長だったトール・ビルゲル・スコーゲンが、長谷川はリバーシに基づいてオセロを開発したとする見解を示しつつ長谷川に哀悼の意を示す声明を発表した。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "なお、オセロがリバーシに依拠して開発されたのかどうかはともかくとして、いずれにしても長谷川がオセロを発売した時点ですでにリバーシの開発者はこの世におらず、特に権利関係が問題視されることはない。",
"title": "オセロとリバーシ"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "オセロは単純なルールでありながら、勝つためには頭脳、読み合い、駆け引きが要求される。非常に多彩な戦術が知られており、「覚えるのに一分、極めるのに一生 (A minute to learn, a lifetime to master)」という言葉がキャッチフレーズとなっている。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "1890年のリバーシの解説書には、すでにいくつかの戦術が掲載されていた。隅の重要性や序盤での注意点など基本的な戦術が解説されている。さらに進んで、現在知られている詳細な戦術を体系的に整備したのは、オセロのパッケージを開発した長谷川五郎である。長谷川は、1974年に『オセロの打ち方』を著し、この中で、様々な棋譜とともに勝つための戦術を体系的に解説した。その後、オセロの流行とともに様々な強豪プレイヤーが自らの理論を書籍として出版し、オセロ戦術は日々進歩を遂げている。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "ここでは、標準的な戦術書でよく解説される基礎的な概念を説明することで、オセロ戦術の全体像を概観する。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "図は、序盤の3手目の局面である。ルール上、ここで黒番にはc4、d3、e6、f7の4つの選択肢がある。しかしながら、c4、d3、f7の進行は白番が正しく対応すればいずれも黒番必敗となることが判明しているため、初心者を除けば黒番は必ずe6と打つ。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "このように、不利にならない手は限られているから、双方がある程度の実力を有していれば序盤の進行はいくつかの決まったパターンに収束しやすい。そういったパターン化された進行を「定石」という。上級者同士の対局では、基本的な定石を双方が覚えたうえで、どの定石を選択するか、どこで定石から変化するかなど細かい駆け引きを行う。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "主要な定石には、盤上の石の形を動物などに見立てて、名前が与えられている。中でも、兎定石、虎定石、牛定石、鼠定石の4つは最も基本的なものであり、四大定石と呼ばれている。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "兎定石は、比較的変化が少なく、王道を往く基本形が深く研究されているため、初級者にも好まれる。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "虎定石は非常に変化が多く、相手の研究を外す目的で上級者が好んで採用する。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "牛定石は、シンプルな展開からスリリングな展開まで様々な展開が考えられる。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "鼠定石は、現在では黒番が有利であることが判明しており、白番が避ける傾向にあるため、ほとんど打たれない。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "図の局面は一見すると黒石がとても多く、初心者には黒番がリードしているように見えるかもしれない。しかし、黒番はここでg7以外に打てる箇所がない。そこで仕方なく黒番がg7に打つと白番がh8の隅を取れる状態になるから、黒番は圧倒的不利となる。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "このように、オセロでは序盤・中盤の局面で石が多いからといって必ずしも有利というわけではない。多くの場合はその逆であり、石が多すぎる側は不利となる。オセロは相手の石を挟まなければ着手できないため、相手の石が少なかったり、相手の石が自分の石で囲まれていたりすると、着手可能な箇所が少なくなり、本来打ちたくない箇所に打つしかなくなってしまうのである。逆に言えば、序盤・中盤では、石を取りすぎず、自分の石が相手の石に囲まれた状態を目指すのが基本となる。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "例えば、図は兎定石の9手目の局面であるが、ここで黒番の定石手はe6である。この手は、e5の白石1つだけを挟む手であるから自分の石を増やしすぎることはない。また、e5はすでに周囲を他の石で囲まれているから、自分の石を相手の石の中に潜り込ませることができる。したがって、理想的な好手である。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "このような典型的好手の類型として「一石返し」と「中割り」が有名である。一石返しは、相手の石を1つだけ挟むように打つことである。中割りは、周囲をほぼ他の石に囲まれている相手の石だけを挟むように打つことである。一石返しは自分の石を必要以上に増やさない手であり、中割りは自分の石を相手の石で囲ませる手であるため、これらを意識することで好手を発見しやすくなる。図でのe6という手は、一石返しでなおかつ中割りである。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "図の局面で、黒石はどれも終局までに白石に挟まれてしまう可能性があるが、10個の白石はもはや黒石で挟むことができない。したがって、これらの白石は終局まで白石であることが確定している。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "このような、挟まれることがないから終局まで色が変わらないと確定した石のことを「確定石」という。確定石を増やしていくことは、勝利に直結するので重要である。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "オセロで勝つために大切な要素の一つとして「隅」がある。オセロ盤のうち四隅のマス(a1、a8、h1、h8)については、挟むことができないから、隅に石を置けば必ず確定石となる。また、図のように隅から隣接するマスに同じ色の石が置かれている場合には、それらも確定石となることがある。したがって、隅を狙うのはオセロの基本となる。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "隅と関連して重要な概念として、CとXがある。図で黒石を置いたマス(隅と縦横に隣接するマス)がC、白石を置いたマス(隅と斜めに隣接するマス)がXである。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "当然のことながら、CやXに自分が石を打たなければ、相手に隅を取られることはない。したがって、初心者の間は、CやXを極力避け、相手がCやXに打ってきたら隅を取りに行くという戦術がよく使われる。しかし、初心者を脱すると、あえてXに打って相手に隅を取らせたうえで自分はCを取り、Cを基点に隣接する大量のマスを自分のものにするといった勝負手も必要となってくる。いずれにしても、隅、C、Xに関する攻防は初心者から上級者まで注目されるポイントである。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "図のような局面を考える。ここで黒番が左下のb7に打ち込むと、c7、d7、e7の3つの石を黒石にすることができる。そして、b7の周辺にはもう空きマスがないから、これらの石が再び白番に返される心配はなく、良い手であると考えられる。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "このように、隣接する空きマスが他にないマスに打ち込むことを「手止まり」と言い、終盤戦では手止まりを打つのが一つの目標となる。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "終盤戦において重要となるのは、まずは先を読み切って地道に石を数えることである。しかし、石を数えることのほかに、互いに隣接する空きマスの数に着目することである程度類型的に好手を見つけることができる。手止まりを打つこともその一つである。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "図は、さきほどの局面から黒番がb7に打った局面である。ここで互いに隣接する空きマスの数を見ると、左上には3つ(奇数)の空きマスがあり、中央上には2つ(偶数)の空きマスがある。この局面で白番が打つべき最善手は、左上の空きマスの数を2つ(偶数)にするa1である。次に黒番b2に対して、すかさずb1とすれば手止まりが打てるし、さらに黒番d1に対してe1とすればまた手止まりが打てる。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "重要なのは、白番は互いに隣接する空きマスの数を偶数にしていることである。偶数にしておけば空きマスが1つのときに自分の手番になるから、そこで手止まりが打てるというわけである。これを「偶数理論」と呼び、手止まりをたくさん打つために有効な理論である。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "オセロの戦略は、黒番と白番でそれぞれ違いがある。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "まず、黒番の初手は、どこへ打っても対称形になるため、実質的意味はない。白番の2手目には縦取り、斜め取り、並び取りの3つの選択肢がある。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "縦取りは兎定石・虎定石、斜め取りは牛定石、並び取りは鼠定石を志向した手であり、白番が得意な定石を選択できる。縦取りの場合、これに対して黒番はc5として兎定石にするか、c3として虎定石にするかを選択できる。兎・虎・牛・鼠のいずれの定石においても様々な変化があるが、黒番が変化を選択できることが多いため、どちらかと言うと黒番が定石の主導権を握りやすいと言われている。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "終盤戦では、白番は偶数理論を使って積極的に手止まりを狙っていくことができる。終局までパスがなければ、偶数理論を使うことができるのは後攻の白番のみであるため、一般に終盤戦は白番が打ちやすいと言われている。もっとも、白番が打てない空きマスを作ることで黒番が偶数理論を逆用する「逆偶数理論」などの戦術もある。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "このように、黒番・白番それぞれに強みとなる部分があり、どちらが有利か一概には言えない。コンピュータによる完全解析はなされておらず、部分的な解析結果からは引き分けが結論となる可能性が高いと言われている。なお、これまでに行われた対局の統計では、白番が1%から2%ほど勝ち越している。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "オセロは、シンプルなルールがコンピュータのプログラミングに適しているため、プログラミングの教材あるいはコンピュータゲームの製品として、これまで数々のコンピュータ・プログラムが開発されてきた。",
"title": "オセロとコンピュータ"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "オセロがアメリカ合衆国で発売された1977年、早くも4月にはN・J・D・ジェイコブスが世界初とされるコンピュータオセロのプログラムをサイエンティフィック・アメリカン誌に掲載した。翌1978年にはアーケードゲーム(任天堂)、1980年には家庭用ゲーム(Atari 2600)としてコンピュータオセロが製品化された。1983年には、ツクダオリジナルからオセロ専用ゲーム機の『オセロマルチビジョン』が発売された。",
"title": "オセロとコンピュータ"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "また、1980年10月からアスキーの主催でオセロ・プログラム同士を対局させる「マイクロオセロリーグ」が定期的に開催され、その模様は記事として掲載された。1986年には同社からオセロを題材とした思考ゲームのプログラミング解説書も出版された。",
"title": "オセロとコンピュータ"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "最古のコンピュータオセロは特別強いものではなかったが、すぐにビットボードや評価関数などのアルゴリズムが整理され、終盤の正確な読みによって人間の上級者とも戦えるようになった。",
"title": "オセロとコンピュータ"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "コンピュータオセロの開発が始まってから3年後の1980年、オセロ・プログラムのムーア (Moor) が当時の世界チャンピオン・井上博と対戦し、1勝を挙げた(6番勝負で1勝5敗)。1982年には森田和郎の開発した森田オセロが全日本選手権2位の北島秀樹ら強豪プレイヤーたちが集う大会にゲスト参加して6戦全勝で優勝した。その後、ハードウェアの進歩とソフトウェアの改良によってコンピュータオセロは着実に力を伸ばしたが、1980年の井上戦から17年間、公の場で人間の世界チャンピオンと対戦する機会はなかった。",
"title": "オセロとコンピュータ"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "1997年5月、コンピュータチェスのディープ・ブルーがチェス世界チャンピオンのガルリ・カスパロフを破ったその3週間後、NEC北米研究所のマイケル・ブロが開発したオセロ・プログラムのロジステロ (Logistello) と当時の世界チャンピオン・村上健が対戦することが発表された。対戦は同年8月4日から7日にかけて実施され、ロジステロが6番勝負で6勝0敗の成績で勝利し、コンピュータオセロの実力がすでに人間のトッププレイヤーを超えていることを証明した。実際には、それ以前からコンピュータの実力が人間を上回っていたことは明らかであり、村上は「もはや人間が及ぶレベルではありませんでした。負けると思っていました」とロジステロを称えた。なお、この対局は日本オセロ連盟の許可を得ていなかったため、無断で人類を代表して敗北した村上に対する批判の声もあったが、村上はオセロが知的ゲームの歴史に名を残すために必要な敗北であったと主張している。",
"title": "オセロとコンピュータ"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "2005年頃からは、それまでに5度の世界選手権優勝経験のある古豪・為則英司がコンピュータオセロを研究に活用するようになり、世界選手権を連覇。為則によってコンピュータ研究の重要性が知らしめられ、オセロ戦術が大きく進歩した。現在では、多数のプレイヤーが、コンピュータと対決するのではなく、コンピュータを教師として積極的に学んでいる。なお、タイトル戦準優勝経験のある中森弘樹によると、2016年の時点で多くのトッププレイヤーが研究に使用している最強のオセロ・プログラムはエダックス (Edax)である。",
"title": "オセロとコンピュータ"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "このほか、2019年には、コンピュータが人類よりも強いことを逆手にとって、負けることに特化した「最弱オセロ」が公開されて話題になるなど、多様な取り組みが進められている。",
"title": "オセロとコンピュータ"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "オセロは二人零和有限確定完全情報ゲームに分類され、ゲーム木複雑性は10の58乗程度である。",
"title": "オセロとコンピュータ"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "二人零和有限確定完全情報ゲームは、理論上、双方最善手(最善進行)ならば先手必勝・後手必勝・引き分けのいずれかの結論が下せるはずだが、オセロは2019年時点で未だにコンピュータによる完全解析はされておらず、結論は不明である。部分的には、最善進行を前提として以下の事実が判明している。",
"title": "オセロとコンピュータ"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "これらの事実に基づき、8×8のオセロは最善進行で引き分けになる可能性が高いと予想されている。オセロ日本代表選手の佐谷哲は、2019年に「『オセロは最善進行で引き分け』という説が今後覆ることはほぼ無いだろう」と述べている。",
"title": "オセロとコンピュータ"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "2023年10月30日、日本のPreferred Networks社の滝沢拓己により、8×8のオセロが最善進行で引き分けになる事を証明した(弱解決(英語版)した)と主張する査読前論文がarXivに投稿された。",
"title": "オセロとコンピュータ"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "オセロは国際的に普及している。2015年時点で、世界36の国と地域に連盟があり、世界競技人口は約6億人と推計されている。",
"title": "オセロと文化"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "特に日本の競技人口は多く、長谷川五郎によると2001年頃の時点で約6000万人である。長谷川は、日本国内の競技人口は、将棋が約1500万人、囲碁が約1000万人、チェスが約500万人であり、オセロはこれらを上回っていると主張している。なお、公益財団法人日本生産性本部余暇創研が発行している『レジャー白書2018』によれば、日本国内の競技人口は、トランプ・オセロ・カルタ・花札などが約2370万人、将棋が約700万人、囲碁が約190万人、チェスが調査対象外となっている。",
"title": "オセロと文化"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "日本の著名人の中には、佐藤健、小島瑠璃子、永山瑛太、田中カ子(後述)など、オセロ好きを公言している者も多い。また、日本の皇族である明仁親王(のちの天皇・上皇)も幼少期に父の昭和天皇とリバーシで遊んでいたことで知られる。",
"title": "オセロと文化"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "ツクダでオセロの商品化を担当した和久井威は、オセロがロングセラーとなった要因に対象年齢が幅広いことを挙げている。オセロは、石の誤飲の危険性を考慮して対象年齢を6歳以上としているが、実際には何歳からでもプレイは可能である。通常10分間以内に決着がつくため、学校の休み時間などで楽しむことも可能である。",
"title": "オセロと文化"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "また、高齢者にも人気があり、老人福祉施設などでもプレイされている。なお2022年4月に天寿を全うした福岡県の田中カ子(119歳没)はオセロゲーム愛好者の最高齢者として知られ、生前の田中はオセロを毎日プレイしていると語っていた。",
"title": "オセロと文化"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "オセロと同様のゲーム(ただし石のサイズ等はオセロの公式規定とやや異なることもある)は、「リバーシ」などの名前で安価なポータブルゲームとして日本のコンビニエンスストアなど様々な店舗で販売されている。また、インターネットでのオンライン対戦やコンピュータゲームとしても各国でプレイされている。Microsoft Windowsの1.0、2.0、2.1、3.0、Me、XPの各バージョンには、「リバーシ」という名称でオセロが標準搭載された。",
"title": "オセロと文化"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "日本では、以下のように様々な物事をオセロになぞらえて表現することがある。",
"title": "オセロと文化"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "また、オセロを直接的あるいは間接的に題材として、様々な文化活動が行われている。",
"title": "オセロと文化"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "このほか、 1975年から放送されている『パネルクイズ アタック25』、2017年から放送されている『東大王』の「難問オセロ」など、オセロ形式あるいはオセロに似た形式で対戦するクイズ番組がある。",
"title": "オセロと文化"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "世界オセロ選手権 (World Othello Championship) はアメリカ合衆国でオセロが発売された1977年に始まった。当初は世界チャンピオンを決める無差別部門だけで、代表枠も各国1人だったが、1987年からは代表枠が3人に増えて団体部門が始まった。さらに、2005年からは女子部門、2016年からはユース部門(15歳以下)が新設された(女子やユースが無差別部門に出場することも可能)。2022年現在、世界オセロ選手権は世界オセロ連盟が主催している。2020年と2021年はコロナ禍のため中止された。",
"title": "大会"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "第1回大会は日本の東京で開催された。また、10回、20回、30回、40回の記念大会はいずれも日本で開催されている。記念大会は、第20回大会までは長谷川五郎が1970年頃に現在のオセロのパッケージを開発した東京で開催されていたが、既述の通り2000年頃から長谷川が「オセロの発祥は1945年に茨城県水戸市で自身が考案した挟み碁である」と主張するようになったことを受け、三十(みと)の語呂合わせとなる2006年の第30回大会を機に、それ以降は水戸で開催されている。",
"title": "大会"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "2023年時点の最多記録は、以下の通りである。",
"title": "大会"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "これまでの大会結果は以下の通り。",
"title": "大会"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "オセロワールドカップ (Othello World Cup) は、オセロの発売40周年を記念し、世界オセロ選手権と並ぶもう一つの世界大会として日本オセロ連盟とニッポン放送の主催で2013年に始まり、2014年まで開催された。通常のオセロ以外にも、10×10の盤面を用いるグランドオセロ、八角形の盤面を用いるエイトスターズオセロも競技種目となっていた。このほか、オセロ開発者の長谷川五郎が新たに開発した全く別のゲームであるミラクルファイブの大会も併せて開催された。",
"title": "大会"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "これまでの大会結果は以下の通り。",
"title": "大会"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "オセロの大会の歴史は、1973年の全日本オセロ選手権から始まった。その後、日本ではオセロ名人戦とオセロ王座戦が新設され、三大タイトルとされている。",
"title": "大会"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "これまでの大会結果は以下の通り。",
"title": "大会"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "大会"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "大会"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "日本オセロ連盟は段級位制を採用しており、主要な世界大会・日本大会の結果に基づき、選手に段位・級位を与えている。2023年現在、最高位の九段を保持しているのは、以下の8名である。",
"title": "大会"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "なお、将棋の段級では、棋士、女流棋士、アマチュアの段級位はそれぞれ別個の制度であるが、オセロの段級位はすべて共通である。",
"title": "大会"
},
{
"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "ニップ (Nip) は、盤面の形を変更したリバーシの派生ゲームである。オセロに先行する類似ゲームとして、オセロ開発者の長谷川五郎がその名を挙げている。",
"title": "派生ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 151,
"tag": "p",
"text": "このゲームには、",
"title": "派生ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 152,
"tag": "p",
"text": "の2種類がある。",
"title": "派生ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 153,
"tag": "p",
"text": "八角形のニップは、隅を増やすことで競技を多様化するとの意図により、松本彌助によって考案され、1933年に実用新案登録がなされた。なお、リバーシとは異なり、両者ともに打つ箇所がない場合には、ゲームを終了するのではなく、好きなところに打って良いというルールが採用されていた。",
"title": "派生ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 154,
"tag": "p",
"text": "黒井千次は戦時中に八角形のニップで遊んでいたと語っている。また、1966年に廃業したホテル和光荘は、歴史的建造物として内装がそのまま保存されており、ホテル内で遊ばれていた当時のニップが展示されている。和光荘に展示されているニップは、八角形の盤面であり、石の色は赤白である。なお、オセロ発売前にもかかわらず、オセロと同様の緑の盤面を使用している。",
"title": "派生ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 155,
"tag": "p",
"text": "一方、現在主流となっているのは円形のニップである。このタイプは、隅がないゆえに自分の石を確定させることができず、終盤でいつ逆転が起きてもおかしくないスリリングな展開を特徴としている。円形ニップは、1953年にゲーム会社ハナヤマの創業者である花山直康および蜂須賀千博、中村九蔵によって実用新案出願がなされている。ハナヤマのニップは、実用新案の時点ではピン状の駒を盤面に刺してプレイするゲームであったが、その後はリバーシと同様に石を裏返すゲームとなり、複数のゲームが遊べる「ダブルクインテットNEO」や「ゲーム12」といったパッケージの中に収録されて発売された。",
"title": "派生ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "メガハウス(ツクダ、ツクダオリジナル、パルボックス)によるオセロの公式派生ゲームは、これまでに様々なものが発売されてきた。代表的なものは以下の通りである。",
"title": "派生ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 157,
"tag": "p",
"text": "グランドオセロとエイトスターズオセロは、オセロワールドカップで公式種目に採用された。",
"title": "派生ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 158,
"tag": "p",
"text": "4人対戦可能なオセロ派生ゲームとしては、前述のみんなでオセロ→4人対戦オセロがメガハウス公式の商品として存在するが、このほかにロリット (Rolit) と呼ばれる球体の石を用いたものがある。",
"title": "派生ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "非公式の派生ゲームとしては、東京農工大学教授のパズル・ゲーム研究者である小谷善行が1983年に考案したフェアリーオセロが知られている。小谷は、オセロという名前は「-Own(自分の石を打つ) Set-Enemy(相手の石を裏返す) Reset-Own(自分の石はそのまま)」というルールを示しているものと意図的に誤読し、これらの単語を様々に組み合わせることで数十種類の派生ゲームのルールを作成した。例えば、オセレ「-Own(自分の石を打つ) Set-Enemy(相手の石を裏返す) Reset-Enemy(相手の石はそのまま)」であれば、自分の石 (Own) と相手の石 (Reset-Enemy) に挟まれた相手の石 (Set-Enemy) を裏返すというルールになる。",
"title": "派生ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 160,
"tag": "p",
"text": "また、佐藤周二は、オセロ用具を使用した新ゲーム4・7を考案し、解説書を出版している。",
"title": "派生ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 161,
"tag": "p",
"text": "最近では、アナログゲームの販売強化手法の一つとして、複数のボードゲームを抱き合わせにして製品化することもある。この場合、オセロの石を使って、盤面を縮小した囲碁、はさみ将棋、おはじき、積木崩し、トランプのチップ等として遊ぶこともあるが、これらはあくまでパッケージとしてのおまけにすぎず、独立して大会などが開かれるものではない。",
"title": "派生ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "このほか、長谷川五郎が開発した全く新しい別ゲームであるミラクルファイブ(原型はセルゴ、ソクラテス)もオセロの派生ゲームとしてオセロの大会内でプレイされることがある。",
"title": "派生ゲーム"
}
] | オセロ(Othello)は、2人のプレイヤーが交互に盤面へ石を打ちながら、相手の石を自分の石で挟むことによって自分の石へと換えていき、最終的な盤上の石の個数を競うボードゲームである。オセロゲームとも呼ぶ。ほぼ同様のゲームにリバーシ(Reversi)がある。 | {{Infobox game
| title = オセロ
| image_link = Othello-Standard-Board.jpg
| image_caption = オセロの盤と石
| designer = [[長谷川五郎]]
| publisher = [[メガハウス]]、[[マテル]]
| date = {{Start date and age|1973|04|29}}
| genre = [[ボードゲーム]]
| players = 2人
| setup_time = 1分間未満
| playing_time = 標準10分間、最大80分間
| random_chance = なし
| skills = 頭脳、読み合い、駆け引き
| website = {{URL|https://www.megahouse.co.jp/othello/|オセロ公式サイト}}
}}
{{Infobox game
| title = リバーシ
| designer = ジョン・モレット、ルイス・ウォーターマン
| publisher = [[ジャック・オブ・ロンドン]]、ほか多数
| ages = 8歳以上
| setup_time = 1分未満
| date = {{Start date and age|1883}}(or earlier)—present <!-- 英字部分は英語版より転記しております -->
}}
'''オセロ'''(Othello)は、2人のプレイヤーが交互に盤面へ石を打ちながら、相手の石を自分の石で挟むことによって自分の石へと換えていき、最終的な盤上の石の個数を競う[[ボードゲーム]]である。'''オセロゲーム'''(Othello Game)とも呼ぶ。ほぼ同様のゲームに'''リバーシ'''(Reversi)がある。
== 概要 ==
[[File:Othello (Reversi) board.jpg|thumb|left|プレイ中のオセロの盤と石]]
オセロはボードゲームの1つである。8×8の正方形の盤と、表裏を'''黒と白'''に塗り分けた平たい円盤状の石を使用する。それぞれ黒と白を担当する2人のプレイヤーが交互に盤面へ石を置いていき、最終的に盤上の石が多かったほうが勝ちとなる。相手の石を自分の石で挟んだときは、相手の石を裏返すことで、自分の石にする。「挟んだら裏返す」という基本原理が解れば、初期配置やパスなどいくつかのルールを知るだけで、すぐにオセロをプレイできる。なお、公式戦では、さらに細かい競技規則も定められている。
オセロとほぼ同様のゲームは、元々'''リバーシ'''として知られていた。リバーシは、'''ジョン・モレット''' (John Mollett) と'''ルイス・ウォーターマン''' (Lewis Waterman) によって[[19世紀]]に[[イギリス]]の[[ロンドン]]で考案された。その後、[[水戸市]]出身のボードゲーム研究家・'''[[長谷川五郎]]'''によって1970年頃に[[東京都]]で現在知られているパッケージが開発され、その父・[[長谷川四郎 (英文学者)|四郎]]によって「オセロ」([[ウィリアム・シェイクスピア]]の[[戯曲]]『[[オセロー|オセロ]]』に由来)と命名された。完成したオセロは、1973年にツクダ(後の[[ツクダオリジナル]]→[[パルボックス]]→[[メガハウス]])から発売され、ヒット商品となった。
長谷川がオセロ開発に当たりリバーシを参照したのかどうかは不明であり、オセロとリバーシの関係性をどう位置付けるべきか争いがある。また、オセロ発祥の地についても、ロンドン、東京、水戸という3つの説がある。いずれにしても、「オセロ」「Othello」という名称はメガハウスの[[登録商標]]であるため、他社からはリバーシとしてほぼ同様のゲームが発売されている。
オセロは、抽象戦略ゲーム([[アブストラクトゲーム]])の一つであり、運の要素がなく、2人のプレイヤーが互いに知恵を絞り実力だけを頼りに勝敗を決する。ゲームのルールは単純明快だが、多数の戦術が生み出され、日々戦略的な進歩を続けている。このことを端的に表した「'''覚えるのに一分、極めるのに一生''' (A minute to learn, a lifetime to master)」という言葉が[[キャッチフレーズ]]になっている。著名な戦術としては、定石や偶数理論などがある。
数学的には、オセロは[[囲碁]]・[[将棋]]・[[チェス]]などと同様に[[二人零和有限確定完全情報ゲーム]]に分類され、[[コンピュータ]]による研究も行われている。[[コンピュータオセロ]]は、1997年に人間の世界チャンピオンに勝利しており、人間のトッププレイヤーを上回る実力を持つ。もっとも、コンピュータが発達した2022年現在もオセロの完全解析はなされておらず、なお未知なる奥深さを持つ。
世界各国で子供から老人まで様々な人によってプレイされており、世界のオセロ競技人口は約6億人と推計されている。特に、日本では[[遊び]]の文化として定着しており、競技人口が多いだけでなく、オセロを題材にした数々の文化的活動も行われている。
オセロは、遊びであると同時に[[マインドスポーツ]]の一つとしても知られている。世界各国で多くの大会が開催されており、日本では囲碁や将棋などと同様に複数のタイトル戦が存在する。最も大きな大会は、1977年から毎年開催されている'''世界オセロ選手権'''である。
このほか、オセロ・リバーシには、'''ニップ'''、'''グランドオセロ'''、'''エイトスターズオセロ'''、'''ロリット'''などの派生ゲームも存在し、様々な形で人々から親しまれている。
== ルール ==
=== 使用用具 ===
オセロをプレイするために必要な用具は、盤と石である{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=10-11}}<ref name="megahouse-what">{{Cite web|和書|title=オセロってなに? |website=オセロ公式サイト |publisher=メガハウス |url=https://www.megahouse.co.jp/othello/what/ |accessdate=2020-03-23}}</ref>{{Efn|何局も続けて対局する場合には計算表が必要になる{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=10-11}}。また、大会では、[[対局時計]]も使用される<ref name="joa-rule">{{Cite web|和書|title=日本オセロ連盟競技ルール |publisher=日本オセロ連盟 |url=https://www.othello.gr.jp/rule |accessdate=2020-03-23}}</ref>。}}。オセロの盤は、8×8の正方形のマス目が描かれた緑色のものを使用する{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=10-11}}{{R|megahouse-what}}。
オセロの石は、表裏を'''黒と白'''に塗り分けた平たい円盤状のものを使用する{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=10-11}}{{R|megahouse-what}}。
メガハウスによる公式のオセロ用具は、表のようにプレイヤーの便宜を図るために様々な工夫を凝らした製品が順次追加されている<ref name="megahouse-products">{{Cite web|和書|title=オセロ商品 |website=オセロ公式サイト |publisher=メガハウス |url=https://www.megahouse.co.jp/othello/products/ |accessdate=2020-03-30}}</ref>。
{| class="wikitable" style="font-size:small; margin:1rem;"
|+ メガハウスによるオセロ用具
! 発売時期 !! 製品名 !! 特徴
|-
! 1973年 -
| オフィシャルオセロ || 最初に発売されたオリジナルの用具。公式大会では現在もこれが使用される。2019年にマイナーチェンジあり。
|-
! 1975年頃 -
| マグネットオセロ || 石がマグネット式で盤に張り付くので傾けてもずれにくい。盤は折り畳み可能。
|-
! 1970年代後半 -
| ベストオセロ || 石を保管するためのケースが盤に内蔵されている。2000年代にもマイナーチェンジあり。かつては同様の商品の「ナイスオセロ」もあったが、現在は終売。
|-
! 1980年代前半 -
| ヴィクトリーオセロ(終売) || 入門用。盤のマス目に立体ガイドが付いており、簡単にマス目中央に石を置くことができる。
|-
! 2004年 -
| 一体オセロ || 盤に固定された回転式の石を使用。石をなくす心配がない。旧称「オセロ極」( - 2013)、「大回転オセロ」( - 2021)。
|-
! 2005年 -
| 大回転オセロミニ || 大回転オセロの小型版。持ち運びに適する。旧称「オセロ極Jr.」( - 2013)。
|-
! 2022年 -
| カラーオセロ || ビタミンオレンジ・インディゴブルー・パールブラックの3色展開。盤面の線が凸状で石がズレない。石収納用の引き出し付き。
|}
また、[[視覚障害者]]向けに触って石を識別できるもの(表の「カラーオセロ」も該当)、石をつまむことのできない[[肢体不自由者]]向けに盤と一体化した石を回すことでプレイできるもの(表の「一体オセロ」も該当)など、バリアフリーを意識した用具も開発・発売されている<ref>{{Cite news |和書 |title=オセロ 誰もが楽しむ工夫で進化 |newspaper=日本経済新聞 |edition=夕刊 |date=2018-12-01 |url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO38428140R01C18A2CR0000/ |accessdate=2020-03-23}}</ref>。
=== 基本ルール ===
オセロの基本ルールは以下の通りである。なお、以下では符号を用いて説明することがあるが、図の盤面外に記載されている列と行を表す。例えば、f5はf列5行目のことである。
事前準備として、以下の2つが必要である。
* [[じゃんけん]]などで各プレイヤーがそれぞれ黒番(黒石を打つ)と白番(白石を打つ)のどちらを担当するかを決めておく{{Sfn|長谷川五郎|1974}}(公式戦での手番決定方法は後述)。
* 初期配置として、図1のように'''盤面中央の4マスに黒石と白石を2つずつ置く'''{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=13-22}}{{R|megahouse-what}}。右上と左下が黒石、左上と右下が白石になるように互い違いに配置する{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=13-22}}。
事前準備を終えたらゲームを開始する。
{{Columns-start}}
{{Othello diagram
| left
| 図1
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | | | | | |
<!-- 4 --> | | | |O|X| | |
<!-- 5 --> | | | |X|O| | |
<!-- 6 --> | | | | | | | |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| 初手(黒番)
}}
初手は黒番が打つ{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=13-22}}。この際、'''今打った石と他の自分の色の石とで縦・横・斜めのいずれかの方向で挟んだ相手の色の石は、裏返して自分の色に変える'''{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=13-22}}{{R|megahouse-what}}。例えば、図1の局面で、黒番がf5に打てば、今打った黒石とd5の黒石によってe5の白石を横に挟んでいるので、これを裏返して黒石に変える(図2)。
{{Column}}
{{Othello diagram
| left
| 図2
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | | | | | |
<!-- 4 --> | | | |O|X| | |
<!-- 5 --> | | | |X|X|X| |
<!-- 6 --> | | | | | | | |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| 2手目(白番)
}}
2手目は白番が打つ{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=13-22}}。さきほどと同じように、挟んだ相手の色の石を裏返して自分の色に変える。例えば、図2から白番がd6に打てば、今打った白石とd4の白石によってd5の黒石を縦に挟んでいるので、これを裏返して白石に変える(図3)。
{{Columns-end}}
{{Columns-start}}
{{Othello diagram
| left
| 図3
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | | | | | |
<!-- 4 --> | | | |O|X| | |
<!-- 5 --> | | | |O|X|X| |
<!-- 6 --> | | | |O| | | |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| 3手目(黒番)
}}
後は同様に、相手の石を挟みながら、'''黒番と白番が交互に'''空きマスに自分の色の石を打っていく{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=13-22}}。例えば、図3から黒番がc3に打てば、d4の白石を斜めに挟んでいるので、これを裏返して黒石に変える。
{{Column}}
{{Othello diagram
| left
| 図4
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | | |X| | |
<!-- 4 --> | | | |O|X|O| |
<!-- 5 --> | | | |X|O|O| |
<!-- 6 --> | | | | | |O| |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| 複数の石(黒番)
}}
複数の石を一度に挟むことも可能である{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=13-22}}。この場合、挟んだ石はすべて自分の色に変えなければならない{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=13-22}}{{R|megahouse-what}}。例えば、図4の局面で黒番がg5に打つと、f5とe5の白石を横に挟み、f4の白石を斜めに挟んでいるので、これら3つの石をすべて黒石に変える(図5)。
{{Columns-end}}
{{Columns-start}}
{{Othello diagram
| left
| 図5
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | | |X| | |
<!-- 4 --> | | | |O|X|X| |
<!-- 5 --> | | | |X|X|X|X|
<!-- 6 --> | | | | | |O| |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| 不正な着手(白番)
}}
'''石を打つときは、必ず相手の色の石を1つ以上挟むように打たなければならない'''{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=13-22}}{{R|megahouse-what}}。例えば、図5で仮に白番がh5に打ったとしても黒石を1つも挟めないから、白番がh5に打つことはできない。
{{Column}}
{{Othello diagram
| left
| 図6
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | | | | | |
<!-- 4 --> | | |X|X|X| | |O
<!-- 5 --> | | | |X|X|X|O|O
<!-- 6 --> | | | | | |X| |O
<!-- 7 --> | | | | | |X| |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| パス・ルール(黒番→白番)
}}
'''挟める石がなければパス'''となり、相手の手番になる{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=13-22}}{{R|megahouse-what}}。例えば、図6の局面で、黒番は挟める白石がないのでパスとなる。パスに回数制限はないが、挟める石があるときはパスできない{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=13-22}}。なお、相手のパスによって自分の着手が続くと手元の石が足りなくなることがあるが、相手の手元の石を使ってもよい{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=13-22}}。
{{Columns-end}}
{{Columns-start}}
{{Othello diagram
| left
| 図7
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> |O|O|O|O|O|O|O|O
<!-- 2 --> |O|X|X|O|O|X|O|X
<!-- 3 --> |O|X|X|X|X|O|X|X
<!-- 4 --> |O|X|O|X|X|X|X|X
<!-- 5 --> |O|X|O|O|X|X|X|X
<!-- 6 --> |O|X|O|O|O|X|X|X
<!-- 7 --> |O|O|O|O|O|O|X|X
<!-- 8 --> |O|X|X|X|X|X|X|X
| 通常の終局(34対30)
}}
このようにしてプレイを続けていき、盤上のすべてのマスが石で埋まって空きマスがなくなれば、ゲーム終了(終局)となる{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=13-22}}{{R|megahouse-what}}。例えば、図7では、すべてのマスが石で埋まっているため、終局である。
{{Column}}
{{Othello diagram
| left
| 図8
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | |X| | | | |
<!-- 4 --> | | | |X|X|X|X|
<!-- 5 --> | | | |X|X|X|X|X
<!-- 6 --> | | | | |X| |X|
<!-- 7 --> | | | | | |X| |
<!-- 8 --> | | | | |O| |X|
| 双方打てずの終局(63対1)
}}
空きマスがあっても、両者ともに挟める石がないときは終局となる{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=13-22}}。例えば、図8では、まだ空きマスがあるが、黒番も白番も相手の色の石を挟む方法がないから、終局である。なお、一方の石が全滅してしまった場合も、両者ともに挟める石がないときに該当するから終局である{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=13-22}}。
{{Columns-end}}
'''ゲームが終了したら黒石・白石の数を数え、多いほうが勝ち'''となる{{Sfn|長谷川五郎|1974}}{{R|megahouse-what}}。同数の場合は、通常の対局では[[引き分け]]、引き分けでは不都合のある対局(勝ち上がり式トーナメントの大会等)では黒番・白番の決定時に「終局時に石の数が同数だった場合に勝者となる権利」(後述)を得ていた側の勝ちとなる{{R|joa-rule}}。
成績は、石数もしくは石差で記録される{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=13-22}}。例えば、図7ならば34対30(4石差)で黒番の勝ちである。空きマスがある場合には、その数が勝者の石数に加算される{{R|joa-rule}}{{Efn|国際的には従前から使われていたルールだが、日本では2014年6月1日からこのルールが施行された<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=連盟からのお知らせ - オセロルール改訂について (ルール変更箇所追記 6/1)|url=https://www.othello.gr.jp/ps4/764.html|website=www.othello.gr.jp|accessdate=2021-07-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=中島哲也|title=空きマスは勝者のもの、引分の時は?|website=Othello! JAPAN|date=2014-05-19|url=http://www.othello.org/blogs/nakaji/e/107|accessdate=2020-04-15}}</ref>。2013年8月時点では、競技ルール第14条で「パーフェクトゲーム(一方が全滅)の場合は、盤上に空きマスが残っていても、常に64石差とする。パーフェクト以外で、終局時に空きマスが残った場合は、盤上にある両者の石数の差を記録する」としていた<ref>{{Cite web|和書|title=日本オセロ連盟競技ルール(2013年8月7日現在)|url=https://web.archive.org/web/20130807135516/http://othello.gr.jp/r_info/rule.html|website=web.archive.org|accessdate=2021-07-09}}</ref>。このルールでは、図8は「13石差」で黒の勝ちであるが、石数で表記する場合は、空きマスを両者で折半して「38.5対25.5」とする運用がなされていた。ところが、2014年5月13日のルール改定発表の際に従来のルールとして引用された条文は「(略)パーフェクト以外で、終局時に空きマスが残った場合は、盤上にある両者の石数の差、'''又は石数を記録する'''」<ref name=":0" />となっている。これを字義通りに取ると、図8の石数は「14対1」となるが、2013年8月から2014年5月までの間に、実際にそのような趣旨でのルール改正があったかどうかは疑わしい。}}。例えば、図8ならば63対1(62石差)で黒番の勝ちである。
=== ハンデキャップ ===
{| class="wikitable" style="font-size:small; margin:1rem; float:right;"
|+ オセロのハンデキャップ
|
{{Othello diagram
| none
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> |X| | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | | | | | |
<!-- 4 --> | | | |O|X| | |
<!-- 5 --> | | | |X|O| | |
<!-- 6 --> | | | | | | | |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| 1子局(白番)
}}
|
{{Othello diagram
| none
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> |X| | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | | | | | |
<!-- 4 --> | | | |O|X| | |
<!-- 5 --> | | | |X|O| | |
<!-- 6 --> | | | | | | | |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |X
| 2子局(白番)
}}
|-
|
{{Othello diagram
| none
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> |X| | | | | | |X
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | | | | | |
<!-- 4 --> | | | |O|X| | |
<!-- 5 --> | | | |X|O| | |
<!-- 6 --> | | | | | | | |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |X
| 3子局(白番)
}}
|
{{Othello diagram
| none
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> |X| | | | | | |X
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | | | | | |
<!-- 4 --> | | | |O|X| | |
<!-- 5 --> | | | |X|O| | |
<!-- 6 --> | | | | | | | |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> |X| | | | | | |X
| 4子局(白番)
}}
|}
実力差がある場合には[[ハンデキャップ]](ハンデ)をつけて対局することもできる{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=13-22}}。ハンデキャップ戦では、実力差に応じて図のように盤面の隅に黒石を置いた状態からゲームを開始する{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=13-22}}。
ハンデキャップ戦の場合は、下手が黒番、上手が白番を持つが、通常の対局とは異なり、白番(上手)の先手で対局を開始する{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=13-22}}。
=== 伏せ石 ===
オセロは黒と白の石を用いるが、基本ルールで説明したように'''黒を担当するプレイヤーが[[先手]]、白を担当するプレイヤーが[[後手]]'''として、プレイヤーの手番が色と合わせて定められている{{Sfn|長谷川五郎|1974}}{{R|megahouse-what}}。手番を含めた両プレイヤーの地位をそれぞれ黒番・白番と呼ぶ{{Sfn|長谷川五郎|1974}}。
大会などの公式戦では、「伏せ石」と呼ばれる[[囲碁]]の[[ニギリ]]に近い方法で黒番・白番を決定する{{R|joa-rule}}。伏せ石のやり方は、引き分けありの対局と引き分けなしの対局でそれぞれ異なっており、以下のように決まっている{{R|joa-rule}}。
# まず、上位者が石一つを手で隠して盤上に置く。
# 次に下位者が引き分けの有無によって以下の方式で宣言を行う。
#* 引き分けありの場合は、下位者は「上」もしくは「下」と宣言する。
#* 引き分けなしの場合は、下位者は「黒」もしくは「白」と宣言する。
# 下位者の宣言が終わったら上位者は石を隠していた手をどけて石を開示する。
# 石の上面が黒白どちらであるかを確認し、引き分けの有無に応じて以下の通り黒番・白番を決定する。
#* 引き分けありの場合は、開示された石の上面・下面の色のうち、下位者は宣言した側の色を担当する。すなわち、下位者が「上」と宣言したときは開示された石の上面の色、「下」と宣言したときは開示された石の下面の色を下位者が担当する。
#* 引き分けなしの場合は、一方のプレイヤーには「黒番・白番を選ぶ権利」、他方のプレイヤーには「終局時に石の数が同数だった場合に勝者となる権利」が与えられる。下位者が宣言した色と開示された石の上面の色とを照らし合わせ、的中している場合は下位者、的中していない場合は上位者が、どちらの権利が欲しいかを選択する。最後に黒番・白番を選ぶ権利を得た側のプレイヤーが黒番と白番のどちらにするかを選ぶ。
=== 不正着手 ===
オセロでは、挟んだ石を裏返すのを忘れるといった不正な着手が起きることがあり、公式戦で不正着手がなされた場合のルールが定められている{{R|joa-rule}}。相手が不正着手をした場合、対局時計のボタンを押して相手に手番を戻したうえで、不正の内容を告げて相手に訂正を求めることができる{{R|joa-rule}}。なお、日本オセロ連盟は不正着手を「自分の打つ石色の間違い、手番の間違い、打てない箇所への着手、返し忘れ、返しすぎ、打てる箇所がある局面でのパス」と定義している{{R|joa-rule}}。
=== ブライトウェル・ポイント ===
主要な国際大会等では、[[リーグ戦]]で勝ち星の数が並んだ際、イギリス代表選手で数学者のグラハム・ブライトウェルが考案したブライトウェル・ポイントと呼ばれる点数を計算して順位を決定する<ref>{{Cite web|和書|author=中島哲也 |title=世界戦組み合わせ方式 |website=Othello! JAPAN |date=2006-10-30 |url=http://www.othello.org/news/?date=20061030&no=1 |accessdate=2020-03-30}}</ref>
<ref name="bof">{{Cite web |language=en |title=The Rules of the British Othello Federation |publisher=British Othello Federation |url=https://britishothello.org/wp-content/uploads/2018/08/BOFRules.pdf |format=PDF |accessdate=2020-04-07}}</ref>。ブライトウェル・ポイントは、以下の数式で計算される{{R|bof}}。
{{Indent|ブライトウェル・ポイント {{=}} 石数合計 + 対戦相手の勝数合計 × C}}
定数Cは、オセロ盤のマス目の数 (64) を1人のプレイヤーの試合数で割った値に最も近い整数である{{R|bof}}。例えば、各プレイヤーが10試合を行うリーグ戦ならば、Cは「64 / 10 = 6.4」に最も近い整数の6である。
== 歴史 ==
=== オセロの起源 ===
現在普及しているオセロのパッケージは、日本オセロ連盟元会長の[[長谷川五郎]]が1970年頃に[[東京都]]で完成させてゲーム会社の[[ツクダオリジナル|ツクダ]]に持ち込み、1973年に発売されたものである{{Sfn|和久井威(協力)|2007}}。長谷川がオセロを開発するに至った経緯については本人の説明が二転三転しており、定かではない。特に、オセロのルーツについては、
* ジョン・モレットとルイス・ウォーターマンが[[19世紀]]に[[イギリス]]の[[ロンドン]]で考案した'''アネクゼイション'''や'''リバーシ'''(源平碁)というゲームがオセロの原型であり、長谷川が東京都内でリバーシの基本ルールを維持しつつ名称・用具・環境などを整備してパッケージとして確立したものがオセロである。
* 1945年に中学生時代の長谷川本人がリバーシとは独立に[[水戸市|茨城県水戸市]]で考案した'''挟み碁'''というゲームがオセロの原型である(結果的にオセロとリバーシは似通ったゲームとなっているが両者は無関係)。
という2つの説がある。
オセロ発売当初、長谷川は'''リバーシがオセロの原型である'''としていたが{{Sfn|長谷川五郎|1973}}<ref name="yomiuri">{{Cite journal |和書 |title=スリルの大逆転ゲーム 軽薄でNOWな『オセロ』の爆発的人気 その必勝法まで |journal=週刊読売 |volume=32 |issue=38 |publisher=読売新聞社 |date=1973-08 |pages=112-113 |doi=10.11501/1815367}}</ref><ref name="izawa">{{Cite journal |和書 |author=飯沢匡 |title=当世商売訪問 (3) -新ゲーム『オセロ』をつくったアマチュア魂 |journal=潮 |volume=186 |publisher=潮出版社 |date=1974-12 |pages=278-280 |doi=10.11501/3367797}}</ref>{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=136-139}}、2000年頃からは、'''自身が考案した挟み碁がオセロの原型である'''と主張するようになっている{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}。なお、2000年以降の長谷川の発言以外に挟み碁というゲームが実在したことを裏付ける根拠はない<ref name="hasera-2018">{{Cite tweet |author=hasera |title=オセロが水戸発祥って2000年くらいに突然五郎さんが言い出して僕なんかは困惑した話なんですよ |date=2018-12-16 |user=hasera |number=1074141496687751169 |accessdate=2020-03-29}}</ref>。このような経緯から、オセロとリバーシの関係やオセロ発祥の地については争いがある(詳しくは[[#オセロとリバーシ|オセロとリバーシの節]]で後述)。
アネクゼイション、リバーシ、挟み碁、オセロは、いずれも「挟んだら裏返す」という基本原理に共通点があるが、細かい部分では表のような違いがある。
{| class="wikitable" style="font-size:small; margin:1rem;"
|+ オセロとそのルーツになったゲームの違い
! ゲーム名 !! 最初期の文献(出典) !! 開発年・開発者・発売元 !! 石の色 !! 盤面の形状 !! 初期配置 !! 複数石挟み !! 着手不能時 !! 着手回数制限
|-
! アネクゼイション
| Waterman v. Ayres<br />(1888年){{Sfn|Cotton|Lopes|1888}} || 1870年(ロンドン)<br />ジョン・モレット<br />F・H・エアーズ || {{Unknown}} || {{No2|十字形}} || {{Unknown}} || {{Unknown}} || {{Unknown}} || {{Unknown}}
|-
! リバーシ(19世紀)
| Reversi and Go Bang<br />(1890年){{Sfn|Berkeley|1890}} || 1883年(ロンドン)<br />ルイス・ウォーターマン<br />ジャック・アンド・サン || {{Draw|{{Ubl|黒白|黒赤|赤白}}}} || {{Yes2|8×8の正方形}} || {{No2|オリジナル}} || {{Yes2|全部裏返す}} || {{Yes2|パス}} || {{No2|32手}}
|-
! リバーシ(20世紀)
| 世界遊戯法大全<br />(1907年){{Sfn|松浦政泰|1907}} || 1900年頃<br />不明<br />多数 || {{Draw|{{Ubl|黒白|黒赤|赤白}}}} || {{Yes2|8×8の正方形}} || {{Draw|{{Ubl|クロス|パラレル|オリジナル}}}} || {{Yes2|全部裏返す}} || {{Yes2|パス}} || {{Yes2|無制限}}
|-
! 挟み碁
| オセロ百人物語<br />(2005年){{Sfn|長谷川五郎|2005}} || 1945年(水戸)<br />長谷川五郎<br />未発売 || {{Yes2|黒白}} || {{No2|多様{{Efn|8×8の正方形、8×9の長方形、9×10の長方形、八角形などを使い分けていた{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}。}}}} || {{Unknown}} || {{No2|多様{{Efn|複数の石を挟んだときは、全部裏返すルール、1個だけ裏返すルール、挟んだ本人が裏返す個数を自由に決められるルールなど様々なルールを使用していた{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}。}}}} || {{Unknown}} || {{Unknown}}
|-
! オセロ
| オセロの打ち方<br />(1974年){{Sfn|長谷川五郎|1974}} || 1970年頃(東京)<br />長谷川五郎<br />ツクダ || {{Yes2|黒白}} || {{Yes2|8×8の正方形}} || {{Yes2|クロス}} || {{Yes2|全部裏返す}} || {{Yes2|パス}} || {{Yes2|無制限}}
|}
{{-}}
ここでは、'''リバーシに基づく歴史と挟み碁に基づく歴史の双方'''を対等に紹介する。
=== 19世紀のリバーシ ===
オセロに似たゲームとして記録に残る最古のものは、1870年に[[イギリス]]の[[ロンドン]]で'''ジョン・モレット''' (John Mollett) が開発した'''アネクゼイション''' (Annexation) というボードゲームである{{Sfn|Cotton|Lopes|1888}}{{Efn|なお、E・O・ハルビンは、中国の伝統的遊びとしてリバーシとほぼ同様のFan Mienというゲームを紹介している<ref>{{Cite book |language=en |last=Harbin |first=E. O. |title=Games of Many Nations |publisher=Abingdon Press |year=1954 |pages=52-53 |url=https://archive.org/details/gamesofmanynatio00harb/page/52/mode/2up |accessdate=2020-03-23}}</ref>が、これに対して[[リスボン大学]]教授のジョアン・ペドロ・ネトは、Fan Mianは噂にすぎず一切の証拠がないとしている<ref>{{Cite web |language=en |last=Neto |first=João Pedro |title=Othello |work=The World of Abstract Games |date=2016-01-07 |url=https://www.di.fc.ul.pt/~jpn/gv/othello.htm |accessdate=2020-03-23}}</ref>。}}。アネクゼイションは、十字形の盤面を用いていたが、現在のオセロと同様に「挟んだら裏返す」という基本原理に基づくゲームだった<ref name="takahasi">{{Cite journal |和書 |author=高橋浩徳 |title=ボードゲームの近現代史 |journal=大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要 |issue=20 |publisher=大阪商業大学アミューズメント産業研究所 |date=2018-06-30 |pages=135-136 |naid=120006532809}}</ref>{{Sfn|Cotton|Lopes|1888}}。開発から6年後の1876年にF・H・エアーズがこれを発売した{{Sfn|Cotton|Lopes|1888}}。
1883年、同じくロンドンの'''ルイス・ウォーターマン''' (Lewis Waterman) がアネクゼイションの盤面を[[チェッカー]]盤([[チェスボード]]と同じ8×8の正方形)に改良して'''リバーシ''' (Reversi) を開発した{{Sfn|Cotton|Lopes|1888}}<ref>{{Cite book |language=en |editor-last=Hoffmann |editor-first=Professor |title=The Book of Table Games |publisher=Routledge |year=1894 |page=611 |url=https://books.google.co.jp/books?id=kwkYAAAAYAAJ&pg=PA611#v=twopage&q&f=false |accessdate=2020-03-23}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=シド・サクソン |others=竹田原裕介(訳) |title=シド・サクソンのゲーム大全 |publisher=ニューゲームズオーダー |date=2017-12 |page=277 |isbn=9784908124204}}</ref>。リバーシは、1886年にロンドンのサタデー・レビュー紙に掲載され、世に知られることになった<ref>{{Cite news |language=en |title=Reversi |newspaper=The Saturday Review |date=1886-08-21}}</ref>。ウォーターマンは、1888年にリバーシを商品化し、ジャック・アンド・サン(現・[[ジャック・オブ・ロンドン]])から発売した{{Sfn|Berkeley|1890|pp=3-4}}。なお、リバーシ発売後にF・H・エアーズがアネクゼイションの改良版として「Annex a Game of Reverses」という名前でリバーシとほぼ同一のゲームを販売したため、商標をめぐって訴訟となったが、「リバーシ」は「裏返す」という意味の単語「Reverse」に由来し、[[16世紀]]から[[フランス]]でプレイされていた伝統的[[トランプ]]ゲームのリバーシス([[ハーツ (トランプゲーム)|ハーツ]]の原型)の別名でもあることから商標権は認められず、両者はともにこのゲームを販売できることになった{{Sfn|Cotton|Lopes|1888}}。
商品化から2年後の1890年にウォーターマンが承認したリバーシの解説書{{Sfn|Berkeley|1890}}によると、当時のリバーシと現在のオセロとのルール上の違いは、以下の2点のみである<ref name="jrf-history">{{Cite web |title=History of Reversi |publisher=日本リバーシ協会 |date=1999-01-11 |url=http://www.reversi.net/reversi/history/indexj.html |accessdate=2020-03-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20010217103817/http://www.reversi.net/reversi/history/indexj.html |archivedate=2001-02-17}}</ref>。
; 初期配置オリジナル・ルール
: 初期のリバーシでは、盤面に石を置かずにゲームを開始していた。初手から4手目まで交互に中央4マスのうち好きな位置に石を打ち込むことで、初期配置を決めた(なお、初期配置を決めるための4手は相手の石を挟まなくて良かった)。
; 着手回数32手制限ルール
: 初期のリバーシでは、両対局者はそれぞれ最大32回しか石を打つことができなかった。つまり、ゲーム開始時に各々の手元に32個の石が配布され、相手のパスによって自分が連続して着手した結果手元の32個の石を使い果たしてしまった場合は、それ以降の自分の手番がすべてパスになった。
同書によると当時のリバーシの石の色は'''黒と白''' (black and white) であり、現在のオセロと同様である{{Sfn|Berkeley|1890|pp=4-13}}。もっとも、ジャック・アンド・サンから発売されたオリジナルのリバーシは、チェッカーと同様に黒白<ref>{{Cite web |language=en |last=Ballam |first=Richard |title=Example of the Game Reversi JJ11 |work=The Ballam Collection |publisher=The Games Board |url=https://www.gamesboard.org.uk/cgi-pub/gardpub.cgi?table=examples&pk=14191&command=view |accessdate=2020-03-23}}</ref>、黒赤<ref>{{Cite web |language=en |last=Ballam |first=Richard |title=Example of the Game Reversi JJ5 |work=The Ballam Collection |publisher=The Games Board |url=https://www.gamesboard.org.uk/cgi-pub/gardpub.cgi?table=examples&pk=13606&command=view |accessdate=2020-03-23}}</ref>、赤白<ref>{{Cite web |language=en |last=Ballam |first=Richard |title=Example of the Game Reversi JJ10 |work=The Ballam Collection |publisher=The Games Board |url=https://www.gamesboard.org.uk/cgi-pub/gardpub.cgi?table=examples&pk=14275&command=view |accessdate=2020-03-23}}</ref>という少なくとも3通りのバージョンが存在していたことがボードゲーム収集家のリチャード・バラムのコレクションで確認できる。
=== 20世紀のリバーシ ===
リバーシが考案されてから20年ほどの間にルールの変遷があった。まず、着手回数32手制限ルールはすぐに廃止され、相手がパスした場合には相手の手元の石を使ってもよいことになった{{R|jrf-history}}。1900年頃のF・H・エアーズのリバーシに添付されたルール説明書には、「彼が打つことができないでいる限り、対戦相手は彼の石を使用して打つ」と明記されている<ref>{{Cite web |language=en |last=Ballam |first=Richard |title=Example of the Game Reversi (Ayres) 2 |work=The Ballam Collection |publisher=The Games Board |url=https://www.gamesboard.org.uk/cgi-pub/gardpub.cgi?table=examples&pk=13598&command=view |accessdate=2020-03-23}}</ref>。また、初期配置に関しては、簡便のために最初から中央4マスに石を置いてからゲームを開始するのが主流となった{{R|jrf-history}}。この結果、20世紀初頭には、現在のオセロとのルール上の違いはほぼなくなっており{{R|jrf-history}}、'''1907年に編纂された『[[世界遊戯法大全]]』{{Sfn|松浦政泰|1907}}では現在のオセロと完全に同一のルール'''が定められている{{R|jrf-history}}。
{| class="wikitable" style="font-size:small; margin:1rem; float:right;"
|+ リバーシの初期配置
|
{{Othello diagram
| none
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | | | | | |
<!-- 4 --> | | | |O|X| | |
<!-- 5 --> | | | |X|O| | |
<!-- 6 --> | | | | | | | |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| クロス(黒番)
}}
|
{{Othello diagram
| none
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | | | | | |
<!-- 4 --> | | | |O|O| | |
<!-- 5 --> | | | |X|X| | |
<!-- 6 --> | | | | | | | |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| パラレル(黒番)
}}
|
{{Othello diagram
| none
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | | | | | |
<!-- 4 --> | | | | | | | |
<!-- 5 --> | | | | | | | |
<!-- 6 --> | | | | | | | |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| オリジナル(黒番)
}}
|}
もっとも、初期配置に関しては、図の3つのルールが[[ローカルルール]]として併存しており、どのルールを採用するかは競技団体・競技者や開発メーカーによって違いがあった<ref name="jrf-rules">{{Cite web |title=Reversi Rules |publisher=日本リバーシ協会 |date=2000-04-05 |url=http://www.reversi.net/reversi/rulej.html |accessdate=2020-03-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20010217102329/http://www.reversi.net/reversi/rulej.html |archivedate=2001-02-17}}</ref>{{Efn|例えば、市販の源平碁(リバーシ)に添付されたルール説明を確認すると、パラレルとなっているもの<ref>{{Cite web|和書|author=鰍工房康魚 |title=骨董市で見つけた源平碁の小箱 |website=鰍工房 手作り小品工芸 工作日記 |date=2011-10-14 |url=https://kazika-koubou.at.webry.info/201110/article_9.html |accessdate=2020-03-23}}</ref>、クロスとなっているもの<ref>{{Cite web|和書|author=坂口和大 |title=坂口和大が所有している源平碁は3種類になった |website=オセロ九段、第21期オセロ名人位、坂口和大のブログ |date=2018-09-23 |url=https://ameblo.jp/sakaguchiothello/entry-12406836985.html |accessdate=2020-03-23}}</ref>の双方が確認できる。}}。なお、クロス・ルールを採用した場合(『世界遊戯法大全』など)には現在のオセロと完全に同一のルールとなる。
石の色については、黒白のものもあったが<ref>{{Cite book |language=en |last=Bell |first=R. C. |title=Board and Table Games from Many Civilizations |volume=1 |edition=2 |publisher=Oxford University Press |year=1969 |pages=74-75 |url=https://archive.org/details/B-001-002-771/page/n107/mode/2up |accessdate=2020-03-23}}</ref>、世界的には黒赤が主流となり、日本では源平になぞらえて主に[[紅白]](赤白)の石を使った<ref name="kusaba-2020">{{Cite journal |和書 |author=草場純 |title=フェアリーゲーム (4) -オセロバリエーション |journal=数学セミナー |volume=59 |issue=2 |publisher=日本評論社 |date=2020-02 |pages=82-83 |issn=03864960}}</ref>。
リバーシは、早くから日本にも輸入され、「'''源平碁'''」という名前で発売された<ref name="kato">{{Cite encyclopedia |editor=加藤周一 |title=オセロ |encyclopedia=世界大百科事典 |edition=2 |publisher=日立デジタル平凡社 |date=1998-10-23 |isbn=9784582041019}}</ref>{{R|takahasi}}<ref>{{Cite web|和書|title=ポータブル リバーシ(スタンダード) |work=商品案内 |publisher=ハナヤマ |url=https://www.hanayamatoys.co.jp/product/category/game/portable/portable-reversi-standard.html |accessdate=2020-03-23}}</ref>。なお、名称は「源平碁」であるが、[[碁石]]ではなく表裏が別の色に塗り分けられた通常通りのリバーシの石でプレイされた<ref>{{Cite web|和書|author=坂口和大 |title=源平碁を触る、今日(2014年12月6日)のカルチャースクール(東急BE)オセロ教室 |website=オセロ九段、第21期オセロ名人位、坂口和大のブログ |date=2014-12-06 |url=https://ameblo.jp/sakaguchiothello/entry-11961484015.html |accessdate=2020-03-23}}</ref>。
リバーシ(源平碁)は現在のオセロとよく似たゲームである{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=136-139}}。しかし、現在のオセロほどの支持を得ることはできず、忘れられた存在となっていった{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=136-139}}。オセロ発売当初の説明によれば、'''長谷川は幼少期に兄がプレイしているのを見てリバーシのことを知った'''{{Sfn|長谷川五郎|1973}}。そして、忘れられたゲームだったリバーシの道具を1970年頃に東京で改良して復活させたものがオセロである{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=136-139}}{{Sfn|長谷川五郎|1973}}。
=== 挟み碁 ===
[[File:Go board part.jpg|thumb|囲碁の盤と石]]
近年の長谷川の主張によれば、オセロのルーツは、[[第二次世界大戦]]が終わって間もない1945年の夏に[[水戸市|茨城県水戸市]]で長谷川が考案した簡易[[囲碁]]ゲーム'''挟み碁'''である{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}{{Efn|日本オセロ連盟のサイトには長谷川の談話として「[[黒板]]をおいた青空授業が9月から始まりました。オセロの原型はそういう環境の下に生まれました。」と記載されている<ref>{{Cite web|和書|author=長谷川五郎 |title=オセロ誕生秘話 (1) -生い立ち |work=コラム |publisher=日本オセロ連盟 |url=https://www.othello.gr.jp/column/1028 |accessdate=2020-03-23}}</ref>。}}。
長谷川によれば、当時の長谷川と同級生たちは'''相手の石を囲んだら取れる'''という囲碁のルールがよく分からなかった{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}。そこで、長谷川の発案により、'''相手の石を挟んだら取れる'''という簡易ルールで遊んでいた{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}。その後、石を取るのではなく、相手の石を挟んだら自分の石と置き換えるというルールに改良し、現在のオセロに近いものとなった{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}。さらに、自分の石と置き換える作業を簡単にするため、碁石ではなく表裏を黒白に塗り分けた紙の石を裏返すというアイデアに至った{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}。
挟み碁には「挟んだら裏返す」という基本原理以外に定まったルールはなかった{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}。盤面は長谷川が自作した8×8、8×9、9×10、八角形など多様な形状のものを使用し、「複数の石を挟んだときも裏返せる石は1個のみ」あるいは「挟んだ石のうち裏返したくない石は裏返さなくていい」など、そのときどきで様々なルールを採用してプレイしていた{{Sfn|長谷川五郎|2005}}。
長谷川は、中学・高校・大学で級友とこのゲームを楽しんでいたが、大学卒業によって遊ぶ機会がなくなり、挟み碁は一旦姿を消すことになった{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}{{Efn|高校卒業によって消滅したとする資料もある<ref name="rpl">{{Cite book |和書 |editor=レトロ商品研究所 |title=国産はじめて物語 (2) -1950〜70年代編-戦後の日本を魅了したヒット商品の誕生秘話 |publisher=ナナ・コーポレート・コミュニケーション |date=2004-07 |page=143 |isbn=9784901491204}}</ref>。}}。
これが2000年頃から長谷川が主張するようになったオセロの起源である。
=== オセロの成立 ===
[[File:Nagoya Milk Cap 20140604.JPG|thumb|牛乳瓶の紙蓋]]
1964年当時、[[東京都]]で[[中外製薬]]の営業担当として仕事をしていた長谷川は、同僚の女子社員たちから何かゲームを教えて欲しいと頼まれた{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}{{Efn|オセロ開発のきっかけについて、『オセロゲームの歴史』{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}ではこのように説明しているが、取引先の病院との商談の際に囲碁よりも短時間でできるゲームが必要だったためとしている文献もある<ref>{{Cite journal |和書 |title=医薬品のセールスマンが考案したオセロゲームは、源平碁をもとにした世界的大ヒット発明だ |journal=太陽 |volume=18 |issue=5 |publisher=平凡社 |date=1980-05 |doi=10.11501/1792392}}</ref>。長谷川の発言が一定していないため、真相は不明である。}}。長谷川は[[囲碁]]・[[将棋]]ともに五段の腕前を誇り、最初はこれらのゲームを教えたが、難しすぎるとのことで上手く行かなかった{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}{{Sfn|長谷川五郎|1973}}。また、妻にも囲碁を教えたが、これも上手く行かなかった{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}{{Sfn|長谷川五郎|1973}}。そんな折に少年時代の記憶にあったリバーシもしくは挟み碁のことを思い出した{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}{{Sfn|長谷川五郎|1973}}。そこで、自宅で妻と家庭の[[牛乳瓶]]の紙蓋{{Efn|なお、オセロの石のサイズ(約34.5ミリメートル)は、牛乳瓶の紙蓋とほぼ同じである。これは、当初牛乳瓶の紙蓋を利用してプレイしていたことに由来する{{Sfn|長谷川五郎|1973}}。}}を集めて石を自作し、女子社員たちにルールを教えたところ、彼女らが昼休みにこのゲームを楽しむようになった{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}。
さらに、営業先の[[病院]]でもこのゲームを紹介したところ、入院中の患者の時間潰しや[[リハビリテーション]]に使えるとのことで好評を博した{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}<ref>{{Cite web|和書|author=長谷川五郎 |title=オセロ誕生秘話 (2) -オセロゲームの歴史はファンと共に歩むことによって作られて行った |work=コラム |publisher=日本オセロ連盟 |url=https://www.othello.gr.jp/column/1446 |accessdate=2020-03-23}}</ref>。長谷川が担当していたある病院の医局長からは「このゲームは社会復帰を目指す患者のリハビリに適し華がある」と太鼓判を押されたという{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}{{Efn|このような経緯により、病院関係者の中にはオセロ製品化前からファンができており、第1回全日本オセロ選手権大会は彼ら病院関係者らが集まって開催された<ref name="wakui-toyagain7">{{Cite interview |和書|subject=和久井威 |interviewer=野口智弘 |title=オセロ (1) -パッケージにタバコ? 大人向けだったオセロ |work=あの素晴しいトイをもう一度 (7) |publisher=マイナビ |series=マイナビニュース |date=2007-02-20 |url=http://news.mynavi.jp/column/toyagain/007/ |accessdate=2020-03-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170519200530/http://news.mynavi.jp/column/toyagain/007/ |archivedate=2017-05-19}}</ref>。}}。
手応えを覚えた長谷川は、仲間たちとともに実験・研究を繰り返し、このゲームをさらに改良することにした。当初長谷川は自作の8×9の盤を使っていたが、1970年10月に[[メルク (ドイツ)|メルク]]([[西ドイツ]]の製薬会社)から[[チェス]]セットが日本の薬品関係者に贈られると、8×8のチェスボードを採用して、チェスボードに合った牛乳瓶の紙蓋を使用するようになった{{Sfn|井上博|1977|p=66}}。さらに、当初長谷川は間接挟みでも石を返すという現在よりもやや複雑なルールを採用していたが、直接挟みのみに限定した簡明なルールに変更した{{Sfn|井上博|1977|p=66}}{{Efn|なお、近年の長谷川は、1964年に同僚の女子社員に教えた時点から現在と同じ8×8盤を使用していたと主張している{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}。}}。これにより、'''1970年頃、東京で現在のオセロと同様のゲームが完成した'''{{Sfn|井上博|1977|p=66}}。
完成したゲームには、当初黒と白の石を[[ジャイアントパンダ]]に見立てて「ランラン・カンカン」という名前(上野動物園の[[カンカンとランラン]]に由来)が検討されていた<ref name="hasegawa-hiwa3">{{Cite web|和書|author=長谷川五郎 |title=オセロ誕生秘話 (3) -オセロファンのエネルギーがオセロのビックバンを作った!! |work=コラム |publisher=日本オセロ連盟 |url=https://www.othello.gr.jp/column/1780 |accessdate=2020-03-23}}</ref>が、長谷川の父親で旧制水戸高等学校(水高)の英国文学教授であった[[長谷川四郎 (英文学者)|長谷川四郎]]の発案で「オセロ」に変更された{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}。これは、英国文学の代表作である[[ウィリアム・シェイクスピア]]の[[戯曲]]『[[オセロー|オセロ]]』に由来する{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}。緑の平原が広がるイギリスを舞台にして、黒人の将軍・オセロと白人の妻・デズデモーナを中心に敵味方がめまぐるしく寝返るという戯曲のストーリーに、緑の盤面上で黒白の石が裏返って形勢が変わっていくゲーム性をなぞらえたものである{{R|hasegawa-hiwa3}}{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}。
=== 商品化とオセロブーム ===
1972年10月<ref>{{Cite press release |和書 |title=世界各国の代表がオセロ発祥のまち・水戸に集結! 日本での開催は10年ぶり! |publisher=メガハウス |date=2016-10-24 |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000193.000005808.html |accessdate=2020-03-23}}</ref>、長谷川が玩具メーカーのツクダにオセロを持ち込んだところ、これが認められ、商品化が決まった{{R|wakui-toyagain7}}{{Sfn|和久井威(協力)|2007}}。
商品化に先立ち、1973年1月には'''日本オセロ連盟'''が設立され、同年4月7日には'''第1回全日本オセロ選手権大会'''が開催された{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}{{Efn|ツクダの担当者だった和久井威によれば、第1回大会はそれまでに長谷川がオセロを教えた病院関係者らに向けた、オセロ製品化の発表会のようなものであり、一般人向けの大会は翌年の第2回大会から始まった{{R|wakui-toyagain7}}。}}。
同年4月25日{{R|hasegawa-hiwa3}}{{R|rpl}}に三越本店と伊勢丹本店で販売を開始し、4月29日{{Sfn|日本オセロ連盟(編)|1983|p=13}}<ref name="megahouse-history">{{Cite web|和書|title=オセロ誕生の秘密 |website=オセロ公式サイト |publisher=メガハウス |url=https://www.megahouse.co.jp/othello/history/ |accessdate=2020-03-23}}</ref>に全国で「オフィシャルオセロ」が発売された{{Efn|長谷川五郎は4月25日に発売されたと主張しているが{{R|hasegawa-hiwa3}}、メガハウスは4月29日に発売されたと主張している{{R|megahouse-history}}。}}。ツクダの商品企画部門の責任者だった和久井威によると、当時玩具に対してキャラクター以外の[[ロイヤルティー]]を払うという意識が業界にはほとんどなく、オセロについても[[特許|特許権]]や[[実用新案権]]は取得されていなかった{{Efn|長谷川は「源平碁」として実用新案の出願をしたが、権利を取得することはできず、拒絶査定が確定している<ref name="jpo-s47_001276">{{Cite journal |和書 |author=特許庁 |coauthors=長谷川敏 |title=実全昭47-001276 |journal=実用新案公報 |publisher=発明協会 |year=1972 |url=https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1800/PU/JP-S47-001276/B8CE79868524DDC1629D8BE834C0770DFBFEC35B650D6A9FC5C52E8421ADE78C/23/ja |accessdate=2020-03-26}}</ref>。}}が、ツクダのオーナーは「おもちゃはアイデアだから」と支払を認めたという{{Sfn|和久井威(協力)|2007}}。玩具業界には子供向けのボードゲームは4人以上で遊べるべきという意識があったため、2人用ゲームであるオセロは大人をターゲットとして、パッケージ表面には[[たばこ]]や[[ライター]]を写したデザインが採用された{{R|wakui-toyagain7}}。価格は2200円に設定された{{Sfn|和久井威(協力)|2007}}<ref name="wakui-toyagain8">{{Cite interview |和書|subject=和久井威 |interviewer=野口智弘 |title=オセロ (2) -最初はたった3,000個、オイルショックを乗り越え世界へ |work=あの素晴しいトイをもう一度 (8) |publisher=マイナビ |series=マイナビニュース |date=2007-02-28 |url=http://news.mynavi.jp/column/toyagain/008/ |accessdate=2020-03-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170519201351/http://news.mynavi.jp/column/toyagain/008/ |archivedate=2017-05-19}}</ref>。
初期ロットは在庫を残さないよう3,000個で、経費の都合でテレビCMも打たなかったものの、[[百貨店]]の店頭などで実演販売をすると着実に売れていった{{Sfn|和久井威(協力)|2007}}{{R|wakui-toyagain8}}。これに自信を得た和久井がその年の年末商戦に向けてテレビCM{{Efn|[[ドンキーカルテット]]のジャイアント吉田を起用{{R|wakui-toyagain8}}。}}を製作したところ、オンエア後の10月からの3か月間で38万個、翌1974年に120万個以上{{Efn|和久井は2年目(1974年)の販売個数について、『トイジャーナル』{{Sfn|和久井威(協力)|2007}}では「160万個」、『マイナビニュース』{{R|wakui-toyagain8}}では「120万個」と述べている。}}、1975年に280万個が売れる大ヒット商品となった{{Sfn|和久井威(協力)|2007}}{{R|wakui-toyagain8}}<ref>{{Cite web|和書|title=1973年(昭和48年)流行・出来事 |website=年代流行 |url=https://nendai-ryuukou.com/1970/1973.html |accessdate=2020-03-23}}</ref>。『日経流通新聞』(現『[[日経MJ]]』)の[[ヒット商品番付]]では、1973年、1974年と2年連続で「[[大関]]」に選出された{{R|wakui-toyagain8}}。
1977年に[[アメリカ合衆国]]でも発売され、その年のうちに100万個が売れたという{{R|wakui-toyagain8}}。この年から、世界オセロ選手権大会も始まった{{Sfn|長谷川五郎|2005}}。
ツクダの玩具製造部門は1974年からツクダオリジナルとして独立。2002年、ツクダオリジナルは[[バンダイ]]の子会社となり、2003年3月には和久井が経営する[[ワクイコーポレーション]]と経営統合して[[パルボックス]]となった。さらに2005年には、パルボックスは[[バンダイ]]の子会社[[メガハウス]]に統合され、2020年現在はメガハウスがオセロを販売している{{R|megahouse-what}}。なお、アメリカ合衆国ではゲイブリルが最初の販売元だったが{{R|wakui-toyagain8}}、その後数社の変遷を経て、2007年時点では[[マテル]]が欧米での販売権を所有している{{R|wakui-toyagain8}}。
和久井によると、2007年時点でもオセロは年間40から50万個は売れ続けているという{{Sfn|和久井威(協力)|2007}}。
== オセロとリバーシ ==
=== オセロとリバーシの違い ===
{| class="wikitable" style="font-size:small; margin:1rem;"
|+ オセロとリバーシの違い(再掲)
! ゲーム名 !! 最初期の文献(出典) !! 開発年・開発者・発売元 !! 石の色 !! 盤面の形状 !! 初期配置 !! 複数石挟み !! 着手不能時 !! 着手回数制限
|-
! リバーシ(19世紀)
| Reversi and Go Bang<br />(1890年){{Sfn|Berkeley|1890}} || 1883年(ロンドン)<br />ルイス・ウォーターマン<br />ジャック・アンド・サン || {{Draw|{{Ubl|黒白|黒赤|赤白}}}} || {{Yes2|8×8の正方形}} || {{No2|オリジナル}} || {{Yes2|全部裏返す}} || {{Yes2|パス}} || {{No2|32手}}
|-
! リバーシ(20世紀)
| 世界遊戯法大全<br />(1907年){{Sfn|松浦政泰|1907}} || 1900年頃<br />不明<br />多数 || {{Draw|{{Ubl|黒白|黒赤|赤白}}}} || {{Yes2|8×8の正方形}} || {{Draw|{{Ubl|クロス|パラレル|オリジナル}}}} || {{Yes2|全部裏返す}} || {{Yes2|パス}} || {{Yes2|無制限}}
|-
! オセロ
| オセロの打ち方<br />(1974年){{Sfn|長谷川五郎|1974}} || 1970年頃(東京)<br />長谷川五郎<br />ツクダ || {{Yes2|黒白}} || {{Yes2|8×8の正方形}} || {{Yes2|クロス}} || {{Yes2|全部裏返す}} || {{Yes2|パス}} || {{Yes2|無制限}}
|}
{| class="wikitable" style="font-size:small; margin:1rem; float:right;"
|+ リバーシの初期配置(再掲)
|
{{Othello diagram
| none
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | | | | | |
<!-- 4 --> | | | |O|X| | |
<!-- 5 --> | | | |X|O| | |
<!-- 6 --> | | | | | | | |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| クロス(黒番)
}}
|
{{Othello diagram
| none
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | | | | | |
<!-- 4 --> | | | |O|O| | |
<!-- 5 --> | | | |X|X| | |
<!-- 6 --> | | | | | | | |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| パラレル(黒番)
}}
|
{{Othello diagram
| none
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | | | | | |
<!-- 4 --> | | | | | | | |
<!-- 5 --> | | | | | | | |
<!-- 6 --> | | | | | | | |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| オリジナル(黒番)
}}
|}
'''リバーシ'''(Reversi、レヴァルシー、源平碁)は、オセロ発売以前からあるほぼ同様のゲームである<ref name=parlett>{{Cite book |language=en |last=Parlett |first=David |title=The Oxford History of Board Games |publisher=Oxford University Press |year=1999 |isbn=9780192129987}}</ref>{{R|kusaba-2020}}。リバーシは、[[19世紀]]と[[20世紀]]でわずかに異なる(細かい変遷については、[[#歴史|歴史の節]]を参照)。
20世紀のリバーシは、石の色について黒白、黒赤、赤白という3パターンの配色があり、初期配置についてクロス、パラレル、オリジナルという3種類の[[ローカルルール]]が存在した{{R|jrf-rules}}。オセロは、このうち、石の色に黒白、初期配置にクロスを採用したものと同一である{{R|parlett}}。黒白の石{{Sfn|Berkeley|1890|pp=4-13}}、クロス配置{{Sfn|松浦政泰|1907}}はともに1907年以前の文献に掲載されており、オセロが初出ではない。
なお、「リバーシは盤面の大きさが自由であった」「リバーシはパスができなかった」などとされることがある<ref>{{Cite web|和書|title=「オセロ」と「リバーシ」は実は違うゲーム! その違いはなに? 起源とともに紹介! |website=FUNDO |publisher=リプルゼ |date=2019-07-27| url=https://fundo.jp/257160 |accessdate=2020-03-24}}</ref>が、誤りである。実際には、1890年刊行の最初期の解説書の時点から「'''盤面は8×8の正方形'''{{Efn|公式の盤面は8×8だったが、後に「パーフェクトリバーシ」という名称で10×10、「オクトリバーシ」という名称で八角形のバリエーションも考案された<ref>{{Cite web |title=What's Reversi? |publisher=日本リバーシ協会 |date=2000-04-05 |url=http://www.reversi.net/reversi/indexj.html |accessdate=2020-04-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20010216174809/http://www.reversi.net/reversi/indexj.html |archivedate=2001-02-16}}</ref>。なお、オセロも「グランドオセロ」{{Sfn|長谷川五郎|2006|p=278}}「エイトスターズオセロ」{{Sfn|長谷川五郎|2006|p=279}}という名称で全く同様のバリエーションを発売していた。}}」「'''打てる箇所がない場合はパス'''」というルールが定められており、この点は現在のオセロと同一である{{Sfn|Berkeley|1890|pp=4-13}}。
=== オセロとリバーシの関係性 ===
オセロは、リバーシよりも後発のゲームであり、そのルールは初期配置クロス・ルールを採用したリバーシと完全に同一である{{R|parlett}}。そのため、オセロは先行するリバーシに依拠して開発されたのか、リバーシに依拠しているならば別ゲームと言えるほどの違いがあるのかという点がしばしば議論される{{R|kusaba-2020}}。オセロ開発者の[[長谷川五郎]]の説明が一貫しないことから明確な結論は出ておらず、オセロとリバーシの関係性およびオセロ発祥の地については、以下の3つの見解がある。
; オセロはリバーシの商品名の一つ(ロンドン発祥説)
: リバーシをプレイするために開発された新しい用具の商品名がオセロであるとする見解である{{R|jrf-history}}{{R|kato}}。この見解に立った場合、オセロで初期配置がクロスに限定されていることは、同一ゲーム内のローカルルールの変化にすぎず、ゲームとしては[[ロンドン]]発祥のリバーシの範疇に含まれるということになる。
; オセロはリバーシを改良した新ゲーム(東京発祥説)
: リバーシが改変されて成立した新しいゲームの名称がオセロであるとする見解である{{Sfn|長谷川五郎|1973}}<ref name="skogen">{{Cite web |language=en |last=Skogen |first=Tor Birger |title=Goro Hasegawa in Memorian |publisher=World Othello Federation |date=2016-07-01 |url=http://www.worldothello.nu/?q=content/goro-hasegawa-memorian |accessdate=2020-03-26}}</ref>。この見解は、オセロはリバーシに依拠しているものの、1970年頃東京都での長谷川のゲーム研究によって、名称・用具・環境が整備され、初期配置がクロスに限定されたことでゲームとしての本質的な部分が変化し、リバーシとは区別される新ゲームが完成したと考える。
; オセロはリバーシとは独立に考案された類似ゲーム(水戸発祥説)
: オセロはリバーシとは関係なく戦後1945年に[[水戸市]]で長谷川が挟み碁として独立に考案した全く別のゲームであるとする見解である{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}{{R|megahouse-history}}。この見解によれば、リバーシとの類似は偶然ということになる。なお、'''挟み碁'''というゲームの存在を裏付ける根拠は、2000年以降の長谷川の発言以外になく、他の見解の立場からは、'''史実でない'''とされている(詳細は後述)。
=== オセロの独自性論争 ===
長谷川は、1973年に[[ツクダオリジナル|ツクダ]]からオセロを発売した当初、リバーシの影響下にあること自体は認めたうえで、改良による独自性をアピールし、新ゲームとしてこれを宣伝した{{Sfn|長谷川五郎|1973}}{{R|yomiuri}}{{R|izawa}}<ref>{{Cite journal |和書 |title=新ゲーム・オセロの売れっぷり |journal=実業の日本 |volume=77 |issue=5 |publisher=実業之日本社 |date=1974-03 |page=23 |doi=10.11501/2270347}}</ref>。長谷川は1973年の雑誌記事でオセロ開発の経緯について以下のように記し、源平碁(リバーシ)を土台にゲームを改良したと明言している。
{{Quotation|何か原型になるものはないか? そのとき私は、兄が30年以上も前の小学生時代に'''源平碁'''をやっていたことを思い出した。{{Interp|和文=1|中略}}現在は滅びてしまったが、'''これを土台に改良'''すればいけると直感した。|長谷川五郎(1973年)|{{Sfn|長谷川五郎|1973}}}}
1981年の著書『オセロの打ち方』でも、長谷川はリバーシがオセロの原型であると認めたうえで、ゲームの面白さは、ルールが3分の1、'''名称・用具・環境など'''の要素が3分の2を占めることを指摘し、後者が不十分であったリバーシは子供の玩具以外の何物でもなかったが、オセロはすべてを整備して大人でも遊べるゲームとして完成させたものであるとアピールしている{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=136-139}}。
これに対し、複数の専門家がオセロはリバーシと別のゲームと言いうるほどの独自性はなく、リバーシの商品名の一つにすぎないと指摘し、新ゲームとして喧伝されていることに批判的な見解を示した。
小説家の[[都筑道夫]]は、オセロ発売直後に疑問を抱いて独自の調査を行い、娯楽研究家である[[矢野目源一]]の著書『娯楽大百科』<ref>{{Cite book |和書 |editor=矢野目源一 |title=娯楽大百科 |publisher=金園社 |series=実用百科選書 |year=1954 |page=135 |oclc=673431541}}</ref>の記述などに基づいて、オセロはリバーシとそのまま同一のゲームであるといち早く指摘した{{Sfnm|1a1=都筑道夫|1y=1975|1pp=147-148|2a1=都筑道夫|2y=2012|2pp=124-125}}{{R|izawa}}。都筑は、ツクダが海外輸出を目指していることに触れ、以下のようにオセロを批判している。
{{Quotation|碁将棋をしのぐ日本の新しいゲーム、なぞとむこうへ持っていったら、なんだ、珍しくもない、リヴァースィじゃないか、といわれるだけだろう。|都筑道夫|{{Sfnm|1a1=都筑道夫|1y=1975|1pp=144-146|2a1=都筑道夫|2y=2012|2pp=122-123}}}}
小説家でパズル・ゲーム研究家の[[田中潤司]]は、都筑に対して、リバーシは昔から日本でも源平碁として親しまれており、1968年(オセロ発売の5年前)の[[ハナヤマ]]の商品カタログにも掲載されているという事実を紹介した{{Sfnm|1a1=都筑道夫|1y=1975|1pp=144-146|2a1=都筑道夫|2y=2012|2pp=122-123}}。田中は、以下のように述べ、発売元のツクダが長谷川にロイヤルティーを支払ったことについて疑問を呈している。
{{Quotation|あれは源平碁ですよ。{{Interp|和文=1|中略}}だいたい、昔からあるものを、発売元が知らないのが、おかしいんですよ。|田中潤司|{{Sfnm|1a1=都筑道夫|1y=1975|1pp=144-146|2a1=都筑道夫|2y=2012|2pp=122-123}}}}
アメリカ合衆国の数学者でパズル・ゲーム研究家の[[マーティン・ガードナー]]は、オセロがアメリカ合衆国で発売された年に、[[サイエンティフィック・アメリカン]]の連載「数学ゲーム」の中で以下のように記し、わざわざ高額のオセロを購入しなくても同じゲームがプレイできると読者にアドバイスしている。
{{Quotation|Othello is the 19th-century English board game of reversi with nothing altered except the name.<br />(オセロは名前以外に何一つ変わりがない19世紀イギリスのボードゲーム・リバーシだ)|マーティン・ガードナー|<ref name="gardner">{{Cite journal |language=en |last=Gardner |first=Martin |title=Mathematical Games |journal=Scientific American |volume=236 |issue=4 |publisher=Scientific American |date=1977-04 |doi=10.1038/scientificamerican0477-129}}</ref>}}
なお、長谷川はオセロ発売前の1971年にオセロの実用新案を出願(のちに拒絶査定が確定)しているが、その出願書類の中では、日本では半世紀にわたって源平碁が行われているとの見解を示したうえで、自身の新案を源平碁用具(石、盤、計算表)の改良であると説明し、'''「源平碁」という名称で出願'''をしている{{R|jpo-s47_001276}}。
また、リバーシとオセロのルール上の唯一の違いである、クロス配置への限定については、肯定的な評価も否定的な評価も存在する。元オセロ世界チャンピオンのベン・シーリーは、パラレル配置では白番が完勝してしまう展開があるが、クロス配置では黒白の利点が拮抗して引き分けに至る展開が多いことを指摘し、クロス配置を採用した長谷川を高く評価している<ref>{{Cite web |language=en |last=Seeley |first=Ben |title="Reversi" versus Othello |publisher=World Othello Federation |date=2015-05-19 |url=http://worldothello.nu/?q=content/reversi-versus-othello |accessdate=2020-03-26}}</ref>。一方、ゲーム研究家の[[草場純]]は、クロス配置がパラレル配置に劣る理由として、初期配置の状態で180度回転させても同じだから上下が区別できなくなってしまう点、初手がすべて対称形なので選択の余地がない無意味な一手になってしまう点を指摘し、長谷川が初期配置をクロスに限定したことを「オセロはリバーシの改悪」と断じ、厳しく批判している{{R|kusaba-2020}}<ref>{{Cite tweet |author=草場純 |title=ただしオセロはリバーシの改悪なので、現在はリバーシ配置で打っています |date=2019-03-23 |user=kusabazyun |number=1109318099948298240 |accessdate=2020-03-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=草場純 |title=ゲームの受容とゲーム文化 |website=ゲーム研究家・草場純さんの研究を収集するサイト |publisher=くぼた屋 |date=2008-01-06 |url=http://kusabazyun.banjoyugi.net/Home/reproductioned/theory/bunka |accessdate=2020-03-26}}</ref>。
=== オセロの商標とその影響 ===
ゲームとしての独自性の有無はともかくとして、長谷川の構築した名称・用具・環境を伴うブランド力によってオセロは全世界に普及した{{R|parlett}}。オセロの認知度が向上するに伴い、次第にリバーシ自体が'''オセロの影響'''を受けるようになった<ref name="usoa">{{Cite web |language=en |title=FAQs |publisher=United States Othello Association |url=http://usothello.org/faq/ |accessdate=2020-03-27}}</ref>。
20世紀のリバーシにはクロス、パラレル、オリジナルの3つの初期配置ルールが存在することは前述したが、現代ではパラレルやオリジナルのルールでプレイされることはほとんどなく、オセロと同様のクロス配置が主流となっている{{R|usoa}}。また、石の色も黒白、黒赤、赤白の3パターンがあったが、こちらも現代ではオセロと同じ黒白が主流となっている{{R|parlett}}。つまり、もはや両者に違いはなく、実質的に'''リバーシはオセロの別名'''と言いうる状況となっている{{R|parlett}}。
これは、オセロの[[商標権]]を持つツクダ(ツクダオリジナル、パルボックス、メガハウス)以外の各社が、商標権との抵触を避けつつオセロと同様の商品を販売するためにリバーシの名を借りたためである{{R|usoa}}。1973年のオセロ発売当初、「オセロ」という商品名は商標として、黒白の石や緑の盤面などのデザインは意匠として、ともにツクダによって登録され、権利保護の対象となっていた。その後、[[意匠権]]は保護期間の20年が満了したため、他社も同一のデザインを使用することができるようになったが、商標権はなおも保護が続いている{{Sfn|和久井威(協力)|2007}}。そこで、他社は、オセロはリバーシの商品名の一つであるとする見解に基づき、「リバーシ」の商品名でオセロと同一デザインの商品を発売するのが一般的となっているのである{{R|usoa}}。
1999年には、日本最大手のオセロ情報サイトを運営していた元タイトルホルダーのオセロ選手に対し、ツクダオリジナルが'''商標権侵害'''であるとして内容証明郵便を送り付けたことがきっかけとなって<ref>{{Cite web |author=中島哲也 |title=内容証明郵便送付事件 |website=Othello! JAPAN |date=1999-08-08 |url=http://www.othello.org/copyright/ |accessdate=2020-03-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/19990825111328/http://www.othello.org/copyright/ |archivedate=1999-08-25}}</ref><ref name="hasera-2020">{{Cite tweet |author=hasera |title=なぜそんなことになったかというと、中島氏がオセロの商標無断使用と言われて訴えられそうになったからです |date=2020-03-16 |user=hasera |number=1239566511359979521 |accessdate=2020-03-27}}</ref>、日本で商標権のないリバーシに着目する動きが広まり、元タイトルホルダー4名を含む多数の高段者たちが集まって日本リバーシ協会を設立した<ref>{{Cite web |title=Japan Reversi Federation |publisher=日本リバーシ協会 |date=2000-04-05 |url=http://www.reversi.net/federation/indexj.html |accessdate=2020-03-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20010205045100/http://www.reversi.net/federation/indexj.html |archivedate=2001-02-05}}</ref>{{R|jrf-history}}。日本リバーシ協会の理事に対して「リバーシ禁止—オセロ連盟を除名」と題した脅迫状が送り付けられる事件が発生し<ref>{{Cite web|和書|author=hasera |title=地獄の道化師からの脅迫(?)状 |url=https://www.hasera.net/othello/doukeshi.html |accessdate=2020-03-22}}</ref>、日本オセロ連盟の一部幹部からは、リバーシはオセロと敵対するゲームであるとして日本リバーシ協会を排斥する主張がなされたとされる<ref>{{Cite web|和書|author=長谷川彰 |title=リバーシとオセロは敵対するゲーム? |url=http://www.dab.hi-ho.ne.jp/hasera/reversi/shucho02.html |accessdate=2020-03-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20010707054806/http://www.dab.hi-ho.ne.jp/hasera/reversi/shucho02.html |archivedate=2001-07-07}}</ref>。その後、日本リバーシ協会は活動を停止した{{R|hasera-2020}}。
なお、日本の公共放送[[日本放送協会|NHK]]では、オセロの商標を避けるために「'''黒と白の石を取り合うゲーム'''」などと言い換えて報道していたことがある{{Efn|オセロ発売から5年後の1978年には「オセロゲーム」<ref>{{Cite web|和書|title=600こちら情報部「やった!! オセロゲーム世界一」〈こどもニュースネット〉 |work=NHKクロニクル |publisher=NHK |url=https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A197811141800001300100 |accessdate=2020-06-12}}</ref>、2006年には「黒と白の石を取り合うゲーム」<ref>{{Cite web|和書|author=道浦俊彦 |title=とっておきの話 |work=平成ことば事情 |publisher=読売テレビ |date=2006-09-14 |url=https://www.ytv.co.jp/announce/kotoba/back/1501-1600/1536.html |accessdate=2020-06-12}}</ref>、2016年と2018年には「オセロ」<ref>{{Cite news |和書 |title=『オセロ』を考案 長谷川五郎さん死去 |newspaper=NHK |date=2016-06-23 |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160623/k10010568251000.html |accessdate=2020-06-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160626121538/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160623/k10010568251000.html |archivedate=2016-06-26}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=『オセロ』発祥の水戸市で世界大会始まる |newspaper=NHK |date=2016-11-02 |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161102/k10010753221000.html |accessdate=2020-06-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161103132722/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161102/k10010753221000.html |archivedate=2016-11-03}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=世界オセロ優勝の11歳福地さん 帰国便機長が前記録保持者 |newspaper=NHK |date=2018-10-16 |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20181016/k10011673501000.html |accessdate=2020-06-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20181017053131/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20181016/k10011673501000.html |archivedate=2018-10-17}}</ref>と報道している。}}。2022年10月7日に[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]で放送された「[[チコちゃんに叱られる!]]」では「オセロはなぜ白と黒か」を扱い、番組内で終始「オセロ」と表現した。
2014年にリリースされたスマートフォン向けアプリの「リバーシ大戦」は、メガハウスの許諾を得て2018年に「[[クエストシリーズ#オセロクエスト|オセロクエスト]]」に改称した<ref>{{Cite web|和書|title=棚瀬寧の2017年12月22日のツイート |url=https://twitter.com/tanasey/status/944072458994200578 |website=Twitter |accessdate=2022-02-12 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=棚瀬寧の2018年2月28日のツイート |url=https://twitter.com/tanasey/status/968831775664349187 |website=Twitter |accessdate=2022-02-12}}</ref>。
=== リバーシ依拠性論争 ===
[[File:Day after WOC2006.JPG|thumb|水戸で開催されたオセロ・イベントの様子]]
発売当初はリバーシの影響下にあることを公言していた長谷川だが、次第にそれを伏せるようになった{{R|gardner}}。そして、2000年頃、長谷川はリバーシとは無関係に1945年に水戸で自身が独立にゲームを考案したとする新たな見解を示した。当時、日本オセロ連盟のウェブサイトには「オセロの起源はリバーシ」と明記されていたが、連盟会長の長谷川が執筆した「戦後、水戸、碁石」という新しい文章に差し替えられた<ref>{{Cite web|和書|author=hasera |title=長谷川五郎氏のご冥福をお祈りいたします |website=othlog |date=2016-06-24 |url=http://othlog.hasera.net/archives/4179585.html |accessdate=2022-12-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200201083224/http://othlog.hasera.net/archives/4179585.html |archivedate=2020-02-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=hasera |title=オセロの起源に関する主張まとめ |website=othlog |date=2016-06-19 |url=http://othlog.hasera.net/archives/4065449.html |accessdate=2022-12-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200201082814/http://othlog.hasera.net/archives/4065449.html |archivedate=2020-02-01}}</ref>。長谷川は、この文章の中で以下のように主張した。
{{Quotation|オセロの原形は、1945年9月に茨城県水戸市で生まれました。{{Interp|和文=1|中略}}囲碁(相手の石を囲んだら取る)を良く知らない中1の生徒達のガヤガヤワイワイの中から、相手の石を挟んだら取るというルールが'''私の発案'''で生まれました。|長谷川五郎(2000年)|<ref>{{Cite web|和書|author=長谷川五郎 |title=オセロの歴史 |publisher=日本オセロ連盟 |url=https://www.othello.gr.jp/r_info/history/ |accessdate=2020-03-17}}</ref>}}
この件に関し、連盟HP委員として差し替え作業を担当したhaseraは次のように語っている。
{{Quotation|オセロが水戸発祥って2000年くらいに突然五郎さんが言い出して僕なんかは困惑した話なんですよ。それまでは1960年代にゲーム研究して1973年までに完成・発売したという話を信じてたのに、急に戦後の水戸発祥ってことになった。|hasera|{{R|hasera-2018}}}}
これ以降、オセロはリバーシとは独立に水戸で考案されたとする情報が広く拡散した{{Efn|雑学ライターの[[杉村喜光]]によると、2000年頃から突然一斉に雑学本でオセロが水戸発祥という雑学が語られるようになった<ref>{{Cite tweet |author=杉村喜光 |title=オセロの起源に関し「長谷川五郎さんが中学時代に碁石を使って→中外製薬時代に牛乳のフタを使って」という話が、2000年前後に雑学本で突然一斉に語られ始めた物なので、ちょいと怪しいと思っていましたが… |date=2020-03-18 |user=tisensugimura |number=1240203419412922369 |accessdate=2020-03-18}}</ref>。}}。
オセロ販売元の[[メガハウス]]は、2020年現在、オセロは長谷川が水戸で独立に考案したとする説を採っている{{R|megahouse-history}}。水戸市は、同説に基づき、「オセロ発祥の地」を自称し、オセロにまつわる様々なイベントを開催している<ref>{{Cite web|和書|title=オセロNewsみと |publisher=水戸市 |date=2020-03-11 |url=https://www.city.mito.lg.jp/001373/geijutubunnka/othello/p021015.html |accessdate=2020-03-25}}</ref><ref>{{Cite web |language=id |last=Susilo |first=Richard |title=Awal Mula Permainan Othello dari Jepang, Penemunya Goro Hasegawa Gunakan Tutup Botol Susu |website=Tribunnews.com |publisher=Kompas Gramedia |date=2019-12-26 |url=https://www.tribunnews.com/internasional/2019/12/26/awal-mula-permainan-othello-dari-jepang-menggunakan-tutup-botol-susu-oleh-penciptanya-goro-hasegawa |accessdate=2020-03-25}}</ref>{{Efn|なお、1974年の長谷川の著書{{Sfn|長谷川五郎|1974}}には「オセロ発祥の地は中外製薬(長谷川が勤務していた東京の製薬会社)」と記載されている。}}。
一方、世界オセロ連盟は、2020年現在オセロの歴史に関する項を空欄にしており、態度を明らかにしていないが<ref>{{Cite web |language=en |title=Othello History |publisher=World Othello Federation |url=https://www.worldothello.org/about/about-othello/othello-history |accessdate=2020-03-17}}</ref>、長谷川が死去した2016年には、当時の世界オセロ連盟会長だったトール・ビルゲル・スコーゲンが、長谷川はリバーシに基づいてオセロを開発したとする見解を示しつつ長谷川に哀悼の意を示す声明を発表した{{R|skogen}}。
なお、オセロがリバーシに依拠して開発されたのかどうかはともかくとして、いずれにしても長谷川がオセロを発売した時点ですでにリバーシの開発者はこの世におらず、'''特に権利関係が問題視されることはない'''{{R|gardner}}。
== 戦術 ==
=== オセロ戦術の発展 ===
オセロは単純なルールでありながら、勝つためには頭脳、読み合い、駆け引きが要求される{{R|megahouse-what}}{{Sfn|長谷川五郎|1974}}。非常に多彩な戦術が知られており、「'''覚えるのに一分、極めるのに一生''' (A minute to learn, a lifetime to master)」{{Efn|製品の外箱での表記は「覚えるのは1分、極めるには一生」(ヴィクトリーオセロ)、「覚えるには1分、極めるには一生」(ジ オセロ)のように若干異なることがある。このフレーズは、オセロがアメリカ合衆国で発売された際に考案された{{Sfn|和久井威(協力)|2007}}。}}という言葉が[[キャッチフレーズ]]となっている{{Sfn|長谷川五郎|2011|p=21}}。
1890年のリバーシの解説書には、すでにいくつかの戦術が掲載されていた{{Sfn|Berkeley|1890|pp=13-55}}。隅の重要性や序盤での注意点など基本的な戦術が解説されている{{Sfn|Berkeley|1890|pp=13-55}}。さらに進んで、現在知られている詳細な戦術を体系的に整備したのは、オセロのパッケージを開発した[[長谷川五郎]]である{{Sfn|長谷川五郎|1974}}{{Sfn|井上博|1977}}。長谷川は、1974年に『オセロの打ち方』を著し、この中で、様々な棋譜とともに勝つための戦術を体系的に解説した{{Sfn|長谷川五郎|1974}}{{Sfn|井上博|1977}}。その後、オセロの流行とともに様々な強豪プレイヤーが自らの理論を書籍として出版し、オセロ戦術は日々進歩を遂げている{{Sfn|佐谷哲|2019|p=3}}。
ここでは、標準的な戦術書でよく解説される基礎的な概念を説明することで、オセロ戦術の全体像を概観する。
=== 定石 ===
{{Othello diagram
| left
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | | | | | |
<!-- 4 --> | | | |O|X| | |
<!-- 5 --> | | | |X|O|X| |
<!-- 6 --> | | | | | |O| |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| 定石(黒番)
}}
図は、序盤の3手目の局面である。ルール上、ここで黒番にはc4、d3、e6、f7の4つの選択肢がある。しかしながら、c4、d3、f7の進行は白番が正しく対応すればいずれも黒番必敗となることが判明しているため、初心者を除けば黒番は必ずe6と打つ{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=46-85}}{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=44-73}}。
このように、不利にならない手は限られているから、双方がある程度の実力を有していれば序盤の進行はいくつかの決まったパターンに収束しやすい{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=36-39}}{{Sfn|村上健|2011|p=89}}。そういったパターン化された進行を「'''[[定石]]'''」という{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=46-85}}{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=36-39}}{{Sfn|村上健|2011|p=89}}{{Sfn|井上博|1977}}。上級者同士の対局では、基本的な定石を双方が覚えたうえで、どの定石を選択するか、どこで定石から変化するかなど細かい駆け引きを行う{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=36-39}}{{Sfn|井上博|1977}}。
{{-}}
{| class="wikitable" style="font-size:small; margin:1rem; float:left;"
|
{{Othello diagram
| none
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | | |X| | |
<!-- 4 --> | | | |X|O|O| |
<!-- 5 --> | | |X|X|O|X| |
<!-- 6 --> | | | |O| | | |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| 兎定石(黒番)
}}
|
{{Othello diagram
| none
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | |X|O| | | |
<!-- 4 --> | | |X|X|X| | |
<!-- 5 --> | | | |O|X|X| |
<!-- 6 --> | | | |O| | | |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| 虎定石(黒番)
}}
|-
|
{{Othello diagram
| none
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | | | | | |
<!-- 4 --> | | | |O|X| | |
<!-- 5 --> | | |X|X|X|X| |
<!-- 6 --> | | | |O|O|O| |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| 牛定石(黒番)
}}
|
{{Othello diagram
| none
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | |X|X| | |
<!-- 4 --> | | | |X|X|O| |
<!-- 5 --> | | | |X|O|O| |
<!-- 6 --> | | | | | |O| |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| 鼠定石(黒番)
}}
|}
主要な定石には、盤上の石の形を動物などに見立てて、名前が与えられている{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=36-39}}{{Efn|これは、北海道代表選手の若松雅迪の発案による<ref>{{Cite web|和書|author=長谷川五郎|title=オセロ史を飾った百人の名選手の物語 (4) -日本のオセロから世界のオセロへ |work=コラム |publisher=日本オセロ連盟 |date=2003-04-01 |url=https://www.othello.gr.jp/r_info/100/004/ |accessdate=2020-03-22}}</ref>。}}。中でも、'''兎定石'''、'''虎定石'''、'''牛定石'''、'''鼠定石'''の4つは最も基本的なものであり、四大定石と呼ばれている{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=46-85}}{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=36-39}}。
兎定石は、比較的変化が少なく、王道を往く基本形が深く研究されているため、初級者にも好まれる{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=96-119}}{{Sfn|井上博|1977}}。
虎定石は非常に変化が多く、相手の研究を外す目的で上級者が好んで採用する{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=74-95}}{{Sfn|井上博|1977}}。
牛定石は、シンプルな展開からスリリングな展開まで様々な展開が考えられる{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=44-73}}{{Sfn|井上博|1977}}。
鼠定石は、現在では黒番が有利であることが判明しており、白番が避ける傾向にあるため、ほとんど打たれない{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=40-43}}。
{{-}}
=== 一石返しと中割り ===
{{Othello diagram
| left
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | |X|X|X|X| |
<!-- 4 --> | | |X|O|X|X| |
<!-- 5 --> | | |X|X|X|X|X|
<!-- 6 --> | | |X|X|X|O|X|
<!-- 7 --> | | | | |X|X| |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| 失敗例(黒番)
}}
図の局面は一見すると黒石がとても多く、初心者には黒番がリードしているように見えるかもしれない。しかし、黒番はここでg7以外に打てる箇所がない。そこで仕方なく黒番がg7に打つと白番がh8の隅を取れる状態になるから、黒番は圧倒的不利となる。
このように、オセロでは序盤・中盤の局面で石が多いからといって必ずしも有利というわけではない{{Sfn|村上健|2011|pp=44-45}}。多くの場合はその逆であり、石が多すぎる側は不利となる{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=86-95}}{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=27-33}}{{Sfn|村上健|2011|pp=44-45}}{{Sfn|井上博|1977}}。オセロは相手の石を挟まなければ着手できないため、相手の石が少なかったり、相手の石が自分の石で囲まれていたりすると、着手可能な箇所が少なくなり、本来打ちたくない箇所に打つしかなくなってしまうのである{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=27-33}}。逆に言えば、序盤・中盤では、石を取りすぎず、自分の石が相手の石に囲まれた状態を目指すのが基本となる{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=27-33}}{{Sfn|井上博|1977}}。
{{-}}
{{Othello diagram
| left
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | |X|X| | |
<!-- 4 --> | | | |X|X|O| |
<!-- 5 --> | | |X|O|O|O| |
<!-- 6 --> | | |O|O| |O| |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| 一石返し・中割(黒番)
}}
例えば、図は兎定石の9手目の局面であるが、ここで黒番の定石手はe6である{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=96-119}}。この手は、e5の白石1つだけを挟む手であるから自分の石を増やしすぎることはない。また、e5はすでに周囲を他の石で囲まれているから、自分の石を相手の石の中に潜り込ませることができる。したがって、理想的な好手である{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=96-119}}。
このような典型的好手の類型として「'''一石返し'''」と「'''中割り'''」が有名である{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=27-33}}。一石返しは、相手の石を1つだけ挟むように打つことである{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=27-33}}。中割りは、周囲をほぼ他の石に囲まれている相手の石だけを挟むように打つことである{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=27-33}}。一石返しは自分の石を必要以上に増やさない手であり、中割りは自分の石を相手の石で囲ませる手であるため、これらを意識することで好手を発見しやすくなる{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=27-33}}。図でのe6という手は、一石返しでなおかつ中割りである。
{{-}}
=== 隅とその周辺 ===
{{Othello diagram
| left
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | |X|X|X| | | |
<!-- 2 --> |X|X|X|X|X| | |
<!-- 3 --> |X|X|X|X|X|X| |
<!-- 4 --> |X|X|X|X|X|X|X|
<!-- 5 --> | |X|X|X|X|X|X|O
<!-- 6 --> | | |X|X|X|X|O|O
<!-- 7 --> | | | |X|X|O|O|O
<!-- 8 --> | | | | |O|O|O|O
| 確定石(白番)
}}
図の局面で、黒石はどれも終局までに白石に挟まれてしまう可能性があるが、10個の白石はもはや黒石で挟むことができない。したがって、これらの白石は終局まで白石であることが確定している。
このような、挟まれることがないから終局まで色が変わらないと確定した石のことを「'''確定石'''」という{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=14-21}}{{Sfn|村上健|2011|pp=22-29}}。確定石を増やしていくことは、勝利に直結するので重要である{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=96-114}}{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=14-21}}{{Sfn|村上健|2011|pp=22-29}}。
オセロで勝つために大切な要素の一つとして「'''隅'''」がある{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=14-21}}{{Sfn|村上健|2011|pp=22-29}}。オセロ盤のうち四隅のマス(a1、a8、h1、h8)については、挟むことができないから、隅に石を置けば必ず確定石となる{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=14-21}}{{Sfn|村上健|2011|pp=22-29}}。また、図のように隅から隣接するマスに同じ色の石が置かれている場合には、それらも確定石となることがある{{Sfn|村上健|2011|pp=22-29}}。したがって、隅を狙うのはオセロの基本となる{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=24-45}}{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=14-21}}{{Sfn|村上健|2011|pp=22-29}}{{Sfn|井上博|1977}}。
{{-}}
{{Othello diagram
| left
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | |X| | | | |X|
<!-- 2 --> |X|O| | | | |O|X
<!-- 3 --> | | | | | | | |
<!-- 4 --> | | | | | | | |
<!-- 5 --> | | | | | | | |
<!-- 6 --> | | | | | | | |
<!-- 7 --> |X|O| | | | |O|X
<!-- 8 --> | |X| | | | |X|
| C・X
}}
隅と関連して重要な概念として、CとXがある{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=14-21}}。図で黒石を置いたマス(隅と縦横に隣接するマス)がC、白石を置いたマス(隅と斜めに隣接するマス)がXである{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=14-21}}。
当然のことながら、CやXに自分が石を打たなければ、相手に隅を取られることはない{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=24-45}}。したがって、初心者の間は、CやXを極力避け、相手がCやXに打ってきたら隅を取りに行くという戦術がよく使われる{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=24-45}}。しかし、初心者を脱すると、あえてXに打って相手に隅を取らせたうえで自分はCを取り、Cを基点に隣接する大量のマスを自分のものにするといった勝負手も必要となってくる{{Sfn|佐谷哲|2019|pp=180-189}}{{Sfn|長谷川五郎|2005}}。いずれにしても、隅、C、Xに関する攻防は初心者から上級者まで注目されるポイントである{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=14-21}}。
{{-}}
=== 手止まりと偶数理論 ===
{{Othello diagram
| left
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | |X| | |X|X|X
<!-- 2 --> |X| |X|X|X|O|O|O
<!-- 3 --> |O|O|O|O|O|O|O|O
<!-- 4 --> |O|O|X|O|O|X|X|O
<!-- 5 --> |O|O|O|X|O|X|X|O
<!-- 6 --> |O|O|X|O|X|X|X|O
<!-- 7 --> |O| |O|O|O|X|O|O
<!-- 8 --> |X|X|X|X|X|X|X|O
| 手止まり(黒番)
}}
図のような局面を考える。ここで黒番が左下のb7に打ち込むと、c7、d7、e7の3つの石を黒石にすることができる。そして、b7の周辺にはもう空きマスがないから、これらの石が再び白番に返される心配はなく、良い手であると考えられる。
このように、隣接する空きマスが他にないマスに打ち込むことを「'''手止まり'''」と言い、終盤戦では手止まりを打つのが一つの目標となる{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=163-170}}{{Sfn|井上博|1977}}。
終盤戦において重要となるのは、まずは先を読み切って地道に石を数えることである{{Sfn|村上健|2011|pp=127-138}}。しかし、石を数えることのほかに、互いに隣接する空きマスの数に着目することである程度類型的に好手を見つけることができる{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=163-170}}{{Sfn|村上健|2011|pp=127-138}}。手止まりを打つこともその一つである{{Sfn|村上健|2011|pp=127-138}}。
{{-}}
{{Othello diagram
| left
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | |X| | |X|X|X
<!-- 2 --> |X| |X|X|X|O|O|O
<!-- 3 --> |O|O|O|O|O|O|O|O
<!-- 4 --> |O|O|X|O|O|X|X|O
<!-- 5 --> |O|O|O|X|O|X|X|O
<!-- 6 --> |O|O|X|O|X|X|X|O
<!-- 7 --> |O|X|X|X|X|X|O|O
<!-- 8 --> |X|X|X|X|X|X|X|O
| 偶数理論(白番)
}}
図は、さきほどの局面から黒番がb7に打った局面である。ここで互いに隣接する空きマスの数を見ると、左上には3つ(奇数)の空きマスがあり、中央上には2つ(偶数)の空きマスがある。この局面で白番が打つべき最善手は、左上の空きマスの数を2つ(偶数)にするa1である。次に黒番b2に対して、すかさずb1とすれば手止まりが打てるし、さらに黒番d1に対してe1とすればまた手止まりが打てる。
重要なのは、白番は互いに隣接する空きマスの数を偶数にしていることである{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=163-170}}{{Sfn|村上健|2011|pp=127-138}}{{Sfn|佐谷哲|2019|p=14-19}}。偶数にしておけば空きマスが1つのときに自分の手番になるから、そこで手止まりが打てるというわけである{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=163-170}}{{Sfn|村上健|2011|pp=127-138}}{{Sfn|佐谷哲|2019|p=14-19}}。これを「'''偶数理論'''」と呼び、手止まりをたくさん打つために有効な理論である{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=163-170}}{{Sfn|村上健|2011|pp=127-138}}{{Sfn|佐谷哲|2019|p=14-19}}。
{{-}}
=== 黒番・白番それぞれの戦略 ===
{| class="wikitable" style="font-size:small; margin:1rem; float:right;"
|+ オセロの2手目の選択肢
|
{{Othello diagram
| none
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | | | | | |
<!-- 4 --> | | | |O|X| | |
<!-- 5 --> | | | |O|X|X| |
<!-- 6 --> | | | |O| | | |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| 縦取り(黒番)
}}
|
{{Othello diagram
| none
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | | | | | |
<!-- 4 --> | | | |O|X| | |
<!-- 5 --> | | | |X|O|X| |
<!-- 6 --> | | | | | |O| |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| 斜め取り(黒番)
}}
|
{{Othello diagram
| none
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | | | | | |
<!-- 2 --> | | | | | | | |
<!-- 3 --> | | | | | | | |
<!-- 4 --> | | | |O|O|O| |
<!-- 5 --> | | | |X|X|X| |
<!-- 6 --> | | | | | | | |
<!-- 7 --> | | | | | | | |
<!-- 8 --> | | | | | | | |
| 並び取り(黒番)
}}
|}
オセロの戦略は、黒番と白番でそれぞれ違いがある{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=46-85}}。
まず、黒番の初手は、どこへ打っても対称形になるため、実質的意味はない{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=46-85}}。白番の2手目には縦取り、斜め取り、並び取りの3つの選択肢がある{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=46-85}}。
縦取りは兎定石・虎定石、斜め取りは牛定石、並び取りは鼠定石を志向した手であり、白番が得意な定石を選択できる{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=36-39}}。縦取りの場合、これに対して黒番はc5として兎定石にするか、c3として虎定石にするかを選択できる{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=36-39}}。兎・虎・牛・鼠のいずれの定石においても様々な変化があるが、黒番が変化を選択できることが多いため、どちらかと言うと黒番が定石の主導権を握りやすいと言われている{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=36-39}}。
終盤戦では、白番は偶数理論を使って積極的に手止まりを狙っていくことができる{{Sfn|村上健|2011|pp=127-138}}。終局までパスがなければ、偶数理論を使うことができるのは後攻の白番のみであるため、一般に終盤戦は白番が打ちやすいと言われている{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=163-170}}{{Sfn|村上健|2011|pp=127-138}}。もっとも、白番が打てない空きマスを作ることで黒番が偶数理論を逆用する「逆偶数理論」などの戦術もある{{Sfn|佐谷哲|2019|pp=20-23}}。
このように、黒番・白番それぞれに強みとなる部分があり、どちらが有利か一概には言えない{{Sfn|佐谷哲|2019|p=48}}。コンピュータによる完全解析はなされておらず、部分的な解析結果からは引き分けが結論となる可能性が高いと言われている{{Sfn|佐谷哲|2019|p=48}}<ref name="murakami-2017">{{Cite interview |和書|subject=村上健 |interviewer=辰井裕紀 |cointerviewers=杉本吏 |title=人間VSコンピュータオセロ 衝撃の6戦全敗から20年、元世界チャンピオン村上健さんに聞いた「負けた後に見えてきたもの」 |publisher=ITmedia |series=ねとらぼアンサー |date=2017-10-21 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1710/06/news013.html |accessdate=2020-03-22}}</ref>。なお、これまでに行われた対局の統計では、白番が1%から2%ほど勝ち越している{{Sfn|佐谷哲|2019|p=48}}<ref>{{Cite web|和書|title=黒と白の勝率 |website=キロキティア |date=2017-10-08 |url=https://choi.lavox.net/stats/bw_win |accessdate=2020-03-22}}</ref>。
== オセロとコンピュータ ==
=== コンピュータオセロの発展 ===
[[File:Ntest computer othello.jpg|thumb|オセロ・プログラムのエヌテスト (NTest) の画面]]
オセロは、シンプルなルールが[[コンピュータ]]の[[プログラミング]]に適しているため、プログラミングの教材あるいは[[コンピュータゲーム]]の製品として、これまで数々のコンピュータ・プログラムが開発されてきた{{Sfn|森田和郎・国枝交子・津田伸秀|1986}}。
オセロが[[アメリカ合衆国]]で発売された1977年、早くも4月にはN・J・D・ジェイコブスが世界初とされる[[コンピュータオセロ]]のプログラムを[[サイエンティフィック・アメリカン]]誌に掲載した{{R|gardner}}。翌1978年にはアーケードゲーム([[任天堂]])<ref>{{Cite news |和書 |title=コンピューター・オセロ テーブル型TVゲーム機発売した任天堂 |newspaper=ゲームマシン |publisher=アミューズメント通信社 |date=1978-06-15 |page=18 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19780615p.pdf |format=PDF |accessdate=2020-03-22}}</ref>、1980年には家庭用ゲーム([[Atari 2600]])としてコンピュータオセロが製品化された。1983年には、[[ツクダオリジナル]]からオセロ専用ゲーム機の『[[オセロマルチビジョン]]』が発売された<ref name="coremagazine">{{Cite book |和書 |title=電子ゲームなつかしブック-昭和をいろどった憧れのおもちゃたち |publisher=コアマガジン |series=コアムックシリーズ |date=2016-10 |page=60 |isbn=9784864369619}}</ref>。
また、1980年10月から[[アスキー (企業)|アスキー]]の主催でオセロ・プログラム同士を対局させる「マイクロオセロリーグ」が定期的に開催され、その模様は記事として掲載された{{Sfn|森田和郎・国枝交子・津田伸秀|1986}}。1986年には同社からオセロを題材とした思考ゲームのプログラミング解説書も出版された{{Sfn|森田和郎・国枝交子・津田伸秀|1986}}。
最古のコンピュータオセロは特別強いものではなかったが、すぐに[[ビットボード]]や[[評価関数]]などの[[アルゴリズム]]が整理され、終盤の正確な読みによって人間の上級者とも戦えるようになった{{Sfn|森田和郎・国枝交子・津田伸秀|1986}}。
=== コンピュータと人類の対戦 ===
コンピュータオセロの開発が始まってから3年後の1980年、オセロ・プログラムのムーア (Moor) が当時の世界チャンピオン・井上博と対戦し、1勝を挙げた(6番勝負で1勝5敗){{R|murakami-2017}}。1982年には[[森田和郎]]の開発した森田オセロが全日本選手権2位の北島秀樹ら強豪プレイヤーたちが集う大会にゲスト参加して6戦全勝で優勝した{{R|murakami-2017}}。その後、ハードウェアの進歩とソフトウェアの改良によってコンピュータオセロは着実に力を伸ばしたが、1980年の井上戦から17年間、公の場で人間の世界チャンピオンと対戦する機会はなかった{{R|murakami-2017}}。
{{Othello diagram
| right
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> |X|X|X|X|X|X|X|X
<!-- 2 --> |X|X|O|X|X|X|X|X
<!-- 3 --> |X|X|X|O|X|X|O|X
<!-- 4 --> |X|X|O|X|X|O|X|X
<!-- 5 --> |X|X|X|X|X|X|X|X
<!-- 6 --> |X|X|X|O|X|X|X|X
<!-- 7 --> |X|X|O|O|O|X|X|X
<!-- 8 --> |X|X|X|X|X|X|X|X
| ロジステロ vs. 村上健 第4局(55対9でロジステロの勝ち)
}}
1997年5月、[[コンピュータチェス]]の[[ディープ・ブルー (コンピュータ)|ディープ・ブルー]]がチェス世界チャンピオンの[[ガルリ・カスパロフ]]を破った{{Efn|[[ディープ・ブルー対ガルリ・カスパロフ]]を参照。なお、そのほかの二人零和有限確定完全情報ゲームでは、1994年に[[チェッカー]]、2006年に[[シャンチー]]、2017年に[[囲碁]]と[[将棋]]、2018年に[[連珠]]でコンピュータが人間のトッププレイヤーに勝利あるいは引き分けという結果を残した。}}その3週間後、[[日本電気|NEC]]北米研究所のマイケル・ブロが開発したオセロ・プログラムの'''ロジステロ''' (Logistello) と当時の世界チャンピオン・[[村上健]]が対戦することが発表された<ref>{{Cite news |和書 |title=人間VSコンピューター 第二幕 オセロ 主役は日本人 |newspaper=読売新聞 |edition=夕刊 |date=1997-05-31 |page=1}}</ref>。対戦は同年8月4日から7日にかけて実施され、ロジステロが'''6番勝負で6勝0敗'''の成績で勝利し、コンピュータオセロの実力がすでに人間のトッププレイヤーを超えていることを証明した<ref>{{Cite web |language=en |last=Buro |first=Michael |title=The Othello Match of the Year |date=1997-08-20 |url=https://skatgame.net/mburo/event.html |accessdate=2020-03-22}}</ref>{{R|murakami-2017}}。実際には、それ以前からコンピュータの実力が人間を上回っていたことは明らかであり、村上は「もはや人間が及ぶレベルではありませんでした。負けると思っていました」とロジステロを称えた{{R|murakami-2017}}。なお、この対局は日本オセロ連盟の許可を得ていなかったため、無断で人類を代表して敗北した村上に対する批判の声もあったが、村上はオセロが知的ゲームの歴史に名を残すために必要な敗北であったと主張している{{R|murakami-2017}}。
2005年頃からは、それまでに5度の世界選手権優勝経験のある古豪・[[為則英司]]がコンピュータオセロを研究に活用するようになり、世界選手権を連覇<ref name="nakamori">{{Cite speech |author=中森弘樹 |title=オセロ界はソフトといかに向き合ってきたか |location=京都アカデメイア |date=2016-11-27 |url=https://www.slideshare.net/bakumomoki/ss-72668518 |accessdate=2020-04-13}}</ref>。為則によってコンピュータ研究の重要性が知らしめられ、オセロ戦術が大きく進歩した{{R|nakamori}}。現在では、多数のプレイヤーが、コンピュータと対決するのではなく、コンピュータを教師として積極的に学んでいる{{R|nakamori}}{{Sfn|佐谷哲|2019|p=126}}{{R|murakami-2017}}。なお、タイトル戦準優勝経験のある中森弘樹によると、2016年の時点で多くのトッププレイヤーが研究に使用している最強のオセロ・プログラムはエダックス (Edax)<ref>{{Cite web |author=奥原俊彦 |title=Edax + Unified Book 2010 |url=http://www.amy.hi-ho.ne.jp/okuhara/edax.htm |accessdate=2020-04-13}}</ref>である{{R|nakamori}}。
このほか、2019年には、コンピュータが人類よりも強いことを逆手にとって、負けることに特化した「最弱オセロ」が公開されて話題になるなど、多様な取り組みが進められている<ref>{{Cite interview |和書|subject=吉田拓真 |interviewer=秋夏 |title=「負けるのが難しい」…世界最弱のオセロAIを体験-開発者に誕生のきっかけを訊いた |publisher=イード |series=Game*Spark |date=2019-07-26 |url=https://www.gamespark.jp/article/2019/07/26/91659.html |accessdate=2020-03-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=Kikka |title=「負けられるなら負けてみてくれ!」 世界最弱のオセロAIが開発され、負けられないと話題に |website=ねとらぼ |publisher=ITmedia |date=2019-07-28 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1907/28/news017.html |accessdate=2020-03-22}}</ref><ref>{{Cite interview |和書|subject=吉田拓真 |title=「世界最弱のオセロAI」が話題…一体何のために作ったの? 開発者に聞いた |publisher=FNN |series=FNN.jpプライムオンライン |date=2019-08-02 |url=https://www.fnn.jp/articles/-/15595 |accessdate=2020-03-22}}</ref>。
=== オセロの解析 ===
オセロは[[二人零和有限確定完全情報ゲーム]]に分類され、[[ゲーム木]]複雑性は10の58乗程度である<ref>{{Cite book |language=en |last=Allis |first=Louis Victor |title=Searching for Solutions in Games and Artificial Intelligence |publisher=Rijksuniversiteit Limburg te Maastricht |series=Ph.D. Thesis |date=1994-09-23 |pages=167-168 |url=https://www.dphu.org/uploads/attachements/books/books_3721_0.pdf |accessdate=2020-03-29}}</ref>{{Efn|そのほかの代表的な二人零和有限確定完全情報ゲームでは、[[チェッカー]]が10の31乗程度、[[連珠]]が10の70乗程度、[[チェス]]が10の123乗程度、[[シャンチー]]が10の150乗程度、[[将棋]]が10の226乗程度、[[囲碁]]が10の360乗程度となっており、オセロのゲーム木はチェッカーの次に小さい。}}。
二人零和有限確定完全情報ゲームは、理論上、双方最善手(最善進行)ならば先手必勝・後手必勝・引き分けのいずれかの結論が下せるはずだが、オセロは2019年時点で未だにコンピュータによる完全解析はされておらず、結論は不明である{{Sfn|佐谷哲|2019|p=48}}{{Efn|なお、チェッカーは2007年にコンピュータによって完全解析がなされた<ref>{{Cite journal |language=en |last=Schaeffer |first=Jonathan |last2=Burch |first2=Neil |last3=Björnsson |first3=Yngvi |last4=Kishimoto |first4=Akihiro |last5=Müller |first5=Martin |last6=Lake |first6=Robert |last7=Lu |first7=Paul |last8=Sutphen |first8=Steve |title=Checkers is Solved |journal=Science |volume=317 |issue=5844 |publisher=American Association for the Advancement of Science |date=2007-09-14 |pages=1518-1522 |doi=10.1126/science.1144079}}</ref>。}}。部分的には、最善進行を前提として以下の事実が判明している。
* オセロのある局面が黒番必勝・白番必勝・引き分けのいずれであるかを判定する問題は、[[PSPACE#PSPACE完全|PSPACE完全]]である<ref>{{Cite journal |language=en |last=Iwata |first=Shigeki |last2=Kasai |first2=Takumi |title=The Othello Game on an n×n Board is PSPACE-Complete |journal=Theoretical Computer Science |volume=123 |issue=2 |publisher=Elsevier |date=1994-01-31 |pages=329-340 |doi=10.1016/0304-3975(94)90131-7}}</ref>。
* 盤面を4×4に縮小したオセロは、3対13で白番(後手)の必勝となる<ref>{{Cite web |language=en |title=Othello 4x4 |publisher=Artificial Intelligence Laboratorium |date=2008-09-02 |url=http://ailab.awardspace.com/othello4x4.html |accessdate=2020-03-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190124002428/http://ailab.awardspace.com/othello4x4.html |archivedate=2019-01-24}}</ref>{{Efn|実際には黒石が3個、白石が11個、空きマスが2個で終局となるが、現行ルールでは空きマスの数が勝者の石数に加算される{{R|joa-rule}}ため、3対13で白番の10石勝ちとなる。空きマスに関する過去のルールに基づいて「8石勝ち」と記載している資料もある<ref>{{Cite web|和書|author=津田伸秀 |title=ビットボードを用いた4x4オセロ 完全解析 |date=2010-02-20 |url=http://vivi.dyndns.org/vivi/docs/puzzle/othello4x4.html |accessdate=2020-04-15}}</ref>。}}。
* 盤面を6×6に縮小したオセロは、16対20で白番(後手)の必勝となる<ref>{{Cite web |language=en |last=Feinstein |first=Joel |title=Perfect Play in 6x6 Othello from Two Alternative Starting Positions |url=http://www.feinst.demon.co.uk/Othello/6x6sol.html |accessdate=2020-03-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131031041130/http://www.feinst.demon.co.uk/Othello/6x6sol.html |archivedate=2013-10-31}}</ref>。
* 通常通りの8×8のオセロでは、一部の定石で引き分けになることが判明している<ref>{{Cite web |author=奥原俊彦 |title=Public Draw Variations |url=http://www.amy.hi-ho.ne.jp/okuhara/pubdraw.htm |accessdate=2020-03-22}}</ref>。
これらの事実に基づき、'''8×8のオセロは最善進行で引き分けになる可能性が高い'''と予想されている{{Sfn|佐谷哲|2019|p=48}}{{R|murakami-2017}}。オセロ日本代表選手の佐谷哲は、2019年に「『オセロは最善進行で引き分け』という説が今後覆ることはほぼ無いだろう」と述べている{{Sfn|佐谷哲|2019|p=48}}。
2023年10月30日、日本の[[Preferred Networks]]社の滝沢拓己により、8×8のオセロが最善進行で引き分けになる事を証明した({{仮リンク|弱解決|en|Solved game}}した<ref>{{Cite journal|和書|author=田中哲朗 |year=2013 |url=https://doi.org/10.11429/sugaku.0651093 |title=ゲームの解決 |journal=数学 |ISSN=0039470X |publisher=日本数学会 |volume=65 |issue=1 |pages=93-102 |doi=10.11429/sugaku.0651093 |CRID=1390001205066482304}}</ref>)と主張する[[査読前論文]]が[[arXiv]]に投稿された<ref>{{Cite web |title=Othello is Solved |author=Hiroki Takizawa |work=arXiv.org |date=30 Oct 2023 |access-date=5 November 2023 |url= https://arxiv.org/abs/2310.19387}}</ref>。
== オセロと文化 ==
=== 普及度 ===
[[File:God Tone and Guo Dong playing Othello 20190414b.jpg|thumb|オセロを楽しむ人々]]
オセロは国際的に普及している。2015年時点で、世界36の国と地域に連盟があり、世界競技人口は'''約6億人'''と推計されている<ref>{{Cite news |和書 |title=オセロ世界選手権、発祥の水戸で10年ぶり開催へ |newspaper=朝日新聞 |date=2015-09-04 |url=https://www.asahi.com/articles/ASH933T9YH93UJHB00B.html |accessdate=2020-03-23}}</ref>。
特に日本の競技人口は多く、[[長谷川五郎]]によると2001年頃の時点で約6000万人である{{Sfn|長谷川五郎|2006|p=5}}。長谷川は、日本国内の競技人口は、[[将棋]]が約1500万人、[[囲碁]]が約1000万人、[[チェス]]が約500万人であり、オセロはこれらを上回っていると主張している{{Sfn|長谷川五郎|2006|p=5}}。なお、公益財団法人日本生産性本部余暇創研が発行している『[[レジャー白書]]2018』によれば、日本国内の競技人口は、トランプ・オセロ・カルタ・花札などが約2370万人、将棋が約700万人、囲碁が約190万人、チェスが調査対象外となっている<ref name="jpc">{{Cite book |和書 |editor=日本生産性本部 |title=レジャー白書 2018 |publisher=生産性出版 |date=2018-08 |isbn=9784820120797}}</ref>{{Efn|長谷川の推計とは大きく異なった値となっているが、『レジャー白書』では、トランプ・オセロ・カルタ・花札が合算されていることに加え、一年以内に実際に遊んだ者を競技者として数えている{{R|jpc}}一方、長谷川はルールを知る者すべてを競技者として推計している{{Sfn|長谷川五郎|2006|p=5}}ため、両者は算出基準が異なる。}}。
日本の著名人の中には、[[佐藤健 (俳優)|佐藤健]]<ref>{{Cite web|和書|title=芸能界オセロ最強の佐藤健が世界チャンピオンとガチンコ勝負『行列のできる法律相談所』 |website=テレビドガッチ |publisher=プレゼントキャスト |date=2014-07-27 |url=http://dogatch.jp/news/ntv/26866 |accessdate=2020-03-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160821163710/http://dogatch.jp/news/ntv/26866 |archivedate=2016-08-21}}</ref>、[[小島瑠璃子]]<ref>{{Cite web|和書|title=小島瑠璃子(コジマルリコ) |work=タレントキャスティング |publisher=ホリプロ |url=https://web.archive.org/web/20141104155557/https://www.horipro.co.jp/kojimaruriko/ |accessdate=2020-03-23}}</ref>、[[永山瑛太]]<ref>{{Cite web|和書|author=中島哲也 |title=石橋VS瑛太の激マジオセロ勝負 |website=Othello! JAPAN |date=2009-01-07 |url=http://www.othello.org/news/?date=20090107&no=1 |accessdate=2020-03-23}}</ref>、[[田中カ子]](後述)など、オセロ好きを公言している者も多い。また、日本の皇族である[[明仁|明仁親王]](のちの天皇・上皇)も幼少期に父の[[昭和天皇]]とリバーシで遊んでいたことで知られる<ref>{{Cite episode |title=天皇 運命の物語 (1) -敗戦国の皇太子 |network=NHK |series=平成から令和へ |airdate=2018-12-23 |url=https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2018094346SA000/ |accessdate=2020-03-23}}</ref>。
ツクダでオセロの商品化を担当した和久井威は、オセロがロングセラーとなった要因に対象年齢が幅広いことを挙げている{{Sfn|和久井威(協力)|2007}}{{Efn|和久井は、「夫とオセロをして勝つと夫の機嫌が悪くなり、『待った』をされて結婚以来初めて口答えをした」という87歳の女性の投書が『朝日新聞』に載ったという話を紹介している{{Sfn|和久井威(協力)|2007}}。}}。オセロは、石の誤飲の危険性を考慮して対象年齢を6歳以上としているが、実際には何歳からでもプレイは可能である<ref>{{Cite web|和書|author=田中祐子 |title=家族で勝負! 今こそ、頭を鍛えるオセロ |publisher=All About |date=2006-10-16 |url=https://allabout.co.jp/gm/gc/198704/ |accessdate=2020-03-23}}</ref>。通常10分間以内{{Efn|なお、大会では長時間をかけてプレイされる。例えば、世界オセロ選手権決勝の持ち時間は各40分間<ref name="sankei-2020">{{Cite news |和書 |title=世界オセロ選手権が開幕、東京で23年ぶり 香港騒乱を回避 |newspaper=産経新聞 |date=2019-10-09 |url=https://www.sankei.com/article/20191009-JLEZFVHAHZMV7JN3QNCYYZAYPU/ |accessdate=2020-04-10}}</ref>なので、両者合わせて最大80分間が必要である。}}に決着がつくため、学校の休み時間などで楽しむことも可能である{{R|megahouse-history}}。
また、高齢者にも人気があり、[[老人福祉施設]]などでもプレイされている<ref>{{Cite news |和書 |title=“脳内革命”でオセロ人気 高齢者が熱視線、売れ行き好調 |newspaper=フジサンケイビジネスアイ |publisher=日本工業新聞社 |date=2006-07-17 |url=http://www.business-i.jp/news/sou-page/news/200607170023a.nwc |accessdate=2020-03-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060813230735/http://www.business-i.jp/news/sou-page/news/200607170023a.nwc |archivedate=2006-08-13}}</ref>。なお2022年4月に天寿を全うした[[福岡県]]の[[田中カ子]](119歳没)はオセロゲーム愛好者の最高齢者として知られ、生前の田中はオセロを毎日プレイしていると語っていた<ref>{{Cite web|和書|title=田中カ子さん長寿世界一記念オセロ大会 |work=大会案内 |publisher=日本オセロ連盟 |url=https://www.othello.gr.jp/competition_guide/14991 |accessdate=2020-03-23}}</ref>。
オセロと同様のゲーム(ただし石のサイズ等はオセロの公式規定とやや異なることもある)は、「リバーシ」などの名前で安価なポータブルゲームとして日本の[[コンビニエンスストア]]など様々な店舗で販売されている。また、インターネットでのオンライン対戦やコンピュータゲームとしても各国でプレイされている。[[Microsoft Windows]]の[[Microsoft Windows 1.0|1.0]]、[[Microsoft Windows 2.0|2.0]]、2.1、[[Microsoft Windows 3.x|3.0]]、[[Microsoft Windows Millennium Edition|Me]]、[[Microsoft Windows XP|XP]]の各バージョンには、「リバーシ」という名称でオセロが標準搭載された<ref>{{Cite web |language=en |title=Reversi |website=Microsoft Wiki |publisher=Fandom |url=https://microsoft.fandom.com/wiki/Reversi |accessdate=2020-04-10}}</ref>。
=== 表現活動におけるオセロ ===
日本では、以下のように様々な物事をオセロになぞらえて表現することがある。
{{Quotation|日本を筆頭に先進国を覆うデフレと高齢化、新興国で進むバブルと社会不安増大、つばぜり合い続く米中——。明と暗がめまぐるしく入れ替わる世界は、まるでオセロゲームのようだ。|[[滝田洋一]]|<ref>{{Cite book |和書 |author=滝田洋一 |title=世界経済のオセロゲーム |publisher=日本経済新聞出版社 |series=日経プレミアシリーズ |date=2011-03 |pages=3-4 |isbn=9784532261139}}</ref>}}
{{Quotation|オセロゲームのような国際政治が始まった——テロの“一石”で塗り替わる地政学地図。|[[竹田いさみ]]|<ref>{{Cite journal |和書 |author=竹田いさみ |title=オセロゲームのような国際政治が始まった——テロの“一石”で塗り替わる地政学地図 |journal=世界週報 |volume=82 |issue=40 |publisher=時事通信社 |date=2001-10 |pages=10-13 |issn=09110003}}</ref>}}
{{Quotation|人生は、オセロゲームのようなものだと思う。{{Interp|和文=1|中略}}最後に、白を置くことができれば、黒は、全部白に変わる。|[[水野敬也]]|<ref>{{Cite book |和書 |author=水野敬也 |title=スパルタ婚活塾 |publisher=文響社 |date=2014-08 |pages=296-309 |isbn=9784905073079}}</ref>}}
また、オセロを直接的あるいは間接的に題材として、様々な文化活動が行われている。
* 小説家の[[恩田陸]]は、1995年に『[[常野物語]]』シリーズのうちの一作として短編小説「オセロ・ゲーム」を発表した<ref>{{Cite book |和書 |author=恩田陸 |title=常野物語-光の帝国 |publisher=集英社 |date=1997-10 |pages=77-96 |isbn=9784087742923}}</ref>。
* 小説家の[[佐藤多佳子]]は、2002年に短編小説「オセロ・ゲーム」を発表した<ref>{{Cite book |和書 |author=佐藤多佳子 |title=黄色い目の魚 |publisher=新潮社 |date=2002-10 |isbn=9784104190034}}</ref>。
* 漫画家の[[池沢理美]]は、2001年から2004年にかけて漫画『[[オセロ。]]』を発表した<ref>{{Cite book |和書 |author=池沢理美 |title=オセロ。(1) |publisher=講談社 |series=講談社コミックスフレンドB |date=2001-08 |isbn=9784063412499}}</ref>。
* シンガーソングライターの[[田島貴男]]のソロユニットである[[ORIGINAL LOVE]]は、2006年にアルバム『[[東京 飛行]]』の中で楽曲「オセロ」を発表した<ref>{{Cite web |title=東京 飛行 |website=ORIGINAL LOVE OFFICIAL WEB SITE |publisher=ワンダフル・ワールド |url=http://originallove.com/discography/538 |accessdate=2020-04-10}}</ref>。
* シンガーソングライターの[[川嶋あい]]は、2015年にアルバム『[[Be Your Side]]』の中で楽曲「オセロ」を発表した<ref>{{Cite web |title=Be Your Side |website=川嶋あい My Room |publisher=つばさプラス |url=https://kawashimaai.com/discography_detail/be-your-side |accessdate=2020-04-10}}</ref>。
* お笑い芸人の[[中島知子]]と[[松嶋尚美]]は、1993年から2013年まで「[[オセロ (お笑いコンビ)|オセロ]]」という名前のお笑いコンビを組んでおり、それぞれ「オセロの黒」「オセロの白」という愛称があった<ref>{{Cite web|和書|title=オセロのプロフィール |website=ORICON NEWS |publisher=ORICON |date=2008-10-17 |url=https://www.oricon.co.jp/prof/51563/ |accessdate=2020-04-10}}</ref>。
このほか、 1975年から放送されている『[[パネルクイズ アタック25]]』<ref>{{Cite news |和書 |author=本間英士 |title=シンプルなのに展開にハラハラ…『アタック25』が40周年 19日に2000回 |newspaper=産経新聞 |date=2015-07-14 |url=https://www.sankei.com/article/20150714-EHDLLRZ55ZPCXDVGMXCNOY7LQY/ |accessdate=2020-03-31}}</ref>、2017年から放送されている『[[東大王]]』の「難問オセロ」<ref>{{Cite web|和書|author=井上マサキ |title=『東大王』難問オセロ・トップ4の死闘! そして鶴崎は映像の端っこを見る |publisher=QUIZ JAPAN |date=2019-11-21 |url=https://quizjapan.com/2019/11/21/post-9140/ |accessdate=2020-04-10}}</ref>など、オセロ形式あるいはオセロに似た形式で対戦する[[クイズ番組]]がある。
== 大会 ==
=== 世界オセロ選手権 ===
[[File:Deskohraní 2008 0037.jpg|thumb|オセロ大会の様子]]
'''世界オセロ選手権''' (World Othello Championship) はアメリカ合衆国でオセロが発売された1977年に始まった{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=258-262}}<ref>{{Cite web |language=en |title=World Othello Championship |publisher=World Othello Federation |url=https://www.worldothello.org/about/world-othello-championship |accessdate=2020-03-14}}</ref>。当初は世界チャンピオンを決める無差別部門だけで、代表枠も各国1人だったが、1987年からは代表枠が3人に増えて団体部門が始まった{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=258-262}}<ref name="wof-woc">{{Cite web |language=en |title=WOC History |publisher=World Othello Federation |url=https://www.worldothello.org/about/tournaments/world-othello-championship/woc |accessdate=2021-04-25}}</ref>。さらに、2005年からは女子部門、2016年からはユース部門(15歳以下)が新設された(女子やユースが無差別部門に出場することも可能){{R|wof-woc}}。2022年現在、世界オセロ選手権は世界オセロ連盟が主催している{{R|wof-woc}}。2020年と2021年はコロナ禍のため中止された。
{{Othello diagram
| right
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> |O|O|O|O|O|O|O|O
<!-- 2 --> |O|X|X|O|O|X|O|X
<!-- 3 --> |O|X|X|X|X|O|X|X
<!-- 4 --> |O|X|O|X|X|X|X|X
<!-- 5 --> |O|X|O|O|X|X|X|X
<!-- 6 --> |O|X|O|O|O|X|X|X
<!-- 7 --> |O|O|O|O|O|O|X|X
<!-- 8 --> |O|X|X|X|X|X|X|X
| 第1回世界オセロ選手権大会決勝 井上博 vs. トーマス・ヘイベル(34対30で井上の勝ち)
}}
第1回大会は[[日本]]の[[東京]]で開催された{{R|wof-woc}}。また、10回、20回、30回、40回の記念大会はいずれも日本で開催されている{{R|wof-woc}}。記念大会は、第20回大会までは[[長谷川五郎]]が1970年頃に現在のオセロのパッケージを開発した東京で開催されていたが、既述の通り2000年頃から長谷川が「オセロの発祥は1945年に[[茨城県]][[水戸市]]で自身が考案した挟み碁である」と主張するようになったことを受け、三十(みと)の語呂合わせとなる2006年の第30回大会を機に、それ以降は水戸で開催されている<ref>{{Cite news |和書 |title=オセロ故郷・水戸へ帰る |newspaper=日本経済新聞 |date=2005-12-20 |page=44}}</ref>。
2023年時点の最多記録は、以下の通りである。
* 個人優勝回数記録
** 無差別部門 7回: {{Flagicon|JPN}} [[為則英司]] (1986, 1988-1990, 1995, 2005-2006)
** 女子部門 2回: {{Flagicon|JPN}} 菅原美紗 (2017-2018)、{{Flagicon|AUS}} ジョアンナ・ウィリアム (2014, 2019)、{{Flagicon|JPN}} 星央子(2005, 2023)
** ユース部門 2回: {{Flagicon|JPN}} [[髙橋晃大]] (2017, 2019)
* 個人連覇記録
** 無差別部門 3連覇: {{Flagicon|JPN}} 為則英司 (1988-1990)
** 女子部門 2連覇: {{Flagicon|JPN}} 菅原美紗 (2017-2018)
** ユース部門: なし
* 国別優勝回数記録
** 無差別部門 34回: {{Flag|JPN}} (1977-1979, 1981-1983, 1985-1991, 1994-1998, 2000, 2005-2007, 2009-2015, 2017-2019, 2022-2023)
** 女子部門 7回: {{Flagu|JPN}} (2005-2007, 2009, 2017-2018, 2023)
** ユース部門 6回: {{Flagu|JPN}} (2016-2019, 2022-2023)
** 団体部門 19回: {{Flagu|JPN}} (1999, 2003, 2005-2019, 2022-2023)
* 国別連覇記録
** 無差別部門 7連覇: {{Flagu|JPN}} (1985-1991, 2009-2015)
** 女子部門 3連覇: {{Flagu|JPN}} (2005-2007)
** ユース部門 6連覇: {{Flagu|JPN}} (2016-2019, 2022-2023)
** 団体部門 17連覇: {{Flagu|JPN}} (2005-2019, 2022-2023)
これまでの大会結果は以下の通り{{Sfn|長谷川五郎|2006|pp=282-286}}{{R|wof-woc}}<ref name="joa-champ">{{Cite web|和書|title=歴代チャンピオン |publisher=日本オセロ連盟 |url=https://www.othello.gr.jp/data/champ.html |accessdate=2020-03-30}}</ref><ref name="nakazima-champions">{{Cite web|和書|author=中島哲也 |title=オセロメジャー大会の歴代チャンピオン |website=Othello! JAPAN |url=http://www.othello.org/congrats/champions.html |accessdate=2020-03-23}}</ref><ref>{{Cite web |title=WOC 2023, third day results |url=https://woc2023.worldothello.org/live/woc2023_round14.htm |website=woc2023.worldothello.org |access-date=2023-11-05}}</ref>。
{| class="wikitable" style="font-size:small; margin:auto;"
|+ 歴代世界オセロ選手権
! colspan=2 | 開催年
! 開催地
! 無差別部門優勝者
! 無差別部門準優勝者
! 女子部門優勝者
! ユース部門優勝者
! 団体部門優勝国
|-
! {{Nowrap|第{{0}}1回}} !! {{Nowrap|1977年}}
| {{Flagicon|JPN}} 東京 || {{Flagicon|JPN}} 井上博 || {{Flagicon|NOR}} トーマス・ヘイベル || || ||
|-
! 第{{0}}2回 !! 1978年
| {{Flagicon|USA}} [[ニューヨーク]] || {{Flagicon|JPN}} 丸岡秀範 || {{Flagicon|USA}} キャロル・ジェイコブズ || || ||
|-
! 第{{0}}3回 !! 1979年
| {{Flagicon|ITA}} [[ローマ]] || {{Flagicon|JPN}} 井上博 || {{Flagicon|USA}} ジョナサン・サーフ || || ||
|-
! 第{{0}}4回 !! 1980年
| {{Flagicon|GBR}} [[ロンドン]] || {{Flagicon|USA}} ジョナサン・サーフ || {{Flagicon|JPN}} 三村卓也 || || ||
|-
! 第{{0}}5回 !! 1981年
| {{Flagicon|BEL}} [[ブリュッセル]] || {{Flagicon|JPN}} 丸岡秀範 || {{Flagicon|USA}} ブライアン・ローズ || || ||
|-
! 第{{0}}6回 !! 1982年
| {{Flagicon|SWE}} [[ストックホルム]] || {{Flagicon|JPN}} [[谷田邦彦]] || {{Flagicon|USA}} デイビッド・シェイマン || || ||
|-
! 第{{0}}7回 !! 1983年
| {{Flagicon|FRA}} [[パリ]] || {{Flagicon|JPN}} 石井健一 || {{Flagicon|GBR}} イムレ・リーダー || || ||
|-
! 第{{0}}8回 !! 1984年
| {{Flagicon|AUS}} [[メルボルン]] || {{Flagicon|FRA}} ポール・ラル || {{Flagicon|JPN}} 谷口良一 || || ||
|-
! 第{{0}}9回 !! 1985年
| {{Flagicon|GRC}} [[アテネ]] || {{Flagicon|JPN}} [[瀧澤雅樹]] || {{Flagicon|ITA}} パオロ・ギラルダート || || ||
|-
! 第10回 !! 1986年
| {{Flagicon|JPN}} 東京 || {{Flagicon|JPN}} 為則英司 || {{Flagicon|FRA}} ポール・ラル || || ||
|-
! 第11回 !! 1987年
| {{Flagicon|ITA}} [[ミラノ]] || {{Flagicon|JPN}} 石井健一 || {{Flagicon|FRA}} ポール・ラル || || || {{Flag|USA}}
|-
! 第12回 !! 1988年
| {{Flagicon|FRA}} パリ || {{Flagicon|JPN}} 為則英司 || {{Flagicon|GBR}} グラハム・ブライトウェル || || || {{Flag|GBR}}
|-
! 第13回 !! 1989年
| {{Flagicon|POL}} [[ワルシャワ]] || {{Flagicon|JPN}} 為則英司 || {{Flagicon|GBR}} グラハム・ブライトウェル || || || {{Flagu|GBR}}
|-
! 第14回 !! 1990年
| {{Flagicon|SWE}} ストックホルム || {{Flagicon|JPN}} 為則英司 || {{Flagicon|FRA}} ディディエ・ピオ || || || {{Flag|FRA}}
|-
! 第15回 !! 1991年
| {{Flagicon|USA}} ニューヨーク || {{Flagicon|JPN}} 金田繁 || {{Flagicon|FRA}} ポール・ラル || || || {{Flagu|USA}}
|-
! 第16回 !! 1992年
| {{Flagicon|ESP}} [[バルセロナ]] || {{Flagicon|FRA}} マルク・タステ || {{Flagicon|USA}} デイビッド・シェイマン || || || {{Flagu|GBR}}
|-
! 第17回 !! 1993年
| {{Flagicon|GBR}} ロンドン || {{Flagicon|USA}} デイビッド・シェイマン || {{Flagicon|FRA}} エマニュエル・カスパール || || || {{Flagu|USA}}
|-
! 第18回 !! 1994年
| {{Flagicon|FRA}} パリ || {{Flagicon|JPN}} 瀧澤雅樹 || {{Flagicon|DEN}} カーステン・フェルボー || || || {{Flagu|FRA}}
|-
! 第19回 !! 1995年
| {{Flagicon|AUS}} メルボルン || {{Flagicon|JPN}} 為則英司 || {{Flagicon|USA}} デイビッド・シェイマン || || || {{Flagu|USA}}
|-
! 第20回 !! 1996年
| {{Flagicon|JPN}} 東京 || {{Flagicon|JPN}} [[村上健]] || {{Flagicon|FRA}} ステファン・ニコレ || || || {{Flagu|GBR}}
|-
! 第21回 !! 1997年
| {{Flagicon|GRC}} アテネ || {{Flagicon|JPN}} [[末國誠]]{{Efn|name=same-makoto|末國誠とマコト・スエクニは同一人物。}} || {{Flagicon|GBR}} グラハム・ブライトウェル || || || {{Flagu|GBR}}
|-
! 第22回 !! 1998年
| {{Flagicon|ESP}} バルセロナ || {{Flagicon|JPN}} 村上健 || {{Flagicon|FRA}} エマニュエル・カスパール || || || {{Flagu|FRA}}
|-
! 第23回 !! 1999年
| {{Flagicon|ITA}} ミラノ || {{Flagicon|NLD}} デイビッド・シェイマン || {{Flagicon|JPN}} [[中島哲也 (オセロ)|中島哲也]] || || || {{Flagu|JPN}}
|-
! 第24回 !! 2000年
| {{Flagicon|DNK}} [[コペンハーゲン]] || {{Flagicon|JPN}} 村上健 || {{Flagicon|USA}} ブライアン・ローズ || || || {{Flagu|USA}}
|-
! 第25回 !! 2001年
| {{Flagicon|USA}} ニューヨーク || {{Flagicon|USA}} ブライアン・ローズ || {{Flagicon|USA}} ラファエル・シュライバー || || || {{Flagu|USA}}
|-
! 第26回 !! 2002年
| {{Flagicon|NLD}} [[アムステルダム]] || {{Flagicon|NLD}} デイビッド・シェイマン || {{Flagicon|USA}} ベン・シーリー || || || {{Flagu|USA}}
|-
! 第27回 !! 2003年
| {{Flagicon|SWE}} ストックホルム || {{Flagicon|USA}} ベン・シーリー || {{Flagicon|JPN}} 末國誠{{Efn|name=same-makoto}} || || || {{Flagu|JPN}}
|-
! 第28回 !! 2004年
| {{Flagicon|GBR}} ロンドン || {{Flagicon|USA}} ベン・シーリー || {{Flagicon|JPN}} 末國誠{{Efn|name=same-makoto}} || || || {{Flagu|USA}}
|-
! 第29回 !! 2005年
| {{Flagicon|ISL}} [[レイキャヴィーク]] || {{Flagicon|JPN}} 為則英司 || {{Flagicon|KOR}} イ・クァンウク || {{Flagicon|JPN}} 星央子{{Efn|name=same-hisako|星央子と木下央子は同一人物。}} || || {{Flagu|JPN}}
|-
! 第30回 !! 2006年
| {{Flagicon|JPN}} 水戸 || {{Flagicon|JPN}} 為則英司 || {{Flagicon|SIN}} マコト・スエクニ{{Efn|name=same-makoto}} || {{Flagicon|JPN}} 辻淑美{{Efn|name=same-tosimi|辻淑美と高野淑美は同一人物。}} || || {{Flagu|JPN}}
|-
! 第31回 !! 2007年
| {{Flagicon|GRC}} アテネ || {{Flagicon|JPN}} 冨永健太 || {{Flagicon|FRA}} ステファン・ニコレ || {{Flagicon|JPN}} 龍見有希子 || || {{Flagu|JPN}}
|-
! 第32回 !! 2008年
| {{Flagicon|NOR}} [[オスロ]] || {{Flagicon|ITA}} ミケーレ・ボラッシ || {{Flagicon|JPN}} 宮岡環 || {{Flagicon|GER}} リーヤー・イェー || || {{Flagu|JPN}}
|-
! 第33回 !! 2009年
| {{Flagicon|BEL}} [[ヘント]] || {{Flagicon|JPN}} [[高梨悠介]] || {{Flagicon|GER}} マティアス・ベルク || {{Flagicon|JPN}} 浦島芽衣 || || {{Flagu|JPN}}
|-
! 第34回 !! 2010年
| {{Flagicon|ITA}} ローマ || {{Flagicon|JPN}} 高梨悠介 || {{Flagicon|ITA}} ミケーレ・ボラッシ || {{Flagicon|NLD}} イェスカ・ヘルメス || || {{Flagu|JPN}}
|-
! 第35回 !! 2011年
| {{Flagicon|USA}} [[ニューアーク]] || {{Flagicon|JPN}} 信川紘輝 || {{Flagicon|THA}} ピヤナット・アンチュリー{{Efn|ピヤナット・アンチュリーとルチパス・アンチュリーは同一人物。|name=same-aunchulee}}|| {{Flagicon|USA}} チエン・ツァイ || || {{Flagu|JPN}}
|-
! 第36回 !! 2012年
| {{Flagicon|NLD}} [[レーワルデン]] || {{Flagicon|JPN}} 高梨悠介 || {{Flagicon|JPN}} [[岡本一樹]] || {{Flagicon|SWE}} ベロニカ・ステンベリ || || {{Flagu|JPN}}
|-
! 第37回 !! 2013年
| {{Flagicon|SWE}} ストックホルム || {{Flagicon|JPN}} 岡本一樹 || {{Flagicon|THA}} ピヤナット・アンチュリー{{Efn|name=same-aunchulee}}|| {{Flagicon|FIN}} ケイティ・ウー{{Efn|name=same-katie|ケイティ・ウーとケイティ・ピラジャプロは同一人物。}} || || {{Flagu|JPN}}
|-
! 第38回 !! 2014年
| {{Flagicon|THA}} [[バンコク]] || {{Flagicon|JPN}} 末國誠{{Efn|name=same-makoto}} || {{Flagicon|USA}} ベン・シーリー || {{Flagicon|AUS}} ジョアンナ・ウィリアム || || {{Flagu|JPN}}
|-
! 第39回 !! 2015年
| {{Flagicon|GBR}} [[ケンブリッジ]] || {{Flagicon|JPN}} 高梨悠介 || {{Flagicon|JPN}} 末國誠{{Efn|name=same-makoto}} || {{Flagicon|USA}} ヨーコ・サノ{{Efn|name=same-yoko|ヨーコ・サノと佐野洋子は同一人物。}} || || {{Flagu|JPN}}
|-
! 第40回 !! 2016年
| {{Flagicon|JPN}} 水戸 || {{Flagicon|THA}} ピヤナット・アンチュリー{{Efn|name=same-aunchulee}}|| {{Flagicon|CHN}} イェン・ソン || {{Flagicon|CHN}} チェン・トン || {{Flagicon|JPN}} 和田真幹 || {{Flagu|JPN}}
|-
! 第41回 !! 2017年
| {{Flagicon|BEL}} ヘント || {{Flagicon|JPN}} 高梨悠介 || {{Flagicon|JPN}} 髙橋晃大 || {{Flagicon|JPN}} 菅原美紗 || {{Flagicon|JPN}} 髙橋晃大 || {{Flagu|JPN}}
|-
! 第42回 !! 2018年
| {{Flagicon|CZE}} [[プラハ]] || {{Flagicon|JPN}} [[福地啓介]] || {{Flagicon|THA}} ピヤナット・アンチュリー{{Efn|name=same-aunchulee}}|| {{Flagicon|JPN}} 菅原美紗 || {{Flagicon|JPN}} 福地啓介 || {{Flagu|JPN}}
|-
! 第43回 !! 2019年
| {{Flagicon|JPN}} 東京 || {{Flagicon|JPN}} 髙橋晃大 || {{Flagicon|JPN}} 高梨悠介 || {{Flagicon|AUS}} ジョアンナ・ウィリアム || {{Flagicon|JPN}} 髙橋晃大 || {{Flagu|JPN}}
|-
! 第44回 !! 2022年
| {{Flagicon|FRA}} パリ || {{Flagicon|JPN}} 浦野健人 || {{Flagicon|CHE}} アルチュール・ジュイニェ || {{Flagicon|FIN}} ケイティ・ピラジャプロ{{Efn|name=same-katie}} || {{Flagicon|JPN}} 奥平芙弓 || {{Flagu|JPN}}
|-
!第45回
!2023年
|{{Flagicon|ITA}} ローマ
|{{Flagicon|JPN}} 長野泰志
|{{Flagicon|THA}} ルチパス・アンチュリー{{Efn|name=same-aunchulee}}
|{{Flagicon|JPN}} 星央子{{Efn|name=same-hisako|星央子と木下央子は同一人物。}}
|{{Flagicon|JPN}} 川副央恭
|{{Flagu|JPN}}
|}
=== オセロワールドカップ ===
'''オセロワールドカップ''' (Othello World Cup) は、オセロの発売40周年を記念し、世界オセロ選手権と並ぶもう一つの世界大会として日本オセロ連盟と[[ニッポン放送]]の主催で2013年に始まり、2014年まで開催された<ref name="megahouse-owc">{{Cite web|和書|title=オセロワールドカップ2013 東京ソラマチにて開催! |website=メガトイ |publisher=メガハウス |url=https://www.megahouse.co.jp/megatoy/contents/20130111_owc/ |accessdate=2020-03-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=owc2014、優勝は中国のSong Yan選手! |work=ニュース&トピックス |publisher=日本オセロ連盟 |date=2014-01-17 |url=https://www.othello.gr.jp/ps3/o40.html |accessdate=2020-03-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=owc2014、全日程を終了 |work=ニュース&トピックス |publisher=日本オセロ連盟 |date=2014-01-19 |url=https://www.othello.gr.jp/ps3/o41.html |accessdate=2020-03-14}}</ref>。通常のオセロ以外にも、10×10の盤面を用いるグランドオセロ、八角形の盤面を用いるエイトスターズオセロも競技種目となっていた{{R|megahouse-owc}}。このほか、オセロ開発者の長谷川五郎が新たに開発した全く別のゲームである[[ミラクルファイブ]]の大会も併せて開催された{{R|megahouse-owc}}。
これまでの大会結果は以下の通り{{R|joa-champ}}{{R|nakazima-champions}}。
{| class="wikitable" style="font-size:small; margin:auto;"
|+ 歴代オセロワールドカップ
! colspan=2 | 開催年
! 開催地
! 無差別部門優勝者
! 無差別部門準優勝者
! 女子部門優勝者
! グランドオセロ部門優勝者
! エイトスターズオセロ部門優勝者
|-
! {{Nowrap|第1回}} !! {{Nowrap|2013年}}
| {{Flagicon|JPN}} 東京 || {{Flagicon|JPN}} 伊藤純哉 || {{Flagicon|JPN}} 岡本一樹 || {{Flagicon|IDN}} ジョアンナ・ウィリアム || {{Flagicon|AUS}} マット・ビナー || {{Flagicon|JPN}} 中島哲也
|-
! 第2回 !! 2014年
| {{Flagicon|SIN}} [[シンガポール]] || {{Flagicon|CHN}} イェン・ソン || {{Flagicon|JPN}} 冨永健太 || {{Flagicon|HKG}} チェン・トン || {{Flagicon|JPN}} 高梨悠介 || {{Flagicon|JPN}} 山川高志
|}
=== オセロ日本国内タイトル ===
オセロの大会の歴史は、1973年の'''全日本オセロ選手権'''から始まった{{Sfn|長谷川五郎|2011|pp=9-18}}。その後、日本では'''オセロ名人戦'''と'''オセロ王座戦'''が新設され、三大タイトルとされている<ref>{{Cite web|和書|author=長谷川五郎 |title=第2期オセロ王座戦総評 |work=連盟からのお知らせ |publisher=日本オセロ連盟 |date=2007-11-02 |url=https://www.othello.gr.jp/ps4/231.html |accessdate=2020-03-23}}</ref>。
これまでの大会結果は以下の通り{{R|joa-champ}}{{R|nakazima-champions}}<ref>{{Cite web|和書|title=第41期オセロ名人戦 {{!}} 一般社団法人 日本オセロ連盟|url=https://www.othello.gr.jp/specialinfo/24554|accessdate=2021-07-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=第42期オセロ名人戦 {{!}} 一般社団法人 日本オセロ連盟 |url=https://www.othello.gr.jp/specialinfo/27548 |access-date=2023-03-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=第15期オセロ王座戦 {{!}} 一般社団法人 日本オセロ連盟 |url=https://www.othello.gr.jp/specialinfo/30120 |access-date=2023-03-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=第43期オセロ名人戦 {{!}} 一般社団法人 日本オセロ連盟 |url=https://www.othello.gr.jp/specialinfo/35154 |access-date=2023-03-20}}</ref><ref>{{Cite web |title=第49回全日本オセロ選手権 {{!}} 一般社団法人 日本オセロ連盟 |url=https://www.othello.gr.jp/specialinfo/40471 |access-date=2023-11-26}}</ref>{{Efn|2019年以降の全日本選手権者欄に記載した選手名は、実際には前年に開催された全日本選手権の優勝者である。}}。
{{Columns-start}}
{| class="wikitable" style="font-size:small; margin:auto;"
|+ 歴代オセロ日本国内タイトル保持者(男子)
! 開催年
! 全日本選手権者
! 名人
! 王座
|-
! {{Nowrap|1973年}}
| 辻嘉一郎 || ||
|-
! 1974年
| 笠原孝一 || ||
|-
! 1975年
| 山崎明 || ||
|-
! 1976年
| 藤田二三夫 || ||
|-
! 1977年
| 井上博 || ||
|-
! 1978年
| 丸岡秀範 || ||
|-
! 1979年
| 井上博 || ||
|-
! 1980年
| 三村卓也 || 河村末告 ||
|-
! 1981年
| 丸岡秀範 || 河村末告 ||
|-
! 1982年
| 谷田邦彦 || 河村末告 ||
|-
! 1983年
| 石井健一 || 長谷川武 ||
|-
! 1984年
| 谷口良一 || 石井健一 ||
|-
! 1985年
| 瀧澤雅樹 || 石井健一 ||
|-
! 1986年
| 為則英司 || 石井健一 ||
|-
! 1987年
| 石井健一 || 瀧澤信行 ||
|-
! 1988年
| 為則英司 || 為則英司 ||
|-
! 1989年
| 為則英司 || 為則英司 ||
|-
! 1990年
| 為則英司 || 為則英司 ||
|-
! 1991年
| 金田繁 || 手塚博久 ||
|-
! 1992年
| 坂口和大 || 手塚博久 ||
|-
! 1993年
| 瀧澤信行 || 末國誠{{Efn|name=same-makoto}} ||
|-
! 1994年
| 瀧澤雅樹 || 末國誠{{Efn|name=same-makoto}} ||
|-
! 1995年
| 為則英司 || 坂口和大 ||
|-
! 1996年
| 村上健 || 瀧澤雅樹 ||
|-
! 1997年
| 末國誠{{Efn|name=same-makoto}} || 中島哲也 ||
|-
! 1998年
| 村上健 || 中島哲也 ||
|-
! 1999年
| 冨永健太 || 冨永健太 ||
|-
! 2000年
| 坂口和大 || 坂口和大 ||
|-
! 2001年
| 坂口和大 || 村上健 ||
|-
! 2002年
| 駒野達也 || 北島秀樹 ||
|-
! 2003年
| 後藤宏 || 末國誠{{Efn|name=same-makoto}} ||
|-
! 2004年
| 為則英司 || 末國誠{{Efn|name=same-makoto}} ||
|-
! 2005年
| 為則英司 || 宮岡環 ||
|-
! 2006年
| 中島哲也 || 中島哲也 || 為則英司
|-
! 2007年
| 大野友弘 || 冨永健太 || 中島哲也
|-
! 2008年
| 飯島隆宗 || 宮岡環 || 瀧澤雅樹
|-
! 2009年
| 瀧澤雅樹 || 高梨悠介 || 岡本一樹
|-
! 2010年
| 佐々木惣平 || 高梨悠介 || 瀧澤雅樹
|-
! 2011年
| 岡本一樹 || 信川紘輝 || 戸田智也
|-
! 2012年
| 高梨悠介 || 岡本一樹 || [[栗田誠矢]]
|-
! 2013年
| 宮崎裕司 || 岡本一樹 || 山川高志
|-
! 2014年
| 岡本一樹 || 末國誠{{Efn|name=same-makoto}} || 末國誠{{Efn|name=same-makoto}}
|-
! 2015年
| 末國誠{{Efn|name=same-makoto}} || 高梨悠介 || 高梨悠介
|-
! 2016年
| [[長野泰志]] || 笠井雅也 || 高梨悠介
|-
! 2017年
| 栗田誠矢 || 高梨悠介 || 福永小鉢
|-
! 2018年
| 土屋正太郎 || 清水直希 || 高梨悠介
|-
! 2019年
| 高梨悠介 || 髙橋晃大 || 髙橋晃大
|-
! 2020年
| 髙橋晃大 || (中止) || (中止)
|-
! 2021年
| (中止) || 阿部由羅|| (中止)
|-
! 2022年
| (中止) || 浦野健人|| 髙橋晃大
|-
! 2023年
| (中止) || 栗田誠矢|| 佐谷哲
|-
! 2024年
| 奈良颯馬 || ||
|}
{{Column}}
{| class="wikitable" style="font-size:small; margin:auto;"
|+ 歴代オセロ日本国内タイトル保持者(女子)
! 開催年
! 全日本女子選手権者
! 女流名人
! 女流王座
|-
! {{Nowrap|1973年}}
| 篠崎幸子 || ||
|-
! 1974年
| 鈴木富美子 || ||
|-
! 1975年
| 水谷孝美 || ||
|-
! 1976年
| 大山恵理子 || ||
|-
! 1977年
| 水谷美貴子 || ||
|-
! 1978年
| 石井恵美子 || ||
|-
! 1979年
| 玉家美樹 || ||
|-
! 1980年
| 国枝交子 || ||
|-
! 1981年
| 大橋公江 || ||
|-
! 1982年
| 大寿美里香 || ||
|-
! 1983年
| 堀内恵子 || ||
|-
! 1984年
| 松井琴子 || ||
|-
! 1985年
| 松井琴子 || ||
|-
! 1986年
| 田中美由紀{{Efn|name=same-miyuki|田中美由紀と佐藤美由紀は同一人物。}} || ||
|-
! 1987年
| 玉家美樹 || ||
|-
! 1988年
| 佐藤美由紀{{Efn|name=same-miyuki}} || ||
|-
! 1989年
| 渡邊あずさ || ||
|-
! 1990年
| 石井まさみ || ||
|-
! 1991年
| 渡邊あずさ || ||
|-
! 1992年
| 渡邊あずさ || ||
|-
! 1993年
| 大柳真咲 || ||
|-
! 1994年
| 山中真美 || ||
|-
! 1995年
| 山中真美 || ||
|-
! 1996年
| 大柳真咲 || ||
|-
! 1997年
| 杉山暁美 || ||
|-
! 1998年
| 佐野洋子{{Efn|name=same-yoko}} || ||
|-
! 1999年
| 佐野洋子{{Efn|name=same-yoko}} || ||
|-
! 2000年
| 山中真美 || ||
|-
! 2001年
| 玉家琴江 || ||
|-
! 2002年
| 木下央子{{Efn|name=same-hisako}} || 大柳真咲 ||
|-
! 2003年
| 高野淑美{{Efn|name=same-tosimi}} || 山中真美 ||
|-
! 2004年
| 木下央子{{Efn|name=same-hisako}} || 佐野洋子{{Efn|name=same-yoko}} ||
|-
! 2005年
| 山中真美、須藤麻依 || 木下央子{{Efn|name=same-hisako}} ||
|-
! 2006年
| 龍見有希子 || 早田恵実 || 辻淑美{{Efn|name=same-tosimi}}
|-
! 2007年
| 龍見有希子 || 龍見有希子 || 船津あすか
|-
! 2008年
| 龍見有希子 || 浦島芽衣 || 辻淑美{{Efn|name=same-tosimi}}
|-
! 2009年
| 佐野洋子{{Efn|name=same-yoko}} || 浦島芽衣 || 齋藤綾
|-
! 2010年
| 谷澤美里 || 谷澤美里 || 齋藤綾
|-
! 2011年
| 佐野洋子{{Efn|name=same-yoko}} || 桜井結夏 || 佐藤玲子
|-
! 2012年
| 佐藤玲子 || 山中真美 || 山中真美
|-
! 2013年
| 佐野洋子{{Efn|name=same-yoko}} || ジョアンナ・ウィリアム || 星央子{{Efn|name=same-hisako}}
|-
! 2014年
| 龍見有希子 || 宮岡有希 || 高橋里美
|-
! 2015年
| 船津あすか || 高橋里美 || 早坂敏江
|-
! 2016年
| 羽田潤 || 星央子{{Efn|name=same-hisako}} || 龍見有希子
|-
! 2017年
| 菅原美紗 || 山中真美 || 冨所多恵
|-
! 2018年
| 菅原美紗 || 佐藤麗子 || 山中真美
|-
! 2019年
| 菅原美紗 || 乗光歩 ||
|-
! 2020年
| 久松美佑 || (中止) || (中止)
|-
! 2021年
| (中止) || (中止) || (中止)
|-
! 2022年
| (中止) || 奥平芙弓 ||
|-
! 2023年
| (中止) || 星央子{{Efn|name=same-hisako}} ||
|-
! 2024年
| 星央子{{Efn|name=same-hisako}} || ||
|}
{{Columns-end}}
=== 大会にまつわるエピソード ===
{{Othello diagram
| right
|
<!-- 盤面 a b c d e f g h (X:黒石、O:白石) -->
<!-- 1 --> | | | |X|X|X|X|
<!-- 2 --> |X| |X|X|X|X|X|
<!-- 3 --> |X|X|O|X|O|X| |
<!-- 4 --> |X|X|X|O|X|O| |
<!-- 5 --> |X|X|O|X|X|O| |
<!-- 6 --> | |O|X|X|X|O|O|
<!-- 7 --> |O| |O|O|O|O| |
<!-- 8 --> | | | | | |O| |
| 第19回世界オセロ選手権大会決勝 為則英司 vs. デイビッド・シェイマン(為則がg2に打った局面)
}}
* 1977年、第1回アメリカ合衆国オセロ選手権が開催された<ref name="hasegawa-omoide2">{{Cite web|和書|author=長谷川五郎 |title=思い出に残る闘い (2) -20世紀の巴御前、Mrs.キャロル・ヤコブの大活躍 |work=コラム |publisher=日本オセロ連盟 |url=https://www.othello.gr.jp/column/3854 |accessdate=2020-04-12}}</ref>。なみいる強豪プレイヤーたちを打ち負かして優勝したのは女性数学者のキャロル・ジェイコブズ{{R|hasegawa-omoide2}}。ボードゲームの分野で女子選手の優勝は非常に珍しい出来事だった{{R|hasegawa-omoide2}}。ジェイコブズは、翌1978年の第2回世界オセロ選手権にも出場して準優勝{{R|hasegawa-omoide2}}。女性が世界2位に輝いたことは世界中で話題になった{{R|hasegawa-omoide2}}。オセロ開発者の[[長谷川五郎]]は、「20世紀の巴御前」とその偉業を称えた{{R|hasegawa-omoide2}}。
* 1981年、第5回世界オセロ選手権の終了後、お別れパーティーの席で各国の代表選手たちはそこかしこでオセロの記念対局を始めた<ref name="hasegawa-100nin6">{{Cite web|和書|author=長谷川五郎|title=オセロ史を飾った百人の名選手の物語 (6) -佳境に入った全日本と世界オセロ選手権大会(その2) |work=コラム |publisher=日本オセロ連盟 |date=2003-06-01 |url=https://www.othello.gr.jp/r_info/100/006/ |accessdate=2020-04-12}}</ref>。選手ではないものの関係者として同席していたオセロ開発者の長谷川は、イタリア代表選手のピエール・モローリから勝負を挑まれた{{R|hasegawa-100nin6}}。モローリの挑戦を受けて立った長谷川は、64対0のパーフェクト勝ち{{R|hasegawa-100nin6}}。目にした者からは「ストロンゲストマン(最強の男)!」と感嘆の声が上がった{{R|hasegawa-100nin6}}。
* [[為則英司]]は、1988年から1990年までオセロ名人戦、全日本オセロ選手権、世界オセロ選手権の都合9回のメジャー大会すべてで優勝<ref name="hasegawa-100nin11">{{Cite web|和書|author=長谷川五郎|title=オセロ史を飾った百人の名選手の物語 (11) -第2黄金期(1983〜1990)とその周辺(その2) |work=コラム |publisher=日本オセロ連盟 |date=2003-11-01 |url=https://www.othello.gr.jp/r_info/100/011/ |accessdate=2020-04-12}}</ref>。全日本選手権では26連勝を記録し、あまりの強さから「鬼神」と呼ばれ、恐れられた{{R|hasegawa-100nin11}}。1991年、名人戦、全日本選手権で相次いで若手実力者に敗れた為則は長らくタイトルから遠ざかることとなった。しかし、4年後の1995年に復活した為則は、全日本選手権を制すると世界選手権でも決勝まで勝ち上がり、デイビッド・シェイマンと対戦<ref name="hasegawa-100nin15">{{Cite web|和書|author=長谷川五郎|title=オセロ史を飾った百人の名選手の物語 (15) -天下分け目の決戦となった第19回世界オセロ選手権決勝 |work=コラム |publisher=日本オセロ連盟 |date=2004-03-01 |url=https://www.othello.gr.jp/r_info/100/015/ |accessdate=2020-04-12}}</ref>。大舞台で勝負手のX打ちが決まり、世界一の座に返り咲いた{{R|hasegawa-100nin15}}。
* 1982年、第6回世界オセロ選手権で当時15歳の[[谷田邦彦]]が優勝し、最年少記録を樹立した<ref name="sato">{{Cite news |和書 |author=佐藤啓介 |title=機長もオセロ最年少優勝者だった 祝福の機内アナウンス |newspaper=朝日新聞 |date=2018-10-16 |url=https://www.asahi.com/articles/ASLBJ35WRLBJUTIL004.html |accessdate=2020-04-12}}</ref>。この記録は[[ギネス世界記録]]にも登録された<ref>{{Cite web|和書|author=長谷川五郎|title=オセロ史を飾った百人の名選手の物語 (8) -オセロの名人、全日本チャンピオン、世界チャンピオン |work=コラム |publisher=日本オセロ連盟 |date=2003-08-01 |url=https://www.othello.gr.jp/r_info/100/008/ |accessdate=2020-04-12}}</ref>。36年後、2018年の第42回世界オセロ選手権で当時11歳の[[福地啓介]]が優勝し、谷田の記録を大幅に更新した{{R|sato}}。このとき、福地が帰国の際に搭乗した[[全日本空輸]]の航空機の機長は、従前の記録保持者の谷田だった{{R|sato}}。谷田が機内アナウンスで福地を称え、自己紹介を行うと、機内は驚きと拍手に包まれた{{R|sato}}。
* 2019年の第43回世界オセロ選手権は、当初[[香港]]で開催予定だったが、[[2019年逃亡犯条例改正案|逃亡犯条例改正案]]をめぐる混乱を受け、世界オセロ連盟が中止の決断を下した{{R|sankei-2020}}。そこで、代替地として開催実績のある東京が挙がり、1996年以来、実に23年ぶりに東京での開催が実現した{{R|sankei-2020}}。大会では、ホスト国となった日本が無差別部門の表彰台(1位から3位まで)を独占し、団体戦でも優勝を飾った<ref>{{Cite press release |和書 |title=オセロ! チームJAPAN表彰台独占! 髙橋さん(14歳)初優勝! 団体部門では日本15連覇 |publisher=メガハウス |date=2019-10-16 |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000447.000005808.html |accessdate=2020-04-12}}</ref>。
=== オセロの段級位 ===
日本オセロ連盟は[[段級位制]]を採用しており、主要な世界大会・日本大会の結果に基づき、選手に[[段位]]・級位を与えている<ref name="joa-grade">{{Cite web|和書|title=日本オセロ連盟段級位認定規程 |publisher=日本オセロ連盟 |url=https://www.othello.gr.jp/grade_regulations |accessdate=2020-03-26}}</ref>。2023年現在、最高位の九段を保持しているのは、以下の8名である<ref>{{Cite web|和書|author=中島哲也 |title=九段とは |website=Othello! JAPAN |url=http://www.othello.org/dic/e/9 |accessdate=2020-03-26}}</ref><ref>{{Cite journal|month=9|year=2022|title=昇段・昇級おめでとう|journal=オセロニュース|issue=139|page=16|publisher=一般社団法人日本オセロ連盟|location=東京|language=日本語}}</ref>。
* 為則英司
* 村上健
* 坂口和大
* 末國誠
* 瀧澤雅樹
* 高梨悠介
* 岡本一樹
* 髙橋晃大
なお、[[将棋の段級]]では、棋士、女流棋士、アマチュアの段級位はそれぞれ別個の制度であるが、オセロの段級位はすべて共通である{{Sfn|長谷川五郎|1981|p=22}}{{R|joa-grade}}。
== 派生ゲーム ==
=== ニップ ===
[[File:Nipp.svg|thumb|円形ニップの盤面]]
'''ニップ''' ('''Nip''') は、盤面の形を変更したリバーシの派生ゲームである<ref name="nakazima-nipp">{{Cite web |author=中島雅弘 |title=Nipp |website=アブストラクトゲーム博物館 |date=2020-02-27 |url=https://www.nakajim.net/index.php?Nipp |accessdate=2020-03-22}}</ref>。オセロに先行する類似ゲームとして、オセロ開発者の[[長谷川五郎]]がその名を挙げている{{Sfn|長谷川五郎|1981|pp=136-139}}。
このゲームには、
* 八角形の盤面を用いるニップ
* 円形の盤面を用いるニップ
の2種類がある。
八角形のニップは、隅を増やすことで競技を多様化するとの意図により、松本彌助によって考案され、1933年に実用新案登録がなされた<ref>{{Cite journal |和書 |author=特許局 |coauthors=松本彌助 |title=実公昭08-008505 |journal=実用新案公報 |publisher=帝国発明協会 |year=1933 |url=https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1800/PU/JP-S08-008505/82CD46D6272A1080394C80BBE80C864727BBE08AEA5EB97D10288379BF9B5050/22/ja |accessdate=2020-03-18}}</ref>。なお、リバーシとは異なり、両者ともに打つ箇所がない場合には、ゲームを終了するのではなく、好きなところに打って良いというルールが採用されていた<ref>{{Cite web|和書|author=hi_kmd |title=ニップゲームについて新しくわかったこと |website=紙ブグロはてな |date=2019-12-10 |url=https://kamibglo.hatenablog.com/entry/2019/12/10/181816 |accessdate=2020-03-22}}</ref>。
[[黒井千次]]は戦時中に八角形のニップで遊んでいたと語っている<ref>{{Cite journal |和書 |author=黒井千次 |title=ずいひつ-赤と白と黒 |journal=月刊碁ワールド |volume=54 |issue=9 |publisher=日本棋院 |date=2007-09 |oclc= 44096040}}</ref>。また、1966年に廃業したホテル[[和光荘]]は、歴史的建造物として内装がそのまま保存されており、ホテル内で遊ばれていた当時のニップが展示されている<ref>{{Cite news |和書 |author=東田秀美 |title=北の建物 守り育てる 小樽・和光荘 和洋折衷 優雅な邸宅 |newspaper=北海道新聞 |edition=朝刊 |date=2014-01-27 |page=17}}</ref>。和光荘に展示されているニップは、八角形の盤面であり、石の色は赤白である<ref name=tamayoshi>{{Cite web|和書|author=tamayoshi |title=小樽の和光荘に行ったら想像よりすごかった(後) |website=どさんこカメラ |date=2018-10-27 |url=https://dosanko-camera.hatenablog.com/entry/2018/10/27/121256 |accessdate=2020-03-16}}</ref>。なお、オセロ発売前にもかかわらず、オセロと同様の'''緑の盤面'''を使用している{{R|tamayoshi}}。
一方、現在主流となっているのは円形のニップである{{R|nakazima-nipp}}。このタイプは、隅がないゆえに自分の石を確定させることができず、終盤でいつ逆転が起きてもおかしくないスリリングな展開を特徴としている{{R|nakazima-nipp}}。円形ニップは、1953年にゲーム会社[[ハナヤマ]]の創業者である花山直康および蜂須賀千博、中村九蔵によって実用新案出願がなされている<ref>{{Cite journal |和書 |author=特許庁 |coauthors=花山直康 |title=実公昭29-004827 |journal=実用新案公報 |publisher=発明協会 |year=1954 |url=https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1800/PU/JP-S29-004827/0735BBC10A2D666B18EFFC56ABA4A24638FBEFDA2753F13BB7022069983CC311/22/ja |accessdate=2020-03-18}}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |author=特許庁 |coauthors=蜂須賀千博、中村九蔵 |title=実公昭29-004825 |journal=実用新案公報 |publisher=発明協会 |year=1954 |url=https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1800/PU/JP-S29-004825/BE823F9CB330CA651CEE869AD0A9FA9930016810FADD60655017E307AEF53D6E/22/ja |accessdate=2020-03-18}}</ref>。ハナヤマのニップは、実用新案の時点ではピン状の駒を盤面に刺してプレイするゲームであったが、その後はリバーシと同様に石を裏返すゲームとなり、複数のゲームが遊べる「ダブルクインテットNEO」や「ゲーム12」といったパッケージの中に収録されて発売された{{R|nakazima-nipp}}。
=== 公式派生ゲーム ===
メガハウス(ツクダ、ツクダオリジナル、パルボックス)によるオセロの公式派生ゲームは、これまでに様々なものが発売されてきた{{R|megahouse-products}}。代表的なものは以下の通りである。
; ミニオセロ(終売)
: 盤面を8×8から6×6に縮小したもの{{R|megahouse-products}}。
; グランドオセロ(終売)
: 盤面を8×8から10×10に拡大したもの{{Sfn|長谷川五郎|2006|p=278}}<ref name="nakazima-8stars_grand">{{Cite web|和書|author=中島哲也 |title=エイトスターズオセロ・グランドオセロ |website=Othello! JAPAN |date=2013-02-03 |url=https://blog.goo.ne.jp/othellojapan/e/52760782222983ece4ab9a8056596640 |accessdate=2020-04-10}}</ref>。
; エイトスターズオセロ(終売)
: 旧称「88オセロ(エイティエイトオセロ)」。グランドオセロの盤面から四隅を切り落として八角形状にしたもの{{Sfn|長谷川五郎|2006|p=279}}{{R|nakazima-8stars_grand}}{{Efn|八角形ニップに似ているが、こちらのほうがサイズが大きい。}}。
; みんなでオセロ(終売)・4人対戦オセロ
: 4人対戦を可能にしたもの{{R|megahouse-products}}。
グランドオセロとエイトスターズオセロは、[[#オセロワールドカップ|オセロワールドカップ]]で公式種目に採用された{{R|megahouse-owc}}。
=== その他の派生ゲーム ===
[[File:Rolit Giant.jpg|thumb|ロリット]]
4人対戦可能なオセロ派生ゲームとしては、前述のみんなでオセロ→4人対戦オセロがメガハウス公式の商品として存在するが、このほかに'''ロリット''' ('''Rolit''') と呼ばれる球体の石を用いたものがある<ref>{{Cite web |language=en |title=Rolit |work=Products |publisher=Goliath Games |url=https://www.goliathgames.us/product/rolit/ |accessdate=2020-03-31}}</ref>。
非公式の派生ゲームとしては、[[東京農工大学]]教授のパズル・ゲーム研究者である[[小谷善行]]が1983年に考案した'''フェアリーオセロ'''が知られている{{R|kusaba-2020}}<ref>{{Cite web|和書|author=草場純 |title=オセロバリエーション紹介 |website=ゲーム研究家・草場純さんの研究を収集するサイト |publisher=くぼた屋 |date=1994-01-17 |url=http://kusabazyun.banjoyugi.net/Home/reproductioned/fairy/oserobarieshon |accessdate=2020-03-22}}</ref>。小谷は、オセロという名前は「-Own(自分の石を打つ) Set-Enemy(相手の石を裏返す) Reset-Own(自分の石はそのまま)」というルールを示しているものと意図的に誤読し、これらの単語を様々に組み合わせることで数十種類の派生ゲームのルールを作成した{{R|kusaba-2020}}。例えば、オセレ「-Own(自分の石を打つ) Set-Enemy(相手の石を裏返す) Reset-Enemy(相手の石はそのまま)」であれば、自分の石 (Own) と相手の石 (Reset-Enemy) に挟まれた相手の石 (Set-Enemy) を裏返すというルールになる。
また、佐藤周二は、オセロ用具を使用した新ゲーム'''4・7'''を考案し、解説書を出版している<ref>{{Cite book |和書 |author=佐藤周二 |title=オセロ盤でもできる知的ゲーム4・7 |publisher=創栄出版 |date=2006-08 |isbn=9784434081613}}</ref>。
最近では、[[アナログゲーム]]の販売強化手法の一つとして、複数のボードゲームを抱き合わせにして製品化することもある<ref>{{Cite web|和書|title=オセロ・ゲームプラス11(イレブン) |website=メガトイ |publisher=メガハウス |url=https://www.megahouse.co.jp/megatoy/products/item/488/ |accessdate=2020-04-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ゲームスタジアム スタンダード |work=商品案内 |publisher=ハナヤマ |url=https://www.hanayamatoys.co.jp/product/category/game/game/gs-standard_japan.html |accessdate=2020-04-10}}</ref>。この場合、オセロの石を使って、盤面を縮小した[[囲碁]]、[[はさみ将棋]]、[[おはじき]]、[[積木]]崩し、[[トランプ]]のチップ等として遊ぶこともあるが、これらはあくまでパッケージとしてのおまけにすぎず、独立して大会などが開かれるものではない。
このほか、長谷川五郎が開発した全く新しい別ゲームである'''[[ミラクルファイブ]]'''(原型はセルゴ、ソクラテス<ref>{{Cite book |和書 |author=長谷川五郎 |title=ソクラテスの打ち方 |publisher=ソラリス |date=1994-05 |isbn=9784795203808}}</ref>)もオセロの派生ゲームとしてオセロの大会内でプレイされることがある{{Sfn|長谷川五郎|2006|p=281}}{{R|megahouse-owc}}。
== 文献・資料 ==
=== 総合・歴史 ===
* {{Cite journal |language=en |last=Cotton |first=Fry |last2=Lopes |first2=L.JJ. |title=Waterman v. Ayres |journal=The Law Times Reports of Cases Decided |volume=59 |publisher=Law Times Office |year=1888 |pages=17-21 |ref=harv}} [[Google ブックス|Google Books ID]] [https://books.google.co.jp/books?id=xi4yAAAAIAAJ xi4yAAAAIAAJ].
* {{Cite book |language=en |author=Berkeley |others=Authorized by Lewis Waterman |title=Reversi and Go Bang |publisher=Frederick A. Stokes Company |year=1890 |ref=harv}} [[アメリカ議会図書館管理番号|LCCN]] [https://lccn.loc.gov/ltf91001121 ltf 91-001121].
* {{Cite book |和書 |author=松浦政泰 |chapter=裏返へし(レヴアルシー)Reversi |title=[[世界遊戯法大全]] |publisher=[[博文館]] |date=1907-12 |pages=187-189 |doi=10.11501/860315 |ref=harv}}
* {{Cite journal |和書 |author=長谷川五郎 |authorlink=長谷川五郎 |title=大流行の『オセロ』ゲームづくり一代 |journal=現代 |volume=7 |issue=12 |publisher=[[講談社]] |date=1973-12 |pages=147-151 |doi=10.11501/3367321 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=都筑道夫 |authorlink=都筑道夫 |chapter=まず心がけなければならないのは |title=黄色い部屋はいかに改装されたか? |publisher=晶文社 |date=1975-06-20 |pages=143-153 |oclc=672607231 |ref=harv}}
** {{Cite book|和書 |author=都筑道夫 |chapter=まず心がけなければならないのは |title=黄色い部屋はいかに改装されたか? |edition=増補版 |publisher=フリースタイル |date=2012-04-15 |pages=121-129 |isbn=9784939138607 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=長谷川五郎 |title=オセロ百人物語-オセロ史を飾った名選手たち |publisher=[[河出書房新社]] |date=2005-12 |isbn=9784309906553 |ref=harv}}
** {{Cite book |和書 |author=長谷川五郎 |title=オセロゲームの歴史{{Efn|『オセロ百人物語』を改題し、大幅に増補したもの。}} |publisher=河出書房新社 |date=2011-07 |isbn=9784309909134 |ref=harv}}
* {{Cite journal |和書 |author=和久井威(協力) |title=和久井威氏ロングインタビュー (2) |journal=[[トイジャーナル]] |volume=1160 |publisher=東京玩具人形協同組合 |date=2007-06 |ref=harv}}
=== 戦術 ===
* {{Cite book |和書 |author=長谷川五郎 |title=オセロの打ち方 |publisher=日本オセロ連盟 |year=1974 |oclc=673262494 |ref=harv}}
** {{Cite book |和書 |author=長谷川五郎 |title=オセロの打ち方-勝つための基本戦術{{Efn|1974年の書籍の改訂版であるが、内容は大きく異なる。}} |publisher=講談社 |date=1981-12 |isbn=9784061277595 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=井上博 |title=逆転の発見-オセロの定石と必勝戦術 |publisher=[[ネコ・パブリッシング]] |date=1977-10 |oclc=673360720 |ref=harv}}
** {{Cite book |和書 |author=井上博 |title=逆転の発見-オセロの定石と必勝戦術 |edition=改訂新版 |publisher=ネコ・パブリッシング |date=1992-12 |isbn=9784873660882 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=丸岡秀範 |title=ぼくたちオセロエイジ |publisher=C・D企画 |date=1979-03 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |editor=日本オセロ連盟 |title=図解 オセロ入門-基本戦術から実践まで |publisher=虹有社 |date=1983-09 |isbn=9784770900050 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=谷田邦彦 |authorlink=谷田邦彦 |title=図解 早わかりオセロ-これが必勝のコツだ!! |publisher=[[日東書院本社]] |date=1987-01 |oclc=673697202 |ref=harv}}
** {{Cite book |和書 |author=谷田邦彦 |title=図解 早わかりオセロ-これが必勝のコツだ!! |edition=改訂版 |publisher=日東書院本社 |date=2002-02 |isbn=9784528004931 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=谷田邦彦 |title=絵でわかるオセロ入門-これでキミも勝てる!! |publisher=日東書院本社 |date=1988-05 |isbn=9784528008441 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=長谷川五郎 |title=オセロ百戦百勝-勝つための技術 |publisher=講談社 |date=1990-07 |isbn=9784062048439 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=長谷川五郎 |title=オセロ大観 (1) |publisher=[[近代文藝社]] |date=1995-09 |isbn=9784773347180 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=長谷川五郎 |title=オセロ大観 (2) |publisher=近代文藝社 |date=1995-09 |isbn=9784773347197 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=長谷川五郎 |title=オセロの勝ち方 |publisher=河出書房新社 |date=2001-05 |isbn=9784309264615 |ref=harv}}
** {{Cite book |和書 |author=長谷川五郎 |title=オセロの勝ち方 |edition=改訂新版 |publisher=河出書房新社 |date=2006-07 |isbn=9784309269085 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=長谷川五郎 |title=オセロ教室 |publisher=近代文藝社 |date=2008-08 |isbn=9784773375824 |ref=harv5}}
* {{Cite book |和書 |author=中島哲也 |authorlink=中島哲也 (オセロ) |title=たのしく上達 図解 オセロ-定石から必勝テクニックまでわかりやすく解説! |publisher=[[成美堂出版]] |date=2009-05 |isbn=9784415305493 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=村上健 |authorlink=村上健 |title=史上最強カラー図解 強くなるオセロ |publisher=[[ナツメ社]] |date=2011-03 |isbn=9784816350337 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |editor=滝沢雅樹(監修)|editor-link=瀧澤雅樹 |title=マンガで覚える 図解 オセロの基本 |publisher=つちや書店 |date=2011-11 |isbn=9784806912347 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=佐谷哲 |title=現代オセロの最新理論 |publisher=[[マイナビ出版]] |date=2019-01 |isbn=9784839966492 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=髙橋晃大 |authorlink=髙橋晃大 |title=髙橋晃大のオセロ必勝手筋100 |publisher=マイナビ出版 |date= 2019-10 |isbn=9784839969363 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |editor=日本オセロ連盟(監修) |title=2マスあきから始める 詰めオセロ100問ドリル |publisher=つちや書店 |date=2020-08 |isbn=9784806917137 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=三屋伸明 |title=これだけで勝てるオセロ-まわりに敵がいなくなる!?オセロ30の鉄則 |publisher=マイナビ出版 |date=2020-09 |isbn=9784839973872 |ref=harv}}
=== プログラミング ===
* {{Cite book |和書 |author1=森田和郎|authorlink1=森田和郎|author2=国枝交子|author3=津田伸秀 |title=思考ゲームプログラミング-オセロゲームのアルゴリズムと作成法 |publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]] |date=1986-05 |isbn=9784871481861 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=池原吉彦 |title=オセロで学ぶBASIC入門-手作りプログラムで学ぶコンピュータ基礎講座 |publisher=[[技術評論社]] |date=1990-07 |isbn=9784874083659 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=Seal Software |title=リバーシのアルゴリズム-「探索アルゴリズム」「評価関数」の設計と実装 |publisher=[[工学社]] |series=I/O BOOKS |date=2003-06 |isbn=9784875934288 |ref=harv}}
=== コンピュータソフト ===
* {{Cite video game |和書 |developer=[[ツクダオリジナル]] |title=[[オセロマルチビジョン]] |platform=FG-1000{{Efn|本体にゲームを内蔵。セガのSG-1000シリーズと互換性があった{{R|coremagazine}}。}} |year=1983}}
* {{Cite video game |和書 |developer=[[セガ]] |title=オセロ |platform=[[SG-1000]] |year=1985}}
* {{Cite video game |和書 |developer=フジワラ |title=スーパーオセロ |platform=アーケード |year=1986}}
* {{Cite video game |和書 |developer=[[カワダ]]{{Efn|ツクダオリジナルから正式にライセンスを受けて作られている。}} |title=オセロ |platform=[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]] |date=1986-10-13}}
* {{Cite video game |和書 |developer=カワダ|title=オセロ |platform=[[ファミリーコンピュータ]]([[ロムカセット]]版){{efn|ディスクシステム版を[[移植 (ソフトウェア)|ベタ移植]]したものだが、容量が少ないため1か月遅れで済んだ。}} |date=1986-11-13}}
* {{Cite video game |和書 |developer=カワダ |title=オセロ |platform=[[ゲームボーイ]] |date=1990-02-09}}
* {{Cite video game |和書 |developer=[[サクセス (ゲーム会社)|サクセス]] |title=究極のオセロゲーム |platform=アーケード |year=1990}}
* {{Cite video game |和書 |developer=ツクダオリジナル |title=オセロワールド{{Efn|評論筋からは「単純に敵が強すぎて初心者に厳しい」と評されている<ref>{{Cite book |和書 |title=死ぬ前にクリアしたい200の無理ゲー ファミコン&スーファミ編 |publisher=マイウェイ出版 |series=マイウェイムック |date=2018年10月10日 |page=70 |isbn=9784865119855}}</ref>。}} |platform=[[スーパーファミコン]] |date=1992-04-05}}
* {{Cite video game |和書 |developer=ツクダオリジナル |title=オセロワールド |platform=ゲームボーイ |date=1994-09-30}}
* {{Cite video game |和書 |developer=サンワイズ |title=オセロダービー |platform=アーケード |year=1995}}
* {{Cite video game |和書 |developer=ツクダオリジナル |title=オセロワールドII-夢と未知への挑戦 |platform=[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]] |date=1995-12-08}}
* {{Cite video game |和書 |developer=サクセス |title=オセロしようよ |platform=アーケード |year=1998}}
* {{Cite video game |和書 |developer=ツクダオリジナル |title=オセロミレニアム |platform=[[ゲームボーイカラー]] |date=1999-10-08}}
* {{Cite video game |和書 |developer=サクセス |title=中島哲也のオセロセミナー |platform=[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]] |year=2002}}
* {{Cite video game |和書 |developer=サクセス |title=[[SuperLiteシリーズ|SuperLite 2000 シリーズ]] オセロ |platform=[[PlayStation 2]] |date=2003-07-31}}
* {{Cite video game |和書 |developer=[[メガハウス]] |title=オセロdeオセロDS{{Efn|[[お笑いタレント|お笑いコンビ]]の[[オセロ (お笑いコンビ)|オセロ]]を起用した[[タレントゲーム]]でもある<ref>{{Cite web|和書|title=オセロdeオセロDS |work=ニンテンドーDS |publisher=任天堂 |url=https://www.nintendo.co.jp/ds/software/yowj/ |accessdate=2020-04-15}}</ref>。}} |platform=[[ニンテンドーDS]] |date=2008-06-12}}
* {{Cite video game |和書 |developer=[[アークシステムワークス]] |title=オセロ |platform=[[ニンテンドーDSiウェア]] |date=2009-07-29}}
* {{Cite video game |和書 |developer=アークシステムワークス |title=オセロ |platform=[[Wiiウェア]] |date=2009-12-22}}
* {{Cite video game |和書 |developer=アークシステムワークス |title=オセロ |platform=[[PlayStation Portable]]オンライン配信 |date=2010-03-25}}
* {{Cite video game |和書 |developer=アークシステムワークス |title=オセロ3D |platform=[[ニンテンドー3DS]]ダウンロードソフト |date=2011-06-07}}
* {{Cite video game |和書 |developer=アークシステムワークス |title=オセロ |platform=[[Wii U]]ダウンロードソフト |date=2013-04-17}}
* {{Cite video game |和書 |developer=アークシステムワークス |title=オセロ |platform=[[PlayStation Vita]]オンライン配信 |date=2014-08-07}}
* {{Cite video game |和書 |developer=アークシステムワークス |title=オセロ |platform=[[Nintendo Switch]]ダウンロードソフト |date=2017-03-03}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Reversi}}
{{Wikibooks|オセロ}}
* [https://www.megahouse.co.jp/othello/ オセロ公式サイト] - [[メガハウス]]
* [https://www.worldothello.org/ World Othello Federation] {{En icon}}
* [https://www.othello.gr.jp/ 一般社団法人日本オセロ連盟]
* [https://www.othello.org/ Othello! JAPAN]
* [https://www.arcsystemworks.jp/othello/ Othello シリーズサイト] - [[アークシステムワークス]]
* {{Kotobank|オセロ(ゲーム)}}
{{オセロ (ボードゲーム)}}
{{Normdaten}}
{{Good article}}
{{DEFAULTSORT:おせろ}}
[[Category:オセロ|*]]
[[Category:ボードゲーム]]
[[Category:抽象戦略ゲーム]]
[[Category:ツクダオリジナル]]
[[Category:登録商標]] | 2003-02-21T12:14:14Z | 2023-12-14T05:07:21Z | false | false | false | [
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2,658 | 笑い | 笑い(わらい)とは、楽しさ、嬉しさ、おかしさなどを表現する感情表出行動の一つ。笑いは一般的に快感という感情とともに生じ、感情体験と深くかかわっている。また、笑いは感情表現の中でも極めて特殊なものであり、すぐれて人間的なものである。一般的に動物の中で笑うのは人間だけである。怒り、悲しみなどの表現は動物にもあるが、笑いがすぐれて人間的である理由として、笑いには「笑うもの」と「笑われるもの」という分離があり、何かを対象化するという心の働きが必要となる。
人は笑うとき、ごく一般的には陽性の感情(快感)に伴って表情が特有の緊張をし(笑顔)、同時に特有の発声(笑い声)を伴う。通常は自分以外の対象があって、それから受ける印象に基づいてそれが好意的であれば表情に笑いが生じ、特に刺激的な場合には発声が伴う。さらに程度がひどくなると全身に引きつけるような筋肉の収縮が伴い、涙が出ることがある。人間はこのような表現を意識的に使い分けることができ、これにより微細な感情を表現する。たとえば、表情を変えずに笑い声だけをあげた場合、冷やかしや威嚇などの表現となり得る。否定的な意味合いを持つ笑いも存在する。また、自己を笑いの対象とする笑いには自嘲のように複雑な感情を伴うものもあり、自虐などとは区別される。
笑いが快感にだけ伴って起こるわけではないが、感情体験と深くかかわっていることは明白である。人間の心の働きを理性と感情という二分法に従えば、しばしば理性に価値が置かれ、感情は下に見られがちである。理性は人間特有のものであり、感情は動物的であるとされるためだが、このような考えに立つ人は感情を表出することははしたないと考え、それをできるだけ排除すべきと主張する。笑いがすぐれて人間的である理由として、笑いには「笑う者」と「笑われる者」という分離があり、その意味において何かを「対象化」する心の働きが存在する事実があると、心理学者の河合隼雄は指摘している。
この「対象化」は人間だけがなしうることで、自と他を明確に分離し、自が他を「対象」として見る。その際に、自分が対象に対し突然の優越を感じる際に笑いが生じると、トマス・ホッブスやマルセル・パニョルなどは主張した。河合は優越感と言ってしまうのには限定が強過ぎるが、笑うためには笑う主体がある程度の安定感を持つことが必要であるとし、不安定な時には恐怖や不安が先行するため「笑っている場合じゃない」という状況になると説明し、さらに優越とまではいかなくても、対象の中に見出した「ズレ」の感覚を楽しむとでも表現する方が広く笑いを説明しているのではないかとする。
この「対象化」には自分自身も含まれる点に特徴があり、自分自身の馬鹿げた考えを苦笑したりする際にも適用される。この対象化が必要とされる点において、それは感情に関わるものでありながら、人間のみに特徴的に出てくるものである。怒りの感情は、全体的状況に自分自身が入り込んでいるため、対象化は生じない。笑いは自然に生じるもので、考えや意志で引き起こしたりすることはできない。しかし、自然に生じるといってもある程度、心に余裕がないと出てこない。緊張の高い時のほか、何かに夢中になっているときにも笑いは生じない。真面目に物事に取り組み、緊張が高まっている状況下では、人間の自我がその状況の中に入り込み一体化することで、対象化が起こらない。あるいは、緊張感が高い状況下で、上手に人を笑わせる人がいると、笑いによって緊張がほどけ余裕が出、自分自身を対象化することができることもある。しかし、この場合に笑わせることができる人は、そのような状況からやや距離を置いて、安定してみていることができる人に限られる。
上記からわかるように、適切な「距離」を置くことは、笑いの必須条件であり、このような心理的距離をもてるのは、人間のみにできうることである。
笑いによって自律神経の頻繁な切り替えが起こる。
顔の筋肉の活動という点で見ると、感情を伴う自発的な笑いと社会的な場面での微笑み(作り笑いや愛想笑いなど)とでは、使用される顔の筋肉が異なり、したがってそれをコントロールする神経機構も全く異なるため、明らかに区別されうる。自発的な笑いは無意識的な脳(大脳辺縁系)の反射作用により、眼窩の周りに張り巡らされた眼輪筋の収斂を伴うが、作り笑いや愛想笑いでは反射的な眼輪筋の収斂が起きない。脳卒中によって左半球の運動野に損傷があるため、顔の右半分が麻痺しているにもかかわらず、滑稽な話に反応して自発的に笑うと、その笑いは麻痺に罹る以前のものと少しも変わらない患者の例があり、情動状況で顔面の筋肉をコントロールする神経機構と、意思による随意的なものとは異なるということの一つの証拠とされている。
自律神経系との関わりという点で見ても、快の笑い、緊張緩和の笑い、社交上の笑いとでは異なることが分かる。大笑いすると顔が紅潮し涙が出たりするが、これらは副交感神経の活動が優位な状態にあり交感神経の活動は低下している。緊張緩和の笑いでは、最初に交感神経の活動が優位状態にありその後に副交感神経系優位となる。社交上の笑いでは、自律神経系の変化はあまり見られない。
脳科学において、知覚された感覚情報はすべて扁桃体に入力され、意識的な感情はこの扁桃体から前頭葉の新皮質へ向かう直接経路と、扁桃体から視床下部を介して身体へ送られたメッセージ(生理的変化)が体性感覚野にフィードバックされ前頭葉に転送される間接的経路とによって生まれることが分かっている。したがって笑いの表出も可笑しさの感情を意識に上らせる前頭葉の新皮質と、無意識の部分でその感情を生み出す扁桃体や視床下部などとの相互作用の結果と推測されている。
茸の一種であるワライタケなどに含まれるある種のアルカロイドは、強烈な笑い反応を引き起こすと同時に、あのまぎれもない精神的な「おかしみ」の感覚を数時間にわたって引き起こす。もう一つ似たような笑い反射を引き起こす身体刺激にくすぐりがあるが、こちらは精神的な「おかしみ」の感覚を伴わないのが普通である。それゆえ、くすぐり刺激はワライタケ刺激より「下位のレベルで笑いの回路に入力される」と、社会学者の木村洋二は分析している。
笑いは体に良い影響を及ぼすと言われるが、仮説の範疇を出ない。笑うことで頬の筋肉が働き、また動くことにより、ストレスが解消され、鎮痛作用たんぱくの分泌を促進させ、ストレスが下がることにより血圧を下げ、心臓を活性化させ、運動した状態と似た症状を及ぼし、血液中の酸素を増やし、さらに心臓によい影響を与えるなど、様々な説明がなされるが、科学的に実証されているわけではない。笑うと気分がよくなるなど、経験的には好ましい印象があることから、臨床においては、笑いの効用を期待して循環器疾患の治療過程に取り入れる試みもある。2019年に山形大学医学部は、滅多に笑わない人はよく笑う人に比べて死亡率が2倍にのぼり、脳卒中などの心血管疾患の発症率が高いことを発表したが、笑いと健康との疫学的調査では、方法面での制約から、レトロスペクティブなアプローチが用いられることが多く、マスコミを通して通して報道される研究結果の解釈は慎重に行わなければならない。
また、笑い発生の機序として、てんかん患者の「笑い発作」の症例から側頭葉と視床下部が笑いの起点となっていることが示唆されており、副交感神経系優位に伴う顔面神経核の働きにより強制的な笑顔が生じると考えられている。
系統発生的に見ると、人間の笑いは、霊長類におけるコミュニケーションの手段から進化したものではないかと言われている。オランダの比較行動学者van Hooffは、サルにおける2種類の笑いの表情である劣位の表情と遊びの表情が、人間における笑いの表情に発展していったと説明している。サル社会において、劣位のサルが優位のサルに出会った時に示す無声の歯をむき出す「劣位の表情」が、人間における挨拶の際に示す微笑のような「社交上の笑い」(smile)に発展し、子ザルに多く見られる攻撃のない遊び場面で示すリラックスして口を開いている「遊びの表情」が、人間における「快の笑い」(laughter)へ進化したものであると考えている。
個体発生的に見ると、赤ちゃんが初めて見せる、授乳後の満足した笑いが「快の笑い」の始まりと考えられている。生後6ヶ月になると、母親や周囲の人間に対して見せる笑顔が彼らの笑いを誘うことを学習するようになり、この笑いによるコミュニケーションの成立が「社交上の笑い」の始まりと言われている。
よって系統発生的および個体発生的に見て人間の笑いは、「快の笑い」と「社交上の笑い」に二分することができる。医学博士の志水彰は更に、「緊張緩和の笑い」をこれに加えて三分することを提案している。
「快の笑い」は自己の欲求が充足される満足感や他者に対する優越感を覚えた時、更には事象間の不釣合いを感じた時に発生する。「社交上の笑い」は社会生活における対人関係の中で見られる。「緊張緩和の笑い」は、ストレスを感じる強い緊張状態から解放された時や、ある程度の緊張を伴うが後に無害なものと分かって安心し弛緩する時に生ずる笑いなどがある。
古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、可笑しさを「他人に苦痛や害を与えない失策または不恰好」と定義し、笑いの本質は「他人を軽蔑し見下すことから生ずる快感、つまり優越感」であるとする「笑いの優位説」を打ち立てた。イギリスの哲学者ホッブスも同様に笑いの優越説を提唱し、笑いとは、他人の劣等性または過去の自分の劣等性と比較して、現在の自分の優越性を突如認識することから生ずる勝利の感情以外のなにものでもないと考えた。
ドイツの哲学者カントは、笑いをある張り詰めた期待がにわかに無に転化することよって生ずる一つの情動と捉えた。この考えは、束縛から解放されることで笑いが生ずるという点で「笑いの緊張解放説」と言われる。
日本の落語家の桂枝雀(2代目)も、落語を聞いて笑いが生ずるのは、非現実的な物語の世界でハラハラしていた客をサゲによって一瞬に現実へ連れ戻す時、最高潮に達した緊張が突然緩和されることによるとする、「笑いの緊張緩和説」を唱えた。
ドイツの哲学者ショーペンハウエルは「笑いの不一致説」を提唱した。彼によると、「笑い」はある概念と、これと関連して考えられた事物とが一致しないと突然分かったときに生ずるものであり、両者間の不一致の程度が大きいほど可笑しさの感情が増していくものなのである。
これに対し、イギリスの哲学者スペンサーは同じ不一致(不調和)でもその方向性によって異なるとし、予期していた小さな事柄が予期しない大きな事柄になった時(上昇的不調和)、その不調和に対して驚異を感ずるが、逆に大きな事柄から小さな事柄へ意識が不意に移行する時(下降的不調和)、その不調和に対して笑いが生まれると主張した。別の言い方をすれば、下降的不調和を感じた時、これまで蓄積された緊張が解放され、それが笑いという行為となって現れるということで、この点においてカントの提唱した「笑いの緊張解放説」に通ずるものがある。
ハンガリーの思想家ケストラーは、笑いの不一致説とは逆に、不一致なもの或いは関係のない別領域のものが同一平面状で結合する時でも笑いが起こるという、「笑いの二元結合説」を提唱した。
スコットランドの心理学者ベインは、自分よりも遥かに上位に位置する他者が自分と同じレベルあるいはそれ以下に転落する時に生まれる笑いは、優越感から来るものではなく、権威や威厳のある者や事柄が卑俗化することによって生ずるものであるとする、「笑いの卑俗化の理論」を提唱した。
フランスの哲学者ベルクソンは「笑い」という本のなかで笑いの記述法則を6つ提示し、笑いというものをより体系的に捉えようとした。
オーストリアの精神科医フロイトは、精神分析的立場から笑いの心理的メカニズムを説明する理論を「機知−その無意識との関係」という論文の中で展開した。フロイトは意識下に抑圧するための内的な力を心的エネルギーと呼び、超自我の検閲に引っかかるような攻撃的なもの(からかい・皮肉)や性的なもの(露出・猥褻)は理性による抑圧を受けているが、機知によってこの抑制が不要になれば心的エネルギーは節約され、その節約された分のエネルギーが笑いとなって消費される。滑稽やユーモアにも笑いの源泉となる快感を生じさせる作用があり、我々の認識活動には多くの表象を必要とするが、一つの動作または短い文句で済まされるような滑稽な場面では期待していたことが起きず、そのために準備していた多くの表象が不要となり、その分の心的エネルギーが節約され余ったエネルギーが笑いとして消費される。またユーモアのある動作や言葉は、怒りや苦痛、恐怖といった感情興奮を不要なものにしてしまうため、その分の心的エネルギーが節約されて笑いを生む。フロイトによる笑いの理論を簡潔に言うと、「心的エネルギーの消費が節約されることで快感を得、その節約された余分なエネルギーが笑いとなって放出される」または「節約された心的エネルギーの運動エネルギーへの変換」となる。
心理学者の柴原貞夫は、優越の笑いもまた、自分が相対的に相手よりも優位であると感じた瞬間、心的緊張力が低下するため、エネルギー転換による笑いが生ずると説明している。
精神科医の小此木啓吾は、強者の能動的な笑いと弱者の受動的な笑いを区別し、強者の笑いは笑うという点において加害者でありサディスティックな性質を持っているが、弱者の笑いは笑われるという点で被害者でありマゾヒスティックな性質の甘えや媚びへつらいの特徴がある。サディスティックな笑いは、優越感や勝利感を味わう時に生ずる自己中心的な性質があり、ナルシスム的快感を伴う。無意識に存在するいやな自分を他人に投射し、他人を笑いものにすることによっていやな自分への不快感や軽蔑を解消し、心理的優位性を感じ、自我感情の高まりを経験する。この笑いは自分自身に快感を与えてくすぐり続ける自己愛的活動とも言える。また、可愛い、愛しいものに対する笑いも、笑う側の優越者、支配者としてのナルシシズムの確認作用である。更に、社会的な笑いにも、お互いが自分自身をくすぐり合って快感を得るというナルシシズムの共有が存在すると指摘している。また、笑いは性的なものと極めて親密な関係にあり、くすぐられると可笑しさを感じ笑いとして表出されるが、性的な快感刺激を受けると興奮しその表出としてオルガズムを経験する。その関係から、笑いの源泉は「くすぐられ快感−笑い反射」という生得的に与えられた生理心理的な刺激−反応機構にあるとしている。
アメリカの心理学者エクマンとフリーセンは、微笑(smile)にも不幸な場面での微笑みなど矛盾するような感情を伴う可能性を指摘し、このような笑いを「偽りの微笑」と称し、感情を伴う純粋な微笑と区別した。一般に、感情を伴う笑いには頬骨筋と眼輪筋の2つの筋肉の不随意的収縮が必要であるが、この「偽りの微笑」においては眼輪筋の活動が見られないのが特徴である。これは、頬骨筋は不随意的にも意図的にも活性化することが可能であるが、眼輪筋にはそれを自らの意思によって活性化する方法がないためである。
笑いは構図(シェーマ)のずれによって生じるとする説があるが、異論もある。例えばコントなどで滑って転ぶ政治家が演じられて笑いが起きたとすると、「政治家は真面目で威厳ある人で、滑って転ぶことなどありえない」という構図を受け手が持っていて、それがずらされたことによって笑いが起きたことになる。しかし、受け手の常識が「政治家に威厳があるとは限らない」「滑って転ぶことは意外な出来事ではない」「政治家が転ぶというネタは目新しいものではない」といったものであった場合、構図のずれが発生しないため笑いは起きない。同じ出来事に対して笑いが起きるかどうかは、受け手の持つ構図にも依存すると言える。
また、笑いは立場によって意味を変える性質がある。ある出来事がある人にとっては面白おかしい出来事であっても、ある人にとっては笑えない出来事であることもある。
さらに、笑いには攻撃的なものと愛他的・親和的なものの二つがあるとされている。しかし、愛他的・親和的であることを意図した笑いであっても、受け取る側は攻撃されたと感じることもある。笑いを分類する心理学研究は、1990年代から2000年を過ぎることまで活況を呈し、多数の心理尺度が作成されたが、笑いを客観的に分類できるとする説には10年以上前から疑問が呈されており、海外の主流な笑い研究では、安易な分類は避ける傾向にある。
微笑は新生児においても観察され、覚醒時のみならず、睡眠中にも規則的な周期を伴って生起する。これは新生児微笑と呼ばれるもので、養育者の注意を引き関心を維持させる機能を担った生得的行動と推測されている。実際、新生児微笑に対して養育者は高い確率でポジティブな応答を返すことが知られている。このような相互作用の結果、乳児は生後2~3か月の頃から社会的交渉を持つために周囲の者に対して自発的に微笑を向けるようになる(社会的微笑)。
発声を伴う哄笑は生後3.5~4か月で起こるようになる。何らかの外的刺激への反応として生じるもので、社会的微笑から派生したものと考えられている。しかし、笑いを喚起する刺激には驚きや恐怖をもたらす要素が含まれることから、発達的に先行する泣きから派生したものと見る説もある。
チンパンジーや、ゴリラ、ボノボ(ピグミーチンパンジー)、オランウータンなどは、取っ組み合いや追いかけっこ、くすぐりあいなどの遊びにおいて、人間の笑い声に似た声をあげる。また、この種のチンパンジーの行動は、野生状態でも飼育下でも記録されている。くすぐられる、追いかけられるといった受身の側のチンパンジーが笑うことが多い。人間とチンパンジーは、腋の下や腹など、くすぐられた際に笑いが生じやすい体の領域(くすぐったい領域)が共通している。プレイ・フェイスは遊びを誘う時や一人遊びでもよく見られるが、笑い声が起こるのは他者との遊びが始まってからである。チンパンジーは大人になってからも笑う(遊ぶことが減るので頻度は下がる)。人間との相違点として、人間は笑い声が伝染して多数が一斉に笑うことがあるがチンパンジーにはそのようなことが無いということや、野生のチンパンジーには言語によるユーモアや、嘲笑、他者を笑わせる「おどけ」が見られないことなどが指摘されている。また、チンパンジーの笑い声は呼気と吸気が交互に繰り返されることが多い点と、しゃがれ声であるという点で人間の笑い声と音響的に異なる。 | [
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"text": "これに対し、イギリスの哲学者スペンサーは同じ不一致(不調和)でもその方向性によって異なるとし、予期していた小さな事柄が予期しない大きな事柄になった時(上昇的不調和)、その不調和に対して驚異を感ずるが、逆に大きな事柄から小さな事柄へ意識が不意に移行する時(下降的不調和)、その不調和に対して笑いが生まれると主張した。別の言い方をすれば、下降的不調和を感じた時、これまで蓄積された緊張が解放され、それが笑いという行為となって現れるということで、この点においてカントの提唱した「笑いの緊張解放説」に通ずるものがある。",
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"text": "オーストリアの精神科医フロイトは、精神分析的立場から笑いの心理的メカニズムを説明する理論を「機知−その無意識との関係」という論文の中で展開した。フロイトは意識下に抑圧するための内的な力を心的エネルギーと呼び、超自我の検閲に引っかかるような攻撃的なもの(からかい・皮肉)や性的なもの(露出・猥褻)は理性による抑圧を受けているが、機知によってこの抑制が不要になれば心的エネルギーは節約され、その節約された分のエネルギーが笑いとなって消費される。滑稽やユーモアにも笑いの源泉となる快感を生じさせる作用があり、我々の認識活動には多くの表象を必要とするが、一つの動作または短い文句で済まされるような滑稽な場面では期待していたことが起きず、そのために準備していた多くの表象が不要となり、その分の心的エネルギーが節約され余ったエネルギーが笑いとして消費される。またユーモアのある動作や言葉は、怒りや苦痛、恐怖といった感情興奮を不要なものにしてしまうため、その分の心的エネルギーが節約されて笑いを生む。フロイトによる笑いの理論を簡潔に言うと、「心的エネルギーの消費が節約されることで快感を得、その節約された余分なエネルギーが笑いとなって放出される」または「節約された心的エネルギーの運動エネルギーへの変換」となる。",
"title": "笑いの分析"
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"text": "心理学者の柴原貞夫は、優越の笑いもまた、自分が相対的に相手よりも優位であると感じた瞬間、心的緊張力が低下するため、エネルギー転換による笑いが生ずると説明している。",
"title": "笑いの分析"
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"text": "精神科医の小此木啓吾は、強者の能動的な笑いと弱者の受動的な笑いを区別し、強者の笑いは笑うという点において加害者でありサディスティックな性質を持っているが、弱者の笑いは笑われるという点で被害者でありマゾヒスティックな性質の甘えや媚びへつらいの特徴がある。サディスティックな笑いは、優越感や勝利感を味わう時に生ずる自己中心的な性質があり、ナルシスム的快感を伴う。無意識に存在するいやな自分を他人に投射し、他人を笑いものにすることによっていやな自分への不快感や軽蔑を解消し、心理的優位性を感じ、自我感情の高まりを経験する。この笑いは自分自身に快感を与えてくすぐり続ける自己愛的活動とも言える。また、可愛い、愛しいものに対する笑いも、笑う側の優越者、支配者としてのナルシシズムの確認作用である。更に、社会的な笑いにも、お互いが自分自身をくすぐり合って快感を得るというナルシシズムの共有が存在すると指摘している。また、笑いは性的なものと極めて親密な関係にあり、くすぐられると可笑しさを感じ笑いとして表出されるが、性的な快感刺激を受けると興奮しその表出としてオルガズムを経験する。その関係から、笑いの源泉は「くすぐられ快感−笑い反射」という生得的に与えられた生理心理的な刺激−反応機構にあるとしている。",
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"text": "アメリカの心理学者エクマンとフリーセンは、微笑(smile)にも不幸な場面での微笑みなど矛盾するような感情を伴う可能性を指摘し、このような笑いを「偽りの微笑」と称し、感情を伴う純粋な微笑と区別した。一般に、感情を伴う笑いには頬骨筋と眼輪筋の2つの筋肉の不随意的収縮が必要であるが、この「偽りの微笑」においては眼輪筋の活動が見られないのが特徴である。これは、頬骨筋は不随意的にも意図的にも活性化することが可能であるが、眼輪筋にはそれを自らの意思によって活性化する方法がないためである。",
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"text": "笑いは構図(シェーマ)のずれによって生じるとする説があるが、異論もある。例えばコントなどで滑って転ぶ政治家が演じられて笑いが起きたとすると、「政治家は真面目で威厳ある人で、滑って転ぶことなどありえない」という構図を受け手が持っていて、それがずらされたことによって笑いが起きたことになる。しかし、受け手の常識が「政治家に威厳があるとは限らない」「滑って転ぶことは意外な出来事ではない」「政治家が転ぶというネタは目新しいものではない」といったものであった場合、構図のずれが発生しないため笑いは起きない。同じ出来事に対して笑いが起きるかどうかは、受け手の持つ構図にも依存すると言える。",
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"text": "また、笑いは立場によって意味を変える性質がある。ある出来事がある人にとっては面白おかしい出来事であっても、ある人にとっては笑えない出来事であることもある。",
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"text": "さらに、笑いには攻撃的なものと愛他的・親和的なものの二つがあるとされている。しかし、愛他的・親和的であることを意図した笑いであっても、受け取る側は攻撃されたと感じることもある。笑いを分類する心理学研究は、1990年代から2000年を過ぎることまで活況を呈し、多数の心理尺度が作成されたが、笑いを客観的に分類できるとする説には10年以上前から疑問が呈されており、海外の主流な笑い研究では、安易な分類は避ける傾向にある。",
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"text": "微笑は新生児においても観察され、覚醒時のみならず、睡眠中にも規則的な周期を伴って生起する。これは新生児微笑と呼ばれるもので、養育者の注意を引き関心を維持させる機能を担った生得的行動と推測されている。実際、新生児微笑に対して養育者は高い確率でポジティブな応答を返すことが知られている。このような相互作用の結果、乳児は生後2~3か月の頃から社会的交渉を持つために周囲の者に対して自発的に微笑を向けるようになる(社会的微笑)。",
"title": "新生児と笑い"
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"text": "発声を伴う哄笑は生後3.5~4か月で起こるようになる。何らかの外的刺激への反応として生じるもので、社会的微笑から派生したものと考えられている。しかし、笑いを喚起する刺激には驚きや恐怖をもたらす要素が含まれることから、発達的に先行する泣きから派生したものと見る説もある。",
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"text": "チンパンジーや、ゴリラ、ボノボ(ピグミーチンパンジー)、オランウータンなどは、取っ組み合いや追いかけっこ、くすぐりあいなどの遊びにおいて、人間の笑い声に似た声をあげる。また、この種のチンパンジーの行動は、野生状態でも飼育下でも記録されている。くすぐられる、追いかけられるといった受身の側のチンパンジーが笑うことが多い。人間とチンパンジーは、腋の下や腹など、くすぐられた際に笑いが生じやすい体の領域(くすぐったい領域)が共通している。プレイ・フェイスは遊びを誘う時や一人遊びでもよく見られるが、笑い声が起こるのは他者との遊びが始まってからである。チンパンジーは大人になってからも笑う(遊ぶことが減るので頻度は下がる)。人間との相違点として、人間は笑い声が伝染して多数が一斉に笑うことがあるがチンパンジーにはそのようなことが無いということや、野生のチンパンジーには言語によるユーモアや、嘲笑、他者を笑わせる「おどけ」が見られないことなどが指摘されている。また、チンパンジーの笑い声は呼気と吸気が交互に繰り返されることが多い点と、しゃがれ声であるという点で人間の笑い声と音響的に異なる。",
"title": "人間以外の霊長類の笑い声"
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] | 笑い(わらい)とは、楽しさ、嬉しさ、おかしさなどを表現する感情表出行動の一つ。笑いは一般的に快感という感情とともに生じ、感情体験と深くかかわっている。また、笑いは感情表現の中でも極めて特殊なものであり、すぐれて人間的なものである。一般的に動物の中で笑うのは人間だけである。怒り、悲しみなどの表現は動物にもあるが、笑いがすぐれて人間的である理由として、笑いには「笑うもの」と「笑われるもの」という分離があり、何かを対象化するという心の働きが必要となる。 | {{redirect|笑|笹川美和の曲|笑 (笹川美和の曲)|テキストにおける笑いの表現|(笑)}}
{{出典の明記|date=2014年2月}}
{{独自研究|date=2018年11月}}
[[File:AmericaFest 2014 140629-F-GV347-190.jpg|thumb|300px|right|笑いは楽しさなどの感情表現である。[[回転ブランコ]]に乗る[[子ども]]たち。]]
[[ファイル:Emojione 1F602.svg|thumb|[[喜び]][[涙]]を出しながら笑う[[携帯電話の絵文字|絵文字]]。[[Unicode]] U+1F602]]
'''笑い'''(わらい)とは、楽しさ、嬉しさ、おかしさなどを表現する[[感情]]表出行動の一つ。笑いは一般的に[[快感]]という[[感情]]とともに生じ、感情体験と深くかかわっている。また、笑いは感情表現の中でも極めて特殊なものであり、すぐれて人間的なものである。一般的に[[動物]]の中で笑うのは人間だけである。[[怒り]]、[[悲しみ]]などの表現は動物にもあるが、笑いがすぐれて人間的である理由として、笑いには「''笑うもの''」と「''笑われるもの''」という分離があり、何かを[[対象化]]するという[[心]]の働きが必要となる<ref name="TAIWA">河合隼雄『対話する生と死』([[大和文庫]] 2006年2月15日発行)</ref>。
== 概要 ==
[[File:2016-08-05 Kagayaki (ship, 2009)Port of Toba 鳥羽市営定期船「かがやき」 DSCF5994.jpg|thumb|220px|right|嬉しさを笑いで表現する少女。子供の無邪気な笑いは「対象化」とは無縁に見える。]]
人は笑うとき、ごく一般的には陽性の感情(快感)に伴って表情が特有の緊張をし(笑顔)、同時に特有の発声(笑い声)を伴う。通常は自分以外の対象があって、それから受ける印象に基づいてそれが好意的であれば表情に笑いが生じ、特に刺激的な場合には発声が伴う。さらに程度がひどくなると全身に引きつけるような筋肉の収縮が伴い、[[涙]]が出ることがある。人間はこのような表現を意識的に使い分けることができ、これにより微細な感情を表現する。たとえば、表情を変えずに笑い声だけをあげた場合、[[冷やかし]]や[[威嚇]]などの表現となり得る。否定的な意味合いを持つ[[笑い#笑いの種類|笑い]]も存在する。また、自己を笑いの対象とする笑いには[[自嘲]]のように複雑な感情を伴うものもあり、[[自虐]]などとは区別される。
=== 対象化 ===
笑いが快感にだけ伴って起こるわけではないが、感情体験と深くかかわっていることは明白である。人間の[[心]]の働きを[[理性]]と[[感情]]という二分法に従えば、しばしば理性に価値が置かれ、感情は下に見られがちである。理性は人間特有のものであり、感情は動物的であるとされるためだが、このような考えに立つ人は感情を表出することははしたないと考え、それをできるだけ排除すべきと主張する。笑いがすぐれて人間的である理由として、笑いには「''笑う者''」と「''笑われる者''」という分離があり、その意味において何かを「対象化」する心の働きが存在する事実があると、[[心理学者]]の[[河合隼雄]]は指摘している。
この「対象化」は人間だけがなしうることで、自と他を明確に分離し、自が他を「対象」として見る。その際に、自分が対象に対し突然の優越を感じる際に笑いが生じると、[[トマス・ホッブス]]や[[マルセル・パニョル]]などは主張した。河合は[[優越感]]と言ってしまうのには限定が強過ぎるが、笑うためには笑う主体がある程度の安定感を持つことが必要であるとし、不安定な時には[[恐怖]]や[[不安]]が先行するため「笑っている場合じゃない」という状況になると説明し、さらに優越とまではいかなくても、対象の中に見出した「'''ズレ'''」の感覚を楽しむとでも表現する方が広く笑いを説明しているのではないかとする<ref name="TAIWA"/>。
この「対象化」には自分自身も含まれる点に特徴があり、自分自身の馬鹿げた考えを苦笑したりする際にも適用される。この対象化が必要とされる点において、それは感情に関わるものでありながら、人間のみに特徴的に出てくるものである。怒りの感情は、全体的状況に自分自身が入り込んでいるため、対象化は生じない。笑いは自然に生じるもので、考えや[[意志]]で引き起こしたりすることはできない。しかし、自然に生じるといってもある程度、心に余裕がないと出てこない。緊張の高い時のほか、何かに夢中になっているときにも笑いは生じない。真面目に物事に取り組み、緊張が高まっている状況下では、人間の[[自我]]がその状況の中に入り込み一体化することで、対象化が起こらない。あるいは、緊張感が高い状況下で、上手に人を笑わせる人がいると、笑いによって緊張がほどけ余裕が出、自分自身を対象化することができることもある。しかし、この場合に笑わせることができる人は、そのような状況からやや距離を置いて、安定してみていることができる人に限られる<ref name="TAIWA"/>。
上記からわかるように、適切な「距離」を置くことは、笑いの必須条件であり、このような心理的距離をもてるのは、人間のみにできうることである<ref name="TAIWA"></ref>。
== 生理的な効果 ==
笑いによって[[自律神経]]の頻繁な切り替えが起こる。
* この結果、[[交感神経]]と[[副交感神経]]のバランスの状態が代り、副交感神経が優位な状態になる。
** 副交感神経は、安らぎや安心を感じたときに優位で、副交感神経が優位な状態が続くと[[ストレス (生体)|ストレス]]が解消される。
** 交感神経は、怒りや恐怖を感じたときに優位になる。したがって、その状態が続くとストレスの原因になる。
* 身体中の様々な[[器官]]に刺激が与えられる。
** [[NK細胞]](ナチュラルキラー細胞)が活性化し、[[悪性腫瘍|ガン]]の予防や治療を促進させる。
*** 自律神経の頻繁な切り替えによる脳への刺激により、神経ペプチド([[免疫]]機能活性化[[ホルモン]])が全身に分泌される。NK細胞には神経ペプチドの受容体があり、NK細胞は活性化される。NK細胞は[[悪性腫瘍|癌]]細胞などを攻撃する免疫細胞の一つである。
** [[糖尿病]]の治療にも有効であるとの研究がある。
* ストレスホルモンを減らし、善玉コレステロールを増やし、動脈の炎症を減らす効果がある<ref>{{Cite web |title=5 ways to de-stress and help your heart |url=https://www.health.harvard.edu/heart-health/5-ways-to-de-stress-and-help-your-heart |website=Harvard Health |date=2015-08-25 |access-date=2022-07-29 |language=en}}</ref>。
== 医学・脳神経科学的観点 ==
顔の筋肉の活動という点で見ると、感情を伴う自発的な笑いと社会的な場面での微笑み(作り笑いや愛想笑いなど)とでは、使用される顔の筋肉が異なり、したがってそれをコントロールする神経機構も全く異なるため、明らかに区別されうる。自発的な笑いは無意識的な脳(大脳辺縁系)の反射作用により、眼窩の周りに張り巡らされた眼輪筋の収斂を伴うが、作り笑いや愛想笑いでは反射的な眼輪筋の収斂が起きない。脳卒中によって左半球の運動野に損傷があるため、顔の右半分が麻痺しているにもかかわらず、滑稽な話に反応して自発的に笑うと、その笑いは麻痺に罹る以前のものと少しも変わらない患者の例があり、情動状況で顔面の筋肉をコントロールする神経機構と、意思による随意的なものとは異なるということの一つの証拠とされている<ref name="mechanism" />。
自律神経系との関わりという点で見ても、快の笑い、緊張緩和の笑い、社交上の笑いとでは異なることが分かる。大笑いすると顔が紅潮し涙が出たりするが、これらは副交感神経の活動が優位な状態にあり交感神経の活動は低下している。緊張緩和の笑いでは、最初に交感神経の活動が優位状態にありその後に副交感神経系優位となる。社交上の笑いでは、自律神経系の変化はあまり見られない<ref name="mechanism" />。
脳科学において、知覚された感覚情報はすべて扁桃体に入力され、意識的な感情はこの扁桃体から前頭葉の新皮質へ向かう直接経路と、扁桃体から視床下部を介して身体へ送られたメッセージ(生理的変化)が体性感覚野にフィードバックされ前頭葉に転送される間接的経路とによって生まれることが分かっている。したがって笑いの表出も可笑しさの感情を意識に上らせる前頭葉の新皮質と、無意識の部分でその感情を生み出す扁桃体や視床下部などとの相互作用の結果と推測されている<ref name="mechanism" />。
茸の一種であるワライタケなどに含まれるある種のアルカロイドは、強烈な笑い反応を引き起こすと同時に、あのまぎれもない精神的な「おかしみ」の感覚を数時間にわたって引き起こす。もう一つ似たような笑い反射を引き起こす身体刺激にくすぐりがあるが、こちらは精神的な「おかしみ」の感覚を伴わないのが普通である。それゆえ、くすぐり刺激はワライタケ刺激より「下位のレベルで笑いの回路に入力される」と、社会学者の木村洋二は分析している<ref>{{Cite journal|和書 |author=宮澤康人 |year=2018 |title=笑う・教育学 : 微笑・哄笑・苦笑・憫笑・嘲笑するという関わり方とヒトの成熟 |journal=研究室紀要 |publisher=東京大学大学院教育学研究科基礎教育学研究室 |volume=44 |pages=1-12 |doi=10.15083/00074933 |url=https://doi.org/10.15083/00074933 |accessdate=2022-03-30}}</ref>。
笑いは体に良い影響を及ぼすと言われるが、[[仮説]]の範疇を出ない。笑うことで[[頬]]の[[筋肉]]が働き、また動くことにより、ストレスが解消され、[[鎮痛]]作用たんぱくの分泌を促進させ、[[ストレス (生体)|ストレス]]が下がることにより[[血圧]]を下げ、[[心臓]]を活性化させ、運動した状態と似た症状を及ぼし、[[血液]]中の[[酸素]]を増やし、さらに心臓によい影響を与えるなど、様々な説明がなされるが、科学的に実証されているわけではない。笑うと気分がよくなるなど、経験的には好ましい印象があることから、臨床においては、笑いの効用を期待して[[循環器]]疾患の治療過程に取り入れる試みもある。[[2019年]]に[[山形大学]]医学部は、滅多に笑わない人はよく笑う人に比べて死亡率が2倍にのぼり、[[脳卒中]]などの[[心血管疾患]]の発症率が高いことを発表した<ref>{{Cite news|title=笑わない人は死亡率2倍 山形大調査|date=2019-06-25|newspaper=『[[日本経済新聞]]』|agency=日本経済新聞社}}</ref>が、笑いと健康との[[疫学]]的調査では、方法面での制約から、レトロスペクティブなアプローチが用いられることが多く、マスコミを通して通して報道される研究結果の解釈は慎重に行わなければならない。
また、笑い発生の機序として、[[てんかん]]患者の「笑い発作」の症例から[[側頭葉]]と[[視床下部]]が笑いの起点となっていることが示唆されており、[[副交感神経]]系優位に伴う顔面神経核の働きにより強制的な笑顔が生じると考えられている。<ref name=":0">小林亮『科学で読み解く笑いの方程式 上巻』(2018年1月1日発行)</ref>
== 笑いの分析 ==
系統発生的に見ると、人間の笑いは、霊長類におけるコミュニケーションの手段から進化したものではないかと言われている。オランダの比較行動学者van Hooffは、サルにおける2種類の笑いの表情である劣位の表情と遊びの表情が、人間における笑いの表情に発展していったと説明している。サル社会において、劣位のサルが優位のサルに出会った時に示す無声の歯をむき出す「劣位の表情」が、人間における挨拶の際に示す微笑のような「社交上の笑い」(smile)に発展し、子ザルに多く見られる攻撃のない遊び場面で示すリラックスして口を開いている「遊びの表情」が、人間における「快の笑い」(laughter)へ進化したものであると考えている<ref name="mechanism">{{Cite journal|和書|author=柴原直樹 |title=笑いの発生メカニズム |journal=近畿福祉大学紀要 |year=2006 |volume=7 |issue=1 |pages=1-11 |naid=110006428784 |url=http://id.nii.ac.jp/1049/00000142/ |accessdate=2022-03-30}}</ref>。
個体発生的に見ると、赤ちゃんが初めて見せる、授乳後の満足した笑いが「快の笑い」の始まりと考えられている。生後6ヶ月になると、母親や周囲の人間に対して見せる笑顔が彼らの笑いを誘うことを学習するようになり、この笑いによるコミュニケーションの成立が「社交上の笑い」の始まりと言われている<ref name="mechanism" />。
よって系統発生的および個体発生的に見て人間の笑いは、「快の笑い」と「社交上の笑い」に二分することができる。医学博士の志水彰は更に、「緊張緩和の笑い」をこれに加えて三分することを提案している<ref name="mechanism" />。
「快の笑い」は自己の欲求が充足される満足感や他者に対する優越感を覚えた時、更には事象間の不釣合いを感じた時に発生する。「社交上の笑い」は社会生活における対人関係の中で見られる。「緊張緩和の笑い」は、ストレスを感じる強い緊張状態から解放された時や、ある程度の緊張を伴うが後に無害なものと分かって安心し弛緩する時に生ずる笑いなどがある<ref name="mechanism" />。
古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、可笑しさを「他人に苦痛や害を与えない失策または不恰好」と定義し、笑いの本質は「他人を軽蔑し見下すことから生ずる快感、つまり優越感」であるとする「笑いの優位説」を打ち立てた<ref name="mechanism" />。イギリスの哲学者ホッブスも同様に笑いの優越説を提唱し、笑いとは、他人の劣等性または過去の自分の劣等性と比較して、現在の自分の優越性を突如認識することから生ずる勝利の感情以外のなにものでもないと考えた<ref name="mechanism" />。
ドイツの哲学者カントは、笑いをある張り詰めた期待がにわかに無に転化することよって生ずる一つの情動と捉えた。この考えは、束縛から解放されることで笑いが生ずるという点で「笑いの緊張解放説」と言われる<ref name="mechanism" />。
日本の落語家の桂枝雀(2代目)も、落語を聞いて笑いが生ずるのは、非現実的な物語の世界でハラハラしていた客をサゲによって一瞬に現実へ連れ戻す時、最高潮に達した緊張が突然緩和されることによるとする、「笑いの緊張緩和説」を唱えた<ref name="mechanism" />。
ドイツの哲学者ショーペンハウエルは「笑いの不一致説」を提唱した。彼によると、「笑い」はある概念と、これと関連して考えられた事物とが一致しないと突然分かったときに生ずるものであり、両者間の不一致の程度が大きいほど可笑しさの感情が増していくものなのである<ref name="mechanism" />。
これに対し、イギリスの哲学者スペンサーは同じ不一致(不調和)でもその方向性によって異なるとし、予期していた小さな事柄が予期しない大きな事柄になった時(上昇的不調和)、その不調和に対して驚異を感ずるが、逆に大きな事柄から小さな事柄へ意識が不意に移行する時(下降的不調和)、その不調和に対して笑いが生まれると主張した。別の言い方をすれば、下降的不調和を感じた時、これまで蓄積された緊張が解放され、それが笑いという行為となって現れるということで、この点においてカントの提唱した「笑いの緊張解放説」に通ずるものがある<ref name="mechanism" />。
ハンガリーの思想家ケストラーは、笑いの不一致説とは逆に、不一致なもの或いは関係のない別領域のものが同一平面状で結合する時でも笑いが起こるという、「笑いの二元結合説」を提唱した<ref name="mechanism" />。
スコットランドの心理学者ベインは、自分よりも遥かに上位に位置する他者が自分と同じレベルあるいはそれ以下に転落する時に生まれる笑いは、優越感から来るものではなく、権威や威厳のある者や事柄が卑俗化することによって生ずるものであるとする、「笑いの卑俗化の理論」を提唱した<ref name="mechanism" />。
フランスの哲学者ベルクソンは「笑い」という本のなかで笑いの記述法則を6つ提示し、笑いというものをより体系的に捉えようとした<ref name="mechanism" />。
オーストリアの精神科医フロイトは、精神分析的立場から笑いの心理的メカニズムを説明する理論を「機知−その無意識との関係」という論文の中で展開した。フロイトは意識下に抑圧するための内的な力を心的エネルギーと呼び、超自我の検閲に引っかかるような攻撃的なもの(からかい・皮肉)や性的なもの(露出・猥褻)は理性による抑圧を受けているが、機知によってこの抑制が不要になれば心的エネルギーは節約され、その節約された分のエネルギーが笑いとなって消費される。滑稽やユーモアにも笑いの源泉となる快感を生じさせる作用があり、我々の認識活動には多くの表象を必要とするが、一つの動作または短い文句で済まされるような滑稽な場面では期待していたことが起きず、そのために準備していた多くの表象が不要となり、その分の心的エネルギーが節約され余ったエネルギーが笑いとして消費される。またユーモアのある動作や言葉は、怒りや苦痛、恐怖といった感情興奮を不要なものにしてしまうため、その分の心的エネルギーが節約されて笑いを生む。フロイトによる笑いの理論を簡潔に言うと、「心的エネルギーの消費が節約されることで快感を得、その節約された余分なエネルギーが笑いとなって放出される」または「節約された心的エネルギーの運動エネルギーへの変換」となる<ref name="mechanism" />。
心理学者の柴原貞夫は、優越の笑いもまた、自分が相対的に相手よりも優位であると感じた瞬間、心的緊張力が低下するため、エネルギー転換による笑いが生ずると説明している<ref name="mechanism" />。
精神科医の小此木啓吾は、強者の能動的な笑いと弱者の受動的な笑いを区別し、強者の笑いは笑うという点において加害者でありサディスティックな性質を持っているが、弱者の笑いは笑われるという点で被害者でありマゾヒスティックな性質の甘えや媚びへつらいの特徴がある。サディスティックな笑いは、優越感や勝利感を味わう時に生ずる自己中心的な性質があり、ナルシスム的快感を伴う。無意識に存在するいやな自分を他人に投射し、他人を笑いものにすることによっていやな自分への不快感や軽蔑を解消し、心理的優位性を感じ、自我感情の高まりを経験する。この笑いは自分自身に快感を与えてくすぐり続ける自己愛的活動とも言える。また、可愛い、愛しいものに対する笑いも、笑う側の優越者、支配者としてのナルシシズムの確認作用である。更に、社会的な笑いにも、お互いが自分自身をくすぐり合って快感を得るというナルシシズムの共有が存在すると指摘している。また、笑いは性的なものと極めて親密な関係にあり、くすぐられると可笑しさを感じ笑いとして表出されるが、性的な快感刺激を受けると興奮しその表出としてオルガズムを経験する。その関係から、笑いの源泉は「くすぐられ快感−笑い反射」という生得的に与えられた生理心理的な刺激−反応機構にあるとしている<ref name="mechanism" />。
アメリカの心理学者エクマンとフリーセンは、微笑(smile)にも不幸な場面での微笑みなど矛盾するような感情を伴う可能性を指摘し、このような笑いを「偽りの微笑」と称し、感情を伴う純粋な微笑と区別した。一般に、感情を伴う笑いには頬骨筋と眼輪筋の2つの筋肉の不随意的収縮が必要であるが、この「偽りの微笑」においては眼輪筋の活動が見られないのが特徴である。これは、頬骨筋は不随意的にも意図的にも活性化することが可能であるが、眼輪筋にはそれを自らの意思によって活性化する方法がないためである<ref name="mechanism" />。
笑いは構図([[スキーマ|シェーマ]])のずれによって生じるとする説があるが、異論もある。例えば[[コント]]などで滑って転ぶ政治家が演じられて笑いが起きたとすると、「政治家は真面目で威厳ある人で、滑って転ぶことなどありえない」という構図を受け手が持っていて、それがずらされたことによって笑いが起きたことになる。しかし、受け手の常識が「政治家に威厳があるとは限らない」「滑って転ぶことは意外な出来事ではない」「政治家が転ぶというネタは目新しいものではない」といったものであった場合、構図のずれが発生しないため笑いは起きない。同じ出来事に対して笑いが起きるかどうかは、受け手の持つ構図にも依存すると言える。
また、笑いは立場によって意味を変える性質がある。ある出来事がある人にとっては面白おかしい出来事であっても、ある人にとっては笑えない出来事であることもある。
さらに、笑いには攻撃的なものと愛他的・親和的なものの二つがあるとされている<ref>{{Cite journal|和書|author=伊藤理絵, 本多薫, 渡邊洋一 |title=攻撃的ユーモアを笑う |journal=山形大学人文学部研究年報 |publisher=山形大学人文学部 |year=2011 |volume=8 |pages=215-227 |naid=110008151125 |url=http://id.nii.ac.jp/1348/00001344/}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=伊藤理絵, 内藤俊史, 本多薫 |title=幼児に見られる攻撃的笑いについて : 観察記録からの検討 |journal=笑い学研究 |ISSN=2189-4132 |publisher=日本笑い学会 |year=2009 |volume=16 |pages=114-118 |doi=10.18991/warai.16.0_114 |naid=110007359788 |url=https://doi.org/10.18991/warai.16.0_114}}</ref>。しかし、愛他的・親和的であることを意図した笑いであっても、受け取る側は攻撃されたと感じることもある。笑いを分類する心理学研究は、1990年代から2000年を過ぎることまで活況を呈し、多数の心理尺度が作成されたが、笑いを客観的に分類できるとする説には10年以上前から疑問が呈されており、海外の主流な笑い研究では、安易な分類は避ける傾向にある。
== 新生児と笑い ==
{{See also|新生児微笑}}
[[微笑み|微笑]]は[[新生児]]においても観察され、覚醒時のみならず、[[睡眠]]中にも規則的な周期を伴って生起する。これは[[新生児微笑]]と呼ばれるもので、養育者の注意を引き関心を維持させる機能を担った生得的行動と推測されている。実際、新生児微笑に対して養育者は高い確率でポジティブな応答を返すことが知られている。このような[[社会的相互作用|相互作用]]の結果、乳児は生後2~3か月の頃から社会的交渉を持つために周囲の者に対して自発的に微笑を向けるようになる(社会的微笑)。
発声を伴う[[哄笑]]は生後3.5~4か月で起こるようになる。何らかの外的刺激への反応として生じるもので、社会的微笑から派生したものと考えられている。しかし、笑いを喚起する刺激には驚きや恐怖をもたらす要素が含まれることから、発達的に先行する泣きから派生したものと見る説もある。
== 笑いの研究 ==
* [[古代]]
** 既に[[古代ギリシア]]の[[プラトン]]には笑いについての考察<!--具体的な書名は?-->がある。[[アリストテレス]]は『[[詩学 (アリストテレス)|詩学]]』の中で[[喜劇]]も考察対象にすると書いたが、これは実現しなかったと見られている。
** 古代ギリシャでは悲劇と喜劇が一作ずつ上演されるのが常であった。
<!-- **[[司馬遷]]は[[史記]]列伝に滑稽列伝の一章を設けている。 -->
** 日本の文献で最も古い笑いの記録は[[天岩戸|岩戸隠れ]]に於いて[[アメノウズメ|アメノウズメノミコト]]が神懸かったり踊っているのを見た神々が笑ったというくだりであろう。古代社会において笑いを含む芸能が、神や支配者を楽しませるもの、奉納するものとしての要素があったことを示している。
** [[考古学]]的な資料(出土[[遺物]])として、[[古墳時代]]の人物[[埴輪]]の中に笑った表情の埴輪が見られる。
* [[18世紀]]
** [[ドイツ]]の[[哲学者]][[イマヌエル・カント]]は「笑いは緊張の緩和から来る」という有名な言葉を残した。
* [[19世紀]]
** [[フランス]]の詩人[[シャルル・ボードレール]]は、有意義的滑稽(人間の振る舞いによって引き起こされる普通の笑い)と、絶対的滑稽([[グロテスク]]によって引き起こされる深遠で原始的な笑い)があるとした。
** [[スコットランド]]の哲学者・心理学者[[アレクサンダー・ベイン]]は、笑いとは、私たちを安心させる些細なこと、卑俗なことに接触による緊張した状態から逃れた状態である。笑わせてくれるまじめさ、荘厳さの形であるとした。
** [[イギリス]]の社会学者[[ハーバート・スペンサー]]は、強い感情、精神や肉体という、笑いの一般的な理由として、他の筋肉運動と異なり、特に目的もない筋肉運動から笑いが構成されるということに注目するべきだと主張した。
** 笑うのは[[動物]]の中でも[[ヒト]]だけであると考えられてきた。しかし、[[進化論]]の提唱者である[[チャールズ・ダーウィン]]は、[[オランウータン]]や[[チンパンジー]]といった[[類人猿]]をくすぐると笑い声をあげると書いている。
* [[20世紀]]
** [[オーストリア]]の精神科医[[ジークムント・フロイト]]は「ユーモアは[[自我]]の不可侵性の貫徹から来る」と説いた。
** フランスの哲学者[[アンリ・ベルクソン]]は自身の研究『笑い』において、[[ボードヴィル]]演劇を素材として笑いの原因を考察した。ここでは「笑いは、生命ある人間に機械的なこわばりが生じた結果である。」としている。
** 日本でも、落語家の[[桂枝雀 (2代目)|桂枝雀]]が、笑いは緊張の緩和によって起こるという「緊緩理論」を立てている。
** 笑いには、免疫系の[[NK細胞]](ナチュラルキラー細胞)の活性を高めるなどの健康増進作用があると言われている。
** [[オランダ]]の[[霊長類学]]者ヤン・ファンフーフは、笑いの起源と進化についての仮説を提唱した。笑いは微笑み(スマイル)と声の伴う笑い(ラフ)の二つに大きく分類でき、スマイルはサルの仲間が自分より強いサルに対してみせる「歯をむき出しにする表情(グリマス)」から、ラフはサルの仲間が[[遊び]]においてみせる「口をまるくあける表情(プレイ・フェイス)とそれに付随するあえぎ声(プレイ・パント/笑い声)」からそれぞれ進化したという(プレイ・フェイスは霊長類に広く見られるが、笑い声を発する種は限られる)。
* [[21世紀]]
** 欲求神経学研究センターの小林亮は、[[神経科学|脳神経科学]]の視点から「複数のシナプスタグ開放による記憶の連合と、それに伴う副交感神経系優位」により笑いが生じるとする『記憶の連合理論』を提唱している。この理論は「緊緩理論」と「構図のずれ」を統合する内容であり、[[好奇心|知的好奇心]]を構成する脳のシステムと同一だと考えられるという。<ref name=":0" />
[[Image:Laughter by David Shankbone.jpg|thumb|right|200px|くすぐったいと笑うのは皆同じ]]
== 人間以外の霊長類の笑い声 ==
[[チンパンジー]]や、[[ゴリラ]]、[[ボノボ]](ピグミーチンパンジー)、[[オランウータン]]などは、取っ組み合いや追いかけっこ、[[くすぐり]]あいなどの遊びにおいて、人間の笑い声に似た声をあげる。また、この種のチンパンジーの行動は、野生状態でも飼育下でも記録されている<ref>[http://realaudio.service.emory.edu/ramgen/YERKES/PARR/laugh.rm チンパンジー笑い声のサンプル] グドール(1968)とパール(2005)</ref>。くすぐられる、追いかけられるといった受身の側のチンパンジーが笑うことが多い。人間とチンパンジーは、[[腋の下]]や[[腹]]など、くすぐられた際に笑いが生じやすい体の領域(くすぐったい領域)が共通している。プレイ・フェイスは遊びを誘う時や一人遊びでもよく見られるが、笑い声が起こるのは他者との遊びが始まってからである。チンパンジーは大人になってからも笑う(遊ぶことが減るので頻度は下がる)。人間との相違点として、人間は笑い声が伝染して多数が一斉に笑うことがあるがチンパンジーにはそのようなことが無いということや、野生のチンパンジーには言語によるユーモアや、嘲笑、他者を笑わせる「おどけ」が見られないことなどが指摘されている<ref>{{Cite journal|和書|author=松阪崇久 |title=笑いの起源と進化 |journal=心理学評論 |ISSN=0386-1058 |publisher=心理学評論刊行会 |year=2008 |volume=51 |issue=3 |pages=431-446 |doi=10.24602/sjpr.51.3_431 |naid=130007631607 |url=https://doi.org/10.24602/sjpr.51.3_431
}}</ref>。また、チンパンジーの笑い声は呼気と吸気が交互に繰り返されることが多い点と、しゃがれ声であるという点で人間の笑い声と音響的に異なる。
== 笑いを取る行動・演芸 ==
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* [[ギャグ]]
* [[ジョーク]]
* [[小話]]
* [[落語]]
* [[漫才]]
* [[喜劇]](コメディー)
* [[狂言]]
* [[ギャグ漫画]]
* [[風刺]]
* [[ユーモア]]
* [[アネクドート]]
* [[コミックソング]]
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== 笑いを取る職業 ==
{{Div col}}
=== 職業 ===
* [[噺家]]([[落語家]])
* [[漫才師]]
* [[戯作者]]
* [[喜劇俳優]]
* [[道化師]]
* [[芸人]]
* [[お笑いタレント]]
* [[コミックバンド]]
=== 著名なコメディアン ===
* [[チャーリー・チャップリン|チャールズ・チャップリン]]
* [[志村けん]]([[ザ・ドリフターズ]])
* [[ローワン・アトキンソン]]
* [[バスター・キートン]]
* [[マルクス兄弟]]
* [[モンティ・パイソン]]
* [[ハロルド・ロイド]]
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== 笑いに関する表現 ==
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* 笑[[顔]]
* 爆笑、大爆笑 - その場にいる人の多くが笑うこと
* 苦笑い
* 失笑
* 冷笑
* 照れ笑い
* 微笑
* 哄笑、高笑
* [[愛想]]笑い
* 空笑
* 嘲笑
* 憫笑
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== 笑いについての名言・格言・四字熟語 ==
{{Div col}}
* 破顔一笑
* 呵々大笑
* 抱腹絶倒
* 一笑に付す
* 一笑を買う
* 笑壺に入る
* 笑みの中の刀
* 笑中に刀あり
* 笑いを噛み殺す
* 笑う門には[[福]]来る
* 笑い三年泣き三月
* 痘痕も靨(笑窪)
* [[目屎]][[鼻屎]]を笑う
* 樽抜き渋[[柿]]を笑う
* 怒れる拳笑面に当たらず
* [[来年]]のことを言うと[[鬼]]が笑う
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== 笑いの種類 ==
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* 含み笑い
* 薄ら笑い
* せせら笑い
* 作り笑い
* 苦笑い
* 思い出し笑い
* 独り笑い
* 高笑い
* 馬鹿笑い
* 追従笑い
* 貰い笑い
* 誘い笑い
* 嘲笑い
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{ウィキプロジェクトリンク|お笑い|[[画像:718smiley-jonathan.svg|34px]]}}
* [[笑顔]]
* [[お笑いタレント|お笑い芸人]]、[[ギャグ]]、[[落ち]]
* [[滑稽]]
* [[LOL]]・[[(笑)]] - インターネットにおける笑いの表現方法
* [[微笑み走法]] - ランニング時における笑いの効用
* [[赤ちゃん#特徴|新生児微笑]] - [[赤ちゃん]]の特徴の一つ
* [[笑い講]] - 豊作を願い笑う神事
* [[笑い死に]]
* [[ワライタケ]]([[きのこ]]の一種)
== 外部リンク ==
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[[Category:笑い|*]]
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[[Category:感情]] | 2003-02-21T12:39:11Z | 2023-09-24T12:47:07Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%91%E3%81%84 |
2,659 | フェブラリーステークス | フェブラリーステークスは、日本中央競馬会(JRA)が東京競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。
競走名の「フェブラリー(February)」は、2月を意味する英語。この名が示す通り毎年2月、具体的には2月の第3もしくは第4日曜日に開催される。JRA主催でGIに格付けされる競走としては毎年最初に行われる競走である。
正賞は日本馬主協会連合会会長賞、地方競馬全国協会理事長賞、全国公営競馬主催者協議会会長賞、日本地方競馬馬主振興協会会長賞、ブリーダーズカップ・チャレンジ賞。
JRAが施行するダート重賞競走では、最も古い歴史を持つ競走である。
1984年に前身となる「フェブラリーハンデキャップ」が創設、東京競馬場のダート1600mで施行され、当初はGIIIの格付けだった。1994年にGIIへ昇格するとともに負担重量も別定に変更、名称も「フェブラリーステークス」に改称された。
その後、中央競馬と地方競馬の交流競走が拡大されるなか、1997年には中央競馬のダート重賞競走として初めてGIに格付けされ、負担重量も定量に変更、国内の上半期のダート最強馬決定戦に位置付けられた。2007年からは国際競走に指定され、外国馬の出走も可能になった。
2016年からブリーダーズカップ・チャレンジの対象競走に指定され、優勝馬には当該年のブリーダーズカップ・クラシックへの優先出走権と出走登録料・輸送費用の一部負担の特権が付与される。
本競走で上位を争った馬からは、アラブ首長国連邦のドバイで行われる国際招待競走「ドバイワールドカップミーティング」へ遠征するものも出るようになった。2011年の優勝馬トランセンドは、ドバイワールドカップで優勝したヴィクトワールピサと接戦の末、2着に入っている。また、1999年にはメイセイオペラ(岩手)が地方競馬所属馬として初めて優勝した。
以下の内容は、2023年現在のもの。
出走資格:サラ系4歳以上(出走可能頭数:最大16頭)
負担重量:定量(58kg、牝馬2kg減)
出馬投票を行った馬のうち、優先出走権(次節参照)のある馬から優先して割り当て、その他の馬は「通算収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI(JpnI)競走の収得賞金」の総計が多い順に割り当てる。
外国馬、およびレーティング順位の上位5頭(2012年より。牡馬・セン馬は110ポンド、牝馬は106ポンド以上であることが条件)は優先出走できる。
2014年より以下の競走における1着馬に、優先出走権が付与される。
2023年の1着賞金は1億2000万円で、以下2着4800万円、3着3000万円、4着1800万円、5着1200万円。
東京競馬場のダートコース、1600mを使用。
スタート地点は芝コース上にあり、スタート直後は芝コースを走行、第2コーナー付近からダートコースに入る。バックストレッチとホームストレッチに2つの坂が設けられており、このうち長さが501mあるスタンド前のホームストレッチには高低差2.4mの上り坂がある。
距離はすべてダートコース。
優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。
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] | フェブラリーステークスは、日本中央競馬会(JRA)が東京競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。 競走名の「フェブラリー(February)」は、2月を意味する英語。この名が示す通り毎年2月、具体的には2月の第3もしくは第4日曜日に開催される。JRA主催でGIに格付けされる競走としては毎年最初に行われる競走である。 正賞は日本馬主協会連合会会長賞、地方競馬全国協会理事長賞、全国公営競馬主催者協議会会長賞、日本地方競馬馬主振興協会会長賞、ブリーダーズカップ・チャレンジ賞。 | {{競馬の競走
|馬場 = ダート
|競走名 = フェブラリーステークス<br>{{Lang|en|February Stakes}}
|画像 = [[File:Lemon Pop February Stakes 2023(IMG1).jpg|300px]]
|画像説明 = 第40回(2023年)フェブラリーステークス<br/>(優勝馬:[[レモンポップ]]、鞍上:[[坂井瑠星]])
|開催国 = {{Flagicon|JPN}}日本
|主催者 = [[日本中央競馬会]]
|開催地 = [[東京競馬場]]
|創設 = 1984年2月18日
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|条件 = {{Nowrap|[[サラブレッド|サラ]]系4歳以上(国際)(指定)}}
|負担重量 = 定量(58kg、牝馬2kg減)<!-- この表記でないとセン馬の負担重量が定まりません -->
|出典 = <ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023tokyo1" />
}}
'''フェブラリーステークス'''は、[[日本中央競馬会]](JRA)が[[東京競馬場]]で施行する[[中央競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[競馬の競走格付け|GI]])である。
競走名の「フェブラリー([[:en:February|February]])」は、[[2月]]を意味する英語<ref name="特別レース名解説" />。この名が示す通り毎年2月、具体的には2月の第3もしくは第4日曜日に開催される<ref group="注">1998年と1999年のみ開催時期が前倒しされ例外となっている。特に1999年は1月31日に開催され、2月以外に開催された唯一の事例となっている。</ref>。JRA主催でGIに格付けされる競走としては毎年最初に行われる競走である。
正賞は[[日本馬主協会連合会]]会長賞、[[地方競馬全国協会]]理事長賞、全国公営競馬主催者協議会会長賞、日本地方競馬馬主振興協会会長賞、[[ブリーダーズカップ・チャレンジ]]賞<ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023tokyo1" />。
== 概要 ==
[[File:Nonko no Yume February Stakes 2018(IMG1).jpg|thumb|230px|第35回優勝馬ノンコノユメ]]
[[File:Mozu Ascot February Stakes 2020(IMG3).jpg|thumb|230px|第37回優勝馬モズアスコット]]
[[File:Cafe Pharoah February Stakes 2022 (IMG1).jpg|thumb|230px|第39回優勝馬カフェファラオ]]
JRAが施行するダート重賞競走では、最も古い歴史を持つ競走である<ref name="JRA注目" />。
1984年に前身となる「'''フェブラリーハンデキャップ'''」が創設<ref name="JRA注目" />、東京競馬場のダート1600mで施行され、当初はGIIIの格付けだった<ref name="JRA注目" />。1994年にGIIへ昇格するとともに[[負担重量]]も別定に変更、名称も「'''フェブラリーステークス'''」に改称された<ref name="JRA注目" />。
その後、中央競馬と[[地方競馬]]の交流競走が拡大されるなか、1997年には中央競馬のダート重賞競走として初めてGIに格付け<ref name="JRA注目" />され、負担重量も定量に変更、国内の上半期のダート最強馬決定戦に位置付けられた<ref name="JRA注目" />{{efn2|[[2024年]]に[[川崎記念]]がJpnIに昇格することに伴い、上半期に古馬中距離路線の有力馬が集まる競走へは同競走と[[帝王賞]]が位置づけられた。フェブラリーステークスは短距離・マイル古馬路線における上半期の有力馬が集まる競走の一つとして位置づけられた。<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/202211/pdf/112802.pdf |title=競走体系概略図 |access-date=2023-10-08 |publisher=日本中央競馬会}}</ref>}}。2007年からは[[国際競走]]に指定され、[[外国馬]]の出走も可能になった<ref name="result2007" />。
2016年から[[ブリーダーズカップ・チャレンジ]]の対象競走に指定され、優勝馬には当該年の[[ブリーダーズカップ・クラシック]]への優先出走権と出走登録料・輸送費用の一部負担の特権が付与される<ref>[http://jra.jp/news/201606/062707.html ブリーダーズカップチャレンジ競走の追加指定について]日本中央競馬会、2016年6月27日閲覧</ref>。
本競走で上位を争った馬からは、[[アラブ首長国連邦]]の[[ドバイ]]で行われる[[招待競走 (競馬)|国際招待競走]]「[[ドバイワールドカップミーティング]]」へ遠征するものも出るようになった<ref name="JRA注目" />。2011年の優勝馬[[トランセンド (競走馬)|トランセンド]]は、[[ドバイワールドカップ]]で優勝した[[ヴィクトワールピサ]]と接戦の末、2着に入っている<ref name="JRA注目" />。また、1999年には[[メイセイオペラ]](岩手)が地方競馬所属馬として初めて優勝した<ref name="VAN" />。
=== 競走条件 ===
以下の内容は、2023年現在<ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023tokyo1" />のもの。
出走資格:[[サラブレッド|サラ系]]4歳以上(出走可能頭数:最大16頭)
* JRA所属馬
* 地方競馬所属馬(収得賞金が1601万円以上<ref name="kouryu_g1" />、かつJRAが別に定める出走馬選定基準により選定された馬<ref name="kakuchi" />)
* 外国調教馬(優先出走)
負担重量:定量(58kg、牝馬2kg減)
* 第1回から第10回まではハンデキャップ、第11回から第13回までは別定<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />。
出馬投票を行った馬のうち、優先出走権(次節参照)のある馬から優先して割り当て、その他の馬は「通算収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI(JpnI)競走の収得賞金」の総計が多い順に割り当てる。
==== 優先出走権 ====
外国馬、および[[ワールド・ベスト・レースホース・ランキング|レーティング]]順位の上位5頭(2012年より。牡馬・セン馬は110[[ポンド (質量)|ポンド]]、牝馬は106ポンド以上であることが条件)<ref name="jusyo_kanto" />は優先出走できる。
2014年より以下の競走における1着馬に、優先出走権が付与される<ref name="bangumi_2014" />。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+優先出走権付与競走
!競走名!!格付!!施行競馬場!!施行距離
|-
|[[東海ステークス]]||GII||{{Flagicon|JPN}}[[中京競馬場]]||ダート1800m
|-
|[[根岸ステークス]]||GIII||{{Flagicon|JPN}}東京競馬場||ダート1400m
|}
=== 賞金 ===
2023年の1着賞金は1億2000万円で、以下2着4800万円、3着3000万円、4着1800万円、5着1200万円<ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023tokyo1" />。
=== コース ===
東京競馬場のダートコース、1600mを使用。
スタート地点は芝コース上にあり、スタート直後は芝コースを走行、第2コーナー付近からダートコースに入る<ref name="course_tokyo" />。バックストレッチとホームストレッチに2つの坂が設けられており、このうち長さが501mあるスタンド前のホームストレッチには高低差2.4mの上り坂がある<ref name="course_tokyo" />。
== 歴史 ==
* 1984年 - 5歳以上の馬によるハンデキャップの重賞競走「'''フェブラリーハンデキャップ'''」を新設。東京競馬場のダート1600mで施行、{{JRAGIII}}<ref group="注" name="grade">当時の格付表記は、JRAの独自グレード。</ref>に格付け<ref name="JRA注目" />。
* 1989年 - 混合競走に指定<ref name="JRA注目" />。
* 1994年
** {{JRAGII}}<ref group="注" name="grade" />に昇格<ref name="JRA注目" />。
** 名称を「'''フェブラリーステークス'''」に変更<ref name="JRA注目" />。
* 1995年 - [[指定交流競走]]に指定され、地方競馬所属馬が出走可能となる。
* 1997年
** {{JRAGI}}<ref group="注" name="grade" />に昇格<ref name="JRA注目" />。
** ダート競走格付け委員会により、GI<ref group="注">ダートグレード競走の格付表記は、国内限定の独自グレード扱い。</ref>に格付け(適用は1998年から)。
* 2001年 - [[馬齢]]表示を国際基準へ変更したことに伴い、出走資格を「4歳以上」に変更。
* 2007年
** [[国際競走]]に指定され、外国調教馬は8頭まで出走可能となる<ref name="result2007" />。
** {{G1}}(国際GI)に格付け。
** 地方競馬所属馬の出走枠が5頭から4頭に縮小。
* 2009年 - この年より地方競馬所属馬の出走資格はJRAが別に定める出走馬選定基準により選定された競走馬のみとなる。
* 2012年 - 出走馬選定方法が変わり、レーティング上位5頭に優先出走を認める。
* 2014年 - トライアル制を確立し、指定された競走の1着馬に優先出走を認める。
* 2016年 - 「[[ブリーダーズカップ・チャレンジ]]」指定競走となる。
* 2018年 - 関東馬が20年ぶりに勝利。(2000年から18年連続で関西馬が勝利していた。)
* 2019年 - [[藤田菜七子]]がJRA所属の女性騎手として初めてGIレースに騎乗(騎乗馬は[[コパノキッキング]]、5着)<ref>[[Sports Graphic Number|Number Web]]、2019年2月18日付、沸騰! 日本サラブ列島「藤田菜七子に沸いたフェブラリーS。勝った武豊が「ぼくの初GIは6着」。」、[https://number.bunshun.jp/articles/-/833517 1of4]・[https://number.bunshun.jp/articles/-/833517?page=2 2of4]・[https://number.bunshun.jp/articles/-/833517?page=3 3of4]・[https://number.bunshun.jp/articles/-/833517?page=4 4of4]、2019年3月24日閲覧。</ref>。
* 2021年 - [[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス]]感染拡大防止のため「[[無観客試合#競馬|無観客競馬]]」として実施<ref name="jranews020403" />。
* 2023年 - 本競走史上初めて海外調教馬が参戦した([[カナダ]]・[[シャールズスパイト]]、9着)。
== 歴代優勝馬 ==
距離はすべてダートコース。
優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。
競走名は第1回から第10回までが「フェブラリーハンデキャップ」<ref name="JRA注目" />、第11回以降は「フェブラリーステークス」。
{| class="wikitable"
!回数!!施行日!!競馬場!!距離!!優勝馬!!性齢!!所属!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主
|-
|style="text-align: center"|第1回||1984年2月18日||東京||1600m||ロバリアアモン||牡5||[[日本中央競馬会|JRA]]||1:40.1||[[吉永正人]]||[[松山吉三郎]]||管浦一
|-
|style="text-align:center"|第2回||1985年2月16日||東京||1600m||[[アンドレアモン]]||牡6||JRA||1:36.9||[[中島啓之]]||[[松山康久]]||(株)アモン
|-
|style="text-align:center"|第3回||1986年2月15日||東京||1600m||ハツノアモイ||牡5||JRA||1:36.7||[[大塚栄三郎]]||[[仲住芳雄]]||仲川初太郎
|-
|style="text-align:center"|第4回||1987年2月21日||東京||1600m||[[リキサンパワー]]||牡6||JRA||1:36.5||[[柴田政人]]||[[高松邦男]]||岩井三郎
|-
|style="text-align:center"|第5回||1988年2月20日||東京||1600m||ローマンプリンス||牡7||JRA||1:37.7||[[増沢末夫]]||佐藤征助||(有)ロング商事
|-
|style="text-align:center"|第6回||1989年2月18日||東京||1600m||ベルベットグローブ||牡6||JRA||1:37.2||[[郷原洋行]]||[[大久保房松]]||栗林英雄
|-
|style="text-align:center"|第7回||1990年2月17日||東京||1600m||[[カリブソング]]||牡4||JRA||1:36.7||柴田政人||[[加藤修甫]]||[[ブルーマネジメント|(株)荻伏牧場レーシングクラブ]]
|-
|style="text-align:center"|第8回||1991年2月16日||東京||1600m||[[ナリタハヤブサ]]||牡4||JRA||1:34.9||[[横山典弘]]||[[中尾謙太郎]]||[[山路秀則]]
|-
|style="text-align:center"|第9回||1992年2月22日||東京||1600m||ラシアンゴールド||牡4||JRA||1:35.4||[[蛯名正義]]||[[大久保洋吉]]||大原詔宏
|-
|style="text-align:center"|第10回||1993年2月20日||東京||1600m||[[メイショウホムラ]]||牡5||JRA||1:35.7||柴田政人||[[高橋成忠]]||[[松本好雄]]
|-
|style="text-align:center"|第11回||1994年2月19日||東京||1600m||チアズアトム||牡5||JRA||1:37.8||[[本田優]]||星川薫||北村キヨ子
|-
|style="text-align:center"|第12回||1995年2月18日||東京||1600m||[[ライブリマウント]]||牡4||JRA||1:36.4||[[石橋守]]||[[柴田不二男]]||加藤哲郎
|-
|style="text-align:center"|第13回||1996年2月17日||東京||1600m||[[ホクトベガ]]||牝6||JRA||1:36.5||横山典弘||[[中野隆良]]||金森森商事(株)
|-
|style="text-align:center"|第14回||1997年2月16日||東京||1600m||[[シンコウウインディ]]||牡4||JRA||1:36.0||[[岡部幸雄]]||[[田中清隆]]||[[安田修 (実業家)|安田修]]
|-
|style="text-align:center"|第15回||1998年2月1日||東京||1600m||[[グルメフロンティア]]||牡6||JRA||1:37.5||岡部幸雄||田中清隆||石井政義
|-
|style="text-align:center"|第16回||1999年1月31日||東京||1600m||[[メイセイオペラ]]||牡5||[[岩手県競馬組合|岩手]]||1:36.3||[[菅原勲]]||[[佐々木修一]]||(有)明正商事
|-
|style="text-align:center"|第17回||2000年2月20日||東京||1600m||[[ウイングアロー]]||牡5||JRA||1:35.6||[[オリビエ・ペリエ|O.ペリエ]]||工藤嘉見||[[池田實]]
|-
|style="text-align:center"|第18回||2001年2月18日||東京||1600m||[[ノボトゥルー]]||牡5||JRA||1:35.6||O.ペリエ||[[森秀行]]||(有)池ばた
|-
|style="text-align:center"|第19回||2002年2月17日||東京||1600m||[[アグネスデジタル]]||牡5||JRA||1:35.1||[[四位洋文]]||[[白井寿昭]]||[[渡辺孝男 (実業家)|渡辺孝男]]
|-
|style="text-align:center"|第20回||2003年2月23日||中山||1800m||[[ゴールドアリュール]]||牡4||JRA||1:50.9||[[武豊]]||[[池江泰郎]]||[[社台レースホース|(有)社台レースホース]]
|-
|style="text-align:center"|第21回||2004年2月22日||東京||1600m||[[アドマイヤドン]]||牡5||JRA||1:36.8||[[安藤勝己]]||[[松田博資]]||[[近藤利一]]
|-
|style="text-align:center"|第22回||2005年2月20日||東京||1600m||[[メイショウボーラー]]||牡4||JRA||1:34.7||[[福永祐一]]||白井寿昭||松本好雄
|-
|style="text-align:center"|第23回||2006年2月19日||東京||1600m||[[カネヒキリ]]||牡4||JRA||1:34.9||武豊||[[角居勝彦]]||[[金子真人|金子真人ホールディングス(株)]]
|-
|style="text-align:center"|[[第24回フェブラリーステークス|'''第24回''']]||2007年2月18日||東京||1600m||[[サンライズバッカス]]||牡5||JRA||1:34.8||安藤勝己||[[音無秀孝]]||[[松岡隆雄]]
|-
|style="text-align:center"|[[第25回フェブラリーステークス|'''第25回''']]||2008年2月24日||東京||1600m||[[ヴァーミリアン]]||牡6||JRA||1:35.3||武豊||[[石坂正]]||[[サンデーレーシング|(有)サンデーレーシング]]
|-
|style="text-align:center"|第26回||2009年2月22日||東京||1600m||[[サクセスブロッケン]]||牡4||JRA||1:34.6||[[内田博幸]]||[[藤原英昭]]||[[高嶋哲]]
|-
|style="text-align:center"|第27回||2010年2月21日||東京||1600m||[[エスポワールシチー]]||牡5||JRA||1:34.9||[[佐藤哲三 (競馬)|佐藤哲三]]||[[安達昭夫]]||[[友駿ホースクラブ|(株)友駿ホースクラブ]]
|-
|style="text-align:center"|第28回||2011年2月20日||東京||1600m||[[トランセンド (競走馬)|トランセンド]]||牡5||JRA||1:36.4||[[藤田伸二]]||[[安田隆行]]||前田幸治
|-
|style="text-align:center"|第29回||2012年2月19日||東京||1600m||[[テスタマッタ]]||牡6||JRA||1:35.4||[[岩田康誠]]||[[村山明 (競馬)|村山明]]||吉田和美
|-
|style="text-align: center"|第30回||2013年2月17日||東京||1600m||[[グレープブランデー]]||牡5||JRA||1:35.1||[[浜中俊]]||[[安田隆行]]||(有)社台レースホース
|-
|style="text-align:center"|[[第31回フェブラリーステークス|'''第31回''']]||2014年2月23日||東京||1600m||[[コパノリッキー]]||牡4||JRA||1:36.0||[[田辺裕信]]||[[村山明 (競馬)|村山明]]||[[小林祥晃]]
|-
|style="text-align:center"|第32回||2015年2月22日||東京||1600m||コパノリッキー||牡5||JRA||1:36.3||武豊||村山明||小林祥晃
|-
|style="text-align:center"|第33回||2016年2月21日||東京||1600m||[[モーニン (競走馬)|モーニン]]||牡4||JRA||1:34.0||[[ミルコ・デムーロ|M.デムーロ]]||石坂正||馬場幸夫
|-
|style="text-align:center"|第34回||2017年2月19日||東京||1600m||[[ゴールドドリーム]]||牡4||JRA||1:35.1||M.デムーロ||[[平田修]]||[[吉田勝己]]
|-
|style="text-align:center"|第35回||2018年2月18日||東京||1600m||[[ノンコノユメ]]||騸6||JRA||1:36.0|| 内田博幸||[[加藤征弘]]||山田和正
|-
|style="text-align:center"|'''[[第36回フェブラリーステークス|第36回]]'''||2019年2月17日||東京||1600m||[[インティ (競走馬)|インティ]]||牡5||JRA||1:35.6||武豊||[[野中賢二]]||[[武田茂男]]
|-
|style="text-align:center"|[[第37回フェブラリーステークス|'''第37回''']]||2020年2月23日||東京||1600m||[[モズアスコット]]||牡6||JRA||1:35.2||[[クリストフ・ルメール|C.ルメール]]||[[矢作芳人]]||(株)[[キャピタル・システム]]
|-
|style="text-align:center"|第38回||2021年2月21日||東京||1600m||[[カフェファラオ]]||牡4||JRA||1:34.4||C.ルメール||[[堀宣行]]||[[西川光一]]
|-
|style="text-align:center"|第39回||2022年2月20日||東京||1600m||カフェファラオ||牡5||JRA||1:33.8||福永祐一||堀宣行||西川光一
|-
|style="text-align:center"|第40回||2023年2月19日||東京||1600m||[[レモンポップ]]||牡5||JRA||1:35.7||[[坂井瑠星]]||[[田中博康]]||[[ゴドルフィン]]
|}
== フェブラリーステークスの記録 ==
* レースレコード - 1:33.8(第39回優勝馬カフェファラオ)<ref name="result2022" />
** 優勝タイム最遅記録 - 1:40.1(第1回優勝馬 ロバリアアモン)<ref>GⅠ昇格後は1:37.5(第15回優勝馬グルメフロンティア)</ref>
* 最年長優勝馬 - 7歳(第5回優勝馬ローマンプリンス)
* 最多優勝馬 - 2勝([[第31回フェブラリーステークス|第31回]]・第32回優勝馬コパノリッキー、第38回・第39回優勝馬カフェファラオ)
* 最多優勝騎手 - 5勝
** 武豊(第20回・第23回・[[第25回フェブラリーステークス|第25回]]・第32回・[[第36回フェブラリーステークス|第36回]])<ref>岡部幸雄(第14回・第15回)、オリビエ・ペリエ(第17回・第18回)、ミルコ・デムーロ(第33回・第34回)、クリストフ・ルメール([[第37回フェブラリーステークス|第37回]]・第38回)が連覇を記録</ref>
* 最多優勝調教師 - 3勝
** 村山明(第29回・[[第31回フェブラリーステークス|第31回]]・第32回)<ref>連覇は他に田中清隆(第14回・第15回)、堀宣行(第38回・第39回)が記録</ref>
* 最多勝利種牡馬 - 4勝
** ゴールドアリュール(第27回・第31回・第32回・第34回)
== 外国調教馬の成績 ==
{{Main|海外調教馬による日本への遠征#フェブラリーステークス}}
== 脚注・出典 ==
=== 参考文献 ===
* {{Cite book|和書|title=中央競馬全重賞成績集【GI編】|publisher=日本中央競馬会|year=2006|page=1397-1433|chapter=フェブラリーステークス|ref=中央競馬全重賞成績集}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist
|refs=
<ref name="jusyo_kanto">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/jusyo_kanto.pdf#page=6 |title=重賞競走一覧(レース別・関東)|page=6|year=2023|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年2月11日}}</ref>
<ref name="JRA注目">{{Cite web|和書|url=http://jra.jp/keiba/thisweek/2023/0219_1/race.html |title=歴史・コース:フェブラリーステークス 今週の注目レース|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年2月11日}}</ref>
<ref name="bangumi_2023tokyo1">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi/tokyo1.pdf |title=令和5年第1回東京競馬番組|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年2月11日}}</ref>
<ref name="特別レース名解説">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/tokubetsu/2023/0105.pdf#page=5 |title=2023年度第1回東京競馬特別レース名解説|page=5|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年1月28日}}</ref>
<ref name="中央競馬全重賞競走成績集">『[[#中央競馬全重賞成績集|中央競馬全重賞成績集【GI編】]]』</ref>
<ref name="bangumi_2014">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/keiba/program/pdf/h26-bangumi.pdf |title=平成26年度競馬番組等について|publisher=日本中央競馬会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141021114216/http://jra.jp/keiba/program/pdf/h26-bangumi.pdf|archivedate=2014年10月21日|accessdate=2021年2月24日}}</ref>
<!--
<ref name="2014-jusyo_kanto">{{Cite web|format=PDF|url=http://jra.jp/keiba/program/pdf/h26-jusyo_kanto.pdf#page=6 |title=重賞競走一覧(レース別・関東)|page=6|year=2014|publisher=日本中央競馬会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150621225109/http://jra.jp/keiba/program/pdf/h26-jusyo_kanto.pdf |archivedate=2015年6月21日|accessdate=2021年2月24日}}</ref>
-->
<ref name="course_tokyo">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/facilities/race/tokyo/course.html |title=東京競馬場(コース紹介)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年2月24日}}</ref>
<ref name="VAN">{{Cite web|和書|url=http://jra-van.jp/fun/tokusyu/100221_02_01.html |title=第27回フェブラリーステークス特集(メイセイオペラ 地方所属馬初の中央GI制覇)|publisher=JRA-VAN|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160312044102/http://jra-van.jp/fun/tokusyu/100221_02_01.html|archivedate=2016年3月12日|accessdate=2021年2月24日}}</ref>
<ref name="result2007">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2007/1tokyo.pdf#page=109 |title=第1回 東京競馬成績集計表|publisher=日本中央競馬会|year=2007|pages=415-416|accessdate=2021年2月24日}}(索引番号:03095)</ref>
<ref name="result2022">[[#JRA年度別全成績2022|2022年の成績表]]参照。</ref>
<ref name="jranews020403">{{Cite web|和書|url=https://www.jra.go.jp/news/202102/020403.html|title=2月13日(土曜)からの競馬場・ウインズ等の営業(無観客競馬・発売取りやめ)|accessdate=2021年2月5日|date=2021年2月4日|publisher=日本中央競馬会}}</ref>
<ref name="kouryu_g1">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi/kouryu_g1.pdf |title=GI競走およびそのステップ競走に出走する地方競馬所属馬の決定方法|publisher=日本中央競馬会|year=2023|accessdate=2023年2月11日}}</ref>
<ref name="kakuchi">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/kakuchi.pdf |title=[地](地方競馬所属の馬)が出走できるGI競走等とそのステップ競走について|publisher=日本中央競馬会|year=2023|accessdate=2023年2月11日}}</ref>
}}
==== 各回競走結果の出典 ====
* 『[[#中央競馬全重賞成績集|中央競馬全重賞成績集【GI編】]]』第1回 - 第22回
* JRA年度別全成績
** (2023年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2023/2023-1tokyo8.pdf#page=6 |title=第1回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2023年2月26日|ref=JRA年度別全成績2023}}(索引番号:03095)
** (2022年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2022/2022-1tokyo8.pdf#page=6 |title=第1回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2022年2月21日|ref=JRA年度別全成績2022}}(索引番号:03095)
** (2021年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2021/2021-1tokyo8.pdf#page=6 |title=第1回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2021年2月24日|ref=JRA年度別全成績2021}}(索引番号:03095)
** (2020年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2020/2020-1tokyo8.pdf#page=6 |title=第1回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2020年6月20日|ref=JRA年度別全成績2020}}(索引番号:03095)
** (2019年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2019/2019-1tokyo8.pdf#page=6 |title=第1回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2020年6月20日|ref=JRA年度別全成績2019}}(索引番号:03095)
** (2018年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2017/2018-1tokyo8.pdf#page=6 |title=第1回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2020年6月20日|ref=JRA年度別全成績2018}}(索引番号:03095)
** (2017年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2017/2017-1tokyo8.pdf#page=6 |title=第1回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2017年2月20日|ref=JRA年度別全成績2017}}(索引番号:03095)
** (2016年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2016/2016-1tokyo8.pdf#page=6 |title=第1回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2016年2月15日|ref=JRA年度別全成績2016}}(索引番号:03095)
** (2015年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2015/2015-1tokyo8.pdf#page=6 |title=第1回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2016年2月15日|ref=JRA年度別全成績2015}}(索引番号:03095)
** (2014年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2014/2014-1tokyo8.pdf#page=6 |title=第1回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2016年2月15日}}(索引番号:03095)
** (2013年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2013/2013-1tokyo8.pdf#page=6 |title=第1回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2016年2月15日}}(索引番号:03095)
** (2012年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2012/2012-1tokyo8.pdf#page=6 |title=第1回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2016年2月15日}}(索引番号:03095)
** (2011年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2011/2011-1tokyo8.pdf#page=6 |title=第1回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2016年2月15日}}(索引番号:03095)
** (2010年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2010/2010-1tokyo8.pdf#page=11 |title=第1回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会|page=11|accessdate=2016年2月15日}}(索引番号:03095)
** (2009年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2009/2009-1tokyo8.pdf#page=11 |title=第1回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会|page=11|accessdate=2016年2月15日|ref=JRA年度別全成績2009}}(索引番号:03095)
** (2008年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2008/2008-1tokyo8.pdf#page=11 |title=第1回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会|page=11|accessdate=2016年2月15日}}(索引番号:03095)
** (2007年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2007/2007-1tokyo8.pdf#page=11 |title=第1回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会|page=11|accessdate=2016年2月15日|ref=JRA年度別全成績2007}}(索引番号:03095)
** (2006年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2006/2006-1tokyo8.pdf#page=11 |title=第1回 東京競馬 第8日|publisher=日本中央競馬会|page=11|accessdate=2016年2月15日}}(索引番号:03095)
** (2005年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2005/1tokyo.pdf#page=109 |title=第1回 東京競馬成績集計表|publisher=日本中央競馬会|pages=439-440|accessdate=2016年2月15日|ref=JRA年度別全成績2005}}(索引番号:03095)
** (2004年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2004/1-tok.pdf#page=110 |title=第1回 東京競馬成績集計表|publisher=日本中央競馬会|pages=442-443|accessdate=2016年2月15日}}(索引番号:03095)
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2,661 | 睡眠 | 睡眠(すいみん、羅: somnus、仏: sommeil、英: sleep)とは、眠ること、すなわち、周期的に繰り返す、意識を喪失する生理的な状態のことである。ねむりとも言う。
体の動きが止まり、外的刺激に対する反応が低下して意識も失われているが、簡単に目覚める状態のことをこう呼んでいる。
日本睡眠学会などでは、「対象を哺乳類に限定すれば、人間や動物の内部的な必要から発生する意識水準の一時的な低下現象、これに加えて、必ず覚醒可能なこと」と定義している。
ヒトは通常は昼間に活動し、夜間に睡眠をとる。動物では夜間に活動し、昼間に睡眠をとるものも多い(夜行性)。
ヒトにとって睡眠は不可欠であり、睡眠欲は生理的欲求の一つで、体が眠りを必要とするときは眠気(英語版)が現れる。睡眠不足は心身にとってストレスとなり、不眠症など睡眠に関する様々な問題は睡眠障害と総称される。ヒトは身体を横たえて眠る(寝る)ことが一般的で、そのための部屋を寝室、道具(布団や枕)を寝具と呼ぶ。
睡眠について研究している櫻井武は、「睡眠」とは、脳にある「覚醒」とは別のオペレーションモードで、さらにレム睡眠とノンレム睡眠に分かれ、脳はこの3つのモードを切り替えて使っている。睡眠は「メンテナンスモード」であり、脳とからだの覚醒に必要なメンテナンスモードで、睡眠時には睡眠特有の伝達物質が働き睡眠を稼働させていると説明する。ただ、ノンレム睡眠時に脳の老廃物を洗い流すグリンパティックシステムに関しては、実際に起きている現象論的には正しいが研究が進んでいない仮説であるとしている。
また、セントルイス・ワシントン大学で神経生物学を研究するポール・ショーは、「環境に反応する方法を進化させるまでは、初期の生物は『反応』しませんでした。私たちは睡眠を進化させたのではなく、覚醒を進化させたのだと思います」という推測を述べている。
ヒトの睡眠中は、急速眼球運動(REM=レム)が生じ、ノンレム睡眠であるステージIからステージIVの4段階と、レム睡眠を、周期90 - 110分で反復する。睡眠は、心身の休息、身体の細胞レベルでの修復、また記憶の再構成などにも深く関わっているとされる。下垂体前葉は、睡眠中に2時間から3時間の間隔で成長ホルモンを分泌する。放出間隔は睡眠によって変化しないが、放出量は多くなる。したがって、子供の成長や創傷治癒、肌の新陳代謝は睡眠時に特に促進される。
睡眠時に脳波を観察していると徐波が現れる、すなわち、深いノンレム睡眠が起こるのは哺乳類の大部分と鳥類に限られ、爬虫類や両生類や魚類では睡眠時に徐波が現れないことが知られている。なお、哺乳類の中でもカモノハシやハリモグラなどの単孔類のような原始的な哺乳類の眠りは、それ以降の哺乳類の眠りとは異なっている。
睡眠中は刺激に対する反応がほとんどなくなり、移動や外界の注視などの様々な活動も低下する。一般的には、閉眼して意味のある精神活動は停止した状態となるが、適切な刺激によって容易に覚醒する。このため睡眠と意識障害とは全く異なるものである。またヒトをはじめとする大脳の発達したいくつかの動物では、睡眠中に夢と呼ばれるある種の幻覚を体験することがある。
短期的には睡眠は栄養の摂取よりも重要である。マウスの実験では、完全に睡眠を遮断した場合、約1 - 2週間で死亡するが、これは食物を与えなかった場合よりも短い。極端な衰弱と体温調節の不良と脳では視床の損傷が生じている。ヒトの場合でも断眠を続けることで、思考能力の低下や妄想、幻覚が生じ、相当期間の強制で死に至ると言われている。
20世紀になり、ヒトの睡眠は、脳波と眼球運動のパターンで分類できることが知られるようになった。急速眼球運動 (Rapid Eye Movement) を伴う睡眠をレム睡眠 (Rapid eye movement sleep、REM sleep)、ステージI - IVのように急速眼球運動を伴わない睡眠をまとめてノンレム睡眠 (Non-rapid eye movement sleep、Non-REM sleep)と呼ぶ。
成人はステージI - REMの間を睡眠中反復し、周期は90-110分程度である。
入眠やステージI - IVとレム睡眠間の移行を司る特別なニューロン群が存在する。入眠時には前脳基部(腹外側視索前野)に存在する入眠ニューロンが活性化する。レム睡眠移行時には脳幹に位置するコリン作動性のレム入眠ニューロンが活動する。覚醒状態では脳内の各ニューロンは独立して活動しているが、ステージI - IVでは隣接するニューロンが低周波で同期して活動する。
睡眠のホメオスタシスはTwo Process modelというもので説明される。そのComponentはProcess SとProcess Cで、前者は睡眠要求量を表し、後者は概日リズムを表す。睡眠要求量がある上の閾値に達すると眠くなり、寝ているうちにProcess Sは下がるがこれが下の閾値に達すると起きるというものである。2つの閾値をコントロールするのはProcess Cということが知られている。Cに関する研究は進んでいるが、何が睡眠要求量の実態になっているかは定説はない。最も安直に考えれば、SIS(sleep inducing substance)というものの濃度がその実態として挙げられ、探索がなされてきたが決定打はない。ただ、最近は物質の「量」というよりも「質」、つまりタンパク質の修飾状態などが活動により変化しそれがProcess Sなのではないかとうことが提唱されている。
新生児では断続的に1日あたり16時間の睡眠をとり、2歳児で9 - 12時間、成人は(健康な人では)一晩で6 - 9時間の睡眠を必要とする。パターンの推移としては、乳幼児期における短時間の睡眠を多数回とるというパターンから、成人になるにつれ一度にまとまった睡眠をとるというパターンへと推移していく。
高齢になると、昼間に何度も居眠りし夜間は数時間しか眠らないというパターンになる。睡眠の深さも浅くなり、ノンレム睡眠が完全に消失していることもある。高齢者が睡眠不足や不眠で悩まされやすくなるのはこのためである。ただし、個人差があるため必ずしも全ての高齢者で睡眠が短くなっているわけではない。
人間が加齢とともに早寝早起きの就寝スタイルに移行するのは、概日リズムの位相の前進による影響という説がある。しかし、生物時計の研究では、生物時計を司る神経細胞は加齢とともに減少する傾向にあるものの、生物時計の概日周期は加齢による影響はほとんど見られないという。竹村尊生は人間の就眠慣習が前進する理由として、本来、睡眠の概日リズムと深部体温の概日リズムには一定の相関があるが、昼夜変化や時刻といったフリーラン・リズムに従う生活によって生理的相関が失われ、加齢によって位相が前進しやすい深部体温の概日リズムに従って就眠するようになる、と述べている。
覚醒を維持する神経伝達物質には、ノルアドレナリン、セロトニン、ヒスタミン、アセチルコリン、オレキシンなどがあるが、睡眠中はこれらの神経伝達物質を産生する神経細胞が抑制されている。その抑制には腹背側視索前野に存在するGABA作動精神系が関与しているとされる。アセチルコリン作動性神経の一部はレム睡眠の生成にも関与している。
カルシウムイオンが細胞内に取り込まれることで脳が眠りにつくという研究結果もある。理化学研究所・東京大学の上田泰己らは、CaMKIIαとCaMKIIβが睡眠促進リン酸化酵素であることを初めて同定し、睡眠のリン酸化仮説を提唱した
2018年6月13日、筑波大学の柳沢正史教授らのチームの研究により、マウスの実験で脳内の80種類のタンパク質の働きが活性化することで眠気が誘発されることが発見されたと『ネイチャー』電子版に発表された。同チームは特定のタンパク質が睡眠を促すことで神経を休息させ、機能の回復につながるという見方を示し、睡眠障害の治療法開発につながる可能性を指摘した。
ヒトに必要な睡眠量には個体差があり、7 - 8時間の場合が多い。カリフォルニア大学サンディエゴ校のDaniel Kripkeらの『Sleep medicine』掲載論文や名古屋大学医学部大学院玉腰暁子の研究によれば、1日の睡眠時間が7時間の人は他の人たちに比べて死亡リスクが低い。ただし、睡眠時間が短い人や長い人が睡眠時間を7時間にすれば死亡しにくくなるのかどうかはわかっていない。それでも、7時間以上の睡眠をとることは高血圧などを防ぐのに役立つので、米国のハーバード大学医学部は7時間以上の睡眠を推奨している。平均睡眠時間が7時間未満の人は、8時間以上寝ている人に比べて3倍以上ウイルスに感染しやすいと言われている。各個人が必要とする時間の眠りをとれない睡眠不足は、多くの問題を引き起こす。
米国ハーバード大学によると、1日7時間未満または9時間以上眠ると、認知機能低下のリスクが高まる。毎晩9時間以上眠る人は、脳卒中のリスクが23%より高くなる。 昼寝を90分以上行う人は、脳卒中のリスクが25%より高くなる。ただし、長い睡眠は脳卒中と認知機能低下に関連しているが、因果関係が不明であるため、9時間未満の睡眠を推奨するのは時期尚早である。スポーツマンは毎日10時間の睡眠をとると運動能力を改善し、平均スプリント時間を改善し、日中の疲労感とスタミナを改善し、幸福の全体的な評価を改善するなど、多くの利点が見つかった。
児童は成長のため、成人より多くの睡眠時間を必要とする。新生児は一日18時間以上必要だが、成長に従って減少していく。2015年初頭に、全米睡眠財団(National Sleep Foundation)は2年間の研究成果を以下に公表した。
1900年頃まで人々の一般的な睡眠サイクルは、日没後に4-5時間の睡眠をとり日中に2度目の睡眠をとる形であったが、20世紀になって作為的に行われるようになった制度である八時間労働制の悪影響で不眠症が起きていると指摘する研究がある。
近世以前のヨーロッパにおいては、夜早くに就寝した後に朝まで眠り続けるのでなく、夜中に起きて仕事や他者との会話をする分割睡眠が珍しくなかったことは、多くの記録から裏付けられている。産業革命後、機械の稼働に合わせて昼間は8時間程度働き続け、夜はまとめて眠ることが効率的という考え方や労働・生活スタイルが広まった。だが、いわゆる「朝型」「夜型」など睡眠に関する個人差は遺伝子の影響が大きいという研究結果も出てきており、欧米では仕事をする時間帯で個人の希望を尊重する企業も増えている。
睡眠が不足すると、生命にとって大切な免疫力、自然治癒力などに悪影響があり、成長ホルモンの分泌にも変調を来たす。乳幼児・幼児・青少年では身体の成長に悪影響があり、身長が伸びにくくなる。睡眠不足によって胃や腸の調子が悪くなる人も多い。顔はむくみ、顔色や皮膚の状態は目に見えて悪くなる。また、睡眠不足は肥満を招きがちである。精神的には、気分に悪影響があり、鬱(あるいは躁状態や鬱状態の不安定な変化)、不機嫌、人間関係の悪化を招く。また、脳の基本機能である記憶力、集中力などに悪影響があり、結果として学生では学業(勉強)の効果に、成人では仕事の質に深刻な影響を及ぼす。後者では、仕事のミスが増え、肉体労働者においては深刻な傷害を負ったり、死亡事故に遭う確率(労働災害発生率)を増加させてしまうことが各種労働統計によって明らかにされている。
深い眠りに入っている状態を「熟睡」という。その状態は「ぐっすりと〜」と表現される。医学的にはノンレム睡眠のステージIII・IVの徐波睡眠を指し「深睡眠」とも呼ばれる。脳機能の回復と記憶の再構成にはこの状態となることが重要とされている。
若い成人の場合、男性に比べて女性の方がステージIII・IVの徐波睡眠の量が有意に多いが、レム睡眠の量は総睡眠時間の30パーセントと男女とも差は無い。中高年になると男女ともに熟睡量は減少し、特に男性は睡眠中の覚醒反応が増え、ステージIV徐波睡眠はほぼゼロとなる。20歳代を除けば総睡眠時間は男性の方が長い傾向があり、高齢になると男性の方が昼寝をする人の割合が高いことから、男性に比べて女性の方が効率良く質の高い睡眠が取れていると言える。睡眠時間には個人差があるため、医学界では最低7時間の睡眠を推奨しているが、9時間必要な人もおり、睡眠時間よりも熟睡するための睡眠の質が重要であることを認めている。
スペインを初めとする地中海地方などに於いては昼食の後に睡眠を含む一休みをする「午睡(シエスタ)」の風習があり、健康増進の効果があるといわれる。
2000年代に入って米国などでも、Lifehack(ハッカー文化の一端にある仕事術)の延長で、短時間の昼寝が注目されている。昼寝をすることで、頭脳の働きが良好になるとされており、頭脳労働に従事する人々(いわゆるホワイトカラー)の間では重視されている。その一方で、労働時間の増加により地中海地方の国々においてもシエスタを行わない企業が増加しつつある。
電車やバスで通勤・通学をする者も多く、またこれらの交通機関においての治安も非常に良いため、その中で睡眠する者もいる。経済平和研究所によると、2021年の日本の安全保障は世界一になるとのことである。
肉体労働の多い職種(いわゆるブルーカラー)では、昼休み時間の昼食の後、午後の作業再開までの間、15分 - 30分程度の短い睡眠をとる場合がある。短時間ではあるが、午前中に溜まった疲労から回復させ、注意力も回復する、という重要な役割がある。昼寝をとるのととらないのでは、午後の事故発生率が変わる。眠気を催すことが生命の危険に直結する肉体労働の現場において、事故防止の責任を負う現場監督などは、作業員の仮眠を奨励していることが多く、仮眠中の者をできるだけ起こさないようにしたり、睡眠できる環境を確保するため協力することが一般的である。
座ったままで眠ることは「居眠り」と呼ばれ、授業中、仕事中、運転中など、眠ってはいけない場所・場面で無意識のうちに居眠りをしてしまう例がある。特に授業中や仕事中の居眠りはやる気がないものとみなされる場合があり、前者の場合内申点に影響したり、後者の場合は解雇の対象ともなりうる。
運転中に眠るという行為は「居眠り運転」となり事故に繋がる。長距離輸送を行っているバスやトラックの運転手はいかにして眠らないように、眠気が出ないように運転をするか、さまざまな工夫をしなければならない。とりわけ高速道路などの運転は単調になりがちで居眠り運転が起きやすい。法律で連続的に運転できる時間に制限が定められており、長距離輸送では2名交代制にしていることも多い。運転席の後部に小さな睡眠用のベッドがしつらえてあって、身体を伸ばして、遮光カーテンで光をさえぎり睡眠がとりやすくなっている構造になっているトラックも多い。バスの運転手もトラック同様に様々な規制があり、2名が1チームを組み、片方のドライバーが運転している間、もう片方のドライバーはバスの下にある睡眠用のスペースで睡眠をとれるようになっていることが多い。近年では、ドライバーが過酷な労働体制下で無理なローテーションで長時間の運転を連続的に行うことで居眠り運転をしてしまったり、睡眠障害のドライバーが深刻な事故を起こしたことが社会問題となった。
風呂に入浴中の居眠りは溺死の危険性がある。
2001年2月に発表されたNHKの調査によると、「日本人の平均睡眠時間は平日で7時間26分、土曜日で7時間41分、日曜日で8時間13分」であった。2014年の調査では平均睡眠5時間44分と、世界最悪の水準まで短くなっている。
無意識や文化的背景に影響される就寝行動を就寝形態という観点で文化人類学、教育社会学的に比較検証する研究もある。
加齢するに従い、「早寝早起きの習慣」が身につくと一般に考えられている。しかし、本当に習慣的なものなのか、高齢者に多く見られる「睡眠相前進症候群」の症状であるのかは、容易には判断できない。
また、宗教的影響として仏教思想と結び付けて、頭を北に、足を南に配置する形で寝ることは「北枕」と呼ばれ、忌避されている。
日本でも昼寝の効用について研究が行われている。昼寝を行うことにより、事故の予防・仕事の効率向上・自己評価向上などが期待されるため、職場・学校などで昼寝が最近奨励されるようになった。また、昼寝により脳が活発になるため、独創的なアイデアが浮かびやすい環境になるという。
ハーバード大学医学部では、昼寝が記憶の定着、創造力、注意力の上昇に凄まじく有効であるのは事実だと報告した。
一方、昼間の眠気に耐え切れずに昼寝をとることは慢性的な睡眠不足を示している可能性がある。日中に長い昼寝をする成人は、糖尿病、心臓病、うつ病などの症状を起こす可能性が高い。場合によっては、昼寝は悪循環を引き起こし、夜の睡眠不足を補うために日中に眠ったので夜に眠りにつくのに苦労してしまう。このため、昼寝を制限することは、夜間の睡眠全体を改善するための1つの戦略である。すでに夜に少なくとも7時間以上の睡眠をとっていて、日中もまだ疲れている場合は、医師に相談すること。
睡眠はヒトの心身の健康や生活の質にとって重要なため、医学や脳科学の研究テーマとなっており、日本睡眠学会も設けられている。
個々人が自宅で脳波など睡眠中の状態を計測できる小型機器、それらで得られたビッグデータを分析できる人工知能(AI)など睡眠に関する技術(スリープテック)が急速に進歩しており、従業員の睡眠の質調査や改善支援をビジネスにする企業も登場している。
脳の覚醒は脳内のヒスタミンにより齎されており、脳内のヒスタミンを妨害することで脳は睡眠へと導かれる。脳内のヒスタミンを妨害する物質には、ATP代謝物のアデノシンがある。抗ヒスタミン剤の成分の一部にも脳内のヒスタミンの妨害を行い、眠気を誘発するものがある。また、プロスタグランジンD2(英語版)は、脳内のアデノシン量を増やし、眠気を誘発する。
睡眠誘発物質のアデノシンは、アデノシンデアミナーゼにより代謝されることでイノシンとなるが、脳脊髄中のイノシンの量は不眠バイオマーカーの一つとされる。またアデノシンは、アデノシンキナーゼによりアデノシン三リン酸 (ATP)からリン酸を一つ貰い受け、アデニル酸 (アデノシン一リン酸)へと戻るが、ATPの生成を補助する物質コエンザイムQ10の摂取は俗に悪夢を増やすと言われている。
また、ショートスリーパーはDEC2遺伝子の変異が関係するとされるが、DEC2遺伝子はATP消費による脂質形成 (同化)を抑制するとされる。DEC2は、低酸素状態でも発現するとされる。
ビタミンB群も睡眠に影響を与えるとされる。豪アデレード大学の実験によれば、ビタミンB6の摂取は夢の覚えている量を増やす一方、ビタミンB6を含むビタミンB複合体の摂取は夢の覚えている量を増やさない上に睡眠の質を下げる効果があるという結果が出ている。
その他、脳内のシナプス蛋白質のリン酸化の進行が眠気に関係するという説が存在する。
日中の眠気は、アルツハイマー病のリスクが高いことを示している可能性がある。
また、ペンシルベニア大学の研究によれば、睡眠不足になると脂質代謝の変化も起こるとされる。
多くの研究は、睡眠が新しい課題を学ぶ前と後の両方で、記憶において重要な役割を果たすことを示唆している。眠っている間、脳は驚くほど忙しくなっている。睡眠中は記憶を強化したり、起きている間に学んだスキルを「練習」したりすることができる。新しいことを学ぶ際は、睡眠後の方がより良いパフォーマンスを発揮することができる。
畳、紙衾、莚敷、布団、ベッド、敷衾、キャノピーベッド(英語版)
古代中国で、死屍を枕に眠る巫医の夢の中で死に至った原因の啓示を仰いでいた。古代エジプトでは、眠りの寺院(英語版)と呼ばれる医神イムホテプの神殿があり、病気の治療、催眠や夢占いなどの儀式を行なった。これらの寺院は中東・古代ギリシアにも存在した。イムホテプと同一視された医神アスクレーピオスの神殿アスクレペイオンなどにおいては仮眠室が作られ、病気の転帰を願い神官が積極的に仮眠をとっていた。この儀式はインキュベーション (儀式)(英語版)と呼ばれている。
眠ったら、何年もたってしまったという作品は『リップ・ヴァン・ウィンクル』『エピメニデス』『7人の眠り男(英語版)』『眠れる森の美女』など数多い。
ちなみに、『三年寝太郎』は寝ていたのではなく、思索にふけっていたので上記のパターンとは異なる。
眠りと死を絡める神話や文学が多く見られる。
しばしば死は睡眠に例えられる。死を睡眠になぞらえた例には次のようなものがある。これは、亡くなった状態を遺族や悲しむ人々や死者本人に気を使う意味で使われる。
また「寝る」「眠る」という語を含むことわざとして次のようなものがある。主に「辛抱強い」や「気長」「寝ているように大人しい」状態を意味する。
脳が無い動物ヒドラにも睡眠が存在し、その制御が脳を持つ動物と共通することから、脳の獲得以前の進化で睡眠することを獲得したことが示唆される。
必要な睡眠時間は種ごとの体の大きさに依存する。例えば小型の齧歯類では15時間 - 18時間、ネコでは12 - 13時間、イヌでは10時間、ゾウでは3 - 4時間、キリンではわずか20分 - 1時間である。これは大型動物ほど代謝率が低く、脳細胞の傷害を修復する必要が少なくなるためとも考えられている。また小型の動物は他の動物に捕食者として狙われやすいので、無防備になる睡眠時間は短い傾向がある。体躯が同程度であれば、草食動物は睡眠時間は短く、肉食動物は長い傾向にある。草食動物は摂取する食料に不自由しない反面、食料は低カロリーであり、繊維質も多く、長時間食べて消化する事を余儀なくされるので、睡眠時間は短い。一方で肉食動物は、食物を得る機会は乏しく、一方で食物は高カロリーであるため、一度食物を得た後はしばらく食物を摂る必要が無い。そのため何もしない時間が多く、その間は睡眠によって消費カロリーを抑えていると考えられる。 ただし草食動物であってもナマケモノやコアラのように毒を含む葉を主食にしている場合は、毒素の分解のために睡眠時間が長くなる傾向がある
全ての陸生哺乳類にレム睡眠が見られるものの、レム睡眠時間の種差は体の大きさとは無関係である。例えば、カモノハシは9時間の睡眠時間のうち、レム睡眠が8時間を占める。イルカはレム睡眠をほとんど必要としない。
脊椎動物以外の動物、例えば節足動物にも睡眠に類似した状態がある。神経伝達物質の時間変化を観察すると、レム睡眠と似た状態になっている。これら昆虫も睡眠不足となると作業が雑になり、ミスが見られるようになる。殺虫剤のネオニコチノイドなどの薬物は、有益な蜂などの昆虫の睡眠や時間感覚を妨害する。
ヒトと異なり、生物の中には、長い期間覚醒しない種もある。これは冬眠と呼ばれる。冬眠する生物の例として、クマ、リス、カエルなどが挙げられる。
睡眠の際の姿勢も生物によって異なる。魚類は単に水中を漂う形で睡眠状態に入る。フラミンゴは片足で立ったまま眠るとされる。またイルカや一部の鳥などは数秒程度の半球睡眠(大脳半球ずつ交互に眠ること)を繰り返して取るため、眠りながら泳ぎ続けることが可能である。半球睡眠は人間では脳障害などの病気や薬の重篤な副作用以外では脳の構造上、不可能と言われている。
ネコは丸くなって寝ているという印象が多いが、これは身を守ろうとしているか寒い時の状態で、攻撃を受けないと確信したリラックス状態の飼い猫は、体の熱を逃がすために仰向けで寝ることもある。この例はネコに限った事例ではなく、イヌなど体毛が多く気候や気温が安定しない場所で生活する動物は行う。 | [
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"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "ヒトにとって睡眠は不可欠であり、睡眠欲は生理的欲求の一つで、体が眠りを必要とするときは眠気(英語版)が現れる。睡眠不足は心身にとってストレスとなり、不眠症など睡眠に関する様々な問題は睡眠障害と総称される。ヒトは身体を横たえて眠る(寝る)ことが一般的で、そのための部屋を寝室、道具(布団や枕)を寝具と呼ぶ。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "睡眠について研究している櫻井武は、「睡眠」とは、脳にある「覚醒」とは別のオペレーションモードで、さらにレム睡眠とノンレム睡眠に分かれ、脳はこの3つのモードを切り替えて使っている。睡眠は「メンテナンスモード」であり、脳とからだの覚醒に必要なメンテナンスモードで、睡眠時には睡眠特有の伝達物質が働き睡眠を稼働させていると説明する。ただ、ノンレム睡眠時に脳の老廃物を洗い流すグリンパティックシステムに関しては、実際に起きている現象論的には正しいが研究が進んでいない仮説であるとしている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "また、セントルイス・ワシントン大学で神経生物学を研究するポール・ショーは、「環境に反応する方法を進化させるまでは、初期の生物は『反応』しませんでした。私たちは睡眠を進化させたのではなく、覚醒を進化させたのだと思います」という推測を述べている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "ヒトの睡眠中は、急速眼球運動(REM=レム)が生じ、ノンレム睡眠であるステージIからステージIVの4段階と、レム睡眠を、周期90 - 110分で反復する。睡眠は、心身の休息、身体の細胞レベルでの修復、また記憶の再構成などにも深く関わっているとされる。下垂体前葉は、睡眠中に2時間から3時間の間隔で成長ホルモンを分泌する。放出間隔は睡眠によって変化しないが、放出量は多くなる。したがって、子供の成長や創傷治癒、肌の新陳代謝は睡眠時に特に促進される。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "睡眠時に脳波を観察していると徐波が現れる、すなわち、深いノンレム睡眠が起こるのは哺乳類の大部分と鳥類に限られ、爬虫類や両生類や魚類では睡眠時に徐波が現れないことが知られている。なお、哺乳類の中でもカモノハシやハリモグラなどの単孔類のような原始的な哺乳類の眠りは、それ以降の哺乳類の眠りとは異なっている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "睡眠中は刺激に対する反応がほとんどなくなり、移動や外界の注視などの様々な活動も低下する。一般的には、閉眼して意味のある精神活動は停止した状態となるが、適切な刺激によって容易に覚醒する。このため睡眠と意識障害とは全く異なるものである。またヒトをはじめとする大脳の発達したいくつかの動物では、睡眠中に夢と呼ばれるある種の幻覚を体験することがある。",
"title": "睡眠中の状態"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "短期的には睡眠は栄養の摂取よりも重要である。マウスの実験では、完全に睡眠を遮断した場合、約1 - 2週間で死亡するが、これは食物を与えなかった場合よりも短い。極端な衰弱と体温調節の不良と脳では視床の損傷が生じている。ヒトの場合でも断眠を続けることで、思考能力の低下や妄想、幻覚が生じ、相当期間の強制で死に至ると言われている。",
"title": "睡眠中の状態"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "20世紀になり、ヒトの睡眠は、脳波と眼球運動のパターンで分類できることが知られるようになった。急速眼球運動 (Rapid Eye Movement) を伴う睡眠をレム睡眠 (Rapid eye movement sleep、REM sleep)、ステージI - IVのように急速眼球運動を伴わない睡眠をまとめてノンレム睡眠 (Non-rapid eye movement sleep、Non-REM sleep)と呼ぶ。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "成人はステージI - REMの間を睡眠中反復し、周期は90-110分程度である。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "入眠やステージI - IVとレム睡眠間の移行を司る特別なニューロン群が存在する。入眠時には前脳基部(腹外側視索前野)に存在する入眠ニューロンが活性化する。レム睡眠移行時には脳幹に位置するコリン作動性のレム入眠ニューロンが活動する。覚醒状態では脳内の各ニューロンは独立して活動しているが、ステージI - IVでは隣接するニューロンが低周波で同期して活動する。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "睡眠のホメオスタシスはTwo Process modelというもので説明される。そのComponentはProcess SとProcess Cで、前者は睡眠要求量を表し、後者は概日リズムを表す。睡眠要求量がある上の閾値に達すると眠くなり、寝ているうちにProcess Sは下がるがこれが下の閾値に達すると起きるというものである。2つの閾値をコントロールするのはProcess Cということが知られている。Cに関する研究は進んでいるが、何が睡眠要求量の実態になっているかは定説はない。最も安直に考えれば、SIS(sleep inducing substance)というものの濃度がその実態として挙げられ、探索がなされてきたが決定打はない。ただ、最近は物質の「量」というよりも「質」、つまりタンパク質の修飾状態などが活動により変化しそれがProcess Sなのではないかとうことが提唱されている。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "新生児では断続的に1日あたり16時間の睡眠をとり、2歳児で9 - 12時間、成人は(健康な人では)一晩で6 - 9時間の睡眠を必要とする。パターンの推移としては、乳幼児期における短時間の睡眠を多数回とるというパターンから、成人になるにつれ一度にまとまった睡眠をとるというパターンへと推移していく。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "高齢になると、昼間に何度も居眠りし夜間は数時間しか眠らないというパターンになる。睡眠の深さも浅くなり、ノンレム睡眠が完全に消失していることもある。高齢者が睡眠不足や不眠で悩まされやすくなるのはこのためである。ただし、個人差があるため必ずしも全ての高齢者で睡眠が短くなっているわけではない。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "人間が加齢とともに早寝早起きの就寝スタイルに移行するのは、概日リズムの位相の前進による影響という説がある。しかし、生物時計の研究では、生物時計を司る神経細胞は加齢とともに減少する傾向にあるものの、生物時計の概日周期は加齢による影響はほとんど見られないという。竹村尊生は人間の就眠慣習が前進する理由として、本来、睡眠の概日リズムと深部体温の概日リズムには一定の相関があるが、昼夜変化や時刻といったフリーラン・リズムに従う生活によって生理的相関が失われ、加齢によって位相が前進しやすい深部体温の概日リズムに従って就眠するようになる、と述べている。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "覚醒を維持する神経伝達物質には、ノルアドレナリン、セロトニン、ヒスタミン、アセチルコリン、オレキシンなどがあるが、睡眠中はこれらの神経伝達物質を産生する神経細胞が抑制されている。その抑制には腹背側視索前野に存在するGABA作動精神系が関与しているとされる。アセチルコリン作動性神経の一部はレム睡眠の生成にも関与している。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "カルシウムイオンが細胞内に取り込まれることで脳が眠りにつくという研究結果もある。理化学研究所・東京大学の上田泰己らは、CaMKIIαとCaMKIIβが睡眠促進リン酸化酵素であることを初めて同定し、睡眠のリン酸化仮説を提唱した",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "2018年6月13日、筑波大学の柳沢正史教授らのチームの研究により、マウスの実験で脳内の80種類のタンパク質の働きが活性化することで眠気が誘発されることが発見されたと『ネイチャー』電子版に発表された。同チームは特定のタンパク質が睡眠を促すことで神経を休息させ、機能の回復につながるという見方を示し、睡眠障害の治療法開発につながる可能性を指摘した。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ヒトに必要な睡眠量には個体差があり、7 - 8時間の場合が多い。カリフォルニア大学サンディエゴ校のDaniel Kripkeらの『Sleep medicine』掲載論文や名古屋大学医学部大学院玉腰暁子の研究によれば、1日の睡眠時間が7時間の人は他の人たちに比べて死亡リスクが低い。ただし、睡眠時間が短い人や長い人が睡眠時間を7時間にすれば死亡しにくくなるのかどうかはわかっていない。それでも、7時間以上の睡眠をとることは高血圧などを防ぐのに役立つので、米国のハーバード大学医学部は7時間以上の睡眠を推奨している。平均睡眠時間が7時間未満の人は、8時間以上寝ている人に比べて3倍以上ウイルスに感染しやすいと言われている。各個人が必要とする時間の眠りをとれない睡眠不足は、多くの問題を引き起こす。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "米国ハーバード大学によると、1日7時間未満または9時間以上眠ると、認知機能低下のリスクが高まる。毎晩9時間以上眠る人は、脳卒中のリスクが23%より高くなる。 昼寝を90分以上行う人は、脳卒中のリスクが25%より高くなる。ただし、長い睡眠は脳卒中と認知機能低下に関連しているが、因果関係が不明であるため、9時間未満の睡眠を推奨するのは時期尚早である。スポーツマンは毎日10時間の睡眠をとると運動能力を改善し、平均スプリント時間を改善し、日中の疲労感とスタミナを改善し、幸福の全体的な評価を改善するなど、多くの利点が見つかった。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "児童は成長のため、成人より多くの睡眠時間を必要とする。新生児は一日18時間以上必要だが、成長に従って減少していく。2015年初頭に、全米睡眠財団(National Sleep Foundation)は2年間の研究成果を以下に公表した。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1900年頃まで人々の一般的な睡眠サイクルは、日没後に4-5時間の睡眠をとり日中に2度目の睡眠をとる形であったが、20世紀になって作為的に行われるようになった制度である八時間労働制の悪影響で不眠症が起きていると指摘する研究がある。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "近世以前のヨーロッパにおいては、夜早くに就寝した後に朝まで眠り続けるのでなく、夜中に起きて仕事や他者との会話をする分割睡眠が珍しくなかったことは、多くの記録から裏付けられている。産業革命後、機械の稼働に合わせて昼間は8時間程度働き続け、夜はまとめて眠ることが効率的という考え方や労働・生活スタイルが広まった。だが、いわゆる「朝型」「夜型」など睡眠に関する個人差は遺伝子の影響が大きいという研究結果も出てきており、欧米では仕事をする時間帯で個人の希望を尊重する企業も増えている。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "睡眠が不足すると、生命にとって大切な免疫力、自然治癒力などに悪影響があり、成長ホルモンの分泌にも変調を来たす。乳幼児・幼児・青少年では身体の成長に悪影響があり、身長が伸びにくくなる。睡眠不足によって胃や腸の調子が悪くなる人も多い。顔はむくみ、顔色や皮膚の状態は目に見えて悪くなる。また、睡眠不足は肥満を招きがちである。精神的には、気分に悪影響があり、鬱(あるいは躁状態や鬱状態の不安定な変化)、不機嫌、人間関係の悪化を招く。また、脳の基本機能である記憶力、集中力などに悪影響があり、結果として学生では学業(勉強)の効果に、成人では仕事の質に深刻な影響を及ぼす。後者では、仕事のミスが増え、肉体労働者においては深刻な傷害を負ったり、死亡事故に遭う確率(労働災害発生率)を増加させてしまうことが各種労働統計によって明らかにされている。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "深い眠りに入っている状態を「熟睡」という。その状態は「ぐっすりと〜」と表現される。医学的にはノンレム睡眠のステージIII・IVの徐波睡眠を指し「深睡眠」とも呼ばれる。脳機能の回復と記憶の再構成にはこの状態となることが重要とされている。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "若い成人の場合、男性に比べて女性の方がステージIII・IVの徐波睡眠の量が有意に多いが、レム睡眠の量は総睡眠時間の30パーセントと男女とも差は無い。中高年になると男女ともに熟睡量は減少し、特に男性は睡眠中の覚醒反応が増え、ステージIV徐波睡眠はほぼゼロとなる。20歳代を除けば総睡眠時間は男性の方が長い傾向があり、高齢になると男性の方が昼寝をする人の割合が高いことから、男性に比べて女性の方が効率良く質の高い睡眠が取れていると言える。睡眠時間には個人差があるため、医学界では最低7時間の睡眠を推奨しているが、9時間必要な人もおり、睡眠時間よりも熟睡するための睡眠の質が重要であることを認めている。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "スペインを初めとする地中海地方などに於いては昼食の後に睡眠を含む一休みをする「午睡(シエスタ)」の風習があり、健康増進の効果があるといわれる。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2000年代に入って米国などでも、Lifehack(ハッカー文化の一端にある仕事術)の延長で、短時間の昼寝が注目されている。昼寝をすることで、頭脳の働きが良好になるとされており、頭脳労働に従事する人々(いわゆるホワイトカラー)の間では重視されている。その一方で、労働時間の増加により地中海地方の国々においてもシエスタを行わない企業が増加しつつある。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "電車やバスで通勤・通学をする者も多く、またこれらの交通機関においての治安も非常に良いため、その中で睡眠する者もいる。経済平和研究所によると、2021年の日本の安全保障は世界一になるとのことである。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "肉体労働の多い職種(いわゆるブルーカラー)では、昼休み時間の昼食の後、午後の作業再開までの間、15分 - 30分程度の短い睡眠をとる場合がある。短時間ではあるが、午前中に溜まった疲労から回復させ、注意力も回復する、という重要な役割がある。昼寝をとるのととらないのでは、午後の事故発生率が変わる。眠気を催すことが生命の危険に直結する肉体労働の現場において、事故防止の責任を負う現場監督などは、作業員の仮眠を奨励していることが多く、仮眠中の者をできるだけ起こさないようにしたり、睡眠できる環境を確保するため協力することが一般的である。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "座ったままで眠ることは「居眠り」と呼ばれ、授業中、仕事中、運転中など、眠ってはいけない場所・場面で無意識のうちに居眠りをしてしまう例がある。特に授業中や仕事中の居眠りはやる気がないものとみなされる場合があり、前者の場合内申点に影響したり、後者の場合は解雇の対象ともなりうる。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "運転中に眠るという行為は「居眠り運転」となり事故に繋がる。長距離輸送を行っているバスやトラックの運転手はいかにして眠らないように、眠気が出ないように運転をするか、さまざまな工夫をしなければならない。とりわけ高速道路などの運転は単調になりがちで居眠り運転が起きやすい。法律で連続的に運転できる時間に制限が定められており、長距離輸送では2名交代制にしていることも多い。運転席の後部に小さな睡眠用のベッドがしつらえてあって、身体を伸ばして、遮光カーテンで光をさえぎり睡眠がとりやすくなっている構造になっているトラックも多い。バスの運転手もトラック同様に様々な規制があり、2名が1チームを組み、片方のドライバーが運転している間、もう片方のドライバーはバスの下にある睡眠用のスペースで睡眠をとれるようになっていることが多い。近年では、ドライバーが過酷な労働体制下で無理なローテーションで長時間の運転を連続的に行うことで居眠り運転をしてしまったり、睡眠障害のドライバーが深刻な事故を起こしたことが社会問題となった。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "風呂に入浴中の居眠りは溺死の危険性がある。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2001年2月に発表されたNHKの調査によると、「日本人の平均睡眠時間は平日で7時間26分、土曜日で7時間41分、日曜日で8時間13分」であった。2014年の調査では平均睡眠5時間44分と、世界最悪の水準まで短くなっている。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "無意識や文化的背景に影響される就寝行動を就寝形態という観点で文化人類学、教育社会学的に比較検証する研究もある。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "加齢するに従い、「早寝早起きの習慣」が身につくと一般に考えられている。しかし、本当に習慣的なものなのか、高齢者に多く見られる「睡眠相前進症候群」の症状であるのかは、容易には判断できない。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "また、宗教的影響として仏教思想と結び付けて、頭を北に、足を南に配置する形で寝ることは「北枕」と呼ばれ、忌避されている。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "日本でも昼寝の効用について研究が行われている。昼寝を行うことにより、事故の予防・仕事の効率向上・自己評価向上などが期待されるため、職場・学校などで昼寝が最近奨励されるようになった。また、昼寝により脳が活発になるため、独創的なアイデアが浮かびやすい環境になるという。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ハーバード大学医学部では、昼寝が記憶の定着、創造力、注意力の上昇に凄まじく有効であるのは事実だと報告した。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "一方、昼間の眠気に耐え切れずに昼寝をとることは慢性的な睡眠不足を示している可能性がある。日中に長い昼寝をする成人は、糖尿病、心臓病、うつ病などの症状を起こす可能性が高い。場合によっては、昼寝は悪循環を引き起こし、夜の睡眠不足を補うために日中に眠ったので夜に眠りにつくのに苦労してしまう。このため、昼寝を制限することは、夜間の睡眠全体を改善するための1つの戦略である。すでに夜に少なくとも7時間以上の睡眠をとっていて、日中もまだ疲れている場合は、医師に相談すること。",
"title": "ヒトの睡眠"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "睡眠はヒトの心身の健康や生活の質にとって重要なため、医学や脳科学の研究テーマとなっており、日本睡眠学会も設けられている。",
"title": "睡眠の学術的・技術的研究"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "個々人が自宅で脳波など睡眠中の状態を計測できる小型機器、それらで得られたビッグデータを分析できる人工知能(AI)など睡眠に関する技術(スリープテック)が急速に進歩しており、従業員の睡眠の質調査や改善支援をビジネスにする企業も登場している。",
"title": "睡眠の学術的・技術的研究"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "脳の覚醒は脳内のヒスタミンにより齎されており、脳内のヒスタミンを妨害することで脳は睡眠へと導かれる。脳内のヒスタミンを妨害する物質には、ATP代謝物のアデノシンがある。抗ヒスタミン剤の成分の一部にも脳内のヒスタミンの妨害を行い、眠気を誘発するものがある。また、プロスタグランジンD2(英語版)は、脳内のアデノシン量を増やし、眠気を誘発する。",
"title": "睡眠の学術的・技術的研究"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "睡眠誘発物質のアデノシンは、アデノシンデアミナーゼにより代謝されることでイノシンとなるが、脳脊髄中のイノシンの量は不眠バイオマーカーの一つとされる。またアデノシンは、アデノシンキナーゼによりアデノシン三リン酸 (ATP)からリン酸を一つ貰い受け、アデニル酸 (アデノシン一リン酸)へと戻るが、ATPの生成を補助する物質コエンザイムQ10の摂取は俗に悪夢を増やすと言われている。",
"title": "睡眠の学術的・技術的研究"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "また、ショートスリーパーはDEC2遺伝子の変異が関係するとされるが、DEC2遺伝子はATP消費による脂質形成 (同化)を抑制するとされる。DEC2は、低酸素状態でも発現するとされる。",
"title": "睡眠の学術的・技術的研究"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ビタミンB群も睡眠に影響を与えるとされる。豪アデレード大学の実験によれば、ビタミンB6の摂取は夢の覚えている量を増やす一方、ビタミンB6を含むビタミンB複合体の摂取は夢の覚えている量を増やさない上に睡眠の質を下げる効果があるという結果が出ている。",
"title": "睡眠の学術的・技術的研究"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "その他、脳内のシナプス蛋白質のリン酸化の進行が眠気に関係するという説が存在する。",
"title": "睡眠の学術的・技術的研究"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "日中の眠気は、アルツハイマー病のリスクが高いことを示している可能性がある。",
"title": "睡眠の学術的・技術的研究"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "また、ペンシルベニア大学の研究によれば、睡眠不足になると脂質代謝の変化も起こるとされる。",
"title": "睡眠の学術的・技術的研究"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "多くの研究は、睡眠が新しい課題を学ぶ前と後の両方で、記憶において重要な役割を果たすことを示唆している。眠っている間、脳は驚くほど忙しくなっている。睡眠中は記憶を強化したり、起きている間に学んだスキルを「練習」したりすることができる。新しいことを学ぶ際は、睡眠後の方がより良いパフォーマンスを発揮することができる。",
"title": "睡眠の学術的・技術的研究"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "畳、紙衾、莚敷、布団、ベッド、敷衾、キャノピーベッド(英語版)",
"title": "睡眠関連の物品"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "古代中国で、死屍を枕に眠る巫医の夢の中で死に至った原因の啓示を仰いでいた。古代エジプトでは、眠りの寺院(英語版)と呼ばれる医神イムホテプの神殿があり、病気の治療、催眠や夢占いなどの儀式を行なった。これらの寺院は中東・古代ギリシアにも存在した。イムホテプと同一視された医神アスクレーピオスの神殿アスクレペイオンなどにおいては仮眠室が作られ、病気の転帰を願い神官が積極的に仮眠をとっていた。この儀式はインキュベーション (儀式)(英語版)と呼ばれている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "眠ったら、何年もたってしまったという作品は『リップ・ヴァン・ウィンクル』『エピメニデス』『7人の眠り男(英語版)』『眠れる森の美女』など数多い。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "ちなみに、『三年寝太郎』は寝ていたのではなく、思索にふけっていたので上記のパターンとは異なる。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "眠りと死を絡める神話や文学が多く見られる。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "しばしば死は睡眠に例えられる。死を睡眠になぞらえた例には次のようなものがある。これは、亡くなった状態を遺族や悲しむ人々や死者本人に気を使う意味で使われる。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "また「寝る」「眠る」という語を含むことわざとして次のようなものがある。主に「辛抱強い」や「気長」「寝ているように大人しい」状態を意味する。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "脳が無い動物ヒドラにも睡眠が存在し、その制御が脳を持つ動物と共通することから、脳の獲得以前の進化で睡眠することを獲得したことが示唆される。",
"title": "動物の睡眠"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "必要な睡眠時間は種ごとの体の大きさに依存する。例えば小型の齧歯類では15時間 - 18時間、ネコでは12 - 13時間、イヌでは10時間、ゾウでは3 - 4時間、キリンではわずか20分 - 1時間である。これは大型動物ほど代謝率が低く、脳細胞の傷害を修復する必要が少なくなるためとも考えられている。また小型の動物は他の動物に捕食者として狙われやすいので、無防備になる睡眠時間は短い傾向がある。体躯が同程度であれば、草食動物は睡眠時間は短く、肉食動物は長い傾向にある。草食動物は摂取する食料に不自由しない反面、食料は低カロリーであり、繊維質も多く、長時間食べて消化する事を余儀なくされるので、睡眠時間は短い。一方で肉食動物は、食物を得る機会は乏しく、一方で食物は高カロリーであるため、一度食物を得た後はしばらく食物を摂る必要が無い。そのため何もしない時間が多く、その間は睡眠によって消費カロリーを抑えていると考えられる。 ただし草食動物であってもナマケモノやコアラのように毒を含む葉を主食にしている場合は、毒素の分解のために睡眠時間が長くなる傾向がある",
"title": "動物の睡眠"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "全ての陸生哺乳類にレム睡眠が見られるものの、レム睡眠時間の種差は体の大きさとは無関係である。例えば、カモノハシは9時間の睡眠時間のうち、レム睡眠が8時間を占める。イルカはレム睡眠をほとんど必要としない。",
"title": "動物の睡眠"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "脊椎動物以外の動物、例えば節足動物にも睡眠に類似した状態がある。神経伝達物質の時間変化を観察すると、レム睡眠と似た状態になっている。これら昆虫も睡眠不足となると作業が雑になり、ミスが見られるようになる。殺虫剤のネオニコチノイドなどの薬物は、有益な蜂などの昆虫の睡眠や時間感覚を妨害する。",
"title": "動物の睡眠"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ヒトと異なり、生物の中には、長い期間覚醒しない種もある。これは冬眠と呼ばれる。冬眠する生物の例として、クマ、リス、カエルなどが挙げられる。",
"title": "動物の睡眠"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "睡眠の際の姿勢も生物によって異なる。魚類は単に水中を漂う形で睡眠状態に入る。フラミンゴは片足で立ったまま眠るとされる。またイルカや一部の鳥などは数秒程度の半球睡眠(大脳半球ずつ交互に眠ること)を繰り返して取るため、眠りながら泳ぎ続けることが可能である。半球睡眠は人間では脳障害などの病気や薬の重篤な副作用以外では脳の構造上、不可能と言われている。",
"title": "動物の睡眠"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "ネコは丸くなって寝ているという印象が多いが、これは身を守ろうとしているか寒い時の状態で、攻撃を受けないと確信したリラックス状態の飼い猫は、体の熱を逃がすために仰向けで寝ることもある。この例はネコに限った事例ではなく、イヌなど体毛が多く気候や気温が安定しない場所で生活する動物は行う。",
"title": "動物の睡眠"
}
] | 睡眠とは、眠ること、すなわち、周期的に繰り返す、意識を喪失する生理的な状態のことである。ねむりとも言う。 体の動きが止まり、外的刺激に対する反応が低下して意識も失われているが、簡単に目覚める状態のことをこう呼んでいる。 日本睡眠学会などでは、「対象を哺乳類に限定すれば、人間や動物の内部的な必要から発生する意識水準の一時的な低下現象、これに加えて、必ず覚醒可能なこと」と定義している。 | {{redirect|眠り|村上春樹の小説|眠り (村上春樹)|陰陽座の曲|睡|ニールセンの作品|眠り (ニールセン)|クールベの絵画|眠り (クールベの絵画)}}
'''睡眠'''(すいみん、{{lang-la-short|somnus}}、{{lang-fr-short|sommeil}}、{{lang-en-short|sleep}})とは、眠ること、すなわち、周期的に繰り返す、[[意識]]を喪失する生理的な状態のことである<ref name="デジ大">デジタル[[大辞泉]]</ref>。'''ねむり'''とも言う<ref name="デジ大"/>。
[[体]]の動きが止まり、外的刺激に対する反応が低下して[[意識]]も失われているが、簡単に目覚める状態のことをこう呼んでいる<ref>『[[広辞苑]]』第五版</ref>。
日本睡眠学会などでは、「対象を哺乳類に限定すれば、人間や動物の内部的な必要から発生する意識水準の一時的な低下現象、これに加えて、必ず覚醒可能なこと」と定義している<ref>{{kotobank|睡眠}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://bio.nikkeibp.co.jp/atclyb/19/121100044/ |title=睡眠障害治療薬 |access-date=2023-01-06 |last=日経バイオテクONLINE |website=日経バイオテクONLINE |language=ja}}</ref>。
== 概要 ==
[[ヒト]]は通常は[[昼|昼間]]に活動し、[[夜|夜間]]に睡眠をとる<ref name="britanica" />。動物では夜間に活動し、昼間に睡眠をとるものも多い<ref name="britanica">『[[ブリタニカ百科事典]]』「睡眠」</ref>([[夜行性]])。
[[ヒト]]にとって睡眠は不可欠であり<ref>[https://www.med.nihon-u.ac.jp/hospital/itabashi/sleep/suimin-syogai.html 睡眠の基礎知識] [[日本大学医学部附属板橋病院]]睡眠センター(2021年5月16日閲覧)</ref>、[[睡眠欲]]は[[生理的欲求]]の一つで、体が眠りを必要とするときは{{ill2|眠気|en|Somnolence|preserve=1}}が現れる。[[睡眠不足]]は心身にとって[[ストレス (生体)|ストレス]]となり、[[不眠症]]など睡眠に関する様々な問題は[[睡眠障害]]と総称される。ヒトは身体を横たえて眠る(寝る)ことが一般的で、そのための部屋を[[寝室]]、道具([[布団]]や[[枕]])を[[寝具]]と呼ぶ。
睡眠について研究している[[櫻井武]]は、「睡眠」とは、[[脳]]にある「[[覚醒]]」とは別の[[オペレーション]]モードで、さらに[[レム睡眠]]と[[ノンレム睡眠]]に分かれ、脳はこの3つのモードを切り替えて使っている。睡眠は「メンテナンスモード」であり、脳とからだの覚醒に必要なメンテナンスモードで、睡眠時には睡眠特有の伝達物質が働き睡眠を稼働させていると説明する。ただ、ノンレム睡眠時に脳の老廃物を洗い流す[[グリンパティックシステム]]に関しては、実際に起きている[[現象論]]的には正しいが研究が進んでいない[[仮説]]であるとしている<ref name="hori">{{Cite web|和書|date= 2023/04/17|url=https://www.youtube.com/watch?v=ni6hAMvsv9s|title=そもそも睡眠とは何なのか?人工冬眠研究の第一人者に聞く【櫻井武×堀江貴文】|publisher=堀江貴文 ホリエモン|accessdate=2023-5-19}}</ref>。
また、セントルイス・ワシントン大学で神経生物学を研究するポール・ショーは、「環境に反応する方法を進化させるまでは、初期の生物は『反応』しませんでした。私たちは睡眠を進化させたのではなく、覚醒を進化させたのだと思います」という推測を述べている<ref>{{Cite web|和書|url=https://gigazine.net/news/20211108-sleep-brain/ |title=睡眠のメカニズムは脳の進化に先立つ可能性、生物は睡眠状態がデフォルトかもしれない - GIGAZINE |access-date=2023-10-01 |date=2021-11-08 |website=gigazine.net |language=ja}}</ref>。
ヒトの睡眠中は、急速[[眼球]]運動(REM=レム)が生じ、ノンレム睡眠であるステージIからステージIVの4段階と、[[レム睡眠]]を、周期90 - 110分で反復する<ref name="harrison" />。睡眠は、心身の休息、身体の[[細胞]]レベルでの修復、また[[記憶]]の再構成などにも深く関わっているとされる。[[下垂体前葉]]は、睡眠中に2時間から3時間の間隔で[[成長ホルモン]]を分泌する。放出間隔は睡眠によって変化しないが、放出量は多くなる。したがって、子供の成長や[[創傷治癒]]、肌の[[代謝|新陳代謝]]は睡眠時に特に促進される。
睡眠時に脳波を観察していると徐波が現れる、すなわち、深いノンレム睡眠が起こるのは[[哺乳類]]の大部分と[[鳥類]]に限られ、[[爬虫類]]や[[両生類]]や[[魚類]]では睡眠時に徐波が現れないことが知られている<ref name="I_H_sleep_p36">井上 雄一、林 光緒 編集『睡眠の科学 - そのメカニズムと対応 -』([[朝倉書店]] 2011年1月25日発行 ISBN 978-4-254-30103-8)p.36</ref>。なお、哺乳類の中でも[[カモノハシ]]や[[ハリモグラ]]などの[[単孔類]]のような原始的な哺乳類の眠りは、それ以降の哺乳類の眠りとは異なっている<ref name="I_H_sleep_p36"/>。
== 睡眠中の状態 ==
睡眠中は刺激に対する反応がほとんどなくなり、移動や外界の注視などの様々な活動も低下する。一般的には、閉眼して意味のある精神活動は停止した状態となるが、適切な刺激によって容易に[[覚醒]]する。このため睡眠と[[意識障害]]とは全く異なるものである。またヒトをはじめとする[[大脳]]の発達したいくつかの動物では、睡眠中に[[夢]]と呼ばれるある種の幻覚を体験することがある。
短期的には睡眠は[[栄養]]の摂取よりも重要である。[[ハツカネズミ#実験用マウス|マウス]]の実験では、完全に睡眠を遮断した場合、約1 - 2週間で死亡するが、これは食物を与えなかった場合よりも短い。極端な衰弱と[[体温]]調節の不良と脳では[[視床]]の損傷が生じている。ヒトの場合でも断眠を続けることで、思考能力の低下や[[妄想]]、[[幻覚]]が生じ、相当期間の強制で死に至ると言われている<ref>[https://staff.aist.go.jp/s-hanai/faq.html#2 2. 人は眠らないとどうなりますか?]</ref><ref>澤田誠 [http://www.riem.nagoya-u.ac.jp/4/brain/pdf/hand_out4.pdf 全学教育科目 理系教養 自然環境と人間 第1シリーズ 脳 6話] 2010年11月11日の[http://www.riem.nagoya-u.ac.jp/4/brain/gallery.html 講義資料のひとつ]</ref>。
;疲労の回復
:睡眠によって、[[疲労]]が回復する<ref>{{Cite web|和書|url=https://medical.jiji.com/medical/034-0014-08 |title=疲労回復と睡眠|家庭の医学|時事メディカル|時事通信の医療ニュースサイト |access-date=2023-01-05 |website=medical.jiji.com |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/heart/k-01-002.html |title=眠りのメカニズム |access-date=2023-01-05 |website=e-ヘルスネット 情報提供 |language=ja}}</ref>。
:脳内は{{ill2|グリンパティック系|en|Glymphatic system}}(グリンパティックシステム、グリアリンパ系)と呼ばれる脳の老廃物を脳外へ排出する仕組みがある。これは睡眠中に[[グリア細胞]]が縮小し、その間に[[脳脊髄液]]が流れ込み老廃物を洗い流す仕組みとなっている<ref>{{kotobank|グリンパティック系}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.amed.go.jp/news/release_20220228.html |title=認知症の病因「タウタンパク質」が脳から除去されるメカニズムを解明―脳内のグリアリンパ系がタウを押し流すことを発見― |access-date=2023-01-05 |website=国立研究開発法人日本医療研究開発機構 |language=ja}}</ref>。
;記憶の定着
:記憶の定着と索引付けは、睡眠中に行われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.konan-u.ac.jp/special/vol_1.html |title=第1回 睡眠と記憶について|知っていますか?「勉強に効果てきめんな睡眠」の手に入れ方 |access-date=2023-01-05 |website=www.konan-u.ac.jp}}</ref>。
;成長
:寝る子は育つというように、深い眠りの最中に最も[[成長ホルモン]]が放出される<ref>{{Cite web |url=https://www.twmu.ac.jp/TWMU/Medicine/RinshoKouza/021/patient/hormone/p05.html |title=成長に必要なホルモン|ホルモンとは|患者さまへ|東京女子医科大学 高血圧・内分泌内科 |access-date=2023-04-01 |website=www.twmu.ac.jp |publisher=[[東京女子医科大学]]}}</ref><ref>{{Cite journal |last=Van Cauter |first=Eve |last2=Plat |first2=Laurence |date=1996-05 |title=Physiology of growth hormone secretion during sleep |url=https://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/S0022347696700082 |journal=The Journal of Pediatrics |volume=128 |issue=5 |pages=S32–S37 |language=en |doi=10.1016/S0022-3476(96)70008-2}}</ref>。
;家族などでどのように寝るかについて
:[[就寝形態]]、[[co-sleeping]]、[[添い寝]]
;睡眠時随伴症
:睡眠時にあらわれる様々な症状を総称して{{ill2|睡眠時随伴症|en|Parasomnia}}という<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/dictionary/heart/yk-025.html |title=睡眠時随伴症 |access-date=2023-01-05 |website=e-ヘルスネット 情報提供 |language=ja}}</ref><ref name=neuro568>[https://www.neurology-jp.org/Journal/public_pdf/056080541.pdf 睡眠に関連する運動・行動異常] 著:立花直子 学会誌「臨床神経学」56巻8号 2016年 p:541-549</ref>。
:例として、[[いびき]]、[[ブラキシズム|歯ぎしり(ブラキシズム)]]、[[夜尿症]]、[[睡眠時遊行症]]、[[夜驚症]]、{{ill2|錯乱性覚醒|en|Confusional arousals}}、[[寝言]]、{{ill2|睡眠関連うなり声|en|Catathrenia}}(カタスレニア)、[[レム睡眠行動障害]]などである<ref name=neuro568/>。
;睡眠時の行動など
:[[寝癖]]、{{ill2|寝相|en|Sleeping positions}}(寝返り)、[[夢]]、[[夜間陰茎勃起現象]]
;起床後
:起床後には、{{ill2|睡眠慣性|en|Sleep inertia}}(ねぼけ) と呼ばれる脳が活性化していない眠気を伴った状態になる場合がある。
== ヒトの睡眠 ==
=== 睡眠のタイプ ===
[[File:Person sleeping.flac|left|thumb|夜の8時間、穏やかに眠る人の音]]
[[File:Schlafstadien einer nacht.svg|thumb|right|300px|ヒプノグラム([[:de:Hypnogramm|Hypnogramm]])の一例]]
[[File:Hypnogramme.svg|thumb|right|300px|ヒプノグラムの一例。[[フランス語]]で表記。赤い部分はSommeil paradoxal([[逆説睡眠]])。破線で「Micro-réveil」とあるのは短時間の覚醒のこと。]]
20世紀になり、ヒトの睡眠は、脳波と眼球運動のパターンで分類できることが知られるようになった。急速眼球運動 (''Rapid Eye Movement'') を伴う睡眠を'''レム睡眠''' (Rapid eye movement sleep、REM sleep)、ステージI - IVのように急速眼球運動を伴わない睡眠をまとめて'''ノンレム睡眠''' (Non-rapid eye movement sleep、Non-REM sleep)と呼ぶ<ref name="harrison">{{Cite |和書|title=[[ハリソン内科学]] |edition=4 |publisher=メディカルサイエンスインターナショナル|date=2013-03-26 |isbn= 978-4895927345 | |at=Chapt.27}}</ref>。
;ステージI(N1)
: 傾眠状態。脳波上、覚醒時にみられた[[アルファ波|α波]]が減少し、低振幅の[[電位]]が見られる。
;ステージII(N2)
: 脳波上、睡眠紡錘 (''sleep spindle'') が見られる。
;ステージIII(N3)
: [[低周波]]の[[δ波]]が増える(20% - 50%)。
;ステージIV(N4)
: δ波が50%以上。
;[[レム睡眠]](REM)
:* 急速眼球運動 (''Rapid Eye Movement'') の見られるレム睡眠の脳波は、比較的早い[[θ波]]が主体となる。この期間に覚醒した場合、[[夢]]の内容を覚えていることが多い。レム睡眠中の脳活動は覚醒時と似ており、エネルギー消費率も覚醒時とほぼ同等である。急速眼球運動だけが起こるのは、目筋以外を制御する運動ニューロンの働きが抑制されているためである。全睡眠の20-25%を占める<ref name="harrison" />。
成人はステージI - REMの間を睡眠中反復し、[[周期]]は90-110分程度である<ref name="harrison" />。
入眠やステージI - IVと[[レム睡眠]]間の移行を司る特別な[[ニューロン]]群が存在する。入眠時には[[前脳]]基部(腹外側視索前野)に存在する入眠ニューロンが活性化する。レム睡眠移行時には[[脳幹]]に位置するコリン作動性のレム入眠ニューロンが活動する。覚醒状態では脳内の各ニューロンは独立して活動しているが、ステージI - IVでは隣接するニューロンが低周波で同期して活動する。
===睡眠のTwo Process model===
睡眠のホメオスタシスはTwo Process modelというもので説明される<ref>{{Cite book|title=Two-Process Model of Sleep Regulation|url=https://doi.org/10.1007/978-3-540-29678-2_6166|publisher=Springer|date=2009|location=Berlin, Heidelberg|isbn=978-3-540-29678-2|pages=4146–4146|doi=10.1007/978-3-540-29678-2_6166|language=en|editor-first=Marc D.|editor-last=Binder|editor2-first=Nobutaka|editor2-last=Hirokawa|editor3-first=Uwe|editor3-last=Windhorst}}</ref>。そのComponentはProcess SとProcess Cで、前者は睡眠要求量を表し、後者は[[概日リズム]]を表す。睡眠要求量がある上の閾値に達すると眠くなり、寝ているうちにProcess Sは下がるがこれが下の閾値に達すると起きるというものである。2つの閾値をコントロールするのはProcess Cということが知られている。Cに関する研究は進んでいるが、何が睡眠要求量の実態になっているかは定説はない。最も安直に考えれば、SIS(sleep inducing substance)というものの濃度がその実態として挙げられ、探索がなされてきたが決定打はない。ただ、最近は物質の「量」というよりも「質」、つまりタンパク質の修飾状態などが活動により変化しそれがProcess Sなのではないかとうことが提唱されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokushima-u.ac.jp/_files/00386555/20190816lecture.pdf|title=先端酵素学研究所特別セミナー|accessdate=2021-08-05}}</ref>。
=== 生涯における睡眠の変化 ===
[[新生児]]では断続的に1日あたり16時間の睡眠をとり、2歳児で9 - 12時間、[[成人]]は(健康な人では)一晩で6 - 9時間の睡眠を必要とする<ref name="britanica" />。パターンの推移としては、乳幼児期における短時間の睡眠を多数回とるというパターンから、成人になるにつれ一度にまとまった睡眠をとるというパターンへと推移していく。
[[高齢者|高齢]]になると、昼間に何度も居眠りし夜間は数時間しか眠らないというパターンになる<ref name="britanica" />。睡眠の深さも浅くなり、ノンレム睡眠が完全に消失していることもある<ref name="harrison" />。高齢者が睡眠不足や不眠で悩まされやすくなるのはこのためである。ただし、個人差があるため必ずしも全ての高齢者で睡眠が短くなっているわけではない。
=== 環境からの影響 ===
{{Seealso|概日リズム|{{ill2|騒音が健康へ与える影響|en|Health effects from noise}}}}
人間が加齢とともに早寝早起きの就寝スタイルに移行するのは、概日リズムの位相の前進による影響という説がある<ref name="Tanaka">田中冨久子『女の老い・男の老い:性差医学の視点から探る』(<[[NHKブックス]]> [[NHK出版]] 2011年、ISBN 9784140911778)pp.62-65.</ref>。しかし、[[生物時計]]の研究では、生物時計を司る神経細胞は加齢とともに減少する傾向にあるものの、生物時計の概日周期は加齢による影響はほとんど見られないという<ref name="Tanaka"/>。竹村尊生は人間の就眠慣習が前進する理由として、本来、睡眠の概日リズムと深部体温の概日リズムには一定の相関があるが、昼夜変化や時刻といったフリーラン・リズムに従う生活によって生理的相関が失われ、加齢によって位相が前進しやすい深部体温の概日リズムに従って就眠するようになる、と述べている<ref name="Tanaka"/>。
=== 睡眠と生体内物質 ===
覚醒を維持する神経伝達物質には、[[ノルアドレナリン]]、[[セロトニン]]、[[ヒスタミン]]、[[アセチルコリン]]、[[オレキシン]]などがあるが、睡眠中はこれらの神経伝達物質を産生する神経細胞が抑制されている。その抑制には腹背側視索前野に存在する[[γ-アミノ酪酸|GABA]]作動精神系が関与しているとされる{{要出典|date=2015年2月}}。[[アセチルコリン]]作動性神経の一部はレム睡眠の生成にも関与している。
[[カルシウムイオン]]が細胞内に取り込まれることで脳が眠りにつくという研究結果もある<ref>[https://news.mynavi.jp/techplus/article/20160318-a063/ 「細胞内のカルシウムが脳を眠らせる - 東大など、睡眠を制御する遺伝子特定」][[マイナビニュース]](2016年3月18日配信)2021年5月16日閲覧</ref>。理化学研究所・東京大学の上田泰己らは、CaMKIIαとCaMKIIβが睡眠促進リン酸化酵素であることを初めて同定し、睡眠のリン酸化仮説を提唱した<ref name="tatsuki_2016">{{Cite journal|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/26996081|author=Tatsuki et al.|title=Involvement of Ca(2+)-Dependent Hyperpolarization in Sleep Duration in Mammals|journal=Neuron|volume=90|issue=1|pages=70–85|doi=10.1016/j.neuron.2016.02.032|issn=1097-4199|pmid=26996081|date=April 2016}}</ref><ref name="tatsuki_2017">{{Cite journal|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/28433628|author=Tatsuki et al.|title=Ca2+-dependent hyperpolarization hypothesis for mammalian sleep|journal=Neuroscience Research|volume=118|pages=48–5|doi=10.1016/j.neures.2017.03.012|issn=1872-8111|pmid=28433628|date=May 2017}}</ref><ref name="ode_2017-06">{{Cite journal|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/28575719|author=Ode et al.|title=Fast and slow Ca2+-dependent hyperpolarization mechanisms connect membrane potential and sleep homeostasis|journal=Current pinion in Neurobiology|volume=44|pages=212–221|doi=10.1016/j.conb.2017.05.007|issn=1873-6882|pmid=28575719|date=June 2017}}</ref><ref name="shi_2018">{{Cite journal|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/29205420|author=Shi and Ueda|title=Ca2+ -Dependent Hyperpolarization Pathways in Sleep Homeostasis and Mental Disorders|journal=BioEssays: News and Reviews in olecular, Cellular and Developmental Biology|volume=40|issue=1|doi=10.1002/bies.201700105|issn=1521-1878|pmid=29205420|date=January 2018}}</ref><ref name="ode_2020">{{Cite journal|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/33123055|author=Ode and Ueda|title=Phosphorylation Hypothesis of Sleep|journal=Front Psychol. 2020 Oct 2;11:575328|doi=10.3389/fpsyg.2020.575328|pmid=33123055|date=October 2020}}</ref>
[[2018年]][[6月13日]]、[[筑波大学]]の[[柳沢正史]]教授らのチームの研究により、マウスの実験で脳内の80種類の[[タンパク質]]の働きが活性化することで眠気が誘発されることが発見されたと『[[ネイチャー]]』電子版に発表された。同チームは特定のタンパク質が睡眠を促すことで神経を休息させ、機能の回復につながるという見方を示し、[[睡眠障害]]の治療法開発につながる可能性を指摘した<ref name="kyodo">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20180613192020/https://this.kiji.is/379677066112648289|title=眠気の正体は脳内タンパク 筑波大チームが発表|publisher=[[共同通信]]|date=2018-6-14|accessdate=2018-6-26}}]{{リンク切れ|date=2021年5月}}</ref><ref name="sankei">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20180626111333/https://www.sankeibiz.jp/econome/news/180626/ecb1806260500001-n1.htm|title=眠気の“正体”は脳内タンパク 筑波大チームが発表|[[フジサンケイビジネスアイ|SankeiBiz]]|date=2018-6-26|accessdate=2018-6-26}}</ref>。
=== 睡眠時間の長短 ===
{{seealso|ロングスリーパー|ショートスリーパー}}
{| class="wikitable floatright" style="margin-left:2em; font-size:90%;"
|+ 全米睡眠財団による推奨睡眠時間
|-
! 年齢
! 必要時間
|-
| 新生児 (0–3 ヶ月)
| 14 - 17 時間<ref name="sleepfoundation" />
|-
| 乳児 (4–11 ヶ月)
| 12 - 15 時間<ref name="sleepfoundation" />
|-
| 幼児 (1–2 歳)
| 11 - 14 時間<ref name="sleepfoundation" />
|-
| 就学前 (3–5 歳)
| 10 - 13 時間<ref name="sleepfoundation" />
|-
| 学童 (6–13 歳)
| 9 - 11 時間<ref name="sleepfoundation" />
|-
| 青年 (14–17 歳)
| 8 - 10 時間<ref name="sleepfoundation" /><ref>{{cite web |url=http://www.sleepfoundation.org/article/hot-topics/backgrounder-later-school-start-times |title=Backgrounder: Later School Start Times |accessdate=2 October 2009 |date=n.d.|publisher=[[全米睡眠財団|National Sleep Foundation]] |quote=Teens are among those least likely to get enough sleep; while they need on average 9{{frac|1|4}} 時間 of sleep per night...}}</ref>
|-
| 若年者 (18 - 25 歳)、中年者 (26 - 64 歳)
| 7 - 9 時間<ref name="sleepfoundation" />
|-
| 老人 (65 歳以上)
| 7 - 8 時間<ref name="sleepfoundation" /><ref name="nhlbi-sleep">{{cite web | url=http://www.nhlbi.nih.gov/health/health-topics/topics/sdd/howmuch | title=How Much Sleep Is Enough? | publisher=National Heart, Lung and Blood Institute | accessdate=25 July 2015}}</ref>
|}
ヒトに必要な睡眠量には個体差があり、7 - 8時間の場合が多い。[[カリフォルニア大学サンディエゴ校]]のDaniel Kripkeらの『Sleep medicine』掲載論文<ref>{{cite journal | doi=10.1016/j.sleep.2010.04.016 | title=Mortality related to actigraphic long and short sleep | year=2010 |author=Daniel F. Kripke |author2= Robert D. Langer |author3=Jeffrey A. Elliott |author4=Melville R. Klauber |author5=Katharine M. Rex | journal=Sleep Medicine | volume=12 | issue=1 |page= 28-33}}</ref>や[[名古屋大学]]医学部大学院玉腰暁子の研究<ref>[http://www.aichi-med-u.ac.jp/jacc/reports/tamaa1/index.html 玉腰暁子「睡眠時間と死亡との関係」]{{リンク切れ|date=2021年2月}}</ref><ref>[http://www.47news.jp/feature/medical/news/0810suimin.html 「死亡率低い7時間睡眠 日本人11万人の調査結果」]{{リンク切れ|date=2021年5月}}[[47NEWS]]</ref>によれば、1日の睡眠時間が7時間の人は他の人たちに比べて死亡リスクが低い。ただし、睡眠時間が短い人や長い人が睡眠時間を7時間にすれば死亡しにくくなるのかどうかはわかっていない。それでも、7時間以上の睡眠をとることは高血圧などを防ぐのに役立つので、米国の[[ハーバード大学医学大学院|ハーバード大学医学部]]は7時間以上の睡眠を推奨している<ref>{{Cite web|title=What to do when your blood pressure won’t go down|url=https://www.health.harvard.edu/staying-healthy/what-to-do-when-your-blood-pressure-wont-go-down|website=Harvard Health|date=2021-12-01|accessdate=2021-12-14|language=en|first=Heidi|last=Godman}}</ref>。平均睡眠時間が7時間未満の人は、8時間以上寝ている人に比べて3倍以上ウイルスに感染しやすいと言われている<ref>{{Cite web |title=Improving Sleep: A guide to a good night's rest |url=https://www.health.harvard.edu/staying-healthy/improving-sleep-a-guide-to-a-good-nights-rest |website=Harvard Health |access-date=2022-10-21 |language=en}}</ref>。各個人が必要とする時間の眠りをとれない[[睡眠#睡眠不足|睡眠不足]]は、多くの問題を引き起こす。
[[アメリカ合衆国|米国]][[ハーバード大学]]によると、1日7時間未満または9時間以上眠ると、認知機能低下のリスクが高まる<ref>{{Cite web |title=The worst habits for your brain |url=https://www.health.harvard.edu/mind-and-mood/the-worst-habits-for-your-brain |website=Harvard Health |date=2022-04-01 |access-date=2022-04-16 |language=en |first=Matthew |last=Solan}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|title=How much sleep keeps cognitive decline at bay?|url=https://www.health.harvard.edu/mind-and-mood/how-much-sleep-keeps-cognitive-decline-at-bay|website=Harvard Health|date=2021-12-01|accessdate=2021-12-02|language=en|first=Heidi|last=Godman}}</ref><ref>{{Cite web|title=Sleeping too much or not enough may raise the risk of cognitive decline|url=https://www.health.harvard.edu/mind-and-mood/sleeping-too-much-or-not-enough-may-raise-the-risk-of-cognitive-decline|website=Harvard Health|accessdate=2021-01-21|first=Harvard Health|last=Publishing}}</ref>。毎晩9時間以上眠る人は、[[脳卒中]]のリスクが23%より高くなる。 昼寝を90分以上行う人は、脳卒中のリスクが25%より高くなる。ただし、長い睡眠は脳卒中と認知機能低下に関連しているが、因果関係が不明であるため、9時間未満の睡眠を推奨するのは時期尚早である<ref>{{Cite web|title=Are you getting enough sleep… or too much? Sleep and stroke risk|url=https://www.health.harvard.edu/blog/are-you-getting-enough-sleep-or-too-much-sleep-and-stroke-risk-2020012918727|website=Harvard Health Blog|date=2020-01-29|accessdate=2020-11-10|language=en-US|first=Robert H. Shmerling|last=MD}}</ref><ref name=":1" />。[[アスリート|スポーツマン]]は毎日10時間の睡眠をとると運動能力を改善し、平均スプリント時間を改善し、日中の疲労感と[[持久力|スタミナ]]を改善し、[[幸福]]の全体的な評価を改善するなど、多くの利点が見つかった<ref>{{Cite journal|last=Mah|first=Cheri D.|last2=Mah|first2=Kenneth E.|last3=Kezirian|first3=Eric J.|last4=Dement|first4=William C.|date=2011-07-01|title=The Effects of Sleep Extension on the Athletic Performance of Collegiate Basketball Players|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3119836/|journal=Sleep|volume=34|issue=7|pages=943–950|doi=10.5665/SLEEP.1132|issn=0161-8105|pmid=21731144|pmc=3119836}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=Biohacking Your Brain's Health|url=https://www.coursera.org/learn/biohacking-your-brains-health|website=Coursera|accessdate=2021-12-02|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|title=11 Surprising Health Benefits of Sleep|url=https://www.health.com/condition/sleep/11-surprising-health-benefits-of-sleep|website=Health.com|accessdate=2020-11-10|language=EN}}</ref>。
児童は成長のため、成人より多くの睡眠時間を必要とする。新生児は一日18時間以上必要だが、成長に従って減少していく<ref name="helpg">{{cite web |url=http://www.helpguide.org/life/sleeping.htm |title=Understanding Sleep: Sleep Needs, Cycles, and Stages |accessdate=25 January 2008 |last1=de Benedictis |first1=Tina |first2=Heather |last2=Larson |first3=Gina |last3=Kemp |first4=Suzanne |last4=Barston |first5=Robert |last5=Segal |year=2007 |publisher=Helpguide.org}}</ref>。2015年初頭に、全米睡眠財団(National Sleep Foundation)は2年間の研究成果を以下に公表した<ref name="sleepfoundation">{{cite journal | author= Hirshkowitz, Max ; Whiton, Kaitlyn et al. | title=National Sleep Foundation’s sleep time duration recommendations: methodology and results summary | journal= Sleep Health: Journal of the National Sleep Foundation |url= http://www.sleephealthjournal.org/article/S2352-7218(15)00015-7/fulltext |publisher= Elsevier Inc |date=14 January 2015 | pmid=| doi= 10.1016/j.sleh.2014.12.010 |accessdate=4 February 2015 }}</ref>。
=== 睡眠をとる時間帯と回数 ===
[[1900年]]頃まで人々の一般的な睡眠サイクルは、[[日没]]後に4-5時間の睡眠をとり日中に2度目の睡眠をとる形であったが、20世紀になって作為的に行われるようになった制度である[[八時間労働制]]の悪影響で不眠症が起きていると指摘する研究がある<ref name="Meyer 2012 p. ">{{cite book | last=Meyer | first=Matthew | title=The slumbering masses : sleep, medicine, and modern American life | publisher=University of Minnesota Press | publication-place=Minneapolis | year=2012 | isbn=0-8166-7474-4 | oclc=788275263 | page=}}</ref>。
近世以前の[[ヨーロッパ]]においては、夜早くに就寝した後に朝まで眠り続けるのでなく、夜中に起きて仕事や他者との会話をする分割睡眠が珍しくなかったことは、多くの記録から裏付けられている<ref>[http://www.intershift.jp/w_yoru.html ロジャー・イーカーチ著『失われた夜の歴史』]インターシフト発行、[[合同出版]]発売</ref>。[[産業革命]]後、機械の稼働に合わせて昼間は8時間程度働き続け、夜はまとめて眠ることが効率的という考え方や労働・生活スタイルが広まった。だが、いわゆる「朝型」「夜型」など睡眠に関する個人差は[[遺伝子]]の影響が大きいという研究結果も出てきており、欧米では仕事をする時間帯で個人の希望を尊重する企業も増えている<ref name="日経20210509">「豊かな眠りを求めて」『[[日本経済新聞]]』朝刊2021年5月9日9-11面</ref>。
=== 睡眠不足 ===
[[File:Effects of sleep deprivation.svg|thumb|300px|睡眠不足の健康への影響]]
{{Seealso|睡眠不足}}
睡眠が不足すると、生命にとって大切な[[免疫]]力、[[自然治癒力]]などに悪影響があり、[[成長ホルモン]]の分泌にも変調を来たす。乳幼児・幼児・青少年では身体の[[成長]]に悪影響があり、身長が伸びにくくなる。睡眠不足によって[[胃]]や[[腸]]の調子が悪くなる人も多い。顔は[[むくみ]]、顔色や皮膚の状態は目に見えて悪くなる。また、睡眠不足は[[肥満]]を招きがちである。精神的には、[[気分]]に悪影響があり、[[鬱]](あるいは躁状態や鬱状態の不安定な変化)、不機嫌、[[人間関係]]の悪化を招く。また、脳の基本機能である[[記憶]]力、集中力などに悪影響があり、結果として学生では[[学業]](勉強)の効果に、成人では仕事の質に深刻な影響を及ぼす。後者では、仕事のミスが増え、肉体労働者においては深刻な傷害を負ったり、[[事故|死亡事故]]に遭う確率([[労働災害]]発生率)を増加させてしまうことが各種労働統計によって明らかにされている。
*睡眠時間が短い人は、血中の食欲を抑える[[レプチン]]が少なく[[食欲]]を増進させる[[グレリン]]が多い。その結果、睡眠時間が短くなるほど食欲が亢進しやすく肥満になるリスクが高くなる<ref>{{cite journal |author=Taheri S, Lin L, Austin D, Young T, Mignot E |title=Short sleep duration is associated with reduced leptin, elevated ghrelin, and increased body mass index |journal=PLoS Med. |volume=1 |issue=3 |pages=e62 |year=2004 |month=December |pmid=15602591 |pmc=535701 |doi=10.1371/journal.pmed.0010062 |url=http://dx.plos.org/10.1371/journal.pmed.0010062}}</ref>。
*慢性的な寝不足状態にある人は[[高血圧]]、[[糖尿病]]、[[脂質異常症]]、[[心筋梗塞]]、[[狭心症]]などの[[冠動脈疾患]]や[[脳血管障害]]といった[[生活習慣病]]に罹りやすい<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/heart/k-02-008.html|title=睡眠と生活習慣病との深い関係|accessdate=2015-11-23}}</ref>。また、免疫力を低下させ、[[インフルエンザ]]などの[[感染症]]や[[癌]]の誘因や増悪因子になる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/suimin/qa.html#2|title=睡眠不足が引き起こす病気・リスクは何ですか?|accessdate=2015-11-23}}</ref>。
*脳は睡眠中に、昼間体感・学習した情報から余分な情報を省いて効率よく整理し、長期的な感覚や記憶として処理する機能があることから、睡眠不足は子どもの身体能力や学業成績に多大な影響を及ぼす。学びの内容を処理するための睡眠量が削られていくことは、学習量が増加傾向にある子どもたちにとって深刻である<ref>ポー・ブロンソン(Bronson,Po)およびアシュリー・メリーマン(Merryman,Ashley)著 、小松淳子訳『間違いだらけの子育て―子育ての常識を変える10の最新ルール』インターシフト社、2011年6月、原題 Nurture Shock、ISBN 978-4-7726-9523-7</ref>。
*夜更かしした翌日に長時間睡眠をとって寝不足を解消することは可能だが、前日に長時間睡眠することで翌日に夜更かしするなどといった「寝貯め」はできないとされている。また、前者のような「まとめ寝」も、寝不足は解消できるが、睡眠の質が下がったり、心身のバランスやリズムを崩したりするため好ましくないとされる。
=== 熟睡 ===
深い眠りに入っている状態を「熟睡」という。その状態は「ぐっすりと〜」と表現される<ref>デジタル大辞泉「熟睡」</ref>。医学的にはノンレム睡眠のステージIII・IVの徐波睡眠を指し「深睡眠」とも呼ばれる<ref>[https://www.suimin.net/words/ 睡眠用語辞典]([[田辺三菱製薬]])「深睡眠」「徐波睡眠」</ref>。脳機能の回復と記憶の再構成にはこの状態となることが重要とされている。
若い成人の場合、男性に比べて女性の方がステージIII・IVの徐波睡眠の量が有意に多いが、レム睡眠の量は総睡眠時間の30パーセントと男女とも差は無い<ref name="Tanaka"/>。中高年になると男女ともに熟睡量は減少し、特に男性は睡眠中の覚醒反応が増え、ステージIV徐波睡眠はほぼゼロとなる。20歳代を除けば総睡眠時間は男性の方が長い傾向があり、高齢になると男性の方が昼寝をする人の割合が高いことから、男性に比べて女性の方が効率良く質の高い睡眠が取れていると言える<ref name="Tanaka"/>。睡眠時間には個人差があるため、医学界では最低7時間の睡眠を推奨しているが、9時間必要な人もおり、睡眠時間よりも熟睡するための睡眠の質が重要であることを認めている<ref>{{Cite web |title=How much sleep do you actually need? |url=https://www.health.harvard.edu/blog/how-much-sleep-do-you-actually-need-202310302986 |website=Harvard Health |date=2023-10-30 |access-date=2023-10-31 |language=en |first=Matthew |last=Solan}}</ref>。
===熟睡するためには===
* 睡眠サイクル([[体内時計]])を固定(特に起床時刻を一定に)する。
* 毎日起きる時刻に[[太陽光]]を浴びる(強烈な日光を浴びてからおよそ14時間後に次第に眠くなってゆくような仕組みが体内にある、ということが近年の研究で明らかにされてきている)。
* 日光を浴びた後1時間以内に朝食をとる。
* 寝る数時間前に運動や[[入浴]]をして体温を上げることで眠りに就くときに体温を急激に低下させる。
* 就床する30分 - 2時間前から照明をしっかり暗くすることで[[メラトニン]]の分泌を促す。
* 毎日の食事で[[炭水化物]]と[[たんぱく質]]([[トリプトファン]])をしっかり摂取し、トリプトファンによる[[セロトニン]]およびメラトニンの合成と分泌を図る。
*入眠前に入浴をすることや入眠時に寝室を暖かくすることで[[体温]]を上昇させ、入眠ニューロンの活動を亢進させる。
*メラトニンを[[脳]]の[[松果体]]で生成するために、起床中に2500[[ルクス]]以上の[[光]]を浴びる<ref>[[2005年]][[5月3日]]付『[[神奈川新聞]]』11面「いきいきすこやかHEALTH ぐっすり眠りたい☆5」</ref>。
* 寝室を暗くする<ref>{{Cite news|title=明るい寝室、眠りの質低下でうつのリスク|url=http://www.asahi.com/articles/ASK8P52PRK8PUBQU00K.html|newspaper=[[朝日新聞デジタル]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=2017-08-21|accessdate=2017-08-22}}</ref>。
=== 短眠について ===
*稀にではあるが、遺伝的に睡眠時間が短い人間([[ショートスリーパー]])は存在する。
*眠い時に眠り、結果「短眠」を1日に数度取る人もいるが、古代人がそうであったとの主張もある。
*「まったく睡眠を取らずに健康に生活している」と主張する者がいるのは事実である<ref>[https://web.archive.org/web/20111013210507/http://www.fujitv.co.jp/sciencemystery/chap_dna3_2.html 生涯眠らなかった男](2011年10月13日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref><ref>[http://x51.org/x/06/02/1515.php 「33年間、眠らない男 ベトナム」][[X51.ORG]]</ref>。一例を挙げると、米国[[ニュージャージー州]]で暮らしていた[[アル・ハーピン]](1862? - 1947)という人物は「生涯で一度も眠ったことのない男」として『[[ニューヨークタイムズ]]』が少なくとも2度にわたって記事で紹介しており<ref>{{Cite news|title=Hasn't Slept in 10 years|newspaper=New York Times|date=February 29, 1904|url=https://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=F2061EF9355E12738DDDA00A94DA405B848CF1D3|accessdate=2017-05-23}}</ref><ref>{{Cite news|title=Man Who Said He Never Slept Dies at 94; New Jersey Doctors Are Skeptical of Claim|newspaper=New York Times|date=January 4, 1947|url=https://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F60C1EFC3F5A107A93C6A9178AD85F438485F9&scp=1&sq=alfred%20herpin&st=cse|accessdate=2017-05-23}}</ref>、比較的よく知られている。
=== 文化差、地域差 ===
{{独自研究|date=2017年8月|section=1}}
{| class="wikitable floatright" style="font-size:85%; text-align:right; margin-left:1em;"
|+ [[経済協力開発機構]](OECD)各国の<br>1日あたり平均睡眠時間(2006年)<ref>{{Cite |publisher=OECD |title=Society at a Glance 2009 |date=2009 |doi=10.1787/19991290 |isbn=9789264056879 }}</ref>
! 国 !! 時間
! 国 !! 時間
|-
|{{rh}}| {{JPN}} || 7時間50分
|{{rh}}| {{NOR}} || 8時間{{0}}3分
|-
|{{rh}}| {{SWE}} || 8時間{{0}}6分
|{{rh}}| {{DEU}} || 8時間12分
|-
|{{rh}}| {{ITA}} || 8時間18分
|{{rh}}| {{MEX}} || 8時間21分
|-
|{{rh}}| [[File:OECD logo.svg|border|25x20px]] [[経済協力開発機構|OECD]]18カ国 || 8時間22分
|{{rh}}| {{GBR}} || 8時間23分
|-
|{{rh}}| {{BEL}} || 8時間25分
|{{rh}}| {{FIN}} || 8時間27分
|-
|{{rh}}| {{POL}} || 8時間28分
|{{rh}}| {{CAN}} || 8時間29分
|-
|{{rh}}| {{AUS}} || 8時間32分
|{{rh}}| {{TUR}} || 8時間32分
|-
|{{rh}}| {{NZL}} || 8時間33分
|{{rh}}| {{ESP}} || 8時間34分
|-
|{{rh}}| {{USA}} || 8時間38分
|{{rh}}| {{FRA}} || 8時間50分
|}
==== 世界 ====
[[スペイン]]を初めとする[[地中海]]地方などに於いては[[昼食]]の後に睡眠を含む一休みをする「午睡([[シエスタ]])」の風習があり、健康増進の効果があるといわれる。
[[2000年代]]に入って米国などでも、[[Lifehack]]([[ハッカー文化]]の一端にある仕事術)の延長で、短時間の昼寝が注目されている。昼寝をすることで、[[頭脳]]の働きが良好になるとされており、[[頭脳労働]]に従事する人々(いわゆる[[ホワイトカラー]])の間では重視されている。その一方で、労働時間の増加により[[地中海]]地方の国々においてもシエスタを行わない企業が増加しつつある。
==== 日本 ====
[[電車]]や[[バス (交通機関)|バス]]で通勤・通学をする者も多く、またこれらの交通機関においての治安も非常に良いため、その中で睡眠する者もいる。経済平和研究所によると、2021年の日本の安全保障は世界一になるとのことである<ref>{{Cite web |title=Global Peace Index Map » The Most & Least Peaceful Countries |url=https://www.visionofhumanity.org/maps/ |website=Vision of Humanity |date=2020-07-24 |access-date=2022-07-17 |language=en-US}}</ref>。
[[肉体労働]]の多い職種(いわゆる[[ブルーカラー]])では、昼休み時間の昼食の後、午後の作業再開までの間、15分 - 30分程度の短い睡眠をとる場合がある。短時間ではあるが、午前中に溜まった疲労から回復させ、注意力も回復する、という重要な役割がある。昼寝をとるのととらないのでは、午後の事故発生率が変わる。眠気を催すことが生命の危険に直結する肉体労働の現場において、事故防止の責任を負う現場監督などは、作業員の[[仮眠]]を奨励していることが多く、仮眠中の者をできるだけ起こさないようにしたり、睡眠できる環境を確保するため協力することが一般的である。
座ったままで眠ることは「[[居眠り]]」と呼ばれ、授業中、仕事中、運転中など、眠ってはいけない場所・場面で無意識のうちに居眠りをしてしまう例がある。特に授業中や仕事中の居眠りはやる気がないものとみなされる場合があり、前者の場合[[内申点]]に影響したり、後者の場合は[[解雇]]の対象ともなりうる。
運転中に眠るという行為は「[[自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律|居眠り運転]]」となり事故に繋がる。長距離輸送を行っているバスや[[貨物自動車|トラック]]の[[運転手]]はいかにして眠らないように、眠気が出ないように運転をするか、さまざまな工夫をしなければならない。とりわけ[[高速道路]]などの運転は単調になりがちで居眠り運転が起きやすい。法律で連続的に運転できる時間に制限が定められており、長距離輸送では2名交代制にしていることも多い。運転席の後部に小さな睡眠用のベッドがしつらえてあって、身体を伸ばして、遮光カーテンで光をさえぎり睡眠がとりやすくなっている構造になっているトラックも多い。バスの運転手もトラック同様に様々な規制があり、2名が1チームを組み、片方のドライバーが運転している間、もう片方のドライバーはバスの下にある睡眠用のスペースで睡眠をとれるようになっていることが多い。近年では、ドライバーが過酷な労働体制下で無理なローテーションで長時間の運転を連続的に行うことで居眠り運転をしてしまったり、[[睡眠障害]]のドライバーが深刻な事故を起こしたことが[[社会問題]]となった。
[[風呂]]に[[入浴]]中の居眠りは[[溺死]]の危険性がある。
[[2001年]][[2月]]に発表された[[日本放送協会|NHK]]の調査によると、「日本人の平均睡眠時間は[[平日]]で7時間26分、[[土曜日]]で7時間41分、[[日曜日]]で8時間13分」であった<ref>[[NHK放送文化研究所]]世論調査部『2000年国民生活時間調査報告書』</ref>。2014年の調査では平均睡眠5時間44分と、世界最悪の水準まで短くなっている<ref>[https://jawbone.com/blog/jawbone-up-data-by-city/#tokyo In the City That We Love - The Jawbone Blog]</ref>。
無意識や文化的背景に影響される就寝行動を[[就寝形態]]という観点で[[文化人類学]]、[[教育社会学]]的に比較検証する研究もある。
加齢するに従い、「早寝[[早起き]]の習慣」が身につくと一般に考えられている。しかし、本当に習慣的なものなのか、高齢者に多く見られる「[[睡眠相前進症候群]]」の症状であるのかは、容易には判断できない。
また、宗教的影響として[[仏教]]思想と結び付けて、頭を北に、足を南に配置する形で寝ることは「[[北枕]]」と呼ばれ、忌避されている。
=== 昼寝 ===
{{Main|昼寝}}
日本でも昼寝の効用について研究が行われている。昼寝を行うことにより、[[事故]]の予防・仕事の効率向上・自己評価向上などが期待されるため、職場・[[学校]]などで昼寝が最近奨励されるようになった。また、昼寝により脳が活発になるため、独創的なアイデアが浮かびやすい環境になるという。
ハーバード大学医学部では、昼寝が記憶の定着、創造力、注意力の上昇に凄まじく有効であるのは事実だと報告した<ref name=":0">{{Cite web|title=Is your daily nap doing more harm than good?|url=https://www.health.harvard.edu/staying-healthy/is-your-daily-nap-doing-more-harm-than-good|website=Harvard Health|date=2021-06-01|accessdate=2021-07-18|language=en|first=Kelly|last=Bilodeau}}</ref><ref>{{Cite web|title=11 Surprising Health Benefits of Sleep|url=https://www.health.com/condition/sleep/11-surprising-health-benefits-of-sleep|website=Health.com|accessdate=2021-10-31|language=en|first=Alyssa Sparacino Updated|last=December 18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=Biohacking Your Brain's Health|url=https://www.coursera.org/learn/biohacking-your-brains-health|website=Coursera|accessdate=2021-10-31|language=ja}}</ref>。
一方、昼間の眠気に耐え切れずに昼寝をとること''は慢性的な睡眠不足を示している可能性がある。日中に長い昼寝をする成人は、糖尿病、心臓病、うつ病などの症状を起こす可能性が高い。場合によっては、昼寝は悪循環を引き起こし、夜の睡眠不足を補うために日中に眠ったので夜に眠りにつくのに苦労してしまう。このため、昼寝を制限することは、夜間の睡眠全体を改善するための1つの戦略である。''すでに夜に少なくとも7時間以上の睡眠をとっていて、日中もまだ疲れている場合は、医師に相談すること<ref name=":0" />。
==== 昼寝におけるその他の研究報告 ====
*30分以下の昼寝を習慣的にとる人は、それ以外の人に比べて[[アルツハイマー病]]にかかるリスクが低下するという報告がある<ref>[http://www.inetmie.or.jp/~kasamie/AlzHiruneYobou.html 昼寝 アルツハイマー病 予防] [[国立精神・神経センター]]武蔵病院</ref>。
*高齢者は昼寝後と前では最大[[血圧]]で平均8.6[[mmHg]]、最小血圧で平均15.6mmHgも血圧が降下したという報告もあり、[[生活習慣病]]予防も期待される<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=5rH0LOl0eFUC&pg=PT36&lpg=PT36&dq=%E6%98%BC%E5%AF%9D%E3%80%80%E8%A1%80%E5%9C%A7%E3%80%80%E7%94%9F%E6%B4%BB%E7%BF%92%E6%85%A3%E7%97%85%E4%BA%88%E9%98%B2%E3%80%80%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%A4%A7%E5%AD%A6&source=bl&ots=0BJ6TN2WzY&sig=ONCNB_cxwnhtpDqlrAOv582U-2o&hl=ja&sa=X&ei=AHlaUsAVxMKQBeCrgfAM&ved=0CDYQ6AEwAg#v=onepage&q=%E6%98%BC%E5%AF%9D%E3%80%80%E8%A1%80%E5%9C%A7%E3%80%80%E7%94%9F%E6%B4%BB%E7%BF%92%E6%85%A3%E7%97%85%E4%BA%88%E9%98%B2%E3%80%80%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%A4%A7%E5%AD%A6&f=false 『疲れないカラダの作り方』][[ゴマブックス]]</ref>。
*40分以上の昼寝は、メタボリックシンドロームのリスクを増加させる<ref>{{cite web|url=http://www.dailymail.co.uk/health/article-3506708/Could-enjoying-nap-KILL-Sleeping-40-minutes-day-increases-risk-heart-disease.html|title=Sleeping for more than 40 minutes during the day 'increases the risk of heart disease'|accessdate=2016-03-26}}</ref>。
==== 昼寝の方法 ====
* 目安としては午後1 - 3時頃が良いとされる(遅くとると、夜、眠れなくなることがあるため)。
* 15 - 30分程度が良いとされる。1時間とると、逆に疲労につながることがある(30分以上睡眠をとると、多くの人が深睡眠に入り寝起きが悪くなるため)。
*質の高い昼寝のために、気が散らない静かで居心地の良い場所を必ず見つけること<ref name=":0" />。
== 睡眠の学術的・技術的研究 ==
{{main|{{ill2|睡眠医学|en|Sleep medicine}}}}
睡眠はヒトの心身の健康や[[生活の質]]にとって重要なため、[[医学]]や[[脳科学]]の研究テーマとなっており、[[日本睡眠学会]]も設けられている。
個々人が自宅で脳波など睡眠中の状態を計測できる小型機器、それらで得られた[[ビッグデータ]]を分析できる[[人工知能]](AI)など睡眠に関する技術(スリープテック)が急速に進歩しており、従業員の睡眠の質調査や改善支援をビジネスにする企業も登場している<ref name="日経20210509"/>。
=== 生理学 ===
脳の覚醒は脳内の[[ヒスタミン]]により齎されており、脳内のヒスタミンを妨害することで脳は睡眠へと導かれる<ref name="histamine">[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO06920060W6A900C1000000/ 眠気の正体] [[日本経済新聞|日経]][[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]](2016年10月4日)2021年5月16日閲覧</ref>。脳内のヒスタミンを妨害する物質には、[[アデノシン三リン酸|ATP]]代謝物の[[アデノシン]]がある<ref name="histamine"/>。[[抗ヒスタミン剤]]の成分の一部にも脳内のヒスタミンの妨害を行い、眠気を誘発するものがある<ref name="histamine"/>。また、{{仮リンク|プロスタグランジンD2|en|Prostaglandin D2}}は、脳内のアデノシン量を増やし、眠気を誘発する<ref name="histamine"/>。
睡眠誘発物質のアデノシンは、[[アデノシンデアミナーゼ]]により代謝されることで[[イノシン]]となるが、脳脊髄中のイノシンの量は不眠バイオマーカーの一つとされる<ref name="humin"/>。またアデノシンは、アデノシンキナーゼによりアデノシン三リン酸 (ATP)からリン酸を一つ貰い受け、[[アデニル酸]] (アデノシン一リン酸)へと戻るが、ATPの生成を補助する物質[[コエンザイムQ10]]の摂取は俗に[[悪夢]]を増やすと言われている。{{要出典|date=2020年12月}}
また、ショートスリーパーはDEC2遺伝子の変異が関係するとされる<ref>[http://www.bbc.com/future/story/20150706-the-woman-who-barely-sleeps The people who need very little sleep] BBC 2015年</ref>が、DEC2遺伝子はATP消費による脂質形成 ([[同化 (生物学)|同化]])を抑制するとされる<ref name="dec2-and-atp">[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/18838394 Stra13/DEC1 and DEC2 inhibit sterol regulatory element binding protein-1c in a hypoxia-inducible factor-dependent mechanism.] [[Nucleic Acids Research]] Choi SM, Cho HJ, Cho H, Kim KH, Kim JB, Park H. 2008年</ref>。DEC2は、低酸素状態でも発現するとされる<ref name="dec2-and-atp"/>。
ビタミンB群も睡眠に影響を与えるとされる。[[オーストラリア|豪]][[アデレード大学]]の実験によれば、[[ビタミンB6]]の摂取は夢の覚えている量を増やす一方、ビタミンB6を含むビタミンB複合体の摂取は夢の覚えている量を増やさない上に睡眠の質を下げる効果があるという結果が出ている<ref>[http://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1177/0031512518770326?journalCode=pmsb Effects of Vitamin B6 (Pyridoxine) and a B Complex Preparation on Dreaming and Sleep] [[Perceptual and Motor Skills]] Denholm J. Aspy, Natasha A. Madden, Paul Delfabbro, et al. 2018年4月17日</ref><ref>[https://wired.jp/2018/05/21/vitamin-b6-and-dream/ 「夢を思い出すにはビタミンB6が有効だった:研究結果」] Wired(2018年5月21日)2021年5月16日閲覧</ref>。
その他、脳内の[[シナプス]]蛋白質の[[リン酸化]]の進行が眠気に関係するという説が存在する<ref>Zhiqiang Wang, et al. :[https://www.nature.com/articles/s41586-018-0218-8 Quantitative phosphoproteomic analysis of the molecular substrates of sleep need]『[[ネイチャー|Nature]]』2018年6月13日</ref>。
日中の眠気は、アルツハイマー病のリスクが高いことを示している可能性がある<ref>{{Cite web|title=Daytime sleepiness may indicate a higher risk for Alzheimer’s disease|url=https://www.health.harvard.edu/mind-and-mood/daytime-sleepiness-may-indicate-a-higher-risk-for-alzheimers-disease|website=Harvard Health|date=2018-12-01|accessdate=2022-01-13|language=en}}</ref>。
==== 睡眠不足時のマーカー ====
* [[オレイン酸アミド]] が[[脳脊髄液]]中に増加。この物質は、[[東京大学]]大学院と[[キリンビール]]、[[小岩井乳業]]の共同研究によれば、[[認知症]]の原因となる[[アミロイドβ]]の沈着を防止するとされる<ref>[https://www.a.u-tokyo.ac.jp/topics/2015/20150310-1.html アルツハイマー病を予防できる可能性 - カマンベールチーズに原因物質の沈着を抑える成分を発見 -]東京大学大学院(2015年3月12日)2021年5月16日閲覧</ref>。
* [[ジアシルグリセロール]] 36:3 が[[血清]]中で減少<ref name="WeljieMeerlo2015">{{cite journal|last1=Weljie|first1=Aalim M.|last2=Meerlo|first2=Peter|last3=Goel|first3=Namni|last4=Sengupta|first4=Arjun|last5=Kayser|first5=Matthew S.|last6=Abel|first6=Ted|last7=Birnbaum|first7=Morris J.|last8=Dinges|first8=David F.|last9=Sehgal|first9=Amita|title=Oxalic acid and diacylglycerol 36:3 are cross-species markers of sleep debt|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences|volume=112|issue=8|year=2015|pages=2569–2574|issn=0027-8424|doi=10.1073/pnas.1417432112}}</ref>。
* [[シュウ酸]] - 米国[[ペンシルベニア大学]]の研究によれば、睡眠不足になると減少するとされる<!--TODO: より良い出典。http://neurosciencenews.com/sleep-restriction-oxidative-stress-1755/ -->。
また、ペンシルベニア大学の研究によれば、睡眠不足になると脂質代謝の変化も起こるとされる<!--TODO: 同上-->。
==== 睡眠障害のマーカー ====
* [[イノシン]] - 脳脊髄液中で高値<ref name="humin">[https://kaken.nii.ac.jp/d/p/20406006.ja.html 不眠バイオマーカーの探索(研究課題番号:20406006)][https://kaken.nii.ac.jp/pdf/2010/seika/jsps/74415/20406006seika.pdf 同pdf版] [[科学研究費助成事業|KAKEN]](2021年5月16日閲覧)</ref>。
=== 睡眠改善 ===
* 寝る前に呼吸を重視したヨガをする。これにより、ストレスが軽減され、健康増進につながる<ref>{{Cite web |title=Yoga for better sleep |url=https://www.health.harvard.edu/blog/8753-201512048753 |website=Harvard Health |date=2015-12-04 |access-date=2023-03-25 |language=en |first=Marlynn Wei, MD |last=JD}}</ref>。
* 部屋を涼しく、暗く、静かにすること<ref name=":2" />。
* 1日1万歩などの定期的な運動は、ヨガよりも睡眠改善に効果的である<ref name=":2" /><ref>{{Cite web |title=Walking for Exercise |url=https://www.hsph.harvard.edu/nutritionsource/walking/ |website=The Nutrition Source |date=2020-12-09 |access-date=2023-05-05 |language=en-us |first=677 Huntington |last=Avenue}}</ref>。
* 一日の終わりにアルコールやカフェインを避けること<ref name=":2" />。
* 就寝時刻の少なくとも1時間前にテレビや電話などの画面からの青い光を見ないこと<ref name=":2" />。
* 毎日同じ時間に寝起きしたり<ref name=":2">{{Cite web|title=Is your daily nap doing more harm than good?|url=https://www.health.harvard.edu/staying-healthy/is-your-daily-nap-doing-more-harm-than-good|website=Harvard Health|date=2021-06-01|accessdate=2021-07-18|language=en|first=Kelly|last=Bilodeau}}</ref>、いつもより1時間早く寝起きすることで、うつ病を予防することができる<ref>{{Cite web |title=Waking up one hour earlier than usual may reduce depression risk |url=https://www.health.harvard.edu/mind-and-mood/waking-up-one-hour-earlier-than-usual-may-reduce-depression-risk |website=Harvard Health |date=2021-09-01 |access-date=2022-11-15 |language=en |first=Matthew |last=Solan}}</ref>。
* メラトニン、ビタミンD、セロトニンが豊富な食事は睡眠の改善に役立つ可能性がある<ref>{{Cite web |title=Could what we eat improve our sleep? |url=https://www.health.harvard.edu/blog/could-what-we-eat-improve-our-sleep-2021030922112 |website=Harvard Health |date=2021-03-09 |access-date=2022-07-17 |language=en |first=Elizabeth Pegg Frates |last=MD}}</ref>。
* 寝る2時間半ほど前にマグネシウム<ref>{{Cite web|和書|title=Your "Prescription" - Sleep and the Brain |url=https://www.coursera.org/lecture/biohacking-your-brains-health/your-prescription-XUNkz |website=Coursera |accessdate=2022-03-19 |language=ja}}</ref>メラトニン2mg程度を摂取すると、睡眠が改善される<ref>{{Cite web |title=Are drugstore sleep aids safe? |url=https://www.health.harvard.edu/staying-healthy/are-drugstore-sleep-aids-safe |website=Harvard Health |date=2018-08-01 |access-date=2022-06-23 |language=en}}</ref>。
; 不眠症と睡眠薬
:[[睡眠薬]]は眠剤、睡眠導入剤、催眠薬とも呼ばれる。不眠症などの改善に使用される<ref>{{Cite web|和書|url=https://hc.nikkan-gendai.com/articles/278436 |title=「睡眠薬」の現在…ベンゾジアゼピン系から新タイプへの切り替えが進んでいる|日刊ゲンダイヘルスケア |access-date=2023-01-05 |website=日刊ゲンダイヘルスケア |language=ja}}</ref>。
;睡眠時無呼吸症候群
:[[睡眠時無呼吸症候群]]により、睡眠の質が低下する。呼吸を維持するため{{ill2|持続気道陽圧|en|Continuous positive airway pressure}}(CPAP)などを使用する<ref>{{Cite web|和書|url=https://kcmc.hosp.go.jp/cnt0_000236.html |title=睡眠時無呼吸症候群 - 独立行政法人国立病院機構 近畿中央呼吸器センター |access-date=2023-01-05 |website=kcmc.hosp.go.jp}}</ref>。
===睡眠誘導===
{{main|{{ill2|睡眠誘導|en|Sleep induction}}}}
;食事
:ホットミルクに効果があるとされる。牛乳に含まれるカゼイン・トリプシン加水分解物(CTH)が睡眠の質に効果があるとされる<ref>{{Cite web |url=https://www.eurekalert.org/news-releases/931414 |title=Warm milk makes you sleepy — peptides could explain why |access-date=2023-01-05 |website=EurekAlert! |language=en}}</ref>。夜にとれた牛乳に「トリプトファン」と「メラトニン」という睡眠の質を上げる物質が多く含まれる<ref name=pres/>。
:そのほか、キウイのセロトニン、さくらんぼのトリプトファンやメラトニンがよいという研究もされている<ref name=pres>{{Cite web|和書|url=https://president.jp/articles/-/24983 |title="温かい牛乳を飲むと熟睡できる"は本当か 医学的には"半分正解、半分間違い" |access-date=2023-01-05 |date=2018-04-27 |website=PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) |language=ja}}</ref>。
;欲求
:{{ill2|食後の眠気|en|Postprandial somnolence}}や性欲が満たされると眠気につながる場合がある<ref>{{Cite web |url=https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0306453000000536 |title=Coitus-induced orgasm stimulates prolactin secretion in healthy subjects |access-date=2023-01-05 |last=Exton |first=Michael S. |date=2001-04-01 |website=Psychoneuroendocrinology |pages=287–294 |language=en |doi=10.1016/S0306-4530(00)00053-6}}</ref>。
;テクニック
* {{ill2|羊を数える|en|Counting sheep}}のは、SleepとSheepをかけただけのダジャレであり、脳が覚醒して逆効果である<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/236523 |title=「羊を数えたら眠れる」という大いなる勘違い |access-date=2023-01-05 |date=2018-09-13 |website=東洋経済オンライン |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://news.bbc.co.uk/cbbcnews/hi/sci_tech/newsid_1780000/1780803.stm |title=Counting sheep keeps you up |access-date=2023-01-05 |date=2002-01-24 |language=en-GB}}</ref>。
* むりに眠ろうと意識すると眠りに入るのが遅くなる<ref>{{Cite web |url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjppp/39/1/39_2106si/_article/-char/ja/ |title=Effects of the Effort to Fall Asleep on the Sleep Onset Process |access-date=2023-01-05 |last=Hayashi |first=Mitsuo |date=2021-04-30 |website=Japanese Journal of Physiological Psychology and Psychophysiology |pages=52–64 |language=en |doi=10.5674/jjppp.2106si}}</ref>。
* 脈絡のないイメージを連想していくシャッフル睡眠法<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/2017/08/25306690.html |title=これなら眠れる「シャッフル睡眠法」 カナダの学者が考案、欧米で評判 |access-date=2023-01-05 |date=2017-08-25 |website=J-CAST ニュース |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://scholar.google.com/citations?view_op=view_citation&hl=en&user=C2ZpkUEAAAAJ&citation_for_view=C2ZpkUEAAAAJ:9ZlFYXVOiuMC |title=Towards an integrative design-oriented theory of sleep-onset and insomnolence from which a new cognitive treatment for insomnolence (serial diverse kinesthetic imagining, a form of cognitive shuffling) is proposed for experimentally testing this |access-date=2023-01-05 |website=scholar.google.com}}</ref>、米軍では呼吸や脱力を意識するなどによって入眠を促す方法がとられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://president.jp/articles/-/57557 |title=「休まず働く」は日本人の悪癖…日米合同演習で自衛隊は疲労困憊でも米軍がずっと元気なワケ 実戦経験から「睡眠不足は絶対にダメ」と知っている (3ページ目) |access-date=2023-01-05 |date=2022-05-20 |website=PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) |language=ja}}</ref>。
=== 睡眠と学習 ===
多くの研究は、睡眠が新しい課題を学ぶ前と後の両方で、記憶において重要な役割を果たすことを示唆している<ref>{{Cite web|title=Sleep, Learning, and Memory {{!}} Healthy Sleep|url=http://healthysleep.med.harvard.edu/healthy/matters/benefits-of-sleep/learning-memory|website=healthysleep.med.harvard.edu|accessdate=2020-09-10}}</ref>。眠っている間、脳は驚くほど忙しくなっている。睡眠中は記憶を強化したり、起きている間に学んだスキルを「練習」したりすることができる。新しいことを学ぶ際は、睡眠後の方がより良いパフォーマンスを発揮することができる<ref>{{Cite web|title=11 Surprising Health Benefits of Sleep|url=https://www.health.com/condition/sleep/11-surprising-health-benefits-of-sleep|website=Health.com|accessdate=2020-09-10|language=EN}}</ref>。
==睡眠関連の物品==
{{main|寝具}}
畳、紙衾、莚敷、布団、ベッド、敷衾、{{ill2|キャノピーベッド|en|Canopy bed}}
* [[寝袋]]、[[シェーズ・ロング]](寝椅子)、[[ハンモック]]
;上掛け
:日本の近代以前では、昼に着用していた上着を使用する例もあった<ref>{{Cite web|和書|url=https://japanknowledge.com/articles/kkotoba/38.html |title=布団(ふとん) |access-date=2023-03-25 |last=Inc |first=NetAdvance Inc NetAdvance Inc NetAdvance |website=JapanKnowledge |language=ja}}</ref>。
:[[衾]]、[[毛布]]
;服
:[[パジャマ]]、[[寝巻]](ナイトウェア、{{ill2|着る毛布|de|Onesie}}、[[掻巻]])
;関連物
:[[アイマスク|スリープマスク]]、[[耳栓]]、[[マウスピース]]([[スリープスプリント]])
;起床
*[[目覚し時計]]
*定刻起床装置 - JRなどで使用される定められた時間に起床させる装置<ref>{{Cite web|和書|url=https://withnews.jp/article/f0190524002qq000000000000000W08u10101qq000019254A |title=アラームでダメなら実力行使だ!半世紀愛される「定刻起床装置」とは |access-date=2023-03-25 |last=郁人 |first=神戸 |website=withnews.jp |language=ja}}</ref>。
== 文化 ==
=== 信仰 ===
古代中国で、死屍を枕に眠る巫医の夢の中で死に至った原因の啓示を仰いでいた<ref name="ko">池田不二男「[[doi:10.14890/minkennewseries.31.4_292|古代中国人の夢に関する思惟(第 4, 5 回研究大会報告要旨 : アジア・アフリカ・アメリカ)]]」[[日本民族学会]] 1967年 31巻 4号 p.292-293, {{doi|10.14890/minkennewseries.31.4_292}}</ref>。[[古代エジプト]]では、{{ill2|眠りの寺院|en|Sleep temple}}と呼ばれる医神[[イムホテプ]]の神殿があり、病気の治療、催眠や[[夢占い]]などの儀式を行なった。これらの寺院は[[中東]]・[[古代ギリシア]]にも存在した。イムホテプと同一視された医神[[アスクレーピオス]]の神殿[[アスクレペイオン]]などにおいては仮眠室が作られ、病気の転帰を願い神官が積極的に仮眠をとっていた<ref name=ko/><ref>立木鷹志『夢と眠りの博物誌』</ref>。この儀式は{{ill2|インキュベーション (儀式)|en|Incubation (ritual)}}と呼ばれている。
=== 文学 ===
眠ったら、何年もたってしまったという作品は『[[リップ・ヴァン・ウィンクル]]』『[[エピメニデス]]』『{{ill2|7人の眠り男|en|Seven Sleepers}}』『[[眠れる森の美女]]』など数多い。
ちなみに、『[[三年寝太郎]]』は寝ていたのではなく、思索にふけっていたので上記のパターンとは異なる。
眠りと死を絡める神話や文学が多く見られる。
:ギリシア神話の眠りの神[[ヒュプノス]]は死の神タナトスの兄弟である。そのほかに[[エンデュミオーン]]の話がある。
:ローマ神話のソムヌス([[:en:Somnus]])は、詩人[[ウェルギリウス]]の話では死の神[[モルス (ローマ神話)|モルス]]の兄弟である<ref>{{Cite web |url=http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=urn:cts:latinLit:phi0690.phi003.perseus-eng2:6.268-6.281 |title=P. Vergilius Maro, Aeneid, Book 6, line 268 |access-date=2023-01-05 |website=www.perseus.tufts.edu}}</ref>。
=== 睡眠にまつわる表現 ===
しばしば[[死]]は睡眠に例えられる。死を睡眠になぞらえた例には次のようなものがある。これは、亡くなった状態を[[遺族]]や悲しむ人々や死者本人に気を使う意味で使われる。
* [[永眠]]
* the eternal sleep
また「寝る」「眠る」という語を含むことわざとして次のようなものがある。主に「辛抱強い」や「気長」「寝ているように大人しい」状態を意味する。
* 果報は寝て待て
* 寝る間も惜しんで
* 寝る子は育つ(科学的・医学的に正しいが、ことわざとして語句通りの意味で用いた場合は誤用<ref group="注釈">この諺が成立したのは栄養失調、病気、[[寄生虫]]その他による乳幼児死亡率が高かった時代で、そういった場合、死ぬ可能性の高い乳児は寝ずに泣き続けるケースが多いことから来ているため、この場合の「育つ」とは単なる成長の著しさではなく「死なずに無事生きる」事を指している。</ref>)
* 寝ても覚めても
* 寝た子を起こす
* 草木も眠る丑三つ時
* 猫鼠同眠
* 寝食を忘れる
* 寝るより楽は無かりけり 浮世の馬鹿が起きて働く
== 動物の睡眠 ==
[[ファイル:Warum fallen schlafende Vögel nicht vom Baum?.webm|thumb|動画(ドイツ語):なぜ寝てる鳥は枝から落ちないか?しゃがむと[[腱]]が引っ張られ、自動的に足趾が閉まる構造になっているからである<ref>{{Cite web|和書|url=https://nazology.net/archives/78826/2 |title=なぜ寝ている鳥は枝から落ちないのか? 鳥類の足の爪に秘密があった (2/2) |access-date=2023-09-05 |date=2021-01-08 |website=ナゾロジー |language=ja}}</ref>。]]
脳が無い動物[[ヒドラ (生物)|ヒドラ]]にも睡眠が存在し、その制御が脳を持つ動物と共通することから、脳の獲得以前の進化で睡眠することを獲得したことが示唆される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sci.kyushu-u.ac.jp/koho/qrinews/qrinews_201208.html |title=睡眠メカニズムの形成は脳の獲得に先立つ | 九州大学 理学研究院 理学府 理学部 |access-date=2023-01-05 |website=www.sci.kyushu-u.ac.jp |language=ja}}</ref>。
必要な睡眠時間は種ごとの体の大きさに依存する。例えば小型の[[齧歯類]]では15時間 - 18時間、[[ネコ]]では12 - 13時間、[[イヌ]]では10時間、[[ゾウ]]では3 - 4時間、[[キリン]]ではわずか20分 - 1時間である。これは大型動物ほど[[代謝率]]が低く、[[脳細胞]]の傷害を修復する必要が少なくなるためとも考えられている<ref>[https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/heart/k-01-002.html 眠りのメカニズム] 厚生労働省 e-ヘルスネット(2021年5月16日閲覧)</ref><ref>[http://www.pref.nagasaki.jp/toukei/tyotto/jinokoH19_12/suimin.html ※記事名不明]{{リンク切れ|date=2020-7}}[[長崎県]]</ref>。また小型の動物は他の動物に捕食者として狙われやすいので、無防備になる睡眠時間は短い傾向がある。体躯が同程度であれば、[[草食動物]]は睡眠時間は短く、[[肉食動物]]は長い傾向にある。草食動物は摂取する食料に不自由しない反面、食料は低[[カロリー]]であり、繊維質も多く、長時間食べて消化する事を余儀なくされるので、睡眠時間は短い。一方で肉食動物は、食物を得る機会は乏しく、一方で食物は高カロリーであるため、一度食物を得た後はしばらく食物を摂る必要が無い。そのため何もしない時間が多く、その間は睡眠によって消費カロリーを抑えていると考えられる。
ただし草食動物であってもナマケモノやコアラのように毒を含む葉を主食にしている場合は、毒素の分解のために睡眠時間が長くなる傾向がある
全ての陸生哺乳類にレム睡眠が見られるものの、レム睡眠時間の種差は体の大きさとは無関係である。例えば、[[カモノハシ]]は9時間の睡眠時間のうち、レム睡眠が8時間を占める。[[イルカ]]はレム睡眠をほとんど必要としない。
[[脊椎動物]]以外の動物、例えば[[節足動物]]にも睡眠に類似した状態がある。[[神経伝達物質]]の時間変化を観察すると、レム睡眠と似た状態になっている<ref>Kazuhiko Kume, Shoen Kume, Sang Ki Park, Jay Hirsh and F. Rob Jackson,“Dopamine is a regulator of arousal in the fruit fly,” ''Journal of Neuroscience'', '''25''', 2005, pp.7377-7384. [http://www.k-net.org/science/JNS2005.pdf]</ref>。これら昆虫も睡眠不足となると作業が雑になり、ミスが見られるようになる<ref>{{Cite journal |last=Helfrich-Förster |first=Charlotte |date=2018-01-07 |title=Sleep in Insects |url=https://www.annualreviews.org/doi/10.1146/annurev-ento-020117-043201 |journal=Annual Review of Entomology |volume=63 |issue=1 |pages=69–86 |language=en |doi=10.1146/annurev-ento-020117-043201 |issn=0066-4170}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/a/051900002/ |title=睡眠不足の虫は作業が雑になる |access-date=2023-10-01 |website=natgeo.nikkeibp.co.jp |language=ja}}</ref>。殺虫剤のネオニコチノイドなどの薬物は、有益な蜂などの昆虫の睡眠や時間感覚を妨害する<ref>{{Cite journal |last=Tasman |first=Kiah |last2=Hidalgo |first2=Sergio |last3=Zhu |first3=Bangfu |last4=Rands |first4=Sean A. |last5=Hodge |first5=James J. L. |date=2021-01-21 |title=Neonicotinoids disrupt memory, circadian behaviour and sleep |url=https://www.nature.com/articles/s41598-021-81548-2 |journal=Scientific Reports |volume=11 |issue=1 |language=en |doi=10.1038/s41598-021-81548-2 |issn=2045-2322 |pmc=PMC7820356 |pmid=33479461}}</ref>。
ヒトと異なり、生物の中には、長い期間覚醒しない種もある。これは[[冬眠]]と呼ばれる。冬眠する生物の例として、[[クマ]]、[[リス]]、[[カエル]]などが挙げられる。
睡眠の際の姿勢も生物によって異なる。魚類は単に水中を漂う形で睡眠状態に入る。[[フラミンゴ]]は片足で立ったまま眠るとされる。またイルカや一部の鳥などは数秒程度の[[半球睡眠]](大脳半球ずつ交互に眠ること)を繰り返して取るため、眠りながら泳ぎ続けることが可能である。半球睡眠は人間では脳障害などの病気や薬の重篤な副作用以外では脳の構造上、不可能と言われている。
ネコは丸くなって寝ているという印象が多いが、これは身を守ろうとしているか寒い時の状態で、攻撃を受けないと確信したリラックス状態の飼い猫は、体の熱を逃がすために仰向けで寝ることもある。この例はネコに限った事例ではなく、イヌなど体毛が多く気候や気温が安定しない場所で生活する動物は行う。
{| class="wikitable sortable"
|+ さまざまな動物種の睡眠時間<ref>2005年11月21日付の[[南ドイツ新聞]]のニューヨーク タイムズ付録。</ref>
! 種
! 睡眠時間
! REM睡眠の割合
! 瞼
|-
| {{ill2|Little pocket mouse|en|Little pocket mouse}} ||style="text-align:right;"| 20,1 ||style="text-align:right;"| 16 % || beide geschlossen
|-
| [[ココウモリ]] ||style="text-align:right;"| 19,9 ||style="text-align:right;"| 10 % || beide geschlossen
|-
| {{ill2|ミナミオポッサム|en|Common opossum}} ||style="text-align:right;"| 19,4 ||style="text-align:right;"| 10 % || beide geschlossen
|-
| [[ヨザル]] ||style="text-align:right;"| 17,0 ||style="text-align:right;"| 11 % || beide geschlossen
|-
| [[猫]] ||style="text-align:right;"| 13,2 ||style="text-align:right;"| 26 % || beide geschlossen
|-
| [[鳩]] ||style="text-align:right;"| 11,9 ||style="text-align:right;"| 8 % || ein Auge manchmal offen
|-
| [[ニワトリ]] ||style="text-align:right;"| 11,8 ||style="text-align:right;"| 10 % || ein Auge manchmal offen
|-
| [[チンパンジー]] ||style="text-align:right;"| 10,8 ||style="text-align:right;"| 15 % || beide geschlossen
|-
| [[イヌ]] ||style="text-align:right;"| 10,7 ||style="text-align:right;"| 29 % || beide geschlossen
|-
| [[コウテイペンギン]] ||style="text-align:right;"| 10,5 ||style="text-align:right;"| 13 % || ein Auge manchmal offen
|-
| [[ショウジョウバエ]] ||style="text-align:right;"| 10,0 ||style="text-align:right;"| 0 % || keine Augenlider
|-
| [[アヒル]] ||style="text-align:right;"| 9,1 ||style="text-align:right;"| 16 % || ein Auge manchmal offen
|-
| [[ウサギ]] ||style="text-align:right;"| 8,7 ||style="text-align:right;"| 14 % || beide geschlossen
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| [[ブタ]] ||style="text-align:right;"| 8,4 ||style="text-align:right;"| 26 % || beide geschlossen
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| [[アジアゾウ]] ||style="text-align:right;"| 5,3 ||style="text-align:right;"| 34 % || beide geschlossen
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| [[ウシ]] ||style="text-align:right;"| 4,0 ||style="text-align:right;"| 19 % || beide geschlossen
|-
| [[ウマ]] ||style="text-align:right;"| 2,9 ||style="text-align:right;"| 27 % || beide geschlossen
|-
| [[キリン]] ||style="text-align:right;"| 1,9 ||style="text-align:right;"| 21 % || beide geschlossen
|}
==関連団体・資格==
* 厚生労働省 - 健康づくりのための睡眠指針2014などの情報を提供している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/suimin/index.html |title=睡眠対策 |access-date=2023-01-05 |website=www.mhlw.go.jp |language=ja}}</ref>。
* 日本睡眠学会
* 日本臨床睡眠医学会
* 日本睡眠改善協議会 - 睡眠改善指導者の認定を行う<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tfu.ac.jp/tushin/prospective/002/suiminkaizen.html |title=東北福祉大学 通信教育部|睡眠改善指導者(大学認定睡眠改善インストラクター)受験資格 |access-date=2023-01-05 |website=www.tfu.ac.jp}}</ref>。
* {{ill2|アメリカ睡眠医学会|en|American Academy of Sleep Medicine}}
* {{ill2|Deutsche Gesellschaft für Schlafforschung und Schlafmedizin|de|Deutsche Gesellschaft für Schlafforschung und Schlafmedizin}} - ドイツ睡眠研究・睡眠医学会
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Wikiquote|眠り}}
{{commonscat|Sleeping}}
* [[トリクリニウム]] - 古代ローマ人は寝ながら食事などを行った。
* [[ジャンクスリープ]]
* [[パワーナップ]]、[[多相睡眠]]
* [[ナルコレプシー]] - 日中に眠気が出る症状。
* [[昏睡]]、[[植物状態]]
* [[睡眠ポリグラフ検査]]
* [[就眠運動]] - 植物の夜間の行動について。
* {{ill2|世界睡眠デー|en|World Sleep Day}}
== 外部リンク ==
* [https://www.msdmanuals.com/ja-jp/ホーム/09-脳、脊髄、末梢神経の病気/睡眠障害/睡眠の概要 睡眠の概要] - [[MSDマニュアル]]
* {{Kotobank}}
{{睡眠}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:すいみん}}
[[Category:睡眠|*]] | 2003-02-21T13:38:54Z | 2023-12-31T12:54:53Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9D%A1%E7%9C%A0 |
2,663 | 労働 | 労働(ろうどう、英: Labor)とは、人間が自然に働きかけて、生活手段や生産手段などをつくり出す活動のこと(経済学)。からだを使って働くこと。
人間と自然との関係にかかわるある種の過程、人間が自身の行為によって、自然との関係を統制し、価値ある対象を形成する過程を「労働」と呼ぶ。
人間は古今東西、太古から現代にいたるまで、どの地域でも、何らかの生産活動により生きてきた。そうした生産活動を「労働」と解釈するようになったのは、近代以降である。
生産活動は、いつの時代でも、何らかの表象体系(意味づけの体系)と関わりがある。人間が行っている現実の生産行為とそれを包括する表象とはバラバラではなく、一体として存在する。言い換えると、何らかの生産活動があれば、それを解釈し表現する言葉が伴うことになり、こうした言葉には特定の歴史や世界像(世界観)が織り込まれていると考えられている。“労働について語る”ということは、言葉で織り成された労働表象を語ることでもある。人間が自然との間に、生産活動を通しつつ関係を持つということは、こうした表象に端的に現れているような、ある時代特有の世界解釈を身をもって生きることでもある。(→#歴史)
労働する能力を持つ者を労働力(Labor Force)とよぶ。労働力において最大の割合を占めるのは賃労働をなす雇用者であり、EU諸国では75%以上が雇用者となっている。
資本主義社会では、労働は倫理的性格の活動ではなく、労働者の生存を維持するために止むを得ず行われる苦痛に満ちたもの、と考えられるようになった。マルクス主義においては「資本主義社会では、生産手段を持たない多くの人々(=労働者階級)は自らの労働力を商品として売らざるを得ず、生産過程に投入されて剰余価値を生み出すため生産手段の所有者(=資本家階級)に搾取されることになる」と説明されるようになった。(→#歴史)
現在、国際労働機関では、望ましい労働の形としてディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)の実現を目標に挙げている。
未開社会(現代文明の感化を受けていない社会)の人々も、昔も今も、文明化された現代人と同様に生産活動を行っている。生産形態が狩猟採集であれ、農耕であれ、人々は生活手段を獲得して、それを共同体のメンバーに分配する。未開人の生産活動と、現代人の「労働」とは、見かけは同一のようではあるが、その生産活動を実際に生きて解釈するしかたというのは、現代人のそれとは異なっている。未開社会の生産当事者にとっては、生産活動は宗教・芸術・倫理を生きているのであって、決して文明人が言うところの「労働」をしているのではない。
ヘシオドスの文献に書かれているように、農業活動は同時に宗教的行為であり、また共同体の規範が重層した倫理であった。近代的な意味での「労働」ではなかった。
また、古代ギリシアのポリスで活動していた職人らの生産活動は、テクネーやポイエーシスと呼ばれていたのだが、それは事物の本性が現れる事態に立ち会う行為、であって、持続的有用物を製作し、それを通じ閉じた宇宙の中で自己の位置を確認し、またそれを他人から承認されることであった。つまり現代人が言うような「道具によって自然を征服する労働」ではなかったのである。
旧約聖書の一書、創世記第3章19節では労働は神がアダムに科した罰である、とされた、と説明されることもある。
プロテスタントは労働そのものに価値を認める天職の概念を見出した。この立場では、節欲して消費を抑えて投資することが推奨される。このようなプロテスタンティズムの倫理こそが史的システムとしての資本主義を可能にしたと考えた者にマックス・ウェーバーがいる。ただ、スイスの宗教改革者達の意見によれば、キリスト教宗教改革(16世紀(中世末期))時、ローマ教会の「むやみやたらに施しを与えるという見せかけの慈善を認めていた」ことに対抗するために「真のキリスト教徒は勤勉と倹約の徳を」と強く主張しなければならなかった背景があったという。ヨーロッパの国家はその影響により、「労働は神聖なもの」「働くことは神のご意志」とされていて、労働しない者は神や国家に反逆するもの(国家反逆)とされていた。たとえばフランスでは1656年に「一般施療院令」とその強化令が発せられ、労働をしない者を癩(らい)施療院だった建物を転用して収容した。
主流派経済学では、労働は家計(労働供給側)における非効用として捉えられる。この立場では、労働は節約されるべき費用であるにすぎない。反対に余暇は効用として捉えられているが、これは主として個人的な私生活における娯楽を想定したもので、古代ギリシアにおける公共生活に携わるための閑暇とは異なるものである。
労働価値説に基づくマルクス経済学では、労働そのもの・労働手段・労働対象の各々は労働過程を構成する。この労働過程は、人間と自然との間の物質代謝の一般的な条件(マルクス)であり、自然を変化させて生活手段を作り出すばかりでなく、自分自身の潜在的な力をも発展させる。いわば道具を作る動物a tool-making animal(フランクリン)として人間を捉えるこの立場からは、労働手段の使用こそが人間の労働の本質であって、人間を動物から区別するものは労働である(しかし、現実には理論的に動物と人間は区別できない。人間は動物の部分集合なのである。)。労働行為は超歴史的なものとされ、これがいかに社会的制約を受けるかという視点から歴史哲学にも連結する。また私的な労働は、その成果である生産物が商品として交換されて社会的労働となることによってはじめて、社会的分業の一部となる。またラテン語のalienato(他人のものにする)に由来する疎外された労働が語られる。
日本において「労働法」とは、個々の法律の名称ではなく、労働事件の最高裁判所裁判例等における法律判断を含めた、全体としての法体系を指す。最高法規である日本国憲法においては、労働基本権、労働運動、「勤労の義務、権利」などの概念や規定が記されている。これを受け、労働基準法、労働組合法、労働関係調整法、男女雇用機会均等法、最低賃金法、労働安全衛生法、労働契約法等諸種の法令が施行されている。
法律により労働者の定義は異なるが、大別すると労働基準法によるものと、労働組合法によるものとに分けられる。例えば、労働基準法では失業者や求職者は労働者に含まれないが、労働組合法および職業能力開発促進法では失業者も含まれる。その理由は、各法で目的が異なるため、対象とする者の範囲に差異が生じるためである。
労働者はその勤務態様によって、次の3つの区分けされる。
このうち、直接雇用・無期・フルタイムの3つをすべて満たす労働者を正社員として、企業は中核的労働者として位置付ける。一つでも欠ける者は非正規雇用労働者(アルバイト、パート、契約社員、派遣社員等)として、正社員を中心とした企業秩序の周縁に位置付ける。正社員とそれ以外の者とでは契約形態や適用される労働条件に区別があることが多い。
コース別管理制度を設けている企業においては、正社員はさらに、幹部職員及び将来の幹部候補である総合職と、専ら定型的・補助的業務に従事する一般職とに区別される。
これらの区別は採用時から行われるが、近年では雇用期間中にこれらの区分を行き来したり、あるいはこれらの中間的な働き方(いわゆる「多様な正社員」等)を認める企業も増えている。
国際労働基準は、国際労働機関(ILO)が制定した条約・勧告の総称である。ILOでは人類の平和と継続的な発展のために人道的な労働基準の決定とその基準を国際的に守ること(すなわち国際労働基準)が必要であるとしている。その根拠として二つ挙げられている。
まず、労働基準を定める理由としては、不正・劣悪な労働条件が社会不安や貧困を引き起こす原因となり、多くの人民に困難や苦しみを与えるばかりでなく、結果として紛争や戦争の原因となり世界の平和を脅かすこととなるからである。
また、国家単位でなく国際的に決定する理由として「いずれかの国が人道的な労働条件を採用しないことは、自国における労働条件の改善を希望する他の国の障害となるから」(ILO憲章より引用)である。障害となる根拠としては労働条件を守らないことで不当に製品の金額が安くなる(ソーシャルダンピング)などが挙げられる。
しかし、日本はILO常任理事国でありながら、2021年現在ILOが採択した189条約のうち49条約しか批准していない。下記条約のうち批准しているものは最低賃金決定制度(第26号・第131号)のみであり、労働時間・休暇に関してはひとつも批准していない。日本の労働法制は大筋ではILO条約に倣ったものとなっているが、種々の例外規定を定めていることから政府は批准に消極的で、実際の企業実務ではこの例外規定をどう適用していくかが問題となる。
具体的な労働条件としては以下のようになっている。
国際労働機関では、労働者の基本的権利に関する原則として次のものを挙げ、加盟国に(個々の条約の批准・未批准に関わりなく)推進かつ実現する義務を課している。
以下のようなものがある。
金銭的な報酬が発生しない労働は無償労働(アンペイド・ワーク)と呼ばれる。生活に必要な家庭内労働や、報酬の発生しないボランティアなどの社会活動は無償労働のひとつである。
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] | 労働とは、人間が自然に働きかけて、生活手段や生産手段などをつくり出す活動のこと(経済学)。からだを使って働くこと。 | {{Otheruses|活動|[[フォード・マドックス・ブラウン]]の絵画|{{仮リンク|労働 (絵画)|en|Work (painting)}}}}
[[ファイル:Lewis Hine Power house mechanic working on steam pump.jpg|thumb|[[ルイス・ハイン]]の労働者の[[写真]]]]
{{Labor}}
{{wiktionary|労働|労働者}}
'''労働'''(ろうどう、{{lang-en-short|Labor}})とは、[[人間]]が[[自然]]に働きかけて、[[生活手段]]や[[生産手段]]などをつくり出す活動のこと<ref>[[広辞苑]] 第五版 p.2845</ref>([[経済学]])。からだを使って働くこと<ref>大辞泉</ref>。
==概要==
[[人間]]と[[自然]]との関係にかかわるある種の過程<ref name="britanica">ブリタニカ百科事典</ref>、人間が自身の行為によって、自然との関係を統制し、[[価値]]ある対象を形成する過程を「労働」と呼ぶ<ref name="britanica" />。
人間は古今東西、太古から現代にいたるまで、どの地域でも、何らかの[[生産]]活動により生きてきた<ref name="ts">{{Cite |和書|title=哲学思想事典 |publisher=[[岩波書店]] |date=1998 |pages=1736-1737}}</ref>。そうした生産活動を「労働」と[[解釈]]するようになったのは、[[近代]]以降である<ref name=ts />。
生産活動は、いつの時代でも、何らかの[[表象]]体系([[意味]]づけの体系)と関わりがある<ref name=ts />。人間が行っている現実の生産行為とそれを包括する表象とはバラバラではなく、一体として存在する<ref name=ts />。言い換えると、何らかの生産活動があれば、それを[[解釈]]し表現する[[言葉]]が伴うことになり、こうした言葉には特定の[[歴史]]や[[世界像]]([[世界観]])が織り込まれていると考えられている<ref name=ts />。“労働について語る”ということは、言葉で織り成された労働表象を語ることでもある。人間が自然との間に、生産活動を通しつつ関係を持つということは、こうした表象に端的に現れているような、ある時代特有の世界解釈を身をもって生きることでもある<ref name=ts />。(→[[#歴史]])
労働する能力を持つ者を[[労働力]](Labor Force)とよぶ。労働力において最大の割合を占めるのは[[賃労働]]をなす[[雇用|雇用者]]であり、EU諸国では75%以上が雇用者となっている<ref>OECD (2019), Self-employment rate (indicator). doi: 10.1787/fb58715e-en (Accessed on 08 September 2019)</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=宇城輝人 |title=働くことと雇われることのあいだ : 賃労働の過去と現在 |journal=フォーラム現代社会学 |date=2012 |volume=11 |pages=81-89 |doi=10.20791/ksr.11.0_81 }}</ref>。
[[資本主義]]社会では、労働は倫理的性格の活動ではなく、[[労働者]]の生存を維持するために止むを得ず行われる[[痛み|苦痛]]に満ちたもの、と考えられるようになった<ref>基本的人権3 東京大学社会科学研究所 東京大学出版会 1968年 p201-202</ref>。[[マルクス主義]]においては「資本主義社会では、[[生産手段]]を持たない多くの人々(=[[労働者階級]])は自らの[[労働力]]を[[商品]]として売らざるを得ず、生産過程に投入されて剰余価値を生み出すため生産手段の所有者(=[[ブルジョワジー|資本家階級]])に[[搾取]]されることになる」と説明されるようになった<ref name="britanica" />。(→[[#歴史]])
現在、[[国際労働機関]]では、望ましい労働の形として[[ディーセント・ワーク]](働きがいのある人間らしい仕事)の実現を目標に挙げている。
<!--{{要出典|date=2013年12月}}[[道具]]・[[機械]]・[[建物]]・[[交通]]・[[通信]](労働手段)を用い、[[土地]]・[[森林]]・[[水域]]・[[資源|地中資源]]・[[原料]](労働対象)に対して行なわれる。-->
<!-- {{要出典範囲|(経済学)労働手段と労働対象を合わせて[[生産]]手段という。}}-->
==歴史==
=== 未開社会 ===
未開社会(現代文明の感化を受けていない社会)の人々も、昔も今も、文明化された現代人と同様に生産活動を行っている<ref name=ts />。生産形態が狩猟採集であれ、農耕であれ、人々は生活手段を獲得して、それを[[共同体]]のメンバーに分配する<ref name=ts />。未開人の生産活動と、現代人の「労働」とは、見かけは同一のようではあるが、その生産活動を実際に生きて解釈するしかたというのは、現代人のそれとは異なっている<ref name=ts />。未開社会の生産当事者にとっては、生産活動は[[宗教]]・[[芸術]]・[[倫理学|倫理]]を生きているのであって、決して文明人が言うところの「労働」をしているのではない<ref name=ts />。
=== 古代ギリシア ===
[[ヘシオドス]]の文献に書かれているように、農業活動は同時に[[宗教]]的行為であり、また共同体の規範が重層した[[倫理学|倫理]]であった<ref name=ts />。近代的な意味での「労働」ではなかった<ref name=ts />。
また、古代ギリシアの[[ポリス]]で活動していた[[職人]]らの生産活動は、テクネーやポイエーシスと呼ばれていたのだが、それは事物の本性が現れる事態に立ち会う行為、であって、持続的有用物を製作し、それを通じ閉じた宇宙の中で自己の位置を確認し、またそれを他人から承認されることであった<ref name=ts />。つまり現代人が言うような「道具によって自然を征服する労働」ではなかったのである<ref name=ts />。
=== 旧約聖書 ===
[[旧約聖書]]の一書、[[創世記]]第3章19節では労働は[[神]]が[[アダム]]に科した[[罰]]である、とされた<ref>知識ゼロからの聖書 大島力 幻冬舎 2011年 ISBN 9784344902244 p28-29</ref><ref name="suiboku">水墨創世記 司修・画、月本昭男・訳 岩波書店 2011年 ISBN 9784000237260 p26</ref>、と説明されることもある。
{{Quotation|第3章19節:(省略)あなたが大地に戻るまで、あなたは顔に汗して、[[食品|食物]]を得ることになろう。(以下略)<ref name="suiboku"/>}}
===プロテスタンティズム===
[[プロテスタント]]は労働そのものに価値を認める天職の概念を見出した。この立場では、節欲して消費を抑えて投資することが推奨される。このようなプロテスタンティズムの倫理こそが史的システムとしての[[資本主義]]を可能にしたと考えた者に[[マックス・ウェーバー]]がいる。ただ、[[スイス]]の宗教改革者達の意見によれば、[[キリスト教]][[宗教改革]]([[16世紀]]([[中世]]末期))時、[[カトリック教会|ローマ教会]]の「むやみやたらに施しを与えるという見せかけの慈善を認めていた」ことに対抗するために「真のキリスト教徒は勤勉と倹約の徳を」と強く主張しなければならなかった背景があったという<ref>宗教と資本主義の興隆、上巻―歴史的研究― リチャード・ヘンリー・トーニー著 出口勇蔵・越智武臣訳 岩波書店 1956年 ISBN 9784003421116 p183</ref>。[[ヨーロッパ]]の国家はその影響により、「労働は神聖なもの」「働くことは神のご意志」とされていて、労働しない者は[[神]]や[[国家]]に反逆するもの([[国家反逆]])とされていた。たとえば[[フランス]]では[[1656年]]に「一般施療院令」とその強化令が発せられ、労働をしない者を[[ハンセン病|癩]](らい)施療院だった建物を転用して収容した<ref>精神障害のある人の人権 関東弁護士会連合会 明石書店 2002年 ISBN 9784750316215 p39-40</ref>。
===主流派経済学===
主流派経済学では、労働は家計(労働供給側)における[[非効用]]として捉えられる。この立場では、労働は節約されるべき[[費用]]であるにすぎない。反対に余暇は[[効用]]として捉えられているが、これは主として個人的な私生活における[[娯楽]]を想定したもので、古代ギリシアにおける公共生活に携わるための閑暇とは異なるものである。
===マルクス経済学===
[[労働価値説]]に基づく[[マルクス経済学]]では、労働そのもの・労働手段・労働対象の各々は労働過程を構成する。この労働過程は、人間と自然との間の物質代謝の一般的な条件([[カール・マルクス|マルクス]])であり、自然を変化させて生活手段を作り出すばかりでなく、自分自身の潜在的な力をも発展させる。いわば道具を作る動物a tool-making animal(フランクリン)として人間を捉えるこの立場からは、労働手段の使用こそが人間の労働の本質であって、人間を動物から区別するものは労働である(しかし、現実には理論的に動物と人間は区別できない。人間は動物の部分集合なのである。)。労働行為は超歴史的なものとされ、これがいかに社会的制約を受けるかという視点から[[歴史哲学]]にも連結する。また私的な労働は、その成果である生産物が商品として交換されて社会的労働となることによってはじめて、社会的分業の一部となる。またラテン語のalienato(他人のものにする)に由来する[[疎外]]<!--entfremdung-->された労働が語られる。<!--とりあえず-->
==日本の法律==
日本において「[[労働法]]」とは、個々の法律の名称ではなく、労働事件の[[最高裁判所]][[裁判例]]等における法律判断を含めた、全体としての法体系を指す。最高法規である[[日本国憲法]]においては、[[労働基本権]]、[[労働運動]]、「[[勤労の義務]]、権利」などの概念や規定が記されている。これを受け、[[労働基準法]]、[[労働組合法]]、[[労働関係調整法]]、[[雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律|男女雇用機会均等法]]、[[最低賃金法]]、[[労働安全衛生法]]、[[労働契約法]]等諸種の法令が施行されている。
{{main|労働法#日本}}
===法律上の労働者の定義===
法律により労働者の定義は異なるが、大別すると[[労働基準法]]によるものと、[[労働組合法]]によるものとに分けられる。例えば、労働基準法では[[失業者]]や[[求職者]]は労働者に含まれないが、労働組合法および[[職業能力開発促進法]]では失業者も含まれる。その理由は、各法で目的が異なるため、対象とする者の範囲に差異が生じるためである。
{{main|労働者#日本法による労働者}}
====奉仕者====
:[[日本国憲法第15条]]において、「すべて[[公務員]]は、全体の'''奉仕者'''であって、一部の奉仕者ではない」とし、公務員が奉仕者としての立場にあることを明確にしている。労働基準法上は公務員にも同法が適用される建前であるが(労働基準法第112条)、別途、[[国家公務員法]]、[[地方公務員法]]等で労働基準法の'''適用除外'''を定めている。
{{See also|労働基本権#日本の公務員の労働基本権}}
====未組織労働者====
:[[労働組合]]に参加していない労働者。
:労働組合の組織率は年々低下を続けていて、未組織労働者の労働条件をどう確保していくかが問題となっている。
===雇用形態による区別===
労働者はその勤務態様によって、次の3つの区分けされる。
*企業に[[直接雇用]]される者であるか、そうでない([[間接雇用]])者か。
*契約期間が無期([[期間の定めのない労働契約]])であるか、有期([[期間の定めのある労働契約]])であるか。
*各企業の[[就業規則]]て定める[[所定労働時間]]の上限(フルタイム)まで労働する者か、上限に満たない(パートタイム)者であるか。
このうち、直接雇用・無期・フルタイムの3つをすべて満たす労働者を'''[[正社員]]'''として<ref>読売新聞2020年12月20日付朝刊言論面</ref>、企業は中核的労働者として位置付ける。一つでも欠ける者は'''非正規雇用'''労働者([[アルバイト]]、[[非常勤|パート]]、[[契約社員]]、[[派遣社員]]等)として、正社員を中心とした企業秩序の周縁に位置付ける。正社員とそれ以外の者とでは契約形態や適用される労働条件に区別があることが多い。
'''[[コース別管理制度]]'''を設けている企業においては、正社員はさらに、幹部職員及び将来の幹部候補である[[総合職]]と、専ら定型的・補助的業務に従事する[[一般職]]とに区別される。
これらの区別は採用時から行われるが、近年では雇用期間中にこれらの区分を行き来したり、あるいはこれらの中間的な働き方(いわゆる「多様な正社員」<ref>[https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/tayounaseisyain.html 「多様な正社員」について] 厚生労働省</ref>等)を認める企業も増えている。
==国際労働基準==
国際労働基準は、[[国際労働機関]](ILO)が制定した条約・勧告の総称である。ILOでは人類の平和と継続的な発展のために人道的な労働基準の決定とその基準を国際的に守ること(すなわち国際労働基準)が必要であるとしている。その根拠として二つ挙げられている。
まず、[[労働基準]]を定める理由としては、不正・劣悪な[[労働条件]]が社会不安や貧困を引き起こす原因となり、多くの人民に困難や苦しみを与えるばかりでなく、結果として紛争や戦争の原因となり世界の平和を脅かすこととなるからである。
また、国家単位でなく国際的に決定する理由として「いずれかの国が人道的な労働条件を採用しないことは、自国における労働条件の改善を希望する他の国の障害となるから」(ILO憲章より引用)である。障害となる根拠としては労働条件を守らないことで不当に製品の金額が安くなる([[ソーシャルダンピング]])などが挙げられる。
しかし、日本はILO[[常任理事国]]でありながら、2021年現在ILOが採択した189条約のうち49条約しか[[批准]]していない<ref>[https://www.ilo.org/tokyo/standards/lang--ja/index.htm 国際労働基準(基準設定と監視機構)] 国際労働機関</ref>。下記条約のうち批准しているものは最低賃金決定制度(第26号・第131号)のみであり、労働時間・休暇に関してはひとつも批准していない。日本の労働法制は大筋ではILO条約に倣ったものとなっているが、種々の例外規定を定めていることから政府は批准に消極的で、実際の企業実務ではこの例外規定をどう適用していくかが問題となる。
具体的な労働条件としては以下のようになっている。
;[[労働時間]]{{Nobold|(第1号・第30号・第47号)}}
:労働時間は'''一日あたり8時間以内、かつ一週あたり48時間以内'''とされている。適用されない者としては「監督の立場にある者」や「秘密の事務に従事している者」などである。また、特定条件のもとでは特定日に8時間を越えたり、特定週に48時間を越えたりすることは許されるが、この場合でも'''3週間の労働時間の平均が1日8時間・1週48時間を超えてはいけない'''。業種により多少の違いがあるが、工業・商業・事業所など通常の労働者に対して同程度の労働時間となっている。
:
;[[週休|休暇]]{{Nobold|(第14号・第18号・第132号)}}
:週休は週に一日以上。[[有給休暇]]は1年勤務につき3労働週(5日制なら15日、6日制なら18日)以上となっている。また、'''休暇は原則として継続したものでなければならない'''が、事情により分割を認めることもできる。ただし、その場合でも分割された一部は'''連続2労働週を下回ってはならない'''。また、「休暇権の放棄等は国内事情において適当である場合は禁止または[[無効]]とすること」となっている(フランスでは休暇権の放棄は禁止されている)。
:
;[[賃金]]{{Nobold|(第26号{{Smaller|(日本も批准)}}・第95号・第131号{{Smaller|(日本も批准)}})}}
:すべての賃金労働者に対して[[最低賃金]]を定め、かつ随時調整できる制度が必要である。最低賃金としては、労働者が家族を養える一般的賃金や生活費や社会的集団の生活水準を考慮したものでなければならず、また、経済的な要素(生産性や雇用の維持・発展性など企業側から見た要素)も考慮しなければならない。最低賃金制度の設置、運用及び修正に関しては、関係ある代表的な労使団体と十分協議する必要がある。
==労働者の権利==
[[国際労働機関]]では、労働者の基本的権利に関する原則として次のものを挙げ、加盟国に(個々の条約の批准・未批准に関わりなく)推進かつ実現する義務を課している。
{{ol|style=list-style-type:lower-latin
|1 = [[結社の自由]]及び[[団体交渉権]]の効果的な承認
|2 = あらゆる形態の[[強制労働]]の禁止
|3 = [[児童労働]]の実効的な廃止
|4 = 雇用及び職業における差別の排除
}}
==労働関係の機関==
*[[国際労働機関]](ILO)
*[[厚生労働省]]
**[[都道府県労働局]]
***[[労働基準監督署]]
***[[公共職業安定所]]
**[[雇用環境・均等局]]
*[[都道府県]]
**[[労政事務所]](各都道府県により名称は異なる)
*[[労働委員会]]
**[[中央労働委員会]]
**[[都道府県労働委員会]]
*[[独立行政法人]][[労働政策研究・研修機構]]
==労働市場==
*[[第1次産業]]
*[[第2次産業]]
*[[第3次産業]]
*[[6次産業]]
*[[第四次産業革命]]
*[[第五次産業革命]]
==雇用==
*[[就職]]
*[[就職難]]
*[[集団就職]]
*[[雇用]]
*[[解雇]]
*[[退職]]
==労働組合==
*[[労働組合]]([[民間企業]]及び[[公営企業]])
*[[職員団体]](一般の[[公務員]])
*[[教職員組合]]
*[[労働団体]]
==労働形態==
以下のようなものがある{{要出典|date=2013年12月}}。
*[[ブルーカラー|肉体労働]]
*[[頭脳労働]]
*[[感情労働]]
金銭的な報酬が発生しない労働は無償労働(アンペイド・ワーク)と呼ばれる<ref>[[筒井淳也]]、前田泰樹 『社会学入門:社会とのかかわり方』 有斐閣 <有斐閣ストゥディア> 2017年、ISBN 9784641150461 pp.84-87.</ref>。生活に必要な[[家事|家庭内労働]]や、報酬の発生しない[[ボランティア]]などの[[社会活動]]は無償労働のひとつである<ref>“[https://kotobank.jp/word/%E7%84%A1%E5%84%9F%E5%8A%B4%E5%83%8D-186613 無償労働]”.知恵蔵.[[コトバンク]]. 2018年9月18日閲覧。</ref>。
情報通信[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]の発展につれ、[[IT機器]]等を活用して働く[[テレワーク]]というあたらしい生活様式が出現し、労働の形態は多様化した。
==労働政策==
*[[ワークシェアリング]]
*[[フレックスタイム制]]
*[[リモートワーク]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}-->
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==関連項目==
*労働形態
**[[労働市場]]
**[[シフト勤務]]
**[[自営業]]
**[[正規雇用]]
**[[非正規雇用]]
**[[請負社員]]
**[[転勤族]]
**[[閑職]]
**[[アルバイト]]
**[[Eワーク]] [[テレワーク]]
**[[単純労働]]
**[[指定公休]]
*[[失業]]
*[[失業保険]]
*[[ディーセント・ワーク]]
*[[働けば自由になる]]
*[[不法就労]]
* 経済
** [[労働経済学]]
* 倫理問題
** [[人権]]
** [[宗教]]
** [[働かない権利]] - 障害者雇用
** [[奴隷制]]
** [[強制労働]]
** [[ブラック企業]]
** [[ワーキングプア]]
* 雑誌
** [[労政時報]](雑誌)
** [[とらばーゆ]] - [[リクルートホールディングス|リクルート]]が発行する女性向け求人雑誌。「労働」を意味する[[フランス語]]、travailから。
* 労働者に対するセーフティネット
** [[勤労者財産形成促成制度]]
** [[雇用保険]]
** [[年金保険]]
** [[労働者災害補償保険]]
==外部リンク==
*日本国が批准した[[国際労働機関]]条約の一覧([http://www.ilo.org/dyn/normlex/en/f?p=1000:11200:::::: Ratifications for Japan])-ILO
*日本国が未批准の[[国際労働機関]]条約の一覧([http://www.ilo.org/dyn/normlex/en/f?p=1000:11210:0::NO:11210:P11210_COUNTRY_ID:102729 Up-to-date Conventions and Protocols not ratified by Japan]) - ILO
*[http://hito-ri.inte.co.jp/research/data/article20150805 人材の定着が会社の未来を変える。そのために、今すべきこと] - HITO総研
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ろうとう}}
[[Category:労働|*]]
[[Category:和製漢語]]
[[Category:哲学の和製漢語]] | 2003-02-21T13:45:23Z | 2023-10-24T04:44:10Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%B4%E5%83%8D |
2,664 | 遊び | 遊び(あそび)とは、知能を有する動物(ヒトを含む)が、生活的・生存上の実利の有無を問わず、心を満足させることを主たる目的として行うものである。基本的には、生命活動を維持するのに直接必要な食事・睡眠等や、自ら望んで行われない労働は含まない。類義語として遊戯(ゆうぎ)がある(詳細後述)。
遊びは、それを行う者に、充足感やストレスの解消、安らぎや高揚などといった様々な利益をもたらす。ただし、それに加わらない他者にとってその行動がどう作用するかは問わないのであり、たとえ他者への悪意に基づく行動であっても当人が遊びと認識するのであれば、当人に限ってそれは遊びとなる
中国古代の哲人荘周の言行録である『莊子』には「遊」という字が106回使用されており、中国思想史の上で「遊び」という概念は『莊子』と密接な関係を持っている。『莊子』では、人間の心と世界(道)を結びつけて、何物にも囚われない主体的で自由な心の在り方を「遊び」と表現した。「遊戯」という言葉の初出として、司馬遷が『史記』老子韓非列傳で荘周を解説する中で綴った「我れ寧ろ汚瀆の中に游戲して自ら快し」という一文が挙げられる。その後、老荘思想の「遊び」の概念は禅宗の仏教哲学へと継承され、形骸化した外物を徹底的に排除する「遊戯三昧」へと展開した。これらの中国における「遊」の哲学は日本の仏教や芸術にも影響を与えている。
和語「あそび」の語源について定説というべきものは無いが、大喪儀の際などに殯(もがり)の神事に従事することを職とした品部である「遊部(あそびべ、あそべ)」 が古代に存在したことなどを論拠に、その本義を神道の神事に関わるものとする説がある。ただし、遊部を管掌した遊部君はその居住地や氏族の性格から鉱物採集・金属精錬にも従事したと見られため、「遊部」とは「阿蘇部」のことと考えられ、鳴釜神事に仕える吉備の阿曽女や吉備の鬼神である温羅の妻・阿曽媛と同じ、「ア」(接頭語)、「ソ」(金属・鉄)の意味であったと見る説もある。漢字の「遊」は、「辵」と「ゆれ動く」意と音とを示す「斿(ゆう)」によって構成され、「ゆっくり道を行く」意を持つと共に、「あそぶ」意をも表わしている。
遊戯(ゆうぎ、wikt)は、第1義に、遊びたわむれること。第2義には、子供たちが行う、音楽に合わせた踊りや運動であり、美化語で「おゆうぎ」とも言う。ただし、「ゆうぎ」と読むようになったのは明治時代以降であり、それ以前は「ゆげ」(ときに「ゆけ」)もしくは「ゆうげ」と読んでいた。
遊山(ゆさん、ゆうざん)は、他の語義もあるが、一義に、気の向くまま山野に出かけて遊ぶこと(現代日本語で言うところの、行楽、ピクニック、ハイキングに近い)、一義に、気晴らしに遊びに出かけることを言う。物見遊山(ものみゆさん)は、物見(見物)して遊山すること。気の向くままに見物して遊び歩くこと。春遊(しゅんゆう)は、野外に出かけて春を楽しむこと。以下は「遊」の原義に近い「道を行く」意が強まって、遊覧(ゆうらん)は、見物して回ることを、遊歴(ゆうれき)は、旅をして各地を巡ること を、漫遊(まんゆう)は、気の向くままに旅をして各地を巡ること を、吟遊(ぎんゆう)は、各地を巡りながら詩歌などを詠むこと を指す。外遊(がいゆう)は、外国を旅すること、外国に留学すること、および、昭和・平成時代に見られる用法としては、研究・視察・交渉等々何か重大な目的や使命を帯びて外国を旅することをも意味する。遊学(ゆうがく)は、故郷を離れて他の地域・他国で学問すること を意味する。
遊興(ゆうきょう)は、面白く遊ぶこと。遊び興じること。特に、料理屋や待合などで酒を飲んだりして遊ぶこと。または特に、酒と色事に興じること を意味する。
遊びは、それ自体が人間(社会にあるヒト)にとって楽しい自己充足的行為の典型であって、それゆえ古くから多くの遊び論が叙述されてきた。なかでも、オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガ(ハイツィンハ)とフランスの思想家ロジェ・カイヨワによる研究が古典的な論考として重要視される。また、遊びはさまざまな面において「人間性」ないし「人間性の本質」と関連づけて扱われる傾向がみられる。
ホイジンガは、人間を「ホモ・ルーデンス」(遊ぶひと、遊戯人)と呼び、遊び(ルードゥス)こそが他の動物と人間とを分かつものであり、政治、法律、宗教、学問、スポーツなど、人間の文化はすべて「遊びの精神」から生まれた、あるいは、あらゆる人間文化は遊びのなかにおいて、遊びとして発生し、展開してきたものであると主張した。
他の高度な知能を有する動物に比べて、ヒトは特に遊びが多様化・複雑化しており、生物として成熟した後も遊びを多く行ない、生存にはまったく不要と思われるような行動も多く見受けられる。これを他の動物ないし生物との区別と捉える考えがある。遊びは大きな文化として確立しており、また商品の売り手にとっても市場を左右する要因としても重要である。個人の日常化した遊びを特に趣味と呼ばれる。訓練や学習など、他者から強要されることに苦痛がともなうこともある営みも、遊びのなかで習得していくことは楽しいとされ、それゆえ、これらに「遊び」の要素が取り入れられることがある。
ホイジンガは著書『ホモ・ルーデンス』 で、子供の遊びだけでなく、企業活動、議論、戦争、人間の活動のあらゆる局面に遊びのようなルールと開始と終わりのあるゲーム的性格が見られると指摘し、「人は遊ぶ存在である」と述べた。フリードリッヒ・シラーも、「人は遊びの中で完全に人である」という有名な言葉を著書『人間の美的教育について』において残している。
フランスのロジェ・カイヨワはホイジンガ『ホモ・ルーデンス』から大きな影響を受け、『遊びと人間』 を執筆した。彼は、遊びのすべてに通じる不変の性質として競争・運・模擬・眩暈を提示している。また、カイヨワによれば、「遊び」とは以下のような諸特徴を有する行為である。
人はなぜ、どうしてもしなければならないわけでもない「非生産的なこと」をわざわざやるのかということに対する答えとしては、自身の有する技術的・知的・身体的・精神的能力を最大限に無駄遣いしたいためであるという説明がなされる。そしてカイヨワは、これは人間が慢性的にエネルギー過剰の状態にあって、生存するのに必要不可欠な量を超えた過剰なエネルギーを発散する必要があるためであるとし、こうしたエネルギーの無駄遣いから遊びが生まれ、さらにそこから人間の文化が生まれてきたのだと唱えた。
カイヨワは『遊びと人間』のなかで、遊びを次の4つの要素に分類している。
ほとんどのスポーツ、チェス・将棋・囲碁・リバーシなどのボードゲーム(マインドスポーツ)、クイズなどの知的ゲームはアゴンに属し、ホイジンガは、学問や政治はアゴンの進化したものととらえる。この4類型を複合させることも可能であり、たとえば、麻雀やトランプはアゴンとアレアがミックスされたものであるといえる。
また、それぞれの類型においてルドゥスとパイディアという2つのモード(スタイル、様式)があり、前者は確然としたルール的制約の存在するものであり、後者はルールらしいルールがなく、あってもごく緩やかなものである。同じアゴンであってもボクシングや柔道、レスリングはルドゥスに属するのに対し、ただの取っ組み合いはパイディアである。
一面において、「遊び」は人生に不可欠の資質がベースとなっている。アゴンは闘争本能、アレアは決断力や胆力、ミミクリは模倣本能、イリンクスは不快感にたえる忍耐力を必要とする。したがって、「遊び」はこうした人生に不可欠な資質を無駄遣いしながら、それを鍛錬する場ともなっている。
遊びが人生に不可欠の資質を鍛錬する場でもあるということから、「子どもの仕事は遊ぶことである」といわれることが多いように、子どもの発達に特に重要な意味をもっている。運動能力や知的能力を競うことでこれらの能力が発達していくと同時に闘争本能も磨かれる。その一方で「勝っておごらず、負けて悔やまず」というおおらかな人生態度も学ばなければならない。そしてまた、多くの遊びには大なり小なりのルールがあるので、ルールにしたがうフェアプレイの精神が培われ、ルールがあるからこそ社会が成り立っていることを知らなければならない。喧嘩にも作法があることを学ばなければならないのである。
発達心理学においては、遊びの発達は社会性の発達と関わっていると報告されている。子どもの遊びの様態を観察した結果、 乳児期の遊びの始まりは探索行動と遊びの転換現象に見られる。乳児は新奇なものを与えられると、はじめは警戒し、次におずおずと触り始め、叩いたり舐めたりし探索する。一通りの探索を終えて対象の正体に安心を覚えると、叩きつけて音を出すなど同じ行動繰り返すようになり、笑顔や笑い声を出すようになる。
子どもは「一人遊び」(solitary play)をするが、やがて同じ年頃の子どもと並んで、しかし関わり合わずに遊ぶ「平行遊び」(parallel play)が見受けられるようになり、やがて他人と協働して行う「協力遊び」(cooperative play)へと移行することが確認されている。兄弟などで遊んでいると、上の子が遊んでいるときに下の子が乱入してきて上の子が怒る、といった場面が見受けられるが、下の子を入れてあげられるようになるためにはある程度自分の遊びが確立していなければならない。また、プレイルームでの観察によると、3歳児など年齢が低い場合、いろいろな遊びをつまみ食いするようにして室内を移動していくが、年齢が上がって4,5歳になると、いくつかの遊びに腰をすえて取り組んでいけるようになる。幼児の注意持続時間も年齢とともに上がっていくので、一見移り気な3歳児の行動は年齢相応の注意や興味の持続とも関係があると思われる。
小学校3~5年生ぐらいはギャングエイジと言って、決まったメンバーでの「群れ遊び」が多くなる。単なる鬼ごっこ・ヒーローごっこ・砂場遊びではなく、ドロケイ・ハンドベースなどルールが複雑な遊びをしたり、秘密基地などを作って遊んだりする。そういった仲間での遊び・ケンカを通じて、子供達は社会性を学んでいく。しかし最近は都市化や塾・習い事・スポーツで忙しくなり、遊びの3間(時間・空間・仲間)が失われている。そのため遊んだとしても少人数でゲーム・おしゃべりで、ギャングエイジが喪失している。ギャングエイジを経験しないと思春期以降につまずきやすく、特に男子が弱くなったと言われている。※また不良グループは、遅れてやってきたギャングエイジとも言われている。
ごっこ遊びは、ふり(pretending)とごっこ遊び(make believe)に分けられる。ふりは、ふり行動(pretend behavior)とも呼ばれるが、日本ではみたて(見立て)といわれる。Aを「B」と見なすためである。小石を「あめ玉」と見立てて遊んだり、コップに泥水を入れて「ジュース」と呼ぶような行動がそれである。物を物としてしか扱えない感覚運動期(乳児期)から、物を別の物として扱える表象(representation)の時期に入ったことを示している。。
3歳以降にはふり行動に物語性が加わり、ごっこ遊びらしくなってくる。また、以前には親の促しや代弁によって成り立っていたふり行動が、主として子どもの力で展開するようになるのもこの時期からである。
子どもの遊びにはさまざまなものがある。ここではルールが明確なオニごっこについて記述する。
1対1のオニごっこが基本である。ルールとしては、オニが逃げるコを追いかけて捕まえるという遊びである。保護者や保育士といった大人が子どもを追いかけて、捕まえることが多い。繰り返して遊び、ルールの上では終わりがない。疲れるか、飽きるまで行われる。
子ども同士で遊ぶ場合、目印が必要なこともある。目印の例として、タオルをズボンにはさんでしっぽにするなどがある。しっぽをとられたら終わりなので、しっぽオニと呼ばれることもある。オニのお面をつけることも役割を意識させる上で有効である。逃げるコには、誰がオニかわかるため逃げやすい。また、オニ(オニの役割)ができなくて、コといっしょに逃げてしまう子どもやみんなが自分から逃げるから泣いてしまう子どもにとって、お面をつけることでオニ意識(役割意識)を持つ手助けとなる。大人は、オニのしぐさをしたり、「ガオー」という声をつけてオニであることを示す必要がある。この年齢の子どもは、目印がないと役割(オニ、コ)を維持できない。
また、オニにつかまると本当に泣いてしまったり、逆にオニに殴りかかったりする子どももいる。役割(ごっこ)の要素が強く、タッチされるだけでオニとコの役割を交代するのはまだ難しい。
オニがコを捕まえる点は変わらないが、逃げるコは3 - 10人になる。集団遊びと言われるようになる。オニの数が増えたり(手つなぎオニ)、捕まると除外されたり(ためおに)、捕まった子どもを助けるルールが追加される(助けオニ)などの発展をする。地域によって名称やルールは異なるが、代表的な遊びをあげる。
これらの遊びは、ルールの違いによって3種類に分けることができる。
人間が行う遊びは非常に多岐にわたっており、自然発生的に形成され、世代や地域ごとに伝えられていくものと、パッケージ化・商品化して提供されるものがある。パッケージ化された電動式の玩具・キャラクター物などは、人間の創造力の成長を阻害するとして批判の対象にされることもある。
またゲームなどは一人で遊べる・友達と一緒でもコミュニケーションが少なくなるなど、社会性の発達を阻害していると言われている。男子のゲーム依存・女子のスマホ依存(LINE・SNS)は、教育現場において問題になっている。思春期以降になるとファーストフード店でのお喋り・ショッピングやゲームセンター・カラオケ・遊園地など、商品化された遊びが中心になっていく。社会人になると飲み会・旅行・イベント・デートが中心になり、子供ができると遊びを提供する立場になる。職場・顧客・親戚との付き合いなど義務的な遊びも増え、婚活デートなどは遊びというより結婚するための手段になっている。※そのなかでもサークル活動は、商品化・義務化の影響は小さいと言える。ボランティア活動・宗教活動・地域コミュニティーなども、広義には遊びに含まれる。
一方で広大で多様な市場を形成しており、いわゆる玩具など遊びに用いる器具は、素朴なものから複雑で最新の技術を導入したものまで、様々な物品が流通している。また、この玩具と遊びを通して教育や能力開発を行おうという考え方もあり、知育玩具のように遊びを通して成長を促そうという分野も存在する。
遊び行動 は、高度な知能を具えた動物において、成長途上にある個体に多く見られるほか、成熟個体にも少なからず見られるものである。 これは、動物が生きてゆく上で必要な身体能力(筋力・心肺能力〈持久力〉・運動能力等を意味する体力、免疫力等を意味する基礎的体力)・知識・経験などを、おのずから習得する、あるいは鍛錬するために具わった性質と考えられる。動物は遊びのなかで狩りやコミュニケーションの方法を学んでゆく。ヒトは成熟後も遊びを行なうのが一般的である一方、ヒト以外の動物は成熟するとあまり遊ばなくなると言われてきたが、必ずしも研究者はそのようには捉えていない。また、家畜化およびペット化された動物、特にイヌやネコなどは、成熟後も遊びたがる傾向があるように見える。イヌやオオカミ等は遊びを通じて、互酬性と公正性の社会規範を教えられる。。
野生動物でも、遊び行動は哺乳類と鳥類に広く見られ、成熟した個体であってもそれが見られる。哺乳類の中でも霊長類はよく遊び、霊長類の中でも類人猿はよく遊ぶ。哺乳類では他に、クジラはよく遊び、クジラの中でもハクジラ類がよく遊ぶが、ハクジラ類の中でもイルカの遊び行動は観察機会が多いこともあってか一般にまで広く知られている。現生ゾウ目(長鼻目)のゾウ2属(ロクソドンタ属〈アフリカゾウ属〉とエレファス属〈アジアゾウ属〉)もよく遊ぶ。また、デグーのような一部の齧歯類でも「物体遊びである可能性がある行動」が確かめられている。
霊長類(霊長目、サル目)の遊びは、その形態的特徴から、「運動遊び (locomotor play, locomotor-rotational play, exercise play)」、「物体遊び (object play)」、激しく取っ組み合う「闘争遊び (play-fighting, rough and tumble play)」、ごっこ遊びに代表される「想像的な遊び (pretend play, fantasy play, imaginative play, symbolic play)」等に大別することができ、他にも、未成熟個体による擬似性行動や子守り行動を遊びと見なす研究者もいる。
他者と遊ぶにあたって、掴む、叩く、突き放す、蹴る、咬む、追う、逃げるなどといった闘争時にこそ執ることの多い行動に及ぶ際は、「本気ではない」旨を確実に伝えておくことが必要不可欠であり、このような遊びのためのシグナル(プレイシグナル、プレイマーカー)として、最も明瞭なものに、遊び顔、遊び声、および、遊びたいとき以外で使われることのない特別な行動がある。
鳥類では、オウム目 はよく遊ぶことで知られている。スズメ目に属する数科もよく遊ぶが、中でもカラス科はよく遊び、カラス科の中でもカラス属はよく遊ぶことで知られている(観察機会が多いこともあって一般にも広く知られている)。 | [
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"text": "遊び(あそび)とは、知能を有する動物(ヒトを含む)が、生活的・生存上の実利の有無を問わず、心を満足させることを主たる目的として行うものである。基本的には、生命活動を維持するのに直接必要な食事・睡眠等や、自ら望んで行われない労働は含まない。類義語として遊戯(ゆうぎ)がある(詳細後述)。",
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"text": "遊びは、それを行う者に、充足感やストレスの解消、安らぎや高揚などといった様々な利益をもたらす。ただし、それに加わらない他者にとってその行動がどう作用するかは問わないのであり、たとえ他者への悪意に基づく行動であっても当人が遊びと認識するのであれば、当人に限ってそれは遊びとなる",
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"text": "中国古代の哲人荘周の言行録である『莊子』には「遊」という字が106回使用されており、中国思想史の上で「遊び」という概念は『莊子』と密接な関係を持っている。『莊子』では、人間の心と世界(道)を結びつけて、何物にも囚われない主体的で自由な心の在り方を「遊び」と表現した。「遊戯」という言葉の初出として、司馬遷が『史記』老子韓非列傳で荘周を解説する中で綴った「我れ寧ろ汚瀆の中に游戲して自ら快し」という一文が挙げられる。その後、老荘思想の「遊び」の概念は禅宗の仏教哲学へと継承され、形骸化した外物を徹底的に排除する「遊戯三昧」へと展開した。これらの中国における「遊」の哲学は日本の仏教や芸術にも影響を与えている。",
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"text": "和語「あそび」の語源について定説というべきものは無いが、大喪儀の際などに殯(もがり)の神事に従事することを職とした品部である「遊部(あそびべ、あそべ)」 が古代に存在したことなどを論拠に、その本義を神道の神事に関わるものとする説がある。ただし、遊部を管掌した遊部君はその居住地や氏族の性格から鉱物採集・金属精錬にも従事したと見られため、「遊部」とは「阿蘇部」のことと考えられ、鳴釜神事に仕える吉備の阿曽女や吉備の鬼神である温羅の妻・阿曽媛と同じ、「ア」(接頭語)、「ソ」(金属・鉄)の意味であったと見る説もある。漢字の「遊」は、「辵」と「ゆれ動く」意と音とを示す「斿(ゆう)」によって構成され、「ゆっくり道を行く」意を持つと共に、「あそぶ」意をも表わしている。",
"title": "遊びの語源"
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"text": "遊戯(ゆうぎ、wikt)は、第1義に、遊びたわむれること。第2義には、子供たちが行う、音楽に合わせた踊りや運動であり、美化語で「おゆうぎ」とも言う。ただし、「ゆうぎ」と読むようになったのは明治時代以降であり、それ以前は「ゆげ」(ときに「ゆけ」)もしくは「ゆうげ」と読んでいた。",
"title": "遊びの語源"
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"text": "遊山(ゆさん、ゆうざん)は、他の語義もあるが、一義に、気の向くまま山野に出かけて遊ぶこと(現代日本語で言うところの、行楽、ピクニック、ハイキングに近い)、一義に、気晴らしに遊びに出かけることを言う。物見遊山(ものみゆさん)は、物見(見物)して遊山すること。気の向くままに見物して遊び歩くこと。春遊(しゅんゆう)は、野外に出かけて春を楽しむこと。以下は「遊」の原義に近い「道を行く」意が強まって、遊覧(ゆうらん)は、見物して回ることを、遊歴(ゆうれき)は、旅をして各地を巡ること を、漫遊(まんゆう)は、気の向くままに旅をして各地を巡ること を、吟遊(ぎんゆう)は、各地を巡りながら詩歌などを詠むこと を指す。外遊(がいゆう)は、外国を旅すること、外国に留学すること、および、昭和・平成時代に見られる用法としては、研究・視察・交渉等々何か重大な目的や使命を帯びて外国を旅することをも意味する。遊学(ゆうがく)は、故郷を離れて他の地域・他国で学問すること を意味する。",
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"text": "遊興(ゆうきょう)は、面白く遊ぶこと。遊び興じること。特に、料理屋や待合などで酒を飲んだりして遊ぶこと。または特に、酒と色事に興じること を意味する。",
"title": "「遊び」にかかわる語"
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"text": "遊びは、それ自体が人間(社会にあるヒト)にとって楽しい自己充足的行為の典型であって、それゆえ古くから多くの遊び論が叙述されてきた。なかでも、オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガ(ハイツィンハ)とフランスの思想家ロジェ・カイヨワによる研究が古典的な論考として重要視される。また、遊びはさまざまな面において「人間性」ないし「人間性の本質」と関連づけて扱われる傾向がみられる。",
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"text": "ホイジンガは、人間を「ホモ・ルーデンス」(遊ぶひと、遊戯人)と呼び、遊び(ルードゥス)こそが他の動物と人間とを分かつものであり、政治、法律、宗教、学問、スポーツなど、人間の文化はすべて「遊びの精神」から生まれた、あるいは、あらゆる人間文化は遊びのなかにおいて、遊びとして発生し、展開してきたものであると主張した。",
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"text": "他の高度な知能を有する動物に比べて、ヒトは特に遊びが多様化・複雑化しており、生物として成熟した後も遊びを多く行ない、生存にはまったく不要と思われるような行動も多く見受けられる。これを他の動物ないし生物との区別と捉える考えがある。遊びは大きな文化として確立しており、また商品の売り手にとっても市場を左右する要因としても重要である。個人の日常化した遊びを特に趣味と呼ばれる。訓練や学習など、他者から強要されることに苦痛がともなうこともある営みも、遊びのなかで習得していくことは楽しいとされ、それゆえ、これらに「遊び」の要素が取り入れられることがある。",
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"text": "ホイジンガは著書『ホモ・ルーデンス』 で、子供の遊びだけでなく、企業活動、議論、戦争、人間の活動のあらゆる局面に遊びのようなルールと開始と終わりのあるゲーム的性格が見られると指摘し、「人は遊ぶ存在である」と述べた。フリードリッヒ・シラーも、「人は遊びの中で完全に人である」という有名な言葉を著書『人間の美的教育について』において残している。",
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"text": "フランスのロジェ・カイヨワはホイジンガ『ホモ・ルーデンス』から大きな影響を受け、『遊びと人間』 を執筆した。彼は、遊びのすべてに通じる不変の性質として競争・運・模擬・眩暈を提示している。また、カイヨワによれば、「遊び」とは以下のような諸特徴を有する行為である。",
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"text": "人はなぜ、どうしてもしなければならないわけでもない「非生産的なこと」をわざわざやるのかということに対する答えとしては、自身の有する技術的・知的・身体的・精神的能力を最大限に無駄遣いしたいためであるという説明がなされる。そしてカイヨワは、これは人間が慢性的にエネルギー過剰の状態にあって、生存するのに必要不可欠な量を超えた過剰なエネルギーを発散する必要があるためであるとし、こうしたエネルギーの無駄遣いから遊びが生まれ、さらにそこから人間の文化が生まれてきたのだと唱えた。",
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"text": "カイヨワは『遊びと人間』のなかで、遊びを次の4つの要素に分類している。",
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"text": "ほとんどのスポーツ、チェス・将棋・囲碁・リバーシなどのボードゲーム(マインドスポーツ)、クイズなどの知的ゲームはアゴンに属し、ホイジンガは、学問や政治はアゴンの進化したものととらえる。この4類型を複合させることも可能であり、たとえば、麻雀やトランプはアゴンとアレアがミックスされたものであるといえる。",
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"text": "また、それぞれの類型においてルドゥスとパイディアという2つのモード(スタイル、様式)があり、前者は確然としたルール的制約の存在するものであり、後者はルールらしいルールがなく、あってもごく緩やかなものである。同じアゴンであってもボクシングや柔道、レスリングはルドゥスに属するのに対し、ただの取っ組み合いはパイディアである。",
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"text": "一面において、「遊び」は人生に不可欠の資質がベースとなっている。アゴンは闘争本能、アレアは決断力や胆力、ミミクリは模倣本能、イリンクスは不快感にたえる忍耐力を必要とする。したがって、「遊び」はこうした人生に不可欠な資質を無駄遣いしながら、それを鍛錬する場ともなっている。",
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"text": "遊びが人生に不可欠の資質を鍛錬する場でもあるということから、「子どもの仕事は遊ぶことである」といわれることが多いように、子どもの発達に特に重要な意味をもっている。運動能力や知的能力を競うことでこれらの能力が発達していくと同時に闘争本能も磨かれる。その一方で「勝っておごらず、負けて悔やまず」というおおらかな人生態度も学ばなければならない。そしてまた、多くの遊びには大なり小なりのルールがあるので、ルールにしたがうフェアプレイの精神が培われ、ルールがあるからこそ社会が成り立っていることを知らなければならない。喧嘩にも作法があることを学ばなければならないのである。",
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"text": "発達心理学においては、遊びの発達は社会性の発達と関わっていると報告されている。子どもの遊びの様態を観察した結果、 乳児期の遊びの始まりは探索行動と遊びの転換現象に見られる。乳児は新奇なものを与えられると、はじめは警戒し、次におずおずと触り始め、叩いたり舐めたりし探索する。一通りの探索を終えて対象の正体に安心を覚えると、叩きつけて音を出すなど同じ行動繰り返すようになり、笑顔や笑い声を出すようになる。",
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},
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"text": "子どもは「一人遊び」(solitary play)をするが、やがて同じ年頃の子どもと並んで、しかし関わり合わずに遊ぶ「平行遊び」(parallel play)が見受けられるようになり、やがて他人と協働して行う「協力遊び」(cooperative play)へと移行することが確認されている。兄弟などで遊んでいると、上の子が遊んでいるときに下の子が乱入してきて上の子が怒る、といった場面が見受けられるが、下の子を入れてあげられるようになるためにはある程度自分の遊びが確立していなければならない。また、プレイルームでの観察によると、3歳児など年齢が低い場合、いろいろな遊びをつまみ食いするようにして室内を移動していくが、年齢が上がって4,5歳になると、いくつかの遊びに腰をすえて取り組んでいけるようになる。幼児の注意持続時間も年齢とともに上がっていくので、一見移り気な3歳児の行動は年齢相応の注意や興味の持続とも関係があると思われる。",
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"text": "小学校3~5年生ぐらいはギャングエイジと言って、決まったメンバーでの「群れ遊び」が多くなる。単なる鬼ごっこ・ヒーローごっこ・砂場遊びではなく、ドロケイ・ハンドベースなどルールが複雑な遊びをしたり、秘密基地などを作って遊んだりする。そういった仲間での遊び・ケンカを通じて、子供達は社会性を学んでいく。しかし最近は都市化や塾・習い事・スポーツで忙しくなり、遊びの3間(時間・空間・仲間)が失われている。そのため遊んだとしても少人数でゲーム・おしゃべりで、ギャングエイジが喪失している。ギャングエイジを経験しないと思春期以降につまずきやすく、特に男子が弱くなったと言われている。※また不良グループは、遅れてやってきたギャングエイジとも言われている。",
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"text": "ごっこ遊びは、ふり(pretending)とごっこ遊び(make believe)に分けられる。ふりは、ふり行動(pretend behavior)とも呼ばれるが、日本ではみたて(見立て)といわれる。Aを「B」と見なすためである。小石を「あめ玉」と見立てて遊んだり、コップに泥水を入れて「ジュース」と呼ぶような行動がそれである。物を物としてしか扱えない感覚運動期(乳児期)から、物を別の物として扱える表象(representation)の時期に入ったことを示している。。",
"title": "人間の遊び"
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"text": "3歳以降にはふり行動に物語性が加わり、ごっこ遊びらしくなってくる。また、以前には親の促しや代弁によって成り立っていたふり行動が、主として子どもの力で展開するようになるのもこの時期からである。",
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"text": "子どもの遊びにはさまざまなものがある。ここではルールが明確なオニごっこについて記述する。",
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"text": "1対1のオニごっこが基本である。ルールとしては、オニが逃げるコを追いかけて捕まえるという遊びである。保護者や保育士といった大人が子どもを追いかけて、捕まえることが多い。繰り返して遊び、ルールの上では終わりがない。疲れるか、飽きるまで行われる。",
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"text": "子ども同士で遊ぶ場合、目印が必要なこともある。目印の例として、タオルをズボンにはさんでしっぽにするなどがある。しっぽをとられたら終わりなので、しっぽオニと呼ばれることもある。オニのお面をつけることも役割を意識させる上で有効である。逃げるコには、誰がオニかわかるため逃げやすい。また、オニ(オニの役割)ができなくて、コといっしょに逃げてしまう子どもやみんなが自分から逃げるから泣いてしまう子どもにとって、お面をつけることでオニ意識(役割意識)を持つ手助けとなる。大人は、オニのしぐさをしたり、「ガオー」という声をつけてオニであることを示す必要がある。この年齢の子どもは、目印がないと役割(オニ、コ)を維持できない。",
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"text": "また、オニにつかまると本当に泣いてしまったり、逆にオニに殴りかかったりする子どももいる。役割(ごっこ)の要素が強く、タッチされるだけでオニとコの役割を交代するのはまだ難しい。",
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"text": "オニがコを捕まえる点は変わらないが、逃げるコは3 - 10人になる。集団遊びと言われるようになる。オニの数が増えたり(手つなぎオニ)、捕まると除外されたり(ためおに)、捕まった子どもを助けるルールが追加される(助けオニ)などの発展をする。地域によって名称やルールは異なるが、代表的な遊びをあげる。",
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"text": "これらの遊びは、ルールの違いによって3種類に分けることができる。",
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"text": "またゲームなどは一人で遊べる・友達と一緒でもコミュニケーションが少なくなるなど、社会性の発達を阻害していると言われている。男子のゲーム依存・女子のスマホ依存(LINE・SNS)は、教育現場において問題になっている。思春期以降になるとファーストフード店でのお喋り・ショッピングやゲームセンター・カラオケ・遊園地など、商品化された遊びが中心になっていく。社会人になると飲み会・旅行・イベント・デートが中心になり、子供ができると遊びを提供する立場になる。職場・顧客・親戚との付き合いなど義務的な遊びも増え、婚活デートなどは遊びというより結婚するための手段になっている。※そのなかでもサークル活動は、商品化・義務化の影響は小さいと言える。ボランティア活動・宗教活動・地域コミュニティーなども、広義には遊びに含まれる。",
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"text": "一方で広大で多様な市場を形成しており、いわゆる玩具など遊びに用いる器具は、素朴なものから複雑で最新の技術を導入したものまで、様々な物品が流通している。また、この玩具と遊びを通して教育や能力開発を行おうという考え方もあり、知育玩具のように遊びを通して成長を促そうという分野も存在する。",
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"text": "遊び行動 は、高度な知能を具えた動物において、成長途上にある個体に多く見られるほか、成熟個体にも少なからず見られるものである。 これは、動物が生きてゆく上で必要な身体能力(筋力・心肺能力〈持久力〉・運動能力等を意味する体力、免疫力等を意味する基礎的体力)・知識・経験などを、おのずから習得する、あるいは鍛錬するために具わった性質と考えられる。動物は遊びのなかで狩りやコミュニケーションの方法を学んでゆく。ヒトは成熟後も遊びを行なうのが一般的である一方、ヒト以外の動物は成熟するとあまり遊ばなくなると言われてきたが、必ずしも研究者はそのようには捉えていない。また、家畜化およびペット化された動物、特にイヌやネコなどは、成熟後も遊びたがる傾向があるように見える。イヌやオオカミ等は遊びを通じて、互酬性と公正性の社会規範を教えられる。。",
"title": "人間以外の動物の遊び"
},
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"text": "野生動物でも、遊び行動は哺乳類と鳥類に広く見られ、成熟した個体であってもそれが見られる。哺乳類の中でも霊長類はよく遊び、霊長類の中でも類人猿はよく遊ぶ。哺乳類では他に、クジラはよく遊び、クジラの中でもハクジラ類がよく遊ぶが、ハクジラ類の中でもイルカの遊び行動は観察機会が多いこともあってか一般にまで広く知られている。現生ゾウ目(長鼻目)のゾウ2属(ロクソドンタ属〈アフリカゾウ属〉とエレファス属〈アジアゾウ属〉)もよく遊ぶ。また、デグーのような一部の齧歯類でも「物体遊びである可能性がある行動」が確かめられている。",
"title": "人間以外の動物の遊び"
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"text": "霊長類(霊長目、サル目)の遊びは、その形態的特徴から、「運動遊び (locomotor play, locomotor-rotational play, exercise play)」、「物体遊び (object play)」、激しく取っ組み合う「闘争遊び (play-fighting, rough and tumble play)」、ごっこ遊びに代表される「想像的な遊び (pretend play, fantasy play, imaginative play, symbolic play)」等に大別することができ、他にも、未成熟個体による擬似性行動や子守り行動を遊びと見なす研究者もいる。",
"title": "人間以外の動物の遊び"
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"text": "他者と遊ぶにあたって、掴む、叩く、突き放す、蹴る、咬む、追う、逃げるなどといった闘争時にこそ執ることの多い行動に及ぶ際は、「本気ではない」旨を確実に伝えておくことが必要不可欠であり、このような遊びのためのシグナル(プレイシグナル、プレイマーカー)として、最も明瞭なものに、遊び顔、遊び声、および、遊びたいとき以外で使われることのない特別な行動がある。",
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"text": "鳥類では、オウム目 はよく遊ぶことで知られている。スズメ目に属する数科もよく遊ぶが、中でもカラス科はよく遊び、カラス科の中でもカラス属はよく遊ぶことで知られている(観察機会が多いこともあって一般にも広く知られている)。",
"title": "人間以外の動物の遊び"
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] | 遊び(あそび)とは、知能を有する動物(ヒトを含む)が、生活的・生存上の実利の有無を問わず、心を満足させることを主たる目的として行うものである。基本的には、生命活動を維持するのに直接必要な食事・睡眠等や、自ら望んで行われない労働は含まない。類義語として遊戯(ゆうぎ)がある(詳細後述)。 遊びは、それを行う者に、充足感やストレスの解消、安らぎや高揚などといった様々な利益をもたらす。ただし、それに加わらない他者にとってその行動がどう作用するかは問わないのであり、たとえ他者への悪意に基づく行動であっても当人が遊びと認識するのであれば、当人に限ってそれは遊びとなる | {{Otheruses||工学用語|遊び (工学)|映画|遊び (映画)|[[山下智久]]のアルバム|遊}}
{{Redirect|遊戯|楽曲|遊戯 (ドビュッシー)}}
[[ファイル:Pieter Bruegel the Elder - Children’s Games - Google Art Project.jpg|thumb|right|400px|[[ピーテル・ブリューゲル]] 『[[子供の遊戯]]』<br />[[1560年]]に描かれた[[油絵|油彩画]]で、当時の[[ヨーロッパ]]における様々な遊びを網羅しようとした[[風俗画]]の傑作。]]
'''遊び'''(あそび)とは、[[知能]]を有する[[動物]]([[ヒト]]を含む)が、[[生活]]的・生存上の実利の有無を問わず、心を満足させることを主たる目的として行うものである。基本的には、生命活動を維持するのに直接必要な食事・睡眠等や、自ら望んで行われない労働は含まない。[[類義語]]として'''遊戯'''(ゆうぎ)がある([[#「遊び」にかかわる語|詳細後述]])。
遊びは、それを行う者に、充足感や[[ストレス (生体)|ストレス]]の解消、安らぎや高揚などといった様々な利益をもたらす。ただし、それに加わらない他者にとってその行動がどう作用するかは問わないのであり、たとえ他者への[[悪意]]に基づく行動であっても当人が遊びと認識するのであれば、当人に限ってそれは遊びとなる
== 遊びの語源 ==
[[中国]]古代の哲人[[荘周]]の言行録である『[[莊子]]』には「遊」という字が106回使用されており、中国思想史の上で「遊び」という概念は『莊子』と密接な関係を持っている<ref name="Hukunaga">[[福永光司]]「中国宗教思想史」『中国宗教思想 1』岩波書店〈岩波講座 東洋思想〉第13巻1990年、ISBN 4-00-010333-4 pp.98-107.</ref>。『莊子』では、人間の心と世界([[道 (哲学)|道]])を結びつけて、何物にも囚われない主体的で自由な心の在り方を「遊び」と表現した。「遊戯」という言葉の初出として、[[司馬遷]]が『[[史記]]』老子韓非列傳で荘周を解説する中で綴った「我れ寧ろ汚瀆の中に游戲して自ら快し」という一文が挙げられる<ref name="Hukunaga"/>。その後、[[老荘思想]]の「遊び」の概念は[[禅宗]]の[[仏教哲学]]へと継承され、形骸化した外物を徹底的に排除する「遊戯三昧」へと展開した<ref name="Hukunaga"/>。これらの中国における「遊」の哲学は[[日本の仏教]]や[[芸術]]にも影響を与えている。
{{anchors|あそび}}[[和語]]「'''あそび'''」の[[語源]]について定説というべきものは無いが、[[大喪儀]]の際などに[[殯]](もがり)の[[神事]]に従事することを職とした[[品部]]である「'''[[円目王|遊部]]'''(あそびべ、あそべ)」<ref name="広辞苑">『[[広辞苑]]』</ref> が[[古代]]に存在したことなどを論拠に、その本義を[[神道]]の神事に関わるものとする説がある<ref name="世百典">『[[世界大百科事典]]』 第二版</ref>。ただし、遊部を管掌した遊部君はその居住地や[[氏族]]の性格から鉱物採集・金属精錬にも従事したと見られため、「遊部」とは「阿蘇部」のことと考えられ、[[鳴釜神事]]に仕える[[吉備]]の[[阿曽女]]や吉備の鬼神である[[温羅]]の妻・阿曽媛と同じ、「ア」(接頭語)、「ソ」(金属・鉄)の意味であったと見る説もある<ref>[[宝賀寿男]]「第六章 高志之利波臣の起源」『越と出雲の夜明け』法令出版、2008年。</ref>。{{anchors|遊}}[[漢字]]の「'''[[wikt:遊|遊]]'''」は、「[[wikt:辵|辵]]」と「ゆれ動く」意と音とを示す「[[wikt:斿|斿]](ゆう)」によって構成され、「ゆっくり道を行く」意を持つと共に、「あそぶ」意をも表わしている<ref name="新字源">『角川 新字源』</ref>。
{{anchors|遊戯}}'''遊戯'''(ゆうぎ、[[wikt:遊戯|wikt]])は、第1義に、遊びたわむれること<ref name="広辞苑" /><ref name="大辞泉">『[[大辞泉]]』</ref><ref name="大辞林">『[[大辞林]]』 第二版</ref>。第2義には、子供たちが行う、音楽に合わせた踊りや運動であり、[[日本語における敬語#美化語|美化語]]で「おゆうぎ」とも言う<ref name="大辞泉" /><ref name="大辞林" />。ただし、「ゆうぎ」と読むようになったのは明治時代以降であり、それ以前は「ゆげ」(ときに「ゆけ」)もしくは「ゆうげ」と読んでいた<ref name="世百典" />。
== 「遊び」にかかわる語 ==
{{anchors|遊山|物見遊山|春遊|遊覧|遊歴|漫遊|吟遊|外遊|遊学}}'''遊山'''(ゆさん<ref name="広辞苑" />、ゆうざん<ref name="新字源" />)は、他の語義もあるが、一義に、気の向くまま[[山野]]に出かけて遊ぶこと<ref name="新字源" />(現代[[日本語]]で言うところの、[[行楽]]、[[ピクニック]]、[[ハイキング]]に近い<ref name="新字源" />)、一義に、気晴らしに遊びに出かけることを言う。'''物見遊山'''(ものみゆさん)は、物見(見物)して遊山すること<ref name="大辞泉" />。気の向くままに見物して遊び歩くこと<ref name="大辞泉" />。'''春遊'''(しゅんゆう)は、野外に出かけて[[春]]を楽しむこと<ref name="大辞泉" />。以下は「'''遊'''」の原義に近い「道を行く」意が強まって、'''遊覧'''(ゆうらん)は、見物して回ることを、'''遊歴'''(ゆうれき)は、[[旅行|旅]]をして各地を巡ること<ref name="大辞泉" /><ref name="大辞林" /> を、'''漫遊'''(まんゆう)は、気の向くままに旅をして各地を巡ること<ref name="大辞泉" /><ref name="大辞林" /> を、'''吟遊'''(ぎんゆう)は、各地を巡りながら[[詩歌]]などを詠むこと<ref name="広辞苑" /> を指す。'''[[外遊]]'''(がいゆう)は、[[外国]]を旅すること<ref name="広辞苑" /><ref name="大辞泉" /><ref name="大辞林" />、外国に留学すること<ref name="大辞泉" /><ref name="大辞林" />、および、[[昭和]]・[[平成]]時代に見られる用法としては、研究・視察・[[交渉]]等々何か重大な目的や使命を帯びて外国を旅することをも意味する。'''遊学'''(ゆうがく)は、故郷を離れて他の地域・他国で学問すること<ref name="大辞泉" /><ref name="大辞林" /> を意味する。
{{anchors|遊興}}'''遊興'''(ゆうきょう)は、面白く遊ぶこと<ref name="広辞苑" /><ref name="大辞林" />。遊び興じること<ref name="広辞苑" /><ref name="新字源" /><ref name="大辞泉" />。特に、[[料理店|料理屋]]や[[待合]]などで酒を飲んだりして遊ぶこと<ref name="広辞苑" /><ref name="大辞林" />。または特に、[[酒]]と[[色事]]に興じること<ref name="大辞泉" /><ref group="*">『角川 新字源』では、第2義に「[[花街|花柳界]]に遊ぶ」</ref> を意味する。
== 人間の遊び ==
[[ファイル:Soapbubbles-SteveEF.jpg|thumb|right|250px|無邪気な遊び<br />[[シャボン玉]]を作って遊ぶ少女。このように、[[美意識]]や[[好奇心]]・[[探究]]心・[[想像力]]などといったものが楽しみの動機となっている遊びも多い。他にも例を挙げるなら、初めて[[磁石]]を手に入れた子供が身の周りのあらゆる物を「くっつくかどうか」確かめて回るのも、探究心が発露した遊びである。]]
[[ファイル:Chess-king.JPG|thumb|right|250px|[[知能]]で優劣を競う遊び/[[チェス]]。]]
[[ファイル:BRU - CHD 41.jpg|thumb|right|250px|一方的かも知れない遊び<br />最上段に示した名画『子供の遊戯』の一部分。これは[[髪]]を引っ張り合う遊びを描いたものと解釈されているが、1人の男の子が集中的に攻められている。作者以外の何人も状況の真相を知り得ないことを前提として、一つの[[思考実験]]をするならば、攻められている子がこの状況を遊びと感じていないと仮定した場合、一転して、この光景は[[いじめ]]の一場面ということになる。]]
遊びは、それ自体が[[人間]](社会にある[[ヒト]])にとって楽しい自己充足的行為の典型であって、それゆえ古くから多くの遊び論が叙述されてきた{{sfn|森下2000|p=172}}。なかでも、[[オランダ]]の[[歴史家]][[ヨハン・ホイジンガ]](ハイツィンハ)と[[フランス]]の思想家[[ロジェ・カイヨワ]]による研究が古典的な論考として重要視される{{sfn|森下2000|p=172}}。また、遊びはさまざまな面において「[[人間性]]」ないし「[[人間性の本質]]」と関連づけて扱われる傾向がみられる<ref name="huijinga11">[[#ホイジンガ1973|ホイジンガ(1973)pp.11-14]]</ref>。
ホイジンガは、人間を「[[ホモ・ルーデンス]]」(遊ぶひと、遊戯人)と呼び、遊び(ルードゥス)こそが他の動物と人間とを分かつものであり、政治、[[法律]]、[[宗教]]、学問、[[スポーツ]]など、人間の[[文化 (代表的なトピック)|文化]]はすべて「遊びの精神」から生まれた、あるいは、あらゆる人間文化は遊びのなかにおいて、遊びとして発生し、展開してきたものであると主張した{{sfn|森下2000|p=172}}<ref name="huijinga11"/>。
他の高度な[[知能]]を有する[[動物]]に比べて、ヒトは特に遊びが多様化・複雑化しており、[[生物]]として成熟した後も遊びを多く行ない、生存にはまったく不要と思われるような行動も多く見受けられる。これを他の動物ないし生物との区別と捉える考えがある。遊びは大きな文化として確立しており、また商品の売り手にとっても市場を左右する要因としても重要である。個人の日常化した遊びを特に[[趣味]]と呼ばれる。訓練や[[学習]]など、他者から強要されることに苦痛がともなうこともある営みも、遊びのなかで習得していくことは楽しいとされ、それゆえ、これらに「遊び」の要素が取り入れられることがある。
ホイジンガは著書『ホモ・ルーデンス』<ref group="*">和訳版に{{harv|Huizinga|1963}}がある。</ref> で、[[子供]]の遊びだけでなく、[[企業]]活動、[[議論]]、[[戦争]]、人間の活動のあらゆる局面に遊びのようなルールと開始と終わりのある[[ゲーム]]的性格が見られると指摘し、「人は遊ぶ存在である」と述べた<ref name="huijinga11"/>。[[フリードリヒ・フォン・シラー|フリードリッヒ・シラー]]も、「人は遊びの中で完全に人である」という有名な言葉を著書『人間の美的教育について』において残している。
=== 「遊び」の特質 ===
フランスのロジェ・カイヨワはホイジンガ『ホモ・ルーデンス』から大きな影響を受け、『遊びと人間』<ref group="*">和訳版に{{harv|Caillois|1971}}がある。</ref> を執筆した。彼は、遊びのすべてに通じる不変の性質として競争・運・模擬・眩暈を提示している<ref name="Caillois">[[#カイヨワ1990|カイヨワ(1990)]]</ref>。また、カイヨワによれば、「遊び」とは以下のような諸特徴を有する行為である{{sfn|森下2000|p=172}}<ref name="Caillois"/>。
# 自由意思にもとづいておこなわれる。
# 他の行為から空間的にも時間的にも隔離されている。
# 結果がどうなるか未確定である。
# 非生産的である。
# ルールが存在する。
# 生活上どうしてもそれがなければならないとは考えられていない。
人はなぜ、どうしてもしなければならないわけでもない「非生産的なこと」をわざわざやるのかということに対する答えとしては、自身の有する技術的・知的・身体的・精神的能力を最大限に無駄遣いしたいためであるという説明がなされる{{sfn|森下2000|p=172}}。そしてカイヨワは、これは人間が慢性的にエネルギー過剰の状態にあって、生存するのに必要不可欠な量を超えた過剰なエネルギーを発散する必要があるためであるとし、こうしたエネルギーの無駄遣いから遊びが生まれ、さらにそこから人間の文化が生まれてきたのだと唱えた{{sfn|森下2000|p=172}}<ref name="Caillois"/>。
=== 「遊び」の類型 ===
カイヨワは『遊びと人間』のなかで、遊びを次の4つの要素に分類している<ref name="Caillois"/>{{sfn|森下2000|p=173}}。
* '''アゴン'''([[競争]]) :運動や[[格闘技]]、子供の[[かけっこ]]、ほか。
* '''アレア'''([[偶然]]) :[[くじ]]([[宝くじ]]など)、[[じゃんけん]]、[[サイコロ]]遊び、[[賭博]]([[ルーレット]]・[[競馬]]など)、ほか。
* '''ミミクリ'''([[模倣]]) :[[演劇]]、[[絵画]]、[[カラオケ]]、[[物真似]]、[[積み木]]、[[ごっこ遊び]]([[ままごと]]など)、ほか。
* '''イリンクス'''([[めまい]]) :[[メリーゴーランド]]、[[ジェットコースター]]、[[ブランコ]]、[[スキー]]、ほか。
ほとんどの[[スポーツ]]、[[チェス]]・[[将棋]]・[[囲碁]]・[[オセロ (ボードゲーム)|リバーシ]]などの[[ボードゲーム]]([[マインドスポーツ]])、[[クイズ]]などの知的ゲームはアゴンに属し、ホイジンガは、学問や政治はアゴンの進化したものととらえる{{sfn|森下2000|p=173}}。この4類型を複合させることも可能であり、たとえば、[[麻雀]]や[[トランプ]]はアゴンとアレアがミックスされたものであるといえる{{sfn|森下2000|p=173}}。
また、それぞれの類型において'''ルドゥス'''と'''パイディア'''という2つの[[モード]](スタイル、様式)があり、前者は確然とした[[規則|ルール]]的制約の存在するものであり、後者はルールらしいルールがなく、あってもごく緩やかなものである{{sfn|森下2000|p=173}}。同じアゴンであっても[[ボクシング]]や[[柔道]]、[[レスリング]]はルドゥスに属するのに対し、ただの取っ組み合いはパイディアである{{sfn|森下2000|p=173}}。
一面において、「遊び」は人生に不可欠の資質がベースとなっている{{sfn|森下2000|p=173}}。アゴンは闘争本能、アレアは決断力や胆力、ミミクリは模倣本能、イリンクスは不快感にたえる忍耐力を必要とする{{sfn|森下2000|p=173}}。したがって、「遊び」はこうした人生に不可欠な資質を無駄遣いしながら、それを鍛錬する場ともなっている{{sfn|森下2000|p=173}}。
=== 遊びと発達 ===
遊びが人生に不可欠の資質を鍛錬する場でもあるということから、「子どもの仕事は遊ぶことである」といわれることが多いように、子どもの発達に特に重要な意味をもっている{{sfn|森下2000|p=174}}。運動能力や知的能力を競うことでこれらの能力が発達していくと同時に闘争本能も磨かれる{{sfn|森下2000|p=174}}。その一方で「勝っておごらず、負けて悔やまず」というおおらかな人生態度も学ばなければならない{{sfn|森下2000|p=174}}。そしてまた、多くの遊びには大なり小なりのルールがあるので、ルールにしたがう[[フェアプレイ]]の精神が培われ、ルールがあるからこそ社会が成り立っていることを知らなければならない。喧嘩にも作法があることを学ばなければならないのである{{sfn|森下2000|p=174}}。
[[発達心理学]]においては、遊びの発達は社会性の発達と関わっていると報告されている。子どもの遊びの様態を観察した結果、
乳児期の遊びの始まりは[[探索行動]]と遊びの転換現象に見られる<ref name="Mutou">無籐隆 二宮克美、[[子安増生]](編)「遊び」『キーワードコレクション 発達心理学』改訂版第3刷 新曜社 2005 ISBN 4788508923 pp.124-127.</ref>。乳児は新奇なものを与えられると、はじめは警戒し、次におずおずと触り始め、叩いたり舐めたりし探索する。一通りの探索を終えて対象の正体に安心を覚えると、叩きつけて音を出すなど同じ行動繰り返すようになり、笑顔や笑い声を出すようになる。
子どもは「一人遊び」({{lang|en|solitary play}})をするが、やがて同じ年頃の子どもと並んで、しかし関わり合わずに遊ぶ「平行遊び」({{lang|en|parallel play}})が見受けられるようになり、やがて他人と協働して行う「協力遊び」({{lang|en|cooperative play}})へと移行することが確認されている。兄弟などで遊んでいると、上の子が遊んでいるときに下の子が乱入してきて上の子が怒る、といった場面が見受けられるが、下の子を入れてあげられるようになるためにはある程度自分の遊びが確立していなければならない。また、プレイルームでの観察によると、3歳児など年齢が低い場合、いろいろな遊びをつまみ食いするようにして室内を移動していくが、年齢が上がって4,5歳になると、いくつかの遊びに腰をすえて取り組んでいけるようになる。幼児の注意持続時間も年齢とともに上がっていくので、一見移り気な3歳児の行動は年齢相応の注意や興味の持続とも関係があると思われる。
小学校3~5年生ぐらいはギャングエイジと言って、決まったメンバーでの「群れ遊び」が多くなる。単なる鬼ごっこ・ヒーローごっこ・砂場遊びではなく、ドロケイ・ハンドベースなどルールが複雑な遊びをしたり、秘密基地などを作って遊んだりする。そういった仲間での遊び・ケンカを通じて、子供達は社会性を学んでいく。しかし最近は都市化や塾・習い事・スポーツで忙しくなり、遊びの3間(時間・空間・仲間)が失われている。そのため遊んだとしても少人数でゲーム・おしゃべりで、ギャングエイジが喪失している。ギャングエイジを経験しないと思春期以降につまずきやすく、特に男子が弱くなったと言われている。※また[[不良行為少年|不良]]グループは、遅れてやってきたギャングエイジとも言われている。
==== 幼児のごっこ遊び ====
[[ごっこ遊び]]は、ふり({{lang|en|pretending}})とごっこ遊び({{lang|en|make believe}})に分けられる。ふりは、ふり行動({{lang|en|pretend behavior}})とも呼ばれるが、日本ではみたて(見立て)といわれる。Aを「B」と見なすためである。小石を「あめ玉」と見立てて遊んだり、コップに泥水を入れて「[[ジュース]]」と呼ぶような行動がそれである。物を物としてしか扱えない感覚運動期([[乳児期]])から、物を別の物として扱える[[表象]]({{lang|en|representation}})の時期に入ったことを示している。<ref>{{harvnb|ピアジェ|1976}}『遊びの心理学』黎明書房。</ref>。
3歳以降にはふり行動に物語性が加わり、ごっこ遊びらしくなってくる<ref name="Mutou"/>。また、以前には親の促しや代弁によって成り立っていたふり行動が、主として子どもの力で展開するようになるのもこの時期からである。
==== 幼児の行うルール遊び ====
{{See also|鬼ごっこ}}
子どもの遊びにはさまざまなものがある。ここではルールが明確なオニごっこについて記述する。
===== 1-2歳児が行うルールのある遊び =====
1対1のオニごっこが基本である。ルールとしては、オニが逃げるコを追いかけて捕まえるという遊びである。保護者や保育士といった大人が子どもを追いかけて、捕まえることが多い。繰り返して遊び、ルールの上では終わりがない。疲れるか、飽きるまで行われる。
子ども同士で遊ぶ場合、目印が必要なこともある。目印の例として、タオルをズボンにはさんでしっぽにするなどがある。しっぽをとられたら終わりなので、しっぽオニと呼ばれることもある。オニのお面をつけることも役割を意識させる上で有効である。逃げるコには、誰がオニかわかるため逃げやすい。また、オニ(オニの役割)ができなくて、コといっしょに逃げてしまう子どもやみんなが自分から逃げるから泣いてしまう子どもにとって、お面をつけることでオニ意識(役割意識)を持つ手助けとなる。大人は、オニのしぐさをしたり、「ガオー」という声をつけてオニであることを示す必要がある。この年齢の子どもは、目印がないと役割(オニ、コ)を維持できない。
また、オニにつかまると本当に泣いてしまったり、逆にオニに殴りかかったりする子どももいる。役割(ごっこ)の要素が強く、タッチされるだけでオニとコの役割を交代するのはまだ難しい。
===== 3歳ごろからのルール遊び =====
オニがコを捕まえる点は変わらないが、逃げるコは3 - 10人になる。集団遊びと言われるようになる。オニの数が増えたり(手つなぎオニ)、捕まると除外されたり(ためおに)、捕まった子どもを助けるルールが追加される(助けオニ)などの発展をする。地域によって名称やルールは異なるが、代表的な遊びをあげる。
; 高おに:オニは1人。高いところにいるときは捕まらない。
; すわりおに:オニは1人。座っていると捕まらない。
; 鉄おに:オニは1人。鉄に触っていると捕まらない。
; 色おに:オニは1人。指定された色に触っていると捕まらない。
; [[かくれんぼ]]:オニは1人。隠れている者を見つける。見つかると終わるまで遊びから除外される。溜めオニの一種。
; ためおに:オニは1人。捕まったら牢屋などに入れられ、終わるまで遊びから除外される。
; 手つなぎおに:オニは1人から複数へ。捕まったらオニといっしょに手をつなぎオニとなる。
; [[どろけい]](どろぼうとけいさつ):警察と泥棒の2つのチーム。捕まっても助けることができる。
; ネコとネズミ:ネコとネズミの2つの集団。捕まっても助けることができる。
これらの遊びは、ルールの違いによって3種類に分けることができる。
; 安全地帯のある遊び
:高オニから色オニまでの4つは、何かしていれば捕まらないという安全地帯が入った遊びである。集団で遊ぶが、基本的にはオニとコの1対1の遊びである。オニはコの誰か1人を捕まえれば交代することができ、コは自分が捕まらなければよいのである。ただ、コは誰がオニになったのか常に注意しなければならない。ルール上、遊びの終わりはないため疲れるか、飽きるまで行われる。遊ぶ人数は、多くて10人であり、ふつう4 - 5人である。
:安全地帯というルールが入っているが、コが安全地帯から離れなければ遊びは成り立たない。コを安全地帯から離すために10数えるうちに別の場所に逃げなければならないという10秒ルールが導入されることが多い。また、オニが遠くにいる時、あえて安全地帯を離れて、はやし立てる場合もある。
; オニがコを全員捕まえる遊び
:かくれんぼから手つなぎオニは、オニがコを全員捕まえる遊びである。コは、自分が最後まで捕まらなければよい。そのためオニもコも集団全体を意識することが必要となる。遊びの終わり方が、ルール上はっきりしている。コは、捕まると遊びから除外されて減ってゆくので、人数が多くとも遊ぶことができる。遊びを指導する際は、最後まで捕まらなかった子を「チャンピオン」として褒めることで、子どもたちは最後まで逃げようとがんばるようになる。
; 助けオニ
:どろけい([[けいどろ]]、泥棒と警察)やネコとネズミは、集団意識が明確でチーム対チームの戦いとなる。オニは複数でチームを作り、コの全員を捕まえるという目的がある。コは、コ全員が捕まらないようにするという目的があり、助けに行くことができる。したがってルールの上で遊びの終わりは明確だが、オニチームの守りが下手だったり、コのチームの作戦がうまい場合は終わらないこともある。コを全員捕まえられない場合は、オニが降参して終わる。
:オニチームは捕まえにゆく役割と牢屋を守る役割に分かれる。挟み撃ちや包囲などの作戦も使うようになる。コ側は、捕まったコを助けるために囮(おとり)を使ったり、オニのふりをして近づくなどの作戦を立てる。
:かつては「[[水雷艦長]]」や「[[駆逐水雷]]」と呼ばれる水雷艇と駆逐艦と戦艦の三つ巴の遊びへ発展したこともあったが、現在ではドッジボール、サッカーなどのルールが明確なスポーツで遊ぶようになった。<ref>{{harvnb|河崎道夫編著1983}}『子どもの遊びと発達』[[ひとなる書房]]。</ref>。
=== 商品化される遊び ===
[[ファイル:Friedrich Fröbel- Construction kit- 1782-1852- SINA Facsimil-dhub.jpg|thumb|right|250px|知育玩具の祖型のひとつ、[[フリードリヒ・フレーベル]]考案の「[[恩物]]」]]
人間が行う遊びは非常に多岐にわたっており、自然発生的に形成され、世代や地域ごとに伝えられていくものと、[[パッケージ]]化・商品化して提供されるものがある。パッケージ化された電動式の玩具・キャラクター物などは、人間の[[創造]]力の成長を阻害するとして批判の対象にされることもある。
またゲームなどは一人で遊べる・友達と一緒でもコミュニケーションが少なくなるなど、社会性の発達を阻害していると言われている。男子のゲーム依存・女子のスマホ依存(LINE・SNS)は、教育現場において問題になっている。思春期以降になるとファーストフード店でのお喋り・ショッピングやゲームセンター・カラオケ・遊園地など、商品化された遊びが中心になっていく。社会人になると飲み会・旅行・イベント・デートが中心になり、子供ができると遊びを提供する立場になる。職場・顧客・親戚との付き合いなど義務的な遊びも増え、婚活デートなどは遊びというより結婚するための手段になっている。※そのなかでもサークル活動は、商品化・義務化の影響は小さいと言える。ボランティア活動・宗教活動・地域コミュニティーなども、広義には遊びに含まれる。
一方で広大で多様な市場を形成しており、いわゆる[[玩具]]など遊びに用いる器具は、素朴なものから複雑で最新の技術を導入したものまで、様々な物品が流通している。また、この玩具と遊びを通して教育や能力開発を行おうという考え方もあり、[[知育玩具]]のように遊びを通して成長を促そうという分野も存在する。
== 人間以外の動物の遊び ==
[[ファイル:American Foxhound and Labrador Retriever playing.jpg|thumb|right|250px|[[本能]]に裏打ちされた遊び<br />[[イヌ|犬]]たちは棒切れで遊びまわり、それとは知らぬまま、生活に欠かせない運動能力や[[狩り (曖昧さ回避)|狩り]]の技術の習得あるいは鍛錬に励む。ここでは棒切れが遊び道具であるが、狩りをする[[野生動物]]であれば獲物がそれに当たることも多い。]]
'''遊び行動'''<ref name="中村ほか">{{Cite journal|和書|author=中村哲之, 藤田和生, 瀧本彩加, 別役透, 渡辺創太, 森本陽, 溝川藍, 高岡祥子, 鹿子木康弘 |title=)「研究開発コロキアム」報告〔要約版〕:〔グローバルCOE〕採択:遊び行動と認知機能の関係性についての比較認知科学的・比較認知発達科学的研究 |journal=研究開発コロキアム : 平成20年度 成果報告書 |publisher=京都大学大学院教育学研究科 |year=2009 |month=mar |pages=22-23 |naid=120003238692 |url=https://hdl.handle.net/2433/143130 |accessdate=2021-11-22}}</ref> は、高度な[[知能]]を具えた[[動物]]において、成長途上にある[[個体]]に多く見られるほか、成熟個体にも少なからず見られるものである<ref name="HU about01">
{{Cite web |和書|author=森川愛 |title=“動物の心”に関する研究 |url=http://lab.agr.hokudai.ac.jp/macro/kawamori.pdf |format=PDF |work=(ウェブサイト)|publisher=北海道大学農学部 |accessdate=2021-11-22}}</ref>。
これは、動物が生きてゆく上で必要な身体能力([[筋力]]・心肺能力〈[[持久力]]〉・運動能力等を意味する[[体力]]、[[免疫力]]等を意味する基礎的体力)・知識・[[経験]]などを、おのずから習得する、あるいは鍛錬するために具わった[[性質]]と考えられる。動物は遊びのなかで[[狩り (曖昧さ回避)|狩り]]や[[コミュニケーション]]の方法を学んでゆく。[[ヒト]]は成熟後も遊びを行なうのが一般的である一方、ヒト以外の動物は成熟するとあまり遊ばなくなると言われてきたが、必ずしも研究者はそのようには捉えていない<ref name="YYNet">
{{Cite web|和書|author=加藤由子 |date=2009-10-05 |title=平成21年度横浜市立小学校長全体研修会 講演「動物学からみたヒトの子」 加藤由子先生 |url=http://web.edu.city.yokohama.jp/sch/kenkyu/es-kocho/h21/txt/kenkyuubu/14kensyuu.pdf |format=PDF |work=Y・Y NET(公式ウェブサイト)|publisher=[[横浜市教育委員会]] |accessdate=2013-01-12}}</ref>。また、[[家畜]]化および[[ペット]]化された動物、特に[[イヌ]]や[[ネコ]]などは、成熟後も遊びたがる傾向があるように見える。イヌやオオカミ等は遊びを通じて、互酬性と公正性の社会規範を教えられる。<ref>{{Cite book|和書|author=スー・ドナルドソン, ウィル・キムリッカ, 青木人志, 成廣孝 |title=人と動物の政治共同体 : 「動物の権利」の政治理論 |publisher=尚学社 |year=2016 |NCID=BB22813976 |ISBN=9784860311261 |page=168}}</ref>。
[[野生動物]]でも、遊び行動は[[哺乳類]]と[[鳥類]]に広く見られ{{sfn|早木仁成|2005|p=52}}、成熟した個体であってもそれが見られる。哺乳類の中でも[[サル目|霊長類]]はよく遊び、霊長類の中でも[[類人猿]]はよく遊ぶ{{sfn|早木仁成|2005|p=5}}。哺乳類では他に、[[クジラ]]はよく遊び、クジラの中でも[[ハクジラ亜目|ハクジラ類]]がよく遊ぶが、ハクジラ類の中でも[[イルカ]]の遊び行動は[[観察]]機会が多いこともあってか一般にまで広く知られている。現生[[ゾウ目]](長鼻目)の[[ゾウ]]2[[属 (分類学)|属]](ロクソドンタ属〈[[アフリカゾウ]]属〉とエレファス属〈[[アジアゾウ]]属〉)もよく遊ぶ。また、[[デグー]]のような一部の[[ネズミ目|齧歯類]]でも「'''物体遊び'''である可能性がある行動」が確かめられている<ref name="中村ほか" />。
=== 霊長類の遊び ===
霊長類(霊長目、[[サル目]])の遊びは、その形態的特徴から、「'''運動遊び''' (locomotor play, locomotor-rotational play, exercise play)」、「'''[[物体]]遊び''' (object play)」、激しく[[格闘|取っ組み合う]]「'''闘争遊び''' (play-fighting, rough and tumble play)」、[[ごっこ遊び]]に代表される「'''[[想像]]的な遊び''' (pretend play, fantasy play, imaginative play, symbolic play)」等に大別することができ{{sfn|早木仁成|2005|p=49}}、他にも、未成熟個体による[[擬似]][[動物の性行動|性行動]]や[[子守|子守り]]行動を遊びと見なす研究者もいる{{sfn|早木仁成|2005|p=49}}。
他者と遊ぶにあたって、掴む、叩く、突き放す、[[蹴る]]、[[かむ|咬む]]、追う、逃げるなどといった闘争時にこそ執ることの多い行動に及ぶ際は、「本気ではない」旨を確実に伝えておくことが必要不可欠であり{{sfn|早木仁成|2005|p=52}}、このような遊びのための[[信号 (電気工学)|シグナル]](プレイシグナル、プレイマーカー)として、最も明瞭なものに、遊び顔、遊び声、および、遊びたいとき以外で使われることのない特別な行動がある{{sfn|早木仁成|2005|p=52}}。
=== 鳥類の遊び ===
鳥類では、[[オウム目]]<ref name="HU about01" /> はよく遊ぶことで知られている。[[スズメ目]]に属する数[[科 (分類学)|科]]もよく遊ぶが、中でも[[カラス科]]はよく遊び<ref name="HU about01" />、カラス科の中でも[[カラス属]]はよく遊ぶことで知られている(観察機会が多いこともあって一般にも広く知られている)。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="*"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
Ames, Louise Bates. ''Your Four-Year-Old: Wild and Wonderful.'''
== 参考文献 ==
{{Refbegin}}
* {{Cite book |和書|editor=河崎道夫編著 |title=子どもの遊びと発達 |date=1983 |publisher=ひとなる書房 |isbn=4938536110 |ref=harv }}
* {{Cite book|和書 |author=ロジェ・カイヨワ|authorlink=ロジェ・カイヨワ |translator=[[多田道太郎]]・[[塚崎幹夫]] |date=1971 |title=遊びと人間 |edition=増補改訂版 |publisher=[[講談社]] |ref={{SfnRef|Caillois|1971}} |ncid=BN05258716|aisn=B000J9C802}}
* {{Cite book|和書 |author=ジャック・アンリオ (Jacques Henriot) |translator=[[佐藤信夫]] |date=2000-06-05 |title=遊び―遊ぶ主体の現象学へ |edition=新装復刊版 |publisher=[[白水社]] |isbn=978-4-5600-2426-3 |ref=Henriot 2000}}
* {{Cite book |和書|first=ジャン |last=ピアジェ |title=遊びの心理学 |year=1967 |publisher=黎明書房 |series=幼児心理学 2 |tranlator=大伴茂 |isbn=4654010025 |ref=harv }}
* {{Cite book|和書 |author=ヨハン・ホイジンガ|authorlink=ヨハン・ホイジンガ |translator=[[高橋英夫 (評論家)|高橋英夫]] |date=1963 |title=ホモ・ルーデンス ― 人類文化と遊戯 |publisher=[[中央公論社]] |ref={{SfnRef|Huizinga|1963}} |asin=B000JAGM0I |ncid=BN05032327}}
** {{Cite book|和書 |author=ヨハン・ホイジンガ |translator=高橋英夫 |date=1973 |title=ホモ・ルーデンス |publisher=中央公論社|series=中公文庫|ref=ホイジンガ1973|isbn=4122000254}}
* {{Cite book|和書 |author=増川宏一|authorlink=増川宏一 |date=2006-05 |title=遊戯―その歴史と研究の歩み |series=ものと人間の文化史 |volume=134 |publisher=[[法政大学出版局]] |isbn=978-4-5882-1341-0 |ref=Masukawa 2006}}
* {{Cite book|和書 |author=森下伸也|authorlink=森下伸也 |date=2000-12 |title=社会学がわかる事典 |series= |volume= |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=978-4-534-03173-0 |ref={{harvid|森下2000}}}}
* {{Cite book|和書 |author=西村清和|authorlink=西村清和 |date=1989-05-10 |title=遊びの現象学 |publisher=[[勁草書房]] |isbn=4-326-15218-4
|ref=Nishimura 1989}}
* {{Cite book|和書 |author=多田道太郎|authorlink=多田道太郎 |date=1974 |title=遊びと日本人 |publisher=[[筑摩書房]] |ref=Tada 1974 |ncid=BN03845007 |asin=B000J92AX2}}
* {{Cite book|和書 |author=安田武|authorlink=安田武 |date=1968 |title=「遊び」の論 |publisher=永田書房 |ref=Yoshida 1968 |aisn=B000JA4B42 |ncid=BA37421123}}
{{Refend}}
* {{Anchors|Hayaki about01}}{{Cite journal|author=早木仁成 |title=霊長類の遊びと人類の進化 |url=http://ecoanth.main.jp/nl/17.pdf |format=PDF |journal=ニュースレター |volume=11 |date=2005-11-30 |publisher=[http://ecoanth.main.jp/nl.html 生態人類学会] |accessdate=2021-11-22 |ref=harv}}
* {{Anchors|NRAJ}}{{Cite web|和書|title=あそびネット |url=https://asobi.recreation.jp/|work=(公式ウェブサイト)|publisher=公益財団法人 [[日本レクリエーション協会]] |accessdate=2013-01-12}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
{{Wiktionary|play#動詞}}
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{{Wiktionary|遊}}
{{Wiktionary|游}}
* [[遊び場]] - [[大人の遊び場]]
: 遊ぶための専用の場所・施設・地域が設けられる場合もある。ただし「[[大人]]の遊び場」では[[フラストレーション]]発散などの、別の意味を含む。
* [[遊戯療法]]
: 遊びを通して治療を行おうという考え方。
* [[動物行動学]] / [[人間行動学]]
* [[霊長類学]]
* [[ゲーム]] - [[学び]] - [[ゲームの歴史]]
* [[こどもの文化]]
* [[余暇]]・[[趣味]]・[[賭博]]
* [[メディア (媒体)|メディア]]
* [[悪戯]]
== 外部リンク ==
* [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/861356 絵本道化遊][[宮武外骨]] 編 (雅俗文庫, 1911)
* {{Cite journal|和書|author=城戸海輝, 深田昭三 |title=遊び場面における幼児の冗談行動の意味 |journal=愛媛大学教育学部紀要 |ISSN=2423-8589 |publisher=愛媛大学教育学部 |year=2018 |month=oct |issue=65 |pages=97-106 |naid=120006541051 |url=https://opac1.lib.ehime-u.ac.jp/iyokan/TD30290307}}
* {{Cite journal|和書|author=大森隆子 |title=保育のための"遊び"研究考(VII) : 「子とろ子とろ」について(下) |journal=研究紀要 |ISSN=0289-6206 |publisher=豊橋短期大学 |year=1995 |month=mar |issue=12 |pages=135-145 |naid=120005567532 |url=http://id.nii.ac.jp/1091/00000294/ |accessdate=2021-11-22}}
*{{Cite journal|和書|author=大森隆子 |title=保育のための"遊び"研究考(IX) : 再び「はないちもんめ」について(上) |journal=研究紀要 |ISSN=1342-7717 |publisher=豊橋創造大学 |year=1997 |month=mar |issue=14 |pages=29-36 |naid=120005567558 |url=http://id.nii.ac.jp/1091/00000320/ |accessdate=2021-11-22}}
* {{Cite web|和書|date= |title=1. 子どもの遊びにおける危険性と事故 |url=https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha02/04/040311/040311_07.pdf |format=PDF |work=(公式ウェブサイト)|publisher=[[国土交通省]] |accessdate=2013-01-12}}
* {{Cite web|和書|date= |title=伝承遊び(昔あそび)|url=https://web.archive.org/web/20160305121018/http://amakusa1.com/kayda/pdf/child.pdf |format=PDF |work=(公式ウェブサイト)|publisher=熊本県青少年育成アドバイザー連絡協議会 [https://web.archive.org/web/20160320021222/http://amakusa1.com/kayda/] |accessdate=2013-01-12}}
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[[Category:遊び|*]]
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[[Category:動物行動学]] | 2003-02-21T13:51:19Z | 2023-12-03T04:50:58Z | false | false | false | [
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2,665 | アニメ関係者一覧 | アニメ関係者一覧(アニメかんけいしゃいちらん)は、アニメ作品の制作・製作に関わった、またはアニメ業界に関わっている人物の一覧。この一覧はウィキペディアに記事があるかを確認する便宜のためにあり、新規記事が到着したときにはここに追加される。
この一覧に追加を行う方へ。できる限り人物の記事を作成してから追加するようお願いします。
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なお、次に挙げるような人物も「アニメの関係者」といえるが、ここでは扱わない。それぞれのページを参照のこと。 | [
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== 監督・演出・アニメーター他 ==
=== あ - お ===
'''あ'''
*[[相澤昌弘]]
*[[青井小夜]]
*[[あおきえい]](蒼井啓)
*[[青木悠三]](青木雄三、港野洋介)
*[[青木康直]]
*[[青野厚司]]
*[[青柳宏宜]](青柳宏宣)
*[[青山弘]](青山ヒロシ、河合夢男)
*[[青山浩行]]
*[[赤井俊文]]
*[[赤根和樹]]
*[[穐本ゆかり]]
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*[[足立慎吾]]
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*[[荒川真嗣]](荒川眞嗣)
*[[荒木伸吾]]
*[[荒木哲郎]]
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'''い'''
*[[飯田馬之介]](飯田つとむ)
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*[[伊東伸高]]
*[[糸島雅彦]]
*[[稲垣隆行]]
*[[稲上晃]]
*[[井上栄作]]
*[[井上俊之]]
*[[井ノ上ユウ子]]
*[[今石洋之]]
*[[今泉賢一]]
*[[今掛勇]]
*[[今川泰宏]]
*[[いまざきいつき]](伊魔崎斎、楳図薫)
*[[今沢哲男]](今澤哲男)
*[[今西隆志]](大熊朝秀)
*[[今村隆寛]]
*[[入江泰浩]]
*[[岩崎良明]]
*[[岩根雅明]]
'''う'''
*[[うえだしげる]]
*[[うえだひでひと]](植田秀仁)
*[[上野ケン]](上野賢)
*[[宇田鋼之介]]
*[[内田順久]]
*[[内山正幸]](白鳥剣、内山まさゆき)
*[[うつのみや理]](宇都宮智、うつのみやさとる)
*[[梅澤淳稔]]
*[[梅津泰臣]]
*[[梅原隆弘]]
*[[牛草健]]
*[[ウシロシンジ]](後信治)
'''え'''
*[[江上潔]](えがみきよし)
*[[江口寿志]]
*[[江面久]]
*[[海老沢幸男]]
*[[遠藤麻未]](えんどう麻未、えんどう麻美)
*[[えんどうてつや]]
'''お'''
*[[追崎史敏]]
*[[尾石達也]]
*[[逢瀬祭]](近藤光)
*[[大久保徹]]
*[[大久保政雄]]
*[[大倉雅彦]]
*[[おおすみ正秋]](大隅正秋)
*[[岡田斗司夫]]
*[[大賀俊二]](境南寿三郎)
*[[大木賢一]]
*[[大木良一]]
*[[大城勝]]
*[[大田朱美]]
*[[大田和寛]]
*[[太田雅彦]]
*[[大塚隆史 (アニメ演出家)]]
*[[大塚健 (アニメーター)|大塚健]]
*[[大塚舞]]
*[[大塚雅彦]]
*[[大塚正実]](大塚正美)
*[[大塚康生]](鈴木一)
*[[大槻敦史]]
*[[大友克洋]]
*[[大西雅也]]
*[[大西陽一]]
*[[大貫健一]]
*[[大沼心]]
*[[大橋誉志光]]
*[[大畑清隆]]
*[[大庭秀昭]]
*[[大張正己]](おーばりまさみ)
*[[大平晋也]]
*[[大藤信郎]]
*[[大森貴弘]]
*[[岡崎稔]]
*[[小笠原篤]]
*[[岡迫亘弘]]
*[[岡村天斎]](岡村豊)
*[[岡本忠成]]
*[[岡本英樹]]
*[[沖浦啓之]]
*[[奥田誠治 (アニメーション演出家)]]
*[[奥田万つ里]](奥田万里)
*[[奥村よしあき]](奥村吉昭)
*[[奥脇雅晴]](オクワキマサハル、大宙征基)
*[[尾崎和孝]]
*[[尾澤直志]]
*[[押井守]]([[丸輪零]]、岩崎宏、小川守弘)
*[[押山清高]]
*[[越智一裕]]
*[[於地紘仁]](越智浩仁)
*[[小沼克介]]
*[[小野勝巳]]
*[[小野学 (アニメーション監督)|小野学]]
*[[小原秀一]]
*[[尾鷲英俊]](甲賀電)
*[[音地正行]]
*[[恩田尚之]]
=== か - こ ===
''' か'''
*[[貝澤幸男]]
*[[加々美高浩]]
*[[香川久]]
*[[香川豊]]
*[[賀川愛]]
*[[垣野内成美]]
*[[角銅博之]](開木菜織、工堂紘軌)
*[[影山楙倫]](杜野幼青)
*[[葛西治]]
*[[カサヰケンイチ]](笠井賢一)
*[[梶島正樹]]
*[[加瀬政広]]
*[[加瀬充子]]
*[[片渕須直]]
*[[片山一良 (アニメ監督)]]
*[[勝間田具治]]
*[[嘉手苅睦]](カデカルムツミ)
*[[加藤寛崇]]
*[[加藤道哉]]
*[[加戸誉夫]]
*[[神猫Masterz]]
*[[門之園恵美]]
*[[金子志津枝]](金子志津江、金子志津恵)
*[[金子ひらく]]
*[[金﨑貴臣]](金崎貴臣)
*[[金澤勝眞]](松川真書)
*[[金田伊功]]
*[[加野晃]]
*[[椛島義夫]]
*[[鏑木ひろ]](鏑木宏)
*[[鎌倉由実]]
*[[鎌仲史陽]]
*[[上坪亮樹]]
*[[神山健治]]
*[[神谷ろん]](神谷論)
*[[亀谷響子]]
*[[亀井幹太]]
*[[亀垣一]]
*[[亀田祥倫]]
*[[川上哲也]]
*[[川口敬一郎]]
*[[川口隆]]
*[[河口俊夫]]
*[[川崎逸朗]]
*[[川島彰]]
*[[川尻善昭]]
*[[川瀬敏文]]
*[[川又浩]]
*[[かわむらあきお]](河村明夫)
*[[川本喜八郎]]
*[[河森正治]](黒河影次)
*[[神田武幸]](横山裕一郎)
*[[神戸洋行]]
*[[神戸守]]
'''き'''
*[[木上益治]](多田文男、多田文雄、三好一郎)
*[[菊地康仁]]
*[[菊地洋子]]
*[[木崎文智]]
*[[岸誠二]]
*[[岸田隆宏]]
*[[岸本誠司]](きしもとせいじ)
*[[黄瀬和哉]]
*[[北久保弘之]]
*[[北野英明]]
*[[北原健雄]]
*[[木下としお]](木下敏雄、木下としを)
*[[木下ゆうき]](木下勇喜、木下勇気)
*[[木村圭市郎]]
*[[木村真一郎]]
*[[木村貴宏]]
*[[きむらひでふみ]]
*[[木村隆一]]
*[[京極尚彦]]
*[[京田知己]]
'''く'''
*[[日下部光雄]]
*[[草川啓造]]
*[[久城りおん]]
*[[葛岡博]](くずおかひろし)
*[[楠葉宏三]]
*[[久高司郎]]
*[[工藤裕加]]
*[[久保田誓]]
*[[熊谷雅晃]]
*[[九里一平]]
*[[黒田昌郎]]
'''こ'''
*[[小池健]]
*[[小泉昇]]
*[[幸内純一]]
*[[香西隆男]]
*[[神志那弘志]]
*[[合田浩章]]
*[[甲田正行]]
*[[河本昇悟]]
*[[紅優]](森川滋、湊屋夢吉)
*[[こかいゆうじ]](小海雄司)
*[[古賀一臣]]
*[[古賀豪]]
*[[古川順康]]
*[[小坂春女]](林有紀)
*[[腰繁男]]
*[[小島正幸]]
*[[小田部羊一]]
*[[こだま兼嗣]](児玉兼嗣、山本一)
*[[児玉健二]]
*[[小寺勝之]](こでらかつゆき)
*[[後藤圭二]]
*[[後藤潤二]]
*[[後藤隆幸]]
*[[後藤雅巳]]
*[[小西賢一]]
*[[小華和ためお]](小華和為雄、こはなわタメオ、こはなわためお)
*[[小林治 (1964年生のアニメ演出家)]]
*[[小林治 (1945年生のアニメ演出家)]]
*[[小林一幸]]
*[[小林常夫]]
*[[小林智樹]]
*[[小林利充]]
*[[小原正和]]
*[[小森高博]]
*[[小森秀人]]
*[[湖山禎崇]]
*[[今敏]]
*[[今千秋]]
*[[近藤勝也]]
*[[近藤信宏]]
*[[近藤喜文]]
*[[紺野直幸]]
=== さ - そ ===
'''さ'''
*[[西城隆詞]]
*[[斎藤久]]
*[[斎藤博 (アニメ監督)]]
*[[斉藤良成]](斎藤良成)
*[[佐伯昭志]]
*[[境宗久]]
*[[坂田純一]]
*[[桜井弘明]]
*[[桜美かつし]](桜美勝志)
*[[迫井政行]]
*[[佐々門信芳]]
*[[笹川ひろし]]
*[[佐々木勝利]]
*[[佐々木恵子]]
*[[佐々木啓悟]]
*[[笹木信作]]
*[[佐々木守]]
*[[佐々木睦美]]
*[[笹嶋啓一]]
*[[貞方希久子]]
*[[貞光紳也]]
*[[さとうけいいち]](佐藤敬一)
*[[佐藤元]](さとうげん)
*[[佐藤順一]](甚目喜一、天上はじめ、ひかわさくら)
*[[サトウシンジ]](佐藤真二)
*[[佐藤卓哉]]
*[[佐藤竜雄]]
*[[佐藤英一]]
*[[佐藤博暉]]
*[[佐藤真人]]
*[[佐藤雅子 (アニメーション監督)|佐藤雅子]]
*[[佐藤昌文]](佐藤まさふみ)
*[[佐藤雄三]]
*[[佐藤豊 (アニメ演出家)]]
*[[佐野浩敏]]
*[[佐山聖子]]
*[[澤井幸次]]
'''し'''
*[[塩谷直義]]
*[[鴫野彰]](しぎのあきら、義野利幸)
*[[宍戸久美子]]
*[[宍戸淳]]
*[[静野孔文]]
*[[設楽博]]
*[[実原登]]
*[[篠原俊哉]]
*[[篠幸裕]](しのゆきひろ、しのだよしの)
*[[芝田浩樹]]
*[[柴田由香]]
*[[芝山努]]
*[[島沢ノリコ]](島澤範子、島沢ノリ子)
*[[嶋田真恵]]
*[[島津裕行]]
*[[島村秀一]]
*[[志水淳児]]
*[[志村錠児]]
*[[下崎闊]]([[真佐美ジュン]])
*[[下田正美]]
*[[Shuzilow.HA]](濱川修二郎、浜川修二郎)
*[[白土武]](しらどたけし)
*[[新海誠]]
*[[進藤満尾]]
*[[新房昭之]]
*[[しんぼたくろう]]
'''す'''
*[[末吉裕一郎]]
*[[菅沼栄治]]
*[[杉井ギサブロー]]
*[[杉島邦久]]
*[[杉谷光一]]
*[[杉野昭夫]]
*[[杉本功]]
*[[すしお]](石崎寿夫、石崎すしお)
*[[鈴木行]]
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*[[鈴木伸一]]
*[[鈴木信吾 (アニメーター)]]
*[[鈴木孝義]]
*[[鈴木利正]]
*[[鈴木博文 (アニメーター)]]
*[[鈴木雅也]]
*[[鈴木隆輔]]
*[[須田裕美子]]
*[[須田正己]]
*[[須藤典彦]]
*[[須藤昌朋]]
*[[須永司]]
*[[諏訪可奈恵]]
'''せ'''
*[[瀬尾光世]]
*[[瀬藤健嗣]](せとーけんじ、セトウケンジ)
*[[芹川有吾]]
*[[関崎高明]](門山高月)
*[[善聡一郎]]
'''そ'''
*[[仙波隆綱]]
*[[そ〜とめこういちろう]](五月女浩一朗)
*[[ソエジマヤスフミ]]
*[[そえたかずひろ]]
=== た - と ===
'''た'''
* [[大地丙太郎]]
* [[高岡希一]](たかおかきいち)
* [[高岡淳一]]
* [[高雄統子]]
* [[高木淳]]
* [[田頭しのぶ]]
* [[高瀬智章]]
* [[高津幸央]]
* [[高橋晃 (アニメーター)]]
* [[高橋敦史]]
* [[高橋和徳]]
* [[高橋滋春]]
* [[高橋丈夫]]
* [[高橋ナオヒト]](音無竜之介)
* [[高橋英樹 (アニメーター)|高橋英樹]]
* [[高橋美香]]
* [[高橋資祐]]
* [[高橋良輔 (アニメ監督)]](山口和十八、奇数和十八)
* [[高畑勲]](武元哲)
* [[高橋渉 (アニメ演出家)|高橋渉]]
* [[高松信司]](握乃手紗貴、妻方仁、矢立おわり)
* [[高村和宏]]
* [[高本宣弘]]
* [[高屋法子]]
* [[高谷浩利]]
* [[高柳滋仁]]
* [[高柳哲司]]
* [[高山文彦 (アニメ監督)]]
* [[滝沢敏文]]
* [[竹内昭]]
* [[竹内進二]]
* [[竹内哲也]](竹内てつや、竹肉哲セ)
* [[武内宣之]]
* [[竹内啓雄]]
* [[竹下良平]]
* [[武田政次]](武田優作、武田ゆうさく、たけだゆうさく)
* [[竹田欣弘]]
* [[武本康弘]]
* [[立川譲]]
* [[橘正紀]]
* [[たつき]]
* [[龍輪直征]]
* [[舘直樹]]
* [[伊達勇登]]
* [[田中ちゆき]]
* [[田中将賀]]
* [[田中雄一 (アニメーター) |田中雄一]]
* [[田中裕太 (アニメ演出家)]]
* [[田中良 (アニメーター)]]
* [[谷口淳一郎]]
* [[谷口悟朗]]
* [[谷口守泰]]
* [[玉川達文]]
* [[為我井克美]]
* [[丹内司]]
'''ち'''
* [[千明孝一]]
* [[千葉道徳]]
'''つ'''
* [[塚田庄英]]
* [[塚原重義]]
* [[辻初樹]](榎本たけあき)
* [[辻繁人]](つじしげひと)
* [[月岡貞夫]]
* [[つなきあき]]
* [[都留稔幸]]
* [[鶴巻和哉]]
'''て'''
* [[出崎統]](崎枕、さきまくら)
* [[出崎哲]]
* [[手塚治虫]]
* [[寺田嘉一郎]]
* [[寺本幸代]]
*[[寺田和男]]
*[[天衝 (アニメ演出家)|天衝]](田中基樹)
'''と'''
* [[東郷光宏]](四谷光宏)
* [[ときたひろこ]]
* [[時永宜幸]]
* [[土器手司]]
* [[ところともかず]]
* [[富沢信雄]]
* [[富永貞義]]
* [[冨永恒雄]]
* [[とみながまり]](富永真里、富永真理)
* [[富野由悠季]](富野喜幸、斧谷稔、井荻麟、とみの喜幸、阿佐みなみ)
* [[友岡新平]]
* [[友永和秀]]
* [[知吹愛弓]]
* [[鳥海永行]]
=== な - の ===
'''な'''
* [[長井龍雪]](長井龍幸、長井竜幸)
* [[中尾幸彦]](菜香ゆき)
* [[永丘昭典]]
* [[長岡康史]]
* [[ながきふさひろ]](永樹凡人)
* [[長崎健司]]
* [[長崎重信]]
* [[中澤勇一]](中沢勇一)
* [[中嶋敦子]](中島敦子、中島あつこ、白鳥あずさ)
* [[なかじまちゅうじ]](中嶋忠二、中島忠二、中島ちゅうじ)
* [[中谷誠一]]
* [[中谷友紀子]]
* [[中西伸彰]]
* [[長峯達也]]
* [[中村英一]]
* [[中村和久]]
* [[中村章子]]
* [[なかむらたかし]]
* [[中村隆太郎]]
* [[中村亮介_(アニメ演出家)]]
* [[長森佳容]]
* [[中山勝一]]
* [[鍋島修]]
* [[長浜忠夫]]
* [[長濱博史]]
* [[名倉靖博]]
* [[奈須川充]]
* [[成田歳法]]
* [[名和宗則]]
* [[難波日登志]](三條なみみ)
'''に'''
* [[新岡浩美]]
* [[新倉雅美]](渡邊清)
* [[西井正典]]
* [[西尾大介]]
* [[西尾鉄也]]
* [[西久保瑞穂]](西久保利彦)
* [[錦織敦史]]
* [[錦織博]]
* [[西沢信孝]]
* [[西島克彦]]
* [[西田亜沙子]]
* [[西田健一]]
* [[西田章二]]
* [[西田達三]]
* [[西田正義]]
* [[西牧秀夫]]
* [[西村純二]](西村ジュンジ)
* [[西森章]]
* [[新田義方]]
* [[二宮常雄]]
'''ぬ'''
* [[沼田誠也]](ぬまたせいや、矢沼正太、沼田セイヤ、犬屋タマセ、召成三言)
'''ね'''
* [[ねぎしひろし]](根岸弘)
* [[ねこまたや]](清積紀文)
'''の'''
* [[野田康行]]
* [[野村哲也]]
=== は - ほ ===
'''は'''
*[[朴京順|パクキョンスン]](朴京順)
*[[橋本晋治]]
*[[橋本敬史]]
*[[橋本昌和]]
*[[橋本光夫]](橋本みつお)
*[[波多正美]]
*[[羽根章悦]]
*[[羽原信義]](はばらのぶよし、近衛真守)
*[[浜崎博嗣]](浜崎ひろし)
*[[濱洲英喜]]
*[[濱田邦彦]]
*[[浜名孝行]]
*[[早川啓二]]
*[[林明美]]
*[[羽山淳一]]
*[[原恵一]]
*[[原憲一 (アニメーター)|原憲一]]
*[[原由美子 (アニメーター)|原由美子]]
'''ひ'''
*[[樋口真嗣]]
*[[樋口雅一]]
*[[ひこねのりお]]
*[[菱川直樹]]
*[[日高政光]]
*[[日向正樹]]
*[[兵頭敬]]
*[[平井峰太郎]]
*[[平池芳正]]
*[[平岡正幸]]
*[[平尾隆之]]
*[[平川哲生]]
*[[平野俊貴]](平野俊弘)
*[[平山まどか]](平山円)
*[[平田敏夫]]
*[[平山英嗣]]
*[[広岡歳仁]](広岡トシヒト)
*[[廣川集一]](広川和之)
*[[広中千恵美]]
'''ふ'''
*[[深沢幸司]]
*[[福島敦子 (アニメーター)]]
*[[福島喜晴]]
*[[福田道生]]
*[[福田己津央]](福田満夫、ふくだみつお)
*[[福冨博]](福富博)
*[[福本潔]]
*[[藤井まき]](藤井牧)
*[[藤井昌宏]]
*[[藤岡真紀]]
*[[藤川太 (アニメーター)|藤川太]]
*[[藤田宗克]]
*[[ふじもとよしたか]](藤本義孝)
*[[藤原佳幸]](高柳佳幸)
*[[藤原良二]](平山良二)
*[[船越英之]]
*[[古川タク]]
*[[古橋一浩]]
*[[古屋雄作]]
*[[FROGMAN]]
'''へ'''
*[[べんぴねこ]]
'''ほ'''
*[[細田直人]]
*[[細田雅弘]]
*[[細田守]](橋本カツヨ、遡玉洩穂)
*[[洞沢由美子]]
*[[堀内博之]]
*[[堀口悠紀子]]
*[[堀たえ子]]
*[[本郷みつる]](ほんごうみつる、郷満、潮乱太、渋谷ポチ)
*[[本多敏行]]
=== ま - も ===
'''ま'''
* [[前園文夫]]
* [[前田真宏 (アニメ監督)]]
* [[前田明寿]]
* [[政岡憲三]]
* [[政木伸一]]
* [[正延宏三]]
* [[真佐美ジュン]](下崎闊)
* [[摩砂雪]](魔砂一、紗那芭美智、夷倭世)
* [[真下耕一]](高野太)
* [[増井壮一]](水草一馬)
* [[増尾昭一]]
* [[増田敏彦]]
* [[増永麗]]
* [[舛成孝二]](ますなりこうじ)
* [[増原光幸]]
* [[又野弘道]]
* [[まついひとゆき]](松井仁之、マツイヒトユキ)
* [[松浦麻衣]]
* [[松尾衡]](マツオマモル)
* [[松尾祐輔]]
* [[松竹徳幸]]
* [[松原秀典]]
* [[松原徳弘]]
* [[松本淳]]
* [[松本憲生]]
* [[松本理恵 (演出家)]]
* [[松宏彰]]
* [[真鍋博]]
* [[真野玲]]
* [[丸加奈子]]
* [[丸山修二]](山本修)
'''み'''
* [[三浦和也]]
* [[三家本泰美]](石原泰三)
* [[三沢伸]](みさわしん、三澤伸)
* [[水島精二]]
* [[水島努]](水鳥満月)
* [[水谷貴哉]]
* [[水野和則]]
* [[満仲勧]]
* [[光延博愛]]
* [[南正時]]
* [[三原三千夫]]
* [[宮井加奈]]
* [[宮尾佳和]]
* [[宮崎なぎさ]](二宮ハルカ)
* [[宮崎駿]](照樹務)
* [[宮崎吾朗]]
* [[宮地昌幸]]
* [[宮本貞雄]]
* [[宮本幸裕]]
'''む'''
* [[牟田清司]]
* [[武藤公春]]
* [[ムトウユージ]](武藤裕治、むとうゆーじ)
* [[むらかみてるあき]]
* [[村木靖]]
* [[村瀬修功]]
* [[村田和也]]
* [[村田耕一]]
* [[村中博美]](村中ひろび)
* [[村野守美]]
<!--
'''め'''
-->
'''も'''
* [[望月智充]](坂本郷)
* [[元永慶太郎]](もとながけいたろう)
* [[本橋秀之]]
* [[百瀬義行]](百瀬ヨシユキ)
* [[森江康太]]
* [[森邦宏]]
* [[森康二]](もりやすじ、森やすじ)
* [[守岡英行]]
* [[森下圭介]]
* [[もりたけし]](森毅)
* [[森田宏幸]]
* [[森久司]](中山久司)
* [[森りょういち]]
* [[森本晃司 (アニメーター)]]
* [[森脇真琴]]
=== や - よ ===
'''や'''
* [[やすみ哲夫]](八角哲夫)
* [[康村諒]](康村正一、やすむらまさかず)
* [[谷田部勝義]](森田光太、風太)
* [[谷田部透湖]]
* [[谷津美弥子]]
* [[柳沢テツヤ]](柳沢哲也、大上相馬)
* [[柳田義明]]
* [[柳原良平]]
* [[矢野茜]]
* [[矢野篤]]
* [[矢野博之]]
* [[矢吹公郎]]
* [[矢吹勉]]
* [[山内重保]]
* [[山内則康]]
* [[山賀博之]]
* [[山口智 (アニメーター)]](サト)
* [[山口泰弘]]
* [[山口祐司 (アニメーション監督)]](虎田功)
* [[山口頼房]](みなみはるか)
* [[やまざきかずお]](山崎和男)
* [[山崎理]](ヤマサキオサム)
* [[山下高明]]
* [[山下宏幸]]
* [[山下将仁]]
* [[山下喜光]]
* [[山田勝久]](山田健学)
* [[山田俊也]]
* [[山田尚子]]
* [[山田みちしろ]]
* [[山田雄三]](馬場健)
* [[山中純子]]
* [[山根理宏]]
* [[山村浩二]]
* [[山村洋貴]]
* [[山室直儀]]
* [[山本暎一]]
* [[山本沙代]]
* [[山本佐和子]]
* [[山本天志]](山本郷、山本深幸、山本美也)
* [[山本直子]]
* [[山本裕介]]
* [[山本寛 (アニメ演出家)]]
* [[山本泰一郎]]
* [[山本靖貴]]
'''ゆ'''
* [[ユキヒロマツシタ]](松下ユキヒロ)
* [[湯山邦彦]]
'''よ'''
* [[横嶋俊久]]
* [[横山彰利]]
* [[吉浦康裕]]
* [[吉川浩司]]
* [[吉川惣司]]
* [[吉田茂承]](吉田しげつぐ)
* [[吉田隆彦]]
* [[吉田竜夫]]
* [[吉田徹]](吉田とおる)
* [[吉成鋼]]
* [[吉成曜]]
* [[四辻たかお]]
* [[米川功真]]
* [[米たにヨシトモ]](米谷良知)
* [[米林宏昌]]
=== ら - ろ ===
'''ら'''
* [[ラレコ]]
'''り'''
* [[りんたろう]](林重行、りん・たろう)
* [[りょーちも]](澤良輔、澤良介、澤りょーらも)
<!--
'''る'''
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=== わ ===
'''わ'''
* [[若林厚史]]
* [[若林漢二]]
* [[和田高明]]
* [[和田崇]]
* [[和田卓也]]
* [[渡辺明夫]]
* [[渡辺敦子 (アニメーター)]]
* [[渡辺歩]](渡辺カケル)
* [[渡辺浩二]]
* [[わたなべぢゅんいち]]
* [[渡辺信一郎 (アニメ監督)]]
* [[渡部高志]](河口もと、庄司硝子)
* [[わたなべひろし]](渡辺浩志、渡辺浩、渡辺ひろし)
* [[渡邊義弘 (アニメーター)]](渡辺義弘、わたなべよしひろ)
== 脚本 ==
=== あ - こ ===
'''あ'''
*[[會川昇]](会川昇、葉月九ロウ、三陽五郎)
*[[四十物光男]]
*[[あおしまたかし]]
*[[赤尾でこ]]
*[[赤星政尚]]
*[[あかほりさとる]]
*[[浅川美也]]
*[[安部陽子]]
*[[あみやまさはる]]
*[[綾奈ゆにこ]]
*[[荒川稔久]](木下健)
*[[荒木憲一]]
*[[安藤豊弘]]
'''い'''
*[[飯岡順一]]
*[[池田眞美子]]
*[[石橋大助]]
*[[伊藤和典]]
*[[伊東恒久]]
*[[伊藤睦美]]
*[[井上亜樹子]](鐘弘亜樹)
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*[[井上美緒]]
*[[猪爪慎一]]
*[[猪原健太]]
'''う'''
*[[うえのきみこ]]
*[[上江洲誠]]
*[[植竹須美男]]
*[[上原正三]]
*[[浦沢義雄]]
*[[浦畑達彦]]
*[[虚淵玄]]
'''え'''
*[[江夏由結]]
*[[榎戸洋司]]
*[[遠藤明範]]
'''お'''
*[[大川俊道]]
*[[扇澤延男]]
*[[大久保昌一良]]
*[[大久保智康]]
*[[大河内一楼]]
*[[大島里美]]
*[[太田愛]]
*[[太田ぐいや]]
*[[大西信介]]
*[[大野木寛]]
*[[大野武雄]]
*[[大野敏哉]]
*[[大橋志吉]]
*[[岡田麿里]]
*[[翁妙子]]
*[[桶谷顕]](おけやあきら)
*[[於地紘仁]](越智浩仁)
*[[面出明美]]
'''か'''
*[[海法紀光]]
*[[柿原優子]]
*[[影山由美]]
*[[柏原寛司]]
*[[梶原阿貴]]
*[[加藤陽一 (脚本家)]]
*[[金子裕 (脚本家)|金子裕]]
*[[金巻兼一]]
*[[上代務]]
*[[神山健治]]
*[[神山修一]]
*[[鴨志田一]]
*[[川内康範]]
*[[川崎ヒロユキ]](川崎裕之)
*[[河原ゆうじ]]
*[[河原よしえ]]
*[[川邊優子]]
'''き'''
*[[岸間信明]]
*[[岸本みゆき]]
*[[北嶋博明]]
*[[木村暢]](キムラノボル)
*[[きむらひでふみ]]
*[[金月龍之介]](山田おろち)
'''く'''
*[[國岡直人]]
*[[久保田雅史]]
*[[熊谷純]]
*[[倉田英之]]
*[[黒碕薫|黒崎薫]]
*[[黒田洋介]]
'''こ'''
*[[小出克彦]]
*[[古内一成]]
*[[神戸一彦]](ごうどかずひこ)
*[[香村純子]]
*[[小木曽豊斗]]
*[[小中千昭]]
*[[古怒田健志]]
*[[小林英造]]
*[[小林弘利]]
*[[小林靖子]]
*[[小林雄次]]
*[[五武冬史]](鈴木良武)
*[[小山高生]](小山高男)
*[[金春智子]]
=== さ - と ===
'''さ'''
*[[酒井あきよし]]
*[[酒井直行]]
*[[阪口和久]]
*[[櫻井武晴]]
*[[櫻井剛]]
*[[桜井正明]]
*[[櫻井圭記]]
*[[笹野恵]]
*[[薩川昭夫]]
*[[雑破業]]
*[[佐藤大]]
*[[沢村光彦]]
*[[三条陸]]
'''し'''
*[[静谷伊佐夫]]
*[[島田満]]
*[[清水東]]
*[[志茂文彦]]
*[[下山健人]]
*[[白根秀樹]]
*[[城山昇]]
*[[首藤剛志]]
'''す'''
*[[菅正太郎]]
*[[菅良幸]]
*[[鈴木智]]
*[[鈴木良武]](五武冬史)
*[[鈴木やすゆき]]
*[[隅沢克之]]
'''せ'''
*[[関島眞頼]]
*[[関根アユミ]]
*[[関根聡子]]
*[[瀬古浩司]]
'''そ'''
*[[十川誠志]]
*[[曽田博久]]
*[[園田英樹]]
'''た'''
*[[高木登]]
*[[高久進]]
*[[高橋悠也]]
*[[髙橋龍也]]
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*[[高山カツヒコ]](高山克彦)
*[[滝晃一]]
*[[田口成光]]
*[[武上純希]]
*[[竹田裕一郎]]
*[[田中仁 (脚本家)|田中仁]]
*[[田部俊行]]
*[[玉井豪]]
*[[田村多津夫]]
*[[田村竜]]
'''ち'''
*[[千葉克彦]]
'''つ'''
*[[月村了衛]]
*[[辻真先]](桂真佐喜)
*[[土屋斗紀雄]]
*[[土屋理敬]]
*[[筒井ともみ]]
*[[坪田文]]
*[[津村美智子]]
'''て'''
*[[寺田憲史]]
'''と'''
*[[戸田博史 (脚本家)]]
*[[冨岡淳広]]
*[[富田祐弘]]
*[[豊田有恒]](石原弘一)
*[[鳥海尽三]]
=== な - ほ ===
'''な'''
*[[永川成基]]
*[[中島かずき]]
*[[中弘子]]
*[[中瀬理香]]
*[[名田ユタカ]]
*[[成田順 (脚本家)|成田順]]
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'''に'''
*[[西園悟]]
'''の'''
*[[野崎透]]
*[[信本敬子]]
*[[野村祐一]]
'''は'''
*[[橋本裕志]]
*[[長谷見沙貴]]
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*[[羽原大介]]
*[[はままさのり]]
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*[[林民夫]]
'''ひ'''
*[[日暮裕一]]
*[[日野晃博]]
*[[兵頭一歩]]
*[[平野靖士]]
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*[[広田光毅]]
'''ふ'''
*[[深見真]]
*[[福嶋幸典]]
*[[藤川桂介]]
*[[藤咲あゆな]]
*[[藤咲淳一]]
*[[藤田伸三]]
*[[筆安一幸]](ふでやすかずゆき)
*[[藤本信行]]
*[[古庄淳]]
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'''ほ'''
*[[北条千夏]]
*[[星山博之]]
=== ま - よ ===
'''ま'''
*[[前川淳 (脚本家)|前川淳]]
*[[まさきひろ]]
*[[ますもとたくや]]
*[[待田堂子]]
*[[松井亜弥]]
*[[松岡清治 (脚本家)|松岡清治]]
*[[松崎健一]]
*[[丸尾みほ]](丸尾未歩)
'''み'''
*[[三井秀樹 (脚本家)|三井秀樹]]
*[[水上清資]]
*[[三宅直子]]
*[[宮下隼一]]
*[[宮田雪]]
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'''む'''
*[[むとうやすゆき]]
*[[村井さだゆき]]
*[[村川康敏]]
*[[村山功]]
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*[[もとひら了]]
*[[百瀬祐一郎]]
*[[森下直]]
*[[森田繁]]
*[[両澤千晶]]
'''や'''
*[[ヤスカワショウゴ]]
*[[柳川茂]]
*[[山口宏 (脚本家)]]
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*[[山崎敬之]]
*[[山崎忠昭]]
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*[[山田隆司]](栗山緑、K・Y・グリーン)
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*[[大和屋暁]](ルージュ・ドゥ・ルーン)
*[[大和屋竺]]
*[[山野辺一記]]
*[[山本優]]
'''ゆ'''
*[[由木義文]]
*[[雪室俊一]]
'''よ'''
*[[横谷昌宏]]
*[[横手美智子]]
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*[[吉田伸]]
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*[[吉野弘幸 (脚本家)|吉野弘幸]]
*[[吉村元希]]
*[[米村正二]]
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*[[渡邊大輔]]
*[[渡辺麻実]]
*[[渡邊由自]]
== キャラクターデザイナー ==
=== あ - そ ===
'''あ'''
*[[青山充]]
*[[あずまきよひこ]]
*[[阿部統]]
*[[天野喜孝]](天野嘉孝)
*[[荒木伸吾]]
'''い'''
*[[飯島弘也]]
*[[飯塚晴子]]
*[[飯村一夫]]
*[[井口昭彦]]
*[[石田敦子 (漫画家)]]
*[[石原満]]
*[[一川孝久]]
*[[出渕裕]]
*[[伊藤郁子]]
*[[伊東岳彦]]
*[[伊藤嘉之]]
*[[稲上晃]]
*[[いのまたむつみ]]
*[[今泉良一]]
*[[入好さとる]](入好聡)
*[[岩倉和憲]]
*[[岩佐とも子]]
'''う'''
*[[羽音たらく]]
*[[うのまこと]](宇野真)
*[[馬越嘉彦]]
*[[うるし原智志]](漆原智志)
'''え'''
*[[江口寿志]]
*[[江端里沙]](愛姫みかん)
*[[F.S]]
'''お'''
*[[追崎史敏]]
*[[逢坂浩司]]
*[[大島美和]]
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*[[岡真里子]](岡真理子)
*[[小川博司 (アニメーター)]](おがわひろし)
*[[興村忠美]]
*[[小原秀一]]
*[[音地正行]]
'''か'''
*[[梶島正樹]]
*[[金沢比呂司]](金澤比呂司)
*[[兼森義則]]
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*[[神村幸子]](河山雪子)
*[[河井ノア]]
*[[川村敏江]]
*[[川元利浩]]
*[[菅野宏紀]]
'''き'''
*菊池通隆([[麻宮騎亜]])
*[[菊地洋子]]
*[[岸田隆宏]]
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*[[北爪宏幸]]
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*[[木原庸佐]]
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'''く'''
*[[工藤裕加]]
*[[窪岡俊之]]
*[[熊膳貴志]]
*[[倉田綾子]]
*[[黒田和也]]
'''こ'''
*[[香西隆男]]
*[[古賀誠 (アニメーター)]]
*[[湖川友謙]](小国一和、湖川滋)
*[[コザキユースケ]]
*[[後藤圭二]]
*[[後藤隆幸]]
*[[ことぶきつかさ]]
*[[小林孝志]]
*[[小松原一男]]
*[[小森高博]]
*[[コヤマシゲト]]
*[[近藤高光]](石神零番地、朝倉三太)
'''さ'''
* [[佐々門信芳]]
* [[佐々木政勝]]
* [[坂井久太]](坂井久美子、坂井きゅう太)
* [[貞本義行]]
* [[佐藤多恵子]]
* [[佐藤好春]]
'''し'''
* [[塩山紀生]]
* [[志田ただし]](志田正博、広田正志)
* [[柴田由香]]
* [[芝美奈子]]
* [[島袋美由紀]]
* [[下元明子]](河井ノア)
'''す'''
* [[末吉裕一郎]]
* [[菅沼栄治]]
* [[杉野昭夫]]
* [[杉山延寛]]
* [[須田正己]]
* [[須藤昌朋]]
'''せ'''
* [[関口可奈味]]
* [[関修一]]
* [[関根昌之]]
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'''た'''
* [[高倉佳彦]]
* [[田頭しのぶ]]
* [[高田明美]]
* [[高橋信也]]
* [[高橋久美子 (アニメーター)]]
* [[高橋美香]]
* [[高見明男]]
* [[竹内浩志]]
* [[只野和子]](ただのかずこ、KAZZ)
* [[田中比呂人]]
* [[谷口守泰]](谷口守、たにぐちもりやす)
* [[丹内司]]
'''ち'''
* [[千田国広]]
* [[千羽由利子]]
'''つ'''
* [[辻野芳輝]](辻野寅次郎)
'''て'''
* [[寺田克也]]
'''と'''
* [[土居孝幸]]
* [[戸部敦夫]]
* [[鳥山明]]
'''な'''
* [[中澤一登]](中沢一登、辻武司)
* [[中沢健]]
* [[中嶋敦子]](中島敦子、白鳥あずさ)
* [[中鶴勝祥]]
* [[中田正彦]]
* [[長森佳容]]
* [[中山由美]]
* [[成田亨]]
'''に'''
* [[西川伸司]]
* [[錦織敦史]]
* [[西田亜沙子]](AS)
* [[新田靖成]]
* [[二宮常雄]]
* [[韮沢靖]]
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* [[野中剛]]
'''は'''
* [[橋本とよ子]]
* [[長谷川眞也]]
* [[羽根章悦]]
* [[林静香]](高倉静香)
* [[はりたつお]]
* [[番由紀子]]
'''ひ'''
* [[久行宏和]]
* [[姫野美智]](高橋美智子)
* [[平井久司]]
* [[平田雄三]]
* [[平松禎史]]
* [[平山智 (アニメーター)]]
'''ふ'''
* [[福島敦子 (アニメーター)]]
* [[藤井まき]](藤井牧)
* [[藤岡真紀]](藤岡まき)
* [[藤田まり子]]
* [[藤森雅也]]
'''ほ'''
* [[宝谷幸稔]]
* [[堀井久美]]
* [[堀内修 (アニメーター)]]
* [[堀内博之]]
* [[堀口悠紀子]]
* [[本田雄]]
=== ま - わ ===
'''ま'''
* [[松本零士]]
* [[前田実]](前田みのる)
* [[牧野竜一]]
* [[松川哲也]]
* [[松下進]]
* [[松原秀典]]
'''み'''
* [[美樹本晴彦]](佐藤晴彦)
* [[宮崎駿]]
* [[宮田奈保美]]
'''む'''
* [[村上克司]]
* [[村瀬修功]]
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* [[毛利和昭]]
* [[本橋秀之]]
* [[森川聡子]]
* [[森木靖泰]]
* [[森山雄治]](もりやまゆうじ、森山ゆうじ)
'''や'''
* [[矢嶋哲生]]
* [[安彦良和]](只野泰彦、秋津円)
* [[柳沢まさひで]](柳沢正秀)
* [[山下明彦]]
* [[山田みちしろ]]
* [[山中純子]]
'''ゆ'''
* [[湯浅政明]]
* [[結城信輝]]
'''よ'''
* [[横井孝二]]
* [[横田拓己]]
* [[横田守]]
* [[吉田健一 (アニメーター)]]
* [[吉松孝博]](サムシング吉松)
* [[米谷佳晃]]
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* [[ワシの良春]]
* [[渡辺明夫]]
* [[渡辺敦子 (アニメーター)]]
* [[渡部圭祐]]
* [[渡辺はじめ]]
* [[渡辺真由美]]
== メカニックデザイナー ==
*[[明貴美加]]
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*[[形部一平]]
*[[小林誠 (イラストレーター)]]
*[[さとうけいいち]]
*[[JNTHED]]
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*[[中原れい]]
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*[[峰岸達実]]
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== 美術監督 ==
* [[青木勝志]]
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* [[山本二三]]
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* [[渡辺明 (美術監督)]]
== 音響監督 ==
* [[明田川仁]]
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* [[鶴岡陽太]]
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* [[平光琢也]]
* [[藤田亜紀子]]
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* [[本山哲 (音響監督)]]
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* [[吉田知弘 (音響監督)|吉田知弘]]
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== プロデューサー ==
*[[東伊里弥]]
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*[[若菜章夫]]
*[[鷲尾天]]
== 上記以外のアニメ関連技術者 ==
* [[伊藤勇喜子]]([[有里紅良]])- [[映像編集|フィルム編集]][[技師]]。[[虫プロダクション|新虫プロ]]に所属。虫プロの他、[[マッドハウス]]作品に多く関わる。
* [[瀬山武司]] - [[映像編集]][[技師]]
* [[谷藤薫児]] - [[色彩設定#特殊効果|特殊効果]]
* [[中山久美子]] - [[色彩設定]]
* [[保田道世]] - [[色彩設定]]
== 日本以外の人物 ==
* [[ルドルフ・アイジング]]
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* [[オズヴァルド・カヴァンドーリ]]
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* [[エドウィン・キャットマル]]
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=== モデルアニメ ===
* [[ウィリス・オブライエン]]
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== ライター・アニメ評論家 ==
*[[池田憲章]]
* [[小黒祐一郎]]
*[[小林治 (ライター)]]
*[[原口正宏]]
*[[氷川竜介]]
*[[藤津亮太]]
== その他(漫画家・作家・声優・歌手・作曲家・脚本家) ==
なお、次に挙げるような人物も「アニメの関係者」といえるが、ここでは扱わない。それぞれのページを参照のこと。
*アニメの原作となった[[漫画]]の作者である[[漫画家]]
** [[漫画家一覧]]
** [[日本の漫画家一覧]]
<!--*アニメの原作となった[[小説]]・[[児童文学]]・[[絵本]]等の作者について
** [[作品がアニメ化されたことがある作家一覧]]-->
* アニメ作品に登場する[[キャラクター]]の声を演じる[[声優]]について
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* アニメの[[主題歌]]・挿入歌を歌う[[歌手]]
* アニメの[[劇伴]]音楽を[[作曲]]・[[編曲]]する音楽作家について
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* アニメ以外の作品も担当する[[脚本家]]
** [[脚本家一覧]]
== 関連項目 ==
*[[制作]]
*[[製作]]
*[[キャラクターデザイン]]
*[[メカニックデザイン]]
*[[アニメ制作会社|アニメ制作会社一覧]]
*[[映画監督一覧]]
*[[日本の映画監督一覧]]
{{デフォルトソート:あにめかんけいしやいちらん}}
[[Category:アニメ関係者|* いちらん]]
[[Category:職業別人名一覧]]
[[Category:アニメ関連の一覧|かんけいしやいちらん]] | 2003-02-21T14:01:20Z | 2023-12-09T14:17:35Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1%E9%96%A2%E4%BF%82%E8%80%85%E4%B8%80%E8%A6%A7 |
2,666 | アニメ作品一覧 | アニメ作品一覧(アニメさくひんいちらん)では、アニメ作品の一覧を掲載する。
ウィキペディアに記事がある物を中心とし、まず製作元が日本国内・日本国外(日本へ輸入された作品)のどちらかで分け、次にテレビアニメ、アニメ映画、OVAで分類し、それぞれの枠内で50音順に並べた。
教育映画や研修用などとして製作された作品と、プラネタリウムや博物館等の特定施設、博覧会等の特定イベントで上映するための作品の二つに大別される。
防災教育用のものは防災アニメの項を参照。
アメリカのアニメ映画作品は、アメリカ合衆国のアニメ映画作品一覧に参照。 | [
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"text": "アメリカのアニメ映画作品は、アメリカ合衆国のアニメ映画作品一覧に参照。",
"title": "日本国外で製作され、日本に輸入された作品"
}
] | アニメ作品一覧(アニメさくひんいちらん)では、アニメ作品の一覧を掲載する。 | {{特殊文字}}
'''アニメ作品一覧'''(アニメさくひんいちらん)では、アニメ作品の一覧を掲載する。
== 日本国内で製作されたアニメ ==
* [[日本のテレビアニメ作品一覧]] - [[日本のテレビアニメ作品一覧|年代別]]
* [[日本のアニメ映画作品一覧]]
* [[日本のOVA作品一覧]]
* [[Webアニメ#Webアニメ作品一覧|日本のWebアニメ作品一覧]]
* [[日本のアダルトアニメ一覧]]
=== ジャンルによる分類 ===
* [[ギャグアニメ]]
* [[魔法少女アニメ]]
* [[SFアニメ]] - [[ロボットアニメ]]
* [[ハーレムアニメ]] - [[萌えアニメ]] - [[アダルトアニメ]]
* [[幼児向けアニメ]] - [[子供向けアニメ]] - [[少年向けアニメ]] - [[少女向けアニメ]] - [[少女漫画関連アニメ作品の年代別一覧]]
* [[防災アニメ]]
=== 主役による分類 ===
* [[:Category:擬人化キャラクターを主人公にしたアニメ作品|擬人化物]]<!--試験的 [[日本の擬人化物が主役のアニメ作品一覧|擬人化物]] --> - [[日本の幼稚園児が主役のアニメ作品一覧|幼稚園児と以下]] - [[日本の小学生が主役のアニメ作品一覧|小学生]] - [[日本の中学生が主役のアニメ作品一覧|中学生]] - [[日本の高校生が主役のアニメ作品一覧|高校生]] - [[日本の成人が主役のアニメ作品一覧|成人]]
=== テレビ放送枠による主な分類 ===
* [[日本テレビ系アニメ]]
** [[日本テレビの深夜アニメ枠|AnichU]]
** [[MANPA]]
*** [[MANPA|MONDAY PARK]]
** [[チュッキョアニメ]]
** [[アニメ☆7]]
** [[アニメにむちゅ〜]]
* [[テレビ朝日系アニメ]]
** [[ニチアサキッズタイム]]
** [[NUMAnimation]]
** [[ANiMAZiNG!!!]]
** [[ANiMAZiNG2!!!|ANiMAZiNG<sup>2</sup>!!!]]
*** [[ANiMAZiNG2!!!|アニサタ]]
** [[水曜アニメ<水もん>]]
** [[あに。]]
** [[アニ帯]]
** [[アニメA]]
* [[TBS系アニメ]]
** [[毎日放送制作土曜夕方6時枠のアニメ|土6]]
** [[毎日放送制作日曜夕方5時枠のアニメ|日5]]
** [[アニメサタデー630]]
** [[アニアニランド]]
** [[TBSテレビの深夜アニメ枠|アニメリコ]]
** [[アニメイズム|スーパーアニメイズム]]
** [[アニメイズム]]
** [[アニメシャワー]]
** [[アニメシャワー|アニメ特区]]
* [[テレビ東京系アニメ]]
** [[熱血電波倶楽部]]
** [[アニメ530]]
** [[アニメノチカラ]]
** [[ヘーベルハウス劇場]]
** [[テレビ東京平日夕方6時枠のアニメ|プリスクタイム]]
* [[フジテレビ系アニメ]]
** [[世界名作劇場]]
** [[フジテレビ日曜朝9時台枠のアニメ|アドベンチャーサンデー]]
** [[NOISE (フジテレビ)|NOISE]]
** [[ノイタミナ]]
** [[+Ultra]]
** [[アニメギルド]]
* [[UHFアニメ一覧]]
** [[アニメコンプレックス]]
** [[動画大陸]]
** [[アニメ魂|アニメスピリッツ(旧:アニメ魂)]]
** [[A15]]
** [[E!TV]]
** [[ULTRA SUPER ANIME TIME]]
** [[あにめのめ]]
* [[NHKアニメ劇場]]
* [[深夜アニメ]]
* [[WOWOWアニメ]]
** [[アニメプライム]]
* [[アニメ+]]
** [[ANIME+]]
** [[アニメ+|キッズアニメ∞]]
* [[日曜アニメ劇場]]
*[[アニおび (J:COM)|アニおび]]
=== 配給元による分類 ===
* [[東映まんがまつり]] - [[東映アニメフェア]]
* [[東宝チャンピオンまつり]]
=== シリーズによる分類 ===
* [[藤子不二雄のアニメ作品]]
* [[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん]] - [[ドラえもん映画作品]]
* [[ぴえろ魔法少女シリーズ]]
* [[ガンダムシリーズ一覧]]
* [[勇者シリーズ]]
* [[エルドランシリーズ]]
* [[長浜ロマンロボシリーズ]]
* [[J9シリーズ]]
=== その他の観点による分類 ===
* [[東京を舞台にした漫画・アニメ作品]]
ウィキペディアに記事がある物を中心とし、まず製作元が日本国内・日本国外(日本へ輸入された作品)のどちらかで分け、次に[[テレビアニメ]]、[[アニメーション映画|アニメ映画]]、[[OVA]]で分類し、それぞれの枠内で50音順に並べた。
<!--
この一覧を編集される方へ。できる限り作品の記事を作った後で追加するようお願いします。
制作会社の表記方はノート参照
-->
== 日本国内で製作されたその他のアニメ ==
[[教育映画]]や研修用などとして製作された作品と、[[プラネタリウム]]や博物館等の特定施設、[[博覧会]]等の特定イベントで上映するための作品の二つに大別される。
=== 教育アニメ ===
防災教育用のものは[[防災アニメ]]の項を参照。
=== プラネタリウム上映用アニメ ===
* [[宇宙兄弟#プラネタリウム映画|宇宙兄弟]]
** 宇宙兄弟 一点のひかり
** Space Dreamers 宇宙兄弟 南波六太がやってきた!
* [[おじゃる丸]] いん石小僧がふってきた
* 銀河鉄道999
** 銀河鉄道999 〜消えた太陽系〜
** 銀河鉄道999 for PLANETARIUM
** 銀河鉄道999 星空はタイムマシーン
** 銀河鉄道999 赤い星ベテルギウス いのちの輝き
* [[進撃の巨人 (アニメ)|進撃の巨人 IN THE DOME -兵士たちの星空-]]
* [[それいけ!アンパンマン]]
** それいけ!アンパンマン ~星の色と空の色~
* [[ちびまる子ちゃん]] 星にねがいを
* [[ドラえもんの派生作品#プラネタリウム|ドラえもん]]
** ドラえもんとさがそう 宇宙のともだち
** ドラえもん 宇宙ふしぎ大探検
** ドラえもん 宇宙ふしぎ大探検2 〜太陽系のひみつ〜
** ドラえもん 宇宙ふしぎ大探検3 〜地球のふしぎ〜
* [[忍たま乱太郎#プラネタリウム映画|忍たま乱太郎]]
** 忍たま乱太郎 〜星に誓った友情物語の段〜
** 忍たま乱太郎 〜天狗の秘密と消えた太陽の段〜
* [[火の鳥 (漫画)#プラネタリウム用アニメーション映画|火の鳥 絆編]]
* [[planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜#アニメ版|planetarian 〜ちいさなほしのゆめ〜 プラネタリウム特別版]]
* [[プラネテス]] PHASE PLANETARIUM 屑星の空
* [[ポケットモンスター サン&ムーン#プラネタリウム映画|ポケットモンスター サン&ムーン プラネタリウム]]
* [[ぼのぼの (2016年のテレビアニメ)#プラネタリウム|ぼのぼの 宇宙から来たともだち]]
* ムーミン谷のオーロラ
* ムーミン谷の物語 星と花のセレナーデ
* [[妖怪ウォッチ (アニメ)#プラネタリウム|妖怪ウォッチ プラネタリウムは星と妖怪がいっぱい!]]
* [[ONE PIECE (アニメ)#プラネタリウム|ONE PIECE]]
** ONE PIECE 〜宇宙っておっもしれえ! 星空島編〜
** ONE PIECE THE PLANETARIUM
=== 博覧会上映アニメ ===
=== 常設施設での上映用のアニメ ===
* 小川のメダカ ([[石ノ森章太郎]]ふるさと記念館) - マッドハウス
* [[空想の空飛ぶ機械達]] ([[三鷹の森ジブリ美術館]]) - スタジオジブリ
* [[くじらとり]] ([[三鷹の森ジブリ美術館]]) - スタジオジブリ
* [[コロの大さんぽ]] ([[三鷹の森ジブリ美術館]]) - スタジオジブリ
* [[フィルムぐるぐる]] ([[三鷹の森ジブリ美術館]]) - スタジオジブリ
* [[めいとこねこバス]] ([[三鷹の森ジブリ美術館]]) - スタジオジブリ
*[[たまごひこーき|たまごひめ]]([[三鷹の森ジブリ美術館]]) - スタジオジブリ
*毛虫のボロ([[三鷹の森ジブリ美術館]]) - スタジオジブリ
=== 日本国外へ輸出され、後に日本国内で公開された作品 ===
* [[宇宙伝説ユリシーズ31]] - 東京ムービー
* [[オーバン・スターレーサーズ]] - ハルフィルムメーカー
* [[ガジェット警部]] - 東京ムービー
* [[ギャラクシー・ハイスクール]] - 東京ムービー
* サッカーフィーバー - 東京ムービー
* [[スーパー・ロボット・モンキー・チーム・ハイパーフォース GO!]] - アンサー・スタジオ
* スウィート シー - 東京ムービー
* [[スパイダーマン (アニメ)|スパイダーマン]] - 東京ムービー
* [[スパイラルゾーン]] - ビジュアル80
* [[大魔王シャザーン]] - 東映動画
* [[小さなアヒルの大きな愛の物語 あひるのクワック]] - テレスクリーン
* [[超ロボット生命体 トランスフォーマー プライム]] - ポリゴン・ピクチュアズ
* [[ディノブレイカー]] - XEBEC
* [[テンカイナイト]] - ボンズ
* [[ナッチョとポム]] - スタジオユサキ
* [[マイティ・オーボッツ]] - 東京ムービー
* レポーターブルース - 東京ムービー
{{節スタブ}}
=== 日本国内では公開されず、日本国外へ輸出された作品 ===
* ヴィジョナリーズ - 東京ムービー
* [[バイオニックシックス]] - 東京ムービー
* [[MASK (アニメ)|M.A.S.K.]] - スタジオぴえろ
{{節スタブ}}
== 日本国外で製作され、日本に輸入された作品 ==
=== 日本国外製・テレビアニメ ===
==== あ行 ====
* [[アクアキッズ]]
* [[阿貴的家族]]
** 阿貴的家族〜アークエ・ファミリー全員集合
** アークエとガッチンポー
** アークエとガッチンポー てんこもり
* [[アート オブ ミレル 〜チェコアニメの世界〜]]
* [[アダムス・ファミリー]]
* [[アドベンチャー・タイム]]
* [[アニマニアックス]]
* [[アリスとふしぎのくにのベーカリー]]
* [[アルビンとチップマンクス (1983年のテレビアニメ)|アルビンとチップマンクス]]
* [[アンジェラ・アナコンダ]]
* [[アンダードッグショー]]
* [[イーハー!きょうりゅうぼくじょう]]
* [[イエロー・ジャケット]]
* [[イソップ座へようこそ!]]
* [[インヴェイジョンUSA]]
* [[ウーナとババの島]]
* [[ウォーターシップダウンのうさぎたち]]
* [[宇宙怪人ゴースト]]
* [[EVIL OR LIVE]]
* [[縁結びの妖狐ちゃん]]
* [[おうこくのめんたんてい ミラ]]
* [[オギー&コックローチ]]
* [[オギーとダディー]]
* [[おかしなガムボール]]
* [[おさるのジョージ (テレビアニメ)|おさるのジョージ]]
* [[オジー&ドリックス]]
* [[おしゃれにナンシー・クランシー]]
* [[おたすけマニー]]
* [[おっはよー!アンクル・グランパ]]
* [[おてんばソフィー]]
* [[おとぎのもりのゴールディとベア]]
* [[親指トム]]
* [[オリビア (アニメ)|オリビア]]
==== か行 ====
* [[怪力アント]]
* [[怪獣王ターガン]]
* [[カード・バトルZERO]]
* [[カートゥーン・チューンズ]]
* [[ガーフィールド (漫画)|ガーフィールド]]
* [[かいけつ!チーム・チキン]]
* [[かわうそファミリー]]
* [[ガズ~ン]]
* [[カペリート]]
** カペリート2
* [[ガンビー (アニメーション)|ガンビー]]
* [[きかせて!ピンキー ゆかいなお話]]
* [[きかんしゃトーマス]]
* [[キッパー (アニメ)|キッパー]]
* [[キャスパー (映画)|キャスパー]]
* [[キャプテン・プラネット]] - ハンナ・バーベラ・プロダクション
* [[キャンプ・ラズロ]]
* [[きんきゅうしゅつどう隊 OSO]]
* [[クズ悪役の自己救済システム]]
* [[クマゴロー]]
* [[くまのパディントン]]
* [[クラス・オブ・ミュージック!]]
* [[クラスメイトはモンキー]]
* [[クランプ・ツインズ]]
* [[クリエイティブ・ギャラクシー]]
* [[グリジ―とレミングス]]
* [[幻影闘士バストフレモン]] - 同友動画
* [[コアラ・ブラザーズ]]
* [[攻略うぉんてっど!〜異世界救います!?〜]]
* [[GODZILLA#アニメ版|ゴジラ - ザ・シリーズ]]
* [[こひつじのティミー]]
* [[ゴリラのゴンちゃん]]
* [[コロちゃんのぼうけん]]
==== さ行 ====
* [[最後の召喚師 -The Last Summoner-]]
* [[サウスパーク]]
* [[サッカーおばあちゃん]]
** スポ根おばあちゃん
* [[サムライジャック]]
* [[サラとダックン]]
* [[G.I.ジョー・エクストリーム]]
* [[シープ (アニメ)|シープ]]
* [[科学少年J.Q]]
* [[ジェネレーター・レックス]]
* [[ジェイクとネバーランドのかいぞくたち]]
* [[ジェニーはティーン☆ロボット]]
* [[ジェネレーター・レックス]]
* [[時空冒険記ゼントリックス]]
* [[ジドウスポーツ]]
* [[ジミー・ニュートロン 僕は天才発明家!]]
* [[じゃじゃ熊一家]] - ハンナ・バーベラ・プロダクション
* [[ジャスティス・リーグ (アニメ)|ジャスティス・リーグ]]
* [[ジャッキー・チェン・アドベンチャー]]
* [[ジャングル・ジャンクション]]
* [[少女チャングムの夢]]
* [[ジョニー・ブラボー]] - ハンナ・バーベラ・プロダクション
* [[ジョジョ・サーカス]]
* [[しろくまのクロード]]
* [[しろくまベッコムが来た!]]
* [[Sing×3♪ぼくら、バックヤーディガンズ!]]
* [[新くまのプーさん]]
* [[スーパースリー (アニメ)|スーパースリー]]
* [[スティーブン・ユニバース]]
* [[スティーブン・スピルバーグのトゥーンシルバニア]]
* [[ズーとたのしいシマウマかぞく]]
* [[スカイキッドブラック魔王]] - ハンナ・バーベラ・プロダクション
* [[すすめ!オクトノーツ]]
* [[スパイディとゆかいななかまたち]]
* [[Spiritpact]]
** SPIRITPACT -黄泉の契り-
* [[スポーン]]
* [[スポンジボブ]]
* [[装甲救助部隊レストル]] - ソウルムービー
* [[せいぶのねこキャリー]]
** ぞうのババール ~バドゥのだいぼうけん~
==== た行 ====
* [[大鬧天宮]]
* [[大魔王シャザーン]]
* [[タコのロクちゃん]]
* [[ダニーとダディ]]
* [[タンタンの冒険旅行]]
* [[ちいさなプリンセス ソフィア]]
* [[チキチキマシン猛レース]] - ハンナ・バーベラ・プロダクション
* [[チクタク・タウン]]
* [[ちびっこバス タヨ]]
* [[チャーリーとローラ]]
* [[チャウダー (アニメ)|チャウダー]]
* [[チャギントン]]
* [[チュースケとチュータ]]
* [[超人ハルク]]
* [[珍犬ハックル]] - ハンナ・バーベラ・プロダクション
* [[ティーン・タイタンズ (アニメ)|ティーン・タイタンズ]]
* [[ティーン・タイタンズGO]]
* [[デクスターズラボ]] - ハンナ・バーベラ・プロダクション
* [[テディ・ラクスピンの冒険]]
* [[テレサ アンナ ヘレナ 3つごのだいぼうけん]]
* [[天官賜福]]
** 天官賜福 貮
* [[電子鳥人Uバード]] - ハンナ・バーベラ・プロダクション
* [[天書奇譚]]
* [[トータリー・スパイズ!]]
* [[ドーラといっしょに大冒険]]
* [[トゥーストゥーピッドドッグス]] - ハンナ・バーベラ・プロダクション
* [[TO BE HERO]]
** TO BE HEROINE
* [[動物園通り64番地]]
* [[動物オリンピック]]
* [[突貫カメ君]]
* [[ドックはおもちゃドクター]]
* [[トッツ とべ! あかちゃん おとどけたい]]
* [[ドット (アニメ)|ドット]]
* [[ドボチョン一家の幽霊旅行]]
* [[トムとジェリー]]
** [[トムとジェリー テイルズ]]
** [[トムとジェリーキッズ]]
** [[新トムとジェリー]]
** [[トムとジェリー大行進]]
** [[トムとジェリー ショー]]
* [[ドラゴン・ブースター]]
* [[ドラ猫大将]]
* [[トレインヒーロー]]
* [[ドンキーコング (アニメ)|ドンキーコング]]
==== な行 ====
* [[なかよしおばけ]]
* [[長くつ下のピッピ]]
* [[虹の戦記イリス]]
* [[2020年ワンダー・キディ]]
* [[ネッズニュート]]
* [[ノルディ おもちゃの国のめいたんてい]]
==== は行 ====
* [[Hi Hi Puffy AmiYumi]]
* [[ハイアール兄弟]]
* [[ハイ・ホー7D]]
* [[パウ・パトロール]]
* [[爆走バギー大レース]]
* [[パグ・パグ・アドベンチャー]]
* [[バットマン]]
** [[バットマン・ザ・フューチャー]]
** [[ザ・バットマン]]
** [[バットマン:ブレイブ&ボールド]]
* [[パップちゃんとスイートおばさん]]
* [[バニータウン]]
* [[HELLO!オズワルド]]
* [[早射ちマック]]
* [[パワーパフガールズ]] - ハンナ・バーベラ・プロダクション
* [[バンピリーナとバンパイアかぞく]]
* [[ビーストウォーズ 超生命体トランスフォーマー]]
** [[ビーストウォーズメタルス 超生命体トランスフォーマー]]
** [[超生命体トランスフォーマー ビーストウォーズリターンズ]]
* [[ピーターラビットとなかまたち]]
* [[一人之下|一人之下 羅天大醮篇・全性篇]]
* [[ビッケはちいさなバイキング]]
* [[秘密探偵クルクル]] - ハンナ・バーベラ・プロダクション
* [[ヒョウタン兄弟]]
* [[ひらめき!ユリーカ]]
* [[ビリー&マンディ]]
* [[ピンクパンサー (アニメ)]]
* [[フィリックス・ザ・キャット]]
* [[プーさんといっしょ]]
* [[ブーンドックス (テレビアニメ)|ブーンドックス]]
* [[ファンタスティック・フォー]](宇宙忍者ゴームズ)
* [[フォスターズ・ホーム]]
* [[フラニーズ・フィート]]
*[[ぶぶチャチャ]]
* [[ブルーイ]]
* [[ペット・エイリアン]]
* [[ペッパピッグ]]
* [[ペネロッピー絶体絶命]]
* [[ペネロッピーと7人の仲間たち]]
* [[ベン10]]
** ベン10:エイリアンフォース
** ベン10:アルティメット・エイリアン
* [[ヘンリー・ハグルモンスター]]
* [[封神演義 〜ナタクの大冒険〜]]
* [[ほえよ!0011]]
* [[ホームムービーズ]]
* [[ポストマン・パット]]
* [[ポペッツタウン]]
==== ま行 ====
* [[マイティ・マウス (アニメ)|マイティマウス]]
* [[マジックおばさん]]
* [[マジック・スクール・バス]]
* [[マシューせんせい 〜ゆかいなヒルトップ病院〜]]
* [[マドレーヌ (アニメ)|マドレーヌ]]シリーズ
** マドレーヌ(衛星アニメ劇場で放送)
** 新マドレーヌ(上記の続編シリーズ。衛星アニメ劇場で放送)
** マドレーヌといっしょに(シリーズ3作目。毎日放送により地上波で放送)
* [[マペット・ベビー]]
* [[ママ・ミラベルのムービータイム]]
* [[マメモ]]
* [[ミオ&マオ]]
** ミオ&マオ2
* [[ミグ・セッド]]
* [[ミスター・ビーン]]
* [[ミスターメン|Mr.MENショー]]
* [[ミッキーマウス クラブハウス]]
* [[ミッキーマウスとロードレーサーズ]]
* [[ミッキーマウス ファンハウス]]
* [[みつばちマーヤ]]
* [[実りの森のなかまたち]]
* [[みんなヒーロー! ~ヒグリータウンのなかまたち~]]
* [[ムークのせかいりょこう]]
* [[無口なウサギ]]
* [[ムーチャ・ルーチャ]]
* [[ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ|ミュータント・タートルズシリーズ]]
** [[ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ (1987年のアニメ)]]
** [[ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ (2003年のアニメ)]]
** [[ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ (2012年のアニメ)]]
* [[メイシー]]
* [[メグとモグ]]
* [[もしネズミにクッキーをあげると]]
* [[スマーフ (アニメーション)|森のスマーフ]]
==== や行 ====
* [[やんちゃなブルーノ]]
* [[幽霊城のドボチョン一家]]
* [[ヨーホー!アホイ!]]
* [[齢5000年の草食ドラゴン、いわれなき邪竜認定]]
* [[弱虫クルッパー]] - ハンナ・バーベラ・プロダクション
** スクービー&スクラッピー ドゥー
* [[ゆかいなみつばちファミリー]]
* [[四銃士]]
==== ら・わ行 ====
* [[ライオン・ガード]]
* [[ライオン・キングのティモンとプンバァ]]
* [[らぶたま〜I love egg]]
* [[ラムジーちゃん]]
* [[リサとガスパール]]
* [[リッピーとハーディー]]
* [[リトル・アインシュタイン]]
* [[リトル ルル]]
* [[リトルロボット]]
* [[リブート (アニメ)]]
* [[ルーニー・テューンズ]](バッグス・バニー・ショー)
** [[タイニー・トゥーンズ]]
** [[シルベスター&トゥイーティー ミステリー]]
** [[ダック・ドジャース]]
** [[ベビー・ルーニー・テューンズ]]
** [[ルーニー・テューンズ・ショー]]
* [[ルビー・グルーム]]
* [[LES TRIPLES]]
* [[ローリー・ポーリー・オーリー]]
* [[ローンレンジャー]]
* [[ロケッティア]]
* [[ワード・ワールド]]
* [[ワニのワリー]]
=== 日本国外製・アニメ映画 ===
アメリカのアニメ映画作品は、[[アメリカ合衆国のアニメ映画作品一覧]]に参照。
* [[イリュージョニスト (2010年の映画)|イリュージョニスト]]
* [[悦楽共犯者]]
* [[王女とゴブリン]]
* [[風が吹くとき]]
* [[チコとリタ]]
* [[風雲決 ストームライダーズ]]
* [[ベルヴィル・ランデブー]]
* [[宝蓮灯 (映画)|宝蓮灯]]
* [[ルネッサンス (映画)|ルネッサンス]]
* [[羅小黒戦記 (映画)|羅小黒戦記 ぼくが選ぶ未来]]
=== 日本国外製・OVA ===
* [[トムとジェリーのくるみ割り人形]]
* [[バービーのくるみ割り人形]]
* [[リトルフット 赤ちゃん恐竜の大冒険]]
=== 日本国外製・配信アニメ ===
* [[ハズビン・ホテル]]
== 日本国外で制作され、日本未公開の作品 ==
{{節スタブ}}
<!--==年代別==
記事構想中であり中止する場合あり。
*[[アニメ作品一覧 1970年|1970年]]・[[アニメ作品一覧 1971年|1971年]]・[[アニメ作品一覧 1972年|1972年]]・[[アニメ作品一覧 1973年|1973年]]・[[アニメ作品一覧 1974年|1974年]]・[[アニメ作品一覧 1975年|1975年]]・[[アニメ作品一覧 1976年|1976年]]・[[アニメ作品一覧 1977年|1977年]]・[[アニメ作品一覧 1978年|1978年]]・[[アニメ作品一覧 1979年|1979年]]
*[[アニメ作品一覧 1980年|1980年]]・[[アニメ作品一覧 1981年|1981年]]・[[アニメ作品一覧 1982年|1982年]]・[[アニメ作品一覧 1983年|1983年]]・[[アニメ作品一覧 1984年|1984年]]・[[アニメ作品一覧 1985年|1985年]]・[[アニメ作品一覧 1986年|1986年]]・[[アニメ作品一覧 1987年|1987年]]・[[アニメ作品一覧 1988年|1988年]]・[[アニメ作品一覧 1989年|1989年]]
*[[アニメ作品一覧 1990年|1990年]]・[[アニメ作品一覧 1991年|1991年]]・[[アニメ作品一覧 1992年|1992年]]・[[アニメ作品一覧 1993年|1993年]]・[[アニメ作品一覧 1994年|1994年]]・[[アニメ作品一覧 1995年|1995年]]・[[アニメ作品一覧 1996年|1996年]]・[[アニメ作品一覧 1997年|1997年]]・[[アニメ作品一覧 1998年|1998年]]・[[アニメ作品一覧 1999年|1999年]]
*[[アニメ作品一覧 2000年|2000年]]・[[アニメ作品一覧 2001年|2001年]]・[[アニメ作品一覧 2002年|2002年]]・[[アニメ作品一覧 2003年|2003年]]・[[アニメ作品一覧 2004年|2004年]]・[[アニメ作品一覧 2005年|2005年]]
当面作られないと判断し、コメントアウトします
-->
* 44 Cats
* Abby Hatcher
* [[アルビンとチップマンクス (2015年のテレビアニメ)|ALVINNN!!! and The Chipmunks]]
* Blaze and the Monster Machines
* Bunsen Is a Beast
* Butterbean's Café
* Corn & Peg
* Glitch Techs
* [[ノミオとジュリエット]]
* Man of the House
* [[モンスター・アレルギー]]
* Pinky Malinky
* Pony
* Rainbow Butterfly Unicorn Kitty
* Rise of the Teenage Mutant Ninja Turtles
* Rugrats (2020 TV series)
* [[千年狐ヨウビ]]
* The Adventures of Kid Danger
* The Casagrandes
* [[ザ・ラウド・ハウス|The Loud House]]
* The Mighty B!
* Welcome to the Wayne
* Wonder Park
== 関連項目 ==
=== スタッフ、キャストに関連する項目 ===
* [[アニメ制作会社|アニメ制作会社一覧]]
* [[アニメ関係者一覧]]
* [[アニメ音楽の作曲家一覧]]
* [[ライトノベルのアニメ化作品一覧]]
* [[アニメ化されたことがあるコンピュータゲーム一覧]]
=== その他の関連項目 ===
* [[声優ユニット一覧]]
* [[漫画作品一覧]]
{{アニメ作品一覧}}
{{DEFAULTSORT:あにめさくひんいちらん}}
[[Category:アニメ作品一覧|*]]
[[Category:アニメ関連の一覧|*]] | 2003-02-21T14:02:24Z | 2023-11-28T17:02:41Z | false | false | false | [
"Template:節スタブ",
"Template:アニメ作品一覧",
"Template:特殊文字"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1%E4%BD%9C%E5%93%81%E4%B8%80%E8%A6%A7 |
2,668 | LCAO法 | LCAO法(LCAOほう、英: Linear combination of atomic orbitals method)あるいは原子軌道による線形結合法とは、電子状態(分子軌道)を原子軌道の波動関数の線形結合(量子力学的重ね合わせとしての着想から)による計算手法のことである。
この場合、原子軌道が基底関数となっている。原子軌道はその原子に強く束縛された局在された軌道であり、隣合う軌道間の重なりは通常小さい。この意味で、LCAO法はタイトバインディング法とほぼ等価として扱われることがある。比較的扱い易い計算手法であるが、原子軌道同士の重なりの部分(重なり積分)の扱いが計算の負担となることがある。
LCAO法は、ジョン・レナード=ジョーンズによって周期表の第2周期の2原子分子における結合の描写と共に1929年に導入されたが、それより前にライナス・ポーリングによってH2に対して用いられていた。
数学的記述は以下の通りである。
最初の仮定は、分子軌道の数は線形展開に含まれる原子軌道の数に等しい、というものである。つまり、n個の原子軌道が組み合わさり、n個の分子軌道(i = 1からnと番号付けされる)が作られる。i番目の分子軌道の式(線形展開)は
あるいは
となる。 φ i {\displaystyle \ \phi _{i}} はn個の原子軌道の和 χ r {\displaystyle \ \chi _{r}} (それぞれの原子軌道には対応する係数 c r i {\displaystyle \ c_{ri}} がかかっている)として表わされる分子軌道である。係数は原子軌道の分子軌道に対する寄与の重み付けである。この展開の係数を得るためにはハートリー=フォック法が用いられる。
分子軌道は基底関数の線形結合として表わされる。基底関数は分子の構成原子の核を中心とした1電子関数かもしれないし、核を中心としない関数かもしれない。いずれの場合においても、基底関数は大抵は(前者の場合でのみこの名称が適切なように見えたとしても)原子軌道とも呼ばれる。用いられる原子軌道は(解析的に得られる)水素様原子のもの、すなわちスレーター型軌道が典型的であるが、標準的な基底関数系からのガウス関数や平面波擬ポテンシャルからの擬原子軌道といったその他の選択肢もある。
系の全エネルギーを最小化することによって、線形結合の係数の妥当な組が決定される。この定量的手法は現在ハートリー=フォック法として知られている。しかしながら、計算化学の発展から、LCAO法は波動関数の実際の最適化ではなく、より現代的な手法から得られた結果を予測し合理的に説明するのに非常に有用な定性的議論であるとされることが多い。この場合、分子軌道の形状とそれらの個々のエネルギーは個別の原子(あるいは分子断片)の原子軌道のエネルギーと比較し、準位反発として知られるいくつかの方策を適用することによって近似的に推定される。この議論をより明確にするためにプロットされたグラフは「相関図」と呼ばれる。必要な原子軌道のエネルギーは計算あるいは実験的にクープマンズの定理から直接得ることができる。
LCAO法による定性的議論は、分子の対称性と結合に関与する軌道を用いることによって行われる。この過程における最初の段階は、分子への点群の指定である。例えば水はC2v対称性を有する。次に、結合の可約表現が決定される。
点群におけるそれぞれの操作が分子に対して行われる。変化しない結合の数がその操作の指標である。この可約表現は既約表現の和へと分解される。これらの既約表現は関与する軌道の対称性と対応する。
分子軌道ダイアグラムによって単純な定性的LCAO取扱いを図示することができる。
定量的理論としてはヒュッケル法や拡張ヒュッケル法、パリサー・パー・ポープル法がある。 | [
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"text": "LCAO法(LCAOほう、英: Linear combination of atomic orbitals method)あるいは原子軌道による線形結合法とは、電子状態(分子軌道)を原子軌道の波動関数の線形結合(量子力学的重ね合わせとしての着想から)による計算手法のことである。",
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] | LCAO法あるいは原子軌道による線形結合法とは、電子状態(分子軌道)を原子軌道の波動関数の線形結合(量子力学的重ね合わせとしての着想から)による計算手法のことである。 この場合、原子軌道が基底関数となっている。原子軌道はその原子に強く束縛された局在された軌道であり、隣合う軌道間の重なりは通常小さい。この意味で、LCAO法はタイトバインディング法とほぼ等価として扱われることがある。比較的扱い易い計算手法であるが、原子軌道同士の重なりの部分(重なり積分)の扱いが計算の負担となることがある。 LCAO法は、ジョン・レナード=ジョーンズによって周期表の第2周期の2原子分子における結合の描写と共に1929年に導入されたが、それより前にライナス・ポーリングによってH2+に対して用いられていた。 数学的記述は以下の通りである。 最初の仮定は、分子軌道の数は線形展開に含まれる原子軌道の数に等しい、というものである。つまり、n個の原子軌道が組み合わさり、n個の分子軌道が作られる。i番目の分子軌道の式(線形展開)は あるいは となる。 ϕ i はn個の原子軌道の和 χ r として表わされる分子軌道である。係数は原子軌道の分子軌道に対する寄与の重み付けである。この展開の係数を得るためにはハートリー=フォック法が用いられる。 分子軌道は基底関数の線形結合として表わされる。基底関数は分子の構成原子の核を中心とした1電子関数かもしれないし、核を中心としない関数かもしれない。いずれの場合においても、基底関数は大抵は(前者の場合でのみこの名称が適切なように見えたとしても)原子軌道とも呼ばれる。用いられる原子軌道は(解析的に得られる)水素様原子のもの、すなわちスレーター型軌道が典型的であるが、標準的な基底関数系からのガウス関数や平面波擬ポテンシャルからの擬原子軌道といったその他の選択肢もある。 系の全エネルギーを最小化することによって、線形結合の係数の妥当な組が決定される。この定量的手法は現在ハートリー=フォック法として知られている。しかしながら、計算化学の発展から、LCAO法は波動関数の実際の最適化ではなく、より現代的な手法から得られた結果を予測し合理的に説明するのに非常に有用な定性的議論であるとされることが多い。この場合、分子軌道の形状とそれらの個々のエネルギーは個別の原子(あるいは分子断片)の原子軌道のエネルギーと比較し、準位反発として知られるいくつかの方策を適用することによって近似的に推定される。この議論をより明確にするためにプロットされたグラフは「相関図」と呼ばれる。必要な原子軌道のエネルギーは計算あるいは実験的にクープマンズの定理から直接得ることができる。 LCAO法による定性的議論は、分子の対称性と結合に関与する軌道を用いることによって行われる。この過程における最初の段階は、分子への点群の指定である。例えば水はC2v対称性を有する。次に、結合の可約表現が決定される。 点群におけるそれぞれの操作が分子に対して行われる。変化しない結合の数がその操作の指標である。この可約表現は既約表現の和へと分解される。これらの既約表現は関与する軌道の対称性と対応する。 分子軌道ダイアグラムによって単純な定性的LCAO取扱いを図示することができる。 定量的理論としてはヒュッケル法や拡張ヒュッケル法、パリサー・パー・ポープル法がある。 | {{電子構造論}}
'''LCAO法'''(LCAOほう、{{lang-en-short|'''L'''inear '''c'''ombination of '''a'''tomic '''o'''rbitals method}})あるいは'''原子軌道による線形結合法'''とは、電子状態([[分子軌道]])を[[原子軌道]]の[[波動関数]]の[[線形結合]]([[量子力学]]的[[重ね合わせ]]としての着想から)による計算手法のことである<ref>{{cite book|author=Huheey, James|title=Inorganic Chemistry: Principles of Structure and Reactivity|publisher=Prentice Hall|edition= 4 ed.|year=1997|isbn=978-0060429959}}</ref>。
この場合、原子軌道が[[基底関数]]となっている。原子軌道はその原子に強く束縛された局在された[[軌道 (力学)|軌道]]であり、隣合う軌道間の重なりは通常小さい。この意味で、LCAO法は[[タイトバインディング法]]とほぼ等価として扱われることがある。比較的扱い易い計算手法であるが、原子軌道同士の重なりの部分([[重なり積分]])の扱いが計算の負担となることがある。
LCAO法は、[[ジョン・レナード=ジョーンズ]]によって周期表の[[第2周期元素|第2周期]]の2原子分子における結合の描写と共に1929年に導入されたが、それより前に[[ライナス・ポーリング]]によって[[水素分子イオン|H<sub>2</sub><sup>+</sup>]]に対して用いられていた<ref>{{cite journal|title=Friedrich Hund and Chemistry|author=Werner Kutzelnigg|journal=Angew. Chem Int. Ed. |volume=35|issue= 6|pages= 572–586|year=1996|doi=10.1002/anie.199605721}}</ref><ref>{{cite journal|author=Robert S. Mulliken|title=Spectroscopy, Molecular Orbitals, and Chemical Bonding|journal=[[サイエンス|Science]]|volume= 157|issue=3784|pages= 13-24|year=1967|doi= 10.1126/science.157.3784.13 }}</ref>。
数学的記述は以下の通りである。
最初の仮定は、分子軌道の数は線形展開に含まれる原子軌道の数に等しい、というものである。つまり、n個の原子軌道が組み合わさり、n個の分子軌道(''i'' = 1からnと番号付けされる)が作られる。''i''番目の分子軌道の式(線形展開)は
: <math>\ \phi_i = c_{1i} \chi_1 + c_{2i} \chi_2 + c_{3i} \chi_3 + \cdots +c_{ni} \chi_n</math>
あるいは
: <math>\ \phi_i = \sum_{r} c_{ri} \chi_r </math>
となる。<math>\ \phi_i </math>はn個の原子軌道の和 <math>\ \chi_r </math>(それぞれの原子軌道には対応する係数<math>\ c_{ri} </math>がかかっている)として表わされる分子軌道である。係数は原子軌道の分子軌道に対する寄与の重み付けである。この展開の係数を得るためには[[ハートリー-フォック方程式|ハートリー=フォック法]]が用いられる。
分子軌道は[[基底関数]]の[[線形結合]]として表わされる。基底関数は分子の構成[[原子]]の[[原子核|核]]を中心とした1[[電子]]関数かもしれないし、核を中心としない関数かもしれない。いずれの場合においても、基底関数は大抵は(前者の場合でのみこの名称が適切なように見えたとしても)原子軌道とも呼ばれる。用いられる原子軌道は(解析的に得られる)[[水素原子におけるシュレーディンガー方程式の解|水素様原子]]のもの、すなわち[[スレーター軌道|スレーター型軌道]]が典型的であるが、標準的な[[基底関数系 (化学)|基底関数系]]からの[[ガウス軌道|ガウス関数]]や平面波擬ポテンシャルからの擬原子軌道といったその他の選択肢もある。
系の全[[エネルギー]]を最小化することによって、線形結合の係数の妥当な組が決定される。この定量的手法は現在[[ハートリー-フォック方程式|ハートリー=フォック法]]として知られている。しかしながら、[[計算化学]]の発展から、LCAO法は波動関数の実際の最適化ではなく、より現代的な手法から得られた結果を予測し合理的に説明するのに非常に有用な定性的議論であるとされることが多い。この場合、分子軌道の形状とそれらの個々のエネルギーは個別の原子(あるいは分子断片)の原子軌道のエネルギーと比較し、{{仮リンク|準位反発|en|level repulsion}}として知られるいくつかの方策を適用することによって近似的に推定される。この議論をより明確にするためにプロットされたグラフは「'''相関図'''」と呼ばれる。必要な原子軌道のエネルギーは計算あるいは実験的に[[クープマンズの定理]]から直接得ることができる。
LCAO法による定性的議論は、[[分子対称性|分子の対称性]]と結合に関与する軌道を用いることによって行われる。この過程における最初の段階は、分子への[[点群]]の指定である。例えば水はC<sub>2v</sub>対称性を有する。次に、結合の可約表現が決定される。
[[File:CharakterH2Oa.svg|500px|The irreducible representation as derived from the point group's operations]]
点群におけるそれぞれの操作が分子に対して行われる。変化しない結合の数がその操作の指標である。この可約表現は既約表現の和へと分解される。これらの既約表現は関与する軌道の対称性と対応する。
[[分子軌道ダイアグラム]]によって単純な定性的LCAO取扱いを図示することができる。
[[Image:MO Diagram.svg|250px|A typical MO diagram]]
定量的理論としては[[ヒュッケル法]]や[[拡張ヒュッケル法]]、[[パリサー・パー・ポープル法]]がある。
==脚注==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
*[[分子軌道法]]
*[[量子化学的手法]]
*[[原子軌道]]
*[[線形結合]]
*[[タイトバインディング法]]
*[[基底関数系 (化学)]]
*{{仮リンク|ホルスタイン=ヘリング法|en|Holstein–Herring method}}
==外部リンク ==
* [http://chemistry.umeche.maine.edu/Modeling/lcao.html LCAO @ chemistry.umeche.maine.edu]
{{DEFAULTSORT:LCAOほう}}
[[Category:計算物理学]]
[[Category:量子化学]]
[[Category:電子軌道]] | null | 2023-02-01T08:35:18Z | false | false | false | [
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"Template:Lang-en-short",
"Template:仮リンク",
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"Template:Cite journal"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/LCAO%E6%B3%95 |
2,669 | 特殊点法 | 特殊点法(とくしゅてんほう, Special point method):k点のサンプリングの方法の一つ。
ブリュアンゾーン(BZ)積分のための求積法である。逆格子、BZの刻みなどに依存する既約ブリュアンゾーン内のサンプリング点(特殊点) k → i {\displaystyle {\vec {k}}_{i}} と重み ω i {\displaystyle \omega _{i}} の組が与えられて、BZ積分は近似的に
∫ B Z f ( k → ) d k → = ∑ i ω i f ( k → i ) {\displaystyle \int _{BZ}f({\vec {k}})d{\vec {k}}=\sum _{i}\omega _{i}f({\vec {k}}_{i})}
のように重みと特殊点での関数値の積の和として求まる。特殊点の選び方には、Monkhorst-Pack法とよばれる空間群の対称性を考慮した方法がよく用いられる。
他のBZ積分の数値計算法としてはテトラヘドロン法がある。 | [
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[[ブリュアンゾーン]](BZ)積分のための[[求積法]]である。[[逆格子]]、BZの刻みなどに依存する[[既約ブリュアンゾーン]]内のサンプリング点(特殊点)<math>\vec{k}_{i}</math>と重み<math>\omega_{i}</math>の組が与えられて、BZ積分は近似的に
{{Indent|<math> \int_{BZ}f(\vec{k})d\vec{k}=\sum_{i}\omega_{i}f(\vec{k}_i) </math>}}
のように重みと特殊点での関数値の積の和として求まる。特殊点の選び方には、Monkhorst-Pack法とよばれる空間群の対称性を考慮した方法がよく用いられる。
他のBZ積分の数値計算法としては[[テトラヘドロン法]]がある。
==参考文献==
* D. J. Chadi and M. L. Cohen, Phys. Rev. B '''7''' (1973) 692.
* A. Baldereschi, Phys. Rev. B '''7''' (1973) 5212.
* H. J. Monkhorst and J. D. Pack, Phys. Rev. B '''13''',5188 (1976).
==関連項目==
*[[第一原理バンド計算]]
{{DEFAULTSORT:とくしゆてんほう}}
[[Category:計算物理学]] | null | 2015-03-01T16:44:59Z | false | false | false | [
"Template:Indent"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%AE%8A%E7%82%B9%E6%B3%95 |
2,670 | 電荷密度の混合の仕方 | 電荷密度の混合の仕方(でんかみつとのこんごうのしかた)はバンド計算において、セルフコンシステントに電子状態計算を繰り返す時、一つ前のイタレーション(Iteration)で求めた電荷密度(方法によってはもっと過去の電荷密度も使用する場合がある)と、現在の電荷密度を適当な方法で混合(Charge mixing)すると、電子状態計算の収束が大幅に加速される場合がある。
混合の方法としては、一つ前の電荷密度と現在の電荷密度を適当な比で混ぜる、単純な混合による方法(線形外挿法とも言う)以外に、アンダーソン法、ブロイデン法、Kerkerの方法などがある。
単純混合の場合、扱う系によって(電子状態計算を収束させるために)混合比に調整が必要である。特に表面系での電子状態計算での混合比は、入力(つまり1イタレーション前)の電荷密度の割合を、バルク系の場合よりずっと多くとる必要がある。
他の方法でもセルフコンシステントな計算の収束の速さは、扱う系や計算条件に依存する(ほとんど効果の出ない場合は適宜、他の方法の採用や計算条件等の変更を行う)。 | [
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] | 電荷密度の混合の仕方(でんかみつとのこんごうのしかた)はバンド計算において、セルフコンシステントに電子状態計算を繰り返す時、一つ前のイタレーション(Iteration)で求めた電荷密度(方法によってはもっと過去の電荷密度も使用する場合がある)と、現在の電荷密度を適当な方法で混合(Charge mixing)すると、電子状態計算の収束が大幅に加速される場合がある。 混合の方法としては、一つ前の電荷密度と現在の電荷密度を適当な比で混ぜる、単純な混合による方法(線形外挿法とも言う)以外に、アンダーソン法、ブロイデン法、Kerkerの方法などがある。 単純混合の場合、扱う系によって(電子状態計算を収束させるために)混合比に調整が必要である。特に表面系での電子状態計算での混合比は、入力(つまり1イタレーション前)の電荷密度の割合を、バルク系の場合よりずっと多くとる必要がある。 他の方法でもセルフコンシステントな計算の収束の速さは、扱う系や計算条件に依存する(ほとんど効果の出ない場合は適宜、他の方法の採用や計算条件等の変更を行う)。 | {{出典の明記|date=2016年4月}}
'''電荷密度の混合の仕方'''(でんかみつとのこんごうのしかた)は[[バンド計算]]において、[[セルフコンシステント]]に電子状態計算を繰り返す時、一つ前のイタレーション(Iteration)で求めた[[電荷密度]](方法によってはもっと過去の電荷密度も使用する場合がある)と、現在の電荷密度を適当な方法で混合('''Charge mixing''')すると、電子状態計算の収束が大幅に加速される場合がある。
混合の方法としては、一つ前の電荷密度と現在の電荷密度を適当な比で混ぜる、'''単純な混合'''による方法('''線形外挿法'''とも言う)以外に、[[アンダーソン法]]、[[ブロイデン法]]、[[Kerkerの方法]]などがある。
単純混合の場合、扱う系によって(電子状態計算を収束させるために)混合比に調整が必要である。特に[[表面]]系での電子状態計算での混合比は、入力(つまり1イタレーション前)の電荷密度の割合を、バルク系の場合よりずっと多くとる必要がある。
他の方法でもセルフコンシステントな計算の収束の速さは、扱う系や計算条件に依存する(ほとんど効果の出ない場合は適宜、他の方法の採用や計算条件等の変更を行う)。
== 関連項目 ==
*[[第一原理バンド計算]]
{{DEFAULTSORT:てんかみつとのこんこうのしかた}}
[[Category:バンド計算]] | null | 2016-04-02T10:11:55Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E8%8D%B7%E5%AF%86%E5%BA%A6%E3%81%AE%E6%B7%B7%E5%90%88%E3%81%AE%E4%BB%95%E6%96%B9 |
2,671 | 学習 | 学習(がくしゅう)とは、知識、行動、スキル(能力)、価値観、選考(好き嫌い)を、新しく獲得したり、修正したりすることである。生理学や心理学においては、経験によって動物(人間を含め)の行動が変容することを指す。繰り返し行う学習を練習(れんしゅう)という。又は一度行った学習をもういちど学習することを、復習という。先延ばしは、学習において克服すべき最大の問題である。
一般的には、経験を通じて行動に持続的な変化が生じる、ないし行動パターンが変化する現象のことを学習と定義する。学びと呼ばれることもある。学校における学習は、広く明示された教育目的や教育目標などに基づいて教員が支援するものであり、学習者が主体となって進められる。
行動パターンの変化には、学習以外にも、疲労や動機づけによる一過性の行動変化や成熟による発達による行動形成などがあり、学習はそれらと分別される。
学校における学習は、教師の視点から見れば教育であるが、学生生徒の視点から見れば学習である。 独学の場合は学習である。
教育については教育学という学問が確立されている。それに対して、近年認知科学(認知心理学)や脳科学をベースにした学習科学という分野が起こりつつある。
ローマクラブ(1970年設立)の第6報告書「限界なき学習」(1980年)刊行後、学習は個人単位のものだけでなく、集団・社会・国家などの単位でも行われる活動であるという考えが広まっている。集団でも過去の失敗や先例から学習することがあるし、また、学習できるはずであり、国際的な民族、国家間の紛争や経済支援も互いにその原因と背景を学ぶことにより解決の方途を探ることができると考えられるようになってきた。今日、国際連合やOECDなどの報告の中には、この意味で用いられた教育・学習という単語が散見されるようになっている。こうした見方は、国際理解教育(World Studies)という名前で小中学校の教育活動にも一部取り込まれている。
心理学における学習は、一般的な学習という言葉よりも広い意味を持つ。学校や塾で行われる勉強だけでなく、自転車をこげるようになったり、料理を作れるようになる事も心理学における学習には含まれる。練習量と反応時間の関係は学習曲線によって表される。なお、このような考え方は、教育現場でも用いられる。
時間間隔を置かずに学習する事を集中学習(massed learning)という。時間間隔を置いて学習する事を分散学習(spaced learning)や間隔反復(spaced repetition)という。ハーバード大学医学部によると、2021年6月8日発表された研究では、練習セッションの合間に短い休憩を取ることも、新しいスキルを習得するために不可欠であることを示している。記憶と学習を最大化するために短い休憩を取ることは大事であり、10秒間学習して、続いて10秒間の休憩を取り、という極めて短時間の間隔反復も非常に重要である。
次のような理由で、一般的には分散学習のほうが効率的だと言われている。
始めから終わりまでまるごと学習する事を全体法という。全体法は全習法とも呼ばれる。 一般的には、全体法の方が効率的だと言われている。 部分に分割して、部分ごとに学習する事を部分法という。部分法は分習法とも呼ばれる。
知能が高い人や年長者、学習が進んだ状態では全習法の方が効率的である。 知能が高くない人や年少者、学習が進んでいない状態では分習法の方が効率的である。
連合学習(associative learning)とは、 人や動物が2つの刺激やイベントについて、その関連を学習するプロセスである。古典的条件づけでは、中性刺激によって希望する応答が引き出されるようになるまで、中立刺激と反射誘発刺激を繰り返し対にして実施する。オペラント条件付けでは、刺激によって強化もしくは弱化される行動が、その刺激下で多かれ少なかれ発生するようになる。
オペラント条件づけにおいては、頻度や形態を変更させたい行動の後に、強化(報酬)もしくは弱化が与えられる。行動/結果が生じたときに現れる刺激によって、これら行動の変化をコントロールする。
古典的条件づけ(classical conditioning)の典型的なパラダイムでは、無条件の刺激(必然的に反射的応答を引き起こす)を、別の中性刺激(通常は応答を誘発しない)と繰り返しセットにして与える。
典型的な例はパブロフの犬である。 彼の犬は肉粉を食べると、自然に唾液が反射刺激として分泌される。肉粉は無条件刺激(US)であり、唾液分泌は無条件応答(UR)である。パブロフは肉粉を与える前にベルを鳴らした。最初にパブロフがベルを鳴らしたとき(中立刺激)は犬は唾液を出しておらず、犬が口の中に肉粉を入れた後にはじめて唾液を出した。ベルと食物を数々に組み合わせていった後、ようやく犬は、ベルは食べ物が近づいてきたことを告げると学習し、ベルを聞いたときに唾液を出すようになった。これが起こると、ベルは条件刺激(CS)となり、鐘への唾液分泌は調整応答(CR)となった It was recently also demonstrated in garden pea plants.。
観察学習(observational learning)とは、他人の行動を観察することによって生じる学習である。それは様々なプロセスに基づいて多様な形をとる、社会学習の一形態である。人間においてはこのような学習法は必ずしも強化を必要としないが、代わりに親、兄弟、友人、または教師などの社会モデルが必要となる。
刷り込み(Priming)とは、特定の発達段階で発生する学習の一種であり、行動の結果から迅速かつ明らかに独立している。幼体における刷り込みでは、若い動物(とりわけ特に鳥類)や別の個体がある場合には、対象となる物体との関連を学習し、それらは親の場合と同様に反応する。
コンピュータによる解の探索などにおいて、直接にその解法を与えられるのではなく、試行錯誤とその結果をフィードバックすることによってよりよい解法へ近づいていくシステムなどの動作を指して学習などと言うことがある。
コンピュータの分野の学習としては、日本語入力システムの変換結果学習、ニューラルネットワークの学習 などが挙げられる。
新しいスキーマ(一般に、物事を理解したり、一連の行動をとったりする際に利用される体系的な知識のことを、スキーマと呼んでいる)をつくることを構造化という。もともとのスキーマに新しい知識を加えることをつけ加えという。もともとのスキーマを新しい目的に合うように変形することを同調という。プログラムとして学習を組織する場合、以上のような一連のスキーマの形成・変形が行われるようにする。 | [
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"text": "心理学における学習は、一般的な学習という言葉よりも広い意味を持つ。学校や塾で行われる勉強だけでなく、自転車をこげるようになったり、料理を作れるようになる事も心理学における学習には含まれる。練習量と反応時間の関係は学習曲線によって表される。なお、このような考え方は、教育現場でも用いられる。",
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"text": "時間間隔を置かずに学習する事を集中学習(massed learning)という。時間間隔を置いて学習する事を分散学習(spaced learning)や間隔反復(spaced repetition)という。ハーバード大学医学部によると、2021年6月8日発表された研究では、練習セッションの合間に短い休憩を取ることも、新しいスキルを習得するために不可欠であることを示している。記憶と学習を最大化するために短い休憩を取ることは大事であり、10秒間学習して、続いて10秒間の休憩を取り、という極めて短時間の間隔反復も非常に重要である。",
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"text": "オペラント条件づけにおいては、頻度や形態を変更させたい行動の後に、強化(報酬)もしくは弱化が与えられる。行動/結果が生じたときに現れる刺激によって、これら行動の変化をコントロールする。",
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"text": "古典的条件づけ(classical conditioning)の典型的なパラダイムでは、無条件の刺激(必然的に反射的応答を引き起こす)を、別の中性刺激(通常は応答を誘発しない)と繰り返しセットにして与える。",
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"text": "典型的な例はパブロフの犬である。 彼の犬は肉粉を食べると、自然に唾液が反射刺激として分泌される。肉粉は無条件刺激(US)であり、唾液分泌は無条件応答(UR)である。パブロフは肉粉を与える前にベルを鳴らした。最初にパブロフがベルを鳴らしたとき(中立刺激)は犬は唾液を出しておらず、犬が口の中に肉粉を入れた後にはじめて唾液を出した。ベルと食物を数々に組み合わせていった後、ようやく犬は、ベルは食べ物が近づいてきたことを告げると学習し、ベルを聞いたときに唾液を出すようになった。これが起こると、ベルは条件刺激(CS)となり、鐘への唾液分泌は調整応答(CR)となった It was recently also demonstrated in garden pea plants.。",
"title": "心理学における学習"
},
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"text": "観察学習(observational learning)とは、他人の行動を観察することによって生じる学習である。それは様々なプロセスに基づいて多様な形をとる、社会学習の一形態である。人間においてはこのような学習法は必ずしも強化を必要としないが、代わりに親、兄弟、友人、または教師などの社会モデルが必要となる。",
"title": "心理学における学習"
},
{
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"text": "刷り込み(Priming)とは、特定の発達段階で発生する学習の一種であり、行動の結果から迅速かつ明らかに独立している。幼体における刷り込みでは、若い動物(とりわけ特に鳥類)や別の個体がある場合には、対象となる物体との関連を学習し、それらは親の場合と同様に反応する。",
"title": "心理学における学習"
},
{
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"text": "コンピュータによる解の探索などにおいて、直接にその解法を与えられるのではなく、試行錯誤とその結果をフィードバックすることによってよりよい解法へ近づいていくシステムなどの動作を指して学習などと言うことがある。",
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},
{
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"text": "コンピュータの分野の学習としては、日本語入力システムの変換結果学習、ニューラルネットワークの学習 などが挙げられる。",
"title": "コンピュータ"
},
{
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"text": "新しいスキーマ(一般に、物事を理解したり、一連の行動をとったりする際に利用される体系的な知識のことを、スキーマと呼んでいる)をつくることを構造化という。もともとのスキーマに新しい知識を加えることをつけ加えという。もともとのスキーマを新しい目的に合うように変形することを同調という。プログラムとして学習を組織する場合、以上のような一連のスキーマの形成・変形が行われるようにする。",
"title": "コンピュータ"
}
] | 学習(がくしゅう)とは、知識、行動、スキル(能力)、価値観、選考(好き嫌い)を、新しく獲得したり、修正したりすることである。生理学や心理学においては、経験によって動物(人間を含め)の行動が変容することを指す。繰り返し行う学習を練習(れんしゅう)という。又は一度行った学習をもういちど学習することを、復習という。先延ばしは、学習において克服すべき最大の問題である。 | {{Expand English|Learning|date=2023年3月}}
{{Otheruses||[[たま (バンド)|たま]]の楽曲|学習 (たまの曲)}}
{{未検証|date=2008年11月}}
{{神経心理学}}
'''学習'''(がくしゅう)とは、[[知識]]、[[行動]]、[[スキル]](能力)、[[価値観]]、[[選考]](好き嫌い)を、新しく獲得したり、修正したりすることである<ref>Richard Gross, [https://books.google.com/books?id=Cle1Fcr_6_QC&pg=PT335 Psychology: The Science of Mind and Behaviour] 6E, Hachette UK, {{ISBN2|978-1-4441-6436-7}}.</ref>。[[生理学]]や[[心理学]]においては、経験によって[[動物]](人間を含め)の行動が変容することを指す。繰り返し行う学習を'''練習'''(れんしゅう)という。又は一度行った学習をもういちど学習することを、'''復習'''という。先延ばしは、学習において克服すべき最大の問題である<ref>{{Cite web|和書|title=Introduction to Procrastination and Memory - Procrastination and Memory |url=https://www.coursera.org/lecture/learning-how-to-learn/introduction-to-procrastination-and-memory-3vb3Y |website=Coursera |access-date=2023-07-31 |language=ja}}</ref>。
== 一般的な学習 ==
一般的には、経験を通じて行動に持続的な変化が生じる、ないし行動パターンが変化する現象のことを学習と定義する<ref name="名前なし-1">はじめて出会う心理学・210頁</ref>。[[学び]]と呼ばれることもある。学校における学習は、広く明示された教育目的や教育目標などに基づいて教員が支援するものであり、学習者が主体となって進められる。
{{See also|[[アンドラゴジー]]}}
行動パターンの変化には、学習以外にも、疲労や動機づけによる一過性の行動変化や成熟による発達による行動形成などがあり、学習はそれらと分別される<ref name="名前なし-1"/>。
=== 学習と教育 ===
学校における学習は、教師の視点から見れば教育であるが、学生生徒の視点から見れば学習である。
独学の場合は学習である。
教育については[[教育学]]という学問が確立されている。それに対して、近年[[認知科学]]([[認知心理学]])や[[脳科学]]をベースにした[[学習科学]]という分野が起こりつつある。
{{See also|{{仮リンク|学習ガイド|en|Study guide}}|{{仮リンク|学習ソフトウェア|en|Study software}}}}
=== 集団レベルでの学習 ===
[[ローマクラブ]](1970年設立)の第6報告書「限界なき学習」(1980年)刊行後、学習は個人単位のものだけでなく、[[集団]]・[[社会]]・[[国家]]などの単位でも行われる活動であるという考えが広まっている。集団でも過去の失敗や先例から学習することがあるし、また、学習できるはずであり、国際的な民族、国家間の紛争や経済支援も互いにその原因と背景を学ぶことにより解決の方途を探ることができると考えられるようになってきた。今日、[[国際連合]]や[[経済協力開発機構|OECD]]などの報告の中には、この意味で用いられた教育・学習という単語が散見されるようになっている。こうした見方は、[[国際理解教育]](World Studies)という名前で小中学校の教育活動にも一部取り込まれている。
== 心理学における学習 ==
[[心理学]]における学習は、一般的な学習という言葉よりも広い意味を持つ。学校や塾で行われる[[勉強]]だけでなく、自転車をこげるようになったり、料理を作れるようになる事も心理学における学習には含まれる。練習量と反応時間の関係は[[学習曲線]]によって表される。なお、このような考え方は、教育現場でも用いられる。
=== 集中学習と分散学習 ===
{{main|間隔反復}}
時間間隔を置かずに学習する事を集中学習(massed learning)という。時間間隔を置いて学習する事を分散学習(spaced learning)や[[間隔反復]](spaced repetition)という。ハーバード大学医学部によると、2021年6月8日発表された研究では、練習セッションの合間に短い休憩を取ることも、新しいスキルを習得するために不可欠であることを示している。記憶と学習を最大化するために短い休憩を取ることは大事であり、10秒間学習して、続いて10秒間の休憩を取り、という極めて短時間の間隔反復も非常に重要である<ref>{{Cite web|title=Take short breaks to maximize memory and learning|url=https://www.health.harvard.edu/mind-and-mood/take-short-breaks-to-maximize-memory-and-learning|website=Harvard Health|date=2021-09-01|accessdate=2021-10-22|language=en|first=Heidi|last=Godman}}</ref>。
次のような理由で、一般的には分散学習のほうが効率的だと言われている。
*分散学習では、休憩中に学習した内容を[[リハーサル (心理学)|リハーサル]]する事が可能である。
*分散学習の方が、学習対象に注意を集中しやすい。
*分散学習の方が、様々な視点から学習対象の[[記銘|符号化]]を行いやすい。
=== 全体法と部分法 ===
始めから終わりまでまるごと学習する事を[[全体法]]という。全体法は全習法とも呼ばれる。
一般的には、全体法の方が効率的だと言われている。
部分に分割して、部分ごとに学習する事を[[部分法]]という。部分法は分習法とも呼ばれる。
知能が高い人や年長者、学習が進んだ状態では全習法の方が効率的である。
知能が高くない人や年少者、学習が進んでいない状態では分習法の方が効率的である。
=== 連合学習 ===
'''連合学習'''(associative learning)とは、
人や動物が2つの刺激やイベントについて、その関連を学習するプロセスである<ref>{{Cite book|title=Discovery Series: Introduction to Psychology|last=Plotnik|first=Rod|last2=Kouyomdijan|first2=Haig|publisher=Wadsworth Cengage Learning|year=2012|isbn=9781111347024|location=Belmont, CA|pages=208}}</ref>。古典的条件づけでは、中性刺激によって希望する応答が引き出されるようになるまで、中立刺激と反射誘発刺激を繰り返し対にして実施する。オペラント条件付けでは、刺激によって強化もしくは弱化される行動が、その刺激下で多かれ少なかれ発生するようになる。
==== オペラント条件づけ ====
{{Main|オペラント条件づけ}}
オペラント条件づけにおいては、頻度や形態を変更させたい行動の後に、[[強化]](報酬)もしくは[[弱化 (心理学)|弱化]]が与えられる。行動/結果が生じたときに現れる刺激によって、これら行動の変化をコントロールする。
==== 古典的条件づけ ====
{{Main|古典的条件づけ}}
古典的条件づけ(classical conditioning)の典型的なパラダイムでは、無条件の刺激(必然的に反射的応答を引き起こす)を、別の中性刺激(通常は応答を誘発しない)と繰り返しセットにして与える。
典型的な例は[[イワン・パブロフ|パブロフの犬]]である<ref name=":1">{{Cite book|title=Neurosciences - From Molecule to Behavior: a university textbook|last=Galizia|first=Giovanni|last2=Lledo|first2=Pierre-Marie|publisher=Springer Spektrum|year=2013|isbn=9783642107689|location=Heidelberg|pages=578}}</ref>。
彼の犬は肉粉を食べると、自然に唾液が反射刺激として分泌される。肉粉は無条件刺激(US)であり、唾液分泌は無条件応答(UR)である。パブロフは肉粉を与える前にベルを鳴らした。最初にパブロフがベルを鳴らしたとき(中立刺激)は犬は唾液を出しておらず、犬が口の中に肉粉を入れた後にはじめて唾液を出した。ベルと食物を数々に組み合わせていった後、ようやく犬は、ベルは食べ物が近づいてきたことを告げると学習し、ベルを聞いたときに唾液を出すようになった。これが起こると、ベルは条件刺激(CS)となり、鐘への唾液分泌は調整応答(CR)となった<ref name="bitterman">{{cite journal | last1 = Bitterman | display-authors = etal | year = 1983 | title = Classical Conditioning of Proboscis Extension in Honeybees (''Apis mellifera'') | url = | journal = J. Comp. Psychol. | volume = 97 | issue = 2| pages = 107–119 | doi=10.1037/0735-7036.97.2.107}}</ref> It was recently also demonstrated in garden pea plants.<ref>{{Cite journal|last=Gagliano|first=Monica|last2=Vyazovskiy|first2=Vladyslav V.|last3=Borbély|first3=Alexander A.|last4=Grimonprez|first4=Mavra|last5=Depczynski|first5=Martial|date=2016-12-02|title=Learning by Association in Plants|url=http://www.nature.com/articles/srep38427|journal=Scientific Reports|language=en|volume=6|issue=1|pages=38427|doi=10.1038/srep38427|issn=2045-2322|pmc=5133544|pmid=27910933|deadurl=no|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170623143237/http://www.nature.com/articles/srep38427|archivedate=2017-06-23|df=}}</ref>。
==== 観察学習 ====
{{Main|観察学習}}
'''観察学習'''(observational learning)とは、他人の行動を観察することによって生じる学習である。それは様々なプロセスに基づいて多様な形をとる、社会学習の一形態である。人間においてはこのような学習法は必ずしも[[強化]]を必要としないが、代わりに親、兄弟、友人、または教師などの社会モデルが必要となる。
==== 刷り込み ====
{{Main|刷り込み}}
'''刷り込み'''(Priming)とは、特定の[[発達段階]]で発生する学習の一種であり、行動の結果から迅速かつ明らかに独立している。幼体における刷り込みでは、若い動物(とりわけ特に鳥類)や別の個体がある場合には、対象となる物体との関連を学習し、それらは親の場合と同様に反応する。
== コンピュータ ==
{{Main|機械学習|ニューラルネットワーク}}
コンピュータによる解の探索などにおいて、直接にその解法を与えられるのではなく、試行錯誤とその結果を[[フィードバック]]することによってよりよい解法へ近づいていくシステムなどの動作を指して学習などと言うことがある。
コンピュータの分野の学習としては、[[日本語入力システム]]の変換結果学習、[[ニューラルネットワーク]]の学習 などが挙げられる。
=== スキーマと学習 ===
新しい[[スキーマ]](一般に、物事を理解したり、一連の行動をとったりする際に利用される体系的な知識のことを、スキーマと呼んでいる)をつくることを構造化という。もともとのスキーマに新しい知識を加えることをつけ加えという。もともとのスキーマを新しい目的に合うように変形することを同調という。プログラムとして学習を組織する場合、以上のような一連のスキーマの形成・変形が行われるようにする。
== 出典 ==
<references />
== 参考文献 ==
*[[長谷川寿一]]、[[東條正城]]、[[大島尚]]、[[丹野義彦]]、[[廣中直行]]著『はじめて出会う心理学』([[有斐閣アルマ]]) ISBN 978-4-641-12345-8
== 関連項目 ==
{{wiktionary}}
* {{ill2|神経順応|en|Neural adaptation}}(残効、残像) - 船の振れ、なにかをずっと見ていたなどの刺激を取り除いた後でも残ったり、刺激に慣れてしまうこと。
===一般的な学習===
*[[稽古]]
*[[学習教材]]
*[[学校]]
*[[学習塾]]
*[[記憶術]]
*{{仮リンク|勉強法|en|Study skills}}
===コンピュータと学習===
*[[機械学習]]
*[[ニューラルネットワーク]]
*[[パーセプトロン]]
{{学習}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かくしゆう}}
[[category:学習|*]]
[[category:発達心理学]]
[[Category:教育心理学]]
[[Category:知識]]
[[Category:方法論]]
[[Category:能力開発]]
{{education-stub}} | 2003-02-21T15:47:21Z | 2023-12-18T03:21:26Z | false | false | false | [
"Template:神経心理学",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%BF%92 |
2,673 | 印刷 | 印刷(いんさつ、英: printingあるいはpress)とは、版にインキをつけて、それを紙(など)に押し付け、版と表裏が逆の模様を何枚も簡単に速くつくること、その作業(仕事)。
印刷の基本から説明すると、まず版を作り、それにインクをつけて、紙など(紙以外のモノでもよい)に押し付けると、版と表裏が逆の状態でインクがつく。その仕事(作業)を印刷という。この作業で出来るものを印刷物という。
たとえば木版で年賀状や季節の挨拶の葉書をつくるとして、葉書の大きさの絵を描いて板に張り、インキをつけたいところを残して他を彫刻刀で彫り下げる。この版にインキをつけ紙に押しつければ印刷物ができあがる。この場合、最初描いた絵を「原稿」、版をつくる作業を「製版」といい、最後のインキをつけて紙を押し付ける作業を狭義の意味で印刷という。
印刷されたものを印刷物といい、印刷を業務として行っている会社を印刷会社といい、その工場を印刷工場という。
print(プリント)ともpress(プレス)ともいう。
printの語源は、ラテン語の動詞「premere プレメーレ」でありこれは「押し付ける」という意味である。それが古フランス語で「preindre プランドル」となり、それが中期オランダ語で「prente」となり、それがオランダ語以外のゲルマン諸語にも広まってゆき、英語に1300年代に入り「print」となった。
「press プレス」は圧搾機から来ている。西洋では古くから、印刷機が登場する前から、圧搾機のことを「press プレス」と呼んでいた。グーテンベルクの印刷機は、もともと古くから西洋にあった、ワイン造りのためのブドウの圧搾機(wine press)を転用して開発したものである。この経緯で、圧搾機を意味した「プレス」は印刷機や印刷も意味するようになった。
ちなみに印刷の「印」の字は、今ではハンコという意味だが、もともとは、ハンコ(印璽)を爪で押さえて押捺(おうなつ)する人の姿の形をなぞった漢字である。つまり「印刷」というのはもともと、おさえて刷る、という意味の表現である。
現代の印刷の主流はオフセット印刷である。「経済産業省 平成30年(2018年)工業統計 品目編」では印刷事業所を印刷方式により、オフセット印刷 / 活版印刷 / グラビア印刷 / 特殊印刷 の4つに分類しているが、2017年の統計データで、印刷事業所の73%ほどがオフセット印刷である。現在では活版印刷は9%。1960年代などまでは活版印刷が主流であったが、その後オフセット印刷への移行が進み、1980年にはオフセットのほうが優勢となり、その割合が増してきた。
現代の一般的なオフセット印刷の製版工程の後半では、刷版(さっぱん。薄いアルミ板でできた版)を作る。印画紙を出力してからフィルムに転写し、そのフィルムからアルミ板に焼き付けたり、あるいは組版データをもとにして専用の装置を使い直接にアルミ製の刷版に焼き付ける。
印刷技術が発明されたのは、古代の中国であると考えられている。2世紀頃に中国で紙が発明され、7世紀から8世紀頃には木版印刷が行われていたといわれる。この木版印刷は朝鮮半島および日本にも伝来し、764年から770年にかけて現存する印刷物で製作年代がはっきりと判明しているものとしては世界最古のものである、日本の「百万塔陀羅尼」が印刷された。北宋に入ると木版印刷は広く普及し、多くの本が印刷されるようになった。また1041年ごろには畢昇が陶器による活字を発明した。この活字は朝鮮へと伝わり、金属活字による印刷が13〜14世紀の高麗でおこなわれている。ただし中国や日本においては文字数が膨大なものにのぼったこと、そして何よりも木版は版を長く保存しておけるのに対し、活版は印刷が終わればすぐに版を崩してしまうため再版のコストが非常に高くついたことから活字はそれほど普及せず、19世紀半ば以降にヨーロッパから再び金属活字が流入するまでは木版印刷が主流を占め続けていた。この木版印刷の技術はシルクロードを西進してヨーロッパにももたらされたが、その当時は本の複製はもっぱら写本が一般的であった。14世紀から15世紀ごろには、エッチングの技法がヨーロッパにおいて広がり、銅版印刷の技術が新たに生まれた。銅版は繊細な表現が可能であることから主に文字ではなく絵画の印刷に使用され、銅板による版画(銅版画)はルネサンス期以降広く使用されるようになった。
印刷に一大転機をもたらしたのが、1450年頃のヨハネス・グーテンベルクによる金属活字を用いた活版印刷技術の発明である。グーテンベルクは金属活字だけでなく、油性インキ、印刷機、活字の鋳造装置などを次々と開発し、これらを組み合わせて大量に印刷ができるシステムを構築して、印刷という産業が成り立つ基盤を整えた。さらにそれまで使用されていた羊皮紙よりもはるかに印刷に適していた紙を印刷用紙に使用した。こうしたことからそれまでとは比べ物にならないほど書物が簡単に生産できるようになり、印刷が急速に広まった。その伝播速度は非常に速く、発明から20年ほどたった1470年までには、発明されたドイツのマインツのみならず、ライン川流域やパリ、北イタリアやローマにすでに印刷所が設立され、それからさらに10年後の1480年までにはイングランド・フランス全域・アラゴン・ネーデルラント・北ドイツ、さらにはチェコやポーランド、ハンガリーにいたるヨーロッパの広い地域で活版印刷所が設立されていた。グーテンベルクの発明から1500年以前までに印刷された書物はインキュナブラ(揺籃期本、初期刊本)と呼ばれ、どれも貴重書であるため莫大な古書価がつくことも間々ある。当時の印刷物は、聖書を始めとする宗教書が半数近くを占めており、活版印刷による聖書の普及は、マルティン・ルターらによる宗教改革につながっていく。ただし当時の印刷物の増大は宗教書に限らず、学術や実用書などあらゆる分野の印刷物が激増した。
印刷、特に活版印刷の発明は世界にいくつもの巨大な影響を与えた。この影響を総称して「印刷革命」と呼ばれることもある。直接的な影響の例としては、活版印刷によって本が大量に供給されることで、それまで非常に高価だった書籍が庶民でも手に入るようになった。そのことで知識の蓄積および交流がそれまでの社会に比べ格段に進むようになり、宗教改革をはじめとする数々の社会的変革を引き起こしていった。
印刷はまた、書物の規格化をももたらした。写本の場合誤記や文章の欠落は珍しいことでは全くなかったが、活版印刷は事前チェックが可能であり、もし誤りがあった場合も修正が容易であるため、誤植の可能性を加味しても手書き本に比べはるかに正確な文章が記されるようになった。同時期に発達した版画と活版印刷の組み合わせは、元の情報の正確な反復を可能にし、信頼できる正確な図版および文章の蓄積は科学革命の基盤となった。印刷によって書籍に整った文字が並ぶようになったことは、それまでの手書き本に比べて読解を容易なものとし、識字の有用性をより高めることとなった。こうした書籍の氾濫は、貴重な本を一人の人間が読み上げそれを周囲の大勢の人間が拝聴するという形で行われていた知識の伝達システムを変化させ、聴覚に代わり視覚が優位に立つ新しい方法が主流となった。
このほか、それまでの写本時代にはほとんど考慮されていなかった著作権が、活版印刷の開始後ほとんど時をおかずして各国で次々と保護されるようになっていったことも印刷の大きな影響のひとつである。活版印刷の発明以前においては写本自体が写字生の確保などで非常に高コストなものであり、本自体も手書きのため発行量が非常に少なく、著者に写本の際なんらかの報酬が入ることはほとんどなかった。しかし活版印刷によって大量の書籍が一度に生産できるようになると、他者の出版物を無断で複製し再出版することが横行するようになり、著者並びに出版業者に対する権利の保護が急務となった。1518年にイングランドにおいてヘンリー8世が出版業者のリチャード・ピンソンに対し彼の出版物の他者再刊禁止を認めたのは、こうした動きの初期の例である。
その後、欧米においては長らく活版による文字、凹版による絵画、挿絵の印刷が行われた。活版印刷は熟練の植字工が必要であり、いまだ大量の印刷物を素早く印刷するというわけにはいかなかった。1642年にはドイツのルートヴィヒ・フォン・ジーゲンがメゾチントを発明した。18世紀初頭にはスコットランドのウィリアム・ゲドが鉛版を考案した。これは組みあがった活字に可塑性のあるものをかぶせて雌型を作り、それに鉛を注いで印刷用の板を再作成する方法で、組みあがった活字の再作成が容易になり、再版のコストを大きく下げた。こうした鉛版には当初粘土、次いで石膏が使われていたが、19世紀前半にフランスのジュヌーが紙を使って紙型を作成することを考案し、以後この方法が主流となった。1798年にドイツのセネフェルダーが石版印刷(リトグラフ)を発明。これが平版印刷の始めとなる。1800年にはイギリスのチャールズ・スタンホープ(スタナップ)が鉄製の印刷機を発明し、それまでの木製のグーテンベルク印刷機にとってかわった。1811年にはドイツのフリードリヒ・ケーニヒが蒸気式の印刷機を開発し、印刷能力は大幅に向上した。
1851年には輪転印刷機が発明された。こうした機械化によって、印刷物はより速く大量生産でき安価なものとなった。1884年にはオットマー・マーゲンターラーがライノタイプと呼ばれる鋳植機を発明し、これによって印刷工が1行ごとにまるごと活字を鋳造できるようになり印刷はより効率化した。現在主流となっている平版オフセット印刷は、1904年にアメリカのルーベルが発明したといわれているが、それ以前にイギリスではブリキ印刷の分野で使用されていた。ルーベルの発明は紙への平版オフセット印刷である。1938年にはアメリカのチェスター・カールソンがゼログラフィ(静電写真法)を発明し、1942年に特許を取得した。この発明は複写機の技術的基礎となり、1960年にハロイド社(のちのゼロックス)がこれを商品化したことでコピー機は全世界に普及した。1985年にはアメリカでDTPが始まった。
古代から印刷には必ず(物体の)版が必要とされていたが、1990年代以降、製版データは作成するが実用版(刷版)を出力しないデジタル印刷が出現した。 (なお、それでも必ず一旦、電子的な版を作成する。電子的な版すら作成せずに、いきなりモノの表面に何かを描くような作業はprinting印刷とは基本的に言わない。版も作成せずに何かを描く作業は印刷ではなく、drawing(ドローイング)や writing(ライティング)である。)
技術的な意味での世界初のデジタルカラー印刷機は1991年にドイツのハイデルベルク社が発表したGTO-DIとされている。
1993年にはイスラエルのインディゴ社が電子写真方式のE-print1000を発表した。電子写真方式の印刷機に用いられるエレクトロインキはブランケット胴に残らず、一回転ごとに異なる画像を印刷できる画期的なものであった。
一方、インクジェット方式は1990年代に日本でデジタルカメラとともに流行。産業用のインクジェット方式のプリンタは2011年頃から大型のものが次々と登場した。
日本では、「百万塔陀羅尼」が作成されて以降二百数十年間、印刷物が出されることはなかったが、平安時代中期になって、摺経供養が盛んに行われるようになった。これが、奈良を中心とする寺院の間に、出版事業を興させるようになる。興福寺などで開版した印刷物を春日版と呼ぶ。鎌倉時代には高野山金剛峰寺でも出版を行うようになった。これは高野版と呼ばれる。13世紀頃からは、宋へ留学した僧がもたらした宋刊版の影響を受け、京都で五山版が出る。安土桃山時代に入ると、1590年にはイエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノによって加津佐に印刷機が輸入されて活字による印刷(キリシタン版)が始まった。近世以前は金属活字を用いたキリシタン版や駿河版といった例外を除き、木版印刷が中心だった。木活字はこの時期多用され、美麗な嵯峨本を始め多くの木活字本が江戸時代初期には出版されていたが、寛永年間からは木版が盛んとなり、寛文年間にはほぼ整版にとってかわられた。これは中国と同様、文字数が多く活字も膨大な量が必要だったことと、木版は版を長く保存しておけるのに対し、活版は印刷が終わればすぐに版を崩してしまうため再版のコストが非常に高くついたことが原因である。しかし活字印刷が絶えてしまったわけではなく、木活字印刷は江戸時代を通じ細々と続けられた。一方、木版印刷は発展を続け、庶民の読み物である赤本や黄表紙など、一気に出版文化が花開くことになる。
木版以外では、1783年に司馬江漢が腐食による彫刻銅版画を製作している。1856年には長崎奉行所内で活版による近代洋式印刷が始まる。
明治時代に入り、1870年には本木昌造が長崎に新町活版所を創立、これが日本における民間初の洋式活版の企業化である。1888年には合田清が木口木版(西洋木版)を日本に初めて紹介した。日本初の印刷専門誌『印刷雑誌』の創刊号(1891年)の表紙には、合田清の木口木版画が使われている。1896年には、小川一真が日本初の3色版印刷を発表した。1902年には、小倉倹司が一般刊行物では日本で最初の3色版印刷物を発表した(明治35年7月15日発行の「文藝倶楽部」第8巻第10号の口絵に発表した「薔薇花」)。1919年には、HBプロセス法が日本に移入された。
1924年、石井茂吉と森澤信夫が邦文写真植字機の試作機を発表、1926年には写真植字機研究所を設立した。1929年、実用機が完成。その後2人は袂を分かち、それぞれ写研、モリサワとして写植オフセットの時代を支えていくことになる。
1960年、電子製版機(カラースキャナ)が実用化され、1970年代には、国産4色同時分解スキャナが開発された。この頃から電算写植、オフセット印刷が主流となる。1978年発表の東芝JW-10においてかな漢字変換も登場、千年の悩みであった漢字問題解決の目処が立った。
1985年、アメリカでDTPが始まり、1989年、日本初のフルDTP出版物『森の書物』が刊行された。この頃からデータのデジタル化が加速。オンデマンド印刷、電子出版などが徐々に現実となり始める。
版の凹凸を利用する印刷法の一つで、非画線部を凹、画線部を凸にして凸部にインクをつけ、紙に転写する方式。
活版印刷(活字や写真凸版・線画凸版、罫線などを組み合わせて版とする)はこの版式である。印刷時での圧力により紙に凹凸ができることがある。また、印刷された文字にマージナルゾーン(インクの横漏れにより、実際の活字の線幅以上の余分な太さとなる部分)が見られるなどの特徴がある。版が鉛製で取り扱いにくいこと、オフセット印刷の発達などにより、活版印刷は廃れた。現在主に行われている凸版印刷は、樹脂凸版印刷およびフレキソ印刷である。樹脂凸版印刷とは、活版の代わりに感光性樹脂を刷版に用いるもので、週刊誌のモノクロページ、シール、ラベル印刷などで使用されている。ただし現在では、週刊誌のモノクロページはほとんど平版オフセットで印刷されるようになった。フレキソ印刷は、ゴムや感光性樹脂の版を用い、刷版にインキを供給する部分にアニロックスロールと呼ばれるローラーを用いる方法である。アニロックスロールは、表面に規則正しい配列で凹みを彫刻し、その凹部に詰まったインキを版に供給するもので、用途に合わせて凹部の線数を選択することができる。印圧がほとんどない「キスタッチ」が理想とされ、段ボールライナー、包装フィルムなどの印刷に使用されている。
ドイツで印刷術が流行した時期、凸版印刷術のアイディアは、レオナルド・ダ・ヴィンチが考案し、印刷機の設計図も描いたが、実用化されるのは、その300年後となる(佐藤幸三編、文・青木昭 『図説 レオナルド・ダ・ヴィンチ』 河出書房新社 (初版1996年)6刷2006年 p.22)。一説にレオナルドの手稿が鏡文字を用いたのも、この印刷用の版を意識してのこととされる(同『図説 レオナルド・ダ・ヴィンチ』 p.22)。
印刷物には文字だけでなく挿し絵などの図版も必要とされることが多い。図や表などの線画から光学的にネガフィルムを作成し、それを感光剤を塗布した亜鉛版(または銅版)に焼き付ける。感光したところだけ硬化して皮膜となるので、塩酸などで金属を腐食させることで感光部(画線部)だけが凸状に残る線画凸版が出来上がる。
写真を印刷するための凸版を写真版という。詳細は#写真印刷を参考。
複製鉛版、ステロ版ともいう。活字や線画凸版を組版して作った原版は摩耗などにより一定枚数しか印刷出来ないのが通常であるため、原版に紙型を載せてプレス加圧を行って型を取り、その紙型を鋳型として鉛・錫・アンチモンの合金を流し込んで複製版が作られる。この際、半円形に鋳造した物を2つ組み合わせれば「丸鉛版」となり輪転機にかけることが可能となる。これによって大量印刷が可能となった。
版の凹凸を利用する印刷法の一つで、非画線部である凸部のインクを掻き取り凹部に付いたインクを紙に転写する方式。現在では電子彫刻された銅製のシリンダーを用いた刷版が使用されるため耐久性があり、大量の印刷に向いている。微細な線を表現できることから、偽造防止の目的で紙幣や収入印紙などに採用されることが多い。
また、グラビア印刷も凹版印刷の仲間と言える。グラビア版は、ほかの印刷方法のような錯覚を利用した濃淡表現と、凹部分の深さの違いによるインクの量の増減による濃淡の変化の双方が可能であるため、写真などの再現性に優れている。かつて、雑誌においては本文は凸版で印刷され、写真ページはグラビアで印刷されていたことから、転じて写真ページのことをグラビアページと呼ぶようになった。現在は本文、写真ともオフセット印刷が利用されることが多い。
平らな版の上に、化学的な処理により、親油性の画線部と親水性の非画線部を作成し、インキを画線部に乗せて、紙に転写する方式。 一般的にはオフセット印刷と同義で理解されているが、オフセットとはインキが版からゴム版に一度転写されることを指すのであり、本来、平版印刷と言うのが正しい。オフセットする凸版(ドライオフセット印刷など)や凹版(パッド印刷=タコ印刷など)もまれに存在する。石版印刷(リトグラフ、リソグラフィ)も平版の一種。
現代日本の出版物は、多くが平版オフセット印刷で刷られている。直刷りの凸版や凹版と違い、刷版上の画像が反転していないので間違いなどを見つけやすい。また高速、大量の印刷に適している。日本において平版印刷が普及した理由として写真植字が挙げられる。写真植字による版下作成はその後工程として製版フィルム化(集版)が不可欠であり、この工程を経る限り平版印刷が最適であるからである。カラー印刷(英語版)は殆どすべてこの方式である。
版(油紙など)に微細な孔を多数開け、圧力によってそこを通過したインクを紙などに転写する方式。
手軽な設備で実現できる。身近な代表例は理想科学工業のプリントゴッコやリソグラフ(製品名)。複製絵画に使用されるシルクスクリーンや、謄写版(ガリ版)も孔版の一種。文字や画像の印刷に限らず、物体表面に各種の機能性材料の皮膜を形成する技術として広く用いられている。一例では、カラーブラウン管のシャドーマスクや液晶表示装置のカラーフィルターといった部品が、印刷技術を用いて製造されている。別名ステンシル印刷とも称されるが、最近ではスクリーン印刷と呼ばれることが多い。ステンシルテンプレートは孔版の一種といえる。
無版印刷とは、製版フィルムや刷版などを作成することなく、直接、用紙に印刷する方式。
電子写真方式(静電記録方式)はオフィスなどで用いられるレーザープリンターに広く普及している方式。
熱転写方式には溶融型熱転写と染料熱転写がある。染料熱転写は染料の加熱による昇華を利用したため昇華型熱転写と呼ばれていたが、必ずしも昇華の原理を利用しないものも利用されるようになっている(ただし分類上は印刷の過程と関係なく昇華型熱転写が使われることもある)。
インクジェット方式は1980年代に電機系の会社を中心に開発された。
凸版や平版と異なり凹版では画線部を凹部で製版する。凹版印刷の代表であるグラビア印刷では、くぼみ(「セル」という)の深さにより印刷されるインキの量を調整できるため、網点を使うことなく色の濃淡を表現することができる。これをコンベンショナル法という。現在グラビア印刷で主流は網グラビア法で、これは網点を使った印刷手法である。
写真に連続階調があるのに対し、凸版印刷、平版印刷では白黒の場合、白と黒の2階調しか出力できない。そこで網点(ハーフトーンドット)の大小によって写真の濃淡を表現している。(網版法)
この手法が印刷に用いられるようになったのは、ドイツのマイゼンバッハらの発案を元に、1886年、アメリカのレビー兄弟が網スクリーンの実用化に成功したのが始まりである。
製版には黒と白しか出ない超硬性のリスフィルムが使用される。フィルムの前に一定の距離を空けてコンタクトスクリーン(網スクリーン)を置く。このスクリーンは格子状に光が透過する模様が入っており、写真の濃淡を黒い網点の大小に置き換えてリスフィルムに焼き付ける効果を持つ。こうして作られた網ネガが製版フィルムとなる。
なお、網の細かさは「網点の数/インチ」で表わされ、それをスクリーン線数という。新聞などインキのにじみやすい紙質のものは85線(1インチに85個の網点)、一般書籍は100線、写真中心の画集などは175線といった具合である。
凸版ではこうしてできた製版フィルムと亜鉛版(もしくは銅版)に感光剤を塗布したものを組み合わせて露光する。感光した部分だけが硬化して残り、他の部分が洗い落とされる。この亜鉛版を塩酸で腐食させることで感光した部分だけが凸状に残った写真版(網版)が出来上がる。活字と写真版から組版により印刷に用いる原版が出来上がる。
オフセット印刷に代表される平版でも基本的な原理は同じである。文字原稿から写植あるいは電算写植により版下が作成され、写真はコンタクトスクリーンによる露光によって網ネガが作られて、文字版下と組み合わされ網ポジが作られる。この網ポジがPS版に焼き付けられて製版される。
同人誌などをオフセット印刷に回す場合、濃淡部分は事前に網点化(網掛け/網入れ)しておくと料金が安く済むことが多い。個人用のプリンターで印刷したものの場合、既にこの処理は行われている。
カラー写真の場合、製版時にCMYK各色用フィルターを用いるなどして4色分解を行い、それぞれの色に対応した版を作る。この時用いる網スクリーンは格子の角度をそれぞれの色ごとに10~15度ずつずらしたものを使い、モアレの発生を抑制している。
2015年現在、商業印刷で主流のオフセット印刷では最新のCTPダイレクト刷版により製版フィルムが不要になっているケースがある。CTPによって写真は電子的に色分解や網点化が行われるため、スクリーンを使った光学的な置換はもはや行われない。
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"text": "印刷されたものを印刷物といい、印刷を業務として行っている会社を印刷会社といい、その工場を印刷工場という。",
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"text": "printの語源は、ラテン語の動詞「premere プレメーレ」でありこれは「押し付ける」という意味である。それが古フランス語で「preindre プランドル」となり、それが中期オランダ語で「prente」となり、それがオランダ語以外のゲルマン諸語にも広まってゆき、英語に1300年代に入り「print」となった。",
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"text": "「press プレス」は圧搾機から来ている。西洋では古くから、印刷機が登場する前から、圧搾機のことを「press プレス」と呼んでいた。グーテンベルクの印刷機は、もともと古くから西洋にあった、ワイン造りのためのブドウの圧搾機(wine press)を転用して開発したものである。この経緯で、圧搾機を意味した「プレス」は印刷機や印刷も意味するようになった。",
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"text": "ちなみに印刷の「印」の字は、今ではハンコという意味だが、もともとは、ハンコ(印璽)を爪で押さえて押捺(おうなつ)する人の姿の形をなぞった漢字である。つまり「印刷」というのはもともと、おさえて刷る、という意味の表現である。",
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"text": "現代の印刷の主流はオフセット印刷である。「経済産業省 平成30年(2018年)工業統計 品目編」では印刷事業所を印刷方式により、オフセット印刷 / 活版印刷 / グラビア印刷 / 特殊印刷 の4つに分類しているが、2017年の統計データで、印刷事業所の73%ほどがオフセット印刷である。現在では活版印刷は9%。1960年代などまでは活版印刷が主流であったが、その後オフセット印刷への移行が進み、1980年にはオフセットのほうが優勢となり、その割合が増してきた。",
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"text": "現代の一般的なオフセット印刷の製版工程の後半では、刷版(さっぱん。薄いアルミ板でできた版)を作る。印画紙を出力してからフィルムに転写し、そのフィルムからアルミ板に焼き付けたり、あるいは組版データをもとにして専用の装置を使い直接にアルミ製の刷版に焼き付ける。",
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"text": "印刷技術が発明されたのは、古代の中国であると考えられている。2世紀頃に中国で紙が発明され、7世紀から8世紀頃には木版印刷が行われていたといわれる。この木版印刷は朝鮮半島および日本にも伝来し、764年から770年にかけて現存する印刷物で製作年代がはっきりと判明しているものとしては世界最古のものである、日本の「百万塔陀羅尼」が印刷された。北宋に入ると木版印刷は広く普及し、多くの本が印刷されるようになった。また1041年ごろには畢昇が陶器による活字を発明した。この活字は朝鮮へと伝わり、金属活字による印刷が13〜14世紀の高麗でおこなわれている。ただし中国や日本においては文字数が膨大なものにのぼったこと、そして何よりも木版は版を長く保存しておけるのに対し、活版は印刷が終わればすぐに版を崩してしまうため再版のコストが非常に高くついたことから活字はそれほど普及せず、19世紀半ば以降にヨーロッパから再び金属活字が流入するまでは木版印刷が主流を占め続けていた。この木版印刷の技術はシルクロードを西進してヨーロッパにももたらされたが、その当時は本の複製はもっぱら写本が一般的であった。14世紀から15世紀ごろには、エッチングの技法がヨーロッパにおいて広がり、銅版印刷の技術が新たに生まれた。銅版は繊細な表現が可能であることから主に文字ではなく絵画の印刷に使用され、銅板による版画(銅版画)はルネサンス期以降広く使用されるようになった。",
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"text": "印刷に一大転機をもたらしたのが、1450年頃のヨハネス・グーテンベルクによる金属活字を用いた活版印刷技術の発明である。グーテンベルクは金属活字だけでなく、油性インキ、印刷機、活字の鋳造装置などを次々と開発し、これらを組み合わせて大量に印刷ができるシステムを構築して、印刷という産業が成り立つ基盤を整えた。さらにそれまで使用されていた羊皮紙よりもはるかに印刷に適していた紙を印刷用紙に使用した。こうしたことからそれまでとは比べ物にならないほど書物が簡単に生産できるようになり、印刷が急速に広まった。その伝播速度は非常に速く、発明から20年ほどたった1470年までには、発明されたドイツのマインツのみならず、ライン川流域やパリ、北イタリアやローマにすでに印刷所が設立され、それからさらに10年後の1480年までにはイングランド・フランス全域・アラゴン・ネーデルラント・北ドイツ、さらにはチェコやポーランド、ハンガリーにいたるヨーロッパの広い地域で活版印刷所が設立されていた。グーテンベルクの発明から1500年以前までに印刷された書物はインキュナブラ(揺籃期本、初期刊本)と呼ばれ、どれも貴重書であるため莫大な古書価がつくことも間々ある。当時の印刷物は、聖書を始めとする宗教書が半数近くを占めており、活版印刷による聖書の普及は、マルティン・ルターらによる宗教改革につながっていく。ただし当時の印刷物の増大は宗教書に限らず、学術や実用書などあらゆる分野の印刷物が激増した。",
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"text": "日本では、「百万塔陀羅尼」が作成されて以降二百数十年間、印刷物が出されることはなかったが、平安時代中期になって、摺経供養が盛んに行われるようになった。これが、奈良を中心とする寺院の間に、出版事業を興させるようになる。興福寺などで開版した印刷物を春日版と呼ぶ。鎌倉時代には高野山金剛峰寺でも出版を行うようになった。これは高野版と呼ばれる。13世紀頃からは、宋へ留学した僧がもたらした宋刊版の影響を受け、京都で五山版が出る。安土桃山時代に入ると、1590年にはイエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノによって加津佐に印刷機が輸入されて活字による印刷(キリシタン版)が始まった。近世以前は金属活字を用いたキリシタン版や駿河版といった例外を除き、木版印刷が中心だった。木活字はこの時期多用され、美麗な嵯峨本を始め多くの木活字本が江戸時代初期には出版されていたが、寛永年間からは木版が盛んとなり、寛文年間にはほぼ整版にとってかわられた。これは中国と同様、文字数が多く活字も膨大な量が必要だったことと、木版は版を長く保存しておけるのに対し、活版は印刷が終わればすぐに版を崩してしまうため再版のコストが非常に高くついたことが原因である。しかし活字印刷が絶えてしまったわけではなく、木活字印刷は江戸時代を通じ細々と続けられた。一方、木版印刷は発展を続け、庶民の読み物である赤本や黄表紙など、一気に出版文化が花開くことになる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "木版以外では、1783年に司馬江漢が腐食による彫刻銅版画を製作している。1856年には長崎奉行所内で活版による近代洋式印刷が始まる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "明治時代に入り、1870年には本木昌造が長崎に新町活版所を創立、これが日本における民間初の洋式活版の企業化である。1888年には合田清が木口木版(西洋木版)を日本に初めて紹介した。日本初の印刷専門誌『印刷雑誌』の創刊号(1891年)の表紙には、合田清の木口木版画が使われている。1896年には、小川一真が日本初の3色版印刷を発表した。1902年には、小倉倹司が一般刊行物では日本で最初の3色版印刷物を発表した(明治35年7月15日発行の「文藝倶楽部」第8巻第10号の口絵に発表した「薔薇花」)。1919年には、HBプロセス法が日本に移入された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1924年、石井茂吉と森澤信夫が邦文写真植字機の試作機を発表、1926年には写真植字機研究所を設立した。1929年、実用機が完成。その後2人は袂を分かち、それぞれ写研、モリサワとして写植オフセットの時代を支えていくことになる。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "1960年、電子製版機(カラースキャナ)が実用化され、1970年代には、国産4色同時分解スキャナが開発された。この頃から電算写植、オフセット印刷が主流となる。1978年発表の東芝JW-10においてかな漢字変換も登場、千年の悩みであった漢字問題解決の目処が立った。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "1985年、アメリカでDTPが始まり、1989年、日本初のフルDTP出版物『森の書物』が刊行された。この頃からデータのデジタル化が加速。オンデマンド印刷、電子出版などが徐々に現実となり始める。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "版の凹凸を利用する印刷法の一つで、非画線部を凹、画線部を凸にして凸部にインクをつけ、紙に転写する方式。",
"title": "版式による分類"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "活版印刷(活字や写真凸版・線画凸版、罫線などを組み合わせて版とする)はこの版式である。印刷時での圧力により紙に凹凸ができることがある。また、印刷された文字にマージナルゾーン(インクの横漏れにより、実際の活字の線幅以上の余分な太さとなる部分)が見られるなどの特徴がある。版が鉛製で取り扱いにくいこと、オフセット印刷の発達などにより、活版印刷は廃れた。現在主に行われている凸版印刷は、樹脂凸版印刷およびフレキソ印刷である。樹脂凸版印刷とは、活版の代わりに感光性樹脂を刷版に用いるもので、週刊誌のモノクロページ、シール、ラベル印刷などで使用されている。ただし現在では、週刊誌のモノクロページはほとんど平版オフセットで印刷されるようになった。フレキソ印刷は、ゴムや感光性樹脂の版を用い、刷版にインキを供給する部分にアニロックスロールと呼ばれるローラーを用いる方法である。アニロックスロールは、表面に規則正しい配列で凹みを彫刻し、その凹部に詰まったインキを版に供給するもので、用途に合わせて凹部の線数を選択することができる。印圧がほとんどない「キスタッチ」が理想とされ、段ボールライナー、包装フィルムなどの印刷に使用されている。",
"title": "版式による分類"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ドイツで印刷術が流行した時期、凸版印刷術のアイディアは、レオナルド・ダ・ヴィンチが考案し、印刷機の設計図も描いたが、実用化されるのは、その300年後となる(佐藤幸三編、文・青木昭 『図説 レオナルド・ダ・ヴィンチ』 河出書房新社 (初版1996年)6刷2006年 p.22)。一説にレオナルドの手稿が鏡文字を用いたのも、この印刷用の版を意識してのこととされる(同『図説 レオナルド・ダ・ヴィンチ』 p.22)。",
"title": "版式による分類"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "印刷物には文字だけでなく挿し絵などの図版も必要とされることが多い。図や表などの線画から光学的にネガフィルムを作成し、それを感光剤を塗布した亜鉛版(または銅版)に焼き付ける。感光したところだけ硬化して皮膜となるので、塩酸などで金属を腐食させることで感光部(画線部)だけが凸状に残る線画凸版が出来上がる。",
"title": "版式による分類"
},
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"text": "写真を印刷するための凸版を写真版という。詳細は#写真印刷を参考。",
"title": "版式による分類"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "複製鉛版、ステロ版ともいう。活字や線画凸版を組版して作った原版は摩耗などにより一定枚数しか印刷出来ないのが通常であるため、原版に紙型を載せてプレス加圧を行って型を取り、その紙型を鋳型として鉛・錫・アンチモンの合金を流し込んで複製版が作られる。この際、半円形に鋳造した物を2つ組み合わせれば「丸鉛版」となり輪転機にかけることが可能となる。これによって大量印刷が可能となった。",
"title": "版式による分類"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "版の凹凸を利用する印刷法の一つで、非画線部である凸部のインクを掻き取り凹部に付いたインクを紙に転写する方式。現在では電子彫刻された銅製のシリンダーを用いた刷版が使用されるため耐久性があり、大量の印刷に向いている。微細な線を表現できることから、偽造防止の目的で紙幣や収入印紙などに採用されることが多い。",
"title": "版式による分類"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "また、グラビア印刷も凹版印刷の仲間と言える。グラビア版は、ほかの印刷方法のような錯覚を利用した濃淡表現と、凹部分の深さの違いによるインクの量の増減による濃淡の変化の双方が可能であるため、写真などの再現性に優れている。かつて、雑誌においては本文は凸版で印刷され、写真ページはグラビアで印刷されていたことから、転じて写真ページのことをグラビアページと呼ぶようになった。現在は本文、写真ともオフセット印刷が利用されることが多い。",
"title": "版式による分類"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "平らな版の上に、化学的な処理により、親油性の画線部と親水性の非画線部を作成し、インキを画線部に乗せて、紙に転写する方式。 一般的にはオフセット印刷と同義で理解されているが、オフセットとはインキが版からゴム版に一度転写されることを指すのであり、本来、平版印刷と言うのが正しい。オフセットする凸版(ドライオフセット印刷など)や凹版(パッド印刷=タコ印刷など)もまれに存在する。石版印刷(リトグラフ、リソグラフィ)も平版の一種。",
"title": "版式による分類"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "現代日本の出版物は、多くが平版オフセット印刷で刷られている。直刷りの凸版や凹版と違い、刷版上の画像が反転していないので間違いなどを見つけやすい。また高速、大量の印刷に適している。日本において平版印刷が普及した理由として写真植字が挙げられる。写真植字による版下作成はその後工程として製版フィルム化(集版)が不可欠であり、この工程を経る限り平版印刷が最適であるからである。カラー印刷(英語版)は殆どすべてこの方式である。",
"title": "版式による分類"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "版(油紙など)に微細な孔を多数開け、圧力によってそこを通過したインクを紙などに転写する方式。",
"title": "版式による分類"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "手軽な設備で実現できる。身近な代表例は理想科学工業のプリントゴッコやリソグラフ(製品名)。複製絵画に使用されるシルクスクリーンや、謄写版(ガリ版)も孔版の一種。文字や画像の印刷に限らず、物体表面に各種の機能性材料の皮膜を形成する技術として広く用いられている。一例では、カラーブラウン管のシャドーマスクや液晶表示装置のカラーフィルターといった部品が、印刷技術を用いて製造されている。別名ステンシル印刷とも称されるが、最近ではスクリーン印刷と呼ばれることが多い。ステンシルテンプレートは孔版の一種といえる。",
"title": "版式による分類"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "無版印刷とは、製版フィルムや刷版などを作成することなく、直接、用紙に印刷する方式。",
"title": "版式による分類"
},
{
"paragraph_id": 40,
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"text": "電子写真方式(静電記録方式)はオフィスなどで用いられるレーザープリンターに広く普及している方式。",
"title": "版式による分類"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "熱転写方式には溶融型熱転写と染料熱転写がある。染料熱転写は染料の加熱による昇華を利用したため昇華型熱転写と呼ばれていたが、必ずしも昇華の原理を利用しないものも利用されるようになっている(ただし分類上は印刷の過程と関係なく昇華型熱転写が使われることもある)。",
"title": "版式による分類"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "インクジェット方式は1980年代に電機系の会社を中心に開発された。",
"title": "版式による分類"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "凸版や平版と異なり凹版では画線部を凹部で製版する。凹版印刷の代表であるグラビア印刷では、くぼみ(「セル」という)の深さにより印刷されるインキの量を調整できるため、網点を使うことなく色の濃淡を表現することができる。これをコンベンショナル法という。現在グラビア印刷で主流は網グラビア法で、これは網点を使った印刷手法である。",
"title": "写真印刷"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "写真に連続階調があるのに対し、凸版印刷、平版印刷では白黒の場合、白と黒の2階調しか出力できない。そこで網点(ハーフトーンドット)の大小によって写真の濃淡を表現している。(網版法)",
"title": "写真印刷"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "この手法が印刷に用いられるようになったのは、ドイツのマイゼンバッハらの発案を元に、1886年、アメリカのレビー兄弟が網スクリーンの実用化に成功したのが始まりである。",
"title": "写真印刷"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "製版には黒と白しか出ない超硬性のリスフィルムが使用される。フィルムの前に一定の距離を空けてコンタクトスクリーン(網スクリーン)を置く。このスクリーンは格子状に光が透過する模様が入っており、写真の濃淡を黒い網点の大小に置き換えてリスフィルムに焼き付ける効果を持つ。こうして作られた網ネガが製版フィルムとなる。",
"title": "写真印刷"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "なお、網の細かさは「網点の数/インチ」で表わされ、それをスクリーン線数という。新聞などインキのにじみやすい紙質のものは85線(1インチに85個の網点)、一般書籍は100線、写真中心の画集などは175線といった具合である。",
"title": "写真印刷"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "凸版ではこうしてできた製版フィルムと亜鉛版(もしくは銅版)に感光剤を塗布したものを組み合わせて露光する。感光した部分だけが硬化して残り、他の部分が洗い落とされる。この亜鉛版を塩酸で腐食させることで感光した部分だけが凸状に残った写真版(網版)が出来上がる。活字と写真版から組版により印刷に用いる原版が出来上がる。",
"title": "写真印刷"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "オフセット印刷に代表される平版でも基本的な原理は同じである。文字原稿から写植あるいは電算写植により版下が作成され、写真はコンタクトスクリーンによる露光によって網ネガが作られて、文字版下と組み合わされ網ポジが作られる。この網ポジがPS版に焼き付けられて製版される。",
"title": "写真印刷"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "同人誌などをオフセット印刷に回す場合、濃淡部分は事前に網点化(網掛け/網入れ)しておくと料金が安く済むことが多い。個人用のプリンターで印刷したものの場合、既にこの処理は行われている。",
"title": "写真印刷"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "カラー写真の場合、製版時にCMYK各色用フィルターを用いるなどして4色分解を行い、それぞれの色に対応した版を作る。この時用いる網スクリーンは格子の角度をそれぞれの色ごとに10~15度ずつずらしたものを使い、モアレの発生を抑制している。",
"title": "写真印刷"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2015年現在、商業印刷で主流のオフセット印刷では最新のCTPダイレクト刷版により製版フィルムが不要になっているケースがある。CTPによって写真は電子的に色分解や網点化が行われるため、スクリーンを使った光学的な置換はもはや行われない。",
"title": "写真印刷"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "en:Category:Printing press manufacturers",
"title": "主要印刷機械メーカー"
}
] | 印刷とは、版にインキをつけて、それを紙(など)に押し付け、版と表裏が逆の模様を何枚も簡単に速くつくること、その作業(仕事)。 | {{WikipediaPage|記事を印刷する方法|Help:印刷用バージョン}}
[[ファイル:Collage of printing.png|upright=1.5|thumb|左上から順に: 紀元前1800年ごろの[[バビロニア]]の[[円筒印章]]、インドの捺染用[[木版印刷]]ブロック、[[李氏朝鮮]]の[[活字]]、(2行目)[[活版印刷]]機、[[リトグラフ]]印刷機、[[オフセット印刷]]機、(3行目)[[ライノタイプ]]、[[デジタル印刷]]機、[[3Dプリンタ]]]]
'''印刷'''(いんさつ、{{lang-en-short|printingあるいはpress}})とは、[[版]]に[[インク|インキ]]をつけて、それを[[紙]](など)に押し付け、版と[[表と裏|表裏]]が逆の[[模様]]を何枚も簡単に速くつくること、その作業(仕事)<ref name="ND">『[[日本大百科全書]]』【印刷】</ref>。
== 概要 ==
印刷の基本から説明すると、まず[[版]]を作り、それに[[インク]]をつけて、[[紙]]など(紙以外のモノでもよい)に押し付けると、版と[[表と裏|表裏]]が逆の状態でインクがつく。その仕事(作業)を印刷という<ref name="ND" />。この作業で出来るものを印刷物という<ref name="ND" />。
たとえば[[木版]]で年賀状や季節の挨拶の葉書をつくるとして、葉書の大きさの絵を描いて板に張り、インキをつけたいところを残して他を彫刻刀で彫り下げる。この版にインキをつけ紙に押しつければ印刷物ができあがる。この場合、最初描いた絵を「原稿」、版をつくる作業を「[[製版]]」といい、最後のインキをつけて紙を押し付ける作業を狭義の意味で印刷という<ref name="ND" />。
印刷されたものを印刷物といい、印刷を業務として行っている会社を印刷会社といい、その工場を印刷工場という。
;語源。プリントとプレス
print(プリント)ともpress(プレス)ともいう。
printの語源は、[[ラテン語]]の動詞「premere プレメーレ」でありこれは「押し付ける」という意味である<ref name="etymonline">[https://www.etymonline.com/word/print Etymoline]</ref>。それが[[古フランス語]]で「preindre プランドル」となり、それが[[中期オランダ語]]で「prente」となり、それがオランダ語以外の[[ゲルマン語派|ゲルマン諸語]]にも広まってゆき、英語に1300年代に入り「print」となった<ref name="etymonline" />。
「press プレス」は[[圧搾機]]から来ている。西洋では古くから、印刷機が登場する前から、圧搾機のことを「press [[プレス]]」と呼んでいた。グーテンベルクの印刷機は、もともと古くから西洋にあった、ワイン造りのための[[ワイン圧搾機|ブドウの圧搾機]](wine press)を転用して開発したものである。この経緯で、圧搾機を意味した「プレス」は印刷機や印刷も意味するようになった。
ちなみに印刷の「印」の字は、今ではハンコという意味だが、もともとは、ハンコ(印璽)を爪で押さえて押捺(おうなつ)する人の姿の形をなぞった漢字である<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%8D%B0%28%E6%BC%A2%E5%AD%97%29-2784583]</ref>。つまり「印刷」というのはもともと、おさえて刷る、という意味の表現である。
;現代の印刷の傾向
現代の印刷の主流は[[オフセット印刷]]である。「経済産業省 平成30年(2018年)工業統計 品目編」では印刷事業所を印刷方式により、オフセット印刷 / [[活版印刷]] / グラビア印刷 / 特殊印刷 の4つに分類しているが、2017年の統計データで、印刷事業所の73%ほどがオフセット印刷である<ref name="JFPI_stats">出典:日本印刷産業連合会 各種統計[https://www.jfpi.or.jp/topics/detail/id=151] 。2017年に統計の対象となった8,517事業所のうち、6,247事業所がオフセット印刷。</ref>。現在では活版印刷は9%<ref name="JFPI_stats" />。1960年代などまでは活版印刷が主流であったが、その後オフセット印刷への移行が進み、1980年にはオフセットのほうが優勢となり、その割合が増してきた。
現代の一般的なオフセット印刷の製版工程の後半では、刷版(さっぱん。薄いアルミ板でできた版<ref>[https://nippon-pr-center.com/column/20181024-21/]</ref>)を作る。印画紙を出力してからフィルムに転写し、そのフィルムからアルミ板に焼き付けたり、あるいは組版データをもとにして専用の装置を使い直接にアルミ製の刷版に焼き付ける<ref>[https://ino-ue.jp/words/words_167]</ref>。
;統計
*2022年の世界の印刷産業の総売上は8210億ドル規模だった。<ref name="P_S">[https://cash4toners.com/printing-statistics/ Printing statistics]</ref>
*世界の印刷による収益の76%は産業的な印刷業者によるものである。<ref name="P_S" />
*世界の広告印刷は2019年から2020年にかけて18%増加した。<ref name="P_S" />
*中国
**中国の印刷の収益の50%は[[パッケージ]]印刷である。<ref name="P_S" />
**中国の印刷マーケットの30%は、伝統的な[[出版]]である。<ref name="P_S" />
**中国の印刷の売上はコロナウィルスのパンデミックの際には80%ダウンとなった。<ref name="P_S" />
== 歴史 ==
{{印刷の歴史}}
{{see also|記録技術の年表|活版印刷#歴史}}
印刷技術が発明されたのは、[[古代の中国]]であると考えられている。[[2世紀]]頃に[[中国]]で紙が発明され、[[7世紀]]から[[8世紀]]頃には[[木版印刷]]が行われていたといわれる<ref>『図説 本の歴史』p22 樺山紘一編、河出書房新社 2011年7月30日初版発行</ref>。この木版印刷は朝鮮半島および日本にも伝来し、[[764年]]から[[770年]]にかけて現存する印刷物で製作年代がはっきりと判明しているものとしては世界最古のものである、[[日本]]の「[[百万塔陀羅尼]]」が印刷された<ref>『図説 本の歴史』p30 樺山紘一編、河出書房新社 2011年7月30日初版発行</ref>。[[北宋]]に入ると木版印刷は広く普及し、多くの本が印刷されるようになった。また[[1041年]]ごろには[[畢昇]]が[[陶器]]による[[活字]]を発明した。この活字は朝鮮へと伝わり、金属活字による印刷が[[13世紀|13]]〜[[14世紀]]の[[高麗]]でおこなわれている。ただし中国や日本においては文字数が膨大なものにのぼったこと、そして何よりも木版は版を長く保存しておけるのに対し、活版は印刷が終わればすぐに版を崩してしまうため再版のコストが非常に高くついたことから活字はそれほど普及せず<ref>『日本語活字印刷史』p16-17 鈴木広光著、名古屋大学出版会 2015年2月15日初版第1刷 ISBN 978-4815807955</ref>、19世紀半ば以降にヨーロッパから再び金属活字が流入するまでは木版印刷が主流を占め続けていた。この木版印刷の技術はシルクロードを西進して[[ヨーロッパ]]にももたらされたが、その当時は本の複製はもっぱら[[写本]]が一般的であった。14世紀から15世紀ごろには、[[エッチング]]の技法がヨーロッパにおいて広がり、銅版印刷の技術が新たに生まれた。銅版は繊細な表現が可能であることから主に文字ではなく絵画の印刷に使用され、銅板による[[版画]](銅版画)は[[ルネサンス]]期以降広く使用されるようになった。
===活版印刷の発明===
[[ファイル:Prensa de Gutenberg. Réplica..png|200px|thumb|グーテンベルク印刷機のレプリカ。[[スペイン]]・[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]の博物館所蔵]]
印刷に一大転機をもたらしたのが、[[1450年]]頃の[[ヨハネス・グーテンベルク]]による金属活字を用いた[[活版印刷]]技術の発明である。グーテンベルクは金属活字だけでなく、油性[[インキ]]、[[印刷機]]、活字の鋳造装置などを次々と開発し<ref>『図説 本の歴史』p45 樺山紘一編、河出書房新社 2011年7月30日初版発行</ref>、これらを組み合わせて大量に印刷ができるシステムを構築して、印刷という産業が成り立つ基盤を整えた。さらにそれまで使用されていた[[羊皮紙]]よりもはるかに印刷に適していた紙を印刷用紙に使用した。こうしたことからそれまでとは比べ物にならないほど書物が簡単に生産できるようになり、印刷が急速に広まった。その伝播速度は非常に速く、発明から20年ほどたった[[1470年]]までには、発明されたドイツの[[マインツ]]のみならず、[[ライン川]]流域や[[パリ]]、[[北イタリア]]や[[ローマ]]にすでに印刷所が設立され、それからさらに10年後の[[1480年]]までには[[イングランド]]・[[フランス]]全域・[[アラゴン]]・[[ネーデルラント]]・[[北ドイツ]]、さらには[[チェコ]]や[[ポーランド]]、[[ハンガリー]]にいたるヨーロッパの広い地域で活版印刷所が設立されていた<ref>『図説 本の歴史』p46 樺山紘一編、河出書房新社 2011年7月30日初版発行</ref>。グーテンベルクの発明から[[1500年]]以前までに印刷された書物は[[インキュナブラ]]([[揺籃期本]]、[[初期刊本]])と呼ばれ、どれも貴重書であるため莫大な古書価がつくことも間々ある。当時の印刷物は、[[聖書]]を始めとする[[宗教書]]が半数近くを占めており、活版印刷による聖書の普及は、[[マルティン・ルター]]らによる[[宗教改革]]につながっていく。ただし当時の印刷物の増大は宗教書に限らず、学術や実用書などあらゆる分野の印刷物が激増した。
=== 活版印刷発明の影響 ===
[[ファイル:European Output of Printed Books ca. 1450–1800.png|thumb|1450年から1800年にかけてのヨーロッパの書籍発行数<ref>Buringh, Eltjo; van Zanden, Jan Luiten: "[https://www.jstor.org/stable/40263962 Charting the 'Rise of the West': Manuscripts and Printed Books in Europe, A Long-Term Perspective from the Sixth through Eighteenth Centuries]", The Journal of Economic History, Vol. 69, No. 2 (2009), pp. 409-445 (417, table 2)</ref>]]
印刷、特に活版印刷の発明は世界にいくつもの巨大な影響を与えた。この影響を総称して「印刷革命」と呼ばれることもある<ref>『歴史の中のコミュニケーション メディア革命の社会文化史』p108-111 デイヴィッド・クロウリー、ポール・ヘイヤー編、林進・大久保公雄訳、新曜社 1995年4月20日初版第1刷</ref>。直接的な影響の例としては、活版印刷によって[[本]]が大量に供給されることで、それまで非常に高価だった書籍が庶民でも手に入るようになった。そのことで知識の蓄積および交流がそれまでの社会に比べ格段に進むようになり、宗教改革をはじめとする数々の社会的変革を引き起こしていった。
印刷はまた、書物の規格化をももたらした。写本の場合誤記や文章の欠落は珍しいことでは全くなかったが、活版印刷は事前チェックが可能であり、もし誤りがあった場合も修正が容易であるため、[[誤植]]の可能性を加味しても手書き本に比べはるかに正確な文章が記されるようになった。同時期に発達した版画と活版印刷の組み合わせは、元の情報の正確な反復を可能にし、信頼できる正確な図版および文章の蓄積は[[科学革命]]の基盤となった<ref>「印刷・スペース・閉ざされたテキスト」ウォルター・オング(『歴史の中のコミュニケーション メディア革命の社会文化史』所収)p144 デイヴィッド・クロウリー、ポール・ヘイヤー編、林進・大久保公雄訳、新曜社 1995年4月20日初版第1刷</ref>。印刷によって書籍に整った文字が並ぶようになったことは、それまでの手書き本に比べて読解を容易なものとし、[[識字]]の有用性をより高めることとなった。こうした書籍の氾濫は、貴重な本を一人の人間が読み上げそれを周囲の大勢の人間が拝聴するという形で行われていた知識の伝達システムを変化させ、聴覚に代わり視覚が優位に立つ新しい方法が主流となった<ref>「印刷・スペース・閉ざされたテキスト」ウォルター・オング(『歴史の中のコミュニケーション メディア革命の社会文化史』所収)p135 デイヴィッド・クロウリー、ポール・ヘイヤー編、林進・大久保公雄訳、新曜社 1995年4月20日初版第1刷</ref>。
このほか、それまでの写本時代にはほとんど考慮されていなかった[[著作権]]が、活版印刷の開始後ほとんど時をおかずして各国で次々と保護されるようになっていったことも印刷の大きな影響のひとつである。活版印刷の発明以前においては写本自体が[[写字生]]の確保などで非常に高コストなものであり、本自体も手書きのため発行量が非常に少なく、著者に写本の際なんらかの報酬が入ることはほとんどなかった。しかし活版印刷によって大量の書籍が一度に生産できるようになると、他者の出版物を無断で複製し再出版することが横行するようになり、著者並びに出版業者に対する権利の保護が急務となった。[[1518年]]に[[イングランド]]において[[ヘンリー8世]]が出版業者のリチャード・ピンソンに対し彼の出版物の他者再刊禁止を認めたのは、こうした動きの初期の例である<ref>「印刷・スペース・閉ざされたテキスト」ウォルター・オング(『歴史の中のコミュニケーション メディア革命の社会文化史』所収)p149 デイヴィッド・クロウリー、ポール・ヘイヤー編、林進・大久保公雄訳、新曜社 1995年4月20日初版第1刷</ref>。
===近代における印刷技術の改良===
その後、欧米においては長らく活版による文字、[[凹版]]による絵画、挿絵の印刷が行われた。活版印刷は熟練の植字工が必要であり、いまだ大量の印刷物を素早く印刷するというわけにはいかなかった。[[1642年]]にはドイツのルートヴィヒ・フォン・ジーゲンが[[メゾチント]]を発明した。18世紀初頭には[[スコットランド]]のウィリアム・ゲドが[[鉛版]]を考案した。これは組みあがった活字に可塑性のあるものをかぶせて雌型を作り、それに[[鉛]]を注いで印刷用の板を再作成する方法で、組みあがった活字の再作成が容易になり、再版のコストを大きく下げた<ref>「世界を変えた100の本の歴史図鑑 古代エジプトのパピルスから電子書籍まで」p180 ロデリック・ケイヴ、サラ・アヤド著、樺山紘一日本語版監修 大山晶訳、原書房 2015年5月25日第1刷</ref>。こうした鉛版には当初[[粘土]]、次いで[[石膏]]が使われていたが、19世紀前半にフランスのジュヌーが紙を使って[[紙型]]を作成することを考案し、以後この方法が主流となった。[[1798年]]にドイツの[[アロイス・ゼネフェルダー|セネフェルダー]]が[[石版印刷]]([[リトグラフ]])を発明。これが[[平版印刷]]の始めとなる。[[1800年]]にはイギリスのチャールズ・スタンホープ(スタナップ)が鉄製の印刷機を発明し、それまでの木製のグーテンベルク印刷機にとってかわった。[[1811年]]にはドイツのフリードリヒ・ケーニヒが蒸気式の印刷機を開発し、印刷能力は大幅に向上した。
{| class="wikitable" style="margin:1px; border:1px solid #cccccc; "
|----- align="left" valign="top" bgcolor="#cccccc"
|-
|
! colspan="2" | 手動
! colspan="4" | 蒸気式
|-
! width="10%" |
! width="10%" | [[ヨハネス・グーテンベルク|グーテンベルク]]型印刷機 <br />{{Small|1600年ごろ}}
! width="10%" | [[チャールズ・スタンホープ|スタンホープ]]印刷機<br />{{Small|1800年ごろ}}
! width="10%" | [[フリードリヒ・ケーニヒ|ケーニヒ]]印刷機<br />{{Small|1812年}}<!-- British patent nos. 3496 and 3725 -->
! width="10%" | ケーニヒ印刷機<br />{{Small|1813年}}<!-- British patent no. 3725 (Doppelmaschine) -->
! width="10%" | ケーニヒ印刷機<br />{{Small|1814年}}<!-- British patent no. 3868 -->
! width="10%" | ケーニヒ印刷機<br />{{Small|1818年}}<!-- British patent no. 3868 (Zweitourenmaschine) -->
|-
|1時間当たりの印刷枚数
| 200 <ref>{{cite journal|last1=Pollak |first1=Michael|title=The performance of the wooden printing press|journal=The library quarterly|date=1972|volume=42|issue=2|pages=218-264.|url=https://www.jstor.org/stable/4306163|accessdate=10 May 2017}}</ref>|| 480 <ref>Hans Bolza: Friedrich Koenig und die Erfindung der Druckmaschine. In: Technikgeschichte. 34巻1号, 1967, p79-89|p=80</ref> || 800 <ref>Hans Bolza: Friedrich Koenig und die Erfindung der Druckmaschine. In: Technikgeschichte. 34巻1号, 1967, p79-89|p=83</ref> || 1,100 <ref>Hans Bolza: Friedrich Koenig und die Erfindung der Druckmaschine. In: Technikgeschichte. 34巻1号, 1967, p79-89|p=87</ref> || 2,000 <ref name="名前なし-1">Hans Bolza: Friedrich Koenig und die Erfindung der Druckmaschine. In: Technikgeschichte. 34巻1号, 1967, p79-89|p=88</ref> || 2,400 <ref name="名前なし-1"/>
|-
|}
[[1851年]]には[[輪転印刷機]]が発明された<ref>『ビジュアル版 本の歴史文化図鑑 5000年の書物の力』p132 マーティン・ライアンズ著、蔵持不三也監訳、三芳康義訳、柊風舎 2012年5月22日第1刷</ref>。こうした機械化によって、印刷物はより速く大量生産でき安価なものとなった。[[1884年]]には[[オットマー・マーゲンターラー]]が[[ライノタイプ]]と呼ばれる鋳植機を発明し、これによって印刷工が1行ごとにまるごと活字を鋳造できるようになり印刷はより効率化した<ref>『図説 世界史を変えた50の機械』p49 エリック・シャリーン著、柴田譲治訳、原書房 2013年9月30日第1刷</ref>。現在主流となっている平版[[オフセット印刷]]は、[[1904年]]にアメリカの[[リューベル|ルーベル]]が発明したといわれているが、それ以前にイギリスではブリキ印刷の分野で使用されていた。ルーベルの発明は紙への平版オフセット印刷である。[[1938年]]にはアメリカの[[チェスター・カールソン]]が[[ゼログラフィ]](静電写真法)を発明し、[[1942年]]に特許を取得した。この発明は[[複写機]]の技術的基礎となり、[[1960年]]にハロイド社(のちの[[ゼロックス]])がこれを商品化したことでコピー機は全世界に普及した<ref>『世界の発明発見歴史百科』p326-327 テリー・プレヴァートン著、日暮雅通訳、原書房 2015年9月28日第1刷</ref>。[[1985年]]にはアメリカで[[DTP]]が始まった。
=== デジタル印刷の出現 ===
古代から印刷には必ず(物体の)版が必要とされていたが、1990年代以降、<u>製版データは作成する</u>が実用版(刷版)を出力しないデジタル印刷が出現した<ref name="dodp">{{Cite web|和書|url=https://www.dodpcenter.com/pdf/info_20180329.pdf |title=進化するデジタル印刷展が始まります|publisher=デジタル・オンデマンド出版センター |accessdate=2020-06-22}}</ref>。
(なお、それでも必ず一旦、電子的な版を作成する。電子的な版すら作成せずに、いきなりモノの表面に何かを描くような作業はprinting印刷とは基本的に言わない。版も作成せずに何かを描く作業は印刷ではなく、drawing(ドローイング)や writing(ライティング)である。)
技術的な意味での世界初のデジタルカラー印刷機は1991年にドイツのハイデルベルク社が発表したGTO-DIとされている<ref name="dodp" />。
1993年にはイスラエルのインディゴ社が電子写真方式のE-print1000を発表した<ref name="dodp" />。電子写真方式の印刷機に用いられるエレクトロインキはブランケット胴に残らず、一回転ごとに異なる画像を印刷できる画期的なものであった<ref name="dodp" />。
一方、インクジェット方式は1990年代に日本でデジタルカメラとともに流行<ref name="dodp" />。産業用のインクジェット方式のプリンタは2011年頃から大型のものが次々と登場した<ref name="dodp" />。
===日本における歴史===
[[ファイル:Azumakagami 04.jpg|thumb|250px|『吾妻鏡』[[古活字本]]寛永版・[[林羅山]]の跋文]]
日本では、「百万塔陀羅尼」が作成されて以降二百数十年間、印刷物が出されることはなかったが、[[平安時代]]中期になって、摺経供養が盛んに行われるようになった。これが、奈良を中心とする寺院の間に、出版事業を興させるようになる。[[興福寺]]などで開版した印刷物を[[春日版]]と呼ぶ。[[鎌倉時代]]には[[高野山金剛峰寺]]でも出版を行うようになった。これは[[高野版]]と呼ばれる。13世紀頃からは、[[宋 (王朝)|宋]]へ留学した僧がもたらした宋刊版の影響を受け、京都で[[五山版]]が出る。[[安土桃山時代]]に入ると、[[1590年]]には[[イエズス会]]の[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]によって[[加津佐町|加津佐]]に印刷機が輸入されて活字による印刷([[キリシタン版]])が始まった<ref>『日本語活字印刷史』p17 鈴木広光著、名古屋大学出版会 2015年2月15日初版第1刷 ISBN 978-4815807955</ref>。[[近世]]以前は金属活字を用いたキリシタン版や[[駿河版]]といった例外を除き、[[木版印刷]]が中心だった。[[木活字]]はこの時期多用され、美麗な[[嵯峨本]]を始め多くの木活字本が[[江戸時代]]初期には出版されていたが、[[寛永]]年間からは木版が盛んとなり、[[寛文]]年間にはほぼ[[整版]]にとってかわられた。これは中国と同様、文字数が多く活字も膨大な量が必要だったことと、木版は版を長く保存しておけるのに対し、活版は印刷が終わればすぐに版を崩してしまうため再版のコストが非常に高くついたことが原因である<ref>『日本語活字印刷史』p109-110 鈴木広光著、名古屋大学出版会 2015年2月15日初版第1刷 ISBN 978-4815807955</ref>。しかし活字印刷が絶えてしまったわけではなく、木活字印刷は江戸時代を通じ細々と続けられた<ref>『日本語活字印刷史』p110 鈴木広光著、名古屋大学出版会 2015年2月15日初版第1刷 ISBN 978-4815807955</ref>。一方、木版印刷は発展を続け、庶民の読み物である[[赤本 (少年向け本)|赤本]]や[[黄表紙]]など、一気に[[出版]]文化が花開くことになる。
木版以外では、[[1783年]]に[[司馬江漢]]が腐食による彫刻[[銅版画]]を製作している。[[1856年]]には長崎奉行所内で活版による近代洋式印刷が始まる。
[[明治]]時代に入り、[[1870年]]には[[本木昌造]]が長崎に新町活版所を創立、これが日本における民間初の洋式活版の企業化である。[[1888年]]には[[合田清]]が[[木口木版]](西洋木版)を日本に初めて紹介した。日本初の印刷専門誌『[[印刷雑誌]]』の創刊号([[1891年]])の表紙には、合田清の木口木版画が使われている。[[1896年]]には、[[小川一真]]が日本初の[[3色版]]印刷を発表した。[[1902年]]には、[[小倉倹司]]が一般刊行物では日本で最初の3色版印刷物を発表した(明治35年7月15日発行の「[[文芸倶楽部|文藝倶楽部]]」第8巻第10号の口絵に発表した「薔薇花」)。[[1919年]]には、[[HBプロセス法]]が日本に移入された。
[[1924年]]、[[石井茂吉]]と[[森澤信夫]]が邦文[[写真植字機]]の試作機を発表、[[1926年]]には写真植字機研究所を設立した。[[1929年]]、実用機が完成。その後2人は袂を分かち、それぞれ[[写研]]、[[モリサワ]]として写植オフセットの時代を支えていくことになる。
[[1960年]]、[[電子製版機]]([[カラースキャナ]])が実用化され、[[1970年代]]には、国産4色同時分解[[スキャナ]]が開発された。この頃から[[電算写植]]、[[オフセット印刷]]が主流となる。[[1978年]]発表の[[東芝]][[JW-10]]において[[かな漢字変換]]も登場、千年の悩みであった漢字問題解決の目処が立った。
[[1985年]]、アメリカで[[DTP]]が始まり、[[1989年]]、日本初のフルDTP出版物『[[森の書物]]』が刊行された。この頃からデータの[[デジタル]]化が加速。[[オンデマンド印刷]]、[[電子出版]]などが徐々に現実となり始める。
== 版式による分類 ==
===有版式===
{|
|-
| [[file:凸版.png|200px]] || [[file:平版.png|200px]] || [[file:凹版.png|200px]]
|-
| colspan="3" |版の色々
|}
==== 凸版 ====
{{右|<gallery widths="120px" heights="150px">
File:Yoshiiku (1862) key block face b.jpg|浮世絵の木版
File:Potato Stamps-Chinese New Year.jpg|芋版
</gallery>}}
{{see also|レリーフ印刷}}
版の凹凸を利用する印刷法の一つで、非画線部を凹、画線部を凸にして凸部にインクをつけ、紙に転写する方式<ref name="名前なし-pZE0-1">「トコトンやさしい紙と印刷の本」(今日からモノ知りシリーズ)p60 前田秀一 日刊工業新聞社 2018年12月19日初版1刷発行</ref>。
活版印刷(活字や写真凸版・線画凸版、罫線などを組み合わせて版とする)はこの版式である。印刷時での圧力により紙に凹凸ができることがある<ref name="名前なし-pZE0-1"/>。また、印刷された文字にマージナルゾーン(インクの横漏れにより、実際の活字の線幅以上の余分な太さとなる部分)が見られるなどの特徴がある。版が鉛製で取り扱いにくいこと、オフセット印刷の発達などにより、活版印刷は廃れた。現在主に行われている凸版印刷は、[[合成樹脂|樹脂]]凸版印刷および[[フレキソ]]印刷である。樹脂凸版印刷とは、活版の代わりに感光性樹脂を刷版に用いるもので、週刊誌のモノクロページ、シール、ラベル印刷などで使用されている。ただし現在では、週刊誌のモノクロページはほとんど平版オフセットで印刷されるようになった。フレキソ印刷は、ゴムや感光性樹脂の版を用い、刷版にインキを供給する部分にアニロックスロールと呼ばれるローラーを用いる方法である。アニロックスロールは、表面に規則正しい配列で凹みを彫刻し、その凹部に詰まったインキを版に供給するもので、用途に合わせて凹部の線数を選択することができる。印圧がほとんどない「キスタッチ」が理想とされ、段ボールライナー、包装フィルムなどの印刷に使用されている。
ドイツで印刷術が流行した時期、凸版印刷術のアイディアは、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]が考案し、印刷機の設計図も描いたが、実用化されるのは、その300年後となる(佐藤幸三編、文・青木昭 『図説 レオナルド・ダ・ヴィンチ』 河出書房新社 (初版1996年)6刷2006年 p.22)。一説にレオナルドの手稿が[[鏡文字]]を用いたのも、この印刷用の版を意識してのこととされる(同『図説 レオナルド・ダ・ヴィンチ』 p.22)。
===== 線画凸版 =====
印刷物には文字だけでなく[[挿し絵]]などの[[図版]]も必要とされることが多い。図や表などの線画から光学的に[[ネガフィルム]]を作成し、それを[[感光剤]]を塗布した亜鉛版(または銅版)に焼き付ける。感光したところだけ硬化して皮膜となるので、[[塩酸]]などで金属を腐食させることで感光部(画線部)だけが凸状に残る線画凸版が出来上がる。
===== 写真版 =====
写真を印刷するための凸版を写真版という。詳細は[[#写真印刷]]を参考。
===== 鉛版 =====
{{main|鉛版}}
複製鉛版、ステロ版ともいう。活字や線画凸版を組版して作った原版は摩耗などにより一定枚数しか印刷出来ないのが通常であるため、原版に[[紙型]]を載せてプレス加圧を行って型を取り、その紙型を鋳型として[[鉛]]・[[錫]]・[[アンチモン]]の[[合金]]を流し込んで複製版が作られる。この際、半円形に鋳造した物を2つ組み合わせれば「丸鉛版」となり[[輪転機]]にかけることが可能となる。これによって大量印刷が可能となった。
[[File:Intaglio-printing.svg|thumb|140px|凹版の基本的仕組み<br />(下の版にある凹部分のインクが紙(上)に転写される)]]
==== 凹版 ====
{{main|凹版印刷}}
版の凹凸を利用する印刷法の一つで、非画線部である凸部のインクを掻き取り凹部に付いたインクを紙に転写する方式。現在では電子彫刻された銅製のシリンダーを用いた刷版が使用されるため耐久性があり、大量の印刷に向いている。微細な線を表現できることから、偽造防止の目的で[[紙幣]]や[[収入印紙]]などに採用されることが多い。
また、[[グラビア印刷]]も凹版印刷の仲間と言える。グラビア版は、ほかの印刷方法のような錯覚を利用した濃淡表現と、凹部分の深さの違いによるインクの量の増減による濃淡の変化の双方が可能であるため、写真などの再現性に優れている。かつて、雑誌においては本文は凸版で印刷され、写真ページはグラビアで印刷されていたことから、転じて写真ページのことをグラビアページと呼ぶようになった。現在は本文、写真ともオフセット印刷が利用されることが多い<ref>「トコトンやさしい紙と印刷の本」(今日からモノ知りシリーズ)p62 前田秀一 日刊工業新聞社 2018年12月19日初版1刷発行</ref>。
==== 平版 ====
{{main|平版印刷}}
[[ファイル:Offset print ja.png|サムネイル|オフセット印刷]]
平らな版の上に、化学的な処理により、親油性の画線部と親水性の非画線部を作成し、インキを画線部に乗せて、紙に転写する方式<ref>「トコトンやさしい紙と印刷の本」(今日からモノ知りシリーズ)p66 前田秀一 日刊工業新聞社 2018年12月19日初版1刷発行</ref>。
一般的には[[オフセット印刷]]と同義で理解されているが、オフセットとはインキが版からゴム版に一度転写されることを指すのであり、本来、平版印刷と言うのが正しい。オフセットする凸版(ドライオフセット印刷など)や凹版(パッド印刷=タコ印刷など)もまれに存在する。石版印刷(リトグラフ、リソグラフィ)も平版の一種。
現代日本の出版物は、多くが平版オフセット印刷で刷られている。直刷りの凸版や凹版と違い、刷版上の画像が反転していないので間違いなどを見つけやすい。また高速、大量の印刷に適している。日本において平版印刷が普及した理由として[[写真植字]]が挙げられる。写真植字による版下作成はその後工程として製版フィルム化(集版)が不可欠であり、この工程を経る限り平版印刷が最適であるからである。{{仮リンク|カラー印刷|en|Color printing}}は殆どすべてこの方式である。
==== 孔版 ====
版(油紙など)に微細な孔を多数開け、圧力によってそこを通過したインクを紙などに転写する方式。
手軽な設備で実現できる。身近な代表例は[[理想科学工業]]の[[プリントゴッコ]]や[[リソグラフ]](製品名)。複製絵画に使用される[[シルクスクリーン]]や、[[謄写版]](ガリ版)も孔版の一種。文字や画像の印刷に限らず、物体表面に各種の機能性材料の皮膜を形成する技術として広く用いられている。一例では、カラー[[ブラウン管]]のシャドーマスクや[[液晶ディスプレイ|液晶表示装置]]のカラーフィルターといった部品が、印刷技術を用いて製造されている。別名ステンシル印刷とも称されるが、最近では[[シルクスクリーン|スクリーン印刷]]と呼ばれることが多い。[[ステンシルテンプレート]]は孔版の一種といえる。
=== 無版式 ===
無版印刷とは、製版フィルムや刷版などを作成することなく、直接、用紙に印刷する方式。
==== 電子写真方式(静電記録方式) ====
電子写真方式(静電記録方式)はオフィスなどで用いられる[[レーザープリンター]]に広く普及している方式<ref name="abe">{{Cite journal|和書|author=阿部隆夫 |title=デジタルプリントシステムの現状と将来への期待 |journal=日本写真学会誌 |issn=03695662 |publisher=日本写真学会 |year=2003 |month=oct |volume=66 |issue=5 |pages=452-457 |naid=10011928143 |doi=10.11454/photogrst1964.66.452 |url=https://hdl.handle.net/10091/1451}}</ref>。
{{See|レーザープリンター}}
==== 熱転写方式 ====
熱転写方式には溶融型熱転写と染料熱転写がある<ref name="abe" />。染料熱転写は染料の加熱による昇華を利用したため昇華型熱転写と呼ばれていたが、必ずしも昇華の原理を利用しないものも利用されるようになっている(ただし分類上は印刷の過程と関係なく昇華型熱転写が使われることもある)<ref name="abe" />。
{{See|サーマルプリンター}}
==== インクジェット方式 ====
インクジェット方式は1980年代に電機系の会社を中心に開発された<ref name="abe" />。
{{See|インクジェットプリンター}}
== 写真印刷 ==
[[ファイル:Gradation expression of intaglio and relief.svg|thumb|140px|(a) 凹版はセルの深さで濃淡を表現できる。<br />(b) 凸版は網点の大きさで濃淡を表現する。]]
=== 凹版 ===
凸版や平版と異なり凹版では画線部を凹部で製版する。凹版印刷の代表である[[グラビア印刷]]では、くぼみ(「セル」という)の深さにより印刷されるインキの量を調整できるため、網点を使うことなく色の濃淡を表現することができる。これをコンベンショナル法という。現在グラビア印刷で主流は網グラビア法で、これは網点を使った印刷手法である。
=== 網点 ===
{{main|網点}}
[[ファイル:Halftone example black and white.png|thumb|right|100px|モノクロ網点、45°スクリーン]]
[[ファイル:Halftone example CMYK.png|thumb|right|100px|同じ写真のカラー/CMYK網点]]
[[ファイル:CMYK screen angles.svg|thumb|250px|CMYK網点スクリーン角度の例]]
写真に連続[[階調]]があるのに対し、[[凸版印刷]]、平版印刷では白黒の場合、白と黒の2階調しか出力できない。そこで[[網点]](ハーフトーンドット)の大小によって写真の濃淡を表現している。(網版法)
この手法が印刷に用いられるようになったのは、ドイツのマイゼンバッハらの発案を元に、[[1886年]]、アメリカのレビー兄弟が網スクリーンの実用化に成功したのが始まりである<ref name="hayawakari">{{Cite book|和書|author=日本印刷新聞社|title=早わかり印刷の知識: “版式の原理”から“デジタル技術”の基礎まで|publisher=日本印刷新聞社|year=2006|isbn=978-4888841627}}</ref>。
製版には黒と白しか出ない超硬性の[[リスフィルム]]が使用される。フィルムの前に一定の距離を空けてコンタクトスクリーン(網スクリーン)を置く。このスクリーンは格子状に光が透過する模様が入っており、写真の濃淡を黒い網点の大小に置き換えてリスフィルムに焼き付ける効果を持つ。こうして作られた網ネガが製版フィルムとなる。
なお、網の細かさは「網点の数/インチ」で表わされ、それを[[スクリーン線数]]という。新聞などインキのにじみやすい紙質のものは85線(1インチに85個の網点)、一般書籍は100線、写真中心の画集などは175線といった具合である。
凸版ではこうしてできた製版フィルムと亜鉛版(もしくは銅版)に[[感光剤]]を塗布したものを組み合わせて露光する。感光した部分だけが硬化して残り、他の部分が洗い落とされる。この亜鉛版を[[塩酸]]で腐食させることで感光した部分だけが凸状に残った写真版(網版)が出来上がる。活字と写真版から[[組版]]により印刷に用いる原版が出来上がる。
オフセット印刷に代表される平版でも基本的な原理は同じである。文字原稿から[[写植]]あるいは[[電算写植]]により版下が作成され、写真はコンタクトスクリーンによる露光によって網ネガが作られて、文字版下と組み合わされ網ポジが作られる。この網ポジがPS版に焼き付けられて製版される<ref name="hayawakari" />。
[[同人誌]]などをオフセット印刷に回す場合、濃淡部分は事前に網点化(網掛け/網入れ)しておくと料金が安く済むことが多い。個人用の[[プリンター]]で印刷したものの場合、既にこの処理は行われている。
カラー写真の場合、製版時に[[CMYK]]各色用フィルターを用いるなどして[[色分解|4色分解]]を行い、それぞれの色に対応した版を作る。この時用いる網スクリーンは格子の角度をそれぞれの色ごとに10~15度ずつずらしたものを使い、[[モアレ]]の発生を抑制している。
[[2015年]]現在、商業印刷で主流のオフセット印刷では最新の[[コンピューター・トゥ・プレート|CTP]]ダイレクト刷版により製版フィルムが不要になっているケースがある。CTPによって写真は電子的に色分解や網点化が行われるため、スクリーンを使った光学的な置換はもはや行われない。
==印刷方法の比較==
<!-- TODO: needs intro text? -->
<!-- TODO: needs price and run-size comparison, but MUST be cited -->
{| class="wikitable sortable"
|+印刷方法の比較<ref name="kipphan130-144">{{Cite book |last=Kipphan |first=Helmut |title=Handbook of print media: technologies and production methods |publisher=Springer |year=2001 |edition=Illustrated |pages=130-144 |url=https://books.google.com/books?id=VrdqBRgSKasC |isbn=3-540-67326-1}}</ref>
|-
! 印刷方法
! 転送方法
! 圧力
! インク量
! 粘度
! インクの厚さ
! class="unsortable" | 備考
! 費用対効果の高い印刷枚数<!-- cite this column, please ?~~~~ -->
|-
| [[オフセット印刷]]
| ローラー
| 1 MPa
|
| 40-100 Pa・s
| 0.5-1.5 μm
| 高い印刷品質
| >5,000 ([[ISO 216|A3仕上げ寸法]], sheet-fed)<ref name="kipphan976-979">{{Cite book |last=Kipphan |first=Helmut |title=Handbook of print media: technologies and production methods |publisher=Springer |year=2001 |edition=Illustrated |pages=976?979 |url=https://books.google.com/books?id=VrdqBRgSKasC |isbn=3-540-67326-1}}</ref>
>30,000 ([[ISO 216|A3仕上げ寸法]], 巻取印刷機)<ref name="kipphan976-979" />
|-
| [[グラビア印刷]]
| ローラー
| 3 MPa
|
| 50-200 mPa・s
| 0.8-8 μm
| インク層を厚くすることができる<br />画像再現性に優れる<br />印刷のふちがギザギザになる<ref name="kipphan48-52">{{Cite book |last=Kipphan |first=Helmut |title=Handbook of print media: technologies and production methods |publisher=Springer |year=2001 |edition=Illustrated |pages=48-52 |url=https://books.google.com/books?id=VrdqBRgSKasC |isbn=3-540-67326-1}}</ref>
| >500,000<ref name="kipphan48-52" />
|-
| [[フレキソ印刷]]
| ローラー
| 0.3 MPa
|
| 50-500 mPa・s
| 0.8-2.5 μm
| 高品質
|
|-
| [[活版印刷]]
| 圧盤
| 10 MPa
|
| 50-150 Pa・s
| 0.5-1.5 μm
| 乾くのが遅い
|
|-
| [[スクリーン印刷]]
| スクリーンの穴を通してインクを押し込む
|
|
|
| <12 μm
| 多彩な方法がある<br />低品質
|
|-
| [[ゼログラフィ]]
| [[静電気]]
|
|
|
| 5-10 μm
| インクが厚い
|
|-
| 液体ゼログラフィ
| 静電気
|
|
|
|
| 画像再現性に優れる、多彩な媒体に印刷可能、非常に薄い画像
|
|-
| [[インクジェットプリンター]]
| 熱
|
| 5-30ピコリットル(pl)
| 1-5 Pa・s{{citation needed|date=April 2014}}
| <0.5 μm
| インク消費を減らすための特殊用紙が必要
| <350 ([[ISO 216|A3仕上げ寸法]])<ref name="kipphan976-979" />
|-
| [[インクジェットプリンター]]
| 圧電
|
| 4-30 pl
| 5-20 mPa s
| <0.5 μm
| インク消費を減らすための特殊用紙が必要
| <350 ([[ISO 216|A3仕上げ寸法]])<ref name="kipphan976-979" />
|-
| [[インクジェットプリンター]]
| 連続
|
| 5-100 pl
| 1-5 mPa・s
| <0.5 μm
| インク消費を減らすための特殊用紙が必要
| <350 ([[ISO 216|A3仕上げ寸法]])<ref name="kipphan976-979" />
|-
| [[転写]]
| 熱転写フィルムまたは水圧による転写
|
|
|
|
| 湾曲した表面または凹凸のある表面に画像を大量印刷可能
|
|}
== 主要印刷会社 ==
{{main|印刷会社}}
== 主要印刷機械メーカー ==
;世界
[[:en:Category:Printing press manufacturers]]
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[[Category:情報技術史]] | 2003-02-21T16:07:54Z | 2023-11-15T12:44:07Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E5%88%B7 |
2,674 | 雪舟 | 雪舟(せっしゅう、応永27年(1420年) - 永正3年(1506年)8月8日(諸説あり))は、日本の室町時代に活躍した水墨画家・禅僧(画僧)。「雪舟」は号で、諱は「等楊(とうよう)」と称した。
備中国(現在の岡山県総社市)に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護を受け周防国に移る。その後、遣明船に同乗して中国(明)に渡り、李在より中国の画法を学んだ。
現存する作品の大部分は中国風の水墨山水画であるが、肖像画の作例もあり、花鳥画もよくしたと伝える。宋・元の古典や明代の浙派の画風を吸収しつつ、各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立した点での功績が大きい。後の日本画壇へ与えた影響は大きい。
作品のうち『天橋立図』『秋冬山水画』『四季山水図巻』『破墨山水図』『慧可断臂図』『山水図』の6点が国宝に指定されており、日本の絵画史において別格の高評価を受けているといえる。この他に『花鳥図屏風』など「伝雪舟筆」とされる作品は多く、真筆であるか否か、専門家の間でも意見の分かれる作品も多い。弟子に周徳、等悦、秋月、宗淵、等春らがいる。
応永27年(1420年)、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれる。生家は小田氏という武家とされている。幼い頃近くの宝福寺に入る。当時、文芸で身を立てるには、寺に入るのが唯一の道であり、室町時代は禅僧が学問・文芸の分野を担っていた。10歳頃に京都の相国寺へ移り、春林周藤に師事して禅宗の修行を積むとともに、天章周文に絵を学んだ。禅にも絵にも、当時最高の師を持ったということは、雪舟もまたよほどの人物だったに違いない。ことに水墨画は禅とともに起こった芸術である。描くことはまた、禅の修行でもあった。
享徳3年(1454年)頃、周防国に移り、守護大名大内教弘の庇護を受け、画室雲谷庵(山口県山口市天花〈てんげ〉)を構える。寛正6年(1465年)頃、楚石梵琦(そせきぼんき)による雪舟二大字を入手し、竜崗真圭に字説を請。この頃より雪舟を名乗ったと考えられている。
長禄元年(1457年)、拙宗等楊から改号したと推定されている。拙宗と雪舟が同一人物であることを示す確実な史料はないが、拙宗と雪舟の活躍時期が重ならないこと、両者の溌墨系山水画を詳細に比較検討した結果、共に飛躍がありつつも共通性が認められることから、同一人物説が定説となりつつある。
拙宗の真筆とされる作品は十数点が現存している。拙宗が雪舟の若い頃の号とすると、のちに風景画が多くなるのに対して、渡明前は仏画や人物画が多い。「拙宗」期を含むと、雪舟の現存作品数は約50点とされる。
応仁元年(1467年)に遣明船で明へ渡航。各地を廻り、約2年間本格的な水墨画に触れ、研究した。天童山景徳禅寺では「四明天童山第一座」の称号を得る(以後、雪舟の作品の署名には度々この称号を書き入れている)。更に北京に赴き、政府の建物に壁画を書いて、大いに評判になったという。弟子に送った『破墨山水図』にある文面に、「明の画壇に見るべきものはなく、日本の詩集文や叙説を再認識した」と書かれている様に、明の時代の画家よりも夏珪や李唐等の宋・元時代の画家に興味を持ち、模写して勉強した(『彷夏珪山水図』『彷李唐牧牛図』はいずれも重要文化財)。中国大陸の自然は、雪舟に深く影響した。「風景こそ最大の師」と悟った様に、彼は帰路、揚子江を下りつつ貪欲に各地の風景を写生した(雪舟の書いた風景画の景観は、中国の各地に現代も残っている)。
文明元年(1469年)に帰国し、周防国のほか豊後国や石見国で創作活動を行う。文明13年(1481年)秋から美濃国へ旅行。文亀元年(1501年)頃には、丹後国の天橋立に赴き『天橋立図』を残している。日本美術史を研究する学習院大学教授の島尾新は、雪舟が各地を訪れたのは単なる漂泊ではなく、足利義尹を擁しての上洛など大内氏の軍事・外交政策のための地理調査と関連があると推測している。『天橋立図』は天橋立そのものだけでなく周辺の寺社が詳細に描かれている。このため同地にある籠神社の別当智海や、丹後の支配者で大内氏と連携していた一色義直の依頼で制作された可能性が指摘されている。
没年は確実な記録はないが永正3年(1506年)に87歳で没したとするものが多い。文亀2年(1502年)とする説もある。命日も8月8日(『古画備考』)、9月16日(雪舟伝)など諸説あり、最期の地は石見国益田の大喜庵とされ、雪舟と親交があったとされる益田兼堯の子孫・益田牛庵(元祥)執筆の『牛庵一代御奉公之覚書』には次の記述がある。
「雪舟(中略)極老候而石見之益田へ罷り越され彼地落命候(後略)」(雪舟...老い極まり石見益田へ参り彼の地で落命する...)。
雪舟の生涯には謎とされる部分が多い。墓所と伝わる場所も複数箇所ある。
雪舟についてこんな伝説が残っている。
宝福寺に入った幼い日の雪舟が、絵ばかり好んで経を読もうとしないので、寺の僧は雪舟を仏堂の柱に縛りつけてしまいました。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床に鼠を描いたところ、僧はその見事さに感心し、雪舟が絵を描くことを許しました。
これは雪舟について最もよく知られた話である。但し初出は江戸時代に狩野永納が編纂した『本朝画史』(1693年刊)で、後年の創作という説もある。
雪舟の神格化は江戸時代から始まった。当時画壇を支配していた狩野派が雪舟を師と仰ぎ、ゆえに諸大名が雪舟の作品を求めたからであるとされる。そのために以後「雪舟作」と号する作品が急激に増えたと言われる。雪舟の人気を反映して、『祇園祭礼信仰記』のような作品が上演された。日本文化の一つを生んだ雪舟は、今や日本を代表する歴史人物の一人となっている。
雪舟作品の画像については以下のページも参照。
※雪舟作品の画像は岡山県立美術館、山口県立美術館、出光美術館、香雪美術館、益田市立雪舟の郷記念館の項も参照。
雪舟が築いたものと伝えられる庭園は各地にあり、医光寺、萬福寺、常栄寺、旧亀石坊庭園の雪舟庭は雪舟四大庭園と呼ばれる。 | [
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] | 雪舟は、日本の室町時代に活躍した水墨画家・禅僧(画僧)。「雪舟」は号で、諱は「等楊(とうよう)」と称した。 備中国(現在の岡山県総社市)に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護を受け周防国に移る。その後、遣明船に同乗して中国(明)に渡り、李在より中国の画法を学んだ。 現存する作品の大部分は中国風の水墨山水画であるが、肖像画の作例もあり、花鳥画もよくしたと伝える。宋・元の古典や明代の浙派の画風を吸収しつつ、各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立した点での功績が大きい。後の日本画壇へ与えた影響は大きい。 作品のうち『天橋立図』『秋冬山水画』『四季山水図巻』『破墨山水図』『慧可断臂図』『山水図』の6点が国宝に指定されており、日本の絵画史において別格の高評価を受けているといえる。この他に『花鳥図屏風』など「伝雪舟筆」とされる作品は多く、真筆であるか否か、専門家の間でも意見の分かれる作品も多い。弟子に周徳、等悦、秋月、宗淵、等春らがいる。 | {{Otheruses|画家の雪舟(せっしゅう)|遊具の雪舟(そり)|ソリ}}
[[ファイル:Portrait of Sesshu.jpg|thumb|220px|『絹本著色雪舟[[自画像]](模本)』([[重要文化財]]{{efn|自画像模本は単独で重要文化財に指定されたものではなく、重要文化財『紙本墨書題雪舟山水図詩 了庵桂悟筆』の附指定(つけたりしてい、文化財本体の参考資料として共に保存を図るもの)である<ref>{{国指定文化財等データベース|201|2103|紙本墨書題雪舟山水図詩〈了庵桂悟筆/〉}}</ref>。}}、[[藤田美術館]])]]
[[File:SesshuToyo.jpg|thumb|220px|『秋冬山水図』のうち秋景([[東京国立博物館]])]]
'''雪舟'''(せっしゅう、[[応永]]27年([[1420年]])<ref name="読売20200312">生誕600年 雪舟 実像解明へ 「拙宗」同一人物 ほぼ認定/「漂泊」実は公務出張か『[[読売新聞]]』朝刊2020年3月12日・文化面</ref> - [[永正]]3年([[1506年]])[[8月8日 (旧暦)|8月8日]](諸説あり)<ref name="読売20200312"/>)は、[[日本]]の[[室町時代]]に活躍した[[水墨画|水墨画家]]・[[禅僧]](画僧)<ref name="読売20200312"/>。「雪舟」は[[号]]で、[[諱]]は「等楊(とうよう)」と称した。
[[備中国]](現在の[[岡山県]][[総社市]])に生まれ、[[京都]][[相国寺]]で修行した後、[[大内氏]]の庇護を受け[[周防国]]に移る。その後、[[遣明船]]に同乗して中国([[明]])に渡り、李在より中国の画法を学んだ。
現存する作品の大部分は中国風の水墨[[山水画]]であるが、[[肖像画]]の作例もあり、[[花鳥画]]もよくしたと伝える。[[宋 (王朝)|宋]]・[[元 (王朝)|元]]の古典や明代の[[浙派]]の画風を吸収しつつ、各地を旅して[[写生]]に努め、[[中国の絵画|中国画]]の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立した点での功績が大きい。後の[[日本画|日本画壇]]へ与えた影響は大きい。
作品のうち『天橋立図』『秋冬山水画』『四季山水図巻』『破墨山水図』『[[慧可断臂図]]』『山水図』の6点が[[国宝]]に指定されており、日本の絵画史において別格の高評価を受けているといえる。この他に『花鳥図屏風』など「伝雪舟筆」とされる作品は多く、真筆であるか否か、専門家の間でも意見の分かれる作品も多い。弟子に周徳、等悦、秋月、宗淵、等春らがいる。
== 生涯 ==
[[ファイル:雪舟生誕碑.jpg|thumb|right|223x223px|生誕地に立つ碑文(岡山県総社市)]]
[[File:Unkokuan.JPG|thumb|雲谷庵(復元、2005年5月撮影)]][[File:Sesshu - View of Ama-no-Hashidate.jpg|thumb|right|223x223px|『[[天橋立図]]』([[京都国立博物館]])]]
[[応永]]27年(1420年)、[[備中国]]赤浜(現在の[[岡山県]][[総社市]])に生まれる。生家は小田氏という[[武家]]とされている。幼い頃近くの[[宝福寺 (総社市)|宝福寺]]に入る。当時、文芸で身を立てるには、寺に入るのが唯一の道であり、室町時代は禅僧が学問・文芸の分野を担っていた。10歳頃に[[京都]]の[[相国寺]]へ移り、春林周藤に師事して[[禅宗]]の修行を積むとともに、[[周文|天章周文]]に絵を学んだ。禅にも絵にも、当時最高の師を持ったということは、雪舟もまたよほどの人物だったに違いない。ことに水墨画は禅とともに起こった芸術である。描くことはまた、禅の修行でもあった。
[[享徳]]3年([[1454年]])頃、[[周防国]]に移り、[[守護大名]][[大内教弘]]の庇護を受け<ref name="読売20200312"/>、画室雲谷庵([[山口県]][[山口市]]天花〈てんげ〉)を構える{{Refnest|group="注釈"|山口市の雲谷庵跡には庵が復元されている<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.oidemase.or.jp/tourism-information/spots/12406 |title= 観光スポット > 雲谷庵跡 |publisher= 山口県観光連盟 |accessdate= 2018-07-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190913174550/http://www.oidemase.or.jp/tourism-information/spots/12406|archivedate=2019-09-13|deadlinkdate=2022-03-19}}</ref>。}}。[[寛正]]6年([[1465年]])頃、楚石梵琦(そせきぼんき)による雪舟二大字を入手し、竜崗真圭に字説を請。この頃より雪舟を名乗ったと考えられている。
[[長禄]]元年([[1457年]])、拙宗等楊から改号したと推定されている<ref name="読売20200312"/>。拙宗と雪舟が同一人物であることを示す確実な史料はないが、拙宗と雪舟の活躍時期が重ならないこと、両者の溌墨系山水画を詳細に比較検討した結果、共に飛躍がありつつも共通性が認められることから、同一人物説が定説となりつつある{{Refn|group="注釈"|同一人物説<ref>{{cite journal|和書|author=[[河合正朝]] |title=「拙宗」・「雪舟」、「雪舟等楊」 ─室町時代水墨画研究の再検討をあたって」|journal= 墨の彩 ─大阪・正木美術館三十年|publisher= [[根津美術館]]|year=1998}}</ref><ref>{{cite journal|和書|author= [[島尾新]]|title=「山水長卷」以前」|journal=[[國華]] <特輯>雪舟(上)|number= 1275|year= 2002}}</ref>のに対し、当時「拙宗」は「せつじゅう」と発音された可能性があり、江戸時代初期の画伝書『丹青若木集』では「拙宗」を独立した画人として取り上げており、また『[[本朝画史]]』でも拙宗等楊を雪舟等楊に改めた可能性に触れつつも実否を知らずとし、やはり「拙宗」は別項を立てている。これらの点から、同人説は安易な解釈だとして、拙宗は雪舟と同時代で周防と関係をもった老成した画人、「等揚」印の作品は、雪舟には見られない軽妙さがあることから後世の別の画人とする説もある<ref>{{cite journal|和書|author1= [[金澤弘]]|title= 雪舟との出会い|author2= 京都国立博物館 [編集]|journal= 学叢 |number= 32|year=2010}}</ref>。}}。
拙宗の真筆とされる作品は十数点が現存している。拙宗が雪舟の若い頃の号とすると、のちに風景画が多くなるのに対して、渡明前は[[仏画]]や人物画が多い<ref>{{Cite web|和書|url=http://yamaguchi-city.jp/event/a_area/19591.html|title=山口県立美術館開館40周年記念 特別展 雪舟の仏画-初公開の《騎獅文殊・黄初平・張果老図》を中心に-|website=[[山口市]]観光情報サイト西の京やまぐち|accessdate=2019-11-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191127191353/http://yamaguchi-city.jp/event/a_area/19591.html|archivedate=2019-11-27|deadlinkdate=2022-03-19}}</ref><ref>「駆けだし雪舟 筆致勢い/三幅対 山口で公開」『読売新聞』朝刊2019年10月18日。</ref>。「拙宗」期を含むと、雪舟の現存作品数は約50点とされる<ref name="nezu"/>。
[[応仁]]元年([[1467年]])に[[遣明船]]で[[明]]へ渡航。各地を廻り、約2年間本格的な[[水墨画]]に触れ、研究した。[[天童寺|天童山景徳禅寺]]では「四明天童山第一座」の称号を得る(以後、雪舟の作品の署名には度々この称号を書き入れている)。更に[[北京]]に赴き、政府の建物に[[壁画]]を書いて、大いに評判になったという。弟子に送った『破墨山水図』にある文面に、「明の画壇に見るべきものはなく、日本の詩集文や叙説を再認識した」と書かれている様に、明の時代の画家よりも[[夏珪]]や[[李唐]]等の宋・元時代の画家に興味を持ち、模写して勉強した([[#主要作品|『彷夏珪山水図』『彷李唐牧牛図』]]はいずれも[[重要文化財]])。[[中国大陸]]の自然は、雪舟に深く影響した。「風景こそ最大の師」と悟った様に、彼は帰路、[[揚子江]]を下りつつ貪欲に各地の風景を写生した(雪舟の書いた風景画の景観は、中国の各地に現代も残っている)。
[[文明 (日本)|文明]]元年([[1469年]])に帰国し、周防国のほか[[豊後国]]や[[石見国]]で創作活動を行う。文明13年([[1481年]])秋から[[美濃国]]へ旅行。[[文亀]]元年([[1501年]])頃には、[[丹後国]]の[[天橋立]]に赴き『天橋立図』を残している<ref>制作年については十数年早い雪舟60歳代前半とする説もあるが、画中に描かれている[[智恩寺 (宮津市)|智恩寺]]の[[多宝塔]]は1501年に[[落慶法要]]が営まれている。</ref>。日本美術史を研究する[[学習院大学]]教授の[[島尾新]]は、雪舟が各地を訪れたのは単なる漂泊ではなく、[[足利義植|足利義尹]]を擁しての上洛など大内氏の軍事・外交政策のための地理調査と関連があると推測している<ref name="読売20200312"/>。『天橋立図』は天橋立そのものだけでなく周辺の[[寺社]]が詳細に描かれている。このため同地にある[[籠神社]]の[[別当]]智海や、丹後の支配者で大内氏と連携していた[[一色義直]]の依頼で制作された可能性が指摘されている<ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S14600268.html 【みちものがたり】雪舟「天橋立図」スケッチの道(京都府)鳥瞰で描かれた宗教都市 実は情報員?様々な謎残る][[be (朝日新聞)|『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」]]2020年8月29日(6-7面)2020年9月8日閲覧</ref>。
没年は確実な記録はないが永正3年(1506年)に87歳で没したとするものが多い。文亀2年([[1502年]])とする説もある<ref name="読売20200312"/>。命日も[[8月8日 (旧暦)|8月8日]](『[[古画備考]]』)、[[9月16日 (旧暦)|9月16日]](雪舟伝)など諸説あり、最期の地は[[石見国]][[益田市|益田]]の大喜庵とされ、雪舟と親交があったとされる[[益田兼堯]]の子孫・[[益田元祥|益田牛庵]](元祥)執筆の『牛庵一代御奉公之覚書』には次の記述がある<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.iwami.or.jp/sessyu3/2_sesshu/8_bannen/8_bannen.htm |title= 雪舟の風景 第八部・晩年編(37. 山寺東光寺)|publisher= [[益田市立雪舟の郷記念館]]|accessdate= 2018-07-03}}</ref>。<blockquote>「雪舟(中略)極老候而石見之益田へ罷り越され彼地落命候(後略)」<br><small>(雪舟…老い極まり石見益田へ参り彼の地で落命する…)。</small></blockquote>
雪舟の生涯には謎とされる部分が多い。[[#墓所|墓所]]と伝わる場所も複数箇所ある。
== 涙で描いた鼠 ==
雪舟についてこんな伝説が残っている。
<blockquote>[[宝福寺 (総社市)|宝福寺]]に入った幼い日の雪舟が、絵ばかり好んで[[仏典|経]]を読もうとしないので、寺の僧は雪舟を仏堂の柱に縛りつけてしまいました。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床に[[鼠]]を描いたところ、僧はその見事さに感心し、雪舟が絵を描くことを許しました。</blockquote>
これは雪舟について最もよく知られた話である。但し初出は[[江戸時代]]に[[狩野永納]]が編纂した『[[本朝画史]]』([[1693年]]刊)で、後年の創作という説もある。
== 神格化 ==
雪舟の神格化は江戸時代から始まった。当時画壇を支配していた[[狩野派]]が雪舟を師と仰ぎ、ゆえに諸[[大名]]が雪舟の作品を求めたからであるとされる。そのために以後「雪舟作」と号する作品が急激に増えたと言われる。雪舟の人気を反映して、『祇園祭礼信仰記』{{Refnest|group="注釈"|『祇園祭礼信仰記』<ref>{{Cite web|和書|url= https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/modules/kabuki_dic/entry.php?entryid=1093 |title= 祇園祭礼信仰記(ぎおんさいれいしんこうき)|publisher= [[日本芸術文化振興会]]|accessdate= 2018-07-03}}</ref>は[[人形浄瑠璃]]・[[歌舞伎]]作品。[[宝暦]]7年12月([[1758年]]1月)初演。雪舟の孫娘、雪姫が活躍する「[[金閣寺]]」の場が有名。}}のような作品が上演された。日本文化の一つを生んだ雪舟は、今や日本を代表する歴史人物の一人となっている。
== 主要作品 ==
[[ファイル:SesshuShuutouTou.jpg|thumb|upright|『秋冬山水図』(冬景図)([[東京国立博物館]])]]
[[File:Landscape by Sesshu (Ohara).jpg|thumb|upright|『山水図』牧松周省、了庵桂悟賛(個人蔵)]]
雪舟作品の画像については以下のページも参照。
:[[山口県立美術館]]、[[岡山県立美術館]]、[[香雪美術館]]、[[出光美術館]]、[[益田市立雪舟の郷記念館]]
=== 国宝 ===
*『秋冬山水図』2幅、各47.7cm×30.2cm([[東京国立博物館]])<ref>{{Cite web|和書|url= https://emuseum.nich.go.jp/detail?&content_base_id=100146 |title= 「秋冬山水図」2幅 |author= 雪舟等楊 [筆]|others= 東京国立博物館 [収蔵]|date=15世紀末–16世紀初 |id= A-1398|accessdate=2018-07-07}}</ref>
*『四季山水図巻(山水長巻)』1巻、縦39.7cm×横1592.0cm([[毛利家|毛利博物館]]) 文明18年([[1486年]])の年記がある{{Refnest|group="注釈"|大内氏の旧蔵で全長15メートル余りの画面に四季の風景を描いた巻物。毛利氏が所有以降、[[家宝|家の宝]]として大切に保存された。奥書の記述から67歳の1486年(文明18年)の作品とわかり、生年が1420年(応永27年)と確かめることができる<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.c-able.ne.jp/~mouri-m/ha_gaiyou/index.html |title= 収蔵品一覧「四季山水図(雪舟筆)」 |accessdate= 2018-07-07|publisher=毛利博物館}}</ref>。毛利博物館では毎年11月頃に公開している。[[キヤノン]]が綴プロジェクトにより制作した高精細複製品の画像を公開<ref>{{Cite web|和書|url= https://global.canon/ja/tsuzuri/works/10.html |title= 「山水長巻」|publisher= [[キヤノン]]株式会社; キヤノンマーケティングジャパン株式会社|accessdate=2018-07-07}}</ref>。}}
*『山水図』(破墨山水図)縦148.6cm×横32.7cm(東京国立博物館) 明応4年([[1495年]])の自題及び月翁周鏡等六僧の賛がある<ref>{{Cite web|和書|url= https://emuseum.nich.go.jp/detail?&content_base_id=101224 |title= 「山水図(破墨山水図)」|author= 雪舟 [自序]; 月翁周鏡等六僧 [賛] |others= 東京国立博物館 [収蔵] |year= 1495 |id= A-282 |accessdate= 2018-07-07}}</ref>
*『[[慧可断臂図]]』([[愛知県]]・[[斉年寺]]) 「七十七歳」の款記がある。明応5年([[1496年]])作。{{Refnest|group="注釈"|斉年寺収蔵の「慧可断臂図」<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/suibokuga/item06.html |title=「慧可断臂図」|others= 斉年寺 [所蔵] |location= 愛知県 |accessdate=2018-07-07|publisher=京都国立博物館}}</ref>は、[[明|明代]]の{{仮リンク|戴進|zh|戴進|en|Dai Jin}}(1388-1462)筆『[[達磨]]至[[慧能]]六代祖師図』の構図に倣ったと見られる<ref>絹本墨画、縦33.8cm×横220cm([[瀋陽]]、[[遼寧省]]博物館収蔵。{{cite web|url= http://www.lnmuseum.com.cn/cpjc.do?method=info&id=A62FE61BEFD742BD92D4E8B726B1E1F7 |title=「達摩至慧能六代祖師図」 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20140304172523/http://www.lnmuseum.com.cn/cpjc.do?method=info&id=A62FE61BEFD742BD92D4E8B726B1E1F7 |archivedate= 2014-03-04 |language= zh |publisher= 遼寧省博物館 |accessdate=2018-07-07}}</ref>。}}
*『天橋立図』縦89.4cm×横168.5cm([[京都国立博物館]])<ref>{{Cite web|和書|url= https://emuseum.nich.go.jp/detail?&content_base_id=100950 |title= 紙本墨画淡彩「天橋立図」 |others= 京都国立博物館 [収蔵] |id= A甲228 |date= 室町時代・16世紀 |accessdate= 2018-07-07}}</ref>
*『山水図』牧松周省・了庵桂悟[[画賛|賛]](個人蔵)
=== 重要文化財 ===
;雪舟作品
* 『[https://emuseum.nich.go.jp/detail?&content_base_id=100310 四季山水図]』4幅(東京国立博物館)
* 『四季山水図』4幅(石橋財団[[アーティゾン美術館]])
* 『[https://emuseum.nich.go.jp/detail?&content_base_id=100969 四季山水図巻(山水小巻)]』1巻(京都国立博物館)
* 『倣高克恭 山水図巻』1巻([[山口県立美術館]])
* 『倣夏珪 夏景山水図』(個人蔵)
* 『倣夏珪 冬景山水図』(個人蔵)
* 『倣李唐 牧牛図(牧童)』(山口県立美術館)
* 『倣李唐 牧牛図(渡河)』(山口県立美術館)
* 『[https://emuseum.nich.go.jp/detail?&content_base_id=100979 倣梁楷 黄初平図]』(京都国立博物館)
* 『倣玉澗 山水図』([[岡山県立美術館]])
* 『山水図』([[香雪美術館]])
* 『[[益田兼堯]]像』([[益田市立雪舟の郷記念館]])文明11年([[1479年]])
* 『[[毘沙門天]]図』([[相国寺]][[承天閣美術館]])
;伝雪舟筆花鳥図
* 『花鳥図屏風』([[前田育徳会]])
* 『[https://emuseum.nich.go.jp/detail?&content_base_id=100352 四季花鳥図屏風]』(東京国立博物館)
* 『[https://emuseum.nich.go.jp/detail?&content_base_id=101001 四季花鳥図屏風]』(京都国立博物館)
;「拙宗」印のある作品
* 『[https://emuseum.nich.go.jp/detail?&content_base_id=100994 山水図]』(京都国立博物館)
* 『山水図』([[正木美術館]]
*『題雪舟山水図詩』(了庵桂悟筆) 附:雪舟自画像(模本)([[藤田美術館]])
=== その他(国宝・重要文化財以外) ===
*『破墨山水図』景徐周麟賛([[出光美術館]])
*『倣夏珪 山水図』(個人蔵、山口県立美術館[[寄託 (日本法)|寄託]]) -元は上記の「倣〇〇」掛軸6点とセットで、江戸時代の[[狩野常信]]の模本から最低でも12図あったことが知られている。1933年の入札図録に掲載された後、所在不明となっていたが、2017年に84年ぶりに再発見された<ref>荏開津道彦 河野通孝編集 『雪舟発見!展』 雪舟発見!展実行委員会、2017年10月31日。</ref><ref>{{cite web2|url= http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170919/k10011148101000.html |archive-url= https://web.archive.org/web/20170919103035/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170919/k10011148101000.html |archive-date= 2017-09-19 |title= 雪舟の幻の作品 84年ぶりに確認 山口県立美術館 |publisher= [[日本放送協会|NHK]] News Web|date=2017-09-19|accessdate= 2018-07-04|url-status-date=2019年11月}}</ref><ref>{{cite web2|url= http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20170919000130 |archive-url= https://web.archive.org/web/20170921144200/http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20170919000130 |archive-date= 2017-09-21 |title= 雪舟の水墨画を84年ぶりに発見 山口県立美術館 |publisher= 『[[京都新聞]]』 |date= 2017年9月21日|accessdate= 2018-07-04}}</ref><ref>{{cite web2|url= http://www.chunichi.co.jp/s/article/2017091901001935.html |archive-url= https://web.archive.org/web/20170921143831/http://www.chunichi.co.jp/s/article/2017091901001935.html |archive-date= 2017-09-21 |title= 雪舟の水墨画を84年ぶりに発見 山口県立美術館|date= 2017年9月19日 |publisher= 『[[中日新聞]]』|accessdate= 2018-07-04}}</ref><ref>{{cite web2|url= http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/170919/lif17091920390022-n1.html |archive-url= https://web.archive.org/web/20180704165537/http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/170919/lif17091920390022-n1.html|archive-date= 2018-07-04|title= 雪舟作、80余年行方不明だった「倣夏珪山水図」を発見 |publisher= iza([[産経新聞|産経デジタル]]) |date= 2017-09-19 |accessdate= 2018-07-04 }}</ref>。)
{{clear}}
{{Double image aside|left| SESSHU-Sansui chokan-L.jpg |300| SESSHU-Sansui chokan-R.jpg |300|'''四季山水図(山水長巻)'''(毛利博物館)(部分) |(同左)}}
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{{wide image| Landscapes of the Four Seasons by Sesshu (Mori Museum).jpg |3600px|'''四季山水図(山水長巻)'''(毛利博物館)(全図) }}
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{{Gallery
|title=『四季山水図』(石橋財団)
|footer=
|width=150
|File:Landscape of the Four Seasons (Spring) by Sesshu.jpg|春景
|File:Landscape of the Four Seasons (Summer) by Sesshu.jpg|夏景
|File:Landscape of the Four Seasons (Autumn) by Sesshu.jpg|秋景
|File:Landscape of the Four Seasons (Winter) by Sesshu.jpg|冬景
}}
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<gallery widths="150px" heights="300px">
File:Landscape by Sesso (Masaki Art Museum).jpeg|『山水図』(拙宗、正木美術館)
File:Landscape by Sesso (Kyoto National Museum).jpg|『山水図』(拙宗、京都国立博物館)
File:Sesshu - Haboku-Sansui.jpg|『山水図』(通称『破墨山水図』、東京国立博物館)
File:Sesshu Toyo - Landscape of Four Seasons- Fall - Google Art Project.jpg|『四季山水図』秋景(東京国立博物館)
File:Sesshu Toyo - Landscape of four seasons- winter - Google Art Project.jpg|『四季山水図』冬景(東京国立博物館)
</gallery>
{{Double image aside|left|SESHU Birds-flowers-L.jpeg|300|SESHU Birds-flowers-R.jpeg|300|伝雪舟『四季花鳥図』(東京国立博物館)左隻|同右隻}}
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{{Gallery
|title= 雪舟の人物図
|width=200
|height=300
|File:Bodhidharma.and.Huike-Sesshu.Toyo.jpg|『[[慧可断臂図]]』(斉年寺)
|File:Huang Chuping by Sesshu (Kyoto National Museum).jpg|『黄初平図』(京都国立博物館)
|File:Bishamonten by Sesshu (Tokyo).jpeg|『毘沙門天図』(承天閣美術館)
}}
※雪舟作品の画像は[[岡山県立美術館]]、[[山口県立美術館]]、[[出光美術館]]、[[香雪美術館]]、[[益田市立雪舟の郷記念館]]の項も参照。
==関連する場所==
* [[宝福寺 (総社市)|井山宝福寺]] (岡山県総社市)- 涙で[[ネズミ]]の絵を描いたことで有名。境内には少年雪舟像が置かれている<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.iyama-hofukuji.jp/|title=井山宝福寺 |access-date=2022-11-27}}</ref>。
* 雪舟誕生地公園(岡山県総社市) - 生誕600年を記念し[[令和2年]]に開園。<br>展示室や[[銅像]]、[[国宝]]に指定された6つの作品全てを精密に再現した[[銅版画]]などがある<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.city.soja.okayama.jp/s/bunka/bunka_sport/bunka/sessyu/sesshu_park.html|title=雪舟誕生地公園 - 総社市公式ウェブサイト |access-date=2022-11-27}}</ref>。
* [[相国寺]](京都府京都市) - 雪舟が修行を行ったとされる寺。
* 雲谷庵(山口県山口市) - 1464年と晩年まで開き定住していた[[アトリエ|画房]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.yamaguchi.lg.jp/rekibunshigen/rekibunshigen/r1155.html |title=雲谷庵跡 - 山口市ウェブサイト |access-date=2022-10-17 |website=www.city.yamaguchi.lg.jp}}</ref>。
* 天開図画廊(大分県大分市)- 1469年に中国から帰国後、北九州の大分にてしばらく営んだ画房。<ref>{{kotobank|天開図画楼}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000141817 |title=雪舟のアトリエ、天開図画楼について書かれた「天開図画楼記」を見たい。 |access-date=2022-10-17 |last=国立国会図書館 |website=レファレンス協同データベース |language=ja}}</ref>。
=== 雪舟庭 ===
[[ファイル:180503 Ogawa-ke Sesshu Garden Gotsu Shimane pref Japan01bs8.jpg|thumb|[[小川家雪舟庭園]]<br />(島根県江津市)]]
[[ファイル:140720 Jouei-ji Yamaguchi Yamaguchi pref Japan13s3.jpg|thumb|[[常栄寺 (山口市)|常栄寺庭園]](山口県山口市)]]
雪舟が築いたものと伝えられる[[庭園]]は各地にあり、医光寺、萬福寺、常栄寺、旧亀石坊庭園の雪舟庭は雪舟四大庭園と呼ばれる。
* [[芬陀院]] [[京都府]][[京都市]][[東山区]] [[東福寺]]
* [[医光寺]] [[島根県]][[益田市]]染羽町(国の[[史跡]]及び[[名勝]])
* [[萬福寺 (益田市)|萬福寺]] 島根県益田市東町(国の史跡及び名勝)
* [[小川家雪舟庭園]] 島根県[[江津市]]和木町
* [[西方院跡]] [[広島県]][[廿日市市]][[厳島|宮島]] [[大聖院 (宮島)|大聖院]]付近
* [[常栄寺 (山口市)|常栄寺]] [[山口県]][[山口市]]宮野下(国の史跡及び名勝)
* [[普賢寺 (光市)|普賢寺]] 山口県[[光市]]室積
* [[旧亀石坊庭園]] [[福岡県]][[田川郡]][[添田町]] [[英彦山]](名勝)
* [[魚楽園]] 福岡県田川郡[[川崎町 (福岡県)|川崎町]](名勝)
* [[吉峯家雪舟庭]] [[大分県]][[中津市]]山国町中摩
* 善生寺 山口県山口市古熊
* <!--西方院跡、小川家、吉峯家の雪舟庭は私有地となっており許可の上での拝見、もしくは一般公開はされていない。-->
=== 墓所 ===
* 島根県益田市の大喜庵は雪舟が晩年を過した東光寺の焼失した跡に建てられ、雪舟の墓所がある<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.city.masuda.lg.jp/soshiki/51/1861.html |title= 歴史・文化 > 大喜庵(たいきあん)|publisher= 益田市役所 |accessdate= 2018-07-03|archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11949977/www.city.masuda.lg.jp/soshiki/51/1861.html|archivedate=2021-12-04|deadlinkdate=222-03-19}}</ref>。
* 岡山県[[井原市]]の重玄寺跡には雪舟のものと伝えられる墓が残る<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.ibarakankou.jp/sightseeing-information/history/DJ012.html |title= 重玄寺跡(ちょうげんじあと)|publisher= 井原市観光協会 |accessdate= 2018-07-03}}</ref>。
* 雪舟の遺骸は崇観寺(医光寺)で[[火葬]]にふされ、灰塚に納められたと伝わっている<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.iwami.or.jp/sessyu3/2_sesshu/sesshu/sesshu.htm |title= 雪舟について |publisher= 益田市立雪舟の郷記念館 |accessdate= 2018-07-03}}</ref>。
== 参考事項 ==
[[ファイル:Stamp of USSR 1952.jpg|thumb|170px|雪舟が描かれたソ連の切手]]
* 雪舟は外国の[[切手]]に描かれた最初の[[日本人]]である。[[昭和]]31年([[1956年]])に開かれた[[世界平和会議]]で世界平和文化人として10人が選ばれ、日本から選ばれたのが没後450年にあたる雪舟だった(他は[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]](生誕135年)、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]](生誕200年)、[[ピエール・キュリー]](没後50年)、[[ヘンリク・イプセン]](没後50年)、[[ハインリヒ・ハイネ]](没後100年)、[[カーリダーサ]](生誕1500年)、[[ジョージ・バーナード・ショー|バーナード・ショー]](生誕100年)、[[ベンジャミン・フランクリン]](生誕250年)、[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]](生誕350年))。それを記念して[[ソビエト連邦]]と[[ルーマニア]]で10人の切手が発行された(画像は[[:ru:Однолетние серии коммеморативных марок СССР с двумя разными датами выпуска#Деятели мировой культуры (международные юбилеи) (1956)|ロシア語版]]参照)。
* [[1998年長野オリンピック]]の公式ポスターのデザインの一つに雪舟の『秋冬山水図(冬景)』が選ばれた。開会式のイメージ監督を務めた[[新井満]]の発案で『秋冬山水図』が選ばれ、アートディレクターの[[鈴木八朗]]が千枚限定の手漉き和紙で制作し通し番号が入れられた。ナンバー1番のポスターは[[フアン・アントニオ・サマランチ]]IOC会長に贈られた<ref>[https://www.jpa.gr.jp/about/pr/pdf/201006_arai.pdf 日本製紙連合会]</ref>。
* 従来、模本1幅<ref name="monon">{{cite web|和書|title= 芦葉達磨図(模本)|author= 林教屑 (模) |year= 1840|id= 2002雪舟NO.24 |url= http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0067197 |accessdate= 2018-07-07 |publisher= 東京国立博物館}}紙本墨画。</ref>が知られていた拙宗筆『芦葉達磨図』が2008年、個人から[[スミス・カレッジ]]美術館に寄贈されたことがわかると<ref name="nezu">{{Cite news|和書|url=https://www.sankei.com/life/news/160407/lif1604070017-n1.html|title=米で発見、若き雪舟の水墨画|newspaper=[[産経新聞|産経デジタル]]|date=2016-04-07|accessdate=2019-11-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180707173318/https://www.sankei.com/life/news/160407/lif1604070017-n1.html|archivedate=2018-07-07}}</ref><ref>『読売新聞』朝刊2016年3月23日37面(栃木県配達版)掲載。</ref>、京都で修復され、2016年に東京の[[根津美術館]]の「若き日の雪舟」展で公開されている{{Refnest|group="注釈"|紙本墨画『芦葉達磨図』竺心慶仙賛。「若き日の雪舟」展の会期は2016年5月26日(木)–7月10日(日)<ref>{{cite web|和書|title= 若き日の雪舟――初公開の「芦葉達磨図」と拙宗の水墨画|url= http://www.nezu-muse.or.jp/jp/exhibition/past2016_n04.html |publisher= 根津美術館 |accessdate= 2018-07-03}}</ref>。}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 『雪舟等楊 「雪舟への旅」展研究図録』([[山口県立美術館]]、[[中央公論美術出版]]、2006年)
* 『明代絵画と雪舟』(図録、[[根津美術館]]、2005年)
* 『「雪舟」 没後500年特別展』(図録、東京国立博物館、[[京都国立博物館]]、2002年)
* 金澤弘『雪舟の芸術・水墨画論集』(秀作社出版、新版2015年)ISBN 978-4-88265-559-6
* [[山下裕二]]、[[赤瀬川原平]]『雪舟応援団』([[中央公論新社]]、2002年)ISBN 978-4120-03249-3
* 『雪舟はどう語られてきたか』(山下裕二編・監修、[[平凡社ライブラリー]]、2002年)ISBN 978-4-582-76424-6
* [[沼田頼輔]]『画聖雪舟』([[田中優子]]解説、論創叢書:[[論創社]]、2002年)ISBN 978-4846-00241-1
* [[中島純司]]ほか『雪舟 水墨画の巨匠 第1巻』([[講談社]]、1994年)ISBN 978-4-062-53921-0
* 中島純司『雪舟 新編名宝日本の美術14』([[小学館]]、1991年)ISBN 978-4-093-75114-8
* 『雪舟 決定版 生誕六〇〇年』([[島尾新]]・山下裕二監修、平凡社 別冊太陽 日本のこころ、2020年)ISBN 978-4582922783
== 関連項目 ==
* [[益田市立雪舟の郷記念館]]
* [[雪舟サミット]]
* [[岡山県出身の人物一覧]]
* [[雲谷派]]
* [[雪舟国際美術協会]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Sesshu Toyo}}
* [http://www.iwami.or.jp/sessyu3/index.htm 益田市立雪舟の郷記念館]
* [https://digioka.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/person/sessyuu/sessyuu_short.htm 雪舟(おかやま人物往来)] - [[岡山県立図書館]]
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:せつしゆう}}
[[Category:雪舟|*]]
[[Category:15世紀日本の画家]]
[[Category:16世紀日本の画家]]
[[Category:15世紀日本の僧]]
[[Category:16世紀日本の僧]]
[[Category:室町時代の画家]]
[[Category:室町・安土桃山時代の僧]]
[[Category:日本の禅僧 (臨済宗)]]
[[Category:作庭家]]
[[Category:水墨画]]
[[Category:禅の書画]]
[[Category:総社市の歴史]]
[[Category:岡山県の歴史]]
[[Category:山口県の歴史]]
[[Category:備中国の人物]]
[[Category:日本庭園に関する人物]]
[[Category:1420年生]]
[[Category:1506年没]] | 2003-02-21T16:12:20Z | 2023-12-04T13:40:01Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E8%88%9F |
2,677 | 判型 | 判型(はんがた、はんけい、判形とも表記)とは、書籍・雑誌・新聞・印刷物の仕上がりサイズを指し、厚みを除く短辺・長辺の寸法で規定される。一般的なB判は日本工業規格、A判は国際規格で、共に短辺:長辺が1:√2(≒1.414)となる白銀比で構成され、判型数が一つ上がるごとにその下の判型の紙を半分に裁断したものになる。例えば、B1判は728×1030で、B2判は515×728、A3判は297×420で、A4判は210×297となる。
同じ判型でも「105×148mm」「A6判」「文庫判」といった別称があり、後者になるほど類似物を含む広い意味で使われる。たとえば、「B6判」に四六判も含める場合もある(『出版年鑑』など)。
注:断りが無い限り、寸法の単位はmm、表記は短辺×長辺とする | [
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] | 判型(はんがた、はんけい、判形とも表記)とは、書籍・雑誌・新聞・印刷物の仕上がりサイズを指し、厚みを除く短辺・長辺の寸法で規定される。一般的なB判は日本工業規格、A判は国際規格で、共に短辺:長辺が1:√2(≒1.414)となる白銀比で構成され、判型数が一つ上がるごとにその下の判型の紙を半分に裁断したものになる。例えば、B1判は728×1030で、B2判は515×728、A3判は297×420で、A4判は210×297となる。 同じ判型でも「105×148mm」「A6判」「文庫判」といった別称があり、後者になるほど類似物を含む広い意味で使われる。たとえば、「B6判」に四六判も含める場合もある(『出版年鑑』など)。 | '''判型'''(はんがた、はんけい、'''判形'''とも表記)とは、[[書籍]]・[[雑誌]]・[[新聞]]・[[印刷物]]の仕上がりサイズを指し、厚みを除く短辺・長辺の寸法で規定される。一般的なB判は[[日本工業規格]]、A判は国際規格で、共に短辺:長辺が1:{{Math|size=118.75%|{{Sqrt|2}}}}(≒1.414)となる[[白銀比]]で構成され、判型数が一つ上がるごとにその下の判型の紙を半分に裁断したものになる。例えば、B1判は728×1030で、B2判は515×728、A3判は297×420で、A4判は210×297となる。
同じ判型でも「105×148mm」「A6判」「文庫判」といった別称があり、後者になるほど類似物を含む広い意味で使われる。たとえば、「B6判」に四六判も含める場合もある(『出版年鑑』など)。
== 寸法 ==
注:断りが無い限り、寸法の単位はmm、表記は短辺×長辺とする
=== A判 ===
*A0判 - 841×1189 ※ポスターなど
*A1判 - 594×841 ※ポスターなど
*A2判 - 420×594 ※ポスターなど
*A3判 - 297×420 ※ポスターなど
*A4判 - 210×297 ※写真集・美術全集など
*A5判 - 148×210 ※[[文芸雑誌|文芸誌]]・教科書
*A6判 - 105×148 ※[[文庫本|文庫]]
=== B判 ===
*B0判 - 1030×1456 ※ポスターなど
*B1判 - 728×1030 ※ポスターなど
*B2判 - 515×728 ※ポスターなど
*B3判 - 364×515 ※中吊り広告など
*B4判 - 257×364 ※画集、[[グラフ誌]]など
*B5判 - 182×257 ※[[週刊誌]]
*B6判 - 128×182 ※単行本
*小B6判 - 112×174 ※少年・少女誌の漫画単行本
=== その他 ===
*[[菊倍判]] - 218×304、227×304
*[[マガジンサイズ]] - 232×297 ※「A4変形」とも ※女性誌、デザイン誌等
*[[国際判]] - 215.9×279.4(8{{Sfrac|1|2}}×11インチ) ※「A4変形」とも
*[[AB判]] - 210×257 ※A5判長辺とB5判長辺から
*[[重箱版]] - 182×206 ※絵本
*[[菊判]] - 152×218、152×227 ※学術書等の単行本
*[[四六判]] - 127×188 ※文芸書等の単行本
*[[B40判]] - 103×182 ※[[新書]]判。105×173の場合も
*[[ポケット・ブック版]] - 106×184 ※[[ハヤカワ・ポケット・ミステリ]]で使われている
*[[三五判]] - 84×148 ※三寸・五寸の略
*[[八折り判]]
*[[HL判]]
=== 新聞 ===
[[image:comparison newspaper size.svg|thumb|200px|国際的な新聞判型の比較]]
*'''国際的な判型'''
**ブロードシート判 - 375×600
**ノルディッシュ判 - 400×570
**レニッシュ判 - 350×510、350×520、360×530
**スイス判(NZZ判) - 320×475
**[[ベルリナー判]] - 315×470
**タブロイド・エクストラ判 - 305×455(12×18インチ)
**ハーフ・スイス判 - 240×330(9{{Sfrac|1|2}}×13インチ)
**[[ベルリナー判#ハーフ・ベルリナー判|ハーフ・ベルリナー判]] - 230〜240×310〜320(9〜9{{Sfrac|1|4}}×12{{Sfrac|1|4}}〜12{{Sfrac|1|2}}インチ)
**ハーフレニッシュ判 - 255〜265×365〜370(10〜10{{Sfrac|1|2}}×14{{Sfrac|1|2}}インチ)、260×325(10{{Sfrac|1|4}}×12{{Sfrac|3|4}}インチ)
**ハーフ・ブロードシート判 - 300×375(12×14{{Sfrac|3|4}}インチ)
**[[タブロイド|タブロイド判]](ハーフ・ブロードシート判、ノルディック・ハーフ判) - 小判:235×315(9{{Sfrac|1|4}}×12{{Sfrac|1|2}}インチ)、大判:285×400(11{{Sfrac|1|4}}×15{{Sfrac|3|4}}インチ) ※日本国内判(273×406)はサイズが異なる。
*'''日本固有の判型'''
**[[ブランケット判]] - 406×545
**タブロイド判 - 273×406
**[[菊判]] - 469×636(菊半裁)、318×469(菊四裁)
*:このほかオフセット枚葉機による印刷を行っている中・小規模地域紙では、ブランケット判代用としてJIS B3判(364×515)を、タブロイド判代用としてJIS B4判(257×364)を用いる例が見られる。
== 注釈・出典 ==
{{Reflist|group=注}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[紙の寸法]]
*[[封筒]]
*[[製本]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はんかた}}
[[Category:紙の寸法]]
[[Category:出版]]
[[Category:書物]] | 2003-02-21T16:17:40Z | 2023-09-26T10:22:42Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A4%E5%9E%8B |
2,684 | ブロイデン法 | ブロイデン法(ブロイデンほう、英: Broyden's method)は、準ニュートン法の一種。Charles George Broyden が1965年に発表した。
ニュートン法で f(x) = 0 を解く際はヤコビ行列 J をイテレーションの度に使用する。しかしながら、ヤコビ行列の計算は困難かつ計算量が多い。ブロイデン法のアイディアはイテレーションの初回だけヤコビ行列全体を計算し、2回目以降はランク1更新をする。
1979年に David M. Gay が大きさ n × n の線形システムにブロイデン法を適用した場合、2 n ステップで終了することを証明した。しかしながら、他の準ニュートン法同様、非線形システムでは必ずしも収束しない。 | [
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] | ブロイデン法は、準ニュートン法の一種。Charles George Broyden が1965年に発表した。 ニュートン法で f(x) = 0 を解く際はヤコビ行列 J をイテレーションの度に使用する。しかしながら、ヤコビ行列の計算は困難かつ計算量が多い。ブロイデン法のアイディアはイテレーションの初回だけヤコビ行列全体を計算し、2回目以降はランク1更新をする。 1979年に David M. Gay が大きさ n × n の線形システムにブロイデン法を適用した場合、2 n ステップで終了することを証明した。しかしながら、他の準ニュートン法同様、非線形システムでは必ずしも収束しない。 | '''ブロイデン法'''(ブロイデンほう、{{lang-en-short|Broyden's method}})は、[[準ニュートン法]]の一種。Charles George Broyden が[[1965年]]に発表した<ref>{{cite journal
| last = Broyden
| first = Charles George
| title = A Class of Methods for Solving Nonlinear Simultaneous Equations
| journal = Mathematics of Computation
| volume = 19
| issue = 92
| pages = 577–593
| publisher = American Mathematical Society
|date=October 1965
| doi = 10.1090/S0025-5718-1965-0198670-6
| jstor = 2003941 }}</ref>。
[[ニュートン法]]で {{math|'''f'''('''x''') {{=}} '''0'''}} を解く際は[[ヤコビ行列]] {{math|'''J'''}} をイテレーションの度に使用する。しかしながら、ヤコビ行列の計算は困難かつ計算量が多い。ブロイデン法のアイディアはイテレーションの初回だけヤコビ行列全体を計算し、2回目以降はランク1更新をする。
[[1979年]]に David M. Gay が大きさ {{math|''n'' × ''n''}} の線形システムにブロイデン法を適用した場合、{{math|2 ''n''}} ステップで終了することを証明した<ref>{{cite journal
| last = Gay
| first = David M.
| title = Some convergence properties of Broyden's method
| journal = SIAM Journal on Numerical Analysis
| volume = 16
| issue = 4
| pages = 623–630
| publisher = SIAM
|date=August 1979
| doi = 10.1137/0716047
}}</ref>。しかしながら、他の準ニュートン法同様、非線形システムでは必ずしも収束しない。
== 関連項目 ==
*[[準ニュートン法]]
== 参照 ==
{{reflist}}
{{最適化アルゴリズム}}
{{Applied-math-stub}}
{{DEFAULTSORT:ふろいてんほう}}
[[Category:最適化アルゴリズム]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:エポニム]] | null | 2019-07-30T17:08:45Z | false | false | false | [
"Template:最適化アルゴリズム",
"Template:Applied-math-stub",
"Template:Lang-en-short",
"Template:Math",
"Template:Reflist",
"Template:Cite journal"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%B3%E6%B3%95 |
2,685 | Kerkerの方法 | Kerkerの方法(Kerker method)は、セルフコンシステントな電子状態計算おいて、電荷密度を混合する方法の一つ[1]。パラメーターを適宜設定することにより、単純混合による方法より計算の収束を速くできる。ただし、速くならない場合もある。
この方法での電荷密度混合の表式は、電子状態の計算をセルフコンシステントに進める上で、そのための繰り返し計算におけるn回目の繰り返しでの電荷密度をρ(n)とすると、
となる。Gは逆格子ベクトル、α、λは適当な定数である。電荷密度ρ(n)に付いている添え字in、outは、それぞれn回目の繰り返しでの入力と出力の電荷密度であることを意味している。λ=0の時、上式は、
となり。これは単純混合の表式となっている。定数、α、λは計算が速く収束するような値を選ぶが、それは扱う系や計算条件に依存する。 | [
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"text": "となり。これは単純混合の表式となっている。定数、α、λは計算が速く収束するような値を選ぶが、それは扱う系や計算条件に依存する。",
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}
] | Kerkerの方法は、セルフコンシステントな電子状態計算おいて、電荷密度を混合する方法の一つ[1]。パラメーターを適宜設定することにより、単純混合による方法より計算の収束を速くできる。ただし、速くならない場合もある。 この方法での電荷密度混合の表式は、電子状態の計算をセルフコンシステントに進める上で、そのための繰り返し計算におけるn回目の繰り返しでの電荷密度をρ(n)とすると、 となる。Gは逆格子ベクトル、α、λは適当な定数である。電荷密度ρ(n)に付いている添え字in、outは、それぞれn回目の繰り返しでの入力と出力の電荷密度であることを意味している。λ=0の時、上式は、 となり。これは単純混合の表式となっている。定数、α、λは計算が速く収束するような値を選ぶが、それは扱う系や計算条件に依存する。 | {{出典の明記|date=2021年4月6日 (火) 11:03 (UTC)}}
'''Kerkerの方法'''(Kerker method)は、[[セルフコンシステント]]な電子状態計算おいて、[[電荷密度]]を混合する方法の一つ[1]。パラメーターを適宜設定することにより、単純混合による方法より計算の収束を速くできる。ただし、速くならない場合もある。
この方法での電荷密度混合の表式は、電子状態の計算をセルフコンシステントに進める上で、そのための繰り返し計算におけるn回目の繰り返しでの電荷密度をρ(n)とすると、
:<math> \rho (n+1) = \rho_{\mathrm{in}} (n) + \alpha { | \mathbf{G} |^2 \over { | \mathbf{G} |^2 + \lambda^2 } } \{ \rho_{\mathrm{out}} (n) - \rho_{\mathrm{in}} (n) \} </math>
となる。'''G'''は[[逆格子ベクトル]]、α、λは適当な定数である。電荷密度ρ(n)に付いている添え字in、outは、それぞれn回目の繰り返しでの入力と出力の電荷密度であることを意味している。λ=0の時、上式は、
:<math> \rho (n+1) \, = \rho_{\mathrm{in}} (n) + \alpha \{ \rho_{\mathrm{out}} (n) - \rho_{\mathrm{in}} (n) \} = (1 - \alpha) \rho_{\mathrm{in}} (n) + \alpha \rho_{\mathrm{out}} (n) </math>
となり。これは'''単純混合'''の表式となっている。定数、α、λは計算が速く収束するような値を選ぶが、それは扱う系や計算条件に依存する。
== 参考文献 ==
[1] G. P. Kerker, Phys. Rev. B'''23''' (1981) 3082.
== 関連項目 ==
*[[電荷密度の混合の仕方]]
[[Category:バンド計算]] | null | 2021-04-06T11:03:05Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Kerker%E3%81%AE%E6%96%B9%E6%B3%95 |
2,687 | バルセロナ | バルセロナ(カタルーニャ語: Barcelona、カタルーニャ語発音: [bərsəlónə] バルサローナ)は、スペイン・カタルーニャ州バルセロナ県のムニシピ(基礎自治体)。カタルーニャ州の州都であり、バルセロナ県の県都である。人口はマドリードに次いでスペインで第2位。国際的な観光都市であると同時に、国際会議が多く開かれる都市 であり、政治・文化・学術の面で大きな影響力を持っている。
バルセロナはイベリア半島北東岸に位置し、地中海に面した平野にある。市街地の西にはクイセロラ山地(英語版)があり、南西のリュブラガート川と北のバゾス川に挟まれている。バルセロナが位置する平野の面積は170kmであり、うち101kmがバルセロナの自治体域となっている。スペインとフランスの国境であるピレネー山脈までの距離は約120kmである。
クイセロラ山地の最高峰である512mのティビダボ(英語版)の頂上部には、遊園地、サグラット・コール教会(英語版)、電波塔のクルセロラ塔(英語版)などがある。標高267mのアル・カルメル(英語版)、標高181mのプチェット(スペイン語版)、標高261mのロビラ、標高184mのムンジュイックなど、市街地近くには多数の丘があり、そのほとんどが都市化されている。ムンジュイックの頂上部には17世紀から18世紀に建設されたムンジュイック城(英語版)があり、スポーツ施設や公園などもある。
北はサンタ・クローマ・ダ・グラマネートとサント・アドリアー・ダ・バゾス、南はアル・プラ・ダ・リュブラガートとルスピタレート・ダ・リュブラガート、西はサン・ファリウ・ダ・リュブラガート(英語版)、サン・ジュスト・ダスベルン(英語版)、アスプルガズ・ダ・リュブラガート、サン・クガ・ダル・バリェス、ムンカーダ・イ・ライシャック(英語版)と境界を接している。
地中海沿岸に位置する港湾都市で、フランスとの国境であるピレネー山脈から160km南に位置する。行政市としては約160万人の人口である。2015年の都市圏人口は421万人であり、スペインではマドリードに次ぐ第2位、世界第83位である。
14世紀に建設された城塞を起源とする旧市街と、1859年の大拡張計画によって建設された碁盤の目のように正方形の街区が並ぶ新市街からなる。都心部では人口が減少し、周辺部や都市圏外に流出しており、ドーナツ化現象に脅かされている。
バルセロナは地中海性気候(ケッペンの気候区分ではCsa) である。温暖で湿度のある冬、乾燥する夏が特徴である。イベリア半島東岸にあるバルセロナには、大西洋からの西風が、雨を降らせない低い湿度の状態で到達する。大西洋への近さ、緯度、そして地形が、他の大半の地中海盆地地方と比べてバルセロナの夏が乾燥しないことの理由となっている。降雪は非常にまれだが、海から遠く離れた都市部の丘や都市圏の奥ではわずかに霜が降りるのが一般的である。
現在バルセロナの人口はおよそ164万人(バルセロナ都市圏はおよそ548万人)でマドリードに続くスペインで2番目に大きな都市である。バルセロナは国際的な都市で、およそ4万人のイタリア人が住み、アジア系(主に中国人、パキスタン人)やラテンアメリカ系(主にコロンビア人、ホンジュラス人、ペルー人)の数も多い。 バルセロナにはおよそ1,800人の日本人が住み、日本人学校も存在する。バルセロナは観光の他、国際的な企業が多く、領事館や機関の数も多い。バルセロナは1890年に50万を超え、1935年に100万、1975年に175万を超えた。その後、バルセロナの人口の数は減少したが、2000年から再び人口は増加した。
バルセロナはもともとポエニ戦争を戦ったハンニバル・バルカを輩出したカルタゴの名家バルカ家の領土であり、都市名もバルカ家に由来する。伝説によれば、ハンニバルの父であるハミルカル・バルカが、カルタゴ人都市であるバルチーノを建設したという。
紀元前20年頃にはローマ人がローマ植民市を建設し、当初はバルチーノ(Barcino、バルキノ)と呼ばれた。その地は二本の小川に挟まれ、わずかに高くなった丘だった。丘の頂上に十字の交点を置き、広場を設け、都市の中心とした。その脇にアウグストゥス神殿を建立した。紀元4世紀には、ローマ人がこの町を、現在の市庁舎(Sant Jaume 宮殿)近くの小さな丘である Mons Taber を中心とするカストルム(ローマ軍の宿営地)に作り替えた。ローマ人の都市計画の名残は、旧市街の地図や今も残るローマ時代の城壁の破片に見ることができる。ローマ時代の重要な遺物は、市立歴史博物館の入口にあるパラウ・レイアル・マジョールに展示されている。この街は5世紀(415年)より西ゴート王国(族長アタウルフ)の支配下におかれ、短期間ではあるが西ゴート王国の首都になり、「7世紀 イベリア半島の文芸上の躍進に貢献するところがあった」が、8世紀初頭(711年)にイスラーム勢力のウマイヤ朝によって征服された。801年、カール大帝治世のフランク王国(カロリング朝)の遠征によってスペイン辺境領に組み込まれた。9世紀末になるとフランク王国からの自立を進め、10世紀末独立し、11世紀にはバルセロナ伯領を中心とするカタルーニャ君主国を確立させた。これが現在のカタルーニャの源流となった。985年にはイスラーム側のアル・マンスールによる包囲を受けたものの撃退した。
その後12世紀に入るとバルセロナは、アラゴン連合王国を構成する一勢力として、多数の海外領土を包含するまでに拡大し、バルセロナからアテネに至る地中海を支配するまでになった。バルセロナは、中世都市として囲壁を新しくめぐらし、活気ある港町に変身していった。しかし、15世紀にカタルーニャ・アラゴン連合とカスティーリャ王国との間で統一王朝が形成されると、スペインの中心はマドリードへと移行し、バルセロナは衰退してゆく。以上のような歴史的経緯によって、バルセロナを含むカタルーニャ地方全体において現在でもカタルーニャ語を話す者が多数を占めている(カスティーリャ語とのバイリンガル)。
1640年から1652年の収穫人戦争及びカタルーニャ共和国以後荒廃し、1701年から1714年のスペイン継承戦争の間に包囲戦が3度行われ(第1次バルセロナ包囲戦・第2次バルセロナ包囲戦・第3次バルセロナ包囲戦)、再び荒廃した。フェリペ5世は反乱を起こしたバルセロナを処罰・統制するために、商業地区(La Ribera)の半分を取り壊して城塞を建設した。
19世紀には産業革命が起こり、数多くの新しい産業が導入されて成長した。その結果、バルセロナには過密による不衛生など都市問題が発生したため、その解決のために市域の拡張が計画された。1859年に行われたコンペの結果、イルデフォンソ・セルダの「大拡張計画」が採用された。この計画では133.4m四方の正方形を一区画として、碁盤の目のように南北に道路を整然と敷くものである。中世の城壁は取り壊され、La Ribera の城塞は都市公園に転用されて現在のシウタデリャ公園になった。20世紀の初頭には、カタルーニャ人が自治と文化的表現の自由の拡大を求めて騒乱を起こしたことで、バルセロナの復活が明確になった。1930年代には100万人を超える大都市に成長していたが、それに伴っての住宅や公共施設、交通などの対策・施策が追い付いていなかった。
スペイン内戦(1936年-1939年)の間、バルセロナはバスク州などと共に共和国政府側につき、無政府主義運動の拠点となった。それも1939年にフランコの軍勢に侵略され、その後数十年間は恐怖政治と抑圧が続いた。フランコ政権の時代にはカタルーニャ語の使用も弾圧された。1970年代の反政府運動と独裁者フランコの死去をきっかけにして、バルセロナは文化的活動の中心となり、今日のように繁栄する都市となった。
バルセロナ市議会は41人の議員によって構成される。議員の任期は4年。
2019年の市議会選挙では、カタルーニャ独立賛成派のカタルーニャ共和主義左翼(ERC)とアダ・クラウ市長率いるバルサローナ・アン・クムーがそれぞれ10議席、カタルーニャ社会党(PSC)が8議席、シウダダノス(C's)が6議席を獲得している。市議会における市長選出(市議の互選による選任)では、アダ・クラウ現市長がPSCとC'sから造反した一部の市議の支持を得て市長に再任された。
バルセロナ市は以下の10行政区によって構成されている。
2019年にアメリカのシンクタンクであるAtkearneyが公表した世界都市ランキングでは世界第23位の都市と評価され、スペインではマドリードに次ぐ第2位だった。
また、比較的低廉な賃金水準と地価を背景として外国資本が進出しており、自動車産業においてはセアト(当初はフィアットの関連会社。現在はフォルクスワーゲン子会社)の本社や、日産自動車の生産拠点(日産モトール・イベリカ)が設けられている(日産自動車は2020年にバルセロナ工場を閉鎖することを発表している)。その他、新進ファッションブランドで知られるデシグアルは1984年バルセロナで創業している。
旧市街はほぼ平坦である。また、市街地は周辺の丘に向かって広がっており、急な坂道によって区切られている。
バルセロナには、建築家アントニ・ガウディの残した建築物が多い。彼はバルセロナで暮らし、仕事をし、グエル邸、グエル公園や、巨大で今なお未完成のサグラダ・ファミリア教会のような有名な作品をいくつか残した。それらの作品の多くはアントニ・ガウディの作品群としてユネスコの世界遺産に登録されている。
スペインでは6歳から16歳までが義務教育である。カタルーニャ州ではすべての州立学校教育でカタルーニャ語が使用され、スペイン語は外国語として教えられている。カタルーニャ州には公立(州立)・半私立・私立の3種類の学校があり、私立の中にはカトリック学校やインターナショナルスクールなどもある。3歳から6歳までの幼児教育は義務教育ではないが、3歳以上の子どもの90%が幼稚園に通っている。
6歳から12歳までは義務教育の初等教育であり、英語を含む幅広い科目が教えられる。12歳から16歳は義務教育の中等教育である。16歳から18歳は非義務教育のバチリェラートであり、芸術、自然科学・健康科学、科学・工学、社会科学、人文科学の5つの種類に分けられる。高等教育機関への進学を希望する生徒は、18歳の6月に入学試験を受ける。
1450年設立のバルセロナ大学はカタルーニャ州最古の大学である。その他には公立のカタルーニャ工科大学やプンペウ・ファブラ大学、私立のEADAビジネススクール(英語版)やラモン・リュイ大学などがある。バルセロナ自治大学はバルセロナ市域ではなくバルセロナ都市圏のサルダニョーラ・ダル・バリェスにある。トゥールーズ・ビジネススクール(英語版)とカタルーニャ・オープン大学もバルセロナを拠点としている。
バルセロナにおける三大日刊紙は『エル・ペリオディコ・デ・カタルーニャ』、『ラ・バングアルディア』、『アラ(英語版)』である。『エル・ペリオディコ・デ・カタルーニャ』と『ラ・バングアルディア』はカタルーニャ語版・スペイン語版の双方を発行しており、『アラ』はカタルーニャ語版のみを発行している。
バルセロナにおける二大スポーツ紙は、『スポルト』と『ムンド・デポルティーボ』であり、それぞれスペイン語紙である。その他にはカタルーニャ語紙の『アル・プン・アブイ』、全国紙の『エル・パイス』や『エル・ムンド』、無料紙の『20ミヌートス』などが発行されている。バルセロナを拠点とするオンライン新聞のビラウェブ(英語版)は、ヨーロッパ最古のオンライン新聞でもある。
主要なFM放送局にはカタルーニャ・ラジオ(英語版)、RAC 1(英語版)、RAC 105(スペイン語版)、カデーナ・セールなどがある。バルセロナ市が所有するバルセロナ・テレビシオー(スペイン語版、カタルーニャ語版)(BTV)があり、バルセロナ都市圏のサン・ジュアン・ダスピにはカタルーニャ州の公共放送であるテレビシオー・ダ・カタルーニャ(英語版)がある。
市の中心部から南西10kmにバルセロナ=エル・プラット空港(自治体としてはアル・プラ・ダ・リョブレガート)がある。スペイン第2の空港で、スペインの地中海沿岸では最大の空港である。スペイン国内やヨーロッパ各国からの便が中心だが、中東や米国からの便もある。
サンツ駅はレンフェ(スペイン国鉄)の鉄道網の中心の一つであり、通勤通学のための近郊路線セルカニアスの出発地でもある。セルカニアス バルセロナにはレンフェが運営する路線もあるが、ゆくゆくはカタルーニャ公営鉄道がすべて運行する予定になっている。2008年には高速鉄道AVEでマドリードとバルセロナが結ばれた。
市内と周辺の都市には、2社12路線からなるバルセロナ地下鉄が走っている。地下鉄とバスはバルセロナ交通局(一部FGCとの共同管理)によって運営されている。
市街地には1971年まで路面電車が運行されていたが、その後約40年間は途絶えていた。2004年に路面電車がLRTとして復活した。バルセロナ市街地から南西部へ伸びるトランバイシュ(英語版)(L1 - L3 の3路線)と、北東部へ伸びるトランバゾス(英語版)(L4 - L6 の3路線)がある。
バルセロナ中心部から17kmの距離にはバルセロナ=エル・プラット空港があり、2016年の旅客数は約4410万人だった。エル・プラット空港はスペインで2番目に旅客数の多い空港であり、地中海沿岸ではローマ・フィウミチーノ空港などをしのいでもっとも旅客数の多い空港である。ブエリング航空やライアンエアーのハブ空港であり、イベリア航空やエア・ヨーロッパの焦点空港である。主に国内線やヨーロッパ各国行きの国際線が運航されているが、南アメリカ・アジア・アメリカ合衆国に向かう便も運航されている。
格安航空会社(LCC)の中には、90km北のジローナ空港、77km南のレウス空港、150km西のリェイダ=アルガイア空港(英語版)を使用する会社もある。サバデイ空港(英語版)はパイロット訓練や短距離航空輸送などに特化している。
2013年のバルセロナ港の貨物取扱量は172万TEUであり、ヨーロッパ第9位のコンテナ港だった。バルセロナ港はヨーロッパ有数のクルーズ船就航港でもあり、地中海で最も重要なターンアラウンド(乗客の入れ替え)基地である。2013年には3600万人がクルーズ船でバルセロナ港を利用した。
ポルト・ベイ(英語版)地区にはショッピングモール、映画館、ヨーロッパ有数の水族館であるバルセロナ水族館(英語版)などがある。バルセロナ水族館の施設内にある35の水槽では、450種11,000匹の生物が飼育されている。直径36m、深さ5m、水量370万リットルの大水槽や、全長80mのトンネル型水槽(英語版)などがある。
高速鉄道AVEなどの都市間鉄道のターミナル駅はバルセロナ・サンツ駅であり、近距離・中距離はフランサ駅が主要な役割を果たしている。
マドリード=バルセロナ高速鉄道線の開通により、2008年にはバルセロナとマドリードが高速鉄道で結ばれた。LGVペルピニャン-フィゲラス線の開通により、2013年にはバルセロナとフランスのペルピニャンが高速鉄道で結ばれた。レンフェのほかにはカタルーニャ州政府が所有するカタルーニャ公営鉄道(FGC)が運行されており、カタルーニャ州営鉄道は通勤鉄道サービスのほかに、ケーブルカーやバルセロナ地下鉄なども運航している。近郊のモンセラートまでの鉄道も運航している。
欧州自動車道路E15号線はイギリス・フランス・スペイン地中海岸を縦断する道路であり、ジローナ、バルセロナ、タラゴナ、バレンシアなどを通っている。E90号線はトルコ・ギリシャ・イタリア・スペインを横断する道路であり、バルセロナ、サラゴサ、マドリードなどを通っている。E09号線はフランスのオルレアンとバルセロナを結ぶ道路であり、リモージュやトゥールーズを経由している。かつて鉄道駅として使用されていたエスタシオー・ダル・ノルド(英語版)はバルセロナオリンピックを機に改修され、長距離・近距離のバスターミナルとして使用されている。
バルセロナ都市圏では路面電車が3路線運航されており、トランバイシュ(英語版)とトランバゾス(英語版)はバルセロナと郊外を、トランビア・ブラウ(英語版)はバルセロナで完結している。ケーブルカーとしてはフニクラ・ダル・ティビダボ(英語版)、フニクラ・ダ・バイビドレラ(英語版)、フニクラ・ダ・ムンジュイックがあり、ロープウェーとしてはタラフェリコ・ダ・ムンジュイック(英語版)、タラフェリック・ダル・ポルト(英語版)がある。
1931年の国際オリンピック委員会(IOC)総会では、1936年の夏季オリンピック開催地が決定され、下馬評ではバルセロナが有力だったもののドイツのベルリンに敗れた。ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラー総統はベルリン五輪を政治利用しようとしたため、対抗してほぼ同時期にバルセロナで人民オリンピックの開催が企画された。
カタルーニャ自治政府に加えてスペイン共和国政府も支援し、23か国から約6,000人の選手が人民オリンピックに参加を申し込んでいる。しかし、開会式当日の7月19日にスペイン内戦が勃発したことで人民オリンピックは中止を余儀なくされた。それから56年後、カタルーニャ人のフアン・アントニオ・サマランチがIOC会長を務めていた1992年に、カタルーニャ色を強く出したバルセロナ五輪が開催された。
FCバルセロナは数多くの競技チームを持つ総合スポーツクラブであり、バスケットボールチーム、ハンドボールチームもスペインリーグの強豪であり、サッカー部門は世界屈指の強豪クラブである。マドリードに本拠地を置くレアル・マドリードとは激しいライバル関係にあり、両者の対戦はエル・クラシコと呼ばれる。カタルーニャ人にとってFCバルセロナは単なるスポーツクラブに留まらず、クラブの歴史はカタルーニャの歴史と重ね合わされる存在である。
ホームスタジアムであるカンプ・ノウは、フランコ体制下でカタルーニャ語の使用が許可された唯一の場所であり、エル・クラシコはカタルーニャと中央政府の代理戦争の意味合いを呈した。また、クラブは「ソシオ」と呼ばれる会員によって運営されていることが特徴である。さらにバルセロナには、FCバルセロナの他にもRCDエスパニョールというサッカークラブがあり、1930年代初頭のミゲル・プリモ・デ・リベラ独裁時代には独裁体制を支持した歴史がFCバルセロナとは異なる。
1834年にはアル・トリン闘牛場が、19世紀末にはより規模の大きなアレーナス闘牛場(スペイン語版)が、1914年にはアル・スポルト闘牛場(後のムヌマンタル闘牛場)が建設された。20世紀初頭のバルセロナは3つの闘牛場を有する一大闘牛都市であり、その後スペイン内戦からフランコ体制下を経た1970年代まで、ムヌマンタル闘牛場は世界最高の闘牛場だった。
レジャーの多様化、スペイン文化の象徴である闘牛ではないカタルーニャ文化の見直しなどの要因により、1970年代半ばからカタルーニャ地方で闘牛は衰退しはじめた。子供の観戦や闘牛場の新設が禁止されたほか、1989年以降には反闘牛都市宣言を行う自治体が増えた。
2009年にはカタルーニャ共和主義左翼(ERC)を中心として闘牛禁止法案がカタルーニャ州議会に提出され、2010年にはこの法案が可決された。ERC、カタルーニャ緑のイニシアティブがこの法案に賛成票を投じ、カタルーニャ国民党(スペイン語版)とシウダダノスが反対票を投じ、集中と統一やカタルーニャ社会党は党内でも票が割れた。2011年にはアレーナス闘牛場がショッピングセンターに生まれ変わり、カタルーニャ州の闘牛禁止法は2012年1月1日に施行された。
ロシアのサンクトペテルブルクとの姉妹都市関係はウクライナ侵攻により一時停止され、イスラエルのテルアビブとはパレスチナ問題の原因で一時停止されている。 | [
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"text": "バルセロナ(カタルーニャ語: Barcelona、カタルーニャ語発音: [bərsəlónə] バルサローナ)は、スペイン・カタルーニャ州バルセロナ県のムニシピ(基礎自治体)。カタルーニャ州の州都であり、バルセロナ県の県都である。人口はマドリードに次いでスペインで第2位。国際的な観光都市であると同時に、国際会議が多く開かれる都市 であり、政治・文化・学術の面で大きな影響力を持っている。",
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "スペインでは6歳から16歳までが義務教育である。カタルーニャ州ではすべての州立学校教育でカタルーニャ語が使用され、スペイン語は外国語として教えられている。カタルーニャ州には公立(州立)・半私立・私立の3種類の学校があり、私立の中にはカトリック学校やインターナショナルスクールなどもある。3歳から6歳までの幼児教育は義務教育ではないが、3歳以上の子どもの90%が幼稚園に通っている。",
"title": "教育"
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{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "6歳から12歳までは義務教育の初等教育であり、英語を含む幅広い科目が教えられる。12歳から16歳は義務教育の中等教育である。16歳から18歳は非義務教育のバチリェラートであり、芸術、自然科学・健康科学、科学・工学、社会科学、人文科学の5つの種類に分けられる。高等教育機関への進学を希望する生徒は、18歳の6月に入学試験を受ける。",
"title": "教育"
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"text": "1450年設立のバルセロナ大学はカタルーニャ州最古の大学である。その他には公立のカタルーニャ工科大学やプンペウ・ファブラ大学、私立のEADAビジネススクール(英語版)やラモン・リュイ大学などがある。バルセロナ自治大学はバルセロナ市域ではなくバルセロナ都市圏のサルダニョーラ・ダル・バリェスにある。トゥールーズ・ビジネススクール(英語版)とカタルーニャ・オープン大学もバルセロナを拠点としている。",
"title": "教育"
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"text": "バルセロナにおける三大日刊紙は『エル・ペリオディコ・デ・カタルーニャ』、『ラ・バングアルディア』、『アラ(英語版)』である。『エル・ペリオディコ・デ・カタルーニャ』と『ラ・バングアルディア』はカタルーニャ語版・スペイン語版の双方を発行しており、『アラ』はカタルーニャ語版のみを発行している。",
"title": "メディア"
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{
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"text": "バルセロナにおける二大スポーツ紙は、『スポルト』と『ムンド・デポルティーボ』であり、それぞれスペイン語紙である。その他にはカタルーニャ語紙の『アル・プン・アブイ』、全国紙の『エル・パイス』や『エル・ムンド』、無料紙の『20ミヌートス』などが発行されている。バルセロナを拠点とするオンライン新聞のビラウェブ(英語版)は、ヨーロッパ最古のオンライン新聞でもある。",
"title": "メディア"
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"text": "主要なFM放送局にはカタルーニャ・ラジオ(英語版)、RAC 1(英語版)、RAC 105(スペイン語版)、カデーナ・セールなどがある。バルセロナ市が所有するバルセロナ・テレビシオー(スペイン語版、カタルーニャ語版)(BTV)があり、バルセロナ都市圏のサン・ジュアン・ダスピにはカタルーニャ州の公共放送であるテレビシオー・ダ・カタルーニャ(英語版)がある。",
"title": "メディア"
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{
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"text": "市の中心部から南西10kmにバルセロナ=エル・プラット空港(自治体としてはアル・プラ・ダ・リョブレガート)がある。スペイン第2の空港で、スペインの地中海沿岸では最大の空港である。スペイン国内やヨーロッパ各国からの便が中心だが、中東や米国からの便もある。",
"title": "交通"
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{
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"text": "サンツ駅はレンフェ(スペイン国鉄)の鉄道網の中心の一つであり、通勤通学のための近郊路線セルカニアスの出発地でもある。セルカニアス バルセロナにはレンフェが運営する路線もあるが、ゆくゆくはカタルーニャ公営鉄道がすべて運行する予定になっている。2008年には高速鉄道AVEでマドリードとバルセロナが結ばれた。",
"title": "交通"
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{
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"text": "市内と周辺の都市には、2社12路線からなるバルセロナ地下鉄が走っている。地下鉄とバスはバルセロナ交通局(一部FGCとの共同管理)によって運営されている。",
"title": "交通"
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{
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"text": "市街地には1971年まで路面電車が運行されていたが、その後約40年間は途絶えていた。2004年に路面電車がLRTとして復活した。バルセロナ市街地から南西部へ伸びるトランバイシュ(英語版)(L1 - L3 の3路線)と、北東部へ伸びるトランバゾス(英語版)(L4 - L6 の3路線)がある。",
"title": "交通"
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{
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"text": "バルセロナ中心部から17kmの距離にはバルセロナ=エル・プラット空港があり、2016年の旅客数は約4410万人だった。エル・プラット空港はスペインで2番目に旅客数の多い空港であり、地中海沿岸ではローマ・フィウミチーノ空港などをしのいでもっとも旅客数の多い空港である。ブエリング航空やライアンエアーのハブ空港であり、イベリア航空やエア・ヨーロッパの焦点空港である。主に国内線やヨーロッパ各国行きの国際線が運航されているが、南アメリカ・アジア・アメリカ合衆国に向かう便も運航されている。",
"title": "交通"
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{
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"text": "格安航空会社(LCC)の中には、90km北のジローナ空港、77km南のレウス空港、150km西のリェイダ=アルガイア空港(英語版)を使用する会社もある。サバデイ空港(英語版)はパイロット訓練や短距離航空輸送などに特化している。",
"title": "交通"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2013年のバルセロナ港の貨物取扱量は172万TEUであり、ヨーロッパ第9位のコンテナ港だった。バルセロナ港はヨーロッパ有数のクルーズ船就航港でもあり、地中海で最も重要なターンアラウンド(乗客の入れ替え)基地である。2013年には3600万人がクルーズ船でバルセロナ港を利用した。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "ポルト・ベイ(英語版)地区にはショッピングモール、映画館、ヨーロッパ有数の水族館であるバルセロナ水族館(英語版)などがある。バルセロナ水族館の施設内にある35の水槽では、450種11,000匹の生物が飼育されている。直径36m、深さ5m、水量370万リットルの大水槽や、全長80mのトンネル型水槽(英語版)などがある。",
"title": "交通"
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{
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"text": "高速鉄道AVEなどの都市間鉄道のターミナル駅はバルセロナ・サンツ駅であり、近距離・中距離はフランサ駅が主要な役割を果たしている。",
"title": "交通"
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{
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"tag": "p",
"text": "マドリード=バルセロナ高速鉄道線の開通により、2008年にはバルセロナとマドリードが高速鉄道で結ばれた。LGVペルピニャン-フィゲラス線の開通により、2013年にはバルセロナとフランスのペルピニャンが高速鉄道で結ばれた。レンフェのほかにはカタルーニャ州政府が所有するカタルーニャ公営鉄道(FGC)が運行されており、カタルーニャ州営鉄道は通勤鉄道サービスのほかに、ケーブルカーやバルセロナ地下鉄なども運航している。近郊のモンセラートまでの鉄道も運航している。",
"title": "交通"
},
{
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"text": "欧州自動車道路E15号線はイギリス・フランス・スペイン地中海岸を縦断する道路であり、ジローナ、バルセロナ、タラゴナ、バレンシアなどを通っている。E90号線はトルコ・ギリシャ・イタリア・スペインを横断する道路であり、バルセロナ、サラゴサ、マドリードなどを通っている。E09号線はフランスのオルレアンとバルセロナを結ぶ道路であり、リモージュやトゥールーズを経由している。かつて鉄道駅として使用されていたエスタシオー・ダル・ノルド(英語版)はバルセロナオリンピックを機に改修され、長距離・近距離のバスターミナルとして使用されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "バルセロナ都市圏では路面電車が3路線運航されており、トランバイシュ(英語版)とトランバゾス(英語版)はバルセロナと郊外を、トランビア・ブラウ(英語版)はバルセロナで完結している。ケーブルカーとしてはフニクラ・ダル・ティビダボ(英語版)、フニクラ・ダ・バイビドレラ(英語版)、フニクラ・ダ・ムンジュイックがあり、ロープウェーとしてはタラフェリコ・ダ・ムンジュイック(英語版)、タラフェリック・ダル・ポルト(英語版)がある。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1931年の国際オリンピック委員会(IOC)総会では、1936年の夏季オリンピック開催地が決定され、下馬評ではバルセロナが有力だったもののドイツのベルリンに敗れた。ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラー総統はベルリン五輪を政治利用しようとしたため、対抗してほぼ同時期にバルセロナで人民オリンピックの開催が企画された。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "カタルーニャ自治政府に加えてスペイン共和国政府も支援し、23か国から約6,000人の選手が人民オリンピックに参加を申し込んでいる。しかし、開会式当日の7月19日にスペイン内戦が勃発したことで人民オリンピックは中止を余儀なくされた。それから56年後、カタルーニャ人のフアン・アントニオ・サマランチがIOC会長を務めていた1992年に、カタルーニャ色を強く出したバルセロナ五輪が開催された。",
"title": "スポーツ"
},
{
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"text": "FCバルセロナは数多くの競技チームを持つ総合スポーツクラブであり、バスケットボールチーム、ハンドボールチームもスペインリーグの強豪であり、サッカー部門は世界屈指の強豪クラブである。マドリードに本拠地を置くレアル・マドリードとは激しいライバル関係にあり、両者の対戦はエル・クラシコと呼ばれる。カタルーニャ人にとってFCバルセロナは単なるスポーツクラブに留まらず、クラブの歴史はカタルーニャの歴史と重ね合わされる存在である。",
"title": "スポーツ"
},
{
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"text": "ホームスタジアムであるカンプ・ノウは、フランコ体制下でカタルーニャ語の使用が許可された唯一の場所であり、エル・クラシコはカタルーニャと中央政府の代理戦争の意味合いを呈した。また、クラブは「ソシオ」と呼ばれる会員によって運営されていることが特徴である。さらにバルセロナには、FCバルセロナの他にもRCDエスパニョールというサッカークラブがあり、1930年代初頭のミゲル・プリモ・デ・リベラ独裁時代には独裁体制を支持した歴史がFCバルセロナとは異なる。",
"title": "スポーツ"
},
{
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"text": "1834年にはアル・トリン闘牛場が、19世紀末にはより規模の大きなアレーナス闘牛場(スペイン語版)が、1914年にはアル・スポルト闘牛場(後のムヌマンタル闘牛場)が建設された。20世紀初頭のバルセロナは3つの闘牛場を有する一大闘牛都市であり、その後スペイン内戦からフランコ体制下を経た1970年代まで、ムヌマンタル闘牛場は世界最高の闘牛場だった。",
"title": "スポーツ"
},
{
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"tag": "p",
"text": "レジャーの多様化、スペイン文化の象徴である闘牛ではないカタルーニャ文化の見直しなどの要因により、1970年代半ばからカタルーニャ地方で闘牛は衰退しはじめた。子供の観戦や闘牛場の新設が禁止されたほか、1989年以降には反闘牛都市宣言を行う自治体が増えた。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2009年にはカタルーニャ共和主義左翼(ERC)を中心として闘牛禁止法案がカタルーニャ州議会に提出され、2010年にはこの法案が可決された。ERC、カタルーニャ緑のイニシアティブがこの法案に賛成票を投じ、カタルーニャ国民党(スペイン語版)とシウダダノスが反対票を投じ、集中と統一やカタルーニャ社会党は党内でも票が割れた。2011年にはアレーナス闘牛場がショッピングセンターに生まれ変わり、カタルーニャ州の闘牛禁止法は2012年1月1日に施行された。",
"title": "スポーツ"
},
{
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"text": "",
"title": "姉妹都市"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ロシアのサンクトペテルブルクとの姉妹都市関係はウクライナ侵攻により一時停止され、イスラエルのテルアビブとはパレスチナ問題の原因で一時停止されている。",
"title": "姉妹都市"
}
] | バルセロナは、スペイン・カタルーニャ州バルセロナ県のムニシピ(基礎自治体)。カタルーニャ州の州都であり、バルセロナ県の県都である。人口はマドリードに次いでスペインで第2位。国際的な観光都市であると同時に、国際会議が多く開かれる都市 であり、政治・文化・学術の面で大きな影響力を持っている。 | {{Otheruses}}
{{基礎情報 スペインの自治体2
|名前={{lang|ca|Barcelona}}
|市旗=Flag of Barcelona.svg
|市旗幅=110px
|市章=Escut de Barcelona.svg
|市章幅=80px
|画像=Barcelona collage.JPG
|画像幅=300px
|画像説明=上:バルセロナ中心部のビジネス街<br>中左:[[サグラダ・ファミリア]]の夜景、中右:[[カンプ・ノウ]]<br>下左:三頭の竜の城 (Castell dels Tres Dracs)、<br>下中:パラウ・ナシオナル (Palau Nacional:<br>[[カタルーニャ美術館]]の本拠)<br>下右:[[:en:W Barcelona|Wバルセロナ・ホテル]]
|州=カタルーニャ
|県=バルセロナ
|コマルカ=[[バルサルネス]]
|司法管轄区=バルセローナ
|面積=101.4
|面積注=<ref name=IEC/>
|標高=13
|人口=1602386
|年=2014年<ref name=IEC>{{Cite web|和書|url=http://www.idescat.cat/ |title=カタルーニャ統計局(IEC) |publisher=カタルーニャ自治州政府 |language=カタルーニャ語 |accessdate=2015-05-31}}</ref>
|住民の呼称=barceloní/-nina
|自治体首長=[[アダ・クラウ・バリャーヌ]]<ref>{{Cite web |url=http://ajuntament.barcelona.cat/alcaldessa/ca/ |title=Ada Colau, L'Alcaldessa de Barcelona |publisher=バルセロナ市議会 |language=カタルーニャ語 |accessdate=2015-06-15}}</ref><br />([[バルサローナ・アン・クムー]])
|選挙年=2015
|守護聖人=Virgen de la Merced <ref>{{cite web|url=http://www.bcn.es/merce/es/historia.shtml|title=La Mercè 2011|publisher=Ajuntament de Barcelona, Barcelona Cultura|language=スペイン語|accessdate=2011-10-13}}</ref>
|latd=41 |latm=22 |lats=57 |lond=2 |lonm=10 |lons=37 |EW=E
|ウェブサイト=http://www.barcelona.cat/
}}
'''バルセロナ'''({{lang-ca|Barcelona}}、{{IPA-ca|bərsəlónə}} バルサローナ)は、[[スペイン]]・[[カタルーニャ州]][[バルセロナ県]]の[[ムニシピオ|ムニシピ]](基礎自治体)。カタルーニャ州の州都であり、バルセロナ県の県都である。人口は[[マドリード]]に次いでスペインで第2位。国際的な観光都市であると同時に、国際会議が多く開かれる都市<ref>{{Cite web|title=ICCA releases largest ever statistics report for 2018 - News Archives ICCA Press Releases ICCA|url=https://www.iccaworld.org/newsarchives/archivedetails.cfm?id=935584|website=www.iccaworld.org|accessdate=2020-01-09}}</ref> であり、政治・文化・学術の面で大きな影響力を持っている。
== 地理 ==
=== 位置 ===
バルセロナは[[イベリア半島]]北東岸に位置し、[[地中海]]に面した平野にある。市街地の西には{{仮リンク|クイセロラ山地|en|Serra de Collserola}}があり、南西の[[リュブラガート川]]と北の[[バゾス川]]に挟まれている<ref name="gec_3">{{cite encyclopaedia |encyclopedia=Gran Enciclopèdia Catalana |title=Barcelona |date=July 1971 |publisher=Edicions 62 |volume=3 |location=Barcelona |pages=193–229}}</ref>。バルセロナが位置する平野の面積は170km<sup>2</sup>であり<ref name="gec_3"/>、うち101km<sup>2</sup>がバルセロナの自治体域となっている<ref name="guies_estadistiques">{{cite web|url=http://www.bcn.es/estadistica/catala/dades/inf/guies/bcn.pdf |title=11 Barcelona.indd |format=PDF |accessdate=26 June 2010|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120220062823/http://www.bcn.es/estadistica/catala/dades/inf/guies/bcn.pdf |archivedate=20 February 2012}}</ref>。スペインとフランスの国境である[[ピレネー山脈]]までの距離は約120kmである。
クイセロラ山地の最高峰である512mの{{仮リンク|ティビダボ|en|Tibidabo}}の頂上部には、遊園地、{{仮リンク|サグラット・コール教会|en|Temple Expiatori del Sagrat Cor}}、電波塔の{{仮リンク|クルセロラ塔|en|Torre de Collserola}}などがある<ref>{{cite web|url=http://www.panoramas.dk/fullscreen/fullscreen33.html |title=Barcelona Spain Tibidabo Sagrat Cor Church. Full Screen QTVR panoramic image |publisher=Panoramas.dk |accessdate=5 May 2009| archiveurl= https://web.archive.org/web/20090428050829/http://www.panoramas.dk/fullscreen/fullscreen33.html| archivedate= 28 April 2009 | deadurl= no}}</ref>。標高267mの{{仮リンク|アル・カルメル|En|El Carmel}}、標高181mの{{仮リンク|プチェット|es|Putxet}}、標高261mのロビラ、標高184mの[[ムンジュイック]]など、市街地近くには多数の丘があり、そのほとんどが都市化されている。ムンジュイックの頂上部には17世紀から18世紀に建設された{{仮リンク|ムンジュイック城|en|Montjuïc Castle}}があり、スポーツ施設や公園などもある。
北は[[サンタ・クローマ・ダ・グラマネート]]と[[サント・アドリアー・ダ・バゾス]]、南は[[アル・プラ・ダ・リュブラガート]]と[[ルスピタレート・ダ・リュブラガート]]、西は{{仮リンク|サン・ファリウ・ダ・リュブラガート|en|Sant Feliu de Llobregat}}、{{仮リンク|サン・ジュスト・ダスベルン|en|Sant Just Desvern}}、[[アスプルガズ・ダ・リュブラガート]]、[[サン・クガ・ダル・バリェス]]、{{仮リンク|ムンカーダ・イ・ライシャック|en|Montcada i Reixac}}と境界を接している。
[[地中海]]沿岸に位置する港湾都市で、[[フランス]]との国境である[[ピレネー山脈]]から160km南に位置する。行政市としては約160万人の人口である。2015年の都市圏人口は421万人であり、スペインではマドリードに次ぐ第2位、[[世界の都市的地域の人口順位|世界第83位]]である<ref>[http://www.demographia.com/db-worldua.pdf Demographia: World Urban Areas & Population Projections]</ref>。
14世紀に建設された城塞を起源とする旧市街と、1859年の大拡張計画によって建設された碁盤の目のように正方形の街区が並ぶ新市街からなる。都心部では人口が減少し、周辺部や都市圏外に流出しており、[[ドーナツ化現象]]に脅かされている。
[[File:Barcelona. View from Tibidabo.jpg|500px|thumb|left|バルセロナ市街地の景観]]
{{-}}
=== 気候 ===
バルセロナは[[地中海性気候]]([[ケッペンの気候区分]]ではCsa)<ref>{{cite web |url=http://koeppen-geiger.vu-wien.ac.at/ |title=World Map of Köppen−Geiger Climate Classification |accessdate=2011-03-09}}</ref> である<ref>{{cite web|url=http://www.meteo.cat/mediamb_xemec/servmet/index.html |title=Servei Meteorològic de Catalunya |publisher=Meteo.cat |date= |accessdate=2009-05-22}}</ref>。温暖で湿度のある冬、乾燥する夏が特徴である。イベリア半島東岸にあるバルセロナには、大西洋からの西風が、雨を降らせない低い湿度の状態で到達する。大西洋への近さ、緯度、そして地形が、他の大半の[[地中海盆地]]地方と比べてバルセロナの夏が乾燥しないことの理由となっている。降雪は非常にまれだが、海から遠く離れた都市部の丘や都市圏の奥ではわずかに霜が降りるのが一般的である。
{{Weather box
|location = バルセロナ
|metric first = yes
|single line = yes
|Jan high C = 13.4
|Feb high C = 14.6
|Mar high C = 15.9
|Apr high C = 17.6
|May high C = 20.5
|Jun high C = 24.2
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|Dec high C = 14.3
|year high C = 20.0
|Jan mean C = 8.9
|Feb mean C = 10.0
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|Jun mean C = 20.0
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|year mean C = 15.6
|Jan low C = 4.4
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|Jan precipitation mm = 41
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|source 1 = [[世界気象機関]]([[国際連合]])<ref>
{{cite web |url=http://www.worldweather.org/083/c01232.htm |title=Weather Information for Barcelona |accessdate=2011-03-09}}</ref>、スペイン気象庁<ref>{{cite web |url=http://www.aemet.es/es/elclima/datosclimatologicos/valoresclimatologicos?l=0076&k=cat |title=Meteorología |accessdate=2011-03-09}}</ref>
|date=August 2010}}
== 人口統計 ==
{{グラフ|タイプ=人口推移|幅=600|1900|533000|1910|587411|1920|710335|1930|1005565|1940|1081175|1950|1280179|1960|1557863|1970|1745142|1981|1754900|1991|1681132|2000|1496266|2010|1619337|脚注={{人口推移バルセロナ}}}}
{| class="infobox" style="float:right text-align:center;"
|colspan=2| '''国別の海外出身者の人口'''<ref name=bcn2019>{{cite web |title=Evolució de la població estrangera a Barcelona. 2010–2019 |url=https://www.bcn.cat/estadistica/angles/dades/inf/pobest/pobest19/part1/nt14.htm |date=1 January 2019 |publisher=Ajuntament de Barcelona |access-date=28 July 2019 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190728045650/https://www.bcn.cat/estadistica/angles/dades/inf/pobest/pobest19/part1/nt14.htm |archive-date=28 July 2019 |url-status=live}}</ref>
|-
! 出身国 !! 人口 (2022)
|-
| {{flag|Italy}} ||37,276
|-
| {{flag|China}} ||22,158
|-
| {{flag|Pakistan}} ||21,643
|-
| {{flag|Ukraine}} ||17,667
|-
| {{flag|France}} ||17,430
|-
| {{flag|Morocco}} ||15,418
|-
| {{flag|Colombia}} ||13,290
|-
| {{flag|Honduras}} ||12,344
|-
| {{flag|Peru}} ||11,558
|-
| {{flag|Venezuela}} ||10,685
|-
| {{flag|Philippines}} ||9,739
|-
| {{flag|Bolivia}} ||9,128
|-
| {{flag|United States}} ||8,613
|-
| {{flag|Ecuador}} ||8,024
|-
| {{flag|Germany}} ||7,839
|-
| {{flag|Argentina}} ||7,738
|-
| {{flag|Romania}} ||7,720
|-
| {{flag|Russia}} ||7,696
|-
| {{flag|Brazil}} ||7,476
|-
| {{flag|India}} ||7,263
|-
| {{flag|Dominican Republic}} ||6,142
|-
| {{flag|Bangladesh}} ||5,688
|-
| {{flag|Portugal}} ||5,471
|-
| {{flag|Mexico}} ||4,834
|-
| {{flag|Chile}} ||4,370
|}
現在バルセロナの人口はおよそ164万人(バルセロナ都市圏はおよそ548万人)で[[マドリード]]に続くスペインで2番目に大きな都市である。バルセロナは国際的な都市で、およそ4万人の[[イタリア人]]が住み、[[アジア系]](主に[[中国人]]、[[パキスタン人]])や[[ラテンアメリカ]]系(主に[[コロンビア人]]、[[ホンジュラス人]]、[[ペルー人]])の数も多い。<ref name=bcn2019>{{cite web |title=Evolució de la població estrangera a Barcelona. 2010–2019 |url=https://www.bcn.cat/estadistica/angles/dades/inf/pobest/pobest19/part1/nt14.htm |date=1 January 2019 |publisher=Ajuntament de Barcelona |access-date=28 July 2019 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190728045650/https://www.bcn.cat/estadistica/angles/dades/inf/pobest/pobest19/part1/nt14.htm |archive-date=28 July 2019 |url-status=live}}</ref> バルセロナにはおよそ1,800人の[[日本人]]が住み、[[バルセロナ日本人学校|日本人学校]]も存在する。バルセロナは観光の他、国際的な企業が多く、領事館や機関の数も多い。バルセロナは[[1890年]]に50万を超え、[[1935年]]に100万、[[1975年]]に175万を超えた。その後、バルセロナの人口の数は減少したが、[[2000年]]から再び人口は増加した。
== 歴史 ==
{{main|{{仮リンク|バルセロナの歴史|ca|Història de Barcelona|es|Historia de Barcelona|en|History of Barcelona}}}}
バルセロナはもともと[[ポエニ戦争]]を戦った[[ハンニバル|ハンニバル・バルカ]]を輩出したカルタゴの名家[[バルカ家]]の領土であり、都市名もバルカ家に由来する。[[伝説]]によれば、[[ハンニバル]]の父である[[ハミルカル・バルカ]]が、[[カルタゴ]]人都市であるバルチーノを建設したという。
紀元前20年頃にはローマ人が[[コロニア (古代ローマ)|ローマ植民市]]を建設し、当初はバルチーノ(Barcino、バルキノ)と呼ばれた。その地は二本の小川に挟まれ、わずかに高くなった丘だった。丘の頂上に十字の交点を置き、広場を設け、都市の中心とした。その脇にアウグストゥス神殿を建立した。紀元4世紀には、ローマ人がこの町を、現在の市庁舎(Sant Jaume 宮殿)近くの小さな丘である Mons Taber を中心とする[[カストルム]](ローマ軍の宿営地)に作り替えた。ローマ人の都市計画の名残は、旧市街の地図や今も残るローマ時代の城壁の破片に見ることができる。ローマ時代の重要な遺物は、市立歴史博物館の入口にある[[パラウ・レイアル・マジョール]]に展示されている。この街は5世紀(415年)より[[西ゴート王国]](族長[[アタウルフ]])の支配下におかれ、短期間ではあるが西ゴート王国の首都になり、「[[7世紀]] [[イベリア半島]]の文芸上の躍進に貢献するところがあった」が<ref>エーディト・エネン『ヨーロッパの中世都市』(佐々木克巳訳)岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X) 、29頁。</ref>、8世紀初頭(711年)にイスラーム勢力の[[ウマイヤ朝]]によって征服された。801年、[[カール大帝]]治世の[[フランク王国]](カロリング朝)の遠征によって[[スペイン辺境領]]に組み込まれた。9世紀末になるとフランク王国からの自立を進め、10世紀末独立し、11世紀には[[バルセロナ伯]]領を中心とする[[カタルーニャ君主国]]を確立させた。これが現在のカタルーニャの源流となった。985年にはイスラーム側の[[アル・マンスール]]による包囲を受けたものの撃退した。
[[ファイル:Casa_generalitat_web.jpg|thumb|200px|カタルーニャ政府庁舎]]
その後12世紀に入るとバルセロナは、[[アラゴン連合王国]]を構成する一勢力として、多数の海外領土を包含するまでに拡大し、バルセロナからアテネに至る地中海を支配するまでになった。バルセロナは、中世都市として囲壁を新しくめぐらし、活気ある港町に変身していった。しかし、15世紀にカタルーニャ・アラゴン連合と[[カスティーリャ王国]]との間で統一王朝が形成されると、スペインの中心はマドリードへと移行し、バルセロナは衰退してゆく。以上のような歴史的経緯によって、バルセロナを含むカタルーニャ地方全体において現在でも[[カタルーニャ語]]を話す者が多数を占めている([[カスティーリャ語]]とのバイリンガル)。
1640年から1652年の[[収穫人戦争]]及び[[カタルーニャ共和国]]以後荒廃し、1701年から1714年の[[スペイン継承戦争]]の間に包囲戦が3度行われ([[バルセロナ包囲戦 (1705年)|第1次バルセロナ包囲戦]]・[[バルセロナ包囲戦 (1706年)|第2次バルセロナ包囲戦]]・[[バルセロナ包囲戦 (1713年-1714年)|第3次バルセロナ包囲戦]])、再び荒廃した。[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]は反乱を起こしたバルセロナを処罰・統制するために、商業地区(La Ribera)の半分を取り壊して[[城塞]]を建設した。
19世紀には[[産業革命]]が起こり、数多くの新しい産業が導入されて成長した。その結果、バルセロナには過密による不衛生など都市問題が発生したため、その解決のために市域の拡張が計画された。1859年に行われたコンペの結果、[[イルデフォンソ・セルダ]]の「大拡張計画」が採用された。この計画では133.4m四方の正方形を一区画として、碁盤の目のように南北に道路を整然と敷くものである。中世の城壁は取り壊され、La Ribera の城塞は都市公園に転用されて現在の[[シウタデリャ公園]]になった。20世紀の初頭には、カタルーニャ人が自治と文化的表現の自由の拡大を求めて騒乱を起こしたことで、バルセロナの復活が明確になった。[[1930年代]]には100万人を超える大都市に成長していたが、それに伴っての住宅や公共施設、交通などの対策・施策が追い付いていなかった。
[[スペイン内戦]](1936年-1939年)の間、バルセロナは[[バスク州]]などと共に[[スペイン第二共和政|共和国政府]]側につき、無政府主義運動の拠点となった。それも1939年に[[フランシスコ・フランコ|フランコ]]の軍勢に侵略され、その後数十年間は恐怖政治と抑圧が続いた。フランコ政権の時代には[[カタルーニャ語]]の使用も弾圧された。[[1970年代]]の反政府運動と独裁者フランコの死去をきっかけにして、バルセロナは文化的活動の中心となり、今日のように繁栄する都市となった。
== 政治 ==
[[File:Barcelona (Plaça de Sant Jaume) City Hall. Neoclassical facade. 1831-1847. Josep Mas, architect (27664512650) edited.jpg|thumb|バルセロナ市庁舎]]
バルセロナ市議会は41人の議員によって構成される。議員の任期は4年。
2019年の市議会選挙では、カタルーニャ独立賛成派の[[カタルーニャ共和主義左翼]](ERC)と[[アダ・クラウ・バリャーヌ|アダ・クラウ]]市長率いる[[バルサローナ・アン・クムー]]がそれぞれ10議席、[[カタルーニャ社会党]](PSC)が8議席、[[シウダダノス]](C's)が6議席を獲得している<ref>{{cite web |url=http://www.juntaelectoralcentral.es/cs/jec/documentos/LOCALES_2019_Resultados02.pdf |title=Local election results, 26 May 2019, in Asturias, Ávila, Badajoz, Barcelona and Biscay provinces |language=Spanish |website=www.juntaelectoralcentral.es |publisher=中央選挙管理委員会 |access-date=15 July 2019}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.barcelona-metropolitan.com/living/barcelona-2019-local-election-results/|title=Barcelona 2019 Local Election Results|newspaper=barcelona-metropolitan|date=2019-06-04|accessdate=2020-05-05}}</ref>。市議会における市長選出(市議の互選による選任)では、アダ・クラウ現市長がPSCとC'sから造反した一部の市議の支持を得て市長に再任された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/06/0a899a84ce902116.html|title=マドリードは右派が市政奪回、バルセロナは急進左派系市長が続投|website=JETRO|date=2019-06-26|accessdate=2020-05-05}}</ref>。
=== 歴代市長 ===
* 1979年 - 1982年:{{仮リンク|ナルシス・セラ|en|Narcís Serra}}(PSC)
* 1982年 - 1997年:{{仮リンク|パスクアル・マラガイ|en|Pasqual Maragall}}(PSC)
* 1997年 - 2006年:{{仮リンク|ジョアン・クロス|en|Joan Clos}}(PSC)
* 2006年 - 2011年:{{仮リンク|ジョルディ・エレウ|en|Jordi Hereu}}(PSC)
* 2011年 - 2015年:{{仮リンク|ザビエル・トリアス|en|Xavier Trias}}(PDeCAT)
* 2015年 - 2023年:[[アダ・クラウ・バリャーヌ]]([[バルサローナ・アン・クムー]])
* 2023年 - :{{仮リンク|ジャウマ・コルボニ|en|Jaume Collboni}}(PSC)
=== 行政区 ===
[[File:Barcelona Districts map.svg|right|thumb|350px|バルセロナの行政区画]]
バルセロナ市は以下の10行政区によって構成されている。
* [[シウタ・ベリャ]]
* [[アシャンプラ]]
* [[サンツ・ムンジュイック]]
* {{仮リンク|ラス・コルツ|en|District of Les Corts}}
* {{仮リンク|サリア=サン・ジャルバシ|en|Sarrià-Sant Gervasi}}
* [[グラシア区|グラシア]]
* {{仮リンク|オルタ・ギナルド|en|Horta-Guinardó}}
* {{仮リンク|ノウ・バリス|en|Nou Barris}}
* [[サン・アンドレウ]]
* {{仮リンク|サン・マルティ|en|Sant Martí (district)}}
== 経済 ==
2019年にアメリカのシンクタンクであるAtkearneyが公表した[[世界都市#研究調査|世界都市ランキング]]では世界第23位の都市と評価され、スペインでは[[マドリード]]に次ぐ第2位だった<ref>{{Cite web|title=Read @Kearney: A question of talent: how human capital will determine the next global leaders|url=http://www.kearney.com/global-cities/2019|website=www.kearney.com|accessdate=2020-02-20|language=en-US}}</ref>。
また、比較的低廉な賃金水準と地価を背景として外国資本が進出しており、自動車産業においては[[セアト]](当初は[[フィアット]]の関連会社。現在は[[フォルクスワーゲン]]子会社)の本社や、[[日産自動車]]の生産拠点([[日産モトール・イベリカ]])が設けられている(日産自動車は2020年にバルセロナ工場を閉鎖することを発表している)<ref>{{Cite web|和書|date=2020-05-28 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3285438?cx_part=top_category&cx_position=5 |title=日産自動車、約10年ぶりの赤字転落 スペイン工場閉鎖へ |publisher=AFP |accessdate=2020-05-26}}</ref>。その他、新進ファッションブランドで知られる[[デシグアル]]は1984年バルセロナで創業している。
== 観光 ==
旧市街はほぼ平坦である。また、市街地は周辺の丘に向かって広がっており、急な坂道によって区切られている。
バルセロナには、建築家[[アントニ・ガウディ]]の残した建築物が多い。彼はバルセロナで暮らし、仕事をし、グエル邸、[[グエル公園]]や、巨大で今なお未完成の[[サグラダ・ファミリア教会]]のような有名な作品をいくつか残した。それらの作品の多くは[[アントニ・ガウディの作品群]]として[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録されている。
[[ファイル:Spain Sagrada Familia.jpg|thumb|right|[[サグラダ・ファミリア]]]]
[[ファイル:PortVell.JPG|thumb|right|ポルト・ベル]]
* [[ランブラス通り]]:夜遅くまで多くの人通りでごった返し、花屋、鳥屋、大道芸人、カフェテリア、レストランが並ぶ、市の中心から臨海地区まで走る大通りである。ランブラス通りを歩くと、いくつもの興味深い建造物に混じって、世界的に有名な[[リセウ大劇場]]、[[ラ・ボケリア|ラ・ブカリーア]]の食品市場、Plaça Reial (直訳すれば王家の区画)、そこに設けられたアーチやシュロの木を見ることができる。南の終端には[[クリストファー・コロンブス]]の像があり、地中海を指して立っている。
*カタルーニャ広場 : バルセロナ市の中心にある広場。観光地として、日々多くの人が訪れる。多くの地下鉄やサンクガットやテラサ、サバデルなどの都市を結ぶFGCの終点駅であり、交通の便も良い。
*スペイン広場(エスパーニャ広場)カタルーニャ広場の南、サンツ駅の東にある広場。南にマジカ噴水、続いてカタルーニャ美術館がある。
* 海軍博物館:地中海での生活の歴史が記録されている。ガレー船の原寸大模型もある。博物館の建物は中世の[[王立造船所 (バルセロナ)|王立造船所]]であり、ここで地中海を航海した船が建造された。
* [[シウタデリャ公園]]:ダウンタウンの北にあり、園内には[[カタルーニャ州議会]]・[[バルセロナ動物園]]・科学博物館などがある。
* [[サグラダ・ファミリア]](聖家族教会):建築家[[アントニ・ガウディ]]設計で、1882年から建設が続けられている。中世の大聖堂と同様に、一般からの寄付によって財源をまかなっている。2026年完成と予告されている。
* カテドラル(大聖堂):バルセロナで大聖堂と言えば、サグラダ・ファミリアでなく中世後期の[[ゴシック様式]]の建物である[[サンタ・エウラリア大聖堂]]を指す。
* [[ピカソ美術館 (バルセロナ)|ピカソ美術館]]:[[パブロ・ピカソ]]の初期のあまり知られていない作品が展示されている。モンカダ通りにある。
* [[ミロ美術館|ジョアン・ミロ財団美術館]]:[[ジョアン・ミロ]]の絵画や彫刻が、世界中の美術館から借り出された作品と共に展示されている。[[モンジュイックの丘]]にある。
* [[カタルーニャ美術館|国立カタルーニャ美術館]]:[[ロマネスク|ロマネスク様式美術]]のコレクションを所蔵していることでよく知られている。カタルーニャ中の[[ロマネスク建築]]の教会やチャペルの壁画を移設したものも含まれている。
* [[バルセロナ現代美術館]]:絵画や彫刻だけでなく、アメリカの建築家である[[リチャード・マイヤー]]が設計した建物でも有名である。
* [[グエル公園]]:建築家[[アントニ・ガウディ]]設計。
* [[トーレ・アグバール]]
* [[タピエス美術館]]:現代美術の巨匠、[[アントニ・タピエス]]の作品とその他の現代美術の展示など。
* [[カンプ・ノウ]]:欧州最大(約10万人を収容可能)のサッカースタジアムで、世界的強豪プロサッカークラブ・[[FCバルセロナ]]がホームとする。クラブ博物館もある。
* [[カサ・ミラ]]:建築家[[アントニ・ガウディ]]設計。
* [[カサ・バトリョ]]:建築家[[アントニ・ガウディ]]設計。
* [[サン・パウ病院]]:世界遺産に登録されている、現在も診療を行っている病院。
== 教育 ==
[[File:Paranimf de la Universitat de Barcelona.jpg|thumb|[[バルセロナ大学]]]]
スペインでは6歳から16歳までが[[義務教育]]である<ref name=barmetro>{{cite web |url=http://www.barcelona-metropolitan.com/living/education-in-catalunya/ |title=Education in Catalunya |publisher=Metropolitan Barcelona |date= |accessdate=2017-04-01}}</ref>。カタルーニャ州ではすべての州立学校教育で[[カタルーニャ語]]が使用され、[[スペイン語]]は外国語として教えられている<ref name=barmetro/>。カタルーニャ州には公立(州立)・半私立・私立の3種類の学校があり、私立の中にはカトリック学校や[[インターナショナルスクール]]などもある<ref name=barmetro/>。3歳から6歳までの[[幼児教育]]は[[義務教育]]ではないが、3歳以上の子どもの90%が幼稚園に通っている<ref name=barmetro/>。
6歳から12歳までは義務教育の[[初等教育]]であり、[[英語]]を含む幅広い科目が教えられる<ref name=barmetro/>。12歳から16歳は義務教育の[[中等教育]]である<ref name=barmetro/>。16歳から18歳は非義務教育のバチリェラートであり、芸術、自然科学・健康科学、科学・工学、社会科学、人文科学の5つの種類に分けられる<ref name=barmetro/>。[[高等教育機関]]への進学を希望する生徒は、18歳の6月に入学試験を受ける<ref name=barmetro/>。
1450年設立の[[バルセロナ大学]]は[[カタルーニャ州]]最古の大学である。その他には公立の[[カタルーニャ工科大学]]や[[プンペウ・ファブラ大学]]、私立の{{仮リンク|EADAビジネススクール|en|EADA Business School}}や[[ラモン・リュイ大学]]などがある。[[バルセロナ自治大学]]はバルセロナ市域ではなくバルセロナ都市圏の[[サルダニョーラ・ダル・バリェス]]にある。{{仮リンク|トゥールーズ・ビジネススクール|en|Toulouse Business School}}と{{仮リンク|カタルーニャ・オープン大学|en|Open University of Catalonia}}もバルセロナを拠点としている。
== メディア ==
バルセロナにおける三大日刊紙は『[[エル・ペリオディコ・デ・カタルーニャ]]』、『[[ラ・バングアルディア]]』、『{{仮リンク|アラ (新聞)|label=アラ|en|Ara (newspaper)}}』である。『エル・ペリオディコ・デ・カタルーニャ』と『ラ・バングアルディア』はカタルーニャ語版・スペイン語版の双方を発行しており、『アラ』はカタルーニャ語版のみを発行している。
バルセロナにおける二大[[スポーツ新聞|スポーツ紙]]は、『[[スポルト (新聞)|スポルト]]』と『[[ムンド・デポルティーボ]]』であり、それぞれスペイン語紙である。その他にはカタルーニャ語紙の『[[アル・プン・アブイ]]』、全国紙の『[[エル・パイス]]』や『[[エル・ムンド (スペイン)|エル・ムンド]]』、無料紙の『[[20ミヌートス]]』などが発行されている。バルセロナを拠点とするオンライン新聞の{{仮リンク|ビラウェブ|en|VilaWeb}}は、ヨーロッパ最古のオンライン新聞でもある。
主要なFM放送局には{{仮リンク|カタルーニャ・ラジオ|en|Catalunya Ràdio}}、{{仮リンク|RAC 1|en|RAC 1}}、{{仮リンク|RAC 105|es|RAC105}}、[[カデーナ・セール]]などがある。バルセロナ市が所有する{{仮リンク|バルセロナ・テレビシオー|es|betevé|ca|Betevé}}(BTV)があり、バルセロナ都市圏の[[サン・ジュアン・ダスピ]]にはカタルーニャ州の公共放送である{{仮リンク|テレビシオー・ダ・カタルーニャ|en|Televisió de Catalunya}}がある。
== 交通 ==
[[ファイル:Barcelona Tram 01.jpg|thumb|[[路面電車]]]]
市の中心部から南西10kmに[[バルセロナ=エル・プラット空港]](自治体としては[[アル・プラ・ダ・リョブレガート]])がある。スペイン第2の空港で、スペインの地中海沿岸では最大の空港である。スペイン国内やヨーロッパ各国からの便が中心だが、中東や米国からの便もある。
[[バルセロナ・サンツ駅|サンツ駅]]は[[レンフェ]](スペイン国鉄)の鉄道網の中心の一つであり、通勤通学のための近郊路線[[セルカニアス]]の出発地でもある。[[セルカニアス バルセロナ]]にはレンフェが運営する路線もあるが、ゆくゆくは[[カタルーニャ公営鉄道]]がすべて運行する予定になっている。2008年には高速鉄道[[AVE]]で[[マドリード]]とバルセロナが結ばれた。
市内と周辺の都市には、2社12路線からなる[[バルセロナ地下鉄]]が走っている。地下鉄とバスは[[バルセロナ交通局]](一部FGCとの共同管理)によって運営されている。
市街地には1971年まで[[路面電車]]が運行されていたが、その後約40年間は途絶えていた。2004年に路面電車がLRTとして復活した。バルセロナ市街地から南西部へ伸びる{{仮リンク|トランバイシュ|en|Trambaix}}(L1 - L3 の3路線)と、北東部へ伸びる{{仮リンク|トランバゾス|en|Trambesòs}}(L4 - L6 の3路線)がある。
=== 航空 ===
[[File:T1 del Aeropuerto de Barcelona-El Prat.jpg|thumb|left|[[バルセロナ=エル・プラット空港]]]]
バルセロナ中心部から17kmの距離には[[バルセロナ=エル・プラット空港]]があり、2016年の旅客数は約4410万人だった。エル・プラット空港はスペインで2番目に旅客数の多い空港であり、[[地中海]]沿岸では[[フィウミチーノ空港|ローマ・フィウミチーノ空港]]などをしのいでもっとも旅客数の多い空港である。[[ブエリング航空]]や[[ライアンエアー]]のハブ空港であり、[[イベリア航空]]や[[エア・ヨーロッパ (スペイン)|エア・ヨーロッパ]]の焦点空港である。主に国内線やヨーロッパ各国行きの国際線が運航されているが、南アメリカ・アジア・アメリカ合衆国に向かう便も運航されている。
[[格安航空会社]](LCC)の中には、90km北の[[ジローナ空港]]、77km南の[[レウス空港]]、150km西の{{仮リンク|リェイダ=アルガイア空港|en|Lleida–Alguaire Airport}}を使用する会社もある。{{仮リンク|サバデイ空港|en|Sabadell Airport}}はパイロット訓練や短距離航空輸送などに特化している。
=== 海上交通 ===
[[File:Port Vell, Barcelona, Spain - Jan 2007.jpg|thumb|300px|冬季の{{仮リンク|ポルト・ベイ|en|Port Vell}}地区]]
2013年の[[バルセロナ港]]の貨物取扱量は172万[[TEU]]であり、ヨーロッパ第9位のコンテナ港だった<ref name="traffic statistics 2013">[http://content.portdebarcelona.cat/cntmng/d/d/workspace/SpacesStore/1c206b0a-4787-49d8-9c8c-0563aa71719f/PortBcnTrafic2013_12_en.pdf Port of Barcelona traffic statistics 2013] – Port de Barcelona, 2014</ref>。バルセロナ港はヨーロッパ有数のクルーズ船就航港でもあり、地中海で最も重要なターンアラウンド(乗客の入れ替え)基地である<ref>{{cite web|url=http://www.portdebarcelona.cat/en/web/port-del-ciudada/cruceros |title=Port Barcelona – Cruises |publisher=Portdebarcelona.cat |date= |accessdate=30 March 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140331005714/http://www.portdebarcelona.cat/en/web/port-del-ciudada/cruceros|archivedate=31 March 2014}}</ref>。2013年には3600万人がクルーズ船でバルセロナ港を利用した<ref name="traffic statistics 2013"/>。
{{仮リンク|ポルト・ベイ|en|Port Vell}}地区にはショッピングモール、映画館、ヨーロッパ有数の水族館である{{仮リンク|バルセロナ水族館|en|Aquarium Barcelona}}などがある。バルセロナ水族館の施設内にある35の水槽では、450種11,000匹の生物が飼育されている<ref name="aqua_about">{{Cite web|url=http://www.aquariumbcn.com/AQUARIUM/info_quienessomos.php|title=Who We Are|work=aquariumbcn.com|publisher=Aspro Group|accessdate=14 May 2011}}</ref>。直径36m、深さ5m、水量370万リットルの大水槽や、全長80mの{{仮リンク|トンネル型水槽|en|Shark tunnel}}などがある<ref name=SharkAq>[http://www.aquariumbcn.com/en/discover-laquarium/the-oceanarium/ The Oceanarium] Barcelona Aquarium</ref>。
=== 鉄道 ===
[[File:Siemens Velaro high speed.jpg|thumb|[[バルセロナ・サンツ駅]]]]
高速鉄道[[AVE]]などの都市間鉄道のターミナル駅は[[バルセロナ・サンツ駅]]であり<ref>{{cite web|url=http://www.avui.cat/noticia/article/2-societat/5-societat/252283-barcelona-estrena-tgv.html|title=Barcelona estrena TGV|publisher=[[アブイ]] |date=9 February 2008 |accessdate=11 July 2011 |language=catalan}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.catalannewsagency.com/politics/item/the-last-high-speed-railway-stretch-between-barcelona-and-france-has-finally-been-unveiled-after-years-of-delays|title=The last High Speed railway stretch between Barcelona and France has finally been unveiled after years of delays|publisher=Catalan News Agency|date=8 January 2013|accessdate=27 January 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140410223210/http://www.catalannewsagency.com/politics/item/the-last-high-speed-railway-stretch-between-barcelona-and-france-has-finally-been-unveiled-after-years-of-delays|archivedate=10 April 2014}}</ref>、近距離・中距離は[[フランサ駅]]が主要な役割を果たしている。
[[マドリード-バルセロナ-フランス国境高速鉄道線|マドリード=バルセロナ高速鉄道線]]の開通により、2008年にはバルセロナとマドリードが高速鉄道で結ばれた。[[LGVペルピニャン-フィゲラス線]]の開通により、2013年にはバルセロナとフランスの[[ペルピニャン]]が高速鉄道で結ばれた。レンフェのほかにはカタルーニャ州政府が所有する[[カタルーニャ公営鉄道]](FGC)が運行されており、カタルーニャ州営鉄道は通勤鉄道サービスのほかに、ケーブルカーや[[バルセロナ地下鉄]]なども運航している。近郊の[[モンセラート]]までの鉄道も運航している。
=== その他 ===
[[欧州自動車道路]][[E15号線]]はイギリス・フランス・スペイン地中海岸を縦断する道路であり、ジローナ、バルセロナ、タラゴナ、バレンシアなどを通っている。[[E90号線]]はトルコ・ギリシャ・イタリア・スペインを横断する道路であり、バルセロナ、サラゴサ、マドリードなどを通っている。[[E09号線]]はフランスの[[オルレアン]]とバルセロナを結ぶ道路であり、[[リモージュ]]や[[トゥールーズ]]を経由している。かつて鉄道駅として使用されていた{{仮リンク|エスタシオー・ダル・ノルド|en|Estació del Nord (Barcelona)}}は[[バルセロナオリンピック]]を機に改修され、長距離・近距離のバスターミナルとして使用されている。
バルセロナ都市圏では[[路面電車]]が3路線運航されており、{{仮リンク|トランバイシュ|en|Trambaix}}と{{仮リンク|トランバゾス|en|Trambesòs}}はバルセロナと郊外を、{{仮リンク|トランビア・ブラウ|en|Tramvia Blau}}はバルセロナで完結している<ref>{{cite web|url=http://w3.bcn.es/V01/Serveis/Noticies/V01NoticiesLlistatNoticiesCtl/0,2138,1653_35144087_1_573780100,00.html?accio=detall&home=HomeBCN&nomtipusMCM=Noticia |title=News related with the council plans for the tram network union |publisher=W3.bcn.es |accessdate=26 June 2010|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091003195712/http://w3.bcn.es/V01/Serveis/Noticies/V01NoticiesLlistatNoticiesCtl/0,2138,1653_35144087_1_573780100,00.html?accio=detall&home=HomeBCN&nomtipusMCM=Noticia |archivedate=3 October 2009 }}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.tmb.net/en_US/barcelona/moute/planols/planotramviablau.jsp |title=Information of Tramvia Blau |publisher=Tmb.net |accessdate=26 June 2010|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091224023817/http://www.tmb.net/en_US/barcelona/moute/planols/planotramviablau.jsp |archivedate=24 December 2009 }}</ref>。[[ケーブルカー]]としては{{仮リンク|フニクラ・ダル・ティビダボ|en|Funicular del Tibidabo}}、{{仮リンク|フニクラ・ダ・バイビドレラ|en|Funicular de Vallvidrera}}、[[フニクラ・デ・モンジュイック|フニクラ・ダ・ムンジュイック]]があり、[[ロープウェー]]としては{{仮リンク|タラフェリコ・ダ・ムンジュイック|en|Montjuïc Cable Car}}、{{仮リンク|タラフェリック・ダル・ポルト|en|Port Vell Aerial Tramway}}がある。
== スポーツ ==
; バルセロナのスポーツクラブ一覧
{|class="wikitable"
|-
! クラブ !! リーグ !! 競技 !! 拠点 !! 設立年
|-
| [[FCバルセロナ]]
| [[プリメーラ・ディビシオン|リーガ・エスパニョーラ]] || [[サッカー]] || [[カンプ・ノウ]] || 1899
|-
| [[RCDエスパニョール]]<ref>2009年まではバルセロナ市内の[[エスタディ・オリンピック・リュイス・コンパニス|ムンジュイック]]をホームスタジアムとしていた。2009年にはバルセロナ都市圏の[[コルネリャー・デ・リョブレガート]]にある[[エスタディ・コルネリャ=エル・プラット|コルネリャ=エル・プラット]]をホームスタジアムとしている。</ref>
|[[プリメーラ・ディビシオン|リーガ・エスパニョーラ]] || [[サッカー]] || [[エスタディ・コルネリャ=エル・プラット|コルネリャ=エル・プラット]] || 1900
|-
| [[FCバルセロナ (バスケットボール)|FCバルセロナ・バスケット]]
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=== オリンピック ===
[[File:Barcelona Palau San Jordi 001.jpg|thumb|right|[[パラウ・サン・ジョルディ]]]]
1931年の[[国際オリンピック委員会]](IOC)総会では、1936年の夏季オリンピック開催地が決定され、下馬評ではバルセロナが有力だったもののドイツのベルリンに敗れた{{sfn|田澤|2013|pp=191-195}}。[[ナチス・ドイツ]]の[[アドルフ・ヒトラー]]総統は[[1936年ベルリンオリンピック|ベルリン五輪]]を政治利用しようとしたため、対抗してほぼ同時期にバルセロナで[[人民オリンピック]]の開催が企画された{{sfn|田澤|2013|pp=191-195}}。
カタルーニャ自治政府に加えてスペイン共和国政府も支援し、23か国から約6,000人の選手が人民オリンピックに参加を申し込んでいる{{sfn|田澤|2013|pp=191-195}}。しかし、開会式当日の7月19日に[[スペイン内戦]]が勃発したことで人民オリンピックは中止を余儀なくされた{{sfn|田澤|2013|pp=191-195}}。それから56年後、カタルーニャ人の[[フアン・アントニオ・サマランチ]]がIOC会長を務めていた1992年に、カタルーニャ色を強く出した[[1992年バルセロナオリンピック|バルセロナ五輪]]が開催された{{sfn|田澤|2013|pp=191-195}}。
=== サッカー ===
{{Main|バルセロナダービー}}
[[File:Chelsea on Tour - Barcelona 311006.jpg|thumb|left|[[FCバルセロナ]]の[[本拠地]]「[[カンプ・ノウ]]」]]
'''[[FCバルセロナ]]'''は数多くの競技チームを持つ総合スポーツクラブであり、[[FCバルセロナ (バスケットボール)|バスケットボールチーム]]、[[FCバルセロナ (ハンドボール)|ハンドボールチーム]]もスペインリーグの強豪であり、[[サッカー]]部門は世界屈指の強豪クラブである{{sfn|立石|奥野|2013|p=104}}。[[マドリード]]に本拠地を置く[[レアル・マドリード]]とは激しい[[ライバル]]関係にあり、両者の対戦は'''[[エル・クラシコ]]'''と呼ばれる。カタルーニャ人にとってFCバルセロナは単なるスポーツクラブに留まらず{{sfn|立石|奥野|2013|p=104}}、クラブの歴史はカタルーニャの歴史と重ね合わされる存在である{{sfn|立石|奥野|2013|p=108}}。
ホームスタジアムである[[カンプ・ノウ]]は、フランコ体制下でカタルーニャ語の使用が許可された唯一の場所であり、エル・クラシコはカタルーニャと中央政府の代理戦争の意味合いを呈した{{sfn|立石|奥野|2013|p=106}}。また、クラブは「ソシオ」と呼ばれる会員によって運営されていることが特徴である{{sfn|立石|奥野|2013|p=105}}。さらにバルセロナには、FCバルセロナの他にも[[RCDエスパニョール]]というサッカークラブがあり、[[1930年代]]初頭のミゲル・プリモ・デ・リベラ独裁時代には独裁体制を支持した歴史がFCバルセロナとは異なる{{sfn|立石|奥野|2013|p=107}}。
=== 闘牛 ===
[[File:050529 Barcelona 027.jpg|thumb|right|ムヌマンタル闘牛場]]
1834年にはアル・トリン闘牛場が、19世紀末にはより規模の大きな{{仮リンク|アレーナス闘牛場|es|Plaza de toros de las Arenas}}が、1914年にはアル・スポルト闘牛場(後の[[ムヌマンタル闘牛場]])が建設された{{sfn|立石|奥野|2013|pp=121-123}}。20世紀初頭のバルセロナは3つの闘牛場を有する一大闘牛都市であり、その後スペイン内戦からフランコ体制下を経た1970年代まで、ムヌマンタル闘牛場は世界最高の闘牛場だった{{sfn|立石|奥野|2013|pp=121-123}}。
レジャーの多様化、スペイン文化の象徴である闘牛ではないカタルーニャ文化の見直しなどの要因により、1970年代半ばからカタルーニャ地方で闘牛は衰退しはじめた{{sfn|立石|奥野|2013|pp=121-123}}。子供の観戦や闘牛場の新設が禁止されたほか、1989年以降には反闘牛都市宣言を行う自治体が増えた{{sfn|立石|奥野|2013|pp=121-123}}。
2009年には[[カタルーニャ共和主義左翼]](ERC)を中心として闘牛禁止法案がカタルーニャ州議会に提出され、2010年にはこの法案が可決された{{sfn|立石|奥野|2013|pp=121-123}}。ERC、カタルーニャ緑のイニシアティブがこの法案に賛成票を投じ、{{仮リンク|カタルーニャ国民党|es|Partido Popular de Cataluña}}と[[シウダダノス]]が反対票を投じ、[[集中と統一]]やカタルーニャ社会党は党内でも票が割れた{{sfn|立石|奥野|2013|pp=121-123}}。2011年にはアレーナス闘牛場がショッピングセンターに生まれ変わり{{sfn|立石|奥野|2013|pp=121-123}}、カタルーニャ州の闘牛禁止法は2012年1月1日に施行された<ref>{{cite web |url=http://www.lasprovincias.es/rc/20100728/mas-actualidad/sociedad/debate-parlament-toros-201007280002.html |title=Las provincias. Cataluña prohíbe las corridas de toros |publisher=Las Provincias |date=2010-07-28 |accessdate=2016-01-06}}</ref>。
== ギャラリー ==
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ファイル:Cathedral of the Holy Cross and Saint Eulalia edited.jpg|[[サンタ・エウラリア大聖堂]]
ファイル:InteriorSantaMariaMarBarcelona.jpg|[[サンタ・マリア・ダル・マル教会]]
ファイル:Parcguell.jpg|[[グエル公園]]
ファイル:Casa Milà - Barcelona, Spain - Jan 2007.jpg|[[カサ・ミラ]]
ファイル:Casa Batllo 01.jpg|[[カサ・バトリョ]]
ファイル:TorreAgbar.JPG|[[トーレ・アグバール]]
ファイル:La rambla2.jpg|[[ランブラス通り]]
ファイル:050529 Barcelona 135.jpg|[[カタルーニャ美術館]]
ファイル:Vista desde Montjuïc.jpg|[[モンジュイックの丘]]から見たスペイン広場
ファイル:Palau de la Música - Interior general.JPG|[[カタルーニャ音楽堂]]
ファイル:Liceu - Interior.jpg|[[リセウ大劇場]]
ファイル:Spain.Barcelona.Plaza.Catalunya.jpg|[[カタルーニャ広場]]
File:Eixample aire cropped.jpg|空から見たバルセロナの区画整備
File:Barcelona from Sagrada Familia (2) (cropped).JPG|[[サグラダ・ファミリア]]から見たバルセロナの[[スカイライン (風景)|スカイライン]]([[2011年]])
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== 姉妹都市 ==
{{表2列|
* {{Flagicon|USA}} [[ボストン]]([[アメリカ合衆国]][[マサチューセッツ州]])
* {{Flagicon|PLE}} [[ガザ]]([[パレスチナ]])
* {{Flagicon|BEL}} [[アントウェルペン]]([[ベルギー]])
* {{Flagicon|GRE}} [[アテネ]]([[ギリシャ]])
* {{Flagicon|IRL}} [[ダブリン]]([[アイルランド]])
* {{Flagicon|FRA}} [[モンペリエ]]([[フランス]])
* {{Flagicon|TUR}} [[イスタンブール]]([[トルコ]])
* {{Flagicon|GER}} [[ケルン]]([[ドイツ]])
* {{Flagicon|CHI}} [[バルパライソ]]([[チリ]])
* {{Flagicon|TUN}} [[チュニス]]([[チュニジア]])
|
* {{Flagicon|BRA}} [[リオデジャネイロ]]([[ブラジル]])
* {{Flagicon|CUB}} [[ハバナ]]([[キューバ]])
* {{Flagicon|BRA}} [[サンパウロ]]([[ブラジル]])
* {{Flagicon|BIH}} [[サラエヴォ]]([[ボスニア・ヘルツェゴビナ]])
* {{Flagicon|JPN}} [[神戸市]]([[日本]])
* {{Flagicon|URU}} [[モンテビデオ]]([[ウルグアイ]])
* {{Flagicon|KOR}} [[釜山広域市]]([[韓国]])
* {{Flagicon|CHN}} [[上海市]]([[中国]])
* {{flagicon|MEX}} [[モンテレイ (メキシコ)|モンテレイ]]([[メキシコ]])
}}
[[ロシア]]の[[サンクトペテルブルク]]との姉妹都市関係は[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ウクライナ侵攻]]により一時停止され、[[イスラエル]]の[[テルアビブ]]とは[[パレスチナ問題]]の原因で一時停止されている。<ref>{{Cite web |url=https://metropoliabierta.elespanol.com/el-pulso-de-la-ciudad/barcelona-mantiene-hermanamiento-con-ciudades-emiratos-arabes-cuba-china_68390_102.html |website=Metrópoli Abierta |via=[[El Español]] |date=9 February 2023 |first=Alba |last=Carnicé |title=Barcelona mantiene el hermanamiento con ciudades de Emiratos Árabes, Cuba y China |access-date=25 February 2023 |archive-date=25 February 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230225134501/https://metropoliabierta.elespanol.com/el-pulso-de-la-ciudad/barcelona-mantiene-hermanamiento-con-ciudades-emiratos-arabes-cuba-china_68390_102.html |url-status=live }}</ref><ref>{{cite web |title=Barcelona suspende el hermanamiento con Tel-Aviv: "No podemos quedarnos inmóviles ante la violación de derechos" |url=https://www.eldiario.es/catalunya/barcelona-rompe-hermanamiento-tel-aviv-no-quedarnos-inmoviles-violacion-derechos_1_9934697.amp.html |website=ajuntament.barcelona.cat |date=8 February 2023 |publisher=[[El Diario (Spain)|El Diario]] |language=es |access-date=8 February 2023 |archive-date=9 February 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230209172257/https://www.eldiario.es/catalunya/barcelona-rompe-hermanamiento-tel-aviv-no-quedarnos-inmoviles-violacion-derechos_1_9934697.amp.html |url-status=live }}</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{cite book|和書
|author=神吉敬三
|authorlink=神吉敬三
|title=バルセローナ
|series=世界の都市の物語
|publisher=文藝春秋
|year=1992
|isbn=
|ref=harv
}}
== 外部リンク ==
{{Commons&cat}}
* {{Official website|https://www.barcelona.cat/ca/}} {{ca icon}} {{es icon}} {{en icon}}
* [https://www.barcelona.es.emb-japan.go.jp/japones/index.htm 在バルセロナ日本国総領事館] {{ja icon}}
* [https://www.barcelonaturisme.com/wv3/en/ バルセロナ観光局] {{ca icon}}{{es icon}}{{en icon}}
{{夏季オリンピック開催都市}}
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[[Category:バルセロナ|*]]
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[[Category:スペインの都市]]
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[[Category:バルセロナ県の自治体]]
[[Category:スペインの県都]]
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[[Category:スペインのローマ都市]]
[[Category:世界歴史都市連盟]] | 2003-02-21T19:23:12Z | 2023-11-10T13:27:21Z | false | false | false | [
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2,688 | アメノウズメ | アメノウズメ(アマノウズメ)は、日本神話に登場する女神。『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命と表記する(「命(みこと)」は敬称、以下同様)。神名の「ウズメ」の解釈には諸説あり、「強女(オズメ)」の意とする『古語拾遺』説、『日本書紀』の表記通り「髪飾りをした女(鈿はかんざしの意)」とする説などがある。
「岩戸隠れ」の伝説などに登場する芸能の女神であり、日本最古の踊り子と言える。
『古語拾遺』では、鎮魂(たましづめ)は天鈿女命から出たものとされる。
一説に別名「宮比神」(ミヤビノカミ)。大宮売神(オオミヤノメノカミ)と同一視されることもある。
『日本書紀』一書では、アマテラスとスサノオの誓約の前、スサノオが高天原に昇ってくるのをアメノウズメが見つけ、日神(アマテラス)に報告した。
岩戸隠れで天照大御神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河の川原に集まって会議をした。思金神の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行った。
『古事記』では次のように記述されている。 「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」 つまり、 アメノウズメがうつぶせにした槽(うけ 特殊な桶)の上に乗り、背をそり胸乳をあらわにし、裳の紐を女陰まで押したれて、低く腰を落して足を踏みとどろかし(『日本書紀』では千草を巻いた矛、『古事記』では笹葉を振り)、力強くエロティックな動作で踊って、八百万の神々を大笑いさせた。その「笑ひえらぐ」様を不審に思い、戸を少し開けた天照大神に「あなたより尊い神が生まれた」とウズメは言って、天手力男神に引き出して貰って、再び世界に光が戻った。『日本書紀』も似た記述であるが、胸乳の記述は無く、女陰については「火処(ほところ)焼き」と記され、神々の反応は記されていない。
天孫降臨の際、邇邇芸命(ににぎ)が天降ろうとすると、高天原から葦原中国までを照らす神(=猿田毘古)が行く手を阻んだ。アメノウズメは天照大御神と高木神に、「手弱女だが顔を合わせても気後れしない(面勝つ)からあなたが問いなさい」と言われた。この時のアメノウズメは『日本書紀』では次のように記述されている。 「その胸乳をあらわにかきいでて、裳帯(もひも)を臍(ほそ=ヘソ)の下におしたれて、あざわらひて向きて立つ。」 つまり、乳房をあらわにし、裳の紐を臍の下まで押したれて、あざわらいながら(猿田毘古に)向かって言ったとある。その後、名を問い質すと、その神は国津神の猿田毘古神と名乗り、道案内をするために迎えに来たと言った。
アメノウズメは天児屋命(あめのこやね)、布刀玉命(ふとだま)、玉祖命(たまのおや)、伊斯許理度売命(いしこりどめ)と共に五伴緒の一柱としてニニギに随伴して天降りした。アメノウズメは猿田毘古神の名を明かしたことからその名を負って仕えることになり、猿女君の祖神となった。一説には猿田毘古神の妻となったとされる。
アメノウズメは猿田毘古神を送って日向国(または志摩国)に帰った後、大小の魚を集めて天孫(邇邇芸命)に仕えるかどうか尋ねた。みな「仕える」と答えた中でナマコだけが何も答えなかったので、アメノウズメはその口を小刀で裂いてしまった。それでナマコの口は裂けている。アメノウズメの功績により、代々の天皇は志摩国から新鮮な海産物が献上される時は、猿女君に与える。
白川静の『字訓』によれば、「神と笑ひゑらぐ」巫女の神格化である。「神々を和ませ 神の手較ぶ(真似する)」神事の零落したものが、現在の芸能であり、折口信夫によれば、滑稽な技芸である猿楽(さるがく 能や狂言の祖)は、猿女のヲコのわざと一脈通じるという(上世日本の文学 天鈿女命)。
『巫女考』で、芝居の狂人が持つ竹の枝を「ウズメの持つ」笹葉が落ちたものとする柳田國男の説を享けた折口信夫は、手草を「神である」物忌みを表す標とし、「マナを招く」採り物とは別であるとした。
谷川健一が、笑いと狂気という、「人間の原始的情念」の一環が噴出したものとしてあげた(『狂笑の論理』)、天の岩戸の前における「巧みに俳優をなす」彼女の行為は、神への祭礼、特に古代のシャーマン(巫)が行ったとされる神託の祭事にその原形を見ることができる。いわばアメノウズメの逸話は古代の巫女たちが神と共に「笑ひゑらぐ」姿を今に伝えるものである。折口信夫の『上世日本の文学』によれば、カミアソビは「たまふり」の儀礼であり、岩戸で行なったウズメの所作は「マナ(外来魂)を集め、神に附ける」古代の行為である。
なお、折口は『上世日本の文学』で、死者の魂を呼ぶ儀礼が遊びであるため、「岩屋戸の神楽は、天照大神が亡くなったため興った」という説は再考すべきだと言っているが、少なくとも『延喜式』には、宮廷で行われた古代の鎮魂祭において、巫女たちが「槽ふし」激しい踊りを大王家の祖神へ奉納する儀礼に猿女も参加したことが記されている。
「ヨーロッパの神話伝承やフォークロアに詳しい中世フランス文学の専門家」フィリップ・ヴァルテールは、「ケルト世界のかなり古い神話的存在」で、「慣例でシーラ・ナ・ギグと呼ばれて」いる存在は、「これについての文字資料は皆無であるが、創造と破壊の女神として紹介されることが多い」が、「アメノウズメと同じような猥褻な動作をしている」と指摘している。
猿女君・稗田氏の祖とされ、稗田氏の氏神である賣太神社では、芸能の始祖神、福の神、おたふく、おかめ、等と称すると伝わる。千代神社(滋賀県彦根市)、芸能神社(京都市右京区)、椿大神社(三重県鈴鹿市)、鈿女神社(長野県北安曇郡松川村)などで祀られている。
鈿女神社は地元で「おかめ様」として崇められており、最寄駅の大糸線北細野駅は信濃鉄道の駅として開業した際「おかめ前駅」と呼ばれていた。国営化に当たって改称。
天孫降臨の地、高千穂より天の岩戸が飛来したと伝えられる長野県の戸隠神社には天の岩戸開神話に功績のあった神々(天手力雄命・天八意思兼命)が祀られており、そのうちの一社、火之御子社には天鈿女命が祀られている。また、岩戸開神話に基づいた神楽が古来より受け継がれている。
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] | アメノウズメ(アマノウズメ)は、日本神話に登場する女神。『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命と表記する(「命」は敬称、以下同様)。神名の「ウズメ」の解釈には諸説あり、「強女(オズメ)」の意とする『古語拾遺』説、『日本書紀』の表記通り「髪飾りをした女(鈿はかんざしの意)」とする説などがある。 「岩戸隠れ」の伝説などに登場する芸能の女神であり、日本最古の踊り子と言える。 『古語拾遺』では、鎮魂(たましづめ)は天鈿女命から出たものとされる。 一説に別名「宮比神」(ミヤビノカミ)。大宮売神(オオミヤノメノカミ)と同一視されることもある。 | {{基礎情報 日本の神
| 名 = 天宇受売命
| 世代名 =
| 先代=
| 次代=
| 神祇 = <!-- 天神、地祇、天津神、国津神など -->[[天津神・国津神|天津神]]
| 全名 = 天宇受売命
| 別名 = 天鈿女命
| 別称 =
| 神階 =
| 神格 = <!-- 太陽、月、山、海など司るもの -->芸能、神事
| 陵所 =
| 父 = [[天太玉命]]
| 母 = [[天比理刀咩命]]
| 親 = <!-- まぐあいによって生まれない場合 -->
| 配偶者 = [[猿田毘古神]]
| 子 =
| 宮 =
| 神社 =
| 関連氏族 = [[忌部氏]](斎部氏)、[[猿女君]]
}}
[[画像:Uzume.jpg|thumb|240px|天鈿女命像 [[天岩戸神社]]東本宮]]
'''アメノウズメ'''(アマノウズメ)は、[[日本神話]]に登場する[[神 (神道)|女神]]<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 54頁。</ref>。『[[古事記]]』では'''天宇受賣命'''、『[[日本書紀]]』では'''天鈿女命'''と表記する(「命(みこと)」は敬称、以下同様)。神名の「ウズメ」の解釈には諸説あり、「強女(オズメ)」の意とする『[[古語拾遺]]』説、『日本書紀』の表記通り「髪飾りをした女(鈿は[[簪|かんざし]]の意)」とする説などがある。
「[[天岩戸|岩戸隠れ]]」の伝説などに登場する[[芸能]]の[[女神]]であり、[[日本]]最古の[[踊り子]]と言える。
『[[古語拾遺]]』では、[[鎮魂祭|鎮魂]](たましづめ)は天鈿女命から出たものとされる<ref>{{cite book|title=古語拾遺|publisher=岩波書店|author=西宮一民|page=51|isbn=4-00-300351-9}}</ref><ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3457563/26 古語拾遺] 加藤玄智 校訂 岩波書店 p.49 [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3457563/34 p.65](国立国会図書館)</ref>。
一説に別名「[[興玉神#宮比神|宮比神]]」(ミヤビノカミ)<ref name="ic3">『お伊勢さん125社めぐり』別冊『伊勢人』、伊勢文化舎、2008年、p.113。</ref>。[[オオミヤノメ|大宮売神]](オオミヤノメノカミ)と同一視されることもある<ref>祐徳稲荷神社HP [https://www.yutokusan.jp/about/ お祀りする神様]、2016年4月15日閲覧。</ref><ref>志和稲荷神社HP [http://www.shiwa-oinarisan.jp/about/ 志和稲荷神社について]、2016年4月16日閲覧。</ref>。
== 神話での記述 ==
『日本書紀』一書では、[[アマテラスとスサノオの誓約]]の前、スサノオが[[高天原]]に昇ってくるのをアメノウズメが見つけ、日神(アマテラス)に報告した。
岩戸隠れで[[天照大神|天照大御神]]が[[天岩戸]]に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河の川原に集まって会議をした。[[オモイカネ|思金神]]の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行った。
『古事記』では次のように記述されている。
「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」
つまり、
アメノウズメがうつぶせにした槽(うけ 特殊な桶)の上に乗り、背をそり胸乳をあらわにし、裳の紐を女陰まで押したれて、低く腰を落して足を踏みとどろかし(『日本書紀』では千草を巻いた[[矛]]、『古事記』では笹葉を振り)、力強くエロティックな動作で踊って、八百万の神々を大笑いさせた。その「笑ひえらぐ」様を不審に思い、戸を少し開けた天照大神に「あなたより尊い神が生まれた」とウズメは言って、[[アメノタヂカラオ|天手力男神]]に引き出して貰って、再び世界に光が戻った。『日本書紀』も似た記述であるが、胸乳の記述は無く、女陰については「火処(ほところ)焼き」と記され、神々の反応は記されていない。
[[天孫降臨]]の際、[[邇邇芸命]](ににぎ)が天降ろうとすると、[[高天原]]から[[葦原中国]]までを照らす神(=猿田毘古)が行く手を阻んだ。アメノウズメは天照大御神と[[タカミムスビ|高木神]]に、「手弱女だが顔を合わせても気後れしない(面勝つ)からあなたが問いなさい」と言われた。この時のアメノウズメは『日本書紀』では次のように記述されている。
「その胸乳をあらわにかきいでて、裳帯(もひも)を臍(ほそ=ヘソ)の下におしたれて、あざわらひて向きて立つ。」
つまり、乳房をあらわにし、裳の紐を臍の下まで押したれて、あざわらいながら(猿田毘古に)向かって言ったとある。その後、名を問い質すと、その神は[[国津神]]の[[サルタヒコ|猿田毘古神]]と名乗り、道案内をするために迎えに来たと言った。
アメノウズメは[[天児屋命]](あめのこやね)、[[布刀玉命]](ふとだま)、[[玉祖命]](たまのおや)、[[伊斯許理度売命]](いしこりどめ)と共に五伴緒の一柱としてニニギに随伴して天降りした。アメノウズメは猿田毘古神の名を明かしたことからその名を負って仕えることになり、[[猿女君]]の祖神となった。一説には猿田毘古神の妻となったとされる。
アメノウズメは猿田毘古神を送って[[日向国]](または[[志摩国]])に帰った後、大小の魚を集めて天孫(邇邇芸命)に仕えるかどうか尋ねた。みな「仕える」と答えた中で[[ナマコ]]だけが何も答えなかったので、アメノウズメはその口を小刀で裂いてしまった。それでナマコの口は裂けている。アメノウズメの功績により、代々の天皇は志摩国から新鮮な海産物が献上される時は、猿女君に与える。
== 解説 ==
[[白川静]]の『字訓』によれば、「神と笑ひゑらぐ」巫女の神格化である。「神々を和ませ 神の手較ぶ(真似する)」神事の零落したものが、現在の芸能であり、[[折口信夫]]によれば、滑稽な技芸である[[猿楽]](さるがく [[能楽|能]]や[[狂言]]の祖)は、猿女のヲコのわざと一脈通じるという(上世日本の文学 天鈿女命)。
『巫女考』で、芝居の狂人が持つ竹の枝を「ウズメの持つ」笹葉が落ちたものとする[[柳田國男]]の説を享けた折口信夫は、[[手草]]<ref>タクサ(多久佐)、タグサ; cf. {{lang-ain|''takusa, [[タクサ]]''}}</ref>を「神である」物忌みを表す標とし、「マナを招く」採り物とは別であるとした。
[[谷川健一]]が、笑いと狂気という、「人間の原始的情念」の一環が噴出したものとしてあげた(『狂笑の論理』)、天の岩戸の前における「巧みに俳優をなす」彼女の行為は、神への祭礼、特に古代のシャーマン([[巫]])が行ったとされる神託の祭事にその原形を見ることができる。いわばアメノウズメの逸話は古代の巫女たちが神と共に「笑ひゑらぐ」姿を今に伝えるものである。折口信夫の『上世日本の文学』によれば、カミアソビは「たまふり」の儀礼であり、岩戸で行なったウズメの所作は「[[マナ]](外来魂)を集め、神に附ける」古代の行為である。
なお、折口は『上世日本の文学』で、死者の魂を呼ぶ儀礼が遊びであるため、「岩屋戸の神楽は、天照大神が亡くなったため興った」という説は再考すべきだと言っているが、少なくとも『[[延喜式]]』には、宮廷で行われた古代の[[鎮魂祭]]において、巫女たちが「槽ふし」激しい踊りを大王家の祖神へ奉納する儀礼に猿女も参加したことが記されている。
「ヨーロッパの神話伝承やフォークロアに詳しい中世フランス文学の専門家」フィリップ・ヴァルテールは、「[[ケルト]]世界のかなり古い神話的存在」で、「慣例で[[シーラ・ナ・ギグ]]と呼ばれて」いる存在は、「これについての文字資料は皆無であるが、創造と破壊の女神として紹介されることが多い」が、「アメノウズメと同じような猥褻な動作をしている」と指摘している<ref>フィリップ・ヴァルテール『ユーラシアの女性神話-ユーラシア神話試論Ⅱ』([[渡邉浩司]]・渡邉裕美子訳)[[中央大学]]出版部2021年 ISBN 978-4-8057-5183-1、202頁。</ref>。
== 信仰 ==
[[画像:Uzume-honguu shrine.jpg|thumbnail|240px|椿大神社別宮の椿岸神社(鈿女本宮)]]
猿女君・稗田氏の祖とされ、稗田氏の氏神である[[賣太神社]]では、芸能の始祖神、福の神、おたふく、[[おかめ]]、等と称すると伝わる。千代神社([[滋賀県]][[彦根市]])、[[車折神社|芸能神社]]([[京都市]][[右京区]])、[[椿大神社]]([[三重県]][[鈴鹿市]])、[[鈿女神社]]([[長野県]][[北安曇郡]][[松川村]])などで祀られている。
鈿女神社は地元で「おかめ様」として崇められており、最寄駅の[[大糸線]][[北細野駅]]は[[信濃鉄道]]の駅として開業した際「おかめ前駅」と呼ばれていた。国営化に当たって改称。
天孫降臨の地、高千穂より天の岩戸が飛来したと伝えられる長野県の戸隠神社には天の岩戸開神話に功績のあった神々(天手力雄命・天八意思兼命)が祀られており、そのうちの一社、火之御子社には天鈿女命が祀られている。また、岩戸開神話に基づいた神楽が古来より受け継がれている。
[[宮崎県]]西臼杵郡の[[高千穂町]]には、アメノウズメがサルタヒコと結婚した場、荒立宮の後と伝わる[[荒立神社]]がある。
== アメノウズメを祭神とする神社 ==
* [[佐倍乃神社]](宮城県名取市)
* 御園神社(東京都大田区西蒲田)
* 太田神社 - [[北野神社 (文京区) |牛天神北野神社]](東京都文京区春日)の境内社。
* [[鈿女神社]](長野県北安曇郡松川村大仙寺)
* 火之御子社 - [[戸隠神社]](長野県長野市)の境内社。
* 小古曽神社(三重県四日市市小古曽町)
* 椿岸神社(三重県四日市市智積町)
* 椿岸神社 - 椿大神社(三重県鈴鹿市)の境内社(別宮)。 芸道の祖神、鎮魂の神、夫婦円満の神、縁結びの神として祀られている。敷地内に「扇塚」があり、芸道を志す参拝客が扇を収め、芸道の上達を祈る。また、手塚治虫のマンガ『火の鳥 黎明編』に天鈿女命と夫である猿田彦大神が登場することから、手塚プロダクションのイラストによるご朱印帳が販売されている。ピンクには天鈿女命が、黒には夫である猿田彦大神が描かれている。
* 長峯神社(三重県伊勢市古市町) - 通称「おすめ(於須女=アメノウズメの別名とされる)さん」
* 佐瑠女神社 - [[猿田彦神社]](三重県伊勢市宇治浦田)の境内社。過去にアニメ監督の[[新海誠]]が、幟を奉納したと中日新聞で報じられ有名になった神社。『[[君の名は。]]』以降、『[[天気の子]]』、『[[すずめの戸締まり]]』の公開に至るまで、映画配給会社の[[コミックス・ウェーブ・フィルム]]社の幟と共に立てられ続けている。この他に[[EXILE]]のTETSU氏など複数のEXILEの幟も散見でき、芸能人が参る神社としても知られている。
* 千代神社(滋賀県彦根市)
* 増御子神社 - [[大和神社]](奈良県天理市新泉町星山)の境内社。
* [[賣太神社]](奈良県大和郡山市稗田町)
* 芸能神社 - [[車折神社]](京都市右京区嵯峨)の境内社。
* [[荒立神社]](宮崎県西臼杵郡高千穂町)
* 宮比神社 - [[筑土八幡神社]]、[[瓢箪山稲荷神社]]等の境内社。そのほか伊勢神宮内宮等、各地神社に「宮比神」として祀られる。
*椋神社([[埼玉県]][[秩父市]]下吉田)秩父吉田の龍勢祭などで有名。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Ame-no-Uzume-no-Mikoto}}
* [[日本の神の一覧]]
* [[五十鈴 (神器)]]
* [[すずめの戸締まり]](主人公・岩戸鈴芽の名前の由来)
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[[Category:天津神]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%82%A6%E3%82%BA%E3%83%A1 |
2,690 | 分子 | 分子(ぶんし、英: molecule)とは、2つ以上の原子から構成される電荷的に中性な物質を指す。厳密には、分子は少なくとも1つ以上の振動エネルギー準位を持つほどに充分に深いエネルギーポテンシャル表面のくぼみを共有する原子の集まりを指す。この基準を満たすイオンは、文脈によって含まれる場合もあれば含まれない場合もある。量子物理学、有機化学、生化学の分野では、イオンとの区別をせず、多原子イオンを指して分子が使われることが多い。
分子には、酸素分子(酸素原子2つ、O2)のように1つの化学元素の原子からなる等核分子と、水(水素原子2つと酸素原子1つ、H2O)のように2つ以上の元素からなる異核分子がある。気体分子運動論では、あらゆる気体粒子はその組成にかかわらず分子と呼ばれることが多い。これは、希ガスが単原子で安定な化学種であるため(単原子分子とも呼ばれる)、分子が2つ以上の原子を含むという要件を緩和したことによる。水素結合やイオン結合など非共有結合(英語版)で結合された原子や複合体は、通常、単一分子とはみなされない。
分子のような概念は古くから議論されてきたが、分子とその結合の本質に関する近代的な研究は17世紀に始まった。ロバート・ボイル、アメデオ・アヴォガドロ、ジャン・ペラン、ライナス・ポーリングといった科学者たちによって、時間をかけて洗練された分子の研究は、今日では分子物理学または分子化学として知られている。
メリアム=ウェブスターやオンライン・エティモロジー・ディクショナリーによると、「分子(molecule)」という言葉は、ラテン語の「moles」すなわち「質量の小さな単位」に由来する。語源はフランス語の molécule(1678)で、ラテン語の moles 「mass, barrier(質量、境界)」の指小辞である新ラテン語の molecula に由来する。18世紀後半までラテン語の形でしか使われなかったこの言葉は、デカルトの哲学書で使われたことで人気を博した。
分子の構造に関する知識が増えるにつれて、分子の定義も進化してきた。初期の定義では、分子を「その組成と化学的性質を保持する純粋な化学物質の最小の粒子」と定義していたが、あまり正確ではなかった。しかし、岩石、塩類、金属など身近な物質の多くは、化学的に結合した原子やイオンの大きな結晶ネットワークで構成されており、個別の分子でできている訳ではないため、この定義はしばしば破綻する。
現代の分子の概念は、レウキッポスやデモクリトスなど、すべての宇宙は原子と空隙で構成されていると主張した科学以前のギリシャの哲学者までさかのぼることができる。紀元前450年頃、エンペドクレスは、基本元素(火()、土()、空気()、水())と、それらの元素が相互作用する引力と斥力という「力」を想像した。
第5番目の元素である「不壊(ふえ)の真髄」であるエーテルは、天体の基本的な構成要素と考えられていた。レウキッポスやエンペドクレスの視点は、エーテルとともにアリストテレスに受け入れられ、中世およびルネサンス期のヨーロッパに受け継がれた。
しかし、より具体的には、「分子」、すなわち原子が結合した集合体や単位という概念は、ロバート・ボイルが1661年に出版した有名な著書『懐疑的化学者(The Sceptical Chymist)』の中で、「物質は微粒子の集団から構成されており、化学変化はその集団の再編成によって生じる」とした彼の仮説に端を発している。ボイルは、物質の基本要素は「微粒子(corpuscles)」と呼ばれる種類や大きさの異なる粒子で構成されており、これらの粒子は自身を集団に編成することができると主張した。1789年に、ウィリアム・ヒギンズ(英語版)が、原子価結合の概念を予示となる「究極の」粒子の組み合わせと呼ぶものについての見解を発表した。ヒギンズによれば、たとえば酸素の究極粒子と窒素の究極粒子の間の力は6であり、力の強さはそれに応じて分割され、他の究極粒子の組み合わせについても同様である。
ジョン・ドルトンが1803年に原子論を、1804年に倍数比例の法則により原子の存在を提唱した。しかし現代の電子と原子核から構成される粒子のような構造的な概念ではなく、化学反応が一定の単位質量を基に進行するという量的概念であった。
「分子(molecule)」という言葉はアメデオ・アヴォガドロが作り出した。1811年の論文「物体の素分子の相対質量の決定に関するエッセイ」(Essay on Determining the Relative Masses of the Elementary Molecules of Bodies)で、彼は本質的に次のように述べている。すなわち、パーティントン(英語版)の『化学の歴史(A Short History of Chemistry)』によると、
こうした考え方と同調して、1833年にフランスの化学者マルク・アントワーヌ・オーギュスト・ゴーダン(英語版)は、アボガドロの原子量に関する仮説を、直線状の水分子のような半正確な分子形状と、H2Oのような正確な分子式の両方を明確に示す体積図(volume diagrams)を使って明確に説明した。
1917年、ライナス・ポーリングという無名のアメリカの化学技術者が、原子間結合を記述する方法として当時主流であったドルトンのフックアンドアイ結合を研究していた。しかし、ポーリングはこの方法に満足せず、新たな分野である量子物理学に新しい方法を求めた。1926年、フランスの物理学者ジャン・ペランが、分子の存在を決定的に証明したことによりノーベル物理学賞を受賞した。彼は、いずれも液相系に関する3種類の方法で計算することによりアボガドロ定数を決定した。1番目はガンボージ石鹸のようなエマルションを使用し、2番目はブラウン運動を実験的に研究し、3番目はアインシュタインの液相における粒子回転の理論を検証した。
1927年、物理学者フリッツ・ロンドンとヴァルター・ハイトラーは、新しい量子力学を、水素分子における可飽和性で非動的な引力と斥力、すなわち交換力の取り扱いに適用した。この問題を原子価結合の観点から扱った彼らの共同論文は、化学を量子力学の下に置くという点で画期的であった。彼らの研究は、博士号を取得したばかりのポーリングに影響を与え、グッゲンハイム・フェローシップでチューリッヒのハイトラーやロンドンを訪問した。
その後、1931年にポーリングは、ハイトラーとロンドンの研究、およびルイスの有名な論文に見られる理論に基づいて、量子力学を用いて分子の性質や結合角・結合に伴う回転といった構造式を計算する画期的な論文「化学結合の本性(The Nature of the Chemical Bond)」を発表した。これらの概念に基づいて、ポーリングは、4つの sp3 混成軌道が水素の 1s 軌道に重なって4つの σ結合を形成する CH4 のような分子の結合を説明する混成理論を開発した。この4つの結合は同じ長さと強さであるため、下図に示すような分子構造になる。
分子科学(molecular science)は、化学と物理のどちらに重点を置くかによって、「分子化学(molecular chemistry)」または「分子物理学(molecular physics)」と呼ばれる。分子化学は、化学結合の形成や切断といった分子間の相互作用を支配する法則を扱い、分子物理学は、分子の構造や特性を支配する法則を扱う。しかし、実際にはこの区別は曖昧である。分子科学では、分子は2つ以上の原子が結合した安定した系(束縛状態)で構成されている。多原子イオンも電気を帯びた分子と見なすことができる。不安定分子(unstable molecule)という用語は、非常に反応性(英語版)の高い種、すなわちラジカル、分子イオン、リュードベリ分子(英語版)、遷移状態、ファンデルワールス錯体、ボース=アインシュタイン凝縮のような原子の衝突系など、電子と原子核の一時的な集合体(共鳴)に対して使用される。
物質の構成要素としての分子はありふれたものである。それらはまた、海や大気の大部分を構成している。ほとんどの有機物は分子である。タンパク質とその材料となるアミノ酸、核酸(DNAとRNA)、糖、炭水化物、脂質、ビタミンなど、生命を構成する物質は分子である。栄養素であるミネラルは、一般にイオン化合物であり、分子ではない(例:硫酸鉄)。
しかし、地球上の身近な固体物質の大半は、部分的または全部が結晶やイオン化合物でできており、分子でできているわけではない。これらには、地球の物質を構成するすべての鉱物、砂、粘土、小石、岩、巨礫、地殻、マントル、地球の核などが含まれる。これらはすべて、多くの化学結合を含んでいるが、識別可能な分子でできているわけではない。
塩や共有結合結晶については、グラフェンのように平面的に、あるいはダイヤモンド、石英、塩化ナトリウムのように3次元的に広がる単位格子の繰り返しで構成されていることが多く、典型的な分子を定義することはできない。また、金属結合を伴う凝縮相(固体または液体)であるほとんどの金属にも、単位格子構造の繰り返しという論旨は当てはまる。したがって、固体金属は分子でできているわけではない。ガラスは、ガラス質の無秩序な状態で存在する固体であり、原子は化学結合によって結合しているが明確な分子は存在せず、塩、共有結合結晶、金属を特徴づける単位格子構造を繰り返す規則性も存在しない。
一般に、分子は共有結合によって結ばれている。いくつかの非金属元素は、自由原子としては存在せず、環境中では化合物または等核分子としてのみ存在するものがある。水素はその例である。
金属結晶は、金属結合によってまとめられた1つの巨大な分子と見なすことができると言う人もいれば、金属は分子とはまったく異なるふるまいをすると指摘する人もいる。
共有結合(covalent bond)は、原子と原子の間で電子対(電子の組)を共有する化学結合である。これらの電子対を「共有対」または「結合対」と呼び、原子間で電子を共有するときの引力と斥力(反発力)が安定した均衡をもたらす状態を「共有結合」と呼ぶ。
イオン結合(ionic bonding)は、逆荷電を持つイオン間で静電引力を伴う化学結合の一種で、イオン化合物で生じる主要な相互作用である。イオンとは、1つまたは複数の電子を失った原子(カチオン)と、1つまたは複数の電子を獲得した原子(アニオン)のことである。このような電子の移動は、共有結合とは対照的に「電気原子価(electrovalence)」と呼ばれる。最も単純なケースでは、カチオンは金属原子、アニオンは非金属原子であるが、イオンの中にはNH4やSO4のような分子イオンのように、より複雑な性質を持つものも存在する。常温常圧では、ほとんどの場合、イオン結合は個別に識別可能な分子を持たない固体(場合によっては液体)を形成するが、そのような物質が気化/昇華すると個別の分子が生じる(結合が(共有結合ではなく)イオン結合と見なされるだけの十分な電子が移動する)。
ほとんどの分子は肉眼で見ることができないほど小さいが、DNAのような生体高分子を含む多くのポリマーの分子は巨視的な大きさに達することがある。有機合成の構成要素として用いられる分子の大きさは、一般的に数オングストローム(Å)から数十オングストローム(10億分の1メートル)程度である。この大きさでは可視光の波長以下の為、顕微鏡など光学的な像として個々の分子を観察することはできない。したがって通常目にする物質は結晶やクラスターなど集団としての分子を目にしていることになる。分子の単位質量は分子量が用いられ、およそ分子量で10から10を境に、それ以下の分子を低分子、それ以上の分子を高分子と呼ぶ。
単一の分子の姿は測定器を介して観測するしかないが、原子間力顕微鏡(AFM)を用いると、低分子(小分子)や個々の原子の輪郭を追跡できることがある。もっとも大きな分子には超分子がある。最も小さな分子は二原子水素(H2)で、結合長は0.74 Åである。
有効分子半径は、溶液中で分子が示す大きさである。各物質の透過選択性の表(英語版)にその例が示されている。
分子の化学式は、元素記号や数字のほか、丸かっこ、ダッシュ(')、角かっこ([])、プラス(+)、マイナス(-)などの記号を用いて1行で表示する。これらは下付き文字と上付き文字を含むこともあり、活版印刷の1行で表現できるように制限されている。
化合物の実験式は、非常に単純な種類の化学式である。これは、化合物を構成する化学元素の最も単純な整数比のことである。たとえば、水は常に水素原子と酸素原子が2:1の比率で構成され、エタノール(エチルアルコール)は常に炭素、水素、酸素が2:6:1の比率で構成されている。ただし、これによって分子の種類を一意に決めるものではなく、たとえばジメチルエーテルはエタノールと同じ比率である。同じ原子を異なる配置で持つ分子を異性体と呼ぶ。また、たとえば炭水化物は同じ比率(炭素:水素:酸素=1:2:1。したがって実験式も同じ)を持つが、分子内の総原子数は異なる。
分子式は、分子を構成する原子の正確な数を反映し、異なる分子を特徴づける。ただし、異なる異性体は、異なる分子であっても、同じ原子組成を持つことがある。
実験式と分子式が同じであることがよくあるが、常にそうとは限らない。たとえば、アセチレン分子の分子式はC2H2であるが、その元素の最も単純な整数比はCHである。
分子量は、化学式から計算することができ、中性炭素12(C同位体)原子の質量の1/12に相当する通常の原子質量単位で表される。ネットワーク固体(英語版)の場合、化学量論的計算の際に式単位(英語版)という用語を使用する。
複雑な3次元構造を持つ分子、特に4つの異なる置換基と結合した原子を含む分子では、単純な分子式や示性式でさえ、分子を完全に特定できない場合がある。そのような場合には、構造式と呼ばれるグラフィカルな式が必要になることがある。構造式は一次元の化学名で表すこともできるが、そうした化学命名法(英語版)には化学式の一部に含まれない多くの単語や用語が必要である。
分子は、平衡幾何構造(英語版)(結合の長さや角度)が決まっており、振動や回転によって連続的に運動している。純物質は、同じ平均的な幾何構造を持つ分子で構成されている。分子の化学式と構造は、その分子の性質、特に反応性(英語版)を決定する重要な要素である。異性体は、化学式は同じだが構造が異なるため、通常、性質が大きく異なる。立体異性体という特種な異性体は、非常によく似た物理化学的性質を持つと同時に、異なる生化学的活性を持つことがある。
分子分光法(ぶんしぶんこうほう、英: molecular spectroscopy)は、エネルギー(プランクの公式による周波数)が既知のプローブ信号に相互作用する分子の応答(スペクトル)を扱う分析手法である。分子はエネルギー準位が量子化されており、分子のエネルギー交換を吸光または発光で検出することで分析することができる。一般に分子分光法は、中性子・電子・高エネルギーX線などの粒子が(結晶のように)規則的に配置された分子と相互作用する回折研究を指すものではない。
マイクロ波分光法は、分子の回転の変化を測定し、宇宙空間にある分子を識別するために一般に利用される。赤外線分光法は、分子の伸縮、屈曲、ねじれなどの振動を測定する。これは、分子内の結合や官能基の種類を特定するために一般に使用される。電子の配列の変化により、紫外光、可視光、または近赤外光に吸収線や輝線が生じ、色が発生する。核磁気共鳴分光法は、分子内の特定の原子核の環境を測定し、分子内の異なる位置にある原子の数を特徴付けるために使用される。
分子物理学や理論化学による分子の研究は、主に量子力学に基づいており、化学結合を理解するうえで不可欠である。最も単純な分子は水素分子イオン H2であり、すべての化学結合の中で最も単純なものは1電子結合である。H2は正荷電の陽子2個と負荷電の電子1個で構成され、電子間反発がないため、この系のシュレーディンガー方程式はより簡単に解くことができる。高速デジタルコンピューターの発達により、より複雑な分子に対する近似解が可能になり、計算化学の主要な一面を担っている。
IUPACは、ある原子配列が分子として「十分に安定か」どうかを厳密に定義しようとする場合、「少なくとも1つの振動状態を閉じ込めるのに十分な深さのポテンシャルエネルギー曲面上のくぼみに対応する必要がある」と提案している。この定義は、原子間の相互作用の性質には依存せず、相互作用の強さのみに依存する。実際、ヘリウムの二量体であるHe2は、振動結合状態が1つで、結合が非常に弱いため、極低温でしか観測されない可能性があるが、こうした弱い結合の種も分子と見なされている。
原子の配列が「十分に安定か」どうかは、本質的には運用上の定義である。したがって、哲学的には分子は基本的な実体ではなく(たとえば素粒子と対照的)、むしろ分子という概念は、化学者が、私たちが観察する世界における原子スケールでの相互作用の強さについて、有用な意見を述べる方法である。 | [
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"text": "分子(ぶんし、英: molecule)とは、2つ以上の原子から構成される電荷的に中性な物質を指す。厳密には、分子は少なくとも1つ以上の振動エネルギー準位を持つほどに充分に深いエネルギーポテンシャル表面のくぼみを共有する原子の集まりを指す。この基準を満たすイオンは、文脈によって含まれる場合もあれば含まれない場合もある。量子物理学、有機化学、生化学の分野では、イオンとの区別をせず、多原子イオンを指して分子が使われることが多い。",
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"text": "分子には、酸素分子(酸素原子2つ、O2)のように1つの化学元素の原子からなる等核分子と、水(水素原子2つと酸素原子1つ、H2O)のように2つ以上の元素からなる異核分子がある。気体分子運動論では、あらゆる気体粒子はその組成にかかわらず分子と呼ばれることが多い。これは、希ガスが単原子で安定な化学種であるため(単原子分子とも呼ばれる)、分子が2つ以上の原子を含むという要件を緩和したことによる。水素結合やイオン結合など非共有結合(英語版)で結合された原子や複合体は、通常、単一分子とはみなされない。",
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"text": "分子のような概念は古くから議論されてきたが、分子とその結合の本質に関する近代的な研究は17世紀に始まった。ロバート・ボイル、アメデオ・アヴォガドロ、ジャン・ペラン、ライナス・ポーリングといった科学者たちによって、時間をかけて洗練された分子の研究は、今日では分子物理学または分子化学として知られている。",
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"text": "メリアム=ウェブスターやオンライン・エティモロジー・ディクショナリーによると、「分子(molecule)」という言葉は、ラテン語の「moles」すなわち「質量の小さな単位」に由来する。語源はフランス語の molécule(1678)で、ラテン語の moles 「mass, barrier(質量、境界)」の指小辞である新ラテン語の molecula に由来する。18世紀後半までラテン語の形でしか使われなかったこの言葉は、デカルトの哲学書で使われたことで人気を博した。",
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"text": "分子の構造に関する知識が増えるにつれて、分子の定義も進化してきた。初期の定義では、分子を「その組成と化学的性質を保持する純粋な化学物質の最小の粒子」と定義していたが、あまり正確ではなかった。しかし、岩石、塩類、金属など身近な物質の多くは、化学的に結合した原子やイオンの大きな結晶ネットワークで構成されており、個別の分子でできている訳ではないため、この定義はしばしば破綻する。",
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"text": "現代の分子の概念は、レウキッポスやデモクリトスなど、すべての宇宙は原子と空隙で構成されていると主張した科学以前のギリシャの哲学者までさかのぼることができる。紀元前450年頃、エンペドクレスは、基本元素(火()、土()、空気()、水())と、それらの元素が相互作用する引力と斥力という「力」を想像した。",
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"text": "第5番目の元素である「不壊(ふえ)の真髄」であるエーテルは、天体の基本的な構成要素と考えられていた。レウキッポスやエンペドクレスの視点は、エーテルとともにアリストテレスに受け入れられ、中世およびルネサンス期のヨーロッパに受け継がれた。",
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"text": "しかし、より具体的には、「分子」、すなわち原子が結合した集合体や単位という概念は、ロバート・ボイルが1661年に出版した有名な著書『懐疑的化学者(The Sceptical Chymist)』の中で、「物質は微粒子の集団から構成されており、化学変化はその集団の再編成によって生じる」とした彼の仮説に端を発している。ボイルは、物質の基本要素は「微粒子(corpuscles)」と呼ばれる種類や大きさの異なる粒子で構成されており、これらの粒子は自身を集団に編成することができると主張した。1789年に、ウィリアム・ヒギンズ(英語版)が、原子価結合の概念を予示となる「究極の」粒子の組み合わせと呼ぶものについての見解を発表した。ヒギンズによれば、たとえば酸素の究極粒子と窒素の究極粒子の間の力は6であり、力の強さはそれに応じて分割され、他の究極粒子の組み合わせについても同様である。",
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"text": "ジョン・ドルトンが1803年に原子論を、1804年に倍数比例の法則により原子の存在を提唱した。しかし現代の電子と原子核から構成される粒子のような構造的な概念ではなく、化学反応が一定の単位質量を基に進行するという量的概念であった。",
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"text": "「分子(molecule)」という言葉はアメデオ・アヴォガドロが作り出した。1811年の論文「物体の素分子の相対質量の決定に関するエッセイ」(Essay on Determining the Relative Masses of the Elementary Molecules of Bodies)で、彼は本質的に次のように述べている。すなわち、パーティントン(英語版)の『化学の歴史(A Short History of Chemistry)』によると、",
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"text": "こうした考え方と同調して、1833年にフランスの化学者マルク・アントワーヌ・オーギュスト・ゴーダン(英語版)は、アボガドロの原子量に関する仮説を、直線状の水分子のような半正確な分子形状と、H2Oのような正確な分子式の両方を明確に示す体積図(volume diagrams)を使って明確に説明した。",
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"text": "1917年、ライナス・ポーリングという無名のアメリカの化学技術者が、原子間結合を記述する方法として当時主流であったドルトンのフックアンドアイ結合を研究していた。しかし、ポーリングはこの方法に満足せず、新たな分野である量子物理学に新しい方法を求めた。1926年、フランスの物理学者ジャン・ペランが、分子の存在を決定的に証明したことによりノーベル物理学賞を受賞した。彼は、いずれも液相系に関する3種類の方法で計算することによりアボガドロ定数を決定した。1番目はガンボージ石鹸のようなエマルションを使用し、2番目はブラウン運動を実験的に研究し、3番目はアインシュタインの液相における粒子回転の理論を検証した。",
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"text": "1927年、物理学者フリッツ・ロンドンとヴァルター・ハイトラーは、新しい量子力学を、水素分子における可飽和性で非動的な引力と斥力、すなわち交換力の取り扱いに適用した。この問題を原子価結合の観点から扱った彼らの共同論文は、化学を量子力学の下に置くという点で画期的であった。彼らの研究は、博士号を取得したばかりのポーリングに影響を与え、グッゲンハイム・フェローシップでチューリッヒのハイトラーやロンドンを訪問した。",
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"text": "その後、1931年にポーリングは、ハイトラーとロンドンの研究、およびルイスの有名な論文に見られる理論に基づいて、量子力学を用いて分子の性質や結合角・結合に伴う回転といった構造式を計算する画期的な論文「化学結合の本性(The Nature of the Chemical Bond)」を発表した。これらの概念に基づいて、ポーリングは、4つの sp3 混成軌道が水素の 1s 軌道に重なって4つの σ結合を形成する CH4 のような分子の結合を説明する混成理論を開発した。この4つの結合は同じ長さと強さであるため、下図に示すような分子構造になる。",
"title": "歴史"
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"text": "分子科学(molecular science)は、化学と物理のどちらに重点を置くかによって、「分子化学(molecular chemistry)」または「分子物理学(molecular physics)」と呼ばれる。分子化学は、化学結合の形成や切断といった分子間の相互作用を支配する法則を扱い、分子物理学は、分子の構造や特性を支配する法則を扱う。しかし、実際にはこの区別は曖昧である。分子科学では、分子は2つ以上の原子が結合した安定した系(束縛状態)で構成されている。多原子イオンも電気を帯びた分子と見なすことができる。不安定分子(unstable molecule)という用語は、非常に反応性(英語版)の高い種、すなわちラジカル、分子イオン、リュードベリ分子(英語版)、遷移状態、ファンデルワールス錯体、ボース=アインシュタイン凝縮のような原子の衝突系など、電子と原子核の一時的な集合体(共鳴)に対して使用される。",
"title": "分子科学"
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"text": "物質の構成要素としての分子はありふれたものである。それらはまた、海や大気の大部分を構成している。ほとんどの有機物は分子である。タンパク質とその材料となるアミノ酸、核酸(DNAとRNA)、糖、炭水化物、脂質、ビタミンなど、生命を構成する物質は分子である。栄養素であるミネラルは、一般にイオン化合物であり、分子ではない(例:硫酸鉄)。",
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"text": "しかし、地球上の身近な固体物質の大半は、部分的または全部が結晶やイオン化合物でできており、分子でできているわけではない。これらには、地球の物質を構成するすべての鉱物、砂、粘土、小石、岩、巨礫、地殻、マントル、地球の核などが含まれる。これらはすべて、多くの化学結合を含んでいるが、識別可能な分子でできているわけではない。",
"title": "分子の形態"
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"text": "塩や共有結合結晶については、グラフェンのように平面的に、あるいはダイヤモンド、石英、塩化ナトリウムのように3次元的に広がる単位格子の繰り返しで構成されていることが多く、典型的な分子を定義することはできない。また、金属結合を伴う凝縮相(固体または液体)であるほとんどの金属にも、単位格子構造の繰り返しという論旨は当てはまる。したがって、固体金属は分子でできているわけではない。ガラスは、ガラス質の無秩序な状態で存在する固体であり、原子は化学結合によって結合しているが明確な分子は存在せず、塩、共有結合結晶、金属を特徴づける単位格子構造を繰り返す規則性も存在しない。",
"title": "分子の形態"
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"text": "一般に、分子は共有結合によって結ばれている。いくつかの非金属元素は、自由原子としては存在せず、環境中では化合物または等核分子としてのみ存在するものがある。水素はその例である。",
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"text": "金属結晶は、金属結合によってまとめられた1つの巨大な分子と見なすことができると言う人もいれば、金属は分子とはまったく異なるふるまいをすると指摘する人もいる。",
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"text": "共有結合(covalent bond)は、原子と原子の間で電子対(電子の組)を共有する化学結合である。これらの電子対を「共有対」または「結合対」と呼び、原子間で電子を共有するときの引力と斥力(反発力)が安定した均衡をもたらす状態を「共有結合」と呼ぶ。",
"title": "結合"
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"text": "イオン結合(ionic bonding)は、逆荷電を持つイオン間で静電引力を伴う化学結合の一種で、イオン化合物で生じる主要な相互作用である。イオンとは、1つまたは複数の電子を失った原子(カチオン)と、1つまたは複数の電子を獲得した原子(アニオン)のことである。このような電子の移動は、共有結合とは対照的に「電気原子価(electrovalence)」と呼ばれる。最も単純なケースでは、カチオンは金属原子、アニオンは非金属原子であるが、イオンの中にはNH4やSO4のような分子イオンのように、より複雑な性質を持つものも存在する。常温常圧では、ほとんどの場合、イオン結合は個別に識別可能な分子を持たない固体(場合によっては液体)を形成するが、そのような物質が気化/昇華すると個別の分子が生じる(結合が(共有結合ではなく)イオン結合と見なされるだけの十分な電子が移動する)。",
"title": "結合"
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"text": "ほとんどの分子は肉眼で見ることができないほど小さいが、DNAのような生体高分子を含む多くのポリマーの分子は巨視的な大きさに達することがある。有機合成の構成要素として用いられる分子の大きさは、一般的に数オングストローム(Å)から数十オングストローム(10億分の1メートル)程度である。この大きさでは可視光の波長以下の為、顕微鏡など光学的な像として個々の分子を観察することはできない。したがって通常目にする物質は結晶やクラスターなど集団としての分子を目にしていることになる。分子の単位質量は分子量が用いられ、およそ分子量で10から10を境に、それ以下の分子を低分子、それ以上の分子を高分子と呼ぶ。",
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"text": "単一の分子の姿は測定器を介して観測するしかないが、原子間力顕微鏡(AFM)を用いると、低分子(小分子)や個々の原子の輪郭を追跡できることがある。もっとも大きな分子には超分子がある。最も小さな分子は二原子水素(H2)で、結合長は0.74 Åである。",
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"text": "有効分子半径は、溶液中で分子が示す大きさである。各物質の透過選択性の表(英語版)にその例が示されている。",
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"text": "分子の化学式は、元素記号や数字のほか、丸かっこ、ダッシュ(')、角かっこ([])、プラス(+)、マイナス(-)などの記号を用いて1行で表示する。これらは下付き文字と上付き文字を含むこともあり、活版印刷の1行で表現できるように制限されている。",
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"text": "化合物の実験式は、非常に単純な種類の化学式である。これは、化合物を構成する化学元素の最も単純な整数比のことである。たとえば、水は常に水素原子と酸素原子が2:1の比率で構成され、エタノール(エチルアルコール)は常に炭素、水素、酸素が2:6:1の比率で構成されている。ただし、これによって分子の種類を一意に決めるものではなく、たとえばジメチルエーテルはエタノールと同じ比率である。同じ原子を異なる配置で持つ分子を異性体と呼ぶ。また、たとえば炭水化物は同じ比率(炭素:水素:酸素=1:2:1。したがって実験式も同じ)を持つが、分子内の総原子数は異なる。",
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"text": "分子式は、分子を構成する原子の正確な数を反映し、異なる分子を特徴づける。ただし、異なる異性体は、異なる分子であっても、同じ原子組成を持つことがある。",
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"text": "実験式と分子式が同じであることがよくあるが、常にそうとは限らない。たとえば、アセチレン分子の分子式はC2H2であるが、その元素の最も単純な整数比はCHである。",
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"text": "分子量は、化学式から計算することができ、中性炭素12(C同位体)原子の質量の1/12に相当する通常の原子質量単位で表される。ネットワーク固体(英語版)の場合、化学量論的計算の際に式単位(英語版)という用語を使用する。",
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"text": "複雑な3次元構造を持つ分子、特に4つの異なる置換基と結合した原子を含む分子では、単純な分子式や示性式でさえ、分子を完全に特定できない場合がある。そのような場合には、構造式と呼ばれるグラフィカルな式が必要になることがある。構造式は一次元の化学名で表すこともできるが、そうした化学命名法(英語版)には化学式の一部に含まれない多くの単語や用語が必要である。",
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"text": "分子は、平衡幾何構造(英語版)(結合の長さや角度)が決まっており、振動や回転によって連続的に運動している。純物質は、同じ平均的な幾何構造を持つ分子で構成されている。分子の化学式と構造は、その分子の性質、特に反応性(英語版)を決定する重要な要素である。異性体は、化学式は同じだが構造が異なるため、通常、性質が大きく異なる。立体異性体という特種な異性体は、非常によく似た物理化学的性質を持つと同時に、異なる生化学的活性を持つことがある。",
"title": "分子構造"
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"text": "分子分光法(ぶんしぶんこうほう、英: molecular spectroscopy)は、エネルギー(プランクの公式による周波数)が既知のプローブ信号に相互作用する分子の応答(スペクトル)を扱う分析手法である。分子はエネルギー準位が量子化されており、分子のエネルギー交換を吸光または発光で検出することで分析することができる。一般に分子分光法は、中性子・電子・高エネルギーX線などの粒子が(結晶のように)規則的に配置された分子と相互作用する回折研究を指すものではない。",
"title": "分子分光法"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "マイクロ波分光法は、分子の回転の変化を測定し、宇宙空間にある分子を識別するために一般に利用される。赤外線分光法は、分子の伸縮、屈曲、ねじれなどの振動を測定する。これは、分子内の結合や官能基の種類を特定するために一般に使用される。電子の配列の変化により、紫外光、可視光、または近赤外光に吸収線や輝線が生じ、色が発生する。核磁気共鳴分光法は、分子内の特定の原子核の環境を測定し、分子内の異なる位置にある原子の数を特徴付けるために使用される。",
"title": "分子分光法"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "分子物理学や理論化学による分子の研究は、主に量子力学に基づいており、化学結合を理解するうえで不可欠である。最も単純な分子は水素分子イオン H2であり、すべての化学結合の中で最も単純なものは1電子結合である。H2は正荷電の陽子2個と負荷電の電子1個で構成され、電子間反発がないため、この系のシュレーディンガー方程式はより簡単に解くことができる。高速デジタルコンピューターの発達により、より複雑な分子に対する近似解が可能になり、計算化学の主要な一面を担っている。",
"title": "理論的側面"
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"text": "IUPACは、ある原子配列が分子として「十分に安定か」どうかを厳密に定義しようとする場合、「少なくとも1つの振動状態を閉じ込めるのに十分な深さのポテンシャルエネルギー曲面上のくぼみに対応する必要がある」と提案している。この定義は、原子間の相互作用の性質には依存せず、相互作用の強さのみに依存する。実際、ヘリウムの二量体であるHe2は、振動結合状態が1つで、結合が非常に弱いため、極低温でしか観測されない可能性があるが、こうした弱い結合の種も分子と見なされている。",
"title": "理論的側面"
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"text": "原子の配列が「十分に安定か」どうかは、本質的には運用上の定義である。したがって、哲学的には分子は基本的な実体ではなく(たとえば素粒子と対照的)、むしろ分子という概念は、化学者が、私たちが観察する世界における原子スケールでの相互作用の強さについて、有用な意見を述べる方法である。",
"title": "理論的側面"
}
] | 分子とは、2つ以上の原子から構成される電荷的に中性な物質を指す。厳密には、分子は少なくとも1つ以上の振動エネルギー準位を持つほどに充分に深いエネルギーポテンシャル表面のくぼみを共有する原子の集まりを指す。この基準を満たすイオンは、文脈によって含まれる場合もあれば含まれない場合もある。量子物理学、有機化学、生化学の分野では、イオンとの区別をせず、多原子イオンを指して分子が使われることが多い。 | {{Otheruses|化学、物理学における分子|算数、数学における分子|分数}}
{{Infobox particle
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| 説明 =
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[[File:PTCDA AFM.jpg|thumb|5つの6炭素環を含む[[:en:Perylenetetracarboxylic dianhydride|PTCDA]]分子が見える[[原子間力顕微鏡]](AFM)画像<ref>{{cite journal|doi=10.1038/ncomms8766|pmid=26178193|pmc=4518281|title=Chemical structure imaging of a single molecule by atomic force microscopy at room temperature|journal=Nature Communications|volume=6|page=7766|year=2015|last1=Iwata|first1=Kota|last2=Yamazaki|first2=Shiro|last3=Mutombo|first3=Pingo|last4=Hapala|first4=Prokop|last5=Ondráček|first5=Martin|last6=Jelínek|first6=Pavel|last7=Sugimoto|first7=Yoshiaki|bibcode= 2015NatCo...6.7766I}}</ref>。]]
[[File:Pentacene on Ni(111) STM.jpg|thumb|5つの炭素環が直鎖状に連なった[[ペンタセン]]分子の[[走査型トンネル顕微鏡]](STM)画像<ref>{{cite journal|doi=10.1039/C4NR07057G|pmid=25619890|title=Pentacene on Ni(111): Room-temperature molecular packing and temperature-activated conversion to graphene|journal=Nanoscale|volume=7|issue=7|pages=3263–9|year=2015|last1=Dinca|first1=L.E.|last2=De Marchi|first2=F.|last3=MacLeod|first3=J.M.|last4=Lipton-Duffin|first4=J.|last5=Gatti|first5=R.|last6=Ma|first6=D.|last7=Perepichka|first7=D.F.|last8=Rosei|first8=F.|author-link7=Dmitrii Perepichka|bibcode= 2015Nanos...7.3263D}}</ref>。]]
[[File:TOAT AFM.png|thumb|1,5,9-トリオキソ-13-アザトリアンギュレンのAFM画像とその化学構造<ref>{{cite journal|doi=10.1038/ncomms11560|pmid=27230940|pmc=4894979|title=Mapping the electrostatic force field of single molecules from high-resolution scanning probe images|journal=Nature Communications|volume=7|pages=11560|year=2016|last1=Hapala|first1=Prokop|last2=Švec|first2=Martin|last3=Stetsovych|first3=Oleksandr|last4=Van Der Heijden|first4=Nadine J.|last5=Ondráček|first5=Martin|last6=Van Der Lit|first6=Joost|last7=Mutombo|first7=Pingo|last8=Swart|first8=Ingmar|last9=Jelínek|first9=Pavel|bibcode=2016NatCo...711560H}}</ref>。]]
'''分子'''(ぶんし、[[英語|英]]: molecule)とは、2つ以上の[[原子]]から構成される[[電荷]]的に中性な[[物質]]を指す。厳密には、分子は少なくとも1つ以上の振動[[エネルギー準位]]を持つほどに充分に深いエネルギーポテンシャル表面のくぼみを共有する原子の集まりを指す<ref name="iupac4">IUPAC. Compendium of Chemical Terminology, 2nd ed. (the "Gold Book"). Compiled by A. D. McNaught and A. Wilkinson. Blackwell Scientific Publications, Oxford (1997). XML on-line corrected version: http://goldbook.iupac.org (2006-) created by M. Nic, J. Jirat, B. Kosata; updates compiled by A. Jenkins. ISBN 0-9678550-9-8. {{DOI|10.1351/goldbook.M04002}}.</ref>。この基準を満たす[[イオン]]は、文脈によって含まれる場合もあれば含まれない場合もある<ref name="iupac">{{GoldBookRef| title=Molecule|file=M04002|accessdate=23 February 2016}}</ref><ref>{{cite book| author= Ebbin, Darrell D.| title= General Chemistry |edition=3rd| date= 1990| publisher= [[:en:Houghton Mifflin Co.|Houghton Mifflin Co.]]| location= Boston| isbn= 978-0-395-43302-7}}</ref><ref>{{cite book| author= Brown, T.L. |author2=Kenneth C. Kemp |author3=Theodore L. Brown |author4=Harold Eugene LeMay |author5=Bruce Edward Bursten |title= Chemistry – the Central Science | url= https://archive.org/details/studentlectureno00theo | url-access= registration |edition=9th| date= 2003| publisher= [[:en:Prentice Hall|Prentice Hall]]| location= New Jersey| isbn= 978-0-13-066997-1}}</ref><ref>{{cite book| last= Chang| first= Raymond| title= Chemistry | url= https://archive.org/details/chemistry00chan_0| url-access= registration|edition=6th| date= 1998| publisher= [[:en:McGraw Hill|McGraw Hill]]| location= New York| isbn= 978-0-07-115221-1}}</ref><ref>{{cite book| author= Zumdahl, Steven S.| title= Chemistry |edition=4th| date= 1997| publisher= Houghton Mifflin| location= Boston| isbn= 978-0-669-41794-4}}</ref>。[[量子物理学]]、[[有機化学]]、[[生化学]]の分野では、イオンとの区別をせず、[[多原子イオン]]を指して分子が使われることが多い。
== 概要 ==
分子には、[[酸素]]分子(酸素原子2つ、O<sub>2</sub>)のように1つの[[化学元素]]の原子からなる[[等核分子]]と、[[水]](水素原子2つと酸素原子1つ、H<sub>2</sub>O)のように2つ以上の元素からなる[[異核分子]]がある。[[気体分子運動論]]では、あらゆる気体[[粒子]]はその組成にかかわらず分子と呼ばれることが多い。これは、[[希ガス]]が単原子で安定な[[化学種]]であるため([[単原子分子]]とも呼ばれる)、分子が2つ以上の原子を含むという要件を緩和したことによる<ref>{{cite book |last=Chandra |first=Sulekh |title=Comprehensive Inorganic Chemistry |date=2005 |publisher=New Age Publishers |isbn=978-81-224-1512-4}}</ref>。[[水素結合]]や[[イオン結合]]など{{仮リンク|非共有相互作用|en|Non-covalent interaction|label=非共有結合}}で結合された原子や複合体は、通常、単一分子とはみなされない<ref>{{cite encyclopedia|title=Molecule|encyclopedia=[[:en:Encyclopædia Britannica|Encyclopædia Britannica]]|date=22 January 2016|url=http://global.britannica.com/science/molecule|access-date=23 February 2016|archive-date=3 May 2020|archive-url=https://web.archive.org/web/20200503044729/https://global.britannica.com/science/molecule|url-status=live}}</ref>。
分子のような概念は古くから議論されてきたが、分子とその結合の本質に関する近代的な研究は17世紀に始まった。[[ロバート・ボイル]]、[[アメデオ・アヴォガドロ]]、[[ジャン・ペラン]]、[[ライナス・ポーリング]]といった科学者たちによって、時間をかけて洗練された分子の研究は、今日では[[分子物理学]]または分子化学<!-- molecular chemistry -->として知られている。
== 語源 ==
[[メリアム=ウェブスター]]や[[オンライン・エティモロジー・ディクショナリー]]によると、「分子(molecule)」という言葉は、[[ラテン語]]の「[[モル|moles]]」すなわち「質量の小さな単位」に由来する。語源はフランス語の ''{{linktext|molécule}}''(1678)で、ラテン語の ''{{linktext|moles}}'' 「mass, barrier(質量、境界)」の[[指小辞]]である[[新ラテン語]]の ''{{linktext|molecula}}'' に由来する。18世紀後半までラテン語の形でしか使われなかったこの言葉は、[[ルネ・デカルト|デカルト]]の哲学書で使われたことで人気を博した<ref>{{OEtymD|molecule|accessdate=2016-02-22}}</ref><ref>{{cite dictionary |title=molecule |dictionary=[[:en:Merriam-Webster|Merriam-Webster]] |url=http://www.merriam-webster.com/dictionary/molecule |access-date=22 February 2016 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210224223305/https://www.merriam-webster.com/dictionary/molecule |archive-date=24 February 2021 |url-status=live}}</ref>。
== 歴史 ==
{{Main|分子論の歴史}}
分子の構造に関する知識が増えるにつれて、分子の定義も進化してきた。初期の定義では、分子を「その[[化合物|組成]]と化学的性質を保持する純粋な[[化学物質]]の最小の[[物理学における粒子の一覧#%E8%A4%87%E5%90%88%E7%B2%92%E5%AD%90|粒子]]」と定義していたが、あまり正確ではなかった<ref>[http://antoine.frostburg.edu/chem/senese/101/glossary/m.shtml#molecule Molecule Definition] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20141013143129/http://antoine.frostburg.edu/chem/senese/101/glossary/m.shtml#molecule|date=13 October 2014}} ([[:en:Frostburg State University|Frostburg State University]])</ref>。しかし、[[岩石]]、[[塩 (化学)|塩類]]、[[金属]]など身近な物質の多くは、[[化学結合|化学的に結合]]した原子や[[イオン]]の大きな結晶ネットワークで構成されており、個別の分子でできている訳ではないため、この定義はしばしば破綻する。
現代の分子の概念は、[[レウキッポス]]や[[デモクリトス]]など、すべての宇宙は[[原子モデル|原子と空隙]]で構成されていると主張した科学以前のギリシャの哲学者までさかのぼることができる。紀元前450年頃、[[エンペドクレス]]は、[[四元素|基本元素]]([[火]]([[File:Fire_symbol_(alchemical).svg|20x20px]])、[[四元素#土|土]]([[File:Alchemical earth symbol (fixed width).svg|20x20px]])、[[四元素#空気(風)|空気]]([[File:Air_symbol_(alchemical).svg|20x20px]])、[[四元素#水|水]]([[File:Water_symbol_(alchemical).svg|20x20px]]))と、それらの元素が相互作用する引力と斥力という「力」を想像した。
第5番目の元素である「不壊(ふえ)の真髄」である[[エーテル (神学)|エーテル]]<!-- the incorruptible quintessence aether -->は、天体の基本的な構成要素と考えられていた。レウキッポスやエンペドクレスの視点は、エーテルとともに[[アリストテレス]]に受け入れられ、[[中世]]および[[ルネサンス期]]のヨーロッパに受け継がれた。
しかし、より具体的には、「分子」、すなわち原子が結合した集合体や単位という概念は、[[ロバート・ボイル]]が1661年に出版した有名な著書『[[懐疑的化学者]](''The Sceptical Chymist'')』の中で、「物質は微粒子の集団から構成されており、化学変化はその集団の再編成によって生じる」とした彼の仮説に端を発している。ボイルは、物質の基本要素は「微粒子(corpuscles)」と呼ばれる種類や大きさの異なる粒子で構成されており、これらの粒子は自身を集団に編成することができると主張した。1789年に、{{仮リンク|ウィリアム・ヒギンズ|en|William Higgins (chemist)}}が、[[原子価結合理論|原子価結合]]の概念を予示となる「究極の」粒子の組み合わせと呼ぶものについての見解を発表した。ヒギンズによれば、たとえば酸素の究極粒子と窒素の究極粒子の間の力は6であり、力の強さはそれに応じて分割され、他の究極粒子の組み合わせについても同様である。
[[ファイル:A New System of Chemical Philosophy fp.jpg|thumb|ドルトンの原子説 (J.Dalton,''A New System of Chemical Philosophy'',1808)。<br />1.水素、4.酸素、21.水<br />ドルトンは水素と酸素が1対1で反応し水が生成すると考えている。]]
[[ジョン・ドルトン]]が1803年に[[原子論]]を、1804年に[[倍数比例の法則]]により原子の存在を提唱した。しかし現代の[[電子]]と[[原子核]]から構成される粒子のような構造的な概念ではなく、化学反応が一定の単位質量を基に進行するという[[化学量論|量的概念]]であった<ref>「現代化学史 原子・分子の化学の発展」p45 廣田襄 京都大学学術出版会 2013年10月5日初版第1刷</ref>。
「分子(molecule)」という言葉は[[アメデオ・アヴォガドロ]]が作り出した<ref name="ley196606">{{Cite magazine |last=Ley |first=Willy |date=June 1966 |title=The Re-Designed Solar System |url=https://archive.org/stream/Galaxy_v24n05_1966-06#page/n93/mode/2up |department=For Your Information |magazine=Galaxy Science Fiction |pages=94–106}}</ref>。1811年の論文「物体の素分子の相対質量の決定に関するエッセイ」(''Essay on Determining the Relative Masses of the Elementary Molecules of Bodies'')で、彼は本質的に次のように述べている。すなわち、{{仮リンク|J・R・パーティントン|en|J. R. Partington|label=パーティントン}}の『化学の歴史(''A Short History of Chemistry)』''によると<ref>{{cite journal |last1=Avogadro |first1=Amedeo |date=1811 |title=Masses of the Elementary Molecules of Bodies |url=http://web.lemoyne.edu/~giunta/AVOGADRO.HTML |journal=Journal de Physique |volume=73 |pages=58–76 |access-date=25 August 2022 |archive-date=12 May 2019 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190512182624/http://web.lemoyne.edu/~giunta/avogadro.html |url-status=live }}</ref>、
{{quote|気体の最小粒子は必ずしも単純な原子ではなく、これらの原子が特定の数だけ引力で結合して一個の'''分子'''('''molecule''')を形成している。}}
こうした考え方と同調して、1833年にフランスの化学者{{仮リンク|マルク・アントワーヌ・オーギュスト・ゴーダン|en|Marc Antoine Auguste Gaudin}}は、アボガドロの原子量に関する仮説を<ref>{{cite journal |author=Seymour H. Mauskopf |date=1969 |title=The Atomic Structural Theories of Ampère and Gaudin: Molecular Speculation and Avogadro's Hypothesis |journal=Isis |volume=60 |issue=1 |pages=61–74 |doi=10.1086/350449 |jstor=229022 |s2cid=143759556}}</ref>、直線状の水分子のような半正確な分子形状<!-- semi-correct molecular geometries -->と、H<sub>2</sub>Oのような正確な分子式<!-- correct molecular formulas -->の両方を明確に示す体積図(volume diagrams)を使って明確に説明した。[[File:Gaudins-volume-diagrams.jpg|thumb|350x350px|マルク・アントワーヌ・オーギュスト・ゴーダンによる気相における分子の体積図 (1833)]]
1917年、[[ライナス・ポーリング]]という無名のアメリカの化学技術者<!-- American undergraduate chemical engineer -->が、原子間結合を記述する方法として当時主流であった[[ジョン・ドルトン#原子説|ドルトンのフックアンドアイ結合]]<!-- Dalton hook-and-eye bonding method -->{{訳語疑問点|date=2022年12月|原文: Dalton hook-and-eye bonding method}}を研究していた。しかし、ポーリングはこの方法に満足せず、新たな分野である量子物理学に新しい方法を求めた。1926年、フランスの物理学者[[ジャン・ペラン]]が、分子の存在を決定的に証明したことによりノーベル物理学賞を受賞した。彼は、いずれも液相系に関する3種類の方法で計算することにより[[アボガドロ定数]]を決定した。1番目は{{仮リンク|ガンボージ|en|Gamboge}}石鹸のような[[エマルション]]を使用し、2番目は[[ブラウン運動]]を実験的に研究し、3番目は[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]の液相における粒子回転の理論を検証した<ref>Perrin, Jean, B. (1926). [https://www.nobelprize.org/prizes/physics/1926/perrin/lecture/ Discontinuous Structure of Matter] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20190529115507/https://www.nobelprize.org/prizes/physics/1926/perrin/lecture/ |date=29 May 2019 }}, Nobel Lecture, December 11.</ref>。
1927年、物理学者[[フリッツ・ロンドン]]と[[ヴァルター・ハイトラー]]は、新しい量子力学を、水素分子における可飽和性で非動的な引力と斥力<!-- saturable, nondynamic forces of attraction and repulsion -->、すなわち交換力の取り扱いに適用した。この問題を原子価結合の観点から扱った彼らの共同論文は、化学を量子力学の下に置くという点で画期的であった<ref>{{cite journal |last1=Heitler |first1=Walter |last2=London |first2=Fritz |date=1927 |title=Wechselwirkung neutraler Atome und homöopolare Bindung nach der Quantenmechanik |journal=Zeitschrift für Physik |volume=44 |issue=6–7 |pages=455–472 |bibcode=1927ZPhy...44..455H |doi=10.1007/BF01397394 |s2cid=119739102}}</ref>。彼らの研究は、博士号を取得したばかりのポーリングに影響を与え、[[グッゲンハイム・フェロー|グッゲンハイム・フェローシップ]]でチューリッヒのハイトラーやロンドンを訪問した。
[[File:Ch4_hybridization.svg|thumb|200x200px|水素の s 軌道と重なる sp³ 混成軌道の模式図]]その後、1931年にポーリングは、ハイトラーとロンドンの研究、およびルイスの有名な論文に見られる理論に基づいて、[[量子力学]]を用いて分子の性質や結合角・結合に伴う回転といった構造式を計算する画期的な論文「化学結合の本性(''The Nature of the Chemical Bond'')」を発表した<ref>{{cite journal |last1=Pauling |first1=Linus |date=1931 |title=The nature of the chemical bond. Application of results obtained from the quantum mechanics and from a theory of paramagnetic susceptibility to the structure of molecules |journal=J. Am. Chem. Soc. |volume=53 |issue=4 |pages=1367–1400 |doi=10.1021/ja01355a027}}</ref>。これらの概念に基づいて、ポーリングは、4つの sp³ 混成軌道が[[水素]]の ''1s'' 軌道に重なって4つの [[σ結合]]を形成する [[メタン|CH<sub>4</sub>]] のような分子の結合を説明する[[混成理論]]を開発した。この4つの結合は同じ長さと強さであるため、下図に示すような分子構造になる。
== 分子科学 ==
分子科学(''molecular science'')は、化学と物理のどちらに重点を置くかによって、「分子化学(''molecular chemistry'')」または「[[分子物理学]](''molecular physics'')」と呼ばれる。分子化学は、[[化学結合]]の形成や切断といった分子間の相互作用を支配する法則を扱い、分子物理学は、分子の構造や特性を支配する法則を扱う。しかし、実際にはこの区別は曖昧である。分子科学では、分子は2つ以上の[[原子]]が結合した安定した系([[束縛状態]])で構成されている。[[分子イオン|多原子イオン]]も電気を帯びた分子と見なすことができる。不安定分子(''unstable molecule'')という用語は、非常に{{仮リンク|反応性 (化学)|en|Reactivity (chemistry)|label=反応性}}の高い種、すなわち[[ラジカル (化学)|ラジカル]]、[[分子イオン]]、{{仮リンク|リュードベリ分子|en|Rydberg molecule}}、[[遷移状態]]、[[ファンデルワールス錯体]]、[[ボース=アインシュタイン凝縮]]のような原子の衝突系など、[[電子]]と[[原子核]]の一時的な集合体([[共鳴理論|共鳴]])に対して使用される。
== 分子の形態 ==
{{Unreferenced section|date=August 2022}}
物質の構成要素としての分子はありふれたものである。それらはまた、海や大気の大部分を構成している。ほとんどの[[有機化学|有機]]物は分子である。タンパク質とその材料となるアミノ酸、核酸(DNAとRNA)、糖、炭水化物、脂質、ビタミンなど、生命を構成する物質は分子である。栄養素であるミネラルは、一般にイオン化合物であり、分子ではない(例:硫酸鉄)。
[[File:Eight Allotropes of Carbon.png|thumb|250px|[[炭素]]の同素体(異なる分子構造)を示す: a:[[ダイヤモンド]], b:[[グラファイト]], c:[[ロンズデーライト]], d,e,f:[[フラーレン]], g:[[無定形炭素]], h:[[カーボンナノチューブ]]]]
しかし、地球上の身近な固体物質の大半は、部分的または全部が結晶やイオン化合物でできており、分子でできているわけではない。これらには、地球の物質を構成するすべての鉱物、砂、粘土、小石、岩、巨礫、[[地殻]]、[[マントル]]、[[地球の構造#%E6%A0%B8|地球の核]]などが含まれる。これらはすべて、多くの化学結合を含んでいるが、識別可能な分子でできているわけではない。
[[塩 (化学)|塩]]や[[共有結合結晶]]については、[[グラフェン]]のように[[平面]]的に、あるいは[[ダイヤモンド]]、[[石英]]、[[塩化ナトリウム]]のように3次元的に広がる[[単位胞|単位格子]]の繰り返しで構成されていることが多く、典型的な分子を定義することはできない。また、[[金属結合]]を伴う凝縮相(固体または液体)であるほとんどの金属にも、単位格子構造の繰り返しという論旨は当てはまる。したがって、固体金属は分子でできているわけではない。[[ガラス]]は、ガラス質の無秩序な状態で存在する固体であり、原子は化学結合によって結合しているが明確な分子は存在せず、塩、共有結合結晶、金属を特徴づける単位格子構造を繰り返す規則性も存在しない。{{Clear}}
== 結合 ==
一般に、分子は[[共有結合]]によって結ばれている。いくつかの非金属元素は、自由原子としては存在せず、環境中では化合物または[[等核分子]]としてのみ存在するものがある。水素はその例である。
金属結晶は、[[金属結合]]によってまとめられた1つの巨大な分子と見なすことができると言う人もいれば<ref>{{cite book |last1=Harry |first1=B. Gray |title=Chemical Bonds: An Introduction to Atomic and Molecular Structure |pages=210–211 |url=https://authors.library.caltech.edu/105209/15/TR000574_06_chapter-6.pdf |access-date=22 November 2021 |archive-date=31 March 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210331062040/https://authors.library.caltech.edu/105209/15/TR000574_06_chapter-6.pdf |url-status=live }}</ref>、金属は分子とはまったく異なるふるまいをすると指摘する人もいる<ref>{{cite web |title=How many gold atoms make gold metal? |url=https://phys.org/news/2015-04-gold-atoms-metal.html |website=phys.org |access-date=22 November 2021 |language=en |archive-date=30 October 2020 |archive-url=https://web.archive.org/web/20201030202803/https://phys.org/news/2015-04-gold-atoms-metal.html |url-status=live }}</ref>。
=== 共有結合 ===
[[File:Covalent bond hydrogen.svg|thumb|right|2つの[[水素原子]]が2つの電子を共有してH<sub>2</sub>(右)を形成する共有結合を示す]]{{main|共有結合}}共有結合(''covalent bond'')は、[[原子]]と原子の間で[[電子対]](電子の組)を共有する[[化学結合]]である。これらの電子対を「共有対」または「結合対」と呼び、原子間で電子を共有するときの引力と斥力(反発力)が安定した均衡をもたらす状態を「共有結合」と呼ぶ<ref>{{cite book| author2= Brad Williamson| author3= Robin J. Heyden| last= Campbell| first= Neil A.| title= Biology: Exploring Life| url= http://www.phschool.com/el_marketing.html| access-date= 2012-02-05| year= 2006| publisher= [[:en:Pearson Prentice Hall|Pearson Prentice Hall]]| location= Boston| isbn= 978-0-13-250882-7| archive-date= 2 November 2014| archive-url= https://web.archive.org/web/20141102041816/http://www.phschool.com/el_marketing.html| url-status= live}}</ref>。
=== イオン結合 ===
{{main|イオン結合}}[[File:NaF.gif|thumb|left|[[ナトリウム]]と[[フッ素]]が酸化還元反応を起こして[[フッ化ナトリウム]]を生成する。ナトリウムは外側の[[電子]]を失って安定した[[電子配置]]になり、この電子は{{仮リンク|発熱過程|en|Exothermic process|label=発熱的}}にフッ素原子に入る。]]
イオン結合(''ionic bonding'')は、逆荷電を持つ[[イオン]]間で[[静電引力]]を伴う[[化学結合]]の一種で、[[イオン化合物]]で生じる主要な相互作用である。イオンとは、1つまたは複数の[[電子]]を失った原子([[カチオン]])と、1つまたは複数の電子を獲得した原子([[アニオン]])のことである<ref>{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=6VdROgeQ5M8C&q=ionic+bonding+-wikipedia&pg=PA7|title=Elements of Metallurgy and Engineering Alloys|last=Campbell|first=Flake C.|year=2008|publisher=[[:en:ASM International|ASM International]]|isbn=978-1-61503-058-3|language=en|access-date=27 October 2020|archive-date=31 March 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20210331062041/https://books.google.com/books?id=6VdROgeQ5M8C&q=ionic+bonding+-wikipedia&pg=PA7|url-status=live}}</ref>。このような電子の移動は、[[共有結合]]とは対照的に「電気原子価(''electrovalence'')」と呼ばれる。最も単純なケースでは、カチオンは[[金属]]原子、アニオンは[[非金属元素|非金属]]原子であるが、イオンの中にはNH<sub>4</sub><sup>+</sup>やSO<sub>4</sub><sup>2−</sup>のような分子イオンのように、より複雑な性質を持つものも存在する。常温常圧では、ほとんどの場合、イオン結合は個別に識別可能な分子を持たない固体(場合によっては液体)を形成するが、そのような物質が気化/昇華すると個別の分子が生じる(結合が(共有結合ではなく)イオン結合と見なされるだけの十分な電子が移動する)。
{{clear}}
== 分子の大きさ ==
ほとんどの分子は肉眼で見ることができないほど小さいが、[[デオキシリボ核酸|DNA]]のような[[生体高分子]]を含む多くの[[ポリマー]]の分子は[[巨視的]]な大きさに達することがある。有機合成の構成要素として用いられる分子の大きさは、一般的に数[[オングストローム]](Å)から数十オングストローム(10億分の1メートル)程度である。この大きさでは可視光の波長以下の為、顕微鏡など[[光|光学的]]な像として個々の分子を観察することはできない。したがって通常目にする[[物質]]は結晶やクラスターなど集団としての分子を目にしていることになる。分子の単位質量は[[分子量]]が用いられ、およそ分子量で10<sup>3</sup>から10<sup>4</sup>を境に、それ以下の分子を低分子、それ以上の分子を[[高分子]]と呼ぶ。
単一の分子の姿は測定器を介して観測するしかないが、[[原子間力顕微鏡]](AFM)を用いると、低分子([[小分子]])や個々の原子の輪郭を追跡できることがある。もっとも大きな分子には[[超分子]]がある。最も小さな分子は[[二原子分子|二原子]]水素(H<sub>2</sub>)で、結合長は0.74 Åである<ref>{{cite book| author= Roger L. DeKock| author2= Harry B. Gray| author3= Harry B. Gray| title= Chemical structure and bonding| url= https://books.google.com/books?id=q77rPHP5fWMC&pg=PA199| date= 1989| publisher= University Science Books| isbn= 978-0-935702-61-3| page= 199| access-date= 27 October 2020| archive-date= 31 March 2021| archive-url= https://web.archive.org/web/20210331062042/https://books.google.com/books?id=q77rPHP5fWMC&pg=PA199| url-status= live}}</ref>。
有効分子半径は、溶液中で分子が示す大きさである<ref>{{cite journal
|author=Chang RL |author2=Deen WM |author3=Robertson CR |author4=Brenner BM
|title=Permselectivity of the glomerular capillary wall: III. Restricted transport of polyanions
|journal=Kidney Int.
|volume=8
|issue=4
|pages=212–218
|year=1975
|pmid=1202253
|doi=10.1038/ki.1975.104
|doi-access=free
}}</ref><ref>{{cite journal
|author=Chang RL |author2=Ueki IF |author3=Troy JL |author4=Deen WM |author5=Robertson CR |author6=Brenner BM
|title=Permselectivity of the glomerular capillary wall to macromolecules. II. Experimental studies in rats using neutral dextran
|journal=Biophys. J.
|volume=15
|issue=9
|pages=887–906
|year=1975
|pmid=1182263
|doi=10.1016/S0006-3495(75)85863-2
|pmc=1334749
|bibcode= 1975BpJ....15..887C}}</ref>。{{仮リンク|各物質の透過選択性の表|en|Table of permselectivity for different substances}}にその例が示されている。
== 分子式 ==
=== 化学式の種類 ===
{{Main|化学式}}分子の[[化学式]]は、[[化学元素|元素]]記号や数字のほか、丸かっこ、ダッシュ(')、角かっこ([])、プラス(+)、マイナス(-)などの記号を用いて1行で表示する。これらは下付き文字と上付き文字を含むこともあり、活版印刷の1行で表現できるように制限されている。
化合物の[[実験式]]は、非常に単純な種類の化学式である。<ref>{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=6wUmteTIc18C&q=empirical+formula&pg=PA288|title=The Practice of Chemistry|last1=Wink|first1=Donald J.|last2=Fetzer-Gislason|first2=Sharon|last3=McNicholas|first3=Sheila|year=2003|publisher=Macmillan|isbn=978-0-7167-4871-7|language=en|access-date=27 October 2020|archive-date=10 April 2022|archive-url=https://web.archive.org/web/20220410070618/https://books.google.com/books?id=6wUmteTIc18C&q=empirical+formula&pg=PA288|url-status=live}}</ref>これは、化合物を構成する[[元素|化学元素]]の最も単純な[[整数]][[比]]のことである<ref>{{Cite web|url=http://www.chemteam.info/Mole/EmpiricalFormula.html|title=ChemTeam: Empirical Formula|website=www.chemteam.info|access-date=2017-04-16|archive-date=19 January 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20210119114516/https://www.chemteam.info/Mole/EmpiricalFormula.html|url-status=live}}</ref>。たとえば、水は常に[[水素]]原子と[[酸素]]原子が2:1の比率で構成され、[[エタノール]](エチルアルコール)は常に[[炭素]]、水素、酸素が2:6:1の比率で構成されている。ただし、これによって分子の種類を一意に決めるものではなく、たとえば[[ジメチルエーテル]]はエタノールと同じ比率である。同じ[[原子]]を異なる配置で持つ分子を[[異性体]]と呼ぶ。また、たとえば炭水化物は同じ比率(炭素:水素:酸素=1:2:1。したがって実験式も同じ)を持つが、分子内の総原子数は異なる。
[[分子式]]は、分子を構成する原子の正確な数を反映し、異なる分子を特徴づける。ただし、異なる異性体は、異なる分子であっても、同じ原子組成を持つことがある。
実験式と分子式が同じであることがよくあるが、常にそうとは限らない。たとえば、[[アセチレン]]分子の分子式はC<sub>2</sub>H<sub>2</sub>であるが、その元素の最も単純な整数比はCHである。
[[分子量]]は、[[化学式]]から計算することができ、中性炭素12([[炭素|<sup>12</sup>C]][[同位体]])原子の質量の1/12に相当する通常の[[原子質量単位]]で表される。{{仮リンク|ネットワーク共有結合|en|Network covalent bonding|label=ネットワーク固体}}の場合、[[化学量論]]的計算の際に{{仮リンク|式単位|en|Formula unit}}という用語を使用する。{{Clear}}
=== 構造式 ===
[[File:Atisane3.png|thumb|right|upright=1.8|[[テルペノイド]]分子アチサンの[[3次元]](左、中央)と[[2次元]](右)の分子モデル]]{{Main|構造式}}複雑な3次元構造を持つ分子、特に4つの異なる置換基と結合した原子を含む分子では、単純な分子式や[[示性式]]<!-- semi-structural chemical formula -->でさえ、分子を完全に特定できない場合がある。そのような場合には、[[構造式]]と呼ばれるグラフィカルな式が必要になることがある。構造式は一次元の化学名で表すこともできるが、そうした{{仮リンク|化学命名法|en|Chemical nomenclature}}には化学式の一部に含まれない多くの単語や用語が必要である。{{Clear}}
== 分子構造 ==
{{Main|分子構造}}[[File:Cyanostar STM.png|thumb|left|upright|シアノスター[[デンドリマー]]分子の構造式と[[走査型トンネル顕微鏡|STM]]画像<ref>{{cite journal|doi=10.1039/C4CC03725A|pmid=25080328|title=Anion-induced dimerization of 5-fold symmetric cyanostars in 3D crystalline solids and 2D self-assembled crystals|journal=Chemical Communications|volume=50|issue=69|pages=9827–30|year=2014|last1=Hirsch|first1=Brandon E.|last2=Lee|first2=Semin|last3=Qiao|first3=Bo|last4=Chen|first4=Chun-Hsing|last5=McDonald|first5=Kevin P.|last6=Tait|first6=Steven L.|last7=Flood|first7=Amar H.|url=https://zenodo.org/record/889879|access-date=20 April 2018|archive-date=31 March 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20210331062049/https://zenodo.org/record/889879|url-status=live}}</ref>]]
分子は、{{仮リンク|力学的平衡|en|Mechanical equilibrium|label=平衡幾何構造}}(結合の長さや角度)が決まっており、振動や回転によって連続的に運動している。[[純物質]]は、同じ平均的な幾何構造を持つ分子で構成されている。分子の化学式と構造は、その分子の性質、特に{{仮リンク|反応性 (化学)|en|Reactivity (chemistry)|label=反応性}}を決定する重要な要素である。[[異性体]]は、化学式は同じだが構造が異なるため、通常、性質が大きく異なる。[[立体異性体]]という特種な異性体は、非常によく似た物理化学的性質を持つと同時に、異なる[[生化学]]的活性を持つことがある。
== 分子分光法 ==
{{Main|分光法}}[[File:Dehydrogenation of H2TPP by STM.jpg|thumb|upright=1.3|(a)[[走査型トンネル顕微鏡]](STM)の探針に過剰な電圧をかけることで、個々の[[テトラフェニルポルフィリン|H<sub>2</sub>TPP]]分子から水素を除去することができる。この除去によって、同じSTM探針を用いて測定したTPP分子の電流-電圧(I-V)曲線が、[[ダイオード]]のような曲線(bの赤い曲線)から[[抵抗器|抵抗]]のような曲線(緑の曲線)に変化する。画像(c)は、TPP、H<sub>2</sub>TPP、TPP分子が並んだ列を示している。画像(d) スキャンしながら、黒い点の部分でH<sub>2</sub>TPPに過剰な電圧をかけると、(d)の下部と再スキャン画像(e)に示すように、瞬時に水素が除去された。このような操作は、[[分子素子|単一分子エレクトロニクス]]に応用することができる<ref>{{cite journal|doi=10.1038/srep08350|pmid=25666850|pmc=4322354|title=N and p type character of single molecule diodes|journal=Scientific Reports|volume=5|page=8350|year=2015|bibcode= 2015NatSR...5E8350Z|last1=Zoldan|first1=V. C.|last2=Faccio|first2=R|last3=Pasa|first3=A.A.}}</ref>。]]
'''分子分光法'''(ぶんしぶんこうほう、{{Lang-en-short|molecular spectroscopy}})は、[[エネルギー]]([[プランクの公式]]による周波数)が既知のプローブ信号に相互作用する分子の応答([[スペクトル]])を扱う分析手法である。分子はエネルギー準位が量子化されており、分子のエネルギー交換を[[吸光]]または[[発光]]で検出することで分析することができる<ref name="iupac2">{{GoldBookRef|title=Spectroscopy|file=S05848|accessdate=23 February 2016}}</ref>。一般に分子分光法は、[[中性子]]・[[電子]]・高エネルギー[[X線]]などの粒子が(結晶のように)規則的に配置された分子と相互作用する[[回折]]研究を指すものではない。
[[マイクロ波分光法]]は、分子の回転の変化を測定し、宇宙空間にある分子を識別するために一般に利用される。[[赤外分光法|赤外線分光法]]は、分子の伸縮、屈曲、ねじれなどの振動を測定する。これは、分子内の結合や[[官能基]]の種類を特定するために一般に使用される。電子の配列の変化により、紫外光、可視光、または[[近赤外光]]に吸収線や輝線が生じ、色が発生する。[[核磁気共鳴分光法]]は、分子内の特定の[[原子核]]の環境を測定し、分子内の異なる位置にある原子の数を特徴付けるために使用される。
== 理論的側面 ==
[[分子物理学]]や[[理論化学]]による分子の研究は、主に[[量子力学]]に基づいており、[[化学結合]]を理解するうえで不可欠である。最も単純な分子は[[水素分子イオン]] H<sub>2</sub><sup>+</sup>であり、すべての化学結合の中で最も単純なものは[[共有結合#1%E9%9B%BB%E5%AD%90%E7%B5%90%E5%90%88%E3%81%A83%E9%9B%BB%E5%AD%90%E7%B5%90%E5%90%88|1電子結合]]である。H<sub>2</sub><sup>+</sup>は正荷電の[[陽子]]2個と負荷電の[[電子]]1個で構成され、電子間反発がないため、この系の[[シュレーディンガー方程式]]はより簡単に解くことができる。高速[[デジタルコンピュータ|デジタルコンピューター]]の発達により、より複雑な分子に対する近似解が可能になり、[[計算化学]]の主要な一面を担っている。
[[国際純正・応用化学連合|IUPAC]]は、ある原子配列が分子として「十分に安定か」どうかを厳密に定義しようとする場合、「少なくとも1つの振動状態を閉じ込めるのに十分な深さの[[ポテンシャルエネルギー曲面]]上のくぼみに対応する必要がある」と提案している<ref name="iupac4">IUPAC. Compendium of Chemical Terminology, 2nd ed. (the "Gold Book"). Compiled by A. D. McNaught and A. Wilkinson. Blackwell Scientific Publications, Oxford (1997). XML on-line corrected version: http://goldbook.iupac.org (2006-) created by M. Nic, J. Jirat, B. Kosata; updates compiled by A. Jenkins. ISBN 0-9678550-9-8. {{DOI|10.1351/goldbook.M04002}}.</ref>。この定義は、原子間の相互作用の性質には依存せず、相互作用の強さのみに依存する。実際、[[ヘリウム]]の[[二量体]]である[[ヘリウム二量体|He<sub>2</sub>]]は、振動[[束縛状態|結合状態]]が1つで<ref>{{cite journal |author=Anderson JB |title=Comment on "An exact quantum Monte Carlo calculation of the helium-helium intermolecular potential" [J. Chem. Phys. 115, 4546 (2001)] |journal=J Chem Phys |volume=120 |issue=20 |pages=9886–7 |date=May 2004 |pmid=15268005 |doi=10.1063/1.1704638 |bibcode= 2004JChPh.120.9886A|doi-access=free }}</ref>、結合が非常に弱いため、極低温でしか観測されない可能性があるが、こうした弱い結合の種も分子と見なされている。
原子の配列が「十分に安定か」どうかは、本質的には運用上の定義である。したがって、哲学的には分子は基本的な実体ではなく(たとえば[[素粒子]]と対照的)、むしろ分子という概念は、化学者が、私たちが観察する世界における原子スケールでの相互作用の強さについて、有用な意見を述べる方法である。{{Clear}}
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=現代化学史 原子・分子の化学の発展|url=https://www.worldcat.org/oclc/862767435|publisher=京都大学学術出版会|date=2013-10-05|isbn=978-4-87698-283-7|oclc=862767435|others=Noboru Hirota, 襄 廣田|year=2013|page=45}}
== 関連項目 ==
{{div col|colwidth=23em}}
* [[原子]] - 元素を構成する最小単位
* {{仮リンク|化学極性|en|Chemical polarity}} - 分子またはその化学基における電荷の分離
* [[化学構造]] - 物質の化学的性質を分子などの内部構造と関連させた概念
* [[化学結合]] - 分子や結晶を形成するための原子やイオン間の持続的な引力
* [[共有結合]] - 原子間に電子を共有して電子対を形成する化学結合
* [[二原子分子]] - 2つの原子のみからなる分子
* [[化合物一覧|化合物の一覧]]
* [[星間分子の一覧]] - 星間物質と星周外層で検出された分子の一覧
* [[分子生物学]] - 生命活動の分子的基盤に対する生物学の一分野
* [[分子遺伝学]] - 生物の進化や遺伝現象に対するDNA分子の関わりを研究する生物学の一分野
* [[分子動力学法]] - 原子や分子の物理的な動きを解析するコンピューターシミュレーション手法
* {{仮リンク|分子設計ソフトウェア|en|Molecular design software}} - 分子モデルをde novo(新規)で構築するためのコンピュータソフトウェア
* [[分子工学]] [[:en:Molecular engineering|<small>(英語版)</small>]]- 機能的な材料・システム・プロセスにおける分子の特性、挙動、相互作用を扱う学問分野
* [[分子構造]] - 分子を構成する原子の3次元的な配置
* {{仮リンク|分子ハミルトニアン|en|Molecular Hamiltonian}} - 分子内の電子や原子核のエネルギーを表すハミルトニアン演算子
* {{仮リンク|マススペクトルの解釈|en|Mass spectral interpretation}} - マススペクトルから化学式、特徴的なパターンなどを同定する方法
* [[分子モデリング]] - 分子の挙動をモデル化し模倣するための理論および計算手法
* {{仮リンク|分子乱雑性|en|Molecular promiscuity}} - 分子が他の分子と相乗的または拮抗的に結合し、相互作用する能力
* [[分子軌道]] - 分子内の電子の位置と波動性を記述した数学的関数
* {{仮リンク|非共有相互作用|en|Non-covalent interaction}} - 電子の共有を伴わない、分子間または分子内の電磁相互作用
* {{仮リンク|小分子の周期系|en|Periodic systems of small molecules}} - 元素の周期表と類似した分子の図表
* [[小分子]] - 生物学的プロセスを調節する可能性のある低分子量の有機化合物
* [[分子力学モデリング用ソフトの比較]] - 分子力学法や分子動力学法で用いられるコンピュータプログラムの一覧
* {{仮リンク|ファンデルワールス分子|en|Van der Waals molecule}} - ファンデルワールス力などの分子間引力や水素結合によって結合している原子や分子の弱い複合体
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== 外部リンク ==
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{{Wiktionary}}
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* {{Kotobank}}
* [http://www.chm.bris.ac.uk/motm/motm.htm 今月の分子 (Molecule of the Month)] - ブリストル大学, 化学科 {{En icon}}
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[[Category:分子物理学]]
[[Category:分子|*]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E5%AD%90 |
2,691 | グリーン関数法 | グリーン関数法 | [
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] | グリーン関数法 グリーン関数を用いた微分方程式の解法。
グリーン関数
グリーン関数 (多体理論)
工学分野で使用される数値解析手法。
バンド計算の一手法であるKKR法の別名。 | '''グリーン関数法'''
*[[グリーン関数]]を用いた[[微分方程式]]の解法。
** [[グリーン関数]]
** [[グリーン関数 (多体理論)]]
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2,692 | 電子状態計算 | 電子状態計算(でんしじょうたいけいさん、Electronic structure calculation、電子構造計算とも言う)とは、結晶、表面、クラスター、分子(高分子も含む)、原子などの系の電子状態(電子構造)を求める計算のこと。計算手法としては、バンド計算、量子化学的手法などがある。 | [
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'''電子状態計算'''(でんしじょうたいけいさん、Electronic structure calculation、'''電子構造計算'''とも言う)とは、[[結晶]]、[[表面]]、[[クラスター (物質科学)|クラスター]]、[[分子]]([[高分子]]も含む)、[[原子]]などの系の[[電子状態]](電子構造)を求める計算のこと。計算手法としては、バンド計算、量子化学的手法などがある。
== 関連項目 ==
*[[バンド計算]]
**[[第一原理バンド計算]]
*[[量子化学的手法]]
**[[分子軌道法]]
{{Sci-stub}}
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[[Category:固体物理学]]
[[Category:計算物理学]]
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2,693 | 太陽系 | 太陽系(たいようけい、英: Solar System、羅: systema solare シュステーマ・ソーラーレ)とは、太陽およびその重力で周囲を直接的、あるいは間接的に公転する天体から構成される惑星系である。主に、現在確認されている8個の惑星、5個の準惑星、それらを公転する衛星、そして多数の太陽系小天体などからなる。間接的に太陽を公転している天体のうち衛星2つは、惑星ではもっとも小さい水星よりも直径が大きい。太陽系は約46億年前、星間分子雲の重力崩壊によって形成されたとされている。総質量のうち、ほとんどは太陽が占めており、残りの質量も大部分は木星が占めている。銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置している。
内側を公転している小型な水星・金星・地球・火星は、おもに岩石からなる地球型惑星(岩石惑星)で、木星と土星は、おもに水素とヘリウムからなる木星型惑星(巨大ガス惑星)、天王星と海王星は、メタンやアンモニア、氷などの揮発性物質といった、水素やヘリウムよりも融点の高い物質からなる天王星型惑星(巨大氷惑星)である。これらの8個の惑星はほぼ同一平面上にあり、この平面を黄道面と呼ぶ。
ほかにも、太陽系には多数の小天体を含んでいる。火星と木星の間にある小惑星帯は、地球型惑星と同様に岩石や金属などから構成されている小天体が多い。それに対して、海王星の軌道の外側に広がる、おもに氷からなる太陽系外縁天体が密集している、エッジワース・カイパーベルトや散乱円盤天体がある。そして、そのさらに外側にはセドノイドと呼ばれる、新たな小惑星の集団も発見されてきている。これらの小天体のうち、数十個から数千個は自身の重力で、球体の形状をしているものもある。そのような天体は準惑星に分類されることがある。現在、準惑星には小惑星帯のケレスと、太陽系外縁天体の冥王星・ハウメア・マケマケ・エリスが分類されている。これらの2つの分類以外にも、彗星・ケンタウルス族、惑星間塵など、様々な小天体が太陽系内を往来している。
惑星のうち6個が、準惑星では4個が自然に形成された衛星を持っており、慣用的に「月」と表現されることがある。また、木星以遠の惑星は、周囲を公転する小天体からなる環を持っている。
太陽から外部に向かって放出されている太陽風は、太陽圏(ヘリオスフィア)と呼ばれる星間物質中に泡状の構造を形成している。境界であるヘリオポーズでは太陽風による圧力と星間物質による圧力が釣り合っている。太陽圏の1,000倍離れた位置には、長周期彗星の源と考えられているオールトの雲と呼ばれる構造があると考えられている。
歴史上の大部分において、人類は太陽系に対して正しい概念を持っていなかった。遥か古代から、夜間に空に輝く点は観測されており、そのほとんどが配置を変えずに存在していることも星座として認識されていた。観測機器が発明されるよりも前に、肉眼で観測できる星のうちでもいくつかが移動していることは知られていたが、その動きが一様でないことから惑星と呼んだ(正しくは数十年単位で観測すると一様の軌道になるが、天体観測黎明期には気付かれていなかった)。中世の末期まで、ルネサンスでは、地球を中心にすべての天体が公転しているという天動説の概念が主流であった。ギリシャの哲学者アリスタルコスは現在の太陽系に近いモデルを推測し、ニコラウス・コペルニクスが初めてそのモデルを地動説として体系化した。17世紀には、ガリレオ・ガリレイ、ヨハネス・ケプラー、アイザック・ニュートンは物理学的観点から地動説を発展させ、惑星が地球と同じ物理法則に従っているという考え方は徐々に受け入れられるようになっていった。このころに発明された望遠鏡は、月やほかの惑星に関する多数の発見につながり、そして望遠鏡の改良や無人探査機による探査で、山やクレーターといった地質的特徴や、砂嵐、雲、氷冠などの気象的特徴も知られるようになった。
初期の太陽系の科学的観測は望遠鏡によって行われ、天文学者は、肉眼では観測しにくい天体を星図に書き記すようになった。太陽系の個々の天体について初めて詳細な物理的観測を行ったのはガリレオ・ガリレイで、月の表面にあるクレーターや、太陽の黒点、木星を公転する4つの衛星を発見した。ガリレオの発見に続いて、クリスティアーン・ホイヘンスは土星の環と衛星タイタンを発見し、ジョヴァンニ・カッシーニは4つの土星の衛星と、環の中にあるカッシーニの間隙を発見した。
エドモンド・ハレーは1705年に、彗星を繰り返し観測した結果、75 - 76年の周期で同じ彗星が回帰していることを発見し、太陽を公転する惑星以外の天体の存在を示す証拠となった。また、前年の1704年には、初めて英語で「Solar System」という単語が用いられるようになった。
1781年、ウィリアム・ハーシェルがおうし座の方向で連星系を探索していた際、彗星とおぼしき天体を発見したと発表したが、のちの軌道計算の結果、新惑星の天王星であることが判明した。
1801年、ジュゼッペ・ピアッツィが、火星と木星の間を公転する小さな天体ケレスを発見した。発見当初は新たな惑星とされていたが、その後の観測で付近に数千個もの似たような小天体が発見されるようになり、ケレスもこうした小天体に再分類された。
1846年には、天王星の軌道が実際の計算と一致しないことから、外側から影響を与えている新たな惑星があると考えたユルバン・ルヴェリエによる計算をもとに観測を行った、ヨハン・ゴットフリート・ガレとハインリヒ・ダレストが新惑星・海王星を発見した。
しかし、海王星の発見後も、ほかの惑星や海王星自身の軌道に依然として誤差が生じていたため、海王星の外側にさらに惑星が存在すると考えられ、パーシヴァル・ローウェルは仮説上の天体を惑星Xと呼んだ。彼の死後、ローウェルの予想をもとにローウェル天文台で観測を行っていたクライド・トンボーが新惑星・冥王星を発見した。しかし、その後の観測で、冥王星はほかの惑星の軌道に影響を及ぼすには小さすぎることが判明したため、その発見は偶然によるものであった。ケレスのように、当初は惑星であるとされていたが、周辺に同じような天体が発見されるようになったため、2006年に国際天文学連合によって準惑星に再分類された。
1992年、ハワイ大学のデビッド・C・ジューイットとマサチューセッツ工科大学のジェーン・ルーは冥王星軌道の周辺を公転する小天体アルビオンを発見した。アルビオンは、太陽系外縁天体としては初めて発見された天体である。この発見により、冥王星のような天体は、氷からなる小天体の群れを成していると考えられるようになった。
2005年、マイケル・ブラウンとチャドウィック・トルヒージョ、デイヴィッド・ラビノウィッツは散乱円盤天体のエリスを発見し、当初は冥王星よりも大きく、海王星以遠にある天体では最大と考えられていた。しかし、2015年7月に冥王星を探査した探査機ニュー・ホライズンズによる観測で、現在は冥王星よりもわずかに小さく、質量はやや大きいとされている。
宇宙時代(英語版)が始まって以来、さまざまな宇宙機関が宇宙ロボットによるミッションを計画し、多くの探査が行われている。
宇宙に送られた最初の人工物は、1957年に打ち上げられたソビエト連邦のスプートニク1号で、翌年1月4日まで地球を周回することに成功した。1959年に打ち上げられたアメリカのエクスプローラー6号は、初めて宇宙から地球の画像を撮影した。
初めて地球以外の探査に成功した探査機は、1959年に打ち上げられたルナ1号だった。当初は月の表面に衝突させる予定だったが、太陽周回軌道を公転する初めての人工物になった。初めて金星をフライバイしたのは1962年に打ち上げられたマリナー2号で、火星は1965年に打ち上げられたマリナー4号、水星は1974年に打ち上げられたマリナー10号であった。
外太陽系の惑星を探査した初めての探査機はパイオニア10号で、1973年に木星に到着した。また、1979年にはパイオニア11号が初めて土星を探査した。ボイジャー計画では、ボイジャー1号と2号が1977年に打ち上げられ、そのうち2号は、1986年に天王星を、1989年に海王星を初めて探査した。ボイジャーは現在、海王星の軌道を超えて惑星探査のミッションを終了し、ヘリオシースやヘリオポーズ、バウショックの調査を進めている。NASAによると、ボイジャーの両探査機は、太陽から約93au離れた領域で、末端衝撃波面の影響を受け始めている。
2006年1月19日に打ち上げられた探査機ニュー・ホライズンズは、カイパーベルトを探査する初めての探査機である。2015年7月に冥王星をフライバイして、詳細な観測を行った。このニュー・ホライズンズの延長ミッションとして、2019年1月1日に太陽系外縁天体アロコス(ウルティマ・トゥーレ、2014 MU69)をフライバイした。
太陽系の主成分は全質量の99.86パーセントを占める太陽で、太陽系内のすべての天体を重力的に留めている。残りの質量のうち、99パーセントは4つの巨大惑星が占めている。残りの天体(4つの岩石惑星、衛星、小惑星、彗星など)は全体の0.002パーセントにも満たない。
太陽系の惑星は、地球とほぼ同じ軌道平面上を公転しているが、彗星や太陽系外縁天体は、黄道面に対して大きく傾いた軌道を描くことが多い。太陽を公転するほぼすべての天体は、北極から見て反時計回りで公転しているが、ハレー彗星のような例外も存在する。
太陽系の全体構造は時折、小惑星帯以内の4つの岩石惑星が公転している領域と、カイパーベルト以内の4つの巨大惑星が公転している領域に区別されることがあり、岩石惑星と小惑星帯を含む領域は内太陽系(英語: The inner Solar System)、小惑星帯を超えた、4つの巨大惑星を含む領域は外太陽系(英語: The outer Solar System)と呼ばれる。カイパーベルトが発見されるようになってからは、カイパーベルトはそれらとは異なる、新たな領域として認識されるようになった。
太陽系内の多くの惑星は、周囲を公転している衛星を持ち、太陽系において二次的な構造をなす。また、4つの巨大惑星は周囲を公転する小天体からなる環を持っている。大きな衛星のほとんどは自転と公転が同期(潮汐固定)しており、片方の面を常に惑星に向けている。
ケプラーの法則では、太陽を公転する物体の軌道について示されている。この法則によると、太陽を公転している物体は太陽をひとつの焦点として、楕円で公転している。太陽に近い(軌道長半径が小さい)物体は、より太陽の重力の影響を受けるため、高速で公転するようになる。楕円軌道では、公転するたびに軌道が変化し、太陽にもっとも接近する位置は近日点、もっとも離れる位置は遠日点と呼ばれる。惑星の軌道はほぼ円形だが、小惑星や彗星、太陽系外縁天体は極端な楕円軌道になっていることが多い。こうした天体の軌道は数値モデルを用いて予測することができる。
太陽は太陽系全体の質量のほとんどを占めているが、角運動量については約2パーセントしか占めていない。木星をはじめとする惑星の質量、軌道、太陽からの距離の組み合わせが、太陽系全体の角運動量の大部分を占め、彗星もそれに貢献しているとされている。
太陽系のほぼ全体を構成する太陽は、約98パーセントが水素とヘリウムからできている。それ以外の構成のほとんどを占めている木星と土星も、おもに水素とヘリウムからできている。太陽系内では、太陽からの熱と光圧によって組成に差が生じており、原則、太陽に近い天体は融点の高い物質、遠い天体は融点が低い物質から構成されている。これらの物質が凝固する可能性のある境界線を雪線(フロストライン)という。たとえば、太陽系での水の雪線は、火星軌道と木星軌道の間になる。
内太陽系の天体は、先述の通りおもに岩石で構成されており、主成分はケイ素、鉄、ニッケルなどの原始惑星系円盤内でも、固体として存在していた高融点化合物である。木星型惑星の木星と土星は、原始惑星系円盤内では気体として存在していた水素、ヘリウム、ネオンなどの低融点で蒸気圧の高い物質で構成されている。よって現在では、太陽系内の位置によって、物質の形態が固体か液体か気体かは変化するが、原始惑星系円盤が存在していたころは、固体と気体の物質しか存在しなかったとされている。それに対して、多くの衛星や天王星、海王星、そして太陽系外縁天体には氷が多く含まれている。この氷と気体が混ざったものを揮発性物質(英語版)と呼ぶ。
地球から太陽までの距離を基準とした単位を天文単位(英語: astronomical unit、au)と呼び、1 auは約1億5000万 kmに相当し、太陽の半径は0.0047 au(70万 km)となる。最大の惑星である木星は5.2 au(7億8,000万キロ)離れており、もっとも遠い海王星は30au(45億キロ)離れている。
いくつか例外はあるが、太陽から離れるに従って、惑星同士の間隔は広くなっていく。たとえば、水星と金星は0.33au離れているが、木星と土星は4.3au、天王星と海王星は10.5au離れている。こうした惑星の太陽からの距離の関係を数式化する試みがなされ、代表的なものとしてティティウス・ボーデの法則がある。しかし、こうした説は科学的根拠は示されておらず、現在では受け入れられていない。
太陽系の相対的なスケールを人間規模で示そうとするモデルもあり、規模が小さなものとしては太陽系儀などがあるが、複数の都市や地域にまたがっている巨大なものもある。このような太陽系のモデルとしてもっとも大規模なスウェーデン・ソーラー・システムは、ストックホルムにある直径110メートルのストックホルム・グローブ・アリーナを太陽に見立てており、たとえば木星はこのスケールに従うと、直径7.5メートルの球体で、約40キロ離れたストックホルム・アーランダ国際空港内にそのオブジェが設置されている。現時点で設置されているもっとも遠いオブジェは、直径10センチの球であるセドナで、約912キロ離れている。
太陽から海王星までの距離を100メートルとすると、太陽の直径は3センチになり、巨大惑星はいずれも3ミリ以下の大きさになる。地球を含めた岩石惑星は、この縮尺に従うと0.3ミリ以下の大きさにしかならない。一方で、太陽の直径を1メートルとすると、地球は107メートル、海王星は3.2キロ離れていることになる。
銀河系には、水素やヘリウム、そして少量の重元素からなる岩石質や有機質の微小な塵(星間塵)を含む星間ガスがある。このような星間ガスが1,000個/cmを超える数密度となる場合を星間雲といい、内部で水素分子が形成されるようになる。通常、星間雲はごくゆっくりと回転している。星間雲は均質ではなく、密度の偏りがある。この偏りが大きくなって数密度が100億個を超える部分ができることがあり、そうなると一酸化炭素、シアン化水素、アンモニアなどのさまざまな分子が形成される。これを分子雲と呼ぶ。太陽系は約45億6800万年前に、この分子雲の重力崩壊によって形成された。この分子雲は数光年ほどの大きさを持ち、太陽と同時にいくつもの恒星を形成した可能性がある。現在の太陽系が形成される領域で、pre-Solar nebula(英語版)と呼ばれる星雲が形成される。そして、角運動量保存の法則によって、分子雲は収縮時、より速く自転するようになり、原子が頻繁に衝突による運動エネルギーが熱に変換されて、温度が高くなる。自転の加速によって中心に原始太陽が誕生し、当時の光度は現在の10倍、表面温度は約4,000 Kであったとされている。その周囲には、直径約200auにもわたる原始惑星系円盤(もしくは原始惑星系星雲、特に太陽系の場合は原始太陽系円盤とも呼ばれる)が形成され始めた。そこで形成された、惑星の元となる微惑星が約100億個形成され、塵やガスが合体を繰り返し、より大きな原始惑星へと成長していく。初期の太陽系には、こうした原始惑星が何百個も存在していたとされているが、合体や破壊を繰り返して、現在の惑星や準惑星、小惑星などが形成された。
太陽周辺の温度の高い領域では、沸点が高い金属やケイ酸塩のみが固体として存在でき、このような物質が地球型惑星の水星、金星、地球、火星を形成した。金属元素は、原始惑星系円盤の中でも一部しか存在していないため、地球型惑星は大きく成長することができなかった。地球のような固体惑星がいつ形成されたかについては、星雲ガスがあるときか、消失後か、議論の余地がある。星雲ガスがなくなると、ガス抵抗がなくなるため、原始惑星の軌道が乱れるとその乱れを抑えるものがなくなる。すると、原始惑星は互いの重力相互作用により接近し、軌道が乱されるようになる。微惑星同士の衝突があったように、原始惑星同士も衝突するようになる。星雲ガスがないため衝突は激しいものになり、破壊も合体もいずれも起こるようになる。このような巨大衝突の繰り返しで、金星、地球が形成されたと考えられる。水星と火星は原始惑星の生き残りか、成長がわずかであったものであろう。地球の月は、地球形成末期に起きた巨大衝突の産物であるとする説(ジャイアント・インパクト説)が有力である。
巨大惑星(木星型惑星と天王星型惑星)は、現在の火星軌道と木星軌道にある雪線の外側で形成された。これらの惑星を形作っている氷結した揮発性の化合物は、地球型惑星を形成している金属元素やケイ酸塩よりも豊富に存在していたため、これらの惑星は水素とヘリウムからなる分厚い大気を取り込むのに十分な、地球の10倍の質量を持った大きな原始惑星にまで成長することができた。木星と土星の質量が異なるのは、土星形成の後期に、何らかの理由で星雲ガスが消失し、材料となるガスそのものがなくなったためであり、天王星、海王星の質量が小さい段階にとどまったのも、この2つの惑星は星雲終末期にガスの取り込みが始まったため、あまり成長できずに終わったためであると考えられている。小惑星帯、カイパーベルト、オールトの雲は、惑星になりきれなかった残骸となった小天体が密集したものとされており、ニースモデルでは、これらの領域の形成と、巨大惑星が形成された位置、さまざまな重力による作用を介して、どのように今の軌道に落ち着いたかを示している。
形成から5000万年までに、原始太陽の中心にある水素の圧力と密度が熱核融合を起こすのに、十分大きくなったとされている。温度や反応速度、圧力、密度は太陽が静水圧平衡を満たすまで上昇し、やがて熱の圧力と自身の重力が等しくなり、太陽は主系列星となった。この主系列星の段階は約100億年続くとされている。やがて、太陽から放出した太陽風が太陽圏(ヘリオスフィア)を形成し、周囲の原始惑星系円盤が強い紫外線によって宇宙空間に放出されたか、原始太陽に落下していったことにより、惑星の成長はほぼ落ち着いた。主系列星になったころの太陽の光度は現在の約70パーセントで、徐々に増光して今に至る。
太陽系は、太陽の中心核にある水素が、すべて核融合反応によってヘリウムになる約50億年後までは、現在とほとんど変わらない構造を維持するとされている。ヘリウムによる核融合反応は主系列星の段階を終えたことを意味している。このとき、太陽の中心核の内部では、内部に形成されたヘリウムの周囲に沿って分布している水素が核融合反応を起こしており、それによって中心核は収縮していき、放出されるエネルギーは現在よりもはるかに大きくなるとされている。そして、太陽の外層が膨張を始め、直径は現在の256倍にまで膨れ上がり、赤色巨星へ進化する。表面積が大きくなるため表面温度は低下していき、最低で2,600 Kまで低下する可能性がある。このころには、地球上の水はすべて蒸発し、生物が存在することはできなくなっている。中心核では収縮が続くため温度が上昇し、その結果、ヘリウムによる核融合反応が始まる。それにより、太陽は一時的に安定し、直径も現在の11 - 19倍にまで小さくなる。しかし、太陽はより重い元素で核融合反応を起こすほどの十分な大きさを持っていないため、核融合反応は徐々に弱くなり、この安定期間は1億3000万年しか持続されないと考えられている。最終的に外層は吹き飛ばされ、中心核は地球ほどの大きさと、現在の太陽の半分の質量を持った白色矮星となって残される。放出された外層は、太陽を形成していた物質の一部と、核融合反応によって新たに合成された、炭素などの重元素を含んでおり、やがて惑星状星雲となる。
太陽(英語: Sun)は、太陽系における唯一の恒星で、最も質量の大きな天体である。太陽系の全質量の99.86%(地球質量の33万2900倍)を占めており、中心核で水素がヘリウムに変換する核融合反応を起こしているG型主系列星である。多くのエネルギーを放出しているが、電磁波の中では、可視光を最も多く宇宙空間に放射している。
スペクトル型はG2型で、G型主系列星に分類される。原則、主系列星は表面温度が高いほど光度を増すが、太陽は主系列星の中でもほぼ中間の規模を持っている。太陽より明るい恒星は少ないが、とても暗く、温度も低い赤色矮星(M型主系列星)は、銀河系では恒星全体の約85%を占めている。
星の種族において、太陽は、重元素に富んだ種族Iの恒星に分類される。豊富に含まれている重元素は、惑星を形成するのに必要不可欠な材料であったとされている
太陽系内の大部分の空間は、惑星間物質(英語: Interplanetary medium)と呼ばれる物質で満たされているが、ほぼ真空に近い状態である。
主なものとして、太陽風と呼ばれる、太陽が光とともに放出している荷電粒子(プラズマ)を帯びた物質の流れがある。この粒子は時速150万キロの速度で広がっていき、少なくとも直径100 auに及ぶ太陽圏内を満たしている。太陽フレアやコロナ質量放出(CME)のような太陽の表面上で発生する恒星活動は、宇宙天気や磁気嵐を発生させる場合もある。
太陽圏内で最も大きな構造は、太陽の磁場が自転によって回転することにより螺旋状に生成される惑星間物質の構造で、太陽圏電流シートと呼ばれる。
地球の磁場は、太陽風から大気が剥ぎ取られるのを防ぐ役割を果たしている。一方で、金星と火星には磁場がないため、太陽風によって大気が宇宙空間に剥ぎ取られている。この太陽風は、地球の磁場に沿って、大気上層部に荷電粒子を流入し、極地にオーロラを発生させている。
太陽圏と各惑星が持つ磁場は、宇宙線と呼ばれる、星間空間を飛び交う高エネルギー粒子の一部を太陽系から遮蔽している。星間空間における宇宙線の密度と太陽の磁場の強さは非常に長い時間スケールで変化するため、太陽系内での宇宙線の密度は変動するが、どれだけ変動するかは分かっていない。
ほかの惑星間物質として、少なくとも2つの宇宙塵で構成された円盤がある。
1つ目は惑星間塵と呼ばれ、黄道光を引き起こしている。これは、惑星との重力相互作用で生じた、小惑星帯内での小惑星の衝突などによって生成された可能性が高い。
2つ目は、10 - 40auにかけて分布しており、これはカイパーベルト内の太陽系外縁天体の衝突によって生成されたとされている。
内太陽系は比較的、太陽の近くを公転しており、おもにケイ酸塩と金属からなる地球型惑星と、小惑星帯からなる。内太陽系の範囲は、木星軌道と土星軌道の間隔よりも短い。この領域は雪線より、わずかに内側に位置している。
内太陽系に位置している4つの惑星は、内惑星(英語: Inner planet)と呼ばれている。比較的高密度で、岩石から形成されており、衛星はほとんど、あるいはまったく持っておらず、環についてはどの惑星も持っていない。地殻とマントルは、おもにケイ酸塩から成り、核は鉄やニッケルなどの金属からなる。4つの内惑星のうち、水星以外の3つは天候を発生させるのに十分な大気を持っている。全ての惑星の表面には、クレーターやテクトニクス・裂谷・火山といった地質的特徴を持っている。ここにおける「内惑星」とは、内太陽系にある4つの惑星の分類を指している。これとは別に、地球より内側を公転している水星と金星を内惑星(英語: Inferior planet)と呼ぶことがある。この場合、地球はどちらにも属さず、火星は対義語の外惑星に分類される。
水星(英語: Mercury)は、太陽系の惑星でもっとも太陽に近い太陽系第1惑星。また、最も小さく、質量も小さい。天然の衛星は持っていない。表面にはクレーターの他に、形成初期に水星が収縮した際に形成された「尾根」や「ルペス(英語版)」と呼ばれる地形がある。水星をまとっている非常に薄い大気は、太陽風によって巻き上げられたことなどにより形成されていると考えられている。他の地球型惑星よりも核が大きく、マントルが薄くなっており、その理由はまだはっきりとは分かっていない。仮説として、ジャイアント・インパクトのような巨大衝突で地殻が剥ぎ取られたり、太陽によって岩石質の地殻が蒸発したことにより、密度が高い惑星になったりした可能性などが示されている。
金星(英語: Venus)は太陽系の第2惑星で、規模は最も地球に近い。地球と同様に、鉄で出来た核と分厚いケイ酸塩のマントル、分厚い大気があり、そして地質活動の痕跡も見られる。地球よりも非常に乾燥しており、大気圧は地球の90倍にも及ぶ。天然の衛星は持っていない。表面温度は400°Cを超えており、これは太陽系の惑星の中では最も高温である。この高い表面温度は、分厚い大気による暴走温室効果によって引き起こされている。現在の金星では地質活動は確認されていないが、大気の流出を防ぐ磁場がないため、火山活動などによって大気が供給されている可能性が示唆されている。
地球(英語: Earth)は太陽系の第3惑星で、内惑星系の中ではもっとも大きく、高密度な天体である。また、プレートテクトニクスと生命の存在が確認されている唯一の天体でもある。地球の大気は、ほかの惑星とは大きく異なり、生命活動によって大気の21パーセントを酸素が占めている。天然の衛星として月を持っており、太陽系の岩石惑星が持つ衛星の中ではもっとも大きい。
火星(英語: Mars)は太陽系の第4惑星で、地球や金星よりも小さい。大気圧はわずか6.1 mbar(地球の0.6%)で、主に二酸化炭素からなる。オリンポス山のような大規模な山や、マリネリス渓谷のような渓谷などがある表面から、200万年前まで地質活動が起きていた可能性が示されている。表面は酸化鉄(錆)に覆われているため、肉眼では赤く見える。火星は、小惑星帯から捕獲された小惑星か、火星で起きた巨大衝突によって放出された破片から形成されたとされる、2つの小さな衛星(フォボス・ダイモス)を持っている。
小惑星帯(英語: Asteroid belt)またはメインベルト(英語: Main belt)は、火星軌道と木星軌道の間にある、小惑星が密集した領域である。もっとも大きなケレスを除く小惑星は、太陽系小天体に分類されている。小惑星帯の小惑星はおもに熱に強い岩石や金属鉱物でできているが、氷でできているものもある。大きさは数 mmから数 kmとさまざまだが、1 m未満のものは、場合によっては流星物質や流星塵と呼ばれることもある。
太陽から2.3 - 3.3 au離れた領域に分布しており、これらの小惑星は、太陽系形成時に木星の重力が干渉したことにより合体できず、そのまま残った残骸のような天体であるとされている。直径1キロ以上のものは数万から数百万個存在しているが、すべての小惑星を集めても、全質量が地球の1,000分の1を超える可能性は低いとされている。しかし、小惑星は非常にまばらに分布しているため、宇宙探査機は支障なく通過することができる。
ケレス(英語: Ceres)は小惑星帯最大の小惑星で、準惑星に分類されている。直径は1,000 km弱で、自身の重力で球形を保つのに十分な質量を持っている。ケレスは1801年に発見され、当時は惑星とみなされていたが、その後にほかの小惑星が発見されるようになり、1850年代にはケレスも小惑星とみなされるようになった。しかし、2006年に惑星の定義が決められた際に、準惑星に再分類された。
小惑星帯の小惑星は、その小惑星グループ(英語版)と小惑星族で分類されている。また小惑星の衛星は、より大きなものを公転する、小さな小惑星として扱われる。それらの衛星は、惑星の衛星ほど明確に区別されておらず、中には、小惑星アンティオペ(87.8 km)を公転している衛星S/2000 (90) 1(83.8 km)のように、公転している小惑星とほぼ同じ大きさを持つもの(二重小惑星)もある。また、小惑星帯には地球に水をもたらしたとされているメインベルト彗星も含まれている。
木星の軌道上において、重力的に安定して天体が存在できるラグランジュ点L4とL5付近には、トロヤ群と呼ばれる小惑星のグループがある。また、この「トロヤ」はほかの惑星、あるいは衛星の軌道のラグランジュ点に位置している小天体を指す場合もある。ヒルダ群と呼ばれるグループは、木星と2:3の軌道共鳴の関係にあり、これはヒルダ群の小惑星が軌道を3周する間に、木星が軌道を2周することを意味している。
内太陽系には、これらの小惑星のほかに地球近傍小惑星と呼ばれるものも存在しており、その多くは内惑星の軌道を横断している。中には、地球と衝突する可能性が示されている潜在的に危険な小惑星も含まれている。
太陽から離れた外太陽系には、巨大ガス惑星と比較的大きな衛星、そしてケンタウルス族や短周期彗星などが存在している。太陽から遠く離れているため、内太陽系よりも水やメタン・アンモニアなどの揮発性物質が多く存在している。
外太陽系にある4つの大きな惑星は、外惑星(英語: Outer planet)や巨大惑星(英語: Giant planet)、木星型惑星(英語: Jovian planet)と呼ばれ、太陽を公転する天体の全質量のうち99パーセントを占めている。木星と土星は合わせると地球の400倍以上の質量を持ち、主に水素とヘリウムから構成されている。一方で、天王星と海王星はともに質量が地球の20倍以下で、木星と土星と比べてはるかに小さい。そのため、一部の天文学者はこの2つの惑星を、巨大氷惑星(英語: Ice giant)あるいは天王星型惑星として、木星・土星と区別している。4つの惑星すべてが環を持っているが、地球から容易に観測できるのは土星の環だけである。ここにおける「外惑星」とは、外太陽系にある4つの惑星の分類を指している。これとは別に、地球より外側を公転している、火星以遠の惑星を外惑星(英語: Superior planet)と呼ぶことがある。
木星(英語: Jupiter)は、太陽系の第5惑星で、太陽系で最も大きな惑星である。地球の318倍の質量を持ち、これは他の惑星の全質量の2.5倍にもなる。主に水素とヘリウムから構成されている。木星内部で生じている強い熱は、縞模様の雲や大赤斑など、大気中に半永久的な構造を作り出している。木星は95個の衛星を持つことが知られており、特に大きなイオ・エウロパ・ガニメデ・カリストの4つはガリレオ衛星と呼ばれ、火山活動や内部加熱のような地球型惑星に似た地質活動が見られる。そのうち、ガニメデは太陽系最大の衛星で、水星よりも大きい。
土星(英語: Saturn)は、太陽系の第6惑星。大きな環が特徴的だが、大気組成や磁気圏など木星とよく似ている点が多い。しかし、体積は木星の60パーセントにあたるが、質量は地球の95倍と、木星の3分の1にも満たない。そのため、土星は太陽系の惑星で唯一、水よりも低密度な惑星である。
土星の環は、おもに氷と岩石でできた小天体から構成されている。土星は大部分が氷からなる146個の衛星を持つことが知られており、このうち、タイタンとエンケラドゥスの2つでは地質活動の存在が示されている。タイタンはガニメデに次いで、太陽系内では2番目に大きな衛星で、こちらも水星より大きく、また太陽系内の衛星で唯一濃い大気を持つ。
天王星(英語: Uranus)は、太陽系の第7惑星。質量は地球の約14倍で、外惑星系の中では最も質量が小さい。太陽系の惑星で唯一、太陽に対して横倒しで自転しており、その赤道傾斜角は90度を超えている。中心部の核は他の巨大惑星よりも温度が冷たく、熱をほとんど放出していないとされている。27個の衛星を持っており、特にチタニア・オベロン・ウンブリエル・アリエル・ミランダの5つは比較的大型である。
海王星(英語: Neptune)は、太陽系の第8惑星。大きさは天王星よりもわずかに小さいが、質量はやや大きく(地球の約17倍)、そのため密度も大きくなっている。また、天王星よりも内部から多くの熱を放射しているが、木星や土星ほどではない。14個の衛星を持ち、もっとも大きなトリトンでは地質活動が起きており、液体窒素の間欠泉が存在することが確認されている。また、太陽系の大型衛星では唯一、主惑星の自転方向に対して逆方向に公転している。海王星は、その外側に位置している太陽系外縁天体の一部を、1:1の軌道共鳴状態にさせている。
ケンタウルス族は、木星軌道と海王星軌道の間にある彗星のような氷でできた小天体のグループである。知られている中でもっとも大きなケンタウルス族に属する天体はカリクローで、直径は約250キロとされている。ケンタウルス族として初めて発見されたキロンは、太陽に接近する際、彗星のような活動が見られるため、彗星(95P)にも分類されている。
彗星(英語: Comet)は多くの場合、直径が数キロ程度で、主に氷などの揮発性物質から出来た核と、2種類の尾からなる。楕円軌道で公転しており、近日点は内太陽系、遠日点は冥王星よりも遠方に位置していることが多い。彗星が太陽に接近すると、核の表面にある氷が昇華してイオン化し、コマが形成される。そこから尾やガスが放出され、はっきりと観測出来るようになり、中には肉眼で観望出来るほどまでに明るくなるケースもある。
公転周期が200年未満の彗星は短周期彗星と呼ばれ、一方で長周期彗星と呼ばれる彗星は、何千年もかけて太陽を公転しているものもある。短周期彗星は、小惑星帯やカイパーベルトを起源にしているものが多いが、ヘール・ボップ彗星のような長周期彗星はオールトの雲が起源であるとされている。また、クロイツ群をはじめとする多くの彗星群は、1つの彗星が幾つもの破片に分裂して形成されたと考えられている。双曲線軌道を持つ非周期彗星の中には、太陽系外に由来するものもあるとされているが、正確な計算は困難である。太陽の熱によって、核表面の揮発性物質がほとんどなくなった古い彗星は、小惑星に分類されることもある。
海王星軌道のさらに外側は太陽系外縁部(英語: Trans-Neptunian region)と呼ばれ、エッジワース・カイパーベルトや、冥王星を含む幾つかの準惑星・散乱円盤天体などが存在しているが、ほとんどの領域ではまだ詳しい探査が行われていない。氷と岩石で構成された小天体が数千個存在しているとされているが、最大クラスの天体でも大きさは地球の5分の1で、質量は月よりもずっと軽いとされている。この領域は、内太陽系・外太陽系に次ぐ「太陽系の第3の領域」として扱われることもある。
エッジワース・カイパーベルト(英語: Edgeworth-Kuiper belt)またはカイパーベルトは、小惑星帯に似た、リング状に小天体(太陽系外縁天体・カイパーベルト天体)が集まった領域で、主に氷で形成されている。太陽から30 - 50au離れた領域に分布している。数十から数千個の準惑星サイズのものも存在すると見られているが、その多くは太陽系小天体からなる。クワオアーやヴァルナ、オルクスといった大型の太陽系外縁天体は、さらに多くのデータが集まれば、それをもとに準惑星に分類される可能性がある。直径が50キロを超える太陽系外縁天体はカイパーベルト内に10万個以上存在すると推定されているが、総質量は地球の100分の1から1,000分の1にも満たないと考えられている。多くの太陽系外縁天体は衛星を持っており、黄道面から大きく傾いた軌道を描いている。カイパーベルトでは、これまでに約1,400個の太陽系外縁天体が発見されている。
太陽系外縁天体は、古典的カイパーベルト天体と軌道共鳴状態にあるものの2つに大きく区別することが出来る。軌道共鳴の対象となる惑星は海王星で、例えば、海王星が3回公転する間に、2回公転するような天体が後者に挙げられる。前者の古典的カイパーベルト天体は、海王星と軌道共鳴を起こしておらず、太陽から約39.4 - 47.7au離れた領域に分布している。この古典的カイパーベルト天体はキュビワノ族とも呼ばれ、この分類の太陽系外縁天体として初めて発見されたのはアルビオン(1992 QB1)で、全体的に軌道離心率が低い軌道を描く。
準惑星の冥王星(英語: Pluto)は既知の太陽系外縁天体の中では最大の天体である。1930年に発見され、それ以降は「太陽系の第9惑星」とされたが、2006年に国際天文学連合による惑星の定義の決定により、準惑星に降格となった。冥王星は楕円軌道で太陽を公転しており、近日点では太陽から29.6auまで近づき、遠日点では49.3auまで遠ざかる。軌道は黄道面から約17.1度傾いている。海王星とは3:2の軌道共鳴状態にあり、この冥王星と似た軌道を描く太陽系外縁天体は冥王星族と呼ばれる。
冥王星最大の衛星であるカロンは、その大きさ故に、冥王星とともに連星系をなしていると表現されることもある。カロンの他にも、冥王星はステュクス・ニクス・ケルベロス・ヒドラと呼ばれる、カロンと比べてはるかに小さな4つの衛星を持つことが知られている。
マケマケ(英語: Makemake)は冥王星よりも小さいが、知られている古典的カイパーベルト天体の中では最も大きい天体とされている。また、太陽系外縁天体の中では冥王星に次いで明るい。2008年に準惑星に分類され、現在の名称が公式に付与された。軌道は冥王星よりもはるかに傾いており、軌道傾斜角は29度にもなる。
ハウメア(英語: Haumea)は、マケマケと同じような軌道を公転しているが、海王星と7:12の軌道共鳴の関係にある。大きさはマケマケと同程度で、2つの衛星を持っている。自転周期が3.9時間しかないため、地形は平らで、細長い形状になっている。マケマケ同様、2008年に準惑星に分類され、現在の名称が公式に付与された。
カイパーベルトと重なっているものもあるが、基本的にそのはるか外側にまで広がっている散乱円盤(英語: Scattered disk)は、短周期彗星の起源であるとされている。この散乱円盤は、太陽系形成時に、巨大惑星の移動によって不規則な軌道となって外側に放り出されたとされている。それを構成している散乱円盤天体(英語: Scattered disk object、SDO)のほとんどは、カイパーベルトよりもはるか遠くに分布しており、太陽から150 au以上離れているものが多い。散乱円盤天体も太陽系外縁天体と同様に黄道面から傾いた軌道を描いており、中にはほぼ垂直にまで傾いているものもある。一部の天文学者は、散乱円盤とカイパーベルトのもう1つの領域とみなして、散乱円盤天体を「散乱した太陽系外縁天体」としている。一方で、ケンタウルス族を「内側に散乱した太陽系外縁天体」、散乱円盤を「外側に散乱した太陽系外縁天体」としている場合もある。
エリス(英語: Eris)は、現在知られている散乱円盤天体の中では最も大きい。質量は冥王星よりも25%大きく、大きさもほぼ同等だったため、惑星の定義に関する議論の発端となった。ディスノミアと呼ばれる衛星を持つ。冥王星と同様に、黄道面から傾いた楕円軌道で太陽を公転しており、近日点は太陽から37.8 auで、遠日点では97.5 auまで遠ざかる。
太陽系と星間空間の境界は、太陽風の及ぶ範囲とするものと、太陽の重力による影響が及ぶ範囲とするものの2つがあり、正確には定義されていない。太陽風は冥王星までの距離の約4倍離れた位置まで広がっており、太陽圏(ヘリオスフィア)をなしており、その外縁にあたるヘリオポーズを超えると、星間空間になるとされている。太陽の重力圏の有効範囲(ヒル球)は、理論上では後述のオールトの雲を超えて、太陽 - 冥王星間の約1,000倍まで広がっているとされている。
太陽圏(英語: Heliosphere)は、恒星風バブルの一つで、秒速約400キロで星間空間に向かって放射される太陽風が形成している。
太陽から約80 - 100au離れた領域にある末端衝撃波面(英語: Termination shock)では、太陽風と星間物質の衝突が引き起こされており、これにより太陽風の移動速度が減速を始め、約200au離れると、星間物質の強さが太陽風を上回るようになり、やがて星間空間となる。この領域にまで達すると、太陽風は急速に減速・凝縮するようになり、ヘリオシースと呼ばれる楕円状の構造を形成している。この構造は彗星の尾のように伸びているとされている。しかし、土星探査機カッシーニやIBEXによる観測結果から、星間磁場の作用によって、太陽圏が楕円形ではなく、球形になっている可能性が示唆されている。
太陽圏の外縁、星間空間との境界にあたる領域はヘリオポーズ(英語: Heliopause)と呼ばれる。ボイジャー1号とボイジャー2号はそれぞれ、太陽から94auと84au離れた位置でヘリオシースを突破しており、2012年8月にはボイジャー1号がヘリオポーズを通過し、人工物としては初めて太陽圏外にまで到達し、2018年11月にはボイジャー2号も太陽圏外に到達した。
太陽圏の形状は、星間空間との流体力学的相互作用と太陽の磁場の影響で決まる可能性が高く、黄道面に対して北半球側は、南半球側よりも約9 au遠方まで広がっている。ヘリオポーズを超えて、太陽から約230 au離れた領域は、銀河系の中を太陽系が進むことで、星間空間と太陽圏の間にバウショック(衝撃波面)と呼ばれる構造が形成されている。しかし2012年には、太陽系が星間空間内を進む速度が想定よりも遅いことが判明し、太陽系にバウショックは存在しない可能性が示されている。
観測データが乏しいため、太陽圏の宇宙放射線の遮断率、太陽圏の外縁部の詳しい状態など、よく分かっていない点も多い。NASAの探査機ボイジャーは、ヘリオポーズを通過する際、放射線量と太陽風に関する貴重なデータを地球に送信することが期待されている。現在、NASAが資金を提供している開発グループは、太陽圏外縁部にプローブを送り込むVision Mission計画を構想している。
セドナ(英語: Sedna)と呼ばれる小惑星は、近日点でも太陽から76 auも離れており、遠日点では937 auにまで遠ざかる。そのあまりにも大きな軌道のため、公転するのに約1万1400年もの時間を要する。2003年にこの天体を発見したマイク・ブラウンは、近日点が太陽から遠すぎるため、海王星の移動による影響を受けておらず、太陽系外縁天体や散乱円盤天体にも属さない天体だと主張している。ほかの天文学者も、セドナは初めて発見されたまったく新しい分類に属する天体だとしており、こうした天体を分離天体(英語: Detached object、DDO)と呼んでいる。この分類にはセドナのほかに、近日点距離45 au、遠日点距離415 au、公転周期3,420年の2000 CR105(英語版)も含まれる可能性があるとされた。太陽から遠く離れているが、ほかの天体と同様の過程で形成されたとしているため、ブラウンは、こうした天体の集団を内オールトの雲と呼称している。セドナは準惑星の候補に挙げられているが、まだその詳しい形状は明らかになっていない。2012年には、セドナよりも遠い、約80 auの近日点距離を持つ小惑星2012 VP113が発見された。一方で、遠日点距離は400 - 500 auと、セドナの約半分しかない。
オールトの雲(英語: Oort Cloud)は、太陽から約5万 au(約1光年)離れた領域で球状に太陽系を取り囲む、1兆個以上の小天体からなる仮想上の構造で、すべての長周期彗星の起源とされている。最大で約10万 au(約1.87光年)遠方にまで及んでいる可能性も示されている。オールトの雲を構成している小天体は、外惑星系との重力相互作用によって、太陽系内部から、この軌道にまで追いやられた彗星からできているとされる。オールトの雲の小天体は非常に低速で移動しており、衝突や近傍の恒星による重力効果、銀河系からの潮汐力などのまれな事象で錯乱される可能性がある。
太陽系にはまだよく知られていない、未知な点も多い。太陽の重力は約12万5000 au(約2光年)遠方にまで及んでいると推定されているが、それに対して、オールトの雲以遠にある天体は発見されていない。また、カイパーベルトとオールトの雲の間を公転するセドナのような天体も事実上、ほとんど知られていない。一方で、太陽と水星の間を公転する天体の有無について研究が進められている。このような太陽系内における観測が進んでいない領域では、未知の天体が存在している可能性が残されている。
現在知られている中でもっとも太陽から遠ざかる天体はウェスト彗星で、遠日点距離は約13560 auにもなり、オールトの雲に対する理解を深める手がかりになるかもしれない。
太陽系は、約1000億個の恒星を含む、直径10万光年の銀河系(天の川銀河)に位置している。その中でも、太陽系は、銀河系のスパイラル・アーム(渦状腕)のひとつであるオリオン腕に属している。中心からは25,000 - 28,000光年離れており、約2億2500万 - 2億5000万年(1銀河年)かけて銀河系を公転しているとされている。星間空間を進む太陽系が進んでいる方向(太陽向点)はヘルクレス座の方向で、1等星の中では、こと座のベガがそれにもっとも近い。太陽系の黄道面は、銀河系の銀河面に対して約60度傾いている。
銀河系における太陽系の位置は、地球上の生物の進化の歴史に大きな影響を与えたとされている。太陽はほぼ円形で銀河系で公転しており、また太陽系周辺は、周辺のスパイラル・アームと近い速度で移動しているため、太陽系は滅多にスパイラル・アームを通過しない。スパイラル・アーム内は、高頻度の超新星爆発、不安定な重力、太陽系に大きな影響を与える宇宙放射線などがあるため、この中に位置していない地球は、長い期間に渡って生物が安定して存在することができた。また太陽系は、恒星が密集している中心部のバルジからも離れている。バルジ付近では、近くの恒星からの重力の影響を受けてオールトの雲が安定せず、太陽系内部に散乱され、地球上の生物に天体衝突による潜在的な危険性が伴う。また、飛び交う放射線が生物の進化を妨げる可能性もある。
太陽系は現在、局所恒星間雲(英語: Local Interstellar Clouds)と呼ばれる領域にある。しかし、局所恒星間雲はGクラウド(英語版)と呼ばれる星間雲と隣接しているが、太陽系が局所恒星間雲に属しているか、あるいは局所恒星間雲とGクラウドが相互作用する領域に位置しているかは分かっていない。局所恒星間雲は、局所泡(英語: Local Bubble)と呼ばれる、星間物質がまばらな直径約300光年の空間にある、星間物質が濃い領域である。局所泡は高温のプラズマで満たされており、これは局所泡が超新星爆発によって形成された可能性を示している。
太陽系から10光年以内の領域には、いくつかの恒星が存在している。もっとも近い恒星は、約4.4光年離れた三重連星系のケンタウルス座α星である。ケンタウルス座α星A、Bは太陽に比較的似た恒星で、それから0.2光年離れた軌道をプロキシマ・ケンタウリ(ケンタウルス座α星C)が公転している。2016年には、このプロキシマ・ケンタウリを公転する惑星、プロキシマ・ケンタウリbの存在が確認され、地球に似た環境を持つ可能性がある惑星として期待されている。次に太陽系に近い恒星として、赤色矮星のバーナード星(5.9光年)、ウォルフ359(7.8光年)、ラランド21185(8.3光年)がこれに続く。
近隣にある恒星でもっとも大きいのはシリウスで、約8.6光年離れている。約2倍の質量を持つA型主系列星で、白色矮星の伴星シリウスBが周囲を公転している。10光年以内にある、既知でもっとも近い褐色矮星は、2つの褐色矮星の連星系であるWISE J104915.57-531906.1(ルーマン16)で、約6.6光年離れている。10光年以内にある恒星としては、ほかにルイテン726-8(8.7光年)とロス154(9.7光年)がある。約10.5光年離れているエリダヌス座ε星は、大きな塵円盤を持つことが確認されている。太陽系にもっとも近い、太陽に類似した恒星は、約11.9光年離れた位置にあるくじら座τ星である。太陽の約80%の質量と、約60%の明るさを持ち、4つの惑星が周囲を公転している。既知でもっとも太陽系に近い自由浮遊惑星は、約7.3光年離れているWISE J085510.83-071442.5で、質量は木星の10倍未満とされている。
太陽系がほかの惑星系と異なる点として、水星よりも内側で、太陽に非常に近い軌道を公転している惑星が存在していない点が挙げられる。一方で太陽系外惑星では、ホット・ジュピターなどの、恒星に非常に近い軌道を公転する惑星が多く知られている。また、地球と海王星の中間の規模を持ったスーパーアースと呼ばれる天体も太陽系内では知られておらず、小型の岩石惑星と、大型の巨大ガス惑星しか存在していない(しかし、未確認のプラネット・ナインがこれに該当する可能性がある)。太陽系外惑星系では、こうしたスーパーアースが存在しているのが典型的で、また、水星よりも恒星の近くを公転している場合が多い。多くの惑星系では形成初期、惑星同士は軌道が近かったため、衝突を繰り返し質量が大きないくつかの惑星が形成されたが、太陽系では、この衝突によって惑星が破壊されたり、系外に放出されたりしたため、このような違いが生じた可能性が示されている。
また、太陽系はすべての惑星の軌道離心率が低く、ほぼ円形の軌道を公転している。一方、太陽系外でこうした軌道を描く惑星系は珍しく、極端な楕円軌道を描くエキセントリック・プラネットと呼ばれる惑星も数多く知られている。
しかし、近年の観測技術の向上にともない、スーパーアースよりも小さな地球サイズの惑星、グリーゼ676A系やケプラー90系などの構造が太陽系に似た惑星系も発見されるようになり、太陽系は数ある惑星系のパターンのひとつにすぎないと考えられるようになっている。 | [
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"text": "太陽系(たいようけい、英: Solar System、羅: systema solare シュステーマ・ソーラーレ)とは、太陽およびその重力で周囲を直接的、あるいは間接的に公転する天体から構成される惑星系である。主に、現在確認されている8個の惑星、5個の準惑星、それらを公転する衛星、そして多数の太陽系小天体などからなる。間接的に太陽を公転している天体のうち衛星2つは、惑星ではもっとも小さい水星よりも直径が大きい。太陽系は約46億年前、星間分子雲の重力崩壊によって形成されたとされている。総質量のうち、ほとんどは太陽が占めており、残りの質量も大部分は木星が占めている。銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置している。",
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"text": "内側を公転している小型な水星・金星・地球・火星は、おもに岩石からなる地球型惑星(岩石惑星)で、木星と土星は、おもに水素とヘリウムからなる木星型惑星(巨大ガス惑星)、天王星と海王星は、メタンやアンモニア、氷などの揮発性物質といった、水素やヘリウムよりも融点の高い物質からなる天王星型惑星(巨大氷惑星)である。これらの8個の惑星はほぼ同一平面上にあり、この平面を黄道面と呼ぶ。",
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"text": "ほかにも、太陽系には多数の小天体を含んでいる。火星と木星の間にある小惑星帯は、地球型惑星と同様に岩石や金属などから構成されている小天体が多い。それに対して、海王星の軌道の外側に広がる、おもに氷からなる太陽系外縁天体が密集している、エッジワース・カイパーベルトや散乱円盤天体がある。そして、そのさらに外側にはセドノイドと呼ばれる、新たな小惑星の集団も発見されてきている。これらの小天体のうち、数十個から数千個は自身の重力で、球体の形状をしているものもある。そのような天体は準惑星に分類されることがある。現在、準惑星には小惑星帯のケレスと、太陽系外縁天体の冥王星・ハウメア・マケマケ・エリスが分類されている。これらの2つの分類以外にも、彗星・ケンタウルス族、惑星間塵など、様々な小天体が太陽系内を往来している。",
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"text": "惑星のうち6個が、準惑星では4個が自然に形成された衛星を持っており、慣用的に「月」と表現されることがある。また、木星以遠の惑星は、周囲を公転する小天体からなる環を持っている。",
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"text": "太陽から外部に向かって放出されている太陽風は、太陽圏(ヘリオスフィア)と呼ばれる星間物質中に泡状の構造を形成している。境界であるヘリオポーズでは太陽風による圧力と星間物質による圧力が釣り合っている。太陽圏の1,000倍離れた位置には、長周期彗星の源と考えられているオールトの雲と呼ばれる構造があると考えられている。",
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"text": "歴史上の大部分において、人類は太陽系に対して正しい概念を持っていなかった。遥か古代から、夜間に空に輝く点は観測されており、そのほとんどが配置を変えずに存在していることも星座として認識されていた。観測機器が発明されるよりも前に、肉眼で観測できる星のうちでもいくつかが移動していることは知られていたが、その動きが一様でないことから惑星と呼んだ(正しくは数十年単位で観測すると一様の軌道になるが、天体観測黎明期には気付かれていなかった)。中世の末期まで、ルネサンスでは、地球を中心にすべての天体が公転しているという天動説の概念が主流であった。ギリシャの哲学者アリスタルコスは現在の太陽系に近いモデルを推測し、ニコラウス・コペルニクスが初めてそのモデルを地動説として体系化した。17世紀には、ガリレオ・ガリレイ、ヨハネス・ケプラー、アイザック・ニュートンは物理学的観点から地動説を発展させ、惑星が地球と同じ物理法則に従っているという考え方は徐々に受け入れられるようになっていった。このころに発明された望遠鏡は、月やほかの惑星に関する多数の発見につながり、そして望遠鏡の改良や無人探査機による探査で、山やクレーターといった地質的特徴や、砂嵐、雲、氷冠などの気象的特徴も知られるようになった。",
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"text": "初期の太陽系の科学的観測は望遠鏡によって行われ、天文学者は、肉眼では観測しにくい天体を星図に書き記すようになった。太陽系の個々の天体について初めて詳細な物理的観測を行ったのはガリレオ・ガリレイで、月の表面にあるクレーターや、太陽の黒点、木星を公転する4つの衛星を発見した。ガリレオの発見に続いて、クリスティアーン・ホイヘンスは土星の環と衛星タイタンを発見し、ジョヴァンニ・カッシーニは4つの土星の衛星と、環の中にあるカッシーニの間隙を発見した。",
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"text": "エドモンド・ハレーは1705年に、彗星を繰り返し観測した結果、75 - 76年の周期で同じ彗星が回帰していることを発見し、太陽を公転する惑星以外の天体の存在を示す証拠となった。また、前年の1704年には、初めて英語で「Solar System」という単語が用いられるようになった。",
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"text": "1781年、ウィリアム・ハーシェルがおうし座の方向で連星系を探索していた際、彗星とおぼしき天体を発見したと発表したが、のちの軌道計算の結果、新惑星の天王星であることが判明した。",
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"text": "1801年、ジュゼッペ・ピアッツィが、火星と木星の間を公転する小さな天体ケレスを発見した。発見当初は新たな惑星とされていたが、その後の観測で付近に数千個もの似たような小天体が発見されるようになり、ケレスもこうした小天体に再分類された。",
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"text": "1846年には、天王星の軌道が実際の計算と一致しないことから、外側から影響を与えている新たな惑星があると考えたユルバン・ルヴェリエによる計算をもとに観測を行った、ヨハン・ゴットフリート・ガレとハインリヒ・ダレストが新惑星・海王星を発見した。",
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"text": "しかし、海王星の発見後も、ほかの惑星や海王星自身の軌道に依然として誤差が生じていたため、海王星の外側にさらに惑星が存在すると考えられ、パーシヴァル・ローウェルは仮説上の天体を惑星Xと呼んだ。彼の死後、ローウェルの予想をもとにローウェル天文台で観測を行っていたクライド・トンボーが新惑星・冥王星を発見した。しかし、その後の観測で、冥王星はほかの惑星の軌道に影響を及ぼすには小さすぎることが判明したため、その発見は偶然によるものであった。ケレスのように、当初は惑星であるとされていたが、周辺に同じような天体が発見されるようになったため、2006年に国際天文学連合によって準惑星に再分類された。",
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"text": "1992年、ハワイ大学のデビッド・C・ジューイットとマサチューセッツ工科大学のジェーン・ルーは冥王星軌道の周辺を公転する小天体アルビオンを発見した。アルビオンは、太陽系外縁天体としては初めて発見された天体である。この発見により、冥王星のような天体は、氷からなる小天体の群れを成していると考えられるようになった。",
"title": "発見と探査"
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"text": "2005年、マイケル・ブラウンとチャドウィック・トルヒージョ、デイヴィッド・ラビノウィッツは散乱円盤天体のエリスを発見し、当初は冥王星よりも大きく、海王星以遠にある天体では最大と考えられていた。しかし、2015年7月に冥王星を探査した探査機ニュー・ホライズンズによる観測で、現在は冥王星よりもわずかに小さく、質量はやや大きいとされている。",
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"text": "宇宙時代(英語版)が始まって以来、さまざまな宇宙機関が宇宙ロボットによるミッションを計画し、多くの探査が行われている。",
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"text": "宇宙に送られた最初の人工物は、1957年に打ち上げられたソビエト連邦のスプートニク1号で、翌年1月4日まで地球を周回することに成功した。1959年に打ち上げられたアメリカのエクスプローラー6号は、初めて宇宙から地球の画像を撮影した。",
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"text": "初めて地球以外の探査に成功した探査機は、1959年に打ち上げられたルナ1号だった。当初は月の表面に衝突させる予定だったが、太陽周回軌道を公転する初めての人工物になった。初めて金星をフライバイしたのは1962年に打ち上げられたマリナー2号で、火星は1965年に打ち上げられたマリナー4号、水星は1974年に打ち上げられたマリナー10号であった。",
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"text": "外太陽系の惑星を探査した初めての探査機はパイオニア10号で、1973年に木星に到着した。また、1979年にはパイオニア11号が初めて土星を探査した。ボイジャー計画では、ボイジャー1号と2号が1977年に打ち上げられ、そのうち2号は、1986年に天王星を、1989年に海王星を初めて探査した。ボイジャーは現在、海王星の軌道を超えて惑星探査のミッションを終了し、ヘリオシースやヘリオポーズ、バウショックの調査を進めている。NASAによると、ボイジャーの両探査機は、太陽から約93au離れた領域で、末端衝撃波面の影響を受け始めている。",
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"text": "2006年1月19日に打ち上げられた探査機ニュー・ホライズンズは、カイパーベルトを探査する初めての探査機である。2015年7月に冥王星をフライバイして、詳細な観測を行った。このニュー・ホライズンズの延長ミッションとして、2019年1月1日に太陽系外縁天体アロコス(ウルティマ・トゥーレ、2014 MU69)をフライバイした。",
"title": "発見と探査"
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"text": "太陽系の主成分は全質量の99.86パーセントを占める太陽で、太陽系内のすべての天体を重力的に留めている。残りの質量のうち、99パーセントは4つの巨大惑星が占めている。残りの天体(4つの岩石惑星、衛星、小惑星、彗星など)は全体の0.002パーセントにも満たない。",
"title": "構造と組成"
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"text": "太陽系の惑星は、地球とほぼ同じ軌道平面上を公転しているが、彗星や太陽系外縁天体は、黄道面に対して大きく傾いた軌道を描くことが多い。太陽を公転するほぼすべての天体は、北極から見て反時計回りで公転しているが、ハレー彗星のような例外も存在する。",
"title": "構造と組成"
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"text": "太陽系の全体構造は時折、小惑星帯以内の4つの岩石惑星が公転している領域と、カイパーベルト以内の4つの巨大惑星が公転している領域に区別されることがあり、岩石惑星と小惑星帯を含む領域は内太陽系(英語: The inner Solar System)、小惑星帯を超えた、4つの巨大惑星を含む領域は外太陽系(英語: The outer Solar System)と呼ばれる。カイパーベルトが発見されるようになってからは、カイパーベルトはそれらとは異なる、新たな領域として認識されるようになった。",
"title": "構造と組成"
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"text": "太陽系内の多くの惑星は、周囲を公転している衛星を持ち、太陽系において二次的な構造をなす。また、4つの巨大惑星は周囲を公転する小天体からなる環を持っている。大きな衛星のほとんどは自転と公転が同期(潮汐固定)しており、片方の面を常に惑星に向けている。",
"title": "構造と組成"
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"text": "ケプラーの法則では、太陽を公転する物体の軌道について示されている。この法則によると、太陽を公転している物体は太陽をひとつの焦点として、楕円で公転している。太陽に近い(軌道長半径が小さい)物体は、より太陽の重力の影響を受けるため、高速で公転するようになる。楕円軌道では、公転するたびに軌道が変化し、太陽にもっとも接近する位置は近日点、もっとも離れる位置は遠日点と呼ばれる。惑星の軌道はほぼ円形だが、小惑星や彗星、太陽系外縁天体は極端な楕円軌道になっていることが多い。こうした天体の軌道は数値モデルを用いて予測することができる。",
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"text": "太陽は太陽系全体の質量のほとんどを占めているが、角運動量については約2パーセントしか占めていない。木星をはじめとする惑星の質量、軌道、太陽からの距離の組み合わせが、太陽系全体の角運動量の大部分を占め、彗星もそれに貢献しているとされている。",
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"text": "太陽系のほぼ全体を構成する太陽は、約98パーセントが水素とヘリウムからできている。それ以外の構成のほとんどを占めている木星と土星も、おもに水素とヘリウムからできている。太陽系内では、太陽からの熱と光圧によって組成に差が生じており、原則、太陽に近い天体は融点の高い物質、遠い天体は融点が低い物質から構成されている。これらの物質が凝固する可能性のある境界線を雪線(フロストライン)という。たとえば、太陽系での水の雪線は、火星軌道と木星軌道の間になる。",
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"text": "内太陽系の天体は、先述の通りおもに岩石で構成されており、主成分はケイ素、鉄、ニッケルなどの原始惑星系円盤内でも、固体として存在していた高融点化合物である。木星型惑星の木星と土星は、原始惑星系円盤内では気体として存在していた水素、ヘリウム、ネオンなどの低融点で蒸気圧の高い物質で構成されている。よって現在では、太陽系内の位置によって、物質の形態が固体か液体か気体かは変化するが、原始惑星系円盤が存在していたころは、固体と気体の物質しか存在しなかったとされている。それに対して、多くの衛星や天王星、海王星、そして太陽系外縁天体には氷が多く含まれている。この氷と気体が混ざったものを揮発性物質(英語版)と呼ぶ。",
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"text": "地球から太陽までの距離を基準とした単位を天文単位(英語: astronomical unit、au)と呼び、1 auは約1億5000万 kmに相当し、太陽の半径は0.0047 au(70万 km)となる。最大の惑星である木星は5.2 au(7億8,000万キロ)離れており、もっとも遠い海王星は30au(45億キロ)離れている。",
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"text": "いくつか例外はあるが、太陽から離れるに従って、惑星同士の間隔は広くなっていく。たとえば、水星と金星は0.33au離れているが、木星と土星は4.3au、天王星と海王星は10.5au離れている。こうした惑星の太陽からの距離の関係を数式化する試みがなされ、代表的なものとしてティティウス・ボーデの法則がある。しかし、こうした説は科学的根拠は示されておらず、現在では受け入れられていない。",
"title": "構造と組成"
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"text": "太陽系の相対的なスケールを人間規模で示そうとするモデルもあり、規模が小さなものとしては太陽系儀などがあるが、複数の都市や地域にまたがっている巨大なものもある。このような太陽系のモデルとしてもっとも大規模なスウェーデン・ソーラー・システムは、ストックホルムにある直径110メートルのストックホルム・グローブ・アリーナを太陽に見立てており、たとえば木星はこのスケールに従うと、直径7.5メートルの球体で、約40キロ離れたストックホルム・アーランダ国際空港内にそのオブジェが設置されている。現時点で設置されているもっとも遠いオブジェは、直径10センチの球であるセドナで、約912キロ離れている。",
"title": "構造と組成"
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"text": "太陽から海王星までの距離を100メートルとすると、太陽の直径は3センチになり、巨大惑星はいずれも3ミリ以下の大きさになる。地球を含めた岩石惑星は、この縮尺に従うと0.3ミリ以下の大きさにしかならない。一方で、太陽の直径を1メートルとすると、地球は107メートル、海王星は3.2キロ離れていることになる。",
"title": "構造と組成"
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"text": "銀河系には、水素やヘリウム、そして少量の重元素からなる岩石質や有機質の微小な塵(星間塵)を含む星間ガスがある。このような星間ガスが1,000個/cmを超える数密度となる場合を星間雲といい、内部で水素分子が形成されるようになる。通常、星間雲はごくゆっくりと回転している。星間雲は均質ではなく、密度の偏りがある。この偏りが大きくなって数密度が100億個を超える部分ができることがあり、そうなると一酸化炭素、シアン化水素、アンモニアなどのさまざまな分子が形成される。これを分子雲と呼ぶ。太陽系は約45億6800万年前に、この分子雲の重力崩壊によって形成された。この分子雲は数光年ほどの大きさを持ち、太陽と同時にいくつもの恒星を形成した可能性がある。現在の太陽系が形成される領域で、pre-Solar nebula(英語版)と呼ばれる星雲が形成される。そして、角運動量保存の法則によって、分子雲は収縮時、より速く自転するようになり、原子が頻繁に衝突による運動エネルギーが熱に変換されて、温度が高くなる。自転の加速によって中心に原始太陽が誕生し、当時の光度は現在の10倍、表面温度は約4,000 Kであったとされている。その周囲には、直径約200auにもわたる原始惑星系円盤(もしくは原始惑星系星雲、特に太陽系の場合は原始太陽系円盤とも呼ばれる)が形成され始めた。そこで形成された、惑星の元となる微惑星が約100億個形成され、塵やガスが合体を繰り返し、より大きな原始惑星へと成長していく。初期の太陽系には、こうした原始惑星が何百個も存在していたとされているが、合体や破壊を繰り返して、現在の惑星や準惑星、小惑星などが形成された。",
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"paragraph_id": 32,
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"text": "太陽周辺の温度の高い領域では、沸点が高い金属やケイ酸塩のみが固体として存在でき、このような物質が地球型惑星の水星、金星、地球、火星を形成した。金属元素は、原始惑星系円盤の中でも一部しか存在していないため、地球型惑星は大きく成長することができなかった。地球のような固体惑星がいつ形成されたかについては、星雲ガスがあるときか、消失後か、議論の余地がある。星雲ガスがなくなると、ガス抵抗がなくなるため、原始惑星の軌道が乱れるとその乱れを抑えるものがなくなる。すると、原始惑星は互いの重力相互作用により接近し、軌道が乱されるようになる。微惑星同士の衝突があったように、原始惑星同士も衝突するようになる。星雲ガスがないため衝突は激しいものになり、破壊も合体もいずれも起こるようになる。このような巨大衝突の繰り返しで、金星、地球が形成されたと考えられる。水星と火星は原始惑星の生き残りか、成長がわずかであったものであろう。地球の月は、地球形成末期に起きた巨大衝突の産物であるとする説(ジャイアント・インパクト説)が有力である。",
"title": "起源と進化"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "巨大惑星(木星型惑星と天王星型惑星)は、現在の火星軌道と木星軌道にある雪線の外側で形成された。これらの惑星を形作っている氷結した揮発性の化合物は、地球型惑星を形成している金属元素やケイ酸塩よりも豊富に存在していたため、これらの惑星は水素とヘリウムからなる分厚い大気を取り込むのに十分な、地球の10倍の質量を持った大きな原始惑星にまで成長することができた。木星と土星の質量が異なるのは、土星形成の後期に、何らかの理由で星雲ガスが消失し、材料となるガスそのものがなくなったためであり、天王星、海王星の質量が小さい段階にとどまったのも、この2つの惑星は星雲終末期にガスの取り込みが始まったため、あまり成長できずに終わったためであると考えられている。小惑星帯、カイパーベルト、オールトの雲は、惑星になりきれなかった残骸となった小天体が密集したものとされており、ニースモデルでは、これらの領域の形成と、巨大惑星が形成された位置、さまざまな重力による作用を介して、どのように今の軌道に落ち着いたかを示している。",
"title": "起源と進化"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "形成から5000万年までに、原始太陽の中心にある水素の圧力と密度が熱核融合を起こすのに、十分大きくなったとされている。温度や反応速度、圧力、密度は太陽が静水圧平衡を満たすまで上昇し、やがて熱の圧力と自身の重力が等しくなり、太陽は主系列星となった。この主系列星の段階は約100億年続くとされている。やがて、太陽から放出した太陽風が太陽圏(ヘリオスフィア)を形成し、周囲の原始惑星系円盤が強い紫外線によって宇宙空間に放出されたか、原始太陽に落下していったことにより、惑星の成長はほぼ落ち着いた。主系列星になったころの太陽の光度は現在の約70パーセントで、徐々に増光して今に至る。",
"title": "起源と進化"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "太陽系は、太陽の中心核にある水素が、すべて核融合反応によってヘリウムになる約50億年後までは、現在とほとんど変わらない構造を維持するとされている。ヘリウムによる核融合反応は主系列星の段階を終えたことを意味している。このとき、太陽の中心核の内部では、内部に形成されたヘリウムの周囲に沿って分布している水素が核融合反応を起こしており、それによって中心核は収縮していき、放出されるエネルギーは現在よりもはるかに大きくなるとされている。そして、太陽の外層が膨張を始め、直径は現在の256倍にまで膨れ上がり、赤色巨星へ進化する。表面積が大きくなるため表面温度は低下していき、最低で2,600 Kまで低下する可能性がある。このころには、地球上の水はすべて蒸発し、生物が存在することはできなくなっている。中心核では収縮が続くため温度が上昇し、その結果、ヘリウムによる核融合反応が始まる。それにより、太陽は一時的に安定し、直径も現在の11 - 19倍にまで小さくなる。しかし、太陽はより重い元素で核融合反応を起こすほどの十分な大きさを持っていないため、核融合反応は徐々に弱くなり、この安定期間は1億3000万年しか持続されないと考えられている。最終的に外層は吹き飛ばされ、中心核は地球ほどの大きさと、現在の太陽の半分の質量を持った白色矮星となって残される。放出された外層は、太陽を形成していた物質の一部と、核融合反応によって新たに合成された、炭素などの重元素を含んでおり、やがて惑星状星雲となる。",
"title": "起源と進化"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "太陽(英語: Sun)は、太陽系における唯一の恒星で、最も質量の大きな天体である。太陽系の全質量の99.86%(地球質量の33万2900倍)を占めており、中心核で水素がヘリウムに変換する核融合反応を起こしているG型主系列星である。多くのエネルギーを放出しているが、電磁波の中では、可視光を最も多く宇宙空間に放射している。",
"title": "太陽"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "スペクトル型はG2型で、G型主系列星に分類される。原則、主系列星は表面温度が高いほど光度を増すが、太陽は主系列星の中でもほぼ中間の規模を持っている。太陽より明るい恒星は少ないが、とても暗く、温度も低い赤色矮星(M型主系列星)は、銀河系では恒星全体の約85%を占めている。",
"title": "太陽"
},
{
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"tag": "p",
"text": "星の種族において、太陽は、重元素に富んだ種族Iの恒星に分類される。豊富に含まれている重元素は、惑星を形成するのに必要不可欠な材料であったとされている",
"title": "太陽"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "太陽系内の大部分の空間は、惑星間物質(英語: Interplanetary medium)と呼ばれる物質で満たされているが、ほぼ真空に近い状態である。",
"title": "惑星間物質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "主なものとして、太陽風と呼ばれる、太陽が光とともに放出している荷電粒子(プラズマ)を帯びた物質の流れがある。この粒子は時速150万キロの速度で広がっていき、少なくとも直径100 auに及ぶ太陽圏内を満たしている。太陽フレアやコロナ質量放出(CME)のような太陽の表面上で発生する恒星活動は、宇宙天気や磁気嵐を発生させる場合もある。",
"title": "惑星間物質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "太陽圏内で最も大きな構造は、太陽の磁場が自転によって回転することにより螺旋状に生成される惑星間物質の構造で、太陽圏電流シートと呼ばれる。",
"title": "惑星間物質"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "地球の磁場は、太陽風から大気が剥ぎ取られるのを防ぐ役割を果たしている。一方で、金星と火星には磁場がないため、太陽風によって大気が宇宙空間に剥ぎ取られている。この太陽風は、地球の磁場に沿って、大気上層部に荷電粒子を流入し、極地にオーロラを発生させている。",
"title": "惑星間物質"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "太陽圏と各惑星が持つ磁場は、宇宙線と呼ばれる、星間空間を飛び交う高エネルギー粒子の一部を太陽系から遮蔽している。星間空間における宇宙線の密度と太陽の磁場の強さは非常に長い時間スケールで変化するため、太陽系内での宇宙線の密度は変動するが、どれだけ変動するかは分かっていない。",
"title": "惑星間物質"
},
{
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"text": "ほかの惑星間物質として、少なくとも2つの宇宙塵で構成された円盤がある。",
"title": "惑星間物質"
},
{
"paragraph_id": 45,
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"text": "1つ目は惑星間塵と呼ばれ、黄道光を引き起こしている。これは、惑星との重力相互作用で生じた、小惑星帯内での小惑星の衝突などによって生成された可能性が高い。",
"title": "惑星間物質"
},
{
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"text": "2つ目は、10 - 40auにかけて分布しており、これはカイパーベルト内の太陽系外縁天体の衝突によって生成されたとされている。",
"title": "惑星間物質"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "内太陽系は比較的、太陽の近くを公転しており、おもにケイ酸塩と金属からなる地球型惑星と、小惑星帯からなる。内太陽系の範囲は、木星軌道と土星軌道の間隔よりも短い。この領域は雪線より、わずかに内側に位置している。",
"title": "内太陽系"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "内太陽系に位置している4つの惑星は、内惑星(英語: Inner planet)と呼ばれている。比較的高密度で、岩石から形成されており、衛星はほとんど、あるいはまったく持っておらず、環についてはどの惑星も持っていない。地殻とマントルは、おもにケイ酸塩から成り、核は鉄やニッケルなどの金属からなる。4つの内惑星のうち、水星以外の3つは天候を発生させるのに十分な大気を持っている。全ての惑星の表面には、クレーターやテクトニクス・裂谷・火山といった地質的特徴を持っている。ここにおける「内惑星」とは、内太陽系にある4つの惑星の分類を指している。これとは別に、地球より内側を公転している水星と金星を内惑星(英語: Inferior planet)と呼ぶことがある。この場合、地球はどちらにも属さず、火星は対義語の外惑星に分類される。",
"title": "内太陽系"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "水星(英語: Mercury)は、太陽系の惑星でもっとも太陽に近い太陽系第1惑星。また、最も小さく、質量も小さい。天然の衛星は持っていない。表面にはクレーターの他に、形成初期に水星が収縮した際に形成された「尾根」や「ルペス(英語版)」と呼ばれる地形がある。水星をまとっている非常に薄い大気は、太陽風によって巻き上げられたことなどにより形成されていると考えられている。他の地球型惑星よりも核が大きく、マントルが薄くなっており、その理由はまだはっきりとは分かっていない。仮説として、ジャイアント・インパクトのような巨大衝突で地殻が剥ぎ取られたり、太陽によって岩石質の地殻が蒸発したことにより、密度が高い惑星になったりした可能性などが示されている。",
"title": "内太陽系"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "金星(英語: Venus)は太陽系の第2惑星で、規模は最も地球に近い。地球と同様に、鉄で出来た核と分厚いケイ酸塩のマントル、分厚い大気があり、そして地質活動の痕跡も見られる。地球よりも非常に乾燥しており、大気圧は地球の90倍にも及ぶ。天然の衛星は持っていない。表面温度は400°Cを超えており、これは太陽系の惑星の中では最も高温である。この高い表面温度は、分厚い大気による暴走温室効果によって引き起こされている。現在の金星では地質活動は確認されていないが、大気の流出を防ぐ磁場がないため、火山活動などによって大気が供給されている可能性が示唆されている。",
"title": "内太陽系"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "地球(英語: Earth)は太陽系の第3惑星で、内惑星系の中ではもっとも大きく、高密度な天体である。また、プレートテクトニクスと生命の存在が確認されている唯一の天体でもある。地球の大気は、ほかの惑星とは大きく異なり、生命活動によって大気の21パーセントを酸素が占めている。天然の衛星として月を持っており、太陽系の岩石惑星が持つ衛星の中ではもっとも大きい。",
"title": "内太陽系"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "火星(英語: Mars)は太陽系の第4惑星で、地球や金星よりも小さい。大気圧はわずか6.1 mbar(地球の0.6%)で、主に二酸化炭素からなる。オリンポス山のような大規模な山や、マリネリス渓谷のような渓谷などがある表面から、200万年前まで地質活動が起きていた可能性が示されている。表面は酸化鉄(錆)に覆われているため、肉眼では赤く見える。火星は、小惑星帯から捕獲された小惑星か、火星で起きた巨大衝突によって放出された破片から形成されたとされる、2つの小さな衛星(フォボス・ダイモス)を持っている。",
"title": "内太陽系"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "小惑星帯(英語: Asteroid belt)またはメインベルト(英語: Main belt)は、火星軌道と木星軌道の間にある、小惑星が密集した領域である。もっとも大きなケレスを除く小惑星は、太陽系小天体に分類されている。小惑星帯の小惑星はおもに熱に強い岩石や金属鉱物でできているが、氷でできているものもある。大きさは数 mmから数 kmとさまざまだが、1 m未満のものは、場合によっては流星物質や流星塵と呼ばれることもある。",
"title": "内太陽系"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "太陽から2.3 - 3.3 au離れた領域に分布しており、これらの小惑星は、太陽系形成時に木星の重力が干渉したことにより合体できず、そのまま残った残骸のような天体であるとされている。直径1キロ以上のものは数万から数百万個存在しているが、すべての小惑星を集めても、全質量が地球の1,000分の1を超える可能性は低いとされている。しかし、小惑星は非常にまばらに分布しているため、宇宙探査機は支障なく通過することができる。",
"title": "内太陽系"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "ケレス(英語: Ceres)は小惑星帯最大の小惑星で、準惑星に分類されている。直径は1,000 km弱で、自身の重力で球形を保つのに十分な質量を持っている。ケレスは1801年に発見され、当時は惑星とみなされていたが、その後にほかの小惑星が発見されるようになり、1850年代にはケレスも小惑星とみなされるようになった。しかし、2006年に惑星の定義が決められた際に、準惑星に再分類された。",
"title": "内太陽系"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "小惑星帯の小惑星は、その小惑星グループ(英語版)と小惑星族で分類されている。また小惑星の衛星は、より大きなものを公転する、小さな小惑星として扱われる。それらの衛星は、惑星の衛星ほど明確に区別されておらず、中には、小惑星アンティオペ(87.8 km)を公転している衛星S/2000 (90) 1(83.8 km)のように、公転している小惑星とほぼ同じ大きさを持つもの(二重小惑星)もある。また、小惑星帯には地球に水をもたらしたとされているメインベルト彗星も含まれている。",
"title": "内太陽系"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "木星の軌道上において、重力的に安定して天体が存在できるラグランジュ点L4とL5付近には、トロヤ群と呼ばれる小惑星のグループがある。また、この「トロヤ」はほかの惑星、あるいは衛星の軌道のラグランジュ点に位置している小天体を指す場合もある。ヒルダ群と呼ばれるグループは、木星と2:3の軌道共鳴の関係にあり、これはヒルダ群の小惑星が軌道を3周する間に、木星が軌道を2周することを意味している。",
"title": "内太陽系"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "内太陽系には、これらの小惑星のほかに地球近傍小惑星と呼ばれるものも存在しており、その多くは内惑星の軌道を横断している。中には、地球と衝突する可能性が示されている潜在的に危険な小惑星も含まれている。",
"title": "内太陽系"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "太陽から離れた外太陽系には、巨大ガス惑星と比較的大きな衛星、そしてケンタウルス族や短周期彗星などが存在している。太陽から遠く離れているため、内太陽系よりも水やメタン・アンモニアなどの揮発性物質が多く存在している。",
"title": "外太陽系"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "外太陽系にある4つの大きな惑星は、外惑星(英語: Outer planet)や巨大惑星(英語: Giant planet)、木星型惑星(英語: Jovian planet)と呼ばれ、太陽を公転する天体の全質量のうち99パーセントを占めている。木星と土星は合わせると地球の400倍以上の質量を持ち、主に水素とヘリウムから構成されている。一方で、天王星と海王星はともに質量が地球の20倍以下で、木星と土星と比べてはるかに小さい。そのため、一部の天文学者はこの2つの惑星を、巨大氷惑星(英語: Ice giant)あるいは天王星型惑星として、木星・土星と区別している。4つの惑星すべてが環を持っているが、地球から容易に観測できるのは土星の環だけである。ここにおける「外惑星」とは、外太陽系にある4つの惑星の分類を指している。これとは別に、地球より外側を公転している、火星以遠の惑星を外惑星(英語: Superior planet)と呼ぶことがある。",
"title": "外太陽系"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "木星(英語: Jupiter)は、太陽系の第5惑星で、太陽系で最も大きな惑星である。地球の318倍の質量を持ち、これは他の惑星の全質量の2.5倍にもなる。主に水素とヘリウムから構成されている。木星内部で生じている強い熱は、縞模様の雲や大赤斑など、大気中に半永久的な構造を作り出している。木星は95個の衛星を持つことが知られており、特に大きなイオ・エウロパ・ガニメデ・カリストの4つはガリレオ衛星と呼ばれ、火山活動や内部加熱のような地球型惑星に似た地質活動が見られる。そのうち、ガニメデは太陽系最大の衛星で、水星よりも大きい。",
"title": "外太陽系"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "土星(英語: Saturn)は、太陽系の第6惑星。大きな環が特徴的だが、大気組成や磁気圏など木星とよく似ている点が多い。しかし、体積は木星の60パーセントにあたるが、質量は地球の95倍と、木星の3分の1にも満たない。そのため、土星は太陽系の惑星で唯一、水よりも低密度な惑星である。",
"title": "外太陽系"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "土星の環は、おもに氷と岩石でできた小天体から構成されている。土星は大部分が氷からなる146個の衛星を持つことが知られており、このうち、タイタンとエンケラドゥスの2つでは地質活動の存在が示されている。タイタンはガニメデに次いで、太陽系内では2番目に大きな衛星で、こちらも水星より大きく、また太陽系内の衛星で唯一濃い大気を持つ。",
"title": "外太陽系"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "天王星(英語: Uranus)は、太陽系の第7惑星。質量は地球の約14倍で、外惑星系の中では最も質量が小さい。太陽系の惑星で唯一、太陽に対して横倒しで自転しており、その赤道傾斜角は90度を超えている。中心部の核は他の巨大惑星よりも温度が冷たく、熱をほとんど放出していないとされている。27個の衛星を持っており、特にチタニア・オベロン・ウンブリエル・アリエル・ミランダの5つは比較的大型である。",
"title": "外太陽系"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "海王星(英語: Neptune)は、太陽系の第8惑星。大きさは天王星よりもわずかに小さいが、質量はやや大きく(地球の約17倍)、そのため密度も大きくなっている。また、天王星よりも内部から多くの熱を放射しているが、木星や土星ほどではない。14個の衛星を持ち、もっとも大きなトリトンでは地質活動が起きており、液体窒素の間欠泉が存在することが確認されている。また、太陽系の大型衛星では唯一、主惑星の自転方向に対して逆方向に公転している。海王星は、その外側に位置している太陽系外縁天体の一部を、1:1の軌道共鳴状態にさせている。",
"title": "外太陽系"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "ケンタウルス族は、木星軌道と海王星軌道の間にある彗星のような氷でできた小天体のグループである。知られている中でもっとも大きなケンタウルス族に属する天体はカリクローで、直径は約250キロとされている。ケンタウルス族として初めて発見されたキロンは、太陽に接近する際、彗星のような活動が見られるため、彗星(95P)にも分類されている。",
"title": "外太陽系"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "彗星(英語: Comet)は多くの場合、直径が数キロ程度で、主に氷などの揮発性物質から出来た核と、2種類の尾からなる。楕円軌道で公転しており、近日点は内太陽系、遠日点は冥王星よりも遠方に位置していることが多い。彗星が太陽に接近すると、核の表面にある氷が昇華してイオン化し、コマが形成される。そこから尾やガスが放出され、はっきりと観測出来るようになり、中には肉眼で観望出来るほどまでに明るくなるケースもある。",
"title": "彗星"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "公転周期が200年未満の彗星は短周期彗星と呼ばれ、一方で長周期彗星と呼ばれる彗星は、何千年もかけて太陽を公転しているものもある。短周期彗星は、小惑星帯やカイパーベルトを起源にしているものが多いが、ヘール・ボップ彗星のような長周期彗星はオールトの雲が起源であるとされている。また、クロイツ群をはじめとする多くの彗星群は、1つの彗星が幾つもの破片に分裂して形成されたと考えられている。双曲線軌道を持つ非周期彗星の中には、太陽系外に由来するものもあるとされているが、正確な計算は困難である。太陽の熱によって、核表面の揮発性物質がほとんどなくなった古い彗星は、小惑星に分類されることもある。",
"title": "彗星"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "海王星軌道のさらに外側は太陽系外縁部(英語: Trans-Neptunian region)と呼ばれ、エッジワース・カイパーベルトや、冥王星を含む幾つかの準惑星・散乱円盤天体などが存在しているが、ほとんどの領域ではまだ詳しい探査が行われていない。氷と岩石で構成された小天体が数千個存在しているとされているが、最大クラスの天体でも大きさは地球の5分の1で、質量は月よりもずっと軽いとされている。この領域は、内太陽系・外太陽系に次ぐ「太陽系の第3の領域」として扱われることもある。",
"title": "太陽系外縁部"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "エッジワース・カイパーベルト(英語: Edgeworth-Kuiper belt)またはカイパーベルトは、小惑星帯に似た、リング状に小天体(太陽系外縁天体・カイパーベルト天体)が集まった領域で、主に氷で形成されている。太陽から30 - 50au離れた領域に分布している。数十から数千個の準惑星サイズのものも存在すると見られているが、その多くは太陽系小天体からなる。クワオアーやヴァルナ、オルクスといった大型の太陽系外縁天体は、さらに多くのデータが集まれば、それをもとに準惑星に分類される可能性がある。直径が50キロを超える太陽系外縁天体はカイパーベルト内に10万個以上存在すると推定されているが、総質量は地球の100分の1から1,000分の1にも満たないと考えられている。多くの太陽系外縁天体は衛星を持っており、黄道面から大きく傾いた軌道を描いている。カイパーベルトでは、これまでに約1,400個の太陽系外縁天体が発見されている。",
"title": "太陽系外縁部"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "太陽系外縁天体は、古典的カイパーベルト天体と軌道共鳴状態にあるものの2つに大きく区別することが出来る。軌道共鳴の対象となる惑星は海王星で、例えば、海王星が3回公転する間に、2回公転するような天体が後者に挙げられる。前者の古典的カイパーベルト天体は、海王星と軌道共鳴を起こしておらず、太陽から約39.4 - 47.7au離れた領域に分布している。この古典的カイパーベルト天体はキュビワノ族とも呼ばれ、この分類の太陽系外縁天体として初めて発見されたのはアルビオン(1992 QB1)で、全体的に軌道離心率が低い軌道を描く。",
"title": "太陽系外縁部"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "準惑星の冥王星(英語: Pluto)は既知の太陽系外縁天体の中では最大の天体である。1930年に発見され、それ以降は「太陽系の第9惑星」とされたが、2006年に国際天文学連合による惑星の定義の決定により、準惑星に降格となった。冥王星は楕円軌道で太陽を公転しており、近日点では太陽から29.6auまで近づき、遠日点では49.3auまで遠ざかる。軌道は黄道面から約17.1度傾いている。海王星とは3:2の軌道共鳴状態にあり、この冥王星と似た軌道を描く太陽系外縁天体は冥王星族と呼ばれる。",
"title": "太陽系外縁部"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "冥王星最大の衛星であるカロンは、その大きさ故に、冥王星とともに連星系をなしていると表現されることもある。カロンの他にも、冥王星はステュクス・ニクス・ケルベロス・ヒドラと呼ばれる、カロンと比べてはるかに小さな4つの衛星を持つことが知られている。",
"title": "太陽系外縁部"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "マケマケ(英語: Makemake)は冥王星よりも小さいが、知られている古典的カイパーベルト天体の中では最も大きい天体とされている。また、太陽系外縁天体の中では冥王星に次いで明るい。2008年に準惑星に分類され、現在の名称が公式に付与された。軌道は冥王星よりもはるかに傾いており、軌道傾斜角は29度にもなる。",
"title": "太陽系外縁部"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "ハウメア(英語: Haumea)は、マケマケと同じような軌道を公転しているが、海王星と7:12の軌道共鳴の関係にある。大きさはマケマケと同程度で、2つの衛星を持っている。自転周期が3.9時間しかないため、地形は平らで、細長い形状になっている。マケマケ同様、2008年に準惑星に分類され、現在の名称が公式に付与された。",
"title": "太陽系外縁部"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "カイパーベルトと重なっているものもあるが、基本的にそのはるか外側にまで広がっている散乱円盤(英語: Scattered disk)は、短周期彗星の起源であるとされている。この散乱円盤は、太陽系形成時に、巨大惑星の移動によって不規則な軌道となって外側に放り出されたとされている。それを構成している散乱円盤天体(英語: Scattered disk object、SDO)のほとんどは、カイパーベルトよりもはるか遠くに分布しており、太陽から150 au以上離れているものが多い。散乱円盤天体も太陽系外縁天体と同様に黄道面から傾いた軌道を描いており、中にはほぼ垂直にまで傾いているものもある。一部の天文学者は、散乱円盤とカイパーベルトのもう1つの領域とみなして、散乱円盤天体を「散乱した太陽系外縁天体」としている。一方で、ケンタウルス族を「内側に散乱した太陽系外縁天体」、散乱円盤を「外側に散乱した太陽系外縁天体」としている場合もある。",
"title": "太陽系外縁部"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "エリス(英語: Eris)は、現在知られている散乱円盤天体の中では最も大きい。質量は冥王星よりも25%大きく、大きさもほぼ同等だったため、惑星の定義に関する議論の発端となった。ディスノミアと呼ばれる衛星を持つ。冥王星と同様に、黄道面から傾いた楕円軌道で太陽を公転しており、近日点は太陽から37.8 auで、遠日点では97.5 auまで遠ざかる。",
"title": "太陽系外縁部"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "太陽系と星間空間の境界は、太陽風の及ぶ範囲とするものと、太陽の重力による影響が及ぶ範囲とするものの2つがあり、正確には定義されていない。太陽風は冥王星までの距離の約4倍離れた位置まで広がっており、太陽圏(ヘリオスフィア)をなしており、その外縁にあたるヘリオポーズを超えると、星間空間になるとされている。太陽の重力圏の有効範囲(ヒル球)は、理論上では後述のオールトの雲を超えて、太陽 - 冥王星間の約1,000倍まで広がっているとされている。",
"title": "太陽系の果て"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "太陽圏(英語: Heliosphere)は、恒星風バブルの一つで、秒速約400キロで星間空間に向かって放射される太陽風が形成している。",
"title": "太陽系の果て"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "太陽から約80 - 100au離れた領域にある末端衝撃波面(英語: Termination shock)では、太陽風と星間物質の衝突が引き起こされており、これにより太陽風の移動速度が減速を始め、約200au離れると、星間物質の強さが太陽風を上回るようになり、やがて星間空間となる。この領域にまで達すると、太陽風は急速に減速・凝縮するようになり、ヘリオシースと呼ばれる楕円状の構造を形成している。この構造は彗星の尾のように伸びているとされている。しかし、土星探査機カッシーニやIBEXによる観測結果から、星間磁場の作用によって、太陽圏が楕円形ではなく、球形になっている可能性が示唆されている。",
"title": "太陽系の果て"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "太陽圏の外縁、星間空間との境界にあたる領域はヘリオポーズ(英語: Heliopause)と呼ばれる。ボイジャー1号とボイジャー2号はそれぞれ、太陽から94auと84au離れた位置でヘリオシースを突破しており、2012年8月にはボイジャー1号がヘリオポーズを通過し、人工物としては初めて太陽圏外にまで到達し、2018年11月にはボイジャー2号も太陽圏外に到達した。",
"title": "太陽系の果て"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "太陽圏の形状は、星間空間との流体力学的相互作用と太陽の磁場の影響で決まる可能性が高く、黄道面に対して北半球側は、南半球側よりも約9 au遠方まで広がっている。ヘリオポーズを超えて、太陽から約230 au離れた領域は、銀河系の中を太陽系が進むことで、星間空間と太陽圏の間にバウショック(衝撃波面)と呼ばれる構造が形成されている。しかし2012年には、太陽系が星間空間内を進む速度が想定よりも遅いことが判明し、太陽系にバウショックは存在しない可能性が示されている。",
"title": "太陽系の果て"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "観測データが乏しいため、太陽圏の宇宙放射線の遮断率、太陽圏の外縁部の詳しい状態など、よく分かっていない点も多い。NASAの探査機ボイジャーは、ヘリオポーズを通過する際、放射線量と太陽風に関する貴重なデータを地球に送信することが期待されている。現在、NASAが資金を提供している開発グループは、太陽圏外縁部にプローブを送り込むVision Mission計画を構想している。",
"title": "太陽系の果て"
},
{
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"text": "セドナ(英語: Sedna)と呼ばれる小惑星は、近日点でも太陽から76 auも離れており、遠日点では937 auにまで遠ざかる。そのあまりにも大きな軌道のため、公転するのに約1万1400年もの時間を要する。2003年にこの天体を発見したマイク・ブラウンは、近日点が太陽から遠すぎるため、海王星の移動による影響を受けておらず、太陽系外縁天体や散乱円盤天体にも属さない天体だと主張している。ほかの天文学者も、セドナは初めて発見されたまったく新しい分類に属する天体だとしており、こうした天体を分離天体(英語: Detached object、DDO)と呼んでいる。この分類にはセドナのほかに、近日点距離45 au、遠日点距離415 au、公転周期3,420年の2000 CR105(英語版)も含まれる可能性があるとされた。太陽から遠く離れているが、ほかの天体と同様の過程で形成されたとしているため、ブラウンは、こうした天体の集団を内オールトの雲と呼称している。セドナは準惑星の候補に挙げられているが、まだその詳しい形状は明らかになっていない。2012年には、セドナよりも遠い、約80 auの近日点距離を持つ小惑星2012 VP113が発見された。一方で、遠日点距離は400 - 500 auと、セドナの約半分しかない。",
"title": "太陽系の果て"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "オールトの雲(英語: Oort Cloud)は、太陽から約5万 au(約1光年)離れた領域で球状に太陽系を取り囲む、1兆個以上の小天体からなる仮想上の構造で、すべての長周期彗星の起源とされている。最大で約10万 au(約1.87光年)遠方にまで及んでいる可能性も示されている。オールトの雲を構成している小天体は、外惑星系との重力相互作用によって、太陽系内部から、この軌道にまで追いやられた彗星からできているとされる。オールトの雲の小天体は非常に低速で移動しており、衝突や近傍の恒星による重力効果、銀河系からの潮汐力などのまれな事象で錯乱される可能性がある。",
"title": "太陽系の果て"
},
{
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"text": "太陽系にはまだよく知られていない、未知な点も多い。太陽の重力は約12万5000 au(約2光年)遠方にまで及んでいると推定されているが、それに対して、オールトの雲以遠にある天体は発見されていない。また、カイパーベルトとオールトの雲の間を公転するセドナのような天体も事実上、ほとんど知られていない。一方で、太陽と水星の間を公転する天体の有無について研究が進められている。このような太陽系内における観測が進んでいない領域では、未知の天体が存在している可能性が残されている。",
"title": "太陽系の果て"
},
{
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"tag": "p",
"text": "現在知られている中でもっとも太陽から遠ざかる天体はウェスト彗星で、遠日点距離は約13560 auにもなり、オールトの雲に対する理解を深める手がかりになるかもしれない。",
"title": "太陽系の果て"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "太陽系は、約1000億個の恒星を含む、直径10万光年の銀河系(天の川銀河)に位置している。その中でも、太陽系は、銀河系のスパイラル・アーム(渦状腕)のひとつであるオリオン腕に属している。中心からは25,000 - 28,000光年離れており、約2億2500万 - 2億5000万年(1銀河年)かけて銀河系を公転しているとされている。星間空間を進む太陽系が進んでいる方向(太陽向点)はヘルクレス座の方向で、1等星の中では、こと座のベガがそれにもっとも近い。太陽系の黄道面は、銀河系の銀河面に対して約60度傾いている。",
"title": "銀河系における太陽系"
},
{
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"tag": "p",
"text": "銀河系における太陽系の位置は、地球上の生物の進化の歴史に大きな影響を与えたとされている。太陽はほぼ円形で銀河系で公転しており、また太陽系周辺は、周辺のスパイラル・アームと近い速度で移動しているため、太陽系は滅多にスパイラル・アームを通過しない。スパイラル・アーム内は、高頻度の超新星爆発、不安定な重力、太陽系に大きな影響を与える宇宙放射線などがあるため、この中に位置していない地球は、長い期間に渡って生物が安定して存在することができた。また太陽系は、恒星が密集している中心部のバルジからも離れている。バルジ付近では、近くの恒星からの重力の影響を受けてオールトの雲が安定せず、太陽系内部に散乱され、地球上の生物に天体衝突による潜在的な危険性が伴う。また、飛び交う放射線が生物の進化を妨げる可能性もある。",
"title": "銀河系における太陽系"
},
{
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"text": "太陽系は現在、局所恒星間雲(英語: Local Interstellar Clouds)と呼ばれる領域にある。しかし、局所恒星間雲はGクラウド(英語版)と呼ばれる星間雲と隣接しているが、太陽系が局所恒星間雲に属しているか、あるいは局所恒星間雲とGクラウドが相互作用する領域に位置しているかは分かっていない。局所恒星間雲は、局所泡(英語: Local Bubble)と呼ばれる、星間物質がまばらな直径約300光年の空間にある、星間物質が濃い領域である。局所泡は高温のプラズマで満たされており、これは局所泡が超新星爆発によって形成された可能性を示している。",
"title": "銀河系における太陽系"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "太陽系から10光年以内の領域には、いくつかの恒星が存在している。もっとも近い恒星は、約4.4光年離れた三重連星系のケンタウルス座α星である。ケンタウルス座α星A、Bは太陽に比較的似た恒星で、それから0.2光年離れた軌道をプロキシマ・ケンタウリ(ケンタウルス座α星C)が公転している。2016年には、このプロキシマ・ケンタウリを公転する惑星、プロキシマ・ケンタウリbの存在が確認され、地球に似た環境を持つ可能性がある惑星として期待されている。次に太陽系に近い恒星として、赤色矮星のバーナード星(5.9光年)、ウォルフ359(7.8光年)、ラランド21185(8.3光年)がこれに続く。",
"title": "銀河系における太陽系"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "近隣にある恒星でもっとも大きいのはシリウスで、約8.6光年離れている。約2倍の質量を持つA型主系列星で、白色矮星の伴星シリウスBが周囲を公転している。10光年以内にある、既知でもっとも近い褐色矮星は、2つの褐色矮星の連星系であるWISE J104915.57-531906.1(ルーマン16)で、約6.6光年離れている。10光年以内にある恒星としては、ほかにルイテン726-8(8.7光年)とロス154(9.7光年)がある。約10.5光年離れているエリダヌス座ε星は、大きな塵円盤を持つことが確認されている。太陽系にもっとも近い、太陽に類似した恒星は、約11.9光年離れた位置にあるくじら座τ星である。太陽の約80%の質量と、約60%の明るさを持ち、4つの惑星が周囲を公転している。既知でもっとも太陽系に近い自由浮遊惑星は、約7.3光年離れているWISE J085510.83-071442.5で、質量は木星の10倍未満とされている。",
"title": "銀河系における太陽系"
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{
"paragraph_id": 93,
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"text": "太陽系がほかの惑星系と異なる点として、水星よりも内側で、太陽に非常に近い軌道を公転している惑星が存在していない点が挙げられる。一方で太陽系外惑星では、ホット・ジュピターなどの、恒星に非常に近い軌道を公転する惑星が多く知られている。また、地球と海王星の中間の規模を持ったスーパーアースと呼ばれる天体も太陽系内では知られておらず、小型の岩石惑星と、大型の巨大ガス惑星しか存在していない(しかし、未確認のプラネット・ナインがこれに該当する可能性がある)。太陽系外惑星系では、こうしたスーパーアースが存在しているのが典型的で、また、水星よりも恒星の近くを公転している場合が多い。多くの惑星系では形成初期、惑星同士は軌道が近かったため、衝突を繰り返し質量が大きないくつかの惑星が形成されたが、太陽系では、この衝突によって惑星が破壊されたり、系外に放出されたりしたため、このような違いが生じた可能性が示されている。",
"title": "銀河系における太陽系"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "また、太陽系はすべての惑星の軌道離心率が低く、ほぼ円形の軌道を公転している。一方、太陽系外でこうした軌道を描く惑星系は珍しく、極端な楕円軌道を描くエキセントリック・プラネットと呼ばれる惑星も数多く知られている。",
"title": "銀河系における太陽系"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "しかし、近年の観測技術の向上にともない、スーパーアースよりも小さな地球サイズの惑星、グリーゼ676A系やケプラー90系などの構造が太陽系に似た惑星系も発見されるようになり、太陽系は数ある惑星系のパターンのひとつにすぎないと考えられるようになっている。",
"title": "銀河系における太陽系"
}
] | 太陽系とは、太陽およびその重力で周囲を直接的、あるいは間接的に公転する天体から構成される惑星系である。主に、現在確認されている8個の惑星、5個の準惑星、それらを公転する衛星、そして多数の太陽系小天体などからなる。間接的に太陽を公転している天体のうち衛星2つは、惑星ではもっとも小さい水星よりも直径が大きい。太陽系は約46億年前、星間分子雲の重力崩壊によって形成されたとされている。総質量のうち、ほとんどは太陽が占めており、残りの質量も大部分は木星が占めている。銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置している。 内側を公転している小型な水星・金星・地球・火星は、おもに岩石からなる地球型惑星(岩石惑星)で、木星と土星は、おもに水素とヘリウムからなる木星型惑星(巨大ガス惑星)、天王星と海王星は、メタンやアンモニア、氷などの揮発性物質といった、水素やヘリウムよりも融点の高い物質からなる天王星型惑星(巨大氷惑星)である。これらの8個の惑星はほぼ同一平面上にあり、この平面を黄道面と呼ぶ。 ほかにも、太陽系には多数の小天体を含んでいる。火星と木星の間にある小惑星帯は、地球型惑星と同様に岩石や金属などから構成されている小天体が多い。それに対して、海王星の軌道の外側に広がる、おもに氷からなる太陽系外縁天体が密集している、エッジワース・カイパーベルトや散乱円盤天体がある。そして、そのさらに外側にはセドノイドと呼ばれる、新たな小惑星の集団も発見されてきている。これらの小天体のうち、数十個から数千個は自身の重力で、球体の形状をしているものもある。そのような天体は準惑星に分類されることがある。現在、準惑星には小惑星帯のケレスと、太陽系外縁天体の冥王星・ハウメア・マケマケ・エリスが分類されている。これらの2つの分類以外にも、彗星・ケンタウルス族、惑星間塵など、様々な小天体が太陽系内を往来している。 惑星のうち6個が、準惑星では4個が自然に形成された衛星を持っており、慣用的に「月」と表現されることがある。また、木星以遠の惑星は、周囲を公転する小天体からなる環を持っている。 太陽から外部に向かって放出されている太陽風は、太陽圏(ヘリオスフィア)と呼ばれる星間物質中に泡状の構造を形成している。境界であるヘリオポーズでは太陽風による圧力と星間物質による圧力が釣り合っている。太陽圏の1,000倍離れた位置には、長周期彗星の源と考えられているオールトの雲と呼ばれる構造があると考えられている。 | {{天体 基本
| 色 = #000000
| 幅 = 350px
| 和名 = 太陽系
| 英名 = Solar System
| 画像ファイル = Planets2013symbols.svg
| 画像サイズ = upright=1.5{{!}}frameless
| 画像説明 = 太陽系の惑星(距離は実際の比率ではない)
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{{天体 見出し
| 色 = #000000
| 見出し = 特性
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{{天体 項目|総質量|1.0014 [[太陽質量|''M''<sub>☉</sub>]]<ref group="注">太陽が太陽系の99.86%の質量を占めているとして計算。</ref>}}
{{天体 項目|最も遠い惑星|[[海王星]]<small>(30.10 [[天文単位|au]])</small>}}
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{{天体 項目|最も近い[[惑星系]]|[[プロキシマ・ケンタウリ]]系<br /><small>(4.25 光年)</small>}}
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{{天体 項目|[[惑星]]数|8<br /><small>([[水星]]・[[金星]]・[[地球]]・[[火星]]・[[木星]]・[[土星]]・[[天王星]]・[[海王星]])</small>}}
{{天体 項目|[[準惑星]]数|5<ref>{{cite web|url=http://www.mikebrownsplanets.com/2011/08/free-dwarf-planets.html|author=[[マイク・ブラウン|Mike Brown]]|title=Free the dwarf planets!|date=23 August 2011|work=Mike Brown's Planets|accessdate=2018-06-17}}</ref><br /><small>([[ケレス (準惑星)|ケレス]]・[[冥王星]]・[[ハウメア (準惑星)|ハウメア]]・[[マケマケ (準惑星)|マケマケ]]・[[エリス (準惑星)|エリス]])</small>}}
{{天体 項目|既知の[[衛星]]数|813<br /><small>(惑星: 285<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nao.ac.jp/new-info/satellite.html|title=惑星の衛星数・衛星一覧|work=[[国立天文台]]|accessdate=2023-07-01}}</ref><!--更新されてないのでコメントアウト <ref>{{cite web|title=How Many Solar System Bodies|publisher=NASA/JPL Solar System Dynamics|url=http://ssd.jpl.nasa.gov/?body_count|accessdate=2018-07-09}}</ref> -->、惑星以外: 528<ref>{{cite web|title=Asteroids with Satellites|publisher=Johnston's Archive|author=Wm. Robert Johnston|url=http://www.johnstonsarchive.net/astro/asteroidmoons.html|date=2023-11-28|accessdate=2023-12-01}}</ref>)</small>}}
{{天体 項目|既知の[[小惑星]]数|1,329,548{{R|MinorPlanetCenter}}<br /><small>(2023年12月1日時点)</small>}}
{{天体 項目|既知の[[彗星]]数|4,593{{R|MinorPlanetCenter}}<br /><small>(2023年12月1日時点)</small>}}
{{天体 項目|[[ハビタブルゾーン]](HZ)の範囲|0.95 - 1.37 au{{R|Kasting93}}}}
{{天体 項目|水の[[雪線 (天文学)|雪線]]までの距離|2.7 au<ref>{{cite web|url=http://phl.upr.edu/projects/habitable-exoplanets-catalog/calculators|title=HEC: Exoplanets Calculator|work=[[プエルトリコ大学アレシボ校|University of Puerto Rico at Arecibo]]|publisher=Planetary Habitability Laboratory|accessdate=2018-06-17}}</ref><br />~5 au{{R|Muuma03}}}}
{{天体 項目|[[ヘリオポーズ]]までの距離|~120 au{{R|NASA20120614}}}}
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{{天体 見出し
| 色 = #000000
| 見出し = 銀河系における軌道要素
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{{天体 項目|位置|[[オリオン腕]]}}
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| 色 = #000000
}}
{{Solar System sidebar}}
'''太陽系'''(たいようけい、{{Lang-en-short|Solar System}}{{efn2|[[地球]]が公転する[[太陽]]を主星とする星系はただ一つであるため、[[固有名詞]]的な扱いをされる。その場合、英語では名詞それぞれの頭文字を大文字にして表される。}}、{{lang-la-short|systema solare}} シュステーマ・ソーラーレ)とは、[[太陽]]およびその[[重力]]で周囲を直接的、あるいは間接的に[[公転]]する[[天体]]<ref group="注">惑星を公転する衛星は、後者に当てはまる</ref>から構成される[[惑星系]]である。主に、現在確認されている8個の'''[[惑星]]'''<ref group="注">歴史上では、1930年に発見された[[冥王星]]などの天体が惑星に分類されていた事もあった。[[惑星の定義]]も参照。</ref>、5個の'''[[準惑星]]'''、それらを公転する'''[[衛星]]'''、そして多数の'''[[太陽系小天体]]'''などからなる<ref name="Newton09-pp18.19">[[#Newton09|ニュートン (別2009)、1章 太陽系とは、pp.18-19 太陽のまわりには八つの惑星が存在する]]</ref>。間接的に太陽を公転している天体のうち衛星2つは、惑星ではもっとも小さい[[水星]]よりも直径が大きい<ref group="注">太陽と惑星以外で、水星よりも直径が大きいのは木星の衛星[[ガニメデ (衛星)|ガニメデ]]と土星の衛星[[タイタン (衛星)|タイタン]]である。</ref>。太陽系は約46億年前、[[分子雲|星間分子雲]]の[[重力崩壊]]によって形成されたとされている。総質量のうち、ほとんどは太陽が占めており、残りの質量も大部分は[[木星]]が占めている。[[銀河系]](天の川銀河)の中心から約26,000[[光年]]離れた、[[オリオン腕]]の中に位置している。
内側を公転している小型な[[水星]]・[[金星]]・[[地球]]・[[火星]]は、おもに[[岩石]]からなる[[地球型惑星]](岩石惑星)で、[[木星]]と[[土星]]は、おもに[[水素]]と[[ヘリウム]]からなる[[木星型惑星]](巨大ガス惑星)、[[天王星]]と[[海王星]]は、[[メタン]]や[[アンモニア]]、[[氷]]などの[[揮発性物質]]といった、水素やヘリウムよりも[[融点]]の高い物質からなる[[天王星型惑星]](巨大氷惑星)である。これらの8個の惑星はほぼ同一平面上にあり、この平面を'''[[黄道|黄道面]]'''と呼ぶ。
ほかにも、太陽系には多数の小天体を含んでいる{{Refnest|group="注"|name=a|[[国際天文学連合による惑星の定義]]によると、太陽の周囲を公転している天体は動的に、そして物理的に''惑星''、''準惑星''、''太陽系小天体''の3つの分類に区別される。
*'''[[惑星]]'''とは、 太陽の周囲を公転し、自身の[[重力]]で[[球面]](に近い形状)になるだけの[[質量]]を持ち、[[軌道近くから他の天体を排除]]している天体である。この定義では太陽系には水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星の8つの惑星が存在する事になる。冥王星は近隣にある他の[[太陽系外縁天体]]を排除していないとされ、この定義には当てはまらない{{R|FinalResolution}}。
*'''[[準惑星]]'''とは、太陽の周囲を公転し、自身の重力で球面(に近い形状)になるだけの十分な質量を持つが、軌道近くから他の天体を排除しておらず、また、衛星ではない天体である{{R|FinalResolution}}。この定義では冥王星は準惑星に分類され、[[国際天文学連合]]は他に[[ケレス (準惑星)|ケレス]]、[[ハウメア (準惑星)|ハウメア]]、[[マケマケ (準惑星)|マケマケ]]、[[エリス (準惑星)|エリス]]の4つの天体を準惑星として認定している{{R|name}}。公式ではないが、{{mpl|2007 OR|10}}、[[セドナ (小惑星)|セドナ]]、[[オルクス (小惑星)|オルクス]]、そして[[クワオアー]]などの天体も準惑星として扱う事がある<ref>{{cite web|title=IAU Planet Definition Committee|author=Ron Ekers|publisher=[[国際天文学連合|International Astronomical Union]]|url=http://www.iau.org/public_press/news/release/iau0601/newspaper/|accessdate=2018-06-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090603001603/http://www.iau.org/public_press/news/release/iau0601/newspaper/|archivedate=3 June 2009}}</ref>。太陽系外縁部にある準惑星は'''[[冥王星型天体]]'''とも呼ばれる<ref>{{cite news|date=11 June 2008 |title=Plutoid chosen as name for Solar System objects like Pluto|publisher=International Astronomical Union|url=http://www.iau.org/public_press/news/release/iau0804|accessdate=2018-06-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080613121232/http://www.iau.org/public_press/news/release/iau0804/|archivedate=13 June 2008}}</ref>。
*惑星と準惑星を除く、太陽を公転する全ての天体を'''[[太陽系小天体]]'''とする{{R|FinalResolution}} }}。火星と木星の間にある[[小惑星帯]]は、地球型惑星と同様に岩石や[[金属]]などから構成されている小天体が多い。それに対して、海王星の軌道の外側に広がる、おもに氷からなる[[太陽系外縁天体]]が密集している、[[エッジワース・カイパーベルト]]や[[散乱円盤天体]]がある。そして、そのさらに外側には[[セドノイド]]と呼ばれる、新たな小惑星の集団も発見されてきている。これらの小天体のうち、数十個から数千個は自身の[[重力]]で、球体の形状をしているものもある<ref>{{cite web|url=http://pluto.jhuapl.edu/overview/piPerspective.php?page=piPerspective_08_24_2012|title=The PI's Perspective|date=2012-08-24|quote=Today we know of more than a dozen dwarf planets in the solar system|deadurl=yes|archive-url=https://web.archive.org/web/20141113225430/http://pluto.jhuapl.edu/overview/piPerspective.php?page=piPerspective_08_24_2012|archive-date=2014-11-13|accessdate=2018-06-17}}</ref>。そのような天体は[[準惑星]]に分類されることがある。現在、準惑星には小惑星帯の[[ケレス (準惑星)|ケレス]]と、太陽系外縁天体の冥王星・[[ハウメア (準惑星)|ハウメア]]・[[マケマケ (準惑星)|マケマケ]]・[[エリス (準惑星)|エリス]]が分類されている。これらの2つの分類以外にも、[[彗星]]・[[ケンタウルス族 (小惑星)|ケンタウルス族]]、[[惑星間塵]]など、様々な小天体が太陽系内を往来している。
惑星のうち6個が、準惑星では4個が自然に形成された[[衛星]]を持っており、慣用的に「[[月]]」と表現されることがある<ref group="注">8つの惑星と5つの準惑星の自然衛星の一覧については[[太陽系の衛星の一覧]]を参照。</ref>。また、木星以遠の惑星は、周囲を公転する小天体からなる[[環 (天体)|環]]を持っている。
太陽から外部に向かって放出されている[[太陽風]]は、[[太陽圏]](ヘリオスフィア)と呼ばれる[[星間物質]]中に泡状の構造を形成している。境界である[[ヘリオポーズ]]では太陽風による圧力と星間物質による圧力が釣り合っている。太陽圏の1,000倍離れた位置には、[[長周期彗星]]の源と考えられている[[オールトの雲]]と呼ばれる構造があると考えられている。
== 発見と探査 ==
{{See also|天動説|地動説}}
[[ファイル:Heliocentric.jpg|サムネイル|左|[[アンドレアス・セラリウス]]が''Harmonia Macrocosmica''(1660)に記した地動説のモデル]]
歴史上の大部分において、人類は太陽系に対して正しい概念を持っていなかった。遥か古代から、夜間に空に輝く点は観測されており、そのほとんどが配置を変えずに存在していることも[[星座]]として認識されていた。観測機器が発明されるよりも前に、肉眼で観測できる星のうちでもいくつかが移動していることは知られていたが、その動きが一様でないことから[[惑星]]と呼んだ(正しくは数十年単位で観測すると一様の軌道になるが、天体観測黎明期には気付かれていなかった)。[[中世]]の末期まで、[[ルネサンス]]では、地球を中心にすべての天体が公転しているという[[天動説]]の概念が主流であった{{refnest|group="注"|実際には、天動説の中でも最も普及したプトレマイオスの体系においては恒星の軌道の中心は地球であるが、惑星の軌道は地球とは離れた位置に設定された点を中心とする離心円の円周上を運行する点を中心とする周転円を用いて説明されており、厳密な意味で全天体が地球を中心としていたわけではない<ref>{{Cite book |和書 |author=三村太郎|authorlink=三村太郎 |title=天文学の誕生 イスラーム文化の役割 |series=岩波科学ライブラリー 173|publisher=[[岩波書店]]|date=2010-8|isbn=978-4-00-029573-4 |ref=三村 2010}}</ref>。詳細は[[天動説]]を参照。}}。[[ギリシャ]]の哲学者[[アリスタルコス]]は現在の太陽系に近いモデルを推測し、[[ニコラウス・コペルニクス]]が初めてそのモデルを[[地動説]]として体系化した<ref>{{cite magazine|title=The astronomical system of Copernicus|author=WC Rufus|magazine=[[ポピュラー・アストロノミー|Popular Astronomy]]|volume=31|page=510|year=1923|bibcode=1923PA.....31..510R}}</ref><ref>{{cite book|title=Copernicus, Darwin, & Freud: revolutions in the history and philosophy of science|first=Friedel|last=Weinert|publisher=[[Wiley-Blackwell]]|year=2009|page=21|isbn=978-1-4051-8183-9}}</ref>。[[17世紀]]には、[[ガリレオ・ガリレイ]]、[[ヨハネス・ケプラー]]、[[アイザック・ニュートン]]は[[物理学]]的観点から地動説を発展させ、惑星が地球と同じ物理法則に従っているという考え方は徐々に受け入れられるようになっていった。このころに発明された[[望遠鏡]]は、月やほかの惑星に関する多数の発見につながり、そして望遠鏡の改良や[[無人探査機]]による探査で、[[山]]や[[クレーター]]といった地質的特徴や、[[砂嵐]]、[[雲]]、[[氷帽|氷冠]]などの気象的特徴も知られるようになった。
=== 望遠鏡による観測と発見 ===
[[ファイル:NewtonsTelescopeReplica.jpg|サムネイル|右|ニュートンが観測に用いた望遠鏡のレプリカ。]]
初期の太陽系の科学的観測は望遠鏡によって行われ、[[天文学者]]は、肉眼では観測しにくい天体を[[星図]]に書き記すようになった。太陽系の個々の天体について初めて詳細な物理的観測を行ったのは[[ガリレオ・ガリレイ]]で、月の表面にあるクレーターや、太陽の[[太陽黒点|黒点]]、木星を公転する4つの衛星を発見した<ref>{{cite web|title=Galileo Galilei (1564-1642)|author=Eric W. Weisstein|work=Wolfram Research|year=2006|url=http://scienceworld.wolfram.com/biography/Galileo.html|accessdate=2018-06-25}}</ref>。ガリレオの発見に続いて、[[クリスティアーン・ホイヘンス]]は[[土星の環]]と衛星[[タイタン (衛星)|タイタン]]を発見し<ref>{{cite web|title=Discoverer of Titan: Christiaan Huygens|work=ESA Space Science|year=2005|url=http://www.esa.int/esaSC/SEMJRT57ESD_index_0.html|accessdate=2018-06-25}}</ref>、[[ジョヴァンニ・カッシーニ]]は4つの土星の衛星と、環の中にある[[カッシーニの間隙]]を発見した<ref>{{cite web|title=Giovanni Domenico Cassini (June 8, 1625-September 14, 1712)|work=SEDS.org|url=http://messier.seds.org/xtra/Bios/cassini.html|accessdate=2018-06-25}}</ref>。
[[エドモンド・ハレー]]は1705年に、[[彗星]]を繰り返し観測した結果、75 - 76年の周期で同じ彗星が回帰していることを発見し、太陽を公転する惑星以外の天体の存在を示す証拠となった<ref>{{cite web|title=Comet Halley|work=University of Tennessee|url=http://csep10.phys.utk.edu/astr161/lect/comets/halley.html|accessdate=2018-06-25}}</ref>。また、前年の1704年には、初めて英語で「Solar System」という単語が用いられるようになった<ref>{{cite web|title=Etymonline: Solar System|url=http://www.etymonline.com/index.php?search=solar+system&searchmode=none|accessdate=2018-06-25}}</ref>。
1781年、[[ウィリアム・ハーシェル]]が[[おうし座]]の方向で[[連星]]系を探索していた際、彗星とおぼしき天体を発見したと発表したが、のちの軌道計算の結果、新惑星の天王星であることが判明した<ref>{{cite web|title=Herschel, Sir William (1738-1822)|work=enotes.com|url=http://science.enotes.com/earth-science/herschel-sir-william|accessdate=2018-06-25|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060509151843/http://science.enotes.com/earth-science/herschel-sir-william|archivedate=2006-05-09}}</ref>。
1801年、[[ジュゼッペ・ピアッツィ]]が、火星と木星の間を公転する小さな天体[[ケレス (準惑星)|ケレス]]を発見した。発見当初は新たな惑星とされていたが、その後の観測で付近に数千個もの似たような小天体が発見されるようになり、ケレスもこうした小天体に再分類された<ref>{{cite web|title=Discovery of Ceres: 2nd Centenary, January 1, 1801-January 1, 2001 |work=astropa.unipa.it|year=2000|url=http://www.astropa.unipa.it/Asteroids2001/|accessdate=2018-06-25}}</ref>。
{{Main|海王星の発見}}
1846年には、天王星の軌道が実際の計算と一致しないことから、外側から影響を与えている新たな惑星があると考えた[[ユルバン・ルヴェリエ]]による計算をもとに観測を行った、[[ヨハン・ゴットフリート・ガレ]]と[[ハインリヒ・ダレスト]]が新惑星・海王星を発見した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.astroarts.co.jp/news/2011/07/12neptune/index-j.shtml|title=発見から“一周”年、海王星の歴史を振り返る|work=AstroArts|date=2011-07-12|accessdate=2018-06-25}}</ref><ref name=planets>{{cite web|title=Mathematical discovery of planets|author=J. J. O'Connor and E. F. Robertson|work=St. Andrews University|year=1996|url=http://www-groups.dcs.st-and.ac.uk/~history/HistTopics/Neptune_and_Pluto.html|accessdate=2018-06-25}}</ref>。
しかし、海王星の発見後も、ほかの惑星や海王星自身の軌道に依然として誤差が生じていたため、海王星の外側にさらに惑星が存在すると考えられ、[[パーシヴァル・ローウェル]]は仮説上の天体を[[惑星X]]と呼んだ<ref>{{cite journal|last=Tombaugh|first=Clyde W.|year=1946|title=The Search for the Ninth Planet, Pluto|journal=Astronomical Society of the Pacific Leaflets|volume=5|pages=73-80|bibcode=1946ASPL....5...73T}}</ref>。彼の死後、ローウェルの予想をもとに[[ローウェル天文台]]で観測を行っていた[[クライド・トンボー]]が新惑星・冥王星を発見した。しかし、その後の観測で、冥王星はほかの惑星の軌道に影響を及ぼすには小さすぎることが判明したため、その発見は偶然によるものであった。ケレスのように、当初は惑星であるとされていたが、周辺に同じような天体が発見されるようになったため、2006年に[[国際天文学連合]]によって準惑星に再分類された{{R|planets}}。
1992年、[[ハワイ大学]]の[[デビッド・C・ジューイット]]と[[マサチューセッツ工科大学]]の[[ジェーン・ルー]]は冥王星軌道の周辺を公転する小天体[[アルビオン (小惑星)|アルビオン]]を発見した。アルビオンは、太陽系外縁天体としては初めて発見された天体である。この発見により、冥王星のような天体は、氷からなる小天体の群れを成していると考えられるようになった<ref>{{cite web|title=KUIPER BELT OBJECTS: Relics from the Accretion Disk of the Sun |author=Jane X. Luu and David C. Jewitt|work=Massachusetts Institute of Technology, University of Hawaii|year=2002|url=http://arjournals.annualreviews.org/doi/abs/10.1146/annurev.astro.40.060401.093818|accessdate=2018-06-25}}</ref><ref>{{cite web|title=List of Trans-Neptunian Objects|author=Minor Planet Center|url=http://www.minorplanetcenter.org/iau/lists/TNOs.html |accessdate=2018-06-25|deadurl=yes|archiveurl=https://archive.is/20101027133511/http://www.minorplanetcenter.org/iau/lists/TNOs.html|archivedate=2010-10-27}}</ref>。
2005年、[[マイケル・ブラウン (天文学者)|マイケル・ブラウン]]と[[チャドウィック・トルヒージョ]]、[[デイヴィッド・ラビノウィッツ]]は散乱円盤天体の[[エリス (準惑星)|エリス]]を発見し、当初は冥王星よりも大きく、海王星以遠にある天体では最大と考えられていた<ref>{{cite web|title=Eris (2003 UB313)|work=Solstation.com|year=2006|url=http://www.solstation.com/stars/ub313.htm|accessdate=2018-06-25}}</ref>。しかし、2015年7月に冥王星を探査した探査機[[ニュー・ホライズンズ]]による観測で、現在は冥王星よりもわずかに小さく、質量はやや大きいとされている。
=== 探査機による探査 ===
[[ファイル:europa g1 true.jpg|サムネイル|右|探査機''[[ガリレオ (探査機)|ガリレオ]]''が撮影した木星の衛星[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]の表面]]
[[ファイル:Timeline of Solar System exploration.jpg|サムネイル|right|太陽系探査の年表]]
[[ファイル:Pioneer10-11.jpg|サムネイル|右|1983年に冥王星軌道を通過した''[[パイオニア10号]]''の想像図。2003年1月に82au彼方から送信された電波を最後に、電波通信は途絶している。何らかの衝撃などを受けていない場合、43,400km/h (27,000 mph)を超える速度で現在も太陽から遠ざかっている<ref>{{cite web|author=Donald Savage; Michael Mewhinney|date=2003-02-25|url=http://solarsystem.nasa.gov/news/display.cfm?News_ID=4618|title=Farewell Pioneer 10|publisher=NASA|accessdate=2018-06-25}}</ref>。]]
{{仮リンク|宇宙時代|en|Space Age}}が始まって以来、さまざまな宇宙機関が[[宇宙ロボット]]によるミッションを計画し、多くの探査が行われている。
宇宙に送られた最初の人工物は、1957年に打ち上げられた[[ソビエト連邦]]の''[[スプートニク1号]]''で、翌年1月4日まで地球を周回することに成功した<ref>{{cite web|title=Sputnik 1|work=NASA|url=http://nssdc.gsfc.nasa.gov/nmc/spacecraftDisplay.do?id=1957-001B|accessdate=2018-06-25}}</ref>。1959年に打ち上げられた[[アメリカ]]の''[[エクスプローラー6号]]''は、初めて宇宙から地球の画像を撮影した。
=== フライバイによる探査 ===
初めて地球以外の探査に成功した探査機は、1959年に打ち上げられた''[[ルナ1号]]''だった。当初は月の表面に衝突させる予定だったが、[[太陽周回軌道]]を公転する初めての人工物になった。初めて金星を[[フライバイ]]したのは1962年に打ち上げられた''[[マリナー2号]]''で、火星は1965年に打ち上げられた''[[マリナー4号]]''、水星は1974年に打ち上げられた''[[マリナー10号]]''であった。
外太陽系の惑星を探査した初めての探査機は''[[パイオニア10号]]''で、1973年に木星に到着した。また、1979年には''[[パイオニア11号]]''が初めて土星を探査した。[[ボイジャー計画]]では、''[[ボイジャー1号]]''と''[[ボイジャー2号|2号]]''が1977年に打ち上げられ、そのうち2号は、1986年に天王星を、1989年に海王星を初めて探査した。ボイジャーは現在、海王星の軌道を超えて惑星探査のミッションを終了し、ヘリオシースやヘリオポーズ、バウショックの調査を進めている。[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]によると、ボイジャーの両探査機は、太陽から約93[[天文単位|au]]離れた領域で、末端衝撃波面の影響を受け始めている<ref>{{cite web|year=2002|title=Time Line of Space Exploration|author=Randy Culp|url=http://my.execpc.com/~culp/space/timeline.html|accessdate=2018-06-25|deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060828211027/http://my.execpc.com/~culp/space/timeline.html|archivedate=2006-08-28}}</ref>。
2006年1月19日に打ち上げられた探査機''[[ニュー・ホライズンズ]]''は、カイパーベルトを探査する初めての探査機である。2015年7月に冥王星をフライバイして、詳細な観測を行った。このニュー・ホライズンズの延長ミッションとして、2019年1月1日に太陽系外縁天体[[アロコス (小惑星)|アロコス]](ウルティマ・トゥーレ、{{mp|2014 MU|69}})をフライバイした<ref>{{cite web|year=2006|title=New Horizons NASA's Pluto-Kuiper Belt Mission|url=http://pluto.jhuapl.edu/|accessdate=2018-06-25}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.nytimes.com/2018/12/31/science/new-horizons-ultima-thule.html|title=New Horizons Spacecraft Completes Flyby of Ultima Thule, the Most Distant Object Ever Visited|work=The New York Times|date=2019-01-01|accessdate=2019-01-01}}</ref>。
== 構造と組成 ==
{{wide image|Solar-System.pdf|900px|'''太陽系の全体的な概観''' 画像上部の太陽、惑星、準惑星、衛星の大きさは実際の比率で描かれている。画像下部には、実際の距離の比率で描かれた図がある。衛星については主なもののみ、主惑星の傍に描かれている。}}
太陽系の主成分は全質量の99.86パーセントを占める太陽で、太陽系内のすべての天体を重力的に留めている<ref>{{cite journal|author=M Woolfson|title=The origin and evolution of the solar system|doi=10.1046/j.1468-4004.2000.00012.x|year=2000|journal=[[Astronomy and Geophysics]]|volume=41|issue=1|pages=1.12|bibcode=2000A&G....41a..12W}}</ref>。残りの質量のうち、99パーセントは4つの巨大惑星が占めている。残りの天体(4つの岩石惑星、衛星、小惑星、彗星など)は全体の0.002パーセントにも満たない{{Refnest|group="注"|name=b|太陽、木星、土星を除く太陽系の質量は、計算された大型の天体の質量と、オールトの雲の質量(推定3[[地球質量]]<ref>{{cite arxiv|title=Origin and dynamical evolution of comets and their reservoirs|author=Alessandro Morbidelli|year=2005|eprint=astro-ph/0512256}}</ref>)、カイパーベルトの質量(推定0.1地球質量{{R|Delsanti-Beyond_The_Planets}})、そして小惑星帯の質量(推定0.0005地球質量{{R|Krasinsky02}})を加算した結果から、大まかに求められ、その合計は約37地球質量(全質量の8.1%)と求められる。それから、天王星と海王星の質量の合計(約31地球質量)を差し引くと、約6地球質量(全質量の1.3%)の物質が太陽を公転している事になる。}}。
太陽系の惑星は、地球とほぼ同じ軌道平面上を公転しているが、彗星や太陽系外縁天体は、黄道面に対して大きく傾いた軌道を描くことが多い<ref>{{cite journal|last=Levison|first=H. F.|author2=Morbidelli, A.|title=The formation of the Kuiper belt by the outward transport of bodies during Neptune's migration|journal=[[ネイチャー|Nature]]|volume=426|pages=419-421|date=27 November 2003|url=http://www.nature.com/nature/journal/v426/n6965/abs/nature02120.html|doi=10.1038/nature02120|pmid=14647375|issue=6965|bibcode=2003Natur.426..419L}}</ref><ref>{{cite journal|title=From the Kuiper Belt to Jupiter-Family Comets: The Spatial Distribution of Ecliptic Comets|author1=Harold F. Levison |author2=Martin J Duncan |journal=[[Icarus]]|date=1997|pages=13-32|doi=10.1006/icar.1996.5637|issue=1|volume=127|bibcode=1997Icar..127...13L}}</ref>。太陽を公転するほぼすべての天体は、[[北極]]から見て反時計回りで公転しているが<ref>{{cite web|last=Grossman|first=Lisa|title=Planet found orbiting its star backwards for first time|publisher=New Scientist|date=2009-08-13|url=https://www.newscientist.com/article/dn17603-planet-found-orbiting-its-star-backwards-for-first-time.html|accessdate=2018-06-17}}</ref>、[[ハレー彗星]]のような例外も存在する。
太陽系の全体構造は時折、小惑星帯以内の4つの岩石惑星が公転している領域と、カイパーベルト以内の4つの巨大惑星が公転している領域に区別されることがあり、岩石惑星と小惑星帯を含む領域は'''内太陽系'''({{Lang-en|The inner Solar System}})、小惑星帯を超えた、4つの巨大惑星を含む領域は'''外太陽系'''({{Lang-en|The outer Solar System}})と呼ばれる<ref>{{cite web|title=An Overview of the Solar System|work=nineplanets.org|url=http://www.nineplanets.org/overview.html|accessdate=2018-06-17}}</ref>。カイパーベルトが発見されるようになってからは、カイパーベルトはそれらとは異なる、新たな領域として認識されるようになった<ref>{{cite web|title=New Horizons Set to Launch on 9-Year Voyage to Pluto and the Kuiper Belt|author=Amir Alexander|work=The Planetary Society|year=2006|url=http://www.planetary.org/news/2006/0116_New_Horizons_Set_to_Launch_on_9_Year.html|accessdate=2018-06-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060222080327/http://www.planetary.org/news/2006/0116_New_Horizons_Set_to_Launch_on_9_Year.html|archivedate=22 February 2006}}</ref>。
[[ファイル:Size planets comparison.jpg|upright=1.5|サムネイル|右|太陽系の8つの惑星の大きさを比較したイラスト。]]
太陽系内の多くの惑星は、周囲を公転している衛星を持ち、太陽系において二次的な構造をなす。また、4つの巨大惑星は周囲を公転する小天体からなる環を持っている。大きな衛星のほとんどは[[自転と公転の同期|自転と公転が同期]](潮汐固定)しており、片方の面を常に惑星に向けている。
{{multiple image
| align = right
| direction = vertical
| image1 = Solar system orrery inner planets.gif
| image2 = Solar system orrery outer planets.gif
| footer = 太陽系の惑星はほぼ黄道面上を公転している。太陽に近いほど、公転速度は速くなる。<br /><small>(上は内太陽系、下は外太陽系)</small>
| total_width = 300
}}
[[ケプラーの法則]]では、太陽を公転する物体の軌道について示されている。この法則によると、太陽を公転している物体は太陽をひとつの[[焦点 (幾何学)|焦点]]として、[[楕円]]で公転している。太陽に近い([[軌道長半径]]が小さい)物体は、より太陽の[[重力]]の影響を受けるため、高速で公転するようになる。楕円軌道では、公転するたびに軌道が変化し、太陽にもっとも接近する位置は'''[[近点・遠点|近日点]]'''、もっとも離れる位置は'''遠日点'''と呼ばれる。惑星の軌道はほぼ円形だが、小惑星や彗星、太陽系外縁天体は極端な楕円軌道になっていることが多い{{R|Newton09-pp18.19}}。こうした天体の軌道は[[数値モデル]]を用いて予測することができる。
太陽は太陽系全体の質量のほとんどを占めているが、[[角運動量]]については約2パーセントしか占めていない{{R|Marochnik95}}<ref>{{cite journal|last1=Bi|first1=S. L.|last2=Li|first2=T. D.|last3=Li|first3=L. H.|last4=Yang|first4=W. M.|title=Solar Models with Revised Abundance|doi=10.1088/2041-8205/731/2/L42|journal=The Astrophysical Journal|volume=731|issue=2|pages=L42|year=2011|arxiv=1104.1032|bibcode=2011ApJ...731L..42B}}</ref>。木星をはじめとする惑星の質量、軌道、太陽からの距離の組み合わせが、太陽系全体の角運動量の大部分を占め、彗星もそれに貢献しているとされている{{R|Marochnik95}}。
太陽系のほぼ全体を構成する太陽は、約98パーセントが水素とヘリウムからできている<ref>{{cite web|title=The Sun's Vital Statistics|url=http://solar-center.stanford.edu/vitalstats.html|publisher=Stanford Solar Center|accessdate=2018-06-17}}, citing {{cite book|last=Eddy|first=J.|title=A New Sun: The Solar Results From Skylab|url=https://history.nasa.gov/SP-402/contents.htm|publisher=NASA|year=1979|page=37|id=NASA SP-402}}</ref>。それ以外の構成のほとんどを占めている木星と土星も、おもに水素とヘリウムからできている{{R|Newton09-pp18.19|JupiterFact|SaturnFact}}。太陽系内では、太陽からの熱と[[光圧]]によって組成に差が生じており、原則、太陽に近い天体は融点の高い物質、遠い天体は融点が低い物質から構成されている<ref>{{cite book|title= Encyclopedia of the solar system|author1=Paul Robert Weissman|author2=Torrence V. Johnson|date=2007|page=615|isbn=0-12-088589-1|publisher=Academic Press}}</ref>。これらの物質が凝固する可能性のある境界線を[[雪線 (天文学)|雪線]](フロストライン)という。たとえば、太陽系での[[水]]の雪線は、火星軌道と木星軌道の間になる{{R|Muuma03}}。
内太陽系の天体は、先述の通りおもに岩石で構成されており{{R|Weizman95}}、主成分は[[ケイ素]]、[[鉄]]、[[ニッケル]]などの[[原始惑星系円盤]]内でも、固体として存在していた高融点化合物である。木星型惑星の木星と土星は、原始惑星系円盤内では気体として存在していた水素、ヘリウム、[[ネオン]]などの低融点で[[蒸気圧]]の高い物質で構成されている。よって現在では、太陽系内の位置によって、物質の形態が固体か液体か気体かは変化するが、原始惑星系円盤が存在していたころは、固体と気体の物質しか存在しなかったとされている{{R|Podolak2000}}。それに対して、多くの衛星や天王星、海王星、そして太陽系外縁天体には氷が多く含まれている{{R|Weizman95}}<ref>{{cite book|page=240|author=Michael Zellik|title=Astronomy: The Evolving Universe|edition=9th|year=2002|publisher=[[ケンブリッジ大学|Cambridge University Press]]|isbn=0-521-80090-0|oclc=223304585}}</ref>。この氷と気体が混ざったものを{{仮リンク|揮発性物質|en|Volatiles}}と呼ぶ<ref>{{cite book|last=Placxo|first=Kevin W.|author2=Gross, Michael |title=Astrobiology: a brief introduction|year=2006|publisher=[[JHU Press]]|page=66|isbn=978-0-8018-8367-5|url=https://books.google.com/?id=2JuGDL144BEC&pg=PA66&dq=inventory+volatiles+hydrogen&q=inventory%20volatiles%20hydrogen}}</ref>。
=== 規模 ===
地球から太陽までの距離を基準とした単位を'''[[天文単位]]'''({{Lang-en|astronomical unit}}、au)と呼び、1 auは約1億5000万 kmに相当し、太陽の半径は0.0047 au(70万 km)となる。<!-- For comparison, the radius of the Sun is {{convert|0.0047|AU|km|abbr=on|sigfig=1}}. Thus, the Sun occupies 0.00001% (10{{sup-|5}} %) of the volume of a sphere with a radius the size of Earth's orbit, whereas Earth's volume is roughly one millionth (10{{sup-|6}}) that of the Sun. -->最大の惑星である木星は5.2 au(7億8,000万キロ)離れており、もっとも遠い海王星は30au(45億キロ)離れている。
いくつか例外はあるが、太陽から離れるに従って、惑星同士の間隔は広くなっていく。たとえば、水星と金星は0.33au離れているが、木星と土星は4.3au、天王星と海王星は10.5au離れている。こうした惑星の太陽からの距離の関係を数式化する試みがなされ、代表的なものとして[[ティティウス・ボーデの法則]]がある<ref>{{cite web|title=Dawn: A Journey to the Beginning of the Solar System|work=Space Physics Center: UCLA|url=http://www-ssc.igpp.ucla.edu/dawn/background.html|year=2005|accessdate=2018-06-17|deadurl=yes|archiveurl=https://archive.is/20120524184638/http://www-ssc.igpp.ucla.edu/dawn/background.html|archivedate=24 May 2012}}</ref>。しかし、こうした説は科学的根拠は示されておらず、現在では受け入れられていない。
太陽系の相対的なスケールを人間規模で示そうとするモデルもあり、規模が小さなものとしては[[太陽系儀]]などがあるが、複数の都市や地域にまたがっている巨大なものもある<ref>{{cite web|url=http://www.noao.edu/education/peppercorn/pcmain.html|title=The Thousand-Yard Model |subtitle Earth as a Peppercorn|author=Guy Ottewell|year=1989|work=NOAO Educational Outreach Office|accessdate=2018-06-17}}</ref>。このような太陽系のモデルとしてもっとも大規模な[[スウェーデン・ソーラー・システム]]は、[[ストックホルム]]にある直径110メートルの[[ストックホルム・グローブ・アリーナ]]を太陽に見立てており、たとえば木星はこのスケールに従うと、直径7.5メートルの球体で、約40キロ離れた[[ストックホルム・アーランダ国際空港]]内にそのオブジェが設置されている。現時点で設置されているもっとも遠いオブジェは、直径10センチの球である[[セドナ (小惑星)|セドナ]]で、約912キロ離れている<ref>{{cite web|url=http://www.kuriren.nu/arkiv/2005/11/17/Lokalt/1510647/Lule%C3%A5-%C3%A4r-Sedna.aspx|title=Luleå är Sedna. I alla fall om vår sol motsvaras av Globen i Stockholm.|publisher=Norrbotten Kuriren (in Swedish)|accessdate=2018-06-17|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100715074955/http://www.kuriren.nu/arkiv/2005/11/17/Lokalt/1510647/Lule%C3%A5-%C3%A4r-Sedna.aspx|archivedate=15 July 2010}}</ref><ref>{{cite web|url=http://ttt.astro.su.se/swesolsyst/stationer.html|title=Sweden Solar System: Stationer|language=Swedish|publisher=Sweden Solar System|accessdate=2018-06-17}}</ref>。
太陽から海王星までの距離を100メートルとすると、太陽の直径は3センチになり、巨大惑星はいずれも3ミリ以下の大きさになる。地球を含めた岩石惑星は、この縮尺に従うと0.3ミリ以下の大きさにしかならない<ref>{{cite web|date=9 July 2004|url=http://www.nasa.gov/audience/foreducators/5-8/features/F_Solar_System_Scale.html|title=Solar System Scale|work=NASA Educator Features|author=Office of Space Science|accessdate=2018-06-17}}</ref>。一方で、太陽の直径を1メートルとすると、地球は107メートル、海王星は3.2キロ離れていることになる<ref>[[#Newton09|ニュートン (別2009)、1章 太陽系とは、pp.26-27 太陽系のスケールを実感してみよう]]</ref>。
{{wide image|Solar System planets, dual scale.jpg|5000px|{{center|実際の距離の比率で描かれた太陽系のおもな天体(天体の大きさの縮尺と距離の縮尺は同じではない)。}}}}
== 起源と進化 ==
{{Main|太陽系の形成と進化}}
[[ファイル:Protoplanetary-disk.jpg|サムネイル|右|原始惑星系円盤の想像図]]
[[銀河系]]には、水素やヘリウム、そして少量の重元素からなる岩石質や有機質の微小な塵([[宇宙塵|星間塵]])を含む[[星間ガス]]がある。このような星間ガスが1,000個/cm{{sup|3}}を超える[[数密度]]となる場合を[[星間雲]]といい、内部で[[水素分子]]が形成されるようになる。通常、星間雲はごくゆっくりと回転している。星間雲は均質ではなく、密度の偏りがある。この偏りが大きくなって数密度が100億個を超える部分ができることがあり、そうなると[[一酸化炭素]]、[[シアン化水素]]、[[アンモニア]]などのさまざまな分子が形成される。これを[[分子雲]]と呼ぶ。太陽系は約45億6800万年前に、この分子雲の[[重力崩壊]]によって形成された<ref>{{cite conference|author=W. M. Irvine|title=The chemical composition of the pre-solar nebula|booktitle=Cometary Exploration|year=1983|volume=1|editor=T. I. Gombosi|pages=3-12|url=https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/1983coex....1....3I/abstract}}</ref>{{Refnest|group="注"|name=c|この年齢の値は、現在までに発見されている最も古い[[隕石]]に含まれていた含有物から算出された「45億6820万{{+-|20万|40万}}年」という値に基づいており、収縮する分子雲の中で初めて固体物質が形成された頃とされている<ref>{{cite journal|last1=Bouvier|first1=A.|last2=Wadhwa|first2=M.|year=2010|title=The age of the Solar System redefined by the oldest Pb-Pb age of a meteoritic inclusion|url=|journal=Nature Geoscience|volume=3|issue=9|pages=637-641|doi=10.1038/NGEO941|bibcode=2010NatGe...3..637B}}</ref>。}}。この分子雲は数光年ほどの大きさを持ち、太陽と同時にいくつもの恒星を形成した可能性がある{{R|Arizona}}。現在の太陽系が形成される領域で、{{仮リンク|pre-Solar nebula|en|solar nebula}}と呼ばれる星雲が形成される<ref>{{cite conference|title=The chemical composition of the pre-solar nebula |author=Irvine, W. M.|booktitle=Cometary exploration; Proceedings of the International Conference|volume=1|pages=3|date=1983|bibcode=1983coex....1....3I}}</ref>。そして、[[角運動量保存の法則]]によって、分子雲は収縮時、より速く自転するようになり、原子が頻繁に衝突による[[運動エネルギー]]が[[熱]]に変換されて、温度が高くなる{{R|Arizona}}。自転の加速によって中心に'''原始太陽'''が誕生し、当時の[[光度 (天文学)|光度]]は現在の10倍、表面温度は約4,000 [[ケルビン|K]]であったとされている<ref>[[#Newton09|ニュートン (別2009)、6章 太陽系のなりたち、pp.122-123 ガス円盤の中心で原始太陽が産声をあげた]]</ref>。その周囲には、直径約200au{{R|Arizona}}にもわたる'''[[原始惑星系円盤]]'''(もしくは原始惑星系星雲、特に太陽系の場合は'''原始太陽系円盤'''とも呼ばれる)が形成され始めた<ref>{{cite journal|last=Greaves|first=Jane S.|date=7 January 2005|title=Disks Around Stars and the Growth of Planetary Systems|journal=[[サイエンス|Science]]|volume=307|issue=5706|pages=68-71|doi=10.1126/science.1101979|pmid=15637266|bibcode=2005Sci...307...68G}}</ref><ref>{{cite web|date=5 April 2000|url=http://www.nap.edu/openbook.php?record_id=1732&page=21|title=Present Understanding of the Origin of Planetary Systems|publisher=National Academy of Sciences|accessdate=2018-06-16}}</ref><ref>[[#natgeo|日経ナショナル ジオグラフィック、2.地球に近い仲間たち、pp.50-51 太陽系の形成]]</ref>。そこで形成された、惑星の元となる[[微惑星]]が約100億個形成され<ref>[[#Newton09|ニュートン (別2009)、6章 太陽系のなりたち、pp.124-125 100億個もの惑星の卵がつくられた]]</ref>、塵やガスが合体を繰り返し、より大きな[[原始惑星]]へと成長していく<ref>{{cite journal|doi=10.1086/429160|title=Chondrule-forming Shock Fronts in the Solar Nebula: A Possible Unified Scenario for Planet and Chondrite Formation|year=2005|author=Boss, A. P.|journal=[[アストロフィジカルジャーナル|The Astrophysical Journal]]|volume=621|issue= 2|pages=L137|last2=Durisen|first2=R. H.|bibcode=2005ApJ...621L.137B|arxiv=astro-ph/0501592}}</ref>。初期の太陽系には、こうした原始惑星が何百個も存在していたとされているが、合体や破壊を繰り返して、現在の惑星や準惑星、小惑星などが形成された。
太陽周辺の温度の高い領域では、沸点が高い金属や[[ケイ酸塩]]のみが固体として存在でき、このような物質が地球型惑星の水星、金星、地球、火星を形成した。金属元素は、原始惑星系円盤の中でも一部しか存在していないため、地球型惑星は大きく成長することができなかった。地球のような[[地球型惑星|固体惑星]]がいつ形成されたかについては、星雲ガスがあるときか、消失後か、議論の余地がある。星雲ガスがなくなると、[[ガス抵抗]]がなくなるため、原始惑星の軌道が乱れるとその乱れを抑えるものがなくなる。すると、原始惑星は互いの重力相互作用により接近し、軌道が乱されるようになる。微惑星同士の衝突があったように、原始惑星同士も衝突するようになる。星雲ガスがないため衝突は激しいものになり、破壊も合体もいずれも起こるようになる。このような巨大衝突の繰り返しで、金星、地球が形成されたと考えられる。水星と火星は原始惑星の生き残りか、成長がわずかであったものであろう。地球の[[月]]は、地球形成末期に起きた巨大衝突の産物であるとする説([[ジャイアント・インパクト説]])が有力である。
巨大惑星(木星型惑星と天王星型惑星)は、現在の火星軌道と木星軌道にある雪線の外側で形成された。これらの惑星を形作っている氷結した揮発性の化合物は、地球型惑星を形成している金属元素やケイ酸塩よりも豊富に存在していたため、これらの惑星は水素とヘリウムからなる分厚い大気を取り込むのに十分な、地球の10倍の質量を持った大きな原始惑星にまで成長することができた<ref>[[#Newton09|ニュートン (別2009)、6章 太陽系のなりたち、pp.128-129 円盤のガスはだんだんなくなっていった]]</ref>。木星と土星の質量が異なるのは、土星形成の後期に、何らかの理由で星雲ガスが消失し、材料となるガスそのものがなくなったためであり、天王星、海王星の質量が小さい段階にとどまったのも、この2つの惑星は星雲終末期にガスの取り込みが始まったため、あまり成長できずに終わったためであると考えられている。小惑星帯、カイパーベルト、オールトの雲は、惑星になりきれなかった残骸となった小天体が密集したものとされており、[[ニースモデル]]では、これらの領域の形成と、巨大惑星が形成された位置、さまざまな重力による作用を介して、どのように今の軌道に落ち着いたかを示している。
[[ファイル:Sun Life.png|upright=1.5|サムネイル|左|太陽の進化の時系列を簡潔にまとめた図]]
形成から5000万年までに、原始太陽の中心にある水素の圧力と密度が[[熱核融合]]を起こすのに、十分大きくなったとされている<ref>{{cite journal|author1=Sukyoung Yi|author2=Pierre Demarque|author3=Yong-Cheol Kim|author4=Young-Wook Lee|author5=Chang H. Ree |author6=Thibault Lejeune|author7=Sydney Barnes|title=Toward Better Age Estimates for Stellar Populations: The ''Y''{{sup|2}} Isochrones for Solar Mixture|journal=Astrophysical Journal Supplement|arxiv=astro-ph/0104292|year=2001|volume=136|issue=2|pages=417-437|doi=10.1086/321795|bibcode=2001ApJS..136..417Y}}</ref>。温度や反応速度、圧力、密度は太陽が[[静水圧平衡]]を満たすまで上昇し、やがて熱の圧力と自身の重力が等しくなり、太陽は[[主系列星]]となった<ref>{{cite journal|author1=A. Chrysostomou|author2=P. W. Lucas|title=The Formation of Stars|journal=Contemporary Physics|year=2005|volume=46|issue=1|pages=29-40|bibcode=2005ConPh..46...29C|doi=10.1080/0010751042000275277}}</ref>。この主系列星の段階は約100億年続くとされている{{R|Schröder08}}。やがて、太陽から放出した[[太陽風]]が太陽圏(ヘリオスフィア)を形成し、周囲の原始惑星系円盤が強い[[紫外線]]によって宇宙空間に放出されたか、原始太陽に落下していったことにより、惑星の成長はほぼ落ち着いた。主系列星になったころの太陽の[[光度 (天文学)|光度]]は現在の約70パーセントで、徐々に増光して今に至る<ref>{{cite journal|title=Towards a Solution to the Early Faint Sun Paradox: A Lower Cosmic Ray Flux from a Stronger Solar Wind|author=Nir J. Shaviv|journal=Journal of Geophysical Research|doi=10.1029/2003JA009997|arxiv=astroph/0306477|date=2003|volume=108|issue=A12|page=1437|bibcode=2003JGRA..108.1437S}}</ref>。
[[ファイル:Red Giant Earth warm.jpg|サムネイル|左|赤色巨星となった太陽と、高温のため、水や大気を失った地球の想像図。]]
太陽系は、太陽の中心核にある水素が、すべて[[核融合反応]]によってヘリウムになる約50億年後{{R|Schröder08}}までは、現在とほとんど変わらない構造を維持するとされている。ヘリウムによる核融合反応は主系列星の段階を終えたことを意味している。このとき、太陽の中心核の内部では、内部に形成されたヘリウムの周囲に沿って分布している水素が核融合反応を起こしており、それによって中心核は収縮していき、放出されるエネルギーは現在よりもはるかに大きくなるとされている<ref name=Newton09-pp140.141>[[#Newton09|ニュートン (別2009)、7章 太陽系の最期、pp.140-141 太陽は超巨大な赤い星に変化するという]]</ref>。そして、太陽の外層が膨張を始め、直径は現在の256倍にまで膨れ上がり、[[赤色巨星]]へ進化する{{R|Schröder08}}。表面積が大きくなるため表面温度は低下していき、最低で2,600 Kまで低下する可能性がある。このころには、地球上の水はすべて蒸発し、生物が存在することはできなくなっている。中心核では収縮が続くため温度が上昇し、その結果、ヘリウムによる核融合反応が始まる。それにより、太陽は一時的に安定し、直径も現在の11 - 19倍にまで小さくなる{{R|Newton09-pp140.141}}。しかし、太陽はより重い元素で核融合反応を起こすほどの十分な大きさを持っていないため、核融合反応は徐々に弱くなり、この安定期間は1億3000万年しか持続されないと考えられている{{R|Newton09-pp140.141}}。最終的に外層は吹き飛ばされ、中心核は地球ほどの大きさと、現在の太陽の半分の質量を持った[[白色矮星]]となって残される<ref>{{cite web|author=Pogge, Richard W.|year=1997|url=http://www.astronomy.ohio-state.edu/~pogge/Lectures/vistas97.html|title=The Once & Future Sun|work=New Vistas in Astronomy|accessdate=2018-06-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050527094435/http://www-astronomy.mps.ohio-state.edu/Vistas/|archivedate=27 May 2005|deadurl=yes}}</ref>。放出された外層は、太陽を形成していた物質の一部と、核融合反応によって新たに合成された、[[炭素]]などの重元素を含んでおり、やがて[[惑星状星雲]]となる。
== 太陽 ==
{{Main|太陽}}
[[ファイル:The Sun by the Atmospheric Imaging Assembly of NASA's Solar Dynamics Observatory - 20100819.jpg|upright|サムネイル|右|太陽]]
'''[[太陽]]'''({{Lang-en|Sun}})は、太陽系における唯一の[[恒星]]で、最も質量の大きな[[天体]]である。太陽系の全質量の99.86%([[地球質量]]の33万2900倍<ref>{{cite web|title=Sun: Facts & Figures|publisher=NASA|url=http://solarsystem.nasa.gov/planets/profile.cfm?Object=Sun&Display=Facts&System=Metric|accessdate=2018-06-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080102034758/http://solarsystem.nasa.gov/planets/profile.cfm?Object=Sun&Display=Facts&System=Metric|archivedate=2 January 2008}}</ref>)を占めており、中心核で[[水素]]が[[ヘリウム]]に変換する[[核融合]]反応を起こしている[[G型主系列星]]である<ref>{{Cite journal|last=Woolfson|first=M.|year=2000|title=The origin and evolution of the solar system|journal=Astronomy & Geophysics|volume=41|issue=1|page=12|bibcode=2000A&G....41a..12W|doi=10.1046/j.1468-4004.2000.00012.x}}</ref>。多くのエネルギーを放出しているが、[[電磁波]]の中では、[[可視光]]を最も多く宇宙空間に放射している<ref>{{cite web|title=Why is visible light visible, but not other parts of the spectrum?|publisher=The Straight Dome|date=2003|url=http://www.straightdope.com/columns/read/2085/why-is-visible-light-visible-but-not-other-parts-of-the-spectrum|accessdate=2018-06-17}}</ref>。
[[スペクトル型]]はG2型で、[[G型主系列星]]に分類される。原則、[[主系列星]]は表面温度が高いほど光度を増すが、太陽は主系列星の中でもほぼ中間の規模を持っている。太陽より明るい恒星は少ないが、とても暗く、温度も低い[[赤色矮星]]([[M型主系列星]])は、銀河系では恒星全体の約85%を占めている<ref>{{cite web|first=Ker|last=Than|title=Astronomers Had it Wrong: Most Stars are Single |publisher=Space.com|date=30 January 2006|url=http://www.space.com/scienceastronomy/060130_mm_single_stars.html|accessdate=2018-06-17}}</ref><ref>{{cite conference|year=2001|pages=119|author1=Smart, R. L.|author2=Carollo, D.|author3=Lattanzi, M. G.|author4=McLean, B.|author5=Spagna, A.|booktitle=Ultracool Dwarfs: New Spectral Types L and T|editor1=Hugh R. A. Jones |editor2=Iain A. Steele|publisher=Springer|title=The Second Guide Star Catalogue and Cool Stars|bibcode=2001udns.conf..119S}}</ref>。
[[星の種族]]において、太陽は、[[重元素]]に富んだ種族Iの恒星に分類される<ref>{{cite journal|author1=T. S. van Albada|author2=Norman Baker|title=On the Two Oosterhoff Groups of Globular Clusters|journal=The Astrophysical Journal|volume=185|date=1973|pages=477-498|doi=10.1086/152434|bibcode=1973ApJ...185..477V}}</ref>。<!-- Elements heavier than hydrogen and helium were formed in the cores of ancient and exploding stars, so the first generation of stars had to die before the Universe could be enriched with these atoms. The oldest stars contain few metals, whereas stars born later have more.-->豊富に含まれている重元素は、惑星を形成するのに必要不可欠な材料であったとされている<ref>{{cite journal |title=An Estimate of the Age Distribution of Terrestrial Planets in the Universe: Quantifying Metallicity as a Selection Effect|author=Charles H. Lineweaver|journal=Icarus|date=9 March 2001|arxiv=astro-ph/0012399|doi=10.1006/icar.2001.6607|volume=151|issue=2|pages=307-313|bibcode=2001Icar..151..307L}}</ref>
== 惑星間物質 ==
{{Main|惑星間物質|太陽風}}
[[ファイル:Heliospheric-current-sheet.gif|サムネイル|左|[[太陽圏電流シート]]]]
太陽系内の大部分の空間は、'''[[惑星間物質]]'''({{Lang-en|Interplanetary medium}})と呼ばれる物質で満たされているが、ほぼ[[真空]]に近い状態である。
主なものとして、[[太陽風]]と呼ばれる、太陽が光とともに放出している荷電粒子([[プラズマ]])を帯びた物質の流れがある。この粒子は時速150万キロの速度で広がっていき<ref>{{cite web|title=Solar Physics: The Solar Wind|work=Marshall Space Flight Center|date=16 July 2006|url=http://solarscience.msfc.nasa.gov/SolarWind.shtml|accessdate=2018-06-16}}</ref>、少なくとも直径100 [[天文単位|au]]に及ぶ{{R|Voyager}}太陽圏内を満たしている。[[太陽フレア]]や[[コロナ質量放出]](CME)のような太陽の表面上で発生する恒星活動は、[[宇宙天気]]や[[磁気嵐]]を発生させる場合もある<ref>{{cite web|url=https://science.nasa.gov/headlines/y2001/ast15feb_1.htm|title=The Sun Does a Flip|accessdate=2018-06-17|last=Phillips|first=Tony|date=15 February 2001|work=NASA-Science News|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090512121817/https://science.nasa.gov/headlines/y2001/ast15feb_1.htm|archivedate=2009-05-12}}</ref>。
太陽圏内で最も大きな構造は、太陽の磁場が自転によって回転することにより螺旋状に生成される惑星間物質の構造で、[[太陽圏電流シート]]と呼ばれる<ref>{{cite web|url=https://science.nasa.gov/headlines/y2003/22apr_currentsheet.htm|title=A Star with two North Poles|date=22 April 2003|work=NASA-Science News|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090718014855/https://science.nasa.gov/headlines/y2003/22apr_currentsheet.htm|archivedate=2009-07-18|accessdate=2018-06-17}}</ref><ref>{{cite journal|last1=Riley|bibcode=2002JGRA..107.1136R|first1=Pete|title=Modeling the heliospheric current sheet: Solar cycle variations|doi=10.1029/2001JA000299|date=2002|volume=107|journal=Journal of Geophysical Research|url=https://doi.org/10.1029/2001JA000299}}</ref>。
[[地球]]の[[磁場]]は、[[太陽風]]から大気が剥ぎ取られるのを防ぐ役割を果たしている<ref>{{cite web|url=https://science.nasa.gov/science-news/science-at-nasa/1998/ast08dec98_1/|title=Solar Wind blows some of Earth's atmosphere into space|date=8 December 1998|work=Science@NASA Headline News|accessdate=2018-06-17}}</ref>。一方で、金星と火星には磁場がないため、太陽風によって大気が宇宙空間に剥ぎ取られている<ref>{{cite journal|last=Lundin|first=Richard|year=2001|title=Erosion by the Solar Wind|journal=Science|volume=291|issue=5510|page=1909|doi=10.1126/science.1059763|pmid=11245195}}</ref>。<!-- Coronal mass ejections and similar events blow a magnetic field and huge quantities of material from the surface of the Sun.-->この太陽風は、地球の磁場に沿って、大気上層部に[[荷電粒子]]を流入し、極地に[[オーロラ (代表的なトピック)|オーロラ]]を発生させている。
太陽圏と各惑星が持つ磁場は、[[宇宙線]]と呼ばれる、星間空間を飛び交う高エネルギー粒子の一部を太陽系から遮蔽している。星間空間における宇宙線の密度と太陽の磁場の強さは非常に長い時間スケールで変化するため、太陽系内での宇宙線の密度は変動するが、どれだけ変動するかは分かっていない<ref>{{cite journal|last=Langner|first=U. W.|author2=M. S. Potgieter|year=2005|title=Effects of the position of the solar wind termination shock and the heliopause on the heliospheric modulation of cosmic rays|journal=Advances in Space Research|volume=35|issue=12|pages=2084-2090|doi=10.1016/j.asr.2004.12.005|bibcode=2005AdSpR..35.2084L}}</ref>。
ほかの惑星間物質として、少なくとも2つの[[宇宙塵]]で構成された円盤がある。
1つ目は[[惑星間塵]]と呼ばれ、[[黄道光]]を引き起こしている。これは、惑星との[[重力相互作用]]で生じた、小惑星帯内での小惑星の衝突などによって生成された可能性が高い<ref>{{cite web|title=Long-term Evolution of the Zodiacal Cloud|url=http://astrobiology.arc.nasa.gov/workshops/1997/zodiac/backman/IIIc.html|year=1998|accessdate=2018-06-16|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060929030040/http://astrobiology.arc.nasa.gov/workshops/1997/zodiac/backman/IIIc.html|archivedate=29 September 2006}}</ref>。
2つ目は、10 - 40auにかけて分布しており、これは[[カイパーベルト]]内の[[太陽系外縁天体]]の衝突によって生成されたとされている<ref>{{cite web|title=ESA scientist discovers a way to shortlist stars that might have planets|work=ESA Science and Technology|url=http://sci.esa.int/science-e/www/object/index.cfm?fobjectid=29471|year=2003|accessdate=2018-06-16}}</ref><ref>{{cite journal|last=Landgraf|first=M.|author2=Liou, J.-C.|author3=Zook, H. A.|author4= Grün, E.|date=May 2002|title=Origins of Solar System Dust beyond Jupiter|journal=The Astronomical Journal|volume=123|issue=5|pages=2857-2861|doi=10.1086/339704|url=http://astron.berkeley.edu/~kalas/disksite/library/ladgraf02.pdf|bibcode=2002AJ....123.2857L|arxiv=astro-ph/0201291}}</ref>。
== 内太陽系 ==
[[ファイル:4 Terrestrial Planets Size Comp True Color.png|サムネイル|右|内太陽系の惑星の大きさを比較した図]]
内太陽系は比較的、太陽の近くを公転しており、おもにケイ酸塩と金属からなる地球型惑星と、小惑星帯からなる。内太陽系の範囲は、木星軌道と土星軌道の間隔よりも短い。この領域は雪線より、わずかに内側に位置している。
=== 内惑星系 ===
内太陽系に位置している4つの惑星は、'''内惑星'''({{Lang-en|Inner planet}})と呼ばれている。比較的高密度で、岩石から形成されており、衛星はほとんど、あるいはまったく持っておらず、環についてはどの惑星も持っていない。[[地殻]]と[[マントル]]は、おもにケイ酸塩から成り、[[核 (天体)|核]]は鉄やニッケルなどの金属からなる。4つの内惑星のうち、水星以外の3つは[[天候]]を発生させるのに十分な大気を持っている。全ての惑星の表面には、[[クレーター]]や[[テクトニクス]]・[[裂谷]]・[[火山]]といった地質的特徴を持っている。ここにおける「内惑星」とは、内太陽系にある4つの惑星の分類を指している。これとは別に、地球より内側を公転している水星と金星を[[内惑星]]({{Lang-en|'''Inferior planet'''}})と呼ぶことがある。この場合、地球はどちらにも属さず、火星は対義語の[[外惑星]]に分類される。
==== 水星(太陽系第1惑星) ====
{{Main|水星}}
'''水星'''({{Lang-en|Mercury}})は、太陽系の惑星でもっとも太陽に近い太陽系第1惑星。また、最も小さく、質量も小さい。天然の衛星は持っていない。表面にはクレーターの他に、形成初期に水星が収縮した際に形成された「尾根」や「{{仮リンク|ルペス|en|Rupes}}」と呼ばれる地形がある<ref>Schenk P., Melosh H. J. (1994), ''Lobate Thrust Scarps and the Thickness of Mercury's Lithosphere'', Abstracts of the 25th Lunar and Planetary Science Conference, 1994LPI....25.1203S</ref>。水星をまとっている非常に薄い大気は、太陽風によって巻き上げられたことなどにより形成されていると考えられている<ref>{{cite web|author=Bill Arnett|title=Mercury|work=The Nine Planets|url=http://www.nineplanets.org/mercury.html|year=2006|accessdate=2018-06-16}}</ref>。他の地球型惑星よりも核が大きく、マントルが薄くなっており、その理由はまだはっきりとは分かっていない。仮説として、ジャイアント・インパクトのような巨大衝突で地殻が剥ぎ取られたり、太陽によって岩石質の地殻が蒸発したことにより、密度が高い惑星になったりした可能性などが示されている<ref>{{cite journal|last1=Benz|first1=W.|last2=Slattery|first2=W. L.|last3=Cameron|first3=A. G. W.|year=1988|title=Collisional stripping of Mercury's mantle|url=|journal=Icarus|volume=74|issue=3|pages=516-528|doi=10.1016/0019-1035(88)90118-2|bibcode=1988Icar...74..516B}}</ref><ref>{{cite journal|last1=Cameron|first1=A. G. W.|year=1985|title=The partial volatilization of Mercury|url=|journal=Icarus|volume=64|issue=2|pages=285-294|doi=10.1016/0019-1035(85)90091-0|bibcode=1985Icar...64..285C}}</ref><ref>[[#Newton09|ニュートン (別2009)、3章 地球型惑星、pp.58-59 水星の巨大な核はどうやってできた?]]</ref>。
==== 金星(太陽系第2惑星) ====
{{Main|金星}}
'''金星'''({{Lang-en|Venus}})は太陽系の第2惑星で、規模は最も地球に近い。地球と同様に、鉄で出来た核と分厚いケイ酸塩のマントル、分厚い大気があり、そして地質活動の痕跡も見られる。地球よりも非常に乾燥しており、大気圧は地球の90倍にも及ぶ。天然の衛星は持っていない。表面温度は400℃を超えており、これは太陽系の惑星の中では最も高温である。この高い表面温度は、分厚い大気による[[暴走温室効果]]によって引き起こされている<ref>{{cite journal|author=Mark Alan Bullock |title=The Stability of Climate on Venus|publisher=Southwest Research Institute |year=1997|url=http://www.boulder.swri.edu/~bullock/Homedocs/PhDThesis.pdf|format=PDF|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070614202751/http://www.boulder.swri.edu/~bullock/Homedocs/PhDThesis.pdf|archivedate=14 June 2007|df=dmy-all}}</ref>。現在の金星では地質活動は確認されていないが、大気の流出を防ぐ磁場がないため、火山活動などによって大気が供給されている可能性が示唆されている<ref>{{cite web|author=Paul Rincon |title=Climate Change as a Regulator of Tectonics on Venus|work=Johnson Space Center Houston, TX, Institute of Meteoritics, University of New Mexico, Albuquerque, NM|url=http://www.boulder.swri.edu/~bullock/Homedocs/Science2_1999.pdf |format=PDF|year=1999|accessdate=2018-06-17|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070614202807/http://www.boulder.swri.edu/~bullock/Homedocs/Science2_1999.pdf|archivedate=14 June 2007|df=dmy-all}}</ref>。
==== 地球(太陽系第3惑星) ====
{{Main|地球}}
[[ファイル:Moon, Earth size comparison.jpg|サムネイル|右|地球と月の大きさの比較]]
'''地球'''({{Lang-en|Earth}})は太陽系の第3惑星で、内惑星系の中ではもっとも大きく、高密度な天体である。また、[[プレートテクトニクス]]と[[生命]]の存在が確認されている唯一の天体でもある<ref>{{cite web|title=What are the characteristics of the Solar System that lead to the origins of life?|publisher=NASA Science (Big Questions)|url=https://science.nasa.gov/planetary-science/big-questions/what-are-the-characteristics-of-the-solar-system-that-lead-to-the-origins-of-life-1/|accessdate=2018-06-17}}</ref>。地球の大気は、ほかの惑星とは大きく異なり、生命活動によって大気の21パーセントを[[酸素]]が占めている<ref>{{cite web|title=Earth's Atmosphere: Composition and Structure|author=Anne E. Egger, M.A./M.S. |work=VisionLearning.com|url=http://www.visionlearning.com/library/module_viewer.php?c3=&mid=107&l=|accessdate=2018-06-17}}</ref>。天然の衛星として[[月]]を持っており、太陽系の岩石惑星が持つ衛星の中ではもっとも大きい。
==== 火星(太陽系第4惑星) ====
{{Main|火星}}
'''火星'''({{Lang-en|Mars}})は太陽系の第4惑星で、地球や金星よりも小さい。大気圧はわずか6.1 [[バール (単位)|mbar]](地球の0.6%)で、主に[[二酸化炭素]]からなる<ref>{{cite book|title= Encyclopaedia of the Solar System|editor=Lucy-Ann McFadden|display-editors=etal|chapter=Mars Atmosphere: History and Surface Interactions|author1=David C. Gatling|author2=Conway Leovy|pages=301-314|year=2007}}</ref>。[[オリンポス山]]のような大規模な山や、[[マリネリス渓谷]]のような渓谷などがある表面から、200万年前まで地質活動が起きていた可能性が示されている<ref>{{cite web|title=Modern Martian Marvels: Volcanoes?|author=David Noever|work=NASA Astrobiology Magazine|url=http://www.astrobio.net/news/modules.php?op=modload&name=News&file=article&sid=1360&mode=thread&order=0&thold=0|year=2004|accessdate=2018-06-17}}</ref>。表面は[[酸化鉄]](錆)に覆われているため、肉眼では赤く見える<ref>{{cite web|title=Mars: A Kid's Eye View|publisher=NASA|url=http://solarsystem.nasa.gov/planets/profile.cfm?Object=Mars&Display=Kids|accessdate=2018-06-17}}</ref>。火星は、小惑星帯から捕獲された小惑星か<ref>{{cite web|year=2004|title=A Survey for Outer Satellites of Mars: Limits to Completeness|author1=Scott S. Sheppard|author2=David Jewitt|author3=Jan Kleyna|last-author-amp=yes|work=Astronomical Journal|url=http://www2.ess.ucla.edu/~jewitt/papers/2004/SJK2004.pdf|format=PDF|accessdate=2018-06-17}}</ref>、火星で起きた巨大衝突によって放出された破片から形成されたとされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.astroarts.co.jp/article/hl/a/890_martian_moons|title=火星の衛星は巨大天体衝突で形成可能、シミュレーションで解明|work=AstroArts|date=2016-07-06|accessdate=2018-06-17}}</ref><ref>{{cite journal|author=Pascal Rosenblatt|author2=Sébastien Charnoz|author3=Kevin M. Dunseath|author4=Mariko Terao-Dunseath|author5=Antony Trinh|author6=Ryuki Hyodo|author7=Hidenori Genda|author8=Stéven Toupin|title=Accretion of Phobos and Deimos in an extended debris disc stirred by transient moons|journal=Nature Geoscience|volume=9|pages=581-583|year=2016|doi=10.1038/ngeo2742}}</ref>、2つの小さな衛星([[フォボス (衛星)|フォボス]]・[[ダイモス (衛星)|ダイモス]])を持っている。
=== 小惑星帯 ===
{{Main|小惑星帯}}
[[ファイル:InnerSolarSystem-ja.png|thumb|小惑星帯の小惑星は、火星と木星の間にリング状に分布している。
{| style="width:100%;"
|-
| valign=top |
{{legend2|#FFFF00|border=1px solid #B3B300|太陽}}<br />
{{legend2|#6ad768|border=1px solid #36C133|木星のトロヤ群}}<br />
{{legend2|#007DD6|border=1px solid #00508A|惑星の軌道}}
| valign=top |
{{legend2|#e9e9e9|border=1px solid #999999|小惑星帯}}<br />
{{legend2|#d39300|border=1px solid #855D00|[[ヒルダ群]]}}<br />
{{legend2|#c90000|border=1px solid #940000|[[地球近傍天体]] {{small|(一部)}}}}
|}
]]
'''小惑星帯'''({{Lang-en|Asteroid belt}})または'''メインベルト'''({{Lang-en|Main belt}})は、火星軌道と木星軌道の間にある、[[小惑星]]が密集した領域である。もっとも大きな[[ケレス (準惑星)|ケレス]]を除く小惑星は、[[太陽系小天体]]に分類されている{{R|group="注"|a}}。小惑星帯の小惑星はおもに熱に強い岩石や金属[[鉱物]]でできているが、氷でできているものもある<ref>{{cite web|title=IAU Planet Definition Committee|publisher=International Astronomical Union|year=2006|url=http://www.iau.org/public_press/news/release/iau0601/newspaper/|accessdate=2018-06-17|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090603001603/http://www.iau.org/public_press/news/release/iau0601/newspaper/|archivedate=3 June 2009}}</ref><ref>{{cite web|title=Are Kuiper Belt Objects asteroids? Are large Kuiper Belt Objects planets?|publisher=[[コーネル大学|Cornell University]]|url=http://curious.astro.cornell.edu/question.php?number=601|accessdate=2018-06-17|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090103110110/http://curious.astro.cornell.edu/question.php?number=601|archivedate=3 January 2009}}</ref>。大きさは数 mmから数 kmとさまざまだが、1 m未満のものは、場合によっては[[流星物質]]や[[流星塵]]と呼ばれることもある。
太陽から2.3 - 3.3 au離れた領域に分布しており、これらの小惑星は、太陽系形成時に木星の重力が干渉したことにより合体できず、そのまま残った残骸のような天体であるとされている<ref>{{cite journal|author1=Petit, J.-M.|author2=Morbidelli, A.|author3=Chambers, J.|title=The Primordial Excitation and Clearing of the Asteroid Belt|journal=Icarus|year=2001|volume=153|issue=2|pages=338-347|url=http://www.gps.caltech.edu/classes/ge133/reading/asteroids.pdf|format=PDF|doi=10.1006/icar.2001.6702|bibcode=2001Icar..153..338P}}</ref>。直径1キロ以上のものは数万から数百万個存在しているが<ref>{{cite web|date=2002|title=New study reveals twice as many asteroids as previously believed|work=[[欧州宇宙機関|ESA]]|url=http://www.esa.int/esaCP/ESAASPF18ZC_index_0.html|accessdate=2018-06-17}}</ref>、すべての小惑星を集めても、全質量が地球の1,000分の1を超える可能性は低いとされている{{R|Krasinsky02}}。しかし、小惑星は非常にまばらに分布しているため、[[宇宙探査機]]は支障なく通過することができる。
==== ケレス ====
{{Main|ケレス (準惑星)}}
[[ファイル:PIA19562-Ceres-DwarfPlanet-Dawn-RC3-image19-20150506.jpg|upright|サムネイル|左|ケレス]]
'''ケレス'''({{Lang-en|Ceres}})は小惑星帯最大の小惑星で、準惑星に分類されている{{R|group="注"|a}}。直径は1,000 km弱で、自身の重力で球形を保つのに十分な質量を持っている。ケレスは1801年に発見され、当時は惑星とみなされていたが、その後にほかの小惑星が発見されるようになり、1850年代にはケレスも小惑星とみなされるようになった<ref>{{cite web|title=History and Discovery of Asteroids|format=DOC|work=NASA|url=http://dawn.jpl.nasa.gov/DawnClassrooms/1_hist_dawn/history_discovery/Development/a_modeling_scale.doc|accessdate=2018-06-17}}</ref>。しかし、2006年に[[惑星の定義]]が決められた際に、準惑星に再分類された。
==== 小惑星の分類 ====
小惑星帯の小惑星は、その{{仮リンク|小惑星グループ|en|Asteroid groups}}と[[小惑星族]]で分類されている。また[[小惑星の衛星]]は、より大きなものを公転する、小さな小惑星として扱われる。それらの衛星は、惑星の衛星ほど明確に区別されておらず、中には、小惑星[[アンティオペ (小惑星)|アンティオペ]](87.8 km)を公転している衛星S/2000 (90) 1(83.8 km)<ref>{{cite web|url=http://www.johnstonsarchive.net/astro/astmoons/am-00090.html|title=(90) Antiope and S/2000 (90) 1|work=Asteroids with Satellites Database--Johnston's Archive|accessdate=2018-06-17}}</ref>のように、公転している小惑星とほぼ同じ大きさを持つもの([[二重小惑星]])もある。また、小惑星帯には地球に水をもたらしたとされている[[メインベルト彗星]]も含まれている<ref>{{cite web|author=Phil Berardelli|title=Main-Belt Comets May Have Been Source of Earths Water|work=SpaceDaily|url=http://www.spacedaily.com/reports/Main_Belt_Comets_May_Have_Been_Source_Of_Earths_Water.html|year=2006|accessdate=2018-06-16}}</ref>。
木星の軌道上において、重力的に安定して天体が存在できる[[ラグランジュ点]]L<sub>4</sub>とL<sub>5</sub>付近には、[[木星のトロヤ群|トロヤ群]]と呼ばれる小惑星のグループがある。また、この「トロヤ」はほかの惑星、あるいは衛星の軌道のラグランジュ点に位置している小天体を指す場合もある。[[ヒルダ群]]と呼ばれるグループは、木星と2:3の[[軌道共鳴]]の関係にあり、これはヒルダ群の小惑星が軌道を3周する間に、木星が軌道を2周することを意味している<ref>{{cite book|last=Barucci|first=M. A.|author2=Kruikshank, D.P.|author3=Mottola S.|author4=Lazzarin M.|year=2002|chapter=Physical Properties of Trojan and Centaur Asteroids|title=Asteroids III|publisher=University of Arizona Press|pages=273-87|location=Tucson, Arizona}}</ref>。
内太陽系には、これらの小惑星のほかに[[地球近傍小惑星]]と呼ばれるものも存在しており、その多くは内惑星の軌道を横断している<ref>{{cite journal|url=http://www.boulder.swri.edu/~bottke/Reprints/Morbidelli-etal_2002_AstIII_NEOs.pdf|title=Origin and Evolution of Near-Earth Objects|journal=Asteroids III|editor=W. F. Bottke Jr.|editor2=A. Cellino|editor3=P. Paolicchi|editor4=R. P. Binzel|pages=409-422|date=January 2002|publisher = University of Arizona Press|format=PDF|bibcode=2002aste.conf..409M|first1= A.|last1=Morbidelli|last2=Bottke|first2=W. F.|last3=Froeschlé|first3=Ch.|last4=Michel|first4 = P.}}</ref>。中には、地球と衝突する可能性が示されている[[潜在的に危険な小惑星]]も含まれている。
== 外太陽系 ==
太陽から離れた外太陽系には、[[巨大ガス惑星]]と比較的大きな衛星、そして[[ケンタウルス族 (小惑星)|ケンタウルス族]]や[[短周期彗星]]などが存在している。太陽から遠く離れているため、内太陽系よりも水やメタン・アンモニアなどの揮発性物質が多く存在している。
=== 外惑星系 ===
{{Main|木星型惑星|天王星型惑星}}
[[ファイル:Gas Giants & The Sun in 1,000 km.jpg|upright=1.5|サムネイル|右|外惑星系の惑星と太陽の大きさの比較]]
外太陽系にある4つの大きな惑星は、'''外惑星'''({{Lang-en|Outer planet}})や'''巨大惑星'''({{Lang-en|Giant planet}})、'''木星型惑星'''({{Lang-en|Jovian planet}})と呼ばれ、太陽を公転する天体の全質量のうち99パーセントを占めている{{R|group="注"|b}}。木星と土星は合わせると地球の400倍以上の質量を持ち、主に水素とヘリウムから構成されている。一方で、天王星と海王星はともに質量が地球の20倍以下で、木星と土星と比べてはるかに小さい。そのため、一部の天文学者はこの2つの惑星を、'''巨大氷惑星'''({{Lang-en|Ice giant}})あるいは'''天王星型惑星'''として、木星・土星と区別している<ref>{{cite web|title=Formation of Giant Planets|author1=Jack J. Lissauer|author2=David J. Stevenson|work=NASA Ames Research Center; California Institute of Technology |date=2006 |url=http://www.gps.caltech.edu/uploads/File/People/djs/lissauer&stevenson(PPV).pdf |format=PDF|accessdate=2018-06-17|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090326060004/http://www.gps.caltech.edu/uploads/File/People/djs/lissauer%26stevenson%28PPV%29.pdf|archivedate=26 March 2009}}</ref>。4つの惑星すべてが[[環 (天体)|環]]を持っているが、地球から容易に観測できるのは[[土星の環]]だけである。ここにおける「外惑星」とは、外太陽系にある4つの惑星の分類を指している。これとは別に、地球より外側を公転している、火星以遠の惑星を[[外惑星]]({{Lang-en|'''Superior planet'''}})と呼ぶことがある。
==== 木星(太陽系第5惑星) ====
{{Main|木星}}
'''木星'''({{Lang-en|Jupiter}})は、太陽系の第5惑星で、太陽系で最も大きな惑星である。地球の318倍の質量を持ち、これは他の惑星の全質量の2.5倍にもなる。主に水素とヘリウムから構成されている。木星内部で生じている強い熱は、縞模様の雲や[[大赤斑]]など、大気中に半永久的な構造を作り出している。木星は[[木星の衛星|95個の衛星]]を持つことが知られており、特に大きな[[イオ (衛星)|イオ]]・[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]・[[ガニメデ (衛星)|ガニメデ]]・[[カリスト (衛星)|カリスト]]の4つは[[ガリレオ衛星]]と呼ばれ、火山活動や内部加熱のような地球型惑星に似た地質活動が見られる<ref>{{cite web|title=Geology of the Icy Galilean Satellites: A Framework for Compositional Studies|author=Pappalardo, R T|work=Brown University|year=1999|url=http://www.agu.org/cgi-bin/SFgate/SFgate?&listenv=table&multiple=1&range=1&directget=1&application=fm99&database=%2Fdata%2Fepubs%2Fwais%2Findexes%2Ffm99%2Ffm99&maxhits=200&=%22P11C-10%22|accessdate=2018-06-17|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070930165551/http://www.agu.org/cgi-bin/SFgate/SFgate?&listenv=table&multiple=1&range=1&directget=1&application=fm99&database=%2Fdata%2Fepubs%2Fwais%2Findexes%2Ffm99%2Ffm99&maxhits=200&=%22P11C-10%22|archivedate=30 September 2007}}</ref>。そのうち、ガニメデは太陽系最大の衛星で、水星よりも大きい。
==== 土星(太陽系第6惑星) ====
{{Main|土星}}
'''土星'''({{Lang-en|Saturn}})は、太陽系の第6惑星。大きな環が特徴的だが、大気組成や磁気圏など木星とよく似ている点が多い。しかし、体積は木星の60パーセントにあたるが、質量は地球の95倍と、木星の3分の1にも満たない。そのため、土星は太陽系の惑星で唯一、水よりも低密度な惑星である<ref>{{cite web|url=http://www.preservearticles.com/201101233659/saturn-the-most-beautiful-planet-of-our-solar-system.html|title=Saturn - The Most Beautiful Planet of our solar system|work=Preserve Articles|date=23 January 2011|accessdate=2018-06-17|archiveurl=https://webcitation.org/62D9uTOJ|archivedate=5 October 2011|deadurl=no}}</ref>。
土星の環は、おもに氷と岩石でできた小天体から構成されている。土星は大部分が氷からなる[[土星の衛星|146個の衛星]]を持つことが知られており、このうち、[[タイタン (衛星)|タイタン]]と[[エンケラドゥス (衛星)|エンケラドゥス]]の2つでは地質活動の存在が示されている<ref>{{cite journal|last1=Kargel|first1=J. S.|title=Cryovolcanism on the icy satellites|journal=Earth, Moon, and Planets|volume=67|pages=101-113|date=1994|doi=10.1007/BF00613296|bibcode=1995EM&P...67..101K}}</ref>。タイタンはガニメデに次いで、太陽系内では2番目に大きな衛星で、こちらも水星より大きく、また太陽系内の衛星で唯一濃い大気を持つ。
==== 天王星(太陽系第7惑星) ====
{{Main|天王星}}
'''天王星'''({{Lang-en|Uranus}})は、太陽系の第7惑星。質量は地球の約14倍で、外惑星系の中では最も質量が小さい。太陽系の惑星で唯一、太陽に対して横倒しで[[自転]]しており、その[[赤道傾斜角]]は90度を超えている。中心部の核は他の巨大惑星よりも温度が冷たく、熱をほとんど放出していないとされている<ref>{{cite journal|title=10 Mysteries of the Solar System|journal=[[Astronomy Now]]|volume=19|page=65|year=2005|bibcode=2005AsNow..19h..65H|last1=Hawksett|first1=David|last2=Longstaff|first2=Alan|last3=Cooper|first3=Keith|last4=Clark|first4=Stuart}}</ref>。[[天王星の衛星|27個の衛星]]を持っており、特に[[チタニア (衛星)|チタニア]]・[[オベロン (衛星)|オベロン]]・[[ウンブリエル]]・[[アリエル (衛星)|アリエル]]・[[ミランダ (衛星)|ミランダ]]の5つは比較的大型である。
==== 海王星(太陽系第8惑星) ====
{{Main|海王星}}
'''海王星'''({{Lang-en|Neptune}})は、太陽系の第8惑星。大きさは天王星よりもわずかに小さいが、質量はやや大きく(地球の約17倍)、そのため密度も大きくなっている。また、天王星よりも内部から多くの熱を放射しているが、木星や土星ほどではない<ref>{{cite journal|title=Post Voyager comparisons of the interiors of Uranus and Neptune|author1=Podolak, M.|author2=Reynolds, R. T.|author3=Young, R.|year=1990|pages=1737-1740|issue=10|volume=17|doi=10.1029/GL017i010p01737 |bibcode=1990GeoRL..17.1737P|journal=Geophysical Research Letters}}</ref>。[[海王星の衛星|14個の衛星]]を持ち、もっとも大きな[[トリトン (衛星)|トリトン]]では地質活動が起きており、[[液体窒素]]の[[間欠泉]]が存在することが確認されている<ref>{{cite web|title=The Plausibility of Boiling Geysers on Triton|author=Duxbury, N. S., Brown, R. H.|work=Beacon eSpace|year=1995|url=https://hdl.handle.net/2014/28034 |accessdate=2020-07-16 }}</ref>。また、太陽系の大型衛星では唯一、主惑星の自転方向に対して逆方向に公転している<ref>[[#natgeo|日経ナショナル ジオグラフィック、3.小惑星帯を越えて、pp.174-175 トリトン]]</ref>。海王星は、その外側に位置している太陽系外縁天体の一部を、1:1の軌道共鳴状態にさせている。
=== ケンタウルス族 ===
{{Main|ケンタウルス族 (小惑星)}}
ケンタウルス族は、木星軌道と海王星軌道の間にある彗星のような氷でできた小天体のグループである。知られている中でもっとも大きなケンタウルス族に属する天体は[[カリクロー (小惑星)|カリクロー]]で、直径は約250キロとされている<ref>{{cite conference|title=Physical Properties of Kuiper Belt and Centaur Objects: Constraints from Spitzer Space Telescope |author1=John Stansberry|author2=Will Grundy|author3=Mike Brown|author4=Dale Cruikshank|author5=John Spencer|author6=David Trilling|author7=Jean-Luc Margot|booktitle=The Solar System Beyond Neptune|arxiv=astro-ph/0702538|pages=161|year=2007|bibcode=2008ssbn.book..161S}}</ref>。ケンタウルス族として初めて発見された[[キロン (小惑星)|キロン]]は、太陽に接近する際、彗星のような活動が見られるため、彗星(95P)にも分類されている<ref>{{cite web|author=Patrick Vanouplines|title=Chiron biography|work=Vrije Universitiet Brussel|url=http://www.vub.ac.be/STER/www.astro/chibio.htm|year=1995|accessdate=2018-06-17|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090502122306/http://www.vub.ac.be/STER/www.astro/chibio.htm|archivedate=2 May 2009}}</ref>。
== 主な天体のデータ ==
{{Solar System navmap}}
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|+ style="font-weight:bold;" | 太陽と太陽系の惑星・準惑星
|-
! colspan="2" | 名前
! style="white-space:nowrap;" | [[半径]]<br />(km)
! style="white-space:nowrap;" | [[質量]]<br />(kg)
! style="white-space:nowrap;" | [[軌道傾斜角]]<br />(度)
! style="white-space:nowrap;" | [[離心率|軌道離心率]]
! style="white-space:nowrap;" | [[軌道長半径]]<br />([[天文単位|au]])
! style="white-space:nowrap;" | 表面[[重力]]<br /> ([[メートル毎秒毎秒|m/s<sup>2</sup>]])
! style="white-space:nowrap;" | [[公転]]周期<br />(年)
! style="white-space:nowrap;" | [[自転]]周期<br />(日)
! style="white-space:nowrap;" | 衛星数<br />(個)
! style="white-space:nowrap;" | 出典
|-
| colspan="2" | [[太陽]] || {{val|695700|fmt=commas}} || {{val|1.989e30}} || - || - || - || 274.0 || - || 27.275<ref group="注" name="rotation">赤道での値</ref> || - || <ref>{{cite web|author=David R. Williams|url=https://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/sunfact.html|title=Sun Fact Sheet|work=NASA|accessdate=2018-06-17}}</ref>
|-style="background:{{天体 色|地球型惑星}}"
| 1 || [[水星]] || 2,439.7 || 3.3011{{e|23}} || 7.00 || 0.2056 || 0.387 || 3.70 || 0.241 || 58.65 || 0 || <ref>{{cite web|author=David R. Williams|url=https://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/mercuryfact.html|title=Mercury Fact Sheet|work=NASA|accessdate=2018-06-17}}</ref>
|-style="background:{{天体 色|地球型惑星}}"
| 2 || [[金星]] || 6,051.8 || 4.8675{{e|24}} || 3.39 || 0.0067 || 0.723 || 8.87 || 0.615 || 243.0187(逆行) || 0 || <ref>{{cite web|author=David R. Williams|url=https://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/venusfact.html|title=Venus Fact Sheet|work=NASA|accessdate=2018-06-17}}</ref>
|-style="background:{{天体 色|地球型惑星}}"
| 3 || [[地球]] || 6,378.1 || 5.9723{{e|24}} || 0.00 || 0.0167 || 1.0000 || 9.798 || 1.000 || 0.997271 || 1 || <ref>{{cite web|author=David R. Williams|url=https://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/earthfact.html|title=Earth Fact Sheet|work=NASA|accessdate=2018-06-17}}</ref>
|-style="background:{{天体 色|地球型惑星}}"
| 4 || [[火星]] || 3,396.2 || 6.4171{{e|23}} || 1.850 || 0.0935 || 1.524 || 3.71 || 1.881 || 1.02595 || 2 || <ref>{{cite web|author=David R. Williams|url=https://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/marsfact.html|title=Mars Fact Sheet|work=NASA|accessdate=2018-06-17}}</ref>
|-
| colspan="2"| [[ケレス (準惑星)|ケレス]] || 476 || 9.393{{e|20}} || 10.594 || 0.0755 || 2.767 || 0.28 || 4.60 || 0.3781<ref>{{cite journal|last1=Chamberlain|first1=Matthew A.|author2=Sykes, Mark V.|last3=Esquerdo|first3=Gilbert A.|year=2007|title=Ceres lightcurve analysis - Period determination|journal=Icarus|volume=188|issue=2|pages=451-456|doi=10.1016/j.icarus.2006.11.025|bibcode=2007Icar..188..451C}}</ref>
|| 0 || <ref>{{cite web|url=http://nesf2015.arc.nasa.gov/sites/default/files/downloads/pdf/05.pdf|title=05. Dawn Explores Ceres Results from the Survey Orbit|publisher=NASA|format=PDF|accessdate=2018-08-04}}</ref><ref>{{cite web|url=https://ssd.jpl.nasa.gov/tools/sbdb_lookup.html#/?sstr=Ceres|title=1 Ceres|publisher=JPL Small-Body Database Browser|accessdate=2018-08-04}}</ref>
|-style="background:{{天体 色|木星型惑星}}"
| 5 || [[木星]] || 71,492 || 1.8982{{e|27}} || 1.304 || 0.0489 || 5.204 || 24.79 || 11.862 || 0.4135 || 95 || {{R|JupiterFact}}
|-style="background:{{天体 色|木星型惑星}}"
| 6 || [[土星]] || 60,268 || 5.6834{{e|26}} || 2.485 || 0.0565 || 9.582 || 10.44 || 29.457 || 0.4264<ref group="注" name="rotation"/> || 146<ref group="注">この他に3個の衛星が存在する可能性があるが、これらは同一天体もしくは粒子塊(clump)の可能性があるため、ここでは衛星数に含んでいない。</ref> || {{R|SaturnFact}}
|-style="background:{{天体 色|天王星型惑星}}"
| 7 || [[天王星]] || 25,559 || 8.6813{{e|25}} || 0.774 || 0.0457 || 19.201 || 8.87 || 84.011 || 0.7181(逆行) || 27 || <ref>{{cite web|author=David R. Williams|url=https://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/uranusfact.html|title=Uranus Fact Sheet|work=NASA|accessdate=2018-06-17}}</ref>
|-style="background:{{天体 色|天王星型惑星}}"
| 8 || [[海王星]] || 24,764 || 1.0241{{e|26}} || 1.769 || 0.0113 || 30.047 || 11.15 || 164.79 || 0.6712 || 14 || <ref>{{cite web|author=David R. Williams|url=https://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/neptunefact.html|title=Neptune Fact Sheet|work=NASA|accessdate=2018-06-17}}</ref>
|-
| colspan="2"| [[冥王星]] || 1,188.3<ref>{{cite journal|last1=Nimmo|first1=Francis|displayauthors=etal|title=Mean radius and shape of Pluto and Charon from New Horizons images|url=http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0019103516303529|journal=Icarus|year=2017|volume=287|pages=12-29|doi=10.1016/j.icarus.2016.06.027|bibcode=2017Icar..287...12N|arxiv=1603.00821}}</ref> || 1.303{{e|22}} || 17.089 || 0.2502 || 39.445 || 0.620 || 247.74 || 6.3872(逆行) || 5 || <ref>{{cite web|url=http://www.johnstonsarchive.net/astro/astmoons/am-pluto.html|title=(134340) Pluto, Charon, Nix, Hydra, Kerberos, and Styx|work=Asteroids with Satellites Database--Johnston's Archive|accessdate=2018-08-04}}</ref>
|-
| colspan="2"| [[ハウメア (準惑星)|ハウメア]] || 816<ref>{{cite journal|author=J. L. Ortiz ''et al.''|title=The size, shape, density and ring of the dwarf planet Haumea from a stellar occultation|journal=Nature|volume=550|issue=7675|year=2017|pages=219-223|doi=10.1038/nature24051|pmid=29022593|bibcode=2017Natur.550..219O}}</ref> || 4.006{{e|21}}<ref>{{cite journal|author1=Rabinowitz, D. L.|title=The Youthful Appearance of the 2003 EL<sub>61</sub> Collisional Family|year=2008|doi=10.1088/0004-6256/136/4/1502|journal=The Astronomical Journal|volume=136|issue=4|pages=1502-1509| arxiv=0804.2864|bibcode=2008AJ....136.1502R|last2=Schaefer|first2=Bradley E.|last3=Schaefer|first3=Martha|last4=Tourtellotte|first4=Suzanne W.}}</ref> || 28.206 || 0.1899 || 43.347 || ~0.401 || 285.39 || 0.1631<ref>{{cite journal|author=P. Lacerda|author2=D. Jewitt|author3=N. Peixinho|year=2008|title=High-Precision Photometry of Extreme KBO 2003 EL61|journal=The Astronomical Journal|volume=135|issue=5|pages=1749-1756|doi=10.1088/0004-6256/135/5/1749|bibcode=2008AJ....135.1749L|arxiv=0801.4124}}</ref> || 2 || <ref>{{cite web|url=https://ssd.jpl.nasa.gov/sbdb.cgi?sstr=136108|title=136108 Haumea (2003 EL61)|publisher=NASA|work=Jet Propulsion Laboratory|accessdate=2018-08-04}}</ref>
|-
| colspan="2"| [[マケマケ (準惑星)|マケマケ]] || 715<ref>{{cite journal|author=M.E. Brown|year=2013|arxiv=1304.1041v1|title=On the size, shape, and density of dwarf planet Makemake|journal=The Astrophysical Journal Letters|volume=767|pages=L7(5pp)|doi=10.1088/2041-8205/767/1/L7|bibcode=2013ApJ...767L...7B}}</ref> || <4.4{{e|21}} || 28.983 || 0.1555 || 45.675 || ~0.5 || 308.69 || 7.771<ref>{{cite journal|author=A. N. Heinze|author2=Daniel deLahunta|url=http://www.iop.org/EJ/abstract/1538-3881/138/2/428/|title=The rotation period and light-curve amplitude of Kuiper belt dwarf planet 136472 Makemake ({{mp|2005 FY|9}})|year=2009|journal=The Astronomical Journal|volume=138|pages=428-438|doi=10.1088/0004-6256/138/2/428}}</ref> || 1 || <ref>{{cite web|url=https://ssd.jpl.nasa.gov/sbdb.cgi?sstr=136472|title=136472 Makemake (2005 FY9)|publisher=NASA|work=Jet Propulsion Laboratory|accessdate=2018-08-04}}</ref>
|-
| colspan="2"| [[エリス (準惑星)|エリス]] || 1,163<ref>{{cite journal|title=Size, density, albedo and atmosphere limit of dwarf planet Eris from a stellar occultation|journal=European Planetary Science Congress Abstracts|volume=6|year=2011|url=http://meetingorganizer.copernicus.org/EPSC-DPS2011/EPSC-DPS2011-137-8.pdf|bibcode=2011epsc.conf..137S|last1=Sicardy|first1=B.|last2=Ortiz|first2=J. L.|last3=Assafin|first3=M.|last4=Jehin|first4=E.|last5=Maury|first5=A.|last6=Lellouch|first6=E.|last7=Gil-Hutton|first7=R.|last8=Braga-Ribas|first8=F.|last9=Colas|first9=F.|page=137|author10=Widemann}}</ref> || 1.66{{e|22}}<ref>{{cite journal|doi=10.1126/science.1139415|last1=Brown|first1=Michael E.|last2=Schaller|first2=Emily L.| date = 15 June 2007| title = The Mass of Dwarf Planet Eris|journal=Science|volume=316|issue=5831|page=1585|pmid=17569855|bibcode=2007Sci...316.1585B|url=http://hubblesite.org/pubinfo/pdf/2007/24/pdf.pdf}}</ref> || 44.199 || 0.4410 || 67.664 || 0.82 || 556.60 || 1.08<ref>{{cite web|url=http://www.johnstonsarchive.net/astro/astmoons/am-136199.html|title=(136199) Eris and Dysnomia|work=Asteroids with Satellites Database--Johnston's Archive|accessdate=2018-08-04}}</ref> || 1 || <ref>{{cite web|url=https://ssd.jpl.nasa.gov/sbdb.cgi?sstr=Eris|title=136199 Eris (2003 UB313)|publisher=NASA|work=Jet Propulsion Laboratory|accessdate=2018-08-04}}</ref>
|}
== 彗星 ==
{{Main|彗星}}
[[ファイル:Lspn comet halley.jpg|サムネイル|右|[[ハレー彗星]](1986年撮影)]]
'''彗星'''({{Lang-en|Comet}})は多くの場合、直径が数キロ程度で、主に氷などの揮発性物質から出来た[[核 (彗星)|核]]と、2種類の[[彗星#コマと尾|尾]]からなる。楕円軌道で公転しており、近日点は内太陽系、遠日点は冥王星よりも遠方に位置していることが多い。彗星が太陽に接近すると、核の表面にある氷が[[昇華 (化学)|昇華]]して[[イオン化]]し、[[彗星#コマと尾|コマ]]が形成される。そこから尾やガスが放出され、はっきりと観測出来るようになり、中には肉眼で観望出来るほどまでに明るくなるケースもある。
公転周期が200年未満の彗星は[[短周期彗星]]と呼ばれ、一方で[[長周期彗星]]と呼ばれる彗星は、何千年もかけて太陽を公転しているものもある。短周期彗星は、小惑星帯やカイパーベルトを起源にしているものが多いが、[[ヘール・ボップ彗星]]のような長周期彗星は[[オールトの雲]]が起源であるとされている。また、[[クロイツ群]]をはじめとする多くの彗星群は、1つの彗星が幾つもの破片に分裂して形成されたと考えられている<ref>{{cite journal|author=Sekanina, Zdeněk|year=2001|title=Kreutz sungrazers: the ultimate case of cometary fragmentation and disintegration?|volume=89|journal=Publications of the Astronomical Institute of the Academy of Sciences of the Czech Republic|pages=78-93|bibcode=2001PAICz..89...78S}}</ref>。[[双曲線]]軌道を持つ[[非周期彗星]]の中には、太陽系外に由来するものもあるとされているが、正確な計算は困難である<ref>{{cite journal|last=Królikowska|first=M.|year=2001|title=A study of the original orbits of ''hyperbolic'' comets|journal=Astronomy and Astrophysics|volume=376|issue=1|pages=316-324|doi=10.1051/0004-6361:20010945|bibcode=2001A&A...376..316K}}</ref>。太陽の熱によって、核表面の揮発性物質がほとんどなくなった古い彗星は、小惑星に分類されることもある<ref>{{cite journal|last1=Whipple|first1=Fred L.|title=The activities of comets related to their aging and origin|journal=Celestial Mechanics and Dynamical Astronomy|volume=54|pages=1-11|year=1992|doi=10.1007/BF00049540|bibcode=1992CeMDA..54....1W}}</ref>。
== 太陽系外縁部 ==
海王星軌道のさらに外側は'''太陽系外縁部'''({{Lang-en|Trans-Neptunian region}})と呼ばれ、エッジワース・カイパーベルトや、冥王星を含む幾つかの準惑星・散乱円盤天体などが存在しているが、ほとんどの領域ではまだ詳しい探査が行われていない。氷と岩石で構成された小天体が数千個存在しているとされているが、最大クラスの天体でも大きさは地球の5分の1で、質量は月よりもずっと軽いとされている。この領域は、内太陽系・外太陽系に次ぐ「太陽系の第3の領域」として扱われることもある<ref>{{cite web|url=http://www.americanscientist.org/issues/feature/2015/1/journey-to-the-solar-systems-third-zone/1|title=Journey to the Solar System's Third Zone|author=[[アラン・スターン|Alan Stern]]|work=American Scientist|year=2015|accessdate=2018-06-17}}</ref>。
=== カイパーベルト ===
{{Main|エッジワース・カイパーベルト|太陽系外縁天体}}
[[ファイル:Kuiper belt plot objects of outer solar system.png|thumb|left|知られている太陽系外縁天体の位置
{| style="width: 100%;"
|-
| valign=top |
{{legend2|#FFFF00|border=1px solid #B3B300|太陽}}<br />
{{legend2|#aaaaaa|border=1px solid #777777|木星のトロヤ群}}<br />
{{legend2|#FF4D4D|border=1px solid #FF0000|惑星}}
| valign=top |
{{legend2|#66CCFF|border=1px solid #00AAFF|太陽系外縁天体}}<br />
{{legend2|#FFB657|border=1px solid #FF950A|散乱円盤天体}}<br />
{{legend2|#A300A3|border=1px solid #550055|[[海王星のトロヤ群]]}}
|}
]]
{{TNO imagemap}}
'''エッジワース・カイパーベルト'''({{Lang-en|Edgeworth-Kuiper belt}})または'''カイパーベルト'''は、小惑星帯に似た、リング状に小天体([[太陽系外縁天体]]・カイパーベルト天体)が集まった領域で、主に氷で形成されている{{R|Lucy07}}。太陽から30 - 50au離れた領域に分布している。数十から数千個の準惑星サイズのものも存在すると見られているが、その多くは太陽系小天体からなる。[[クワオアー]]や[[ヴァルナ (小惑星)|ヴァルナ]]、[[オルクス (小惑星)|オルクス]]といった大型の太陽系外縁天体は、さらに多くのデータが集まれば、それをもとに準惑星に分類される可能性がある。直径が50キロを超える太陽系外縁天体はカイパーベルト内に10万個以上存在すると推定されているが、総質量は地球の100分の1から1,000分の1にも満たないと考えられている{{R|Delsanti-Beyond_The_Planets}}。多くの太陽系外縁天体は衛星を持っており<ref>{{cite journal|doi=10.1086/501524|last1=Brown|first1=M. E.|last2=Van Dam|first2=M. A.|last3=Bouchez|first3=A. H.|last4=Le Mignant|first4=D.|last5=Campbell|first5=R. D.|last6=Chin|first6=J. C. Y.|last7=Conrad|first7=A.|last8=Hartman|first8=S. K.|last9=Johansson|first9=E. M.|last10=Lafon|first10=R. E.|last11=Rabinowitz|first11=D. L. Rabinowitz|last12=Stomski|first12=P. J., Jr.|last13=Summers|first13=D. M.|last14=Trujillo|first14=C. A.|last15=Wizinowich|first15=P. L.|year=2006|title=Satellites of the Largest Kuiper Belt Objects| journal=The Astrophysical Journal|volume=639|issue=1|pages=L43-L46|arxiv=astro-ph/0510029|bibcode=2006ApJ...639L..43B|url=http://web.gps.caltech.edu/~mbrown/papers/ps/gab.pdf|format=PDF|ref={{sfnRef|Brown Van Dam et al.|2006}}}}</ref>、黄道面から大きく傾いた軌道を描いている<ref>{{cite journal|url=http://www.boulder.swri.edu/~buie/biblio/pub047.pdf|format=PDF|last=Chiang|first=E. I|last2=Jordan|first2=A. B.|last3=Millis|first3=R. L.|last4=Buie|first4=M. W.|last5=Wasserman|first5=L. H.|last6=Elliot|first6=J. L.|last7=Kern|first7=S. D.|last8=Trilling|first8=D. E.|last9=Meech|first9=K. J.|last10=Wagner|first10=R. M.|bibcode=2003AJ....126..430C|title=Resonance Occupation in the Kuiper Belt: Case Examples of the 5:2 and Trojan Resonances|journal=The Astronomical Journal|volume=126|issue=1|pages=430-443|year=2003|doi=10.1086/375207|arxiv=astro-ph/0301458}}</ref>。カイパーベルトでは、これまでに約1,400個の太陽系外縁天体が発見されている<ref>[[#natgeo|日経ナショナル ジオグラフィック、3.小惑星帯を越えて、pp.178-179 カイパー・ベルト]]</ref>。
太陽系外縁天体は、古典的カイパーベルト天体と軌道共鳴状態にあるものの2つに大きく区別することが出来る。軌道共鳴の対象となる惑星は海王星で、例えば、海王星が3回公転する間に、2回公転するような天体が後者に挙げられる。前者の古典的カイパーベルト天体は、海王星と軌道共鳴を起こしておらず、太陽から約39.4 - 47.7au離れた領域に分布している<ref>{{cite journal|author1=M. W. Buie|author2=R. L. Millis|author3=L. H. Wasserman|author4=J. L. Elliot|author5=S. D. Kern|author6=K. B. Clancy|author7=E. I. Chiang|author8=A. B. Jordan|author9=K. J. Meech|author10=R. M. Wagner|author11=D. E. Trilling|title=Procedures, Resources and Selected Results of the Deep Ecliptic Survey|journal=Earth, Moon, and Planets|year=2005|volume=92|issue=1|pages=113-124|arxiv=astro-ph/0309251|bibcode=2003EM&P...92..113B|doi=10.1023/B:MOON.0000031930.13823.be}}</ref>。この古典的カイパーベルト天体は[[キュビワノ族]]とも呼ばれ、この分類の太陽系外縁天体として初めて発見されたのは[[アルビオン (小惑星)|アルビオン]]({{mp|1992 QB|1}})で、全体的に軌道[[離心率]]が低い軌道を描く<ref>{{cite web|url=http://sait.oat.ts.astro.it/MSAIS/3/PDF/20.pdf|format=PDF|title=Beyond Neptune, the new frontier of the Solar System|author=E. Dotto|author2=M. A. Barucci|author3=M. Fulchignoni|accessdate=2018-06-16|date=2006-08-24}}</ref>。
==== 冥王星とカロン ====
{{Main|冥王星|カロン (衛星)}}
準惑星の'''冥王星'''({{Lang-en|Pluto}})は既知の太陽系外縁天体の中では最大の天体である。1930年に発見され、それ以降は「太陽系の第9惑星」とされたが、2006年に国際天文学連合による[[惑星の定義]]の決定により、準惑星に降格となった<ref>{{cite news|url=http://www.iau2006.org/mirror/www.iau.org/iau0603/index.html|title=IAU 2006 General Assembly: Result of the IAU Resolution votes|publisher=International Astronomical Union|date=2006-08-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061107022302/http://www.iau2006.org/mirror/www.iau.org/iau0603/index.html|archivedate=2006-11-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.astroarts.co.jp/news/2006/08/25planet_definition_flash/index-j.shtml|title=【速報】太陽系の惑星の定義確定|work=AstroArts|date=2006-08-25|accessdate=2018-06-17}}</ref>。冥王星は楕円軌道で太陽を公転しており、近日点では太陽から29.6auまで近づき、遠日点では49.3auまで遠ざかる<ref>{{cite web|url=http://www.johnstonsarchive.net/astro/astmoons/am-pluto.html|title=(134340) Pluto, Charon, Nix, Hydra, Kerberos, and Styx|work=Asteroids with Satellites Database--Johnston's Archive|accessdate=2018-06-17}}</ref>。軌道は黄道面から約17.1度傾いている。海王星とは3:2の軌道共鳴状態にあり、この冥王星と似た軌道を描く太陽系外縁天体は[[冥王星族]]と呼ばれる<ref>{{cite journal|last=Fajans|first=J.|author2=L. Frièdland|year=2001|title=Autoresonant (nonstationary) excitation of pendulums, Plutinos, plasmas, and other nonlinear oscillators|journal=[[American Journal of Physics]]|volume=69|issue=10|pages=1096-1102|doi=10.1119/1.1389278|url=http://ist-socrates.berkeley.edu/~fajans/pub/pdffiles/AutoPendAJP.pdf|format=PDF|bibcode=2001AmJPh..69.1096F|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110607210435/http://ist-socrates.berkeley.edu/~fajans/pub/pdffiles/AutoPendAJP.pdf|archivedate=7 June 2011|df=dmy-all}}</ref>。
冥王星最大の衛星であるカロンは、その大きさ故に、冥王星とともに[[二重惑星|連星系]]をなしていると表現されることもある。カロンの他にも、冥王星は[[ステュクス (衛星)|ステュクス]]・[[ニクス (衛星)|ニクス]]・[[ケルベロス (衛星)|ケルベロス]]・[[ヒドラ (衛星)|ヒドラ]]と呼ばれる、カロンと比べてはるかに小さな4つの衛星を持つことが知られている。
==== マケマケとハウメア ====
{{Main|マケマケ (準惑星)|ハウメア (準惑星)}}
'''マケマケ'''({{Lang-en|Makemake}})は冥王星よりも小さいが、知られている古典的カイパーベルト天体の中では最も大きい天体とされている。また、太陽系外縁天体の中では冥王星に次いで明るい。2008年に準惑星に分類され、現在の名称が公式に付与された{{R|name}}<ref>{{cite web|url=https://www.iau.org/news/pressreleases/detail/iau0806/|title=News Release - IAU0806: Fourth dwarf planet named Makemake|work=International Astronomical Union|date=2008-07-19|accessdate=2018-06-17}}</ref>。軌道は冥王星よりもはるかに傾いており、[[軌道傾斜角]]は29度にもなる<ref>{{cite web|author=Marc W. Buie|date=2008-04-05|title=Orbit Fit and Astrometric record for 136472|publisher=SwRI (Space Science Department)|url=http://www.boulder.swri.edu/~buie/kbo/astrom/136472.html|accessdate=2018-06-17}}</ref>。
'''ハウメア'''({{Lang-en|Haumea}})は、マケマケと同じような軌道を公転しているが、海王星と7:12の軌道共鳴の関係にある<ref>{{cite web|title=The largest Kuiper belt objects|author=Michael E. Brown|work=Caltech|url=http://www.gps.caltech.edu/~mbrown/papers/ps/kbochap.pdf|format=PDF|accessdate=2018-06-17}}</ref>。大きさはマケマケと同程度で、2つの衛星を持っている。[[自転周期]]が3.9時間しかないため、地形は平らで、細長い形状になっている<ref>{{cite web|publisher=News Limited|title=Astronomers get lock on diamond-shaped Haumea|work=European Planetary Science Congress in Potsdam|date=2009-09-16|url=http://www.news.com.au/story/0,27574,26081101-23109,00.html|accessdate=2018-06-17|author=Agence France-Presse |deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090923170519/http://www.news.com.au/story/0%2C27574%2C26081101-23109%2C00.html|archivedate=2009-09-23}}</ref>。マケマケ同様、2008年に準惑星に分類され、現在の名称が公式に付与された<ref>{{cite web|title=News Release - IAU0807: IAU names fifth dwarf planet Haumea|work=International Astronomical Union|date=2008-09-17|url=http://www.iau.org/news/pressreleases/detail/iau0807/|accessdate=2018-06-17}}</ref>。
=== 散乱円盤天体 ===
{{Main|散乱円盤天体}}
カイパーベルトと重なっているものもあるが、基本的にそのはるか外側にまで広がっている'''散乱円盤'''({{Lang-en|Scattered disk}})は、短周期彗星の起源であるとされている。この散乱円盤は、太陽系形成時に、巨大惑星の移動によって不規則な軌道となって外側に放り出されたとされている。それを構成している'''散乱円盤天体'''({{Lang-en|Scattered disk object}}、SDO)のほとんどは、カイパーベルトよりもはるか遠くに分布しており、太陽から150 au以上離れているものが多い。散乱円盤天体も太陽系外縁天体と同様に黄道面から傾いた軌道を描いており、中にはほぼ垂直にまで傾いているものもある。一部の天文学者は、散乱円盤とカイパーベルトのもう1つの領域とみなして、散乱円盤天体を「散乱した太陽系外縁天体」としている<ref>{{cite web|year=2005|author=David Jewitt|title=The 1000 km Scale KBOs|work=University of Hawaii|url=http://www2.ess.ucla.edu/~jewitt/kb/big_kbo.html|accessdate=2018-06-17}}</ref>。一方で、ケンタウルス族を「内側に散乱した太陽系外縁天体」、散乱円盤を「外側に散乱した太陽系外縁天体」としている場合もある<ref>{{cite web|url=http://www.minorplanetcenter.org/iau/lists/Centaurs.html|title=List of Centaurs and Scattered-Disk Objects|work=IAU: Minor Planet Center|accessdate=2018-06-17}}</ref>。
==== エリス ====
{{Main|エリス (準惑星)}}
'''エリス'''({{Lang-en|Eris}})は、現在知られている散乱円盤天体の中では最も大きい。質量は冥王星よりも25%大きく<ref>{{cite journal|doi=10.1126/science.1139415|last1=Brown|first1=Michael E.|last2=Schaller|first2=Emily L.|year=2007|title=The Mass of Dwarf Planet Eris|journal=Science|volume=316|issue=5831|page=1585|pmid=17569855|bibcode=2007Sci...316.1585B}}</ref>、大きさもほぼ同等だったため、惑星の定義に関する議論の発端となった。[[ディスノミア (衛星)|ディスノミア]]と呼ばれる衛星を持つ。冥王星と同様に、黄道面から傾いた楕円軌道で太陽を公転しており、近日点は太陽から37.8 auで、遠日点では97.5 auまで遠ざかる<ref>{{cite web|type=September 18, 2014 last obs|title=JPL Small-Body Database Browser: 136199 Eris (2003 UB313)|url=https://ssd.jpl.nasa.gov/tools/sbdb_lookup.html#/?sstr=Eris|work=Jet Propulsion Laboratory|accessdate=2018-06-17}}</ref>。
== 太陽系の果て ==
[[ファイル:Solarmap.png|サムネイル|右|太陽から、最も近い恒星までを[[対数]]スケールで表した図(単位はau)]]
太陽系と[[星間空間]]の境界は、太陽風の及ぶ範囲とするものと、太陽の重力による影響が及ぶ範囲とするものの2つがあり、正確には定義されていない。太陽風は冥王星までの距離の約4倍離れた位置まで広がっており、太陽圏(ヘリオスフィア)をなしており、その外縁にあたる[[ヘリオポーズ]]を超えると、星間空間になるとされている{{R|Voyager}}。太陽の重力圏の有効範囲([[ヒル球]])は、理論上では後述のオールトの雲を超えて、太陽 - 冥王星間の約1,000倍まで広がっているとされている<ref>{{cite book|last=Littmann|first=Mark|title=Planets Beyond: Discovering the Outer Solar System|date=2004|pages=162-163|publisher=Courier Dover Publications|isbn=978-0-486-43602-9}}</ref>。
=== 太陽圏 ===
{{Main|太陽圏|ヘリオポーズ}}
[[ファイル:NewHeliopause 558121.jpg|サムネイル|左|星間空間内を移動する太陽圏の模式図]]
'''太陽圏'''({{Lang-en|Heliosphere}})は、[[恒星風バブル]]の一つで、秒速約400キロで星間空間に向かって放射される太陽風が形成している。
太陽から約80 - 100au離れた領域にある'''末端衝撃波面'''({{Lang-en|Termination shock}})では、太陽風と[[星間物質]]の衝突が引き起こされており、これにより太陽風の移動速度が減速を始め、約200au離れると、星間物質の強さが太陽風を上回るようになり、やがて星間空間となる{{R|Fahr2000}}。この領域にまで達すると、太陽風は急速に減速・凝縮するようになり{{R|Fahr2000}}、[[ヘリオシース]]と呼ばれる楕円状の構造を形成している。この構造は彗星の尾のように伸びているとされている。<!-- extending outward for a further 40 AU on the upwind side but tailing many times that distance downwind; -->しかし、土星探査機[[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]]や[[IBEX (人工衛星)|IBEX]]による観測結果から、星間磁場の作用によって、太陽圏が楕円形ではなく、球形になっている可能性が示唆されている<ref>{{cite web|title=Cassini's Big Sky: The View from the Center of Our Solar System|work=NASA|url=https://www.jpl.nasa.gov/news/cassinis-big-sky-the-view-from-the-center-of-our-solar-system|date=2009|accessdate=2018-06-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.astroarts.co.jp/article/hl/a/9092_heliosphere|title=太陽圏の形は伸びた彗星状ではなく球状かもしれない|work=AstroArts|date=2017-05-01|accessdate=2018-06-17}}</ref>。
太陽圏の外縁、星間空間との境界にあたる領域は'''ヘリオポーズ'''({{Lang-en|Heliopause}})と呼ばれる{{R|Voyager}}。[[ボイジャー1号]]と[[ボイジャー2号]]はそれぞれ、太陽から94auと84au離れた位置でヘリオシースを突破しており<ref>{{cite journal|doi=10.1126/science.1117684|year=2005|author1=Stone, E. C.|author2=Cummings, A. C.|author3=McDonald, F. B.|author4=Heikkila, B. C.|author5=Lal, N.|author6=Webber, W. R.|title=Voyager 1 explores the termination shock region and the heliosheath beyond|volume=309|issue=5743|pages=2017-2020|pmid=16179468|journal=Science|bibcode=2005Sci...309.2017S}}</ref><ref>{{cite journal|doi=10.1038/nature07022|year=2008|author1=Stone, E. C.|author2=Cummings, A. C.|author3=McDonald, F. B.|author4=Heikkila, B. C.|author5=Lal, N.|author6=Webber, W. R.|title=An asymmetric solar wind termination shock|volume=454|issue=7200|pages=71-74|pmid=18596802|journal=Nature|bibcode=2008Natur.454...71S}}</ref>、2012年8月にはボイジャー1号がヘリオポーズを通過し、人工物としては初めて太陽圏外にまで到達し<ref>{{cite web|last1=Cook|first1=Jia-Rui C.|last2=Agle|first2=D. C.|last3=Brown|first3=Dwayne|title=NASA Spacecraft Embarks on Historic Journey into Interstellar Space|url=http://www.nasa.gov/mission_pages/voyager/voyager20130912.html|work=NASA|date=2013-09-12|accessdate=2018-06-17}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.cnn.co.jp/fringe/35037181.html|title=ボイジャー1号が太陽系圏を脱出 人工物で初|work=CNN.co.jp|date=2013-09-13|accessdate=2018-06-17}}</ref>、2018年11月にはボイジャー2号も太陽圏外に到達した<ref>{{cite news|last1=Brown|first1=Dwayne|last2=Fox|first2=Karen|last3=Cofield|first3=Calia|last4=Potter|first4=Sean|title=Release 18-115 - NASA’s Voyager 2 Probe Enters Interstellar Space|url=https://www.nasa.gov/press-release/nasa-s-voyager-2-probe-enters-interstellar-space|date=2018-12-10|work=NASA|accessdate=2019-01-01}}</ref>。
太陽圏の形状は、星間空間との[[流体力学]]的相互作用と[[太陽#太陽磁場と周期|太陽の磁場]]の影響で決まる可能性が高く、黄道面に対して北半球側は、南半球側よりも約9 au遠方まで広がっている{{R|Fahr2000}}。ヘリオポーズを超えて、太陽から約230 au離れた領域は、銀河系の中を太陽系が進むことで、星間空間と太陽圏の間に[[バウショック]](衝撃波面)と呼ばれる構造が形成されている<ref>{{cite web|url=https://apod.nasa.gov/apod/ap020624.html|title=The Sun's Heliosphere & Heliopause|work=[[Astronomy Picture of the Day]]|publisher=NASA|date=2002-06-24|accessdate=2018-06-17}}</ref>。しかし2012年には、太陽系が星間空間内を進む速度が想定よりも遅いことが判明し、太陽系にバウショックは存在しない可能性が示されている<ref>{{cite journal|author=D. J. McComas|year=2012|title=The Heliosphere’s Interstellar Interaction: No Bow Shock|journal=Science|volume=336|issue=6086|pages=1291-1293|doi=10.1126/science.1221054}}</ref>。
[[ファイル:Oort cloud Sedna orbit jp.svg|サムネイル|右|太陽系の構造を縮小した図{{bulleted list|内太陽系と木星|外太陽系と冥王星|セドナ(分離天体)|オールトの雲内部}}]]
観測データが乏しいため、太陽圏の宇宙放射線の遮断率、太陽圏の外縁部の詳しい状態など、よく分かっていない点も多い。NASAの探査機ボイジャーは、ヘリオポーズを通過する際、放射線量と太陽風に関する貴重なデータを地球に送信することが期待されている<ref>{{cite web|year=2007|title=Voyager: Interstellar Mission|work=[[ジェット推進研究所|NASA Jet Propulsion Laboratory]]|url=https://voyager.jpl.nasa.gov/mission/interstellar-mission/|accessdate=2018-06-17}}</ref>。現在、NASAが資金を提供している開発グループは、太陽圏外縁部にプローブを送り込む''Vision Mission''計画を構想している<ref>{{cite conference|title=Innovative Interstellar Explorer |author=R. L. McNutt, Jr.|booktitle=Physics of the Inner Heliosheath: Voyager Observations, Theory, and Future Prospects|series=[[AIP Conference Proceedings]]|volume=858|pages=341-347|year=2006|bibcode=2006AIPC..858..341M|doi=10.1063/1.2359348}}</ref><ref>{{cite web|title=Interstellar space, and step on it!|work=New Scientist|url=https://www.newscientist.com/article/mg19325850.900-interstellar-space-and-step-on-it.html|date=2007-01-05|accessdate=2018-06-17|author=Anderson, Mark}}</ref>。
=== 分離天体 ===
{{Main|分離天体}}
[[セドナ (小惑星)|セドナ]]({{Lang-en|Sedna}})と呼ばれる小惑星は、近日点でも太陽から76 auも離れており、遠日点では937 auにまで遠ざかる。そのあまりにも大きな軌道のため、公転するのに約1万1400年もの時間を要する<ref>{{cite web|author=Horizons output|url=http://ssd.jpl.nasa.gov/horizons.cgi?find_body=1&body_group=sb&sstr=Sedna|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121119041320/http://home.surewest.net/kheider/astro/sedna-bc.txt|title=Barycentric Osculating Orbital Elements for 90377 Sedna (2003 VB12)|archivedate=2012-11-19|accessdate=2018-06-17}}</ref>。2003年にこの天体を発見した[[マイク・ブラウン]]は、近日点が太陽から遠すぎるため、海王星の移動による影響を受けておらず、太陽系外縁天体や散乱円盤天体にも属さない天体だと主張している。ほかの天文学者も、セドナは初めて発見されたまったく新しい分類に属する天体だとしており、こうした天体を'''分離天体'''({{Lang-en|Detached object}}、DDO)と呼んでいる。この分類にはセドナのほかに、近日点距離45 au、遠日点距離415 au、公転周期3,420年の{{仮リンク|label=2000 CR<sub>105</sub>|(148209) 2000 CR105|en|(148209) 2000 CR105}}も含まれる可能性があるとされた<ref>{{cite web|author=David Jewitt|title=Sedna - 2003 VB<sub>12</sub>|work=University of Hawaii|url=http://www2.ess.ucla.edu/~jewitt/kb/sedna.html|year=2004|accessdate=2018-06-17}}</ref>。太陽から遠く離れているが、ほかの天体と同様の過程で形成されたとしているため、ブラウンは、こうした天体の集団を[[オールトの雲|内オールトの雲]]と呼称している<ref>{{cite web|title=Sedna|author=Mike Brown|year=2004|url=http://www.gps.caltech.edu/~mbrown/sedna/|work=Caltech|accessdate=2018-06-17}}</ref>。セドナは準惑星の候補に挙げられているが、まだその詳しい形状は明らかになっていない。2012年には、セドナよりも遠い、約80 auの近日点距離を持つ小惑星[[2012 VP113|2012 VP<sub>113</sub>]]が発見された。一方で、遠日点距離は400 - 500 auと、セドナの約半分しかない<ref>{{cite web|type=2013-10-30 last obs|title=JPL Small-Body Database Browser: (2012 VP113)|url=https://ssd.jpl.nasa.gov/tools/sbdb_lookup.html#/?sstr=2012VP113|publisher=Jet Propulsion Laboratory|accessdate=2018-06-17}}</ref><ref>{{cite web|url=http://phys.org/news/2014-03-edge-solar.html|title=A new object at the edge of our Solar System discovered|work=Physorg.com|date=2014-03-26|accessdate=2018-06-17}}</ref>。
=== オールトの雲 ===
{{Main|オールトの雲}}
[[ファイル:Kuiper oort-en.svg|サムネイル|右|オールトの雲の模式図]]
'''オールトの雲'''({{Lang-en|Oort Cloud}})は、太陽から約5万 au(約1光年)離れた領域で球状に太陽系を取り囲む、1兆個以上の小天体からなる仮想上の構造で、すべての長周期彗星の起源とされている。最大で約10万 au(約1.87光年)遠方にまで及んでいる可能性も示されている。オールトの雲を構成している小天体は、外惑星系との重力相互作用によって、太陽系内部から、この軌道にまで追いやられた彗星からできているとされる。オールトの雲の小天体は非常に低速で移動しており、衝突や近傍の恒星による重力効果、銀河系からの[[潮汐力]]などのまれな事象で錯乱される可能性がある<ref>{{cite web|year=2001|author=Stern SA, Weissman PR |title=Rapid collisional evolution of comets during the formation of the Oort cloud.|work=Space Studies Department, Southwest Research Institute, Boulder, Colorado|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/entrez/query.fcgi?cmd=Retrieve&db=PubMed&list_uids=11214311&dopt=Citation|accessdate=2018-06-17}}</ref><ref>{{cite web|year=2006|author=Bill Arnett|title=The Kuiper Belt and the Oort Cloud|work=nineplanets.org|url=http://www.nineplanets.org/kboc.html|accessdate=2018-06-17}}</ref>。
=== 太陽系の境界 ===
太陽系にはまだよく知られていない、未知な点も多い。太陽の重力は約12万5000 au(約2光年)遠方にまで及んでいると推定されているが、それに対して、オールトの雲以遠にある天体は発見されていない<ref>{{cite book|title=The Solar System: Third edition|author1=T. Encrenaz|author2=JP. Bibring|author3=M. Blanc|author4=MA. Barucci|author5=F. Roques|author6=PH. Zarka|publisher=Springer|year=2004|page=1}}</ref>。また、カイパーベルトとオールトの雲の間を公転するセドナのような天体も事実上、ほとんど知られていない。一方で、太陽と水星の間を公転する天体の有無について研究が進められている<ref>{{cite journal|pages=312-315|volume=148|journal=Icarus|author1=Durda D. D.|author2=Stern S. A.|author3=Colwell W. B.|author4=Parker J. W.|author5=Levison H. F.|author6=Hassler D. M.|title=A New Observational Search for Vulcanoids in SOHO/LASCO Coronagraph Images|year=2004|doi=10.1006/icar.2000.6520|bibcode=2000Icar..148..312D}}</ref>。このような太陽系内における観測が進んでいない領域では、未知の天体が存在している可能性が残されている。
現在知られている中でもっとも太陽から遠ざかる天体は[[ウェスト彗星]]で、遠日点距離は約13560 auにもなり<ref>{{cite web|author=Horizons output|url=http://ssd.jpl.nasa.gov/horizons.cgi?find_body=1&body_group=sb&sstr=C/1975+V1|title=Barycentric Osculating Orbital Elements for Comet C/1975 V1-A (West)|accessdate=2018-06-17}}</ref>、オールトの雲に対する理解を深める手がかりになるかもしれない。
== 銀河系における太陽系 ==
{{imageframe
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| caption = 銀河系における太陽系の位置(黄矢印)
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{{Superimpose
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}}
}}
太陽系は、約1000億個の恒星を含む、直径10万光年の[[銀河系]](天の川銀河)に位置している<ref>{{cite press|last=English|first=J.|title=Exposing the Stuff Between the Stars|url=http://www.ras.ucalgary.ca/CGPS/press/aas00/pr/pr_14012000/pr_14012000map1.html|publisher=Hubble News Desk|year=2000|accessdate=2018-06-17}}</ref>。その中でも、太陽系は、銀河系のスパイラル・アーム(渦状腕)のひとつである[[オリオン腕]]に属している<ref>{{cite journal|title=Three Dimensional Structure of the Milky Way Disk|author1=R. Drimmel|author2=D. N. Spergel|year=2001|pages=181-202|volume=556|doi=10.1086/321556|journal=The Astrophysical Journal|arxiv=astro-ph/0101259|bibcode=2001ApJ...556..181D}}</ref>。中心からは25,000 - 28,000光年離れており{{R|Eisenhauer03}}、約2億2500万 - 2億5000万年(1[[銀河年]])かけて銀河系を公転しているとされている{{R|hypertextbook}}。星間空間を進む太陽系が進んでいる方向([[太陽向点]])は[[ヘルクレス座]]の方向で、1等星の中では、[[こと座]]の[[ベガ]]がそれにもっとも近い<ref>{{cite web|year=2003|author=C. Barbieri |title=Elementi di Astronomia e Astrofisica per il Corso di Ingegneria Aerospaziale V settimana|work=IdealStars.com|url=http://dipastro.pd.astro.it/planets/barbieri/Lezioni-AstroAstrofIng04_05-Prima-Settimana.ppt|accessdate=2018-06-17|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050514103931/http://dipastro.pd.astro.it/planets/barbieri/Lezioni-AstroAstrofIng04_05-Prima-Settimana.ppt|archivedate=14 May 2005}}</ref>。太陽系の黄道面は、銀河系の[[銀河面]]に対して約60[[度 (角度)|度]]傾いている{{Refnest|group="注"|name=d|1=<math>\psi</math>を[[黄極]]と[[銀河座標|銀河北極]]の間の角度とする時、
<br />{{big|1=<math>\cos\psi=\cos(\beta_g)\cos(\beta_e)\cos(\alpha_g-\alpha_e)+\sin(\beta_g)\sin(\beta_e)</math>}}<br />
と求められる。そして、<math>\beta_g</math> = {{RA|27|07|42.01}}、および<math>\alpha_g</math> = {{DEC|12|51|26.282}}の時<ref>{{cite journal|last=Reid|first=M.J.|author2=Brunthaler, A. |title=The Proper Motion of Sagittarius A*|journal=The Astrophysical Journal|volume=616|issue=2|page=883|doi=10.1086/424960|year=2004|bibcode=2004ApJ...616..872R|arxiv=astro-ph/0408107}}</ref>、<math>\beta_e</math> = {{RA|66|33|38.6}}、<math>\alpha_e</math> = {{DEC|18|00|00}}が黄道の北極となる(座標の元期はいずれも[[J2000.0|J2000]])。これにより、黄道面の銀河面に対する角度は60.19°となる。}}。
銀河系における太陽系の位置は、地球上の[[地球史年表|生物の進化の歴史]]に大きな影響を与えたとされている。太陽はほぼ円形で銀河系で公転しており、また太陽系周辺は、周辺のスパイラル・アームと近い速度で移動しているため、太陽系は滅多にスパイラル・アームを通過しない{{R|astrobiology}}<ref>{{cite journal|author=O. Gerhard|title=Pattern speeds in the Milky Way|year=2011|journal=Mem. S.A.It. Suppl.|volume=18|page=185|arxiv=1003.2489|bibcode=2011MSAIS..18..185G}}</ref>。スパイラル・アーム内は、高頻度の[[超新星爆発]]、不安定な重力、太陽系に大きな影響を与える宇宙放射線などがあるため、この中に位置していない地球は、長い期間に渡って生物が安定して存在することができた{{R|astrobiology}}。また太陽系は、恒星が密集している中心部の[[銀河バルジ|バルジ]]からも離れている。バルジ付近では、近くの恒星からの重力の影響を受けてオールトの雲が安定せず、太陽系内部に散乱され、地球上の生物に[[天体衝突]]による潜在的な危険性が伴う。また、飛び交う放射線が生物の進化を妨げる可能性もある{{R|astrobiology}}。<!-- Even at the Solar System's current location, some scientists have speculated that recent supernovae may have adversely affected life in the last 35,000 years, by flinging pieces of expelled stellar core towards the Sun, as radioactive dust grains and larger, comet-like bodies.<ref>{{cite web|year=2005|title=Supernova Explosion May Have Caused Mammoth Extinction|work=Physorg.com|url=http://www.physorg.com/news6734.html|accessdate=2 February 2007}}</ref>-->
=== 近隣の恒星 ===
{{See also|近い恒星の一覧}}
[[ファイル:Local Interstellar Clouds with motion arrows.jpg|サムネイル|右|太陽圏を超えた先には、様々な気体から成る星間雲がある。現在、太陽系は[[局所恒星間雲]]の中を移動している。]]
太陽系は現在、[[局所恒星間雲]]({{Lang-en|Local Interstellar Clouds}})と呼ばれる領域にある。しかし、局所恒星間雲は{{仮リンク|Gクラウド|en|G-Cloud}}と呼ばれる星間雲と隣接しているが、太陽系が局所恒星間雲に属しているか、あるいは局所恒星間雲とGクラウドが相互作用する領域に位置しているかは分かっていない<ref>[http://interstellar.jpl.nasa.gov/interstellar/probe/introduction/neighborhood.html Our Local Galactic Neighborhood], NASA, 5 June 2013{{リンク切れ|date=2022年4月}}</ref><ref>[http://www.centauri-dreams.org/?p=14203 Into the Interstellar Void], Centauri Dreams, 5 June 2013</ref>。局所恒星間雲は、[[局所泡]]({{Lang-en|Local Bubble}})と呼ばれる、星間物質がまばらな直径約300光年の空間にある、星間物質が濃い領域である。局所泡は高温の[[プラズマ]]で満たされており、これは局所泡が超新星爆発によって形成された可能性を示している<ref>{{cite web|title=Near-Earth Supernovas|work=NASA|url=https://science.nasa.gov/headlines/y2003/06jan_bubble.htm|accessdate=2018-06-17|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060813160705/https://science.nasa.gov/headlines/y2003/06jan_bubble.htm|archivedate=13 August 2006}}</ref>。
太陽系から10光年以内の領域には、いくつかの恒星が存在している。もっとも近い恒星は、約4.4光年離れた三重[[連星]]系の[[ケンタウルス座アルファ星|ケンタウルス座α星]]である。ケンタウルス座α星A、Bは太陽に比較的似た恒星で、それから0.2光年離れた軌道を[[プロキシマ・ケンタウリ]](ケンタウルス座α星C)が公転している。2016年には、このプロキシマ・ケンタウリを公転する惑星、[[プロキシマ・ケンタウリb]]の存在が確認され、地球に似た環境を持つ可能性がある惑星として期待されている<ref>{{cite journal|last1=Anglada-Escudé|first1=Guillem|last2=Amado|first2=Pedro J.|last3=Barnes|first3=John|last4=Berdiñas|first4=Zaira M.|last5=Butler|first5=R. Paul|last6=Coleman|first6=Gavin A. L.|last7=de la Cueva|first7=Ignacio|last8=Dreizler|first8=Stefan|last9=Endl|first9=Michael|last10=Giesers|first10=Benjamin|last11=Jeffers|first11=Sandra V.|last12=Jenkins|first12=James S.|last13=Jones|first13=Hugh R. A.|last14=Kiraga|first14=Marcin|last15=Kürster|first15=Martin|last16=López-González|first16=Marίa J.|last17=Marvin|first17=Christopher J.|last18=Morales|first18=Nicolás|last19=Morin|first19=Julien|last20=Nelson|first20=Richard P.|last21=Ortiz|first21=José L.|last22=Ofir|first22=Aviv|last23=Paardekooper|first23=Sijme-Jan|last24=Reiners|first24=Ansgar|last25=Rodríguez|first25=Eloy|last26=Rodrίguez-López|first26=Cristina|last27=Sarmiento|first27=Luis F.|last28=Strachan|first28=John P.|last29=Tsapras|first29=Yiannis|last30=Tuomi|first30=Mikko|last31=Zechmeister|first31=Mathias|title=A terrestrial planet candidate in a temperate orbit around Proxima Centauri|journal=Nature|date=25 August 2016|volume=536|issue=7617|pages=437-440|doi=10.1038/nature19106|url=http://www.nature.com/nature/journal/v536/n7617/full/nature19106.html|language=en|issn=0028-0836|pmid=27558064|arxiv=1609.03449|bibcode=2016Natur.536..437A}}</ref><ref>{{cite news|last1=Witze|first1=Alexandra|title=Earth-sized planet around nearby star is astronomy dream come true|url=http://www.nature.com/news/earth-sized-planet-around-nearby-star-is-astronomy-dream-come-true-1.20445|accessdate=2018-06-17|work=Nature|date=2016-08-24|pages=381-382|doi=10.1038/nature.2016.20445}}</ref>。次に太陽系に近い恒星として、[[赤色矮星]]の[[バーナード星]](5.9光年)、[[ウォルフ359]](7.8光年)、[[ラランド21185]](8.3光年)がこれに続く。
近隣にある恒星でもっとも大きいのは[[シリウス]]で、約8.6光年離れている。約2倍の質量を持つ[[A型主系列星]]で、白色矮星の伴星シリウスBが周囲を公転している。10光年以内にある、既知でもっとも近い[[褐色矮星]]は、2つの褐色矮星の連星系である[[WISE J104915.57-531906.1]](ルーマン16)で、約6.6光年離れている<ref>{{cite web|url=http://science.psu.edu/news-and-events/2013-news/Luhman3-2013|title=The Closest Star System Found in a Century|work=PennState Eberly College of Science|date=2013-03-11|accessdate=2018-06-17}}</ref>。10光年以内にある恒星としては、ほかに[[ルイテン726-8]](8.7光年)と[[ロス154]](9.7光年)がある<ref>{{cite web|title=Stars within 10 light years|url=http://www.solstation.com/stars/s10ly.htm|work=SolStation|accessdate=2018-06-17}}</ref>。約10.5光年離れている[[エリダヌス座イプシロン星|エリダヌス座ε星]]は、大きな[[塵円盤]]を持つことが確認されている<ref>{{cite journal|last1=Greaves|first1=J. S.|last2=Holland|first2=W. S.|last3=Moriarty-Schieven|first3=G.|last4=Jenness|first4=T.|last5=Dent|first5=W. R. F.|last6=Zuckerman|first6=B.|last7=McCarthy|first7=C.|last8=Webb|first8=R. A.|last9=Butner|first9=H. M.|last10=Gear|first10=W. K.|last11=Walker|first11=H. J.|title=A dust ring around Epsilon Eridani: analog to the young Solar System|journal=The Astrophysical Journal|year=1998|volume=506| issue=2|pages=L133-L137|bibcode=1998ApJ...506L.133G|doi=10.1086/311652|arxiv=astro-ph/9808224}}</ref>。太陽系にもっとも近い、太陽に類似した恒星は、約11.9光年離れた位置にある[[くじら座タウ星|くじら座τ星]]である。太陽の約80%の質量と、約60%の明るさを持ち<ref>{{cite web|title=Tau Ceti|url=http://www.solstation.com/stars/tau-ceti.htm|work=SolStation|accessdate=2018-06-17}}</ref>、4つの惑星が周囲を公転している<ref>{{cite arxiv|author=Fabo Feng|author2=Mikko Tuomi|author3=Hugh R.A. Jones|author4=John Barnes|author5=Guillem Anglada-Escude|author6=Steven S. Vogt|author7=R. Paul Butler|title=Color difference makes a difference: four planet candidates around tau Ceti|eprint=1708.02051v1|class=astro-ph.EP|date=2017-08-07}}</ref>。既知でもっとも太陽系に近い[[自由浮遊惑星]]は、約7.3光年離れている[[WISE J085510.83-071442.5]]で、質量は木星の10倍未満とされている<ref>[http://iopscience.iop.org/2041-8205/786/2/L18/article Discovery of a ~250 K Brown Dwarf at 2 pc from the Sun], K. L. Luhman 2014 ApJ 786 L18. {{DOI|10.1088/2041-8205/786/2/L18}}</ref>。
{{wide image|Earth's Location in the Universe (JPEG).jpg|2000px|[[観測可能な宇宙]]における地球の位置を示した図}}
=== 太陽系外惑星系との比較 ===
{{Main|惑星系|太陽系外惑星}}
[[ファイル:Kepler-30 system.jpg|左|サムネイル|惑星の軌道面がほぼ揃っている[[ケプラー30]]系の想像図。こうした軌道面が揃った惑星系は、太陽系外では珍しいとされている。]]
[[ファイル:Exoplanet Period-Mass Scatter History.gif|サムネイル|太陽系外惑星の質量(縦軸)と公転周期・軌道長半径(横軸)を表したグラフ。図下部の水星(☿)よりも恒星に近い惑星が多い事が分かる。]]
太陽系がほかの[[惑星系]]と異なる点として、水星よりも内側で、太陽に非常に近い軌道を公転している惑星が存在していない点が挙げられる{{R|Martin15}}<ref>[http://aasnova.org/2015/09/25/how-normal-is-our-solar-system/ How Normal is Our Solar System?], By Susanna Kohler on 25 September 2015</ref>。一方で[[太陽系外惑星]]では、[[ホット・ジュピター]]などの、恒星に非常に近い軌道を公転する惑星が多く知られている。また、地球と海王星の中間の規模を持った[[スーパーアース]]と呼ばれる天体も太陽系内では知られておらず、小型の岩石惑星と、大型の巨大ガス惑星しか存在していない(しかし、未確認の[[プラネット・ナイン]]がこれに該当する可能性がある){{R|Martin15}}。太陽系外惑星系では、こうしたスーパーアースが存在しているのが典型的で、また、水星よりも恒星の近くを公転している場合が多い{{R|Martin15}}。多くの惑星系では形成初期、惑星同士は軌道が近かったため、衝突を繰り返し質量が大きないくつかの惑星が形成されたが、太陽系では、この衝突によって惑星が破壊されたり、系外に放出されたりしたため、このような違いが生じた可能性が示されている<ref>{{cite arxiv|author=Kathryn Volk|author2=Brett Gladman|eprint=1502.06558v2|title=Consolidating and Crushing Exoplanets: Did it happen here?|date=2015-05-27|class=astro-ph.EP}}</ref><ref>[http://www.astrobio.net/news-exclusive/mercury-sole-survivor-of-close-orbiting-planets Mercury Sole Survivor of Close Orbiting Planets], By Nola Taylor Redd - 8 June 2015</ref>。
また、太陽系はすべての惑星の軌道離心率が低く、ほぼ円形の軌道を公転している{{R|Martin15}}。一方、太陽系外でこうした軌道を描く惑星系は珍しく、極端な楕円軌道を描く[[エキセントリック・プラネット]]と呼ばれる惑星も数多く知られている。
しかし、近年の観測技術の向上にともない、スーパーアースよりも小さな地球サイズの惑星、[[グリーゼ676]]A系や[[ケプラー90]]系などの構造が太陽系に似た惑星系も発見されるようになり、太陽系は数ある惑星系のパターンのひとつにすぎないと考えられるようになっている<ref>{{cite journal|last=Anglada-Escudé|first=Guillem|coauthors=Tuomi,Mikko|year=2012|title=A planetary system with gas giants and super-Earths around the nearby M dwarf GJ 676A. Optimizing data analysis techniques for the detection of multi-planetary systems|arxiv=1206.7118|bibcode=2012arXiv1206.7118A}}</ref>。
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== 太陽系における主な最大値・最小値 ==
=== 直径 ===
* 最も大きな天体 [[太陽]] 直径約139万km
* 最も大きな惑星 [[木星]] 直径142,984km
* 最も小さな惑星 [[水星]] 直径4,879km
* 最も大きな衛星 [[ガニメデ (衛星)|ガニメデ]] 直径5,262.4km
* 最も大きな[[小惑星帯]](メインベルト)の天体 [[ケレス (準惑星)|ケレス]] 直径約950km
* [[宇宙探査機|探査機]]が着陸した最も小さな天体 [[イトカワ (小惑星)|イトカワ]] 535m × 294m × 209m
* 最も小さな天体([[絶対等級]]による推定) {{mpl|2008 TS|26}} 84cm
=== 太陽からの距離 ===
特異小惑星や外縁天体は惑星に比べて離心率が大きいため、何を基準にするかによって距離も変わってくる。
* 近日点が最も太陽に近い彗星 [[SOHO彗星 (C/2007 M5)|SOHO彗星 (C/2007 M<sub>5</sub>)]] 約16万km
* 近日点が最も太陽に近く、消滅しなかった彗星 [[:en:Comet Pereyra|Pereyra彗星]] 約76万km
* 近日点が最も太陽に近い小惑星 {{mpl|2005 HC|4}} 約1100万km
* 最も太陽から近い惑星 [[水星]] 約5800万km
* 軌道長半径が最も小さい小惑星 {{mpl|2007 EB|26}} 約8200万km
* 遠日点が最も太陽に近い小惑星 {{mpl|2008 EA|32}} 約1億2000万km
* 軌道長半径が最も小さい彗星 [[エンケ彗星]] 約3億3100万km
* 近日点が最も太陽から遠い彗星 [[CINEOS彗星]] 約17億km
* 最も太陽から遠い惑星 [[海王星]] 約45億km
* 近日点が最も太陽から遠い小惑星 [[セドナ (小惑星)|セドナ]] 約114億km
* 最も太陽から遠くに位置している天体 [[エリス (準惑星)|エリス]] 約145億km(2007年現在)
* 最も太陽から遠くに位置している人工物 [[ボイジャー1号]] 約187億km(2013年9月現在<ref>{{cite web
| title=ボイジャー1号の太陽系外到達を確認
| journal=ナショナルジオグラフィック ニュース
| url=http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/8357/?ST=m_news
| accessdate=2016-02-22}}</ref>)
* 軌道長半径が最も大きい小惑星 {{mpl|2013 BL|76}} 約1787億km
* 遠日点が最も太陽から遠い小惑星 {{mp|2013 BL|76}} 約3561億km
* 軌道長半径が最も大きい彗星 [[陳・高彗星]] 約23兆km
* 遠日点が最も太陽から遠い彗星 陳・高彗星 約47兆km
** ただし、[[非周期彗星]]は摂動などの影響で軌道が変わりやすく、この軌道で回帰してくるとは限らない。回帰することがわかっている中では[[池谷・張彗星]]が最高で、軌道長半径は約77億km、遠日点が153億kmである。
=== 表面重力 ===
* 最も表面重力の強い天体 [[太陽]] 地球のおよそ28倍
* 最も表面重力の強い惑星 [[木星]] 地球のおよそ2.4倍
* 最も表面重力の弱い惑星 [[水星]] 地球のおよそ0.2倍
=== 自転・公転周期 ===
* 最も自転周期の短い惑星 [[木星]] 9時間55.5分
* 最も自転周期の長い惑星 [[金星]] 243.0187日(逆行)
* 最も自転周期の短い小惑星 {{mpl|2010 JL|88}} 24.5862秒
* 最も自転周期の長い小惑星 [[リッペルタ (小惑星)|リッペルタ]] 68.375日
* 最も公転周期の短い惑星 [[水星]] 87日23.3時間
* 最も公転周期の長い惑星 [[海王星]] 164年288日13時間
* 最も公転周期の短い準惑星 [[ケレス (準惑星)|ケレス]] 4年219日
* 最も公転周期の長い準惑星 [[エリス (準惑星)|エリス]] 約557年
* 最も公転周期の短い小惑星 {{mpl|2007 EB|26}} 148.11日
* 最も公転周期の長い小惑星 {{mpl|2013 BL|76}} 約4万1291年
* 最も公転周期の短い周期彗星 [[エンケ彗星]] 3年110日
* 最も公転周期の長い周期彗星 [[池谷・張彗星]] 約370年
* 最も公転周期の短い衛星 [[メティス (衛星)|メティス]]、[[ナイアド (衛星)|ナイアド]] 7時間4分
** 小惑星の衛星は含まない。
* 最も公転周期の長い衛星 [[ネソ (衛星)|ネソ]] 25年243日(逆行)
=== 平均軌道速度 ===
* 最も平均軌道速度の速い惑星 [[水星]] 47.8725 km/s
* 最も平均軌道速度の遅い惑星 [[海王星]] 5.4778 km/s
=== 時間の長さ ===
* 「1年」の長さが「1日([[太陽日]])」と比較して最も短い惑星 [[水星]] 1日=地球の176日、1年=地球の88日
* 「1年」の長さが「1日(太陽日)」と比較して最も長い惑星 [[海王星]] 1日=地球の16時間、1年=地球の164年288日
=== 平均密度 ===
* 最も平均密度の高い惑星 [[地球]] 5.515g/cm{{sup|3}}
* 最も平均密度の低い惑星 [[土星]] 0.69g/cm{{sup|3}}
=== 衛星 ===
* 最も多くの衛星を持つ惑星(2014年現在) [[木星]] 67個
* 最も衛星が少ない惑星 [[地球]] 1個
** 衛星を持たない惑星 [[水星]]、[[金星]]
* 最も多くの衛星を持つ準惑星 [[冥王星]] 5個
* 最も衛星が少ない準惑星 [[エリス (準惑星)|エリス]] 1個、[[マケマケ (準惑星)|マケマケ]] 1個
** 衛星を持たない準惑星 [[ケレス (準惑星)|ケレス]]
=== 峡谷・山 ===
* 太陽系最大の峡谷 [[マリネリス峡谷]](火星) 全長4,000km、深さ7km
* 太陽系一大きな山 [[オリンポス山 (火星)|オリンポス山]](火星) 約25,000m(平均重力面からの高度)
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== 太陽系を扱った作品 ==
{{main|[[地球以外の実在天体を扱った事物#太陽系]]<!--各種作品についてはこちらにお願いします-->}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|2|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3|refs=
<ref name=MinorPlanetCenter>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/mpc/summary|title=Latest Published Data|work=[[小惑星センター|Minor Planet Center]]|publisher=[[国際天文学連合|IAU]]|accessdate=2023-11-01}}</ref>
<ref name=Kasting93>{{cite journal|author=Kasting, James F.|author2=Whitmire, Daniel P.|author3=Reynolds, Ray T.|url=http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0019103583710109|title=Habitable Zones around Main Sequence Stars|year=1993|journal=Icarus|volume=101|issue=1|pages=108-118|doi=10.1006/icar.1993.1010|bibcode=1993Icar..101..108K|pmid=11536936}}</ref>
<ref name=Muuma03>{{cite journal|last1=Mumma|first1=M. J.|last2=Disanti|first2=M. A.|last3=Dello Russo|first3=N.|last4=Magee-Sauer|first4=K.|last5=Gibb|first5=E.|last6=Novak|first6=R.|doi=10.1016/S0273-1177(03)00578-7|title=Remote infrared observations of parent volatiles in comets: A window on the early solar system|journal=Advances in Space Research|volume=31|issue=12|pages=2563-2575|year=2003|bibcode=2003AdSpR..31.2563M}}</ref>
<ref name=NASA20120614>{{cite web|url=https://www.nasa.gov/mission_pages/voyager/voyager20120614.html|title=Data From NASA's Voyager 1 Point to Interstellar Future|work=[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]|date=2012-06-14|accessdate=2018-06-17}}</ref>
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<ref name=SaturnFact>{{cite web|url=http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/saturnfact.html|title=Saturn Fact Sheet|publisher=NASA|author=David R. Williams|accessdate=2018-06-17}}</ref>
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<ref name=Podolak2000>{{cite journal|doi=10.1016/S0032-0633(99)00088-4|last1=Podolak|first1=M.|last2=Podolak|first2=J. I.|last3=Marley|first3=M. S.|date=February 2000|title=Further investigations of random models of Uranus and Neptune|journal=Planetary and Space Science|volume=48|issue=2-3|pages=143-151|bibcode=2000P&SS...48..143P}}</ref>
<ref name=Arizona>{{cite web|title=Lecture 13: The Nebular Theory of the origin of the Solar System|url=http://atropos.as.arizona.edu/aiz/teaching/nats102/mario/solar_system.html|work=[[アリゾナ大学|University of Arizona]]|accessdate=2018-06-17}}</ref>
<ref name=Schröder08>{{cite journal|author1=Schröder, K.-P.|author2=Connon Smith, Robert|title=Distant future of the Sun and Earth revisited|journal=Monthly Notices of the Royal Astronomical Society|year=2008|volume=386|issue=1|pages=155-163|bibcode=2008MNRAS.386..155S|doi=10.1111/j.1365-2966.2008.13022.x|arxiv=0801.4031}}</ref>
<ref name=Voyager>{{cite web|url=http://www.nasa.gov/vision/universe/solarsystem/voyager_agu.html|title=Voyager Enters Solar System's Final Frontier|work=[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]|accessdate=2018-06-17}}</ref>
<ref name=Lucy07>{{cite book|title=Encyclopedia of the Solar System|editor=Lucy-Ann McFadden |display-editors=etal |chapter=Kuiper Belt Objects: Physical Studies|author=Stephen C. Tegler|pages=605-620|year=2007}}</ref>
<ref name=Fahr2000>{{cite journal|title=A 5-fluid hydrodynamic approach to model the Solar System-interstellar medium interaction|journal=Astronomy and Astrophysics|year=2000|volume=357|page=268|url=http://aa.springer.de/papers/0357001/2300268.pdf|format=PDF|bibcode=2000A&A...357..268F|author1=Fahr|first1=H. J.|last2=Kausch|first2=T.|last3=Scherer|first3=H.}} See Figures 1 and 2.</ref>
<ref name=Eisenhauer03>{{cite journal|last=Eisenhauer|first=F.|title=A Geometric Determination of the Distance to the Galactic Center|journal=The Astrophysical Journal|volume=597|issue=2|pages=L121-L124|year=2003|doi=10.1086/380188|bibcode=2003ApJ...597L.121E|arxiv=astro-ph/0306220}}</ref>
<ref name=hypertextbook>{{cite web|title=Period of the Sun's Orbit around the Galaxy (Cosmic Year)|first=Stacy|last=Leong|url=http://hypertextbook.com/facts/2002/StacyLeong.shtml|year=2002|work=The Physics Factbook|accessdate=2018-06-17}}</ref>
<ref name=astrobiology>{{cite web|author=Leslie Mullen|title=Galactic Habitable Zones|work=Astrobiology Magazine|url=http://www.astrobio.net/news-exclusive/galactic-habitable-zones-2/|date=2001-05-18|accessdate=2018-06-17}}</ref>
<ref name=Martin15>{{cite arxiv|author=Rebecca G. Martin|author2=Mario Livio|eprint=1508.00931v1|title=The Solar System as an Exoplanetary System|class=astro-ph.EP|date=2015-08-04}}</ref>
}}
== 関連文献 ==
*{{Cite book|和書|editor=水谷仁|year=2009|title=[[ニュートン (雑誌)|ニュートン]]別冊 太陽と惑星 改訂版|publisher=[[ニュートンプレス]]|isbn=978-4-315-51859-7|ref=Newton09}}
*{{Cite book|和書|author=監修: 渡辺潤一|year=2013|title=ビジュアル宇宙大図鑑 太陽系から130億光年の果てまで|publisher=日経[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]]社|isbn=978-4-86313-143-9|ref=natgeo}}
*{{Cite book|和書|title=最新宇宙論と天文学を楽しむ本―太陽系の謎からインフレーション理論まで|publisher=PHP文庫|author=監修:佐藤 勝彦|isbn=978-4-569-57299-4|date=1999年11月15日}}
*{{Cite book|和書|title=星の地図館 太陽系大地図|publisher=STAR ATLAS 21 星の地図館|author=渡部潤一|isbn=9784095260792|date=2009年7月}}
*{{Cite book|和書|title=太陽系惑星|author=ジャイルズ スパロウ|isbn=978-4-309-25222-3|date=2014年09月|publisher=河出書房新社|translator=桃井 緑美子}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Solar_System|Solar_System}}
{{Wikibooks}}
{{Wiktionary}}
{{Wikiquote}}
* [[ソーラーアナログ]]
* [[ケプラーの法則]]
* [[天文学のシンボル]]
* [[惑星記号]]
* [[太陽系の天体の一覧]]
* [[名前が重複している太陽系内の天体]]
* [[静水圧平衡にある太陽系天体の一覧]]
* [[占星術]]・[[西洋占星術]]
== 外部リンク ==
* [https://solarsystem.nasa.gov/ Solar System Exploration] - NASA(アメリカ航空宇宙局)
* {{Wayback|url=http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/contents_solar_system.html |title=太陽系 |date=20090617065427}} - JAXA(宇宙航空研究開発機構)宇宙情報センター
* [https://www.cgh.ed.jp/TNPJP/nineplanets/index.html ザ・ナインプラネッツ日本語版]
* [https://web.archive.org/web/20140426232154/http://logic-law.com/index.php?title=A_Cosmic_History_of_Human_Evolution#Development_of_the_Solar_System A Cosmic History of the Solar System]
* [https://joshworth.com/2014/02/05/a-tediously-accurate-map-of-the-solar-system/ A Tediously Accurate Map of the Solar System (web based scroll map scaled to the Moon being 1 pixel)]
* [https://space.jpl.nasa.gov/ NASA's Solar System Simulator]
* [https://solarsystem.nasa.gov/solar-system/our-solar-system/overview/ Solar System Profile] - [https://web.archive.org/web/20060425235742/http://solarsystem.nasa.gov/index.cfm NASA's Solar System Exploration]
* {{Kotobank}}
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[[Category:天文学に関する記事]]
[[Category:天文学]]
[[Category:天体]]
[[Category:太陽系|*]]
[[Category:惑星系]]
[[Category:惑星科学]] | 2003-02-22T07:59:34Z | 2023-12-01T11:25:03Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E7%B3%BB |
2,694 | ムーアの法則 | ムーアの法則(ムーアのほうそく、英: Moore's law)とは、大規模集積回路(LSI IC)の製造・生産における長期傾向について論じた1つの指標であり、経験則に類する将来予測である。
発表当時フェアチャイルドセミコンダクターに所属しており後に米インテル社の創業者のひとりとなるゴードン・ムーアが1965年に自らの論文上に示したのが最初であり、その後、関連産業界を中心に広まった。
彼は1965年に、集積回路あたりの部品数が毎年2倍になると予測し、この成長率は少なくともあと10年は続くと予測した。1975年には、次の10年を見据えて、2年ごとに2倍になるという予測に修正した。彼のこの2年ごとに2倍になるとの予測は1975年以降も維持され、それ以来「ムーアの法則」として知られるようになった。
ムーアの元々の文章は以下である。
(原文) The complexity for minimum component costs has increased at a rate of roughly a factor of two per year (see graph on next page). Certainly over the short term this rate can be expected to continue, if not to increase. Over the longer term, the rate of increase is a bit more uncertain, although there is no reason to believe it will not remain nearly constant for at least 10 years. That means by 1975, the number of components per integrated circuit for minimum cost will be 65,000.
I believe that such a large circuit can be built on a single wafer.
"Cramming more components onto integrated circuits", Electronics Magazine 19 April 1965
(訳)部品あたりのコストが最小になるような複雑さは、毎年およそ2倍の割合で増大してきた((訳注)元文献ではここでグラフを参照している)。短期的には、この増加率が上昇しないまでも、現状を維持することは確実である。より長期的には、増加率はやや不確実であるとはいえ、少なくとも今後10年間ほぼ一定の率を保てないと信ずべき理由は無い。すなわち、1975年までには、最小コストで得られる集積回路の部品数は65,000に達するであろう。
私は、それほどにも大規模な回路が1個のウェハー上に構築できるようになると信じている。
チップの複雑さはトランジスタの個数に比例すると仮定し、それらが何に使われているかを無視するならば、この法則は今日まで充分時の試練に耐えてきたと言える。しかし、トランジスタ当たりの複雑さは、RAMキャッシュでは実行ユニットほど高くないという議論もあり得る。こんにちのマイクロプロセッサの祖である4004も、DRAMの祖である1103(en:Intel 1103)も1970年前後に登場したのであり、それらより5年も前に述べられたことでもある(また「1個のウェハー」についても、こんにちの直径300mmのウェハーへの wafer-scale integration のようなものを想定してはいないだろう)。そういった観点からすれば、ムーアの法則の妥当性は、その定式化のしかたによっては疑問符がつくものとなる。ただし、その成長が指数的であるという点に異論は無いと推測される。
なお、1枚のチップ(a chip)に集積される部品数は、プロセスの微細化とチップ面積の拡大の2つの要素の掛け合わせで増加する。
また「ムーアの法則」と名づけたのはムーア自身ではなく、その著書 Introduction to VLSI Systems(『超LSIシステム入門』)などで知られるカーバー・ミードによる。
ムーアは今日の機械式マウスの共同発明者であるダグラス・エンゲルバートから、1960年の講義にて集積回路のサイズ縮小の見通しについて議論したのを聞いた可能性がある。
ムーアが1975年に修正した法則は、集積回路上のトランジスタ数は「2年ごとに倍になる」というものである。
これを式で表現すると、n年後の倍率 p は、
となる。したがって、2年後には2倍、5年後には5.66倍、7年後には11.3倍、10年後には32倍、15年後には181.0倍、20年後には1024倍ということになる。
さらには、1チップあたりのコストに対するコンピューティングパワーを増加させ続けるものがムーアの法則だとされ、ハードディスクや果てはコンピュータ以外の技術でも指数的な成長をしていればなんであれ、どれもムーアの法則と呼ぶような傾向さえ現れた。
定量的にはともかく、コンピュータの性能という視点からは「トランジスタ数=ゲートやラッチ数の増加により、より複雑なプロセッサが実装できる」「デナード則により、微細化=高速省電力化である」という、ムーアの法則から間接的に発生する複数の要素が関与して、ひたすらに性能向上が進んだ、と定性的には言うことができるのは確かである。
クーメイ(en:Jonathan Koomey)はこれを定量的に捉え直す試みとして、ムーアの法則による微細化にともなう、デナード則による速度向上と省電力化の定式化と、過去のコンピュータの消費エネルギーあたりの計算量の再調査による長期の傾向から、法則性を取り出し「クーメイの法則」とした。クーメイによれば21世紀に入った後ではその値の成長は鈍化している。
鈍化の原因としては、ゲートやラッチの数をより増やしても、それに比例するようにはコンピュータの性能を上げられなくなったこと(ポラックの法則)、また集積回路技術の微細化による電子的な特性ではリーク電流による悪影響のほうが強くなって、省電力性能が上がりにくくなったこと、が言われている。実際に商品のトレンドとしても、2020年現在では、クロック周波数やシングルスレッド性能は伸び悩み、その一方でコア数の増加は進んでいる。
集積回路製造の業界用語で、それに関係する生産プロセスに投入される技術を指すプロセステクノロジ(process technologie)という用語がある。以下では、ムーアの法則の本来の適用範囲についてはその用語「プロセステクノロジ」を、逸脱した拡大解釈によるその他の技術などへの外挿の場合は「技術」などの用語を使う。
ムーアの法則は最初は半導体産業でのプロセステクノロジの観察と予測によって生まれたが、今日ではより広く受け入れられ、先進的な工業製品一般における性能向上の1つの予測値や目標値として用いられることがある。
コンピュータ関係の製品や部品を製造する企業にとって、ムーアの法則が暗示する将来予測は無視できない。例えばCPUやハードディスクのような製品を新規に設計・生産する場合には、最初の出荷まで2年から5年ほどの期間を要するため、こういったメーカーは、投資と収益に関する大きな経済的リスクを負うと共に、数年先の市場を予測した製品開発を行わねばならない。製品の陳腐化が早いいくつかの産業では、先行者利益が大きい分だけ市場参入の遅れは大きな損失を負う可能性があるが、逆に、他社が提供できない新規性があり高性能な製品であっても生産コストが高く販売価格が市場に受け入れられなければ、特殊な用途向きの小さな市場にしか得られない可能性があるため、将来予測は重要である。過去の結果から将来を演繹する将来予測は、「自己成就」などと呼ばれる、それを信じる参加者が多いことでより信頼度の高いものとなるという性質があり、「ムーアの法則」はそのような特性も持っている。
「2年ごとに倍になる」という表現は、ムーアの法則が近年の技術の表象的な進み具合をほのめかしている。より短い時間軸で表現されると、ムーアの法則は平均して1週間に0.6%以上半導体産業全体のパフォーマンスを向上させていると言い換えることができる。
2010年代後半、半導体の開発ペースが鈍化し始め、ムーアの法則のペースが維持できなくなるとの説が広まりだした。2017年5月、NVIDIAのJensen Huangは大手半導体企業のCEOとして初めて、「ムーアの法則は終わった」ことに言及している。
インテル チック・タックは、2006年にインテルが打ち出した戦略で、パターンの大幅な変更無しに新しいプロセステクノロジによって縮小して高性能化した世代のチップと、新しくマイクロアーキテクチャを設計してその前の世代と同じプロセステクノロジで製造するチップとを、毎年交互にリリースする、というもので、ムーアの法則によって2年に1回のペースで新しいプロセステクノロジへの更新があることを前提にしていた。2015年に、この戦略が崩れたことも、現実がムーアの法則通りではなくなっていることのあらわれとみなされている。
(以下の記述は執筆時点がだいぶ古いものも含まれている)
2006年第一四半期において、PCのプロセッサは90nmで製造されており、65nmのチップはIntel(Pentium DおよびIntel Core)からのみ出荷されていた。10年前では、チップは500nmで製造されていた。各企業は45nmや30nm、さらにそれ以下の細かさのチップを製造するために起こる複雑な課題を解決するため、ナノテクノロジーを用いて開発を行っている。これらのプロセステクノロジに因って、半導体産業が直面するムーアの法則の限界の到達が延伸することになるだろう(その後、2010年32nmでトランジスタ数約4億個、2015年には14nmを実現)。
2001年頃のコンピュータ業界のロードマップは、ムーアの法則はチップ数世代にわたって継続するであろう、と予測していた。そのロードマップでの計算によると、2011年にチップ上のトランジスタ数は2の100乗個にまで増加するだろう、と予測していた、というわけである。半導体産業のロードマップではマイクロプロセッサのトランジスタ数は3年で2倍になるとしているので、それに従うと10年で2の9乗個になる。
この法則に経済的合理性があるのは、トランジスタ1個あたりのコストが劇的に下がることである。例えばCore i5には13億個のトランジスタがあり、7万個のトランジスタで1ペニーである。
2006年初頭、IBMの研究者らは深紫外光(DUV、193nm)のフォトリソグラフィで、29.9nm幅の回路をプリントするプロセステクノロジを開発したと発表した。当時IBMは、これによってチップ市場は今までのやり方でムーアの法則の予言をこの数年達成し続けることができるだろう、とした。
計算能力を向上させる方法は、単一の命令ストリームを1つの演算部で可能な限り早く処理するだけとは限らず、遅い動作クロックであっても複数の演算部で並列的に処理することでも計算能力を向上できる。一般に動作クロックの上昇は処理性能に寄与するが、発熱もまた増すために、ある程度まで高速化された演算部では処理性能の向上よりも発熱量の増加が上回り、高集積な回路であれば放熱問題に直面して、動作クロックの高速化は現実的でなくなる。
ムーアの法則を基にして、ヴァーナー・ヴィンジやブルース・スターリング、レイ・カーツワイルのような有識者が技術的特異点を部分的に推定している。しかしながら、2005年4月13日、ゴードン・ムーア自身が、「ムーアの法則は長くは続かないだろう。なぜなら、トランジスタが原子レベルにまで小さくなり限界に達するからである」とインタビューで述べている。もっとも、横に並べるならば原子の大きさによる限界があるであろう、というのはムーアでなくてもわかることであって、実際に縦方向に並べる研究がさかんに進められている。
(トランジスタの)サイズに関して、我々は基本的な障壁である原子のサイズに到達するであろう。しかし、その向こう側に行くにはまだ2, 3世代ある。そして、我々が見ることができるよりもさらに向こう側がある。我々が基本的な限界に到達するまでにはあと10〜20年ある。そのときまでには10億を超えるトランジスタを搭載するより巨大なチップを作ることができるだろう(2005年の発言)。
ムーアの法則を今後も時間軸に沿って維持するには、裏に潜む様々な挑戦なしにはなしえない。集積回路における主要な挑戦のうちの一つは、ナノスケールのトランジスタを用いることで増加する特性のばらつきとリーク電流である。ばらつきとリーク電流の結果、予測可能な設計マージンはより厳しく、加えてスイッチングしていないにもかかわらず、かなりの電力を消費してしまう。リーク電力を削減するように適応的かつ統計的に設計すると、CMOSのサイズを縮小するのには非常に困難である。これらの話題は「Leakage in Nanometer CMOS Technologies」によく取り上げられている。サイズを縮小する際に生じる挑戦には以下のものがある。
カーツワイルの目算は、ムーアの法則が2019年まで継続することにより、将来たった原子2、3個分にしかない幅のトランジスタがもたらされるというものである。もちろん、より高精度なフォトリソグラフィーを用いるやり方によって達成できるが、このことはムーアの法則の終わりを意味するものではないと彼は考えている。
カーツワイルいわく、集積回路におけるムーアの法則は、価格対効果を加速する最初のではなく5番目のパラダイムである。コンピュータは(単位時間当たりの)処理能力はとっくに何倍にもなってきた。1890年にアメリカの国勢調査で使用されたタビュレーティングマシンからLorenz暗号を破るためのMax Newmanのリレー式計算機"Robinson"、アイゼンハワーの選挙予想に使われたCBSの真空管式コンピュータUNIVAC I、最初の宇宙旅行に使われたトランジスタ式コンピュータ、集積回路を用いたPCへと。
カーツワイルは、なんらかの新しい技術が現在の集積回路技術を置き換え、ムーアの法則は2020年以降もずっと長く維持されるのではないか、と推測している。つまり彼は、ムーアの法則に沿った技術の指数関数的な成長は、(ムーアの法則の本来の適用範囲である)プロセステクノロジの発展による集積回路の向上に仮に限界があったとしてもそれを乗り越えて、技術的特異点をもたらすまで、今後も続くであろうと信じているのである。「収穫加速の法則」の中でカーツワイルは、多くの方法によってムーアの法則の一般的な認識は変更されてきたと述べている。ムーアの法則は技術のすべての形を予測すると共通に(しかしそれは誤っているが)信じられている。たとえそれが実際には半導体回路に関してのみ適用されるものとしてもである。多くの未来学者は、いまだカーツワイルによって力を与えられたこれらの考えを述べるために、「ムーアの法則」という言葉を用いている。
KraussとStarkmanは彼らの論文である「Universal Limits of Computation」で、宇宙に存在するあらゆるシステムの情報処理容量の合計を厳密に見積もった結果、600年という非常に長い期間をムーアの法則の限界と発表した。
この法則は明らかに克服できないように見える障害にしばしば直面したが、すぐにこれらを乗り越えていった。ムーアは、自分が実現した以上に今やこの法則が美しいものに見える、と述べている。「ムーアの法則はマーフィーの法則に違反している。すべてのものはどんどんよくなっていくのだ。」
2015年時点で、最新のプロセステクノロジを用いたチップの設計と実用試験には約1億ドルかかった(2005年には1600万ドルだった)。新型チップ製造工場の建設には100億ドルかかった。
コンピュータ関連業界において、ムーアの法則に従って開発が進むのは容量と速度だけではない。RAMの速度とハードディスクのシークタイムは最高年2、3%ずつ改善されている。RAMとハードディスクの容量はそれらの速度と比べて非常に速く増えているので、それらの容量をうまく使うことはますます重要になっている。多くの場合、処理時間とスペースは交換できることがわかっているので、素早いアクセスを行うために何かしらの方法で処理前にインデックスをつけてデータを格納しておく方法などである。コストの点で、より多くのディスクやメモリのスペースが使われる。スペースは時間と比べてより安くなっている。
他方、時々間違えてしまうが、指数関数的なハードウェアの改良は、必ずしもそれと同様な指数関数的なソフトウェアの改良を意味するものではないということである。ソフトウェア開発者の生産性はハードウェアでの進化と共に指数関数的に確実に増えているというわけではなく、たいていの測定では、ゆっくりとまた断続的に増えていく。ソフトウェアは時間と共により大きく複雑になっていく。ヴィルトの法則では「ソフトウェアは、ハードウェアが高速化するより急速に低速化する。」とさえ述べている。
さらに、もっとも有名な間違った考えは、メガヘルツ神話として知られる、プロセッサのクロック速度が処理速度を決定する、というものである。これは実際には、単位時間当たりに処理できる命令数にも依存するので(それぞれの命令の複雑さも同様に依存する)、クロック速度は単に2つの同一の回路同士を比較する時にのみ用いることができる。もちろん、バス幅や周辺回路の速度のような他の要因も考慮に入れなければならない。それゆえに、もっとも有名な「コンピュータの速度」の評価は、原理を理解しなければ元々バイアスがかかっている。これは特にPentiumの時代には真実であった。この時は有名なメーカーが速度の普通の認識として、新製品のクロック速度を宣伝するのに力を入れていた。
たいていのよくある並列化されていないアプリケーションのため、マルチコアCPUのトランジスタ密度は実用的な計算能力に反映して増えているというわけではないことに注意することも重要である。
コンピュータの能力を使用する消費者が負担するコストが落ちているが、ムーアの法則を達成するためのメーカーのコストは逆のトレンドをたどっている。研究開発や製造、テストのコストはチップの世代が新しくなるごとに着実に増えている。半導体メーカーの設備にかかるコストも増え続けると思われるので、メーカーはよりたくさんより大きくて利益の出るチップを売らなければならない(180nmのチップをテープアウトするのにかかるコストは約30万ドルであった。90nmのチップをテープアウトするのにかかるコストは75万ドルを超え、65nmでは100万ドルを超えると思われる)。近年、アナリストたちは先進的なプロセス(0.13μmやそれ以下)で「設計開始」された数が減っているのを目の当たりにしている。2000年以降の景気の低迷の間これらのことが観察されたが、開発の衰退は、長い間世界市場にいた伝統的な半導体メーカーが、経営的にムーアの法則を維持できなくなっていることの証拠であるかもしれない。
しかし、2005年のインテルの報告書では、経営的に安定させながらシリコンチップをダウンサイジングすることは次の十年可能である、としている。シリコン以外の材料を使用することが増えるとのインテルの予想は2006年中ごろには確かめられ、2009年までにはトライ・ゲート・トランジスタを使用するつもりであるとしている。IBMとジョージア工科大学の研究者らは、ヘリウムで極低温まで冷却したシリコン / ゲルマニウムチップを500GHzで動作させ、新しい動作記録速度を作った。チップは4.5K(摂氏マイナス268.65度)で500GHz以上で動作し、シミュレーションの結果では恐らく1THz(1000GHz)で動作することも可能であるとしている。 | [
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"text": "ムーアの法則(ムーアのほうそく、英: Moore's law)とは、大規模集積回路(LSI IC)の製造・生産における長期傾向について論じた1つの指標であり、経験則に類する将来予測である。",
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"text": "発表当時フェアチャイルドセミコンダクターに所属しており後に米インテル社の創業者のひとりとなるゴードン・ムーアが1965年に自らの論文上に示したのが最初であり、その後、関連産業界を中心に広まった。",
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"text": "彼は1965年に、集積回路あたりの部品数が毎年2倍になると予測し、この成長率は少なくともあと10年は続くと予測した。1975年には、次の10年を見据えて、2年ごとに2倍になるという予測に修正した。彼のこの2年ごとに2倍になるとの予測は1975年以降も維持され、それ以来「ムーアの法則」として知られるようになった。",
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"text": "ムーアの元々の文章は以下である。",
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"text": "(原文) The complexity for minimum component costs has increased at a rate of roughly a factor of two per year (see graph on next page). Certainly over the short term this rate can be expected to continue, if not to increase. Over the longer term, the rate of increase is a bit more uncertain, although there is no reason to believe it will not remain nearly constant for at least 10 years. That means by 1975, the number of components per integrated circuit for minimum cost will be 65,000.",
"title": "初出"
},
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"text": "I believe that such a large circuit can be built on a single wafer.",
"title": "初出"
},
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"text": "\"Cramming more components onto integrated circuits\", Electronics Magazine 19 April 1965",
"title": "初出"
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"text": "(訳)部品あたりのコストが最小になるような複雑さは、毎年およそ2倍の割合で増大してきた((訳注)元文献ではここでグラフを参照している)。短期的には、この増加率が上昇しないまでも、現状を維持することは確実である。より長期的には、増加率はやや不確実であるとはいえ、少なくとも今後10年間ほぼ一定の率を保てないと信ずべき理由は無い。すなわち、1975年までには、最小コストで得られる集積回路の部品数は65,000に達するであろう。",
"title": "初出"
},
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"text": "私は、それほどにも大規模な回路が1個のウェハー上に構築できるようになると信じている。",
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"text": "チップの複雑さはトランジスタの個数に比例すると仮定し、それらが何に使われているかを無視するならば、この法則は今日まで充分時の試練に耐えてきたと言える。しかし、トランジスタ当たりの複雑さは、RAMキャッシュでは実行ユニットほど高くないという議論もあり得る。こんにちのマイクロプロセッサの祖である4004も、DRAMの祖である1103(en:Intel 1103)も1970年前後に登場したのであり、それらより5年も前に述べられたことでもある(また「1個のウェハー」についても、こんにちの直径300mmのウェハーへの wafer-scale integration のようなものを想定してはいないだろう)。そういった観点からすれば、ムーアの法則の妥当性は、その定式化のしかたによっては疑問符がつくものとなる。ただし、その成長が指数的であるという点に異論は無いと推測される。",
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},
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"text": "なお、1枚のチップ(a chip)に集積される部品数は、プロセスの微細化とチップ面積の拡大の2つの要素の掛け合わせで増加する。",
"title": "初出"
},
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"tag": "p",
"text": "また「ムーアの法則」と名づけたのはムーア自身ではなく、その著書 Introduction to VLSI Systems(『超LSIシステム入門』)などで知られるカーバー・ミードによる。",
"title": "初出"
},
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"text": "ムーアは今日の機械式マウスの共同発明者であるダグラス・エンゲルバートから、1960年の講義にて集積回路のサイズ縮小の見通しについて議論したのを聞いた可能性がある。",
"title": "初出"
},
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"text": "ムーアが1975年に修正した法則は、集積回路上のトランジスタ数は「2年ごとに倍になる」というものである。",
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"text": "これを式で表現すると、n年後の倍率 p は、",
"title": "公式"
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"text": "となる。したがって、2年後には2倍、5年後には5.66倍、7年後には11.3倍、10年後には32倍、15年後には181.0倍、20年後には1024倍ということになる。",
"title": "公式"
},
{
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"text": "さらには、1チップあたりのコストに対するコンピューティングパワーを増加させ続けるものがムーアの法則だとされ、ハードディスクや果てはコンピュータ以外の技術でも指数的な成長をしていればなんであれ、どれもムーアの法則と呼ぶような傾向さえ現れた。",
"title": "公式"
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{
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"title": "公式"
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"text": "クーメイ(en:Jonathan Koomey)はこれを定量的に捉え直す試みとして、ムーアの法則による微細化にともなう、デナード則による速度向上と省電力化の定式化と、過去のコンピュータの消費エネルギーあたりの計算量の再調査による長期の傾向から、法則性を取り出し「クーメイの法則」とした。クーメイによれば21世紀に入った後ではその値の成長は鈍化している。",
"title": "公式"
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"text": "鈍化の原因としては、ゲートやラッチの数をより増やしても、それに比例するようにはコンピュータの性能を上げられなくなったこと(ポラックの法則)、また集積回路技術の微細化による電子的な特性ではリーク電流による悪影響のほうが強くなって、省電力性能が上がりにくくなったこと、が言われている。実際に商品のトレンドとしても、2020年現在では、クロック周波数やシングルスレッド性能は伸び悩み、その一方でコア数の増加は進んでいる。",
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"text": "集積回路製造の業界用語で、それに関係する生産プロセスに投入される技術を指すプロセステクノロジ(process technologie)という用語がある。以下では、ムーアの法則の本来の適用範囲についてはその用語「プロセステクノロジ」を、逸脱した拡大解釈によるその他の技術などへの外挿の場合は「技術」などの用語を使う。",
"title": "産業牽引力"
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"text": "ムーアの法則は最初は半導体産業でのプロセステクノロジの観察と予測によって生まれたが、今日ではより広く受け入れられ、先進的な工業製品一般における性能向上の1つの予測値や目標値として用いられることがある。",
"title": "産業牽引力"
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"text": "コンピュータ関係の製品や部品を製造する企業にとって、ムーアの法則が暗示する将来予測は無視できない。例えばCPUやハードディスクのような製品を新規に設計・生産する場合には、最初の出荷まで2年から5年ほどの期間を要するため、こういったメーカーは、投資と収益に関する大きな経済的リスクを負うと共に、数年先の市場を予測した製品開発を行わねばならない。製品の陳腐化が早いいくつかの産業では、先行者利益が大きい分だけ市場参入の遅れは大きな損失を負う可能性があるが、逆に、他社が提供できない新規性があり高性能な製品であっても生産コストが高く販売価格が市場に受け入れられなければ、特殊な用途向きの小さな市場にしか得られない可能性があるため、将来予測は重要である。過去の結果から将来を演繹する将来予測は、「自己成就」などと呼ばれる、それを信じる参加者が多いことでより信頼度の高いものとなるという性質があり、「ムーアの法則」はそのような特性も持っている。",
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"text": "「2年ごとに倍になる」という表現は、ムーアの法則が近年の技術の表象的な進み具合をほのめかしている。より短い時間軸で表現されると、ムーアの法則は平均して1週間に0.6%以上半導体産業全体のパフォーマンスを向上させていると言い換えることができる。",
"title": "産業牽引力"
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"text": "2010年代後半、半導体の開発ペースが鈍化し始め、ムーアの法則のペースが維持できなくなるとの説が広まりだした。2017年5月、NVIDIAのJensen Huangは大手半導体企業のCEOとして初めて、「ムーアの法則は終わった」ことに言及している。",
"title": "産業牽引力"
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"text": "インテル チック・タックは、2006年にインテルが打ち出した戦略で、パターンの大幅な変更無しに新しいプロセステクノロジによって縮小して高性能化した世代のチップと、新しくマイクロアーキテクチャを設計してその前の世代と同じプロセステクノロジで製造するチップとを、毎年交互にリリースする、というもので、ムーアの法則によって2年に1回のペースで新しいプロセステクノロジへの更新があることを前提にしていた。2015年に、この戦略が崩れたことも、現実がムーアの法則通りではなくなっていることのあらわれとみなされている。",
"title": "産業牽引力"
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"text": "(以下の記述は執筆時点がだいぶ古いものも含まれている)",
"title": "将来のトレンド"
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"text": "2006年第一四半期において、PCのプロセッサは90nmで製造されており、65nmのチップはIntel(Pentium DおよびIntel Core)からのみ出荷されていた。10年前では、チップは500nmで製造されていた。各企業は45nmや30nm、さらにそれ以下の細かさのチップを製造するために起こる複雑な課題を解決するため、ナノテクノロジーを用いて開発を行っている。これらのプロセステクノロジに因って、半導体産業が直面するムーアの法則の限界の到達が延伸することになるだろう(その後、2010年32nmでトランジスタ数約4億個、2015年には14nmを実現)。",
"title": "将来のトレンド"
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"text": "2001年頃のコンピュータ業界のロードマップは、ムーアの法則はチップ数世代にわたって継続するであろう、と予測していた。そのロードマップでの計算によると、2011年にチップ上のトランジスタ数は2の100乗個にまで増加するだろう、と予測していた、というわけである。半導体産業のロードマップではマイクロプロセッサのトランジスタ数は3年で2倍になるとしているので、それに従うと10年で2の9乗個になる。",
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"text": "この法則に経済的合理性があるのは、トランジスタ1個あたりのコストが劇的に下がることである。例えばCore i5には13億個のトランジスタがあり、7万個のトランジスタで1ペニーである。",
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"text": "カーツワイルは、なんらかの新しい技術が現在の集積回路技術を置き換え、ムーアの法則は2020年以降もずっと長く維持されるのではないか、と推測している。つまり彼は、ムーアの法則に沿った技術の指数関数的な成長は、(ムーアの法則の本来の適用範囲である)プロセステクノロジの発展による集積回路の向上に仮に限界があったとしてもそれを乗り越えて、技術的特異点をもたらすまで、今後も続くであろうと信じているのである。「収穫加速の法則」の中でカーツワイルは、多くの方法によってムーアの法則の一般的な認識は変更されてきたと述べている。ムーアの法則は技術のすべての形を予測すると共通に(しかしそれは誤っているが)信じられている。たとえそれが実際には半導体回路に関してのみ適用されるものとしてもである。多くの未来学者は、いまだカーツワイルによって力を与えられたこれらの考えを述べるために、「ムーアの法則」という言葉を用いている。",
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"text": "KraussとStarkmanは彼らの論文である「Universal Limits of Computation」で、宇宙に存在するあらゆるシステムの情報処理容量の合計を厳密に見積もった結果、600年という非常に長い期間をムーアの法則の限界と発表した。",
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"text": "他方、時々間違えてしまうが、指数関数的なハードウェアの改良は、必ずしもそれと同様な指数関数的なソフトウェアの改良を意味するものではないということである。ソフトウェア開発者の生産性はハードウェアでの進化と共に指数関数的に確実に増えているというわけではなく、たいていの測定では、ゆっくりとまた断続的に増えていく。ソフトウェアは時間と共により大きく複雑になっていく。ヴィルトの法則では「ソフトウェアは、ハードウェアが高速化するより急速に低速化する。」とさえ述べている。",
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"text": "さらに、もっとも有名な間違った考えは、メガヘルツ神話として知られる、プロセッサのクロック速度が処理速度を決定する、というものである。これは実際には、単位時間当たりに処理できる命令数にも依存するので(それぞれの命令の複雑さも同様に依存する)、クロック速度は単に2つの同一の回路同士を比較する時にのみ用いることができる。もちろん、バス幅や周辺回路の速度のような他の要因も考慮に入れなければならない。それゆえに、もっとも有名な「コンピュータの速度」の評価は、原理を理解しなければ元々バイアスがかかっている。これは特にPentiumの時代には真実であった。この時は有名なメーカーが速度の普通の認識として、新製品のクロック速度を宣伝するのに力を入れていた。",
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"text": "コンピュータの能力を使用する消費者が負担するコストが落ちているが、ムーアの法則を達成するためのメーカーのコストは逆のトレンドをたどっている。研究開発や製造、テストのコストはチップの世代が新しくなるごとに着実に増えている。半導体メーカーの設備にかかるコストも増え続けると思われるので、メーカーはよりたくさんより大きくて利益の出るチップを売らなければならない(180nmのチップをテープアウトするのにかかるコストは約30万ドルであった。90nmのチップをテープアウトするのにかかるコストは75万ドルを超え、65nmでは100万ドルを超えると思われる)。近年、アナリストたちは先進的なプロセス(0.13μmやそれ以下)で「設計開始」された数が減っているのを目の当たりにしている。2000年以降の景気の低迷の間これらのことが観察されたが、開発の衰退は、長い間世界市場にいた伝統的な半導体メーカーが、経営的にムーアの法則を維持できなくなっていることの証拠であるかもしれない。",
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"text": "しかし、2005年のインテルの報告書では、経営的に安定させながらシリコンチップをダウンサイジングすることは次の十年可能である、としている。シリコン以外の材料を使用することが増えるとのインテルの予想は2006年中ごろには確かめられ、2009年までにはトライ・ゲート・トランジスタを使用するつもりであるとしている。IBMとジョージア工科大学の研究者らは、ヘリウムで極低温まで冷却したシリコン / ゲルマニウムチップを500GHzで動作させ、新しい動作記録速度を作った。チップは4.5K(摂氏マイナス268.65度)で500GHz以上で動作し、シミュレーションの結果では恐らく1THz(1000GHz)で動作することも可能であるとしている。",
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] | ムーアの法則とは、大規模集積回路の製造・生産における長期傾向について論じた1つの指標であり、経験則に類する将来予測である。 発表当時フェアチャイルドセミコンダクターに所属しており後に米インテル社の創業者のひとりとなるゴードン・ムーアが1965年に自らの論文上に示したのが最初であり、その後、関連産業界を中心に広まった。 彼は1965年に、集積回路あたりの部品数が毎年2倍になると予測し、この成長率は少なくともあと10年は続くと予測した。1975年には、次の10年を見据えて、2年ごとに2倍になるという予測に修正した。彼のこの2年ごとに2倍になるとの予測は1975年以降も維持され、それ以来「ムーアの法則」として知られるようになった。 | {{要改訳|date=2016年5月23日}}
[[ファイル:Moore's Law Transistor Count 1970-2020.png|サムネイル|300x300ピクセル|集積回路に実装されたトランジスタ数の増大([[片対数グラフ]])]]
'''ムーアの法則'''(ムーアのほうそく、{{Lang-en-short|Moore's law}})とは、大規模[[集積回路]](LSI IC)の製造・生産における長期傾向について論じた1つの指標であり、[[経験則]]に類する将来予測である。<!--最小部品コストに関連する[[集積回路]]における[[トランジスタ]]の集積密度は、18から24か月ごとに倍になる、という[[経験則]]である<ref name="IntelInterview">{{cite web| year =2005|url=ftp://download.intel.com/museum/Moores_Law/Video-Transcripts/Excepts_A_Conversation_with_Gordon_Moore.pdf| title =Excerpts from A Conversation with Gordon Moore: Moore's Law| format ={{PDFlink}}| pages =1| publisher=[[インテル|Intel Corporation]]| accessdate =2006年3月2日}}</ref>。判りにくいのでコメントアウトします。-->
発表当時[[フェアチャイルドセミコンダクター]]に所属しており後に米[[インテル]]社の創業者のひとりとなる[[ゴードン・ムーア]]が1965年に自らの論文上に示したのが最初であり、その後、関連産業界を中心に広まった<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO84877180W5A320C1000000/ ムーアの法則 考案者が語った長期継続の理由と未来 (日経テクノロジー2015年4月8日掲載)]</ref>。
彼は1965年に、[[集積回路]]あたりの部品数が'''毎年2倍になる'''と予測し、この成長率は少なくともあと10年は続くと予測した。1975年には、次の10年を見据えて、2年ごとに2倍になるという予測に修正した。彼のこの'''2年ごとに2倍になる'''との予測は1975年以降も維持され、それ以来「ムーアの法則」として知られるようになった。
== 初出 ==
ムーアの元々の文章は以下である。
<blockquote>
(原文) The complexity for minimum component costs has increased at a rate of roughly a factor of two per year (see graph on next page). Certainly over the short term this rate can be expected to continue, if not to increase. Over the longer term, the rate of increase is a bit more uncertain, although there is no reason to believe it will not remain nearly constant for at least 10 years. That means by 1975, the number of components per integrated circuit for minimum cost will be 65,000.
I believe that such a large circuit can be built on a single wafer.
"Cramming more components onto integrated circuits", Electronics Magazine 19 April 1965<ref>[https://www.computerhistory.org/collections/catalog/102770822 Cramming more components onto integrated circuits | 102770822 | Computer History Museum] 2020年3月11日閲覧</ref>
(訳)部品あたりのコストが最小になるような複雑さは、毎年およそ2倍の割合で増大してきた((訳注)元[[文献]]ではここでグラフを参照している)。短期的には、この増加率が上昇しないまでも、現状を維持することは確実である。より長期的には、増加率はやや不確実であるとはいえ、少なくとも今後10年間ほぼ一定の率を保てないと信ずべき理由は無い。すなわち、1975年までには、最小コストで得られる集積回路の部品数は65,000に達するであろう。
私は、それほどにも大規模な回路が1個の[[ウェハー]]上に構築できるようになると信じている。
</blockquote>
[[集積回路|チップ]]の複雑さは[[トランジスタ]]の個数に比例すると仮定し、それらが何に使われているかを無視するならば、この[[法則]]は今日まで充分時の試練に耐えてきたと言える。しかし、[[トランジスタ]]当たりの複雑さは、[[Random Access Memory|RAM]]キャッシュでは[[実行ユニット]]ほど高くないという議論もあり得る。こんにちのマイクロプロセッサの祖である[[Intel 4004|4004]]も、[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]の祖である1103([[:en:Intel 1103]])も1970年前後に登場したのであり、それらより5年も前に述べられたことでもある(また「1個のウェハー」についても、こんにちの直径300[[ミリメートル|mm]]のウェハーへの wafer-scale integration のようなものを想定してはいないだろう)。そういった観点からすれば、ムーアの法則の妥当性は、その定式化のしかたによっては疑問符がつくものとなる。ただし、その成長が指数的であるという点に異論は無いと推測される。
なお、1枚のチップ(a chip)に集積される部品数は、プロセスの[[微細化]]とチップ面積の拡大の2つの要素の掛け合わせで増加する。
また「ムーアの法則」と名づけたのはムーア自身ではなく、その著書 ''Introduction to VLSI Systems''(『超[[LTIシステム理論|LSIシステム]]入門』)などで知られる[[カーバー・ミード]]による<ref name="IntelInterview">{{cite web| year =2005| url =ftp://download.intel.com/museum/Moores_Law/Video-Transcripts/Excepts_A_Conversation_with_Gordon_Moore.pdf| title =Excerpts from A Conversation with Gordon Moore: Moore's Law| format =PDF| pages =1| publisher =[[インテル|Intel Corporation]]| accessdate =2006年3月2日| archiveurl =https://web.archive.org/web/20121029060050/ftp://download.intel.com/museum/Moores_Law/Video-Transcripts/Excepts_A_Conversation_with_Gordon_Moore.pdf| archivedate =2012年10月29日| deadlinkdate =2017年9月}}</ref>。
ムーアは今日の機械式[[マウス (コンピュータ)|マウス]]の共同発明者である[[ダグラス・エンゲルバート]]から、1960年の講義にて[[集積回路]]のサイズ縮小の見通しについて議論したのを聞いた可能性がある<ref>[http://theory.kitp.ucsb.edu/~paxton/doug.html NY Times article] 2005年4月17日</ref>。
== 公式 ==
ムーアが1975年に修正した法則は、[[集積回路]]上のトランジスタ数は「'''2年ごとに倍になる'''」というものである。
これを式で表現すると、n年後の倍率 p は、
:<math>p = 2^{n/2}</math>
となる。したがって、2年後には2倍、5年後には5.66倍、7年後には11.3倍、10年後には32倍、15年後には181.0倍、20年後には1024倍ということになる。
さらには、1チップあたりのコストに対するコンピューティングパワーを増加させ続けるものがムーアの法則だとされ、[[ハードディスク]]や果てはコンピュータ以外の技術でも指数的な成長をしていればなんであれ、どれもムーアの法則と呼ぶような傾向さえ現れた。
定量的にはともかく、コンピュータの性能という視点からは「トランジスタ数=ゲートやラッチ数の増加により、より複雑なプロセッサが実装できる」「[[デナード則]]により、[[微細化]]=高速省電力化である」という、ムーアの法則から間接的に発生する複数の要素が関与して、ひたすらに性能向上が進んだ、と定性的には言うことができるのは確かである。
クーメイ([[:en:Jonathan Koomey]])はこれを定量的に捉え直す試みとして、ムーアの法則による微細化にともなう、デナード則による速度向上と省電力化の定式化と、過去のコンピュータの消費エネルギーあたりの計算量の再調査による長期の傾向から、法則性を取り出し「[[クーメイの法則]]」とした。クーメイによれば21世紀に入った後ではその値の成長は鈍化している。
鈍化の原因としては、ゲートやラッチの数をより増やしても、それに比例するようにはコンピュータの性能を上げられなくなったこと([[ポラックの法則]])、また集積回路技術の微細化による電子的な特性では[[リーク電流]]による悪影響のほうが強くなって、省電力性能が上がりにくくなったこと、が言われている。実際に商品のトレンドとしても、2020年現在では、クロック周波数やシングルスレッド性能は伸び悩み、その一方でコア数の増加は進んでいる。
== 産業牽引力 ==
集積回路製造の業界用語で、それに関係する生産プロセスに投入される技術を指すプロセステクノロジ(process technologie)という用語がある。以下では、ムーアの法則の本来の適用範囲についてはその用語「プロセステクノロジ」を、逸脱した拡大解釈によるその他の技術などへの外挿の場合は「技術」などの用語を使う。
ムーアの法則は最初は半導体産業でのプロセステクノロジの観察と予測によって生まれたが、今日ではより広く受け入れられ、先進的な[[工業製品]]一般における性能向上の1つの予測値や目標値として用いられることがある。
コンピュータ関係の製品や部品を製造する企業にとって、ムーアの法則が暗示する将来予測は無視できない。例えば[[CPU]]やハードディスクのような製品を新規に設計・生産する場合には、最初の出荷まで2年から5年ほどの期間を要するため、こういったメーカーは、投資と収益に関する大きな経済的リスクを負うと共に、数年先の市場を予測した製品開発を行わねばならない。製品の陳腐化が早いいくつかの産業では、先行者利益が大きい分だけ市場参入の遅れは大きな損失を負う可能性があるが、逆に、他社が提供できない新規性があり高性能な製品であっても生産コストが高く販売価格が市場に受け入れられなければ、特殊な用途向きの小さな市場にしか得られない可能性があるため、将来予測は重要である。過去の結果から将来を演繹する将来予測は、「自己成就」などと呼ばれる、それを信じる参加者が多いことでより信頼度の高いものとなるという性質があり、「ムーアの法則」はそのような特性も持っている。
「2年ごとに倍になる」という表現は、ムーアの法則が近年の技術の[[表象]]的な進み具合をほのめかしている。より短い時間軸で表現されると、ムーアの法則は平均して1週間に0.6%以上半導体産業全体の[[パフォーマンス]]を向上させていると言い換えることができる。<!--競争の激しいCPU市場でメーカーがしのぎを削っているため、開発に3年かかると思われる新製品も、競合製品と比較してたった2-3か月後には10から15%も遅くなったりストレージ容量では少なくなったりするため、普通売れなくなってしまう。 意味不明なためコメントアウトします。-->
== 将来のトレンド ==
[[ファイル:Moores law (1970-2011).PNG|thumb|300px|right|主要な[[CPU]]におけるトランジスター数の推移<br />各々初出荷時点での数]]2006年第一四半期において、PCのプロセッサは90[[ナノメートル|nm]]で製造されており、65nmのチップはIntel([[Pentium D]]および[[Intel Core]])からのみ出荷されていた。10年前では、チップは500nmで製造されていた。各企業は45nmや30nm、さらにそれ以下の細かさのチップを製造するために起こる複雑な課題を解決するため、[[ナノテクノロジー]]を用いて開発を行っている。これらのプロセステクノロジに因って、半導体産業が直面するムーアの法則の限界の到達が延伸することになるだろう(その後、2010年32nmでトランジスタ数約4億個、2015年には14nmを実現)。
2001年頃のコンピュータ業界のロードマップは、ムーアの法則はチップ数世代にわたって継続するであろう、と予測していた。そのロードマップでの計算によると、2011年にチップ上のトランジスタ数は2の100乗個にまで増加するだろう、と予測していた、というわけである。半導体産業のロードマップではマイクロプロセッサのトランジスタ数は3年で2倍になるとしているので、それに従うと10年で2の9乗個になる。
この法則に経済的合理性があるのは、トランジスタ1個あたりのコストが劇的に下がることである。例えばCore i5には13億個のトランジスタがあり、7万個のトランジスタで1ペニーである。
2006年初頭、IBMの研究者らは深紫外光(DUV、193nm)の[[フォトリソグラフィ]]で、29.9nm幅の回路をプリントするプロセステクノロジを開発したと発表した。当時IBMは、これによってチップ市場は今までのやり方でムーアの法則の予言をこの数年達成し続けることができるだろう、とした。
<!--急激な指数関数的向上により、理論上はすべての家庭用PCは100GHzになり、すべての携帯機器は20GHzを超えると思われていたので、何人かの評論家は直近、もしくは後のコンピューターは必要な計算能力にマッチする、もしくは超えるコンピュータが現れるだろうと想像した。このことはいくつかの問題についてのみ真実ではある。他方、指数関数的に増加する処理能力は、同じく問題の規模が増えていくように指数関数的に増加する複雑さに追いつかれ追い越されていく。[[計算量理論]]や(理論的ではあるが)このような問題を議論する[[P (計算複雑性理論)|P]]や[[NP]]の[[複雑性クラス]]を見ると、このような処理時間の問題は適用分野においてはよくあることである。 <==この小節は幾らなんでも酷い、空想でしょう。『100GHzや…20GHzを超える』という予想は全くの素人ならばいざ知らず、技術者や科学者ならばあまりに高周波であるため困難な課題だと考えていたはずです。コメントアウトします。-->
計算能力を向上させる方法は、単一の命令ストリームを1つの演算部で可能な限り早く処理するだけとは限らず、遅い動作クロックであっても複数の演算部で並列的に処理することでも計算能力を向上できる。一般に動作クロックの上昇は処理性能に寄与するが、発熱もまた増すために、ある程度まで高速化された演算部では処理性能の向上よりも発熱量の増加が上回り、高集積な回路であれば放熱問題に直面して、動作クロックの高速化は現実的でなくなる<ref group="注">この熱のために4.3GHz以上の速度で高信頼性のCPUを提供するのはほとんど不可能になった。</ref>。
ムーアの法則を基にして、[[ヴァーナー・ヴィンジ]]や[[ブルース・スターリング]]、[[レイ・カーツワイル]]のような有識者が[[技術的特異点]]を部分的に推定している。しかしながら、2005年4月13日、ゴードン・ムーア自身が、「ムーアの法則は長くは続かないだろう。なぜなら、トランジスタが原子レベルにまで小さくなり限界に達するからである」とインタビューで述べている。もっとも、横に並べるならば原子の大きさによる限界があるであろう、というのはムーアでなくてもわかることであって、実際に縦方向に並べる研究がさかんに進められている。
(トランジスタの)サイズに関して、我々は基本的な障壁である原子のサイズに到達するであろう。しかし、その向こう側に行くにはまだ2, 3世代ある。そして、我々が見ることができるよりもさらに向こう側がある。我々が基本的な限界に到達するまでにはあと10〜20年ある。そのときまでには10億を超えるトランジスタを搭載するより巨大なチップを作ることができるだろう<ref>{{cite web |url=http://www.techworld.com/opsys/news/index.cfm?NewsID=3477 |title=Moore's Law is dead, says Gordon Moore |date=2005-04-13 |author=Manek Dubash |publisher=Techworld |accessdate=2006年6月24日}}</ref>(2005年の発言)。
ムーアの法則を今後も時間軸に沿って維持するには、裏に潜む様々な挑戦なしにはなしえない。集積回路における主要な挑戦のうちの一つは、ナノスケールのトランジスタを用いることで増加する特性のばらつきと[[リーク電流]]である。ばらつきとリーク電流の結果、予測可能な設計マージンはより厳しく、加えてスイッチングしていないにもかかわらず、かなりの電力を消費してしまう。リーク電力を削減するように適応的かつ統計的に設計すると、[[CMOS]]のサイズを縮小するのには非常に困難である。これらの話題は「Leakage in Nanometer CMOS Technologies」によく取り上げられている。サイズを縮小する際に生じる挑戦には以下のものがある。
# トランジスタ内の寄生抵抗および容量の制御
# 電気配線の抵抗および容量の削減
# ON/OFFの挙動を制御するためにゲートを終端できる適切なトランジスタ電気的特性の維持
# 線端の粗さによる影響の増加
# [[ドープ|ドーピング]]による変動
# システムレベルでの電力配送
# 電力配送における損失を効果的に制御する熱設計
# システム全体における製造コストを常に引き下げるようなあらゆる挑戦
=== カーツワイルによる推測 ===
[[ファイル:PPTMooresLawai.jpg|thumb|right|450px|ムーアの法則を、カーツワイルが拡張したもの([[収穫加速の法則]])。集積回路の登場より以前のトランジスタ、[[真空管]]、[[継電器|リレー]]、電気機械式コンピュータまでさかのぼり、基本的なトレンドが[[パラダイムシフト]]によって維持されていることが示されている。]]
カーツワイルの目算は、ムーアの法則が2019年まで継続することにより、将来たった原子2、3個分にしかない幅のトランジスタがもたらされるというものである。もちろん、より高精度なフォトリソグラフィーを用いるやり方によって達成できるが、このことはムーアの法則の終わりを意味するものではないと彼は考えている。
カーツワイルいわく、集積回路におけるムーアの法則は、価格対効果を加速する最初のではなく5番目のパラダイムである。コンピュータは(単位時間当たりの)処理能力はとっくに何倍にもなってきた。1890年にアメリカの国勢調査で使用された[[タビュレーティングマシン]]<!--機械式の計算機械は何種類もあるので、変な表現は使わず素直に「タビュレーティングマシン」と書くべき-->からLorenz暗号を破るためのMax Newmanのリレー式計算機"Robinson"、アイゼンハワーの選挙予想に使われたCBSの[[真空管式コンピュータ]][[UNIVAC I]]、最初の宇宙旅行に使われた[[トランジスタ式コンピュータ]]、[[集積回路]]を用いたPCへと<ref>{{cite web |url=http://www.kurzweilai.net/articles/art0134.html?printable=1 |title=The Law of Accelerating Returns |date=2001-03-07 |author=Ray Kurzweil |publisher=KurzweilAI.net |accessdate=2006年6月24日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100619033859/http://www.kurzweilai.net/articles/art0134.html?printable=1 |archivedate=2010年6月19日 |deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。
カーツワイルは、なんらかの新しい技術が現在の集積回路技術を置き換え、ムーアの法則は2020年以降もずっと長く維持されるのではないか、と推測している。つまり彼は、ムーアの法則に沿った技術の[[指数関数的成長|指数関数的な成長]]は、(ムーアの法則の本来の適用範囲である)プロセステクノロジの発展による集積回路の向上に仮に限界があったとしてもそれを乗り越えて、技術的特異点をもたらすまで、今後も続くであろうと信じているのである。「[[収穫加速の法則]]」の中でカーツワイルは、多くの方法によってムーアの法則の一般的な認識は変更されてきたと述べている。ムーアの法則は技術のすべての形を予測すると共通に(しかしそれは誤っているが)信じられている。たとえそれが実際には半導体回路に関してのみ適用されるものとしてもである。多くの未来学者は、いまだカーツワイルによって力を与えられたこれらの考えを述べるために、「ムーアの法則」という言葉を用いている。
=== その他 ===
KraussとStarkmanは彼らの論文である「Universal Limits of Computation」で、宇宙に存在するあらゆるシステムの情報処理容量の合計を厳密に見積もった結果、600年という非常に長い期間をムーアの法則の限界と発表した。
この法則は明らかに克服できないように見える障害にしばしば直面したが、すぐにこれらを乗り越えていった。ムーアは、自分が実現した以上に今やこの法則が美しいものに見える、と述べている。「ムーアの法則は[[マーフィーの法則]]に違反している。すべてのものはどんどんよくなっていくのだ。」<ref>
{{cite web |url=http://economist.com/displaystory.cfm?story_id=3798505 |title=Moore's Law at 40 - Happy birthday |date=2005-03-23 |publisher=The Economist |accessdate=2006年6月24日}}</ref>
=== コスト ===
2015年時点で、最新のプロセステクノロジを用いたチップの設計と実用試験には約1億[[ドル]]かかった(2005年には1600万ドルだった)。新型チップ製造工場の建設には100億ドルかかった<ref>[http://jp.wsj.com/articles/SB11581577432647144308704580587363416618820 半導体開発の「ムーアの法則」は限界か]ウォール・ストリート・ジャーナル2015年4月18日</ref>。
===法則の限界===
2010年代後半、[[半導体]]の開発ペースが鈍化し始め、ムーアの法則のペースが維持できなくなるとの説が広まりだした。2017年5月、[[NVIDIA]]のJensen Huangは大手半導体企業の[[CEO]]として初めて、「ムーアの法則は終わった」ことに言及している<ref>[http://eetimes.jp/ee/articles/1706/05/news053.html 「ムーアの法則は終わった」、NVIDIAのCEOが言及] EEtimes Japan(2017年6月5日)2017年6月5日閲覧</ref>。
[[インテル チック・タック]]は、2006年にインテルが打ち出した戦略で、パターンの大幅な変更無しに新しいプロセステクノロジによって縮小して高性能化した世代のチップと、新しくマイクロアーキテクチャを設計してその前の世代と同じプロセステクノロジで製造するチップとを、毎年交互にリリースする、というもので<ref>{{Cite web|和書 |title=Intelが「チックタック」戦略を廃止して3ステージ制を採用、ユーザーへの影響とは? |url=https://gigazine.net/news/20160324-intel-tick-tock-dead/ |website=GIGAZINE |access-date=2023-04-05 |language=ja}}</ref>、ムーアの法則によって2年に1回のペースで新しいプロセステクノロジへの更新があることを前提にしていた。2015年に、この戦略が崩れたことも、現実がムーアの法則通りではなくなっていることのあらわれとみなされている<ref>{{Cite web|和書 |title=ムーアの法則に黄色信号点滅、Intelの10nmプロセス移行の遅れが確実に |url=https://gigazine.net/news/20150717-intel-new-moores-law/ |website=GIGAZINE |access-date=2023-04-05 |language=ja}}</ref>。
2023年現在、ムーアの法則は減速しているが、{{要説明範囲|date=2023年12月10日 (日) 02:39 (UTC)|title=ムーアの法則の減速自体が半導体の進歩が停滞することと同義で説明になっていない、それとも他の技術が微細化以外を指すのか、詳細な説明が必要|これは半導体の進歩がネックになっているためである。他の技術の進歩は続いている}}<ref>{{Cite web |url=https://www.oecd-ilibrary.org/sites/a8d820bd-en/1/3/2/2/index.html?itemId=/content/publication/a8d820bd-en&_csp_=be7a6e5e377bf806fc0a37f89d460d76&itemIGO=oecd&itemContentType=book |title=The end of Moore’s Law? Innovation in computer systems continues at a high pace |access-date=2023-12-09}}</ref>。
== 他の関心事 ==
コンピュータ関連業界において、ムーアの法則に従って開発が進むのは容量と速度だけではない。[[Random Access Memory|RAM]]の速度と[[ハードディスクドライブ|ハードディスク]]の[[シークタイム]]は最高年2、3%ずつ改善されている。RAMとハードディスクの容量はそれらの速度と比べて非常に速く増えているので、それらの容量をうまく使うことはますます重要になっている。多くの場合、処理時間とスペースは交換できることがわかっているので、素早いアクセスを行うために何かしらの方法で処理前にインデックスをつけてデータを格納しておく方法などである。コストの点で、より多くのディスクやメモリのスペースが使われる。スペースは時間と比べてより安くなっている。
他方、時々間違えてしまうが、指数関数的なハードウェアの改良は、必ずしもそれと同様な指数関数的なソフトウェアの改良を意味するものではないということである。ソフトウェア開発者の生産性はハードウェアでの進化と共に指数関数的に確実に増えているというわけではなく、たいていの測定では、ゆっくりとまた断続的に増えていく。ソフトウェアは時間と共により大きく複雑になっていく。[[ヴィルトの法則]]では「ソフトウェアは、ハードウェアが高速化するより急速に低速化する。」とさえ述べている。
さらに、もっとも有名な間違った考えは、[[メガヘルツ神話]]として知られる、プロセッサのクロック速度が処理速度を決定する、というものである。これは実際には、単位時間当たりに処理できる命令数にも依存するので(それぞれの命令の複雑さも同様に依存する)、クロック速度は単に2つの同一の回路同士を比較する時にのみ用いることができる。もちろん、バス幅や周辺回路の速度のような他の要因も考慮に入れなければならない。それゆえに、もっとも有名な「コンピュータの速度」の評価は、原理を理解しなければ元々バイアスがかかっている。これは特に[[Pentium]]の時代には真実であった。この時は有名なメーカーが速度の普通の認識として、新製品のクロック速度を宣伝するのに力を入れていた<ref>{{cite web| url=http://news.zdnet.co.uk/hardware/chips/0,39020354,2107456,00.htm | title =Intel, Aberdeen attack AMD speed ratings |date=2006-06-24| author=Matthew Broersma|publisher=ZDNet UK| accessdate =2006年6月24日}}</ref>。
たいていのよくある[[並列化]]されていないアプリケーションのため、[[マルチコア]]CPUのトランジスタ密度は実用的な計算能力に反映して増えているというわけではないことに注意することも重要である。
コンピュータの能力を使用する消費者が負担するコストが落ちているが、ムーアの法則を達成するためのメーカーのコストは逆のトレンドをたどっている。研究開発や製造、テストのコストはチップの世代が新しくなるごとに着実に増えている。半導体メーカーの設備にかかるコストも増え続けると思われるので、メーカーはよりたくさんより大きくて利益の出るチップを売らなければならない(180nmのチップを[[テープアウト]]するのにかかるコストは約30万ドルであった。90nmのチップを[[テープアウト]]するのにかかるコストは75万ドルを超え、65nmでは100万ドルを超えると思われる)。近年、アナリストたちは先進的なプロセス(0.13[[マイクロメートル|μm]]やそれ以下)で「設計開始」された数が減っているのを目の当たりにしている。2000年以降の景気の低迷の間これらのことが観察されたが、開発の衰退は、長い間世界市場にいた伝統的な半導体メーカーが、経営的にムーアの法則を維持できなくなっていることの証拠であるかもしれない。
しかし、2005年のインテルの報告書では、経営的に安定させながらシリコンチップをダウンサイジングすることは次の十年可能である、としている<ref>{{cite web|url=http://news.com.com/New+life+for+Moores+Law/2009-1006_3-5672485.html?tag=nl|title=New life for Moores Law|date=2006-04-19|4=|publisher=CNET News.com|accessdate=2006年6月24日|archiveurl=https://archive.is/20120716043930/http://news.cnet.com/New-life-for-Moores-Law/2009-1006_3-5672485.html|archivedate=2012年7月16日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。シリコン以外の材料を使用することが増えるとのインテルの予想は2006年中ごろには確かめられ、2009年までにはトライ・ゲート・トランジスタを使用するつもりであるとしている。IBMとジョージア工科大学の研究者らは、ヘリウムで極低温まで冷却したシリコン / ゲルマニウムチップを500[[ギガヘルツ|GHz]]で動作させ、新しい動作記録速度を作った<ref>{{cite web| url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/technology/5099584.stm | title =Chilly chip shatters speed record |date=2006-06-20| |publisher=BBC Online| accessdate =2006年6月24日}}</ref>。チップは4.5[[ケルビン|K]]([[摂氏]]マイナス268.65度)で500GHz以上で動作し<ref>{{cite web| url=http://www.gatech.edu/news-room/release.php?id=1019 | title =Georgia Tech/IBM Announce New Chip Speed Record |date=2006-06-20| |publisher=Georgia Institute of Technology| accessdate =2006年6月24日}}</ref>、シミュレーションの結果では恐らく1[[テラヘルツ|THz]](1000GHz)で動作することも可能であるとしている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[インテル チック・タック]]
* [[グロッシュの法則]]: 価格性能比に関係
* [[アムダールの法則]]: 並列処理に関係
* [[ギルダーの法則]]: 通信速度に関係
* [[カオの法則]]: 通信方式に関係
* [[収穫加速の法則]]
* [[ロードマップ]]
* {{仮リンク|計算の限界|en|Limits to computation}}(Limits to computation)
** [[ベッケンシュタイン境界]]
** [[マーゴラス=レヴィンチンの定理]]
* [[ポストムーア]]
{{新技術|topics=yes}}{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:むあのほうそく}}
[[Category:コンピュータに関する法則]]
[[Category:経験則]]
[[Category:未来学]]
[[Category:技術戦略]]
[[Category:エポニム]] | 2003-02-22T08:46:55Z | 2023-12-10T02:39:44Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87 |
2,696 | シェル | シェル (英語: shell) とは、コンピュータプログラムの一種で、ユーザーへのインタフェースを提供するものを指す。オペレーティングシステム(OS)を持つ高機能なコンピュータにおいて、その機能への容易なアクセスを提供する。
他にも、この用語はゆるやかに応用されることもあり、特定のコンポーネントの周辺に構築された任意のソフトウェアを含むこともある。例えば、ウェブブラウザや電子メールクライアントはHTMLレンダリングエンジンの「シェル」といわれることがある。コンピュータシステムとユーザーの間にある「殻」であることから、このように呼ばれる。
コマンドラインシェルとグラフィカルシェルの2種類の形態へ大別される:
CLIとGUIのどちらが優れているかという議論はしばしば行われている。CLI支持派は、特定の操作(ファイル群の移動など)を行う際にGUIよりもCLIの方が速いと主張する。また、CLIには複数のコマンドを組み合わせて素早く高度な処理を行えるとの主張もある。一方GUI支持派は、グラフィカルシェルの方がユーザビリティが高くシンプルだと主張する。しかし、用途により適するものは異なる。たとえばサーバ管理はリモートのことも多く、VNCなどでGUI画面を転送してネットワーク帯域を浪費することは好ましくなかったり、そもそもセキュリティポリシー的にそのような接続は禁止されることもある。一方で、たとえば画像や映像などのデータの開発や編集にはGUIの方が適している。少なくとも、多くのCLIにはソフトウェアの連携においてGUIを圧倒する柔軟性を持つパイプライン機能が備わっており、慣れれば短時間で既存のソフトウェアを繋ぎ合わせて高度な処理を記述できる事と、OSがクラッシュして最小構成でしか起動できなくなった場合にはCLIしか利用できない事から、システム開発・運用・管理の現場ではCLIスキルは重要視されている。
Multics以前のOSでは、シェル的なユーザインタフェースの機能はOS本体と渾然一体なものとして考えられ、そのように実装されていた(今日でも簡易なモニタ的なものではそういった設計も多い)。Multicsはシェルをモジュール化して独立させる設計を示した。UNIXもその影響をうけて設計され、シェルは単なる1ユーザプロセスとして動作するもので、利用者の好みにより選択もできる(また内部実装の話としては、端末デバイス等が、そのようにしてシェルを独立したプロセスとして実装できるように機能が設計されている)。MS-DOSでも、あまり一般的ではないが、COMMAND.COM 以外の、フリーソフトによるシェルなどもある。なお、MS-DOSの起動時の設定ファイルである CONFIG.SYS において「SHELL=C:\COMMAND.COM」といったようにして設定されるファイルは、その設定項目名の通りシェルであることが多いが、ブートの最後に、最初のプロセスとして実行するプログラムを指定するものであって、例えばアニメなどの架空のOSの起動画面を再現するプログラムなど、シェルでないものを指定することもある。
(エキスパートシステムにおいては、特定用途の知識ベースを入れる前の「空の」エキスパートシステムをシェルと呼ぶ)
シェル自身が持つ機能に関係しており、シェル単体で処理が完結するコマンドが内部コマンドである。それに対し、他のプログラムにより実行されるコマンドが外部コマンドである。OSの外殻としてのシェルでは普通、外部コマンドを実行する機能は必須である。また、システムに異常がある場合、外部コマンドがほとんどあるいは全く使えなくなることもあるため、そういった場合に対処できるよう、外部コマンドで実装できるものでも内部コマンドが用意されることもある(Windowsのシェルは、MS-DOS時代にフロッピィディスクでの運用では外部コマンドが全く無いこともあったCOMMAND.COMの影響で、多数の機能を抱えており、一見では似ているUnix系のシステムに移行したユーザは、DIRコマンドに相当するlsコマンドなどすら外部コマンドであることに、しばしば戸惑う)。
以下の機能のそれぞれを持つものもあれば、持たないものもある。
多くのコマンドラインシェルが、対話的に利用するだけでなく、テキストファイルないしパイプからのテキストをコマンドとみなして処理できる。これにより、ある種のプログラミング言語のインタプリタのように利用できる。そのようなシェルスクリプトで利用する場合に便利な多くの機能は、対話的にも利用できることが多い(たとえば Bourne Shell ではそうなっている)。いっぽうで C Shell のように、設計時に対話的利用に重点が置かれすぎたため、シェルスクリプト・プログラミングが推奨されないとされているシェルもある(Csh Programming Considered Harmful)。逆にスクリプト言語としての設計が重視された Microsoft PowerShell のような例もある。あるいは、プログラミング言語のインタプリタとして、Lispなどの処理系でREPLと呼ばれるものもシェルに近い。
なお、Unixのシェルには「インタラクティブシェル」と「ログインシェル」という概念がある。インタラクティブモードは専ら対話的な利用のためのモード、非インタラクティブモードは専らシェルスクリプト実行のためのモードで、一般にそのシェル自身の入出力が端末か否かなどにより変化するが、利用できるコマンド等がこれらで変化するわけではない。/bin/sh に -i というオプションを付けると強制的にインタラクティブモードで起動されるが、主な違いは一部のシグナルを無視するようになること、というようなシステム的な違いである。
一方ログインシェルとは、端末などにおいてログインした直後などの、最初のプロセスとしてのシェルのことである。通常の利用法ではログインシェルはインタラクティブシェルだが、そうでないこともある。たとえば ssh のコマンドライン引数で指定されたコマンドを実行しているだけの、リモートマシンにおけるシェルはログインシェルだがインタラクティブではない。
具体例として bash の場合、インタラクティブシェルでは起動時に ~/.bashrc を読み込み、ログインシェルでは起動時に ~/.bash_profile を読み込む。以上について理解が適切でなかったりすると、モードによる違いがあるように見えるかもしれない。
歴史上有名なものやよく使われているUnixシェルとして、以下のものがある。
上述の一覧の一部は、DOSやWindowsでも利用可能であり、Unixとの相互運用性を様々なレベルで可能にする。主な例として、MKS Toolkit(sh, bash, ksh, csh, tclsh, rsh を利用可能)、UnxUtils、UWIN、Cygwin、DJGPP(英語版)、Interix などがある。Windows Services For Unix はほとんどのバージョンで KornShell と C Shell を提供しており、Perlもコマンドラインとして利用できる。
(上の段落の記述は、シェルのレベルではなく、それらのシステム上でOSのレベルでUnixを模擬するもの、システムコールを読み替えるもの、などを全て混同している)
Unixシェルは OS/2 や OpenVMS といった他のOSでの利用可能である。また、VMSのシェルであるDCL(英語版)もDOS、Windows、OS/2、Unix系OSで利用可能となっている。
DOSや Windows NT のシェルもUnix系システムで利用可能となっているバージョンがある。
プログラミング言語処理系に対するコマンドラインインタプリタも、一種のシェルである。OS的な機能へのインタフェースを持つものもある。
グラフィカルシェルは、グラフィカルユーザインタフェース(GUI)による and・or デスクトップ環境などといったGUI環境へのユーザインタフェースとしてのシェルである。コマンドラインシェルと違い、形態がそれほど明確には固まっていない。
たとえば、X Window Systemなどのグラフィックシステムなどを含んだかなり広い範囲を含んで捉えられることもあれば、GNOMEデスクトップ環境のGNOME Shellのように、その提供するUIのほとんどの機能は他のプログラムを通じて提供される本当にごく薄い「シェル」に徹しているものもある。また、X Window Systemの環境ではウィンドウマネージャをデスクトップ環境も兼ねたシェルとして使うこともあったり(Xウィンドウマネージャ)、Windows 3.x時代のプログラムマネージャや、Mac OSにおけるFinderのように、ランチャーやファイルマネージャがベースのグラフィカルシェルもある(Windows shell(en:Windows shell)も、プログラム自体はExplorerである)。
Mac OS では、System Software(あるいは単に "System")と呼ばれていた Classic Mac OS 時代の、68k Macintosh 用のバージョン1から、2017年現在の現行版である macOS のバージョン10.13(High Sierra)に至るまで一貫して、Finder がグラフィカルシェルである。
現代の Microsoft Windows のシェルは Windows shell である。ファイルマネージャとしての Windows Explorer の他、デスクトップ環境(スタートメニュー、タスクバー等)を含めた全体を指して Windows shell という用語が使われている。古いバージョン(Windows 3.x、NT 3.x)ではプログラムマネージャ (progman.exe) がデフォルトのシェルであり、デフォルトでなくなった後もしばらくは残っていてシェルを切り替えることもできた。
iTVmediaPlayerなどのデスクトップアプリケーションも、サードパーティのエンジンを使っているという意味でシェルと呼ばれることがある。同様に Windows Explorer のインタフェースに不満を持つ多くの個人や業者が機能や外観を変更するソフトウェアや代替のグラフィカルシェルを開発してきた。前者(外観改善)の好例として WindowBlinds がある。後者(代替)の例としては、LiteStep、SharpE、Emerge Desktop などがある。
相互運用プログラムや特定用途のソフトウェアにより、Windows上で後述のUnix系GUI環境を使用することもできる。また、Windows NT の一部バージョンにはOS/2サブシステムがあり、OS/2のプレゼンテーションマネージャと同等の環境を提供していた。
前述のようにグラフィカルシェルとして捉えられている範囲が一定していないため、ここではいくつかの類型に分類して示す。 | [
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"text": "具体例として bash の場合、インタラクティブシェルでは起動時に ~/.bashrc を読み込み、ログインシェルでは起動時に ~/.bash_profile を読み込む。以上について理解が適切でなかったりすると、モードによる違いがあるように見えるかもしれない。",
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"text": "歴史上有名なものやよく使われているUnixシェルとして、以下のものがある。",
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"text": "上述の一覧の一部は、DOSやWindowsでも利用可能であり、Unixとの相互運用性を様々なレベルで可能にする。主な例として、MKS Toolkit(sh, bash, ksh, csh, tclsh, rsh を利用可能)、UnxUtils、UWIN、Cygwin、DJGPP(英語版)、Interix などがある。Windows Services For Unix はほとんどのバージョンで KornShell と C Shell を提供しており、Perlもコマンドラインとして利用できる。",
"title": "コマンドラインシェルの一覧"
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"text": "(上の段落の記述は、シェルのレベルではなく、それらのシステム上でOSのレベルでUnixを模擬するもの、システムコールを読み替えるもの、などを全て混同している)",
"title": "コマンドラインシェルの一覧"
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"text": "Unixシェルは OS/2 や OpenVMS といった他のOSでの利用可能である。また、VMSのシェルであるDCL(英語版)もDOS、Windows、OS/2、Unix系OSで利用可能となっている。",
"title": "コマンドラインシェルの一覧"
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"text": "DOSや Windows NT のシェルもUnix系システムで利用可能となっているバージョンがある。",
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"text": "プログラミング言語処理系に対するコマンドラインインタプリタも、一種のシェルである。OS的な機能へのインタフェースを持つものもある。",
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"text": "グラフィカルシェルは、グラフィカルユーザインタフェース(GUI)による and・or デスクトップ環境などといったGUI環境へのユーザインタフェースとしてのシェルである。コマンドラインシェルと違い、形態がそれほど明確には固まっていない。",
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"text": "たとえば、X Window Systemなどのグラフィックシステムなどを含んだかなり広い範囲を含んで捉えられることもあれば、GNOMEデスクトップ環境のGNOME Shellのように、その提供するUIのほとんどの機能は他のプログラムを通じて提供される本当にごく薄い「シェル」に徹しているものもある。また、X Window Systemの環境ではウィンドウマネージャをデスクトップ環境も兼ねたシェルとして使うこともあったり(Xウィンドウマネージャ)、Windows 3.x時代のプログラムマネージャや、Mac OSにおけるFinderのように、ランチャーやファイルマネージャがベースのグラフィカルシェルもある(Windows shell(en:Windows shell)も、プログラム自体はExplorerである)。",
"title": "グラフィカルシェル"
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"text": "Mac OS では、System Software(あるいは単に \"System\")と呼ばれていた Classic Mac OS 時代の、68k Macintosh 用のバージョン1から、2017年現在の現行版である macOS のバージョン10.13(High Sierra)に至るまで一貫して、Finder がグラフィカルシェルである。",
"title": "グラフィカルシェル"
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"text": "現代の Microsoft Windows のシェルは Windows shell である。ファイルマネージャとしての Windows Explorer の他、デスクトップ環境(スタートメニュー、タスクバー等)を含めた全体を指して Windows shell という用語が使われている。古いバージョン(Windows 3.x、NT 3.x)ではプログラムマネージャ (progman.exe) がデフォルトのシェルであり、デフォルトでなくなった後もしばらくは残っていてシェルを切り替えることもできた。",
"title": "グラフィカルシェル"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "iTVmediaPlayerなどのデスクトップアプリケーションも、サードパーティのエンジンを使っているという意味でシェルと呼ばれることがある。同様に Windows Explorer のインタフェースに不満を持つ多くの個人や業者が機能や外観を変更するソフトウェアや代替のグラフィカルシェルを開発してきた。前者(外観改善)の好例として WindowBlinds がある。後者(代替)の例としては、LiteStep、SharpE、Emerge Desktop などがある。",
"title": "グラフィカルシェル"
},
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"text": "相互運用プログラムや特定用途のソフトウェアにより、Windows上で後述のUnix系GUI環境を使用することもできる。また、Windows NT の一部バージョンにはOS/2サブシステムがあり、OS/2のプレゼンテーションマネージャと同等の環境を提供していた。",
"title": "グラフィカルシェル"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "前述のようにグラフィカルシェルとして捉えられている範囲が一定していないため、ここではいくつかの類型に分類して示す。",
"title": "グラフィカルシェル"
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] | シェル とは、コンピュータプログラムの一種で、ユーザーへのインタフェースを提供するものを指す。オペレーティングシステム(OS)を持つ高機能なコンピュータにおいて、その機能への容易なアクセスを提供する。 他にも、この用語はゆるやかに応用されることもあり、特定のコンポーネントの周辺に構築された任意のソフトウェアを含むこともある。例えば、ウェブブラウザや電子メールクライアントはHTMLレンダリングエンジンの「シェル」といわれることがある。コンピュータシステムとユーザーの間にある「殻」であることから、このように呼ばれる。 | {{Otheruses|[[オペレーティングシステム]]の機能|石油ガス会社|シェル (企業)|貝|貝|その他の用法|シェル (曖昧さ回避)}}
{{出典の明記|date=2023年11月}}
[[画像:Bash_screenshot.png|thumb|right|300px|[[Bash]]の[[スクリーンショット]]]]
'''シェル''' ({{lang-en|shell}}) とは、[[プログラム (コンピュータ)|コンピュータプログラム]]の一種で、ユーザーへの[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]を提供するものを指す。[[オペレーティングシステム]](OS)を持つ高機能な[[コンピュータ]]において、その機能への容易なアクセスを提供する。
他にも、この用語はゆるやかに応用されることもあり、特定のコンポーネントの周辺に構築された任意のソフトウェアを含むこともある。例えば、[[ウェブブラウザ]]や[[電子メールクライアント]]は[[HTMLレンダリングエンジン]]の「シェル」といわれることがある。コンピュータシステムとユーザーの間にある「殻」であることから、このように呼ばれる。
== 概要 ==
コマンドラインシェルとグラフィカルシェルの2種類の形態へ大別される:
* コマンドラインシェル:[[キャラクタユーザインタフェース]](CUI)ベースの[[コマンドラインインタプリタ]](CLI)
* グラフィカルシェル:[[グラフィカルユーザインタフェース]](GUI)ベースでいわゆる「デスクトップメタファ」等の環境へのユーザインタフェース
CLIとGUIのどちらが優れているかという議論はしばしば行われている。CLI支持派は、特定の操作(ファイル群の移動など)を行う際にGUIよりもCLIの方が速いと主張する。また、CLIには複数のコマンドを組み合わせて素早く高度な処理を行えるとの主張もある。一方GUI支持派は、グラフィカルシェルの方がユーザビリティが高くシンプルだと主張する。しかし、用途により適するものは異なる。たとえば[[サーバ]]管理はリモートのことも多く、VNCなどでGUI画面を転送してネットワーク帯域を浪費することは好ましくなかったり、そもそもセキュリティポリシー的にそのような接続は禁止されることもある。一方で、たとえば画像や映像などのデータの開発や編集にはGUIの方が適している。少なくとも、多くのCLIには[[ソフトウェア]]の連携においてGUIを圧倒する柔軟性を持つ[[パイプ (コンピュータ)|パイプライン機能]]が備わっており、慣れれば短時間で既存の[[ソフトウェア]]を繋ぎ合わせて高度な処理を記述できる事と、OSがクラッシュして最小構成でしか起動できなくなった場合にはCLIしか利用できない事から、システム開発・運用・管理の現場ではCLIスキルは重要視されている。
[[Multics]]以前のOSでは、シェル的なユーザインタフェースの機能はOS本体と渾然一体なものとして考えられ、そのように実装されていた(今日でも簡易なモニタ的なものではそういった設計も多い)。Multicsはシェルをモジュール化して独立させる設計を示した。[[UNIX]]もその影響をうけて設計され、シェルは単なる1ユーザプロセスとして動作するもので、利用者の好みにより選択もできる(また内部実装の話としては、端末デバイス等が、そのようにしてシェルを独立したプロセスとして実装できるように機能が設計されている)。[[MS-DOS]]でも、あまり一般的ではないが、[[COMMAND.COM]] 以外の、フリーソフトによるシェルなどもある。なお、MS-DOSの起動時の設定ファイルである CONFIG.SYS において「SHELL=C:\COMMAND.COM」といったようにして設定されるファイルは、その設定項目名の通りシェルであることが多いが、ブートの最後に、最初のプロセスとして実行するプログラムを指定するものであって、例えばアニメなどの架空のOSの起動画面を再現するプログラムなど、シェルでないものを指定することもある。
([[エキスパートシステム]]においては、特定用途の知識ベースを入れる前の「空の」エキスパートシステムをシェルと呼ぶ<ref>{{Cite book |author= British Computer Society |authorlink=英国コンピュータ協会 |url= https://books.google.co.jp/books?id=g8Bds8ssYYgC&pg=PA135&dq=%22shell+is+a+piece%22+%22expert+system%22&hl=sv&redir_esc=y#v=onepage&q=%22shell%20is%20a%20piece%22%20%22expert%20system%22&f=false |title=The BCS glossary of ICT and computing terms |publisher=Pearson Education |year=2005 |isbn=0-13-147957-1 |page=135}}</ref>)
== 歴史 ==
* [[Multics]]のシェルが<ref>{{Cite web|author=Tom Van Vleck |url= http://www.multicians.org/unix.html |title=Unix and Multics |publisher=Multicians.org |date=1995-02-05 |accessdate=2012-08-14}}</ref>、RUNCOM([[ルイ・プザン]]が[[CTSS]]向けに開発したプログラム)を手本として作られた<ref>{{Cite web|author=Louis Pouzin |url= http://www.multicians.org/shell.html |title=The Origin of the Shell |publisher=Multicians.org |date=2000-11-25 |accessdate=2012-08-14}}</ref>。
* [[Unixシェル]]が、[[Multics]]のシェルを手本として、[[ケン・トンプソン]]により開発された([[Thompson Shell]])<ref name="v6hist">{{Cite web|url= http://v6shell.org/history/ |title=V6 Thompson Shell Port - History |publisher=V6shell.org |date= |accessdate=2012-08-14}}</ref>。
== コマンドラインシェル ==
=== 内部コマンドと外部コマンド ===
{{seealso|外部コマンド}}
シェル自身が持つ機能に関係しており、シェル単体で処理が完結するコマンドが'''内部コマンド'''である。それに対し、他のプログラムにより実行されるコマンドが[[外部コマンド]]である。OSの外殻としてのシェルでは普通、外部コマンドを実行する機能は必須である。また、システムに異常がある場合、外部コマンドがほとんどあるいは全く使えなくなることもあるため、そういった場合に対処できるよう、外部コマンドで実装できるものでも内部コマンドが用意されることもある(Windowsのシェルは、MS-DOS時代にフロッピィディスクでの運用では外部コマンドが全く無いこともあった[[COMMAND.COM]]の影響で、多数の機能を抱えており、一見では似ている[[Unix系]]のシステムに移行したユーザは、DIRコマンドに相当するlsコマンドなどすら外部コマンドであることに、しばしば戸惑う)。
=== コマンドラインシェルの機能 ===
以下の機能のそれぞれを持つものもあれば、持たないものもある。
* プログラム名(プログラム出力)を指定してアプリケーションを起動
* プログラムを終了する、フォアグラウンド・バックグラウンドを切り替えといった、ジョブ制御
* プログラムの出力をファイルに出力する(リダイレクト)、他のプログラムの入力とする、といったパイプ制御
* プログラムの動作環境の設定に使用する[[環境変数]]、シェル変数の設定・参照
* 入力コマンドライン中の特別な記法で指定した部分をファイル名としてパターンマッチさせて展開する機能(ワイルドカードの展開)
* 入力履歴を呼び出す(コマンド入力ヒストリ)
* コマンドに別名をつける(エイリアス)
* 繰り返しコマンドを実行したり、条件に応じて実行させたりするための制御構造
* 入力時のファイル名などの補完機能
* まとまった一連の入力を[[シェルスクリプト]]として実行する(次節)
==== シェルスクリプト ====
{{see|シェルスクリプト}}
{{seealso|バッチファイル}}
多くのコマンドラインシェルが、対話的に利用するだけでなく、テキストファイルないしパイプからのテキストをコマンドとみなして処理できる。これにより、ある種のプログラミング言語のインタプリタのように利用できる。そのようなシェルスクリプトで利用する場合に便利な多くの機能は、対話的にも利用できることが多い(たとえば [[Bourne Shell]] ではそうなっている)。いっぽうで [[C Shell]] のように、設計時に対話的利用に重点が置かれすぎたため、シェルスクリプト・プログラミングが推奨されないとされているシェルもある(Csh Programming Considered Harmful<ref>http://harmful.cat-v.org/software/csh</ref>)。逆にスクリプト言語としての設計が重視された Microsoft [[PowerShell]] のような例もある。あるいは、プログラミング言語のインタプリタとして、Lispなどの処理系で[[REPL]]と呼ばれるものもシェルに近い。
=== その他 ===
なお、Unixのシェルには「インタラクティブシェル」と「ログインシェル」という概念がある。インタラクティブモードは専ら対話的な利用のためのモード、非インタラクティブモードは専らシェルスクリプト実行のためのモードで、一般にそのシェル自身の入出力が端末か否かなどにより変化するが、利用できるコマンド等がこれらで変化するわけではない。<code>/bin/sh</code> に <code>-i</code> というオプションを付けると強制的にインタラクティブモードで起動されるが、主な違いは一部のシグナルを無視するようになること<ref>https://pubs.opengroup.org/onlinepubs/9699919799/utilities/sh.html#tag_20_117_09</ref>、というようなシステム的な違いである。
一方ログインシェルとは、端末などにおいてログインした直後などの、最初のプロセスとしてのシェルのことである。通常の利用法ではログインシェルはインタラクティブシェルだが、そうでないこともある。たとえば ssh のコマンドライン引数で指定されたコマンドを実行しているだけの、リモートマシンにおけるシェルはログインシェルだがインタラクティブではない。
具体例として [[bash]] の場合、インタラクティブシェルでは起動時に <code>~/.bashrc</code> を読み込み、ログインシェルでは起動時に <code>~/.bash_profile</code> を読み込む。以上について理解が適切でなかったりすると、モードによる違いがあるように見えるかもしれない。
== コマンドラインシェルの一覧 ==
=== Unixシェル ===
{{Main|Unixシェル}}
歴史上有名なものやよく使われている[[Unixシェル]]として、以下のものがある。
* [[Bourne Shell]] (sh)
** [[Almquist Shell]] (ash)
*** [[Debian Almquist shell]] (dash)
** [[Bash|Bourne-Again shell]] (bash)
** [[KornShell]] (ksh)
*** [[Z Shell]] (zsh)
** [[Yet another shell]] (yash)
* [[C Shell]] (csh)
** [[Tcsh|TENEX C shell]] (tcsh)
** {{仮リンク|Hamilton C shell|en|Hamilton C shell}} - [[Microsoft Windows]] 向け
* [[Emacs]] shell (eshell)
* [[Friendly interactive shell]] (fish)
* [[rc (シェル)|rc shell]] (rc) – [[Plan 9 from Bell Labs]] および [[UNIX|Unix]] 向け
* {{仮リンク|scsh|en|scsh}} (Scheme Shell)
* {{仮リンク|Stand-alone Shell|en|Stand-alone Shell}} (sash)
* [[BeanShell]]
* [[Rhino]] shell
* [[リモートシェル|rsh]] - 各種システムで使用可能なリモートシェル。一部システムでは Restricted shell を意味する。
* {{仮リンク|Perl Shell|ru|perl Shell|label=psh}} - [[Perl]]ベースの汎用シェル
* {{仮リンク|sqsh|en|sqsh}} - 対話型[[SQL]]クライアントとしてデータベースアクセスも可能なシェル
上述の一覧の一部は、DOSやWindowsでも利用可能であり、Unixとの相互運用性を様々なレベルで可能にする。主な例として、[[:en:MKS Toolkit|MKS Toolkit]](sh, bash, ksh, csh, tclsh, rsh を利用可能)、[[:en:UnxUtils|UnxUtils]]、[[:en:UWIN|UWIN]]、[[Cygwin]]、{{仮リンク|DJGPP|en|DJGPP}}、[[Interix]] などがある。[[Microsoft Windows Services for UNIX|Windows Services For Unix]] はほとんどのバージョンで KornShell と C Shell を提供しており、Perlもコマンドラインとして利用できる。
(上の段落の記述は、シェルのレベルではなく、それらのシステム上でOSのレベルでUnixを模擬するもの、[[システムコール]]を読み替えるもの、などを全て混同している)
Unixシェルは [[OS/2]] や [[OpenVMS]] といった他のOSでの利用可能である。また、VMSのシェルである{{仮リンク|DIGITALコマンド言語|en|DIGITAL Command Language|label=DCL}}もDOS、Windows、OS/2、[[Unix系]]OSで利用可能となっている。
DOSや Windows NT のシェルもUnix系システムで利用可能となっているバージョンがある。
=== Unix以外 ===
* {{仮リンク|4DOS|en|4DOS}}、4OS2、[[:en:Take Command Console|4NT]] – JP Software が開発販売していた(それぞれ)[[MS-DOS]]、[[OS/2]]、Windows NT 用のシェル。後継の [[:en:Take Command (command line interpreter)|Take Command]] は互換性を保ちつつ[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]を使用したシェルである。
* Amiga CLI/AmigaShell - [[AmigaOS]]本来のグラフィカルシェルである Workbench の代替となるコマンドライン方式のシェル
* [[:en:BASIC-PLUS|BASIC-PLUS]] – [[RSTS/E]]
* [[:en:CANDE|CANDE MCS]] – [[バロース]]のOS [[:en:Burroughs MCP|MCP]] 上のシェル兼エディタ
* CCP (console command processor) – [[CP/M]]のユーザインタフェース
* [[COMMAND.COM]] – [[MS-DOS]]のシェル。
* [[cmd.exe]] – [[OS/2]]、[[Microsoft Windows Embedded CE|Windows CE]]、[[Microsoft Windows NT|Windows NT]]のシェル。
* [[:en:DOS Wedge|Commodore DOS Wedge]] – [[コモドール64]]の[[BASIC]] 2.0を拡張したもので、主なディスク操作の省略表現を使用可能
* {{仮リンク|DIGITALコマンド言語|en|DIGITAL Command Language|label=DCL}} – [[OpenVMS]]用標準シェル。[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]の初期のOSが発祥
* [[:en:Dynamic debugging technique|DDT]] – [[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]製[[PDP-10]]用[[デバッガ]]だが、[[マサチューセッツ工科大学|MIT]]の[[Incompatible Timesharing System]]でコマンドシェルとして使用
* DROS – [[Java Platform, Micro Edition|Java ME]]プラットフォームをベースとした[[スマートフォン]]向けのDOS風シェル
* [[Unified Extensible Firmware Interface#EFIシェル|EFIシェル]] – オープンソースの[[Unified Extensible Firmware Interface]]コマンドシェル
* [[:en:Google Shell|Google Shell]] – [[Google検索]]のオンラインのフロントエンドで、UNIXシェル風に検索などが行える。
* [[:en:iSeries QSHELL|iSeries QSHELL]] – [[IBM]] [[OS/400]]でのUNIX風シェル
* [[:en:Macintosh Programmer's Workshop|Macintosh Programmer's Workshop]] – [[Classic Mac OS]]でソフトウェア開発に使われていたコマンドライン環境
* [[Microsoft BASIC]] – かつての8ビットコンピュータでよく採用されていたオペレーティング環境
* [[REXX]] – IBMのスクリプト言語
* [[Singularity|Singularity shell]] – [[Singularity]]用標準シェル
* [[Windows PowerShell]] – cmd.exeの後継のオブジェクト指向型シェル
* YouShell – [[YouOS]]のJavaScriptベースのコマンドプロセッサ
* [[回復コンソール]] – [[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]、[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]、[[Microsoft Windows Server 2003|Windows 2003]] にある機能
=== プログラミング言語のシェル ===
{{seealso|コマンドラインインタプリタ}}
[[プログラミング言語]]処理系に対する[[コマンドラインインタプリタ]]も、一種のシェルである。OS的な機能へのインタフェースを持つものもある。
* [[LISP]]系
** [[REPL]] (Read-Eval-Print Loop)({{要出典範囲|文字通りにはLispにおけるreadとevalという関数と同様のものが必要だが、そうでないものがそう呼ばれていることも多い|date=2021年3月}})
** [[Common Lisp]] 用の{{仮リンク|SLIME|en|SLIME}}
* [[BeanShell]] – Java用シェル
* [[Firebug|Firebug (Chromebug)]]<ref>[https://developer.mozilla.org/en/Setting_up_extension_development_environment#Development_extensions developer.mozilla.org/en/Setting_up_extension_development_environment]</ref> – JavaScript のシェル兼デバッガ環境([[Mozilla Firefox|Firefox]]プラグイン)
* GMMLCMD - {{仮リンク|Game Maker Language|en|Game Maker Language|label=GML}}([[Game Maker]] でのスクリプト言語)のシェル
* irb – [[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]]の対話版
* JavaScript shell – この名前でJavaScriptの対話型実行を可能にするプログラムがいくつかある。<ref>[https://developer.mozilla.org/en/JavaScript_shells developer.mozilla.org/en/JavaScript_shells JavaScript shells]</ref>
* PHPsh – [[PHP (プログラミング言語)|PHP]]用シェル
* [[Python]]の標準インタプリタはシェルモードでも起動可能
* Wish (GUI) と tclsh (CLI) - [[Tcl]]/[[Tk (ツールキット)|Tk]]用シェル。
* [[Windows Script Host]]
* 一部例外を除く[[TeX]]処理系{{---}}但し実行後すぐは“原稿読み取り態”という特殊な状態<ref group="注釈">[[ファイル名]]を入力するとすぐにそのファイルの処理を開始する。これは[[引数]]を解釈できない(つまり{{code|lang=console|$ tex foo.tex}}という[[コマンドライン]]処理が行なえない)[[オペレーティングシステム|OS]]上で効率良く原稿を読み取らせることが目的だった。そもそも「ファイル名」という概念字体,[[TeX]]開発の初期段階では曖昧であったようである。<!-- [出典待ち](「The TeX Book」では,“あなたのシステムが認識する原稿の外部の名前”等ともってまわった言い方をしている)
--></ref>にある為,{{code|lang=tex|\relax}}という命令を実行することでコマンドラインインタプリタとして利用できるようになる。
== グラフィカルシェル ==
グラフィカルシェルは、[[グラフィカルユーザインタフェース]](GUI)による and・or [[デスクトップ環境]]などといったGUI環境へのユーザインタフェースとしてのシェルである。コマンドラインシェルと違い、形態がそれほど明確には固まっていない。
たとえば、[[X Window System]]などのグラフィック[[システム]]などを含んだかなり広い範囲を含んで捉えられることもあれば、[[GNOME]]デスクトップ環境の[[GNOME Shell]]のように、その提供するUIのほとんどの機能は他のプログラムを通じて提供される本当にごく薄い「シェル」に徹しているものもある。また、X Window Systemの環境では[[ウィンドウマネージャ]]をデスクトップ環境も兼ねたシェルとして使うこともあったり([[Xウィンドウマネージャ]])、[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.x]]時代の[[プログラムマネージャ]]や、[[Mac OS]]における[[Finder]]のように、[[ランチャー]]や[[ファイルマネージャ]]がベースのグラフィカルシェルもある(Windows shell([[:en:Windows shell]])も、プログラム自体は[[Windows Explorer|Explorer]]である)。
=== Mac OS ===
{{main|Finder}}
[[Mac OS]] では、System Software(あるいは単に "System")と呼ばれていた [[Classic Mac OS]] 時代の、68k Macintosh 用のバージョン1から、2017年現在の現行版である [[macOS]] のバージョン10.13([[MacOS High Sierra|High Sierra]])に至るまで一貫して、[[Finder]] がグラフィカルシェルである。<!--Microsoftのようにウェブブラウザと統合する等というような小手先の「高機能化」等をせず、独自アーキテクチャであった Classic Mac OS から、[[Unix系]]のコアを持つ Mac OS X(現: macOS)への移行という大きな変動すらも、ユーザに対しては Finder というシェルによりかなり隠蔽されているということなどは、最初の設計時の先見性と言える。-->
=== Microsoft Windows ===
現代の [[Microsoft Windows]] のシェルは Windows shell である。ファイルマネージャとしての [[Windows Explorer]] の他、[[デスクトップ環境]](スタートメニュー、[[タスクバー]]等)を含めた全体を指して Windows shell という用語が使われている。古いバージョン(Windows 3.x、NT 3.x)では[[プログラムマネージャ]] (progman.exe) がデフォルトのシェルであり、デフォルトでなくなった後もしばらくは残っていてシェルを切り替えることもできた。
[[:en:iTVmediaPlayer<!-- 存在しない -->|iTVmediaPlayer]]などのデスクトップアプリケーションも、サードパーティのエンジンを使っているという意味でシェルと呼ばれることがある。同様に Windows Explorer のインタフェースに不満を持つ多くの個人や業者が機能や外観を変更するソフトウェアや代替のグラフィカルシェルを開発してきた。前者(外観改善)の好例として [[WindowBlinds]] がある。後者(代替)の例としては、[[:en:LiteStep|LiteStep]]、[[:en:SharpE|SharpE]]、[[:en:Emerge Desktop|Emerge Desktop]] などがある。
相互運用プログラムや特定用途のソフトウェアにより、Windows上で後述のUnix系GUI環境を使用することもできる。また、Windows NT の一部バージョンには[[OS/2]]サブシステムがあり、OS/2のプレゼンテーションマネージャと同等の環境を提供していた。
=== X Window System ===
前述のようにグラフィカルシェルとして捉えられている範囲が一定していないため、ここではいくつかの類型に分類して示す。
* [[ウィンドウマネージャ]]([[Xウィンドウマネージャ]]の記事も参照。単独で動作するものもあれば、GNOMEやKDEの環境が前提のものもある)
** uwm([[:en:Ultrix Window Manager]])〜X11R3における標準
** [[twm]] X11R4〜における標準
** mwm([[:en:Motif Window Manager]])[[Motif (GUI)|Motif]]および[[Common Desktop Environment|CDE]]の標準
** [[FVWM]]
** qvwm([[:en:Qvwm]])Win95風(qvのqを9、vは5の意)ないしWin98風(漢数字の八を上下ひっくり返すとv)のデスクトップ画面を提供する
** [[Blackbox]]
** [[Fluxbox]]
** [[Ratpoison]]
** [[Xmonad]]
** [[Dwm (ウィンドウマネージャ)|dwm]]
** [[Beryl]]/[[Compiz]]
** KDE環境用
*** [[KWin]]
** GNOME環境用
*** Sawfish([[:en:Sawfish (window manager)]]、〜GNOME2.2)
*** [[Metacity]](GNOME2.2〜GNOME2.x)
*** [[Mutter]](GNOME3〜)
* [[デスクトップ環境]]
** [[Common Desktop Environment|CDE]]
** [[GNOME]]
** [[KDE]]
** [[Xfce]]
** [[LXDE]]
** [[Unity (ユーザインタフェース)|Unity]](著名なゲームフレームワークとは無関係)
* デスクトップ環境のシェル
** GNOME
*** [[GNOME パネル]](GNOME 2)
*** [[GNOME Shell]](GNOME 3)
** KDE
*** KDesktop([[:en:KDesktop]]、〜 KDE 3)
*** [[Plasma (KDE)|Plasma]](KDE 4 〜)
* その他
** [[Enlightenment]](デスクトップ環境と言えるほどにまで拡張されたウィンドウマネージャ)
** [[Cinnamon]](GNOME Shellからのフォークで、GNOME3のようにGTK+3ベースだが、GNOME3と違いごく軽量なデスクトップ環境を提供することが目標)
=== その他のプラットフォーム ===
* [[Amiga]]の環境
** [[:en:Ambient (desktop environment)|Ambient]] ([[MorphOS]])
** [[:en:Directory Opus|Directory Opus]]
** ScalOS
** Wanderer ([[AROS Research Operating System|AROS]])
** [[:en:Workbench (AmigaOS)|Workbench]]
* [[MS-DOS Shell|DOS Shell]]
* [[OS/2]]の環境
** [[:en:Presentation Manager|Presentation Manager]] (OS/2 1.1 およびそれ以降、[[eComStation]])
** [[ワークプレース・シェル]] (OS/2 2.0 およびそれ以降、eComStation)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[POSIX]]
* [[擬似端末]]
* [[バッチファイル]]
* [[MS-DOS Shell]]
* [[IEコンポーネントブラウザ]] - Internet Explorer shell とも
* [[シェルスクリプト]]
* [[Unixシェル]]
== 外部リンク ==
* [http://lagendra.s.kanazawa-u.ac.jp/ogurisu/manuals/sh-text/sh/index.html Bourne Shell自習テキスト]
{{オペレーティングシステム}}
{{DEFAULTSORT:しえる}}
[[Category:コンピュータのユーザインタフェース]]
[[Category:UNIX]]
[[Category:UNIXのソフトウェア]]
[[Category:システム管理]]
[[Category:デスクトップ環境]] | 2003-02-22T11:32:48Z | 2023-11-24T02:10:30Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB |
2,698 | 鈴木茂 (ギタリスト) | 鈴木 茂(すずき しげる、1951年12月20日 - )は、日本のギタリスト・作曲家・編曲家。
はっぴいえんど、ティン・パン・アレーなどのメンバーとしてギターを担当した。
1968年、林立夫、小原礼らとともにスカイを結成。1969年に細野晴臣に誘われはっぴいえんどに加入しギターを担当、「花いちもんめ」などの楽曲ではボーカルを務め、バンドの解散後に細野らとキャラメル・ママを結成、ティン・パン・アレーへと発展させる。はっぴいえんど解散後から大麻を始め、2009年逮捕されるまで断続的に大麻使用を続けたと自伝で述べている。
1975年にはアメリカのミュージシャンを起用しロサンゼルスで録音した初めてのソロアルバム『BAND WAGON』を発表。帰国後、ハックルバックを結成し「ベイ・エリア・コンサート」やライブハウス、学園祭に出演。『ほうろう』を発表したばかりの小坂忠のバックをティン・パン・アレーのメンバーとして務め全国ツアーも行った。
1992年には尾崎亜美、小原礼らとともに桃姫BANDを結成。阪神・淡路大震災の復興チャリティユニットとして声優の神谷明の呼びかけで結成されたWITH YOUに、尾崎・小原らとともに協力ミュージシャンとして参加。1997年に発売されたチャリティCDにも参加している。2000年には細野・林とティン・パンを結成。
その後、アレンジャーやセッションミュージシャンとして活動。2006年3月時点で、アルバム参加枚数517枚、シングル参加枚数71枚、合計588枚という莫大な数のレコーディングに参加。アレンジ曲数は同じく2006年3月の時点で635曲。
2009年2月17日、大麻取締法違反(所持)の現行犯で東京湾岸警察署に逮捕。同年3月17日に、懲役6か月、執行猶予3年の有罪判決を受ける。
2011年、バンド・きなこむちの『Battle Of My Favorite Things〜世紀のおもちゃ大戦争〜』(2011年4月6日発売)の帯に推薦文を提供する。
2012年、執行猶予満了。
2014年1月27日、株式会社アトス・インターナショナルからギター教則DVD『鈴木茂 ギター・プレイ・オブ・バンドワゴン』発売。
2018年12月31日、第69回NHK紅白歌合戦に松任谷由実のバックバンドで出演。
2019年、俳優の佐野史郎のレコーディングに小原礼の呼び掛けにより林と参加。要請され参加した松任谷正隆も加えて高校生時代に組んでいたSKYEを再結成、「佐野史郎 meets SKYE with 松任谷正隆」として「禁断の果実」、2021年10月アルバム「SKYE」発表した。 | [
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] | 鈴木 茂は、日本のギタリスト・作曲家・編曲家。 はっぴいえんど、ティン・パン・アレーなどのメンバーとしてギターを担当した。 | {{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 -->
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* [[松任谷由実]]
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| 公式サイト = {{URL|suzuki-shigeru.jp/|suzuki-shigeru.jp}}
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| 旧メンバー = <!-- グループのみ -->
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'''鈴木 茂'''(すずき しげる、[[1951年]][[12月20日]] - )は、[[日本]]の[[ギタリスト]]・[[作曲家]]・[[編曲家]]。
[[はっぴいえんど]]<ref name="tower" />、[[ティン・パン・アレー (バンド)|ティン・パン・アレー]]などのメンバーとしてギターを担当した。
== 略歴 ==
[[1968年]]、[[林立夫]]、[[小原礼]]らとともに[[SKYE|スカイ]]を結成。[[1969年]]に[[細野晴臣]]に誘われ[[はっぴいえんど]]に加入し<ref name="tower">{{Cite web|和書|url=https://tower.jp/artist/278876/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%8C%82|title=鈴木茂 プロフィール|publisher=タワーレコード株式会社|accessdate=2015-12-27}}</ref>ギターを担当、「花いちもんめ」などの楽曲ではボーカルを務め、バンドの解散後に細野らと[[キャラメル・ママ (音楽ユニット)|キャラメル・ママ]]を結成、[[ティン・パン・アレー (バンド)|ティン・パン・アレー]]へと発展させる<ref name="tower" />。はっぴいえんど解散後から[[大麻]]を始め<ref name="自伝172">[[#自伝|「Column1/ドラッグ」『自伝 鈴木茂のワインディング・ロード』]]、172-177頁。</ref>、2009年逮捕されるまで断続的に大麻使用を続けたと自伝で述べている<ref name="自伝172" />。
[[1975年]]にはアメリカのミュージシャンを起用しロサンゼルスで録音した初めてのソロアルバム『[[BAND WAGON]]』を発表<ref name="tower" />。帰国後、[[ハックルバック]]を結成し「ベイ・エリア・コンサート」やライブハウス、学園祭に出演。『ほうろう』を発表したばかりの[[小坂忠]]のバックをティン・パン・アレーのメンバーとして務め全国ツアーも行った。
[[1992年]]には[[尾崎亜美]]、小原礼らとともに桃姫BANDを結成。[[阪神・淡路大震災]]の復興チャリティユニットとして[[声優]]の[[神谷明]]の呼びかけで結成された[[WITH YOU (音楽ユニット)|WITH YOU]]に、尾崎・小原らとともに協力ミュージシャンとして参加。[[1997年]]に発売されたチャリティCDにも参加している。[[2000年]]には細野・林と[[ティン・パン・アレー_(バンド)#Tin_Panとして復活|ティン・パン]]を結成<ref name="tower" />。
その後、アレンジャーやセッションミュージシャンとして活動。2006年3月時点で、アルバム参加枚数517枚、シングル参加枚数71枚、合計588枚という莫大な数のレコーディングに参加。アレンジ曲数は同じく2006年3月の時点で635曲。
[[2009年]]2月17日、[[大麻取締法]]違反(所持)の現行犯で[[東京湾岸警察署]]に逮捕<ref>{{Cite news |url=http://www.asahi.com/national/update/0218/TKY200902180156.html |title=元「はっぴいえんど」鈴木茂容疑者、大麻所持容疑で逮捕 |newspaper=asahi.com |publisher=朝日新聞社 |date=2009-02-18 |accessdate=2009-02-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090221161149/http://www.asahi.com/national/update/0218/TKY200902180156.html |archivedate=2009-02-21}}</ref>。同年[[3月17日]]に、懲役6か月、執行猶予3年の有罪判決を受ける<ref>{{Cite news |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20090317-472256.html |title=大麻のはっぴいえんど鈴木茂被告が有罪 |newspaper=nikkansports.com |publisher=日刊スポーツ新聞社 |date=2009-03-17 }}</ref>。
2011年、バンド・[[きなこむち]]の『Battle Of My Favorite Things〜世紀のおもちゃ大戦争〜』(2011年4月6日発売)の帯に推薦文を提供する。
2012年、執行猶予満了。
2014年1月27日、株式会社[[アトス・インターナショナル]]からギター教則DVD『鈴木茂 ギター・プレイ・オブ・バンドワゴン』発売。
2018年12月31日、[[第69回NHK紅白歌合戦]]に[[松任谷由実]]のバックバンドで出演。
2019年、俳優の[[佐野史郎]]のレコーディングに[[小原礼]]の呼び掛けにより林と参加。要請され参加した[[松任谷正隆]]も加えて高校生時代に組んでいた[[SKYE]]を再結成、「佐野史郎 meets SKYE with 松任谷正隆」として「禁断の果実」、2021年10月アルバム「SKYE」発表した。
== ディスコグラフィ ==
{{Main2|はっぴいえんどでの活動|はっぴいえんど#ディスコグラフィー|キャラメル・ママ及びティン・パン・アレーでの活動|ティン・パン・アレー (バンド)#ディスコグラフィー|ハックルバックでの活動|ハックルバック#ディスコグラフィー|SKYEでの活動|SKYE#ディスコグラフィー}}
=== シングル ===
*八月の匂い/スノー・エキスプレス({{Start date|1975}})
*レイニー・ステイション/ジュリエット({{Start date|1978}})
*イメージ・チェンジ/スウィート・インスピレーション({{Start date|1979|9}})
*ギャラクシー・ガール/HEY! WOMAN({{Start date|1979}})
*SEI DO YA(星導夜)/MEI SO AI ZO(迷走愛憎)({{Start date|1985|10}})※12インチ・シングル
*BEING'70s/Holly Land(聖地)({{Start date|1986|6|4}})※12インチ・シングル
*[[砂の女/微熱少年]]({{Start date|2017|4|5}})
*[[LADY PINK PANTHER/8分音符の詩]]({{Start date|2017|4|5}})
=== アルバム ===
* [[BAND WAGON]](1975年3月25日)
* [[幻のハックルバック]](1976年)※[[ハックルバック|鈴木茂とハックルバック]]
* [[LAGOON_(アルバム)|LAGOON]](1976年12月5日)
* Caution!(1978年1月25日)
* TELESCOPE(1978年11月25日)
* WHITE HEAT(1979年2月25日)<ref>[http://www.mryt.com/other/o_suzuki1.html 鈴木茂: ホワイトヒート(White Heat)] - MR.YT Unofficial Home Page</ref>
* COSMOS'51(1979年9月5日)
* SEI DO YA(1985年)
* クジラの海〜Living Whales(1998年)
=== オムニバス・アルバム ===
* [[PACIFIC (オムニバス・アルバム)|PACIFIC]]({{Start date|1978|6|21}}) {{Ndash}} [[細野晴臣]]・鈴木茂・[[山下達郎]]
* [[NEW YORK (オムニバス・アルバム)|NEW YORK]]({{Start date|1978|11|21}}) {{Ndash}} 秋山一将・[[大村憲司]]・鈴木茂・[[竹田和夫]]・[[松木恒秀]]・[[松原正樹]]・[[水谷公生]]・[[矢島賢]]
*冬・の・贈・り・物 ジェントルスノー(1992年11月21日)- [[鶴来正基]]・[[彩恵津子]]・鈴木茂
*心・の・休・日 ジェントルウォーター(1993年5月21日)- 難波正司・[[彩恵津子]]・鈴木茂
=== BOXセット ===
*鈴木茂ヒストリー・ボックス〜クラウン・イヤーズ1974-1979 ⁄ 鈴木茂 – PANAM ⁄ CROWN 6CD:CRCP-50060/5(2008年7月2日)
**鈴木がクラウン在籍時に発表した音源を網羅した[[ボックス・セット]]。最新[[デジタルリマスター]]された[[スタジオ・アルバム|オリジナル・アルバム]]5枚に、未発表音源多数を含むボーナス・ディスク1枚を加えたCD6枚組。<Live & Rare Tracks>にハックルバックによるライブ音源13曲を収録。はっぴいえんどやティン・パン・アレイの同僚だった細野晴臣のクラウンレコード在籍時に発表した音源を網羅したボックス・セット『Harry Hosono Crown Years 1974-1977』に「[[北京ダック (曲)|北京ダック]]」のシングルバージョンが追加収録されたのに対し、この鈴木のボックス・セットには「レイニー・ステイション」のシングルバージョンは追加収録されていない。
=== 教則DVD ===
* 『鈴木茂 ギター・プレイ・オブ・バンドワゴン』(2014年)
== 書籍 ==
* {{Cite book|和書|author=鈴木茂|title=自伝 鈴木茂のワインディング・ロード|publisher=リットーミュージック|year=2016|isbn=978-4-8456-2793-6|ref=自伝}}
== 主な演奏参加作品 ==
=== あ行 ===
* [[荒井由実]]「ひこうき雲」 (1973年), 「MISSLIM」(1974年), 「COBALT HOUR」(1976年), 「14番目の月」(1976年), 「ユーミンコレクション」(ベストアルバム、1976年), 「[[あの日にかえりたい]]」(シングル、1976年)
* [[IX・IX]]「IX・IX No」 (1989年)
* [[相沢友子]]「胸の音」 (1994年)
* [[青木智仁]]「DOUBLE FACE」 (1989年)
* [[あがた森魚]]「乙女の儚夢(ろまん)」(1972年), 「噫無情 (ああむぢゃう)‐レ・ミゼラブル‐」(1974年), 「僕は天使ぢゃないよ」 (1975年)
* [[アキハバラエレクトリックサーカス]]「AIR-CON」 (1989年)
* [[アグネス・チャン]]「アグネスの小さな日記」 (1974年), 「あなたとわたしのコンサート」 (1974年), 「はじめまして青春」 (1975年)
* [[安部恭弘]]「Slit」 (1984年), 「Frame of Mind」 (1985年)
* [[AMAZONS]]「屋根のないレストラン」 (1993年)
* [[彩裕季]]「ガールフレンド」 (1993年), 「Heart strings」(1993年)
* [[Ann]]「愛は腕の中」 (シングル、1995年)
* [[杏里]]「Feelin'」 (1979年), 「悲しみの孔雀」 (1980年), 「Bi・Ki・Ni」 (1983年), 「MISTIQUE」 (1986年)
* [[アン・ルイス]]「アイム・ア・ロンリー・レディ」 (シングル、1979年), 「Pink Pusssy Cats」 (1979年), 「CHEEK」(1986年)
* [[五十嵐浩晃]]「愛は風まかせ」 (1980年), 「ナチュラル・ロード」 (1980年), 「SAILING DREAM-想い出のサマー・ソング」 (1981年), 「WING」 (1982年), 「そよ風の頃」 (1983年), 「DISTANCE」 (1988年), 「DESTINATION」 (1989年), 「Summer Twilight (シングル)」 (1988年), 「再会 (シングル)」 (1989年), 「キプロスの砂 (シングル)」 (1989年)
* [[五十嵐麻利江]]「海を感じる時」 (1979年)
* [[池田典代]]「Dream in the street」 (1979年)
* [[石川秀美]]「妖精(フェアリー)」 (1982年), 「ハプニング」 (1985年)
* [[石川優子]]「シンデレラ・サマー」(1981年), 「Spicy」 (1981年), 「FULL SAIL」 (1982年), 「月曜日のシャンプー」 (1989年), 「真夜中のラブコール」 (シングル、1981年)
* [[石川よしひろ]]「青空を待ちながら」 (1992年), 「LOVE」 (1993年), 「Peace」 (1994年)
* [[いしだあゆみ]]「アワー・コネクション」 (1977年)
* [[石野真子]]「微笑」 (1978年), 「MAKO II」 (1978年)
* [[石橋和子]]「NICE TO MEET YOU」 (1981年), 「ノラが扉(ドア)をあけるとき」 (1982年)
* [[泉谷しげる]]「'80のバラッド」 (1978年)
* [[伊勢正三]]「ORANGE」(1985年)
* [[市川実和子]]「ポップスター (シングル)」 (1998年), 「PIN UP GIRL」 (1999年)
* [[市原ひかり]]「一番の幸せ」 (2005年)
* [[一路真輝]]「月の詠唱(Aria)」 (シングル、1999年)
* [[五輪真弓]]「Mayumity - うつろな愛」 (1975年)
* [[いとうせいこう]] & [[タイニー・パンクス|Tinnie Punx]] 「[[建設的]]」(1986年)
* [[伊藤敏博]]「景子へ」 (1983年)
* [[伊東ゆかり]]「Yukariあなたの隣に」(1978年), 「あなたしか見えない」(1979年), 「素描(Sketch)」 (1980年)
* [[稲垣潤一]]「Personally」 (1984年)
* [[稲葉喜美子]]「愛(やさ)しき人へ」(1982年)
* [[INO hidefumi]]「NEW MORNING」(2013年)
* [[井上鑑]]「PROPHETICDREAM」 (1982年)
* [[井上陽水]]「招待状のないショー」(1976年), 「EVERYNIGHT」(1980年), 「あやしい夜をまって」(1981年), 「永遠のシュール」(1994年), 「クレイジーラブ (シングル)」 (1999年)
* [[今井麻起子]]「CIAO!」 (1988年)
* [[今井美樹]]「retour」 (1990年)
* [[今井裕 (ミュージシャン)|今井裕]]「A COOL EVENING」 (1977年)
* [[今井優子]]「Do away」 (1990年)
* [[イルカ (歌手)|イルカ]]「Follow Me」 (1981年), 「JULIA」 (1982年), 「ノエルの不思議な冒険」 (1983年), 「LOOP CHILD」 (1983年), 「ESSAY」 (1986年), 「私の動物アルバム」 (1987年), 「けせらんぱさらん」 (1989年), 「羅針盤の上」 (1998年), 「枯葉のシーズン (シングル)」 (1981年), 「迎えに行く朝 (シングル)」 (1989年), 「花一輪 (シングル)」 (1998年)
* [[岩男潤子]]「Entrance」 (1996年)
* [[岩崎宏美]]「Love Letter」 (1982年), 「私・的・空・間」 (1983年)
* [[岩崎良美]]「Weather Report」 (1981年) 「心のアトリエ」 (1981年), 「ごめんねDarling (シングル)」 (1981年), 「化粧なんて似合わない (シングル)」 (1982年)
* [[岩瀬敬吾]]「Porky Pie」(2002年)
* [[岩渕まこと]]「スーパー・ムーン」 (1977年), 「風が吹いたら (シングル)」 (1978年)
* [[Wink]]「Voce」 (1994年), 「[[アマリリス (Winkの曲)|アマリリス]] (シングル)」 (1988年)
* [[上田正樹]]「AFTER MIDNIGHT」 (1983年), 「HUSKY」 (1983年)
* [[宇佐元恭一]]「Piano Forte」 (1983年), 「KYOICHI」 (1984年), 「ブルーの香り (シングル)」 (1985年)
* [[内田有紀]]「愛のバカ」 (1996年)
* [[宇都美慶子]]「La Sympathie」 (1990年), 「L'Arc-en-Ciel」 (1991年), 「fémale」(1991年)
* [[江口洋介]]「WORLD WITHOUT LOVE」 (1998年), 「フェアリィ・テイル」 (シングル、1998年)
* [[NSP (バンド)|N.S.P]]「彩雲」(1980年)
* [[遠藤京子]]「OPERETTE」 (1981年)
* [[遠藤賢司]]「NIYAGO」 (1970年), 「満足できるかな」 (1971年), 「嘆きのウクレレ」(1972年), 「歓喜(よろこび)の歌」 (1973年), 「もしも君がそばにいたら何んにもいらない」 (1998年)
* [[大久保一久]]「IN MY LIFE」 (1979年), 「Loving You」 (1982年)
* [[大空はるみ]]「はるみのムーンライトセレナーデ」 (1982年)
* [[太田貴子]]「GRADATION」 (1984年), 「POP STATION」 (1987年)
* [[太田裕美]]「背中あわせのランデブー」 (1977年), 「[[さらばシベリア鉄道]](シングル)」(1980年)、「太田裕美2000ベスト」 (2000年)
* [[大滝詠一]]「大瀧詠一」(1972年), 「NIAGARA MOON」(1975年), 「NIAGARA TRIANGLE Vol.1」 (1976年), 「NIAGARA CM Special Vol. 1」 (1977年), 「A LONG VACATION」 (1981年), 「NIAGARA TRIANGLE Vol.2」 (1982年), 「EACH TIME」 (1984年), 「B-EACH TIME LONG」 (1985年), 「Complete EACH TIME」 (1986年), 「NIAGARA SONGBOOK」 (1982年), 「NIAGARA SONG BOOK 2」 (1984年), 「Eiichi Ohtaki Songbook 1」 (1991年), 「Eiichi Ohtaki Songbook 2」 (1995年), 「SNOW TIME「NIAGARA」 (1996年), 「幸せな結末 (シングル)」 (1997年)
* [[大滝裕子]]「ミリオン・キス」 (1980年)
* [[大竹しのぶ]]「天国への階段」 (1994年)
* [[大貫妙子]]『[[Grey Skies]]』(1976年), 『[[ミニヨン (大貫妙子のアルバム)|MIGNONNE]]』(1978年), 『[[アヴァンチュール (大貫妙子のアルバム)|Aventure]]』 (1981年)
* [[大橋恵里子]]「夢で逢えたら (シングル)」 (1982年)
* [[大橋純子]]「ペイパー・ムーン」(1976年)
* [[大本友子]]「映画のようにはいかないの」 (1995年)
* [[岡林信康]]『[[岡林信康アルバム第二集 見るまえに跳べ]]』(1970年), 「岡林信康コンサート」 (1971年)
* [[岡本一生]]「Moonlight Singing」 (1978年)
* [[奥井亜紀]]「ヴォイス・オブ・ハレルヤ」 (1995年)
* [[尾崎亜美]]「シェイディ」(1976年), 「MIND DROPS」 (1977年), 「STOP MOTION」 (1978年), 「PRISMY」 (1978年), 「LITTLE FANTASY」 (1979年), 「MERIDIAN MELON」 (1980年), 「Shot」 (1982年), 「MIRACLE」 (1983年), 「PLASTIC GARDEN」 (1984年), 「10番目のミュー」 (1985年), 「Kids」 (1986年), 「アミフォニック」 (2001年), 「キラメキFeeling (シングル)」 (1979年)
* [[小田育宏]]「talk to you」 (1992年)
* [[小田裕一郎]]「LIFE ODA-3」 (1986年)
* [[小田陽子]]「Half-Swing Romance」 (1988年)
* [[オバタミナコ]]「WE HAVE A DREAM」 (1995年)
* [[小原礼]]「[[PICARESQUE]]」 (1988年)
* [[オリジナル・ラブ]]『[[RAINBOW RACE]]』 (1995年)
=== か行 ===
* [[加川良]]「教訓」 (1971年), 「アウト・オブ・マインド」 (1974年)
* [[笠井紀美子]]「アンブレラ」 (1972年)
* [[風見慎吾]]「FRIDAY TROUBLE」 (1983年)
* [[門あさ美]]「[[Fascination|FASCINATION]]」 (1979年), 「[[SACHET]]」 (1980年)
* [[加藤和彦]]「[[ガーディニア|GARDENIA]]」 (1978年)
* [[角松敏生]]「[[SEA BREEZE]]」 (1981年), 「[[MORE DESIRE]]」 (1989年), 「[[LEGACY OF YOU]]」 (1990年), 「[[ALL IS VANITY]]」 (1991年), 「[[TEARS BALLAD]]」 (1991年), 「[[この駅から…]]」 (シングル、1991年), 「[[心配/YOKOHAMA Twilight Time]]」 (シングル、2001年)
* [[金井夕子]]「チャイナ・ローズ」 (1979年), 「écran」 (1981年)
* [[かねのぶさちこ]]「み空」 (1972年)
* [[かの香織]]「裸であいましょう」 (1995年)
* [[かまやつひろし]]「あ、我が良き友よ」 (1975年)
* [[雅夢]](がむ)「夢つづり」 (1981年)
* [[亀渕友香]]「タッチ・ミー・ユカ」 (1974年)
* [[河合奈保子]]「Summer Heroine」 (1982年), 「あるばむ」 (1983年)
* [[川口雅代]]「SALUTE〜ご・あ・い・さ・つ〜」 (1981年)
* [[川島なお美]]「So Long」 (1982年)
* [[河村隆一]]「VANILLA「2004年)
* [[神田正輝]]「if-予感-10」 (1984年)
* [[GANGY]]「DEARMRS. LONELY」 (1982年)
* [[来生たかお]]「BY MY SIDE-そばにおいでよ-」 (1978年), 「Natural Menu」 (1979年), 「Sparkle」(1981年), 「夢の途中」 (1981年), 「遊歩道」 (1982年), 「Ordinary」 (1983年)
* [[北原佐和子]]「ときめき」 (1982年)
* [[木之内みどり]]「グッド・フィーリング」 (1976年)
* [[木の実ナナ]]「ダンシング・ママ」 (1980年)
* [[木村恵子]]「STyLE」 (1988年), 「M」 (1990年)
* [[桐ヶ谷仁]]「My Love For You」 (1979年)
* [[桐島かれん]]「Karen」 (1990年)
* [[キンモクセイ (バンド)|キンモクセイ]]「[[人とコウモリ/日曜日の夜|人とコウモリ]] (シングル)」 (2003年)
* [[工藤静香]]「PURPLE」 (1995年), 「doing」 (1996年), 「Ice Rain (シングル)」 (1994年)
* [[国安修二]]「あの日…」 (1993年)
* [[久野かおり]]「SINCERE」 (1989年)
* [[桑江知子]]「Born Free」 (1979年), 「熱風」 (1979年)
* [[桑名正博]]「MASAHIRO・2」 (1977年), 「テキーラ・ムーン」 (1978年)
* [[KENTAMURA]]「FLY BY SUNSET」 (1982年)
* [[小池映]]「ENERGY FIELD」 (1995年)
* [[小泉今日子]]「KYO→」 (1998年)
* [[小出正則]]「桜本3丁目」 (1979年)
* [[香坂みゆき]]「BACKSTAGE」 (1982年), 「Selfish」 (1983年), 「ジェット・ラグ(時差)」 (1984年)
* [[小坂忠]]「ありがとう」 (1971年), 「ほうろう」 (1975年), 「モーニング」 (1977年), 「夢を聞かせて (シングル)」(2001年), 「People」(2001年)
* 小坂忠とフォージョーハーフ「もっともっと」 (1972年)
* [[後藤次利]]「ON BASS」 (1978年), 「Mr.Bassman」 (1985年)
* [[ザ・ヴィーナス|コニー]]「GROOVIN' GROOVIN'」 (1992年)
* [[小林麻美]]「CRYPTOGRAPH」 (1984年)
* [[小林啓子]]「かなしみごっこ」 (1972年)
* [[小林健]]「WARM BREEZE (シングル)」 (1988年)
* [[小林倫博]]「第一印象」 (1977年)
* [[古谷野とも子]]「NEUTRAL TINTS」 (1987年)
=== さ行 ===
* サーカス「New Horizon」 (1979年)
* [[サイクルズ]]「それから」 (シングル、2002年)
* [[西郷輝彦]]「ロード・ショウ」 (1980年)
* [[財津和夫]]「City Swimmer」 (1987年)
* [[酒井俊]]「MY IMAGINATION」 (1979年)
* [[酒井美紀]]「雪解け」 (1994年)
* [[坂口良子]]「果実酒」 (1979年)
* [[坂本龍一]]&カクトウギセッション「SUMMER NERVES」 (1979年)
* [[さくらさくら]]「SWEET EMOTION」 (1990年), 「春だからSweet Heart (シングル)」 (1992年)
* [[佐々木好]]「心のうちがわかればいいのに」 (1982年), 「にんじん」 (1983年), 「暖暖(だんだん)」 (1985年), 「ストレート (シングル)」 (1983年) 「表情音痴 (シングル)」 (1985年)
* [[佐々木幸男]]「Tの青春」 (1981年), 「YES!」 (1982年)
* [[佐藤準]]「彩-AYA」 (1993年)
* [[佐藤隆 (シンガーソングライター)|佐藤隆]]「北京で朝食を (シングル)」 (1980年), 「I've been walking」 (1980年), 「URBAN "AU-RI"」 (1980年), 「コスモポリタン (シングル)」 (1981年)
* [[佐藤友美]]「セ・ラ・ヴィ」 (1988年)
* [[佐藤博 (ミュージシャン)|佐藤博]]「This Boy」 (1985年), 「Touch the Heart」 (1989年), 「Self Jam」 (1991年), 「All of Me」 (1995年), 「Oracle」 (1996年)
* [[佐野史郎]]とライスカレー「佐野史郎とライスカレー」 (2001年)
*佐野史郎 meets SKYE with 松任谷正隆「禁断の果実」(SKYEとして)(2019年)
* [[沢チエ]]「23」 (1974年)
* [[沢田研二]]「いくつかの場面」 (1975年), 「TOKIO」 (1979年)
* [[C-POINT]]「HIGH-TUNE」 (1983年)
* [[シグナル (フォークグループ)|シグナル]]「トリプル・マインド」 (1979年)
* [[柴田恭兵]]「SHOUT」 (1987年)
* [[渋谷祐子]]「POPLADY II」 (1979年)
* [[下田逸郎]]「NIGHT PARTNER」 (1981年)
* [[ジャッキー・チェン]]「LOVE ME」 (1984年)
* [[Sho∞]]「Life Goes On (シングル)」 (2002年)
* [[庄野真代]]「私旋律-バラード-」 (1979年), 「メイドイントーキョー」 (1983年), 「紅Hotel」 (1984年)
* [[白石まるみ]]「風のスクリーン」 (1982年)
* [[四禮正明]]「踊らない女」 (1983年)
* シローと[[ブレッド&バター]]「Moonlight」 (1972年)
* [[陣内大蔵]]「Big Deal」 (1991年)
* [[菅原進]]「都会はストレンジャー (シングル)」 (1978年), 「NIGHT SMILE」 (1978年), 「愛の風景」 (1981年), 「悲しみのむこうに (シングル)」
* [[杉真理]]「SONG WRITER」 (1980年), 「Overlap」 (1982年), 「STARGAZER 2」 (1983年), 「MISTONE」 (1984年), 「SYMPHONY #10」 (1985年), 「SABRINA」 (1986年), 「Have a hotday!」 (1987年), 「Ladies & Gentlemen」 (1989年), 「Wonderful Life」 (1990年), Made in Heaven」 (1991年), 「World of love」 (1992年), 「FLOWERS」 (1993年), 「Best of my Love (シングル)」 (1992年), 「Love is Magic (シングル)」 (1993年)
* [[杉田二郎]]「虹のメッセージ」 (1982年)
* [[杉田優子]]「モンスーン・ベイビー (1977年), 「アメリカン・コミックス」 (1979年)
* [[杉山清貴]]「Kona Weather」 (1987年)
* [[すずき一平]]「IPPEI II」 (1981年)
* [[STAGE 101/ヤング101]]「ぼくら青春の日々」 (1973年)
* [[須藤薫]]「Paradise Tour」 (1981年), 「Amazing Toys」 (1982年)
* [[SMOOTH ACE]]「Smooth Music at Cafe」(2001年)
* [[Three's Co.]]「Inner World」 (2000年)
* [[スリー・ディグリーズ]]「スリー・ディグリーズ& MSFBショー」 (1974年)
* [[清野由美 (歌手)|清野由美]]「U・TA・GE」 (1981年)
* [[小池ヒロミチ|ZERO]]「ARE YOU READY」 (1979年)
=== た行 ===
* [[高田渡]]「ごあいさつ」 (1971年)
* [[高梨めぐみ]]「Miss Tearful」 (1980年), 「Bye-byeエンジェル (シングル)」 (1980年)
* [[髙橋真梨子]]「ひとりあるき」 (1979年), 「MONOLOGUE」 (1980年)
* [[高橋幸宏]]「Fate of Gold」 (1995年)
* [[高見恭子]]「わたし√美人〜暗くなるまで待てないわ」 (1983年)
* [[高見知佳]]「蜜の味」 (1980年)
* [[ダ・カーポ (歌手グループ)|ダ・カーポ]]「HARMONIE(アル・モ・ニー)」 (1991年)
* [[多岐川裕美]]「小夜」 (1979年), 「夢見心地」 (1982年)
* [[滝沢洋一]]「レオニズの彼方に」 (1978年)
* [[竹内まりや]]『[[BEGINNING (竹内まりやのアルバム)|BEGINNING]]』(1980年), 『[[Miss M]]』(1980年)
* [[榊いずみ|橘いずみ]]「君なら大丈夫だよ」 (1992年)
* [[田辺守]]「夢の名残り」 (1994年), 「目覚めたまま眠る生活」(1995年), 「トライアングル・ブルー (シングル)」 (1995年)
* [[谷山浩子]]「歪んだ王国」 (1992年)
* [[種市弦]]「両想いのススメ」 (1995年)
* [[玉置浩二]]「LOVE SONG BLUE」 (1994年), 「T」 (1995年), 「CAFE JAPAN」 (1996年)
* [[チカ&ザ・ファイターズ]]「ディスコ翔べ!スワローズ (シングル)」 (1979年)
* [[Chappie]]「水中メガネ」 (シングル、1999年), 「NEW CHAPPIE」 (1999年)
* [[坪倉唯子]]「Loving You」 (1990年)
* [[Daily-Echo]]「素晴らしき青の世界」 (1998年)
* [[寺岡呼人]]『waiting for the sun』 (1994年), 『[[GOLDEN CIRCLE (寺岡呼人のアルバム)|GOLDEN CIRCLE]]』 (1995年), 「悲しいほど青く美しいこの世界で」 (1999年)
* [[堂島孝平]]「黄昏エスプレッソ」(2000年)
* [[時任三郎]]「遠くでBoogieが聴こえる」 (1981年)
* [[Dr.ドラゴン&オリエンタル・エクスプレス]]『[[The Birth of a Dragon]]』(1976年)
* [[徳永英明]]「Nostalgia」 (1993年)
* [[富沢聖子]]「メロディーパレット」 (1983年)
* [[豊広純子]]「Water Heart」 (1983年)
* [[とんぼ]]「冬超え間近 (シングル)」 (1978年)
=== な行 ===
* [[永井龍雲]]「カリフォルニア伝言 (シングル)」 (1981年), 「たそがれ (シングル)」 (1982年)
* [[中尾ミエ]]「夢に抱かれて (シングル)」 (1980年)
* [[永尾美代子]]「美代子・リバージュ」 (1981年)
* [[中島みゆき]]「親愛なる者へ」 (1979年), 「おかえりなさい」 (1979年), 「臨月」 (1981年), 「EAST ASIA」 (1992年), 「時代-Time goes around-」 (1993年), 「LOVE OR NOTHING」 (1994年)
* [[中谷美紀]]「CURE」 (1997年)
* [[中原めいこ]]「2時までのシンデレラ」 (1982年)
* [[中原理恵]]「Touch Me」 (1980年), 「Killing Me」 (1978年), 「Heart of Gold」 (1980年), 「抱きしめたい (シングル)」 (1980年)
* [[長渕剛]]「風は南から」 (1979年)
* [[中村一義]]「金字塔」 (1997年)
* [[西岡恭蔵]]「街行き村行き」」 (1974年), 「ろっかばいまいべいびい「Orange」 (1975年), 「NEW YORK TO JAMAICA」 (1981年)
* [[西島三重子]]「Bye-Bye」 (1980年), 「Lost Hour」 (1981年)
* [[西田ひかる]]「A FILE of LIFE」 (1995年), 「幸せのかたち」 (1998年)
* [[GARDEN (音楽ユニット)|NICO]]「TO YOU」 (1982年), 「VALERIA」 (1983年)
* [[根津甚八 (俳優)|根津甚八]]「ル・ピエロ」 (1979年)
* [[野口五郎]]「FIRST TAKE」 (1982年)
* [[ノブ・ケイン]]「NOBUCAINE」 (1989年)
* [[野村宏伸]]「I'm HIRONOBU」 (1985年)
=== は行 ===
* [[Hi-Fi Set]]「Fashionable Lover」 (1976年), 「Quarter Rest」 (1979年), 「PASADENA PARK」 (1984年), 「INDIGO」 (1985年)
* パオ「you」 (1980年)
* [[萩原慎太郎]]「WALK THE WALK」 (1996年)
* [[長谷川きよし]]「街角」 (1975年)
* [[パティ (歌手)|パティ]]「Far Away(この夢の果てまで)」 (1980年), 「Second Impression」 (1981年)
* [[羽野晶紀]]「楼蘭」 (1991年)
* [[濱田金吾]]「Gentle Travelin'」 (1981年), 「MUGSHOT」 (1983年)
* [[浜田省吾]]「SAND CASTLE」 (1983年)
* [[原茂 (フォークシンガー)|原茂]]「オレンジ色の朝」 (1977年)
* [[原田真二]]「Feel Happy」 (1978年)
* [[Harry&Mac]]「Road to Louisiana」 (1999年)
* [[バースデースーツ]]「R」 (1995年)
* [[平岩英子]]「ヌーディ・カメラ」(2000年)
* [[平尾昌晃]]・[[畑中葉子]]「ヨーロッパでさよなら (シングル)」 (1978年)
* [[広谷順子]]「その愛に」 (1979年)
* [[ふきのとう]]「風来坊」 (1977年)
* [[福島邦子]]「To 11」 (1980年), 「GRACE」 (1981年), 「ボサノバ (シングル)」 (1979年)
* [[福山雅治]]「Calling」 (1993年)
* [[藤井宏一]]「Your Song」 (1990年)
* [[藤本健一]]「アペリティフ」 (1987年)
* [[フジワラカヨコ]]「恋のヨカン」 (1997年)
* [[布施明]]「LANA」 (1979年)
* [[古内東子]]「Slow Down」 (1993年)
* [[古谷徹]]-Page 3-「サニー・サイド・ストリート」 (1982年)
* [[Bluem of Youth]]「Garden (シングル)」 (1998年)
* [[ブレッド&バター]]「BARBECUE」 (1974年), 「LATE LATE SUMMER」 (1979年), 「Sunday Afternoon」(1992年), 「HOT! CLOUD 9」(2001年)
* ベースボール・キング「ディスコ熱血!ジャイアンツ (シングル)」 (1979年)
* [[細野晴臣]]「HOSONO HOUSE」 (1973年), 「TROPICAL DANDY」 (1975年), 「泰安洋行」 (1976年), 「PARAISO」 (1978年)
* [[堀ちえみ]]「少女」 (1982年), 「夢日記」 (1982年), 「[[Lonely Universe]]」 (1985年), 「[[スカーレット白書]]」 (1987年), 「真夏の少女 (シングル)」 (1982年), 「[[Deadend Street GIRL]] (シングル)」 (1985年), 「[[青春の忘れ物]] (シングル)」 (1985年)
* [[堀川まゆみ]]「楡(エルム通りの少女」(1978年)
=== ま行 ===
* [[前川清]]「Kiyoshi」 (1982年), 「わがまま」 (シングル、1983年)
* [[前田保]]「二日酔いのゴリラ」 (1977年)
* [[前田憲男]]「SOUL SAMBA」 (1977年)
* [[真心ブラザーズ]]「この愛は始まってもいない」 (シングル、2001年)
* [[松尾久美子]]「メモワール」 (1983年)
* [[松田聖子]]「Silhouette」 (1981年), 「風立ちぬ」 (1981年), 「Windy Shadow」 (1984年)
* [[松田弘]]& QUIET LOVE NOTES「FUTAR」 (2002年)
* [[松田優作]]「TOUCH」 (1980年)
* [[松田良]]「フェイスタ」 (1985年)
* [[松任谷正隆]]「夜の旅人」 (1977年)
* [[松任谷由実]]「紅雀(べにすずめ)」 (1978年), 「流線形'80」 (1978年), 「悲しいほどお天気」 (1979年), 「時のないホテル」 (1980年), 「水の中のASIAへ」 (1981年), 「昨晩お会いしましょう」 (1981年), 「PEARL PIERCE」 (1982年), 「REINCARNATION」 (1983年), 「VOYAGER」 (1983年), 「The Gates of Heaven」 (1991年), 「U-miz」 (1993年), 「The Dancing Sun」 (1994年), 「Neue Musik」 (2枚組ベストアルバム、1998年), 「真夏の夜の夢 (シングル)」 (1993年)
* [[松永夏代子]]「浮気なSACHIOに首ったけ (シングル)」 (1986年)
* [[松野こうき]]「アナザー・サイド」 (1980年)
* [[松原みき]]「Who are you?」 (1980年)
* [[松村とおる]]「Bottle of Rock'n Roll」 (1980年)
* [[円広志]]「マイシスター (シングル)」 (1982年)
* [[MANNA]]「MANNA」(1980年)
* [[美川憲一]]「GOLDEN PARADISE」 (1991年), 「花 (シングル)」 (1991年), 「さそり座の女Part I (シングル)」 (1991年), 「おんなの朝 (シングル)」 (1991年)
* 美川憲一&イルカ「地上の愛 (シングル)」 (1999年)
* [[水越けいこ]]「LOVE TIME」 (1980年), 「VIBRATION」 (1982年), 「TEN」(1984年)
* [[水谷豊]]「青春番外地」 (1978年), 「WAY」 (1980年), 「普通のラブ・ソング」 (1982年), 「The Yutaka Mizutani (ベストアルバム)」 (1986年)
* [[光城ちか]]「キスミーダーリン」 (シングル、1981年)
* [[南こうせつ]]「かえり道」 (1975年), 「僕は緑の風」 (1986年)
* [[南沙織]]「シンシア・イン・コンサート」 (1974年), 「夏の感情」 (1974年)
* [[南翔子]]「魔法のジェラシー (シングル)」 (1987年)
* [[南正人]]「南正人」 (1973年)
* [[南佳孝]]「摩天楼のヒロイン」 (1973年), 「忘れられた夏」 (1976年), 「SOUTH OF BORDER」 (1978年), 「SPEAK LOW」 (1979年), 「MONTAGE 10」 (1980年), 「SILKSCREEN」 (1981年), 「DAYDREAM」 (1983年), 「Festade Verao」 (1996年), 「Sketch of Life」 (1997年), 「PURPLE IN PINK」 (1999年)
* [[峰さを理]]「CARMILLA」 (1989年), 「愛しのGANGAN」 (1990年)
* [[宮崎美子]]「メロウ」 (1981年)
* [[宮部ひかり]]「MIXUP」 (1993年)
* [[宮本典子]]「SHOCK」 (1982年)
* [[miyuki]]「ぜんぶ言ってしまおう」 (1994年)
* myu:(ミュー)「The World is All Changing (シングル)」 (2002年)
* [[村井麻里子]]「Magenta」 (1993年)
* [[村田和人]]「また明日」 (1982年)
* [[桃姫BAND]]「初陣-UIJIN-」」 (1992年), 「神様お願い (シングル)」 (1993年)
* [[森下恵理]]「ボーイ・フレンド」 (1985年)
* [[森山良子]]「旅立ち〜RYOKONOW」(1975年), 「日付のないカレンダー」 (1976年)
=== や行 ===
* [[八神純子]]「Mr.メトロポリス」 (1980年), 「Lonely Girl」 (1983年)
* [[泰葉]]「vivid」 (1982年), 「RESERVED」 (1983年)
* [[矢野顕子]]「いろはにこんぺいとう」 (1977年), 「ひとつだけ (ベストアルバム)」 (1996年)
* [[矢野誠]]「百和香」 (1994年)
* [[矢原いずみ]]「月の砂」 (1999年)
* [[やまがたすみこ]]「FLYING」「Blow Up」 (1978年)
* [[山口百恵]]「春告鳥(はるつげどり)」 (1980年)
* [[山下久美子]]「バスルームから愛をこめて」 (1980年), 「Dancin 'Kitchen」 (1980年)
* [[山瀬まみ]]「RIBBON」 (1986年), 「リセ」 (1986年), 「プライベートエディション」 (1987年), 「Strange Pink (シングル)」 (1987年)
* [[山田晃士]]「舞踏会」 (1994年)
* [[山田雅人]]「あかん時ほど・・・」 (1991年)
* [[山中のりまさ]]「メリーゴーランド」 (1981年)
* [[山本コータローとウィークエンド]]「ウィークエンド・セカンド」 (1975年)
* [[山本達彦]]「I LOVE YOU SO」 (1982年), 「MARTINI HOUR」 (1983年)
* [[YOU (タレント)|YOU]]「南向き」 (1994年)
* [[裕木奈江]]「旬」 (1993年), 「evergreen (ベストアルバム)」 (1994年), 「水の精」 (1994年)
* [[裕詩郎]]「別れ歌を背中に (シングル)」 (1994年)
* [[雪村いづみ]]「スーパー・ジェネレーション」 (1974年), 「カモン・バック」 (1990年)
* [[ゆず (音楽グループ)|ゆず]]「[[ゆず一家]]」 (1998年), 「[[桜木町/シュミのハバ/夢の地図|桜木町(シングル)]]」 (2004年)
* [[ユミ飛鳥]]「Merry*Go*Round」 (1983年)
* [[横山知枝]]「For You (シングル)」 (1991年)
* [[吉川忠英]]「こころ」 (1974年)
* [[吉田拓郎]]「大いなる人」 (1977年), 「Rolling 30」 (1978年), 「Takuro Tour 79 (2枚組+Sg)」 (1979年), 「TOUR 1979 Vol. 2落陽」 (1979年), 「無人島で…。」 (1981年), 「'85 One Last Night inつま恋」 (1985年), 「ひまわり」 (1989年), 「176.5」 (1990年), 「こんにちは」 (2001年)
* [[吉田美奈子]]「扉の冬」 (1973年), 「MINAKO」(RCA, 1975年), 「FLAPPER」(RCA, 1976年)
=== ら行 ===
* [[RAJIE]]「[[HEART to HEART]]」 (1977年), 「LOVE HEART」 (1978年), 「Acoustic Moon」 (1980年)
* [[流星]]「夢の飛行船」 (1983年)
* [[りりィ]]「LYLYCISM」(1977年), 「MAGENTA「Express」
* [[Linda]]「My Heaven」 (シングル, 2000年)
* [[Le Couple]] 「ル・クプル」(1997年)
* [[麗美]]「R」(1984年)
* [[ローカル・バス]]「桜見丘 (シングル)」 (2004年) 「エイト・トゥリーズ・マウンテン」 (2003年), 「桜見丘 (シングル)」(2004年)
* [[ROMY]]「KI・A・I」 (1985年)
* [[ロニー・バロン]]「THE SMILE OF LIFE」(1978年)
=== わ行 ===
* [[渡辺徹 (俳優)|渡辺徹]]「TW」(ベストアルバム、1984年)
* [[渡辺真知子]]「B♭m」 (1984年)
* [[渡辺満里奈]]「Ring-a-Bell」 (1996年), 「うれしい予感 (シングル)」 (1995年)
* [[waffles]]「one」 (2002年), 「boat」 (シングル、2002年)
== 主な参加サウンドトラック ==
* [[井上鑑]]「SF新世紀レンズマン(サントラ)」(1984年)
* [[高浪敬太郎]]サウンドプロデュース「おいしい関係」(1996年)
* 土曜ナナハン「学園危機一髪」(1980年)
* 微熱少年MOVIESONGS「微熱少年MOVIESONGS」(1987年)
== 主な作曲作品 ==
* [[五十嵐浩晃]]「序曲 (出逢い)」(1981年)
* [[井上純一 (俳優)|井上純一]]「アトランチス」「月灯りの中で」(1981年)
* [[岩崎良美]]「唇にメモワール」(1981年)
* [[梅田恵子]]「白夜の時代」(1979年)
* [[小田陽子]]「麗し色の密林(ジャングル)」「サンセット・ロンリー・ガール」「嘘はダイヤモンド」「Good Morning」「泉に誘って」「電話しないで」「水の都」「コルトレーンで愛して」(1988年)
* [[太田貴子]]「HAVE A GOOD TIME」(1987年)
* [[金井夕子]]「Soir,au Revoir」「冬の銀河」(1979年)
* [[佐藤友美]]「スカンジナビア・ホテル」「ボン・ヴォヤージュ〜愛する事の素敵〜」「離愁 (Dedicated to Trintignant)」(1990年)
* Various Artist「青春に負けないで」(1990年)
* [[多岐川裕美]]「恋の呪文」(1979年)
* [[チカ&ザ・ファイターズ]]「ディスコ 翔べ!スワローズ」(1979年)
* [[布施明]]「305の招待席」「マーマレイドの朝」(1979年)
* [[木の実ナナ]]「ベースボール・フリーク」(1980年)
* [[中原理恵]]「ダイアン・キートン」「モノクローム」(1980年)
* [[パティ (歌手)|パティ]]「ニューオリンズの旅人 / A TRAVELLER IN NEW ORLEANS」「パリの恋人たち / LOVERS IN PARIS」(1980年)
* [[松田優作]]「ミッドナイト」(1980年)
* [[松原みき]]「Howa Howa Shuwa Shuwa -宇宙ネコの舌ざわり-」(1980年)
* [[松村とおる]]「外来者(よそもの)」「イ・ナ・オ・リ」(1980年)
* [[MANNA]]「Merry Party」(1980年)
* [[山口百恵]]「春爛漫」「抱きしめられて」(1980年)
* [[山下久美子]]「Follow you」「Love me,love my body」(1980年)
* [[野口五郎]]「KETCHUP AND MUSTARD」(1981年)
* [[松田聖子]]「黄昏はオレンジライム」(1981年)
* [[五十嵐浩晃]]「言葉はいらない」「序曲(面影)」(1982年)
* [[堀ちえみ]]「真夏の少女」(1982年)
* [[前川清]]「ファニー」(1982年)
* [[裕木奈江]]「恋人達の水平線」(1984年)
* [[堀ちえみ]]「白夜のDance」(1985年)
* [[野村宏伸]]「Don't Change」(1985年)
* [[YOU (タレント)|YOU]]「水無月の宵」(1986年)
* [[やまがたすみこ]]「フライング」「ペパーミント・モーニング」「黄昏遊泳」「グッドバイ・グラフィティ」「ムーンライト・ジルバ」(1977年)
* [[古谷野とも子]]「振りむいて夏の空」(1978年)
* [[中原理恵]]「エトセトラ」「夏を選んで」「笑いまじり」「一日遅れのさよなら」(1978年)
* [[裕詩郎]]「別れ歌を背中に」「琥珀色の雨」(1990年)
* [[南佳孝]]「天使の日」(1997年)
* [[Sho∞]]「Life Goes On」(2002年)
== 主な編曲作品 ==
=== あ行 ===
* [[IX・IX(アイクス・アイクス)]] - 「laughter in the sun(1989年)「my way my love(1989年)
* [[杏里]] - 「コルトバの踊り子」(1979年)「九月の砂」(1979年)「ブルー・ムーン」(1979年)「スリップアウェイ」(1979年)「マホガニータウン」(1979年)「[[地中海ドリーム]]」(1979年)「モーニング・フライト」(1979年)「悲しみは窓の向こう」(1979年)「ときめき」(1979年)「めぐりくる季節のように」(1979年)「[[涙を海に返したい]]」(1979年)「海辺から」(1979年)「MYSTERY ZONE」(1986年)
* [[アン・ルイス]] - 「アイム・ア・ロンリー・レディ」(1979年)「ラブ・ミー・トゥナイト」(1979年)
* [[五十嵐浩晃]] - 「今日かぎり」(1980年)「夢泥棒」(1980年)「ディープ・パープル」(1980年)「愛は風まかせ」(1980年)「バイ・バイ」(1980年)「ミルク・レディ」(1980年)「デ・ジャ・ブー(DeJaVu)」(1980年)「冬子の朝」(1980年)「だきしめたい」(1980年)「今はひとりで」(1980年)「ペガサスの朝」(1980年)「フォギー・ナイト」(1980年)「小さな明日」(1980年)」(1981年)「雪が降る前に」(1980年)「ナチュラル・ロード」(1980年)「ブリージー・ナイト」(1980年)「流星群」(1980年)「イノセント」(1980年)「いつまでも」(1980年)「幸せいろのなみだ」(1980年)「想い出のサマー・ソング」(1981年)「星に願いを」(1981年)「インディアン・サマー」(1981年)「朝のシルエットSAILING DREAM」」(1981年)「ひと夏のマリエ」(1981年)「序曲 〔出逢い〕 (Instrumental)SAILING DREAM」」(1981年)「ララバイ・グッバイ」(1981年)「家路」(1981年)「初恋の街」(1981年)「心こめた愛の調べ」(1981年)「ハートに火をつけて」(1982年)「Because」(1982年)「きっとValley」(1982年)「お嬢さんお手やわらかに」(1982年)「レイニ・ハーモニー」(1982年)「言葉はいらない」(1982年)「つばさ」(1982年)「粉雪の降る街」(1982年)「序曲 〔面影〕 (Instrumental)」(1982年)「踊り明かせば」(1982年)「めぐり逢い」(1982年)「あの朝」(1983年)「グッバイ・メモリー」(1983年)「サマー・トワイライト」(1988年)「DISTANCE」(1988年)「再会」(1988年)「10年後」(1988年)「愛する人と」(1988年)「二人だけのX'mas」(1988年)「ギブロスの砂」(1989年)「想い出のサーファーガール」(1989年)「グラデーション」(1989年)「パスポートを失くした街」(1989年)「ずっと会えなくて」(1989年)「サマー・トワイライト」(1989年)
* [[石川秀美]] - 「ガラスのブローチ」(1982年)「ゆ・れ・て湘南(アルバム「妖精」バージョン)」(1982年)「君は渚のオープンカー」(1985年)「恋はエゴイスト」(1985年)
* [[石川優子]] - 「心算(つもり)」(1981年)「熱い予感」(1981年)「ひみつ」(1981年)「Lonely Night Blues」(1981年)「お気に召すままハイウェイ」(1981年)「わかれ芝居」(1981年)「噂のLady」(1981年)「Once More」(1981年)
* [[石坂智子]] - 「流れ雲」(1981年)「にがい方が好き」(1981年)
* [[石野真子]] - 「狼なんか怖くない」(1978年)「ぽろぽろと」(1978年)
* [[石橋和子]] - 「イーヨー」(1981年)「サーフボード」(1981年)「サブウェイ・スクリーン」(1981年)「恋の忘れもの」(1981年)「涼しすぎた夏」(1981年)「Happiest」(1981年)「ラスト・ワルツ」(1981年)「恋してジャンプ」(1982年)「冬にさよなら」(1982年)「フレンチ・バイ・バイ」(1982年)
* [[市原ひかり]] - 「急な雨、急な晴れ一番の幸せ」(2005年)「一番の幸せ一番の幸せ」(2005年)「星空の旅一番の幸せ」(2005年)「運命に背く者一番の幸せ」(2005年)「宇宙を歩く人一番の幸せ」(2005年)「The Ghetto」(2005年)
* [[伊東ゆかり]] - 「テンダー・レイン」(1978年)「うしろすがた」(1978年)「あなたしか見えない」(1979年)「エンドレス」(1980年)
* [[井上陽水]] - 「クレイジーラブ」(1980年)「世間人でGOEVERY NIGHT」」(1980年)「I yai yaiEVERY NIGHT」(1980年)「プールに泳ぐサーモンEVERY NIGHT」(1980年)「星空へHappy Gameあやしい夜をまって」」(1981年)「恋は自分勝手に」(1988年)
* [[イルカ (歌手)|イルカ]] - 「十九の春に」(1980年)「枯葉のシーズン」(1981年)「不思議が眠る君」(1981年)「うつろな二人」(1981年)「孤独なダンス」(1981年)「悲しみのジャンクション<」(1981年)「蒼い狼」(1981年)「すべてがラヴ・ソング」(1981年)「月光」(1981年)「僕のLonely Girl」(1981年)「雨の日の動物園」(1981年)「あなたへの手紙」(1981年)「愛の飛行士」(1982年)「蒼ざめた空白」(1982年)「吟遊詩人 (マイスター・ジンガー)」(1982年)「横浜スタジアム」(1982年)「かわいい君に」(1982年)「うかれ猫」(1982年)「僕のラストソング」(1982年)「グッドオールデイズ」(1982年)「たそがれホテル ヘミングウェイ夫人の面影によせて」(1982年)「渚にて」(1982年)「恋はカラフル」(1982年)」(1983年)「すてきなScience」(1983年)「序章(飛花落葉)」(1986年)「17ページのエッセイ」(1986年)「Triste」(1986年)「野良犬」(1986年)「サラダ日和」(1986年)「Triste」(1986年)「いつだって愛してる」(1989年)「遠い人になっても」(1989年)「眠らなくても会いたくて」(1989年)「ホクロの月夜に」(1989年)「けさらんぱさらん」(1989年)「ペイズリィ・ドリーム」(1989年)「ひとりごと」(1989年)「花一輪」(1998年)「天使からの伝言」(1998年)「心は深い海の底」(1998年)「星の長距離電話」(1998年)
* [[イルカ with リッキー]] - 「雨上がりの夏」(1987年)「いつまでもNice Friend」(1987年)
* [[岩崎宏美]] - 「I LIKE SEIJO」(1982年)「ときめき」(1982年)
* [[岩崎良美]] - 「Baby Love」(1981年)「[[ごめんねDariling]]」(1981年)「ふれて風のように」(1981年)「Hurry Up!」(1981年)「唇にメモワール」(1981年)「化粧なんて似合わない」(1982年)
* [[岩瀬敬吾]] - 「どういうわけか」(2002年)「tururu」(2002年)
* [[岩渕まこと]] - 「風が吹いたら」(1977年)「ムーンライト・フライト」(1977年)「ウィスキー・ドライブ」(1977年)「ハニー・オレンジ」(1977年)
* [[宇佐元恭一]] - 「ブルーの香り」(1985年)
* [[梅田恵子]] - 「白夜の時代」(1979年)「白い朝」(1979年)
* [[宇都美慶子]] - 「抱きしめて?シュールな恋?」(1991年)「春の花束(ブーケ)」(1991年)「オーロラの見える時 ?One Side Love?」(1991年)「Preference」(1991年)「風が通り過ぎた午後」(1991年)「f'emale」(1991年)「さよならは云わないで」(1991年)「シンデレラ・エクスプレスは今夜も眠らない」(1991年)「特別な夜に」(1991年)「ベイ・ブリッジも泣いている」(1991年)「大切なあなたへ?Last Song?」(1991年)
* [[Wink]] - 「アマリリス」(1982年)
* [[遠藤京子]] - 「Smile Again」(1981年)「ア・リ・ス」(1981年)「Love Song」(1981年)「輝きたいの」(1984年)「銀色の夏」(1984年)
* [[大久保一久]] - 「雨」(1979年)「海鳴り」(1979年)
* [[太田貴子]] - 「HAVE A GOOD TIME」(1987年)「リフレイン」(1987年)
* [[太田裕美]] - 「失恋魔術師」(1978年)「花吹雪」(1978年)「鍵」(1978年)「朝、春になれ」(1978年)「ONE MORE CHANCE」(1978年)
* [[大滝裕子]] - 「ノーサンキューブレックファースト、ママ」(1980年)「黄色いかぶと虫」(1980年)
* [[大橋恵里子 (ELLE)]] - 「夢で逢えたら」(1982年)「Black Rain」(1982年)
* [[尾崎亜美]] - 「キラメキFeeling」(1979年)
* [[小田陽子]] - 「麗し色の密林(ジャングル)」(1988年)「サンセット・ロンリー・ガール」(1988年)「嘘はダイヤモンド」(1988年)「
=== か行 ===
* [[甲斐智枝美]] - 「誘ってルンナ(月影ナポリ)」(1982年)「射手座の彼」(1982年)
* [[門あさ美]] - 「Keep on Loving」(1979年)「Darling」(1979年)「Fancy Evening」(1979年)「予期せぬ出来事」(1980年)「ハート半分」(1980年)「Do Do」(1980年)
* [[金井夕子]] - 「マヤマヤ ビーチ」(1979年)「Soir,au Revoir」(1979年)「パ・ル・ラ」(1979年)「冬の銀河」(1979年)「可愛い女と呼ばないで」(1981年)「失恋ストーリー」(1981年)「銀幕の恋人」(1981年)
* [[川口雅代]] - 「Miss Call」(1981年)「Fall in Love」(1981年)「ショーウインドゥー」(1981年)「夏少女」(1981年)「最新情報」(1981年)「ラストワルツ」(1981年)
* [[来生たかお]] - 「ふたり」(1978年)「ひとくち助言」(1978年)「暗闇にさよなら」(1979年)「ダンス・パーティーの夜」(1979年)
* [[北原佐和子]] - 「Lovely Loveはレモン色」(1982年)「Love Love キャッチボール」(1982年)
* [[木の実ナナ]] - 「SOUL SHADOW」(1980年)「オープン・チケット」(1980年)「ベースボール・フリーク」(1980年)「LONELY NIGHT WITH LITTLE BABY」(1980年)「赤い靴」(1980年)
* [[木村恵子]] - 「Good Morning」(1988年)「泉に誘って」(1988年)「電話しないで」(1988年)「シンジラレネーション」(1988年)「水の都」(1988年)「コルトレーンで愛して」(1988年)「Do you remember me」(1988年)「GoodBye EggmanSTyLE」」(1988年)「シャレード'88」(1988年)「精神的MM」」(1990年)「想い出にかわるまでM」」(1990年)「悲しみが気持ちいいM」」(1990年)「Cassys (キャッシーズ)」「Crying time」(1987年)「Runaway girl」(1987年)「クリスチーヌ・ラングナー」Non Stop Flight To You ?あなたへの直行便」(1979年)
* [[桑江知子]] - 「ダンシング・イン・ザ・ワンダーランド」(1979年)「エモーション ラブ」(1979年)「恋人の領分」(1979年)「レイマグラス」(1979年)
* [[桑名正博]] - 「サード・レディー」(1978年)「テキーラ・ムーン」(1978年)「薔薇と海賊」(1978年)「キャディラック」(1978年)「毛皮のヴィーナス」(1978年)「満潮(みちしお)」(1978年)「The Super Star」(1979年)「
* [[ケン田村]] - 「LONG DISTANCE CALL」(1982年)「Little Bit Easier」(1982年)「踊りなよDance with Me」(1982年)「冷たい夏」(1982年)
* [[小坂明子]] - 「Boaster」(1986年)「Emotional Love」(1986年)「
* [[小林健]] - 「WARM BREEZE(抱きしめて!今を)」(1988年)
* [[小林千絵]] - 「気まぐれマイ・ラヴ」(1986年)
* [[古谷野とも子]] - 「幸せもどき」(1978年)「JUNCTION(ジャンクション)」(1978年)「もう一度乾杯」(1978年)「浪打際で」(1978年)「振りむいて夏の空」(1978年)「クリスタル・アヴェニュー」(1978年)「PARODY(パロディ)」(1978年)「弱気な日めくり」(1978年)「陽だまりゲーム」(1978年)「寄りそい慣れた腕の中で」(1978年)「光りのソファーで」(1978年)
=== さ行 ===
* サーカス - 「想い出のサーフ・シティー」(1979年)「六月の花嫁」(1979年)
* [[サイクルズ]] - 「それから」(2002年)
* [[西郷輝彦]] - 「試練」(1978年)「今うたうとき」(1980年)「ロード・ショウ」(1980年)「ラスト・シーン」(1980年)「夕陽より遠く」(1980年)「Believe me」(1980年)「Silver sun」(1980年)
* [[西城秀樹]] - 「スポーツ・ガール」(1981年)「ロンサム・シティー」(1981年)
* [[さくらさくら]] - 「DREAMINGROAD」(1992年)「TAKE YOUR CHANCE」(1992年)「恋に誘うわ」(1992年)「涙の日曜日」(1992年)「春だからSWEET HEART」(1992年)「秘密のふたり」(1992年)「ロールキャベツ」(1992年)
* [[桜田淳子]] - 「Lady」(1979年)「あなたは魔術師 (You're a magician)」(1979年)
* [[佐々木好]] - 「ドライヴ」(1982年)「春」(1982年)「君と」(1982年)「飲もうよ」(1982年)「意図」(1982年)「今日はどんな日でしたか」(1982年)「#4006」(1982年)「心のうちがわかればいいのに」(1982年)「ちょっと2股」(1982年)「万感」(1982年)「ストレート」(1983年)「21才」(1983年)「以前」(1983年)「デッキシューズ」(1985年)「ワインカラー」(1985年)「案山子(かかし)」(1985年)「ヤッシー」(1985年)「あんた」(1985年)「表情音痴」(1985年)「伊津子」(1985年)「笑う人」(1985年)「雨雪風」(1985年)「深く遠く続くよう」(1985年)
* [[佐藤隆 (シンガーソングライター)|佐藤隆]] - 「アジャンタ」(1980年)「Spy」(1980年)「Mr.ロンリー」(1980年)「メ・ソ・ポ・タ・ミ・ア」(1980年)「G線のリンダ」(1980年)「メトロポリス」(1980年)「Any Day」(1980年)「北京で朝食を」(1980年)「赤い靴は嘘つき」(1980年)「8ビート・ドリーム」(1980年)「CINERAMA CITY (シネラマ・シティ)」(1980年)「Bad Society (バッド・ソサエティー)」(1980年)「CABARET」(1980年)「After 5 Woman」(1980年)「Goodbye (さよならと言ってくれ)」(1980年)「A man likes Mr. Woody (ウッディ俺も男だ)」(1980年)「Hardboiled Night (ハードボイルド・ナイト)」(1980年)「Again (涙だけアゲイン)」(1980年)「Secret Agent (探偵〔スルース〕)」(1980年)「Morn'」(1980年)
* [[佐藤友美]] - 「スカンジナビア・ホテル」(1988年)「ボン・ヴォヤジュ?愛することの素敵?」(1988年)「離愁(Dedicated to Trintignant)」(1988年)
* [[シグナル (フォークグループ)|シグナル]] - 「カリフォルニア・マインド」(1979年)「夢から醒めて」(1979年)
* [[Sho∞]] - 「Life Goes On」(2002年)「ナミダノイミ」(2002年)
* [[庄野真代]] - 「Dear Friend【アデュー】 c/w」(1979年)「Girl私旋律バラード」(1979年)「ジェントル・グッバイ私旋律バラード」(1979年)「私生活私旋律バラード」」(1979年)「12・23私旋律バラード」(1979年)
* [[菅原進]] - 「都会(まち)はストレンジャー」(1978年)「SHE IS THE LADY BLUE」(1978年)「悲しみの墜落」(1978年)「シナリオ」(1978年)「お前の中の少女」(1978年)「SEESAW GAME」(1978年)「愛は風の環(リング)」(1978年)「ADVENTURE ISLAND」(1978年)「SMILE LADY」(1978年)「OLD FASHIONED LOVE SONG」(1978年)「悲しみのむこうに」(1980年)「かげりゆく夏に」(1980年)「夜のハイウェイ・バス」(1981年)「愛に同じ」(1981年)「今はララバイ」(1981年)「冬の鳥達」(1981年)「ダンスは恋のエッセンス」(1981年)「タイプライター・ブルー」(1981年)「ラッシュアワー」(1981年)「Singin' a song with me」(1981年)
* [[杉田二郎]] - 「寒い時代」(1982年)「いつわりの黒い瞳」(1982年)
* [[杉田優子]] - 「演奏旅行」(1978年)「キラキラ<」(1978年)「終電車」(1978年)「秋から冬へ」(1978年)「あてのない一日」(1978年)「旋律」(1978年)「カリフォルニアの空」(1978年)「モンスーン・ベイビー」(1978年)「YOUのテーマ」(1978年)「パステル・ラブ」(1978年)「ハイウェイ101」(1979年)「サーフィン娘」(1979年)「テレフォン・ラブ・ボックス」(1979年)「タイム・アラウンド」(1979年)「風見鶏」(1979年)「魔力」(1979年)「恋のタップダンス」(1979年)「マイ・スイート・スマイル・ボーイ」(1979年)「ハイヤイヤ」(1979年)「フルムーン・ナイト」(1979年)
* [[杉山清貴]] - 「サンセット・ラブソング」(1987年)「I'LL BE THERE」(1987年)
* [[すずき一平]] - 「羅針盤」(1981年)「玄鳥(つばくらめ)」(1981年)
* [[関口誠人]] - 「夢見るナタリー」(1987年)
=== た行 ===
* [[高梨めぐみ]] - 「哀愁BOY」(1980年)「四人目の恋人へ」(1980年)「雨降りマイハート」(1980年)「Byebye Mr.エンジェル」(1980年)「SLOW MOTION」(1980年)
* [[髙橋真梨子]] - 「マイ・ドリーム」(1979年)「おいでサマー・ホリディ」(1979年)「デイブレイク」(1980年)「ランブル」(1980年)
* [[多岐川裕美]] - 「恋の呪文」(1979年)「太陽のミストレス」(1982年)「絹色の夢」(1982年)
* [[竹内まりや]] - 「おかしな二人」(1980年)「
* [[田中律子]] - 「ネ!」(1988年)「明日へのスラローム」(1988年)
* [[チカ&ザ・ファイターズ]] - 「ディスコ 翔べ!スワローズ」(1979年)
* [[Do!]] - 「オレとおまえ」(1980年)「愛に振り向くな」(1980年)
* [[DUO]] - 「亜麻色のリリス」(1980年)
* [[とんぼ]] - 「冬超え間近」(1978年)
=== な行 ===
* [[永井龍雲]] - 「恋はゆっくり、時間をかけて」(1981年)「たそがれ」(1981年)「ブルースに口づけ」(1982年)
* [[中尾ミエ]] - 「夢に抱かれて」(1980年)
* [[中島みゆき]] - 「サヨナラを伝えて」(1976年)「しあわせ芝居」(1976年)「この空を飛べたら」(1976年)
* [[中原理恵]] - 「マギーへの手紙」(1978年)「ダイアン・キートン」(1980年)「モノクローム」(1980年)
* [[永尾美代子]] - 「涙を珊瑚色」(1981年)「雨のボートハウス」(1981年)「Sea Wind」(1981年)「恋舟」(1981年)「FRIDAY NIGHT」(1981年)
* [[長渕剛]] - 「巡恋歌」(1978年)「帰り道」(1978年)
* [[成清加奈子]] - 「風のソネット」(1984年)「恋は赤マル急上昇」(1985年)
* [[GARDEN (音楽ユニット)|NICO]] - 「海辺の赤い電話」(1982年)「コロノポの丘」(1982年)「MIND」(1982年)「夏の雨」(1982年)
* [[西岡恭蔵]] - 「YELLOW MOON」(1981年)「燃えるキングストン」(1981年)「HAVANA」(1981年)「IT'S NEW YORK」(1981年)「NEVERLAND III」(1981年)「ハーレム25時」(1981年)
* [[根津甚八 (俳優)|根津甚八]] - 「川崎BLOSSOM」(1979年)「BYE NOW」(1979年)「Don't Cry For Me」(1979年)「キネマ横丁」(1979年)
* [[野口五郎]] - 「KETCHUP AND MUSTARD (Instrumental)FIRST TAKE」」(1982年)
* [[野村宏伸]] - 「11月のNOVEMBER白書」(1985年)「君の瞳を振り向けない」(1985年)「LIGHTHOUSE」(1985年)「Don't Change」(1985年)「さよなら、GoodLuck」(1985年)
=== は行 ===
* パオ - 「Morning Rain」(『you』、1980年)「One Summer Afternonn」(『you』、1980年)
* [[萩原慎太郎]] - 「Walk On」(1996年)「Blood Brother」(1996年)
* [[パティ (歌手)|パティ]] - 「明日・・・咲く」(1980年)
* [[原田真二]] - 「てぃーんず・ぶるーす」(1977年)「Angel Fish」(1977年)
* [[平尾昌晃]]・[[畑中葉子]] - 「ヨーロッパでさよなら」(1978年)「東京ラブ・ストーリー」(1978年)
* [[福島邦子]] - 「[[ボサノバ (福島邦子の曲)|ボサノバ]]」(1980年)「長い夜」(1979年)
* [[布施明]] - 「305の招待席」(1979年)
* [[BLACK CATS|ブラックキャッツ]] - 「勝利者」(1990年)「1979年19才」(1990年)
* [[ブレッド&バター]] - 「タバコロード 20」(1979年)「海に行こう」(1979年)「冬のハイビスカス」(1982年)「The Crow」(2001年)
* [[堀ちえみ]] - 「[[潮風の少女/メルシ・ボク]]」(1982年)「夏・SEAWIND」(1982年)「おもいっきりにダイビング」(1982年)「たんぽぽ」(1982年)「亜麻色の風」(1982年)「愛*だけどロンリネス」(1982年)「ふしぎ七色」(1982年)「ふれ愛モーメント」(1982年)「微笑んでGoodbye」(1982年)「真夏の少女」(1982年)「真珠色の季節」(1982年)「[[待ちぼうけ (堀ちえみの曲)|待ちぼうけ]]」(1982年)「幸せはモザイク」(1982年)「秋色ドリーム」(1982年)「Fly」(1982年)「公園通りの日曜日」(1982年)「遥か1000マイルの彼方」(1982年)「朝もやの空」(1982年)「幼な馴染み」(1982年)「2冊目の日記帳」(1982年)「時を駆ける少女」(1982年)「Deadend Street GIRL」(1985年)「夢・夏色物語」(1985年)「Jimmy's Girl」(1985年)「ミス・ロンリー・ユニヴァース」(1985年)「白夜のDance」(1985年)「18のキャトルセゾン」(1985年)「恋はNon Stop」(1985年)「ひとりぼっちたち」(1985年)「小さな密航者」(1985年)「サヨナラなんて言ってあげない」(1985年)
=== ま行 ===
* [[前川清]] - 「ファニー」(1981年)
* [[前田保]] - 「ポーカー・フェイス」(1977年)
* [[真心ブラザーズ]] - 「この愛は始まってもいない」(2001年)「流星」(2001年)
* [[松田聖子]] - 「流星ナイト」(1981年)「黄昏はオレンジ・ライム」(1981年)「雨のリゾート」(1981年)「December Morning」(1981年)
* [[松田優作]] - 「三面記事」(1980年)「ミッドナイト」(1980年)
* [[松永夏代子]] - 「浮気なSACHIOに首ったけ」(1986年)
* [[松野こうき]] - 「グッド・モーニング」(1980年)「バーボン・ストリート」(1980年)
* [[松原みき]] - 「あいつのブラウンシューズ」(1980年)「Marshia」(1980年)「Howa Howa Shuwa Shuwa 宇宙ネコの舌ざわり」(1980年)
* [[松村とおる]] - 「孤独の影」(1980年)「イ・ナ・オ・リ」(1980年)「お前だけは」(1980年)「LONESOME NIGHT」(1980年)「ANGEL」(1980年)
* [[円広志]] - 「マイシスター」(1982年)
* [[MANNA]] - 「YELLOW MAGIC CARNIVAL」(1979年)「さよならのポラロイド」(1980年)「Merry Party」(1980年)
* [[美川憲一]] - 「かなしみ笑い【花】」(1991年)「てんで話しにならないわ」(1991年)「スカーレット・ドリーマー」(1991年)
* [[美川憲一]]&[[イルカ (歌手)|イルカ]] - 「地上の愛」(1999年)
* [[水谷豊]] - 「表参道軟派ストリート」(1978年)「小道具」(1978年)「やりなおそうよ」(1978年)「逆光の中」(1978年)「大道具」(1978年)「青春番外地」(1978年)「あなたに捧げるララバイ」(1978年)「船乗りのメルヘン」(1978年)「告白囃子」(1978年)「田園風景」(1978年)「[[カリフォルニア・コネクション]]」(1979年)「僕らの時代」(1979年)
* [[南こうせつ]] - 「昨日にさようなら」(1975年)「海になりたい」(1975年)「マイ ダーリン」(1975年)
* [[南翔子]] - 「魔法のジェラシー」(1987年)「E・S・P(エスパー)」(1987年)
* [[南佳孝]] - 「天使の日」(1997年)「待つ女」(1997年)「・・・恋かもしれない」(1997年)「リオの少女」(1997年)「バンジー・ジャンプ」(1997年)「青空」(1997年)「星夜」(1997年)「魂のデート」(1997年)「水のように風のように」(1997年)
* [[宮崎美子]] - 「嫌いですか」(1981年)
* [[村井麻里子]] - 「モノクロームの街」(1993年)
* [[村田和人]] - 「WHISKY BOY」(1982年)「想いは風に」(1982年)「MARLAS」(1982年)「終らない夏」(1982年)
* [[桃姫BAND]] - 「HOT STUFF」(『初陣』、1992年)
* [[森下恵理]] - 「86」(1985年)「Kiss Me Tonight」(1985年)「ちょっぴり・ボーイフレンド」(1985年)「九月のERI」(1986年)
=== や行以降 ===
* [[泰葉]] - 「Dreamy night」(1982年)「Pin up girl」(1982年)「おもいでのSteady boy」(1982年)「ショート・ショート気分」(1982年)「黄昏ベット」(1983年)「45回転の扉」(1983年)「E線上のルート805」(1983年)
* [[矢原いずみ]] - 「月の砂」(1999年)
* [[やまがたすみこ]] - 「ムーンライト・ジルバ」(1977年)「プラスティック・ラヴ」(1977年)「FLYING」(1977年)「ペパーミント・モーニング」(1977年)「あなたにテレポート」(1977年)「黄昏遊泳」(1977年)「私春記」(1977年)「夢色グライダー(1977年)「GOODBYE・グラフィティ」(1977年)「夜を渡って」(1977年)「クリスタル・ホテル」(1977年)
* [[山下久美子]] - 「Follow you」(1980年)「ジョニィ・ブルース」(1980年)「酒とバラ」(1980年)「一枚だけのビリィ・ジョエル」(1980年)「Love me,Love my body」(1980年)
* [[山瀬まみ]] - 「水晶球」(1986年)「Heartbreak Cafe【Heartbreak Cafe】」(1986年)「ガラスの部屋」(1986年)「くちびるにマスカット」(1986年)「ピンクのマニキュア」(1986年)「氷のキャッスル」(1986年)「月夜のカーニバル」(1986年)「Strange Pink」(1987年)「Modern City」(1987年)
* [[YOU (タレント)|YOU]] - 「水無月の宵」(1994年)
* [[裕木奈江]] - 「恋人たちの水平線」(1994年)「めかくし」(1994年)「鏡の中の私」(1994年)
* [[裕詩郎]] - 「別れ歌を背中に」(1994年)「琥珀色の雨」(1994年)
* [[吉田拓郎]] - 「カンパリソーダとフライドポテト」(1977年)「あの娘に逢えたら」(1977年)「未来」(1977年)「アン・ドゥ・トロワ」(1977年)「乱行」(1977年)「悲しい気持ちで」(1977年)「おいでよ」(1977年)「あなたを愛して」(1977年)「歌にはならないけど」(1977年)「流星」(1979年)「アイランド」(1979年)
* [[渡辺真知子]] - 「Off Shoreの風」(1984年)「艶やかな時代」(1984年)「waffles (ワッフルズ)ボート」(2002年)
== 主なサウンド・プロデュース作品 ==
* [[やまがたすみこ]]「Flying」(1978年)
* [[古谷野とも子]]「NEUTRAL・TINTS」(1978年)
* オムニバス「Living Whales」(1991年)
* オムニバス「Gentle Snow」(1992年)
* オムニバス「Gentle Water」(1993年)
* [[田辺守]]「目覚めたまま眠る生活」(1995年)
* [[岩瀬敬吾]]「Porky Pie」(2002年)
* [[市原ひかり]]「一番の幸せ」(2005年)
== 主なプロデュース作品 ==
* オムニバス「SUNSET HILLS HOTEL」(1987年)
* オムニバス「SUNSET LIGHT COCKTAIL -IN SUNSET HILLS HOTEL-」(1987年)
* オムニバス「SUNSET HILLS HOTEL -RESERVATION CALENDAR-」(1987年)
* [[木村恵子]]「STyLE」(1988年)
* [[小田陽子]]「Half-Swing Romance」(1988年)
* [[ダ・カーポ (歌手グループ)|ダ・カーポ]]「HARMONIE(アル・モ・ニー)」(1991年)
* [[さくらさくら]]「SWEET EMOTION」(1992年)
* [[南佳孝]]「Sketch of life」(1997年)
* 鈴木茂 & P.M.V「鈴木茂 & P.M.V」(1999年)
* [[サイクルズ]]「それから」(2002年)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://suzuki-shigeru.jp/ 鈴木 茂 オフィシャルサイト]
* {{Twitter|s_shigeru_info|鈴木茂(本人)}}
* {{Discogs artist|Shigeru Suzuki|鈴木茂}}
* [http://wreckingcrew.la.coocan.jp/studioworks.htm 鈴木茂 STUDIO WORKS]
* [http://kiokunokiroku.jp/interview/suzukishigeru/talk01_01.html インタヴュー:鈴木茂] - 記憶の記録 LIBRARY
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{{はっぴいえんど}}
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[[Category:鈴木茂|*]]
[[Category:はっぴいえんどのメンバー]]
[[Category:日本のロック・ミュージシャン]]
[[Category:日本のロック・ギタリスト]]
[[Category:日本の編曲家]]
[[Category:日本の音楽プロデューサー]]
[[Category:日本クラウンのアーティスト]]
[[Category:青山学院大学出身の人物]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:1951年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-02-22T12:24:29Z | 2023-12-21T04:26:58Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%8C%82_(%E3%82%AE%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88) |
2,699 | 車 | 車(くるま、シャ)は、 | [
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] | 車(くるま、シャ)は、 輪の形をしており回転するもの。この意味では「輪」とも。代表的なものとしては車輪。ほかには歯車、水車、風車などの例がある。
車輪がついていてそれが回転する荷車や乗り物類。(もともと「車」という漢字は荷車を上から見下ろした状態を図にした文字である。意味的にはこちらが原義。)現代の日本語では自動車(特に、乗用車)を指すことが多い。さらに狭義には人力車(俥)やタクシーのことをさす場合もある。そのほか荷車、手押し車などを指す場合もある。なお平安時代の日本語では、単に「車」といえば牛車を指すものであった。 車 (姓) - 日本・中国・韓国の姓。歴史的実在人物に車斯忠(戦国武将)、芸名に車だん吉、架空の人物名に車寅次郎などがいる。アクセントは最初の「く」が高く「くるま」となる。他に中国の歴史的人物名に車冑(武将)、韓国のサッカー選手に車ドゥリがいる。 車 (シャンチー)(しゃ、ヂィー) - シャンチー(中国象棋)の駒。
車 (チャンギ)(チャ) - チャンギ(朝鮮将棋)の駒。
車部 - 漢字の部首の一つ。 | '''車'''(くるま、シャ)は、
*輪の形をしており回転するもの。この意味では「輪」とも。代表的なものとしては[[車輪]]。ほかには[[歯車]]、[[水車]]、[[風車]]などの例がある。
*車輪がついていてそれが回転する荷車や乗り物類。(もともと<u>「車」という漢字は荷車を上から見下ろした状態を図にした文字</u>である。意味的にはこちらが原義。)現代の日本語では[[自動車]](特に、[[乗用車]])を指すことが多い。さらに狭義には[[人力車]](俥)や[[タクシー]]のことをさす場合もある(車屋さん = 俥夫、車を呼ぶ、拾う。お車代など)。<!-- [[日本]]の[[道路交通法]]では、[[自転車]]、[[原動機付自転車]]なども車両に含まれる。 ★これは「車両」の解説であって、「車」の曖昧さ回避には蛇足(混乱のもと)でしょう。-->そのほか[[荷車]]、[[手押し車]]などを指す場合もある。<!-- ★馬車や電車を「車」とは言わないでしょう。-->なお[[平安時代]]の日本語では、単に「車」といえば[[牛車]]を指すものであった。
* [[車 (姓)]] - 日本・中国・韓国の[[姓]]。歴史的実在人物に[[車斯忠]](戦国武将)、芸名に[[車だん吉]]、架空の人物名に[[車寅次郎]]などがいる。アクセントは最初の「く」が高く「'''く'''るま」となる。他に中国の歴史的人物名に[[車冑]](武将)、韓国のサッカー選手に[[車ドゥリ]]がいる。
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* [[車 (シャンチー)]](しゃ、ヂィー) - [[シャンチー]](中国象棋)の駒。
* {{仮リンク|車 (チャンギ)|ko|차 (장기)}}(チャ) - [[チャンギ]](朝鮮将棋)の駒。
*[[車部]] - [[漢字]]の[[部首]]の一つ。
== 関連項目 ==
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2,700 | 自動車 | 自動車(じどうしゃ、英: automobile、motorcar、motor vehicle、car)は、原動機の動力によって車輪を回転させ、軌条や架線を用いずに路上を走る車。広義には自動二輪車(オートバイ)も含むが、本項では四輪自動車について述べる。
自動車は、大辞泉では原動機の動力によって車輪を回転させ、軌条や架線を用いず路上を走る車、と説明されている。 角川の1989年の国語辞典には「発動機の動力で軌道なしに走る四輪車」と記載されている。
自動車は、18世紀に蒸気機関を用いた蒸気自動車として登場し、19世紀にはイギリスやフランスで都市間を移動するためのバスに用いられるようになっていた。19世紀後半、1870年代から1880年代にかけてはオーストリアやドイツでガソリンの内燃機関を用いた自動車の制作や特許取得が行われた。1896年に米国のヘンリー・フォードもガソリン自動車を開発し、1903年に自分の名を冠したフォード・モーター社を設立し、まずは2気筒エンジンの小さな車の製造・販売を開始、1905年には4気筒エンジン車を販売開始、1908年には改良のうえ、価格も比較的安く設定したフォード・モデルTを発売し、大人気となった。モデルTは1909年の1年間だけでも1万台を超える数が売れ、米国で急速に自動車が普及してゆくことになる。米国ではそれまで街の大通りを走る車と言えば(裕福な人々が所有し、御者付きの)馬車ばかりだったのだが、その後 わずか10年ほどのうちに馬車の所有者たちはそれを自動車へと換えてゆき、米国の通りの景色は一変することになった。1910 - 1920年代には安価な大衆車も普及しはじめた。→#歴史
自動車は基本的には、人や貨物を運ぶための実用の道具として用いられるものであり、交通手段の一つとして通勤・通学、客の送迎、顧客先訪問、旅の際に使用される事がある。貨物輸送に関してはトラック(貨物自動車)等を用いて、多種多様な荷物が運ばれており、鉄道が駅から駅への輸送しかできないのに対して、自動車は戸口から戸口へ(=建物から建物へ)と輸送できるという特徴がある。→#自動車の利用
また自動車は、実用性を離れて、愛着の対象となって趣味的に所有されたり、運転を楽しむため(スポーツ・ドライビングやツーリング)に用いられたり、整備すること("機械いじり")を楽しむために用いられることもある。また高級車の場合ステータスシンボルとして利用される場合などもある。→#自動車文化
自動車は世界中で大量に普及したため、大気汚染の原因となったり、その石油資源の消費量によって石油危機時のリスク要因となったり、道路上の自動車の過密状態などの問題を引き起こしている。課題の解決に向けた努力も続けられており、大気汚染防止のために行政は排出ガス規制を行い、自動車メーカーは消費する石油を減らすこと、つまり燃費の向上(省燃費エンジンの開発)を行い、電気自動車、ハイブリッド・カー、水素自動車などの開発・販売も行われている。
専用の軌道を必要としないことから、経路と進路の自由度が高いという特徴がある。 自動車を動かすこと・操ることを運転と言い、ほとんどの国で、公道での自動車の運転には運転免許が必要とされている。自動車の最初期の段階からすでに運転を誤る事故(交通事故)が発生していた。自動車によって、怪我をさせられたり命を失ってしまう人やその家族という被害者が生じ、同時に運転者が加害者として生きていかなければならなくなることは、自動車普及後の社会が抱え続けている重い課題のひとつである。最近では単純な自動運転技術を超える、本格的な人工知能と高度なセンサー類を用いて自律走行が可能な自動運転車も研究されており、AIならば人間が運転するよりも事故率が劇的に減るであろうと期待されてもいて、一部ではすでに(社会実験的な)導入が開始されており、世界での本格的な普及開始の時期が近付いている。→#負の影響
自動車の生産は、部品となる様々な工業製品があってはじめて可能となるので、他の様々な工業の振興、一次的工業品の製造とも関連する。その規模の大きさ、影響の大きさによって、政府にとっては自動車の製造は(一国の)経済を支える重要な産業となりうる。現在のところ、一握りの先進国が自動車の生産を独占してしまっているような状況にある。多くの開発途上国の政府が、自動車製造を行うために懸命の努力を行っている(例えば、先進国の自動車メーカーや政府と交渉し、自動車を輸入するだけでなく、自国内に製造工場などを設けさせる努力を続けている)のは、経済的な影響が大きいからである。→#自動車産業
公共交通機関の発達していない田舎などでは特に一人当たりの所有率が一般的に高い。→#自動車の普及
最初の自動車は蒸気機関で動く蒸気自動車で、1769年にフランス陸軍の技術大尉ニコラ=ジョゼフ・キュニョーが製作したキュニョーの砲車であると言われている。この自動車は前輪荷重が重すぎて旋回が困難だったため、時速約3キロしか出なかったにもかかわらず、パリ市内を試運転中に塀に衝突して自動車事故の第一号となった。
イギリスでは1827年ごろから定期バスとして都市部および、都市間で広く用いられ、1860年ごろにはフランスでも用いられるようになった。1885年に、フランスのレオン・セルボレが開発し1887年に自動車に搭載したフラッシュ・ボイラーにより蒸気自動車は2分でスタートできるまでに短縮された。1900年ごろにはアメリカ合衆国で、石炭の代わりに石油を使った蒸気自動車が作られ、さらに普及していった。この頃は蒸気自動車の方がガソリン自動車よりも騒音が少なく運転が容易だった。アメリカ合衆国では1920年代後半まで蒸気自動車が販売されていた。
1865年にイギリスで赤旗法が施行された。当時普及しはじめた蒸気自動車は、道路を傷め馬を驚かすと敵対視されており、住民の圧力によってこれを規制する「赤旗法」が成立したのである。この法律により、蒸気自動車は郊外では時速4マイル(6.4 km/h)、市内では時速2マイル(3.2 km/h)に速度を制限され、人や動物に予告するために、赤い旗を持った歩行者が先導しなければならなくなった。その結果、イギリスでの蒸気自動車の製造・開発は、この赤旗法が廃止される1896年まで停滞することになり、それに続くガソリン自動車の開発においても、ドイツやフランスが先行する事になる。
日本では1904年(明治37年)に、電気技師の山羽虎夫が制作した蒸気自動車が最初で、これが日本産自動車の第1号だといわれている。
1870年、ユダヤ系オーストリア人のジークフリート・マルクス(Siegfried Samuel Marcus)によって初のガソリン自動車「第一マルクスカー」が発明された。1876年、ドイツ人のニコラウス・オットーが石炭ガスで動作する効率的な内燃機関のオットーサイクルを発明すると、ゴットリープ・ダイムラーがこれを液体燃料を用いるガソリンエンジンへと改良して二輪車や馬車に取り付け、走行試験を行った。1885年にダイムラーによる特許が出されている。1885年、ドイツのカール・ベンツは、ダイムラーとは別にエンジンを改良して、車体から設計した3輪自動車をつくった。ベンツ夫人はこの自動車を独力で運転し、製造者以外でも訓練さえすれば運転できる乗り物であることを証明した。ベンツは最初の自動車販売店を作り、生産した自動車を数百台販売した。また、ダイムラーも自動車会社を興した。現在、ガソリン式自動車の発明者はダイムラーとベンツの両者とされることが多い。
1898年(明治31年)には、フランスから日本に輸入されたガソリン自動車「パナール・ルヴァッソール」が、日本国内最初の自動車として登場した。
日本国産のガソリン自動車は、1907年(明治40年)に誕生した「タクリー号」が最初であった。名称の由来は、道を「がたくり、がたくり」と音を立てて走ることから。
19世紀の自動車は手作りであるため非常に高価なものであり、貴族や富裕層だけが所有できるものであった。そして彼らは自分たちが持っている自動車で競走をすることを考えた。このころに行われた初期の自動車レースで活躍したのが、ルノー、プジョー、シボレー、フォードといった現在も残るブランドたちであった。このころはまだガソリン自動車だけでなく蒸気自動車や電気自動車も相当数走っており、どの自動車が主流ということもなかったが、1897年のフランスでの自動車レースでガソリン自動車が蒸気自動車に勝利し、1901年にはアメリカのテキサス州で油田が発見されてガソリンの供給が安定する一方、当時の電気自動車や蒸気自動車は構造上の問題でガソリン自動車を超えることができず、20世紀初頭には急速に衰退していった。
当初は自動車を所有するのはごくごく少数の貴族や富裕層にとどまっていた。所有者に重いコストがのしかかる乗り物という存在を、所有せず活用する、という発想は古くからあり、例えば古代ローマにも馬車を現代のタクシーのように従量式で使う手法も存在したことがあったともいう。1620年にはフランスで貸馬車業が登場し(言わば、現代のレンタカーに当たる)、1662年にはブレーズ・パスカルが史上初のバスとされる5ソルの馬車を発明しパリで営業を開始した。1831年にはゴールズワージー・ガーニー、ウォルター・ハンコックが蒸気式の自動車で乗り合いバスの運行を開始した。
1871年にはドイツ人のヴィルヘルム・ブルーンによってタクシーメーターが発明され、1897年にはゴットリープ・ダイムラーが世界初のメーター付きタクシー(ガソリン車)Daimler Victoriaを製造した。レンタカーの最古の歴史ははっきりしないが、米国における最初のレンタカー業者は、初の量産車とされるT型フォードを用いて1916年から営業した、と言われることはある。その最初のレンタカー業者とされるネブラスカの男Joe Saundersは、車にメーターを取り付け 1マイルあたり10セントの方式で貸したという。
米国で1908年、フォードがフォード・T型を発売した。フォードは、流れ作業による大量生産方式を採用し自動車の価格を引き下げることに成功した。これにより裕福層の所有物であった自動車を、大衆が所有することが可能となり自動車産業が大きく発展するさきがけとなった。ヨーロッパでは1910年ごろに、大衆の自動車に対する欲求を満たすように、二輪車の部品や技術を用いて製造された小型軽量車、いわゆる「サイクルカー」が普及していった。1922年にフォードと同様の生産方法を用いた小型大衆車が発売され、本格的に自動車が普及していく事になった。また、それに伴いサイクルカーは姿を消していき、大衆車の普及によって、一般市民が自動車を所有することが可能となり、自家用自動車(自家用車)が普及すると、それに伴って自動車の利用が一般化、いわゆるモータリゼーションが起きた。世界で初めてモータリゼーションが起こったのは1920年代のアメリカ合衆国であり、次いで西ヨーロッパ諸国においても起こり、日本でも1970年ごろにモータリゼーションがはじまった。個人用自動車の普及は、鉄道や船といった公共交通機関に頼っていた時代に比べて利用者に圧倒的に高い自由度をもたらし、個人の行動半径を大きく拡大させることとなった。
だが現代では、自動車を個人が所有するには、払わなければならない費用は、車両の価格だけで済まず、それ以外に自動車税・自動車重量税・自賠責保険料・車検代・消耗品等の費用・ガソリン代・駐車場代・任意保険料などの費用がかかる。ナイル株式会社が2022年に公表した、「自家用車にかかる費用が家計を圧迫していると感じるか?」という設問で行ったアンケートの結果によると、 62.4%(730人)が(自動車にかかる費用が家計を圧迫していると)「感じる」と答えた。
1970年代にはスイスなどでカーシェアリングも始まった。カーシェアはその後世界各国に広がり、 2000年代には、アメリカやヨーロッパなどではUber(ウーバー)など、自家用車による有償ライドシェアを認める地域も増えてきているなど、自動車を個人所有せず快適に利用する方法は多様化してきている。(日本は既得権益優先なのでウーバーが参入できていない)。
なお自動車で採用された大量生産の手法が、ライン生産方式という効率的な手法を、自動車産業に限らず様々な製造業において広めてゆくことになった。これは企業経営者にとっては好都合な手法であったが、それは同時に分業が徹底される結果を生み、工場で多くの労働者が、まるでただの機械や道具のように扱われ、同一の単調な作業ばかりを繰り返すことを強制され、働くことに喜びを見出しにくくなる、労働者に精神的な不幸をもたらすという負の事態も引き起こした。一時期はあまりに効率重視で作業の細分化がゆきすぎ、それこそひとりの労働者が、ボルトを1個~数個締める作業ばかりを繰り返すなどというひどい方式になってしまい、労働者への精神的な悪影響が大きくなりすぎ、それが学者などからも指摘されるようになり、その後長い年数をかけて、作業を細分化しすぎないように、ある程度はまとまった範囲の任務を与える、という方式を採用する工場も増えてきた。たとえば一人の担当者が、せめてエンジン部分はまとめて責任を持って一人で組み立てることで、その人なりに「自分の作品を仕上げた」と感じられるようにする、などといった方式である。
中国など新興国の経済成長や人口増加で、世界全体の自動車販売台数は増えている。これに伴い化石燃料の消費増や大気汚染が問題となり、各国政府は自動車に対して排気ガスなどの規制を強化。自動車メーカーは温室効果ガスや大気汚染物質の排出が少ない又は皆無で、石油資源を節約できる低公害車の開発・販売に力を入れる。
近年は、公害や地球温暖化の対策として、電気自動車や燃料電池車等のゼロエミッション車の開発が進んでいる。特に2015年にフォルクスワーゲングループにて発覚した排ガス不正でディーゼルエンジンの悪影響が露呈されてから、欧州各国では近い将来ガソリン車およびディーゼル車などの販売を禁止する法案が賛成多数の情勢にある。オランダとノルウェーでは2025年、ドイツでは2030年に施行するべく、そうした法案が提出され始めている。
近年は情報通信技術(ICT)が急速に進歩している。このため自動車メーカーや大手ICT企業は、インターネットで外部と接続されたコネクテッドカーや、人工知能(AI)を応用した自動運転車の研究・開発も急いでいる。
かつてはSF作品中の存在であった「空飛ぶ車」の開発も進んでいる。日本では、トヨタ自動車グループの支援を受ける有志団体「CARTIVATOR(カーティベーター)が、2018年の試作機完成を目指していた。
自動車の分類法はいくつもあるが、おおまかに言うと、構造(ハードウェア)による分類と使用目的(ソフト)による分類がある。
理屈の上では使用目的と構造の組み合わせがマトリックス(縦横の表)のように多数あるわけだが、実際には全ての組み合わせが用いられるではなく、使用目的ごとに適している構造は(全ての構造ではなく)いくつかの目的に適した構造に絞られることになり、また多くの使用者・購入者から評価される典型的な組み合わせや傾向のようなものが生じ、ただしそれはまったく固定しているわけではなく、時代とともにそれが緩やかに変遷を経てきた歴史がある。
特定の国に限らない分類としては、基本的には、たとえば、目的によって「乗用車(数名の人を運ぶための自動車) / 貨物車(貨物を運ぶための自動車)/ 特殊な車(それ以外の目的の自動車)」と分ける方法がある。またたとえば、大きさによって「小型車 / 中型車 / 大型車」などと分ける方法が、基本的にはある。
なお自動車が登場する以前の馬車の時代に、馬車がその姿(形状)によって分類され、すでに分類法やその分類用語が確立していたので、(馬を排したとは言え)自動車の車体に関してもそれに沿った分類法が採用されてきた歴史がある。「セダン」「クーペ」「ワゴン」などという分類法はもともとは馬車の分類法を継承したものである。→#普通自動車の分類
それぞれの国で法規によって排気量や車体の大きさ、輸送能力などによって分類されている。それが税区分や通行区分、運転免許の区分の基準とされる。
日本においては、道路交通法第三条により、大型自動車、中型自動車、準中型自動車、普通自動車、大型特殊自動車、小型特殊自動車、大型自動二輪車、普通自動二輪車の8種類に分類され、道路運送車両法第三条により、普通自動車、小型自動車、軽自動車、大型特殊自動車および小型特殊自動車に分類されている。
日本では上位概念で「自動車」が明確に定義されており、動力(原動機、電動機など)により駆動される物や牽引される物は名前や形状に関わらず自動車とされる。一方でオーストラリアでは上位概念で自動車が定義されて無く、ピクニックテーブルにエンジンを取り付けた「エンジン付き移動式ピクニックテーブル」などの運行を取り締まる事ができずに、地元警察は「危険だから」という理由で運行しないことを呼びかけている。
国際的な統計品目番号では第87類の「鉄道用及び軌道用以外の車両並びにその部分品及び附属品」に分類される。
もとは馬車の形状による分類用語である。その後、馬車にはなかった分類用語が追加されてきた歴史がある。
なお、自動車メーカーが差別化(付加価値)として商品につける商品名(商標)においてはこの限りではなく、2ボックス形状のセダン、4ドア・5ドアのクーペ、ハッチバック形状のワゴン、ワンボックス形状のワゴンなど、下記の形状と異なるものも多い。
屋根による分類法は次のようなものがある。
自動車メーカーが消費者を満足させるために、乗用車(普通自動車)に関してさまざまな形状のものを開発してきた結果、1980年代~2000年代以降、従来の分類法や分類用語では分類しきれない車や、あるいは複数のカテゴリに該当するような車が増え、消費者も自動車メーカーも自動車誌等も、従来の分類法やカテゴリ名に困惑を感じることが増え、メーカーや販売会社と消費者のコミュニケーションでも混乱が生じるようになった。そうした困惑や混乱を回避するために、多種多様な普通自動車をざっくりと以下のように分類する方法が考えだされ、それが採用されることが増えた。
自動車はその歴史のなかで様々な構造が現れ、変遷を繰り返してきた。ここでは現在市販されている自動車として一般的なものを示す。したがって、いくつかの自動車には例外があり、特に競技用や、特殊自動車などについては構造が大きく異なる例もある。
車体の強度部材に用いられる材料は鋼鉄が主流で、近年では超高張力鋼板の使用部位が広範にわたっており、アルミニウム合金や炭素繊維強化プラスチックなどの複合材料を用いたものも市販されるようになってきている。骨格部材以外のパネル部分には合成樹脂を用いる例も増えてきている。
構造は大きく分けてフレーム形式とモノコック形式とに分けられる。フレーム形式は独立した骨格部材の上に、車室を構成する構造物が載せられたもので、古くから自動車の車体構造として用いられ、現在でも貨物自動車を中心に採用されている。モノコック形式は車室を構成する外殻自体が強度部材として作られた構造で、20世紀半ば頃から自動車の車体構造として普及しはじめ、現在の乗用車と小型商用車(LCV)のほとんどで採用されている。
現在は内燃機関か、電気モーターを用いるものが主流である。内燃機関では、ピストンの往復運動をクランクシャフトで回転運動に変換して出力するディーゼルエンジンやガソリンエンジンなどのレシプロエンジンが一般的である。それぞれに4サイクルと2サイクルがあるが、現在では4サイクルが主流となっている。
火花点火内燃機関の燃料にはガソリンが用いられるのが主流となっているが、環境性能や単価を理由に液化石油ガス(LPG)や液化天然ガス(LNG)、エタノール等のアルコール燃料が用いられる場合もある。近年では、内燃機関と電気モーターを組み合わせたハイブリッドカー、電気自動車などが普及してきている。
動力は、ガソリン自動車の場合は、原動機が効率的に出力を発揮する回転速度から、走行に適した回転速度へと変速機によって減速あるいは増速される。変速機は、運転者が複数の減速比から選択して操作するマニュアルトランスミッション(MT)と、自動的に選択または変化するオートマチックトランスミッション(AT)に大別できる。MTは基本的に減速比を切り替える際などにはクラッチを操作する必要があるが、このクラッチ操作を自動化したものはセミオートマチックトランスミッションと呼ばれる。近年は、MTの基本構造を持ちながらクラッチ操作と変速操作が自動制御された、自動制御式マニュアルトランスミッション(AMT)も普及し始めている。
電気自動車の場合は、原動機の効率的な回転速度の範囲が広いため減速比を切り替えない変速機を採用し、原動機を逆回転させることが可能なので後退ギアを持たない場合がほとんどである。
マニュアルトランスミッションの場合、前進の変速比は3段から6段程度が一般的だが、副変速機を用いて変速段数を2倍とする例も貨物車を中心に少なくない。
オートマチックトランスミッションは、トルクコンバータとプラネタリーギアを組み合わせたものが広く普及している。日本の乗用車では、CVTと呼ばれる無段変速機の採用例が増えてきている。いずれの方式においても、運転者の操作によって「Lレンジ」などのように減速比の範囲を限定する機構や、「マニュアルモード」、「ホールドモード」、「スポーツモード」などと呼ばれる任意の減速比に固定できる機構を備えている。
セミオートマチックトランスミッションは日本の法規ではAT車に分類され、日本車の例ではトヨタ・MR-SのSMTがある。
操舵は前輪の方向を変えて車体を旋回させる前輪操舵方式が一般的で、その機構全体を指してステアリングと呼ぶ。操作部を「ハンドル」あるいは「ステアリング・ホイール」と呼ぶ。ハンドルの回転はボール・ナットやラック・アンド・ピニオンなどの機構を介して車輪を左右に押す作用に換えられる。近年は油圧や電動モーターを用いて運転者のハンドル操作を助力するパワーステアリングが広く普及している。
旋回時の各瞬間に、それぞれの車輪がその動いている方向を向くようにすると、前輪の左右では舵角が異なる。例えばハンドルを右に切ると右タイヤの方が舵角が大きくなる。これについての機構をアッカーマン機構と呼ぶ。
主たる制動操作は、足踏み式のペダルで行うフットブレーキがほとんどである。ペダルに加えられた力は油圧や空気圧を介してブレーキ装置に伝達し、摩擦材を回転部分に押しつけ、運動エネルギーを熱エネルギーに変換して速度を落とす。市販車のほとんどが、エアブレーキ以外の液圧式では、エンジンの吸気管負圧や油圧を利用した、ペダル踏力を軽減する倍力装置を有している。
下り坂などで、フットブレーキに頼り過ぎるとフェード現象で制動力が著しく低下したり、ベーパーロック現象でペダル踏力が全く伝わらなくなってしまうことがある。これらを防ぐためにエンジンブレーキを利用することが運転免許教習でも指導されているが、車両総重量が大きくエンジンブレーキだけでは抑速や減速効果が得られにくい大型の貨物自動車では、排気ブレーキやリターダを搭載する車種も多い。
高速からの制動には、放熱性に優れるディスクブレーキが有効であるが、重量が大きい車両の制動や、勾配での駐車などには、自己倍力作用の働きで「拘束力」の大きいドラムブレーキが有利となる。
駐車時に車体が動き出さないように拘束するパーキングブレーキはワイヤ式または空気式のものが多い。乗用車の場合はブレーキ装置を制動用のものと共用する構造がほとんどであるが、制動用のディスクブレーキの内周に拘束用のドラムブレーキを備えるものもある。従来貨物車ではトランスミッション(変速機)出力部にドラムブレーキを備え、プロペラシャフトを拘束するセンターブレーキが一般的であったが、法改正により常用ブレーキを兼用する「ホイールパーク式」/「マキシブレーキ」と呼ばれる、ホイールを直接拘束する方式に移行した。
運転者の座席は座部と背もたれを備えた椅子形のものが主流である。運転席の正面には操舵用のハンドルとアクセルペダルとブレーキペダル、あるいはクラッチペダルが備えられているのが標準的な自動車の構造である。ハンドルは円形が一般的だが、オート三輪ではオートバイやスクーターのような棒状のハンドルも存在した。また、腿まわりの空間的余裕が増える楕円形のハンドルを採用している車種もある。駐車ブレーキを操作する装置は、レバーを引き上げる方式のものが主流であるが、古いトラックやワンボックスカーでは杖状のレバーを車体前方の奥から手前に引き寄せる方式のものもある。また、近年では足踏み式のものや電気的に作動する押しボタン式も採用されるようになった。変速機の操作レバーはMTの場合はシフトレバー、ATの場合はセレクトレバーと呼ばれる。いずれの場合も運転席の脇、車体中央側の床に設置されているフロアシフトが大半を占める。古いタクシーやトラック、ワンボックスカーではステアリングコラムにシフトレバーを設置したコラムシフトのMTも多く存在した。一時期のAT車ではミニバンを中心に、ステアリングコラムにセレクトレバーを備える車種は珍しくないものとなっていたが、近年はインストルメントパネルにセレクトレバーを配置したものが多い。
自動車は人や物を輸送でき、また道路さえ整備されていれば様々な場所に行くことができる。これはかつての馬車で行われていた用途の継続でもあった。道路の全国的な整備が、先進国への仲間入りとも言える。
アメリカは、1908年に大衆車のパイオニアであるフォードT型を発売、1911年には自動車専用道路の先駆けとなるパークウェイが整備された。イタリアでは、1924年にミラノからヴァレーセまでの約50kmに、交差点のない幅10mのアウトストラーダを完成させている。ドイツナチ党のアドルフ・ヒトラーは、1933年に「休日には低所得者層が自動車に乗ってピクニックに出かけられる」暮らしが必要であると提え、モータリゼーション推進を宣言。アウトバーンの整備や伝説的大衆車フォルクスワーゲンビートルの開発に着手した。日本は、元々馬車文化が未熟であったために道路整備は難航したが、戦後に入って首都高速道路が建設されるなど、欧米に劣らぬ勢いを見せた。
他方の利用として、自動車を用いたサービス業が多様に存在し、市民の生活にとって大きな役割を担っている。これには大きく分けて「自動車で何かをする」形態と、「自動車に何かをする」形態がある。
前者の例として、旅客輸送や貨物輸送を行うサービス全般を運輸業と呼ぶ。旅客であればタクシーやハイヤー、またバスなどとして運営され、バスは多くの人員の輸送が可能であることから、形態に応じて路線バス、観光バス、高速バス、定期観光バスなどと様々なものがある。貨物輸送に関しては運送会社がトラックを用いて輸送する。 直接的な輸送サービスの提供ではないが、自動車を賃貸するレンタカーやカーリースもある。
後者の例としては自動車の整備を行う自動車整備業、自動車への燃料補給などを行う水素ステーションなどがある。
国民の安全や治安維持のために、自動車を利用する例がある。
パトロールカー (パトカー) は、犯罪や交通違反の取り締まりのために使用される。パトロールを行うことで犯罪の抑制に繋がるという重要なメリットも持ち合わせている。消防車は、火災その他災害に際してその鎮圧や防御を行う際に使用される。この用途は古くから馬車や人力車などで担われていた。救急車は、疾病または災害などによって発生した傷病者を治療可能な医療施設まで迅速に搬送するために使用される。一般道を利用しながら早急に目的地へ到着しなければならないため、市民の協力が重要とされる。
また特殊車両としては、国の平和・安全のために使用される装甲車や、建設工事に使用されるクレーン車やブルドーザー、輸送に使用されるタンクローリーやトレーラーなどがあり、いずれも国民が健康で文化的な最低限度の生活を送るためには必要不可欠な自動車である。
自動車愛好家については「カーマニア」を参照。
この項では、自動車に関して長い歴史を有する「欧米諸国」と「日本」双方の文化比較を基軸として述べていく。
「自動車の魅力」というとスポーツカーやスーパーカー、ハイパーカーといったハイエンドなタイプに焦点が当てられがちであるが、そういった部類のみでは語ることができないほど、自動車文化は多様性に富んでいる。 『エンスージアストの多くは、様々なタイプの自動車に対して関心を持っている』。
ヨーロッパ各国(イギリス、イタリア、フランス、ドイツなど)では、王立自動車クラブに代表されるように、20世紀初頭から貴族や富裕層らによって自動車を趣味・娯楽の対象として扱う側面が発達し(かつての乗馬、馬術の延長線上にあった)、のちに一般大衆にまでその貴族趣味的な気韻を持った、ハイカルチャーとも言うべき自動車文化が浸透していった。それは、18世紀後半から19世紀に生まれた英国の新興富裕層が、貴族以上に貴族らしくあるために自分自身に磨きをかける「ダンディズム(≒貴族精神)」と呼ばれる思想に準拠している。自動車レース黎明期の時代においては、サーキットがそういったジェントルマンたちの社交場にもなっていた。ただし貴族趣味的とはいえ、彼らは自動車の価格(大衆車/高級車などの類別)や、またそれらから生じるステータスを重視していたのではなく、純粋に趣味・娯楽の対象として自動車を求めていた。
その一方で、”欧州では、縦列駐車する時はぶつけて止める”といった世説が出るほど、自動車を「移動手段の道具」として割り切って捉える思想もヨーロッパには根強くある。実際に走行している自動車の多くは、日本に比べて車体が汚損している傾向にあり、この思想はサイクルカー(ヴォワチュレット)やバブルカー、マイクロカーのその極端とも言える合理主義的な簡素な造りにも表れている。因みにこの文化は、その地の自動車愛好家にとっては非常に難儀なものであり、フランスにおいては都市部での治安の悪さも含め、駐車場所には特に気を使わけなければならないという話もある。
アメリカは、フォードによって自動車をいち早く大衆化させたことから、よりカジュアルで商業主義的な文化が目立つ。特にその傾向は戦後になってから顕著に表れはじめ、1940 - 1950年代における、ドラッグレースやストックカーといった単純明快なルールを持つ自動車レースの誕生は好例である。また、人種の多様性から多地域の自動車文化が数多く混在していることも特徴の一つである。それはカスタム文化に顕著に表れており、白人由来のホットロッド、メキシコ系由来のローライダー、アジア系由来のスポーツコンパクトなどがある。自動車の美しさを競うコンテストや展示会も世界的な規模で開催される。ただし、いずれも大衆性やエンターテインメント性を意識したものであることは確かであり、権威主義的な面は少ない。また大量生産方式から生まれたインダストリアルデザインは、後の自動車デザインにおける核となり、「自動車の消費」という概念を誕生させることになる。
日本の自動車文化は、明治 - 大正期にかけて欧化主義の名残があったことや、20世紀半ばまで華族制度が存在したこと、また同じく20世紀半ばまで大衆車が普及せず上流層のみしか自動車を所有できなかったことなどの理由から、必然的にヨーロッパにおける文化形成と似た道を辿ることとなった。これは自動車に限らず、ゴルフ、テニス、乗馬など当時輸入された西洋由来のハイカルチャーはみな同様の過程を経た。
1898年1月、日本に初めて四輪自動車が渡来したとされる(諸説あり。日本への自動車の渡来を参照)。1902年、川田龍吉男爵が横浜でロコモビル社製の蒸気自動車スタンレー・スチーマーを購入、通勤で乗るなど個人的に使用した。ここで川田は日本初のオーナードライバー(自家用車所有者)になったされる。1907年には、美術品コレクターで冒険家の英国人トーマス・ベイツ・ブロウが1904年製のスイフト7HPで京都から軽井沢を目指す自動車旅行を敢行したことが記録されている。1908年8月1日には、皇族の有栖川宮威仁親王が「ダラック号」(Darracq )を先頭にガソリン自動車を連ねて遠乗り会を敢行、その目的地は谷保天満宮であり、これが日本初のドライブツアー(カーミーティング)とされる。1907年7月6日、大倉財閥一族の大倉喜七郎男爵は、英国ブルックランズ・グランプリでフィアットを駆り2位に入賞、ここで大倉は日本人初のレーサーとなった。その3年後の1910年には、大倉を中心に日本初のオーナーズクラブ『日本自動車倶楽部』が結成される。事務局は帝国ホテルに置かれ、会長に大隈重信、メンバーには大倉喜七郎、伊東巳代治、寺内正毅、後藤新平、渋沢栄一、尾崎行雄といった政財界の名士が名を連ね、欧米各国の大使、公使も参加、このクラブは一大サロンとなった。当時の自動車所有者はほとんど入会したためにその影響力は大きく、自動車税の決定など行政的な業務も行なった。
その後も華族やエスタブリッシュメントのハイカラたちを中心に、日本の自動車文化は形成されていった。戦前の著名な自動車愛好家に、三井高公、細川護立、鍋島直泰、小早川元治、福澤駒吉、白洲次郎、藤山一郎などが知られている。戦後に入ってもなお、伝統的な西洋式の自動車趣味は多くの人物によって継承され、失われることはなかった。小林彰太郎、式場壮吉、福澤幸雄、徳大寺有恒、夏木陽介などは、そういった際に名が挙げられる著名人である。中でも自動車評論家の小林彰太郎は、自身がライオン創業者の一族出身でありながらも自動車評論家を生業とし、1962年に雑誌『CARグラフィック』(現・カーグラフィック)を創刊。当時では大衆の高嶺の花であった輸入車の魅力を積極的に発信し、また自身も英国流の自動車趣味を実践したことで、日本における自動車文化の普及に貢献した。
第二次世界大戦後に日本を占領した連合軍は自動車の開発を制限し、特に乗用車は事実上の禁止となった。この制限は1949年(昭和24)に解除され、1952年ごろからは先進国のメーカーと技術提携して外国車をノックダウン生産、しだいに国産化して技術の吸収に努めるメーカーが増えていった。
1960年代以降一般大衆に自動車が普及するようになると、サブカルチャーとしての側面も現れはじめる。中でもチューニングカーやVIPカー、痛車などのカスタム文化は現在では世界中に影響を与えるまでに発展している。また、この文化は非常にユニークなものである一方で、速度超過、違法改造、走り屋、暴走族といった各種違法行為、或いは騒音、運転マナーの悪さといった迷惑行為との関連が少なからずあり(これもまた一種の文化と化している)、そういった面から自動車に対して不良なイメージを連想させることがある(「VIPカー#マイナスイメージ」も参照)。これらの文化の形成過程については、「チューニングカー#日本における歴史」などを参照のこと。
日本は、草創期から自動車生産を開始し、また同じく草創期から外国車を比較的多く輸入していたこと、或いは戦後の国産車の普及などもあって自動車と接する機会は多く、ヨーロッパやアメリカに次いで自動車文化が定着しやすい環境にあった 。そのため他のアジア各国やアフリカ諸国と比べて文化が十分成熟の域に達していると言える。軽自動車やチューニングカー、(見世物としての)ドリフト走行などは日本発祥であり、1970年代にはスーパーカーブームも到来している。上記でも触れたようにカーマニアを対象とした自動車雑誌やテレビ番組も多数ある(「Category:日本の自動車雑誌」、「Category:自動車番組」を参照)。ただし近年の日本では、カーマニアと一般大衆の間における自動車に対する興味の差が非常に大きくなっていることも指摘されている。
CCC会長の増田宗昭は、「プレミアエイジ(60歳以上の富裕層)」の人々に自動車を楽しんでもらいたいとして、同社が展開する商業施設において自動車関連の展示会やイベントを頻繁に開催しており、また一方では、カー用品店「オートバックス」に対して、生活提案型商業施設のコンセプトを取り入れた店舗づくりも行っている。このように、近年の日本における自動車関連産業では、店舗内にカフェを設置したり、より集客の見込める場所に店舗を設置することで、自動車に興味のある人以外も取り込んでいこうとする姿勢が見られている。
トヨタ自動車会長豊田章男は、「愛車」にこだわる理由として、”数ある工業製品の中で『愛』がつくのは自動車だけだから”であるという。例えば冷蔵庫を「愛機」とは呼ばず、家は「愛家(ラブホーム)」ではなく「マイホーム(私の家)」と呼び『愛』はつかない、と述べている。
カーデザインの重要性は自動車の誕生時から常に認識されており、自動車文化の形成にも大きな役割を果たしてきた。その変遷は製造技術の発達や空気力学の発展、或いは人々の思想などにも強く関わっている。
以下に並べるデザインの変遷は、あくまでも概略かつ主流を示しており、いずれの時代にもこれらに反するデザインや折衷的なスタイリングを持った自動車が見られるということには留意である。
自動車黎明期と言える1900年代までのデザインは、直線と平面のみで構成された、極めて古風でシンプルなスタイリングが特徴であった。そのほとんどは馬車・自転車の延長とも言えるような簡素な造りであったため、”馬なし馬車”とも呼ばれていた。ただし1891年にパナール・ルヴァッソールによってフロントエンジン(システム・パナール)方式が確立されたことで、徐々に自動車らしいデザインへと変化していく。まもなくして、馬車時代から続投したコーチビルダーによる貴族らしい装飾が施された豪華な自動車(=高級車)が誕生し、またモータースポーツの発生によりレーシングカーも生まれたことで、本格的な自動車文化の礎が築かれていった。
1920年代に入ると、「流線型デザイン」の誕生によってカーデザインは大きな進展を迎える。その発端は、エンジン性能の向上によって過激さを増していたモータースポーツの世界において、空力を意識したデザインがレーシングカーに続々と起用されていったことにはじまる(ただし空力の意識の発生は1900年前後の速度記録車から既に見られはじめている)。それは「ポインテッドテール」や「ボートテール」と呼ばれる、窄まったリアの形状に代表される(ブガッティ・タイプ35が著名)。その中でエドムント・ルンプラーやパウル・ヤーライによって空気抵抗を低減するボディ構造が確立されると、1930年代から一般的な乗用車にもそれに似た涙滴(ティアドロップ)型のボディが積極的に起用されはじめた。また泥除けの機能として装着されていたフェンダーに関しても、プレス成型技術の発展もあってより流麗で立体的な渦巻状のデザインに変貌し、タイヤ全体を覆うモダンなスタイリングも出現(フェンダースカート)、それらは曲線的な美しさを印象づける重要な要素として機能しはじめた。特にその前後のフェンダーの終点部分は斜め下に向かって流れるように落ち込むため、ボディ全体を尻下がりのスタイリングに印象づけた。これら一連の特徴による、丸みと曲線で構成された自動車デザインは「流線型デザイン(Streamliner, Streamline Moderne)」と呼ばれ、この時代に大流行したデザイン様式となった(インダストリアルデザインの発展にも寄与することになる)。
このスタイリングの誕生は、流体力学理論に基づいた空気抵抗の低減と、イタリアのフトゥリズモによる「速度の美」の表現、そしてフランスのアール・デコ様式による装飾芸術という、モダニズムを根幹とした”芸術性と合理性の融合”にあった。それは機械化の波の中で新たな芸術性を模索した結果の一つの完成形とも言え、その曲線美から生み出されるスピード感やダイナミズムは自動車が芸術品として捉えられる大きな契機となった。そのため、この時代はコーチビルダーの全盛期となり、数多くのデザイナーが自動車(高級車)のボディで美しさを競い合った。この1930年代における豪奢と前衛、エレガンスが同居したデザインの一部高級車(主にフランス車)は、”Art Deco Automobiles”(アール・デコ・オートモビルズ)、或いは”Flamboyant”(フラムボワイヤン)と呼ばれ、かつては上流階級の社交界における花形的存在として君臨したほか、現在では耽美主義的な側面を持ったダイナミックな芸術作品群として認識されている。その美しさに魅了された者の中には美学者や芸術家も含まれ、日本では濱徳太郎が、欧米では、”アンドレ・ドランが「どんな芸術作品よりも、ブガッティは美しい」と述べると、マン・レイが深く頷いた”、といった逸話も残っている。
前述の「流線型デザイン」は、その名称が取り沙汰されなくなった1940年代に至っても、曲線と丸みを帯びたスタイリングとして、カーデザインの主流を保っていた。ただし1947年のチシタリア・202や1949年のフォード・1949などの登場によって「フラッシュサイド」ボディが大々的にフィーチャーされ、多くの自動車メーカーが採用しはじめた。この変革によって自動車はより近代的なデザインとなり、ボディ全体としてまとまりを見せるスタイリングが1950年代以降の主流となる。前照灯とフェンダーはボディと一体化され、それによってボディサイドは隆起や凹凸がない滑らかな形状となった。この特徴は2020年現在でも主流となっている形態である。
1960年代以前、特に1920 - 1960年代の自動車の多くは、先述のようにプレスラインの少ないシンプルな造形、かつ曲線を纏ったダイナミックなスタイリングを有しており、これらは芸術性の高いカーデザインとして、展示会やオークションなどでも高い評価を受けている。1960年代までの欧州における高級車やスポーツカーは、その主な顧客である富裕層のマーケットが自動車文化の歴史が長い欧米の保守層に未だ限定的であったことから、そのスタイリングはしばしば「エレガント」、「紳士的」とも形容される。これは戦前のアメリカの高級車やスポーツカーにおいても、欧州ほど純粋・明瞭ではないものの、同じく主流として存在していたデザイン性であった。また世界各国で開催されている「コンクール・デレガンス」は、この貴族趣味的な文化やデザイン性と密接に関連したクラシックカーイベントである。生前にエンツォ・フェラーリが”LA CORSA PIÙ BELLA DEL MONDO(世界で最も美しい自動車レース)”と形容した伝説的な公道自動車レース、「ミッレミリア」(1927 - 1957)の参加車両も、この時代までのスタイリングを纏ったスポーツカー/レーシングカーである。それというのもレーシングカーに関しては、1960年代後半からプロトタイプのボディ構造が生産台数の緩和などによって本格的にサーキット仕様に傾いていったため、自動車レースで優勝争いが行われたレーシングカーに、趣味として愛玩するレベルのデザイン性と実用性が備わっているのが、1960年代までであった(これは資産価値にも多大な影響を与える)。そのため「タルガ・フローリオ」や「トゥル・ド・フランス・オートモビル」など、他の著名な公道レースもこの時代に栄華を極めた(いずれもクラシックカーラリーとして後に復活を遂げている)。
アウディのチーフデザイナーであったシュテファン・ジーラフは、”今日、車のデザインは複雑なシェイプとラインの組み合わせが主流になっています。それで顧客の興味、関心を引こうというわけです。ですが、彼らの興味はすぐに冷めてしまいます。...よいデザインとは、細部で凝っているけれど全体で見るとシンプル、そういう方向です。もしあなたが2本のラインと面で1台の車をデザインできるなら、その車は未来永劫、傑作と呼ばれるものになるでしょう”と述べており、またそういった傑作を時代の変化に合わせながらも見事に創り続けているのが、ポルシェ・911であるとも話している。ポルシェ・911は、デザインコンセプトを1948年の356から継承していることで知られており、その普遍性に魅了された者は数多くいる。
1960年代以降になると、欧州の高級車やスポーツカーは、伝統にこだわらず常に新しいものを求める新たな顧客(富裕層)の台頭によって、そのイメージやコンセプトが変化、デザイン性も大きく揺らいでいくことになる(=カジュアル化。アメリカでは、1950年代に同様の理由から欧州よりも一足早く本格的なデザインの変化が訪れるが、こちらはその変化によって逆に「アメ車」としてのアイデンティティを確立させることに成功している(後述))。そのため、1990年代以降における、1960年代以前に製造されたクラシックカーへの関心の高まりや世界的な価格高騰は、人々が未だ紳士的な生活をしていた古き時代へのノスタルジアによるものだという意見もある。英国王室では、重要な式典における自動車の起用に際して、現行車種ではなく1960年代以前の古典的なデザインを有したイギリス車が抜擢されることも多い。
1950年代初頭、アメリカの自動車ブランドの経営陣たちは、戦後の好景気と自動車の大衆化に煽られて、従来のコンサバティブなデザインからの完全な脱却を図ろうとしていた。そこで1950年代中頃から後半にかけて誕生したのが、「フルサイズ」としてカテゴライズされる、異彩を放った高級車群である。これらは、車高が低く、幅広・長大でエッジの効いたボディ、豪勢なテールフィンなど、今までの主流のデザインとは一線を画していた(ただし初期デザインに関しては、フェンダーの峰やボンネットの隆起など、フロントマスクに未だクラシカルな趣が残されていた)。その特徴の多くは国内のより安価な乗用車に対しても適用されていったが、後にそれらからテールフィンが取り除かれ、フロントノーズもフェンダーの峰が無くなり「フラットデッキ」化が図られたことで、隆起・丸みのない完全にモダンな箱型のデザインへと移行していく。アメリカ国内におけるこれらのスタイリングの流行は国外に多大な影響を与え、特に後者の角張った箱型のデザインは1960年代以降の世界的な主流となった。その起因は、製造技術の進化によって角張ったデザインでも十分な強度を確保できるようになったという技術的な理由の他に、好景気によって自動車をステータスシンボルとして扱うようになったことでデザインに対して強さや大きさを求めはじめたという心理的な理由などからであった。これら一連のデザインがいわゆる「アメ車」のイメージを確立させたとも言われ、テールフィン時代のアメリカ車は、ベトナム戦争泥沼化以前のアメリカにおける"娯楽に時間を費やした楽しい時代"の象徴として、またフラットデッキ時代のアメリカ車は、ローライダーなどのカスタムや映画のカーチェイスに使用されるような頑丈・屈強でアウトローな自動車として(マッスルカーなど)、或いは一貫して見られるその重厚感から「アメリカン・ドリーム」を具現化するものとしてイメージされている。
1960年代後半からはマイナーなコーチビルダーの消滅が顕著に見られはじめた。それは、この時期あたりからモノコック構造がスポーツカーや高級車にも普及しはじめ、ボディの架装という概念が無くなりつつあったためである。或いは、同じく1960年代後半から3次元CADが自動車製造業界に参入したことで、自動車設計のデジタル化も徐々に見られるようになっている。
1970年代になると、ジウジアーロやガンディーニによる「ウェッジシェイプ」デザインが注目を浴びる。空気抵抗の低減を目的とした「フラッシュサーフェス」化の確立とも言える近未来的でシャープなスタイリングは、スポーツカー業界を席巻した。その特徴は、ノーズ全体がくさび形(三角形)をした平滑な前傾型ノーズや、ウエストラインが後方にかけて持ち上がっていく、その前傾姿勢の形状にある。ダウンフォースを生み出し高速性能を向上させるほか、重心が後ろ側に加わった戦闘態勢のようなスタイリングにより、スピード感や躍動感が演出される効果があった。また前照灯をボディ内に格納するリトラクタブル・ヘッドライトは、フラッシュサーフェスを成し遂げ、かつノーズの傾斜を強めるのに最適な構造であったため、ウェッジシェイプデザインと見事に融合し、その双方の流行を加速させた。日本ではこのスタイリングが1970年代の少年らに大人気となり、「スーパーカーブーム」を引き起こした。因みに「スーパーカー」という名称もこの時点で誕生したため、この時代以前の高性能車に対して「スーパーカー」と呼ぶことはほとんどない。
1980年代以降は、1970年代の2度のオイルショックによるガソリン価格高騰や排ガス規制によって空力の重要性が量産車にも意識されはじめたことに加え、プレス成型技術も進化したことから、空気抵抗を意識しながらも室内を広く設計できる、「丸」と「角」を組み合わせたデザインへと自動車業界全体が徐々にシフトしていく。そのため、角張った箱型のデザインは姿を消しはじめ、ウェッジシェイプも以前のような明確なエッジを用いなくなり、滑らかなものとなった。また鉄・メッキ製であった前後バンパーは樹脂製となり、ボディ全体の一体感がより増すことになる。1990年代後半には、ATの普及や電子制御化によるイージードライブが自動車のブラックボックス化を加速させたために、デザインに「プロダクト・セマンティクス(製品意味論)」を注視しはじめ、ヘッドライトに有機的な意匠(人間の目や猛禽類の目をモチーフにしたデザイン)を取り入れていく。また自動車部品の標準化やプラットフォームの共通化も1990年代から加速の一途を辿っている。
2000年代には、大衆車や量産車においてもウェッジシェイプ化が加速したほか、従来の「丸」や「角」といった業界全体のトレンドがなくなり、デザインの多様化が進んだ。ただし安全規則が増えたことでフロント部分ないしボディ全体が膨らみ・厚みを持つようになり、以前のように自由なデザイン性を見出すことは難しくなった。加えて、コンピュータによって空力性能の解析が著しく発展したことにより、デザインの幅が却って狭まることに繋がった。その他に、異型ヘッドライトの高度化によって縦に引き伸ばされたような前照灯の巨大化とそのLED化によって照明類のデザインの自由度が増したことで、各メーカーは前照灯や尾灯でその自動車の個性を見出しはじめ、かつてのボディの造形に注力する姿勢は相対的に少なくならざるを得なかった。
2010年代に入ると、今までの単なる直線的なプレスラインを使用しなくとも、ボディに奥行きを持つ立体的かつ複雑なシェイプを持たせることが可能になり、それによってシンプルな造形でありつつもボディ各部に波打つような局部的な陰影が発生するようになった。或いは、1990年代からクラシック、ローテクノロジーを注視する兆しが各分野で見られはじめており、パイクカーの発売を筆頭に、2010年代になると高級車やスポーツカーにおいても、かつての伝統的なクラシックカーのイメージを彷彿させるデザイン性が潮流となっている。2020年代以降は、自動運転の実用化により、インテリアデザインの造形がより注目されるようになる可能性や、完全自動運転によって自動車事故が全く起こり得なければ、カーデザインに対して自由度が格段に上昇するという可能性もあり、自動車の存在意義が左右される新たなデザイン時代に突入しようとしている。
自動車におけるインテリアデザインには、装飾の効果的な使用や素材の質感により生み出される重厚感、機能性・合理性の追求によるミニマリズム、或いはダッシュボード上に埋め込まれた計器類によるメカニカルな魅力、ステアリング・ホイールの曲線美、といった自由な表現力を見出すことができる。近年では安全性や耐久性もデザイン設計における大きな指標となっている。また自動車は運転が主な使用法であるために、エクステリア以上にインテリアは重要な地位を占めており、車外の景色との調和性も考慮される。
自動車を操縦し、より高速なスコアタイムを目指すことはスポーツの一種として認識されており、モータースポーツと呼ばれる。とにかく速く走るためのスポーツ専用車であるフォーミュラカーで走ることが全てではなく、市販車や自作車でのレース、また長時間の運転となる耐久レース、一般公道で行われるラリーや、自然のままの過酷な道を走破するラリーレイドなど、多彩なものが世界各国で開催されている。フォーミュラ1(F1)やインディ500、ル・マン24時間レース、ダカール・ラリーといったものは特に著名な国際大会である。またその中でも、1929年からモナコ公国で行われているF1レース「モナコグランプリ」は、モナコ公爵家が後援、観覧し、トロフィーも公爵家から直接授与されることから、自動車レースの古き伝統、格式を保守している大会として知られている。
日本における自動車イベントのはじまりは1911年に目黒競馬場で行われた飛行機と自動車の競争とされるが、自動車同士のレースは1914年が始まりで、同じく目黒競馬場で4台のアメリカ車を走らせた。アメリカで人気を集めていた興行をそのまま日本に持ち込んだものであったが、客は集まらず大赤字になる。その後アメリカでモーターレース興行を行っていた藤本軍次が日本で本格的なレース興行を行いたいと企画、大正期には東京近郊の埋立地の特設コースで計11回のレースが行われたとされる。1936年には、日本初の常設サーキットとして多摩川河川敷に『多摩川スピードウェイ』が創設された。第一回大会では、三井高公男爵が輸入したブガッティやベントレーをはじめ、ホンダ創業以前の本田宗一郎が自作車でレースに参戦したほか、日産創業者の鮎川義介がスタンドでレースを観戦するなど、日本自動車レースの幕開けとも言えるレースであった。その後1957年の群馬県北軽井沢での『浅間高原自動車テストコース』開設に続き、1962年には三重県鈴鹿市に本格レーシングコース『鈴鹿サーキット』が登場した。翌年に当サーキットで「第一回日本グランプリ」が開催され、これが日本における本格的な自動車レースのはじまりとなった。1965年には千葉県船橋市に『船橋サーキット』が、翌1966年には静岡県小山町に『富士スピードウェイ』が開設されている。『船橋サーキット』では、浮谷東次郎、生沢徹、黒澤元治といった名ドライバーたちがしのぎを削ったが、たった2年で閉鎖されたことから「伝説のサーキット」とも言われるようになった。また1965年は、F1世界選手権メキシコグランプリで、ホンダがフェラーリやロータスを抑え初優勝を飾った年でもある。
趣味としては、自動車を走行させるだけに限らず、プラモデルやミニチュアカーなどといった精巧な自動車のミニチュアの製作や収集、また部品の収集や写真の撮影など多岐に渡る。走行する自動車に関する趣味としては、様々な自動車に乗車することを趣味にしたり、自動車の改造やメンテナンスを趣味にすることもある。改造車の形態としては、アート化に重点を置いたローライダーやデコトラ、スピード化に重点を置いたチューニングカーやスポーツコンパクトといったものまで多様に存在する(詳細は「Category:改造車の形態」を参照)。
また、クラシックカーや旧車・ヴィンテージカーなどと呼ばれる、過去に製造された車両を復元・保存する愛好家もいる。クラシックカーに関しては文化的・歴史的・資産的価値が認められることもあり、それらを使用した展示会や走行会は、愛好家と地方行政とが密に連携することで地域活性化の一環とされることもあ(もとより公道を走行するイベントでは、行政との連携が必須である)。また、特に価値を認められたクラシックカーは、各種オークションなどで極めて高い値で取引されることもある(日本円にして数千万円から数十億円の値が付くこともある。詳しくは「オークションで落札された高額な車の一覧」を参照)。ヨーロッパはクラシックカーに対する造詣が深いとも言われているが、年々排ガス規制が厳しくなっており、パリでは2016年から「1997年以前に製造された自動車(いわゆるクラシックカー)」の平日の市内走行を全面禁止とするなど、自動車を取り巻く状況は刻々と変化している。
自動車を格納するガレージは、自動車のメンテナンス場所としても使われる。趣味の拠点として独り籠って利用されることもあるため「隠れ家」とも形容され、しばしば男性の憧れの対象となる。バラエティ番組『所さんの世田谷ベース』は、これらの魅力を前面に出した番組である。また最近では、リビングなどの居住空間からガラスを通して自動車を眺めることができるビルドインガレージもある。
バス(「バスファン」を参照)やトラック、タクシーを趣味にするものもいる。書店販売上の分類などでは別の範疇に含まれることも多いが、これも広義での自動車趣味である。
リゾート地は、美しい風景や快適な気候といった良好なドライブ環境に加え、自動車に重要なインフラも単なる地方や田舎に比べて十分に整備されているといった理由から、自動車関連のイベントが数多く開催されている。ドライブを主目的とした観光道路や有料道路などもしばしば点在している。また歴史的なリゾート地の多くは、かつて貴族や上流階級の人々が休暇を楽しんだ場所でもあることから、伝統的な自動車文化とも深い繋がりがあり、そのオマージュとしてクラシックカーのイベントが行われることも多い(同じく貴族文化へのオマージュとして、欧米では宮殿や城、ゴルフ場などを舞台にイベントが行われることも多い)。1931年には、高級別荘地として開発した鎌倉山への主要交通機関として、日本初の有料道路・自動車専用道路が設置されている。その後は1932年の関西初となる「宝塚-尼崎自動車専用道路」(バス専用道路)、1933年の軽井沢における「鬼押ハイウェー」などが、最初期の有料道路・自動車専用道路である。自動車展示施設としては、日本では有名なものに「フェラーリ美術館」(神奈川県御殿場市。2007年閉館)、「河口湖自動車博物館」(山梨県富士河口湖町。毎年8月のみ開館)などがある(全国各地にある自動車博物館については「Category:日本の自動車博物館」を参照)。
このように、自動車は単に人や物資を輸送するだけの存在に留まらない。ただし若者の「自動車離れ」は、近年になって、日本はもとよりヨーロッパなどにおいても顕著に表れはじめている(詳しくは「若者の車離れ」を参照)。
自動車はファッションと密接な関係がある。
自動車は、本質的には馬車から派生した移動手段の道具であるが、その長い歴史の中で他の様々な文化、事物からモチーフを得ながら独自に発展していった。それは貴族文化やダンディズム、サブカルチャー、或いは航空機、船舶など実に様々である。これらは現代においても、乗車する際に身につけるアクセサリーなどにその名残として残されている場合がある。また逆に自動車が服飾品に影響を与えることもあり、腕時計は特に著名な例である。加えて、自動車のエクステリアが女性のファッションに例えられることもあり、イベントコンパニオンはその代表例として挙げられる。
ファッション雑誌などでは自動車を広告塔として利用する例がある。ファッションデザイナーで知られるラルフ・ローレンは、2017年に、自宅ガレージにて自身のカーコレクションを用いたファッションショーを開催している。また自動車ブランドと服飾ブランドが共同で作品を製作することがあり、モーターショーなどで披露されている。運転の際に使用されるドライビンググローブやドライビングシューズなどについても、ヨーロッパ各国の服飾ブランドで数多く販売されている。またポルシェが「ポルシェデザイン」と称する服飾ブランドを個別に展開、或いはフェラーリやベントレーが香水をプロデュースするなど、自動車ブランドが服飾部門を別途に立ち上げることもある。イタリアのピニンファリーナや日本のKEN OKUYAMA DESIGNといったカロッツェリアは、自動車のデザインから建築や家具、眼鏡、化粧品に至るまで、様々な分野のプロダクトデザインを手掛けている。
スイス高級時計で知られるショパールは、1988年からミッレミリアの公式スポンサーとなり、毎年リミテッドモデルをリリースしている。同社社長のカール・フリードリヒ・ショイフレは、”上質な車の愛好家は得てして上質なタイムピースを好みます。その逆もまた然り。どちらにおいても、最高の精度とスポーティなエレガンスが最も大切な要素であるからです”と述べる。同じくスイス高級時計のタグ・ホイヤーは、古くからレーシングスピリッツを重視していたが、1971年にスクーデリア・フェラーリとパートナーシップを結び、そして同年のレース映画『栄光のル・マン』の制作中にスティーブ・マックイーンが同社モデル「モナコ」を着用したことで、自動車業界の一躍人気時計ブランドとなる。また上記でも述べたラルフ・ローレンは、”Art Deco Automobiles”時代の名車ブガッティ・タイプ57SCアトランティックをコンセプトにした腕時計を製作している。他にも、数多くの高級腕時計メーカーが自動車との関わりを持っている。
リクルート社のリクルート社自動車総研が行った(日本の中古自動車購買層に対する)アンケート調査の結果だとして示したグラフによると、2018年時点のデータとしては「自動車はステータスシンボルだ」と思っている人々は40%程度。「どちらともいえない」と思っている人も40%程度。「自動車はステータスシンボルだとは、あまり思わない」「そうは思わない」が20%程度である(ただし信憑性については疑義がある)。
マーケティング・コンサルタントの堀好伸は、現代の日本の若者たちは(昭和時代の若者とは異なって)自動車も買わないし、酒も飲まない、と指摘している。堀好伸の分析によると、現代日本の若者は「モノを買う」「モノを所有する」などということではなく、「価値観を共有できる仲間同士で共感しあう」ことを好むようになったといい、「自らの価値観でモノやコトを仲間と共有して、一緒に楽しいことを創り上げる時代」になっている、という。
レース映画やカーアクション映画などの自動車を主題とした映画は、長年に亘り世界中で人気である(「Category:自動車を題材とした映画作品」を参照)。
一方で、自動車を直接的な主題としていない映画においても、自動車の魅力を効果的に利用した類のものがある。著名な例としては、『007 シリーズ』(1962年 - )のボンドカーがある。ドラマでもそのような例は多くあり、『刑事コロンボ』(1968年 - 2003年)のプジョー・403や『相棒シリーズ』(2000年 - )の日産自動車などがある。またミュージック・ビデオやCMなどにおいても、自動車の魅力を効果的に利用した作品は少なくない。
ガソリンエンジンの内燃機関より自然に発生するエンジンサウンドは、物理・工学的な技術によって芸術的な音が生まれるというその特異なメカニズムから、幾多の自動車ファンを魅了してきた。そのため自動車ブランドの多くは、エンジン音にも積極的なチューニングを施している。中でもフェラーリに代表されるV12エンジンや、F1カーなどから発せられる高音のエンジンサウンドは、旧来から魅力的とされてきた。
昨今のトレンドである電気自動車では、エンジン音が存在しないため、電子的な合成音を使って魅力的なエンジンサウンドを作りだそうとするブランドが増えている。その中でも2019年6月に発表されたBMWのEVコンセプトカー、”Vision M Next”では、エンジンサウンドの制作に作曲家ハンス・ジマーが起用されており、このようにエンジン音に対する概念は変化しつつある。
自動車の車内は、一定の空間を保有しながらそれでいて閉鎖的であるため、音楽を楽しむには好適な環境であり、ドライブの魅力にも大きな役割を果たしている。そのため、カーオーディオは自動車関連用品の中でも重要な位置を占めている。
自動車を題材とした音楽作品については、「Category:自動車を題材とした楽曲」を参照。音楽の存在を重視した自動車映画としては、『チキ・チキ・バン・バン』(1968年)や『ワイルド・スピードシリーズ』(2001年 - )、『ベイビー・ドライバー』(2017年)などがある。
自動車は使用者に多くの便益を与えるが、地球環境の破壊の恐れや、人間の健康を害したり、生命を奪ってしまうことすらある。
自動車が社会に及ぼす悪影響の中で特に大きなものは、交通事故で、怪我人や死者やその家族という被害者と、事故を起こした車を運転していた加害者を作りだしてしまう。 交通事故は出来る限りゼロに近付けるべきであり、特に死亡事故はゼロに近付ける努力を精一杯するべきだ、とされている。日本の警察は交番などに、その地域で、日々、交通事故によって怪我を負った人や死亡した人の数を掲示し、人々に注意を喚起し、意識を変え、運転に慎重になってもらおうと努力している。
負傷(怪我)と分類される場合でも、被害者は実際には重い障害を負って生涯苦しむ人が含まれている。まして被害者が死亡してしまった場合、遺族の悲しみは計り知れない。また死亡した人に子供がいれば、その子供は交通遺児となり、「親を失った子」としてその後の人生を生きなければならず、親が生きていたらできたはずのことができない人生となる。加害者となった者も、(自賠責保険や任意保険などで)被害者に金銭的に補償すればそれで全てが済むというような生易しいものではない。たとえば、運転時にいわゆる「ながら運転」をしていた場合、危険を予見できたにもかかわらず、道路交通法で定められている「注意義務」を怠ったことによって罪が重いが、そうでなくても、ただほんの一瞬注意を怠ってしまった、ということでも過失運転致死傷罪が適用される可能性があり、運転者(加害者)は刑務所で服役しなければならない可能性がある。また、自動車保険を利用して被害者に対して金銭的に補償しても、さらに運転者が刑務所で服役しても、遺児にとって大切な親が生き返るわけでもなく、結果として加害者となった者は一生涯、被害者の人生を狂わせてしまったことに対する道義的な責任を感じ続けなければならなくなる。加害者は、「自分は人を殺してしまった」、「残された家族の人生も壊してしまった」などと苦しむようになり、加害者の人生も、大きく変わってしまうのである。自動車によって頻繁に起きるようになった交通事故は、ただの金銭問題や経済問題といったレベルをはるかに超えて、人々の人生を狂わせ、苦しめ続けている。
なお(一部に、人命を軽視する者や、人の命まで金銭に換算して済ましてしまおう、という者がいるが、それがそもそも非常に不謹慎である、と一般にされている。それでも金銭に換算して理解しようとする者にその金銭を示すと)交通事故関連の損失は、日本だけに限った場合でも、毎年6.7兆円に及んでいる。
自動車の前に馬車が普及していたヨーロッパや米国では、車(馬車)が非常に危険だということは理解されていて、歩行者と車の走行場所の完全な分離(歩車分離)が馬車時代から進み、自動車が走行する車道と、歩行者の歩く歩道の距離が何倍もとってあり、その結果事故が少ない。またヨーロッパでは「歩行者優先」が徹底されていて、歩行者がいたら、自動車運転者はほぼ絶対的に停車する。ところが日本は後進国の段階、馬車すらも普及していない状態、つまり歩行者(や人が引く荷車)しかなかった道に、いきなり自動車が人の動線を侵害するように導入されてしまった。おまけに、ヨーロッパの走行状態を知らない人々が住む日本では「歩行者優先」の原則が十分理解されず、自動車の運転者が傲慢に歩行者の歩行を妨害するようなことがまかり通るようになってしまい、それが放置されるようになってしまった。最近では海外の交通状況を理解する日本人も増えるようになり、日本でも歩行者優先意識の啓発、あるいは歩行者優先の原則の絶対厳守とその原則を守らない運転者に対して厳罰を科すことが望まれるようになりつつある。歩道のガードの拡充、十分な幅の自転車専用レーンの確保などの道路インフラ整備が必要とされている。東名飲酒運転事故以前は飲酒運転も横行していた。速度超過、事故を誘発する違法駐車、横断歩行者の妨害等などの交通犯罪が蔓延している現状がある。またスマートフォンの普及などが原因となって、2010年代後半にはながら運転による深刻な事故が統計的に明白に急増したので、「ながら運転」による事故に関しては日本政府も厳罰化した改正案を2019年5月8日に閣議決定し、法案として提出した。
また日本など高齢化が進む社会(高齢化社会)では、全ドライバーに占める高齢ドライバーの割合が増え、ブレーキペダルとアクセルペダルの「踏み間違い」や道路の逆走事故が頻発するようになってきた。高齢者は、実際には客観的に測定して運転技能が落ちているにもかかわらず、本人は逆に「自分の運転には絶対に自信がある」などと言うようになり、こうした高齢者による自信過剰が原因で、より一層重大で深刻な事故が起きていることが判ってきている。
運転技能が落ちた高齢者ドライバーほど逆に自分の運転に「自信」を持つという恐ろしいデータも明らかになってきて、もはや高齢者ドライバーの「自覚」に期待したり、(自発的な)免許の自主返納に期待することは無理だ、高齢者に期待することが事故を引き起こす環境を放置する結果を生んでいる、ということも指摘されるようになってきている。(フジテレビの情報番組などをはじめとして)日本では高齢化が進み悲惨な事故が既に急増したので、高齢者ドライバーに関しては(アクセルを踏み込む異状操作時に作動したり、障害物に突進する場合に作動する)自動ブレーキ車限定の免許」(現在のところ。また将来的には「自動運転車限定の免許」)に強制的に変えるなどの法的・行政的な対策が必要だ、との指摘が行われるようになっている。
2010年代後半、先進国の大手自動車メーカーやIT企業などが主導して、自動運転車、しかもA.I.(人工知能)と高性能のセンサーを多数活用した高度な自動運転車の開発にしのぎを削っており、すでに一部の地域では実験的に走行が始まっており、2020年代には本格的に販売され、普及が進んでゆくと予想されており、性能の良いAIを用いた自動運転車ならば、人間が運転するよりも事故率を数百分の1や数千分の1程度にまで減らすことができる、といった予想もあり、自動運転車の普及によって、交通事故で苦しむ人々が減ることが望まれている。
内燃機関自動車(ICEV)は化石燃料を燃やし、二酸化炭素(CO2)や窒素酸化物(NOx)、硫黄酸化物(SOx)、黒煙を大量に排出し、環境や人々の健康に大きな悪影響を与える。
大気汚染はぜんそくや肺疾患などを引き起し、肺がんの原因ともなっている。また、大量に自動車の走行する道路沿いでは、走行による騒音や振動などの様々な問題も引き起こす。
二酸化炭素は地球温暖化の最大の原因とされ、窒素酸化物・硫黄酸化物などは酸性雨の原因にもなっており、これらの排出の削減が急務である。
1970年代から先進国の政府によって大規模な自動車排出ガス規制が行われるようになった。その結果ようやく自動車メーカーは、排ガス中に有害物質の少ないエンジンや低燃費のエンジンを本腰を入れて開発するようになった。また、大気汚染問題を根本的に解決すべく、電気自動車などのゼロエミッション車の開発も進むようになり、2010年代では電気自動車も本格的に販売台数が伸び、ヨーロッパや中国では2020年代にさらに排ガス規制が厳格化し、電気自動車の普及の推進(や販売台数、販売割合の義務化)がされるよう予定が欧州議会や欧州の各国政府の主導で組まれており、環境にも健康にも優しい電気自動車の開発・販売や購入に対し様々な優遇措置がとられるようになっており(2012年時点ですでに行われていた)、各自動車メーカーも「脱ガソリンエンジン」「電気自動車開発」でしのぎを削っている。
2018年には生産台数が1億台へ達すると予測されているが、仮に1.36トン車の984リットルで計算すると必要なエネルギーはガソリン984億リットル相当となり、これは日本の年間ガソリン消費量55百万キロリットル(550億リットル)の約2倍である。
自動車が生活に密着していなかった頃は、犯罪者の居住地域と犯罪地域は密接な状態にあったが、自動車が普及するにつれ、この前提は崩れている。他の交通機関でも犯罪を犯した地域からの脱出は可能であるが、公共交通では移動時間帯が限られている点や、(駅にカメラが設置されている鉄道や、運転手が目撃者となり得るタクシーなど)匿名性を保つことが困難な点などの関係で、犯罪者が犯罪を犯した地域から離れる場合の手段として自動車を用いたものが増えていることが、毎年発表される警察白書から確認できる。この問題には、高速道路での移動や盗難車による移動も含まれる。この問題に対し自動車ナンバー自動読取装置設置などの対策が施されているが、高価な装置であることなどの理由から設置場所は限られており、犯罪者側もナンバーを見難くするカバーを付ける者や偽造ナンバーを付ける者がいるなど、完全な対策になってはいない。
などである。
乗り物酔い、シックカー症候群についてはシックハウス症候群をそれぞれ参照。
20世紀に入り、フォード・モデルT(販売1908年 - 1927年)の発売から米国での普及が始まり、その後欧州でも比較的廉価な車が発売された。第二次世界大戦後には戦時中に兵器製造に従事していた各企業による自動車生産が始まり、特にアドルフ・ヒトラーの国民車構想の産物であるフォルクスワーゲン(1938年 - 2003年)は量産記録を打ち立てた。1970年代には日本においても大衆車が普及し日本車の海外輸出も始まり生産台数を伸ばし始め、同時に韓国やマレーシアなどでも自動車生産が始まった。以下で述べる生産台数はメーカー国籍別ではなく、地理的に生産された国での数値である。
自動車の生産台数は1950年には約1058万台で、その約8割は第二次世界大戦による戦災を逃れた米国によるものであった。ビッグスリーの地元であり、また後に日・独などのメーカーが進出した米国は、その後半世紀にわたり世界で最大の生産国であった。60年代には西独・仏・英・伊などの生産が立ち上がり、1960年の生産台数は1649万台となった。70年代には日本における自動車の増産も始まり、1970年の生産台数は2942万台、1980年には3856万台、90年代には韓国ついで中国での生産が増加し、1990年4855万台、2000年には約5837万台、2010年には7758万台2013年には8730万台と増加し続けている。2018年には1億台に達するとの予測も出ている。
日本における自動車生産は第二次世界大戦前は主に米国企業によるいわゆるアメ車のノックダウン生産、戦後には戦災で破綻した物流システムを整えるべくトラックやバスの生産が優先された。乗用車の生産台数がトラック・バスを追い抜いたのは1968年であった。1960年の世界の生産台数は1649万台であったが、日本の生産台数は約76万台(内訳、乗用車17万台、トラック59万台、バス8千台)であった。1960年当時には、それまで三輪車や二輪車を生産していた鈴木自動車、富士重工、ダイハツ、東洋工業、本田などの企業が四輪車の生産に乗り出していた。「マイカー元年」と言われた1966年には229万台(内、乗用車98万台)でその内輸出は約26万台であった。1980年には約1千万台に達し米国を上回った。1980年の日本の自動車輸出台数は597万台であった。1991年には過去最高の約1325万台を生産したが、以降は1千万台前後で推移している。輸出は1985年がピークで673万台であった。
2009年には中国が1379万台で2位日本の793万台を大きく引き離し世界最大の自動車生産国となった。2013年は中国が2212万台、米国1105万台、日本963万台、ドイツ572万台、韓国452万台、インド388万台、ブラジル374万台、メキシコ305万台、タイ253万台、カナダ238万台、ロシア218万台となっている 。自動車メーカーの国籍はともあれ、中国で突出した台数が生産されている。2013年の自動車生産台数の4台に1台は中国で生産された。
地域別でみるとEU27カ国では16カ国で1618万台生産されており、多い国はドイツ572万台、スペイン216万台、フランス174万台、英国160万台、チェコ113万台、スロバキア98万台などで、これら6カ国でEU生産の82%が生産された。その他の地域で約百万台規模の生産のある国は、トルコ113万台、インドネシア121万台である。BRICsの一員である南アフリカ共和国では約50万台の生産があった。
第二次世界大戦による大量破壊の翌年の1946年における自動車登録台数は約5千万台で、1955年に1億台を超え、1967年には2億台、1979年には4億台、1986年には5億台となり、24年後の2010年には10億台を超えた。
この間に各国で人・物資輸送の主体が鉄道から自動車へと転換し、総人口の増加、自動車普及率の向上とも相まって自動車登録台数が飛躍的に増加していった。
1台あたりの人口の数値は1960年と2002年のもの以外は登録台数の有効桁数を一桁で計算しているので、大まかな数値である。
20世紀末からは中国の経済成長に伴い、中国での自動車生産も始まり21世紀初頭には米国に次ぐ自動車保有国となった。2010年の中国の自動車登録台数は前年比27.5%増と大幅な伸びを示しているが、中国における人口あたりの普及率は未だに低く、さらなる増加が見込まれている。中国に並ぶ人口大国のインドでも経済成長が著しく大きく登録者台数を伸ばしているが自動車保有台数は中国の約3分の1である。中国についで増加台数の多い国はブラジルで2010年には250万台増加した。
2012年末における世界の乗用車、トラック・バスを含む四輪車保有台数は約11億台で、6.3人に1台の保有率となっている。11億台の内訳は乗用車が7億7332万台、トラック・バスが3億4123万台で、乗用車の普及率は9.1人に1台となっている。自動車の普及の著しい北アメリカ、西ヨーロッパ、日本、豪州では乗用車の普及率は約2人に1台であるが、米国に次ぐ自動車保有国である中国では人口あたりの乗用車保有率は約26人あたり1台である。
参考までに二輪車(自転車を除く)の保有台数(2011年または2012年)は全世界で約2億台から4億台と推定されており、中国に約1億台(1台あたり13人、以下同)、インドネシアに約7598万台(3人/台)、タイ1924万台(4人/台)、台湾1514万台(1.5人/台)、日本1199万台(11人/台)、マレーシア1059万台(3人/台)、イタリア858万台(7人/台)となっている。
自動車の地域別保有台数を以下の表で示す。
2010年の集計では米国とEU27カ国が2大自動車保有地域である。EU27カ国の大半は独・仏・英・伊・西(=スペイン)の5カ国であり、新車登録の75%はこの5カ国によるものである。EU27カ国には世界の27%の2.7億台、米国には同24%の2.4億台があった。これに続くのが国土面積や人口で比較にならないが中国と日本である。それぞれ76百万台、75百万台で約7%のシェアであった。次は日本より人口が1割強多く最大の国土を持つロシアで保有台数は約4千万台であった。
2030年にかけては、EU27カ国および米国では2-3割の増加でそれぞれ3.5億台、3.0億台、中国は約3倍の2.2億台、インドは約6倍の1.2億台となると推定されている。ついでロシア87百万台、2010年比微減となると予想される日本の73百万台、1.8倍の53百万台となるブラジルなどが続く。経済成長の著しい韓国では2030年には普及率が日本など自動車先進国と並び倍増の4千万台となると予想されている。
最多の保有台数(全4輪車1台あたり1.2人)である米国のなかでも保有率が高いのがロサンゼルスである。なお米国の普及率を乗用車のみでみると1台あたり2.6人と他の自動車普及国がほぼ2.0人かそれ以下であるのに対して普及率が低くでている。これは米国では乗用車に分類されないピックアップと呼ばれるトラックが自家用として広く普及しているためである。
自動車社会であるロサンゼルス郡は、面積が東京都の約4.6倍の約1万平方キロで、人口は東京都の約4分の3の約1千万人で、約700万台(2008年末)の登録車両がある。運転出来ない若年層を考慮すると平均ではほぼ1人に1台の状態である。ロサンゼルス市にはかつて路面電車が走っていたが、20世紀半ばには廃止され(アメリカ路面電車スキャンダル)1940年のパサデナフリーウェイ(Arroyo_Seco_Parkway)を皮切りに高速道路が整備され自動車社会へと変わっていった。これにより街自体が人の移動を車によるものとの前提で開発され、広大な駐車場を備えたスーパーマーケットやショッピングセンターが近郊の小売業を駆逐していき、ちょっとした買い物でも車で移動せざるを得ない状態になっている。1990年代には地下鉄(ロサンゼルス郡都市圏交通局)の開業が始まったが、整備状況は限られている。
ロサンゼルス郡では高速道路網(Freeway)も張り巡らされており、多くの一般道も片側3車線前後であるが、朝夕の通勤退社時には高速一般道ともに大きく渋滞している。道路の整備は米国の他州はもちろん各国に比べ進んではいるが、地下鉄やバスなどの公共交通機関が未熟な為に約84%が通勤に乗用車を運転しており公共機関の利用者は6%に留まり、全米で最悪の交通渋滞との評価が下されている。
カリフォルニア州ではガソリン価格は米国平均よりも高く、排気ガス規制もより厳しい独自のものを設定しており、より小型の車やハイブリッドカーが選択される傾向が他州よりも強い。
日本には1898年(明治31年)ごろから自動車が輸入されはじめ、道路法が成立した1919年(大正8年)には自動車台数は5000台に達していた。大正時代の関東大震災を挟んで急増し、1926年(大正15年)で3万2000台に達し、1932年(昭和7年)には10万台を超えた。1945年(昭和20年)における二輪車・小型特殊車両を除いた自動車保有台数は、14万台弱、保有率は0.2%に過ぎなかったが、敗戦後の自動車の普及はめざましく、1950年(昭和25年)には35.9万台、1955年(昭和30年)には92.2万台となる。1956年(昭和31年)には戦後の復興を遂げ「もはや戦後ではない」といわれるようになり、前年1955年には通産省が「国民車構想」を発表した。1958年(昭和33年)にスバル・360が発売され60年代前半には各社から軽自動車が発売された。1960年(昭和35年)は230万台、1965年(昭和40年)には724万台となり、わずか10年間で約8倍に急増した。1966年(昭和41年)は「マイカー元年」と呼ばれトヨタ・カローラ・日産・サニーなどの大衆車が発売され自動車が普及し始めた。
1966年(昭和41年)のトラック・バスなどの大型車も含めた自動車保有台数は約884万台で、翌1967年には1095万台、1971年(昭和46年)に2045万台、1982年(昭和57年)に4130万台、1997年(平成10年)に6984万台となった以降は微増となり2004年以降は7500万台前後で推移し、2014年は2輪車を除いた保有台数は7721万台、保有率は60.6%であった。この保有台数は国別では米国、中国に次ぐ3番目で、人口あたりの保有台数では米国や西ヨーロッパ諸国とほぼ同率である。2030年にかけては海外では引き続き増加していくが、日本では微減すると予想されている。
60年代後半からの急激な自動車の増加に対して道路整備は立ち遅れ、各地で交通渋滞や交通事故の増加が問題となった。また排気ガスによる大気汚染も70年代に深刻化した。日本においては1970年代から高速道路(高規格幹線道路)の整備が始まったが、急増する保有台数に追いついておらず、日本の高速道路の整備状況は米国とはもちろん、ドイツ、フランス、中国、イギリス、韓国よりも低い水準である。
なお二輪車では、原付を除く125cc超の二輪車は1966年には約88万台であったが、2013年には125cc超が4倍の約354万台となった他、原付第一種が666万台、第二種が163万台で二輪車の合計は1182万台であった。
2013年の四輪と二輪の合計は8791万台で国民1.4人に1台の普及率となっている。
20世紀末から日本の登録台数は頭打ちであるが、小型車、特に軽自動車がシェアを拡大してきている。軽自動車は技術の進歩に加えて、従来の取り回しの良さと経済性で弱点が少ないことから、90年代以降着実に台数を伸ばしている。
2013年の日本の自動車普及率は対人口では1台あたり1.7人、乗用車に限ると2.1人であり、これは100人あたり59.7台、46.6台となる。以上は自家用、業務用、軽から大型まですべてを含む数値である。
2013年の世帯あたりの自家用乗用車(軽自動車も含む)の普及率をみると、日本平均は1世帯あたり1.08台で各家庭にほぼ1台の割合となっている。世帯あたりの人数は、2010年では最大が山形県の3.16人で最低が北海道の2.27人で全国平均は2.59人であった。
世帯ベースで各地域をみると保有台数の多い県は上位10地域で、福井県(1.77台)、富山県(1.73台)、群馬県(1.68台)、山形県(1.68台)、岐阜県(1.65台)、栃木県(1.65台)、茨城県(1.63台)、長野県(1.59台)、福島県(1.56台)、新潟県(1.56台)などで、その他の大半の県で1台以上となっている。1台を切るのは5地域のみで、少ない方から東京都(0.48台)、大阪府(0.68台)、神奈川県(0.75台)、京都府(0.86台)、兵庫県(0.94台)と、当然ではあるが、公共輸送機関の発達した人口密度の高い(人口都市集中の激しい)都道府県で保有台数が少なくなっている。なおこの5都府県に続いてすくないのが北海道(1.008台)、千葉県(1.02台)であった。国土面積の約2割以上を占める広大な北海道で世帯当たりの保有数が少ないのは世帯あたりの人数が最小であることも影響している。
将来の登録台数予測はいくつかの機関から出されており、2030年の自動車登録台数は17億から20億台との推定が出ている。自動車は2030年にかけて中国、中近東、インドで大きく普及し、総普及台数は17億台に達すると見られている。2050年には25億台となるとの予測も出されている。
二輪車も2010年の約4億台から2030年には9億台へ達すると推定されている。
仮に中国で乗用車の普及率が先進国並の2人に1台となると2012年時点の人口13.4億人では6.7億台となり、約6億台が増加することとなる。これは2013年の世界の自動車生産実績8730万台の約7年分に相当し、2013年の中国の自動車生産実績2212万台の27年分である。
全世界での自動車生産台数は非常に大きく、しかも自動車を構成する数多くの部品を製造するには非常に多くの人員が必要となる事から、自動車は巨大産業である。自動車産業内での企業間の競争は激しく、価格競争の激化や経営内容悪化や淘汰などが起き、1980年代以降、多国籍企業グループへの集約が進んでいる。
自動車製造には数万点におよぶ部品(鋼材、ガラス、座席、電子機器、ねじなど)が必要であり、消費者からは直接的には見えない諸企業(鉄鋼産業・ガラス産業・合成樹脂メーカー、電子機器メーカー、ソフトウェア製造業まで、数え切れないほどの企業)の売上にも影響を及ぼし、製造には大規模な設備投資が必要となることが多く、その企業や工場だけでなく、協力会社なども集まってきて企業城下町を形成するなど、自動車企業・工場の立地場所周辺への経済的効果は非常に大きいといえる。
近年はグローバル競争が激しくなってきていることや、年々排ガスや安全の基準が厳しくなっていること、自動運転や電気自動車の研究開発など、個別の企業でそれらに対処するのは難しくなってきているため、M&Aや提携をするケースが増えている。
自動車ブランド・メーカーや自動車製造者についての詳細な情報は、
2022年現在は以下の通り。
2017年時点。出典:。
自動車関連の仕事・職業のひとつに自動車整備士がある。 各国で状況は異なるので、自動車整備士という記事で詳しく説明する。 | [
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"text": "自動車(じどうしゃ、英: automobile、motorcar、motor vehicle、car)は、原動機の動力によって車輪を回転させ、軌条や架線を用いずに路上を走る車。広義には自動二輪車(オートバイ)も含むが、本項では四輪自動車について述べる。",
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"text": "自動車は、大辞泉では原動機の動力によって車輪を回転させ、軌条や架線を用いず路上を走る車、と説明されている。 角川の1989年の国語辞典には「発動機の動力で軌道なしに走る四輪車」と記載されている。",
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"text": "自動車は、18世紀に蒸気機関を用いた蒸気自動車として登場し、19世紀にはイギリスやフランスで都市間を移動するためのバスに用いられるようになっていた。19世紀後半、1870年代から1880年代にかけてはオーストリアやドイツでガソリンの内燃機関を用いた自動車の制作や特許取得が行われた。1896年に米国のヘンリー・フォードもガソリン自動車を開発し、1903年に自分の名を冠したフォード・モーター社を設立し、まずは2気筒エンジンの小さな車の製造・販売を開始、1905年には4気筒エンジン車を販売開始、1908年には改良のうえ、価格も比較的安く設定したフォード・モデルTを発売し、大人気となった。モデルTは1909年の1年間だけでも1万台を超える数が売れ、米国で急速に自動車が普及してゆくことになる。米国ではそれまで街の大通りを走る車と言えば(裕福な人々が所有し、御者付きの)馬車ばかりだったのだが、その後 わずか10年ほどのうちに馬車の所有者たちはそれを自動車へと換えてゆき、米国の通りの景色は一変することになった。1910 - 1920年代には安価な大衆車も普及しはじめた。→#歴史",
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"text": "自動車は基本的には、人や貨物を運ぶための実用の道具として用いられるものであり、交通手段の一つとして通勤・通学、客の送迎、顧客先訪問、旅の際に使用される事がある。貨物輸送に関してはトラック(貨物自動車)等を用いて、多種多様な荷物が運ばれており、鉄道が駅から駅への輸送しかできないのに対して、自動車は戸口から戸口へ(=建物から建物へ)と輸送できるという特徴がある。→#自動車の利用",
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"text": "また自動車は、実用性を離れて、愛着の対象となって趣味的に所有されたり、運転を楽しむため(スポーツ・ドライビングやツーリング)に用いられたり、整備すること(\"機械いじり\")を楽しむために用いられることもある。また高級車の場合ステータスシンボルとして利用される場合などもある。→#自動車文化",
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"text": "自動車は世界中で大量に普及したため、大気汚染の原因となったり、その石油資源の消費量によって石油危機時のリスク要因となったり、道路上の自動車の過密状態などの問題を引き起こしている。課題の解決に向けた努力も続けられており、大気汚染防止のために行政は排出ガス規制を行い、自動車メーカーは消費する石油を減らすこと、つまり燃費の向上(省燃費エンジンの開発)を行い、電気自動車、ハイブリッド・カー、水素自動車などの開発・販売も行われている。",
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"text": "専用の軌道を必要としないことから、経路と進路の自由度が高いという特徴がある。 自動車を動かすこと・操ることを運転と言い、ほとんどの国で、公道での自動車の運転には運転免許が必要とされている。自動車の最初期の段階からすでに運転を誤る事故(交通事故)が発生していた。自動車によって、怪我をさせられたり命を失ってしまう人やその家族という被害者が生じ、同時に運転者が加害者として生きていかなければならなくなることは、自動車普及後の社会が抱え続けている重い課題のひとつである。最近では単純な自動運転技術を超える、本格的な人工知能と高度なセンサー類を用いて自律走行が可能な自動運転車も研究されており、AIならば人間が運転するよりも事故率が劇的に減るであろうと期待されてもいて、一部ではすでに(社会実験的な)導入が開始されており、世界での本格的な普及開始の時期が近付いている。→#負の影響",
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"text": "自動車の生産は、部品となる様々な工業製品があってはじめて可能となるので、他の様々な工業の振興、一次的工業品の製造とも関連する。その規模の大きさ、影響の大きさによって、政府にとっては自動車の製造は(一国の)経済を支える重要な産業となりうる。現在のところ、一握りの先進国が自動車の生産を独占してしまっているような状況にある。多くの開発途上国の政府が、自動車製造を行うために懸命の努力を行っている(例えば、先進国の自動車メーカーや政府と交渉し、自動車を輸入するだけでなく、自国内に製造工場などを設けさせる努力を続けている)のは、経済的な影響が大きいからである。→#自動車産業",
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"text": "最初の自動車は蒸気機関で動く蒸気自動車で、1769年にフランス陸軍の技術大尉ニコラ=ジョゼフ・キュニョーが製作したキュニョーの砲車であると言われている。この自動車は前輪荷重が重すぎて旋回が困難だったため、時速約3キロしか出なかったにもかかわらず、パリ市内を試運転中に塀に衝突して自動車事故の第一号となった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "イギリスでは1827年ごろから定期バスとして都市部および、都市間で広く用いられ、1860年ごろにはフランスでも用いられるようになった。1885年に、フランスのレオン・セルボレが開発し1887年に自動車に搭載したフラッシュ・ボイラーにより蒸気自動車は2分でスタートできるまでに短縮された。1900年ごろにはアメリカ合衆国で、石炭の代わりに石油を使った蒸気自動車が作られ、さらに普及していった。この頃は蒸気自動車の方がガソリン自動車よりも騒音が少なく運転が容易だった。アメリカ合衆国では1920年代後半まで蒸気自動車が販売されていた。",
"title": "歴史"
},
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"tag": "p",
"text": "1865年にイギリスで赤旗法が施行された。当時普及しはじめた蒸気自動車は、道路を傷め馬を驚かすと敵対視されており、住民の圧力によってこれを規制する「赤旗法」が成立したのである。この法律により、蒸気自動車は郊外では時速4マイル(6.4 km/h)、市内では時速2マイル(3.2 km/h)に速度を制限され、人や動物に予告するために、赤い旗を持った歩行者が先導しなければならなくなった。その結果、イギリスでの蒸気自動車の製造・開発は、この赤旗法が廃止される1896年まで停滞することになり、それに続くガソリン自動車の開発においても、ドイツやフランスが先行する事になる。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "日本では1904年(明治37年)に、電気技師の山羽虎夫が制作した蒸気自動車が最初で、これが日本産自動車の第1号だといわれている。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "1870年、ユダヤ系オーストリア人のジークフリート・マルクス(Siegfried Samuel Marcus)によって初のガソリン自動車「第一マルクスカー」が発明された。1876年、ドイツ人のニコラウス・オットーが石炭ガスで動作する効率的な内燃機関のオットーサイクルを発明すると、ゴットリープ・ダイムラーがこれを液体燃料を用いるガソリンエンジンへと改良して二輪車や馬車に取り付け、走行試験を行った。1885年にダイムラーによる特許が出されている。1885年、ドイツのカール・ベンツは、ダイムラーとは別にエンジンを改良して、車体から設計した3輪自動車をつくった。ベンツ夫人はこの自動車を独力で運転し、製造者以外でも訓練さえすれば運転できる乗り物であることを証明した。ベンツは最初の自動車販売店を作り、生産した自動車を数百台販売した。また、ダイムラーも自動車会社を興した。現在、ガソリン式自動車の発明者はダイムラーとベンツの両者とされることが多い。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "1898年(明治31年)には、フランスから日本に輸入されたガソリン自動車「パナール・ルヴァッソール」が、日本国内最初の自動車として登場した。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "日本国産のガソリン自動車は、1907年(明治40年)に誕生した「タクリー号」が最初であった。名称の由来は、道を「がたくり、がたくり」と音を立てて走ることから。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "19世紀の自動車は手作りであるため非常に高価なものであり、貴族や富裕層だけが所有できるものであった。そして彼らは自分たちが持っている自動車で競走をすることを考えた。このころに行われた初期の自動車レースで活躍したのが、ルノー、プジョー、シボレー、フォードといった現在も残るブランドたちであった。このころはまだガソリン自動車だけでなく蒸気自動車や電気自動車も相当数走っており、どの自動車が主流ということもなかったが、1897年のフランスでの自動車レースでガソリン自動車が蒸気自動車に勝利し、1901年にはアメリカのテキサス州で油田が発見されてガソリンの供給が安定する一方、当時の電気自動車や蒸気自動車は構造上の問題でガソリン自動車を超えることができず、20世紀初頭には急速に衰退していった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "当初は自動車を所有するのはごくごく少数の貴族や富裕層にとどまっていた。所有者に重いコストがのしかかる乗り物という存在を、所有せず活用する、という発想は古くからあり、例えば古代ローマにも馬車を現代のタクシーのように従量式で使う手法も存在したことがあったともいう。1620年にはフランスで貸馬車業が登場し(言わば、現代のレンタカーに当たる)、1662年にはブレーズ・パスカルが史上初のバスとされる5ソルの馬車を発明しパリで営業を開始した。1831年にはゴールズワージー・ガーニー、ウォルター・ハンコックが蒸気式の自動車で乗り合いバスの運行を開始した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "1871年にはドイツ人のヴィルヘルム・ブルーンによってタクシーメーターが発明され、1897年にはゴットリープ・ダイムラーが世界初のメーター付きタクシー(ガソリン車)Daimler Victoriaを製造した。レンタカーの最古の歴史ははっきりしないが、米国における最初のレンタカー業者は、初の量産車とされるT型フォードを用いて1916年から営業した、と言われることはある。その最初のレンタカー業者とされるネブラスカの男Joe Saundersは、車にメーターを取り付け 1マイルあたり10セントの方式で貸したという。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "米国で1908年、フォードがフォード・T型を発売した。フォードは、流れ作業による大量生産方式を採用し自動車の価格を引き下げることに成功した。これにより裕福層の所有物であった自動車を、大衆が所有することが可能となり自動車産業が大きく発展するさきがけとなった。ヨーロッパでは1910年ごろに、大衆の自動車に対する欲求を満たすように、二輪車の部品や技術を用いて製造された小型軽量車、いわゆる「サイクルカー」が普及していった。1922年にフォードと同様の生産方法を用いた小型大衆車が発売され、本格的に自動車が普及していく事になった。また、それに伴いサイクルカーは姿を消していき、大衆車の普及によって、一般市民が自動車を所有することが可能となり、自家用自動車(自家用車)が普及すると、それに伴って自動車の利用が一般化、いわゆるモータリゼーションが起きた。世界で初めてモータリゼーションが起こったのは1920年代のアメリカ合衆国であり、次いで西ヨーロッパ諸国においても起こり、日本でも1970年ごろにモータリゼーションがはじまった。個人用自動車の普及は、鉄道や船といった公共交通機関に頼っていた時代に比べて利用者に圧倒的に高い自由度をもたらし、個人の行動半径を大きく拡大させることとなった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 20,
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"text": "だが現代では、自動車を個人が所有するには、払わなければならない費用は、車両の価格だけで済まず、それ以外に自動車税・自動車重量税・自賠責保険料・車検代・消耗品等の費用・ガソリン代・駐車場代・任意保険料などの費用がかかる。ナイル株式会社が2022年に公表した、「自家用車にかかる費用が家計を圧迫していると感じるか?」という設問で行ったアンケートの結果によると、 62.4%(730人)が(自動車にかかる費用が家計を圧迫していると)「感じる」と答えた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 21,
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"text": "1970年代にはスイスなどでカーシェアリングも始まった。カーシェアはその後世界各国に広がり、 2000年代には、アメリカやヨーロッパなどではUber(ウーバー)など、自家用車による有償ライドシェアを認める地域も増えてきているなど、自動車を個人所有せず快適に利用する方法は多様化してきている。(日本は既得権益優先なのでウーバーが参入できていない)。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "なお自動車で採用された大量生産の手法が、ライン生産方式という効率的な手法を、自動車産業に限らず様々な製造業において広めてゆくことになった。これは企業経営者にとっては好都合な手法であったが、それは同時に分業が徹底される結果を生み、工場で多くの労働者が、まるでただの機械や道具のように扱われ、同一の単調な作業ばかりを繰り返すことを強制され、働くことに喜びを見出しにくくなる、労働者に精神的な不幸をもたらすという負の事態も引き起こした。一時期はあまりに効率重視で作業の細分化がゆきすぎ、それこそひとりの労働者が、ボルトを1個~数個締める作業ばかりを繰り返すなどというひどい方式になってしまい、労働者への精神的な悪影響が大きくなりすぎ、それが学者などからも指摘されるようになり、その後長い年数をかけて、作業を細分化しすぎないように、ある程度はまとまった範囲の任務を与える、という方式を採用する工場も増えてきた。たとえば一人の担当者が、せめてエンジン部分はまとめて責任を持って一人で組み立てることで、その人なりに「自分の作品を仕上げた」と感じられるようにする、などといった方式である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "中国など新興国の経済成長や人口増加で、世界全体の自動車販売台数は増えている。これに伴い化石燃料の消費増や大気汚染が問題となり、各国政府は自動車に対して排気ガスなどの規制を強化。自動車メーカーは温室効果ガスや大気汚染物質の排出が少ない又は皆無で、石油資源を節約できる低公害車の開発・販売に力を入れる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "近年は、公害や地球温暖化の対策として、電気自動車や燃料電池車等のゼロエミッション車の開発が進んでいる。特に2015年にフォルクスワーゲングループにて発覚した排ガス不正でディーゼルエンジンの悪影響が露呈されてから、欧州各国では近い将来ガソリン車およびディーゼル車などの販売を禁止する法案が賛成多数の情勢にある。オランダとノルウェーでは2025年、ドイツでは2030年に施行するべく、そうした法案が提出され始めている。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "近年は情報通信技術(ICT)が急速に進歩している。このため自動車メーカーや大手ICT企業は、インターネットで外部と接続されたコネクテッドカーや、人工知能(AI)を応用した自動運転車の研究・開発も急いでいる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "かつてはSF作品中の存在であった「空飛ぶ車」の開発も進んでいる。日本では、トヨタ自動車グループの支援を受ける有志団体「CARTIVATOR(カーティベーター)が、2018年の試作機完成を目指していた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "自動車の分類法はいくつもあるが、おおまかに言うと、構造(ハードウェア)による分類と使用目的(ソフト)による分類がある。",
"title": "分類・種類"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "理屈の上では使用目的と構造の組み合わせがマトリックス(縦横の表)のように多数あるわけだが、実際には全ての組み合わせが用いられるではなく、使用目的ごとに適している構造は(全ての構造ではなく)いくつかの目的に適した構造に絞られることになり、また多くの使用者・購入者から評価される典型的な組み合わせや傾向のようなものが生じ、ただしそれはまったく固定しているわけではなく、時代とともにそれが緩やかに変遷を経てきた歴史がある。",
"title": "分類・種類"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "特定の国に限らない分類としては、基本的には、たとえば、目的によって「乗用車(数名の人を運ぶための自動車) / 貨物車(貨物を運ぶための自動車)/ 特殊な車(それ以外の目的の自動車)」と分ける方法がある。またたとえば、大きさによって「小型車 / 中型車 / 大型車」などと分ける方法が、基本的にはある。",
"title": "分類・種類"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "なお自動車が登場する以前の馬車の時代に、馬車がその姿(形状)によって分類され、すでに分類法やその分類用語が確立していたので、(馬を排したとは言え)自動車の車体に関してもそれに沿った分類法が採用されてきた歴史がある。「セダン」「クーペ」「ワゴン」などという分類法はもともとは馬車の分類法を継承したものである。→#普通自動車の分類",
"title": "分類・種類"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "それぞれの国で法規によって排気量や車体の大きさ、輸送能力などによって分類されている。それが税区分や通行区分、運転免許の区分の基準とされる。",
"title": "分類・種類"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "日本においては、道路交通法第三条により、大型自動車、中型自動車、準中型自動車、普通自動車、大型特殊自動車、小型特殊自動車、大型自動二輪車、普通自動二輪車の8種類に分類され、道路運送車両法第三条により、普通自動車、小型自動車、軽自動車、大型特殊自動車および小型特殊自動車に分類されている。",
"title": "分類・種類"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "日本では上位概念で「自動車」が明確に定義されており、動力(原動機、電動機など)により駆動される物や牽引される物は名前や形状に関わらず自動車とされる。一方でオーストラリアでは上位概念で自動車が定義されて無く、ピクニックテーブルにエンジンを取り付けた「エンジン付き移動式ピクニックテーブル」などの運行を取り締まる事ができずに、地元警察は「危険だから」という理由で運行しないことを呼びかけている。",
"title": "分類・種類"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "国際的な統計品目番号では第87類の「鉄道用及び軌道用以外の車両並びにその部分品及び附属品」に分類される。",
"title": "分類・種類"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "もとは馬車の形状による分類用語である。その後、馬車にはなかった分類用語が追加されてきた歴史がある。",
"title": "分類・種類"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "なお、自動車メーカーが差別化(付加価値)として商品につける商品名(商標)においてはこの限りではなく、2ボックス形状のセダン、4ドア・5ドアのクーペ、ハッチバック形状のワゴン、ワンボックス形状のワゴンなど、下記の形状と異なるものも多い。",
"title": "分類・種類"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "屋根による分類法は次のようなものがある。",
"title": "分類・種類"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "自動車メーカーが消費者を満足させるために、乗用車(普通自動車)に関してさまざまな形状のものを開発してきた結果、1980年代~2000年代以降、従来の分類法や分類用語では分類しきれない車や、あるいは複数のカテゴリに該当するような車が増え、消費者も自動車メーカーも自動車誌等も、従来の分類法やカテゴリ名に困惑を感じることが増え、メーカーや販売会社と消費者のコミュニケーションでも混乱が生じるようになった。そうした困惑や混乱を回避するために、多種多様な普通自動車をざっくりと以下のように分類する方法が考えだされ、それが採用されることが増えた。",
"title": "分類・種類"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "自動車はその歴史のなかで様々な構造が現れ、変遷を繰り返してきた。ここでは現在市販されている自動車として一般的なものを示す。したがって、いくつかの自動車には例外があり、特に競技用や、特殊自動車などについては構造が大きく異なる例もある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "車体の強度部材に用いられる材料は鋼鉄が主流で、近年では超高張力鋼板の使用部位が広範にわたっており、アルミニウム合金や炭素繊維強化プラスチックなどの複合材料を用いたものも市販されるようになってきている。骨格部材以外のパネル部分には合成樹脂を用いる例も増えてきている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "構造は大きく分けてフレーム形式とモノコック形式とに分けられる。フレーム形式は独立した骨格部材の上に、車室を構成する構造物が載せられたもので、古くから自動車の車体構造として用いられ、現在でも貨物自動車を中心に採用されている。モノコック形式は車室を構成する外殻自体が強度部材として作られた構造で、20世紀半ば頃から自動車の車体構造として普及しはじめ、現在の乗用車と小型商用車(LCV)のほとんどで採用されている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "現在は内燃機関か、電気モーターを用いるものが主流である。内燃機関では、ピストンの往復運動をクランクシャフトで回転運動に変換して出力するディーゼルエンジンやガソリンエンジンなどのレシプロエンジンが一般的である。それぞれに4サイクルと2サイクルがあるが、現在では4サイクルが主流となっている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "火花点火内燃機関の燃料にはガソリンが用いられるのが主流となっているが、環境性能や単価を理由に液化石油ガス(LPG)や液化天然ガス(LNG)、エタノール等のアルコール燃料が用いられる場合もある。近年では、内燃機関と電気モーターを組み合わせたハイブリッドカー、電気自動車などが普及してきている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "動力は、ガソリン自動車の場合は、原動機が効率的に出力を発揮する回転速度から、走行に適した回転速度へと変速機によって減速あるいは増速される。変速機は、運転者が複数の減速比から選択して操作するマニュアルトランスミッション(MT)と、自動的に選択または変化するオートマチックトランスミッション(AT)に大別できる。MTは基本的に減速比を切り替える際などにはクラッチを操作する必要があるが、このクラッチ操作を自動化したものはセミオートマチックトランスミッションと呼ばれる。近年は、MTの基本構造を持ちながらクラッチ操作と変速操作が自動制御された、自動制御式マニュアルトランスミッション(AMT)も普及し始めている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "電気自動車の場合は、原動機の効率的な回転速度の範囲が広いため減速比を切り替えない変速機を採用し、原動機を逆回転させることが可能なので後退ギアを持たない場合がほとんどである。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "マニュアルトランスミッションの場合、前進の変速比は3段から6段程度が一般的だが、副変速機を用いて変速段数を2倍とする例も貨物車を中心に少なくない。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "オートマチックトランスミッションは、トルクコンバータとプラネタリーギアを組み合わせたものが広く普及している。日本の乗用車では、CVTと呼ばれる無段変速機の採用例が増えてきている。いずれの方式においても、運転者の操作によって「Lレンジ」などのように減速比の範囲を限定する機構や、「マニュアルモード」、「ホールドモード」、「スポーツモード」などと呼ばれる任意の減速比に固定できる機構を備えている。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "セミオートマチックトランスミッションは日本の法規ではAT車に分類され、日本車の例ではトヨタ・MR-SのSMTがある。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "操舵は前輪の方向を変えて車体を旋回させる前輪操舵方式が一般的で、その機構全体を指してステアリングと呼ぶ。操作部を「ハンドル」あるいは「ステアリング・ホイール」と呼ぶ。ハンドルの回転はボール・ナットやラック・アンド・ピニオンなどの機構を介して車輪を左右に押す作用に換えられる。近年は油圧や電動モーターを用いて運転者のハンドル操作を助力するパワーステアリングが広く普及している。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "旋回時の各瞬間に、それぞれの車輪がその動いている方向を向くようにすると、前輪の左右では舵角が異なる。例えばハンドルを右に切ると右タイヤの方が舵角が大きくなる。これについての機構をアッカーマン機構と呼ぶ。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "主たる制動操作は、足踏み式のペダルで行うフットブレーキがほとんどである。ペダルに加えられた力は油圧や空気圧を介してブレーキ装置に伝達し、摩擦材を回転部分に押しつけ、運動エネルギーを熱エネルギーに変換して速度を落とす。市販車のほとんどが、エアブレーキ以外の液圧式では、エンジンの吸気管負圧や油圧を利用した、ペダル踏力を軽減する倍力装置を有している。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "下り坂などで、フットブレーキに頼り過ぎるとフェード現象で制動力が著しく低下したり、ベーパーロック現象でペダル踏力が全く伝わらなくなってしまうことがある。これらを防ぐためにエンジンブレーキを利用することが運転免許教習でも指導されているが、車両総重量が大きくエンジンブレーキだけでは抑速や減速効果が得られにくい大型の貨物自動車では、排気ブレーキやリターダを搭載する車種も多い。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "高速からの制動には、放熱性に優れるディスクブレーキが有効であるが、重量が大きい車両の制動や、勾配での駐車などには、自己倍力作用の働きで「拘束力」の大きいドラムブレーキが有利となる。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "駐車時に車体が動き出さないように拘束するパーキングブレーキはワイヤ式または空気式のものが多い。乗用車の場合はブレーキ装置を制動用のものと共用する構造がほとんどであるが、制動用のディスクブレーキの内周に拘束用のドラムブレーキを備えるものもある。従来貨物車ではトランスミッション(変速機)出力部にドラムブレーキを備え、プロペラシャフトを拘束するセンターブレーキが一般的であったが、法改正により常用ブレーキを兼用する「ホイールパーク式」/「マキシブレーキ」と呼ばれる、ホイールを直接拘束する方式に移行した。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "運転者の座席は座部と背もたれを備えた椅子形のものが主流である。運転席の正面には操舵用のハンドルとアクセルペダルとブレーキペダル、あるいはクラッチペダルが備えられているのが標準的な自動車の構造である。ハンドルは円形が一般的だが、オート三輪ではオートバイやスクーターのような棒状のハンドルも存在した。また、腿まわりの空間的余裕が増える楕円形のハンドルを採用している車種もある。駐車ブレーキを操作する装置は、レバーを引き上げる方式のものが主流であるが、古いトラックやワンボックスカーでは杖状のレバーを車体前方の奥から手前に引き寄せる方式のものもある。また、近年では足踏み式のものや電気的に作動する押しボタン式も採用されるようになった。変速機の操作レバーはMTの場合はシフトレバー、ATの場合はセレクトレバーと呼ばれる。いずれの場合も運転席の脇、車体中央側の床に設置されているフロアシフトが大半を占める。古いタクシーやトラック、ワンボックスカーではステアリングコラムにシフトレバーを設置したコラムシフトのMTも多く存在した。一時期のAT車ではミニバンを中心に、ステアリングコラムにセレクトレバーを備える車種は珍しくないものとなっていたが、近年はインストルメントパネルにセレクトレバーを配置したものが多い。",
"title": "構造"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "自動車は人や物を輸送でき、また道路さえ整備されていれば様々な場所に行くことができる。これはかつての馬車で行われていた用途の継続でもあった。道路の全国的な整備が、先進国への仲間入りとも言える。",
"title": "自動車の利用"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "アメリカは、1908年に大衆車のパイオニアであるフォードT型を発売、1911年には自動車専用道路の先駆けとなるパークウェイが整備された。イタリアでは、1924年にミラノからヴァレーセまでの約50kmに、交差点のない幅10mのアウトストラーダを完成させている。ドイツナチ党のアドルフ・ヒトラーは、1933年に「休日には低所得者層が自動車に乗ってピクニックに出かけられる」暮らしが必要であると提え、モータリゼーション推進を宣言。アウトバーンの整備や伝説的大衆車フォルクスワーゲンビートルの開発に着手した。日本は、元々馬車文化が未熟であったために道路整備は難航したが、戦後に入って首都高速道路が建設されるなど、欧米に劣らぬ勢いを見せた。",
"title": "自動車の利用"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "他方の利用として、自動車を用いたサービス業が多様に存在し、市民の生活にとって大きな役割を担っている。これには大きく分けて「自動車で何かをする」形態と、「自動車に何かをする」形態がある。",
"title": "自動車の利用"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "前者の例として、旅客輸送や貨物輸送を行うサービス全般を運輸業と呼ぶ。旅客であればタクシーやハイヤー、またバスなどとして運営され、バスは多くの人員の輸送が可能であることから、形態に応じて路線バス、観光バス、高速バス、定期観光バスなどと様々なものがある。貨物輸送に関しては運送会社がトラックを用いて輸送する。 直接的な輸送サービスの提供ではないが、自動車を賃貸するレンタカーやカーリースもある。",
"title": "自動車の利用"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "後者の例としては自動車の整備を行う自動車整備業、自動車への燃料補給などを行う水素ステーションなどがある。",
"title": "自動車の利用"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "国民の安全や治安維持のために、自動車を利用する例がある。",
"title": "自動車の利用"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "パトロールカー (パトカー) は、犯罪や交通違反の取り締まりのために使用される。パトロールを行うことで犯罪の抑制に繋がるという重要なメリットも持ち合わせている。消防車は、火災その他災害に際してその鎮圧や防御を行う際に使用される。この用途は古くから馬車や人力車などで担われていた。救急車は、疾病または災害などによって発生した傷病者を治療可能な医療施設まで迅速に搬送するために使用される。一般道を利用しながら早急に目的地へ到着しなければならないため、市民の協力が重要とされる。",
"title": "自動車の利用"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "また特殊車両としては、国の平和・安全のために使用される装甲車や、建設工事に使用されるクレーン車やブルドーザー、輸送に使用されるタンクローリーやトレーラーなどがあり、いずれも国民が健康で文化的な最低限度の生活を送るためには必要不可欠な自動車である。",
"title": "自動車の利用"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "自動車愛好家については「カーマニア」を参照。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "この項では、自動車に関して長い歴史を有する「欧米諸国」と「日本」双方の文化比較を基軸として述べていく。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "「自動車の魅力」というとスポーツカーやスーパーカー、ハイパーカーといったハイエンドなタイプに焦点が当てられがちであるが、そういった部類のみでは語ることができないほど、自動車文化は多様性に富んでいる。 『エンスージアストの多くは、様々なタイプの自動車に対して関心を持っている』。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパ各国(イギリス、イタリア、フランス、ドイツなど)では、王立自動車クラブに代表されるように、20世紀初頭から貴族や富裕層らによって自動車を趣味・娯楽の対象として扱う側面が発達し(かつての乗馬、馬術の延長線上にあった)、のちに一般大衆にまでその貴族趣味的な気韻を持った、ハイカルチャーとも言うべき自動車文化が浸透していった。それは、18世紀後半から19世紀に生まれた英国の新興富裕層が、貴族以上に貴族らしくあるために自分自身に磨きをかける「ダンディズム(≒貴族精神)」と呼ばれる思想に準拠している。自動車レース黎明期の時代においては、サーキットがそういったジェントルマンたちの社交場にもなっていた。ただし貴族趣味的とはいえ、彼らは自動車の価格(大衆車/高級車などの類別)や、またそれらから生じるステータスを重視していたのではなく、純粋に趣味・娯楽の対象として自動車を求めていた。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "その一方で、”欧州では、縦列駐車する時はぶつけて止める”といった世説が出るほど、自動車を「移動手段の道具」として割り切って捉える思想もヨーロッパには根強くある。実際に走行している自動車の多くは、日本に比べて車体が汚損している傾向にあり、この思想はサイクルカー(ヴォワチュレット)やバブルカー、マイクロカーのその極端とも言える合理主義的な簡素な造りにも表れている。因みにこの文化は、その地の自動車愛好家にとっては非常に難儀なものであり、フランスにおいては都市部での治安の悪さも含め、駐車場所には特に気を使わけなければならないという話もある。",
"title": "自動車文化"
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{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "アメリカは、フォードによって自動車をいち早く大衆化させたことから、よりカジュアルで商業主義的な文化が目立つ。特にその傾向は戦後になってから顕著に表れはじめ、1940 - 1950年代における、ドラッグレースやストックカーといった単純明快なルールを持つ自動車レースの誕生は好例である。また、人種の多様性から多地域の自動車文化が数多く混在していることも特徴の一つである。それはカスタム文化に顕著に表れており、白人由来のホットロッド、メキシコ系由来のローライダー、アジア系由来のスポーツコンパクトなどがある。自動車の美しさを競うコンテストや展示会も世界的な規模で開催される。ただし、いずれも大衆性やエンターテインメント性を意識したものであることは確かであり、権威主義的な面は少ない。また大量生産方式から生まれたインダストリアルデザインは、後の自動車デザインにおける核となり、「自動車の消費」という概念を誕生させることになる。",
"title": "自動車文化"
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{
"paragraph_id": 70,
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"text": "日本の自動車文化は、明治 - 大正期にかけて欧化主義の名残があったことや、20世紀半ばまで華族制度が存在したこと、また同じく20世紀半ばまで大衆車が普及せず上流層のみしか自動車を所有できなかったことなどの理由から、必然的にヨーロッパにおける文化形成と似た道を辿ることとなった。これは自動車に限らず、ゴルフ、テニス、乗馬など当時輸入された西洋由来のハイカルチャーはみな同様の過程を経た。",
"title": "自動車文化"
},
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"paragraph_id": 71,
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"text": "1898年1月、日本に初めて四輪自動車が渡来したとされる(諸説あり。日本への自動車の渡来を参照)。1902年、川田龍吉男爵が横浜でロコモビル社製の蒸気自動車スタンレー・スチーマーを購入、通勤で乗るなど個人的に使用した。ここで川田は日本初のオーナードライバー(自家用車所有者)になったされる。1907年には、美術品コレクターで冒険家の英国人トーマス・ベイツ・ブロウが1904年製のスイフト7HPで京都から軽井沢を目指す自動車旅行を敢行したことが記録されている。1908年8月1日には、皇族の有栖川宮威仁親王が「ダラック号」(Darracq )を先頭にガソリン自動車を連ねて遠乗り会を敢行、その目的地は谷保天満宮であり、これが日本初のドライブツアー(カーミーティング)とされる。1907年7月6日、大倉財閥一族の大倉喜七郎男爵は、英国ブルックランズ・グランプリでフィアットを駆り2位に入賞、ここで大倉は日本人初のレーサーとなった。その3年後の1910年には、大倉を中心に日本初のオーナーズクラブ『日本自動車倶楽部』が結成される。事務局は帝国ホテルに置かれ、会長に大隈重信、メンバーには大倉喜七郎、伊東巳代治、寺内正毅、後藤新平、渋沢栄一、尾崎行雄といった政財界の名士が名を連ね、欧米各国の大使、公使も参加、このクラブは一大サロンとなった。当時の自動車所有者はほとんど入会したためにその影響力は大きく、自動車税の決定など行政的な業務も行なった。",
"title": "自動車文化"
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{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "その後も華族やエスタブリッシュメントのハイカラたちを中心に、日本の自動車文化は形成されていった。戦前の著名な自動車愛好家に、三井高公、細川護立、鍋島直泰、小早川元治、福澤駒吉、白洲次郎、藤山一郎などが知られている。戦後に入ってもなお、伝統的な西洋式の自動車趣味は多くの人物によって継承され、失われることはなかった。小林彰太郎、式場壮吉、福澤幸雄、徳大寺有恒、夏木陽介などは、そういった際に名が挙げられる著名人である。中でも自動車評論家の小林彰太郎は、自身がライオン創業者の一族出身でありながらも自動車評論家を生業とし、1962年に雑誌『CARグラフィック』(現・カーグラフィック)を創刊。当時では大衆の高嶺の花であった輸入車の魅力を積極的に発信し、また自身も英国流の自動車趣味を実践したことで、日本における自動車文化の普及に貢献した。",
"title": "自動車文化"
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{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦後に日本を占領した連合軍は自動車の開発を制限し、特に乗用車は事実上の禁止となった。この制限は1949年(昭和24)に解除され、1952年ごろからは先進国のメーカーと技術提携して外国車をノックダウン生産、しだいに国産化して技術の吸収に努めるメーカーが増えていった。",
"title": "自動車文化"
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{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "1960年代以降一般大衆に自動車が普及するようになると、サブカルチャーとしての側面も現れはじめる。中でもチューニングカーやVIPカー、痛車などのカスタム文化は現在では世界中に影響を与えるまでに発展している。また、この文化は非常にユニークなものである一方で、速度超過、違法改造、走り屋、暴走族といった各種違法行為、或いは騒音、運転マナーの悪さといった迷惑行為との関連が少なからずあり(これもまた一種の文化と化している)、そういった面から自動車に対して不良なイメージを連想させることがある(「VIPカー#マイナスイメージ」も参照)。これらの文化の形成過程については、「チューニングカー#日本における歴史」などを参照のこと。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "日本は、草創期から自動車生産を開始し、また同じく草創期から外国車を比較的多く輸入していたこと、或いは戦後の国産車の普及などもあって自動車と接する機会は多く、ヨーロッパやアメリカに次いで自動車文化が定着しやすい環境にあった 。そのため他のアジア各国やアフリカ諸国と比べて文化が十分成熟の域に達していると言える。軽自動車やチューニングカー、(見世物としての)ドリフト走行などは日本発祥であり、1970年代にはスーパーカーブームも到来している。上記でも触れたようにカーマニアを対象とした自動車雑誌やテレビ番組も多数ある(「Category:日本の自動車雑誌」、「Category:自動車番組」を参照)。ただし近年の日本では、カーマニアと一般大衆の間における自動車に対する興味の差が非常に大きくなっていることも指摘されている。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "CCC会長の増田宗昭は、「プレミアエイジ(60歳以上の富裕層)」の人々に自動車を楽しんでもらいたいとして、同社が展開する商業施設において自動車関連の展示会やイベントを頻繁に開催しており、また一方では、カー用品店「オートバックス」に対して、生活提案型商業施設のコンセプトを取り入れた店舗づくりも行っている。このように、近年の日本における自動車関連産業では、店舗内にカフェを設置したり、より集客の見込める場所に店舗を設置することで、自動車に興味のある人以外も取り込んでいこうとする姿勢が見られている。",
"title": "自動車文化"
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"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "トヨタ自動車会長豊田章男は、「愛車」にこだわる理由として、”数ある工業製品の中で『愛』がつくのは自動車だけだから”であるという。例えば冷蔵庫を「愛機」とは呼ばず、家は「愛家(ラブホーム)」ではなく「マイホーム(私の家)」と呼び『愛』はつかない、と述べている。",
"title": "自動車文化"
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{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "カーデザインの重要性は自動車の誕生時から常に認識されており、自動車文化の形成にも大きな役割を果たしてきた。その変遷は製造技術の発達や空気力学の発展、或いは人々の思想などにも強く関わっている。",
"title": "自動車文化"
},
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"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "以下に並べるデザインの変遷は、あくまでも概略かつ主流を示しており、いずれの時代にもこれらに反するデザインや折衷的なスタイリングを持った自動車が見られるということには留意である。",
"title": "自動車文化"
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{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "自動車黎明期と言える1900年代までのデザインは、直線と平面のみで構成された、極めて古風でシンプルなスタイリングが特徴であった。そのほとんどは馬車・自転車の延長とも言えるような簡素な造りであったため、”馬なし馬車”とも呼ばれていた。ただし1891年にパナール・ルヴァッソールによってフロントエンジン(システム・パナール)方式が確立されたことで、徐々に自動車らしいデザインへと変化していく。まもなくして、馬車時代から続投したコーチビルダーによる貴族らしい装飾が施された豪華な自動車(=高級車)が誕生し、またモータースポーツの発生によりレーシングカーも生まれたことで、本格的な自動車文化の礎が築かれていった。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "1920年代に入ると、「流線型デザイン」の誕生によってカーデザインは大きな進展を迎える。その発端は、エンジン性能の向上によって過激さを増していたモータースポーツの世界において、空力を意識したデザインがレーシングカーに続々と起用されていったことにはじまる(ただし空力の意識の発生は1900年前後の速度記録車から既に見られはじめている)。それは「ポインテッドテール」や「ボートテール」と呼ばれる、窄まったリアの形状に代表される(ブガッティ・タイプ35が著名)。その中でエドムント・ルンプラーやパウル・ヤーライによって空気抵抗を低減するボディ構造が確立されると、1930年代から一般的な乗用車にもそれに似た涙滴(ティアドロップ)型のボディが積極的に起用されはじめた。また泥除けの機能として装着されていたフェンダーに関しても、プレス成型技術の発展もあってより流麗で立体的な渦巻状のデザインに変貌し、タイヤ全体を覆うモダンなスタイリングも出現(フェンダースカート)、それらは曲線的な美しさを印象づける重要な要素として機能しはじめた。特にその前後のフェンダーの終点部分は斜め下に向かって流れるように落ち込むため、ボディ全体を尻下がりのスタイリングに印象づけた。これら一連の特徴による、丸みと曲線で構成された自動車デザインは「流線型デザイン(Streamliner, Streamline Moderne)」と呼ばれ、この時代に大流行したデザイン様式となった(インダストリアルデザインの発展にも寄与することになる)。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "このスタイリングの誕生は、流体力学理論に基づいた空気抵抗の低減と、イタリアのフトゥリズモによる「速度の美」の表現、そしてフランスのアール・デコ様式による装飾芸術という、モダニズムを根幹とした”芸術性と合理性の融合”にあった。それは機械化の波の中で新たな芸術性を模索した結果の一つの完成形とも言え、その曲線美から生み出されるスピード感やダイナミズムは自動車が芸術品として捉えられる大きな契機となった。そのため、この時代はコーチビルダーの全盛期となり、数多くのデザイナーが自動車(高級車)のボディで美しさを競い合った。この1930年代における豪奢と前衛、エレガンスが同居したデザインの一部高級車(主にフランス車)は、”Art Deco Automobiles”(アール・デコ・オートモビルズ)、或いは”Flamboyant”(フラムボワイヤン)と呼ばれ、かつては上流階級の社交界における花形的存在として君臨したほか、現在では耽美主義的な側面を持ったダイナミックな芸術作品群として認識されている。その美しさに魅了された者の中には美学者や芸術家も含まれ、日本では濱徳太郎が、欧米では、”アンドレ・ドランが「どんな芸術作品よりも、ブガッティは美しい」と述べると、マン・レイが深く頷いた”、といった逸話も残っている。",
"title": "自動車文化"
},
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"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "前述の「流線型デザイン」は、その名称が取り沙汰されなくなった1940年代に至っても、曲線と丸みを帯びたスタイリングとして、カーデザインの主流を保っていた。ただし1947年のチシタリア・202や1949年のフォード・1949などの登場によって「フラッシュサイド」ボディが大々的にフィーチャーされ、多くの自動車メーカーが採用しはじめた。この変革によって自動車はより近代的なデザインとなり、ボディ全体としてまとまりを見せるスタイリングが1950年代以降の主流となる。前照灯とフェンダーはボディと一体化され、それによってボディサイドは隆起や凹凸がない滑らかな形状となった。この特徴は2020年現在でも主流となっている形態である。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "1960年代以前、特に1920 - 1960年代の自動車の多くは、先述のようにプレスラインの少ないシンプルな造形、かつ曲線を纏ったダイナミックなスタイリングを有しており、これらは芸術性の高いカーデザインとして、展示会やオークションなどでも高い評価を受けている。1960年代までの欧州における高級車やスポーツカーは、その主な顧客である富裕層のマーケットが自動車文化の歴史が長い欧米の保守層に未だ限定的であったことから、そのスタイリングはしばしば「エレガント」、「紳士的」とも形容される。これは戦前のアメリカの高級車やスポーツカーにおいても、欧州ほど純粋・明瞭ではないものの、同じく主流として存在していたデザイン性であった。また世界各国で開催されている「コンクール・デレガンス」は、この貴族趣味的な文化やデザイン性と密接に関連したクラシックカーイベントである。生前にエンツォ・フェラーリが”LA CORSA PIÙ BELLA DEL MONDO(世界で最も美しい自動車レース)”と形容した伝説的な公道自動車レース、「ミッレミリア」(1927 - 1957)の参加車両も、この時代までのスタイリングを纏ったスポーツカー/レーシングカーである。それというのもレーシングカーに関しては、1960年代後半からプロトタイプのボディ構造が生産台数の緩和などによって本格的にサーキット仕様に傾いていったため、自動車レースで優勝争いが行われたレーシングカーに、趣味として愛玩するレベルのデザイン性と実用性が備わっているのが、1960年代までであった(これは資産価値にも多大な影響を与える)。そのため「タルガ・フローリオ」や「トゥル・ド・フランス・オートモビル」など、他の著名な公道レースもこの時代に栄華を極めた(いずれもクラシックカーラリーとして後に復活を遂げている)。",
"title": "自動車文化"
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"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "アウディのチーフデザイナーであったシュテファン・ジーラフは、”今日、車のデザインは複雑なシェイプとラインの組み合わせが主流になっています。それで顧客の興味、関心を引こうというわけです。ですが、彼らの興味はすぐに冷めてしまいます。...よいデザインとは、細部で凝っているけれど全体で見るとシンプル、そういう方向です。もしあなたが2本のラインと面で1台の車をデザインできるなら、その車は未来永劫、傑作と呼ばれるものになるでしょう”と述べており、またそういった傑作を時代の変化に合わせながらも見事に創り続けているのが、ポルシェ・911であるとも話している。ポルシェ・911は、デザインコンセプトを1948年の356から継承していることで知られており、その普遍性に魅了された者は数多くいる。",
"title": "自動車文化"
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{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "1960年代以降になると、欧州の高級車やスポーツカーは、伝統にこだわらず常に新しいものを求める新たな顧客(富裕層)の台頭によって、そのイメージやコンセプトが変化、デザイン性も大きく揺らいでいくことになる(=カジュアル化。アメリカでは、1950年代に同様の理由から欧州よりも一足早く本格的なデザインの変化が訪れるが、こちらはその変化によって逆に「アメ車」としてのアイデンティティを確立させることに成功している(後述))。そのため、1990年代以降における、1960年代以前に製造されたクラシックカーへの関心の高まりや世界的な価格高騰は、人々が未だ紳士的な生活をしていた古き時代へのノスタルジアによるものだという意見もある。英国王室では、重要な式典における自動車の起用に際して、現行車種ではなく1960年代以前の古典的なデザインを有したイギリス車が抜擢されることも多い。",
"title": "自動車文化"
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{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "1950年代初頭、アメリカの自動車ブランドの経営陣たちは、戦後の好景気と自動車の大衆化に煽られて、従来のコンサバティブなデザインからの完全な脱却を図ろうとしていた。そこで1950年代中頃から後半にかけて誕生したのが、「フルサイズ」としてカテゴライズされる、異彩を放った高級車群である。これらは、車高が低く、幅広・長大でエッジの効いたボディ、豪勢なテールフィンなど、今までの主流のデザインとは一線を画していた(ただし初期デザインに関しては、フェンダーの峰やボンネットの隆起など、フロントマスクに未だクラシカルな趣が残されていた)。その特徴の多くは国内のより安価な乗用車に対しても適用されていったが、後にそれらからテールフィンが取り除かれ、フロントノーズもフェンダーの峰が無くなり「フラットデッキ」化が図られたことで、隆起・丸みのない完全にモダンな箱型のデザインへと移行していく。アメリカ国内におけるこれらのスタイリングの流行は国外に多大な影響を与え、特に後者の角張った箱型のデザインは1960年代以降の世界的な主流となった。その起因は、製造技術の進化によって角張ったデザインでも十分な強度を確保できるようになったという技術的な理由の他に、好景気によって自動車をステータスシンボルとして扱うようになったことでデザインに対して強さや大きさを求めはじめたという心理的な理由などからであった。これら一連のデザインがいわゆる「アメ車」のイメージを確立させたとも言われ、テールフィン時代のアメリカ車は、ベトナム戦争泥沼化以前のアメリカにおける\"娯楽に時間を費やした楽しい時代\"の象徴として、またフラットデッキ時代のアメリカ車は、ローライダーなどのカスタムや映画のカーチェイスに使用されるような頑丈・屈強でアウトローな自動車として(マッスルカーなど)、或いは一貫して見られるその重厚感から「アメリカン・ドリーム」を具現化するものとしてイメージされている。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "1960年代後半からはマイナーなコーチビルダーの消滅が顕著に見られはじめた。それは、この時期あたりからモノコック構造がスポーツカーや高級車にも普及しはじめ、ボディの架装という概念が無くなりつつあったためである。或いは、同じく1960年代後半から3次元CADが自動車製造業界に参入したことで、自動車設計のデジタル化も徐々に見られるようになっている。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "1970年代になると、ジウジアーロやガンディーニによる「ウェッジシェイプ」デザインが注目を浴びる。空気抵抗の低減を目的とした「フラッシュサーフェス」化の確立とも言える近未来的でシャープなスタイリングは、スポーツカー業界を席巻した。その特徴は、ノーズ全体がくさび形(三角形)をした平滑な前傾型ノーズや、ウエストラインが後方にかけて持ち上がっていく、その前傾姿勢の形状にある。ダウンフォースを生み出し高速性能を向上させるほか、重心が後ろ側に加わった戦闘態勢のようなスタイリングにより、スピード感や躍動感が演出される効果があった。また前照灯をボディ内に格納するリトラクタブル・ヘッドライトは、フラッシュサーフェスを成し遂げ、かつノーズの傾斜を強めるのに最適な構造であったため、ウェッジシェイプデザインと見事に融合し、その双方の流行を加速させた。日本ではこのスタイリングが1970年代の少年らに大人気となり、「スーパーカーブーム」を引き起こした。因みに「スーパーカー」という名称もこの時点で誕生したため、この時代以前の高性能車に対して「スーパーカー」と呼ぶことはほとんどない。",
"title": "自動車文化"
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{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "1980年代以降は、1970年代の2度のオイルショックによるガソリン価格高騰や排ガス規制によって空力の重要性が量産車にも意識されはじめたことに加え、プレス成型技術も進化したことから、空気抵抗を意識しながらも室内を広く設計できる、「丸」と「角」を組み合わせたデザインへと自動車業界全体が徐々にシフトしていく。そのため、角張った箱型のデザインは姿を消しはじめ、ウェッジシェイプも以前のような明確なエッジを用いなくなり、滑らかなものとなった。また鉄・メッキ製であった前後バンパーは樹脂製となり、ボディ全体の一体感がより増すことになる。1990年代後半には、ATの普及や電子制御化によるイージードライブが自動車のブラックボックス化を加速させたために、デザインに「プロダクト・セマンティクス(製品意味論)」を注視しはじめ、ヘッドライトに有機的な意匠(人間の目や猛禽類の目をモチーフにしたデザイン)を取り入れていく。また自動車部品の標準化やプラットフォームの共通化も1990年代から加速の一途を辿っている。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "2000年代には、大衆車や量産車においてもウェッジシェイプ化が加速したほか、従来の「丸」や「角」といった業界全体のトレンドがなくなり、デザインの多様化が進んだ。ただし安全規則が増えたことでフロント部分ないしボディ全体が膨らみ・厚みを持つようになり、以前のように自由なデザイン性を見出すことは難しくなった。加えて、コンピュータによって空力性能の解析が著しく発展したことにより、デザインの幅が却って狭まることに繋がった。その他に、異型ヘッドライトの高度化によって縦に引き伸ばされたような前照灯の巨大化とそのLED化によって照明類のデザインの自由度が増したことで、各メーカーは前照灯や尾灯でその自動車の個性を見出しはじめ、かつてのボディの造形に注力する姿勢は相対的に少なくならざるを得なかった。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "2010年代に入ると、今までの単なる直線的なプレスラインを使用しなくとも、ボディに奥行きを持つ立体的かつ複雑なシェイプを持たせることが可能になり、それによってシンプルな造形でありつつもボディ各部に波打つような局部的な陰影が発生するようになった。或いは、1990年代からクラシック、ローテクノロジーを注視する兆しが各分野で見られはじめており、パイクカーの発売を筆頭に、2010年代になると高級車やスポーツカーにおいても、かつての伝統的なクラシックカーのイメージを彷彿させるデザイン性が潮流となっている。2020年代以降は、自動運転の実用化により、インテリアデザインの造形がより注目されるようになる可能性や、完全自動運転によって自動車事故が全く起こり得なければ、カーデザインに対して自由度が格段に上昇するという可能性もあり、自動車の存在意義が左右される新たなデザイン時代に突入しようとしている。",
"title": "自動車文化"
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{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "自動車におけるインテリアデザインには、装飾の効果的な使用や素材の質感により生み出される重厚感、機能性・合理性の追求によるミニマリズム、或いはダッシュボード上に埋め込まれた計器類によるメカニカルな魅力、ステアリング・ホイールの曲線美、といった自由な表現力を見出すことができる。近年では安全性や耐久性もデザイン設計における大きな指標となっている。また自動車は運転が主な使用法であるために、エクステリア以上にインテリアは重要な地位を占めており、車外の景色との調和性も考慮される。",
"title": "自動車文化"
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{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "自動車を操縦し、より高速なスコアタイムを目指すことはスポーツの一種として認識されており、モータースポーツと呼ばれる。とにかく速く走るためのスポーツ専用車であるフォーミュラカーで走ることが全てではなく、市販車や自作車でのレース、また長時間の運転となる耐久レース、一般公道で行われるラリーや、自然のままの過酷な道を走破するラリーレイドなど、多彩なものが世界各国で開催されている。フォーミュラ1(F1)やインディ500、ル・マン24時間レース、ダカール・ラリーといったものは特に著名な国際大会である。またその中でも、1929年からモナコ公国で行われているF1レース「モナコグランプリ」は、モナコ公爵家が後援、観覧し、トロフィーも公爵家から直接授与されることから、自動車レースの古き伝統、格式を保守している大会として知られている。",
"title": "自動車文化"
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{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "日本における自動車イベントのはじまりは1911年に目黒競馬場で行われた飛行機と自動車の競争とされるが、自動車同士のレースは1914年が始まりで、同じく目黒競馬場で4台のアメリカ車を走らせた。アメリカで人気を集めていた興行をそのまま日本に持ち込んだものであったが、客は集まらず大赤字になる。その後アメリカでモーターレース興行を行っていた藤本軍次が日本で本格的なレース興行を行いたいと企画、大正期には東京近郊の埋立地の特設コースで計11回のレースが行われたとされる。1936年には、日本初の常設サーキットとして多摩川河川敷に『多摩川スピードウェイ』が創設された。第一回大会では、三井高公男爵が輸入したブガッティやベントレーをはじめ、ホンダ創業以前の本田宗一郎が自作車でレースに参戦したほか、日産創業者の鮎川義介がスタンドでレースを観戦するなど、日本自動車レースの幕開けとも言えるレースであった。その後1957年の群馬県北軽井沢での『浅間高原自動車テストコース』開設に続き、1962年には三重県鈴鹿市に本格レーシングコース『鈴鹿サーキット』が登場した。翌年に当サーキットで「第一回日本グランプリ」が開催され、これが日本における本格的な自動車レースのはじまりとなった。1965年には千葉県船橋市に『船橋サーキット』が、翌1966年には静岡県小山町に『富士スピードウェイ』が開設されている。『船橋サーキット』では、浮谷東次郎、生沢徹、黒澤元治といった名ドライバーたちがしのぎを削ったが、たった2年で閉鎖されたことから「伝説のサーキット」とも言われるようになった。また1965年は、F1世界選手権メキシコグランプリで、ホンダがフェラーリやロータスを抑え初優勝を飾った年でもある。",
"title": "自動車文化"
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{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "趣味としては、自動車を走行させるだけに限らず、プラモデルやミニチュアカーなどといった精巧な自動車のミニチュアの製作や収集、また部品の収集や写真の撮影など多岐に渡る。走行する自動車に関する趣味としては、様々な自動車に乗車することを趣味にしたり、自動車の改造やメンテナンスを趣味にすることもある。改造車の形態としては、アート化に重点を置いたローライダーやデコトラ、スピード化に重点を置いたチューニングカーやスポーツコンパクトといったものまで多様に存在する(詳細は「Category:改造車の形態」を参照)。",
"title": "自動車文化"
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"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "また、クラシックカーや旧車・ヴィンテージカーなどと呼ばれる、過去に製造された車両を復元・保存する愛好家もいる。クラシックカーに関しては文化的・歴史的・資産的価値が認められることもあり、それらを使用した展示会や走行会は、愛好家と地方行政とが密に連携することで地域活性化の一環とされることもあ(もとより公道を走行するイベントでは、行政との連携が必須である)。また、特に価値を認められたクラシックカーは、各種オークションなどで極めて高い値で取引されることもある(日本円にして数千万円から数十億円の値が付くこともある。詳しくは「オークションで落札された高額な車の一覧」を参照)。ヨーロッパはクラシックカーに対する造詣が深いとも言われているが、年々排ガス規制が厳しくなっており、パリでは2016年から「1997年以前に製造された自動車(いわゆるクラシックカー)」の平日の市内走行を全面禁止とするなど、自動車を取り巻く状況は刻々と変化している。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "自動車を格納するガレージは、自動車のメンテナンス場所としても使われる。趣味の拠点として独り籠って利用されることもあるため「隠れ家」とも形容され、しばしば男性の憧れの対象となる。バラエティ番組『所さんの世田谷ベース』は、これらの魅力を前面に出した番組である。また最近では、リビングなどの居住空間からガラスを通して自動車を眺めることができるビルドインガレージもある。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "バス(「バスファン」を参照)やトラック、タクシーを趣味にするものもいる。書店販売上の分類などでは別の範疇に含まれることも多いが、これも広義での自動車趣味である。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "リゾート地は、美しい風景や快適な気候といった良好なドライブ環境に加え、自動車に重要なインフラも単なる地方や田舎に比べて十分に整備されているといった理由から、自動車関連のイベントが数多く開催されている。ドライブを主目的とした観光道路や有料道路などもしばしば点在している。また歴史的なリゾート地の多くは、かつて貴族や上流階級の人々が休暇を楽しんだ場所でもあることから、伝統的な自動車文化とも深い繋がりがあり、そのオマージュとしてクラシックカーのイベントが行われることも多い(同じく貴族文化へのオマージュとして、欧米では宮殿や城、ゴルフ場などを舞台にイベントが行われることも多い)。1931年には、高級別荘地として開発した鎌倉山への主要交通機関として、日本初の有料道路・自動車専用道路が設置されている。その後は1932年の関西初となる「宝塚-尼崎自動車専用道路」(バス専用道路)、1933年の軽井沢における「鬼押ハイウェー」などが、最初期の有料道路・自動車専用道路である。自動車展示施設としては、日本では有名なものに「フェラーリ美術館」(神奈川県御殿場市。2007年閉館)、「河口湖自動車博物館」(山梨県富士河口湖町。毎年8月のみ開館)などがある(全国各地にある自動車博物館については「Category:日本の自動車博物館」を参照)。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "このように、自動車は単に人や物資を輸送するだけの存在に留まらない。ただし若者の「自動車離れ」は、近年になって、日本はもとよりヨーロッパなどにおいても顕著に表れはじめている(詳しくは「若者の車離れ」を参照)。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "自動車はファッションと密接な関係がある。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "自動車は、本質的には馬車から派生した移動手段の道具であるが、その長い歴史の中で他の様々な文化、事物からモチーフを得ながら独自に発展していった。それは貴族文化やダンディズム、サブカルチャー、或いは航空機、船舶など実に様々である。これらは現代においても、乗車する際に身につけるアクセサリーなどにその名残として残されている場合がある。また逆に自動車が服飾品に影響を与えることもあり、腕時計は特に著名な例である。加えて、自動車のエクステリアが女性のファッションに例えられることもあり、イベントコンパニオンはその代表例として挙げられる。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "ファッション雑誌などでは自動車を広告塔として利用する例がある。ファッションデザイナーで知られるラルフ・ローレンは、2017年に、自宅ガレージにて自身のカーコレクションを用いたファッションショーを開催している。また自動車ブランドと服飾ブランドが共同で作品を製作することがあり、モーターショーなどで披露されている。運転の際に使用されるドライビンググローブやドライビングシューズなどについても、ヨーロッパ各国の服飾ブランドで数多く販売されている。またポルシェが「ポルシェデザイン」と称する服飾ブランドを個別に展開、或いはフェラーリやベントレーが香水をプロデュースするなど、自動車ブランドが服飾部門を別途に立ち上げることもある。イタリアのピニンファリーナや日本のKEN OKUYAMA DESIGNといったカロッツェリアは、自動車のデザインから建築や家具、眼鏡、化粧品に至るまで、様々な分野のプロダクトデザインを手掛けている。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "スイス高級時計で知られるショパールは、1988年からミッレミリアの公式スポンサーとなり、毎年リミテッドモデルをリリースしている。同社社長のカール・フリードリヒ・ショイフレは、”上質な車の愛好家は得てして上質なタイムピースを好みます。その逆もまた然り。どちらにおいても、最高の精度とスポーティなエレガンスが最も大切な要素であるからです”と述べる。同じくスイス高級時計のタグ・ホイヤーは、古くからレーシングスピリッツを重視していたが、1971年にスクーデリア・フェラーリとパートナーシップを結び、そして同年のレース映画『栄光のル・マン』の制作中にスティーブ・マックイーンが同社モデル「モナコ」を着用したことで、自動車業界の一躍人気時計ブランドとなる。また上記でも述べたラルフ・ローレンは、”Art Deco Automobiles”時代の名車ブガッティ・タイプ57SCアトランティックをコンセプトにした腕時計を製作している。他にも、数多くの高級腕時計メーカーが自動車との関わりを持っている。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "リクルート社のリクルート社自動車総研が行った(日本の中古自動車購買層に対する)アンケート調査の結果だとして示したグラフによると、2018年時点のデータとしては「自動車はステータスシンボルだ」と思っている人々は40%程度。「どちらともいえない」と思っている人も40%程度。「自動車はステータスシンボルだとは、あまり思わない」「そうは思わない」が20%程度である(ただし信憑性については疑義がある)。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "マーケティング・コンサルタントの堀好伸は、現代の日本の若者たちは(昭和時代の若者とは異なって)自動車も買わないし、酒も飲まない、と指摘している。堀好伸の分析によると、現代日本の若者は「モノを買う」「モノを所有する」などということではなく、「価値観を共有できる仲間同士で共感しあう」ことを好むようになったといい、「自らの価値観でモノやコトを仲間と共有して、一緒に楽しいことを創り上げる時代」になっている、という。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "レース映画やカーアクション映画などの自動車を主題とした映画は、長年に亘り世界中で人気である(「Category:自動車を題材とした映画作品」を参照)。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "一方で、自動車を直接的な主題としていない映画においても、自動車の魅力を効果的に利用した類のものがある。著名な例としては、『007 シリーズ』(1962年 - )のボンドカーがある。ドラマでもそのような例は多くあり、『刑事コロンボ』(1968年 - 2003年)のプジョー・403や『相棒シリーズ』(2000年 - )の日産自動車などがある。またミュージック・ビデオやCMなどにおいても、自動車の魅力を効果的に利用した作品は少なくない。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "ガソリンエンジンの内燃機関より自然に発生するエンジンサウンドは、物理・工学的な技術によって芸術的な音が生まれるというその特異なメカニズムから、幾多の自動車ファンを魅了してきた。そのため自動車ブランドの多くは、エンジン音にも積極的なチューニングを施している。中でもフェラーリに代表されるV12エンジンや、F1カーなどから発せられる高音のエンジンサウンドは、旧来から魅力的とされてきた。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "昨今のトレンドである電気自動車では、エンジン音が存在しないため、電子的な合成音を使って魅力的なエンジンサウンドを作りだそうとするブランドが増えている。その中でも2019年6月に発表されたBMWのEVコンセプトカー、”Vision M Next”では、エンジンサウンドの制作に作曲家ハンス・ジマーが起用されており、このようにエンジン音に対する概念は変化しつつある。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "自動車の車内は、一定の空間を保有しながらそれでいて閉鎖的であるため、音楽を楽しむには好適な環境であり、ドライブの魅力にも大きな役割を果たしている。そのため、カーオーディオは自動車関連用品の中でも重要な位置を占めている。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "自動車を題材とした音楽作品については、「Category:自動車を題材とした楽曲」を参照。音楽の存在を重視した自動車映画としては、『チキ・チキ・バン・バン』(1968年)や『ワイルド・スピードシリーズ』(2001年 - )、『ベイビー・ドライバー』(2017年)などがある。",
"title": "自動車文化"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "自動車は使用者に多くの便益を与えるが、地球環境の破壊の恐れや、人間の健康を害したり、生命を奪ってしまうことすらある。",
"title": "負の影響"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "自動車が社会に及ぼす悪影響の中で特に大きなものは、交通事故で、怪我人や死者やその家族という被害者と、事故を起こした車を運転していた加害者を作りだしてしまう。 交通事故は出来る限りゼロに近付けるべきであり、特に死亡事故はゼロに近付ける努力を精一杯するべきだ、とされている。日本の警察は交番などに、その地域で、日々、交通事故によって怪我を負った人や死亡した人の数を掲示し、人々に注意を喚起し、意識を変え、運転に慎重になってもらおうと努力している。",
"title": "負の影響"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "負傷(怪我)と分類される場合でも、被害者は実際には重い障害を負って生涯苦しむ人が含まれている。まして被害者が死亡してしまった場合、遺族の悲しみは計り知れない。また死亡した人に子供がいれば、その子供は交通遺児となり、「親を失った子」としてその後の人生を生きなければならず、親が生きていたらできたはずのことができない人生となる。加害者となった者も、(自賠責保険や任意保険などで)被害者に金銭的に補償すればそれで全てが済むというような生易しいものではない。たとえば、運転時にいわゆる「ながら運転」をしていた場合、危険を予見できたにもかかわらず、道路交通法で定められている「注意義務」を怠ったことによって罪が重いが、そうでなくても、ただほんの一瞬注意を怠ってしまった、ということでも過失運転致死傷罪が適用される可能性があり、運転者(加害者)は刑務所で服役しなければならない可能性がある。また、自動車保険を利用して被害者に対して金銭的に補償しても、さらに運転者が刑務所で服役しても、遺児にとって大切な親が生き返るわけでもなく、結果として加害者となった者は一生涯、被害者の人生を狂わせてしまったことに対する道義的な責任を感じ続けなければならなくなる。加害者は、「自分は人を殺してしまった」、「残された家族の人生も壊してしまった」などと苦しむようになり、加害者の人生も、大きく変わってしまうのである。自動車によって頻繁に起きるようになった交通事故は、ただの金銭問題や経済問題といったレベルをはるかに超えて、人々の人生を狂わせ、苦しめ続けている。",
"title": "負の影響"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "なお(一部に、人命を軽視する者や、人の命まで金銭に換算して済ましてしまおう、という者がいるが、それがそもそも非常に不謹慎である、と一般にされている。それでも金銭に換算して理解しようとする者にその金銭を示すと)交通事故関連の損失は、日本だけに限った場合でも、毎年6.7兆円に及んでいる。",
"title": "負の影響"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "自動車の前に馬車が普及していたヨーロッパや米国では、車(馬車)が非常に危険だということは理解されていて、歩行者と車の走行場所の完全な分離(歩車分離)が馬車時代から進み、自動車が走行する車道と、歩行者の歩く歩道の距離が何倍もとってあり、その結果事故が少ない。またヨーロッパでは「歩行者優先」が徹底されていて、歩行者がいたら、自動車運転者はほぼ絶対的に停車する。ところが日本は後進国の段階、馬車すらも普及していない状態、つまり歩行者(や人が引く荷車)しかなかった道に、いきなり自動車が人の動線を侵害するように導入されてしまった。おまけに、ヨーロッパの走行状態を知らない人々が住む日本では「歩行者優先」の原則が十分理解されず、自動車の運転者が傲慢に歩行者の歩行を妨害するようなことがまかり通るようになってしまい、それが放置されるようになってしまった。最近では海外の交通状況を理解する日本人も増えるようになり、日本でも歩行者優先意識の啓発、あるいは歩行者優先の原則の絶対厳守とその原則を守らない運転者に対して厳罰を科すことが望まれるようになりつつある。歩道のガードの拡充、十分な幅の自転車専用レーンの確保などの道路インフラ整備が必要とされている。東名飲酒運転事故以前は飲酒運転も横行していた。速度超過、事故を誘発する違法駐車、横断歩行者の妨害等などの交通犯罪が蔓延している現状がある。またスマートフォンの普及などが原因となって、2010年代後半にはながら運転による深刻な事故が統計的に明白に急増したので、「ながら運転」による事故に関しては日本政府も厳罰化した改正案を2019年5月8日に閣議決定し、法案として提出した。",
"title": "負の影響"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "また日本など高齢化が進む社会(高齢化社会)では、全ドライバーに占める高齢ドライバーの割合が増え、ブレーキペダルとアクセルペダルの「踏み間違い」や道路の逆走事故が頻発するようになってきた。高齢者は、実際には客観的に測定して運転技能が落ちているにもかかわらず、本人は逆に「自分の運転には絶対に自信がある」などと言うようになり、こうした高齢者による自信過剰が原因で、より一層重大で深刻な事故が起きていることが判ってきている。",
"title": "負の影響"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "運転技能が落ちた高齢者ドライバーほど逆に自分の運転に「自信」を持つという恐ろしいデータも明らかになってきて、もはや高齢者ドライバーの「自覚」に期待したり、(自発的な)免許の自主返納に期待することは無理だ、高齢者に期待することが事故を引き起こす環境を放置する結果を生んでいる、ということも指摘されるようになってきている。(フジテレビの情報番組などをはじめとして)日本では高齢化が進み悲惨な事故が既に急増したので、高齢者ドライバーに関しては(アクセルを踏み込む異状操作時に作動したり、障害物に突進する場合に作動する)自動ブレーキ車限定の免許」(現在のところ。また将来的には「自動運転車限定の免許」)に強制的に変えるなどの法的・行政的な対策が必要だ、との指摘が行われるようになっている。",
"title": "負の影響"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "2010年代後半、先進国の大手自動車メーカーやIT企業などが主導して、自動運転車、しかもA.I.(人工知能)と高性能のセンサーを多数活用した高度な自動運転車の開発にしのぎを削っており、すでに一部の地域では実験的に走行が始まっており、2020年代には本格的に販売され、普及が進んでゆくと予想されており、性能の良いAIを用いた自動運転車ならば、人間が運転するよりも事故率を数百分の1や数千分の1程度にまで減らすことができる、といった予想もあり、自動運転車の普及によって、交通事故で苦しむ人々が減ることが望まれている。",
"title": "負の影響"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "内燃機関自動車(ICEV)は化石燃料を燃やし、二酸化炭素(CO2)や窒素酸化物(NOx)、硫黄酸化物(SOx)、黒煙を大量に排出し、環境や人々の健康に大きな悪影響を与える。",
"title": "負の影響"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "大気汚染はぜんそくや肺疾患などを引き起し、肺がんの原因ともなっている。また、大量に自動車の走行する道路沿いでは、走行による騒音や振動などの様々な問題も引き起こす。",
"title": "負の影響"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "二酸化炭素は地球温暖化の最大の原因とされ、窒素酸化物・硫黄酸化物などは酸性雨の原因にもなっており、これらの排出の削減が急務である。",
"title": "負の影響"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "1970年代から先進国の政府によって大規模な自動車排出ガス規制が行われるようになった。その結果ようやく自動車メーカーは、排ガス中に有害物質の少ないエンジンや低燃費のエンジンを本腰を入れて開発するようになった。また、大気汚染問題を根本的に解決すべく、電気自動車などのゼロエミッション車の開発も進むようになり、2010年代では電気自動車も本格的に販売台数が伸び、ヨーロッパや中国では2020年代にさらに排ガス規制が厳格化し、電気自動車の普及の推進(や販売台数、販売割合の義務化)がされるよう予定が欧州議会や欧州の各国政府の主導で組まれており、環境にも健康にも優しい電気自動車の開発・販売や購入に対し様々な優遇措置がとられるようになっており(2012年時点ですでに行われていた)、各自動車メーカーも「脱ガソリンエンジン」「電気自動車開発」でしのぎを削っている。",
"title": "負の影響"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "2018年には生産台数が1億台へ達すると予測されているが、仮に1.36トン車の984リットルで計算すると必要なエネルギーはガソリン984億リットル相当となり、これは日本の年間ガソリン消費量55百万キロリットル(550億リットル)の約2倍である。",
"title": "負の影響"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "自動車が生活に密着していなかった頃は、犯罪者の居住地域と犯罪地域は密接な状態にあったが、自動車が普及するにつれ、この前提は崩れている。他の交通機関でも犯罪を犯した地域からの脱出は可能であるが、公共交通では移動時間帯が限られている点や、(駅にカメラが設置されている鉄道や、運転手が目撃者となり得るタクシーなど)匿名性を保つことが困難な点などの関係で、犯罪者が犯罪を犯した地域から離れる場合の手段として自動車を用いたものが増えていることが、毎年発表される警察白書から確認できる。この問題には、高速道路での移動や盗難車による移動も含まれる。この問題に対し自動車ナンバー自動読取装置設置などの対策が施されているが、高価な装置であることなどの理由から設置場所は限られており、犯罪者側もナンバーを見難くするカバーを付ける者や偽造ナンバーを付ける者がいるなど、完全な対策になってはいない。",
"title": "負の影響"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "などである。",
"title": "負の影響"
},
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"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "乗り物酔い、シックカー症候群についてはシックハウス症候群をそれぞれ参照。",
"title": "負の影響"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "20世紀に入り、フォード・モデルT(販売1908年 - 1927年)の発売から米国での普及が始まり、その後欧州でも比較的廉価な車が発売された。第二次世界大戦後には戦時中に兵器製造に従事していた各企業による自動車生産が始まり、特にアドルフ・ヒトラーの国民車構想の産物であるフォルクスワーゲン(1938年 - 2003年)は量産記録を打ち立てた。1970年代には日本においても大衆車が普及し日本車の海外輸出も始まり生産台数を伸ばし始め、同時に韓国やマレーシアなどでも自動車生産が始まった。以下で述べる生産台数はメーカー国籍別ではなく、地理的に生産された国での数値である。",
"title": "自動車の普及"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "自動車の生産台数は1950年には約1058万台で、その約8割は第二次世界大戦による戦災を逃れた米国によるものであった。ビッグスリーの地元であり、また後に日・独などのメーカーが進出した米国は、その後半世紀にわたり世界で最大の生産国であった。60年代には西独・仏・英・伊などの生産が立ち上がり、1960年の生産台数は1649万台となった。70年代には日本における自動車の増産も始まり、1970年の生産台数は2942万台、1980年には3856万台、90年代には韓国ついで中国での生産が増加し、1990年4855万台、2000年には約5837万台、2010年には7758万台2013年には8730万台と増加し続けている。2018年には1億台に達するとの予測も出ている。",
"title": "自動車の普及"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "日本における自動車生産は第二次世界大戦前は主に米国企業によるいわゆるアメ車のノックダウン生産、戦後には戦災で破綻した物流システムを整えるべくトラックやバスの生産が優先された。乗用車の生産台数がトラック・バスを追い抜いたのは1968年であった。1960年の世界の生産台数は1649万台であったが、日本の生産台数は約76万台(内訳、乗用車17万台、トラック59万台、バス8千台)であった。1960年当時には、それまで三輪車や二輪車を生産していた鈴木自動車、富士重工、ダイハツ、東洋工業、本田などの企業が四輪車の生産に乗り出していた。「マイカー元年」と言われた1966年には229万台(内、乗用車98万台)でその内輸出は約26万台であった。1980年には約1千万台に達し米国を上回った。1980年の日本の自動車輸出台数は597万台であった。1991年には過去最高の約1325万台を生産したが、以降は1千万台前後で推移している。輸出は1985年がピークで673万台であった。",
"title": "自動車の普及"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "2009年には中国が1379万台で2位日本の793万台を大きく引き離し世界最大の自動車生産国となった。2013年は中国が2212万台、米国1105万台、日本963万台、ドイツ572万台、韓国452万台、インド388万台、ブラジル374万台、メキシコ305万台、タイ253万台、カナダ238万台、ロシア218万台となっている 。自動車メーカーの国籍はともあれ、中国で突出した台数が生産されている。2013年の自動車生産台数の4台に1台は中国で生産された。",
"title": "自動車の普及"
},
{
"paragraph_id": 134,
"tag": "p",
"text": "地域別でみるとEU27カ国では16カ国で1618万台生産されており、多い国はドイツ572万台、スペイン216万台、フランス174万台、英国160万台、チェコ113万台、スロバキア98万台などで、これら6カ国でEU生産の82%が生産された。その他の地域で約百万台規模の生産のある国は、トルコ113万台、インドネシア121万台である。BRICsの一員である南アフリカ共和国では約50万台の生産があった。",
"title": "自動車の普及"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦による大量破壊の翌年の1946年における自動車登録台数は約5千万台で、1955年に1億台を超え、1967年には2億台、1979年には4億台、1986年には5億台となり、24年後の2010年には10億台を超えた。",
"title": "自動車の普及"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "この間に各国で人・物資輸送の主体が鉄道から自動車へと転換し、総人口の増加、自動車普及率の向上とも相まって自動車登録台数が飛躍的に増加していった。",
"title": "自動車の普及"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "1台あたりの人口の数値は1960年と2002年のもの以外は登録台数の有効桁数を一桁で計算しているので、大まかな数値である。",
"title": "自動車の普及"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "20世紀末からは中国の経済成長に伴い、中国での自動車生産も始まり21世紀初頭には米国に次ぐ自動車保有国となった。2010年の中国の自動車登録台数は前年比27.5%増と大幅な伸びを示しているが、中国における人口あたりの普及率は未だに低く、さらなる増加が見込まれている。中国に並ぶ人口大国のインドでも経済成長が著しく大きく登録者台数を伸ばしているが自動車保有台数は中国の約3分の1である。中国についで増加台数の多い国はブラジルで2010年には250万台増加した。",
"title": "自動車の普及"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "2012年末における世界の乗用車、トラック・バスを含む四輪車保有台数は約11億台で、6.3人に1台の保有率となっている。11億台の内訳は乗用車が7億7332万台、トラック・バスが3億4123万台で、乗用車の普及率は9.1人に1台となっている。自動車の普及の著しい北アメリカ、西ヨーロッパ、日本、豪州では乗用車の普及率は約2人に1台であるが、米国に次ぐ自動車保有国である中国では人口あたりの乗用車保有率は約26人あたり1台である。",
"title": "自動車の普及"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "参考までに二輪車(自転車を除く)の保有台数(2011年または2012年)は全世界で約2億台から4億台と推定されており、中国に約1億台(1台あたり13人、以下同)、インドネシアに約7598万台(3人/台)、タイ1924万台(4人/台)、台湾1514万台(1.5人/台)、日本1199万台(11人/台)、マレーシア1059万台(3人/台)、イタリア858万台(7人/台)となっている。",
"title": "自動車の普及"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "自動車の地域別保有台数を以下の表で示す。",
"title": "自動車の普及"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "2010年の集計では米国とEU27カ国が2大自動車保有地域である。EU27カ国の大半は独・仏・英・伊・西(=スペイン)の5カ国であり、新車登録の75%はこの5カ国によるものである。EU27カ国には世界の27%の2.7億台、米国には同24%の2.4億台があった。これに続くのが国土面積や人口で比較にならないが中国と日本である。それぞれ76百万台、75百万台で約7%のシェアであった。次は日本より人口が1割強多く最大の国土を持つロシアで保有台数は約4千万台であった。",
"title": "自動車の普及"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "2030年にかけては、EU27カ国および米国では2-3割の増加でそれぞれ3.5億台、3.0億台、中国は約3倍の2.2億台、インドは約6倍の1.2億台となると推定されている。ついでロシア87百万台、2010年比微減となると予想される日本の73百万台、1.8倍の53百万台となるブラジルなどが続く。経済成長の著しい韓国では2030年には普及率が日本など自動車先進国と並び倍増の4千万台となると予想されている。",
"title": "自動車の普及"
},
{
"paragraph_id": 144,
"tag": "p",
"text": "最多の保有台数(全4輪車1台あたり1.2人)である米国のなかでも保有率が高いのがロサンゼルスである。なお米国の普及率を乗用車のみでみると1台あたり2.6人と他の自動車普及国がほぼ2.0人かそれ以下であるのに対して普及率が低くでている。これは米国では乗用車に分類されないピックアップと呼ばれるトラックが自家用として広く普及しているためである。",
"title": "自動車の普及"
},
{
"paragraph_id": 145,
"tag": "p",
"text": "自動車社会であるロサンゼルス郡は、面積が東京都の約4.6倍の約1万平方キロで、人口は東京都の約4分の3の約1千万人で、約700万台(2008年末)の登録車両がある。運転出来ない若年層を考慮すると平均ではほぼ1人に1台の状態である。ロサンゼルス市にはかつて路面電車が走っていたが、20世紀半ばには廃止され(アメリカ路面電車スキャンダル)1940年のパサデナフリーウェイ(Arroyo_Seco_Parkway)を皮切りに高速道路が整備され自動車社会へと変わっていった。これにより街自体が人の移動を車によるものとの前提で開発され、広大な駐車場を備えたスーパーマーケットやショッピングセンターが近郊の小売業を駆逐していき、ちょっとした買い物でも車で移動せざるを得ない状態になっている。1990年代には地下鉄(ロサンゼルス郡都市圏交通局)の開業が始まったが、整備状況は限られている。",
"title": "自動車の普及"
},
{
"paragraph_id": 146,
"tag": "p",
"text": "ロサンゼルス郡では高速道路網(Freeway)も張り巡らされており、多くの一般道も片側3車線前後であるが、朝夕の通勤退社時には高速一般道ともに大きく渋滞している。道路の整備は米国の他州はもちろん各国に比べ進んではいるが、地下鉄やバスなどの公共交通機関が未熟な為に約84%が通勤に乗用車を運転しており公共機関の利用者は6%に留まり、全米で最悪の交通渋滞との評価が下されている。",
"title": "自動車の普及"
},
{
"paragraph_id": 147,
"tag": "p",
"text": "カリフォルニア州ではガソリン価格は米国平均よりも高く、排気ガス規制もより厳しい独自のものを設定しており、より小型の車やハイブリッドカーが選択される傾向が他州よりも強い。",
"title": "自動車の普及"
},
{
"paragraph_id": 148,
"tag": "p",
"text": "日本には1898年(明治31年)ごろから自動車が輸入されはじめ、道路法が成立した1919年(大正8年)には自動車台数は5000台に達していた。大正時代の関東大震災を挟んで急増し、1926年(大正15年)で3万2000台に達し、1932年(昭和7年)には10万台を超えた。1945年(昭和20年)における二輪車・小型特殊車両を除いた自動車保有台数は、14万台弱、保有率は0.2%に過ぎなかったが、敗戦後の自動車の普及はめざましく、1950年(昭和25年)には35.9万台、1955年(昭和30年)には92.2万台となる。1956年(昭和31年)には戦後の復興を遂げ「もはや戦後ではない」といわれるようになり、前年1955年には通産省が「国民車構想」を発表した。1958年(昭和33年)にスバル・360が発売され60年代前半には各社から軽自動車が発売された。1960年(昭和35年)は230万台、1965年(昭和40年)には724万台となり、わずか10年間で約8倍に急増した。1966年(昭和41年)は「マイカー元年」と呼ばれトヨタ・カローラ・日産・サニーなどの大衆車が発売され自動車が普及し始めた。",
"title": "自動車の普及"
},
{
"paragraph_id": 149,
"tag": "p",
"text": "1966年(昭和41年)のトラック・バスなどの大型車も含めた自動車保有台数は約884万台で、翌1967年には1095万台、1971年(昭和46年)に2045万台、1982年(昭和57年)に4130万台、1997年(平成10年)に6984万台となった以降は微増となり2004年以降は7500万台前後で推移し、2014年は2輪車を除いた保有台数は7721万台、保有率は60.6%であった。この保有台数は国別では米国、中国に次ぐ3番目で、人口あたりの保有台数では米国や西ヨーロッパ諸国とほぼ同率である。2030年にかけては海外では引き続き増加していくが、日本では微減すると予想されている。",
"title": "自動車の普及"
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"paragraph_id": 150,
"tag": "p",
"text": "60年代後半からの急激な自動車の増加に対して道路整備は立ち遅れ、各地で交通渋滞や交通事故の増加が問題となった。また排気ガスによる大気汚染も70年代に深刻化した。日本においては1970年代から高速道路(高規格幹線道路)の整備が始まったが、急増する保有台数に追いついておらず、日本の高速道路の整備状況は米国とはもちろん、ドイツ、フランス、中国、イギリス、韓国よりも低い水準である。",
"title": "自動車の普及"
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"paragraph_id": 151,
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"text": "なお二輪車では、原付を除く125cc超の二輪車は1966年には約88万台であったが、2013年には125cc超が4倍の約354万台となった他、原付第一種が666万台、第二種が163万台で二輪車の合計は1182万台であった。",
"title": "自動車の普及"
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"text": "2013年の四輪と二輪の合計は8791万台で国民1.4人に1台の普及率となっている。",
"title": "自動車の普及"
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"text": "20世紀末から日本の登録台数は頭打ちであるが、小型車、特に軽自動車がシェアを拡大してきている。軽自動車は技術の進歩に加えて、従来の取り回しの良さと経済性で弱点が少ないことから、90年代以降着実に台数を伸ばしている。",
"title": "自動車の普及"
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"text": "2013年の日本の自動車普及率は対人口では1台あたり1.7人、乗用車に限ると2.1人であり、これは100人あたり59.7台、46.6台となる。以上は自家用、業務用、軽から大型まですべてを含む数値である。",
"title": "自動車の普及"
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"text": "2013年の世帯あたりの自家用乗用車(軽自動車も含む)の普及率をみると、日本平均は1世帯あたり1.08台で各家庭にほぼ1台の割合となっている。世帯あたりの人数は、2010年では最大が山形県の3.16人で最低が北海道の2.27人で全国平均は2.59人であった。",
"title": "自動車の普及"
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{
"paragraph_id": 156,
"tag": "p",
"text": "世帯ベースで各地域をみると保有台数の多い県は上位10地域で、福井県(1.77台)、富山県(1.73台)、群馬県(1.68台)、山形県(1.68台)、岐阜県(1.65台)、栃木県(1.65台)、茨城県(1.63台)、長野県(1.59台)、福島県(1.56台)、新潟県(1.56台)などで、その他の大半の県で1台以上となっている。1台を切るのは5地域のみで、少ない方から東京都(0.48台)、大阪府(0.68台)、神奈川県(0.75台)、京都府(0.86台)、兵庫県(0.94台)と、当然ではあるが、公共輸送機関の発達した人口密度の高い(人口都市集中の激しい)都道府県で保有台数が少なくなっている。なおこの5都府県に続いてすくないのが北海道(1.008台)、千葉県(1.02台)であった。国土面積の約2割以上を占める広大な北海道で世帯当たりの保有数が少ないのは世帯あたりの人数が最小であることも影響している。",
"title": "自動車の普及"
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"paragraph_id": 157,
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"text": "将来の登録台数予測はいくつかの機関から出されており、2030年の自動車登録台数は17億から20億台との推定が出ている。自動車は2030年にかけて中国、中近東、インドで大きく普及し、総普及台数は17億台に達すると見られている。2050年には25億台となるとの予測も出されている。",
"title": "自動車の普及"
},
{
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"text": "二輪車も2010年の約4億台から2030年には9億台へ達すると推定されている。",
"title": "自動車の普及"
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{
"paragraph_id": 159,
"tag": "p",
"text": "仮に中国で乗用車の普及率が先進国並の2人に1台となると2012年時点の人口13.4億人では6.7億台となり、約6億台が増加することとなる。これは2013年の世界の自動車生産実績8730万台の約7年分に相当し、2013年の中国の自動車生産実績2212万台の27年分である。",
"title": "自動車の普及"
},
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"text": "全世界での自動車生産台数は非常に大きく、しかも自動車を構成する数多くの部品を製造するには非常に多くの人員が必要となる事から、自動車は巨大産業である。自動車産業内での企業間の競争は激しく、価格競争の激化や経営内容悪化や淘汰などが起き、1980年代以降、多国籍企業グループへの集約が進んでいる。",
"title": "自動車産業"
},
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"paragraph_id": 161,
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"text": "自動車製造には数万点におよぶ部品(鋼材、ガラス、座席、電子機器、ねじなど)が必要であり、消費者からは直接的には見えない諸企業(鉄鋼産業・ガラス産業・合成樹脂メーカー、電子機器メーカー、ソフトウェア製造業まで、数え切れないほどの企業)の売上にも影響を及ぼし、製造には大規模な設備投資が必要となることが多く、その企業や工場だけでなく、協力会社なども集まってきて企業城下町を形成するなど、自動車企業・工場の立地場所周辺への経済的効果は非常に大きいといえる。",
"title": "自動車産業"
},
{
"paragraph_id": 162,
"tag": "p",
"text": "近年はグローバル競争が激しくなってきていることや、年々排ガスや安全の基準が厳しくなっていること、自動運転や電気自動車の研究開発など、個別の企業でそれらに対処するのは難しくなってきているため、M&Aや提携をするケースが増えている。",
"title": "自動車産業"
},
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"text": "自動車ブランド・メーカーや自動車製造者についての詳細な情報は、",
"title": "自動車産業"
},
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"text": "2022年現在は以下の通り。",
"title": "自動車産業"
},
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"text": "2017年時点。出典:。",
"title": "自動車産業"
},
{
"paragraph_id": 166,
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"text": "自動車関連の仕事・職業のひとつに自動車整備士がある。 各国で状況は異なるので、自動車整備士という記事で詳しく説明する。",
"title": "自動車関連の専門職"
}
] | 自動車は、原動機の動力によって車輪を回転させ、軌条や架線を用いずに路上を走る車。広義には自動二輪車(オートバイ)も含むが、本項では四輪自動車について述べる。 | {{redirect|オートモービル|雑誌|オートモービル (雑誌)}}
[[ファイル:Southern Motorway Auckland traffic - copyright-free photo released to public domain.jpg|thumb|right|250px|[[現在|現代]]の[[高速道路]]を実際に走る 数々の自動車の状況。[[乗用車]](数名程度の人を乗せて走るための車)が圧倒的に多い。乗用車の群れの中に、[[貨物自動車|トラック(貨物自動車)]]や[[タンクローリー]]や[[バス (交通機関)|バス]]などがいくらか混じる。]]
[[File:Supermarket car park - geograph.org.uk - 2101935.jpg|thumb|250px|[[スーパーマーケット]]の[[駐車場]]に客が駐車した多数の乗用車。[[日用品]]の[[買い物]]のために使われている自動車の例。]]
[[ファイル:ToTokankoKC-30.JPG|thumb|250px|[[バス (交通機関)|バス]]の例。多くの人を運べる自動車。]]
<!--[[File:FPeR55WVIAATBKh.jpg|thumb|250px|バス]]-->
{{読み仮名_ruby不使用|'''自動車'''|じどうしゃ|{{lang-en-short|links=no|automobile}}、{{lang|en|motorcar}}、{{lang|en|motor vehicle}}、{{lang|en|car}}}}は、[[原動機]]の動力によって[[車輪]]を回転させ、[[軌条]]や[[架線]]を用いずに[[道路|路]]上を走る[[車両|車]]{{r|"kb泉"|"kb林"|"kb平百"|kb-Brit|kb-MyPedia|kb-Nipp}}。広義には[[オートバイ|自動二輪車]]([[オートバイ]])も含むが、本項では四輪自動車について述べる。
== 概要 ==
自動車は、[[大辞泉]]では[[原動機]]の動力によって[[車輪]]を回転させ、[[軌条]]や[[架線]]を用いず[[道路|路]]上を走る[[車両|車]]、と説明されている。
[[角川書店|角川]]の[[1989年]]の[[国語辞典]]には「[[発動機]]の動力で軌道なしに走る四輪車」と記載されている<ref>
{{Cite book| 和書|editor1-first=敏雄|editor1-last=石綿|editor1-link=石綿敏雄|editor2-first=俊雄|editor2-last=山田|editor2-link=山田俊雄|title = 角川最新国語辞典|origdate = 1987-02|edition = 再版|date = 1989-10|publisher = [[角川書店]]|isbn = 4-04-012300-X}}</ref>。
自動車は、[[18世紀]]に[[蒸気機関]]を用いた蒸気自動車として登場し、[[19世紀]]には[[イギリス]]や[[フランス]]で[[都市]]間を[[移動]]するための[[バス (交通機関)|バス]]に用いられるようになっていた。19世紀後半、[[1870年代]]から[[1880年代]]にかけては[[オーストリア]]や[[ドイツ]]で[[ガソリン]]の[[内燃機関]]を用いた自動車の制作や[[特許]]取得が行われた。[[1896年]]に[[米国]]の[[ヘンリー・フォード]]もガソリン自動車を開発し、[[1903年]]に自分の[[名前|名]]を冠した[[フォード・モーター]]社を設立し、まずは2気筒[[自動車エンジン|エンジン]]の小さな車の製造・販売を開始、[[1905年]]には4気筒エンジン車を販売開始、[[1908年]]には改良のうえ、価格も比較的安く設定した[[フォード・モデルT]]を発売し、大人気となった。モデルTは[[1909年]]の1年間だけでも1万台を超える数が売れ、米国で急速に自動車が普及してゆくことになる。米国ではそれまで街の[[大通り]]を走る車と言えば(裕福な人々が所有し、[[御者]]付きの)[[馬車]]ばかりだったのだが、その後 わずか10年ほどのうちに馬車の所有者たちはそれを自動車へと換えてゆき、米国の通りの景色は一変することになった。[[1910年代|1910]] - [[1920年代]]には安価な[[大衆車]]も普及しはじめた。→[[#歴史]]
自動車は基本的には、[[人間|人]]や[[貨物]]を運ぶための[[実用]]の[[道具]]として用いられるものであり、交通手段の一つとして[[通勤]]・[[通学]]、客の送迎、[[顧客]]先訪問、[[旅行|旅]]の際に使用される事がある。[[貨物輸送]]に関してはトラック([[貨物自動車]])等を用いて、[[多種多様]]な荷物が運ばれており、<!--陸上輸送に関して-->[[鉄道]]が[[鉄道駅|駅]]から駅への輸送しかできないのに対して、自動車は[[玄関|戸口]]から戸口へ(=[[建物]]から建物へ)と輸送できるという特徴がある{{r|kb-Nipp}}。→[[#自動車の利用]]
また自動車は、実用性を離れて、愛着の対象となって[[趣味]]的に所有されたり{{r|kb-Nipp}}、運転を楽しむため(スポーツ・ドライビングや[[ツーリング]])に用いられたり、[[メンテナンス|整備]]すること("機械いじり")を楽しむために用いられることもある。また[[高級車]]の場合[[ステータスシンボル]]として利用される場合などもある。→[[#自動車文化]]
自動車は[[世界]]中で大量に普及したため、[[大気汚染]]の原因となったり、その石油資源の消費量によって[[石油危機]]時のリスク要因となったり、道路上の自動車の[[渋滞|過密状態]]などの問題を引き起こしている{{r|kb-Nipp}}。課題の解決に向けた努力も続けられており、大気汚染防止のために行政は[[自動車排出ガス規制|排出ガス規制]]を行い、自動車メーカーは消費する石油を減らすこと、つまり[[燃費]]の向上([[省エネルギー|省燃費]]エンジンの開発)を行い、[[電気自動車]]、[[ハイブリッド・カー]]、[[水素自動車]]などの開発・販売も行われている。
専用の[[軌道 (鉄道)|軌道]]を必要としないことから、経路と進路の自由度が高いという特徴がある。
自動車を動かすこと・操ることを[[運転]]と言い、ほとんどの国で、[[公道]]での自動車の運転には[[運転免許]]が必要とされている。自動車の最初期の段階からすでに[[ヒューマンエラー|運転を誤る]]事故([[交通事故]])が発生していた。自動車によって、怪我をさせられたり命を失ってしまう人やその家族という[[被害者]]が生じ、同時に運転者が[[加害者]]として生きていかなければならなくなることは、自動車普及後の社会が抱え続けている重い課題のひとつである。最近では単純な[[オートパイロット|自動運転技術]]を超える、本格的な[[人工知能]]と高度なセンサー類を用いて[[オートノミー|自律]]走行が可能な[[自動運転車]]も研究されており、AIならば人間が運転するよりも事故率が劇的に減るであろうと期待されてもいて、一部ではすでに([[社会実験]]的な)導入が開始されており、世界での本格的な普及開始の時期が近付いている。→[[#負の影響]]
自動車の生産は、[[部品]]となる様々な工業製品があってはじめて可能となるので、他の様々な工業の振興、一次的工業品の製造とも関連する{{r|kb-Nipp}}。その規模の大きさ、影響の大きさによって、政府にとっては自動車の製造は(一国の)経済を支える重要な産業となりうる。現在のところ、一握りの先進国が自動車の生産を[[独占]]してしまっているような状況にある{{r|kb-Nipp}}。多くの[[開発途上国]]の政府が、自動車製造を行うために懸命の努力を行っている(例えば、先進国の自動車メーカーや政府と交渉し、自動車を輸入するだけでなく、自国内に製造工場などを設けさせる努力を続けている)のは、経済的な影響が大きいからである{{r|kb-Nipp}}。→[[#自動車産業]]
公共交通機関の発達していない田舎などでは特に一人当たりの所有率が一般的に高い{{要出典|date=2020年7月28日}}。→[[#自動車の普及]]
<gallery mode="packed-hover" height="250" perrow="6" caption="自動車の例 (それぞれの説明はマウスでカーソルを画像の下の方へ、またはJavascriptオンで画像をクリック)">
ファイル:1925 Ford Model T touring.jpg|20世紀初頭の自動車の急激な普及のきっかけとなった[[フォード・モデルT|フォード・モデルT(T型フォード)]]。
ファイル:ISUZU GIGA, Full-cab Aluminum-Wing Truck.jpg|[[貨物自動車|貨物自動車(貨物車)]]の例。多くの荷物を運べる。
ファイル:YellowJeepCrossingRiver.JPG|自動車は一般に軌条(鉄道)を必要としないが、さらに、道路すら離れて走ることができる車([[オフロード]]車)もあり、街から離れた、[[道路]]があまり整備されていない場所への移動に便利である。オフロード車([[:en:Off-road vehicle]])の多くは[[総輪駆動]]である。写真は川を渡りかかっているオフロード車。
ファイル:Komatsu HD325 002.JPG|特殊作業車の例、[[露天掘り]]の鉱山などで使われる、特に大型の[[ダンプカー]]。35[[トン]]ほどの荷物を運べる。
ファイル:Danica Patrick Car 2010 Indy 500 Practice Day 7.JPG|特殊な車の一例、[[サーキット]]で[[自動車競技|競走]]するための[[レーシングカー]]。
</gallery><!-- -->{{clear}}
== 歴史 ==
[[ファイル:FardierdeCugnot20050111.jpg|thumb|right|160px|フランス陸軍の技術大尉が1760~70年代に開発した[[キュニョーの砲車]]のレプリカ]]
=== 蒸気自動車 ===
最初の自動車は[[蒸気機関]]で動く[[蒸気自動車]]で、[[1769年]]に[[フランス陸軍]]の技術大尉[[ニコラ=ジョゼフ・キュニョー]]が製作した[[キュニョーの砲車]]であると言われている<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=自動車誕生から今日までの自動車史(前編)|url=https://gazoo.com/article/car_history/130530_1.html|website=GAZOO.com|accessdate=2020-06-17|language=|first=|last=|publisher=[[トヨタ自動車]]}}</ref>。この自動車は前輪荷重が重すぎて旋回が困難だったため、時速約3キロしか出なかったにもかかわらず、[[パリ]]市内を試運転中に塀に衝突して[[交通事故|自動車事故]]の第一号となった<ref>[http://inventors.about.com/library/weekly/aacarssteama.htm The History of the Automobile - Steam Cars, About.com]</ref><ref name=":0" />。
[[イギリス]]では[[1827年]]ごろから[[路線バス|定期バス]]として都市部および、都市間で広く用いられ、[[1860年]]ごろには[[フランス]]でも用いられるようになった。1885年に、フランスのレオン・セルボレが開発し[[1887年]]に自動車に搭載したフラッシュ・[[ボイラー]]により蒸気自動車は2分でスタートできるまでに短縮された。[[1900年]]ごろには[[アメリカ合衆国]]で、[[石炭]]の代わりに[[石油]]を使った蒸気自動車が作られ、さらに普及していった。この頃は蒸気自動車の方がガソリン自動車よりも騒音が少なく運転が容易だった。アメリカ合衆国では1920年代後半まで蒸気自動車が販売されていた。
[[1865年]]にイギリスで[[赤旗法]]が施行された。当時普及しはじめた蒸気自動車は、道路を傷め馬を驚かすと敵対視されており、住民の圧力によってこれを規制する「赤旗法」が成立したのである。この法律により、蒸気自動車は郊外では[[時速]]4[[マイル]](6.4 km/h)、市内では時速2マイル(3.2 km/h)に速度を制限され、人や動物に予告するために、赤い旗を持った歩行者が先導しなければならなくなった。その結果、イギリスでの蒸気自動車の製造・開発は、この赤旗法が廃止される[[1896年]]まで停滞することになり、それに続くガソリン自動車の開発においても、[[ドイツ]]やフランスが先行する事になる。
日本では[[1904年]]([[明治]]37年)に、電気技師の山羽虎夫が制作した蒸気自動車が最初で、これが日本産自動車の第1号だといわれている{{sfnp|浅井建爾|2015|p=56}}<ref name=":0" />。
=== ガソリン自動車 ===
[[ファイル:1885Benz.jpg|thumb|right|160px|初期のガソリン自動車、1885年型ベンツ。3輪である。]]
[[ファイル:MW2 05 02 24 klein.jpg|thumb|right|160px|同じく初期のガソリン自動車のマルクスカー(1888年)]]
[[1870年]]、[[ユダヤ人|ユダヤ系]][[オーストリア人]]の[[ジークフリート・マルクス]](Siegfried Samuel Marcus)によって初の[[ガソリン]]自動車「第一マルクスカー」が発明された。[[1876年]]、[[ドイツ人]]の[[ニコラウス・オットー]]が石炭ガスで動作する効率的な[[内燃機関]]の[[オットーサイクル]]を発明すると、[[ゴットリープ・ダイムラー]]がこれを液体燃料を用いる[[ガソリンエンジン]]へと改良して二輪車や馬車に取り付け、走行試験を行った。[[1885年]]にダイムラーによる特許が出されている。1885年、ドイツの[[カール・ベンツ]]は、ダイムラーとは別にエンジンを改良して、車体から設計した3輪自動車をつくった<ref> [http://www.jmf.or.jp/kawaraban/kawara162.pdf 熱力学とエンジンの話]日機連かわら版162号 2020年8月3日</ref>。ベンツ夫人はこの自動車を独力で運転し、製造者以外でも訓練さえすれば運転できる乗り物であることを証明した。ベンツは最初の自動車販売店を作り、生産した自動車を数百台販売した。また、ダイムラーも自動車会社を興した。現在、ガソリン式自動車の発明者はダイムラーとベンツの両者とされることが多い。
[[1898年]](明治31年)には、フランスから日本に輸入されたガソリン自動車「パナール・ルヴァッソール」が、日本国内最初の自動車として登場した<ref name="po">『ポプラディア大図鑑 WONDA 自動車・船・飛行機』(2014年7月、ポプラ社発行)132 - 133ページ『自動車の歴史』より。</ref>。
日本国産のガソリン自動車は、[[1907年]](明治40年)に誕生した「タクリー号」が最初であった{{sfnp|浅井建爾|2015|p=56}}<ref name=":0" />。名称の由来は、道を「がたくり、がたくり」と音を立てて走ることから<ref name="po">『ポプラディア大図鑑 WONDA 自動車・船・飛行機』(2014年7月、ポプラ社発行)132 - 133ページ『自動車の歴史』より。</ref>。
=== 蒸気・ガソリン・電気の3方式並立の時代からガソリン車時代へ ===
19世紀の自動車は手作りであるため非常に高価なものであり、[[貴族]]や[[富裕層]]だけが所有できるものであった。そして彼らは自分たちが持っている自動車で競走をすることを考えた。このころに行われた初期の自動車レースで活躍したのが、[[ルノー]]、[[プジョー]]、[[シボレー]]、[[フォード]]といった現在も残るブランドたちであった。このころはまだガソリン自動車だけでなく蒸気自動車や[[電気自動車]]も相当数走っており、どの自動車が主流ということもなかったが、[[1897年]]の[[フランス]]での自動車レースでガソリン自動車が蒸気自動車に勝利し、[[1901年]]にはアメリカの[[テキサス州]]で油田が発見されてガソリンの供給が安定する一方、当時の電気自動車や蒸気自動車は構造上の問題でガソリン自動車を超えることができず、20世紀初頭には急速に衰退していった<ref>「自動車、そして人」p21 財団法人日本自動車教育振興財団 1997年10月1日第1刷</ref>。
=== 共有、個人所有、シェアリングの歴史 ===
;共有の歴史
当初は自動車を所有するのはごくごく少数の貴族や富裕層にとどまっていた。所有者に重いコストがのしかかる乗り物という存在を、所有せず活用する、という発想は古くからあり、例えば古代ローマにも馬車を現代のタクシーのように従量式で使う手法も存在したことがあったともいう<ref group="注">[[:en:taxi]]など。</ref>。1620年にはフランスで貸馬車業が登場し(言わば、現代のレンタカーに当たる)、1662年には[[ブレーズ・パスカル]]が史上初の'''[[バス (交通機関)|バス]]'''とされる[[5ソルの馬車]]を発明しパリで営業を開始した。1831年にはゴールズワージー・ガーニー、ウォルター・ハンコックが蒸気式の自動車で[[バス (交通機関)|乗り合いバス]]の運行を開始した。
[[ファイル:Erste Benzin-Omnibus der Welt.jpg|thumb|160px|right|内燃機関によるバスとして最初のもの(1895年)]]
1871年にはドイツ人の[[:de:Wilhelm Bruhn|ヴィルヘルム・ブルーン]]によってタクシーメーターが発明され、1897年には[[ゴットリープ・ダイムラー]]が世界初のメーター付き'''[[タクシー]]'''(ガソリン車)Daimler Victoriaを製造した。レンタカーの最古の歴史ははっきりしないが、米国における最初の'''[[レンタカー]]'''業者は、初の量産車とされるT型フォードを用いて1916年から営業した、と言われることはある。その最初のレンタカー業者とされるネブラスカの男Joe Saundersは、車にメーターを取り付け 1マイルあたり10セントの方式で貸したという<ref>[http://www.carrentaldir.com/history-of-car-rentals.html]</ref>。
;大量生産と大衆による所有と個人所有にかかる諸費用の膨張
[[ファイル:Late model Ford Model T.jpg|thumb|right|160px|[[フォード・モデルT|フォード・T型]](1908年発売)]]
[[ファイル:Citroen trefle.jpg|thumb|right|160px|[[:fr:Citroën Type C|シトロエン・TypeC]](1922年発売)]]
米国で1908年、[[フォード・モーター|フォード]]が[[フォード・モデルT|フォード・T型]]を発売した<ref name=":0" />。フォードは、流れ作業による[[大量生産]]方式を採用し自動車の価格を引き下げることに成功した。これにより裕福層の所有物であった自動車を、大衆が所有することが可能となり[[自動車産業]]が大きく発展するさきがけとなった。ヨーロッパでは1910年ごろに、大衆の自動車に対する欲求を満たすように、[[オートバイ|二輪車]]の部品や技術を用いて製造された小型軽量車、いわゆる「[[サイクルカー]]」が普及していった。1922年にフォードと同様の生産方法を用いた小型大衆車が発売され、本格的に自動車が普及していく事になった。また、それに伴いサイクルカーは姿を消していき、大衆車の普及によって、一般市民が自動車を所有することが可能となり、'''[[自家用自動車]]'''(自家用車)が普及すると、それに伴って自動車の利用が一般化、いわゆる[[モータリゼーション]]が起きた。世界で初めてモータリゼーションが起こったのは[[1920年代]]の[[アメリカ合衆国]]であり、次いで[[西ヨーロッパ]]諸国においても起こり、日本でも[[1970年]]ごろにモータリゼーションがはじまった。個人用自動車の普及は、鉄道や船といった[[公共交通機関]]に頼っていた時代に比べて利用者に圧倒的に高い自由度をもたらし、個人の行動半径を大きく拡大させることとなった<ref>「自動車、そして人」p122 財団法人日本自動車教育振興財団 1997年10月1日第1刷。</ref>。
だが現代では、自動車を個人が所有するには、払わなければならない費用は、車両の価格だけで済まず、それ以外に'''[[自動車税]]'''・'''[[自動車重量税]]'''・'''[[自賠責保険]]料'''・'''[[車検]]代'''・'''消耗品等の費用'''・'''[[ガソリン]]代'''・'''[[駐車場]]代'''・'''[[任意保険]]料'''などの費用がかかる<ref>[https://www.cosmo-mycar.com/column/car-erabikata/kurumanoijihi/ コスモMyカーリース「車の維持費って年間でいくら必要?」]</ref>。ナイル株式会社が2022年に公表した、「自家用車にかかる費用が家計を圧迫していると感じるか?」という設問で行ったアンケートの結果によると、 62.4%(730人)が(自動車にかかる費用が家計を圧迫していると)「感じる」と答えた<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000135.000055900.html 【自家用車にかかる費用についての調査】月々の費用負担は1~2万円が33.9%、1万円未満が27.9%。]</ref>。
;カーシェアリングやライドシェア
[[1970年代]]にはスイスなどで'''[[カーシェアリング]]'''も始まった。カーシェアはその後世界各国に広がり、
2000年代には、アメリカやヨーロッパなどでは'''[[Uber]]'''('''ウーバー''')など、自家用車による有償[[相乗り|ライドシェア]]を認める地域も増えてきているなど、自動車を個人所有せず快適に利用する方法は多様化してきている。(日本は既得権益優先なのでウーバーが参入できていない)。
=== 機械の生産方式や人々の労働への影響 ===
なお自動車で採用された大量生産の手法が、[[ライン生産方式]]という効率的な手法を、自動車産業に限らず様々な製造業において広めてゆくことになった。これは企業経営者にとっては好都合な手法であったが、それは同時に[[分業]]が徹底される結果を生み、工場で多くの労働者が、まるでただの機械や道具のように扱われ、同一の単調な作業ばかりを繰り返すことを強制され、働くことに喜びを見出しにくくなる、労働者に精神的な不幸をもたらすという負の事態も引き起こした。一時期はあまりに効率重視で作業の細分化がゆきすぎ、それこそひとりの労働者が、ボルトを1個~数個締める作業ばかりを繰り返すなどというひどい方式になってしまい、労働者への精神的な悪影響が大きくなりすぎ、それが学者などからも指摘されるようになり、その後長い年数をかけて、作業を細分化しすぎないように、ある程度はまとまった範囲の任務を与える、という方式を採用する工場も増えてきた。たとえば一人の担当者が、せめてエンジン部分はまとめて責任を持って一人で組み立てることで、その人なりに「自分の作品を仕上げた」と感じられるようにする、などといった方式である。
=== 2000年代における技術開発の動向 ===
[[中華人民共和国|中国]]など新興国の経済成長や人口増加で、世界全体の自動車販売台数は増えている。これに伴い[[化石燃料]]の消費増や[[大気汚染]]が問題となり、各国政府は自動車に対して[[排気ガス]]などの規制を強化。自動車メーカーは[[温室効果ガス]]や大気汚染物質の排出が少ない又は皆無で、石油資源を節約できる[[低公害車]]の開発・販売に力を入れる。
近年は、[[公害]]や[[地球温暖化]]の対策として、[[電気自動車]]や[[燃料電池車]]等の[[ゼロエミッション車]]の開発が進んでいる。特に2015年に[[フォルクスワーゲン]]グループにて発覚した排ガス不正でディーゼルエンジンの悪影響が露呈されてから、欧州各国では近い将来ガソリン車およびディーゼル車などの販売を禁止する法案が賛成多数の情勢にある。オランダとノルウェーでは2025年、ドイツでは2030年に施行するべく、そうした法案が提出され始めている<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20160419-a253/|title=2025年までにガソリン車/ディーゼル車販売禁止の法律提出 - オランダ|publisher=[[マイナビニュース]]|date=2016-04-19|accessdate=2019-09-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://m.huffingtonpost.jp/2016/06/07/norway-set-to-completely-ban_n_10332130.html|title=「2025年までにガソリン車を全廃」ノルウェーの政党間で合意へ イーロン・マスク氏も歓迎|publisher=[[ハフポスト]]|date=2016-06-07|accessdate=2019-09-03}}</ref><ref>http://irorio.jp/daikohkai/20161013/356840/</ref>。
近年は情報通信技術(ICT)が急速に進歩している。このため自動車メーカーや大手ICT企業は、[[インターネット]]で外部と接続された[[コネクテッドカー]]や、[[人工知能]](AI)を応用した[[自動運転車]]の研究・開発も急いでいる。
かつては[[サイエンス・フィクション|SF]]作品中の存在であった「[[空飛ぶクルマ|空飛ぶ車]]」の開発も進んでいる。日本では、[[トヨタ自動車]]グループの支援を受ける有志団体「[[CARTIVATOR]](カーティベーター)が、2018年の試作機完成を目指していた<ref>[https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170828-00050071-yom-bus_all 「空飛ぶクルマ」開発、目指すは東京五輪聖火台]『[[読売新聞]]』朝刊2017年8月29日(経済面)</ref>。
== 分類・種類 ==
自動車の分類法はいくつもあるが、おおまかに言うと、構造(ハードウェア)による分類と使用目的(ソフト)による分類がある{{r|kb-Nipp}}。
理屈の上では使用目的と構造の組み合わせがマトリックス(縦横の表)のように多数あるわけだが、実際には全ての組み合わせが用いられるではなく、使用目的ごとに適している構造は(全ての構造ではなく)いくつかの目的に適した構造に絞られることになり、また多くの使用者・購入者から評価される典型的な組み合わせや傾向のようなものが生じ、ただしそれはまったく固定しているわけではなく、時代とともにそれが緩やかに変遷を経てきた歴史がある。
特定の国に限らない分類としては、基本的には、たとえば、目的によって「乗用車(数名の人を運ぶための自動車) / 貨物車(貨物を運ぶための自動車)/ 特殊な車(それ以外の目的の自動車)」と分ける方法がある。またたとえば、大きさによって「小型車 / 中型車 / 大型車」などと分ける方法が、基本的にはある。
なお自動車が登場する以前の馬車の時代に、馬車がその姿(形状)によって分類され、すでに分類法やその分類用語が確立していたので、(馬を排したとは言え)自動車の車体に関してもそれに沿った分類法が採用されてきた歴史がある。「セダン」「クーペ」「ワゴン」などという分類法はもともとは馬車の分類法を継承したものである。→[[#普通自動車の分類]]
=== 法規上の分類 ===
それぞれの国で法規によって[[排気量]]や車体の大きさ、輸送能力などによって分類されている。それが税区分や通行区分、[[運転免許]]の区分の基準とされる。
日本においては、[[道路交通法]]第三条により、[[大型自動車]]、[[中型自動車]]、[[準中型自動車]]、[[普通自動車]]、大型[[特殊自動車]]、小型特殊自動車、[[大型自動二輪車]]、[[普通自動二輪車]]の8種類に分類され、[[道路運送車両法]]第三条により、普通自動車、[[小型自動車]]、[[軽自動車]]、大型特殊自動車および小型特殊自動車に分類されている。
日本では上位概念で「自動車」が明確に定義されており、動力(原動機、電動機など)により駆動される物や牽引される物は名前や形状に関わらず自動車とされる。一方でオーストラリアでは上位概念で自動車が定義されて無く、ピクニックテーブルにエンジンを取り付けた「エンジン付き移動式ピクニックテーブル」などの運行を取り締まる事ができずに、地元警察は「危険だから」という理由で運行しないことを呼びかけている<ref>[「エンジン付き移動式ピクニックテーブル」の使用が西オーストラリアで深刻な問題に https://buzzap.jp/news/20151119-motorised-picnic-table/]</ref>。
{{see also|日本における自動車}}
=== 統計上の分類 ===
国際的な[[統計品目番号]]では第87類の「鉄道用及び軌道用以外の車両並びにその部分品及び附属品」に分類される<ref name="87r">[https://www.customs.go.jp/tariff/kaisetu/data/87r.pdf 第87類「鉄道用及び軌道用以外の車両並びにその部分品及び附属品 」財務省関税局] 、2020年6月25日閲覧。</ref>。
* [[トラクターユニット|トラクター]](87.01) - 他の車両、機器又は貨物をけん引したり押すための車輪式又は無限軌道式の車両<ref name="87r" />。
* 10人以上の人員(運転手を含む)の輸送用の自動車 (87.02) - 原動機付き[[バス (交通機関)|バス]]、客車、[[トロリーバス]]及び[[ジャイロバス]]を含む<ref name="87r" />。
* 乗用自動車その他の自動車(87.02のものを除く)(87.03) - 乗用自動車([[リムジン]]、[[タクシー]]、[[スポーツカー]]及び[[レーシングカー]])、特殊運搬車([[救急車]]、囚人護送車及び[[霊柩車]]等)、移動住宅車([[キャンピングカー]]等)などを含む<ref name="87r" />。
* [[貨物自動車]](87.04) - [[ダンプカー]]、シャトルカー等を含む<ref name="87r" />。
* [[特殊用途自動車]](87.05) - 救難車、[[クレーン車]]、[[消防車]]、[[コンクリートミキサー車]]、道路清掃車、[[散水車]]、工作車及びレントゲン車等を含む<ref name="87r" />。
* 原動機付きシャシ(87.06) - 自動車用の[[シャシ (自動車)|シャシ]]のフレーム又は結合したシャシボディの骨組に原動機等を装備したもので車体を有しない自動車が含まれる<ref name="87r" />。
=== 普通自動車の分類 ===
==== 姿形による分類 ====
もとは馬車の形状による分類用語である。その後、馬車にはなかった分類用語が追加されてきた歴史がある。
なお、自動車メーカーが[[差別化]]([[付加価値]])として商品につける商品名([[商標]])においてはこの限りではなく、2ボックス形状のセダン、4ドア・5ドアのクーペ、ハッチバック形状のワゴン、[[ワンボックスカー|ワンボックス]]形状のワゴンなど、下記の形状と異なるものも多い。
* '''[[セダン]]''':[[ローエンド]]の[[大衆車]]では2ドアも多いが、原則4ドアの車。[[ボンネット (自動車)|ボンネット]]+[[運転席|キャビン]]+[[トランク (自動車)|トランクルーム]]で構成されるスリーボックスカー。
* '''[[クーペ]]''':もとは基本形のセダンをフランス語で「クペ」したもの、つまりセダンが少し「切られて」短くなった形。(4ドアから2ドア分減って)原則<u>2ドア</u>のスリーボックス車。かつてはトランクルームに2名分の[[補助席]]を備えるものもあった。現在は長さやドア数だけでは区別できなくなっている。
* '''[[ワゴン]]''': (もとは[[荷馬車]][[:en:Wagon]]を指す用語で)荷室が主となっている自動車。
** 主に荷物を運ぶために使われる車は'''[[バン (自動車)|バン]]'''と呼ばれるが、アメリカ合衆国発祥の'''[[ミニバン]]'''は乗用車に分類される。
** '''[[ステーションワゴン]]''':(ワゴン車の一種ではあるが)後部には乗員の座席とひとつづきの荷室を備えているツーボックスカーで、主に人を乗せる為に使われる車。荷室に収納式の補助席(ジャンプシート)を2名分持つものもある
* '''[[ハッチバック]]''':トランクルームを省略し、キャビンと荷室を一体化させた車で、跳ね上げ式のバックドア(背面扉)を持つ車。結果として3ドアもしくは5ドアとなる。
[[屋根]]による分類法は次のようなものがある。
* '''[[オープンカー]]''' : 屋根のない車。カブリオレ、[[クーペ#その他の呼称|ドロップヘッドクーペ]]、スパイダー、ロードスター、[[ポルシェ|スピードスター]]などの商標がある。
* '''[[ハードトップ]]''' : 本来は幌屋根に対する「脱着可能な硬い屋根」である[[機械要素|部品]]を指す言葉であった。その後、スリーボックスで主に側面中央の窓柱([[ピラー|Bピラー]])を持たない車を指す用語に。
* '''[[ソフトトップ]]''' : [[幌|屋根]]を持つ車。[[フェートン (車両)|フェートン]]という呼称は廃れたが、[[スポーツカー]]や[[クロスカントリー (自動車)|クロスカントリー]]カーではまだ見られる。
* '''[[コンバーチブル]]''' : 可動式の屋根を持ち、屋根の開・閉、どちらでも走行可能な車。以前はソフトトップ車の名称であったが、'''[[クーペカブリオレ]]'''の登場によってハードトップが主流となっている。
* '''オープントップ''' : [[ピラー]]や各ドアの窓枠、基本骨格などは通常の車と同じで、屋根のみを開閉式の[[幌#自動車における幌|幌]]としたもの。キャンバストップなどの商標で知られる。[[オープントップバス]]には覆いを持たないものもある。
* '''グラストップ''' : オープントップの幌部分を大型の[[ガラス]]屋根としたもの。[[サンルーフ|一部が開閉する]]ものもある。
* '''デタッチャブルトップ''' : 屋根の一部のみを取り外し式としたもので、ハードトップの類型と見ることもできる。商標では、[[タルガトップ]]、[[ホンダ・CR-X#3代目・CR-Xデルソル EG1/2/EJ4型(1992年-1999年)|トランストップ]]、[[:en:T-top|Tトップ]]、[[Tバールーフ]]など。
==== スペースによる分類 ====
自動車メーカーが消費者を満足させるために、乗用車(普通自動車)に関してさまざまな形状のものを開発してきた結果、1980年代~2000年代以降、従来の分類法や分類用語では分類しきれない車や、あるいは複数のカテゴリに該当するような車が増え、消費者も自動車メーカーも自動車誌等も、従来の分類法やカテゴリ名に困惑を感じることが増え、メーカーや販売会社と消費者のコミュニケーションでも混乱が生じるようになった。そうした困惑や混乱を回避するために、多種多様な普通自動車をざっくりと以下のように分類する方法が考えだされ、それが採用されることが増えた。
*'''[[ワンボックスカー]]'''(モノスペースカー):全体が一つの大きな箱(ボックス)状になっている車。内部的には、エンジンルーム、キャビン(=室内スペース)、荷物室があっても、見た目は大きな一つの箱のように見える車。
*'''ツーボックスカー'''([[ファストバック]]カー、カムバックカー): キャビンと荷物室が1つの大きなボックスで、エンジンルームが別のボックスとして飛びだしているように見える車。
*'''スリーボックスカー'''([[ノッチバック]]カー):キャビンが1つ大きなボックスとして真ん中にあり、そこから前後に(キャビンよりは高さが低い)エンジンルームと荷物室のボックスが飛び出している形状の車。
== 構造 ==
自動車はその歴史のなかで様々な構造が現れ、変遷を繰り返してきた。ここでは現在市販されている自動車として一般的なものを示す。したがって、いくつかの自動車には例外があり、特に[[モータースポーツ|競技]]用や、[[特殊自動車]]などについては構造が大きく異なる例もある。
=== 車体構造 ===
車体の[[強度]]部材に用いられる材料は[[鋼|鋼鉄]]が主流で、近年では[[超高張力鋼|超高張力鋼板]]の使用部位が広範にわたっており、[[アルミニウム合金]]や[[炭素繊維強化プラスチック]]などの[[複合材料]]を用いたものも市販されるようになってきている。骨格部材以外のパネル部分には[[合成樹脂]]を用いる例も増えてきている。
構造は大きく分けて[[フレーム形式 (自動車)|フレーム形式]]と[[モノコック]]形式とに分けられる。フレーム形式は独立した骨格部材の上に、車室を構成する構造物が載せられたもので、古くから自動車の車体構造として用いられ、現在でも[[貨物自動車]]を中心に採用されている。モノコック形式は車室を構成する外殻自体が強度部材として作られた構造で、[[20世紀]]半ば頃から自動車の車体構造として普及しはじめ、現在の乗用車と小型[[商用車]](LCV)のほとんどで採用されている。
現在は[[内燃機関]]か、[[電動機|電気モーター]]を用いるものが主流である。内燃機関では、[[ピストン]]の往復運動を[[クランクシャフト]]で回転運動に変換して出力する[[ディーゼルエンジン]]や[[ガソリンエンジン]]などの[[レシプロエンジン]]が一般的である。それぞれに[[4ストローク機関|4サイクル]]と[[2ストローク機関|2サイクル]]があるが、現在では4サイクルが主流となっている。
[[火花点火内燃機関]]の燃料にはガソリンが用いられるのが主流となっているが、環境性能や単価を理由に[[液化石油ガス]](LPG)や[[天然ガス|液化天然ガス]](LNG)、[[エタノール]]等の[[アルコール燃料]]が用いられる場合もある。近年では、内燃機関と電気モーターを組み合わせたハイブリッドカー、電気自動車などが普及してきている。
<gallery>
ファイル:Honda RA005E engine 2005.jpg|ガソリンエンジン
ファイル:Honda Insight IMA.jpg|ハイブリッドカー([[ホンダ・インサイト]])のエンジン
ファイル:Bollee mancel.jpg|蒸気自動車
</gallery>
=== 動力伝達 ===
{{main|駆動列}}
動力は、ガソリン自動車の場合は、原動機が効率的に出力を発揮する回転速度から、走行に適した回転速度へと[[トランスミッション|変速機]]によって減速あるいは増速される。変速機は、運転者が複数の減速比から選択して操作する[[マニュアルトランスミッション]](MT)と、自動的に選択または変化する[[オートマチックトランスミッション]](AT)に大別できる。MTは基本的に減速比を切り替える際などには[[クラッチ]]を操作する必要があるが、このクラッチ操作を自動化したものは[[セミオートマチックトランスミッション]]と呼ばれる。近年は、MTの基本構造を持ちながらクラッチ操作と変速操作が自動制御された、[[セミオートマチックトランスミッション|自動制御式マニュアルトランスミッション(AMT)]]も普及し始めている。
[[電気自動車]]の場合は、原動機の効率的な回転速度の範囲が広いため[[歯車比|減速比]]を切り替えない変速機を採用し、原動機を逆回転させることが可能なので後退ギアを持たない場合がほとんどである。
マニュアルトランスミッションの場合、前進の変速比は3段から6段程度が一般的だが、[[副変速機]]を用いて変速段数を2倍とする例も[[貨物自動車|貨物車]]を中心に少なくない。
オートマチックトランスミッションは、[[トルクコンバータ]]と[[遊星歯車機構|プラネタリーギア]]を組み合わせたものが広く普及している。日本の乗用車では、CVTと呼ばれる[[無段変速機]]の採用例が増えてきている。いずれの方式においても、運転者の操作によって「Lレンジ」などのように減速比の範囲を限定する機構や、「マニュアルモード」、「ホールドモード」、「スポーツモード」などと呼ばれる任意の減速比に固定できる機構を備えている。
セミオートマチックトランスミッションは日本の法規ではAT車に分類され、日本車の例では[[トヨタ・MR-S]]の[[シーケンシャルマニュアルトランスミッション#SMT(トヨタ)|SMT]]がある。
=== 操舵装置 ===
操舵は前輪の方向を変えて車体を旋回させる前輪操舵方式が一般的で、その機構全体を指して[[ステアリング]]と呼ぶ。操作部を「ハンドル」あるいは「ステアリング・ホイール」と呼ぶ。ハンドルの回転は[[ボール・ナット]]や[[ラック・アンド・ピニオン]]などの機構を介して車輪を左右に押す作用に換えられる。近年は油圧や電動モーターを用いて運転者のハンドル操作を助力する[[パワーステアリング]]が広く普及している。
<!--旋回中は内側の車輪のほうが小さな半径の弧を描く軌跡を通過するため、これに合わせて--><!-- ← 半径の差は、後輪でデフが必要な理由の説明にはなるが、前輪における角度差の説明としてはあまり適切ではない-->旋回時の各瞬間に、それぞれの車輪がその動いている方向を向くようにすると、前輪の左右では舵角が異なる。例えばハンドルを右に切ると右タイヤの方が舵角が大きくなる。これについての機構を[[アッカーマン・ジャントー|アッカーマン機構]]と呼ぶ。
=== 制動・拘束装置 ===
主たる[[ブレーキ|制動]]操作は、足踏み式の[[ブレーキペダル|ペダル]]で行う[[フットブレーキ]]がほとんどである。ペダルに加えられた力は[[油圧]]や[[気圧|空気圧]]を介してブレーキ装置に伝達し、[[摩擦]]材を回転部分に押しつけ、[[運動エネルギー]]を[[熱エネルギー]]に変換して速度を落とす。市販車のほとんどが、[[空気ブレーキ|エアブレーキ]]以外の液圧式では、エンジンの[[インテークマニホールド|吸気管]][[負圧]]や油圧を利用した、ペダル踏力を軽減する[[ブレーキブースター|倍力装置]]を有している。
下り坂などで、フットブレーキに頼り過ぎると[[フェード現象]]で制動力が著しく低下したり、[[ベーパーロック現象]]でペダル踏力が全く伝わらなくなってしまうことがある。これらを防ぐために[[エンジンブレーキ]]を利用することが[[自動車教習所|運転免許教習]]でも指導されているが、[[車両総重量]]が大きくエンジンブレーキだけでは抑速や減速効果が得られにくい[[大型自動車|大型]]の貨物自動車では、[[排気ブレーキ]]や[[リターダ]]を搭載する車種も多い。
高速からの制動には、放熱性に優れる[[ディスクブレーキ]]が有効であるが、重量が大きい車両の制動や、勾配での駐車などには、自己倍力作用の働きで「拘束力」の大きい[[ドラムブレーキ]]が有利となる<ref>[http://www.sei-brake.co.jp/necchuu/brake/brake42.html S&Eブレーキ株式会社 ブレーキ雑学講座 「雑学講座42 ディスクブレーキとドラムブレーキ」]</ref>。
[[駐車]]時に車体が動き出さないように拘束する[[パーキングブレーキ]]はワイヤ式または空気式のものが多い。乗用車の場合はブレーキ装置を制動用のものと共用する構造がほとんどであるが、制動用のディスクブレーキの内周に拘束用の[[ドラムブレーキ]]を備えるものもある。従来貨物車ではトランスミッション(変速機)出力部にドラムブレーキを備え、[[プロペラシャフト]]を拘束するセンターブレーキが一般的であったが、法改正により常用ブレーキを兼用する「ホイールパーク式」/「マキシブレーキ」と呼ばれる、ホイールを直接拘束する方式に移行した。
=== 運転装置 ===
運転者の座席は座部と背もたれを備えた椅子形のものが主流である。運転席の正面には操舵用のハンドルと[[アクセルペダル]]と[[ブレーキペダル]]、あるいは[[クラッチペダル]]が備えられているのが標準的な自動車の構造である。ハンドルは[[円 (数学)|円]]形が一般的だが、[[オート三輪]]では[[オートバイ]]や[[スクーター]]のような棒状のハンドルも存在した。また、腿まわりの空間的余裕が増える楕円形のハンドルを採用している車種もある。駐車ブレーキを操作する装置は、レバーを引き上げる方式のものが主流であるが、古いトラックや[[ワンボックスカー]]では杖状のレバーを車体前方の奥から手前に引き寄せる方式のものもある。また、近年では足踏み式のものや電気的に作動する押しボタン式も採用されるようになった。変速機の操作レバーはMTの場合は[[シフトレバー]]、ATの場合はセレクトレバーと呼ばれる。いずれの場合も運転席の脇、車体中央側の床に設置されているフロアシフトが大半を占める。古い[[タクシー]]やトラック、ワンボックスカーでは[[ステアリングコラム]]にシフトレバーを設置したコラムシフトのMTも多く存在した。一時期のAT車ではミニバンを中心に、ステアリングコラムにセレクトレバーを備える車種は珍しくないものとなっていたが、近年は[[ダッシュボード (自動車)|インストルメントパネル]]にセレクトレバーを配置したものが多い。
== 自動車の利用 ==
=== 乗用車としての利用 ===
{{see also|モータリゼーション}}
[[File:Metropolitan Expressway Takaido entrance 1.jpg|thumb|right|200px|首都高速道路]]
自動車は人や物を輸送でき、また道路さえ整備されていれば様々な場所に行くことができる。これはかつての[[馬車]]で行われていた用途の継続でもあった。道路の全国的な整備が、[[先進国]]への仲間入りとも言える。
[[アメリカ]]は、1908年に[[大衆車]]のパイオニアである[[フォード・モデルT|フォードT型]]を発売、1911年には[[自動車専用道路]]の先駆けとなる[[公園道路|パークウェイ]]が整備された。[[イタリア]]では、1924年に[[ミラノ]]から[[ヴァレーセ]]までの約50kmに、交差点のない幅10mの[[アウトストラーダ]]を完成させている<ref name="gazooroad">{{Cite web|和書|date=2015-04-17|url= https://gazoo.com/article/car_history/150417_1.html |title= アウトバーンとハイウェイ(1933年) |website=GAZOO|publisher=トヨタ自動車|accessdate=2020-07-05}}</ref>。[[ドイツ]][[ナチ党]]の[[アドルフ・ヒトラー]]は、1933年に「休日には低所得者層が自動車に乗って[[ピクニック]]に出かけられる」暮らしが必要であると提え、[[モータリゼーション]]推進を宣言<ref name="gazooroad"/>。[[アウトバーン]]の整備や伝説的大衆車[[フォルクスワーゲン・タイプ1|フォルクスワーゲンビートル]]の開発に着手した。日本は、元々馬車文化が未熟であったために道路整備は難航したが<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.mlit.go.jp/road/michi-re/4-2.htm |title= 近代における道路政策|website=国土交通省HP|publisher= 国土交通省|accessdate=2020-07-05}}</ref>、戦後に入って[[首都高速道路]]が建設されるなど、欧米に劣らぬ勢いを見せた<ref name="gazooroad"/>。
=== 商用車としての利用 ===
[[File:Sixth Avenue - panoramio (40).jpg|thumb|right|200px|街中のスクールバスとタクシー]]
他方の利用として、自動車を用いたサービス業が多様に存在し、市民の生活にとって大きな役割を担っている。これには大きく分けて「自動車で何かをする」形態と、「自動車に何かをする」形態がある。
前者の例として、[[旅客輸送]]や[[貨物輸送]]を行うサービス全般を[[運輸業]]と呼ぶ。旅客であれば[[タクシー]]や[[ハイヤー]]、また[[バス (交通機関)|バス]]などとして運営され、バスは多くの人員の輸送が可能であることから、形態に応じて[[路線バス]]、[[観光バス]]、[[高速バス]]、[[定期観光バス]]などと様々なものがある。貨物輸送に関しては運送会社がトラックを用いて輸送する。
直接的な輸送サービスの提供ではないが、自動車を賃貸する[[レンタカー]]や[[カーリース]]もある。
後者の例としては自動車の整備を行う[[自動車整備業]]、自動車への燃料補給などを行う[[水素ステーション]]などがある。
=== 緊急車両・特殊車両としての利用 ===
[[File:JGSDF Ambulance , 陸上自衛隊 1トン半救急車 - panoramio.jpg|thumb|right|200px|[[陸上自衛隊]]の救急車]]
国民の安全や治安維持のために、自動車を利用する例がある。
[[パトロールカー]] (パトカー) は、[[犯罪]]や[[交通違反]]の取り締まりのために使用される。パトロールを行うことで犯罪の抑制に繋がるという重要なメリットも持ち合わせている<ref>{{Cite web|和書|date=2016-08-23|url=https://www.keishicho.metro.tokyo.lg.jp/about_mpd/shokai/katsudo/koban/patrol_car.html|title=パトカーの活動状況|website=警視庁HP|publisher=警視庁 |accessdate=2020-07-07}}</ref>。[[消防車]]は、[[火災]]その他[[災害]]に際してその鎮圧や防御を行う際に使用される。この用途は古くから馬車や[[人力車]]などで担われていた。[[救急車]]は、[[疾病]]または災害などによって発生した傷病者を治療可能な[[医療施設]]まで迅速に搬送するために使用される。一般道を利用しながら早急に目的地へ到着しなければならないため、市民の協力が重要とされる<ref>{{Cite web|和書|date=2019-09-10|url=https://gazoo.com/article/daily/190910.html|title=知っておきたい! 近づいてくる救急車のよけ方|website=GAZOO|publisher=トヨタ自動車 |accessdate=2020-07-07}}</ref>。
また[[特殊車両]]としては、国の平和・安全のために使用される[[装甲車]]や、[[建設工事]]に使用される[[クレーン車]]や[[ブルドーザー]]、輸送に使用される[[タンクローリー]]や[[牽引自動車|トレーラー]]などがあり、いずれも国民が健康で文化的な最低限度の生活を送るためには必要不可欠な自動車である。
== 自動車文化 ==
{{独自の研究|section=1|date=2022年4月}}
<!--『{{要出典範囲|自動車の魅力やまたその愛好家たちによって生まれた文化を「自動車文化」と定義づける|date=2022年4月}}』と誰が言ったかを明示すべき。
出典が示されていない。投稿者によるエッセーのような内容。
{{要出典範囲|自動車は多彩な車種・形状があり、また用途によって様々な自動車が使い分けられる。自動車で走ると言っても、整備された道路・行程だけでなく条件の悪い道路・行程などもあり、様々な楽しみ方がある。また[[デザイン]]性や機能性、[[自動車エンジン|エンジン]]性能、[[メカニカル]]な側面など、様々な魅力を自動車は有しているため、自動車に乗ること、集めることなどを趣味にする人は多い。特に遠方の行楽地に向かう際に自動車による移動そのものを主目的の一つとしたり、目的地を決めずにただ自動車を運転する周遊旅行は一般に「ドライブ<ref group="注">オートバイによる同様の行為は「[[ツーリング (オートバイ)|ツーリング]]」、自転車によるものは「[[サイクリング]]」あるいは「[[ポタリング]]」である。</ref>」あるいは「遠乗り」と呼ばれ、最もスタンダードな自動車の楽しみ方である。|date=2022年4月}}
-->
自動車愛好家については「[[カーマニア]]」を参照。
この項では、自動車に関して長い歴史を有する「欧米諸国」と「日本」双方の文化比較を基軸として述べていく。
「自動車の魅力」というと[[スポーツカー]]や[[スーパーカー]]、[[ハイパーカー]]といった[[ハイエンド]]なタイプに焦点が当てられがちであるが、そういった部類のみでは語ることができないほど、自動車文化は多様性に富んでいる。
『{{要検証|date=2022年4月}}{{要出典範囲|[[エンスージアスト]]の多くは、様々なタイプの自動車に対して関心を持っている|date=2022年4月}}』<ref name="carlife">
出典として挙げてあるサイトは、百科事典の出典としては不適切。
{{Cite web|和書|date=2017-04-22|url= https://www.leon.jp/peoples/7837 |title= 白洲次郎、S.マックイーン、J.レノン……いいオトコが愛したクルマたちとは? |website= LEON|publisher=主婦と生活社|accessdate=2020-07-07}}</ref>。<!--
出典として挙げられたウェブページ LEONには、「自己のライフスタイルを映し出す鏡」などという表現は無い。投稿者による独自の作文。-->
<!--ただし、前述の自動車は趣味としての使用をコンセプトにしているため、自動車愛好家のメインアイテムとなっていることも事実である。また自動車選びは、他の趣味と同様に”自己のライフスタイルを映し出す鏡”のような存在でもある<ref name="carlife"/>。-->
=== 自動車文化の形成 ===
==== 欧米 ====
[[File:1957-05-12 Mille Miglia Ferrari 335S 0646 Portago Nelson.jpg|thumb|right|200px|[[:en:Ferrari 335 S|フェラーリ335S]]を運転する[[アルフォンソ・デ・ポルターゴ|第11代ポルターゴ侯爵]](ミッレミリア1957)。ヨーロッパ貴族と自動車の関係は深い。]]
[[ヨーロッパ]]各国([[イギリス]]、イタリア、[[フランス]]、ドイツなど)では、[[王立自動車クラブ]]に代表されるように、[[20世紀]]初頭から[[貴族]]や[[富裕層]]らによって自動車を趣味・娯楽の対象として扱う側面が発達し(かつての[[乗馬]]、[[馬術]]の延長線上にあった)、のちに一般大衆にまでその貴族趣味的な気韻を持った、[[ハイカルチャー]]とも言うべき自動車文化が浸透していった<ref name=":0" /><ref name="gqcar">{{Cite web|和書|date=2017-06-19|url= https://www.gqjapan.jp/car/story/20170619/20170608/the-100-heads-up-Issues-032 |title= 米欧カーカルチャーはなぜ違う?──ボンジョルノ西川淳のコラム・スペチアーレ 貴族趣味 vs カジュアル |website=GQ JAPAN|publisher=コンデナスト・ジャパン|accessdate=2020-07-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2019-09-23|url=https://genroq.jp/2019/09/23/44255/|title= グッドウッド・リバイバル・ミーティング2019に見る、ヨーロッパ自動車文化の奥深さ|website=GENROQ Web|publisher=株式会社三栄|accessdate=2020-07-05}}</ref>。それは、[[18世紀]]後半から[[19世紀]]に生まれた英国の新興富裕層が、貴族以上に貴族らしくあるために自分自身に磨きをかける「[[ダンディズム]](≒[[ノブレス・オブリージュ|貴族精神]])」と呼ばれる思想に準拠している<ref name="tokudaiji">{{Cite web|和書|url= https://www.ahead-magazine.com/archives/?p=1716 |title=特集 カッコイイを考える <徳大寺有恒とジャガー の関係性>|website=ahead magazine archives |publisher=株式会社レゾナンス|accessdate=2020-07-10}}</ref>。[[自動車競技|自動車レース]]黎明期の時代においては、[[サーキット]]がそういった[[ジェントルマン]]たちの社交場にもなっていた<ref name="lexus ">{{Cite web|和書|date=2017-08-25|url=https://lexus.jp/magazine/20170825/83/spo_lex_motorsport.html |title= モータースポーツ讃歌 —サーキットはジェントルマンの社交場である|website=VISIONARY MAGAZINE BY LEXUS|publisher=レクサス|accessdate=2020-07-05}}</ref>。ただし貴族趣味的とはいえ、彼らは自動車の価格(大衆車/[[高級車]]などの類別)や、またそれらから生じる[[社会的地位|ステータス]]を重視していたのではなく、純粋に趣味・娯楽の対象として自動車を求めていた<ref name ="precious">{{Cite web|和書|date=2019-10-31|url=https://precious.jp/articles/-/13482 |title=美しくとも危険な芳香漂う---男の生き様は名車と共に!切っても切れない車と男の関係性|website=MEN'S Precious|publisher=小学館|accessdate=2020-07-29}}</ref>。
その一方で、”欧州では、[[縦列駐車]]する時はぶつけて止める”といった世説が出るほど、自動車を「移動手段の道具」として割り切って捉える思想もヨーロッパには根強くある<ref name="webcgfrance">{{Cite web|和書|date=2014-02-13|url= https://www.webcg.net/articles/-/30265 |title=【マッキナあらモーダ!】第334回:”クルマをぶつけて止める”伝説を検証してみる|website=webCG|publisher=株式会社webCG|accessdate=2020-07-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2017-09-26|url=https://www.webcartop.jp/2017/09/156024/ |title=ヨーロッパでは縦列駐車時にバンパーをぶつけるのが当たり前ってホント?|website=WEB CARTOP|publisher=交通タイムス社|accessdate=2020-07-18}}</ref>。実際に走行している自動車の多くは、日本に比べて車体が汚損している傾向にあり、この思想は[[サイクルカー]](ヴォワチュレット)や[[バブルカー]]、[[ミニカー (車両)|マイクロカー]]のその極端とも言える[[理性主義|合理主義]]的な簡素な造りにも表れている。因みにこの文化は、その地の自動車愛好家にとっては非常に難儀なものであり、フランスにおいては都市部での治安の悪さも含め、駐車場所には特に気を使わけなければならないという話もある<ref name="webcgfrance"/><ref>{{Cite web|和書|date=2017-05-08|url=https://gazoo.com/ilovecars/daily/170508.html|title=「日本だからクラシックカーに乗れる」フランス人パティシエのシトロエン愛|website=GAZOO|publisher=トヨタ自動車|accessdate=2020-07-18}}</ref>。
[[アメリカ]]は、[[フォード・モーター|フォード]]によって自動車をいち早く大衆化させたことから、よりカジュアルで[[商業主義]]的な文化が目立つ<ref name="gqcar"/>。特にその傾向は戦後になってから顕著に表れはじめ、1940 - 1950年代における、[[ドラッグレース]]や[[ストックカー]]といった単純明快なルールを持つ自動車レースの誕生は好例である。また、人種の多様性から多地域の自動車文化が数多く混在していることも特徴の一つである。それは[[カスタム]]文化に顕著に表れており、[[白人]]由来の[[ホットロッド]]、[[チカーノ|メキシコ系]]由来の[[ローライダー]]、[[アジア系アメリカ人|アジア系]]由来の[[スポーツコンパクト]]などがある<ref>{{Cite web|和書|date=2019-06-14|url= https://fika.cinra.net/article/201906-kuruma |title= 『ワイスピ』のルーツを宇野維正が解説 カスタムカー文化を紐解く |website=Fika |publisher=株式会社CINRA|accessdate=2020-07-18}}</ref>。自動車の美しさを競うコンテストや展示会も世界的な規模で開催される。ただし、いずれも大衆性やエンターテインメント性を意識したものであることは確かであり、[[権威主義]]的な面は少ない<ref name="gqcar"/>。また[[大量生産]]方式から生まれた[[インダストリアルデザイン]]は、後の自動車デザインにおける核となり、「自動車の消費」という概念を誕生させることになる<ref>{{Cite web|和書|date=2014-09-19|url= https://gazoo.com/article/car_history/140919_1.html |title= <カーオブザセンチェリー>T型フォード(1908年)|website= GAZOO|publisher=トヨタ自動車|accessdate=2020-07-18}}</ref>。
==== 日本 ====
[[File:Kishichiro Okura.jpg|thumb|right|200px|日本人初のレーサー、大倉喜七郎男爵。日本初のオーナーズクラブ『日本自動車倶楽部』(1910年)の創設にも貢献し、日本における自動車文化の基礎を作った<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.jahfa.jp/wp/wp-content/uploads/2018/12/2018-okura.pdf |title= 大倉喜七郎 日本の自動車レースと自動車文化を先駆 |website= 日本自動車殿堂 |publisher=JAHFA|accessdate=2020-07-07}}</ref>。]]
<!--自動車文化を直接的に示すものではなく、またWikipeida内に「日本への自動車の渡来」「日本における自動車の年表」のページがあるため、そちらに移動させた方が適切。
日本に最初に渡来した自動車は、[[1899年]](明治32年)に、当時の皇太子(後の[[大正天皇]])の御成婚を祝して[[サンフランシスコ]]在留邦人会が献上した電気自動車であると見られる。最初の日本製ガソリン自動車は、1907年に東京自動車製作所が製造したものであった。1911年には[[橋本増次郎]]が東京に[[快進社]]自動車工場を設立。1919年には久保田鉄工(現[[クボタ]])の社長の息子だった[[久保田篤次郎]]が、大阪に実用自動車製造を設立した。世界的な恐慌の煽りを受け、この両社が26年に統合され、33年に[[日産自動車|日産]]自動車となった。また三菱造船神戸造船所が[[1917年]]にイタリアのフィアット・ゼーロに学んで三菱A型乗用車を完成させており、[[三菱自動車]]の遠い先祖といえる。[[1918年]]には[[大日本帝国陸軍|陸軍]]が定めた一定の規格に合致するトラックに補助金を出す軍用自動車保護法が施行されており、これは自動車工業の発達を促す日本で初めての法律だった。これにより[[東京瓦斯電気工業]]がTGE(Tokyo Gas Electric)トラックの生産を開始し、[[石川島造船所]]もイギリスのウーズレー車の製造権を得、初め乗用車を国産化していたが、まもなくトラックに転じ、後にはバスも製造した。この両社は33年から提携するようになり、37年には合併され、第二次世界大戦後に[[いすゞ自動車]]となった<ref name="nippo" >[https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A-74374 日本大百科全書(ニッポニカ) 自動車]</ref>。
-->
日本の自動車文化は、明治 - 大正期にかけて[[欧化主義]]の名残があったことや、20世紀半ばまで[[華族|華族制度]]が存在したこと、また同じく20世紀半ばまで大衆車が普及せず[[上流階級|上流層]]のみしか自動車を所有できなかったことなどの理由から、必然的にヨーロッパにおける文化形成と似た道を辿ることとなった。これは自動車に限らず、[[ゴルフ]]、[[テニス]]、[[乗馬]]など当時輸入された西洋由来のハイカルチャーはみな同様の過程を経た。
[[1898年]]1月、日本に初めて四輪自動車が渡来したとされる(諸説あり。[[日本への自動車の渡来]]を参照)。[[1902年]]、[[川田龍吉]]男爵が[[横浜市|横浜]]でロコモビル社製の蒸気自動車[[スタンレー・スチーマー]]を購入、通勤で乗るなど個人的に使用した。ここで川田は日本初のオーナードライバー(自家用車所有者)になったされる<ref>[https://www.jsme.or.jp/kikaiisan/heritage_035_jp.html ロコモビル(国内最古の自家用乗用自動車)] 日本機械学会</ref>。[[1907年]]には、美術品コレクターで冒険家の英国人トーマス・ベイツ・ブロウ<ref>[https://www.fondation-baur.ch/jp/27 トーマス・ベイツ・ブロウ] バウアー財団東洋美術館</ref>が[[1904年]]製の[[スイフト・モーター・カンパニー|スイフト]]7HPで[[京都市|京都]]から[[軽井沢町|軽井沢]]を目指す自動車旅行を敢行したことが記録されている<ref>[https://www.japansociety.org.uk/review?review=505 Biographical Portraits, Volume X] The Japan Society</ref>。[[1908年]]8月1日には、[[皇族]]の[[有栖川宮威仁親王]]が「ダラック号」(''[[:w:Darracq|Darracq]]'' )を先頭にガソリン自動車を連ねて遠乗り会を敢行、その目的地は[[谷保天満宮]]であり、これが日本初のドライブツアー(カーミーティング)とされる<ref>{{Cite web|和書|url= https://kunimachi.jp/2012/08/01/タクリー号(国産初のガソリン車)実動レプリカ/ |title= タクリー号(国産初のガソリン車)実動レプリカお披露目 |publisher= NPO法人 国立市観光まちづくり協会 |accessdate=2020-08-26}}</ref>。1907年7月6日、[[大倉財閥]]一族の[[大倉喜七郎]]男爵は、英国[[ブルックランズ|ブルックランズ・グランプリ]]で[[フィアット]]を駆り2位に入賞、ここで大倉は日本人初のレーサーとなった。その3年後の[[1910年]]には、大倉を中心に日本初の[[オーナーズクラブ]]『日本自動車倶楽部』が結成される。事務局は[[帝国ホテル]]に置かれ、会長に[[大隈重信]]、メンバーには大倉喜七郎、[[伊東巳代治]]、[[寺内正毅]]、[[後藤新平]]、[[渋沢栄一]]、[[尾崎行雄]]といった政財界の名士が名を連ね、欧米各国の[[大使]]、[[公使]]も参加、このクラブは一大[[サロン]]となった<ref name ="japan">{{Cite journal|和書 |author=小林英夫 |title=日本で自動車はどう乗られたのか |url=https://hdl.handle.net/2065/46851 |journal=アジア太平洋討究 |issn=1347-149X |publisher=早稲田大学アジア太平洋研究センター |year=2015 |month=dec |issue=25 |pages=29-48 |naid=120005694993}}</ref>。当時の自動車所有者はほとんど入会したためにその影響力は大きく、[[自動車税]]の決定など行政的な業務も行なった<ref name ="japan"/>。
その後も[[華族]]や[[エスタブリッシュメント]]の[[ハイカラ]]たちを中心に、日本の自動車文化は形成されていった。戦前の著名な自動車愛好家に、[[三井八郎右衛門#11代高公|三井高公]]、[[細川護立]]、[[鍋島直泰]]、[[小早川元治]]、[[福澤駒吉]]、[[白洲次郎]]、[[藤山一郎]]などが知られている。戦後に入ってもなお、伝統的な西洋式の自動車趣味は多くの人物によって継承され、失われることはなかった。[[小林彰太郎]]、[[式場壮吉]]、[[福澤幸雄]]、[[徳大寺有恒]]、[[夏木陽介]]などは、そういった際に名が挙げられる著名人である<ref name="lexus "/><ref>{{Cite web|和書|date=2018-05-23|url= https://serai.jp/hobby/315388 |title=「テリーが惚れた偉大なるクルマ賢人たち」(テリー伊藤のクルマコラム 第12回) |website= サライ.jp|publisher=小学館|accessdate=2020-07-09}}</ref>。中でも[[自動車評論家]]の小林彰太郎は、自身が[[ライオン (企業)|ライオン]]創業者の一族出身でありながらも自動車評論家を生業とし、1962年に雑誌『CARグラフィック』(現・[[カーグラフィック]])を創刊。当時では大衆の高嶺の花であった輸入車の魅力を積極的に発信し、また自身も英国流の自動車趣味を実践したことで、日本における自動車文化の普及に貢献した<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.jahfa.jp/wp/wp-content/uploads/2017/02/2013-kobayashi.pdf |title= 自動車実学に徹したモータージャーナリスト 小林 彰太郎 |website= 日本自動車殿堂|publisher=JAHFA|accessdate=2020-07-07}}</ref>。
第二次世界大戦後に日本を占領した連合軍は自動車の開発を制限し、特に乗用車は事実上の禁止となった。この制限は[[1949年]](昭和24)に解除され、1952年ごろからは先進国のメーカーと技術提携して外国車をノックダウン生産、しだいに国産化して技術の吸収に努めるメーカーが増えていった<ref name="nippo" />。
[[1960年代]]以降一般大衆に自動車が普及するようになると、[[サブカルチャー]]としての側面も現れはじめる。中でも[[チューニングカー]]や[[VIPカー]]、[[痛車]]などのカスタム文化は現在では世界中に影響を与えるまでに発展している<ref>{{Cite web|和書|date=2016-10-21|url=https://www.redbull.com/jp-ja/how-to-stance-your-car |title=英国で独自の進化を遂げる改造車シーン! |website= Red Bull|publisher=Red Bull.com|accessdate=2020-07-10}}</ref>。また、この文化は非常にユニークなものである一方で、速度超過、[[改造車#違法改造車対策|違法改造]]、[[走り屋]]、[[暴走族]]といった各種違法行為、或いは騒音、運転マナーの悪さといった迷惑行為との関連が少なからずあり(これもまた一種の文化と化している)、そういった面から自動車に対して[[ヤンキー (不良少年)|不良]]なイメージを連想させることがある<ref>{{Cite web|和書|date=2018-09-07|url=http://orm-web.net/wheels/-bosozoku.php|title= ~BOSOZOKU~ 米国に伝播し美化された、間違った日本の自動車文化|website=ON THE ROAD MAGAZINE web|publisher=株式会社オンザロード|accessdate=2020-07-05}}</ref>(「[[VIPカー#マイナスイメージ]]」も参照)。これらの文化の形成過程については、「[[チューニングカー#日本における歴史]]」などを参照のこと。
日本は、草創期から自動車生産を開始し<ref group="注">1907年には純国産の実用化されたガソリン車が開発されている。</ref>、また同じく草創期から[[輸入車|外国車]]を比較的多く輸入していたこと、或いは戦後の[[日本車|国産車]]の普及などもあって自動車と接する機会は多く、ヨーロッパやアメリカに次いで自動車文化が定着しやすい環境にあった<ref name=":0" /><ref name ="japan"/> 。そのため他の[[アジア]]各国や[[アフリカ]]諸国と比べて文化が十分成熟の域に達していると言える<ref>{{Cite web|和書|date=2017-07-01|url=http://news.searchina.net/id/1638925|title= 成熟した日本の自動車文化に比べ、メンツを求める我が国はまだ未熟=中国報道|website=Serchina|publisher=モーニングスター株式会社|accessdate=2020-07-05}}</ref>。[[軽自動車]]やチューニングカー、(見世物としての)[[ドリフト走行]]などは日本発祥であり、1970年代には[[スーパーカー#1970年代のスーパーカーブーム|スーパーカーブーム]]も到来している。上記でも触れたように[[カーマニア]]を対象とした自動車雑誌やテレビ番組も多数ある(「[[:Category:日本の自動車雑誌]]」、「[[:Category:自動車番組]]」を参照)。ただし近年の日本では、カーマニアと一般大衆の間における自動車に対する興味の差が非常に大きくなっていることも指摘されている<ref>{{Cite web|和書|date=2018-05-21|url= https://www.webcg.net/articles/-/38750 |title=カーマニア人間国宝への道 第91回:日本独自のクルマ観は世界を変える? |website=web CG|publisher=株式会社webCG|accessdate=2020-07-05}}</ref>。
[[カルチュア・コンビニエンス・クラブ|CCC]]会長の[[増田宗昭]]は、「プレミアエイジ(60歳以上の富裕層)」の人々に自動車を楽しんでもらいたいとして<ref>{{Cite web|和書|date=2014-02-06|url= https://gendai.media/articles/-/38278 |title= ピニンファリーナ × 増田宗昭「デザインとビジネス」【後編】 |website= 現代ビジネス|publisher=講談社|accessdate=2020-07-09}}</ref>、同社が展開する商業施設において自動車関連の展示会やイベントを頻繁に開催しており、また一方では、[[カー用品]]店「[[オートバックスセブン|オートバックス]]」に対して、生活提案型商業施設のコンセプトを取り入れた店舗づくりも行っている。このように、近年の日本における自動車関連産業では、店舗内に[[カフェ]]を設置したり、より集客の見込める場所に店舗を設置することで、自動車に興味のある人以外も取り込んでいこうとする姿勢が見られている<ref>{{Cite web|和書|date=2018-11-22|url= https://trafficnews.jp/post/82142/2 |title= 「脱・カー用品店」なオートバックス誕生 本、雑貨、カフェ…旗艦店大改装の狙い |website= 乗り物ニュース|publisher=メディア・ヴァーグ|accessdate=2020-07-07}}</ref>。
[[トヨタ自動車]]会長[[豊田章男]]は、「愛車」にこだわる理由として、''”数ある工業製品の中で『愛』がつくのは自動車だけだから”''であるという<ref name="gazooai">{{Cite web|和書|date=2017-11-01|url=https://gazoo.com/article/event/171031.html|title=イチローさんも登場!モリゾウが「クルマ愛」を語る「WE LOVE CARS 2017」|website=GAZOO|publisher=トヨタ自動車|accessdate=2020-07-05}}</ref>。例えば冷蔵庫を「愛機」とは呼ばず、家は「愛家(ラブホーム)」ではなく「マイホーム(私の家)」と呼び『愛』はつかない、と述べている<ref name="gazooai"/>。
=== カーデザイン ===
{{Otheruses2| |自動車のデザインを手がける人物や工房|カーデザイナー|コーチビルダー|カロッツェリア}}
カーデザインの重要性は自動車の誕生時から常に認識されており、自動車文化の形成にも大きな役割を果たしてきた。その変遷は製造技術の発達や[[空気力学]]の発展、或いは人々の思想などにも強く関わっている<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.mikipress.com/m-base/2020/03/5-3.html |title=石井守のデザイン論 「第5回 日本のカーデザインの変遷と展望(前編)」|publisher=三樹書房|accessdate=2020-08-17}}</ref>。
以下に並べるデザインの変遷は、あくまでも概略かつ主流を示しており、いずれの時代にもこれらに反するデザインや折衷的なスタイリングを持った自動車が見られるということには留意である。
==== 1960年代以前のカーデザイン ====
{{Triple image aside|right|097 EW-E328H BMW (7247564700).jpg|200|1952 Jaguar C-Type Original (XKC027).jpg|200|Cazalieres FR Meiners IT Automobile Club de France Alfa Romeo Giulia TZ 1 1964 (27455028880).jpg|200|1930年代のスポーツカー<ref group ="注">手前から[[:en:BMW 328|BMW・328]]、[[アルファロメオ・8C]]。</ref>|1940 - 1950年代のスポーツカー<ref group ="注">手前が[[ジャガー・Cタイプ]]、左奥が[[ジャガー・XK120]]、右奥が[[ポルシェ・356]]。</ref>|1950 - 1960年代のスポーツカー<ref group ="注">手前から[[アルファロメオ・ジュリア#TZ/TZ2|アルファロメオ・TZ]]、[[:en:Maserati 200S|マセラティ・250S]]、[[フェラーリ・250GT SWB]]、[[アストンマーティン・DB4]]。</ref>}}
自動車黎明期と言える[[1900年代]]までのデザインは、[[直線]]と[[平面]]のみで構成された、極めて古風でシンプルなスタイリングが特徴であった。そのほとんどは[[馬車]]・[[自転車]]の延長とも言えるような簡素な造りであったため、”[[:en: Horseless carriage|馬なし馬車]]”とも呼ばれていた<ref name="airflow">{{Cite web|和書|url= https://gazoo.com/article/car_history/150515_1.html |title=【技術革新の足跡】デソート・エアフロー――空気を形に(1934年)|publisher=トヨタ自動車|accessdate=2020-08-17}}</ref>。ただし1891年に[[パナール|パナール・ルヴァッソール]]によってフロントエンジン(システム・パナール)方式が確立されたことで、徐々に自動車らしいデザインへと変化していく<ref name=":0"/>。まもなくして、馬車時代から続投した[[コーチビルダー]]による[[貴族]]らしい装飾が施された豪華な自動車(=[[高級車]])が誕生し<ref name=":0"/>、また[[モータースポーツ]]の発生により[[レーシングカー]]も生まれたことで、本格的な自動車文化の礎が築かれていった。
[[1920年代]]に入ると、「[[流線形車両|流線型デザイン]]」の誕生によってカーデザインは大きな進展を迎える。その発端は、エンジン性能の向上によって過激さを増していたモータースポーツの世界において、[[空気力学|空力]]を意識したデザインがレーシングカーに続々と起用されていったことにはじまる(ただし空力の意識の発生は1900年前後の[[自動車の速度記録|速度記録車]]から既に見られはじめている<ref>{{Cite web|和書|date=2020-05-14|url=https://www.redbull.com/jp-ja/history-of-land-speed-record-cars |title=【地上最速を目指す旅】自動車最高速度記録の歴史|website=Red Bull|publisher=Red Bull.com|accessdate=2020-08-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-21|url= https://carsmeet.jp/2019/08/21/117075/ |title= 空気の壁を切り裂く流線型は自動車のスピードともに【GALLERIA AUTO MOBILIA】#014 |website=CARS MEET WEB|publisher=株式会社ネコ・パブリッシング |accessdate=2020-08-17}}</ref>)。それは「ポインテッドテール」や「[[ボート]]テール」と呼ばれる、窄まったリアの形状に代表される([[ブガッティ・タイプ35]]が著名<ref>{{Cite web|和書|url=https://gazoo.com/catalog/maker/FRANCE_BUGATTI/T35/192601/|title=ブガッティ T35|publisher=トヨタ自動車|accessdate=2020-08-18}}</ref>)。その中で[[エドムント・ルンプラー]]や[[パウル・ヤーライ]]によって空気抵抗を低減するボディ構造が確立されると、[[1930年代]]から一般的な乗用車にもそれに似た涙滴(ティアドロップ)型のボディが積極的に起用されはじめた<ref name="airflow"/>。また泥除けの機能として装着されていた[[フェンダー (自動車)|フェンダー]]に関しても、プレス成型技術の発展もあってより流麗で立体的な[[渦巻]]状のデザインに変貌し、タイヤ全体を覆うモダンなスタイリングも出現([[:en:Fender skirts|フェンダースカート]])、それらは曲線的な美しさを印象づける重要な要素として機能しはじめた。特にその前後のフェンダーの終点部分は斜め下に向かって流れるように落ち込むため、ボディ全体を尻下がりのスタイリングに印象づけた。これら一連の特徴による、丸みと曲線で構成された自動車デザインは「流線型デザイン([[:en:Streamliner|Streamliner]], [[:en:Streamline Moderne|Streamline Moderne]])」と呼ばれ、この時代に大流行したデザイン様式となった<ref name ="artscape">{{Cite web|和書|url=https://artscape.jp/artword/index.php/流線型デザイン|title=アートワード「流線型デザイン」 |website=アートスケープ |publisher=DNP 大日本印刷|accessdate=2020-08-17}}</ref>(インダストリアルデザインの発展にも寄与することになる)。
[[File:Peugeot 402 Darl'Mat.jpg|thumb|right|200px|”Art Deco Automobiles”としてカテゴライズされる3台の[[:en:Peugeot 402|プジョー・402]] [[:en: Darl'mat|ダルマット]](1936 - 1939)。ボディはプルートー社による。]]
このスタイリングの誕生は、[[流体力学]]理論に基づいた[[空気抵抗]]の低減と、イタリアの[[未来派|フトゥリズモ]]による「[[未来派#未来主義創立宣言より|速度の美]]」の表現、そしてフランスの[[アール・デコ]]様式による装飾芸術という、[[モダニズム]]を根幹とした”芸術性と合理性の融合”にあった<ref name ="artscape"/>。それは[[機械化]]の波の中で新たな芸術性を模索した結果の一つの完成形とも言え、その曲線美から生み出されるスピード感やダイナミズムは自動車が芸術品として捉えられる大きな契機となった<ref name ="artscape"/>。そのため、この時代はコーチビルダーの全盛期となり、数多くのデザイナーが自動車(高級車)のボディで美しさを競い合った。この1930年代における豪奢と前衛、エレガンスが同居したデザインの一部高級車(主に[[フランス車]])は、”Art Deco Automobiles”(アール・デコ・オートモビルズ)、或いは”Flamboyant”(フラムボワイヤン)と呼ばれ、かつては上流階級の[[社交界]]における花形的存在として君臨したほか、現在では[[耽美主義]]的な側面を持ったダイナミックな芸術作品群として認識されている<ref>{{Cite web|url= https://www.mfah.org/exhibitions/sculpted-steel-art-deco-automobiles-and-motorcycle/ |title= Sculpted in Steel: Art Deco Automobiles and Motorcycles, 1929–1940 |publisher=The Museum of Fine Arts, Houston |accessdate=2020-08-17}}</ref>。その美しさに魅了された者の中には[[美学|美学者]]や[[芸術家]]も含まれ、日本では[[濱徳太郎]]が、欧米では、''”[[アンドレ・ドラン]]が「どんな芸術作品よりも、[[ブガッティ]]は美しい」と述べると、[[マン・レイ]]が深く頷いた”''、といった逸話も残っている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.autocar.jp/news/2020/03/13/489829/ |title=【パリで活躍した日本人自動車画家】追悼 吉田秀樹 アウトガレリア・ルーチェ企画展 |publisher=AUTOCAR JAPAN|accessdate=2020-08-17}}</ref>。
前述の「流線型デザイン」は、その名称が取り沙汰されなくなった[[1940年代]]に至っても、曲線と丸みを帯びたスタイリングとして、カーデザインの主流を保っていた。ただし1947年の[[:en:Cisitalia#Cisitalia 202|チシタリア・202]]や1949年の[[:en: 1949 Ford|フォード・1949]]などの登場によって「フラッシュサイド<ref group="注">別名スラブサイド、フルワイズ、[[ポンツーン#ドイツ発祥|ポントンボディ]]。フェンダーとボディが独立せず、一体になっている構造のこと。</ref>」ボディが大々的にフィーチャーされ、多くの自動車メーカーが採用しはじめた<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.carsensor.net/contents/editor/category_849/_59700.html |title= 自動車デザインの流れを変えた 美しく、高級なスポーツモデル CISITALIA 202SC |publisher=カーセンサー|accessdate=2020-08-17}}</ref>。この変革によって自動車はより近代的なデザインとなり、ボディ全体としてまとまりを見せるスタイリングが[[1950年代]]以降の主流となる。[[前照灯]]とフェンダーはボディと一体化され、それによってボディサイドは隆起や凹凸がない滑らかな形状となった。この特徴は2020年現在でも主流となっている形態である。
{{Triple image aside|right|Paris - Bonhams 2013 - Rolls-Royce 40 50HP silver ghost tourer - 1921 - 006.jpg|200|1938 Rolls-Royce Wraith sedan (26963238950).jpg|200|Rolls Royce Silver Cloud III (1964) - 9503285165.jpg|200|1921年 - 1965年の[[ロールス・ロイス]]におけるデザインの変遷。左から[[ロールス・ロイス・シルヴァーゴースト|シルヴァーゴースト・ツアラー]] (1921年製) 、[[ロールス・ロイス・レイス|レイス]] (1938年製) 、[[ロールス・ロイス・シルヴァークラウド#シルヴァークラウドIII|シルヴァークラウドIII]] (1964年製) 。後継車種である1965年の[[ロールス・ロイス・シルヴァーシャドウ|シルヴァーシャドウ]]からモノコック製のモダンな箱型ボディとなったことから、シルヴァークラウドIIIは伝統的なデザインを有したロールス・ロイス最後の車種と言われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.carsensor.net/contents/editor/category_849/_59487.html |title=ロールス・ロイス伝統のスタイルを飾った最後の1台 ロールス・ロイス シルヴァークラウドⅢ |publisher=リクルート|accessdate=2020-08-17}}</ref>。}}
[[1960年代]]以前、特に1920 - 1960年代の自動車の多くは、先述のようにプレスラインの少ないシンプルな造形、かつ曲線を纏ったダイナミックなスタイリングを有しており、これらは芸術性の高いカーデザインとして、展示会や[[オークション]]などでも高い評価を受けている。1960年代までの欧州における高級車やスポーツカーは、その主な顧客である富裕層のマーケットが自動車文化の歴史が長い欧米の[[保守|保守層]]に未だ限定的であったことから<ref name ="silvershadow">{{Cite web|和書|url= https://www.wakuimuseum.com/home/history/19.html |title= ロールスロイス&ベントレーの歴史 Post War:第二次大戦後篇 チャプター19「シルヴァー・シャドウとTシリーズ」 |publisher=WAKUI MUSEUM|accessdate=2020-08-17}}</ref>、そのスタイリングはしばしば「[[品位 (人品)|エレガント]]」、「[[紳士]]的」とも形容される<ref name ="roma">{{Cite web|和書|url=https://precious.jp/articles/-/15364 |title=フェラーリ・ローマの「時を超えるエレガンス」|publisher=Men’s Precious|accessdate=2020-08-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://otokonokakurega.com/find/secret-base/classic-car/20292/ |title=まさにエレガント。クラシックな佇まいに惚れて「ベントレーS2サルーン」(1960/イギリス)|わたしが クラシックカーに乗り続ける、その理由。 |publisher=男の隠れ家デジタル|accessdate=2020-08-23}}</ref><ref name ="jaguar">{{Cite web|和書|url=https://therakejapan.com/special/taking-out-the-jaguars-with-the-mechanists/ |title=メカニック、ジャガーを試す |publisher=THE LAKE JAPAN|accessdate=2020-08-17}}</ref>。これは戦前のアメリカの高級車やスポーツカーにおいても、欧州ほど純粋・明瞭ではないものの、同じく主流として存在していたデザイン性であった。また世界各国で開催されている「[[コンクール・デレガンス]]」は、この貴族趣味的な文化やデザイン性と密接に関連したクラシックカーイベントである。生前に[[エンツォ・フェラーリ]]が''”LA CORSA PIÙ BELLA DEL MONDO(世界で最も美しい自動車レース)”''と形容した<ref>{{Cite web|url= https://www.bresciatourism.it/cosa-fare/mille-miglia/ |title=Mille Miglia |publisher=bresciatourism|accessdate=2020-08-17}}</ref>伝説的な[[公道コース|公道自動車レース]]、「[[ミッレミリア]]」(1927 - 1957)の参加車両も、この時代までのスタイリングを纏ったスポーツカー/レーシングカーである。それというのもレーシングカーに関しては、1960年代後半から[[スポーツカー (モータースポーツ)|プロトタイプ]]のボディ構造が生産台数の緩和などによって本格的にサーキット仕様に傾いていったため<ref>{{Cite web|和書|url=https://classicporsche.jp/articles/detail/704 |title=伝説のマシン ポルシェ917が誕生するまで│917-001のヒストリー |publisher=classic PORSCHE|accessdate=2020-08-23}}</ref>、自動車レースで優勝争いが行われたレーシングカーに、趣味として愛玩するレベルのデザイン性と実用性が備わっているのが、1960年代までであった(これは資産価値にも多大な影響を与える)。そのため「[[タルガ・フローリオ]]」や「[[:en:Tour de France Automobile|トゥル・ド・フランス・オートモビル]]」など、他の著名な公道レースもこの時代に栄華を極めた(いずれもクラシックカーラリーとして後に復活を遂げている)。
[[アウディ]]の[[主任|チーフ]]デザイナーであった[[:en:Stefan Sielaff|シュテファン・ジーラフ]]は、''”今日、車のデザインは複雑なシェイプとラインの組み合わせが主流になっています。それで顧客の興味、関心を引こうというわけです。ですが、彼らの興味はすぐに冷めてしまいます。...よいデザインとは、細部で凝っているけれど全体で見るとシンプル、そういう方向です。もしあなたが2本のラインと面で1台の車をデザインできるなら、その車は未来永劫、傑作と呼ばれるものになるでしょう”''と述べており<ref name="bentley">{{Cite web|和書|url= https://octane.jp/articles/detail/2181/5/1/1 |title= もっとも速く、もっとも美しい|ベントレーにおける「最良の答え」を示した伝説のモデルとは? 5ページ|publisher=Octane|accessdate=2020-08-17}}</ref>、またそういった傑作を時代の変化に合わせながらも見事に創り続けているのが、[[ポルシェ・911]]であるとも話している<ref name="bentley"/>。ポルシェ・911は、デザインコンセプトを1948年の[[ポルシェ・356|356]]から継承していることで知られており<ref>{{Cite web|和書|url=https://wired.jp/2017/04/11/porsche-911-ulf-poschardt/ |title=名車「ポルシェ911」、時代を超越したデザインの進化がわかるフォトギャラリー |publisher=WIRED|accessdate=2020-08-17}}</ref>、その普遍性に魅了された者は数多くいる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.porsche.com/japan/jp/aboutporsche/christophorusmagazine/archive/385/articleoverview/article04/ |title=Porsche スタイル |publisher=ポルシェジャパン|accessdate=2020-08-17}}</ref>。
1960年代以降になると、欧州の高級車やスポーツカーは、伝統にこだわらず常に新しいものを求める新たな顧客(富裕層)の台頭によって、そのイメージやコンセプトが変化、デザイン性も大きく揺らいでいくことになる<ref name ="silvershadow"/>(=カジュアル化。アメリカでは、1950年代に同様の理由から欧州よりも一足早く本格的なデザインの変化が訪れるが、こちらはその変化によって逆に「アメ車」としてのアイデンティティを確立させることに成功している<ref name ="uscar">{{Cite web|和書|url= https://www.amemaga.com/amevin_vol004_1950_1960/ |title= アメリカ車のイメージが確立され、ビッグ3が大躍進を遂げる |publisher=アメ車MAGAZINE.com|accessdate=2020-08-26}}</ref>([[#1960年代以降のカーデザイン|後述]]))。そのため、[[1990年代]]以降における、1960年代以前に製造されたクラシックカーへの関心の高まりや世界的な価格高騰は、人々が未だ紳士的な生活をしていた古き時代への[[ノスタルジア]]によるものだという意見もある<ref name ="jaguar"/>。[[英国王室]]では、重要な式典における自動車の起用に際して、現行車種ではなく1960年代以前の古典的なデザインを有した[[イギリス車]]が抜擢されることも多い<ref>{{Cite web|url=https://www.cnn.co.jp/amp/article/35123459.html|title=英女王乗せたロールス・ロイスが競売に、2.9億円で落札予想|publisher=CNN|accessdate=2020-08-19}}</ref><ref>{{Cite web|url= https://www.lux-review.com/the-best-royal-wedding-cars-of-all-time/ |title=THE BEST ROYAL WEDDING CARS OF ALL TIME |publisher=AI Global Media |accessdate=2020-08-17}}</ref>。
==== 1960年代以降のカーデザイン ====
1950年代初頭、アメリカの自動車ブランドの経営陣たちは、戦後の好景気と自動車の大衆化に煽られて、従来のコンサバティブなデザインからの完全な脱却を図ろうとしていた<ref>{{Cite web|url=https://www.allpar.com/history/chrysler-years/chrysler-1955-56.html |title=The Hundred Million Dollar Look: Chrysler for 1955-56 |publisher=Allpar|accessdate=2020-08-17}}</ref>。そこで1950年代中頃から後半にかけて誕生したのが、「[[フルサイズ]]」としてカテゴライズされる、異彩を放った高級車群である<ref>{{Cite web|和書|url= https://gazoo.com/article/car_history/131115_1.html |title= 50年代アメリカ車黄金期(1959年)|publisher=トヨタ自動車|accessdate=2020-08-17}}</ref>。これらは、車高が低く、幅広・長大でエッジの効いたボディ、豪勢な[[テールフィン]]など、今までの主流のデザインとは一線を画していた(ただし初期デザインに関しては、フェンダーの峰やボンネットの隆起など、フロントマスクに未だクラシカルな趣が残されていた)。その特徴の多くは国内のより安価な乗用車に対しても適用されていったが、後にそれらからテールフィンが取り除かれ、フロントノーズもフェンダーの峰が無くなり「フラットデッキ」化が図られたことで、隆起・丸みのない完全にモダンな箱型のデザインへと移行していく<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.mikipress.com/m-base/2013/04/post-37.html |title=クルマの博物誌 「第6回 少年が目を奪われたカーデザインの節目"フラットデッキ"化」 |publisher=三樹書房|accessdate=2020-08-17}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.chrysler.co.jp/history/ |title=CHRYSLER HISTORY |publisher=FCA Japan|accessdate=2020-08-17}}</ref>。アメリカ国内におけるこれらのスタイリングの流行は国外に多大な影響を与え、特に後者の角張った箱型のデザインは1960年代以降の世界的な主流となった<ref name="design">{{Cite web|和書|url= https://car-me.jp/articles/8126 |title= なぜ近頃のクルマは、丸っこいのか?角ばったクルマは過去の遺物? |publisher=CarMe|accessdate=2020-08-17}}</ref>。その起因は、製造技術の進化によって角張ったデザインでも十分な強度を確保できるようになったという技術的な理由の他に、好景気によって自動車をステータスシンボルとして扱うようになったことでデザインに対して強さや大きさを求めはじめたという心理的な理由などからであった<ref name="design"/>。これら一連のデザインがいわゆる「アメ車」のイメージを確立させたとも言われ<ref name ="uscar"/>、テールフィン時代のアメリカ車は、[[ベトナム戦争]]泥沼化以前のアメリカにおける"娯楽に時間を費やした楽しい時代"の象徴として<ref name= "matsutoya">{{Cite web|和書|url= https://www.nettam.jp/column/mobility-culture/5/ |title= 車と音楽について語ろう。 |website= ネットTAM|publisher=トヨタ自動車|accessdate=2020-08-17}}</ref>、またフラットデッキ時代のアメリカ車は、ローライダーなどのカスタムや映画の[[カーチェイス]]に使用されるような頑丈・屈強で[[アウトロー]]な自動車として([[マッスルカー]]など)<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.automesseweb.jp/2018/08/30/64075/amp |title=アメ車を象徴であるマッスルカー!7200ccなんて大排気量エンジンもあった |publisher=交通タイムス社|accessdate=2020-08-17}}</ref>、或いは一貫して見られるその重厚感から「[[アメリカン・ドリーム]]」を具現化するものとしてイメージされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://bestcarweb.jp/news/entame/178403/amp |title=ドイツ車を超えた? 憧れの超名門高級車 キャデラックの最新事情 |publisher=ベストカーWeb|accessdate=2020-08-17}}</ref>。
1960年代後半からはマイナーなコーチビルダーの消滅が顕著に見られはじめた。それは、この時期あたりからモノコック構造がスポーツカーや高級車にも普及しはじめ、ボディの架装という概念が無くなりつつあったためである<ref>{{Cite web|和書|url= https://menomeonline.com/blog/column/026/ |title=026 Rolls-Royce/涌井清春 ロールス・ロイスの光ベントレーの風に魅せられて |publisher=目の眼|accessdate=2020-08-17}}</ref>。或いは、同じく1960年代後半から3次元[[CAD]]が自動車製造業界に参入したことで、自動車設計の[[デジタル化]]も徐々に見られるようになっている<ref>田口正和「自動車開発におけるCAD/CAM/CAE/CAPEの活用」(2010, 工業技術:東洋大学工業技術研究所報告p.5-8)</ref>。
{{Double image aside|right|Countach Autostadt.jpg|200|Ferrari 512 BBi (Kirchzarten) jm20682.jpg|200|ウェッジシェイプを纏った1970年代のスーパーカー、[[ランボルギーニ・カウンタック#LP400|ランボルギーニ・カウンタックLP400]]と[[フェラーリ・512BB#512BBi|フェラーリ・512BBi]]。}}
[[1970年代]]になると、[[ジョルジェット・ジウジアーロ|ジウジアーロ]]や[[マルチェロ・ガンディーニ|ガンディーニ]]による「ウェッジシェイプ」デザインが注目を浴びる<ref>{{Cite web|和書|date=2011-05-21|url=https://clicccar.com/2011/05/21/24622/ |title=クルマを横から見るとわかることがあるんです【CAR STYLING VIEWS 3:サイドビュー】|website=クリッカー|publisher=株式会社三栄|accessdate=2020-08-17}}</ref>。空気抵抗の低減を目的とした「フラッシュサーフェス<ref group="注">ボディ表面から突起や凹凸をなるべく少なくして、空力特性や見栄えを向上させる構造のこと。1970年代のウェッジシェイプ化に伴って注目されはじめ、1980年代から量産車にも普及。2020年現在までの主流となっている。 </ref>」化の確立とも言える[[近未来]]的でシャープなスタイリングは、スポーツカー業界を席巻した。その特徴は、ノーズ全体が[[くさび#くさび形|くさび形]](三角形)をした平滑な前傾型ノーズや、ウエストラインが後方にかけて持ち上がっていく、その前傾姿勢の形状にある。[[ダウンフォース]]を生み出し高速性能を向上させるほか、重心が後ろ側に加わった戦闘態勢のようなスタイリングにより、スピード感や躍動感が演出される効果があった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.autocar.jp/news/2020/07/21/545736/3/ |title=【時代はくりかえす】なぜ車体後部がギュッと持ち上がったデザインのクルマ増えた? 水平基調に戻る動きも 3ページ|publisher=AUTOCAR JAPAN|accessdate=2020-08-17}}</ref>。また[[前照灯]]をボディ内に格納する[[リトラクタブル・ヘッドライト]]は、フラッシュサーフェスを成し遂げ、かつノーズの傾斜を強めるのに最適な構造であったため、ウェッジシェイプデザインと見事に融合し、その双方の流行を加速させた<ref>{{Cite web|url= https://heacockclassic.com/articles/pop-up-headlights-seventy-years-of-hidden-history/ |title= Pop-Up Headlights – Seventy Years of Hidden History |publisher=Heacock Classic|accessdate=2020-08-17}}</ref>。日本ではこのスタイリングが1970年代の少年らに大人気となり、「スーパーカーブーム」を引き起こした。因みに「スーパーカー」という名称もこの時点で誕生したため、この時代以前の高性能車に対して「スーパーカー」と呼ぶことはほとんどない<ref>{{Cite web|和書|url= https://car-me.jp/articles/14078 |title= スーパーカーはいつ生まれた?|publisher=CarMe|accessdate=2020-08-17}}</ref>。
[[1980年代]]以降は、1970年代の2度の[[オイルショック]]による[[ガソリン]]価格高騰や[[排ガス規制]]によって空力の重要性が量産車にも意識されはじめたことに加え、プレス成型技術も進化したことから、空気抵抗を意識しながらも室内を広く設計できる、「丸」と「角」を組み合わせたデザインへと自動車業界全体が徐々にシフトしていく<ref name="design"/>。そのため、角張った箱型のデザインは姿を消しはじめ、ウェッジシェイプも以前のような明確なエッジを用いなくなり、滑らかなものとなった。また[[鉄]]・[[メッキ]]製であった前後[[バンパー]]は[[合成樹脂|樹脂]]製となり、ボディ全体の一体感がより増すことになる<ref>{{Cite web|和書|url= https://gazoo.com/article/daily/170528.html |title=日本のクルマはこんなに変化! 進化の歴史を振り返る |publisher=トヨタ自動車|accessdate=2020-08-17}}</ref>。1990年代後半には、[[オートマチックトランスミッション|AT]]の普及や電子制御化によるイージードライブが自動車の[[ブラックボックス (代表的なトピック)|ブラックボックス]]化を加速させたために、デザインに「プロダクト・セマンティクス(製品意味論)」を注視しはじめ、ヘッドライトに有機的な意匠([[人間]]の目や[[猛禽類]]の目をモチーフにしたデザイン)を取り入れていく<ref>{{Cite web|url= https://www.jama.or.jp/library/jamagazine/jamagazine_pdf/201310.pdf |title=JAMAGAZINE 2013 October #47|publisher=日本自動車工業会|accessdate=2020-08-17}}</ref>。また自動車部品の[[標準化]]やプラットフォームの共通化も1990年代から加速の一途を辿っている<ref>宇山通「自動車部品標準化の経路に関する1考察」(2016年, 九州産業大学『経営学論集』第26巻第3号,1‐31頁)</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://xtech.nikkei.com/dm/article/COLUMN/20120623/224711/ |title= 日産の設計革命、脱プラットホーム共有化戦略 |publisher=日経BP|accessdate=2020-08–17}}</ref>。
[[2000年代]]には、大衆車や量産車においてもウェッジシェイプ化が加速したほか<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.autocar.jp/news/2020/07/21/545736/ |title=【時代はくりかえす】なぜ車体後部がギュッと持ち上がったデザインのクルマ増えた? 水平基調に戻る動きも 1ページ|publisher=AUTOCAR JAPAN|accessdate=2020-08-17}}</ref>、従来の「丸」や「角」といった業界全体のトレンドがなくなり、デザインの多様化が進んだ<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mikipress.com/m-base/2020/05/6-3.html|title=石井守のデザイン論 「第6回(最終回)日本のカーデザインの変遷と展望(後篇)」|publisher=三樹書房|accessdate=2020-08-17}}</ref>。ただし安全規則が増えたことでフロント部分ないしボディ全体が膨らみ・厚みを持つようになり、以前のように自由なデザイン性を見出すことは難しくなった<ref name="">{{Cite web|和書|url= https://kuruma-news.jp/post/106252 |title= ボンネットがぽっこりデザインのクルマ、なぜ増えた? 古いと薄く、新しいと分厚い理由とは |publisher=メディア・ヴァーグ|accessdate=2020-08-17}}</ref>。加えて、[[コンピュータ]]によって空力性能の解析が著しく発展したことにより、デザインの幅が却って狭まることに繋がった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.honda.co.jp/tech-story/engineer/engineer-talk/aero/sp/part2.html |title=空力 Part 2 |publisher=HONDA|accessdate=2020-08-17}}</ref>。その他に、異型ヘッドライト<ref group ="注">1980年代から普及した、丸型や角型以外の形状をしたヘッドライトのこと。1980 - 1990年代までは、主に横長の[[長方形]]や[[台形]]、或いは[[楕円]]形のようなデザインが多かった。ヘッドライトカバーが[[ガラス]]製から[[合成樹脂|樹脂]]製に変わったことで、より複雑な形状が見られるようになる。</ref>の高度化によって縦に引き伸ばされたような前照灯の巨大化とその[[LED]]化によって照明類のデザインの自由度が増したことで、各メーカーは前照灯や[[尾灯]]でその自動車の個性を見出しはじめ、かつてのボディの造形に注力する姿勢は相対的に少なくならざるを得なかった<ref>{{Cite web|和書|url=https://clicccar.com/2011/05/14/21782/?amp |title=ヘッドライトは“機能”それとも“装飾”?(後編)【CAR STYLING VIEWS 2】|publisher=Clicccar|accessdate=2020-08-17}}</ref>。
[[2010年代]]に入ると、今までの単なる直線的なプレスラインを使用しなくとも、ボディに奥行きを持つ立体的かつ複雑なシェイプを持たせることが可能になり、それによってシンプルな造形でありつつもボディ各部に波打つような局部的な陰影が発生するようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://kuruma-news.jp/post/142528 |title= 複雑デザインに陰り、いまはシンプルが人気? クルマのボディにあった凹凸が減った理由
|publisher=メディア・ヴァーグ|accessdate=2020-08-17}}</ref>。或いは、1990年代から[[古典|クラシック]]、[[ローテク|ローテクノロジー]]を注視する兆しが各分野で見られはじめており、[[パイクカー]]の発売を筆頭に、2010年代になると高級車やスポーツカーにおいても、かつての伝統的なクラシックカーのイメージを彷彿させるデザイン性が潮流となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.leon.jp/cars/7994 |title= 世界的カーデザイナー、和田智が語るカーデザインの潮流 |publisher=LEON|accessdate=2020-08-17}}</ref>。[[2020年代]]以降は、[[自動運転車|自動運転]]の実用化により、[[インテリアデザイン]]の造形がより注目されるようになる可能性や<ref>{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00756/ |title=自動運転で変わる内装・HMI開発 |publisher=日経BP|accessdate=2020-08-17}}</ref>、完全自動運転によって自動車事故が全く起こり得なければ、カーデザインに対して自由度が格段に上昇するという可能性もあり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.design365life.jp/0000173283/ |title=住まいとクルマの融合体。『Honda 家モビ Concept』が東京モーターショー2017に出展中
|publisher=d365|accessdate=2020-08-17}}</ref>、自動車の存在意義が左右される新たなデザイン時代に突入しようとしている。
{{Gallery
| File:EXODUS FROM CLEVELAND TO THE SUBURBS - NARA - 550089.jpg|1973年の[[クリーブランド]]の様子。走行するほぼ全ての自動車が箱型デザインであることがわかる。
|File:Car of the Year Denmark 2006.JPG|2006年の[[デンマーク]]における、[[カー・オブ・ザ・イヤー]]の選考対象車。大部分がウェッジシェイプを占め、またフロント部分ないしボディ全体が膨らみ・厚みを持つようになっている。
|File:Festival automobile international 2016 - Mazda RX-Vision - 023.jpg|コンセプトカーの[[マツダ・RX-VISION]](2016年)。ボディ各部に波打つような陰影が見られる。
}}
==== インテリアデザイン ====
[[File:Jaguar MK-IX 1960 Interior.jpg|thumb|right|200px|洗練された[[ジャガー・マークVII/VIII/IX|ジャガー・MK-IX]](1960年製)のインテリア]]
自動車における[[インテリアデザイン]]には、装飾の効果的な使用や素材の質感により生み出される重厚感、機能性・合理性の追求による[[ミニマリズム]]、或いは[[ダッシュボード (自動車)|ダッシュボード]]上に埋め込まれた[[-meter|計器]]類によるメカニカルな魅力、[[ステアリング・ホイール]]の曲線美、といった自由な表現力を見出すことができる。近年では安全性や耐久性もデザイン設計における大きな指標となっている。また自動車は運転が主な使用法であるために、エクステリア以上にインテリアは重要な地位を占めており、車外の景色との調和性も考慮される。
=== モータースポーツ ===
{{main|自動車競技}}
自動車を操縦し、より高速なスコアタイムを目指すことはスポーツの一種として認識されており、[[モータースポーツ]]と呼ばれる。とにかく速く走るためのスポーツ専用車である[[フォーミュラカー]]で走ることが全てではなく、市販車や自作車でのレース、また長時間の運転となる[[耐久レース]]、一般公道で行われる[[ラリー]]や、自然のままの過酷な道を走破する[[ラリーレイド]]など、多彩なものが世界各国で開催されている。[[フォーミュラ1]](F1)や[[インディ500]]、[[ル・マン24時間レース]]、[[ダカール・ラリー]]といったものは特に著名な国際大会である。またその中でも、1929年から[[モナコ公国]]で行われているF1レース「[[モナコグランプリ]]」は、[[グリマルディ家|モナコ公爵家]]が後援、観覧し、トロフィーも公爵家から直接授与されることから、自動車レースの古き伝統、格式を保守している大会として知られている。
日本における自動車イベントのはじまりは1911年に[[目黒競馬場]]で行われた飛行機と自動車の競争とされるが、自動車同士のレースは1914年が始まりで、同じく目黒競馬場で4台のアメリカ車を走らせた<ref name ="cg91">[https://www.webcg.net/articles/amp/43858 第91回:自動車競走時代の熱狂 多摩川スピードウェイが育てたレースの夢] webCG</ref>。アメリカで人気を集めていた興行をそのまま日本に持ち込んだものであったが、客は集まらず大赤字になる<ref name ="cg91"/>。その後アメリカでモーターレース興行を行っていた藤本軍次が日本で本格的なレース興行を行いたいと企画、[[大正]]期には東京近郊の[[埋立地]]の特設コースで計11回のレースが行われたとされる<ref name ="cg91"/>。1936年には、日本初の常設サーキットとして[[多摩川]][[河川敷]]に『[[多摩川スピードウェイ]]』が創設された。第一回大会では、三井高公男爵が輸入したブガッティやベントレーをはじめ、[[ホンダ]]創業以前の[[本田宗一郎]]が自作車でレースに参戦したほか、[[日産自動車|日産]]創業者の[[鮎川義介]]がスタンドでレースを観戦するなど、日本自動車レースの幕開けとも言えるレースであった<ref>{{Cite web|和書|date=2017-01-13|url=https://gazoo.com/article/car_history/170113_1.html |title= 多摩川スピードウェイ――自動車競走の時代 (1936年) |website= GAZOO|publisher=トヨタ自動車|accessdate=2020-07-07}}</ref>。その後1957年の[[群馬県]][[北軽井沢]]での『[[浅間高原自動車テストコース]]』開設に続き、1962年には[[三重県]][[鈴鹿市]]に本格レーシングコース『[[鈴鹿サーキット]]』が登場した。翌年に当サーキットで「[[1963年日本グランプリ (4輪)|第一回日本グランプリ]]」が開催され、これが日本における本格的な自動車レースのはじまりとなった。1965年には[[千葉県]][[船橋市]]に『[[船橋サーキット]]』が、翌1966年には[[静岡県]][[小山町]]に『[[富士スピードウェイ]]』が開設されている。『船橋サーキット』では、[[浮谷東次郎]]、[[生沢徹]]、[[黒澤元治]]といった名ドライバーたちがしのぎを削ったが、たった2年で閉鎖されたことから「伝説のサーキット」とも言われるようになった<ref>{{Cite web|和書|date=2015-07-29|url= https://www.webcartop.jp/2015/07/12175/ |title= クルマ好きなら知っておきたい自動車文化遺産「船橋サーキット」 |website=WEB CARTOP|publisher=株式会社交通タイムス社|accessdate=2020-07-07}}</ref>。また1965年は、F1世界選手権[[1965年メキシコグランプリ|メキシコグランプリ]]で、ホンダが[[フェラーリ]]や[[チーム・ロータス|ロータス]]を抑え初優勝を飾った年でもある。
{{Gallery
|ファイル:Fernando Alonso 2012 Bahrain.jpg|フォーミュラ1(F1)
|ファイル:2017 Rally Portugal - 6.jpg|[[世界ラリー選手権]](WRC)
|ファイル:2017 Indianapolis 500-Mile Race - 29.jpg|[[世界3大レース]]の1つである[[インディアナポリス500]]
}}
=== 自動車趣味 ===
趣味としては、自動車を走行させるだけに限らず、[[プラモデル]]や[[ミニカー (玩具)|ミニチュアカー]]などといった精巧な自動車の[[スケールモデル|ミニチュア]]の製作や収集、また部品の収集や[[写真]]の撮影など多岐に渡る。走行する自動車に関する趣味としては、様々な自動車に乗車することを趣味にしたり、自動車の[[改造車|改造]]やメンテナンスを趣味にすることもある。改造車の形態としては、アート化に重点を置いたローライダーや[[デコトラ]]、スピード化に重点を置いたチューニングカーやスポーツコンパクトといったものまで多様に存在する(詳細は「[[:Category:改造車の形態]]」を参照)。
また、[[旧車|クラシックカーや旧車]]・ヴィンテージカーなどと呼ばれる、過去に製造された車両を[[レストア|復元]]・保存する愛好家もいる。クラシックカーに関しては文化的・歴史的・資産的価値が認められることもあり、それらを使用した展示会や走行会は、愛好家と地方行政とが密に連携することで[[地域おこし|地域活性化]]の一環とされることもあ(もとより公道を走行するイベントでは、行政との連携が必須である)。また、特に価値を認められたクラシックカーは、各種[[競売|オークション]]などで極めて高い値で取引されることもある([[円 (通貨)|日本円]]にして数千万円から数十億円の値が付くこともある。詳しくは「[[オークションで落札された高額な車の一覧]]」を参照)。ヨーロッパはクラシックカーに対する造詣が深いとも言われているが<ref>{{Cite web|和書|date=2019-12-01|url=https://carview.yahoo.co.jp/news/detail/4581f4b94d94765741735a99faf22e8c57b3290c/|title=初めてドイツを訪れて感じた、クルマ文化と根底にある「2つの価値観の違い」とは? |website=Carview!|publisher=株式会社カービュー|accessdate=2020-07-05}}</ref>、年々[[自動車排出ガス規制|排ガス規制]]が厳しくなっており、[[パリ]]では2016年から「1997年以前に製造された自動車(いわゆるクラシックカー)」の平日の市内走行を全面禁止とする<ref>{{Cite web|和書|date=2016-06-12|url=https://m.huffingtonpost.jp/autoblog-japan/paris-oldcar_b_10423380.html|title= パリの路上から、20年以上前に生産された古いクルマが消える?|website=ハフポスト日本版|publisher=ザ・ハフィントン・ポスト・ジャパン株式会社|accessdate=2020-07-05}}</ref>など、自動車を取り巻く状況は刻々と変化している。
自動車を格納する[[ガレージ]]は、自動車の[[メンテナンス]]場所としても使われる。<!--閉塞感、というのは否定的な言葉で不適切かと。-->趣味の拠点として独り籠って利用されることもあるため「隠れ家」とも形容され、しばしば男性の憧れの対象となる。[[バラエティ番組]]『[[所さんの世田谷ベース]]』は、これらの魅力を前面に出した番組である。また最近では、[[居間|リビング]]などの居住空間からガラスを通して自動車を眺めることができるビルドインガレージもある<ref>{{Cite web|和書|date=2020-05-05|url= https://otokonokakurega.com/find/secret-base/13211/ |title=ガラス張りの向こうのガレージ。愛車を眺めながら、リビングで過ごす極上のひと時〈鹿児島県 H邸〉木の家のビルトインガレージ |website= 男の隠れ家デジタル|publisher=株式会社三栄|accessdate=2020-07-18}}</ref>。
[[バス (交通機関)|バス]](「[[バスファン]]」を参照)や[[貨物自動車|トラック]]、[[タクシー]]を趣味にするものもいる。書店販売上の分類などでは別の範疇に含まれることも多いが、これも広義での自動車趣味である。
[[リゾート地]]は、美しい風景や快適な気候といった良好なドライブ環境に加え、自動車に重要な[[インフラ]]も単なる地方や田舎に比べて十分に整備されているといった理由から、自動車関連のイベントが数多く開催されている。ドライブを主目的とした[[観光道路]]や[[有料道路]]などもしばしば点在している。また歴史的なリゾート地の多くは、かつて貴族や上流階級の人々が休暇を楽しんだ場所でもあることから、伝統的な自動車文化とも深い繋がりがあり、その[[オマージュ]]としてクラシックカーのイベントが行われることも多い(同じく貴族文化へのオマージュとして、欧米では[[宮殿]]や[[城]]、[[ゴルフ場]]などを舞台にイベントが行われることも多い)<ref name ="concours">{{Cite web|和書|date=2015-09-24|url= https://www.leon.jp/cars/2614 |title= クルマオヤジは美人に目がなくて |website= LEON|publisher=主婦と生活社|accessdate=2020-07-10}}</ref>。1931年には、高級別荘地として開発した[[鎌倉山]]への主要交通機関として、[[京浜急行線|日本初の有料道路・自動車専用道路]]が設置されている。その後は1932年の[[関西]]初となる「[[宝塚尼崎電気鉄道|宝塚-尼崎自動車専用道路]]」([[バス専用道路]])、1933年の[[軽井沢]]における「[[鬼押ハイウェー]]」などが、最初期の有料道路・自動車専用道路である。自動車展示施設としては、日本では有名なものに「フェラーリ美術館」([[神奈川県]][[御殿場市]]。2007年閉館)、「[[河口湖自動車博物館・飛行舘|河口湖自動車博物館]]」([[山梨県]][[富士河口湖町]]。毎年8月のみ開館)などがある(全国各地にある自動車博物館については「[[:Category:日本の自動車博物館]]」を参照)。
このように、自動車は単に人や物資を輸送するだけの存在に留まらない。ただし若者の「自動車離れ<ref group="注">この場合の「自動車」とは、趣味・娯楽として利用される「自動車」のこと。</ref>」は、近年になって、日本はもとよりヨーロッパなどにおいても顕著に表れはじめている(詳しくは「[[若者の車離れ]]」を参照)。
{{Gallery
|ファイル:Apperson Chummy Restored By Louie Floyd Apperson.jpg|愛好家により[[廃車 (自動車)|廃車]]の状態から修理・復元されたクラシックカー
|ファイル:Tokyo Auto Salon 2019 (46716680542).jpg|日本発祥の文化である自動車のチューニング([[東京オートサロン]]2019)
|File:2015-09-12 Goodwood Ferrari 212 0215EL.jpg|往年の自動車レースの雰囲気を再現する[[:en:Charles Gordon-Lennox, 11th Duke of Richmond|第11代リッチモンド公爵]]主催のユニークなイベント、[[:en:Goodwood Revival|グッドウッド・リバイバル]](2015年、イギリス)
}}
=== 自動車とファッション ===
自動車は[[ファッション]]と密接な関係がある<ref>{{Cite web|和書|date=2013-05-26|url=https://style.nikkei.com/article/DGXNASFE21008_R20C13A5000000/ |title=自動車×ファッション 創造力はぐくむ遊び心とは |website=NIKKEI STYLE アート&レビュー|publisher=日本経済新聞 |accessdate=2020-07-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2019-11-17|url=https://www.leon.jp/cars/12966 |title=ファッションの先端を行く街で見えてくる、クルマのトレンドとは? |website=LEON|publisher=主婦と生活社 |accessdate=2020-07-07}}</ref>。
自動車は、本質的には馬車から派生した移動手段の道具であるが、その長い歴史の中で他の様々な文化、事物からモチーフを得ながら独自に発展していった。それは貴族文化やダンディズム、サブカルチャー、或いは[[航空機]]、[[船舶]]など実に様々である。これらは現代においても、乗車する際に身につける[[装身具|アクセサリー]]などにその名残として残されている場合がある。また逆に自動車が服飾品に影響を与えることもあり、[[腕時計]]は特に著名な例である。加えて、自動車のエクステリアが女性のファッションに例えられることもあり、[[イベントコンパニオン]]はその代表例として挙げられる<ref>{{Cite web|和書|date=2016-01-23|url= https://gazoo.com/article/daily/160123.html |title= コンパニオンだけじゃない! クルマと共に羽ばたいた女性たち【東京オートサロン2016】 |website=GAZOO |publisher=トヨタ自動車|accessdate=2020-07-26}}</ref>。
[[ファッション雑誌]]などでは自動車を広告塔として利用する例がある。[[ファッションデザイナー]]で知られる[[ラルフ・ローレン]]は、2017年に、自宅[[ガレージ]]にて自身のカーコレクションを用いた[[ファッションショー]]を開催している<ref>{{Cite web|和書|date=2017-09-15|url =https://www.vogue.co.jp/collection/news/2017-09-15/ralph-lauren |title=ラルフ ローレン、自慢のスーパーカーを披露! プライベートガレージでのリュクスなショーの全貌とは?|website=VOGUE JAPAN|publisher=コンデナスト・ジャパン|accessdate=2020-07-10}}</ref>。また自動車ブランドと[[ファッションブランド一覧|服飾ブランド]]が共同で作品を製作することがあり、[[モーターショー]]などで披露されている<ref name="collabo">{{Cite web|和書|date=2007-10-28|url=https://www.webcg.net/articles/-/554|title=自動車メーカーとファッションブランドなどのコラボに注目【みどころナビ】|website=webCG|publisher=株式会社webCG |accessdate=2020-07-07}}</ref>。運転の際に使用されるドライビンググローブやドライビングシューズなどについても、ヨーロッパ各国の服飾ブランドで数多く販売されている。また[[ポルシェ]]が「[[ポルシェデザイン]]」と称する服飾ブランドを個別に展開、或いはフェラーリやベントレーが[[香水]]をプロデュースするなど、自動車ブランドが服飾部門を別途に立ち上げることもある<ref name="collabo"/>。イタリアの[[ピニンファリーナ]]や日本の[[奥山清行|KEN OKUYAMA DESIGN]]といった[[カロッツェリア]]は、自動車のデザインから[[建築]]や[[家具]]、[[眼鏡]]、[[化粧品]]に至るまで、様々な分野の[[プロダクトデザイン]]を手掛けている。
[[スイス]]高級時計で知られる[[ショパール]]は、1988年からミッレミリアの公式スポンサーとなり、毎年リミテッドモデルをリリースしている<ref name="chopard">{{Cite web|和書|url=https://www.chopard.jp/mille-miglia-history/ |title=ミッレミリアの世界へようこそ |website=ショパール 公式HP|publisher=LE PETIT-FILS DE L.-U. CHOPARD & CIE S.A. |accessdate=2020-07-07}}</ref>。同社社長の[[:en:Karl-Friedrich Scheufele|カール・フリードリヒ・ショイフレ]]は、''”上質な車の愛好家は得てして上質なタイムピースを好みます。その逆もまた然り。どちらにおいても、最高の精度とスポーティなエレガンスが最も大切な要素であるからです”''と述べる<ref name="chopard"/>。同じくスイス高級時計の[[タグ・ホイヤー]]は、古くからレーシングスピリッツを重視していたが、1971年に[[スクーデリア・フェラーリ]]とパートナーシップを結び、そして同年のレース映画『[[栄光のル・マン]]』の制作中に[[スティーブ・マックイーン]]が同社モデル「モナコ」を着用したことで、自動車業界の一躍人気時計ブランドとなる<ref>{{Cite web|和書|date=2016-11-28|url=https://www.gqjapan.jp/watch/news/20161116/tag-heuer-goes-evolution-nov03 |title=時を制するものが、時代を制する ── タグ・ホイヤーがモータースポーツを進化させた
|website=GQ Japan|publisher=コンデナスト・ジャパン |accessdate=2020-07-07}}</ref>。また上記でも述べたラルフ・ローレンは、”Art Deco Automobiles”時代の名車[[ブガッティ・タイプ57|ブガッティ・タイプ57SCアトランティック]]をコンセプトにした腕時計を製作している<ref>{{Cite web|和書|date=2015-08-11|url=https://www.gqjapan.jp/watch/news/20150605/the-world-of-ralph-lauren-watches |title=ラルフ ローレンが紡ぐクルマと時計の物語|website=GQ Japan|publisher=コンデナスト・ジャパン |accessdate=2020-07-07}}</ref>。他にも、数多くの高級腕時計メーカーが自動車との関わりを持っている。
{{Gallery
|File:Paolo Monti - Servizio fotografico (Milano, 1963) - BEIC 6347062.jpg|[[ジャケット]]とドライビング[[手袋|グローブ]]
|File:PIloti (5742953102).jpg|[[パイロット (航空)|パイロット]][[ゴーグル]]・パイロット[[キャップ (帽子)|キャップ]]に[[革ジャン|レザージャケット]]を着用したドライバー/[[コ・ドライバー]]
|File:Chopard Mille Miglia 2018.jpg|ショパール「ミッレミリア2018」
|File:TAG Heuer Monaco 40th Anniversary re-edition.JPG|タグ・ホイヤー「モナコ/40周年記念復刻モデル」
}}
=== 自動車の位置づけの変化 ===
<!--
独自研究
{{要出典範囲|自動車に限らず、古くから「モノ」とステータスは相互関係にある。かつての人々は先天的に[[社会的地位]]が固定されていたため、それに付随して、個々の階級の人々が使用する「モノ」に対しても自ずと社会的地位が発生した。これが[[ステータスシンボル]]([[ブランド]])として大衆に認知されるようになる。|date=2022年4月}}-->
<!--「{{要出典範囲|近代ヨーロッパにおいては、[[ブルジョワジー]](新興富裕層)が[[上流階級]]のライフスタイルを模倣し、そのステータスに準じた[[プリンシプル]]、[[教養]]を身に付けた|date=2022年4月}}。」--><!--『{{要出典範囲|この貴族文化から生まれたステータスシンボルの典型例として英国車が挙げられる。|date=2022年4月}}』と誰が言った?-->
<!--
出典として挙げられているのは、ただの宣伝サイト。百科事典の出典としては不適切。イギリス車の販売会社のただの金儲け目的の、商業的宣伝サイト。
しかも出典として挙げてあるサイトに書かれていない文章を投稿者が勝手に投稿している。-->
<!--
出典に書かれていない文章。
伝統的なブリティッシュネスを保守しているために[[御用達#イギリス王室|ロイヤル・ワラント]]を授与された、[[ランドローバー]]やベントレーなどの[[高級車]]ブランド、或いは[[ジャガー (自動車)|ジャガー]]や[[アストンマーティン]]といった古典的スポーツカーブランドである<ref>{{Cite web|date=2020-02-12|url= https://genroq.jp/2020/02/12/64208/ |title= ジャガーのデザインが大きく変わってゆく理由とは? 最新のブリティッシュネスを求めて |website=GENROQ Web|publisher=株式会社三栄|accessdate=2020-07-18}}</ref>。--><!--ただしこの文化では、あくまでも"自身の使用していた「モノ」が自然とステータスシンボルに転じた"という無頓着な立場をとっており、"周囲に対して故意にステータスを誇示する"のは恥とされた(「ダンディズム」思想・「[[スローン・スクエア#スローン・レンジャー|スローン]]」主義)<ref name="tokudaiji"/><ref>{{Cite web|date=2019-12-30|url= https://www.fujingaho.jp/lifestyle/fashion-jewelry-watch/a30333282/britishstyle-191230/ |title= 英国生まれのスタイルなら、間違いありません【前編】大人のファッションを考えます |website=婦人画報 |publisher=ハースト婦人画報社|accessdate=2020-07-12}}</ref>。-->
<!--
出典として挙げてあるウェブサイトには掲載されていない文章。
しかし[[競争社会]]・[[大衆社会]]に突入し、誰もが後天的に社会的地位を獲得し得るようになると、他者との差別化を目に見える形で反映させるために、かつてのプリンシプルや教養を無視し、あからさまにステータスを誇示するようになる([[成金]]趣味)<ref>{{Cite web|date=2009-08-04|url= https://www.recordchina.co.jp/newsinfo.php?id=34026&ph=0&d=0000 |title=誰だ、成金を「新貴族」などと呼んだのは? 灰色の金を得ただけ、礼儀・教養なし—中国紙|website= Record China|publisher=株式会社Record China|accessdate=2020-07-12}}</ref>。-->
<!-- リンク切れ。
日本では[[高度経済成長期]]から[[バブル景気|バブル期]]に至り、社会的地位の象徴を「モノ」に求める思想が過度に増幅された<ref>{{Cite web|date=2019-12-24|url= https://dime.jp/genre/822890/ |title= いつの時代もステータスが大事!?30年前に話題になった「瞬間貴族」とは何者だったのか? |website= @DIME|publisher=小学館|accessdate=2020-07-12}}</ref>-->
リクルート社のリクルート社自動車総研が行った(日本の[[中古自動車]]購買層に対する)アンケート調査の結果だとして示したグラフによると、2018年時点のデータとしては「自動車はステータスシンボルだ」と思っている人々は40%程度。「どちらともいえない」と思っている人も40%程度。「自動車はステータスシンボルだとは、あまり思わない」「そうは思わない」が20%程度である<ref>{{Cite web|和書|date=2020-01-28|url= https://www.carsensor.net/contents/editor/category_1585/_64654.html |title= 車が再びステータスシンボルに! あなたはトレンドを追う派? はみ出す派? |website= カーセンサー|publisher=リクルート|accessdate=2020-07-12}}</ref>(ただし信憑性については疑義がある<ref group ="注">このサイトは、統計調査をやる場合に絶対に示すべき母集団に関するデータ(調査対象人数(わずか10~20人程度なのか、1000人なのか、1万人なのか)、調査対象の属性、調査場所(ウェブなのか、紙媒体なのか、店頭なのか))などを全く明かしていない。このような基礎データすら明かしていない状態で主張されている数値の信憑性はかなり低い。</ref>)。
<!--
出典に書かれていない情報。
「自動車業界にも反映され、[[スペシャルティカー]]や[[ハイソカー]]、スーパーカーの誕生にも寄与した」
-->
<!--
百科事典の出典としては不適切。
<ref>{{Cite web|date=2019-06-12|url= https://carview.yahoo.co.jp/news/detail/c3e0efa36fc18a1e4eca4178d20b4315ab9d88be/ |title= 昭和のナンパ師御用達!歴史に名を残すデートカー3選 |website=carview! |publisher=株式会社カービュー|accessdate=2020-07-12}}</ref>。
-->
[[マーケティング]]・[[コンサルタント]]の堀好伸は、現代の日本の若者たちは(昭和時代の若者とは異なって)'''自動車も買わない'''し、酒も飲まない、と指摘している<ref name="fnn7160">{{Cite web|和書|date=2019-04-28|url= https://www.fnn.jp/articles/-/7160 |title= 平成の間に変わったステータス !「モノを買う」より「仲間たちと共感したい」若者たち |website=FNNプライムオンライン |publisher=フジニュースネットワーク|accessdate=2020-07-12}}</ref>。堀好伸の分析によると、現代日本の若者は「モノを買う」「モノを所有する」などということではなく、「価値観を共有できる仲間同士で[[共感]]しあう」ことを好むようになった<ref name="fnn7160" />といい、「自らの価値観でモノやコトを<u>仲間と共有</u>して、<u>一緒に楽しいことを創り上げる</u>時代」になっている、という<ref name="fnn7160" />。
=== 自動車と映像作品 ===
[[File:Sean Connery and a Aston Martin DB5.JPG|thumb|right|200px|[[ショーン・コネリー]]([[蝋人形]]) と[[アストンマーティン・DB5]]]]
レース映画や[[カーアクション映画]]などの自動車を主題とした映画は、長年に亘り世界中で人気である(「[[:Category:自動車を題材とした映画作品]]」を参照)。
一方で、自動車を直接的な主題としていない映画においても、自動車の魅力を効果的に利用した類のものがある。著名な例としては、『[[ジェームズ・ボンド#映画|007 シリーズ]]』(1962年 - )の[[ボンドカー]]がある<ref>{{Cite web|和書|date=2015-05-15|url= https://openers.jp/lounge/lounge_movie/12797|title=映画のなかのクルマたち──Part.1 |website=OPENERS|publisher=スマートメディア・リミテッド |accessdate=2020-07-07}}</ref>。ドラマでもそのような例は多くあり、『[[刑事コロンボ]]』(1968年 - 2003年)の[[プジョー・403]]や『[[相棒]]シリーズ』(2000年 - )の[[日産自動車]]などがある。また[[ミュージック・ビデオ]]や[[CM]]などにおいても、自動車の魅力を効果的に利用した作品は少なくない。
=== 自動車とサウンド・音楽 ===
{{Listen|filename=2006 Porsche Cayman S engine sound.wav|title=2006年式ポルシェ・ケイマンS|description=2006年式[[ポルシェ・ケイマン|ポルシェ・ケイマンS]]のエンジンサウンド([[水平対向6気筒]][[DOHC]]24バルブ)}}
{{Listen|filename=Lexus LFA revving 1LR-GUE (2009).ogg|title=2009年式レクサス・LFA|description="天使の咆哮"とも称される2009年式(市販型[[プロトタイプ]])[[レクサス・LFA]]のエンジンサウンド([[V型10気筒]]DOHC40バルブ([[トヨタ・LRエンジン#1LR-GUE型|1LR-GUE型]])}}
[[ガソリンエンジン]]の[[内燃機関]]より自然に発生するエンジンサウンドは、物理・工学的な技術によって芸術的な音が生まれるというその特異なメカニズムから、幾多の自動車ファンを魅了してきた。そのため自動車ブランドの多くは、エンジン音にも積極的な[[チューニングカー|チューニング]]を施している。中でもフェラーリに代表される[[V型12気筒|V12エンジン]]や、[[フォーミュラ1カー |F1カー]]などから発せられる高音のエンジンサウンドは、旧来から魅力的とされてきた<ref name="sound">{{Cite web|和書|date=2020-04-02|url= https://www.leon.jp/items/8028 |title= フェラーリのエンジンサウンドはなぜ美しいのか?
|website=LEON|publisher=主婦と生活社 |accessdate=2020-07-07}}</ref>{{#tag:ref|ただし近年のF1については、レギュレーションの変更や技術の向上などによってエンジン音の静音化が進んでおり、この音の変化に対して否定的な意見を持つ者もいる<ref>{{Cite web|和書|date=2014-03-23 |url= https://number.bunshun.jp/articles/amp/802829?page=1 |title= 耳栓なしで会話ができるほど静かに。今季のF1はエンジン音も大変貌。|website=Sports Graphic Number Web|publisher=文藝春秋|accessdate=2020-07-07}}</ref>。|group="注"}}。
昨今のトレンドである[[電気自動車]]では、エンジン音が存在しないため、電子的な合成音を使って魅力的なエンジンサウンドを作りだそうとするブランドが増えている<ref name="sound"/>。その中でも2019年6月に発表された[[BMW]]のEV[[コンセプトカー]]、”[[:fr:BMW Vision M Next |Vision M Next]]”では、エンジンサウンドの制作に作曲家[[ハンス・ジマー]]が起用されており<ref>{{Cite web|和書|date=2020-02-13|url= https://ampmedia.jp/2020/02/13/sonic-branding/ |title= ブランディングは音で感情揺さぶる時代へ、海外で関心高まる「ソニック・ブランディング」の最新動向 |website=AMP|publisher=ブラーブメディア|accessdate=2020-07-07}}</ref>、このようにエンジン音に対する概念は変化しつつある。
自動車の車内は、一定の空間を保有しながらそれでいて閉鎖的であるため、[[音楽]]を楽しむには好適な環境であり、ドライブの魅力にも大きな役割を果たしている。そのため、[[カーオーディオ]]は自動車関連用品の中でも重要な位置を占めている。
自動車を題材とした音楽作品については、「[[:Category:自動車を題材とした楽曲]]」を参照。音楽の存在を重視した自動車映画としては、『[[チキ・チキ・バン・バン]]』(1968年)や『[[ワイルド・スピードシリーズ]]』(2001年 - )、『[[ベイビー・ドライバー]]』(2017年)などがある。
== 負の影響 ==
自動車は使用者に多くの便益を与えるが、地球環境の破壊の恐れや、人間の健康を害したり、生命を奪ってしまうことすらある。
=== 交通事故 ===
{{seealso|交通事故}}
[[ファイル:Two-car collision in the USA.jpg|thumb|交通事故で大破した車]]
自動車が社会に及ぼす悪影響の中で特に大きなものは、'''交通事故'''で、怪我人や死者やその家族という被害者と、事故を起こした車を運転していた加害者を作りだしてしまう。
交通事故は出来る限りゼロに近付けるべきであり、特に'''死亡事故'''はゼロに近付ける努力を精一杯するべきだ、とされている。日本の警察は交番などに、その地域で、日々、交通事故によって怪我を負った人や死亡した人の数を掲示し、人々に注意を喚起し、意識を変え、運転に慎重になってもらおうと努力している。
負傷(怪我)と分類される場合でも、被害者は実際には重い[[障害]]を負って生涯苦しむ人が含まれている。まして被害者が死亡してしまった場合、遺族の悲しみは計り知れない。また死亡した人に子供がいれば、その子供は交通遺児となり、「親を失った子」としてその後の人生を生きなければならず、親が生きていたらできたはずのことができない人生となる。加害者となった者も、([[自賠責保険]]や[[任意保険]]などで)被害者に金銭的に補償すればそれで全てが済むというような生易しいものではない。たとえば、運転時にいわゆる「[[ながら運転]]」をしていた場合、危険を予見できたにもかかわらず、道路交通法で定められている「注意義務」を怠ったことによって罪が重いが、そうでなくても、ただほんの一瞬注意を怠ってしまった、ということでも[[自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律#過失運転致死傷罪|過失運転致死傷罪]]が適用される可能性があり、運転者(加害者)は刑務所で服役しなければならない可能性がある。また、自動車保険を利用して被害者に対して金銭的に補償しても、さらに運転者が刑務所で服役しても、遺児にとって大切な親が生き返るわけでもなく、結果として加害者となった者は一生涯、被害者の人生を狂わせてしまったことに対する<u>道義的な責任</u>を感じ続けなければならなくなる。加害者は、「自分は人を殺してしまった」、「残された家族の人生も壊してしまった」などと苦しむようになり<ref>[https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-42744292]</ref>、加害者の人生も、大きく変わってしまうのである。自動車によって頻繁に起きるようになった交通事故は、ただの金銭問題や経済問題といったレベルをはるかに超えて、人々の人生を狂わせ、苦しめ続けている。
なお(一部に、人命を軽視する者や、人の命まで金銭に換算して済ましてしまおう、という者がいるが、それがそもそも非常に不謹慎である、と一般にされている。それでも金銭に換算して理解しようとする者にその金銭を示すと)交通事故関連の損失は、日本だけに限った場合でも、<u>毎年6.7兆円</u>に及んでいる<ref>[https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-20-t58-3.pdf 日本学術会議『交通事故ゼロの社会を目指して』]</ref>。
自動車の前に馬車が普及していたヨーロッパや米国では、車(馬車)が非常に危険だということは理解されていて、歩行者と車の走行場所の完全な分離(歩車分離)が馬車時代から進み、自動車が走行する車道と、歩行者の歩く歩道の距離が何倍もとってあり、その結果事故が少ない。またヨーロッパでは「歩行者優先」が徹底されていて、歩行者がいたら、自動車運転者はほぼ絶対的に停車する。ところが日本は後進国の段階、馬車すらも普及していない状態、つまり歩行者(や人が引く荷車)しかなかった道に、いきなり自動車が人の動線を侵害するように導入されてしまった。おまけに、ヨーロッパの走行状態を知らない人々が住む日本では「歩行者優先」の原則が十分理解されず、自動車の運転者が傲慢に歩行者の歩行を妨害するようなことがまかり通るようになってしまい、それが放置されるようになってしまった。最近では海外の交通状況を理解する日本人も増えるようになり、日本でも歩行者優先意識の啓発、あるいは歩行者優先の原則の絶対厳守とその原則を守らない運転者に対して厳罰を科すことが望まれるようになりつつある。歩道のガードの拡充、十分な幅の自転車専用レーンの確保などの道路インフラ整備が必要とされている。[[東名飲酒運転事故]]以前は[[飲酒運転]]も横行していた。速度超過、事故を誘発する違法駐車、横断歩行者の妨害等などの交通[[犯罪]]が蔓延している現状がある。またスマートフォンの普及などが原因となって、2010年代後半には'''[[ながら運転]]'''による深刻な事故が統計的に明白に急増したので、「ながら運転」による事故に関しては日本政府も厳罰化した改正案を2019年5月8日に閣議決定し、法案として提出した<ref>[https://www.think-sp.com/2019/03/08/dokoho-kaiseian-sumaho-2019-3-8/]</ref>。
また日本など高齢化が進む社会([[高齢化社会]])では、全ドライバーに占める高齢ドライバーの割合が増え、ブレーキペダルとアクセルペダルの「踏み間違い」や道路の[[逆走事故]]が頻発するようになってきた。高齢者は、実際には客観的に測定して運転技能が落ちているにもかかわらず、本人は逆に「自分の運転には絶対に自信がある」などと言うようになり、こうした高齢者による自信過剰が原因で、より一層重大で深刻な事故が起きていることが判ってきている<ref>[https://seniorguide.jp/article/1058760.html]</ref>。
運転技能が落ちた高齢者ドライバーほど逆に自分の運転に「自信」を持つという恐ろしいデータも明らかになってきて、もはや高齢者ドライバーの「自覚」に期待したり、(自発的な)免許の自主返納に期待することは無理だ、高齢者に期待することが事故を引き起こす環境を放置する結果を生んでいる、ということも指摘されるようになってきている。(フジテレビの情報番組などをはじめとして)日本では高齢化が進み悲惨な事故が既に急増したので、高齢者ドライバーに関しては(アクセルを踏み込む異状操作時に作動したり、障害物に突進する場合に作動する)自動ブレーキ車限定の免許」(現在のところ。また将来的には「自動運転車限定の免許」)に強制的に変えるなどの法的・行政的な対策が必要だ、との指摘が行われるようになっている。
2010年代後半、先進国の大手自動車メーカーやIT企業などが主導して、自動運転車、しかもA.I.(人工知能)と高性能のセンサーを多数活用した高度な自動運転車の開発にしのぎを削っており、すでに一部の地域では実験的に走行が始まっており、2020年代には本格的に販売され、普及が進んでゆくと予想されており、性能の良いAIを用いた自動運転車ならば、人間が運転するよりも事故率を数百分の1や数千分の1程度にまで減らすことができる、といった予想もあり、自動運転車の普及によって、交通事故で苦しむ人々が減ることが望まれている。
=== 大気汚染と環境破壊 ===
{{see also|化石燃料#化石燃料の使用が引き起こす公害・環境問題}}
[[内燃機関]]自動車(ICEV)は[[化石燃料]]を燃やし、[[二酸化炭素]](CO<sub>2</sub>)や[[窒素酸化物]](NO<sub>x</sub>)、[[硫黄酸化物]](SO<sub>x</sub>)、[[黒煙]]を大量に排出し、環境や人々の健康に大きな悪影響を与える。
[[大気汚染]]は[[ぜんそく]]や肺疾患などを引き起し、肺がんの原因ともなっている。また、大量に自動車の走行する道路沿いでは、走行による[[騒音]]や振動などの様々な問題も引き起こす。
二酸化炭素は[[地球温暖化]]の最大の原因とされ、窒素酸化物・硫黄酸化物などは[[酸性雨]]の原因にもなっており、これらの排出の削減が急務である。
1970年代から先進国の政府によって大規模な[[自動車排出ガス規制]]が行われるようになった。その結果ようやく自動車メーカーは、排ガス中に有害物質の少ないエンジンや低燃費のエンジンを本腰を入れて開発するようになった。また、大気汚染問題を根本的に解決すべく、[[電気自動車]]などの[[ゼロエミッション車]]の開発も進むようになり、2010年代では電気自動車も本格的に販売台数が伸び、ヨーロッパや中国では2020年代にさらに排ガス規制が厳格化し、電気自動車の普及の推進(や販売台数、販売割合の義務化)がされるよう予定が欧州議会や欧州の各国政府の主導で組まれており、環境にも健康にも優しい電気自動車の開発・販売や購入に対し様々な優遇措置がとられるようになっており(2012年時点ですでに行われていた)、各自動車メーカーも「脱ガソリンエンジン」「電気自動車開発」でしのぎを削っている。
;石油の大量消費
2018年には生産台数が1億台へ達すると予測されているが、仮に1.36トン車の984リットルで計算すると必要なエネルギーはガソリン984億リットル相当となり、これは日本の年間ガソリン消費量55百万キロリットル(550億リットル)<ref>日本エネルギー経済研究所 [http://oil-info.ieej.or.jp/data/oilnow2013.pdf 石油はいま 2013 OIL NOW] </ref>の約2倍である。
=== 自動車利用犯罪 ===
自動車が生活に密着していなかった頃は、犯罪者の居住地域と犯罪地域は密接な状態にあったが、自動車が普及するにつれ、この前提は崩れている。他の交通機関でも犯罪を犯した地域からの脱出は可能であるが、公共交通では移動時間帯が限られている点や、(駅にカメラが設置されている鉄道や、運転手が目撃者となり得るタクシーなど)匿名性を保つことが困難な点などの関係で、犯罪者が犯罪を犯した地域から離れる場合の手段として自動車を用いたものが増えていることが、毎年発表される警察白書から確認できる。この問題には、高速道路での移動や盗難車による移動も含まれる。この問題に対し[[自動車ナンバー自動読取装置]]設置などの対策が施されているが、高価な装置であることなどの理由から設置場所は限られており、犯罪者側もナンバーを見難くするカバーを付ける者や偽造ナンバーを付ける者がいるなど、完全な対策になってはいない。
=== その他 ===
[[ファイル:Chang'an avenue in Beijing.jpg|thumb|交通[[渋滞]]]]
*自動車増に追いつかない道路などのインフラ整備状況と、交通[[渋滞]]によるアイドリング・徐行による排気ガスの増加やエネルギー効率の低下、また時間のロスによる経済的・個人的損失
*逼迫する燃料需給。増加するガソリン需要に対応すべく[[オイルサンド]]の開発が進行中であるが、それによる[[環境負荷]]の増加
*[[バイオディーゼル]]や[[バイオマスエタノール]]などの[[代替燃料]]の需要増による[[2007年-2008年の世界食料価格危機#食料のバイオ燃料への転用|食料供給への影響]]
*[[ロードサイド店舗]]の増加に伴い、駅前の商店が衰退したことによる[[買い物難民]]の発生
などである。
[[乗り物酔い]]、シックカー症候群については[[シックハウス症候群]]をそれぞれ参照。
== 自動車の普及 ==
=== 自動車生産台数の推移 ===
{{multiple image
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| header = 世界の自動車生産の推移<ref name=USDOT>U.S. DOT [https://www.bts.gov/content/world-motor-vehicle-production-selected-countries Table 1-23: World Motor Vehicle Production, Selected Countries] </ref>
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| image1 = Motor Vehicle Production 1950 2013 JA.png
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| caption2 = {{center|生産台数シェア}}
}}
{{main|自動車産業}}
20世紀に入り、フォード・モデルT(販売1908年 - 1927年)の発売から[[アメリカ合衆国|米国]]での普及が始まり、その後[[ヨーロッパ|欧州]]でも比較的廉価な車が発売された。[[第二次世界大戦]]後には戦時中に[[兵器製造]]に従事していた各企業による自動車生産が始まり、特に[[アドルフ・ヒトラー]]の[[国民車構想]]の産物である[[フォルクスワーゲン・タイプ1|フォルクスワーゲン]](1938年 - 2003年)は量産記録を打ち立てた。1970年代には日本においても大衆車が普及し[[日本車]]の海外輸出も始まり生産台数を伸ばし始め、同時に[[大韓民国|韓国]]や[[マレーシア]]などでも自動車生産が始まった。以下で述べる生産台数はメーカー国籍別ではなく、地理的に生産された国での数値である。
自動車の生産台数は1950年には約1058万台<ref>1950年から1990年までの数値は英版[[:en:List_of_countries_by_motor_vehicle_production]]より。</ref>で、その約8割は第二次世界大戦による戦災を逃れた米国によるものであった。[[ビッグスリー]]の地元であり、また後に日・独などのメーカーが進出した米国は、その後半世紀にわたり世界で最大の生産国であった。60年代には[[西ドイツ|西独]]・[[フランス|仏]]・[[イギリス|英]]・[[イタリア|伊]]などの生産が立ち上がり、1960年の生産台数は1649万台となった。70年代には日本における自動車の増産も始まり、1970年の生産台数は2942万台、1980年には3856万台<ref> The Minerals, Metals & Materials Society (TMS) [http://www.tms.org/pubs/journals/jom/0308/kanari-0308.html End-ofLife Vehicle Recycling in the European Union] </ref>、90年代には韓国ついで[[中華人民共和国|中国]]での生産が増加し、1990年4855万台、2000年には約5837万台<ref>International Organization of Motor Vehicle (OICA) [http://www.oica.net/category/production-statistics/2000-statistics/ 2000 Production Statistics] </ref>、2010年には7758万台<ref>OICA [http://www.oica.net/category/production-statistics/2010-statistics/ 2010 Production Statistics] </ref>2013年には8730万台<ref>OICA [http://www.oica.net/category/production-statistics/2013-statistics/ 2013 Production Statistics] </ref>と増加し続けている。2018年には1億台に達するとの予測も出ている<ref>The Wall Street Journal http://online.wsj.com/articles/SB10001424052702304858104579262412636884466 Global Car Sales Seen Rising to 85 Million in 2014] </ref>。
日本における自動車生産は第二次世界大戦前は主に米国企業によるいわゆる[[アメ車]]の[[ノックダウン生産]]、戦後には戦災で破綻した物流システムを整えるべくトラックやバスの生産が優先された。乗用車の生産台数がトラック・バスを追い抜いたのは1968年であった。1960年の世界の生産台数は1649万台であったが、日本の生産台数は約76万台(内訳、乗用車17万台、トラック59万台、バス8千台)であった。1960年当時には、それまで三輪車や二輪車を生産していた鈴木自動車、富士重工、ダイハツ、東洋工業、本田などの企業が四輪車の生産に乗り出していた<ref name=Hokudai>小野浩、「[https://hdl.handle.net/2115/31994 戦後の日本の自動車産業の発展]」『經濟學研究』 1995年 45巻 1号 p.68-76, 北海道大学經濟學部</ref>。「マイカー元年」と言われた1966年には229万台<ref>曽穎、「[https://hdl.handle.net/10191/6407 日本自動車産業の外資政策史 : 草創期から戦後復興期まで]」『現代社会文化研究』 2007年 39巻 p.109-124, {{issn|1345-8485}}, 新潟大学大学院現代社会文化研究科</ref><ref name=diff>出典元、北海道大学、新潟大学、JAMA-日本自動車工業会で数値に開きあり。</ref>(内、乗用車98万台<ref> [http://www.jama.or.jp/lib/jamagazine/199912/03.html 「国民車構想とモータリゼーションの進展」]{{リンク切れ|date=2019年10月}}</ref><ref name=diff/>)でその内輸出は約26万台であった<ref name=Hokudai/>。1980年には約1千万台に達し米国を上回った<ref> 文部科学省[http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpaa198201/hpaa198201_2_006.html 「技術革新の進展とその成果」] </ref>。1980年の日本の自動車輸出台数は597万台であった<ref name=Hokudai/>。1991年には過去最高の約1325万台を生産したが、以降は1千万台前後で推移している<ref name=USDOT/>。輸出は1985年がピークで673万台であった<ref name=Hokudai/>。
2009年には中国が1379万台で2位日本の793万台を大きく引き離し世界最大の自動車生産国となった。2013年は中国が2212万台、米国1105万台、日本963万台、[[ドイツ]]572万台、韓国452万台、[[インド]]388万台、[[ブラジル]]374万台、[[メキシコ]]305万台、[[タイ王国|タイ]]253万台、[[カナダ]]238万台、[[ロシア]]218万台となっている
<ref>[[国際自動車工業連合会]](OICA)[http://oica.net/category/production-statistics/] </ref>。自動車メーカーの国籍はともあれ、中国で突出した台数が生産されている。2013年の自動車生産台数の4台に1台は中国で生産された。
地域別でみるとEU27カ国では16カ国で1618万台生産されており、多い国はドイツ572万台、[[スペイン]]216万台、フランス174万台、英国160万台、[[チェコ]]113万台、[[スロバキア]]98万台などで、これら6カ国でEU生産の82%が生産された。その他の地域で約百万台規模の生産のある国は、[[トルコ]]113万台、[[インドネシア]]121万台である。[[BRICs]]の一員である[[南アフリカ共和国]]では約50万台の生産があった<ref>日本自動車工業会 [http://www.jama.or.jp/world/world/world_t2.html 「世界各国/地域の四輪車生産台数」] </ref>。
=== 自動車保有(普及)台数 ===
第二次世界大戦による大量破壊の翌年の1946年における自動車登録台数は約5千万台<ref name=grid>[[:en:UNEP/GRID-Arendal]] [http://www.grida.no/publications/other/ipcc_tar/?src=/climate/ipcc_tar/wg3/099.htm Historic and Future Trends] </ref>で、1955年に1億台を超え、1967年には2億台、1979年には4億台、1986年には5億台となり、24年後の2010年には10億台を超えた<ref name=unep>United Nations Environment Programme UNEP [http://www.unep.org/transport/pcfv/PDF/Ghana_2012/VehiclePopulation_Trends.pdf Vehicle Population and International Trend Sep., 2012] </ref>。
この間に各国で[[旅客輸送|人]]・[[貨物輸送|物資輸送]]の主体が[[鉄道]]から自動車へと転換し、総人口の増加、自動車普及率の向上とも相まって自動車登録台数が飛躍的に増加していった。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+
登録台数<ref name=unep/>・自動車保有率の推移
|-
! 年度||登録台数||[[世界人口]]<ref>特記ない限り人口は世界人口の頁より。</ref>||1台あたりの<br>人口||備考
|-
| 1945||0.5億台||23.5億人||47|| 人口は<br>[http://www.wolframalpha.com/input/?i=world+population+in+1945 World population in 1945]による。
|-
| 1955||1億台||27.7億人||27.7||
|-
| 1960||||30億人||24.4<ref name=econ>Joyce Dargay et al, Institute for Transport Studies, University of Leeds [http://www.econ.nyu.edu/dept/courses/gately/DGS_Vehicle%20Ownership_2007.pdf Vehicle Ownership and Income Growth, Wroldwide: 1960 - 2030] </ref>||
|-
| 1967||2億台||34.2億人||17.1||1966年の人口値
|-
| 1979||4億台||44.5億人||11.1||1980年の人口値
|-
| 1986||5億台||48.6億人||9.7||1985年の人口値
|-
| 2002||8億台||62.4億人||7.7<ref name=econ/>||
|-
| 2010||10億台||69億人||6.9||
|-
| 2030||20億台||83億人||4.2|| 17億台とする予測もある。その場合4.9人に1台。
|}
1台あたりの人口の数値は1960年と2002年のもの以外は登録台数の有効桁数を一桁で計算しているので、大まかな数値である。
[[ファイル:World vehicles per capita.svg|thumb|right|各国の1千人あたりの自動車台数(2009年)<br> {{legend|#002b00|601+}}
{{legend|#005500|501-600}}
{{legend|#008000|301-500}}
{{legend|#00aa00|151-300}}
{{legend|#00d400|101-150}}
{{legend|#00ff00|61-100}}
{{legend|#55ff55|41-60}}
{{legend|#80ff80|21-40}}
{{legend|#aaffaa|11-20}}
{{legend|#d5ffd5|0-10}}
]]
20世紀末からは中国の経済成長に伴い、中国での自動車生産も始まり21世紀初頭には米国に次ぐ自動車保有国となった。2010年の中国の自動車登録台数は前年比27.5%増と大幅な伸びを示しているが<ref name=unep/>、中国における人口あたりの普及率は未だに低く、さらなる増加が見込まれている。中国に並ぶ人口大国のインドでも経済成長が著しく大きく登録者台数を伸ばしているが自動車保有台数は中国の約3分の1である。中国についで増加台数の多い国はブラジルで2010年には250万台増加した<ref name=unep/>。
2012年末における世界の乗用車、トラック・バスを含む四輪車保有台数は約11億台で、6.3人に1台の保有率となっている。11億台の内訳は乗用車が7億7332万台、トラック・バスが3億4123万台で、乗用車の普及率は9.1人に1台となっている。自動車の普及の著しい北アメリカ、西ヨーロッパ、日本、[[オーストラリア|豪州]]では乗用車の普及率は約2人に1台であるが、米国に次ぐ自動車保有国である中国では人口あたりの乗用車保有率は約26人あたり1台である<ref name=jama2t1>日本自動車工業会 [http://www.jama.or.jp/world/world/world_2t1.html 「世界各国の四輪車保有台数(2012年末)」] </ref><ref name=jama2t2>日本自動車工業会 [http://www.jama.or.jp/world/world/world_2t2.html 「主要国の四輪車普及率」] </ref>。
参考までに二輪車([[自転車]]を除く)の保有台数(2011年または2012年)は全世界で約2億台から4億台<ref name=ICCT>International Council on Clean Transportation [http://www.theicct.org/sites/default/files/publications/EU_vehiclemarket_pocketbook_2013_Web.pdf European Vehicle Market Statistics - Pocketbook 2013] </ref>と推定されており、中国に約1億台(1台あたり13人、以下同)、インドネシアに約7598万台(3人/台)、タイ1924万台(4人/台)、[[台湾]]1514万台(1.5人/台<ref group="注">出典元に記載がないため、記載されている台数と台湾の頁の人口より算出。</ref>)、日本1199万台(11人/台)、マレーシア1059万台(3人/台)、イタリア858万台(7人/台)となっている<ref>日本自動車工業会 [http://www.jama.or.jp/world/world/world_2t4.html 「世界各国/地域の二輪車保有台数」] </ref>。
自動車の地域別保有台数を以下の表で示す<ref name=ICCT/>。
:なおICCTの2013年の報告書では自動車をLight-duty(軽量車両)とHeavy-duty(重量車両)に2分して集計している。米国の環境庁([[アメリカ合衆国環境保護庁|EPA]])によるLight-dutyの分類は車重8500[[ポンド (質量)|ポンド]](約3.8トン)以下の自動車であり<ref>EPA [http://www.epa.gov/oms/standards/weights.htm Vehicle Weight Classification] </ref>、ほぼ日本で普通免許で運転できる自動車に相当する。Heavy-dutyはバスや大型トラックといった業務用の車両と見なせる。前述した日本自動車工業会による乗用車とトラック・バスとの分類とは異なることに留意。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+ 国・地域別の自動車保有台数 2010年実績と2030年予測 (単位:百万台)
|-
! || colspan="4" |2010年保有台数 ||colspan="4" |2030年予測||colspan="2" |対10年度増減率
|-
! ||軽量車||重量車||合計||シェア||軽量||重量||合計||シェア||軽量||重量
|-
| カナダ||19||3||22||2%||30||4||34||2%||59%||23%
|-
| 米国||231||12||'''243'''||24%||280||15||'''295'''||17%||21%||27%
|-
| メキシコ||22||3||25||2%||39||5||43||3%||75%||60%
|-
| 中南米||20||8||28||3%||37||14||51||3%||83%||74%
|-
| ブラジル||28||2||30||3%||50||3||53||3%||80%||33%
|-
| EU27カ国||239||35||'''274'''||27%||313||41||'''354'''||21%||31%||17%
|-
| EU外欧州||28||6||34||3%||60||8||69||4%||116%||40%
|-
| ロシア||34||6||40||4%||80||7||87||5%||136%||17%
|-
| 中国||59||17||76||7%||189||32||'''221'''||13%||221%||87%
|-
| 日本||58||17||75||7%||57||16||73||4%||-1%||-6%
|-
| 韓国||15||5||20||2%||29||11||40||2%||95%||116%
|-
| インド||15||5||20||2%||105||19||'''124'''||7%||600%||276%
|-
| アジアその他||40||18||58||6%||89||34||123||7%||122%||89%
|-
| 中近東(エジプトを含む)||26||7||33||3%||68||17||85||5%||161%||142%
|-
| アフリカ||21||10||31||3%||33||15||48||3%||56%||49%
|-
| オーストラリア||12||3||15||1%||19||3||23||1%||61%||16%
|-
| 合計||867||157||1024||100%||1,479||243||1,722||100%||71%||55%
|}
2010年の集計では米国と[[欧州連合|EU]]27カ国が2大自動車保有地域である。EU27カ国の大半は独・仏・英・伊・西(=スペイン)の5カ国であり、新車登録の75%はこの5カ国によるものである<ref name=ICCT/>。EU27カ国には世界の27%の2.7億台、米国には同24%の2.4億台があった。これに続くのが国土面積や人口で比較にならないが中国と日本である。それぞれ76百万台、75百万台で約7%のシェアであった。次は日本より人口が1割強多く最大の国土を持つ[[ロシア]]で保有台数は約4千万台であった。
2030年にかけては、EU27カ国および米国では2-3割の増加でそれぞれ3.5億台、3.0億台、中国は約3倍の2.2億台、インドは約6倍の1.2億台となると推定されている。ついでロシア87百万台、2010年比微減となると予想される日本の73百万台、1.8倍の53百万台となるブラジルなどが続く。経済成長の著しい韓国では2030年には普及率が日本など自動車先進国と並び倍増の4千万台となると予想されている。
=== 自動車社会ロサンゼルスの現状 ===
最多の保有台数(全4輪車1台あたり1.2人)である米国のなかでも保有率が高いのが[[ロサンゼルス]]である。なお米国の普及率を乗用車のみでみると1台あたり2.6人と他の自動車普及国がほぼ2.0人かそれ以下であるのに対して普及率が低くでている<ref name=jama2t2/>。これは米国では乗用車に分類されない[[ピックアップトラック|ピックアップ]]と呼ばれるトラックが自家用として広く普及しているためである。
自動車社会である[[ロサンゼルス郡 (カリフォルニア州)|ロサンゼルス郡]]は、面積が[[東京都]]の約4.6倍の約1万平方キロで、人口は東京都の約4分の3の約1千万人<ref>US Census Bureau [http://quickfacts.census.gov/qfd/states/06/06037.html Los Angeles County, California] </ref>で、約700万台(2008年末)の登録車両がある<ref>Los Angeles Almanac [http://www.laalmanac.com/transport/tr02.htm Vehicle Registrations] </ref>。運転出来ない若年層を考慮すると平均ではほぼ1人に1台の状態である。ロサンゼルス市にはかつて[[路面電車]]が走っていたが、20世紀半ばには廃止され([[アメリカ路面電車スキャンダル]])1940年のパサデナフリーウェイ(Arroyo_Seco_Parkway)を皮切りに高速道路が整備され自動車社会へと変わっていった。これにより街自体が人の移動を車によるものとの前提で開発され、広大な駐車場を備えた[[スーパーマーケット]]や[[ショッピングセンター]]が近郊の[[小売|小売業]]を駆逐していき、ちょっとした買い物でも車で移動せざるを得ない状態になっている。1990年代には地下鉄([[ロサンゼルス郡都市圏交通局]])の開業が始まったが、整備状況は限られている。
ロサンゼルス郡では[[高速道路]]網(Freeway)も張り巡らされており、多くの一般道も片側3車線前後であるが、朝夕の通勤退社時には高速一般道ともに大きく渋滞している。道路の整備は米国の他州はもちろん各国に比べ進んではいるが、[[地下鉄]]や[[バス (交通機関)|バス]]などの[[公共交通機関]]が未熟な為に約84%が通勤に乗用車を運転しており公共機関の利用者は6%に留まり、全米で最悪の交通渋滞との評価が下されている<ref>USA Today [http://www.usatoday.com/story/money/cars/2013/05/04/worst-traffic-cities/2127661/ Ten cities with the worst traffic] </ref><ref group="注">Google Mapでロサンゼルスの午前6時版から午前9時半、午後3時から午後7時の間のトラフィックを見るとピーク時には大半の高速道路で渋滞が見られる。</ref>。
[[カリフォルニア州]]ではガソリン価格は米国平均よりも高く、[[自動車排出ガス規制|排気ガス規制]]もより厳しい独自のものを設定しており、より小型の車やハイブリッドカーが選択される傾向が他州よりも強い。
=== 日本の自動車保有台数 ===
日本には1898年(明治31年)ごろから自動車が輸入されはじめ、[[道路法]]が成立した1919年(大正8年)には自動車台数は5000台に達していた{{sfnp|武部健一|2015|p=163}}。[[大正時代]]の[[関東大震災]]を挟んで急増し、1926年(大正15年)で3万2000台に達し、1932年(昭和7年)には10万台を超えた{{sfnp|武部健一|2015|p=172}}。1945年(昭和20年)における二輪車・小型特殊車両を除いた自動車保有台数は、14万台弱、保有率は0.2%に過ぎなかったが{{sfnp|浅井建爾|2015|p=56}}{{sfnp|浅井建爾|2001|pp=260-261}}、敗戦後の自動車の普及はめざましく、1950年(昭和25年)には35.9万台、1955年(昭和30年)には92.2万台となる{{sfnp|浅井建爾|2001|pp=260-261}}。1956年(昭和31年)には戦後の復興を遂げ「もはや戦後ではない」といわれるようになり、前年1955年には[[経済産業省|通産省]]が「国民車構想」を発表した。1958年(昭和33年)に[[スバル・360]]が発売され60年代前半には各社から軽自動車が発売された。1960年(昭和35年)は230万台、1965年(昭和40年)には724万台となり、わずか10年間で約8倍に急増した{{sfnp|浅井建爾|2015|p=56}}{{sfnp|浅井建爾|2001|pp=260-261}}。1966年(昭和41年)は「マイカー元年」と呼ばれ[[トヨタ・カローラ]]・[[日産・サニー]]などの大衆車が発売され自動車が普及し始めた<ref>日本自動車工業会 [http://www.jama.or.jp/lib/jamagazine/199912/03.html 「国民車構想とモータリゼーション」] </ref>。
1966年(昭和41年)のトラック・バスなどの大型車も含めた自動車保有台数は約884万台で、翌1967年には1095万台、1971年(昭和46年)に2045万台、1982年(昭和57年)に4130万台、1997年(平成10年)に6984万台となった以降は微増となり<ref>資源エネルギー庁 エネルギー白書2006 [http://www.enecho.meti.go.jp/about/whitepaper/2006html/2-1-2.html 「第212-3-12 車種別保有台数の推移」] </ref>2004年以降は7500万台前後で推移し、2014年は2輪車を除いた保有台数は7721万台、保有率は60.6%であった<ref name=airia>自動車検査登録情報協会 [http://www.airia.or.jp/number/pdf/03_1.pdf 「自動車保有台数推移表」] </ref>{{sfnp|浅井建爾|2015|p=57}}。この保有台数は国別では米国、中国に次ぐ3番目で、人口あたりの保有台数では米国や西ヨーロッパ諸国とほぼ同率である。2030年にかけては海外では引き続き増加していくが、日本では微減すると予想されている<ref name=ICCT/>。
60年代後半からの急激な自動車の増加に対して道路整備は立ち遅れ、各地で交通渋滞や交通事故の増加が問題となった。また排気ガスによる大気汚染も70年代に深刻化した。日本においては1970年代から高速道路(高規格幹線道路)の整備が始まったが、急増する保有台数に追いついておらず、日本の高速道路の整備状況は米国とはもちろん、ドイツ、フランス、中国、イギリス、韓国よりも低い水準である<ref>経済産業省 [http://www.meti.go.jp/committee/kenkyukai/shoryu/butsuryu_shisaku/pdf/001_03_02.pdf 「物流を取り巻く現状について」平成24年11月6日」] </ref>。
なお二輪車では、[[原動機付自転車|原付]]を除く125cc超の二輪車は1966年には約88万台であったが<ref name=airia/>、2013年には125cc超が4倍の約354万台となった他、原付第一種が666万台、第二種が163万台で二輪車の合計は1182万台であった<ref>日本自動車工業会 [http://www.jama.or.jp/industry/two_wheeled/two_wheeled_3t1.html 「二輪車保有台数」] </ref>。
2013年の四輪と二輪の合計は8791万台で国民1.4人に1台の普及率となっている。
20世紀末から日本の登録台数は頭打ちであるが、小型車、特に軽自動車がシェアを拡大してきている。軽自動車は技術の進歩に加えて、従来の取り回しの良さと経済性で弱点が少ないことから、90年代以降着実に台数を伸ばしている。
==== 都道府県別の自動車普及率 ====
2013年の日本の自動車普及率は対人口では1台あたり1.7人、乗用車に限ると2.1人であり、これは100人あたり59.7台、46.6台となる<ref name=jama2t2/>。以上は自家用、業務用、軽から大型まですべてを含む数値である。
2013年の世帯あたりの自家用乗用車(軽自動車も含む)の普及率をみると、日本平均は1世帯あたり1.08台で各家庭にほぼ1台の割合となっている。世帯あたりの人数は、2010年では最大が山形県の3.16人で最低が[[北海道]]の2.27人で全国平均は2.59人であった<ref>厚生労働省 [http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/dl/20-21-01.pdf 「国民生活基礎調査(平成22年)の結果から」] </ref>。
世帯ベースで各地域をみると保有台数の多い県は上位10地域で、福井県(1.77台)、富山県(1.73台)、群馬県(1.68台)、山形県(1.68台)、[[岐阜県]](1.65台)、栃木県(1.65台)、茨城県(1.63台)、長野県(1.59台)、福島県(1.56台)、新潟県(1.56台)などで、その他の大半の県で1台以上となっている。1台を切るのは5地域のみで、少ない方から東京都(0.48台)、大阪府(0.68台)、神奈川県(0.75台)、京都府(0.86台)、兵庫県(0.94台)と、当然ではあるが、公共輸送機関の発達した[[人口密度]]の高い([[過密|人口都市集中]]の激しい)都道府県で保有台数が少なくなっている<ref>日本自動車工業会 [http://www.jama.or.jp/industry/four_wheeled/four_wheeled_3g4.html 「都道府県別自家用乗用車の100世帯当たり保有台数(2013年3月末)」] </ref>。なおこの5都府県に続いてすくないのが北海道(1.008台)、千葉県(1.02台)であった。国土面積の約2割以上を占める広大な北海道で世帯当たりの保有数が少ないのは世帯あたりの人数が最小であることも影響している。
=== 登録台数予測 ===
将来の登録台数予測はいくつかの機関から出されており、2030年の自動車登録台数は17億から20億台との推定が出ている<ref name=econ/>。自動車は2030年にかけて中国、中近東、インドで大きく普及し、総普及台数は17億台に達すると見られている<ref name=ICCT/>。2050年には25億台となるとの予測も出されている<ref name=huff>Huffingtonpost [http://www.huffingtonpost.ca/2011/08/23/car-population_n_934291.html Number of cars worldwide surpasses 1 billion.] </ref>。
二輪車も2010年の約4億台から2030年には9億台へ達すると推定されている<ref name=ICCT/>。
仮に中国で乗用車の普及率が先進国並の2人に1台となると2012年時点の人口13.4億人では6.7億台となり、約6億台が増加することとなる。これは2013年の世界の自動車生産実績8730万台の約7年分に相当し、2013年の中国の自動車生産実績2212万台の27年分である。
== 自動車産業 ==
{{main|自動車産業}}
全世界での自動車生産台数は非常に大きく、しかも自動車を構成する数多くの部品を製造するには非常に多くの人員が必要となる事から、自動車は巨大[[産業]]である。自動車産業内での企業間の競争は激しく、価格競争の激化や経営内容悪化や淘汰などが起き、1980年代以降、[[多国籍企業]]グループへの集約が進んでいる。
自動車製造には数万点におよぶ部品(鋼材、[[ガラス]]、[[座席]]、[[電子機器]]、[[ねじ]]など)が必要であり、消費者からは直接的には見えない諸企業(鉄鋼産業・[[ガラス]]産業・[[合成樹脂]]メーカー、[[電子機器]]メーカー、ソフトウェア製造業まで、数え切れないほどの企業)の売上にも影響を及ぼし、製造には大規模な設備投資が必要となることが多く、その企業や工場だけでなく、協力会社なども集まってきて[[企業城下町]]を形成するなど、自動車企業・工場の立地場所周辺への経済的効果は非常に大きいといえる。
近年はグローバル競争が激しくなってきていることや、年々排ガスや安全の基準が厳しくなっていること、自動運転や電気自動車の研究開発など、個別の企業でそれらに対処するのは難しくなってきているため、M&Aや提携をするケースが増えている。
=== 自動車ブランド・グループ ===
{{Imageframe|caption ='''著名な自動車ブランドの創設者たち'''
| content = {{image array|perrow = 5|width=100|height=150|text=y
| image1 = Carl-Benz coloriert.jpg
| caption1 =[[カール・ベンツ|K. ベンツ]]([[メルセデス・ベンツ]])
| image2 = Armand Peugeot.jpg
| caption2 =[[アルマン・プジョー|A. プジョー]]([[プジョー]])
| image3 = Louis Renault en 1936.jpg
| caption3 =[[ルイ・ルノー (実業家)|L. ルノー]]([[ルノー]])
| image4 = Agnelli.jpg
| caption4 = [[ジョヴァンニ・アニェッリ (シニア)|G. アニェッリ]]([[フィアット]])
| image5 = Horch.gif
| caption5 =[[:en:August Horch|A. ホルヒ]]([[アウディ]])
| image6 = Henry ford 1919.jpg
| caption6 = [[ヘンリー・フォード|H. フォード]]([[フォード・モーター|フォード]])
| image7 = Starley-Rover bicycle.jpg
| caption7 = [[ジョン・ケンプ・スターレー|J. K. スターレー]]([[ローバー (自動車)|ローバー]])
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| caption8 = [[ヘンリー・ロイス|H. ロイス]]([[ロールス・ロイス]])
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| caption9 = [[エットーレ・ブガッティ|E. ブガッティ]]([[ブガッティ]])
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| caption10 = [[エンツォ・フェラーリ|E. フェラーリ]]([[フェラーリ]])
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| caption11 = [[豊田喜一郎]]([[トヨタ自動車|トヨタ]])
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| caption12 =[[鮎川義介]]([[日産自動車|日産]])
| image13 = Bundesarchiv Bild 183-2005-1017-525, Dr. Ferdinand Porsche.jpg
| caption13 = [[フェルディナント・ポルシェ|F. ポルシェ]]([[ポルシェ]])
| image14 = Honda Souichiro zaikai 1964.jpg
| caption14 = [[本田宗一郎]]([[本田技研工業|ホンダ]])
| image15 = Chung Ju-yung (Cropped).jpg
| caption15 = [[鄭周永]]([[現代自動車|ヒュンダイ]])
}}}}
自動車ブランド・メーカーや自動車製造者についての詳細な情報は、
*「[[:Category:自動車メーカー・ブランド]]」
*「[[自動車製造者の一覧]]」
*「[[自動車の車種名一覧]]」を参照。
{{-}}
==== 代表的な自動車グループ ====
[[2022年]]現在は以下の通り。
{| class="wikitable" style="text-align:left; font-size:small"
|-
!グループ名
!所属する企業・ブランド
!所属はしていないが資本関係の深い企業・グループ
|-
![[トヨタグループ]]
|[[トヨタ自動車]]/[[レクサス]]/[[日野自動車]]/[[ダイハツ工業]]
|[[SUBARU]]/[[スズキ (企業)|スズキ]]/[[いすゞ自動車]]
|-
![[ルノー・日産・三菱アライアンス]]
|[[ルノー]]/[[日産自動車]]/[[三菱自動車工業]]/[[インフィニティ (日産自動車)|インフィニティ]]/[[ダットサン]]/[[ルノーサムスン自動車|ルノーサムスン]]/[[アルピーヌ]]/[[ダチア (自動車)|ダチア]]/[[ラーダ (自動車)|ラーダ]]
|
|-
![[フォルクスワーゲン・グループ]]
|[[フォルクスワーゲン]]/[[アウディ]]/[[ポルシェ]]/[[ランボルギーニ]]/[[シュコダ・オート]]/[[セアト]]/[[ベントレー]]/[[ブガッティ]]/[[スカニア]]/[[MAN Truck & Bus|MAN]]
|
|-
![[ステランティス]]
|[[フィアット]]/[[アルファロメオ]]/[[アバルト]]/[[ランチア]]/[[マセラティ]]/[[クライスラー]]/[[ジープ]]/[[ダッジ]]/[[ラム・トラックス]]/[[プジョー]]/[[シトロエン]]/[[DSオートモビルズ|DS]]/[[オペル]]/[[ボクスホール]]
|[[フェラーリ]]
|-
![[ゼネラル・モーターズ|GMグループ]]
|[[シボレー]]/[[ビュイック]]/[[キャデラック]]/[[GMC]]
|[[上汽通用五菱汽車]]
|-
![[現代自動車グループ|現代-起亜グループ]]
|[[現代自動車]]/[[起亜自動車]]/[[ジェネシス (ヒョンデ)|ジェネシス]]/[[アイオニック (ヒョンデ)|アイオニック]]
|
|-
![[フォード・モーター|フォード]]
|[[フォード・モーター|フォード]]/[[リンカーン (自動車)|リンカーン]]
|
|-
![[BMW]]
|[[BMW]]/[[ミニ (BMW)|MINI]]/[[ロールス・ロイス]]
|
|-
![[タタ・グループ]]
|[[タタ・モーターズ]]/[[ジャガーランドローバー]]/[[タタ大宇]]/[[タタ・イスパノ]]
|[[マルコポーロ_(企業)|マルコポーロ]]
|-
![[浙江吉利控股集団|吉利]]
|[[吉利汽車]]/[[上海華普汽車]]/[[ボルボ・カーズ]]/[[プロトン (自動車)|プロトン]]/[[ロータス・カーズ]]/テラフージア/ロンドンEVカンパニー/yuan cheng auto
|[[ダイムラー (自動車メーカー)|ダイムラー]]
|}
=== 乗用車の世界シェア ===
2017年時点。出典:<ref>[https://focus2move.com/world-car-group-ranking/ Renault Nissan Aliance Finaly Tops The World' Ranking]</ref><ref>[https://focus2move.com/world-cars-brand-ranking-2016/ World Car Brand Ranking in 2016-Top50] Focus 2 move</ref>。
==== グループ別 ====
* 1位 [[ルノー=日産アライアンス|ルノー・日産・三菱アライアンス]] - 11.3%
* 2位 [[フォルクスワーゲングループ]] - 11.2%
* 3位 [[トヨタグループ]] - 10.9%
* 4位 [[現代自動車グループ|現代-起亜グループ]] - 7.3%
* 5位 [[ゼネラル・モータース|GM]] - 6.6%
* 6位 [[フォード]] - 6.0%
* 7位 [[ホンダ]] - 5.3%
* 8位 [[フィアット・クライスラー・オートモービルズ|FCA]] - 5.0%
* 9位 [[グループPSA|PSA]] - 4.8%
* 10位 [[スズキ (企業)|スズキ]] - 3.5%
* 11位 [[ダイムラー (自動車メーカー)|ダイムラー]] - 2.9%
* 12位 [[BMW]] - 2.5%
* 13位 [[浙江吉利控股集団|吉利]] - 2.3%
* 14位 [[上海汽車]] - 2.2%
* 15位 [[マツダ]] - 1.8%
* 16位 [[長安汽車]] - 1.6%
* 17位 [[タタ・グループ]] - 1.4%
* 18位 [[東風汽車集団]] - 1.3%
* 19位 [[上汽通用五菱汽車]] - 1.2%
* 20位 [[北京汽車]] - 1.1%
==== ブランド別 ====
* 1位 [[トヨタ]]{{flagicon|JPN}} - 9.2%
* 2位 [[フォルクスワーゲン]]{{flagicon|GER}} - 7.1%
* 3位 [[フォード]]{{flagicon|USA}} - 6.8%
* 4位 [[日産自動車|日産]]{{flagicon|JPN}} - 5.4%
* 5位 [[ヒュンダイ]]{{flagicon|KOR}} - 5.3%
* 6位 [[ホンダ]]{{flagicon|JPN}} - 5.2%
* 7位 [[シボレー]]{{flagicon|USA}} - 4.5%
* 8位 [[起亜]]{{flagicon|KOR}} - 3.6%
* 9位 [[ルノー]]{{flagicon|FRA}} - 2.6%
* 10位 [[メルセデス・ベンツ]]{{flagicon|GER}} - 2.5%
* 11位 [[プジョー]]{{flagicon|FRA}} - 2.2%
* 12位 [[BMW]]{{flagicon|GER}} - 2.2%
* 13位 [[アウディ]]{{flagicon|GER}} - 2.0%
* 14位 [[マツダ]]{{flagicon|JPN}} - 1.7%
* 15位 [[フィアット]]{{flagicon|ITA}} - 1.7%
* 16位 [[ビュイック]]{{flagicon|USA}} - 1.6%
* 17位 [[ジープ]]{{flagicon|USA}} - 1.6%
* 18位 [[スズキ (企業)|スズキ]]{{flagicon|JPN}} - 1.5%
* 19位 長安汽車{{flagicon|CHN}} - 1.5%
* 20位 [[マルチ・スズキ・インディア]]{{flagicon|JPN}}/{{flagicon|IND}} - 1.5%
== 自動車関連の専門職 ==
自動車関連の仕事・職業のひとつに[[自動車整備士]]がある。
各国で状況は異なるので、[[自動車整備士]]という記事で詳しく説明する。
{{Main|自動車整備士}}
<!--
この記事ではなく、[[自動車整備士]]の記事で説明すべき。
=== 自動車整備士の種類 ===
自動車整備士の種類は、一級、二級、三級及び特殊整備士に分類されます。それぞれの級に要求される技能のレベル、整備士の種類は次のとおり<ref>[https://www.mlit.go.jp/jidosha/jidosha_tk9_000011.html 自動車整備士になるには] 国交省</ref>。
# 一級自動車整備士 《高度な自動車の整備ができること。》
#* 一級大型自動車整備士
#* 一級小型自動車整備士
#* 一級二輪自動車整備士
# 二級自動車整備士 《一般的な整備ができること。》
#* 二級ガソリン自動車整備士
#* 二級ジーゼル自動車整備士
#* 二級自動車シャシ整備士
#* 二級二輪自動車整備士
# 三級自動車整備士 《各装置の基本的な整備ができること。》
#* 三級自動車シャシ整備士
#* 三級自動車ガソリン・エンジン整備士
#* 三級自動車ジーゼル・エンジン整備士
#* 三級二輪自動車整備士
# 特殊整備士 《各々の分野で専門的な知識・技能を有すること。》
#* 自動車タイヤ整備士
#* 自動車電気装置整備士
#* 自動車車体整備士
-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<!--※以下は辞事典。-->
<!--
<ref name=kb>{{Cite web |title=自動車 |url=https://kotobank.jp/word/自動車-74374 |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2020-05-04 }}</ref>
-->
<ref name="kb泉">{{Cite web|和書|title=自動車 |url=https://kotobank.jp/word/自動車-74374 |author=[[小学館]]『デジタル[[大辞泉]]』|publisher=コトバンク |accessdate=2020-05-04 }}</ref>
<ref name="kb林">{{Cite web|和書|title=自動車 |url=https://kotobank.jp/word/自動車-74374 |author=[[三省堂]]『[[大辞林]]』第3版 |publisher=コトバンク |accessdate=2020-05-04 }}</ref>
<ref name="kb平百">{{Cite web|和書|title=自動車 |url=https://kotobank.jp/word/自動車-74374 |author=[[日立デジタル平凡社]]『[[世界大百科事典]]』第2版 |publisher=コトバンク |accessdate=2020-05-04 }}</ref>
<ref name=kb-Brit>{{Cite web|和書|title=自動車 |url=https://kotobank.jp/word/自動車-74374 |author=『[[ブリタニカ百科事典|ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典』|publisher=コトバンク |accessdate=2020-05-04 }}</ref>
<ref name=kb-MyPedia>{{Cite web|和書|title=自動車 |url=https://kotobank.jp/word/自動車-74374 |author=[[平凡社]]『[[百科事典マイペディア]]』|publisher=コトバンク |accessdate=2020-05-04 }}</ref>
<ref name=kb-Nipp>{{Cite web|和書|title=自動車 |url=https://kotobank.jp/word/自動車-74374 |author=[[高島鎮雄]]、[[伊東和彦]]、小学館『[[日本大百科全書]](ニッポニカ)』|publisher=コトバンク |accessdate=2020-05-04 }}</ref>
<!--
<ref name="kb泉_普通乗用自動車">{{Cite web |title=普通乗用自動車 |url=https://kotobank.jp/word/普通乗用自動車-669338 |author=小学館『デジタル大辞泉』|publisher=コトバンク |accessdate=2020-05-04 }}</ref>
<ref name="kb泉_普通乗用車">{{Cite web |title=普通乗用車 |url=https://kotobank.jp/word/普通乗用車-669339 |author=小学館『デジタル大辞泉』|publisher=コトバンク |accessdate=2020-05-04 }}</ref>
-->
<!--
<ref name=OED_automobile>{{Cite web |title=automobile |url=https://www.etymonline.com/word/automobile#etymonline_v_45463 |publisher=[[オンライン・エティモロジー・ディクショナリー|Online Etymology Dictionary]] |accessdate=2020-05-04 }}</ref>
<ref name=OED_motorcar>{{Cite web |title=motorcar |url=https://www.etymonline.com/word/motorcar#etymonline_v_45077 |publisher=Online Etymology Dictionary |accessdate=2020-05-04 }}</ref>
<ref name="OED_vehicle (n.)">{{Cite web |title=vehicle (n.) |url=https://www.etymonline.com/search?q=motor+vehicle |publisher=Online Etymology Dictionary |accessdate=2020-05-04 }}</ref>
<ref name=OED_car>{{Cite web |title=car |url=https://www.etymonline.com/word/car#etymonline_v_5353 |publisher=Online Etymology Dictionary |accessdate=2020-05-04 }}</ref>
-->
<ref name="nippo" >[https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A-74374 日本大百科全書(ニッポニカ) 自動車]</ref>
}}
== 参考文献 ==
*<!--あさい-->{{Cite book |和書 |author=浅井建爾(''cf.'' PHP[https://www.php.co.jp/fun/people/person.php?name=%E6%B5%85%E4%BA%95%E5%BB%BA%E7%88%BE&p=MzgyMA==])|date=2001-11-06 |title=道と路がわかる辞典 読む・知る・愉しむ |edition=初版 |publisher=[[日本実業出版社]] |oclc=122921520 |ref={{SfnRef|浅井建爾|2001}} }}ISBN 4-534-03315-X、ISBN 978-4-534-03315-4。
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾|date=2015-10-09 |title=日本の道路がわかる辞典 知れば知るほどおもしろい |edition=初版 |publisher=日本実業出版社 |oclc=931928195 |ref={{SfnRef|浅井建爾|2015}} }}ISBN 4-534-05318-5、ISBN 978-4-534-05318-3。
*<!--たけべ-->{{Cite book |和書 |author=武部健一(''cf.'' 日本の研究.com[https://research-er.jp/researchers/view/603220])|date=2015-05-23 |title=道路の日本史 |publisher=[[中央公論新社]] |series=[[中公新書]] 2321 |oclc=1041276556 |ref={{SfnRef|武部健一|2015}} }}ISBN 4-12-102321-8、ISBN 978-4-12-102321-6。
== 関連項目 ==
{{関連項目過剰|date=2021年10月}}
{{Sisterlinks|commons=Automobile}}
;構造・基本性能等
:* [[自動車工学]]
:* [[車台番号]]
:* [[走行性能]]
:* [[New Car Assessment Programme]]
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:** [[自動車アセスメント|JNCAP]]
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;態様
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:* [[全地形対応車]]
:* [[自動運転車]]
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;産業・社会・文化
:* [[自動車産業]]
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::* [[道路交通情報通信システム|VICS]]
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:** [[日本カー・オブ・ザ・イヤー]]
:** [[RJCカー・オブ・ザ・イヤー]]
:* [[モーターショー]]
:** [[東京モーターショー]]
:* [[自動車部品生産システム展]]
:* [[モータースポーツ]]
:* [[セグメント (自動車)|セグメント(階級区分)]]
:* [[自動車ディーラー]]
:** [[オートローン]](マイカーローン、オートクレジットなど)
:* [[運輸業|自動車による運輸業]]([[運送]])
::* [[日本の企業一覧 (陸運)#貨物自動車|トラック事業者]]
::* [[日本のバス]]
::* [[日本のタクシー#主なタクシー事業者・グループ|タクシー事業者]]
;組織
:* [[国際自動車連盟]]
:* [[日本自動車連盟]](JAF)
:* [[日本自動車工業会]]
:* [[日刊自動車新聞]]
:* [[日本道路交通情報センター]](JARTIC)
:* [[交通安全協会]]
;法規制等
:* [[リコール (自動車)]]
:* [[自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律]](自動車運転死傷行為処罰法)
:* [[工業製品の自主規制]]
:* [[自動車排出ガス規制]]
:* [[自動車教習所]]
:** [[運転免許試験場]]
:** [[運転免許]]
:*** [[日本の運転免許]]
;各国別
:* [[日本車]]
:* [[アメリカ車]]
:* [[イギリス車]]
:* [[イタリア車]]
:* [[韓国車]]
:* [[スウェーデン車]]
:* [[ドイツ車]]
:* [[フランス車]]
:* [[中国の自動車産業]]
;各種一覧
:* [[自動車用語一覧]]
:* [[自動車製造者の一覧]]
:* [[自動車の車種名一覧]]
:* [[乗り物をあらわす記号と絵文字]]
== 外部リンク ==
サイト
* [http://www.jama.or.jp/ 一般社団法人日本自動車工業会(JAMA)]
* [http://www.jaf.or.jp/ 一般社団法人日本自動車連盟(JAF)]
*[http://www.jahfa.jp/ 特定非営利活動法人日本自動車殿堂(JAHFA)]
ビデオ
* {{サイエンスチャンネル|番組番号=B980601|動画番号=b980601017|動画タイトル=自動車のできるまで|中身の概要=埼玉県狭山市にあるホンダの工場を取材して、自動車ができるまでの工程の流れを説明している|時間=15分|製作年度=1998年}}
その他
* {{Kotobank}}
{{自動車の構成}}
{{プライベート・トランスポート}}
{{自動車}}
{{公害}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しとうしや}}
[[Category:自動車|*]]
[[Category:道路交通]]
[[Category:運転免許]] | 2003-02-22T12:59:16Z | 2023-12-22T13:29:17Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A |
2,702 | 編曲家 | 編曲家(へんきょくか、英: music arranger)は、既存の音楽作品(楽曲)を編曲する人のことであり、とくにそれを生業とする人を指す。
日本のポピュラー音楽における編曲とは、作曲家の旋律(メロディー)に対して伴奏をつける作業を指す。
日本では、編曲家をアレンジャーと呼ぶこともある。アレンジャーの原義は物事を整える者であり、主にポピュラー音楽の制作で編曲を行う者を指す。しかし、英語で「arranger」といえば、「手配師」を指す言葉である。海外では、編曲者も含めて作曲者とすることが多く編曲家(アレンジャー)という職業はあまり定着していない。また日本国内の広告や劇中伴奏(劇伴)の音楽制作等においても稀。日本のポピュラー音楽における特有の職業ともいえる。
編曲は、音楽のジャンルや演奏形態によって多種多様に変化し、録音機器等の知識も必要なため、音楽理論にとどまらず音楽制作全般に関する知識と技術を要求される。そのため、経験を重ねた演奏家(スタジオ・ミュージシャン)や音楽理論で精通した作曲家が編曲をことが多かったが、近年は音楽制作のデジタル化が進みシンセサイザー、ミュージックシーケンサー、デジタル・オーディオ・ワークステーション(DAW)等の高度な知識と技術を有した演奏家、作曲家が行うことが多い。
編曲された楽曲に対して、演奏パートに特化した編曲家が部分的な編曲を行うこともある(例:ストリングスアレンジ、ブラスアレンジ、ギターアレンジ、コーラスアレンジ等)。
編曲家は、レコード会社、音楽出版社、芸能プロダクション等の音楽プロデューサー、ディレクターの指示を受け編曲をすることが多いが、自らの判断で編曲する場合「サウンド・プロデューサー」と表記される場合もある。特に基準はなく、区別や権限は曖昧である。既存の楽曲の伴奏を変えるリミックス、リアレンジ(再編曲)では「リミキサー」と表記される場合もある。
著作権法では、編曲は二次的著作物とされており、編曲にも著作権が発生する。ただし、JASRACの使用料規程では印税の分配を受けられるのは「公表時編曲者」(楽曲が初めてCD化された際の編曲家)に限定されている。現在の日本では編曲は買い取りが中心で、実際に編曲家に印税が支払われる例は少ないとされる(サウンド・プロデューサー扱いの場合はプロデュース印税が支払われるが、これは著作権に基づく著作権印税ではなく、著作隣接権に基づく原盤印税からの分配である)。
日本における編曲家は、自身の作曲した作品だけでなく他者により制作された作品をさらに編集(アレンジ)する者が多数を占める。 | [
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| 出典の明記 = 2016年9月
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'''編曲家'''(へんきょくか、{{lang-en-short|music arranger}})は、既存の[[音楽]]作品([[楽曲]])を[[編曲]]する人のことであり、とくにそれを[[職業|生業]]とする人を指す。
== 日本における編曲家 ==
日本のポピュラー音楽における編曲とは、[[作曲家]]の旋律([[メロディー]])に対して[[伴奏]]をつける作業を指す。
日本では、編曲家を'''アレンジャー'''と呼ぶこともある。アレンジャーの原義は物事を整える者であり、主にポピュラー音楽の制作で編曲を行う者を指す。しかし、英語で「{{lang|en|arranger}}」といえば、「[[手配師]]」を指す言葉である。海外では、編曲者も含めて作曲者とすることが多く編曲家(アレンジャー)という職業はあまり定着していない。また日本国内の広告や劇中伴奏([[劇伴]])の音楽制作等においても稀。日本のポピュラー音楽における特有の職業ともいえる。
編曲は、[[音楽のジャンル一覧|音楽のジャンル]]や演奏形態によって多種多様に変化し、録音機器等の知識も必要なため、[[音楽理論]]にとどまらず音楽制作全般に関する知識と技術を要求される。そのため、経験を重ねた演奏家([[スタジオ・ミュージシャン]])や音楽理論で精通した作曲家が編曲をことが多かったが、近年は音楽制作のデジタル化が進み[[シンセサイザー]]、[[ミュージックシーケンサー]]、[[デジタル・オーディオ・ワークステーション]](DAW)等の高度な知識と技術を有した演奏家、作曲家が行うことが多い。
編曲された楽曲に対して、演奏パートに特化した編曲家が部分的な編曲を行うこともある(例:[[ストリングス]]アレンジ、[[ブラスバンド|ブラス]]アレンジ、[[ギター]]アレンジ、[[コーラス (ポピュラー音楽)|コーラス]]アレンジ等)。
編曲家は、[[レコード会社]]、[[音楽出版社]]、[[芸能事務所|芸能プロダクション]]等の[[音楽プロデューサー]]、[[ディレクター#音楽制作|ディレクター]]の指示を受け編曲をすることが多いが、自らの判断で編曲する場合「サウンド・プロデューサー」と表記される場合もある。特に基準はなく、区別や権限は曖昧である。既存の楽曲の伴奏を変える[[リミックス]]、リアレンジ(再編曲)では「リミキサー」と表記される場合もある。
[[著作権法]]では、編曲は[[二次的著作物]]とされており、編曲にも[[著作権]]が発生する。ただし、[[日本音楽著作権協会|JASRAC]]の使用料規程では印税の分配を受けられるのは「公表時編曲者」(楽曲が初めてCD化された際の編曲家)に限定されている。現在の日本では編曲は買い取りが中心で、実際に編曲家に[[印税]]が支払われる例は少ないとされる(サウンド・プロデューサー扱いの場合はプロデュース印税が支払われるが、これは著作権に基づく著作権印税ではなく、[[著作隣接権]]に基づく原盤印税からの分配である)。
日本における編曲家は、自身の作曲した作品だけでなく他者により制作された作品をさらに編集(アレンジ)する者が多数を占める。
== 関連書籍 ==
* [[ディスクユニオン|DU BOOKS]]『ニッポンの編曲家 歌謡曲/ニューミュージック時代を支えたアレンジャーたち』(川瀬泰雄・吉田格・梶田昌史・田渕浩久 著)ISBN 978-4-907583-79-8
== 関連項目 ==
* [[音楽プロデューサー]]
* [[スタジオ・ミュージシャン]]
* [[編曲家一覧]]
{{音楽}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:へんきよくか}}
[[Category:編曲家|*]]
[[Category:音楽関連の職業]]
<!-- [[Category:音楽の人名一覧]] --> | 2003-02-22T13:32:08Z | 2023-10-26T21:06:18Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%A8%E6%9B%B2%E5%AE%B6 |
2,703 | 風物詩 | 風物詩(ふうぶつし)とは、ある季節特有の現象、文化、味覚、生物、物売りなどであり、その季節をより意識に特徴づけることができる、物・事柄のことである。風物詩の範囲は幅広く、俳句の季語として限定されたものと違って、日本の季節を現代人の心に訴えかけているものを指す。また全国的なものから、祭事などの狭い地域のものまであり、季節の到来・節目を表現するときに使われることが多い。
以下にニュースや天気予報、新聞などに登場する、全国的な風物詩を例示する。
年賀状 - お年玉 - 門松 - 節分 - 春の七草
春一番 - 雪形 - ランドセル - 新入社員 - 選抜高等学校野球大会 - 雛人形 - こいのぼり
雪 - 霜柱 - つらら - スキー - アイススケート - クリスマスツリー - 焚き火 - イルミネーション - 麦踏み - 雪虫 - ストーブ列車 - ササラ電車 | [
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] | 風物詩(ふうぶつし)とは、ある季節特有の現象、文化、味覚、生物、物売りなどであり、その季節をより意識に特徴づけることができる、物・事柄のことである。風物詩の範囲は幅広く、俳句の季語として限定されたものと違って、日本の季節を現代人の心に訴えかけているものを指す。また全国的なものから、祭事などの狭い地域のものまであり、季節の到来・節目を表現するときに使われることが多い。 以下にニュースや天気予報、新聞などに登場する、全国的な風物詩を例示する。 | '''風物詩'''(ふうぶつし)とは、ある[[季節]]特有の現象、文化、[[味覚]]、[[生物]]、物売りなどであり、その季節をより意識に特徴づけることができる、物・事柄のことである。風物詩の範囲は幅広く、[[俳句]]の[[季語]]として限定されたものと違って、[[日本]]の季節を現代人の心に訴えかけているものを指す。また全国的なものから、[[祭|祭事]]などの狭い地域のものまであり、季節の到来・節目を表現するときに使われることが多い。ネットスラングでは、毎年特定の季節/時期に発生することの多い事件、事故や話題を揶揄して「(季節/時期)の風物詩」と呼ぶことがあるが、事件や事故を指すことが多いので不謹慎な発言/表現となりやすい。
以下に[[ニュース]]や[[天気予報]]、[[新聞]]などに登場する、全国的な風物詩を例示する。
[[ファイル:Hatsumoude at a local shrine in Japan.jpg|thumb|[[初詣]]に集う人々([[2019年]][[1月1日]]、[[茨城県]][[つくば市]])]]
== 新春 ==
[[年賀状]] - [[お年玉]] - [[門松]] - [[節分]] - [[七草#春の七草|春の七草]]
; 行事
: [[初詣]] - [[書き初め]] - [[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]- [[ニューイヤーコンサート]]
== 昔春 ==
[[File:Rape blossoms P4268885菜の花畑.jpg|thumb|[[4月]]の菜の花畑,春の風物でもある]]
[[春一番]] - [[雪形]] - [[ランドセル]] - [[新入社員]] - [[選抜高等学校野球大会]] - [[雛人形]] - [[こいのぼり]]
; 植物
: [[サクラ]] - [[ゲンゲ]] - [[シロツメクサ]] - [[菜の花]]
; 動物
: [[チョウ]] - [[シロウオ]] - [[ツバメ]]
; 食べ物
: [[イチゴ]] - [[サクランボ]] - [[カツオ|初鰹]] - [[茶|新茶]]
; 行事
: [[卒業式]] - [[花見]] - [[入学式]] - [[野焼き]] - [[桃の節句]] - [[端午の節句]] - [[ゴールデンウィーク]] - [[母の日]] - [[田植え]]
== 夏 ==
[[画像:Takino_natsumatsuri_hanabi_20040828.jpg|thumb|[[夏]]の風物詩 [[花火大会]]([[兵庫県]][[滝野町]] [[夏祭り]])]]
; 天候
: [[梅雨]] - [[入道雲]] - [[逃げ水]] - [[夕立]] - [[スコール]] - [[雷雨]] - [[日射病]] - [[汗]] - [[炎天]] - [[春霞]]
; [[避暑]]
: [[打ち水]] - [[団扇]] - [[扇子]] - [[扇風機]] - [[エア・コンディショナー|エアコン]] - [[簾]] - [[風鈴]] - [[夕涼み]] - [[高原]] - [[水遊び]] - [[プール]]
; 海
: [[海開き]] - [[海水浴]] - [[海の家]] - [[砂浜]] - [[スイカ割り]]
; 植物
: [[アサガオ]] - [[ヒマワリ]] - [[ヘチマ]] - [[ツルレイシ|ゴーヤ]] - [[ハーブ]]
; 生物
: [[アユ]] - [[セミ]](蝉時雨) - [[カブトムシ]] - [[ホタル]] - [[カ]]([[蚊取線香]]・[[蚊帳]]) - [[トンボ]] - [[金魚]]
; 人
: [[麦わら帽子]] - [[サンダル]] - [[半ズボン]] - [[浴衣]] - [[サングラス]] - [[午睡]]
; 行事
: [[夏休み]] - [[全国高等学校野球選手権大会]] - [[林間学校]] - [[臨海学校]] - [[御盆]] - [[精霊流し]] - [[ラジオ体操]] - [[棚経]] - [[七夕]]
; [[祭り]]
: [[花火]] - [[盆踊り]] - [[夜店]] - [[水風船]]
; [[幽霊]]
: [[怪談]] - [[肝試し]] - [[お化け屋敷]]
; 食物
: [[かき氷]] - [[アイスキャンディー]]- [[アイスクリーム]] - [[冷やし中華]] - [[素麺]] - [[ところてん]]- [[ビール]] - [[レモネード]] - [[スイカ]]
== 秋 ==
; 天候
: [[秋雨]] - [[台風]] - [[初霜]] - [[初冠雪]] - [[鰯雲]] - [[小春日和]] - [[木枯らし]]
; 行事
: [[運動会]](体育祭) - [[文化祭]](学芸会) - [[読書週間]] - [[秋彼岸]] - [[稲刈り]] - [[ハロウィン]]
: [[月見]] - [[十五夜]] - [[月見団子]] - [[月見酒]] - [[ぼっち (落花生)]]
; 植物
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; 動物
: [[虫の音]] - [[コオロギ]] - [[スズムシ]] - [[渡り鳥]] - [[赤とんぼ]]
; 食物
: [[ナシ]] - [[リンゴ]] - [[カキノキ|カキ]] - [[イチョウ|銀杏]] - [[サツマイモ]] - [[クリ]] - [[マツタケ]] - [[新米]]
: [[サバ]] - [[サンマ]] - [[サケ]] - [[イワシ]]
== 冬 ==
[[雪]] - [[霜柱]] - [[氷柱|つらら]] - [[スキー]] - [[アイススケート]] - [[クリスマスツリー]] - [[焚き火]] - [[イルミネーション]] - [[麦踏み]] - [[雪虫]] - [[ストーブ列車]] - [[ササラ電車]]
; 行事
: [[寒中水泳]] - [[クリスマス]]
== 年の瀬 ==
; 行事
: [[大掃除]] - [[全国高等学校駅伝競走大会|全国高校駅伝]]
== 関連項目 ==
{{Div col}}
* [[歳時記]]
* [[季語]]
* [[季語一覧]]
* '''季節の話題'''
:以下は当事典の[[メインページ]]に表示され定期的に自動更新される「季節の話題」である。
:{{季節の話題}}
{{Div col end}}
== 外部リンク ==
{{wiktionary}}
*{{kotobank}}
{{Japan-culture-stub}}
{{DEFAULTSORT:ふうふつし}}
[[Category:日本の文化]]
[[Category:季節]] | 2003-02-22T13:35:57Z | 2023-11-07T06:44:28Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E7%89%A9%E8%A9%A9 |
2,704 | 編曲 | 編曲(へんきょく、英語: arrangement)とは、オリジナルの楽曲を別の編成のために作り変えることである。別のジャンルに作り変えることも編曲として認められる。
クラシックにおいては、作曲者が同時に編曲(オーケストレーションと呼ばれる。)を行うことがほとんどである。商用音楽では作曲者と編曲者が別の場合が多い。演奏形態の変更のために行うことをのみ編曲と言うのはクラシックの場合である。したがって、商用音楽では作曲と編曲が同一人物である場合も「作曲・編曲」という表記でその旨を明示する場合が多い(クラシックでは同一人であることが前提なので「作曲」としか記されない)。旋律に和声とリズムを施し演奏することを可能な状態にすることでも編曲とみなされることがポピュラー音楽業界では当たり前であった。
編曲は目的によって大きく分類することができる。
楽曲を編曲する権利(翻案権)は著作者(作詞家・作曲家)が専有しており(著作権法27条)、著作者は自身の意に反する改変を禁じる権利(同一性保持権)を有する(著作権法20条)。そのため、編曲を行う際には著作者の許諾が必要であり、無断で楽曲を編曲したり、著作者の意に反する改変を加えた場合には著作権侵害となる。
編曲された楽曲(二次的著作物)の編曲に関しては、編曲家にも著作権が認められるが、楽曲の著作者である作詞家・作曲家にも当該編曲に関する著作権が発生する(著作権法28条)。そのため、編曲された楽曲を営利目的で利用する際には、原曲の著作者との間に許諾、契約が必要であり、無断で楽曲を利用した場合には著作権侵害となる。 | [
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] | 編曲とは、オリジナルの楽曲を別の編成のために作り変えることである。別のジャンルに作り変えることも編曲として認められる。 | '''編曲'''(へんきょく、{{Lang-en|arrangement}})とは、オリジナルの楽曲を別の編成のために作り変えることである。別のジャンルに作り変える<ref>{{Cite web|和書|url = https://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/1321/|archiveurl = https://web.archive.org/web/20230204015058/https://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/1321/ |title = 「大地讃頌」事件について 前編 | 増田聡|website = db.10plus1.jp|publisher = 10plus1|date = 2012-01-25|archivedate = 2023-02-04|accessdate = 2023-07-07}}</ref>ことも編曲として認められる。
==狭義の編曲==
[[クラシック音楽|クラシック]]においては、[[作曲者]]が同時に編曲([[オーケストレーション]]と呼ばれる。)を行うことがほとんどである。商用音楽では作曲者と編曲者が別の場合が多い。演奏形態の変更のために行うことをのみ編曲と言うのはクラシックの場合である<ref>Malcolm Boyd, “Arrangement,” in ''The New Grove Dictionary of Music and Musicians'', 2nd ed., ed. by Stanley Sadie (London: Macmillan, 2001).</ref>。したがって、商用音楽では作曲と編曲が同一人物である場合も「作曲・編曲」という表記でその旨を明示する場合が多い(クラシックでは同一人であることが前提なので「作曲」としか記されない)。旋律に和声とリズムを施し演奏することを可能な状態にすることでも編曲とみなされることがポピュラー音楽業界では当たり前であった。
== 編曲の目的 ==
編曲は目的によって大きく分類することができる。
* 原曲の指定と異なる楽器編成で演奏するため。
* 原曲と異なる[[音楽のジャンル一覧|ジャンル]]やスタイルで演奏するため。
* 演奏者が独自色を出すため、また他の必要からの大まかな修正(ヘッドアレンジ)。
* 未完成の原曲を完成させるため。
== 編曲の著作権法上の地位 ==
{{law|section=1}}
楽曲を編曲する権利([[翻案権]])は[[著作者]]([[作詞家]]・[[作曲家]])が専有しており([[著作権法]]27条)、著作者は自身の意に反する改変を禁じる権利([[同一性保持権]])を有する(著作権法20条)。そのため、編曲を行う際には著作者の許諾が必要であり、無断で楽曲を編曲したり、著作者の意に反する改変を加えた場合には著作権侵害となる。
編曲された楽曲([[二次的著作物]])の編曲に関しては、[[編曲家]]にも著作権が認められるが、楽曲の著作者である作詞家・作曲家にも当該編曲に関する著作権が発生する(著作権法28条)。そのため、編曲された楽曲を営利目的で利用する際には、原曲の著作者との間に許諾、契約が必要であり、無断で楽曲を利用した場合には著作権侵害となる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}-->
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[記念樹事件]] - 編曲の解釈について示した判例 著作権の重要判例の一つ。
* [[再作曲]]
{{DEFAULTSORT:へんきよく}}
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[[Category:音楽用語]]
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2,705 | 統一地方選挙 | 統一地方選挙(とういつちほうせんきょ)とは、臨時特例法に基づき、地方公共団体における選挙日程を全国的に統一して実施される、日本の地方選挙である。ただし、制度上全国的に統一したわけでないものの、過去の経緯により同一の投票日で行われる一群の選挙もそう呼ぶ場合もある(その他の地方選挙を参照)。また、外国における同様の選挙がそのように報じられる場合もある。
日本では、ある一定期間に任期満了となる都道府県や市区町村の首長および地方議会議員について、1947年(昭和22年)4月に第1回統一地方選挙が開始されて以来、4の倍数年の前年(卯年、未年、亥年)に実施される。
通例では当該年の4月に行われ、4月7日から13日までの間の日曜日に都道府県知事や政令指定都市の市長、ならびにそれぞれの地方議会議員選挙が、4月21日から27日までの間の日曜日に政令指定都市以外の市町村(東京都の特別区を含む)の首長・議会議員選挙が行われる。
これはもともと、1947年(昭和22年)5月の日本国憲法施行を前にして、同年4月に首長選挙・議会議員選挙が一斉に実施されたことが始まりである。4年ごとに全国の多くの地方公共団体において一斉に改選時期を迎えることから、選挙への関心を高めたり、日程の重複を避けたりするため、地方公共団体の議会の議員及び長の選挙期日等の臨時特例に関する法律により日程を統一的に調整している(統一地方選挙が実施されるその都度、前年の国会で臨時特例法が制定される)。さらに、2000年(平成12年)には公職選挙法などが改正され、下旬の選挙日には衆議院議員・参議院議員の補欠選挙も併せて実施されることとなった。この統一地方選挙の結果は国政にも影響を及ぼし、特に知事選挙の全国的な結果は、国政政党執行部の進退につながることもある。
なお、現在の形式が定着したのは、1975年(昭和50年)の統一地方選挙からである。その前回、1971年(昭和46年)までの統一地方選挙では、投票日が日曜日以外に設定されたり、特別区の区議会議員選挙が都道府県知事選挙などと同じ4月上旬に実施されたりするなど、現在とは異なる点があった。また、1975年(昭和50年)の統一地方選挙に合わせて、特別区の区長公選制が復活している。
韓国や台湾でも全国一斉に地方選挙が行われており、日本ではそれらも「統一選挙」と報道されるが、日本と違い、任期途中で首長が欠けた場合は「補欠選挙」扱い(任期は前任者の任期まで)となる。
統一地方選挙が実施される年の前年に「地方公共団体の議会の議員及び長の選挙期日等の臨時特例に関する法律」が制定され、この臨時特例法により選挙日程が統一される。通常この臨時特例法では、該当年の3月1日から5月31日までに任期満了となる首長・議会議員の選挙を、原則として統一地方選挙の対象とすることが定められる。また、該当年の6月1日から6月10日までに任期満了となる場合においても、統一地方選挙の日程での選挙を実施できることが定められる。
さらに、首長については該当年の2月10日から臨時特例法が定める選挙告示日の5日前までの間に、議会議員については該当年の2月20日から臨時特例法が定める選挙告示日の5日前までの間に、それぞれ任期満了以外の選挙実施事由(長の辞職や死亡、議会の解散など)が発生した場合には、これらの選挙も統一地方選挙の日程で実施することが定められる。なお、上旬に実施される選挙(都道府県・政令市の選挙)に立候補した候補者は、当該選挙区を含む選挙区で行われる下旬の選挙(政令市以外の市町村・東京都の特別区の選挙や、衆議院・参議院の補欠選挙)に改めて立候補することができない(例:上旬に実施されるA県知事選挙に立候補したときは、下旬に実施されるA県にあるB市の市長選挙に立候補できない)。
該当年の6月1日から6月10日までに任期満了となる首長・議会議員の選挙が統一地方選挙の日程で実施できるようになったのは、1999年(平成11年)からである。
これはもともと、1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災を受けて、同年4月9日、4月23日に統一地方選挙の日程で実施される予定であった兵庫県議会議員、神戸市議会議員、西宮市議会議員、芦屋市長・同市議会議員の各選挙がすべて同年6月11日に延期されたことによる(同年3月13日に公布・施行された阪神・淡路大震災に伴う地方公共団体の議会の議員及び長の選挙期日等の臨時特例に関する法律による措置。繰り延べ投票も参照のこと。なお、選挙の延期に伴い、延期の対象となる首長・議会議員の任期は選挙前日の6月10日まで延長された)。
このため、1995年(平成7年)6月11日の選挙で選出された首長・議会議員の任期は1999年6月10日までとなり、従来通りであれば統一地方選挙の対象外となるところであったが、1998年(平成10年)に公布・施行された地方公共団体の議会の議員及び長の選挙期日等の臨時特例に関する法律では第1条第2項に新たな規定が設けられ、該当年の6月1日から6月10日までに任期満了となる首長・議会議員の選挙についても統一地方選挙の日程で実施することが可能になった。これを受けて、1995年(平成7年)に任期延長・選挙延期の対象となった首長・議会議員を改選する1999年の選挙は、統一地方選挙の日程で実施された。
その後、2003年(平成15年)以降の統一地方選挙でも、該当年の6月1日から6月10日までに任期満了となる首長・議会議員の選挙について、統一地方選挙の日程で実施することが可能とされている。一例として2003年(平成15年)4月13日の札幌市の市長選挙は当初、本来の統一地方選挙の日程どおりに実施されたが、法定得票に達する候補者がなく、同年6月8日に再選挙となった。そのため、この再選挙で選出された市長の任期は2007年(平成19年)6月7日までとなったが、この任期満了に伴う2007年(平成19年)の札幌市長選は統一地方選挙の日程で実施されている。
該当年の3月1日から5月31日までに任期満了となる首長・議会議員の選挙は先述の通り統一地方選挙の日程で実施されるが、公職選挙法第34条第1項の規定により当該選挙を同年2月28日までに実施する場合や、同法第34条の2のいわゆる90日特例を適用する場合には、例外的に統一地方選挙の日程で選挙を実施しないことも可能である。
実例として、旧佐賀市は1987年(昭和62年)1月の市長辞職により同年2月15日に市長選挙が実施され、東京都大田区は1986年(昭和61年)12月の区長死亡により翌年2月1日に区長選挙が実施され、いずれも首長の選挙が統一地方選挙の日程で実施されなくなった。以後は議会議員の選挙のみを統一地方選挙の日程で実施してきたが、その後、1999年(平成11年)には旧佐賀市、大田区ともに90日特例を適用して、首長選挙と議会議員選挙を同年3月14日に実施した。
この選挙で当選した首長の任期は2003年(平成15年)3月13日までとなり、2003年(平成15年)は統一地方選挙の日程での首長選挙が可能になったが、旧佐賀市は市長の空席期間が発生することを避けるため、同年2月16日に市長選を実施した。一方、大田区は区長選を同年4月27日の統一地方選挙の日程で実施し、区長の空席期間は助役が区長の職務代理者を務めた。
このような場合、首長や議会議員の任期の空白を避けるために選挙を2月までに実施するか、任期の空白が発生してでも選挙費用節減や選挙への関心喚起のため統一地方選挙の日程で選挙を実施するかは、当該地方公共団体の選挙管理委員会の判断に委ねられている。
最近では、首長の任期途中での辞職や死亡、議会の解散、市町村合併などにより少しずつ任期のズレが発生し、そのため、統一的に実施される数は回を経るごとに下がり続ける傾向にある。とくに市町村合併は、3度にわたる大規模な合併促進(合併ブーム)により、多くの自治体選挙に影響を及ぼしている。
また、2016年には18歳選挙権が導入され、統一地方選挙では2019年から適用された。
首長が辞職や死亡により任期途中で欠けたり、新設合併方式による市町村合併で失職したりしたことにより、一時、統一地方選挙の日程で実施される都道府県知事選挙は11都道県、政令指定都市市長選挙は札幌市1市のみとなっていた。その後、首長の失職や退職により任期満了日が臨時特例法の対象となったり、新たに政令指定都市に移行する市が現れたりしたことなどにより、実施数は若干増加し、2023年に統一地方選挙の日程で実施される知事選挙・政令指定都市市長選挙は9道県・6市の予定となっている。
2007年(平成19年)4月8日、広島市では市長選挙と市議会議員選挙、広島県議会議員選挙が実施されたが、このうち市長選と市議選は臨時特例法で定義される統一地方選挙の対象ではなく、前述の90日特例を適用して実施されたものである。(上記統一地方選挙の日程に従わない例も参照)
都道府県議会議員選挙・政令指定都市議会選挙では、首長選挙と比較して自治体間の任期のズレが生まれにくい。そのため2023年には、41道府県(例外は岩手県、宮城県、福島県、茨城県、東京都、沖縄県)および17政令市(例外は仙台市、静岡市、北九州市)がそれぞれ、統一地方選挙の日程で議会選挙を実施する予定となっている。
このようにズレが生まれにくい原因としては、これらの議会については、以下に掲げるような突発的な選挙実施理由が発生しにくいことが挙げられる。
また、上記のような制度上の理由のほか、災害など個別の事情でズレが生じるケースもある。
政令指定都市以外の市町村(東京都の特別区については後述)の首長選挙や議会議員選挙については、首長の任期途中での辞職や死亡、議会の解散や総辞職、選挙無効や当選無効、市町村合併などにより、統一地方選挙の日程で実施される割合が年々減少傾向にある。
特に、3度にわたる大規模な合併促進(合併ブーム)の際に新設合併した市町村の多くは、統一地方選挙とは異なる日程で首長選挙や議会議員選挙を実施することが多い。ただし、そのような市町村であっても、議会議員選挙については在任特例を適用して統一地方選挙の前後まで任期を延長し、新設合併後も統一地方選挙の日程を維持している例がある。平成の大合併に伴う例としては、2001年5月1日に発足したさいたま市をはじめとして、香川県さぬき市(2002年(平成14年)4月1日発足、在任特例を1年2か月間適用)、茨城県筑西市(2005年(平成17年)3月28日発足、在任特例を2年間適用)、埼玉県深谷市(2006年(平成18年)1月1日発足、在任特例を1年4か月間適用)などが挙げられる。
平成の大合併では、合併ブームの後半になると議会議員の在任特例を適用しない例や、適用しても数か月程度にとどめる例が多くなり、統一地方選挙の前後まで任期を延長する例は少なくなった。一方、昭和の大合併では、統一地方選挙の前後まで任期を延長した例が多く見られる。1953年(昭和28年)10月に3年間の時限立法として施行された町村合併促進法では、新設合併の場合の議会議員の在任特例は最長で1年間適用できるものとされており、1954年(昭和29年)3月から同年12月にかけて新設合併した市町村の多くが、翌1955年(昭和30年)4月の統一地方選挙の前後まで任期を延長した。
ただしその一方で、1955年(昭和30年)3月から同年4月にかけて新設合併した市町村では、もし合併がなければ同年4月30日の統一地方選挙の対象になっていたにもかかわらず、在任特例を適用したがために統一地方選挙の対象外となった例も少なくない。
1956年(昭和31年)に施行された新市町村建設促進法では議会議員の在任特例は規定されなかったが、1962年(昭和37年)に施行された市の合併の特例に関する法律では新設合併の場合の議会議員の在任特例は最長で2年間適用できるものとされ、前述した北九州市の新設合併の際の議会議員の在任特例はこの法律を根拠としていた。その後、1965年(昭和40年)に施行された市町村の合併の特例に関する法律では新設合併の際の在任特例は最長1年に短縮されたが、1995年(平成7年)の改正により再度、最長2年間まで適用できるものとされた。
2023年(令和5年)において、第20回統一地方選挙の日程で選挙を実施する予定の区は、以下のとおりである。なお、本節では、統一地方選挙ではないが同一の日程で行われる江東区長選挙も含めて示している。
このように東京の特別区は市町村の首長・議会議員の選挙と比較して、統一地方選挙の日程で実施される割合が高い。
このうち区議会議員選挙が統一地方選挙の日程で実施される割合が高いのは、日本国憲法施行後における特別区の廃置分合が1例のみしかなく(1947年(昭和22年)8月1日に板橋区から練馬区が分立。その練馬区では分立に伴い、1947年(昭和22年)9月20日に区長選・区議選を実施した)、特に、「新設合併に伴う議会選挙」が一例もないことが大きい。
また区長についても、日本国憲法の施行当初は区議会が都知事の同意を得て区長を選任するものとされていたところ、その後の地方自治法改正により、1952年(昭和27年)からは区民の直接選挙によって選出されることになり(特別区#区長を参照)、その後いったん直接選挙の制度が廃止され、さらにその後、直接選挙制復活のため1975年(昭和50年)4月の統一地方選挙で23区すべての区長選が同時に実施されたという事情がある。その後、区長が任期途中で辞職あるいは死亡したことにより、統一地方選挙の日程で実施される区長選は13区(全体の47.83%)まで減ったものの、現時点でも市町村の首長選挙(全体の1割台)と比較すると統一地方選挙の日程で実施される割合が高い。
都道府県・政令指定都市の議会と同様、区議会議員選挙が統一地方選挙の日程で実施される割合が高い理由としては、以下に掲げるような突発的な選挙実施理由が発生しにくいことが挙げられる。
逆に、統一地方選挙の日程に従わなかったケースとしては、次のものが挙げられる。
全国の地方選挙のうち、統一地方選挙の日程で実施される選挙の割合が低下傾向にあることを受け、制度の見直しの議論が度々出ている。同時選挙の割合を上げるためには、現時点では統一地方選挙と異なる日程で選出されている首長・議員の任期を延長、または短縮するしかないが、これには異論も多く、結論は出ていない。
また、国会審議では、現在2回に分けて実施している選挙を1回に統合するといった意見も示されている。さらに、今のところ統一地方選挙の期間中に衆議院議員総選挙(および最高裁判所裁判官国民審査)が実施されたことはないが、もしも統一地方選挙の期間と衆議院議員総選挙の期間が重複した場合に、当該総選挙を前半(都道府県・政令指定都市の選挙)または後半(政令都市以外の市町村・特別区の選挙)のどちらの日程で行うべきかが、大きな課題となっている。もし統一地方選挙がすべて同日の実施へと統合されれば、統一地方選挙の期間中に総選挙が実施されることとなっても、日程について意見が割れることはなくなると期待されている。 | [
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"text": "平成の大合併では、合併ブームの後半になると議会議員の在任特例を適用しない例や、適用しても数か月程度にとどめる例が多くなり、統一地方選挙の前後まで任期を延長する例は少なくなった。一方、昭和の大合併では、統一地方選挙の前後まで任期を延長した例が多く見られる。1953年(昭和28年)10月に3年間の時限立法として施行された町村合併促進法では、新設合併の場合の議会議員の在任特例は最長で1年間適用できるものとされており、1954年(昭和29年)3月から同年12月にかけて新設合併した市町村の多くが、翌1955年(昭和30年)4月の統一地方選挙の前後まで任期を延長した。",
"title": "最近の状況"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ただしその一方で、1955年(昭和30年)3月から同年4月にかけて新設合併した市町村では、もし合併がなければ同年4月30日の統一地方選挙の対象になっていたにもかかわらず、在任特例を適用したがために統一地方選挙の対象外となった例も少なくない。",
"title": "最近の状況"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1956年(昭和31年)に施行された新市町村建設促進法では議会議員の在任特例は規定されなかったが、1962年(昭和37年)に施行された市の合併の特例に関する法律では新設合併の場合の議会議員の在任特例は最長で2年間適用できるものとされ、前述した北九州市の新設合併の際の議会議員の在任特例はこの法律を根拠としていた。その後、1965年(昭和40年)に施行された市町村の合併の特例に関する法律では新設合併の際の在任特例は最長1年に短縮されたが、1995年(平成7年)の改正により再度、最長2年間まで適用できるものとされた。",
"title": "最近の状況"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2023年(令和5年)において、第20回統一地方選挙の日程で選挙を実施する予定の区は、以下のとおりである。なお、本節では、統一地方選挙ではないが同一の日程で行われる江東区長選挙も含めて示している。",
"title": "最近の状況"
},
{
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"text": "このように東京の特別区は市町村の首長・議会議員の選挙と比較して、統一地方選挙の日程で実施される割合が高い。",
"title": "最近の状況"
},
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"text": "このうち区議会議員選挙が統一地方選挙の日程で実施される割合が高いのは、日本国憲法施行後における特別区の廃置分合が1例のみしかなく(1947年(昭和22年)8月1日に板橋区から練馬区が分立。その練馬区では分立に伴い、1947年(昭和22年)9月20日に区長選・区議選を実施した)、特に、「新設合併に伴う議会選挙」が一例もないことが大きい。",
"title": "最近の状況"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "また区長についても、日本国憲法の施行当初は区議会が都知事の同意を得て区長を選任するものとされていたところ、その後の地方自治法改正により、1952年(昭和27年)からは区民の直接選挙によって選出されることになり(特別区#区長を参照)、その後いったん直接選挙の制度が廃止され、さらにその後、直接選挙制復活のため1975年(昭和50年)4月の統一地方選挙で23区すべての区長選が同時に実施されたという事情がある。その後、区長が任期途中で辞職あるいは死亡したことにより、統一地方選挙の日程で実施される区長選は13区(全体の47.83%)まで減ったものの、現時点でも市町村の首長選挙(全体の1割台)と比較すると統一地方選挙の日程で実施される割合が高い。",
"title": "最近の状況"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "都道府県・政令指定都市の議会と同様、区議会議員選挙が統一地方選挙の日程で実施される割合が高い理由としては、以下に掲げるような突発的な選挙実施理由が発生しにくいことが挙げられる。",
"title": "最近の状況"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "逆に、統一地方選挙の日程に従わなかったケースとしては、次のものが挙げられる。",
"title": "最近の状況"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "全国の地方選挙のうち、統一地方選挙の日程で実施される選挙の割合が低下傾向にあることを受け、制度の見直しの議論が度々出ている。同時選挙の割合を上げるためには、現時点では統一地方選挙と異なる日程で選出されている首長・議員の任期を延長、または短縮するしかないが、これには異論も多く、結論は出ていない。",
"title": "制度見直しの議論"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "また、国会審議では、現在2回に分けて実施している選挙を1回に統合するといった意見も示されている。さらに、今のところ統一地方選挙の期間中に衆議院議員総選挙(および最高裁判所裁判官国民審査)が実施されたことはないが、もしも統一地方選挙の期間と衆議院議員総選挙の期間が重複した場合に、当該総選挙を前半(都道府県・政令指定都市の選挙)または後半(政令都市以外の市町村・特別区の選挙)のどちらの日程で行うべきかが、大きな課題となっている。もし統一地方選挙がすべて同日の実施へと統合されれば、統一地方選挙の期間中に総選挙が実施されることとなっても、日程について意見が割れることはなくなると期待されている。",
"title": "制度見直しの議論"
}
] | 統一地方選挙(とういつちほうせんきょ)とは、臨時特例法に基づき、地方公共団体における選挙日程を全国的に統一して実施される、日本の地方選挙である。ただし、制度上全国的に統一したわけでないものの、過去の経緯により同一の投票日で行われる一群の選挙もそう呼ぶ場合もある(その他の地方選挙を参照)。また、外国における同様の選挙がそのように報じられる場合もある。 日本では、ある一定期間に任期満了となる都道府県や市区町村の首長および地方議会議員について、1947年(昭和22年)4月に第1回統一地方選挙が開始されて以来、4の倍数年の前年(卯年、未年、亥年)に実施される。 | {{日本の統治機構}}
{{選挙}}
'''統一地方選挙'''(とういつちほうせんきょ)とは、臨時特例法に基づき{{Efn|name="nikkei20230414"|[[2023年]]([[令和]]5年)の[[江東区]]長選挙では、選挙告示日の4日前に現職の区長が死亡したために、臨時特例法の対象から外される(公職選挙法第111条及び第114条に基づく選挙として執行される)ことになった。江東区選挙委員会は当初の統一地方選挙として予定されていた日程に基づいて執行することを決めたが<ref>{{Cite web|和書|author=江東区|url=https://www.city.koto.lg.jp/610102/kuse/senkyo/senkyotokusyuu/koutoukutyousenkyonokizitu.html|title=江東区長選挙の期日について|language=日本語 |date=2023-04-14|accessdate=2023-04-16}}</ref>、統一地方選挙としては扱われない<ref>{{Cite news|title=江東区長選、統一地方選対象外に|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC147Q70U3A410C2000000/|newspaper=日本経済新聞|date=2023-4-14|accessdate=2023-4-18}}</ref>。}}、[[地方公共団体]]における[[選挙]]日程を全国的に統一して実施される、[[日本]]の地方選挙である。ただし、制度上全国的に統一したわけでないものの、過去の経緯により同一の投票日で行われる一群の選挙もそう呼ぶ場合もある([[#その他の地方選挙|その他の地方選挙]]を参照)。また、外国における同様の選挙{{Efn|[[フランスの選挙|フランスの地方選挙]]<ref>{{Cite news|title=フランス地方選決選投票、与党が大敗 野党共和党が勝利|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR274FE0X20C21A6000000/|date=2021-6-28|newspaper=[[日本経済新聞]]|publisher=[[日本経済新聞社]]|accessdate=2022-11-7}}</ref>、[[第8回全国同時地方選挙 (韓国)|韓国の第8回全国同時地方選挙]]<ref>{{Cite news|title=韓国 統一地方選 与党「国民の力」 主要17選挙の半数超で勝利|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220602/k10013653721000.html|date=2022-6-2|newspaper=[[NHKニュース#インターネット|NHK NEWS WEB]]|publisher=[[日本放送協会]]|accessdate=2022-11-7}}</ref>、[[2018年中華民国統一地方選挙]]<ref>{{Cite news|title=台湾人はなぜ地方選で親中政党を支持するのか|url=https://toyokeizai.net/articles/-/628678|author=劉彦甫|newspaper=東洋経済オンライン|publisher=[[東洋経済新報社]]|date=2022-10-28|accessdate=2022-11-7}}</ref>など。}}がそのように報じられる場合もある。
日本では、ある一定期間に任期満了となる[[都道府県]]や[[市区町村]]の[[首長]]および[[日本の地方議会議員|地方議会議員]]について、[[1947年]]([[昭和]]22年)4月に第1回統一地方選挙が開始されて以来、[[複偶数|4の倍数年]]の前年([[卯]]年、[[未]]年、[[亥]]年{{Efn|亥年には[[参議院議員通常選挙]]も行われるため、特に[[亥年選挙]]と呼ばれる。}})に実施される{{Efn|[[1987年]]([[昭和]]62年)以降は[[ラグビーワールドカップ]]、[[1991年]]([[平成]]3年)以降は[[FIFA女子ワールドカップ]]、[[2007年]](平成19年)以降は[[AFCアジアカップ]]、[[2019年]]([[令和]]元年)以降は[[FIBAバスケットボール・ワールドカップ]]が、それぞれ同年に行われる。}}。
== 概要 ==
通例では当該年の[[4月]]に行われ、[[4月7日]]から[[4月13日|13日]]までの間の日曜日に[[都道府県知事]]や[[政令指定都市]]の[[市長]]、ならびにそれぞれの[[日本の地方議会議員|地方議会議員]]選挙が、[[4月21日]]から[[4月27日|27日]]までの間の日曜日に[[政令指定都市]]以外の[[市町村]]([[東京都]]の[[特別区]]を含む)の首長・議会議員選挙が行われる{{Efn|総務省は、[[2018年]]([[平成]]30年)[[12月5日]]に開かれた、参議院政治倫理の確立及び選挙制度に関する特別委員会での青木愛議員の質問に対する大泉政府参考人(総務省自治行政局選挙部長)答弁において、「統一地方選挙の期日につきましては、確かに4月第2、第4日曜日とすることが通例であると言われております。ただ、(中略)統一地方選挙を日曜日に行うようになりました昭和46年以降は、都道府県及び指定都市の選挙は4月7日から13日までの間、指定都市以外の市、特別区、町村の選挙につきましては4月21日から27日までの間に正確に言えば実施されていたということとなります」と述べ、[[4月7日]]が[[日曜日]]の年は4月7・[[4月21日|21日]]投票が通例で、[[4月14日|4月14]]・[[4月28日|28日]]を1週間前倒ししたわけではない旨を答弁している。}}。
これはもともと、[[1947年]]([[昭和]]22年)5月の[[日本国憲法]]施行を前にして、同年4月に首長選挙・議会議員選挙が一斉に実施されたことが始まりである。4年ごとに全国の多くの地方公共団体において一斉に改選時期を迎えることから、選挙への関心を高めたり、日程の重複を避けたりするため、[[地方公共団体の議会の議員及び長の選挙期日等の臨時特例に関する法律]]により日程を統一的に調整している(統一地方選挙が実施されるその都度、前年の国会で臨時特例法が制定される)。さらに、[[2000年]]([[平成]]12年)には[[公職選挙法]]などが改正され、下旬の選挙日には[[衆議院議員]]・[[参議院議員]]の[[補欠選挙]]も併せて実施されることとなった。この統一地方選挙の結果は国政にも影響を及ぼし、特に知事選挙の全国的な結果は、国政政党執行部の進退につながることもある。
なお、現在の形式が定着したのは、[[1975年]]([[昭和]]50年)の統一地方選挙からである。その前回、[[1971年]](昭和46年)までの統一地方選挙では、投票日が日曜日以外に設定されたり、特別区の区議会議員選挙が都道府県知事選挙などと同じ4月上旬に実施されたりするなど、現在とは異なる点があった。また、1975年(昭和50年)の統一地方選挙に合わせて、特別区の区長公選制が復活している。
[[大韓民国|韓国]]や[[台湾]]でも全国一斉に地方選挙が行われており、日本ではそれらも「統一選挙」と報道されるが、日本と違い、任期途中で首長が欠けた場合は「補欠選挙」扱い(任期は前任者の任期まで)となる。
=== 選挙期日等の臨時特例 ===
統一地方選挙が実施される年の前年に「[[地方公共団体の議会の議員及び長の選挙期日等の臨時特例に関する法律]]」が制定され、この臨時特例法により選挙日程が統一される。通常この臨時特例法では、該当年の[[3月1日]]から[[5月31日]]までに任期満了となる首長・議会議員の選挙を、原則として統一地方選挙の対象とすることが定められる。また、該当年の[[6月1日]]から[[6月10日]]までに任期満了となる場合においても、統一地方選挙の日程での選挙を実施できることが定められる。
さらに、首長については該当年の[[2月10日]]から臨時特例法が定める選挙告示日の5日前までの間に、議会議員については該当年の[[2月20日]]から臨時特例法が定める選挙告示日の5日前までの間に、それぞれ任期満了以外の選挙実施事由(長の辞職や死亡、議会の解散など)が発生した場合には、これらの選挙も統一地方選挙の日程で実施することが定められる。なお、上旬に実施される選挙(都道府県・政令市の選挙)に立候補した候補者は、当該選挙区を含む選挙区で行われる下旬の選挙(政令市以外の市町村・東京都の特別区の選挙や、衆議院・参議院の補欠選挙)に改めて立候補することができない(例:上旬に実施されるA県知事選挙に立候補したときは、下旬に実施されるA県にあるB市の市長選挙に立候補できない)。
=== 阪神・淡路大震災に伴う特例措置とその後の制度変更 ===
該当年の6月1日から6月10日までに任期満了となる首長・議会議員の選挙が統一地方選挙の日程で実施できるようになったのは、[[1999年]](平成11年)からである。
これはもともと、[[1995年]](平成7年)[[1月17日]]に発生した[[阪神・淡路大震災]]を受けて、同年[[4月9日]]、[[4月23日]]に統一地方選挙の日程で実施される予定であった兵庫県議会議員、神戸市議会議員、西宮市議会議員、芦屋市長・同市議会議員の各選挙がすべて同年[[6月11日]]に延期されたことによる(同年[[3月13日]]に公布・施行された[[地方公共団体の議会の議員及び長の選挙期日等の臨時特例に関する法律#被災地における選挙の延期|阪神・淡路大震災に伴う地方公共団体の議会の議員及び長の選挙期日等の臨時特例に関する法律]]<ref name="shinsaitokurei">{{Cite web|和書|author=衆議院|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/13219950313025.htm|title=法律第二十五号(平七・三・一三)|language=日本語 |accessdate=2020-07-21 }}</ref>による措置。[[繰り延べ投票]]も参照のこと。なお、選挙の延期に伴い、延期の対象となる首長・議会議員の任期は選挙前日の[[6月10日]]まで延長された)。
このため、1995年(平成7年)6月11日の選挙で選出された首長・議会議員の任期は1999年6月10日までとなり、従来通りであれば統一地方選挙の対象外となるところであったが、[[1998年]](平成10年)に公布・施行された地方公共団体の議会の議員及び長の選挙期日等の臨時特例に関する法律<ref name="1998tokureihou">{{Cite web|和書|author=衆議院|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/h142067.htm|title=法律第六十七号(平一〇・五・二二)|language=日本語 |accessdate=2020-07-21 }}</ref>では第1条第2項に新たな規定が設けられ、該当年の6月1日から6月10日までに任期満了となる首長・議会議員の選挙についても統一地方選挙の日程で実施することが可能になった。これを受けて、1995年(平成7年)に任期延長・選挙延期の対象となった首長・議会議員を改選する1999年の選挙は、統一地方選挙の日程で実施された<ref name="kobe">{{Cite web|和書|author=[[神戸新聞]]|url=http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou/030304ke98820.html|title=落選しても現職 震災特例で任期と選挙にずれ|language=日本語 |accessdate=2023-02-08|archivedate=2003-03-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030305114303/https://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou/030304ke98820.html }}</ref>。
その後、[[2003年]](平成15年)以降の統一地方選挙でも、該当年の6月1日から6月10日までに任期満了となる首長・議会議員の選挙について、統一地方選挙の日程で実施することが可能とされている。一例として[[2003年札幌市長選挙#4月選挙|2003年(平成15年)4月13日の札幌市の市長選挙]]は当初、本来の統一地方選挙の日程どおりに実施されたが、法定得票に達する候補者がなく、[[2003年札幌市長選挙#6月再選挙|同年6月8日に再選挙]]となった。そのため、この再選挙で選出された市長の任期は[[2007年]](平成19年)[[6月7日]]までとなったが、この任期満了に伴う2007年(平成19年)の札幌市長選は統一地方選挙の日程で実施されている。
=== 統一地方選挙の日程に従わない例 ===
該当年の[[3月1日]]から[[5月31日]]までに任期満了となる首長・議会議員の選挙は先述の通り統一地方選挙の日程で実施されるが、[[公職選挙法]]第34条第1項の規定により当該選挙を同年2月28日までに実施する場合<!--(備忘録)一瞬「閏年の場合はどうなる?」と思いかけたが、そもそも統一地方選挙の実施は西暦(4n+3)年であり、閏年にはならない-->や、同法第34条の2のいわゆる'''90日特例'''{{Efn|議員の任期満了から90日以内に首長の任期も満了する場合に、一定の制約のもと2つの選挙を同時に実施できる、という特例。}}を適用する場合には、例外的に統一地方選挙の日程で選挙を実施しないことも可能である。
実例として、旧[[佐賀市]]は[[1987年]](昭和62年)1月の市長辞職により同年[[2月15日]]に市長選挙が実施され、[[東京都]][[大田区]]は[[1986年]](昭和61年)12月の区長死亡により翌年[[2月1日]]に区長選挙が実施され、いずれも首長の選挙が統一地方選挙の日程で実施されなくなった。以後は議会議員の選挙のみを統一地方選挙の日程で実施してきたが、その後、1999年(平成11年)には旧佐賀市、大田区ともに90日特例を適用して、首長選挙と議会議員選挙を同年[[3月14日]]に実施した。
この選挙で当選した首長の任期は2003年(平成15年)[[3月13日]]までとなり、2003年(平成15年)は統一地方選挙の日程での首長選挙が可能になったが、旧佐賀市は市長の空席期間が発生することを避けるため、同年[[2月16日]]に市長選を実施した。一方、大田区は区長選を同年[[4月27日]]の統一地方選挙の日程で実施し、区長の空席期間は[[副市町村長|助役]]が区長の職務代理者を務めた。
このような場合、首長や議会議員の任期の空白を避けるために選挙を2月までに実施するか、任期の空白が発生してでも選挙費用節減や選挙への関心喚起のため統一地方選挙の日程で選挙を実施するかは、当該地方公共団体の[[選挙管理委員会]]の判断に委ねられている。
== 最近の状況 ==
最近では、首長の任期途中での辞職や死亡、議会の解散、[[日本の市町村の廃置分合|市町村合併]]などにより少しずつ任期のズレが発生し、そのため、統一的に実施される数は回を経るごとに下がり続ける傾向にある。とくに市町村合併は、3度にわたる大規模な合併促進([[日本の市町村の廃置分合#昭和の大合併|合併ブーム]])により、多くの自治体選挙に影響を及ぼしている。
また、2016年には[[18歳選挙権]]が導入され、統一地方選挙では2019年から適用された。
{| class="wikitable" style="margin:auto"
|+ 統一地方選挙の日程で選挙を実施する地方公共団体
!rowspan="2" style="background-color:#cc33ff"|区分!!colspan="2" style="background-color:#cc33ff"|都道府県!!colspan="2" style="background-color:#cc33ff"|政令指定都市!!colspan="2" style="background-color:#cc33ff"|政令指定都市以外の市!!colspan="2" style="background-color:#cc33ff"|特別区!!colspan="2" style="background-color:#cc33ff"|町村
|-
!知事!!議会!!市長!!議会!!市長!!議会!!区長!!議会!!町村長!!議会
|-
!style="background-color:#ffff66"|全体数(a)
|colspan="2" style="text-align:center"|47||colspan="2" style="text-align:center"|20||colspan="2" style="text-align:center"|772||colspan="2" style="text-align:center"|23||colspan="2" style="text-align:center"|926
|-
!style="background-color:#ffcc99"|実施数(b)
|style="text-align:right"|10||style="text-align:right"|41||style="text-align:right"|5||style="text-align:right"|17||style="text-align:right"|89||style="text-align:right"|294||style="text-align:right"|11||style="text-align:right"|20||style="text-align:right"|120||style="text-align:right"|373
|-
!style="background-color:#ff99cc"|<small>統一率<br />(b/a)×100</small>
|style="text-align:right"|21.28%||style="text-align:right"|87.23%||style="text-align:right"|25.00%||style="text-align:right"|85.00%||style="text-align:right"|10.62%||style="text-align:right"|38.08%||style="text-align:right"|47.83%||style="text-align:right"|86.96%||style="text-align:right"|12.96%||style="text-align:right"|41.67%
|-
|colspan="11" style="text-align:left"|2018年(平成30年)12月1日現在<br>出典:[[総務省]]報道資料<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000592105.pdf|title=平成31年統一地方選挙執行予定団体に関する調(ママ)|accessdate=2023-02-07|publisher=[[総務省]]|archivedate=2021-11-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211120052350/https://www.soumu.go.jp/main_content/000592105.pdf}}</ref>
|}
=== 都道府県知事・政令指定都市市長選挙 ===
首長が辞職や死亡により任期途中で欠けたり、[[日本の市町村の廃置分合#合体(新設合併)と編入(編入合併)|新設合併]]方式による市町村合併で失職したりしたことにより、一時、統一地方選挙の日程で実施される都道府県知事選挙は11都道県、政令指定都市市長選挙は[[札幌市]]1市のみとなっていた。その後、首長の失職や退職により任期満了日が臨時特例法の対象となったり、新たに政令指定都市に移行する市が現れたりしたことなどにより、実施数は若干増加し、2023年に統一地方選挙の日程で実施される知事選挙・政令指定都市市長選挙は'''9道県・6市'''の予定となっている<ref name="schedule2023">{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000854389.pdf|title=令和5年統一地方選挙執行予定団体に関する調(ママ)|publisher=[[総務省]]|date=2023-01-01|accessdate=2023-02-07}}</ref>。
2007年(平成19年)[[4月8日]]、[[広島市]]では市長選挙と市議会議員選挙、広島県議会議員選挙が実施されたが、このうち市長選と市議選は臨時特例法で定義される統一地方選挙の対象ではなく、前述の90日特例を適用して実施されたものである<ref name="hiroshima">{{Cite web|和書|author=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1268626476074/index.html|title=平成19年(2007年)広島市長選挙及び広島市議会議員一般選挙の期日の決定について|language=日本語 |accessdate=2011-02-19 }}</ref>。(上記[[#統一地方選挙の日程に従わない例|統一地方選挙の日程に従わない例]]も参照)
=== 都道府県・政令指定都市議会議員選挙 ===
[[都道府県議会議員]]選挙・[[政令指定都市]]議会選挙では、首長選挙と比較して自治体間の任期のズレが生まれにくい。そのため2023年には、41道府県(例外は[[岩手県]]、[[宮城県]]、[[福島県]]、[[茨城県]]、東京都、[[沖縄県]])および17政令市(例外は[[仙台市]]、[[静岡市]]、[[北九州市]])がそれぞれ、統一地方選挙の日程で議会選挙を実施する予定となっている<ref name="schedule2023" />。
このようにズレが生まれにくい原因としては、これらの議会については、以下に掲げるような突発的な選挙実施理由が発生しにくいことが挙げられる。
#住民発議による解散請求([[リコール (地方公共団体)|リコール]])の投票が行われ、過半数の賛成により議会が解散された場合
#*過去に1例のみ。名古屋市:[[2011年]](平成23年)[[2月6日]]解散、同年[[3月13日]]投票。
#*議会の解散請求をするには[[地方自治法]]第76条の規定により、その自治体の有権者の1/3以上(ただし、有権者が40万人を超える場合は「40万×(1/3)+40万を超えた分×(1/6)」で計算した数)以上の署名を集める必要がある。ところが、地方自治法施行令第92条第4項・同第100条によると、都道府県・政令指定都市の議会解散のための署名活動では、請求代表者が当該自治体の選挙管理委員会から請求代表者証明書の交付を受けたあと、2か月以内{{Efn|政令指定都市以外の市町村・特別区では1か月以内。}}に所定数以上の署名を集めなければならない。これだけ多数の署名を短期間で集めることは困難である。
#*このため、[[2014年]]にこの規定の一部が改正され<ref>{{Cite web|和書|publisher=衆議院|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/18020120905072.htm|title=法律第七十二号(平成二四・九・五)|accessdate=2023-02-07}}</ref>、有権者数が80万人を超える場合には「80万を超えた分×(1/8)+40万×(1/3)+40万×(1/6)」、すなわち「80万を超えた分×(1/8)+40万」の署名で解散請求ができることとなった。しかしながらその後も2023年2月現在、都道府県・政令指定都市の議会の解散請求に至った例はない。
#都道府県知事、政令指定都市市長の[[不信任決議]]案可決(総議員の2/3以上が出席し、その3/4以上の賛成による)に伴う議会の解散
#*事例なし。[[岐阜県]]、[[長野県]]、[[徳島県]]、[[宮崎県]]で知事の不信任決議案が可決された例があるが、いずれも知事が自ら辞職し、もしくは期限までに議会を解散せず失職する道を選んた。
#都道府県議会、政令指定都市市議会の[[日本の地方議会#議会の解散・議員の解職|自主解散]](総議員の3/4以上が出席し、その4/5以上の賛成による)([[地方公共団体の議会の解散に関する特例法]])
#*過去に2例。東京都:[[1965年]](昭和40年)[[6月14日]]解散、同年[[7月23日]]投票、茨城県:[[1966年]](昭和41年)[[12月21日]]解散、[[1967年]](昭和42年)[[1月8日]]投票。
#都道府県の統廃合
#*事例なし
#政令指定都市の新設合併による<!--隣接 …市町村合併する市町村は必ずしも隣接しているとは限らない-->市町村合併(政令指定都市への移行の前後を問わない)
#*北九州市:[[1963年]](昭和38年)[[2月10日]]、[[門司市]]・[[小倉市]]・[[戸畑市]]・[[八幡市 (福岡県)|八幡市]]・[[若松市]]の5市による新設合併。在任特例を2年間適用して[[1965年]](昭和40年)[[2月4日]]に選挙。以後、統一地方選挙の約2年前に実施。
#*静岡市:[[2003年]](平成15年)[[4月1日]]、(旧)静岡市と[[清水市]]の2市による新設合併。在任特例を2年間適用して[[2005年]](平成17年)[[3月27日]]に選挙。以後、統一地方選挙の約2年後に実施。
#*[[さいたま市]]([[2001年]](平成13年)[[5月1日]]、[[浦和市]]・[[大宮市]]・[[与野市]]の3市による新設合併、2003年(平成15年)4月1日に政令指定都市へ移行)については、浦和・与野の2市は合併前まで市議選を統一地方選挙の日程で実施していた。2001年の合併時に在任特例を2年間適用したため任期満了日が2003年(平成15年)[[4月30日]]となり、2003年(平成15年)の選挙は統一地方選挙の日程で実施された。
また、上記のような制度上の理由のほか、災害など個別の事情でズレが生じるケースもある。
#[[1995年]](平成7年)4月上旬に行われる予定であった[[兵庫県]]議会議員選挙と[[神戸市]]議会議員選挙については、同年[[1月17日]]に発生した[[兵庫県南部地震]]([[阪神・淡路大震災]])により延期され、いずれも同年[[6月11日]]に実施された。ただし、その次の1999年(平成11年)の選挙の際の臨時特例法により、当年の6月1日から6月10日までに任期満了となる選挙についても新たに統一地方選挙の日程で実施できることとなり、以後、再び統一地方選挙の日程で実施されている<ref name="kobe"/>。
#[[2011年]](平成23年)4月に予定されていた岩手県、宮城県、福島県の県議選と仙台市の市議選も、3月に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])により延期され、仙台市議選は同年8月28日、岩手県議選は同年9月11日、宮城県議選は同年11月13日、福島県議選は同年11月20日に行われた。その後の2015年(平成27年)以降、これらの選挙は統一地方選挙の日程では行われなくなった。
#2007年(平成19年)の広島市議選は前述の通り、臨時特例法で定義される統一地方選挙の対象ではなく、公職選挙法第34条の2に定めるいわゆる90日特例を適用して実施されたものである<ref name="hiroshima"/>。
#名古屋市では、2011年(平成23年)2月6日に解散請求の投票により市議会が解散され、それに伴う市議選が同年3月13日に行われた。この選挙で選出された市議会議員の任期は[[2015年]][[3月12日]]までであるが、その年の統一地方選挙についても従来通りの臨時特例法が国会で制定されたため、この年の名古屋市議選も同法の対象となってしまった。そのため、同年4月の統一地方選挙の日程で市議選が実施されることとなり、任期満了後の3月13日から選挙終了までの約1か月間、議員不在のため議会を招集できない状況にあった。前述の通り、このような場合に統一地方選挙の日程で市議選を実施するかどうかは、市選挙管理委員会の判断に委ねられている。
#[[沖縄県議会]]については、同県が[[1972年]](昭和47年)[[5月15日]]に日本に復帰し、同年[[6月25日]]に復帰後初の選挙が実施されたという経緯から、統一地方選挙とは異なる日程となっている。
=== 政令指定都市以外の市町村の首長・議会議員選挙 ===
政令指定都市以外の市町村(東京都の特別区については後述)の首長選挙や議会議員選挙については、首長の任期途中での辞職や死亡、議会の解散や総辞職、選挙無効や当選無効、市町村合併などにより、統一地方選挙の日程で実施される割合が年々減少傾向にある。
特に、3度にわたる大規模な合併促進([[日本の市町村の廃置分合#昭和の大合併|合併ブーム]])の際に新設合併した市町村の多くは、統一地方選挙とは異なる日程で首長選挙や議会議員選挙を実施することが多い。ただし、そのような市町村であっても、議会議員選挙については在任特例を適用して統一地方選挙の前後まで任期を延長し<!-- 厳密には任期の延長という表現は不適切だが、他にうまい表現が見当たらないので -->、新設合併後も統一地方選挙の日程を維持している例がある。平成の大合併に伴う例としては、2001年5月1日に発足した[[さいたま市]]をはじめとして、[[香川県]][[さぬき市]]([[2002年]](平成14年)[[4月1日]]発足、在任特例を1年2か月間適用)、[[茨城県]][[筑西市]](2005年(平成17年)[[3月28日]]発足、在任特例を2年間適用)、[[埼玉県]][[深谷市]]([[2006年]](平成18年)[[1月1日]]発足、在任特例を1年4か月間適用)などが挙げられる。
平成の大合併では、合併ブームの後半になると議会議員の在任特例を適用しない例や、適用しても数か月程度にとどめる例が多くなり、統一地方選挙の前後まで任期を延長する例は少なくなった。一方、昭和の大合併では、統一地方選挙の前後まで任期を延長した例が多く見られる。[[1953年]](昭和28年)10月に3年間の時限立法として施行された[[町村合併促進法]]では、新設合併の場合の議会議員の在任特例は最長で1年間適用できるものとされており<ref>{{Cite web|和書|author=衆議院|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/01619530901258.htm|title=法律第二百五十八号(昭二八・九・一)|language=日本語 |accessdate=2020-07-21 }}</ref>、[[1954年]](昭和29年)3月から同年12月にかけて新設合併した市町村の多くが、翌[[1955年]](昭和30年)4月の統一地方選挙の前後まで任期を延長した。
ただしその一方で、1955年(昭和30年)3月から同年4月にかけて新設合併した市町村では、もし合併がなければ同年[[4月30日]]の統一地方選挙の対象になっていたにもかかわらず、在任特例を適用したがために統一地方選挙の対象外となった例も少なくない。
[[1956年]](昭和31年)に施行された[[新市町村建設促進法]]では議会議員の在任特例は規定されなかったが<ref>{{Cite web|和書|author=衆議院|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/02419560630164.htm|title=法律第百六十四号(昭三一・六・三〇)|language=日本語 |accessdate=2020-7-21}}</ref>、[[1962年]](昭和37年)に施行された市の合併の特例に関する法律では新設合併の場合の議会議員の在任特例は最長で2年間適用できるものとされ<ref>{{Cite web|和書|author=衆議院|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/04019620510118.htm|title=法律第百十八号(昭三七・五・一〇)|language=日本語 |accessdate=2020-07-21}}</ref>、前述した[[北九州市]]の新設合併の際の議会議員の在任特例はこの法律を根拠としていた。その後、[[1965年]](昭和40年)に施行された[[市町村の合併の特例に関する法律]]では新設合併の際の在任特例は最長1年に短縮されたが<ref>{{Cite web|和書|author=衆議院|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/04819650329006.htm|title=法律第六号(昭四〇・三・二九)|language=日本語 |accessdate=2020-07-21 }}</ref>、1995年(平成7年)の改正により再度、最長2年間まで適用できるものとされた<ref>{{Cite web|和書|author=衆議院|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/13219950329050.htm|title=法律第五十号(平七・三・二九)|language=日本語 |accessdate=2020-07-21 }}</ref>。
=== 特別区区長・区議会議員選挙 ===
[[2023年]](令和5年)において、[[第20回統一地方選挙]]の日程で選挙を実施する予定の区は、以下のとおりである。なお、本節では、統一地方選挙ではないが同一の日程で行われる{{Efn|name="nikkei20230414"}}江東区長選挙も含めて示している。
*区長選挙:12区(中央区、文京区、台東区、墨田区、江東区、大田区、世田谷区、渋谷区、豊島区、北区、板橋区、江戸川区)
*区議会議員選挙:21区([[足立区]]、[[葛飾区]]以外すべて)
このように東京の特別区は市町村の首長・議会議員の選挙と比較して、統一地方選挙の日程で実施される割合が高い。
このうち区議会議員選挙が統一地方選挙の日程で実施される割合が高いのは、日本国憲法施行後における特別区の廃置分合が1例のみしかなく(1947年(昭和22年)8月1日に[[板橋区]]から[[練馬区]]が分立。その練馬区では分立に伴い、1947年(昭和22年)[[9月20日]]に区長選・区議選を実施した<ref name="nerima">{{Cite web|和書|url=http://www.city.nerima.tokyo.jp/annai/kuseigaiyo/h22/p245269.files/248259.pdf|title=練馬区の年表|format=PDF|publisher=練馬区 |accessdate=2010-12-18 }}</ref>)、特に、「新設合併に伴う議会選挙」が一例もないことが大きい。
また区長についても、日本国憲法の施行当初は区議会が都知事の同意を得て区長を選任するものとされていたところ、その後の[[地方自治法]]改正により、[[1952年]](昭和27年)からは区民の直接選挙によって選出されることになり([[特別区#区長]]を参照)、その後いったん直接選挙の制度が廃止され、さらにその後、直接選挙制復活のため1975年(昭和50年)4月の統一地方選挙で23区すべての区長選が同時に実施されたという事情がある。その後、区長が任期途中で辞職あるいは死亡したことにより、統一地方選挙の日程で実施される区長選は13区(全体の47.83%)まで減ったものの、現時点でも市町村の首長選挙(全体の1割台)と比較すると統一地方選挙の日程で実施される割合が高い。
都道府県・政令指定都市の議会と同様、区議会議員選挙が統一地方選挙の日程で実施される割合が高い理由としては、以下に掲げるような突発的な選挙実施理由が発生しにくいことが挙げられる。
#住民発議による解散請求(リコール)の投票が行われ、過半数の賛成により議会が解散された場合
#*事例なし
#区長の不信任決議案の可決(総議員の2/3以上が出席し、その3/4以上の賛成による)に伴う議会の解散
#*過去に3例。[[練馬区]]:1967年(昭和42年)5月解散、同月投票。[[葛飾区]]:[[1993年]](平成5年)9月解散、同年10月投票。[[足立区]]:[[1999年]](平成11年)4月解散、同月投票。
#*練馬区については、[[1947年]](昭和22年)8月1日に[[板橋区]]から分立し、同年9月20日に初回の区長選・区議選が実施されて以降、統一地方選挙から約半年後の9月に区議選が実施されていた。しかし、1967年(昭和42年)[[5月2日]]に議会で区長の不信任決議案が可決されたことで議会が解散され、同年[[5月30日]]に区議選が行われた。この選挙で選出された議員の任期満了日が1971年(昭和46年)[[5月29日]]となったため、統一地方選挙の対象となり、その年の区議選は統一地方選挙の日程で行われた。これ以降の区議選も引き続き、統一地方選挙の日程で実施されている<ref name="nerima"/>。
#*足立区では1999年4月に議会が解散され、それに伴う区議選は当初の予定通り、統一地方選挙の日程で実施された。その後任を選ぶ2003年の区議選では90日特例を適用し、区長選と合わせて[[5月18日]]に実施された。その後、2007年(平成19年)の区議選は統一地方選挙の日程で実施されたが、2011年(平成23年)、2015年(平成27年)、2019年(令和元年)の3回はいずれも、統一地方選挙から約1か月後の5月に実施されている。2023年(令和5年)の区議・区長選挙も、同様に5月実施の予定である<ref name="adachi2023">{{Cite web|和書|url=https://www.city.adachi.tokyo.jp/senkyo/chiikibunka/kuminsanka/senkyo-g-kugikaigin.html|title=足立区議会議員選挙について|publisher=[[足立区]]|date=2022-11-15|accessdate=2023-02-08}}</ref>。
#区議会の自主解散(総議員の3/4以上が出席して、その4/5以上の賛成による)(地方公共団体の議会の解散に関する特例法)
#*事例なし
#特別区の廃置分合
#*過去に1例:[[練馬区]](1947年(昭和22年)8月1日に板橋区から分立、同年9月20日に区長選・区議選)<ref name="nerima"/>
逆に、統一地方選挙の日程に従わなかったケースとしては、次のものが挙げられる。
#1999年(平成11年)の[[大田区]]議会議員選挙:区長選(同年[[1月31日]]に区長の任期満了)と同日に実施するため、90日特例を適用して同年[[3月14日]]に実施。なお、2003年(平成15年)の区議選は、区長選とともに統一地方選挙の日程で実施されている。
#2007年(平成19年)の[[台東区]]議会議員選挙:区長選(同年[[2月8日]]に区長の任期満了)と同日に実施するため、90日特例を適用して同年[[3月18日]]に実施。2019年(平成31年)の区議選も、区長選(同年[[2月28日]]に任期満了)と同日に実施するために90日特例を適用し、同年[[3月17日]]に実施された。
== 制度見直しの議論 ==
{{更新|section=1|date=2023-02-08}}
全国の地方選挙のうち、統一地方選挙の日程で実施される選挙の割合が低下傾向にあることを受け、制度の見直しの議論が度々出ている。同時選挙の割合を上げるためには、現時点では統一地方選挙と異なる日程で選出されている首長・議員の任期を延長、または短縮するしかないが、これには異論も多く、結論は出ていない<ref name="shikoku">{{Cite web|和書|author=四国新聞社|url=http://www.shikoku-np.co.jp/feature/tuiseki/376/|title=不統一な統一地方選|language=日本語 |accessdate=2023-02-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100811111955/http://www.shikoku-np.co.jp/feature/tuiseki/376/|archivedate=2010-08-11}}</ref>。
また、国会審議では、現在2回に分けて実施している選挙を1回に統合するといった意見も示されている。さらに、今のところ統一地方選挙の期間中に[[衆議院議員総選挙]](および[[最高裁判所裁判官国民審査]]{{Efn|ただし、[[1953年]](昭和28年)4月に行われた[[第26回衆議院議員総選挙]]、いわゆる[[バカヤロー解散]]の際には、前回[[1952年]](昭和27年)10月の[[第25回衆議院議員総選挙|第25回総選挙]]から1年も経過しておらず、その影響で審査対象の裁判官が1人もいなかったため、国民審査は実施されなかった。}})が実施されたことはないが、もしも統一地方選挙の期間と衆議院議員総選挙の期間が重複した場合に、当該総選挙を前半(都道府県・政令指定都市の選挙)または後半(政令都市以外の市町村・特別区の選挙)のどちらの日程で行うべきかが、大きな課題となっている。もし統一地方選挙がすべて同日の実施へと統合されれば、統一地方選挙の期間中に総選挙が実施されることとなっても、日程について意見が割れることはなくなると期待されている。
{{Also|衆議院議員総選挙#問題点}}
== 実施される主な選挙 ==
*都道府県知事選挙、都道府県議会議員選挙、政令指定都市市長選挙、政令指定都市市議会議員選挙のうち、統一地方選挙の際に実施されるものは下記の通り。
*都道府県知事選挙は47都道府県中'''9'''道府県{{Efn|2023年(令和5年)現在。}}{{Efn|[[2011年]](平成23年)は東日本大震災の影響により12都道県で実施。}}、都道府県議会議員選挙は47都道府県中'''41'''道府県{{Efn|2011年(平成23年)から東日本大震災の影響により41都道県で実施。}}、政令指定都市市長選挙は20市中'''6'''市、政令指定都市市議会議員選挙は20市中'''17'''市{{Efn|2011年(平成23年)は東日本大震災の影響により15市で実施。}}。
{| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center"
!colspan="2"|自治体名!!首長!!議会
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!colspan="2"|{{Flag|北海道}}
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! !![[ファイル:Flag of Sapporo, Hokkaido.svg|border|25x20px]] [[札幌市]]
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!colspan="2"|{{Flag|青森県}}
|{{Nowiki|-}}||○
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!colspan="2"|{{Flag|岩手県}}
|{{Nowiki|-}}||-<br>{{Efn|name="2011"|2011年(平成23年)に東日本大震災のため統一選から離脱。}}
|-
!colspan="2"|{{Flag|宮城県}}
|{{Nowiki|-}}||-<br>{{Efn|name="2011"}}
|-
! !![[ファイル:Flag of Sendai, Miyagi.svg|border|25x20px]] [[仙台市]]
|{{Nowiki|-}}||-
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!colspan="2"|{{Flag|秋田県}}
|{{Nowiki|-}}||○
|-
!colspan="2"|{{Flag|山形県}}
|{{Nowiki|-}}||○
|-
!colspan="2"|{{Flag|福島県}}
|{{Nowiki|-}}||-<br>{{Efn|name="2011"}}
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!colspan="2"|{{Flag|茨城県}}
|{{Nowiki|-}}||-
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!colspan="2"|{{Flag|栃木県}}
|{{Nowiki|-}}||○
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!colspan="2"|{{Flag|群馬県}}
|{{Nowiki|-}}||○
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!colspan="2"|{{Flag|埼玉県}}
|{{Nowiki|-}}||○
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! !![[ファイル:Flag of Saitama, Saitama.svg|border|25x20px]] [[さいたま市]]
|{{Nowiki|-}}||○
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!colspan="2"|{{Flag|千葉県}}
|{{Nowiki|-}}||○
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! !![[ファイル:Flag of Chiba, Chiba.svg|border|25x20px]] [[千葉市]]
|{{Nowiki|-}}||○
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!colspan="2"|{{Flag|東京都}}
|{{Nowiki|-}}||-
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!colspan="2"|{{Flag|神奈川県}}
|○||○
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! !![[ファイル:Flag of Yokohama, Kanagawa.svg|border|25x20px]] [[横浜市]]
|{{Nowiki|-}}||○
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! !![[ファイル:Flag of Kawasaki, Kanagawa.svg|border|25x20px]] [[川崎市]]
|{{Nowiki|-}}||○
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! !![[ファイル:Flag of Sagamihara, Kanagawa.svg|border|25x20px]] [[相模原市]]
|○||○
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!colspan="2"|{{Flag|新潟県}}
|{{Nowiki|-}}||○
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! !![[ファイル:Flag of Niigata, Niigata.svg|border|25x20px]] [[新潟市]]
|{{Nowiki|-}}||○
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!colspan="2"|{{Flag|富山県}}
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!colspan="2"|{{Flag|石川県}}
|{{Nowiki|-}}||○
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!colspan="2"|{{Flag|福井県}}
|○||○
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!colspan="2"|{{Flag|山梨県}}
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!colspan="2"|{{Flag|長野県}}
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!colspan="2"|{{Flag|岐阜県}}
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!colspan="2"|{{Flag|静岡県}}
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! !![[ファイル:Flag of Shizuoka, Shizuoka.svg|border|25x20px]] [[静岡市]]
||○||-
|-
! !![[ファイル:Flag of Hamamatsu, Shizuoka.svg|border|25x20px]] [[浜松市]]
|○||○
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!colspan="2"|{{Flag|愛知県}}
|{{Nowiki|-}}||○
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! !![[ファイル:Flag of Nagoya, Aichi.svg|border|25x20px]] [[名古屋市]]
|{{Nowiki|-}}||○
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!colspan="2"|{{Flag|三重県}}
||-<br>{{Efn|name="2021"|[[2021年]](令和3年)の辞職により統一選から離脱。}}||○
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!colspan="2"|{{Flag|滋賀県}}
|{{Nowiki|-}}||○
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!colspan="2"|{{Flag|京都府}}
|{{Nowiki|-}}||○
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! !![[ファイル:Flag of Kyoto City.svg|border|25x20px]] [[京都市]]
|{{Nowiki|-}}||○
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!colspan="2"|{{Flag|大阪府}}
|○||○
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! !![[ファイル:Flag of Osaka, Osaka.svg|border|25x20px]] [[大阪市]]
|○||○
|-
! !![[ファイル:Flag of Sakai, Osaka.svg|border|25x20px]] [[堺市]]
||-<br>{{Efn|2019年4月末に現職の市長が途中辞職したことにより、同年6月9日に市長選挙を執行している)。}}||○
|-
!colspan="2"|{{Flag|兵庫県}}
|{{Nowiki|-}}||○
|-
! !![[ファイル:Flag of Kobe.svg|border|25x20px]] [[神戸市]]
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!colspan="2"|{{Flag|奈良県}}
|○||○
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!colspan="2"|{{Flag|和歌山県}}
|{{Nowiki|-}}||○
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!colspan="2"|{{Flag|鳥取県}}
|○||○
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!colspan="2"|{{Flag|島根県}}
|○||○
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!colspan="2"|{{Flag|岡山県}}
|{{Nowiki|-}}||○
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! !![[ファイル:Flag of Okayama, Okayama.svg|border|25x20px]] [[岡山市]]
|{{Nowiki|-}}||○
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!colspan="2"|{{Flag|広島県}}
|{{Nowiki|-}}||○
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! !![[ファイル:Flag of Hiroshima, Hiroshima.svg|border|25x20px]] [[広島市]]
|○||○
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!colspan="2"|{{Flag|山口県}}
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!colspan="2"|{{Flag|徳島県}}
|○||○
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!colspan="2"|{{Flag|香川県}}
|{{Nowiki|-}}||○
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!colspan="2"|{{Flag|愛媛県}}
|{{Nowiki|-}}||○
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!colspan="2"|{{Flag|高知県}}
|{{Nowiki|-}}||○
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!colspan="2"|{{Flag|福岡県}}
||-<br>{{Efn|name="2021"}}||○
|-
! !![[ファイル:Flag of Kitakyushu, Fukuoka.svg|border|25x20px]] [[北九州市]]
|{{Nowiki|-}}||-
|-
! !![[ファイル:Flag of Fukuoka City.svg|border|25x20px]] [[福岡市]]
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!colspan="2"|{{Flag|佐賀県}}
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!colspan="2"|{{Flag|長崎県}}
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!colspan="2"|{{Flag|熊本県}}
|{{Nowiki|-}}||○
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! !![[ファイル:Flag of Kumamoto, Kumamoto.svg|border|25x20px]] [[熊本市]]
|{{Nowiki|-}}||○
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!colspan="2"|{{Flag|大分県}}
|○||○
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!colspan="2"|{{Flag|宮崎県}}
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!colspan="2"|{{Flag|鹿児島県}}
|{{Nowiki|-}}||○
|-
!colspan="2"|{{Flag|沖縄県}}
|{{Nowiki|-}}||-
|}
== その他の地方選挙 ==
;プレ統一地方選挙
:統一地方選挙が実施される直前の半年間ほどに実施される選挙をプレ統一地方選挙と呼ぶ。[[茨城県議会]]議員選挙や[[福島県|福島]]・[[沖縄県|沖縄]]・[[和歌山県|和歌山]]・[[佐賀県|佐賀]]・[[愛媛県|愛媛]]・[[山梨県|山梨]]・[[宮崎県|宮崎]]・[[愛知県|愛知]]の各県知事選挙、[[新潟市|新潟]]・[[福岡市|福岡]]・[[北九州市|北九州]]の各政令指定都市市長選挙、[[和歌山市]]・[[金沢市]]・[[甲府市]]・[[松山市]]・[[那覇市]]{{Efn|[[翁長雄志]]市長(当時)の県知事選立候補に伴うもの。<!--以後に市長が辞任が無ければ次回も沖縄県知事選と同日に行われる公算が大きい。-->}}などの[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]の市長選挙が実施され、これらについても各政党は国政選挙並みの体制で臨むなど、統一地方選挙までの一連の政治日程の一環として統一地方選挙並みの扱いがされる。本番への前哨戦としても注目されることも多い。
;ミニ統一地方選挙
:[[日本の市町村の廃置分合#平成の大合併|平成の大合併]]が進められる中、[[2005年]](平成17年)4月前後に合併が施行された193の市町村で首長と議員の選挙が実施され、その前後にも[[千葉県|千葉]]・[[秋田県|秋田]]の両県知事選挙、政令指定都市の[[名古屋市|名古屋市長]]選挙が行われた。結果としてその後も4年おき、すなわち「西暦を4で割ると1余る年の春」も地方選挙が多い状況にある。[[2009年]](平成21年)は現職首長の落選率が際立って高く、合併後の施政への不満が表れたと分析された<ref name="jichisoken">{{Cite web|和書|author=地方自治総合研究所|coauthors=|date=|url=http://www1.ubc.ne.jp/~jichisoken/movement/2009/move20090501.htm|title=2009年5月の自治動向|language=日本語 |accessdate=2011-02-19 }}</ref>。長野県は市町村が77と多い上、平成の合併とは無関係でも農繁期や観光シーズンを避けるなどしてこの年の選挙を4月にやる傾向が強く、10以上の首長選、市町村議会選が4月に集中する。そのため現在もミニ統一地方選と呼ばれることがある<ref>{{Cite news |和書 |title=4月は「ミニ統一地方選」の様相 県内16首長・議員選 投票率考慮、GW避ける |newspaper=信濃毎日新聞 |date=2013-03-28 |access-date=2022-12-26}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=県内選挙 大半の日程固まる 来月25日「ミニ統一選」に |newspaper=信濃毎日新聞 |date=2021-03-04 |access-date=2022-12-26}}</ref>。
;沖縄県版統一地方選挙<ref>{{Cite book|和書|title=平成26年版選挙管理委員会年報|url=https://www.pref.okinawa.jp/site/senkan_i/documents/h26nenpou.pdf|page=7|publisher=沖縄県選挙管理委員会|date=2015-6|accessdate=2022-9-12}}</ref>
:[[1946年]](昭和21年)9月にアメリカ占領下の琉球諸島で一斉に市町村長・議会議員選挙が行われ、以降、閏年の2年後の年に実施されている。ただ、こちらも市町村長の任期途中での辞職や死亡、議会の解散、市町村合併によってずれが生じている。特に[[那覇市]]議会は[[1957年]](昭和32年)の[[瀬長亀次郎]]市長に対する不信任決議案を可決したことにより解散し、以来前年の7月に市議選が実施されている。[[2010年]](平成22年)[[9月12日]]の選挙では[[南城市]]・[[宜野湾市]]・[[沖縄市]]・[[名護市]]・[[石垣市]]の5市を含む24市町村で議会議員選挙が、また2町村で首長選挙が行われた。
:全国の統一地方選挙と異なり臨時特例法は制定されず、公職選挙法の規定の範囲内で期日が設定される。該当年の春には、沖縄県選挙管理委員会において「市町村議会議員及び長の選挙における選挙期日の統一について」という議案(具体的な議案名は年により若干異なる)が審議され<ref>前出『平成26年版選挙管理委員会年報』、2頁。</ref><ref>{{Cite book|和書|title=令和3年版選挙管理委員会年報|url=https://www.pref.okinawa.lg.jp/site/senkan_i/documents/r3_nenpou.pdf|page=4|publisher=沖縄県選挙管理委員会|date=2022-3|accessdate=2022-9-12}}</ref>、期日の統一が図られる{{Efn|沖縄県選挙管理委員会の決定は市町村選挙管理委員会を拘束するものではないので、任期満了日がまったく同じであるにもかかわらず統一以外の期日で選挙を行う市町村がある年もある。たとえば[[2014年]](平成26年)の[[伊平屋村]]議会議員選挙は、他の多くの市町村議会議員選挙は[[9月2日]]投票だったにもかかわらず、[[9月9日]]投票で実施された<ref>前出『平成26年版選挙管理委員会年報』、9頁。</ref>。}}。
== 日本以外の統一地方選挙 ==
{{節スタブ}}
;イギリス
:イギリスでは「1972年地方自治法」に基づき、原則としてその年の地方選挙を5月の第1木曜日にまとめて行う<ref name="ClAIR2005">{{Cite journal |和書 |author=財団法人自治体国際化協会(ロンドン事務所) |title=英国の地方選挙風景(地方版マニフェストの実情) |journal= CLAIR REPORT |volume=272 |publisher= |date=2005-10-14 |pages=23 - 24 |format = pdf| url =https://www.clair.or.jp/j/forum/c_report/pdf/272-2.pdf}}</ref>。イギリスの地方議員や直接公選首長の任期は4年で、地方議会は4年に1度全員を改選する方式のところや、3分の1ずつの改選を4年間で3回行う方式のところなどがあるが<ref name="ClAIR2005"/>、いずれにしても地方選は毎年5月に集中して実施し、4年で1回りすることになる。時の首相への評価や批判、国政野党への支持の状況などがこの地方選での議席増減につながり、地方選での勝敗が首相の政権運営にも影響する<ref name="Kimura2021">{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/kimuramasato/20210509-00237009|title=ワクチンでコロナを制し、選挙に勝ったジョンソン英首相 10年政権の可能性|publisher=|date=2021-05-09|accessdate=2022-12-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220507/k10013614561000.html |title=英地方選 与党・保守党が多数の議席失う パーティー問題影響か |publisher=NHK |date=2022-05-07 |accessdate=2022-12-28}}</ref>。
:直近の例では[[2019年イギリス地方統一選挙]]で259自治体の議会の約8900議席と、6自治体の首長の選挙が行われた<ref>{{Cite web|url=https://www.bbc.co.uk/news/uk-politics-47961144 |title=Local elections: Where are the polls and how do I vote? |publisher=BBC News |date=2019-05-01 |accessdate=2022-12-28}}}</ref><ref>{{Cite web|url= https://www.bbc.co.uk/news/uk-politics-48091592 |title= Local elections: Results in maps and charts |publisher= BBC News |date= 2019-05-03 |access-date= 2022-12-28}}</ref>。2020年の地方選挙は[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]の影響で1年延期となり、2021年にまとめて実施。[[ロンドン市長]]選挙を含む13首長選、[[スコットランド議会]]選挙(129議席)、[[ウェールズ議会]]選挙(60議席)、[[ロンドン議会]]選挙(25議席)と、145自治体議会の約5000議席を選ぶ投票が行われた。有権者数4800万人に及ぶ大規模なものとなり、「スーパー・サーズデー」とも呼ばれた<ref>{{Cite web|url=https://www.bbc.com/news/uk-politics-56286643|title=2021 elections: A really simple guide|publisher=BBC News |date=2021-03-23|accessdate=2022-12-28}}</ref><ref name="Kimura2021"/>。2022年は200の自治体議会の6800議席の選挙と[[北アイルランド議会]]選挙(90議席)が行われた<ref>{{Cite web |title=Election results 2022: How the parties performed in maps and charts|publisher=BBC News |url=https://www.bbc.com/news/uk-politics-61344176|date=2022-05-07 |access-date= 2022-12-28}}</ref>。
;韓国
{{Main|全国同時地方選挙}}
;台湾(中華民国)
;カンボジア
;シンガポール
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[日本の選挙]]
*[[地方公共団体の議会の議員及び長の選挙期日等の臨時特例に関する法律]]
*[[ボートマッチ]]
*[[補欠選挙]]
*[[地方自治法]]
*[[公職選挙法]]
*[[供託金]]
*[[亥年選挙]]
*[[寅年現象]]
*[[地方公共団体]]
*[[日本の政治]]
*[[国政選挙]]
*[[衆議院議員総選挙]]
*[[参議院議員通常選挙]]
*[[衆参同日選挙]]
*[[都道府県知事]]
*[[全国知事会]]
*[[多選]]
*[[政令指定都市市長一覧]]
*[[日本の統一地方選一覧]]
{{統一地方選挙}}
{{DEFAULTSORT:とういつちほうせんきよ}}
[[Category:日本の選挙]]
[[Category:日本の地方選挙|*]]
[[Category:統一地方選挙|*]]
[[Category:4月]] | 2003-02-22T14:16:25Z | 2023-12-03T22:06:53Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E4%B8%80%E5%9C%B0%E6%96%B9%E9%81%B8%E6%8C%99 |
2,706 | ヌーナ大陸 | ヌーナ大陸(ヌーナたいりく、NeunaまたはNena)は、プレートテクトニクスにおいて、約19億年前に誕生したと考えられている超大陸。現在のグリーンランドを含む北アメリカ大陸の主要部分と、スカンジナビア半島を中心とするヨーロッパ大陸の一部に相当する(もっと広い範囲を含むとする説もある)。
ローレンシア大陸とも呼ばれていたが、ローラシア大陸と混同されやすいため、North Europe and North American の頭文字をとったヌーナという言葉が使われる。ローレンシア大陸はヌーナ大陸の一部とも考えられる。
以前は、地球上に出現した最初の超大陸と考えられたこともあったが、地球物理学の観点からもっと古い25億年前のケノーランド (Kenorland) や30億年以上前にも超大陸があった、と指摘されるようになった。 | [
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] | ヌーナ大陸(ヌーナたいりく、NeunaまたはNena)は、プレートテクトニクスにおいて、約19億年前に誕生したと考えられている超大陸。現在のグリーンランドを含む北アメリカ大陸の主要部分と、スカンジナビア半島を中心とするヨーロッパ大陸の一部に相当する(もっと広い範囲を含むとする説もある)。 ローレンシア大陸とも呼ばれていたが、ローラシア大陸と混同されやすいため、North Europe and North American の頭文字をとったヌーナという言葉が使われる。ローレンシア大陸はヌーナ大陸の一部とも考えられる。 以前は、地球上に出現した最初の超大陸と考えられたこともあったが、地球物理学の観点からもっと古い25億年前のケノーランド (Kenorland) や30億年以上前にも超大陸があった、と指摘されるようになった。 | '''ヌーナ大陸'''(ヌーナたいりく、NeunaまたはNena)は、[[プレートテクトニクス]]において、約19億年前に誕生したと考えられている[[超大陸]]。現在の[[グリーンランド]]を含む[[北アメリカ大陸]]の主要部分と、[[スカンジナビア半島]]を中心とする[[ヨーロッパ大陸]]の一部に相当する(もっと広い範囲を含むとする説もある)。
'''ローレンシア大陸'''とも呼ばれていたが、[[ローラシア大陸]]と混同されやすいため、''North Europe and North American'' の頭文字をとったヌーナという言葉が使われる。[[ローレンシア大陸]]はヌーナ大陸の一部とも考えられる。
以前は、地球上に出現した最初の超大陸と考えられたこともあったが、地球物理学の観点からもっと古い25億年前のケノーランド{{enlink|Kenorland}}や30億年以上前にも超大陸があった、と指摘されるようになった<ref>吉田 晶樹「[http://yoshida-geophys.jp/topic_sc_cycle.html 超大陸の形成とウィルソンサイクル]」yoshida-geophys.jp、2015年4月1日、2021年8月30日閲覧。</ref>。
== 関連項目 ==
* [[大陸]]
* [[超大陸]]
== 出典 ==
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[[Category:古大陸]]
[[Category:超大陸]] | 2003-02-22T15:01:16Z | 2023-09-22T11:17:38Z | false | false | false | [
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2,709 | Intel 8086 | Intel 8086(インテル8086)はインテルが開発した16ビット マイクロプロセッサ(CPU)。x86(80x86)アーキテクチャの最初のマイクロプロセッサで、1978年に発表された。
日本電気のPC-9801などパーソナルコンピュータに広く採用された。対応するオペレーティングシステムに、MS-DOS、PC-DOS、CP/M-86があった。
シリーズには、外部データバスを8ビットにした低価格版の8088があり、初代のIBM PCにも採用された。密結合な構成で、協調して働くように準備されていた数値演算コプロセッサに8087があった。また、使われる機会は少なかったが、8089(英語版)というI/Oプロセッサも存在した。
当時ライバルとされた製品には、モトローラの68000系プロセッサがある。
8086は8ビットアーキテクチャであった8080を16ビットに拡張し、乗除算などの命令を強化したCPUである。アドレスバスは20ビットに、データバスは16ビットに拡張された(姉妹品に外部データバスを8ビットに留めた8088もある)。8080とバイナリーレベルの互換性はないが、開発にあたってIntelは、8080からの速やかな移行を最重点事項に置き、8080のアセンブラソースコードに一切の手を加えることなく再アセンブルするだけで、8086用のバイナリを生成する事も出来た。
8080のアーキテクチャと大きく異なるのは、演算用のアドレスレジスタのほかに、セグメントレジスタという、アドレス変換のための16ビットのレジスタを持っていることである。実際にCPUがアクセスするアドレスは、16ビット幅のレジスタによって指定された64KBのアドレスに、さらに16ビット幅のセグメントレジスタの値を16倍(左に4ビットシフト)して加算したアドレスとするため、1MBのメモリ空間を利用できた。
8086のアーキテクチャでは、プログラム内で通常表現されるアドレスの値は16ビット幅で64KBのメモリ空間である。当時、64KBのメモリ空間は1つのプログラムにとっては十分に広大であり、セグメント機構はマルチタスクのために用意された。(8086には保護がないので、アプリケーションがセグメントレジスタを操作できるが、本来はOSが操作するものである。) 内蔵する4本のセグメントレジスタの値を全て同一にすると、8ビットの8080と同等の環境となり、8080用ソースを8086へ移植するのが容易であるほか、実行バイナリのリロケータブル化が容易であるといったメリットもあった。
しかし、8086や、その互換品・後継品がロングセラーになって使われ続けた結果、より大規模なプログラムが作られる様になると、64KBのメモリ空間は狭くなってしまい、アプリケーションのプログラムが自力でセグメントレジスタを操作して64KB以上のメモリ空間にアクセスする手法が用いられるようになった。しかし、頻繁にセグメントレジスタを操作することはプログラムを煩雑にし、実行時のオーバーヘッドも増えるため、プログラマからは非常に嫌われた。
後に批判の的となってしまったセグメント方式だが、互換性を重視しつつ開発が短期間で完了でき、かつコストパフォーマンスに優れた選択肢であった。これは、当時モトローラと激しいシェア争いを演じていたintelにとって極めて重大な要素だった。
メモリ空間を1MBとしたのは、当時使われていた40DIPパッケージにアドレス・データバスを割り当てる際に、アドレスピンを効率良く増やして割り当てられる値であったとも言われる。
また、より大容量のアプリケーションを担い、高性能を発揮する次世代のプロセッサとしては、当時計画中であった32ビットCPU、iAPX432を充てる事が考えられていた。当初、8086は8ビットアーキテクチャから次世代のiAPX 432プロセッサへのつなぎとして考えられていたため、後に大規模な拡張を行う事は一切考えられていなかった。
演算に使えるレジスタが限定的だったり、メモリを直線的に使うのが面倒等の問題があったものの8080とのソースレベルでの互換性を重視し、既存の8080環境やCP/Mなどのアプリケーションの移植、プログラマの移行などにも積極的であったことから、IBM-PCへ採用され、現在のx86アーキテクチャの商業的な成功へとつながったと評価されている。
ハードウェア的には、供給クロックのデューティ比が1:2になっている。クロックジェネレータi8284に3倍のクロックを供給し、それを3分周することにより1:2のクロックを得る。
C言語から生成されたプログラムにおいて、コードとデータのそれぞれで、デフォルトのアクセスをセグメント内のオフセットのみとするか、セグメントも併用してアクセスするか、の違いにより「コード・データともセグメント内」「コードのみセグメント内」「データのみセグメント内」「コード・データともセグメント併用」といったパターンが存在し、ライブラリ等はそれぞれ異なるものを使うため煩雑であった。デフォルトでないアドレッシングには、ポインタに far や near という修飾を付ける。プログラミングモデルあるいはメモリモデル等ともいう。
詳細は以下の通り。
効率などの理由から、コンパイルはSmallモデルとし、必要に応じて明示的にセグメント操作をプログラマが指示する(適宜farまたはhugeポインタを使用し、また動的なメモリ確保によって64KBの制限を超える)ような作りのプログラムも多い。
8086の外部データバスは16ビットであるが、アドレッシングは8ビット単位で行われ、データバスの下位8ビットが偶数アドレス、上位8ビットが奇数アドレスとなる。
8086でシステムを構築する上で、従来からある8ビットCPU用の周辺チップ(8251(英語版)、8255、8237(英語版)、8259など)が多用されたが、これらのデータバスは8ビットであるため、8086に接続するには、8086のデータバスの上位もしくは下位8ビットのどちらかに接続することになった。
そのため、このような構成では、8086 CPUから見ると、周辺チップの連続するレジスタが偶数アドレスもしくは奇数アドレスのみにとびとびに割り当てられる格好となる。
PC-9800シリーズでは実際に上記のような構成になっており、I/Oマップが偶数アドレスと奇数アドレスで分断されている。 一方、外部データバスが8ビットの8088を採用したIBM PCではそのようなことはなく、8ビットの周辺チップは連続したアドレスに存在する。XTバスの拡張カードにより増設した機器も同様である。
そのため、後にPC/ATで16ビットのISAを採用した際に、8ビットの周辺機器をサポートするためにバス・サイジングの必要性が生じた。
また、PC-9800シリーズでも、PCカードのモデムなど、IBM PCシリーズ用に開発された8ビットの周辺機器をサポートする際に、バス・サイジングの必要性が生じた。
のちの2018年には、8086発売40周年を記念して、当時最新のCoffee Lakeマイクロアーキテクチャに基づくCore i7-8086Kを、限定品として発売している。Core i7-8086Kの最大周波数はインテルのCPUとしては初めて5GHzに達し、8086のちょうど1000倍となっている。 | [
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] | Intel 8086(インテル8086)はインテルが開発した16ビット マイクロプロセッサ(CPU)。x86(80x86)アーキテクチャの最初のマイクロプロセッサで、1978年に発表された。 日本電気のPC-9801などパーソナルコンピュータに広く採用された。対応するオペレーティングシステムに、MS-DOS、PC-DOS、CP/M-86があった。 シリーズには、外部データバスを8ビットにした低価格版の8088があり、初代のIBM PCにも採用された。密結合な構成で、協調して働くように準備されていた数値演算コプロセッサに8087があった。また、使われる機会は少なかったが、8089というI/Oプロセッサも存在した。 当時ライバルとされた製品には、モトローラの68000系プロセッサがある。 | {{Infobox CPU
| 名称 = 8086
| 画像 = KL Intel D8086.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像の説明 =
| 生産開始 = 1978年
| 生産終了 = 1998
| 生産者 = [[Intel]], [[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]], [[NEC]], [[富士通]], [[:en:Harris_Corporation|Harris]] ([[インターシル]]), [[沖電気工業|OKI]], [[シーメンス]], [[テキサス・インスツルメンツ]], [[三菱電機|三菱]], [[パナソニック]] (松下)
| 最低周波数 = 5
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| 最低周波数単位 = MHz
| 最高周波数単位 = MHz
| 命令セット = [[x86]] (16ビット)
| パッケージ = 40ピン [[パッケージ (電子部品)#DIP|DIP]]
| コードネーム =
|最小プロセスルール=3 µm|トランジスタ=29000|コプロセッサ=[[Intel 8087]], {{仮リンク|8089|en|intel_8089}}|前世代プロセッサ=[[Intel 8085]]|次世代プロセッサ=[[Intel 8088]]}}
'''Intel 8086'''(インテル8086)は[[インテル]]が開発した[[16ビット]] [[マイクロプロセッサ]]([[CPU]])。[[x86]](80x86)アーキテクチャの最初のマイクロプロセッサで、[[1978年]]に発表された。
[[日本電気]]の[[PC-9800シリーズ|PC-9801]]など[[パーソナルコンピュータ]]に広く採用された。対応する[[オペレーティングシステム]]に、[[MS-DOS]]、PC-DOS、[[CP/M-86]]があった。
シリーズには、外部データバスを[[8ビット]]にした低価格版の[[Intel 8088|8088]]があり、初代の[[IBM PC]]にも採用された。密結合な構成で、協調して働くように準備されていた[[FPU|数値演算コプロセッサ]]に[[Intel 8087|8087]]があった{{Sfn |8086マイクロコンピュータ |1983 |p=86}}。また、使われる機会は少なかったが、{{仮リンク|8089|en|intel_8089}}というI/Oプロセッサも存在した。
当時ライバルとされた製品には、[[モトローラ]]の[[MC68000|68000]]系プロセッサがある<ref>MC68000は8086よりも2年遅く登場し2倍以上のトランジスタを使っており、本来は同じ土俵で比べられるものではないが、しばしばライバル視される。</ref>。
== アーキテクチャ ==
8086は8ビットアーキテクチャであった[[Intel 8080|8080]]を16ビットに拡張し、乗除算などの命令を強化したCPUである。アドレスバスは20ビットに、データバスは16ビットに拡張された(姉妹品に外部データバスを8ビットに留めた8088もある)。8080とバイナリーレベルの[[互換性]]はないが、開発にあたってIntelは、8080からの速やかな移行を最重点事項に置き、8080の[[アセンブリ言語|アセンブラ]][[ソースコード]]に一切の手を加えることなく再アセンブルするだけで、8086用のバイナリを生成する事も出来た<ref>詳細は[[86-DOS#PC DOS の誕生]]及び[[CP/M-86]]も参照のこと。</ref>。
[[ファイル:Register 8086.PNG|thumb|right|300px|8086のレジスタセット]]
8080のアーキテクチャと大きく異なるのは、演算用のアドレス[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]のほかに、'''セグメントレジスタ'''という、アドレス変換のための16ビットのレジスタを持っていることである。実際にCPUがアクセスするアドレスは、16ビット幅のレジスタによって指定された64KBのアドレスに、さらに16ビット幅のセグメントレジスタの値を16倍(左に4ビットシフト)して加算したアドレスとするため、1MBのメモリ空間を利用できた。
8086のアーキテクチャでは、プログラム内で通常表現されるアドレスの値は16ビット幅で64KBのメモリ空間である。当時、64KBのメモリ空間は1つのプログラムにとっては十分に広大であり<ref>参考までに、初代IBM PCはRAM 64KB(16KBモデルもあったが売れず)、初代NEC PC-9801はRAM 128KBだった。</ref>、セグメント機構はマルチタスクのために用意された{{要出典|date=2020-11-02}}。(8086には保護がないので、アプリケーションがセグメントレジスタを操作できるが、本来はOSが操作するものである。) 内蔵する4本のセグメントレジスタの値を全て同一にすると、8ビットの8080と同等の環境となり、8080用ソースを8086へ移植するのが容易であるほか、実行バイナリのリロケータブル化が容易であるといったメリットもあった。
しかし、8086や、その互換品・後継品がロングセラーになって使われ続けた結果、より大規模なプログラムが作られる様になると、64KBのメモリ空間は狭くなってしまい、アプリケーションのプログラムが自力でセグメントレジスタを操作して64KB以上のメモリ空間にアクセスする手法が用いられるようになった。しかし、頻繁にセグメントレジスタを操作することはプログラムを煩雑にし、実行時のオーバーヘッドも増えるため、プログラマからは非常に嫌われた。
後に批判の的となってしまったセグメント方式だが、互換性を重視しつつ開発が短期間で完了でき、かつコストパフォーマンスに優れた選択肢であった。これは、当時[[モトローラ]]と激しいシェア争いを演じていたintelにとって極めて重大な要素だった。
メモリ空間を1MBとしたのは、当時使われていた40DIPパッケージにアドレス・データバスを割り当てる際に、アドレスピンを効率良く増やして割り当てられる値であったとも言われる。
また、より大容量のアプリケーションを担い、高性能を発揮する次世代のプロセッサとしては、当時計画中であった32ビットCPU、[[Intel iAPX 432|iAPX432]]を充てる事が考えられていた。当初、8086は8ビットアーキテクチャから次世代のiAPX 432プロセッサへのつなぎとして考えられていたため、後に大規模な拡張を行う事は一切考えられていなかった<ref>ティム ジャクソン著 翔泳社刊 「インサイド インテル」より。</ref>。
演算に使えるレジスタが限定的だったり、メモリを直線的に使うのが面倒等の問題があったものの8080とのソースレベルでの互換性を重視し、既存の8080環境や[[CP/M]]などのアプリケーションの移植、プログラマの移行などにも積極的であったことから、[[IBM PC|IBM-PC]]へ採用され、現在のx86アーキテクチャの商業的な成功へとつながったと評価されている。
ハードウェア的には、供給クロックの[[デューティ比]]が1:2になっている。クロックジェネレータi8284に3倍のクロックを供給し、それを3分周することにより1:2のクロックを得る。<ref name=oki>[[沖電気工業|沖電気]]製MSM80C86A-10(10MHz版)は1:1になっているなど、セカンドソースのメーカやクロック周波数によっては異なる場合もある。なお、インテルのi8086-1(10MHz版)では1:2である。</ref>
== プログラミングモデル ==
[[C言語]]から生成されたプログラムにおいて、コードとデータのそれぞれで、デフォルトのアクセスをセグメント内のオフセットのみとするか、セグメントも併用してアクセスするか、の違いにより「コード・データともセグメント内」「コードのみセグメント内」「データのみセグメント内」「コード・データともセグメント併用」といったパターンが存在し、ライブラリ等はそれぞれ異なるものを使うため煩雑であった。デフォルトでないアドレッシングには、ポインタに <code>far</code> や <code>near</code> という修飾を付ける。プログラミングモデルあるいはメモリモデル等ともいう。
詳細は以下の通り。
; Tiny
: コードセグメントとデータセグメントが共通で、両者合わせて64Kバイト以内。拡張子が"COM"の実行ファイルがこのモデルである。
; Small
: コードセグメント、データセグメントのどちらも64Kバイト以内。
; Compact
: コードセグメントは64Kバイト以内、データセグメントはfarポインタ。コードは小さいが、扱うデータが大きいときに用いられる。
; Medium
: コードセグメントはfarポインタ、データセグメントは64Kバイト以内。コードが大きくても、扱うデータが小さい場合に利用される。
; Large
: コードセグメント、データセグメントのどちらもfarポインタ。変数(配列)のサイズは64Kバイトに制限される。
; Huge
: 基本的にLargeと同じだが、配列などのメモリオブジェクトのサイズが64Kバイトに制限されない。
効率などの理由から、コンパイルはSmallモデルとし、必要に応じて明示的にセグメント操作をプログラマが指示する(適宜farまたはhugeポインタを使用し、また動的なメモリ確保によって64KBの制限を超える)ような作りのプログラムも多い。
== データバスについて ==
8086の外部データバスは16ビットであるが、アドレッシングは8ビット単位で行われ、データバスの下位8ビットが偶数アドレス、上位8ビットが奇数アドレスとなる。
8086でシステムを構築する上で、従来からある8ビットCPU用の周辺チップ({{仮リンク|8251|en|intel_8251}}、[[Intel 8255|8255]]、{{仮リンク|8237|en|intel_8237}}、[[Intel 8259|8259]]など)が多用されたが、これらのデータバスは8ビットであるため、8086に接続するには、8086のデータバスの上位もしくは下位8ビットのどちらかに接続することになった。
そのため、このような構成では、8086 CPUから見ると、周辺チップの連続するレジスタが偶数アドレスもしくは奇数アドレスのみにとびとびに割り当てられる格好となる。
[[PC-9800シリーズ]]では実際に上記のような構成になっており、I/Oマップが偶数アドレスと奇数アドレスで分断されている。
一方、外部データバスが8ビットの[[Intel 8088|8088]]を採用した[[IBM PC]]ではそのようなことはなく、8ビットの周辺チップは連続したアドレスに存在する。XTバスの拡張カードにより増設した機器も同様である。
そのため、後に[[PC/AT]]で16ビットの[[Industry Standard Architecture|ISA]]を採用した際に、8ビットの周辺機器をサポートするために[[バス・サイジング]]の必要性が生じた。
また、PC-9800シリーズでも、[[PCカード]]のモデムなど、IBM PCシリーズ用に開発された8ビットの周辺機器をサポートする際に、バス・サイジングの必要性が生じた。
== 記念品 ==
のちの[[2018年]]には、8086発売40周年を記念して、当時最新の[[Coffee Lakeマイクロアーキテクチャ]]に基づく[[Intel Core i7|Core i7-'''8086'''K]]を、限定品として発売している。Core i7-8086Kの最大周波数はインテルのCPUとしては初めて5GHzに達し<ref>[https://japan.cnet.com/article/35120352/ インテル「8086」発売40周年、限定版CPU「Core i7-8086K」を発表] CNET Japan、2018年6月6日(2020年6月14日閲覧)。</ref>、8086のちょうど1000倍となっている<ref>[https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/sp/1126327.html Core i7-8086K Limited Editionは50年のIntel史上最強のゲーミングCPU!?] AKIBA PC Hotline!、2018年6月8日(2020年6月14日閲覧)。</ref>。
== 脚注 ==
<references />
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
| author= 田辺皓正編著
| title= マイクロコンピュータシリーズ15 8086マイクロコンピュータ
| year=1983
| date=1983-4-30
| publisher=[[丸善株式会社]]|isbn =
|ref={{Sfnref |8086マイクロコンピュータ |1983}}}}
== 関連項目 ==
*[[日本電気|NEC]] [[NEC Vシリーズ#V30|V30]] - 8086ピン互換で、80186上位互換の独自命令セットを持つ互換製品。
*[[Intel 80186]] - 周辺ICを統合した組み込み向け製品。
*[[Intel 80286]]
*[[Intel 80386]]
*[[x86-32]]
*[[x86-64]]
{{Intel_processors}}
{{Normdaten}}
[[Category:インテルのx86マイクロプロセッサ|8086]] | null | 2022-07-12T04:29:07Z | false | false | false | [
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"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Intel_8086 |
2,710 | Intel 8088 | Intel 8088(インテル 8088、i8088)は、インテルの16ビットマイクロプロセッサ(CPU)。1979年1月に発表された。
i8086の外部データバスを16ビットから8ビットに変更し、命令プリフェッチキューを6バイトから4バイトに縮めた。マイクロプロセッサとしては最大1MBのメモリを接続可能。初代IBM PCには4.77MHz駆動のi8088が採用され、メモリは256KBまで増設できた(システムボードで64kB、IO拡張用スロットで192KB)。
外部バスが8ビットであることから、ハードウェア面では8ビットCPUとして扱われることもある。IBM PCおよびPC/XTの拡張バス(XTバス、後の8ビットISAバス)のデータバスが8ビットであるのも、i8088を採用したことによる。
IBM社内のエンジニアはモトローラのMC68000を使うことを希望しており、IBM Instruments 9000 Laboratory Computerに搭載された。IBMはインテルとの間でバブルメモリの権利と交換に8086ファミリーを製造する権利を所有していた。8ビットのi8088を採用した理由は、i8085用の既存ペリフェラルコンポーネントを利用でき、i8085用の設計を流用してコンピュータを製造できたためである。メモリと入出力に関する制御信号である IO/Mは、メモリ・アクセス時にローレベルとなり、IOアクセス時にハイレベルとなることから、8ビットマイクロプロセッサであるi8080/i8085と互換性を保っている。一方でMC6800用のペリフェラルコンポーネントはあったがMC68000用のペリフェラルコンポーネントは当時はまだなかった。インテルのバブルメモリはしばらくの間生産されたが、コストダウンに強い日本の競合企業により市場を追われ、メモリ市場を撤退しCPU市場へ方針転換した。
なおi8085を搭載したシステムのCPUをi8088に置き換えるにはそれなりの設計変更が必要だったが、i8088を搭載したシステムでは設計を変更することなくCPUを日本電気のV20に置き換えることにより約20%ほど高速化することができた。 | [
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] | Intel 8088は、インテルの16ビットマイクロプロセッサ(CPU)。1979年1月に発表された。 | {{Infobox CPU
| 名称 = 8088
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| 画像の説明 =
| 生産開始 = 1979年
| 生産終了 = 1998年
| 生産者 = [[Intel]], [[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]], [[NEC]], [[富士通]], [[:en:Harris_Corporation|Harris]] ([[インターシル]]), [[沖電気工業|OKI]], [[シーメンス]], [[テキサス・インスツルメンツ]], [[三菱電機|三菱]]
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| コードネーム =
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'''Intel 8088'''(インテル 8088、i8088)は、[[インテル]]の[[16ビット]][[マイクロプロセッサ]]([[CPU]])。[[1979年]]1月に発表された。
== 概要 ==
[[Intel 8086|i8086]]の外部[[データバス]]を16ビットから[[8ビット]]に変更し、[[プリフェッチ|命令プリフェッチキュー]]を6バイトから4バイトに縮めた{{Sfn|田辺|1983|p=10}}。マイクロプロセッサとしては最大1MBのメモリを接続可能。初代[[IBM PC]]には4.77MHz駆動のi8088が採用され、メモリは256KBまで増設できた(システムボードで64kB、IO拡張用スロットで192KB){{Sfn|田辺|1983|p=255}}。
外部バスが[[8ビット]]であることから、[[ハードウェア]]面では8ビットCPUとして扱われることもある。[[IBM PC]]およびPC/XTの拡張バス([[XTバス]]、後の8ビットISAバス)のデータバスが8ビットであるのも、i8088を採用したことによる。
[[IBM]]社内のエンジニアは[[モトローラ]]の[[MC68000]]を使うことを希望しており、IBM Instruments 9000 Laboratory Computerに搭載された。IBMはインテルとの間で[[バブルメモリ]]の権利と交換に8086ファミリーを製造する権利を所有していた。8ビットのi8088を採用した理由は、[[Intel 8085|i8085]]用の既存ペリフェラルコンポーネントを利用でき、i8085用の設計を流用してコンピュータを製造できたためである。メモリと入出力に関する制御信号である IO/<span style="text-decoration:overline">M</span>は、メモリ・アクセス時にローレベルとなり、IOアクセス時にハイレベルとなることから、8ビットマイクロプロセッサである[[Intel_8080|i8080]]/i8085と互換性を保っている{{Sfn|田辺|1983|p=24-25}}。一方で[[MC6800]]用のペリフェラルコンポーネントはあったがMC68000用のペリフェラルコンポーネントは当時はまだなかった。インテルのバブルメモリはしばらくの間生産されたが、コストダウンに強い[[日本]]の競合企業により市場を追われ、メモリ市場を撤退しCPU市場へ方針転換した。
なお[[Intel 8085|i8085]]を搭載したシステムのCPUをi8088に置き換えるにはそれなりの設計変更が必要だったが、i8088を搭載したシステムでは設計を変更することなくCPUを[[日本電気]]の[[NEC Vシリーズ|V20]]に置き換えることにより約20%ほど高速化することができた。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
| author= 田辺皓正編著
| title= マイクロコンピュータシリーズ15 8086マイクロコンピュータ
| year=1983
| date=1983-4-30
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[[Category:インテルのx86マイクロプロセッサ|8088]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Intel_8088 |
2,711 | Intel 8087 | Intel 8087は、インテルの16ビットCPU、i8086およびi8088のために用意されていた数値演算コプロセッサ。インテル製としては初の数値演算コプロセッサである。8087を装着することによって、プログラムの処理内容にもよるが、20% - 500%の性能改善が期待できた。
8086は数値演算に関して、整数演算命令しか備えていないため、8086だけで浮動小数点演算を行うには別途ライブラリを用意する必要があった。8087を8086の搭載されたコンピュータに装着すると、IEEE 754形式の浮動小数点計算の命令をあたかもひとつのCPUで実行しているかのように使うことができるようになる。8087は8086と共通のバスに接続され、8086の実行する命令を常時監視する。8086では無効命令 (ESC) となる浮動小数点計算の命令を検出すると、8086側で発生する適切なアドレスモードにより追加OPコードおよびオペランドを自身内部にロードし、浮動小数点命令を処理する。8087によって新たに利用できる命令はFADD(加算命令)やFMUL(乗算命令)など68個。8087は8086が命令実行中でも独立して動作することができるが、8087の命令実行が完了してから次の命令を実行させないと誤動作する。それを回避するため8086には、8087の命令実行完了を待つWAIT命令がある。既出のFADDやFMULなどの前にはWAIT命令が必要となる。
8087などのインテル製の数値演算コプロセッサ (x87) は、AX - DXのようにプログラマが随時指定できる汎用レジスタではなく、8レベルの80ビット浮動小数点レジスタスタックを持ち、演算命令はスタックトップの1つまたは複数の値を対象として、結果もスタックトップに残し、ロード・ストアも原則的にスタックトップに対して行うスタックマシンである。
同社が8087を設計した当時、将来の浮動小数点形式の標準となることを目指していた。実際、IEEE 754のx86向け実装の標準となることができた(厳密にはIEEE 754と8087/80287の実装の間には非互換部分が存在する)。8087を使うと、7種類のデータ型、つまり、32もしくは64ビットの浮動小数点データ型を利用でき、内部演算には長大で複雑な演算の誤差を少なくするために80ビットのデータ型を使っていた。その他、80ビットのうちの72ビットを使った18桁のBCDデータ型と16、32、64ビットの整数型を利用できた。
1980年に発表された8087は、80287、80387DX (80387SX)、80487SXへと発展していった(ただし80487は実質的に80486DXと等価であり、実装されると80486を停止させすべての処理を80487が行うため、コプロセッサと呼ぶのは正しくない)。1980年代に「x87」といえばこの拡張コプロセッサシリーズを差し、さらに「x87命令」といえばこのコプロに搭載された浮動小数点演算などの命令を指した。しかし80486DXやそれ以降のPentiumなどではCPUコア内にコプロセッサが内蔵されるようになったため(命令は外部プロセッサ時代と共通)、現在ではそれら内蔵の演算ユニットを指して「x87」と言うことがある。Pentium以降のCPUでも内蔵されてはいるが、AMD64アーキテクチャでは浮動小数点演算にx87ではなくSSE/SSE2が基本命令として使われるようになった。x87の存在を前提に書かれたプログラムの互換性維持のため、CPUメーカーによるx87命令のサポートは続いている。
日本電気 (NEC) のPC-9801、PC-100(京セラOEM)やIBM PCなど、8086を搭載したコンピュータの多く(アイ電子機器ai-M16、日立MB-16001、キヤノンAS-100、三菱電機Multi-16、N5200モデル05、精工舎 SEIKO 9500、三洋電機 MBC-5030、東京芝浦電気PA 7020、日本ユニバック UP10Eモデル40など)には、8087を挿すことができるソケットが用意されていた。 | [
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'''Intel 8087'''は、[[インテル]]の[[16ビット]][[CPU]]、[[Intel 8086|i8086]]およびi8088のために用意されていた[[FPU|数値演算コプロセッサ]]。インテル製としては初の数値演算コプロセッサである。8087を装着することによって、プログラムの処理内容にもよるが、20% - 500%の性能改善が期待できた。
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8086は数値演算に関して、整数演算命令しか備えていないため、8086だけで[[浮動小数点演算]]を行うには別途[[ライブラリ]]を用意する必要があった。8087を8086の搭載されたコンピュータに装着すると、[[IEEE 754]]形式の浮動小数点計算の命令をあたかもひとつのCPUで実行しているかのように使うことができるようになる。8087は8086と共通のバスに接続され、8086の実行する命令を常時監視する。8086では無効命令 (ESC) となる浮動小数点計算の命令を検出すると、8086側で発生する適切なアドレスモードにより追加OPコードおよびオペランドを自身内部にロードし、浮動小数点命令を処理する。8087によって新たに利用できる命令はFADD(加算命令)やFMUL(乗算命令)など68個。8087は8086が命令実行中でも独立して動作することができるが、8087の命令実行が完了してから次の命令を実行させないと誤動作する。それを回避するため8086には、8087の命令実行完了を待つWAIT命令がある。既出のFADDやFMULなどの前にはWAIT命令が必要となる<ref name="pc98-sys-analy-01">{{Cite book
|和書
|author=浅野泰之、壁谷正洋、金磯善博、桑野雅彦
|title=PC-9801システム解析(下)
|chapter=第5章 8087(数値演算プロセッサ)
|date=1983年12月1日
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8087などのインテル製の数値演算コプロセッサ ([[x87]]) は、AX - DXのようにプログラマが随時指定できる汎用レジスタではなく、8レベルの80ビット浮動小数点レジスタスタックを持ち、演算命令はスタックトップの1つまたは複数の値を対象として、結果もスタックトップに残し、ロード・ストアも原則的にスタックトップに対して行う[[スタックマシン]]である。
同社が8087を設計した当時、将来の浮動小数点形式の標準となることを目指していた。実際、IEEE 754のx86向け実装の標準となることができた(厳密にはIEEE 754と8087/80287の実装の間には非互換部分が存在する)。8087を使うと、7種類のデータ型、つまり、32もしくは64ビットの浮動小数点データ型を利用でき、内部演算には長大で複雑な演算の誤差を少なくするために80ビットのデータ型を使っていた。その他、80ビットのうちの72ビットを使った18桁の[[二進化十進表現|BCD]]データ型と16、32、64ビットの整数型を利用できた{{Sfn |16-bit_ucom |1983 |p=87}}。
1980年に発表された8087は、[[Intel 80287|80287]]、[[Intel 80387|80387]]DX (80387SX)、[[Intel 487|80487SX]]へと発展していった(ただし80487は実質的に80486DXと等価であり、実装されると80486を停止させすべての処理を80487が行うため、コプロセッサと呼ぶのは正しくない)。1980年代に「x87」といえばこの拡張コプロセッサシリーズを差し、さらに「x87命令」といえばこのコプロに搭載された浮動小数点演算などの命令を指した。しかし80486DXやそれ以降の[[Pentium]]などではCPUコア内にコプロセッサが内蔵されるようになったため(命令は外部プロセッサ時代と共通)、現在ではそれら内蔵の演算ユニットを指して「x87」と言うことがある。Pentium以降のCPUでも内蔵されてはいるが、[[x64#AMD64|AMD64]]アーキテクチャでは浮動小数点演算にx87ではなく[[ストリーミングSIMD拡張命令|SSE]]/SSE2が基本命令として使われるようになった。x87の存在を前提に書かれたプログラムの互換性維持のため、CPUメーカーによるx87命令のサポートは続いている。
[[日本電気]] (NEC) の[[PC-9800シリーズ|PC-9801]]、[[PC-100]]([[京セラ]][[OEM]])や[[IBM PC]]など、8086を搭載したコンピュータの多く(アイ電子機器ai-M16、日立[[ベーシックマスター#ベーシックマスター16000|MB-16001]]、キヤノンAS-100、三菱電機[[MULTI 16シリーズ|Multi-16]]、[[N5200]]モデル05、[[精工舎]] SEIKO 9500、[[三洋電機]] MBC-5030、[[東京芝浦電気]]PA 7020、[[日本ユニバック]] UP10Eモデル40など){{Sfn |16-bit_ucom |1983 |p=281-284}}には、8087を挿すことができるソケットが用意されていた。
== 関連項目 ==
* [[逆ポーランド記法]]
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== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* Intel, 1989 Intel Microprocessor and Peripheral Handbook_Vol_1, 1989, ISBN 1-55512-041-5
* Intel, 80387 Programmers Reference Manual 1987, 1987, ISBN 1-55512-057-1 (Appendix C に IEEE 754 仕様と 8087/287 の非互換部の説明がある)
* {{Cite book|和書
| author= 田辺皓正編著
| title= マイクロコンピュータシリーズ15 8086マイクロコンピュータ
| year=1983
| date=1983-4-30
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[[Category:インテルのマイクロプロセッサ|8087]] | null | 2023-06-21T03:08:42Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Intel_8087 |
2,714 | 冥王星 | 冥王星(めいおうせい、134340 Pluto)は、太陽系外縁天体内のサブグループ(冥王星型天体)の代表例とされる、準惑星に区分される天体である。1930年にクライド・トンボーによって発見され、2006年までは太陽系第9惑星とされていた。しかし他の8惑星と比べて離心率のある軌道と黄道面から傾いた軌道傾斜角を持つ。直径は2,370キロメートル であり、地球の衛星である月の直径(3,474キロメートル)よりも小さい。冥王星の最大の衛星カロンは直径が冥王星の半分以上あり、それを理由に二重天体とみなされることもある。
1930年、天文学者クライド・トンボーはローウェル天文台で第9惑星を探すプロジェクトに取り組んでいた。トンボーは、当時最新の技術であった天体写真を用いて、空の同じ区域の写真を数週間の間隔を空けて2枚撮影し、その画像の間で動いている天体を探すという方法で捜索を行った。撮影した膨大な写真を丹念に精査した結果、トンボーは1930年2月18日に、同年1月23日と1月29日に撮影された写真乾板の間で動いていると思われる天体を見つけた。それだけでなく、1月20日の写真も質は悪かったが動きを確認するのには役立った。ローウェル天文台はさらに確証的な写真を得るよう努力したあと、発見の報を1930年3月13日にハーバード大学天文台へ電報で送った。のちに冥王星の写真は1915年3月19日までさかのぼって見つかった。このような経緯から発見日は一般に1930年2月18日とされているが、小惑星センターに登録された一覧上では発見日は同年1月23日とされている。
冥王星が発見されるまでの歴史は、海王星の発見および天王星の存在と密接に結びついている。1840年代、ユルバン・ルヴェリエとジョン・クーチ・アダムズはニュートン力学を用いて、天王星の軌道における摂動の分析から、当時未発見の惑星だった海王星の位置を正確に予測した。摂動はほかの惑星から重力で引かれることで起こるということが理論化され、ヨハン・ゴットフリート・ガレが海王星を1846年9月23日に発見した。
天文学者たちは19世紀後半の海王星の観測から、天王星の軌道が海王星に乱されていたのと同じように、海王星の軌道もまたほかの未発見の惑星(「惑星X」)によって乱されていると推測し始めた。1909年までに、ウィリアム・ヘンリー・ピッカリングとパーシヴァル・ローウェルは、そのような惑星が存在する可能性のある天球座標をいくつか提唱した。1911年5月には、インド人の天文学者ヴェンカテシュ・ケタカルによる、未発見の惑星の位置を予測した計算がフランス天文学協会の会報で公表された。
パーシヴァル・ローウェルは冥王星の発見に関して重大な影響があった。1905年、ローウェル天文台(ローウェルが1894年に設立した)は、存在するかもしれない第9惑星を捜索する一大プロジェクトを開始した。プロジェクトはローウェルが1916年に死去するまでの11年間続けられた。ローウェルの死後、彼の遺産である天文台をめぐるローウェルの妻との10年にも及ぶ法廷闘争によって、惑星Xの探索は1929年に再開されるまでの間一度も実施されなかった。1929年に当時の天文台長ヴェスト・スライファーがトンボーにこの仕事を預け、1930年の発見に至った。
皮肉にも、捜索のきっかけとなった海王星の軌道の摂動の原因となるには、冥王星はあまりにも小さすぎた。19世紀に天文学者が観測した海王星の軌道の計算との食い違いは、海王星の質量の見積もりが正確でなかったことが原因だった。いったんそれが分かると、冥王星が非常に暗く、望遠鏡で円盤状に見えないことから、冥王星はローウェルの考えた惑星Xであるという考えに疑問の目が向けられた。ローウェルは1915年に惑星Xの位置を予測しており、これは当時の冥王星の実際の位置にかなり近かった。しかし、アーネスト・ウィリアム・ブラウンはほとんど即座にこれは偶然の一致だと結論づけ、この見方は今日でも支持されている。したがって、冥王星がピッカリング・ローウェル・ケタカルの予測した領域の近くにあったことがただの偶然にすぎないことを考慮すると、トンボーが冥王星を発見したことはさらに驚くべきことになる。
発見された新天体を命名する権利は、ローウェル天文台と所長のスライファーにあった。名前の提案は世界中から殺到すると考えられ、トンボーは他の誰かに提案される前に早く新天体の名前を提案するようにスライファーをせきたてた。ローウェルの妻コンスタンスは、「ゼウス (Zeus)」、次いで「パーシヴァル(Percival)」、さらに「コンスタンス(Constance)」を提案したが、どれも支持は得られなかった。
「プルート(Pluto)」という名前を最初に提案したのは、イングランド・オックスフォード出身で当時11歳の少女・ヴァニーシア・バーニーである。天文学と同じぐらいローマ神話とギリシア神話にも興味があった彼女は、オックスフォード大学のボドレアン図書館 で以前司書をしていた祖父ファルコナー・マダンとの会話の中で、ギリシア神話のハデスに対応するこの名前「Pluto」を選び、それを提案した。プルート(プルートー)とはローマ神話に登場する冥府の王である。マダンはこの提案をハーバート・ターナー教授に伝え、ターナーはこの提案をさらにアメリカにいた同僚に電報で送った。
1930年3月24日、ローウェル天文台のメンバーにより、ミネルヴァ (Minerva)・クロノス(Cronus)・プルート(Pluto)の3つの候補への投票が行われた。同じ名前の小惑星があることが指摘されるまではミネルヴァが最有力と思われたが、最終的にプルートが満場一致で選ばれ、正式に「Pluto」と命名された。「Pluto」の最初の2文字がパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)のイニシャルであることもプルートに有利に働いた。この名前は1930年5月1日にローウェル天文台から公表された。
日本語名の「冥王星」は、日本人の野尻抱影がPlutoの訳語として提案した名称である。彼はこの名称を「幽王星」というもうひとつの候補とともに雑誌科学画報の1930年10月号に紹介した。この名称は京都天文台ではすぐに採用されたが、東京天文台(現・国立天文台)では英語のままの「プルートー」が用いられた(当時、東京天文台と京都天文台は異なる用語を用いていることがしばしばあった)。東京天文台が「冥王星」を採用したのは太平洋戦争中に外来語(カタカナ語)を禁止した1943年のことであった。
1933年には中国でも「冥王星」が使われ始め、現在では、中国語では日本語と同じ「冥王星(míngwángxīng)」が用いられている。
漢字をほぼ廃止した朝鮮語では、漢字で冥王星にあたる「명왕성(myeongwangseong)」を用いている。
漢字を完全に廃止したベトナム語では、ヒンドゥー教や仏教で地獄の守護神とされる閻魔にちなんで、漢字で「閻王星」にあたる「Diêm Vương Tinh」や、「閻王の星」にあたる「Sao Diêm Vương」などと呼ばれる。
インドでも閻魔(ヤマ)にちなみ「यम ग्रह(yam grah)」と呼ばれる。
最も一般的な冥王星の天文学におけるシンボル(惑星記号)はとである。天文学におけるシンボル(惑星記号)はPとLのモノグラムであるである。これは、パーシヴァル・ローウェルのイニシャルをも表している。冥王星の惑星記号は発見当時複数提案された。当時の天文学団体が採用した結果、上記の記号が大勢を占めるに至ったが、特に占星術においては別のシンボル()を好んで使う流派もある。このシンボルは海王星のもの()に似ているが、三叉の中央の尖った部分に円がある。惑星のシンボルはもはや天文学ではあまり使用されていない。
1930年に発見されて以来、「太陽系の9番目の惑星であり、外惑星のひとつである」とされてきた。しかし、1992年に冥王星以外の外縁天体が初めて発見されて以降、冥王星と似た大きさの外縁天体が続々と発見され始めた。その中でも2003年に撮影された写真の中から2005年に発見された2003 UB313は冥王星よりわずかに大きいと考えられた。このような太陽系研究の進展により、太陽系の研究者の間などで冥王星を惑星とみなすことへの疑問の声が広まった。そして、発見から76年後の2006年8月に開かれた国際天文学連合(IAU)総会で、それまで明確でなかった惑星の定義を定めるとともに、「dwarf planet(準惑星)」という分類を新たに設けることが採択された。この結果、冥王星はケレス、2003 UB313(分類と同時にエリスと命名)などとともに準惑星に分類された。また、冥王星を外縁天体の「新しい下位分類のプロトタイプ」とすることも決定され、2008年6月にその分類の名称を「plutoid」とすることが確定した(日本学術会議では2007年4月9日の対外報告(第一報告) において「冥王星型天体」という日本語名称を推奨していた)。再分類されたあと、冥王星は小惑星の一覧に記載され、小惑星番号134340番が与えられた。
これらの結果として冥王星は、「太陽系外縁天体として最初に発見されたもの」という位置づけとなった。→#惑星としての地位をめぐる論争
2015年7月14日にニュー・ホライズンズが最接近し、詳細な観測を行った。一部判明した観測データは公表されたが、詳細は数多くの天文研究者および天文愛好家によって現在解析中である。
冥王星の見かけの等級は14等級以下であり、肉眼で観察することは不可能である。したがって観測には望遠鏡が必要となる。冥王星を容易に見るためには、望遠鏡の口径は約30センチ以上が望ましい。非常に巨大な望遠鏡で観測しても、冥王星の角直径はわずか0.15′′しかないため、恒星と同じように点状に見える。冥王星の色はごくわずかに黄色がかった明るい茶色である。
衛星カロンが発見されたことにより、冥王星は最初の推定よりもずっと小さいことが明らかになり、必然的に冥王星のアルベド(光を反射する度合い)の見積もりは上方修正されることとなった。現在の推定では、冥王星のアルベドは、かなり高いアルベドを持つ金星よりもわずかに低い程度だと考えられている。
冥王星の距離が非常に遠く、望遠鏡の技術にも限界があるため、現在でも地球から冥王星の表面の詳細な写真を直接的に得ることは不可能である。探査機ニュー・ホライズンズが2015年に最接近して直接撮影されるまでの間は、ハッブル宇宙望遠鏡が撮影した画像から、表面の明暗や模様などがわずかに分かる程度であった。
1985年から1990年にかけて、カロンによる冥王星の食(掩蔽)が地球から観測できる位置関係になったため、食の進行にともなう明るさの変化をスーパーコンピュータで処理することによって、地表の明るさの精密な分布地図が得られた。たとえば、冥王星上で明るい点が食されると、暗い点が食されたときよりも全体の明るさは大きく変化する。この技術を用いて、冥王星 - カロン系全体の平均の明るさとその変化を時間とともに追っていくことができた。最終的に2015年に最接近したニュー・ホライズンズから地球に送信された観測データにより詳細な地表が明らかになった。
冥王星の表面温度はマイナス230度で、メタンや窒素の氷で覆われている。
冥王星の直径と質量は発見後数十年間にわたって過大評価されていた。質量は地球に匹敵すると当初は考えられていたが、観測が精密になると大きく下方修正された。1978年に衛星のカロンが発見されたことにより、ケプラーの第3法則のニュートンの公式を適用して、冥王星 - カロン系の質量を確定することが可能になった。
冥王星は太陽系内のどの惑星よりも小さく、圧倒的に質量が少ない。冥王星の質量は地球の月の0.2倍以下であり、太陽系のほかの惑星には冥王星より質量が大きい衛星が7つもある。その7つの衛星は、ガニメデ、タイタン、カリスト、イオ、月、エウロパ、トリトンである。
もともと、冥王星は水星よりは大きく火星よりは小さいと考えられていた。冥王星のアルベドがほかの惑星に比べて高いうえに、カロンのアルベドを冥王星のそれに加算してしまっていたことが原因のひとつである(ハッブル宇宙望遠鏡の登場以前は、地上で冥王星とカロンを分離して観測できなかった)。実際には1つではなく2つの天体であると分かると、冥王星の大きさの見積もりは一気に小さくなった。その後、カロンによる冥王星の掩蔽の観測から冥王星の直径を決定することができるようになり、補償光学を用いた望遠鏡での観測により形状を決めることもできた。
冥王星は太陽系外縁天体の中では直径が最大である。2003年に発見された太陽系外縁天体のエリスは発見当時は冥王星よりも大きいとされていたがことがあったが、現在考えられている直径では冥王星よりも小さい。2015年7月14日、NASAは探査機ニュー・ホライズンズによる測定で、冥王星の直径を2,370キロメートル、衛星カロンの直径を1,208キロメートルと発表した。
冥王星ははっきりとした濃い大気は持っていない。詳細は下記に述べる。
太陽に近づくと、おもに窒素、メタン、一酸化炭素からなる希薄な大気が冥王星を包み、表面にある固体の窒素や一酸化炭素の氷との間で平衡状態になる。冥王星が遠日点へと公転していき太陽から離れると、大気の大部分は凝固し、地表へと降下する。冥王星が再び太陽へ近づいていくと、冥王星の固体表面の温度が上昇し、固体窒素が昇華して気体となる。これが反温室効果をもたらす。この昇華する窒素は、人間の皮膚から蒸発する汗と同じように冷却効果を持つ。2006年にはサブミリ波干渉計を用いて、冥王星の表面温度が予想されていたよりも10ケルビン低いことが発見された。
1985年の恒星の掩蔽(恒星食)の観測から、冥王星は大気を持っているということが分かった。この発見は1988年に起きた別の掩蔽の詳細な観測により確認され、著しく補強された。大気を持たない天体が恒星を掩蔽すると、恒星は瞬間的に消える。冥王星の場合、恒星は徐々に暗くなっていった。暗くなっていく割合から、冥王星の大気圧は、地球のおよそ70万分の1の0.15パスカルと分かった。
2002年には、冥王星による別の恒星の掩蔽の観測と分析が、パリ天文台 のブルーノ・シカルディ、マサチューセッツ工科大学(MIT) のジム・エリオット、ウィリアムズ大学 のジェイ・パサチョフが率いるチームによって行われた。冥王星が1988年よりも太陽から遠ざかっており、したがって冥王星はより気温が下がり大気濃度も減少しているはずだったが、驚くべきことに大気圧は従来の2倍の0.3パスカルと推定された。21世紀初頭現在、最有力な仮説は、冥王星の南極が1987年に120年ぶりに影から出たため、窒素が余分に極冠から昇華したという説である。過剰の窒素が大気から凝縮するには数十年がかかると考えられている。
MITとウィリアムズ大学のエリオットとパサチョフのチームと、レスリー・ヤング率いるサウスウエスト研究所のチームは、2006年6月12日に起きた冥王星によるさらに別の恒星の掩蔽をオーストラリアから観測した。
冥王星の光度曲線、ハッブル宇宙望遠鏡の観測を元に作成された表面の地図、赤外線スペクトルの周期的な変化などから明白に分かるように、冥王星の表面は不均一かつ不安定である。冥王星の表面のうちカロンに向いた側はメタンの氷が多く、反対側(トンボー地域)は窒素と一酸化炭素の氷が多い。また、1999年、すばる望遠鏡は冥王星から固体のエタンに特徴的な吸収線をとらえることに成功した。
また、地下に液体の水で出来た内部海を持っている可能性が示唆されており、冥王星の内部海とそれを覆う分厚い氷の間にメタンハイドレートが存在すると、メタンハイドレートが効率的な断熱材として機能して内部の熱を逃がさず、その結果、表面は極寒でも内部海は凍結しないことが研究によって明らかになった。
冥王星の軌道は太陽系の惑星と比較すると異質である。惑星は黄道面と呼ばれる仮想の平面にかなり近い面を公転しており、軌道の形は真円に近い。対照的に、冥王星の軌道は黄道面から約17°ほど傾いており、離心率は8惑星の中でも突出している水星より大きい(数学的には真円ではなく楕円である)。軌道が傾いているため、冥王星の近日点は黄道面から北側に8.7 auほどずれた位置にある。また冥王星族であるため海王星の軌道が比較的近くにあり、冥王星はその離心率によって軌道の一部は海王星よりも太陽の近くに入り込んでいる。
近日点の近くでは、冥王星は海王星よりも太陽に近くなる。直近でこの現象が起こったのは1979年2月7日から1999年2月11日までである。数学的な計算によると、この現象は前回は1735年7月11日から1749年9月15日まで続いた。同様の計算から、そのさらに前の回は1483年4月30日から1503年7月23日までだったことが分かっており、この期間の長さはほとんど1979年から1999年までの期間の長さと等しい。冥王星が海王星の内側に入り込む期間は、微妙な変化はあるものの、約13年間と約20年間のものが交互に訪れると考えられている。
冥王星と海王星とは、隣り合わせの天体であるため、特有の関連性が見られる。
冥王星の軌道は海王星の軌道と「交差している」と言われることがよくある。しかし実際は、冥王星の軌道の交点(軌道が黄道面と交差する点)は両方とも海王星の軌道の外側にあり、距離にして6.4au(すなわち、地球と太陽の間の距離の6倍以上、太陽と木星間の距離以上)も離れている。そのうえ、これらの天体は軌道共鳴状態にあるために、冥王星が2回公転する間に海王星は正確に3回公転する。このため、海王星と冥王星の軌道がもっとも近づいているところに海王星が達したとき、冥王星は軌道上ではるかに後ろにあり、代わって冥王星がその点に到達したときには、海王星は軌道上で50°以上も前方にあることになる。冥王星がもう1公転してこの点に到達したときには、海王星は軌道上で半周近く離れたところにある。その結果として、冥王星は軌道上のこの点では海王星の30au以内には決して近づかないことになる。
実際に海王星と冥王星がもっとも接近するのは、軌道上のほぼ反対側であり、冥王星が遠日点を通過して(前回の遠日点通過は1866年)から約30年後に海王星が冥王星に追いつく(海王星と冥王星の遠日点経度は似通っている)。距離が最小になったのは1896年6月のことで、18.9auまで近づいた。言い換えると、冥王星は土星にもっとも近づいたときよりも海王星に近づくことは決してないということである。
冥王星の軌道は海王星の軌道と3:2の軌道共鳴状態にある。海王星が冥王星に背後から近づくと、相互の重力によって互いにわずかに引かれ始め、トロヤ点を生じるような軌道上の同じ配列の間で相互作用する結果になる。軌道が歪んでいるため、3:2の比で軌道共鳴しているということは、海王星が常に冥王星と遠く離れたところにあることになり好都合である。冥王星が軌道を半周すると、冥王星は海王星にもっとも近づき、一見すると海王星が冥王星を捕獲しそうに見える。しかし冥王星は太陽からの重力的加速により速度を上げ、海王星の前方に留まり、冥王星の軌道の反対側で再び出会うまで前方に引かれる。
1990年代以降、冥王星以外に太陽系外縁天体(TNO)が多数見つかり、その一部は海王星と3:2の軌道共鳴状態にあった。このような軌道共鳴状態にあるTNOは冥王星にちなんで冥王星族 と呼ばれている。
1936年、冥王星はトリトンとともに海王星の衛星として形成され、衛星同士の重力相互作用により海王星の引力圏から飛び出したものだという説が発表された。トリトンの逆行軌道と冥王星の起源を同時に説明しようと試みたものだったが、下方修正された冥王星の質量に基づくのちの研究では、このメカニズムで現在の冥王星やトリトンの軌道を説明することは力学的に困難なことが示され、仮説は否定された。現在では冥王星やトリトンは太陽を取り囲む原始惑星系円盤で形成され、上記の説とは逆にトリトンが海王星に捕獲されたという考えが支持されている。
エッジワース・カイパーベルトはすべての短周期彗星の供給源だと考えられており、冥王星も、ほかのエッジワース・カイパーベルト天体(外縁天体)と同様に、彗星が持つ一般的な特徴を持っている。太陽風によって冥王星の表面の物質はゆっくりと宇宙空間に吹き飛ばされており、これは彗星の場合と同様である。もし冥王星を太陽から十分近くに置けば、彗星のように尾が発達するだろうと考えられている。
冥王星には5つの衛星が発見されている。1978年には最初の衛星カロンが天文学者ジェームズ・クリスティーによって発見された。カロンは冥王星の7分の1の質量を持つ巨大な衛星で、冥王星 - カロン系はしばしば二重天体と表現される。
衛星の発見に関する公式発表はカロンのあと20年以上途絶えていたが、2005年に小さい2つの衛星ニクスとヒドラが、2011年にはより小さなケルベロスが、2012年にはさらに小さなステュクスが発見された。
また、衛星ではないが、(15810) 1994 JR1と呼ばれる準衛星を持つ。
冥王星は質量が小さく地球からの距離が非常に遠いため、探査機を送るには到達までの時間がかかる点、数多くの惑星や衛星を避けなければならない点、地球から遠ざかることによる操縦関連の遅延がある点、質量が小さいために地上に降りて観察するのが難しい点、経費が高額になる点などの困難さがある。1983年に火星を除く外惑星(冥王星を含む)が地球から見てほぼ同じ方向になることを利用して、これらの惑星を探査するグランドツアー計画が立案されたが、経費が莫大になることから中止され、計画を縮小してボイジャー計画となった。1977年に打ち上げられたボイジャー1号は方向姿勢を変えることで冥王星を訪れることもできたが、当時の制御チームは冥王星の探査よりも土星の衛星タイタンへの接近飛行の方を選んだため、冥王星への接近飛行はできない軌道になった。ボイジャー2号はもともと冥王星に接近するような軌道ではなかった。その後、NASAはプルート・カイパー・エクスプレス (Pluto Kuiper Express) ミッションを計画していたが、経費の増大や打ち上げロケットの開発の遅れなどのため、2000年に中止された。
初めて冥王星を訪れた探査機は、2006年1月19日14時00分(EST)に打ち上げられたNASAのニュー・ホライズンズである。探査機は木星の重力によりスイングバイを行い、2015年7月14日に冥王星に最接近した。冥王星の観測は最接近の5か月前から始まり、冥王星とすれ違い通り過ぎたあとは、冥王星と同じく太陽系外縁天体のひとつである2014 MU69への軌道へ入った。
ニュー・ホライズンズは、冥王星とその衛星カロンの全体的な地質と地形の特徴を明らかにし、表面の組成の地図を作成し、冥王星の薄い大気とそれが流出する割合を明らかにするための画像撮影装置と無線科学調査ツール、さらに分光器とその他の実験装置を含んだ遠隔操作機器を使用した。それだけでなく、冥王星とカロンの表面の写真撮影も行った。
打ち上げられてまもないころ、ニクスとヒドラの脱出速度が比較的小さいため、外縁天体との衝突で薄い塵の環が生じている可能性が団体関係者から指摘され、もしニュー・ホライズンズが飛行中にこのような環の中を通過すれば、探査機に損傷を与えたり機能停止させるような微小隕石によるダメージを受ける可能性が高まるという懸念が示されていた。
冥王星はほかの8つの惑星と比べると性質の違いが目立ち、1930年に発見した当時は明確な惑星の定義が定められていなかったため、少なくとも最初の太陽系外縁天体(TNO)である 1992 QB1 が発見された1992年以降、冥王星を公式に惑星と呼ぶべきかどうかをめぐり常にさまざまな議論や論争がなされてきた。1990年代後半以降同様の天体がさらに次々と発見され、賛否両論の論争はますます激しくなっていった。
冥王星は海王星までの8つの惑星と比較すると離心率や軌道傾斜角が大きいことから、1930年に発見された当初から「変わった惑星」だと考えられていた。発見されてからしばらくの間は地球と同じ程度からその数倍の質量を持つと推定されていたが、望遠鏡およびその観測技術の向上により実際はそれよりはるかに小さいことが明らかになり、組成や予想される起源から、太陽系外縁天体ではないかという意見が有力になっていった。また、冥王星の表面を覆う氷は彗星が持っている氷と同じ成分であることから、冥王星は太陽系を形成したときの微惑星の集合体だと考えられるようになった。このような研究の進展から、冥王星を惑星とみなすことに疑問を抱く声が高まっていった。
1990年代後半には、冥王星の惑星としての地位を見直す声がますます高まってきたが、国際天文学連合(IAU)は冥王星を惑星から外すことには消極的だった。1998年には番号登録された小惑星の数が1万に迫ってきたことから、冥王星を小惑星に再分類して小惑星番号10000番を与えてはどうかという声が上がった。しかしIAUは1999年2月3日、冥王星を外縁天体のリストに加えることは考えているが、冥王星の立場を変更する動きはまったくないとの声明を発表した。結局、小惑星番号10000番は普通の小惑星(ミリオストス)に与えられた。
冥王星を発見したクライド・トンボーは、1997年1月に死去する直前まで冥王星を惑星のままにしておくべきだと主張し続けていた。
1999年5月、ニューヨークのアメリカ自然史博物館で5人の専門家によるパネルディスカッションが開かれた。出席者のうち、デイヴィッド・レヴィとアラン・スターンは冥王星が惑星であり続けることを支持し、ブライアン・マースデンとマイケル・アハーンは惑星とカイパーベルト天体の両方に分類することを提案し、ジェーン・ルーは降格を主張した。当時、アメリカ自然史博物館ではローズ地球宇宙センターの建設とヘイデン・プラネタリウムの改築が行われており、それらが完成したあとの展示内容を決めるにあたってこのパネルディスカッションが参考にされた。
2000年2月、2つの施設は一般公開された。太陽系の仲間たちを紹介するコーナーでは、従来のように9個の惑星をただ内側から順番に並べるのではなく、小惑星や彗星なども含めて共通項を持つグループ(地球型惑星、小惑星帯、木星型惑星、カイパーベルト、オールトの雲)ごとに分けて展示していた。球形のプラネタリウム施設を取り巻く回廊に設けられた「宇宙のスケール」の10mの位置には4個の地球型惑星、その隣には4個の木星型惑星の模型があったが、冥王星(そして月や木星のガリレオ衛星など)の模型はなかった。
この展示は当初メディアに大きく取り上げられることはなかったが、2001年1月にニューヨーク・タイムズが「冥王星が惑星じゃない? そんなのニューヨークだけだ」と題して1面で特集すると激しい論争が起きた。ヘイデン・プラネタリウム所長ニール・ドグラース・タイソンのもとには、賛否両論の多数の手紙やメールとともに、全米各地の教師たちが行った「冥王星は惑星かどうか」を考えさせる授業の結果報告や子供達に書かせた作文(当初は「惑星だ」という意見が9対1で優勢だったが、年を追うごとに「惑星ではない」が増えていき、2006年の末には上記の比率が逆になっていたという)が届いた。
望遠鏡の技術が進歩し続けたことにより、21世紀にはさらに多くの太陽系外縁天体が発見できるようになり、その中には以下のように冥王星の大きさに匹敵するものもあった。
最後まで残った冥王星の特徴的な点は、巨大な衛星カロンと大気である。しかしこれらの特徴も、冥王星特有のものではないかもしれない。ほかにも多くの外縁天体が衛星を持っている。また、2003 UB313(エリス)のスペクトルからは表面の組成が冥王星と似ていることが示唆され、2005年9月には衛星も発見された(2006年9月にディスノミアと命名された)。外縁天体2003 EL61(のちのハウメア)は2つの衛星(ヒイアカ、ナマカ)を持ち、エリス、冥王星、2005 FY9(のちのマケマケ)に次いで4番目に大きな外縁天体である。
2006年8月14日からチェコのプラハで開かれたIAU総会で、惑星の定義を決めるための議論が行われた。当初提出された定義案に従うならば、冥王星が惑星として残るのに加えて冥王星の衛星カロン、小惑星ケレス、2003 UB313(エリス)が惑星とみなされ、惑星は12個となる。しかし、天文学者などから強い反対の声が噴出し、原案は大幅な見直しを余儀なくされた。結局、8月24日に採択された議決において「惑星」「準惑星 (dwarf planet)」、「太陽系小天体 (small Solar system bodies)」の3つのカテゴリが定義されることになった。
IAUは上記の定義の元で、それまでの9つの惑星のうち冥王星は惑星としての条件の3つ目を満たさないとして、惑星の総数を8つとするとともに冥王星を「dwarf planet」に再分類し、太陽系外縁天体内の新しいサブグループの典型例とみなすと決議した。サブグループの名称として提案されていた「plutonian objects」は否決された。
さらに、2006年9月7日、小惑星センター(MPC)は冥王星を正式に小惑星の一覧に加え、小惑星番号134340番を割り振った。IAU総会直前までに登録されていた小惑星の総数は13万4,339個で、この日同時に登録された2,224個の中でもっとも早く発見されたものであったことからこの番号になった。1999年からの7年間で、登録された小惑星の数は10倍以上に増えていた。冥王星に10000番を割り当てる提案が却下されて以降、20000番のヴァルナや50000番のクワオアーのように、外縁天体の中にはきりのいい番号が割り当てられたものもあったが、冥王星には結局平凡な番号が割り当てられることになった。
天文学会の中には、この再分類に対する抵抗もあった。NASAの冥王星探査機ニュー・ホライズンズの主任研究官アラン・スターンは、公然とIAUの決議を嘲笑し、「技術的な理由から、決議はお粗末なものだ」と述べた。スターンの主張は、地球、火星、木星、海王星はすべて軌道を小惑星と共有している ため、新しい定義ではこれらの惑星も惑星ではなくなるというものであった。しかしこの発言は、これらの4惑星を含む、軌道付近の天体を排除している8つの惑星を「明らかに我々の太陽系は含んでいる」とする彼自身の文章と矛盾する。スターンらの行動に対しては、冥王星の「価値が下がった(ようなイメージが広まる)」ことによる冥王星探査計画への予算面での影響を恐れたからだという見方もある。
マーク・サイクスは、1万人以上いるIAU会員のうち総会の出席者は2,000人あまり、最終日の議決に参加したのはわずか424人(賛成票が約9割という圧倒的多数ではあったが)だったことから、この決議は無効だという抗議の意見書を公表した。この意見書には304人の天文学者や惑星科学者が署名したが、その大半はアメリカ人だった。
一方、IAUを支持した者もいる。エリスを発見した天文学者マイケル・ブラウンは、「この馬鹿げたサーカスのような手続き全体を通して、何とか正しい答えに巡り合った。長い時間がかかった。科学者は、たとえ強い感情が絡むときであっても、最終的には自らの誤りを正すのだ」と語った。
一般大衆の間では、広範囲に及ぶメディア報道の中では受け取り方はさまざまであった。再分類を受け入れた者もいるが、IAUに冥王星の惑星復活を強く求めるインターネット上の請願によって決定を覆そうとした者もいる。カリフォルニア州議会下院(定数80名)には、IAUの「罪」の中でも特に「科学的に異端である説の主張」を非難する決議案が55名の議員により提出された。
冥王星は世界各国の人々に、太陽系の9つ目の惑星として長い間親しまれてきた。特に、冥王星を発見したクライド・トンボーがアメリカ人であったことから、冥王星は1930年の発見以降長い間、アメリカ人が発見した唯一の惑星とされ、発見当初からアメリカ人の誇りと思われてきた。ディズニーのキャラクターとして親しまれているプルートは、冥王星が発見された年に誕生しており、冥王星(プルート)から名前が取られたと考えられている。このこともあり、多くのアメリカ人は冥王星に特別な愛着を抱いてきた。アメリカ人のこのような強い愛着が、冥王星の立場が疑われ始めてからも、長らく議論を混乱させる一因にもなった。2006年に結局冥王星が準惑星に変更されることが決まると、多くの人々が困惑し、特にアメリカ人からは失望や落胆、不満の声が強く聞かれた。カリフォルニア工科大学やジェット推進研究所などがあるパサデナでは、惑星に扮した8人の科学者が冥王星の入った棺と1,500人以上の会葬者を伴って街を練り歩いた。
冥王星が惑星でなくなるきっかけを作ったのが、アメリカによる数々の華々しい天文学上の成果と、その結果出された「太陽系惑星12個案」だったことは皮肉である。
クライド・トンボーが後半生を過ごしたニューメキシコ州では2007年に、彼が生まれたイリノイ州では2009年に、それぞれ冥王星の発見が報告された3月13日を「冥王星の日」と定め、「州の上空を通っている間は、冥王星は惑星として扱われる」ことを決議した。ただし、冥王星が天の北極にもっとも近付くのは2193年だが、その時点でも赤緯は約23.5度であり、ニューメキシコ州(北緯31.2 - 37度)やイリノイ州(北緯36.9 - 42.4度)の上空を通ることはない。
1970年代初頭に打ち上げられた宇宙探査機パイオニア10号とパイオニア11号に搭載された金属板には、冥王星が惑星として描かれている。この金属板は、将来探査機が地球外知的生命体と遭遇した場合に、探査機がどこから来たかという情報を与えることを意図しており、太陽系の図も含まれていて、9つの惑星が描かれている。同じように、探査機ボイジャー1号とボイジャー2号(同様に1970年代打ち上げ)に搭載されている黄金のレコードに記録されたアナログ画像や1974年に送信されたアレシボ・メッセージでも、やはり冥王星は9番目の惑星とされている。
原子番号92番、93番、94番の元素はウラン(英: uranium)、ネプツニウム(英: neptunium)、プルトニウム(英: plutonium)と名付けられており、これはそれぞれ天王星(英: Uranus)、海王星(英: Neptune)、冥王星(英: Pluto)から取ったものである。
日本語の「水金地火木土天海冥」や英語の「My Very Educated Mother Just Served Us Nine Pizzas」などのように、9個の惑星の名前とその順番を語呂合わせで覚えることもよく行われていた。IAUの決議によって惑星が8個になったあと、ナショナルジオグラフィック協会はケレスとエリスを含む11個の「惑星」を読み込んだ新しい語呂合わせを募集し、モンタナ州の4年生の少女による「My Very Exciting Magic Carpet Just Sailed Under Nine Palace Elephant」が優勝した。
グスターヴ・ホルストによる組曲『惑星』は、冥王星発見以前の1914年から1916年にかけて作曲されており、当時未発見の冥王星は含まれていない。冥王星が発見されて以降、ホルストは新たに冥王星の曲を作ろうとしたが、健康上の理由などから挫折した。その後もほかの人による補完の試みがあり、特に2000年にコリン・マシューズが作曲した「冥王星、再生する者」が有名である。ただしこの作品の追加には賛否両論がある。
2006年のIAU総会のあと、ジョナサン・コールトンは『I'm Your Moon』と題するカロンから冥王星へのラブソングをリリースした。ジェフ・モンダックとアレン・スタングルは『Pluto's Not a Planet Anymore』でほかの惑星たちの反応を歌った。
冥王星は、「もっとも遠い惑星」とされたことから、太陽系の果ての象徴とされ、SFやスペースオペラなどに描かれることが多かった。
日本で冥王星が登場する作品には、『キャプテン・フューチャー』『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』『キャプテンウルトラ』などがある。
惑星ではない別のカテゴリの天体(の典型例)になったことは決して冥王星の存在価値を否定するものではなく、「最果ての惑星」から「かつて考えられていたよりも遥かに広いことが明らかになってきた太陽系の、新しい領域を代表する存在」になったことを意味している。しかし、発見から76年間も惑星として親しまれてきたうえに、マスコミによるセンセーショナルな報道の影響もあって「冥王星が惑星でなくなった」ことに負のイメージを抱いた人が非常に多いのも事実である。
『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』といった作品で冥王星を舞台にしたことで知られる漫画家の松本零士は、「理論的には正しいが、人々が持つ宇宙への夢に対する配慮に欠けた決定である」といった趣旨の発言をしていた。逆に、野尻抱影にちなんでペンネームをつけたというSF作家の野尻抱介は、「理性が最良の選択をしたということだろう。一抹の寂しさは感じるものの、科学は自分自身を書き換えることができると世界に示せたことには意義がある」などと自らのウェブサイトでコメントした。
日本学術会議は、2007年4月9日の対外報告(第一報告) において前年のIAU総会で決まった新たな分類の日本語名称を提言したが、「dwarf planet」についてはその定義にあいまいな部分があり、混乱を招く可能性があるとして、学校教育などの分野では当面は積極的な使用を推奨しないとしている。
冥王星が発見された、20世紀以降の占星術で10大天体のひとつとして数えられ、現在もそうするのが主流である。未発見の時代にはそもそも知られておらず、七曜・九曜にも含まれない(九曜は別の「仮説上の天体」をカウントする)。
西洋占星術では、天蝎宮の支配星で、白羊宮の副支配星で、凶星である。極限、死、再生を示し、原子力、エネルギーをも示唆する。
冥王星の分類変更の衝撃が天文学以外の分野にも波及した例として、占星術で首都移転を決めるほどの社会的影響力のあるミャンマーの占星術師の協会がこの決定を非難したことが挙げられることがある。しかし、西洋占星術関係者の一部からは「冥王星そのものが消えたわけではない」「新たな星(象徴)の再定義の発見である」などの意見も出ている。そもそも占星術における惑星の定義は天文学的な定義とは異なる(流派によっては小惑星を含むものすらある)ため、必ずしも分類変更によって大きな影響を受けるとは言えない。 | [
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"text": "冥王星(めいおうせい、134340 Pluto)は、太陽系外縁天体内のサブグループ(冥王星型天体)の代表例とされる、準惑星に区分される天体である。1930年にクライド・トンボーによって発見され、2006年までは太陽系第9惑星とされていた。しかし他の8惑星と比べて離心率のある軌道と黄道面から傾いた軌道傾斜角を持つ。直径は2,370キロメートル であり、地球の衛星である月の直径(3,474キロメートル)よりも小さい。冥王星の最大の衛星カロンは直径が冥王星の半分以上あり、それを理由に二重天体とみなされることもある。",
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"text": "1930年、天文学者クライド・トンボーはローウェル天文台で第9惑星を探すプロジェクトに取り組んでいた。トンボーは、当時最新の技術であった天体写真を用いて、空の同じ区域の写真を数週間の間隔を空けて2枚撮影し、その画像の間で動いている天体を探すという方法で捜索を行った。撮影した膨大な写真を丹念に精査した結果、トンボーは1930年2月18日に、同年1月23日と1月29日に撮影された写真乾板の間で動いていると思われる天体を見つけた。それだけでなく、1月20日の写真も質は悪かったが動きを確認するのには役立った。ローウェル天文台はさらに確証的な写真を得るよう努力したあと、発見の報を1930年3月13日にハーバード大学天文台へ電報で送った。のちに冥王星の写真は1915年3月19日までさかのぼって見つかった。このような経緯から発見日は一般に1930年2月18日とされているが、小惑星センターに登録された一覧上では発見日は同年1月23日とされている。",
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"text": "冥王星が発見されるまでの歴史は、海王星の発見および天王星の存在と密接に結びついている。1840年代、ユルバン・ルヴェリエとジョン・クーチ・アダムズはニュートン力学を用いて、天王星の軌道における摂動の分析から、当時未発見の惑星だった海王星の位置を正確に予測した。摂動はほかの惑星から重力で引かれることで起こるということが理論化され、ヨハン・ゴットフリート・ガレが海王星を1846年9月23日に発見した。",
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"text": "天文学者たちは19世紀後半の海王星の観測から、天王星の軌道が海王星に乱されていたのと同じように、海王星の軌道もまたほかの未発見の惑星(「惑星X」)によって乱されていると推測し始めた。1909年までに、ウィリアム・ヘンリー・ピッカリングとパーシヴァル・ローウェルは、そのような惑星が存在する可能性のある天球座標をいくつか提唱した。1911年5月には、インド人の天文学者ヴェンカテシュ・ケタカルによる、未発見の惑星の位置を予測した計算がフランス天文学協会の会報で公表された。",
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"text": "パーシヴァル・ローウェルは冥王星の発見に関して重大な影響があった。1905年、ローウェル天文台(ローウェルが1894年に設立した)は、存在するかもしれない第9惑星を捜索する一大プロジェクトを開始した。プロジェクトはローウェルが1916年に死去するまでの11年間続けられた。ローウェルの死後、彼の遺産である天文台をめぐるローウェルの妻との10年にも及ぶ法廷闘争によって、惑星Xの探索は1929年に再開されるまでの間一度も実施されなかった。1929年に当時の天文台長ヴェスト・スライファーがトンボーにこの仕事を預け、1930年の発見に至った。",
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"text": "皮肉にも、捜索のきっかけとなった海王星の軌道の摂動の原因となるには、冥王星はあまりにも小さすぎた。19世紀に天文学者が観測した海王星の軌道の計算との食い違いは、海王星の質量の見積もりが正確でなかったことが原因だった。いったんそれが分かると、冥王星が非常に暗く、望遠鏡で円盤状に見えないことから、冥王星はローウェルの考えた惑星Xであるという考えに疑問の目が向けられた。ローウェルは1915年に惑星Xの位置を予測しており、これは当時の冥王星の実際の位置にかなり近かった。しかし、アーネスト・ウィリアム・ブラウンはほとんど即座にこれは偶然の一致だと結論づけ、この見方は今日でも支持されている。したがって、冥王星がピッカリング・ローウェル・ケタカルの予測した領域の近くにあったことがただの偶然にすぎないことを考慮すると、トンボーが冥王星を発見したことはさらに驚くべきことになる。",
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"text": "発見された新天体を命名する権利は、ローウェル天文台と所長のスライファーにあった。名前の提案は世界中から殺到すると考えられ、トンボーは他の誰かに提案される前に早く新天体の名前を提案するようにスライファーをせきたてた。ローウェルの妻コンスタンスは、「ゼウス (Zeus)」、次いで「パーシヴァル(Percival)」、さらに「コンスタンス(Constance)」を提案したが、どれも支持は得られなかった。",
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"text": "「プルート(Pluto)」という名前を最初に提案したのは、イングランド・オックスフォード出身で当時11歳の少女・ヴァニーシア・バーニーである。天文学と同じぐらいローマ神話とギリシア神話にも興味があった彼女は、オックスフォード大学のボドレアン図書館 で以前司書をしていた祖父ファルコナー・マダンとの会話の中で、ギリシア神話のハデスに対応するこの名前「Pluto」を選び、それを提案した。プルート(プルートー)とはローマ神話に登場する冥府の王である。マダンはこの提案をハーバート・ターナー教授に伝え、ターナーはこの提案をさらにアメリカにいた同僚に電報で送った。",
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"text": "1930年3月24日、ローウェル天文台のメンバーにより、ミネルヴァ (Minerva)・クロノス(Cronus)・プルート(Pluto)の3つの候補への投票が行われた。同じ名前の小惑星があることが指摘されるまではミネルヴァが最有力と思われたが、最終的にプルートが満場一致で選ばれ、正式に「Pluto」と命名された。「Pluto」の最初の2文字がパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)のイニシャルであることもプルートに有利に働いた。この名前は1930年5月1日にローウェル天文台から公表された。",
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"text": "日本語名の「冥王星」は、日本人の野尻抱影がPlutoの訳語として提案した名称である。彼はこの名称を「幽王星」というもうひとつの候補とともに雑誌科学画報の1930年10月号に紹介した。この名称は京都天文台ではすぐに採用されたが、東京天文台(現・国立天文台)では英語のままの「プルートー」が用いられた(当時、東京天文台と京都天文台は異なる用語を用いていることがしばしばあった)。東京天文台が「冥王星」を採用したのは太平洋戦争中に外来語(カタカナ語)を禁止した1943年のことであった。",
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"text": "1933年には中国でも「冥王星」が使われ始め、現在では、中国語では日本語と同じ「冥王星(míngwángxīng)」が用いられている。",
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"text": "漢字をほぼ廃止した朝鮮語では、漢字で冥王星にあたる「명왕성(myeongwangseong)」を用いている。",
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"text": "最も一般的な冥王星の天文学におけるシンボル(惑星記号)はとである。天文学におけるシンボル(惑星記号)はPとLのモノグラムであるである。これは、パーシヴァル・ローウェルのイニシャルをも表している。冥王星の惑星記号は発見当時複数提案された。当時の天文学団体が採用した結果、上記の記号が大勢を占めるに至ったが、特に占星術においては別のシンボル()を好んで使う流派もある。このシンボルは海王星のもの()に似ているが、三叉の中央の尖った部分に円がある。惑星のシンボルはもはや天文学ではあまり使用されていない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "1930年に発見されて以来、「太陽系の9番目の惑星であり、外惑星のひとつである」とされてきた。しかし、1992年に冥王星以外の外縁天体が初めて発見されて以降、冥王星と似た大きさの外縁天体が続々と発見され始めた。その中でも2003年に撮影された写真の中から2005年に発見された2003 UB313は冥王星よりわずかに大きいと考えられた。このような太陽系研究の進展により、太陽系の研究者の間などで冥王星を惑星とみなすことへの疑問の声が広まった。そして、発見から76年後の2006年8月に開かれた国際天文学連合(IAU)総会で、それまで明確でなかった惑星の定義を定めるとともに、「dwarf planet(準惑星)」という分類を新たに設けることが採択された。この結果、冥王星はケレス、2003 UB313(分類と同時にエリスと命名)などとともに準惑星に分類された。また、冥王星を外縁天体の「新しい下位分類のプロトタイプ」とすることも決定され、2008年6月にその分類の名称を「plutoid」とすることが確定した(日本学術会議では2007年4月9日の対外報告(第一報告) において「冥王星型天体」という日本語名称を推奨していた)。再分類されたあと、冥王星は小惑星の一覧に記載され、小惑星番号134340番が与えられた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "これらの結果として冥王星は、「太陽系外縁天体として最初に発見されたもの」という位置づけとなった。→#惑星としての地位をめぐる論争",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2015年7月14日にニュー・ホライズンズが最接近し、詳細な観測を行った。一部判明した観測データは公表されたが、詳細は数多くの天文研究者および天文愛好家によって現在解析中である。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "冥王星の見かけの等級は14等級以下であり、肉眼で観察することは不可能である。したがって観測には望遠鏡が必要となる。冥王星を容易に見るためには、望遠鏡の口径は約30センチ以上が望ましい。非常に巨大な望遠鏡で観測しても、冥王星の角直径はわずか0.15′′しかないため、恒星と同じように点状に見える。冥王星の色はごくわずかに黄色がかった明るい茶色である。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "衛星カロンが発見されたことにより、冥王星は最初の推定よりもずっと小さいことが明らかになり、必然的に冥王星のアルベド(光を反射する度合い)の見積もりは上方修正されることとなった。現在の推定では、冥王星のアルベドは、かなり高いアルベドを持つ金星よりもわずかに低い程度だと考えられている。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "冥王星の距離が非常に遠く、望遠鏡の技術にも限界があるため、現在でも地球から冥王星の表面の詳細な写真を直接的に得ることは不可能である。探査機ニュー・ホライズンズが2015年に最接近して直接撮影されるまでの間は、ハッブル宇宙望遠鏡が撮影した画像から、表面の明暗や模様などがわずかに分かる程度であった。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1985年から1990年にかけて、カロンによる冥王星の食(掩蔽)が地球から観測できる位置関係になったため、食の進行にともなう明るさの変化をスーパーコンピュータで処理することによって、地表の明るさの精密な分布地図が得られた。たとえば、冥王星上で明るい点が食されると、暗い点が食されたときよりも全体の明るさは大きく変化する。この技術を用いて、冥王星 - カロン系全体の平均の明るさとその変化を時間とともに追っていくことができた。最終的に2015年に最接近したニュー・ホライズンズから地球に送信された観測データにより詳細な地表が明らかになった。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "冥王星の表面温度はマイナス230度で、メタンや窒素の氷で覆われている。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "冥王星の直径と質量は発見後数十年間にわたって過大評価されていた。質量は地球に匹敵すると当初は考えられていたが、観測が精密になると大きく下方修正された。1978年に衛星のカロンが発見されたことにより、ケプラーの第3法則のニュートンの公式を適用して、冥王星 - カロン系の質量を確定することが可能になった。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "冥王星は太陽系内のどの惑星よりも小さく、圧倒的に質量が少ない。冥王星の質量は地球の月の0.2倍以下であり、太陽系のほかの惑星には冥王星より質量が大きい衛星が7つもある。その7つの衛星は、ガニメデ、タイタン、カリスト、イオ、月、エウロパ、トリトンである。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "もともと、冥王星は水星よりは大きく火星よりは小さいと考えられていた。冥王星のアルベドがほかの惑星に比べて高いうえに、カロンのアルベドを冥王星のそれに加算してしまっていたことが原因のひとつである(ハッブル宇宙望遠鏡の登場以前は、地上で冥王星とカロンを分離して観測できなかった)。実際には1つではなく2つの天体であると分かると、冥王星の大きさの見積もりは一気に小さくなった。その後、カロンによる冥王星の掩蔽の観測から冥王星の直径を決定することができるようになり、補償光学を用いた望遠鏡での観測により形状を決めることもできた。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "冥王星は太陽系外縁天体の中では直径が最大である。2003年に発見された太陽系外縁天体のエリスは発見当時は冥王星よりも大きいとされていたがことがあったが、現在考えられている直径では冥王星よりも小さい。2015年7月14日、NASAは探査機ニュー・ホライズンズによる測定で、冥王星の直径を2,370キロメートル、衛星カロンの直径を1,208キロメートルと発表した。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "冥王星ははっきりとした濃い大気は持っていない。詳細は下記に述べる。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "太陽に近づくと、おもに窒素、メタン、一酸化炭素からなる希薄な大気が冥王星を包み、表面にある固体の窒素や一酸化炭素の氷との間で平衡状態になる。冥王星が遠日点へと公転していき太陽から離れると、大気の大部分は凝固し、地表へと降下する。冥王星が再び太陽へ近づいていくと、冥王星の固体表面の温度が上昇し、固体窒素が昇華して気体となる。これが反温室効果をもたらす。この昇華する窒素は、人間の皮膚から蒸発する汗と同じように冷却効果を持つ。2006年にはサブミリ波干渉計を用いて、冥王星の表面温度が予想されていたよりも10ケルビン低いことが発見された。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1985年の恒星の掩蔽(恒星食)の観測から、冥王星は大気を持っているということが分かった。この発見は1988年に起きた別の掩蔽の詳細な観測により確認され、著しく補強された。大気を持たない天体が恒星を掩蔽すると、恒星は瞬間的に消える。冥王星の場合、恒星は徐々に暗くなっていった。暗くなっていく割合から、冥王星の大気圧は、地球のおよそ70万分の1の0.15パスカルと分かった。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2002年には、冥王星による別の恒星の掩蔽の観測と分析が、パリ天文台 のブルーノ・シカルディ、マサチューセッツ工科大学(MIT) のジム・エリオット、ウィリアムズ大学 のジェイ・パサチョフが率いるチームによって行われた。冥王星が1988年よりも太陽から遠ざかっており、したがって冥王星はより気温が下がり大気濃度も減少しているはずだったが、驚くべきことに大気圧は従来の2倍の0.3パスカルと推定された。21世紀初頭現在、最有力な仮説は、冥王星の南極が1987年に120年ぶりに影から出たため、窒素が余分に極冠から昇華したという説である。過剰の窒素が大気から凝縮するには数十年がかかると考えられている。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "MITとウィリアムズ大学のエリオットとパサチョフのチームと、レスリー・ヤング率いるサウスウエスト研究所のチームは、2006年6月12日に起きた冥王星によるさらに別の恒星の掩蔽をオーストラリアから観測した。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "冥王星の光度曲線、ハッブル宇宙望遠鏡の観測を元に作成された表面の地図、赤外線スペクトルの周期的な変化などから明白に分かるように、冥王星の表面は不均一かつ不安定である。冥王星の表面のうちカロンに向いた側はメタンの氷が多く、反対側(トンボー地域)は窒素と一酸化炭素の氷が多い。また、1999年、すばる望遠鏡は冥王星から固体のエタンに特徴的な吸収線をとらえることに成功した。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "また、地下に液体の水で出来た内部海を持っている可能性が示唆されており、冥王星の内部海とそれを覆う分厚い氷の間にメタンハイドレートが存在すると、メタンハイドレートが効率的な断熱材として機能して内部の熱を逃がさず、その結果、表面は極寒でも内部海は凍結しないことが研究によって明らかになった。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "冥王星の軌道は太陽系の惑星と比較すると異質である。惑星は黄道面と呼ばれる仮想の平面にかなり近い面を公転しており、軌道の形は真円に近い。対照的に、冥王星の軌道は黄道面から約17°ほど傾いており、離心率は8惑星の中でも突出している水星より大きい(数学的には真円ではなく楕円である)。軌道が傾いているため、冥王星の近日点は黄道面から北側に8.7 auほどずれた位置にある。また冥王星族であるため海王星の軌道が比較的近くにあり、冥王星はその離心率によって軌道の一部は海王星よりも太陽の近くに入り込んでいる。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "近日点の近くでは、冥王星は海王星よりも太陽に近くなる。直近でこの現象が起こったのは1979年2月7日から1999年2月11日までである。数学的な計算によると、この現象は前回は1735年7月11日から1749年9月15日まで続いた。同様の計算から、そのさらに前の回は1483年4月30日から1503年7月23日までだったことが分かっており、この期間の長さはほとんど1979年から1999年までの期間の長さと等しい。冥王星が海王星の内側に入り込む期間は、微妙な変化はあるものの、約13年間と約20年間のものが交互に訪れると考えられている。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "冥王星と海王星とは、隣り合わせの天体であるため、特有の関連性が見られる。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "冥王星の軌道は海王星の軌道と「交差している」と言われることがよくある。しかし実際は、冥王星の軌道の交点(軌道が黄道面と交差する点)は両方とも海王星の軌道の外側にあり、距離にして6.4au(すなわち、地球と太陽の間の距離の6倍以上、太陽と木星間の距離以上)も離れている。そのうえ、これらの天体は軌道共鳴状態にあるために、冥王星が2回公転する間に海王星は正確に3回公転する。このため、海王星と冥王星の軌道がもっとも近づいているところに海王星が達したとき、冥王星は軌道上ではるかに後ろにあり、代わって冥王星がその点に到達したときには、海王星は軌道上で50°以上も前方にあることになる。冥王星がもう1公転してこの点に到達したときには、海王星は軌道上で半周近く離れたところにある。その結果として、冥王星は軌道上のこの点では海王星の30au以内には決して近づかないことになる。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "実際に海王星と冥王星がもっとも接近するのは、軌道上のほぼ反対側であり、冥王星が遠日点を通過して(前回の遠日点通過は1866年)から約30年後に海王星が冥王星に追いつく(海王星と冥王星の遠日点経度は似通っている)。距離が最小になったのは1896年6月のことで、18.9auまで近づいた。言い換えると、冥王星は土星にもっとも近づいたときよりも海王星に近づくことは決してないということである。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "冥王星の軌道は海王星の軌道と3:2の軌道共鳴状態にある。海王星が冥王星に背後から近づくと、相互の重力によって互いにわずかに引かれ始め、トロヤ点を生じるような軌道上の同じ配列の間で相互作用する結果になる。軌道が歪んでいるため、3:2の比で軌道共鳴しているということは、海王星が常に冥王星と遠く離れたところにあることになり好都合である。冥王星が軌道を半周すると、冥王星は海王星にもっとも近づき、一見すると海王星が冥王星を捕獲しそうに見える。しかし冥王星は太陽からの重力的加速により速度を上げ、海王星の前方に留まり、冥王星の軌道の反対側で再び出会うまで前方に引かれる。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1990年代以降、冥王星以外に太陽系外縁天体(TNO)が多数見つかり、その一部は海王星と3:2の軌道共鳴状態にあった。このような軌道共鳴状態にあるTNOは冥王星にちなんで冥王星族 と呼ばれている。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1936年、冥王星はトリトンとともに海王星の衛星として形成され、衛星同士の重力相互作用により海王星の引力圏から飛び出したものだという説が発表された。トリトンの逆行軌道と冥王星の起源を同時に説明しようと試みたものだったが、下方修正された冥王星の質量に基づくのちの研究では、このメカニズムで現在の冥王星やトリトンの軌道を説明することは力学的に困難なことが示され、仮説は否定された。現在では冥王星やトリトンは太陽を取り囲む原始惑星系円盤で形成され、上記の説とは逆にトリトンが海王星に捕獲されたという考えが支持されている。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "エッジワース・カイパーベルトはすべての短周期彗星の供給源だと考えられており、冥王星も、ほかのエッジワース・カイパーベルト天体(外縁天体)と同様に、彗星が持つ一般的な特徴を持っている。太陽風によって冥王星の表面の物質はゆっくりと宇宙空間に吹き飛ばされており、これは彗星の場合と同様である。もし冥王星を太陽から十分近くに置けば、彗星のように尾が発達するだろうと考えられている。",
"title": "物理的特徴"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "冥王星には5つの衛星が発見されている。1978年には最初の衛星カロンが天文学者ジェームズ・クリスティーによって発見された。カロンは冥王星の7分の1の質量を持つ巨大な衛星で、冥王星 - カロン系はしばしば二重天体と表現される。",
"title": "衛星"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "衛星の発見に関する公式発表はカロンのあと20年以上途絶えていたが、2005年に小さい2つの衛星ニクスとヒドラが、2011年にはより小さなケルベロスが、2012年にはさらに小さなステュクスが発見された。",
"title": "衛星"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "また、衛星ではないが、(15810) 1994 JR1と呼ばれる準衛星を持つ。",
"title": "衛星"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "冥王星は質量が小さく地球からの距離が非常に遠いため、探査機を送るには到達までの時間がかかる点、数多くの惑星や衛星を避けなければならない点、地球から遠ざかることによる操縦関連の遅延がある点、質量が小さいために地上に降りて観察するのが難しい点、経費が高額になる点などの困難さがある。1983年に火星を除く外惑星(冥王星を含む)が地球から見てほぼ同じ方向になることを利用して、これらの惑星を探査するグランドツアー計画が立案されたが、経費が莫大になることから中止され、計画を縮小してボイジャー計画となった。1977年に打ち上げられたボイジャー1号は方向姿勢を変えることで冥王星を訪れることもできたが、当時の制御チームは冥王星の探査よりも土星の衛星タイタンへの接近飛行の方を選んだため、冥王星への接近飛行はできない軌道になった。ボイジャー2号はもともと冥王星に接近するような軌道ではなかった。その後、NASAはプルート・カイパー・エクスプレス (Pluto Kuiper Express) ミッションを計画していたが、経費の増大や打ち上げロケットの開発の遅れなどのため、2000年に中止された。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "初めて冥王星を訪れた探査機は、2006年1月19日14時00分(EST)に打ち上げられたNASAのニュー・ホライズンズである。探査機は木星の重力によりスイングバイを行い、2015年7月14日に冥王星に最接近した。冥王星の観測は最接近の5か月前から始まり、冥王星とすれ違い通り過ぎたあとは、冥王星と同じく太陽系外縁天体のひとつである2014 MU69への軌道へ入った。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ニュー・ホライズンズは、冥王星とその衛星カロンの全体的な地質と地形の特徴を明らかにし、表面の組成の地図を作成し、冥王星の薄い大気とそれが流出する割合を明らかにするための画像撮影装置と無線科学調査ツール、さらに分光器とその他の実験装置を含んだ遠隔操作機器を使用した。それだけでなく、冥王星とカロンの表面の写真撮影も行った。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "打ち上げられてまもないころ、ニクスとヒドラの脱出速度が比較的小さいため、外縁天体との衝突で薄い塵の環が生じている可能性が団体関係者から指摘され、もしニュー・ホライズンズが飛行中にこのような環の中を通過すれば、探査機に損傷を与えたり機能停止させるような微小隕石によるダメージを受ける可能性が高まるという懸念が示されていた。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "冥王星はほかの8つの惑星と比べると性質の違いが目立ち、1930年に発見した当時は明確な惑星の定義が定められていなかったため、少なくとも最初の太陽系外縁天体(TNO)である 1992 QB1 が発見された1992年以降、冥王星を公式に惑星と呼ぶべきかどうかをめぐり常にさまざまな議論や論争がなされてきた。1990年代後半以降同様の天体がさらに次々と発見され、賛否両論の論争はますます激しくなっていった。",
"title": "惑星としての地位をめぐる論争"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "冥王星は海王星までの8つの惑星と比較すると離心率や軌道傾斜角が大きいことから、1930年に発見された当初から「変わった惑星」だと考えられていた。発見されてからしばらくの間は地球と同じ程度からその数倍の質量を持つと推定されていたが、望遠鏡およびその観測技術の向上により実際はそれよりはるかに小さいことが明らかになり、組成や予想される起源から、太陽系外縁天体ではないかという意見が有力になっていった。また、冥王星の表面を覆う氷は彗星が持っている氷と同じ成分であることから、冥王星は太陽系を形成したときの微惑星の集合体だと考えられるようになった。このような研究の進展から、冥王星を惑星とみなすことに疑問を抱く声が高まっていった。",
"title": "惑星としての地位をめぐる論争"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1990年代後半には、冥王星の惑星としての地位を見直す声がますます高まってきたが、国際天文学連合(IAU)は冥王星を惑星から外すことには消極的だった。1998年には番号登録された小惑星の数が1万に迫ってきたことから、冥王星を小惑星に再分類して小惑星番号10000番を与えてはどうかという声が上がった。しかしIAUは1999年2月3日、冥王星を外縁天体のリストに加えることは考えているが、冥王星の立場を変更する動きはまったくないとの声明を発表した。結局、小惑星番号10000番は普通の小惑星(ミリオストス)に与えられた。",
"title": "惑星としての地位をめぐる論争"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "冥王星を発見したクライド・トンボーは、1997年1月に死去する直前まで冥王星を惑星のままにしておくべきだと主張し続けていた。",
"title": "惑星としての地位をめぐる論争"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1999年5月、ニューヨークのアメリカ自然史博物館で5人の専門家によるパネルディスカッションが開かれた。出席者のうち、デイヴィッド・レヴィとアラン・スターンは冥王星が惑星であり続けることを支持し、ブライアン・マースデンとマイケル・アハーンは惑星とカイパーベルト天体の両方に分類することを提案し、ジェーン・ルーは降格を主張した。当時、アメリカ自然史博物館ではローズ地球宇宙センターの建設とヘイデン・プラネタリウムの改築が行われており、それらが完成したあとの展示内容を決めるにあたってこのパネルディスカッションが参考にされた。",
"title": "惑星としての地位をめぐる論争"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2000年2月、2つの施設は一般公開された。太陽系の仲間たちを紹介するコーナーでは、従来のように9個の惑星をただ内側から順番に並べるのではなく、小惑星や彗星なども含めて共通項を持つグループ(地球型惑星、小惑星帯、木星型惑星、カイパーベルト、オールトの雲)ごとに分けて展示していた。球形のプラネタリウム施設を取り巻く回廊に設けられた「宇宙のスケール」の10mの位置には4個の地球型惑星、その隣には4個の木星型惑星の模型があったが、冥王星(そして月や木星のガリレオ衛星など)の模型はなかった。",
"title": "惑星としての地位をめぐる論争"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "この展示は当初メディアに大きく取り上げられることはなかったが、2001年1月にニューヨーク・タイムズが「冥王星が惑星じゃない? そんなのニューヨークだけだ」と題して1面で特集すると激しい論争が起きた。ヘイデン・プラネタリウム所長ニール・ドグラース・タイソンのもとには、賛否両論の多数の手紙やメールとともに、全米各地の教師たちが行った「冥王星は惑星かどうか」を考えさせる授業の結果報告や子供達に書かせた作文(当初は「惑星だ」という意見が9対1で優勢だったが、年を追うごとに「惑星ではない」が増えていき、2006年の末には上記の比率が逆になっていたという)が届いた。",
"title": "惑星としての地位をめぐる論争"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "望遠鏡の技術が進歩し続けたことにより、21世紀にはさらに多くの太陽系外縁天体が発見できるようになり、その中には以下のように冥王星の大きさに匹敵するものもあった。",
"title": "惑星としての地位をめぐる論争"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "最後まで残った冥王星の特徴的な点は、巨大な衛星カロンと大気である。しかしこれらの特徴も、冥王星特有のものではないかもしれない。ほかにも多くの外縁天体が衛星を持っている。また、2003 UB313(エリス)のスペクトルからは表面の組成が冥王星と似ていることが示唆され、2005年9月には衛星も発見された(2006年9月にディスノミアと命名された)。外縁天体2003 EL61(のちのハウメア)は2つの衛星(ヒイアカ、ナマカ)を持ち、エリス、冥王星、2005 FY9(のちのマケマケ)に次いで4番目に大きな外縁天体である。",
"title": "惑星としての地位をめぐる論争"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2006年8月14日からチェコのプラハで開かれたIAU総会で、惑星の定義を決めるための議論が行われた。当初提出された定義案に従うならば、冥王星が惑星として残るのに加えて冥王星の衛星カロン、小惑星ケレス、2003 UB313(エリス)が惑星とみなされ、惑星は12個となる。しかし、天文学者などから強い反対の声が噴出し、原案は大幅な見直しを余儀なくされた。結局、8月24日に採択された議決において「惑星」「準惑星 (dwarf planet)」、「太陽系小天体 (small Solar system bodies)」の3つのカテゴリが定義されることになった。",
"title": "惑星としての地位をめぐる論争"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "IAUは上記の定義の元で、それまでの9つの惑星のうち冥王星は惑星としての条件の3つ目を満たさないとして、惑星の総数を8つとするとともに冥王星を「dwarf planet」に再分類し、太陽系外縁天体内の新しいサブグループの典型例とみなすと決議した。サブグループの名称として提案されていた「plutonian objects」は否決された。",
"title": "惑星としての地位をめぐる論争"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "さらに、2006年9月7日、小惑星センター(MPC)は冥王星を正式に小惑星の一覧に加え、小惑星番号134340番を割り振った。IAU総会直前までに登録されていた小惑星の総数は13万4,339個で、この日同時に登録された2,224個の中でもっとも早く発見されたものであったことからこの番号になった。1999年からの7年間で、登録された小惑星の数は10倍以上に増えていた。冥王星に10000番を割り当てる提案が却下されて以降、20000番のヴァルナや50000番のクワオアーのように、外縁天体の中にはきりのいい番号が割り当てられたものもあったが、冥王星には結局平凡な番号が割り当てられることになった。",
"title": "惑星としての地位をめぐる論争"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "天文学会の中には、この再分類に対する抵抗もあった。NASAの冥王星探査機ニュー・ホライズンズの主任研究官アラン・スターンは、公然とIAUの決議を嘲笑し、「技術的な理由から、決議はお粗末なものだ」と述べた。スターンの主張は、地球、火星、木星、海王星はすべて軌道を小惑星と共有している ため、新しい定義ではこれらの惑星も惑星ではなくなるというものであった。しかしこの発言は、これらの4惑星を含む、軌道付近の天体を排除している8つの惑星を「明らかに我々の太陽系は含んでいる」とする彼自身の文章と矛盾する。スターンらの行動に対しては、冥王星の「価値が下がった(ようなイメージが広まる)」ことによる冥王星探査計画への予算面での影響を恐れたからだという見方もある。",
"title": "惑星としての地位をめぐる論争"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "マーク・サイクスは、1万人以上いるIAU会員のうち総会の出席者は2,000人あまり、最終日の議決に参加したのはわずか424人(賛成票が約9割という圧倒的多数ではあったが)だったことから、この決議は無効だという抗議の意見書を公表した。この意見書には304人の天文学者や惑星科学者が署名したが、その大半はアメリカ人だった。",
"title": "惑星としての地位をめぐる論争"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "一方、IAUを支持した者もいる。エリスを発見した天文学者マイケル・ブラウンは、「この馬鹿げたサーカスのような手続き全体を通して、何とか正しい答えに巡り合った。長い時間がかかった。科学者は、たとえ強い感情が絡むときであっても、最終的には自らの誤りを正すのだ」と語った。",
"title": "惑星としての地位をめぐる論争"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "一般大衆の間では、広範囲に及ぶメディア報道の中では受け取り方はさまざまであった。再分類を受け入れた者もいるが、IAUに冥王星の惑星復活を強く求めるインターネット上の請願によって決定を覆そうとした者もいる。カリフォルニア州議会下院(定数80名)には、IAUの「罪」の中でも特に「科学的に異端である説の主張」を非難する決議案が55名の議員により提出された。",
"title": "惑星としての地位をめぐる論争"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "冥王星は世界各国の人々に、太陽系の9つ目の惑星として長い間親しまれてきた。特に、冥王星を発見したクライド・トンボーがアメリカ人であったことから、冥王星は1930年の発見以降長い間、アメリカ人が発見した唯一の惑星とされ、発見当初からアメリカ人の誇りと思われてきた。ディズニーのキャラクターとして親しまれているプルートは、冥王星が発見された年に誕生しており、冥王星(プルート)から名前が取られたと考えられている。このこともあり、多くのアメリカ人は冥王星に特別な愛着を抱いてきた。アメリカ人のこのような強い愛着が、冥王星の立場が疑われ始めてからも、長らく議論を混乱させる一因にもなった。2006年に結局冥王星が準惑星に変更されることが決まると、多くの人々が困惑し、特にアメリカ人からは失望や落胆、不満の声が強く聞かれた。カリフォルニア工科大学やジェット推進研究所などがあるパサデナでは、惑星に扮した8人の科学者が冥王星の入った棺と1,500人以上の会葬者を伴って街を練り歩いた。",
"title": "人類との関係"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "冥王星が惑星でなくなるきっかけを作ったのが、アメリカによる数々の華々しい天文学上の成果と、その結果出された「太陽系惑星12個案」だったことは皮肉である。",
"title": "人類との関係"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "クライド・トンボーが後半生を過ごしたニューメキシコ州では2007年に、彼が生まれたイリノイ州では2009年に、それぞれ冥王星の発見が報告された3月13日を「冥王星の日」と定め、「州の上空を通っている間は、冥王星は惑星として扱われる」ことを決議した。ただし、冥王星が天の北極にもっとも近付くのは2193年だが、その時点でも赤緯は約23.5度であり、ニューメキシコ州(北緯31.2 - 37度)やイリノイ州(北緯36.9 - 42.4度)の上空を通ることはない。",
"title": "人類との関係"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "1970年代初頭に打ち上げられた宇宙探査機パイオニア10号とパイオニア11号に搭載された金属板には、冥王星が惑星として描かれている。この金属板は、将来探査機が地球外知的生命体と遭遇した場合に、探査機がどこから来たかという情報を与えることを意図しており、太陽系の図も含まれていて、9つの惑星が描かれている。同じように、探査機ボイジャー1号とボイジャー2号(同様に1970年代打ち上げ)に搭載されている黄金のレコードに記録されたアナログ画像や1974年に送信されたアレシボ・メッセージでも、やはり冥王星は9番目の惑星とされている。",
"title": "人類との関係"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "原子番号92番、93番、94番の元素はウラン(英: uranium)、ネプツニウム(英: neptunium)、プルトニウム(英: plutonium)と名付けられており、これはそれぞれ天王星(英: Uranus)、海王星(英: Neptune)、冥王星(英: Pluto)から取ったものである。",
"title": "人類との関係"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "日本語の「水金地火木土天海冥」や英語の「My Very Educated Mother Just Served Us Nine Pizzas」などのように、9個の惑星の名前とその順番を語呂合わせで覚えることもよく行われていた。IAUの決議によって惑星が8個になったあと、ナショナルジオグラフィック協会はケレスとエリスを含む11個の「惑星」を読み込んだ新しい語呂合わせを募集し、モンタナ州の4年生の少女による「My Very Exciting Magic Carpet Just Sailed Under Nine Palace Elephant」が優勝した。",
"title": "人類との関係"
},
{
"paragraph_id": 72,
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"text": "グスターヴ・ホルストによる組曲『惑星』は、冥王星発見以前の1914年から1916年にかけて作曲されており、当時未発見の冥王星は含まれていない。冥王星が発見されて以降、ホルストは新たに冥王星の曲を作ろうとしたが、健康上の理由などから挫折した。その後もほかの人による補完の試みがあり、特に2000年にコリン・マシューズが作曲した「冥王星、再生する者」が有名である。ただしこの作品の追加には賛否両論がある。",
"title": "人類との関係"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "2006年のIAU総会のあと、ジョナサン・コールトンは『I'm Your Moon』と題するカロンから冥王星へのラブソングをリリースした。ジェフ・モンダックとアレン・スタングルは『Pluto's Not a Planet Anymore』でほかの惑星たちの反応を歌った。",
"title": "人類との関係"
},
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"text": "冥王星は、「もっとも遠い惑星」とされたことから、太陽系の果ての象徴とされ、SFやスペースオペラなどに描かれることが多かった。",
"title": "人類との関係"
},
{
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"text": "日本で冥王星が登場する作品には、『キャプテン・フューチャー』『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』『キャプテンウルトラ』などがある。",
"title": "人類との関係"
},
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"text": "惑星ではない別のカテゴリの天体(の典型例)になったことは決して冥王星の存在価値を否定するものではなく、「最果ての惑星」から「かつて考えられていたよりも遥かに広いことが明らかになってきた太陽系の、新しい領域を代表する存在」になったことを意味している。しかし、発見から76年間も惑星として親しまれてきたうえに、マスコミによるセンセーショナルな報道の影響もあって「冥王星が惑星でなくなった」ことに負のイメージを抱いた人が非常に多いのも事実である。",
"title": "人類との関係"
},
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"text": "『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』といった作品で冥王星を舞台にしたことで知られる漫画家の松本零士は、「理論的には正しいが、人々が持つ宇宙への夢に対する配慮に欠けた決定である」といった趣旨の発言をしていた。逆に、野尻抱影にちなんでペンネームをつけたというSF作家の野尻抱介は、「理性が最良の選択をしたということだろう。一抹の寂しさは感じるものの、科学は自分自身を書き換えることができると世界に示せたことには意義がある」などと自らのウェブサイトでコメントした。",
"title": "人類との関係"
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"text": "日本学術会議は、2007年4月9日の対外報告(第一報告) において前年のIAU総会で決まった新たな分類の日本語名称を提言したが、「dwarf planet」についてはその定義にあいまいな部分があり、混乱を招く可能性があるとして、学校教育などの分野では当面は積極的な使用を推奨しないとしている。",
"title": "人類との関係"
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"text": "冥王星が発見された、20世紀以降の占星術で10大天体のひとつとして数えられ、現在もそうするのが主流である。未発見の時代にはそもそも知られておらず、七曜・九曜にも含まれない(九曜は別の「仮説上の天体」をカウントする)。",
"title": "人類との関係"
},
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"text": "西洋占星術では、天蝎宮の支配星で、白羊宮の副支配星で、凶星である。極限、死、再生を示し、原子力、エネルギーをも示唆する。",
"title": "人類との関係"
},
{
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"text": "冥王星の分類変更の衝撃が天文学以外の分野にも波及した例として、占星術で首都移転を決めるほどの社会的影響力のあるミャンマーの占星術師の協会がこの決定を非難したことが挙げられることがある。しかし、西洋占星術関係者の一部からは「冥王星そのものが消えたわけではない」「新たな星(象徴)の再定義の発見である」などの意見も出ている。そもそも占星術における惑星の定義は天文学的な定義とは異なる(流派によっては小惑星を含むものすらある)ため、必ずしも分類変更によって大きな影響を受けるとは言えない。",
"title": "人類との関係"
}
] | 冥王星は、太陽系外縁天体内のサブグループ(冥王星型天体)の代表例とされる、準惑星に区分される天体である。1930年にクライド・トンボーによって発見され、2006年までは太陽系第9惑星とされていた。しかし他の8惑星と比べて離心率のある軌道と黄道面から傾いた軌道傾斜角を持つ。直径は2,370キロメートル であり、地球の衛星である月の直径(3,474キロメートル)よりも小さい。冥王星の最大の衛星カロンは直径が冥王星の半分以上あり、それを理由に二重天体とみなされることもある。 | {{天体 基本
| 幅 =
| 色 = TNOの準惑星
| 和名 = 冥王星 [[ファイル:Pluto symbol (fixed width).svg|24px|⯓]]([[File:Pluto monogram.svg|24px|♇]])
| 英名 = 134340 Pluto
| 画像ファイル = Pluto-01 Stern 03 Pluto Color TXT.png
| 画像サイズ = 220px
| 画像説明 = 探査機[[ニュー・ホライズンズ]]が撮影したカラー合成(2015年)
| 画像背景色 = #000000
| 分類 = [[準惑星]]<br />([[冥王星型天体]])
| 軌道の種類 = [[エッジワース・カイパーベルト|エッジワース・<br />カイパーベルト]]<br />([[冥王星族]])<br/>([[海王星横断小惑星|海王星横断]])
}}
{{天体 発見
| 色 = TNOの準惑星
| 発見日 = [[1930年]]2月18日
| 発見者 = [[クライド・トンボー]]
| 発見方法 = [[写真乾板]]
}}
{{天体 軌道
| 色 = TNOの準惑星
| 元期 = 2006年9月22日 ([[ユリウス通日|JD]] 2,454,000.5)
| 軌道長半径 = 39.44506973 [[天文単位|au]]<ref name=johnston>{{cite web|url=http://www.johnstonsarchive.net/astro/astmoons/am-pluto.html|title=(134340)Pluto, Charon, Nix, Hydra, Kerberos, and Styx ''--Orbital and physical data--''|work=Johnston's Archive|accessdate=2016-02-06}}</ref>
| 近日点距離 = 29.57399177 au<ref name=johnston/>
| 遠日点距離 = 49.31614768 au<ref name=johnston/>
| 離心率 = 0.250248713<ref name=johnston/>
| 公転周期 = 247.7406624 [[ユリウス年|年]]<ref name=johnston/><br />(90487.27693 日<ref name=johnston/>)
<!--| 会合周期 = 366.73日
| 軌道周期 =
| 平均軌道速度 = 4.666 km/s
<th align="left">軌道[[外周]]</th><td>36,530,000,000km<br />244.186 au</td>
</tr><tr>
<th align="left">最高[[軌道速度]]</th><td>6.112 km/s</td>
</tr><tr>
<th align="left">最低[[軌道速度]]</th><td>3.676 km/s</td>
</tr><tr>
-->
| 軌道傾斜角 = 17.08900092 [[度 (角度)|度]]<ref name=johnston/><!--11.88°<br /><small>(太陽の赤道面に対して)</small>-->
| 近日点引数 = 112.5971417 度<ref name=johnston/>
| 昇交点黄経 = 110.376958 度<ref name=johnston/>
| 平均近点角 = 25.24718971 度<ref name=johnston/>
| 前回近日点通過 = 1984年12月頃
| 次回近日点通過 = 2233年頃
| 衛星数 = [[冥王星の衛星|5]]
}}
{{天体 物理
| 色 = TNOの準惑星
| 赤道直径 = 2,370 km<ref name="NASA20150714"/>
| 表面積 = 1.764 {{e|7}} [[平方キロメートル|km²]]<br />(地球の0.033倍)
| 体積 = 7.15 {{e|9}} [[立方メートル|km³]]<br />(地球の0.0066倍)
| 質量 = 1.3<!--(1.305 ± 0.007)--> {{e|22}} [[キログラム|kg]]<ref name="arxiv">[http://arxiv.org/abs/astro-ph/0512491 Orbits and photometry of Pluto's satellites: Charon, S/2005 P1 and S/2005 P2]</ref>
| 相対対象 = 地球
| 相対質量 = 0.0021
| 相対半径 = 0.185<ref name="NASA20150714"/>
| 平均密度 = 1.852 [[グラム毎立方センチメートル|g/cm³]]<ref name=johnston/>
| 表面重力 = 0.62 [[メートル毎秒毎秒|m/s²]]<ref name=nasa-data>{{cite web|url=http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/plutofact.html |title=Pluto Fact Sheet|work=NASA|accessdate=2016-02-06}}</ref><br />(0.059[[重力加速度|g]])
| 脱出速度 = 1.21 [[メートル毎秒|km/s]]<ref name=nasa-data/>
| 自転周期 = [[順行・逆行|-6.387230日]]<br />6日 9時間 17分 36秒<!--
<th align="left">自転速度</th><td>47.18km/h(赤道において)</td>
</tr><tr>
<th align="left">北極の[[赤経]]</th><td>133.045±0.02°(8h 52m 11s)<sup>[http://arxiv.org/PS_cache/astro-ph/pdf/0512/0512491.pdf]</sup></td>
</tr><tr>
<th align="left">[[赤緯]]</th><td>-6.145±0.02°</td>
</tr><tr>-->
| スペクトル分類 =
| 絶対等級 = -0.8<ref name=johnston/>
| アルベド = 0.56<ref name=johnston/><br />0.49 - 0.66<ref>http://www.solarviews.com/eng/pluto.htm</ref><ref>[http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/plutofact.html]</ref>
| 赤道傾斜角 = 119.59°<br />(軌道面に対して)/<!--- http://arxiv.org/PS_cache/astro-ph/pdf/0512/0512491.pdf (2006) orbit/rotation pole of Charon (in its Fig. 2) of R.A. 133.045±0.02° dec. -6.145±0.02° (J2000); Pluto assumed parallel ---><br />112.78°<br />([[黄道|黄道面]]に対して)<!--- http://www.hnsky.org/iau-iag.htm had 115.60° --->
| 最小表面温度 = 33 [[ケルビン|K]]
| 平均表面温度 = ~50 K<ref name=nasa-data/>
| 最大表面温度 = 55 K
| 色指数_BV = 0.82(in 1988)
| 色指数_UB = 0.34(in 1988)
| 色指数_VI = 0.83
| 大気圧 = 1.0[[パスカル (単位)|パスカル]]<br />(in 2015)
| 大気 =
{{天体 項目|[[窒素]]|90%}}
{{天体 項目|[[メタン]]|10%}}
| 外殻 =
}}
{{天体 終了
| 色 = TNOの準惑星
}}
{{外縁天体の分類}}
'''冥王星'''(めいおうせい、134340 Pluto)は、[[太陽系外縁天体]]内のサブグループ([[冥王星型天体]])の代表例とされる、'''[[準惑星]]'''に区分される[[天体]]である。[[1930年]]に[[クライド・トンボー]]によって発見され、[[2006年]]までは'''太陽系第9惑星'''とされていた。しかし他の8惑星と比べて[[離心率]]のある[[軌道 (力学)|軌道]]と[[黄道|黄道面]]から傾いた[[軌道傾斜角]]を持つ。[[直径]]は2,370キロメートル<ref name="NASA20150714"/> であり、[[地球]]の[[衛星]]である[[月]]の直径(3,474キロメートル)よりも小さい。冥王星の最大の衛星[[カロン (衛星)|カロン]]は直径が冥王星の半分以上あり、それを理由に[[二重惑星|二重天体]]とみなされることもある。
== 歴史 ==
=== 発見 ===
[[ファイル:Lowell blink comparator.jpg|thumb|right|200px|トンボーはこの[[ブリンクコンパレータ]]を用いて、撮影した写真を比較した]]
1930年、天文学者[[クライド・トンボー]]は[[ローウェル天文台]]で第9惑星を探すプロジェクトに取り組んでいた。トンボーは、当時最新の技術であった[[天体写真]]を用いて、空の同じ区域の[[写真]]を数週間の間隔を空けて2枚撮影し、その画像の間で動いている天体を探すという方法で捜索を行った。撮影した膨大な写真を丹念に精査した結果、トンボーは1930年[[2月18日]]に、同年[[1月23日]]と[[1月29日]]に撮影された写真乾板の間で動いていると思われる天体を見つけた。それだけでなく、[[1月20日]]の写真も質は悪かったが動きを確認するのには役立った。ローウェル天文台はさらに確証的な写真を得るよう努力したあと、発見の報を1930年[[3月13日]]に[[ハーバード大学天文台]]へ[[電報]]で送った。のちに冥王星の写真は[[1915年]][[3月19日]]までさかのぼって見つかった。このような経緯から発見日は一般に1930年2月18日とされているが、[[小惑星センター]]に登録された一覧上では発見日は同年1月23日とされている<ref name="MPs130001">[http://www.minorplanetcenter.org/iau/lists/NumberedMPs130001.html Discovery Circumstances: Numbered Minor Planets (130001)-(135000)]</ref>。
=== 海王星・天王星との関係 ===
冥王星が発見されるまでの歴史は、[[海王星]]の発見および[[天王星]]の存在と密接に結びついている。[[1840年代]]、[[ユルバン・ルヴェリエ]]と[[ジョン・クーチ・アダムズ]]は[[ニュートン力学]]を用いて、天王星の軌道における[[摂動 (天文学)|摂動]]の分析から、当時未発見の惑星だった海王星の位置を正確に予測した。摂動はほかの惑星から重力で引かれることで起こるということが理論化され、[[ヨハン・ゴットフリート・ガレ]]が海王星を[[1846年]]9月23日に発見した。
天文学者たちは[[19世紀]]後半の海王星の観測から、天王星の軌道が海王星に乱されていたのと同じように、海王星の軌道もまたほかの未発見の惑星(「[[惑星X]]」)によって乱されていると推測し始めた。[[1909年]]までに、[[ウィリアム・ヘンリー・ピッカリング]]と[[パーシヴァル・ローウェル]]は、そのような惑星が存在する可能性のある天球座標をいくつか提唱した。[[1911年]]5月には、インド人の天文学者[[ヴェンカテシュ・ケタカル]]による、未発見の惑星の位置を予測した計算がフランス天文学協会の会報で公表された。
=== ローウェルの影響 ===
[[ファイル:Clyde W. Tombaugh.jpeg|150px|サムネイル|左|カンザス州で観測を行っていた時のクライド・トンボー]]
パーシヴァル・ローウェルは冥王星の発見に関して重大な影響があった。[[1905年]]、[[ローウェル天文台]](ローウェルが[[1894年]]に設立した)は、存在するかもしれない第9惑星を捜索する一大プロジェクトを開始した<ref name="pluto guide"/>。プロジェクトはローウェルが[[1916年]]に死去するまでの11年間続けられた。ローウェルの死後、彼の遺産である天文台をめぐるローウェルの妻との10年にも及ぶ法廷闘争によって、惑星Xの探索は1929年に再開されるまでの間一度も実施されなかった。1929年に当時の天文台長[[ヴェスト・スライファー]]がトンボーにこの仕事を預け、1930年の発見に至った。
皮肉にも、捜索のきっかけとなった海王星の軌道の摂動の原因となるには、冥王星はあまりにも小さすぎた。19世紀に天文学者が観測した海王星の軌道の計算との食い違いは、海王星の質量の見積もりが正確でなかったことが原因だった。いったんそれが分かると、冥王星が非常に暗く、望遠鏡で円盤状に見えないことから、冥王星はローウェルの考えた惑星Xであるという考えに疑問の目が向けられた。ローウェルは1915年に惑星Xの位置を予測しており、これは当時の冥王星の実際の位置にかなり近かった。しかし、[[アーネスト・ウィリアム・ブラウン]]はほとんど即座にこれは偶然の一致だと結論づけ、この見方は今日でも支持されている<ref>{{cite web | url=http://www.phys-astro.sonoma.edu/people/faculty/tenn/asphistory/1994.html | title=THE ASTRONOMICAL SOCIETY OF THE PACIFIC “106th ANNUAL MEETING” HISTORY SESSIONS | accessdate=2006年3月5日}}</ref>。したがって、冥王星がピッカリング・ローウェル・ケタカルの予測した領域の近くにあったことがただの偶然にすぎないことを考慮すると、トンボーが冥王星を発見したことはさらに驚くべきことになる。
=== 命名 ===
{{See also|ヴァニーシア・バーニー}}
発見された新天体を命名する権利は、ローウェル天文台と所長のスライファーにあった。名前の提案は世界中から殺到すると考えられ、トンボーは他の誰かに提案される前に早く新天体の名前を提案するようにスライファーをせきたてた<ref name="pluto guide"/>。ローウェルの妻コンスタンスは、「[[ゼウス]] (Zeus)」、次いで「パーシヴァル(Percival)」、さらに「コンスタンス(Constance)」を提案したが、どれも支持は得られなかった<ref name = "Mager"/>。
「[[プルートー|プルート]](Pluto)」という名前を最初に提案したのは、[[イングランド]]・[[オックスフォード]]出身で当時11歳の少女・[[ヴァニーシア・バーニー]]である<ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/sci/tech/4596246.stm|title=The girl who named a planet|first=Paul|last=Rincon|publisher=BBC News|accessdate=2006年3月5日}}</ref>。天文学と同じぐらい[[ローマ神話]]と[[ギリシア神話]]にも興味があった彼女は、[[オックスフォード大学]]の[[ボドレアン図書館]]<ref>{{cite web|url=http://www.amblesideonline.org/PR/PR62p030PlanetPluto.shtml|title=The Planet 'Pluto'|first=K.M|last=Claxton|publisher=Parents' Union School Diamond Jubilee Magazine, 1891-1951 (Ambleside:PUS, 1951), p. 30-32|accessdate=2006年8月24日}}</ref> で以前[[司書]]をしていた祖父ファルコナー・マダンとの会話の中で、ギリシア神話の[[ハーデース|ハデス]]に対応するこの名前「{{lang|en|Pluto}}」を選び、それを提案した。プルート([[プルートー]])とはローマ神話に登場する'''[[冥府]]の王'''である。マダンはこの提案を[[ハーバート・ターナー]]教授に伝え、ターナーはこの提案をさらにアメリカにいた同僚に電報で送った。
1930年3月24日、ローウェル天文台のメンバーにより、ミネルヴァ ({{lang|en|Minerva}})・クロノス({{lang|en|Cronus}})・プルート({{lang|en|Pluto}})の3つの候補への投票が行われた。同じ名前の小惑星があることが指摘されるまではミネルヴァが最有力と思われたが<ref name="smithonian"/>、最終的にプルートが満場一致で選ばれ、正式に「{{lang|en|Pluto}}」と命名された<ref name=Croswell>{{cite book | title = Planet Quest: The Epic Discovery of Alien Solar Systems | first = Ken|last=Croswell | location = New York | publisher= The Free Press | year=1997 | isbn = 978-0-684-83252-4 | pages = 54-55|ref=harv}}</ref>。「{{lang|en|Pluto}}」の最初の2文字がパーシヴァル・ローウェル('''P'''ercival '''L'''owell)のイニシャルであることもプルートに有利に働いた<ref name=Venetia/>。この名前は1930年5月1日にローウェル天文台から公表された。
==== アジア語圏の命名事情 ====
日本語名の「冥王星」は、日本人の[[野尻抱影]]がPlutoの訳語として提案した名称である。彼はこの名称を「幽王星」というもうひとつの候補とともに雑誌[[科学画報]]の1930年10月号に紹介した。この名称は[[京都大学大学院理学研究科附属花山天文台|京都天文台]]ではすぐに採用されたが、[[東京天文台]](現・[[国立天文台]])では英語のままの「プルートー」が用いられた(当時、東京天文台と京都天文台は異なる用語を用いていることがしばしばあった)。東京天文台が「冥王星」を採用したのは太平洋戦争中に外来語(カタカナ語)を禁止した1943年のことであった。
1933年には中国でも「冥王星」が使われ始め、現在では、中国語では日本語と同じ「{{lang|zh|冥王星}}({{lang|zh-latn|míngwángxīng}})」が用いられている。
漢字をほぼ廃止した[[朝鮮語]]では、漢字で冥王星にあたる「{{lang|ko|명왕성}}({{lang|ko-latn|myeongwangseong}})」を用いている。
漢字を完全に廃止したベトナム語では、ヒンドゥー教や仏教で地獄の守護神とされる[[閻魔]]にちなんで、漢字で「閻王星」にあたる「{{lang|vi|Diêm Vương Tinh}}」や、「閻王の星」にあたる「{{lang|vi|Sao Diêm Vương}}」などと呼ばれる。
インドでも閻魔(ヤマ)にちなみ「{{lang|hi|यम ग्रह}}({{lang|hi-latn|yam grah}})」と呼ばれる。
=== 惑星記号 ===
最も一般的な冥王星の天文学におけるシンボル([[惑星記号]])は[[File:Pluto symbol (fixed width).svg|16px|⯓]]<ref>{{cite web |url= https://www.jpl.nasa.gov/infographics/what-is-a-dwarf-planet |author= JPL/NASA |date= 2015-04-22 |website= Jet Propulsion Laboratory |title= What is a Dwarf Planet? |access-date= 2022-01-19}}</ref>と[[File:Pluto monogram (fixed width).svg|16px|♇]]<ref>{{cite book |editor=John Lewis |date=2004 |title=Physics and chemistry of the solar system |edition= 2 |page=64 |publisher=Elsevier}}</ref>である。天文学におけるシンボル([[惑星記号]])はPとLの[[モノグラム]]である[[ファイル:Pluto monogram.svg|16px|♇]]である。これは、パーシヴァル・ローウェルのイニシャルをも表している。冥王星の惑星記号は発見当時複数提案された。当時の[[天文学]]団体が採用した結果、上記の記号が大勢を占めるに至ったが、特に[[占星術]]においては別のシンボル([[ファイル:Pluto symbol (fixed width).svg|16px|⯓]])を好んで使う流派もある。このシンボルは海王星のもの([[ファイル:Neptune symbol (fixed width).svg|16px|♆]])に似ているが、三叉の中央の尖った部分に円がある。惑星のシンボルはもはや天文学ではあまり使用されていない。
=== 分類 ===
1930年に発見されて以来、「[[太陽系]]の9番目の[[惑星]]であり、[[外惑星]]のひとつである」とされてきた。しかし、[[1992年]]に冥王星以外の外縁天体が初めて発見されて以降、冥王星と似た大きさの外縁天体が続々と発見され始めた。その中でも[[2003年]]に撮影された写真の中から[[2005年]]に発見された{{mp|2003 UB|313}}は冥王星よりわずかに大きいと考えられた。このような太陽系研究の進展により、太陽系の研究者の間などで冥王星を惑星とみなすことへの疑問の声が広まった。そして、発見から76年後の[[2006年]]8月に開かれた[[国際天文学連合]](IAU)総会で、それまで明確でなかった[[惑星の定義]]を定めるとともに、「{{lang|en|dwarf planet}}(準惑星)」という分類を新たに設けることが採択された。この結果、冥王星は[[ケレス (準惑星)|ケレス]]、{{mp|2003 UB|313}}(分類と同時に[[エリス (準惑星)|エリス]]と命名)などとともに準惑星に分類された<ref>{{cite web | url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/magazine/4737647.stm | title=Farewell Pluto? | last=Akwagyiram | first=Alexis | publisher=BBC News | date=2005年8月2日 | accessdate= 2006年3月5日}}</ref>。また、冥王星を外縁天体の「新しい下位分類のプロトタイプ」とすることも決定され<ref>{{cite web | url=http://www.iau2006.org/mirror/www.iau.org/iau0602/index.html | title=The Final IAU Resolution on the definition of "planet" ready for voting | publisher=IAU | date=2006年8月24日 | accessdate=2006年8月24日 | archiveurl=https://web.archive.org/web/20061120021330/http://www.iau2006.org/mirror/www.iau.org/iau0602/index.html | archivedate=2006年11月20日 | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref>{{cite web | url=http://hosted.ap.org/dynamic/stories/P/PLANET_MUTINY | title=Dinky Pluto loses its status as planet | last=Kole | first=William J. | publisher=AP | date=2006年8月24日 | accessdate=2006年8月24日}}</ref>、[[2008年]]6月にその分類の名称を「{{lang|en|plutoid}}」とすることが確定した<ref>{{cite web
|date = Jun 11, 2008, Paris
|title = Plutoid chosen as name for Solar System objects like Pluto
|publisher = [[国際天文学連合|International Astronomical Union]] (News Release - IAU0804)
|url = http://www.iau.org/public_press/news/release/iau0804
|accessdate = 2008-06-11
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080613121232/http://www.iau.org/public_press/news/release/iau0804/
|archivedate = 2008年6月13日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>([[日本学術会議]]では[[2007年]]4月9日の対外報告(第一報告)<ref name="scj-t35-1">{{Cite web|和書| url=https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-20-t35-1.pdf | title=対外報告(第一報告):国際天文学連合における惑星の定義及び関連事項の取扱いについて | format = PDF | pages = 14 | publisher=日本学術会議 | date=2007年4月9日 | accessdate= 2007年4月17日}}</ref> において「[[冥王星型天体]]」という日本語名称を推奨していた)。再分類されたあと、冥王星は[[小惑星の一覧 (134001-135000)|小惑星の一覧]]に記載され、[[小惑星番号]]'''134340'''番が与えられた<ref>{{cite web | url=http://cfa-www.harvard.edu/mpec/K06/K06R19.html | title=MPEC 2006-R19 : EDITORIAL NOTICE | last=Spahr | first=Timothy B. | publisher=Minor Planet Center | date=2006年9月7日 | accessdate=2006年9月7日}}</ref><ref>{{cite web | url=http://www.newscientistspace.com/article/dn10028-pluto-added-to-official-minor-planet-list.html | title=Pluto added to official "minor planet" list | last=Shiga | first=David | publisher=[[ニューサイエンティスト|NewScientist]] | date=2006年9月7日 | accessdate=2006年9月8日}}</ref>。
これらの結果として冥王星は、「太陽系外縁天体として最初に発見されたもの」という位置づけとなった。→[[#惑星としての地位をめぐる論争]]
== 物理的特徴 ==
2015年7月14日に[[ニュー・ホライズンズ]]が最接近し、詳細な観測を行った。一部判明した観測データは公表されたが、詳細は数多くの天文研究者および天文愛好家によって現在解析中である。
=== 外観 ===
[[ファイル:Pluto Rotation Movie.gif|thumb|right|冥王星の全球]]
冥王星の見かけの[[等級 (天文)|等級]]は14等級以下であり、肉眼で観察することは不可能である。したがって観測には[[望遠鏡]]が必要となる。冥王星を容易に見るためには、望遠鏡の口径は約30センチ以上が望ましい。非常に巨大な望遠鏡で観測しても、冥王星の[[角直径]]はわずか0.15″しかないため、[[恒星]]と同じように点状に見える。冥王星の色はごくわずかに黄色がかった明るい茶色である。
衛星カロンが発見されたことにより、冥王星は最初の推定よりもずっと小さいことが明らかになり、必然的に冥王星の[[アルベド]](光を反射する度合い)の見積もりは上方修正されることとなった。現在の推定では、冥王星のアルベドは、かなり高いアルベドを持つ[[金星]]よりもわずかに低い程度だと考えられている。
[[ファイル:Map of Pluto PS723 HR-g.jpg|thumb|250px|冥王星表面の地図]]
冥王星の距離が非常に遠く、望遠鏡の技術にも限界があるため、現在でも地球から冥王星の表面の詳細な写真を直接的に得ることは不可能である。探査機ニュー・ホライズンズが2015年に最接近して直接撮影されるまでの間は、[[ハッブル宇宙望遠鏡]]が撮影した画像から、表面の明暗や模様などがわずかに分かる程度であった。
1985年から1990年にかけて、カロンによる冥王星の[[食 (天文)|食]]([[掩蔽]])が地球から観測できる位置関係になったため、食の進行にともなう明るさの変化を[[スーパーコンピュータ]]で処理することによって、地表の明るさの精密な分布地図が得られた。たとえば、冥王星上で明るい点が食されると、暗い点が食されたときよりも全体の明るさは大きく変化する。この技術を用いて、冥王星 - カロン系全体の平均の明るさとその変化を時間とともに追っていくことができた。最終的に2015年に最接近したニュー・ホライズンズから地球に送信された観測データにより詳細な地表が明らかになった。
=== 表面 ===
[[File:Pluto’s Heart - Like a Cosmic Lava Lamp.jpg|thumb|冥王星の表面。左下部分が氷山、右上部分が氷平面である。]]
冥王星の表面温度はマイナス230度で、[[メタン]]や[[窒素]]の氷で覆われている。
=== 質量と大きさ ===
[[ファイル:Pluto Charon Moon Earth Comparison.png|250px|thumb|「二重天体」としての冥王星とカロン(右下)。地球と月の組(左上)も示した。それぞれの天体間の距離は正しくないが、大きさの比率は正しく描かれている。]]
冥王星の直径と[[質量]]は発見後数十年間にわたって過大評価されていた。質量は[[地球]]に匹敵すると当初は考えられていたが、観測が精密になると大きく下方修正された。[[1978年]]に衛星の[[カロン (衛星)|カロン]]が発見されたことにより、[[ケプラーの法則|ケプラーの第3法則]]のニュートンの公式を適用して、冥王星 - カロン系の質量を確定することが可能になった。
{| class="wikitable sortable"
|+ 冥王星の質量の推移
|-
! 発表年 !! 質量<br />([[地球質量|M<sub>E</sub>]])!! 発表者 !! 出典
|-
| 1915 || 7 || [[パーシヴァル・ローウェル|ローウェル]]<br />([[惑星X]]の質量としての推定)|| <ref>{{cite journal|last=Tombaugh|first=Clyde W.|authorlink=Clyde Tombaugh|date=1946|title=The Search for the Ninth Planet, Pluto|journal=Astronomical Society of the Pacific Leaflets|volume=5|pages=73–80|bibcode=1946ASPL....5...73T
}}</ref>
|-
| 1931 || 1 || [[セス・B・ニコルソン|ニコルソン]]、Mayall || <ref>{{cite journal|title=The Discovery of Pluto|first=Andrew Claude de la Cherois|last=Crommelin|journal=Monthly Notices of the Royal Astronomical Society|volume=91|date=1931|pages=380–385|bibcode=1931MNRAS..91..380.|doi=10.1093/mnras/91.4.380}}</ref><ref>{{cite journal|bibcode=1930PASP...42..350N|title=The Probable Value of the Mass of Pluto|first1=Seth B.|last1=Nicholson|authorlink1=Seth B. Nicholson|first2=Nicholas U.|last2=Mayall|authorlink2=Nicholas U. Mayall|journal=Publications of the Astronomical Society of the Pacific|volume=42|issue=250|page=350|date=December 1930|doi=10.1086/124071}}</ref><ref>{{cite journal|bibcode=1931ApJ....73....1N|title=Positions, Orbit, and Mass of Pluto|first1=Seth B.|last1=Nicholson|authorlink1=Seth B. Nicholson|first2=Nicholas U.|last2=Mayall|authorlink2=Nicholas U. Mayall|journal=Astrophysical Journal|volume=73|page=1|date=January 1931|doi=10.1086/143288}}</ref>
|-
| 1948 || 0.1 || [[ジェラルド・カイパー|カイパー]] || <ref>{{cite journal|title=The Diameter of Pluto|first=Gerard P.|last=Kuiper|journal=Publications of the Astronomical Society of the Pacific|volume=62|issue=366|pages=133–137|date=1950|bibcode=1950PASP...62..133K|doi=10.1086/126255}}</ref>
|-
| 1976 || 0.01 || Cruikshank、Pilcher、Morrison || <ref>{{cite journal|first1=James W.|last1=Christy|first2=Robert Sutton|last2=Harrington|authorlink2=Robert Sutton Harrington|title=The Satellite of Pluto|journal=Astronomical Journal|date=1978|volume=83|issue=8|pages=1005–1008|bibcode=1978AJ.....83.1005C|doi=10.1086/112284}}</ref>
|-
| 1978 || 0.0015 || [[ジェームズ・クリスティー|クリスティー]]、[[ロバート・ハリントン|ハリントン]]|| <ref>{{cite journal|doi=10.1007/BF01234554|title=Planet X – The current status|first1=P. Kenneth|last1=Seidelmann|first2=Robert Sutton|last2=Harrington|authorlink2=Robert Sutton Harrington|journal=Celestial Mechanics and Dynamical Astronomy|volume=43|issue=|date=1988|pages=55–68|url=http://www.springerlink.com/content/r42h4u7232t724uq/|accessdate=2016-02-06|bibcode=1987CeMec..43...55S}}</ref>
|-
| 2006 || 0.00218 || Buieら || <ref>{{cite journal|last=Lellouch|first=Emmanuel|first2=Catherine|last2=de Bergh|first3=Bruno|last3=Sicardy|display-authors=3|first4=François|last4=Forget|first5=Mélanie|last5=Vangvichith|first6=Hans U.|last6=Käufl|title=Exploring the spatial, temporal, and vertical distribution of methane in Pluto's atmosphere|journal=Icarus|date=2015-01-15|doi=10.1016/j.icarus.2014.03.027|arxiv=1403.3208|bibcode=2015Icar..246..268L|volume=246|pages=268–278}}</ref>
|}
[[ファイル:1e6m comparison Mars Mercury Moon Pluto Haumea - no transparency.png|thumb|250px|火星(左奥)、水星(右奥)、前列左から月、冥王星、[[ハウメア (準惑星)|ハウメア]]]]
冥王星は太陽系内のどの惑星よりも小さく、圧倒的に質量が少ない。冥王星の質量は地球の月の0.2倍以下であり、太陽系のほかの惑星には冥王星より質量が大きい衛星が7つもある。その7つの衛星は、[[ガニメデ (衛星)|ガニメデ]]、[[タイタン (衛星)|タイタン]]、[[カリスト (衛星)|カリスト]]、[[イオ (衛星)|イオ]]、月、[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]、[[トリトン (衛星)|トリトン]]である。
もともと、冥王星は[[水星]]よりは大きく[[火星]]よりは小さいと考えられていた。冥王星のアルベドがほかの惑星に比べて高いうえに、カロンのアルベドを冥王星のそれに加算してしまっていたことが原因のひとつである(ハッブル宇宙望遠鏡の登場以前は、地上で冥王星とカロンを分離して観測できなかった)。実際には1つではなく2つの天体であると分かると、冥王星の大きさの見積もりは一気に小さくなった。その後、カロンによる冥王星の[[掩蔽]]の観測から冥王星の直径を決定することができるようになり、[[補償光学]]を用いた望遠鏡での観測により形状を決めることもできた。
冥王星は太陽系外縁天体の中では直径が最大である<ref name="a">{{Cite web
|url=http://www.nasa.gov/feature/how-big-is-pluto-new-horizons-settles-decades-long-debate
|title=How Big Is Pluto? New Horizons Settles Decades-Long Debate
|publisher=[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]
|date=2015-07-14
|accessdate=2016-01-25}}</ref>。2003年に発見された太陽系外縁天体の[[エリス (準惑星)|エリス]]は発見当時は冥王星よりも大きいとされていたがことがあったが、現在考えられている直径では冥王星よりも小さい。[[2015年]][[7月14日]]、[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]は[[探査機]]ニュー・ホライズンズによる測定で、冥王星の直径を2,370キロメートル、衛星カロンの直径を1,208キロメートルと発表した<ref name="NASA20150714"/>。
=== 大気 ===
[[ファイル:Blue hazes over backlit Pluto.jpg|250px|サムネイル|右|ニュー・ホライズンズが冥王星を背後から撮影した画像。薄く青く輝いているのが窒素を始めとする大気。]]
冥王星ははっきりとした濃い[[大気]]は持っていない。詳細は下記に述べる。
==== 公転による大気の変化 ====
[[太陽]]に近づくと、おもに[[窒素]]、[[メタン]]、[[一酸化炭素]]からなる希薄な大気が冥王星を包み、表面にある固体の窒素や一酸化炭素の氷との間で平衡状態になる。冥王星が[[遠日点]]へと公転していき太陽から離れると、大気の大部分は凝固し、地表へと降下する。冥王星が再び太陽へ近づいていくと、冥王星の固体表面の温度が上昇し、[[固体窒素]]が[[昇華 (化学)|昇華]]して気体となる。これが[[反温室効果]]をもたらす。この昇華する窒素は、人間の[[皮膚]]から蒸発する[[汗]]と同じように冷却効果を持つ。2006年には[[サブミリ波]][[超長基線電波干渉法|干渉計]]を用いて、冥王星の表面温度が予想されていたよりも10[[ケルビン]]低いことが発見された<ref>{{cite web | url=https://edition.cnn.com/2006/TECH/space/01/03/pluto.temp/index.html | title=Astronomers: Pluto colder than expected | first=Ker | last=Than | publisher=Space.com (via CNN.com) | date=2006年 | accessdate=2006年3月5日}}</ref>。
==== 恒星の掩蔽によって判明したこと ====
[[1985年]]の[[恒星]]の掩蔽([[食 (天文)|恒星食]])の観測から、冥王星は大気を持っているということが分かった<ref>IAU Circ. 4097; MNRAS '''276''', 571</ref>。この発見は[[1988年]]に起きた別の掩蔽の詳細な観測により確認され、著しく補強された。大気を持たない天体が恒星を掩蔽すると、恒星は瞬間的に消える。冥王星の場合、恒星は徐々に暗くなっていった。暗くなっていく割合から、冥王星の[[大気圧]]は、地球のおよそ70万分の1の0.15[[パスカル (単位)|パスカル]]と分かった。
[[2002年]]には、冥王星による別の恒星の掩蔽の観測と分析が、[[パリ天文台]]<ref>{{cite web | url=http://calys.obspm.fr/~sicardy/pluton/pr_obs_en.html | title=Drastic expansion of Pluto's atmosphere as revealed by stellar occultations | accessdate=2006年3月5日}}</ref> のブルーノ・シカルディ、[[マサチューセッツ工科大学]](MIT)<ref>{{cite web | url=http://web.mit.edu/newsoffice/2002/pluto.html | title=Pluto is undergoing global warming, researchers find | date=2002年
|accessdate=2006年3月5日}}</ref> のジム・エリオット、[[ウィリアムズ大学]]<ref>{{cite web | url=http://www.williams.edu/admin/news/releases.php?id=162 | title=Williams Scientists Contribute to New Finding About Pluto | date=2002年 | accessdate=2006年3月5日}}</ref> のジェイ・パサチョフが率いるチームによって行われた。冥王星が1988年よりも太陽から遠ざかっており、したがって冥王星はより気温が下がり大気濃度も減少しているはずだったが、驚くべきことに大気圧は従来の2倍の0.3パスカルと推定された。[[21世紀]]初頭現在、最有力な仮説は、冥王星の南極が[[1987年]]に120年ぶりに影から出たため、窒素が余分に極冠から昇華したという説である。過剰の窒素が大気から凝縮するには数十年がかかると考えられている。
[[マサチューセッツ工科大学|MIT]]とウィリアムズ大学のエリオットとパサチョフのチームと、レスリー・ヤング率いるサウスウエスト研究所のチームは、2006年6月12日に起きた冥王星によるさらに別の恒星の掩蔽を[[オーストラリア]]から観測した。
=== 組成 ===
[[ファイル:PlutoColorMap HST2002-2003.jpg|thumb|150px|left|冥王星の表面組成。赤は凍ったメタン。薄い色は凍った窒素。暗い色は水{{small|<chem>H2O</chem>}}の氷の可能性。]]
冥王星の[[光度曲線]]、ハッブル宇宙望遠鏡の観測を元に作成された表面の地図、赤外線スペクトルの周期的な変化などから明白に分かるように、冥王星の表面は不均一かつ不安定である。冥王星の表面のうちカロンに向いた側はメタンの氷が多く、反対側([[トンボー地域]])は窒素と一酸化炭素の氷が多い。また、1999年、すばる望遠鏡は冥王星から固体のエタンに特徴的な吸収線をとらえることに成功した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.naoj.org/Pressrelease/1999/07/19/j_index.html|title=すばる望遠鏡 冥王星にエタンの氷、カロンに水の氷を発見|work=すばる望遠鏡ホームページ|date=1999/07/19|accessdate=2014/07/30}}</ref>。
また、地下に液体の水で出来た内部[[海]]を持っている可能性が示唆されており、冥王星の内部海とそれを覆う分厚い氷の間に[[メタンハイドレート]]が存在すると、メタンハイドレートが効率的な断熱材として機能して内部の熱を逃がさず、その結果、表面は極寒でも内部海は凍結しないことが研究によって明らかになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.titech.ac.jp/news/2019/044305|title=極寒の冥王星の地下に海が存在できる謎を解明|work=東工大ニュース|date=2019/05/21|accessdate=2022/02/14}}</ref>。
=== 軌道 ===
[[ファイル:TheKuiperBelt_Orbits_Pluto_Ecliptic.svg|right|thumb|300px|冥王星の軌道を[[黄道]]面から見た図。このように「横から見た図」では、冥王星の軌道(赤)は、海王星の軌道(青)のような普通の軌道よりも[[軌道傾斜角|傾いている]]ことが分かる。]]
[[ファイル:Plutoorbit1.5sideview.gif|200px|サムネイル|右|横から見た冥王星の公転を描いたアニメーション]]
冥王星の軌道は太陽系の惑星と比較すると異質である。惑星は黄道面と呼ばれる仮想の平面にかなり近い面を公転しており、軌道の形は真円に近い。対照的に、冥王星の軌道は黄道面から約17°ほど[[軌道傾斜角|傾いて]]おり、[[離心率]]は8惑星の中でも突出している水星より大きい(数学的には真円ではなく[[楕円形|楕円]]である)。軌道が傾いているため、冥王星の[[近日点]]は黄道面から北側に{{val|8.7|ul=au}}ほどずれた位置にある。また冥王星族であるため海王星の軌道が比較的近くにあり、冥王星はその離心率によって軌道の一部は海王星よりも太陽の近くに入り込んでいる。
==== 太陽からの距離 ====
[[ファイル:TheKuiperBelt_Orbits_Pluto_Polar.svg|right|thumb|300px|冥王星の軌道を天の北極方向から見た図。この「上から見た図」から、冥王星の軌道(赤)が海王星の軌道(青)と比べると軌道の中心が太陽の位置からずれており、冥王星が海王星より太陽の近くに入り込む時期があることが分かる。それぞれの軌道の半分の暗い部分は、惑星が黄道面の南側を通る部分を表している。それぞれの惑星の位置は2006年4月16日のものである。2007年4月にはそれぞれの惑星の位置はわずかに1ピクセル分ほどずれる。]]
[[近日点]]の近くでは、冥王星は海王星よりも太陽に近くなる。直近でこの現象が起こったのは[[1979年]]2月7日から[[1999年]]2月11日までである。数学的な計算によると、この現象は前回は1735年7月11日から1749年9月15日まで続いた。同様の計算から、そのさらに前の回は1483年4月30日から1503年7月23日までだったことが分かっており、この期間の長さはほとんど1979年から1999年までの期間の長さと等しい。冥王星が海王星の内側に入り込む期間は、微妙な変化はあるものの、約13年間と約20年間のものが交互に訪れると考えられている。
=== 海王星との関係 ===
冥王星と海王星とは、隣り合わせの天体であるため、特有の関連性が見られる。
==== 接近 ====
[[ファイル:TheKuiperBelt_Orbits_Pluto_Neptune2.svg|right|thumb|300px|この図では冥王星(赤)と海王星(青)の相対的な位置関係を一部の日のものを抜粋して示している。海王星と冥王星の大きさは、比較を容易にするため、距離に反比例するように描いている。もっとも接近したのは1896年である。]]
冥王星の軌道は海王星の軌道と「交差している」と言われることがよくある。しかし実際は、冥王星の軌道の[[交点 (天文)|交点]](軌道が黄道面と交差する点)は両方とも海王星の軌道の外側にあり、距離にして6.4[[天文単位|au]](すなわち、地球と太陽の間の距離の6倍以上、太陽と[[木星]]間の距離以上)も離れている。そのうえ、これらの天体は[[軌道共鳴]]状態にあるために、冥王星が2回公転する間に海王星は正確に3回公転する。このため、海王星と冥王星の軌道がもっとも近づいているところに海王星が達したとき、冥王星は軌道上ではるかに後ろにあり、代わって冥王星がその点に到達したときには、海王星は軌道上で50°以上も前方にあることになる。冥王星がもう1公転してこの点に到達したときには、海王星は軌道上で半周近く離れたところにある。その結果として、冥王星は軌道上のこの点では海王星の30au以内には決して近づかないことになる。
実際に海王星と冥王星がもっとも接近するのは、軌道上のほぼ反対側であり、冥王星が[[遠日点]]を通過して(前回の遠日点通過は[[1866年]])から約30年後に海王星が冥王星に追いつく(海王星と冥王星の遠日点経度は似通っている)。距離が最小になったのは[[1896年]]6月のことで、18.9auまで近づいた。言い換えると、冥王星は[[土星]]にもっとも近づいたときよりも海王星に近づくことは決してないということである。
==== 軌道 ====
冥王星の軌道は海王星の軌道と3:2の[[軌道共鳴]]状態にある。海王星が冥王星に背後から近づくと、相互の重力によって互いにわずかに引かれ始め、[[ラグランジュ点|トロヤ点]]を生じるような軌道上の同じ配列の間で相互作用する結果になる。軌道が歪んでいるため、3:2の比で軌道共鳴しているということは、海王星が常に冥王星と遠く離れたところにあることになり好都合である。冥王星が軌道を半周すると、冥王星は海王星にもっとも近づき、一見すると海王星が冥王星を捕獲しそうに見える。しかし冥王星は太陽からの重力的加速により速度を上げ、海王星の前方に留まり、冥王星の軌道の反対側で再び出会うまで前方に引かれる。
[[1990年代]]以降、冥王星以外に太陽系外縁天体(TNO)が多数見つかり、その一部は海王星と3:2の軌道共鳴状態にあった。このような軌道共鳴状態にあるTNOは冥王星にちなんで[[冥王星族]]<ref>{{lang-en-short|Plutinos}}</ref> と呼ばれている。
=== 起源 ===
1936年、冥王星はトリトンとともに海王星の衛星として形成され、衛星同士の重力相互作用により海王星の引力圏から飛び出したものだという説が発表された。トリトンの[[順行・逆行|逆行軌道]]と冥王星の起源を同時に説明しようと試みたものだったが、下方修正された冥王星の質量に基づくのちの研究では、このメカニズムで現在の冥王星やトリトンの軌道を説明することは力学的に困難なことが示され、仮説は否定された<ref>{{
cite paper | author=Chyba, C. F. ''et al.'' | year=1989 | title=Tidal evolution in the Neptune-Triton system | journal=Astronomy and Astrophysics | volume=219 | issue= | pages=L23-L26 | url=https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/1989A%26A...219L..23C/abstract | doi=
}}</ref>。現在では冥王星やトリトンは太陽を取り囲む[[原始惑星系円盤]]で形成され、上記の説とは逆にトリトンが海王星に捕獲されたという考えが支持されている。
=== 彗星との比較 ===
[[エッジワース・カイパーベルト]]はすべての[[短周期彗星]]の供給源だと考えられており、冥王星も、ほかのエッジワース・カイパーベルト天体(外縁天体)と同様に、[[彗星]]が持つ一般的な特徴を持っている。[[太陽風]]によって冥王星の表面の物質はゆっくりと宇宙空間に吹き飛ばされており、これは彗星の場合と同様である<ref>{{cite web | title=Colossal Cousin to a Comet? | work=New Horizons | url=http://pluto.jhuapl.edu/science/everything_pluto/8_cousin.html | accessdate=2006年6月23日 | archiveurl=https://webcitation.org/615Ub3IkB?url=http://pluto.jhuapl.edu/science/everything_pluto/8_cousin.html | archivedate=2011年8月20日 | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。もし冥王星を太陽から十分近くに置けば、彗星のように尾が発達するだろうと考えられている<ref>{{cite web | date= 1999年 | author= Neil deGrasse Tyson | title=
Space Topics: Pluto Top Ten: Pluto Is Not a Planet | work=The Planetary Society | url=http://www.planetary.org/explore/topics/topten/tyson_pluto_is_not.html | accessdate=2006年6月23日}}</ref>。
== 衛星 ==
[[ファイル:Pluto and moons art.png|thumb|250px|冥王星と衛星の想像図]]
{{main|冥王星の衛星}}
冥王星には5つの衛星が発見されている。[[1978年]]には最初の衛星[[カロン (衛星)|カロン]]が天文学者[[ジェームズ・クリスティー]]によって発見された。カロンは冥王星の7分の1の質量を持つ巨大な衛星で、冥王星 - カロン系はしばしば[[二重惑星|二重天体]]と表現される。
衛星の発見に関する公式発表はカロンのあと20年以上途絶えていたが、[[2005年]]に小さい2つの衛星[[ニクス (衛星)|ニクス]]と[[ヒドラ (衛星)|ヒドラ]]が、[[2011年]]にはより小さな[[ケルベロス (衛星)|ケルベロス]]が、[[2012年]]にはさらに小さな[[ステュクス (衛星)|ステュクス]]が発見された。
また、衛星ではないが、{{mpl|(15810) 1994 JR|1}}と呼ばれる[[準衛星]]を持つ。
== 探査 ==
{{main|ニュー・ホライズンズ}}
[[ファイル:New Horizons launch.jpg|thumb|left|150px|ニュー・ホライズンズは2006年1月19日14時00分([[東部標準時|EST]])に冥王星へ打ち上げられた]]
冥王星は質量が小さく地球からの距離が非常に遠いため、[[探査機]]を送るには到達までの時間がかかる点、数多くの惑星や衛星を避けなければならない点、地球から遠ざかることによる操縦関連の遅延がある点、質量が小さいために地上に降りて観察するのが難しい点、経費が高額になる点などの困難さがある。1983年に火星を除く外惑星(冥王星を含む)が地球から見てほぼ同じ方向になることを利用して、これらの惑星を探査する[[グランドツアー計画]]が立案されたが、経費が莫大になることから中止され、計画を縮小して[[ボイジャー計画]]となった。1977年に打ち上げられた[[ボイジャー1号]]は方向姿勢を変えることで冥王星を訪れることもできたが、当時の制御チームは冥王星の探査よりも土星の衛星タイタンへの接近飛行の方を選んだため、冥王星への接近飛行はできない軌道になった。[[ボイジャー2号]]はもともと冥王星に接近するような軌道ではなかった<ref>{{cite web | url=http://voyager.jpl.nasa.gov/faq.html | title=Voyager Frequently Asked Questions | accessdate=2006年9月8日 | publisher=Jet Propulsion Laboratory | date=2003年1月14日 | archiveurl=https://web.archive.org/web/20110721050617/http://voyager.jpl.nasa.gov/faq.html | archivedate=2011年7月21日 | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。その後、NASAは[[プルート・カイパー・エクスプレス]] ([[:en:Pluto Kuiper Express|Pluto Kuiper Express]]) ミッションを計画していたが、経費の増大や打ち上げ[[ロケット]]の開発の遅れなどのため、[[2000年]]に中止された。
[[ファイル:New Horizons 1.jpg|thumb|right|250px|打ち上げに備えるニュー・ホライズンズの探査機]]
初めて冥王星を訪れた探査機は、[[2006年]][[1月19日]]14時00分(EST)に打ち上げられたNASAのニュー・ホライズンズである。探査機は[[木星]]の重力により[[スイングバイ]]を行い、[[2015年]][[7月14日]]に冥王星に最接近した。冥王星の観測は最接近の5か月前から始まり、冥王星とすれ違い通り過ぎたあとは、冥王星と同じく太陽系外縁天体のひとつである[[2014 MU69|{{mp|2014 MU|69}}]]への軌道へ入った。
ニュー・ホライズンズは、冥王星とその衛星カロンの全体的な[[地質]]と[[地形]]の特徴を明らかにし、表面の組成の[[地図]]を作成し、冥王星の薄い大気とそれが流出する割合を明らかにするための画像撮影装置と無線科学調査ツール、さらに[[分光器]]とその他の実験装置を含んだ遠隔操作機器を使用した。それだけでなく、冥王星とカロンの表面の写真撮影も行った。
打ち上げられてまもないころ、ニクスとヒドラの[[脱出速度]]が比較的小さいため、外縁天体との衝突で薄い塵の[[環 (天体)|環]]が生じている可能性が団体関係者から指摘され、もしニュー・ホライズンズが飛行中にこのような環の中を通過すれば、探査機に損傷を与えたり機能停止させるような微小隕石によるダメージを受ける可能性が高まるという懸念が示されていた<ref name="Steffl 2006">{{cite journal | first=Andrew J. | last=Steffl | coauthors=S. Alan Stern | title=First Constraints on Rings in the Pluto System | url=http://arxiv.org/abs/astro-ph/0608036 | id=astro-ph/0608036}}</ref>。
== 惑星としての地位をめぐる論争 ==
冥王星はほかの8つの惑星と比べると性質の違いが目立ち、1930年に発見した当時は明確な[[惑星#太陽系の惑星の定義|惑星の定義]]が定められていなかったため、少なくとも最初の太陽系外縁天体(TNO)である {{mpl|1992 QB|1}} が発見された1992年以降、冥王星を公式に惑星と呼ぶべきかどうかをめぐり常にさまざまな議論や論争がなされてきた。1990年代後半以降同様の天体がさらに次々と発見され、賛否両論の論争はますます激しくなっていった。
=== 論争の背景 ===
冥王星は海王星までの8つの惑星と比較すると[[離心率]]や[[軌道傾斜角]]が大きいことから、1930年に発見された当初から「変わった惑星」だと考えられていた。発見されてからしばらくの間は地球と同じ程度からその数倍の質量を持つと推定されていたが、望遠鏡およびその観測技術の向上により実際はそれよりはるかに小さいことが明らかになり、組成や予想される起源から、太陽系外縁天体ではないかという意見が有力になっていった。また、冥王星の表面を覆う氷は彗星が持っている氷と同じ成分であることから、冥王星は太陽系を形成したときの[[微惑星]]の集合体だと考えられるようになった。このような研究の進展から、冥王星を惑星とみなすことに疑問を抱く声が高まっていった。
1990年代後半には、冥王星の惑星としての地位を見直す声がますます高まってきたが、国際天文学連合(IAU)は冥王星を惑星から外すことには消極的だった。[[1998年]]には番号登録された小惑星の数が1万に迫ってきたことから、冥王星を小惑星に再分類して[[小惑星番号]]10000番を与えてはどうかという声が上がった。しかしIAUは[[1999年]][[2月3日]]、冥王星を外縁天体のリストに加えることは考えているが、冥王星の立場を変更する動きはまったくないとの声明を発表した<ref>{{Cite web|和書| url=http://www.nao.ac.jp/nao_news/mails/000238.txt | title=冥王星の分類について、国際天文学連合が態度表明 | date=1999年2月4日 | publisher = 国立天文台・天文ニュース (238) | accessdate=2006年9月14日}}</ref>。結局、小惑星番号10000番は普通の小惑星([[ミリオストス (小惑星)|ミリオストス]])に与えられた。
冥王星を発見した[[クライド・トンボー]]は、1997年1月に死去する直前まで冥王星を惑星のままにしておくべきだと主張し続けていた。
=== ヘイデン・プラネタリウムの展示 ===
1999年5月、[[ニューヨーク]]の[[アメリカ自然史博物館]]で5人の専門家によるパネルディスカッションが開かれた。出席者のうち、[[デイヴィッド・レヴィ]]と[[アラン・スターン]]は冥王星が惑星であり続けることを支持し、[[ブライアン・マースデン]]と[[マイケル・アハーン]]は惑星と[[太陽系外縁天体|カイパーベルト天体]]の両方に分類することを提案し、[[ジェーン・ルー]]は降格を主張した。当時、アメリカ自然史博物館では[[ローズ地球宇宙センター]]の建設と[[ヘイデン・プラネタリウム]]の改築が行われており、それらが完成したあとの展示内容を決めるにあたってこのパネルディスカッションが参考にされた。
2000年2月、2つの施設は一般公開された。太陽系の仲間たちを紹介するコーナーでは、従来のように9個の惑星をただ内側から順番に並べるのではなく、小惑星や彗星なども含めて共通項を持つグループ(地球型惑星、小惑星帯、<!--広義の-->木星型惑星、カイパーベルト、オールトの雲)ごとに分けて展示していた。球形の[[プラネタリウム]]施設を取り巻く回廊に設けられた「[[長さの比較|宇宙のスケール]]」の[[1 E7 m|10<sup>7</sup>m]]の位置には4個の地球型惑星、その隣には4個の木星型惑星の模型があったが、冥王星(そして月や木星の[[ガリレオ衛星]]など)の模型はなかった。
この展示は当初[[マスメディア|メディア]]に大きく取り上げられることはなかったが、2001年1月に[[ニューヨーク・タイムズ]]が「冥王星が惑星じゃない? そんなのニューヨークだけだ」と題して1面で特集すると激しい論争が起きた<ref>{{cite web | url=http://www.space.com/scienceastronomy/solarsystem/tyson_responds_010202.html | title=Astronomer Responds to Pluto-Not-a-Planet Claim | date=2001年2月2日 | publisher=Space.com | first=Neil deGrasse | last= Tyson | accessdate=2006年9月8日}}</ref>。ヘイデン・プラネタリウム所長[[ニール・ドグラース・タイソン]]のもとには、賛否両論の多数の手紙やメールとともに、全米各地の教師たちが行った「冥王星は惑星かどうか」を考えさせる授業の結果報告や子供達に書かせた作文(当初は「惑星だ」という意見が9対1で優勢だったが、年を追うごとに「惑星ではない」が増えていき、2006年の末には上記の比率が逆になっていたという)が届いた。
=== 新発見による論争の激化 ===
{{TNO imagemap}}
望遠鏡の技術が進歩し続けたことにより、21世紀にはさらに多くの太陽系外縁天体が発見できるようになり、その中には以下のように冥王星の大きさに匹敵するものもあった。
* [[2001年]]5月22日、アメリカの天文台が{{mp|2001 KX|76}}([[イクシオン (小惑星)|イクシオン]])を発見。2001年8月31日には[[ヨーロッパ南天天文台]]が直径は少なくとも1,200キロメートル以上であることを確認。最大のKBOと認定される。
* [[2002年]]、冥王星の半分よりも少し大きい直径1,280キロメートルの{{mp|2002 LM|60}}([[クワオアー]])が発見される。
* [[2004年]]には、推定直径の上限が1,800キロメートルである {{mp|2003 VB|12}}([[セドナ (小惑星)|セドナ]])が発見され、冥王星の直径の2,320キロメートルに迫った。
* [[2005年]]7月29日、{{mp|2003 UB|313}}([[2006年]]9月に[[エリス (準惑星)|エリス]]と命名された)と呼ばれる外縁天体の発見が公表された。この天体は[[等級 (天文)|等級]]と[[アルベド]]を考慮に入れただけの計算を元にすると、冥王星よりやや大きいと推測された。これは[[1846年]]の海王星の発見以来、太陽系内で最大の天体の発見であった(ただし、現在では冥王星はエリスよりもわずかに大きいという報告もある)<ref name="a"/>。この天体を惑星と呼ぶかどうかの公式な合意は何もなかったにもかかわらず、発見者とメディアは当初これを「第10惑星」と呼び、10個目の惑星発見という報道もされた。天文学会のほかの人々の中には、この発見を冥王星を小惑星として再分類するもっとも強力な根拠とみなす者もいた。
最後まで残った冥王星の特徴的な点は、巨大な衛星カロンと大気である。しかしこれらの特徴も、冥王星特有のものではないかもしれない。ほかにも多くの外縁天体が[[小惑星の衛星|衛星]]を持っている。また、{{mp|2003 UB|313}}(エリス)のスペクトルからは表面の組成が冥王星と似ていることが示唆され、2005年9月には衛星も発見された(2006年9月に[[ディスノミア (衛星)|ディスノミア]]と命名された)。外縁天体{{mp|2003 EL|61}}(のちの[[ハウメア (準惑星)|ハウメア]])は2つの衛星([[ヒイアカ (衛星)|ヒイアカ]]、[[ナマカ (衛星)|ナマカ]])を持ち、エリス、冥王星、{{mp|2005 FY|9}}(のちの[[マケマケ (準惑星)|マケマケ]])に次いで4番目に大きな外縁天体である。
=== 国際天文学連合での議論 ===
{{main|惑星#2006年IAU総会|国際天文学連合による惑星の定義}}
2006年8月14日から[[チェコ]]の[[プラハ]]で開かれたIAU総会で、惑星の定義を決めるための議論が行われた。当初提出された定義案に従うならば、冥王星が惑星として残るのに加えて冥王星の衛星カロン、小惑星[[ケレス (準惑星)|ケレス]]、{{mp|2003 UB|313}}(エリス)が惑星とみなされ、惑星は12個となる。しかし、天文学者などから強い反対の声が噴出し、原案は大幅な見直しを余儀なくされた。結局、8月24日に採択された議決において「惑星」「準惑星 ({{lang|en|dwarf planet}})」、「[[太陽系小天体]] ({{lang|en|small Solar system bodies}})」の3つのカテゴリが定義されることになった。
; 惑星
:#[[太陽]]の周りを公転していること。
:# 自己の重力によって球形になるほど十分な質量を持っていること。より明確にいうと、自己の重力により[[重力平衡形状]]になっていること。
:# 軌道上のほかの天体を排除<ref>{{lang-en-short|clear}}</ref> していること。
;準惑星
:# 太陽の周りを公転していること。
:# 自己の重力によって球形になるほど十分な質量を持っていること。より明確にいうと、自己の重力により重力平衡形状になっていること。
:# 軌道上の他の天体を排除していないこと。
:# 衛星ではないこと。
;太陽系小天体
: 太陽の周りを公転している天体で、惑星、準惑星でない、ほとんどすべての天体([[小惑星]]の大部分、太陽系外縁天体の大部分、彗星その他)。
IAUは上記の定義の元で、それまでの9つの惑星のうち冥王星は惑星としての条件の3つ目を満たさないとして<ref>{{cite news | url=http://www.iau2006.org/mirror/www.iau.org/iau0603/index.html | title=IAU 2006 General Assembly: Result of the IAU Resolution votes | publisher=IAU | date=2006年8月24日 | archiveurl=https://web.archive.org/web/20061107022302/http://www.iau2006.org/mirror/www.iau.org/iau0603/index.html | archivedate=2006年11月7日 | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>、惑星の総数を8つとするとともに冥王星を「{{lang|en|dwarf planet}}」に再分類し、太陽系外縁天体内の新しいサブグループの典型例とみなすと決議した。サブグループの名称として提案されていた「{{lang|en|plutonian objects}}」は否決された。
さらに、2006年9月7日、小惑星センター(MPC)は冥王星を正式に小惑星の一覧に加え、小惑星番号'''134340'''番を割り振った<ref>{{Cite book|和書 |title=宇宙に外側はあるか |publisher=光文社 |page=111}}</ref>。IAU総会直前までに登録されていた小惑星の総数は13万4,339個で、この日同時に登録された2,224個の中でもっとも早く発見されたものであったことからこの番号になった<ref name="MPs130001" /><ref>[http://www.minorplanetcenter.org/iau/lists/ArchiveStatistics.html MPC Archive Statistics]</ref>。1999年からの7年間で、登録された小惑星の数は10倍以上に増えていた。冥王星に10000番を割り当てる提案が却下されて以降、20000番の[[ヴァルナ (小惑星)|ヴァルナ]]や50000番の[[クワオアー]]のように、外縁天体の中にはきりのいい番号が割り当てられたものもあったが、冥王星には結局平凡な番号が割り当てられることになった。
=== IAUの決議に対する反応 ===
天文学会の中には、この再分類に対する抵抗もあった<ref name="geoff2006c">{{cite news | url=http://space.com/scienceastronomy/060824_planet_definition.html | title=Pluto Demoted: No Longer a Planet in Highly Controversial Definition | first=Robert Roy | last=Britt | publisher=Space.com | date=2006年8月24日 | accessdate=2006年9月8日}}</ref>。[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の冥王星探査機ニュー・ホライズンズの主任研究官アラン・スターンは、公然とIAUの決議を嘲笑し、「技術的な理由から、決議はお粗末なものだ」と述べた<ref name="geoff2006a">{{cite news | url=http://msnbc.msn.com/id/14489259/ | title=Scientists decide Pluto’s no longer a planet | first=Robert Roy | last= Britt | date=2006年8月24日 | publisher=MSNBC | accessdate=2006年9月8日}}</ref>。スターンの主張は、地球、火星、木星、海王星はすべて軌道を小惑星と共有している<ref name="newscientistspace">{{cite news | url=http://www.newscientistspace.com/article/dn9846-new-planet-definition-sparks-furore.html | title=New planet definition sparks furore | date=2006年8月25日 | publisher=NewScientist.com | first= David| last= Shiga| accessdate=2006年9月8日}}</ref> ため、新しい定義ではこれらの惑星も惑星ではなくなるというものであった。しかしこの発言は、これらの4惑星を含む、軌道付近の天体を排除している8つの惑星を「明らかに我々の太陽系は含んでいる」とする彼自身の文章と矛盾する<ref name="Stern 2002">{{cite journal | last=Stern | first=S. Alan | coauthors=and Levison, Harold F. | year=2002 | title=Regarding the criteria for planethood and proposed planetary classification schemes | url=http://www.boulder.swri.edu/~hal/PDF/planet_def.pdf | format=[[Portable Document Format|PDF]] | journal=Highlights of Astronomy | volume=12 | pages=205-213, as presented at the XXIVth General Assembly of the IAU - 2000 [Manchester, UK, 7 - 18 August 2000]}}</ref>。スターンらの行動に対しては、冥王星の「価値が下がった(ようなイメージが広まる)」ことによる冥王星探査計画への予算面での影響を恐れたからだという見方もある。
[[マーク・サイクス]]は、1万人以上いるIAU会員のうち総会の出席者は2,000人あまり、最終日の議決に参加したのはわずか424人(賛成票が約9割という圧倒的多数ではあったが)だったことから、この決議は無効だという抗議の意見書を公表した。この意見書には304人の天文学者や惑星科学者が署名したが、その大半はアメリカ人だった。
一方、IAUを支持した者もいる。エリスを発見した天文学者[[マイケル・ブラウン (天文学者)|マイケル・ブラウン]]は、「この馬鹿げた[[サーカス]]のような手続き全体を通して、何とか正しい答えに巡り合った。長い時間がかかった。科学者は、たとえ強い感情が絡むときであっても、最終的には自らの誤りを正すのだ」と語った<ref name="geoff2006b">[http://www.nytimes.com/2006/08/24/science/space/25pluto.html?ei=5087&en=cfe4d03207c823f2&ex=1172030400&adxnnl=1&excamp=GGGNpluto&adxnnlx=1156820936-x7vi0zUxIJHoKC1TQ0qrMA Pluto Is Demoted to ‘Dwarf Planet’], New York Times</ref>。
一般大衆の間では、広範囲に及ぶメディア報道の中では受け取り方はさまざまであった。再分類を受け入れた者もいるが、IAUに冥王星の惑星復活を強く求める[[インターネット]]上の請願によって決定を覆そうとした者もいる。[[カリフォルニア州]]議会下院(定数80名)には、IAUの「罪」の中でも特に「科学的に異端である説の主張」を非難する決議案が55名の議員により提出された<ref>{{cite news | url=http://www.space.com/searchforlife/060907_pluto_politics.html | title= Planetary Politics: Protecting Pluto | first= Edna | last= DeVore | date=2006年9月7日 | publisher=Space.com | accessdate=2006年9月8日}}</ref><ref>[http://www.leginfo.ca.gov/pub/05-06/bill/asm/ab_0001-0050/hr_36_bill_20060824_introduced.html HR 36 Assembly House Resolution - INTRODUCED](テキスト), [http://www.leginfo.ca.gov/pub/05-06/bill/asm/ab_0001-0050/hr_36_bill_20060824_introduced.pdf PDF] カリフォルニア州下院決議案36号 2006年8月24日提出</ref>。
== 人類との関係 ==
=== 愛着 ===
冥王星は世界各国の人々に、太陽系の9つ目の惑星として長い間親しまれてきた。特に、冥王星を発見したクライド・トンボーが[[アメリカ合衆国#国民|アメリカ人]]であったことから、冥王星は1930年の発見以降長い間、アメリカ人が発見した唯一の惑星とされ、発見当初からアメリカ人の誇りと思われてきた。[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]のキャラクターとして親しまれている[[プルート (ディズニーキャラクター)|プルート]]は、冥王星が発見された年に誕生しており、冥王星(プルート)から名前が取られたと考えられている。このこともあり、多くのアメリカ人は冥王星に特別な愛着を抱いてきた。アメリカ人のこのような強い愛着が、冥王星の立場が疑われ始めてからも、長らく議論を混乱させる一因にもなった。2006年に結局冥王星が準惑星に変更されることが決まると、多くの人々が困惑し、特にアメリカ人からは失望や落胆、不満の声が強く聞かれた。[[カリフォルニア工科大学]]や[[ジェット推進研究所]]などがある[[パサデナ (カリフォルニア州)|パサデナ]]では、惑星に扮した8人の科学者が冥王星の入った棺と1,500人以上の会葬者を伴って街を練り歩いた{{Sfn|かくして冥王星は降格された|page=214}}。
冥王星が惑星でなくなるきっかけを作ったのが、アメリカによる数々の華々しい天文学上の成果と、その結果出された「太陽系惑星12個案」だったことは皮肉である。
クライド・トンボーが後半生を過ごした[[ニューメキシコ州]]では[[2007年]]に、彼が生まれた[[イリノイ州]]では[[2009年]]に、それぞれ冥王星の発見が報告された3月13日を「冥王星の日」と定め、「州の上空を通っている間は、冥王星は惑星として扱われる」ことを決議した。ただし、冥王星が[[天の北極]]にもっとも近付くのは2193年だが、その時点でも[[赤緯]]は約23.5度であり、ニューメキシコ州(北緯31.2 - 37度)やイリノイ州(北緯36.9 - 42.4度)の上空を通ることはない<ref>{{cite web | url=http://ephemeris.sjaa.net/0904/d.html | title=Pluto visits the states | date=2009年3月28日 | publisher=San Jose Astronomical Association | first=Akkana | last=Peck | accessdate=2009年5月22日}}</ref>。
=== 惑星としての記念 ===
[[1970年代]]初頭に打ち上げられた宇宙探査機[[パイオニア10号]]と[[パイオニア11号]]に搭載された[[パイオニア探査機の金属板|金属板]]には、冥王星が惑星として描かれている。この金属板は、将来探査機が[[地球外知的生命体]]と遭遇した場合に、探査機がどこから来たかという情報を与えることを意図しており、太陽系の図も含まれていて、9つの惑星が描かれている。同じように、探査機[[ボイジャー1号]]と[[ボイジャー2号]](同様に1970年代打ち上げ)に搭載されている[[ボイジャーのゴールデンレコード|黄金のレコード]]に記録されたアナログ画像や[[1974年]]に送信された[[アレシボ・メッセージ]]でも、やはり冥王星は9番目の惑星とされている。
原子番号92番、93番、94番の元素は[[ウラン]]({{lang-en-short|uranium}})、[[ネプツニウム]]({{lang-en-short|neptunium}})、[[プルトニウム]]({{lang-en-short|plutonium}})と名付けられており、これはそれぞれ天王星({{lang-en-short|Uranus}})、海王星({{lang-en-short|Neptune}})、冥王星({{lang-en-short|Pluto}})から取ったものである。
日本語の「水金地火木土天海'''冥'''」や英語の「{{lang|en|My Very Educated Mother Just Served Us Nine '''P'''izzas}}」などのように、9個の惑星の名前とその順番を語呂合わせで覚えることもよく行われていた。IAUの決議によって惑星が8個になったあと、[[ナショナルジオグラフィック協会]]はケレスとエリスを含む11個の「惑星」を読み込んだ新しい語呂合わせを募集し、モンタナ州の4年生の少女による「{{lang|en|My Very Exciting Magic Carpet Just Sailed Under Nine Palace Elephant}}」が優勝した。
=== 作品 ===
==== 関連楽曲 ====
[[グスターヴ・ホルスト]]による組曲『[[惑星 (組曲)|惑星]]』は、冥王星発見以前の[[1914年]]から[[1916年]]にかけて作曲されており、当時未発見の冥王星は含まれていない。冥王星が発見されて以降、ホルストは新たに冥王星の曲を作ろうとしたが、健康上の理由などから挫折した。その後もほかの人による補完の試みがあり、特に2000年に[[コリン・マシューズ]]が作曲した「冥王星、再生する者」が有名である。ただしこの作品の追加には賛否両論がある。
2006年のIAU総会のあと、[[ジョナサン・コールトン]]は『{{lang|en|I'm Your Moon}}』{{efn|意味:「ぼくはきみの月」}}と題するカロンから冥王星へのラブソングをリリースした。ジェフ・モンダックとアレン・スタングルは『{{lang|en|Pluto's Not a Planet Anymore}}』{{efn|意味: 「冥王星はもう惑星じゃない」}}でほかの惑星たちの反応を歌った。
==== その他の関連作品 ====
{{see also|フィクションにおける冥王星}}
冥王星は、「もっとも遠い惑星」とされたことから、太陽系の果ての象徴とされ、[[サイエンス・フィクション|SF]]や[[スペースオペラ]]などに描かれることが多かった。
日本で冥王星が登場する作品には、『[[キャプテン・フューチャー]]』『[[宇宙戦艦ヤマト]]』『[[銀河鉄道999]]』『[[キャプテンウルトラ]]』などがある。
* 『銀河鉄道999』では、[[メーテル]]の本当の姿をした本体があるという設定となっている(ただし、本当の姿が登場したことはこれまでにない)。
* [[ラリー・ニーヴン]]の空想科学小説『[[ノウンスペース|プタヴの世界]]』では、冥王星はかつて海王星の衛星だったが、ある事件によって現在の軌道に移ったとされている。
* [[野尻抱介]]の空想科学小説『[[ロケットガール]]』第2巻の後半では架空の冥王星探査機がストーリーの中心になる。1996年に発売された初版の時点で、すでに冥王星はTNOの一種であるという考え方に言及されている。
* アニメ版『[[ケロロ軍曹 (アニメ)|ケロロ軍曹]]』第146話(2007年2月2日放送)は、冥王星の「降格」自体を題材にしたエピソードであった。[[ケロロ軍曹の登場人物一覧#冥王星関連|九条冥]]というゲストキャラクターが出演。彼女自身は冥王星の住人であり、冥王星の存在を忘れないでもらうために活動するため地球へ来た。最後は「かつて、我々の太陽系には、9つの惑星が存在するとされていた。その9番目の惑星は、今も、遠い遠い暗闇の中、ゆっくり太陽の周りを回っている」というナレーションで終了する。
* 2007年3月発売のゲーム『[[スーパーロボット大戦W]]』では、冥王星は「旧世紀に惑星として扱われたが、現在は惑星とは扱われておらず、人々の記憶からも忘れ去られ、観測すらも行われていない星」となっている。発売当時は冥王星の新たな定義である「dwarf planet」の訳語が定まっていなかったため、作中では「'''矮惑星'''134340」と呼ばれている。「忘れ去られていること」自体が、ある重大な秘密に迫るキーワードとなっていた。
*「[[宇宙英雄ペリー・ローダン|宇宙英雄ローダン・シリーズ]]」においては、太陽系帝国の外縁防衛ラインの中核となる軍事基地が置かれていた。
*SF創作作品ではないが、[[コナミ]]の『[[ダンスダンスレボリューション]]』シリーズには太陽系の惑星を題材にした一連の楽曲が存在し、その中には「Pluto」も含まれている。同時にアレンジ曲として「{{lang|en|Pluto Relinquish}}」も発表されており、家庭用版の楽曲説明では冥王星の「降格」を意識したと思われる文章が収録されている。
*『[[宇宙英雄物語]]』([[伊東岳彦]])では、第二部・宇宙編において重要な要素となる。またすべての始まりになる占王星(クラートゥ)と呼ばれる第十惑星があり、そこが最終決戦の舞台になる。
*[[宇宙戦艦ヤマト2199]]では、敵の地球外知的生命体、[[ガミラス帝国|ガミラス]]の前線基地がある。ガミラスは冥王星のことを「プラート」あるいは「プラード」と呼んでいる。ガミラスは冥王星の環境を変え、表面に水をたたえる天体として描かれている。冥王星付近の[[エッジワース・カイパーベルト天体]]を[[遊星爆弾]]にさせ、地球に向けて発射させていた。本作には「[[軌道長半径|a]]:39.445au、[[近日点引数|ω]]:110.38°、[[軌道離心率|e]]:0.25025」などの冥王星の軌道要素に関する詳細なパラメーターが表記されている。
=== 分類変更による波紋 ===
惑星ではない別のカテゴリの天体(の典型例)になったことは決して冥王星の存在価値を否定するものではなく、「最果ての惑星」から「かつて考えられていたよりも遥かに広いことが明らかになってきた太陽系の、新しい領域を代表する存在」になったことを意味している。しかし、発見から76年間も惑星として親しまれてきたうえに、マスコミによるセンセーショナルな報道の影響もあって「冥王星が惑星でなくなった」ことに負のイメージを抱いた人が非常に多いのも事実である。
『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』といった作品で冥王星を舞台にしたことで知られる[[漫画家]]の[[松本零士]]は、「理論的には正しいが、人々が持つ宇宙への夢に対する配慮に欠けた決定である」といった趣旨の発言をしていた。逆に、[[野尻抱影]]にちなんでペンネームをつけたという[[SF作家]]の[[野尻抱介]]は、「理性が最良の選択をしたということだろう。一抹の寂しさは感じるものの、科学は自分自身を書き換えることができると世界に示せたことには意義がある」などと自らのウェブサイトでコメントした。
<!--
この分類変更は、冥王星は惑星だと記載してきた世界の[[教科書]]出版業界にも衝撃と混乱をもたらしており、多くの国の政治家も「この結論は歴史的なものである」といった趣旨の発言をしている。
--><!--↑これが事実だとしたところで、それは単に教科書出版業界が科学を全く理解できていない、という恥さらしに過ぎず、蛇足-->
[[日本学術会議]]は、2007年4月9日の対外報告(第一報告)<ref name="scj-t35-1"/> において前年のIAU総会で決まった新たな分類の日本語名称を提言したが、「{{lang|en|dwarf planet}}」についてはその定義にあいまいな部分があり、混乱を招く可能性があるとして、学校教育などの分野では当面は積極的な使用を推奨しないとしている。
=== ジョーク ===
*1978年に[[カロン (衛星)|カロン]]が発見され、その運動を研究した結果として冥王星の推定質量が激減すると、「このまま質量が減り続ければ、冥王星は1984年までに消えてしまう」と言われた{{Sfn|かくして冥王星は降格された|page=63}}。
*2001年に[[ヘイデン・プラネタリウム]]の展示をめぐる騒動が起きると、「冥王星が惑星じゃないなら○○だって××じゃない」という、当たり前とされているものの分類を変えてみせるジョークの題材になった{{Sfn|かくして冥王星は降格された|page=139}}。
*冥王星が {{lang|en|dwarf planet}} に分類変更されると、カリフォルニア州のディズニーランドの[[白雪姫|7人の小人 ({{lang|en|dwarf}}) たち]]は「[[プルート (ディズニーキャラクター)|プルート]]が8人目の {{lang|en|dwarf}} として我々に加わるのであれば歓迎する」との声明を発表した{{Sfn|かくして冥王星は降格された|page=213}}。
*[[メジャーリーグベースボール]]の公式ウェブサイトは「9番打者の冥王星がマイナーリーグ送りになった」ことを報じた{{Sfn|かくして冥王星は降格された|page=217}}。
*ユーモア作家の{{仮リンク|アンディ・ボロウィッツ|en|Andy Borowitz}}は、2006年9月の戦績が低迷していた[[ニューヨーク・ニックス]]を準チーム<ref>{{lang-en-short|dwarf team}}</ref> に格下げした。11月の中間選挙で共和党が敗れると、同様にブッシュ政権を {{lang|en|dwarf}} 扱いした{{Sfn|かくして冥王星は降格された|pages=219-221}}。
*2006年12月、[[住友生命保険]]が発表した2006年版「[[創作四字熟語]]」に「除名処分」をもじった「除'''冥'''処分」が入選した<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.sumitomolife.co.jp/about/newsrelease/pdf/2019/191217a.pdf|title=祝30周年記念 『創作四字熟語』で振り返る30年|date=2019-12-17|website=[[住友生命保険]]|accessdate=2022-09-13}}</ref>。
*2007年1月、{{仮リンク|米国方言協会|en|American Dialect Society}}は、2006年の「ワード・オヴ・ザ・イヤー」を「{{lang|en|plutoed}}」とすることに決定した<ref>{{PDFlink|http://www.americandialect.org/Word-of-the-Year_2006.pdf}} 2007年1月9日閲覧.</ref>。{{lang|en|pluto}}が「{{lang|en|demote}}(降格させる)」あるいは「{{lang|en|devalue}}(低く評価する)」といった意味で、動詞化して使われるようになったことが背景にある。
=== 占星術 ===
冥王星が発見された、20世紀以降の占星術で[[10大天体]]のひとつとして数えられ、現在もそうするのが主流である。未発見の時代にはそもそも知られておらず、[[七曜]]・[[九曜]]にも含まれない(九曜は別の「[[仮説上の天体]]」をカウントする)。
[[西洋占星術]]では、[[天蝎宮]]の[[支配星]]で、[[白羊宮]]の副支配星で、凶星である。[[極限]]、[[死]]、[[再生]]を示し、[[原子力]]、[[エネルギー資源|エネルギー]]をも示唆する<ref>[[石川源晃]]『【実習】占星学入門』ISBN 4-89203-153-4</ref>。
冥王星の分類変更の衝撃が天文学以外の分野にも波及した例として、占星術で[[首都移転]]を決めるほどの社会的影響力のある[[ミャンマー]]の占星術師の協会がこの決定を非難したことが挙げられることがある。しかし、[[西洋占星術]]関係者の一部からは「冥王星そのものが消えたわけではない」「新たな星(象徴)の再定義の発見である」などの意見も出ている。そもそも占星術における惑星の定義は天文学的な定義とは異なる(流派によっては小惑星を含むものすらある)ため、必ずしも分類変更によって大きな影響を受けるとは言えない。
== 画像 ==
<gallery mode="packed">
ファイル:Pluto HST.jpg|[[ハッブル宇宙望遠鏡]]撮影。長らく「もっとも鮮明な冥王星の写真」であった。
ファイル:A Moon over Pluto (Close up).2.gif|[[ニュー・ホライズンズ#LORRI|LORRI]]による撮影(2015年1月25日、27日)
ファイル:15-078-Pluto-DwarfPlanet-NewHorizons-20150415.jpg|ニュー・ホライズンズによる撮影(2015年04月15日)
ファイル:Pluto by LORRI, 12 May 2015.jpg|ニュー・ホライズンズによる撮影(2015年5月12日)。距離は約4,660万キロメートル。
ファイル:15-143-PlutoSystem-NewHorizons-20150626.jpg|冥王星系の写真(2015年6月26日撮影)
ファイル:Pluto-System-June-29.png|冥王星とカロン(7月29日ごろ撮影)
ファイル:PIA19693-Pluto-Charon-2Sides-20150627.jpg|冥王星の両面(2015年6月27日撮影)
ファイル:Pluto by LORRI, 1 July 2015 (Composite).jpg|冥王星の両面(2015年7月1日撮影)
ファイル:PIA19694-PlutoCharon-NewHorizons-20150701.jpg|冥王星とカロン(2015年7月1日撮影)
ファイル:Pluto-3bw-images-NewHorizons-20150706.jpg|ニュー・ホライズンズによる撮影(2015年7月6日)
ファイル:PIA19701-PlutoSystem-Animation-NewHorizons-20150701.gif|冥王星系の公転動画(2015年7月1日時点)
ファイル:15-152-Pluto-NewHorizons-HighResolution-20150714-IFV.jpg|冥王星の赤道付近の接写(2015年7月14日撮影)
ファイル:PIA19947-NH-Pluto-Norgay-Hillary-Mountains-20150714.jpg|ニュー・ホライズンズが撮影した冥王星表面の山々(2015年7月14日撮影)
ファイル:Pluto_by_LORRI_and_Ralph,_13_July_2015.jpg|ニュー・ホライズンズ観測装置「LORRI」「Ralph」による撮影
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em|refs=
<ref name="pluto guide">{{cite web
| url=http://www.space.com/spacewatch/050311_pluto_guide.html
| title=Finding Pluto: Tough Task, Even 75 Years Later
| first=Joe
| last= Rao
| publisher=SPACE.com
| date=2005年3月11日
| accessdate=2006年9月8日}}</ref>
<ref name="smithonian">{{Cite web
|date=2015-07-14
|url=http://www.smithsonianmag.com/smart-news/how-pluto-got-its-name-180955912/?no-ist
|title=How Pluto Got Its Name
|publisher=SMITHSONIAN.COM
|work=SMART NEWS
|accessdate=2015-08-02}}</ref>
<ref name="NASA20150714">{{Cite web
|title=Recent Measurements of Pluto and Charon Obtained by New Horizons
|date=2015-07-14
|url=http://www.nasa.gov/image-feature/recent-measurements-of-pluto-and-charon-obtained-by-new-horizons
|accessdate=2015-07-14
|publisher=[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]}}</ref>
<ref name = "Mager">{{Cite web
|title = The Search Continues
|first = Brad
|last = Mager
|work = Pluto: The Discovery of Planet X
|url = http://www.discoveryofpluto.com/pluto05.html
|accessdate = 2015-08-02}}</ref>
<ref name = "Venetia">{{Cite news
|title = The girl who named a planet
|work = BBC News
|first = Paul
|last = Rincon
|url = http://news.bbc.co.uk/1/hi/sci/tech/4596246.stm
|date = 2006-01-13
|accessdate = 2015-08-02
}}</ref>}}
== 参考文献 ==
* Henderson, Mark (Oct. 30, 2005). "Pluto may lose status of planet". ''[[ニュー・ストレーツ・タイムズ|New Straits Times]]'', p. F17.
* Kaufmann III, William J., "Universe", 2nd Edition, pp. 302–303
* Pasachoff, Jay M., and Alex Filippenko, 2007, "The Cosmos: Astronomy in the New Millennium," 3rd Edition.
* Chhabra et al., "Prediction of Pluto by Ketakar", Indian Journal of History of Science, 19(1), pp. 18–26, 1984
* {{Cite book|和書|title=かくして冥王星は降格された 太陽系第9番惑星をめぐる大論争のすべて|author1=ニール・ドグラース・タイソン|authorlink1=ニール・ドグラース・タイソン|author2=吉田三知世 訳|publisher=[[早川書房]]|year=2009|isbn=9784152090645|ref=かくして冥王星は降格された}}
== 関連項目 ==
* [[冥王星型天体]]
* [[太陽系外縁天体]]
* [[準惑星]]
* [[エッジワース・カイパーベルト]]
* [[ニュー・ホライズンズ]]
* [[惑星X]]
* [[小惑星の一覧 (134001-135000)]]
* [[惑星#太陽系の惑星の定義|太陽系の惑星の定義]]
* [[惑星#日本学術会議の対外報告|日本学術会議の対外報告]]
* [[プルトニウム]] - 冥王星に因んで命名された元素
== 外部リンク ==
{{Sisterlinks|commons=Pluto}}
{{Wikinews|冥王星を惑星から除外、国際天文学連合総会で採択|「惑星12個」に異論—国際天文学連合|太陽系の惑星が12個になる可能性―国際天文学連合の新定義案}}
=== 日本語 ===
* {{Wayback|url=https://rika-net.com/contents/cp0320a/contents/taiyoukei/meiousei/index.html |title=理科ねっとわーく 太陽系図鑑(太陽系外縁天体) |date=20211210131542}}
* [https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/resource/tenmon/space/pluto/pluto00.html 国立科学博物館 宇宙の質問箱(冥王星とそのなかまたち)]
* [https://www.cgh.ed.jp/TNPJP/nineplanets/pluto.html ザ・ナインプラネッツ 日本語版(冥王星)]
* [https://www.astroarts.co.jp/special/2006planets/index-j.shtml ニュース特集・太陽系再編] - AstroArts
* [https://www.astroarts.co.jp/news/2006/09/08pluto_134340/index-j.shtml 元第9惑星・冥王星に、小惑星番号(134340)を付与 - 2003 UB313などにも] - AstroArts
* [https://www.nao.ac.jp/nao_topics/data/000218.html 冥王星の二つの新衛星に新しい名前] - 国立天文台 アストロ・トピックス (218)
* [https://www.nao.ac.jp/nao_topics/data/000230.html 「惑星」の定義の原案、公開へ] - 国立天文台 アストロ・トピックス (230)
* [https://www.nao.ac.jp/nao_topics/data/000233.html (速報)太陽系の惑星の定義確定] - 国立天文台 アストロ・トピックス (233)
* [https://www.nao.ac.jp/nao_topics/data/000234.html 惑星定義に関する経緯と解説] - 国立天文台 アストロ・トピックス (234)
* {{Kotobank}}
=== 英語 ===
* [https://nineplanets.org/pluto/ The Nine Planets Pluto Facts] - ザ・ナインプラネッツ 原語版(冥王星)
* {{JPL small body}}
* {{MPC link}}
* [http://pluto.jhuapl.edu/ NASAの冥王星-カイパーベルトミッション] – 2006年前半に打ち上げ。
* [https://www.sfsite.com/~silverag/pluto.html サイエンスフィクション中の冥王星] – 冥王星を舞台にしたサイエンスフィクションの一覧。
* [https://www.space.com/1728-moons-discovered-orbiting-pluto.html 第2衛星と第3衛星に関するSpace.com の記事]
* [https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2005AJ....129.1718P?high=43809decd514756&db_key=AST&data_type=HTML&format= Pasachoff et al., "The Structure of Pluto's Atmosphere from the 2002 August 21 Stellar Occultation," Astron. J., 129, 1718-1723.]
* [http://www.orbitsimulator.com/gravity/articles/pluto.html 海王星との共鳴を示す冥王星軌道のシミュレーション]
* [http://www.iafastro.com/index.php?id=114&no_cache=1&tx_iafnews_pi1%5btt_single%5d=17 決定に対する、IAU書記長ルボシュ・ペレク博士の観点]
{{冥王星}}
{{冥王星型天体}}
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{{準惑星の衛星}}
{{太陽系}}
<!--{{小惑星ナビゲーター|(134339) 5628 T-3|(134341) 1979 MA}}-->
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:めいおうせい}}
[[Category:冥王星|*]]
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[[Category:共鳴外縁天体]]
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[[Category:1930年発見の天体]]
[[Category:クライド・トンボー]]
[[Category:天文学に関する記事]] | 2003-02-22T15:39:11Z | 2023-12-15T23:02:34Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A5%E7%8E%8B%E6%98%9F |
2,723 | UEFAチャンピオンズリーグ | UEFAチャンピオンズリーグ(UCL、英: UEFA Champions League)は、欧州サッカー連盟の主催で毎年9月から翌年の5月にかけて行われる、クラブチームによるサッカーの大陸選手権大会である。1955年にヨーロピアン・チャンピオン・クラブズ・カップとして始まった。当初は各国リーグの優勝クラブによる大会だったが、1990年代に参加クラブ数と資格が拡大された。
クラブサッカーにおける世界最高峰の大会であり、世界で最もレベルの高いサッカーの大会であるとみなされている。決勝戦のテレビ視聴者数は、毎年2億人を超える。
1960年から2004年まで、本大会の勝者はインターコンチネンタルカップに参加し、南米大陸のコパ・リベルタドーレス勝者と対戦した。2005年以降は、FIFA主催のクラブワールドカップへの出場権を自動的に得ることになっている。
本大会は1955年に、フランスのスポーツ誌レキップの記者・編集者だったガブリエル・アノの提案により、「ヨーロピアン・チャンピオン・クラブズ・カップ European Champion Clubs' Cup」という名称で開始された。1950年代の欧州では経済統合の機運が高まっており、サッカー界でも1954年に欧州サッカー連盟 (UEFA)が設立されている。UEFAは当初各国代表チームによる欧州選手権実現に向け動いていたが、アノがUEFAを説得し、各国から1クラブ選抜した全16クラブの第1回大会を開催した。初回はレキップによりファンを集められるクラブが招待されたが、第2回大会から各国のリーグ王者に出場権が与えられた。
当初は各国リーグの優勝クラブと当大会の前年度優勝クラブのみが出場するホーム&アウェーの2試合の合計スコアで争われるノックアウト方式の大会だったが、1990年代に入ると下記のように大会形式が次々と変更されていった。
UEFAに加盟する各国地域内での前年度リーグ戦の上位クラブが参加できる。国別の出場枠およびどのレベルから参加できるかは、UEFAランキングのカントリーランキングで決まる。
(1) UEFAランキング1位〜4位の国の上位4クラブ (2) UEFAランキング5位〜6位の国の上位3クラブ (3) UEFAランキング7位〜15位の国の上位2クラブ (4) UEFAランキング16位以下の国の1位クラブ (5) 前年度UEFAチャンピオンズリーグ優勝クラブ (6) 前年度UEFAヨーロッパリーグ優勝クラブ
ただし1か国から出場できるのは最大5クラブまでである。 従って56のクラブがUEFAランキング1位〜4位の同一国から出て、かつ両クラブとも前年度国内リーグの成績が5位以下であった場合、その国の前年度リーグ4位クラブは出場資格を失い、ヨーロッパリーグ出場権を得る事になる。
(前年度CL優勝クラブの国内リーグ成績が本大会出場権獲得圏内の場合、UEFAランキング11位の国の優勝クラブが予選を免除され、本大会の出場権を得る。前年度UEL優勝クラブの国内リーグ成績が本大会出場権獲得圏内の場合、UEFAランキング5位の国の3位クラブが予選を免除され、本大会の出場権を得る)
☆:前年度UCL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏内であるため、ランキング10位の国の優勝クラブが予選免除。 ★:前年度UCL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏外であるが、本大会にシードされる。代わりに当該クラブの所属国の予選からの出場枠が1つ減少する。ランキング10位の国の優勝クラブは予選から出場。 ※:特例として、国別の本来の出場枠にプラスして、前年度UCL優勝クラブが、予選からの出場が認められる。ランキング10位の国の優勝クラブは予選免除。
☆:前年度UCL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏内であるため、ランキング13位の国の優勝クラブが予選免除。 ★:前年度UCL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏外であるが、本大会にシードされる。代わりに当該クラブの所属国の予選からの出場枠が1つ減少する。ランキング13位の国の優勝クラブは予選から出場。 ○●:前年度UCL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏内であるため、前年度UEL優勝クラブが予選免除。ランキング13位の国の優勝クラブは予選から出場。
★:前年度UCL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏内であるため、ランキング11位の国の優勝クラブが予選免除。 ☆:前年度UEL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏内であるため、ランキング11位の国の優勝クラブが予選免除。 ★☆:前年度UCL優勝クラブとUEL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏内であるため、ランキング11位の国の優勝クラブとランキング5位の国の3位のクラブが予選免除。
2022年ロシアのウクライナ侵攻により、2022-23シーズンからロシアを欧州の大会に出場することをUEFAは禁じている。
予選は優勝クラブ予選と上位クラブ予選の二つのルートで行われる。1次予選以降は1対1のホーム・アンド・アウェー方式で行われる。組み合わせ抽選は、シーズン開幕時に確定したクラブ・ランキングに従ってシード分けした上で行われる。
ランキング11位の国の優勝クラブが予選免除になった場合や、UCL・UEL前年度優勝クラブがランキング11位以下の国の優勝クラブだった場合などは、枠組みが変動する。
UCL・UEL前年度優勝クラブの国内リーグ成績が上記に該当する順位だった場合や、ランキング5位の国の3位クラブが予選免除される場合などは、枠組みが変動する。
グループリーグは32クラブを4クラブ×8グループに分ける。ホーム・アンド・アウェー方式の2回総当りで争い、各組2位までの16クラブが決勝トーナメントに進む。また、グループリーグ3位のクラブはUELの決勝トーナメント・プレーオフに回る。
勝ち点が同じクラブが出た場合の順位の付け方は以下の順に順位が付けられる。
決勝トーナメントは16クラブによるホーム・アンド・アウェー方式によるトーナメントで、2試合の通算得点が同じ場合は2試合目の試合後に前後半15分の延長戦を行う。それでも勝者が決まらない場合はPK戦で勝者を決定する。
準々決勝以降は再度組み合わせ抽選を決勝戦開催地(2009-10シーズン以降はスイスのニヨン)にて実施、そこで前年度優勝クラブから優勝カップが返還される。
決勝戦は事前にUEFAにより決定された試合地での1試合決着とし、90分で決しない場合は延長戦を行い、さらに決しない場合はPK戦となる。
開催日は概ね火曜日・水曜日。決勝戦は各国内リーグ全日程終了後、5月の最終水曜になることが多かったが、2009-10シーズンから土曜開催になった。
グループリーグでは、まず32クラブを8クラブずつ4つのポットに分ける。前年度優勝クラブ、前年度UEL(ヨーロッパリーグ)優勝クラブ及びUEFAカントリーランキングの上位6か国の優勝クラブをポット1に、残りの24クラブをUEFAクラブ係数に基づいてポット2~4に振り分ける。なお、前年度優勝クラブ、前年度UEL優勝クラブが上位6か国の優勝クラブである場合は、カントリーランキング7位、8位の優勝クラブがポット1に入る。各ポットからA-Hの8つのグループに1クラブずつ抽選される。その際に同国のクラブが同じグループに入らないように考慮される(カントリープロテクション。特例出場の場合は考慮されない。2005-06の大会では特例で出場したリヴァプールは同じイングランドのチェルシーと同組になっている)。
また、グループA-Dを赤色、E-Hを青色とし、同じ国から2クラブ出場する場合はペア、3クラブ出場する場合は2クラブがペア、4クラブ出場する場合は2組のペアとし、ペア同士が同じ色のグループに入らないように抽選する(例えば同じ国からクラブYとクラブZが出場する場合、YがグループA-Dのどれかに入ればZは自動的にグループE-Hのどれかに入ることになる)。これは、1節毎に片方の色のグループから試合をしたら、翌日にはもう片方の色のグループの試合を行い、同国クラブの戦う曜日に原則国内のホームゲームは1クラブにするために行われる。他にも2015-16シーズン以降ウクライナ情勢により、ウクライナとロシアのクラブが同じグループに入らないように考慮されている。
抽選後にコンピュータによりグループ内での序列を計算し、同国チームのホームとアウェーが被らないように調整する(序列1はAHAHHA、序列2はHAHAAHとなりH&Aが対になっている。序列3はAHHAHA、序列4はHAAHAHである)。同じ色のグループに同じ国から2クラブ出場の場合は1と2との対、もしくは3と4との対になるように調整し、同じ国内で同じ曜日にホームゲームが行われることはなくなる。ただし例外として2006-07シーズンにロシアからCSKAモスクワとスパルタク・モスクワの2クラブが出場した。ロシアは気温が低いのでグループリーグの最終戦が行なわれる12月にホームゲームを避けるために両クラブとも最終戦をアウェーで戦った(このためホームとアウェーを別々に行なえたのはグループリーグ全6節中2節だけになった)。なお、同じく気温が低く2クラブ出場の可能性があるノルウェーのクラブが2クラブ出場する場合も同様の措置を採ることになっている(2005-06シーズンに可能性があった)。
決勝トーナメント1回戦ではグループリーグ1位のクラブが異なるグループの2位のクラブが当たるように抽選する。その際もグループリーグの抽選と同様にカントリープロテクションとウクライナ情勢による制限、そしてグループリーグで同じ組だったクラブとは再戦しないなどが考慮される。抽選はグループリーグ2位の8クラブの玉を入れたポット、1位のクラブについてそれぞれ複数の玉を入れた8つのポット、そして1位のクラブを抽選するための空のポットの計10ポットを用意して行われる。まず2位のクラブのポットから1クラブを選び、前述の条件により対戦可能なクラブの玉を空のポットに入れて抽選することで組み合わせが決まる。この作業を8カード決まるまで繰り返す。
1回戦が終わると準々決勝・準決勝の組み合わせ抽選が行われる。準々決勝以降はカントリープロテクションもシード分けも考慮されない。従って、同国クラブ同士の対戦と同一グループリーグのクラブとの再戦の可能性が生じる。ポットは勝ち残った8クラブの玉の入れた1つのみ。1つずつ引いて2クラブが選ばれる毎に1カードが決まり、4カード全て決まるまで抽選を行う。
なお、2012-13~2017-18シーズンは準々決勝終了後に準決勝の抽選が別途行われた。勝ち残った4クラブの玉の入ったポットと試合順を決めるポットの2つあり、まず準々決勝の時と同様に2クラブ選ばれたら1カードが決まり、残りの2クラブも実質的に決まるも最後まで抽選を行う。その後最初に決まった対戦カードからの正式な試合順を決める抽選を行う。
各クラブは、事前に選手のAリストとBリストを提出。Aリストは25名までで、以下の制限がある。
Bリストには、試合前日の24:00(中央ヨーロッパ時間)までに申請すれば、登録資格のある選手を無制限に登録できる。Bリストへの登録資格は、シーズン開幕21年前の年の1月1日以降に生まれた選手で、15歳の誕生日以降、継続して2年以上当該クラブに所属歴がある選手とする。 16歳の選手の場合は、2年以上継続して在籍していれば登録可能とする。
2022/23シーズンの例。 総額は20億2400万ユーロに上る。
内訳は以下の通り
上記はステージ進出ごとに加算されることを意味している。そのためグループステージ全勝で優勝した場合の額は8514万ユーロとなる。
加えて以下の額がクラブに与えられる。
2012/13シーズンの場合、ユヴェントスは賞金の合計2050万ユーロに加え、マーケットプール4481万5000ユーロが加算され6531万5000ユーロとなる。これは優勝したバイエルン・ミュンヘンの賞金3600万ユーロ、マーケットプールの1900万ユーロ、合計5500万ユーロよりも多い。
2021/22シーズンで優勝したレアル・マドリードは、総額1億3665万ユーロを得たとされる。
2010年代以降はテレビ放映権料の上昇などにより、CL出場クラブへの賞金(配分金)額は大きく上昇した。2006/07シーズンの配分金総額は約5.85億ユーロであったが、2015/16シーズンには約13.5億ユーロに、2022/23シーズンには約20.2億ユーロに達している。
注1:前身のチャンピオンズカップ時代も含む。 注2:優勝年度及び準優勝年度は、優勝が決定した年を並べている。例えば、1955-56年度王者は1956年としている。
注:前身のチャンピオンズカップ時代も含む。
注1:前身のチャンピオンズカップ時代も含む。 注2:優勝年度は、優勝が決定した年を並べている。例えば、1955-56年度王者は1956年としている。
2023年11月29日時点(予選は含まない)
2023年11月29日時点(予選は含まない)
選手として最多の優勝経験があるのはフランシスコ・ヘントの6度(レアル・マドリード:1955–56, 1956–57, 1957–58, 1958–59, 1959–60, 1965–66)、18名の選手が5度の優勝を経験している。3つのクラブで優勝経験がある選手はクラレンス・セードルフ(アヤックス:1994–95、レアル・マドリード:1997–98、ACミラン 2002–03, 2006–07)である。
監督として最多となる4度の優勝経験があるのはカルロ・アンチェロッティ(ACミラン:2002–03, 2006–07、レアル・マドリード:2013-14, 2021-22)で、3度の優勝経験でボブ・ペイズリー(リヴァプール:1976-77, 1977-78, 1980-81)、ジネディーヌ・ジダン(レアル・マドリード:2015-16, 2016-17, 2017-18)、ジョセップ・グアルディオラ(FCバルセロナ:2008-09, 2010-11、マンチェスター・シティ:2022-23)が続く。2度の優勝経験がある監督は15名。
複数クラブでの優勝経験がある監督はエルンスト・ハッペル(フェイエノールトとハンブルガーSV)、オットマー・ヒッツフェルト(ボルシア・ドルトムントとバイエルン・ミュンヘン)、ジョゼ・モウリーニョ(ポルトとインテル)、ユップ・ハインケス(レアル・マドリードとバイエルン・ミュンヘン)、カルロ・アンチェロッティ、ジョセップ・グアルディオラの6名。
選手・監督両方での優勝経験があるのはミゲル・ムニョス、ジョバンニ・トラパットーニ、ヨハン・クライフ、カルロ・アンチェロッティ、フランク・ライカールト、ジョゼップ・グアルディオラ、ジネディーヌ・ジダンの7名。
2002-2003年大会以降はアディダスの「フィナーレ」(en:Adidas Finale)が使用されている。公式ロゴの「スターボール」同様に表面に星をデザインした模様がプリントされ、その配色は大会ごとに変えられる。
大会出場全チームには、右袖に星をイメージした大会公式球をモチーフとしたロゴ(通称:スターボール)がつけられる。前シーズン優勝クラブだけは別で、紺地に公式球、また中央に○○/○○ CHAMPIONS(○○/○○には前シーズンの数字が入る)と書かれたバッジが付けられる。
また、クラブによって、選手は各国リーグ戦で用いているユニフォームとはスポンサーやデザインが異なった欧州カップ戦用ユニフォームを着用することがある。例えばバイエルン・ミュンヘンは、リーグ戦のユニフォームは赤であるが、チャンピオンズリーグでは異なる色がホームユニフォームの色になることがある。
青地に優勝トロフィーと優勝回数が描かれた楕円形のバッジを左袖につけているクラブが存在する。このバッジをつけることができるのは、後述のビッグイヤーの永久保持を認められたチームのみである。
優勝カップはビッグイヤーと呼ばれる。優勝トロフィーの把手の形が大きく耳の形に似ていることからついたものである。現在のトロフィーは高さ73.5cm、重さ8.5kgである。初代から数えて7代目であり、現在のデザインになってからは6代目である。2015年に製作された。
それまでのトロフィーは小ぶりなものだったが1967年、5連覇を果たしたレアル マドリードにオリジナルのトロフィーが渡されたのをきっかけに、当時のUEFA事務局長ハンス・バンゲルターがデザインを一新することを決めた。現在のデザインはベルンの鋳物職人、ユルグ・シュタデルマンが本体の鋳物作業を行い、彫刻家のフレッド・ベニンガーが仕上げを施して完成させた。製作には340時間掛かった。3連覇もしくは5回の優勝で永久保持が許されていたが、2008ー09シーズン以降はトロフィーの所有権は永久にUEFAが保有するため、この「永久保持」「新しく作り直される」ことはなくなった。
永久保持が認められたクラブ:
大会がUEFAチャンピオンズリーグに変更された1992年以降はテーマ曲「UEFAチャンピオンズリーグ賛歌(UEFA Champions League Anthem)」が使われている。ヘンデルの「司祭ザドク(Zadok the priest)」のメロディをベースに、イギリス人トニー・ブリテンが作詞とアレンジを加え創り上げた。 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の演奏、アカデミー室内管弦楽団附属の合唱団の合唱をレコーディングしたものが試合開始前や、テレビ中継開始時やハーフタイムのCMに移り変わる時、終了時に流される。
UEFAの公式言語である英語、ドイツ語、フランス語によって、荘厳と熱狂とを併せ持って歌われるサビは、そのシンプルながら美しいメロディとも相まって、これから始まる試合に対する選手やファンの興奮と期待をかき立てるのに一役買っている。なお、本賛歌のオリジナルバージョンは、二つの短いヴァースとコーラスからなる3分程の曲であるが、商業ベース(CD等)でリリースされたことは今まで無い。試合開始前やテレビ中継において流されるのは、後半の「Ils sont les meilleurs...」以下のコーラス部分をアレンジしたものである。
Ils sont les meilleurs(フランス語:彼らは最高だ) Sie sind die Besten(ドイツ語:彼らは最高だ) These are the champions(英語:彼らがチャンピオンだ)
Die Meister(ドイツ語:道を極めし者) Die Besten(ドイツ語:最高の者) Les Grandes Equipes(フランス語:偉大なチーム) The Champions(英語:それがチャンピオン)
2009年から2018年までコナミデジタルエンタテインメントと独占契約を結び、同社発売のサッカーゲーム「ウイニングイレブン」(海外版はPro Evolution Soccer)シリーズにチャンピオンズリーグが搭載されていた。2018年からはエレクトロニック・アーツと契約を結び、FIFA 19にチャンピオンズリーグで遊べるモードが搭載された。
チャンピオンズリーグの中継映像はUEFAが統括した上で、試合ごとのホスト局が中心となって制作される。これらの中継におけるスケジュールはフォーマット化されており、放映権を持つテレビ局に配信される。ホスト局は海外メディアが現地中継を行うための放送席用の機材の準備なども担当する。また、放映権を持つテレビ局はミックスゾーンでの選手インタビューを行うことができる。
優勝チームはトヨタカップの出場権を獲得することもあって、かつては決勝のみ日本テレビで放送されていた。本格的に放送されるようになったのは、スポーツ・アイ ESPN(J sports 3の前身)で1996-97シーズンより。翌1997-98シーズンよりWOWOWが放映権を獲得した。BSデジタル放送開始から、各節最大4試合生中継(アナログでは2試合生中継、2試合録画中継)、木曜の夜に1試合録画中継したが、それ以外の試合は中断期間まで待つ必要があった。
地上波では、TBSが放映権を獲得。毎節最大2試合放送したが、全国放送ではなく、ローカルセールス枠での扱いであり後番組の時間変更ができなかったため、決勝戦でも延長・PK戦となった場合(2度)は途中で放送を打ち切らざるを得なかった。WOWOWとの契約最終年だった2003年4月にスカパー!(現・スカパーJSAT)、J SKY SPORTS(現・J SPORTS)、フジテレビの3社が放映権獲得を発表した。
2003-04シーズンより、スカパー!ではパーフェクト・チョイス(現スカチャン)、J SPORTSで毎節8試合以上生中継を行い、決勝トーナメント以降は全試合生中継となった。録画中継となった試合でも最長で24時間以内に放送されている。スカイパーフェクTV!110(現・スカパー!e2)ではJ SPORTSで放送される試合以外視聴できなかったが、2004-05シーズン途中よりスカチャン!110(現・スカチャン)で放送開始。2006-07シーズンからはスカチャン!ハイビジョン(現・スカチャンHD800)、2007-08シーズンからはJ sports 4(ハイビジョン)でハイビジョン放送が開始されている。
2006-07シーズンより、スカパーが単独で放映権を獲得、J SPORTS、フジテレビへはサブライセンスを行う形となった。スカパー!は全試合中継を実施し(予選はプレーオフのみ一部をセレクトして放送。予選リーグは1日に8試合行われるうち、J SPORTSとあわせて6試合程度生中継し、残り試合は録画中継する。決勝リーグは全試合生中継)、J SPORTSとフジテレビは一部をセレクトして放送。なお、J SPORTSの放送は、2014-15シーズンをもって終了した。
フジテレビでも2017-2018シーズンまではこれまで毎節1試合の放送に加え、決勝戦を全国ネットで試合終了まで中継していた(決勝戦はネットセールス枠扱いであり、試合が延長・PK戦になった場合めざましテレビの放送時間を短縮・ずらしをして行う場合があった)。またマガジンプログラムやダイジェストを関東地区限定で放送。
2018-19シーズンから、スポーツのライブストリーミングサービスDAZNが、2020-21シーズンまでの3シーズンにおいて、独占放映権を獲得し、マガジンプログラムやハイライトなどのUCL関連番組の配信も含め、予選プレーオフから決勝戦までの全試合を、完全独占でライブ配信することが決定していた。
2020-21シーズンはシーズン開幕前にBloombergがUCLの新型コロナウィルス感染拡大に伴う、開催スケジュールの大幅変更を理由にアジアでの放映撤退模索が報じられ、その後、シーズン開始となったが結果的にユーザー向けのプレスリリースを行わず、朝日新聞の取材により契約最終年となる2020-21シーズンを残し事実上の打ち切りとなった。また、代替として、UEFAの公式動画配信サービスである「UEFA.tv」にて、グループリーグの中から最大2試合の無料生配信を行うことになった。但し、日本を含めたアジア地域でUEFAチャンピオンズリーグを視聴することは、事実上不可能となっていた。
しかし、半年後の2021年1月14日、DAZNとの放映権解除以後にWOWOWがUEFAとコンタクトが取れた事により放映権獲得交渉が進み、2020-21シーズンの決勝トーナメント全29試合を独占生中継・ライブ配信の実施を発表し、日本でのUEFAチャンピオンズリーグ中継が約半年ぶりに復活することになった。WOWOWでの放送は2002-03シーズン以来18シーズンぶりとなる。また、決勝トーナメントの開幕後にはその週に行われた試合の模様を振り返るWOWOWオリジナルダイジェスト番組『チャンピオンズリーグダイジェスト!』の放送も決定した。
2021-22シーズン、WOWOWがグループステージ〜決勝まで独占放送&配信することが決定した。 WOWOWではグループステージから、2022年5月28日の決勝まで全125試合をWOWOWオンデマンドで独占ライブ配信した。
2022-23シーズン、WOWOWがグループステージ~決勝まで独占放送&配信することが決定した。 WOWOWではグループステージから、2023年6月10日の決勝まで全125試合をWOWOWオンデマンドで独占ライブ配信した。
2023-24シーズン、WOWOWがグループステージ~決勝まで独占放送&配信することが決定した。 WOWOWではグループステージから、2024年6月1日の決勝まで全125試合をWOWOWオンデマンドで独占ライブ配信する。
日本テレビでは2009-10シーズンから2017-2018シーズンまでは、関東地区限定でダイジェスト番組が放送されていたが、2019-20シーズンはDAZNの協力のもと、BS日テレでグループリーグから決勝戦までの注目カードを「セレクトマッチ」と題して土曜の夜に録画で放送。また、毎週日曜にはUCLのみどころや展望、注目チームを紹介する『Weekly Show』を放送していた。 | [
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"text": "UEFAチャンピオンズリーグ(UCL、英: UEFA Champions League)は、欧州サッカー連盟の主催で毎年9月から翌年の5月にかけて行われる、クラブチームによるサッカーの大陸選手権大会である。1955年にヨーロピアン・チャンピオン・クラブズ・カップとして始まった。当初は各国リーグの優勝クラブによる大会だったが、1990年代に参加クラブ数と資格が拡大された。",
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"text": "クラブサッカーにおける世界最高峰の大会であり、世界で最もレベルの高いサッカーの大会であるとみなされている。決勝戦のテレビ視聴者数は、毎年2億人を超える。",
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"text": "1960年から2004年まで、本大会の勝者はインターコンチネンタルカップに参加し、南米大陸のコパ・リベルタドーレス勝者と対戦した。2005年以降は、FIFA主催のクラブワールドカップへの出場権を自動的に得ることになっている。",
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"text": "本大会は1955年に、フランスのスポーツ誌レキップの記者・編集者だったガブリエル・アノの提案により、「ヨーロピアン・チャンピオン・クラブズ・カップ European Champion Clubs' Cup」という名称で開始された。1950年代の欧州では経済統合の機運が高まっており、サッカー界でも1954年に欧州サッカー連盟 (UEFA)が設立されている。UEFAは当初各国代表チームによる欧州選手権実現に向け動いていたが、アノがUEFAを説得し、各国から1クラブ選抜した全16クラブの第1回大会を開催した。初回はレキップによりファンを集められるクラブが招待されたが、第2回大会から各国のリーグ王者に出場権が与えられた。",
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"text": "当初は各国リーグの優勝クラブと当大会の前年度優勝クラブのみが出場するホーム&アウェーの2試合の合計スコアで争われるノックアウト方式の大会だったが、1990年代に入ると下記のように大会形式が次々と変更されていった。",
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"text": "UEFAに加盟する各国地域内での前年度リーグ戦の上位クラブが参加できる。国別の出場枠およびどのレベルから参加できるかは、UEFAランキングのカントリーランキングで決まる。",
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"text": "(1) UEFAランキング1位〜4位の国の上位4クラブ (2) UEFAランキング5位〜6位の国の上位3クラブ (3) UEFAランキング7位〜15位の国の上位2クラブ (4) UEFAランキング16位以下の国の1位クラブ (5) 前年度UEFAチャンピオンズリーグ優勝クラブ (6) 前年度UEFAヨーロッパリーグ優勝クラブ",
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"text": "ただし1か国から出場できるのは最大5クラブまでである。 従って56のクラブがUEFAランキング1位〜4位の同一国から出て、かつ両クラブとも前年度国内リーグの成績が5位以下であった場合、その国の前年度リーグ4位クラブは出場資格を失い、ヨーロッパリーグ出場権を得る事になる。",
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"text": "(前年度CL優勝クラブの国内リーグ成績が本大会出場権獲得圏内の場合、UEFAランキング11位の国の優勝クラブが予選を免除され、本大会の出場権を得る。前年度UEL優勝クラブの国内リーグ成績が本大会出場権獲得圏内の場合、UEFAランキング5位の国の3位クラブが予選を免除され、本大会の出場権を得る)",
"title": "開催方式"
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"text": "☆:前年度UCL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏内であるため、ランキング10位の国の優勝クラブが予選免除。 ★:前年度UCL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏外であるが、本大会にシードされる。代わりに当該クラブの所属国の予選からの出場枠が1つ減少する。ランキング10位の国の優勝クラブは予選から出場。 ※:特例として、国別の本来の出場枠にプラスして、前年度UCL優勝クラブが、予選からの出場が認められる。ランキング10位の国の優勝クラブは予選免除。",
"title": "開催方式"
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"text": "☆:前年度UCL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏内であるため、ランキング13位の国の優勝クラブが予選免除。 ★:前年度UCL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏外であるが、本大会にシードされる。代わりに当該クラブの所属国の予選からの出場枠が1つ減少する。ランキング13位の国の優勝クラブは予選から出場。 ○●:前年度UCL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏内であるため、前年度UEL優勝クラブが予選免除。ランキング13位の国の優勝クラブは予選から出場。",
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"text": "★:前年度UCL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏内であるため、ランキング11位の国の優勝クラブが予選免除。 ☆:前年度UEL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏内であるため、ランキング11位の国の優勝クラブが予選免除。 ★☆:前年度UCL優勝クラブとUEL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏内であるため、ランキング11位の国の優勝クラブとランキング5位の国の3位のクラブが予選免除。",
"title": "開催方式"
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"text": "2022年ロシアのウクライナ侵攻により、2022-23シーズンからロシアを欧州の大会に出場することをUEFAは禁じている。",
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"text": "予選は優勝クラブ予選と上位クラブ予選の二つのルートで行われる。1次予選以降は1対1のホーム・アンド・アウェー方式で行われる。組み合わせ抽選は、シーズン開幕時に確定したクラブ・ランキングに従ってシード分けした上で行われる。",
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"text": "ランキング11位の国の優勝クラブが予選免除になった場合や、UCL・UEL前年度優勝クラブがランキング11位以下の国の優勝クラブだった場合などは、枠組みが変動する。",
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"text": "UCL・UEL前年度優勝クラブの国内リーグ成績が上記に該当する順位だった場合や、ランキング5位の国の3位クラブが予選免除される場合などは、枠組みが変動する。",
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"text": "グループリーグは32クラブを4クラブ×8グループに分ける。ホーム・アンド・アウェー方式の2回総当りで争い、各組2位までの16クラブが決勝トーナメントに進む。また、グループリーグ3位のクラブはUELの決勝トーナメント・プレーオフに回る。",
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"text": "勝ち点が同じクラブが出た場合の順位の付け方は以下の順に順位が付けられる。",
"title": "開催方式"
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"text": "決勝トーナメントは16クラブによるホーム・アンド・アウェー方式によるトーナメントで、2試合の通算得点が同じ場合は2試合目の試合後に前後半15分の延長戦を行う。それでも勝者が決まらない場合はPK戦で勝者を決定する。",
"title": "開催方式"
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"text": "準々決勝以降は再度組み合わせ抽選を決勝戦開催地(2009-10シーズン以降はスイスのニヨン)にて実施、そこで前年度優勝クラブから優勝カップが返還される。",
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"text": "決勝戦は事前にUEFAにより決定された試合地での1試合決着とし、90分で決しない場合は延長戦を行い、さらに決しない場合はPK戦となる。",
"title": "開催方式"
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"text": "開催日は概ね火曜日・水曜日。決勝戦は各国内リーグ全日程終了後、5月の最終水曜になることが多かったが、2009-10シーズンから土曜開催になった。",
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"text": "グループリーグでは、まず32クラブを8クラブずつ4つのポットに分ける。前年度優勝クラブ、前年度UEL(ヨーロッパリーグ)優勝クラブ及びUEFAカントリーランキングの上位6か国の優勝クラブをポット1に、残りの24クラブをUEFAクラブ係数に基づいてポット2~4に振り分ける。なお、前年度優勝クラブ、前年度UEL優勝クラブが上位6か国の優勝クラブである場合は、カントリーランキング7位、8位の優勝クラブがポット1に入る。各ポットからA-Hの8つのグループに1クラブずつ抽選される。その際に同国のクラブが同じグループに入らないように考慮される(カントリープロテクション。特例出場の場合は考慮されない。2005-06の大会では特例で出場したリヴァプールは同じイングランドのチェルシーと同組になっている)。",
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"text": "また、グループA-Dを赤色、E-Hを青色とし、同じ国から2クラブ出場する場合はペア、3クラブ出場する場合は2クラブがペア、4クラブ出場する場合は2組のペアとし、ペア同士が同じ色のグループに入らないように抽選する(例えば同じ国からクラブYとクラブZが出場する場合、YがグループA-Dのどれかに入ればZは自動的にグループE-Hのどれかに入ることになる)。これは、1節毎に片方の色のグループから試合をしたら、翌日にはもう片方の色のグループの試合を行い、同国クラブの戦う曜日に原則国内のホームゲームは1クラブにするために行われる。他にも2015-16シーズン以降ウクライナ情勢により、ウクライナとロシアのクラブが同じグループに入らないように考慮されている。",
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"text": "抽選後にコンピュータによりグループ内での序列を計算し、同国チームのホームとアウェーが被らないように調整する(序列1はAHAHHA、序列2はHAHAAHとなりH&Aが対になっている。序列3はAHHAHA、序列4はHAAHAHである)。同じ色のグループに同じ国から2クラブ出場の場合は1と2との対、もしくは3と4との対になるように調整し、同じ国内で同じ曜日にホームゲームが行われることはなくなる。ただし例外として2006-07シーズンにロシアからCSKAモスクワとスパルタク・モスクワの2クラブが出場した。ロシアは気温が低いのでグループリーグの最終戦が行なわれる12月にホームゲームを避けるために両クラブとも最終戦をアウェーで戦った(このためホームとアウェーを別々に行なえたのはグループリーグ全6節中2節だけになった)。なお、同じく気温が低く2クラブ出場の可能性があるノルウェーのクラブが2クラブ出場する場合も同様の措置を採ることになっている(2005-06シーズンに可能性があった)。",
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"text": "決勝トーナメント1回戦ではグループリーグ1位のクラブが異なるグループの2位のクラブが当たるように抽選する。その際もグループリーグの抽選と同様にカントリープロテクションとウクライナ情勢による制限、そしてグループリーグで同じ組だったクラブとは再戦しないなどが考慮される。抽選はグループリーグ2位の8クラブの玉を入れたポット、1位のクラブについてそれぞれ複数の玉を入れた8つのポット、そして1位のクラブを抽選するための空のポットの計10ポットを用意して行われる。まず2位のクラブのポットから1クラブを選び、前述の条件により対戦可能なクラブの玉を空のポットに入れて抽選することで組み合わせが決まる。この作業を8カード決まるまで繰り返す。",
"title": "開催方式"
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"text": "1回戦が終わると準々決勝・準決勝の組み合わせ抽選が行われる。準々決勝以降はカントリープロテクションもシード分けも考慮されない。従って、同国クラブ同士の対戦と同一グループリーグのクラブとの再戦の可能性が生じる。ポットは勝ち残った8クラブの玉の入れた1つのみ。1つずつ引いて2クラブが選ばれる毎に1カードが決まり、4カード全て決まるまで抽選を行う。",
"title": "開催方式"
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"text": "なお、2012-13~2017-18シーズンは準々決勝終了後に準決勝の抽選が別途行われた。勝ち残った4クラブの玉の入ったポットと試合順を決めるポットの2つあり、まず準々決勝の時と同様に2クラブ選ばれたら1カードが決まり、残りの2クラブも実質的に決まるも最後まで抽選を行う。その後最初に決まった対戦カードからの正式な試合順を決める抽選を行う。",
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"text": "各クラブは、事前に選手のAリストとBリストを提出。Aリストは25名までで、以下の制限がある。",
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"text": "Bリストには、試合前日の24:00(中央ヨーロッパ時間)までに申請すれば、登録資格のある選手を無制限に登録できる。Bリストへの登録資格は、シーズン開幕21年前の年の1月1日以降に生まれた選手で、15歳の誕生日以降、継続して2年以上当該クラブに所属歴がある選手とする。 16歳の選手の場合は、2年以上継続して在籍していれば登録可能とする。",
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"text": "2022/23シーズンの例。 総額は20億2400万ユーロに上る。",
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"text": "内訳は以下の通り",
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"text": "上記はステージ進出ごとに加算されることを意味している。そのためグループステージ全勝で優勝した場合の額は8514万ユーロとなる。",
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"text": "加えて以下の額がクラブに与えられる。",
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"text": "2012/13シーズンの場合、ユヴェントスは賞金の合計2050万ユーロに加え、マーケットプール4481万5000ユーロが加算され6531万5000ユーロとなる。これは優勝したバイエルン・ミュンヘンの賞金3600万ユーロ、マーケットプールの1900万ユーロ、合計5500万ユーロよりも多い。",
"title": "賞金"
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"text": "2021/22シーズンで優勝したレアル・マドリードは、総額1億3665万ユーロを得たとされる。",
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"text": "2010年代以降はテレビ放映権料の上昇などにより、CL出場クラブへの賞金(配分金)額は大きく上昇した。2006/07シーズンの配分金総額は約5.85億ユーロであったが、2015/16シーズンには約13.5億ユーロに、2022/23シーズンには約20.2億ユーロに達している。",
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"text": "注1:前身のチャンピオンズカップ時代も含む。 注2:優勝年度及び準優勝年度は、優勝が決定した年を並べている。例えば、1955-56年度王者は1956年としている。",
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"text": "注:前身のチャンピオンズカップ時代も含む。",
"title": "統計"
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"text": "注1:前身のチャンピオンズカップ時代も含む。 注2:優勝年度は、優勝が決定した年を並べている。例えば、1955-56年度王者は1956年としている。",
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"text": "2023年11月29日時点(予選は含まない)",
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"text": "2023年11月29日時点(予選は含まない)",
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"text": "選手として最多の優勝経験があるのはフランシスコ・ヘントの6度(レアル・マドリード:1955–56, 1956–57, 1957–58, 1958–59, 1959–60, 1965–66)、18名の選手が5度の優勝を経験している。3つのクラブで優勝経験がある選手はクラレンス・セードルフ(アヤックス:1994–95、レアル・マドリード:1997–98、ACミラン 2002–03, 2006–07)である。",
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"text": "監督として最多となる4度の優勝経験があるのはカルロ・アンチェロッティ(ACミラン:2002–03, 2006–07、レアル・マドリード:2013-14, 2021-22)で、3度の優勝経験でボブ・ペイズリー(リヴァプール:1976-77, 1977-78, 1980-81)、ジネディーヌ・ジダン(レアル・マドリード:2015-16, 2016-17, 2017-18)、ジョセップ・グアルディオラ(FCバルセロナ:2008-09, 2010-11、マンチェスター・シティ:2022-23)が続く。2度の優勝経験がある監督は15名。",
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"text": "複数クラブでの優勝経験がある監督はエルンスト・ハッペル(フェイエノールトとハンブルガーSV)、オットマー・ヒッツフェルト(ボルシア・ドルトムントとバイエルン・ミュンヘン)、ジョゼ・モウリーニョ(ポルトとインテル)、ユップ・ハインケス(レアル・マドリードとバイエルン・ミュンヘン)、カルロ・アンチェロッティ、ジョセップ・グアルディオラの6名。",
"title": "個人成績"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "選手・監督両方での優勝経験があるのはミゲル・ムニョス、ジョバンニ・トラパットーニ、ヨハン・クライフ、カルロ・アンチェロッティ、フランク・ライカールト、ジョゼップ・グアルディオラ、ジネディーヌ・ジダンの7名。",
"title": "個人成績"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2002-2003年大会以降はアディダスの「フィナーレ」(en:Adidas Finale)が使用されている。公式ロゴの「スターボール」同様に表面に星をデザインした模様がプリントされ、その配色は大会ごとに変えられる。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "大会出場全チームには、右袖に星をイメージした大会公式球をモチーフとしたロゴ(通称:スターボール)がつけられる。前シーズン優勝クラブだけは別で、紺地に公式球、また中央に○○/○○ CHAMPIONS(○○/○○には前シーズンの数字が入る)と書かれたバッジが付けられる。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "また、クラブによって、選手は各国リーグ戦で用いているユニフォームとはスポンサーやデザインが異なった欧州カップ戦用ユニフォームを着用することがある。例えばバイエルン・ミュンヘンは、リーグ戦のユニフォームは赤であるが、チャンピオンズリーグでは異なる色がホームユニフォームの色になることがある。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "青地に優勝トロフィーと優勝回数が描かれた楕円形のバッジを左袖につけているクラブが存在する。このバッジをつけることができるのは、後述のビッグイヤーの永久保持を認められたチームのみである。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "優勝カップはビッグイヤーと呼ばれる。優勝トロフィーの把手の形が大きく耳の形に似ていることからついたものである。現在のトロフィーは高さ73.5cm、重さ8.5kgである。初代から数えて7代目であり、現在のデザインになってからは6代目である。2015年に製作された。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "それまでのトロフィーは小ぶりなものだったが1967年、5連覇を果たしたレアル マドリードにオリジナルのトロフィーが渡されたのをきっかけに、当時のUEFA事務局長ハンス・バンゲルターがデザインを一新することを決めた。現在のデザインはベルンの鋳物職人、ユルグ・シュタデルマンが本体の鋳物作業を行い、彫刻家のフレッド・ベニンガーが仕上げを施して完成させた。製作には340時間掛かった。3連覇もしくは5回の優勝で永久保持が許されていたが、2008ー09シーズン以降はトロフィーの所有権は永久にUEFAが保有するため、この「永久保持」「新しく作り直される」ことはなくなった。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "永久保持が認められたクラブ:",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "大会がUEFAチャンピオンズリーグに変更された1992年以降はテーマ曲「UEFAチャンピオンズリーグ賛歌(UEFA Champions League Anthem)」が使われている。ヘンデルの「司祭ザドク(Zadok the priest)」のメロディをベースに、イギリス人トニー・ブリテンが作詞とアレンジを加え創り上げた。 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の演奏、アカデミー室内管弦楽団附属の合唱団の合唱をレコーディングしたものが試合開始前や、テレビ中継開始時やハーフタイムのCMに移り変わる時、終了時に流される。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "UEFAの公式言語である英語、ドイツ語、フランス語によって、荘厳と熱狂とを併せ持って歌われるサビは、そのシンプルながら美しいメロディとも相まって、これから始まる試合に対する選手やファンの興奮と期待をかき立てるのに一役買っている。なお、本賛歌のオリジナルバージョンは、二つの短いヴァースとコーラスからなる3分程の曲であるが、商業ベース(CD等)でリリースされたことは今まで無い。試合開始前やテレビ中継において流されるのは、後半の「Ils sont les meilleurs...」以下のコーラス部分をアレンジしたものである。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "Ils sont les meilleurs(フランス語:彼らは最高だ) Sie sind die Besten(ドイツ語:彼らは最高だ) These are the champions(英語:彼らがチャンピオンだ)",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "Die Meister(ドイツ語:道を極めし者) Die Besten(ドイツ語:最高の者) Les Grandes Equipes(フランス語:偉大なチーム) The Champions(英語:それがチャンピオン)",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "2009年から2018年までコナミデジタルエンタテインメントと独占契約を結び、同社発売のサッカーゲーム「ウイニングイレブン」(海外版はPro Evolution Soccer)シリーズにチャンピオンズリーグが搭載されていた。2018年からはエレクトロニック・アーツと契約を結び、FIFA 19にチャンピオンズリーグで遊べるモードが搭載された。",
"title": "備考"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "チャンピオンズリーグの中継映像はUEFAが統括した上で、試合ごとのホスト局が中心となって制作される。これらの中継におけるスケジュールはフォーマット化されており、放映権を持つテレビ局に配信される。ホスト局は海外メディアが現地中継を行うための放送席用の機材の準備なども担当する。また、放映権を持つテレビ局はミックスゾーンでの選手インタビューを行うことができる。",
"title": "テレビ中継"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "優勝チームはトヨタカップの出場権を獲得することもあって、かつては決勝のみ日本テレビで放送されていた。本格的に放送されるようになったのは、スポーツ・アイ ESPN(J sports 3の前身)で1996-97シーズンより。翌1997-98シーズンよりWOWOWが放映権を獲得した。BSデジタル放送開始から、各節最大4試合生中継(アナログでは2試合生中継、2試合録画中継)、木曜の夜に1試合録画中継したが、それ以外の試合は中断期間まで待つ必要があった。",
"title": "テレビ中継"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "地上波では、TBSが放映権を獲得。毎節最大2試合放送したが、全国放送ではなく、ローカルセールス枠での扱いであり後番組の時間変更ができなかったため、決勝戦でも延長・PK戦となった場合(2度)は途中で放送を打ち切らざるを得なかった。WOWOWとの契約最終年だった2003年4月にスカパー!(現・スカパーJSAT)、J SKY SPORTS(現・J SPORTS)、フジテレビの3社が放映権獲得を発表した。",
"title": "テレビ中継"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "2003-04シーズンより、スカパー!ではパーフェクト・チョイス(現スカチャン)、J SPORTSで毎節8試合以上生中継を行い、決勝トーナメント以降は全試合生中継となった。録画中継となった試合でも最長で24時間以内に放送されている。スカイパーフェクTV!110(現・スカパー!e2)ではJ SPORTSで放送される試合以外視聴できなかったが、2004-05シーズン途中よりスカチャン!110(現・スカチャン)で放送開始。2006-07シーズンからはスカチャン!ハイビジョン(現・スカチャンHD800)、2007-08シーズンからはJ sports 4(ハイビジョン)でハイビジョン放送が開始されている。",
"title": "テレビ中継"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "2006-07シーズンより、スカパーが単独で放映権を獲得、J SPORTS、フジテレビへはサブライセンスを行う形となった。スカパー!は全試合中継を実施し(予選はプレーオフのみ一部をセレクトして放送。予選リーグは1日に8試合行われるうち、J SPORTSとあわせて6試合程度生中継し、残り試合は録画中継する。決勝リーグは全試合生中継)、J SPORTSとフジテレビは一部をセレクトして放送。なお、J SPORTSの放送は、2014-15シーズンをもって終了した。",
"title": "テレビ中継"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "フジテレビでも2017-2018シーズンまではこれまで毎節1試合の放送に加え、決勝戦を全国ネットで試合終了まで中継していた(決勝戦はネットセールス枠扱いであり、試合が延長・PK戦になった場合めざましテレビの放送時間を短縮・ずらしをして行う場合があった)。またマガジンプログラムやダイジェストを関東地区限定で放送。",
"title": "テレビ中継"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "2018-19シーズンから、スポーツのライブストリーミングサービスDAZNが、2020-21シーズンまでの3シーズンにおいて、独占放映権を獲得し、マガジンプログラムやハイライトなどのUCL関連番組の配信も含め、予選プレーオフから決勝戦までの全試合を、完全独占でライブ配信することが決定していた。",
"title": "テレビ中継"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2020-21シーズンはシーズン開幕前にBloombergがUCLの新型コロナウィルス感染拡大に伴う、開催スケジュールの大幅変更を理由にアジアでの放映撤退模索が報じられ、その後、シーズン開始となったが結果的にユーザー向けのプレスリリースを行わず、朝日新聞の取材により契約最終年となる2020-21シーズンを残し事実上の打ち切りとなった。また、代替として、UEFAの公式動画配信サービスである「UEFA.tv」にて、グループリーグの中から最大2試合の無料生配信を行うことになった。但し、日本を含めたアジア地域でUEFAチャンピオンズリーグを視聴することは、事実上不可能となっていた。",
"title": "テレビ中継"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "しかし、半年後の2021年1月14日、DAZNとの放映権解除以後にWOWOWがUEFAとコンタクトが取れた事により放映権獲得交渉が進み、2020-21シーズンの決勝トーナメント全29試合を独占生中継・ライブ配信の実施を発表し、日本でのUEFAチャンピオンズリーグ中継が約半年ぶりに復活することになった。WOWOWでの放送は2002-03シーズン以来18シーズンぶりとなる。また、決勝トーナメントの開幕後にはその週に行われた試合の模様を振り返るWOWOWオリジナルダイジェスト番組『チャンピオンズリーグダイジェスト!』の放送も決定した。",
"title": "テレビ中継"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "2021-22シーズン、WOWOWがグループステージ〜決勝まで独占放送&配信することが決定した。 WOWOWではグループステージから、2022年5月28日の決勝まで全125試合をWOWOWオンデマンドで独占ライブ配信した。",
"title": "テレビ中継"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "2022-23シーズン、WOWOWがグループステージ~決勝まで独占放送&配信することが決定した。 WOWOWではグループステージから、2023年6月10日の決勝まで全125試合をWOWOWオンデマンドで独占ライブ配信した。",
"title": "テレビ中継"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2023-24シーズン、WOWOWがグループステージ~決勝まで独占放送&配信することが決定した。 WOWOWではグループステージから、2024年6月1日の決勝まで全125試合をWOWOWオンデマンドで独占ライブ配信する。",
"title": "テレビ中継"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "日本テレビでは2009-10シーズンから2017-2018シーズンまでは、関東地区限定でダイジェスト番組が放送されていたが、2019-20シーズンはDAZNの協力のもと、BS日テレでグループリーグから決勝戦までの注目カードを「セレクトマッチ」と題して土曜の夜に録画で放送。また、毎週日曜にはUCLのみどころや展望、注目チームを紹介する『Weekly Show』を放送していた。",
"title": "テレビ中継"
}
] | UEFAチャンピオンズリーグは、欧州サッカー連盟の主催で毎年9月から翌年の5月にかけて行われる、クラブチームによるサッカーの大陸選手権大会である。1955年にヨーロピアン・チャンピオン・クラブズ・カップとして始まった。当初は各国リーグの優勝クラブによる大会だったが、1990年代に参加クラブ数と資格が拡大された。 | {{Redirect|チャンピオンズリーグ}}
{{国際サッカー大会
|大会名 = UEFAチャンピオンズリーグ
|画像 = [[File:Logo UEFA Champions League.png|200px]]
|開始年 = 1955
|終了年 =
|主催 = [[欧州サッカー連盟|UEFA]]
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|前回優勝 = {{Fbaicon|ENG}} [[マンチェスター・シティFC|マンチェスター・シティ]](1回目)
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|サイト = {{url|www.uefa.com/uefachampionsleague/|公式ウェブサイト}}
|current_season = [[UEFAチャンピオンズリーグ 2023-24|2023-24]]
}}
'''UEFAチャンピオンズリーグ'''('''UCL'''、{{lang-en-short|UEFA Champions League}})は、[[欧州サッカー連盟]]の主催で毎年9月から翌年の5月にかけて行われる、[[クラブチーム]]による[[サッカー]]の大陸選手権大会である。1955年に[[ヨーロピアン・チャンピオン・クラブズ・カップ]]として始まった。当初は各国リーグの優勝クラブによる大会だったが、1990年代に参加クラブ数と資格が拡大された。
== 概要 ==
クラブサッカーにおける世界最高峰の大会であり<ref>{{cite book|author=David Bolchover, Christopher Brady |year=2006|url=https://books.google.co.jp/books?id=P8m8DiTf-WQC&pg=PA190&dq=champions+league+most+important+club+competition+in+the+world&hl=en&ei=QhdzTe_rGYOYhQfosMA5&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y#v=onepage&q=champions%20league%20most%20important%20club%20competition%20in%20the%20world&f=false |title=The 90-minute manager: lessons from the sharp end of management|pages=190|publisher= Pearson Education}}</ref><ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/europe/8691203.stm |title=Champions League bigger than World Cup|author=Jose Mourinho|newspaper=BBC Sport|date=2010-05-19|accessdate=2011-08-09}}</ref>、世界で最もレベルの高いサッカーの大会であるとみなされている。決勝戦のテレビ視聴者数は、毎年2億人を超える<ref>{{cite news |title=Champions League final tops Super Bowl for TV market |url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/europe/8490351.stm|work=BBC Sport |publisher=British Broadcasting Corporation |date=2010-01-30 |accessdate=2011-08-09}}</ref>。
1960年から2004年まで、本大会の勝者は[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]]に参加し、南米大陸の[[コパ・リベルタドーレス]]勝者と対戦した。2005年以降は、[[国際サッカー連盟|FIFA]]主催の[[FIFAクラブワールドカップ|クラブワールドカップ]]への出場権を自動的に得ることになっている<ref group="注">毎年開催は2021年度限りで、以降は4年に1度の開催に変更される。</ref>。
== 歴史 ==
=== チャンピオンズカップ時代 ===
本大会は1955年に、フランスのスポーツ誌[[レキップ]]の記者・編集者だった[[ガブリエル・アノ]]の提案により、「ヨーロピアン・チャンピオン・クラブズ・カップ ''European Champion Clubs' Cup''」という名称で開始された<ref name="katano15">[[#片野 2019|片野 2019]] 15頁</ref>。1950年代の欧州では経済統合の機運が高まっており、サッカー界でも1954年に[[欧州サッカー連盟]] (UEFA)が設立されている<ref name="katano14">[[#片野 2019|片野 2019]] 14頁</ref>。UEFAは当初各国代表チームによる[[UEFA欧州選手権|欧州選手権]]実現に向け動いていたが、アノがUEFAを説得し、各国から1クラブ選抜した全16クラブの第1回大会を開催した<ref name="katano15">[[#片野 2019|片野 2019]] 15頁</ref>。初回はレキップによりファンを集められるクラブが招待されたが、第2回大会から各国のリーグ王者に出場権が与えられた<ref name="katano15">[[#片野 2019|片野 2019]] 15頁</ref>。
当初は各国リーグの優勝クラブと当大会の前年度優勝クラブのみが出場する[[ホーム・アンド・アウェー|ホーム&アウェー]]の2試合の合計スコアで争われるノックアウト方式の大会だったが、1990年代に入ると下記のように大会形式が次々と変更されていった。
; 1991-1992シーズン
: 4クラブ×2グループのリーグ戦を導入(1991-92,1992-93シーズンではリーグ戦の1位が決勝に進出。1993-94シーズンではリーグ戦の上位2クラブが準決勝に進出)。
=== チャンピオンズリーグ時代 ===
; 1992-1993シーズン
: 大会名がヨーロッパチャンピオンズリーグに変更。ユニフォームの袖に大会公式ワッペンを付けることが義務づけられた。
; 1994-1995シーズン
: ホーム&アウェーの総当り戦による4クラブ×4グループのリーグ戦を導入(上位2クラブが決勝トーナメントに進出)。UEFAランキング上位国の優勝クラブと前年度優勝クラブの計8クラブが本大会(グループリーグ)のシード権を獲得。それ以外の国のクラブで予選を行って、勝ち上がったクラブが本大会に出場する。
; 1996-1997シーズン
: 大会名がヨーロッパチャンピオンズリーグからUEFAチャンピオンズリーグに変更。アンセム、大会公式球の導入。
; 1997-1998シーズン
: 従来からの国内リーグ1位のクラブに加えて、ランキング上位国の国内リーグ2位のクラブにも出場権が認められた。但し、国内リーグ2位のクラブは予選で勝ち上がる必要がある。本大会出場クラブが16クラブから24クラブへ増加し、グループも4から6へ増加した(グループリーグへのシード権の条件は変更なし)。これに伴い、グループリーグでの決勝トーナメント進出条件が変更され、各グループ1位の6クラブと2位の中で最も成績の良かった上位2クラブの計8クラブが決勝トーナメントに進出する方式に変更された。
; 1999-2000シーズン
: 予選方式、本大会方式が大幅に変更された。これは[[UEFAカップウィナーズカップ]]が廃止されたための変更であるが、1990年代後半から水面下で動いていたスーパーリーグ構想にUEFAが対処しなければならなかったという見方が強い。
:本大会の出場クラブは、24クラブから32クラブへ拡大し、ランキング上位国に与えられる出場枠は予選枠を含めて最大で4クラブに増加。前年度優勝クラブは引き続きグループリーグへのシード権を得るが、4つの出場枠を持つ国で前年度優勝クラブがリーグ5位以下に終わった場合、国内協会は前年度優勝クラブと4位のクラブのいずれを出場させるか選択する必要があった。1999-2000シーズンは当大会で優勝した[[レアル・マドリード]]が[[プリメーラ・ディビシオン|リーガ]]5位に終わったが、当時のリーガでのチャンピオンズリーグ出場権獲得条件により、2000-2001シーズンは前シーズンの上位3クラブと当大会で前シーズンに優勝したレアル・マドリードがチャンピオンズリーグに出場し、リーガ4位のレアル・サラゴサはUEFAカップ出場となった。
:予選なしで本大会に出場できるクラブも8クラブから16クラブへ拡大され(15+前年度優勝クラブ)、出場枠がUEFAランキング上位9カ国(前年度優勝枠次第で10カ国)、そのうちランキング上位6カ国は上位2クラブへ変更された。 グループリーグは従来からの1次リーグに加えて2次リーグが追加導入され、1次リーグ(4クラブ×8グループ)、2次リーグ(4クラブ×4グループ)共に、各グループ上位2クラブが通過という条件になった。また、1次リーグで3位に入ったクラブは、[[UEFAカップ]]に回ることになった。
:しかし、リーグ拡大に伴って試合数も増加し、2次リーグに進出したクラブは最低でも12試合を消化しなければならず、さらに決勝戦に進出した場合は合計で17試合も消化しなければならないため、試合数の増加による疲労の蓄積や怪我の続出、レベルの低下が懸念されたことから、各クラブや選手、監督の間で不満が続出し、後に2003-04シーズンでの大会システム変更に繋がった。
; 2003-2004シーズン
: 本大会の出場クラブ数は32クラブであるが、過密日程の元凶となっていた2次リーグを廃止して、決勝トーナメント出場クラブ数が8チームから16クラブへ変更されたことで、各クラブや選手、監督の間で不評だった部分が一部解消されている。これにより、グループリーグで消化しなければならない試合数は6試合へと減少、決勝戦までに消化する試合数は最大で17試合から13試合へ減少しており、試合数の増加に伴う疲労の蓄積と怪我の問題、試合レベルの低下がある程度是正された。
; 2006-2007シーズン
: 前年度優勝クラブは、各国の出場枠に関わらずグループリーグにシードされることとなった(当該クラブが国内リーグで3位以下となり、出場権を確保していない場合、当該国の最下位の出場枠のクラブがUEFAカップに押し出される)。
:2004-05シーズンに優勝した[[リヴァプールFC|リヴァプール]]が[[プレミアリーグ]]ではリーグ5位に終わり、1999-2000シーズンに優勝したレアル・マドリードと同様の現象が発生した。しかし、[[フットボール・アソシエーション|イングランドのサッカー協会]]は、2005-06シーズンにリヴァプールではなく、4位の[[エヴァートンFC|エヴァートン]]を出場させることを選択したため、リヴァプールは本来ならば2005-06シーズンはUEFAカップに回る事となるはずだったが、王者としての防衛権の必要性から、特例としてイングランドに5枠目が与えられ、予選1回戦からの参加となったことが契機となり改正された([[:en:Liverpool F.C. 2005–06 UEFA Champions League qualification|参考]]<small>(英語)</small>)。
; 2009-2010シーズン
: 予選なしで本大会に出場できるクラブが16クラブから22クラブへと拡大され(21+前年度優勝クラブ)、出場枠がUEFAランキング上位9カ国から12カ国(前年度優勝枠次第で13カ国)、ランキング上位3カ国は上位2クラブから3クラブへと変更された。予選が国内リーグ優勝クラブ予選と国内リーグ上位クラブ予選の二つの経路に分かれた。予選が3回戦から4回戦へと拡大され、4回戦はプレーオフと命名された。上位クラブ予選は3回戦とプレーオフのみとなる。
; 2012-2013シーズン
: カップタイドルールが変更。UCLの予選、[[UEFAヨーロッパリーグ|UEL]]の予選のみに前所属クラブで出場歴がある選手に関して、前所属クラブが本大会に進出していても新たな所属クラブで本大会に登録できるようになった。
; 2015-2016シーズン
: 前年度[[UEFAヨーロッパリーグ]]優勝クラブにも出場権が与えられるようになる(グループリーグかプレーオフから参加。前年度UCL優勝クラブが国内リーグ成績により出場枠を獲得し、前年度優勝枠が空いていた場合、グリープリーグから出場。空いていない場合は、ランキング13位以下の国の優勝クラブの場合は優勝クラブ予選プレーオフへ、そうでない場合は上位クラブ予選プレーオフへ回る)。これに伴い1ヶ国からの出場クラブ数の上限が4から5へと拡大。
; 2018-2019シーズン
: 予選なしで出場できるチームが22クラブから26クラブへ拡大され、UEFAランキング上位4カ国の4クラブはいずれも予選なしで出場できるようになった。また前年度ヨーロッパリーグ優勝クラブも必ずグループリーグからの出場へと変更。
: カップタイドルール(冬の移籍期間に移籍した選手は、前所属クラブでグループリーグに出場歴のある場合、移籍先のクラブで決勝トーナメントに出場できない)が廃止。
; 2019-2020シーズン
: [[UEFAチャンピオンズリーグ 2019-20 予選|プレーオフ]]から[[ビデオ・アシスタント・レフェリー]] (VAR)の使用を開始した<ref>{{cite web|url=https://www.uefa.com/insideuefa/mediaservices/mediareleases/newsid=2573203.html |title=VAR to be introduced in 2019/20 UEFA Champions League |publisher=UEFA.com |date=2018-09-27 |accessdate=2019-05-19}}</ref>。
: [[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウィルスの世界的な感染拡大]]に伴い、[[UEFAチャンピオンズリーグ 2019-20 決勝トーナメント|決勝トーナメント]]ラウンド16の第2レグのうち3月第2週の4試合は実施(ただし2試合は[[無観客試合]])されたが、3月第3週に予定されていた4試合は延期された後、8月に無観客試合にて開催された。
: 決勝トーナメント準々決勝以降の全ての試合は、1試合決着方式での短期集中開催に変更され、開催場所も中立地([[ポルトガル]]・[[リスボン]]の[[エスタディオ・ダ・ルス]]と[[エスタディオ・ジョゼ・アルヴァラーデ]])にて行われることになった。
; 2020-2021シーズン
: [[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]対策のため、2019-20シーズン後半戦同様に選手・監督・スタッフらは引き続き[[逆転写ポリメラーゼ連鎖反応|PCR検査]]が義務付けられた。
; 2021-2022シーズン
:大会予選から[[アウェーゴール|アウェーゴール・ルール]]の廃止を決定した。
; 2024-2025シーズン
:出場枠が36チームに拡大、現行の4チーム×8組のグループステージを廃止、異なるチームとホームとアウェイで4試合ずつ、8試合のリーグ戦を行う。([[スイス式トーナメント|スイス式]])リーグの上位8チームがそのままノックアウトステージに進出。9位から24位のチームはプレーオフを2試合戦い、ノックアウトステージに進む。
== 開催方式 ==
=== 出場枠 ===
UEFAに加盟する各国地域内での前年度リーグ戦の上位クラブが参加できる。国別の出場枠およびどのレベルから参加できるかは、[[UEFAランキング]]のカントリーランキングで決まる。
(1) UEFAランキング1位〜4位の国の上位4クラブ<br>
(2) UEFAランキング5位〜6位の国の上位3クラブ<br>
(3) UEFAランキング7位〜15位の国の上位2クラブ<br>
(4) UEFAランキング16位以下の国の1位クラブ<br>
(5) 前年度UEFAチャンピオンズリーグ優勝クラブ<br>
(6) 前年度UEFAヨーロッパリーグ優勝クラブ
ただし1か国から出場できるのは最大5クラブまでである。
従って⑤⑥のクラブがUEFAランキング1位〜4位の同一国から出て、かつ両クラブとも前年度国内リーグの成績が5位以下であった場合、その国の前年度リーグ4位クラブは出場資格を失い、ヨーロッパリーグ出場権を得る事になる。
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
|+出場クラブの構成(2018-19シーズン以降、2023-24シーズンまで)
! !!本大会シード!!colspan="2"|優勝クラブ予選!! colspan="2" |上位クラブ予選
|-
! !!初登場!!初登場!!前ラウンド勝利!!初登場!!前ラウンド勝利
|-
|'''予備予選'''<br />(4クラブ)
|
|'''4クラブ'''<br />52位から55位の国の国内リーグ優勝クラブ
|
|
|
|-
|'''予選1回戦'''<br />(34クラブ)
|
|'''33クラブ'''<br />18位から51位の国の国内リーグ優勝クラブ<br />(リヒテンシュタインを除く)
|1クラブ
|
|
|-
|'''予選2回戦'''<br />(26クラブ)
|
|'''3クラブ'''<br />15位から17位の国の国内リーグ優勝クラブ
|17クラブ
|'''6クラブ'''<br />10位から15位の国の国内リーグ準優勝のクラブ
|
|-
|'''予選3回戦'''<br />(20クラブ)
|
|'''2クラブ'''<br />13位から14位の国の国内リーグ優勝クラブ
|10クラブ
|'''5クラブ'''<br />7位から9位の国の国内リーグ準優勝クラブ<br />5位から6位の国の国内リーグ3位クラブ
|3クラブ
|-
|'''プレーオフ'''<br />(12クラブ)
|
|'''2クラブ'''<br />11位から12位の国の国内リーグ優勝クラブ
|6クラブ
|
|4クラブ
|-
|'''グループステージ'''<br />(32クラブ)
|'''26クラブ'''<br />前年度UCL優勝クラブ<br />前年度UEL優勝クラブ<br />1位から10位の国の国内リーグ優勝クラブ<br />1位から6位の国の国内リーグ準優勝クラブ<br />1位から4位の国の国内リーグ3位・4位クラブ
|
|4クラブ
|
|2クラブ
|}
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
|+出場クラブの構成(2024-25シーズン以降)
! !!本大会シード!!colspan="2"|優勝クラブ予選!! colspan="2" |上位クラブ予選
|-
! !!初登場!!初登場!!前ラウンド勝利!!初登場!!前ラウンド勝利
|-
|'''予選1回戦'''<br />(32クラブ)
|
|'''32クラブ'''<br />23位から55位の国の国内リーグ優勝クラブ
(リヒテンシュタインを除く)
|
|
|
|-
|'''予選2回戦'''<br />(30クラブ)
|
|'''8クラブ'''<br />15位から22位の国の国内リーグ優勝クラブ<br />
|16クラブ
|'''6クラブ'''<br />10位から15位の国の国内リーグ準優勝のクラブ
|
|-
|'''予選3回戦'''<br />(20クラブ)
|
|
|12クラブ
|'''5クラブ'''<br />7位から9位の国の国内リーグ準優勝クラブ<br />5位の国の国内リーグ4位クラブ
6位の国の国内リーグ3位クラブ
|3クラブ
|-
|'''プレーオフ'''<br />(14クラブ)
|
|'''4クラブ'''<br />11位から14位の国の国内リーグ優勝クラブ
|6クラブ
|
|4クラブ
|-
|'''グループステージ'''<br />(36クラブ)
|'''29クラブ'''<br />前年度UCL優勝クラブ<br />前年度UEL優勝クラブ<br />1位から10位の国の国内リーグ優勝クラブ<br />1位から6位の国の国内リーグ準優勝クラブ<br />1位から5位の国の国内リーグ3位クラブ
1位から4位の国の国内リーグ4位クラブ
前シーズンの成績が最も良かった2か国のクラブで、出場権を得ていない最上位クラブ
|
|5クラブ
|
|2クラブ
|}
=== 本大会出場32クラブの構成 ===
*UEFAランキング1位〜4位の国の上位4クラブ (16)
*UEFAランキング5位〜6位の国の上位2クラブ (4)
*UEFAランキング7位〜10位の国の1位クラブ (4)
*優勝チーム予選を勝ち上がったUEFAランキング11位以下の国の1位クラブ (4)
*上位チーム予選を勝ち上がったUEFAランキング5~15位の国の2位~3位クラブ (2)
*UEFAチャンピオンズリーグ前年度優勝クラブもしくはUEFAランキング11位の国の1位クラブ (1)
*UEFAヨーロッパリーグ前年度優勝クラブもしくはUEFAランキング5位の国の3位クラブ (1)
(前年度CL優勝クラブの国内リーグ成績が本大会出場権獲得圏内の場合、UEFAランキング11位の国の優勝クラブが予選を免除され、本大会の出場権を得る。前年度UEL優勝クラブの国内リーグ成績が本大会出場権獲得圏内の場合、UEFAランキング5位の国の3位クラブが予選を免除され、本大会の出場権を得る)
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
|+UEFAランキング上位と出場枠
!順位!!本大会!!予選!!99-00!!00-01!!01-02!!02-03!!03-04!!04-05!!05-06!!06-07!!07-08!!08-09
|-
!1
|2||2||{{Fbaicon|ITA}}||{{Fbaicon|ITA}}||{{Fbaicon|ESP}}||{{Fbaicon|ESP}}||{{Fbaicon|ESP}}||{{Fbaicon|ESP}}||{{Fbaicon|ESP}}||{{Fbaicon|ESP}}☆||{{Fbaicon|ESP}}||{{Fbaicon|ESP}}
|-
!2
|2||2||{{Fbaicon|GER}}||{{Fbaicon|ESP}}||{{Fbaicon|ITA}}||{{Fbaicon|ITA}}||{{Fbaicon|ITA}}||{{Fbaicon|ITA}}||{{Fbaicon|ENG}}||{{Fbaicon|ENG}}||{{Fbaicon|ITA}}||{{Fbaicon|ENG}}☆
|-
!3
|2||2||{{Fbaicon|ESP}}||{{Fbaicon|GER}}||{{Fbaicon|GER}}☆||{{Fbaicon|ENG}}||{{Fbaicon|ENG}}||{{Fbaicon|ENG}}||{{Fbaicon|ITA}}||{{Fbaicon|ITA}}||{{Fbaicon|ENG}}||{{Fbaicon|ITA}}
|-
!4
|2||1||{{Fbaicon|FRA}}||{{Fbaicon|FRA}}||{{Fbaicon|FRA}}||{{Fbaicon|GER}}||{{Fbaicon|GER}}||{{Fbaicon|GER}}||{{Fbaicon|GER}}||{{Fbaicon|FRA}}||{{Fbaicon|FRA}}||{{Fbaicon|FRA}}
|-
!5
|2||1||{{Fbaicon|NED}}||{{Fbaicon|NED}}||{{Fbaicon|ENG}}||{{Fbaicon|FRA}}||{{Fbaicon|FRA}}||{{Fbaicon|FRA}}||{{Fbaicon|FRA}}||{{Fbaicon|GER}}||{{Fbaicon|GER}}||{{Fbaicon|GER}}
|-
!6
|2||1||{{Fbaicon|ENG}}☆||{{Fbaicon|ENG}}||{{Fbaicon|NED}}||{{Fbaicon|NED}}||{{Fbaicon|GRE}}||{{Fbaicon|GRE}}||{{Fbaicon|POR}}||{{Fbaicon|POR}}||{{Fbaicon|POR}}||{{Fbaicon|POR}}
|-
!7
|1||1||{{Fbaicon|POR}}||{{Fbaicon|RUS}}||{{Fbaicon|RUS}}||{{Fbaicon|TUR}}||{{Fbaicon|NED}}||{{Fbaicon|POR}}☆||{{Fbaicon|GRE}}||{{Fbaicon|NED}}||{{Fbaicon|NED}}||{{Fbaicon|ROM}}
|-
!8
|1||1||{{Fbaicon|GRE}}||{{Fbaicon|GRE}}||{{Fbaicon|CZE}}||{{Fbaicon|GRE}}||{{Fbaicon|TUR}}||{{Fbaicon|NED}}||{{Fbaicon|NED}}||{{Fbaicon|GRE}}||{{Fbaicon|GRE}}||{{Fbaicon|NED}}
|-
!9
|1||1||{{Fbaicon|CZE}}||{{Fbaicon|POR}}||{{Fbaicon|GRE}}||{{Fbaicon|RUS}}||{{Fbaicon|POR}}||{{Fbaicon|SCO}}||{{Fbaicon|CZE}}||{{Fbaicon|BEL}}||{{Fbaicon|RUS}}||{{Fbaicon|RUS}}
|-
!10
|0か1||2か1||{{Fbaicon|NOR}}||{{Fbaicon|CZE}}★||{{Fbaicon|POR}}||{{Fbaicon|POR}}★||{{Fbaicon|RUS}}★||{{Fbaicon|TUR}}||{{Fbaicon|TUR}}||{{Fbaicon|SCO}}||{{Fbaicon|ROM}}★||{{Fbaicon|SCO}}
|-
!前回優勝
|1||-1||||{{Fbaicon|ESP}}||||{{Fbaicon|ESP}}||{{Fbaicon|ITA}}||||{{Fbaicon|ENG}}※||||{{Fbaicon|ITA}}||
|-
!予選
|||||16||16||16||16||16||16||16||16||16||16
|}
☆:前年度UCL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏内であるため、ランキング10位の国の優勝クラブが予選免除。<br>
★:前年度UCL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏外であるが、本大会にシードされる。代わりに当該クラブの所属国の予選からの出場枠が1つ減少する。ランキング10位の国の優勝クラブは予選から出場。<br>
※:特例として、国別の本来の出場枠にプラスして、前年度UCL優勝クラブが、予選からの出場が認められる。ランキング10位の国の優勝クラブは予選免除。
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
|+UEFAランキング上位と出場枠
!順位!!本大会!!予選!!09-10!!10-11!!11-12!!12-13!!13-14!!14-15!!15-16!!16-17!!17-18
|-
!1
|3||1||{{Fbaicon|ENG}}||{{Fbaicon|ENG}}||{{Fbaicon|ENG}}||{{Fbaicon|ENG}}||{{Fbaicon|ENG}}||{{Fbaicon|ESP}}☆||{{Fbaicon|ESP}}○||{{Fbaicon|ESP}}○||{{Fbaicon|ESP}}○
|-
!2
|3||1||{{Fbaicon|ESP}}☆||{{Fbaicon|ESP}}||{{Fbaicon|ESP}}☆||{{Fbaicon|ESP}}||{{Fbaicon|ESP}}||{{Fbaicon|ENG}}||{{Fbaicon|ENG}}||{{Fbaicon|ENG}}||{{Fbaicon|GER}}
|-
!3
|3||1||{{Fbaicon|ITA}}||{{Fbaicon|ITA}}☆||{{Fbaicon|ITA}}||{{Fbaicon|GER}}||{{Fbaicon|GER}}☆||{{Fbaicon|GER}}||{{Fbaicon|GER}}||{{Fbaicon|GER}}||{{Fbaicon|ENG}}
|-
!4
|2||1||{{Fbaicon|FRA}}||{{Fbaicon|GER}}||{{Fbaicon|GER}}||{{Fbaicon|ITA}}||{{Fbaicon|ITA}}||{{Fbaicon|ITA}}||{{Fbaicon|ITA}}||{{Fbaicon|ITA}}||{{Fbaicon|ITA}}
|-
!5
|2||1||{{Fbaicon|GER}}||{{Fbaicon|FRA}}||{{Fbaicon|FRA}}||{{Fbaicon|FRA}}||{{Fbaicon|POR}}||{{Fbaicon|POR}}||{{Fbaicon|POR}}||{{Fbaicon|POR}}||{{Fbaicon|POR}}
|-
!6
|2||1||{{Fbaicon|RUS}}||{{Fbaicon|RUS}}||{{Fbaicon|RUS}}||{{Fbaicon|POR}}||{{Fbaicon|FRA}}||{{Fbaicon|FRA}}||{{Fbaicon|FRA}}||{{Fbaicon|FRA}}||{{Fbaicon|FRA}}
|-
!7
|1||1||{{Fbaicon|ROM}}||{{Fbaicon|UKR}}||{{Fbaicon|UKR}}||{{Fbaicon|RUS}}||{{Fbaicon|RUS}}||{{Fbaicon|UKR}}||{{Fbaicon|RUS}}||{{Fbaicon|RUS}}||{{Fbaicon|RUS}}
|-
!8
|1||1||{{Fbaicon|POR}}||{{Fbaicon|NED}}||{{Fbaicon|ROM}}||{{Fbaicon|UKR}}||{{Fbaicon|NED}}||{{Fbaicon|RUS}}||{{Fbaicon|NED}}||{{Fbaicon|UKR}}||{{Fbaicon|UKR}}
|-
!9
|1||1||{{Fbaicon|NED}}||{{Fbaicon|ROM}}||{{Fbaicon|POR}}||{{Fbaicon|NED}}||{{Fbaicon|UKR}}||{{Fbaicon|NED}}||{{Fbaicon|UKR}}||{{Fbaicon|NED}}||{{Fbaicon|BEL}}
|-
!10
|1||1||{{Fbaicon|SCO}}||{{Fbaicon|POR}}||{{Fbaicon|NED}}||{{Fbaicon|TUR}}||{{Fbaicon|GRE}}||{{Fbaicon|TUR}}||{{Fbaicon|BEL}}||{{Fbaicon|BEL}}||{{Fbaicon|NED}}
|-
!11
|1||1||{{Fbaicon|TUR}}||{{Fbaicon|TUR}}||{{Fbaicon|TUR}}||{{Fbaicon|GRE}}||{{Fbaicon|TUR}}||{{Fbaicon|BEL}}||{{Fbaicon|TUR}}||{{Fbaicon|SUI}}||{{Fbaicon|TUR}}
|-
!12
|1||1||{{Fbaicon|UKR}}||{{Fbaicon|GRE}}||{{Fbaicon|GRE}}||{{Fbaicon|DEN}}||{{Fbaicon|BEL}}||{{Fbaicon|GRE}}||{{Fbaicon|GRE}}||{{Fbaicon|TUR}}||{{Fbaicon|SUI}}
|-
!13
|0か1||2か1||{{Fbaicon|BEL}}||{{Fbaicon|SCO}}||{{Fbaicon|SUI}}||{{Fbaicon|BEL}}★||{{Fbaicon|DEN}}||{{Fbaicon|SUI}}||{{Fbaicon|SUI}}●||{{Fbaicon|GRE}}●||{{Fbaicon|CZE}}●
|-
!前回優勝
|1||-1||||||||{{Fbaicon|ENG}}||||||||||
|-
![[UEFAヨーロッパリーグ|EL]]優勝
|1||-1||||||||||||||{{Fbaicon|ESP}}||{{Fbaicon|ESP}}||{{Fbaicon|ENG}}
|-
!予選
|||||10||10||10||10||10||10||10||10||10
|}
☆:前年度UCL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏内であるため、ランキング13位の国の優勝クラブが予選免除。<br>
★:前年度UCL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏外であるが、本大会にシードされる。代わりに当該クラブの所属国の予選からの出場枠が1つ減少する。ランキング13位の国の優勝クラブは予選から出場。<br>
○●:前年度UCL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏内であるため、前年度UEL優勝クラブが予選免除。ランキング13位の国の優勝クラブは予選から出場。
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
|+UEFAランキング上位と出場枠
!順位!!本大会!!予選!!18-19!!19-20!!20-21!!21-22
!22-23
!23-24
|-
!1
|4||0||{{Fbaicon|ESP}}★☆||{{Fbaicon|ESP}}||{{Fbaicon|ESP}}☆||{{Fbaicon|ESP}}
|{{Fbaicon|ENG}}
|{{Fbaicon|ENG}}★
|-
!2
|4||0||{{Fbaicon|GER}}||{{Fbaicon|ENG}}★☆||{{Fbaicon|ENG}}||{{Fbaicon|ENG}}★
|{{Fbaicon|ESP}}★
|{{Fbaicon|ESP}}
|-
!3
|4||0||{{Fbaicon|ENG}}||{{Fbaicon|ITA}}||{{Fbaicon|ITA}}||{{Fbaicon|GER}}
|{{Fbaicon|ITA}}
|{{Fbaicon|ITA}}
|-
!4
|4||0||{{Fbaicon|ITA}}||{{Fbaicon|GER}}||{{Fbaicon|GER}}★||{{Fbaicon|ITA}}
|{{Fbaicon|GER}}
|{{Fbaicon|GER}}
|-
!5
|2か3||1か0||{{Fbaicon|FRA}}||{{Fbaicon|FRA}}||{{Fbaicon|FRA}}||{{Fbaicon|FRA}}
|{{Fbaicon|FRA}}
|{{Fbaicon|FRA}}
|-
!6
|2||1||{{Fbaicon|RUS}}||{{Fbaicon|RUS}}||{{Fbaicon|RUS}}||{{Fbaicon|POR}}
|{{Fbaicon|POR}}
|{{Fbaicon|POR}}
|-
!7
|1||1||{{Fbaicon|POR}}||{{Fbaicon|POR}}||{{Fbaicon|POR}}||{{Fbaicon|RUS}}
|{{Fbaicon|NED}}
|{{Fbaicon|NED}}
|-
!8
|1||1||{{Fbaicon|UKR}}||{{Fbaicon|UKR}}||{{Fbaicon|BEL}}||{{Fbaicon|BEL}}
|{{Fbaicon|BEL}}
|{{Fbaicon|AUT}}
|-
!9
|1||1||{{Fbaicon|BEL}}||{{Fbaicon|BEL}}||{{Fbaicon|UKR}}||{{Fbaicon|UKR}}
|{{Fbaicon|AUT}}
|{{Fbaicon|SCO}}
|-
!10
|1||1||{{Fbaicon|TUR}}||{{Fbaicon|TUR}}||{{Fbaicon|TUR}}||{{Fbaicon|NED}}
|{{Fbaicon|SCO}}
|{{Fbaicon|SER}}
|-
!11
|0か1||2か0||{{Fbaicon|CZE}}||{{Fbaicon|AUT}}||{{Fbaicon|NED}}||{{Fbaicon|TUR}}
|{{Fbaicon|UKR}}
|{{Fbaicon|UKR}}
|-
!前回優勝
|1
| -1
|
|
|
|
|
|
|-
![[UEFAヨーロッパリーグ|EL]]優勝
|1
| -1
|
|
|
|{{Fbaicon|ESP}}
|{{Fbaicon|GER}}
|{{Fbaicon|ESP}}
|-
!予選
| || ||6||6||6||6
|6
|6
|}
★:前年度UCL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏内であるため、ランキング11位の国の優勝クラブが予選免除。<br>
☆:前年度UEL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏内であるため、ランキング11位の国の優勝クラブが予選免除。<br>
★☆:前年度UCL優勝クラブとUEL優勝クラブが、国内リーグ成績で本大会出場枠獲得圏内であるため、ランキング11位の国の優勝クラブとランキング5位の国の3位のクラブが予選免除。
[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]により、2022-23シーズンからロシアを欧州の大会に出場することをUEFAは禁じている。
=== 予選 ===
予選は優勝クラブ予選と上位クラブ予選の二つのルートで行われる。1次予選以降は1対1の[[ホーム・アンド・アウェー|ホーム・アンド・アウェー方式]]で行われる。組み合わせ抽選は、シーズン開幕時に確定した[[UEFAランキング#クラブランキング|クラブ・ランキング]]に従ってシード分けした上で行われる。
==== 国内リーグ優勝クラブ予選 ====
;予備予選
:UEFAランキング52~55位の国のリーグ戦優勝クラブ4クラブによって一発勝負のトーナメント方式で争われ、勝者1クラブが1次予選進出。敗退したクラブは、[[UEFAヨーロッパカンファレンスリーグ|UECL]]の2次予選に進出する。
;予選1回戦
:UEFAランキング18~51位の国のうち、国内にリーグ戦を有さないリヒテンシュタインを除く国のリーグ戦優勝クラブ33クラブと予備予選の勝者の合計34クラブによって争われ、勝者17クラブが2次予選進出。敗退したクラブは、UECLの2次予選に進出する。
;予選2回戦
:UEFAランキング15位〜17位の国のリーグ戦優勝クラブ3クラブと1次予選の勝者17クラブの20クラブによって争われ、勝者10クラブが3次予選進出。敗退したクラブは、[[UEFAヨーロッパリーグ|UEL]]の3次予選に進出する。
;予選3回戦
:UEFAランキング13,14位の国のリーグ戦優勝クラブ2クラブと2次予選の勝者10クラブの12クラブによって争われ、勝者6クラブがプレーオフ進出。敗退したクラブは、UELのプレーオフに進出する。
;プレーオフ
:UEFAランキング11,12位の国のリーグ戦優勝クラブ2クラブと3次予選の勝者6クラブの8クラブによって争われ、勝者4クラブが本大会グループリーグへ進出。敗退したクラブは、UELの本大会グループリーグに回る。
ランキング11位の国の優勝クラブが予選免除になった場合や、UCL・UEL前年度優勝クラブがランキング11位以下の国の優勝クラブだった場合などは、枠組みが変動する。
==== 国内リーグ上位クラブ予選 ====
;予選2回戦
:UEFAランキング10~15位の国のリーグ戦2位クラブ6クラブによって争われ、勝者3クラブが3次予選進出。敗退したクラブは、UELの3次予選に進出する。
;予選3回戦
:UEFAランキング7~9位の国のリーグ戦2位クラブ3クラブとUEFAランキング5,6位の国のリーグ戦3位クラブ2クラブ、および2次予選の勝者3クラブの計8クラブによって争われ、勝者4クラブがプレーオフ進出。敗退したクラブは、UELの本大会グループリーグに進出する。
;プレーオフ
:3次予選の勝者4クラブによって争われ、勝者2クラブが本大会グループリーグへ進出。敗退したクラブは、UELの本大会グループリーグに進出する。
UCL・UEL前年度優勝クラブの国内リーグ成績が上記に該当する順位だった場合や、ランキング5位の国の3位クラブが予選免除される場合などは、枠組みが変動する。
=== 本大会の概要 ===
グループリーグは32クラブを4クラブ×8グループに分ける。[[ホーム・アンド・アウェー]]方式の2回総当りで争い、各組2位までの16クラブが決勝トーナメントに進む。また、グループリーグ3位のクラブはUELの決勝トーナメント・プレーオフに回る。
勝ち点が同じクラブが出た場合の順位の付け方は以下の順に順位が付けられる。
#該当クラブ同士の直接対決における勝ち点
#該当クラブ同士の直接対決における得失点差
#該当クラブ同士の直接対決における総得点
#全試合における得失点差
#全試合における総得点
#全試合におけるアウェーゴール数
#全試合における勝利数
#全試合におけるアウェー勝利数
#懲戒ポイント
#UEFAクラブ係数
決勝トーナメントは16クラブによるホーム・アンド・アウェー方式によるトーナメントで、2試合の通算得点が同じ場合は2試合目の試合後に前後半15分の[[延長戦]]を行う。それでも勝者が決まらない場合は[[PK戦]]で勝者を決定する。
準々決勝以降は再度組み合わせ抽選を決勝戦開催地(2009-10シーズン以降はスイスの[[ニヨン (スイス)|ニヨン]])にて実施、そこで前年度優勝クラブから優勝カップが返還される。
決勝戦は事前にUEFAにより決定された試合地での1試合決着とし、90分で決しない場合は延長戦を行い、さらに決しない場合はPK戦となる。
開催日は概ね火曜日・水曜日。決勝戦は各国内リーグ全日程終了後、5月の最終水曜になることが多かったが、2009-10シーズンから土曜開催になった。
==== 抽選のシステム ====
グループリーグでは、まず32クラブを8クラブずつ4つのポットに分ける。前年度優勝クラブ、前年度UEL(ヨーロッパリーグ)優勝クラブ及びUEFAカントリーランキングの上位6か国の優勝クラブをポット1に、残りの24クラブをUEFAクラブ係数に基づいてポット2~4に振り分ける。なお、前年度優勝クラブ、前年度UEL優勝クラブが上位6か国の優勝クラブである場合は、カントリーランキング7位、8位の優勝クラブがポット1に入る。各ポットからA-Hの8つのグループに1クラブずつ抽選される。その際に同国のクラブが同じグループに入らないように考慮される(カントリープロテクション。特例出場の場合は考慮されない。2005-06の大会では特例で出場したリヴァプールは同じイングランドのチェルシーと同組になっている)。
また、グループA-Dを赤色、E-Hを青色とし、同じ国から2クラブ出場する場合はペア、3クラブ出場する場合は2クラブがペア、4クラブ出場する場合は2組のペアとし、ペア同士が同じ色のグループに入らないように抽選する(例えば同じ国からクラブYとクラブZが出場する場合、YがグループA-Dのどれかに入ればZは自動的にグループE-Hのどれかに入ることになる)。これは、1節毎に片方の色のグループから試合をしたら、翌日にはもう片方の色のグループの試合を行い、同国クラブの戦う曜日に原則国内のホームゲームは1クラブにするために行われる。他にも2015-16シーズン以降ウクライナ情勢により、ウクライナとロシアのクラブが同じグループに入らないように考慮されている。
抽選後にコンピュータによりグループ内での序列を計算し、同国チームのホームとアウェーが被らないように調整する(序列1はAHAHHA、序列2はHAHAAHとなりH&Aが対になっている。序列3はAHHAHA、序列4はHAAHAHである)。同じ色のグループに同じ国から2クラブ出場の場合は1と2との対、もしくは3と4との対になるように調整し、同じ国内で同じ曜日にホームゲームが行われることはなくなる。ただし例外として2006-07シーズンにロシアから[[PFC CSKAモスクワ|CSKAモスクワ]]と[[FCスパルタク・モスクワ|スパルタク・モスクワ]]の2クラブが出場した。ロシアは気温が低いのでグループリーグの最終戦が行なわれる12月にホームゲームを避けるために両クラブとも最終戦をアウェーで戦った(このためホームとアウェーを別々に行なえたのはグループリーグ全6節中2節だけになった)。なお、同じく気温が低く2クラブ出場の可能性があるノルウェーのクラブが2クラブ出場する場合も同様の措置を採ることになっている(2005-06シーズンに可能性があった)。
決勝トーナメント1回戦ではグループリーグ1位のクラブが異なるグループの2位のクラブが当たるように抽選する。その際もグループリーグの抽選と同様にカントリープロテクションとウクライナ情勢による制限、そしてグループリーグで同じ組だったクラブとは再戦しないなどが考慮される。抽選はグループリーグ2位の8クラブの玉を入れたポット、1位のクラブについてそれぞれ複数の玉を入れた8つのポット、そして1位のクラブを抽選するための空のポットの計10ポットを用意して行われる。まず2位のクラブのポットから1クラブを選び、前述の条件により対戦可能なクラブの玉を空のポットに入れて抽選することで組み合わせが決まる。この作業を8カード決まるまで繰り返す。
1回戦が終わると準々決勝・準決勝の組み合わせ抽選が行われる。準々決勝以降はカントリープロテクションもシード分けも考慮されない。従って、同国クラブ同士の対戦と同一グループリーグのクラブとの再戦の可能性が生じる。ポットは勝ち残った8クラブの玉の入れた1つのみ。1つずつ引いて2クラブが選ばれる毎に1カードが決まり、4カード全て決まるまで抽選を行う。
なお、2012-13~2017-18シーズンは準々決勝終了後に準決勝の抽選が別途行われた。勝ち残った4クラブの玉の入ったポットと試合順を決めるポットの2つあり、まず準々決勝の時と同様に2クラブ選ばれたら1カードが決まり、残りの2クラブも実質的に決まるも最後まで抽選を行う。その後最初に決まった対戦カードからの正式な試合順を決める抽選を行う。
=== 選手登録のルール ===
各クラブは、事前に選手のAリストとBリストを提出。Aリストは25名までで、以下の制限がある。
*うち2人はGKでなければならない。
*8人以上が「自国育成選手」でなければならず、さらにそのうちの4人以上が「クラブ内育成選手」でなければならない
*:(「自国育成選手」とは「協会域内育成選手」と「クラブ内育成選手」を含めた総称である。「クラブ内育成選手」とは15歳(選手が15歳になるシーズンの始まり)から、21歳(21歳になる季節の終わり)までの間に国籍関係なく、継続するしないにかかわらず、当該のクラブに完全な3シーズン(そのクラブが所属するリーグの開幕戦から最終戦まで)、もしくは36ヶ月在籍した選手を指す。「協会域内育成選手」とは15歳(選手が15歳になるシーズンの始まり)から、21歳(21歳になる季節の終わり)までの間に国籍関係なく、継続するしないにかかわらず、当該のクラブ、または当該のクラブが所属するサッカー協会に属するクラブに完全な3シーズン(そのクラブが所属するリーグの開幕戦から最終戦まで)、もしくは36ヶ月在籍した選手を指す。)
*予選ではラウンド毎に期限までに提出。本大会グループステージに向けて提出したリストは基本的に大会終了まで変更不可だが、年明けの決勝トーナメント開始前の時期に限り3人まで登録選手の入れ替え・追加が可能。
Bリストには、試合前日の24:00([[中央ヨーロッパ時間]])までに申請すれば、登録資格のある選手を無制限に登録できる。Bリストへの登録資格は、シーズン開幕21年前の年の1月1日以降に生まれた選手で、15歳の誕生日以降、継続して2年以上当該クラブに所属歴がある選手とする。 16歳の選手の場合は、2年以上継続して在籍していれば登録可能とする。
== 賞金 ==
2022/23シーズンの例<ref name="2022/23Distribution">{{Cite web |url=https://editorial.uefa.com/resources/0277-158b0bea495a-ba6c18158cd3-1000/20220704_circular_2022_47_en.pdf |title=Distribution to clubs from the 2022/23 UEFA Champions League, UEFA Europa League and UEFA Europa Conference League and the 2022 UEFA Super Cup Payments for the qualifying phases Solidarity payments for non-participating clubs |publisher=UEFA |date=2022-07-04 |accessdate=2022-10-07}}</ref>。
総額は20億2400万[[ユーロ]]に上る。
内訳は以下の通り
* プレーオフ敗退: 500万ユーロ
* グループステージ出場: 1564万ユーロ
* グループステージでの勝利(1試合あたり): 280万ユーロ
* グループステージでの引き分け(1試合あたり): 93万ユーロ
* ラウンド16進出: 960万ユーロ
* 準々決勝進出: 1060万ユーロ
* 準決勝進出: 1250万ユーロ
* 準優勝: 1550万ユーロ
* 優勝: 2000万ユーロ
上記はステージ進出ごとに加算されることを意味している。そのためグループステージ全勝で優勝した場合の額は8514万ユーロとなる。
加えて以下の額がクラブに与えられる。
; 過去10年のUEFAの大会におけるパフォーマンスにより定められたランキングに基づく額
: 最下位の額は113万7000ユーロで順位が1つ上がるたびに113万7000ユーロ加算されていく。最上位の額は3638万4000ユーロ。
; マーケットプール
: 総額は3億30万ユーロで各国のテレビマーケット、国内リーグ順位、CLの成績に基づいて配分される。
2012/13シーズンの場合、ユヴェントスは賞金の合計2050万ユーロに加え、マーケットプール4481万5000ユーロが加算され6531万5000ユーロとなる。これは優勝したバイエルン・ミュンヘンの賞金3600万ユーロ、マーケットプールの1900万ユーロ、合計5500万ユーロよりも多い<ref>{{cite journal |year=2013 |month=July |title=Clubs benefit from Champions League revenue|journal=uefadirect |issue=1 |pages=1 |publisher=Union of European Football Associations|url=http://www.uefa.com/MultimediaFiles/Download/uefaorg/Finance/01/97/52/97/1975297_DOWNLOAD.pdf |format=PDF |accessdate=26 July 2013}}</ref>。
2021/22シーズンで優勝したレアル・マドリードは、総額1億3665万ユーロを得たとされる<ref>{{Cite news |title=レアルCL優勝で180億円超えの賞金を獲得 |newspaper=日刊スポーツ |date=2022-05-29 |url=https://www.nikkansports.com/soccer/world/news/202205290001480.html |access-date=2022-10-07}}</ref>。
[[2010年代]]以降はテレビ放映権料の上昇などにより、CL出場クラブへの賞金(配分金)額は大きく上昇した。2006/07シーズンの配分金総額は約5.85億ユーロ<ref>{{Cite web |url=https://editorial.uefa.com/resources/01c9-0f84262b13b7-7bd8172b55d8-1000/2006_07_uefa_financial_report.pdf |title=2006/07 UEFA financial report |publisher=UEFA |date=2008-01-31 |accessdate=2022-10-07}}</ref>であったが、2015/16シーズンには約13.5億ユーロ<ref>{{Cite web |url=https://editorial.uefa.com/resources/0238-0f842c842efc-3e95e7aaf3d9-1000/2015_16_uefa_financial_report.pdf |title=2015/16 UEFA financial report |publisher=UEFA |date=2017-04-05 |accessdate=2022-10-07}}</ref>に、2022/23シーズンには約20.2億ユーロ<ref name="2022/23Distribution" />に達している。
== 結果 ==
{| class="wikitable" style="border-collapse:collapse; font-size:90%; white-space:nowrap;" cellpadding="1" cellspacing="1"
!年度!!優勝!!結果!!準優勝!!会場
|-
!colspan="5"|UEFAチャンピオンズカップ
|-
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1955-56|1955-56]]
|{{Fbaicon|ESP|1945}} '''[[レアル・マドリード]]'''
|'''4 - 3'''
|{{Fbaicon|FRA}} [[スタッド・ランス]]
|{{Flagicon|FRA}} [[パルク・デ・プランス]]([[パリ]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1956-57|1956-57]]
|{{Fbaicon|ESP|1945}} '''[[レアル・マドリード]]'''
|'''2 - 0'''
|{{Fbaicon|ITA}} [[ACFフィオレンティーナ|フィオレンティーナ]]
|{{Flagicon|ESP1945}} [[エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ|サンティアゴ・ベルナベウ]]([[マドリード]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1957-58|1957-58]]
|{{Fbaicon|ESP|1945}} '''[[レアル・マドリード]]'''
|'''3 - 2''' [[延長戦|aet]]
|{{Fbaicon|ITA}} [[ACミラン|ミラン]]
|{{Flagicon|BEL}} [[ボードゥアン国王競技場|ヘイゼル]]([[ブリュッセル]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1958-59|1958-59]]
|{{Fbaicon|ESP|1945}} '''[[レアル・マドリード]]'''
|'''2 - 0'''
|{{Fbaicon|FRA}} [[スタッド・ランス]]
|{{Flagicon|FRG}} [[メルセデス・ベンツ・アレーナ|ネッカー]]([[シュトゥットガルト]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1959-60|1959-60]]
|{{Fbaicon|ESP|1945}} '''[[レアル・マドリード]]'''
|'''7 - 3'''
|{{Fbaicon|FRG}} [[アイントラハト・フランクフルト|フランクフルト]]
|{{Flagicon|SCO}} [[ハムデン・パーク]]([[グラスゴー]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1960-61|1960-61]]
|{{Fbaicon|POR}} '''[[SLベンフィカ|ベンフィカ]]'''
|'''3 - 2'''
|{{Fbaicon|ESP|1945}} [[FCバルセロナ|バルセロナ]]
|{{Flagicon|SUI}} [[バンクドルフ・スタジアム|バンクドルフ]]([[ベルン]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1961-62|1961-62]]
|{{Fbaicon|POR}} '''[[SLベンフィカ|ベンフィカ]]'''
|'''5 - 3'''
|{{Fbaicon|ESP|1945}} [[レアル・マドリード]]
|{{Flagicon|NED}} [[オリンピスフ・スタディオン (アムステルダム)|オリンピスフ]]([[アムステルダム]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1962-63|1962-63]]
|{{Fbaicon|ITA}} '''[[ACミラン|ミラン]]'''
|'''2 - 1'''
|{{Fbaicon|POR}} [[SLベンフィカ|ベンフィカ]]
|{{Flagicon|ENG}} [[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー]]([[ロンドン]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1963-64|1963-64]]
|{{Fbaicon|ITA}} '''[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]'''
|'''3 - 1'''
|{{Fbaicon|ESP|1945}} [[レアル・マドリード]]
|{{Flagicon|AUT}} [[エルンスト・ハッペル・シュターディオン|プラーター]]([[ウィーン]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1964-65|1964-65]]
|{{Fbaicon|ITA}} '''[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]'''
|'''1 - 0'''
|{{Fbaicon|POR}} [[SLベンフィカ|ベンフィカ]]
|{{Flagicon|ITA}} [[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ|サン・シーロ]]([[ミラノ]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1965-66|1965-66]]
|{{Fbaicon|ESP|1945}} '''[[レアル・マドリード]]'''
|'''2 - 1'''
|{{Fbaicon|YUG|1945}} [[パルチザン・ベオグラード|パルチザン]]
|{{Flagicon|BEL}} [[ボードゥアン国王競技場|ヘイゼル]]([[ブリュッセル]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1966-67|1966-67]]
|{{Fbaicon|SCO}} '''[[セルティックFC|セルティック]]'''
|'''2 - 1'''
|{{Fbaicon|ITA}} [[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]
|{{Flagicon|POR}} [[エスタディオ・ナシオナル (リスボン)|ナシオナル]]([[リスボン]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1967-68|1967-68]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズカップ 1967-68 決勝|'''4 - 1''']]''' [[延長戦|aet]]
|{{Fbaicon|POR}} [[SLベンフィカ|ベンフィカ]]
|{{Flagicon|ENG}} [[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー]]([[ロンドン]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1968-69|1968-69]]
|{{Fbaicon|ITA}} '''[[ACミラン|ミラン]]'''
|'''4 - 1'''
|{{Fbaicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]
|{{Flagicon|ESP1945}} [[エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ|サンティアゴ・ベルナベウ]]([[マドリード]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1969-70|1969-70]]
|{{Fbaicon|NED}} '''[[フェイエノールト]]'''
|'''2 - 1''' [[延長戦|aet]]
|{{Fbaicon|SCO}} [[セルティックFC|セルティック]]
|{{Flagicon|ITA}} [[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ|サン・シーロ]]([[ミラノ]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1970-71|1970-71]]
|{{Fbaicon|NED}} '''[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]'''
|'''2 - 0'''
|{{Fbaicon|GRE|1970}} [[パナシナイコスFC|パナシナイコス]]
|{{Flagicon|ENG}} [[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー]]([[ロンドン]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1971-72|1971-72]]
|{{Fbaicon|NED}} '''[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]'''
|'''2 - 0'''
|{{Fbaicon|ITA}} [[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]
|{{Flagicon|NED}} [[フェイエノールト・スタディオン|デ・カイプ]]([[ロッテルダム]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1972-73|1972-73]]
|{{Fbaicon|NED}} '''[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]'''
|'''1 - 0'''
|{{Fbaicon|ITA}} [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]
|{{Flagicon|YUG1945}} [[スタディオン・ツルヴェナ・ズヴェズダ|マラカナ]]([[ベオグラード]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1973-74|1973-74]]
|{{Fbaicon|FRG}} '''[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]'''
|'''1 - 1''' [[延長戦|aet]]<br />'''4 - 0''' [[再試合|R]]
|{{Fbaicon|ESP|1945}} [[アトレティコ・マドリード]]
|{{Flagicon|BEL}} [[ボードゥアン国王競技場|ヘイゼル]]([[ブリュッセル]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1974-75|1974-75]]
|{{Fbaicon|FRG}} '''[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズカップ 1974-75 決勝|2 - 0]]'''
|{{Fbaicon|ENG}} [[リーズ・ユナイテッドFC|リーズ・ユナイテッド]]
|{{Flagicon|FRA}} [[パルク・デ・プランス]]([[パリ]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1975-76|1975-76]]
|{{Fbaicon|FRG}} '''[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズカップ 1975-76 決勝|1 - 0]]'''
|{{Fbaicon|FRA}} [[ASサンテティエンヌ|サンテティエンヌ]]
|{{Flagicon|SCO}} [[ハムデン・パーク]]([[グラスゴー]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1976-77|1976-77]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[リヴァプールFC|リヴァプール]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズカップ 1976-77 決勝|3 - 1]]'''
|{{Fbaicon|FRG}} [[ボルシア・メンヒェングラートバッハ|ボルシアMG]]
|{{Flagicon|ITA}} [[スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ|オリンピコ]]([[ローマ]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1977-78|1977-78]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[リヴァプールFC|リヴァプール]]'''
|'''1 - 0'''
|{{Fbaicon|BEL}} [[クラブ・ブルッヘ]]
|{{Flagicon|ENG}} [[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー]]([[ロンドン]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1978-79|1978-79]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[ノッティンガム・フォレストFC|ノッティンガム・フォレスト]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズカップ 1978-79 決勝|1 - 0]]'''
|{{Fbaicon|SWE}} [[マルメFF|マルメ]]
|{{Flagicon|FRG}} [[ミュンヘン・オリンピアシュタディオン|ミュンヘン・オリンピア]]([[ミュンヘン]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1979-80|1979-80]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[ノッティンガム・フォレストFC|ノッティンガム・フォレスト]]'''
|'''1 - 0'''
|{{Fbaicon|FRG}} [[ハンブルガーSV]]
|{{Flagicon|ESP1977}} [[エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ|サンティアゴ・ベルナベウ]]([[マドリード]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1980-81|1980-81]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[リヴァプールFC|リヴァプール]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズカップ 1980-81 決勝|1 - 0]]'''
|{{Fbaicon|ESP|1977}} [[レアル・マドリード]]
|{{Flagicon|FRA}} [[パルク・デ・プランス]]([[パリ]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1981-82|1981-82]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[アストン・ヴィラFC|アストン・ヴィラ]]'''
|'''1 - 0'''
|{{Fbaicon|FRG}} [[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]
|{{Flagicon|NED}} [[フェイエノールト・スタディオン|デ・カイプ]]([[ロッテルダム]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1982-83|1982-83]]
|{{Fbaicon|FRG}} '''[[ハンブルガーSV]]'''
|'''1 - 0'''
|{{Fbaicon|ITA}} [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]
|{{Flagicon|GRE}} [[アテネ・オリンピックスタジアム|アテネ・オリンピック]]([[アテネ]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1983-84|1983-84]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[リヴァプールFC|リヴァプール]]'''
|'''1 - 1''' [[延長戦|aet]]<br /><small>([[PK戦|PK]] 4 - 2)</small>
|{{Fbaicon|ITA}} [[ASローマ|ローマ]]
|{{Flagicon|ITA}} [[スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ|オリンピコ]]([[ローマ]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1984-85|1984-85]]
|{{Fbaicon|ITA}} '''[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]'''
|'''[[ヘイゼルの悲劇|1 - 0]]'''<ref group="注">[[ヘイゼルの悲劇]]を参照。</ref>
|{{Fbaicon|ENG}} [[リヴァプールFC|リヴァプール]]
|{{Flagicon|BEL}} [[ボードゥアン国王競技場|ヘイゼル]]([[ブリュッセル]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1985-86|1985-86]]
|{{Fbaicon|ROM|1965}} '''[[FCステアウア・ブカレスト|ステアウア・ブカレスト]]'''
|'''0 - 0''' [[延長戦|aet]]<br /><small>([[PK戦|PK]] 2 - 0)</small>
|{{Fbaicon|ESP}} [[FCバルセロナ|バルセロナ]]
|{{Flagicon|ESP}} [[エスタディオ・ラモン・サンチェス・ピスフアン|ラモン・サンチェス・ピスフアン]]([[セビリア]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1986-87|1986-87]]
|{{Fbaicon|POR}} '''[[FCポルト|ポルト]]'''
|'''2 - 1'''
|{{Fbaicon|FRG}} [[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]
|{{Flagicon|AUT}} [[エルンスト・ハッペル・シュターディオン|プラーター]]([[ウィーン]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1987-88|1987-88]]
|{{Fbaicon|NED}} '''[[PSVアイントホーフェン|PSV]]'''
|'''0 - 0''' [[延長戦|aet]]<br /><small>([[PK戦|PK]] 6 - 5)</small>
|{{Fbaicon|POR}} [[SLベンフィカ|ベンフィカ]]
|{{Flagicon|FRG}} [[メルセデス・ベンツ・アレーナ|ネッカー]]([[シュトゥットガルト]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1988-89|1988-89]]
|{{Fbaicon|ITA}} '''[[ACミラン|ミラン]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズカップ 1988-89 決勝|4 - 0]]'''
|{{Fbaicon|ROM|1965}} [[FCステアウア・ブカレスト|ステアウア・ブカレスト]]
|{{Flagicon|ESP}} [[カンプ・ノウ]]([[バルセロナ]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1989-90|1989-90]]
|{{Fbaicon|ITA}} '''[[ACミラン|ミラン]]'''
|'''1 - 0'''
|{{Fbaicon|POR}} [[SLベンフィカ|ベンフィカ]]
|{{Flagicon|AUT}} [[エルンスト・ハッペル・シュターディオン|プラーター]]([[ウィーン]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1990-91|1990-91]]
|{{Fbaicon|YUG|1945}} '''[[レッドスター・ベオグラード|レッドスター]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズカップ 1990-91 決勝|0 - 0]]''' [[延長戦|aet]]<br /><small>([[PK戦|PK]] 5 - 3)</small>
|{{Fbaicon|FRA}} [[オリンピック・マルセイユ|マルセイユ]]
|{{Flagicon|ITA}} [[スタディオ・サン・ニコラ|サン・ニコラ]]([[バーリ]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズカップ 1991-92|1991-92]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[FCバルセロナ|バルセロナ]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズカップ 1991-92 決勝|1 - 0]]''' [[延長戦|aet]]
|{{Fbaicon|ITA}} [[UCサンプドリア|サンプドリア]]
|{{Flagicon|ENG}} [[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー]]([[ロンドン]])
|-
!colspan="5"|UEFAチャンピオンズリーグ
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 1992-93|1992-93]]
|{{Fbaicon|FRA}} '''[[オリンピック・マルセイユ|マルセイユ]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 1992-93 決勝|1 - 0]]'''<ref group="注">[[オリンピック・マルセイユ|マルセイユ]]は[[八百長]]事件発覚のため、タイトルそのものは剥奪されなかったものの、チャンピオンとして活動する権利を失った。</ref>
|{{Fbaicon|ITA}} [[ACミラン|ミラン]]
|{{Flagicon|GER}} [[ミュンヘン・オリンピアシュタディオン|ミュンヘン・オリンピア]]([[ミュンヘン]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 1993-94|1993-94]]
|{{Fbaicon|ITA}} '''[[ACミラン|ミラン]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 1993-94 決勝|4 - 0]]'''
|{{Fbaicon|ESP}} [[FCバルセロナ|バルセロナ]]
|{{Flagicon|GRE}} [[アテネ・オリンピックスタジアム|アテネ・オリンピック]]([[アテネ]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 1994-95|1994-95]]
|{{Fbaicon|NED}} '''[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 1994-95 決勝|1 - 0]]'''
|{{Fbaicon|ITA}} [[ACミラン|ミラン]]
|{{Flagicon|AUT}} [[エルンスト・ハッペル・シュターディオン|エルンスト・ハッペル]]([[ウィーン]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 1995-96|1995-96]]
|{{Fbaicon|ITA}} '''[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]'''
|'''1 - 1''' [[延長戦|aet]]<br /><small>([[PK戦|PK]] 4 - 2)</small>
|{{Fbaicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]
|{{Flagicon|ITA}} [[スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ|オリンピコ]]([[ローマ]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 1996-97|1996-97]]
|{{Fbaicon|GER}} '''[[ボルシア・ドルトムント]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 1996-97 決勝|3 - 1]]'''
|{{Fbaicon|ITA}} [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]
|{{Flagicon|GER}} [[ミュンヘン・オリンピアシュタディオン|ミュンヘン・オリンピア]]([[ミュンヘン]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 1997-98|1997-98]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[レアル・マドリード]]'''
|'''1 - 0'''
|{{Fbaicon|ITA}} [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]
|{{Flagicon|NED}} [[ヨハン・クライフ・アレナ|アムステルダム・アレナ]]([[アムステルダム]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 1998-99|1998-99]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 1998-99 決勝|2 - 1]]'''
|{{Fbaicon|GER}} [[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]
|{{Flagicon|ESP}} [[カンプ・ノウ]]([[バルセロナ]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 1999-2000|1999-00]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[レアル・マドリード]]'''
|'''3 - 0'''
|{{Fbaicon|ESP}} [[バレンシアCF|バレンシア]]
|{{Flagicon|FRA}} [[スタッド・ド・フランス]]([[サン=ドニ]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2000-01|2000-01]]
|{{Fbaicon|GER}} '''[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2000-01 決勝|1 - 1]]''' [[延長戦|aet]]<br /><small>([[PK戦|PK]] 5 - 4)</small>
|{{Fbaicon|ESP}} [[バレンシアCF|バレンシア]]
|{{Flagicon|ITA}} [[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ|サン・シーロ]]([[ミラノ]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2001-02|2001-02]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[レアル・マドリード]]'''
|'''2 - 1'''
|{{Fbaicon|GER}} [[バイエル・レバークーゼン]]
|{{Flagicon|SCO}} [[ハムデン・パーク]]([[グラスゴー]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2002-03|2002-03]]
|{{Fbaicon|ITA}} '''[[ACミラン|ミラン]]'''
|'''0 - 0''' [[延長戦|aet]]<br /><small>([[PK戦|PK]] 3 - 2)</small>
|{{Fbaicon|ITA}} [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]
|{{Flagicon|ENG}} [[オールド・トラッフォード]]([[マンチェスター]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2003-04|2003-04]]
|{{Fbaicon|POR}} '''[[FCポルト|ポルト]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2003-04 決勝|3 - 0]]'''
|{{Fbaicon|FRA}} [[ASモナコ|モナコ]]
|{{Flagicon|GER}} [[フェルティンス・アレーナ|アレーナ・アウフシャルケ]]([[ゲルゼンキルヒェン]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2004-05|2004-05]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[リヴァプールFC|リヴァプール]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2004-05 決勝|3 - 3]]''' [[延長戦|aet]]<br /><small>([[PK戦|PK]] 3 - 2)</small>
|{{Fbaicon|ITA}} [[ACミラン|ミラン]]
|{{Flagicon|TUR}} [[アタテュルク・オリンピヤト・スタドゥ|アタテュルク・オリンピヤト]]([[イスタンブール]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2005-06|2005-06]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[FCバルセロナ|バルセロナ]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2005-06 決勝|2 - 1]]'''
|{{Fbaicon|ENG}} [[アーセナルFC|アーセナル]]
|{{Flagicon|FRA}} [[スタッド・ド・フランス]]([[サン=ドニ]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2006-07|2006-07]]
|{{Fbaicon|ITA}} '''[[ACミラン|ミラン]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2006-07 決勝|2 - 1]]'''
|{{Fbaicon|ENG}} [[リヴァプールFC|リヴァプール]]
|{{Flagicon|GRE}} [[アテネ・オリンピックスタジアム|アテネ・オリンピック]]([[アテネ]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2007-08|2007-08]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2007-08 決勝|1 - 1]]''' [[延長戦|aet]]<br /><small>([[PK戦|PK]] 6 - 5)</small>
|{{Fbaicon|ENG}} [[チェルシーFC|チェルシー]]
|{{Flagicon|RUS}} [[ルジニキ・スタジアム|ルジニキ]]([[モスクワ]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2008-09|2008-09]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[FCバルセロナ|バルセロナ]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2008-09 決勝|2 - 0]]'''
|{{Fbaicon|ENG}} [[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]
|{{Flagicon|ITA}} [[スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ|オリンピコ]]([[ローマ]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2009-10|2009-10]]
|{{Fbaicon|ITA}} '''[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2009-10 決勝|2 - 0]]'''
|{{Fbaicon|GER}} [[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]
|{{Flagicon|ESP}} [[エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ|サンティアゴ・ベルナベウ]]([[マドリード]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2010-11|2010-11]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[FCバルセロナ|バルセロナ]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2010-11 決勝|3 - 1]]'''
|{{Fbaicon|ENG}} [[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]
|{{Flagicon|ENG}} [[ウェンブリー・スタジアム|ウェンブリー]]([[ロンドン]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2011-12|2011-12]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[チェルシーFC|チェルシー]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2011-12 決勝|1 - 1]]''' [[延長戦|aet]]<br /><small>([[PK戦|PK]] 4 - 3)</small>
|{{Fbaicon|GER}} [[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]
|{{Flagicon|GER}} [[アリアンツ・アレーナ|フースバル・アレーナ・ミュンヘン]]([[ミュンヘン]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2012-13|2012-13]]
|{{Fbaicon|GER}} '''[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2012-13 決勝|2 - 1]]'''
|{{Fbaicon|GER}} [[ボルシア・ドルトムント]]
|{{Flagicon|ENG}} [[ウェンブリー・スタジアム|ウェンブリー]]([[ロンドン]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2013-14|2013-14]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[レアル・マドリード]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2013-14 決勝|4 - 1]]''' [[延長戦|aet]]
|{{Fbaicon|ESP}} [[アトレティコ・マドリード]]
|{{Flagicon|POR}} [[エスタディオ・ダ・ルス|ダ・ルス]]([[リスボン]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2014-15|2014-15]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[FCバルセロナ|バルセロナ]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2014-15 決勝|3 - 1]]'''
|{{Fbaicon|ITA}} [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]
|{{Flagicon|GER}} [[ベルリン・オリンピアシュタディオン|ベルリン・オリンピア]]([[ベルリン]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2015-16|2015-16]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[レアル・マドリード]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2015-16 決勝|1 - 1]]''' [[延長戦|aet]]<br /><small>([[PK戦|PK]] 5 - 3)</small>
|{{Fbaicon|ESP}} [[アトレティコ・マドリード]]
|{{Flagicon|ITA}} [[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ|サン・シーロ]]([[ミラノ]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2016-17|2016-17]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[レアル・マドリード]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2016-17 決勝|4 - 1]]'''
|{{Fbaicon|ITA}} [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]
|{{Flagicon|WAL}} [[ミレニアム・スタジアム|ミレニアム]]([[カーディフ]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2017-18|2017-18]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[レアル・マドリード]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2017-18 決勝|3 - 1]]'''
|{{Fbaicon|ENG}} [[リヴァプールFC|リヴァプール]]
|{{Flagicon|UKR}} [[オリンピスキ・スタジアム|オリンピスキ]]([[キエフ]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2018-19|2018-19]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[リヴァプールFC|リヴァプール]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2018-19 決勝|2 - 0]]'''
|{{Fbaicon|ENG}} [[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム・ホットスパー]]
|{{Flagicon|ESP}} [[エスタディオ・メトロポリターノ|メトロポリターノ]]([[マドリード]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2019-20|2019-20]]
|{{Fbaicon|GER}} '''[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2019-20 決勝|1 - 0]]'''
|{{Fbaicon|FRA}} [[パリ・サンジェルマンFC|パリ・サンジェルマン]]
|{{Flagicon|POR}} [[エスタディオ・ダ・ルス|ダ・ルス]]([[リスボン]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2020-21|2020-21]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[チェルシーFC|チェルシー]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2020-21 決勝|1 - 0]]'''
|{{Fbaicon|ENG}} [[マンチェスター・シティFC|マンチェスター・シティ]]
|{{Flagicon|POR}} [[エスタディオ・ド・ドラゴン|ド・ドラゴン]]([[ポルト]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2021-22|2021-22]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[レアル・マドリード]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2021-22 決勝|1 - 0]]'''
|{{Fbaicon|ENG}} [[リヴァプールFC|リヴァプール]]
|{{Flagicon|FRA}} [[スタッド・ド・フランス]]([[サン=ドニ]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2022-23|2022-23]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[マンチェスター・シティFC|マンチェスター・シティ]]'''
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2022-23 決勝|1 - 0]]'''
|{{Fbaicon|ITA}} [[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]
|{{Flagicon|TUR}} [[アタテュルク・オリンピヤト・スタドゥ|アタテュルク・オリンピヤト]]([[イスタンブール]])
|-
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2023-24|2023-24]]
|{{Fbaicon|}}
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2023-24 決勝|-]]'''
|{{Fbaicon|}}
|{{Flagicon|ENG}} [[ウェンブリー・スタジアム|ウェンブリー]]([[ロンドン]])
|- bgcolor="#D0E7FF"
|[[UEFAチャンピオンズリーグ 2024-25|2024-25]]
|{{Fbaicon|}}
|'''[[UEFAチャンピオンズリーグ 2024-25 決勝|-]]'''
|{{Fbaicon|}}
|{{Flagicon|GER}} [[アリアンツ・アレーナ|フースバル・アレーナ・ミュンヘン]]([[ミュンヘン]])
|}
== 統計 ==
=== クラブ別成績 ===
{| class="sortable wikitable" style="font-size:smaller"
!class="unsortable"|クラブ名!!{{Abbr|優|優勝回数}}!!{{Abbr|準|準優勝回数}}!!優勝年度!!準優勝年度
|-
|{{Fbaicon|ESP}} [[レアル・マドリード]]||style="text-align:right"|'''14'''||style="text-align:right"|3||1956,1957,1958,1959,1960,1966,1998,2000,2002,2014,<br>2016,2017,2018,2022||1962,1964,1981
|-
|{{Fbaicon|ITA}} [[ACミラン|ミラン]]||style="text-align:right"|7||style="text-align:right"|4||1963,1969,1989,1990,1994,2003,2007||1958,1993,1995,2005
|-
|{{Fbaicon|GER}} [[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]||style="text-align:right"|6||style="text-align:right"|5||1974,1975,1976,2001,2013,2020||1982,1987,1999,2010,2012
|-
|{{Fbaicon|ENG}} [[リヴァプールFC|リヴァプール]]||style="text-align:right"|6||style="text-align:right"|4||1977,1978,1981,1984,2005,2019||1985,2007,2018,2022
|-
|{{Fbaicon|ESP}} [[FCバルセロナ|バルセロナ]]||style="text-align:right"|5||style="text-align:right"|3||1992,2006,2009,2011,2015||1961,1986,1994
|-
|{{Fbaicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]||style="text-align:right"|4||style="text-align:right"|2||1971,1972,1973,1995||1969,1996
|-
|{{Fbaicon|ITA}} [[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]||style="text-align:right"|3||style="text-align:right"|3||1964,1965,2010||1967,1972,2023
|-
|{{Fbaicon|ENG}} [[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]||style="text-align:right"|3||style="text-align:right"|2||1968,1999,2008||2009,2011
|-
|{{Fbaicon|ITA}} [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]||style="text-align:right"|2||style="text-align:right"|'''7'''||1985,1996||1973,1983,1997,1998,2003,2015,2017
|-
|{{Fbaicon|POR}} [[SLベンフィカ|ベンフィカ]]||style="text-align:right"|2||style="text-align:right"|5||1961,1962||1963,1965,1968,1988,1990
|-
|{{Fbaicon|ENG}} [[チェルシーFC|チェルシー]]||style="text-align:right"|2||style="text-align:right"|1||2012,2021||2008
|-
|{{Fbaicon|ENG}} [[ノッティンガム・フォレストFC|ノッティンガム・フォレスト]]||style="text-align:right"|2||style="text-align:right"|0||1979,1980||
|-
|{{Fbaicon|POR}} [[FCポルト|ポルト]]||style="text-align:right"|2||style="text-align:right"|0||1987,2004||
|-
|{{Fbaicon|SCO}} [[セルティックFC|セルティック]]||style="text-align:right"|1||style="text-align:right"|1||1967||1970
|-
|{{Fbaicon|GER}} [[ハンブルガーSV]]||style="text-align:right"|1||style="text-align:right"|1||1983||1980
|-
|{{Fbaicon|ROM}} [[FCステアウア・ブカレスト|ステアウア・ブカレスト]]||style="text-align:right"|1||style="text-align:right"|1||1986||1989
|-
|{{Fbaicon|FRA}} [[オリンピック・マルセイユ|マルセイユ]]||style="text-align:right"|1||style="text-align:right"|1||1993||1991
|-
|{{Fbaicon|GER}} [[ボルシア・ドルトムント]]||style="text-align:right"|1||style="text-align:right"|1||1997||2013
|-
|{{Fbaicon|ENG}} [[マンチェスター・シティFC|マンチェスター・シティ]]||style="text-align:right"|1||style="text-align:right"|1||2023||2021
|-
|{{Fbaicon|NED}} [[フェイエノールト]]||style="text-align:right"|1||style="text-align:right"|0||1970||
|-
|{{Fbaicon|ENG}} [[アストン・ヴィラFC|アストン・ヴィラ]]||style="text-align:right"|1||style="text-align:right"|0||1982||
|-
|{{Fbaicon|NED}} [[PSVアイントホーフェン|PSV]]||style="text-align:right"|1||style="text-align:right"|0||1988||
|-
|{{Fbaicon|SRB}} [[レッドスター・ベオグラード|レッドスター]]||style="text-align:right"|1||style="text-align:right"|0||1991||
|-
|{{Fbaicon|ESP}} [[アトレティコ・マドリード]]||style="text-align:right"|0||style="text-align:right"|3||||1974,2014,2016
|-
|{{Fbaicon|FRA}} [[スタッド・ランス]]||style="text-align:right"|0||style="text-align:right"|2||||1956,1959
|-
|{{Fbaicon|ESP}} [[バレンシアCF|バレンシア]]||style="text-align:right"|0||style="text-align:right"|2||||2000,2001
|-
|{{Fbaicon|ITA}} [[ACFフィオレンティーナ|フィオレンティーナ]]||style="text-align:right"|0||style="text-align:right"|1||||1957
|-
|{{Fbaicon|GER}} [[アイントラハト・フランクフルト|フランクフルト]]||style="text-align:right"|0||style="text-align:right"|1||||1960
|-
|{{Fbaicon|SRB}} [[パルチザン・ベオグラード|パルチザン]]||style="text-align:right"|0||style="text-align:right"|1||||1966
|-
|{{Fbaicon|GRE}} [[パナシナイコスFC|パナシナイコス]]||style="text-align:right"|0||style="text-align:right"|1||||1971
|-
|{{Fbaicon|ENG}} [[リーズ・ユナイテッドFC|リーズ・ユナイテッド]]||style="text-align:right"|0||style="text-align:right"|1||||1975
|-
|{{Fbaicon|FRA}} [[ASサンテティエンヌ|サンテティエンヌ]]||style="text-align:right"|0||style="text-align:right"|1||||1976
|-
|{{Fbaicon|GER}} [[ボルシア・メンヒェングラートバッハ|ボルシアMG]]||style="text-align:right"|0||style="text-align:right"|1||||1977
|-
|{{Fbaicon|BEL}} [[クラブ・ブルッヘ]]||style="text-align:right"|0||style="text-align:right"|1||||1978
|-
|{{Fbaicon|SWE}} [[マルメFF|マルメ]]||style="text-align:right"|0||style="text-align:right"|1||||1979
|-
|{{Fbaicon|ITA}} [[ASローマ|ローマ]]||style="text-align:right"|0||style="text-align:right"|1||||1984
|-
|{{Fbaicon|ITA}} [[UCサンプドリア|サンプドリア]]||style="text-align:right"|0||style="text-align:right"|1||||1992
|-
|{{Fbaicon|GER}} [[バイエル・レバークーゼン]]||style="text-align:right"|0||style="text-align:right"|1||||2002
|-
|{{Fbaicon|FRA}} [[ASモナコ|モナコ]]||style="text-align:right"|0||style="text-align:right"|1||||2004
|-
|{{Fbaicon|ENG}} [[アーセナルFC|アーセナル]]||style="text-align:right"|0||style="text-align:right"|1||||2006
|-
|{{Fbaicon|ENG}} [[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム・ホットスパー]]||style="text-align:right"|0||style="text-align:right"|1||||2019
|-
|{{Fbaicon|FRA}} [[パリ・サンジェルマンFC|パリ・サンジェルマン]]||style="text-align:right"|0||style="text-align:right"|1||||2020
|}
注1:前身のチャンピオンズカップ時代も含む。<br />
注2:優勝年度及び準優勝年度は、優勝が決定した年を並べている。例えば、1955-56年度王者は1956年としている。
=== クラブ所在国別成績 ===
{| class="sortable wikitable" style="font-size:smaller; text-align:right"
!class="unsortable"|国・地域名!!{{Abbr|優|優勝回数}}!!{{Abbr|準|準優勝回数}}
|-
|style="text-align:left"|{{Fba|ESP}}||'''19'''||11
|-
|style="text-align:left"|{{Fba|ENG}}||15||11
|-
|style="text-align:left"|{{Fba|ITA}}||12||'''17'''
|-
|style="text-align:left"|{{Fba|GER}}||8||10
|-
|style="text-align:left"|{{Fba|NED}}||6||2
|-
|style="text-align:left"|{{Fba|POR}}||4||5
|-
|style="text-align:left"|{{Fba|FRA}}||1||6
|-
|style="text-align:left"|{{Fba|SCO}}||1||1
|-
|style="text-align:left"|{{Fba|ROM}}||1||1
|-
|style="text-align:left"|{{Fba|SRB}}||1||1
|-
|style="text-align:left"|{{Fba|GRE}}||0||1
|-
|style="text-align:left"|{{Fba|BEL}}||0||1
|-
|style="text-align:left"|{{Fba|SWE}}||0||1
|}
注:前身のチャンピオンズカップ時代も含む。
=== 大会連覇記録 ===
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!クラブ名!!数!!達成年
|-
|{{Fbaicon|ESP|1945}} [[レアル・マドリード]]||style="text-align:center"|5||1956,1957,1958,1959,1960
|-
|{{Fbaicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]||rowspan=3 style="text-align:center"|3||1971,1972,1973
|-
|{{Fbaicon|FRG}} [[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]||1974,1975,1976
|-
|{{Fbaicon|ESP}} [[レアル・マドリード]]||2016,2017,2018
|-
|{{Fbaicon|POR}} [[SLベンフィカ|ベンフィカ]]||rowspan=5 style="text-align:center"|2||1961,1962
|-
|{{Fbaicon|ITA}} [[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]||1964,1965
|-
|{{Fbaicon|ENG}} [[リヴァプールFC|リヴァプール]]||1977,1978
|-
|{{Fbaicon|ENG}} [[ノッティンガム・フォレストFC|ノッティンガム・フォレスト]]||1979,1980
|-
|{{Fbaicon|ITA}} [[ACミラン|ミラン]]||1989,1990
|}
注1:前身のチャンピオンズカップ時代も含む。<br />
注2:優勝年度は、優勝が決定した年を並べている。例えば、1955-56年度王者は1956年としている。
== 個人成績 ==
=== 得点数ランキング ===
{{Main|{{仮リンク|UEFAチャンピオンズリーグ得点王の一覧|en|List of UEFA Champions League top scorers}}}}
2023年11月29日時点(予選は含まない)
{| class="sortable wikitable" style="font-size:smaller; white-space:nowrap;"
! !!選手!!国籍!!得点!!試合!!得点率!!期間!!所属クラブ
|-
|style="text-align:center"|1
|[[クリスティアーノ・ロナウド]]
|{{PRT}}
|style="text-align:center"|140
|style="text-align:center"|183
|style="text-align:center"|{{#expr:140/183 round 2}}
|2003-2022
|[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・U]] (21) [[レアル・マドリード]] (105) [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]] (14)
|-
|style="text-align:center"|2
|[[リオネル・メッシ]]
|{{ARG}}
|style="text-align:center"|129
|style="text-align:center"|163
|style="text-align:center"|{{#expr:129/163 round 2}}
|2005-2023
|[[FCバルセロナ|バルセロナ]] (120) [[パリ・サンジェルマンFC|PSG]] (9)
|-
|style="text-align:center"|3
|'''[[ロベルト・レヴァンドフスキ]]'''
|{{POL}}
|style="text-align:center"|92
|style="text-align:center"|115
|style="text-align:center"|{{#expr:92/114 round 2}}
|2011-
|[[ボルシア・ドルトムント|ドルトムント]] (17) [[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン]] (69) [[FCバルセロナ|バルセロナ]] (6)
|-
|style="text-align:center"|4
|[[カリム・ベンゼマ]]
|{{FRA}}
|style="text-align:center"|90
|style="text-align:center"|152
|style="text-align:center"|{{#expr:90/152 round 2}}
|2006-2023
|[[オリンピック・リヨン|リヨン]] (12) [[レアル・マドリード]] (78)
|-
|style="text-align:center"|5
|[[ラウール・ゴンサレス]]
|{{ESP}}
|style="text-align:center"|71
|style="text-align:center"|142
|style="text-align:center"|{{#expr:71/142 round 2}}0
|1995-2011
|[[レアル・マドリード]] (66) [[シャルケ04]] (5)
|-
|style="text-align:center"|6
|[[ルート・ファン・ニステルローイ]]
|{{NLD}}
|style="text-align:center"|56
|style="text-align:center"|73
|style="text-align:center"|{{#expr:56/73 round 2}}
|1998-2009
|[[PSVアイントホーフェン|PSV]] (8) [[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・U]] (35) [[レアル・マドリード]] (13)
|-
|style="text-align:center"|7
|'''[[トーマス・ミュラー]]'''
|{{DEU}}
|style="text-align:center"|53
|style="text-align:center"|146
|style="text-align:center"|{{#expr:53/145 round 2}}
|2008-
|[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン]]
|-
|style="text-align:center"|8
|[[ティエリ・アンリ]]
|{{FRA}}
|style="text-align:center"|50
|style="text-align:center"|112
|style="text-align:center"|{{#expr:50/112 round 2}}
|1997-2012
|[[ASモナコ|モナコ]] (7) [[アーセナルFC|アーセナル]] (35) [[FCバルセロナ|バルセロナ]] (8)
|-
|style="text-align:center"|9
|[[アルフレッド・ディ・ステファノ]]
|{{ESP}}
|style="text-align:center"|49
|style="text-align:center"|58
|style="text-align:center"|{{#expr:49/58 round 2}}
|1955-1964
|[[レアル・マドリード]]
|-
|rowspan=2 style="text-align:center"|10
|[[アンドリー・シェフチェンコ]]
|{{UKR}}
|rowspan=2 style="text-align:center"|48
|style="text-align:center"|100
|style="text-align:center"|{{#expr:48/100 round 2}}
|1994-2012
|[[FCディナモ・キエフ|ディナモ・キエフ]] (15) [[ACミラン|ミラン]] (29) [[チェルシーFC|チェルシー]] (4)
|-
|[[ズラタン・イブラヒモヴィッチ]]
|{{SWE}}
|style="text-align:center"|124
|style="text-align:center"|{{#expr:48/124 round 2}}
|2001-2021
|[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]] (6) [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]] (3) [[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]] (6) [[FCバルセロナ|バルセロナ]] (4) [[ACミラン|ミラン]] (9) [[パリ・サンジェルマンFC|PSG]] (20)
|-
|rowspan=2 style="text-align:center"|12
|[[エウゼビオ]]
|{{PRT}}
|rowspan=2 style="text-align:center"|46
|style="text-align:center"|65
|style="text-align:center"|{{#expr:46/65 round 2}}
|1961-1974
|[[SLベンフィカ|ベンフィカ]]
|-
|[[フィリッポ・インザーギ]]
|{{ITA}}
|style="text-align:center"|81
|style="text-align:center"|{{#expr:46/81 round 2}}
|1997-2012
|[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]] (17) [[ACミラン|ミラン]] (29)
|-
| rowspan="2" style="text-align:center" |14
| [[モハメド・サラー]]
|{{EGY}}
| rowspan="2" style="text-align:center" |44
|style="text-align:center"|79
|style="text-align:center"|{{#expr:44/79 round 2}}
|2013-
|[[FCバーゼル|バーゼル]] (2) [[ASローマ|ローマ]] (1) [[リヴァプールFC|リヴァプール]] (41)
|-
|[[ディディエ・ドログバ]]
|{{CIV}}
|style="text-align:center"|92
|style="text-align:center"|{{#expr:44/92 round 2}}
|2003-2015
|[[オリンピック・マルセイユ|マルセイユ]] (5) [[チェルシーFC|チェルシー]] (36) [[ガラタサライSK (サッカー)|ガラタサライ]] (3)
|-
| style="text-align:center" |16
|'''[[キリアン・エムバペ]]'''
|{{FRA}}
| style="text-align:center" |43
| style="text-align:center" |66
| style="text-align:center" |{{#expr:42/65 round 2}}
|2016-
|[[ASモナコ|モナコ]] (6) [[パリ・サンジェルマンFC|PSG]] (37)
|-
| style="text-align:center" |17
|[[ネイマール]]
|{{BRA}}
| style="text-align:center" |43
| style="text-align:center" |81
| style="text-align:center" |{{#expr:43/81 round 2}}
|2013-2023
|[[FCバルセロナ|バルセロナ]] (21) [[パリ・サンジェルマンFC|PSG]] (22)
|-
|style="text-align:center"|18
|[[アレッサンドロ・デル・ピエロ]]
|{{ITA}}
|style="text-align:center"|42
|style="text-align:center"|89
|style="text-align:center"|{{#expr:42/89 round 2}}
|1995-2009
|[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]
|-
|style="text-align:center"|19
|[[セルヒオ・アグエロ]]
|{{ARG}}
|style="text-align:center"|41
|style="text-align:center"|79
|style="text-align:center"|{{#expr:41/79 round 2}}
|2008-2021
|[[アトレティコ・マドリード]] (5) [[マンチェスター・シティFC|マンチェスター・C]] (36)
|-
|style="text-align:center"|20
|'''[[アーリング・ハーランド]]'''
|{{NOR}}
|style="text-align:center"|40
|style="text-align:center"|35
|style="text-align:center"|{{#expr:39/34 round 2}}
|2019-
|[[レッドブル・ザルツブルク|ザルツブルク]] (8) [[ボルシア・ドルトムント|ドルトムント]] (15) [[マンチェスター・シティFC|マンチェスター・C]] (15)
|}
=== 出場数ランキング ===
{{Main|{{仮リンク|UEFAチャンピオンズリーグに100試合以上出場したサッカー選手の一覧|en|List of footballers with 100 or more UEFA Champions League appearances}}}}
2023年11月29日時点(予選は含まない)
{| class="sortable wikitable" style="font-size:smaller; white-space:nowrap;"
! !!選手!!国籍!!試合!!期間!!所属クラブ
|-
|style="text-align:center"|1
|[[クリスティアーノ・ロナウド]]
|{{PRT}}
|style="text-align:center"|183
|2003-2022
|[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・U]] (59) [[レアル・マドリード]] (101) [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]] (23)
|-
|style="text-align:center"|2
|[[イケル・カシージャス]]
|{{ESP}}
|style="text-align:center"|177
|1999-2019
|[[レアル・マドリード]] (150) [[FCポルト|ポルト]] (27)
|-
|style="text-align:center"|3
|[[リオネル・メッシ]]
|{{ARG}}
|style="text-align:center"|163
|2005-2023
|[[FCバルセロナ|バルセロナ]] (149) [[パリ・サンジェルマンFC|PSG]] (14)
|-
|style="text-align:center"|4
|[[カリム・ベンゼマ]]
|{{FRA}}
|style="text-align:center"|152
|2004-2023
|[[オリンピック・リヨン|リヨン]](19) [[レアル・マドリード]] (133)
|-
|style="text-align:center"|5
|[[シャビ・エルナンデス]]
|{{ESP}}
|style="text-align:center"|151
|1998-2015
|[[FCバルセロナ|バルセロナ]]
|-
|style="text-align:center"|6
|'''[[トーマス・ミュラー]]'''
|{{DEU}}
|style="text-align:center"|146
|2008-
|[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン]]
|-
|style="text-align:center"|7
|'''[[トニ・クロース]]'''
|{{DEU}}
|style="text-align:center"|142
|2008-
|[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン]] (42) [[レアル・マドリード]] (98)
|-
|style="text-align:center"|8
|[[ラウル・ゴンサレス]]
|{{ESP}}
|style="text-align:center"|142
|1995-2011
|[[レアル・マドリード]] (130) [[シャルケ04]] (12)
|-
|style="text-align:center"|9
|[[ライアン・ギグス]]
|{{WAL}}
|style="text-align:center"|141
|1993-2014
|[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・U]]
|-
|style="text-align:center"|10
|'''[[セルヒオ・ラモス]]'''
|{{ESP}}
|style="text-align:center"|141
|2005-
|[[レアル・マドリード]] (129) [[パリ・サンジェルマンFC|PSG]] (8) [[セビージャFC|セビージャ]] (4)
|-
|style="text-align:center"|11
|'''[[マヌエル・ノイアー]]'''
|{{DEU}}
|style="text-align:center"|133
|2007-
|[[シャルケ04|シャルケ]] (22) [[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン]] (111)
|-
|style="text-align:center"|12
|[[アンドレス・イニエスタ]]
|{{ESP}}
|style="text-align:center"|130
|2002-2018
|[[FCバルセロナ|バルセロナ]]
|-
|style="text-align:center"|13
|[[セルヒオ・ブスケツ・ブルゴス|セルヒオ・ブスケツ]]
|{{ESP}}
|style="text-align:center"|129
|2008-2022
|[[FCバルセロナ|バルセロナ]]
|-
|style="text-align:center"|14
|[[ジェラール・ピケ]]
|{{ESP}}
|style="text-align:center"|128
|2004-2022
|[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・U]] (4) [[FCバルセロナ|バルセロナ]] (124)
|-
|style="text-align:center"|15
|[[クラレンス・セードルフ]]
|{{NLD}}
|style="text-align:center"|125
|1994-2012
|[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]] (11) [[レアル・マドリード]] (25) [[ACミラン|ミラン]] (89)
|-
|rowspan=3 style="text-align:center"|16
|[[ポール・スコールズ]]
|{{ENG}}
|rowspan=3 style="text-align:center"|124
|1994-2013
|[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・U]]
|-
|[[ジャンルイジ・ブッフォン]]
|{{ITA}}
|1997-2020
|[[パルマ・カルチョ1913|パルマ]] (6) [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]] (113) [[パリ・サンジェルマンFC|パリ・サンジェルマン]] (5)
|-
|[[ズラタン・イブラヒモビッチ]]
|{{SWE}}
|2001-2021
|[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]] (19) [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]] (19) [[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]] (22) [[FCバルセロナ|バルセロナ]] (10)[[ACミラン|ミラン]] (20) [[パリ・サンジェルマンFC|PSG]] (33) [[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・U]] (1)
|-
|style="text-align:center"|19
|'''[[ルカ・モドリッチ]]'''
|{{CRO}}
|style="text-align:center"|121
|2010-
|[[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム]] (8) [[レアル・マドリード]] (113)
|-
|style="text-align:center"|20
|[[ロベルト・カルロス]]
|{{BRA}}
|style="text-align:center"|120
|1997-2007
|[[レアル・マドリード]] (107) [[フェネルバフチェSK|フェネルバフチェ]] (13)
|}
=== 選手 ===
選手として最多の優勝経験があるのは[[フランシスコ・ヘント]]の6度([[レアル・マドリード]]:1955–56, 1956–57, 1957–58, 1958–59, 1959–60, 1965–66)。3つのクラブで優勝経験がある選手は[[クラレンス・セードルフ]]([[アヤックス]]:1994–95、[[レアル・マドリード]]:1997–98、[[ACミラン]] 2002–03, 2006–07)である。
=== 監督 ===
監督として最多となる4度の優勝経験があるのは[[カルロ・アンチェロッティ]]([[ACミラン]]:2002–03, 2006–07、[[レアル・マドリード]]:2013-14, 2021-22)で、3度の優勝経験で[[ボブ・ペイズリー]]([[リヴァプールFC|リヴァプール]]:1976-77, 1977-78, 1980-81)、[[ジネディーヌ・ジダン]](レアル・マドリード:2015-16, 2016-17, 2017-18)、[[ジョゼップ・グアルディオラ|ジョセップ・グアルディオラ]]([[FCバルセロナ]]:2008-09, 2010-11、[[マンチェスター・シティFC|マンチェスター・シティ]]:2022-23)が続く。2度の優勝経験がある監督は15名。
複数クラブでの優勝経験がある監督は[[エルンスト・ハッペル]]([[フェイエノールト]]と[[ハンブルガーSV]])、[[オットマー・ヒッツフェルト]]([[ボルシア・ドルトムント]]と[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]])、[[ジョゼ・モウリーニョ]]([[FCポルト|ポルト]]と[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]])、[[ユップ・ハインケス]](レアル・マドリードとバイエルン・ミュンヘン)、カルロ・アンチェロッティ、ジョセップ・グアルディオラの6名。
選手・監督両方での優勝経験があるのは[[ミゲル・ムニョス]]、[[ジョバンニ・トラパットーニ]]、[[ヨハン・クライフ]]、カルロ・アンチェロッティ、[[フランク・ライカールト]]、ジョゼップ・グアルディオラ、ジネディーヌ・ジダンの7名<ref>{{Cite web|url=http://www.uefa.com/footballeurope/club=50080/coach.html |title=Frank Rijkaard |publisher=[[UEFA]] |accessdate=2009-05-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080205090519/http://www.uefa.com/footballeurope/club%3D50080/coach.html |archivedate=2008-02-05 |deadurl=yes |df= }}</ref><ref>{{Cite web | url = http://www.uefa.com/footballeurope/club=50080/coach.html | title = Josep Guardiola| publisher = [[UEFA]] | accessdate = 2009-05-28}}</ref>。
== スポンサー ==
* オフィシャルスポンサー
** [[ハイネケン]](2004-05までは傘下の[[アムステルビール]]<ref group="注">[[イタリア]]では「[[ビッラ・モレッティ|Birra Moretti]]」。</ref>と[[:en:Buckler (beer)|Buckler]])
** [[ソニー・インタラクティブエンタテインメント]]([[PlayStation]])
** [[ペプシコ]]([[ペプシコーラ|ペプシ]]、[[ゲータレード]]、[[レイズ (スナック菓子)|レイズ]]<ref group="注">[[イギリス]]では「Walkers」。</ref>)
** [[フェデックス]]
** [[マスターカード]](2002年までは[[:en:Eurocard (credit card)|Eurocard]])
** [[ジャストイート・テイクアウェイドットコム]]
** [[OPPO]]<ref>{{Cite web|和書|title=UEFAがCLのグローバルスポンサーとして中国の携帯会社『OPPO』と契約 |url=https://www.all-stars.jp/news/uefa-oppo-global-sponsor/ |website=ALLSTARS CLUB |access-date=2023-05-23 |date=2022-07-19 }}</ref>
** [[ターキッシュエアラインズ]]
* ローカルスポンサー
** [[エクスペディア#エクスペディア・グループ|エクスペディアグループ]]([[エクスペディア]]、[[ホテルズドットコム]])<ref group="注">米国地域限定で、公式スポンサー契約は18/19〜21/22シーズンまで。</ref><ref>“[https://www.uefa.com/insideuefa/news/027e-17358136c9e0-61438dabc10f-1000--expedia-group-extends-uefa-champions-league-partnership/ Expedia Group extends UEFA Champions League partnership]”. UEFA.com. 2023年2月1日</ref>
* オフィシャルライセンシー
** [[アディダス]](公式試合球)
** [[ウブロ]](公式タイムキーパー)
** [[エレクトロニック・アーツ]](公式ゲーム)
** [[:en:Topps|Topps]](公式ステッカー&トレカ)
** [[:en:Socios.com|Socios.com]](公式ファントークン)<ref>“[https://www.uefa.com/returntoplay/news/0272-1473824c0479-593ea71c724a-1000--socios-com-becomes-the-official-fan-token-partner-of-uefa-club-/ Socios.com becomes the Official Fan Token Partner of UEFA Club Competitions]”. UEFA.com 2022年2月15日</ref>
== 備考 ==
=== 試合球 ===
2002-2003年大会以降は[[アディダス]]の「フィナーレ」([[:en:Adidas Finale]])が使用されている。公式ロゴの「スターボール」同様に表面に星をデザインした模様がプリントされ、その配色は大会ごとに変えられる。
=== ユニフォーム ===
大会出場全チームには、右袖に星をイメージした大会公式球をモチーフとしたロゴ(通称:スターボール)がつけられる。前シーズン優勝クラブだけは別で、紺地に公式球、また中央に○○/○○ CHAMPIONS(○○/○○には前シーズンの数字が入る)と書かれたバッジが付けられる。
また、クラブによって、選手は各国リーグ戦で用いているユニフォームとはスポンサーやデザインが異なった欧州カップ戦用ユニフォームを着用することがある。例えば[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]は、リーグ戦のユニフォームは赤であるが、チャンピオンズリーグでは異なる色がホームユニフォームの色になることがある。
青地に優勝トロフィーと優勝回数が描かれた楕円形のバッジを左袖につけているクラブが存在する。このバッジをつけることができるのは、後述のビッグイヤーの永久保持を認められたチームのみである。
=== 優勝カップ「ビッグイヤー」===
{{Main|ヨーロピアン・チャンピオン・クラブズ・カップ}}
優勝カップは'''ビッグイヤー'''と呼ばれる。優勝トロフィーの把手の形が大きく耳の形に似ていることからついたものである。現在のトロフィーは高さ73.5cm、重さ8.5kgである。初代から数えて7代目であり、現在のデザインになってからは6代目である。2015年に製作された。
それまでのトロフィーは小ぶりなものだったが1967年、5連覇を果たした[[レアル・マドリード|レアル マドリード]]にオリジナルのトロフィーが渡されたのをきっかけに、当時のUEFA事務局長ハンス・バンゲルターがデザインを一新することを決めた。現在のデザインは[[ベルン]]の鋳物職人、ユルグ・シュタデルマンが本体の鋳物作業を行い、彫刻家のフレッド・ベニンガーが仕上げを施して完成させた。製作には340時間掛かった。3連覇もしくは5回の優勝で永久保持が許されていたが、2008ー09シーズン以降はトロフィーの所有権は永久にUEFAが保有するため、この「永久保持」「新しく作り直される」ことはなくなった。
永久保持が認められたクラブ:
*{{Fbaicon|ESP}} [[レアル・マドリード]](優勝14回、5連覇)
*{{Fbaicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]] (3連覇)
*{{Fbaicon|GER}} [[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]](優勝6回、3連覇)
*{{Fbaicon|ITA}} [[ACミラン|ミラン]](優勝7回)
*{{Fbaicon|ENG}} [[リヴァプールFC|リヴァプール]](優勝6回)
*{{Fbaicon|ESP}} [[FCバルセロナ|バルセロナ]] (優勝5回)
=== 大会アンセム ===
{{Main|UEFAチャンピオンズリーグ・アンセム}}
大会がUEFAチャンピオンズリーグに変更された1992年以降はテーマ曲「'''UEFAチャンピオンズリーグ賛歌'''(UEFA Champions League Anthem)」が使われている。[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]の「[[ジョージ2世の戴冠式アンセム|司祭ザドク]](Zadok the priest)」のメロディをベースに、イギリス人トニー・ブリテンが作詞とアレンジを加え創り上げた。
[[ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団]]の演奏、[[アカデミー室内管弦楽団]]附属の合唱団の合唱をレコーディングしたものが試合開始前や、テレビ中継開始時やハーフタイムのCMに移り変わる時、終了時に流される。
UEFAの公式言語である英語、ドイツ語、フランス語によって、荘厳と熱狂とを併せ持って歌われる[[サビ]]は、そのシンプルながら美しいメロディとも相まって、これから始まる試合に対する選手やファンの興奮と期待をかき立てるのに一役買っている。なお、本賛歌のオリジナルバージョンは、二つの短いヴァースとコーラスからなる3分程の曲であるが、商業ベース(CD等)でリリースされたことは今まで無い。試合開始前やテレビ中継において流されるのは、後半の「Ils sont les meilleurs…」以下のコーラス部分をアレンジしたものである。
Ils sont les meilleurs(フランス語:彼らは最高だ)<br />
Sie sind die Besten(ドイツ語:彼らは最高だ)<br />
These are the champions(英語:彼らがチャンピオンだ)
Die Meister(ドイツ語:道を極めし者)<br />
Die Besten(ドイツ語:最高の者)<br />
Les Grandes Equipes(フランス語:偉大なチーム)<br />
The Champions(英語:それがチャンピオン)
=== ビデオゲーム ===
2009年から2018年まで[[コナミデジタルエンタテインメント]]と独占契約を結び、同社発売のサッカーゲーム「[[ウイニングイレブン]]」(海外版は[[:en:Pro Evolution Soccer|Pro Evolution Soccer]])シリーズにチャンピオンズリーグが搭載されていた<ref>{{Cite web|和書|date=2018-04-19 |url=https://automaton-media.com/articles/newsjp/20180419-66404/ |title=『ウイニングイレブン』、UEFAとのCL・ELのライセンス契約満了へ。チャンピオンズリーグのライセンスの行方は |publisher=automaton |accessdate=2022-11-20}}</ref>。2018年からは[[エレクトロニック・アーツ]]と契約を結び、[[FIFA 19]]にチャンピオンズリーグで遊べるモードが搭載された<ref>{{Cite web|和書|date=2018-06-10 |url=https://www.famitsu.com/news/201806/10158755.html |title=『FIFA19』発表! 最新作では“チャンピオンズリーグモード”を搭載【E3 2018】 |publisher=ファミ通 |accessdate=2022-11-20}}</ref>。
== テレビ中継 ==
チャンピオンズリーグの中継映像はUEFAが統括した上で、試合ごとのホスト局が中心となって制作される。これらの中継におけるスケジュールはフォーマット化されており、放映権を持つテレビ局に配信される。ホスト局は海外メディアが現地中継を行うための放送席用の機材の準備なども担当する。また、放映権を持つテレビ局は[[ミックスゾーン]]での選手インタビューを行うことができる。
=== 日本での放送 ===
優勝チームは[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]の出場権を獲得することもあって、かつては決勝のみ[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]で放送されていた。本格的に放送されるようになったのは、[[スポーツ・アイ ESPN]]([[J SPORTS|J sports 3]]の前身)で1996-97シーズンより。翌1997-98シーズンより[[WOWOW]]が放映権を獲得した。[[日本における衛星放送|BSデジタル放送]]開始から、各節最大4試合生中継(アナログでは2試合生中継、2試合録画中継)、木曜の夜に1試合録画中継したが、それ以外の試合は中断期間まで待つ必要があった。
地上波では、[[TBSテレビ|TBS]]が放映権を獲得。毎節最大2試合放送したが、全国放送ではなく、ローカルセールス枠での扱いであり後番組の時間変更ができなかったため、決勝戦でも延長・PK戦となった場合(2度)は途中で放送を打ち切らざるを得なかった。WOWOWとの契約最終年だった2003年4月にスカパー!(現・[[スカパーJSAT]])、J SKY SPORTS(現・[[J SPORTS]])、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の3社が放映権獲得を発表した。
2003-04シーズンより、[[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]]ではパーフェクト・チョイス(現[[スカチャン]])、J SPORTSで毎節8試合以上生中継を行い、決勝トーナメント以降は全試合生中継となった。録画中継となった試合でも最長で24時間以内に放送されている。スカイパーフェクTV!110(現・[[スカパー! (東経110度BS・CSデジタル放送)|スカパー!e2]])ではJ SPORTSで放送される試合以外視聴できなかったが、2004-05シーズン途中よりスカチャン!110(現・スカチャン)で放送開始。2006-07シーズンからはスカチャン!ハイビジョン(現・スカチャンHD800)、2007-08シーズンからはJ sports 4(ハイビジョン)で[[ハイビジョン]]放送が開始されている。
2006-07シーズンより、スカパーが単独で放映権を獲得、J SPORTS、フジテレビへはサブライセンスを行う形となった。スカパー!は全試合中継を実施し(予選はプレーオフのみ一部をセレクトして放送。予選リーグは1日に8試合行われるうち、J SPORTSとあわせて6試合程度生中継し、残り試合は録画中継する。決勝リーグは全試合生中継)、J SPORTSとフジテレビは一部をセレクトして放送。なお、J SPORTSの放送は、2014-15シーズンをもって終了した。
フジテレビでも2017-2018シーズンまではこれまで毎節1試合の放送に加え、決勝戦を全国ネットで試合終了まで中継していた(決勝戦はネットセールス枠扱いであり、試合が延長・PK戦になった場合[[めざましテレビ]]の放送時間を短縮・ずらしをして行う場合があった)。またマガジンプログラムやダイジェストを関東地区限定で放送<ref name="注" group="注">マガジンプログラムはUEFA制作のものをフジテレビとスカパー!が放送。フジテレビ版とスカパー!版はそれぞれが日本語化するため言い回しなどが微妙に異なる場合があった。</ref>。
2018-19シーズンから、スポーツのライブストリーミングサービス[[DAZN]]が、2020-21シーズンまでの3シーズンにおいて、独占放映権を獲得<ref>{{cite news |title=『DAZN』がCL、ELの独占放映権を獲得! 2018-19シーズンから視聴可能に|url=http://media.dazn.com/ja/press-releases-ja/2017/06/15/|format= |publisher=DAZN. |accessdate=2017/06/15}}</ref>し、マガジンプログラムやハイライトなどのUCL関連番組の配信も含め、予選プレーオフから決勝戦までの全試合を、完全独占でライブ配信することが決定していた<ref>{{cite news |title= いよいよベスト4が出揃う! UEFAチャンピオンズリーグ決勝 完全独占配信確定 世界最高峰の戦い、UCL決勝が見られるのはDAZNだけ!|url=https://media.dazn.com/ja/press-releases-ja/2019/04/18-6/|format= |publisher=DAZN. |accessdate=2019/04/18}}</ref>。
2020-21シーズンはシーズン開幕前に[[ブルームバーグ (企業)|Bloomberg]]がUCLの[[新型コロナウィルス]]感染拡大に伴う、開催スケジュールの大幅変更を理由にアジアでの放映撤退模索が報じられ<ref>{{Cite news |url = https://www.bloomberg.com/news/articles/2020-07-27/blavatnik-s-dazn-service-seeks-exit-from-uefa-asia-rights-deal?utm_content=tech&utm_medium=social&utm_campaign=socialflow-organic&utm_source=twitter&cmpid%3D=socialflow-twitter-tech |title = DAZN Streaming Service Seeks Exit From UEFA Asia Rights Deal |publisher = [[ブルームバーグ (企業)|Bloomberg]] |date = 2020-7-28 |accessdate = 2020-7-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date = 2020-7-31 |url = https://www.j-cast.com/2020/07/31391244.html?p=all |title = サッカーファン、ヒヤヒヤ→安堵→次の心配 DAZN「CL・EL」配信めぐる最新情勢 |publisher = [[ジェイ・キャスト#J-CASTニュース|J-CASTニュース]] |accessdate = 2020-10-20}}</ref>、その後、シーズン開始となったが結果的にユーザー向けのプレスリリースを行わず、[[朝日新聞]]の取材により契約最終年となる2020-21シーズンを残し事実上の打ち切りとなった<ref name="DAZN_Release”">{{Cite news|title=欧州CL配信されず ダゾーンが日本での放映権を手放す|newspaper=|date=2020-10-21|url=https://www.asahi.com/articles/ASNBP74D2NBPUTQP01L.html|agency=[[朝日新聞東京本社]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201021143730/https://www.asahi.com/articles/ASNBP74D2NBPUTQP01L.html|archivedate=2020-10-21|accessdate=2020-10-21}}</ref>。また、代替として、UEFAの公式動画配信サービスである「'''UEFA.tv'''」にて、グループリーグの中から最大2試合の無料生配信を行うことになった<ref>{{Cite web|和書|date = 2020-10-20 |url = https://www.footballchannel.jp/2020/10/20/post393939/ |title = 2020/21シーズンのCL、ELはどこで見られるの? 中継・放送はあるの? 視聴方法を解説 |publisher = FOOTBALL CHANNEL([[カンゼン]]) |accessdate = 2020-10-21}}</ref><ref name="Nikkan_1">{{Cite news |url = https://www.nikkansports.com/soccer/world/news/202010220000457.html |title = DAZNで欧州CL見られず、日本で視聴するには? |publisher = [[日刊スポーツ]] |date = 2020-10-22 |accessdate = 2020-10-22}}</ref>。但し、日本を含めた[[アジア]]地域でUEFAチャンピオンズリーグを視聴することは、事実上不可能となっていた。
しかし、半年後の2021年1月14日、DAZNとの放映権解除以後に[[WOWOW]]がUEFAとコンタクトが取れた事により放映権獲得交渉が進み<ref name="Nikkan_2">{{Cite news |url = https://www.nikkansports.com/soccer/world/news/202101140000681.html|title = 「UEFAとコンタクトを」CL放映権獲得の裏側|publisher = [[日刊スポーツ]] |date = 2021-1-14|accessdate = 2021-1-15}}</ref>、2020-21シーズンの決勝トーナメント全29試合を独占生中継・ライブ配信の実施を発表し、日本でのUEFAチャンピオンズリーグ中継が約半年ぶりに復活することになった<ref name="Nikkan_2" />。WOWOWでの放送は2002-03シーズン以来18シーズンぶりとなる。また、決勝トーナメントの開幕後にはその週に行われた試合の模様を振り返るWOWOWオリジナルダイジェスト番組『[[チャンピオンズリーグダイジェスト!]]』の放送も決定した<ref>{{Cite press release|和書|title=「UEFAチャンピオンズリーグ」20-21シーズン WOWOWで決勝トーナメント全29試合独占生中継!「UEFAヨーロッパリーグ」20-21シーズン決勝トーナメント 注目試合を独占生中継!|publisher=[[WOWOW]]|date=2021-01-14|url=https://www.wowow.co.jp/sports/clel/info/detail_2021CL.html|accessdate=2021-01-14}}</ref>。
2021-22シーズン、WOWOWがグループステージ〜決勝まで独占放送&配信することが決定した。
WOWOWではグループステージから、2022年5月28日の決勝まで全125試合をWOWOWオンデマンドで独占ライブ配信した<ref>{{Cite press release|和書|title=「UEFAチャンピオンズリーグ」2021-22シーズン グループステージ〜決勝まで独占放送・配信決定!|publisher=WOWOW|date=2021-07-20 |url=https://www.wowow.co.jp/sports/clel/info/detail_20210720.html|accessdate=2021-08-01}}</ref>。
2022-23シーズン、WOWOWがグループステージ~決勝まで独占放送&配信することが決定した。
WOWOWではグループステージから、2023年6月10日の決勝まで全125試合をWOWOWオンデマンドで独占ライブ配信した<ref>{{Cite press release|和書|title=「UEFAチャンピオンズリーグ」2022-23シーズン グループステージ〜決勝までWOWOWで独占放送・配信! 「UEFAヨーロッパリーグ」と「スペインサッカー ラ・リーガ」も放送・配信!|publisher =WOWOW|date=2022-04-12|url=https://www.wowow.co.jp/sports/clel/info/detail_20220412.html|accessdate=2022-05-10}}</ref>。
2023-24シーズン、WOWOWがグループステージ~決勝まで独占放送&配信することが決定した。
WOWOWではグループステージから、2024年6月1日の決勝まで全125試合をWOWOWオンデマンドで独占ライブ配信する<ref>{{Cite press release|和書|title= 「UEFAチャンピオンズリーグ」2023-24シーズン グループステージ〜決勝までWOWOWで独占放送・配信!「UEFAヨーロッパリーグ」も注目試合を中心に放送・配信!|publisher =WOWOW|date=2023-05-10|url=https://www.wowow.co.jp/sports/clel/info/detail_20230510.html|accessdate=2023-05-10}}</ref>。
日本テレビでは2009-10シーズンから2017-2018シーズンまでは、関東地区限定でダイジェスト番組が放送されていたが、2019-20シーズンはDAZNの協力のもと、[[BS日テレ]]でグループリーグから決勝戦までの注目カードを「セレクトマッチ」と題して土曜の夜に録画で放送。また、毎週日曜にはUCLのみどころや展望、注目チームを紹介する『Weekly Show』を放送していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bs4.jp/UEFA/|title=UEFAチャンピオンズリーグ|BS日テレ|accessdate=2020-7-28|publisher=}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注" />
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=片野 道郎著|year=2019|title=チャンピオンズリーグ・クロニクル: 「サッカー最高峰の舞台」がたどった激動の四半世紀|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309290157 |ref=片野 2019}}
== 関連項目 ==
* [[UEFAランキング]]
* [[UEFA女子チャンピオンズリーグ]]
* [[GOAL!2]] - UEFAチャンピオンズリーグが舞台の[[映画]]
* [[ヘイゼルの悲劇]] - [[UEFAチャンピオンズカップ 1984-85|1984-85シーズン]]に発生した[[群集事故]]
== 外部リンク ==
* [http://www.uefa.com/uefachampionsleague/index.html 大会公式サイト]{{en icon}} - UEFA.com
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2,724 | 欧州サッカー連盟 | 欧州サッカー連盟(おうしゅうサッカーれんめい、UEFA [juːˈeɪfə] yoo-AY-fə; 英: Union of European Football Associations; 仏: Union des associations européennes de football; 独: Union der europäischen Fußballverbände)は、ヨーロッパを中心にロシア、アジアの一部を含むサッカー協会を統括する、国際サッカー連盟(FIFA)傘下の競技団体である。
UEFAは、イタリア、フランス、ベルギー協会間での協議の後、1954年6月15日にスイスのバーゼルで設立された。当初は、25の協会からなっていたが、1990年代初めまでに加盟協会は倍に増加した。ヨーロッパの全ての主権国の協会がUEFAの会員となっているわけではないが、非会員の国家は全てミニ国家である。以前はアジアサッカー連盟(AFC)に加盟していたいくつかのアジア国も、政治的理由などによりUEFAへの加盟が認められている。
UEFA本部は1959年までは、フランスのパリに位置し、後にスイスのベルンに移転。1995年から、同じくスイスのニヨンへ移転した。
スイス・ジュネーヴ郊外のニヨンに本部を置く。欧州各国及び地域のサッカー協会を統括し、欧州各国・地域をまたがったサッカーの問題に対処している。イスラエル、カザフスタンなどの西アジア、中央アジアといった、一般的なヨーロッパの範囲に含まれない国も加盟している。現在の加盟協会数は55。
近年、欧州連合(EU)に加盟する国・地域の国内リーグでは、EU、並びに一部は欧州自由貿易連合(EFTA)加盟国の出身選手は国内選手と同等扱いで、何人でも選手が出場登録できるようになっているケースが多くみられる。また、サッカーの母国という伝統的配慮から4つの地域がそれぞれ独自に加盟しているイギリスでは、それぞれのリーグ戦でイギリス国内出身者も同様の扱いを受けることが出来る。
※五十音順
※五十音順
1: 地勢的にはアジアのため、AFCに加盟してワールドカップ出場もしたが、いくつかのアジアの国が対戦を拒否したため、政治的判断により特例として1992年に飛び地加盟した。 2: かつてはAFCに加盟していたが、2001年にAFCを脱退し2002年に加盟。 3: 2019年の「北マケドニア」への国名改称前は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」(FYR Macedonia, FYROM)の名称で加盟していた。 4: ジブラルタルは、2006年12月8日から正会員への申請が拒否される2007年1月26日までUEFAの暫定会員であった。2012年10月1日から再び暫定会員となり、2013年5月から正会員となった。
男子ナショナルチームの主要大会はUEFA欧州選手権である。この大会は1958年に始まり、1960年に初の決勝が行われた。1964年までは欧州ネイションズカップとして知られていた。またUEFAあるいはEUROとも呼ばれる。UEFAは21歳以下、19歳以下、17歳以下の大会も開催している。女子代表では、UEFAはUEFA欧州女子選手権、UEFA U-19女子選手権、UEFA U-17女子選手権を運営している。
UEFAはアフリカサッカー連盟と共にユースサッカーのためのUEFA-CAFメリディアンカップを組織している。1999年には、地域を代表するセミプロフェッショナルチームのためのUEFAリージョンズカップを開始した。
フットサルについては、UEFAフットサル選手権およびUEFA U-21フットサル選手権がある。
UEFAはまたクラブのための大会を3つ開催している。頂点に位置するUEFA主催の大会はUEFAチャンピオンズリーグである。チャンピオンズリーグは1992/93シーズンに始まり、それぞれの国のリーグの上位1〜4チームが参加する(チーム数はリーグのランキングに依存し、変動する)。この大会は、1955年から1992年まで開催され各国リーグの優勝クラブによるヨーロピアン・チャンピオン・クラブズ・カップあるいはヨーロピアンカップとして知られていた大会を再構築したものである(したがって現在よりも競争は激しくなかった)。
2番目に位置するのはUEFAヨーロッパリーグである。この大会は、国内のカップ戦優勝クラブとリーグ上位チームによる大会として1971年にUEFAによって開始され、1955年に開始されたインターシティーズ・フェアーズカップさらにUEFAカップを引き継いだものである。1960年に開始されたカップウィナーズカップは1999年にUEFAカップに吸収された。
3番目に位置するUEFAヨーロッパカンファレンスリーグは、後のステージに進むチャンスを与える手段として従来のUELを分割する形で設立された。
女子サッカーでも、UEFAはクラブチームのためのUEFA女子チャンピオンズリーグを開催している。この大会は2001年に初開催され、2009年まではUEFA女子カップとして知られていた。
チャンピオンズリーグの勝者とUEFAヨーロッパリーグの勝者(以前はカップウィナーズカップの勝者)が対戦するUEFAスーパーカップは、1973年から行われている。
UEFAインタートトカップは夏の大会であり、以前はいくつかの中央ヨーロッパのサッカー協会によって運営されていたが、1995年にUEFAによって公式UEFAクラブ大会として認定された。インタートトカップは2008年が最後の大会となった。
インターコンチネンタルカップは、チャンピオンズリーグの勝者とコパ・リベルタドーレスの勝者が対戦する大会であり、南米サッカー連盟(CONMEBOL)と共に組織していた。
ヨーロピアン・カップ/UEFAチャンピオンズリーグ、UEFAカップウィナーズカップ、UEFAカップ/ヨーロッパリーグの全てで優勝したことがあるクラブは5クラブのみである。カップウィナーズカップが終了したため、今後この偉業を達成できる可能性のあるのも5クラブである。ユヴェントスは、全てのUEFAの公式チャンピオンシップおよびカップで優勝した初めてのチームであり、これを記念して1988年7月12日にUEFAによって「UEFAプラーク」が贈られた。
UEFAの最高峰のフットサル大会はUEFAフットサルカップである。この大会は前身のフットサル・ヨーロピアン・クラブズ・チャンピオンシップに代わり、2001年にUEFAの公式大会として開始された。
ファイナンシャル・フェアプレー(FFP)はUEFAのミシェル・プラティニ会長が提唱。欧州各クラブの財政健全化を目指して2011年6月から(収支集計開始、2014年から制度実施)導入された制度。
具体的にはクラブが支出する移籍金、人件費などの経費(サッカークラブの本質である育成に関わる投資や、スタジアム、練習場など施設を整備するための支出は除く)は、クラブが純粋に得たサッカーによる営業利益(選手売却による移籍金、スタジアム入場料、テレビ放映権、各大会賞金、グッズ収入、スポンサー収入)を超えてはならない規則。しかし、単年度の審査でこの制度を適用した場合、抵触するクラブが続出する可能性が高いことから3シーズンの合計で審査される。また、猶予期間として2018年のシーズンまでは段階的に赤字許容額が設定され、2015年までは4,500万ユーロ、2018年までは3,000万ユーロまでの赤字は許容され、2019年からは赤字の無い状況にしなくてはならなくなる。
これら規則を守れないクラブが発生した場合、UEFAは対象クラブに対して警告や厳重注意、罰金、勝ち点剥奪、UEFAクラブライセンスを発行しないなどという制裁を執行し、チャンピオンズリーグやヨーロッパリーグへの出場権を獲得しても大会への参加資格を認めないなどの措置が執られる。 | [
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] | 欧州サッカー連盟は、ヨーロッパを中心にロシア、アジアの一部を含むサッカー協会を統括する、国際サッカー連盟(FIFA)傘下の競技団体である。 UEFAは、イタリア、フランス、ベルギー協会間での協議の後、1954年6月15日にスイスのバーゼルで設立された。当初は、25の協会からなっていたが、1990年代初めまでに加盟協会は倍に増加した。ヨーロッパの全ての主権国の協会がUEFAの会員となっているわけではないが、非会員の国家は全てミニ国家である。以前はアジアサッカー連盟(AFC)に加盟していたいくつかのアジア国も、政治的理由などによりUEFAへの加盟が認められている。 UEFA本部は1959年までは、フランスのパリに位置し、後にスイスのベルンに移転。1995年から、同じくスイスのニヨンへ移転した。 | {{表記揺れ案内|表記1=ヨーロッパサッカー連盟}}
{{Infobox 組織
| 名称 = 欧州サッカー連盟
| 画像 = UEFA member associations map.svg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = {{legend|#4682b4|欧州サッカー連盟 (UEFA)}}
| 略称 = UEFA
| 設立 = [[1954年]]
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| leader_name = {{flagicon|SLO}} [[アレクサンデル・チェフェリン]]<ref name="uefa20160914">{{Cite web|url=http://www.uefa.org/about-uefa/organisation/congress/news/newsid=2403250.html#ceferin+elected+uefa+president|title=Čeferin elected as UEFA President|publisher=Uefa.com|date=2016-09-14|accessdate=2016-09-14}}</ref>
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| main_organ = UEFA会議
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| 設立者 =
| 関連組織 = [[国際サッカー連盟]] (FIFA)
| ウェブサイト = https://www.uefa.com/
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'''欧州サッカー連盟'''(おうしゅうサッカーれんめい、'''UEFA''' {{IPAc-en|j|uː|ˈ|eɪ|f|ə}} {{respell|yoo|AY|fə}}; {{lang-en-short|Union of European Football Associations}}{{efn|{{IPA-en|ˈjuːnjən ɒv ˌjʊərəˈpi(ː)ən ˈfʊtbɔːl əˌsəʊsɪˈeɪʃ(ə)nz}}}}; {{lang-fr-short|Union des associations européennes de football}}{{efn|{{IPA-fr|ynjɔ̃ dez‿asɔsjɑsjɔ̃ øʁɔpeɛn də futbol}}}}; {{lang-de-short|Union der europäischen Fußballverbände}}{{efn|{{IPA-de|uˈni̯oːn deːɐ̯ ʔɔʏʁoˈpɛːɪʃn̩ ˈfuːsbalfɛʁˌbɛndə}}}})は、[[ヨーロッパ]]を中心に[[ロシア]]、[[アジア]]の一部を含むサッカー協会を統括する、[[国際サッカー連盟]](FIFA)傘下の競技団体である。
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UEFA本部は1959年までは、フランスの[[パリ]]に位置し、後にスイスの[[ベルン]]に移転。1995年から、同じくスイスの[[ニヨン (スイス)|ニヨン]]へ移転した。
== 概要 ==
[[スイス]]・[[ジュネーヴ]][[郊外]]の[[ニヨン (スイス)|ニヨン]]に本部を置く。欧州各国及び地域のサッカー協会を統括し、欧州各国・地域をまたがったサッカーの問題に対処している。[[イスラエルサッカー協会|イスラエル]]、[[カザフスタンサッカー連盟|カザフスタン]]などの[[西アジア]]、[[中央アジア]]といった、一般的なヨーロッパの範囲に含まれない国も加盟している。現在の加盟協会数は55<ref name="associations" />。
近年、[[欧州連合]](EU)に加盟する国・地域の国内リーグでは、EU、並びに一部は[[欧州自由貿易連合]](EFTA)加盟国の出身選手は国内選手と同等扱いで、何人でも選手が出場登録できるようになっているケースが多くみられる。また、サッカーの母国という伝統的配慮から4つの地域{{efn|[[イングランド]]、[[スコットランド]]、[[ウェールズ]]、[[北アイルランド]]。}}がそれぞれ独自に加盟している[[イギリス]]では、それぞれのリーグ戦でイギリス国内出身者も同様の扱いを受けることが出来る。
== 歴代会長 ==
{{main|歴代UEFA会長の一覧}}
# {{flagicon|DEN}} [[エッベ・シュヴァルツ]](1954-1962)
# {{flagicon|SUI}} [[グスタフ・ヴィーダーケール]](1962-1972)
# {{flagicon|ITA}} [[アルテミオ・フランキ]](1972-1983)
# {{flagicon|FRA}} [[ジャック・ジョルジュ]](1983-1990)
# {{flagicon|SWE}} [[レナート・ヨハンソン]](1990-2007)
# {{flagicon|FRA}} [[ミシェル・プラティニ]](2007-2016)
# {{flagicon|SLO}} [[アレクサンデル・チェフェリン]](2016-現在)
=== 事務局長 ===
# {{flagicon|FRA}} [[アンリ・ドロネー]](1954-1955)
# {{flagicon|FRA}} [[ピエール・ドロネー]](1955-1960)
== ナショナルチーム ==
=== 男子 ===
※五十音順
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=== 女子 ===
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<small>
1: 地勢的には[[アジア]]のため、[[アジアサッカー連盟|AFC]]に加盟して[[FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]出場もしたが、いくつかのアジアの国が対戦を拒否したため、政治的判断により特例として[[1992年]]に飛び地加盟した。<br />
2: かつては[[アジアサッカー連盟|AFC]]に加盟していたが、[[2001年]]にAFCを脱退し[[2002年]]に加盟。<br />
3: 2019年の「北マケドニア」への国名改称前は「[[北マケドニア#国名|マケドニア旧ユーゴスラビア共和国]]」(FYR Macedonia, FYROM)の名称で加盟していた。<br />
4: ジブラルタルは、2006年12月8日から正会員への申請が拒否される2007年1月26日までUEFAの暫定会員であった。2012年10月1日から再び暫定会員となり<ref>{{cite web|url=http://www.guardian.co.uk/football/2012/oct/01/gibraltar-football-uefa-provisional-member |title=Gibraltar national team made provisional member of Uefa |publisher=The Guardian |accessdate=2012-10-01 }}</ref>、2013年5月から正会員となった<ref>{{cite web|url=http://www.uefa.com/uefa/aboutuefa/organisation/congress/news/newsid=1956133.html|title=Congress decisions bring Gibraltar on board|publisher=欧州サッカー連盟|date=2013-05-24|accessdate=2013-06-26}}</ref>。
</small>
=== 脱退した協会 ===
* [[サッカーザールラント代表|ザールラントサッカー連合]] 1954 - 1956
* [[サッカー東ドイツ代表|ドイツサッカー協会]](東ドイツ)1954 - 1990
* {{仮リンク|ソビエト連邦サッカー連盟|en|Football Federation of the Soviet Union}} 1954 - 1991(1992年に[[ロシアサッカー連合]]となった)
== 決議 ==
{|
|- valign="top"
|''' 表彰:'''
*[[UEFA欧州最優秀選手賞]]
*[[UEFAチーム・オブ・ザ・イヤー]]
*[[UEFA年間最優秀選手]] (1997–2010)
*[[UEFAクラブ・フットボール・アワード]] (1997–2010)
*[[UEFAジュビリーアウォーズ]] (2003)
*[[UEFAゴールデンジュビリーポール]]
*[[UEFA欧州選手権ベストチーム]]
|'''資格:'''
*[[UEFAランキング]]
*[[UEFAリスペクト・フェアプレーランキング]]
*[[UEFAスタジアムカテゴリー]]
|
'''試合:'''
*[[UEFA記念試合]]
|}
== 大会 ==
=== ナショナルチーム ===
==== サッカー ====
男子ナショナルチームの主要大会は[[UEFA欧州選手権]]である。この大会は1958年に始まり、[[1960 欧州ネイションズカップ|1960年]]に初の決勝が行われた。1964年までは欧州ネイションズカップとして知られていた。またUEFAあるいはEUROとも呼ばれる。UEFAは[[UEFA U-21欧州選手権|21歳以下]]、[[UEFA U-19欧州選手権|19歳以下]]、[[UEFA U-17欧州選手権|17歳以下]]の大会も開催している。女子代表では、UEFAは[[UEFA欧州女子選手権]]、[[UEFA U-19女子選手権]]、[[UEFA U-17女子選手権]]を運営している。
UEFAは[[アフリカサッカー連盟]]と共にユースサッカーのための[[UEFA-CAFメリディアンカップ]]を組織している。1999年には、地域を代表するセミプロフェッショナルチームのための[[UEFAリージョンズカップ]]を開始した。
==== フットサル ====
[[フットサル]]については、[[UEFAフットサル選手権]]および[[UEFA U-21フットサル選手権]]がある。
=== クラブチーム ===
==== サッカー ====
[[ファイル:UEFA members.svg|thumb|370px|2007/08のUEFA加盟メンバーとUEFAランキング]]
UEFAはまたクラブのための大会を3つ開催している。頂点に位置するUEFA主催の大会は[[UEFAチャンピオンズリーグ]]である。チャンピオンズリーグは1992/93シーズンに始まり、それぞれの国のリーグの上位1〜4チームが参加する(チーム数はリーグのランキングに依存し、変動する)。この大会は、1955年から1992年まで開催され各国リーグの優勝クラブによるヨーロピアン・チャンピオン・クラブズ・カップあるいはヨーロピアンカップとして知られていた大会を再構築したものである(したがって現在よりも競争は激しくなかった)。
2番目に位置するのは[[UEFAヨーロッパリーグ]]である。この大会は、国内のカップ戦優勝クラブとリーグ上位チームによる大会として1971年にUEFAによって開始され、1955年に開始された[[インターシティーズ・フェアーズカップ]]さらにUEFAカップを引き継いだものである。1960年に開始された[[UEFAカップウィナーズカップ|カップウィナーズカップ]]は1999年にUEFAカップに吸収された。
3番目に位置する[[UEFAヨーロッパカンファレンスリーグ]]は、後のステージに進むチャンスを与える手段として従来のUELを分割する形で設立された。
女子サッカーでも、UEFAはクラブチームのための[[UEFA女子チャンピオンズリーグ]]を開催している。この大会は2001年に初開催され、2009年まではUEFA女子カップとして知られていた。
チャンピオンズリーグの勝者とUEFAヨーロッパリーグの勝者(以前はカップウィナーズカップの勝者)が対戦する[[UEFAスーパーカップ]]は、1973年から行われている<ref>{{cite web|url=http://www.uefa.com/uefasupercup/history/index.html|title=History of the UEFA Super Cup|work=uefa.com|accessdate=21 August 2006}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.uefa.com/uefasupercup/history/season=1973/index.html|title=1973: Ajax enjoy early success|work=uefa.com|accessdate=1 March 1974}}</ref><ref>{{cite web|url=http://en.archive.uefa.com/competitions/ecwc/history/season=1971/intro.html|title=1971/72: Glory for Rangers in Barcelona|work=uefa.com|accessdate=1 June 1972}}</ref>。
[[UEFAインタートトカップ]]は夏の大会であり、以前はいくつかの[[中央ヨーロッパ]]のサッカー協会によって運営されていたが、1995年にUEFAによって公式UEFAクラブ大会として認定された<ref>{{cite web|url=http://en.archive.uefa.com/competitions/intertotocup/history/index.html|title=History of the UEFA Intertoto Cup|work=uefa.com|accessdate=14 August 2009}}</ref>。インタートトカップは2008年が最後の大会となった。
[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]]は、チャンピオンズリーグの勝者と[[コパ・リベルタドーレス]]の勝者が対戦する大会であり、[[南米サッカー連盟]](CONMEBOL)と共に組織していた<ref>{{cite web | url=http://en.archive.uefa.com/competitions/eusa/history/index.html | title=History of the UEFA/CONMEBOL Intercontinental Cup | work=uefa.com | accessdate=14 August 2009}}</ref>。
[[UEFAチャンピオンズリーグ|ヨーロピアン・カップ/UEFAチャンピオンズリーグ]]、[[UEFAカップウィナーズカップ]]、[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ/ヨーロッパリーグ]]<ref>{{cite web|url=http://www.uefa.com/news/newsid=219635.html#the+with+golden+touch|title=The man with the golden touch|work=uefa.com|accessdate=27 August 2004}}</ref>の全てで優勝したことがあるクラブは5クラブ{{efn|[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]、[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]、[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]、[[チェルシーFC|チェルシー]]、[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]。}}のみである<ref>{{es}} {{cite web|url=http://hemeroteca.elmundodeportivo.es/preview/1987/03/20/pagina-34/1264069/pdf.html?search=ganadores%20de%20las%20tres%20competiciones%20europeas|title=El Barça, gran atracción del sorteo|work=El Mundo Deportivo's Historical Archive|accessdate=16 July 1992}}</ref>。カップウィナーズカップが終了したため、今後この偉業を達成できる可能性のあるのも5クラブ{{efn|[[ハンブルガーSV]]、[[アトレティコ・マドリード]]、[[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム・ホットスパー]]、[[FCバルセロナ|バルセロナ]]、[[ACミラン]]。}}である。[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]は、全てのUEFAの公式チャンピオンシップおよびカップで優勝した初めてのチームであり<ref name="official">{{cite web|url=http://www.uefa.com/competitions/supercup/news/kind=32/newsid=447085.html|title=List of European official clubs' cups and tournaments|work=uefa.com|accessdate=21 August 2006}}</ref>、これを記念して1988年7月12日にUEFAによって「UEFAプラーク」が贈られた<ref>{{cite news|language=Spanish|url=http://hemeroteca.lavanguardia.es/preview/1988/07/13/pagina-53/33040569/pdf.html|title=Sorteo de las competiciones europeas de fútbol: el Fram de Reykjavic, primer adversario del F.C. Barcelona en la Recopa|publisher=[[La Vanguardia]]|format=PDF|page=53|date=13 July 1988|accessdate=15 November 2009}}</ref><ref name="UEFA Plaque">{{it}} {{cite web | url=http://archiviostorico.gazzetta.it/1997/maggio/24/Tutto_inizio_con_poesia_ga_0_9705246555.shtml| title=All start 'with a little' poetry | work=Gazzetta dello Sport's Historical Archive | accessdate=24 May 1997}}</ref>。
==== フットサル ====
UEFAの最高峰の[[フットサル]]大会は[[UEFAフットサルカップ]]である。この大会は前身の[[フットサル・ヨーロピアン・クラブズ・チャンピオンシップ]]に代わり、2001年にUEFAの公式大会として開始された。
== 大会一覧 ==
=== ナショナルチーム ===
{|
|- valign="top"
|''' 男子:'''
*[[UEFA欧州選手権]]
*[[UEFAネーションズリーグ]]
*[[アルテミオ・フランキ・トロフィー|フィナリッシマ]]([[CONMEBOL]]との共催大会)
*[[UEFA U-21欧州選手権]]
*[[UEFA U-19欧州選手権]]
*[[UEFA U-17欧州選手権]]
*[[UEFA-CAFメリディアンカップ]]
|'''女子:'''
*[[UEFA欧州女子選手権]]
*[[UEFA女子ネーションズリーグ]]
*[[女子フィナリッシマ]](CONMEBOLとの共催大会)
*[[UEFA U-19女子選手権]]
*[[UEFA U-17女子選手権]]
|}
=== クラブチーム ===
{|
|- valign="top"
|''' 男子:'''
*[[UEFAチャンピオンズリーグ]]
*[[UEFAヨーロッパリーグ]]
*[[UEFAヨーロッパカンファレンスリーグ]]
*[[UEFAスーパーカップ]]
*[[:en:UEFA–CONMEBOL Club Challenge|UEFA-CONMEBOLクラブチャレンジ]](CONMEBOLとの共催大会、2023年より開始)
*[[UEFAユースリーグ]]
*[[:en:Under-20 Intercontinental Cup|U-20インターコンチネンタルカップ]](CONMEBOLとの共催大会、2022年より開始)
*[[UEFAカップウィナーズカップ]](1960–1999)
*[[UEFAインタートトカップ]](1995–2008)
*[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]](1960–2004)
|'''女子:'''
*[[UEFA女子チャンピオンズリーグ]]
|}
=== アマチュア ===
*[[UEFAリージョンズカップ]]
*[[UEFAアマチュアカップ]](1967–1978)
=== フットサル ===
*[[UEFAフットサル選手権]]
*[[:en:Futsal Finalissima|フットサル・フィナリッシマ]](CONMEBOLとの共催大会)
*[[UEFA女子フットサル選手権]]
*[[UEFAフットサルチャンピオンズリーグ]]
=== UEFA非主催の大会 ===
{|
|- valign="top"
|'''ナショナルチーム:'''
*[[バルティックカップ|バルトカップ]]
*[[CISカップ]]
*[[UEFA欧州選手権|ネイションズ・カップ]]
*[[アルガルヴェ・カップ]]
*[[キプロス・カップ (女子サッカー)|キプロス・カップ]]
*[[北欧サッカー選手権]](1924–2001)
*{{仮リンク|バルカン・カップ (ナショナルチーム)|en|Balkan Cup|label=バルカン・カップ}}(1931–1980)
*[[ブリティッシュ・ホーム・チャンピオンシップ]](1884–1984)
|'''クラブチーム:'''
*[[バルト・チャンピオンズ・カップ]]
*[[バルティックリーグ|バルト・リーグ]]
*[[セタンタ・スポーツカップ|セタンタカップ]]
*[[バルカン・カップ (クラブチーム)|バルカン・カップ]](1961–1994)
*[[インターシティーズ・フェアーズカップ]](1955–1971)
*[[ミトローパ・カップ]](1927–1992)
*[[ラテン・カップ]](1949–1957)
|}
=== 大会結果 ===
{{See also|2023年のスポーツ|2023年のサッカー|FIFAインターナショナルマッチカレンダー}}
{| class="wikitable sortable"
|-
! 大会
| width="1%" rowspan=1 style="background-color:#ffffff;"|
! シーズン
! 優勝
! 詳細
! 準優勝
| width="1%" rowspan=1 style="background-color:#ffffff;"|
! シーズン
|-
! colspan="8" |大陸間 (欧州-[[南米サッカー連盟|南米]])
|-
| [[アルテミオ・フランキ・トロフィー]]
| width="1%" rowspan=5 style="background-color:#ffffff;"|
| {{仮リンク|2022 アルテミオ・フランキ・トロフィー|en|2022 Finalissima|label=2022}}
| style="text-align:right"|{{fb-rt|ARG}}
| style="text-align:center"|決勝
| {{fb|ITA}}
| width="1%" rowspan=5 style="background-color:#ffffff;"|
| 2025
|-
| [[女子フィナリッシマ]]
| {{仮リンク|2023 女子フィナリッシマ|en|2023 Women's Finalissima|label=2023}}
| style="text-align:right"|{{fbw-rt|ENG}}
| style="text-align:center"|決勝
| {{fbw|BRA}}
| 2026
|-
| {{仮リンク|UEFA–CONMEBOL クラブチャレンジ|en|UEFA–CONMEBOL Club Challenge}}
| {{仮リンク|2023 UEFA–CONMEBOL クラブチャレンジ|en|2023 UEFA–CONMEBOL Club Challenge|label=2023}}
| style="text-align:right"|[[セビージャFC|セビージャ]] {{fbaicon|ESP}}
| style="text-align:center"|
| {{fbaicon|ECU}} [[インデペンディエンテ・デル・バジェ|インデペンディエンテ]]
| 2024
|-
| {{仮リンク|U-20インターコンチネンタルカップ|en|Under-20 Intercontinental Cup}}
| {{仮リンク|2022 U-20インターコンチネンタルカップ|en|2022 Under-20 Intercontinental Cup|label=2023}}
| style="text-align:right"|[[SLベンフィカ|ベンフィカ]] {{fbaicon|POR}}
| style="text-align:center"|
| {{fbaicon|URU}} [[CAペニャロール|ペニャロール]]
| {{仮リンク|2023 U-20インターコンチネンタルカップ|en|2023 Under-20 Intercontinental Cup|label=2023}}
|-
| {{仮リンク|フットサルフィナリッシマ|en|Futsal Finalissima}}
| {{仮リンク|2022 フットサルフィナリッシマ|en|2022 Futsal Finalissima|label=2022}}
| style="text-align:right"|{{futsal-rt|POR}}
| style="text-align:center"|
| {{futsal|ESP}}
| 2026
|-
! colspan="8"|ナショナルチーム
|-
| [[UEFA欧州選手権|欧州選手権]]
| width="1%" rowspan=7 style="background-color:#ffffff;"|
| [[UEFA EURO 2020|2020]]
| style="text-align:right"|{{fb-rt|ITA}}
| style="text-align:center"|決勝
| {{fb|ENG}}
| width="1%" rowspan=7 style="background-color:#ffffff;"|
| [[UEFA EURO 2024|2024]]
|-
| [[UEFAネーションズリーグ|ネーションズリーグ]]
| [[UEFAネーションズリーグ2022-23|2022–23]]
| style="text-align:right"|{{fb-rt|ESP}}
| style="text-align:center"|決勝
| {{fb|CRO}}
| [[UEFAネーションズリーグ2024-25|2024–25]]
|-
| [[UEFA U-21欧州選手権|U-21欧州選手権]]
| [[UEFA U-21欧州選手権2023|2023]]
| style="text-align:right"|{{fbu-rt|21|ENG}}
| style="text-align:center"|決勝
| {{fbu|21|ESP}}
| [[UEFA U-21欧州選手権2025|2025]]
|-
| [[UEFA U-19欧州選手権|U-19欧州選手権]]
| {{仮リンク|2023 UEFA U-19欧州選手権|en|2023 UEFA European Under-19 Championship|label=2023}}
| style="text-align:right"|{{fbu-rt|19|ITA}}
| style="text-align:center"|決勝
| {{fbu|19|POR}}
| [[UEFA U-19欧州選手権2024|2024]]
|-
| [[UEFA U-17欧州選手権|U-17欧州選手権]]
| [[UEFA U-17欧州選手権2023|2023]]
| style="text-align:right"|{{fbu-rt|17|GER}}
| style="text-align:center"|決勝
| {{fbu|17|FRA}}
| [[UEFA U-17欧州選手権2024|2024]]
|-
| [[UEFAフットサル選手権|フットサル選手権]]
| {{仮リンク|2022 UEFAフットサル選手権|en|UEFA Futsal Euro 2022|label=2022}}
| style="text-align:right"|{{futsal-rt|POR}}
| style="text-align:center"|決勝
| {{futsal|RUS}}
| [[UEFAフットサル選手権2026|2026]]
|-
| UEFA Under-19 Futsal Championship
| [[2022 UEFA Under-19 Futsal Championship|2022]]
| style="text-align:right"|{{fsu|19|ESP}}
| style="text-align:center"|決勝
| {{fsu|19|POR}}
| [[2023 UEFA Under-19 Futsal Championship|2023]]
|-
! colspan=8|女子ナショナルチーム
|-
| [[UEFA欧州女子選手権|欧州選手権]]
| width="1%" rowspan=5 style="background-color:#ffffff;"|
| [[UEFA欧州女子選手権2022|2022]]
| style="text-align:right"|{{fbw-rt|ENG}}
| style="text-align:center"|決勝
| {{fbw|GER}}
| width="1%" rowspan=5 style="background-color:#ffffff;"|
| [[UEFA欧州女子選手権2025|2025]]
|-
| [[UEFA女子ネーションズリーグ|ネーションズリーグ]]
|
| style="text-align:right"|
| style="text-align:center"|決勝
|
| [[UEFA女子ネーションズリーグ2023-24|2023-24]]
|-
| [[UEFA U-19女子選手権|U-19欧州選手権]]
| [[UEFA U-19女子選手権2023|2023]]
| style="text-align:right"|{{fbwu-rt|19|ESP}}
| style="text-align:center"|決勝
| {{fbwu|19|GER}}
| [[UEFA U-19女子選手権2024|2024]]
|-
| [[UEFA U-17女子選手権|U-17欧州選手権]]
| [[UEFA U-17女子選手権2023|2023]]
| style="text-align:right"|{{fbwu-rt|17|FRA}}
| style="text-align:center"|決勝
| {{fbwu|17|ESP}}
| [[UEFA U-17女子選手権2024|2024]]
|-
| [[UEFA女子フットサル選手権|フットサル選手権]]
| [[UEFA女子フットサル選手権2023|2023]]
| style="text-align:right"|{{fsw-rt|ESP}}
| style="text-align:center"|決勝
| {{fsw|UKR}}
| [[UEFA女子フットサル選手権2025|2025]]
|-
! colspan=8|クラブチーム
|-
| [[UEFAスーパーカップ|スーパーカップ]]
| width="1%" rowspan=6 style="background-color:#ffffff;"|
| [[2023 UEFAスーパーカップ|2023]]
| style="text-align:right"|[[レアル・マドリード]] {{fbaicon|ESP}}
| style="text-align:center"|
| {{fbaicon|GER}} [[アイントラハト・フランクフルト]]
| width="1%" rowspan=6 style="background-color:#ffffff;"|
| [[2024 UEFAスーパーカップ|2024]]
|-
| [[UEFAチャンピオンズリーグ|チャンピオンズリーグ]]
| [[UEFAチャンピオンズリーグ 2022-23|2022–23]]
| style="text-align:right"|[[マンチェスター・シティFC|マンチェスター・シティ]] {{fbaicon|ENG}}
| style="text-align:center"|決勝
| {{fbaicon|ITA}} [[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]
| [[UEFAチャンピオンズリーグ 2023-24|2023–24]]
|-
| [[UEFAヨーロッパリーグ|ヨーロッパリーグ]]
| [[UEFAヨーロッパリーグ 2022-23|2022–23]]
| style="text-align:right"|[[セビージャFC|セビージャ]] {{fbaicon|ESP}}
| style="text-align:center"|決勝
| {{fbaicon|ITA}} [[ASローマ|ローマ]]
| [[UEFAヨーロッパリーグ 2023-24|2023–24]]
|-
| [[UEFAヨーロッパカンファレンスリーグ|ヨーロッパカンファレンスリーグ]]
| [[UEFAヨーロッパカンファレンスリーグ 2022-23|2022–23]]
| style="text-align:right"|[[ウェストハム・ユナイテッドFC|ウェストハム・ユナイテッド]] {{fbaicon|ENG}}
| style="text-align:center"|決勝
| {{fbaicon|ITA}} [[ACFフィオレンティーナ|フィオレンティーナ]]
| [[UEFAヨーロッパカンファレンスリーグ 2023-24|2023–24]]
|-
| [[UEFAユースリーグ|ユースリーグ]]
| [[UEFAユースリーグ 2022-23|2022–23]]
| style="text-align:right"|[[AZアルクマール|AZ]] {{fbaicon|NED}}
| style="text-align:center"|決勝
| {{fbaicon|CRO}} [[HNKハイドゥク・スプリト|ハイドゥク・スプリト]]
| [[UEFAユースリーグ 2023-24|2023–24]]
|-
| [[UEFAフットサルチャンピオンズリーグ|フットサルチャンピオンズリーグ]]
| [[UEFAフットサルチャンピオンズリーグ 2022–23|2022–23]]
| style="text-align:right"|[[AEパルマ・フットサル|パルマ・フットサル]] {{fbaicon|ESP}}
| style="text-align:center"|決勝
| {{fbaicon|POR}} [[スポルティングCP (フットサル)|スポルティングCP]]
| [[UEFAフットサルチャンピオンズリーグ 2023–24|2023–24]]
|-
! colspan=8|女子クラブチーム
|-
| [[UEFA女子チャンピオンズリーグ|チャンピオンズリーグ]]
| width="1%" rowspan=1 style="background-color:#ffffff;"|
| [[UEFA女子チャンピオンズリーグ 2022-23|2022–23]]
| style="text-align:right"|[[FCバルセロナ・フェメニ|バルセロナ]] {{fbaicon|ESP}}
| style="text-align:center"|決勝
| {{fbaicon|GER}} [[VfLヴォルフスブルク (女子)|VfLヴォルフスブルク]]
| width="1%" style="background-color:#ffffff;"|
| [[UEFA女子チャンピオンズリーグ 2023-24|2023–24]]
|-
! colspan=8|アマチュアチーム
|-
| [[UEFAリージョンズカップ|リージョンズカップ]]
| width="1%" rowspan=1 style="background-color:#ffffff;"|
| [[UEFAリージョンズカップ2023|2023]]
| style="text-align:right"|[[サッカーガリシア代表|ガリシア]] {{fbaicon|ESP}}
| style="text-align:center"|決勝
| {{fbaicon|SRB}} ベオグラード
| width="1%" rowspan=1 style="background-color:#ffffff;"|
| [[UEFAリージョンズカップ2025|2025]]
|}
== ファイナンシャル・フェアプレー ==
{{main|UEFAのファイナンシャル・フェアプレー規則}}
ファイナンシャル・フェアプレー(FFP)はUEFAの[[ミシェル・プラティニ]]会長が提唱。欧州各クラブの財政健全化を目指して2011年6月から(収支集計開始、2014年から制度実施)導入された制度。
具体的にはクラブが支出する移籍金、人件費などの経費(サッカークラブの本質である育成に関わる投資や、スタジアム、練習場など施設を整備するための支出は除く)は、クラブが純粋に得たサッカーによる営業利益(選手売却による移籍金、スタジアム入場料、テレビ放映権、各大会賞金、グッズ収入、スポンサー収入)を超えてはならない規則。しかし、単年度の審査でこの制度を適用した場合、抵触するクラブが続出する可能性が高いことから3シーズンの合計で審査される。また、猶予期間として2018年のシーズンまでは段階的に赤字許容額が設定され、2015年までは4,500万ユーロ、2018年までは3,000万ユーロまでの赤字は許容され、2019年からは赤字の無い状況にしなくてはならなくなる。
これら規則を守れないクラブが発生した場合、UEFAは対象クラブに対して警告や厳重注意、罰金、勝ち点剥奪、UEFAクラブライセンスを発行しないなどという制裁を執行し、[[UEFAチャンピオンズリーグ|チャンピオンズリーグ]]や[[UEFAヨーロッパリーグ|ヨーロッパリーグ]]への出場権を獲得しても大会への参加資格を認めないなどの措置が執られる<ref>[http://jp.uefa.com/news/newsid=2101943.html ファイナンシャル・フェアプレー:必須情報]</ref><ref>[http://www.footballchannel.jp/2014/03/04/post29006/ 欧州サッカーの勢力地図が変わるか。赤字経営の禁止、ビッグクラブに影響大の“ファイナンシャルフェアプレー”制度とは?]</ref>。
* FFPによる影響
** [[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]-1990年代後半から2000年代まで大型補強を実施、FFPによりチームの主力を放出しチームが弱体化、収入が赤字になる悪循環に陥り、クラブを売却。
** [[ACミラン]]-[[ベルルスコーニ]]名誉会長のポケットマネーによって運営、FFPによりチームの主力を放出しチームが弱体化。
** [[パリ・サンジェルマンFC|パリSG]]-[[カタール]]観光局との複数年の大型スポンサー契約を行いFFP対策の収入を確保(ただしクラブ運営がカタール王族系の投資グループでその関係が疑われている)。
** [[チェルシーFC|チェルシー]]-ロシアの[[ガスプロム]]とのスポンサー契約を行いFFP対策の収入を確保(ただしクラブオーナーとガスプロムとの関係が疑われている)。
** [[マンチェスター・シティFC|マンチェスター・シティ]]-UAEアブダビの[[エティハド航空]]との10年間の大型スポンサー契約を行いFFP対策の収入を確保(但しクラブオーナーがアブダビ王族でその関係が疑われている)。
** 2014年から制度実施されるがUEFAは5月16日に9クラブが抵触しているとしてマンチェスター・シティとパリSGは厳しい6,000万ユーロの罰金、来シーズンのCL選手登録枠を25名から4名削減、来シーズンの選手年俸総額の増額の未承認、来季以降2シーズンは移籍市場で費やす金額にも6,000万ユーロ上限設定の制裁が決定したと発表<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3014299 PSGとマンC、FFPの違反で85億円の罰金か]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|UEFA}}
* [[ボスマン判決]]
== 外部リンク ==
* [https://www.uefa.com/ UEFA公式サイト] {{en icon}}
* {{Twitter|UEFAcom|UEFA}} {{en icon}}
{{Navboxes colour
|title = UEFA
|bg = #E70410
|fg = white
|list =
{{国際サッカー}}
{{国際サッカー (女子)}}
{{国際クラブサッカー}}
{{国際クラブサッカー (女子)}}
{{国際サッカーの賞}}
{{国際フットサル}}
{{国際クラブフットサル}}
{{国際ビーチサッカー}}
{{ヨーロッパのサッカー国際大会}}
{{ヨーロッパのサッカー協会}}
{{ヨーロッパのサッカーナショナルチーム}}
{{ヨーロッパの女子サッカーナショナルチーム}}
{{U-23ヨーロッパのサッカーナショナルチーム}}
{{ヨーロッパのサッカーリーグ}}
{{ヨーロッパの女子サッカーリーグ}}
{{ヨーロッパのサッカー国内カップ戦}}
{{ヨーロッパのサッカースーパーカップ}}
}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:おうしゆうさつかあれんめい}}
[[Category:UEFA|*]]
[[Category:1954年設立の組織]] | 2003-02-22T16:34:30Z | 2023-12-22T21:30:02Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E9%80%A3%E7%9B%9F |
2,727 | Intel486 | Intel486(インテルよんはちろく)は、インテルのx86系マイクロプロセッサで、386の後継製品である。
当初の名称は「80486」で、後に廉価版の「486SX」をラインナップに追加した際に、従来の80486を「486DX」と改名し、同時にそれらの総称として「i486」の商標を使うようになった。"i" を付けたのは、米国では番号だけの名前は商標権を取れない(登録できない)ためである。インテルが現在使用している名称はIntel486プロセッサ (Intel486 Processor) である。
486は386の上位ないし後継のx86マイクロプロセッサである。基本的な命令セットは386と同様にIA-32と後に呼ばれることになったもので、BSWAPなどいくつかの命令の追加がある。
実装としては、性能向上を重視した全くの新設計である。他に、新アーキテクチャの最初の実装のため386で発覚したいくつかの問題点の修正、NDP(数値演算コプロセッサ)の標準での内蔵、x86系としては初のオンダイキャッシュ、などが主な特徴に挙げられる。なお、NDPを内蔵しない廉価版もある。
比較的複雑なx86およびIA-32命令セットを実装するため、8086以降386までは機能のほぼ全てをマイクロプログラム方式で実装していた。しかし、RISCブームなどもあり、インテルとしても性能向上は至上命題だったことから、ほとんどの命令をワイヤードロジックによる実行とし、5段パイプラインも動作周波数の向上を狙ったものである。周波数の向上と同時に、多くの命令のサイクル数も386と比べ大幅に削減され、基本的な命令は1サイクルとなった。またあまり本質的ではないが、当時の利用者にとって影響が大きかったものとしては仮想86モード中での入出力命令の高速化などもある。なお、乗算だけは42サイクルとなり386より1クロック遅くなった。ただし、複雑な動作を行う一部の命令についてはマイクロプログラムを併用している。浮動小数点モジュールは、統合によるオーバヘッドの削減による高速化のみで、パイプライン化はしていない。
486系のプロセッサではロットによってCPUID命令を搭載しているものとそうでないものが混在しており、インテルはフラグレジスタを用いた判別法を示している。
CPUID命令の有無は32ビットフラグレジスタ (EFLAGS) の第21ビットで確認できるようになっており、このビットが変更可能であれば、CPUID命令でプロセッサの種類を判別できる。ただしEFLAGSの上位ビットは80386以上のプロセッサにしか存在しないため、事前に80386以上のプロセッサであることを確認してからアクセスする必要がある(詳細はIntel 80386を参照)。
CPUID命令が使用できない場合でも80486で追加されたEFLAGS第18ビットのAC (Alignment check) フラグで80386と80486は区別でき、このビットがセット可能であれば80486以上のプロセッサであると判断できる。また80386と同様に、286方式でリセットしたときのDXレジスタの内容からCPUIDにおけるEAX=1相当のプロセッサ・シグニチャの情報を得られる場合がある(詳細はIntel 80286およびIntel 80386を参照)。
80486では公式には6個の一般命令が追加されており、うち3つがCPUキャッシュ関連である。そのほか、前述のCPUIDのように非公開命令やロットによって存在する命令も存在する。またシステム関連ではテストレジスタにTR3,TR4,TR5が追加されているため、これらを読み書きするMOV命令にもそれらに対応した新たなコードが有効になっている。
当初80486で32ビットのフラグレジスタ (EFLAGS) に追加されたフラグは上述のAC (Alignment check) だけだったが、上述のように後にCPUID命令の判別フラグも追加されている。
なおACビットはアラインメント(整列)チェックに使われるフラグである。80486では新たに例外17 (0x11) のフォールトとしてアラインメントチェック割り込みが新設されている。例えばワードデータなのに奇数アドレスといった非整列なオペランドを検知するなどした場合にこの割り込みが発生する。この機能を有効にするには現在の特権レベル (CPL) が3である必要があり、さらにフラグレジスタのACフラグのほかに、CR0レジスタに追加されたAM (Alignment mask) ビットを適切にセットしておく必要がある。
CR0・CR3レジスタのいくつかのビットには機能が追加された。
以下のPWTとPCDはページング有効時に、ページングされないバスサイクル中に外部ピンに出力される。
またテストレジスタにはCPUキャッシュのテストに使われるTR3・TR4・TR5が追加された。さらにTR7レジスタにもPL,LRU,PWT,PCDの各ビットが新たに設けられた。
デバッグレジスタにおいては80386ではDR7レジスタのLE・GEビットがセットされていると実行速度を落とす仕様があったが、80486ではこのビットが無視されるようになり、L0-L3がG0-G3のどれかがセットされていれば実行速度を落とすように変更された。 | [
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"text": "デバッグレジスタにおいては80386ではDR7レジスタのLE・GEビットがセットされていると実行速度を落とす仕様があったが、80486ではこのビットが無視されるようになり、L0-L3がG0-G3のどれかがセットされていれば実行速度を落とすように変更された。",
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] | Intel486(インテルよんはちろく)は、インテルのx86系マイクロプロセッサで、386の後継製品である。 当初の名称は「80486」で、後に廉価版の「486SX」をラインナップに追加した際に、従来の80486を「486DX」と改名し、同時にそれらの総称として「i486」の商標を使うようになった。"i" を付けたのは、米国では番号だけの名前は商標権を取れない(登録できない)ためである。インテルが現在使用している名称はIntel486プロセッサ である。 | {{出典の明記|date=2018-01-01}}
{{Infobox CPU
| 名称 = 486
| 画像 = Intel 80486DX-33.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像の説明 = Intel486 DX-33
| 生産開始 = 1989年4月
| 生産終了 = 2007年9月28日
| 生産者 = Intel, IBM, AMD, [[テキサス・インスツルメンツ]], [[:en:Harris_Corporation|Harris_Semiconductor]], [[UMC]], [[STマイクロエレクトロニクス|SGSトムソン]]
| 最低周波数 = 16
| 最高周波数 = 100
| 最低周波数単位 = MHz
| 最高周波数単位 = MHz
| 最大プロセスルール = 1μm
| 最小プロセスルール = 0.6μm
| 命令セット = [[x86]] ([[IA-32]]) including x87 (except for "SX" models)
| ソケット = [[Socket 1]], [[Socket 2]], [[Socket 3]]
| パッケージ = PGA
196ピン PQFP
208ピン SQFP
|FSB最低周波数=16|FSB最低単位=Mhz|FSB最高周波数=50|FSB最高単位=Mhz|コプロセッサ=[[X87#Intel487|Intel 80487SX]]|前世代プロセッサ=[[Intel 80386]]|次世代プロセッサ=[[Intel Pentium (1993年)]]}}
'''Intel486'''(インテルよんはちろく)は、[[インテル]]の[[x86]]系[[マイクロプロセッサ]]で、[[Intel 80386|386]]の後継製品である。
当初の名称は「80486」で、後に廉価版の「486SX」をラインナップに追加した際に、従来の80486を「[[Intel486 DX|486DX]]」と改名し、同時にそれらの総称として「'''i486'''」の[[商標]]を使うようになった。"i" を付けたのは、米国では番号だけの名前は商標権を取れない(登録できない)ためである。インテルが現在使用している名称は'''Intel486プロセッサ''' (Intel486 Processor) である。
== 概要 ==
[[ファイル:80486dx2-large.jpg|thumb|486DX2 チップ本体のクローズアップ]]
486は[[Intel 80386|386]]の上位ないし後継の[[x86]][[マイクロプロセッサ]]である。基本的な[[命令セット]]は386と同様に[[IA-32]]と後に呼ばれることになったもので、BSWAPなどいくつかの命令の追加がある。
実装としては、性能向上を重視した全くの新設計である。他に、新アーキテクチャの最初の実装のため386で発覚したいくつかの問題点の修正、[[FPU|NDP]](数値演算コプロセッサ)の標準での内蔵、x86系としては初のオンダイキャッシュ、などが主な特徴に挙げられる。なお、NDPを内蔵しない廉価版もある。
比較的複雑なx86およびIA-32命令セットを実装するため、8086以降386までは機能のほぼ全てを[[マイクロプログラム方式]]で実装していた。しかし、[[RISC]]ブームなどもあり、インテルとしても性能向上は至上命題だったことから、ほとんどの[[命令 (コンピュータ)|命令]]を[[ワイヤードロジック]]による実行とし、5段[[命令パイプライン|パイプライン]]も動作周波数の向上を狙ったものである。周波数の向上と同時に、多くの命令のサイクル数も386と比べ大幅に削減され、基本的な命令は1サイクルとなった。またあまり本質的ではないが、当時の利用者にとって影響が大きかったものとしては[[仮想86モード]]中での入出力命令の高速化などもある。なお、乗算だけは42サイクルとなり386より1クロック遅くなった。ただし、複雑な動作を行う一部の命令についてはマイクロプログラムを併用している。浮動小数点モジュールは、統合によるオーバヘッドの削減による高速化のみで、パイプライン化はしていない。
== 80486の判別 ==
486系のプロセッサではロットによって[[CPUID]]命令を搭載しているものとそうでないものが混在しており、インテルはフラグレジスタを用いた判別法を示している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.intel.co.jp/content/dam/www/public/ijkk/jp/ja/documents/developer/Processor_Identification_071405_i.pdf|title=インテル(R) プロセッサの識別とCPUID命令|publisher=インテル|format=PDF|accessdate=2017-12-23|language=英語・日本語}}</ref>。
CPUID命令の有無は32ビットフラグレジスタ (EFLAGS) の第21ビットで確認できるようになっており、このビットが変更可能であれば、CPUID命令でプロセッサの種類を判別できる。ただしEFLAGSの上位ビットは80386以上のプロセッサにしか存在しないため、事前に80386以上のプロセッサであることを確認してからアクセスする必要がある(詳細は[[Intel 80386]]を参照)。
CPUID命令が使用できない場合でも80486で追加されたEFLAGS第18ビットのAC (Alignment check) フラグで80386と80486は区別でき、このビットがセット可能であれば80486以上のプロセッサであると判断できる。また80386と同様に、286方式でリセットしたときのDXレジスタの内容からCPUIDにおけるEAX=1相当のプロセッサ・シグニチャの情報を得られる場合がある(詳細は[[Intel 80286]]およびIntel 80386を参照)。
== 80486の追加命令 ==
80486では公式には6個の一般命令が追加されており、うち3つがCPUキャッシュ関連である。そのほか、前述の<CODE>CPUID</CODE>のように非公開命令やロットによって存在する命令も存在する。またシステム関連ではテストレジスタにTR3,TR4,TR5が追加されているため、これらを読み書きするMOV命令にもそれらに対応した新たなコードが有効になっている。
=== 一般命令 ===
BSWAP (Byte swap)
CMPXCHG (Compare and exchange)
INVD (Invalidate cache)
INVLPG (Invalidate TLB entry)
WBINVD (Write back and invalidate cache)
XADD (Exchange and add)
== システム関連レジスタ ==
当初80486で32ビットのフラグレジスタ (EFLAGS) に追加されたフラグは上述のAC (Alignment check) だけだったが、上述のように後にCPUID命令の判別フラグも追加されている。
なおACビットはアラインメント(整列)チェックに使われるフラグである。80486では新たに例外17 (0x11) のフォールトとしてアラインメントチェック割り込みが新設されている。例えばワードデータなのに奇数アドレスといった非整列なオペランドを検知するなどした場合にこの割り込みが発生する。この機能を有効にするには現在の特権レベル (CPL) が3である必要があり、さらにフラグレジスタのACフラグのほかに、CR0レジスタに追加されたAM (Alignment mask) ビットを適切にセットしておく必要がある。
CR0・CR3レジスタのいくつかのビットには機能が追加された。
* CD (Cache disable) - CR0の第30ビット。CPUキャッシュを無効化。
* NW (Not write-through) - CR0の第29ビット。キャッシュのライトスルー機能などを無効化。
* AM (Alignment mask) - CR0の第18ビット。アラインメントチェックを無効化。
* WP (Write protect) - CR0の第16ビット。スーパーバイザモード(特権命令を含む全命令の実行を可能にする)でのユーザーレベルページの書き込みを制限する。
* NE (Numeric exception) - CR0の第5ビット。割り込みコントローラ8259A経由での数値演算エラーの通知を無効化し、本来の割り込み16で通知する。FPUが無効化されている486SXでもこのビットは変更可能だが、386コアをベースとした他社製486互換プロセッサはその限りではない。
以下のPWTとPCDはページング有効時に、ページングされないバスサイクル中に外部ピンに出力される。
* PWT (Page write-through) - CR3の第4ビット。プロセッサのPWTピンに出力され、外部キャッシュのライトスルー制御に使用される。
* PCD (Page cache disable) - CR3の第3ビット。プロセッサのPCDピンに出力され、外部キャッシュの制御に使用される。
またテストレジスタにはCPUキャッシュのテストに使われるTR3・TR4・TR5が追加された。さらにTR7レジスタにもPL,LRU,PWT,PCDの各ビットが新たに設けられた。
デバッグレジスタにおいては80386ではDR7レジスタのLE・GEビットがセットされていると実行速度を落とす仕様があったが、80486ではこのビットが無視されるようになり、L0-L3がG0-G3のどれかがセットされていれば実行速度を落とすように変更された。
== バリエーション ==
;[[Intel486 DX]]
:当初のラインナップ。当初は「80486」と呼ばれ、後に「486SX」が登場した時から「486DX」と呼ばれるようになった。
;486SX
:数値演算コプロセッサ機能無効の廉価版
;[[IntelDX2]]
:DXの2倍クロックダブリング。当初の名称は「486DX2」。
;DX4
:DXの3倍クロックダブリング。
;SX2
:SXの2倍クロックダブリング
;486SL
:486DXの省電力版(名称が似ているが、486SXの省電力版ではない)
=== 内部が486の製品 ===
[[ファイル:Intel_486_dx2_overdrive_2007_03_27.jpg|thumb|Intel 486DX2 ODP]]
;[[オーバードライブプロセッサ]]
:486DXや486SXを486DX2相当に変更する DX2ODP
:486DXや486SXを486DX4相当に変更する DX4ODP
:486SXを486SX2相当に変更する SX2ODP
;数値演算[[コプロセッサ]]
:486SXと組み合わせ486DX相当を実現する [[Intel487|487]]SX
:486SX2と組み合わせ486DX2相当を実現する 487SX2
;{{仮リンク|RapidCAD|en|RapidCAD}}
:80386ピン互換の486DX相当プロセッサ。486コアはFPUを内蔵しているため、[[x87#Intel 80387|80387]]のソケットにはダミーを挿して使う<ref>{{Cite web|和書|url=https://ascii.jp/elem/000/000/809/809566/3/|title=Intel 8087からRapidCADまで コプロセッサーの歴史|publisher=ASCII.jp|date=2013-07-22|accessdate=2020-03-29}}</ref>。
== 発売履歴 ==
*[[1989年]]: 80486発売(後に486DXと呼ばれるようになった)。
*[[1991年]]: 486SX発売。内蔵されていた数値演算コプロセッサの機能を無効化し、普及製品として価格を抑えたもの。外部バスはアドレス/データ共に32ビットのままであり、[[Intel486 DX|486DX]]とピン配置もほぼ同じである。また、486SX搭載機に後から浮動小数点演算機能を追加する目的で[[Intel487|487]]SXが登場したが、従来の[[Intel 8087|x87]]的コプロセッサではなく、486DXの機能を全て含んでおり、内部的に同じものである。487SXを接続すると、従来の486SX CPU側は機能を停止する(この機能は後の486ベースのODPに活用された)。
*[[1992年]]: [[IntelDX2|486DX2]]発売。486DXに[[クロックダブラ]]を内蔵し、内部クロックを2倍にし、システムクロック周波数はそのままにしたもの。周辺チップなどを高速なシステムクロックに対応させる必要なく、486DXで使用されていた周辺回路をそのまま利用してシステムを組むことが出来る。
*[[1992年]]: 486SX2発売。486SXの内部クロックを2倍にしたもの。
*[[1994年]]: IntelDX4発売。1次キャッシュメモリ容量を従来製品の2倍の16KBに増やし、486DXの内部クロックを3倍にした。低電力モードが導入された<ref>{{Cite web|和書|title=C-Stateとは? {{!}} Dell 日本|url=https://www.dell.com/support/kbdoc/ja-jp/000060621/c-state%E3%81%A8%E3%81%AF|website=www.dell.com|accessdate=2021-04-18}}</ref>。密かに乗算命令も高速化された。3倍なのにDX3ではない理由は、2.5倍での設定も可能であり、単なる3ではないことを意図している。名称に「Intel」と、従来の「i」よりさらに長いプレフィックスを含めたのは、他社の類似製品名との差別化と、商標権を主張しにくい単なる数字と記号の羅列を避けたため。同時に486DX2や486SX2もIntelDX2やIntelSX2と改称している。
== 互換他社製品 ==
=== 正規 ===
;IBM 486SLC
:インテルと[[IBM]]の提携に基づく、IBMによる改良・製造版。[[IBM 386SLC]]をベースに内蔵キャッシュを16Kに増やし、486SLと同レベルの性能を実現したもの。名称より「486SLベース」との誤解が多いがコアは386SLベースである。名称の「C」はCacheの略とも言われる。インテル版に相当する「i486SLC」は存在しない。
;IBM 486SLC2
:IBM 486SLCの内部クロック倍増版。50/25(内部50MHz、外部25MHz)など。
;IBM 486DX4
:インテルと[[IBM]]の提携に基づく、IntelDX4のIBM製造版。
;IBM 486DLC3(IBM 486BL - Blue Lightning)
:インテルと[[IBM]]の提携に基づく、486SL (486SX) ベースの内部クロック3倍速版。1次キャッシュ16Kを内蔵し、386DXピン互換では最高速と言われた。通称IBM Blue Lightning(青い稲妻)のため「486BL」とも呼ばれた。({{要出典範囲|当時IBMはPowerPC推進のため、Pentium以後の製造ライセンスは結ばず、自社PCにもPentium採用は遅らせたため、代わりに486ベースの改良版で対抗した|date=2023年7月}})
;486SX(J)
:[[日本電気]]とインテルジャパンが共同設計した486SXベースのCPU。ノートPC向けに省電力化が図られている。このほかに、486DXベースの486DX (J) が存在する。いずれもデータバスが16ビットとなっており、386SX用マザーボードの製造技術が流用出来た。
=== 非正規 ===
==== AMD ====
{{Main|Am486}}
;AMD Am486SX
;AMD Am486DX
;AMD Am486DX2
:[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ]] (AMD) が開発した、486互換プロセッサ。それぞれ486SX、486DX、486DX2相当。
;AMD Am486DX4
:アドバンスト・マイクロ・デバイセズ (AMD) が開発した、486互換プロセッサ。DX4相当の3倍速動作だが、一次キャッシュがIntelのDX4より少ない8KB止まりの製品もある。
;AMD [[Am5x86]] (後にAm486DX5と改名)
:アドバンスト・マイクロ・デバイセズ (AMD) が開発した、486互換プロセッサ。システムクロックの4倍で動作。
==== Cyrix ====
{{Main|w:Cyrix Cx486}}
;Cyrix Cx486S
;Cyrix Cx486DX
;Cyrix Cx486DX2
;Cyrix Cx486DX4
:[[サイリックス]]が開発した、486互換プロセッサ。従来の[[Cyrix Cx486DLC|Cx486DLC]]/Cx486DRx2とは違い、i486ピン互換となった。それぞれ486SX、486DX、486DX2、486DX4相当。DX2相当品ではIntel版には無い80MHz版が存在した。
;Cyrix [[Cyrix Cx5x86|Cx5x86]]
:サイリックスが開発した、486互換プロセッサ。486とピン互換ではあるものの、内部は Cyrix [[Cyrix 6x86|6x86]] ・ AMD [[AMD K5|K5]] ・ インテル [[Intel Pentium (1993年)|Pentium]] のような第五世代のプロセッサと多くの共通点を持ち、486や他の486互換プロセッサとは基本的な設計から異なっている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 参考文献 ==
* 成田佳應「80x86/x87 ハンドブック」ナツメ社(1995年)。ISBN 9784816318344
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Intel i486}}
*[http://www.intel.com/jp/intel/museum/hof/486.htm - インテルミュージアム - 486画像]
{{Intel_processors}}
{{Normdaten}}
[[Category:インテルのx86マイクロプロセッサ|486]] | 2003-02-22T17:57:35Z | 2023-09-27T05:27:08Z | false | false | false | [
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2,728 | IEEE | IEEE(アイ・トリプル・イー、Institute of Electrical and Electronics Engineers)は、アメリカ合衆国に本部を置く電気・情報工学分野の学術研究団体(学会)、技術標準化機関である。日本語では米国電気電子学会、米国電気電子技術者協会とも。
会員の分布、活動は全世界的規模に及び、この種の専門職団体として世界最大規模である。
ニューヨークに本部、ニュージャージー州ピスカタウェイ(英語版)に事務局を置く。1963年にアメリカ電気学会(AIEE)と無線学会(IRE)の合併により発足した。
対象とする分野は、電気工学を源流とする通信・電子・情報工学とその関連分野に及ぶ。学会の目的は、電気および電子工学、電気通信、情報工学ならびに関連分野の教育的・技術的進歩である。専門分野ごとに計39の分科会を持ち、それぞれに会誌(科学学術雑誌)を発行している。
2018年時点で、世界最大の学術研究団体であり、世界160か国以上に423,000人以上の会員がいる。
法律上のビジネス文書を除いて、単にIEEEと表記し、「アイ・トリプル・イー」と呼ばれることが多い。IEEEの公式な日本語名称は無いが、1999年6月に設立された日本カウンシルにおいて、IEEEと表記するという決定がなされた。他の学会と区別する必要があるときは、アメリカに本部があることを付記することが推奨されている。日本の報道では「米国電気電子学会」と記述されることが多いようである。
IEEEは、電気・電子工学および情報工学の分野で世界の30%以上の文献を発行し、100以上の査読付き論文誌を出版し、1800以上の会議やイベントを後援している。
これらの論文誌に掲載されているコンテンツや、IEEEが後援する年次会議のコンテンツは、IEEEオンラインデジタルライブラリーおよび研究データベースであるIEEE Xplore(英語版)で利用でき、購読ベースのアクセスや、個々に出版物を購入することができる。
雑誌や会議録のほか、IEEEは標準化委員会が作成したチュートリアルや標準も発行している。
IEEEは、基礎科学、研究、技術についての学習の機会を提供する。
IEEEは、IEEE e Learning Library、Education Partners Program、Standards in Education、Continuing Education Units (CEUs).などの教育機会を提供している。
IEEE eLearning Libraryは、自習型学習のために設計されたオンライン教育コースのコレクションである。IEEE会員専用のEducation Partnersは、オンライン学位のプログラム、認定資格、コースを10%割引で提供している。Standards in EducationのWebサイトでは、標準とは何かや、それを開発して使用することの重要性について説明している。このサイトには、標準の歴史、基本的な用語、それらの応用と製品への影響を紹介するチュートリアルモジュールとケース図、標準に関するニュース、書評、標準に関する情報を含む他のサイトへのリンクが含まれている。現在、アメリカ合衆国の29州は、PE(Professional Engineering)の資格を維持するためにProfessional Development Hours(PDH)の受講を要求しており、技術者が継続教育プログラムに参加するためにContinuous Education Unit(CEU)を探すよう奨励している。 CEUは容易にProfessional Development Hours(PDH)に変換でき、1 CEUは10 PDHに相当する。南アフリカなど、米国以外の国でも同様にcontinuing professional development(CPD)クレジットが必要である。また、IEEE Expert Nowコースは南アフリカのCPDリストにも含まれる予定である。
IEEEはまた、若者が工学を理解しやすくするためのWebサイトや、工学のキャリアを自分の将来の一部にする方法を後援している。8歳から18歳までの学生、保護者、教師は、このサイトで工学者になるための準備、工学に関する専門家に対する質問、カリキュラムのリンクの閲覧、授業計画の見直しを行うことができる。このウェブサイトでは、学生はカナダと米国で認定された工学学位プログラムを検索することもできる。
IEEEは、学生活動委員会を通じて学生活動と他のIEEE団体との間のパートナーシップを促進する。
IEEEは標準化活動(規格の制定)を行っている。標準化に関する活動は、内部組織のIEEE Standards Association(IEEE-SA)が行っている。この学会が定めた規格の名称は"IEEE"で始まる。
LAN(Local Area Network)に関するIEEE802シリーズは広く普及しており、著名である。
IEEE会員のほとんどは電気・電子・情報工学の研究者であるが、学会が幅広い分野を対象としていることからそれ以外の分野(機械工学、土木工学、物理学、数学、生物学など)の学生・研究者の会員も存在する。
個人は、student member(学生会員)、professional member(普通会員)、associate member(準会員)のいずれかの会員資格でIEEEに加盟できる。会員資格を得るには、特定の学術的または職業的基準を満たし、学会の倫理規定および細則に従わなければならない。IEEEのメンバーシップと所属にはいくつかの種類とグレードがある。上級会員以下の会員資格は自己申請によるが、審査がある。 本説明でいうところの大学・大学院の課程、職業経験にはIEEEに指定・認定されたものを指す。
IEEEは電気電子工学に関する賞を主催し、授与する活動を行っている。
など様々なメダル(medals)や技術部門賞(technical field awards)がある。
IEEEには39のテクニカルソサイエティ(technical society、技術分科会)があり、それぞれ特定の技術分野について焦点を当てている。各ソサイエティは、専門の出版物、技術会議などの各種サービスを提供する。
IEEEのテクニカルカウンシル(technical council、技術評議会)は、より広い知識分野に関する複数のソサイエティによるコラボレーションである。現在、7つのテクニカルカウンシルがある。
新しいイノベーションへの迅速な対応を可能にするために、IEEEはソサエティやカウンシルの上にテクニカルコミティ(technical committee、技術委員会)を組織することもできる。現在、20を超えるコミティがある。
IEEE財団(The IEEE Foundation)は、1973年に設立された慈善財団であり、技術教育、技術革新、卓越した研究者を支援している。IEEEとは密接な関係があるが、IEEEとは別の組織である。財団の理事会の役員は、IEEEの活発な会員である必要があり、その3分の1は、IEEE理事会の現役員または元役員でなければならない。
当初、IEEE財団の役割は、IEEE顕彰プログラムのための寄付を受け入れて管理することだったが、寄付はその目的に必要な額を超え、対象範囲が広がった。財団はまた、無制限基金の勧誘と管理に加えて、特定の教育・人道・歴史的保存、およびIEEEのピア認定プログラムを支援する対象指定基金も管理している。2014年末現在、同財団の総資産は約4,500万ドルで、無制限基金と対象指定基金に均等に配分されている。 | [
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] | IEEEは、アメリカ合衆国に本部を置く電気・情報工学分野の学術研究団体(学会)、技術標準化機関である。日本語では米国電気電子学会、米国電気電子技術者協会とも。 会員の分布、活動は全世界的規模に及び、この種の専門職団体として世界最大規模である。 | {{Infobox organization
| type = {{仮リンク|専門職団体|en|Professional association}}
| key_people = José M F Moura, 会長兼CEO, [[福田敏男]](2020年会長)
| name = Institute of Electrical and Electronics Engineers
| founded_date = {{start date and age|1963|1|1}}
| tax_id = 13-1656633<ref name= 990-2017>"[https://www.ieee.org/content/dam/ieee-org/ieee/web/org/corporate-communications/2017-irs-form-990-ieee.pdf Form 990: Return of Organization Exempt from Income Tax 2017]". ''Institute of Electrical and Electronics Engineers, Inc''.</ref>
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| focus = [[電気工学]]、[[電子工学]]、[[通信工学]]、[[情報工学]]<ref name="tab_operations_manual_objectives">{{cite web |url=//www.ieee.org/about/volunteers/tab_operations_manual.pdf |title=IEEE Technical Activities Board Operations Manual |publisher=IEEE |access-date=December 7, 2010 |archive-url=https://web.archive.org/web/20110910124557/http://www.ieee.org/about/volunteers/tab_operations_manual.pdf |archive-date=2011-09-10 |dead-url=yes}}, section 1.3 Technical activities objectives</ref>
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| homepage = {{URL|www.ieee.org}}
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}}
'''IEEE'''(アイ・トリプル・イー、'''Institute of Electrical and Electronics Engineers''')は、[[アメリカ合衆国]]に本部を置く電気・情報工学分野の学術研究団体(学会)、技術[[標準化機関]]である。日本語では'''米国電気電子学会'''、'''米国電気電子技術者協会'''とも。
会員の分布、活動は全世界的規模に及び、この種の{{仮リンク|専門職団体|en|Professional association}}として世界最大規模である。
==概要==
[[ニューヨーク]]に本部<ref>{{cite web |title=IEEE |website=MITcoe.ac.in (MIT College of Engineering SB, Pune) |url=http://mitcoe.ac.in/ieee|quote=MIT College of Engineering SB, Pune represents the student branch for an ... (IEEE) is a professional association with its corporate office in New York City|access-date=2019-02-15}}</ref>、[[ニュージャージー州]]{{仮リンク|ピスカタウェイ (ニュージャージー州)|en|Piscataway, New Jersey|label=ピスカタウェイ}}に事務局を置く。1963年に[[アメリカ電気学会]](AIEE)と[[無線学会]](IRE)の合併により発足した<ref>{{cite web
|title=IRE - Institute of Radio Engineers (old name for IEEE) |website=[[AcronymFinder]]
|url=https://www.acronymfinder.com/Institute-of-Radio-Engineers-(old-name-for-IEEE)-(IRE).html
|quote=IRE is defined as Institute of Radio Engineers (old name for IEEE) ... Engineers (AIEE) and the Institute of Radio Engineers (IRE) in 1963.
|access-date=2019-02-15}}</ref>。
対象とする分野は、[[電気工学]]を源流とする通信・電子・情報工学とその関連分野に及ぶ。学会の目的は、[[電気工学|電気および電子工学]]、[[電気通信]]、[[情報工学]]ならびに関連分野の教育的・技術的進歩である<ref>{{cite web|url=http://www.ieee.org/about/ieee_history.html |title=History of |publisher=IEEE |date= |access-date=2017-03-18}}</ref>。専門分野ごとに計39の分科会<ref>{{lang-en-short|society}}</ref>を持ち、それぞれに会誌([[科学学術雑誌]])を発行している。
2018年時点で、世界最大の学術研究団体であり<ref>{{cite web |website=PETengg.ac.in (PET Engineering College)
|title=IEEE Students Branch - PET Engineering College
|url=http://www.petengg.ac.in/forum_ieee.php
|quote=The Institute of Electrical and Electronics Engineers (IEEE) is a professional association ... Today, it is the world's largest association of technical professionals ...
|access-date=2019-02-15}}</ref><ref>{{cite web |website=PES University |title=IEEE |url=http://pes.edu/ieee/ieee
|quote=IEEE, an association dedicated to advancing innovation and technological excellence for the benefit of humanity, is the world's largest technical professional ...|access-date=2019-02-15}}</ref>、世界160か国以上に423,000人以上の会員がいる<ref>{{cite web |title=About IEEE |url=https://www.ieee.org/about/index.html |website=www.ieee.org|access-date=2019-02-15}}</ref>。
法律上のビジネス文書を除いて、単にIEEEと表記し、「アイ・トリプル・イー」と呼ばれることが多い。IEEEの公式な日本語名称は無いが、[[1999年]]6月に設立された日本カウンシルにおいて、'''IEEE'''と表記するという決定がなされた<ref>[http://www.ieee-jp.org/section/tokyo/adm/info/faq.htm#A3 FAQ A3]</ref>。他の学会と区別する必要があるときは、アメリカに本部があることを付記することが推奨されている。日本の報道では「'''米国電気電子学会'''」と記述されることが多いようである。
==出版物==
{{Main|en:List of Institute of Electrical and Electronics Engineers publications}}
IEEEは、電気・電子工学および情報工学の分野で世界の30%以上の文献を発行し、100以上の[[学術雑誌|査読付き論文誌]]を出版し<ref>{{cite web |title=Anthony's Individual Webpage |url=http://pitt.edu/~ada41/interestingsocieties.html
|quote=The Institute of Electrical and Electronics Engineers is dedicated to advancing ... They probide('''sic''') learning opportunities on engineering sciences and technology. ... as the IEEE 802.3 Ethernet standard; They also produce over 30% of the world's ... and computer science fields, publishing well over 100 peer-reviewed journals.|access-date=2019-02-16}}</ref><ref name="about_IEEE">{{cite web|url=http://www.ieee.org/about|title=About |publisher=IEEE |date= |access-date=2017-03-18}}</ref>、1800以上の会議やイベントを後援している。
これらの論文誌に掲載されているコンテンツや、IEEEが後援する年次会議のコンテンツは、IEEEオンラインデジタルライブラリーおよび研究データベースである{{仮リンク|IEEE Xplore|en|IEEE Xplore}}<ref name="Rut.X">{{cite web|url=https://www.libraries.rutgers.edu/indexes/ieee|title=IEEE Xplore|website=rutgers.edu|quote=IEEE Xplore ... a collaboration between the Institute of Electrical and Electronics Engineers(IEEE)in the US and the Institution of Engineering and Technology(IET) in the UK. It covers more than 30% of the world's ... Dates covered: 1988 to the present with select titles back to 1913.|access-date=2019-02-16}}</ref>で利用でき、購読ベースのアクセスや、個々に出版物を購入することができる<ref>{{cite web|author=First Name / Given Name Family Name / Last Name / Surname |url=http://ieeexplore.ieee.org |title=IEEE Xplore Digital Library |website=Ieeexplore.ieee.org |date= |access-date=2017-03-18}}</ref>。
雑誌や会議録のほか、IEEEは標準化委員会が作成したチュートリアルや標準も発行している。
==教育活動==
IEEEは、基礎科学、研究、技術についての学習の機会を提供する。
IEEEは、''IEEE e Learning Library''<ref>{{cite web|url=http://www.ieee.org/publications_standards/publications/subscriptions/prod/elearning_overview.html |title=IEEE Xplore Subscription Options | IEEE eLearning Library |website=Ieee.org |date= |access-date=2017-03-18}}</ref>、''Education Partners Program''<ref>{{cite web |url=http://www.ieee.org/web/education/partners/eduPartners.html |title=Education |publisher=IEEE |date= |access-date=2017-03-18 |archive-url=https://web.archive.org/web/20100315064811/http://www.ieee.org/web/education/partners/eduPartners.html |archive-date=2010-03-15 |dead-url=yes}}</ref>、''Standards in Education''<ref>{{cite web|url=http://www.ieee.org/portal/cms_docs/education/setf/index.html |title=Standards |publisher=IEEE |date= |access-date=2017-03-18}}</ref>、''Continuing Education Units'' (CEUs).<ref>{{cite web |url=http://www.ieee.org/web/education/ceus/index.html |title=Education |publisher=IEEE |date= |access-date=2017-03-18 |archive-url=https://web.archive.org/web/20090308125133/http://www.ieee.org/web/education/ceus/index.html |archive-date=2009-03-08 |dead-url=yes}}</ref>などの教育機会を提供している。
''IEEE eLearning Library''は、自習型学習のために設計されたオンライン教育コースのコレクションである。IEEE会員専用の''Education Partners''は、オンライン学位のプログラム、認定資格、コースを10%割引で提供している。''Standards in Education''のWebサイトでは、標準とは何かや、それを開発して使用することの重要性について説明している。このサイトには、標準の歴史、基本的な用語、それらの応用と製品への影響を紹介するチュートリアルモジュールとケース図、標準に関するニュース、書評、標準に関する情報を含む他のサイトへのリンクが含まれている。現在、[[アメリカ合衆国]]の29州は、[[PE]](Professional Engineering)の資格を維持するためにProfessional Development Hours(PDH)の受講を要求しており<ref>{{cite web |title=Professional Engineering CE Requirements by State
|url=https://pdhacademy.com/state-requirements/pe-state-requirements/
|quote=Effective March 1, 2015 Florida Professional Engineers are required to complete 18 hours of continuing education to renew their licenses|access-date=2019-02-16}}</ref><ref>{{cite web
|title=Maintaining a License |website=NSPE.org (National Society of Professional Engineers)
|url=https://www.nspe.org/resources/licensure/maintaining-license
|quote=For dedicated professional engineers, earning a PE license is just the beginning. ... Continuing Education Requirements for Professional Engineers ...|access-date=2019-02-16}}</ref>、技術者が継続教育プログラムに参加するためにContinuous Education Unit(CEU)を探すよう奨励している。
CEUは容易にProfessional Development Hours(PDH)に変換でき、1 CEUは10 PDHに相当する。南アフリカなど、米国以外の国でも同様にcontinuing professional development(CPD)クレジットが必要である。また、''IEEE Expert Now''コースは南アフリカのCPDリストにも含まれる予定である。
IEEEはまた、若者が工学を理解しやすくするためのWebサイトや、工学のキャリアを自分の将来の一部にする方法を後援している。8歳から18歳までの学生、保護者、教師は、このサイトで工学者になるための準備、工学に関する専門家に対する質問、カリキュラムのリンクの閲覧、授業計画の見直しを行うことができる。このウェブサイトでは、学生はカナダと米国で認定された工学学位プログラムを検索することもできる。
IEEEは、学生活動委員会を通じて学生活動と他のIEEE団体との間のパートナーシップを促進する<ref>{{cite web|url=http://www.ieee.org/membership_services/membership/students/activities_committee.html |title=MGA Student Activities Committee (SAC) |publisher=IEEE |date= |access-date=2017-03-18}}</ref>。
== IEEEによる標準化 ==
{{Main|IEEE Standards Association}}
IEEEは[[標準化]]活動(規格の制定)を行っている。標準化に関する活動は、内部組織の[[IEEE Standards Association]](IEEE-SA)が行っている。この学会が定めた規格の名称は"IEEE"で始まる。
[[LAN|LAN(Local Area Network)]]に関する[[IEEE_802|IEEE802]]シリーズは広く普及しており、著名である。
==会員資格==
IEEE会員のほとんどは電気・電子・情報工学の研究者であるが、学会が幅広い分野を対象としていることからそれ以外の分野([[機械工学]]、[[土木工学]]、[[物理学]]、[[数学]]、[[生物学]]など)の学生・研究者の会員も存在する。
個人は、student member(学生会員)、professional member(普通会員)、associate member(準会員)のいずれかの会員資格でIEEEに加盟できる。会員資格を得るには、特定の学術的または職業的基準を満たし、学会の倫理規定および細則に従わなければならない。IEEEのメンバーシップと所属にはいくつかの種類とグレードがある。上級会員以下の会員資格は自己申請によるが、審査がある。 本説明でいうところの大学・大学院の課程、職業経験にはIEEEに指定・認定されたものを指す。
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!colspan=2 style="width:30%"|会員資格!!記号!!概要
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|Student Member||学生会員||S||大学学部の学生の会員資格。IEEEの指定する学科目を通常の学業の50%以上の割合で履修している必要がある。会費等が割引になる<ref name="ieeejp-kaiin">{{Cite web|和書|url=https://ieee-jp.org/kaiin/faq_g.html|title=グレードについて - IEEE 日本カウンシル|access-date=2019-02-16}}</ref>。
|-
|Graduate Student Member||大学院生会員||GS||大学院の学生の会員資格。IEEEの指定する学科目を通常の学業の50%以上の割合で履修している必要がある<ref name="ieeejp-kaiin"/>。学生会員よりも高い特権を持つ。
|-
|Associate Member||準会員||A||普通会員の条件を満たさないがIEEEの分野に関心を持つ者の会員資格。
|-
|Member||普通会員||M||IEEEが指定する教育課程を終了してIEEEが指定する分野の学士号(または相当の資格)を取得しているか、IEEEが指定する分野の職業に6年以上従事している者<ref name="ieeejp-kaiin"/>。
|-
|Senior Member||上級会員||SM||一定の要件を満たすと、普通会員は上級会員への変更を申請することができる。これは、申請により得ることができる最高レベルの会員資格である。上級会員の申請者は、上級会員・フェロー・名誉会員から3通以上の推薦状を持ち、10年以上専門的業務に従事し、そのうち5年以上にわたり重要な業績を挙げることが条件となる<ref name="ieeejp-kaiin"/>。
|-
|Fellow Member||フェロー||F||合計5年以上の会員歴を持つ上級会員で、IEEEが指定する分野で著しい業績を上げた者の会員資格。最高レベルの会員資格である。自薦はできず、他薦により推挙され、IEEE理事会による審査の上で授与される<ref name="ieeejp-kaiin"/>。各年の授与数は正会員数の0.1%以内と定められている。
|-
|Life Member・Life Senior Member||生涯会員||LM||65歳以上で、年齢とIEEE会員在籍年数の合計が100年以上の会員は、会員資格の先頭に"Life"がつけられる。普通会員は"Life Member"、上級会員は"Life Senior Member"、フェローは"Life Fellow"となる<ref name="ieeejp-kaiin"/>。
|-
|Honorary Member||名誉会員||HM||IEEE会員以外で、 [[IEEE栄誉賞]]の受賞者など特別な貢献をした個人は、IEEE理事会の決定により名誉会員となることができる<ref>{{cite web |title=IEEE Honorary Membership |url=https://www.ieee.org/about/awards/recognitions/honorary-membership.html |website=www.ieee.org|access-date=2019-02-16}}</ref><ref name="ieeejp-kaiin"/>。
|}
==顕彰活動==
{{See also|en:List of IEEE awards}}
IEEEは電気電子工学に関する賞を主催し、授与する活動を行っている。
* [[IEEEマイルストーン]]
* [[IEEEアレクサンダー・グラハム・ベル・メダル]]
* [[エジソンメダル|IEEEエジソンメダル]]
* [[IEEE ジュンイチ・ニシザワメダル]]、工学者の[[西澤潤一]]の名を冠している。
* [[ハミングメダル|IEEEハミングメダル]]
* [[フォン・ノイマンメダル|IEEEフォン・ノイマンメダル]]
* [[IEEEロバート・ノイス・メダル]]
* [[IEEEファウンダーズメダル]]
* [[IEEE環境・安全技術メダル]]
* [[IEEE栄誉賞]](メダル)
* [[クロード・E・シャノン賞|IEEEクロード・E・シャノン賞]]
* [[IEEEロトフィ・A・ザデー賞]]
* [[IEEEアンドルー・グローヴ賞]]
* [[IEEE小林宏治コンピュータ&コミュニケーション賞]]
* [[IEEE井深大コンシューマー・エレクトロニクス賞]]
* [[IEEEインターネット賞]]
* [[IEEE ニコラ・テスラ賞]]
など様々なメダル(medals)や技術部門賞(technical field awards)がある。
==テクニカルソサイエティ==
IEEEには39のテクニカルソサイエティ(technical society、技術分科会)があり、それぞれ特定の技術分野について焦点を当てている。各ソサイエティは、専門の出版物、技術会議などの各種サービスを提供する<ref name="societies_list">{{cite web|url=https://www.ieee.org/communities/societies/ |title=IEEE Societies |publisher=IEEE |access-date=October 28, 2018}}</ref>。
{{Columns-list|colwidth=30em|
* {{仮リンク|IEEE Aerospace and Electronic Systems Society|en|IEEE Aerospace and Electronic Systems Society}}
* {{仮リンク|IEEE Antennas & Propagation Society|en|IEEE Antennas & Propagation Society}}
* {{仮リンク|IEEE Broadcast Technology Society|en|IEEE Broadcast Technology Society}}
* {{仮リンク|IEEE Circuits and Systems Society|en|IEEE Circuits and Systems Society}}
* {{仮リンク|IEEE Communications Society|en|IEEE Communications Society}}
* {{仮リンク|IEEE Components, Packaging & Manufacturing Technology Society|en|IEEE Components, Packaging & Manufacturing Technology Society}}
* {{仮リンク|IEEE Computational Intelligence Society|en|IEEE Computational Intelligence Society}}
* [[IEEE Computer Society]]
* {{仮リンク|IEEE Consumer Electronics Society|en|IEEE Consumer Electronics Society}}
* {{仮リンク|IEEE Control Systems Society|en|IEEE Control Systems Society}}
* {{仮リンク|IEEE Dielectrics & Electrical Insulation Society|en|IEEE Dielectrics & Electrical Insulation Society}}
* {{仮リンク|IEEE Education Society|en|IEEE Education Society}}
* {{仮リンク|IEEE Electromagnetic Compatibility Society|en|IEEE Electromagnetic Compatibility Society}}
* {{仮リンク|IEEE Electron Devices Society|en|IEEE Electron Devices Society}}
* {{仮リンク|IEEE Engineering in Medicine and Biology Society|en|IEEE Engineering in Medicine and Biology Society}}
* {{仮リンク|IEEE Geoscience and Remote Sensing Society|en|IEEE Geoscience and Remote Sensing Society}}
* {{仮リンク|IEEE Industrial Electronics Society|en|IEEE Industrial Electronics Society}}
* {{仮リンク|IEEE Industry Applications Society|en|IEEE Industry Applications Society}}
* {{仮リンク|IEEE Information Theory Society|en|IEEE Information Theory Society}}
* {{仮リンク|IEEE Instrumentation & Measurement Society|en|IEEE Instrumentation & Measurement Society}}
* {{仮リンク|IEEE Intelligent Transportation Systems Society|en|IEEE Intelligent Transportation Systems Society}}
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* {{仮リンク|IEEE Nuclear and Plasma Sciences Society|en|IEEE Nuclear and Plasma Sciences Society}}
* {{仮リンク|IEEE Oceanic Engineering Society|en|IEEE Oceanic Engineering Society}}
* {{仮リンク|IEEE Photonics Society|en|IEEE Photonics Society}}
* {{仮リンク|IEEE Power Electronics Society|en|IEEE Power Electronics Society}}
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* {{仮リンク|IEEE Product Safety Engineering Society|en|IEEE Product Safety Engineering Society}}
* {{仮リンク|IEEE Professional Communication Society|en|IEEE Professional Communication Society}}
* {{仮リンク|IEEE Reliability Society|en|IEEE Reliability Society}}
* {{仮リンク|IEEE Robotics and Automation Society|en|IEEE Robotics and Automation Society}}
* {{仮リンク|IEEE Signal Processing Society|en|IEEE Signal Processing Society}}
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* {{仮リンク|IEEE Solid-State Circuits Society|en|IEEE Solid-State Circuits Society}}
* {{仮リンク|IEEE Systems, Man & Cybernetics Society|en|IEEE Systems, Man & Cybernetics Society}}
* {{仮リンク|IEEE Ultrasonics, Ferroelectrics & Frequency Control Society|en|IEEE Ultrasonics, Ferroelectrics & Frequency Control Society}}
* {{仮リンク|IEEE Technology and Engineering Management Society|en|IEEE Technology and Engineering Management Society}}
* {{仮リンク|IEEE Vehicular Technology Society|en|IEEE Vehicular Technology Society}}
}}
== テクニカルカウンシル ==
IEEEのテクニカルカウンシル(technical council、技術評議会)は、より広い知識分野に関する複数のソサイエティによるコラボレーションである。現在、7つのテクニカルカウンシルがある<ref name="councils_list">{{cite web|url=https://www.ieee.org/communities/societies/about-technical-councils.html |title=IEEE Technical Councils |publisher=IEEE |access-date=October 28, 2018}}</ref>。
* {{仮リンク|IEEE Biometrics Council|en|IEEE Biometrics Council}}
* {{仮リンク|IEEE Council on Electronic Design Automation|en|IEEE Council on Electronic Design Automation}}
* {{仮リンク|IEEE Nanotechnology Council|en|IEEE Nanotechnology Council}}
* {{仮リンク|IEEE Sensors Council|en|IEEE Sensors Council}}
* {{仮リンク|IEEE Council on Superconductivity|en|IEEE Council on Superconductivity}}
* {{仮リンク|IEEE Systems Council|en|IEEE Systems Council}}
* IEEE Council on RFID (CRFID)<ref>{{cite web
|title=ICCE 2017 RFID Technical Track
|website=Engineering.UTulsa.edu |access-date=November 4, 2018
|url=https://engineering.utulsa.edu/icce-2017-rfid-technical-track
|quote=The IEEE Council on RFID ... a technical track at ...}}</ref>
== テクニカルコミティ ==
新しいイノベーションへの迅速な対応を可能にするために、IEEEはソサエティやカウンシルの上にテクニカルコミティ(technical committee、技術委員会)を組織することもできる。現在、20を超えるコミティがある<ref name="committee_list">{{cite web |title=Technical Committees Alphabetical • IEEE Computer Society |url=https://www.computer.org/web/tandc/technical-committees-alphabetical |website=www.computer.org |accessdate=28 October 2018}}</ref>。
== IEEE財団 ==
'''IEEE財団'''(The IEEE Foundation)<ref>{{cite web |title=IEEE Foundation, Inc. - GuideStar Profile
|url=https://www.guidestar.org/profile/23-7310664|access-date=2019-02-18}}</ref>は、1973年に設立された慈善財団であり<ref>{{cite web |title=IEEE Foundation |website=InsidePhilanthropy
|url=https://www.insidephilanthropy.com/fundraising-in-new-york-city/ieee-foundation
|quote=PROFILE: Established in 1973, the IEEE Foundation is ...|access-date=2019-02-18}}</ref>、技術教育、技術革新、卓越した研究者を支援している<ref name=IEEEFound>{{cite web |url=http://www.ieee.org/organizations/foundation/index.html |title=IEEE Foundation - Home Page - IEEE Foundation, Inc |website=Ieee.org |date= |access-date=2017-03-18 |archive-url=https://web.archive.org/web/20140218002911/https://www.ieee.org/organizations/foundation/index.html |archive-date=2014-02-18 |dead-url=yes}}</ref>。IEEEとは密接な関係があるが、IEEEとは別の組織である。財団の理事会の役員は、IEEEの活発な会員である必要があり、その3分の1は、IEEE理事会の現役員または元役員でなければならない。
当初、IEEE財団の役割は、IEEE顕彰プログラムのための寄付を受け入れて管理することだったが、寄付はその目的に必要な額を超え、対象範囲が広がった。財団はまた、無制限基金の勧誘と管理に加えて、特定の教育・人道・歴史的保存、およびIEEEのピア認定プログラムを支援する対象指定基金も管理している<ref name=IEEEFound />。2014年末現在、同財団の総資産は約4,500万ドルで、無制限基金と対象指定基金に均等に配分されている<ref>[https://web.archive.org/web/20060716044529/http://www.ieee.org/organizations/foundation/overview.html ]</ref>。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
==関連項目==
* [[標準化団体]]
* [[電子情報技術産業協会]](JEITA) - 日本の標準化団体。
==外部リンク==
*[https://www.ieee.org/ IEEE - The world's largest technical professional organization dedicated to advancing technology for the benefit of humanity.] {{en icon}}
*[https://www.ieee-jp.org/ IEEE Japan Council | 日本カウンシル] - IEEEの日本代表組織
*[https://www.ieee-jp.org/hyosho.html IEEE表彰制度] - 受賞者の一覧
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:IEEE}}
[[Category:IEEE|*]]
[[Category:工学系学会]]
[[Category:国際NGO]]
[[Category:アメリカ合衆国の非営利組織]]
[[Category:1963年設立の組織]]
[[Category:ニューヨーク市の組織]] | 2003-02-22T20:46:13Z | 2023-11-03T00:38:40Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/IEEE |
2,730 | 無線LAN | 無線LAN(むせんラン)とは、無線通信を利用して構築されるLANである。ワイヤレスLAN (Wireless LAN, WaveLAN)、もしくはそれを略してWLANとも呼ばれる。無線LANの通信方式には様々なものがあるが、著名な無線LANの規格としてIEEE 802.11があり、Wi-Fi(ワイファイ)は、その規格を使用する無線LANに関する登録商標である。
無線LANが普及する以前は、IrDA規格に準拠した赤外線通信がワイヤレス通信の主な手段であり、ノートパソコンや携帯電話、ICカード式公衆電話に搭載されていた。その後、IEEE 802.11が標準化され、1998年頃から、メーカーごとに策定中の規格を元に無線LAN機器として製品化されていた。しかし2Mbps程度と低速であり価格が高く、メーカーが異なると相互に接続できない等の問題があり、広く普及することはなかった。
IEEE 802.11bでは通信速度が11Mbpsに改善される予定であったが、当時はIEEE 802.11機器の価格が高いこともあり、Intelが推進していたHomeRF規格が家庭向け無線LANの本命と見られていた。しかしIEEE 802.11b正式標準化直前の1999年7月にApple Computer(現 : Apple)がAirPort(日本国内での名称はAirMac)を発表。これはアクセスポイントが299ドル、カードが99ドルという低価格で市場にインパクトを与え、これに日本ではメルコ(現: バッファロー)を始め各社も追従しIEEE 802.11b規格の機器が一般にも広く普及することとなった。
2009年9月、IEEE(米国電気電子学会)がIEEE 802.11n (11n)を正式に策定した。
無線LANのアクセスポイントが複数設置されている場合に、接続中のアクセスポイントから離れ、別のアクセスポイント付近に移動しても引き続き通信できる機能を「ローミング」と言う。 ローミング機能を使用するには、当該アクセスポイントがローミング機能に対応している必要がある。
なお、IEEE 802.15シリーズを無線PAN (WPAN:Wireless Personal Area Network)と分類する事もある。
無線LANは、電波によって通信が行われるため、第三者によって通信内容を傍受される危険性がある。そのため、無線LANのアクセスポイントと通信を行う機器間とのセキュリティ対策が必要となる。たとえば、ネットワークキーと呼ばれるパスワードを用いて通信できるコンピュータをそのネットワークキーを知るコンピュータのみに限定させる方法がある。
暗号化通信におけるセキュリティ技術としては主にWEPやWPAやWPA2、IEEE 802.11iがある。これらの暗号化通信ではネットワークキーによって通信機器を限定する目的のほか、通信内容を暗号化することで第三者による通信内容の傍受を防ぐ目的もある。
近年は暗号化の解読技術が進み、WEPでは10秒で解読できるという論文がある。また、MACアドレスによって通信できるコンピュータを限定する手法も、MACアドレスの偽装が技術上可能であることから、強固なセキュリティ対策とは言えない。
情報処理推進機構によると家庭用であれば認証方式としてWPA2-PSK、暗号化方式としてAES(CCMP)を選択し十分な強度の共有鍵(大文字 (A - Z)・小文字 (a - z)・数字 (0 - 9)・記号 (!, $, %, \ など半角のもの) を全て含み20文字以上)を使用するべきであるという。
なお日本では、クラッキングなどの手法により、パスワードで保護されたネットワークに不正に侵入した場合、もしくは試みた場合は、不正アクセス行為の禁止等に関する法律に抵触する可能性がある。
もっとも、パスワード設定されていない無線LANを利用するだけの行為(タダ乗り)については刑事上の問題は生じない。弁護士の小倉秀夫によれば、係るタダ乗りは、不正アクセス行為に該当しないし、窃盗罪に問われることもないが、本来の利用者の使用を妨げるほどの帯域を使うような場合には、民事上の追及を受ける可能性があるとしている。
WPA/WPA2/WPA3にはPSKモードとEAPモードという2つのモードがある。
PSKモード (Pre-Shared Key; 事前鍵共有)はパーソナルモードとも呼ばれ、アクセスポイント側に事前にパスワードを設定しておき、端末側でそのパスワードを入力する事で接続を開始する。通信に使う鍵はパスワードからPBKDF2というアルゴリズム(鍵導出関数)を用いて計算する。
一方EAPモードはエンタープライズモードとも呼ばれ、RADIUS認証サーバを使ってEAP (Extensible Authentication Protocol)の認証によりPPP接続する。その詳細はIEEE 802.1xに規格化されている。
無線LANでは有線LANに比べ設定が複雑なため、以下のような規格、システムがある。機種によっては手動で設定しなければならない場合もある。
メーカーによっては、IEEE 802.11a/b/gとの接続性を確保したまま独自の改良を加えた技術が存在する。高速化技術(圧縮・プロトコル最適化等)としては「SuperAG」「SuperG」「フレームバースト」「フレームバーストEX」などが、到達エリア拡大技術としては「XR(eXtended Range)」がある(SuperAG、SuperG、XRは米クアルコム・アセロスの商標)。これらはメーカーの独自拡張であるため、親機子機が同じメーカー製であり両方が対応していないと効果はない。これらの登場は最大通信速度は54Mbpsである802.11a、11gが主流の頃であったが、その後に大幅に通信速度を向上した802.11nが広まってからはあまり見られなくなった。
メッシュ型無線LANはメッシュWi-Fiとも呼ばれる 。メッシュネットワークを無線LANに応用したもので、複数のサテライトが相互に接続されたネットワークを構成する。
公衆にアクセスポイントへの接続を提供してそれによりインターネットへの接続手段を提供するサービスを、公衆無線LANと言う。公衆無線LANにはホットスポットやFREESPOTなどがある。
5GHz帯無線アクセスシステムとも呼ばれている。250mWの高出力無線LAN(IEEE 802.11j)であり、伝送距離は数km。周波数は専用の4.9∼5GHz(184, 188, 192, 196チャンネル)を使用。通信速度はIEEE 802.11jで最大54Mbps、IEEE 802.11j/nで最大100Mbps以上となっている(いずれもベストエフォート)ほか、次世代のIEEE802.11j/acに対応するシステムも登場している。なお使用する際には無線局の免許を取得する必要がある。
広大な工事現場・農場・工場などの構内LANや、離れた施設間を繋ぐLAN回線、自治体・自治会などの自営無線IP通信、ADSL・光回線を引くことが困難な地域で提供されている無線インターネット回線「スカイネットV」・「宜野座村ブロードバンドサービス 宜野座BB」、ワイコム「Air5G」などで使用されている。
無線LANの大衆普及に伴い、無線LANアクセスポイントの高機能化が進み、様々な場面で利用されることが増えた。しかし無線の特性上、企業向けなどの大規模なネットワークの構成時には機器を多数設置する必要があることから、家庭向けの高機能な単体機器では管理・メンテナンス性や耐障害性等の問題が生じることもある。そのため無線LANスイッチ(無線LANコントローラ)を使用して集中管理を行い、無線LANアクセスポイントは極力単純な設計のもの(シンアクセスポイント)が選択されることもある。
1992年(平成4年)に小電力無線局の一種、小電力データ通信システムの無線局として制度化された。 小電力無線局は免許不要局の一種で、無線局の免許は不要だが、適合表示無線設備を使用しなければならない。 そのため技術基準が規定され、技術基準適合証明の対象ともされた。 また、電気通信回線に接続するものは電気通信事業法令上の端末機器として技術基準適合認定も要する。
小電力データ通信システムの無線局として必要な表示は小電力データ通信システム#表示を参照
技適マークがなければ日本国内で使用してはならない。また、技術基準にはアンテナ系を除き「容易に開けることができないこと」とあり、特殊ねじなどが用いられているので、使用者は改造はもちろん保守・修理のためであっても分解してはならない。国内向けであっても改造されたものは、技術基準適合証明が無効になるので不法無線局となる。
ISMバンドを用いる高周波利用設備からは、有害な混信を容認しなければならない。最も普及している2.4GHz帯の機器の場合、稼働中の電子レンジの付近では、通信に著しい影響が出たり通信不能に陥る。
法的にはVICS (ETC)・一般用RFID・アマチュア無線局機器など、無線局免許状・無線局登録を受けて運用する無線局からの有害な混信に対しては、異議・排除を申し立てる権利は一切無く、逆に使用中止を要求されたら、利用者は従わねばならない。近年では医療機器の通信など重要な用途にも使われていることから、無線LANが公共用途である場合は無線LANが優先され、最終的には当事者間の話し合いで解決しているのが現状である。
無線LANと同等の小電力無線局として小電力用RFID、2.4GHz帯デジタルコードレス電話、模型飛行機のラジコン、マルチコプター、Bluetoothなどがあり、これらに対しては先に使用しているものが優先するが、実際には混信を完全に回避できるものではない。特に都市部ではコンビニエンスストアに設置された大出力の業務用電子レンジ、公衆無線LANなどが多数あり混信の回避は不可能に近い。
別ネットワークの複数機器がアクセスポイント等でチャネルが重なると、スループット低下などの影響を受けるため、対応策として電波法の規定を超えた出力の無線LAN機器の違法販売も行われていたが、スマートアンテナやビームフォーミングなど、出力を上げずに電波干渉を抑制する技術の導入や、5GHz帯の普及で下火となった。
2009年(平成21年)5月、アマチュア無線局JF1DQIが5.6GHz帯、10.1GHz帯、24GHz帯においてIEEE 802.11b/g方式の無線LANをアマチュア業務として運用できる無線局免許状を与えられた。設備は一般的に市販されているUSB無線LANアダプタで外部アンテナ端子がある機種(2000円以下)を用い、そのアンテナ端子にトランスバーター(周波数変換を行う機器)を接続し5.6GHz帯、10.1GHz帯、24GHz帯での運用を可能にしている。
アマチュア無線では、暗語の使用や秘匿性のある無線設備は認められていないため、暗号化技術であるWEP・WPAの設定などをせず、無線局を運用することが条件として求められた。アマチュア無線で使用できる周波数帯には2.4GHz帯もあるが、この周波数帯での運用は、一般的に使用されている「無線LANとの誤接続の可能性がある」として許可されなかった。マイクロ波における遠距離および高速データ通信の実験を目指している。この局以外にも、首都圏で数局が無線局免許状の申請を準備している。
アメリカでは連邦通信委員会 (FCC)が無線LAN網についての管理を行っている。
なお、アメリカでは自治体による無線LANを含むブロードバンド網構築について、通信事業者等からは民業圧迫だという主張があり州法で規制する動きもある。2014年2月時点で20州がブロードバンド・サービス提供に何からの制限を加えている。 | [
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"text": "広大な工事現場・農場・工場などの構内LANや、離れた施設間を繋ぐLAN回線、自治体・自治会などの自営無線IP通信、ADSL・光回線を引くことが困難な地域で提供されている無線インターネット回線「スカイネットV」・「宜野座村ブロードバンドサービス 宜野座BB」、ワイコム「Air5G」などで使用されている。",
"title": "高出力無線LAN"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "無線LANの大衆普及に伴い、無線LANアクセスポイントの高機能化が進み、様々な場面で利用されることが増えた。しかし無線の特性上、企業向けなどの大規模なネットワークの構成時には機器を多数設置する必要があることから、家庭向けの高機能な単体機器では管理・メンテナンス性や耐障害性等の問題が生じることもある。そのため無線LANスイッチ(無線LANコントローラ)を使用して集中管理を行い、無線LANアクセスポイントは極力単純な設計のもの(シンアクセスポイント)が選択されることもある。",
"title": "企業などでの利用"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1992年(平成4年)に小電力無線局の一種、小電力データ通信システムの無線局として制度化された。 小電力無線局は免許不要局の一種で、無線局の免許は不要だが、適合表示無線設備を使用しなければならない。 そのため技術基準が規定され、技術基準適合証明の対象ともされた。 また、電気通信回線に接続するものは電気通信事業法令上の端末機器として技術基準適合認定も要する。",
"title": "各国の法規制"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "小電力データ通信システムの無線局として必要な表示は小電力データ通信システム#表示を参照",
"title": "各国の法規制"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "技適マークがなければ日本国内で使用してはならない。また、技術基準にはアンテナ系を除き「容易に開けることができないこと」とあり、特殊ねじなどが用いられているので、使用者は改造はもちろん保守・修理のためであっても分解してはならない。国内向けであっても改造されたものは、技術基準適合証明が無効になるので不法無線局となる。",
"title": "各国の法規制"
},
{
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"text": "ISMバンドを用いる高周波利用設備からは、有害な混信を容認しなければならない。最も普及している2.4GHz帯の機器の場合、稼働中の電子レンジの付近では、通信に著しい影響が出たり通信不能に陥る。",
"title": "各国の法規制"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "法的にはVICS (ETC)・一般用RFID・アマチュア無線局機器など、無線局免許状・無線局登録を受けて運用する無線局からの有害な混信に対しては、異議・排除を申し立てる権利は一切無く、逆に使用中止を要求されたら、利用者は従わねばならない。近年では医療機器の通信など重要な用途にも使われていることから、無線LANが公共用途である場合は無線LANが優先され、最終的には当事者間の話し合いで解決しているのが現状である。",
"title": "各国の法規制"
},
{
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"text": "無線LANと同等の小電力無線局として小電力用RFID、2.4GHz帯デジタルコードレス電話、模型飛行機のラジコン、マルチコプター、Bluetoothなどがあり、これらに対しては先に使用しているものが優先するが、実際には混信を完全に回避できるものではない。特に都市部ではコンビニエンスストアに設置された大出力の業務用電子レンジ、公衆無線LANなどが多数あり混信の回避は不可能に近い。",
"title": "各国の法規制"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "別ネットワークの複数機器がアクセスポイント等でチャネルが重なると、スループット低下などの影響を受けるため、対応策として電波法の規定を超えた出力の無線LAN機器の違法販売も行われていたが、スマートアンテナやビームフォーミングなど、出力を上げずに電波干渉を抑制する技術の導入や、5GHz帯の普及で下火となった。",
"title": "各国の法規制"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "2009年(平成21年)5月、アマチュア無線局JF1DQIが5.6GHz帯、10.1GHz帯、24GHz帯においてIEEE 802.11b/g方式の無線LANをアマチュア業務として運用できる無線局免許状を与えられた。設備は一般的に市販されているUSB無線LANアダプタで外部アンテナ端子がある機種(2000円以下)を用い、そのアンテナ端子にトランスバーター(周波数変換を行う機器)を接続し5.6GHz帯、10.1GHz帯、24GHz帯での運用を可能にしている。",
"title": "各国の法規制"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "アマチュア無線では、暗語の使用や秘匿性のある無線設備は認められていないため、暗号化技術であるWEP・WPAの設定などをせず、無線局を運用することが条件として求められた。アマチュア無線で使用できる周波数帯には2.4GHz帯もあるが、この周波数帯での運用は、一般的に使用されている「無線LANとの誤接続の可能性がある」として許可されなかった。マイクロ波における遠距離および高速データ通信の実験を目指している。この局以外にも、首都圏で数局が無線局免許状の申請を準備している。",
"title": "各国の法規制"
},
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"text": "アメリカでは連邦通信委員会 (FCC)が無線LAN網についての管理を行っている。",
"title": "各国の法規制"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "なお、アメリカでは自治体による無線LANを含むブロードバンド網構築について、通信事業者等からは民業圧迫だという主張があり州法で規制する動きもある。2014年2月時点で20州がブロードバンド・サービス提供に何からの制限を加えている。",
"title": "各国の法規制"
}
] | 無線LAN(むせんラン)とは、無線通信を利用して構築されるLANである。ワイヤレスLAN、もしくはそれを略してWLANとも呼ばれる。無線LANの通信方式には様々なものがあるが、著名な無線LANの規格としてIEEE 802.11があり、Wi-Fi(ワイファイ)は、その規格を使用する無線LANに関する登録商標である。 | [[Image:Wireless network.jpg|thumb|200px|無線LAN接続の一例]]
'''無線LAN'''(むせんラン)とは、[[無線通信]]を利用して構築される[[Local Area Network|LAN]]である。'''ワイヤレスLAN''' ({{En|Wireless LAN}}, {{En|WaveLAN}}<ref>[[:en:WaveLAN|WaveLAN]]</ref>)、もしくはそれを略して'''{{En|WLAN}}'''とも呼ばれる。無線LANの通信方式には様々なものがあるが、著名な無線LANの規格として[[IEEE 802.11]]があり、'''[[Wi-Fi]]'''(ワイファイ)は、その規格を使用する無線LANに関する登録商標である。
== 歴史 ==
無線LANが普及する以前は、[[IrDA]]規格に準拠した[[赤外線通信]]がワイヤレス通信の主な手段であり、[[ノートパソコン]]や[[携帯電話]]、ICカード式[[公衆電話]]に搭載されていた。その後、IEEE 802.11が標準化され、1998年頃から、メーカーごとに策定中の規格を元に無線LAN機器として製品化されていた。しかし2Mbps程度と低速であり価格が高く、メーカーが異なると相互に接続できない等の問題があり、広く普及することはなかった。
IEEE 802.11bでは通信速度が11Mbpsに改善される予定であったが、当時はIEEE 802.11機器の価格が高いこともあり、Intelが推進していたHomeRF規格が家庭向け無線LANの本命と見られていた<ref>{{cite web |url=https://www.wired.com/science/discoveries/news/2000/09/38703 |title=Home Networking's Bitter Brawl |work=Wired |date=2000-09-15 |accessdate=2017-08-22}}</ref>。しかしIEEE 802.11b正式標準化直前の1999年7月にApple Computer(現 : [[Apple]])が[[AirMac|AirPort]](日本国内での名称はAirMac)を発表。これはアクセスポイントが299ドル、カードが99ドルという低価格で市場にインパクトを与え<ref>[http://www.computernews.com/scripts/bcn/vb_Bridge3.dll?VBPROG=ShowWeeklyArticle&MEM=0&Title=%81%83KEY%20%20WORD%81%84%81%40IEEE8%302%2e11b&File=F:\inetpub\wwwroot\bcn\Weekly\BCNarchive1\200101010194175516.htm <KEY WORD> IEEE802.11b 次世代の無線LAN規格] webBCN</ref><ref>[https://www.itmedia.co.jp/broadband/0109/06/wireless2.html 無線LAN〜その栄光への道のり(後編)] ITmedia</ref>、これに日本では[[メルコホールディングス|メルコ]](現: [[バッファロー (パソコン周辺機器)|バッファロー]])を始め<ref>[http://buffalo.jp/products/new/2000/03_1.html 11Mビット/秒無線LAN「AirStation」を新発売] BUFFALO</ref>各社も追従しIEEE 802.11b規格の機器が一般にも広く普及することとなった。
2009年9月、[[IEEE]](米国電気電子学会)がIEEE 802.11n (11n)を正式に策定した。{{Vertical images list
|幅= 180px
| 3=AirStation WHR-G54S.jpg
| 4=無線LAN親機<br />([[アクセスポイント (無線LAN)|アクセスポイント]])
| 5=PCMCIA-card-750px.jpg
| 6=無線LAN子機<br />([[PCカード]]型)
| 7=Planet WL-8310.JPG
| 8=無線LAN子機<br />([[Peripheral Component Interconnect|PCI]]カード型)
| 9=Buffalo WLI-U2-KG54L.jpg
| 10=無線LAN子機<br />([[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]型)
}}
== ローミング ==
無線LANのアクセスポイントが複数設置されている場合に、接続中のアクセスポイントから離れ、別のアクセスポイント付近に移動しても引き続き通信できる機能を「'''ローミング'''」と言う。
ローミング機能を使用するには、当該アクセスポイントがローミング機能に対応している必要がある。
== 各種方式 ==
=== IEEE 802.11シリーズ ===
{{Main|IEEE 802.11}}
=== IEEE 802.15シリーズ ===
*[[Bluetooth]] (IEEE 802.15.1) - モバイル機器向け
*[[超広帯域無線|Ultra Wideband]] (UWB, IEEE 802.15.3a)
*[[ZigBee]] (IEEE 802.15.4)
なお、[[IEEE 802.15]]シリーズを[[無線PAN]] ('''WPAN''':Wireless [[Personal Area Network]])と分類する事もある。
== セキュリティ ==
無線LANは、電波によって通信が行われるため、第三者によって通信内容を傍受される危険性がある。そのため、無線LANのアクセスポイントと通信を行う機器間とのセキュリティ対策が必要となる。たとえば、ネットワークキーと呼ばれるパスワードを用いて通信できるコンピュータをそのネットワークキーを知るコンピュータのみに限定させる方法がある。
暗号化通信におけるセキュリティ技術としては主にWEPやWPAやWPA2、IEEE 802.11iがある。これらの暗号化通信ではネットワークキーによって通信機器を限定する目的のほか、通信内容を暗号化することで第三者による通信内容の傍受を防ぐ目的もある。
近年は暗号化の解読技術が進み、WEPでは10秒で解読できるという論文がある<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2008/10/14/21162.html 「WEPは10秒で解読可能」、神戸大と広島大のグループが発表] Impress Watch 2008年10月14日</ref>。また、[[MACアドレス]]によって通信できるコンピュータを限定する手法も、MACアドレスの偽装が技術上可能であることから、強固なセキュリティ対策とは言えない。
[[情報処理推進機構]]によると家庭用であれば認証方式として'''WPA2-PSK'''、暗号化方式として'''AES'''('''[[Counter mode with Cipher-block chaining Message authentication code Protocol|CCMP]]''')を選択し十分な強度の共有鍵(大文字 (A - Z)・小文字 (a - z)・数字 (0 - 9)・記号 (!, $, %, \ など半角のもの) を全て含み20文字以上)を使用するべきであるという<ref>[https://www.ipa.go.jp/security/ciadr/wirelesslan.html 一般家庭における無線LANのセキュリティに関する注意] 情報処理推進機構</ref>。
なお日本では、[[クラッキング (コンピュータ)|クラッキング]]などの手法により、パスワードで保護されたネットワークに不正に侵入した場合、もしくは試みた場合は、[[不正アクセス行為の禁止等に関する法律]]に抵触する可能性がある。
もっとも、パスワード設定されていない無線LANを利用するだけの行為(タダ乗り)については刑事上の問題は生じない。[[弁護士]]の[[小倉秀夫]]によれば、係るタダ乗りは、不正アクセス行為に該当しないし、窃盗罪に問われることもないが、本来の利用者の使用を妨げるほどの帯域を使うような場合には、民事上の追及を受ける可能性がある<ref>隣家の無線LANの電波でネット接続したら違法なの? ITpro 日経NETWORK 2008年8月号 p.15</ref>としている。
== 無線LANの各種機能 ==
; インフラストラクチャー・モード、アドホック・モード
:{{Main|インフラストラクチャー・モード|アドホック・モード}}
=== セキュリティ ===
;[[サービスセット識別子|SSID]] (Service Set ID)・ESSID (Extended SSID)
: 無線LAN接続のグループ分けを行うID。認証にも使用される。最大32文字までの英数字が設定できる。通常はアクセスポイントとクライアントの設定を合致させないと接続できない。合致させなくとも接続できるような設定も可能だが、[[フリースポット]]等の公衆無料接続サービスを提供する場合以外ではセキュリティ面から推奨されない。
==== 通信プロトコルと暗号化方法 ====
; WEP ([[Wired Equivalent Privacy]])
: 無線LAN初期の規格。'''セキュリティの脆弱性が指摘されており、WEP方式の利用は推奨されない<ref>{{Cite web|和書|url=https://eset-info.canon-its.jp/malware_info/special/detail/151117.html|title=『Wi-FiのセキュリティはなぜWEPでは駄目なのか』|publisher=Canon ITソリューションズ マルウェア情報局|date=2015-11-17|accessdate=2016-09-28}}</ref>。'''WEPのパスワードは10秒程度で解読可能であり<ref>{{Cite web|和書|url=https://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2008/10/14/21162.html|title=「WEPは10秒で解読可能」、神戸大と広島大のグループが発表|publisher=Internet Watch|date=2008-10-14|accessdate=2016-09-28}}</ref>、[[AirSnort]]などのクラッキングソフトが出回っているため、容易に乗っ取りが可能である。
; WPA([[Wi-Fi Protected Access]])
: WEPの脆弱性を改良するためIEEE 802.11iの策定に先立ち、[[Wi-Fi Alliance]]によって制定された。暗号化にはTKIP([[Temporal Key Integrity Protocol]])というストリーム暗号が用いられているが、これはWEPでの[[RC4]]方式に、鍵と初期ベクトルをミックスする関数を加えるなどして既知の攻撃を可能な限り避けようとしたものである。しかし実際にはWEPの場合と同様の攻撃の多くが効いてしまう(詳細は[[:en:Temporal Key Integrity Protocol|英語版のTKIPの記事]]を参照)。
; WPA2(Wi-Fi Protected Access 2)
: WPAのセキュリティ強化改良版。IEEE 802.11iの策定に伴い、それを取り込む形で制定された。暗号方式としては[[認証付き暗号|認証暗号]]の[[Advanced Encryption Standard|AES]]-[[Counter with CBC-MAC|CCM]]で[[:en:Protocol data unit|MPDU]]やそのヘッダを守る[[Counter mode with Cipher-block chaining Message authentication code Protocol|CCMP]]という方式が採用されている。
; WPA3(Wi-Fi Protected Access 3)
: WPA2に関する深刻な脆弱性、[[KRACK]] (Key Re-installation Attack) が2017年10月に報告されたことを受け、2018年6月に策定されたセキュリティ規格。2019年4月にはWPA3にも脆弱性が報告されており<ref name="impress1179661">{{Cite web|和書|url=https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/1179661.html|title=Wi-Fiセキュリティ新規格「WPA3」に脆弱性、登場から1年経たずに発見される|author=磯谷 智仁|publisher=Internet Watch|date=2019-04-11|accessdate=2019-10-28}}</ref>、いたちごっこの状態が続いている。
====PSKモードとEAPモード====
WPA/WPA2/WPA3にはPSKモードとEAPモードという2つのモードがある。
'''PSKモード''' (Pre-Shared Key; 事前鍵共有)は'''パーソナルモード'''とも呼ばれ、アクセスポイント側に事前にパスワードを設定しておき、端末側でそのパスワードを入力する事で接続を開始する。通信に使う鍵はパスワードから[[:en:PBKDF2|PBKDF2]]というアルゴリズム([[鍵導出関数]])を用いて計算する。
一方'''EAPモード'''は'''エンタープライズモード'''とも呼ばれ、[[RADIUS]]認証サーバを使って[[Extensible Authentication Protocol|EAP]] (Extensible Authentication Protocol)の認証により[[Point-to-Point Protocol|PPP]]接続する。その詳細はIEEE 802.1xに規格化されている。
=== 設定 ===
無線LANでは有線LANに比べ設定が複雑なため、以下のような規格、システムがある。機種によっては手動で設定しなければならない場合もある。
; WPS ([[Wi-Fi Protected Setup|Wi-Fi Setup]])
: WPAを初心者にも簡単に設定できるようにする規格。[[Wi-Fiアライアンス]]によって策定され、メーカーを問わず利用できる。なお規格にはセキュリテイ上問題があり、[[暗証番号|PIN]]認証を用いた場合にはPINが[[力まかせ探索|ブルートフォース攻撃]]できてしまう<ref>{{cite news|last=Walker-Morgan|first=Dj|date=2011-12-29|newspaper=[[The H]]|title=Wi-Fi Protected Setup made easier to brute force|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120502071608/http://www.h-online.com/open/news/item/Wi-Fi-Protected-Setup-made-easier-to-brute-force-Update-1401822.html|url=http://www.h-online.com/open/news/item/Wi-Fi-Protected-Setup-made-easier-to-brute-force-Update-1401822.html|accessdate=2011-12-31|archivedate=2 May 2012}}</ref><ref name="Netstumbler">{{Cite web|url=http://www.netstumbler.com/2013/01/18/wi-fi-security-the-rise-and-fall-of-wps/|title=Wi-Fi Security – The Rise and Fall of WPS|accessdate=December 17, 2013|date=January 18, 2013|last1=Slavin|first1=Brad|website=Netstumbler.com}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|date=2012-01-05|url=https://atmarkit.itmedia.co.jp/news/201201/05/wps.html|title=無線LAN設定を簡素化する「WPS」、PIN方式の仕様に脆弱性 - @IT|accessdate=2016-05-07}}</ref>ため、何度か認証に失敗すると認証をロックするよう設定された機種を使うか、ユーザの側でPIN設定後にWPSを無効化するなどして防御する必要がある<ref name=":0" />。
;[[AirStation One-Touch Secure System]](AOSS)
:[[バッファロー (パソコン周辺機器)|バッファロー]]が発売している[[AirStation]]に導入されている設定システム。
;[[らくらく無線スタート]]
:[[NECアクセステクニカ]]株式会社(現・[[NECプラットフォームズ]])が開発した設定システム。
=== 独自拡張 ===
メーカーによっては、IEEE 802.11a/b/gとの接続性を確保したまま独自の改良を加えた技術が存在する。高速化技術(圧縮・プロトコル最適化等)としては「SuperAG」「SuperG」「フレームバースト」「フレームバーストEX」などが、到達エリア拡大技術としては「XR(eXtended Range)」がある(SuperAG、SuperG、XRは[[アメリカ合衆国|米]][[クアルコム・アセロス]]の[[商標]])。これらはメーカーの独自拡張であるため、親機子機が同じメーカー製であり両方が対応していないと効果はない。これらの登場は最大通信速度は54Mbpsである802.11a、11gが主流の頃であったが、その後に大幅に通信速度を向上した802.11nが広まってからはあまり見られなくなった。
== メッシュ型無線LAN ==
[[File:Wi-Fi mesh system Deco M9 Plus.jpg|thumb|メッシュWi-Fiユニット]]
メッシュ型無線LANは'''[[メッシュWi-Fi]]'''とも呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://businessnetwork.jp/Detail/tabid/65/artid/6890/Default.aspx |title=メッシュWi-Fiで“超手軽”な無線LAN|publisher=businessnetwork.jp|date=2019-08-09 |accessdate=2019-12-25}}</ref>
<ref>{{Cite web|和書|url=https://magazine.premoa.co.jp/meshwifi/ |title=電波を強くするメッシュWi-Fiおすすめ機種|publisher=PREMOA MAGAZINE|date=2019-11-20 |accessdate=2019-12-25}}</ref>。[[メッシュネットワーク]]を無線LANに応用したもので、複数の[[アクセスポイント (無線LAN)|サテライト]]が相互に接続された[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]を構成する。
== 公衆無線LAN ==
公衆にアクセスポイントへの接続を提供してそれによりインターネットへの接続手段を提供するサービスを、'''[[公衆無線LAN]]'''と言う。公衆無線LANにはホットスポットや[[FREESPOT]]などがある。
{{See|公衆無線LAN}}
== 高出力無線LAN ==
[[File:Fixed Wireless Access Antenna Alvarion Hokkaido Japan.jpg|thumb|5GHz帯無線アクセスシステムのアンテナ]]
'''5GHz帯[[無線アクセス]]システム'''とも呼ばれている。250mWの高出力無線LAN([[IEEE 802.11#IEEE 802.11j|IEEE 802.11j]])であり、伝送距離は数km{{refnest|group="注"|ただし商用サービスのスカイネットVでは約15kmまでとうたい<ref>「[http://aurens.info/skynetv/2010/11/nakashibetsu.php 別海,中標津地区]」『高速無線通信サービス「SKYNET V」』 株式会社オーレンス</ref>、日本電業工作では30kmで7Mbpsの通信を行った実績がある<ref>[https://www.enaa.or.jp/?fname=26-85.pdf 平成26年度 沿岸域海水中温暖化ガス連続モニタリング装置・システムの要素技術の検討補助事業 報告書]」 2015年3月、一般財団法人エンジニアリング協会、資料21</ref>。}}。周波数は専用の4.9∼5GHz(184, 188, 192, 196チャンネル)を使用。通信速度はIEEE 802.11jで最大54Mbps、IEEE 802.11j/nで最大100Mbps以上となっている(いずれもベストエフォート)<ref name="soumu-5ghzfwa"/>ほか、次世代のIEEE802.11j/acに対応するシステムも登場している<ref>[https://www.jrc.co.jp/jp/product/lineup/jrl849ap2/spec.html 据置型無線LAN JRL-849AP2シリーズ] 日本無線</ref>。なお使用する際には[[無線局免許状|無線局の免許]]を取得する必要がある<ref name="soumu-5ghzfwa">[https://www.tele.soumu.go.jp/j/adm/system/trunk/wimax/5ghz/ 5GHz帯無線アクセスシステム] 総務省</ref>。
広大な工事現場・農場・工場<ref>「導入事例 [https://www.fujitsu.com/jp/group/fnets/about/resources/case-studies/2011/zeon.html 日本ゼオン株式会社 様]」『富士通ネットワークソリューションズ』 富士通ネットワークソリューションズ</ref>などの構内LANや、離れた施設間を繋ぐLAN回線<ref>「ソリューション 導入事例 [https://www.den-gyo.com/solution/solution03_d_y.html 本社と支社間のデータ通信を無線化]」『DENGYO 日本電業工作株式会社』 日本電業工作株式会社</ref><ref>「ソリューション 導入事例 [https://www.den-gyo.com/solution/solution03_d_r.html 放送映像・FM放送局臨時伝送路]」『DENGYO 日本電業工作株式会社』 日本電業工作株式会社</ref>、自治体<ref>「導入事例 [https://www.fujitsu.com/jp/group/fnets/about/resources/case-studies/2015/tadami.html 福島県只見町 様]」『富士通ネットワークソリューションズ』 富士通ネットワークソリューションズ</ref><ref>「[https://riuden.co.jp/case/038-2 恩納村 長距離無線LAN構築]」『株式会社リウデン』 株式会社リウデン</ref>・自治会<ref>「[http://www.toa-inc.jp/pdfs/200futurenetwork.pdf 次世代無線ネットワークシステム 5GHz帯無線アクセスシステムのご提案]」『Toa 東亜株式会社』 2013年2月、東亜株式会社、13ページ</ref>などの自営無線IP通信、ADSL・光回線を引くことが困難な地域で提供されている無線インターネット回線「[[オーレンス#スカイネットV|スカイネットV]]」・「[[宜野座村]]ブロードバンドサービス 宜野座BB」<ref>「[http://www.vill.ginoza.okinawa.jp/lp/ginoza_bb/ 沖縄県宜野座村地域限定ブロードバンドサービス]」『宜野座村』 沖縄県国頭郡宜野座村</ref>、ワイコム<ref>[https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/pdf/070620_1_s2.pdf 総務省の取組②] p.6 総務省</ref>「Air5G」などで使用されている。
== 企業などでの利用 ==
無線LANの大衆普及に伴い、無線LANアクセスポイントの高機能化が進み、様々な場面で利用されることが増えた。しかし無線の特性上、企業向けなどの大規模なネットワークの構成時には機器を多数設置する必要があることから、家庭向けの高機能な単体機器では管理・メンテナンス性や耐障害性等の問題が生じることもある。そのため無線[[スイッチングハブ|LANスイッチ]](無線LANコントローラ)を使用して集中管理を行い、無線LANアクセスポイントは極力単純な設計のもの(シンアクセスポイント)が選択されることもある。
== 各国の法規制 ==
=== 日本 ===
==== 電波法 ====
1992年(平成4年)に[[小電力無線局]]の一種、[[小電力データ通信システム]]の[[無線局]]として制度化<ref>平成4年郵政省令第78号による電波法施行規則改正</ref>された。
小電力無線局は[[免許不要局]]の一種で、[[無線局]]の[[無線局免許状|免許]]は不要だが、[[無線設備#適合表示無線設備|適合表示無線設備]]を使用しなければならない。
そのため技術基準が規定<ref>平成4年郵政省令第79号による無線設備規則改正</ref>され、[[技術基準適合証明]]の対象<ref>平成4年郵政省令第80号による特定無線設備の技術基準適合証明に関する規則改正</ref>ともされた。
また、電気通信回線に接続するものは[[電気通信事業法]]令上の[[端末機器]]として[[技術基準適合認定]]も要する。
小電力データ通信システムの無線局として必要な表示は'''[[小電力データ通信システム#表示]]'''を参照
'''技適マークがなければ日本国内で使用してはならない'''。また、技術基準には[[アンテナ]]系を除き「容易に開けることができないこと」とあり、特殊[[ねじ]]などが用いられているので、使用者は改造はもちろん保守・修理のためであっても分解してはならない。<!--無線設備規則第49条の20第1項イ、第49条の20第2項イ、第49条の20第3項イ、第49条の20第4項イ-->国内向けであっても改造されたものは、技術基準適合証明が無効になるので[[不法無線局]]となる。
{{Main|技適マーク#規制事項}}
[[ISMバンド]]を用いる[[高周波利用設備]]からは、有害な[[混信]]を容認しなければならない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tele.soumu.go.jp/resource/search/share/pdf/kkokunai.pdf|title=総務省告示周波数割当計画の脚注J37|accessdate=20201118|publisher=総務省}}</ref>。最も普及している2.4GHz帯の機器の場合、稼働中の[[電子レンジ]]の付近では、通信に著しい影響が出たり通信不能に陥る。
法的には[[VICS]] ([[ETC]])・一般用[[RFID]]・[[アマチュア無線局]]機器など、[[無線局免許状]]・無線局登録を受けて運用する[[無線局]]からの有害な混信に対しては、'''異議・排除を申し立てる権利は一切無く、逆に使用中止を要求されたら、利用者は従わねばならない'''。近年では医療機器の通信など重要な用途にも使われていることから<ref>{{Cite web|和書|title=医療機器と干渉しない無線Wi-Fi環境の構築 |url=https://kosnetwork.co.jp/kos-column-tel/20190809/ |website=KOSネットワーク株式会社 |access-date=2022-08-31 |language=ja |last=Author}}</ref>、無線LANが公共用途である場合は無線LANが優先され、最終的には当事者間の話し合いで解決しているのが現状である<ref>{{Cite web|和書|title=ワイヤレスLAN製品(IEEE802.11b/g準拠)の電波に関するご注意 {{!}} NetWalker:シャープ |url=https://jp.sharp/netwalker/info/other/wirelesslan.html |website=jp.sharp |access-date=2022-08-31}}</ref>。
無線LANと同等の小電力無線局として小電力用RFID、[[コードレス電話#2.4GHz帯デジタルコードレス電話|2.4GHz帯デジタルコードレス電話]]、模型飛行機の[[ラジコン]]、[[マルチコプター]]、[[Bluetooth]]などがあり、これらに対しては先に使用しているものが優先するが、実際には混信を完全に回避できるものではない。特に都市部ではコンビニエンスストアに設置された大出力の業務用電子レンジ、[[公衆無線LAN]]などが多数あり混信の回避は不可能に近い<ref>{{Cite web|和書|title=無線LANを妨害、電波干渉を引き起こす意外な存在 |url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00332/061800001/ |website=日経クロステック(xTECH) |access-date=2022-08-31 |language=ja |last=日経クロステック(xTECH)}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=これでいいのか“汚れた”無線LAN |url=https://xtech.nikkei.com/it/pc/article/trend/20120329/1044715/ |website=日経クロステック(xTECH) |access-date=2022-08-31 |language=ja |last=日経クロステック(xTECH)}}</ref>。
別ネットワークの複数機器が[[アクセスポイント (無線LAN)|アクセスポイント]]等でチャネルが重なると、[[スループット]]低下などの影響を受けるため、対応策として電波法の規定を超えた出力の無線LAN機器の違法販売も行われていたが<ref>『「無料でネット」と違法無線LAN販売 容疑で業者ら逮捕へ』 大阪府警 産経新聞 2010年9月22日</ref>、[[スマートアンテナ]]や[[ビームフォーミング]]など、出力を上げずに電波干渉を抑制する技術の導入や、5GHz帯の普及で下火となった。
==== アマチュア無線における無線LAN ====
2009年(平成21年)5月、[[アマチュア無線局]]JF1DQIが5.6GHz帯、10.1GHz帯、24GHz帯においてIEEE 802.11b/g方式の無線LANをアマチュア業務として運用できる[[無線局免許状]]を与えられた。設備は一般的に市販されているUSB無線LANアダプタで外部アンテナ端子がある機種(2000円以下)を用い、そのアンテナ端子に[[トランスバーター]](周波数変換を行う機器)を接続し5.6GHz帯、10.1GHz帯、24GHz帯での運用を可能にしている。
[[アマチュア無線]]では、[[暗語]]の使用や秘匿性のある無線設備は認められていない<ref group="注">電波法第58条 実験等無線局及びアマチュア無線局の行う通信には、暗語を使用してはならない。</ref><ref group="注">[[無線設備規則]]第18条の2 アマチュア局の送信装置は、通信に秘匿性を与える機能を有してはならない。</ref>ため、暗号化技術であるWEP・WPAの設定などをせず、無線局を運用することが条件として求められた。[[アマチュア無線の周波数帯|アマチュア無線で使用できる周波数帯]]には2.4GHz帯もあるが、この周波数帯での運用は、一般的に使用されている「無線LANとの誤接続の可能性がある」として許可されなかった。マイクロ波における遠距離および高速データ通信の実験を目指している。この局以外にも、首都圏で数局が無線局免許状の申請を準備している<ref>「マイクロウェーブワールド」熊野谿寛『[[CQ ham radio]]』2009年7月号、[[CQ出版]]</ref>。
=== アメリカ ===
アメリカでは[[連邦通信委員会]] (FCC)が無線LAN網についての管理を行っている<ref name="soumu000354253">[https://www.soumu.go.jp/main_content/000354253.pdf 諸外国における公衆無線LANの整備状況 調査報告書] 一般財団法人マルチメディア振興センター</ref>。
なお、アメリカでは自治体による無線LANを含むブロードバンド網構築について、通信事業者等からは民業圧迫だという主張があり州法で規制する動きもある<ref name="soumu000354253" />。2014年2月時点で20州がブロードバンド・サービス提供に何からの制限を加えている<ref name="soumu000354253" />。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[ALOHAnet]] - 無線LANの起源
* [[Wi-Fi]] - 無線LANの登録商標
* [[IEEE 802.11]]
* [[無線アクセス]]
* [[アクセスポイント (無線LAN)]]
* [[無線センサネットワーク]]
* [[公衆無線LAN]]
* [[FREESPOT]]
* [[ウォードライビング]]
* [[モノのインターネット|IOT]] - モノのインターネット
* [[スマートホーム]]
== 外部リンク ==
* [https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/cybersecurity/wi-fi/ 無線LAN(Wi-Fi)の安全な利用(セキュリティ確保)について] - 総務省
* [https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/cybersecurity/kokumin/enduser/enduser_security01_07.html 無線LANの安全な利用] - 総務省
* [https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/d_faq/5Privacy.htm 他人の無線LANアクセスポイントから勝手にインターネットにアクセスすることは問題があるのですか。] - 総務省
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[[Category:IEEE 802.11]]
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[[Category:モバイルネットワーク]] | 2003-02-22T21:09:47Z | 2023-11-07T19:54:06Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%B7%9ALAN |
2,733 | USB On-The-Go | USB On-The-Go(略してUSB OTG)は、USB機器どうしを直接接続するインタフェース規格である。パソコン等をホストとせずに、動作時にホスト機器を動的に切り替える機能を拡張したもの。 IEEE 1394のように直接接続できるので、いろいろな機器に応用できる。
2001年12月18日に発行されたUSB OTG 2.0 Revision 1.0 は High Speed (480Mbps) がオプション扱いとなっていたが、2009年5月8日に発行された USB OTG 2.0 Revision 2.0 では High Speed を含み、2011年7月1日に発行された USB OTG 3.0 では SuperSpeed (5Gbps) を含む。
USBマイクロプラグの導入に伴い、マイクロABと呼ばれる新しいプラグも導入された。これは、マイクロAプラグとマイクロBプラグの両方に接続できる。 micro-Aアダプタを使えば、据え置き型や標準的なデバイスに使われている標準的なAプラグに接続できる。OTG デバイスには、micro-AB コネクタが 1 つあり、他の USB コネクタがない必要があります。 さらに3つのIDピン・ステートが定義されておりグランド・ピンに対する公称抵抗値は124 Com、68 Com、36.5 Comです。 これにより、充電器用補助USBアダプタでデバイスを動作させることができ、OTGデバイスを充電器と別のデバイスの両方に同時に接続することができます。
オリジナルのUSB OTG規格では、mini-ABと呼ばれるプラグが導入され、後のバージョン(バージョン1.4以降)ではmicro-ABに置き換えられました。 mini-Aまたはmini-Bコネクタに対応し、mini-Aアダプタは周辺機器からの標準A USBケーブルへの接続を可能にします。 | [
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] | USB On-The-Goは、USB機器どうしを直接接続するインタフェース規格である。パソコン等をホストとせずに、動作時にホスト機器を動的に切り替える機能を拡張したもの。
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[[IEEE 1394]]のように直接接続できるので、いろいろな機器に応用できる。
2001年12月18日に発行されたUSB OTG 2.0 Revision 1.0 は High Speed (480Mbps) がオプション扱いとなっていたが<ref>[http://www.usb.org/developers/onthego/otg1_0.pdf USB On-The-Go 2.0 Rev. 1.0]</ref>、2009年5月8日に発行された USB OTG 2.0 Revision 2.0 では High Speed を含み<ref>[http://www.usb.org/developers/onthego/USB_OTG_and_EH_2-0.pdf USB On-The-Go 2.0 Rev. 2.0]</ref>、2011年7月1日に発行された USB OTG 3.0 では SuperSpeed (5Gbps) を含む。
== 主な採用機器 ==
* [[プレクストーク|プレクストーク・ポケット PTP1]]
* [[スマートフォン]], [[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]
** [[Android (オペレーティングシステム)|Android]] - Android 3.1 から対応、ただし、Android 2.3.4 にもバックポートして対応している。[[Samsung Galaxy]] シリーズ ([[SC-02C|GALAXY S II]], [[Galaxy Note]] など)、[[Xperia]] シリーズ、[[REGZA Phone]] シリーズ ([[IS04]]など)、[[F-05D|ARROWS X LTE F-05D]] 、Google [[Nexus 7]]など。
** [[iOS]] - iPad Camera Connection Kit など
** Windows Mobile - [[WS007SH]], [[WS011SH]] など
* [[デジタルカメラ]]
* [[プリンター]]
== 接続 ==
=== OTGマイクロコネクター ===
USBマイクロプラグの導入に伴い、マイクロABと呼ばれる新しいプラグも導入された。これは、マイクロAプラグとマイクロBプラグの両方に接続できる<ref>{{cite web|title=What is USB Micro AB?|url=https://www.nbccomedyplayground.com/what-is-usb-micro-ab/|accessdate=2023-09-25|work=www.nbccomedyplayground.com}}</ref><ref>{{cite web|title=USB Generations – Different Types Of USB Generations Fully Explained|url=https://premioinc.com/blogs/blog/usb-generations-explained-different-types-of-usb-generations|accessdate=2023-09-25|work=premioinc.com}}</ref>。 micro-Aアダプタを使えば、据え置き型や標準的なデバイスに使われている標準的なAプラグに接続できる。OTG デバイスには、micro-AB コネクタが 1 つあり、他の USB コネクタがない必要があります<ref>{{cite web|title=Is micro USB same as OTG?|url=https://pegaswitch.com/lifehacks/is-micro-usb-same-as-otg/|accessdate=2023-09-25|work=pegaswitch.com}}</ref>。
さらに3つのIDピン・ステートが定義されておりグランド・ピンに対する公称抵抗値は124 Com、68 Com、36.5 Comです。
これにより、充電器用補助USBアダプタでデバイスを動作させることができ、OTGデバイスを充電器と別のデバイスの両方に同時に接続することができます<ref>{{cite web|title=Android Versions Supporting USB OTG|url=https://www.mobitrix.com/android-support/android-version-compatible-with-usb-otg.html|accessdate=2023-09-25|work=www.mobitrix.com}}</ref><ref>{{cite web|title=USB On-The-Go: Connect the device you need to your tablet via USB|url=https://tabletzona.es/en/usb-on-the-go-connect-the-device-you-need-to-your-tablet-via-usb/|accessdate=2023-09-25|work=tabletzona.es}}</ref>。
=== OTGミニジャック ===
オリジナルのUSB OTG規格では、mini-ABと呼ばれるプラグが導入され、後のバージョン(バージョン1.4以降)ではmicro-ABに置き換えられました<ref>{{cite web|title=USB Technology: The Ultimate Guide|url=https://plexnof.com/usb-technology-guide/|accessdate=2023-09-25|work=plexnof.com}}</ref>。 mini-Aまたはmini-Bコネクタに対応し、mini-Aアダプタは周辺機器からの標準A USBケーブルへの接続を可能にします。
==参照==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
* [[ユニバーサル・シリアル・バス]] (USB)
== 外部リンク ==
* [https://usb.org/usb-on-the-go USB On-The-Go]
[[Category:USB]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/USB_On-The-Go |
2,735 | 国際標準化機構 | 国際標準化機構(こくさいひょうじゅんかきこう、英: International Organization for Standardization、仏: Organisation internationale de normalisation、露: Международная организация по стандартизации)、略称: 英・仏:ISO(アイエスオー、イソ、アイソ)露:ИСОは、各国の国家標準化団体で構成される非政府組織である。
スイス・ジュネーヴに本部を置く、スイス民法による非営利法人である。1947年2月23日に設立された。国際的な標準である国際規格 (IS : international standard / norme internationale) を策定している。
国際連合経済社会理事会に総合協議資格 (general consultative status / statut consultatif général) を有する機関に認定された最初の組織の1つである。
162の標準化団体で構成される、国際規格の世界的相互扶助を目的とする独立組織で、国家間に共通な標準規格を提供し、世界貿易を促進している。約2万の規格は、工業製品・技術・食品安全・農業・医療など全ての分野を網羅している。ISOの公用語は英語・フランス語・ロシア語である。国際標準化機構が策定した国際規格をISOと呼称する事例もみられる。
ISOの標準を使用することで、安全で信頼性が高く、質の高い製品やサービスの創出に役立つ。ISOの標準は、不良品を最小限に抑え、生産性を向上させるのに役立つ。異なる市場の製品を直接比較できるようにすることで、企業は新しい市場に参入しやすくなり、公正な基準により世界貿易の発展を支援する。また、ISOの標準は、製品・サービスの消費者・エンドユーザーを保護し、認定製品が国際的に設定された最低限の基準に適合していることを保証する。
WTO/TBT協定はメートル条約に基づく国際単位系の使用を定め、「計測及び計量標準の分野における協力に関する日本国通商産業省工業技術院 (AIST) とアメリカ合衆国商務省国立標準技術研究所 (NIST) との間の実施取決め」などで計量標準の同等性と較正を国家間で相互認証して、国際規格 IS を担保している。
英語での名称はInternational Organization for Standardization、フランス語ではOrganisation internationale de normalisation、ロシア語ではМеждународная организация по стандартизации(Mezhdunarodnaya organizatsiya po standartizatsii)である。
"ISO"は頭字語ではない。3つの公用語による頭字語が異なる(英語でIOS、フランス語でOIN、ロシア語でMOS)ため、国際標準化機構ではその略称を、ギリシア語で均等や均質を意味するίσος (isos) から取った"ISO"と定めている。ただし、ISOの創設会議では、このギリシア語についての説明はされなかったので、これは後づけのものかもしれない。どのような言語においても、国際標準化機構の略称は常に"ISO"である。 ISOという略称とISOのロゴは登録商標であり、その使用は制限されている。
ISOの前身は、1926年に設立された万国規格統一協会 (ISA: International Federation of the National Standardizing Associations) であり、第二次世界大戦中の1942年に活動を停止していた。終戦後、新たに設立された国際連合規格調整委員会 (UNSCC) によって、新たな世界標準機関の設立が提案された。1946年10月、25か国からなるISAとUNSCCの代表がロンドンで会合を開き、新たに国際標準化機構を創設することで合意した。新しい組織は1947年2月に正式に業務を開始した。
1952年、日本から日本工業標準調査会(現・日本産業標準調査会、JISC)が加盟した。
ISOには、各国1機関のみの参加が認められている。加盟機関は年1回総会 (General Assembly) を開き、ISOの戦略目標を議論する。組織は、ジュネーブに拠点を置く中央事務局 (Central Secretariat) によって調整されている。
ISOの主要役員と選出された20の加盟機関からなる理事会 (Council) がISOを運営し、中央事務局の年次予算を決定する。
技術管理評議会 (Technical Management Board) は、ISO標準を開発する250以上の技術委員会 (TC: technical committee) についての責任を負う。
ISOは、国際電気標準会議 (IEC) と共同で以下の2つの合同委員会を組織し、電気・電子分野の標準を開発している。
ISO/IEC第1合同技術委員会 (JTC1) は、「IT標準を策定・維持・促進する」ために1987年に創設された。
ISO/IEC第2合同技術委員会 (JTC 2) は、「エネルギー効率および再生可能エネルギー分野の標準化」を目的として2009年に創設された。
ISOには162の機関が加盟している。
ISOの加盟機関は、以下の3つのカテゴリーに分類されている。
議決権を有する加盟機関はPメンバー (participating members) と呼ばれる。それ以外のオブザーバーとして参加している機関はOメンバー (observing members) と呼ばれる。
ISOは以下のものから活動資金を得ている。
ISOの主要な刊行物は国際規格である。ISOは他に、技術報告書、技術仕様書、公開仕様書、技術正誤表、ガイドを発行している。
国際規格 (international standard)
技術報告書 (technical report)
例:
技術仕様書 (technical specification)
例:
公開仕様書 (publicly available specification)
例:
技術正誤表 (technical corrigenda)
ISOガイド (ISO guide)
例:
ISOの文書は著作権で保護されており、その複写には料金がかかる。ただし、電子形式の暫定文書のほとんどに対しては、料金が請求されることはない。それらは有用ではあるが、標準として確定する前に大幅に変更される可能性があるので、暫定文書の使用には注意を払わなければならない。
ISOの国際規格は、一般にISOの委員会内での長い標準化過程を経て発行される。標準化過程の状態を表す略語は以下の通りである。
改訂に用いられる略語:
その他の略語:
国際規格は、ISOの技術委員会 (TC) や小委員会 (SC) によって、以下の6つの段階によって開発されている。
技術委員会 (TC) や小委員会 (SC) は、作業原案作成のために専門家によるワーキンググループ (WG) を設置することができる。ワーキンググループには、配下にサブグループ (SG) を設置することができる。
標準化プロジェクトの開始時に一定の成熟度を持つ文書がある場合(別の組織によって開発された標準など)、いくつかの段階を省略することができる。ISO/IECの指針では、迅速手続 (fast-track procedure) も可能である。迅速手続では、ISOの理事会で承認された国際標準化団体によって開発された文書の場合、ISO会員団体により国際規格原案 (DIS) として承認されるか、最終国際規格原案 (FDIS) として提出される。
最初の段階である新作業項目提案は、関連する小委員会 (SC) または技術委員会 (TC)(例えば、Moving Picture Experts Group (ISO/IEC JTC1/SC29/WG11) の場合、SC29とJTC1)で承認される。TC・SCには、作業原案の作成のために専門家によるワーキンググループ (WG) が設立されている。新作業項目の範囲が十分に明確になったら、いくつかのワーキンググループ(MPEGなど)は、"call for proposals"と呼ばれる提案のオープンリクエストを作成する。例えば、音声と映像のコーディング標準用に作成された最初の文書は、検証モデル (VM) と呼ばれている(以前は「シミュレーションとテストモデル」とも呼ばれていた)。開発中の規格の安定性に十分な信頼が得られたら、作業原案 (WD) が作成される。これは規格の形式であるが、改訂のためにワーキンググループ内に保管される。作業原案が十分に堅実であり、問題に対処するための最良の技術的解決策を開発したとワーキンググループが確信すれば、作業原案は委員会原案 (CD) になる。必要な場合、TC/SCのPメンバーに投票用紙を送る。
賛成投票数が定足数を上回っている場合、委員会原案は最終委員会原案 (FCD) になる。技術的内容について合意が得られるまで、委員会原案は検討が重ねられる。合意が得られると、最終委員会原案は国際規格原案 (DIS) となる。国際規格原案は、投票とコメントのために5ヶ月以内に各国の機関に提出される。賛成がTC/SCのPメンバーの3分の2以上、かつ反対が投票総数の4分の1以下であれば、最終国際規格原案 (FDIS) として提出することができる。
ISOは2か月以内に国家団体による投票を実施する。この投票は、最終国際規格原案に対する技術的な変更が許されない、賛成・反対のみの投票である。賛成がTC/SCのPメンバーの3分の2以上、かつ反対が投票総数の4分の1以下であれば、国際規格 (IS) として承認される。 承認後、最終的な文章には編集上のわずかな変更しか加えることができない。最終的な文章はISOの中央事務局に送られ、国際規格として発行される。
ISOは主要な産業分野の標準化を、「技術委員会 (Technical Committee、日本産業標準調査会では「専門委員会」の訳を用いている。)」の下で行う。TCは"TC 1"(ネジ)や"TC 2"(ボルト・ナット類)から"TC 229"(ナノテクノロジー)まであり(一部は廃止・休止中)、さらに"TC 230"から"TC 243"(一般消費者向け製品の安全性)まではプロジェクト委員会 (Project Committee) という形態をとっている。プロジェクト委員会は特殊分野において、1つか2つの規格しか発行せず、規格作成が終了したらすぐに解散する。その設立にはISOにおけるTC設立の投票が不要である。
これらの技術委員会のうち、"TC 97"(情報分野)については、国際電気標準会議 (IEC) と標準化の範囲が重複するので、標準化活動をIECと合同で行うこととし、1987年に改組しISO/IEC JTC 1となった。情報技術の発展と共にJTC 1の組織は肥大化し、現在は全ISO規格の1割近くを担うまでに至っている(JTC1の活動と規格については別途参照)。JTC 1が担当する規格の多くは、"ISO/IEC"で始まる規格番号をもつ(ただしISO 9660のように、JTC 1が設立して以来、改正されていない規格は除く)。
電気分野の標準化はISOでは行わず、専らIECが策定する。ただし自動車のようにISO側にTCがある製品の電気部品に関連する規格をISO側で策定することもある。通信分野の標準化は万国電信条約にもとづいて国際電気通信連合 (ITU) で策定することがある。
以下に技術委員会の一覧と、各委員会が作成した著名な規格を示す(JTC 1の規格については専用項目を参照)。
[注] Pメンバー (Participating member) とは、専門委員会 (TC) /分科委員会 (SC) 内の全ての事案への投票義務を負って業務に積極的に参加し、会議に出席する者
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"text": "\"ISO\"は頭字語ではない。3つの公用語による頭字語が異なる(英語でIOS、フランス語でOIN、ロシア語でMOS)ため、国際標準化機構ではその略称を、ギリシア語で均等や均質を意味するίσος (isos) から取った\"ISO\"と定めている。ただし、ISOの創設会議では、このギリシア語についての説明はされなかったので、これは後づけのものかもしれない。どのような言語においても、国際標準化機構の略称は常に\"ISO\"である。 ISOという略称とISOのロゴは登録商標であり、その使用は制限されている。",
"title": "名称と略称"
},
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"text": "ISOの前身は、1926年に設立された万国規格統一協会 (ISA: International Federation of the National Standardizing Associations) であり、第二次世界大戦中の1942年に活動を停止していた。終戦後、新たに設立された国際連合規格調整委員会 (UNSCC) によって、新たな世界標準機関の設立が提案された。1946年10月、25か国からなるISAとUNSCCの代表がロンドンで会合を開き、新たに国際標準化機構を創設することで合意した。新しい組織は1947年2月に正式に業務を開始した。",
"title": "歴史"
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"text": "1952年、日本から日本工業標準調査会(現・日本産業標準調査会、JISC)が加盟した。",
"title": "歴史"
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"text": "ISOには、各国1機関のみの参加が認められている。加盟機関は年1回総会 (General Assembly) を開き、ISOの戦略目標を議論する。組織は、ジュネーブに拠点を置く中央事務局 (Central Secretariat) によって調整されている。",
"title": "組織"
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"text": "ISOの主要役員と選出された20の加盟機関からなる理事会 (Council) がISOを運営し、中央事務局の年次予算を決定する。",
"title": "組織"
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"text": "技術管理評議会 (Technical Management Board) は、ISO標準を開発する250以上の技術委員会 (TC: technical committee) についての責任を負う。",
"title": "組織"
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"text": "ISOは、国際電気標準会議 (IEC) と共同で以下の2つの合同委員会を組織し、電気・電子分野の標準を開発している。",
"title": "組織"
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"text": "ISO/IEC第1合同技術委員会 (JTC1) は、「IT標準を策定・維持・促進する」ために1987年に創設された。",
"title": "組織"
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"text": "ISO/IEC第2合同技術委員会 (JTC 2) は、「エネルギー効率および再生可能エネルギー分野の標準化」を目的として2009年に創設された。",
"title": "組織"
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"text": "ISOには162の機関が加盟している。",
"title": "参加機関"
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"text": "ISOの加盟機関は、以下の3つのカテゴリーに分類されている。",
"title": "参加機関"
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"text": "議決権を有する加盟機関はPメンバー (participating members) と呼ばれる。それ以外のオブザーバーとして参加している機関はOメンバー (observing members) と呼ばれる。",
"title": "参加機関"
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"text": "ISOは以下のものから活動資金を得ている。",
"title": "財政"
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"text": "ISOの主要な刊行物は国際規格である。ISOは他に、技術報告書、技術仕様書、公開仕様書、技術正誤表、ガイドを発行している。",
"title": "国際規格とその他の出版物"
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"text": "国際規格 (international standard)",
"title": "国際規格とその他の出版物"
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"text": "技術報告書 (technical report)",
"title": "国際規格とその他の出版物"
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"text": "例:",
"title": "国際規格とその他の出版物"
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"text": "技術仕様書 (technical specification)",
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"text": "例:",
"title": "国際規格とその他の出版物"
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"text": "公開仕様書 (publicly available specification)",
"title": "国際規格とその他の出版物"
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"text": "例:",
"title": "国際規格とその他の出版物"
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"text": "技術正誤表 (technical corrigenda)",
"title": "国際規格とその他の出版物"
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"text": "ISOガイド (ISO guide)",
"title": "国際規格とその他の出版物"
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"text": "例:",
"title": "国際規格とその他の出版物"
},
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"text": "ISOの文書は著作権で保護されており、その複写には料金がかかる。ただし、電子形式の暫定文書のほとんどに対しては、料金が請求されることはない。それらは有用ではあるが、標準として確定する前に大幅に変更される可能性があるので、暫定文書の使用には注意を払わなければならない。",
"title": "国際規格とその他の出版物"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ISOの国際規格は、一般にISOの委員会内での長い標準化過程を経て発行される。標準化過程の状態を表す略語は以下の通りである。",
"title": "標準化過程"
},
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"text": "改訂に用いられる略語:",
"title": "標準化過程"
},
{
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"text": "その他の略語:",
"title": "標準化過程"
},
{
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"text": "国際規格は、ISOの技術委員会 (TC) や小委員会 (SC) によって、以下の6つの段階によって開発されている。",
"title": "標準化過程"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "技術委員会 (TC) や小委員会 (SC) は、作業原案作成のために専門家によるワーキンググループ (WG) を設置することができる。ワーキンググループには、配下にサブグループ (SG) を設置することができる。",
"title": "標準化過程"
},
{
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"tag": "p",
"text": "標準化プロジェクトの開始時に一定の成熟度を持つ文書がある場合(別の組織によって開発された標準など)、いくつかの段階を省略することができる。ISO/IECの指針では、迅速手続 (fast-track procedure) も可能である。迅速手続では、ISOの理事会で承認された国際標準化団体によって開発された文書の場合、ISO会員団体により国際規格原案 (DIS) として承認されるか、最終国際規格原案 (FDIS) として提出される。",
"title": "標準化過程"
},
{
"paragraph_id": 38,
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"text": "最初の段階である新作業項目提案は、関連する小委員会 (SC) または技術委員会 (TC)(例えば、Moving Picture Experts Group (ISO/IEC JTC1/SC29/WG11) の場合、SC29とJTC1)で承認される。TC・SCには、作業原案の作成のために専門家によるワーキンググループ (WG) が設立されている。新作業項目の範囲が十分に明確になったら、いくつかのワーキンググループ(MPEGなど)は、\"call for proposals\"と呼ばれる提案のオープンリクエストを作成する。例えば、音声と映像のコーディング標準用に作成された最初の文書は、検証モデル (VM) と呼ばれている(以前は「シミュレーションとテストモデル」とも呼ばれていた)。開発中の規格の安定性に十分な信頼が得られたら、作業原案 (WD) が作成される。これは規格の形式であるが、改訂のためにワーキンググループ内に保管される。作業原案が十分に堅実であり、問題に対処するための最良の技術的解決策を開発したとワーキンググループが確信すれば、作業原案は委員会原案 (CD) になる。必要な場合、TC/SCのPメンバーに投票用紙を送る。",
"title": "標準化過程"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "賛成投票数が定足数を上回っている場合、委員会原案は最終委員会原案 (FCD) になる。技術的内容について合意が得られるまで、委員会原案は検討が重ねられる。合意が得られると、最終委員会原案は国際規格原案 (DIS) となる。国際規格原案は、投票とコメントのために5ヶ月以内に各国の機関に提出される。賛成がTC/SCのPメンバーの3分の2以上、かつ反対が投票総数の4分の1以下であれば、最終国際規格原案 (FDIS) として提出することができる。",
"title": "標準化過程"
},
{
"paragraph_id": 40,
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"text": "ISOは2か月以内に国家団体による投票を実施する。この投票は、最終国際規格原案に対する技術的な変更が許されない、賛成・反対のみの投票である。賛成がTC/SCのPメンバーの3分の2以上、かつ反対が投票総数の4分の1以下であれば、国際規格 (IS) として承認される。 承認後、最終的な文章には編集上のわずかな変更しか加えることができない。最終的な文章はISOの中央事務局に送られ、国際規格として発行される。",
"title": "標準化過程"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ISOは主要な産業分野の標準化を、「技術委員会 (Technical Committee、日本産業標準調査会では「専門委員会」の訳を用いている。)」の下で行う。TCは\"TC 1\"(ネジ)や\"TC 2\"(ボルト・ナット類)から\"TC 229\"(ナノテクノロジー)まであり(一部は廃止・休止中)、さらに\"TC 230\"から\"TC 243\"(一般消費者向け製品の安全性)まではプロジェクト委員会 (Project Committee) という形態をとっている。プロジェクト委員会は特殊分野において、1つか2つの規格しか発行せず、規格作成が終了したらすぐに解散する。その設立にはISOにおけるTC設立の投票が不要である。",
"title": "技術委員会と担当規格"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "これらの技術委員会のうち、\"TC 97\"(情報分野)については、国際電気標準会議 (IEC) と標準化の範囲が重複するので、標準化活動をIECと合同で行うこととし、1987年に改組しISO/IEC JTC 1となった。情報技術の発展と共にJTC 1の組織は肥大化し、現在は全ISO規格の1割近くを担うまでに至っている(JTC1の活動と規格については別途参照)。JTC 1が担当する規格の多くは、\"ISO/IEC\"で始まる規格番号をもつ(ただしISO 9660のように、JTC 1が設立して以来、改正されていない規格は除く)。",
"title": "技術委員会と担当規格"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "電気分野の標準化はISOでは行わず、専らIECが策定する。ただし自動車のようにISO側にTCがある製品の電気部品に関連する規格をISO側で策定することもある。通信分野の標準化は万国電信条約にもとづいて国際電気通信連合 (ITU) で策定することがある。",
"title": "技術委員会と担当規格"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "以下に技術委員会の一覧と、各委員会が作成した著名な規格を示す(JTC 1の規格については専用項目を参照)。",
"title": "技術委員会と担当規格"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "[注] Pメンバー (Participating member) とは、専門委員会 (TC) /分科委員会 (SC) 内の全ての事案への投票義務を負って業務に積極的に参加し、会議に出席する者",
"title": "技術委員会と担当規格"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "製品がISO規格に準拠していることを表すために、製品の名称に\"ISO\"を含む場合がある。",
"title": "ISOが名前に付いた製品"
}
] | 国際標準化機構露:ИСОは、各国の国家標準化団体で構成される非政府組織である。 スイス・ジュネーヴに本部を置く、スイス民法による非営利法人である。1947年2月23日に設立された。国際的な標準である国際規格 を策定している。 国際連合経済社会理事会に総合協議資格 を有する機関に認定された最初の組織の1つである。 | {{redirect|ISO}}
{{Infobox organization
| image=ISO Logo (Red square).svg
| formation = 1947年2月23日
| type = [[非政府組織]]
| purpose = [[国際規格]]の策定
| headquarters = [[スイス]]・[[ジュネーブ]]
| abbreviation=ISO
| membership = 165団体(2021年12月)<ref name="ISO_members">{{cite web |url=https://www.iso.org/members.html |title=ISO members |publisher=International Organization for Standardization |accessdate=2021-12-25}}</ref>
| languages = [[英語]], [[フランス語]], [[ロシア語]]<ref name="languages"/>
| website = {{url|www.iso.org}}
}}
'''国際標準化機構'''(こくさいひょうじゅんかきこう、{{lang-en-short|'''I'''nternational '''O'''rganization for '''S'''tandardization}}、{{Lang-fr-short|Organisation internationale de normalisation}}、{{Lang-ru-short|Международная организация по стандартизации}})、略称: 英・仏:'''ISO'''(アイエスオー、イソ、アイソ)露:'''ИСО'''は、各国の国家[[標準化団体]]で構成される[[非政府組織]]である。
[[スイス]]・[[ジュネーヴ]]に本部を置く<ref name="About_ISO">{{cite web |title=About ISO |publisher=ISO |url=http://www.iso.org/iso/about.htm |deadurl=no |accessdate=2016-01-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071004201243/http://www.iso.org/iso/about.htm |archivedate=2007年10月4日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>、[[スイス民法]]による[[法人#営利法人と非営利法人|非営利法人]]である。[[1947年]][[2月23日]]に設立された。国際的な標準である[[国際規格]] (IS : international standard / norme internationale) を策定している。
[[国際連合経済社会理事会]]に総合協議資格 (general consultative status / statut consultatif général) を有する機関に認定された最初の組織の1つである。
== 概要 ==
162<ref name="ISO_members" />の標準化団体で構成される、国際規格の世界的相互扶助を目的とする独立組織<ref name="About_ISO" />で、国家間に共通な標準規格を提供し、世界貿易を促進している。約2万の規格は、工業製品・技術・食品安全・農業・医療など全ての分野を網羅している<ref name="About_ISO"/>。ISOの[[公用語]]は[[英語]]・[[フランス語]]・[[ロシア語]]である<ref name="languages">{{cite web |url=http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/how_to_use_the_catalogue.htm |title=How to use the ISO Catalogue |publisher=ISO.org |deadurl=no |archivedate=2007-10-4 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071004225623/http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/how_to_use_the_catalogue.htm |accessdate=2018-5-9}}</ref>。国際標準化機構が策定した国際規格をISOと呼称する事例もみられる。
ISOの標準を使用することで、安全で信頼性が高く、質の高い製品やサービスの創出に役立つ。ISOの標準は、不良品を最小限に抑え、生産性を向上させるのに役立つ。異なる市場の製品を直接比較できるようにすることで、企業は新しい市場に参入しやすくなり、公正な基準により世界貿易の発展を支援する。また、ISOの標準は、製品・サービスの消費者・エンドユーザーを保護し、認定製品が国際的に設定された最低限の基準に適合していることを保証する<ref name="About_ISO"/>。
[[貿易の技術的障害に関する協定|WTO/TBT協定]]は[[メートル条約]]に基づく[[国際単位系]]の使用を定め、「計測及び計量標準の分野における協力に関する日本国[[産業技術総合研究所|通商産業省工業技術院 (AIST)]] と[[アメリカ国立標準技術研究所|アメリカ合衆国商務省国立標準技術研究所 (NIST)]] との間の実施取決め」などで計量標準の同等性と[[較正]]を[[トレーサビリティ (計測器)|国家間で相互認証]]して、国際規格 IS を担保している。
== 名称と略称 ==
英語での名称は''{{lang|en|International Organization for Standardization}}''、フランス語では''{{lang|fr|Organisation internationale de normalisation}}''、ロシア語では{{lang|ru|Международная организация по стандартизации}}(''{{transl|ru|Mezhdunarodnaya organizatsiya po standartizatsii}}'')である。
"ISO"は[[頭字語]]ではない。3つの公用語による頭字語が異なる(英語でIOS、フランス語でOIN、ロシア語でMOS)ため、国際標準化機構ではその略称を、[[ギリシア語]]で均等や均質を意味する{{lang|grc|ίσος}} (''isos'') から取った"ISO"と定めている<ref name="about_iso">{{cite web |title=About ISO|publisher=ISO |url=http://www.iso.org/iso/home/about.htm#2012_aboutiso_iso_name-text-Anchor |deadurl=no |archivedate=19 September 2012 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120919212143/http://www.iso.org/iso/home/about.htm#2012_aboutiso_iso_name-text-Anchor| accessdate=2018-5-9 }}</ref>。ただし、ISOの創設会議では、このギリシア語についての説明はされなかったので、これは後づけのものかもしれない<ref name="iso_name">{{cite web|url=http://www.iso.org/iso/2012_friendship_among_equals.pdf|title=Friendship among equals|accessdate=2018年12月26日|publisher=ISO|archivedate=|deadlinkdate=2018年12月26日}} (page 20)</ref>。どのような言語においても、国際標準化機構の略称は常に"ISO"である。
ISOという略称とISOのロゴは[[登録商標]]であり、その使用は制限されている<ref name="iso_logo">{{cite web |url=http://www.iso.org/iso/home/name_and_logo.htm |title=ISO name and logo |publisher=ISO |deadurl=no |archivedate=19 September 2012 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120919222138/http://www.iso.org/iso/home/name_and_logo.htm |accessdate=2018-5-9}}</ref>。
== 歴史 ==
[[File:Memory plaque of founding ISA in Prague cropped.jpg|thumb|260px|ISOの前身であるISAが設立された[[プラハ]]の建物に掲げられたプレート]]
ISOの前身は、[[1926年]]に設立された[[万国規格統一協会]] (ISA: ''International Federation of the National Standardizing Associations'') であり、[[第二次世界大戦]]中の1942年に活動を停止していた<ref name="Brief_history">{{cite web|url=http://www.sis.pitt.edu/~mbsclass/standards/martincic/isohistr.htm|title=A Brief History of ISO|accessdate=2018年12月26日|publisher=University of Pittsburgh}}</ref>。終戦後、新たに設立された国際連合規格調整委員会 (UNSCC) によって、新たな世界標準機関の設立が提案された。1946年10月、25か国からなるISAとUNSCCの代表がロンドンで会合を開き、新たに国際標準化機構を創設することで合意した。新しい組織は1947年2月に正式に業務を開始した<ref name="50_years">{{citation |url=http://www.iso.org/iso/2012_friendship_among_equals.pdf |format=PDF |title=Friendship among equals – Recollections from ISO's first fifty years |publisher=International Organization for Standardization |year=1997 |isbn=92-67-10260-5 |pages=15–18 |deadurl=no |archivedate=26 October 2012 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121026060448/http://www.iso.org/iso/2012_friendship_among_equals.pdf}}</ref>。
[[1952年]]、日本から[[日本工業標準調査会]](現・日本産業標準調査会、JISC)が加盟した。
== 組織 ==
ISOには、各国1機関のみの参加が認められている。加盟機関は年1回総会 (General Assembly) を開き、ISOの戦略目標を議論する。組織は、[[ジュネーブ]]に拠点を置く中央事務局 (Central Secretariat) によって調整されている<ref name="ISOStructureAndGovernance">{{cite web|url=http://www.iso.org/iso/home/about/about_governance.htm|title=Structure and governance|accessdate=2018年12月26日|publisher=International Organization for Standardization|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120919222955/http://www.iso.org/iso/home/about/about_governance.htm|archivedate=19 September 2012|deadurl=no}}</ref>。
ISOの主要役員と選出された20の加盟機関からなる理事会 (Council) がISOを運営し、中央事務局の年次予算を決定する<ref name="ISOStructureAndGovernance"/><ref name="tech_ctte_list">{{cite web|url=http://www.iso.org/iso/home/standards_development/list_of_iso_technical_committees/iso_technical_committee.htm?commid=55010|title=Council|accessdate=2018年12月26日|publisher=International Organization for Standardization|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121103211437/http://www.iso.org/iso/home/standards_development/list_of_iso_technical_committees/iso_technical_committee.htm?commid=55010|archivedate=3 November 2012|deadurl=no}}</ref><ref name="JISC">{{Cite web|和書|url=https://www.jisc.go.jp/international/iso-guide.html|title=ISOの概要|publisher=日本工業標準調査会|accessdate=2018-02-06}}</ref>。
技術管理評議会 (Technical Management Board) は、ISO標準を開発する250以上の技術委員会 (TC: technical committee) についての責任を負う<ref name="ISOStructureAndGovernance"/><ref name="iso_technical_ctte">{{cite web|url=http://www.iso.org/iso/home/standards_development/list_of_iso_technical_committees.htm|title=Technical committees|accessdate=2018年12月26日|publisher=International Organization for Standardization|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120919220258/http://www.iso.org/iso/home/standards_development/list_of_iso_technical_committees.htm|archivedate=19 September 2012|deadurl=no}}</ref><ref name="develops">{{cite web|url=http://www.iso.org/iso/home/standards_development/who-develops-iso-standards.htm|title=Who develops ISO standards?|accessdate=2018年12月26日|publisher=International Organization for Standardization|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120919212351/http://www.iso.org/iso/home/standards_development/who-develops-iso-standards.htm|archivedate=19 September 2012|deadurl=no}}</ref><ref name="governance">{{cite web|url=http://www.iso.org/iso/home/standards_development/governance_of_technical_work.htm|title=Governance of technical work|accessdate=2018年12月26日|publisher=International Organization for Standardization|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120919222005/http://www.iso.org/iso/home/standards_development/governance_of_technical_work.htm|archivedate=19 September 2012|deadurl=no}}</ref><ref name="JISC" />。
=== ISO/IEC合同委員会 ===
ISOは、[[国際電気標準会議]] (IEC) と共同で以下の2つの合同委員会を組織し、電気・電子分野の標準を開発している。
====ISO/IEC JTC 1====
{{main|ISO/IEC JTC 1}}
ISO/IEC第1合同技術委員会 (JTC1) は、「IT標準を策定・維持・促進する」ために1987年に創設された<ref name="jtc1_home">{{cite web|url=http://www.iso.org/iso/jtc1_home|title=ISO/IEC JTC 1|accessdate=2018年12月26日|publisher=International Organization for Standardization|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111215062549/http://www.iso.org/iso/jtc1_home|archivedate=15 December 2011|deadurl=no}}</ref>。
====ISO/IEC JTC 2====
ISO/IEC第2合同技術委員会 (JTC 2) は、「エネルギー効率および再生可能エネルギー分野の標準化」を目的として2009年に創設された<ref name="iso_list_tech">{{cite web|url=http://www.iso.org/iso/home/standards_development/list_of_iso_technical_committees/iso_technical_committee.htm?commid=585141|title=ISO/IEC JPC 2 Joint Project Committee – Energy efficiency and renewable energy sources – Common terminology|accessdate=2018年12月26日|publisher=International Organization for Standardization|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121006120431/http://www.iso.org/iso/home/standards_development/list_of_iso_technical_committees/iso_technical_committee.htm?commid=585141|archivedate=6 October 2012|deadlinkdate=2018年12月26日|deadurl=no}}</ref>。
== 参加機関 ==
[[ファイル:ISO members.png|430px|thumb|ISO会員国の地図。{{Color|#008000|■}}緑が会員団体 (members)。{{Color|#000|■}}黒は非会員国。<br />{{Color|#c0c000|■}}黄色は標準活動がまだ進展していない国(通信会員)。<br />{{Color|red|■}}赤は経済活動が非常に小規模な国(購読会員)<ref>[http://www.iso.org/iso/about/iso_members.htm ISO - ISO members]</ref>。]]
ISOには162の機関が加盟している<ref name="ISO_members"/>。
ISOの加盟機関は、以下の3つのカテゴリーに分類されている<ref name="ISO_members"/><ref name="JISC" />。
* 会員団体 (''Member bodies'') - 各国で最も代表的な標準化団体とみなされる国家団体。会員団体のみが総会で議決権を有する。
* 通信会員 (''Correspondent members'') - 独自の標準化団体を持たない国の団体。通信会員は、ISOの作業について情報を得ることはできるが、標準化の作業には参加していない。
* 購読会員 (''Subscriber members'') - 経済活動が非常に小規模な国の団体。購読会員は会費が減額される。
議決権を有する加盟機関はPメンバー (participating members) と呼ばれる。それ以外のオブザーバーとして参加している機関はOメンバー (observing members) と呼ばれる。
* [[日本]] [[日本産業標準調査会]] (JISC)
* [[米国]] [[ANSI|アメリカ規格協会]] (ANSI)
* [[英国]] [[英国規格|英国規格協会]] (BSI)
* [[フランス]] [[フランス規格協会]] (AFNOR)
* [[ドイツ]] [[ドイツ工業規格|ドイツ規格協会]] (DIN)
* [[ニュージーランド]] [[ニュージーランド規格協会]] (SNZ)
* [[インドネシア]] [[インドネシア国家標準局]] (BSN)
* [[ベトナム]] [[ベトナム標準・品質局]] (TCVN)
* [[カザフスタン]] [[カザフスタン標準化・計量・認証国家委員会]] (KAZMEMST)
* [[ヨルダン]] [[ヨルダン標準・計量協会]] (JISM)
* [[レバノン]] [[レバノン規格協会]] (LIBNOR)
* [[ケニア]] [[ケニア標準局]] (KEBS)
* [[中国]] [[中国国家標準化管理委員会]] (SAC)
== 財政 ==
ISOは以下のものから活動資金を得ている<ref name="iso_general">{{cite web|url=http://www.iso.org/iso/support/faqs/faqs_general_information_on_iso.htm|title=General information on ISO|accessdate=2018年12月26日|publisher=ISO|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071005105014/http://www.iso.org/iso/support/faqs/faqs_general_information_on_iso.htm|archivedate=5 October 2007|deadurl=no}}</ref>。
* 特定のプロジェクトの管理や、技術的な作業に参加する専門家の派遣を行う組織
* 会員団体からの会費。会費は、その国の[[国民総生産]]や貿易額に比例して決められる。
* 標準の販売
== 国際規格とその他の出版物 ==
{{see also|国際標準化機構が定める国際標準一覧}}
ISOの主要な刊行物は国際規格である。ISOは他に、技術報告書、技術仕様書、公開仕様書、技術[[正誤表]]、ガイドを発行している<!--
--><ref name="ISOUS95IECUS95directives2004">The ISO directives are published in two distinct parts:
* {{cite web|url=http://www.iec.ch/members_experts/refdocs/iec/isoiecdir-1%7Bed9.0%7Den.pdf|title=ISO/IEC Directives, Part 1: Procedures for the technical work|accessdate=2018年12月26日|year=2012|format=PDF|publisher=ISO/IEC|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120613062832/http://www.iec.ch/members_experts/refdocs/iec/isoiecdir-1%7Bed9.0%7Den.pdf|archivedate=13 June 2012|deadlinkdate=2018年12月26日|deadurl=}}
* {{cite web|url=http://www.iec.ch/members_experts/refdocs/iec/isoiec-dir2%7Bed6.0%7Den.pdf|title=ISO/IEC Directives, Part 2: Rules for the structure and drafting of International Standards|accessdate=2018年12月26日|year=2011|format=PDF|publisher=ISO/IEC|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111016080553/http://iec.ch/members_experts/refdocs/iec/isoiec-dir2%7Bed6.0%7Den.pdf|archivedate=16 October 2011|deadlinkdate=2018年12月26日}}</ref><!--
--><ref name="iso-directives">{{cite web|url=http://www.iso.org/directives|title=ISO/IEC Directives and ISO supplement|accessdate=2018年12月26日|author=ISO|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080516045913/http://www.iso.org/directives|archivedate=16 May 2008|deadurl=no}}</ref><!--
--><ref name="NDL">{{Cite web|和書|url=https://rnavi.ndl.go.jp/jp/patents/theme_honbun_400353.html|title=ISO規格|publisher=[[国立国会図書館]]|accessdate=2018-02-06}}</ref>。
'''国際規格''' (international standard)
: 定められた国際規格は、「ISO [IS] nnnnn[-p]:[yyyy] - 題名」の形式で指定する。nnnnnは規格の番号である。pは、規格が複数の部 (part) に分かれる場合、個別の部を指定する場合に使用する。-pをつけない場合は全ての部を指す。yyyyは発行年または改訂年である。他の標準化団体と合同で制定した規格の場合は、"ISO"の部分が"ISO/IEC", "ISO/[[ASTMインターナショナル|ASTM]]"のようになる。
'''技術報告書''' (technical report)
: 技術報告書は、技術委員会や小委員会が、国際規格として一般に公表されているものとは異なる種類の調査データなどを、参照のために発行したものである<ref name="ISOUS95IECUS95directives2004"/>。技術報告書の命名規則は、国際規格の場合とほぼ同じで、ISのかわりにTRがつく。
例:
* ISO/IEC/TR 17799:2000 - 情報セキュリティマネジメントの実践のための規範
* ISO/TR 19033:2000 - 製品技術文書 - 建設製図のメタデータ
'''技術仕様書''' (technical specification)
:技術仕様書は、将来国際規格として採用される可能性があるが、標準化の対象となるものが開発中であるなど、直ちに国際規格として発行できない場合に発行される<ref name="ISOUS95IECUS95directives2004"/><ref name="NDL" />。技術仕様書の命名規則は、国際規格の場合とほぼ同じで、ISのかわりにTSがつく。
例:
* ISO/TS 16952-1:2006 Technical product documentation — Reference designation system — Part 1: General application rules
'''公開仕様書''' (publicly available specification)
: 公開仕様書は、緊急に標準化が必要となった技術に対する中間仕様として、ISOの委員会内での合意を表す文書である<ref name="ISOUS95IECUS95directives2004"/><ref name="NDL" />。公開仕様書の命名規則は、国際規格の場合とほぼ同じで、ISのかわりにPASがつく。
例:
* ISO/PAS 11154:2006 Road vehicles — Roof load carriers
'''技術正誤表''' (technical corrigenda)
: ISOは技術正誤表を発行することがある。これは、軽微な技術的欠陥、ユーザビリティの改善、限定的な適用範囲の拡大のために、既存の規格に加える修正である。対象の規格が次の定期審査時に修正されることを期待して発行される<ref name="ISOUS95IECUS95directives2004"/>。
'''ISOガイド''' (ISO guide)
: ISOガイドは、国際標準化に関連する事項を扱うメタ規格である<ref name="ISOUS95IECUS95directives2004"/>。ISOガイドは、「ISO[/IEC] Guide N:yyyy - Title」の形式で命名される。
例:
* ISO/IEC Guide 2:2004 - 標準化と関連する活動 - 一般的な用語
* ISO/IEC Guide 65:1996 - 製品認証を運用する団体の一般要件
=== 文書の著作権 ===
ISOの文書は著作権で保護されており、その複写には料金がかかる。ただし、電子形式の暫定文書のほとんどに対しては、料金が請求されることはない。それらは有用ではあるが、標準として確定する前に大幅に変更される可能性があるので、暫定文書の使用には注意を払わなければならない。{{要出典|date=2021年8月}}
== 標準化過程 ==
ISOの国際規格は、一般にISOの委員会内での長い標準化過程を経て発行される。標準化過程の状態を表す略語は以下の通りである<ref name="about-mpeg">{{cite web|url=http://mpeg.chiariglione.org/about_mpeg.htm|title=About MPEG|accessdate=2018年12月26日|publisher=chiariglione.org|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100221015546/http://mpeg.chiariglione.org/about_mpeg.htm|archivedate=21 February 2010|deadurl=no}}</ref><ref name="iso-stages-codes">{{cite web|url=http://www.iso.org/iso/standards_development/processes_and_procedures/stages_description/stages_table.htm#s90|title=International harmonized stage codes|accessdate=2018年12月26日|author=ISO|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071004225136/http://www.iso.org/iso/standards_development/processes_and_procedures/stages_description/stages_table.htm|archivedate=4 October 2007|deadlinkdate=2018年12月26日}}</ref><ref name="iso-stages">{{cite web|url=http://www.iso.org/iso/standards_development/processes_and_procedures/stages_description.htm|title=Stages of the development of International Standards|accessdate=2018年12月26日|author=ISO|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070812204054/http://www.iso.org/iso/standards_development/processes_and_procedures/stages_description.htm|archivedate=12 August 2007|deadlinkdate=2018年12月26日}}</ref><ref name="acronyms-committees">{{cite web|url=http://www.iso27001security.com/html/faq.html#Acronyms|title=The ISO27k FAQ – ISO/IEC acronyms and committees|accessdate=2018年12月26日|publisher=IsecT Ltd.|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051124081445/http://www.iso27001security.com/html/faq.html#Acronyms|archivedate=24 November 2005|deadurl=no}}</ref><ref name="iso-directives-procedures">{{cite web|url=http://www.astm.org/COMMIT/1st_Supplement.pdf|title=ISO/IEC Directives Supplement — Procedures specific to ISO|accessdate=2018年12月26日|author=ISO|year=2007|format=PDF|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120112093253/http://www.astm.org/COMMIT/1st_Supplement.pdf|archivedate=12 January 2012}}</ref><ref name="abbr">{{cite web|url=http://www.iso.org/iso/support/faqs/faqs_list_abbreviations.htm|title=List of abbreviations used throughout ISO Online|accessdate=2018年12月26日|author=ISO|year=2007|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070812204054/http://www.iso.org/iso/support/faqs/faqs_list_abbreviations.htm|archivedate=12 August 2007|deadurl=no}}</ref><ref name="us-tag-committee">{{cite web|url=http://www.sae.org/exdomains/standardsdev/global_resources/US%20TAG%20Committe%20Handbook%206March2008.doc|title=US Tag Committee Handbook|accessdate=2018年12月26日|author=|date=March 2008|format=DOC|publisher=}}</ref><ref name="JISC-iso-prcs">{{Cite web|和書|url=https://www.jisc.go.jp/international/iso-prcs.html|title=ISO規格の制定手順|publisher=日本工業標準化調査会|accessdate=2018-02-07}}</ref>。
* PWI – 予備作業項目 (Preliminary Work Item)
* NP, NWIP – 新作業項目提案 (New Proposal / New Work Item Proposal) (e.g., ISO/IEC NP 23007)
* AWI – 承認済新作業項目 (Approved new Work Item) (e.g., ISO/IEC AWI 15444-14)
* WD – 作業原案 (Working Draft) (e.g., ISO/IEC WD 27032)
* CD – 委員会原案 (Committee Draft) (e.g., ISO/IEC CD 23000-5)
* FCD – 最終委員会原案 (Final Committee Draft) (e.g., ISO/IEC FCD 23000-12)
* DIS – 国際規格原案 (Draft International Standard) (e.g., ISO/IEC DIS 14297)
* FDIS – 最終国際規格原案 (Final Draft International Standard) (e.g., ISO/IEC FDIS 27003)
* PRF – 校正原稿 (Proof of a new International Standard) (e.g., ISO/IEC PRF 18018)
* IS – 国際規格 (International Standard) (e.g., ISO/IEC 13818-1:2007)
改訂に用いられる略語:<ref name="about-mpeg"/><ref name="iso-stages-codes"/><ref name="iso-stages"/><ref name="acronyms-committees"/><ref name="iso-directives-procedures"/><ref name="abbr"/><ref name="us-tag-committee"/><ref name="iso-tr-ts-2009"/>
* NP Amd – New Proposal Amendment (e.g., ISO/IEC 15444-2:2004/NP Amd 3)
* AWI Amd – Approved new Work Item Amendment (e.g., ISO/IEC 14492:2001/AWI Amd 4)
* WD Amd – Working Draft Amendment (e.g., ISO 11092:1993/WD Amd 1)
* CD Amd / PDAmd – Committee Draft Amendment / Proposed Draft Amendment (e.g., ISO/IEC 13818-1:2007/CD Amd 6)
* FPDAmd / DAM (DAmd) – Final Proposed Draft Amendment / Draft Amendment (e.g., ISO/IEC 14496-14:2003/FPDAmd 1)
* FDAM (FDAmd) – Final Draft Amendment (e.g., ISO/IEC 13818-1:2007/FDAmd 4)
* PRF Amd – (e.g., ISO 12639:2004/PRF Amd 1)
* Amd – Amendment (e.g., ISO/IEC 13818-1:2007/Amd 1:2007)
その他の略語:<ref name="iso-directives-procedures"/><ref name="abbr"/><ref name="iso-tr-ts-2009"/><ref name="deliverables">{{cite web|url=http://www.iso.org/iso/standards_development/processes_and_procedures/deliverables.htm|title=ISO deliverables|accessdate=2018年12月26日|author=ISO|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070812204054/http://www.iso.org/iso/standards_development/processes_and_procedures/deliverables.htm|archivedate=12 August 2007|deadlinkdate=2018年12月26日}}</ref>
* TR – Technical Report (e.g., ISO/IEC TR 19791:2006)
* DTR – Draft Technical Report (e.g., ISO/IEC DTR 19791)
* TS – Technical Specification (e.g., ISO/TS 16949:2009)
* DTS – Draft Technical Specification (e.g., ISO/DTS 11602-1)
* PAS – Publicly Available Specification
* TTA – Technology Trends Assessment (e.g., ISO/TTA 1:1994)
* IWA – International Workshop Agreement (e.g., IWA 1:2005)
* Cor – Technical Corrigendum (e.g., ISO/IEC 13818-1:2007/Cor 1:2008)
* Guide – a guidance to technical committees for the preparation of standards
国際規格は、ISOの技術委員会 (TC) や小委員会 (SC) によって、以下の6つの段階によって開発されている<ref name="iso-stages"/><ref name="iso-directives-part1">{{citation |url=http://www.iec.ch/tiss/iec/Directives-Part1-Ed6.pdf |format=PDF |title=ISO/IEC Directives, Part 1 – Procedures for the technical work, Sixth edition, 2008 |year=2008 |author=ISO |deadurl=no |archivedate=14 July 2010 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100714140207/http://www.iec.ch/tiss/iec/Directives-Part1-Ed6.pdf}}</ref><ref name="JISC-iso-prcs" />。
* Stage 1: 提案段階 (Proposal stage)
* Stage 2: 作成段階 (Preparatory stage)
* Stage 3: 委員会段階 (Committee stage)
* Stage 4: 照会段階 (Enquiry stage)
* Stage 5: 承認段階 (Approval stage)
* Stage 6: 発行段階 (Publication stage)
技術委員会 (TC) や小委員会 (SC) は、作業原案作成のために専門家によるワーキンググループ (WG) を設置することができる。ワーキンググループには、配下にサブグループ (SG) を設置することができる<ref name="wg11-structure">{{cite web|url=http://kikaku.itscj.ipsj.or.jp/sc29/29w12911.htm|title=ISO/IEC JTC 1/SC 29, SC 29/WG 11 Structure (ISO/IEC JTC 1/SC 29/WG 11 – Coding of Moving Pictures and Audio)|accessdate=2018年12月26日|author=ISO, IEC|date=5 November 2009|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010128180300/http://www.itscj.ipsj.or.jp/sc29/29w12911.htm|archivedate=28 January 2001|deadlinkdate=2018年12月26日}}</ref>。
{| class="wikitable" <!--width="100%"-->
|+ {{bigger|ISO規格の開発過程における段階}}<!--
--><ref name="iso-stages-codes"/><ref name="iso-stages"/><ref name="acronyms-committees"/><ref name="us-tag-committee"/><ref name="iso-directives-part1"/><!--
--><ref name="iso-tr-ts-2009">{{citation |url=http://isotc.iso.org/livelink/livelink/JTC001-N-9876.pdf?func=doc.Fetch&nodeId=8498789&docTitle=JTC001-N-9876 |format=PDF |title=Letter Ballot on the JTC 1 Standing Document on Technical Specifications and Technical Reports |author=ISO/IEC JTC1 |date=2 November 2009 }}</ref>
|-
!width="6%"| 段階コード !!width="15%"| 段階 !!width="19%"| 文書名称 !!width="45%"| 略語 !! 備考
|-
| 00 || 予備段階 || 予備作業項目 || PWI || </tr>
| 10 || 提案段階 || 新作業項目提案 || {{hlist|NP or NWIP|NP Amd/TR/TS/IWA}} || </tr>
| 20 || 作成段階 || 作業原案 || {{hlist|AWI|AWI Amd/TR/TS|WD|WD Amd/TR/TS}} || </tr>
| 30 || 委員会段階 || 委員会原案 || {{hlist|CD|CD Amd/Cor/TR/TS|PDAmd (PDAM)|PDTR|PDTS}} || </tr>
| 40 || 照会段階 || 照会案 || {{hlist|DIS|FCD|FPDAmd|DAmd (DAM)|FPDISP|DTR|DTS}} || (CDV in IEC) </tr>
| 50 || 承認段階 || 最終案 || {{hlist|FDIS|FDAmd (FDAM)|PRF|PRF Amd/TTA/TR/TS/Suppl|FDTR}} || </tr>
| 60 || 発行段階 || 国際規格 ||rowspan="2"| {{hlist|ISO|TR|TS|IWA|Amd|Cor}} || </tr>
| 90 || 見直し段階 || || </tr>
| 95 || 廃止段階 || || || </tr>
|}
標準化プロジェクトの開始時に一定の成熟度を持つ文書がある場合(別の組織によって開発された標準など)、いくつかの段階を省略することができる。ISO/IECの指針では、迅速手続 (fast-track procedure) も可能である。迅速手続では、ISOの理事会で承認された国際標準化団体によって開発された文書の場合、ISO会員団体により国際規格原案 (DIS) として承認されるか、最終国際規格原案 (FDIS) として提出される<ref name="iso-stages"/>。
最初の段階である新作業項目提案は、関連する小委員会 (SC) または技術委員会 (TC)(例えば、[[Moving Picture Experts Group]] (ISO/IEC JTC1/SC29/WG11) の場合、SC29とJTC1)で承認される。TC・SCには、作業原案の作成のために専門家によるワーキンググループ (WG) が設立されている。新作業項目の範囲が十分に明確になったら、いくつかのワーキンググループ(MPEGなど)は、"call for proposals"と呼ばれる提案のオープンリクエストを作成する。例えば、音声と映像のコーディング標準用に作成された最初の文書は、検証モデル (VM) と呼ばれている(以前は「シミュレーションとテストモデル」とも呼ばれていた)。開発中の規格の安定性に十分な信頼が得られたら、作業原案 (WD) が作成される。これは規格の形式であるが、改訂のためにワーキンググループ内に保管される。作業原案が十分に堅実であり、問題に対処するための最良の技術的解決策を開発したとワーキンググループが確信すれば、作業原案は委員会原案 (CD) になる。必要な場合、TC/SCのPメンバーに投票用紙を送る。
賛成投票数が定足数を上回っている場合、委員会原案は最終委員会原案 (FCD) になる。技術的内容について合意が得られるまで、委員会原案は検討が重ねられる。合意が得られると、最終委員会原案は国際規格原案 (DIS) となる。国際規格原案は、投票とコメントのために5ヶ月以内に各国の機関に提出される。賛成がTC/SCのPメンバーの3分の2以上、かつ反対が投票総数の4分の1以下であれば、最終国際規格原案 (FDIS) として提出することができる。
ISOは2か月以内に国家団体による投票を実施する。この投票は、最終国際規格原案に対する技術的な変更が許されない、賛成・反対のみの投票である。賛成がTC/SCのPメンバーの3分の2以上、かつ反対が投票総数の4分の1以下であれば、国際規格 (IS) として承認される。 承認後、最終的な文章には編集上のわずかな変更しか加えることができない。最終的な文章はISOの中央事務局に送られ、国際規格として発行される<ref name="about-mpeg"/><ref name="iso-stages"/>。
== 技術委員会と担当規格 ==
ISOは主要な産業分野の標準化を、「技術委員会 (Technical Committee、日本産業標準調査会では「専門委員会」の訳を用いている。)」の下で行う。TCは"TC 1"(ネジ)や"TC 2"(ボルト・ナット類)から"TC 229"(ナノテクノロジー)まであり(一部は廃止・休止中)、さらに"TC 230"から"TC 243"(一般消費者向け製品の安全性)まではプロジェクト委員会 (Project Committee) という形態をとっている。プロジェクト委員会は特殊分野において、1つか2つの規格しか発行せず、規格作成が終了したらすぐに解散する。その設立にはISOにおけるTC設立の投票が不要である。
これらの技術委員会のうち、"TC 97"(情報分野)については、[[国際電気標準会議]] (IEC) と標準化の範囲が重複するので、標準化活動をIECと合同で行うこととし、1987年に改組し[[ISO/IEC JTC 1]]となった。情報技術の発展と共にJTC 1の組織は肥大化し、現在は全ISO規格の1割近くを担うまでに至っている(JTC1の活動と規格については別途参照)。JTC 1が担当する規格の多くは、"ISO/IEC"で始まる規格番号をもつ(ただし[[ISO 9660]]のように、JTC 1が設立して以来、改正されていない規格は除く)。
電気分野の標準化はISOでは行わず、専らIECが策定する。ただし自動車のようにISO側にTCがある製品の電気部品に関連する規格をISO側で策定することもある。通信分野の標準化は万国電信条約にもとづいて[[国際電気通信連合]] (ITU) で策定することがある。
以下に技術委員会の一覧と、各委員会が作成した著名な規格を示す([[ISO/IEC JTC1|JTC 1]]の規格については専用項目を参照)。
[注] Pメンバー (Participating member) とは、専門委員会 (TC) /分科委員会 (SC) 内の全ての事案への投票義務を負って業務に積極的に参加し、会議に出席する者
{{seealso|en:List of International Organization for Standardization technical committees}}
<div class="NavFrame">
<div class="NavHead">[技術委員会の一覧]</div>
<div class="NavContent">
{| class="wikitable"
|-
! TC番号
! style="width: 15em;"|TC名称
! style="width: 15em;"|英語名
! 活動状態<br />(2007年)
! 日本<br />(2007年)
! 主な規格
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 1|1]]
| style="vertical-align: top;" | ねじ
| style="vertical-align: top;" | Screw threads
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 2|2]]
| style="vertical-align: top;" | 締結用部品
| style="vertical-align: top;" | Fasteners
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 4|4]]
| style="vertical-align: top;" | [[転がり軸受]]
| style="vertical-align: top;" | Rolling bearings
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 5|5]]
| style="vertical-align: top;" | 金属管及び管継手
| style="vertical-align: top;" | Ferrous metal pipes and metallic fittings
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 6|6]]
| style="vertical-align: top;" | [[紙]]、[[板紙]]及び[[パルプ]]
| style="vertical-align: top;" | Paper, board and pulps
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 8|8]]
| style="vertical-align: top;" | [[船舶]]及び[[海洋技術]]
| style="vertical-align: top;" | Ships and marine technology
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | 幹事国
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 10|10]]
| style="vertical-align: top;" | [[製図]]、[[製品]]の確定方法、関連文書
| style="vertical-align: top;" | Technical product documentation
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 11|11]]
| style="vertical-align: top;" | [[ボイラ]]及び[[圧力容器]]
| style="vertical-align: top;" | Boilers and pressure vessels
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 12|12]]
| style="vertical-align: top;" | [[量]]、[[単位]]、[[記号]]、[[換算率]]及び[[換算量]]
| style="vertical-align: top;" | Quantities, units, symbols, conversion factors
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" | [[ISO/IEC 80000]]
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 14|14]]
| style="vertical-align: top;" | [[機械]]の[[軸 (機械要素)|軸]]及び附属品
| style="vertical-align: top;" | Shafts for machinery and accessories
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 17|17]]
| style="vertical-align: top;" | [[鋼]]
| style="vertical-align: top;" | Steel
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | 幹事国
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 18|18]]
| style="vertical-align: top;" | [[亜鉛]]及び[[亜鉛合金]]
| style="vertical-align: top;" | Zinc and zinc alloys - STANDBY
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 19|19]]
| style="vertical-align: top;" | [[標準数]]
| style="vertical-align: top;" | Preferred numbers - STANDBY
| style="vertical-align: top;" | 休止
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 20|20]]
| style="vertical-align: top;" | [[航空機]]及び[[宇宙機]]
| style="vertical-align: top;" | Aircraft and space vehicles
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 21|21]]
| style="vertical-align: top;" | [[消防器具]]
| style="vertical-align: top;" | Equipment for fire protection and fire fighting
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 22|22]]
| style="vertical-align: top;" | [[自動車]]
| style="vertical-align: top;" | Road vehicles
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 23|23]]
| style="vertical-align: top;" | [[農業用トラクタ]]及び機械
| style="vertical-align: top;" | Tractors and machinery for agriculture and forestry
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 24|24]]
| style="vertical-align: top;" | [[ふるい]]、ふるい分け及びふるい分け法以外の粒子径測定方法
| style="vertical-align: top;" | Particle characterization including sieving
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| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 25|25]]
| style="vertical-align: top;" | [[鋳鉄]]
| style="vertical-align: top;" | Cast irons and pig irons
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| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 26|26]]
| style="vertical-align: top;" | [[銅]]及び[[銅合金]]
| style="vertical-align: top;" | Copper and copper alloys
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| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 27|27]]
| style="vertical-align: top;" | [[固体燃料]]
| style="vertical-align: top;" | Solid mineral fuels
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| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 28|28]]
| style="vertical-align: top;" | [[石油製品]]及び[[潤滑油]]
| style="vertical-align: top;" | Petroleum products and lubricants
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| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 29|29]]
| style="vertical-align: top;" | [[工具]]
| style="vertical-align: top;" | Small tools
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| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 30|30]]
| style="vertical-align: top;" | [[管路]]における[[流量測定]]
| style="vertical-align: top;" | Measurement of fluid flow in closed conduits
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| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 31|31]]
| style="vertical-align: top;" | [[タイヤ]]、[[リム (機械)|リム]]及び[[タイヤバルブ]]
| style="vertical-align: top;" | Tyres, rims and valves
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| style="vertical-align: top;" | [[耐火物]]
| style="vertical-align: top;" | Refractories
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| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 34|34]]
| style="vertical-align: top;" | [[農産食品]]
| style="vertical-align: top;" | Food products
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| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 35|35]]
| style="vertical-align: top;" | [[ペイント]]及び[[ワニス]]
| style="vertical-align: top;" | Paints and varnishes
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| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 36|36]]
| style="vertical-align: top;" | [[映画]]
| style="vertical-align: top;" | Cinematography
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| style="vertical-align: top;" | [[専門用語]]、[[言語]]、内容の情報資源
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| style="vertical-align: top;" | [[繊維]]
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| style="vertical-align: top;" | [[工作機械]]
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| style="vertical-align: top;" | [[ゴム]]及び製品
| style="vertical-align: top;" | Rubber and rubber products
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| style="vertical-align: top;" | [[化学]]
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| style="vertical-align: top;" | Essential oils
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| style="vertical-align: top;" | [[ビルディングコンストラクション]]
| style="vertical-align: top;" | Building construction
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| style="vertical-align: top;" | [[歯車]]
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| style="vertical-align: top;" | [[石油]]・[[石油化学]]及び[[天然ガス]]工業用材料及び装置
| style="vertical-align: top;" | Materials, equipment and offshore structures for petroleum, petrochemical and natural gas industries
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| style="vertical-align: top;" | [[金融サービス]]
| style="vertical-align: top;" | Financial services
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| style="vertical-align: top;" | 統計的方法の適用
| style="vertical-align: top;" | Applications of statistical methods
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| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 70|70]]
| style="vertical-align: top;" | [[往復動内燃機関]]
| style="vertical-align: top;" | Internal combustion engines
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| style="vertical-align: top;" | [[コンクリート]]、[[鉄筋コンクリート]]及び[[プレストレストコンクリート]]
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| style="vertical-align: top;" | [[セメント]]及び[[石灰]]
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| style="vertical-align: top;" | [[原子力]]
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| style="vertical-align: top;" | Refrigeration and air-conditioning
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| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 94|94]]
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| style="vertical-align: top;" | [[クレーン]]及び関連装置
| style="vertical-align: top;" | Cranes
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| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 97|97]]
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| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 98|98]]
| style="vertical-align: top;" | [[構造物]]の[[設計]]の基本
| style="vertical-align: top;" | Bases for design of structures
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| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 99|99]]
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| height="43" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 100|100]]
| style="vertical-align: top;" | 伝動用及び[[コンベア]]用[[チェーン]]{{要曖昧さ回避|date=2023年7月}}並びに[[スプロケット]]
| style="vertical-align: top;" | Chains and chain sprockets for power transmission and conveyors
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| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 101|101]]
| style="vertical-align: top;" | 連続搬送装置([[コンベアホイスト]])
| style="vertical-align: top;" | Continuous mechanical handling equipment
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| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 102|102]]
| style="vertical-align: top;" | [[鉄鉱石]]及び[[還元鉄]]
| style="vertical-align: top;" | Iron ore and direct reduced iron
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| style="vertical-align: top;" | 幹事国
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| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 103|103]]
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| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 104|104]]
| style="vertical-align: top;" | [[貨物コンテナ]]
| style="vertical-align: top;" | Freight containers
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| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 105|105]]
| style="vertical-align: top;" | [[ワイヤロープ]]
| style="vertical-align: top;" | Steel wire ropes
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|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 106|106]]
| style="vertical-align: top;" | [[歯科]]
| style="vertical-align: top;" | Dentistry
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 107|107]]
| style="vertical-align: top;" | 金属及び無機被膜
| style="vertical-align: top;" | Metallic and other inorganic coatings
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 108|108]]
| style="vertical-align: top;" | [[機械振動]]及び[[衝撃]]
| style="vertical-align: top;" | Mechanical vibration, shock and condition monitoring
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 109|109]]
| style="vertical-align: top;" | オイル・ガス[[バーナー|燃焼装置]]類
| style="vertical-align: top;" | Oil and gas burners
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 110|110]]
| style="vertical-align: top;" | [[産業車両]]
| style="vertical-align: top;" | Industrial trucks
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="43" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 111|111]]
| style="vertical-align: top;" | 巻上げ用[[リンクチェーン]]、[[鉤|フック]]及び附属品
| style="vertical-align: top;" | Round steel link chains, chain slings, components and accessories
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 112|112]]
| style="vertical-align: top;" | [[真空]]技術
| style="vertical-align: top;" | Vacuum technology
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 113|113]]
| style="vertical-align: top;" | [[開水路]]における[[流量]]測定
| style="vertical-align: top;" | Hydrometry
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 114|114]]
| style="vertical-align: top;" | [[時計]]
| style="vertical-align: top;" | Horology
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 115|115]]
| style="vertical-align: top;" | [[ポンプ]]
| style="vertical-align: top;" | Pumps
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 116|116]]
| style="vertical-align: top;" | [[暖房]]装置
| style="vertical-align: top;" | Space heating appliances - STANDBY
| style="vertical-align: top;" | 休止
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 117|117]]
| style="vertical-align: top;" | 工業用[[送風機]]
| style="vertical-align: top;" | Industrial fans
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="43" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 118|118]]
| style="vertical-align: top;" | [[圧縮機]]、[[空気圧工具]]、[[空気圧機械]]、[[空気圧]]装置
| style="vertical-align: top;" | Compressors and pneumatic tools, machines and equipment
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 119|119]]
| style="vertical-align: top;" | 粉末冶金材料及び製品
| style="vertical-align: top;" | Powder metallurgy
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 120|120]]
| style="vertical-align: top;" | [[皮革]]
| style="vertical-align: top;" | Leather
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 121|121]]
| style="vertical-align: top;" | [[麻酔]]装置及び[[人工呼吸]]器関連装置
| style="vertical-align: top;" | Anaesthetic and respiratory equipment
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 122|122]]
| style="vertical-align: top;" | [[包装]]
| style="vertical-align: top;" | Packaging
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | 幹事国
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 123|123]]
| style="vertical-align: top;" | 平[[軸受]]
| style="vertical-align: top;" | Plain bearings
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 124|124]]
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | 廃止
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 125|125]]
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | 廃止
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 126|126]]
| style="vertical-align: top;" | [[タバコ]]及びタバコ製品
| style="vertical-align: top;" | Tobacco and tobacco products
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 127|127]]
| style="vertical-align: top;" | [[土工機械]]
| style="vertical-align: top;" | Earth-moving machinery
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 128|128]]
| style="vertical-align: top;" | [[ガラス]]工場、[[パイプライン輸送|パイプライン]]及び付属物
| style="vertical-align: top;" | Glass plant, pipeline and fittings - STANDBY
| style="vertical-align: top;" | 休止
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 129|129]]
| style="vertical-align: top;" | [[アルミニウム]][[鉱石]]及び[[鉱物]]
| style="vertical-align: top;" | Aluminium ores - STANDBY
| style="vertical-align: top;" | 休止
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 130|130]]
| style="vertical-align: top;" | [[印刷技術]]
| style="vertical-align: top;" | Graphic technology
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="27" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 131|131]]
| style="vertical-align: top;" | [[油圧]]・[[空気圧]]システム及び要素機器
| style="vertical-align: top;" | Fluid power systems
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 132|132]]
| style="vertical-align: top;" | [[フェロアロイ]]
| style="vertical-align: top;" | Ferroalloys
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="43" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 133|133]]
| style="vertical-align: top;" | 衣料品のサイズシステムと表示
| style="vertical-align: top;" | Sizing systems and designations for clothes - STANDBY
| style="vertical-align: top;" | 休止
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 134|134]]
| style="vertical-align: top;" | [[肥料]]及び[[土壌改良材]]
| style="vertical-align: top;" | Fertilizers and soil conditioners
| style="vertical-align: top;" | 休止
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 135|135]]
| style="vertical-align: top;" | [[非破壊試験]]
| style="vertical-align: top;" | Non-destructive testing
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | 幹事国
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 136|136]]
| style="vertical-align: top;" | [[家具]]
| style="vertical-align: top;" | Furniture
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 137|137]]
| style="vertical-align: top;" | 靴の寸法、名称及び表示
| style="vertical-align: top;" | Footwear sizing designations and marking systems
| style="vertical-align: top;" | 休止
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="43" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 138|138]]
| style="vertical-align: top;" | [[流体]]輸送用[[プラスチック]]管、[[継手]]及び[[バルブ]]類
| style="vertical-align: top;" | Plastics pipes, fittings and valves for the transport of fluids
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | 幹事国
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 139|139]]
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | 廃止
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 140|140]]
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | 廃止
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 141|141]]
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | 廃止
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 142|142]]
| style="vertical-align: top;" | [[空気]]及びその他のガスの清浄装置
| style="vertical-align: top;" | Cleaning equipment for air and other gases
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 143|143]]
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | 廃止
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 144|144]]
| style="vertical-align: top;" | 空気供給及び拡散
| style="vertical-align: top;" | Air distribution and air diffusion - STANDBY
| style="vertical-align: top;" | 休止
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 145|145]]
| style="vertical-align: top;" | 図[[記号]]
| style="vertical-align: top;" | Graphical symbols
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 146|146]]
| style="vertical-align: top;" | [[大気]]の質
| style="vertical-align: top;" | Air quality
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 147|147]]
| style="vertical-align: top;" | [[水質]]
| style="vertical-align: top;" | Water quality
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 148|148]]
| style="vertical-align: top;" | [[ミシン]]
| style="vertical-align: top;" | Sewing machines
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 149|149]]
| style="vertical-align: top;" | [[自転車]]
| style="vertical-align: top;" | Cycles
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 150|150]]
| style="vertical-align: top;" | [[外科学|外科]]用[[インプラント]]
| style="vertical-align: top;" | Implants for surgery
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 151|151]]
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | 廃止
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 152|152]]
| style="vertical-align: top;" | [[ギプス]]、ギプス用石こう及びギプス用品
| style="vertical-align: top;" | Gypsum, gypsum plasters and gypsum products - STANDBY
| style="vertical-align: top;" | 休止
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 153|153]]
| style="vertical-align: top;" | [[バルブ]]
| style="vertical-align: top;" | Valves
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="43" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 154|154]]
| style="vertical-align: top;" | [[行政]]・[[商業]]・工業用書式及び記載項目
| style="vertical-align: top;" | Processes, data elements and documents in commerce, industry and administration
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 155|155]]
| style="vertical-align: top;" | [[ニッケル]]及び[[ニッケル合金]]
| style="vertical-align: top;" | Nickel and nickel alloys
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 156|156]]
| style="vertical-align: top;" | [[金属]]及び金属の[[腐食]]
| style="vertical-align: top;" | Corrosion of metals and alloys
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 157|157]]
| style="vertical-align: top;" | [[避妊]]具
| style="vertical-align: top;" | Mechanical contraceptives
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 158|158]]
| style="vertical-align: top;" | ガス[[分析]]
| style="vertical-align: top;" | Analysis of gases
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 159|159]]
| style="vertical-align: top;" | [[人間工学]]
| style="vertical-align: top;" | Ergonomics
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 160|160]]
| style="vertical-align: top;" | [[建築]]用[[ガラス]]
| style="vertical-align: top;" | Glass in building
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="43" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 161|161]]
| style="vertical-align: top;" | [[熱発生装置]]の[[制御]]及び安全装置
| style="vertical-align: top;" | Control and protective devices for gas and oil burners and gas and oil burning appliances
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 162|162]]
| style="vertical-align: top;" | [[扉|ドア]]及び[[窓]]
| style="vertical-align: top;" | Doors and windows
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | 幹事国
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="43" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 163|163]]
| style="vertical-align: top;" | [[建築環境]]における[[熱的性能]]と[[エネルギー]]使用
| style="vertical-align: top;" | Thermal performance and energy use in the built environment
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 164|164]]
| style="vertical-align: top;" | 金属の[[機械試験]]
| style="vertical-align: top;" | Mechanical testing of metals
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | 幹事国
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 165|165]]
| style="vertical-align: top;" | [[木質構造]]
| style="vertical-align: top;" | Timber structures
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="43" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 166|166]]
| style="vertical-align: top;" | [[食卓]]用[[陶磁器]]・[[ガラス器]]
| style="vertical-align: top;" | Ceramic ware, glassware and glass ceramic ware in contact with food - STANDBY
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 167|167]]
| style="vertical-align: top;" | [[鋼構造]]及び[[アルミニウム構造]]
| style="vertical-align: top;" | Steel and aluminium structures
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 168|168]]
| style="vertical-align: top;" | [[義肢]]及び[[装具]]
| style="vertical-align: top;" | Prosthetics and orthotics
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 169|169]]
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | 廃止
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 170|170]]
| style="vertical-align: top;" | [[外科用器具]]
| style="vertical-align: top;" | Surgical instruments
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 171|171]]
| style="vertical-align: top;" | 文書管理アプリケーション
| style="vertical-align: top;" | Document management applications
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 172|172]]
| style="vertical-align: top;" | [[光学]]及び[[光学機器]]
| style="vertical-align: top;" | Optics and photonics
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 173|173]]
| style="vertical-align: top;" | [[福祉用具]]
| style="vertical-align: top;" | Assistive products for persons with disability
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 174|174]]
| style="vertical-align: top;" | [[装身具|ジュエリー]]
| style="vertical-align: top;" | Jewellery
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 175|175]]
| style="vertical-align: top;" | [[ほたる石]]
| style="vertical-align: top;" | Fluorspar - STANDBY
| style="vertical-align: top;" | 休止
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 176|176]]
| style="vertical-align: top;" | [[品質管理]]及び[[品質保証]]
| style="vertical-align: top;" | Quality management and quality assurance
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" | [[ISO 9000]]
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 177|177]]
| style="vertical-align: top;" | [[キャラバン]]
| style="vertical-align: top;" | Caravans
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 178|178]]
| style="vertical-align: top;" | リフト([[エレベーター]])・[[エスカレータ]]及び[[動く歩道]]
| style="vertical-align: top;" | Lifts, escalators and moving walks
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 179|179]]
| style="vertical-align: top;" | [[石工]]
| style="vertical-align: top;" | Masonry - STANDBY
| style="vertical-align: top;" | 休止
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 180|180]]
| style="vertical-align: top;" | [[太陽エネルギー]]
| style="vertical-align: top;" | Solar energy
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 181|181]]
| style="vertical-align: top;" | [[おもちゃ]]の安全性
| style="vertical-align: top;" | Safety of toys
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 182|182]]
| style="vertical-align: top;" | [[地盤工学]]
| style="vertical-align: top;" | Geotechnics
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 183|183]]
| style="vertical-align: top;" | [[銅]]・[[鉛]]及び[[亜鉛]]及び[[ニッケル]]の[[鉱石]]並びに[[精鉱]]
| style="vertical-align: top;" | Copper, lead, zinc and nickel ores and concentrates
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 184|184]]
| style="vertical-align: top;" | 産業オートメーションシステム及びインテグレーション
| style="vertical-align: top;" | Industrial automation systems and integration
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 185|185]]
| style="vertical-align: top;" | 超過圧力に対する保護用安全機器
| style="vertical-align: top;" | Safety devices for protection against excessive pressure
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 186|186]]
| style="vertical-align: top;" | 刃物類及び金属製卓上用・装飾用容器
| style="vertical-align: top;" | Cutlery and table and decorative metal hollow-ware
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 187|187]]
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | 廃止
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 188|188]]
| style="vertical-align: top;" | スモールクラフト
| style="vertical-align: top;" | Small craft
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 189|189]]
| style="vertical-align: top;" | 陶磁器質タイル
| style="vertical-align: top;" | Ceramic tile
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 190|190]]
| style="vertical-align: top;" | [[土壌改良]]
| style="vertical-align: top;" | Soil quality
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 191|191]]
| style="vertical-align: top;" | 人道的わな
| style="vertical-align: top;" | Animal (mammal) traps - STANDBY
| style="vertical-align: top;" | 休止
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 192|192]]
| style="vertical-align: top;" | ガスタービン
| style="vertical-align: top;" | Gas turbines
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 193|193]]
| style="vertical-align: top;" | 天然ガス
| style="vertical-align: top;" | Natural gas
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 194|194]]
| style="vertical-align: top;" | 医用・歯科用材料及び機器の生物学的評価
| style="vertical-align: top;" | Biological evaluation of medical devices
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 195|195]]
| style="vertical-align: top;" | 建設用機械と装置
| style="vertical-align: top;" | Building construction machinery and equipment
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 196|196]]
| style="vertical-align: top;" | 装飾用宝石
| style="vertical-align: top;" | Natural stone - STANDBY
| style="vertical-align: top;" | 休止
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 197|197]]
| style="vertical-align: top;" | 水素技術
| style="vertical-align: top;" | Hydrogen technologies
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 198|198]]
| style="vertical-align: top;" | ヘルスケア製品の滅菌
| style="vertical-align: top;" | Sterilization of health care products
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 199|199]]
| style="vertical-align: top;" | 機械類の安全性
| style="vertical-align: top;" | Safety of machinery
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" | [[ISO 12100]]
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 200|200]]
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | 廃止
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 201|201]]
| style="vertical-align: top;" | 表面化学分析
| style="vertical-align: top;" | Surface chemical analysis
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | 幹事国
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 202|202]]
| style="vertical-align: top;" | マイクロビーム分析
| style="vertical-align: top;" | Microbeam analysis
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 203|203]]
| style="vertical-align: top;" | 技術エネルギーシステム
| style="vertical-align: top;" | Technical energy systems
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 204|204]]
| style="vertical-align: top;" | 高度道路交通システム (ITS)
| style="vertical-align: top;" | Intelligent transport systems
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 205|205]]
| style="vertical-align: top;" | 建築環境設計
| style="vertical-align: top;" | Building environment design
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 206|206]]
| style="vertical-align: top;" | ファインセラミックス
| style="vertical-align: top;" | Fine ceramics
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | 幹事国
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 207|207]]
| style="vertical-align: top;" | 環境管理
| style="vertical-align: top;" | Environmental management
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" | [[ISO 14000]]
|-
| height="57" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 208|208]]
| style="vertical-align: top;" | 産業用熱タービン
| style="vertical-align: top;" | Thermal turbines for industrial application (steam turbines, gas expansion turbines) - STANDBY
| style="vertical-align: top;" | 休止
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 209|209]]
| style="vertical-align: top;" | クリーンルーム及び関連制御環境
| style="vertical-align: top;" | Cleanrooms and associated controlled environments
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="43" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 210|210]]
| style="vertical-align: top;" | 医療用具の品質管理と関連する一般事項
| style="vertical-align: top;" | Quality management and corresponding general aspects for medical devices
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 211|211]]
| style="vertical-align: top;" | [[地理情報]]
| style="vertical-align: top;" | Geographic information/Geomatics
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" | [[ISO 6709]]<br />[[ISO 19100]]
|-
| height="43" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 212|212]]
| style="vertical-align: top;" | [[臨床検査]]及び体外診断検査システム
| style="vertical-align: top;" | Clinical laboratory testing and in vitro diagnostic test systems
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="43" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 213|213]]
| style="vertical-align: top;" | 製品の寸法・形状の仕様及び評価
| style="vertical-align: top;" | Dimensional and geometrical product specifications and verification
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 214|214]]
| style="vertical-align: top;" | [[高所作業車]]
| style="vertical-align: top;" | Elevating work platforms
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 215|215]]
| style="vertical-align: top;" | [[保健情報学]]
| style="vertical-align: top;" | Health informatics
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 216|216]]
| style="vertical-align: top;" | [[履物]]
| style="vertical-align: top;" | Footwear
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 217|217]]
| style="vertical-align: top;" | [[化粧品]]
| style="vertical-align: top;" | Cosmetics
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 218|218]]
| style="vertical-align: top;" | [[木材]]
| style="vertical-align: top;" | Timber
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 219|219]]
| style="vertical-align: top;" | [[床敷物]]
| style="vertical-align: top;" | Floor coverings
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 220|220]]
| style="vertical-align: top;" | {{ill2|極低温容器|en|Cryotank}}
| style="vertical-align: top;" | Cryogenic vessels
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 221|221]]
| style="vertical-align: top;" | [[ジオシンセティック]]
| style="vertical-align: top;" | Geosynthetics
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 222|222]]
| style="vertical-align: top;" | [[個人ファイナンス]]計画
| style="vertical-align: top;" | Personal financial planning - STANDBY
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 223|223]]
| style="vertical-align: top;" | [[社会保障]]
| style="vertical-align: top;" | Societal Security
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="71" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 224|224]]
| style="vertical-align: top;" | [[飲料水]]供給及び[[下水]]施設サービス
| style="vertical-align: top;" | Service activities relating to drinking water supply systems and wastewater systems - Quality criteria of the service and performance indicators
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 225|225]]
| style="vertical-align: top;" | [[市場調査]]
| style="vertical-align: top;" | Market, opinion and social research
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 226|226]]
| style="vertical-align: top;" | 一次[[アルミニウム]]製造用材料
| style="vertical-align: top;" | Materials for the production of primary aluminium
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 227|227]]
| style="vertical-align: top;" | [[ばね]]
| style="vertical-align: top;" | Springs
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | 幹事国
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 228|228]]
| style="vertical-align: top;" | [[観光]]及び関連サービス
| style="vertical-align: top;" | Tourism and related services
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 229|229]]
| style="vertical-align: top;" | [[ナノテクノロジー]]
| style="vertical-align: top;" | Nanotechnologies
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 230|230]]
| style="vertical-align: top;" | [[心理]]分析サービス
| style="vertical-align: top;" | Psychological assessment
| style="vertical-align: top;" | プロジェクト<BR>委員会
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 231|231]]
| style="vertical-align: top;" | [[ブランド]]評価
| style="vertical-align: top;" | Brand valuation
| style="vertical-align: top;" | プロジェクト<BR>委員会
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| height="28" style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 232|232]]
| style="vertical-align: top;" | 非公式[[教育]]サービス
| style="vertical-align: top;" | Learning services for non-formal education and training
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 233|233]]
| style="vertical-align: top;" | [[清掃]]サービス
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | プロジェクト<BR>委員会
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 234|234]]
| style="vertical-align: top;" | [[漁業]]・[[水産]]・[[養殖]]
| style="vertical-align: top;" | Fisheries and aquaculture
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 235|235]]
| style="vertical-align: top;" | 格付けサービス
| style="vertical-align: top;" | Rating services
| style="vertical-align: top;" | プロジェクト<BR>委員会
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 236|236]]
| style="vertical-align: top;" | プロジェクトマネジメント
| style="vertical-align: top;" | Project Management
| style="vertical-align: top;" | プロジェクト<BR>委員会
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 237|237]]
| style="vertical-align: top;" | 博覧会用語
| style="vertical-align: top;" | Exhibition terminology
| style="vertical-align: top;" | プロジェクト<BR>委員会
| style="vertical-align: top;" | Pメンバー
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 238|238]]
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Solid biofuels
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 239|239]]
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Network services billing
| style="vertical-align: top;" | プロジェクト<BR>委員会
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 240|240]]
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Product recall
| style="vertical-align: top;" | プロジェクト<BR>委員会
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 241|241]]
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Road-Traffic Safety Management System
| style="vertical-align: top;" | プロジェクト<BR>委員会
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 242|242]]
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Energy Management
| style="vertical-align: top;" | プロジェクト<BR>委員会
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|-
| style="text-align: center; vertical-align: top;" | [[ISO/TC 243|243]]
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" | Consumer product safety
| style="vertical-align: top;" | [[プロジェクト]]<BR>委員会
| style="vertical-align: top;" |
| style="vertical-align: top;" |
|}
</div>
</div>
== ISOが名前に付いた製品 ==
製品がISO規格に準拠していることを表すために、製品の名称に"ISO"を含む場合がある。
* 多くの[[ディスクドライブ仮想化ソフト|CDイメージ]]は[[拡張子]]が[[ISOイメージ|.ISO]]になっている。これは、CD以外のファイルシステムで[[ISO 9660]]標準ファイルシステムを扱えることを示す。そのため、CDイメージは一般に「ISO」と呼ばれる。CDを読み取ることができる[[CD-ROM]]ドライブを備えた全てのコンピュータは、この標準を使用する。一部のDVD-ROMは、ISO 9660ファイルステムも使用する。
* [[写真フィルム]]・[[撮像素子]]の[[ISO感度|感度]]を表す記号として、「ISO 100」「ISO 400」などのようにも使われる。これらは、フィルムのシャッター速度に関する規格 [[ISO 5800]]([[1987年]]版)に基づいた格付け (ISO speed rating) の数字であり、規格そのものの番号 (5800) ではない点に注意を要する。
* 元々[[ISO 518]]で定義されていたことから、カメラのフラッシュの[[アクセサリーシュー|ホットシュー]]は、しばしば「ISOシュー」と呼ばれる。
* [[ISOFIX]] - 自動車の座席にチャイルドシートを固定する方式。規格番号 ISO 13216-1:1999。
* {{仮リンク|ISO 11783|en|ISO 11783}}で規定されるバスは、一般にISOBUSと呼ばれている。
== 関連項目 ==
* [[IEEE Standards Association]] (IEEE-SA)
* [[国際電気標準会議]] (IEC)
* [[国際電気通信連合]] (ITU)
* [[Internet Engineering Task Force]] (IETF)
* [[国際標準化機構が定める国際標準一覧]]
* [[標準化]]
* [[標準化団体]]
* [[日本産業標準調査会]] (JISC)
** [[日本産業規格]] (JIS)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
=== 情報源 ===
{{refbegin}}
* [[JoAnne Yates]] and Craig N. Murphy, {{cite web |url = http://web.mit.edu/iandeseminar/Papers/Fall2006/Yates.pdf |format = PDF |publisher=|title = Coordinating International Standards: The Formation of the ISO |accessdate=2018年12月26日|deadurl = no |archivedate = 22 September 2010 |archiveurl = https://web .archive.org/web/20100922210249/http://web.mit.edu/iandeseminar/Papers/Fall2006/Yates.pdf }} [http://web.mit.edu/iandeseminar/index2006.html ''MIT Innovations and Entrepreneurship Seminar Series'', Fall 2006].
* {{cite web |first = Willy |last=Kuert |title = Friendship Among Equals – Recollections from ISO's first fifty years |accessdate=2018年12月26日|publisher = ISO |year = 1997 |url = http://www.iso.org/iso/2012_friendship_among_equals.pdf |format = PDF |archivedate = 26 October 2012 |archiveurl = https://web .archive.org/web/20121026060448/http://www.iso.org/iso/2012_friendship_among_equals.pdf }}
{{refend}}
== 外部リンク ==
{{Commons category|ISO}}
*{{Official website}}
**[https://standards.iso.org/ittf/PubliclyAvailableStandards/index.html Publicly Available Standards]
**[https://www.iso.org/advanced-search/x/ Advanced search for standards and/or projects]
**[https://www.iso.org/obp/ui/ Online Browsing Platform (OBP)]
* [https://www.jsa.or.jp/ 一般財団法人日本規格協会]
{{ISO}}
{{Authority control}}
{{DEFAULTSORT:こくさいひようしゆんかきこう}}
[[Category:ISO|*]]
[[Category:ジュネーヴの組織]]
[[Category:国際組織]]
[[Category:標準化団体]]
[[Category:1947年設立の組織]] | 2003-02-22T23:03:21Z | 2023-11-17T03:56:07Z | false | false | false | [
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"Template:Redirect",
"Template:脚注ヘルプ",
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"Template:Seealso",
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2,736 | ロディニア大陸 | ロディニア大陸(ロディニアたいりく、Rodinia)とは、プレートテクトニクス理論において、約11億年前から7億5000万年前にかけて存在したと考えられている、世界のほぼ全ての陸塊が集まってできた超大陸である。「ロディニア」という名前はマーク・マクメナミンが1990年に命名、これはロシア語で「故郷」を意味する単語の「ロージナ」(родина, rodina)に由来する。
20世紀後半の研究の進歩により、過去の大陸移動の様子が詳しくわかってくると、パンゲア大陸以前にも、超大陸が存在したことが分かってきた。古地磁気を使った研究(古地磁気学)により、過去の大陸移動は約6億年前まで詳細に遡ることが可能で、更なる過去について各大陸の移動ルートを逆算推測し、各地の地層データも踏まえて導き出された超大陸がロディニアである。
1991年、ポール・ホフマンがアメリカの科学雑誌『サイエンス』にロディニア大陸の主要配置について発表した。ロディニアは、後の超大陸パンゲアが形成された地域からほぼ正反対の、現在の太平洋地域に、やや南半球寄りに形成されたと考えられている。ロディニアの大陸配置が地球の全球凍結を引き起こした(南北両極とも海洋なので凍結しやすい)という説もあるが、いわゆるスノーボールアース現象は約7億年前の出来事とされ、ロディニアの大陸分裂が起こってから約5000万年後、というのが現在の通説である。
約7.5億年前にロディニア大陸が分裂をはじめ、その後に関してはゴンドワナ大陸と呼ばれるかなり大きな大陸と、シベリア大陸、ローレンシア大陸、バルティカ大陸と呼ばれる小さな大陸へと分裂したと考えられている。ロディニア分裂後に関しては、各々の大陸が1億年ほどかけて異なる配置に集結し、新たな超大陸パノティアが約6.5億年前にできたとする異説もある。
ロディニアよりも前の時代に関しては、昨今の地質学や古地磁気学データから、約20億年前から18億年前の間にあったコロンビア超大陸の存在が支持されており、大陸移動説に基づいた学術研究が行われている。
3億年前の超大陸パンゲアには多彩な生物がいたが、ロディニア大陸は地上に生命体と呼べるものがいない、岩石だけの大地である。
ロディニアが形成された約10億年前は、海の中でようやく小さな多細胞生物(菌類)が出現するようになった時期であり、陸生生物は当然いなかったと考えられている。また、これまで発見されている最古の陸上植物(の化石)も約4億7000万年前の陰胞子であるため、超大陸ロディニアには原始の植物すら生えておらず、ただ岩石だけの陸塊だったと考えるのが妥当である。 | [
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] | ロディニア大陸(ロディニアたいりく、Rodinia)とは、プレートテクトニクス理論において、約11億年前から7億5000万年前にかけて存在したと考えられている、世界のほぼ全ての陸塊が集まってできた超大陸である。「ロディニア」という名前はマーク・マクメナミンが1990年に命名、これはロシア語で「故郷」を意味する単語の「ロージナ」に由来する。 | '''ロディニア大陸'''(ロディニアたいりく、Rodinia)とは、[[プレートテクトニクス]]理論において、約11億年前から7億5000万年前にかけて存在したと考えられている<ref>「[https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/4731/ テキサス州と南極大陸は地続きだった?]」ナショナルジオグラフィック、2011年8月17日、2018年8月4日閲覧。</ref>、世界のほぼ全ての[[陸塊]]が集まってできた[[超大陸]]である。「ロディニア」という名前は[[マーク・マクメナミン]]が1990年に命名、これは[[ロシア語]]で「[[故郷]]」を意味する単語の「ロージナ」({{lang|ru|родина}}, rodina)に由来する<ref>妻ダイアナと共著『動物の出現 -カンブリア紀の大躍進-』という本で発表。ロシア語で「ロディニア」一族、親戚を意味する名詞であり、「~を生む」という意味の動詞ロディツに由来し、ロディツが元になってロディナ(生誕の地、母国の意味)ができた。(テッド・ニールド 2008年 216ページ)</ref>。
== 概要 ==
20世紀後半の研究の進歩により、過去の[[大陸移動]]の様子が詳しくわかってくると、[[パンゲア大陸]]以前にも、超大陸が存在したことが分かってきた。古地磁気を使った研究([[古地磁気学]])により、過去の大陸移動は約6億年前まで詳細に遡ることが可能で、更なる過去について各大陸の移動ルートを逆算推測し、各地の[[地層]]データも踏まえて導き出された超大陸がロディニアである。
1991年、[[ポール・ホフマン]]がアメリカの科学雑誌『[[サイエンス]]』にロディニア大陸の主要配置について発表した<ref>テッド・ニールド 2008年 231ページ</ref>。ロディニアは、後の超大陸[[パンゲア]]が形成された地域からほぼ正反対の、現在の[[太平洋]]地域に、やや[[南半球]]寄りに形成されたと考えられている。ロディニアの大陸配置が地球の[[全球凍結]]を引き起こした(南北両極とも海洋なので凍結しやすい)という説もあるが、いわゆる[[スノーボールアース]]現象は約7億年前の出来事とされ、ロディニアの大陸分裂が起こってから約5000万年後<ref>ピーター・ウォード, ジョゼフ・カーシュヴィンク, 梶山あゆみ『[https://books.google.co.jp/books?id=1L4_DwAAQBAJ&pg=PT109&lpg#v=onepage&q&f=false 生物はなぜ誕生したのか 生命の起源と進化の最新科学]』河出書房新社、2016年1月14日、107-111頁。</ref>、というのが現在の通説である。
約7.5億年前にロディニア大陸が[[分裂]]をはじめ、その後に関しては[[パノティア大陸|ゴンドワナ大陸]]と呼ばれるかなり大きな[[大陸]]と、[[シベリア大陸]]、[[ローレンシア大陸]]、[[バルティカ大陸]]と呼ばれる小さな大陸へと分裂したと考えられている。ロディニア分裂後に関しては、各々の大陸が1億年ほどかけて異なる配置に集結し、新たな超大陸[[パノティア大陸|パノティア]]が約6.5億年前にできたとする異説<ref>Pietro Gaietto「[https://books.google.co.jp/books?id=u8uwBgAAQBAJ&pg=PA19&lpg#v=onepage&q&f=false Phylogensesis of Beauty]」Lulu.com.(2014年4月25日).p-19.2018年8月4日閲覧。 この資料内では名称がパノティアではなく、パノニア(pannonia)と表記されている。</ref>もある。
ロディニアよりも前の時代に関しては、昨今の地質学や古地磁気学データから、約20億年前から18億年前の間にあった[[コロンビア超大陸]]の存在が支持されており<ref>{{cite web|author=Zhao, G.; Sun, M.; Wilde, S. A.; Li, S. |url=https://www.researchgate.net/publication/222891080_A_Paleo-Mesoproterozoic_supercontinent_Assembly_growth_and_breakup|title= A Paleo-Mesoproterozoic supercontinent: Assembly, growth and breakup|date=2004|publisher=Earth-Science|accessdate=4 August 2018}}</ref>、大陸移動説に基づいた[[学術研究]]が行われている。
== 生態系 ==
3億年前の超大陸[[パンゲア]]には多彩な生物がいたが、ロディニア大陸は地上に[[生命体]]と呼べるものがいない、岩石だけの大地である。
ロディニアが形成された約10億年前は、海の中でようやく小さな[[多細胞生物]]([[菌類]])が出現するようになった時期であり<ref>真柳仁『[https://books.google.co.jp/books?id=G7hdDwAAQBAJ&pg=PA212#v=onepage&q&f=false 高校とってもやさしい生物]』旺文社、2018年3月26日、210-212頁。 </ref>、陸生生物は当然いなかったと考えられている。また、これまで発見されている最古の陸上植物(の化石)も約4億7000万年前の陰[[胞子]]である<ref>西田治文 『[http://www.utp.or.jp/book/b307533.html 化石の植物学 -時空を旅する自然史]』東京大学出版会、2017年06月22日。</ref>ため、超大陸ロディニアには原始の植物すら生えておらず、ただ岩石だけの[[陸塊]]だったと考えるのが妥当である。
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Rodinia}}
* [[大陸]]
* [[超大陸]]
* [[プレートテクトニクス]]
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author = [[テッド・ニールド]]
|translator = [[松浦俊輔]]
|title = 超大陸 : 100億年の地球史
|origyear =
|year = 2008
|publisher = [[青土社]]
|isbn = 978-4-7917-6442-6
}}
== 外部リンク ==
{{節スタブ}}
{{世界の地理}}{{プレートテクトニクス}}
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{{DEFAULTSORT:ろていにあたいりく}}
[[Category:古大陸]]
[[Category:超大陸]] | 2003-02-23T02:34:49Z | 2023-11-21T20:20:41Z | false | false | false | [
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2,737 | LightWave | LightWave(ライトウェーブ)は、英LightWave Digital社が開発及び販売を行う3DCGソフトウェア。略称はLW。日本においてもCM・アニメ・ゲームの制作に使用されており (#著名人物・団体参照)、2017年現在もシェアを持っている。比較的安価なため、趣味で使用する個人ユーザーも多い。日本ではディストームが販売している。2023年4月3日、新チームによる開発が表明された。
LightWaveはモデリングからアニメーションまで制作できる統合型の3DCGソフトである。歴史的な経緯によりLightWaveはモデリングや材質・テクスチャの設定などを行なう「モデラー」と、モデリングしたデータを配置したり必要に応じてアニメーションを設定したうえでレンダリングを行なう「レイアウト」という2つのソフトで構成されている。
長年に渡りモデラーとレイアウトの統合が計画されているものの(#モデラーとレイアウトの統合計画参照)、2021年現在も未だ分かれたままとなっている。しかしながら、バージョン6からはモデラーとレイアウトを自動で仲介するHUB機能が搭載され、バージョン10からはデータの同期をとるための内部通信機能も実装され、モデラーとレイアウトの連携が進んでおり、既定ではたとえHUBをOFFにしていてもディスク保存によってモデラーとレイアウト間でデータが同期されるようになっている。
インタフェースの特徴としては各種機能にアクセスするためのボタンが全て文字で表現されており、ビューの平行移動・回転・拡大縮小を行なうツールボタンなどの例外を除き、基本的にアイコンは用いられていない。ボタンの配置とキーボードショートカット、メニューの色はユーザーが自由にカスタマイズすることが可能で、使用者によって様変わりする。座標系はXが左右、Yが上下、Zが奥行きを示す。また、右手座標系ではなく左手座標系が採用されている。回転系は長年にわたりオイラー角のHPB方式(垂直軸回転→水平軸回転→奥行き軸回転)のみとなっており、ずっとジンバルロック問題を抱えていたものの、LightWave 2020で回転順序の変更が可能となりジンバルロック問題は緩和されている。
ハードウェアではマウスの他にタブレット、3Dマウスにも対応し、バージョン11からはPlayStation Moveにも対応しているが、グローブインターフェイス、ヘッドマウントディスプレイ等には対応していない。
今もって3DCGソフトにはPhotoshopのようなデファクトスタンダードが存在しないが、LightWave 5.5が世に出た頃は今にもまして混沌としており、大抵のソフトが「難解」「非直感的」と評される状態にあって「粘土をこねるように直感的にモデリングできる」と評された同ソフトが、他の3DCGソフトのインタフェースに与えた影響は大きい。
もともとはAmiga用のVideo Toasterという動画編集用のハードウエアにバンドルされていた3D CG処理ソフトで、スチュアート・ファーガソンがモデラーを、アレン・ヘイスティングスがレイアウトを担当する形で開発された。バージョン4まではAmigaプラットフォームにのみ提供されていたが、コモドール社の倒産に伴いバージョン5ではWindows 95 / 98、Windows NT(x86版およびDEC Alpha版)、Macintosh、SGI IRIX、SparcStationなど多様なプラットフォームに提供。しかしその後はSGI IRIX版もバージョン6.5を最後に開発が打ち切られ、バージョン7以降はWindowsとMacintoshの2プラットフォームにのみ提供されている。
プレイステーションの市販開発キット「ネットやろうぜ!」にはバージョン4.0が付属していた。SonyのVAIOにLightWave 3D express for VAIOとしてバンドルされていた事もある。
販売やサポートは継続されているものの、LightWaveのメジャーアップデートは2020で開発終了。しかし、Vizrt GroupがLightWaveをLightWave Digitalに売却、開発が再開される事になる。取引は2023年4月27日に終了し、Andrew Bishop氏とその専門家チームであるLightWave Digitalに引き渡された。所有権の移転に伴い、既存のライセンス保持者に変化はなく、技術サポートも継続、現在の再販業者も継承される。新バージョンのLightWave 2023は2023年第四半期にリリース予定。
LightWaveは前述の通りモデラーとレイアウトに分かれているため、過去何度も両者の統合が計画されている。
2001年にはNewTek 3D開発部の副部長であったBrad Peeblerと一部の社員がLightWaveの書き直しを望み、NewTek上層部経営陣の反対に会って独立、Luxologyを立ち上げ2004年にmodoをリリースした。
一方Newtekは2005年にElectric Image Animation System(英語版) (EIAS)の創設者であるJay RothとMark Grangerを雇入れ、Jay RothをNewTekの3D部門のトップとし、2009年に次世代LightWaveとなる「LightWave CORE」を発表したものの、その後、2010年5月にはRob Powersを雇入れて新たなLightWave開発の責任者とし、2011年リリースのLightWave 10では開発されたLightWave COREの技術が既存のモデラーソフト及びレイアウトソフトに組み込まれるのみとなった。
それでもRob Powersは最終的にモデラーとレイアウトを統合すると表明しており、2012年に発足したLightWave 3D Groupでもトップとして就任したRob Powersは、古いアーキテクチャを残したまま新しいアーキテクチャを開発するという「BorgQueen」の開発哲学を用いたLightWaveの内部コードの書き換えを進め、「LightWave Next」として開発され2018年にリリースされたLightWave 2018ではモデラーソフトとレイアウトソフトの両方に同一の統合メッシュシステムが搭載された。これによってレイアウト側でも編集可能なジオメトリが扱えるようになり、次いでLightWave 2019ではレイアウト側でスカルプトやウェイトペイントを行うMetamorphicが搭載されるようになったものの、2021年現在、未だモデラーとレイアウトは分かれたままとなっている。
LightWave 2018でレンダラーが書き直され物理ベースのレンダリングシステムが搭載されたもののGPUレンダリング未対応となっており、GPUレンダリングにはOtoy製のOctaneRenderが必要となる。非写実的レンダリングでは交差エッジに対応したエッジレンダリングを備えているほか、トゥーンレンダリングのCel Integratorを持っている。
3Dペイントに対応しておらず、3DペイントにはSubstance Painterなどの外部の3Dペイントソフトが必要となる。
また、ケージ変形、スカルプトを標準で備えておらず、それらには3rd Powers製のプラグインが必要となる。本体にそれらのプラグインを同梱したLightWave + 3rd Powers Full Plugin Suiteが販売されている。
群集シミュレーションでは、Ver11.0にてフロッキング(群集)シミュレーターが実装され、動物、魚、昆虫などの群れ、更には飛行機や宇宙船の集団といった、通常複雑かつ膨大なデータ量を必要とするシーンを簡単に作成することができるようになった。Ver11.5からは簡単なAIが実装された。
他3DCGソフトに比べ弱い点も存在するが、プロの使用にも耐える3DCGソフトの中では随一のコストパフォーマンスを誇っている。
当初から先進的なプラグイン・アーキテクチャを採用しており、ソフトウェア本体は単なるプラグインサーバに過ぎず、基本的なコア機能もプラグイン機構を通じて実装されている。
また、その仕様もオープンにされていたため、大量のサードパーティー製・個人製プラグインが製作された。プラグイン・アーキテクチャの利点のひとつはそのフットワークの軽さであり、3DCGの先進のトピックが、他の高額なハイエンドソフトウェアを差し置いていち早くLightWave上で実現されることさえあった。そして標準の機能の不便さを、開発元の対応を待たずに私製プラグインで補うことも盛んに行われ、その成果はたびたび広く公開されていた。
また、一般のCコンパイラ等で構築するプラグインの他にも、インタプリタとして3DCGソフトウェアで標準的に使われているPythonスクリプトを備えている。
なお、独自のスクリプト言語であるLScriptも搭載されているが、LightWave 2020で非推奨となった。LScriptは元々POV-Rayレンダラーのアニメーションのために開発されたものの統合されず、LightWaveがPCに移植される際にAmigaOSの標準スクリプト言語の代わりとして転用され、その後、長年搭載され続けてきた。 | [
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"text": "また、その仕様もオープンにされていたため、大量のサードパーティー製・個人製プラグインが製作された。プラグイン・アーキテクチャの利点のひとつはそのフットワークの軽さであり、3DCGの先進のトピックが、他の高額なハイエンドソフトウェアを差し置いていち早くLightWave上で実現されることさえあった。そして標準の機能の不便さを、開発元の対応を待たずに私製プラグインで補うことも盛んに行われ、その成果はたびたび広く公開されていた。",
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] | LightWave(ライトウェーブ)は、英LightWave Digital社が開発及び販売を行う3DCGソフトウェア。略称はLW。日本においてもCM・アニメ・ゲームの制作に使用されており (#著名人物・団体参照)、2017年現在もシェアを持っている。比較的安価なため、趣味で使用する個人ユーザーも多い。日本ではディストームが販売している。2023年4月3日、新チームによる開発が表明された。 | {{出典の明記|date=2015年12月}}
{{Infobox Software
| 名称 = LightWave
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| 開発元 = {{仮リンク|LightWave Digital|}}
| 最新版 = 2023
| 最新版発表日 = {{release date and age|2023|11|30}}
| 対応OS = [[Microsoft Windows|Windows]], [[macOS]]
| 種別 = [[3DCGソフトウェア]]
| ライセンス = [[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]
| 公式サイト = [https://www.lightwave3d.com/ LightWave Digital] (英語)<br />[https://www.dstorm.co.jp/lw2020/ LightWave 2020 - 株式会社ディストーム] (日本語)
}}
'''LightWave'''(ライトウェーブ)は、[[イギリス|英]][[LightWave Digital]]社が[[ソフトウェア開発|開発]]及び販売を行う[[3DCGソフトウェア]]。略称は'''LW'''。[[日本]]においても[[テレビコマーシャル|CM]]・[[アニメーション|アニメ]]・[[コンピュータゲーム|ゲーム]]の制作に使用されており ([[#著名人物・団体]]参照)、2017年現在もシェアを持っている<ref>[https://cgworld.jp/feature/201701-enq.html 2017年を前に業界標準のスペックを見定めるCGプロダクション制作環境一斉調査] CGWorld 2017年1月10日</ref>。比較的安価なため、趣味で使用する個人ユーザー<ref group="注">LightWaveのユーザーを俗に'''ライトウェーバー'''(LightWaver)と呼ぶ。ただし、{{いつ範囲|現在|date=2015年12月}}では{{要出典範囲|完全に死語である|date=2015年12月}}。</ref>も多い。日本では[[ディストーム]]が販売している。2023年4月3日、新チームによる開発が表明された<ref>{{Cite web |title=Vizrt |url=https://go.vizrt.com/webmail/428312/1229838432/60054de56937eb4da28c5d366dbb2c300d22bf28e8bb05ad14696250d1332b76 |website=go.vizrt.com |access-date=2023-06-12}}</ref>。
== インタフェース ==
LightWaveは[[モデリング]]から[[コンピュータアニメーション|アニメーション]]まで制作できる統合型の[[3次元コンピュータグラフィックス|3DCG]]ソフトである。歴史的な経緯により<ref>[https://docs.lightwave3d.com/display/LW2018/LightWave+History LightWave History] NewTek</ref>LightWaveはモデリングや材質・テクスチャの設定などを行なう「モデラー」と、モデリングしたデータを配置したり必要に応じてアニメーションを設定したうえで[[レンダリング (コンピュータ)|レンダリング]]を行なう「レイアウト」という2つのソフトで構成されている。
長年に渡りモデラーとレイアウトの統合が計画されているものの([[#モデラーとレイアウトの統合計画]]参照)、2021年現在も未だ分かれたままとなっている。しかしながら、バージョン6からはモデラーとレイアウトを自動で仲介するHUB機能が搭載され、バージョン10からはデータの同期をとるための内部通信機能も実装され、モデラーとレイアウトの連携が進んでおり、既定ではたとえHUBをOFFにしていてもディスク保存によってモデラーとレイアウト間でデータが同期されるようになっている<ref>[http://www.dstorm.co.jp/support/FAQ/LWFAQ/lw11/lw11_isolate.html HUBを起動していなくてもモデラーとレイアウトで自動的に同期がかかってしまう - 株式会社ディストーム]</ref>。<!--TODO: 3rd Powers製のPaint Weightsプラグインについて書く-->
インタフェースの特徴としては各種機能にアクセスするためのボタンが全て文字で表現されており、ビューの平行移動・回転・拡大縮小を行なうツールボタンなどの例外を除き、基本的にアイコンは用いられていない。ボタンの配置とキーボードショートカット、メニューの色はユーザーが自由にカスタマイズすることが可能で、使用者によって様変わりする。座標系はXが左右、Yが上下、Zが奥行きを示す。また、右手座標系ではなく左手座標系が採用されている。回転系は長年にわたりオイラー角のHPB方式(垂直軸回転→水平軸回転→奥行き軸回転)<ref group="注">HPBは回転軸を示す言葉で、Hはヘディング、Pはピッチ、Bはバンクを示し、それぞれ、垂直軸回転、水平軸回転、奥行き軸回転を示す。主に航空機用語としてよく用いられるヨー・ピッチ・ロールとほぼ同義である。</ref>のみとなっており、ずっと[[ジンバル]]ロック問題<ref group="注">BはPの、PはHの子供という親子関係にある。その都合で例えばPが90度回転するとHとBの回転軸が同一となり、一つ回転軸が消失し、自由な回転が不能になる。</ref>を抱えていたものの、LightWave 2020で回転順序の変更が可能となり<ref name="lw2020"/>ジンバルロック問題は緩和されている。
ハードウェアではマウスの他にタブレット、3Dマウスにも対応し、バージョン11からは[[PlayStation Move]]にも対応しているが、グローブインターフェイス、[[ヘッドマウントディスプレイ]]等には対応していない。
今もって3DCGソフトには[[Adobe Photoshop|Photoshop]]のような[[デファクトスタンダード]]が存在しないが、LightWave 5.5が世に出た頃は今にもまして混沌としており、大抵のソフトが「難解」「非直感的」と評される状態にあって「粘土をこねるように直感的にモデリングできる」と評された同ソフトが、他の3DCGソフトのインタフェースに与えた影響は大きい。
== 歴史 ==
もともとは[[Amiga]]用の[[Video Toaster]]という動画編集用のハードウエアにバンドルされていた3D CG処理ソフトで、スチュアート・ファーガソンがモデラーを、アレン・ヘイスティングスがレイアウトを担当する形で開発された。バージョン4まではAmigaプラットフォームにのみ提供されていたが、[[コモドール]]社の倒産に伴いバージョン5では[[Microsoft Windows 95|Windows 95]] / [[Microsoft Windows 98|98]]、[[Microsoft Windows NT|Windows NT]]([[x86]]版および[[DEC Alpha]]版)、[[Power Mac|Macintosh]]、[[シリコングラフィックス|SGI]] [[IRIX]]、[[SparcStation]]など多様なプラットフォームに提供。しかしその後はSGI IRIX版もバージョン6.5を最後に開発が打ち切られ、バージョン7以降はWindowsとMacintoshの2プラットフォームにのみ提供されている。
[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]の市販開発キット「[[ネットやろうぜ!]]」にはバージョン4.0が付属していた。[[ソニー|Sony]]の[[VAIO]]にLightWave 3D express for VAIOとしてバンドルされていた事もある。
=== 開発終了と再開 ===
販売やサポートは継続されているものの、LightWaveのメジャーアップデートは2020で開発終了。しかし、Vizrt GroupがLightWaveをLightWave Digitalに売却、開発が再開される事になる。取引は2023年4月27日に終了し、Andrew Bishop氏とその専門家チームであるLightWave Digitalに引き渡された。所有権の移転に伴い、既存のライセンス保持者に変化はなく、技術サポートも継続、現在の再販業者も継承される。新バージョンのLightWave 2023は2023年第四半期にリリース予定。
=== バージョンごとの主な追加機能 ===
; バージョン6(1999年)
: ボーンウェイト、UVマップ、[[モーフィング|モーフマップ]]、頂点カラー、[[メタボール]]、スケルゴン<ref group="注">モデラー上でのボーン作成機能。</ref>、スケマティックビュー、アニメーションチャンネルの独立<ref group="注">移動、回転、拡大縮小のXYZ、HPBのキーフレーム分離。</ref>、複数アイテム同時アニメーション制御、[[ラジオシティ]]レンダリング、サブパッチのレンダリング
; バージョン7(2001年)
: 対称編集モード、サスカッチライト<ref group="注">ファーレンダリングプラグインであるサスカッチの機能限定版。</ref>、影の色の変更、中心点回転機能<ref group="注">ボーン座標系を0°にリセットし、ジンバルロックを回避するための機能。</ref>、モーションパスの直接編集、スプレッドシート<ref group="注">キーフレームをトラック上で操作する機能。</ref>、モーションミキサー<ref group="注">複数モーションの掛け合わせや並べ替えを行う機能。</ref>、操作座標系の切り替え<ref group="注">親座標、ローカル座標、ワールド座標を切り替えて操作を行う。アニメーション補完は親座標のみ。</ref>、パーティクルFX
; バージョン8(2004年)
: テクスチャワイヤー表示、複数カメラを切り替えてのレンダリング、IKブースター<ref group="注">FKをIKのように操作する機能。</ref>、[[OpenGL]]表示強化<ref group="注">モデラーやレイアウト上のプレビューで透過表示や、[[GLSL]]表示がサポートされた。OpenGL 2.0対応のグラフィックスカードでピクセル単位ライティングなどが可能となる。</ref><ref>[http://www_test.dstorm.co.jp/products/lw8/support/techsupport/glslhwshading.htm GLSL HW Shadingの対応状況]</ref>、ドープトラック<ref group="注">タイムスライダー上でキーフレーム編集。</ref>、クロスシミュレーター、ソフトボディシミュレーター、剛体力学演算
; バージョン9(2006年)
: エッジ編集機能、キャットマル・クラーク サブディビジョン<ref group="注">5角形以上のポリゴンとエッジ対応のサブパッチ。</ref>、ノード方式のマテリアル設定機能(ノードエディタ)、平行カメラ、UV投影カメラ、ファー編集(FiberFX)、IK/FKブレンディング、位置とスケールのIKコントロール、ジョイントボーン、ファイルのドラッグ&ドロップ対応[http://www_test.dstorm.co.jp/products/lw9/feature/newfeature.html][http://www_test.dstorm.co.jp/products/lw9/feature/general/compare.html]
; バージョン10(2010年)
: ビューポートプレビューレンダリング (VPR)、3Dマウスである3Dconnexion製品ラインナップのサポート、Autodesk社ジオメトリキャッシュ用MDDのサポート
; バージョン11(2012年)
: インスタンス<ref group="注">オブジェクトの高速なクローン体制御機能</ref>、フロッキング(群集システム)、フラクチャー(粉砕)、[[Bullet]](剛体、柔体)物理演算、仮想スタジオツール、GoZサポート<ref group="注">GoZは[[Pixologic]]社によって開発された、LightWaveとZBrush間でデータを円滑にやり取りするための機能。LightWaveで作成されたモデルデータをZBrushへ送り、ZBrush側でスカルプティングやテクスチャ処理を行い、テクスチャとノーマルマップの設定を施したまま、そのデータを自動的にLightWaveへと送り返した後、LightWaveでレンダリングする、といった一連のフローを可能にしてくれる。</ref>、レンダーバッファの拡張、VPRの拡張(セルエッジ対応等)、[[Python]]スクリプト、FiberFXの拡張(ソリッド・ボリュームモード追加等)、ソフトウェアライセンス<ref group="注">非ドングルアクティベート</ref>、Adobe After Effectsのサポート、Genoma<ref group="注">モデラーにて、様々なリギングのプリセットが同梱された、他システムとの高い互換性を誇る新しいリグシステム</ref>、[[ローリングシャッター現象]]、輪郭線のノード編集、UVアンラップ、「メッシュの配置」ツール<ref group="注">「メッシュの配置」ツールは、背景レイヤーにあるオブジェクトを、前景レイヤーのメッシュへとスナッピングをきかせながらインタラクティブに追加する。この「メッシュ配置」ツールを利用することで、動物にトゲを加える、ロボットの腕にボルトを配置する、などといったメッシュサーフェイス上に他のオブジェクトを正確に追加することが可能になる。</ref>
; バージョン11.6(2013年)
: カラー[[3Dプリンター|3Dプリント]]対応、レイキャストノード、スプラインコントロール、[[Cg (プログラミング言語)|CgFX]]シェーダー、新カラーピッカー[http://www.dstorm.co.jp/dsproducts/lw11/lw116_detail/]
; バージョン2015(2014年末)
: [[Bullet]]物理シミュレーションに以下のコンストレイントを追加(ポイント、ヒンジ、スライダ、コーンツイスト、スプリング、6軸自由度)、重点サンプリング機能、パースペクティブとのマッチング、GENOMA2、交差エッジとパッチ境界のレンダリング、エッジバッファ出力、ダイナミックペアレント[http://www.dstorm.co.jp/dsproducts/lw2015/newfeatures_detail.html]
; バージョン2018(2018年)
: 統合メッシュシステム実装、OpenGLビューポート表示の強化&高速化、レンダラー刷新、サーフェス設定刷新、ノイズリダクションフィルター、PBRシェーダー、新セルシェーダー&エッジレンダリング&サブリメイションセルシェーダー、ノードモディファイヤスタック、物理ベースのヴォリューメトリックエンジン、疎ボクセルライブラリの{{仮リンク|OpenVDB|en|OpenVDB}}対応、改善されたFiberFXインテグレーション、UDIM対応、IESライトの改善、VRカメラ、モデラーのレイアウトビューオプション、仮想プリミティブパラメトリックシェイプ、パフォーマンスの最適化
; バージョン2019(2019年)
: [[Unreal Engine]]とのリアルタイムブリッジ追加、FBXインポータ/エクスポータの改善、レイアウト側でCorrective Morph対応のスカルプト/ウェイトペイント/頂点ペイントを行うMetamorphicプラグインの統合<ref name="lw2019-mm"/>、OpenVDBボリュームの作成・編集対応、スムージンググループ対応、ラウンドエッジシェーダー追加、NVIDIA GPU向けのOptiXデノイザー追加、無制限Undo対応、高解像度ディスプレイ対応の強化<ref>[http://www.cgchannel.com/2019/01/newtek-ships-lightwave-2019/ NewTek ships LightWave 2019] CG Channel 2019年1月23日</ref>
; バージョン2020(2020年)
: 回転順序の可変化、レンダリングアルゴリズムの改善、ランダムウォーク表面下散乱対応、物理的ヘアシェーダー対応、Partioライブラリの統合による様々なパーティクル形式への対応<ref name="lw2020">[http://www.cgchannel.com/2020/04/newtek-ships-lightwave-2020/ NewTek ships LightWave 2020] CG Channel 2020年4月24日</ref>
; バージョン2023(2023年)
: プロシージャルジオメトリーノード、ガス状流体(TurbulenceFD統合)、インスタンスペイント、レイアウト側のテキストツール、LightWave Pro ツール (OD Tool Set統合)、[[Unreal Engine]]ブリッジ、ショットスカルプトツール(クロノスカルプト統合)<ref name="lightwave-2023">[http://web.archive.org/web/20231128021032/https://www.lightwave3d.com/information-pages/new-features/ New features] LightWave</ref>。
=== モデラーとレイアウトの統合計画 ===
LightWaveは前述の通りモデラーとレイアウトに分かれているため、過去何度も両者の統合が計画されている。
2001年にはNewTek 3D開発部の副部長であったBrad Peeblerと一部の社員がLightWaveの書き直しを望み、NewTek上層部経営陣の反対に会って独立、Luxologyを立ち上げ<ref>[https://www.awn.com/vfxworld/review-can-modo-701-make-its-mark-animation-and-vfx Review: Can 'MODO 701' Make its Mark on Animation and VFX?] Animation World Network 2013年7月26日</ref>2004年に[[modo]]をリリースした。
一方Newtekは2005年に{{仮リンク|Electric Image Animation System|en|Electric Image Animation System}} (EIAS)の創設者であるJay RothとMark Grangerを雇入れ、Jay RothをNewTekの3D部門のトップとし<ref>[https://www.faq-mac.com/2005/03/newtek-recluta-a-jay-roth-y-mark-granger-de-eias/ Newtek recluta a Jay Roth y Mark Granger, de EIAS] {{es icon}} Faq-mac 2005年3月10日</ref><ref>[https://www.postmagazine.com/Press-Center/Daily-News/2005/ELECTRIC-IMAGE-CO-FOUNDERS-JOIN-NEWTEK2.aspx ELECTRIC IMAGE CO-FOUNDERS JOIN NEWTEK] {{仮リンク|Post Magazine|en|Post Magazine}} 2005年3月9日</ref>、2009年に次世代LightWaveとなる「LightWave CORE」を発表した<ref>[https://www.studiodaily.com/2009/02/newtek-unveils-new-3d-technology-lightwave-core/ NewTek Unveils New 3D Technology Lightwave CORE] Studio Daily 2009年2月9日</ref>ものの、その後、2010年5月にはRob Powersを雇入れて新たなLightWave開発の責任者とし<ref name="dstorm-lw10"/>、2011年リリースのLightWave 10では開発されたLightWave COREの技術が既存のモデラーソフト及びレイアウトソフトに組み込まれるのみとなった<ref name="dstorm-lw10">[https://www.dstorm.co.jp/archives/press/LightWave10_20110525.pdf NewTek社 LightWave 3Dの最新バージョン「LightWave 10 正式日本語版」発売開始のご案内] DSTORM 2011年5月25日</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20130502015803/http://www.dstorm.co.jp/dsproducts/lw10/faq.html LightWave 10 FAQ] ディストーム</ref>。
それでもRob Powersは最終的にモデラーとレイアウトを統合すると表明しており<ref>[http://www.cgchannel.com/2011/06/rob-powers-on-lightwaves-three-year-roadmap/ Rob Powers on LightWave’s new three-year roadmap] CG Channel 2011年6月23日</ref>、2012年に発足したLightWave 3D Groupでもトップとして就任したRob Powers<ref>[https://www.newtek.com/706-press-release-newtek-announces-the-lightwave-3d-group-names-rob-powers-group-president/ NewTek Announces the LightWave 3D Group – Names Rob Powers Group President] NewTek 2012年8月1日</ref>は、古いアーキテクチャを残したまま新しいアーキテクチャを開発するという「BorgQueen」の開発哲学を用いたLightWaveの内部コードの書き換えを進め<ref>[http://www.cgchannel.com/2016/03/newtek-previews-lightwave-2016/ NewTek previews LightWave 2016] CG Channel 2016年3月29日</ref><ref name="ums-part2">[https://blog.lightwave3d.com/2015/12/unified-mesh-system-part-2/ Unified Mesh System (Part II)] NewTek 2015年12月1日</ref>、「LightWave Next」として開発され2018年にリリースされたLightWave 2018ではモデラーソフトとレイアウトソフトの両方に同一の統合メッシュシステムが搭載された<ref>[http://www.cgchannel.com/2018/01/newtek-unveils-lightwave-2018/ NewTek ships LightWave 2018] CG Channel 2018年1月1日</ref>。これによってレイアウト側でも編集可能なジオメトリが扱えるようになり<ref name="ums-part2"/>、次いでLightWave 2019ではレイアウト側でスカルプトやウェイトペイントを行うMetamorphicが搭載されるようになった<ref name="lw2019-mm">[https://docs.lightwave3d.com/lw2019/reference/layout/object-properties/primitive-type/primitive-type-mesh/mesh-geometry/modifier-stack/metamorphic Metamorphic] NewTek</ref>ものの、2021年現在、未だモデラーとレイアウトは分かれたままとなっている。
== 他3DCGソフトとの比較 ==
LightWave 2018でレンダラーが書き直され物理ベースのレンダリングシステムが搭載された<ref>[http://cgpress.org/archives/lightwave-2018-released-with-a-pbr-rendering-system-and-more.html Lightwave 2018 released with a new PBR rendering system and more] CGPress 2017年12月13日</ref>もののGPUレンダリング未対応となっており、GPUレンダリングにはOtoy製のOctaneRenderが必要となる。[[非写実的レンダリング]]では交差エッジに対応したエッジレンダリングを備えているほか、[[トゥーンレンダリング]]のCel Integratorを持っている。
3Dペイントに対応しておらず、3DペイントにはSubstance Painterなどの外部の3Dペイントソフトが必要となる。
また、ケージ変形、スカルプトを標準で備えておらず、それらには3rd Powers製のプラグインが必要となる。本体にそれらのプラグインを同梱したLightWave + 3rd Powers Full Plugin Suiteが販売されている<ref>[http://www.prweb.com/releases/2015/08/prweb12895558.htm LightWave 3D Group Offers Powerful Creativity Bundle for 3D Modeling, Animation, and Rendering] PRWeb 2015年8月10日</ref>。
群集シミュレーションでは、Ver11.0にてフロッキング(群集)シミュレーターが実装され、動物、魚、昆虫などの群れ、更には飛行機や宇宙船の集団といった、通常複雑かつ膨大なデータ量を必要とするシーンを簡単に作成することができるようになった。Ver11.5からは簡単なAIが実装された。
他3DCGソフトに比べ弱い点も存在するが、プロの使用にも耐える3DCGソフトの中では随一のコストパフォーマンスを誇っている。
== プラグイン ==
当初から先進的な[[プラグイン]]・[[アーキテクチャ]]を採用しており、ソフトウェア本体は単なるプラグインサーバに過ぎず、基本的なコア機能もプラグイン機構を通じて実装されている。
また、その仕様もオープンにされていたため、大量の[[サードパーティー]]製・個人製プラグインが製作された。プラグイン・アーキテクチャの利点のひとつはそのフットワークの軽さであり、3DCGの先進のトピックが、他の高額なハイエンドソフトウェアを差し置いていち早くLightWave上で実現されることさえあった。そして標準の機能の不便さを、開発元の対応を待たずに私製プラグインで補うことも盛んに行われ、その成果はたびたび広く公開されていた。
また、一般のCコンパイラ等で構築するプラグインの他にも、[[インタプリタ]]として3DCGソフトウェアで標準的に使われている[[Python]]スクリプトを備えている。
なお、独自のスクリプト言語であるLScriptも搭載されているが、LightWave 2020で非推奨となった<ref name="lscript-deprecated"/>。LScriptは元々[[POV-Ray]]レンダラーのアニメーションのために開発されたものの統合されず<ref name="lscript-deprecated"/>、LightWaveがPCに移植される際に[[AmigaOS]]の標準スクリプト言語の代わりとして転用され、その後、長年搭載され続けてきた<ref name="lscript-deprecated">[https://blog.lightwave3d.com/2020/05/development-update-lscript-in-lightwave-3d-depreciated/ Development Update: LScript in LightWave 3D Deprecated] NewTek 2020年5月26日</ref>。
== 代表的なプラグイン ==
* YSプラグイン - キャラクターアニメーション支援のためのYS:CharacterKitを含む。サンライズプラグインの実質的後継。
* LWCAD - モデリングプラグイン。
* DP Kit - LightWave用のノード集。
* OctaneRender for LightWave - GPUレンダラー。開発終了<ref>[https://render.otoy.com/forum/viewtopic.php?f=36&t=78617&start=7 Re: LW 2021 plugin, where are you?] Otoy 2021年10月29日</ref>。
* Deep Rising FX - 流体シミュレーションプラグイン。開発終了<ref>[http://www.cgchannel.com/2022/06/deep-rising-fx-and-deep-fx-studio-discontinued/ Deep Rising FX and Deep FX Studio discontinued] CG Channel 2022年6月20日</ref>。
=== 過去のプラグイン ===
* Particle Storm - Dynamic Realities製のパーティクルプラグイン。LightWave 5.5にLite版が搭載されていた<ref>[https://web.archive.org/web/19990219100632/http://macweek.zdnet.com/1220/rv_lightwave.html LightWave 3D shines] Mac Publishing 1998年5月25日</ref><ref>[https://web.archive.org/web/19971222001355/http://dynamic-realities.com/ps_info.htm Products: Particles Storm] Dynamic Realities</ref>。なお、LightWave 6.5以降は独自のParticle Fx機能が搭載されている<ref>[http://www.gamasutra.com/view/news/91148/NewTek_Releases_LightWave_65.php NewTek Releases LightWave 6.5] Gamasutra 2000年12月15日</ref>。
* QemLOSS2 - ポリゴン削減プラグイン。Reduce Polys+としてLightWaveに標準搭載されるようになった。<!--TODO: 出典はLightWave [8]のDocumentation/help/Reduce_Polys_.htm-->
* Motion Designer - 軟体力学シミュレーションプラグイン。Newtekが買収し、LightWave 6以降に標準搭載されるようになった<ref>[http://www.digitalpostproduction.com/Htm/Articles/News/2000/June/ClothSimulationforLightWave6.htm Cloth Simulation for LightWave 6] Digital Post Production 2000年6月21日</ref>。
* BESM shader - Eric Soulvie製のセルシェーダープラグイン。LightWave 7以降に標準搭載されるようになった<ref>[http://www.digitalanimators.com/2001/11_nov/features/lightwave7review25.htm LightWave 7.0b] DMN 2001年11月11日</ref>。LightWave 2018でCel Integratorに置き換えられた<ref>[https://docs.lightwave3d.com/display/LW2018/Cel Cel] NewTek</ref>。
* FX Break - 剛体力学シミュレーションプラグイン<ref>[http://www.dstorm.co.jp/news/2002/20020912_37.html 剛体力学シミュレーションプラグイン「FX Break」を発表] D-STORM 2002年9月12日</ref>。開発者がNewtekに加わり、Hard FXとしてLightWave [8]以降に標準搭載されるようになった。
* FX Motiondrive & FX Distortion - クロス/軟体力学シミュレーションプラグイン。開発者がNewtekに加わり、Cloth FX及びSoft FXとしてLightWave [8]以降に標準搭載されるようになった。
* FiberFactory - 髪/[[毛 (動物)|毛]]プラグイン。Newtekが買収し、FiberFXとしてLightWave 9.5以降に搭載されるようになった<ref>[https://web.archive.org/web/20080928002327/http://www.3dworldmag.com/page/3dworld?entry=q_a_with_newtek_s Q&A With NewTek's Jay Roth] 3D World 2008年3月23日</ref>。
* Sasquatch - 髪/[[毛 (動物)|毛]]プラグイン。かつてFiberFactoryと競合していた。
* {{仮リンク|FPrime|en|FPrime}} - かつてLightWaveには[[VIPER]]というマテリアル調整向けの簡易リアルタイムプレビューレンダラーしか付いていなかった。Worley LaboratoriesのFPrimeは、VIPERと異なりラジオシティなどの高品質のレンダリングが可能であり、マテリアル及びライティングの調整に威力を発揮した。なお、LightWaveバージョン10以降は類似の機能がVPRとしてLightWave本体に搭載されている。
* AutomatonZ - [[3ds Max]]における[[Character Studio]]のようなキャラクターアニメーション支援プラグイン。AutomatonToolsの後継。
* unReal Xtreme - 伝統的アニメのような質感を出せる、[[セルシェード]]レンダリングのためのプラグイン。
* Maestro - キャラクターアニメーション支援プラグイン。
* IFW Textures/IFW Nodal - プロシージャルテクスチャシェーダー集<ref>『Essential Lightwave: The Fastest and Easiest Way to Master Lightwave 3D』 p.685 Steve Warner、Kevin Phillips、Timothy Albee 2007年8月31日 ISBN 978-1598220247</ref>。
* Liquid Pack - 流体シミュレーションプラグイン集。なお、LightWaveバージョン2019以降はOpenVDBベースの流体シミュレーション機能がLightWave本体に搭載されている<ref>[https://docs.lightwave3d.com/lw2019/reference/simulation/openvdb LightWave 2019 - OpenVDB] Newtek</ref>。
* RHiggit - リギング及びアニメーションのためのツール集。
* OD Tool Set - Origami Digital開発の雑多なツール集。Substance Painterと連携するための「LW to Substance Painter」及び「PBR Importer」が含まれていた<ref>[http://www.origamidigital.com/odtoolsOrder.html Origami Digital Tools Purchase & Information] Origami Digital</ref>。開発終了<ref>[https://web.archive.org/web/20211104041143/https://origamidigital.com/cart/index.php?route=product/product&path=59_60&product_id=57 ODTools 2019] Origami Digital</ref>。LightWave Pro ToolsとしてLightWave 2023以降に搭載されるようになった<ref name="lightwave-2023"/>。
* TurbulenceFD - ボクセルベースのガス状流体力学に基づいた炎や煙を作成する為のプラグイン。LightWave Digitalが買収してLightWave 2023以降に搭載されるようになった<ref name="lightwave-2023"/>。
== 関連ソフトウェア ==
* NevronMotion - NewTek製のLightWave向けモーションキャプチャソフトウェア。開発停止中。
* ChronoSculpt - NewTek製のLightWave向けショットスカルプトソフトウェア。開発停止中。
== LightWave著名ユーザー ==
* [[新海誠]](アニメ作家。自主制作映画「[[ほしのこえ]]」に[[Macintosh|Mac]]版LightWaveを使用している)
* [[上田文人]](日本のゲームデザイナー、アートディレクター。「[[ICO (ゲーム)|ICO]]」「[[ワンダと巨像]]」「[[人喰いの大鷲トリコ]]」で使用)
* [[日本ファルコム]](LightWaveを全面的に開発ラインに取り入れているゲーム製作会社)
* [[神風動画]](アニメーションの製作にLightWaveを使用している)
* [[YAMATOWORKS]](アニメーションの製作にLightWaveを使用している)
* [[サブリメイション]](アニメーションの製作にLightWaveを使用している)
* [[富岡聡]]([[コンピュータグラフィックス|CG]]デザイナー、[[カナバングラフィックス]]代表取締役)
* [[赤松健]](漫画家。背景などをLightWaveで作成している)
* [[由水桂]](有名なライトウェーバー。「[[リッジレーサー]]」の[[キャラクター]]「[[永瀬麗子]]」を産み出した)
* [[うもとゆーじ]]([[コンピュータグラフィックス|CG]]デザイナー、ウサギ王代表取締役。LightWave関連の著書がある)
* [[渡辺哲也]](有名なライトウェーバー。TVアニメの3Dディレクター)
* [[青山敏之]](有名なライトウェーバー。氏の作品群がLightWaveの名を日本に広めた)
* [[北田清延]](有名なライトウェーバー。青山敏之とのコンビで主にモデリングを担当した)
* [[秋元きつね]](有名なライトウェーバー。「[[ウゴウゴルーガ]]」で使用)
* [[福島則昭]](有名なライトウェーバー。LightWave関連の著書がある)
* [[笹原和也]](有名なライトウェーバー。LightWave関連の著書がある)
* [[羽田宗春]](有名なライトウェーバー。LightWave関連の著書がある)
* [[樋口 誠]](有名なライトウェーバー。LightWave関連の著書がある)
* [[佐野昌巳]](LightWave関連の著書がある)
* [[FREEDOM]]{{要曖昧さ回避|date=2019年11月}}(日本のアニメーション映画。全編がLightWaveで製作されている)
* [[ブレイキング・バッド]](米国のテレビドラマ。LightWaveが使用されている)
* [[Battlestar Galactica]](米国のテレビSFドラマ。LightWaveが使用されている)
== 関連項目 ==
* [[3次元コンピュータグラフィックス]]
* [[modo]] (LightWaveの初期開発スタッフ、LW3Dレイアウト開発者アレン・ヘイスティング氏とLW3Dモデラー開発者スチュワート・ファーガソン氏を中心に開発されているソフト)
== 脚注 ==
<references group="注"/>
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://www.newtek.com/lightwave/2020/ LightWave 2020]
* [https://garagefarm.net/jp-software-guides/lightwave-3d LightWave 3D Guide]
* [https://www.dstorm.co.jp/lw2020/ LightWave 2020] - 株式会社ディストーム
{{3D software}}
[[Category:3DCGソフトウェア]]
[[Category:MacOSのソフトウェア]] | 2003-02-23T02:49:46Z | 2023-12-13T13:35:58Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/LightWave |
2,738 | ネットやろうぜ! | ネットやろうぜ!は一般層向けのPlayStation開発キットである。
1996年当時、12万円で販売された。既に販売終了している。
プログラムの作成はPCのGNU-Cコンパイラで行い、作成したプログラムをPlayStationにシリアルケーブルで転送し、動作させる。
ネットやろうぜ!に付属するPlayStation(DTL-H3000)は梨地加工された黒色の筐体で、国籍プロテクトが省かれていた。このため、海外で販売されているゲームソフトがそのまま動いた。その黒い外見から「黒ステ」とも呼ばれる。
当時12万円以上した3次元グラフィックソフトLightWaveが付属しており、かなりお得なセット商品であった。 | [
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] | ネットやろうぜ!は一般層向けのPlayStation開発キットである。 1996年当時、12万円で販売された。既に販売終了している。 プログラムの作成はPCのGNU-Cコンパイラで行い、作成したプログラムをPlayStationにシリアルケーブルで転送し、動作させる。 | {{出典の明記|date=2017-11-15}}
[[File:Net-Yaroze-Full-Sdk.jpg|thumb|250px|ネットやろうぜ!の[[ソフトウェア開発キット]]]]
'''ネットやろうぜ!'''は一般層向けの[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]開発キットである。
1996年当時、12万円で販売された。既に販売終了している。
[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]の作成は[[パーソナルコンピュータ|PC]]の[[GNU_Cライブラリ|GNU-Cコンパイラ]]で行い、作成したプログラムをPlayStationに[[RS-232|シリアル]]ケーブルで転送し、動作させる。
== 付属した開発用PlayStation ==
ネットやろうぜ!に付属するPlayStation(DTL-H3000)は梨地加工された黒色の筐体で、国籍プロテクトが省かれていた。このため、海外で販売されている[[ゲームソフト]]がそのまま動いた。その黒い外見から「黒ステ」とも呼ばれる。
当時12万円以上した3次元グラフィックソフト[[LightWave]]が付属しており、かなりお得なセット商品であった。
== 関連項目 ==
* [[PlayStation Mobile]]
{{家庭用ゲーム機/ソニー}}
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[[Category:ソフトウェア開発ツール]]
[[Category:PlayStation]] | null | 2022-12-23T15:52:12Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%84%E3%82%8D%E3%81%86%E3%81%9C! |
2,739 | Microsoft Windows NT | Microsoft Windows NT(マイクロソフト ウィンドウズ エヌティー)は、マイクロソフトが開発したオペレーティングシステム (OS) である。DECが手がけたVMSのアーキテクチャを基礎としており、開発もDECの元社員が全面的に行い、リリースに至っている。
Windows 9x系といったWindowsファミリーのオペレーティングシステムより安定性に優れている。Windows 2000 以降はOSの名称からNTは外されたものの、OSとしてはWindows NTのバージョン5以降であり、2023年現在における最新のWindows NT系プラットフォームとなるWindows 11 (Windows NT バージョン 10.0) に至るまでWindows NTは継続した製品シリーズである。
Windows NTはMS-DOS上の拡張シェルであるWindows 3.x系はもちろん、Windows 9x系とも異なる、完全32ビット、かつプリエンプティブなマルチタスクOSであり、Win9xとは別に開発された新規のOSである。
設計の要素の多くはデヴィッド・カトラーや一緒に入社したDECの開発者の影響があり、VMSの要素が反映されている。OSのカーネル領域とアプリケーション領域を分離して管理する構造で、Windows 9x系に比べて高い安定性を確保していたが、その分だけ高いマシンスペックを要求した。このため、Windows 9x系が家庭用と位置付けられていたのに対し、Windows NT系は業務用として位置付けられていた。
安定した動作を要求される業務用途をメインに考えて設計されたこともあるが、Windows 95に比べてマルチメディア系の機能やゲームAPIのDirectX(Windows NT 4.0で一部対応)、ACPIやPnPへの対応に欠けていた上、Windows NT 4.0はUSBやIEEE 1394等の新しい規格が登場する前に設計されたOSであり、それらに対応しなかった。
マイクロソフトはNTを「New Technology」の略としている。しかし、後継のWindows 2000においてブート時のロゴ画面上に「Built on NT Technology」という文章が書かれており、この説だとすると「Built on New Technology Technology」となりTechnologyが重なってしまう。1998年のビル・ゲイツへのインタビューによれば、「NT」の本来の意味は「New Technology」であった一方で、長い期間を経てその意味は薄れ、「NT」は単純にハイエンド向けのWindowsを指すようになったと説明している。他に、カトラーが先に開発したVMSの一歩先を行くという意味で、それぞれアルファベット順での次の文字にしたWNTとするためだろうという説や、「NT」は、開発元のMicrosoftの略称「MS」のアルファベット上での次の文字になっているという説、初期の開発名称 i860エミュレータ'N10 (N-Ten)'の略との説などがある。
IBMと共同で開発していたOS/2のバージョン2の次期バージョンをWindows NTとし、IBMとは別に製品を開発していくこととなる。最初のバージョンは3.1であり、これ以前に発売されていたWindows 3.1と互換性があるため、Windows NTの最初のバージョンも3.0ではなく3.1として発売した。これはWindows 3.1と歩調を揃えるという、マーケティング上の理由による。
以下、英語版の発売年を併記する。
初期バージョン。コードネームはWNT。デスクトップ シェルとしてWindows 3.1と同じユーザインタフェースを採用していた。英語版は1993年7月27日に発売された。x86版、MIPS版、Alpha版がある(日本語版では、x86版、Alpha版のみ提供された)。Windows NT 3.1は、スタンドアロンおよびメンバーサーバーとして利用できる。同時期に発売されたWindows NT Advanced Server 3.1 はドメインコントローラ専用であり、Windows NT 3.5以降のエディションとは考え方が違う。
コードネームはDaytona(デイトナ)。英語版は1994年9月21日に発売された。メモリ消費量の低減および処理速度の向上が図られており、NTを動作させるためのハードウェアのハードル引き下げに貢献した。また、NTFSでしか利用出来なかった長いファイル名をFAT16で利用可能にした最初のOSである。このコードネームを冠したβ版(正確にはリリース候補版)が雑誌付録のCD-ROMで大量に配布され注目を集めた。
英語版は1995年5月30日に発売された。Windows 95とのAPIの共通化を図ると共に、NTFSではファイルの圧縮機能をサポートした。またPowerPC版が追加された。
Windows 95から継承したGUIを採用した。同時にDirectX2のサポートなども行われている。その最大の特徴として、これまでの3.x系ではマイクロカーネルアーキテクチャにのっとり、低い特権レベルで動作していたグラフィック関連のデバイスドライバを、OSのカーネルと同レベルである特権レベル0で動作させるようになった点が挙げられる。結果として、これまで大きな不評を浴びてきた、グラフィック処理の遅さについてのパフォーマンスは大幅に改善したが、その代償としてグラフィックデバイスのデバイスドライバのバグ、ハングアップによって最悪の事態ではOS全体の破壊が引き起こされ得るなど、システムの堅牢性やマイクロカーネルとしての実装理念としては3.xシリーズより大きく後退している。
NTはこの措置によってグラフィック描画速度の向上やDirectXへの対応が可能となり、商業的な成功への道筋をつけることができた。のちに、NT系列OSのグラフィック関連のデバイスドライバが特権レベル0で動作するという構造は、Windows Vista、Windows Server 2008のリリース時に、本来のNT3.1方式の実装に改められている。
本来NT 4.0としてオールチンの手によって開発が進められていたCairoプロジェクトの失敗も加わり、メジャーバージョンアップであるVer 4.0を名乗るようになった。
開発コードネームは当初、Cairoと名付けられていたが、結果的にCairoとして開発されていた完全オブジェクト指向OSの開発が頓挫したため4.0に名前を譲られた形となっている。その後CairoのコードネームはNT 4.0の後継にあたるNT 5.0(Windows 2000)へ、Cairoプロジェクトの思想の一部はWinFSへそれぞれ受け継がれた。 | [
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] | Microsoft Windows NTは、マイクロソフトが開発したオペレーティングシステム (OS) である。DECが手がけたVMSのアーキテクチャを基礎としており、開発もDECの元社員が全面的に行い、リリースに至っている。 Windows 9x系といったWindowsファミリーのオペレーティングシステムより安定性に優れている。Windows 2000 以降はOSの名称からNTは外されたものの、OSとしてはWindows NTのバージョン5以降であり、2023年現在における最新のWindows NT系プラットフォームとなるWindows 11 に至るまでWindows NTは継続した製品シリーズである。 | {{Otheruses|主にWindows NT 3.x、およびNT 4.0|系統全般|Windows NT系}}
{{Pathnav|[[マイクロソフト|Microsoft]]|Microsoft Windows|Windows NT系|this=Windows NT|frame=1}}
{{Infobox OS
|name = Microsoft Windows NT
|logo = [[ファイル:Windows_Logo_(1992-2001).svg|150px]]<br>[[File:Windows NT logo.svg|200px]]
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|developer = [[マイクロソフト|Microsoft]]
|family = Windows NT
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}}
'''Microsoft Windows NT'''(マイクロソフト ウィンドウズ エヌティー<ref>{{Cite|和書
| author = 日経パソコン
| authorlink = 日経パソコン
| title = 日経パソコン用語事典 (2009年版)
| publisher = [[日経BP|日経BP社]]
| date = 2008-10-20
| isbn =9784822233907}}</ref><ref>{{Cite web|和書
| author = ASCII.jp
| authorlink = ASCII.jp
| title = ASCII.jp デジタル用語辞典
| url = https://yougo.ascii.jp/caltar/Windows_NT
| publisher = [[アスキー (企業)|アスキー]] / [[KADOKAWA]]
| date = 2010-04-16
| accessdate = 2021-07-16}}</ref>)は、[[マイクロソフト]]が開発した[[オペレーティングシステム]] (OS) である。[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]が手がけたVMSのアーキテクチャを基礎としており、開発もDECの元社員が全面的に行い、リリースに至っている。
[[Windows 9x系]]といったWindowsファミリーのオペレーティングシステムより安定性に優れている。[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]] 以降はOSの名称からNTは外されたものの、OSとしてはWindows NTのバージョン5以降であり、2023年現在における最新のWindows NT系プラットフォームとなる[[Microsoft Windows 11|Windows 11]] (Windows NT バージョン 10.0<!-- ←Windows 11も同じ -->) に至るまでWindows NTは継続した製品シリーズである。
== 概要 ==
Windows NTは[[MS-DOS]]上の拡張シェルである[[Windows 3.x]]系はもちろん、Windows 9x系とも異なる、完全[[32ビット]]、かつ[[マルチタスク#プリエンプティブ・マルチタスク|プリエンプティブなマルチタスク]]OSであり、Win9xとは別に開発された新規のOSである。
設計の要素の多くは[[デヴィッド・カトラー]]や一緒に入社したDECの開発者の影響があり、[[OpenVMS|VMS]]の要素が反映されている。OSのカーネル領域と[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]領域を分離して管理する構造で、Windows 9x系に比べて高い安定性を確保していたが、その分だけ高いマシンスペックを要求した。このため、Windows 9x系が家庭用と位置付けられていたのに対し、Windows NT系は業務用として位置付けられていた。
安定した動作を要求される業務用途をメインに考えて設計されたこともあるが、[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]に比べて[[マルチメディア]]系の機能やゲーム[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]の[[DirectX]](Windows NT 4.0で一部対応)、[[Advanced Configuration and Power Interface|ACPI]]や[[プラグアンドプレイ|PnP]]への対応に欠けていた上、Windows NT 4.0は[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]や[[IEEE 1394]]等の新しい規格が登場する前に設計されたOSであり、それらに対応しなかった。
== NTの意味 ==
マイクロソフトはNTを「New Technology」の略としている<ref>{{Cite web|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051201012934/http://www.microsoft.com/japan/windows/20th/history.mspx |archivedate=2005-12-01 |title=Microsoft Windows : Windows of History |deadlinkdate=2015年7月 |url=http://www.microsoft.com/japan/windows/20th/history.mspx |accessdate=2005-12-29}}</ref><ref>{{Cite manual|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100213233004/http://www.microsoft.com/japan/technet/archive/prodtechnol/winntas/deploy/sp6a.mspx |archivedate=2010-02-13 |format=DOC |title=Windows NT Server 4.0 インストール ガイド |deadlinkdate=2015年7月 |url=http://www.microsoft.com/japan/technet/archive/prodtechnol/winntas/deploy/sp6a.mspx |page=4 |quote=NTFS(New Technology File System)その名前のとおり、Windows NT Server 4.0 用に設計されたファイル システムです。 |accessdate=2008-07-17}}</ref>。しかし、後継の[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]においてブート時のロゴ画面上に「Built on NT Technology」という文章が書かれており、この説だとすると「Built on New Technology Technology」となり[[RAS症候群|Technologyが重なってしまう]]。1998年の[[ビル・ゲイツ]]へのインタビュー<ref>{{Cite web|url=http://www.microsoft.com/billgates/columns/1998q&a/QA5-6.asp |archiveurl=https://web.archive.org/web/20010526174935/http://www.microsoft.com/billgates/columns/1998q&a/QA5-6.asp |archivedate=2001-05-26|title=Bill Gates' Web Site - Columns : Q&A: Protecting children from information on the Internet (05/06/98) |accessdate=2016-10-30T}}</ref>によれば、「NT」の本来の意味は「New Technology」であった一方で、長い期間を経てその意味は薄れ、「NT」は単純にハイエンド向けのWindowsを指すようになったと説明している。他に、カトラーが先に開発した[[OpenVMS|VMS]]の一歩先を行くという意味で、それぞれアルファベット順での次の文字にしたWNTとするためだろうという説<ref>{{Cite book|和書|author=岩淵明男 |title=マイクロソフト・ウインドウズ戦略のすべて |publisher=[[TBSブリタニカ]] |date=1993年10月7日 |edition=初版 |isbn=4484932288 |page=78}}</ref>や、「NT」は、開発元のMicrosoftの略称「MS」のアルファベット上での次の文字になっているという説、初期の開発名称 i860エミュレータ'N10 (N-Ten)'の略との説などがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/it/free/NT/NEWS/20030127/2/ |title=NTは「New Technology」の略ではなかったとMS技術者が証言 |accessdate=2016-01-08}}</ref>。
{{main|Windows NT系#歴史}}
== バージョンの変遷及びそれぞれの特徴 ==
[[IBM]]と共同で開発していた[[OS/2]]のバージョン2の次期バージョンをWindows NTとし、IBMとは別に製品を開発していくこととなる。最初のバージョンは3.1であり、これ以前に発売されていた[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.1]]と互換性があるため、Windows NTの最初のバージョンも3.0ではなく3.1として発売した。これはWindows 3.1と歩調を揃えるという、マーケティング上の理由による。
以下、英語版の発売年を併記する。
=== Windows NT 3.1(1993年) ===
{{see|Microsoft Windows NT 3.1}}
初期バージョン。[[コードネーム]]はWNT。デスクトップ シェルとしてWindows 3.1と同じ[[ユーザインタフェース]]を採用していた。英語版は[[1993年]][[7月27日]]に発売された。[[x86]]版、[[MIPSアーキテクチャ|MIPS]]版、[[DEC Alpha|Alpha]]版がある(日本語版では、x86版、Alpha版のみ提供された)。Windows NT 3.1は、スタンドアロンおよびメンバーサーバーとして利用できる。同時期に発売されたWindows NT Advanced Server 3.1 は[[ドメインコントローラ]]専用であり、Windows NT 3.5以降のエディションとは考え方が違う。
=== Windows NT 3.5(1994年) ===
{{see|Microsoft Windows NT 3.5}}
コードネームはDaytona(デイトナ)。英語版は[[1994年]][[9月21日]]に発売された。メモリ消費量の低減および処理速度の向上が図られており、NTを動作させるためのハードウェアのハードル引き下げに貢献した。また、[[NT File System|NTFS]]でしか利用出来なかった[[長いファイル名]]を[[File Allocation Table#FAT16|FAT16]]で利用可能にした最初のOSである。このコードネームを冠した[[ベータ版|β版]](正確には[[リリース候補版]])が雑誌付録のCD-ROMで大量に配布され<ref>{{Cite web|和書|url=http://ascii.jp/elem/000/000/697/697355/ |title=Windows 8の情報公開は、これまでより劣っている? |website=ASCII.jp |date=2012年5月31日 |accessdate=2018-09-23}}</ref>注目を集めた。
=== Windows NT 3.51(1995年) ===
{{see|Microsoft Windows NT 3.51}}
英語版は[[1995年]][[5月30日]]に発売された。Windows 95との[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]の共通化を図ると共に、NTFSではファイルの圧縮機能をサポートした。また[[PowerPC]]版が追加された。
=== Windows NT 4.0(1996年) ===
{{see|Microsoft Windows NT 4.0}}
[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]から継承した[[Windows Explorer|GUI]]を採用した。同時に[[DirectX]]2のサポートなども行われている。その最大の特徴として、これまでの3.x系では[[マイクロカーネル]]アーキテクチャにのっとり、低い[[リングプロテクション|特権レベル]]で動作していたグラフィック関連のデバイスドライバを、OSのカーネルと同レベルである特権レベル0で動作させるようになった点が挙げられる。結果として、これまで大きな不評を浴びてきた、グラフィック処理の遅さについてのパフォーマンスは大幅に改善したが、その代償としてグラフィックデバイスのデバイスドライバのバグ、ハングアップによって最悪の事態ではOS全体の破壊が引き起こされ得るなど、システムの堅牢性やマイクロカーネルとしての実装理念としては3.xシリーズより大きく後退している。
NTはこの措置によってグラフィック描画速度の向上や[[DirectX]]への対応が可能となり、商業的な成功への道筋をつけることができた。のちに、NT系列OSのグラフィック関連のデバイスドライバが特権レベル0で動作するという構造は、[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]、[[Microsoft Windows Server 2008|Windows Server 2008]]のリリース時に、本来のNT3.1方式の実装に改められている。
本来NT 4.0としてオールチンの手によって開発が進められていた[[Cairo (オペレーティングシステム)|Cairoプロジェクト]]の失敗も加わり、メジャーバージョンアップであるVer 4.0を名乗るようになった。<ref>それまではNT 3.51の[[シェル]]をアップデートしただけのShell Update Release (SUR) と呼ばれており、NT 3.52というバージョンを与えられていた。</ref>
開発コードネームは当初、Cairoと名付けられていたが、結果的にCairoとして開発されていた完全オブジェクト指向OSの開発が頓挫したため4.0に名前を譲られた形となっている。その後CairoのコードネームはNT 4.0の後継にあたるNT 5.0([[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]])へ、Cairoプロジェクトの思想の一部は[[WinFS]]へそれぞれ受け継がれた。
== 出荷・販売本数の推移 ==
=== Windows NT 3.1 ===
*[[1993年]][[7月27日]] - 英語版発売<ref name=":0">{{Cite web|url=https://blogs.technet.microsoft.com/mrsnrub/2009/08/04/windows-nt-history/|title=Windows NT History – if (ms) blog++|accessdate=2016-10-29|author=Paul Adams|date=2009-08-04|publisher=Microsoft}}</ref>
*[[1993年]][[9月25日]] - (発売60日)20万本出荷<ref name="waki">{{Citation |和書 |author=脇英世 |title=Windows入門 新しい知的ツール |publisher=岩波新書 |isbn=4004304202 |pages=97}}</ref>
*[[1993年]][[11月4日]] - (発売100日)25万本出荷<ref name="waki" />
*[[1994年]][[1月28日]] - 日本語版発売<ref>{{Cite journal|和書|author=|year=|title=ASCII EXPRESS : マイクロソフト、Windows NT日本語版と関連4製品を発売|journal=[[月刊アスキー]]|volume=1994-03|page=}}</ref>
*[[1994年]][[1月28日]] - 30万本{{要出典|date=2016年10月}}
*[[1994年]][[7月]] - (発売1年)公称50万本販売<ref name="waki" />(日本では7000本)
*[[1995年]][[1月]] - 60万本{{要出典|date=2016年10月}}
=== Windows NT 3.5 ===
*[[1994年]][[9月21日]] - 英語版発売<ref name=":0" />
*[[1994年]][[12月8日]] - 日本語版発売<ref>{{Cite journal|和書|author=|year=|title=ASCII EXPRESS : Windows Solutions Tokyo 94|journal=[[月刊アスキー]]|volume=1995-02|page=}}</ref>
=== Windows NT 3.51 ===
*[[1995年]][[5月30日]] - 英語版発売<ref name=":0" />
*[[1996年]][[1月19日]] - 日本語版発売{{要出典|date=2016年10月}}
=== Windows NT 4.0 ===
*[[1996年]][[9月3日]] - 英語版発売<ref name="reldate">{{Cite web
|url=https://blogs.windows.com/windowsexperience/2012/08/01/windows-8-has-reached-the-rtm-milestone/
|title=Microsoft Announces the Release of Windows NT Workstation 4.0 - News Center
|publisher=Microsoft
|date=1996-07-31
|accessdate=2016-11-10
}}</ref>
*[[1996年]][[12月10日]] - 日本語版発売<ref>{{Cite web|和書|date=1996-12-10 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/961210/nt40.htm |title=Microsoft Windows NT 4.0日本語版の実売価格調査(秋葉原、新宿) |publisher= |accessdate=2016-06-23}}</ref>
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 関連項目 ==
*[[Microsoft Windows]]
*[[ReactOS]] - Windows NTとバイナリレベル・ドライバレベルでの互換性を確保することを目標とした、[[オープンソース]]プロジェクト
*[[Wine]] - Windows APIを他のOSで動かそうというオープンソースのプログラム及びプロジェクト
== 関連文献 ==
{{Further reading}}
*G.パスカルザカリー『闘うプログラマー : ビル・ゲイツの野望を担った男達』 [[山岡洋一]] 翻訳、1994年、[[日経BP]]、上巻: {{ISBN2|9784822740160}} 下巻: {{ISBN2|9784822740177}} 新装版: {{ISBN2|978-4-8222-4757-7}}
== 外部リンク ==
* {{Wayback|url=http://www.microsoft.com/japan/ntworkstation/ |title=Windows NT Workstation ホーム |date=20041009114618}}
* {{Wayback|url=http://www.microsoft.com/japan/ntserver/ |title=Windows NT Server 4.0 ホーム |date=20041029014535}}
* {{Wayback|url=http://www.technetjapan.com/jp/history/index7.htm |title=マイクロコンピュータの歴史 |date=20080223091326}}
{{Windows}}
{{Normdaten}}
[[Category:Windows NT系|Windows NT]]
[[Category:1993年のソフトウェア]] | 2003-02-23T03:20:24Z | 2023-10-01T21:18:21Z | false | false | false | [
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2,740 | 江戸時代 | 江戸時代(えどじだい、旧字体: 江戶時代)は、日本の歴史のうち江戸幕府(徳川幕府)の統治時代を指す時代区分である。他の呼称として徳川時代、徳川日本、旧幕時代、藩政時代(藩領のみ)などがある。
日本史上の時代区分としては、安土・桃山時代(または豊臣政権時代)と合わせて「近世」とされる。
江戸時代の期間は、一般的には1603年3月24日(慶長8年2月12日)に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸(現在の東京)に幕府を樹立してから、1868年10月23日(慶応4年/明治元年9月8日)の「一世一元の詔」の発布(一世一元への移行)に伴い、慶応から明治に改元されるまでの265年間である。
徳川家康は征夷大将軍に就くと、領地である江戸に幕府を開き、ここに江戸幕府(徳川幕府)が誕生する。豊臣秀吉死後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、大坂の陣(大坂の役)により豊臣氏勢力を一掃。その後の島原の乱も鎮圧することで、平安時代以降、700年近く続いた政局不安は終焉を迎えた。以後200年以上続く長期安定政権の基盤を確立し、「元和偃武」とよばれる平和状態が日本にもたらされた。
設立当初の幕府の運営体制は「庄屋仕立て」と評される、徳川家の家政を踏襲したものとなったが、寛永10年ごろに「老中」「若年寄」などの末期まで続く制度が確立した。かつて徳川家康と豊臣政権の同僚だった大名は、外様大名として扱われ、広大な領土を持つ者もいたが、関東や近畿地方などの要地からは遠ざけられ、従前の武家政権のように幕政に関与することはなくなった。徳川氏一門の親藩大名は大領を持ったが幕政には関与せず、関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた譜代大名・旗本によって幕政は運営された。武家諸法度によって大名は厳しく統制され、大大名も改易処分となり大領を失うことがしばしば発生した。京都・大坂・長崎といった全国の要所は直轄領(天領)として大名を置かず、 幕府の役人が統治を行った。朝廷に対しては禁中並公家諸法度や京都所司代による統制が行われ、自立した対外行動をとることはできなくなった。
また、平和が招来されたことにより、大量の兵士(武士)が非生産的な軍事活動から行政的活動に転じ、広域的な新田開発が各地で行われたため、戦国時代から安土桃山時代へと長い成長を続けていた経済は爆発的に発展し、高度成長時代が始まった。
また江戸時代には、対外的には長崎出島での中国(明・清)・オランダとの交流と対馬藩を介しての李氏朝鮮との交流以外は外国との交流を禁止する鎖国政策を採った(ただし、実際には薩摩に支配された琉球王国による対中国交易や渡島半島の松前氏による北方交易が存在した)。バテレン追放令は、すでに豊臣秀吉が発令していたが、鎖国の直接的契機となったのは島原の乱で、キリスト教と一揆(中世の国人一揆と近世の百姓一揆の中間的な性格を持つもの)が結びついたことにより、その鎮圧が困難であったため、キリスト教の危険性が強く認識されたからであると言われる。またこの間、オランダが日本貿易を独占するため、スペインなどのカトリック国に日本植民地化の意図があり、危険であると幕府に助言したことも影響している。中国では同様の政策を海禁政策と呼ぶが、中国の場合は主として沿海地域の倭寇をも含む海賊からの防衛および海上での密貿易を禁止することが目的とされており、日本の鎖国と事情が異なる面もあった。しかし、日本の鎖国も中国の海禁と同じとして、鎖国より海禁とする方が適当とする見解もある。鎖国政策が実施される以前には、日本人の海外進出は著しく、東南アジアに多くの日本町が形成された。またタイに渡った山田長政のように、その国で重用される例も見られた。
しかし鎖国後は、もっぱら国内重視の政策がとられ、基本的に国内自給経済が形成された。そのため三都を中軸とする全国経済と各地の城下町を中心とする藩経済との複合的な経済システムが形成され、各地の特産物がおもに大坂に集中し(天下の台所と呼ばれた)、そこから全国に拡散した。農業生産力の発展を基盤として、経済的な繁栄が見られたのが元禄時代であり、この時代には文学や絵画の面でも、井原西鶴の浮世草子、松尾芭蕉の俳諧、近松門左衛門の浄瑠璃、菱川師宣の浮世絵などが誕生していく。これらの文化は京、大坂をはじめとする関西地域から生まれた。また、この元禄期に花開いた文化は元禄文化と呼ばれる。
元禄時代の経済の急成長により、貨幣経済が農村にも浸透し、四木(桑・漆・檜・楮)・三草(紅花・藍・麻または木綿)など商品作物の栽培が進み、漁業では上方漁法が全国に広まり、瀬戸内海の沿岸では入浜式塩田が拓かれて塩の量産体制が整い各地に流通した。手工業では綿織物が発達し、伝統的な絹織物では高級品の西陣織が作られ、また、灘五郷や伊丹の酒造業、有田や瀬戸の窯業も発展した。やがて、18世紀には農村工業として問屋制家内工業が各地に勃興した。
人と物の流れが活発になる中で、城下町・港町・宿場町・門前町・鳥居前町・鉱山町など、さまざまな性格の都市が各地に生まれた。その意味で江戸時代の日本は「都市の時代」であったという評価があり、「全世界の歴史を見渡してみても、日本の江戸時代ほど都市が計画的に、しかも大量に作られ、その新しく作った都市が社会構造の中で中心になった例は、ほかに見られない」とされている 。18世紀初頭の京都と大坂(大阪)はともに40万近い人口を抱えていた。同期の江戸は、人口100万人前後に達しており、日本最大の消費都市であるばかりでなく、世界最大の都市でもあった。当時の江戸と大坂を結ぶ東海道が、18世紀には世界で一番人通りの激しい道だったといわれている。
このような経済の発展は、院内銀山などの鉱山開発が進んで金・銀・銅が大量に生産され、それと引き替えに日本国外の物資が大量に日本に入り込んだためでもあったが、18世紀に入ると減産、枯渇の傾向が見られるようになった。それに対応したのが、新井白石の海舶互市新例(長崎新令)であった。彼は、幕府開設から元禄までの間、長崎貿易の決済のために、金貨国内通貨量のうちの4分の1、銀貨は4分の3が失われたとし、長崎奉行大岡清相からの意見書を参考にして、この法令を出した。その骨子は輸入規制と商品の国産化推進であり、長崎に入る異国船の数と貿易額に制限を加えるものであった。清国船は年間30艘、交易額は銀6,000貫にまで、オランダ船は年間2隻、貿易額は3,000貫に制限され、従来は輸入品であった綿布、生糸、砂糖、鹿皮、絹織物などの国産化を奨励した。
8代将軍となった徳川吉宗は、紀州徳川家の出身であり、それまで幕政を主導してきた譜代大名に対して遠慮することなく大胆に、農本主義に立脚した政治改革を行った(享保の改革)。吉宗がもっとも心を砕いたのは米価の安定であった。貨幣経済の進展にともない、諸物価の基準であった米価は下落を続け(米価安の諸色高)、それを俸禄の単位としていた旗本・御家人の困窮が顕著なものとなったからである。そのため彼は倹約令で消費を抑える一方、新田開発による米の増産、定免法採用による収入の安定、上米令、堂島米会所の公認などを行った。「米将軍」と称された所以である。それ以外にも、財政支出を抑えながら有為な人材を登用する足高の制、漢訳洋書禁輸の緩和や甘藷栽培の奨励、目安箱の設置などの改革を行った。幕府財政は一部で健全化し、1744年(延享元年)には江戸時代を通じて最高の税収となったが、年貢税率の固定化や貢租の重課や厳重な取り立てとなり、また、行きすぎた倹約により百姓・町民からの不満を招き、折からの享保の大飢饉(享保6年(信州浅間山噴火)、同7年、同17年)もあって、百姓一揆や打ちこわしが頻発した。それらに対し、享保6年(1721年)6月、「村民須知」、享保19年(1734年)8月、代官への御触書などによる法令で取り締まった。宝暦(1704 - 1710年)から享保(1716 - 1735年)までの間に40回ほどに及んだ(実際はもっと多い。平均して1年に約2回)。このように、土地資本を基盤とする反面、土地所有者ではない支配者層という独自な立場に立たされた武士の生活の安定と、安定成長政策とは必ずしも上手く融合できずに、金融引き締め的な経済圧迫政策が打ち出されて不況が慢性化した。
なお、「朱子学は憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と朱子学批判を行った荻生徂徠が1726年(享保11年)ごろに吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されており、これは日本思想史の中で政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち経世論が本格化する。一方、1724年(享保9年)には大坂の豪商が朱子学を中心に儒学を学ぶ懐徳堂を設立して、のちに幕府官許の学問所として明治初年まで続いている。1730年(享保15年)、石田梅岩は日本独自の道徳哲学心学(石門心学)を唱えた。享保年間は、このように、学問・思想の上でも新しい展開の見られた時代でもあった。
その一方で、超長期の政権安定、特に前半の百数十年は成長経済基調のもと、町人層が発展し、学問・文化・芸術・経済などさまざまな分野の活動が活発化し、現代にまで続く伝統を確立している。
幕府財政は、享保の改革での年貢増徴策によって年貢収入は増加したが、宝暦年間(1751年 - 1763年)には頭打ちとなり、再び行き詰まりを見せた。農村では厳しい年貢収奪に苦しみ村で食っていけなくなった貧農は遊民化し江戸などの大都市に流れ込んで無宿者と化した。さらに拍車をかけたのが田沼時代を通して繰り返し引き起こされた天災飢餓の続出だった。
これらに対応すべく田沼意次らの田沼時代の幕臣達は倹約令や経費削減、大奥の縮小、拝借金の制限などの緊縮政策で財政赤字に対処しつつ、発展してきた商品生産・流通に新たな財源を見出し米以外からの税収の確立を試みた。商品生産・流通を掌握し、物価を引き下げるため手工業者の仲間組織を株仲間として公認・奨励して、そこに運上・冥加などを課税した。専売制実施の足がかりとして、座と呼ばれる組織を複数設置し、各分野ごとの販売独占権を真鍮座などの座に与えた。
田沼意次の政策は幕府財政を第一に置いたものであったが、それは権力と商人資本の密着度を強め町人と幕府役人との癒着につながった。一方で一般民衆の生活基盤は弱まった。田沼時代の収入増加策の立案、運用は実のところ場当たり的なものも多く、利益よりも弊害の方が目立つようになって撤回に追い込まれるケースも多々あったのである。そして幕府に運上金、冥加金の上納を餌に自らの利益をもくろんで献策を行う町人が増え、結果的に幕府も庶民も得にならなかった政策を採用することもあった。そのような町人の献策を幕府内での出世を目当てに採用していく幕府役人が現れた。町人と幕府役人との癒着も目立つようになった。このような風潮は「山師、運上」という言葉で語られ、利益追求型で場当たり的な面が多く、腐敗も目立ってきた田沼意次の政策に対する批判が強まっていた。
大規模な開発策や大胆な金融政策など、開明的で革新的な経済政策と呼ばれる意次の政策は、いわば大山師的な政策だった。この時代、利益追求の場を求め民間から様々な献策が盛んに行われ、民間の利益追求と幕府の御益追求政治とが結びつき、かなり大胆な発想と構想の政策が立案・執行された。同時に田沼時代の代名詞である賄賂の横行や幕府と諸藩との利益の衝突、負担を押し付けられた民衆との間に深刻な矛盾も生じさせた。
最終的に天明の大飢饉による百姓一揆や打ちこわしと田沼を重用した10代家治の死を契機とした御三家、門閥譜代大名層らによる反田沼活動により田沼は失脚し田沼時代は終了する。
続いて田沼政治を批判した松平定信が1787年(天明7年)に登場し、寛政の改革を推進した。天明の大飢饉により農業人口が140万人も減少し、幕府財政は百万両の赤字が予想されていた。
当時、現在のような税を取る対価として行政サービスを施すという考えはなかった。しかし、農村への救済策が不十分な田沼の政策により荒廃の一途を辿っていた農村と、天明の大飢饉の致命的な打撃を受け、このころから不完全ながらも世を経綸し、人民を救うという「経世済民」の思想にもとづいた行政がうまれようとしていた。
天明の大飢饉直後の時期である「寛政の改革」は年貢増徴をおこなえる状況ではなく、「小農経営を中核とする村の維持と再建」に力を注くこととなり、農民の負担を軽減する目的でさまざまな減税・復興政策をおこなった。寛政の改革ではこれまでの収奪一辺倒だった政策を改め、民を救うための政治へと断行した。定信は飢餓対策に取り組み、都市・農村問わず凶作や自然災害に備え米や金銭を貯える備荒貯蓄政策を推進した。そのような増税が厳しい状況であった為、定信は即効性のある厳しい緊縮政策を実行し財政再建に努めることとなる。最終的に6年たった定信失脚の頃には備蓄金も20万両程に貯蓄することができており、幕府の赤字財政は黒字となっていた。しかし、倹約令や風俗統制令を頻発したために江戸が不景気になり、市民から強い反発を受けたため、各種の法令を乱発することになった。
通説では松平定信は田沼意次の経済政策をことごとく覆したとされるが、近年ではむしろ寛政の改革には田沼政権との連続面があったと指摘される。幕府が改革において講じた経済政策は田沼時代のものをほぼ全て継承しており、株仲間や冥加金、南鐐二朱判、公金貸付など、実は田沼政権のそれを継承したものが多かった。
1793年7月、定信は突然老中を解任されることとなり寛政の改革はわずか六年で幕を閉じた。その背景として尊号一件などにより、家斉等と定信との対立、その他、大奥の予算の大幅削減や不良女中を厳しく罰するなどと定信と大奥との対立の深刻化などが挙げられる。
松平定信の辞任後、文化・文政時代から天保年間にかけての約50年間、政治の実権は11代将軍徳川家斉が握った。家斉は将軍職を子の家慶に譲ったあとも実権を握り続けたため、この政治は「大御所政治」と呼ばれている。家斉の治世は、当初は質素倹約の政策が引き継がれたが、貨幣悪鋳による出目の収益で幕府財政がいったん潤うと、大奥での華美な生活に流れ、幕政は放漫経営に陥った。上述の異国船打払令も家斉時代に発布されたものである。一方で、商人の経済活動が活発化し、都市を中心に庶民文化(化政文化)が栄えた。しかし、農村では貧富の差が拡大して各地で百姓一揆や村方騒動が頻発し、治安も悪化した。1805年(文化2年)には関東取締出役が置かれた。水野忠邦はこれまでの世の中になかった変化の兆しを感じていた。各地の農民や町人による一揆、打ちこわし、強訴は例年起こっていた。文政6年(1823年)には摂津・河内・和泉1,307か村による国訴は、綿の自由売りさばき、菜種の自由売りさばきを要求して、空前の規模の訴えとなり、これまでの経済の有り様を変えるものであった。
発展し続ける経済活動と土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府(各藩)との構造的な軋轢を内包しつつも、「泰平の世」を謳歌していた江戸時代も19世紀を迎えると、急速に制度疲労による硬直化が目立ち始める。また、このころより昭和の前半までは国内が小氷河期に入り、1822年(文政5年)には隅田川が凍結している。
それに加えて、18世紀後半の産業革命によって欧米諸国は急速に近代化しており、それぞれの政治経済的事情から大航海時代の単なる「冒険」ではなく、自らの産業のために資源と市場を求めて世界各地に植民地獲得のための進出を始めた。極東地域、日本近海にも欧米の船が出没する回数が多くなった。たとえば、明和8年(1771年)にペニュフスキー、泡・奄美大島に漂流、安永7年(1778年)ロシア船、蝦夷地厚岸に来航して松前藩に通商を求める、寛政4年(1792年)ロシア使節ラクスマン、伊勢の漂流民大黒屋光太夫等を護送して根室に来航し、通商を求めるが、幕府は日本との外交ルートを模索する外国使節や外国船の接触に対し、1825年(文政8年)には異国船打払令を実行するなど、鎖国政策の継続を行った。文政2年(1819年)、幕府は、浦賀奉行を2名に増員した。
1832年(天保3年)から始まった天保の大飢饉は全国に広がり、都市でも農村でも困窮した人々があふれ、餓死者も多く現れた。1837年(天保8年)、幕府の無策に憤って大坂町奉行所の元与力大塩平八郎が大坂で武装蜂起した。大塩に従った農民も多く、地方にも飛び火して幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。このような危機に対応すべく、家斉死後の1841年(天保12年)、老中水野忠邦が幕府権力の強化のために天保の改革と呼ばれる財政再建のための諸政策を実施したが、いずれも効果は薄く、特に上知令は幕府財政の安定と国防の充実との両方を狙う意欲的な政策であったが、社会各層からの猛反対を浴びて頓挫し、忠邦もわずか3年で失脚した。幕府は、天保の改革の一環として、幕領に対して御料所改革を打ち出している。この改革案は、代官に幕領の全耕地を再調査させ、年貢の増収を図ろうとするものであった。この改革案に対して、現地の実情を知る代官らにとっては迷惑なことであると受け取られた。
忠邦はまた、アヘン戦争(1840年)における清の敗北により、1842年(天保13年)7月、従来の外国船に対する異国船打払令を改めて薪水給与令を発令して柔軟路線に転換する。同年6月には、英軍艦の来日計画がオランダより報告されている。
同月には江川英龍や高島秋帆に西洋流砲術を導入させ、近代軍備を整えさせた。アヘン戦争の衝撃は、日本各地を駆けめぐり、魏源の『海国図志』は多数印刷されて幕末の政局に強い影響を与えた。
中国は、アヘン戦争の敗北により、1843年(天保14年)には、広州・厦門・上海・寧波・福州の5港を開港し、翌1844年(天保15年)7月には清米修好通商協定(望厦条約)締結、10月には清仏通商協定(黄埔条約)を締結している。一方、米国は通商を拡大するため、日本・朝鮮との国交を樹立することを目的に使節を派遣することを決めた。1846年(弘化3年)閏5月27日、東インド艦隊司令長官ビッドルは2隻の軍艦を率いて江戸湾に入った。浦賀奉行の下役との交渉で、日本政府(幕府)は貿易のため開港する用意がないことを確かめて6月7日に退去した。
こうしたなか、薩摩藩や長州藩など「雄藩」と呼ばれる有力藩では財政改革に成功し、幕末期の政局で強い発言力を持つことになった。
経済面では、地主や問屋商人の中には工場を設けて分業や協業によって工場制手工業生産を行うマニュファクチュアが天保期には現れている。マニュファクチュア生産は、大坂周辺や尾張の綿織物業、桐生・足利・結城など北関東地方の絹織物業などで行われた。
1853年(嘉永6年)、長崎の出島への折衝のみを前提としてきた幕府のこれまでの方針に反して、江戸湾の目と鼻の先である浦賀に黒船で強行上陸したアメリカ合衆国のマシュー・ペリーと交渉した幕府は、翌年の来航時には江戸湾への強行突入の構えを見せたペリー艦隊の威力に屈し、日米和親条約を締結、その後、米国の例に倣って高圧的に接触してきた西欧諸国ともうやむやのうちに同様の条約を締結、事実上「開国」しなければならないこととなった。同年6月22日、12代将軍・家慶が「今後の政治は徳川斉昭と阿部正弘に委ねる」と言い残して61歳で亡くなった。同年7月1日、幕府、国書を諸大名に示し意見を問い、3日にはお目見え以上の幕吏にも意見を問うた。260年間「知らしむべからず、由らしむべし」を大法則としてきた幕府にとっては大方向転換であった。
開国後は日本のどの沿岸・海岸に外国船が来航するかも知れない事態となり、1853年(嘉永6年)8月から江戸湾のお台場建設を始めた。そして、同年9月15日、幕府は、大型船建造を許可することになった。さらにオランダに軍艦・鉄砲・兵書などを注文した。
その後、さらに1858年(安政5年)4月、井伊直弼が大老に就任する。米・蘭・露・英・仏の5か国と修好通商条約と貿易章程、いわゆる安政五カ国条約(不平等条約)を締結し、日本の経済は大打撃を受けた。8月、外国奉行を設置する。同月孝明天皇条約締結に不満の勅諚(戊午の密勅)を水戸藩などに下す。また、幕府にも下す。この年の7月に13代・家定が没し、10月25日に14代・家茂が征夷大将軍・内大臣に任ぜられる。翌年6月から横浜・長崎・箱館の3港で露・仏・英・蘭・米5か国との自由貿易が始まった。取引は、日本内地での活動が条約で禁止されていたため、外国人が居住・営業を認められていた居留地で行われた。輸出の中心は生糸・茶であった。輸出の増大は国内の物資の不足を招き、価格を高騰させた。他方、機械性の大工業で生産された安価な欧米の綿織物や毛織物などが流入してきた。横浜港で輸出が94.5パーセント、輸出が86.8パーセント行われ、相手国では英が88.2パーセント、仏が9.6パーセント、ついで米、蘭への輸出であり、輸入では英が88.7パーセントを占め次いで蘭、仏、米、プロシア、露へであり、輸出入とも英との取引が主であった。また、国内の銀価格に対する金価格が欧米より低かったため、おびただしい量の金貨が海外へ流失した。こうして開港による経済的変動は下層の農民や都市民の没落に拍車をかけていった。
下級武士や知識人階級を中心に、「鎖国は日本開闢以来の祖法」であるという説に反したとされ、その外交政策に猛烈に反発する世論が沸き起こり、「攘夷」運動として朝野を圧した。世論が沸き起こること自体、幕藩体制が堅牢なころには起こり得ないことであったが、この「世論」の精神的支柱として、京都の天皇=帝(みかど)の存在がクローズアップされる。このため永い間、幕府の方針もあり、政治的には静かな都として過ごしてきた京都がにわかに騒然となっていき、有名な「幕末の騒乱」が巻き起こる。
一時は大老・井伊直弼の強行弾圧路線(安政の大獄)もあり、不満「世論」も沈静化するかに思われたが、1860年(安政7年)3月3日の桜田門外の変後、将軍後継問題で幕府が揺れる間に事態は急速に変化する。
これより先に1860年(安政7年)1月には勝海舟らが咸臨丸で米国に向かっている。1862年(文久2年)1月15日、老中・安藤信正が水戸浪士ら6人に襲われ負傷する坂下門外の変が起こっている。同年2月11日、将軍・家茂と和宮との婚儀が江戸城で盛大に挙行される。同年7月6日、幕府は徳川慶喜を将軍後見職とし、同月9日に松平慶永を政事総裁職、閏8月1日に松平容保を京都守護職に就ける。先の7月には諸藩の艦船購入を許している。一方、開国で開市・開港が続くなかで、浪士などにより1861年(文久元年)と翌年に、第1次・2次の東禅寺事件が起こっている。薩摩藩では、島津斉彬が没したあと、後を継いだ藩主島津忠義の父である島津久光が長州藩を牽制すべく公武合体運動を展開し、同年4月藩内の攘夷派を粛清(寺田屋騒動)し、幕府に改革を要求した(文久の改革)。1862年(文久2年)、島津久光は江戸から薩摩への帰路、生麦事件を引き起こし、翌年薩英戦争で攘夷の無謀さを悟ることになる。
1862年(文久2年)閏8月、幕府参勤交代制度を緩和し、3年目ごとに1回、100日限りの在府とし、自国警衛を強化させることを目的とした。同年9月7日、明年2月をもって将軍上洛する旨が公布された。公武合体の強化策である。同年12月、幕府は兵制度を制定した。
尊皇攘夷派と公武合体派が藩政の主導権を争っていた長州藩では、尊王攘夷派が主導権を握るようになり、京都公家と結託し幕府に攘夷の実行を迫った。その結果、幕府は1863年(文久3年)5月10日を攘夷実行の日とすることを約束した。長州藩では下関海峡を通る外国船を砲撃した。ところが長州藩では、外国船砲撃の翌日、井上聞多・野村弥吉・遠藤謹助・伊藤俊輔・山尾庸三らを英艦キロセッキ号で、12日に横浜からイギリスに向けて出港させている。この計画の指導者は周布政之助で、攘夷のあとには各国との交流・交易の日が必然的にやってくることを見越し、西洋事情に通じておかねば日本の一大不利益と考えて、彼らを渡航させたのである。
これらの攘夷実行に対して、京都では会津・薩摩藩らの勢力によって1863年(文久3年)8月18日、尊王攘夷派の公卿を京都から排除した。八月十八日の政変である。翌日、三条実美らの七卿落ち。長州藩主・毛利慶親の世子・定弘が都落ちした三条実美たちを擁して上京してくると言う風評が京都では広まっていた。その目的は中川宮・五摂家筆頭の近衛家・会津藩・薩摩藩などの排除であった。1864年(元治元年)6月5日、新撰組が池田屋を襲撃した。6月24日、久坂玄瑞が藩兵を率いて天王山に陣取り、27日には来島又兵衛率いる藩兵が天龍寺に入った。7月19日、長州藩は京都諸門で幕軍(薩摩藩・会津藩・桑名藩)と交戦する(禁門の変)。同年11月、長州藩は禁門の変責任者3家老に自刃を命令する。
禁門の変を理由に幕府は、第一次長州征伐(7月24日)を決行。同時期に英米仏蘭4か国艦隊の反撃に遭い、上陸され砲台を占拠された(四国艦隊下関砲撃事件)(8月5日)。同14日、長州藩は4国艦隊と講和5条件を結ぶ。その後、高杉晋作、木戸孝允らが藩政を掌握した。
禁門の変での長州朝敵化に幕府の権威回復と錯覚し、1864年(元治元年)9月1日、参勤交代の制を1862年の改正(閏8月22日3年に1回出府などに緩和)以前に戻す。9月11日、大坂の宿舎で、西郷と勝が会合した。西郷は、勝から「共和政治」(雄藩諸侯の合議制による連合政権)について聞き、感心する。
1865年(元治2年)5月16日、将軍江戸を出立し、閏5月22日に入京・参内、同25日大坂城に入城した。同年9月15日、将軍は大阪を発ち同月16日入京し、長州追討の勅許を奏請した。
このような情勢下、1866年(慶応2年)1月21日、薩摩、長州ら政争を繰り返していた西国雄藩は坂本龍馬、中岡慎太郎の周旋により、西郷と桂との間で口頭の抗幕同盟が密約(薩長同盟)された。1866年(慶応2年)6月7日、幕府は第二次長州征伐を決行するが、高杉晋作の組織した奇兵隊などの士庶民混成軍の活躍に阻まれ、また、総指揮者である将軍・徳川家茂が7月20日に大坂城で病没するなどもあり、8月21日、将軍死去のため征長停止の沙汰書が出され、9月2日に幕長休戦を協定する。12月25日、天皇が疱瘡のため36歳で没する。諡(おくりな)を孝明天皇と定められた。
折から幕法に反して京都に藩邸を置く諸大名を制御できず、京都の治安維持さえ独力でおぼつかない江戸幕府と、幕藩体制の根幹である「武士」の武力に対する信頼とその権威は、この敗北によって急速になくなっていった。薩長は、土佐藩、肥前藩をも巻き込み、開国以来の違勅条約に対する反対論と外国人排撃を主張、実行に移そうとする「攘夷」を、国学の進展などにより江戸時代後期から広がっていた国家元首問題としての尊王論とを結びつけ、「尊王攘夷」を旗頭に「倒幕」の世論を形成していった。
14代将軍・家茂が没してから約4か月後の1866年(慶応2年)12月5日、将軍宣下式が挙行され、慶喜が15代将軍となった。この期間を「将軍空位期」と呼ぶ。慶喜は、早速幕府人事の改革に取り組み、若年寄りや老中などの幕閣を責任分担する制度に改めた。また、仏国駐日公使ロッシュの助言を参照し幕軍体制の近代化、外交権の掌握などを行った。
一方、国内状況では、この年(1866年(慶応2年))、全国的に農民一揆・打ちこわしなど未曾有に多発・激化した。
1867年(慶応3年)1月9日、明治天皇が践祚した。親長州派・中山忠能の外祖父である中山忠能は、禁門の変後に出仕・他人面会を禁じられた。この関係だけで否処罰公家たちの復権が行われたわけではない。1867年(慶応3年)1月15日に有栖川幟仁親王と元関白九条尚忠、同月25日に有栖川熾仁(たるひと)親王と中山忠能が宥免された。5月21日、薩摩の西郷と長州の桂との間で、「倒幕」の密約が交わされた。6月、坂本龍馬が、今後の政体構想の基本となる案を考え出した。これは、のちに船中八策と言われるものである。
同年8月、東海地方に伊勢神宮のお札が降ったことから喜んだ民衆は仮装してええじゃないかと謳いながら乱舞した。これは、夏から秋にかけて、近畿・四国から関東に及ぶ広範囲な地域に波及した。このさなかの1867年11月9日(慶応3年10月14日)に、15代将軍・徳川慶喜は起死回生の策として大政奉還を上奏し、15日、勅許の沙汰書を得る。そして24日、将軍職を辞した。武力によって完全に江戸幕府を倒そうとしていた倒幕勢力は攻撃の名目を一時的に失ったため、先手を取られた形となったが、薩長をはじめとする倒幕派は大政奉還の同日に倒幕の密勅を獲得するなど、あくまで幕府を滅亡させる姿勢を崩さなかった。1868年1月3日(慶応3年12月9日)には岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通と結んで王政復古の大号令が発せられ、摂関・将軍を廃し三職が設置される太政官制度が発足した。この日の小御所会議で慶喜に対して内大臣の辞職と領土の一部献上が命令され、新政府と旧幕府の対立は明らかとなり、この号令のもとに、徳川幕府討伐が進んでいった。
慶応4年1月3、4日の鳥羽・伏見の戦いを機に戊辰戦争が勃発。そして、1868年5月3日(慶応4年/明治元年4月11日)、勝海舟と西郷隆盛の交渉の結果、江戸城が新政府軍に明け渡され、慶喜は水戸に蟄居したことにより、江戸幕府は名実ともに消滅した。慶応4年1月15日、3職7科の制を定める。3月14日、五か条の誓文、「宸翰」、同15日、五榜の提示など新政府の施策が次々に実施されていった。1868年(明治元年)9月8日、一世一元の制を定められたうえで、明治と改元された。以降は明治時代と呼ばれる。
江戸幕府が崩壊したあとも、一部の幕府残存兵や親幕府大名が関東地方および東北地方(5月3日奥羽越列藩同盟成立)などで抵抗したが、1869年5月17日の五稜郭の陥落により(箱館戦争)、戊辰戦争は終結。これによって7世紀以上にわたって続いた武士の時代が名実ともに終了した。武士は華族や士族といった称号を獲得したものの、特権や禄を失い、反乱もすべて失敗したことにより、一般の国民に吸収されていった。
江戸時代の統治体制は幕藩体制(幕藩制)と呼ばれ、将軍家(幕府)のもとに、大名家(藩)、旗本・御家人が服属する体制である。直轄地は幕領・天領と呼ばれ、重要地点には城代・所司代・町奉行・遠国奉行などが派遣、その他の幕領にも郡代・代官が置かれ、支配に当たった。
江戸時代は征夷大将軍徳川氏を中心として、武士階級が支配していた封建社会であった。おもな身分制度は、支配階層の武士と被支配階層である百姓・町人の以上3つの身分を基礎としていた。それまで武士と農民は分離していなかったが、豊臣秀吉の刀狩りと武士は城下・町人は町屋・農民は村落と住居が固定されるなどにより、武士階級と農民が明確に分離された(兵農分離)。しかし江戸時代の各階層にある程度の流動性も見られる。特に江戸には飢饉などにより地方から流入してきた農民も多く、幕府はしばしば帰農令を出している。また、全国の諸藩には、郷士と呼ばれる自活する武士も存在した。彼らは城下に住み藩主から俸禄をもらっていた武士である藩士とは明確に区別され、また一段下の身分として差別されることもあった。幕末に活躍した人々には、勤王方、幕府方を問わず、下級藩士・郷士・町人など軽輩階層出身者であった者が多い。
幕府と朝廷の関係については諸説ある。関白・太政大臣を務めた豊臣秀吉と同様、徳川家康も征夷大将軍に就任、外戚関係を結ぶことで朝廷の権威を利用した。戦国時代以来、領国の一円的領域支配を行った公権力を公儀と言い、特に天皇の権威と一体化して全国支配を達成した徳川幕府を指す。幕府は禁中並公家諸法度の制定、紫衣事件などを通じて朝廷支配を強めていった。新井白石は『読史余論』で江戸幕府成立を朱子学に基づき革命と捉え、幕府の正当性を主張した。本居宣長や松平定信は大政委任論を唱えたが、それは幕府権力を肯定する立場に立ったものだった(松平定信は尊号一件で朝廷と対立した)。宝暦事件の竹内式部や、明和事件の山県大弐、霊元天皇など、朝廷の権力を取り戻そうとするものもいた。『大日本史』編纂の過程で成立した水戸学や吉田松陰などの思想家は天皇による支配の正統性を説き、倒幕運動・明治維新の志士に学ばれた。
幕府は江戸、大坂、京都に町奉行・所司代を置き重視したが、そのほか伊豆・日田・長崎・新潟・飛騨や重要な鉱山に代官を配置し支配した。これらの支配力は単に一都市に限らず、京都所司代は山城・丹波・近江など、大坂町奉行は西日本諸国の天領の采配がそれぞれ許されるなど、管轄地の諸大名を監察する役目もあった(京都所司代は朝廷も監視していた)。ただし、彼らの用いる兵力はほとんどなく、18世紀初頭の長崎奉行は10数人、幕末の五条代官所でも30人しかいなかった。
幕府は政治力と経済力を分け隔てている。幕閣となりうる譜代大名には、そのほとんどが5万石から10万石程度の低い石高しか充てられなかったのに対し、幕政に関与することを決して許さなかった外様大名の多くには数十万石の大封と国持大名の格式が与えられた。しかもその幕閣ですら、大老の特例を除き、定員4 - 5名の老中が重要案件は合議で、日常案件は月番制で決裁を行うという権力の分散が比較的早い時期に図られている。これは室町幕府において三管領の一家であり、かつ複数の大国の守護を兼ねた細川氏が、やがては管領職を独占するほどの世襲権力となって足利将軍家をも圧倒するようになったことに対する反省である。
江戸幕府より統治の許可を得た諸大名が、原則的には一代に限り土地統治を認められた封建体制である。領土の支配体制は各大名の規模によってかなり異なるが、ほぼ幕府の支配機構体制に準ずる形をとった。身分制についても同様である。ただ、大名は支配土地を自由自在に支配できたわけではなく、幕府からは大目付が発する監察使にその行政を監視規制されていた。このため武家諸法度違反で相当数の大名が改易・減封処分を受けたが、この処罰は親藩・譜代・外様の別なく行われた。
大名には幕府によりその格式に定められた参勤交代と御手伝いの義務が課せられた。これが大名貧困化の大きな原因となった。これを打開するために藩政改革が18 - 19世紀にかけて各藩で実施される(早いところでは土佐藩が17世紀半ばに行った)。初期は倹約と藩札発布が主であったが、18世紀中盤になると塩・陶器などの土地産物の専売制がかなりの藩で実施される。変わったところでは、紀州藩の「熊野三山寄付貸付」があり、大名自らが金融業者になり利子を取るということまでしている。また、仙台藩が大坂の升屋の番頭である山片蟠桃に藩財政を総覧させたように、財政を商人に任せるような藩も出てきた。
一部の国持大名の藩を除いて、藩の領地は中心城と城下町周辺と、その他は少し離れた飛び地を持っていた(相給)。この傾向は特に10万石前後の譜代大名に多く見られる。京都付近の淀藩は、山城など近畿のほか遠く上総まで所領を持っていた。
大名の支配方法としては、戦時の軍役が参勤交代と天下普請への参加義務という形で残されたほか、有力大名には将軍の子女を養子や嫁として送り込むことにより身内化するという、事実上のお家乗っ取りに近い手段までが講じられた。
なお、一部の例外を除いて、各藩は藩士への知行体制を18世紀初頭までに地方知行制(藩主が領地の一部を藩士に与え、そこから上がる年貢収入はその藩士のものとすることを許す)から俸禄制(藩主の領地から上がる年貢収入はいったんすべて藩の蔵に入れ、そこから藩士に蔵米を年俸として支給する)へと変遷させている。
江戸時代初期、各藩は隣接する藩との間で境界争いが盛んとなった。有名なところでは久保田藩と盛岡藩が干戈を交えるところまで発展した鹿角領争いであるが、これ以外にも仙台藩と相馬中村藩、萩藩と徳山藩などがある。これらは中期ごろまでにおおむね解決し、このとき決定した境界は現在にも引き継がれている。
幕府・大名の拠点のある城を中心とした町(城下町)のほかは基本的に農村と考えられていた。このため港の利益や鉱山の鉱物なども収入を米に換算していた。大名たちは上納金を貢いでくれる城下町が栄えることは、自らの発展と同義と考え保護政策を行った。
しかし江戸時代中期に入り、港町や宿場町などの発展、換金性の高い綿が栽培され始めるなど農村部に資本主義が流入され、また大名への献金が過重になり過ぎて商家の一部が潰れるなど、城下町の衰退が目立つようになった。この農民の商売熱を冷まそうと幕府は田畑永代売買禁止令や帰農令などを発布するも効果がなかった。
農村では名主、庄屋が幕府・大名と農村の橋渡しとして存在し、原則的に武士は農村にいなかったとされる(地方知行制を温存した仙台藩など例外はある)。この名主、庄屋は昔から土地を所有している有力農民や土着した武士の末裔などがなる場合が多く、苗字帯刀あるいは諸役御免の特権を持つ者や郷士に列せられる者も多かった。また大きな村では複数名の名主、庄屋が寄合を開いて村を治めた。彼らは、年貢を滞りなく収めるようにするだけでなく、施政者の命令を下達する役目もあった。諸藩により違いはあるものの、百姓が困っている場合には彼らを代表して施政者に伝え、一揆の際には農村側に立って先導するような百姓側の代表としての意識の強いものと、支配機構の末端を担う下級官吏の面が強く一揆などの際に標的となる場合もあった。困窮した零細農民の土地を集積するなど地主的な側面の強くなる近世後期には後者の面を持つものが多くなった。
読み書きを中心とした寺子屋や私塾、農村部における郷学(郷校)が設置され、日本人の識字率は高かった。また岡山藩の閑谷学校を嚆矢として、あちこちの藩・旗本が郷民でも入校できる学校を作った。このようなことが最上徳内や間宮林蔵などの農村出身者の活躍に一役買っているといえる。
幕府により大名の大幅な配置換えが実施された江戸時代は、同時に日本中で活発な文化交流が行われた時代でもあった。たとえば、三河の水野氏が備後福山に立藩したため三河の言語が備後地域に流入し、福山地方の方言に三河方言が混ざっている。また、信濃を統治していた仙石氏が但馬出石に転封した際、信濃の蕎麦を出石に持ち込んだため、出石そばが発祥した。このような物の交流は各地で起こっているが、これが現在の名産物になっている地域も多い。
江戸時代には遠方の寺社への巡礼、参拝が盛んになった。これは多分に娯楽的な意味を持ち、民衆が旅行するようになった起源とも言われる。中には旅行代理業者や案内業も現れ、寺社の側に歓楽街ができたところもある。また、現在の旅行ガイドブックのような案内書も刊行されている。この遠方への巡礼の背景には、五街道や宿場町の整備、治安の良化などのインフラが整ったことがある。これらの代表的なものには、西国三十三所や四国八十八箇所巡礼などがある。また、江戸時代末期には、天理教や金光教などの神道系の新宗教が現れている。
身分制度は大きく分けると、武士などの支配階級と、被支配階級である町人・百姓・水呑・借家人などがあったが、有力な町人や百姓が武士の株を買い取ることもあるなど、身分間にはある程度の流動性もあった。これらのほか、公家、検校、役者、神官、長吏、穢多、非人などさまざまな階級があったが、別々の地域で同じ名前で呼ばれる階級が事実上別の実態を持っていたり、ある地域では別の階級とみなされている階級がほかの地域では同一視されているなど、地域・時期により錯綜した状況を呈する。被差別階級とされる長吏、穢多、非人などは皮革の製造加工、死刑執行人・牛馬の死体の掃除など人の嫌がる仕事を割り当てられ、ほかの階級から差別されたが、それらの職種を独占したために経済的にはある程度安定していた。のちに明治維新で行われた四民平等政策により、制度的差別は廃止され彼らは平民となるが、それにより死牛馬取得権などの特権を失いかえって困窮する者が多く出た。民間では社会的な差別は依然として残り、近現代の部落解放運動につながった(部落問題)。
江戸時代もまた数々の大災害に見舞われた時代であった。幕府による災害復旧の御普請はほぼ天領に限られ、各大名領に対する救恤は多くが貸付金という形であった。
中でも18世紀初頭の元禄から宝永期は巨大災害が立て続けに起こり、富士山の宝永噴火後の1708年には高100石に付金2両を徴収する「諸国高役金令」を出し、幕府始まって以来の全国的課税となった。領地からの収入増を目的として元禄ごろまで盛んに行われてきた新田開発は、宝永津波をきっかけに転換を迫られることとなり、以後の開発面積は激減することになる。慶長期から増加し続けてきた人口はその後停滞期に入り、享保の大飢饉および天明の大飢饉頃は減少局面も見られ、幕末までほとんど人口は増加しなかった。
江戸時代は経済的には目まぐるしい発展を遂げ、その資本の蓄積は、明治維新以降の経済発展の原動力となる。
各地の諸大名は、江戸藩邸や参勤交代の費用を捻出するために自藩産出の米や魚農産物を大阪で売ったため、大阪は諸大名の蔵屋敷が置かれ、全国の特産品が並び、活況を呈した。また、参勤交代やお手伝い普請で多くの諸大名が街道筋の宿屋・旅籠に泊まったため、経済の流通が活発化したのである。江戸幕府は株仲間を結成させて特定商人の独占を認めることで商業統制を行おうとした。しかし、実際には江戸時代も後期に入ると、都市・地方ともに新興商人の台頭が始まり、活発な展開を見せるようになる。幕府はこうした経済発展の動きに十分な対応が取れず、物価変動による社会的混乱を鎮められずに幕府が動揺する一因となった。
アンガス・マディソンによれば、1820年(享保年間)時点のGDPは、アメリカを1とした場合、日本はその1.75倍、オランダは0.3倍、イギリスは2.8倍であり、1850年になり、アメリカが日本の2倍近くに達する。江戸期における1人あたりの生産量は、0.15パーセントである。
対外政策としては幕府は海禁(いわゆる鎖国)政策を布いていた。しかし、将軍代替りの際に来府した朝鮮通信使によって清国の動向を、またやはりたびたび来府したオランダ商館長によって欧州の動向を、ある程度においては把握していたといわれている(オランダ風説書)。たとえば天保の改革を行った老中・水野忠邦は、清国でアヘン戦争が起こると、ただちに異国船打払令を撤回させているが、これも英国をはじめとした西洋列強の清国に対する外交姿勢を把握していたからこその対処だった。なお、長崎鳴滝に西洋医術の塾(鳴滝塾)を開いたシーボルトのもとには多数の日本人が修学しており、限られた範囲で西洋人と日本人との交流は行われていた。
江戸幕府は、大量に蓄積された金銀を原資に貨幣制度の改革を行った。幕府創立前の1601年(慶長6年)に金座(小判座)および銀座を設立し、慶長金銀の鋳造を命じた。慶長から寛永期頃までは各地の金山および銀山の産出が世界有数の規模であり、5代将軍・徳川綱吉のころまでは江戸城御金蔵の金銀の蓄えも潤沢であった。そして輸入品であった永楽銭などに代わり、1636年(寛永13年)、銭座を設けて寛永通宝などの国内貨幣を鋳造し、流通させた。
しかしながら、高額貨幣は、東日本は金貨(小判)が、西日本は銀貨(丁銀)が流通の基本となっており、その相場も日々変動したため、両替商などの金融業が発達した。また大量の貨幣を運ぶのを避けるため、手形取引も発達した。また、1620年(元和6年)ごろから世界に先駆けて大坂(大阪)の堂島において先物取引が行われていた。経済が発展するとともに大量の物資輸送の必要が出たため、弁才船による日本沿海を周回する物資流通が大きく発達した。
また寛永期を過ぎると、金銀の産出に陰りが見え始めたのに対し、人口が次第に増加し経済が発展して幕府の支出が増大したため財政難に陥るようになり、金銀の備蓄も底が見え始め、1695年(元禄8年)の元禄金銀の発行を発端に、出目獲得および通貨拡大のため品位を低下させる改鋳が行われるようになる。
1772年(安永元年)の南鐐二朱銀発行以降、次第に両を基軸とする、分、朱の単位を持つ計数銀貨が増加し始め、1837年(天保8年)の一分銀発行に至って、丁銀のような秤量銀貨を凌駕するようになり、銀貨は小判の通貨体系に組み込まれることになった。
幕府は元禄期以降、金銀貨の比率を変更する貨幣改鋳をたびたび行っている。これは幕府の財政を改善させることを主目的とする政策であり、米価を調整することや、貨幣の中に含まれる金を減らし、貨幣の発行量を多くすることによって貨幣発行益を上げることで財政改善を行おうというものであったが、一方でこの政策には市場の通貨量を増加させる目的や、金銀相場の内外調整という目的もあった。徳川綱吉時代の元禄改鋳はリフレ効果をもたらして景気を改善したが、宝永の改鋳では米価が83パーセントも上昇するなど急激なインフレを招いた。新井白石主導による正徳の改鋳は通貨流通量が減少してデフレを招いた。このあと徳川吉宗によって行われた元文改鋳は、デフレ対策を目的として行われ、米価を80年間にわたって安定させることとなった。徳川家斉時代には幕府財政が困窮したために大規模な改鋳が行われ、貨幣の流通量が40パーセント増大した。またこの文政改鋳と、水野忠邦主導による天保の改鋳は、金銀貨を額面通り交換したため、幕府は大きな収益を得ることになった。この結果、幕府の貨幣支出が増大し、元文期よりはゆるやかであるが、経済に刺激を与えるインフレーションをもたらしたと評価する説(新保博)もある。開国後には内外の金銀価格差を調整するために安政・万延の改鋳が行われたが、これはさらに名目的な貨幣流通量増大をもたらし、経済は劇的なインフレーションに見舞われることとなった。
徳川家康は武士の支配構造の基本として、士分の収入を米に依存していた。そのため、幕府の経済政策の主力は米相場を安定させることが中心になった。しかしながら、収入を増やすために米の生産量を増やすと米価が下がるというようになかなか思うようにはいかず、また武士階級を困窮させることになり、幾度も倹約令や徳政令が出されることになる。こうした要因によって商人たちが経済の主導権を握るようになった。
18世紀に入ると日本は飢饉が頻発するようになり、天保の大飢饉になると藩によっては収穫ゼロ(津軽藩など)のところも出てくるようになる。これを見て田沼意次は重商主義政策を取り入れようとしたが、反対勢力によって失敗に終わっている。また財政を改善させることを主目的とする、貨幣改鋳をたびたび行っている。
儒教は日本においてはむしろ儒学として発展し、江戸時代初期から中期にかけて朱子学や陽明学が盛んになった。
仏教は、旗本出身である鈴木正三や独力で大蔵経を刊行した鉄眼道光、サンスクリット研究、戒律復興を提唱した慈雲、臨済宗中興の祖と称される白隠などの優れた僧侶がいなかったわけではなかったが、幕府の宗教政策の一環として民衆支配の方策として用いられたために(檀家制度)、一概に不振だった。仏教内部も腐敗し、いわゆる「葬式仏教」が成立したのもこの時期で、形骸化した仏教は神道、儒教の両派から批判された。織田政権や江戸幕府より邪宗とされた日蓮宗不受不施派は徹底的に弾圧された。
神道では、幕府や諸藩の儒教奨励にともなって神道と儒教が習合した神儒一致の垂加神道などの儒教神道が現れた。次いで国学の隆盛にともない儒仏を廃した復古神道が唱えられ、一部では神仏分離が始まった。復古神道は儒教や仏教の教えを排除したが、一方では、垂加神道や復古神道は幕末の尊王思想にも影響を与え、明治期の政策にも影響を与えた。明治維新で朝廷権力が復活したために、各地で勤皇の神社が建立され(湊川神社もこのころ)、天皇陵が各地で定められた。
豊臣秀吉によるバテレン追放令の流れを受け、耶蘇教と呼ばれたキリスト教は江戸時代のほとんどを通じて徹底した取り締まりを受けた。
江戸時代初期は交易国であったイギリスやポルトガルなどからもキリスト教が伝えられたため、禁止令も徹底されなかった。しかし鎖国政策を強めるにつれてキリスト教の弾圧が強化された。
江戸時代には、戦乱が静まり社会が安定し平和になったことと経済活動が活発になったことにより、人々の言論活動も活発になり、多様な学問が開花した。また経済の発展による庶民の台頭は、学問の担い手を生むこととなった。江戸時代の学問の特徴としては、研究者個人の直感的・連想的な思考を軸とする中世的な発想で研究を進めるのではなく、文献などに基づき実証的に研究するという態度が現れたことが挙げられる。また一部には身分制度を否定したりする思想が現れた。このように、中世を離れ近代に近い時期として、江戸時代は歴史の上で近世と定義されている。
江戸時代中期になると、藩政改革の一環としての藩校開学が各地で行われるようになる。基本的には藩士の子弟に朱子学や剣術を奨励・徹底するものだが、一部には医術や西洋技術を講義し、さらに庶民までも受講対象となるところもあった。庶民レベルでは、僧侶ら知識階級が庶民らの子どもを集めて基本的な読み書きを教えた。この寺子屋が増えていったことで日本の識字率が高まっていき、幕末から明治にかけての近代化を支える原動力となった。また、京都や大坂などの大きな町では江戸時代初期から伊藤仁斎が古義堂を開くなど、私塾を構えるところもあったが、江戸中期から郷村で村塾といわれる私塾が出てきた。
和辻哲郎は、「慶長から元禄へかけて、すなわち十七世紀の間は、前代の余勢でまだ剛宕な精神や冒険的な精神が残っているが、その後は目に見えて日本人の創造活動が萎縮してくる」、「中江藤樹、熊沢蕃山、山鹿素行、伊藤仁斎、やや遅れて新井白石、荻生徂徠などの示しているところを見れば、それはむしろ非常に優秀である。これらの学者がもし広い眼界の中で自由にのびのびとした教養を受けることができたのであったら、十七世紀の日本の思想界は、十分ヨーロッパのそれに伍することができたであろう。それを思うと、林羅山などが文教の権を握ったということは、何とも名状のしようのない不愉快なことである」と評している。
儒学
論語をはじめとする儒教経典は古代から仏教経典とともに日本に伝来しており、室町時代には五山の僧により読まれていた。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、姜沆らの朱子学者が連れ帰られたこと、また、徳川家康が論語を愛し、藤原惺窩とその弟子林羅山を重用したことで朱子学の研究が本格化した。幕府は昌平坂学問所を徳川家私設の学問所として設立した。民間では「近江聖人」と呼ばれた中江藤樹や、朱子の「祖述」を旨とした山崎闇斎の学派が存在し、民間にも朱子学は伝わっていった。へルマン・オームスは朱子学と神道を統合した闇斎学派によって「徳川イデオロギー」が完成したとする。松平定信は寛政異学の禁で昌平坂学問所での朱子学以外の講義を禁じ、大坂の町人学問所である懐徳堂を公認した。陽明学は中江藤樹の弟子である熊沢蕃山が学んでいたほか、大塩平八郎や吉田松陰ら幕末の志士にも学ばれた。
朱子学が勢いづくに従ってその批判も起こった。山鹿素行は聖学と称して古学派の先駆者となり、貝原益軒は朱子学教説への懐疑を露にした。伊藤仁斎と伊藤東涯は朱子によらず経典が書かれた中国古代の字句の意味を明らかにする古義学を打ち立てた。荻生徂徠の古文辞学はこれらを大成するものであり、古代の聖人による「物」(事物、儀礼)に対する「名」(概念)の「制作」を論じ、政治的な復古主義を主張した。懐徳堂で学んだ富永仲基や山片蟠桃は儒教・仏教・神道全てを否定する無鬼論を主張した。
国学
いくつかの地方では女性の平均的な結婚年齢は24歳で、男性は28歳だった。最初の子どもが生まれるのは結婚して3年というのが平均的だった。結婚した夫婦の半数は子ども2人以下で、あとの半数は1夫婦あたり4人から5人の出生数(養育数)だった。
1868年(慶応4年)生まれが96歳となる1960年代の時期の1964年(昭和39年頃)より江戸時代生まれの男性がゼロになった県が出ていた。100歳となる1968年(明治100周年記念式典の頃)より江戸時代生まれの人物が女性を含めてゼロになった県が出ていた。1968年9月時点では1868年9月以前の生まれの人口が山形県、栃木県、群馬県、埼玉県が1人で青森県、富山県、石川県、奈良県が2人であった。 1970年時点での江戸時代生まれの人物は100人台、うち男性は19人であった。1973年9月時点では江戸時代生まれの人物は10人、1975年時点では6人であった。 大政奉還以前生まれ最後の人物は1976年11月16日に死去した河本にわで、うち男性は1973年8月1日に死去した後藤長次郎(1866年7月4日生まれ、岐阜県)であった。 明治改元以前生まれ最後の人物は1977年5月27日に死去した中山イサで、うち男性は1976年1月2日に死去した吉川与三太郎であった。 | [
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"text": "江戸時代(えどじだい、旧字体: 江戶時代)は、日本の歴史のうち江戸幕府(徳川幕府)の統治時代を指す時代区分である。他の呼称として徳川時代、徳川日本、旧幕時代、藩政時代(藩領のみ)などがある。",
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"text": "日本史上の時代区分としては、安土・桃山時代(または豊臣政権時代)と合わせて「近世」とされる。",
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"text": "江戸時代の期間は、一般的には1603年3月24日(慶長8年2月12日)に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸(現在の東京)に幕府を樹立してから、1868年10月23日(慶応4年/明治元年9月8日)の「一世一元の詔」の発布(一世一元への移行)に伴い、慶応から明治に改元されるまでの265年間である。",
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"text": "徳川家康は征夷大将軍に就くと、領地である江戸に幕府を開き、ここに江戸幕府(徳川幕府)が誕生する。豊臣秀吉死後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、大坂の陣(大坂の役)により豊臣氏勢力を一掃。その後の島原の乱も鎮圧することで、平安時代以降、700年近く続いた政局不安は終焉を迎えた。以後200年以上続く長期安定政権の基盤を確立し、「元和偃武」とよばれる平和状態が日本にもたらされた。",
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"text": "設立当初の幕府の運営体制は「庄屋仕立て」と評される、徳川家の家政を踏襲したものとなったが、寛永10年ごろに「老中」「若年寄」などの末期まで続く制度が確立した。かつて徳川家康と豊臣政権の同僚だった大名は、外様大名として扱われ、広大な領土を持つ者もいたが、関東や近畿地方などの要地からは遠ざけられ、従前の武家政権のように幕政に関与することはなくなった。徳川氏一門の親藩大名は大領を持ったが幕政には関与せず、関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた譜代大名・旗本によって幕政は運営された。武家諸法度によって大名は厳しく統制され、大大名も改易処分となり大領を失うことがしばしば発生した。京都・大坂・長崎といった全国の要所は直轄領(天領)として大名を置かず、 幕府の役人が統治を行った。朝廷に対しては禁中並公家諸法度や京都所司代による統制が行われ、自立した対外行動をとることはできなくなった。",
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"text": "また、平和が招来されたことにより、大量の兵士(武士)が非生産的な軍事活動から行政的活動に転じ、広域的な新田開発が各地で行われたため、戦国時代から安土桃山時代へと長い成長を続けていた経済は爆発的に発展し、高度成長時代が始まった。",
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"text": "また江戸時代には、対外的には長崎出島での中国(明・清)・オランダとの交流と対馬藩を介しての李氏朝鮮との交流以外は外国との交流を禁止する鎖国政策を採った(ただし、実際には薩摩に支配された琉球王国による対中国交易や渡島半島の松前氏による北方交易が存在した)。バテレン追放令は、すでに豊臣秀吉が発令していたが、鎖国の直接的契機となったのは島原の乱で、キリスト教と一揆(中世の国人一揆と近世の百姓一揆の中間的な性格を持つもの)が結びついたことにより、その鎮圧が困難であったため、キリスト教の危険性が強く認識されたからであると言われる。またこの間、オランダが日本貿易を独占するため、スペインなどのカトリック国に日本植民地化の意図があり、危険であると幕府に助言したことも影響している。中国では同様の政策を海禁政策と呼ぶが、中国の場合は主として沿海地域の倭寇をも含む海賊からの防衛および海上での密貿易を禁止することが目的とされており、日本の鎖国と事情が異なる面もあった。しかし、日本の鎖国も中国の海禁と同じとして、鎖国より海禁とする方が適当とする見解もある。鎖国政策が実施される以前には、日本人の海外進出は著しく、東南アジアに多くの日本町が形成された。またタイに渡った山田長政のように、その国で重用される例も見られた。",
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"text": "しかし鎖国後は、もっぱら国内重視の政策がとられ、基本的に国内自給経済が形成された。そのため三都を中軸とする全国経済と各地の城下町を中心とする藩経済との複合的な経済システムが形成され、各地の特産物がおもに大坂に集中し(天下の台所と呼ばれた)、そこから全国に拡散した。農業生産力の発展を基盤として、経済的な繁栄が見られたのが元禄時代であり、この時代には文学や絵画の面でも、井原西鶴の浮世草子、松尾芭蕉の俳諧、近松門左衛門の浄瑠璃、菱川師宣の浮世絵などが誕生していく。これらの文化は京、大坂をはじめとする関西地域から生まれた。また、この元禄期に花開いた文化は元禄文化と呼ばれる。",
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"text": "元禄時代の経済の急成長により、貨幣経済が農村にも浸透し、四木(桑・漆・檜・楮)・三草(紅花・藍・麻または木綿)など商品作物の栽培が進み、漁業では上方漁法が全国に広まり、瀬戸内海の沿岸では入浜式塩田が拓かれて塩の量産体制が整い各地に流通した。手工業では綿織物が発達し、伝統的な絹織物では高級品の西陣織が作られ、また、灘五郷や伊丹の酒造業、有田や瀬戸の窯業も発展した。やがて、18世紀には農村工業として問屋制家内工業が各地に勃興した。",
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"text": "人と物の流れが活発になる中で、城下町・港町・宿場町・門前町・鳥居前町・鉱山町など、さまざまな性格の都市が各地に生まれた。その意味で江戸時代の日本は「都市の時代」であったという評価があり、「全世界の歴史を見渡してみても、日本の江戸時代ほど都市が計画的に、しかも大量に作られ、その新しく作った都市が社会構造の中で中心になった例は、ほかに見られない」とされている 。18世紀初頭の京都と大坂(大阪)はともに40万近い人口を抱えていた。同期の江戸は、人口100万人前後に達しており、日本最大の消費都市であるばかりでなく、世界最大の都市でもあった。当時の江戸と大坂を結ぶ東海道が、18世紀には世界で一番人通りの激しい道だったといわれている。",
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"text": "このような経済の発展は、院内銀山などの鉱山開発が進んで金・銀・銅が大量に生産され、それと引き替えに日本国外の物資が大量に日本に入り込んだためでもあったが、18世紀に入ると減産、枯渇の傾向が見られるようになった。それに対応したのが、新井白石の海舶互市新例(長崎新令)であった。彼は、幕府開設から元禄までの間、長崎貿易の決済のために、金貨国内通貨量のうちの4分の1、銀貨は4分の3が失われたとし、長崎奉行大岡清相からの意見書を参考にして、この法令を出した。その骨子は輸入規制と商品の国産化推進であり、長崎に入る異国船の数と貿易額に制限を加えるものであった。清国船は年間30艘、交易額は銀6,000貫にまで、オランダ船は年間2隻、貿易額は3,000貫に制限され、従来は輸入品であった綿布、生糸、砂糖、鹿皮、絹織物などの国産化を奨励した。",
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"text": "8代将軍となった徳川吉宗は、紀州徳川家の出身であり、それまで幕政を主導してきた譜代大名に対して遠慮することなく大胆に、農本主義に立脚した政治改革を行った(享保の改革)。吉宗がもっとも心を砕いたのは米価の安定であった。貨幣経済の進展にともない、諸物価の基準であった米価は下落を続け(米価安の諸色高)、それを俸禄の単位としていた旗本・御家人の困窮が顕著なものとなったからである。そのため彼は倹約令で消費を抑える一方、新田開発による米の増産、定免法採用による収入の安定、上米令、堂島米会所の公認などを行った。「米将軍」と称された所以である。それ以外にも、財政支出を抑えながら有為な人材を登用する足高の制、漢訳洋書禁輸の緩和や甘藷栽培の奨励、目安箱の設置などの改革を行った。幕府財政は一部で健全化し、1744年(延享元年)には江戸時代を通じて最高の税収となったが、年貢税率の固定化や貢租の重課や厳重な取り立てとなり、また、行きすぎた倹約により百姓・町民からの不満を招き、折からの享保の大飢饉(享保6年(信州浅間山噴火)、同7年、同17年)もあって、百姓一揆や打ちこわしが頻発した。それらに対し、享保6年(1721年)6月、「村民須知」、享保19年(1734年)8月、代官への御触書などによる法令で取り締まった。宝暦(1704 - 1710年)から享保(1716 - 1735年)までの間に40回ほどに及んだ(実際はもっと多い。平均して1年に約2回)。このように、土地資本を基盤とする反面、土地所有者ではない支配者層という独自な立場に立たされた武士の生活の安定と、安定成長政策とは必ずしも上手く融合できずに、金融引き締め的な経済圧迫政策が打ち出されて不況が慢性化した。",
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"text": "なお、「朱子学は憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と朱子学批判を行った荻生徂徠が1726年(享保11年)ごろに吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されており、これは日本思想史の中で政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち経世論が本格化する。一方、1724年(享保9年)には大坂の豪商が朱子学を中心に儒学を学ぶ懐徳堂を設立して、のちに幕府官許の学問所として明治初年まで続いている。1730年(享保15年)、石田梅岩は日本独自の道徳哲学心学(石門心学)を唱えた。享保年間は、このように、学問・思想の上でも新しい展開の見られた時代でもあった。",
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"text": "その一方で、超長期の政権安定、特に前半の百数十年は成長経済基調のもと、町人層が発展し、学問・文化・芸術・経済などさまざまな分野の活動が活発化し、現代にまで続く伝統を確立している。",
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"text": "幕府財政は、享保の改革での年貢増徴策によって年貢収入は増加したが、宝暦年間(1751年 - 1763年)には頭打ちとなり、再び行き詰まりを見せた。農村では厳しい年貢収奪に苦しみ村で食っていけなくなった貧農は遊民化し江戸などの大都市に流れ込んで無宿者と化した。さらに拍車をかけたのが田沼時代を通して繰り返し引き起こされた天災飢餓の続出だった。",
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"text": "これらに対応すべく田沼意次らの田沼時代の幕臣達は倹約令や経費削減、大奥の縮小、拝借金の制限などの緊縮政策で財政赤字に対処しつつ、発展してきた商品生産・流通に新たな財源を見出し米以外からの税収の確立を試みた。商品生産・流通を掌握し、物価を引き下げるため手工業者の仲間組織を株仲間として公認・奨励して、そこに運上・冥加などを課税した。専売制実施の足がかりとして、座と呼ばれる組織を複数設置し、各分野ごとの販売独占権を真鍮座などの座に与えた。",
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"text": "田沼意次の政策は幕府財政を第一に置いたものであったが、それは権力と商人資本の密着度を強め町人と幕府役人との癒着につながった。一方で一般民衆の生活基盤は弱まった。田沼時代の収入増加策の立案、運用は実のところ場当たり的なものも多く、利益よりも弊害の方が目立つようになって撤回に追い込まれるケースも多々あったのである。そして幕府に運上金、冥加金の上納を餌に自らの利益をもくろんで献策を行う町人が増え、結果的に幕府も庶民も得にならなかった政策を採用することもあった。そのような町人の献策を幕府内での出世を目当てに採用していく幕府役人が現れた。町人と幕府役人との癒着も目立つようになった。このような風潮は「山師、運上」という言葉で語られ、利益追求型で場当たり的な面が多く、腐敗も目立ってきた田沼意次の政策に対する批判が強まっていた。",
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"text": "大規模な開発策や大胆な金融政策など、開明的で革新的な経済政策と呼ばれる意次の政策は、いわば大山師的な政策だった。この時代、利益追求の場を求め民間から様々な献策が盛んに行われ、民間の利益追求と幕府の御益追求政治とが結びつき、かなり大胆な発想と構想の政策が立案・執行された。同時に田沼時代の代名詞である賄賂の横行や幕府と諸藩との利益の衝突、負担を押し付けられた民衆との間に深刻な矛盾も生じさせた。",
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"text": "最終的に天明の大飢饉による百姓一揆や打ちこわしと田沼を重用した10代家治の死を契機とした御三家、門閥譜代大名層らによる反田沼活動により田沼は失脚し田沼時代は終了する。",
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"text": "続いて田沼政治を批判した松平定信が1787年(天明7年)に登場し、寛政の改革を推進した。天明の大飢饉により農業人口が140万人も減少し、幕府財政は百万両の赤字が予想されていた。",
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"text": "当時、現在のような税を取る対価として行政サービスを施すという考えはなかった。しかし、農村への救済策が不十分な田沼の政策により荒廃の一途を辿っていた農村と、天明の大飢饉の致命的な打撃を受け、このころから不完全ながらも世を経綸し、人民を救うという「経世済民」の思想にもとづいた行政がうまれようとしていた。",
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"text": "天明の大飢饉直後の時期である「寛政の改革」は年貢増徴をおこなえる状況ではなく、「小農経営を中核とする村の維持と再建」に力を注くこととなり、農民の負担を軽減する目的でさまざまな減税・復興政策をおこなった。寛政の改革ではこれまでの収奪一辺倒だった政策を改め、民を救うための政治へと断行した。定信は飢餓対策に取り組み、都市・農村問わず凶作や自然災害に備え米や金銭を貯える備荒貯蓄政策を推進した。そのような増税が厳しい状況であった為、定信は即効性のある厳しい緊縮政策を実行し財政再建に努めることとなる。最終的に6年たった定信失脚の頃には備蓄金も20万両程に貯蓄することができており、幕府の赤字財政は黒字となっていた。しかし、倹約令や風俗統制令を頻発したために江戸が不景気になり、市民から強い反発を受けたため、各種の法令を乱発することになった。",
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"text": "通説では松平定信は田沼意次の経済政策をことごとく覆したとされるが、近年ではむしろ寛政の改革には田沼政権との連続面があったと指摘される。幕府が改革において講じた経済政策は田沼時代のものをほぼ全て継承しており、株仲間や冥加金、南鐐二朱判、公金貸付など、実は田沼政権のそれを継承したものが多かった。",
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"text": "1793年7月、定信は突然老中を解任されることとなり寛政の改革はわずか六年で幕を閉じた。その背景として尊号一件などにより、家斉等と定信との対立、その他、大奥の予算の大幅削減や不良女中を厳しく罰するなどと定信と大奥との対立の深刻化などが挙げられる。",
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"text": "",
"title": "沿革"
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"text": "松平定信の辞任後、文化・文政時代から天保年間にかけての約50年間、政治の実権は11代将軍徳川家斉が握った。家斉は将軍職を子の家慶に譲ったあとも実権を握り続けたため、この政治は「大御所政治」と呼ばれている。家斉の治世は、当初は質素倹約の政策が引き継がれたが、貨幣悪鋳による出目の収益で幕府財政がいったん潤うと、大奥での華美な生活に流れ、幕政は放漫経営に陥った。上述の異国船打払令も家斉時代に発布されたものである。一方で、商人の経済活動が活発化し、都市を中心に庶民文化(化政文化)が栄えた。しかし、農村では貧富の差が拡大して各地で百姓一揆や村方騒動が頻発し、治安も悪化した。1805年(文化2年)には関東取締出役が置かれた。水野忠邦はこれまでの世の中になかった変化の兆しを感じていた。各地の農民や町人による一揆、打ちこわし、強訴は例年起こっていた。文政6年(1823年)には摂津・河内・和泉1,307か村による国訴は、綿の自由売りさばき、菜種の自由売りさばきを要求して、空前の規模の訴えとなり、これまでの経済の有り様を変えるものであった。",
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"text": "発展し続ける経済活動と土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府(各藩)との構造的な軋轢を内包しつつも、「泰平の世」を謳歌していた江戸時代も19世紀を迎えると、急速に制度疲労による硬直化が目立ち始める。また、このころより昭和の前半までは国内が小氷河期に入り、1822年(文政5年)には隅田川が凍結している。",
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"text": "それに加えて、18世紀後半の産業革命によって欧米諸国は急速に近代化しており、それぞれの政治経済的事情から大航海時代の単なる「冒険」ではなく、自らの産業のために資源と市場を求めて世界各地に植民地獲得のための進出を始めた。極東地域、日本近海にも欧米の船が出没する回数が多くなった。たとえば、明和8年(1771年)にペニュフスキー、泡・奄美大島に漂流、安永7年(1778年)ロシア船、蝦夷地厚岸に来航して松前藩に通商を求める、寛政4年(1792年)ロシア使節ラクスマン、伊勢の漂流民大黒屋光太夫等を護送して根室に来航し、通商を求めるが、幕府は日本との外交ルートを模索する外国使節や外国船の接触に対し、1825年(文政8年)には異国船打払令を実行するなど、鎖国政策の継続を行った。文政2年(1819年)、幕府は、浦賀奉行を2名に増員した。",
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"paragraph_id": 28,
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"text": "1832年(天保3年)から始まった天保の大飢饉は全国に広がり、都市でも農村でも困窮した人々があふれ、餓死者も多く現れた。1837年(天保8年)、幕府の無策に憤って大坂町奉行所の元与力大塩平八郎が大坂で武装蜂起した。大塩に従った農民も多く、地方にも飛び火して幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。このような危機に対応すべく、家斉死後の1841年(天保12年)、老中水野忠邦が幕府権力の強化のために天保の改革と呼ばれる財政再建のための諸政策を実施したが、いずれも効果は薄く、特に上知令は幕府財政の安定と国防の充実との両方を狙う意欲的な政策であったが、社会各層からの猛反対を浴びて頓挫し、忠邦もわずか3年で失脚した。幕府は、天保の改革の一環として、幕領に対して御料所改革を打ち出している。この改革案は、代官に幕領の全耕地を再調査させ、年貢の増収を図ろうとするものであった。この改革案に対して、現地の実情を知る代官らにとっては迷惑なことであると受け取られた。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "忠邦はまた、アヘン戦争(1840年)における清の敗北により、1842年(天保13年)7月、従来の外国船に対する異国船打払令を改めて薪水給与令を発令して柔軟路線に転換する。同年6月には、英軍艦の来日計画がオランダより報告されている。",
"title": "沿革"
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{
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"text": "同月には江川英龍や高島秋帆に西洋流砲術を導入させ、近代軍備を整えさせた。アヘン戦争の衝撃は、日本各地を駆けめぐり、魏源の『海国図志』は多数印刷されて幕末の政局に強い影響を与えた。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 31,
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"text": "中国は、アヘン戦争の敗北により、1843年(天保14年)には、広州・厦門・上海・寧波・福州の5港を開港し、翌1844年(天保15年)7月には清米修好通商協定(望厦条約)締結、10月には清仏通商協定(黄埔条約)を締結している。一方、米国は通商を拡大するため、日本・朝鮮との国交を樹立することを目的に使節を派遣することを決めた。1846年(弘化3年)閏5月27日、東インド艦隊司令長官ビッドルは2隻の軍艦を率いて江戸湾に入った。浦賀奉行の下役との交渉で、日本政府(幕府)は貿易のため開港する用意がないことを確かめて6月7日に退去した。",
"title": "沿革"
},
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"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "こうしたなか、薩摩藩や長州藩など「雄藩」と呼ばれる有力藩では財政改革に成功し、幕末期の政局で強い発言力を持つことになった。",
"title": "沿革"
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"text": "経済面では、地主や問屋商人の中には工場を設けて分業や協業によって工場制手工業生産を行うマニュファクチュアが天保期には現れている。マニュファクチュア生産は、大坂周辺や尾張の綿織物業、桐生・足利・結城など北関東地方の絹織物業などで行われた。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 34,
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"text": "1853年(嘉永6年)、長崎の出島への折衝のみを前提としてきた幕府のこれまでの方針に反して、江戸湾の目と鼻の先である浦賀に黒船で強行上陸したアメリカ合衆国のマシュー・ペリーと交渉した幕府は、翌年の来航時には江戸湾への強行突入の構えを見せたペリー艦隊の威力に屈し、日米和親条約を締結、その後、米国の例に倣って高圧的に接触してきた西欧諸国ともうやむやのうちに同様の条約を締結、事実上「開国」しなければならないこととなった。同年6月22日、12代将軍・家慶が「今後の政治は徳川斉昭と阿部正弘に委ねる」と言い残して61歳で亡くなった。同年7月1日、幕府、国書を諸大名に示し意見を問い、3日にはお目見え以上の幕吏にも意見を問うた。260年間「知らしむべからず、由らしむべし」を大法則としてきた幕府にとっては大方向転換であった。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "開国後は日本のどの沿岸・海岸に外国船が来航するかも知れない事態となり、1853年(嘉永6年)8月から江戸湾のお台場建設を始めた。そして、同年9月15日、幕府は、大型船建造を許可することになった。さらにオランダに軍艦・鉄砲・兵書などを注文した。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "その後、さらに1858年(安政5年)4月、井伊直弼が大老に就任する。米・蘭・露・英・仏の5か国と修好通商条約と貿易章程、いわゆる安政五カ国条約(不平等条約)を締結し、日本の経済は大打撃を受けた。8月、外国奉行を設置する。同月孝明天皇条約締結に不満の勅諚(戊午の密勅)を水戸藩などに下す。また、幕府にも下す。この年の7月に13代・家定が没し、10月25日に14代・家茂が征夷大将軍・内大臣に任ぜられる。翌年6月から横浜・長崎・箱館の3港で露・仏・英・蘭・米5か国との自由貿易が始まった。取引は、日本内地での活動が条約で禁止されていたため、外国人が居住・営業を認められていた居留地で行われた。輸出の中心は生糸・茶であった。輸出の増大は国内の物資の不足を招き、価格を高騰させた。他方、機械性の大工業で生産された安価な欧米の綿織物や毛織物などが流入してきた。横浜港で輸出が94.5パーセント、輸出が86.8パーセント行われ、相手国では英が88.2パーセント、仏が9.6パーセント、ついで米、蘭への輸出であり、輸入では英が88.7パーセントを占め次いで蘭、仏、米、プロシア、露へであり、輸出入とも英との取引が主であった。また、国内の銀価格に対する金価格が欧米より低かったため、おびただしい量の金貨が海外へ流失した。こうして開港による経済的変動は下層の農民や都市民の没落に拍車をかけていった。",
"title": "沿革"
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"tag": "p",
"text": "下級武士や知識人階級を中心に、「鎖国は日本開闢以来の祖法」であるという説に反したとされ、その外交政策に猛烈に反発する世論が沸き起こり、「攘夷」運動として朝野を圧した。世論が沸き起こること自体、幕藩体制が堅牢なころには起こり得ないことであったが、この「世論」の精神的支柱として、京都の天皇=帝(みかど)の存在がクローズアップされる。このため永い間、幕府の方針もあり、政治的には静かな都として過ごしてきた京都がにわかに騒然となっていき、有名な「幕末の騒乱」が巻き起こる。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 38,
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"text": "一時は大老・井伊直弼の強行弾圧路線(安政の大獄)もあり、不満「世論」も沈静化するかに思われたが、1860年(安政7年)3月3日の桜田門外の変後、将軍後継問題で幕府が揺れる間に事態は急速に変化する。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "これより先に1860年(安政7年)1月には勝海舟らが咸臨丸で米国に向かっている。1862年(文久2年)1月15日、老中・安藤信正が水戸浪士ら6人に襲われ負傷する坂下門外の変が起こっている。同年2月11日、将軍・家茂と和宮との婚儀が江戸城で盛大に挙行される。同年7月6日、幕府は徳川慶喜を将軍後見職とし、同月9日に松平慶永を政事総裁職、閏8月1日に松平容保を京都守護職に就ける。先の7月には諸藩の艦船購入を許している。一方、開国で開市・開港が続くなかで、浪士などにより1861年(文久元年)と翌年に、第1次・2次の東禅寺事件が起こっている。薩摩藩では、島津斉彬が没したあと、後を継いだ藩主島津忠義の父である島津久光が長州藩を牽制すべく公武合体運動を展開し、同年4月藩内の攘夷派を粛清(寺田屋騒動)し、幕府に改革を要求した(文久の改革)。1862年(文久2年)、島津久光は江戸から薩摩への帰路、生麦事件を引き起こし、翌年薩英戦争で攘夷の無謀さを悟ることになる。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1862年(文久2年)閏8月、幕府参勤交代制度を緩和し、3年目ごとに1回、100日限りの在府とし、自国警衛を強化させることを目的とした。同年9月7日、明年2月をもって将軍上洛する旨が公布された。公武合体の強化策である。同年12月、幕府は兵制度を制定した。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "尊皇攘夷派と公武合体派が藩政の主導権を争っていた長州藩では、尊王攘夷派が主導権を握るようになり、京都公家と結託し幕府に攘夷の実行を迫った。その結果、幕府は1863年(文久3年)5月10日を攘夷実行の日とすることを約束した。長州藩では下関海峡を通る外国船を砲撃した。ところが長州藩では、外国船砲撃の翌日、井上聞多・野村弥吉・遠藤謹助・伊藤俊輔・山尾庸三らを英艦キロセッキ号で、12日に横浜からイギリスに向けて出港させている。この計画の指導者は周布政之助で、攘夷のあとには各国との交流・交易の日が必然的にやってくることを見越し、西洋事情に通じておかねば日本の一大不利益と考えて、彼らを渡航させたのである。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "これらの攘夷実行に対して、京都では会津・薩摩藩らの勢力によって1863年(文久3年)8月18日、尊王攘夷派の公卿を京都から排除した。八月十八日の政変である。翌日、三条実美らの七卿落ち。長州藩主・毛利慶親の世子・定弘が都落ちした三条実美たちを擁して上京してくると言う風評が京都では広まっていた。その目的は中川宮・五摂家筆頭の近衛家・会津藩・薩摩藩などの排除であった。1864年(元治元年)6月5日、新撰組が池田屋を襲撃した。6月24日、久坂玄瑞が藩兵を率いて天王山に陣取り、27日には来島又兵衛率いる藩兵が天龍寺に入った。7月19日、長州藩は京都諸門で幕軍(薩摩藩・会津藩・桑名藩)と交戦する(禁門の変)。同年11月、長州藩は禁門の変責任者3家老に自刃を命令する。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "禁門の変を理由に幕府は、第一次長州征伐(7月24日)を決行。同時期に英米仏蘭4か国艦隊の反撃に遭い、上陸され砲台を占拠された(四国艦隊下関砲撃事件)(8月5日)。同14日、長州藩は4国艦隊と講和5条件を結ぶ。その後、高杉晋作、木戸孝允らが藩政を掌握した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "禁門の変での長州朝敵化に幕府の権威回復と錯覚し、1864年(元治元年)9月1日、参勤交代の制を1862年の改正(閏8月22日3年に1回出府などに緩和)以前に戻す。9月11日、大坂の宿舎で、西郷と勝が会合した。西郷は、勝から「共和政治」(雄藩諸侯の合議制による連合政権)について聞き、感心する。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1865年(元治2年)5月16日、将軍江戸を出立し、閏5月22日に入京・参内、同25日大坂城に入城した。同年9月15日、将軍は大阪を発ち同月16日入京し、長州追討の勅許を奏請した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "このような情勢下、1866年(慶応2年)1月21日、薩摩、長州ら政争を繰り返していた西国雄藩は坂本龍馬、中岡慎太郎の周旋により、西郷と桂との間で口頭の抗幕同盟が密約(薩長同盟)された。1866年(慶応2年)6月7日、幕府は第二次長州征伐を決行するが、高杉晋作の組織した奇兵隊などの士庶民混成軍の活躍に阻まれ、また、総指揮者である将軍・徳川家茂が7月20日に大坂城で病没するなどもあり、8月21日、将軍死去のため征長停止の沙汰書が出され、9月2日に幕長休戦を協定する。12月25日、天皇が疱瘡のため36歳で没する。諡(おくりな)を孝明天皇と定められた。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "折から幕法に反して京都に藩邸を置く諸大名を制御できず、京都の治安維持さえ独力でおぼつかない江戸幕府と、幕藩体制の根幹である「武士」の武力に対する信頼とその権威は、この敗北によって急速になくなっていった。薩長は、土佐藩、肥前藩をも巻き込み、開国以来の違勅条約に対する反対論と外国人排撃を主張、実行に移そうとする「攘夷」を、国学の進展などにより江戸時代後期から広がっていた国家元首問題としての尊王論とを結びつけ、「尊王攘夷」を旗頭に「倒幕」の世論を形成していった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "14代将軍・家茂が没してから約4か月後の1866年(慶応2年)12月5日、将軍宣下式が挙行され、慶喜が15代将軍となった。この期間を「将軍空位期」と呼ぶ。慶喜は、早速幕府人事の改革に取り組み、若年寄りや老中などの幕閣を責任分担する制度に改めた。また、仏国駐日公使ロッシュの助言を参照し幕軍体制の近代化、外交権の掌握などを行った。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "一方、国内状況では、この年(1866年(慶応2年))、全国的に農民一揆・打ちこわしなど未曾有に多発・激化した。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1867年(慶応3年)1月9日、明治天皇が践祚した。親長州派・中山忠能の外祖父である中山忠能は、禁門の変後に出仕・他人面会を禁じられた。この関係だけで否処罰公家たちの復権が行われたわけではない。1867年(慶応3年)1月15日に有栖川幟仁親王と元関白九条尚忠、同月25日に有栖川熾仁(たるひと)親王と中山忠能が宥免された。5月21日、薩摩の西郷と長州の桂との間で、「倒幕」の密約が交わされた。6月、坂本龍馬が、今後の政体構想の基本となる案を考え出した。これは、のちに船中八策と言われるものである。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "同年8月、東海地方に伊勢神宮のお札が降ったことから喜んだ民衆は仮装してええじゃないかと謳いながら乱舞した。これは、夏から秋にかけて、近畿・四国から関東に及ぶ広範囲な地域に波及した。このさなかの1867年11月9日(慶応3年10月14日)に、15代将軍・徳川慶喜は起死回生の策として大政奉還を上奏し、15日、勅許の沙汰書を得る。そして24日、将軍職を辞した。武力によって完全に江戸幕府を倒そうとしていた倒幕勢力は攻撃の名目を一時的に失ったため、先手を取られた形となったが、薩長をはじめとする倒幕派は大政奉還の同日に倒幕の密勅を獲得するなど、あくまで幕府を滅亡させる姿勢を崩さなかった。1868年1月3日(慶応3年12月9日)には岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通と結んで王政復古の大号令が発せられ、摂関・将軍を廃し三職が設置される太政官制度が発足した。この日の小御所会議で慶喜に対して内大臣の辞職と領土の一部献上が命令され、新政府と旧幕府の対立は明らかとなり、この号令のもとに、徳川幕府討伐が進んでいった。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "慶応4年1月3、4日の鳥羽・伏見の戦いを機に戊辰戦争が勃発。そして、1868年5月3日(慶応4年/明治元年4月11日)、勝海舟と西郷隆盛の交渉の結果、江戸城が新政府軍に明け渡され、慶喜は水戸に蟄居したことにより、江戸幕府は名実ともに消滅した。慶応4年1月15日、3職7科の制を定める。3月14日、五か条の誓文、「宸翰」、同15日、五榜の提示など新政府の施策が次々に実施されていった。1868年(明治元年)9月8日、一世一元の制を定められたうえで、明治と改元された。以降は明治時代と呼ばれる。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "江戸幕府が崩壊したあとも、一部の幕府残存兵や親幕府大名が関東地方および東北地方(5月3日奥羽越列藩同盟成立)などで抵抗したが、1869年5月17日の五稜郭の陥落により(箱館戦争)、戊辰戦争は終結。これによって7世紀以上にわたって続いた武士の時代が名実ともに終了した。武士は華族や士族といった称号を獲得したものの、特権や禄を失い、反乱もすべて失敗したことにより、一般の国民に吸収されていった。",
"title": "沿革"
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{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "江戸時代の統治体制は幕藩体制(幕藩制)と呼ばれ、将軍家(幕府)のもとに、大名家(藩)、旗本・御家人が服属する体制である。直轄地は幕領・天領と呼ばれ、重要地点には城代・所司代・町奉行・遠国奉行などが派遣、その他の幕領にも郡代・代官が置かれ、支配に当たった。",
"title": "政治制度"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "江戸時代は征夷大将軍徳川氏を中心として、武士階級が支配していた封建社会であった。おもな身分制度は、支配階層の武士と被支配階層である百姓・町人の以上3つの身分を基礎としていた。それまで武士と農民は分離していなかったが、豊臣秀吉の刀狩りと武士は城下・町人は町屋・農民は村落と住居が固定されるなどにより、武士階級と農民が明確に分離された(兵農分離)。しかし江戸時代の各階層にある程度の流動性も見られる。特に江戸には飢饉などにより地方から流入してきた農民も多く、幕府はしばしば帰農令を出している。また、全国の諸藩には、郷士と呼ばれる自活する武士も存在した。彼らは城下に住み藩主から俸禄をもらっていた武士である藩士とは明確に区別され、また一段下の身分として差別されることもあった。幕末に活躍した人々には、勤王方、幕府方を問わず、下級藩士・郷士・町人など軽輩階層出身者であった者が多い。",
"title": "政治制度"
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"paragraph_id": 56,
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"text": "幕府と朝廷の関係については諸説ある。関白・太政大臣を務めた豊臣秀吉と同様、徳川家康も征夷大将軍に就任、外戚関係を結ぶことで朝廷の権威を利用した。戦国時代以来、領国の一円的領域支配を行った公権力を公儀と言い、特に天皇の権威と一体化して全国支配を達成した徳川幕府を指す。幕府は禁中並公家諸法度の制定、紫衣事件などを通じて朝廷支配を強めていった。新井白石は『読史余論』で江戸幕府成立を朱子学に基づき革命と捉え、幕府の正当性を主張した。本居宣長や松平定信は大政委任論を唱えたが、それは幕府権力を肯定する立場に立ったものだった(松平定信は尊号一件で朝廷と対立した)。宝暦事件の竹内式部や、明和事件の山県大弐、霊元天皇など、朝廷の権力を取り戻そうとするものもいた。『大日本史』編纂の過程で成立した水戸学や吉田松陰などの思想家は天皇による支配の正統性を説き、倒幕運動・明治維新の志士に学ばれた。",
"title": "政治制度"
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"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "幕府は江戸、大坂、京都に町奉行・所司代を置き重視したが、そのほか伊豆・日田・長崎・新潟・飛騨や重要な鉱山に代官を配置し支配した。これらの支配力は単に一都市に限らず、京都所司代は山城・丹波・近江など、大坂町奉行は西日本諸国の天領の采配がそれぞれ許されるなど、管轄地の諸大名を監察する役目もあった(京都所司代は朝廷も監視していた)。ただし、彼らの用いる兵力はほとんどなく、18世紀初頭の長崎奉行は10数人、幕末の五条代官所でも30人しかいなかった。",
"title": "政治制度"
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"paragraph_id": 58,
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"text": "幕府は政治力と経済力を分け隔てている。幕閣となりうる譜代大名には、そのほとんどが5万石から10万石程度の低い石高しか充てられなかったのに対し、幕政に関与することを決して許さなかった外様大名の多くには数十万石の大封と国持大名の格式が与えられた。しかもその幕閣ですら、大老の特例を除き、定員4 - 5名の老中が重要案件は合議で、日常案件は月番制で決裁を行うという権力の分散が比較的早い時期に図られている。これは室町幕府において三管領の一家であり、かつ複数の大国の守護を兼ねた細川氏が、やがては管領職を独占するほどの世襲権力となって足利将軍家をも圧倒するようになったことに対する反省である。",
"title": "政治制度"
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"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "江戸幕府より統治の許可を得た諸大名が、原則的には一代に限り土地統治を認められた封建体制である。領土の支配体制は各大名の規模によってかなり異なるが、ほぼ幕府の支配機構体制に準ずる形をとった。身分制についても同様である。ただ、大名は支配土地を自由自在に支配できたわけではなく、幕府からは大目付が発する監察使にその行政を監視規制されていた。このため武家諸法度違反で相当数の大名が改易・減封処分を受けたが、この処罰は親藩・譜代・外様の別なく行われた。",
"title": "政治制度"
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"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "大名には幕府によりその格式に定められた参勤交代と御手伝いの義務が課せられた。これが大名貧困化の大きな原因となった。これを打開するために藩政改革が18 - 19世紀にかけて各藩で実施される(早いところでは土佐藩が17世紀半ばに行った)。初期は倹約と藩札発布が主であったが、18世紀中盤になると塩・陶器などの土地産物の専売制がかなりの藩で実施される。変わったところでは、紀州藩の「熊野三山寄付貸付」があり、大名自らが金融業者になり利子を取るということまでしている。また、仙台藩が大坂の升屋の番頭である山片蟠桃に藩財政を総覧させたように、財政を商人に任せるような藩も出てきた。",
"title": "政治制度"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "一部の国持大名の藩を除いて、藩の領地は中心城と城下町周辺と、その他は少し離れた飛び地を持っていた(相給)。この傾向は特に10万石前後の譜代大名に多く見られる。京都付近の淀藩は、山城など近畿のほか遠く上総まで所領を持っていた。",
"title": "政治制度"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "大名の支配方法としては、戦時の軍役が参勤交代と天下普請への参加義務という形で残されたほか、有力大名には将軍の子女を養子や嫁として送り込むことにより身内化するという、事実上のお家乗っ取りに近い手段までが講じられた。",
"title": "政治制度"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "なお、一部の例外を除いて、各藩は藩士への知行体制を18世紀初頭までに地方知行制(藩主が領地の一部を藩士に与え、そこから上がる年貢収入はその藩士のものとすることを許す)から俸禄制(藩主の領地から上がる年貢収入はいったんすべて藩の蔵に入れ、そこから藩士に蔵米を年俸として支給する)へと変遷させている。",
"title": "政治制度"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "江戸時代初期、各藩は隣接する藩との間で境界争いが盛んとなった。有名なところでは久保田藩と盛岡藩が干戈を交えるところまで発展した鹿角領争いであるが、これ以外にも仙台藩と相馬中村藩、萩藩と徳山藩などがある。これらは中期ごろまでにおおむね解決し、このとき決定した境界は現在にも引き継がれている。",
"title": "政治制度"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "幕府・大名の拠点のある城を中心とした町(城下町)のほかは基本的に農村と考えられていた。このため港の利益や鉱山の鉱物なども収入を米に換算していた。大名たちは上納金を貢いでくれる城下町が栄えることは、自らの発展と同義と考え保護政策を行った。",
"title": "政治制度"
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{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "しかし江戸時代中期に入り、港町や宿場町などの発展、換金性の高い綿が栽培され始めるなど農村部に資本主義が流入され、また大名への献金が過重になり過ぎて商家の一部が潰れるなど、城下町の衰退が目立つようになった。この農民の商売熱を冷まそうと幕府は田畑永代売買禁止令や帰農令などを発布するも効果がなかった。",
"title": "政治制度"
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{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "農村では名主、庄屋が幕府・大名と農村の橋渡しとして存在し、原則的に武士は農村にいなかったとされる(地方知行制を温存した仙台藩など例外はある)。この名主、庄屋は昔から土地を所有している有力農民や土着した武士の末裔などがなる場合が多く、苗字帯刀あるいは諸役御免の特権を持つ者や郷士に列せられる者も多かった。また大きな村では複数名の名主、庄屋が寄合を開いて村を治めた。彼らは、年貢を滞りなく収めるようにするだけでなく、施政者の命令を下達する役目もあった。諸藩により違いはあるものの、百姓が困っている場合には彼らを代表して施政者に伝え、一揆の際には農村側に立って先導するような百姓側の代表としての意識の強いものと、支配機構の末端を担う下級官吏の面が強く一揆などの際に標的となる場合もあった。困窮した零細農民の土地を集積するなど地主的な側面の強くなる近世後期には後者の面を持つものが多くなった。",
"title": "政治制度"
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{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "読み書きを中心とした寺子屋や私塾、農村部における郷学(郷校)が設置され、日本人の識字率は高かった。また岡山藩の閑谷学校を嚆矢として、あちこちの藩・旗本が郷民でも入校できる学校を作った。このようなことが最上徳内や間宮林蔵などの農村出身者の活躍に一役買っているといえる。",
"title": "政治制度"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "幕府により大名の大幅な配置換えが実施された江戸時代は、同時に日本中で活発な文化交流が行われた時代でもあった。たとえば、三河の水野氏が備後福山に立藩したため三河の言語が備後地域に流入し、福山地方の方言に三河方言が混ざっている。また、信濃を統治していた仙石氏が但馬出石に転封した際、信濃の蕎麦を出石に持ち込んだため、出石そばが発祥した。このような物の交流は各地で起こっているが、これが現在の名産物になっている地域も多い。",
"title": "政治制度"
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"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "江戸時代には遠方の寺社への巡礼、参拝が盛んになった。これは多分に娯楽的な意味を持ち、民衆が旅行するようになった起源とも言われる。中には旅行代理業者や案内業も現れ、寺社の側に歓楽街ができたところもある。また、現在の旅行ガイドブックのような案内書も刊行されている。この遠方への巡礼の背景には、五街道や宿場町の整備、治安の良化などのインフラが整ったことがある。これらの代表的なものには、西国三十三所や四国八十八箇所巡礼などがある。また、江戸時代末期には、天理教や金光教などの神道系の新宗教が現れている。",
"title": "社会"
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"paragraph_id": 71,
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"text": "身分制度は大きく分けると、武士などの支配階級と、被支配階級である町人・百姓・水呑・借家人などがあったが、有力な町人や百姓が武士の株を買い取ることもあるなど、身分間にはある程度の流動性もあった。これらのほか、公家、検校、役者、神官、長吏、穢多、非人などさまざまな階級があったが、別々の地域で同じ名前で呼ばれる階級が事実上別の実態を持っていたり、ある地域では別の階級とみなされている階級がほかの地域では同一視されているなど、地域・時期により錯綜した状況を呈する。被差別階級とされる長吏、穢多、非人などは皮革の製造加工、死刑執行人・牛馬の死体の掃除など人の嫌がる仕事を割り当てられ、ほかの階級から差別されたが、それらの職種を独占したために経済的にはある程度安定していた。のちに明治維新で行われた四民平等政策により、制度的差別は廃止され彼らは平民となるが、それにより死牛馬取得権などの特権を失いかえって困窮する者が多く出た。民間では社会的な差別は依然として残り、近現代の部落解放運動につながった(部落問題)。",
"title": "社会"
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"text": "江戸時代もまた数々の大災害に見舞われた時代であった。幕府による災害復旧の御普請はほぼ天領に限られ、各大名領に対する救恤は多くが貸付金という形であった。",
"title": "社会"
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"text": "中でも18世紀初頭の元禄から宝永期は巨大災害が立て続けに起こり、富士山の宝永噴火後の1708年には高100石に付金2両を徴収する「諸国高役金令」を出し、幕府始まって以来の全国的課税となった。領地からの収入増を目的として元禄ごろまで盛んに行われてきた新田開発は、宝永津波をきっかけに転換を迫られることとなり、以後の開発面積は激減することになる。慶長期から増加し続けてきた人口はその後停滞期に入り、享保の大飢饉および天明の大飢饉頃は減少局面も見られ、幕末までほとんど人口は増加しなかった。",
"title": "社会"
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"text": "江戸時代は経済的には目まぐるしい発展を遂げ、その資本の蓄積は、明治維新以降の経済発展の原動力となる。",
"title": "経済"
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"text": "各地の諸大名は、江戸藩邸や参勤交代の費用を捻出するために自藩産出の米や魚農産物を大阪で売ったため、大阪は諸大名の蔵屋敷が置かれ、全国の特産品が並び、活況を呈した。また、参勤交代やお手伝い普請で多くの諸大名が街道筋の宿屋・旅籠に泊まったため、経済の流通が活発化したのである。江戸幕府は株仲間を結成させて特定商人の独占を認めることで商業統制を行おうとした。しかし、実際には江戸時代も後期に入ると、都市・地方ともに新興商人の台頭が始まり、活発な展開を見せるようになる。幕府はこうした経済発展の動きに十分な対応が取れず、物価変動による社会的混乱を鎮められずに幕府が動揺する一因となった。",
"title": "経済"
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"text": "アンガス・マディソンによれば、1820年(享保年間)時点のGDPは、アメリカを1とした場合、日本はその1.75倍、オランダは0.3倍、イギリスは2.8倍であり、1850年になり、アメリカが日本の2倍近くに達する。江戸期における1人あたりの生産量は、0.15パーセントである。",
"title": "経済"
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"text": "対外政策としては幕府は海禁(いわゆる鎖国)政策を布いていた。しかし、将軍代替りの際に来府した朝鮮通信使によって清国の動向を、またやはりたびたび来府したオランダ商館長によって欧州の動向を、ある程度においては把握していたといわれている(オランダ風説書)。たとえば天保の改革を行った老中・水野忠邦は、清国でアヘン戦争が起こると、ただちに異国船打払令を撤回させているが、これも英国をはじめとした西洋列強の清国に対する外交姿勢を把握していたからこその対処だった。なお、長崎鳴滝に西洋医術の塾(鳴滝塾)を開いたシーボルトのもとには多数の日本人が修学しており、限られた範囲で西洋人と日本人との交流は行われていた。",
"title": "経済"
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"text": "江戸幕府は、大量に蓄積された金銀を原資に貨幣制度の改革を行った。幕府創立前の1601年(慶長6年)に金座(小判座)および銀座を設立し、慶長金銀の鋳造を命じた。慶長から寛永期頃までは各地の金山および銀山の産出が世界有数の規模であり、5代将軍・徳川綱吉のころまでは江戸城御金蔵の金銀の蓄えも潤沢であった。そして輸入品であった永楽銭などに代わり、1636年(寛永13年)、銭座を設けて寛永通宝などの国内貨幣を鋳造し、流通させた。",
"title": "経済"
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"text": "しかしながら、高額貨幣は、東日本は金貨(小判)が、西日本は銀貨(丁銀)が流通の基本となっており、その相場も日々変動したため、両替商などの金融業が発達した。また大量の貨幣を運ぶのを避けるため、手形取引も発達した。また、1620年(元和6年)ごろから世界に先駆けて大坂(大阪)の堂島において先物取引が行われていた。経済が発展するとともに大量の物資輸送の必要が出たため、弁才船による日本沿海を周回する物資流通が大きく発達した。",
"title": "経済"
},
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"paragraph_id": 80,
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"text": "また寛永期を過ぎると、金銀の産出に陰りが見え始めたのに対し、人口が次第に増加し経済が発展して幕府の支出が増大したため財政難に陥るようになり、金銀の備蓄も底が見え始め、1695年(元禄8年)の元禄金銀の発行を発端に、出目獲得および通貨拡大のため品位を低下させる改鋳が行われるようになる。",
"title": "経済"
},
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"text": "1772年(安永元年)の南鐐二朱銀発行以降、次第に両を基軸とする、分、朱の単位を持つ計数銀貨が増加し始め、1837年(天保8年)の一分銀発行に至って、丁銀のような秤量銀貨を凌駕するようになり、銀貨は小判の通貨体系に組み込まれることになった。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 82,
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"text": "幕府は元禄期以降、金銀貨の比率を変更する貨幣改鋳をたびたび行っている。これは幕府の財政を改善させることを主目的とする政策であり、米価を調整することや、貨幣の中に含まれる金を減らし、貨幣の発行量を多くすることによって貨幣発行益を上げることで財政改善を行おうというものであったが、一方でこの政策には市場の通貨量を増加させる目的や、金銀相場の内外調整という目的もあった。徳川綱吉時代の元禄改鋳はリフレ効果をもたらして景気を改善したが、宝永の改鋳では米価が83パーセントも上昇するなど急激なインフレを招いた。新井白石主導による正徳の改鋳は通貨流通量が減少してデフレを招いた。このあと徳川吉宗によって行われた元文改鋳は、デフレ対策を目的として行われ、米価を80年間にわたって安定させることとなった。徳川家斉時代には幕府財政が困窮したために大規模な改鋳が行われ、貨幣の流通量が40パーセント増大した。またこの文政改鋳と、水野忠邦主導による天保の改鋳は、金銀貨を額面通り交換したため、幕府は大きな収益を得ることになった。この結果、幕府の貨幣支出が増大し、元文期よりはゆるやかであるが、経済に刺激を与えるインフレーションをもたらしたと評価する説(新保博)もある。開国後には内外の金銀価格差を調整するために安政・万延の改鋳が行われたが、これはさらに名目的な貨幣流通量増大をもたらし、経済は劇的なインフレーションに見舞われることとなった。",
"title": "経済"
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"paragraph_id": 83,
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"text": "徳川家康は武士の支配構造の基本として、士分の収入を米に依存していた。そのため、幕府の経済政策の主力は米相場を安定させることが中心になった。しかしながら、収入を増やすために米の生産量を増やすと米価が下がるというようになかなか思うようにはいかず、また武士階級を困窮させることになり、幾度も倹約令や徳政令が出されることになる。こうした要因によって商人たちが経済の主導権を握るようになった。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 84,
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"text": "18世紀に入ると日本は飢饉が頻発するようになり、天保の大飢饉になると藩によっては収穫ゼロ(津軽藩など)のところも出てくるようになる。これを見て田沼意次は重商主義政策を取り入れようとしたが、反対勢力によって失敗に終わっている。また財政を改善させることを主目的とする、貨幣改鋳をたびたび行っている。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "儒教は日本においてはむしろ儒学として発展し、江戸時代初期から中期にかけて朱子学や陽明学が盛んになった。",
"title": "宗教"
},
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"paragraph_id": 86,
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"text": "仏教は、旗本出身である鈴木正三や独力で大蔵経を刊行した鉄眼道光、サンスクリット研究、戒律復興を提唱した慈雲、臨済宗中興の祖と称される白隠などの優れた僧侶がいなかったわけではなかったが、幕府の宗教政策の一環として民衆支配の方策として用いられたために(檀家制度)、一概に不振だった。仏教内部も腐敗し、いわゆる「葬式仏教」が成立したのもこの時期で、形骸化した仏教は神道、儒教の両派から批判された。織田政権や江戸幕府より邪宗とされた日蓮宗不受不施派は徹底的に弾圧された。",
"title": "宗教"
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"paragraph_id": 87,
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"text": "神道では、幕府や諸藩の儒教奨励にともなって神道と儒教が習合した神儒一致の垂加神道などの儒教神道が現れた。次いで国学の隆盛にともない儒仏を廃した復古神道が唱えられ、一部では神仏分離が始まった。復古神道は儒教や仏教の教えを排除したが、一方では、垂加神道や復古神道は幕末の尊王思想にも影響を与え、明治期の政策にも影響を与えた。明治維新で朝廷権力が復活したために、各地で勤皇の神社が建立され(湊川神社もこのころ)、天皇陵が各地で定められた。",
"title": "宗教"
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"paragraph_id": 88,
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"text": "豊臣秀吉によるバテレン追放令の流れを受け、耶蘇教と呼ばれたキリスト教は江戸時代のほとんどを通じて徹底した取り締まりを受けた。",
"title": "宗教"
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"paragraph_id": 89,
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"text": "江戸時代初期は交易国であったイギリスやポルトガルなどからもキリスト教が伝えられたため、禁止令も徹底されなかった。しかし鎖国政策を強めるにつれてキリスト教の弾圧が強化された。",
"title": "宗教"
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{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "江戸時代には、戦乱が静まり社会が安定し平和になったことと経済活動が活発になったことにより、人々の言論活動も活発になり、多様な学問が開花した。また経済の発展による庶民の台頭は、学問の担い手を生むこととなった。江戸時代の学問の特徴としては、研究者個人の直感的・連想的な思考を軸とする中世的な発想で研究を進めるのではなく、文献などに基づき実証的に研究するという態度が現れたことが挙げられる。また一部には身分制度を否定したりする思想が現れた。このように、中世を離れ近代に近い時期として、江戸時代は歴史の上で近世と定義されている。",
"title": "学問・思想"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "江戸時代中期になると、藩政改革の一環としての藩校開学が各地で行われるようになる。基本的には藩士の子弟に朱子学や剣術を奨励・徹底するものだが、一部には医術や西洋技術を講義し、さらに庶民までも受講対象となるところもあった。庶民レベルでは、僧侶ら知識階級が庶民らの子どもを集めて基本的な読み書きを教えた。この寺子屋が増えていったことで日本の識字率が高まっていき、幕末から明治にかけての近代化を支える原動力となった。また、京都や大坂などの大きな町では江戸時代初期から伊藤仁斎が古義堂を開くなど、私塾を構えるところもあったが、江戸中期から郷村で村塾といわれる私塾が出てきた。",
"title": "学問・思想"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "和辻哲郎は、「慶長から元禄へかけて、すなわち十七世紀の間は、前代の余勢でまだ剛宕な精神や冒険的な精神が残っているが、その後は目に見えて日本人の創造活動が萎縮してくる」、「中江藤樹、熊沢蕃山、山鹿素行、伊藤仁斎、やや遅れて新井白石、荻生徂徠などの示しているところを見れば、それはむしろ非常に優秀である。これらの学者がもし広い眼界の中で自由にのびのびとした教養を受けることができたのであったら、十七世紀の日本の思想界は、十分ヨーロッパのそれに伍することができたであろう。それを思うと、林羅山などが文教の権を握ったということは、何とも名状のしようのない不愉快なことである」と評している。",
"title": "学問・思想"
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"text": "儒学",
"title": "学問・思想"
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{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "論語をはじめとする儒教経典は古代から仏教経典とともに日本に伝来しており、室町時代には五山の僧により読まれていた。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、姜沆らの朱子学者が連れ帰られたこと、また、徳川家康が論語を愛し、藤原惺窩とその弟子林羅山を重用したことで朱子学の研究が本格化した。幕府は昌平坂学問所を徳川家私設の学問所として設立した。民間では「近江聖人」と呼ばれた中江藤樹や、朱子の「祖述」を旨とした山崎闇斎の学派が存在し、民間にも朱子学は伝わっていった。へルマン・オームスは朱子学と神道を統合した闇斎学派によって「徳川イデオロギー」が完成したとする。松平定信は寛政異学の禁で昌平坂学問所での朱子学以外の講義を禁じ、大坂の町人学問所である懐徳堂を公認した。陽明学は中江藤樹の弟子である熊沢蕃山が学んでいたほか、大塩平八郎や吉田松陰ら幕末の志士にも学ばれた。",
"title": "学問・思想"
},
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"text": "朱子学が勢いづくに従ってその批判も起こった。山鹿素行は聖学と称して古学派の先駆者となり、貝原益軒は朱子学教説への懐疑を露にした。伊藤仁斎と伊藤東涯は朱子によらず経典が書かれた中国古代の字句の意味を明らかにする古義学を打ち立てた。荻生徂徠の古文辞学はこれらを大成するものであり、古代の聖人による「物」(事物、儀礼)に対する「名」(概念)の「制作」を論じ、政治的な復古主義を主張した。懐徳堂で学んだ富永仲基や山片蟠桃は儒教・仏教・神道全てを否定する無鬼論を主張した。",
"title": "学問・思想"
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{
"paragraph_id": 96,
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"text": "国学",
"title": "学問・思想"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "いくつかの地方では女性の平均的な結婚年齢は24歳で、男性は28歳だった。最初の子どもが生まれるのは結婚して3年というのが平均的だった。結婚した夫婦の半数は子ども2人以下で、あとの半数は1夫婦あたり4人から5人の出生数(養育数)だった。",
"title": "文化・芸術・風俗"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "1868年(慶応4年)生まれが96歳となる1960年代の時期の1964年(昭和39年頃)より江戸時代生まれの男性がゼロになった県が出ていた。100歳となる1968年(明治100周年記念式典の頃)より江戸時代生まれの人物が女性を含めてゼロになった県が出ていた。1968年9月時点では1868年9月以前の生まれの人口が山形県、栃木県、群馬県、埼玉県が1人で青森県、富山県、石川県、奈良県が2人であった。 1970年時点での江戸時代生まれの人物は100人台、うち男性は19人であった。1973年9月時点では江戸時代生まれの人物は10人、1975年時点では6人であった。 大政奉還以前生まれ最後の人物は1976年11月16日に死去した河本にわで、うち男性は1973年8月1日に死去した後藤長次郎(1866年7月4日生まれ、岐阜県)であった。 明治改元以前生まれ最後の人物は1977年5月27日に死去した中山イサで、うち男性は1976年1月2日に死去した吉川与三太郎であった。",
"title": "人物"
}
] | 江戸時代は、日本の歴史のうち江戸幕府(徳川幕府)の統治時代を指す時代区分である。他の呼称として徳川時代、徳川日本、旧幕時代、藩政時代(藩領のみ)などがある。 | {{日本の歴史|Mitsubaaoi.svg|180px|画像説明=徳川家の[[家紋]]「[[三葉葵]]」}}
'''江戸時代'''(えどじだい、{{旧字体|'''江戶時代'''}})は、[[日本の歴史]]のうち'''[[江戸幕府]]'''('''徳川幕府''')の[[統治]]時代を指す時代区分である。他の呼称として'''徳川時代'''、'''徳川日本'''<ref>{{Cite book|和書|title=文明としての徳川日本|year=2017|publisher=筑摩書房|author=芳賀徹}}</ref>、'''旧幕時代'''、'''藩政時代'''(藩領のみ)などがある。
==概要==
{{wide image|Edo Panorama old Tokyo color photochrom.jpg|1200px|[[1865年]]([[慶応]]元年)または[[1866年]](慶応2年)に[[フェリーチェ・ベアト]]が[[愛宕山 (港区)|愛宕山]]より撮影した江戸のパノラマ。人工着色した5枚の写真をつなげて制作された。}}
=== 時代区分 ===
日本史上の[[時代区分]]としては、[[安土・桃山時代]](または[[豊臣政権]]時代)と合わせて「'''[[日本近世史|近世]]'''」とされる。
江戸時代の期間は、一般的には[[1603年]][[3月24日]]([[慶長]]8年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]])に[[徳川家康]]が[[征夷大将軍]]に任命されて'''[[江戸]]'''(現在の[[東京]])に[[江戸幕府|幕府]]を樹立してから{{efn|始期については、[[豊臣秀吉]]が薨じた[[1598年]]([[慶長]]3年)や[[関ヶ原の戦い]]で徳川家康が勝利した[[1600年]][[10月21日]](慶長5年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]])、あるいは[[豊臣氏]]滅亡の[[1615年]]([[元和 (日本)|元和]]元年)を始まりとする見方もある{{要出典|date=2023年2月}}。}}、[[1868年]][[10月23日]]([[慶応]]4年/[[明治元年]][[9月8日 (旧暦)|9月8日]])の「[[一世一元の詔]]」の発布([[一世一元の制|一世一元]]への移行)に伴い、慶応から[[明治]]に[[改元]]されるまでの265年間である{{efn|終期については、[[黒船来航|ペリーが来航]]した[[1853年]]([[嘉永]]6年)や[[桜田門外の変]]があった[[1860年]]([[万延]]元年)、[[徳川慶喜]]が[[大政奉還]]を明治天皇に上奏した[[1867年]][[11月9日]](慶応3年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]])とする見方や、[[王政復古の大号令]]によって明治政府樹立を宣言した[[1868年]][[1月3日]](慶応3年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]])、[[江戸開城]]された[[1868年]][[5月3日]](慶応4年[[4月11日 (旧暦)|4月11日]])、あるいは[[廃藩置県]]が断行された[[1871年]](明治4年)とする見方も存在する<ref>{{Citation|和書|editor=蔵並省自|title=近世日本の展開|publisher=八千代出版|year=1977|pages=2-3}}</ref>。}}。
== 沿革 ==
=== 初期・前期(1603年 - 1690年ごろ) ===
[[ファイル:Tokugawa Ieyasu2 full.JPG|220px|right|thumb|[[徳川家康]]]]
{{関連記事|武断政治|文治政治}}
[[徳川家康]]は[[征夷大将軍]]に就くと、領地である江戸に幕府を開き、ここに[[江戸幕府]](徳川幕府)が誕生する。[[豊臣秀吉]]死後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、[[大坂の陣]](大坂の役)により[[豊臣氏]]勢力を一掃。その後の[[島原の乱]]も鎮圧することで、[[平安時代]]以降、700年近く続いた政局不安は終焉を迎えた。以後200年以上続く長期安定政権の基盤を確立し、「[[元和偃武]]」とよばれる平和状態が日本にもたらされた。
設立当初の幕府の運営体制は「庄屋仕立て」と評される、徳川家の家政を踏襲したものとなったが、[[寛永]]10年ごろに「[[老中]]」「[[若年寄]]」などの末期まで続く制度が確立した<ref>{{Cite journal|和書|author=大石慎三郎|authorlink=大石慎三郎|url=http://www.gakushuin.ac.jp/univ/eco/gakkai/pdf_files/keizai_ronsyuu/contents/1001/1001-17oishi.pdf|title=江戸幕府の行政機構|journal=学習院大学経済論集|volume=10巻|issue=1号|year=1973}}</ref>。かつて徳川家康と豊臣政権の同僚だった大名は、[[外様大名]]として扱われ、広大な領土を持つ者もいたが、関東や近畿地方などの要地からは遠ざけられ、従前の武家政権のように幕政に関与することはなくなった。徳川氏一門の[[親藩|親藩大名]]は大領を持ったが幕政には関与せず、[[関ヶ原の戦い]]以前から徳川家に仕えていた[[譜代大名]]・[[旗本]]によって幕政は運営された。[[武家諸法度]]によって大名は厳しく統制され、大大名も[[改易]]処分となり大領を失うことがしばしば発生した。[[京都]]・[[大坂]]・[[長崎市|長崎]]といった全国の要所は直轄領([[天領]])として大名を置かず、 幕府の役人が統治を行った。[[朝廷 (日本)|朝廷]]に対しては[[禁中並公家諸法度]]や[[京都所司代]]による統制が行われ、自立した対外行動をとることはできなくなった。
[[ファイル:KokyoTowerM1108.jpg|thumb|left|250px|[[皇居]](旧・[[江戸城]])富士見櫓、[[1659年]](万治2年)築造。]]
また、平和が招来されたことにより、大量の兵士(武士)が非生産的な軍事活動から行政的活動に転じ、広域的な[[新田開発]]が各地で行われたため、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]へと長い成長を続けていた経済は爆発的に発展し、高度成長時代が始まった。
[[ファイル:Dutch-Japanese trading pass 1609.jpg|250px|right|thumb|[[徳川家康]]の名で発行されたオランダとの通商許可証([[慶長]]14年[[旧暦7月25日|7月25日]]([[1609年]][[8月24日]])付)]]
また江戸時代には、対外的には長崎[[出島]]での[[中国]]([[明]]・[[清]])・[[オランダ]]との交流と[[対馬藩]]を介しての[[李氏朝鮮]]との交流以外は外国との交流を禁止する[[鎖国]]政策を採った(ただし、実際には薩摩に支配された[[琉球王国]]による対中国交易や[[渡島半島]]の[[蠣崎氏|松前氏]]による北方交易が存在した)。[[バテレン追放令]]は、すでに豊臣秀吉が発令していたが、鎖国の直接的契機となったのは[[島原の乱]]で、[[キリスト教]]と[[一揆]](中世の[[国人一揆]]と近世の[[百姓一揆]]の中間的な性格を持つもの)が結びついたことにより、その鎮圧が困難であったため、キリスト教の危険性が強く認識されたからであると言われる。またこの間、オランダが日本貿易を独占するため、[[スペイン]]などの[[カトリック教会|カトリック]]国に日本[[植民地化]]の意図があり、危険であると幕府に助言したことも影響している。中国では同様の政策を[[海禁政策]]と呼ぶが、中国の場合は主として沿海地域の[[倭寇]]をも含む海賊からの防衛および海上での密貿易を禁止することが目的とされており、日本の鎖国と事情が異なる面もあった。しかし、日本の鎖国も中国の海禁と同じとして、鎖国より海禁とする方が適当とする見解もある。鎖国政策が実施される以前には、日本人の海外進出は著しく、[[東南アジア]]に多くの[[日本町]]が形成された。また[[タイ王国|タイ]]に渡った[[山田長政]]のように、その国で重用される例も見られた。
しかし鎖国後は、もっぱら国内重視の政策がとられ、基本的に国内自給経済が形成された。そのため[[三都]]を中軸とする全国経済と各地の[[城下町]]を中心とする[[藩]]経済との複合的な経済システムが形成され、各地の特産物がおもに大坂に集中し([[天下の台所]]と呼ばれた)、そこから全国に拡散した。農業生産力の発展を基盤として、経済的な繁栄が見られたのが[[元禄]]時代であり、この時代には文学や絵画の面でも、[[井原西鶴]]の[[浮世草子]]、[[松尾芭蕉]]の[[俳諧]]、[[近松門左衛門]]の[[浄瑠璃]]、[[菱川師宣]]の[[浮世絵]]などが誕生していく。これらの文化は京、大坂をはじめとする関西地域から生まれた。また、この元禄期に花開いた文化は[[元禄文化]]と呼ばれる。
=== 中期(1690年ごろ - 1780年ごろ) ===
[[ファイル:えちご屋広告チラシ.JPG|thumb|right|130px|ゑちご屋チラシ]]
==== 元禄期~正徳期 ====
{{main|正徳の治}}
元禄時代の経済の急成長により、[[貨幣経済]]が農村にも浸透し、四木([[クワ|桑]]・[[漆]]・[[ヒノキ|檜]]・[[コウゾ|楮]])・三草([[ベニバナ|紅花]]・[[アイ (植物)|藍]]・[[アサ|麻]]または[[木綿]])など'''[[商品作物]]'''の栽培が進み、漁業では上方漁法が全国に広まり、[[瀬戸内海]]の沿岸では[[入浜式塩田]]が拓かれて[[塩]]の量産体制が整い各地に流通した。[[手工業]]では[[綿織物]]が発達し、伝統的な[[絹織物]]では高級品の[[西陣織]]が作られ、また、[[灘五郷]]や[[伊丹市|伊丹]]の[[酒造業]]、[[有田町|有田]]や[[瀬戸市|瀬戸]]の[[窯業]]も発展した。やがて、[[18世紀]]には農村工業として[[問屋制家内工業]]が各地に勃興した。
人と物の流れが活発になる中で、[[城下町]]・[[港町]]・[[宿場町]]・[[門前町]]・[[鳥居前町]]・鉱山町など、さまざまな性格の都市が各地に生まれた。その意味で江戸時代の日本は「都市の時代」であったという評価があり、「全世界の歴史を見渡してみても、日本の江戸時代ほど都市が計画的に、しかも大量に作られ、その新しく作った都市が社会構造の中で中心になった例は、ほかに見られない」とされている<ref>{{Cite book|和書|author1=林玲子|authorlink1=林玲子|author2=大石慎三郎|title=新書・江戸時代5 流通列島の誕生|series=[[講談社現代新書]]|year=1995|isbn=4-06-149261-6}}
</ref> 。18世紀初頭の[[京都市|京都]]と[[大阪市|大坂(大阪)]]はともに40万近い[[人口]]を抱えていた。同期の江戸は、人口100万人前後に達しており、日本最大の消費都市であるばかりでなく、世界最大の都市でもあった。当時の江戸と大坂を結ぶ[[東海道]]が、18世紀には世界で一番人通りの激しい道だったといわれている<ref>{{Cite book|和書|author1=佐藤誠三郎|authorlink1=佐藤誠三郎|author2=岡崎久彦|authorlink2=岡崎久彦|title=日本の失敗と成功—近代160年の教訓|publisher=[[扶桑社]]|year=2000|isbn=4-594-02917-5}}</ref>。
[[ファイル:Hiroshige le pont Nihonbashi à l'aube.jpg|250px|left|thumb|[[歌川広重]]『[[東海道五十三次]]』より「[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]」]]
このような経済の発展は、[[院内銀山]]などの鉱山開発が進んで[[金]]・[[銀]]・[[銅]]が大量に生産され、それと引き替えに日本国外の物資が大量に日本に入り込んだためでもあったが、18世紀に入ると減産、枯渇の傾向が見られるようになった。それに対応したのが、[[新井白石]]の[[海舶互市新例]](長崎新令)であった。彼は、幕府開設から元禄までの間、[[長崎貿易]]の決済のために、[[金貨]]国内通貨量のうちの4分の1、[[銀貨]]は4分の3が失われたとし、[[長崎奉行]][[大岡清相]]からの意見書を参考にして、この法令を出した。その骨子は輸入規制と商品の国産化推進であり、長崎に入る異国船の数と貿易額に制限を加えるものであった。清国船は年間30艘、交易額は銀6,000貫にまで、オランダ船は年間2隻、貿易額は3,000貫に制限され、従来は輸入品であった綿布、[[絹|生糸]]、[[砂糖]]、[[皮革|鹿皮]]、絹織物などの国産化を奨励した。
==== 徳川吉宗の幕政(享保の改革) ====
{{main|享保の改革}}
[[ファイル:Tokugawa Yoshimune.jpg|250px|right|thumb|[[徳川吉宗]]]]
8代将軍となった[[徳川吉宗]]は、[[紀州徳川家]]の出身であり、それまで幕政を主導してきた譜代大名に対して遠慮することなく大胆に、農本主義に立脚した政治改革を行った([[享保の改革]])。吉宗がもっとも心を砕いたのは米価の安定であった。貨幣経済の進展にともない、諸物価の基準であった米価は下落を続け(米価安の諸色高)、それを俸禄の単位としていた[[旗本]]・[[御家人]]の困窮が顕著なものとなったからである。そのため彼は[[倹約令]]で消費を抑える一方、[[新田]]開発による米の増産、[[定免法]]採用による収入の安定、[[上米令]]、[[堂島米会所]]の公認などを行った。「米将軍」と称された所以である。それ以外にも、財政支出を抑えながら有為な人材を登用する[[足高の制]]、漢訳洋書禁輸の緩和や[[サツマイモ|甘藷]]栽培の奨励、[[目安箱]]の設置などの改革を行った。幕府財政は一部で健全化し、[[1744年]](延享元年)には江戸時代を通じて最高の税収となったが、年貢税率の固定化や貢租の重課や厳重な取り立てとなり、また、行きすぎた倹約により百姓・町民からの不満を招き、折からの[[享保の大飢饉]](享保6年(信州浅間山噴火)、同7年、同17年)もあって、[[百姓一揆]]や[[打ちこわし]]が頻発した。それらに対し、享保6年(1721年)6月、「村民須知」、享保19年(1734年)8月、代官への御触書などによる法令で取り締まった。宝暦(1704 - 1710年)から享保(1716 - 1735年)までの間に40回ほどに及んだ(実際はもっと多い。平均して1年に約2回)<ref>丸山真男『丸山真男講義録 第一冊 日本政治思想史 1948 』 東京大学出版会、 1998年、 151ページ</ref>。このように、土地資本を基盤とする反面、土地所有者ではない支配者層という独自な立場に立たされた武士の生活の安定と、安定成長政策とは必ずしも上手く融合できずに、金融引き締め的な経済圧迫政策が打ち出されて不況が慢性化した。
なお、「[[朱子学]]は憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と朱子学批判を行った[[荻生徂徠]]が[[1726年]](享保11年)ごろに吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されており、これは日本思想史の中で政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち[[経世論]]が本格化する。一方、[[1724年]](享保9年)には大坂の豪商が朱子学を中心に[[儒学]]を学ぶ[[懐徳堂]]を設立して、のちに幕府官許の[[学問所]]として[[明治]]初年まで続いている。[[1730年]](享保15年)、[[石田梅岩]]は日本独自の道徳哲学[[石門心学|心学]](石門心学)を唱えた。[[享保]]年間は、このように、学問・思想の上でも新しい展開の見られた時代でもあった。
その一方で、超長期の政権安定、特に前半の百数十年は成長経済基調のもと、町人層が発展し、学問・文化・芸術・経済などさまざまな分野の活動が活発化し、現代にまで続く伝統を確立している。
==== 田沼意次の幕政(田沼時代) ====
{{main|田沼時代}}
[[ファイル:Tanuma Okitsugu2.jpg|250px|right|thumb|[[田沼意次]]]]
幕府財政は、享保の改革での[[年貢]]増徴策によって年貢収入は増加したが、[[宝暦]]年間([[1751年]] - [[1763年]])には頭打ちとなり、再び行き詰まりを見せた。農村では厳しい年貢収奪に苦しみ村で食っていけなくなった貧農は遊民化し江戸などの大都市に流れ込んで無宿者と化した。さらに拍車をかけたのが田沼時代を通して繰り返し引き起こされた天災飢餓の続出だった。
これらに対応すべく田沼意次らの田沼時代の幕臣達は倹約令や経費削減、大奥の縮小、拝借金の制限などの緊縮政策で財政赤字に対処しつつ、発展してきた商品生産・流通に新たな財源を見出し米以外からの税収の確立を試みた。商品生産・流通を掌握し、物価を引き下げるため手工業者の仲間組織を[[株仲間]]として公認・奨励して、そこに[[運上]]・[[冥加]]などを課税した。[[専売制]]実施の足がかりとして、[[座]]と呼ばれる組織を複数設置し、各分野ごとの販売独占権を[[真鍮座]]などの座に与えた。
田沼意次の政策は幕府財政を第一に置いたものであったが、それは権力と商人資本の密着度を強め町人と幕府役人との癒着につながった。一方で一般民衆の生活基盤は弱まった。田沼時代の収入増加策の立案、運用は実のところ場当たり的なものも多く、利益よりも弊害の方が目立つようになって撤回に追い込まれるケースも多々あったのである。そして幕府に[[運上金]]、[[冥加金]]の上納を餌に自らの利益をもくろんで献策を行う町人が増え、結果的に幕府も庶民も得にならなかった政策を採用することもあった。そのような町人の献策を幕府内での出世を目当てに採用していく幕府役人が現れた。町人と幕府役人との癒着も目立つようになった。このような風潮は「山師、運上」という言葉で語られ、利益追求型で場当たり的な面が多く、腐敗も目立ってきた田沼意次の政策に対する批判が強まっていた<ref name=":0">{{Cite book|title=日本近世の歴史4 田沼時代|date=2012/5/1|year=2012|publisher=吉川弘文館|last=|author=藤田覚}}</ref>。
大規模な開発策や大胆な金融政策など、開明的で革新的な経済政策と呼ばれる意次の政策は、いわば大山師的な政策だった。この時代、利益追求の場を求め民間から様々な献策が盛んに行われ、民間の利益追求と幕府の御益追求政治とが結びつき、かなり大胆な発想と構想の政策が立案・執行された。同時に田沼時代の代名詞である賄賂の横行や幕府と諸藩との利益の衝突、負担を押し付けられた民衆との間に深刻な矛盾も生じさせた<ref>{{Cite book|和書|title=田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし|date=2007/7/10|publisher=ミネルヴァ書房|pages=253-254|author=藤田 覚}}</ref>。
最終的に[[天明の大飢饉]]による[[百姓一揆]]や[[打ちこわし]]と田沼を重用した10代[[徳川家治|家治]]の死を契機とした御三家、門閥譜代大名層らによる反田沼活動により田沼は失脚し田沼時代は終了する。
=== 後期(1780年ごろ - 1850年ごろ) ===
==== 松平定信の幕政(寛政の改革) ====
{{main|寛政の改革}}
[[ファイル:Matsudaira Sadanobu.jpg|200px|left|thumb|[[松平定信]]]]
続いて田沼政治を批判した[[松平定信]]が[[1787年]](天明7年)に登場し、[[寛政の改革]]を推進した。天明の大飢饉により農業人口が140万人も減少し、幕府財政は百万両の赤字が予想されていた。
当時、現在のような税を取る対価として行政サービスを施すという考えはなかった。しかし、農村への救済策が不十分な田沼の政策により荒廃の一途を辿っていた農村と、天明の大飢饉の致命的な打撃を受け、このころから不完全ながらも世を経綸し、人民を救うという「経世済民」の思想にもとづいた行政がうまれようとしていた<ref name=":3">{{Cite book|和書|title=NHKさかのぼり日本史(6) 江戸“天下泰平"の礎|date=2012/1/26|publisher=NHK出版|author=磯田 道史}}</ref>{{rp|page=44}}。
[[天明の大飢饉]]直後の時期である「寛政の改革」は年貢増徴をおこなえる状況ではなく、「小農経営を中核とする村の維持と再建」に力を注くこととなり、農民の負担を軽減する目的でさまざまな減税・復興政策をおこなった。寛政の改革ではこれまでの収奪一辺倒だった政策を改め、民を救うための政治へと断行した。定信は飢餓対策に取り組み、都市・農村問わず凶作や自然災害に備え米や金銭を貯える備荒貯蓄政策を推進した。そのような増税が厳しい状況であった為、定信は即効性のある厳しい緊縮政策を実行し財政再建に努めることとなる。最終的に6年たった定信失脚の頃には備蓄金も20万両程に貯蓄することができており、幕府の赤字財政は黒字となっていた。しかし、倹約令や風俗統制令を頻発したために江戸が不景気になり、市民から強い反発を受けたため、各種の法令を乱発することになった<ref name=":62">{{Cite book|和書|title=『松平定信』〈人物叢書〉|date=2012/9/1|publisher=吉川弘文館|author=高澤憲治|editor=日本歴史学会}}</ref>{{rp|page=102}}。
通説では松平定信は田沼意次の経済政策をことごとく覆したとされるが、近年ではむしろ寛政の改革には田沼政権との連続面があったと指摘される<ref name=":02">{{Cite book|title=通貨の日本史 - 無文銀銭、富本銭から電子マネーまで|date=2016|year=|publisher=中公新書|last=高木 久史}}</ref>。幕府が改革において講じた経済政策は田沼時代のものをほぼ全て継承しており、株仲間や冥加金、南鐐二朱判、公金貸付など、実は田沼政権のそれを継承したものが多かった<ref name=":6">{{Cite book|和書|title=『松平定信』〈人物叢書〉|date=2012/9/1|publisher=吉川弘文館|author=高澤憲治|editor=日本歴史学会}}</ref>{{rp|page=90}}。
1793年7月、定信は突然[[老中]]を解任されることとなり寛政の改革はわずか六年で幕を閉じた。その背景として[[尊号一件]]などにより、[[徳川家斉|家斉]]等と定信との対立、その他、大奥の予算の大幅削減や不良女中を厳しく罰するなどと定信と大奥との対立の深刻化などが挙げられる。
==== 文化・文政期(大御所時代)====
{{関連記事|大御所時代}}
[[ファイル:Tokugawa Ienari.jpg|230px|right|thumb|[[徳川家斉]]]]
松平定信の辞任後{{Efn|幕府の反対により典仁親王の尊号宣下を見合わせた「[[尊号一件]]」で寛政5年(1793年)に辞職する。}}、[[文化 (元号)|文化]]・[[文政]]時代から[[天保]]年間にかけての約50年間、政治の実権は11代将軍[[徳川家斉]]が握った。家斉は将軍職を子の[[徳川家慶|家慶]]に譲ったあとも実権を握り続けたため、この政治は「[[大御所 (江戸時代)|大御所]]政治」と呼ばれている。家斉の治世は、当初は質素倹約の政策が引き継がれたが、貨幣悪鋳による[[出目]]の収益で幕府財政がいったん潤うと、[[大奥]]での華美な生活に流れ、幕政は放漫経営に陥った。上述の異国船打払令も家斉時代に発布されたものである。一方で、商人の経済活動が活発化し、都市を中心に庶民文化([[化政文化]])が栄えた。しかし、農村では貧富の差が拡大して各地で百姓一揆や村方騒動が頻発し、治安も悪化した。[[1805年]](文化2年)には[[関東取締出役]]が置かれた。水野忠邦はこれまでの世の中になかった変化の兆しを感じていた。各地の農民や町人による一揆、打ちこわし、強訴は例年起こっていた。文政6年(1823年)には摂津・河内・和泉1,307か村による国訴は、綿の自由売りさばき、菜種の自由売りさばきを要求して、空前の規模の訴えとなり、これまでの経済の有り様を変えるものであった<ref>藤沢周平『藤沢周平全集 第17巻』文藝春秋、 1993年、420ページ</ref>。
発展し続ける経済活動と土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府(各藩)との構造的な軋轢を内包しつつも、「泰平の世」を謳歌していた江戸時代も[[19世紀]]を迎えると、急速に[[制度疲労]]による硬直化が目立ち始める。また、このころより昭和の前半までは国内が小氷河期に入り、[[1822年]]([[文政]]5年)には[[隅田川]]が凍結している。
それに加えて、18世紀後半の[[産業革命]]によって[[欧米]]諸国は急速に[[近代化]]しており、それぞれの政治経済的事情から[[大航海時代]]の単なる「冒険」ではなく、自らの産業のために[[資源]]と[[市場]]を求めて世界各地に[[植民地]]獲得のための進出を始めた。[[極東]]地域、日本近海にも欧米の船が出没する回数が多くなった。たとえば、明和8年(1771年)にペニュフスキー、泡・奄美大島に漂流、安永7年(1778年)ロシア船、蝦夷地厚岸に来航して松前藩に通商を求める、寛政4年(1792年)ロシア使節ラクスマン、伊勢の漂流民大黒屋光太夫等を護送して根室に来航し、通商を求めるが、幕府は日本との外交ルートを模索する外国使節や外国船の接触に対し、[[1825年]](文政8年)には[[異国船打払令]]を実行するなど、鎖国政策の継続を行った。文政2年(1819年)、幕府は、浦賀奉行を2名に増員した。
==== 動乱の天保期 ====
{{関連記事|天保の大飢饉|天保の改革}}
[[ファイル:Mizuno Tadakuni.jpg|left|thumb|250px|[[水野忠邦]]]]
[[ファイル:大塩平八郎終焉の地碑.JPG|240px|right|thumb|[[大塩平八郎]]終焉の地]]
[[1832年]](天保3年)から始まった[[天保の大飢饉]]は全国に広がり、都市でも農村でも困窮した人々があふれ、餓死者も多く現れた。[[1837年]](天保8年)、幕府の無策に憤って[[大坂町奉行所]]の元与力[[大塩平八郎]]が大坂で武装蜂起した。大塩に従った農民も多く、地方にも飛び火して幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。このような危機に対応すべく、家斉死後の[[1841年]](天保12年)、老中[[水野忠邦]]が幕府権力の強化のために[[天保の改革]]と呼ばれる[[財政再建]]のための諸政策を実施したが{{Efn|同年5月22日に、江戸市中に告げられた。市中の奢侈な風俗の取締、贅沢の禁止、質素倹約が強行された。}}、いずれも効果は薄く、特に[[上知令]]は幕府財政の安定と国防の充実との両方を狙う意欲的な政策であったが、社会各層からの猛反対を浴びて頓挫し、忠邦もわずか3年で失脚した{{efn|しかし、1814年(天保15年)6月、忠邦、再び老中となった。}}。幕府は、天保の改革の一環として、幕領に対して'''御料所改革'''を打ち出している。この改革案は、代官に幕領の全耕地を再調査させ、年貢の増収を図ろうとするものであった。この改革案に対して、現地の実情を知る代官らにとっては迷惑なことであると受け取られた<ref>{{Cite book|和書|author=藤田覚|title=泰平のしくみ-江戸の行政と社会|publisher=岩波書店|year=2012|page=202}}</ref>。
忠邦はまた、[[アヘン戦争]](1840年)における[[清]]の敗北により、1842年(天保13年)7月、従来の外国船に対する異国船打払令を改めて[[薪水給与令]]を発令して柔軟路線に転換する。同年6月には、英軍艦の来日計画がオランダより報告されている。
同月には[[江川英龍]]や[[高島秋帆]]に西洋流[[砲術]]を導入させ、近代軍備を整えさせた。アヘン戦争の衝撃は、日本各地を駆けめぐり、[[魏源]]の『[[海国図志]]』は多数印刷されて幕末の政局に強い影響を与えた{{Efn|[[源了圓]]は、「『海国図志』の日中韓の読み方の違い」において、後に洋務派と変法派を生みつつも刊行当時は正しく評価されなかった清国、『海国図志』への反応が鈍かった朝鮮、翻刻本23種(うち和訳本16種)が刊行され、国民一般に公開されて、きわめて関心が高かった日本を比較している<ref>{{Cite book|和書|author=源了圓|chapter=「海国図志」の日中韓の読み方の違い|editor=西尾幹二|series=地球日本史3|title=江戸時代が可能にした明治維新|publisher=産経新聞ニュースサービス|year=1999|isbn=4-594-02665-6}}</ref>。}}。
[[ファイル:Haiguotuzhi.jpg|thumb|right|120px|『海国図志』]]
中国は、アヘン戦争の敗北により、1843年(天保14年)には、広州・厦門・上海・寧波・福州の5港を開港し、翌1844年(天保15年)7月には清米修好通商協定([[望厦条約]])締結、10月には清仏通商協定([[黄埔条約]])を締結している。一方、米国は通商を拡大するため、日本・朝鮮との国交を樹立することを目的に使節を派遣することを決めた。1846年(弘化3年)閏5月27日、東インド艦隊司令長官[[ジェームズ・ビドル|ビッドル]]は2隻の軍艦を率いて江戸湾に入った。浦賀奉行の下役との交渉で、日本政府(幕府)は貿易のため開港する用意がないことを確かめて6月7日に退去した。
こうしたなか、[[薩摩藩]]や[[長州藩]]など「[[雄藩]]」と呼ばれる有力藩では財政改革に成功し、幕末期の政局で強い発言力を持つことになった。
経済面では、[[地主]]や問屋商人の中には[[工場]]を設けて分業や協業によって工場制手工業生産を行う[[マニュファクチュア]]が天保期には現れている。マニュファクチュア生産は、大坂周辺や[[尾張国|尾張]]の綿織物業、[[桐生市|桐生]]・[[足利市|足利]]・[[結城市|結城]]など[[北関東]]地方の[[絹織物]]業などで行われた。
=== 幕末期(1853年 - 1868年) ===
{{main|幕末}}
==== 開国・日米和親条約 ====
[[ファイル:Commodore Matthew Calbraith Perry.jpg|180px|left|thumb|[[マシュー・ペリー|ペリー]]]]
[[1853年]](嘉永6年)、長崎の出島への折衝のみを前提としてきた幕府のこれまでの方針に反して、江戸湾の目と鼻の先である浦賀に[[黒船]]で強行上陸した[[アメリカ合衆国]]の[[マシュー・ペリー]]と交渉した幕府は、翌年の来航時には江戸湾への強行突入の構えを見せたペリー艦隊の威力に屈し、[[日米和親条約]]を締結、その後、米国の例に倣って高圧的に接触してきた西欧諸国ともうやむやのうちに同様の条約を締結、事実上「[[開国#日本の開国|開国]]」しなければならないこととなった。同年6月22日、12代将軍・家慶が「今後の政治は徳川斉昭と阿部正弘に委ねる」と言い残して61歳で亡くなった。同年7月1日、幕府、国書を諸大名に示し意見を問い、3日にはお目見え以上の幕吏にも意見を問うた。260年間「知らしむべからず、由らしむべし」を大法則としてきた幕府にとっては大方向転換であった<ref>半藤一利『 幕末史 』新潮社、 2008年、 50-51ページ</ref>。
開国後は日本のどの沿岸・海岸に外国船が来航するかも知れない事態となり、1853年(嘉永6年)8月から江戸湾のお台場建設を始めた。そして、同年9月15日、幕府は、大型船建造を許可することになった{{Efn|8年後の1861年、幕府は庶民の大船建造・外国船購入を許可する。}}。さらにオランダに軍艦・鉄砲・兵書などを注文した。
[[ファイル:Ii_Naosuke_Portrait_by_Ii_Naoyasu.jpg|200px|right|thumb|[[井伊直弼]]]]
その後、さらに1858年(安政5年)4月、[[井伊直弼]]が大老に就任する。米・蘭・露・英・仏の5か国と修好通商条約と貿易章程、いわゆる[[安政五カ国条約]]([[不平等条約]])を締結し、日本の経済は大打撃を受けた。8月、外国奉行を設置する。同月孝明天皇条約締結に不満の勅諚(戊午の密勅)を水戸藩などに下す。また、幕府にも下す。この年の7月に13代・家定が没し、10月25日に14代・家茂が征夷大将軍・内大臣に任ぜられる。翌年6月から横浜・長崎・箱館の3港で露・仏・英・蘭・米5か国との自由貿易が始まった。取引は、日本内地での活動が条約で禁止されていたため、外国人が居住・営業を認められていた居留地で行われた。輸出の中心は生糸・茶であった{{Efn|第1位の生糸が輸出額の50~80%、第2位の茶が5~17%を占めていた。}}。輸出の増大は国内の物資の不足を招き、価格を高騰させた。他方、機械性の大工業で生産された安価な欧米の綿織物や毛織物などが流入してきた。横浜港で輸出が94.5パーセント、輸出が86.8パーセント行われ、相手国では英が88.2パーセント、仏が9.6パーセント、ついで米、蘭への輸出であり、輸入では英が88.7パーセントを占め次いで蘭、仏、米、プロシア、露へであり、輸出入とも英との取引が主であった。また、国内の銀価格に対する金価格が欧米より低かったため、おびただしい量の金貨が海外へ流失した。こうして開港による経済的変動は下層の農民や都市民の没落に拍車をかけていった<ref>宮地正人監修、大日方純夫・山田朗・山田敬男・吉田裕『日本近現代史を読む』新日本出版社、 2010年、 17ページ</ref>。
下級武士や[[知識人]]階級を中心に、「鎖国は日本開闢以来の祖法」であるという説<!--誰の説?-->に反したとされ、その外交政策に猛烈に反発する世論が沸き起こり、「[[攘夷]]」運動として朝野を圧した。[[世論]]が沸き起こること自体、[[幕藩体制]]が堅牢なころには起こり得ないことであったが、この「世論」の精神的支柱として、[[京都]]の[[天皇]]=帝(みかど)の存在がクローズアップされる。このため永い間、幕府の方針もあり、政治的には静かな都として過ごしてきた京都がにわかに騒然となっていき、有名な「[[幕末]]の騒乱」が巻き起こる。
==== 文久の国内政治 ====
[[ファイル:Tokugawa Iemochi by Kawamura Kiyoo (Tokugawa Memorial Foundation).jpg|180px|left|thumb|[[徳川家茂]]]]
一時は大老・[[井伊直弼]]の強行弾圧路線([[安政の大獄]])もあり、不満「世論」も沈静化するかに思われたが、1860年(安政7年)3月3日の[[桜田門外の変]]後、将軍後継問題で幕府が揺れる間に事態は急速に変化する。
これより先に1860年(安政7年)1月には[[勝海舟]]らが[[咸臨丸]]で米国に向かっている。1862年(文久2年)1月15日、老中・[[安藤信正]]が水戸浪士ら6人に襲われ負傷する[[坂下門外の変]]が起こっている。同年2月11日、将軍・家茂と和宮との婚儀が江戸城で盛大に挙行される。同年7月6日、幕府は徳川慶喜を将軍後見職とし、同月9日に松平慶永を政事総裁職、閏8月1日に[[松平容保]]を[[京都守護職]]に就ける。先の7月には諸藩の艦船購入を許している。一方、開国で開市・開港が続くなかで、浪士などにより1861年(文久元年)と翌年に、第1次・2次の[[東禅寺事件]]が起こっている。[[薩摩藩]]では、[[島津斉彬]]が没したあと、後を継いだ藩主[[島津忠義]]の父である[[島津久光]]が[[長州藩]]を牽制すべく[[公武合体運動]]を展開し、同年4月藩内の攘夷派を粛清([[寺田屋事件|寺田屋騒動]])し、幕府に改革を要求した([[文久の改革]])。1862年(文久2年)、島津久光は江戸から薩摩への帰路、[[生麦事件]]を引き起こし{{Efn|1863年(文久3年)11月、薩摩藩は英公使に10万ドルを交付して[[生麦事件]]を解決している。}}、翌年[[薩英戦争]]で攘夷の無謀さを悟ることになる。
1862年(文久2年)閏8月、幕府参勤交代制度を緩和し、3年目ごとに1回、100日限りの在府とし、自国警衛を強化させることを目的とした{{Efn|嫡子の在国が許された。大名の妻子に対しての帰国が許可された。}}。同年9月7日、明年2月をもって将軍上洛する旨が公布された。[[公武合体]]の強化策である。同年12月、幕府は兵制度を制定した{{Efn|旗本に対し、3000石に付き10人、1000石に付き3人、500石に付き1人の人提出を、500石以下は金納にし、この人数で歩兵組を編成した{{Sfn|宮地|2012|p=321}}。}}。
尊皇攘夷派と公武合体派が藩政の主導権を争っていた長州藩では、尊王攘夷派が主導権を握るようになり、京都公家と結託し幕府に攘夷の実行を迫った{{Efn|長州が公家たちを懐柔し、天皇の詔勅であるといってつぎつぎにいろいろな命令を出すと、天皇には覚えがないと言った「偽詔勅事件」が次々に起こってくる。これを「下より出る叡慮」ともいう<ref>半藤一利『 幕末史』新潮社、 2008年、 157ページ</ref>。}}。その結果、幕府は[[1863年]](文久3年)5月10日を'''攘夷実行の日'''とすることを約束した{{Efn|全大名に命じたが、実行した藩はほとんどなかった。}}。長州藩では下関海峡を通る外国船を砲撃した{{Efn|[[馬関海峡]]を航行中の外国船(米船ペムブローク号、300トン)を自藩製の大砲で攻撃して「攘夷」を決行した。[[庚申丸]]から砲撃し、たまたま馬関に向かっていた[[癸亥丸]]も砲撃に加わった。しかし、米船は全速力で逃げ、両船は速力の差が明白すぎて、追跡できなかった。意気の上がった長州側は、5月23日仏軍艦キンシャン号を、26日には蘭艦メジュサ号を砲撃した{{Sfn|田中|2007|p=46}}。}}。ところが長州藩では、外国船砲撃の翌日、井上聞多・野村弥吉・遠藤謹助・伊藤俊輔・山尾庸三らを英艦キロセッキ号で、12日に横浜からイギリスに向けて出港させている。この計画の指導者は[[周布政之助]]で、攘夷のあとには各国との交流・交易の日が必然的にやってくることを見越し、西洋事情に通じておかねば日本の一大不利益と考えて、彼らを渡航させたのである{{Sfn|田中|2007|pp=46-47}}{{Efn|3年後の1866年(慶応2年)4月7日には、幕府、学術・商業のための海外渡航を許可している。}}。
これらの攘夷実行に対して、京都では会津・薩摩藩らの勢力によって[[1863年]](文久3年)8月18日、尊王攘夷派の公卿を京都から排除した。[[八月十八日の政変]]である。翌日、[[三条実美]]らの[[七卿落ち]]。長州藩主・毛利慶親の世子・定弘が都落ちした三条実美たちを擁して上京してくると言う風評が京都では広まっていた。その目的は中川宮・五摂家筆頭の近衛家・会津藩・薩摩藩などの排除であった。[[1864年]](元治元年)6月5日、[[新撰組]]が[[池田屋事件|池田屋]]を襲撃した。6月24日、久坂玄瑞が藩兵を率いて[[天王山]]に陣取り、27日には来島又兵衛率いる藩兵が[[天龍寺]]に入った。7月19日、長州藩は京都諸門で幕軍(薩摩藩・[[会津藩]]・[[桑名藩]])と交戦する([[禁門の変]])。同年11月、長州藩は禁門の変責任者3家老に自刃を命令する。
==== 第一次・第二次長州征伐、兵庫開港問題 ====
禁門の変を理由に幕府は、[[第一次長州征伐]](7月24日)を決行。同時期に英米仏蘭4か国艦隊の反撃に遭い、上陸され砲台を占拠された([[四国艦隊下関砲撃事件]])(8月5日)。同14日、長州藩は4国艦隊と講和5条件を結ぶ。その後、[[高杉晋作]]、[[木戸孝允]]らが藩政を掌握した。
禁門の変での長州朝敵化に幕府の権威回復と錯覚し{{Sfn|宮地|2012|p=423}}、1864年(元治元年)9月1日、[[参勤交代]]の制を1862年の改正(閏8月22日3年に1回出府などに緩和)以前に戻す。9月11日、大坂の宿舎で、西郷と勝が会合した。西郷は、勝から「共和政治」(雄藩諸侯の合議制による連合政権)について聞き、感心する。
[[1865年]](元治2年)[[5月16日]]、将軍江戸を出立し、閏5月22日に入京・参内、同25日大坂城に入城した。同年9月15日、将軍は大阪を発ち同月16日入京し、長州追討の勅許を奏請した。
このような情勢下、[[1866年]](慶応2年)1月21日、薩摩、長州ら政争を繰り返していた西国雄藩は[[坂本龍馬]]、[[中岡慎太郎]]の周旋により、西郷と桂との間で口頭の抗幕同盟が密約([[薩長同盟]])された。1866年(慶応2年)6月7日、幕府は[[第二次長州征伐]]を決行するが、高杉晋作の組織した[[奇兵隊]]などの士庶民混成軍の活躍に阻まれ、また、総指揮者である将軍・[[徳川家茂]]が7月20日に[[大坂城]]で病没するなどもあり、8月21日、将軍死去のため征長停止の沙汰書が出され、9月2日に幕長休戦を協定する。12月25日、天皇が疱瘡のため36歳で没する。[[諡]](おくりな)を孝明天皇と定められた。
[[ファイル:Tokugawa yoshinobu.jpg|190px|left|thumb|[[徳川慶喜]]]]
折から幕法に反して京都に藩邸を置く諸大名を制御できず、京都の治安維持さえ独力でおぼつかない江戸幕府と、幕藩体制の根幹である「武士」の武力に対する信頼とその権威は、この敗北によって急速になくなっていった。薩長は、[[土佐藩]]、[[佐賀藩|肥前藩]]をも巻き込み、開国以来の[[違勅]]条約に対する反対論と外国人排撃を主張、実行に移そうとする「攘夷」を、[[国学]]の進展などにより江戸時代後期から広がっていた国家元首問題としての[[尊王論]]とを結びつけ、「[[尊王攘夷]]」を旗頭に「倒幕」の世論を形成していった。
14代将軍・家茂が没してから約4か月後の1866年(慶応2年)12月5日、将軍宣下式が挙行され、慶喜が15代将軍となった。この期間を「将軍空位期」と呼ぶ。慶喜は、早速幕府人事の改革に取り組み、若年寄りや老中などの幕閣を責任分担する制度に改めた。また、仏国駐日公使[[レオン・ロッシュ|ロッシュ]]の助言を参照し幕軍体制の近代化、外交権の掌握{{Efn|大坂に、各国駐日代表を引見した。3月25日にパークスと、26日にオランダ総領事と、27日ロッシュと、28日に英仏蘭三国代表と、4月1日に米駐日公使ファルケンブルグと会見した。}}などを行った{{Sfn|宮地|2012|pp=39-40}}。
一方、国内状況では、この年(1866年(慶応2年))、全国的に農民一揆・打ちこわしなど未曾有に多発・激化した{{Efn|5月、西宮・大坂・堺・兵庫・江戸に打ちこわし。6月、武蔵一円打ち毀し(武州世直し一揆)、陸奥信達両郡で打ち毀し(信達騒動)。7月、伊予大洲藩、出羽村山郡で打ち毀し。8月、小倉藩で、長州戦争の混乱から一揆。幕府、諸国凶作・米価高騰につき庶民の外国米販売・交友を許可。11月、江戸の窮民増加。幕府、窮民中の強壮者を兵に採用と布告。}}。
==== 大政奉還 、王政復古 ====
{{see also|王政復古 (日本)|戊辰戦争|明治維新}}
[[1867年]](慶応3年)1月9日、[[明治天皇]]が[[践祚]]した。親長州派・[[中山忠能]]の外祖父である中山忠能は、禁門の変後に出仕・他人面会を禁じられた。この関係だけで否処罰公家たちの復権が行われたわけではない。1867年(慶応3年)1月15日に有栖川幟仁親王と元関白九条尚忠、同月25日に有栖川熾仁(たるひと)親王と中山忠能が宥免された{{Sfn|宮地|2012|p=40}}。5月21日、薩摩の西郷と長州の桂との間で、「倒幕」の密約が交わされた{{Efn|6ヶ条にわたる密約、協定は主として、第二次征長について、薩摩が長州藩のために政治的に援助することを決めたものだった。5条には、幕府が、朝廷を擁し正義をこばみ、周旋尽力の道を遮るときは、さつまはばくふと「遂に決戦に及び候ほかこれ無きこと」という文句を入れた。中味は防衛的な同盟であったが、この中では場合によっては倒幕もあり得ることを初めて示した<ref>藤沢周平『藤沢周平全集 第7巻』文藝春秋、 1993年、 77ページ</ref>。}}。6月、坂本龍馬が、今後の政体構想の基本となる案を考え出した。これは、のちに[[船中八策]]と言われるものである。
[[ファイル:Taisehokan.jpg|210px|right|thumb|「[[大政奉還]]図」 [[邨田丹陵]] 筆]]
同年8月、東海地方に伊勢神宮のお札が降ったことから喜んだ民衆は仮装して[[ええじゃないか]]と謳いながら乱舞した。これは、夏から秋にかけて、近畿・四国から関東に及ぶ広範囲な地域に波及した。このさなかの[[1867年]][[11月9日]](慶応3年10月14日)に、15代将軍・[[徳川慶喜]]は起死回生の策として[[大政奉還]]を上奏し、15日、勅許の沙汰書を得る。そして24日、将軍職を辞した。武力によって完全に江戸幕府を倒そうとしていた倒幕勢力は攻撃の名目を一時的に失ったため、先手を取られた形となったが、薩長をはじめとする倒幕派は大政奉還の同日に[[倒幕の密勅]]を獲得するなど、あくまで幕府を滅亡させる姿勢を崩さなかった。[[1868年]][[1月3日]](慶応3年12月9日)には岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通と結んで[[王政復古の大号令]]が発せられ、摂関・将軍を廃し三職が設置される[[太政官#明治の太政官制|太政官]]制度が発足した。この日の[[小御所会議]]で慶喜に対して内大臣の辞職と領土の一部献上が命令され、新政府と旧幕府の対立は明らかとなり、この号令のもとに、徳川幕府討伐が進んでいった。
慶応4年1月3、4日の[[鳥羽・伏見の戦い]]を機に[[戊辰戦争]]が勃発。そして、[[1868年]][[5月3日]](慶応4年/明治元年4月11日)、[[勝海舟]]と[[西郷隆盛]]の交渉の結果、[[江戸開城|江戸城が新政府軍に明け渡され]]、慶喜は水戸に蟄居したことにより、江戸幕府は名実ともに消滅した。慶応4年1月15日、[[政体書|3職7科の制]]を定める。3月14日、[[五箇条の御誓文|五か条の誓文]]、「宸翰」{{Efn|1868年(慶応4年)3月14日、明治天皇は、京都御所の紫宸殿に於いて、神前で五つのことを誓った。このとき御誓文とともに、明治天皇自らの信念の発表があった。これは「宸翰」(しんかん)と呼ばれた。(天皇このとき数えで16歳、満で15歳)書いたのは木戸孝允と言われている。
{{SquoteH}}
「宸翰
:朕幼弱をもってにわかに大統(たいとう)を紹(つ)ぎ爾来何をもって万国に対立し、列祖につかえ奉らんやと朝夕恐懼にたえざるなり。
:ひそかに考えるに中葉朝政衰えてより武家権をもっぱらにし、表は朝廷を推尊して実は敬いしてこれを遠ざけ、億兆の父母として絶えて赤子(せきし)の情を知ることあたわざるより計りなし、ついに億兆の君たるもただ名のみになり果て、それがために今日朝廷の尊重は古に倍せしがごとくして朝威は倍衰え、上下(しょうか)相離るること霄譲(しょうじょう)のごとし。かかる形勢にて何をもって天下に君臨せんや。
:今般朝政一新の時にあたり天下億兆一人もその所を得ざる時は、皆朕が罪なれば今日の事朕自身骨を労し、心志を苦しめ、艱難の先に立ち、古え列祖の尽きさせ給いしあとをふみ、治蹟をすすめてこそ、はじめて天職を奉じて億兆の君たる所にそむかざるべし。
:往昔列祖万機を親(みずか)らし不臣(ふしん)のものあればみずから将としてこれを征したまい、朝廷の政すべて簡易にしてかくのごとく尊重ならざるゆえ、君臣相したしみて上下相愛し徳沢(とくたく)天下にあまねく国威海外に耀きしなり。
:しかるに近来宇内大いに開け各国四方に相雄飛するの時にあたり、ひとり我国のみ世界の形勢にうとく、旧習を固守し、一新の効を計らず、朕いたずらに九重中に安居し、一日の安きをぬすみ、百年の憂いを忘るるときはついに各国の凌侮を受け、上に列祖をはずかしめ奉り、下は億兆を苦しめんことをおそる。ゆえに朕ここに百巻諸侯と広く相誓い列祖の御偉業を継述し、一身の艱難辛苦を問わず、みずから四方を経営し汝億兆を安撫し、ついには万里の波濤を開拓し、国威を四方に宣布し、天下を富岳の安きに置かんことを欲す。汝億兆旧来の陋習になれ、尊重のみを朝廷のこととなし、神州の危急を知らず。朕一たび足を挙げれば非常に驚き、種々の疑惑を生じ、万口紛紜として朕が志をなさざらしむる時は、これ朕をして君たる道を失わしむるのみならず、従って列祖の天下を失わしむるなり。
:汝億兆よくよく朕が志を体認し、相率いて私見を去り、公議をとり、朕が業を助けて神州を保全し、列祖の神霊を慰し奉らしめば生前の幸甚ならん。」{{SquoteF}}<ref>鶴見俊輔『 御一新の嵐 』 <鶴見俊輔集・続-2> 筑摩書房、 2001年、 152-153ページ</ref>}}、同15日、[[五榜の掲示|五榜の提示]]など新政府の施策が次々に実施されていった。1868年(明治元年)9月8日、[[一世一元の制]]を定められたうえで、明治と改元された。以降は[[明治時代]]と呼ばれる。
江戸幕府が崩壊したあとも、一部の幕府残存兵や親幕府大名が[[関東地方]]および[[東北地方]](5月3日[[奥羽越列藩同盟]]成立)などで抵抗したが、[[1869年]][[5月17日]]の[[五稜郭]]の陥落により([[箱館戦争]])、戊辰戦争は終結。これによって7世紀以上にわたって続いた武士の時代が名実ともに終了した。武士は[[華族]]や[[士族]]といった称号を獲得したものの、特権や禄を失い、[[士族反乱|反乱もすべて失敗したことにより]]、一般の国民に吸収されていった。
== 政治制度 ==
=== 幕藩体制 ===
江戸時代の統治体制は'''[[幕藩体制]](幕藩制)'''と呼ばれ、'''[[将軍家]]'''(幕府)のもとに、'''[[大名]]家'''([[藩]])、[[旗本]]・[[御家人]]が服属する体制である。直轄地は[[幕領]]・[[天領]]と呼ばれ、重要地点には[[城代]]・[[所司代]]・[[町奉行]]・[[遠国奉行]]などが派遣、その他の幕領にも[[郡代]]・[[代官]]が置かれ、支配に当たった。
江戸時代は[[征夷大将軍]][[徳川氏]]を中心として、[[武士]]階級が支配していた[[封建社会]]であった。おもな[[身分制]]度は、支配階層の[[武士]]と被支配階層である[[百姓]]・[[町人]]の以上3つの身分を基礎としていた。それまで武士と[[農民]]は分離していなかったが、[[豊臣秀吉]]の[[刀狩り]]と武士は[[城下]]・[[町人]]は町屋・農民は村落と住居が固定されるなどにより、武士階級と農民が明確に分離された([[兵農分離]])。しかし江戸時代の各階層にある程度の流動性も見られる。特に江戸には[[飢饉]]などにより地方から流入してきた農民も多く、幕府はしばしば[[帰農令]]を出している。また、全国の[[諸藩]]には、[[郷士]]と呼ばれる自活する武士も存在した。彼らは[[城下]]に住み[[藩主]]から[[俸禄]]をもらっていた武士である[[藩士]]とは明確に区別され、また一段下の身分として[[差別]]されることもあった。幕末に活躍した人々には、[[勤王]]方、幕府方を問わず、[[下級藩士]]・[[郷士]]・[[町人]]など[[軽輩]]階層出身者であった者が多い。
幕府と朝廷の関係については諸説ある<ref>以下は尾藤正英『江戸時代とはなにか』による。</ref>。[[関白]]・[[太政大臣]]を務めた豊臣秀吉と同様、徳川家康も征夷大将軍に就任、[[外戚関係]]を結ぶことで朝廷の権威を利用した。戦国時代以来、領国の一円的領域支配を行った[[公権力]]を[[公儀]]と言い、特に[[天皇]]の権威と一体化して全国支配を達成した徳川幕府を指す。幕府は[[禁中並公家諸法度]]の制定、[[紫衣事件]]などを通じて朝廷支配を強めていった。[[新井白石]]は『[[読史余論]]』で江戸幕府成立を[[朱子学]]に基づき革命と捉え、幕府の正当性を主張した。[[本居宣長]]や[[松平定信]]は[[大政委任論]]を唱えたが、それは幕府権力を肯定する立場に立ったものだった(松平定信は[[尊号一件]]で朝廷と対立した)。[[宝暦事件]]の[[竹内敬持|竹内式部]]や、[[明和事件]]の[[山県大弐]]、[[霊元天皇]]など、朝廷の権力を取り戻そうとするものもいた。『[[大日本史]]』編纂の過程で成立した[[水戸学]]や[[吉田松陰]]などの思想家は天皇による支配の正統性を説き、[[倒幕運動]]・[[明治維新]]の志士に学ばれた。
幕府は江戸、[[大坂]]、[[京都]]に[[町奉行]]・[[所司代]]を置き重視したが、そのほか[[伊豆国|伊豆]]・[[日田市|日田]]・[[長崎市|長崎]]・[[新潟県|新潟]]・[[飛騨国|飛騨]]や重要な[[鉱山]]に[[代官]]を配置し支配した。これらの支配力は単に一都市に限らず、[[京都所司代]]は[[山城国|山城]]・[[丹波国|丹波]]・[[近江国|近江]]など、[[大坂町奉行]]は[[西日本]]諸国の[[天領]]の[[采配]]がそれぞれ許されるなど、[[管轄]]地の諸大名を監察する役目もあった([[京都所司代]]は[[朝廷 (日本)|朝廷]]も監視していた)。ただし、彼らの用いる兵力はほとんどなく、18世紀初頭の[[長崎奉行]]は10数人、幕末の五条代官所でも30人しかいなかった。
幕府は政治力と経済力を分け隔てている。幕閣となりうる譜代大名には、そのほとんどが5万石から10万石程度の低い石高しか充てられなかったのに対し、幕政に関与することを決して許さなかった外様大名の多くには数十万石の大封と[[国持大名]]の格式が与えられた。しかもその幕閣ですら、[[大老]]の特例を除き、定員4 - 5名の[[老中]]が重要案件は合議で、日常案件は月番制で決裁を行うという権力の分散が比較的早い時期に図られている。これは室町幕府において[[三管領]]の一家であり、かつ複数の大国の[[守護]]を兼ねた[[細川氏]]が、やがては管領職を独占するほどの世襲権力となって足利将軍家をも圧倒するようになったことに対する反省である。
=== 藩 ===
江戸幕府より統治の許可を得た諸大名が、原則的には一代に限り土地統治を認められた[[封建制|封建体制]]である。領土の支配体制は各大名の規模によってかなり異なるが、ほぼ幕府の支配機構体制に準ずる形をとった。身分制についても同様である。ただ、大名は支配土地を自由自在に支配できたわけではなく、幕府からは[[大目付]]が発する監察使にその行政を監視規制されていた。このため[[武家諸法度]]違反で相当数の大名が[[改易]]・[[減封]]処分を受けたが、この処罰は親藩・譜代・外様の別なく行われた。
大名には幕府によりその格式に定められた[[参勤交代]]と御手伝いの義務が課せられた。これが大名貧困化の大きな原因となった。これを打開するために[[藩政改革]]が18 - 19世紀にかけて各藩で実施される(早いところでは土佐藩が[[17世紀]]半ばに行った)。初期は倹約と[[藩札]]発布が主であったが、18世紀中盤になると塩・陶器などの土地産物の[[専売制]]がかなりの藩で実施される。変わったところでは、[[紀州藩]]の「[[熊野三山寄付貸付]]」があり、大名自らが金融業者になり利子を取るということまでしている。また、[[仙台藩]]が大坂の升屋の[[番頭]]である[[山片蟠桃]]に藩財政を総覧させたように、財政を商人に任せるような藩も出てきた。
一部の[[国主|国持大名]]の藩を除いて、藩の領地は中心城と城下町周辺と、その他は少し離れた[[飛び地]]を持っていた([[相給]])。この傾向は特に10万石前後の譜代大名に多く見られる。京都付近の[[淀藩]]は、山城など近畿のほか遠く上総まで所領を持っていた<!--が、これは稲葉家が上総から淀に移封する際に付いてきた物と考えられる。こういう例は意外と多い-->。
大名の支配方法としては、戦時の軍役が参勤交代と[[天下普請]]への参加義務という形で残されたほか、有力大名には将軍の子女を養子や嫁として送り込むことにより身内化するという、事実上のお家乗っ取りに近い手段までが講じられた。<!--お金を貸し与えたりした。--><!-- ?? --><!--また、大名と大名の間を婚姻関係や養子関係で結んだりしている。--><!-- ←趣旨が若干異なるのでは --><!--
:19世紀には[[宇和島藩|宇和島]]・[[薩摩藩|薩摩]]を嚆矢として西南諸藩が相次いで西洋化へシフトする。これに成功した薩摩、[[佐賀藩|佐賀]]、宇和島、[[長州藩|長州]]らが幕末の舞台をリード、倒幕に成功した。間違われやすいが、東国諸藩も[[佐倉藩|佐倉]]・[[越後長岡藩|長岡]]なども西洋化・藩政改革を進めた。--><!-- ←何をどう西洋化したのか不明 -->
なお、一部の例外を除いて、各藩は藩士への[[知行]]体制を18世紀初頭までに[[地方知行制]](藩主が領地の一部を藩士に与え、そこから上がる年貢収入はその藩士のものとすることを許す)から俸禄制(藩主の領地から上がる年貢収入はいったんすべて藩の蔵に入れ、そこから藩士に蔵米を年俸として支給する)へと変遷させている。
江戸時代初期、各藩は隣接する藩との間で境界争いが盛んとなった。有名なところでは[[久保田藩]]と[[盛岡藩]]が干戈を交えるところまで発展した鹿角領争いであるが、これ以外にも[[仙台藩]]と[[相馬中村藩]]、[[萩藩]]と[[徳山藩]]などがある。これらは中期ごろまでにおおむね解決し、このとき決定した境界は現在にも引き継がれている。
=== 地方支配 ===
幕府・大名の拠点のある城を中心とした町([[城下町]])のほかは基本的に農村と考えられていた。このため港の利益や鉱山の鉱物なども収入を米に換算していた。大名たちは上納金を貢いでくれる城下町が栄えることは、自らの発展と同義と考え保護政策を行った。
しかし江戸時代中期に入り、港町や宿場町などの発展、換金性の高い綿が栽培され始めるなど農村部に[[資本主義]]が流入され、また大名への献金が過重になり過ぎて商家の一部が潰れるなど、城下町の衰退が目立つようになった。この農民の商売熱を冷まそうと幕府は[[田畑永代売買禁止令]]や[[帰農令]]などを発布するも効果がなかった。
農村では[[名主]]、[[庄屋]]が幕府・大名と農村の橋渡しとして存在し、原則的に武士は農村にいなかったとされる([[地方知行制]]を温存した仙台藩など例外はある)。この[[名主]]、[[庄屋]]は昔から土地を所有している有力農民や土着した武士の末裔などがなる場合が多く、[[苗字帯刀]]あるいは諸役御免の特権を持つ者や郷士に列せられる者も多かった。また大きな村では複数名の名主、庄屋が[[寄合]]を開いて村を治めた。彼らは、年貢を滞りなく収めるようにするだけでなく、施政者の命令を下達する役目もあった。諸藩により違いはあるものの、百姓が困っている場合には彼らを代表して施政者に伝え、一揆の際には農村側に立って先導するような百姓側の代表としての意識の強いものと、支配機構の末端を担う下級官吏の面が強く一揆などの際に標的となる場合もあった。困窮した零細農民の土地を集積するなど地主的な側面の強くなる近世後期には後者の面を持つものが多くなった。
読み書きを中心とした[[寺子屋]]や[[私塾]]、農村部における[[郷学]](郷校)が設置され、日本人の[[識字率]]は高かった。また岡山藩の[[閑谷学校]]を嚆矢として、あちこちの藩・旗本が郷民でも入校できる学校を作った。このようなことが[[最上徳内]]や[[間宮林蔵]]などの農村出身者の活躍に一役買っているといえる。
幕府により大名の大幅な配置換えが実施された江戸時代は、同時に日本中で活発な文化交流が行われた時代でもあった。たとえば、三河の[[水野氏]]が備後福山に立藩したため三河の言語が備後地域に流入し、福山地方の方言に三河方言が混ざっている。また、信濃を統治していた[[仙石氏]]が但馬出石に転封した際、信濃の[[蕎麦]]を出石に持ち込んだため、[[出石そば]]が発祥した。このような物の交流は各地で起こっているが、これが現在の名産物になっている地域も多い。
== 社会 ==
{{colbegin|5}}
* [[五人組 (日本史)|五人組]]
* [[慶安御触書]]
* [[田畑永代売買禁止令]]
* [[士農工商]]
* [[赤穂事件]]
* [[百姓一揆]]
* [[打ちこわし]]
* [[大塩平八郎の乱]]
* [[剣術道場]]
{{colend}}
江戸時代には遠方の[[寺社]]への巡礼、参拝が盛んになった。これは多分に娯楽的な意味を持ち、民衆が[[旅行]]するようになった起源とも言われる。中には旅行代理業者や案内業も現れ、寺社の側に[[歓楽街]]ができたところもある。また、現在の旅行ガイドブックのような案内書も刊行されている。この遠方への巡礼の背景には、[[五街道]]や[[宿場]]町の整備、治安の良化などのインフラが整ったことがある。これらの代表的なものには、[[西国三十三所]]や[[四国八十八箇所]]巡礼などがある。また、江戸時代末期には、[[天理教]]や[[金光教]]などの神道系の新宗教が現れている。
身分制度は大きく分けると、[[武士]]などの支配階級と、被支配階級である[[町人]]・[[百姓]]・水呑・借家人などがあったが、有力な町人や百姓が武士の株を買い取ることもあるなど、身分間にはある程度の流動性もあった。これらのほか、[[公家]]、[[検校]]、役者、神官、[[長吏 (賎民)|長吏]]、[[穢多]]、[[非人]]などさまざまな階級があったが、別々の地域で同じ名前で呼ばれる階級が事実上別の実態を持っていたり、ある地域では別の階級とみなされている階級がほかの地域では同一視されているなど、地域・時期により錯綜した状況を呈する。被差別階級とされる長吏、穢多、非人などは皮革の製造加工、[[死刑]]執行人・牛馬の死体の掃除など人の嫌がる仕事を割り当てられ、ほかの階級から差別されたが、それらの職種を独占したために経済的にはある程度安定していた。のちに[[明治維新]]で行われた四民平等政策により、制度的差別は廃止され彼らは[[平民]]となるが、それにより[[死牛馬取得権]]などの[[特権]]を失いかえって困窮する者が多く出た。民間では社会的な差別は依然として残り、近現代の[[部落解放運動]]につながった([[部落問題]])。
=== 災害 ===
江戸時代もまた数々の大災害に見舞われた時代であった。幕府による災害復旧の御普請はほぼ天領に限られ、各大名領に対する救恤は多くが貸付金という形であった<ref name="Kitahara2016">{{Cite book|和書|author=北原糸子|title=日本災害史|publisher=吉川弘文館|year=2016}}</ref>。
中でも18世紀初頭の元禄から宝永期は巨大災害が立て続けに起こり<ref name="Kitahara2016" />、富士山の宝永噴火後の1708年には高100石に付金2両を徴収する「諸国高役金令」を出し、幕府始まって以来の全国的課税となった<ref>{{Cite book|和書|author=久光重平|title=日本貨幣物語|publisher=毎日新聞社|year=1976}}</ref>。領地からの収入増を目的として元禄ごろまで盛んに行われてきた新田開発は、宝永津波をきっかけに転換を迫られることとなり、以後の開発面積は激減することになる<ref name="Isoda2012">{{Cite book|和書|author=磯田道史|authorlink=磯田道史|series=NHKさかのぼり日本史 6|title=江戸“天下泰平”の礎|publisher=日本放送協会出版|year=2012}}</ref>。慶長期から増加し続けてきた人口はその後停滞期に入り、享保の大飢饉および天明の大飢饉頃は減少局面も見られ、幕末までほとんど人口は増加しなかった<ref name="Isoda2012" />。
; [[飢饉|大飢饉]] 死者1万人以上
* [[寛永の大飢饉]]、[[享保の大飢饉]]、[[天明の大飢饉]]、[[天保の大飢饉]]
; [[火災|大火]] 死者1万人以上
* [[明暦の大火]]、[[元禄地震|水戸様火事]]、[[明和の大火]]、
; [[地震|大地震]] [[マグニチュード|Mw]]8.5以上、かつ死者1万人程度以上
* [[慶長大地震|慶長の大地震]]、[[元禄地震|元禄の大地震]]、[[宝永地震|宝永の大地震]]、[[八重山地震|八重山の大津波]]、[[安政の大地震]]
; [[噴火|大噴火]]、および火山災害 [[火山爆発指数]]VEI4以上レベル、あるいは死者1万人以上
* [[宝永大噴火]]、[[天明大噴火]]、[[安永大噴火]]、[[島原大変肥後迷惑]]
== 経済 ==
江戸時代は経済的には目まぐるしい発展を遂げ、その資本の蓄積は、[[明治維新]]以降の経済発展の原動力となる。
各地の諸大名は、江戸藩邸や参勤交代の費用を捻出するために自藩産出の米や魚農産物を大阪で売ったため、大阪は諸大名の[[蔵屋敷]]が置かれ、全国の特産品が並び、活況を呈した。また、参勤交代やお手伝い普請で多くの諸大名が街道筋の宿屋・旅籠に泊まったため、経済の流通が活発化したのである。江戸幕府は[[株仲間]]を結成させて特定商人の独占を認めることで商業統制を行おうとした。しかし、実際には江戸時代も後期に入ると、都市・地方ともに新興商人の台頭が始まり、活発な展開を見せるようになる。幕府はこうした経済発展の動きに十分な対応が取れず、物価変動による社会的混乱を鎮められずに幕府が動揺する一因となった。
[[アンガス・マディソン]]によれば<!-- 後述書 pp.195 - 196. -->、[[1820年]]([[享保]]年間)時点の[[GDP]]は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を1とした場合、日本はその1.75倍、[[オランダ]]は0.3倍、[[イギリス]]は2.8倍であり、[[1850年]]になり、アメリカが日本の2倍近くに達する<ref>[[磯田道史]]『日本史の内幕』 [[中公新書]]、10版2018年、 pp.195 - 196.</ref>。江戸期における1人あたりの生産量は、0.15パーセントである<ref>[[高島正憲]]『経済成長の日本史』2017年</ref>。
対外政策としては幕府は[[海禁]](いわゆる[[鎖国]])政策を布いていた。しかし、将軍代替りの際に来府した[[朝鮮通信使]]によって清国の動向を、またやはりたびたび来府した[[オランダ商館長]]によって欧州の動向を、ある程度においては把握していたといわれている([[オランダ風説書]])。たとえば天保の改革を行った老中・[[水野忠邦]]は、清国でアヘン戦争が起こると、ただちに異国船打払令を撤回させているが、これも英国をはじめとした西洋列強の清国に対する外交姿勢を把握していたからこその対処だった。なお、長崎鳴滝に西洋医術の塾([[鳴滝塾]])を開いた[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]のもとには多数の日本人が修学しており、限られた範囲で西洋人と日本人との交流は行われていた。
; 農業・林業
: 農業技術:農業器具の進歩、[[千歯扱き]]・[[備中鍬]]、[[肥料|金肥]]料([[干鰯]]、[[油粕]])、[[勤勉革命]]
: 農学:[[二宮尊徳]]
; 水産業
: [[俵物]]:煎海鼠、([[アワビ|干鮑]]、[[フカヒレ]]…いずれも[[中華料理]]の高級食材)
; 鉱業
: [[佐渡金山]]、[[生野銀山]]、[[石見銀山]]、[[別子銅山]]
; 手工業
: [[商品作物]]、[[マニュファクチュア]]
; 交通
: 陸上交通:[[五街道]]([[東海道]]、[[中山道]]、[[日光街道]]、[[甲州街道]]、[[奥州街道]])
: 水上交通:[[弁才船]]、[[角倉了以]]、[[河村瑞賢]]、[[東廻海運]]、[[西廻海運]]
: 通信:[[飛脚]]制度
; 都市
: [[三都]]:江戸・大坂・京都、[[城下町]]、[[宿場町]]、[[門前町]]([[長野市|長野]]、[[伊勢市|山田]]など)
[[ファイル:Keicho-chogin2.jpg|thumb|right|80px|慶長丁銀]]
; 商人
: 江戸商人、上方商人(大坂商人・[[近江商人]])、[[伊勢商人]]
===通貨政策===
{{see also|江戸時代の三貨制度}}
江戸幕府は、大量に蓄積された金銀を原資に貨幣制度の改革を行った。幕府創立前の[[1601年]](慶長6年)に[[金座]](小判座)および[[銀座 (歴史)|銀座]]を設立し、[[慶長小判|慶長金]][[慶長丁銀|銀]]の鋳造を命じた。慶長から[[寛永]]期頃までは各地の[[金鉱山|金山]]および[[銀山]]の産出が世界有数の規模であり、5代将軍・[[徳川綱吉]]のころまでは江戸城御金蔵の金銀の蓄えも潤沢であった。そして輸入品であった[[永楽銭]]などに代わり、[[1636年]](寛永13年)、[[銭座]]を設けて[[寛永通宝]]などの国内貨幣を鋳造し、流通させた。
[[ファイル:Keicho-koban2.jpg|thumb|left|80px|慶長小判]]
しかしながら、高額貨幣は、[[東日本]]は[[金貨]]([[小判]])が、[[西日本]]は[[銀貨]]([[丁銀]])が流通の基本となっており、その[[相場]]も日々変動したため、[[両替商]]などの[[金融業]]が発達した。また大量の貨幣を運ぶのを避けるため、[[手形]]取引も発達した。また、[[1620年]]([[元和 (日本)|元和]]6年)ごろから世界に先駆けて[[大坂]](大阪)の[[堂島]]において[[先物取引]]が行われていた。経済が発展するとともに大量の物資輸送の必要が出たため、[[弁才船]]による日本沿海を周回する物資流通が大きく発達した。
[[ファイル:Ko-kaneitsuho.jpg|thumb|right|80px|寛永通寳]]
また寛永期を過ぎると、金銀の産出に陰りが見え始めたのに対し、[[人口]]が次第に増加し経済が発展して幕府の支出が増大したため財政難に陥るようになり、金銀の備蓄も底が見え始め、[[1695年]](元禄8年)の[[元禄小判|元禄金]][[元禄丁銀|銀]]の発行を発端に、出目獲得および通貨拡大のため品位を低下させる改鋳が行われるようになる。
{{江戸時代の貨幣}}
[[1772年]](安永元年)の南鐐二朱銀発行以降、次第に[[両]]を基軸とする、分、朱の単位を持つ計数銀貨が増加し始め、[[1837年]](天保8年)の[[一分銀]]発行に至って、丁銀のような[[秤量銀貨]]を凌駕するようになり、銀貨は小判の通貨体系に組み込まれることになった。
幕府は元禄期以降、金銀貨の比率を変更する[[貨幣改鋳]]をたびたび行っている{{sfn|大塚|1999|p=74}}。これは幕府の財政を改善させることを主目的とする政策であり、米価を調整することや、貨幣の中に含まれる金を減らし、貨幣の発行量を多くすることによって貨幣発行益を上げることで財政改善を行おうというものであったが、一方でこの政策には市場の通貨量を増加させる目的や、金銀相場の内外調整という目的もあった{{sfn|大塚|1999|p=73}}。[[徳川綱吉]]時代の[[元禄小判|元禄改鋳]]は[[リフレーション|リフレ]]効果をもたらして景気を改善したが{{sfn|大塚|1999|p=83}}、[[宝永永字丁銀|宝永の改鋳]]では米価が83パーセントも上昇するなど急激なインフレを招いた{{sfn|大塚|1999|p=84-85}}。[[新井白石]]主導による[[享保丁銀|正徳の改鋳]]は通貨流通量が減少してデフレを招いた{{sfn|大塚|1999|p=86}}。このあと[[徳川吉宗]]によって行われた[[元文小判|元文改鋳]]は、デフレ対策を目的として行われ、米価を80年間にわたって安定させることとなった{{sfn|大塚|1999|p=87}}。[[徳川家斉]]時代には幕府財政が困窮したために大規模な改鋳が行われ、貨幣の流通量が40パーセント増大した{{sfn|大塚|1999|p=87-88}}。またこの文政改鋳と、[[水野忠邦]]主導による[[天保小判|天保の改鋳]]は、金銀貨を額面通り交換したため、幕府は大きな収益を得ることになった。この結果、幕府の貨幣支出が増大し、元文期よりはゆるやかであるが、経済に刺激を与えるインフレーションをもたらしたと評価する説([[新保博]])もある{{sfn|大塚|1999|p=89}}。開国後には内外の金銀価格差を調整するために安政・[[万延小判|万延の改鋳]]が行われたが、これはさらに名目的な貨幣流通量増大をもたらし、経済は劇的なインフレーションに見舞われることとなった{{sfn|大塚|1999|p=91}}。
=== 財政 ===
[[ファイル:Gold oban 050918 163354.jpg|110px|right|thumb|万延大判]]
徳川家康は武士の支配構造の基本として、士分の収入を[[米]]に依存していた。そのため、幕府の経済政策の主力は米相場を安定させることが中心になった。しかしながら、収入を増やすために米の生産量を増やすと米価が下がるというようになかなか思うようにはいかず、また武士階級を困窮させることになり、幾度も[[倹約令]]や[[徳政令]]が出されることになる。こうした要因によって商人たちが経済の主導権を握るようになった。
18世紀に入ると日本は飢饉が頻発するようになり、[[天保の大飢饉]]になると藩によっては収穫ゼロ([[津軽藩]]など)のところも出てくるようになる。これを見て[[田沼意次]]は[[重商主義]]政策を取り入れようとしたが、反対勢力によって失敗に終わっている。また財政を改善させることを主目的とする、[[貨幣改鋳]]をたびたび行っている{{sfn|大塚|1999|p=74}}。
== 対外関係・外交 ==
: 「鎖国」([[海禁]])政策{{efn|江戸幕府の対外関係は「鎖国」と呼ばれてきたが、対ヨーロッパ貿易をオランダに制限しただけで、清や朝鮮などとは貿易を行っていたため、「海禁」と呼ぶべきだという主張がある<ref>荒野泰典『近世日本と東アジア』東京大学出版会、1988年</ref><ref>ロナルド・P・ トビ著・ 速水融・ 川勝平太・ 永積洋子翻訳『近世日本の国家形成と外交』(創文社、1990年)</ref>。}}のもとで、[[長崎市|長崎]]の[[唐人屋敷]]における清、長崎[[出島]]におけるオランダとの交易が幕府によって行われた。また、[[対馬藩]]を仲介した[[李氏朝鮮]]との[[倭館]]での交易も幕府の公認を受けたものだった。幕府による公式の貿易関係ではないが、[[薩摩藩]]の支配下にあった[[琉球王国]]を通じ清国・東南アジアとの仲介貿易、[[松前藩]]の勢力下にあった[[アイヌ]]との交易なども行われていた。この四箇所を「[[四つの口]]」と呼ぶこともある。交易とは違うが、天候不順により海外へ難破した者もいた。今に知られている漂流者らは、一様に外国の手厚い保護を受け、外国の知識を得て日本に帰国した。18世紀末にロシアに漂流し、女帝[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]に謁見した[[大黒屋光太夫]]や、アメリカで教育を受けて幕末に活躍する中浜万次郎([[ジョン万次郎]])もその一人である。なお、江戸幕府は唯一、[[李氏朝鮮]]とは正式な国交を持っていた。
=== 外交 ===
* [[朝鮮通信使]]
* [[日露関係史]]
* [[日朝関係史]]
* [[日蘭関係]]
== 宗教 ==
=== 儒教 ===
[[儒教]]は日本においてはむしろ儒学として発展し、江戸時代初期から中期にかけて[[朱子学]]や[[陽明学]]が盛んになった。
=== 仏教 ===
[[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|200px|[[エンゲルベルト・ケンペル]]による[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])のスケッチ<ref>ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』(中央公論社、1994年) p.95</ref>。[[豊臣秀吉]]が方広寺大仏を発願し、その後相次ぐ天災のため損壊と再建が繰り返されたが、それらの大仏は文献記録によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、江戸時代には大仏として日本一の高さを誇っていた。]]
[[仏教]]は、旗本出身である[[鈴木正三]]や独力で[[大蔵経]]を刊行した[[鉄眼道光]]、[[サンスクリット]]研究、戒律復興を提唱した[[慈雲]]、[[臨済宗]]中興の祖と称される[[白隠]]などの優れた僧侶がいなかったわけではなかったが、幕府の宗教政策の一環として民衆支配の方策として用いられたために([[檀家制度]])、一概に不振だった。仏教内部も腐敗し、いわゆる「葬式仏教」が成立したのもこの時期で、形骸化した仏教は神道、儒教の両派から批判された。織田政権や江戸幕府より邪宗とされた[[日蓮宗不受不施派]]は徹底的に弾圧された。
=== 神道 ===
[[神道]]では、幕府や諸藩の儒教奨励にともなって神道と儒教が習合した神儒一致の[[垂加神道]]などの儒教神道が現れた。次いで[[国学]]の隆盛にともない儒仏を廃した復古神道が唱えられ、一部では神仏分離が始まった。復古神道は儒教や仏教の教えを排除したが、一方では、垂加神道や復古神道は幕末の[[尊王論|尊王思想]]にも影響を与え、明治期の政策にも影響を与えた。明治維新で朝廷権力が復活したために、各地で勤皇の神社が建立され([[湊川神社]]もこのころ)、天皇陵が各地で定められた。
=== 耶蘇教(キリスト教) ===
豊臣秀吉によるバテレン追放令の流れを受け、耶蘇教と呼ばれた[[キリスト教]]は江戸時代のほとんどを通じて徹底した取り締まりを受けた。
江戸時代初期は交易国であった[[イギリス]]や[[ポルトガル]]などからもキリスト教が伝えられたため、禁止令も徹底されなかった。しかし[[鎖国]]政策を強めるにつれてキリスト教の弾圧が強化された。
*1622年([[元和 (日本)|元和]]8年)には長崎西坂で[[元和の大殉教]]として知られる大量処刑が行われた。この3代将軍[[徳川家光]]の時代には、封建制度の確立、貿易・出入国の管理・統制の強化(「鎖国」の徹底)、[[キリシタン]]の禁止が三大政策となり、キリスト教徒は殉教か棄教のいずれかを選択せざるを得なくなった。
*1635年([[寛永]]12年)長崎奉行に対する職務規定(「第三次鎖国令」)で、日本人の東南アジア方面との往来を禁止することで、[[宣教師]]の密航の手段として利用された朱印船貿易を廃止した。
*1637年(寛永14年)[[島原の乱]]が発生。この後は、全国でキリシタン取り締まりが徹底され、寺請制度などの制度によってキリシタンを摘発した。わずかに残った教徒は[[隠れキリシタン]]として幕末まで信仰を持続した。
*1865年([[慶応]]元年)には隠れキリシタンたちがフランス人宣教師に信仰を告白して世界的ニュースとなった。彼らはその後、明治政府に弾圧された([[浦上四番崩れ]])。
== 学問・思想 ==
江戸時代には、戦乱が静まり社会が安定し平和になったことと[[経済]]活動が活発になったことにより、人々の言論活動も活発になり、多様な[[学問]]が開花した。また経済の発展による[[庶民]]の台頭は、学問の担い手を生むこととなった。江戸時代の学問の特徴としては、研究者個人の直感的・連想的な思考を軸とする[[中世]]的な発想で研究を進めるのではなく、文献などに基づき実証的に研究するという態度が現れたことが挙げられる。また一部には[[身分]]制度を否定したりする思想が現れた。このように、中世を離れ[[近代]]に近い時期として、江戸時代は歴史の上で[[近世]]と定義されている。
江戸時代中期になると、藩政改革の一環としての[[藩校]]開学が各地で行われるようになる。基本的には藩士の子弟に朱子学や[[剣術]]を奨励・徹底するものだが、一部には医術や西洋技術を講義し、さらに庶民までも受講対象となるところもあった。庶民レベルでは、[[僧|僧侶]]ら知識階級が庶民らの子どもを集めて基本的な読み書きを教えた。この[[寺子屋]]が増えていったことで日本の識字率が高まっていき、幕末から明治にかけての近代化を支える原動力となった。また、京都や大坂などの大きな町では江戸時代初期から[[伊藤仁斎]]が[[古義堂]]を開くなど、[[私塾]]を構えるところもあったが、江戸中期から郷村で村塾といわれる私塾が出てきた。
[[和辻哲郎]]は、「[[慶長]]から[[元禄]]へかけて、すなわち十七世紀の間は、前代の余勢でまだ剛宕な精神や冒険的な精神が残っているが、その後は目に見えて日本人の創造活動が萎縮してくる」、「[[中江藤樹]]、[[熊沢蕃山]]、[[山鹿素行]]、[[伊藤仁斎]]、やや遅れて[[新井白石]]、[[荻生徂徠]]などの示しているところを見れば、それはむしろ非常に優秀である。これらの学者がもし広い眼界の中で自由にのびのびとした教養を受けることができたのであったら、十七世紀の日本の思想界は、十分ヨーロッパのそれに伍することができたであろう。それを思うと、[[林羅山]]などが文教の権を握ったということは、何とも名状のしようのない不愉快なことである」と評している<ref>[https://www.aozora.gr.jp/cards/001395/files/49881_46723.html 和辻哲郎 埋もれた日本 ――キリシタン渡来文化前後における日本の思想的情況――] ([[青空文庫]])</ref>。
'''儒学'''
[[論語]]をはじめとする儒教経典は古代から仏教経典とともに日本に伝来しており、[[室町時代]]には[[五山]]の僧により読まれていた。[[豊臣秀吉]]の[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]の際、[[姜沆]]らの朱子学者が連れ帰られたこと、また、徳川家康が論語を愛し、[[藤原惺窩]]とその弟子[[林羅山]]を重用したことで[[朱子学]]の研究が本格化した。幕府は[[昌平坂学問所]]を徳川家私設の学問所として設立した。民間では「近江聖人」と呼ばれた[[中江藤樹]]や、朱子の「祖述」を旨とした[[山崎闇斎]]の学派が存在し、民間にも朱子学は伝わっていった。[[ヘルマン・オームス|へルマン・オームス]]は朱子学と神道を統合した闇斎学派によって「徳川イデオロギー」が完成したとする<ref>{{Cite book|和書|title=徳川イデオロギー|year=1990|publisher=ぺりかん社|author=ヘルマン・オームス|translator=黒住真、清水正之、沢一、頼住光子}}</ref>。[[松平定信]]は[[寛政異学の禁]]で昌平坂学問所での朱子学以外の講義を禁じ、大坂の町人学問所である[[懐徳堂]]を公認した。[[陽明学]]は中江藤樹の弟子である[[熊沢蕃山]]が学んでいたほか、[[大塩平八郎]]や[[吉田松陰]]ら幕末の志士にも学ばれた。
朱子学が勢いづくに従ってその批判も起こった。[[山鹿素行]]は聖学と称して[[古学]]派の先駆者となり、[[貝原益軒]]は朱子学教説への懐疑を露にした。[[伊藤仁斎]]と[[伊藤東涯]]は朱子によらず経典が書かれた中国古代の字句の意味を明らかにする古義学を打ち立てた。[[荻生徂徠]]の古文辞学はこれらを大成するものであり、古代の聖人による「物」(事物、儀礼)に対する「名」(概念)の「制作」を論じ、政治的な復古主義を主張した。懐徳堂で学んだ[[富永仲基]]や[[山片蟠桃]]は儒教・仏教・神道全てを否定する無鬼論を主張した。
'''国学'''
* [[儒学]]:[[朱子学]]、[[陽明学]]、[[古学]]、[[古義学]]、[[古文辞学]]
* [[国学 (学問)|国学]]、[[尊王論]]、[[宝暦事件]]、[[明和事件]]
* [[石門心学|心学]]
* [[水戸学]]
* [[蘭学]]、[[寛政異学の禁]]、[[シーボルト事件]]、[[蛮社の獄]]
* [[和算]]
== 文化・芸術・風俗 ==
いくつかの地方では女性の平均的な結婚年齢は24歳で、男性は28歳だった。最初の子どもが生まれるのは結婚して3年というのが平均的だった。結婚した夫婦の半数は子ども2人以下で、あとの半数は1夫婦あたり4人から5人の出生数(養育数)だった{{efn|「人口構成の正確な状況を把握するために、いくつかの村の膨大な古い記録を調べてみたことがある」として。松原久子『驕れる白人と闘うための日本近代史』( 育てるのは二人か三人、下百姓は二人あるいは一人<ref>児玉幸多『近世農民生活史―江戸時代の農民生活―』吉川弘文館、1951年</ref>}}。
* [[寛永文化]]、[[元禄文化]]、[[天明文化]]、[[化政文化]]
* [[町人文化]]、[[上方]]と江戸、[[いき|粋]](いき)と[[通]](つう)
* [[江戸っ子]]
; [[文芸]]
* '''[[俳諧]]''':[[松永貞徳]](貞門俳諧)、[[西山宗因]](談林俳諧)、[[松尾芭蕉]](蕉風俳諧)、[[与謝蕪村]]、[[小林一茶]]
* '''[[戯作]]'''
**'''[[草双紙]]''':[[浅井了意]]・[[鈴木正三]]ほか『[[仮名草子]]』、[[井原西鶴]]『[[浮世草子]]』
** '''[[談義本]]'''・'''[[滑稽本]]''':[[十返舎一九]]『[[東海道中膝栗毛]]』、[[式亭三馬]]『[[浮世風呂]]』<!--『[[浮世床]]』-->
** '''[[読本]]''':[[上田秋成]]『[[雨月物語]]』、[[曲亭馬琴]]『[[南総里見八犬伝]]』
** '''[[洒落本]]''':[[山東京伝]]『[[仕懸文庫]]』
** '''[[黄表紙]]''':[[恋川春町]]『[[金々先生栄華夢]]』
** '''[[人情本]]''':[[為永春水]]『[[春色梅児誉美]]』
** '''[[合巻]]''':[[柳亭種彦]]『[[偐紫田舎源氏]]』
; [[芸能]]
* '''[[文楽|人形浄瑠璃]]''':[[近松門左衛門]]、[[紀海音]]、[[竹本義太夫]]、[[豊竹若大夫]]、[[竹田出雲|二代目竹田出雲]]
* '''[[歌舞伎]]'''
** 役者:[[市川團十郎|初代・二代目・四代目・七代目 市川團十郎]]、[[嵐三右衛門 (初代)|初代嵐三右衛門]]、[[坂田藤十郎 (初代)|初代坂田藤十郎]]、[[瀬川菊之丞 (3代目)|三代目瀬川菊之丞]]、[[中村富十郎 (初代)|初代中村富十郎]]、[[尾上菊五郎 (3代目)|三代目尾上菊五郎]]、[[中村歌右衛門 (3代目)|三代目中村歌右衛門]]、[[松本幸四郎 (5代目)|五代目松本幸四郎]]
** 作者:[[並木五瓶|初代並木五瓶]]、[[並木宗輔]]、[[並木正三]]、[[鶴屋南北 (4代目)|四代目鶴屋南北]]、[[河竹黙阿弥|二代目河竹新七(黙阿弥)]]
* '''[[日本舞踊|舞踊]]'''
** '''[[舞]]''':[[能楽]]を除き、徐々に衰えた。
** '''[[踊り|踊]]''':[[念仏踊り]]、[[盆踊り]]
** '''[[日本舞踊#振り|振]]''':[[歌舞伎舞踊]]、[[上方舞]]
* '''[[演芸]]'''
** '''[[落語]]''':[[鹿野武左衛門]]、[[露の五郎兵衛#初代|初代露の五郎兵衛]]、[[米沢彦八#初代|初代米沢彦八]]、[[三遊亭圓朝#初代|初代三遊亭圓朝]]
** '''[[講談]]'''
** '''[[水芸]]'''
** '''[[紙切り|紙切]]'''
; 音楽
* '''[[三味線音楽]]'''
**[[歌いもの]]
***'''[[地歌]]'''
****[[三味線組歌]]:[[石村検校]]『[[琉球組]]』、[[野川検校]]、[[柳川検校]]
**** [[芝居歌]]:[[岸野治朗左]]
**** [[長歌物]]:[[佐山検校]]『[[躑躅#音楽|躑躅]]』、[[浅利検校]]
**** [[端歌物]]:[[藤永検校]]、[[政島検校]]、[[鶴山勾当]]、[[峰崎勾当]]『[[雪 (地歌)|雪]]』『[[袖香炉]]』
**** [[謡曲|謡曲物]]:[[藤尾勾当]]『[[屋島 (地歌)|屋島]]』『[[虫の音]]』『[[鉄輪]]』
**** [[手事物]]:[[深草検校]]『[[さらし (地歌)|さらし]]』
*****[[峰崎勾当]]:『[[残月]]』『[[越後獅子]]』『[[吾妻獅子]]』『[[玉椿]]』
***** [[松島検校]]:『[[椿尽し]]』
***** [[菊崎検校]]:『[[西行桜]]』
***** [[国山勾当]]:『[[玉川]]』
***** [[三つ橋勾当]]:『[[松竹梅]]』『[[根曳の松]]』
***** [[松浦検校]]:『[[四季の眺]]』『[[深夜の月]]』『[[四つの民]]』『[[宇治巡り]]』『[[玉の台]]』『[[新浮舟]]』『[[若菜]]』『[[里の春]]』『[[末の契]]』『[[新松尽し]]』『[[三つ恋慕]]』『[[里の暁]]』『[[鳥追 (地歌)|鳥追]]』
***** [[石川勾当]]:『[[八重衣]]』『[[新青柳]]』『[[融]]』『[[新娘道成寺]]』
***** [[菊岡検校]]:『[[御山獅子]]』『[[茶音頭]]』『[[楫枕]]』『[[今小町]]』『[[磯千鳥]]』『[[夕顔]]』『[[笹の露]]』『[[長等の春]]』『[[芥子の花 (地歌)|芥子の花]]』『[[梅の春]]』『[[園の秋]]』『[[ままの川]]』『[[舟の夢]]』
***** [[光崎検校]]:『[[桜川 (地歌)|桜川]]』『[[七小町]]』『[[初音 (地歌)|初音]]』『[[千代の鶯]]』『[[夜々の星]]』『[[桂男 (地歌)|桂男]]』
***** [[在原勾当]]:『[[さむしろ]]』『[[松の寿]]』
***** [[菊山検校]]:『[[春の曙]]』
***** [[吉沢検校]]:『[[玉くしげ]]』『[[深山木]]』『[[花の縁]]』『[[新山姥]]』『[[夏衣]]』
***** [[幾山検校]]:『[[萩の露]]』『[[打盤]]』『[[横槌]]』『[[新玉鬘]]』『[[四季の寿]]』『[[川千鳥]]』『[[磯の春]]』
***** [[葛原勾当]]:『[[花形見]]』
***** [[光瀬都]]
*** [[長唄]]
*** [[歌沢]]
*** [[端唄]]
*** [[小唄]]
** [[浄瑠璃]]([[語り物]])
*** [[義太夫節]]、[[豊後節]]、[[常磐津節]]、[[清元節]]、[[半太夫節]]、[[河東節]]、[[宮園節]]、[[一中節]]、[[富本節]]、[[新内節]]、[[繁太夫節]]、[[大薩摩節]]、[[荻江節]]
* '''[[三曲]]'''
** 地歌
** '''[[箏曲]]'''
*** '''[[筑紫箏]]''':[[賢順]]、[[法水]]
*** '''[[八橋流]]''':[[八橋検校]]、[[北島検校]]
*** '''[[生田流]]'''系諸派:[[生田検校]]、[[継橋検校]]、[[三橋検校]]、[[市浦検校]]、松浦検校、[[浦崎検校]]、[[八重崎検校]]、光崎検校、吉沢検校、幾山検校、葛原勾当
*** '''[[山田流]]''':[[山田検校]]、[[山登検校]]、[[山勢検校]]、[[山木検校]]、[[千代田検校]]
** '''[[胡弓|胡弓楽]]''':八橋検校、[[藤植検校]]、政島検校、[[腕崎検校]]、吉沢検校
** '''[[尺八|尺八楽]]'''
*** [[一節切]]
*** [[普化]]尺八
*** '''[[琴古流]]''':[[黒沢琴古]]
* '''[[明清楽]]'''
** [[明楽]]
** [[清楽]]
* '''[[一絃琴]]'''
* '''[[二絃琴]]''':[[中山琴主]]
* '''[[琵琶楽|琵琶]]'''
** [[琵琶|薩摩琵琶]]:[[淵脇了公]]
* その他
** [[下座音楽]]、[[門付]]、はやり歌<!--([[流行歌]])--><!--???-->、[[都々逸]]、[[ちょぼくれ]]、[[民謡]]
; 建築
* '''城郭''':社会の安定と幕府による規制のため、急激に衰えた。
* '''寺社''':[[清水寺]]本堂<!--({{subst:和暦/sandbox|1633}})-->、[[東寺]]の[[五重塔]]<!--({{subst:和暦/sandbox|1644}})-->、[[萬福寺]]<!--({{subst:和暦/sandbox|1661}})-->、[[善光寺]]本堂<!--({{subst:和暦/sandbox|1707}})-->、[[東大寺]]大仏殿<!--({{subst:和暦/sandbox|1709}})-->、[[出雲大社]]本殿<!--({{subst:和暦/sandbox|1744}})-->、[[春日神社]]本殿の改築<!--({{subst:和暦/sandbox|1863}})-->
* '''[[霊廟]]''':[[日光東照宮]]<!--({{subst:和暦/sandbox|1616}}-{{subst:和暦/sandbox|1636}})-->
* '''[[御所]]''':[[京都御所]]再建<!--({{subst:和暦/sandbox|1854}})-->、[[桂離宮]]<!--([[1600年]]代)-->、[[修学院離宮]]<!--({{subst:和暦/sandbox|1655}})-->
* '''[[数奇屋]]''':[[龍光院 (京都市北区)|龍光院]]密庵<!--({{subst:和暦/sandbox|1608}})-->、[[大徳寺]][[孤篷庵]]の忘筌<!--({{subst:和暦/sandbox|1793}})-->
; 美術
* '''絵画'''
** '''[[狩野派]]''':[[狩野探幽]]
**'''[[琳派]]''':[[俵屋宗達]]、[[尾形光琳]]、[[酒井抱一]]
**'''[[土佐派]]''':[[土佐光起]]
** '''[[文人画]]'''([[南画]]):[[池大雅]]、[[与謝蕪村]]、[[浦上玉堂]]、[[青木木米]]、[[田能村竹田]]、[[渡辺崋山]]
** '''[[浮世絵]]''':[[菱川師宣]]、[[鈴木春信]]、[[鳥居清長]]、[[喜多川歌麿]]、[[東洲斎写楽]]、[[葛飾北斎]]、[[歌川広重]]、[[歌川豊国]]、[[歌川国貞]]
** '''円山四条派''':[[円山応挙]]、[[呉春]]
** '''洋風画''':[[平賀源内]]、[[司馬江漢]]、[[亜欧堂田善]]、[[小田野直武]]、[[佐竹曙山]]、[[佐竹義躬]]
* '''工芸'''
** '''[[陶磁器]]''':[[伊万里焼]]([[酒井田柿右衛門]])、[[京焼]]([[野々村仁清]])、[[九谷焼]]、[[瀬戸焼]]、[[萩焼]]
** '''[[染物|染織物]]''':[[友禅染]]、[[小紋染]]、[[豊後絞り]]<!--、その他[[米沢市|米沢]]、[[桐生市|桐生]]、[[伊勢崎市|伊勢崎]]、[[秩父地方|秩父]]-->
** '''[[ガラス細工|硝子工芸]]''':[[ぽぴん|ぽっぺん]]、[[江戸切子]]、[[薩摩切子]]、[[七宝焼]]
** '''[[日本の漆器|漆器]]'''
** '''[[印籠]]'''
** '''[[根付]]'''
; 園芸
* '''花卉''':[[ツバキ|椿]]、[[サクラ|桜]]、[[ボタン (植物)|牡丹]]、[[シャクヤク|芍薬]]、[[ウメ|梅]]、[[ツツジ|躑躅]]、[[キク|菊]]、[[カエデ|楓]]、[[ナデシコ|撫子]]、[[アサガオ|朝顔]]、[[センノウ属|仙翁]]、[[サクラソウ|桜草]]、[[ハナショウブ|花菖蒲]]、[[オモト|万年青]]、[[カラタチバナ|唐橘]]、[[マンリョウ|万両]]、[[ヤブコウジ|藪柑子]]、[[松葉蘭]]、[[長生蘭]]<!--([[セッコク]])-->、[[富貴蘭]]<!--([[フウラン]])-->、[[シノブ|軒忍]]、[[細辛]]、[[フクジュソウ|福寿草]]、[[タンポポ|蒲公英]]、[[ホオズキ|酸漿]]
* '''[[盆栽]]'''
; 風俗
* '''娯楽''':[[花見]]、[[潮干狩り]]、<!--[[かわらけ投げ]]、-->[[金魚|金魚売り]]、[[虫売り]]、[[花火#日本|両国川開き]]、[[紅葉#紅葉狩り|紅葉狩り]]、[[江戸三座|芝居見物]]([[歌舞伎]]、[[人形浄瑠璃]])、[[大相撲|相撲見物]]、[[落語]]、[[講談]]、[[成田参詣|成田詣で]]、[[お伊勢参り]]、[[富士詣り]]
* '''[[茶屋]]''':[[水茶屋]]、[[芝居茶屋]]、[[相撲茶屋]]、[[待合茶屋]]、[[陰間茶屋]]
* '''[[遊廓]]''':[[吉原遊廓|吉原]]、[[島原 (京都)|島原]]、[[新町遊郭|新町]]、[[岡場所]]、[[飯盛女]]
* '''[[賭博]]''':[[富籤]]、[[無尽]](頼母子講)、[[賽子]]、[[花札]]
; 食文化
* '''[[江戸料理]]'''
* [[蕎麦]]
* [[握り寿司]]
* [[江戸前寿司]]
* [[刺身]]
* [[海苔巻き]]
* [[浅草海苔]](板海苔)
* [[うなぎ]]の[[蒲焼]]
* [[佃煮]]
* [[フグ|ふぐ]]
* [[カツオ|初鰹]]
* [[天ぷら]]
* [[豆腐]]
* [[味噌田楽]]
* [[納豆汁]]
* [[本膳料理]]
* [[すき焼き|肉鍋]]
* [[大判焼]]
* [[砂糖]]を使った[[菓子]]
* 砂糖漬け
== 人物 ==
* [[江戸時代の人物一覧]]
* [[徳川将軍一覧]]
* [[大老]]・[[老中]]・[[側用人]]の一覧
* [[町奉行]]・[[勘定奉行]]の一覧
* [[長崎奉行]]・[[外国奉行]]・[[軍艦奉行]]の一覧
* [[京都所司代]]・[[大坂城代]]の一覧
* [[幕末の人物一覧]]
* [[明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧]]
===江戸時代生まれの最後の生き残り===
1868年(慶応4年)生まれが96歳となる[[1960年代]]の時期の[[1964年]](昭和39年頃)より江戸時代生まれの男性がゼロになった県が出ていた。100歳となる[[1968年]]([[明治100周年記念式典]]の頃)より江戸時代生まれの人物が女性を含めてゼロになった県が出ていた。1968年9月時点では1868年9月以前の生まれの人口が山形県、栃木県、群馬県、埼玉県が1人で青森県、富山県、石川県、奈良県が2人であった<ref>明治百年記念関係行事等概況「明治百年記念100歳以上の高齢者の慶祝」より</ref>。
[[1970年]]時点での江戸時代生まれの人物は100人台、うち男性は19人であった。1973年9月時点では江戸時代生まれの人物は10人、1975年時点では6人であった。
大政奉還以前生まれ最後の人物は[[1976年]][[11月16日]]に死去した[[河本にわ]]で、うち男性は[[1973年]][[8月1日]]に死去した[[後藤長次郎]]([[1866年]][[7月4日]]生まれ、岐阜県)であった。
明治改元以前生まれ最後の人物は[[1977年]][[5月27日]]に死去した[[中山イサ]]で、うち男性は1976年[[1月2日]]に死去した[[吉川与三太郎]]であった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=尾藤正英|authorlink=尾藤正英|title=江戸時代とはなにか:日本史上の近世と近代|series=[[岩波現代文庫]]|year=2006}}
* {{Cite book|和書|author=田中彰|title=近代天皇制への道程|publisher=吉川弘文館|year=2007|origyear=1979|ref = {{SfnRef|田中|2007}} }}
* {{Cite journal |和書|author=大塚英樹|authorlink = |url=https://www.imes.boj.or.jp/research/abstracts/japanese/kk18-4-2.html|title =江戸時代における改鋳の歴史とその評価 |date =1999 |publisher =[[日本銀行金融研究所]] |journal =金融研究|volume = 18|issue = 4|ref = {{SfnRef|大塚|1999}} }}
* {{Cite book|和書|author=宮地正人|title=幕末維新変革史|volume=下|publisher=岩波書店|year=2012}}
* {{Cite book|和書|author=山口啓二|title=鎖国と開国|year=2006|publisher=岩波書店}}
=== 関連文献 ===
記事本文には引用・参観されていないものの、記事に関係がある文献の一覧。
* {{Cite book|和書|title=江戸時代史(上下巻)|year=1992|origyear=1943-44|publisher=講談社学術文庫|author=三上参次}}
* {{Cite book|和書|title=江戸時代|year=1977|publisher=中央公論社|series=中公新書|author=大石嘉一郎|isbn=4121004760}}
* {{Cite book|和書|title=江戸は夢か|year=2004|origyear=1992|publisher=筑摩書房|series=ちくま学芸文庫|author=水谷三公|isbn=4480088091}}
* {{Cite book|和書|title=日本の近世|year=2020|publisher=放送大学教材|author=杉森哲也|isbn=9784595321900}}
* {{Cite book|和書|title=近世大名家臣団の社会構造|year=2013|origyear=2003|publisher=文春学芸ライブラリー|author=磯田道史|isbn=9784168130083}}
* {{Cite book|和書|title=近世国語学史|year=1928|publisher=立川文明堂|author=伊藤愼吾}}
* {{Cite book|和書|title=日本文学史(近世篇1~3)|publisher=中央公論新社|series=中公文庫|year=2011|origyear=1995|author=ドナルド・キーン|translator=徳岡孝夫}}
* {{Cite book|和書|title=近世文学史論:古典知の継承と展開|year=2023|publisher=岩波書店|author=鈴木健一|isbn=9784000615808}}
* {{Cite book|和書|title=日本の近世文学|year=1965|publisher=文化書房|author=黒羽英男}}
== 関連項目 ==
* [[日本近世史]]
* [[大坂の陣]]、[[参勤交代]]、[[武家諸法度]]、[[武断政治]]、[[島原の乱]]、[[鎖国]]
* [[元禄|元禄時代]]、[[文治政治]]、[[側用人]][[政治]]、[[赤穂事件]]
* [[正徳の治]]
* [[幕政改革]]
* [[享保の改革]]、[[田沼時代]]、[[寛政の改革]]、[[大御所時代]]、[[天保の改革]]
* [[幕末]]、[[黒船来航]]、[[安政の大獄]]、[[戊辰戦争]]
* [[東京時代]]
* [[日本の歴史]]
* [[日本史時代区分表]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
* {{ジャパンナレッジ|1931}}
{{江戸時代}}
{{江戸幕府将軍}}
{{江戸幕府大老}}
{{江戸幕府老中首座}}
{{日本の歴史一覧|1603年-1868年}}
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[[Category:日本の歴史 (時代別)]]
[[Category:江戸時代|*]]
[[Category:17世紀の日本]]
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[[Category:19世紀の日本]] | 2003-02-23T03:27:01Z | 2023-11-27T02:36:04Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3 |
2,742 | 1月8日 | 1月8日(いちがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から8日目に当たり、年末まであと357日(閏年では358日)ある。 | [
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] | 1月8日(いちがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から8日目に当たり、年末まであと357日(閏年では358日)ある。 | {{カレンダー 1月}}
'''1月8日'''(いちがつようか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から8日目に当たり、年末まであと357日([[閏年]]では358日)ある。
== できごと ==
* [[645年]]([[貞観 (唐)|貞観]]18年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]) - [[唐]]の仏僧の[[玄奘三蔵]]がインドなどを巡る16年の旅から帰国。
* [[871年]] - [[イングランド王国|イングランド王]][[エゼルレッド (ウェセックス王)|エゼルレッド]]とその弟[[アルフレッド大王|アルフレッド]]率いるアングロ・サクソン軍が、[[デーン人]][[ヴァイキング]]の軍勢を[[アッシュダウンの戦い]]で撃破した。
* [[1198年]] - [[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]がローマ教皇に選出される。
* [[1297年]] - [[フランソワ・グリマルディ]]らがモナコ要塞を占拠。[[モナコ|モナコ公国]]が成立。
* [[1499年]] - フランス王[[ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世]]がブルターニュ女公[[アンヌ・ド・ブルターニュ|アンヌ]]と再婚。
* [[1558年]] - [[1月1日]]始まった[[カレー包囲戦 (1558年)|カレー包囲戦]]が終結。[[フランソワ・ド・ギーズ]]の手により、[[1347年]][[8月4日]]以来[[イングランド王国|イングランド]]領となっていた同市が[[フランス王国]]領に戻る。
* [[1746年]] - {{仮リンク|第二次ジャコバイト蜂起|en|Jacobite Rising of 1745}}: [[チャールズ・エドワード・ステュアート|チャールズ小僭王]]が[[スターリング (スコットランド)|スターリング]]を占領。
* [[1790年]] - 米大統領[[ジョージ・ワシントン]]が初の[[一般教書演説]]を行う。
* [[1806年]] - [[イギリス]]領[[植民地]]として[[ケープ植民地]]が発足。
* [[1815年]] - [[米英戦争]]: [[ニューオーリンズの戦い]]
* [[1863年]] - [[南北戦争]]: {{仮リンク|スプリングフィールドの戦い (1863年)|en|Second Battle of Springfield|label=第2次スプリングフィールドの戦い}}
* [[1872年]] - [[仙台県]]が[[宮城県]]に改称。
* [[1875年]] - [[文部省]]が、[[学齢]]を満6歳から満14歳までと定める。
* [[1877年]] - [[クレイジー・ホース]]が[[モンタナ州]]で{{仮リンク|アメリカ騎兵隊|en|Cavalry (United States)}}との最後の戦いに挑む。
* [[1889年]] - [[ハーマン・ホレリス]]が[[タビュレーティングマシン]]の特許を取得。
* [[1912年]] - [[アフリカ民族会議]]成立。
* [[1912年]] - [[日本国有鉄道|国鉄]][[上野駅]]に日本初の[[発車ベル]]を設置。
* [[1918年]] - [[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]が議会で[[第一次世界大戦|第一次大戦]]和平と戦後世界についての「[[十四か条の平和原則]]」を発表。
* [[1926年]] - [[アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード]]が[[ヒジャーズ王国|ヒジャーズ国王]]に即位。
* [[1926年]] - [[バオ・ダイ]]が[[阮朝]]最後の皇帝に即位。
* [[1927年]] - 日本水平社結成。
* [[1932年]] - [[桜田門事件]]: 陸軍観兵式の帰途、天皇陛下の馬車が桜田門の警視庁前を通りかかったとき、群衆の中から手榴弾が投げられる昭和天皇暗殺未遂事件が発生<ref>{{Cite web |url=https://f-showa.or.jp/museum/about_emperor_showa/ |title=昭和天皇について |access-date=21 Dec 2023 |publisher=公益財団法人 昭和聖徳記念財団 |website=昭和天皇記念館}}</ref>。
* 1932年 - [[栃木県]][[阿久津町]]内で行われていた[[小作料]]の減額交渉をめぐり、[[労農大衆党]]と[[大日本生産党]]が武力衝突して3人が死亡、数十人が負傷<ref>労農大衆党員が生産党員と乱闘、三人が死ぬ『東京日日新聞』昭和7年1月10日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和6年-昭和7年』本編p196 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。500余人が保護検束される。
* [[1934年]] - [[京都駅]]構内で呉海兵団[[入営]]臨時列車の見送り客圧死事故。([[京都駅跨線橋転倒事故]])
* [[1936年]] - [[イラン]]で[[ヒジャブ|ヘジャブ]]着用が禁じられる。([[キャシュフェ・ヘジャーブ]])
* [[1941年]] - [[戦陣訓]]が布告される。
* [[1948年]] - [[マンテル大尉事件]]が起こる。
* [[1958年]] - [[立法院 (琉球)|沖縄立法院]]が、沖縄で日本の[[教育基本法]]等の教育諸法を適用する法律を公布。
* [[1959年]] - [[シャルル・ド・ゴール]]が[[フランス第五共和政]]の初代大統領に、[[ミシェル・ドブレ]]が首相に就任。
* [[1964年]] - [[リンドン・ジョンソン]]米大統領が[[一般教書演説]]で「{{仮リンク|貧困との戦い|en|War on Poverty}}」を宣言。
* [[1973年]] - ソ連の月探査機「[[ルナ21号]]」が打ち上げ。
* [[1984年]] - [[ブルネイ]]が[[東南アジア諸国連合]] (ASEAN) に加盟。
* [[1985年]] - [[東京大学]][[宇宙科学研究所|宇宙科学航空研究所]]が[[ハレー彗星]][[宇宙探査機|探査機]]「[[さきがけ (探査機)|さきがけ]]」を打上げ。[[日本]]初の人工[[惑星]]となる。
* [[1989年]] - 前日([[1月7日|7日]])の[[昭和天皇]]の[[崩御]]に伴う[[明仁親王]]の[[皇位継承]]により、[[元号を改める政令 (昭和六十四年政令第一号)|元号を改める政令]]に基づき、「[[平成]]」に[[改元]]<ref>{{Cite web |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO25201590Y7A221C1709E00/ |title=「平成」改元を発表 1989年1月7日 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=5 Jan 2018 |accessdate=21 Dec 2023}}</ref>。[[元号一覧 (日本)|日本の元号史上]]初めて[[法令]]([[元号法]])に基づいて改元が行われた。
* 1989年 - [[ブリティッシュミッドランド航空92便不時着事故]]。
* [[1992年]] ー [[小惑星]][[エゲリア (小惑星)|エゲリア]]が[[掩蔽]]し[[直径]]が分かった。
* [[1993年]] - [[日本ビクター]](現:[[JVCケンウッド]])が家庭用[[ハイビジョン]][[ビデオテープレコーダ|VTR]]の試作機を開発。
* [[1994年]] - [[ワレリー・ポリャコフ]]が宇宙ステーション[[ミール]]に向かうために[[ソユーズTM-18]]で地球を出発。[[1995年]][[3月22日]]に帰還するまでの437日は世界最長の宇宙滞在期間。
* [[2005年]] - 米海軍の原子力潜水艦「[[サンフランシスコ (原子力潜水艦・初代)|サンフランシスコ]]」が最大速度で航行中に海山に衝突。乗組員1人が死亡。
* [[2007年]] - 第85回[[全国高等学校サッカー選手権大会|全国高校サッカー選手権大会]]で、[[岩手県]]代表の[[岩手県立盛岡商業高等学校|盛岡商業高等学校]]が岩手県勢初の優勝を果たす。
* [[2011年]] - 米[[アリゾナ州]][[ツーソン (アリゾナ州)|ツーソン]]で[[2011年ツーソン銃撃事件|男が銃を乱射]]。[[ガブリエル・ギフォーズ]][[民主党 (アメリカ)|民主党]][[下院議員]]を含む人が7名が死亡し、十数人が負傷した<ref>{{Cite web |date=9 Jan 2011 |url=https://jp.reuters.com/article/idUSN08245540/ |title=This day in history: Rep. Gabrielle Giffords shot in Arizona |publisher=[[ロイター|REUTERS]] |accessdate=21 Dec 2023}}</ref>。
* [[2012年]] - [[靖国神社・日本大使館放火事件|日本大使館放火事件]]が起こる<ref>{{Cite web|和書 |url=https://news.ntv.co.jp/category/international/197790 |title=火炎瓶投げた男 靖国放火も具体的に供述 |publisher=[[日本テレビ放送網|Nippon Television Network Corporation]] |date=9 Jan 2012 |accessdate=21 Dec 2023 |website=[[日テレNEWS24]]}}</ref>。
* [[2019年]] - 女子[[レスリング]][[吉田沙保里]]が現役[[引退]]を発表<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sanspo.com/article/20190108-C26LC56HK5I6XJSAEODO2KJJZ4/ |title=吉田沙保里が現役引退 自身のツイッターで表明/レスリング |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=8 Jan 2019 |accessdate=21 Dec 2023}}</ref>。
* 2019年 - [[山口真帆暴行事件]]: [[NGT48]]のメンバー、[[山口真帆]]が配信で暴行被害を告白。大きな騒動へと発展する。
== 誕生日 ==
[[ファイル:Horiguchi Daigaku.jpg|thumb|254x254px|詩人、[[堀口大學]](1892-1981)。代表作に『月下の一群』(1925)など]]
[[ファイル:Kim_Jong-un_April_2019_(cropped).jpg |thumb|250x250px|北朝鮮最高指導者、[[金正恩]](1983-)]]
=== 人物 ===
* [[1037年]]([[景祐]]3年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]) - [[蘇軾]]、[[詩人]]、[[書家]]、[[政治家]](+ [[1101年]])
* [[1556年]]([[弘治 (日本)|弘治]]元年[[11月27日 (旧暦)|11月27日]]) - [[上杉景勝]]、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]の[[大名]](+ [[1623年]])
* [[1712年]]([[正徳 (日本)|正徳]]元年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]) - [[松平忠俔]]、第3代[[島原藩|島原藩主]](+ [[1738年]])
* [[1767年]]([[明和]]3年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]) - [[大岡忠要]]、第3代[[岩槻藩|岩槻藩主]](+ [[1786年]])
* [[1768年]](明和4年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]]) - [[松平直之 (明石藩主)|松平直之]]、第5代[[明石藩|明石藩主]](+ 1786年)
* [[1775年]]([[安永 (元号)|安永]]3年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]) - [[小出英筠]]、第7代[[園部藩|園部藩主]](+ [[1821年]])
* [[1797年]]([[寛政]]8年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]) - [[石川総承]]、第7代[[下館藩|下館藩主]](+ [[1865年]])
* [[1811年]]([[文化 (元号)|文化]]3年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]) - [[細川行芬]]、第9代[[宇土藩|宇土藩主]](+ [[1876年]])
* [[1823年]] - [[アルフレッド・ラッセル・ウォレス]]、[[生物学|生物学者]](+ [[1913年]])
* [[1830年]] - [[ハンス・フォン・ビューロー]]、[[指揮者]]、[[ピアニスト]](+ [[1894年]])
* [[1836年]] - [[ローレンス・アルマ=タデマ]]、[[画家]](+ [[1912年]])
* [[1854年]]([[嘉永]]6年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]) - [[久世広文]]、第8代[[関宿藩|関宿藩主]](+ [[1899年]])
* [[1860年]]([[安政]]6年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]]) - [[下瀬雅允]]、[[発明家]](+ [[1911年]])
* [[1863年]] - [[パウル・シェーアバルト]]、[[作家]](+ [[1915年]])
* 1863年 - [[エレン・センプル]]、[[地理学者]](+ [[1932年]])
* [[1866年]] - [[ハリス・ライアン]]、[[電子工学]]研究者(+ [[1934年]])
* [[1867年]] - [[エミリー・グリーン・ボルチ]]、作家、[[平和主義]]者(+ [[1961年]])
* [[1873年]] - [[リュシアン・カペー]]、[[音楽家]](+ [[1928年]])
* [[1878年]] - [[リチャード・ポンソンビー=フェイン]]、[[日本学|日本学者]](+ [[1937年]])
* [[1883年]] - [[パーヴェル・フィローノフ]]、画家、美術理論家(+ [[1941年]])
* 1883年 - [[ペンティ・エーリス・エスコラ]]、[[地質学|地質学者]](+ [[1964年]])
* [[1891年]] - [[ブロニスラヴァ・ニジンスカ]]、[[舞踏家]]、[[振付師]](+ [[1972年]])
* [[1892年]] - [[堀口大學]]、[[詩人]](+ [[1981年]])
* [[1894年]] - [[マキシミリアノ・コルベ]]、[[カトリック教会|カトリック]][[司祭]](+ [[1941年]])
* [[1895年]] - [[北村寿夫]]、[[脚本家]]、[[児童文学|児童文学作家]](+ [[1982年]])
* [[1897年]] - [[ヴァルター・グラマッテ]]、[[画家]](+ [[1929年]])
* [[1902年]] - [[河上徹太郎]]、[[文芸評論家]]、[[音楽評論家]](+ [[1980年]])
* [[1905年]] - [[ジャチント・シェルシ]]、[[作曲家]](+ [[1988年]])
* [[1909年]] - [[ホセ・ファーラー]]、[[俳優]](+ [[1992年]])
* [[1910年]] - [[ガリーナ・ウラノワ]]、[[バレリーナ]](+ [[1998年]])
* [[1912年]] - [[今井正]]、[[映画監督]](+ [[1991年]])
* 1912年 - [[藤田進]]、俳優(+ [[1990年]])
* [[1914年]] - [[松澤初穂]]、[[水泳選手一覧|水泳選手]](+ [[2011年]])
* [[1915年]] - [[遊佐正憲]]、水泳選手(+ [[1975年]])
* [[1917年]] - [[田村三郎]]、[[農芸化学|農芸化学者]](+ [[2015年]])
* [[1918年]] - [[岩出清]]、元[[プロ野球選手]]
* 1918年 - [[山川彌千枝]]、『薔薇は生きてる』著者(+ [[1933年]])
* [[1920年]] - [[早石修]]、[[医学者]](+ [[2015年]])
* [[1923年]] - [[ジョセフ・ワイゼンバウム]]、[[計算機科学]]研究者(+ [[2008年]])
* 1923年 - [[萩原寛]]、プロ野球選手(+ [[1997年]])
* [[1926年]] - [[森英恵]]、[[ファッションデザイナー]](+ [[2022年]])
* [[1929年]] - [[初井言榮]]、[[俳優|女優]](+ [[1990年]])
* [[1930年]] - [[小山内美江子]]、[[脚本家]]
* [[1932年]] - [[鈴木幸雄]]、元プロ野球選手(+ [[2022年]])
* [[1933年]] - [[小川国彦]]、[[政治家]](+ [[2017年]])
* [[1935年]] - [[エルヴィス・プレスリー]]、[[歌手]](+ [[1977年]])
* 1935年 - [[レノ・ベルトイア]]、元プロ野球選手(+ [[2011年]])
* [[1936年]] - [[大森暁美]]、女優
* 1936年 - [[ロバート・メイ]]、[[生物学者]]
* 1936年 - [[浜田宏一]]、[[経済学者]]
* [[1937年]] - [[結城亮一]]、作家
* [[1939年]] - [[笹川陽平]]、[[日本財団]]第3代会長
* 1939年 - [[矢部丈太郎]]、[[官僚]]
* [[1941年]] - [[グレアム・チャップマン]]、[[コメディアン]]([[モンティ・パイソン]])(+ [[1989年]])
* 1941年 - [[畑村洋太郎]]、[[工学者]]
* [[1942年]] - [[小泉純一郎]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/087.html |title=第87代 小泉純一郎 |publisher=内閣官房内閣広報室 |accessdate=21 Dec 2023 |website=歴代内閣 {{!}} 首相官邸ホームページ}}</ref>、元[[政治家]]、第87・88代[[内閣総理大臣]]、第20代[[自由民主党総裁]]
* 1942年 - [[スティーヴン・ホーキング]]、[[理論物理学|理論物理学者]](+ [[2018年]])
* 1942年 - [[角川春樹]]、実業家、[[俳人]]
* 1942年 - [[落合信彦]]、ジャーナリスト
* 1942年 - [[イヴェット・ミミュー]]、女優
* 1942年 - [[真屋順子]]、女優(+ [[2017年]])
* [[1944年]] - [[荒木一郎]]、シンガーソングライター
* 1944年 - [[赤井喜代次]]、元プロ野球選手
* [[1945年]] - [[渡井美代子]]、[[チェスプレーヤーの一覧|チェスプレーヤー]]
* [[1946年]] - [[ロビー・クリーガー]]、[[ミュージシャン]]([[ドアーズ]])
* [[1947年]] - [[デヴィッド・ボウイ]]、歌手(+ [[2016年]])
* 1947年 - [[寺田千代乃]]、[[実業家]]、[[アート引越センター]]創業者
* [[1948年]] - [[木野花]]、[[演出家]]、女優
* 1948年 - [[淵上澄雄]]、元プロ野球選手
* [[1949年]] - [[佐々木剛 (野球)|佐々木剛]]、元プロ野球選手
* 1949年 - [[木之本興三]]、元[[サッカー選手]]
* [[1950年]] - [[上恭ノ介]]、[[声優]]、[[フリーアナウンサー]]、[[ラジオパーソナリティー]]、[[ナレーター]]
* 1950年 - [[吉沢やすみ]]、[[漫画家]]
* [[1951年]] - [[もんたよしのり]]、歌手(+ [[2023年]])
* 1951年 - [[ジョン・マクティアナン]]、[[映画監督]]
* [[1952年]] - [[鮫島有美子]]、[[声楽|声楽家]]
* 1952年 - [[ヴラジーミル・フェルツマン]]、[[ピアニスト]]
* 1952年 - [[大迫たつ子]]、[[プロゴルファー]]
* [[1953年]] - [[松井一實]]、政治家、[[広島市|広島市長]]
* 1953年 - [[土井敏邦]]、[[フリージャーナリスト]]
* [[1954年]] - [[田尾安志]]、元プロ野球選手、監督
* [[1955年]] - [[新井飛山]]、書家
* 1955年 - [[永井寛孝]]、声優
* [[1956年]] - [[ジャック・ウォマック]]、[[小説家]]
* 1956年 - [[コンスタンティン・カキュシス]]、[[外交官]]
* [[1957年]] - [[中田宗男]]、元プロ野球選手
* 1957年 - [[田中甲]]、政治家
* 1957年 - [[ナチョ・ドゥアト]]、[[バレエ]]ダンサー、[[振付師]]
* [[1958年]] - [[佐々部清]]、映画監督(+ [[2020年]])
* 1958年 - [[山田宏]]、元[[杉並区]]長、[[日本創新党]][[党首]]
* [[1959年]] - ポール・ヘスター ([[:en:Paul Hester|Paul Hester]])、ミュージシャン([[クラウデッド・ハウス]])(+ [[2005年]])
* 1959年 - [[飯田哲也 (環境学者)|飯田哲也]]、[[エネルギー]][[学者]]
* [[1960年]] - [[ランディ・レディ]]、元プロ野球選手
* 1960年 - [[前田雄吉]]、政治家
* [[1961年]] - [[石垣環]]、漫画家
* 1961年 - [[きくち正太]]、漫画家
* [[1963年]] - [[烏賀陽弘道]]、[[ジャーナリスト]]、[[音楽評論家]]
* 1963年 - [[小林浩美]]、プロゴルファー
* 1963年 - 寺田千代、歌手([[ドリーミング (歌手グループ)|ドリーミング]])
* 1963年 - 寺田嘉代、歌手(ドリーミング)(+ [[2019年]])
* [[1965年]] - [[宮城宗典]]、[[ミュージシャン]]([[ヒルビリー・バップス]])(+ [[1988年]])
* 1965年 - [[パスカル・オビスポ]]、[[歌手]]、[[作曲家]]、[[音楽プロデューサー]]
* [[1966年]] - [[山田玲司]]、漫画家
* 1966年 - [[ロレッタ・リー]]、女優
* 1966年 - [[アンドリュー・ウッド]]、[[シンガーソングライター]](+ [[1990年]])
* [[1967年]] - [[R・ケリー]]、歌手
* 1967年 - マウゴジャータ・フォレムニャック ([[:en:Małgorzata Foremniak|Małgorzata Foremniak]])、女優
* 1967年 - [[ミシェル・フォーブス]]、女優
* 1967年 - [[鎌田さゆり]]、政治家
* 1967年 - [[田口竜二]]、元プロ野球選手
* [[1968年]] - [[小達敏昭]]、[[プロゴルファー]]
* 1968年 - [[蛍原徹]]、[[お笑いタレント|お笑い芸人]](元[[雨上がり決死隊]])
* 1968年 - [[ウラディミール・マラーホフ]]、[[バレエ]]ダンサー
* 1968年 - [[ブル中野]]、元[[プロレスラー]]
* 1968年 - [[足立亘]]、元プロ野球選手
* 1968年 - [[井沢ひろし]]、漫画原作者、構成作家
* 1968年 - [[秦建日子]]、脚本家、演出家
* [[1969年]] - [[井岡弘樹]]、元プロボクサー
* [[1970年]] - [[荻野正二]]、元[[バレーボール]]選手、コーチ
* 1970年 - 種馬マン<ref>{{Cite web|和書 |url=https://profile.yoshimoto.co.jp/talent/detail?id=309 |title=モリマン 種馬マン(たねうままん) |work=[[吉本興業]] |accessdate=21 Dec 2023}}</ref>、お笑いタレント([[モリマン]])
* 1970年 - [[細井正美]]、元女優、元グラビアアイドル
* [[1971年]] - [[川崎憲次郎]]、元プロ野球選手
* 1971年 - [[ジェイソン・ジアンビ]]、元プロ野球選手
* 1971年 - ジェラルディン・ペラス ([[:en:Géraldine Pailhas|Géraldine Pailhas]])、女優
* [[1972年]] - [[田村亮 (お笑い芸人)|田村亮]]、お笑い芸人([[ロンドンブーツ1号2号]])
* 1972年 - [[広重玲子]]、元[[アナウンサー]]
* [[1973年]] - [[竹浪秀行]]、イラストレーター
* 1973年 - [[松本幸四郎 (10代目)]]、[[歌舞伎役者]]
* 1973年 - [[ショーン・ポール]]、歌手
* 1973年 - [[緒方林太郎]]、政治家
* 1973年 - [[マイク・キャメロン]]、元プロ野球選手
* [[1974年]] - [[満田伸明]]、俳優
* [[1975年]] - [[千葉麗子]]、[[実業家]]、[[ヨーガ]]インストラクター
* 1975年 - [[ジェレミー・ゴンザレス]]、元プロ野球選手(+ [[2008年]])
* 1975年 - [[エレーナ・グルシナ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1975年 - ハリス・ジャヤラジ ([[:en:Harris Jayaraj|Harris Jayaraj]])、作曲家
* 1975年 - [[ダーク・ヴェルビューレン]]、ミュージシャン、ドラマー
* [[1976年]] - [[松崎ナオ]]、[[シンガーソングライター]]
* 1976年 - [[市川由紀乃]]、[[演歌歌手]]
* [[1977年]] - [[石月努]]、ミュージシャン(元[[FANATIC◇CRISIS]])
* 1977年 - [[アンバー・ベンソン]]、女優
* 1977年 - イ・ユジン、女優
* [[1978年]] - [[パク・チニ]]、女優
* [[1979年]] - [[アドリアン・ムトゥ]]、サッカー選手
* 1979年 - 小泉拓、ミュージシャン、ドラマー([[クリープハイプ]])
* 1979年 - [[北川利之]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[平本学]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[サラ・ポーリー]]、女優
* [[1980年]] - [[君嶋ゆかり]]、[[タレント]]
* 1980年 - [[井野俊郎]]、政治家
* 1980年 - [[レイチェル・ニコルズ]]、女優
* [[1981年]] - [[園原ゆかり]]、[[モデル (職業)|モデル]]
* 1981年 - [[マシュー・ヨスト]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1981年 - [[ジェフ・フランシス]]、元プロ野球選手
* [[1982年]] - [[栗原健太]]、元プロ野球選手
* 1982年 - [[高岡亜衣]]、歌手
* 1982年 - [[江口ヒロミ]]、女優
* 1982年 - [[鮎河ナオミ]]、[[モデル (職業)|モデル]]
* 1982年 - [[ギャビー・ホフマン]]、女優
* [[1983年]] - [[清水千賀]]、元女優
* 1983年 - [[中村愛美]]、女優
* 1983年 - [[シャーメイ・リー]]、女優
* 1983年 - [[金正恩]]、[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)の最高指導者
* 1983年 - 阿諏訪泰義<ref>{{Cite web |url=https://www.oricon.co.jp/prof/521635/ |title=阿諏訪泰義 |access-date=21 Dec 2023 |publisher=[[ORICON NEWS]]}}</ref>、お笑いタレント([[うしろシティ]])
* [[1984年]] - [[ジェフ・フランコーア]]、元プロ野球選手
* 1984年 - [[松井えり菜]]、画家
* [[1985年]] - [[長谷川恵美]]、女優
* [[1986年]] - [[ジェームズ・ラッセル]]、プロ野球選手
* 1986年 - [[ダビド・シルバ]]、プロサッカー選手
* 1986年 - [[小澤マリア]]、実業家、元[[AV女優]]
* [[1987年]] - [[後藤沙緒里]]<ref>{{Cite web|和書 |publisher=Imagica Infos Co., Ltd. |title=後藤 沙緒里 |url=https://seigura.com/directory/532/ |accessdate=21 Dec 2023 |website=声優グランプリ seigura.com}}</ref>、[[声優]]
* [[1988年]] - [[高松卓矢]]、[[バレーボール選手]]
* 1988年 - アリソン・ハーバード ([[:en:Allison Harvard|Allison Harvard]])、モデル、女優
* [[1989年]] - [[信江勇]]、[[タレント]]
* 1989年 - [[佐山愛]]、AV女優
* 1989年 - [[キム・ガウン]]、女優
* [[1990年]] - [[琴香]]、元[[プロレスラー]]
* 1990年 - [[伊藤謙司郎]]、[[ノルディックスキー]]選手
* 1990年 - [[八反田康平]]、サッカー選手
* 1990年 - [[ファン・ドミンゲス・ラマス]]、サッカー選手
* 1990年 - [[許昕]]、卓球選手
* 1990年 - [[seeeeecun]]、シンガーソングライター
* 1990年 - [[佐藤あずさ (声優)|佐藤あずさ]]、声優
* [[1991年]] - [[樋井明日香]]、女優、元アイドル(元[[HINOIチーム]])
* 1991年 - [[佐藤峻一]]、元プロ野球選手
* 1991年 - [[任基準]]、元プロ野球選手
* 1991年 - [[ホルヘ・エンリケス]]、サッカー選手
* 1991年 - [[タッド・フジカワ]]、[[ゴルファー]]
* 1991年 - アラン・マルケス・ロウレイロ、サッカー選手
* 1991年 - [[ジミン]]、元アイドル(元[[AOA (音楽グループ)|AOA]])
* [[1992年]] - [[麻亜里]]、[[タレント]]
* 1992年 - [[森唯斗]]、プロ野球選手
* [[1993年]] - [[イゴール・トーレス・サルトーリ|イゴール]]、プロサッカー選手
* 1993年 - [[西田有沙]]、ファッションモデル
* [[1996年]] - [[佐野玲於]]、パフォーマー([[GENERATIONS from EXILE TRIBE]])
* 1996年 - [[篠崎彩奈]]、[[アイドル]]([[AKB48]])
* 1996年 - [[真中あずさ]]、グラビアアイドル
* [[1997年]] - [[渡邊佳明]]、プロ野球選手
* 1997年 - [[飛鳥りん]]、元AV女優
* [[1998年]] - [[音羽-otoha-|音羽]]、(元[[Team48|フォーエイト48]])
* [[1998年]] - [[マヌエル・ロカテッリ]]、サッカー選手
* 1998年 - [[橋本侑樹 (野球)|橋本侑樹]]、プロ野球選手
* 1999年 - [[青空ひかり]]、AV女優
* [[2000年]] - [[今井巴菜]]、元プロ野球選手
* 2000年 - [[ちとせよしの]]、グラビアアイドル、タレント
* [[2001年]] - [[山田杏奈]]、女優
* 2001年 - [[吉成名高]]、ムエタイ選手兼キックボクシング指導員
* 生年不明 - [[末柄里恵]]、声優
* 生年不明 - [[森永千才]]、声優
* 生年不明 - [[木村亮俊]]、元声優
* 生年不明 - [[小林貴]]、声優
* 生年不明 - [[井本ケイ]]<ref name="aksentprof">{{Cite web|和書 |url=https://aksent.co.jp/profile/imoto_kei/ |title=井本 ケイ |publisher=株式会社アクセント |accessdate=21 Dec 2023}}</ref>、声優
== 忌日 ==
* [[1107年]] - [[エドガー (スコットランド王)|エドガー]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(* [[1072年]])
* [[1186年]]([[文治]]元年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]])- [[平忠房]]、[[平安時代]]の[[武将]]
* [[1337年]] - [[ジョット・ディ・ボンドーネ]]、[[画家]]・[[彫刻家]]・[[建築家]](* [[1267年]])
* [[1398年]]([[応永]]4年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]])- [[九条忠基]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[公卿]](* [[1345年]])
* [[1557年]] - [[アルブレヒト・アルキビアデス]]、[[バイロイト侯領|ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯]](* [[1552年]])
* [[1567年]] - [[ヤコブス・ファート]]、[[作曲家]](* [[1529年]]頃)
* [[1591年]]([[天正]]18年[[12月13日 (旧暦)|12月13日]])- [[荒尾善次]]、[[武将|戦国武将]](* [[1508年]])
* [[1642年]] - [[ガリレオ・ガリレイ]]、[[天文学者の一覧|天文学者]](* [[1564年]])
* [[1673年]]([[寛文]]12年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]])- [[吉田光由]]、[[和算|和算家]](* [[1598年]])
* [[1712年]]([[正徳 (日本)|正徳]]元年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]])- [[浅見絅斎]]、[[儒学者]](* [[1652年]])
* [[1713年]] - [[アルカンジェロ・コレッリ]]、作曲家(* [[1653年]])
* [[1768年]]([[明和]]4年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]])- [[山内豊敷]]、第8代[[土佐藩|土佐藩主]](* [[1712年]])
* [[1775年]] - [[ジョン・バスカヴィル]]、[[印刷]]業者・[[書体デザイナー]](* [[1706年]])
* [[1825年]] - [[イーライ・ホイットニー]]、[[発明家]](* [[1765年]])
* [[1826年]]([[文政]]8年12月1日)- [[松平治好]]、第11代[[福井藩|福井藩主]](* [[1768年]])
* [[1831年]] - [[フランティシェック・ヴィンツェンツ・クラマーシュ]]、作曲家(* [[1759年]])
* [[1878年]] - [[ニコライ・ネクラーソフ]]、[[詩人]](* [[1821年]])
* [[1880年]] - [[ジョシュア・ノートン]]、[[アメリカ合衆国]][[皇帝]]を自称した人物(* [[1811年]]?)
* [[1894年]] - [[レオポルト・フォン・シュレンク]]、[[動物学|動物学者]]、[[地理学者]]、[[民族誌|民族誌学者]](* [[1826年]])
* [[1896年]] - [[ポール・ヴェルレーヌ]]、詩人(* [[1844年]])
* [[1919年]] - [[ペーター・アルテンベルク]]、[[小説家]](* [[1859年]])
* 1919年 - [[ジム・オルーク (野球)|ジム・オルーク]]、元プロ野球選手(* [[1850年]])
* [[1923年]] - [[島村速雄]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[軍令部|軍令部長]](* [[1858年]])
* [[1925年]] - [[植村正久]]、[[キリスト教]]伝道者、[[牧師]](* [[1858年]])
* [[1941年]] - [[ロバート・ベーデン=パウエル]]、[[ボーイスカウト]]創始者(* [[1857年]])
* [[1948年]] - [[クルト・シュヴィッタース]]、[[芸術家]]、[[画家]](* [[1887年]])
* [[1949年]] - [[蔵原惟郭]]、[[教育者]]、政治家(* [[1861年]])
* 1949年 - [[梅津美治郎]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[参謀本部 (日本)|参謀総長]](* [[1882年]])
* [[1950年]] - [[ヨーゼフ・シュンペーター]]、[[経済学者]](* [[1883年]])
* [[1952年]] - [[アントニア・モーリ]]、天文学者(* [[1866年]])
* [[1957年]] - [[吉田甲子太郎]]、[[翻訳家]]、[[児童文学|児童文学者]](* [[1894年]])
* [[1964年]] - [[マルティン・スティクスルート]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1876年]])
* [[1967年]] - [[ズビグニェフ・ツィブルスキ]]、[[俳優]](* [[1927年]])
* [[1969年]] - [[アルバート・ヒル]]、[[陸上競技]]選手(* [[1889年]])
* 1969年 - [[森寅雄]]、[[剣道]]・[[フェンシング]]選手(* [[1914年]])
* [[1975年]] - [[リチャード・タッカー]]、[[テノール]]歌手(* [[1913年]])
* [[1976年]] - [[周恩来]]、[[政治家]]、[[中華人民共和国]]の初代[[国務院総理]](* [[1898年]])
* [[1980年]] - [[ジョン・モークリー]]、[[ENIAC]]開発者(* [[1907年]])
* 1980年 - [[トリグヴェ・グラン]]、[[パイロット (航空)|パイロット]]、[[探検家]]、[[作家]](* [[1889年]])
* [[1983年]] - [[ゲルハルト・バルクホルン]]、[[ドイツ空軍]]の[[エース・パイロット]](* [[1919年]])
* [[1986年]] - [[ピエール・フルニエ]]、[[チェリスト]](* [[1906年]])
* [[1994年]] - [[ロイ・キヨオカ]]、[[写真家]]、[[詩人]]、[[芸術家]](* [[1926年]])
* [[1996年]] - [[フランソワ・ミッテラン]]、[[フランスの大統領|フランス大統領]](* [[1916年]])
* 1996年 - [[三橋美智也]]、歌手(* [[1930年]])
* [[1997年]] - [[メルヴィン・カルヴィン]]、[[化学者]](* [[1911年]])
* [[1998年]] - [[マイケル・ティペット]]、[[作曲家]](* [[1905年]])
* [[2002年]] - [[アレクサンドル・プロホロフ]]、[[物理学者]](* [[1916年]])
* 2002年 - [[北の洋昇]]、元[[大相撲]][[力士]](* [[1923年]])
* [[2005年]] - [[大島信雄]]、元[[プロ野球選手]](* [[1921年]])
* [[2006年]] - [[田中正明]]、[[評論家]](* [[1911年]])
* 2006年 - [[トニー・バンクス]]、政治家(* [[1943年]])
* [[2007年]] - [[イワオ・タカモト]]、[[アニメーター]](* [[1925年]])
* [[2009年]] - [[牟田悌三]]、[[俳優]]、[[社会福祉]]活動家(* [[1928年]])
* [[2010年]] - [[オトマール・スウィトナー]]、[[指揮者]](* [[1922年]])
* 2010年 - [[東恵美子]]、女優(* [[1924年]])
* [[2011年]] - [[横澤彪]]、[[テレビプロデューサー]](* [[1937年]])
* [[2013年]] - [[中村日出夫 (空手家)|中村日出夫]]、[[空手道|空手家]](* [[1913年]])
* 2013年 - [[古角俊郎]]、高校野球指導者(* [[1921年]])
* 2013年 - [[渡辺力]]、[[プロダクトデザイナー]](* [[1911年]])
* [[2015年]] - [[初岡栄治]]、元プロ野球選手(* [[1930年]])
* [[2016年]] - [[宮川孝雄]]、元プロ野球選手(* [[1936年]])
* 2016年 - [[オーティス・クレイ]]、ソウル・シンガー(* [[1942年]])
* [[2021年]] - [[徐勤先]]、元[[軍人]](* [[1935年]])
* 2021年 - [[足立康]]、[[歴史学者]]、[[翻訳家]](* [[1936年]])
* 2021年 - [[デヴィッド・ダーリング]]、[[チェリスト]]、[[作曲家]](* [[1941年]])
* 2021年 - [[スティーヴ・カーヴァー]]、[[映画監督]](* [[1945年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[成人の日]]({{JPN}})※1月第2[[月曜日]]([[2001年]]、[[2007年]]、[[2018年]]、[[2024年]]など)
* 正月事納め({{JPN}})
* [[イヤホン]]の日({{JPN}})
*: イヤホンナビが制定。いつでも気軽に音楽を聴ける道具として、「イ(1)ヤ(8)ホン」の語呂合せでこの日を記念日とした。
* 外国郵便の日({{JPN}})
*: [[1875年]]のこの日、横浜郵便局(現・[[横浜港郵便局]])で外国郵便の開業式が行われた。横浜の外国人居留地のアメリカの郵便局が外国郵便の業務を行っていたが、これ以降日本政府が業務を行うこととした。
*十日恵比須神社『正月大祭』({{JPN}})
*: 十日戎は、漁業の神、商売繁盛の神、五穀豊穣の神として有名な「七福神」の戎(恵比寿)様を祀るお祭り。恵比須様を祀る神社の多くでは、毎年[[1月10日]]前後に祭事が営まれる。特に[[福岡市]]の[[十日恵比須神社]]で1月8日から[[1月11日]]まで行われる『正月大祭』には、商売繁昌のご利益を得るために多くの参詣者が集まる<ref>{{Cite web |url=https://www.tooka-ebisu.or.jp/newyear/ |title=正月大祭 |access-date=21 Dec 2023 |publisher=十日恵比須神社}}</ref>。
*初薬師({{JPN}})
*: 毎月8日は[[薬師如来]]の縁日で、1年で最初の縁日は「初薬師」と呼ばれる。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0108|date=Dec 2023}}
* [[2016年]] - 戦闘用レプリカントのロイ・バッティが製造される。(『[[ブレードランナー]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1907年]] - 神崎すみれ 、ゲーム・アニメ『[[サクラ大戦シリーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://sakura-taisen.com/archives/game/psp/chara_sumire.html |title=神崎すみれ |access-date=21 Dec 2023 |publisher=[[セガ|SEGA]] RED |work=『サクラ大戦 1&2』}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.mbs.jp/sakura/character.html |title=サクラ大戦帝国華劇団花組隊員 神崎すみれ |deadlinkdate=2022-09-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220717111012/https://www.mbs.jp/sakura/character.html |archivedate=2022-07-17 |accessdate=21 Dec 2023 |publisher=[[毎日放送|Mainichi Broadcasting System, Inc.]] |work=『サクラ大戦』}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://sakura-taisen.com/info/2020/20200609_01.html |title=【太正浪漫堂通信】 第四回 搭乗機体・神崎重工 特集 |access-date=21 Dec 2023 |publisher=[[SEGA]] |website=サクラ大戦.com}}</ref>
* [[1985年]] - 加賀鉄男、漫画・アニメ『[[ヒカルの碁]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |title=ヒカルの碁 碁ジャス キャラクターズガイド |date=9 Apr 2002 |publisher=[[集英社]] |page=108 |author=[[ほったゆみ]] |author2=[[小畑健|小畑 健]] |author3=[[梅沢由香里]]([[日本棋院]]) |isbn=4-08-873278-2}}</ref>
* [[1989年]] - 水蓮寺ルカ、漫画・アニメ『[[ハヤテのごとく!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author1=畑健二郎|authorlink1=畑健二郎|author2= キャラメル・ママ|date=2015-03-18 |title = ハヤテのごとく! 公式同人誌 〜執事とそれなりに楽しい仲間たち〜|series=少年サンデーコミックススペシャル |page=181 |publisher = [[小学館]] |isbn=978-4091260277 }}</ref>
* [[2004年]] - 甲斐、漫画・アニメ映画『[[AKIRA (漫画)|AKIRA]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://v-storage.bnarts.jp/sp-site/akira/character/ |title=CHARACTER 甲斐 |access-date=21 Dec 2023 |publisher=『AKIRA』4Kリマスター 公式サイト V-storage}}</ref>
* 生年不明 - 響裕太、アニメ『[[SSSS.GRIDMAN]]』・映画『[[グリッドマン ユニバース]]』の主人公<ref>{{Twitter status|Televi_Kun|1611820089774415874}}</ref>
* 生年不明 - ガーネット、アニメ「[[ジュエルペット]]」シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.jewelpet.jp/character/ |title=キャラクター紹介 ガーネット |work=『ジュエルペット』 |accessdate=21 Dec 2023 |publisher=[[サンリオ]]・[[セガトイズ]]/[[テレビ東京]]・ジュエルペット製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - 道珍、漫画・アニメ『[[シャーマンキング]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - イワンX、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/IwanX.html |title=イワンX |work=『ONE PIECE』 |accessdate=21 Dec 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - エンポリオ・イワンコフ、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Emporio_Ivankov.html |title=エンポリオ・イワンコフ |work=『ONE PIECE』 |accessdate=21 Dec 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref>
* 生年不明 - 日輪、漫画・アニメ『[[銀魂]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[鬼兵隊#来島また子|来島また子]] 、漫画・アニメ『[[銀魂]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 日向ヒアシ、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref name="岸本斉史">{{Cite book |和書|author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|date=2005-04-04|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|page=140|publisher= [[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088737348}}</ref>
* 生年不明 - 日向ヒザシ、漫画・アニメ『NARUTO -ナルト-』に登場するキャラクター<ref name="岸本斉史" />
* 生年不明 - 一貫坂慈楼坊、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=久保帯人|authorlink=久保帯人|date=2006-02-03|title=BLEACH―ブリーチ― OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs.|page=118|publisher= [[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088740799}}</ref>
* 生年不明 - 奏倉羽、漫画・アニメ『[[ニセコイ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 文車妖妃、漫画・アニメ『[[貧乏神が!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - マルス、漫画・アニメ『[[ブラッククローバー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://bclover.jp/character/ |title=ダイヤモンド王国 マルス |work=『ブラッククローバー』 |accessdate=21 Dec 2023 |publisher=[[田畠裕基]]/[[集英社]]・[[テレビ東京]]・ブラッククローバー製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - [[ゾフィスとココ#ココ|ココ]]、漫画・アニメ『[[金色のガッシュ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 中山朔美、漫画『[[いでじゅう!|県立伊手高校柔道部物語・いでじゅう!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 飛鳥享、漫画アニメ『[[エリアの騎士]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ケイジ、漫画・アニメ『[[進撃の巨人]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - エリス・フィリウス(ダークフェニックス)、アニメ『[[ツインエンジェルシリーズ|快盗天使ツインエンジェル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://twin-angel.com/character/kaitoutenshi |title=ダークフェニックス エリス・アスタディール |access-date=21 Dec 2023 |publisher=[[サミー|Sammy]] |work=『怪盗天使ツインエンジェル』}}</ref>
* 生年不明 - 出雲暁 、漫画・アニメ『[[ARIA (漫画)|ARIA]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - モナコ、漫画『[[Axis powers ヘタリア]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 吉沢遼、漫画・アニメ『[[コープスパーティー BloodCovered]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 藤真弥勒、小説・アニメ『[[境界の彼方]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://tv.anime-kyokai.com/character/miroku/ |title=藤真弥勒 |access-date=21 Dec 2023 |publisher=[[鳥居なごむ]]・[[京都アニメーション]]/境界の彼方製作委員会 |work=『境界の彼方』}}</ref>
* 生年不明 - 睦月始、キャラクターCD『[[ツキウタ。]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://tsukino-pro.com/tsukiuta/character/hajime |title=01 睦月 始 |access-date=21 Dec 2023 |publisher=Tsukiuta - ツキノ芸能プロダクション |work=『ツキウタ。』}}</ref>
* 生年不明 - ゴモラ(黒田ミカヅキ)、萌え擬人化プロジェクト『[[ウルトラ怪獣擬人化計画]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=http://kaiju-gk.jp/anime/character/ |title=ゴモラ / 黒田ミカヅキ |access-date=21 Dec 2023 |publisher=[[円谷プロ]] |work=『ウルトラ怪獣擬人化計画』}}</ref>
* 生年不明 - 中山ゆかり、キャラクターコンテンツ『[[鉄道むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tateishi_aoba|1479588662744600576}}</ref>
* 生年不明 - グラント、ゲーム『[[餓狼 MARK OF THE WOLVES]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.garou15th.com/character/grant.php |title=グラント |access-date=21 Dec 2023 |publisher=[[SNKプレイモア|SNK PLAYMORE]] |website=餓狼伝説総合公式サイト}}</ref>
* 生年不明 - 神咲那美、ゲーム『[[とらいあんぐるハート3 〜Sweet Songs Forever〜]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - カブリバ、ゲーム『[[どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/index.html |title=住民名簿 1月 カブリバ |access-date=21 Dec 2023 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - セバスチャン、ゲーム『[[どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/index.html |title=住民名簿 1月 セバスチャン |access-date=21 Dec 2023 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - 梶浦緋紗子、ゲーム・アニメ『[[処女はお姉さまに恋してる|乙女はお姉さまに恋してる]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://www.caramel-box.com/products/otoboku/chara/character_08.html |title=梶浦緋紗子 |access-date=21 Dec 2023 |publisher=[[キャラメルBOX]] |work=『処女はお姉さまに恋してる』}}</ref>
* 生年不明 - [[デイズシリーズの登場人物#小泉夏美|小泉夏美]]、ゲーム・アニメ『[[School Days (アニメ)|School Days]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 蓬田菫、ゲーム・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://dengekionline.com/elem/000/001/170/1170046/ |title=『GF(♪)』の実力派ガールズユニット“にゅーろん★くりぃむそふと”を紹介 |access-date=21 Dec 2023 |publisher=[[KADOKAWA Game Linkage|KADOKAWA Game Linkage Inc.]] |date=25 Dec 2015 |website=DENGEKI ONLINE}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター ミリオンライブ!の登場人物#エミリー・スチュアート|エミリー]]、ゲーム『[[アイドルマスター ミリオンライブ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/30002 |title=エミリー(えみりー) |access-date=21 Dec 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER™』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - もんもん、ゲーム・アニメ『[[SHOW BY ROCK!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.showbyrock.com/character/LB011.html |title=しにものぐるい もんもん(B) |access-date=21 Dec 2023 |publisher=[[サンリオ|SANRIO CO.,LTD.]] |work=『SHOW BY ROCK!!』}}</ref>
* 生年不明 - ターニャ、ゲーム『[[キングスレイド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://kings-raid.com/characters/#character-148 |title=ターニャ |publisher=Vespa Inc. |accessdate=21 Dec 2023 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211104163712/https://kings-raid.com/characters/detail.php?cid=148 |archivedate=4 Nov 2021 |work=『キングスレイド』}}</ref>
* 生年不明 - セブン、ゲーム『夢職人と忘れじの黒い妖精』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://www.yumekuro.com/character/meister/primusclub/seven/ |title=セブン |access-date=21 Dec 2023 |publisher=[[bilibili]] [[ジークレスト|GCREST]] |work=『夢職人と忘れじの黒い妖精』}}</ref>
* 生年不明 - A弥、メディアミックス『[[終焉ノ栞プロジェクト|終焉ノ栞]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 柴崎万葉、メディアミックス『[[ガーリッシュ ナンバー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.tbs.co.jp/anime/gn/chara/05kazuha.html |title=柴崎万葉 |work=『ガーリッシュ ナンバー』 |access-date=21 Dec 2023 |publisher=Project GN/ガーリッシュ ナンバー製作委員会 [[TBSテレビ|Tokyo Broadcasting System Television, Inc. ]]}}</ref>
* 生年不明 - [[少女☆歌劇 レヴュースタァライト#神楽ひかり|神楽ひかり]]、メディアミックス『[[少女☆歌劇 レヴュースタァライト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|starlightrelive|1479467988524965894}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://app.famitsu.com/20200108_1570783/ |title=1/8は『少女☆歌劇 レヴュースタァライト -Re LIVE-』神楽ひかりの誕生日!三森すずこさん提案の“ホームズ”衣裳が登場 |access-date=21 Dec 2023 |publisher=[[KADOKAWA Game Linkage Inc.|KADOKAWA Game Linkage]] |date=8 Jan 2020 |website=ファミ通App}}</ref>
* 生年不明 - 日野森志歩、メディアミックス『[[プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク|プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://pjsekai.sega.jp/character/unite01/shiho/index.html |title=日野森志歩 |access-date=21 Dec 2023 |publisher=[[セガ|SEGA]] / Colorful Palette Inc. / [[クリプトン・フューチャー・メディア|Crypton Future Media, INC.]] [[ピアプロ|piapro]] |work=『プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク』}}</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
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== できごと ==
[[ファイル:Keizo_Obuchi_cropped_Keizo_Obuchi_19890107.jpg |thumb|200px|新[[元号]]「[[平成]]」の墨書を掲げる[[小渕恵三]]内閣官房長官(1989)]]
* [[紀元前49年]] - ポンペイウス派により、カエサル派が[[元老院 (ローマ)|元老院]]から追放される。
* [[1325年]] - [[アフォンソ4世 (ポルトガル王)|アフォンソ4世]]が[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王に即位。
* [[1558年]] - [[イングランド王国|イングランド]]最後の大陸の領土であった[[カレー (フランス)|カレー]]がフランスの軍人[[フランソワ (ギーズ公)|ギーズ公フランソワ]]により奪還された。
* [[1566年]] - [[ミラノ]]出身の聖職者アントニオ・ギスリエーリが[[ピウス5世 (ローマ教皇)|ピウス5世]]として[[ローマ教皇]]に選出された。
* [[1598年]] - [[ロシア・ツァーリ国]]の貴族[[ボリス・ゴドゥノフ]]が[[ツァーリ]]に就任した。
* [[1601年]] - [[エセックス伯|第2代エセックス伯]][[ロバート・デヴァルー]]が[[イングランド王国|イングランド女王]][[エリザベス1世 (イングランド女王)|エリザベス1世]]に対してクーデターを起こした。
* [[1610年]] - [[ガリレオ・ガリレイ]]が[[木星]]の[[衛星]]「[[ガニメデ (衛星)|ガニメデ]]」「[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]」「[[イオ (衛星)|イオ]]」を発見<ref>{{Cite web|和書 |url=https://konomanga.jp/guide/21181-2 |title=1月7日はガリレオ・ガリレイが木星の衛星を発見した日 『おおきく振りかぶって』を読もう! 【きょうのマンガ】 |access-date=13 Apr 2023 |publisher=[[宝島社]] |date=7 Jan 2015 |work=このマンガがすごい!WEB}}</ref>。
* [[1894年]] - [[ウィリアム・K・L・ディクソン]]がモーション・ピクチャー([[映画]])の[[特許]]を取得。
* [[1904年]] - [[CQD]]が[[遭難信号]]として定められる。2年後に[[SOS]]に置き換え。
* [[1906年]] - 日本で[[西園寺公望]]が第12代[[内閣総理大臣]]に就任し、[[第1次西園寺内閣]]が発足。
* [[1924年]] - 日本で[[清浦奎吾]]が第23代内閣総理大臣に就任し、[[清浦内閣]]が発足。
* [[1926年]] - 小説家協会と劇作家協会が合併して文藝家協会(現在の[[日本文藝家協会]])を設立。
* [[1927年]] - [[ニューヨーク]]から[[ロンドン]]へ史上初の大西洋を越える[[電話|通話]]が行われる。
* [[1932年]] - [[ヘンリー・スティムソン]][[アメリカ合衆国国務長官|米国務長官]]が[[満州事変|日本の満州占領]]を非難する「[[満州事変#スティムソン・ドクトリン|スティムソン・ドクトリン]]」を発表。
* [[1935年]] - [[川崎市の赤痢 (1935年)|神奈川県川崎市内で赤痢患者が大量発生]]。死者21人以上、市内における同月末までの発病者は1357人となった<ref>{{Cite web|和書 |url=http://journal.kansensho.or.jp/kansensho/backnumber/fulltext/09/770-778.pdf |title=川崎市に爆發流行せる赤痢の病原菌竝に、菌検出率に就いて |publisher=[[日本感染症学会]] |accessdate=13 Apr 2023 |page=771 |format=[[PDF]]}}</ref>。
* [[1947年]] - [[北海道日本ハムファイターズ|東急フライヤーズ]]誕生。
* [[1950年]] - [[インフレーション]]の進行により[[千円紙幣]]を発行。[[肖像]]は[[聖徳太子]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.npb.go.jp/ja/intro/kihon/kako/ |title=お札の基本情報〜過去に発行されたお札〜 B千円券 |access-date=13 Apr 2023 |publisher=独立行政法人 国立印刷局}}</ref>。
* [[1952年]] - [[ハリー・S・トルーマン]]米大統領が、アメリカ合衆国が[[水素爆弾]]を開発したことを公表。
* [[1954年]] - [[IBM]]と[[ジョージタウン大学]]が世界初の[[機械翻訳]]の実験、{{仮リンク|ジョージタウンIBM実験|en|Georgetown-IBM experiment}}を行う。
* [[1959年]] - [[アメリカ合衆国]]が[[フィデル・カストロ]]率いる新[[キューバ]]政府を[[国家の承認|承認]]。
* [[1960年]] - [[アメリカ海軍]]が[[ポラリス (ミサイル)|ポラリスミサイル]]の発射テストを実施。
* [[1963年]] - 四国コカ・コーラボトリング(当時の社名:四国飲料)設立。
* [[1968年]] - [[サーベイヤー計画]]: アメリカの無人月探査機「[[サーベイヤー7号]]」が打ち上げ。
* [[1975年]] - [[石油輸出国機構|OPEC]]が[[原油価格]]の10%引き上げを決定。
* [[1979年]] - [[ベトナム]]軍の支援により[[カンプチア人民共和国|カンボジア救国民族統一戦線]]が[[カンボジア]]の首都[[プノンペン]]に侵攻。[[ポル・ポト]]政権([[民主カンボジア]])が崩壊。
* 1979年 - [[具志堅用高]]が[[ボクシング]]世界ジュニアフライ級[[チャンピオン]]を7連続防衛。
* [[1980年]] - 「[[クライスラー]]債権保証法」に[[ジミー・カーター]][[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]]が署名。同社は15億ドルの政府債務保証を受ける。
* [[1981年]] - [[新潟県]][[守門村]]大倉の鳥屋ヶ峰で表層[[雪崩]]が発生。民家の全壊4戸、15名が埋没し死者8名、負傷3名を出す<ref>{{Cite web|和書 |url=https://dil-opac.bosai.go.jp/publication/nied_natural_disaster/pdf/17/17-04.pdf |title=4.昭和56年豪雪による雪崩被害 |access-date=13 Apr 2023 |publisher=防災科研(NIED) |format=[[PDF]] |page=337}}</ref>。
* [[1983年]] - 千葉市内の新興住宅地で、千葉大医学部病理学教室の研究生の絞殺死体が発見される。
* [[1984年]] - [[ブルネイ]]が[[東南アジア諸国連合]](ASEAN)に加盟。
* [[1989年]] - [[昭和天皇]]が[[崩御]]したことに伴い、当時の[[皇太子]][[明仁]][[親王]]が[[皇位継承|皇位を継承]]。[[元号法]]並びに[[元号を改める政令 (昭和六十四年政令第一号)|元号を改める政令]](昭和64年政令第1号)に基づき、新・[[元号]]を「[[平成]]」と決定([[昭和]]最後の日)。
* [[1990年]] - [[イタリア]]の[[ピサの斜塔]]が修復のため閉鎖される。
* 1990年 - [[フジテレビジョン|フジテレビ]]系[[テレビアニメ|アニメ]]『[[ちびまる子ちゃん]]』放送開始。
* [[1996年]] - [[茨城県]][[つくば市]]周辺に隕石が落下([[つくば隕石]])。23カ所でおよそ800kgの隕石が回収された<ref>{{Cite web|和書 |url=https://db.kahaku.go.jp/exh/detail?cls=col_z1_01&pkey=1761042 |title=つくば隕石 |access-date=13 Apr 2023 |publisher=[[国立科学博物館]]}}</ref>。
* [[1999年]] - [[モニカ・ルインスキー]]事件: [[アメリカ合衆国上院]]で[[ビル・クリントン]]大統領の[[弾劾#アメリカ合衆国|弾劾裁判]]が始まる。
* [[2000年]] - [[ヒュンダイ]]モータージャパン株式会社が設立。
* [[2004年]] - [[Apple|Apple Computer]]から第1世代[[iPod mini]]が発表される。
* [[2006年]] - [[下関駅放火事件]]: [[下関駅]]駅舎が放火で炎上し、駅舎東側(駅全体の約半分)を焼失。
* [[2008年]] - [[NTTドコモ|NTT DoCoMo]]が[[PHS]]サービスを終了。
* [[2009年]] - [[ロシア]]・[[ガスプロム]]社が[[ウクライナ]]経由の欧州向け天然ガスの供給を停止<ref>{{Cite web|和書 |date=7 Jan 2009 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2555482 |title=ロシア、ウクライナ経由の欧州向けガス供給を完全停止 |work=AFP BB News |publisher=[[フランス通信社]] |accessdate=13 Apr 2023}}</ref>。
* [[2015年]] - [[パリ]]で[[シャルリー・エブド襲撃事件]]が起きる<ref>{{Cite web|和書 |date=8 Jan 2015 |url=https://jp.reuters.com/article/vigil-idJPKBN0KH05520150108 |title=パリ新聞社銃撃でフランスに衝撃、追悼集会には数万人参加 |publisher=[[ロイター|REUTERS]] |accessdate=13 Apr 2023}}</ref>。
* [[2019年]] - {{仮リンク|2019年ガボンクーデター未遂|en|2019 Gabonese coup d'état attempt}}: [[ガボン]]の首都[[リーブルヴィル]]で、軍の兵士が国営ラジオ局を占拠し、蜂起を呼びかけるも数時間後に鎮圧される<ref>{{Cite web|和書 |url=https://jp.reuters.com/article/gabon-coup-idJPKCN1P20Q7 |title=アフリカのガボンでクーデター未遂、軍兵士がラジオ局を一時占拠 |access-date=13 Apr 2023 |publisher=[[ロイター|REUTERS]] |date=8 Jan 2019}}</ref>。
* [[2021年]] -[[菅義偉]]首相が、新型コロナウイルス感染拡大に伴い、首都圏の1都3県([[東京都|東京]]・[[神奈川県|神奈川]]・[[千葉県|千葉]]・[[埼玉県|埼玉]])に対し、2度目の[[緊急事態宣言及びまん延防止等重点措置|緊急事態宣言]]を発令(期間は8日から2月7日まで)<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yomiuri.co.jp/politics/20210107-OYT1T50204/ |title=菅首相、1都3県に緊急事態宣言…8日から来月7日まで |access-date=13 Apr 2023 |publisher=[[讀賣新聞オンライン]] |date=7 Jan 2021}}</ref>。
== 誕生日 ==
* [[1528年]] - [[ジャンヌ・ダルブレ]]、[[ナバラ王国]]女王(+ [[1572年]])
* [[1539年]] - セバスティアン・デ・コヴァルビアス、辞書編纂者
* [[1611年]] - [[ジェームズ・ハリントン]]、[[政治哲学]]者(+ [[1677年]])
* [[1612年]] - フィリッポ・ブオナンニ、[[イエズス会]]士、[[科学者]]、収集家(+ [[1725年]])
* [[1700年]]([[元禄]]12年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]]) - [[阿部正鎮]]、初代[[上総国]][[佐貫藩|佐貫藩主]](+ [[1751年]])
* [[1745年]] - {{仮リンク|ヨハン・クリスティアン・ファブリクス|en|Johan Christian Fabricius}}、[[昆虫学]]者、[[経済学者]](+ [[1808年]])
* [[1754年]]([[宝暦]]3年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]) - [[石川雅望]](宿屋飯盛)、[[劇作家]]、[[国学者]](+ [[1830年]])
* [[1755年]] - [[スティーヴン・グルームブリッジ]]、[[天文学者]](+ [[1832年]])
* [[1768年]] - [[ジョゼフ・ボナパルト]]、[[ナポリ王]]、のち[[スペイン王]](+ [[1844年]])
* [[1779年]]([[安永]]7年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]) - [[松平容住]]、第6代[[陸奥国]][[会津藩|会津藩主]](+ [[1806年]])
* [[1788年]]([[天明]]7年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[土井利謙]]、第4代[[三河国]][[刈谷藩|刈谷藩主]](+ [[1813年]])
* [[1800年]] - [[ミラード・フィルモア]]、第13代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1874年]])
* 1800年([[寛政]]11年[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]) - [[松平義建]]、第10代[[美濃国]][[高須藩|高須藩主]](+ [[1862年]])
* [[1830年]] - [[アルバート・ビアスタット]]、[[画家]](+ [[1902年]])
* [[1831年]] - {{仮リンク|ハインリヒ・フォン・シュテファン|en|Heinrich von Stephan}}、ドイツの[[郵便]]制度の組織者(+ [[1897年]])
* [[1833年]]([[天保]]3年閏[[11月17日 (旧暦)|11月17日]]) - [[戸沢正実]]、第11代[[出羽国]][[新庄藩|新庄藩主]](+ [[1896年]])
* [[1834年]] - [[ヨハン・フィリップ・ライス]]、[[物理学者]]、[[発明家]](+ [[1874年]])
* 1834年([[天保]]4年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]) - [[本多忠貫]]、第7代[[伊勢国]][[神戸藩|神戸藩主]]・[[子爵]](+ [[1898年]])
* [[1836年]]([[天保]]6年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]]) - [[京極高富]]、第11代[[丹後国]][[峰山藩|峰山藩主]](+ [[1889年]])
* [[1844年]] - [[ベルナデッタ・スビルー]]、[[ルルド]]の聖母と出会った少女(+ [[1879年]])
* [[1850年]]([[嘉永]]2年[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]) - [[永井直諒]]、第13代[[摂津国]][[高槻藩|高槻藩主]]・[[子爵]](+ [[1919年]])
* [[1858年]] - [[エリエゼル・ベン・イェフダー]]、[[ヘブライ語]][[言語学者|学者]](+ [[1922年]])
* [[1859年]] - マリー・ジョルジュ・フンベルト、[[数学者]](+ 没年不明)
* 1859年 - [[馮国璋]]、[[清末民初|清末民国初]]の軍人・政治家(+ [[1919年]])
* [[1860年]] - {{仮リンク|エマヌエル・マノロフ|en|Emanuil Manolov}}、[[作曲家]](+ [[1902年]])
* [[1865年]]([[元治]]元年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]) - [[池田政保]]、第10代[[備中国]][[鴨方藩|鴨方藩主]]・[[子爵]](+ [[1939年]])
* [[1871年]] - [[エミーユ・ボレル]]、数学者、[[政治家]](+ [[1956年]])
* [[1873年]] - {{仮リンク|アドルフ・ズカー|en|Adolph Zukor}}、プロデューサー(+ [[1976年]])
* 1873年 - [[シャルル・ペギー]]、[[詩人]]、[[作家]](+ [[1914年]])
* [[1875年]] - [[トーマス・ヒックス]]、[[マラソン]]ランナー(+ [[1963年]])
* [[1890年]] - {{仮リンク|ヘニー・ポーテン|en|Henny Porten}}、[[俳優|女優]](+ [[1960年]])
* [[1891年]] - [[ゾラ・ニール・ハーストン]]、文筆家(+ [[1960年]])
* [[1895年]] - [[クララ・ハスキル]]、[[ピアニスト]](+ [[1960年]])
* [[1896年]] - {{仮リンク|アーノルド・リドレー|en|Arnold Ridley}}、[[脚本家]]、[[俳優]](+ [[1984年]])
* [[1898年]] - {{仮リンク|ルドルフ・ファーナウ|en|Rudolf Fernau}}、俳優(+ [[1985年]])
* 1898年 - [[内田正練]]、[[水泳選手一覧|水泳選手]](+ [[1945年]])
* [[1899年]] - [[フランシス・プーランク]]、[[作曲家]](+ [[1963年]])
* [[1902年]] - [[住井すゑ]]、[[小説家]](+ [[1997年]])
* 1902年 - [[ジョージ・キングズリー・ジップ]]、[[言語学者]]、[[哲学者]](+ [[1950年]])
* [[1903年]] - [[森茉莉]]、小説家(+ [[1987年]])
* 1903年 - [[カルロス・ディサルリ]]、[[ピアニスト]](+ [[1960年]])
* [[1910年]] - [[中山健男]]、[[憲法学者]](+ [[1977年]])
* 1910年 - [[白洲正子]]、[[随筆家]](+ [[1998年]])
* [[1912年]] - [[ギュンター・ヴァント]]、[[指揮者]](+ [[2002年]])
* 1912年 - [[美濃政市]]、[[政治家]](+ [[1988年]])
* [[1913年]] - [[ジョニー・マイズ]]、[[プロ野球選手]](+ [[1993年]])
* [[1914年]] - [[石田政良]]、プロ野球選手(+ 没年不詳)
* [[1916年]] - [[パウリ・ケレス]]、[[チェス]]プレーヤー(+ [[1975年]])
* 1916年 - [[バーナード・デイビス]]、[[微生物学者]](+ [[1994年]])
* [[1918年]] - [[大原敏夫]]、プロ野球選手(+ [[1939年]])
* [[1919年]] - [[吉田玉男 (初代)|初代吉田玉男]]、[[文楽]]の人形遣い(+ [[2006年]])
* [[1920年]] - [[多岐川恭]]、[[推理作家]]([[1994年]])
* [[1922年]] - [[ジャン=ピエール・ランパル]]、[[フルート]]奏者(+ [[2000年]])
* [[1925年]] - [[奥村高明]]、元プロ野球選手
* [[1926年]] - [[須本憲一]]、プロ野球選手(+ [[1968年]])
* [[1928年]] - [[ジョージ・ゴーディエンコ]]、[[プロレスラー]]、[[画家]](+ [[2002年]])
* [[1931年]] - [[三好徹]]、[[作家]](+ [[2021年]])
* [[1935年]] - 厉声教、中国上級外交官、国際法学者(+ [[2017年]])
* [[1937年]] - [[柳生博]]、俳優、司会者(+ [[2022年]])
* [[1939年]] - [[金博昭]]、元プロ野球選手
* [[1942年]] - [[ジム・ラフィーバー]]、元プロ野球選手
* 1942年 - [[大久保計雄]]、元プロ野球選手
* [[1943年]] - [[佐々木禎子]]、「[[原爆の子の像]]」のモデル(+ [[1955年]])
* [[1944年]] - [[吉田日出子]]、女優
* 1944年 - [[北林早苗]]、女優
* [[1945年]] - [[はしだのりひこ]]、[[シンガーソングライター]]、[[フォークシンガー]](+ [[2017年]])
* 1945年 - [[長石多可男]]、映画監督(+ [[2013年]])
* [[1946年]] - [[池端俊策]]、[[脚本家]]、映画監督
* [[1948年]] - [[ケニー・ロギンス]]、[[ミュージシャン]]
* 1948年 - [[水木一郎]]、[[歌手]](+ [[2022年]])
* [[1952年]] - [[サモ・ハン・キンポー]]、[[映画俳優]]、[[武術]]指導、映画監督
* [[1954年]] - [[松岡清治 (野球)|松岡清治]]、元プロ野球選手
* [[1956年]] - [[三山のぼる]]、[[漫画家]](+ [[2007年]])
* [[1957年]] - [[北村照文]]、元プロ野球選手
* [[1958年]] - [[ありさか邦]]、漫画家
* 1958年 - [[千住博]]、[[日本画家]]
* 1958年 - [[三宅純]]、[[作曲家]]
* 1958年 - [[橋田俊彦]]、 第25代[[気象庁]]長官
* [[1960年]] - [[広木政人]]、元プロ野球選手
* [[1962年]] - [[デビル雅美]]、元プロレスラー
* [[1963年]] - [[沖田浩之]]、俳優(+ [[1999年]])
* 1963年 - [[中野佐資]]、元プロ野球選手
* [[1964年]] - [[ニコラス・ケイジ]]、映画俳優
* [[1965年]] - [[高島覚]]、元プロ野球選手
* [[1966年]] - [[三賀勝稔]]、ミュージシャン
* 1966年 - [[エレーナ・ベチケ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1966年 - [[ショーン・ハリス]]、俳優
* [[1967年]] - [[イルファーン・カーン]]、俳優
* [[1968年]] - [[山田芳裕]]、漫画家
* [[1969年]] - [[鍵本景子]]、女優
* [[1971年]] - [[アンドレイ・クルコフ (フィギュアスケート選手)|アンドレイ・クルコフ]]、フィギュアスケート選手
* 1971年 - [[彩輝なお]]、女優、元[[宝塚歌劇団]][[月組]]トップスター
* [[1971年]] - [[ジェレミー・レナー]]、俳優
* [[1972年]] - [[玉春日良二]]、元[[大相撲]][[力士]]、年寄14代[[片男波]]
* 1972年 - [[東輝]]、元スキージャンプ選手
* 1972年 - [[高橋徹也]]、シンガーソングライター
* [[1974年]] - [[高橋由美子]]、[[歌手]]、女優
* [[1975年]] - [[伊藤舞子]]、声優
* 1975年 - [[伊藤里絵]]、[[アナウンサー]]
* 1975年 - [[せり (格闘家)|せり]]、[[格闘家]]
* [[1976年]] - [[アルフォンソ・ソリアーノ]]、元プロ野球選手
* 1976年 - [[エリック・ガニエ]]、プロ野球選手
* 1976年 - [[金開山龍]]、元大相撲力士
* 1976年 - [[江畑佳代子]]、[[プロボクサー]]
* [[1977年]] - [[桐島優介]]、俳優、ミュージシャン
* 1977年 - 酒井デンペー、お笑いタレント([[サカイスト]])
* [[1978年]] - [[ケビン・メンチ]]、元プロ野球選手
* 1978年 - [[今宿麻美]]、[[ファッションモデル]]、女優
* 1978年 - CICO、ミュージシャン([[BENNIE K]])
* 1978年 - 古川かずな、お笑いタレント、[[放送作家]](元[[法薬女子大学]])
* [[1979年]] - [[本名陽子]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=2033 |title=本名陽子 |access-date=13 Apr 2023 |publisher=animate Times}}</ref>、女優、声優、歌手、[[ナレーター]]
* 1979年 - [[水沢はるか]]、タレント、元アイドル
* [[1980年]] - MAH、ミュージシャン([[SHAKALABBITS]])
* 1980年 - [[進藤学]]、俳優
* 1980年 - [[青木琴美 (漫画家)|青木琴美]]、[[漫画家]]
* 1981年 - [[ジェレミー・レナー]]、俳優
* [[1981年]] - [[松本慶彦]]、バレーボール選手
* 1981年 - [[遠藤嘉人]]、俳優
* 1981年 - [[マリオ・キアリーニ]]、プロ野球選手
* [[1982年]] - エンナ、ミュージシャン([[All Japan Goith]])
* 1982年 - [[フランシスコ・ロドリゲス]]、プロ野球選手
* 1982年 - [[酒井まゆ]]、[[漫画家]]
* 1982年 - [[冨田翔]]、俳優
* 1982年 - [[渋谷はるか]]、女優、声優
* 1982年 - [[梁勇基]]、[[サッカー]]選手
* [[1983年]] - [[青木裕子 (1983年生)|青木裕子]]、[[フリーアナウンサー]]
* 1983年 - [[呂布カルマ]]、[[MC (ヒップホップ)|ラッパー]]
* 1983年 - [[宮本裕司]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[エドウィン・エンカーナシオン]]、プロ野球選手
* [[1984年]] - [[ジョン・レスター (左投手)|ジョン・レスター]]、プロ野球選手
* 1984年 - [[カルロス・コーポラン]]、プロ野球選手
* 1984年 - [[深月ユリア]]、女優、ライター
* [[1985年]] - [[野原祐也]]、プロ野球選手
* 1985年 - [[ルイス・ハミルトン]]、[[F1ドライバー]]
* [[1986年]] - [[船谷圭祐]]、サッカー選手
* 1986年 - [[ホセ・エスカローナ]]、プロ野球選手
* [[1987年]] - [[Erina]]、元[[グラビアアイドル]]、元[[歌手]](元[[桜mint's|桜(もも)mint's]])
* 1987年 - [[マイケル・マグリンチィ]]、サッカー選手
* 1987年 - [[ダヴィデ・アストーリ]]、元サッカー選手(+ [[2018年]])
* [[1988年]] - [[ハードウェル]]、[[DJ]]
* 1988年 - [[ジョーリス・チャシーン]]、プロ野球選手
* 1988年 - [[安達了一]]、プロ野球選手
* 1988年 - [[赤田龍一郎]]、元プロ野球選手
* 1988年 - KEITA、ミュージシャン([[seven oops]])
* [[1989年]] - [[菅崎茜]]、歌手
* 1989年 - [[中島由香利]]、タレント([[hy4 4yh]])
* 1989年 - [[フィリップ・オーモン]]、プロ野球選手
* 1989年 - [[デビッド・コルビン]]、野球選手
* 1989年 - [[エミリアーノ・インスア]]、サッカー選手
* 1989年 - [[イワン・トレチャコフ]]、フィギュアスケート選手
* [[1990年]] - [[エレーネ・ゲデヴァニシヴィリ]]、フィギュアスケート選手
* 1990年 - [[フランク・ガルセス]]、プロ野球選手
* 1990年 - [[グレゴア・シュリーレンツァウアー]]、[[スキージャンプ]]選手
* 1990年 - [[リアム・エイケン]]、俳優
* 1990年 - 阪本匠伍、お笑い芸人([[マユリカ]])
* [[1991年]] - [[倉本寿彦]]、プロ野球選手
* 1991年 - [[伊藤準規]]、元プロ野球選手
* 1991年 - [[小林よしみ]]、プロボウリング選手
* 1991年 - [[クレマン・グラニエ]]、サッカー選手
* 1991年 - [[エデン・アザール]]、サッカー選手
* 1991年 - [[meiyo]]、ミュージシャン
<!-- 出典が不明 * [[1992年]] - [[枚田菜々子]]、女優 -->
* [[1993年]] - [[中務裕太]]、パフォーマー([[GENERATIONS from EXILE TRIBE]])
* 1993年 - [[粗品 (お笑い芸人)|粗品]]、[[お笑いタレント|お笑い芸人]]([[霜降り明星]])
* 1993年 - [[青木あゆ]]、元アイドル
* 1993年 - [[チアゴ・ビエイラ]]、プロ野球選手
* [[1994年]] - [[浅野里香]]、[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー
* 1994年 - [[宮本麗美]]、アナウンサー
* 1994年 - [[井口和朋]]、プロ野球選手
* 1994年 - [[イ・ソンビン (女優)|イ・ソンビン]]、女優
* 1994年 - [[岩中睦樹]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=7090 |title=岩中 睦樹 |accessdate=13 Apr 2023 |publisher=animate Times}}</ref>、声優
* 1994年 - [[歩乃華]]、YouTuber、歌手
* [[1995年]] - [[佐藤綾乃 (アイドル)|佐藤綾乃]]、元[[アイドル]](元[[アップアップガールズ(仮)]])
* 1995年 - [[ホン・ソヨン]]、女優、ミュージカル俳優
* [[1997年]] - [[石田亜佑美]]、歌手([[モーニング娘。]])
* 1997年 - [[川村壱馬]]、[[歌手]]([[THE RAMPAGE from EXILE TRIBE]])
* 1997年 - [[岡田和樹]]、アナウンサー
* 1997年 - [[増田紗織]]、アナウンサー
* 1997年 - [[春乃美月]]、女優、モデル
* 1997年 - [[森莉那]]、女優
* 1997年 - イ・セロム、アイドル([[fromis_9]])
* 1997年 - ユヒョン、アイドル([[DREAMCATCHER]])
* 1997年 - [[ラマー・ジャクソン]]、[[アメリカンフットボール]]選手
* [[1998年]] - [[木津つばさ]]、俳優
* 1998年 - みなみ、歌手([[まこみな]])
* [[1999年]] - [[加藤ゆりな]]、タレント、元アイドル([[Nゼロ]]、[[ナト☆カン]]、[[アキシブproject]])
* 1999年 - [[岬あかり]]、女優
* 1999年 - [[堀米雄斗]]、[[スケートボード]]選手
* 1999年 - [[小林大智]]、サッカー選手
* 1999年 - [[武者大夢]]、サッカー選手
* [[2000年]] - [[田島芽瑠]]<ref>{{Cite web|和書 |url=http://mamaandson.jp/talent/merutashima/ |title=田島芽瑠 |access-date=13 Apr 2023 |publisher=Mama & Son Inc.}}</ref>、タレント、元アイドル(元[[HKT48]])
* [[2003年]] - [[山田麗華]]、ファッションモデル、タレント
* [[2009年]] - キム・ハナ、子役
* 生年不明 - [[大河望]]、声優
* 生年不明 - [[奈波果林]]、声優
* 生年不明 - [[阿井りんな]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://haikyo.co.jp/profile/profile.php?ActorID=12489 |title=阿井 りんな |publisher=[[俳協]] |accessdate=13 Apr 2023}}</ref>、声優
== 忌日 ==
[[ファイル:Keizer Hirohito 1971.jpg|thumb|120px|[[昭和天皇]](1901-1989)崩御。64年間続いた昭和の歴史に幕を下ろす。]]
[[ファイル:Tarō_Okamoto.jpg|thumb|120px|芸術家、[[岡本太郎]](1911-1996)没。]]
[[ファイル:TommyLasorda.jpg|thumb|120px|[[トミー・ラソーダ]](1927-2021)没。[[ロサンゼルス・ドジャース]]を2度の世界一に導く。]]
* [[507年]](武烈天皇8年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]) - [[武烈天皇]]、第25代[[天皇]](* [[489年]])
* [[672年]](天智天皇10年[[12月3日 (旧暦)|12月3日]]) - [[天智天皇]]、第38代天皇(* [[626年]])
* [[881年]]([[元慶]]4年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]])- [[清和天皇]]、第56代天皇(* [[850年]])
* [[999年]]([[長徳]]4年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]])- [[藤原実方]]、[[平安時代]]の[[公卿]]・[[歌人]]
* [[1285年]] - [[カルロ1世 (シチリア王)|カルロ1世]]、[[シチリア王国|シチリア王]](* [[1227年]])
* [[1321年]] - [[ディニス1世 (ポルトガル王)|ディニス1世]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル王]](* [[1261年]])
* [[1355年]] - [[イネス・デ・カストロ]]、ポルトガル王[[ペドロ1世 (ポルトガル王)|ペドロ1世]]の愛妾・妃(* [[1325年]])
* [[1451年]] - [[フェリクス5世 (対立教皇)|フェリクス5世]]、[[対立教皇]](* [[1383年]])
* [[1536年]] - [[キャサリン・オブ・アラゴン]]、イングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の王妃(* [[1485年]])
* [[1556年]]([[弘治 (日本)|弘治]]元年[[11月26日 (旧暦)|11月26日]])- [[織田信光]]、[[武将|戦国武将]](* [[1516年]])
* [[1619年]] - [[ニコラス・ヒリアード]]、金銀細工師・[[ミニアチュール]]作家(* [[1547年]]頃)
* [[1623年]] - [[フラ・パオロ・サルピ]]、[[神学者]]・[[修道士]](* [[1552年]])
* [[1655年]] - [[インノケンティウス10世 (ローマ教皇)|インノケンティウス10世]]、第236代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1574年]])
* [[1743年]] - [[アンナ・ソフィー・レーヴェントロー]]、デンマーク王[[フレデリク4世 (デンマーク王)|フレデリク4世]]の王妃(* [[1693年]])
* [[1755年]]([[宝暦]]4年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]])- [[鍋島宗茂]]、第5代[[佐賀藩|佐賀藩主]](* [[1687年]])
* [[1830年]] - [[トーマス・ローレンス (画家)|トーマス・ローレンス]]、[[画家]](* [[1769年]])
* 1830年 - [[カルロッタ・ジョアキナ]]、ポルトガル王[[ジョアン6世 (ポルトガル王)|ジョアン6世]]の王妃(* [[1775年]])
* [[1864年]] - [[ケイレブ・ブラッド・スミス]]、第6代[[アメリカ合衆国内務長官]](* [[1808年]])
* [[1886年]] - [[リチャード・ダッド]]、画家(* [[1817年]])
* [[1890年]] - [[アウグスタ・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ]]、ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]の皇后(* [[1811年]])
* [[1892年]] - [[タウフィーク]]、[[ムハンマド・アリー朝]]のヘティーヴ(* [[1852年]])
* [[1893年]] - [[ヨーゼフ・シュテファン]]、[[物理学者]](* [[1835年]])
* [[1902年]] - [[イヴァン・ブロッホ (銀行家)|イヴァン・ブロッホ]]、[[実業家]](* [[1836年]])
* [[1907年]] - [[モザッファロッディーン・シャー]]、[[ペルシア]]の[[シャー]](* [[1853年]])
* [[1918年]] - [[ユリウス・ヴェルハウゼン]]、[[言語学|言語学者]](* [[1844年]])
* [[1919年]] - [[松村淳蔵]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[中将]](* [[1842年]])
* [[1920年]] - [[エドモンド・バートン]]、初代[[オーストラリアの首相|オーストラリア首相]](* [[1849年]])
* [[1921年]] - [[中原悌二郎]]、[[彫刻家]](* [[1888年]])
* [[1924年]] - [[小岸壮二]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](* [[1898年]])
* [[1925年]] - [[清水澄子 (女学生)|清水澄子]]<ref>{{Kotobank|清水澄子|[[講談社]] / デジタル版 日本人名大辞典+Plus}}</ref>、女学生、『さゝやき』著者(* [[1909年]])
* [[1927年]] - [[尾上多見蔵 (3代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1866年]])
* 1927年 - [[九州山十郎]]、[[大相撲]][[力士]](* [[1889年]])
* [[1932年]] - [[アンドレ・マジノ]]、[[フランス]]陸相、年金相、[[マジノ線]]建設提唱者(* [[1877年]])
* [[1934年]] - [[田村直臣]]、[[プロテスタント]][[牧師]](* [[1858年]])
* [[1943年]] - [[ニコラ・テスラ]]、電機技師、発明家(* [[1856年]])
* [[1944年]] - [[ジョージ・マリン]]、[[プロ野球選手]](* [[1880年]])
* [[1949年]] - [[塩野季彦]]、[[法務大臣|司法相]](* [[1880年]])
* [[1951年]] - [[木見金治郎]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]](* [[1878年]])
* 1951年 - [[ルネ・ゲノン]]、[[哲学|哲学者]](* [[1886年]])
* 1951年 - [[ウルホ・ペルトネン]]、[[陸上競技]]選手(* [[1893年]])
* [[1952年]] - [[宇都宮新八郎]]、大相撲力士(* [[1890年]])
* [[1955年]] - [[エドワード・カスナー]]、[[数学者]](* [[1878年]])
* [[1957年]] - [[ヨジェ・プレチニック]]、[[建築家]](* [[1872年]])
* [[1962年]] - [[石井漠]]、[[舞踏家]](* [[1886年]])
* 1962年 - [[花月亭九里丸]]、[[漫談|漫談家]](* [[1891年]])
* [[1963年]] - [[エリック・ルンドクヴィスト]]、陸上競技選手(* [[1908年]])
* [[1964年]] - [[コリン・マクフィー]]、[[作曲家]](* [[1900年]])
* [[1967年]] - [[カール・シューリヒト]]、[[指揮者]](* [[1880年]])
* 1967年 - [[広川弘禅]]、[[政治家]](* [[1902年]])
* 1967年 - [[デイビッド・グーディス]]、[[推理作家]](* [[1917年]])
* [[1968年]] - [[伊藤小坡]]、[[日本画家]](* [[1877年]])
* [[1970年]] - [[榎本健一]]、[[喜劇]][[俳優]]、[[歌手]]、[[コメディアン]](* [[1904年]])
* [[1971年]] - [[内田信也]]、[[実業家]]、政治家(* [[1880年]])
* [[1973年]] - [[雷山勇吉]]、大相撲力士(* [[1907年]])
* 1973年 - [[太田光二]]<ref>『愛知新聞』1973年1月9日、「太田前岡崎市長 地方政治に生涯かける」</ref>、政治家(* [[1900年]])
* [[1975年]] - [[広重徹]]、[[科学史|科学史家]](* [[1928年]])
* [[1978年]] - [[ジョージ・バーンズ (内野手)|ジョージ・バーンズ]]、プロ野球選手(* [[1893年]])
* [[1980年]] - [[シモーヌ・マチュー]]、[[テニス]]選手(* [[1908年]])
* 1980年 - [[ラリー・ウィリアムズ (歌手)|ラリー・ウィリアムズ]]、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]][[歌手]](* [[1935年]])
* [[1981年]] - [[前尾繁三郎]]、政治家、第58代[[衆議院議長]](* [[1905年]])
* [[1984年]] - [[アルフレッド・カストレル]]、物理学者(* [[1902年]])
* [[1986年]] - [[フアン・ルルフォ]]、[[小説家]](* [[1917年]])
* [[1988年]] - [[トレヴァー・ハワード]]、[[俳優]](* [[1913年]])
* [[1989年]] - [[昭和天皇]]、第124代[[天皇]](* [[1901年]])
* 1989年 - [[若國一男]]、大相撲力士(* [[1927年]])
* [[1990年]] - [[荒金天倫]]、[[臨済宗方広寺派]]第九代管長(* [[1920年]])
* [[1991年]] - [[高木重朗]]、[[奇術]]研究家(* [[1930年]])
* [[1995年]] - [[マレー・ロスバード]]、経済学者、歴史学者、政治哲学者(* [[1926年]])
* [[1996年]] - [[岡本太郎]]、[[芸術家]](* [[1911年]])
* [[1997年]] - [[津村枕石]]、[[書道|書家]](* [[1912年]])
* 1997年 - [[シャーンドル・ヴェーグ]]、[[ヴァイオリニスト]](* 1912年)
* 1997年 - [[山下好一]]、プロ野球選手(* 1912年)
* 1997年 - [[尾茂田叶]]、プロ野球選手(* [[1909年]])
* [[1998年]] - [[ウラジミール・プレローグ]]、[[化学者]](* [[1906年]])
* 1998年 - [[リチャード・ハミング]]、[[数学者]]、[[コンピュータ科学]]者(* [[1915年]])
* [[1999年]] - [[東けんじ]]、[[漫才|漫才師]]([[Wけんじ]])(* [[1923年]])
* 1999年 - [[槌田誠]]、プロ野球選手(* [[1943年]])
* [[2000年]] - [[ゲーリー・オブライト]]、[[プロレスラー]](* [[1963年]])
* [[2001年]] - [[佐藤亮一 (実業家)|佐藤亮一]]、実業家(* [[1924年]])
* [[2002年]] - [[加賀邦男]]、俳優(* [[1913年]])
* 2002年 - [[根本進]]、[[漫画家]]、[[絵本]]作家(* [[1916年]])
* [[2004年]] - [[イングリッド・チューリン]]、女優(* [[1926年]])
* [[2006年]] - [[ハインリヒ・ハラー]]、[[登山家]]、[[写真家]](* [[1912年]])
* [[2007年]] - [[花柳壽楽 (2代目)]]、[[日本舞踊|日本舞踊家]](* [[1918年]])
* 2007年 - [[福田歓一]]、[[政治学者]](* [[1923年]])
* [[2008年]] - [[池田みち子]]、小説家(* [[1910年]])
* 2008年 - [[宇野精一]]、[[中国文学者]]、[[日本語教育]]評論家(* 1910年)
* [[2009年]] - [[南部利昭]]、[[南部家]]当主、[[靖国神社]]宮司(* 1935年)
* 2009年 - [[アレクサンドル・モロズ]]、[[チェス]]選手(* [[1961年]])
* [[2011年]] - [[高見澤宏]]、[[ダークダックス]]のメンバー(* [[1933年]])
* [[2012年]] - [[二谷英明]]、俳優、[[アナウンサー]](* [[1931年]])
* [[2013年]] - [[李俊 (映画監督)|李俊]]、映画監督(* [[1922年]])
* [[2016年]] - [[前田祐吉]]、[[慶應義塾大学野球部]]監督(* [[1930年]])
* 2016年 - [[安達智次郎]]、プロ野球選手(* [[1974年]])
* [[2018年]] - [[フランス・ギャル]]<ref>{{Cite web |url=https://www.washingtonpost.com/local/obituaries/france-gall-hitmaking-french-pop-singer-dies-at-70/2018/01/14/4511e9ba-f701-11e7-b34a-b85626af34ef_story.html |title=France Gall, hitmaking French pop singer, dies at 70 |publisher=The Washington Post |accessdate=13 Apr 2023 |date=January 14, 2018}}</ref>、歌手(* [[1947年]])
* [[2019年]] - 加藤幹太、[[放射線生物学|放射線生物学者]]、元[[滋賀大学]]学長、[[京都大学]]名誉教授(* [[1927年]])
* [[2020年]] - [[アレクサンドル・マトゥロン]]<ref>{{Cite web|url= https://spinozaresearchnetwork.wordpress.com/2020/01/10/alexandre-matheron/ |title= Alexandre Matheron died on January 7, 2020.|publisher= The Spinoza Research Network |accessdate=13 Apr 2023}}</ref>、[[哲学者]](* [[1926年]])
* [[2021年]] - [[トミー・ラソーダ]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2021/01/10/kiji/20210109s00001007456000c.html |title=名将ラソーダさん死去 野茂氏「凄いショック 感謝してもしきれない」 |website=Sponichi Annex |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=10 Jan 2021 |access-date=13 Apr 2023}}</ref>、プロ野球選手、監督(* [[1927年]])
* 2021年 - [[マイケル・アプテッド]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/411918|title=マイケル・アプテッドが79歳で死去、「UP」や「歌え!ロレッタ・愛のために」監督|work=映画ナタリー|publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|株式会社ナターシャ]] |date=9 Jan 2021|accessdate=13 Apr 2023}}</ref>、[[映画監督]](* [[1941年]])
* 2021年 - [[南正人]]<ref>{{Cite web|和書|title=フォークシンガーの南正人、ライブ中に死去|work=音楽ナタリー|date=8 Jan 2021|url=https://natalie.mu/music/news/411725|publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|株式会社ナターシャ]]|accessdate=13 Apr 2023}}</ref>、[[フォークソング|フォーク]]歌手(* [[1944年]])
* 2021年 - [[マリオン・ラムジー]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0120942|title=『ポリスアカデミー』フックス役マリオン・ラムジーさん死去 73歳|publisher=シネマトゥデイ|date=8 Jan 2021|accessdate=13 Apr 2023}}</ref>、女優、歌手(* [[1947年]])
* [[2022年]] - 松本冠也<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE124GI0S2A110C2000000/ |title=松本冠也氏が死去 元パイオニア会長 |publisher=[[日本経済新聞]]|date=12 Jan 2022 |accessdate=13 Apr 2023}}</ref>、実業家、元[[パイオニア]]会長(* [[1930年]])
* 2022年 - [[小嶺忠敏]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/202201070000120.html |title=国見高元監督の小嶺忠敏さん死去、76歳 現長崎総合科学大付監督 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=7 Jan 2022 |accessdate=13 Apr 2023}}</ref>、元[[サッカー]]選手、監督(* [[1945年]])
* 2022年 - [[井上治]]<ref>{{Twitter status|michipro_jp|1479979438851104768}}</ref>、元プロレスラー(* [[1983年]])
* 2022年 - 竹田由佳<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2223028/full/ |title=プロレスラー竹田誠志、元アイドルで妻・由佳さんの急死を報告「現実を受け止められません」 |access-date=13 Apr 2023 |publisher=[[ORICON NEWS]] |date=1 Feb 2022}}</ref>、元アイドル([[スルースキルズ]])(* [[1988年]])
* [[2023年]] - [[飯田亮]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://nordot.app/986513828563910656 |title=セコム創業者の飯田亮さんが死去 日本初の警備会社、89歳 |access-date=13 Apr 2023 |publisher=[[共同通信]] |date=13 Jan 2023}}</ref>、実業家、[[セコム]]創業者(*[[1933年]])
* 2023年 - [[大村和久]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.asahi.com/articles/ASR1C5VTJR1CPCVL00G.html |title=将棋棋士の大村和久八段死去 94歳、東海の将棋普及に尽力 |access-date=13 Apr 2023 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=11 Jan 2023}}</ref>、[[将棋]][[棋士 (将棋)|棋士]](* [[1928年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[七草粥]]
* [[人日]]の節句
*: [[五節句]]のひとつ。古来[[中国]]では、この日に7種類の[[野菜]]([[七草]])を入れた[[羹]](あつもの)を食べる習慣があり、これが[[日本]]に伝わって[[七種粥]]となった。[[日本]]では[[平安時代]]から始められ、[[江戸時代]]より一般に定着した。
* 爪切りの日({{JPN}})
*: 新年になって初めて[[爪]]を切る日。七草を浸した水に爪をつけ、柔かくして切ると、その年は[[風邪]]をひかないと言われている。
* 昭和天皇祭 ({{JPN}})
*: 1990年(平成2年)以降の[[先帝祭]]で[[宮中祭祀]]の大祭の一つ。
*白馬(あおうま)神事 ({{JPN}})
*: [[大阪市]]の[[住吉大社]]で毎年この日に行なわれる特殊神事。神馬「白雪号」が各本宮を巡拝したあと、境内を駆け廻る。正月に白馬を見ると邪気が払われると伝えられている<ref>{{Cite web |url=https://www.sumiyoshitaisha.net/events/annualevents/01.html#anchor04 |title=1月の行事 白馬神事(あおうましんじ) |access-date=5 Nov 2023 |publisher=住吉大社}}</ref>。
* [[クリスマス]]([[東方正教会]]など。[[ロシア]]では[[祝日]])
* 虐殺政権からの解放の日({{KHM}})
*: [[1979年]]のこの日、[[カンプチア救国民族統一戦線]]が[[プノンペン]]に侵攻し、[[ポル・ポト]]政権([[民主カンプチア]])が崩壊した。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0107|date=2023年4月}}
* [[1995年]] - 同日3時10分、[[アメリカ空軍]]の試作G反応戦闘機「トリックスター」が、フロリダ上空9万8千フィートで試験飛行中に[[未確認飛行物体|空飛ぶ円盤]]群の襲撃を受けて撃墜され、パイロットのジェームズは消息不明となる<ref>『Project BLUE 地球SOS』第1話アバンタイトルより。</ref>。(アニメ『[[Project BLUE 地球SOS]]』)
* [[2000年代|200X年]] - 同日10時37分、国産超音速[[ビジネスジェット]]「スワローテイル」の一号試作機が、四国沖L空域で試験飛行中に、高度2万メートルに達したところで原因不明の爆発事故を起こし墜落。クルー12名が死亡する<ref>{{Cite book |和書 |author=有川浩|authorlink=有川浩|year=2008 |title=空の中 |page=13 |publisher=[[角川書店]] |isbn=978-4-04-389801-5}}</ref>。(小説『[[空の中]]』)
* 年号不明 - キキの子どものトト・ニニが、トトは正体不明の少女の正体を突き止めるためパリパリ市へ、ニニは魔女修行へそれぞれ出発。(小説『[[魔女の宅急便]] その6』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1976年]] - 大門未知子、ドラマ『[[ドクターX〜外科医・大門未知子〜]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |title=米倉涼子主演『ドクターX』、オペシーンや決めゼリフの秘密アレコレ |url=https://www.jprime.jp/articles/-/11135?page=2 |website=[[週刊女性PRIME]] |accessdate=13 Apr 2023 |publisher=[[主婦と生活社]] |page=2 |date=2017-11-22}}</ref>
* [[1989年]] - 滝沢朗、アニメ『[[東のエデン]]』の主人公<ref>{{Cite book|和書|editor = ホビー編集部|year = 2010|title = 東のエデン 完全設定資料集|publisher = [[エンターブレイン]]|isbn = 978-4-04-726450-2|page = 6 }}</ref>
* ポリヘドロン暦15282年 - ダノン・シ・アレイ、アニメ『[[輪廻のラグランジェ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|year = 2012|title = TV ANIMATION 輪廻のラグランジェ オフィシャルガイド|publisher = [[スクウェア・エニックス]]|isbn = 978-4-7575-3646-3|page = 54 }}</ref>
* 生年不明 - 宇佐美いちか(キュアホイップ)、アニメ『[[キラキラ☆プリキュアアラモード]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.asahi.co.jp/precure/kirakira/character/index.html#category |title=キュアホイップ(宇佐美いちか) |work=『キラキラ☆プリキュアアラモード』 |accessdate=13 Apr 2023 |publisher=[[朝日放送テレビ|ABC朝日放送テレビ]]}}</ref>
* 生年不明 - 月宮あゆ、ゲーム・アニメ『[[Kanon (ゲーム)|Kanon]]』のメインヒロイン<ref>{{Cite web|和書 |url=https://key.visualarts.gr.jp/product/kanon/character/ |title=キャラクター紹介 月宮あゆ |publisher=[[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]]/[[Key (ゲームブランド)|Key]] |work=『Kanon』 |accessdate=13 Apr 2023}}</ref>
* 生年不明 - モズ、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Mozu.html |title=モズ |access-date=13 Apr 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref>
* 生年不明 - 三ツ橋蛍、漫画・アニメ『[[火ノ丸相撲]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hinomaru-zumou.com/character/三ツ橋蛍 |title=三ツ橋 蛍 |access-date=13 Apr 2023 |publisher=[[川田 (漫画家)|川田]]/[[集英社]]・「火ノ丸相撲」製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - 鎌切尖、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heroaca.com/character/chara_group02/02-17/ |title=鎌切尖 |access-date=13 Apr 2023 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref>
* 生年不明 - [[鬼滅の刃#不死川玄弥|不死川玄弥]]、漫画・アニメ『[[鬼滅の刃]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kimetsu_off|1214199994883825669}}</ref>
* 生年不明 - 三輪子猫丸、漫画・アニメ『[[青の祓魔師]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aoex_official|1346834090482302976}}</ref>
* 生年不明 - [[一条かれん]]、[[漫画]]・アニメ『[[スクールランブル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=小林尽(監修)|authorlink=小林尽|year = 2006 |title = School Rumble Treasure File |page = 74 |publisher = [[講談社]] |series = KCデラックス |isbn = 978-4-06-372137-9 }}</ref>
* 生年不明 - 二宮愛、漫画・アニメ『[[あまんちゅ!]]』に登場するキャラクター<ref name=":0">{{Twitter status|amanchu_anime|817588449922293760}}</ref>
* 生年不明 - 二宮誠、漫画・アニメ『あまんちゅ!』に登場するキャラクター<ref name=":0" />
* 生年不明 - 姫柊雪菜、ライトノベル・アニメ『[[ストライク・ザ・ブラッド]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|stb_anime|685062508894265344}}</ref>
* 生年不明 - 藍羽ルリ、アニメ『[[セイクリッドセブン]]』に登場するキャラクター<ref name=":1">{{Twitter status|sunriseworld_pr|1611558250863788034}}</ref>
* 生年不明 - 藍羽アオイ、アニメ『セイクリッドセブン』に登場するキャラクター<ref name=":1" />
* 生年不明 - オリバー、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ|どうぶつの森]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/index.html |title=住民名簿 1月 オリバー |access-date=13 Apr 2023 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - μ-No.12-、ゲーム『[[BLAZBLUE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.blazblue.jp/cf/ac/character/mu.html |title=ミュー・テュエルブ |publisher=[[アーク・システムワークス|ARC SYSTEM WORKS]] |work=『BLAZBLUE CENTRALFICTION AC版』 |accessdate=13 Apr 2023}}</ref>
* 生年不明 - 鳴神五十鈴、ゲーム・アニメ『[[アイドル事変]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://idoljihen.jp/character/narukami-isuzu/ |title=和歌山県 鳴神 五十鈴 |access-date=13 Apr 2023 |publisher=[[MAGES.]] アイドル事変製作委員会 |work=『アイドル事変』}}</ref>
* 生年不明 - 凍哉、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=104&cate=name&cont=Toya |title=凍哉(とうや) |access-date=13 Apr 2023 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref>
* 生年不明 - 橘蒼星、ゲーム・小説『[[夢色キャスト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://ycast.sega-net.com/cast.html |title=YUMEIRO COMPANY 橘蒼星 |access-date=13 Apr 2023 |publisher=[[セガ|SEGA]] |work=『夢色キャスト』}}</ref>
* 生年不明 - 幸永椿貴、ゲーム・アニメ『[[フットサルボーイズ!!!!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|futsal_boys|1346833909292486656}}</ref>
* 生年不明 - 鷹宮リオン、いちから株式会社が運営する『[[にじさんじ]]』に所属するバーチャルライバー<ref>{{Twitter status|nijisanji_app|1214471863071461376}}</ref>
* 生年不明 - [[BanG Dream!の登場人物#Afterglow|羽沢つぐみ]]、メディアミックス『[[BanG Dream!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://bang-dream.bushimo.jp/character/hazawa-tsugumi/ |title=羽沢 つぐみ |work=『BanG Dream! ガールズバンドパーティ! 』 |publisher=[[ブシロード]] |accessdate=13 Apr 2023}}</ref>
* 生年不明 - 青柳椿、メディアミックス『[[D4DJ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://d4dj.bushimo.jp/unit/aoyagi-tsubaki/ |title=青柳 椿 |access-date=13 Apr 2023 |publisher=[[ブシロード|bushiroad]] [[DONUTS (企業)|DONUTS Co. Ltd.]] |work=『D4DJ』}}</ref>
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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{{新暦365日|1|6|1|8|[[12月7日]]|[[2月7日]]|[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]|0107|1|07}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%887%E6%97%A5 |
2,744 | 大アジア主義講演 | 大アジア主義講演(だいアジアしゅぎこうえん)とは、1924年(大正13年)11月28日、孫文が神戸で頭山満と会談した翌日に行った講演。神戸商業会議所など5団体を対象として、現在の兵庫県庁の場所にあった県立神戸高等女学校講堂において行われた。
当時は録音設備も無いため速記などによって記録されたためか大阪毎日新聞、神戸新聞、民国日報(上海)などによって多少の違いが有るようである。
講演は中国語で行われ、随行した戴季陶によって日本語に通訳された。
この演説は東洋の王道、西洋の覇道を区分し、東洋の王道をたたえ、その先端を行く日本の近代化への賞賛と行き過ぎによる覇道への傾斜を非難したものとらえる見解が従来有力であった。しかし、近年では、この演説で収容所国家化しつつあったソビエトを、自身への援助開始のゆえにおべっか的に礼賛し、反面自身への支援をためらった日本への嫌味をつらねた孫文の独りよがりの見解にすぎなかったとする指摘もあらわれている(渡辺望『蒋介石の密使 辻政信』祥伝社新書 2013年) | [
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'''大アジア主義講演'''(だいアジアしゅぎこうえん)とは、[[1924年]](大正13年)[[11月28日]]、[[孫文]]が[[神戸市|神戸]]で[[頭山満]]と会談した翌日に行った講演。神戸商業会議所など5団体を対象として、現在の[[兵庫県庁]]の場所にあった[[兵庫県立神戸高等学校|県立神戸高等女学校]]講堂において行われた。
当時は録音設備も無いため[[速記]]などによって記録されたためか[[大阪毎日新聞]]、[[神戸新聞]]、[[民国日報]](上海)などによって多少の違いが有るようである。
講演は[[中国語]]で行われ、随行した[[戴季陶]]によって[[日本語]]に[[通訳]]された。
{{要検証|この演説は東洋の王道、西洋の覇道を区分し、東洋の王道をたたえ、その先端を行く日本の近代化への賞賛と行き過ぎによる覇道への傾斜を非難したものとらえる見解が従来有力であった。しかし、近年では、この演説で収容所国家化しつつあったソビエトを、自身への援助開始のゆえにおべっか的に礼賛し、反面自身への支援をためらった日本への嫌味をつらねた孫文の独りよがりの見解にすぎなかったとする指摘もあらわれている(渡辺望『蒋介石の密使 辻政信』祥伝社新書 2013年)|date=2021年1月}}
== 関連項目 ==
{{Wikisource|:zh:大亞洲主義}}
*[[アジア主義]]
== 関連文献 ==
*[[陳徳仁]]・[[安井三吉]](編) 『孫文・講演「大アジア主義」資料集 - 1924年11月 日本と中国の岐路 - 』 [[法律文化社]]、[[1989年]]
== 外部リンク ==
* [{{新聞記事文庫|url|0100239985|title=大アジア主義 (1〜4)|oldmeta=10014630}} 神戸大学 電子図書館システム 新聞記事文庫 人種問題(2-019) 大阪毎日新聞 1924.12.3-1924.1.6(大正13) 大アジア主義 (1〜4) 神戸高女にて 孫文氏演説 戴天仇氏通訳]
{{DEFAULTSORT:たいあしあしゆきこうえん}}
[[Category:中華民国の政治]]
[[Category:大正時代の外交]]
[[Category:アジア主義]]
[[Category:1924年の日本]]
[[Category:1924年の政治]]
[[Category:日中関係史]]
[[Category:孫文]]
[[Category:日本の演説]]
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[[Category:1924年11月]]
[[Category:戦前の神戸]] | null | 2023-02-14T09:12:30Z | false | false | false | [
"Template:要検証",
"Template:Wikisource"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%AC%9B%E6%BC%94 |
2,745 | Microsoft Windows 95 | Microsoft Windows 95(マイクロソフト ウィンドウズ 95)は、マイクロソフトがWindows 3.1の後継として、1995年に発売したオペレーティングシステム (OS) である。インターネットが一般に広まりはじめた時期に、業務用だけでなく、一般家庭にも急速な普及を見せた画期的なOSで、パソコンを爆発的に普及させる原動力となった。
Microsoft Windows (Windows) ファミリーの1つであり、コードネームはChicago。Windowsの内部バージョンは4.0(初期版)である。
従来は専門家用の高価なワークステーションでしか得られなかった操作感や機能を、一般向けに実現した点が世界に大きなインパクトを与えた。特に、家庭用として購入可能な価格のパソコンで動作するにもかかわらず、一般にも分かりやすい美麗な(ハイカラー(16bitカラー),トゥルーカラー(24bitカラー, 32bitカラー)で描画できる)GUIを備え、プラグアンドプレイやインターネットにも対応したOSという点が一般受けし、インターネットブームと共に爆発的に普及した。
別製品であったMS-DOSとWindowsが同一製品となった(製品パッケージやインストールメディアとしての話であって、システムとして統合されたわけではない)。次のような機能がWindows 3.1時代などと比べた特徴である。
ただし、上記の機能の中にはWindows for Workgroups 3.11(日本未発売)やWindows NT 3.51で既に実装されていたものもある。またVFATと呼ばれる「長いファイル名」(long file name)も導入されたが、MS-DOSを介さず直接ディスクを操作することで一部の機能を実現していたいわゆるマナーの悪いソフト(ファイル管理ソフト「FD」など)で非互換性が発生した例などがある。
NEXTSTEP風のウィジェットを採用し、ユーザインタフェース (UI) デザインの大幅な刷新が図られた。特に、Apple ComputerとのGUI絡みの裁判が決着したことを背景に、タスクバーやスタートメニュー、マウスの右ボタンのクリックで表示される内容の一覧から希望する処理を選択するといったUIなど、従来のWindowsではアプリケーションランチャ、タスクマネージャとしてしか機能していなかったデスクトップを一般的なディレクトリ(フォルダ)のひとつとしたことで、他のディレクトリとシームレスにファイルを移動できるようになった点が革新的であった。文書を読む流れを意識して設計されたMacintoshと比較すると、タスクバーが画面下端に設置される等の違いがある。
初心者でも操作を理解しやすく、完成度の高かったこのGUIは、その後Windows NT系でもWindows NT 4.0で採用され、Windows 9x系においては、Microsoft Windows Me、Windows NT系においては、Windows 2000までほとんど変更を加えられずに引き継がれた。Windows 9x系の消滅後もWindows XPやWindows Vista、Windows 7のクラシックモードにおいてもWindows 95とほとんど同一のデザインが採用されていた。新しく追加されたユーザーインターフェースでも、ボタンの配置などの基本設計はWindows 95と概ね同じであった。Windows 8ではスタートボタンが廃止されたがユーザーの不評を買い、Windows 8.1やWindows 10ではスタートボタンが復活した。
ビジネス分野でのLANの普及に対応し、ネットワーク設定の容易化を進めた。特に日本では、ネットワーク機能付きのWindows for Workgroup 3.11が販売されず、代替としてWindows NT Workstation 3.5が他国の販売価格と比較して安価に提供されていたが、ごく一部の先進的なユーザが導入するに留まっていた。そういった背景もあり、Windows 95は大きな期待を集めた。当初の戦略としては、LANはNetBEUIまたはIPX/SPX、WANはパソコン通信(ホストとしてはMSNの利用を想定)を利用すると位置付けていたが、前年の1994年頃よりインターネットでWWWの普及に弾みが付き始めたことに対応して、インターネットに必要な通信プロトコルのTCP/IPを選択することもできた。
もっとも、ビル・ゲイツはインターネットの普及はまだ先であるとして、パソコン通信を前提としたネットワークを考えていた。それ故、Windows 95の初期バージョンには、インターネット関連の機能は搭載されておらず、別売りの「Microsoft Plus!」による拡張機能として、Internet Explorer 2.0(英語版はIE1.0)を提供していた。しかし、ビル・ゲイツはWindows 95発売後すぐに、自分の判断の誤りに気づき、OSR2以降ではインターネット関連機能が標準搭載されるようになった。すなわち、OSR2ではTCP/IPが初期状態で選択されており、Windows 95を使えばインターネットに接続できるというイメージ戦略も成功し人気に拍車をかけることになった。
Win32 APIが提供され、高速な32ビットコードによるプログラムをWindows上で使用可能になった。ただし、Windows 95で実装されたWin32 API(かつてはWin32cと呼ばれていた)はWindows NTで実装されていたものと完全な互換性はなく、Windows 3.1で実装されていたもの (Win32s) とも異なるものであった。
ファイルI/Oを32ビットプロテクトモードで行い、MS-DOSのファイルI/O機能を使用せずにファイルI/Oを行えるようになった。これにより、MS-DOSのファイルI/O機能を使用していた以前のバージョンのWindowsよりファイルI/Oの性能が向上した。なお、スワップファイルへのアクセスに限っては、Windows 3.1の段階で既に32ビットI/Oを実現していた。
ファイルシステムであるFATを拡張し、VFATとしてWindows 3.1では不可能であった長いファイル名(最大255バイト)が利用可能になった。
プラグアンドプレイによる周辺機器の容易な増設など、分かりやすさを狙った設計となっていた。そのため、それまで専門的な知識を必要としたパソコンは誰でも手軽に使えるものになったと謳われた。
インターネットを使ってソフトの修正モジュールが配布されるようになったのも大きな特徴であった(初期版は特に修正モジュールが多かった)。
ゲームはWindows 3.1にもあったソリティア・マインスイーパのほか、新たにWin32sの付属サンプルでもあったフリーセルのほかハーツとHover!(その後のWindowsには付属していない)が付属する。また、マルチメディア機能が強化され、後にDirectXが提供された。
「DOSプロンプト」から複数のMS-DOSアプリケーションを同時に実行できるだけでなく、Windows 95を終了せずにリアルモードのMS-DOSを実行できた。Win16アプリケーションも実行でき、その場合は以前のバージョンのWindowsと同様の動作であった。VFATによる長いファイル名とファイルの拡張子によるアプリケーションの関連付けは不完全ながら下方互換性があり、Windows 95のファイルシステムをMS-DOSからアクセスできた。また、プロテクトモードのドライバを持たないデバイスをリアルモードのドライバを使用してWindows 95からアクセスできた。
Windows 95のパッケージ内容はMS-DOS 7.0/7.1とWindows 4.0のセットであり、MS-DOS 7.xを単独で起動したりWindows 3.1以前と同様MS-DOS用のメニューソフト(ランチャーソフト)やコマンドラインからWindows 4.0を起動することも可能である。また、PC-9800シリーズにおいてはMOディスクへのインストールおよびMOディスクからの起動が可能であり、ハードディスクを持たないWindowsマシンを構築することが可能である(PC/AT互換機および、Windows 98以降では不可能である)。
1995年8月25日に英語版が12か国で先行して発売され、日本語のベータ版もリリースされていたことから、日本でもある程度の情報が広まっていた。販売開始と前後して大量のテレビコマーシャルが流されていたこともあり、日本語版の発売された1995年11月23日(勤労感謝の日)の秋葉原などでは、11月23日になった瞬間に深夜販売を始める店が多く、業界関係者や報道陣を中心に一種のお祭り騒ぎの様相を呈した。この様子はテレビなどで報道され売り上げに貢献した。
Windows 95は先行してリリースされていたWindows NT 3.51に比べるとUIや機能面で進化しているものの安定性や信頼性に劣り、技術的には不完全なものであった。しかし、従来のWindows 3.1よりも使い勝手が改良され、Windows NT 3.51よりも高速で動作し、Windows 95はユーザー・市場のニーズをよく読んでそれに応えるという現実的な解を提供し、マーケティングの成功といえた。これにより、Windows 95はデスクトップOSの事実上の標準となり、PC-9800シリーズ、FM TOWNSなどのx86ベースの独自プラットフォームのパソコンはPC/AT互換機に吸収されていった。
CD-ROMとフロッピーディスク(DMFフォーマット)の2種類のメディアでリリースされた。希望小売価格は新規インストール用の通常版で29,800円、Windows 3.1、MS-DOS 5.0が対象のアップグレード版で13,800円であった。
直接的な後継OSとしては、以下のものが存在する。
現在では、さまざまな問題点を解決するために、まったく新しく設計されたWindows NT系のOSが主流となっている。
Windows 95は、カーネルモードのモジュールとユーザーモードのモジュールから構成されている。x86アーキテクチャのリングプロテクションを利用することによって、前者はリング0、後者はリング3で実行される。
カーネルモードのモジュールには以下のものがある。
これらのモジュールは、32ビットプロテクトモードで実行され、Windows 95の動作中にはリアルモードのMS-DOSと置き換わる形となる。このような構造の基本は以前のバージョンのWindowsより引き継いだものであり、Windows 95でにわかに実現したものではない。
Windows 95の構造を「リアルモードのMS-DOS上でプロテクトモードのWindowsが動作している」と説明するのは誤りである。
ユーザーモードのモジュールには以下のものがある。
これらのモジュールの一部(特にUserとGDI)は以前のバージョンのWindowsより引き継いだ16ビットコードで記述されており、Win32 APIが使用された時も16ビットコードが実行されることがある。これにより以前のバージョンのWindowsとの互換性を高めメモリの使用量を減少させているが、16ビットコードの問題がWin32アプリケーションに影響を与え、性能を低下させることもあった。
Windows 95のVMMは、Win32アプリケーション、MS-DOSアプリケーションに対して各プロセスに固有のアドレス空間を与え、プリエンプティブ・マルチタスクとして実行する。このため、特定のアプリケーションの問題によりCPUが占有されるトラブルはなくなった。
一方、Win16アプリケーションに対しては、以前のバージョンのWindowsと同様にすべてのプロセスに共有アドレス空間を与え、ノンプリエンプティブ・マルチタスクとして実行する。これにより、以前のバージョンのWindowsと互換性を保っているが、Win16アプリケーションを使用した場合、以前のバージョンのWindowsと同様にシステムリソースの制限やCPUの占有によるトラブルが発生する。ただし、Win16アプリケーション同士のプリエンプションに制限はあるが、Win16アプリケーションとWin32アプリケーションとのプリエンプションは可能であるため、Win16アプリケーションの問題によりWin32アプリケーションにCPUが与えられなくなることはない。
なお、DLLは上記のKernel、User、GDIも含め、Win16アプリケーションと同じアドレス空間を共有する。
マイナーバージョンは次の6つに分かれる。
初期版およびOSR1と、OSR2系では、ハードウェア増設時の手順や画面に違いがあり、OSR2.0リリース以降の各周辺機器メーカーの取り扱い説明書では、操作方法をWindowsのバージョンによって場合分けして説明しているものがある。
また、機能拡張パックである「Microsoft Plus! for Windows 95」が別売されていた。これを利用すると、アイコンに使用できる色数が16色から多色に増えたり、フォントのスムーズ表示機能が拡張されたりする。他に、ディスク圧縮ツール、Internet Explorer 2.0(英語版は1.0)などインターネット用のツール、アイコン・サウンド・壁紙のデータ「デスクトップテーマ」、3Dピンボールゲームが付属する。なお、この3Dピンボールは後のWindows NT 4.0からWindows XPまでにおいて、標準添付となる。
アップグレード版では、コンピュータにMS-DOS 5.0以上またはWindows 3.1がインストールされている必要がある。インストールされていない場合、セットアップ中にアップグレード元のWindowsのフロッピーディスクが要求される。
Windows 95には、Windows 3.1からのみアップグレード可能。Windows NTからはアップグレードできない。また、アップグレード時にシステムファイルを保存していれば、旧バージョンに戻す事(アンインストール)ができる。
Windows 95からはマイナーバージョン (OSR) の有無に関わらず、Windows 98(Second Editionも含む)、Windows Me、Windows 2000 Professionalのいずれかにアップグレードする事ができる。ただし、Windows Meの「Windows 98ユーザー限定期間限定特別パッケージ」(Windows 98/98SEからのアップグレードを前提にした低価格の専用アップグレードパッケージ)を使用してWindows Meにアップグレードする場合、事前にWindows 98のインストールCDを手元に用意しておく必要がある。Windows 95からいきなりWindows XPにはアップグレードできず、その後継OSであるWindows Vista/7/8にする事も当然できない(Windows 95からではセットアッププログラム自体が起動しない)。また、上記のWindowsの内、Windows 2000以外のバージョンにアップグレードした場合は、後でそのバージョンをアンインストールして、Windows 95に戻す事ができる。
日本語版については以下の通り。 | [
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"text": "NEXTSTEP風のウィジェットを採用し、ユーザインタフェース (UI) デザインの大幅な刷新が図られた。特に、Apple ComputerとのGUI絡みの裁判が決着したことを背景に、タスクバーやスタートメニュー、マウスの右ボタンのクリックで表示される内容の一覧から希望する処理を選択するといったUIなど、従来のWindowsではアプリケーションランチャ、タスクマネージャとしてしか機能していなかったデスクトップを一般的なディレクトリ(フォルダ)のひとつとしたことで、他のディレクトリとシームレスにファイルを移動できるようになった点が革新的であった。文書を読む流れを意識して設計されたMacintoshと比較すると、タスクバーが画面下端に設置される等の違いがある。",
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"text": "「DOSプロンプト」から複数のMS-DOSアプリケーションを同時に実行できるだけでなく、Windows 95を終了せずにリアルモードのMS-DOSを実行できた。Win16アプリケーションも実行でき、その場合は以前のバージョンのWindowsと同様の動作であった。VFATによる長いファイル名とファイルの拡張子によるアプリケーションの関連付けは不完全ながら下方互換性があり、Windows 95のファイルシステムをMS-DOSからアクセスできた。また、プロテクトモードのドライバを持たないデバイスをリアルモードのドライバを使用してWindows 95からアクセスできた。",
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"text": "Windows 95からはマイナーバージョン (OSR) の有無に関わらず、Windows 98(Second Editionも含む)、Windows Me、Windows 2000 Professionalのいずれかにアップグレードする事ができる。ただし、Windows Meの「Windows 98ユーザー限定期間限定特別パッケージ」(Windows 98/98SEからのアップグレードを前提にした低価格の専用アップグレードパッケージ)を使用してWindows Meにアップグレードする場合、事前にWindows 98のインストールCDを手元に用意しておく必要がある。Windows 95からいきなりWindows XPにはアップグレードできず、その後継OSであるWindows Vista/7/8にする事も当然できない(Windows 95からではセットアッププログラム自体が起動しない)。また、上記のWindowsの内、Windows 2000以外のバージョンにアップグレードした場合は、後でそのバージョンをアンインストールして、Windows 95に戻す事ができる。",
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| other_articles =
|succeeded_by=[[Microsoft Windows 98|Windows 98]]}}
'''Microsoft Windows 95'''(マイクロソフト ウィンドウズ 95)は、[[マイクロソフト]]が[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.1]]の後継として、[[1995年]]に発売した[[オペレーティングシステム]] (OS) である<ref>{{Cite|和書
| author = 日経パソコン
| authorlink = 日経パソコン
| title = 日経パソコン用語事典 (2009年版)
| publisher = [[日経BP|日経BP社]]
| date = 2008-10-20
| isbn =9784822233907}}</ref><ref>{{Cite web|和書
| author = ASCII.jp
| authorlink = ASCII.jp
| title = ASCII.jp デジタル用語辞典
| url = https://yougo.ascii.jp/caltar/Windows_95
| publisher = [[アスキー (企業)|アスキー]] / [[KADOKAWA]]
| date = 2010-04-16
| accessdate = 2021-07-16}}</ref>。[[インターネット]]が一般に広まりはじめた時期に、業務用だけでなく、一般家庭にも急速な普及を見せた画期的なOSで、パソコンを爆発的に普及させる原動力となった。
[[Microsoft Windows]] (Windows) ファミリーの1つであり、[[コードネーム]]は[[シカゴ|Chicago]]。Windowsの内部バージョンは4.0(初期版)である。
== 概説 ==
従来は専門家用の高価な[[ワークステーション]]でしか得られなかった操作感や機能を、一般向けに実現した点が[[世界]]に大きなインパクトを与えた。特に、家庭用として購入可能な価格のパソコンで動作するにもかかわらず、一般にも分かりやすい美麗な([[フルカラー|ハイカラー]](16bitカラー),[[フルカラー|トゥルーカラー]](24bitカラー, 32bitカラー)で描画できる)[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]を備え、[[プラグアンドプレイ]]や[[インターネット]]にも対応したOSという点が一般受けし、[[インターネット]]ブームと共に爆発的に普及した。
別製品であった[[MS-DOS]]とWindowsが同一製品となった(製品パッケージやインストールメディアとしての話であって、システムとして統合されたわけではない)。次のような機能がWindows 3.1時代などと比べた特徴である。
* [[グラフィカルユーザインタフェース]] (GUI) の改善
* [[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]機能の充実
* [[Windows API#Win32|Win32 API]]
* ファイル[[入出力|I/O]]の改善
* [[長いファイル名]]
* [[プラグアンドプレイ]]
* MS-DOSや以前のバージョンのWindowsとの互換性
ただし、上記の機能の中にはWindows for Workgroups 3.11(日本未発売)や[[Microsoft Windows NT|Windows NT]] 3.51で既に実装されていたものもある。またVFATと呼ばれる「長いファイル名」(long file name)も導入されたが、MS-DOSを介さず直接ディスクを操作することで一部の機能を実現していたいわゆるマナーの悪いソフト([[FD (ファイル管理ソフト)|ファイル管理ソフト「FD」]]など)で非互換性が発生した例などがある。
=== グラフィカルユーザインタフェースの改善 ===
[[NEXTSTEP]]風の[[ウィジェット (GUI)|ウィジェット]]を採用し、[[ユーザインタフェース]] (UI) デザインの大幅な刷新が図られた。特に、[[Apple|Apple Computer]]とのGUI絡みの裁判が決着したことを背景に、[[タスクバー]]や[[スタートメニュー]]、マウスの右ボタンのクリックで表示される内容の一覧から希望する処理を選択するといったUIなど、従来のWindowsではアプリケーションランチャ、タスクマネージャとしてしか機能していなかった[[デスクトップ環境|デスクトップ]]を一般的な[[ディレクトリ]](フォルダ)のひとつとしたことで、他のディレクトリとシームレスにファイルを移動できるようになった点が革新的であった。[[文書]]を読む流れを意識して設計された[[Macintosh]]と比較すると、タスクバーが画面下端に設置される等の違いがある。
初心者でも操作を理解しやすく、完成度の高かったこのGUIは、その後[[Windows NT系]]でも[[Microsoft Windows NT|Windows NT 4.0]]で採用され、[[Windows 9x系]]においては、[[Microsoft Windows Millennium Edition|Microsoft Windows Me]]、Windows NT系においては、[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]までほとんど変更を加えられずに引き継がれた。Windows 9x系の消滅後も[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]や[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]、[[Microsoft Windows 7|Windows 7]]のクラシックモードにおいてもWindows 95とほとんど同一のデザインが採用されていた。新しく追加されたユーザーインターフェースでも、ボタンの配置などの基本設計はWindows 95と概ね同じであった。[[Microsoft Windows 8|Windows 8]]ではスタートボタンが廃止されたがユーザーの不評を買い、[[Microsoft Windows 8|Windows 8.1]]や[[Microsoft Windows 10|Windows 10]]ではスタートボタンが復活した。
=== ネットワーク機能の充実 ===
ビジネス分野での[[Local Area Network|LAN]]の普及に対応し、ネットワーク設定の容易化を進めた。特に日本では、ネットワーク機能付きの[[Microsoft Windows 3.x#ネットワーク / インターネット|Windows for Workgroup 3.11]]が販売されず、代替として[[Microsoft Windows NT 3.5|Windows NT Workstation 3.5]]が他国の販売価格と比較して安価に提供されていたが、ごく一部の先進的なユーザが導入するに留まっていた。そういった背景もあり、Windows 95は大きな期待を集めた。当初の戦略としては、LANは[[NetBEUI]]または[[IPX/SPX]]、WANは[[パソコン通信]](ホストとしては[[MSN]]の利用を想定)を利用すると位置付けていたが、前年の[[1994年]]頃より[[インターネット]]で[[World Wide Web|WWW]]の普及に弾みが付き始めたことに対応して、インターネットに必要な[[通信プロトコル]]の[[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]を選択することもできた。
もっとも、[[ビル・ゲイツ]]はインターネットの普及はまだ先であるとして、パソコン通信を前提としたネットワークを考えていた。それ故、Windows 95の初期バージョンには、インターネット関連の機能は搭載されておらず、別売りの「[[Microsoft Plus!]]」による拡張機能として、[[Internet Explorer 2|Internet Explorer 2.0]](英語版は[[Internet Explorer 1|IE1.0]])を提供していた。しかし、ビル・ゲイツはWindows 95発売後すぐに、自分の判断の誤りに気づき、OSR2以降ではインターネット関連機能が標準搭載されるようになった。すなわち、OSR2ではTCP/IPが初期状態で選択されており、Windows 95を使えばインターネットに接続できるというイメージ戦略も成功し人気に拍車をかけることになった。
=== Win32 API ===
[[Windows API#Win32|Win32 API]]が提供され、高速な[[32ビット]]コードによるプログラムをWindows上で使用可能になった。ただし、Windows 95で実装されたWin32 API(かつてはWin32cと呼ばれていた)はWindows NTで実装されていたものと完全な互換性はなく、Windows 3.1で実装されていたもの (Win32s) とも異なるものであった。
=== ファイルI/Oの改善 ===
ファイル[[入出力|I/O]]を32ビット[[プロテクトモード]]で行い、MS-DOSのファイルI/O機能を使用せずにファイルI/Oを行えるようになった。これにより、MS-DOSのファイルI/O機能を使用していた以前のバージョンのWindowsよりファイルI/Oの性能が向上した。なお、[[仮想記憶#実装例|スワップファイル]]へのアクセスに限っては、Windows 3.1の段階で既に32ビットI/Oを実現していた。
=== その他 ===
ファイルシステムである[[File Allocation Table|FAT]]を拡張し、[[File Allocation Table#VFAT|VFAT]]としてWindows 3.1では不可能であった長いファイル名(最大255バイト)が利用可能になった。
[[プラグアンドプレイ]]による周辺機器の容易な増設など、分かりやすさを狙った設計となっていた。そのため、それまで専門的な知識を必要としたパソコンは誰でも手軽に使えるものになったと謳われた。
インターネットを使ってソフトの修正モジュールが配布されるようになったのも大きな特徴であった(初期版は特に修正モジュールが多かった)。
ゲームはWindows 3.1にもあった[[ソリティア]]・[[マインスイーパ]]のほか、新たに[[Win32s]]の付属サンプルでもあった[[フリーセル]]のほか[[ハーツ (トランプゲーム)|ハーツ]]と[[Hover!]](その後のWindowsには付属していない)が付属する。また、[[マルチメディア]]機能が強化され、後に[[DirectX]]が提供された。
「[[DOSプロンプト]]」から複数のMS-DOSアプリケーションを同時に実行できるだけでなく、Windows 95を終了せずに[[リアルモード]]のMS-DOSを実行できた。Win16アプリケーションも実行でき、その場合は以前のバージョンのWindowsと同様の動作であった。[[File Allocation Table#VFAT|VFAT]]による長いファイル名とファイルの拡張子によるアプリケーションの関連付けは不完全ながら下方互換性があり、Windows 95のファイルシステムをMS-DOSからアクセスできた。また、プロテクトモードのドライバを持たないデバイスをリアルモードのドライバを使用してWindows 95からアクセスできた。
Windows 95のパッケージ内容はMS-DOS 7.0/7.1とWindows 4.0のセットであり、MS-DOS 7.xを単独で起動したりWindows 3.1以前と同様MS-DOS用のメニューソフト([[ランチャー]]ソフト)や[[コマンドラインインタプリタ|コマンドライン]]からWindows 4.0を起動することも可能である。また、[[PC-9800シリーズ]]においては[[光磁気ディスク|MO]]ディスクへのインストールおよびMOディスクからの起動が可能であり、[[ハードディスク]]を持たないWindowsマシンを構築することが可能である([[PC/AT互換機]]および、[[Microsoft Windows 98|Windows 98]]以降では不可能である)。
== リリース ==
1995年[[8月25日]]に英語版が12か国で先行して発売され、日本語の[[ベータ版]]もリリースされていたことから、日本でもある程度の情報が広まっていた。販売開始と前後して大量の[[テレビコマーシャル]]が流されていたこともあり、日本語版の発売された1995年[[11月23日]]([[勤労感謝の日]])の[[秋葉原]]などでは、11月23日になった瞬間に深夜販売を始める店が多く、業界関係者や報道陣を中心に一種のお祭り騒ぎの様相を呈した。この様子はテレビなどで報道され売り上げに貢献した。
Windows 95は先行してリリースされていた[[Microsoft Windows NT|Windows NT]] 3.51に比べると[[ユーザインタフェース|UI]]や機能面で進化しているものの安定性や信頼性に劣り、技術的には不完全なものであった。しかし、従来のWindows 3.1よりも使い勝手が改良され、Windows NT 3.51よりも高速で動作し、Windows 95はユーザー・市場のニーズをよく読んでそれに応えるという現実的な解を提供し、[[マーケティング]]の成功といえた。これにより、Windows 95はデスクトップOSの[[デファクトスタンダード|事実上の標準]]となり、PC-9800シリーズ、[[FM TOWNS]]などの[[x86]]ベースの独自[[プラットフォーム (コンピューティング)|プラットフォーム]]のパソコンは[[PC/AT互換機]]に吸収されていった。
[[CD-ROM]]と[[フロッピーディスク]]([[DMFフォーマット]])の2種類の[[電子媒体|メディア]]でリリースされた。希望小売価格は新規インストール用の通常版で29,800円、Windows 3.1、MS-DOS 5.0が対象のアップグレード版で13,800円であった。
直接的な後継OSとしては、以下のものが存在する。
* [[Microsoft Windows 98|Windows 98]]
* [[Microsoft Windows 98|Windows 98 Second Edition]](98SE)
* [[Microsoft Windows Millennium Edition|Windows Millennium Edition]]
現在では、さまざまな問題点を解決するために、まったく新しく設計されたWindows NT系のOSが主流となっている。
== 構造 ==
Windows 95は、[[カーネル]]モードのモジュールとユーザーモードのモジュールから構成されている。x86アーキテクチャの[[リングプロテクション]]を利用することによって、前者はリング0、後者はリング3で実行される。
[[カーネル]]モードのモジュールには以下のものがある。
* [[仮想DOSマシン|Virtual Machine Manager]] (VMM)
* [[仮想デバイスドライバ|Virtual Device Driver]]
* [[Installable File System]]
これらのモジュールは、32ビットプロテクトモードで実行され、Windows 95の動作中にはリアルモードのMS-DOSと置き換わる形となる。このような構造の基本は以前のバージョンのWindowsより引き継いだものであり、Windows 95でにわかに実現したものではない。
Windows 95の構造を「リアルモードのMS-DOS上でプロテクトモードのWindowsが動作している」と説明するのは誤りである。
ユーザーモードのモジュールには以下のものがある。
* Kernel
* User
* [[Graphics Device Interface|GDI]]
これらのモジュールの一部(特にUserと[[Graphics Device Interface|GDI]])は以前のバージョンのWindowsより引き継いだ[[16ビット]]コードで記述されており、Win32 APIが使用された時も16ビットコードが実行されることがある。これにより以前のバージョンのWindowsとの互換性を高め[[メモリ]]の使用量を減少させているが、16ビットコードの問題がWin32アプリケーションに影響を与え、性能を低下させることもあった。
Windows 95のVMMは、Win32アプリケーション、MS-DOSアプリケーションに対して各[[プロセス]]に固有のアドレス空間を与え、[[プリエンプティブ・マルチタスク]]として実行する。このため、特定のアプリケーションの問題により[[CPU]]が占有されるトラブルはなくなった。
一方、Win16アプリケーションに対しては、以前のバージョンのWindowsと同様にすべてのプロセスに共有アドレス空間を与え、ノンプリエンプティブ・マルチタスクとして実行する。これにより、以前のバージョンのWindowsと互換性を保っているが、Win16アプリケーションを使用した場合、以前のバージョンのWindowsと同様に[[リソース (Windows)|システムリソース]]の制限やCPUの占有によるトラブルが発生する。ただし、Win16アプリケーション同士の[[プリエンプション]]に制限はあるが、Win16アプリケーションとWin32アプリケーションとのプリエンプションは可能であるため、Win16アプリケーションの問題によりWin32アプリケーションにCPUが与えられなくなることはない。
なお、[[ダイナミックリンクライブラリ|DLL]]は上記のKernel、User、GDIも含め、Win16アプリケーションと同じアドレス空間を共有する。
== マイナーバージョン ==
マイナーバージョンは次の6つに分かれる。
* 初期版 - 内部バージョンは4.0。
* SP ([[サービスパック|Service Pack]]) 1 - 内部バージョンは4.0a。初期版にSP1を適用したもの。※初期版と、このSP1適用のみ単体パッケージとしても販売された。
* OSR ([[OEM]] Service Release) 1 - 内部バージョンは4.0a。SP1を適用のOEM専用版。
* OSR2およびOSR2.1 - 内部バージョンは4.0b。初期版発売から1年あまり経った[[1996年]]末頃、[[ハードウェア]]とのセットを条件とするOEM専用版(単体パッケージでは発売されず)としてリリース。多数のバグ修正と[[ハードディスクドライブ|HDD]]の[[Direct Memory Access|DMA]]転送のサポート、[[File Allocation Table#FAT32|FAT32]](非公式)などの新機能が盛り込まれ、大きな変化が生じた。OSR2.1では[[Accelerated Graphics Port|AGP]]や[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]への対応がされた。ただし、Windows 95で利用可能なUSB機器はほとんど存在せず、正式には[[Microsoft Windows 98|Windows 98]](安定版はSE)まで待たねばならなかった。
* OSR2.5 - 内部バージョンは4.0c。[[1997年]]頃、ハードウェアセットのOEM専用版としてリリース。[[Internet Explorer]] 4.0や[[Active Desktop]]が統合され機能的にはWindows 98に近くなっているが、処理が重くなっている。誤って「OSR3」と呼ばれることがあった。
初期版およびOSR1と、OSR2系では、ハードウェア増設時の手順や画面に違いがあり、OSR2.0リリース以降の各周辺機器メーカーの取り扱い説明書では、操作方法をWindowsのバージョンによって場合分けして説明しているものがある。
また、機能拡張パックである「[[Microsoft Plus!]] for Windows 95」が別売されていた。これを利用すると、アイコンに使用できる色数が16色から多色に増えたり、フォントのスムーズ表示機能が拡張されたりする。他に、[[ディスク圧縮]]ツール、[[Internet Explorer 2|Internet Explorer 2.0]](英語版は[[Internet Explorer 1|1.0]])などインターネット用のツール、アイコン・サウンド・壁紙のデータ「デスクトップテーマ」、3D[[ピンボール]]ゲームが付属する。なお、この3Dピンボールは後の[[Microsoft Windows NT 4.0|Windows NT 4.0]]から[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]までにおいて、標準添付となる。
== システム要件 ==
{| class="wikitable"
|+ '''Windows 95 最小ハードウェア仕様要求'''
! !! 32 ビット
|-
! [[CPU|プロセッサー]]
| [[Intel 486|486SX]] 以上<br>(2.2GHz以上の[[CPU]]には対応しない<ref>{{Cite web |date=2007-01-31|url=https://support.microsoft.com/kb/312108/en-us|title=Windows protection error in NDIS with a CPU that is faster than 2.1 GHz|work=サポート技術情報|publisher=マイクロソフト|language=英語|accessdate=2008-12-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140820020718/https://support.microsoft.com/kb/312108/en-us |archivedate=2014-08-20 |deadlinkdate=2020-06-09}}</ref>)
|-
! [[主記憶装置|物理メモリー]]
| 8 MB以上<br>(12 MB以上を推奨)
|-
! ストレージ
| 75 MB以上<br>(インストールする機能によっては、さらに容量が必要となる場合がある)
|-
! リムーバブルドライブ
| CD-ROMドライブ、FDDドライブのいずれか
|-
! 画面解像度
| 640 x 480
|}
アップグレード版では、コンピュータにMS-DOS 5.0以上またはWindows 3.1がインストールされている必要がある。インストールされていない場合、セットアップ中にアップグレード元のWindowsのフロッピーディスクが要求される<ref>{{Cite web |date=2006-11-15|url=http://support.microsoft.com/kb/151062|title=Upgrading Existing Operating Systems to Windows 95|work=サポート技術情報|publisher=マイクロソフト|language=英語|accessdate=2007-12-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071225050837/http://support.microsoft.com/kb/151062 |archivedate=2007-12-25}}</ref>。
== 旧バージョンからのアップグレード / アンインストール ==
Windows 95には、[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.1]]からのみアップグレード可能。[[Microsoft Windows NT|Windows NT]]からはアップグレードできない。また、アップグレード時にシステムファイルを保存していれば、旧バージョンに戻す事([[アンインストール]])ができる。
== 新しいバージョンへのアップグレード / アンインストール ==
Windows 95からはマイナーバージョン (OSR) の有無に関わらず、[[Microsoft Windows 98|Windows 98]](Second Editionも含む)、[[Microsoft Windows Millennium Edition|Windows Me]]、[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000 Professional]]のいずれかにアップグレードする事ができる。ただし、Windows Meの「'''Windows 98ユーザー限定期間限定特別パッケージ'''」(Windows 98/98SEからのアップグレードを前提にした低価格の専用アップグレードパッケージ)を使用してWindows Meにアップグレードする場合、事前にWindows 98のインストールCDを手元に用意しておく必要がある。Windows 95からいきなり[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]にはアップグレードできず、その後継OSである[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]/[[Microsoft Windows 7|7]]/[[Microsoft Windows 8|8]]にする事も当然できない(Windows 95からではセットアッププログラム自体が起動しない)。また、上記のWindowsの内、Windows 2000以外のバージョンにアップグレードした場合は、後でそのバージョンを[[アンインストール]]して、Windows 95に戻す事ができる。
== 対応機種 ==
*[[PC/AT互換機]]
*[[PC-9800シリーズ]](NECからもOEM版を発売)
*[[EPSON PCシリーズ]](OSR2はリリースされず。メーカー直販のみで店頭販売なし)
*[[FM TOWNS]]<ref>{{Cite web|和書|date=1996-6-10 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/960610/towns.htm |title=FM TOWNSにも、Windows 95が登場 |publisher=PC Watch |accessdate=2012-05-06}}</ref>(OSR2はリリースされず。メーカー直販のみで店頭販売なし)
*[[FMRシリーズ|FMR280]](OSR2はリリースされず。メーカー直販のみで店頭販売なし)
== 出荷・販売本数の推移 ==
* [[1995年]]
**[[8月24日]] - 初日出荷40万本<ref>脇英世『Windows入門』[[岩波書店]]、[[1995年]][[12月20日]]第1刷、[[1996年]][[1月6日]]第3刷、ISBN 4-00-430420-2、v頁。</ref>
** [[8月27日]] - 発売から4日で、北米でのパッケージのみで100万本販売<ref>『[[日本経済新聞]]』[[1995年]][[8月30日]]付夕刊</ref>。また、全世界では400万本販売<ref>『[[日経産業新聞]]』[[1995年]][[10月3日]]付</ref>。
** [[10月17日]] - 700万本販売<ref>『[[日経産業新聞]]』[[1995年]][[11月22日]]付</ref>
** [[11月]]末 - 1000万本
** [[12月]]末 - 1853.4万本(データクエスト調べ、1996年8月発表。出荷ベース)
*[[1999年]][[3月]]末 - 1億9300万本
日本語版については以下の通り。
* [[1995年]]
** [[11月20日]] - 受注本数75万本<ref>『[[日経産業新聞]]』[[1995年]][[11月21日]]付</ref>、初回出荷50万本<ref>『[[日本経済新聞]]』[[1995年]][[11月25日]]付朝刊</ref>
** [[11月26日]] - 4日で20万本販売([[1995年]][[11月30日]]、[[マイクロソフト]]発表)<ref>『[[日経産業新聞]]』[[1995年]][[12月1日]]付</ref><ref name=x951205>『[[日経流通新聞]]』[[1995年]][[12月5日]]付</ref>
** [[11月28日]] - 6日で[[PC-9800]]シリーズ版(マイクロソフトと[[日本電気]]が販売)27万本出荷<ref name=x951205/>
** [[12月]] - [[マイクロソフト]]版と[[日本電気]]版の合計でパッケージ86万本を出荷<ref>『[[日本経済新聞]]』[[1995年]][[12月22日]]付朝刊</ref>
== その他 ==
*標準の[[システム]]起動音である「The Microsoft Sound」は[[ブライアン・イーノ]]の作曲。また終了時のサウンドは、Windows 3.1以前の起動音と同じもの(tada)が使用されている。
*インストールCDの「Fun Stuff」というフォルダには、"goodtime.avi"と"weezer.avi"の2つの[[ミュージック・ビデオ]]が収録されている。前者は[[エディ・ブリケル]]の"Good Times"、後者は[[ウィーザー]]の"Buddy Holly"である。
*ネットワーク系処理の一部には、[[Berkeley Software Distribution|BSD]]由来のものが含まれている。代表例としては、FTP.EXEの中に[[BSDライセンス]]文字列が含まれている<ref>{{Cite web|url=http://www.linuxtoday.com/news_story.php3?ltsn=2001-05-03-014-20-OP-MS |title=Community Column: Why is Microsoft afraid of the GPL? |publisher=Linux Today|date=2001-05-04|accessdate=2001-08-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010802152007/http://www.linuxtoday.com/news_story.php3?ltsn=2001-05-03-014-20-OP-MS|archivedate=2001-08-02}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
* ''Unauthorized Windows 95'', Andrew Schulman, IDG Books, 1994, ISBN 1-56884-305-4
** 邦訳: 『Windows 95 内部解析』 Andrew Schulman 著, 太田純 監訳, ソフトバンク・パブリッシング, 1995年, ISBN 4-89052-768-0
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|オペレーティングシステム|[[ファイル:Alternative virtual machine host.svg|36px|ウィキポータル オペレーティングシステム]]}}
* [[Windows 9x系]]
* [[インターネット・バブル]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
* {{NHK放送史|D0009030271_00000|パソコンブーム(1995年)}}
* {{YouTube|10r_Ga_gK5E|ウィンドウズ95発売で大騒ぎ 初期のTBSネットショッピング パソコンに四苦八苦する橋本龍太郎氏}} (TBS NEWS)
* [http://www.youtube.com/watch?v=kemivUKb4f4 Weezer - Buddy Holly] - Windows 95のCD-ROMにサンプルとして附属していたミュージックビデオ
* [https://www.youtube.com/watch?v=iqL1BLzn3qc Edie Brickell - Good Times] - Windows 95のCD-ROMにサンプルとして附属していたミュージックビデオ
{{Windows}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:Microsoft Windows 95}}
[[Category:MS-DOS・Windows 3.x・9x系|Windows 95]]
[[Category:1995年のソフトウェア]] | 2003-02-23T04:18:17Z | 2023-09-28T07:01:11Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Microsoft_Windows_95 |
2,746 | 史記 | 『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された歴史書である。二十四史の一つで、正史の第一に数えられる。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。
二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価(史漢)を得ており、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。
日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。
司馬遷の家系は、代々「太史公」(太史令)という史官に従事し、天文・暦法・占星や、歴史記録の保管・整備に当たっていた。特に父の司馬談は、史官として記録の整理に当たるだけではなく、それを記載・論評し、自分の著書とする計画を持っていた。しかし、司馬談はその事業を終えることなく死去し、息子の司馬遷に自分の作業を継ぐように遺言した。
父の死後3年目に、司馬遷も太史令となり、史官の残した記録や宮廷の図書館に秘蔵された書物を読み、資料を集めた。太初元年(紀元前108年)には、太初暦の改定作業に携わり、この頃に『史記』の執筆を開始した。のち、天漢3年(紀元前98年)、司馬遷は匈奴に投降した友人の李陵を弁護したため武帝に激怒され、宮刑に処される。こうした屈辱を味わいながらも司馬遷は執筆を続け、征和年間(紀元前92~89年)に至って完成した。
『史記』を執筆する意図について、司馬遷は父の言葉を引用し以下のように述べている。
加えて、司馬遷は当時の春秋公羊学の領袖である董仲舒の説を敷衍して孔子の『春秋』執筆の目的を論じている。
ここに示された「空言」より「行事」を重視する態度は、『史記』に継承された。また司馬遷は、自分の著作は『春秋』の周王朝称賛に倣い、漢帝国の盛世を顕彰するものであるとも述べている。『史記』執筆の最大の目的は漢代史の記述にあり、それによって同時代である漢帝国の歴史的意義を宣揚することにあった。
概ね、『史記』の西周以前の部分については『書経』、春秋時代については『春秋』経伝(特に『春秋左氏伝』)を最大の取材源としており、現存する先行文献から重なる部分を確認できる場合が多い。例えば「周本紀」の場合であれば、古くから伝えられた系譜資料のほか、『書経』『尚書大伝』『詩経』『大戴礼記』『礼記』『国語』『孟子』『韓非子』『呂氏春秋』『淮南子』などを利用したと考えられる。各国の戦国時代の記述については『史記』にのみ見える情報が多く、様々な資料を組み合わせて相当な労力のもと作られたと考えられる。
司馬遷は、宮廷に秘蔵されていた文献のほかに、自ら広く周遊して収集した各種資料に基づいて『史記』を編纂した。この周遊は、関中から江陵(楚の故都の郢)、長江流域、斉魯地域、さらに大梁の廃墟(魏の故都)、洛陽を回ったもの。『史記』では、これらの旅行の際の見聞が紹介されることがある上に、更にその知見をもとに文献伝承の真偽検証している場合もある。
『史記』は司馬遷の死後も加筆・修正が盛んに試みられた。劉知幾は、補続した学者として劉向・劉歆・揚雄ら15人の名前を挙げる。特に補続者として著名なのは褚少孫で、陳渉世家・外戚世家・滑稽列伝などに見える「褚先生曰」以下はその修補の部分である。
また、三皇時代について書かれた「三皇本紀」は、司馬遷が書いたものではなく、唐代に司馬貞が加筆したものである。司馬貞は合わせて「史記序」を制作し、巻頭に附した。
『史記』は、「本紀」12篇、「表」10篇、「書」8篇、「世家」30篇、「列伝」70篇の計130篇からなる。
「本紀」と「列伝」から成るこの形式は「紀伝体」と呼ばれ、中国の歴史書の模範とされた。なお、司馬遷の「報任少卿書」には「十表、本紀十二、書八章、世家三十、列伝七十」という文章があり、「表」が冒頭に置かれていた可能性もある。
『史記』が対象とする時代は、伝説時代である五帝の黄帝から、前漢の武帝までであり、その記述は中国古代史研究において最も基本的な資料であるとされている。また、「列伝」の末尾には司馬遷の自序である「太史公自序」が附され、司馬氏一族の歴史や、彼が『史記』の執筆に至った経緯・背景を述べている。
『史記』には古来から多くの注釈が作られ、その中でも著名なものは以下の「三家注」である。これらの注釈は当初は単行していたが、現在では『史記』の本文にこれら三注を合刻したものが用いられる。
他に、以下の例がある。
司馬談は、武帝による儒教の官学化以前の人物であり、道家思想が盛んな気風の中で学問を受け、楊何に師事して『易』を修めた経験もあった。彼の「六家要旨」では、道家思想を最も高く評価しており、これを中心に諸学の統一を図ろうと考えていたことが分かる。司馬遷が『史記』を著す意図の一つには、この父の考えを継ぐこともあった。『史記』は、道家思想を基調とする諸学の統合を史書の形式で実現するという一面を有していた。
こうした背景のもと、『史記』列伝の冒頭の「伯夷列伝」で、司馬遷は「天道是か非か」という問いを発している。この問いは、清廉潔白な人である伯夷は飢え死にし、孔子最愛の賢者である顔回は早逝したにも拘わらず、大盗人の蹠は天寿を全うしたことに対して、「天道」を楽観的に信頼してもよいものか、という切実なものであった。また、ここには司馬遷自身が、李陵事件において公正な発言をしながら宮刑と言う屈辱を受けたことに対する含意も見受けられる。
また、司馬遷は歴史の実態に即して記述することを重んじている。例えば、項羽は皇帝や君主ではなく、またその覇権も五年に過ぎなかったため無視できる存在であったが、秦の始皇帝から漢の高祖に至る実権の流れを説明するためには必要であり、「本紀」の一つに立てられている。また、皇帝である恵帝を本紀から外し、その間に実権を握っていた呂后のために「呂后本紀」を立てたのも同じ例である。
叙述の対象は王侯が中心であるものの、民間の人物を取り上げた「游侠列伝」や「貨殖列伝」、暗殺者の伝記である「刺客列伝」など、権力から距離を置いた人物についての記述も多い。また、武帝の外戚の間での醜い争いを描いた「魏其武安侯列伝」や、男色やおべっかで富貴を得た者たちの「佞幸列伝」、法律に威をかざし人を嬲った「酷吏列伝」、逆に法律に照らし合わせて正しく人を導いた「循吏列伝」など、安易な英雄中心の歴史観に偏らない多様な視点も保たれている。
後漢に編纂された班固の『漢書』は、『史記』の踏襲と批判の上に成り立っており、後世の『史記』評価の原点となった。班彪・班固父子は、『史記』を以下の観点から批判している。
これ以後、『史記』と『漢書』はよく対比されながら論じられることになり、後世の評価に大きな影響を与えた。例えば、蜀漢の譙周は、「史書の編纂は経書にのみ依拠すべきであるのに、『史記』は諸子百家の説を用いた」と非難すると、『古史考』25篇を著し、経典の所説を遵奉して、『史記』の誤謬を正すものとした。劉勰の『文心雕龍』では、女性を本紀に立てたことが非難されている。
三国時代には、『史記』と『漢書』は「史漢」と併称されるようになり、これに『東観漢記』を加えて「三史」と称されることもあった。ただし、旧中国においては、『史記』よりも『漢書』が圧倒的に優勢であり、『隋書』経籍志の記録によれば『漢書』に比べて『史記』の注釈は非常に少ない。
現存する『史記』の完本は南宋の慶元2年(1196年)のものが最古であり、これが司馬遷の原作にどの程度忠実かは大きな問題である。
唐代の作である「三皇本紀」は別にしても、太史公自序にいう「今上本紀」が今の『史記』には見えず、かわりに「孝武本紀」があるが、これが後世の補作であることは明らかである。それ以外の巻にも司馬遷が使ったはずのない「孝武」「武帝」の語が散見する。それどころか「建元以来侯者年表」「外戚世家」「三王世家」「屈原賈生列伝」には昭帝まで言及されている。とくに「漢興以来将相年表」は司馬遷のずっと後の鴻嘉元年(紀元前20年)まで記している。
『漢書』司馬遷伝によると、班固の見た『史記』は130巻のうち10巻は題だけで本文がなかった。現行本は130巻全部がそろっているので、後漢以降に誰かが補ったということになる。張晏によると、欠けていたのは「孝景本紀・孝武本紀・礼書・楽書・兵書・漢興以来将相年表・三王世家・日者列伝・亀策列伝・傅靳蒯成列伝」であるという。『史記』太史公自序の『索隠』は、このうち兵書は補われず、かわりに律書を加えたとする。
歴史叙述をするための簡潔で力強い書き方が評価され、「文の聖なり」「老将の兵を用いるがごとし」と絶賛されたこともある。特に「項羽本紀」は名文として広く知れ渡っている。
文体は巻によって相当異同があることも指摘されており、白川静は題材元の巧拙によって文体が相当左右されたのではないかと考えており、司馬遷自身の文学的才能には疑問を呈している。
正史として歴史的な事件についての基本的な情報となるほか、細かな記述から当時の生活や習慣が分かる部分も多い。特に「書」に記された内容は、前漢時代における世界観や政治経済、社会制度などについての重要な資料である。また、匈奴を始めとする周辺異民族や西域についての記述も、現在知られている地理や遺跡の発掘などから判明した当時の状況との整合性が高く、これらの地方の当時を知るための貴重な手がかりとなっている。また、秦始皇本紀における「始皇帝は自分の墓に近衛兵三千人の人形を埋めた」という記述についても、西安市の郊外の兵馬俑坑の発見で記述の正確さが証明されている。
一方で、『史記索隠』が引く『竹書紀年』などとの比較から年代矛盾などの問題点が度々指摘されている(例えば呉の王家の僚と闔閭の世代間の家系譜など)。宮崎市定は、『史記』には歴史を題材にした語り物・演出が取り込まれていることを指摘し、全てを実録とは信じられないとしている。小川環樹は、司馬遷は『戦国策』等の記述をだいぶ参照しているであろう、とその著書で指摘し、加藤徹も司馬遷が記した戦国七雄の兵力には多大に宣伝が入っているのではないかとしている。
『史記』の伝来時期は正確には判明していないが、聖徳太子の十七条憲法の典拠のひとつとして『史記』を挙げる見解がある。日本における『史記』の受容に関連する事跡を以下に例示する。
『続日本紀』巻29・神護景雲2年(768年)9月11日の条に、日向國宮埼郡の人・大伴人益が目の赤い白亀を瑞兆として献上した旨の記事がある。その際、人益は上奏文において『史記』巻128・龜策列伝の「神龜は天下の宝なり」以下のくだりを引用している。
また、『続日本紀』巻30・神護景雲3年(769年)10月10日の条に、称徳天皇が大宰府の「府庫は但だ五経を蓄えるのみ、未だ三史(『史記』・『漢書』・『後漢書』)の正本有らず。渉猟の人、其の道広からず。伏して乞うらくは、列代諸史、各一本を給わりて管内に伝習し、以て学業を興さん」との請に応じて『史記』から『晋書』までの歴代正史を下賜した旨の記事がある。
平安時代には公私の各蔵書目録に『史記』があらわれた。藤原佐世が奉勅して寛平年間(889年 - 897年)に撰した『日本国見在書目録』に「『史記』八十巻・裴駰『集解』」が記載されている。なお藤原通憲(信西)の『通憲入道蔵書目録』にも史書のひとつとして「『史記索隠』上帙七巻・中帙十巻・下帙九巻」が挙げられている。
さらに、清少納言は『枕草子』で「ふみは文集。文選。新賦。史記五帝本紀。願文。表。博士の申文」と述べている。他方、紫式部は『源氏物語』で152箇所にわたり漢詩文を引用し、うち14箇所で『史記』を用いている。例えば、藤壷院が自身に降りかかる難を避けるべく出家を決意する場面で、劉邦の寵妃の戚夫人の「人彘」の逸話を藤壷院に連想させている(第10帖・「賢木」)。また、紀伝道の宗家とされた大江氏では、裴駰『集解』を基にした延久点に基づく訓点本が著された。
『太平記』における中国故事の引用は62例あり、うち30話は『史記』を源泉とする説話である。『太平記』には呉越・楚漢の興亡に取材した部分が多く、殊に巻28・「漢楚戦之事付吉野殿被成綸旨事」では、『史記』巻7・項羽本紀を中心にして再構成した楚漢の戦いの描写に約9千字を費やしている。
上杉憲実が文安3年(1446年)に足利学校の学規を定めて「三注・四書・六経・列・荘・老・史記・文選の外は学校において講ずべからず」とした。
元和2年(1616年)10月、徳川家康が駿府の文庫に蔵していた図書が家康の遺命により江戸城内・富士見の亭の文庫に一部移転された。その引継目録『御本日記』に「『史記』四十三冊・『史記抄』十四冊」がみえる。
また、徳川光圀が18歳の時に『史記』巻61・伯夷列伝を読んで感動したとの逸話が、光圀の伝記『義公行実』などに記されている。光圀らが編纂した『大日本史』は『史記』と同様の紀伝体の史書である。
なお、天皇が侍読に『史記』を進講させた記録が各時代の史料に散見される。また、日本に現存する最古の『史記』は、南宋時代に出版されて日本に渡ったとされる宋版本である。1195年~1201年に建安で刊行され、『建安黄善夫刊/于家塾之敬室』と刊記が残っている。妙心寺の僧侶である南化が所有していたが、直江兼続に譲り、その後米沢藩藩校「興譲館」で保管されていたものであり、宋版『漢書・後漢書』と共に現在は国宝となり国立歴史民俗博物館で保管されている。
以下は初出を特記しない限り『史記』を原拠とするものである。 | [
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"text": "『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された歴史書である。二十四史の一つで、正史の第一に数えられる。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。",
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"text": "二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価(史漢)を得ており、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。",
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"text": "日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。",
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"text": "司馬遷の家系は、代々「太史公」(太史令)という史官に従事し、天文・暦法・占星や、歴史記録の保管・整備に当たっていた。特に父の司馬談は、史官として記録の整理に当たるだけではなく、それを記載・論評し、自分の著書とする計画を持っていた。しかし、司馬談はその事業を終えることなく死去し、息子の司馬遷に自分の作業を継ぐように遺言した。",
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"text": "父の死後3年目に、司馬遷も太史令となり、史官の残した記録や宮廷の図書館に秘蔵された書物を読み、資料を集めた。太初元年(紀元前108年)には、太初暦の改定作業に携わり、この頃に『史記』の執筆を開始した。のち、天漢3年(紀元前98年)、司馬遷は匈奴に投降した友人の李陵を弁護したため武帝に激怒され、宮刑に処される。こうした屈辱を味わいながらも司馬遷は執筆を続け、征和年間(紀元前92~89年)に至って完成した。",
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"text": "『史記』を執筆する意図について、司馬遷は父の言葉を引用し以下のように述べている。",
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"text": "加えて、司馬遷は当時の春秋公羊学の領袖である董仲舒の説を敷衍して孔子の『春秋』執筆の目的を論じている。",
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"text": "ここに示された「空言」より「行事」を重視する態度は、『史記』に継承された。また司馬遷は、自分の著作は『春秋』の周王朝称賛に倣い、漢帝国の盛世を顕彰するものであるとも述べている。『史記』執筆の最大の目的は漢代史の記述にあり、それによって同時代である漢帝国の歴史的意義を宣揚することにあった。",
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"text": "概ね、『史記』の西周以前の部分については『書経』、春秋時代については『春秋』経伝(特に『春秋左氏伝』)を最大の取材源としており、現存する先行文献から重なる部分を確認できる場合が多い。例えば「周本紀」の場合であれば、古くから伝えられた系譜資料のほか、『書経』『尚書大伝』『詩経』『大戴礼記』『礼記』『国語』『孟子』『韓非子』『呂氏春秋』『淮南子』などを利用したと考えられる。各国の戦国時代の記述については『史記』にのみ見える情報が多く、様々な資料を組み合わせて相当な労力のもと作られたと考えられる。",
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"text": "司馬遷は、宮廷に秘蔵されていた文献のほかに、自ら広く周遊して収集した各種資料に基づいて『史記』を編纂した。この周遊は、関中から江陵(楚の故都の郢)、長江流域、斉魯地域、さらに大梁の廃墟(魏の故都)、洛陽を回ったもの。『史記』では、これらの旅行の際の見聞が紹介されることがある上に、更にその知見をもとに文献伝承の真偽検証している場合もある。",
"title": "成立"
},
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"text": "『史記』は司馬遷の死後も加筆・修正が盛んに試みられた。劉知幾は、補続した学者として劉向・劉歆・揚雄ら15人の名前を挙げる。特に補続者として著名なのは褚少孫で、陳渉世家・外戚世家・滑稽列伝などに見える「褚先生曰」以下はその修補の部分である。",
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"text": "また、三皇時代について書かれた「三皇本紀」は、司馬遷が書いたものではなく、唐代に司馬貞が加筆したものである。司馬貞は合わせて「史記序」を制作し、巻頭に附した。",
"title": "成立"
},
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"text": "『史記』は、「本紀」12篇、「表」10篇、「書」8篇、「世家」30篇、「列伝」70篇の計130篇からなる。",
"title": "内容"
},
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"text": "「本紀」と「列伝」から成るこの形式は「紀伝体」と呼ばれ、中国の歴史書の模範とされた。なお、司馬遷の「報任少卿書」には「十表、本紀十二、書八章、世家三十、列伝七十」という文章があり、「表」が冒頭に置かれていた可能性もある。",
"title": "内容"
},
{
"paragraph_id": 14,
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"text": "『史記』が対象とする時代は、伝説時代である五帝の黄帝から、前漢の武帝までであり、その記述は中国古代史研究において最も基本的な資料であるとされている。また、「列伝」の末尾には司馬遷の自序である「太史公自序」が附され、司馬氏一族の歴史や、彼が『史記』の執筆に至った経緯・背景を述べている。",
"title": "内容"
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"text": "『史記』には古来から多くの注釈が作られ、その中でも著名なものは以下の「三家注」である。これらの注釈は当初は単行していたが、現在では『史記』の本文にこれら三注を合刻したものが用いられる。",
"title": "内容"
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"text": "他に、以下の例がある。",
"title": "内容"
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{
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"tag": "p",
"text": "司馬談は、武帝による儒教の官学化以前の人物であり、道家思想が盛んな気風の中で学問を受け、楊何に師事して『易』を修めた経験もあった。彼の「六家要旨」では、道家思想を最も高く評価しており、これを中心に諸学の統一を図ろうと考えていたことが分かる。司馬遷が『史記』を著す意図の一つには、この父の考えを継ぐこともあった。『史記』は、道家思想を基調とする諸学の統合を史書の形式で実現するという一面を有していた。",
"title": "思想的背景"
},
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"text": "こうした背景のもと、『史記』列伝の冒頭の「伯夷列伝」で、司馬遷は「天道是か非か」という問いを発している。この問いは、清廉潔白な人である伯夷は飢え死にし、孔子最愛の賢者である顔回は早逝したにも拘わらず、大盗人の蹠は天寿を全うしたことに対して、「天道」を楽観的に信頼してもよいものか、という切実なものであった。また、ここには司馬遷自身が、李陵事件において公正な発言をしながら宮刑と言う屈辱を受けたことに対する含意も見受けられる。",
"title": "思想的背景"
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{
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"text": "また、司馬遷は歴史の実態に即して記述することを重んじている。例えば、項羽は皇帝や君主ではなく、またその覇権も五年に過ぎなかったため無視できる存在であったが、秦の始皇帝から漢の高祖に至る実権の流れを説明するためには必要であり、「本紀」の一つに立てられている。また、皇帝である恵帝を本紀から外し、その間に実権を握っていた呂后のために「呂后本紀」を立てたのも同じ例である。",
"title": "思想的背景"
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"text": "叙述の対象は王侯が中心であるものの、民間の人物を取り上げた「游侠列伝」や「貨殖列伝」、暗殺者の伝記である「刺客列伝」など、権力から距離を置いた人物についての記述も多い。また、武帝の外戚の間での醜い争いを描いた「魏其武安侯列伝」や、男色やおべっかで富貴を得た者たちの「佞幸列伝」、法律に威をかざし人を嬲った「酷吏列伝」、逆に法律に照らし合わせて正しく人を導いた「循吏列伝」など、安易な英雄中心の歴史観に偏らない多様な視点も保たれている。",
"title": "思想的背景"
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"text": "後漢に編纂された班固の『漢書』は、『史記』の踏襲と批判の上に成り立っており、後世の『史記』評価の原点となった。班彪・班固父子は、『史記』を以下の観点から批判している。",
"title": "後世の評価"
},
{
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"text": "これ以後、『史記』と『漢書』はよく対比されながら論じられることになり、後世の評価に大きな影響を与えた。例えば、蜀漢の譙周は、「史書の編纂は経書にのみ依拠すべきであるのに、『史記』は諸子百家の説を用いた」と非難すると、『古史考』25篇を著し、経典の所説を遵奉して、『史記』の誤謬を正すものとした。劉勰の『文心雕龍』では、女性を本紀に立てたことが非難されている。",
"title": "後世の評価"
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"text": "三国時代には、『史記』と『漢書』は「史漢」と併称されるようになり、これに『東観漢記』を加えて「三史」と称されることもあった。ただし、旧中国においては、『史記』よりも『漢書』が圧倒的に優勢であり、『隋書』経籍志の記録によれば『漢書』に比べて『史記』の注釈は非常に少ない。",
"title": "後世の評価"
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"title": "後世の評価"
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"title": "後世の評価"
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"text": "『漢書』司馬遷伝によると、班固の見た『史記』は130巻のうち10巻は題だけで本文がなかった。現行本は130巻全部がそろっているので、後漢以降に誰かが補ったということになる。張晏によると、欠けていたのは「孝景本紀・孝武本紀・礼書・楽書・兵書・漢興以来将相年表・三王世家・日者列伝・亀策列伝・傅靳蒯成列伝」であるという。『史記』太史公自序の『索隠』は、このうち兵書は補われず、かわりに律書を加えたとする。",
"title": "後世の評価"
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"text": "歴史叙述をするための簡潔で力強い書き方が評価され、「文の聖なり」「老将の兵を用いるがごとし」と絶賛されたこともある。特に「項羽本紀」は名文として広く知れ渡っている。",
"title": "後世の評価"
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"text": "文体は巻によって相当異同があることも指摘されており、白川静は題材元の巧拙によって文体が相当左右されたのではないかと考えており、司馬遷自身の文学的才能には疑問を呈している。",
"title": "後世の評価"
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"text": "正史として歴史的な事件についての基本的な情報となるほか、細かな記述から当時の生活や習慣が分かる部分も多い。特に「書」に記された内容は、前漢時代における世界観や政治経済、社会制度などについての重要な資料である。また、匈奴を始めとする周辺異民族や西域についての記述も、現在知られている地理や遺跡の発掘などから判明した当時の状況との整合性が高く、これらの地方の当時を知るための貴重な手がかりとなっている。また、秦始皇本紀における「始皇帝は自分の墓に近衛兵三千人の人形を埋めた」という記述についても、西安市の郊外の兵馬俑坑の発見で記述の正確さが証明されている。",
"title": "後世の評価"
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"text": "一方で、『史記索隠』が引く『竹書紀年』などとの比較から年代矛盾などの問題点が度々指摘されている(例えば呉の王家の僚と闔閭の世代間の家系譜など)。宮崎市定は、『史記』には歴史を題材にした語り物・演出が取り込まれていることを指摘し、全てを実録とは信じられないとしている。小川環樹は、司馬遷は『戦国策』等の記述をだいぶ参照しているであろう、とその著書で指摘し、加藤徹も司馬遷が記した戦国七雄の兵力には多大に宣伝が入っているのではないかとしている。",
"title": "後世の評価"
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"text": "『史記』の伝来時期は正確には判明していないが、聖徳太子の十七条憲法の典拠のひとつとして『史記』を挙げる見解がある。日本における『史記』の受容に関連する事跡を以下に例示する。",
"title": "日本における受容"
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"text": "『続日本紀』巻29・神護景雲2年(768年)9月11日の条に、日向國宮埼郡の人・大伴人益が目の赤い白亀を瑞兆として献上した旨の記事がある。その際、人益は上奏文において『史記』巻128・龜策列伝の「神龜は天下の宝なり」以下のくだりを引用している。",
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"text": "また、『続日本紀』巻30・神護景雲3年(769年)10月10日の条に、称徳天皇が大宰府の「府庫は但だ五経を蓄えるのみ、未だ三史(『史記』・『漢書』・『後漢書』)の正本有らず。渉猟の人、其の道広からず。伏して乞うらくは、列代諸史、各一本を給わりて管内に伝習し、以て学業を興さん」との請に応じて『史記』から『晋書』までの歴代正史を下賜した旨の記事がある。",
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"text": "平安時代には公私の各蔵書目録に『史記』があらわれた。藤原佐世が奉勅して寛平年間(889年 - 897年)に撰した『日本国見在書目録』に「『史記』八十巻・裴駰『集解』」が記載されている。なお藤原通憲(信西)の『通憲入道蔵書目録』にも史書のひとつとして「『史記索隠』上帙七巻・中帙十巻・下帙九巻」が挙げられている。",
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"text": "さらに、清少納言は『枕草子』で「ふみは文集。文選。新賦。史記五帝本紀。願文。表。博士の申文」と述べている。他方、紫式部は『源氏物語』で152箇所にわたり漢詩文を引用し、うち14箇所で『史記』を用いている。例えば、藤壷院が自身に降りかかる難を避けるべく出家を決意する場面で、劉邦の寵妃の戚夫人の「人彘」の逸話を藤壷院に連想させている(第10帖・「賢木」)。また、紀伝道の宗家とされた大江氏では、裴駰『集解』を基にした延久点に基づく訓点本が著された。",
"title": "日本における受容"
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"text": "『太平記』における中国故事の引用は62例あり、うち30話は『史記』を源泉とする説話である。『太平記』には呉越・楚漢の興亡に取材した部分が多く、殊に巻28・「漢楚戦之事付吉野殿被成綸旨事」では、『史記』巻7・項羽本紀を中心にして再構成した楚漢の戦いの描写に約9千字を費やしている。",
"title": "日本における受容"
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"text": "上杉憲実が文安3年(1446年)に足利学校の学規を定めて「三注・四書・六経・列・荘・老・史記・文選の外は学校において講ずべからず」とした。",
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"text": "元和2年(1616年)10月、徳川家康が駿府の文庫に蔵していた図書が家康の遺命により江戸城内・富士見の亭の文庫に一部移転された。その引継目録『御本日記』に「『史記』四十三冊・『史記抄』十四冊」がみえる。",
"title": "日本における受容"
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"text": "また、徳川光圀が18歳の時に『史記』巻61・伯夷列伝を読んで感動したとの逸話が、光圀の伝記『義公行実』などに記されている。光圀らが編纂した『大日本史』は『史記』と同様の紀伝体の史書である。",
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"text": "なお、天皇が侍読に『史記』を進講させた記録が各時代の史料に散見される。また、日本に現存する最古の『史記』は、南宋時代に出版されて日本に渡ったとされる宋版本である。1195年~1201年に建安で刊行され、『建安黄善夫刊/于家塾之敬室』と刊記が残っている。妙心寺の僧侶である南化が所有していたが、直江兼続に譲り、その後米沢藩藩校「興譲館」で保管されていたものであり、宋版『漢書・後漢書』と共に現在は国宝となり国立歴史民俗博物館で保管されている。",
"title": "日本における受容"
},
{
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"text": "以下は初出を特記しない限り『史記』を原拠とするものである。",
"title": "史記にあらわれる故事成語"
}
] | 『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された歴史書である。二十四史の一つで、正史の第一に数えられる。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。 二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価(史漢)を得ており、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。 日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。 | {{二十四史}}
『'''史記'''』(しき)は、[[中国]][[前漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]の時代に[[司馬遷]]によって編纂された歴史書である。[[二十四史]]の一つで、[[正史]]の第一に数えられる。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『'''太史公書'''』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。
二十四史の中でも『[[漢書]]』と並んで最高の評価([[史漢]])を得ており、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。
[[日本]]でも古くから読まれており、[[元号一覧 (日本)|元号]]の出典として12回採用されている。
==成立==
[[ファイル:Si maqian.jpg|thumb|200px|司馬遷]]
司馬遷の家系は、代々「太史公」(太史令)という史官に従事し、天文・暦法・占星や、歴史記録の保管・整備に当たっていた{{Sfn|川勝|1973|pp=7-10}}{{Efn|「太史公自序」では、司馬氏はもともと周の史官であったとするが、実際には春秋時代以前の司馬氏の来歴については信頼できない。司馬遷の祖先のうち、最も早く史実である可能性が高いものは、紀元前4世紀末に少梁に居住した秦人であったという記録である(吉本1996、p.193)。}}。特に父の[[司馬談]]は、史官として記録の整理に当たるだけではなく、それを記載・論評し、自分の著書とする計画を持っていた{{Sfn|川勝|1973|pp=31-33}}。しかし、司馬談はその事業を終えることなく死去し、息子の司馬遷に自分の作業を継ぐように遺言した{{Sfn|川勝|1973|pp=34-38}}。
父の死後3年目に、司馬遷も太史令となり、史官の残した記録や[[宮廷]]の[[図書館]]に秘蔵された書物を読み、資料を集めた{{Sfn|川勝|1973|p=39}}。太初元年([[紀元前108年]])には、[[太初暦]]の改定作業に携わり、この頃に『史記』の執筆を開始した{{Sfn|川勝|1973|pp=39-41}}{{Sfn|青木|1984|p=176}}。のち、天漢3年([[紀元前98年]])、司馬遷は[[匈奴]]に投降した友人の[[李陵]]を弁護したため[[武帝 (漢)|武帝]]に激怒され、[[宮刑]]に処される{{Sfn|川勝|1973|p=65}}{{Sfn|増井|1987|p=9}}。こうした屈辱を味わいながらも司馬遷は執筆を続け、[[征和]]年間(紀元前92~89年)に至って完成した{{Sfn|青木|1984|p=176}}。
『史記』を執筆する意図について、司馬遷は父の言葉を引用し以下のように述べている{{Sfn|川勝|1973|p=41}}{{Sfn|吉本|1996|p=125}}。
{{Quotation|易伝を正し、春秋を継ぎ、詩書礼楽の際に本づくるもの有らん。(孔子が作られた『[[易経|易]]』の解釈を正し、『[[春秋]]』の精神を継承し、『[[詩経|詩]]』『[[書経|書]]』『[[礼経|礼]]』『[[楽経|楽]]』の諸分野を基礎づけるものが出て良いときだ。)|司馬遷|太史公自序(司馬談の言葉)}}
加えて、司馬遷は当時の春秋[[公羊学]]の領袖である[[董仲舒]]の説を敷衍して孔子の『春秋』執筆の目的を論じている{{Sfn|川勝|1973|pp=46-47}}{{Sfn|吉本|1996|p=125}}。
{{Quotation|子曰く、我れ之を空言に載せんと欲するも、之を行事に見(しめ)すの深切著明なるに如かざるなり、と。(孔子は「私はそのことを抽象的な言葉で記述しようとしたが、それよりも、これを人々が実際に行った具体的な行為の迹において示すほうが、はるかに切実であり鮮明なのだ」と仰った。)|司馬遷|太史公自序(董仲舒が孔子の言葉を引用する部分)}}
ここに示された「空言」より「行事」を重視する態度は、『史記』に継承された{{Sfn|吉本|1996|p=140}}。また司馬遷は、自分の著作は『春秋』の[[周]]王朝称賛に倣い、漢帝国の盛世を顕彰するものであるとも述べている{{Sfn|吉本|1996|p=125}}。『史記』執筆の最大の目的は漢代史の記述にあり、それによって同時代である漢帝国の歴史的意義を宣揚することにあった{{Sfn|吉本|1996|pp=220-221}}。
===司馬遷が用いた資料===
概ね、『史記』の[[西周]]以前の部分については『[[書経]]』、[[春秋時代]]については『[[春秋]]』経伝(特に『[[春秋左氏伝]]』)を最大の取材源としており、現存する先行文献から重なる部分を確認できる場合が多い{{Sfn|吉本|1996|pp=159-160}}。例えば「周本紀」の場合であれば、古くから伝えられた系譜資料のほか、『[[書経]]』『[[尚書大伝]]』『[[詩経]]』『[[大戴礼記]]』『[[礼記]]』『[[国語 (歴史書)|国語]]』『[[孟子 (書物)|孟子]]』『[[韓非子]]』『[[呂氏春秋]]』『[[淮南子]]』などを利用したと考えられる{{Sfn|吉本|1996|pp=73-79}}。各国の[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の記述については『史記』にのみ見える情報が多く、様々な資料を組み合わせて相当な労力のもと作られたと考えられる{{Sfn|吉本|1996|pp=184-185}}。
司馬遷は、宮廷に秘蔵されていた文献のほかに、自ら広く周遊して収集した各種資料に基づいて『史記』を編纂した{{Sfn|米田|永田|1983|p=118}}。この周遊は、[[関中]]から[[荊州区|江陵]]([[楚 (春秋)|楚]]の故都の[[郢]])、[[長江]]流域、[[斉郡|斉]][[魯郡|魯]]地域、さらに[[大梁]]の廃墟([[魏 (戦国)|魏]]の故都)、[[洛陽]]を回ったもの{{Sfn|吉本|1996|pp=186-187}}。『史記』では、これらの旅行の際の見聞が紹介されることがある上に、更にその知見をもとに文献伝承の真偽検証している場合もある{{Sfn|吉本|1996|p=187}}。
===後世の加筆===
『史記』は司馬遷の死後も加筆・修正が盛んに試みられた。[[劉知幾]]は、補続した学者として[[劉向]]・[[劉歆]]・[[揚雄]]ら15人の名前を挙げる{{Sfn|増井|1987|pp=19-10}}。特に補続者として著名なのは[[褚少孫]]で、陳渉世家・外戚世家・滑稽列伝などに見える「褚先生曰」以下はその修補の部分である{{Sfn|内山|2003|pp=17-18}}。
また、[[三皇五帝#三皇|三皇]]時代について書かれた「三皇本紀」は、司馬遷が書いたものではなく、[[唐]]代に[[司馬貞]]が加筆したものである{{Sfn|青木|1984|pp=176-177}}。司馬貞は合わせて「史記序」を制作し、巻頭に附した。
==内容==
===全体の構成===
『史記』は、「本紀」12篇、「表」10篇、「書」8篇、「世家」30篇、「列伝」70篇の計130篇からなる。
#本紀 - 帝王の記録で、主権者の交代を年代順に記したもの{{Sfn|宮崎|1979|pp=18-19}}。
#表 - 歴史事実を簡略化し、表で示したもの{{Sfn|宮崎|1979|pp=18-19}}。
#書 - 政治に関する特殊なテーマごとに、記事を整理したもの{{Sfn|宮崎|1979|pp=18-19}}。
#世家 - 諸侯の記録をその一族ごとに記したもの{{Sfn|宮崎|1979|pp=18-19}}。
#列伝 - 各分野に活躍した人物の行いを記したもの{{Sfn|水澤|1984|pp=163-164}}。
「本紀」と「列伝」から成るこの形式は「[[紀伝体]]」と呼ばれ、中国の歴史書の模範とされた{{Sfn|米田|永田|1983|p=118}}。なお、司馬遷の「報任少卿書」には「十表、本紀十二、書八章、世家三十、列伝七十」という文章があり、「表」が冒頭に置かれていた可能性もある{{Sfn|吉川|2010|pp=15-16}}。
『史記』が対象とする時代は、伝説時代である[[五帝]]の[[黄帝]]から、[[前漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]までであり、その記述は中国古代史研究において最も基本的な資料であるとされている{{Sfn|米田|永田|1983|p=118}}。また、「列伝」の末尾には司馬遷の自序である「太史公自序」が附され、司馬氏一族の歴史や、彼が『史記』の執筆に至った経緯・背景を述べている。
===目録===
====本紀====
{| class=wikitable width=100%
|-
! width=30%| !! width=20%| 題 !! width=50%| 内容
|-
|[[:s:zh:史記/卷001|卷1]] 第1 五帝本紀 || 五帝本紀 || [[三皇五帝|五帝]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷002|卷2]] 第2 夏本紀 || 夏本紀 || [[夏 (三代)|夏]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷003|卷3]] 第3 殷本紀 || 殷本紀 || [[殷]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷004|卷4]] 第4 周本紀 || 周本紀 || [[周]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷005|卷5]] 第5 秦本紀 || 秦本紀 || [[秦]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷006|卷6]] 第6 秦始皇本紀 || 秦始皇本紀 || [[始皇帝]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷007|卷7]] 第7 項羽本紀 || 項羽本紀 || [[項羽]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷008|卷8]] 第8 高祖本紀 || 高祖本紀 || [[劉邦]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷009|卷9]] 第9 呂太后本紀 || 呂太后本紀 || [[呂雉]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷010|卷10]] 第10 孝文本紀 || 孝文本紀 || [[文帝 (漢)|文帝]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷011|卷11]] 第11 孝景本紀 || 孝景本紀 || [[景帝 (漢)|景帝]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷012|卷12]] 第12 孝武本紀 || 孝武本紀 || [[武帝 (漢)|武帝]]{{Efn|現行の「孝武本紀」は司馬遷の手によるものではない。「太史公自序」によれば、司馬遷の手による「今上本紀」が存在していたことは分かるが、早くに亡佚している。現行の本紀は前漢の褚少孫が補作したものとも言われるが、内容が「封禅書」の大部分をそのまま採録したものであり、褚少孫の補作ですらないとする見解([[清]]の[[銭大昕]])もある。}}
|}
====表====
#三代世表
#[[十二諸侯年表]]
#[[六国年表]]
#秦楚之際月表
#漢興以来諸侯年表
#高祖功臣侯者年表
#恵景間侯者年表
#建元以来侯者年表
#建元以来王子年表
#漢興以来将相名臣年表
====書====
#礼書
#楽書
#律書
#暦書
#天官書
#封禅書
#河渠書
#平準書
====世家====
{| class=wikitable width=100%
|-
! width=30%| !! width=20%| 題 !! width=50%| 内容
|-
|[[:s:zh:史記/卷031|卷31]] 第01 吳太伯世家 || 呉太伯世家 || [[呉 (春秋)|呉]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷032|卷32]] 第02 齊太公世家 || 斉太公世家 || [[姜斉]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷033|卷33]] 第03 魯周公世家 || 魯周公世家 || [[魯]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷034|卷34]] 第04 燕召公世家 || 燕召公世家 || [[燕 (春秋)|燕]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷035|卷35]] 第05 管蔡世家 || 管蔡世家 || [[管叔鮮|管]]・[[蔡]]・[[曹 (春秋)|曹]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷036|卷36]] 第06 陳杞世家 || 陳杞世家 || [[陳 (春秋)|陳]]・[[杞]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷037|卷37]] 第07 衛康叔世家 || 衛康叔世家 || [[衛]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷038|卷38]] 第08 宋微子世家 || 宋微子世家 || [[宋 (春秋)|宋]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷039|卷39]] 第09 晉世家 || 晋世家 || [[晋 (春秋)|晋]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷040|卷40]] 第10 楚世家 || 楚世家 || [[楚 (春秋)|楚]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷041|卷41]] 第11 越王勾踐世家 || 越王勾践世家 || [[勾践]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷042|卷42]] 第12 鄭世家 || 鄭世家 || [[鄭]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷043|卷43]] 第13 趙世家 || 趙世家 || [[趙 (戦国)|趙]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷044|卷44]] 第14 魏世家 || 魏世家 || [[魏 (戦国)|魏]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷045|卷45]] 第15 韓世家 || 韓世家 || [[韓 (戦国)|韓]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷046|卷46]] 第16 田敬仲完世家 || 田敬仲完世家 || [[田斉]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷047|卷47]] 第17 孔子世家 || 孔子世家 || [[孔子]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷048|卷48]] 第18 陳涉世家 || 陳渉世家 || [[陳勝]]・[[呉広 (秦末)|呉広]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷049|卷49]] 第19 外戚世家 || 外戚世家 || [[外戚]]について
|-
|[[:s:zh:史記/卷050|卷50]] 第20 楚元王世家 || 楚元王世家 || [[劉交]](劉邦の血族で王侯に封じられたものについて)
|-
|[[:s:zh:史記/卷051|卷51]] 第21 荊燕世家 || 荊燕世家 || [[劉賈]]・[[劉沢]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷052|卷52]] 第22 齊悼惠王世家 || 斉悼恵王世家 || [[劉肥]](漢の諸侯王としての斉について)
|-
|[[:s:zh:史記/卷053|卷53]] 第23 蕭相國世家 || 蕭相国世家 || [[蕭何]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷054|卷54]] 第24 曹相國世家 || 曹相国世家 || [[曹参]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷055|卷55]] 第25 留侯世家 || 留侯世家 || [[張良]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷056|卷56]] 第26 陳丞相世家 || 陳丞相世家 || [[陳平]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷057|卷57]] 第27 絳侯周勃世家 || 絳侯周勃世家 || [[周勃]]
|-
|[[:s:zh:史記/卷058|卷58]] 第28 梁孝王世家 || 梁孝王世家 || [[劉武]](漢の諸侯王としての梁について)
|-
|[[:s:zh:史記/卷059|卷59]] 第29 五宗世家 || 五宗世家 || 景帝の子について
|-
|[[:s:zh:史記/卷060|卷60]] 第30 三王世家 || 三王世家 || 武帝の子([[劉閎]]・[[劉旦]]・[[劉胥]])について
|}
====列伝====
{| class=wikitable width=100%
|-
! width=30%| !! width=20%| 題 !! width=50%| 内容
|-
| [[:s:zh:史記/卷061|卷061]] 第01 伯夷列傳 || 伯夷列伝 || [[伯夷・叔斉]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷062|卷062]] 第02 管晏列傳 || 管晏列伝 || [[管仲|管夷吾]]・[[晏嬰]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷063|卷063]] 第03 老子韓非列傳 || 老子韓非列伝 || [[老子]]・[[韓非]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷064|卷064]] 第04 司馬穰苴列傳 || 司馬穰苴列伝 || [[司馬穰苴]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷065|卷065]] 第05 孫子吳起列傳 || 孫子呉起列伝 || [[孫武]]・[[孫臏]]・[[呉起]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷066|卷066]] 第06 伍子胥列傳 || 伍子胥列伝 || [[伍子胥|伍員]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷067|卷067]] 第07 仲尼弟子列傳 || 仲尼弟子列伝 || [[孔門十哲]]他77人
|-
| [[:s:zh:史記/卷068|卷068]] 第08 商君列傳 || 商君列伝 || [[商鞅]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷069|卷069]] 第09 蘇秦列傳 || 蘇秦列伝 || [[蘇秦]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷070|卷070]] 第10 張儀列傳 || 張儀列伝 || [[張儀]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷071|卷071]] 第11 樗里子甘茂列傳 || 樗里子甘茂列伝 || [[樗里疾]]・[[甘茂]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷072|卷072]] 第12 穰侯列傳 || 穰侯列伝 || [[魏冄]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷073|卷073]] 第13 白起王翦列傳 || 白起王翦列伝 || [[白起]]・[[王翦]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷074|卷074]] 第14 孟子荀卿列傳 || 孟子荀卿列伝 || [[孟子]]・[[荀子]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷075|卷075]] 第15 孟嘗君列傳 || 孟嘗君列伝 || [[孟嘗君]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷076|卷076]] 第16 平原君虞卿列傳 || 平原君虞卿列伝 || [[平原君]]・[[虞卿]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷077|卷077]] 第17 魏公子列傳 || 魏公子列伝 || [[信陵君]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷078|卷078]] 第18 春申君列傳 || 春申君列伝 || [[春申君]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷079|卷079]] 第19 范雎蔡澤列傳 || 范雎蔡沢列伝 || [[范雎]]・[[蔡沢]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷080|卷080]] 第20 樂毅列傳 || 楽毅列伝 || [[楽毅]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷081|卷081]] 第21 廉頗藺相如列傳 || 廉頗藺相如列伝 || [[廉頗]]・[[藺相如]]・[[趙奢]]・[[李牧]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷082|卷082]] 第22 田單列傳 || 田単列伝 || [[田単]]・[[王蠋]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷083|卷083]] 第23 魯仲連鄒陽列傳 || 魯仲連鄒陽列伝 || [[魯仲連]]・[[鄒陽]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷084|卷084]] 第24 屈原賈生列傳 || 屈原賈生列伝 || [[屈原|屈平]]・[[賈誼]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷085|卷085]] 第25 呂不韋列傳 || 呂不韋列伝 || [[呂不韋]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷086|卷086]] 第26 刺客列傳 || 刺客列伝 || [[曹沬]]・[[専諸]]・[[豫譲]]・[[聶政]]・[[荊軻]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷087|卷087]] 第27 李斯列傳 || 李斯列伝 || [[李斯]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷088|卷088]] 第28 蒙恬列傳 || 蒙恬列伝 || [[蒙恬]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷089|卷089]] 第29 張耳陳餘列傳 || 張耳陳余列伝 || [[張耳]]・[[陳余]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷090|卷090]] 第30 魏豹彭越列傳 || 魏豹彭越列伝 || [[魏豹]]・[[彭越]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷091|卷091]] 第31 黥布列傳 || 黥布列伝 || [[英布]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷092|卷092]] 第32 淮陰侯列傳 || 淮陰侯列伝 || [[韓信]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷093|卷093]] 第33 韓信盧綰列傳 || 韓信盧綰列伝 || [[韓王信]]・[[盧綰]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷094|卷094]] 第34 田儋列傳 || 田儋列伝 || [[田儋]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷095|卷095]] 第35 樊酈滕灌列傳 || 樊酈滕灌列伝 || [[樊噲]]・[[酈商]]・[[夏侯嬰]]・[[灌嬰]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷096|卷096]] 第36 張丞相列傳 || 張丞相列伝 || [[張蒼]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷097|卷097]] 第37 酈生陸賈列傳 || 酈生陸賈列伝 || [[酈食其]]・[[陸賈]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷098|卷098]] 第38 傅靳蒯成列傳 || 傅靳蒯成列伝 || [[傅寛]]・[[靳歙]]・[[周緤]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷099|卷099]] 第39 劉敬叔孫通列傳 || 劉敬叔孫通列伝 || [[劉敬]]・[[叔孫通]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷100|卷100]] 第40 季布欒布列傳 || 季布欒布列伝 || [[季布]]・[[欒布]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷101|卷101]] 第41 袁盎鼂錯列傳 || 袁盎鼂錯列伝 || [[袁盎]]・[[晁錯|鼂錯]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷102|卷102]] 第42 張釋之馮唐列傳 || 張釈之馮唐列伝 || [[張釈之]]・[[馮唐]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷103|卷103]] 第43 萬石張叔列傳 || 萬石張叔列伝 || [[石奮]]・[[張欧]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷104|卷104]] 第44 田叔列傳 || 田叔列伝 || [[田叔]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷105|卷105]] 第45 扁鵲倉公列傳 || 扁鵲倉公列伝 || [[扁鵲]]・[[淳于意|太倉公]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷106|卷106]] 第46 吳王濞列傳 || 呉王濞列伝 || [[劉濞]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷107|卷107]] 第47 魏其田蚡列傳 || 魏其武安侯列伝 || [[竇嬰]]・[[田蚡]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷108|卷108]] 第48 韓長孺列傳 || 韓長孺列伝 || [[韓安国]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷109|卷109]] 第49 李將軍列傳 || 李将軍列伝 || [[李広]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷110|卷110]] 第50 匈奴列傳 || 匈奴列伝 || [[匈奴]]・[[中行説]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷111|卷111]] 第51 衛將軍驃騎列傳 || 衛将軍驃騎列伝 || [[衛青]]・[[霍去病]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷112|卷112]] 第52 平津侯主父列傳 || 平津侯主父列伝 || [[公孫弘]]・[[主父偃]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷113|卷113]] 第53 南越列傳 || 南越列伝 || [[南越国|南越]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷114|卷114]] 第54 東越列傳 || 東越列伝 || 東越([[閩越]]・[[東甌]])
|-
| [[:s:zh:史記/卷115|卷115]] 第55 朝鮮列傳 || 朝鮮列伝 || [[衛氏朝鮮]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷116|卷116]] 第56 西南夷列傳 || 西南夷列伝 || [[夜郎]]など
|-
| [[:s:zh:史記/卷117|卷117]] 第57 司馬相如列傳 || 司馬相如列伝 || [[司馬相如]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷118|卷118]] 第58 淮南衡山列傳 || 淮南衡山列伝 || 淮南王[[劉安]]
|-
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| [[:s:zh:史記/卷125|卷125]] 第65 佞幸列傳 || 佞幸列伝 || [[鄧通]]・[[韓嫣]]・[[李延年]]
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| [[:s:zh:史記/卷126|卷126]] 第66 滑稽列傳 || [[滑稽列伝]] || [[淳于髠]]・[[優孟]]・[[優旃]]・[[西門豹]]
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| [[:s:zh:史記/卷127|卷127]] 第67 日者列傳 || 日者列伝 || 卜者[[司馬季主]]
|-
| [[:s:zh:史記/卷128|卷128]] 第68 龜策列傳 || 亀策列伝 || 占卜の方法について
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| [[:s:zh:史記/卷129|卷129]] 第69 貨殖列傳 || 貨殖列伝 || 商人について [[范蠡]]・[[子貢]]が商人としても成功した逸話を記述。
|-
| [[:s:zh:史記/卷130|卷130]] 第70 太史公自序 || 太史公自序 || [[司馬遷]]の自伝
|}
===主な注釈===
『史記』には古来から多くの[[注釈]]が作られ、その中でも著名なものは以下の「'''三家注'''」である{{Sfn|米田|永田|1983|p=118}}。これらの注釈は当初は単行していたが、現在では『史記』の本文にこれら三注を合刻したものが用いられる{{Sfn|米田|永田|1983|p=118}}。
*[[宋 (南朝)|南朝宋]]の[[裴駰]]による『[[史記集解]]』
*唐の[[司馬貞]]による『[[史記索隠]]』
*唐の[[張守節]]による『[[史記正義]]』
他に、以下の例がある。
*明の凌稚隆撰、李光縉増補の『[[史記評林]]』 - 『史記』本編、三家注のほか、諸家の解説をあわせたもの。
*[[日本]]の[[瀧川資言]]による『[[史記会注考証]]』- [[水沢利忠]]『史記会注考証校補』がよく併用される。
==思想的背景==
[[File:Records of the Grand Historian.jpg|thumb|250px|『史記』([[明]][[万暦]]二十六年北監刊本)<br />附裴駰集解、司馬貞索隠、唐張守節正義]]
[[司馬談]]は、[[武帝]]による[[儒教]]の官学化以前の人物であり、[[道家]]思想が盛んな気風の中で学問を受け、[[楊何]]に師事して『[[易経|易]]』を修めた経験もあった{{Sfn|吉本|1996|p=216}}。彼の「六家要旨」では、[[道家]]思想を最も高く評価しており、これを中心に諸学の統一を図ろうと考えていたことが分かる{{Sfn|吉本|1996|p=216}}{{Sfn|川勝|1973|pp=28-29}}。司馬遷が『史記』を著す意図の一つには、この父の考えを継ぐこともあった{{Sfn|川勝|1973|pp=28-29}}。『史記』は、道家思想を基調とする諸学の統合を史書の形式で実現するという一面を有していた{{Sfn|吉本|1996|p=220}}。
こうした背景のもと、『史記』列伝の冒頭の「伯夷列伝」で、司馬遷は「'''天道是か非か'''」という問いを発している{{Sfn|川勝|1973|pp=56}}{{Sfn|吉本|1996|p=216}}。この問いは、清廉潔白な人である[[伯夷・叔斉|伯夷]]は飢え死にし、[[孔子]]最愛の賢者である[[顔回]]は早逝したにも拘わらず、大盗人の[[盗跖|蹠]]は天寿を全うしたことに対して、「天道」を楽観的に信頼してもよいものか、という切実なものであった{{Sfn|川勝|1973|pp=58-59}}。また、ここには司馬遷自身が、李陵事件において公正な発言をしながら宮刑と言う屈辱を受けたことに対する含意も見受けられる{{Sfn|宮崎|1979|p=150}}。
また、司馬遷は歴史の実態に即して記述することを重んじている。例えば、[[項羽]]は皇帝や君主ではなく、またその覇権も五年に過ぎなかったため無視できる存在であったが、秦の[[始皇帝]]から漢の[[高祖 (漢)|高祖]]に至る実権の流れを説明するためには必要であり、「本紀」の一つに立てられている{{Sfn|宮崎|1979|pp=20-22}}。また、皇帝である[[恵帝 (漢)|恵帝]]を本紀から外し、その間に実権を握っていた[[呂雉|呂后]]のために「呂后本紀」を立てたのも同じ例である{{Sfn|宮崎|1979|pp=20-22}}。
叙述の対象は王侯が中心であるものの、民間の人物を取り上げた「游侠列伝」や「貨殖列伝」、暗殺者の伝記である「刺客列伝」など、権力から距離を置いた人物についての記述も多い。また、武帝の[[外戚]]の間での醜い争いを描いた「魏其武安侯列伝」や、男色やおべっかで富貴を得た者たちの「佞幸列伝」、法律に威をかざし人を嬲った「[[酷吏]]列伝」、逆に法律に照らし合わせて正しく人を導いた「循吏列伝」など、安易な英雄中心の歴史観に偏らない多様な視点も保たれている。
==後世の評価==
[[画像:Shiji.jpg|thumb|史記の一頁目]]
=== 『漢書』との関係 ===
[[後漢]]に編纂された[[班固]]の『[[漢書]]』は、『史記』の踏襲と批判の上に成り立っており、後世の『史記』評価の原点となった{{Sfn|吉本|1996|p=211}}。班彪・班固父子は、『史記』を以下の観点から批判している。
# [[儒教]]の[[経書|経]]・伝に拠りつつも、それ以外の学派に由来する内容を含んでおり、相互矛盾もある{{Sfn|吉本|1996|p=213}}。
# [[黄老思想]]を儒教より優先し、儒教的価値観では批判されるはずの游俠・貨殖を称賛する{{Sfn|吉本|1996|p=213}}。
# [[項羽]]・[[陳渉]]を押し上げて、淮南・衡山を退けたこと{{Sfn|吉本|1996|p=213}}。
# [[司馬相如]]は[[本貫]]を郡県まで記し、字を記すのに、高祖の功臣である[[蕭何]]・[[曹参]]・[[陳平]]や、同時代人の[[董仲舒]]については、本貫の郡県や字を記さないといった不統一がある{{Sfn|吉本|1996|p=213}}。
これ以後、『史記』と『漢書』はよく対比されながら論じられることになり、後世の評価に大きな影響を与えた{{Sfn|吉本|1996|p=211}}。例えば、[[蜀漢]]の[[譙周]]は、「史書の編纂は経書にのみ依拠すべきであるのに、『史記』は諸子百家の説を用いた」と非難すると、『[[古史考]]』25篇を著し、経典の所説を遵奉して、『史記』の誤謬を正すものとした。[[劉勰]]の『[[文心雕龍]]』では、女性を本紀に立てたことが非難されている。
三国時代には、『史記』と『漢書』は「史漢」と併称されるようになり、これに『[[東観漢記]]』を加えて「三史」と称されることもあった{{Sfn|吉川|2010|pp=10-11}}。ただし、旧中国においては、『史記』よりも『漢書』が圧倒的に優勢であり、『[[隋書]]』[[経籍志]]の記録によれば『漢書』に比べて『史記』の注釈は非常に少ない{{Sfn|吉川|2010|pp=8-9}}。
=== 本文の信頼性 ===
現存する『史記』の完本は[[南宋]]の[[慶元]]2年(1196年)のものが最古であり、これが司馬遷の原作にどの程度忠実かは大きな問題である。
[[唐]]代の作である「三皇本紀」は別にしても、太史公自序にいう「今上本紀」が今の『史記』には見えず、かわりに「孝武本紀」があるが、これが後世の補作であることは明らかである。それ以外の巻にも司馬遷が使ったはずのない「孝武」「武帝」の語が散見する。それどころか「建元以来侯者年表」「外戚世家」「三王世家」「屈原賈生列伝」には[[昭帝 (漢)|昭帝]]まで言及されている。とくに「漢興以来将相年表」は司馬遷のずっと後の[[鴻嘉]]元年(紀元前20年)まで記している。
『[[漢書]]』司馬遷伝によると、[[班固]]の見た『史記』は130巻のうち10巻は題だけで本文がなかった。現行本は130巻全部がそろっているので、[[後漢]]以降に誰かが補ったということになる。張晏によると、欠けていたのは「孝景本紀・孝武本紀・礼書・楽書・兵書・漢興以来将相年表・三王世家・日者列伝・亀策列伝・傅靳蒯成列伝」であるという。『史記』太史公自序の『[[史記索隠|索隠]]』は、このうち兵書は補われず、かわりに律書を加えたとする。
===文学的価値===
歴史叙述をするための簡潔で力強い書き方が評価され、「'''文の聖なり'''」「'''老将の兵を用いるがごとし'''」と絶賛されたこともある。特に「項羽本紀」は名文として広く知れ渡っている。
文体は巻によって相当異同があることも指摘されており、[[白川静]]は題材元の巧拙によって文体が相当左右されたのではないかと考えており、司馬遷自身の文学的才能には疑問を呈している。
===歴史学的価値===
{{See also|疑古}}
正史として歴史的な事件についての基本的な情報となるほか、細かな記述から当時の生活や習慣が分かる部分も多い。特に「書」に記された内容は、前漢時代における世界観や政治経済、社会制度などについての重要な資料である。また、匈奴を始めとする周辺異民族や西域についての記述も、現在知られている地理や遺跡の発掘などから判明した当時の状況との整合性が高く、これらの地方の当時を知るための貴重な手がかりとなっている。また、秦始皇本紀における「始皇帝は自分の墓に近衛兵三千人の人形を埋めた」という記述についても、西安市の郊外の[[兵馬俑]]坑の発見で記述の正確さが証明されている。
一方で、『史記索隠』が引く『[[竹書紀年]]』などとの比較から年代矛盾などの問題点が度々指摘されている(例えば[[呉 (春秋)|呉]]の王家の[[呉王僚|僚]]と[[闔閭]]の世代間の[[系図|家系譜]]など)。[[宮崎市定]]は、『史記』には歴史を題材にした語り物・演出が取り込まれていることを指摘し、全てを実録とは信じられないとしている{{Sfn|宮崎|1979|p=191}}。[[小川環樹]]は、司馬遷は『[[戦国策]]』等の記述をだいぶ参照しているであろう、とその著書で指摘し<ref>史記列伝・解説</ref>、[[加藤徹]]も司馬遷が記した戦国七雄の兵力には多大に宣伝が入っているのではないかとしている。
==日本における受容==
『史記』の伝来時期は正確には判明していないが、[[聖徳太子]]の[[十七条憲法]]の典拠のひとつとして『史記』を挙げる見解がある<ref>岡田正之『近江奈良朝の漢文學』p26・p62(養徳社、1946年)。</ref>。日本における『史記』の受容に関連する事跡を以下に例示する。
===奈良時代===
『[[続日本紀]]』巻29・[[神護景雲]]2年([[768年]])9月11日の条に、日向國宮埼郡の人・大伴人益が目の赤い白亀を瑞兆として献上した旨の記事がある。その際、人益は上奏文において『史記』巻128・龜策列伝の「神龜は天下の宝なり」以下のくだりを引用している。
また、『続日本紀』巻30・神護景雲3年([[769年]])10月10日の条に、[[孝謙天皇|称徳天皇]]が[[大宰府]]の「府庫は但だ[[五経]]を蓄えるのみ、未だ三史(『史記』・『[[漢書]]』・『[[後漢書]]』)の正本有らず。渉猟の人、其の道広からず。伏して乞うらくは、列代諸史、各一本を給わりて管内に伝習し、以て学業を興さん」との請に応じて『史記』から『[[晋書]]』までの歴代正史を下賜した旨の記事がある。
===平安時代===
[[File:Shiki Tohoku.jpg|300px|thumb|[[国宝]] 『史記孝文本紀第十』([[東北大学]]所蔵)<ref>[http://www.pref.miyagi.jp/site/sitei/02siki.html 指定文化財|国宝|史記孝文本紀第十](宮城県)</ref>]]
平安時代には公私の各蔵書目録に『史記』があらわれた。[[藤原佐世]]が奉勅して[[寛平]]年間([[889年]] - [[897年]])に撰した<ref>『日本国見在書目録』の撰述時期は、未確定だが、本項では[[大庭脩]]『古代中世における日中関係史の研究』p299(同朋舎出版、1996年)を参照。</ref>『[[日本国見在書目録]]』に「『史記』八十巻・裴駰『集解』」が記載されている。なお藤原通憲([[信西]])の『通憲入道蔵書目録』にも史書のひとつとして「『史記索隠』上帙七巻・中帙十巻・下帙九巻」が挙げられている。
さらに、[[清少納言]]は『[[枕草子]]』で「ふみは[[白居易|文集]]。[[文選 (書物)|文選]]。新賦。史記五帝本紀。願文。表。博士の申文」と述べている。他方、[[紫式部]]は『[[源氏物語]]』で152箇所にわたり漢詩文を引用し、うち14箇所で『史記』を用いている<ref>中西進・厳紹{{Lang|zh|璗}}編『日中文化交流史叢書 第6巻・文学』p207([[大修館書店]]、1995年)の算出方法による。</ref>。例えば、藤壷院が自身に降りかかる難を避けるべく出家を決意する場面で、劉邦の寵妃の戚夫人の「人彘」の逸話を藤壷院に連想させている(第10帖・「賢木」)。また、[[紀伝道]]の宗家とされた[[大江氏]]では、裴駰『集解』を基にした[[史記延久点|延久点]]に基づく訓点本が著された。
===南北朝時代===
『[[太平記]]』における中国故事の引用は62例あり、うち30話は『史記』を源泉とする説話である{{Efn|増田欣『『太平記』の比較文学的研究』p112-p125([[角川書店]]、1976年)の算出方法による。また、『太平記』章段の事書は西源院本に基づく。なお、例えば楚漢の興亡が『[[平家物語]]』・『[[平治物語]]』・『[[源平盛衰記]]』で紹介されているように、種々の軍記物語が『史記』にみえる説話を用いている。しかし、『史記』のテキストとの比較により、これらの軍記物語と『史記』との直接的関連を否定するのが通説的見解のようである。増田・前掲書p207以降。『平家物語』につき、山下宏明ら編・軍記文学研究叢書5『平家物語の生成』p129(汲古書院、1997年)。}}。『太平記』には呉越・楚漢の興亡に取材した部分が多く、殊に巻28・「漢楚戦之事付吉野殿被成綸旨事」では、『史記』巻7・項羽本紀を中心にして再構成した楚漢の戦いの描写に約9千字を費やしている。
===室町時代===
[[上杉憲実]]が[[文安]]3年([[1446年]])に[[足利学校]]の学規を定めて「三注・[[四書]]・[[六経]]・[[列子|列]]・[[荘子|荘]]・[[老子|老]]・史記・文選の外は学校において講ずべからず」とした{{Efn|川瀬一馬『足利學校の研究』p32(講談社、1974年)。もっとも、『史記』は足利学校で教材とされる唯一の史書であり続けた訳ではなく、[[享保]]13年([[1728年]])の蔵書目録には『両漢書』・『通鑑』などがみえる。同書p167・p253。なお、「三注」とは『古注蒙求』・『[[千字文]]注』・『胡曾詩註』をいう}}。[[五山文学]]では[[桃源瑞仙]]や[[月舟寿桂]]が注釈書を著した。
===江戸時代===
[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])10月、[[徳川家康]]が[[駿府]]の文庫に蔵していた図書が家康の遺命により[[江戸城]]内・富士見の亭の文庫に一部移転された。その引継目録『御本日記』に「『史記』四十三冊・『史記抄』十四冊」がみえる<ref>福井保『紅葉山文庫』p39(郷学舎、1980年)。</ref>。
また、[[徳川光圀]]が18歳の時に『史記』巻61・伯夷列伝を読んで感動したとの逸話が、光圀の伝記『義公行実』などに記されている。光圀らが編纂した『[[大日本史]]』は『史記』と同様の紀伝体の史書である。
なお、天皇が侍読に『史記』を進講させた記録が各時代の史料に散見される。また、日本に現存する最古の『史記』は、[[南宋]]時代に出版されて日本に渡ったとされる宋版本である。[[1195年]]~[[1201年]]に[[建甌市|建安]]で刊行され、『建安黄善夫刊/于家塾之敬室』と刊記が残っている。[[妙心寺]]の僧侶である[[南化玄興|南化]]が所有していたが、[[直江兼続]]に譲り、その後[[米沢藩]][[藩校]]「[[興譲館]]」で保管されていたものであり、宋版『漢書・後漢書』と共に現在は[[国宝]]となり[[国立歴史民俗博物館]]で保管されている。
== 史記にあらわれる故事成語 ==
以下は初出を特記しない限り『史記』を原拠とするものである。
*「[[酒池肉林]]」 巻3・殷本紀、巻123・大宛列伝。初出は『韓非子』喩老
*「百発百中」 巻4・周本紀
*「怨み骨髄に入る」 巻5・秦本紀
*「[[Wikt:指鹿為馬|鹿を馬となす]]」(「[[馬鹿]]」の語源という説がある) 巻6・秦始皇本紀
*「先んずれば人を制す」 巻7・項羽本紀
*「[[鴻門の会]]」 巻7・項羽本紀、巻8・高祖本紀、巻55・留侯世家、巻95・樊噲列伝
*「[[四面楚歌]]」 巻7・項羽本紀
*「雌雄を決す」 巻7・項羽本紀
*「一敗、地に塗る」 巻8・高祖本紀
*「[[周勃#左袒|左袒]]」 巻9・呂太后本紀、巻10・孝文本紀
*「唇破れて歯寒し」 巻39・晋世家、巻46・田敬仲完世家。初出は『[[春秋左氏伝|春秋左伝]]』僖公五年
*「[[宋襄の仁]]」 巻39・晋世家。初出は『韓非子』外儲説左上
*「狡兎死して走狗煮らる」 巻41・越王勾践世家、巻92・淮陰侯列伝。初出は『[[韓非子]]』内儲説下
*「[[臥薪嘗胆]]」 巻41・越王勾践世家(「嘗胆」のみ。「臥薪嘗胆」は『[[十八史略]]』春秋など)
*「満を持す」 巻41・越王勾践世家
*「王侯将相いずくんぞ種あらんや」 巻48・陳渉世家
*「忠言耳に逆らい、良薬口に苦し」 巻55・留侯世家、巻108・淮南衡山列伝(『史記』では「毒薬」)。初出は『韓非子』外儲説左上
*「立錐の地なし」 巻55・留侯世家
*「天道是か非か」 巻61・伯夷列伝、巻63・老子韓非列伝
*「[[管鮑の交わり]]」 巻62・管晏列伝。初出は『[[列子]]』力命
*「屍を鞭打つ」 巻66・伍子胥列伝
*「[[Wikt:鶏口となるも牛後となるなかれ|寧ろ鶏口となるとも牛後となるなかれ]]」 巻69・蘇秦列伝
*「[[完璧]]」 巻81・廉頗藺相如列伝
*「[[刎頸の交わり]]」 巻81・廉頗藺相如列伝、巻89・張耳陳余列伝、巻92・淮陰侯列伝
*「士は己を知る者のために死す」 巻86・[[刺客列伝]]
*「[[傍若無人]]」 巻86・[[刺客列伝]]
*「断じて行えば鬼神もこれを避く」 巻87・李斯列伝
*「将に将たり」 巻92・淮陰侯列伝
*「匹夫の勇、婦人の仁」 巻92・淮陰侯列伝。「匹夫の勇」の初出は『[[孟子 (書物)|孟子]]』梁恵王下
*「[[国士無双]]」 巻92・淮陰侯列伝
*「[[背水の陣]]」 巻92・淮陰侯列伝。初出は『尉繚子』天官
*「智者も千慮必ず一失あり。愚者も千慮また一得あり」 巻92・淮陰侯列伝
*「右に出ずる者なし」 巻104・田叔列伝
*「流言蜚語」 巻107・魏其武安侯列伝
*「桃李もの言わざれど下おのずから小径(こみち)をなす」 巻109・李将軍列伝
*「[[Wikt:曲学阿世|曲学阿世]]」 巻121・儒林列伝
*「鳴かず飛ばず」 巻126・滑稽列伝・[[淳于髠]]
*「謀(はかりごと)を帷幄(いあく)の中にめぐらし、勝ちを千里の外に決する」 巻130・太史公自序。張良の伝記で言及するものは『[[漢書]]』巻40・張良伝
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 関連文献 ==
===現代語訳===
*{{Citation|和書|title=史記 中国古典選|volume=全3巻|last1=一海|first1=知義|last2=田中|first2=謙二|year=1996|publisher=朝日新聞社|series=朝日選書|isbn=4022590033}}
*{{Citation|和書|title=司馬遷 現代語訳 史記|volume=|last1=大木|first1=康|year=2011|publisher=筑摩書房|series=ちくま新書|isbn=9784480065933}}抜粋版
*{{Citation|和書|title=史記列伝|volume=全5巻|last1=小川|first1=環樹|last2=今鷹|first2=真|last3=福島|first3=吉彦|year=1975|publisher=岩波文庫|series=|isbn=4003321413}}ワイド版岩波文庫、2015-2016年
**旧版『[[世界古典文学全集]]20 司馬遷』 筑摩書房、1969年ほか
*{{Citation|和書|title=史記世家|volume=全3巻|last1=小川|first1=環樹|last2=今鷹|first2=真|last3=福島|first3=吉彦|date=1980・1984・1991年|publisher=岩波文庫|series=|isbn=4003321464}}
*{{Citation|和書|title=史記列伝|volume=全2巻|last1=貝塚|first1=茂樹|last2=川勝|first2=義雄|year=2001|publisher=中央公論新社|series=中公クラシックス|isbn=4121600010}}抜粋版
**旧版『[[世界の名著]]11 司馬遷』 貝塚茂樹責任編集、中央公論社、1968年ほか
*{{Citation|和書|title=史記|volume=全8巻|last1=小竹|first1=文夫|last2=小竹|first2=武夫|year=1995|publisher=筑摩書房|series=ちくま学芸文庫|isbn=|||}}
**旧版『筑摩世界文学大系6・7 史記』 筑摩書房、1971年ほか
*{{Citation|和書|title=史記列伝|volume=全3巻|last1=野口|first1=定男|date=2010-2011年|publisher=[[平凡社ライブラリー]]|series=|isbn=9784582767148}}
**{{Citation|和書|title=[[中国古典文学大系]] 史記|volume=全3巻|last1=野口|first1=定男|last2=近藤|first2=光男|last3=頼|first3=惟勤|last4=吉田|first4=光邦|date=1971年ほか|publisher=[[平凡社]]|series=|isbn=|||}}元版
*{{Citation|和書|title=史記|volume=全15巻|last1=吉田|first1=賢抗|last2=水澤|first2=利忠|last3=青木|first3=五郎|date=1973-2014年|publisher=[[明治書院]]|series=[[新釈漢文大系]]|isbn=|||}}完訳版
**{{Citation|和書|title=史記 〈本紀〉|last1=吉田|first1=賢抗|last2=水澤|first2=利忠|last3=青木|first3=五郎|year=2003|publisher=明治書院|series=[[新書漢文大系]]|isbn=4625663261|||}}各・抜粋新書版
**{{Citation|和書|title=史記 〈世家〉|last1=吉田|first1=賢抗|last2=水澤|first2=利忠|last3=青木|first3=五郎|year=2006|publisher=明治書院|series=新書漢文大系 全2巻|isbn=|||}}
**{{Citation|和書|title=史記 〈列伝〉|last1=吉田|first1=賢抗|last2=水澤|first2=利忠|last3=青木|first3=五郎|date=2002-2017年|publisher=明治書院|series=新書漢文大系 全5巻|isbn=|||}}
=== 概説書・専門書 ===
*{{Citation|和書|title=「史記」と「漢書」 中国文化のバロメーター|last1=大木|first1=康|authorlink=大木康|year=2008|publisher=岩波書店|series=書物誕生-あたらしい古典入門|isbn=978-4-00-028283-3|||}}
*{{Citation|和書|title=史学論集
|last1=川勝|first1=義雄|authorlink=川勝義雄|year=1973|publisher=朝日新聞社|series=中国文明選|ncid=BN00711977}}
*{{Citation|和書|title=史記の世界|last1=増井|first1=経夫|authorlink=増井経夫|year=1987|publisher=日本放送出版協会|series=[[NHKブックス]]|isbn=4-14-001530-6|||}}
*{{Citation|和書|title=史記を語る|last1=宮崎|first1=市定|authorlink=宮崎市定|year=1979|publisher=岩波書店|series=[[岩波新書]]|ncid=BN00318173}}岩波文庫、1996年
*{{Citation|和書|year=2010|last=吉川|first=忠夫|authorlink=吉川忠夫|title=読書雑志 : 中国の史書と宗教をめぐる十二章|publisher=岩波書店|chapter=史書の伝統|ISBN=9784000241496}}
*{{Citation|和書|title=史記を探る|last1=吉本|first1=道雅|authorlink=吉本道雅|year=1996|publisher=東方書店|series=東方選書|isbn=4-497-96483-3}}
===学術論文===
*{{Citation|和書|title=褚少孫の『史記』補続
|last1=内山|first1=直樹|year=2003|publisher=中国文化学会|journal=中国文化|volume=61|naid=120006384323|p=15-27}}
===その他===
*{{Citation|和書|title=アジア歴史研究入門|year=1983|publisher=同朋舎出版|last1=米田|first1=賢次郎|last2=永田|first2=英正|pages=91-140|editor=島田虔次ら|chapter=秦漢|isbn=4810403661}}
*{{Citation|和書|title=中国思想辞典|year=1984|publisher=研文出版|editor=日原利国|chapter=史記|isbn=487636043X}}
**{{Citation|和書|title=中国思想辞典|year=1984|publisher=研文出版|last1=水澤|first1=利忠|pages=163-164|editor=日原利国|chapter=史記}}
**{{Citation|和書|title=中国思想辞典|year=1984|publisher=研文出版|last1=青木|first1=五郎|pages=176|editor=日原利国|chapter=司馬遷}}
**{{Citation|和書|title=中国思想辞典|year=1984|publisher=研文出版|last1=青木|first1=五郎|pages=176-177|editor=日原利国|chapter=司馬貞}}
==関連項目==
*[[歴史書一覧]]
*[[徐福]]
*[[史記 (横山光輝の漫画)]]
*[[平成]] - 由来は『史記』[[三皇五帝|五帝]]本紀の「内平外成(内平かに外成る)」、『[[書経]](偽古文尚書)』[[大禹]]謨の「地平天成(地平かに天成る)」より
== 外部リンク ==
{{Wikisource|史記}}
{{Wikiquote|司馬遷}}
* 『[http://www.guoxue.com/shibu/24shi/shiji/sjml.htm 史记]』「1巻/五帝本紀第1–130巻/列伝70・太史公自序」{{Zh-smpl icon}}、国学ネット — 原典宝庫{{ColonSp}}『[[史記集解]]』、『[[史記索隠]]』、『[[史記正義]]』の史記三大注釈書の注記が併記されている。
* [https://ctext.org/shiji/zh 史記]{{Zh-hk icon}} - [[中国哲学書電子化計画|中國哲學書電子化計劃]]
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[[Category:紀元前1世紀の中国語書籍]]
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[[Category:司馬遷]] | 2003-02-23T05:10:00Z | 2023-12-30T10:14:46Z | false | false | false | [
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2,747 | 長谷川裕一 | 長谷川 裕一(はせがわ ゆういち、1961年(昭和36年)4月25日 - )は、日本の漫画家・同人作家・特撮評論家。
千葉県佐原市(現・香取市)出身。男性。少数ながら、長谷川 裕二(はせがわ ゆうじ)名義での活動も存在する(作品リストを参照)。なお、アニメ脚本家・ライトノベル作家・スーツアクターの長谷川勝己は実弟。
主な作品に『マップス』『轟世剣ダイ・ソード』『機動戦士クロスボーン・ガンダム』『飛べ!イサミ』『超獣機神ダンクーガBURN』『クロノアイズ』などの漫画作品や、東映特撮作品のSF考証本『すごい科学で守ります!』がある。
千葉県立千葉東高等学校在学中に自主制作アニメ『スタージャッジ』を制作(ただし完成したのは高校卒業後である)。高校卒業後に松田一輝に師事した後、秋田書店の『月刊少年チャンピオン』1983年11月号掲載の「魔夏の戦士」で商業誌にデビュー。同誌などで数本の読み切り作品を発表した後、1985年(昭和60年)に学習研究社が『アニメディア』増刊として刊行した『SFアニメディア』(後の『月刊コミックNORA』)創刊号で「マップス」を発表。作者は読み切りのつもりで描いたのだが、送られてきた創刊号に次号へ続く旨が書かれており、なし崩し的に連載することとなる。同作の連載で知られるようになり、以来、現在に至るまで主に月刊少年漫画誌(あるいはマニア誌やメディアミックス漫画誌などと分類されることもある)で活動している。
デビューに前後して、人づてでテレビアニメ作品『超時空騎団サザンクロス』のデザイン(主に主人公達が着る甲冑、アーミング・ダブレットの足跡)を手伝っていたことや、タイムボカンシリーズの復活企画用の主人公メカのデザインを手がけたことがある。同じ頃、小学館の依頼で『ドラえもん』の道具の内部図解をアルバイトで担当し、今ではそれがそのまま公式設定とされている。一番苦労したのはタイムふろしきの内部図解であったと後に述懐している。また、横山光輝が『元禄御畳奉行の日記』を漫画化した際にそのバックを手伝ったこともある。ちなみに長谷川が横山に会ったのはその時の一度だけで、後に手がけることになる「鉄人28号 皇帝の紋章」の連載中に横山が死去したため、再度会うことは叶わなかった。
なお2007年(平成19年)10月発売の『コミックボンボン』11月号に掲載された「MSV戦記 ジョニー・ライデン」以降、漫画雑誌ではなくウェブコミック誌にのみ作品が発表される状態が続いていたが、2010年(平成22年)5月発売の『月刊コミックラッシュ』7月号より「ゴッドバード」を連載開始し約2年半ぶりに漫画雑誌に作品が掲載された。
星雲賞を2度受賞している。
また、受賞には至らなかったが、1995年(平成7年)(第26回)に『マップス』、1998年(平成10年)(第29回)に『機動戦士クロスボーン・ガンダム』、2004年(平成16年)(第35回)に『クロノアイズ・グランサー』がそれぞれコミック部門の参考候補作に挙げられていた。ちなみに、2000年には第10回暗黒星雲賞の企画部門とゲスト部門を受賞している。
筆はかなり速いほうで、過去には連載2本に加えて1ヶ月に1巻というスピードで単行本1冊まるまる描き下ろすということをやってのけた時期もある(詳細は『飛べ!イサミ』を参照)。
漫画家の岡昌平からは「宮崎駿、藤子・F・不二雄に次いで日本で3番目にスケベな漫画家」と評された。また、岡田斗司夫は「日本で2番目にオタクの心が分かっている漫画家」と評した。
近年では特撮評論家としての活動も行っており、テレビ東京系列番組「TVチャンピオン」2000年(平成12年)2月10日放送分「悪役怪獣・怪人王選手権」において優勝の栄冠を勝ち取っている。その活動の関連著作としてスーパー戦隊シリーズを始めとした東映特撮作品のSF考証をテーマとした『すごい科学で守ります!(通称「すごかが」)』シリーズがある。こちらでも漫画作品におけるそれ同様、様々な作品のクロスオーバーに成功しており、前述の通り星雲賞も受賞している。1997年(平成9年)から毎年日本SF大会(長谷川裕一は常連参加者の一人である)にて同名のトーク企画も開いている。
各巻の詳細は該当記事を参照。
いずれも日本放送出版協会刊。詳細は『すごい科学で守ります!』の項を参照。
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] | 長谷川 裕一は、日本の漫画家・同人作家・特撮評論家。 千葉県佐原市(現・香取市)出身。男性。少数ながら、長谷川 裕二名義での活動も存在する(作品リストを参照)。なお、アニメ脚本家・ライトノベル作家・スーツアクターの長谷川勝己は実弟。 主な作品に『マップス』『轟世剣ダイ・ソード』『機動戦士クロスボーン・ガンダム』『飛べ!イサミ』『超獣機神ダンクーガBURN』『クロノアイズ』などの漫画作品や、東映特撮作品のSF考証本『すごい科学で守ります!』がある。 | {{Other people}}
{{Infobox 漫画家
| 名前 = 長谷川 裕一
| ふりがな = はせがわ ゆういち
| 画像 = <!-- 画像ファイル名 -->
| 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px -->
| 脚注 = <!-- 画像の説明文 -->
| 本名 = <!-- 必ず出典を付ける -->
| 生年 = {{生年月日と年齢|1961|04|25}}
| 生地 = {{JPN}}・[[千葉県]][[佐原市]](現・[[香取市]])
| 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1961|04|25|YYYY|YY|YY}} -->
| 没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 -->
| 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 -->
| 職業 = [[漫画家]]
| 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 -->
| 活動期間 = [[1983年]] -
| ジャンル = [[SF漫画]]<br />[[少年漫画]]
| 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 -->
| 受賞 = 第32回(2001年) [[星雲賞]]ノンフィクション部門『[[すごい科学で守ります!|もっとすごい科学で守ります!]]』<br />第34回(2003年) 星雲賞コミック部門『[[クロノアイズ]]』
| サイン = <!-- 画像ファイル名 -->
| 公式サイト = <!-- {{Official website|https://www.example.org}}や[https://www.example.org/ 公式ページ名] など -->
}}
'''長谷川 裕一'''(はせがわ ゆういち、[[1961年]]([[昭和]]36年)[[4月25日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]・同人作家・[[特撮]]評論家。
[[千葉県]][[佐原市]](現・[[香取市]])出身。[[男性]]。少数ながら、'''長谷川 裕二'''(はせがわ ゆうじ)名義での活動も存在する([[#作品リスト|作品リスト]]を参照)。なお、アニメ[[脚本家]]・[[ライトノベル]]作家・[[スーツアクター]]の[[長谷川勝己]]は[[弟|実弟]]<ref>兄のデビュー当初の頃に[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を務めていたことがある。</ref>。
主な作品に『[[マップス]]』『[[轟世剣ダイ・ソード]]』『[[機動戦士クロスボーン・ガンダム]]』『[[飛べ!イサミ]]』『[[超獣機神ダンクーガBURN]]』『[[クロノアイズ]]』などの[[漫画]]作品<!--単行本『マップス愛蔵版』の作者プロフィールを基に発表順に表記-->や、[[東映]][[特撮]]作品の[[SF考証]]本『[[すごい科学で守ります!]]』がある。
== 略歴 ==
[[千葉県立千葉東高等学校]]在学中に[[自主制作]]アニメ『[[スタージャッジ]]』を制作(ただし完成したのは高校卒業後である)。高校卒業後に[[松田一輝 (漫画家)|松田一輝]]に師事した後、[[秋田書店]]の『[[月刊少年チャンピオン]]』[[1983年]]11月号掲載の「[[魔夏の戦士]]」で商業誌にデビュー。同誌などで数本の読み切り作品を発表した後、[[1985年]](昭和60年)に[[学研ホールディングス|学習研究社]]が『[[アニメディア]]』増刊として刊行した『[[SFアニメディア]]』(後の『[[月刊コミックNORA]]』)創刊号で「[[マップス]]」を発表。作者は[[読み切り]]のつもりで描いたのだが、送られてきた創刊号に次号へ続く旨が書かれており、なし崩し的に連載することとなる<ref>編集の連絡ミスが原因。</ref>。同作の連載で知られるようになり、以来、現在{{いつ|date= 2020年9月12日 (土) 13:50 (UTC)}}に至るまで主に月刊[[少年漫画]]誌(あるいは[[マニア]]誌や[[メディアミックス]]漫画誌などと分類されることもある)で活動している。
デビューに前後して、人づてで[[テレビアニメ]]作品『[[超時空騎団サザンクロス]]』のデザイン(主に主人公達が着る甲冑、アーミング・ダブレットの足跡)を手伝っていたことや、[[タイムボカンシリーズ]]の復活企画<ref>この企画は結局実現しなかった。</ref>用の主人公メカのデザインを手がけたことがある。同じ頃、[[小学館]]の依頼で『[[ドラえもん]]』の道具の内部図解をアルバイトで担当し、今ではそれがそのまま公式設定とされている。一番苦労したのは[[タイムふろしき]]の内部図解であったと後に述懐している。また、[[横山光輝]]が『[[元禄御畳奉行の日記]]』を漫画化した際にそのバックを手伝ったこともある。ちなみに長谷川が横山に会ったのはその時の一度だけで、後に手がけることになる「[[鉄人28号 皇帝の紋章]]」の連載中に横山が死去したため、再度会うことは叶わなかった。
なお[[2007年]]([[平成]]19年)10月発売の『[[コミックボンボン]]』11月号に掲載された「[[機動戦士ガンダムMSV戦記 ジョニー・ライデン|MSV戦記 ジョニー・ライデン]]」以降、[[日本の漫画雑誌|漫画雑誌]]ではなく[[ウェブコミック誌]]にのみ作品が発表される状態が続いていたが、[[2010年]](平成22年)5月発売の『[[月刊コミックラッシュ]]』7月号より「[[ゴッドバード (長谷川裕一の漫画)|ゴッドバード]]」を連載開始し約2年半ぶりに漫画雑誌に作品が掲載された。
== 受賞歴 ==
[[星雲賞]]を2度受賞している。
* 第32回([[2001年]](平成13年)) ノンフィクション部門 『[[すごい科学で守ります!|もっとすごい科学で守ります!]]』
* 第34回([[2003年]](平成15年)) コミック部門 『[[クロノアイズ]]』
また、受賞には至らなかったが、[[1995年]](平成7年)(第26回)に『マップス』、[[1998年]](平成10年)(第29回)に『[[機動戦士クロスボーン・ガンダム]]』、[[2004年]](平成16年)(第35回)に『[[クロノアイズ|クロノアイズ・グランサー]]』がそれぞれコミック部門の参考候補作に挙げられていた。ちなみに、[[2000年]]には第10回[[暗黒星雲賞]]の企画部門とゲスト部門を受賞している。
== 作風 ==
=== 漫画作品 ===
筆はかなり速いほうで、過去には連載2本に加えて1ヶ月に1巻というスピードで単行本1冊まるまる描き下ろすということをやってのけた時期もある(詳細は『[[飛べ!イサミ]]』を参照)。
漫画家の[[岡昌平]]<ref>『[[轟世剣ダイ・ソード|ダイ・ソード]]』単行本第1巻のあとがき漫画での本人のコメントや、『[[飛べ!イサミ|飛べ!イサミ ダッシュ]]』単行本第3巻の[[笹本祐一]]の寄稿には、評したのは漫画家の[[くら☆りっさ]]であると書かれているが、実際には「くらが[[1990年]]夏の[[コミックマーケット]]で発行した『マップス』の同人誌の中で、[[岡昌平]]が評している」である。</ref>からは「[[宮崎駿]]、[[藤子・F・不二雄]]に次いで'''日本で3番目にスケベな漫画家'''」と評された。また、[[岡田斗司夫]]は「'''日本で2番目にオタクの心が分かっている漫画家'''」と評した。
=== 特撮評論 ===
近年では[[特撮]][[評論家]]としての活動も行っており、[[テレビ東京]]系列番組「[[TVチャンピオン]]」[[2000年]](平成12年)[[2月10日]]放送分「悪役怪獣・怪人王選手権」において優勝の栄冠を勝ち取っている。その活動の関連著作として[[スーパー戦隊シリーズ]]を始めとした[[東映]][[特撮]]作品の[[SF考証]]をテーマとした『[[すごい科学で守ります!]](通称「'''すごかが'''」)』シリーズがある。こちらでも漫画作品におけるそれ同様、様々な作品のクロスオーバーに成功しており、前述の通り星雲賞も受賞している。[[1997年]](平成9年)から毎年[[日本SF大会]](長谷川裕一は常連参加者の一人である)にて同名のトーク企画も開いている。
== 作品リスト ==
=== 連載 ===
<!-- Vol.○などの( )の中の月表記は、増刊誌は本誌○月号増刊の月で表記・定期刊行アンソロジーコミックは刊行月で表記 -->
* [[マップス]](『[[SFアニメディア]]』Vol.1(1985年2月) - Vol.6(1986年4月) → 『[[月刊コミックNORA]]』1986年9月号 - 1994年12月号) - 結果的に初連載となる<ref>詳細は[[マップス#連載初期の背景]]を参照。</ref>。
* [[BEMADER・P|ビメイダー]](『[[月刊少年チャンピオン]]』1985年3月号 - 7月号) - 単行本化の際に『[[BEMADER・P]]』へ改題。
* [[鋼鉄の狩人]](『[[バトルマシーン (アンソロジー)|バトルマシーン]]』MARK.6(1987年1月) - MARK.7(1987年3月))
* [[侵略妖精・破甲拳]](『[[コミックファイター]]』1987年9月号 - 10月号) - 単行本『鋼鉄の狩人』に収録。その際に「[[侵略妖精]]」へ改題。
* [[ハイスピード・ジェシー|ハイスピードジェシー]](『月刊コミックNORA』1989年7月号 - 12月号) - 原作:[[斉藤英一朗]]。この作品のみ'''長谷川裕二'''名義<ref>発表当時は「長谷川裕一の弟」という名目だった(実在の弟である[[長谷川勝己]]とは無関係である)。</ref>。
* [[EXPER ZENON]](『[[アニメV]]』1990年6月号 - 1991年5月号) - 原作を担当、漫画:[[もりやまゆうじ]]。未単行本化。
* [[機動戦士VS伝説巨神 逆襲のギガンティス|ガンダムVS伝説の巨神]](『[[サイバーコミックス]]』No.23(1990年8月) - No.26(1990年11月)) - 単行本化の際に『[[機動戦士VS伝説巨神 逆襲のギガンティス]]』へ改題。単行本『[[機動戦士Vガンダム#漫画|機動戦士Vガンダム外伝]]』『[[機動戦士Vガンダム#漫画|機動戦士Vガンダム プロジェクト・エクソダス]]』にも収録。
* [[童羅]](『[[COMICクラフト]]』Vol.6(1991年2月) - Vol.7(1991年6月))
* [[メデューサ・ブレード]](『[[月刊ニュータイプ]]』付録『[[月刊ニュータイプ#コミックGENKi|コミックGENKi]]』1992年7月号 - 1993年1月号)
* [[サン・ド・ホリー西へ]](『[[コミックマスターエクストラ]]』Vol.4(1992年12月) - Vol.12(1994年4月)) - 単行本化の際に『[[サン・ド・ホリー西へ!]]』へ改題。
* [[轟世剣ダイ・ソード|ダイ・ソード]](『[[月刊コミックコンプ]]』1993年3月号 - 1994年10月号)
* [[機動戦士クロスボーン・ガンダム]](『[[月刊少年エース]]』1994年12月号 - 1997年3月号) - 原作:[[富野由悠季]]<ref>富野本人が初めて原作を務めた漫画作品でもある。</ref>。
* [[轟世剣ダイ・ソード]](『[[月刊少年キャプテン]]』1995年1月号 - 1996年9月号)
* [[マップス|マップス超外伝]](『月刊コミックNORA』1997年2月号 - 7月号) - 単行本『[[マップス|マップス外伝]]』第2巻に収録。
* [[忍闘炎伝]](『月刊コミックNORA』1997年9月号 - 1998年9月号)
* [[超獣機神ダンクーガBURN]](『[[エースダッシュ]]』Vol.1(1997年11月) - Vol.7(1998年11月))
* [[聖忍者伝]](『[[ヤングキングアワーズ]]』1999年4月号 - 10月号<!--6月号 - 8月号は未掲載-->) - 単行本『忍闘炎伝』(復刻版)下巻に収録。
* [[クロノアイズ]](『[[月刊マガジンZ]]』1999年8月号 - 2002年6月号) - [[星雲賞]]受賞作。
* [[スーパーロボット大戦α#コミック|スーパーロボット大戦α THE STORY 竜が滅ぶ日]](『月刊マガジンZ』2001年4月号 - 7月号) - 原案:[[バンプレスト]]。
* [[超電磁大戦ビクトリーファイブ]](『[[スーパーロボットマガジン]]』Vol.1(2001年8月) - Vol.13(2003年8月))
* [[クロノアイズ・グランサー]](『月刊マガジンZ』2002年8月号 - 2003年11月号)
* [[機動戦士クロスボーン・ガンダム#機動戦士クロスボーン・ガンダム外伝|機動戦士クロスボーン・ガンダム外伝]](『[[ガンダムエース]]』2003年9月号 - 11月号) - 原作:[[矢立肇]]・富野由悠季。単行本『[[機動戦士クロスボーン・ガンダム#機動戦士クロスボーン・ガンダム外伝|機動戦士クロスボーン・ガンダム スカルハート]]』に収録。
* [[鉄人28号 皇帝の紋章]](『月刊マガジンZ』2004年1月号 - 2005年1月号) - 原作:[[横山光輝]]。
* [[マーメイド・ヘヴン]](『[[月刊ドラゴンエイジ]]』2005年2月号・4月号)
* [[機動戦士ゼータガンダム1/2]](『[[Ζガンダムエース]]』Vol.1(2005年7月) - Vol.3(2006年4月)) - 原作:矢立肇・富野由悠季。
* [[機動戦士クロスボーン・ガンダム#機動戦士クロスボーン・ガンダム 鋼鉄の7人|機動戦士クロスボーン・ガンダム 鋼鉄の7人]](『ガンダムエース』2006年7月号 - 2007年9月号) - 原作:矢立肇・富野由悠季。
* [[マップス ネクストシート]](『[[FlexComixブラッド]]』2007年1月16日 - 2012年2月8日)
* [[機動戦士ガンダムMSV戦記 ジョニー・ライデン|MSV戦記 ジョニー・ライデン]](『[[コミックボンボン]]』2007年10月号付録 - 11月号) - 原作:矢立肇・富野由悠季。単行本化の際に『[[機動戦士ガンダムMSV戦記 ジョニー・ライデン]]』へ改題。
* [[MEAN 遥かなる歌]](『[[ヒーロークロスライン]]』2007年10月31日 - 2009年3月11日) - 原作を担当、漫画:[[栗原一実]]。
* [[スタジオ秘密基地劇場]](『ヒーロークロスライン』2008年5月21日 - 2009年3月4日) - '''長谷川裕一とスタジオ秘密基地'''名義<ref>エピソードによっては、原作・作画共をアシスタントが担当するなどしている。</ref>。
* [[ゴッドバード (長谷川裕一の漫画)|ゴッドバード]](『[[月刊コミックラッシュ]]』2010年7月号 - 2011年12月号(第1部)、2012年5月号 - 2014年4月号(第2部)) - 原案:[[東北新社]]・[[東映]]。
* [[まんがのCOCOはキケンなつぼみ!]](『FlexComixブラッド』2010年12月22日 - 2012年3月14日) - 原作を担当<ref>一部作画も担当。{{Wayback|url=http://studio-himitsukichi.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-63ab.html|date=20140811201439}}</ref>、漫画:[[徳冨数志]]。第3巻は単行本未発行。
* [[ゴッドバード (長谷川裕一の漫画)|ゴッドバード ひよこ]](『月刊コミックラッシュ』2012年1月号 - 5月号) - '''[[椎名かつゆき]] スタジオ秘密基地'''、'''長谷川裕一×[[大庭園]] スタジオ秘密基地'''名義<ref>4コマサイドを「椎名かつゆき スタジオ秘密基地」名義、美形サイドを「長谷川裕一×大庭園 スタジオ秘密基地」名義にて執筆。この他、原案として「[[東北新社]]・[[東映]]」もクレジットされている。</ref>。『ゴッドバード』4巻に収録。
* [[機動戦士クロスボーン・ガンダム#機動戦士クロスボーン・ガンダム ゴースト|機動戦士クロスボーン・ガンダム ゴースト]](『ガンダムエース』2012年1月号 - 2016年5月号) - 原作:矢立肇・富野由悠季。
* [[機動戦士クロスボーン・ガンダム#機動戦士クロスボーン・ガンダム DUST|機動戦士クロスボーン・ガンダム DUST]](『ガンダムエース』2016年9月号 - 2021年2月号) - 原作:矢立肇・富野由悠季。
* [[FU (漫画)|FU]](フウ)([[Pixivコミック]]『[[ねこシブ]]』2018年8月6日 - 2020年7月6日)
* [[機動戦士クロスボーン・ガンダム#機動戦士クロスボーン・ガンダム X-11|機動戦士クロスボーン・ガンダム X-11]](『ガンダムエース』2021年8月号 - 2022年8月号) - 原作:矢立肇・富野由悠季。
* [[マン・バイト 蒼空猟域]](『[[コミックブシロードWEB]]』2021年7月9日 - 2023年12月8日)
* [[機動戦士クロスボーン・ガンダム#機動戦士クロスボーン・ガンダム LOVE&PIECE|機動戦士クロスボーン・ガンダム LOVE & PIECE]](『ガンダムエース』2022年12月号 - 2024年1月号)
=== 読み切り ===
* [[魔夏の戦士]](『月刊少年チャンピオン』1983年11月号)<ref name="BEMADER">単行本『BEMADER・P』に収録。</ref> - デビュー作。
* [[ネッシー2001]](『月刊少年チャンピオン』1984年1月号)<ref name="BEMADER" />
* アルキメデスは生きている!!(『月刊少年チャンピオン』1984年5月号)<ref name="tanpen">短編集『[[マップス#ワイド版|マップス SUPER WIDE 長谷川裕一の世界]]』に収録。</ref>
* からまわりした時計(『月刊少年チャンピオン』1984年8月号)<ref name="tanpen" />
* 真実(ドキュメント)はまいあがる!(『月刊少年チャンピオン』1984年12月号)<ref name="tanpen" /> - 短編集収録の際に「ビクトリィマンまいあがる!」へ改題。
* トゥインク(『[[アイム・チャンピオン]]』1985年創刊号)<ref name="tanpen" />
* フェアリーマスター(『月刊コミックNORA』1987年7月号) - 単行本『マップス』第4巻に収録。
* [[BEMADER・P#関連作|8時限目の授業]](『[[アニメディア]]』1988年7月号付録) - 単行本『マップス』第15巻に収録。
* 最終生命(『MONSTER COMIC 怪獣伝説』(1990年3月)) - 単行本『メデューサ・ブレード』に収録。
* [[マップス|マップス パズル2 ニュウ・エイブ七つの試練]](『月刊コミックNORA』1991年9月号) - 単行本『マップス』第11巻に収録。
* わかりすぎた結末 あるいは失笑した宇宙 もしくはキャプテン・オーマイガーの華麗なる挑戦(『[[コミックマスター]]』Vol.6(1991年11月)) - 単行本『機動戦士VS伝説巨神 逆襲のギガンティス』及び『スタジオ秘密基地劇場』第1巻に収録。
* ドラゴン・ハリアー(『[[New COMICクラフト]]』No.1(1992年2月)) - 単行本『童羅』及び『[[童羅|堕天使伝 童羅]]』に収録。
* レクイエムランナー(『コミックアクションシティ』(1992年7月)) - 原案:[[花笠ヒロ]]。単行本未収録。リメイク版が『スタジオ秘密基地劇場』の第4話として単行本第1巻に収録。
* 宇宙の足音(『コミックマスター』Vol.10(1992年9月)) - 単行本未収録。
* 探偵ファントム(『月刊コミックNORA』1993年11月号)<ref name="gaiden">単行本『マップス外伝』第1巻に収録。</ref>
* [[機動戦士Vガンダム#機動戦士Vガンダム外伝|機動戦士Vガンダム外伝 脱出計画編]](『[[少年キッズ]]』Vol.1(1994年2月)) - 単行本『[[機動戦士Vガンダム#漫画|機動戦士Vガンダム外伝]]』『[[機動戦士Vガンダム#漫画|機動戦士Vガンダム プロジェクト・エクソダス]]』に収録。
* 忍風(かぜ)の白竜(ドラゴン)(『コミックマスター』Vol.24(1994年10月)) - 単行本未収録。
* [[マップス|マップス パズル3 時に疾風のように]](『月刊コミックNORA』1995年2月号)<ref name="gaiden" />
* [[マップス|マップス パズル4 五千万光年の風]](『月刊コミックNORA』1996年9月号)<ref name="gaiden" />
* [[機動戦士クロスボーン・ガンダム#機動戦士クロスボーン・ガンダム外伝|バカがボオルでやってくる!]](『ガンダムエース』2002年11月号)<ref name="gsh">単行本『機動戦士クロスボーン・ガンダム スカルハート』に収録。</ref>
* [[機動戦士クロスボーン・ガンダム#機動戦士クロスボーン・ガンダム外伝|機動戦士クロスボーン・ガンダム 番外編 星の王女様]](『月刊少年エース』2003年10月号)<ref name="gsh" />
* [[機動戦士クロスボーン・ガンダム#機動戦士クロスボーン・ガンダム外伝|機動戦士クロスボーン・ガンダム 猿の衛星]](『ガンダムエース』2004年10月号)<ref name="gsh" />
* MSV戦記 ジョニー・ライデン(『[[ガンダムマガジン]]』2006年11月) - 原作:矢立肇・富野由悠季。単行本『機動戦士ガンダムMSV戦記 ジョニー・ライデン』に第1話として収録。
=== 書籍 ===
==== 漫画単行本 ====
各巻の詳細は該当記事を参照。
* 『[[マップス]]』、[[学習研究社]] 〈[[ノーラコミックス]]〉 1987年 - 1995年、全17巻 - 第1巻が初単行本。
** (文庫版)[[メディアファクトリー]] 〈MF文庫〉 2002年 - 2003年、全10巻<ref name="maps">最終巻には『マップス外伝』2巻分を収録。</ref>
** (愛蔵版)発行:[[フレックスコミックス]] / 発売:[[ソフトバンククリエイティブ]] 〈[[フレックスコミックス#Flex Comix|フレックスコミックス]]〉 2008年 - 2009年、全6巻<ref name="gaiden" />
* 『[[鋼鉄の狩人]]』、[[朝日ソノラマ]] 〈サンコミックス ファイターシリーズ〉 1988年6月30日第1刷発行、全1巻 - 第1話を描き下ろしで収録。
** (新装版)[[大都社]] 1998年5月8日第1刷発行、全1巻
* 『[[BEMADER・P]]』、[[秋田書店]] 〈[[少年チャンピオン・コミックス|少年チャンピオン・コミックス エクストラ]]〉 1989年、全1巻
* 『[[ハイスピード・ジェシー|ハイスピードジェシー]]』、学習研究社 〈ノーラコミックス〉 1990年3月6日第1刷発行、全1巻
* 『[[マップス#ワイド版|マップス SUPER WIDE 長谷川裕一の世界]]』、学習研究社 〈[[ノーラコミックス|ノーラコミックスワイド]]〉 1991年、短編集
* 『[[機動戦士VS伝説巨神 逆襲のギガンティス]]』、学習研究社 〈[[ノーラコミックス|ノーラコミックスデラックス]]〉 1992年、全1巻
* 『[[童羅]]』、[[ワニマガジン社]] 〈ワニマガジンコミックス〉 1993年10月1日第1刷発行、全1巻 {{ISBN2|4-89829-136-8}} - 同人誌にて続編が発表されている。
** (新装版)『[[童羅|堕天使伝 童羅]]』、大都社 1999年8月10日第1刷発行、全1巻 {{ISBN2|4-88653-438-4}}
* 『[[轟世剣ダイ・ソード|ダイ・ソード]]』、[[角川書店]] 〈[[コンプコミックス]]〉 1993年 - 1994年、全2巻 - 掲載誌の休刊により第2巻までしか発行されていない。
** (新装版)『[[轟世剣ダイ・ソード]]』、[[徳間書店]] 〈少年キャプテンコミックススペシャル〉 1995年 - 1997年、全7巻 - 第7巻は描き下ろし。
** (文庫版)『轟世剣ダイ・ソード』、[[講談社]] 〈講談社漫画文庫〉 2003年 - 2004年、全4巻
* 『[[メデューサ・ブレード]]』、角川書店 〈[[ニュータイプ100%コミックス]]〉 1994年4月25日第1刷発行、全1巻 {{ISBN2|4-04-852474-7}}
* 『[[サン・ド・ホリー西へ!]]』、[[ホビージャパン]] 〈ホビージャパンコミックス〉 1994年10月1日第1刷発行、全1巻 {{ISBN2|4-89425-042-X}}
* 『[[機動戦士クロスボーン・ガンダム]]』、角川書店 〈[[角川コミックス・エース]]〉 1995年 - 1997年、全6巻
** ([[コンビニコミック|普及版]])角川書店 〈角川コミックス・エース〉 2003年、全2巻
** (新装版)発行:角川書店 / 発売:[[角川グループパブリッシング]] 〈角川コミックス・エース〉 2011年、全6巻
* 『[[飛べ!イサミ]]』、[[日本放送出版協会]] 〈テレビコミックス〉 1995年 - 1996年、全10巻 - 全巻単行本描き下ろし。[[志津洋幸]]との共著。
* 『[[機動戦士Vガンダム#漫画|機動戦士Vガンダム外伝]]』、角川書店 〈角川コミックス・エース〉 1995年11月7日第1刷発行、全1巻
** (新装版)『[[機動戦士Vガンダム#漫画|機動戦士Vガンダム プロジェクト・エクソダス]]』、発行:角川書店 / 発売:角川グループパブリッシング 〈角川コミックス・エース〉 2012年、全1巻
* 『[[飛べ!イサミ|飛べ!イサミ メモリアル]]』、日本放送出版協会 〈テレビコミックス〉 1996年、全1巻 - アニメのファンブック的な内容だが、描き下ろし漫画も掲載。
* 『[[マップス|マップス外伝]]』、学習研究社 〈ノーラコミックス〉 1996年 - 1997年、全2巻
* 『[[飛べ!イサミ|飛べ!イサミ ダッシュ]]』、日本放送出版協会 〈テレビコミックス〉 1997年、全3巻 - 全巻[[単行本]]描き下ろし。[[志津洋幸]]との共著。
* 『[[忍闘炎伝]]』、学習研究社 〈ノーラコミックス〉 1998年、全3巻
*# [[1998年]]2月16日第1刷発行、{{ISBN2|4-05-601825-1}}
*# 1998年7月26日第1刷発行、{{ISBN2|4-05-601926-6}}
*# 1998年10月7日第1刷発行、{{ISBN2|4-05-601961-4}}
** (復刻版)[[スタジオDNA]] 〈DNAコミックス〉 2003年、全2巻
**# 上巻 2003年12月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-7580-0126-X}}
**# 下巻 2003年12月15日第1刷発行、{{ISBN2|4-7580-0127-8}}
* 『[[超獣機神ダンクーガBURN]]』、角川書店 〈角川コミックス・エース〉 1998年 - 1999年、全2巻
* 『[[クロノアイズ]]』、講談社 〈[[マガジンZKC]]〉 2000年 - 2002年、全6巻
* 『[[スーパーロボット大戦α#コミック|スーパーロボット大戦α THE STORY 竜が滅ぶ日]]』、講談社 〈マガジンZKC〉 2001年、全1巻
* 『[[超電磁大戦ビクトリーファイブ]]』、[[双葉社]] 〈ACTION COMICS〉 2002年 - 2004年、全2巻
** (新装版)[[ジャイブ]] 〈[[CR COMICS]]〉 2011年、全2巻
* 『[[クロノアイズ・グランサー]]』、講談社 〈マガジンZKC〉 2003年、全3巻
* 『[[鉄人28号 皇帝の紋章]]』、講談社 〈マガジンZKC〉 2004年 - 2005年、全3巻
* 『[[無人惑星サヴァイヴ]]』、日本放送出版協会 〈テレビコミックス〉 2004年、全2巻 - 全巻単行本描き下ろし。構成を担当、漫画:[[大庭園]]。
* 『[[機動戦士クロスボーン・ガンダム#機動戦士クロスボーン・ガンダム外伝|機動戦士クロスボーン・ガンダム スカルハート]]』、角川書店 〈角川コミックス・エース〉 2005年、全1巻
** (新装版)[[KADOKAWA]] 〈角川コミックス・エース〉 2021年、全1巻
* 『[[マーメイド・ヘヴン]]』、角川書店 〈[[角川コミックス・ドラゴンJr.]]〉 2005年4月1日第1刷発行、全1巻 {{ISBN2|4-04-712397-8}}
** (新装版)ジャイブ 〈CR COMICS〉 2012年2月7日第1刷発行、全1巻 {{ISBN2|978-4-8617-6879-8}}
* 『[[機動戦士ゼータガンダム1/2]]』、角川書店 〈角川コミックス・エース〉 2006年、全1巻
* 『[[機動戦士クロスボーン・ガンダム#機動戦士クロスボーン・ガンダム 鋼鉄の7人|機動戦士クロスボーン・ガンダム 鋼鉄の7人]]』、角川書店<ref>第2巻より、発行:角川書店 / 発売:角川グループパブリッシング。</ref> 〈角川コミックス・エース〉 2006年 - 2007年、全3巻
** (新装版)KADOKAWA 〈角川コミックス・エース〉 2021年、全3巻
* 『[[マップス ネクストシート]]』、発行:フレックスコミックス / 発売:ソフトバンククリエイティブ 〈フレックスコミックス〉 2007年 - 2012年、全15巻
* 『[[機動戦士ガンダムMSV戦記 ジョニー・ライデン]]』、講談社 〈[[講談社コミックス|講談社コミックス ボンボンデラックス Gレジェンドコミックス]]〉 2007年、全1巻
** (新装版)KADOKAWA 〈角川コミックス・エース〉 2016年、全1巻
* 『[[MEAN 遥かなる歌]]』、講談社 〈[[ヒーロークロスライン#マガジンZKC HXL ヒーロークロスラインシリーズ|マガジンZKC HXL ヒーロークロスラインシリーズ]]〉 2008年 - 2009年、全3巻
* 『[[スタジオ秘密基地劇場]]』、講談社 〈マガジンZKC HXL ヒーロークロスラインシリーズ〉 2008年 - 2009年、全2巻
* 『[[ゴッドバード (長谷川裕一の漫画)|ゴッドバード]]』、ジャイブ 〈CR COMICS〉 2010年 - 2014年、全7巻
* 『[[まんがのCOCOはキケンなつぼみ!]]』、発行:フレックスコミックス / 発売:ソフトバンククリエイティブ 〈フレックスコミックス〉 2011年、既刊2巻
* 『[[機動戦士クロスボーン・ガンダム#機動戦士クロスボーン・ガンダム ゴースト|機動戦士クロスボーン・ガンダム ゴースト]]』、発行:角川書店 / 発売:角川グループパブリッシング<ref>第4巻のみ、発行:角川書店 / 発売:[[角川グループホールディングス]]。第5巻より、KADOKAWA。</ref> 〈角川コミックス・エース〉 2012年 - 2016年、全12巻
* 『[[機動戦士クロスボーン・ガンダム#機動戦士クロスボーン・ガンダム DUST|機動戦士クロスボーン・ガンダム DUST]]』、KADOKAWA 〈角川コミックス・エース〉 2016年 - 2021年、全13巻
* 『[[FU (漫画)|FU]](フウ)』、KADOKAWA 〈BRIDGE COMICS〉 2020年8月7日初版発行、全1巻 {{ISBN2|978-4-04-064847-7}}
* 『マン・バイト 蒼空猟域』、発行:[[ブシロードメディア]] / 発売:KADOKAWA 〈ブシロードコミックス〉 2022年<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/467021|title=長谷川裕一「マン・バイト 蒼空猟域」1巻、池袋でサイン会も開催|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-02-24|accessdate=2022-02-24}}</ref> - 、既刊4巻(2023年7月現在)
* 『[[機動戦士クロスボーン・ガンダム#機動戦士クロスボーン・ガンダム X-11|機動戦士クロスボーン・ガンダム X-11]]』、KADOKAWA 〈角川コミックス・エース〉 2022年、全2巻
==== 設定集 ====
* 『[[機動戦士クロスボーン・ガンダム|機動戦士クロスボーン・ガンダム メカニック設定集]]』、KADOKAWA 〈角川コミックス・エース〉 2021年、単巻 - 原作:矢立肇・富野由悠季、デザイン協力:[[カトキハジメ]]、デザイン協力:[[宮崎真一]]、ガンダムエース編集部・編
==== 「すごい科学で守ります!」シリーズ ====
いずれも日本放送出版協会刊。詳細は『[[すごい科学で守ります!]]』の項を参照。
* 『すごい科学で守ります!』1998年3月1日第1刷発行 {{ISBN2|4-14-080364-9}}
* 『もっとすごい科学で守ります!』2000年8月5日第1刷発行 {{ISBN2|4-14-080503-X}} - 星雲賞受賞作。
* 『さらにすごい科学で守ります!』2005年11月30日第1刷発行 {{ISBN2|4-14-080801-2}}
==== 共著 ====
単行本未収録の漫画作品が掲載された版権付き[[アンソロジーコミック]]のみ記載。
* 『スーパーロボットコミック [[聖戦士ダンバイン]]編』、双葉社 〈ACTION COMICS〉 2000年11月12日第1刷発行、全1巻 {{ISBN2|4-575-93712-6}}
* 『[[SDガンダム GGENERATION#SDガンダム GGENERATION-F|SDガンダム GジェネレーションF 4コマKINGS]]』、スタジオDNA 〈DNAメディアコミックス〉 2000年11月15日第1刷発行、全1巻 {{ISBN2|4-921066-58-2}}
* 『[[スーパーロボット大戦D|スーパーロボット大戦D コミックギルド]]』、角川書店 〈角川コミックス〉 2003年12月25日第1刷発行、全1巻 {{ISBN2|4-04-853712-1}}
* 『[[マップス#翼を追う者たち|マップス・シェアードワールド 翼を追う者たち]]』、発行:フレックスコミックス・発売:ソフトバンククリエイティブ 〈フレックスコミックス〉 2009年、全1巻
==== 小説挿絵 ====
* [[荒巻義雄]]『[[猿飛佐助 (荒巻義雄)|猿飛佐助]]』シリーズ、角川書店 〈カドカワノベルズ → カドカワファンタジー〉 1989年 - 1992年、全9巻
** 誕生編 〈カドカワノベルズ〉 1989年10月25日第1刷発行、全1巻 {{ISBN2|4-04-776404-3}}
** 疾風編 〈カドカワノベルズ〉 1990年、全3巻
**# 1990年1月25日第1刷発行、{{ISBN2|978-4-04-776405-7}}
**# 1990年5月25日第1刷発行、{{ISBN2|978-4-04-776406-4}}
**# 1990年7月25日第1刷発行、{{ISBN2|978-4-04-776407-1}}
** 遊行編 〈カドカワノベルズ〉 1990年 - 1991年、全3巻
**# 1990年10月25日第1刷発行、{{ISBN2|978-4-04-776408-8}}
**# 1991年1月25日第1刷発行、{{ISBN2|978-4-04-776409-5}}
**# 1991年4月25日第1刷発行、{{ISBN2|978-4-04-776410-1}}
** 決戦編 〈カドカワファンタジー〉 1991年 - 1992年、全2巻
**# 1991年10月25日第1刷発行、{{ISBN2|4-04-776411-6}}
**# 1992年2月25日第1刷発行、{{ISBN2|4-04-776412-4}}
* 斉藤英一郎『[[一億光年の魔界]]』、[[集英社]] 〈[[スーパーファンタジー文庫]]〉 1991年 - 1993年、全2巻
*# 地底編 1991年12月第1刷発行、{{ISBN2|4-08-613037-8}}
*# UFO編 1992年6月第1刷発行、{{ISBN2|978-4-08-613066-0}}
* [[南田操]]『[[超銀河的美少女幽霊]](ミルキー・ゴースト)』<ref>著者が『轟世剣ダイ・ソード』文庫版第3巻に寄稿した解説によると、『スタージャッジ』に触発されて制作した自主アニメがルーツであるという作品。</ref>、[[富士見書房]] 〈[[富士見ファンタジア文庫]]〉 1993年9月25日第1刷発行、全1巻 {{ISBN2|4-8291-2515-2}}
* [[アンソロジー]]『[[マップス#マップス・シェアードワールド|マップス・シェアードワールド]]』、発行:フレックスコミックス/発売:ソフトバンククリエイティブ 〈[[GA文庫]]〉 2008年 - 2009年、既刊2巻<!-- 企画終了宣言が出されていないので -->
=== その他 ===
==== アニメ関係 ====
* [[EXPER ZENON]](エクスパーゼノン) - [[日本ビクター]]から[[1991年]][[9月27日]]に発売された[[OVA]]。[[もりやまゆうじ]]と共同で原作を担当。またこれに先駆けて漫画版(原作・ネーム:長谷川裕一、漫画:もりやまゆうじ)が『[[アニメV]]』に連載されたが、単行本化はされていない。
* 風は翼に乗る 翼は風に乗る - 『[[マップス (OVA)#1994年(KSS)版|マップス KSS版OVA]]』([[1994年]])の主題歌。'''長谷川裕二'''名義で作詞を担当。
* 『[[飛べ!イサミ#ドラマCD|ドラマCD 飛べ!イサミ FOREVER 最後の夏休み]]』 - [[1997年]][[7月1日]]発売。「まんが天狗」役で声優として出演している。
==== ゲームソフト関係 ====
* [[グランディアII]] - [[ゲームアーツ]]の[[ドリームキャスト|DC]]・[[PlayStation 2|PS2]]用RPG。[[重馬敬]]と共同でシナリオ原案を担当した[http://www.gekko.co.jp/product_dc.html]が、実際の作品ではかなり改変されたとのこと。
* [[ラクガキ王国|ガラクタ名作劇場 ラクガキ王国]] - [[タイトー]]の[[PlayStation 2|PS2]]用RPG。プレイヤーが描いたラクガキで対戦するゲームで、開発スタッフの知人であった長谷川裕一がこの作品の最初のテストプレイヤーであった。また、本作およびシリーズ作品『天才ビットくん グラモンバトル』の本編中で対戦するラクガキも作成している。
** <small>[http://www.garakuta-studio.com/rakugaki1/3d/ 公式サイト内のデモ] 関連記事(Impress Watch)[https://game.watch.impress.co.jp/docs/20010816/taito.htm][https://game.watch.impress.co.jp/docs/20020505/taito.htm](ファミ通.com)[http://www.famitsu.com/sp_game/gameshow/2001autumn/2001/10/13/224,1002938243,1822,0,0.html][http://www.famitsu.com/sp_game/gameshow/2001autumn/2001/10/14/224,1003026606,1850,0,0.html](電撃オンライン)[http://www.dengekionline.com/data/news/2001/10/14/dbd0bd134e74c74882c74f2ee1a15bf5.html]</small>
* [[スーパーロボット大戦シリーズ]](『[[スーパーロボット大戦α外伝|α外伝]]』『[[第2次スーパーロボット大戦α|第2次α]]』他数作) - 1990年に発表された『[[機動戦士VS伝説巨神 逆襲のギガンティス]]』は「[[ガンダム (架空の兵器)|ガンダム]]対[[イデオン (架空の兵器)|イデオン]]」という一見するとイロモノ的な(担当編集者も企画を聞いた当初はギャグものだと思っていた)内容を大真面目に描いた、当時としては画期的な作品であり、後の[[スーパーロボット大戦シリーズ]]を予見するような作品である。事実、同シリーズのチーフプロデューサーである[[寺田貴信]]はこの作品を見て企画に確信を持ったという<ref>{{Cite book|和書|title=オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界|date=2005-03-03|publisher=太田出版|page=23|isbn=4-87233-869-3}}</ref>。長谷川裕一自身も同シリーズのファンであり、関連の[[アンソロジーコミック]]でも幾つかの作品を発表している。バンプレストの依頼で執筆した、『[[スーパーロボット大戦α]]』の前日談として設定だけが存在した恐竜帝国([[ゲッターロボ]]の敵役)との戦いを描いた『[[スーパーロボット大戦α#コミック|スーパーロボット大戦α THE STORY 竜が滅ぶ日]]』のストーリーは、その後制作された『[[スーパーロボット大戦α外伝]]』に公式設定として取り入れられている([[ドリームキャスト|DC]]版の『[[スーパーロボット大戦α|α]]』にはこれに関連した[[PlayStation (ゲーム機)|PS]]版からの変更が若干存在する<ref>{{Cite book|和書|title=オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界|date=2005-03-03|publisher=太田出版|page=137|isbn=4-87233-869-3}}</ref>)。
** ちなみに、自作品の[[クロスオーバー作品|クロスオーバー]]のみで[[スーパーロボット大戦シリーズ|スーパーロボット大戦]]風のストーリーを構築するという手法を用いた『[[長谷川裕一ひとりスーパーロボット大戦 大外伝]]』を同人誌で発表している。
==== イラスト・コラム等 ====
; イラスト
:* [[ヤッターマン|ヤッターマン DVD-BOX]] - ジャケットイラストを1枚担当(BOX1のVol.4)。
:* [[ガンダムウォー]] - イラスト描き下ろし。
:* 『[[メガミマガジン#コミックキラリティー|コミックキラリティー]]』創刊号 - イラスト描き下ろし。
:など多数。この他、時期・タイトル共に不明だが、学習研究社の『[[科学と学習|学習]]』に掲載されていた[[水沢蝶児]]の小説の挿絵を担当したこともある。
:
; コラム等
:* 「[[マップス (OVA)#1994年(KSS)版|マップス アニメ制作日誌]]」 - 『月刊コミックNORA』1994年4月号から8月号にかけて連載された1ページ連載漫画。
:* 『[[SFオンライン]]』40号 - 「[[未来戦隊タイムレンジャー]]」のレビュー<ref>{{Cite web|和書
|url= http://www.so-net.ne.jp/SF-Online/no40_20000626/special1_6.html
|title= SFオンライン40号(2000年6月26日発行) トピックス
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|archivedate= 2001年2月19日
|accessdate= 2011年5月14日
}}</ref>。
:* 「総統のブランチ」 - 特撮専門誌『[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]』([[朝日ソノラマ]])に連載されたイラストコラム。
:* 「長谷川裕一のSEEDを一刀両断」 - 『[[機動戦士ガンダムSEED]]オフィシャルファイル メカ編』([[講談社]])シリーズに連載されたイラストコラム。続編に「長谷川裕一の[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY|SEED DESTINY]]を一刀両断」がある。
:* 『こんなにヘンだぞ!『空想科学読本』』 - [[山本弘 (作家)|山本弘]]による『[[空想科学読本]]』の批判書。本文イラスト監修で参加。山本の著書には長谷川裕一作品がよく取り挙げられている。
:* 『[[HAND MAID メイ]] プロジェクト・ファイル』 - 描き下ろしコラム。
など。
==== 同人関連 ====
* 同人活動自体は松田一輝の元に行く前(この頃ともなると漫画同人の黎明期である)から行っている。自主制作アニメ『スタージャッジ』もその1つである。
* [[1980年代]]末頃には「'''スタジオSAGA'''」という[[同人サークル|サークル]]に参加していた。『[[鋼鉄の狩人]]』は同サークルによるシェアード・ワールドを元にした作品である<ref>{{Cite web|和書
|url= http://www.amonon.net/iidaya/jana1.htm
|title= キミはスタジオSAGAを知っているか?
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|archivedate= 2001年8月7日
|accessdate= 2011年5月14日
}}</ref><ref>{{Cite web|和書
|url= http://www.amonon.net/iidaya/saga.htm
|title= サガ
|archiveurl= http://replay.web.archive.org/20020802133054/http://www.amonon.net/iidaya/saga.htm
|archivedate= 2002年8月2日
|accessdate= 2011年5月14日
}}</ref>。
* [[2000年]]以降、不定期ではあるが「'''スタジオ秘密基地'''」という[[同人サークル|サークル名]]で[[コミックマーケット]]に参加している。主な作品に『[[長谷川裕一ひとりスーパーロボット大戦 大外伝]]』『[[童羅|ドウラ 魔界編]]』など。
==== その他デザイン ====
* [[マジンガーエンジェル]] - [[新名昭彦]]の[[漫画]]作品。作中に登場しているアフロダイAの漫画版オリジナルO.P.M「オッパイロケットパンチ」のアイデアを読者に混じって応募して採用されている。
* [[SDガンダムフォース絵巻 武者烈伝 武化舞可編|武者烈伝・零]] - [[ホビージャパン]]誌上で、[[クロスボーン・ガンダム|クロスボーン・ガンダムX-1]]をモチーフとする武者尖駆琥狼主のデザインが募集された際も投稿。誌面に掲載されるがその後決着はつかぬまま企画の音沙汰が無くなる。琥狼主は後年、武者烈伝・零のムックが刊行された際に先にデザインが発表されていた武者鋭駆主(クロスボーン・ガンダムX-2モチーフ)のバリエーション的姿として登場する。
* [[四街道市]]ご当地[[ヒーロー]]「[[ヨツカイダー]]」 - 長谷川裕一が四街道市在住という縁でデザインしたヒーロー。プロレス団体「[[KAIENTAI-DOJO]]」[[2009年]][[9月20日]]の興行にてデビューした。
== テレビ・ラジオ・イベント等への出演 ==
* 飛べ!イサミ スペシャル([[1996年]](平成8年)[[1月2日]]放送) - 『[[飛べ!イサミ]]』本放送時に放送された正月特番。この中で作画中の風景が取材されている。
* [[日本SF大会]] - 1997年(平成9年)以降『[[すごい科学で守ります!]]』トークショーを毎年講演。
* [[TVチャンピオン]] 悪役怪獣・怪人王選手権(2000年(平成12年)2月10日放送) - 優勝。
* [[ジャングルTV 〜タモリの法則〜]]([[2001年]](平成13年)[[5月1日]]放送)
* [[開運!なんでも鑑定団]](2001年(平成13年)[[7月10日]]放送) - 「シロウト目利き選手権」にて怪獣ソフビの評価額当てに挑む。
* [[Anime Expo|アニメエキスポ]]東京([[2004年]](平成16年)[[1月18日]]パネル講演)
* [[仁美と有佳のどらごんデンタルクリニック]]([[2005年]](平成17年)[[4月6日]]放送)
など。
== 関連書籍 ==
* 『オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界』、[[太田出版]] 2005年(平成17年)3月3日第1刷発行、{{ISBN2|4-87233-869-3}} <small>[http://www.ohtabooks.com/publish/2005/02/05202632.html 太田出版による紹介文]</small> - [[稲葉振一郎]]による長谷川裕一の漫画をテーマにしたSF評論本。長谷川裕一へのインタビューと筆者による分析によって長谷川漫画の持つSF性について考察している。
== 補足事項 ==
* 名前の「裕一」を「ゆういち」と読ませるのは実は[[ペンネーム]]である。本名は同じく「裕一」と書いて「ひろかず」と読ませる<ref>『[[ぱふ]]』1994年12月号 [http://www8.big.or.jp/~masube/php/kiroku/?dir=wm_foundation&page=5 長谷川裕一インタビュー]</ref>。
* 自画像は『マップス』連載終盤頃から同作に登場するニュウ・エイブが使われている<ref>{{Cite book|和書
|author= 長谷川裕一
|title= 飛べ!イサミ
|edition= 第1刷
|date= 1995年12月15日
|publisher= 日本放送出版協会
|series= テレビコミックス
|isbn= 4-14-454005-7
|volume= 第5巻
|pages= 表紙折り返し
}}</ref>。『マップス』や『クロノアイズ』などに登場する侵略大帝も使用。
* 『[[轟世剣ダイ・ソード]]』のあとがきによれば、仕事中の雑談等で出たネタは「自分がやります」と宣言した者に優先権が生じる。
* [[宇宙作家クラブ]]の会員である。
* [[21世紀のコミック作家の著作権を考える会]]に参加している。
* 「悪役怪獣・怪人王選手権」に出場した際、アシスタントに自らを'''総統'''と呼ばせていた。
* 『[[ベルセルク (漫画)|ベルセルク]]』の作者[[三浦建太郎]]は長谷川裕一作品のファンとしても知られており、アイデアの素晴らしさに中学時代から影響を受けていると[[同人誌]]のインタビューに答えたこともある。また『マップス ネクストシート』第9巻の帯コメントも担当している。
* 『[[機動新世紀ガンダムX]]』に[[カトキハジメ]]とともに「設定協力」としてクレジットされているが、{{要出典|範囲= これは同作のタイトルが当時連載中だった『[[機動戦士クロスボーン・ガンダム]]』(機動戦士Xガンダム)とイメージ的にかぶるため、制作側が配慮したものである。したがって実際には同作には参加していない。|date= 2019年10月}}
== 脚注・出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連人物 ==
* [[松田一輝 (漫画家)|松田一輝]] - 師匠、[[漫画家]]
* [[長谷川勝己]] - 実弟・元[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]、アニメ[[脚本家]]・[[ライトノベル]]作家・[[スーツアクター]]
* [[宮崎真一]] - 元[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]、[[メカニックデザイン|メカニックデザイナー]]
* [[栗原一実]] - アシスタント経験あり、漫画家・[[イラストレーター]]
* [[榊蒼十郎]] - アシスタント経験あり、漫画家
== 関連項目 ==
* [[SF漫画]]
* [[ファンタジー漫画]]
* [[SF考証]]
* [[特撮]]
* [[クロスオーバー作品]]
== 外部リンク ==
* [http://studio-himitsukichi.com/ 長谷川裕一公式サイト スタジオ秘密基地]
* [http://blog.studio-himitsukichi.com/ 長谷川裕一公式ブログ スタジオ秘密基地](2013年2月4日 - )
* {{マンガ図書館Z作家|120|長谷川 裕一}} - <span style="color:red">'''※ 一部、成人向け作品含を含みます。'''</span>
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[[Category:日本の漫画家]]
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2,748 | Microsoft Windows 3.x | Microsoft Windows 3.x(マイクロソフト ウィンドウズ 3.x)は、バージョン表記が3で始まるWindowsをまとめて呼ぶための呼称。Windows 2.xの後継である。2001年12月31日(米国日時) にサポートは終了している。
基本的には1990年に発売された「Windows 3.0」と、1991年に発売された改良版「Windows 3.1」であるが、その他、一部機種ではマルチメディアに対応した「Windows 3.0 with Multimedia Extensions (Windows MME)」も提供され、幾度かのマイナーバージョンアップが行われた。英語版ではネットワークをサポートする「Windows for Workgroup(Windows 3.1ベース)」も発売された。
(なお追加モジュールとしては、32ビットアプリケーションを動作させるための「Win32s」、画像表示を高速化するための「WinG」、AVI形式の動画を再生するための「Video for Windows」、LANに接続するための「LAN Manager」、インターネットやメールをするための「Internet Explorer(16ビット版)」がある。)
Windows 3.0も3.1も「MS-DOSを拡張する16ビットオペレーティング環境(Operating Environment:)」とであり。いずれもMS-DOS互換環境(PC-DOS/VやDR-DOS)やOS/2のWindows互換環境から起動させるものであり、事前にMS-DOS互換環境システムをコンピュータ上で動作させておく必要がある。Windows 3.xを動かそうとするならMS-DOS互換環境が必要なのだが、Windows 3.1以前はMS-DOSの拡張製品としてそれぞれが別々に販売されたため、MS-DOSを持っていない人の場合はそれも別途購入する必要があった。
Windows 2.x (Windows 2.11, Windows/386 2.11) の後継となるWindows 3.0は、ユーザーインターフェイスの大幅な改良とIntel 80286や80386プロセッサのメモリ管理機能を有効活用する技術的な改善が行われた。
グラフィカルユーザインタフェース (GUI) 機能を持ち複数のタスクを同時実行できるマルチタスクが可能なことが利点であった。しかし、1つのWindowsプログラムがCPUを占有してしまいほかのプログラムが止まってしまうこともあった(ノンプリエンプティブ)。Windows/386ではMS-DOS用のテキストモードプログラムは全画面を占有し、ショートカットキーで画面を切り替える仕様となっていたが、Windows 3.0ではウィンドウ内で動作させることができ、旧来のプログラムも擬似マルチタスクとして利用できるようになった。しかし、家庭向け市場では多くのゲームやエンターテイメントソフトがMS-DOSへの直接アクセスを必要としていたため、あまり恩恵を受けられなかった。
Windows 2.xはメニューやウィンドウ枠での非常に限られた色しか使うことができなかったが、Windows 3.xのアイコンやグラフィックはEGAやVGAモードで16色を完全にサポート。256色VGAモードやMCGAモードが初めてサポートされた。また、ディスプレイ出力に使用するカラーパレットはディスプレイドライバが管理し、アプリケーション毎には論理的なカラーパレットが用意されたことで、アプリケーション側はカラーパレットの状態や制限を気にする必要がなくなった。
MS-DOSウィンドウ(ファイルマネージャ・プログラムランチャー機能)は、アイコンベースの「プログラムマネージャ」と一覧ベースの「ファイルマネージャ」に置き換えられた。前バージョンではアプレットとなっていた「コントロールパネル」はAppleのClassic Mac OSと類似のものに作り替えられた。
いくつか簡単なアプリケーションも同梱された。テキストエディタのメモ帳、文書作成ソフトのライト(後のワードパッド)、一連のキー操作やマウス操作をマクロとして記録して後で実行できる「レコーダー」、ペイント、電卓など。ゲームはWindows 3.0ではリバーシに加えてソリティアが搭載された、Windows 3.1ではソリティア・マインスイーパが付属。
Windows 3.0に搭載されたプロテクトモードやエンハンスドモードはDOSアプリケーションで行われていた方法より簡単に、より多くのメモリをWindowsアプリケーションで使えるようになった。Windows 3.0ではリアルモード(8086相当CPUの機能を利用)、スタンダードモード(80286相当CPUの機能を利用)、386エンハンスドモード(i386相当CPUの機能を利用)があり、通常は自動で適切なモードを選択するが、/r(リアルモード)、/s(「スタンダード」286プロテクトモード)、/3(386エンハンスドプロテクトモード)といったスイッチを使って特定のモードで起動することもできた。386エンハンスドモードではやや動作が重くなり、実用的には486以上のマシンパワーを必要とした。
WindowsはWindows 3.0のスタンダードモードおよびエンハンスドモードからプロテクトモードが本格的にサポートされた。
厳密には、WindowsはWindows/386からプロテクトモードを利用しているが、このバージョンでは内部的に80386で導入された機能をプロテクトモードで使用し、アプリケーションには仮想86モードを提供するというものであり、EMS対応MS-DOSアプリケーションと同様に実行プログラムを数百KBという限られたスペースに収まるよう作る必要があった。またEMSはバンク切り替えがあるため、その切り替え作業にかかる時間だけ低速になる。特に大規模なアプリケーションはほぼ常時バンク切り替えを繰り返すために低速だった。これがWindows 3.xのスタンダードモードとエンハンスドモードは、Windowsの大半のモジュールがプロテクトモードで動作する16ビットのコードで構成され、アプリケーション(WIN16アプリケーション)もプロテクトモードで動作する16ビットのコードで構成されるように変更された。さらにエンハンスドモードでは、80386で導入されたメモリ管理機能をプロテクトモードで動作するシステムのコードに実装し、IA-32のページングを利用した仮想記憶もサポートし、実メモリ以上のメモリをアプリケーションが確保できるようになった。また Windows 用のデバイスドライバとして、80386で導入された機能をプロテクトモードで活用した VxD デバイスドライバもサポートされた。従来のWindowsは常にメモリが不足気味だったが、3.0からのプロテクトモードをサポートした結果、Windows自身とそのアプリケーションは、(コンベンショナルメモリ)+(EMS)よりも高速で大量のメモリを使用可能なプロテクトメモリを利用可能になった。そのため、MS-DOSではメモリ不足から実現不可能だった大型アプリケーションも、Windows用に開発されるようになった。
GUIはマイクロソフトがIBMと共同開発していたOS/2 1.2のプレゼンテーション・マネージャと類似の外観をしている。ウィンドウのメニューバーとパネル本体という構成やダイアログボックスなど、IBMが提唱したSystems Application ArchitectureのCommon User Access (CUA) におおむね準拠している。しかし、シフトキーとマウスを組み合わせた操作はCUAでの規定に反しており完全準拠ではない。このデザインはアップルより同社が開発したClassic Mac OSのルック・アンド・フィールを盗用したとしてWindows 2.xとともに著作権侵害が指摘されたが、裁判ではアップルの訴えは退けられ、後に両者は和解した(詳細はWindows 2.0#アップルとの法的抗争を参照)。
アップルは1991年6月にQuickTimeを発表、12月には出荷しており、パソコン市場拡大のかげりから新しい分野としてマルチメディアが担がれていた時期であった。
Windows 3.0は当初動画や音声を扱うことができなかった。それらのマルチメディア機能は1991年10月に「Windows 3.0 with Multimedia Extensions」というWindows 3.0の拡張版およびアップグレードキットとしてリリースされた。その後、Windows 3.1では標準でマルチメディア機能が搭載された。
同時に、マイクロソフトや複数のパソコンメーカーによりマルチメディア対応パソコンを認定するため Multimedia PC(英語版) (MPC) 規格が策定されたが、最初のバージョンにおける最小構成のパソコンでは多くのアプリケーションで力不足であった。日本でも、当時標準でマルチメディア機能を使えるWindowsの存在したPCはFM TOWNS程度だった。
それでもWindows 3.1でマルチメディア機能が標準搭載された利点はあり、FM音源程度しか持たないMPC以前の機種であっても、簡単なMIDIファイル程度のマルチメディアであればOS標準で利用できるようになった。
1992年11月には動画再生をサポートするVideo for Windowsも発表された。当初サポートしていた解像度やフレームレートは320x240ピクセル/30fpsと低かったものの、AVIが再生できるようになり、マルチメディアCD-ROMソフトがWindows 3.1向けに発売されるようになった。マイクロソフトからはVideo for Windowsの発表と同時にエンカルタとCinemania(英語版)の2本のCD-ROMソフトが発表された。1995年に入るとGPUの性能競争が一時的に停滞し、代わりに動画の拡大表示を綺麗に行う補間機能といった動画再生支援機能が注目されるようになった。
MPC規格のバージョンアップはPC/AT互換機ではWindowsの環境改善よりもDOSの環境改善としての効果が大きく、結果としてゲームプレイには最低の環境だったPC/AT互換機を一気にPCゲーム標準機まで押し上げることになった。ただしこのことがゲーム環境のWindowsへの移行を遅らせる原因になり、マイクロソフトがWinGやDirectXを開発する強い動機となった。
Windows 3.0、3.1では、標準でネットワーク (LAN) 機能自体が搭載されておらず、LAN Manager ClientなどDOSベースのネットワーク機能に頼っていた。LAN Manager ClientはWindows NT ServerのCD-ROMなどに収録され、TCP/IPやNetBEUI、NetWare互換プロトコルなどのプロトコルが使えた。また、Windows for Workgroups (WfW) 3.1はWindows 3.1にWindowsベースでのネットワーク機能を付加するアドオンとして発表、販売された。ただし、この段階ではネットワークプロトコルとしてNetBEUIかNetWare互換プロトコルしか選択できなかった。その後、WfW 3.11が完全なWindows製品として発売され、このWfW3.11向けにTCP/IPプロトコル用ドライバも提供された。
WfWの日本語版は発売されなかったため、日本のユーザーが手軽にネットワークを組むにはWindows 3.1との互換性に乏しく高性能パソコンを要求するWindows NTを購入するか、Windows 95の登場を待つしかなかった。
日本では1994年時点で個人ユーザーにインターネット接続サービスを提供するISPがIIJと富士通(InfoWeb、1999年にニフティへ統合)の2社しか存在せず、まだ黎明期にあった。1995年に入るとISPは10社以上になり、インターネットを取り扱った参考書も急増した。しかしWindows 3.1標準ではネットワーク機能は搭載されていないため、市販のInternet CHAMELEON(ネットマネージジャパン、19800円)といったダイヤルアップ接続ツール(ダイヤラー、メーラー、FTPクライアントなどをまとめたパッケージ)を購入するか、パソコン通信を通じてTrumpet Winsockといったツールを揃えていく必要があった。ウェブブラウザにはNCSA Mosaicやその後に登場してすぐに標準となったNetscape Navigatorが使われた。
Windows 95と同時発売のMicrosoft Plus!に同梱されたウェブブラウザ「Internet Explorer」は1996年4月にWindows 3.1対応の16ビット版が公開され、これにはメーラーのOutlook Express(16ビット版)やダイヤラーなどが添付されていた。インターネットの閲覧やメールの送受信はInternet Explorer添付のダイヤラーを使ったダイヤルアップの他、LAN Manager Clientをインストールしてある場合やWfWではLAN経由でも可能である。ただし、Internet Explorer標準添付のダイヤラーはPC/AT互換機用のため、PC-9800シリーズでダイヤルアップ接続する場合は市販ソフトなどを別途用意する必要があった。
各プログラムの設定は、それぞれのプログラムが持つiniという拡張子が付けられたファイル、もしくはwin.iniやsystem.iniなどのWindowsのシステムファイルで行っていた。Windowsそのものの設定もwin.iniとsystem.iniで行っていた。これらはテキストファイルであり、標準で付属するシステムエディタ (sysedit) などのテキストエディタで編集を行うことができた。また、設定変更ミスや諸々のトラブルからWindowsが起動しなくなっても、MS-DOS環境からテキストエディタを使ってwin.iniやsystem.iniの中身を修正して復旧することができた。これらの設定内容はマイクロソフトが監修した解説書『Windows 3.1 リソースキット』で公開された。Windows 3.1の登録情報データベース(後のレジストリ)は、ファイルマネージャで開くファイルのフォーマットとアプリケーションとの関連付けやOLE情報に使用されるのみであった。
Windows 3.0やWindows 3.1では32ビット386プロテクトモードではなく16ビット286プロテクトモードで動作していたため、標準構成では64KBセグメント・メモリモデルを使用するようになっていた。しかし、32ビットCPUではプログラマーはより大きなメモリポインタにアクセスして、プログラム・セグメントをどんな大きさにも拡張することができた(セグメント・ディスクリプタが24ビットであるため最大サイズは16MBに制限されている)。当時のWindows APIファンクションは16ビットであったため、それらは32ビットポインタを使用できず、コードに32ビット命令を含んでいてもDOSと同様に64KBセグメントでOS呼び出しを行うプログラムコードの一部を配置する必要があった。このため、理論上は4GBのメモリ空間を使用できる386以上のCPUであっても、Windows 3.0は合計16MBのメモリにしかアクセスできない。
Windows 3.1では16MBの制限はなくなり、理論的には最大4GBのメモリを使用できる(現実的な上限は256MB)。ただし、先述のとおり1つのプログラムが使用できるメモリは最大16MBである。
Windows NTの登場による32ビットOSへの移行を促す意味もあり、Win32sというドライバ/APIがマイクロソフトから供給された。これはWindows 3.1の386エンハンスドモード上で動作する32bitプログラムのためのドライバ/APIであり(WinNTのAPIであるWin32のサブセットなのでWin32s)、これによりアプリケーションをWindows 95やWindows NTと共通の32ビットコードでWindows 3.1に供給することが可能になり、初期の32ビットアプリケーションの開発を多少容易にした。
また、ファイルシステムにおいてはBIOSを介した16ビットディスクアクセスが基本的に用いられていたものの、Windows 3.1の386エンハンスドモードでは常設スワップファイルに対してのみ32ビットでのアクセスが可能となった。さらに、Windows for Workgroups 3.11では完全な32ビットディスクアクセスが実現され、ディスクアクセスを高速化させることを可能にした。
Windows 3.0(英語版)の公式なシステム要件は次のようになっている。
Windows 3.1ではリアルモードが廃止されたため、8086/8088プロセッサ搭載機種は動作対象外になった。
Windows 3.1には、Windows 3.0からアップグレードすることができる。また、インストール先ディレクトリを変更すれば旧バージョンと共存することもできる。Windows 2.11以前の場合は新規セットアップを行うことになる。
Windows 3.1からは、Windows 95かWindows 98(Second Editionも含む)にのみアップグレードできる。その後継であるWindows MeやWindows 2000にできない。また、Windows 95かWindows 98のどちらにアップグレードしても、後にそのバージョンをアンインストールしてWindows 3.1に戻せる。
Windows 3.0は25人で構成された開発グループ「Win3チーム」によって2年半の期間で開発された。画面デザインはWindows 2.1のユーザーの意見を取り入れ、旧バージョンの赤と青の組み合わせからビジネス環境に適した落ち着きのある色彩に変更された。
1990年5月22日、Windows 3.0はニューヨーク・シティ・センター(英語版)で正式に発表された。この模様は米国7都市の会場とロンドンやアムステルダムといった世界各地の12都市の会場にテレビの生中継で報道された。これには300万ドルという多額の宣伝費が投入され、さらに広告や25万枚の体験版ディスク配布、デモンストレーション、セミナーに700万ドルの予算が組まれていた。
日本では1991年1月23日(日本時間)に日本電気よりPC-9800シリーズ用が発売され、それに追随して約20社のパソコンメーカーからも発売された。PC/AT互換機で動作するDOS/V対応版は日本IBMより1991年3月13日に発売された。
Windows 3.1(コードネーム: Janus)は1992年4月6日にシカゴで開催されたWindows Worldで正式に発表された。マイクロソフトはWindows 3.1の出荷にあたって125万本を用意。世界中の9カ所のマイクロソフト製造工場が一日三交替でディスクを生産し、最初の1ヶ月で800万枚以上のディスクが生産され、英語版と同時に6言語がリリースされた。 後にアップデートがリリースされ、雑誌の付録CDやニフティサーブ等のパソコン通信で修正ファイルが配布された、またMS社からのFD送付サービスも存在した。
マイクロソフト日本法人は1991年10月にWindows 3.1日本語版の開発に着手した。Windows 3.0日本語版はセットアップの方法やメニューが難しいという声が上がっていた。また、Windows 3.0日本語版はOEM先によって別々の日本語入力システム、プリンタードライバ、フォントが供給されていたため、同じWindowsアプリケーションでも機種間の完全な互換性を保証できないという問題が生じた。そこでWindows 3.1日本語版では標準で日本語入力システム「MS-IME」を供給。また、Windows標準の日本語フォントをリコーと共同開発し、プリンタードライバについては各メーカーの開発をサポートして公開前に互換性を確認していた。Windows 3.1日本語版のベータ版は3回で累計6000本出荷され、ユーザーのフィードバックを基に1600の改善が施された。発売は当初の予定であった1992年5月から1992年秋、1993年5月となり、大幅に遅れることになった。開発には5億円が費やされた。
日本語版開発の遅れに対して、世間では「PC-9800シリーズへの移植作業に手間取っているため。」「Windows 3.0日本語版の開発者が引き抜かれたため。」といった憶測が飛び交った。コンパックは1992年10月に低価格486機のProLinea 4/25sをDOS/Vパソコンとして発売したが、後のインタビューでは「Windows 3.1と登場するはずだった。」とコメントした。
1993年5月12日に日本電気からPC-9800シリーズ用、5月18日にマイクロソフトからPC-9800シリーズ用とMS-DOS 5.0/V用が発売された。その直後の5月19日より東京国際見本市会場で開催されたビジネスシヨウや、6月16日より幕張メッセで開催されたWindows World Expo Tokyoでは、パソコンメーカー各社がこぞってWindows 3.1プリインストールパソコンを展示した。
Windows 3.0からの主な変更点は、動作の高速化やセットアップの簡便化に加え、以下の点が挙げられる。
日本向けにローカライズされなかったが、以下のものが存在した。
発売前から長らく期待を集めていたWindows 3.0は、北米を中心に急速に普及した。1年経たずして100万本の出荷を記録し、マイクロソフトの売上高は1990年度(1989年7月-1990年6月)の11.8億ドルから1991年度(1990年7月-1991年6月)は55.8%増の18.4億ドルとなった。ソフトウェア市場におけるWindowsアプリケーションの売上はDOSアプリケーション市場の40 %に相当するとされた。1990年末には数々の主要なコンピュータ雑誌から賞賛を浴びた。
Windows 3.0のユーザーインターフェイスやファイルマネージャはMacintoshに及ばないが使いやすくなったと評価された。メモリ管理やDOSとの互換性の改善も複数の雑誌で良い評価を得た。一方で、多数のユーザーが所有するIntel 80286機では満足する動作は見込めず、比較的新しいIntel 80386(i386)以上のシステムが必要だという点が最大の問題として指摘された。これに対しマイクロソフト側は「プラットフォームにかかわらずユーザーはWindows 3.0の恩恵を得られる。386ベースのシステムで最も性能を発揮するが、最小システムではタスクスイッチャーとして働く。また、ユーザーはDOSのグラフィカルインターフェイスを獲得する。」と回答した。
日本においてWindows 3.0は米国ほど広がりを見せなかったが、その要因として以下の問題が挙がった。
スティーブ・バルマー(当時、マイクロソフト上級副社長)も翌1992年の来日記者会見にて同様の見解を示した。
PC-9800シリーズ版の発売当初は受注に生産が追いつかない状況が続いた。これについて日本電気は、受注が予想を上回ったためメディアやマニュアルの生産が追いついていないことを説明した。これに対してソフトハウスの間では「機種の違いで画面に現れるフォント(書体)が異なったり、印刷が狂うなどの不具合(バグ)を見つけて出荷を止めているのでは。」という推測が流れた。
日本IBMのDOS/V版はMS-DOSアプリケーションの複数ウィンドウ表示に対応していたが、PC-9800シリーズ対応ソフトが約1万本であったことに比べ、1990年に発売されたばかりのDOS/Vに対応するアプリケーションは約200本と少なく、こちらも旧資産の継承という訴求材料だけでは不十分であった。
Windows 3.1に対する雑誌の反応は使い勝手や信頼性が向上したという好意的なものであった。米国のPC Magazine誌はレビュー記事に「UAE(修復不可能なアプリケーションエラー)の終わり、新しい印刷エンジン、賢くなったSMARTDriveなど。マイクロソフトはWindowsを安定した豊かな環境にするために磨きをかけた。」という序文を付け、日本の日経パソコン誌は「ドラマチックな変化はないものの、信頼性が低い、処理速度が遅いなど、Windows 3.0での不満点を改良した。」と評した。
マイクロソフト日本法人は自社のWindows対応ソフトの売り込みを強化し、Windowsの普及を推進した。例えば、表計算ソフトのExcel 4.0は1993年5月に98000円から58000円へと40%の値下げ。6月25日から他社の日本語文書作成ソフトを使用しているユーザーを対象に、58000円のWord 5.0を25000円で販売する「乗り換え・アップグレード・サービス」を開始した。これは1993年4月に発売された一太郎 Ver.5(4年ぶりとなる新バージョン)に対抗したものと思われた。同日にWordとExcelをセットにした、日本語版で最初のバージョンとなるMicrosoft Officeを発売。翌1994年2月のOffice 1.5発表までに8万本を出荷し、1994年後半になると月20万本ペースの出荷になる。オフィスソフト市場におけるマイクロソフトのシェアは急拡大することになった。
Windows 3.1のマルチメディア機能は個人市場の開拓を促し、ExcelやOfficeは企業にWindowsの導入を促した。
後年の評価としては、日本でのWindows 3.1はWindowsがパソコンユーザーに受け入れられた期間であったものの、パソコンが本当に一般に普及し始めたのはWindows 95からとされている。しかしWindows 3.1の広がりは、日本メーカーの国内向けパソコンを独自開発から世界標準のPC/AT互換機に転換させ、「鎖国状態」を解消したことで競争力が上がり、パソコンの低価格化が進んだことで普及を後押しすることになった。
マイクロソフトとIBMが共同開発していたOS/2との関係について、Windows 3.0発売当初は両者が明確な立場を示さなかったため、このことはマスコミや公衆の間で物議を醸した。Windowsはユーザーのニーズに対応したことで多数のユーザーを獲得しているが、ふたを開けるとそこには旧態依然のDOSが存在する。業界では、技術的にはOS/2の方が上回っており、長い目で見ればOS/2やUNIXの方が有利であるという意見で一致した。
1990年9月17日、マイクロソフトとIBMは共同声明を出して、マイクロソフトはDOSとWindows、IBMはOS/2の開発に専念することを明らかにした。日本IBMは1991年5月7日付けのOS/2 J2.0の発表資料で、Windowsを個人ユーザー向けのエントリーGUIシステム、OS/2を企業ユーザー向けの統合プラットフォームとして位置づけ、OS/2 2.0はDOS 5.0とWindows 3.0を統合したエンタープライズ向けシステムとして紹介していた。IBMはOS/2を情報システムを構成するものとして企業ユースに考えていたのに対し、マイクロソフトはスタンドアロンで使用する個人ユースを想定していたため、営業戦略の不一致が決別の一因となった。別の要因として、開発体制や社風の違いで生じた企業間の壁も指摘された。
マイクロソフトとIBMの対立は1992年にかけて深まっていった。1991年10月21日、IBMがOS/2 2.0を12月31日までに出荷すると発表すると、マイクロソフトのスティーブ・バルマーは「12月31日までに、IBMがOS/2 2.0を出荷できたら、フロッピー・ディスクを食べてみせる」と公言した。結局OS/2 2.0の出荷は1992年3月31日に延期されたが、この出来事はマイクロソフトとIBMの対立を印象づけるものになった。同時期に発売されたWindows 3.1はさらに勢いを付け、1993年にはWindowsの圧勝の様相となった。これについてOS/2の共同開発に参加したマイクロソフトの開発者は次のように語っている。
なお、マイクロソフト日本法人と日本IBMはDOS/Vの営業で協力関係にあり、1993年12月にもMS-DOS 6.2/VとPC DOS J6.1/Vを共同記者会見で発表するなど、良好な関係をアピールした。
折りしも発売時期がDOS/Vの登場とマニア間で起きたDOS/Vブームが重なったこともあり、日本でのIBM PC/AT互換機市場の形成に大いに貢献した。
1991年当時、日本でのパーソナルコンピュータ (PC) 市場は国内メーカーで市場をほぼ独占していた。さらに言えばNECのPC-9800シリーズで寡占状態にあった。PC/AT互換機は世界中で販売されるため開発コストは日本市場でしか販売できない国内専用製品と比べ物にならないほど安価だったが、日本語という障壁のため参入できない状態にあった。NECの製品展開は同社のオフィスコンピュータ(オフコン)などとの兼ね合いから同時期のPC/AT互換機よりも低い性能レベルに据え置かれ、価格も引き下げられなかった。しかし、安価かつ高性能なPC/AT互換機で日本語が扱え国産PCとも共通のアプリケーションが利用できるWindowsの事実上の完成により、国内におけるPC/AT互換機市場は1994年にかけて急拡大することになった。NECも同社のPC向けにWindowsを提供していたが、MS-DOS環境において存在していたアプリケーションの優位性が失われる結果となった。
DOS/V版Windows 3.0では、標準VGAでも640*480/16色表示が可能で当時の主力機NECのPC-9800シリーズの640*400/16色を上回っていたうえ、当時すでにほとんどのDOS/V機ではSVGAモードを備えていた(もしくはグラフィック回路が拡張ボードとして独立しており交換が容易だった)ことから、市販のドライバで800*600の高解像度をWindowsから利用することができた。一部の英語版ディスプレイドライバではさらに高解像度・多色(640*480/256色、800*600/256色、1024*768/16色など)のGUI表示を行うためのパッチファイルや英語版ドライバで日本語表示を行う DDD (Display Dispatch Driver) が販売されて上級ユーザを中心にPC-9800シリーズよりもハードウェア価格が安くて高性能なPC/AT互換機を求めるケースが増え、市場が立ち上がり始めた。
次のDOS/V版Windows 3.1では多くの英語版ディスプレイドライバを直接使用しても高解像度・多色のGUI表示ができるようになる。また発売にあわせてTVCMも放映され、本木雅弘が「Windows!」を連呼するというインパクトのあるもので、国内においてWindowsの名前を広く知らしめたことにより、PC-9800シリーズにこだわる必要がないというユーザーが増えていった。日本語版Windows 3.1からアウトラインフォント TrueType および、マイクロソフト版においてはかな漢字変換ソフト Microsoft IME が標準として採用され、各アーキテクチャ向けにて相違があった日本語の入出力環境の統一を図った。さらにPCパーツ店による組み立てPCや外国のPCメーカーによるこの組み合わせでの新規参入も相次ぎ、市場ニーズがPC/AT互換機へシフトするきっかけとなる。
とは言え、まだこの段階ではPC-9800シリーズも強力だった。オープンであるがゆえに規格の統一が今ひとつのOADG規格とその派生製品はこれらのオプション類の利用にPC-98シリーズより手間を要した。当然、日本のパソコン周辺機器メーカーはPC-9821シリーズのWindows 3.1用の周辺機器も発売し、量販効果ですぐに値下がりした。企業ユースやゲーム市場では、PC-98用ソフトの互換性を求めるユーザーもまだ相当数存在していた。更に、製造元であるNECやPC-98互換機メーカーであるセイコーエプソンによる価格引き下げなどの対抗策もあり、1995年まで50%のシェアを確保し続けた。この流れが本格化するのは、機器の相違をデバイス仮想化などの方法によってOS側で吸収したWindows 95以降である。
1995年8月に発売されたWindows 95はそれまでパソコンに興味を持たなかった人々の関心を集め、個人市場の開拓に成功した。企業でもWindows 95を要望する従業員の声を聞き入れて買い換えを支援する動きが見られた。日経パソコンが1996年2月に日本の企業110社に対して行った調査では、Windows 95の「導入予定あり」が64%、「未定」が42%、「導入予定なし」が4%となった。「Windows 95の導入をどのように進めていくか」の問いに対して、「新規に導入したパソコンを中心に徐々に移行する」が30%となったものの、「既存のパソコンを含めて積極的に切り替える」はわずか8%に留まり、既存環境の移行には慎重な姿勢が見られた。「Windows 95の導入で、特に問題が多かった項目は」の問いに対しては、「MS-DOS対応やWindows 3.1対応ソフトの動作」(39%)、「既存のネットワークやデータベースとの接続」(35%)、「インストール関連」(32%)となった。
マイクロソフトはOffice 95やVisual Basic 4.0など、自社製品のWindows 3.1に対するサポートをまもなく打ち切った。しかし、1996年度にIDCが行ったデスクトップOS選択率の調査では、Windows 95が62.9%、Windows 3.1/3.11が17.4%となり、データクエストが米国の大企業を対象に行った調査では、マイクロソフト社製OS利用者のうち86%がWindows 3.1/3.11を使用していると報告した。あるソフトウェア・エンジニアは「マイクロソフトはまだ多くの3.1が使われていることを把握しているが、早くすべてを移行してそれを忘れることを望んでいる。」とコメントした。
1999年に日経パソコンが日本の企業を中心に行った調査では、Windows 95の使用率が79.7%にのぼり、Windows 3.1の使用率は6.2%となった。 | [
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"text": "Microsoft Windows 3.x(マイクロソフト ウィンドウズ 3.x)は、バージョン表記が3で始まるWindowsをまとめて呼ぶための呼称。Windows 2.xの後継である。2001年12月31日(米国日時) にサポートは終了している。",
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"text": "基本的には1990年に発売された「Windows 3.0」と、1991年に発売された改良版「Windows 3.1」であるが、その他、一部機種ではマルチメディアに対応した「Windows 3.0 with Multimedia Extensions (Windows MME)」も提供され、幾度かのマイナーバージョンアップが行われた。英語版ではネットワークをサポートする「Windows for Workgroup(Windows 3.1ベース)」も発売された。",
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"text": "(なお追加モジュールとしては、32ビットアプリケーションを動作させるための「Win32s」、画像表示を高速化するための「WinG」、AVI形式の動画を再生するための「Video for Windows」、LANに接続するための「LAN Manager」、インターネットやメールをするための「Internet Explorer(16ビット版)」がある。)",
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"text": "Windows 3.0も3.1も「MS-DOSを拡張する16ビットオペレーティング環境(Operating Environment:)」とであり。いずれもMS-DOS互換環境(PC-DOS/VやDR-DOS)やOS/2のWindows互換環境から起動させるものであり、事前にMS-DOS互換環境システムをコンピュータ上で動作させておく必要がある。Windows 3.xを動かそうとするならMS-DOS互換環境が必要なのだが、Windows 3.1以前はMS-DOSの拡張製品としてそれぞれが別々に販売されたため、MS-DOSを持っていない人の場合はそれも別途購入する必要があった。",
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"text": "Windows 2.x (Windows 2.11, Windows/386 2.11) の後継となるWindows 3.0は、ユーザーインターフェイスの大幅な改良とIntel 80286や80386プロセッサのメモリ管理機能を有効活用する技術的な改善が行われた。",
"title": "機能"
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"text": "グラフィカルユーザインタフェース (GUI) 機能を持ち複数のタスクを同時実行できるマルチタスクが可能なことが利点であった。しかし、1つのWindowsプログラムがCPUを占有してしまいほかのプログラムが止まってしまうこともあった(ノンプリエンプティブ)。Windows/386ではMS-DOS用のテキストモードプログラムは全画面を占有し、ショートカットキーで画面を切り替える仕様となっていたが、Windows 3.0ではウィンドウ内で動作させることができ、旧来のプログラムも擬似マルチタスクとして利用できるようになった。しかし、家庭向け市場では多くのゲームやエンターテイメントソフトがMS-DOSへの直接アクセスを必要としていたため、あまり恩恵を受けられなかった。",
"title": "機能"
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"text": "Windows 2.xはメニューやウィンドウ枠での非常に限られた色しか使うことができなかったが、Windows 3.xのアイコンやグラフィックはEGAやVGAモードで16色を完全にサポート。256色VGAモードやMCGAモードが初めてサポートされた。また、ディスプレイ出力に使用するカラーパレットはディスプレイドライバが管理し、アプリケーション毎には論理的なカラーパレットが用意されたことで、アプリケーション側はカラーパレットの状態や制限を気にする必要がなくなった。",
"title": "機能"
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"paragraph_id": 7,
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"text": "MS-DOSウィンドウ(ファイルマネージャ・プログラムランチャー機能)は、アイコンベースの「プログラムマネージャ」と一覧ベースの「ファイルマネージャ」に置き換えられた。前バージョンではアプレットとなっていた「コントロールパネル」はAppleのClassic Mac OSと類似のものに作り替えられた。",
"title": "機能"
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"text": "いくつか簡単なアプリケーションも同梱された。テキストエディタのメモ帳、文書作成ソフトのライト(後のワードパッド)、一連のキー操作やマウス操作をマクロとして記録して後で実行できる「レコーダー」、ペイント、電卓など。ゲームはWindows 3.0ではリバーシに加えてソリティアが搭載された、Windows 3.1ではソリティア・マインスイーパが付属。",
"title": "機能"
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{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "Windows 3.0に搭載されたプロテクトモードやエンハンスドモードはDOSアプリケーションで行われていた方法より簡単に、より多くのメモリをWindowsアプリケーションで使えるようになった。Windows 3.0ではリアルモード(8086相当CPUの機能を利用)、スタンダードモード(80286相当CPUの機能を利用)、386エンハンスドモード(i386相当CPUの機能を利用)があり、通常は自動で適切なモードを選択するが、/r(リアルモード)、/s(「スタンダード」286プロテクトモード)、/3(386エンハンスドプロテクトモード)といったスイッチを使って特定のモードで起動することもできた。386エンハンスドモードではやや動作が重くなり、実用的には486以上のマシンパワーを必要とした。",
"title": "機能"
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"text": "WindowsはWindows 3.0のスタンダードモードおよびエンハンスドモードからプロテクトモードが本格的にサポートされた。",
"title": "機能"
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"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "厳密には、WindowsはWindows/386からプロテクトモードを利用しているが、このバージョンでは内部的に80386で導入された機能をプロテクトモードで使用し、アプリケーションには仮想86モードを提供するというものであり、EMS対応MS-DOSアプリケーションと同様に実行プログラムを数百KBという限られたスペースに収まるよう作る必要があった。またEMSはバンク切り替えがあるため、その切り替え作業にかかる時間だけ低速になる。特に大規模なアプリケーションはほぼ常時バンク切り替えを繰り返すために低速だった。これがWindows 3.xのスタンダードモードとエンハンスドモードは、Windowsの大半のモジュールがプロテクトモードで動作する16ビットのコードで構成され、アプリケーション(WIN16アプリケーション)もプロテクトモードで動作する16ビットのコードで構成されるように変更された。さらにエンハンスドモードでは、80386で導入されたメモリ管理機能をプロテクトモードで動作するシステムのコードに実装し、IA-32のページングを利用した仮想記憶もサポートし、実メモリ以上のメモリをアプリケーションが確保できるようになった。また Windows 用のデバイスドライバとして、80386で導入された機能をプロテクトモードで活用した VxD デバイスドライバもサポートされた。従来のWindowsは常にメモリが不足気味だったが、3.0からのプロテクトモードをサポートした結果、Windows自身とそのアプリケーションは、(コンベンショナルメモリ)+(EMS)よりも高速で大量のメモリを使用可能なプロテクトメモリを利用可能になった。そのため、MS-DOSではメモリ不足から実現不可能だった大型アプリケーションも、Windows用に開発されるようになった。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "GUIはマイクロソフトがIBMと共同開発していたOS/2 1.2のプレゼンテーション・マネージャと類似の外観をしている。ウィンドウのメニューバーとパネル本体という構成やダイアログボックスなど、IBMが提唱したSystems Application ArchitectureのCommon User Access (CUA) におおむね準拠している。しかし、シフトキーとマウスを組み合わせた操作はCUAでの規定に反しており完全準拠ではない。このデザインはアップルより同社が開発したClassic Mac OSのルック・アンド・フィールを盗用したとしてWindows 2.xとともに著作権侵害が指摘されたが、裁判ではアップルの訴えは退けられ、後に両者は和解した(詳細はWindows 2.0#アップルとの法的抗争を参照)。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "アップルは1991年6月にQuickTimeを発表、12月には出荷しており、パソコン市場拡大のかげりから新しい分野としてマルチメディアが担がれていた時期であった。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "Windows 3.0は当初動画や音声を扱うことができなかった。それらのマルチメディア機能は1991年10月に「Windows 3.0 with Multimedia Extensions」というWindows 3.0の拡張版およびアップグレードキットとしてリリースされた。その後、Windows 3.1では標準でマルチメディア機能が搭載された。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "同時に、マイクロソフトや複数のパソコンメーカーによりマルチメディア対応パソコンを認定するため Multimedia PC(英語版) (MPC) 規格が策定されたが、最初のバージョンにおける最小構成のパソコンでは多くのアプリケーションで力不足であった。日本でも、当時標準でマルチメディア機能を使えるWindowsの存在したPCはFM TOWNS程度だった。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "それでもWindows 3.1でマルチメディア機能が標準搭載された利点はあり、FM音源程度しか持たないMPC以前の機種であっても、簡単なMIDIファイル程度のマルチメディアであればOS標準で利用できるようになった。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "1992年11月には動画再生をサポートするVideo for Windowsも発表された。当初サポートしていた解像度やフレームレートは320x240ピクセル/30fpsと低かったものの、AVIが再生できるようになり、マルチメディアCD-ROMソフトがWindows 3.1向けに発売されるようになった。マイクロソフトからはVideo for Windowsの発表と同時にエンカルタとCinemania(英語版)の2本のCD-ROMソフトが発表された。1995年に入るとGPUの性能競争が一時的に停滞し、代わりに動画の拡大表示を綺麗に行う補間機能といった動画再生支援機能が注目されるようになった。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "MPC規格のバージョンアップはPC/AT互換機ではWindowsの環境改善よりもDOSの環境改善としての効果が大きく、結果としてゲームプレイには最低の環境だったPC/AT互換機を一気にPCゲーム標準機まで押し上げることになった。ただしこのことがゲーム環境のWindowsへの移行を遅らせる原因になり、マイクロソフトがWinGやDirectXを開発する強い動機となった。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "Windows 3.0、3.1では、標準でネットワーク (LAN) 機能自体が搭載されておらず、LAN Manager ClientなどDOSベースのネットワーク機能に頼っていた。LAN Manager ClientはWindows NT ServerのCD-ROMなどに収録され、TCP/IPやNetBEUI、NetWare互換プロトコルなどのプロトコルが使えた。また、Windows for Workgroups (WfW) 3.1はWindows 3.1にWindowsベースでのネットワーク機能を付加するアドオンとして発表、販売された。ただし、この段階ではネットワークプロトコルとしてNetBEUIかNetWare互換プロトコルしか選択できなかった。その後、WfW 3.11が完全なWindows製品として発売され、このWfW3.11向けにTCP/IPプロトコル用ドライバも提供された。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "WfWの日本語版は発売されなかったため、日本のユーザーが手軽にネットワークを組むにはWindows 3.1との互換性に乏しく高性能パソコンを要求するWindows NTを購入するか、Windows 95の登場を待つしかなかった。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "日本では1994年時点で個人ユーザーにインターネット接続サービスを提供するISPがIIJと富士通(InfoWeb、1999年にニフティへ統合)の2社しか存在せず、まだ黎明期にあった。1995年に入るとISPは10社以上になり、インターネットを取り扱った参考書も急増した。しかしWindows 3.1標準ではネットワーク機能は搭載されていないため、市販のInternet CHAMELEON(ネットマネージジャパン、19800円)といったダイヤルアップ接続ツール(ダイヤラー、メーラー、FTPクライアントなどをまとめたパッケージ)を購入するか、パソコン通信を通じてTrumpet Winsockといったツールを揃えていく必要があった。ウェブブラウザにはNCSA Mosaicやその後に登場してすぐに標準となったNetscape Navigatorが使われた。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "Windows 95と同時発売のMicrosoft Plus!に同梱されたウェブブラウザ「Internet Explorer」は1996年4月にWindows 3.1対応の16ビット版が公開され、これにはメーラーのOutlook Express(16ビット版)やダイヤラーなどが添付されていた。インターネットの閲覧やメールの送受信はInternet Explorer添付のダイヤラーを使ったダイヤルアップの他、LAN Manager Clientをインストールしてある場合やWfWではLAN経由でも可能である。ただし、Internet Explorer標準添付のダイヤラーはPC/AT互換機用のため、PC-9800シリーズでダイヤルアップ接続する場合は市販ソフトなどを別途用意する必要があった。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "各プログラムの設定は、それぞれのプログラムが持つiniという拡張子が付けられたファイル、もしくはwin.iniやsystem.iniなどのWindowsのシステムファイルで行っていた。Windowsそのものの設定もwin.iniとsystem.iniで行っていた。これらはテキストファイルであり、標準で付属するシステムエディタ (sysedit) などのテキストエディタで編集を行うことができた。また、設定変更ミスや諸々のトラブルからWindowsが起動しなくなっても、MS-DOS環境からテキストエディタを使ってwin.iniやsystem.iniの中身を修正して復旧することができた。これらの設定内容はマイクロソフトが監修した解説書『Windows 3.1 リソースキット』で公開された。Windows 3.1の登録情報データベース(後のレジストリ)は、ファイルマネージャで開くファイルのフォーマットとアプリケーションとの関連付けやOLE情報に使用されるのみであった。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "Windows 3.0やWindows 3.1では32ビット386プロテクトモードではなく16ビット286プロテクトモードで動作していたため、標準構成では64KBセグメント・メモリモデルを使用するようになっていた。しかし、32ビットCPUではプログラマーはより大きなメモリポインタにアクセスして、プログラム・セグメントをどんな大きさにも拡張することができた(セグメント・ディスクリプタが24ビットであるため最大サイズは16MBに制限されている)。当時のWindows APIファンクションは16ビットであったため、それらは32ビットポインタを使用できず、コードに32ビット命令を含んでいてもDOSと同様に64KBセグメントでOS呼び出しを行うプログラムコードの一部を配置する必要があった。このため、理論上は4GBのメモリ空間を使用できる386以上のCPUであっても、Windows 3.0は合計16MBのメモリにしかアクセスできない。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "Windows 3.1では16MBの制限はなくなり、理論的には最大4GBのメモリを使用できる(現実的な上限は256MB)。ただし、先述のとおり1つのプログラムが使用できるメモリは最大16MBである。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "Windows NTの登場による32ビットOSへの移行を促す意味もあり、Win32sというドライバ/APIがマイクロソフトから供給された。これはWindows 3.1の386エンハンスドモード上で動作する32bitプログラムのためのドライバ/APIであり(WinNTのAPIであるWin32のサブセットなのでWin32s)、これによりアプリケーションをWindows 95やWindows NTと共通の32ビットコードでWindows 3.1に供給することが可能になり、初期の32ビットアプリケーションの開発を多少容易にした。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "また、ファイルシステムにおいてはBIOSを介した16ビットディスクアクセスが基本的に用いられていたものの、Windows 3.1の386エンハンスドモードでは常設スワップファイルに対してのみ32ビットでのアクセスが可能となった。さらに、Windows for Workgroups 3.11では完全な32ビットディスクアクセスが実現され、ディスクアクセスを高速化させることを可能にした。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "Windows 3.0(英語版)の公式なシステム要件は次のようになっている。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "Windows 3.1ではリアルモードが廃止されたため、8086/8088プロセッサ搭載機種は動作対象外になった。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "Windows 3.1には、Windows 3.0からアップグレードすることができる。また、インストール先ディレクトリを変更すれば旧バージョンと共存することもできる。Windows 2.11以前の場合は新規セットアップを行うことになる。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "Windows 3.1からは、Windows 95かWindows 98(Second Editionも含む)にのみアップグレードできる。その後継であるWindows MeやWindows 2000にできない。また、Windows 95かWindows 98のどちらにアップグレードしても、後にそのバージョンをアンインストールしてWindows 3.1に戻せる。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "Windows 3.0は25人で構成された開発グループ「Win3チーム」によって2年半の期間で開発された。画面デザインはWindows 2.1のユーザーの意見を取り入れ、旧バージョンの赤と青の組み合わせからビジネス環境に適した落ち着きのある色彩に変更された。",
"title": "開発とリリース"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1990年5月22日、Windows 3.0はニューヨーク・シティ・センター(英語版)で正式に発表された。この模様は米国7都市の会場とロンドンやアムステルダムといった世界各地の12都市の会場にテレビの生中継で報道された。これには300万ドルという多額の宣伝費が投入され、さらに広告や25万枚の体験版ディスク配布、デモンストレーション、セミナーに700万ドルの予算が組まれていた。",
"title": "開発とリリース"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "日本では1991年1月23日(日本時間)に日本電気よりPC-9800シリーズ用が発売され、それに追随して約20社のパソコンメーカーからも発売された。PC/AT互換機で動作するDOS/V対応版は日本IBMより1991年3月13日に発売された。",
"title": "開発とリリース"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "Windows 3.1(コードネーム: Janus)は1992年4月6日にシカゴで開催されたWindows Worldで正式に発表された。マイクロソフトはWindows 3.1の出荷にあたって125万本を用意。世界中の9カ所のマイクロソフト製造工場が一日三交替でディスクを生産し、最初の1ヶ月で800万枚以上のディスクが生産され、英語版と同時に6言語がリリースされた。 後にアップデートがリリースされ、雑誌の付録CDやニフティサーブ等のパソコン通信で修正ファイルが配布された、またMS社からのFD送付サービスも存在した。",
"title": "開発とリリース"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "マイクロソフト日本法人は1991年10月にWindows 3.1日本語版の開発に着手した。Windows 3.0日本語版はセットアップの方法やメニューが難しいという声が上がっていた。また、Windows 3.0日本語版はOEM先によって別々の日本語入力システム、プリンタードライバ、フォントが供給されていたため、同じWindowsアプリケーションでも機種間の完全な互換性を保証できないという問題が生じた。そこでWindows 3.1日本語版では標準で日本語入力システム「MS-IME」を供給。また、Windows標準の日本語フォントをリコーと共同開発し、プリンタードライバについては各メーカーの開発をサポートして公開前に互換性を確認していた。Windows 3.1日本語版のベータ版は3回で累計6000本出荷され、ユーザーのフィードバックを基に1600の改善が施された。発売は当初の予定であった1992年5月から1992年秋、1993年5月となり、大幅に遅れることになった。開発には5億円が費やされた。",
"title": "開発とリリース"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "日本語版開発の遅れに対して、世間では「PC-9800シリーズへの移植作業に手間取っているため。」「Windows 3.0日本語版の開発者が引き抜かれたため。」といった憶測が飛び交った。コンパックは1992年10月に低価格486機のProLinea 4/25sをDOS/Vパソコンとして発売したが、後のインタビューでは「Windows 3.1と登場するはずだった。」とコメントした。",
"title": "開発とリリース"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1993年5月12日に日本電気からPC-9800シリーズ用、5月18日にマイクロソフトからPC-9800シリーズ用とMS-DOS 5.0/V用が発売された。その直後の5月19日より東京国際見本市会場で開催されたビジネスシヨウや、6月16日より幕張メッセで開催されたWindows World Expo Tokyoでは、パソコンメーカー各社がこぞってWindows 3.1プリインストールパソコンを展示した。",
"title": "開発とリリース"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "Windows 3.0からの主な変更点は、動作の高速化やセットアップの簡便化に加え、以下の点が挙げられる。",
"title": "開発とリリース"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "日本向けにローカライズされなかったが、以下のものが存在した。",
"title": "開発とリリース"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "発売前から長らく期待を集めていたWindows 3.0は、北米を中心に急速に普及した。1年経たずして100万本の出荷を記録し、マイクロソフトの売上高は1990年度(1989年7月-1990年6月)の11.8億ドルから1991年度(1990年7月-1991年6月)は55.8%増の18.4億ドルとなった。ソフトウェア市場におけるWindowsアプリケーションの売上はDOSアプリケーション市場の40 %に相当するとされた。1990年末には数々の主要なコンピュータ雑誌から賞賛を浴びた。",
"title": "反響"
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "Windows 3.0のユーザーインターフェイスやファイルマネージャはMacintoshに及ばないが使いやすくなったと評価された。メモリ管理やDOSとの互換性の改善も複数の雑誌で良い評価を得た。一方で、多数のユーザーが所有するIntel 80286機では満足する動作は見込めず、比較的新しいIntel 80386(i386)以上のシステムが必要だという点が最大の問題として指摘された。これに対しマイクロソフト側は「プラットフォームにかかわらずユーザーはWindows 3.0の恩恵を得られる。386ベースのシステムで最も性能を発揮するが、最小システムではタスクスイッチャーとして働く。また、ユーザーはDOSのグラフィカルインターフェイスを獲得する。」と回答した。",
"title": "反響"
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"paragraph_id": 43,
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"text": "日本においてWindows 3.0は米国ほど広がりを見せなかったが、その要因として以下の問題が挙がった。",
"title": "反響"
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"text": "スティーブ・バルマー(当時、マイクロソフト上級副社長)も翌1992年の来日記者会見にて同様の見解を示した。",
"title": "反響"
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"paragraph_id": 45,
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"text": "PC-9800シリーズ版の発売当初は受注に生産が追いつかない状況が続いた。これについて日本電気は、受注が予想を上回ったためメディアやマニュアルの生産が追いついていないことを説明した。これに対してソフトハウスの間では「機種の違いで画面に現れるフォント(書体)が異なったり、印刷が狂うなどの不具合(バグ)を見つけて出荷を止めているのでは。」という推測が流れた。",
"title": "反響"
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"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "日本IBMのDOS/V版はMS-DOSアプリケーションの複数ウィンドウ表示に対応していたが、PC-9800シリーズ対応ソフトが約1万本であったことに比べ、1990年に発売されたばかりのDOS/Vに対応するアプリケーションは約200本と少なく、こちらも旧資産の継承という訴求材料だけでは不十分であった。",
"title": "反響"
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"paragraph_id": 47,
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"text": "Windows 3.1に対する雑誌の反応は使い勝手や信頼性が向上したという好意的なものであった。米国のPC Magazine誌はレビュー記事に「UAE(修復不可能なアプリケーションエラー)の終わり、新しい印刷エンジン、賢くなったSMARTDriveなど。マイクロソフトはWindowsを安定した豊かな環境にするために磨きをかけた。」という序文を付け、日本の日経パソコン誌は「ドラマチックな変化はないものの、信頼性が低い、処理速度が遅いなど、Windows 3.0での不満点を改良した。」と評した。",
"title": "反響"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "マイクロソフト日本法人は自社のWindows対応ソフトの売り込みを強化し、Windowsの普及を推進した。例えば、表計算ソフトのExcel 4.0は1993年5月に98000円から58000円へと40%の値下げ。6月25日から他社の日本語文書作成ソフトを使用しているユーザーを対象に、58000円のWord 5.0を25000円で販売する「乗り換え・アップグレード・サービス」を開始した。これは1993年4月に発売された一太郎 Ver.5(4年ぶりとなる新バージョン)に対抗したものと思われた。同日にWordとExcelをセットにした、日本語版で最初のバージョンとなるMicrosoft Officeを発売。翌1994年2月のOffice 1.5発表までに8万本を出荷し、1994年後半になると月20万本ペースの出荷になる。オフィスソフト市場におけるマイクロソフトのシェアは急拡大することになった。",
"title": "反響"
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"paragraph_id": 49,
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"text": "Windows 3.1のマルチメディア機能は個人市場の開拓を促し、ExcelやOfficeは企業にWindowsの導入を促した。",
"title": "反響"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "後年の評価としては、日本でのWindows 3.1はWindowsがパソコンユーザーに受け入れられた期間であったものの、パソコンが本当に一般に普及し始めたのはWindows 95からとされている。しかしWindows 3.1の広がりは、日本メーカーの国内向けパソコンを独自開発から世界標準のPC/AT互換機に転換させ、「鎖国状態」を解消したことで競争力が上がり、パソコンの低価格化が進んだことで普及を後押しすることになった。",
"title": "反響"
},
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"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "マイクロソフトとIBMが共同開発していたOS/2との関係について、Windows 3.0発売当初は両者が明確な立場を示さなかったため、このことはマスコミや公衆の間で物議を醸した。Windowsはユーザーのニーズに対応したことで多数のユーザーを獲得しているが、ふたを開けるとそこには旧態依然のDOSが存在する。業界では、技術的にはOS/2の方が上回っており、長い目で見ればOS/2やUNIXの方が有利であるという意見で一致した。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1990年9月17日、マイクロソフトとIBMは共同声明を出して、マイクロソフトはDOSとWindows、IBMはOS/2の開発に専念することを明らかにした。日本IBMは1991年5月7日付けのOS/2 J2.0の発表資料で、Windowsを個人ユーザー向けのエントリーGUIシステム、OS/2を企業ユーザー向けの統合プラットフォームとして位置づけ、OS/2 2.0はDOS 5.0とWindows 3.0を統合したエンタープライズ向けシステムとして紹介していた。IBMはOS/2を情報システムを構成するものとして企業ユースに考えていたのに対し、マイクロソフトはスタンドアロンで使用する個人ユースを想定していたため、営業戦略の不一致が決別の一因となった。別の要因として、開発体制や社風の違いで生じた企業間の壁も指摘された。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "マイクロソフトとIBMの対立は1992年にかけて深まっていった。1991年10月21日、IBMがOS/2 2.0を12月31日までに出荷すると発表すると、マイクロソフトのスティーブ・バルマーは「12月31日までに、IBMがOS/2 2.0を出荷できたら、フロッピー・ディスクを食べてみせる」と公言した。結局OS/2 2.0の出荷は1992年3月31日に延期されたが、この出来事はマイクロソフトとIBMの対立を印象づけるものになった。同時期に発売されたWindows 3.1はさらに勢いを付け、1993年にはWindowsの圧勝の様相となった。これについてOS/2の共同開発に参加したマイクロソフトの開発者は次のように語っている。",
"title": "反響"
},
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"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "なお、マイクロソフト日本法人と日本IBMはDOS/Vの営業で協力関係にあり、1993年12月にもMS-DOS 6.2/VとPC DOS J6.1/Vを共同記者会見で発表するなど、良好な関係をアピールした。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "折りしも発売時期がDOS/Vの登場とマニア間で起きたDOS/Vブームが重なったこともあり、日本でのIBM PC/AT互換機市場の形成に大いに貢献した。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1991年当時、日本でのパーソナルコンピュータ (PC) 市場は国内メーカーで市場をほぼ独占していた。さらに言えばNECのPC-9800シリーズで寡占状態にあった。PC/AT互換機は世界中で販売されるため開発コストは日本市場でしか販売できない国内専用製品と比べ物にならないほど安価だったが、日本語という障壁のため参入できない状態にあった。NECの製品展開は同社のオフィスコンピュータ(オフコン)などとの兼ね合いから同時期のPC/AT互換機よりも低い性能レベルに据え置かれ、価格も引き下げられなかった。しかし、安価かつ高性能なPC/AT互換機で日本語が扱え国産PCとも共通のアプリケーションが利用できるWindowsの事実上の完成により、国内におけるPC/AT互換機市場は1994年にかけて急拡大することになった。NECも同社のPC向けにWindowsを提供していたが、MS-DOS環境において存在していたアプリケーションの優位性が失われる結果となった。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "DOS/V版Windows 3.0では、標準VGAでも640*480/16色表示が可能で当時の主力機NECのPC-9800シリーズの640*400/16色を上回っていたうえ、当時すでにほとんどのDOS/V機ではSVGAモードを備えていた(もしくはグラフィック回路が拡張ボードとして独立しており交換が容易だった)ことから、市販のドライバで800*600の高解像度をWindowsから利用することができた。一部の英語版ディスプレイドライバではさらに高解像度・多色(640*480/256色、800*600/256色、1024*768/16色など)のGUI表示を行うためのパッチファイルや英語版ドライバで日本語表示を行う DDD (Display Dispatch Driver) が販売されて上級ユーザを中心にPC-9800シリーズよりもハードウェア価格が安くて高性能なPC/AT互換機を求めるケースが増え、市場が立ち上がり始めた。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "次のDOS/V版Windows 3.1では多くの英語版ディスプレイドライバを直接使用しても高解像度・多色のGUI表示ができるようになる。また発売にあわせてTVCMも放映され、本木雅弘が「Windows!」を連呼するというインパクトのあるもので、国内においてWindowsの名前を広く知らしめたことにより、PC-9800シリーズにこだわる必要がないというユーザーが増えていった。日本語版Windows 3.1からアウトラインフォント TrueType および、マイクロソフト版においてはかな漢字変換ソフト Microsoft IME が標準として採用され、各アーキテクチャ向けにて相違があった日本語の入出力環境の統一を図った。さらにPCパーツ店による組み立てPCや外国のPCメーカーによるこの組み合わせでの新規参入も相次ぎ、市場ニーズがPC/AT互換機へシフトするきっかけとなる。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "とは言え、まだこの段階ではPC-9800シリーズも強力だった。オープンであるがゆえに規格の統一が今ひとつのOADG規格とその派生製品はこれらのオプション類の利用にPC-98シリーズより手間を要した。当然、日本のパソコン周辺機器メーカーはPC-9821シリーズのWindows 3.1用の周辺機器も発売し、量販効果ですぐに値下がりした。企業ユースやゲーム市場では、PC-98用ソフトの互換性を求めるユーザーもまだ相当数存在していた。更に、製造元であるNECやPC-98互換機メーカーであるセイコーエプソンによる価格引き下げなどの対抗策もあり、1995年まで50%のシェアを確保し続けた。この流れが本格化するのは、機器の相違をデバイス仮想化などの方法によってOS側で吸収したWindows 95以降である。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1995年8月に発売されたWindows 95はそれまでパソコンに興味を持たなかった人々の関心を集め、個人市場の開拓に成功した。企業でもWindows 95を要望する従業員の声を聞き入れて買い換えを支援する動きが見られた。日経パソコンが1996年2月に日本の企業110社に対して行った調査では、Windows 95の「導入予定あり」が64%、「未定」が42%、「導入予定なし」が4%となった。「Windows 95の導入をどのように進めていくか」の問いに対して、「新規に導入したパソコンを中心に徐々に移行する」が30%となったものの、「既存のパソコンを含めて積極的に切り替える」はわずか8%に留まり、既存環境の移行には慎重な姿勢が見られた。「Windows 95の導入で、特に問題が多かった項目は」の問いに対しては、「MS-DOS対応やWindows 3.1対応ソフトの動作」(39%)、「既存のネットワークやデータベースとの接続」(35%)、「インストール関連」(32%)となった。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "マイクロソフトはOffice 95やVisual Basic 4.0など、自社製品のWindows 3.1に対するサポートをまもなく打ち切った。しかし、1996年度にIDCが行ったデスクトップOS選択率の調査では、Windows 95が62.9%、Windows 3.1/3.11が17.4%となり、データクエストが米国の大企業を対象に行った調査では、マイクロソフト社製OS利用者のうち86%がWindows 3.1/3.11を使用していると報告した。あるソフトウェア・エンジニアは「マイクロソフトはまだ多くの3.1が使われていることを把握しているが、早くすべてを移行してそれを忘れることを望んでいる。」とコメントした。",
"title": "反響"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "1999年に日経パソコンが日本の企業を中心に行った調査では、Windows 95の使用率が79.7%にのぼり、Windows 3.1の使用率は6.2%となった。",
"title": "反響"
}
] | Microsoft Windows 3.xは、バージョン表記が3で始まるWindowsをまとめて呼ぶための呼称。Windows 2.xの後継である。2001年12月31日(米国日時) にサポートは終了している。 基本的には1990年に発売された「Windows 3.0」と、1991年に発売された改良版「Windows 3.1」であるが、その他、一部機種ではマルチメディアに対応した「Windows 3.0 with Multimedia Extensions」も提供され、幾度かのマイナーバージョンアップが行われた。英語版ではネットワークをサポートする「Windows for Workgroup」も発売された。 Windows 3.0も3.1も「MS-DOSを拡張する16ビットオペレーティング環境」とであり。いずれもMS-DOS互換環境(PC-DOS/VやDR-DOS)やOS/2のWindows互換環境から起動させるものであり、事前にMS-DOS互換環境システムをコンピュータ上で動作させておく必要がある。Windows 3.xを動かそうとするならMS-DOS互換環境が必要なのだが、Windows 3.1以前はMS-DOSの拡張製品としてそれぞれが別々に販売されたため、MS-DOSを持っていない人の場合はそれも別途購入する必要があった。 | {{Pathnav|[[マイクロソフト|Microsoft]]|Microsoft Windows|this=Windows 3.x||frame=1}}
{{Infobox OS version
| name = Windows 3.x
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| developer = [[マイクロソフト|Microsoft]]
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| support_status = サポート終了:[[2001年]][[12月31日]](米国日時)<br />ライセンス発行終了:[[2008年]][[11月1日]](米国日時)<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/technology/7707016.stm The end of an era - Windows 3.x]</ref><ref>[http://gigazine.net/news/20081106_windows31_end/ 18年以上の歴史を築いた「Windows 3.x」がついに終了] - Gigazine 2008年11月6日</ref>
| other_articles =
|succeeded_by = [[Microsoft Windows 95|Windows 95]]
}}
[[File:Microsoft Windows 3.1 Jpn box.jpg|thumb|right|Windows 3.1 日本語版 パッケージ]]
'''Microsoft Windows 3.x'''('''マイクロソフト ウィンドウズ 3.x''')は、バージョン表記が3で始まるWindowsをまとめて呼ぶための呼称。[[Microsoft Windows 2.0|Windows 2.x]]の後継である。2001年12月31日(米国日時) にサポートは終了している。
基本的には[[1990年]]に発売された「Windows 3.0」と、[[1991年]]に発売された改良版「Windows 3.1」であるが、その他、一部機種ではマルチメディアに対応した「Windows 3.0 with Multimedia Extensions ([[Windows Multimedia Extensions|Windows MME]])」も提供され、幾度かのマイナーバージョンアップが行われた。英語版ではネットワークをサポートする「Windows for Workgroup(Windows 3.1ベース)」も発売された。
(なお追加モジュールとしては、32ビットアプリケーションを動作させるための「[[Win32s]]」、画像表示を高速化するための「[[WinG]]」、[[AVI]]形式の動画を再生するための「[[Video for Windows]]」、LANに接続するための「[[LAN Manager]]」、インターネットやメールをするための「[[Internet Explorer]](16ビット版)」がある。)
Windows 3.0も3.1も「{{要出典範囲|[[MS-DOS]]を拡張する16ビットオペレーティング環境(Operating Environment:)|date=2022年12月}}」とであり{{efn2|Windows 3.1から[[オペレーティングシステム]]を名乗った。}}。いずれもMS-DOS互換環境([[IBM PC DOS|PC-DOS/V]]や[[DR-DOS]])や[[OS/2]]のWindows互換環境から[[ブート|起動]]させるものであり、事前にMS-DOS互換環境システムをコンピュータ上で動作させておく必要がある。Windows 3.xを動かそうとするならMS-DOS互換環境が必要なのだが、Windows 3.1以前はMS-DOSの拡張製品としてそれぞれが別々に販売されたため、MS-DOSを持っていない人の場合はそれも別途購入する必要があった。
== 機能 ==
[[Microsoft Windows 2.0|Windows 2.x]] (Windows 2.11, Windows/386 2.11) の後継となるWindows 3.0は、ユーザーインターフェイスの大幅な改良と[[Intel 80286]]や[[Intel 80386|80386]]プロセッサのメモリ管理機能を有効活用する技術的な改善が行われた。
[[グラフィカルユーザインタフェース]] (GUI) 機能を持ち複数の[[タスク]]を同時実行できる[[マルチタスク]]が可能なことが利点であった。しかし、1つのWindows[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]が[[CPU]]を占有してしまいほかのプログラムが止まってしまうこともあった([[マルチタスク#ノンプリエンプティブ・マルチタスク|ノンプリエンプティブ]])<ref name=":11">{{Cite journal|和書|year=1995|title=特集 95年、新時代OSがやってくる|journal=[[日経パソコン]]|volume=1995年新年合併号|pages=116-137}}</ref>。Windows/386ではMS-DOS用のテキストモードプログラムは全画面を占有し、[[ショートカットキー]]で画面を切り替える仕様となっていたが、Windows 3.0では[[ウィンドウ]]内で動作させることができ、旧来のプログラムも[[マルチタスク|擬似マルチタスク]]として利用できるようになった<ref name=":16">『MS-Windowsとは何か - ウィンドウがパソコンを変える』、第4章 ウィンドウズとメモリの戦い、108-147頁。</ref>。しかし、家庭向け市場では多くのゲームやエンターテイメントソフトがMS-DOSへの直接アクセスを必要としていたため、あまり恩恵を受けられなかった<ref name="OCMWin3.0">{{cite web|url=http://www.oldcomputermuseum.com/os/windows_3.0.html|title=Microsoft Windows 3.0|accessdate=August 20, 2013|author=<!--Staff writer(s); no by-line.-->|publisher=Old Computer Museum|website=Old Computer Museum}}</ref>。
Windows 2.xは[[メニュー (コンピュータ)|メニュー]]や[[ウィンドウ]]枠での非常に限られた色しか使うことができなかったが、Windows 3.xの[[アイコン]]やグラフィックは[[Enhanced Graphics Adapter|EGA]]や[[Video Graphics Array|VGA]]モードで16色を完全にサポート。256色VGAモードやMCGAモードが初めてサポートされた。また、ディスプレイ出力に使用するカラーパレットはディスプレイ[[デバイスドライバ|ドライバ]]が管理し、アプリケーション毎には論理的なカラーパレットが用意されたことで、アプリケーション側はカラーパレットの状態や制限を気にする必要がなくなった<ref name=":7" />。
MS-DOSウィンドウ(ファイルマネージャ・プログラムランチャー機能)は、アイコンベースの「プログラムマネージャ」と一覧ベースの「ファイルマネージャ」に置き換えられた。前バージョンでは[[アプレット]]となっていた「コントロールパネル」は[[Apple]]の[[Classic Mac OS]]と類似のものに作り替えられた<ref name="TTWin3.0">{{cite web|url=http://toastytech.com/guis/win30.html|title=Windows 3.0|accessdate=August 20, 2013|author=<!--Staff writer(s); no by-line.-->|publisher=ToastyTech|website=ToastyTech}}</ref>。
いくつか簡単なアプリケーションも同梱された。テキストエディタの[[メモ帳]]、文書作成ソフトのライト(後の[[ワードパッド]])、一連のキー操作や[[マウス (コンピュータ)|マウス]]操作を[[マクロ (コンピュータ用語)|マクロ]]として記録して後で実行できる「レコーダー」、[[Microsoft Paint|ペイント]]、[[電卓 (Windows)|電卓]]など。ゲームはWindows 3.0では[[オセロ (ボードゲーム)|リバーシ]]に加えて[[ソリティア]]が搭載された<ref name="TTWin3.0" />{{efn2|name="ソリティア"|ソリティアでは組札に移動可能なカードを瞬時にすべて積む(Ctrl + A)機能が右クリックに割り当てられていることが知られるが、この機能が実装されたのは[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]からであり、当時のソリティアにはまだ右クリックに特別な機能は割り当てられていなかった。}}、Windows 3.1ではソリティア・[[マインスイーパ]]が付属{{efn2|Windows 3.0からアップグレードインストールした場合はリバーシも引き続き利用できる。}}。
Windows 3.0に搭載されたプロテクトモードやエンハンスドモードはDOSアプリケーションで行われていた方法より簡単に、より多くのメモリをWindowsアプリケーションで使えるようになった。Windows 3.0では[[リアルモード (Windows 3.0)|リアルモード]]([[Intel 8086|8086]]相当CPUの機能を利用)、スタンダードモード(80286相当CPUの機能を利用)、386エンハンスドモード([[Intel 80386|i386]]相当CPUの機能を利用)があり<ref>{{cite web|url=http://blogs.msdn.com/b/oldnewthing/archive/2013/02/08/10392028.aspx|title=For the Nitpickers: Enhanced-mode Windows 3.0 didn’t exactly run a copy of standard-mode Windows inside virtual machine|accessdate=August 20, 2013|author=<!--Staff writer(s); no by-line.-->|date=February 8, 2013|publisher=Old New Thing|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130212084625/http://blogs.msdn.com/b/oldnewthing/archive/2013/02/08/10392028.aspx|archivedate=February 12, 2013|website=MSDN|deadurl=no}}</ref>、通常は自動で適切なモードを選択するが、/r(リアルモード)、/s(「スタンダード」286プロテクトモード)、/3(386エンハンスドプロテクトモード)といったスイッチを使って特定のモードで起動することもできた<ref>{{cite web|url=http://www.computerhope.com/win3x.htm|title=Windows 3.x help and information|accessdate=August 20, 2013|author=<!--Staff writer(s); no by-line.-->|publisher=Computer Hope|website=Computer Hope}}</ref>。386エンハンスドモードではやや動作が重くなり、実用的には[[Intel 486|486]]以上のマシンパワーを必要とした<ref>「特集 Windows 3.0とは何か - ついに日本語版が発売となるWin3を解剖する」、Windows 3の動作モードは選べるの?、 245頁。</ref>。
=== プロテクトモードの恩恵 ===
WindowsはWindows 3.0のスタンダードモードおよびエンハンスドモードから[[プロテクトモード]]が本格的にサポートされた。
厳密には、WindowsはWindows/386からプロテクトモードを利用しているが、このバージョンでは内部的に80386で導入された機能をプロテクトモードで使用し、アプリケーションには[[仮想86モード]]を提供するというものであり、[[Expanded Memory Specification|EMS]]対応MS-DOSアプリケーションと同様に実行プログラムを数百KBという限られたスペースに収まるよう作る必要があった<ref name=":16" />。またEMSはバンク切り替えがあるため、その切り替え作業にかかる時間だけ低速になる。特に大規模なアプリケーションはほぼ常時バンク切り替えを繰り返すために低速だった<ref name=":16" />。これがWindows 3.xのスタンダードモードとエンハンスドモードは、Windowsの大半のモジュールがプロテクトモードで動作する16ビットのコードで構成され、アプリケーション(WIN16アプリケーション)もプロテクトモードで動作する16ビットのコードで構成されるように変更された。さらにエンハンスドモードでは、80386で導入されたメモリ管理機能をプロテクトモードで動作するシステムのコードに実装し、[[IA-32]]のページングを利用した[[仮想記憶]]もサポートし、実メモリ以上のメモリをアプリケーションが確保できるようになった。また Windows 用のデバイスドライバとして、80386で導入された機能をプロテクトモードで活用した [[仮想デバイスドライバ|VxD]] デバイスドライバもサポートされた。従来のWindowsは常にメモリが不足気味だったが、3.0からのプロテクトモードをサポートした結果、Windows自身とそのアプリケーションは、(コンベンショナルメモリ)+(EMS)よりも高速で大量のメモリを使用可能な[[プロテクトメモリ]]を利用可能になった<ref>「特集 Windows 3.0とは何か - ついに日本語版が発売となるWin3を解剖する」、Part3 どんなアプリが使えるのか : 米国ソフトでアプリケーション環境を見る、 pp.248-250</ref>。そのため、[[MS-DOS]]ではメモリ不足から実現不可能だった大型アプリケーションも、Windows用に開発されるようになった。<!-- このことは、Windowsが次世代アプリケーションの実行環境としてMS-DOSの後継の地位を築く理由の一つになった。 --><!--しかし、この時代においてはメモリを最大限搭載するとなると高速なメモリではないメモリを混在して使用する形態がありえたため、必ずしも高速で大量のメモリを得られない構成も存在した。例えば内蔵スロットの高速メモリに汎用スロットのメモリを追加することがあった。-->
=== ユーザーインターフェイス ===
GUIはマイクロソフトが[[IBM]]と共同開発していた[[OS/2]] 1.2のプレゼンテーション・マネージャと類似の外観をしている。ウィンドウのメニューバーとパネル本体という構成や[[ダイアログボックス]]など、IBMが提唱した[[Systems Application Architecture]]の[[Common User Access]] (CUA) におおむね準拠している。しかし、[[シフトキー]]とマウスを組み合わせた操作はCUAでの規定に反しており完全準拠ではない<ref>『MS-Windowsとは何か - ウィンドウがパソコンを変える』、96頁。</ref>。このデザインはアップルより同社が開発したClassic Mac OSの[[ルック・アンド・フィール]]を盗用したとしてWindows 2.xとともに著作権侵害が指摘されたが、裁判ではアップルの訴えは退けられ、後に両者は和解した(詳細は[[Microsoft Windows 2.0#アップルとの法的抗争|Windows 2.0#アップルとの法的抗争]]を参照)。<!--{{独自研究範囲|1=以下の事情により真の意味でのGUIが実現されたとは言い難いものであり、MS-DOS上で動作している[[デスクトップ環境]]とでもいうべきものだった。Windows 2.xから[[ルック・アンド・フィール]]は一新されたが、この点においては大きな変革はない。|date=2017年2月}}-->
;ウィンドウ
:一番右上(タイトルバーの右端)のボタン[▲]は最大化(全画面表示)のボタンで、既に最大化している場合はウィンドウ表示に戻すボタン(上下に▲と▼が並んだ[◆]状のボタン)が表示される。その隣のボタン[▼]は最小化(タスクアイコン化)のボタンである。[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]以降でのウインドウを閉じる[×]に相当するボタンは存在しない。終了はタイトルバー左上の[-]ボタン(コントロールメニューボックス)や[[メニュー (コンピュータ)|メニューバー]]からのプルダウンメニューから行えるが、左上の[-]そのものをダブルクリックすることでも終了する<ref name="whats win3">「特集 Windows 3.0とは何か - ついに日本語版が発売となるWin3を解剖する」、Part1 どんな環境になるのか、 230-241頁。</ref>。MS-DOSボックスの場合はメニューバーやタイトルバーから終了させることはできず、コマンドプロンプトでEXITと入力する必要がある{{efn2|ただし、MS-DOSアプリケーションが応答しなくなったときの最終手段として、コントロールメニューから「設定」ダイアログを開き、「強制終了」ボタンで終了することができる。}}<ref>「第6章 MS-DOSアプリケーション」『Microsoft Windows Operating System Version 3.1 機能ガイド』、318-356頁。</ref>。また、エンハンストモードであれば[[Control-Alt-Delete]]でアクティブなウィンドウの強制終了が行える。
;ポインティング
:当時はまだマウスは推奨であって必須ではなかった<ref>「1章 : はじめに」『Microsoft Windows Operating System Version 3.1 お使いになる前に』、2-4頁。</ref>。セットアップ時にマウス無し(使用しない)を選択することもでき、Windowsの主要システム自体はキーボードだけでも操作できるようになっていた{{efn2|Windows 3.1付属のマニュアル『Microsoft Windows Operating System Version 3.1 機能ガイド』にはほとんどの操作手順にマウスとキーボードの両方の手順が記載されている。}}。ただし実際にはGUIである以上はマウス前提で作られたアプリケーションが少なくなく、Windows 95以降はマウスが必須になっている。
:なお右[[ポイント・アンド・クリック|クリック]]による操作はアプリケーション側で対応している場合にのみ有効であり、Windowsを操作する上では特別な意味合いを持っていなかった<ref name=":11" />。Windows標準付属のアプリケーションとしては[[Microsoft Paint|ペイントブラシ]]や[[マインスイーパ]]が右クリックを活用できる{{efn2|name="ソリティア"}}。
;シェル
:Windows 3.xで標準の[[シェル]]は後述のプログラムマネージャというメニューソフトに相当する機能を持つプログラムランチャーだった。また、設定を変更することにより、ファイルマネージャやそれ以外(コマンドプロンプトや[[Norton Desktop]]などのサードパーティー製シェルソフトなど)の特定のアプリケーションをシェルに指定することも可能である。
:なお、プログラムマネージャ・ファイルマネージャともに、親画面の中で子画面を複数開くことができた ([[Multiple Document Interface|MDI]])。
;プログラムマネージャ
:プログラムの起動は原則として'''[[プログラムマネージャ]]'''から行う。プログラムマネージャはプログラムを表す「[[アイコン]]」およびアイコンを分類する「グループ」を画面に表示するためのプログラムであり、アイコンを[[ポイント・アンド・クリック|ダブルクリック]]することでプログラムを起動することができた。ただし、プログラムマネージャ上のアイコン(およびグループ)とディスク上のファイル(およびディレクトリ)との間には対応関係が無く、後の[[Windows Explorer|エクスプローラー]]のようにファイルを操作する機能は統合されていない<ref name=":11" />。
;ファイルマネージャ
:ファイル操作は、Windows 2.x以前のシェルだった「MS-DOSウィンドウ」に似た'''[[ファイルマネージャ]]'''というプログラムで行う。ファイルのダブルクリックでプログラムを直接実行することもでき、[[拡張子]]によるアプリケーションの関連付けもファイルマネージャ上で行うことができる。Windows 2.xでMS-DOSアプリケーションを実行するにはPIFファイル(情報ファイル)にあらかじめ実行環境を設定する必要があったが、Windows 3.0ではPIFファイルがなくても標準設定で実行するようになった<ref>「特集 Windows 3.0とは何か - ついに日本語版が発売となるWin3を解剖する」 p.235</ref>。MS-DOSウィンドウはファイル名が羅列されるだけであったが、ファイルマネージャでは画面左に現在開いているディレクトリの位置を示すディレクトリツリーが表示され、画面右には項目名とその種類を示す小さなアイコンが一覧表示されるようになった<ref name=":7" />。プログラムマネージャやデスクトップのタスク(後述)と違って「大きなアイコン」を表示する機能は無い。また、ファイルの種類毎にアイコンが用意されたWindows 95以降と異なり<ref name=":15">{{Cite journal|和書|year=1995|title=第2特集 95年パソコン・シーンを読むための7つのキーワード|journal=[[日経パソコン]]|volume=1995年新春特別号|pages=152-177}}</ref>、ファイルマネージャでは自身の持つ数種類のアイコンしか表示できなかった。<!-- 基本的には実行可能ファイル([[EXEフォーマット|EXE]]、[[COMファイル|COM]]、[[バッチファイル|BAT]]、[[ソフトリンク#Windows|PIF]])か、それ以外かで表示されるアイコンが異なるのみである。ただし拡張子で関連付けられたファイルや、ファイル属性の違いによって若干異なるアイコンが用意されている。 -->
:ファイルマネージャには2000年以上の年表示が文字化けするという不具合があったが、後に[[2000年問題]]対応版がマイクロソフトから配布された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.microsoft.com/japan/win95/Win31_com/31_winfile.htm|title=Microsoft Windows 3.1PC/AT互換機対応 ファイルマネージャ2000年表示対応プログラム|accessdate=2017-02-13|publisher=[[マイクロソフト]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990822222838/http://www.microsoft.com/japan/win95/win31_com/31_winfile.htm|archivedate=1998-08-22}}</ref>。
;デスクトップ
:デスクトップ{{efn2|Windowsの背景画面のこと。Windows 3.0ではデスクトップという名称であったが、Windows 3.1ではデスクトップの名称は使用されていない。}}の領域には実行中のプログラムを最小化したときのアイコンが表示される<ref name="whats win3" />。ファイルなどのオブジェクトを置くことのできる[[デスクトップ・メタファー]]ではなく、Windows 95以降での[[タスクバー]]に相当する場所であった。Windows 2.xからの変更点として、画像や模様を背景として飾ることができるようになった。デスクトップをダブルクリックすると[[Windows タスク マネージャー#Windows 9x系|タスクマネージャ]]に似た画面を呼び出すことができた。
=== マルチメディア ===
アップルは1991年6月に[[QuickTime]]を発表、12月には出荷しており、パソコン市場拡大のかげりから新しい分野として[[マルチメディア]]が担がれていた時期であった<ref>「第五章 ウィンドウズでマルチメディア」『WINDOWSの時代 - マイクロソフトはパソコンをどう変えるか』 pp.141-162</ref><ref>{{Cite journal|和書|year=1991|title=ASCII EXPRESS: 米国ハイテク産業の動向 QuickTime|journal=[[月刊アスキー]]|volume=15|issue=8}}</ref>。<!--この時点で[[Mac OS]]や[[FM TOWNS|TownsOS]]などと比較するとたいへん遅れていた{{独自研究範囲|のだが、元々オフィス向け・業務用のコンピュータであり娯楽のための機能が標準で用意されていないIBM PC/ATとその互換機に乗るOSとしては仕方がなかったとも言える|date=2017年2月}}。-->
Windows 3.0は当初動画や音声を扱うことができなかった。それらの[[マルチメディア]]機能は1991年10月に「[[Windows Multimedia Extensions|Windows 3.0 with Multimedia Extensions]]」というWindows 3.0の拡張版およびアップグレードキットとしてリリースされた<ref>{{Cite journal|author=Jesse Berst|date=1991-10-21|title=Emerging Technology : Multimedia Extensions breathe life into the PC|url=https://books.google.co.jp/books?id=2j0EAAAAMBAJ&lpg=PA90&hl=ja&pg=PA90|journal=Infoworld|volume=13|issue=42|page=90|accessdate=2017-02-12}}</ref>。その後、Windows 3.1では標準でマルチメディア機能が搭載された。
同時に、マイクロソフトや複数のパソコンメーカーによりマルチメディア対応パソコンを認定するため {{仮リンク|Multimedia PC|en|Multimedia PC}} (MPC) 規格が策定されたが、最初のバージョンにおける最小構成のパソコンでは多くのアプリケーションで力不足であった<ref>{{Cite journal|author=Cate Corcoran|date=1993-05-31|title=Multimedia PC spec refined : MPC Level 2 recommends 486, faster CD-ROM|url=https://books.google.co.jp/books?id=PDsEAAAAMBAJ&lpg=PA35&dq=MPC%20level&hl=ja&pg=PA35|journal=Infoworld|volume=15|issue=22|page=35|accessdate=2017-02-13}}</ref>。日本でも、当時標準でマルチメディア機能を使えるWindowsの存在したPCは[[FM TOWNS]]程度だった。
それでもWindows 3.1でマルチメディア機能が標準搭載された利点はあり、FM音源程度しか持たないMPC以前の機種であっても、簡単なMIDIファイル程度のマルチメディアであればOS標準で利用できるようになった<ref>「98は本当にMacに追いついたか?」、月刊ソフマップワールド1994年4月号(Vol.56)、p11。</ref>{{要検証|date=2017年2月}}。
1992年11月には動画再生をサポートする[[Video for Windows]]も発表された<ref>{{Cite journal|author=Kelley Damore, Cate Corcoran|date=1992-11-16|title=VFW to spark multimedia ground well|url=https://books.google.co.jp/books?id=N1EEAAAAMBAJ&lpg=PA12&hl=ja&pg=PA12|journal=Infoworld|volume=15|issue=47|page=8|accessdate=2017-02-13}}</ref>。当初サポートしていた[[解像度]]や[[フレームレート]]は320x240[[ピクセル]]/30fpsと低かったものの<ref>{{Cite journal|author=Kelley Damore|date=1993-11-22|title=Video for Windows developer tools speed playback|url=https://books.google.co.jp/books?id=ATsEAAAAMBAJ&lpg=PA8&hl=ja&pg=PA8|journal=Infoworld|volume=15|issue=47|page=8|accessdate=2017-02-13}}</ref>、[[AVI]]が再生できるようになり、マルチメディアCD-ROMソフトがWindows 3.1向けに発売されるようになった。マイクロソフトからはVideo for Windowsの発表と同時に[[エンカルタ]]と{{仮リンク|Cinemania|en|Microsoft Cinemania}}の2本のCD-ROMソフトが発表された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.est.co.jp/ks/tabi/9211cmdx.htm|title=旅の記録 : 海外展示会レポート : COMDEX Fall 1992|accessdate=2017-02-13|author=下川和男|date=1999-01-03|publisher=イースト株式会社}}</ref>。1995年に入ると[[Graphics Processing Unit|GPU]]の性能競争が一時的に停滞し、代わりに動画の拡大表示を綺麗に行う補間機能といった動画再生支援機能が注目されるようになった<ref name=":15" />。
MPC規格のバージョンアップはPC/AT互換機ではWindowsの環境改善よりもDOSの環境改善としての効果が大きく、結果としてゲームプレイには最低の環境だったPC/AT互換機を一気にPCゲーム標準機まで押し上げることになった。ただしこのことがゲーム環境のWindowsへの移行を遅らせる原因になり、マイクロソフトが[[WinG]]や[[DirectX]]を開発する強い動機となった。{{要出典|date=2017年2月}}
=== ネットワーク / インターネット ===
Windows 3.0、3.1では、標準で[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]] ([[Local Area Network|LAN]]) 機能自体が搭載されておらず、[[LAN Manager]] Clientなど[[MS-DOS|DOS]]ベースのネットワーク機能に頼っていた。LAN Manager Clientは[[Windows NT]] Serverの[[CD-ROM]]などに収録され、[[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]や[[NetBEUI]]、[[NetWare]]互換プロトコルなどのプロトコルが使えた。また、Windows for Workgroups (WfW) 3.1はWindows 3.1にWindowsベースでのネットワーク機能を付加するアドオンとして発表、販売された。ただし、この段階ではネットワーク[[通信プロトコル|プロトコル]]としてNetBEUIかNetWare互換プロトコルしか選択できなかった。その後、WfW 3.11が完全なWindows製品として発売され、このWfW3.11向けに[[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]プロトコル用ドライバも提供された<ref name=":1">{{Cite journal|date=1994-01-11|title=First Looks: Windows for Workgroups 3.11: The Best Windows for All?|url=https://books.google.co.jp/books?id=E9TvMcu1mIwC&lpg=PA39&hl=ja&pg=PA38|journal=PC Mag|volume=13|issue=1|pages=38-39|accessdate=2017-02-10}}</ref>。
WfWの日本語版は発売されなかったため、日本のユーザーが手軽にネットワークを組むにはWindows 3.1との互換性に乏しく高性能パソコンを要求するWindows NTを購入するか、[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]の登場を待つしかなかった<ref>{{Cite journal|和書|date=1995-03-27|title=REPORT ネットワーク : Windows NTネットワーキング入門1 : NT3.5でネットワークはここまでできる|journal=[[日経パソコン]]|pages=200-205}}</ref>。
日本では1994年時点で個人ユーザーに[[インターネット]]接続サービスを提供する[[インターネットサービスプロバイダ|ISP]]が[[インターネットイニシアティブ|IIJ]]と富士通(InfoWeb、1999年に[[ニフティ]]へ統合)の2社しか存在せず、まだ黎明期にあった。1995年に入るとISPは10社以上になり、インターネットを取り扱った参考書も急増した。しかしWindows 3.1標準ではネットワーク機能は搭載されていないため、市販のInternet CHAMELEON(ネットマネージジャパン、19800円)といった[[ダイヤルアップ接続]]ツール([[ダイヤラー]]、[[電子メールクライアント|メーラー]]、[[FTPクライアント]]などをまとめたパッケージ)を購入するか、パソコン通信を通じて[[Winsock|Trumpet Winsock]]といったツールを揃えていく必要があった。[[ウェブブラウザ]]には[[NCSA Mosaic]]やその後に登場してすぐに標準となった[[Netscapeシリーズ|Netscape Navigator]]が使われた。<ref>{{Cite journal|和書|year=1995|title=特集 インターネット 第2弾 : インターネットのこと全部教えます|journal=[[月刊アスキー]]|volume=19|issue=7|pages=330-351}}</ref>
Windows 95と同時発売の[[Microsoft Plus!]]に同梱されたウェブブラウザ「[[Internet Explorer]]」は1996年4月にWindows 3.1対応の[[16ビットアプリケーション|16ビット]]版が公開され<ref name="apr96ms">{{cite web|url=http://www.microsoft.com/presspass/press/1996/apr96/iemompr.mspx|title=Microsoft Internet Explorer Web Browser Available on All Major Platforms, Offers Broadest International Support|accessdate=2008-10-17|publisher=Microsoft.com}}</ref>、これにはメーラーの[[Outlook Express]](16ビット版)やダイヤラーなどが添付されていた。インターネットの閲覧やメールの送受信はInternet Explorer添付のダイヤラーを使ったダイヤルアップの他、LAN Manager Clientをインストールしてある場合やWfWではLAN経由でも可能である。ただし、Internet Explorer標準添付のダイヤラーはPC/AT互換機用のため、PC-9800シリーズでダイヤルアップ接続する場合は市販ソフトなどを別途用意する必要があった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.microsoft.co.jp/Support/tdoc/doc/win31ie/W31IEFAQ.htm|title=インターネット エクスプローラ 3.0 よく寄せられる質問|accessdate=2017-02-13|publisher=[[マイクロソフト]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/19970723065153/http://www.microsoft.co.jp/Support/tdoc/doc/win31ie/W31IEFAQ.htm|archivedate=1997-07-23}}</ref>。
=== 設定ファイル ===
各プログラムの設定は、それぞれのプログラムが持つ[[INIファイル|ini]]という拡張子が付けられたファイル、もしくはwin.iniやsystem.iniなどのWindowsのシステムファイルで行っていた。Windowsそのものの設定もwin.iniとsystem.iniで行っていた。これらはテキストファイルであり、標準で付属するシステムエディタ (sysedit) などの[[テキストエディタ]]で編集を行うことができた。また、設定変更ミスや諸々のトラブルからWindowsが起動しなくなっても、MS-DOS環境からテキストエディタを使ってwin.iniやsystem.iniの中身を修正して復旧することができた。これらの設定内容はマイクロソフトが監修した解説書『Windows 3.1 リソースキット』で公開された<ref>「第4章 初期化ファイルの設定内容」『Windows 3.1 リソースキット』、 pp.243-331</ref>。Windows 3.1の登録情報データベース(後の[[レジストリ]])は、ファイルマネージャで開く[[ファイルフォーマット|ファイルのフォーマット]]とアプリケーションとの関連付けや[[Object Linking and Embedding|OLE]]情報に使用されるのみであった<ref>「第11章 OLEの設定と利用方法」『Windows 3.1 リソースキット』、 pp.488-503</ref>。
<!--Windows 95以降、レジストリを中心にWindowsのコンフィグレーションが[[ブラックボックス]]化されてしまったのに対し、Windows 3.1以前のWindowsは比較的中身の理解しやすいシステムだったと言える。
Windows 3.1時代のシステムの柔軟性を生かして、日本で未発売のWindows for Workgroupsの差分のシステムファイルを日本語版Windows 3.1(DOS/V版)に移植をしたり、i286で動作する英語版Windows 3.1<ref>PC-9800シリーズ用英語版は486SX(25MHz)以上でないと動作しない。</ref>や日本未発売のWindows for Workgroupsに[[Win/V]]等の日本語パッチを当てるということも出来た。
-->
=== メモリ容量の最大値 ===
Windows 3.0やWindows 3.1では32ビット386プロテクトモードではなく16ビット286プロテクトモードで動作していたため、標準構成では64KB[[セグメント方式|セグメント]]・メモリモデルを使用するようになっていた。しかし、32ビットCPUではプログラマーはより大きなメモリ[[ポインタ (プログラミング)|ポインタ]]にアクセスして、プログラム・セグメントをどんな大きさにも拡張することができた(セグメント・ディスクリプタが24ビットであるため最大サイズは16MBに制限されている)。当時の[[Windows API]]ファンクションは16ビットであったため、それらは32ビットポインタを使用できず、コードに32ビット命令を含んでいてもDOSと同様に64KBセグメントでOS呼び出しを行うプログラムコードの一部を配置する必要があった<ref>{{cite web|url=ftp://ftp.microsoft.com/misc1/DEVELOPR/WIN_DK/KB/Q68/6/44.TXT|title=Segment and Handle Limits and Protected Mode Windows|accessdate=August 20, 2013|author=<!--Staff writer(s); no by-line.-->|date=November 6, 1999|website=Microsoft File Transfer Protocol}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.pcmag.com/encyclopedia_term/0,,t=&i=37053,00.asp|title=386 Definition from PC Magazine Encyclopedia|accessdate=August 20, 2013|author=<!--Staff writer(s); no by-line.-->|publisher=PC Mag|website=PC Mag}}</ref>。このため、理論上は4GBのメモリ空間を使用できる386以上のCPUであっても、Windows 3.0は合計16MBのメモリにしかアクセスできない。
Windows 3.1では16MBの制限はなくなり、理論的には最大4GBのメモリを使用できる(現実的な上限は256MB)<ref>{{Cite web|url=https://support.microsoft.com/en-us/help/84388/windows-3.1-memory-limits|title=Windows 3.1 Memory Limits|accessdate=2017-02-13|publisher=[[マイクロソフト]]}}</ref>。ただし、先述のとおり1つのプログラムが使用できるメモリは最大16MBである。
=== 32ビットへの限定的な対応 ===
Windows NTの登場による32ビットOSへの移行を促す意味もあり、[[Win32s]]というドライバ/APIがマイクロソフトから供給された。これはWindows 3.1の386エンハンスドモード上で動作する32bitプログラムのためのドライバ/APIであり(WinNTのAPIであるWin32のサブセットなのでWin32s{{要出典|date=2017年2月}})、これによりアプリケーションをWindows 95やWindows NTと共通の32ビットコードでWindows 3.1に供給することが可能になり<ref>{{Cite journal|author=Jesse Berst|date=1992-06-01|title=What's a Win32S anyway?|url=https://books.google.co.jp/books?id=wwyCmyO04vAC&lpg=PA36&dq=win32s&hl=ja&pg=PA36|journal=Computerworld|volume=26|issue=22|page=36|accessdate=2017-02-10}}</ref>、初期の32ビットアプリケーションの開発を多少容易にした。
また、ファイルシステムにおいては[[Basic Input/Output System|BIOS]]を介した16ビットディスクアクセスが基本的に用いられていたものの、Windows 3.1の386エンハンスドモードでは常設[[仮想記憶#実装例|スワップファイル]]に対してのみ32ビットでのアクセスが可能となった。さらに、Windows for Workgroups 3.11では完全な32ビットディスクアクセスが実現され、ディスクアクセスを高速化させることを可能にした<ref>{{Cite journal|author=Rod Chapin|date=1994-08-15|title=Windows for Workgroups moves faster in 32-bit mode, but it's no panacea|url=https://books.google.co.jp/books?id=nDgEAAAAMBAJ&lpg=PA66&hl=ja&pg=PA66|journal=Infoworld|volume=16|issue=33|page=66|accessdate=2017-02-10}}</ref>。
=== システム要件 ===
Windows 3.0(英語版)の公式なシステム要件は次のようになっている。
{| class="wikitable"
|+ '''Windows 3.0(英語版) システム要件'''
|-
! [[CPU|プロセッサ]]
| 8086/8088プロセッサ
|-
! [[主記憶装置|物理メモリ]]
| 384KBの空きコンベンショナルメモリ(リアルモード)、1MB(スタンダードモード)、2MB(エンハンスドモード)<ref>{{cite web|url=http://support.microsoft.com/kb/58317|title=Windows 3.0 Modes and Memory Requirements|accessdate=January 1, 2008|date=July 7, 2005|publisher=[[マイクロソフト]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090112124725/http://support.microsoft.com/kb/58317|archivedate=January 12, 2009|website=Support|deadurl=yes}}</ref>
|-
! ハードディスク
| 6-7MBの空き容量
|-
! [[MS-DOS]]
| バージョン 3.1以上<ref name="Release">{{cite web|title=Windows Version History|url=https://support.microsoft.com/en-us/help/32905/windows-version-history|date=July 19, 2005|accessdate=January 21, 2017|website=Support|publisher=[[マイクロソフト]]}}</ref>
|-
! ディスプレイ
| [[Color Graphics Adapter|CGA]]、[[Enhanced Graphics Adapter|EGA]]、[[MCGA]]、[[Video Graphics Array|VGA]]、[[Hercules Graphics Card|Hercules]]、[[8514/A]]または[[Extended Graphics Array|XGA]]グラフィック、および互換モニター
|-
!その他
|マイクロソフト互換マウス推奨<ref>{{cite web |url=http://www.guidebookgallery.org/articles/theriddleoftherightmousebutton |title=The Riddle of the Right Mouse Button |author=<!--Staff writer(s); no by-line.--> |date=January 14, 1992 |website=GUIdebook |publisher=PC Magazine |accessdate=August 20, 2013}}</ref>
|}
Windows 3.1ではリアルモードが廃止されたため、8086/8088プロセッサ搭載機種は動作対象外になった<ref name=":17" />。
=== Windows 3.1へのアップグレード ===
Windows 3.1には、Windows 3.0からアップグレードすることができる。また、インストール先ディレクトリを変更すれば旧バージョンと共存することもできる。Windows 2.11以前の場合は新規セットアップを行うことになる。<ref>「2章 : セットアップを始めよう」『Microsoft Windows Operating System Version 3.1 お使いになる前に』、6-57頁。</ref>
=== Windows 3.1から新しいバージョンへのアップグレード ===
Windows 3.1からは、[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]か[[Microsoft Windows 98|Windows 98]](Second Editionも含む)にのみアップグレードできる<ref>{{Cite book|和書|title=Microsoft Windows 98 ファーストステップガイド|year=1998|publisher=[[マイクロソフト]]|page=24|id=730-980-901}}</ref>。その後継である[[Microsoft Windows Millennium Edition|Windows Me]]や[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]にできない<ref>{{Cite book|和書|title=Microsoft Windows Me クイックスタートガイド|year=2000|publisher=[[マイクロソフト]]|page=7|id=X05-79449}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=Microsoft Windows 2000 Professional クイックスタートガイド|year=1999|publisher=[[マイクロソフト]]|page=6|id=X05-33467}}</ref>。また、Windows 95かWindows 98のどちらにアップグレードしても、後にそのバージョンを[[アンインストール]]してWindows 3.1に戻せる。
== 開発とリリース ==
=== Windows 3.0 ===
Windows 3.0は25人で構成された開発グループ「Win3チーム」によって2年半の期間で開発された。画面デザインはWindows 2.1のユーザーの意見を取り入れ、旧バージョンの赤と青の組み合わせからビジネス環境に適した落ち着きのある色彩に変更された。<ref name=":5">{{Cite book|和書|author=Daniel Ichbiah/Susan L.Knepper|title=マイクロソフト-ソフトウェア帝国誕生の軌跡-|date=1992-07-01|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|isbn=978-4-7561-0118-1|pages=384-403|chapter=第20章 未来のビジョン|translator=椋田直子}}</ref>
1990年5月22日、Windows 3.0は{{仮リンク|ニューヨーク・シティ・センター|en|New York City Center}}で正式に発表された。この模様は米国7都市の会場と[[ロンドン]]や[[アムステルダム]]といった世界各地の12都市の会場にテレビの生中継で報道された。これには300万ドルという多額の宣伝費が投入され、さらに広告や25万枚の体験版ディスク配布、デモンストレーション、セミナーに700万ドルの予算が組まれていた。<ref name=":5" />
日本では1991年1月23日(日本時間)に[[日本電気]]より[[PC-9800シリーズ]]用が発売され<ref>「日電、次世代主流OS発売―高級パソコン向け、初の日本語化、追随も。」『日本経済新聞』 1991年1月24日朝刊、13面。</ref>、それに追随して約20社のパソコンメーカーからも発売された<ref name="Windows 20th history">{{Cite web|url=http://www.microsoft.com/japan/windows/20th/history.mspx|title=Windows 20th Anniversary : Windows of History|accessdate=2017-02-09|publisher=[[マイクロソフト]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051201012934/http://www.microsoft.com/japan/windows/20th/history.mspx|archivedate=2005-12-01}}</ref>。[[PC/AT互換機]]で動作する[[DOS/V]]対応版は[[日本アイ・ビー・エム|日本IBM]]より1991年3月13日に発売された<ref name=":0">「日本IBM、パソコン拡張の基本ソフトも発売。」『日経産業新聞』 1991年3月14日、6面。</ref>。
=== Windows 3.1 ===
Windows 3.1(コードネーム: Janus)<ref>{{Cite web |url=http://www.tomshardware.fr/articles/codename-janus,1-5543.html |language=French |title=LNDCDJ : Janus / Windows 3.1 |first=Pierre |last=Dandumont |work=[[Tom's Hardware]] |date=October 7, 2009 |accessdate=July 13, 2014}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.oldcomputermuseum.com/os/windows_3.1.html |title=Microsoft Windows 3.1 |work=Old Computer Museum |accessdate=July 13, 2014}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.techradar.com/news/software/operating-systems/windows-retrospective-boot-screens-through-the-ages-642928 |title=Windows retrospective: boot screens through the ages |first=Dan |last=Grabham |work=[[TechRadar]] |date=October 16, 2009 |accessdate=July 13, 2014|deadurl=no|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091019072525/http://www.techradar.com/news/software/operating-systems/windows-retrospective-boot-screens-through-the-ages-642928|archivedate=October 19, 2009}}</ref>は1992年4月6日に[[シカゴ]]で開催されたWindows Worldで正式に発表された<ref>{{Cite news|author=劉 尭|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/yajiuma/1053868.html|title=【やじうまPC Watch】Windows 3.1、25歳のお誕生日おめでとう|publisher=PC Watch|date=2017-04-07|accessdate=2018-01-11}}</ref><ref name=":10">「Part.1 パソコンの標準OSとなったウィンドウズ」『マイクロソフト・ウィンドウズ戦略のすべて - 新情報ネットワーク時代への挑戦』 pp.34-65</ref><ref name=":12">{{Cite journal|date=1992-03-23|title=Windows 3.1 ready to roll, and users are optimistic|url=https://books.google.co.jp/books?id=6fxsaF0QuVEC&lpg=PA8&hl=ja&pg=PA8|journal=Computerworld|pages=1, 8|accessdate=2017-02-12}}</ref>。マイクロソフトはWindows 3.1の出荷にあたって125万本を用意。世界中の9カ所のマイクロソフト製造工場が[[シフト勤務|一日三交替]]でディスクを生産し、最初の1か月で800万枚以上のディスクが生産され、英語版と同時に6言語がリリースされた<ref name=":12" />。
後にアップデートがリリースされ、雑誌の付録CDや[[ニフティサーブ]]等のパソコン通信で修正ファイルが配布された<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20080306032003/support.microsoft.com/kb/405082/ja|title=W31:MS-DOS/V対応 Windows 3.1 Update 3 変更モジュール一覧|accessdate=2017-02-13|publisher=[[マイクロソフト]]}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|year=1995|title=特別付録CD-ROM|journal=[[I/O (雑誌)|I/O]]|volume=20|issue=4}}</ref>、またMS社からのFD送付サービスも存在した<ref>https://www.hitachi.co.jp/Prod/comp/OSD/pc/flora/download/snl95004/tpc9504_04/update_bm04.htm</ref>。
マイクロソフト日本法人は1991年10月にWindows 3.1日本語版の開発に着手した。Windows 3.0日本語版はセットアップの方法やメニューが難しいという声が上がっていた。また、Windows 3.0日本語版はOEM先によって別々の[[日本語入力システム]]、プリンター[[デバイスドライバ|ドライバ]]、[[フォント]]が供給されていたため、同じWindowsアプリケーションでも機種間の完全な互換性を保証できないという問題が生じた。そこでWindows 3.1日本語版では標準で日本語入力システム「[[Microsoft IME|MS-IME]]」を供給。また、Windows標準の日本語フォントを[[リコー]]と共同開発し、プリンタードライバについては各メーカーの開発をサポートして公開前に互換性を確認していた。Windows 3.1日本語版の[[ベータ版]]は3回で累計6000本出荷され、ユーザーのフィードバックを基に1600の改善が施された。発売は当初の予定であった1992年5月から1992年秋、1993年5月となり、大幅に遅れることになった。開発には5億円が費やされた<ref name=":10" /><ref>「特集 : Windows 3.1の実力」、ダブル・インタビュー 古川会長・成毛社長、116-117頁。</ref>。
日本語版開発の遅れに対して、世間では「PC-9800シリーズへの移植作業に手間取っているため。」「Windows 3.0日本語版の開発者が引き抜かれたため。」といった憶測が飛び交った<ref>{{Cite book|和書|title=激突!98対DOS/V VOL.1|date=1993-04-06|publisher=[[ビレッジセンター]]出版局|ISBN=4938704145|page=79|chapter=a/Vの波紋}}</ref>。[[コンパック]]は1992年10月に低価格[[Intel486|486]]機のProLinea 4/25sをDOS/Vパソコンとして発売したが、後のインタビューでは「Windows 3.1と登場するはずだった。」とコメントした<ref>{{Cite journal|和書|date=1993-06-21|title=特集 Windowsマシン選択術 : 第1部 マシン選びの出発点は使い方|journal=[[日経パソコン]]|pages=110-114}}</ref>。
1993年5月12日に日本電気からPC-9800シリーズ用、5月18日にマイクロソフトからPC-9800シリーズ用とMS-DOS 5.0/V用が発売された<ref name="Windows 20th history" />。その直後の5月19日より[[東京国際見本市会場]]で開催された[[ビジネスシヨウ]]や、6月16日より[[幕張メッセ]]で開催されたWindows World Expo Tokyoでは、パソコンメーカー各社がこぞってWindows 3.1プリインストールパソコンを展示した<ref name=":10" />。
Windows 3.0からの主な変更点は、動作の高速化やセットアップの簡便化に加え、以下の点が挙げられる。<ref name=":17">{{Cite journal|author=Brian Liyingston|date=1992-04-06|title=Windows - New and improved, finally|url=https://books.google.co.jp/books?id=6z0EAAAAMBAJ&lpg=PA69&hl=ja&pg=PA67|journal=Infoworld|volume=14|issue=14|pages=559-596|accessdate=2017-02-10}}</ref><ref name=":13">「特集 : Windows 3.1の実力」、96-117頁。</ref><ref>{{Cite book|和書|title=Microsoft Windows Operating System Version 3.1 お使いになる前に|year=1993|publisher=Microsoft Corporation|pages=60-64|chapter=3章 Windows 3.1の新機能|id=KPN890076-9406}}</ref>
;[[TrueType]]フォント
:マイクロソフトはアップルが開発したアウトラインフォント仕様「TrueType」のライセンスを受け<ref>「アウトラインフォント生成、変換ソフト、リコー開発―業界標準自動的に」『日経産業新聞』1993年2月20日、1面。</ref>、{{仮リンク|Monotype Corporation|en|Monotype Corporation}}と共同でTrueTypeフォントを開発してWindowsに標準搭載した<ref name=":17" />。日本語版にはマイクロソフトが[[リコー]]と2年かけて共同開発した[[MS ゴシック]]と[[MS 明朝]]の2書体が追加で付属した<ref>「リコー、マイクロソフトと提携―パソコン向け漢字ソフトを供給。」『日経産業新聞』1993年5月17日、1面。</ref>。これにより[[WYSIWYG]]に一歩近づいた。
;マルチメディア機能
:「[[サウンド レコーダー]]」や「[[Windows Media Player|メディア プレーヤー]]」など、Windows 3.0用の拡張ソフト「[[Windows Multimedia Extensions|Multimedia Extensions]]」に収録されていた機能の一部を統合した。
;[[Object Linking and Embedding|OLE]]
:アプリケーション間で情報を共有するOLE機能をサポートした。例えば、文書作成ソフトで作成した文書ファイルに表計算ソフトで作成した表データをOLEを利用して埋め込むと、表計算ソフトで作成した表データファイルへの変更は文書作成ソフトで作成した文書にも自動で反映されるようになる。
;[[ドラッグ・アンド・ドロップ]]の機能を拡張
:ファイルマネージャからファイルをアプリケーションのアイコンやウィンドウにドラッグ・アンド・ドロップ入力する操作をサポートした。また、ファイルマネージャ内で複数のウィンドウを開き、項目をウィンドウ間でドラッグ・アンド・ドロップすることで異なるディレクトリへファイルを移動・コピーできるようになった。
;リアルモードを廃止
:Windows 3.0にてWindows 2.xや古いシステムとの互換性を目的に実装されていたリアルモードが廃止された。もっとも、リアルモードに対応するWindowsアプリケーションを作ることは開発者にとって「難題」であり、リアルモードの廃止を惜しむ者はいなかった<ref name=":17" />。これにより8086プロセッサは動作対象外となった。
;[[Microsoft IME|MS-IME]] 日本語入力システム(日本語版)
:Windows 3.0以前では日本語入力システムはアプリケーションインターフェイスのみが実装され、各OEM先メーカーによって異なる日本語入力システムが使われていた。Windows 3.1日本語版では標準で日本語入力システムの Microsoft IME (MS-IME) が付属した。
;用語の見直し(日本語版)
:「了解」→「OK」、「取り消し」→「キャンセル」、「複写」→「コピー」など。Windows 3.1ベータ版のユーザー調査を基にメニューやマニュアルなどで使われる用語が変更された。
;マイクロソフト自社ブランドでの発売(PC/AT互換機・PC-9800シリーズ用日本語版)
:日本においてはWindows 3.0以前は各パソコンメーカー毎にそれぞれのパソコン向けに[[OEM]]供給されていた。その結果、ソフトウェアメーカーはいずれかのパソコンメーカーのWindowsに合わせてWindowsソフトを開発することになり、機種に依存しないはずのWindowsソフトが動作機種を限定して発売される場合が出てきた。そのため、マイクロソフトがリファレンスとして自社ブランドのWindowsを販売することで、機種を限定しないWindowsソフトの開発を促した。その一方で前バージョンに引き続きOEM供給によるパソコンメーカー(日本IBM・NEC・セイコーエプソン)からの販売も行われ、これらは付属するアプリケーションや日本語入力システムなどに一部独自要素があった。一方、シェアの少ないPC-9800シリーズ用英語版{{efn2|要求される性能がPC/AT版より高く、486SX(25MHz)以上のCPUと3.6MB以上(推奨5.6MB以上)のメモリを必要とし、ノーマル(スタンダード)モードでしか使用できなかった。}}、[[富士通]][[FMRシリーズ]]・[[FM TOWNS]]版・[[東芝]][[J-3100シリーズ]]版は各メーカーによるOEM版のみの発売となった。
=== その他のバージョン ===
日本向けにローカライズされなかったが、以下のものが存在した。
; Windows for Workgroups 3.1
: 1992年10月27日リリース<ref name=":18" />。Windows 3.1 にファイル共有などのネットワーク機能を追加するアドオンパッケージ。[[NetBEUI|NetBIOS]]上の[[Server Message Block|SMB]]プロトコルを利用するものであった<ref>{{Cite web|和書|url=https://atmarkit.itmedia.co.jp/ait/articles/1507/02/news026.html|title=Windowsネットワークの基礎:第7回 ファイル共有プロトコルSMBの概要 - @IT|accessdate=2017-02-08|date=2015-07-02}}</ref>。Windows for Workgroupsの日本語版は発売されなかった。1994年に次期Windows([[Microsoft Windows 95|Windows 95]])が発売される見込みであったことから、米国のマイクロソフト本社が開発しない決定を下したためと推測された<ref name=":18">「第三章 WFW、ウィンドウズNT、シカゴ、カイロ」『WINDOWSの時代 - マイクロソフトはパソコンをどう変えるか』 pp.75-98</ref>。Windows 3.1とは別のフルパッケージとして発売されている。
; Windows 3.11
: 1992年12月31日リリース<ref name="Release" />。Windows 3.1 のアップデート版(今で言うところのサービスパック適用版)であり、Windows 3.1のパッケージを小変更した形で発売された。この修正ファイルは[[CompuServe]]等の[[パソコン通信]]でも配布された<ref>{{Cite journal|author=Brian Livingston|date=1994-04-25|title=Microsoft integrates minor patches in its Windows upgrade|url=https://books.google.co.jp/books?id=IzsEAAAAMBAJ&lpg=PA31&ots=_d1tRyN1kn&hl=ja&pg=PA31|journal=Infoworld|volume=16|issue=17|page=31|accessdate=2017-02-13}}</ref>。
; Windows for Workgroups 3.11
: 1993年11月リリース<ref name=":18" />。P2P通信の無効化設定を追加、[[IPX/SPX]]プロトコルスタック、32ビットファイルアクセス等 [[Microsoft Windows 95|Windows 95]] で実装される予定のものを一部先取りで実装している<ref>{{Cite journal|author=Stuart J. Johnston|year=1993|title=Peer to peer can be nixed in WFW 3.11|url=https://books.google.co.jp/books?id=5zoEAAAAMBAJ&lpg=PA123&hl=ja&pg=PA123|journal=Infoworld|volume=15|issue=4|page=123|accessdate=2017-02-08}}</ref>。[[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]をサポートするアドオンも[[パソコン通信]]を通じて供給された<ref name=":1" />。日本語版は発売されなかった。Windows 3.11とは別のフルパッケージとして発売されている。
; Windows 3.2
: 1994年リリース。Windows 3.11 を簡体字中国語([[中華人民共和国]]向け)へローカライズしたバージョン<ref name="Chineseupd">{{cite web|url=http://support.microsoft.com/kb/129451|title=Microsoft Windows Simplified Chinese 3.2 Upgrade Is Available|accessdate=2009-09-04|date=October 30, 2003|work=microsoft.com|publisher=Microsoft|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061108051648/http://support.microsoft.com/kb/129451|archivedate=November 8, 2006|deadurl=no}}</ref>。なお、簡体字中国語市場へはそれまで英語版をリリースしていた。
== 反響 ==
=== 売れ行きと評価 ===
==== Windows 3.0 ====
発売前から長らく期待を集めていたWindows 3.0は、[[北アメリカ|北米]]を中心に急速に普及した。1年経たずして100万本の出荷を記録し<ref name=":6">{{Cite journal|author=Suzanne Weixel|date=1990-11-05|title=Technology Analysis : Windows 3.0 Breaks Through DOS barriers|url=https://books.google.co.jp/books?id=QnW7SFG3ZbMC&lpg=PA38&hl=ja&pg=PA38|journal=Computerworld|volume=24|issue=44|page=38|accessdate=2017-02-10}}</ref>、マイクロソフトの売上高は1990年度(1989年7月-1990年6月)の11.8億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]から1991年度(1990年7月-1991年6月)は55.8%増の18.4億ドルとなった。ソフトウェア市場におけるWindowsアプリケーションの売上はDOSアプリケーション市場の40 %に相当するとされた<ref>{{Cite journal|author=Elizabeth Eva|date=1991-07-29|title=Microsoft keeps eyes on Windows|url=https://books.google.co.jp/books?id=mVAEAAAAMBAJ&lpg=PA90&hl=ja&pg=PA90|journal=Infoworld|volume=13|issue=30|page=90|accessdate=\2017-02-10}}</ref>。1990年末には数々の主要なコンピュータ雑誌から賞賛を浴びた。
{{Quote|1=PC時代の年代記が書かれるとしたら、1990年5月22日はIBM互換PCが新時代に入った最初の日として記録されることになろう。この日、マイクロソフトがWindows 3.0をリリースした。そしてこの日、時代遅れの文字ベース・オペレーティングシステムと70年代スタイルのソフトに足を引っ張られていたIBM互換PCが、マルチタスクが可能でグラフィカルな操作環境とパワフルな新ソフトの時代に飛翔するコンピュータとして生まれ変わった。Windows 3.0は、先輩たち([[VisiOn]]、[[Graphical Environment Manager|GEM]]、初期バージョンのWindows、OS/2のプレゼンテーションマネージャ)にできなかったことを、見事にやってのけた。新バージョンは十分に強力で、既存のDOSアプリケーションを受け付け、PCにぴったり合っている。この149ドルのプログラムは、マルチタスク機能を持つグラフィカルな環境をPC上で提供する試みの中で、最もうまくいった例と言えよう。|2=Daniel Ichbiah/Susan L.Knepper 「第20章 ミライのビジョン」『マイクロソフト-ソフトウェア帝国誕生の軌跡-』 椋田直子訳、アスキー、1992年7月1日、390-391頁。{{ISBN2|978-4-7561-0118-1}}。訳文の原文は『PC Computing』1990年12月号より。}}
Windows 3.0のユーザーインターフェイスや[[ファイルマネージャ]]はMacintoshに及ばないが使いやすくなったと評価された<ref name=":7">{{Cite journal|author=William S. Hall|date=1990-09-11|title=Operating Environments : Windows 3.0|url=https://books.google.co.jp/books?id=NsgmyHnvDmUC&lpg=PT228&hl=ja&pg=PT192|journal=PC Mag|volume=9|issue=15|pages=182-239|accessdate=2017-02-10}}</ref>。メモリ管理やDOSとの互換性の改善も複数の雑誌で良い評価を得た<ref name=":6" />。一方で、多数のユーザーが所有するIntel 80286機では満足する動作は見込めず、比較的新しい[[Intel 80386]](i386)以上のシステムが必要だという点が最大の問題として指摘された<ref name=":5" />。これに対しマイクロソフト側は「プラットフォームにかかわらずユーザーはWindows 3.0の恩恵を得られる。386ベースのシステムで最も性能を発揮するが、最小システムではタスクスイッチャーとして働く。また、ユーザーはDOSのグラフィカルインターフェイスを獲得する。」と回答した<ref name=":6" />。
日本においてWindows 3.0は米国ほど広がりを見せなかったが、その要因として以下の問題が挙がった。
* [[一太郎]]などWindows 3.0にネイティブに対応するソフトウェアがまだ十分に出揃っていなかった。<ref name=":4">「パソコンOS「W3.0」、次世代の「窓」開かず―使いこなしに難点。」『日本経済新聞』1991年4月4日朝刊、13面。</ref>
* 当時の日本では[[PC-9800シリーズ]]がパソコン市場の50 %以上を占めていた。英語版では複数のDOSアプリケーションをウィンドウで並べ、従来の資産も有効に活用できることをセールスポイントにしていたが、PC-9800シリーズ版では旧バージョンと同様に全画面での排他利用しかできなかった。そのため、販売店側も販促デモの[[プレゼンテーション|展示]]にあたってウィンドウ表示を活用することに苦慮した。<ref name=":4" />
* Windows上でDOSアプリケーションを使用するには[[PIFエディタ]]であらかじめ環境設定を行う必要があったが、MS-DOSのメモリ管理は複雑化しており、初心者には難しい作業であった。多くのソフトウェアメーカーは設定方法を公開したが、[[ロータス (ソフトウェア)|ロータス]]や[[アスキー (企業)|アスキー]]などサポートの都合から設定方法を公開しないメーカーも存在した。<ref>{{Cite journal|和書|date=1991-04-15|title=パソコントピック・レポート : どう選ぶWindows時代のパソコン(中) : CPUはできるだけ高性能を|journal=日経パソコン|pages=130-134}}</ref>
* PC-9800シリーズを含め、Windowsを快適に動作させるために必要なハードウェアを揃えるとなると多額な投資が必要になった。<ref name=":4" />
[[スティーブ・バルマー]](当時、マイクロソフト上級副社長)も翌1992年の来日記者会見にて同様の見解を示した。
{{Quote|1=当社のパソコンOS「ウィンドウズ」が[[ガラパゴス化|日本市場で米国ほど売れていないのは、日米の市場構造が違うことが原因である。ハードウェアの互換性の問題やハードの価格が高いことなどだ。このほか、漢字変換やOSのハードへの搭載サービスなど様々な問題の解決]]がウィンドウズ普及の前提となる。|2=スティーブ・バルマー。「マイクロソフト副社長、日本出荷は予定通り―ウィンドウズNT、来年中。」『日経産業新聞』1992年10月13日、6面の引用文より。}}PC-9800シリーズ版の発売当初は受注に生産が追いつかない状況が続いた。これについて日本電気は、受注が予想を上回ったためメディアやマニュアルの生産が追いついていないことを説明した<ref name=":3" />。これに対してソフトハウスの間では「機種の違いで画面に現れるフォント(書体)が異なったり、印刷が狂うなどの[[不具合]]([[バグ]])を見つけて出荷を止めているのでは。」という推測が流れた<ref name=":4" />。
日本IBMの[[DOS/V]]版はMS-DOSアプリケーションの複数ウィンドウ表示に対応していたが、PC-9800シリーズ対応ソフトが約1万本であったことに比べ、1990年に発売されたばかりのDOS/Vに対応するアプリケーションは約200本と少なく、こちらも旧資産の継承という訴求材料だけでは不十分であった<ref>「「W3.0に窓がない」日本IBM 、日電などに挑戦状―互換機戦略が背景。」『日経産業新聞』1991年2月18日、7面。</ref>。
==== Windows 3.1 ====
[[ファイル:Japanese PC Shipments and Revenue.svg|サムネイル|日本のPC国内出荷台数(青線)と出荷額(赤線)([[電子情報技術産業協会|JEITA]]調べ)]]
Windows 3.1に対する雑誌の反応は使い勝手や信頼性が向上したという好意的なものであった。米国のPC Magazine誌はレビュー記事に「UAE(修復不可能なアプリケーションエラー)の終わり、新しい印刷エンジン、賢くなったSMARTDriveなど。マイクロソフトはWindowsを安定した豊かな環境にするために磨きをかけた。」という序文を付け<ref>{{Cite journal|date=1992-04-28|title=Cover Story : Windows 3.1 Brings More of Everything|url=https://books.google.co.jp/books?id=HERlo0BgpGYC&lpg=PT40&hl=ja&pg=PT124|journal=PC Mag|volume=11|issue=8|pages=123-160|accessdate=2017-02-12}}</ref>、日本の[[日経パソコン]]誌は「ドラマチックな変化はないものの、信頼性が低い、処理速度が遅いなど、Windows 3.0での不満点を改良した。」と評した<ref>「特集 : Windows 3.1の実力」、98頁。</ref>。
マイクロソフト日本法人は自社のWindows対応ソフトの売り込みを強化し、Windowsの普及を推進した。例えば、表計算ソフトの[[Microsoft Excel|Excel]] 4.0は1993年5月に98000円から58000円へと40%の値下げ。6月25日から他社の日本語文書作成ソフトを使用しているユーザーを対象に、58000円の[[Microsoft Word|Word]] 5.0を25000円で販売する「乗り換え・アップグレード・サービス」を開始した。これは1993年4月に発売された[[一太郎]] Ver.5(4年ぶりとなる新バージョン)に対抗したものと思われた<ref>「Part.6 ウィンドウズの本格的普及で急成長する日本法人・マイクロソフトKK」『マイクロソフト・ウィンドウズ戦略のすべて - 新情報ネットワーク時代への挑戦』 pp.174-230</ref>。同日にWordとExcelをセットにした、日本語版で最初のバージョンとなる[[Microsoft Office]]を発売<ref>「マイクロソフト、ウィンドウズ3.1対応ソフト―パッケージを投入」『日経産業新聞』1993年6月17日、6面。</ref>。翌1994年2月のOffice 1.5発表までに8万本を出荷し<ref>「マイクロソフト、ワープロ、表計算ソフト合体―「オフィス」新バージョン。」『日経産業新聞』1994年2月28日、7面。</ref>、1994年後半になると月20万本ペースの出荷になる<ref>「マイクロソフト、「オフィス」「ワード」増産―倍の月20万本に。」『日経産業新聞』1994年10月18日、6面。</ref>。オフィスソフト市場におけるマイクロソフトのシェアは急拡大することになった。
Windows 3.1のマルチメディア機能は個人市場の開拓を促し、ExcelやOfficeは企業にWindowsの導入を促した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.microsoft.com/japan/windows/20th/column/column_01_01.mspx|title=Microsoft Windows : 20 周年記念スペシャル座談会 Turning Point vol 1-1|accessdate=2017-02-13|publisher=[[マイクロソフト]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081221212819/http://www.microsoft.com/japan/windows/20th/column/column_01_01.mspx|archivedate=2008-12-21}}</ref>。
後年の評価としては、日本でのWindows 3.1はWindowsがパソコンユーザーに受け入れられた期間であったものの、パソコンが本当に一般に普及し始めたのは[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]からとされている<ref name=":14">{{Cite book|和書|author=情報処理学会 歴史特別委員会|authorlink=情報処理学会|title=日本のコンピュータ史|date=2010-10-25|publisher=[[オーム社]]|isbn=978-4-2742-0933-8|pages=106-107}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|year=2006|title=パソコン業界あの事件を追え! : ウィンドウシステムとWindows 95|journal=[[月刊アスキー]]|volume=30|issue=8|pages=72-73}}</ref>。しかしWindows 3.1の広がりは、日本メーカーの国内向けパソコンを独自開発から世界標準の[[PC/AT互換機]]に転換させ、「鎖国状態」を解消したことで競争力が上がり、パソコンの低価格化が進んだことで普及を後押しすることになった<ref name=":14" /><ref name=":52">{{Cite journal|和書|author=塩田紳二|year=1998|title=国産銘機列伝 : History 「そして、世界標準がやって来た」|journal=ASCII|volume=22|issue=8|pages=378-379|publisher=アスキー|issn=03865428}}</ref>。
=== OS/2とIBMとの対立 ===
マイクロソフトとIBMが共同開発していた[[OS/2]]との関係について、Windows 3.0発売当初は両者が明確な立場を示さなかったため、このことはマスコミや公衆の間で物議を醸した。Windowsはユーザーのニーズに対応したことで多数のユーザーを獲得しているが、ふたを開けるとそこには旧態依然のDOSが存在する。業界では、技術的にはOS/2の方が上回っており、長い目で見ればOS/2や[[UNIX]]の方が有利であるという意見で一致した<ref name=":5" /><ref name=":6" /><ref name=":7" />。
1990年9月17日、マイクロソフトとIBMは共同声明を出して、マイクロソフトはDOSとWindows、IBMはOS/2の開発に専念することを明らかにした<ref name=":8">「第二章 巨人IBMとマイクロソフト帝国の戦い」『WINDOWSの時代 - マイクロソフトはパソコンをどう変えるか』 pp.37-73</ref><ref>{{Cite journal|author=Stuart J. Johnston|date=1990-09-24|title=IBM, Microsoft reassess OS/2 Partnership|url=https://books.google.co.jp/books?id=lzwEAAAAMBAJ&lpg=PT39&hl=ja&pg=PA1|journal=Computerworld|volume=12|issue=39|page=1|accessdate=2017-02-10}}</ref>。日本IBMは1991年5月7日付けのOS/2 J2.0の発表資料で、Windowsを個人ユーザー向けのエントリーGUIシステム、OS/2を企業ユーザー向けの統合プラットフォームとして位置づけ<ref>{{Cite journal|和書|author=日本アイ・ビー・エム|title=OS/2の位置づけとアプリケーション移行の方向|journal=情報科学|publisher=情報科学研究所|issn=03683354|volume=27|page=181}}</ref>、OS/2 2.0はDOS 5.0とWindows 3.0を統合したエンタープライズ向けシステムとして紹介していた<ref>{{Cite journal|和書|date=1991-10-28|title=IBM OS/2 V2(広告)|journal=日経パソコン|page=175}}</ref>。IBMはOS/2を情報システムを構成するものとして企業ユースに考えていたのに対し、マイクロソフトはスタンドアロンで使用する個人ユースを想定していたため、営業戦略の不一致が決別の一因となった。別の要因として、開発体制や社風の違いで生じた企業間の壁も指摘された。<ref name=":9">「Part.4 使いやすいグラフィカル・ユーザー・インターフェースを持つ"ウィンドウズ"の開発」『マイクロソフト・ウィンドウズ戦略のすべて - 新情報ネットワーク時代への挑戦』 pp.122-157</ref><ref name=":19">{{Cite book|和書|author=古川享|authorlink=古川享|title=僕が伝えたかったこと、古川享のパソコン秘史 Episode1|year=2016|publisher=インプレスR&D|isbn=978-4-8443-9700-7}}</ref>
マイクロソフトとIBMの対立は1992年にかけて深まっていった。1991年10月21日、IBMがOS/2 2.0を12月31日までに出荷すると発表すると、マイクロソフトの[[スティーブ・バルマー]]は「12月31日までに、IBMがOS/2 2.0を出荷できたら、[[フロッピーディスク|フロッピー・ディスク]]を食べてみせる」と公言した。結局OS/2 2.0の出荷は1992年3月31日に延期されたが、この出来事はマイクロソフトとIBMの対立を印象づけるものになった<ref name=":8" />。同時期に発売されたWindows 3.1はさらに勢いを付け、1993年にはWindowsの圧勝の様相となった<ref name=":9" />。これについてOS/2の共同開発に参加したマイクロソフトの開発者は次のように語っている。
{{Quote|1=OS/2はハイエンドなマシン向けでマイクロプロセッサもインテルの386以上になりますし、メモリーもたくさん必要とします。技術的に優れ、パフォーマンスも良いし、製品としては優れていると思います。しかしアプリケーション・ソフトが少ないんです。ウィンドウズはマイクロプロセッサは286以上(ウィンドウズ3.1では386以上)が必要ですが、アプリケーション・ソフトも多くてハードウェアも安いので、価格の点でウィンドウズが一般的にはよく買われるようになったのです。|2=シンディ・ダーキン。 『マイクロソフト・ウィンドウズ戦略のすべて - 新情報ネットワーク時代への挑戦』 TBSブリタニカ、1993年10月7日。143頁の引用文より。}}なお、マイクロソフト日本法人と日本IBMはDOS/Vの営業で協力関係にあり<ref name=":19" />、1993年12月にもMS-DOS 6.2/VとPC DOS J6.1/Vを共同記者会見で発表するなど<ref>「マイクロソフト、MS-DOS最新版、自社ブランドで発売。」『日経産業新聞』 1993年12月7日、6面。</ref>、良好な関係をアピールした。
=== 日本でのPC/AT互換機市場 ===
[[ファイル:PC98 and domestic PC shipments in Japan 1990-1998.svg|サムネイル|PC-9800シリーズと日本国内PC本体出荷台数(1990年から1998年)]]折りしも発売時期が[[DOS/V]]の登場とマニア間で起きたDOS/Vブームが重なったこともあり、日本でのIBM PC/AT互換機市場の形成に大いに貢献した。
1991年当時、日本でのパーソナルコンピュータ (PC) 市場は国内メーカーで市場をほぼ独占していた。さらに言えばNECのPC-9800シリーズで[[寡占]]状態にあった。PC/AT互換機は世界中で販売されるため開発コストは日本市場でしか販売できない国内専用製品と比べ物にならないほど安価だったが<ref>{{Cite journal|和書|year=1988|title=実録!! NIES買物レポート|journal=[[月刊アスキー]]|volume=12|issue=12|page=292}}香港への旅費と現地で購入したPC/AT互換機の金額を足しても、日本で同等スペックの機種を購入するより安く収まったという記事。</ref>、日本語という障壁のため参入できない状態にあった。NECの製品展開は同社の[[オフィスコンピュータ]](オフコン)などとの兼ね合いから同時期のPC/AT互換機よりも低い性能レベルに据え置かれ、価格も引き下げられなかった{{要出典|date=2017年2月}}。しかし、安価かつ高性能なPC/AT互換機で日本語が扱え国産PCとも共通の[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]が利用できるWindowsの事実上の完成により、国内におけるPC/AT互換機市場は1994年にかけて急拡大することになった<ref name=":15" />。NECも同社のPC向けにWindowsを提供していたが、MS-DOS環境において存在していたアプリケーションの優位性が失われる結果となった。
DOS/V版Windows 3.0では、標準[[Video Graphics Array|VGA]]でも640*480/16色表示が可能で当時の主力機NECの[[PC-9800シリーズ]]の640*400/16色を上回っていたうえ、当時すでにほとんどのDOS/V機では[[Super VGA|SVGA]]モードを備えていた(もしくはグラフィック回路が拡張ボードとして独立しており交換が容易だった)ことから、市販の[[デバイスドライバ|ドライバ]]で800*600の高解像度をWindowsから利用することができた<ref>[[ソフマップ]]タイムス1992年1月号News flash「快適なWindows 3.0を目指して」</ref>。一部の英語版ディスプレイドライバではさらに高解像度・多色(640*480/256色、800*600/256色、1024*768/16色など)のGUI表示を行うためのパッチファイルや英語版ドライバで日本語表示を行う DDD (Display Dispatch Driver) が販売されて上級ユーザを中心にPC-9800シリーズよりも[[ハードウェア]]価格が安くて高性能なPC/AT互換機を求めるケースが増え、市場が立ち上がり始めた。<ref>{{Cite book|和書|author=中村繁利|title=激突!98対DOS/V VOL.1|date=1993-04-06|publisher=ビレッジセンター出版局|ISBN=4938704145|pages=132-139|chapter=98か?DOS/Vか? : パソコン強要講座その1}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|date=1993-03-01|title=NPCレポート : マーケット : 急速に立ち上がったDOS/Vパソコン市場―2月までの3ヶ月に2万台強得る|journal=[[日経パソコン]]|pages=142-148}}</ref>
次のDOS/V版Windows 3.1では多くの英語版ディスプレイドライバを直接使用しても高解像度・多色のGUI表示ができるようになる。また発売にあわせてTVCMも放映され、[[本木雅弘]]が「Windows!」を連呼するというインパクトのあるもので<ref>「大歓迎のIBM互換機メーカー」『マイクロソフト・ウィンドウズ戦略のすべて』 p.24</ref>、国内においてWindowsの名前を広く知らしめたことにより、PC-9800シリーズにこだわる必要がないというユーザーが増えていった。日本語版Windows 3.1からアウトラインフォント [[TrueType]] および、マイクロソフト版においてはかな漢字変換ソフト [[Microsoft IME]] が標準として採用され{{efn2|なお、NEC版ではNEC独自のIME「NECAI」が採用されていた。IBM版ではMS-IMEとIASインタフェースかな漢字変換プログラムが切替可能だった。セイコーエプソン版ではMicrosoft IMEと同一ながら名称が開発元のエーアイ・ソフトによる「WXA-WIN」の名称で採用され、東芝版では当時市販されていなかった[[ATOK]]7([[ジャストシステム]])のWindows版が採用されていた。}}<!---富士通に関しては資料が見つけられず不明です--->、各アーキテクチャ向けにて相違があった日本語の入出力環境の統一を図った。<ref>岩淵明男『マイクロソフト・ウインドウズ戦略のすべて』TBSブリタニカ、1993年10月7日初版、ISBN 4484932288、44-45頁。</ref><ref>戸内順一『Windows3.1マスターマニュアル』HBJ出版局、1994年3月29日初版、ISBN 4-8337-4501-1、96ページ</ref><ref>海老原浩之、川俣晶共著『Windows3.1スペシャル』技術評論社、1993年9月15日初版、ISBN 4-87408-573-3、120ページ</ref><ref>高橋良明『すぐに使えるWindows3.1』ソフトバンク、1993年10月15日初版、ISBN 4-89052-455-X、138ページ</ref>さらに[[BTO#パソコン業界におけるBTO|PCパーツ店による組み立てPC]]や外国のPCメーカーによるこの組み合わせでの新規参入も相次ぎ、市場ニーズがPC/AT互換機へシフトするきっかけとなる。
[[ファイル:Readers interested PC by machines in Japan 1993.png|サムネイル|次に買いたいパソコン(日経パソコン1993年5月調べ)]]
とは言え、まだこの段階では[[PC-9821シリーズ|PC-9800シリーズ]]も強力だった。オープンであるがゆえに規格の統一が今ひとつの[[PCオープン・アーキテクチャー推進協議会|OADG]]規格とその派生製品はこれらのオプション類の利用にPC-98シリーズより手間を要した。当然、日本のパソコン周辺機器メーカーはPC-9821シリーズのWindows 3.1用の周辺機器も発売し、量販効果ですぐに値下がりした。企業ユースやゲーム市場では、PC-98用ソフトの互換性を求めるユーザーもまだ相当数存在していた。更に、製造元であるNECやPC-98互換機メーカーである[[セイコーエプソン]]による価格引き下げなどの対抗策もあり、1995年まで50%のシェアを確保し続けた<ref name=":15" /><ref>{{Cite journal|和書|date=1993-06-21|title=パソコン・ユーザー実態調査 第1部 個人編 他機種を引き離すPC-98|journal=[[日経パソコン]]|pages=132-137}}</ref><ref>「96年度パソコン国内出荷台数、前年度比29.7%増―マルチメディア総研。」『日経産業新聞』 1997年4月24日、9面。</ref>。この流れが本格化するのは、機器の相違をデバイス仮想化などの方法によってOS側で吸収した[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]以降である。
=== 後継バージョンへの移行 ===
1995年8月に発売された[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]はそれまでパソコンに興味を持たなかった人々の関心を集め、個人市場の開拓に成功した。企業でもWindows 95を要望する従業員の声を聞き入れて買い換えを支援する動きが見られた。日経パソコンが1996年2月に日本の企業110社に対して行った調査では、Windows 95の「導入予定あり」が64%、「未定」が42%、「導入予定なし」が4%となった。「Windows 95の導入をどのように進めていくか」の問いに対して、「新規に導入したパソコンを中心に徐々に移行する」が30%となったものの、「既存のパソコンを含めて積極的に切り替える」はわずか8%に留まり、既存環境の移行には慎重な姿勢が見られた。「Windows 95の導入で、特に問題が多かった項目は」の問いに対しては、「MS-DOS対応やWindows 3.1対応ソフトの動作」(39%)、「既存のネットワークやデータベースとの接続」(35%)、「インストール関連」(32%)となった。<ref>{{Cite journal|和書|date=1996-03-25|title=第2特集 始まった企業のWindows 95導入 : 3.1からの移行で問題点明らかに|journal=[[日経パソコン]]|pages=200-207}}</ref>
マイクロソフトは[[Office 95]]や[[Microsoft Visual Basic|Visual Basic]] 4.0など、自社製品のWindows 3.1に対するサポートをまもなく打ち切った。しかし、1996年度にIDCが行ったデスクトップOS選択率の調査では、Windows 95が62.9%、Windows 3.1/3.11が17.4%となり、データクエストが米国の大企業を対象に行った調査では、マイクロソフト社製OS利用者のうち86%がWindows 3.1/3.11を使用していると報告した。あるソフトウェア・エンジニアは「マイクロソフトはまだ多くの3.1が使われていることを把握しているが、早くすべてを移行してそれを忘れることを望んでいる。」とコメントした。<ref>{{Cite journal|date=1997-03-10|title=Microsoft cranks 32-bit heat|url=https://books.google.co.jp/books?id=P2mVB4do5PEC&lpg=PT12&hl=ja&pg=PP1|journal=Computerworld|volume=31|issue=10|pages=1, 16|accessdate=2017-02-10}}</ref>
1999年に日経パソコンが日本の企業を中心に行った調査では、Windows 95の使用率が79.7%にのぼり、Windows 3.1の使用率は6.2%となった。<ref>{{Cite journal|和書|date=1999-06-26|title=99年度版企業のパソコン利用実態調査 : ソフト編 : 99年度もOSの主流はWindows 95|journal=[[日経パソコン]]|pages=226-227}}</ref>
=== 出荷本数の推移 ===
{{Columns-list|20em|small=1|
* Windows 3.0(全世界)
** 1990年5月22日発売
** 1990年6月22日 - 40万本{{要出典|date=2017年2月}}
** 1990年12月30日 - 100万本{{要出典|date=2017年2月}}
** 1991年5月 - 300万本以上<ref>「OS/2、最大62%値下げ、日本アイ・ビー・エム。」『[[日経産業新聞]]』1991年5月8日、5面。</ref>
** 1992年4月 - 900万本<ref name=":9" /><ref name="nikkei_19920406" />
* Windows 3.0(日本)
** 1991年1月23日 - NEC版発売
** 1991年3月13日 - 日本IBM版発売
** 1991年5月 - 日本電気版、受注累計6万本<ref name=":3">「日本電気、W3.0の販売目標年20万本に上方修正。」『日本経済新聞』1991年5月2日朝刊、11面。</ref>
** 1993年5月 - 44万本<ref name=":13" /><ref name=":2">「日本でも売上急増のマイクロソフト」『マイクロソフト・ウィンドウズ戦略のすべて』 pp.26-28</ref>
* Windows 3.1(全世界)
** 1992年4月6日発売 - 受注100万本<ref name="nikkei_19920406">「マイクロソフト、ウィンドウズ改訂版を出荷」『日経産業新聞』1992年4月7日、3面。</ref>
** 初日出荷100万本<ref name="Waki 1995">脇英世『Windows入門』岩波書店、1995年12月20日第1刷、1996年1月6日第3刷、ISBN 4-00-430420-2、74頁。</ref>
** 1992年4月12日 - 1週間で100万本販売<ref>「IBM、「OS/2」出荷40万本―年間で200万本―400万本。」『日経産業新聞』1992年5月18日、3面。</ref>
** 1993年5月 - 2500万本<ref name="x930517">「ウィンドウズ3.0初の改訂版、マイクロソフトあす発売。」『日本経済新聞』1993年5月17日夕刊、3面</ref>
** 1994年1月末 - 4000万本{{要出典|date=2017年2月}}
** 1995年1月 - 6000万本{{要出典|date=2017年2月}}
** 1995年8月 - 1億本<ref name="Waki 1995" />
* Windows 3.1(北米)
** 1995年5月26日 - 発売から50日で100万本販売<ref>「ウィンドウズ95、出走から"大物"ぶり発揮―わずか4日で100万本を販売。」『[[日本経済新聞]]』1995年8月30日夕刊、3面。</ref>
* Windows 3.1(日本)
** 1993年5月12日 - 日本電気版発売
** 1993年5月14日 - 日本電気版、受注6.5万本<ref name="x930517" />
** 1993年5月18日 - マイクロソフト版発売
** 1993年6月末 - 40万本<ref name=":2" />
** 1994年5月17日 - 146万本<ref>「マイクロソフト、ウィンドウズ3.1、販売140万本達成。」『日経産業新聞』1994年6月9日、6面。</ref>
** 1995年2月 - 300万本突破<ref name="x950620">「マイクロソフト、ウィンドウズの国内出荷400万本に。」『日本経済新聞』1995年6月20日朝刊、11面。</ref>
** 1995年5月末 - 402万本<ref name="x950620" />
}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|30em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=脇英世|title=MS-Windowsとは何か - ウィンドウがパソコンを変える|date=1991-01-20|publisher=[[講談社]]|ISBN=4-0613-2853-0}}
* {{Cite journal|和書|year=1991|title=特集 : Windows 3.0とは何か - ついに日本語版が発売となるWin3を解剖する|journal=[[月刊アスキー]]|volume=15|issue=3|pages=229-252}}
* {{Cite book|和書|title=Microsoft Windows Operating System Version 3.1 お使いになる前に|year=1993|publisher=Microsoft Corporation|id=KPN890076-9406}}
* {{Cite book|和書|title=Microsoft Windows Operating System Version 3.1 機能ガイド|year=1993|publisher=Microsoft Corporation|id=KPN890078-9406}}
* {{Cite journal|和書|date=1993-05-24|title=特集 : Windows 3.1の実力|journal=[[日経パソコン]]|pages=96-117}}
* {{Cite book|和書|author=岩淵明男|title=マイクロソフト・ウィンドウズ戦略のすべて - 新情報ネットワーク時代への挑戦|date=1993-10-07|publisher=TBSブリタニカ|ISBN=4-4849-3228-8}}
* {{Cite book|和書|author=脇英世|title=WINDOWSの時代 - マイクロソフトはパソコンをどう変えるか|date=1994-03-22|publisher=[[講談社]]|ISBN=4-0615-4211-7}}
* {{Cite book|和書|author=マイクロソフト(監修)|title=Windows 3.1 リソースキット|date=1993-12-21|publisher=[[インプレス]]|ISBN=4-8443-4631-8}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Microsoft Windows 3.0|Microsoft Windows 3.0}}
{{ウィキポータルリンク|オペレーティングシステム|[[ファイル:Alternative virtual machine host.svg|36px|ウィキポータル オペレーティングシステム]]}}
{{DEFAULTSORT:まいくろそふと ういんとうす 3.x}}
{{Windows}}
[[Category:MS-DOS・Windows 3.x・9x系|Windows 3.x]]
[[Category:DOSのソフトウェア]]
[[Category:1990年のソフトウェア]] | 2003-02-23T05:32:22Z | 2023-10-24T01:49:14Z | false | false | false | [
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'''3月1日'''(さんがつついたち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から60日目([[閏年]]では61日目)にあたり、年末まであと305日ある。
== できごと ==
[[Image:Massacre of Vassy.jpg|thumb|240px|[[ヴァシーの虐殺]](1562)。40年間に亘る[[ユグノー戦争]]始まる]]
[[Image:Fundação do Rio de Janeiro.JPG |thumb|240px|[[リオデジャネイロ]]市建設]]
[[Image:Inauguration Ceremony of Chief Executive of Manchukuo.JPG|thumb|240px|[[満洲国]]の建国を宣言(1932)。写真は3月9日、[[愛新覚羅溥儀]]の執政就任式]]
* [[紀元前8世紀|紀元前752年]] - [[ローマ]]の初代王[[ロームルス]]が、ローマ人の初の戦勝を祝い、[[ユーピテル]]の神殿を建てて捧げ物を捧げる。([[サビニの女たちの略奪]]を参照){{要出典|date=2021-03}}
* [[286年]] - ローマ皇帝[[ディオクレティアヌス]]が、[[マクシミアヌス]]を副帝とし[[ローマ帝国]]の西側の統治者とする{{要出典|date=2021-03}}。
* [[293年]] - ローマ東方[[アウグストゥス (称号)|正帝]]ディオクレティアヌスが、[[ガレリウス]]を東方[[カエサル (称号)|副帝]]、[[コンスタンティウス・クロルス]]を西方副帝とし、西方正帝マクシミアヌスとあわせて4人が帝位につく[[テトラルキア]]が始まる{{要出典|date=2021-03}}。
* [[317年]] - ローマ東方正帝[[コンスタンティヌス1世]]の息子の[[クリスプス]]と[[コンスタンティヌス2世]]、西方正帝[[リキニウス]]の息子リキニアヌスが副帝となる。
* [[1562年]] - [[ヴァシー]]で[[プロテスタント]]たちが虐殺される([[ヴァシーの虐殺]]、[[ユグノー戦争]]のはじまり)。
* [[1565年]] - [[リオデジャネイロ]]市が建設される。
* [[1692年]] - [[アメリカ合衆国]][[マサチューセッツ州]][[ダンバース (マサチューセッツ州)|セイラム村]]で[[セイラム魔女裁判]]が始まる。
* [[1709年]]([[宝永]]6年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]) - 将軍[[徳川綱吉]]の死後10日目で[[生類憐れみの令]]が廃止。
* [[1753年]] - [[スウェーデン]]で[[グレゴリオ暦]]を導入。[[2月17日]]の翌日が3月1日になる。
* [[1781年]] - [[連合規約]]がアメリカ[[13植民地]]の全ての邦の承認を得て発効。
* [[1803年]] - [[北西部領土 (アメリカ合衆国)|北西部領土]]が州に昇格し、[[アメリカ合衆国]]17番目の州・[[オハイオ州]]となる。
* [[1815年]] - [[エルバ島]]を脱出した[[ナポレオン・ボナパルト]]が[[フランス]]に上陸。
* [[1867年]] - [[ネブラスカ準州]]が州に昇格し、アメリカ合衆国37番目の州・[[ネブラスカ州]]となる。
* [[1872年]] - アメリカ議会が国立公園局設置法を可決。世界最初の[[国立公園]]・[[イエローストーン国立公園]]を設置。
* [[1874年]] - [[第四銀行|第四国立銀行]]開業。
* [[1882年]] - [[福澤諭吉]]が日刊新聞『[[時事新報]]』を創刊。
* [[1885年]] - [[日本鉄道]]・[[品川駅]] - [[赤羽駅]](現在の[[山手線]]・[[赤羽線]])間が開業。日本鉄道と官設鉄道(現在の[[東海道本線]])が接続。
* [[1886年]] - [[熱田駅]] - [[武豊駅]](現在の東海道本線の一部・[[武豊線]])間が開業。
* [[1888年]] - 神秘主義団体[[黄金の夜明け団]]が発足。
* [[1896年]] - [[第一次エチオピア戦争]]: [[アドワの戦い]]。[[イタリア]]の[[エチオピア]]侵攻軍が{{仮リンク|アドワ|en|Adwa}}で大敗。
* 1896年 - [[立憲改進党]]・[[立憲革新党]]などが合同して[[進歩党 (日本 1896-1898)|進歩党]]を結党。
* 1896年 - [[アンリ・ベクレル]]が[[放射線]]を発見。
* [[1902年]] - 戦艦三笠竣工。
* [[1905年]] - [[日露戦争]]: [[奉天会戦]]が行われる。[[3月10日]]まで。
* [[1910年]] - [[グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故]]
* [[1911年]] - [[帝国劇場]]が開館。
* [[1912年]] - [[余部橋梁]]の完成により山陰鉄道(現在の[[山陰本線]])・[[香住駅|香住]] - [[浜坂駅|浜坂]]が開業。[[京都駅]]から出雲今市駅(現在の[[出雲市駅]])までがつながる。
* [[1919年]] - [[日本統治時代の朝鮮|日本統治下の朝鮮]]で[[三・一運動]]が起こる。
* 1919年 - 官設鉄道[[中央本線|中央線]]・[[東京駅|東京]] - [[万世橋駅|万世橋]]が延伸開業。中央線 - 山手線[[上野駅]]までの「の」の字運転を開始。
* [[1921年]] - [[クロンシュタットの反乱]]。
* [[1922年]] - 日本初の[[アマチュア無線]]局が開局。
* [[1925年]] - 東京放送局(現在の[[日本放送協会|NHK]])がラジオの試験放送を開始。
* [[1930年]] - [[谷口雅春]]によって[[生長の家]]が立教される。
* [[1932年]] - [[満洲国]]の建国が宣言される。
* 1932年 - [[リンドバーグ愛児誘拐事件]]。
* [[1934年]] - 満洲国で帝政を実施し、[[清]]朝最後の皇帝・[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]が満洲国皇帝となる。
* [[1935年]] - [[ザール (国際連盟管理地域)|国際連盟管理地域ザール]]が[[ドイツ]]に復帰。
* [[1936年]] - ボールダーダム(現在の[[フーバーダム]])が竣工。
* [[1938年]] - [[京都市]]で日本初のタクシー料金のメーター制が導入される。
* [[1939年]] - [[大阪府]][[枚方市]]の陸軍[[禁野火薬庫]]で爆発事故。死者94人。
* [[1941年]] - [[第二次世界大戦]]: [[ブルガリア]]が[[日独伊三国同盟]]に加盟。
* 1941年 - [[国民学校令]]公布。4月1日から[[小学校]]を[[国民学校]]に改め、義務教育を8年に延長する。
* [[1942年]] - 第二次世界大戦・[[バタビア沖海戦]]: [[大日本帝国海軍|日本海軍]]が[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]艦隊に勝利し、[[インドネシア]]方面の連合軍艦隊は壊滅。
* 1942年 - 第二次世界大戦: 日本軍が[[ジャワ島]]に上陸。
* [[1945年]] - 日本の[[大審院]]が1942年に行われた[[第21回衆議院議員総選挙|翼賛選挙]]における鹿児島2区の選挙結果を無効とする判決を下す。([[鹿児島2区選挙無効事件]])
* [[1946年]] - [[イングランド銀行]]が国有化。
* 1946年 - 医学雑誌「医学のあゆみ」創刊(日本医学雑誌株式会社~[[医学書院]]~[[医歯薬出版]])。
* [[1949年]] - [[東京都]][[新宿区]][[戸山 (新宿区)|戸山]]の[[陸軍戸山学校]]跡に戸山ハイツが完成。
* [[1950年]] - [[民主自由党 (日本)|民主自由党]]と旧民主党の聯立派が合流して[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]を結党。
* 1950年 - [[日本国有鉄道|国鉄]]が[[東海道本線]]・東京 - 沼津124kmを電車運転化。[[湘南電車]]の使用を開始。
* [[1953年]] - ラジオ長崎(現・[[長崎放送]]ラジオ)開局。
* [[1954年]] - 太平洋の[[ビキニ環礁]]でアメリカが[[核実験|水爆実験]]([[キャッスル作戦]])。[[第五福竜丸]]が[[被曝]]。
* 1954年 - ラジオ山陰(RSB、現・[[山陰放送]]ラジオ)開局。
* [[1955年]] - [[日本生産性本部]]設立。
* [[1956年]] - [[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]で[[国家人民軍]]創設。
* [[1958年]] - ラジオ九州テレビジョン(現・[[RKB毎日放送]]テレビ)開局。
* [[1959年]] - [[フジテレビジョン]]、[[毎日放送|毎日放送テレビジョン(MBS)]]、[[九州朝日放送]]テレビジョン(KBC)開局。
* 1959年 - 吉本ヴァラエティ(現・[[吉本新喜劇]])第1回公演が[[うめだ花月|うめだ花月劇場]]で開催。
* [[1962年]] - [[アメリカン航空1便墜落事故]]。
* [[1966年]] - ソ連の金星探査機「[[ベネラ3号]]」が[[金星]]表面に衝突。史上初の地球以外の[[惑星]]表面への到達。
* [[1967年]] - [[阪急千里線]]・[[南千里駅]] - [[北千里駅]]間が開業。北千里駅に日本初の[[自動改札機]]が設置される。
* [[1969年]] - [[日本放送協会|NHK]]の[[NHK-FM放送|FM]]本放送開始。
* [[1971年]] - [[五木ひろし]]が「[[よこはま・たそがれ]]」で再デビュー。
* [[1976年]] - 韓国で[[金大中]]らが[[民主救国宣言]]を発表。
* [[1982年]] - 初の[[テレビ東京]]系列局として、[[テレビ大阪]](TVO)が開局。同時に[[テレビ東京]]系ネットワーク「[[TXNネットワーク|メガTONネットワーク(現・TXNネットワーク)]]」発足。
* 1982年 - [[日本国有鉄道|国鉄]]が、普通列車乗り放題の[[企画乗車券]]「青春18のびのびきっぷ」(現在の[[青春18きっぷ]])の発売を開始。
* [[1988年]] - [[水俣病]]の刑事訴訟で、最高裁が被告側の上告を棄却し、[[チッソ]]元社長らの有罪判決が確定。水俣病の発見から32年目。
* [[1991年]] - [[東日本旅客鉄道|JR東日本]]・山手線内の各駅で[[イオカード]]の使用を開始。
* [[1992年]] - [[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]が[[ユーゴスラビア]]からの独立を宣言。
* 1992年 - [[暴力団対策法]]、[[育児休業法]]施行。
* [[1994年]] - [[ダイエー]]が、[[忠実屋]]と[[ユニード|ユニードダイエー]]と[[ダイナハ]]を吸収合併。3会社の店舗は全てダイエーの直営店舗に。
* [[1995年]] - アメリカ・[[カリフォルニア州]]で[[Yahoo!]]が設立される。
* [[1997年]] - [[大阪ドーム]]が開場。
* [[1999年]] - [[対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約|対人地雷全面禁止条約]]が発効。
* [[2002年]] - [[欧州宇宙機関]] (ESA) の[[地球観測衛星]]「[[Envisat]]」が打ち上げられる。
* 2002年 - [[スペイン]]で[[ペセタ]]の通貨単位としての使用を停止。
* [[2003年]] - [[大和銀行]]と[[あさひ銀行]]が合併し、[[りそな銀行]]及び[[埼玉りそな銀行]]成立。
* 2003年 - 東京スタジアムが[[東京スタジアム (多目的スタジアム)|味の素スタジアム]]に名称を変更。
* [[2005年]] - [[東日本電信電話|NTT東日本]]・[[西日本電信電話|NTT西日本]]による[[固定電話]]の[[施設設置負担金]]が従来の半額に。
* [[2006年]] - [[本田技研工業]]の[[日本]]国内四輪[[自動車]]販売チャネル「[[プリモ店]]」「[[クリオ店]]」「[[ベルノ店]]」を、「ホンダ」チャネルに統合し全車種全店舗扱い化(同年8月より新屋号「Honda Cars」に変更)。
* [[2008年]] - [[コロンビア軍]]が[[エクアドル]]領内の[[コロンビア革命軍]]拠点を空爆。[[アンデス危機]]に発展。
* [[2010年]] - 大手百貨店の[[大丸]]と[[松坂屋]]が合併し、「[[大丸松坂屋百貨店]]」が発足。
* 2010年 - [[PlayStation 3#問題点|プレイステーション3]](新型機種を除く)にて、PlayStation Networkの世界規模の障害トラブルが発生。
* 2010年 - 電子掲示板サイトの[[2ちゃんねる]]が韓国からの大規模な[[DoS攻撃]]により、1日以上使用不可能となる。
* [[2011年]] - 大型スーパーの[[ジャスコ]]、[[サティ (チェーンストア)|サティ]]が一部店舗を除き[[イオン (店舗ブランド)|イオン]]の名称に統一された<ref>サティ:名称「イオン」に 全国91店舗で”. [[毎日新聞]] (毎日新聞社). (2011年3月1日)</ref>。
* [[2014年]] - [[昆明]]で[[2014年昆明駅暴力テロ事件|無差別殺傷事件]]が発生し、29人が殺害される<ref>{{Cite web|和書|date=2014年3月3日 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM0201E_S4A300C1FF8000/ |title=中国「ウイグル独立派テロ」と断定 昆明無差別殺傷 |publisher=日本経済新聞 |accessdate=2020-08-23}}</ref>。
* [[2015年]] - [[常磐自動車道]]が全線開通<ref>{{Cite web|和書|date=2015年3月1日 |url=https://www.sankei.com/affairs/news/150301/afr1503010026-n1.html |title=「浜の大動脈」全線開通…復興と観光、首都圏と直結効果見込む 常磐道富岡-浪江(1/2ページ) |publisher=産経ニュース |accessdate=2020-08-23}}</ref>。
=== 日本の自治体改編 ===
* [[1917年]] - 福岡県[[八幡市 (福岡県)|八幡市]](現在の[[北九州市]]の一部)・[[大牟田市]]が市制施行。
* [[1921年]] - 群馬県[[桐生市]]が市制施行。
* [[1947年]] - 愛知県[[津島市]]が市制施行。
* [[1951年]] - 静岡県[[焼津市]]、愛知県挙母市(現 [[豊田市]])、京都府[[宇治市]]が市制施行。
* [[1954年]] - 富山県[[滑川市]]が市制施行。
* [[1959年]] - 高知県[[室戸市]]が市制施行。
* [[1967年]] - 埼玉県[[鳩ヶ谷市]](現 [[川口市]])が市制施行。
* [[1971年]] - 神奈川県[[伊勢原市]]が市制施行。
* [[2004年]] - [[佐渡島]]内の全市町村が合併し、[[佐渡市]]が誕生。
* 2004年 - 石川県[[かほく市]]、福井県[[あわら市]]、岐阜県[[下呂市]]・[[郡上市]]、広島県[[安芸高田市]]、長崎県[[壱岐市]]・[[対馬市]]が市制施行。
* [[2005年]] - 福島県[[田村市]]、徳島県[[美馬市]]、佐賀県[[小城市]]が市制施行。
* [[2006年]] - 徳島県[[三好市]]、高知県[[香美市]]・[[香南市]]が市制施行。
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
[[Image:Sandro Botticelli - La nascita di Venere - Google Art Project - edited.jpg|thumb|300px|[[ルネサンス]]の画家[[サンドロ・ボッティチェッリ]](1445?-1510)誕生。画像は『[[ヴィーナスの誕生]]』(1485頃)]]
[[Image:Georg-Simmel-1914.jpg|thumb|200px|[[形式社会学]]を提唱した[[社会学者]][[ゲオルク・ジンメル]](1858-1918)]]
[[ファイル:Justin Bieber at Easter Egg roll.jpg|サムネイル|[[カナダ]]出身のシンガー、[[ジャスティン・ビーバー]](1994-)]]
* [[40年]] - [[マルティアリス]]{{要出典|date=2021-03}}、[[詩人]](+ [[102年]])
* [[1445年]] - [[サンドロ・ボッティチェッリ]]{{要出典|date=2021-03}}、[[画家]](+ [[1510年]])
* [[1456年]] - [[ウラースロー2世 (ハンガリー王)|ウラースロー2世]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/ウラディスラフ2世ヤゲロウェツ-35322 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2021-03-27 }}</ref>、[[ボヘミア]]・[[ハンガリー王国|ハンガリー]][[国王]](+ [[1516年]])
* [[1574年]]([[天正]]2年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]) - [[結城秀康]]<ref>{{Kotobank|結城秀康}}</ref>、[[武将|戦国武将]]、[[大名]](+ [[1607年]])
* [[1611年]] - [[ジョン・ペル]]、[[数学者]](+ [[1685年]])
* [[1683年]] - [[キャロライン・オブ・アーンズバック]]、[[イギリス]][[王妃]](+ [[1737年]])
* [[1716年]]([[正徳 (日本)|正徳]]6年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]) - [[伊藤若冲]]、[[絵師]](+ [[1800年]])
* [[1810年]] - [[フレデリック・ショパン]]、[[音楽家]](+ [[1849年]])
* [[1812年]] - [[オーガスタス・ウェルビー・ノースモア・ピュージン|オーガスタス・ピュージン]]、[[建築家]](+ [[1852年]])
* [[1816年]]([[文化 (元号)|文化]]13年[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]) - [[河竹黙阿弥]]、[[歌舞伎]]狂言作者(+ [[1893年]])
* [[1832年]] - [[フリードリヒ・グリュッツマッハー]]、[[チェリスト]](+ [[1903年]])
* [[1852年]] - [[テオフィル・デルカッセ]]、[[政治家]](+ [[1923年]])
* [[1855年]] - [[ポール・ハインズ]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1935年]])
* [[1858年]] - [[ゲオルク・ジンメル]]、[[社会学者の一覧|社会学者]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1918年]])
* [[1865年]]([[元治]]2年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) - [[安部磯雄]]、政治家(+ [[1949年]])
* [[1868年]] - [[ゾフィー・ホテク]]、[[オーストリア・ハンガリー帝国]][[皇太子妃]](+ [[1914年]])
* [[1875年]] - [[下村宏|下村宏(海南)]]、[[官僚]]、[[新聞]]人(+ [[1957年]])
* [[1876年]] - [[アンリ・ド・バイエ=ラトゥール]]、第3代[[国際オリンピック委員会|IOC]]会長(+ [[1942年]])
* [[1877年]] - [[中田薫 (法学者)|中田薫]]、[[法学者]](+ [[1967年]])
* [[1879年]] - [[田辺七六]]、[[政治家]]、[[実業家]](+ [[1952年]])
* 1879年 - ロバート・ダニエル・カーマイケル ([[:en:Robert Daniel Carmichael|Robert Daniel Carmichael]])、数学者(+ 1967年)
* [[1883年]] - [[朝倉文夫]]、[[彫刻家]](+ [[1964年]])
* [[1886年]] - [[オスカー・ココシュカ]]、[[画家]](+ [[1980年]])
* [[1887年]] - [[長田幹彦]]、[[作家]](+ 1964年)
* 1887年 - [[パーシヴァル・ワイルド]]、[[作家]]、[[劇作家]](+ [[1953年]])
* [[1888年]] - [[由谷義治]]、[[政治家]](+ [[1958年]])
* 1888年 - [[辰野隆]]、[[フランス文学者]]、[[随筆家]](+ [[1964年]])
* [[1889年]] - [[岡本かの子]]、[[小説家]](+ [[1939年]])
* 1889年 - [[和辻哲郎]]、[[倫理学|倫理学者]](+ [[1960年]])
* [[1892年]] - [[芥川龍之介]]、小説家(+ [[1927年]])
* [[1895年]] - [[小倉遊亀]]、[[日本画家]](+ [[2000年]])
* [[1896年]] - [[ディミトリ・ミトロプーロス]]、[[指揮者]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]](+ [[1960年]])
* [[1900年]] - [[鈴木傳明]]、[[俳優]](+ [[1985年]])
* [[1904年]] - [[グレン・ミラー]]、バンド[[指揮者]] (+ [[1944年]])
* [[1908年]] - [[菊田一夫]]、[[劇作家]]、[[作詞家]](+ [[1973年]])
* 1908年 - [[若林忠志]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1965年]])
* 1908年 - [[藤田省三 (野球)|藤田省三]]、元プロ野球選手(+ [[1987年]])
* [[1909年]] - [[出羽ノ花國市]]、[[大相撲]][[力士]]・第4代[[日本相撲協会]]理事長 (+ [[1987年]])
* [[1910年]] - [[デヴィッド・ニーヴン]]、俳優(+ [[1983年]])
* 1910年 - [[アーチャー・マーティン]]、[[化学者]](+ [[2002年]])
* [[1911年]] - [[西山卯三]]、[[建築家]]、[[建築学|建築学者]](+ [[1994年]])
* [[1912年]] - [[矢野健太郎 (数学者)|矢野健太郎]]、数学者(+ [[1993年]])
* 1912年 - [[ボリス・チェルトック]]、[[科学者]]、[[工学者]](+ [[2011年]])
* [[1916年]] - [[有島一郎]]、俳優(+ [[1987年]])
* [[1922年]] - [[イツハク・ラビン]]、第6代・11代[[イスラエルの首相|イスラエル首相]](+ [[1995年]])
* [[1927年]] - [[ハリー・ベラフォンテ]]、音楽家、俳優(+ [[2023年]])
* [[1928年]] - [[伊藤謙哉]]、[[天文学者]]
* 1928年 - [[清水澄子]]、政治家(+ [[2013年]])
* 1928年 - [[山根俊英]]、元プロ野球選手(+ [[2009年]])
* 1928年 - [[シーモア・パパート]]、数学者、[[計算機科学|計算機科学者]](+ [[2016年]])
* 1928年 - [[ジャック・リヴェット]]、[[映画監督]]、[[批評家]](+ [[2016年]])
* 1928年 - [[榎木兵衛]]、俳優(+ [[2012年]])
* [[1929年]] - [[ゲオルギー・マルコフ]]、ジャーナリスト(+ [[1978年]])
* [[1931年]] - [[ランベルト・ディーニ]]、政治家、第75代[[イタリアの首相|イタリア首相]]
* 1931年 - [[常盤新平]]、[[作家]]、[[翻訳家]](+ [[2013年]])
* [[1932年]] - [[百瀬宏]]、[[国際政治学者]]
* 1932年 - [[伊沢修]]、元プロ野球選手(+ [[1989年]])
* 1932年 - [[滝田ゆう]]、[[漫画家]](+ [[1990年]])
* [[1933年]] - [[南田洋子]]、[[俳優|女優]](+ [[2009年]])
* [[1935年]] - [[武藤礼子]]、[[声優]](+ [[2006年]])
* 1935年 - [[嵯峨美智子]]、女優(+ [[1992年]])
* [[1937年]] - [[西村嘉郎]]、テレビプロデューサー、実業家(+ [[2022年]])
* [[1938年]] - [[近藤光郎]]、元プロ野球選手
* [[1939年]] - [[祓川正敏]]、元プロ野球選手(+ [[2012年]])
* 1939年 - [[ツヴェタン・トドロフ]]、哲学者(+ [[2017年]])
* [[1941年]] - [[肥田美代子]]、[[政治家]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]]
* [[1942年]] - [[亀渕昭信]]、[[ディスクジョッキー]]、[[ラジオパーソナリティ]]
* 1942年 - [[マイケル・ジャイルズ]]、[[ミュージシャン]]([[キング・クリムゾン]])
* [[1943年]] - [[加藤茶]]、コメディアン([[ザ・ドリフターズ]])
* 1943年 - [[多賀英典]]、[[音楽プロデューサー]]、[[映画プロデューサー]]、[[実業家|芸能プロモーター]]
* 1943年 - [[ラシード・スニャーエフ]]、[[宇宙物理]]学者
* [[1944年]] - [[ロジャー・ダルトリー]]、ミュージシャン([[ザ・フー]])
* 1944年 - [[山本重政]]、元プロ野球選手
* [[1946年]] - [[里村正治]]、[[フィデアホールディングス]][[代表執行役]]社長、旧[[富士銀行]]元[[役員 (会社)#専務、常務、執行役、執行役員|常務]]取締役
* 1946年 - [[ヤン・コデシュ]]、[[テニス選手一覧|テニス選手]]
* [[1947年]] - [[末成映薫]]、[[喜劇女優]]
* 1947年 - [[テリー・レイ]]、元プロ野球選手
* 1947年 - [[三遊亭鳳楽]]、[[落語家]]
* [[1948年]] - [[團名保紀]]、[[美術史|美術史家]]、[[群馬大学]]名誉教授
* 1948年 - [[磯部清次]]、[[空手道|空手家]]
* [[1951年]] - [[大田卓司]]、元プロ野球選手
* 1951年 - [[片山広明]]、[[サクソフォーン|サックス]]奏者、ミュージシャン(+ [[2018年]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://chitei-records.jp/blog/article/%e6%9c%ac%e6%97%a5%e3%83%86%e3%83%8a%e3%83%bc%e3%81%ae%e7%89%87%e5%b1%b1%e5%ba%83%e6%98%8e%e3%81%8c%e4%ba%a1%e3%81%8f%e3%81%aa%e3%82%8a%e3%81%be%e3%81%97%e3%81%9f%e3%80%82%e3%81%94%e5%86%a5%e7%a6%8f.html|title=本日テナーの片山広明が亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。|publisher=地底レコード|date=2018-11-13|accessdate=2020-11-13}}</ref>)
* 1951年 - [[スコット・ロス]]、[[チェンバロ]]・[[オルガン]]奏者(+ [[1989年]])
* [[1952年]] - [[峰竜太]]、[[タレント]]、俳優 ※戸籍上の誕生日。実際の誕生日は2月29日
* 1952年 - [[佐久間正英]]、ミュージシャン、[[音楽プロデューサー]] ※戸籍上の誕生日。実際の誕生日は2月29日(+ [[2014年]])
* 1952年 - [[マーティン・オニール]]、元[[サッカー選手]]、[[サッカー]]指導者
* [[1953年]] - [[カルロス・ケイロス]]、元サッカー選手
* 1953年 - [[上川陽子]]、政治家
* [[1954年]] - [[ロン・ハワード]]、[[映画監督]]、映画プロデューサー、[[俳優]]
* 1954年 - [[十倉好紀]]、物理学者
* [[1955年]] - [[藤堂新二]]、俳優
* [[1956年]] - [[花咲アキラ]]、[[漫画家]]
* 1956年 - [[矢島健一]]、俳優
* 1956年 - [[ヤン・ヴァン・デル・ロースト]]、[[作曲家]]
* 1956年 - [[ダリア・グリバウスカイテ]]、政治家、[[リトアニアの統治者一覧|リトアニア大統領]]
* 1956年 - [[西山茂 (野球)|西山茂]]、元プロ野球選手
* [[1957年]] - [[高柳秀樹]]、元プロ野球選手
* 1957年 - [[ジョニー・レイ]]、元プロ野球選手
* [[1959年]] - [[徳弘正也]]、漫画家
* 1959年 - [[飯田譲治]]、[[脚本家]]、映画監督
* [[1960年]] - [[手塚治]]、テレビドラマプロデューサー、[[東映]][[代表取締役]][[社長]](+ [[2023年]])
* [[1961年]] - [[柱谷幸一]]、元サッカー選手、指導者
* 1961年 - [[隆三杉太一]]、元大相撲力士、年寄17代[[常盤山]]
* [[1963年]] - [[川崎麻世]]、俳優
* 1963年 - [[岡野進一郎]]、俳優
* 1963年 - [[トーマス・アンダース]]、[[ミュージシャン]]([[モダン・トーキング]])
* [[1965年]] - [[笠原昌春]]、[[プロ野球審判員]]
* [[1966年]] - [[奥田圭子]]、[[歌手]]、女優
* 1966年 - [[カシワクラツトム]]、声優
* 1966年 - [[ザック・スナイダー]]、映画監督
* 1966年 - [[島田まさし]]、お笑いタレント
* 1966年 - [[平林岳]]、プロ野球審判員
* [[1967年]] - [[藤井克典]]、[[日本放送協会|NHK]][[アナウンサー]]
* [[1968年]] - [[伊藤えん魔]]、声優、俳優
* 1968年 - [[相楽晴子]]、女優
* [[1969年]] - [[ダグ・クリーク]]、元プロ野球選手
* 1969年 - [[ハビエル・バルデム]]、俳優
* 1969年 - [[葉山みどり]]、元[[AV女優]]
* [[1970年]] - [[鄭珉台]]、元プロ野球選手
* 1970年 - [[中山美穂]]、女優、[[歌手]]
* 1970年 - [[タカヤマツトム]]、声優
* 1970年 - [[西川弘志]]、元俳優
* [[1971年]] - [[アレン・ジョンソン]]、[[陸上競技]]選手
* 1971年 - [[トーマス・アデス]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]]、[[指揮者]]
* [[1972年]] - [[石野見幸]]、歌手(+ [[2007年]])
* 1972年 - [[やすみりえ]]、[[川柳]]作家
* 1972年 - [[ジミー・ハースト]]、元プロ野球選手
* 1972年 - [[崔堯森]]、[[プロボクサー]](+ [[2008年]])
* [[1973年]] - [[道上龍]]、[[レーシングドライバー]]
* 1973年 - [[小笠原亘]]、[[TBSテレビ|TBS]]アナウンサー
* 1973年 - [[クリス・ウェバー]]、[[バスケットボール]]選手
* 1973年 - [[ライアン・ピーク]]、[[ミュージシャン]]([[ニッケルバック]])
* 1973年 - [[重信メイ]]、[[ジャーナリスト]]
* [[1974年]] - [[野本かりあ]]、歌手
* [[1976年]] - [[小島聖]]、女優
* 1976年 - [[バレリオ・ベルミリオ]]、[[バレーボール]]選手
* 1976年 - [[葉真中顕]]、[[小説家]]
* 1976年 - 真栄田賢、[[お笑いタレント]]([[スリムクラブ]])
* [[1977年]] - [[シレノス (ミュージシャン)|シレノス]]、ミュージシャン
* [[1978年]] - [[マシコタツロウ]]、[[作曲家]]、歌手
* 1978年 - [[上松範康]]、作曲家
* 1978年 - [[野川さくら]]、声優
* 1978年 - [[向井久子]]、元バレーボール選手
* 1978年 - [[ジェンセン・アクレス]]、[[俳優]]
* [[1979年]] - [[鈴木貴志]]、元プロ野球選手
* 1979年 - [[藍正龍]]、俳優
* [[1980年]] - [[井上裕介 (お笑い芸人)|井上裕介]]、お笑いタレント([[NON STYLE]])
* 1980年 - [[アンナ・セメノビッチ]]、[[フィギュアスケート]]選手、[[歌手]]、[[俳優|女優]]
* 1980年 - [[マイカ・ホフパワー]]、元プロ野球選手
* [[1981年]] - [[清水達也]]、[[作曲家]]
* 1981年 - [[ジェシカ・ミラー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1982年]] - [[廣野理恵]]、モデル
* 1982年 - [[GO!皆川]]、[[お笑い芸人]]
* 1982年 - [[杉村英孝]]、[[ボッチャ]]選手
* [[1983年]] - [[山本ヤマト]]、[[漫画家]]、[[イラストレーター]]
* 1983年 - [[ブレイク・ホークスワース]]、元プロ野球選手
* [[1985年]] - [[上ノ宮絵理沙]]、ファッションモデル
* 1985年 - [[古村大介]]、ミュージシャン([[NICO Touches the Walls]])
* 1985年 - [[河津修一]]、バトントワラー
* 1985年 - [[竹内一樹]]、ミュージカル俳優
* [[1986年]] - [[五郎丸歩]]、ラグビー選手
* 1986年 - [[香穂里]]、タレント
* 1986年 - [[エドゥアルド・モルラン]]、プロ野球選手
* 1986年 - 屋敷裕政、お笑いタレント([[ニューヨーク (お笑いコンビ)|ニューヨーク]])
* [[1987年]] - [[ケシャ]]、[[シンガーソングライター]]
* [[1988年]] - [[桜木咲耶]]、[[グラビアアイドル]]
* 1988年 - [[楯真由子]]、女優
* 1988年 - [[タッカーノ]]、お笑い芸人
* [[1989年]] - [[カルロス・ベラ]]、サッカー選手
* 1989年 - [[原菜摘子]]、元サッカー選手
* 1989年 - [[西原加純]]、陸上競技選手
* [[1990年]] - [[星沢なな]]、AV女優
* 1990年 - [[西條るり]]、AV女優
* 1990年 - [[宮澤智]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]アナウンサー、元タレント
* 1990年 - [[松山弘平]]、騎手
* 1990年 - [[今岡諒平]]、元プロ野球審判員
* 1990年 - [[小松ほなみ]]、グラビアアイドル
* 1990年 - [[ダシェンコ・リカルド]]、プロ野球選手
* 1990年 - [[ハリー・イーデン]]、俳優
* 1990年 - [[タダス・エリオシウス]]、サッカー選手
* 1990年 - [[マシュー・パー]]、元フィギュアスケート選手
* [[1991年]] - [[成田梨紗]]、タレント、元アイドル(元[[AKB48]])
* 1991年 - [[ロベルト・スアレス]]、プロ野球選手
* 1991年 - [[奥野香耶]]、[[声優]]([[Wake Up, Girls! (声優ユニット)|Wake Up, Girls!]])
* [[1993年]] - [[石田健大]]、プロ野球選手
* 1993年 - [[ウォノ]]、歌手(元[[MONSTA X]])
* 1993年 - [[斉藤秀翼]]、俳優
* [[1994年]] - [[大野真緒]]、[[俳優|女優]]
* 1994年 - [[朝乃山英樹]]、大相撲力士
* 1994年 - [[美波わかな]]、声優、舞台女優
* 1994年 - [[安齋らら]]、AV女優
* 1994年 - [[ジャスティン・ビーバー]]、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]シンガー
* 1994年 - [[赤楚衛二]]、[[俳優]]
* 1994年 - [[タイリーク・ヒル]]、[[アメリカンフットボール]]選手
* [[1995年]] - [[床田寛樹]]、プロ野球選手
* 1995年 - [[三浦弦太]]、サッカー選手
* [[1997年]] - [[粟津凱士]]、プロ野球選手
* [[1998年]] - 東理紗、アイドル([[生ハムと焼うどん]])
* [[2000年]] - [[片岡千之助]](初代)、[[歌舞伎役者]]
* [[2001年]] - [[ワンダー・フランコ]]、プロ野球選手
* [[2002年]] - [[廣川かのん]]、アイドル(欲バリセンセーション)
* [[2005年]] - 池田レイラ、お笑い芸人([[完熟フレッシュ]])
* 生年非公表 - [[茶月みきこ]]、[[漫画家]]
* 生年非公表 - [[樋上いたる]]、[[イラストレーター]]
* 生年不明 - [[伊藤はるか]]、声優
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1969年]] - [[スガノホマレ]]、[[競走馬]](+ 不明)
* [[1975年]] - [[サクラショウリ]]、競走馬(+ [[1999年]])
* [[1997年]] - [[キャプテンスティーヴ]]、競走馬
* [[1999年]] - [[アローキャリー]]、競走馬(+ [[2006年]])
* [[2000年]] - [[ユートピア (競走馬)|ユートピア]]、競走馬
* [[2001年]] - [[シーキングザダイヤ]]、競走馬
* [[2002年]] - [[アドマイヤフジ]]、競走馬
* 2002年 - [[サクラオリオン]]、競走馬
* [[2003年]] - [[アドマイヤジュピタ]]、競走馬
* [[2012年]] - [[リアルスティール]]、競走馬
* [[2017年]] - [[パンサラッサ (競走馬)|パンサラッサ]]、競走馬
== 忌日 ==
[[Image:Hyakuninisshu 089.jpg|thumb|200px|[[新三十六歌仙]]の1人、[[式子内親王]](1149-1201)。[[小倉百人一首]]「玉の緒よたえなばたえね長らへば忍ぶることのよわりもぞする」]]
* [[764年]]([[天平宝字]]8年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]) - [[阿倍子島]]、[[奈良時代]]の[[貴族]]
* [[1201年]]([[建仁]]元年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]) - [[式子内親王]]、[[歌人]]、[[新三十六歌仙]]の1人(* [[1149年]])
* [[1510年]] - [[フランシスコ・デ・アルメイダ]]、探検家(* [[1450年]])
* [[1697年]] - [[フランチェスコ・レディ]]、[[医学者]](* [[1626年]])
* [[1865年]]([[元治]]2年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) - [[武田耕雲斎]]、[[水戸藩]]士、[[天狗党の乱|天狗党]]首領(* [[1803年]])
* [[1891年]] - [[エドゥアルト・シェーンフェルト]]、[[天文学者]](* [[1828年]])
* [[1911年]] - [[ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフ]]、[[化学者]](* [[1852年]])
* [[1915年]] - [[ジェームズ・ゲイキー]]、[[地質学|地質学者]](* [[1839年]])
* [[1934年]] - [[長澤鼎]]、[[実業家]](* [[1852年]])
* 1934年 - [[服部金太郎]]、実業家、[[服部時計店]]創業者(* [[1860年]])
* [[1938年]] - [[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]、[[詩人]]、[[作家]](* [[1863年]])
* [[1939年]] - [[岡本綺堂]]、[[小説家]](* [[1872年]])
* [[1941年]] - [[森矗昶]]、実業家、[[昭和電工]]創業者、[[衆議院]]議員(* [[1884年]])
* [[1952年]] - [[久米正雄]]、小説家、[[劇作家]](* [[1891年]])
* [[1958年]] - [[ジャコモ・バッラ]]、画家(* [[1871年]])
* [[1971年]] - [[平塚武二]]、[[児童文学作家一覧|児童文学者]](* [[1904年]])
* [[1974年]] - [[田中耕太郎]]、[[法学者]]、[[文部科学大臣|文部大臣]]、[[最高裁判所長官]]、[[国際司法裁判所]]判事(* [[1890年]])
* 1974年 - [[ボビー・ティモンズ]]、[[ジャズ]][[ピアニスト]](* [[1935年]])
* 1974年 - [[ラリー・ドイル]]、プロ野球選手(* [[1886年]])
* [[1976年]] - [[ジャン・マルティノン]]、[[指揮者]](* [[1910年]])
* 1976年 - [[清水藤太郎]]、[[薬学|薬学者]](* [[1886年]])
* [[1978年]] - [[岡潔]]、[[数学者]](* [[1901年]])
* [[1983年]] - [[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』([[東京堂出版]]、[[1997年]](平成9年))p.144</ref>、[[文芸評論|文芸評論家]](* [[1902年]])
* [[1984年]] - [[ジャッキー・クーガン]]、[[俳優]](* [[1914年]])
* [[1987年]] - [[小坂佳隆]]<ref>カープ50年 夢を追って、中国新聞社、1999年11月、P68</ref>、[[プロ野球選手]](* [[1935年]])
* [[1988年]] - [[加藤嘉]]、[[映画俳優]](* [[1913年]])
* [[1995年]] - [[ジョルジュ・J・F・ケーラー]]、[[生物学者の一覧|生物学者]](* [[1946年]])
* [[1998年]] - [[水野忠彦 (野球)|水野忠彦]]、プロ野球選手(* [[1926年]])
* [[1999年]] - [[長谷川悟史]]、[[プロレスラー]](* [[1976年]])
* 1999年 - [[西村一孔]]<ref>{{Cite news |title=猛虎人国記 (44) 〜山梨県〜 桜のように咲き、散った剛腕 |newspaper=スポーツニッポン |date=2012-03-27 |author=内田雅也 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/mouko/kiji/K20120327002920180.html |accessdate=2021-02-16}}</ref>、プロ野球選手(* [[1935年]])
* [[2001年]] - [[小田稔]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.astroarts.co.jp/news/2001/03/02oda-minoru/|title=X線天文学のパイオニア、小田稔氏が死去|date=2001-03-02|accessdate=2021-02-05}}</ref>、[[天文学者]](* [[1923年]])
* 2001年 - [[久和ひとみ]]、[[ニュースキャスター]](* [[1960年]])
* [[2005年]] - [[木村保]]、プロ野球選手(* [[1934年]])
* [[2010年]] - [[高橋重行]]、プロ野球選手(* [[1945年]])
* [[2014年]] - [[アラン・レネ]]、[[映画監督]](* [[1922年]])
* [[2015年]] - [[ミニー・ミノーソ]]、プロ野球選手(* [[1925年]])
* [[2017年]] - [[かまやつひろし]]、ミュージシャン(元[[ザ・スパイダース]])(* [[1939年]])
* 2017年 - [[桑原楽之]]、[[サッカー選手]](* [[1942年]])
* [[2018年]] - [[古賀新一]]、ホラー[[漫画家]](* [[1936年]])
* [[2020年]] - [[ジャック・ウェルチ]]、実業家(* [[1935年]])
* 2020年 - 井伊伸、[[建築家]] (*[[1948年]])
* [[2021年]] - [[篠田桃紅]]、[[美術家]] (* [[1913年]])
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:March 1st movement.jpg|thumb|240px|[[三一節]]。[[三・一独立運動]]([[1919年]])を記念。画像はタプコル公園のレリーフ]]
* ビキニ・デー({{World}})
*:[[1954年]]3月1日に、太平洋の[[ビキニ環礁]]で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が[[核実験]]を行い、[[第五福竜丸]]が[[被曝]]したことから。世界で反核集会等が行われる。
* {{仮リンク|自傷行為防止啓発の日|en|Self-injury Awareness Day}}({{World}})
* [[三一節]]({{KOR}})
*: [[1919年]]3月1日に、[[大韓民国|韓国]]・[[ソウル特別市|ソウル]]で起こった[[三・一運動]]を記念。
* [[独立記念日]]({{BIH}})
*: [[1992年]]のこの日、ボスニア・ヘルツェゴビナが[[ユーゴスラビア]]からの独立を宣言した。
* {{仮リンク|マルテニッツァ|en|Martenitsa}}({{BGR}})
*: 家族や友達同士で「マルテニッツァ」という白糸と赤糸で作ったお守りを交換しあい、お互いの健康と幸せを願う。近隣の[[ルーマニア]]、[[北マケドニア]]、[[モルドバ]]の3月1日の習俗とともに[[ユネスコ]]の[[無形文化遺産]]に指定されている<ref>{{Cite web |title=UNESCO - Cultural practices associated to the 1st of March |url=https://ich.unesco.org/en/RL/cultural-practices-associated-to-the-1st-of-march-01287 |website=ich.unesco.org |access-date=2022-06-19 |language=en}}</ref>。
* [[デコポン]]の日({{JPN}})
*:[[1991年]]3月1日に、デコポンが熊本果実連によって初めて出荷されたことから。日本園芸農業協同組合連合会が制定。
* [[マヨネーズ]]の日({{JPN}})
*: [[1925年]][[3月9日]]に[[キユーピー]]が日本ではじめてマヨネーズを製造・販売し、日本初の「1」にちなんだことから。
* 切抜きの日({{JPN}})
*:[[1890年]]3月1日に日本で初めての切抜き会社「日本諸新聞切抜通信」が発足したことから[[内外切抜通信社]]が制定。
* [[国家人民軍記念日]]({{DDR}})
*: [[1956年]]3月1日に[[国家人民軍]]が設立されたことを記念して。
* 建国節({{MCK}})
*:[[1932年]]3月1日に満洲国が独立を宣言したことを祝う日。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0301|date=2011年6月}}
* 1947年(昭和22年)- 椿英輔[[子爵]]が失踪する。(小説『[[悪魔が来りて笛を吹く]]』第1章)
* 1954年 - ジャック(後の[[ビッグ・ボス]])が[[マーシャル諸島]]クエゼリン島米軍基地にて「ブラボーショット(実験)」に巻き込まれ、[[放射性降下物|降灰]]を浴びる。(ゲーム『[[メタルギアシリーズ]]』){{要出典|date=2020-07-29}}
* 1959年(昭和34年)- 作者はこの日付の鶴岡七郎からの[[手紙]]を受け取る。(小説『[[白昼の死角]]』エピローグ)
* [[宇宙世紀|U.C.]]0079年 - [[ジオン公国|ジオン軍]]が[[バイコヌール宇宙基地]]に降下、これを制圧(第一次降下作戦開始)(アニメ『[[機動戦士ガンダム]]』シリーズ)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1989年]] - 斎川美乃利(御法彩花)、小説・漫画・アニメ『[[ぼくたちのリメイク]]』に登場するキャラクター
* [[1995年]] - 菊間夏夜、アニメ『[[Wake Up, Girls!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://wakeupgirls.jp/character06.html |title=菊間 夏夜 |access-date=2022-10-30 |publisher=Green Leaves |work=Wake Up, Girls! 公式サイト}}</ref>
* 生年不明 - 杉元佐一、漫画・アニメ『[[ゴールデンカムイ]]』の主人公<ref>{{Twitter status|kamuy_official|1366226787512946688}}</ref>
* 生年不明 - [[春麗]] 、ゲーム『[[ストリートファイターII|ストリートファイター]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://game.capcom.com/cfn/sfv/column/130247 |title=キャラ図鑑104:春麗 |access-date=2022-08-21 |publisher=[[カプコン|CAPCOM]]:シャドルー格闘家研究所}}</ref>
* 生年不明 - 嵐山紫雨、地域活性プロジェクト『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/arashiyama_shigure|title=嵐山 紫雨|温泉娘公式サイト|work=温泉むすめ/Enbound, Inc.|accessdate=2020-08-01}}</ref>
* 生年不明 - 梶木漁太、漫画・アニメ『[[遊☆戯☆王]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=高橋和希|authorlink=高橋和希|date=2015-07-17 |title = 遊☆戯☆王キャラクターズガイドブック 千年の書 |page =105 |publisher = [[集英社]] |isbn = 978-4087797220 |series=[[Vジャンプブックス]]}}</ref>
* 生年不明 - ミノリノケロス、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Minorhinoceros.html |title=ミノリノケロス |access-date=2022-08-21 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=ONE PIECE.com}}</ref>
* 生年不明 - 二代目雷影(エー)、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|1233768899457347585}}</ref>
* 生年不明 - 若菜小春、漫画・アニメ『[[アイシールド21]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 加藤健、漫画・アニメ『[[銀魂]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 黛千尋、漫画・アニメ『[[黒子のバスケ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kurobasanime|1366050685502984194}}</ref>
* 生年不明 - 松川一静、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|date=2013-08-02|title=ハイキュー!!|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4-08-870786-0|volume=7巻|page=186}}</ref>
* 生年不明 - 矢巾秀、漫画・アニメ『ハイキュー!!』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2013|title=ハイキュー!!|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4-08-870820-1|volume=8巻|page=26}}</ref>
* 生年不明 - ミルコ、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/character/chara_group05/05-27/ |title=ミルコ |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |accessdate=2022-08-21 |work=僕のヒーローアカデミア}}</ref>
* 生年不明 - 小湊春市、漫画・アニメ『[[ダイヤのA]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://diaace.com/characters.html |title=小湊 春市 花江 夏樹 |access-date=2022-08-21 |publisher=TVアニメ「ダイヤのA」スペシャルサイト}}</ref>
* 生年不明 - 三浦単一、漫画『[[県立伊手高校柔道部物語・いでじゅう!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 半田白、漫画・アニメ『[[吸血鬼すぐ死ぬ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|johnwakawaii|1234733889135841280}}</ref>
* 生年不明 - 市橋なるみ、漫画・アニメ『[[ときめきトゥナイト]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 佐々木晴彦、漫画・アニメ『[[ちびまる子ちゃん]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 羽丘源一郎、漫画・アニメ『[[怪盗セイント・テール]]』のに登場するキャラクター
* 生年不明 - 結城琴子、漫画『[[銀色のハーモニー]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 小野三月、漫画『迷想区閾』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=方條ゆとり|authorlink=方條ゆとり|date=2003-03-27|title=迷想区閾|volume=2巻 |quote=裏面カバー下(コミック本体裏表紙)|publisher=[[スクウェア・エニックス]] |series =[[ガンガンウイングコミックス]]|ISBN 4-7575-0878-6}}</ref>
* 生年不明 - 一之瀬弥生、漫画・アニメ『[[ろんぐらいだぁす!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|miyaketaisi|1498499605428080642}}</ref>
* 生年不明 - 芥川龍一、漫画『[[エリートジャック!!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ユーリ・プリセツキー(ユリオ)、アニメ『[[ユーリ!!! on ICE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://yurionice.com/special/birthday/yurio/ |title=ユーリ・プリセツキー誕生日記念!プレゼントキャンペーン |access-date=2022-08-21 |publisher=はせつ町民会/ユーリ!!! on ICE 製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - 阿久津真武、アニメ『[[さらざんまい]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|noitamina_shop|1498312033372049409}}</ref>
* 生年不明 - 相原菜々、アニメ『[[キミキス pure rouge]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kimikiss-pure-rouge.jp/chara_nana.html |title=相原 菜々 |access-date=2022-10-30 |publisher=ENTERBRAIN, INC./「キミキス」製作委員会 |work=キミキス pure rouge}}</ref>
* 生年不明 - 美風藍、アニメ『[[うたの☆プリンスさまっ♪ マジLOVE1000%]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|utapri_official|1497436314215813124}}</ref>
* 生年不明 - 安原修、小説・漫画・アニメ『[[ゴーストハント]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ピナ=スフォルムクラン=エストー、小説・漫画・アニメ『[[れでぃ×ばと!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 凛堂ほたる(紫乃宮晶)、小説・漫画・アニメ『[[クオリディア・コード]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 長谷川みい、小説・ゲーム・アニメ『[[Re:ステージ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|rst_project|704324815050506240}}</ref>
* 生年不明 - 芥川龍之介、小説・アニメ『[[啄木鳥探偵處]]』のに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://kimikoe.com/kitsutsuki/index.html#chara |title=登場人物|芥川龍之介 |access-date=2022-08-21 |publisher=TVアニメ『啄木鳥探偵處』}}</ref>
* 生年不明 - 美坂香里、ゲーム・アニメ『[[Kanon (ゲーム)|Kanon]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://key.visualarts.gr.jp/product/kanon/character/ |title=美坂 香里<みさか かおり> |access-date=2022-08-21 |publisher=Kanon|Key Official HomePage}}</ref>
* 生年不明 - 野咲すみれ、ゲーム『[[ときめきメモリアル2]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 如月美冬、ゲーム・アニメ『[[タユタマ -Kiss on my Deity-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lumpofsugar.co.jp/product/tayutama/character/mifuyu.html |title=如月 美冬 |access-date=2022-08-21 |publisher=タユタマ -kiss on my deity-}}</ref>
* 生年不明 - [[アイドルマスター ミリオンライブ!の登場人物#ロコ|ロコ]]、ゲーム・漫画・アニメ『[[アイドルマスター ミリオンライブ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/30039 |title=ロコ(ろこ) |accessdate=2022-08-21 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - [[ラブライブ! スクールアイドルフェスティバル#上原歩夢|上原歩夢]]、ゲーム・アニメ『[[ラブライブ! スクールアイドルフェスティバル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://lovelive-as.bushimo.jp/member/ayumu/ |title=上原歩夢 |work=虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 |publisher=ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル ALL STARS |accessdate=2022-08-21}}</ref>
* 生年不明 - 若葉皆実、ゲーム『[[モンスターストライク]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 鹿子木鈴、ゲーム・漫画・アニメ『[[アイドル事変]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://idoljihen.jp/character/kanokogi-rin/ |title=熊本県 鹿子木 鈴 |access-date=2022-10-30 |publisher=MAGES. アイドル事変製作委員会 |work=アイドル事変}}</ref>
* 生年不明 - 芥川龍之介、ゲーム・アニメ『[[文豪とアルケミスト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|BunAl_PR|1366040513963556871}}</ref>
* 生年不明 - タマキ、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1366206605046423554}}</ref>
* 生年不明 - 三隅美也、メディアミックス『[[ストライクウィッチーズ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 躑躅森盧笙(つつじもりろしょう WISDOM)、メディアミックス『[[ヒプノシスマイク]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://hypnosismic.com/character/osaka/wisdom/ |title=CHARACTER 躑躅森 盧笙 / WISDOM |accessdate=2022-08-21 |publisher=『ヒプノシスマイク』オフィシャルサイト}}</ref>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{commons&cat|March 1|1 March}}
{{新暦365日|2|28|3|2|[[2月1日]]|[[4月1日]]|[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]|0301|3|01}}
※ただし、[[閏年]]の前日は[[2月29日]]。歴史的には[[2月30日]]があったこともある。
{{1年の月と日}}
[[Category:無形文化遺産]] | 2003-02-23T05:46:13Z | 2023-12-28T04:03:59Z | false | false | false | [
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2,750 | 3月2日 | 3月2日(さんがつふつか)は、グレゴリオ暦で年始から61日目(閏年では62日目)にあたり、年末まであと304日ある。 | [
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] | 3月2日(さんがつふつか)は、グレゴリオ暦で年始から61日目(閏年では62日目)にあたり、年末まであと304日ある。 | {{カレンダー 3月}}
'''3月2日'''(さんがつふつか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から61日目([[閏年]]では62日目)にあたり、年末まであと304日ある。
== できごと ==
* [[754年]]([[天平勝宝]]6年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) - [[鑑真]]が奈良に入洛する<ref>{{Cite web |url=https://kaidanin.or.jp/ganjin/ |title=鑑真和上(西戒壇院開山) |access-date=8 Nov 2023 |publisher=太宰府 戒壇院}}</ref>。
* [[986年]] - [[ルイ5世 (西フランク王)|ルイ5世]]が[[西フランク王国|西フランク王]]に即位。[[カロリング朝]]最後の国王。
* [[1476年]] - [[ブルゴーニュ戦争]]: [[グランソンの戦い]]が行われる。
* [[1657年]]([[明暦]]3年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]) - [[明暦の大火]]発生。
* [[1672年]]([[寛文]]12年[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]) - [[浄瑠璃坂の仇討]]発生。
* [[1791年]] - パリで遠距離通信のための[[腕木通信]]機が初めて公開される。
* [[1836年]] - [[テキサス革命]]: [[テキサス共和国]]が[[メキシコ]]からの独立を[[テキサス独立宣言|宣言]]。
* [[1855年]] - [[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]がロシア皇帝に即位。
* [[1861年]] - アメリカ合衆国が[[ネバダ準州]]と[[ダコタ準州]]を設置。
* [[1880年]] - [[高知県]]から分離して[[徳島県]]を設置。高知県・徳島県が現在の形となる。
* [[1884年]] - [[岡山県]]が旧藩主・[[池田家]]から買い取った[[岡山市]]の[[後楽園]]で一般公開を開始。
* [[1886年]] - [[帝国大学]](後の東京帝国大学、現 [[東京大学]])を設置するための[[帝国大学令]]公布。
* [[1889年]] - [[浄土真宗本願寺派]]の僧・[[曜日蒼龍]]がホノルルに到着。日本仏教のハワイ布教の始まり。
* [[1899年]] - [[レーニア山国立公園]]設置。
* 1899年 - [[北海道旧土人保護法]]公布。[[アイヌ]]の日本人化に拍車。
* [[1919年]] - モスクワで[[コミンテルン]](第三インターナショナル)設立大会。
* [[1938年]] - [[大粛清]] [[右翼トロツキスト陰謀事件]]: [[ニコライ・ブハーリン]]ら21名を被告として[[第3次モスクワ裁判]]はじまる。
* [[1939年]] - [[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]がローマ教皇に即位。
* [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]: [[オーストラリア]]が[[タイ王国]]に宣戦布告。
* 1942年 - 第二次世界大戦: アメリカ西海岸居住の[[日系アメリカ人|日系人]]に、[[日系人の強制収容|立ち退き・強制収容所への収容]]が命令される。
* [[1943年]] - 第二次世界大戦: [[ビスマルク海海戦]]
* [[1943年]] - [[野球]]用語([[ストライク (野球)|ストライク]]、[[ボール (野球)|ボール]]など)が全面的に日本語化。
* [[1946年]] - [[ホー・チ・ミン]]が[[ベトナム民主共和国]]の大統領に就任。
* [[1949年]] - [[池袋駅]]東口の[[闇市]]・池袋東口マーケットの取り壊し開始。
* [[1955年]] - [[第三清徳丸襲撃事件]]: [[尖閣諸島]]海域で漁をしていた第三清徳丸が、青天白日旗を掲げたジャンク船に銃撃される<ref>{{Cite web |url=https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/kenkyu/senkaku/chapter02_section04_03.html |title=第三清徳丸襲撃事件 ~ {{!}} 時代別テーマ解説 |access-date=8 Nov 2023 |publisher=尖閣諸島に関する研究・解説サイト}}</ref>。
* [[1960年]] - [[横浜歌謡ショー将棋倒し事故]]が発生。12人死亡、14人重軽傷<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=143|isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1956年]] - [[モロッコ]]が[[フランス]]からの独立を宣言。
* [[1962年]] - [[ミャンマー|ビルマ]]で[[ネ・ウィン]]が軍部無血クーデターに成功し、[[ミャンマーの大統領|大統領]]に就任。
* [[1967年]] - 前月に解任された[[スカルノ]]に代わって、インドネシア暫定国民協議会が[[スハルト]]議長を大統領代理に決定。
* [[1969年]] - [[中ソ国境紛争]]: [[中華人民共和国]]と[[ソビエト連邦]]の国境の[[珍宝島]](ダマンスキー島)の領有をめぐり両国軍が衝突。
* 1969年 - [[コンコルド]]の初の試験飛行を実施。
* [[1970年]] - [[ローデシア]]が共和制移行を宣言。
* [[1972年]] - アメリカの[[宇宙探査機]]「[[パイオニア10号]]」打ち上げ。
* [[1974年]] - [[那覇市]]小禄で下水道工事中に[[不発弾]]が爆発、幼稚園児を含む4人が死亡。
* [[1976年]] - [[北海道庁爆破事件]]。2名が死亡、80名が重軽傷。
* 1976年 - [[日本国有鉄道|国鉄]]の営業用[[蒸気機関車]](SL)の日常使用が終了。
* [[1978年]] - [[チェコスロバキア]]人の[[ウラジミル・レメック]]が搭乗する[[ソユーズ28号|ソユーズ-28]]が打ち上げ。初のアメリカ人・ソ連人以外の[[宇宙飛行士]]となる。
* [[1978年]] - 前年に死去した[[チャールズ・チャップリン]]の遺体が盗難される。
* [[1981年]] - [[中国残留日本人|中国残留日本人孤児]]が初めて正式に来日。
* [[1982年]] - 韓国政府が[[第五共和国 (大韓民国)|第五共和政]]1周年を記念して[[金大中]]ら政治犯2863人の[[恩赦]]を発表。
* [[1982年]] - [[福島県]][[原町 (福島県)|原町]]送信所の送信塔(200m)が解体工事が終了<ref>{{Cite web |url=https://www.minpo.jp/news/moredetail/2022020994307 |title=1982年(昭和57)年3月2日 原町無線塔姿消す 「福島県 今日は何の日」 |access-date=8 Nov 2023 |publisher=[[福島民報]] |date=2 Mar 2022}}</ref>。
* [[1983年]] - それまで日本とヨーロッパだけで発売されていた[[コンパクトディスク]]とプレイヤーが全世界で発売開始。
* [[1987年]] - [[シャープ]]・[[パナソニック|松下電器]]・[[アイワ]]が[[DAT]]を発売。
* [[1989年]] - [[欧州共同体]] (EC) 環境相会議で[[フロン類|フロンガス]]の生産・使用の[[2000年]]までの全面停止を決定。
* [[1992年]] - 旧[[ソ連]]の[[アルメニア]]・[[アゼルバイジャン]]・[[キルギス|キルギスタン]]・[[モルドバ]]・[[タジキスタン]]・[[トルクメニスタン]]・[[ウズベキスタン]]および[[サンマリノ]]が[[国際連合|国連]]に加盟。
* [[2000年]] - [[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]で[[テレクラ放火殺人事件]]が発生。4人が死亡。
* [[2001年]] - [[大阪駅]] - [[青森駅]]間を走る[[白鳥 (列車)|特急白鳥号]]が廃止になる。
* [[2004年]] - [[神戸市立王子動物園]]で日本初となる[[アジアゾウ]]の出産。子象は[[モモ (象)|モモ]]と名付けられる。
* [[2005年]] - [[土佐くろしお鉄道宿毛駅衝突事故]]。
* [[2006年]] - [[国産]]初の[[超音速航空機]]である[[T-2 (航空機・日本)|T-2]]がこの日をもって[[航空自衛隊]]から全機[[退役]]。
* 2006年 - [[任天堂]]の携帯型ゲーム機、[[ニンテンドーDS Lite]]が日本国内で発売。
* [[2013年]] - [[秋田新幹線脱線事故]]が発生<ref>{{Cite web|和書 |date=3 Mar 2013 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0204O_S3A300C1CC1000/ |title=吹雪の中、列車外へ 秋田新幹線脱線事故 |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=8 Nov 2023}}</ref>。
* [[2018年]] - リニア[[中央新幹線#談合事件|中央新幹線]]建設工事を巡る談合事件で、[[鹿島建設]]の土木営業本部の元副本部長と[[大成建設]]の元常務執行役員が、[[独占禁止法]]違反の容疑で逮捕される。
* [[2022年]] - [[欧州連合]](EU)が、2月24日にウクライナへの侵攻を開始したロシアに対し、対ロシア追加制裁の一環として、同国の銀行大手7行を国際送金・決済システムの[[国際銀行間通信協会]](SWIFT)から排除することを決定<ref>{{Cite web |url=https://jp.reuters.com/article/ukraine-crisis-eu-swift-idJPKBN2KZ1W2 |title=EU、SWIFTからロシア7行排除 最大手ズベルバンクは対象外 |access-date=8 Nov 2023 |publisher=[[ロイター|REUTERS]] |date=3 Mar 2022}}</ref>。
== 誕生日 ==
[[Image:Smetana1854portrait.jpg|thumb|[[交響詩]]『[[わが祖国 (スメタナ)|わが祖国]]』(1874-79)で知られる[[ボヘミア]]の作曲家[[ベドルジハ・スメタナ]](1824-1884)]]
[[Image:Mikhail Gorbachev 1987.jpg|thumb|[[ソビエト連邦]]最後の[[ソビエト連邦の指導者の一覧|最高指導者]][[ミハイル・ゴルバチョフ]](1931-2022)]]
* [[1316年]] - [[ロバート2世 (スコットランド王)|ロバート2世]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(+ [[1390年]])
* [[1459年]] - [[ハドリアヌス6世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス6世]]、第218代[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1523年]])
* [[1681年]]([[延宝]]9年[[1月12日 (旧暦)|1月12日]]) - [[松平吉邦]]、越前[[福井藩]]第8代藩主(+ [[1722年]])
* [[1758年]]([[宝暦]]8年[[1月23日 (旧暦)|1月23日]]) - [[牧野忠義]]、越後[[三根山藩|三根山領]]主(+ [[1803年]])
* [[1760年]] - [[カミーユ・デムーラン]]、[[フランス革命]]期の[[ジャーナリスト]]、[[政治家]](+ [[1794年]])
* [[1770年]] - [[ルイ=ガブリエル・スーシェ]]、[[ナポレオン戦争]]期のフランス軍[[元帥]](+ [[1826年]])
* [[1782年]]([[天明]]2年[[1月19日 (旧暦)|1月19日]]) - [[永井直方]]、大和[[大和新庄藩|新庄藩]]第5代藩主(+ [[1825年]])
* [[1793年]] - [[サミュエル・ヒューストン]]、政治家(+ [[1863年]])
* [[1810年]] - [[レオ13世 (ローマ教皇)|レオ13世]]、第255代ローマ教皇(+ [[1903年]])
* [[1824年]] - [[ベドルジハ・スメタナ]]、[[作曲家]](+ [[1884年]])
* [[1851年]] - [[フランツ・フォン・リスト]]、[[法学者|刑法学者]](+ [[1919年]])
* [[1859年]] - [[ショーレム・アレイヘム]]、[[劇作家]]、[[小説家]](+ [[1916年]])
* [[1876年]] - [[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]、第259代ローマ教皇(+ [[1958年]])
* [[1880年]] - [[米内光政]]、政治家、第37代[[内閣総理大臣]](+ [[1948年]])
* 1880年 - [[田中貢太郎]]、[[作家]](+ [[1941年]])
* [[1882年]] - [[坂本繁二郎]]、[[洋画家]](+ [[1969年]])
* [[1886年]] - [[田中秀央]]、[[西洋古典学|西洋古典学者]](+ [[1974年]])
* [[1892年]] - [[尾形藤吉]]、[[騎手]]、[[調教師]](+ [[1981年]])
* 1892年 - [[杉野芳子]]、[[ファッションデザイナー]]、[[教育者]](+ [[1978年]])
* 1892年 - [[ニコライ・ネフスキー]]、[[言語学者の一覧|言語学者]]、[[民俗学|民俗学者]](+ [[1937年]])
* [[1894年]] - [[アレクサンドル・オパーリン]]、[[化学者]](+ [[1980年]])
* 1894年 - [[村田実]]、[[映画監督]](+ [[1937年]])
* [[1897年]] - [[加藤シヅエ]]、[[婦人運動|婦人運動家]]、[[政治家]](+ [[2001年]])
* [[1900年]] - [[クルト・ヴァイル]]、作曲家(+ [[1950年]])
* [[1902年]] - [[モー・バーグ]]、[[プロ野球選手]](+ [[1972年]])
* [[1903年]] - [[森本六爾]]、[[考古学者]](+ [[1936年]])
* [[1904年]] - [[ドクター・スース]]、[[絵本作家]](+ [[1991年]])
* [[1907年]] - [[両國梶之助 (瓊ノ浦)|両國梶之助]]、[[大相撲]][[力士]](+ [[1959年]])
* [[1909年]] - [[メル・オット]]、プロ野球選手(+ [[1958年]])
* [[1910年]] - [[岩本裕]]、[[仏教学者]](+ [[1988年]])
* [[1913年]] - [[モート・クーパー]]、プロ野球選手(+ [[1958年]])
* [[1914年]] - [[マーティン・リット]]、[[映画監督]](+ [[1990年]])
* [[1917年]] - [[デイビッド・グーディス]]、小説家(+ [[1967年]])
* 1917年 - [[ジム・コンスタンティー]]、プロ野球選手(+ [[1976年]])
* [[1918年]] - [[美川陽一郎]]、[[俳優]](+ [[1976年]])
* [[1919年]] - [[タマーラ・トゥマーノワ]]、[[バレエ]]ダンサー(+ [[1996年]])
* 1919年 - [[ジェニファー・ジョーンズ]]、[[俳優|女優]](+ [[2009年]])
* [[1921年]] - [[三隅研次]]、[[映画監督]](+ [[1975年]])
* 1921年 - [[天野公義]]、政治家(+ [[1990年]])
* 1921年 - [[エルンスト・ハース (代表的なトピック)|エルンスト・ハース]]、[[写真家]](+ [[1986年]])
* [[1922年]] - [[李俊 (映画監督)|李俊]]、映画監督(+ [[2013年]])
* [[1924年]] - [[岡田茂 (東映)|岡田茂]]、[[映画プロデューサー]](+ [[2011年]])
* 1924年 - [[カル・エイブラムス]]、プロ野球選手(+ [[1997年]])
* [[1925年]] - [[佐伯有清]]、[[歴史学者]](+ [[2005年]])
* [[1926年]] - [[宮城野由美子]]、女優
* 1926年 - [[マレー・ロスバード]]、経済学者、歴史学者、政治哲学者(+ [[1995年]])
* 1926年 - [[ジョージ・P・L・ウォーカー]]、[[地質学|地質学者]]、[[火山学|火山学者]](+ [[2005年]])
* [[1927年]] - [[渡辺晋]]、[[渡辺プロダクション]]創設者(+ [[1987年]])
* 1927年 - [[神坂次郎]]、小説家(+ [[2022年]])
* [[1928年]] - [[伊藤茂]]、政治家、[[運輸大臣]](+ [[2016年]])
* [[1929年]] - [[和田一夫]]、[[実業家]](+ [[2019年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.asahi.com/articles/ASM8Y4CF7M8YULFA00G.html |title=元「ヤオハン」代表の和田一夫氏死去 アジア欧米に展開 |publisher=[[朝日新聞デジタル]] |date=29 Aug 2019 |accessdate=8 Nov 2023}}</ref>)
* [[1930年]] - [[保富康午]]、[[作詞家]](+ [[1984年]])
* 1930年 - [[吉原功]]、[[プロレスラー]](+ [[1985年]])
* [[1931年]] - [[青木望]]、作曲家、[[編曲家]]
* 1931年 - [[トム・ウルフ]]、[[作家]](+ [[2018年]])
* 1931年 - [[ミハイル・ゴルバチョフ]]、政治家(+ [[2022年]])
* 1931年 - [[藤木悠]]、俳優(+ [[2005年]])
* [[1932年]] - [[ハンベルト・フェルナンデス]]、元プロ野球選手(+ [[2016年]])
* 1932年 - [[高橋たか子]]、小説家(+ [[2013年]])
* [[1935年]] - [[山本耕一 (俳優)|山本耕一]]、俳優
* 1935年 - [[吉田剛 (脚本家)|吉田剛]]、[[脚本家]](+ [[2018年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sankei.com/article/20181119-WKHV2U4JPVKAXE3ONA45FAD3AI/ |title=「必殺シリーズ」の脚本家、吉田剛氏死去 |publisher=[[産経新聞]] |date=19 Nov 2018 |accessdate=8 Nov 2023}}</ref>)
* [[1936年]] - [[近藤和彦]]、プロ野球選手、[[プロ野球監督|監督]](+ [[2002年]])
* [[1937年]] - [[アブデルアジズ・ブーテフリカ]]、[[アルジェリアの大統領|アルジェリア大統領]](+ [[2021年]])
* [[1938年]] - [[リカルド・ラゴス]]、政治家
* [[1939年]] - [[島津貴子]]、[[島津久永]]夫人、[[昭和天皇]]五女、[[明仁|明仁上皇]]の末妹
* [[1942年]] - [[ジョン・アーヴィング]]、[[小説家]]
* 1942年 - [[ルー・リード]]、[[ミュージシャン]](+ [[2013年]])
* 1942年 - [[末次利光]]、元プロ野球選手
* [[1943年]] - [[柳瀬尚紀]]、[[英文学者]](+ [[2016年]])
* 1943年 - [[出水憲]]、俳優
* [[1947年]] - [[三遊亭小遊三]]、[[落語家]]
* 1947年 - [[中村英一]]、[[アニメーター]]
* 1947年 - [[みなもと太郎]]、[[漫画家]](+ [[2021年]])
* 1947年 - [[ハリー・レドナップ]]、元[[サッカー選手]]、指導者
* 1947年 - [[ユーリ・マチャセビッチ]]、[[数学者]]
* [[1948年]] - [[五街道雲助]]、落語家
* 1948年 - [[林家時蔵]]、落語家
* 1948年 - [[ロリー・ギャラガー]]、ミュージシャン(+ [[1995年]])
* 1948年 - [[ラリー・カールトン]]、[[ギタリスト]]
* 1948年 - [[アンドレイ・リンデ]]、[[物理学者]]
[[Image:Carpenters - Nixon - Office.png|thumb|[[カーペンターズ]]のボーカル、[[カレン・カーペンター]](写真左; 1950-1983)]]
* [[1950年]] - [[カレン・カーペンター]]、ミュージシャン([[カーペンターズ]])(+ [[1983年]])
* [[1953年]] - [[松下賢次]]、[[アナウンサー]]
* 1953年 - [[加藤光久]]、実業家
* 1953年 - [[北側一雄]]、政治家
* 1953年 - [[斉藤滋宣]]、政治家
* 1953年 - [[ラリー・ウルフ]]、元プロ野球選手
* [[1954年]] - [[剣幸]]、女優
* 1954年 - [[吉沢京子]]、女優
* 1954年 - [[高島雅羅]]、[[声優]]
* [[1955年]] - [[麻原彰晃]]、[[オウム真理教]][[グル|教祖]](+ [[2018年]])
* 1955年 - [[佐々木知子]]、政治家
* 1955年 - [[日向明子]]、女優(+ [[2011年]])
* 1956年 - [[藤原仁]]、元プロ野球選手
* [[1958年]] - [[イアン・ウーズナム]]、[[ゴルファー]]
* [[1959年]] - [[石田和明]]、漫画家
* [[1961年]] - [[桜玉吉]]、漫画家
* 1961年 - [[中島俊一 (ボクサー)|中島俊一]]、ボクサー
* 1961年 - [[シモーネ・ヤング]]、[[指揮者]]
* [[1962年]] - [[ジョン・ボン・ジョヴィ]]、[[歌手]]、作曲家、俳優([[ボン・ジョヴィ]])
* 1962年 - [[森岡浩之]]、[[SF作家]]
* [[1963年]] - [[井上祐二]]、元プロ野球選手
* 1963年 - [[アンソニー・アルバニージー]]、政治家、[[オーストラリア首相]]
* [[1967年]] - [[段田男]]、演歌歌手
* 1967年 - [[安田弘之]]、漫画家
* 1967年 - [[南夕花]]、女優
* 1967年 - [[レオ・ゴメス]]、元プロ野球選手
* [[1968年]] - [[伊沢利光]]、ゴルファー
* 1968年 - [[鏡リュウジ]]、心理占星術研究家、[[翻訳家]]
* 1968年 - [[ダニエル・クレイグ]]、俳優
* [[1970年]] - [[朝基まさし]]、漫画家
* [[1971年]] - [[水田薫]]、アナウンサー
* 1971年 - [[三上弥]]、アナウンサー
* 1971年 - [[豊田真奈美]]、[[プロレスラー]]
* [[1972年]] - [[魚住りえ]]、アナウンサー
* 1972年 - [[マウリシオ・ポチェッティーノ]]、元サッカー選手、指導者
* 1972年 - [[藪下めぐみ]]、プロレスラー、[[総合格闘家]]、[[柔道家]]
* [[1973年]] - [[秋田禎信]]、小説家
* 1973年 - [[島崎和歌子]]、[[タレント]]
* 1973年 - [[デヤン・ボディロガ]]、元[[バスケットボール選手]]
* [[1974年]] - [[中田大輔]]、[[トランポリン]]選手
* 1974年 - [[アンソニー・サンダース]]、元プロ野球選手
* [[1975年]] - [[イ・ソンギュン]]、俳優 (+ [[2023年]])
* 1975年 - [[中森友香]]、タレント
* 1975年 - [[芳賀紀行]]、[[オートバイ競技|オートバイレーサー]]
* 1975年 - [[大橋恵]]、[[作曲家]]
* [[1976年]] - [[岩木山竜太]]、元大相撲力士、年寄18代[[関ノ戸 (相撲)|関ノ戸]]
* 1976年 - [[片倉真二]]、漫画家
* 1976年 - [[湶尚子]]、タレント
* [[1977年]] - [[松田大輔]]、[[お笑い芸人]]([[東京ダイナマイト]])
* 1977年 - [[石山繁]]、[[騎手]]
* 1977年 - [[中倉彰子]]、[[女流棋士 (将棋)]]
* 1977年 - [[クリス・マーティン]]、ミュージシャン([[コールドプレイ]])
* [[1978年]] - [[御船健]]、俳優
* 1978年 - [[ヒース・ヒーリング]]、[[総合格闘家]]
* 1978年 - [[ライアン・ヤンキー]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1979年]] - [[ダミアン・ダフ]]、元サッカー選手
* 1979年 - [[樫の木ちゃん]]、漫画家
* 1979年 - [[セルゲイ・ダヴィドフ (フィギュアスケート選手)|セルゲイ・ダヴィドフ]]、フィギュアスケート選手
* [[1980年]] - [[優木まおみ]]、タレント、[[グラビアアイドル]]
* 1980年 - [[石川伸一郎]]、俳優
* 1980年 - [[レベル・ウィルソン]]、女優、[[コメディアン]]
* [[1981年]] - [[安居剣一郎]]、俳優
* 1981年 - [[二本柳壮]]、騎手
* 1981年 - [[ブライス・ダラス・ハワード]]、女優
* [[1982年]] - [[フェドール・アンドレーエフ]]、フィギュアスケート選手
* 1982年 - [[ベン・ロスリスバーガー]]、[[アメリカンフットボール]]選手
* 1982年 - [[ケヴィン・クラニー]]、サッカー選手
* [[1983年]] - [[千葉れみ]]、女優
* 1983年 - [[鷲巣あやの]]、グラビアアイドル
* 1983年 - [[加藤隆行]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[ペトル・ハルチェンコ]]、フィギュアスケート選手
* 1983年 - [[グレン・パーキンス]]、プロ野球選手
* [[1984年]] - [[茂木弘人]]、サッカー選手
* 1984年 - [[鄭大世]]、サッカー選手
* [[1985年]] - [[平松奈々]]、アナウンサー
* 1985年 - [[濱田玲]]、[[ファッションモデル]]
* 1985年 - [[マキシム・ザボジン]]、フィギュアスケート選手
* 1985年 - [[レジー・ブッシュ]]、アメリカンフットボール選手
* 1985年 - [[ジム・ネグリッチ]]、プロ野球選手
* 1985年 - [[石神直哉]]、サッカー選手
* 1985年 - [[バド・ノリス]]、プロ野球選手
* [[1986年]] - [[秋田真琴]]、女優
* 1986年 - [[小倉星羅]]、アナウンサー
* [[1987年]] - [[横山友美佳]]、[[バレーボール]]選手(+ [[2008年]])
* 1987年 - [[ジョフリー・ヴァーナー]]、フィギュアスケート選手
* [[1988年]] - [[伊澤麻璃也]]、女優
* [[1989年]] - [[亜里沙]]、女優、グラビアアイドル
* 1989年 - [[マルセル・ヒルシャー]]、[[アルペンスキー]]選手
* 1989年 - [[エドガー・ララ]]、プロ野球選手
* [[1990年]] - [[浅野祥]]、[[津軽三味線]]奏者
* 1990年 - [[早川諒]]、俳優
* 1990年 - [[Alice (日本のシンガーソングライター)|Alice]]、シンガーソングライター
* 1990年 - [[イ・ホンギ]]、歌手
* 1990年 - [[ルイス・アドビンクラ]]、サッカー選手
* 1990年 - [[ルーク・コムズ]]、[[カントリー・ミュージック|カントリー]]歌手
* [[1991年]] - [[川島絢子]]、ファッションモデル
* 1991年 - 山中拓也、ミュージシャン([[THE ORAL CIGARETTES]])
* [[1992年]] - [[里見香奈]]、[[女流棋士 (将棋)]]
* [[1993年]] - [[船岡咲]]、女優、ファッションモデル
* 1993年 - [[山中真由美]]、グラビアアイドル、タレント
* 1993年 - [[ホセ・アドリス・ガルシア]]、プロ野球選手
* 1993年 - [[永野将司]]、元プロ野球選手
* [[1994年]] - [[宮内龍汰]]、サッカー選手
* 1994年 - [[岡本菜摘]]、声優
* 1994年 - [[サイード横田仁奈]]、新体操選手
* 1994年 - [[ジェームズ・カプリーリアン]]、プロ野球選手
* [[1995年]] - [[小林麗菜]]、タレント
* [[1996年]] - [[浅石莉奈]]、女優
* [[1997年]] - [[川尻蓮]]、アイドル([[JO1]])
* [[1998年]] - [[トゥア・タゴヴァイロア]]、アメリカンフットボール選手
* [[1999年]] - [[吉井美優]]、アイドル(元[[26時のマスカレイド]])
* 1999年 - [[加世田梨花]]、陸上競技選手
* 1999年 - [[小室瑛莉子]]、[[フジテレビ]]アナウンサー
* 1999年 - [[谷口彩菜]]、グラビアアイドル、女優
* [[2001年]] - [[後藤希友]]、[[ソフトボール]]選手
* 2001年 - [[山田南実]]、グラビアアイドル
* 2002年 - ウォンビン、ボーイズグループ([[RIIZE]])
* [[2003年]] - [[瀧澤翼]]、俳優
* 2003年 - [[喉押さえマン]]、ものまねタレント
* 2003年 - [[キム・ダヨン]]、アイドル ([[Kep1er]])
* [[2009年]] - [[仲邑菫]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]]
* [[2010年]] - [[飯尾夢奏]]、女優
== 忌日 ==
=== 人物 ===
[[Image:Friedrich von Amerling 003.jpg|thumb|最後の[[神聖ローマ皇帝]]、[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]](1768-1835)没]]
[[Image:Serge Gainsbourg par Claude Truong-Ngoc 1981.jpg|thumb|[[フランス]]の[[歌手]][[セルジュ・ゲンスブール]](1928-1991)。『[[夢見るシャンソン人形]]』などで知られる]]
* [[1074年]]([[承保]]元年[[2月2日 (旧暦)|2月2日]]) - [[藤原頼通]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[992年]])
* [[1333年]] - [[ヴワディスワフ1世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ1世]]、[[ピャスト朝]][[ポーランド王国|ポーランド]]王(* [[1260年]]頃)
* [[1619年]] - [[アン・オブ・デンマーク]]、[[ジェームズ1世 (イングランド王)|イングランド王ジェームズ1世]]の妃(* [[1574年]])
* [[1694年]]([[元禄]]7年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]]) - [[毛利吉就]]、第4代[[長州藩|長州藩主]](* [[1668年]])
* [[1730年]] - [[ベネディクトゥス13世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス13世]]、第245代[[ローマ教皇]](* [[1649年]])
* [[1791年]] - [[ジョン・ウェスレー]]、[[キリスト教]][[司祭]]、[[メソジスト]]運動指導者(* [[1703年]])
* [[1797年]] - [[ホレス・ウォルポール]]、[[小説家]]、[[政治家]](* [[1717年]])
* 1797年([[寛政]]9年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) - [[森俊韶]]、第4代[[三日月藩|三日月藩主]](* [[1750年]])
* [[1835年]] - [[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]<ref>{{Cite web |title=Francis II|Holy Roman emperor |url=https://www.britannica.com/biography/Francis-II-Holy-Roman-emperor |access-date=8 Nov 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[神聖ローマ帝国]][[皇帝]](* [[1768年]])
* [[1840年]] - [[ヴィルヘルム・オルバース]]、[[天文学者]](* [[1758年]])
* [[1855年]] - [[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]、[[ロマノフ朝]]第11代[[ロシア帝国|ロシア]]皇帝(* [[1796年]])
* [[1865年]]([[元治]]2年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]) - [[津軽順承]]、第11代[[弘前藩|弘前藩主]](* [[1800年]])
* [[1868年]]([[慶応]]4年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]) - [[滝善三郎]]、[[岡山藩|岡山藩士]](* [[1837年]])
* [[1895年]] - [[ベルト・モリゾ]]、[[画家]](* [[1841年]])
* [[1901年]] - [[ジョージ・マーサー・ドーソン]]、[[科学者]]、[[探検家]](* [[1849年]])
* [[1904年]] - [[宮地堅磐]]、[[潮江天満宮]]神主(* [[1852年]])
* [[1905年]] - [[スタンプ・ウィードマン]]、元プロ野球選手(* [[1861年]])
* [[1908年]] - [[那珂通世]]、[[歴史学者]](* [[1851年]])
* [[1910年]] - [[佐々木高行]]、[[土佐藩|土佐藩士]](* [[1830年]])
* [[1926年]] - [[住友友純]]、[[実業家]](* [[1865年]])
* [[1930年]] - [[D・H・ローレンス]]、[[小説家]](* [[1885年]])
* [[1938年]] - [[松岡映丘]]、[[日本画家]](* [[1881年]])
* [[1939年]] - [[ハワード・カーター]]、[[考古学者]](* [[1873年]])
* [[1940年]] - [[マット・キルロイ]]、元プロ野球選手(* [[1866年]])
* [[1945年]] - [[エミリー・カー]]、[[芸術家]]、[[作家]](* [[1871年]])
* [[1956年]] - [[フレッド・マークル]]、元プロ野球選手(* [[1888年]])
* [[1968年]] - [[斎藤達雄 (俳優)|斎藤達雄]]、[[俳優]](* [[1902年]])
* [[1969年]] - [[若羽黒朋明]]、元[[大相撲]][[力士]]、元[[大関]](* [[1934年]])
* [[1972年]] - [[鏑木清方]]、画家(* [[1878年]])
* [[1975年]] - [[村野四郎]]、[[詩人]](* [[1901年]])
* 1975年 - [[吉田一穂]]、詩人(* [[1898年]])
* [[1982年]] - [[フィリップ・K・ディック]]、[[SF作家]](* [[1928年]])
* [[1991年]] - [[セルジュ・ゲンスブール]]、[[歌手]](* 1928年)
* [[1995年]] - [[田中勝雄]]、[[野球選手]](* [[1898年]])
* [[1997年]] - [[竹内理三]]、[[歴史家|歴史学者]](* [[1907年]])
* [[1998年]] - [[高橋健二 (ドイツ文学者)|高橋健二]]、[[ドイツ文学者]](* [[1902年]])
* [[2001年]] - [[ハロルド・ゴードン・スキリング]]、[[政治学者]](* [[1912年]])
* [[2002年]] - [[若林俊輔]]、[[教育学者]](* [[1931年]])
* [[2003年]] - [[生島治郎]]、小説家(* [[1933年]])
* [[2005年]] - [[マーティン・デニー]]、[[ミュージシャン]](* [[1911年]])
* [[2006年]] - [[久世光彦]]、[[演出家]]、小説家(* [[1935年]])
* 2006年 - [[ジャック・ワイルド]]、[[俳優]](* [[1952年]])
* [[2007年]] - [[アンリ・トロワイヤ]]、小説家(* 1911年)
* [[2008年]] - [[北島敬介]]、[[検事総長]](* [[1936年]])
* 2008年 - [[ジェフ・ヒーリー]]、[[ブルースロック]][[ギタリスト]]、[[歌手]](* [[1966年]])
* [[2022年]] - [[原田泰治]]、画家(* [[1940年]])
* 2022年 - [[宮澤篤司]]、歌手(* [[1973年]])
* [[2023年]] - [[大川隆法]]、宗教家(* [[1956年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2021年]] - [[ジャングルポケット (競走馬)|ジャングルポケット]]、競走馬(* 1998年)
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:Robot-army.png|thumb|ミニの日。写真は幅3cm未満の[[マイクロボット]]の群]]
* {{仮リンク|テキサス独立記念日|en|Texas Independence Day}}({{USA}}[[テキサス州]])
*: [[1836年]]のこの日、[[テキサス共和国]]が[[メキシコ]]からの独立を宣言した。
*[[ミニーマウス]]の日({{JPN}})
*: 3月2日の「32」が「ミニー」と読めることから。[[2011年]]、[[ウォルト・ディズニー・ジャパン]]によって制定された。
* [[ミニ (BMW)|ミニ]]の日({{JPN}})
*: 3月2日の「32」が「ミニ」と読めることから小さいもの、ミニチュアものを愛そうという日。MINIの輸入元である[[BMW JAPAN|BMWジャパン]]が制定。
*[[スーツ]]を仕立てる日({{JPN}})
*: [[2018年]]にカスタムオーダーファッション事業を展開する株式会社[[FABRIC TOKYO]]がオーダースーツを広く知ってもらうために制定した記念日。名称は「スー(3)ツ(2)」に由来する<ref>{{Cite web |title=スーツを仕立てる日(3月2日)|意味や由来・広報PRに活用するポイントと事例を紹介 |url=https://prtimes.jp/magazine/today/suit-day/ |website=PR TIMES MAGAZINE |date=2 Mar 2023 |access-date=8 Nov 2023 |publisher=PR TIMES Corporation.}}</ref>。
* 出会いの日({{JPN}})
*: 出逢いに感謝して新たな愛を育む日をと、株式会社カラットクラブの岡野あつこ氏が制定。日付は、3と2で出会いを意味するミーツ(meets)と読む語呂合わせから<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 上|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=67|isbn=978-4422021140 }}</ref>。
*遠山の金さんの日({{JPN}})
*: [[1840年]](天保11年)のこの日、[[遠山の金さん]]こと遠山左衛門尉景元が北町奉行に任命された。
* [[若狭彦神社#主な祭事|お水送り]]({{JPN}})
*: [[福井県]][[小浜市]]の神宮寺で行われる神事。若狭鵜の瀬の神宮寺の「お水取り」で採取した霊水は、10日間かけて奈良[[東大寺二月堂]]の「若狭井」に届くといわれている<ref>{{Cite web |url=https://tabi-mag.jp/jinguji-omizutori/ |title=神宮寺『お水送り』|小浜市 |access-date=8 Nov 2023 |publisher=一般社団法人プレスマンユニオン |website=ニッポン旅マガジン}}</ref>。
*行基會大祭({{JPN}})
*: 天平21年旧暦2月2日、[[行基]]は奈良[[喜光寺]]で82歳で入寂された。喜光寺ではこの日、行基會大祭としてご遠忌法要を営んでいる。 また薬師寺修験咒師本部により「柴燈大護摩供養」が執行される<ref>{{Cite web |url=https://kikouji.com/event/ |title=四季の行事 行基會大祭 毎年3月2日 |access-date=8 Nov 2023 |publisher=法相宗別格本山 喜光寺}}</ref>。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0302|date=Nov 2023}}
* [[宇宙世紀|U.C.]]0087 - [[エゥーゴ]]がグリーンノア1より[[ティターンズ]]の試作[[モビルスーツ]]3機を強奪。これにより[[グリプス戦役]]が本格的に開始される。(アニメ『[[機動戦士Ζガンダム]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1960年]] - [[丸井ヤング館]](元、寺井洋一)、漫画・アニメ『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』に登場するキャラクター<ref group="注釈">『Kamedas2』ではこの日だが、漫画では[[5月5日]]と記されている部分もある。</ref>
* [[1977年]] - 藤沼悟、漫画・アニメ『[[僕だけがいない街]]』に登場するキャラクター<ref name=":0">{{Cite web |url=https://bokumachi-anime.com/special/report/ |title=『僕だけがいない街』最終話先行上映会レポート |access-date=8 Nov 2023 |publisher=[[三部けい]]/[[KADOKAWA]]/アニメ「僕街」製作委員会 [[アニプレックス]]}}</ref>
* 1977年 - 雛月加代、漫画・アニメ『僕だけがいない街』に登場するキャラクター<ref name=":0" />
* 生年不明 - 石森羽花、漫画・映画『[[ハニーレモンソーダ]]』の主人公<ref>{{Twitter status|honeylemon_eiga|1366584054296928256}}</ref>
* 生年不明 - スキュラのイオ、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=http://saintseiya-official.com/museum/character/index.php?id=63 |title=スキュラのイオ |access-date=8 Nov 2023 |publisher=[[車田正美]] |work=『聖闘士星矢』 |website=MUSEUM 聖闘士博物館}}</ref>
* 生年不明 - [[サンジ]]、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://one-piece.com/character/sanji/index.html |title=サンジ |access-date=8 Nov 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref>
* 生年不明 - ヴィンスモーク・イチジ、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://one-piece.com/character/Ichiji/index.html |title=ヴィンスモーク・イチジ |access-date=8 Nov 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref>
* 生年不明 - ヴィンスモーク・ニジ、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://one-piece.com/character/Niji/index.html |title=ヴィンスモーク・ニジ |access-date=8 Nov 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref>
* 生年不明 - ヴィンスモーク・ヨンジ、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://one-piece.com/character/Yonji/index.html |title=ヴィンスモーク・ヨンジ |access-date=8 Nov 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=『ONE PIECE』}}</ref>
* 生年不明 - アイアンメイデン・ジャンヌ、漫画・アニメ『[[シャーマンキング]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 加藤勝郎、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1234132546142732288}}</ref>
* 生年不明 - 火野木望、漫画『[[ぼくのわたしの勇者学]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 鶯月鐡、漫画『[[天使とアクト!!]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 来間千鳥、漫画・アニメ『[[妖しのセレス]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 柊まつり、漫画・アニメ『[[らき☆すた]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |editor=コンプティーク 編 |year=2009 |title=らき☆すた おきらく公式ガイドブック こなたは俺をヨメ!! |publisher=[[角川書店]] |isbn=978-4-04-854420-7}}</ref>
* 生年不明 - 羊子、漫画『[[ねこのひたいであそぶ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 朝地信長、漫画・アニメ『[[ReLIFE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |title=CHARACTER 朝地 信長 |url=https://relife-anime.com/character/ |accessdate=8 Nov 2023 |publisher=[[アニプレックス]] [[夜宵草]]/[[comico]]/リライフ研究所 |work=『ReLIFE』}}</ref>
* 生年不明 - 間桐桜、小説・アニメ・映画『[[Fate/stay night|Fate]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ufotable|969226036087988228}}</ref>
* 生年不明 - ニーナ・クライン、アニメ『[[アルドノア・ゼロ|ALDNOAH.ZERO]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |title=ALDNOAH.ZERO ARCHIVEZ BOOK1:SETTINGS & DOCUMENTS |date=15 Aug 2014 |publisher=[[アニプレックス]] |page=15}}</ref>
* 生年不明 - 宮前透、アニメ『[[セイレン (アニメ)|セイレン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://www.tbs.co.jp/anime/seiren/chara/miyamae_toru.html |title=宮前透 |access-date=8 Nov 2023 |publisher=[[高山箕犀]]/セイレン製作委員会 [[TBSテレビ|Tokyo Broadcasting System Television, Inc.]] |work=『セイレン』}}</ref>
* 生年不明 - 神門杏奈、アニメ『[[イナズマイレブン アレスの天秤]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |date=22 Aug 2019 |url=https://corocoro.jp/special/68074/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=1 |accessdate=8 Nov 2023}}</ref>
* 生年不明 - マキシマ、ゲーム『[[ザ・キング・オブ・ファイターズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|KOF_ALLSTAR|1234131278904954881}}</ref>
* 生年不明 - 鷺沢縁、ゲーム『[[Memories Off]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://memoriesoff.jp/psp/sorekara/chara.html |title=キャラクター紹介 鷺沢縁 |access-date=8 Nov 2023 |publisher=[[5pb.]] / [[サイバーフロント|CYBERFRONT]] |work=『メモリーズオフ ~それから~』}}</ref>
* 生年不明 - ティカ・ブランシュ、ゲーム『[[スターオーシャン:アナムネシス]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=7|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref>
* 生年不明 - 小豆沢こはね、ゲーム『[[プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク|プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=https://pjsekai.sega.jp/character/unite03/kohane/index.html |title=小豆沢こはね |access-date=8 Nov 2023 |publisher=[[セガ|SEGA]] / Colorful Palette Inc. / [[クリプトン・フューチャー・メディア|Crypton Future Media, INC.]] [[ピアプロ|piapro]] |work=『プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク』}}</ref>
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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{{新暦365日|3|1|3|3|[[2月2日]]|[[4月2日]]|[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]|0302|3|02}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%882%E6%97%A5 |
2,751 | 一世一元の詔 | 一世一元の詔(いっせいいちげんのみことのり)は、慶応4年9月8日(グレゴリオ暦 1868年10月23日)、慶応4年を改めて「明治元年」とするとともに、天皇一代に元号一つという「一世一元の制」を定めた詔。明治改元の詔ともいう。
国立国会図書館が運営する日本法令索引(明治前期編)では、1979年(昭和54年)の「元号法」制定によって一世一元の詔は効力が消滅したとされているが、法務省大臣官房司法法制調査部編集『現行日本法規』では、1889年(明治22年)の旧・皇室典範の制定により失効したとされている。
明治元年九月八日
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] | 一世一元の詔(いっせいいちげんのみことのり)は、慶応4年9月8日、慶応4年を改めて「明治元年」とするとともに、天皇一代に元号一つという「一世一元の制」を定めた詔。明治改元の詔ともいう。 国立国会図書館が運営する日本法令索引(明治前期編)では、1979年(昭和54年)の「元号法」制定によって一世一元の詔は効力が消滅したとされているが、法務省大臣官房司法法制調査部編集『現行日本法規』では、1889年(明治22年)の旧・皇室典範の制定により失効したとされている。 | '''一世一元の詔'''(いっせいいちげんのみことのり)は、[[慶応]]4年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]([[グレゴリオ暦]] [[1868年]][[10月23日]])、慶応4年を改めて「[[明治元年]]」とするとともに、[[天皇]]一代に[[元号]]一つという「'''[[一世一元の制]]'''」を定めた[[詔]]。'''[[明治]][[改元]]の[[詔]]'''ともいう。
[[国立国会図書館]]が運営する日本法令索引(明治前期編)では、[[1979年]]([[昭和]]54年)の「'''[[元号法]]'''」制定によって一世一元の詔は効力が[[消滅]]したとされている<ref>[http://dajokan.ndl.go.jp/SearchSys/History.pl?ID=00000763&FLKEY=0008863272951090 今後年号ハ御一代一号ニ定メ慶応四年ヲ改テ明治元年ト為ス及詔書(日本法令索引(明治前期編))]</ref>が、[[法務省]]大臣官房司法法制調査部編集『現行日本法規』では、[[1889年]](明治22年)の[[皇室典範 (1889年)|旧・皇室典範]]の制定により失効したとされている。
== 原文 ==
{{Quote|{{Kyujitai|詔體太乙而登位膺景命以改元洵聖󠄁代之典型而萬世之標準也朕󠄂雖否德幸賴祖󠄁宗之靈祇承鴻緖躬親萬機之政乃改元欲與海󠄀內億兆更󠄁始一新其改慶應四年爲明治元年自今以後革易舊制一世一元以爲永式主者󠄁施行<p>明治元年九月八日}}}}
=== 書き下し ===
{{quotation|太乙を体して位に登り、景命を膺けて以て元を改む。洵に聖代の典型にして、万世の標準なり。朕、否徳と雖も、幸に祖宗の霊に頼り、祇みて鴻緒を承け、躬万機の政を親す。乃ち元を改めて、海内の億兆と与に、更始一新せむと欲す。其れ慶応四年を改めて、明治元年と為す。今より以後、旧制を革易し、一世一元、以て永式と為す。主者施行せよ。<p>明治元年九月八日}}
== 注釈 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wikisource|今後年號ハ御一代一號ニ定メ慶應四年ヲ改テ明治元年ト爲ス及詔書|一世一元の詔}}
* [[元号]]
* [[改元]]
* [[元号法]]
* [[明治天皇]]
* [[明治維新]]
{{DEFAULTSORT:いつせいいちけんのみことのり}}
[[Category:日本の詔勅]]
[[Category:日本の元号|+いつせいいちけん]]
[[Category:明治維新]]
[[Category:明治天皇]]
[[Category:1868年の日本]]
[[Category:1868年の法]] | null | 2023-01-25T00:24:45Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%B8%96%E4%B8%80%E5%85%83%E3%81%AE%E8%A9%94 |
2,755 | 五箇条の御誓文 | 五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん、五ヶ條ノ御誓文)(五箇条の誓文とも)は、京都御所の正殿・紫宸殿で明治元年3月14日(1868年4月6日)に明治天皇が日本神話の天神地祇に誓約する形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針。正式名称は御誓文であり、以下においては御誓文と表記する。
明治新政府は大政奉還後の発足当初から「公議」を標榜し、その具体的方策としての国是を模索していた。明治元年(1868年)1月、福井藩出身の参与・由利公正が、「議事之体大意」五箇条を起案し、次いで土佐藩出身の制度取調参与福岡孝弟が修正し、そのままになっていた。それを同年3月に入って長州藩出身の参与木戸孝允が加筆し、同じく参与の東久世通禧を通じて議定兼副総裁の岩倉具視に提出した。
福岡孝弟は、由利五箇条に対して第一条冒頭に「列矦會議ヲ興シ」(列侯会議ヲ興シ)の字句を入れるなどして封建的な方向へ後退させ、表題も「会盟」に改めたため、列侯会盟の色彩が非常に強くなった。さらに福岡は発表の形式として天皇と諸侯が共に会盟を約する形を提案した。しかし、この「会盟」形式は、天皇と諸侯とを対等に扱うものであり、「諸事神武創業之始ニ原キ」とする王政復古の理念にも反するという批判にさらされた。
そこで、参与で総裁局顧問の木戸孝允は、天皇が天神地祇すなわち日本神話の神々をまつり、神前で公卿・諸侯を率いて共に誓いの文言を述べ、かつ、その場に伺候する全員が署名するという形式を提案し、これが採用されることとなった。その際、木戸は、
その他、五箇条の順序を体裁良く整え直すなど、大幅に変更を加え、より普遍的な内容にした。また、議定兼副総裁の三条実美も福岡案表題の「会盟」を「誓」に修正したため、木戸による五箇条が「誓文」「御誓文」「五箇条誓文」「五箇条の御誓文」と呼ばれるようになった。木戸は後日、五箇条の意図について「天下の侯伯と誓い、億兆の向ふ所を知らしめ、藩主をして其責に任ぜんと欲し」たと述べている。
御誓文の原本は、天皇の書道指南役であった有栖川宮幟仁親王が勅命によって儀式前日に清書した。
3月14日、京都御所の正殿である紫宸殿にしつらえられた祭壇の前で、「天神地祇御誓祭」と称する儀式が執り行われた。御誓文の内容は、三条実美が神前で読み上げる形式で示された。なお、儀式の前には、天皇の書簡である御宸翰(億兆安撫国威宣揚の御宸翰)が披瀝され国民に下される。
儀式の式次第は以下の通り。まず、同日正午、京都に所在する公卿・諸侯・徴士ら群臣が着座。神祇事務局が塩水行事、散米行事、神おろし神歌、献供の儀式を行った後、天皇が出御。議定兼副総裁の三条実美が天皇に代わって神前で御祭文を奉読。天皇みずから幣帛の玉串を捧げて神拝して再び着座。三条が再び神前で御誓文を奉読し、続いて勅語を読み上げた。その後、公卿・諸侯が一人ずつ神位と玉座に拝礼し、奉答書に署名した。その途中で天皇は退出。最後に神祇事務局が神あげ神歌の儀式を行い群臣が退出した。
御誓文は太政官日誌(官報の前身)をもって一般に布告された。太政官日誌には「御誓文之御写」が勅語と奉答書とともに掲載されたほか、その前後には天神地祇御誓祭の式次第と御祭文や御宸翰が掲載された。当時の太政官日誌は都市の書店で一般に販売されていたが、各農村にまで配布されておらず、一般国民に対しては、キリスト教の禁止など幕府の旧来の政策を暫定処置として踏襲する五榜の掲示が出された。
慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)に明治新政府の政治体制を定めた政体書は、冒頭で「大いに斯国是を定め制度規律を建てるは御誓文を以て目的とす」と掲げ、続いて御誓文の五箇条全文を引用した。政体書は、アメリカ合衆国憲法の影響を受けたものであり、三権分立や官職の互選、藩代表議会の設置などが定められ、また、地方行政は「御誓文を体すべし」とされた。このほか、同布告では、諸藩に対して御誓文の趣旨に沿って人材抜擢などの改革を進めることを命じている。
また、各地の人民に対して出された告諭書にも御誓文を部分的に引用する例がある。例えば、同年8月7日(1868年9月22日)の「奥羽処分ノ詔」は御誓文第一条を元に「広く会議を興し万機公論に決するは素より天下の事一人の私する所にあらざればなり」と述べ、同年10月の「京都府下人民告諭大意」は御誓文第三条を元に「上下心を一にし、末々に至るまで各其志を遂げさせ」と述べている。
その後、政体書体制がなし崩しになり、さらには明治4年(1871年)の廃藩置県により中央集権が確立するに至り、御誓文の存在意義が薄れかけた。明治5年(1872年)4月1日、岩倉使節団がワシントン滞在中、御誓文の話題になった時、木戸孝允は「なるほど左様なことがあった。その御誓文を今覚えておるか」と言い、その存在を忘れていた模様である。この時、御誓文の写しを貰った木戸孝允は翌日には「かの御誓文は昨夜反復熟読したが、実によくできておる。この御主意は決して改変してはならぬ。自分の目の黒い間は死を賭しても支持する」と語った。明治8年(1875年)、木戸孝允の主導により出された立憲政体の詔書で「誓文の意を拡充して...漸次に国家立憲の政体を立て」と宣言。立憲政治の実現に向けての出発点として御誓文を位置付けた。
土佐藩出身の板垣退助は御誓文は立憲政治の実現を公約したものとして、明治7年1月12日、征韓論者を集めて愛国公党を設立。同1月17日、民撰議院設立建白書を左院に提出した。特に第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」は、民選議会を開設すべき根拠とされ自由民権運動が高まる中、明治13年(1880年)4月に植木枝盛が起草し片岡健吉・河野広中らが提出した『国会を開設するの允可を上願する書』でも繰り返し述べられている。また1882年(明治15年)の軍人勅諭と1890年(明治23年)の教育勅語で、神格化された天皇への忠誠などが強調されたことにより、御誓文を底流にした自由民権運動の系譜は抑圧されるかたちにもなった。明治憲法制定により帝国議会が開設されるまでの間、自由民権派は御誓文の実現を求めて、これを阻害する政府に対し批判を繰り返した。
戦後、昭和21年(1946年)1月1日の昭和天皇の、いわゆる人間宣言において御誓文の全文が引用されている。昭和天皇は幣原喜重郎首相が作成した草案を初めて見た際に、「これで結構だが、これまでも皇室が決して独裁的なものでなかったことを示すために、明治天皇の五箇条の御誓文を加えることはできないだろうか」と述べ、GHQの許可を得て急遽加えられることになった。天皇は後に、
と語っている。
昭和21年(1946年)6月25日、帝国議会の衆議院本会議における大日本帝国憲法改正案である日本国憲法案の審議の初め、当時の吉田茂首相は御誓文に言及して、
と答弁した。このように五箇条の御誓文は日本の民主主義の原理であるとしている 。
正式な表題は、法令全書によると、「御誓文」である。明治天皇自身がこれを呼ぶときは単に「誓文」という(例えば明治8年(1875年)の立憲政体の詔書)。よく使われる「五箇条の御誓文」などの呼称は、後の時代の通称である。
御誓文の本体は、明治天皇が天神地祇に誓った五つの条文からなる。この他、御誓文には勅語と奉答書が付属している。御誓文の各条および勅語・奉答書について解説すると次の通り。
この条文は、由利案では第五条であったが、福岡によって第一条に移された。その理由は「諸侯会議を以て第一着の事業と考え」たためと福岡自身が回顧している(福岡孝弟『五箇条御誓文と政体書の由来に就いて』大正8年(1919年)に依る。以下、福岡の回顧は特に断らない限りこれに依る)。
前段の「広く会議を興し」については、由利案には「会議」に相当する語はなく、福岡の修正案で「列侯会議」の語があらわれ、これが最終段階で「広く会議」と修正された。福岡は後年「この時平民までも此議会に与らしめる御つもりであったか」と問われ、「それは後から考えればそうも解釈されるが、御恥ずかしい話ですが当時私はまだその考えはなかったです」「広くとは人々の意見を広く集めて会議するというのではなく府藩県にわたりて広く何処にも会議を興すという義です」と答えた。
後段の「万機」は「あらゆる重要事項」の意味。「公論」は公議と同義、または公議輿論の略語であり、「みんなの意見」または「公開された議論」といったような意味である。由利の草稿では、初めは「万機公議」と書き、後で「万機公論」と改めている。
冒頭の「上下」は、由利案では「士民」だったが、福岡の回顧によれば「一層意味を広くするために士民を上下に改めた」という。「心を一にして」は日本国民の団結を表現する当時の決まり文句であり、江戸期の水戸学者の著作から後の教育勅語に至るまで広く使われている。
後段の「経綸」の語の解釈には注意が必要である。由利の出身藩である越前藩のために横井小楠が著した「国是三論」において「一国上の経綸」という章があり、そこでは主に財政経済について論じられていた。当時、経綸の語は一般に馴染みのある語ではなく、江戸版の太政官日誌では経綸を経論と誤記しケイロンとルビを振っていた。福岡は後に回顧して「由利が盛に経綸経綸という文句を口癖のごとく振りまわしていた所であったからそのままにして置いたのである。経綸という字の意味は元は経済とか財政とかを意味していたようであるが、これは説く人々の解釈に任してよいのである」と述べている。一般的には、経綸の語は、経済政策に限らず国家の政策全般を意味するものとして理解される。
由利案ではこの条文は第一条に置かれ最重視されていた。由利は後の著書「英雄観」で「庶民をして各志を遂げ人心をして倦まざらしむべしとは、治国の要道であって、古今東西の善政は悉くこの一言に帰着するのである。みよ、立憲政じゃというても、あるいは名君の仁政じゃといっても、要はこれに他ならぬのである」と述べている。
この条文は由利案や福岡案では存在せず、木戸の修正により登場した。木戸当初案の「宇内(うだい)」は「天下」「世界」の別表現である。「通義(つうぎ)」は「広く一般に通用する道理」という意味である(いずれも三省堂『大辞林』第三版)。
この条文を、戦前の研究者尾佐竹猛は、「旧来の陋習」は鎖国攘夷を指し、「天地の公道」は万国公法すなわち国際法の意味であり、この条文は開国の方針を規定したものとして狭く解釈していた。
しかし、これに対し、稲田正次・松尾正人・佐々木克たちは、「天地の公道」は開国の方針や国際法を示すことだけではなかったと明確に説明している。その理由として、御誓文と同時に出された宸翰に出てくる「旧来の陋習」の語がそもそも鎖国攘夷の意味に限定されていないこと、また木戸孝允自身が「打破すべき封建性」「打破すべき閉鎖性」の意味で「旧習」「旧来の陋習」「陋習」という言葉を広く使用していること、また、大久保利通でさえ木戸の「旧来の陋習」と同じ意味のことを「因循の腐臭」とより痛烈に批判していること、つまり、薩長いずれも密留学をさせ倒幕に立ち上がった開明的雄藩であったにもかかわらず長州の木戸より薩摩の大久保のほうが藩主父子・出身藩の内部事情などのためにより批判的にならざるを得ない危険な封建性・閉鎖性をより自覚していたということ(寺田屋事件~西南戦争)、更に、岩倉具視も他の文書で「天地の公道」という全く同じ言葉を万国公法とはおよそ次元の異なる「天然自然の条理というような意味」で用いていることなどが挙げられている。総じて、「天地の公道」(木戸当初案では「宇内の通義」)とは、普遍的な宇宙の摂理に基づく人の道を指しているものと解される。
前段の「智識を世界に求め」については、前述の横井小楠「国是三論」に「智識を世界万国に取て」とあり、ここから採られたものとみられる。後段の「皇基」とは「天皇が国を治める基礎」というような意味である。
福岡はこの条文を「従来の鎖国的陋習を打破して広く世界の長を採り之を集めて大成するの趣旨である」と回顧している。
この勅語は、明治天皇が神前で五箇条を誓った後、群臣に向けて下した言葉である。これは三条実美が読み上げている。
勅語中「年号月日」とある箇所は、実際の日付が記されている。「御諱」とは実名であり、ここには明治天皇の実名(睦仁)が記されている。
奉答書は、群臣が天皇の意志に従うことを表明した文書であり、総裁以下の群臣の署名がある。3月14日当日には411名の公卿と諸侯が署名し、残りの者は後日署名した。署名者には公卿と諸侯のほか、同年5月に天皇に直属する朝臣となった旧幕府旗本のうち千石以上の領地を持つ者も加わった。また、戊辰戦争で討伐の対象になった旧幕府方の諸藩も新政府から宥免が認められた後に署名を行っている。最終的には、公卿と諸侯は総計544名、その他288名が署名した。なお、美作鶴田藩のみ、当主の病気と名代となる世継ぎが幼少でいずれも上京出来ない状態であることを理由に署名の猶予が認められたまま、最終的には廃藩置県のために署名を行わなかった(詳細な経緯については松平武聰を参照)。 | [
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"text": "明治新政府は大政奉還後の発足当初から「公議」を標榜し、その具体的方策としての国是を模索していた。明治元年(1868年)1月、福井藩出身の参与・由利公正が、「議事之体大意」五箇条を起案し、次いで土佐藩出身の制度取調参与福岡孝弟が修正し、そのままになっていた。それを同年3月に入って長州藩出身の参与木戸孝允が加筆し、同じく参与の東久世通禧を通じて議定兼副総裁の岩倉具視に提出した。",
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"text": "福岡孝弟は、由利五箇条に対して第一条冒頭に「列矦會議ヲ興シ」(列侯会議ヲ興シ)の字句を入れるなどして封建的な方向へ後退させ、表題も「会盟」に改めたため、列侯会盟の色彩が非常に強くなった。さらに福岡は発表の形式として天皇と諸侯が共に会盟を約する形を提案した。しかし、この「会盟」形式は、天皇と諸侯とを対等に扱うものであり、「諸事神武創業之始ニ原キ」とする王政復古の理念にも反するという批判にさらされた。",
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] | 五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん、五ヶ條ノ御誓文)(五箇条の誓文とも)は、京都御所の正殿・紫宸殿で明治元年3月14日(1868年4月6日)に明治天皇が日本神話の天神地祇に誓約する形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針。正式名称は御誓文であり、以下においては御誓文と表記する。 | [[File:Go seimon u.png |thumb|220px|明治元年、京都御所紫宸殿にて[[五箇条の御誓文]]を公布されている様子。 [[聖徳記念絵画館]]蔵]]
[[ファイル:5jo1.gif|サムネイル|五箇条の御誓文|200px]]
'''五箇条の御誓文'''(ごかじょうのごせいもん、{{旧字体| '''五ヶ條ノ御誓文󠄁''' }})(五箇条の誓文とも)は、[[京都御所]]の正殿・紫宸殿で[[明治]]元年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]<ref group="注">原本の日付は「慶応四年戊辰三月」である。ただし、慶応4年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]([[1868年]][[10月23日]])に出された改元の詔書により、同年は[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]にさかのぼって[[明治元年]]と定められたため、「明治元年」でもある。</ref>([[1868年]][[4月6日]])に[[明治天皇]]が[[日本神話]]の[[天津神・国津神|天神地祇]]に[[宣誓|誓約]]する形式で、[[公卿]]や[[諸侯]]などに示した[[明治維新#明治政府|明治政府]]の基本方針<ref>{{Cite book|和書 |title=国史大辞典 |year=1985 |publisher=吉川弘文館 |page=582 |volume=5}}</ref>。正式名称は'''御誓文'''であり、以下においては御誓文と表記する<ref>{{Cite web |url=https://www.meijijingu.or.jp/about/3-3.php |title=五箇條の御誓文 |access-date=2023-09-25 |publisher=明治神宮}}</ref>。
== 沿革 ==
=== 起草の過程 ===
明治新政府は[[大政奉還]]後の発足当初から「公議」を標榜し<ref group="注">[[大政奉還]]後の慶応3年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]([[1868年]][[1月3日]])に出された[[王政復古 (日本)#王政復古の大号令|王政復古の大号令]]には、「縉紳武弁堂上地下之無別、至当之'''公議'''竭シ」とある。</ref>、その具体的方策としての[[国是]]を模索していた。明治元年(1868年)1月、[[福井藩]]出身の[[参与#明治時代の「参与」|参与]]・[[由利公正]]が、「'''議事之体大意'''」五箇条<ref group="注">[[坂本龍馬]]の[[船中八策]]が原型となったとの指摘もある([[砂田弘]]著 『坂本龍馬』 (新装版) ([[講談社]] 火の鳥伝記文庫) 新書 – 2017年10月19日発行 195ページ)。</ref>を起案し、次いで[[土佐藩]]出身の制度取調参与[[福岡孝弟]]が修正し、そのままになっていた。それを同年3月に入って[[長州藩]]出身の参与[[木戸孝允]]が加筆し<ref>田中彰著 『近代天皇制への道程』 吉川弘文館 1979年初版 2007年復刻 68ページ</ref>、同じく参与の[[東久世通禧]]を通じて[[議定]]兼[[副総裁]]の[[岩倉具視]]に提出した。
福岡孝弟は、由利五箇条に対して第一条冒頭に「列矦會議ヲ興シ」(列侯会議ヲ興シ)の字句を入れるなどして封建的な方向へ後退させ、表題も「'''会盟'''」に改めたため、列侯会盟の色彩が非常に強くなった。さらに福岡は発表の形式として天皇と諸侯が共に会盟を約する形を提案した。しかし、この「会盟」形式は、天皇と諸侯とを対等に扱うものであり、「諸事神武創業之始ニ原キ」とする[[王政復古 (日本)|王政復古]]の理念にも反するという批判にさらされた。
そこで、参与で[[総裁]]局顧問の[[木戸孝允]]は、天皇が[[天津神・国津神|天神地祇]]すなわち日本神話の神々をまつり、神前で公卿・諸侯を率いて共に誓いの文言を述べ、かつ、その場に伺候する全員が署名するという形式を提案し、これが採用されることとなった。その際、木戸は、
# 福岡案第一条の「列侯会議ヲ興シ」を「廣ク會議ヲ興シ」(広ク会議ヲ興シ)に改め、
# 「徴士」の任用期間を制限していた福岡案第五条を削除して、
# 木戸最終案第四条「'''旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ'''」を新たに組み込み、
# 五箇条に続く勅語「'''''我が国未曽有の変革を為んとし、朕、躬を以て衆に先んじ天地神明に誓い、大にこの国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆またこの旨趣に基き協心努力せよ'''''」新たに挿入させた
その他、五箇条の順序を体裁良く整え直すなど、大幅に変更を加え、より普遍的な内容にした。また、[[議定]]兼[[副総裁]]の[[三条実美]]も福岡案表題の「会盟」を「誓」に修正したため、木戸による五箇条が「'''誓文'''」「'''御誓文'''」「'''五箇条誓文'''」「'''五箇条の御誓文'''」と呼ばれるようになった。木戸は後日、五箇条の意図について「天下の侯伯と誓い、億兆の向ふ所を知らしめ、藩主をして其責に任ぜんと欲し」たと述べている<ref>妻木忠太『木戸松菊略伝』、松尾正人『幕末維新の個性8 木戸孝允』</ref>。
=== 儀式と布告 ===
[[ファイル:Goseimon_by_takahito.jpg|thumb|幟仁親王が揮毫した御誓文の原本<ref name=":0">高松宮家『幟仁親王行実』1933年、184頁、{{NDLJP|id=1212495/158}}。</ref>]]
御誓文の原本は、天皇の書道指南役であった有栖川宮幟仁親王が勅命によって儀式前日に清書した<ref name=":0" />。
3月14日、[[京都御所]]の正殿である[[紫宸殿]]にしつらえられた祭壇の前で、「天神地祇御誓祭」と称する儀式が執り行われた。御誓文の内容は、三条実美が神前で読み上げる形式で示された。なお、儀式の前には、天皇の書簡である御宸翰([[億兆安撫国威宣揚の御宸翰]])が披瀝され国民に下される<ref>{{Cite web |url=https://www.meijijingu.or.jp/about/3-3.php |title=五箇條の御誓文 |access-date=2023-09-25 |publisher=明治神宮}}</ref>。
儀式の式次第は以下の通り。まず、同日正午、京都に所在する公卿・諸侯・徴士ら群臣が着座。[[神祇官|神祇事務局]]が塩水行事、散米行事、神おろし神歌、献供の儀式を行った後、天皇が出御。議定兼副総裁の三条実美が天皇に代わって神前で御祭文を奉読。天皇みずから幣帛の玉串を捧げて神拝して再び着座。三条が再び神前で御誓文を奉読し、続いて勅語を読み上げた。その後、公卿・諸侯が一人ずつ神位と玉座に拝礼し、奉答書に署名した。その途中で天皇は退出。最後に神祇事務局が神あげ神歌の儀式を行い群臣が退出した。
御誓文は[[太政官日誌]]([[官報]]の前身)をもって一般に布告された。太政官日誌には「御誓文之御写」が勅語と奉答書とともに掲載されたほか、その前後には天神地祇御誓祭の式次第と[[祭文|御祭文]]や[[宸翰|御宸翰]]が掲載された<ref>[{{NDLDC|787614/39}} 国立国会図書館近代デジタルライブラリー]</ref>。当時の太政官日誌は都市の書店で一般に販売されていたが、各農村にまで配布されておらず、一般国民に対しては、[[キリスト教]]の禁止など幕府の旧来の政策を暫定処置として踏襲する[[五榜の掲示]]が出された。
=== 原文 ===
{{quotation|{{kyujitai|一、廣ク會議ヲ興シ、萬機公󠄁論ニ決スヘシ<br />一、上下心ヲ一ニシテ、盛󠄁ニ經綸ヲ行フヘシ<br />一、官武一途󠄁、庻民ニ至ル迠、各其志ヲ遂󠄂ケ、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要󠄁ス<br />一、舊來ノ陋習󠄁ヲ破リ、天地ノ公󠄁道󠄁ニ基クヘシ<br />一、智識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起󠄁スヘシ<br />我國未曾有ノ變革ヲ爲ントシ、朕󠄂躬ヲ以テ衆󠄁ニ先ンシ、天地神󠄀明󠄁ニ誓ヒ、大ニ斯國是ヲ定メ、萬民保全󠄁ノ道󠄁ヲ立ントス。衆󠄁亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ。}}}}
=== 政体書体制での御誓文 ===
慶応4年閏4月21日(1868年[[6月11日]])に明治新政府の政治体制を定めた[[政体書]]は、冒頭で「大いに斯国是を定め制度規律を建てるは御誓文を以て目的とす」と掲げ、続いて御誓文の五箇条全文を引用した。政体書は、[[アメリカ合衆国憲法]]の影響を受けたものであり、[[三権分立]]や官職の互選、藩代表議会の設置などが定められ、また、地方行政は「御誓文を体すべし」とされた。このほか、同布告では、諸藩に対して御誓文の趣旨に沿って人材抜擢などの改革を進めることを命じている。
また、各地の人民に対して出された告諭書にも御誓文を部分的に引用する例がある。例えば、同年[[8月7日 (旧暦)|8月7日]](1868年[[9月22日]])の「奥羽処分ノ詔」は御誓文第一条を元に「広く会議を興し万機公論に決するは素より天下の事一人の私する所にあらざればなり」と述べ、同年10月の「[[京都府下人民告諭大意]]」は御誓文第三条を元に「上下心を一にし、末々に至るまで各其志を遂げさせ」と述べている。
=== 御誓文の復活 ===
その後、政体書体制がなし崩しになり、さらには[[明治4年]](1871年)の[[廃藩置県]]により中央集権が確立するに至り、御誓文の存在意義が薄れかけた。[[明治5年]](1872年)4月1日、[[岩倉使節団]]がワシントン滞在中、御誓文の話題になった時、木戸孝允は「なるほど左様なことがあった。その御誓文を今覚えておるか」と言い、その存在を忘れていた模様である。この時、御誓文の写しを貰った木戸孝允は翌日には「かの御誓文は昨夜反復熟読したが、実によくできておる。この御主意は決して改変してはならぬ。自分の目の黒い間は死を賭しても支持する」と語った。明治8年([[1875年]])、木戸孝允の主導により出された[[立憲政体の詔書]]で「誓文の意を拡充して…漸次に国家立憲の政体を立て」と宣言。立憲政治の実現に向けての出発点として御誓文を位置付けた。
=== 自由民権運動と御誓文 ===
[[土佐藩]]出身の[[板垣退助]]は'''御誓文は立憲政治の実現を公約したもの'''として、明治7年[[1月12日]]、[[征韓論]]者を集めて[[愛国公党]]を設立。同[[1月17日]]、[[民撰議院設立建白書]]を左院に提出した。特に第一条「'''広く会議を興し万機公論に決すべし'''」は、民選議会を開設すべき根拠とされ[[自由民権運動]]が高まる中、明治13年([[1880年]])4月に植木枝盛が起草し[[片岡健吉]]・[[河野広中]]らが提出した『国会を開設するの允可を上願する書』でも繰り返し述べられている。また[[1882年]](明治15年)の[[軍人勅諭]]と[[1890年]](明治23年)の[[教育ニ関スル勅語|教育勅語]]で、神格化された天皇への忠誠などが強調されたことにより、御誓文を底流にした自由民権運動の系譜は抑圧されるかたちにもなった<ref>{{Cite journal|author=[[保阪正康]]|month=12|year=2021|title=日本の地下水脈 第17回 五箇条の御誓文と日本型民主主義|url=https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h2909|journal=文藝春秋|volume=99|issue=12|page=358-367}}</ref>。[[明治憲法]]制定により[[帝国議会]]が開設されるまでの間、自由民権派は御誓文の実現を求めて、これを阻害する政府に対し批判を繰り返した。
=== 戦後の御誓文 ===
戦後、[[昭和]]21年([[1946年]])[[1月1日]]の[[昭和天皇]]の、いわゆる[[人間宣言]]において御誓文の全文が引用されている。昭和天皇は[[幣原喜重郎]]首相が作成した草案を初めて見た際に、「これで結構だが、これまでも皇室が決して独裁的なものでなかったことを示すために、[[明治天皇]]の五箇条の御誓文を加えることはできないだろうか」と述べ、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の許可を得て急遽加えられることになった。天皇は後に、
{{quotation|それが実は、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした。(中略)民主主義を採用したのは明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条御誓文を発して、それが基となって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入物ではないということを示す必要が大いにあったと思います。|昭和52年(1977年)8月23日記者会見}}と語っている<ref>高橋紘 編『昭和天皇発言録―大正9年~昭和64年の真実』(P241)、小学館、1989年7月。</ref>。
昭和21年([[1946年]])[[6月25日]]、[[帝国議会]]の[[衆議院]]本会議における[[大日本帝国憲法]]改正案である[[日本国憲法]]案の審議の初め、当時の[[吉田茂]]首相は御誓文に言及して、
{{quotation|日本の憲法は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものと云ってもよいのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史・日本の国情をただ文字に表しただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります。}}
と答弁した。このように五箇条の御誓文は日本の[[民主主義]]の原理であるとしている <ref>太田雅夫「戦後における天皇制の問題」『同志社法学』1961年3月。</ref>。
== 内容 ==
{{Wikisource|五ヶ條ノ御誓文|御誓文}}
[[ファイル:5jo1.gif|thumb|御誓文(太政官日誌掲載、経論は経綸の誤記)]]
正式な表題は、[[法令全書]]によると、「御誓文」である<ref>[{{NDLDC|787948/81}} 国立国会図書館近代デジタルライブラリー]</ref>。明治天皇自身がこれを呼ぶときは単に「誓文」という(例えば明治8年([[1875年]])の[[立憲政体の詔書]])。よく使われる「五箇条の御誓文」などの呼称は、後の時代の通称である。
御誓文の本体は、明治天皇が天神地祇に誓った五つの条文からなる。この他、御誓文には勅語と奉答書が付属している。御誓文の各条および勅語・奉答書について解説すると次の通り。
=== 一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ ===
* (現代表記)'''広く会議を興し、万機公論に決すべし。'''
** (由利案第五条)万機公論に決し私に論ずるなかれ
** (福岡案第一条)列侯会議を興し万機公論に決すべし
この条文は、由利案では第五条であったが、福岡によって第一条に移された。その理由は「諸侯会議を以て第一着の事業と考え」たためと福岡自身が回顧している(福岡孝弟『五箇条御誓文と政体書の由来に就いて』大正8年(1919年)に依る。以下、福岡の回顧は特に断らない限りこれに依る)。
前段の「広く会議を興し」については、由利案には「会議」に相当する語はなく、福岡の修正案で「列侯会議」の語があらわれ、これが最終段階で「広く会議」と修正された。福岡は後年「この時平民までも此議会に与らしめる御つもりであったか」と問われ、「それは後から考えればそうも解釈されるが、御恥ずかしい話ですが当時私はまだその考えはなかったです」「広くとは人々の意見を広く集めて会議するというのではなく府藩県にわたりて広く何処にも会議を興すという義です」と答えた<ref>維新史料編纂会写本『福岡孝弟談話筆記』</ref>。
後段の「万機」は「あらゆる重要事項」の意味。「公論」は公議と同義、または[[公議輿論]]の略語であり、「みんなの意見」または「公開された議論」といったような意味である。由利の草稿では、初めは「万機公議」と書き、後で「万機公論」と改めている。
=== 一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フべシ ===
* (現代表記)'''上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。'''
** (由利案第二条)士民心を一にし盛に経綸を行ふを要す
** (福岡案第三条)上下心を一にし盛に経綸を行ふべし
冒頭の「上下」は、由利案では「士民」だったが、福岡の回顧によれば「一層意味を広くするために士民を上下に改めた」という。「心を一にして」は日本国民の団結を表現する当時の決まり文句であり、江戸期の水戸学者の著作から後の[[教育勅語]]に至るまで広く使われている。
後段の「経綸」の語の解釈には注意が必要である。由利の出身藩である越前藩のために[[横井小楠]]が著した「国是三論」において「一国上の経綸」という章があり、そこでは主に財政経済について論じられていた。当時、経綸の語は一般に馴染みのある語ではなく、江戸版の太政官日誌では経綸を経論と誤記しケイロンと[[ルビ]]を振っていた。福岡は後に回顧して「由利が盛に経綸経綸という文句を口癖のごとく振りまわしていた所であったからそのままにして置いたのである。経綸という字の意味は元は経済とか財政とかを意味していたようであるが、これは説く人々の解釈に任してよいのである」と述べている。一般的には、経綸の語は、経済政策に限らず国家の政策全般を意味するものとして理解される。
=== 一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス ===
* (現代表記)'''官武一途庶民に至る迄、各々その志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。'''
** (由利案第一条)庶民志を遂げ人心をして倦まざらしむるを欲す
** (福岡案第二条)官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしむるを要す
由利案ではこの条文は第一条に置かれ最重視されていた。由利は後の著書「英雄観」で「庶民をして各志を遂げ人心をして倦まざらしむべしとは、治国の要道であって、古今東西の善政は悉くこの一言に帰着するのである。みよ、立憲政じゃというても、あるいは名君の仁政じゃといっても、要はこれに他ならぬのである」と述べている。
=== 一 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ ===
* (現代表記)'''旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。'''
** (木戸当初案)旧来の陋習を破り宇内の通義に従ふへし
この条文は由利案や福岡案では存在せず、木戸の修正により登場した。木戸当初案の「宇内(うだい)」は「天下」「世界」の別表現である。「通義(つうぎ)」は「広く一般に通用する道理」という意味である(いずれも三省堂『大辞林』第三版)。
この条文を、戦前の研究者[[尾佐竹猛]]は、「旧来の陋習」は鎖国攘夷を指し、「'''天地の公道'''」は万国公法すなわち国際法の意味であり、この条文は開国の方針を規定したものとして狭く解釈していた。
しかし、これに対し、[[稲田正次]]・[[松尾正人]]・[[佐々木克]]たちは、「'''天地の公道'''」は開国の方針や国際法を示すことだけではなかったと明確に説明している。その理由として、御誓文と同時に出された宸翰に出てくる「旧来の陋習」の語がそもそも鎖国攘夷の意味に限定されていないこと、また[[木戸孝允]]自身が「打破すべき封建性」「打破すべき閉鎖性」の意味で「旧習」「旧来の陋習」「陋習」という言葉を広く使用していること、また、[[大久保利通]]でさえ木戸の「旧来の陋習」と同じ意味のことを「因循の腐臭」とより痛烈に批判していること、つまり、薩長いずれも密留学をさせ倒幕に立ち上がった開明的雄藩であったにもかかわらず長州の木戸より薩摩の大久保のほうが藩主父子・出身藩の内部事情などのためにより批判的にならざるを得ない危険な封建性・閉鎖性をより自覚していたということ([[寺田屋事件]]~[[西南戦争]])、更に、[[岩倉具視]]も他の文書で「天地の公道」という全く同じ言葉を[[万国公法]]とはおよそ次元の異なる「'''天然自然の条理'''というような意味」で用いていることなどが挙げられている。総じて、「'''天地の公道'''」(木戸当初案では「'''宇内の通義'''」)とは、普遍的な宇宙の摂理に基づく人の道を指しているものと解される。
=== 一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ ===
* (現代表記)'''智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。'''
** (由利案第三条)智識を世界に求め広く皇基を振起すへし
** (福岡案第四条)智識を世界に求め大に皇基を振起すべし
前段の「智識を世界に求め」については、前述の[[横井小楠]]「国是三論」に「智識を世界万国に取て」とあり、ここから採られたものとみられる。後段の「皇基」とは「天皇が国を治める基礎」というような意味である。
福岡はこの条文を「従来の鎖国的陋習を打破して広く世界の長を採り之を集めて大成するの趣旨である」と回顧している。
=== 勅語 ===
[[ファイル:5jo2.gif|thumb|勅語と奉答書(太政官日誌掲載)]]
* (現代表記)'''我が国未曾有の変革を為んとし、朕、躬を以て衆に先んじ天地神明に誓い、大にこの国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆またこの旨趣に基き協心努力せよ。年号月日 御諱'''
* (意味)我が国は未曾有の変革を為そうとし、わたくし(天皇)が自ら臣民に率先して天地神明に誓い、大いにこの国是を定め、万民を保全する道を立てようとする。臣民もまたこの趣旨に基づき心を合わせて努力せよ。
この勅語は、明治天皇が神前で五箇条を誓った後、群臣に向けて下した言葉である。これは三条実美が読み上げている。
勅語中「年号月日」とある箇所は、実際の日付が記されている。「御諱」とは実名であり、ここには明治天皇の実名(睦仁)が記されている。
=== 奉答書 ===
* (現代表記)'''勅意宏遠、誠に以て感銘に堪えず。今日の急務、永世の基礎、この他に出べからず。臣等謹んで叡旨を奉戴し死を誓い、黽勉従事、冀くは以て宸襟を安じ奉らん。慶応四年戊辰三月 総裁名印 公卿諸侯各名印'''
* (意味)天皇のご意志は遠大であり、誠に感銘に堪えません。今日の急務と永世の基礎は、これに他なりません。我ら臣下は謹んで天皇の御意向を承り、死を誓い、勤勉に従事し、願わくは天皇を御安心させ申し上げます。
奉答書は、群臣が天皇の意志に従うことを表明した文書であり、総裁以下の群臣の署名がある。[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]当日には411名の[[公卿]]と[[諸侯]]が署名し、残りの者は後日署名した。署名者には公卿と諸侯のほか、同年5月に天皇に直属する朝臣となった旧幕府[[旗本]]のうち千石以上の領地を持つ者も加わった。また、戊辰戦争で討伐の対象になった旧幕府方の諸藩も新政府から宥免が認められた後に署名を行っている<ref name=mizutani>水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P14・363 - 367</ref>。最終的には、公卿と諸侯は総計544名、その他288名が署名した。なお、[[浜田藩|美作鶴田藩]]のみ、当主の病気と名代となる世継ぎが幼少でいずれも上京出来ない状態であることを理由に署名の猶予が認められたまま、最終的には[[廃藩置県]]のために署名を行わなかった<ref name=mizutani/>(詳細な経緯については[[松平武聰]]を参照)。
== 備考 ==
* 木戸孝允による五箇条が、天下に布告すべき日本国の国是として明治天皇の裁可を受け、明治元年3月14日(1868年4月6日)、誓約された。
* 天神地祇御誓祭で三条実美が御誓文を読み上げる光景を日本画家の[[乾南陽]]が描き、昭和3年に旧土佐藩主の山内家が明治神宮に奉納した。『五箇條御誓文』と題して[[明治神宮外苑]][[聖徳記念絵画館]]で展示されている。教科書や歴史書にもよく載っている。
* 平成17年([[2005年]])7月7日、由利公正が作成し福岡孝弟の加筆訂正のある草稿が競売にかけられる旨の報道があり、5日後に[[福井県]]が2388万8000円で落札したと発表した。[[福井県立図書館]]([[福井市]])・福井県立若狭図書学習センター([[小浜市]])で公開された。
* [[静岡県立大学]]国際関係学部助教の[[平山洋]]は、五箇条の御誓文と[[福澤諭吉]]の『[[西洋事情]]』との類似点を指摘している<ref>{{Cite book|和書|author=平山洋|authorlink=平山洋|year=2008|month=5|title=福澤諭吉――文明の政治に六つの要訣あり|publisher=ミネルヴァ書房|series=ミネルヴァ日本評伝選|isbn=978-4-623-05166-3}}229-230頁参照。
</ref>。『西洋事情』(初編、第一)冒頭の小引(序文)の日付は「慶應二年丙寅七月」(慶応2年7月、[[1866年]]8月)で、これは由利が御誓文の元を起草する1年半ほど前である。御誓文の各条と類似する文章の対応は、以下の通りである。
*# 御誓文第一条 - 『西洋事情』(初編、第一)の最初にある英国の政治機構の説明。
*# 御誓文第二条 - 『西洋事情』(初編、第一)から、「[[文明政治の六条件]]」の第五条件である「保任安穏」(ほにんあんのん)。
*# 御誓文第三条 - 『西洋事情』(初編、第一)から、「文明政治の六条件」の第一条件である「自主任意」。
*# 御誓文第四条 - 『西洋事情』(初編、第二)に全文掲載されている[[アメリカ独立宣言]]の最初。
*# 御誓文第五条 - 『西洋事情』(初編、第一)から、「文明政治の六条件」の第三条件である「技術文学ヲ励マシテ新発明ノ路ヲ開ク」。
* 同日に天皇の御名で「[[億兆安撫国威宣揚の御宸翰]]」が告示され「天皇自身が今後善政をしき、大いに国威を輝かすので、臣民も旧来の陋習を捨てよ」と説かれている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[五榜の掲示]]
* [[パンチャシラ]] - インドネシアの建国五原則
* [[誓の御柱]]
* [[私論]]
== 外部リンク ==
* 明治神宮「[https://www.meijijingu.or.jp/about/3-3.php 五箇条の御誓文]」 - 現代語訳、乾南陽画『五箇條御誓文』の画像など
* 福井県立図書館「[https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/tosyo/file/101957.pdf 五箇条の御誓文と由利公正]」 - 草稿の画像など
* 五箇条の御誓文関係史料「[http://nihonsi.web.fc2.com/m1/goseimon/goseimon.htm 原案および修正案]」
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[[Category:日本の法令 (現存しない種類)]]
[[Category:明治時代]]
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[[Category:由利公正]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AE%87%E6%9D%A1%E3%81%AE%E5%BE%A1%E8%AA%93%E6%96%87 |
2,756 | 孫文 | 孫 文(そん ぶん、スン・ウェン、英語: Sun Yat-sen、拼音: Sūn Wén、注音: ㄙㄨㄣ ㄨㄣˊ、1866年11月12日〈清同治5年10月初6日〉 - 1925年〈民国14年〉3月12日)は、中華民国の政治家・革命家・思想家・政治運動家・医師。初代中華民国臨時大総統。中国国民党総理。
「中国革命の父」である。中華民国では中国最初の共和制の創始者として長らく国父と呼ばれ、近年は中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」の「国父」として、再評価が進んでいる。
中国語圏では孫文よりも日本名の中山 樵(なかやまきこり)をとった孫 中山(そん ちゅうざん)の名称が一般的であり、孫中山先生と呼ばれている。1935年から1948年まで発行されていた法幣(不換紙幣)で肖像に採用されていた。現在は100新台湾ドル紙幣に描かれている。中国国民党では現在も、孫文は「党総理」であると党則第15章で定めている。
譜名は徳明(とくめい)、字は載之(さいし)、号は日新(にっしん)、逸仙(いっせん)または中山、幼名は帝象(ていしょう)。他に中山 樵(なかやま きこり)、中山 二郎(なかやま にろう)、高野 長雄(たかの ながお)、ドクター・アロハがある。中国や台湾では孫中山として、欧米では孫逸仙の広東語ローマ字表記であるSun Yat-senとして知られる。
孫文は日本亡命時代には東京府の日比谷公園付近に住んでいた時期があった。公園の界隈に「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の字が気に入り、日本滞在中は「中山 樵(なかやま きこり)」を名乗っていた。なお、その邸宅の主は貴族院議員の中山孝麿侯爵で、孝麿の叔母中山慶子(中山一位局)は明治天皇生母である。また、宮崎滔天から孫文亡命の協力を頼まれた犬養毅と平山周が、身を隠すための孫文の日本名として中山忠能(明治天皇の祖父)から拝借したとする説もある。
章士釗が1903年に宮崎滔天の『三十三年の夢』を『大革命家孫逸仙』に翻訳した際、孫の姓と偽名「中山樵」を併用しており、「孫中山」と呼び、後に中国での孫の通称になった。孫は自分を「孫中山」とは呼ばず、すべての公文書や手紙に「孫文」の名で署名している。
生まれ故郷である広東省の中山市(孫文にちなんで香山県から改称)、中華人民共和国を代表する大学のひとつである中山大学、南極大陸の中山基地、そして現在台湾や中国にある「中山公園」、「中山路」など「中山」がつく路名や地名は孫文の号・孫中山からの命名である。
清国広東省香山県翠亨村(現中山市)の農民の家に生まれる。父は孫達成(号:孫道川)、母は楊氏であり、5番目の子として生まれた。兄2人姉2人がいたが兄と姉1人ずつは幼くして亡くなり、孫文が生まれた時は父親は53歳、母親は38歳であった。9歳にして父を失う。12歳のとき、地域信仰の象徴であった洪聖大王木像を地元の子供らと壊したことから、兄の監督下に置かれることになる。当時のハワイ王国に出稼ぎで渡っていた兄の孫眉からの支援を得て、1878年に母と共にオアフ島ホノルルに移住した。後に同地のイオラニ・スクールを卒業し、同市のプナホウ・スクールにも学び西洋思想に目覚めるが、兄や母は孫文が西洋思想(特にキリスト教)に傾倒することを心配し、1883年に中国に戻された。
帰国後、イギリスの植民地の香港にある香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学びつつ革命思想を抱くようになり、ポルトガルの植民地のマカオで医師として開業した。
清仏戦争のころから政治問題に関心を抱き、1894年11月にハワイで興中会を組織した。翌年、日清戦争の終結後に広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命した。1897年、宮崎滔天の紹介によって政治団体玄洋社の頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けた。また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。
1899年、義和団の乱が発生。翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった。1902年、中国に妻がいたにもかかわらず、日本人の大月薫と結婚した。また、浅田春という女性を愛人にし、つねに同伴させていた。
のちアメリカを経てイギリスに渡り、一時清国公使館に拘留され、その体験を『倫敦被難記』として発表し、世界的に革命家として有名になる。この直後の1904年、清朝打倒活動の必要上「1870年11月、ハワイのマウイ島生まれ」扱いでアメリカ国籍を取得した。 以後、革命資金を集めるため、世界中を巡った。
1905年にヨーロッパから帰国をする際にスエズ運河を通った際に、現地の多くのエジプト人が喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、日露戦争での日本の勝利がアラブ人ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。孫文の思想の根源に日露戦争における日本の勝利があるといわれる。
長い間、満州民族の植民地にされていた漢民族の孫文は、「独立したい」「辮髪もやめたい」と言っていた。同年、宮崎滔天らの援助で東京府池袋にて興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成。ここで東京に留学中の蔣介石と出会う。
1911年10月10日、共進会と同学会の指導下、武昌蜂起が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。当時、孫文はアメリカにいた。独立した各省は武昌派と上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争ったが、孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって孫文の到着に熱狂し、翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国臨時政府が南京に成立した。
1913年3月、国会議員選挙において中国同盟会を発展させ、孫文が理事長である「国民党」が870議席の内401議席を獲得。 同党の実質的な指導者である宋教仁を総理とした。宣統帝の退位と引き換えに清朝の実力者となった袁世凱はアメリカの政治学者グッドナウ(英語版)による強権政治(中央集権的な統治)の意見を取り入れ、自身の権力拡大を計り、宋教仁を暗殺し、国民党の弾圧をはじめた。これに伴い、同年7月、袁世凱打倒の第二革命がはじまる。1914年に孫文は中華革命党を組織するが、袁は議会解散を強行した。
1915年に袁世凱は共和制を廃止、帝政を復活させ、自らが中華帝国の皇帝に即位しようとした。直ちに反袁・反帝政の第三革命が展開される。翌年、袁世凱は病死するが、段祺瑞が後継者になる。
このころ、各地では地方軍人による独自政権が樹立され、「軍閥割拠」の状況であった。孫文は、西南の軍閥の力を利用し、1917年、広州で広東軍政府を樹立する。しかし、軍政府における権力掌握のために、旧広西派の陸栄廷を攻撃したことが原因となり、第一次護法運動は失敗に終わった。また、第二次護法運動では中華民国正式政府を成立させたが、連省自治を主張する陳炯明との路線対立により六・一六事変(中国語版)が勃発して失敗、蔣介石や陳策(中国語版)らと共に広州を脱出した。なお、この時に孫文が脱出に使用した「砲艦永豊」は、後に彼を記念して「中山」と改名された。
孫文は一時的に再び日本へ亡命した。日本亡命時には「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」との言葉を犬養毅へ送っている。
このころに同じ客家でもある宋嘉澍の次女の宋慶齢と結婚した。結婚年については諸説あるが、孫文が日本亡命中の1913年 - 1916年の間とされ、この結婚を整えたのは資金面で支援をしていた日本人の梅屋庄吉であった。
当時、日本の政財界の重鎮であった久原房之助は別邸の日本閣(現在の白金八芳園にある料亭「壺中庵」)に孫文を招いた。完成したばかりの「蘭の間」を提供、異国で過ごす友人を励まし、労った。
この蘭の間には「孫文の抜け穴」と呼ばれる抜け道が用意してあり、不測の事態に備えた仕掛けであった。壁には暖炉の裏に通じる隠し戸があり、それを抜けると地下トンネルを通って逃げられるようになっていた。
1915年、第一次世界大戦中の日本が対華21ヶ条要求を北京政府に要求。1917年にはロシア革命が起きる。第一次世界大戦後の1919年1月のパリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「抗日愛国運動」が盛り上がった。五・四運動である。
この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく。陳独秀や毛沢東もこのときにマルクス主義に急接近する。この抗日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した。 旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボリシェビキをモデルとした。実際に、のちにロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある。
1922年に日本の広東駐在武官となった佐々木到一は、当時、中国国民党の本拠であった広東で国民党について研究し、その要人たちと交わり、深い関係を持った。佐々木は後年に国民党通と言われる。孫文が陳炯明を追い払うと要請を受け、孫文の軍事顧問となる。
佐々木は孫文の軍用列車に便乗して国民党の戦いぶりを観察している。また列車の中で孫文から蔣介石を紹介された。なお人民服(中山服)のデザインも佐々木の考案に基づいたされる。佐々木は1924年に帰国するが、その後も孫文とは交遊を続けた。
1922年のコミンテルン極東民族大会において「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月26日には孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表され、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し、ソ連との連帯を鮮明にした。 この宣言は、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。ソビエト連邦の支援の元、2月21日、孫文は広州で広東大元帥府の大元帥に就任した。
しかし、連ソ容共・工農扶助への方針転換に対して、反共的な蔣介石や財閥との結びつきの強い人物からの反発も強く、孫文の死後に大きな揺り戻しが起きることとなる。なお、孫文の妻でその遺志を継いだ宋慶齢は大陸に止まり、中国国民党革命委員会を結成して蔣介石を「裏切り者」と攻撃している。
1923年6月の中国共産党第三回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン指導で、国共合作が方針となった。
コミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンは、ソ連共産党の路線に沿うように中国国民党の再編成と強化を援助するため1923年に中国に入り、孫文の軍事顧問・国民党最高顧問となった。ボロディンの進言により1924年1月20日、中国共産党との第一次国共合作が成立。軍閥に対抗するための素地が形成された。黄埔軍官学校も設立され、赤軍にあたる国民革命軍の組織を開始する。1925年にはソビエト連邦により中国人革命家を育成する機関を求める孫文のためにモスクワ中山大学が設立された。
1924年10月、孫文は北上宣言を行い、全国の統一を図る国民会議の招集を訴えた。同11月には日本の神戸で有名な「大アジア主義講演」を行う。日本に対して「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問い、欧米の帝国主義にたいし東洋の王道・平和の思想を説き、日中の友好を訴えた。
このころより孫文はガンに侵されており、1925年、
との遺言を記して(実際には汪兆銘が起草した文案を孫文が了承したもの)療養先の北京で客死し、南京に葬られた。その巨大な墓は中山陵と呼ばれる。
霊枢を北京より南京城外の中山陵に移すにあたり、31日国民政府中央党部で告別式を行い、国賓の礼を以て渡支した犬養毅が祭文を朗読。 霊柩は犬養毅、頭山満の両名が先発して迎え、イタリア主席公使と蔣介石と共に廟後の墓の柩側に立った。
精神的、政治的に主柱であった孫文没後の国民党は混迷し、孫文の片腕だった廖仲愷は暗殺され、孫文の妻の宋慶齢は国民党を去り、蔣介石と汪兆銘は対立、最高顧問ボロディンは解雇されるなどした。以降、蔣介石が権力基盤を拡大する。
孫文の死後に上海で発生した五・三〇事件を背景にして、汪兆銘は広州国民政府を樹立。1926年7月には、約10万の国民革命軍が組織される。総司令官には蔣介石が就任し、孫文の遺言でもあった北伐を開始した。
1927年、蔣介石の上海クーデターにより国共合作は崩壊。国民党は北伐を継続し、1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒すことに成功した。
保阪正康によれば、宮崎滔天や山田良政・山田純三郎らが孫文の革命運動を援助した理由のひとつは、明治維新または自由民権運動の理想が日本で実現できなかったことの代償であったという。 しかし孫文自身も1919年に次のように発言している。
また1923年には、次のように発言している。
このように明治維新への共感にもとづき日中の連携を模索した孫文にとって、日本による対華二十一ヶ条要求は「維新の志士の抱負を忘れ」、中国への侵略政策を進展させることであった。
孫文は決して民主制を絶対視していたわけではなく、中国民衆の民度は当時まだ低いと評価していたため民主制は時期尚早であるとし、軍政、訓政、憲政の三段階論を唱えていた。また、その革命方略は辺境を重視する根拠地革命であり、宋教仁らの唱える長江流域革命論と対立した。また孫文はアメリカ式大統領制による連邦制国家を目指していたが、宋教仁は議院内閣制による統一政府を目指した。 このように、孫文は終始革命運動全体のリーダーとなっていたのではなく、新国家の方針をめぐって宋教仁らと争っていた。
三民主義の一つに民族主義を掲げ、秦以来万里の長城の内側を国土とした漢民族の国を再建すると訴えていたが、満州族の清朝が倒れると、清朝の版図である満州やウイグルまで領土にしたくなり、民族主義の民族とは、漢とその周辺の五族の共和をいうと言い出した。
しかし、この五族共和論は、すべての民族を中華民族に同化させ、融合させるという思想に変貌する。1921年の講演「三民主義の具体的実施方法」では「満、蒙、回、蔵を我が漢族に同化させて一大民族主義国家となさねばならぬ」と訴え、1928年には熱河、チャハルのモンゴル族居住地域、青海、西康のチベット族居住地域をすべて省制へと移行させ、内地化を行う。
儒教や漢文、科挙とは無縁の、チベット仏教やイスラムの地が中国の不可分の国土であるなら、制度文物をことごとく華制に従ってきた朝鮮は、なおいっそう中国の不可分の国土であるのは当然であり、孫文はその主著『三民主義』で、朝鮮を「失われた中国の地」と書いている。
孫文は生前、日本人とも幅広い交遊関係を持っていた。犬養毅の仲介を経て知り合った宮崎滔天 や頭山満・内田良平らとは思想上も交遊し、資金援助を受けてもいた。また、実業家では、松方幸次郎、安川敬一郎や株式相場師の 鈴木久五郎、梅屋庄吉からも資金援助を受けていた。また、滞日時の支援者の一人に、漫画家・柴田亜美の曽祖父もいた。
ほかにも日本陸軍の佐々木到一が軍事顧問にもなっている。ほか、南方熊楠とも友人で、ロンドン亡命中に知り合って以降親交を深めた。
また孫の自伝『建国方略』の文書中では、犬養毅・平山周・大石正巳・尾崎行雄・副島種臣・頭山満・平岡浩太郎・秋山定輔・中野徳次郎・鈴木久三郎・安川敬一郎・犬塚信太郎・久原房之助・山田良政・宮崎寅蔵(滔天)・菊池良一・萱野長知・副島義一・寺尾亨の名前を列挙し、深く感謝の意を表している。
孫文の評価は一定していないのが実情である。1970年代以前は被抑圧民族の立場から帝国主義に抵抗した中国革命のシンボルとして高く評価された。特に1924年(大正13年)の「大アジア主義講演」が日本の対アジア政策に警鐘を鳴らすものとして絶賛的に扱われていた。しかし、革命への熱気が冷めた1980年代以降は、孫文の独裁主義的な志向性、人民の政治能力を劣等視するような愚民観、漢族中心的(孫文自身、漢民族の一つ・客家人である)な民族主義といった点が問題視されるようになり、現在の中華人民共和国や民主化以前の台湾(中華民国)の権威主義的・非民主的な体制の起源として批判的に言及されることも多くなった。
孫文の評価を難しくしているのは、民族主義者でありながらまだ所有すらしていない国家財産を抵当にして外国からの借款に頼ろうとしたり国籍を変えたり、革命家でありながらしばしば軍閥政治家と手を結んだり、最後にはソ連のコミンテルンの支援を得るなど、目先の目標のために短絡的で主義主張に反する手法にでることが多いためである。
彼の思想である「三民主義」も、マルクス・レーニン主義、自由民主主義、儒教に由来する多様な理念が同時に動員されており、思想と言えるような体系性や一貫性をもつものとは見なしづらい。もっとも、こうした場当たり的とも言える一貫性のなさは、孫文が臨機応変な対応ができる政治活動家であったという理由によって肯定的に評価されてきた。
孫文には中国の革命運動における具体的な実績はそれほどなく、中国国内よりも外国での活動のほうが長い。彼の名声は何らかの具体的な成果によるものと言うより、中国革命のシンボルとしての要素によるものと言える。
孫文の活動した時代を扱った中国史研究書でも、ほとんど言及がないものも少なくないが、これは史料の中に孫文の名前が登場しないという単純な理由による。 | [
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"text": "この蘭の間には「孫文の抜け穴」と呼ばれる抜け道が用意してあり、不測の事態に備えた仕掛けであった。壁には暖炉の裏に通じる隠し戸があり、それを抜けると地下トンネルを通って逃げられるようになっていた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1915年、第一次世界大戦中の日本が対華21ヶ条要求を北京政府に要求。1917年にはロシア革命が起きる。第一次世界大戦後の1919年1月のパリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「抗日愛国運動」が盛り上がった。五・四運動である。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 23,
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"text": "この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく。陳独秀や毛沢東もこのときにマルクス主義に急接近する。この抗日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した。 旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボリシェビキをモデルとした。実際に、のちにロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある。",
"title": "生涯"
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"text": "1922年に日本の広東駐在武官となった佐々木到一は、当時、中国国民党の本拠であった広東で国民党について研究し、その要人たちと交わり、深い関係を持った。佐々木は後年に国民党通と言われる。孫文が陳炯明を追い払うと要請を受け、孫文の軍事顧問となる。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "佐々木は孫文の軍用列車に便乗して国民党の戦いぶりを観察している。また列車の中で孫文から蔣介石を紹介された。なお人民服(中山服)のデザインも佐々木の考案に基づいたされる。佐々木は1924年に帰国するが、その後も孫文とは交遊を続けた。",
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"text": "1922年のコミンテルン極東民族大会において「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月26日には孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表され、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し、ソ連との連帯を鮮明にした。 この宣言は、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。ソビエト連邦の支援の元、2月21日、孫文は広州で広東大元帥府の大元帥に就任した。",
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"text": "しかし、連ソ容共・工農扶助への方針転換に対して、反共的な蔣介石や財閥との結びつきの強い人物からの反発も強く、孫文の死後に大きな揺り戻しが起きることとなる。なお、孫文の妻でその遺志を継いだ宋慶齢は大陸に止まり、中国国民党革命委員会を結成して蔣介石を「裏切り者」と攻撃している。",
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"text": "1923年6月の中国共産党第三回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン指導で、国共合作が方針となった。",
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"text": "コミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンは、ソ連共産党の路線に沿うように中国国民党の再編成と強化を援助するため1923年に中国に入り、孫文の軍事顧問・国民党最高顧問となった。ボロディンの進言により1924年1月20日、中国共産党との第一次国共合作が成立。軍閥に対抗するための素地が形成された。黄埔軍官学校も設立され、赤軍にあたる国民革命軍の組織を開始する。1925年にはソビエト連邦により中国人革命家を育成する機関を求める孫文のためにモスクワ中山大学が設立された。",
"title": "生涯"
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"text": "1924年10月、孫文は北上宣言を行い、全国の統一を図る国民会議の招集を訴えた。同11月には日本の神戸で有名な「大アジア主義講演」を行う。日本に対して「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問い、欧米の帝国主義にたいし東洋の王道・平和の思想を説き、日中の友好を訴えた。",
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"text": "このころより孫文はガンに侵されており、1925年、",
"title": "生涯"
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"text": "との遺言を記して(実際には汪兆銘が起草した文案を孫文が了承したもの)療養先の北京で客死し、南京に葬られた。その巨大な墓は中山陵と呼ばれる。",
"title": "生涯"
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"text": "霊枢を北京より南京城外の中山陵に移すにあたり、31日国民政府中央党部で告別式を行い、国賓の礼を以て渡支した犬養毅が祭文を朗読。 霊柩は犬養毅、頭山満の両名が先発して迎え、イタリア主席公使と蔣介石と共に廟後の墓の柩側に立った。",
"title": "生涯"
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"text": "精神的、政治的に主柱であった孫文没後の国民党は混迷し、孫文の片腕だった廖仲愷は暗殺され、孫文の妻の宋慶齢は国民党を去り、蔣介石と汪兆銘は対立、最高顧問ボロディンは解雇されるなどした。以降、蔣介石が権力基盤を拡大する。",
"title": "生涯"
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"text": "孫文の死後に上海で発生した五・三〇事件を背景にして、汪兆銘は広州国民政府を樹立。1926年7月には、約10万の国民革命軍が組織される。総司令官には蔣介石が就任し、孫文の遺言でもあった北伐を開始した。",
"title": "生涯"
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"text": "1927年、蔣介石の上海クーデターにより国共合作は崩壊。国民党は北伐を継続し、1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒すことに成功した。",
"title": "生涯"
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{
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"text": "保阪正康によれば、宮崎滔天や山田良政・山田純三郎らが孫文の革命運動を援助した理由のひとつは、明治維新または自由民権運動の理想が日本で実現できなかったことの代償であったという。 しかし孫文自身も1919年に次のように発言している。",
"title": "思想"
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"text": "また1923年には、次のように発言している。",
"title": "思想"
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"text": "このように明治維新への共感にもとづき日中の連携を模索した孫文にとって、日本による対華二十一ヶ条要求は「維新の志士の抱負を忘れ」、中国への侵略政策を進展させることであった。",
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{
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"text": "孫文は決して民主制を絶対視していたわけではなく、中国民衆の民度は当時まだ低いと評価していたため民主制は時期尚早であるとし、軍政、訓政、憲政の三段階論を唱えていた。また、その革命方略は辺境を重視する根拠地革命であり、宋教仁らの唱える長江流域革命論と対立した。また孫文はアメリカ式大統領制による連邦制国家を目指していたが、宋教仁は議院内閣制による統一政府を目指した。 このように、孫文は終始革命運動全体のリーダーとなっていたのではなく、新国家の方針をめぐって宋教仁らと争っていた。",
"title": "思想"
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{
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"text": "三民主義の一つに民族主義を掲げ、秦以来万里の長城の内側を国土とした漢民族の国を再建すると訴えていたが、満州族の清朝が倒れると、清朝の版図である満州やウイグルまで領土にしたくなり、民族主義の民族とは、漢とその周辺の五族の共和をいうと言い出した。",
"title": "思想"
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{
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"text": "しかし、この五族共和論は、すべての民族を中華民族に同化させ、融合させるという思想に変貌する。1921年の講演「三民主義の具体的実施方法」では「満、蒙、回、蔵を我が漢族に同化させて一大民族主義国家となさねばならぬ」と訴え、1928年には熱河、チャハルのモンゴル族居住地域、青海、西康のチベット族居住地域をすべて省制へと移行させ、内地化を行う。",
"title": "思想"
},
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"paragraph_id": 43,
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"text": "儒教や漢文、科挙とは無縁の、チベット仏教やイスラムの地が中国の不可分の国土であるなら、制度文物をことごとく華制に従ってきた朝鮮は、なおいっそう中国の不可分の国土であるのは当然であり、孫文はその主著『三民主義』で、朝鮮を「失われた中国の地」と書いている。",
"title": "思想"
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"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "孫文は生前、日本人とも幅広い交遊関係を持っていた。犬養毅の仲介を経て知り合った宮崎滔天 や頭山満・内田良平らとは思想上も交遊し、資金援助を受けてもいた。また、実業家では、松方幸次郎、安川敬一郎や株式相場師の 鈴木久五郎、梅屋庄吉からも資金援助を受けていた。また、滞日時の支援者の一人に、漫画家・柴田亜美の曽祖父もいた。",
"title": "日本との関係"
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"text": "ほかにも日本陸軍の佐々木到一が軍事顧問にもなっている。ほか、南方熊楠とも友人で、ロンドン亡命中に知り合って以降親交を深めた。",
"title": "日本との関係"
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"text": "また孫の自伝『建国方略』の文書中では、犬養毅・平山周・大石正巳・尾崎行雄・副島種臣・頭山満・平岡浩太郎・秋山定輔・中野徳次郎・鈴木久三郎・安川敬一郎・犬塚信太郎・久原房之助・山田良政・宮崎寅蔵(滔天)・菊池良一・萱野長知・副島義一・寺尾亨の名前を列挙し、深く感謝の意を表している。",
"title": "日本との関係"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "孫文の評価は一定していないのが実情である。1970年代以前は被抑圧民族の立場から帝国主義に抵抗した中国革命のシンボルとして高く評価された。特に1924年(大正13年)の「大アジア主義講演」が日本の対アジア政策に警鐘を鳴らすものとして絶賛的に扱われていた。しかし、革命への熱気が冷めた1980年代以降は、孫文の独裁主義的な志向性、人民の政治能力を劣等視するような愚民観、漢族中心的(孫文自身、漢民族の一つ・客家人である)な民族主義といった点が問題視されるようになり、現在の中華人民共和国や民主化以前の台湾(中華民国)の権威主義的・非民主的な体制の起源として批判的に言及されることも多くなった。",
"title": "評価"
},
{
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"tag": "p",
"text": "孫文の評価を難しくしているのは、民族主義者でありながらまだ所有すらしていない国家財産を抵当にして外国からの借款に頼ろうとしたり国籍を変えたり、革命家でありながらしばしば軍閥政治家と手を結んだり、最後にはソ連のコミンテルンの支援を得るなど、目先の目標のために短絡的で主義主張に反する手法にでることが多いためである。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "彼の思想である「三民主義」も、マルクス・レーニン主義、自由民主主義、儒教に由来する多様な理念が同時に動員されており、思想と言えるような体系性や一貫性をもつものとは見なしづらい。もっとも、こうした場当たり的とも言える一貫性のなさは、孫文が臨機応変な対応ができる政治活動家であったという理由によって肯定的に評価されてきた。",
"title": "評価"
},
{
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"tag": "p",
"text": "孫文には中国の革命運動における具体的な実績はそれほどなく、中国国内よりも外国での活動のほうが長い。彼の名声は何らかの具体的な成果によるものと言うより、中国革命のシンボルとしての要素によるものと言える。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "孫文の活動した時代を扱った中国史研究書でも、ほとんど言及がないものも少なくないが、これは史料の中に孫文の名前が登場しないという単純な理由による。",
"title": "評価"
}
] | 孫 文は、中華民国の政治家・革命家・思想家・政治運動家・医師。初代中華民国臨時大総統。中国国民党総理。 「中国革命の父」である。中華民国では中国最初の共和制の創始者として長らく国父と呼ばれ、近年は中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」の「国父」として、再評価が進んでいる。 中国語圏では孫文よりも日本名の中山 樵(なかやまきこり)をとった孫 中山の名称が一般的であり、孫中山先生と呼ばれている。1935年から1948年まで発行されていた法幣(不換紙幣)で肖像に採用されていた。現在は100新台湾ドル紙幣に描かれている。中国国民党では現在も、孫文は「党総理」であると党則第15章で定めている。 | {{Redirect|孫中山|2001年に[[CCTV-1]]で放送されたテレビドラマ|{{仮リンク|孫中山 (テレビドラマ)|zh|孫中山 (電視劇)}}}}
{{別人|x1=女子サッカー選手の|孫雯}}
{{大統領
| 人名 = {{fontsize|large|孫 文}}
| 各国語表記 = {{en|Sun Yat-sen}}
| 画像 = 孙中山肖像.jpg
| 画像サイズ = 210px
| キャプション = [[1910年代]]撮影
| 国名 = {{Flagicon|CHN1912}} [[中華民国臨時政府 (1912年-1913年)|中華民国臨時政府]]
| 代数 = 初
| 職名 = [[中華民国大総統|臨時大総統]]
| 就任日 = [[1912年]][[1月1日]]
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| 副大統領職 = 臨時副総統
| 副大統領 = [[黎元洪]]
| 国名2 = {{Flagicon|CHN1912}} [[広東軍政府]]
| 職名2 = 大元帥
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| 職名4 = 大元帥
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| 国名5 = {{KMT}}
| 職名5 = [[総理]]<ref group="注釈">死後も総理の称号を永久に保持している。</ref>|
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| 退任日5 = [[1925年]][[3月12日]]
| 出生日 = [[1866年]][[11月12日]]([[清]][[同治]]5年10月初6日)
| 生地 = {{QIN1862}}・[[:zh:廣東省 (清)|広東省]][[広州府]][[:zh:香山縣|香山県]][[:zh:翠亨村|翠亨村]]<ref group="注釈">現在の[[広東省]][[中山市]]翠亨新区</ref>
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1866|11|12|1925|3|12}}
| 没地 = {{CHN1912}}・[[京兆地方]]京都市協和病院<ref group="注釈">現在の[[北京市]][[東城区 (北京市)|東城区]][[東単]]帥府園1号</ref>
| 配偶者 = [[盧慕貞]](1885 – 1915)<br>[[陳粹芬]] (1891 - 1912)<br>[[大月薫]](1903 – 1906)<br>[[宋慶齢]](1915 – 1925)
| 政党 = [[中国同盟会]]、[[中国国民党]]
| 別名 = [[孫逸仙]]、[[孫徳新]]、[[孫帝象]]、[[中山樵]]、[[長野高雄]]、[[孫載之]]、[[孫日新]]
| サイン = Sun Yat Sen Signature.png
}}
{{中華圏の人物
|名前=孫中山
|画像種別=
|画像=[[File:1927中華民國開國紀念幣(孫像六角星)壹圓.png|200px]]
|画像の説明=
|出生=[[1866年]][[11月12日]]([[清]][[同治]]5年10月初6日)
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|出身地={{QIN1890}}[[広東省]][[広州府]][[中山市|香山県]]翠亨村
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|繁体字=孫中山
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|注音=
|注音二式=
|和名=そん ちゅうざん
|発音=スン・ヂョンシャン
|ラテン字=Sun Chung-shan
|英語名=Sun Yat-sen(孫逸仙)
|本名繁体字=孫文
|本名簡体字=孙文
|本名ピン音=Sūn Wén
|本名通用=
|本名注音=
|本名注音二式=
|本名和名=そん ぶん
|本名発音=スン・ウェン
|本名ラテン字=
|本名英語名=
|}}
'''孫 文'''(そん ぶん、[[英語]]: Sun Yat-sen、{{ピン音|Sūn Wén}}、{{注音|ㄙㄨㄣ ㄨㄣˊ}}、[[1866年]][[11月12日]]〈[[清]][[同治]]5年10月初6日〉 - [[1925年]]〈[[民国紀元|民国]]14年〉[[3月12日]])は、[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]の[[政治家]]・[[革命家]]・[[思想家]]・[[政治運動家]]・[[医師]]。初代[[中華民国大総統|中華民国臨時大総統]]。[[中国国民党]][[総理]]。
「中国革命の父」である。中華民国では中国最初の[[共和制]]の創始者として長らく'''国父'''と呼ばれ、近年は[[中華人民共和国]]でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」の「国父」として、再評価が進んでいる。
中国語圏では孫文よりも日本名の'''中山 樵'''(なかやまきこり)をとった'''孫 中山'''(そん ちゅうざん)の名称が一般的であり、孫中山先生と呼ばれている。[[1935年]]から[[1948年]]まで発行されていた[[法幣]]([[不換紙幣]])で肖像に採用されていた。現在は100[[新台湾ドル]]紙幣に描かれている。中国国民党では現在も、孫文は「党総理」であると党則第15章で定めている。
== 呼称・号 ==
譜名は'''徳明'''(とくめい)、[[字]]は'''載之'''(さいし)、[[号 (称号)|号]]は'''日新'''(にっしん)、'''逸仙'''(いっせん)または'''中山'''、幼名は'''帝象'''(ていしょう)。他に'''中山 樵'''(なかやま きこり)、'''中山 二郎'''(なかやま にろう)、'''高野 長雄'''(たかの ながお)、'''ドクター・アロハ'''がある<ref name=kusama>『台湾と日本・交流秘話』草開省三、展転社, 1996、p275</ref>。中国や台湾では孫中山として、[[欧米]]では孫逸仙の[[広東語]][[ローマ字]]表記である'''Sun Yat-sen'''として知られる。
=== 号の由来 ===
孫文は[[日本]][[亡命]]時代には[[東京府]]の[[日比谷公園]]付近に住んでいた時期があった。公園の界隈に「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の字が気に入り、日本滞在中は「'''中山 樵'''(なかやま きこり)」を名乗っていた。なお、その邸宅の主は[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員の[[中山孝麿]][[侯爵]]で、孝麿の叔母[[中山慶子]](中山一位局)は[[明治天皇]]生母である<ref>[[拳骨拓史]]『「反日思想」歴史の真実』{{要ページ番号|date=2020年8月16日}}</ref>。また、[[宮崎滔天]]から孫文亡命の協力を頼まれた[[犬養毅]]と[[平山周]]が、身を隠すための孫文の日本名として[[中山忠能]](明治天皇の祖父)から拝借したとする説もある<ref>『続吉備の国から: 地域への思いを込めて』高見茂、吉備人出版, 2008 p129</ref>。
[[章士釗]]が1903年に宮崎滔天の『三十三年の夢』を『大革命家孫逸仙』に翻訳した際、孫の姓と偽名「中山樵」を併用しており、「'''孫中山'''」と呼び、後に中国での孫の通称になった。孫は自分を「孫中山」とは呼ばず、すべての公文書や手紙に「孫文」の名で署名している。<ref>{{zh icon}} {{cite book |title=孫中山:從鴉片戰爭到辛亥革命 |trans-title=孫中山:アヘン戦争から辛亥革命まで |last=黃宇和 |publisher=[[:zh:聯經出版|聯經出版]] |year=2016 |isbn=978-957-08-4828-1 |location=台北市 |page=24}}</ref>
生まれ故郷である広東省の[[中山市]](孫文にちなんで香山県から改称)<ref name=kusama/>、中華人民共和国を代表する[[大学]]のひとつである[[中山大学]]、[[南極大陸]]の[[中山基地]]、そして現在[[台湾]]や[[中国]]にある「[[中山公園]]」、「中山路」など「中山」がつく路名や地名は孫文の号・孫中山からの命名である。
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[File:Sun Yat Sen's Young Time2.png|thumb|200px|孫文(17歳)]]
[[清|清国]][[広東省]]香山県翠亨村(現[[中山市]])の農民の家に生まれる。父は孫達成(号:孫道川)、母は楊氏であり、5番目の子として生まれた。兄2人姉2人がいたが兄と姉1人ずつは幼くして亡くなり、孫文が生まれた時は父親は53歳、母親は38歳であった。9歳にして父を失う。12歳のとき、地域信仰の象徴であった[[洪熙帝|洪聖大王]]木像を地元の子供らと壊したことから、兄の監督下に置かれることになる。当時の[[ハワイ王国]]に[[出稼ぎ]]で渡っていた兄の[[孫眉]]からの支援を得て、[[1878年]]に母と共に[[オアフ島]][[ホノルル]]に移住した。後に同地の[[イオラニ・スクール]]を卒業し、同市の[[プナホウ・スクール]]にも学び[[西洋]]思想に目覚めるが、兄や母は孫文が西洋思想(特に[[キリスト教]])に傾倒することを心配し、[[1883年]]に中国に戻された。
帰国後、[[イギリス]]の[[植民地]]の[[イギリス領香港|香港]]にある香港西医書院([[香港大学]]の前身)で[[医学]]を学びつつ革命思想を抱くようになり、[[ポルトガル]]の植民地の[[マカオ]]で[[医師]]として開業した。
=== 革命家へ ===
====日本へ亡命====
[[清仏戦争]]のころから[[政治問題]]に関心を抱き、1894年11月にハワイで[[興中会]]を組織した。翌年、[[日清戦争]]の終結後に広州での武装蜂起([[広州蜂起]])を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命した。[[1897年]]、[[宮崎滔天]]の紹介によって政治団体[[玄洋社]]の[[頭山満]]と出会い、頭山を通じて[[平岡浩太郎]]から東京での活動費と生活費の援助を受けた。また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は[[犬養毅]]が斡旋した。
[[1899年]]、[[義和団の乱]]が発生<ref>{{kotobank|義和団事件|2=大辞林 第三版}}</ref>。翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった<ref>{{kotobank|恵州蜂起|2=百科事典マイペディア}}</ref>。1902年、中国に妻がいたにもかかわらず、[[日本人]]の[[大月薫]]と[[結婚]]した<ref name=":0">{{Cite journal|author=久保田文治|year=2010|title=孫文と大月薫・宮川冨美子|journal=孫文研究|volume=47|page=}}</ref>。また、[[浅田春]]という女性を愛人にし、つねに同伴させていた。
====アメリカとヨーロッパへ====
のち[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を経てイギリスに渡り、一時[[清国]]公使館に拘留され、その体験を『倫敦被難記』として発表し、世界的に[[革命家]]として有名になる。この直後の[[1904年]]、清朝打倒活動の必要上「1870年11月、[[ハワイ]]の[[マウイ島]]生まれ」扱いでアメリカ国籍を取得した<ref>{{cite news |title=孫文:米国籍取得…米政府の資料で判明、安全のため|author= |newspaper=毎日新聞|date=2011-06-07|url=http://mainichi.jp/select/world/news/20110608k0000m030045000c.html|accessdate=2011-11-05}}</ref>。
以後、革命資金を集めるため、世界中を巡った。
[[1905年]]に[[ヨーロッパ]]から帰国をする際に[[スエズ運河]]を通った際に、現地の多くの[[エジプト人]]が喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、[[日露戦争]]での日本の勝利が[[アラブ人]]ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。孫文の思想の根源に日露戦争における日本の勝利があるといわれる。
長い間、満州民族の植民地にされていた漢民族の孫文は、「独立したい」「[[辮髪]]もやめたい」と言っていた。同年、宮崎滔天らの援助で[[東京府]][[池袋]]にて興中会、[[光復会 (清国)|光復会]]、[[華興会]]を糾合して[[中国同盟会]]を結成。ここで東京に留学中の[[蔣介石]]と出会う。{{要出典|date=2023年10月}}
=== 中華民国建国 ===
[[ファイル:Wuchangqiyi paobing.JPG|thumb|250px|武昌蜂起の兵士たち]]
[[1911年]][[10月10日]]、[[共進会]]と同学会の指導下、[[武昌蜂起]]が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える[[辛亥革命]]に発展した。当時、孫文はアメリカにいた。独立した各省は[[武昌]]派と[[上海市|上海]]派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争ったが、孫文が[[12月25日]]に上海に帰着すると、革命派はそろって孫文の到着に熱狂し、翌[[1912年]][[1月1日]]、孫文を臨時大総統とする[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]][[中華民国臨時政府 (1912年-1913年)|臨時政府]]が[[南京市|南京]]に成立した。
=== 国民党と第二革命・第三革命 ===
[[1913年]]3月、国会議員選挙において中国同盟会を発展させ、孫文が理事長である「国民党」が870議席の内401議席を獲得<ref name="amako2004p58">[[#天児2004|天児 2004]], p.58</ref>。
同党の実質的な指導者である[[宋教仁]]を総理とした<ref name="amako2004p58" />。[[愛新覚羅溥儀|宣統帝]]の[[宣統帝退位詔書|退位]]と引き換えに清朝の実力者となった[[袁世凱]]はアメリカの政治学者{{仮リンク|フランク・ジョンソン・グッドナウ|label=グッドナウ|en|Frank Johnson Goodnow}}による強権政治(中央集権的な統治)の意見を取り入れ、自身の権力拡大を計り、宋教仁を暗殺し、国民党の弾圧をはじめた<ref name="amako2004p58" />。これに伴い、同年7月、袁世凱打倒の'''[[第二革命]]'''がはじまる<ref name="amako2004p58" />。[[1914年]]に孫文は中華革命党を組織するが、袁は議会解散を強行した<ref name="amako2004p58" />。
[[1915年]]に袁世凱は共和制を廃止、帝政を復活させ、自らが[[中華帝国 (1915年-1916年)|中華帝国]]の皇帝に即位しようとした<ref name="amako2004p58" />。直ちに反袁・反帝政の'''[[護国戦争|第三革命]]'''が展開される。翌年、袁世凱は病死するが、[[段祺瑞]]が後継者になる。
=== 広東軍政府と護法運動 ===
{{main|護法運動}}
このころ、各地では地方軍人による独自政権が樹立され、「[[軍閥時代|軍閥割拠]]」の状況であった<ref name="amako2004p58" />。孫文は、西南の軍閥の力を利用し、[[1917年]]、[[広州市|広州]]で'''[[広東軍政府]]'''を樹立する<ref name="amako2004p58" />。しかし、軍政府における権力掌握のために、[[旧広西派]]の[[陸栄廷]]を攻撃したことが原因となり、第一次護法運動は失敗に終わった。また、第二次護法運動では'''[[中華民国正式政府]]'''を成立させたが、[[連省自治]]を主張する[[陳炯明]]との路線対立により{{仮リンク|六・一六事変|label=|zh|六·一六事变}}が勃発して失敗、蔣介石や{{仮リンク|陳策 (民国)|label=陳策|zh|陳策 (民國)}}らと共に広州を脱出した。なお、この時に孫文が脱出に使用した「[[永豊 (砲艦)|砲艦永豊]]」は、後に彼を記念して「中山」と改名された。
=== 再び日本へ ===
孫文は一時的に再び日本へ[[亡命]]した。日本亡命時には「[[明治維新]]は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」との言葉を[[犬養毅]]へ送っている<ref>『孫文選集(第三巻)』社会思想社、1989、 ISBN 4390602802 </ref>。
このころに同じ客家でもある[[宋嘉澍]]の次女の[[宋慶齢]]と結婚した。結婚年については諸説あるが、孫文が日本亡命中の[[1913年]] - [[1916年]]の間とされ、この結婚を整えたのは資金面で支援をしていた日本人の[[梅屋庄吉]]であった<ref name="NHK2007-02-25">2007年2月25日NHK BS1 『世界から見たニッポン~大正編』</ref><ref name="yomiuri2002-10">{{Cite book|和書|editor=読売新聞西部本社|editor-link=読売新聞|year=2002|month=10|title=梅屋庄吉と孫文 盟約ニテ成セル|publisher=海鳥社|isbn=4-87415-405-0|ref=読売新聞2002}}</ref>。
当時、日本の政財界の重鎮であった久原房之助は別邸の日本閣(現在の白金八芳園にある料亭「壺中庵」)に孫文を招いた。完成したばかりの「蘭の間」を提供、異国で過ごす友人を励まし、労った。
この蘭の間には「孫文の抜け穴」と呼ばれる抜け道が用意してあり、不測の事態に備えた仕掛けであった。壁には暖炉の裏に通じる隠し戸があり、それを抜けると地下トンネルを通って逃げられるようになっていた。
=== 五・四運動の影響 ===
[[1915年]]、第一次世界大戦中の日本が[[対華21ヶ条要求]]を北京政府に要求。[[1917年]]には[[ロシア革命]]が起きる。[[第一次世界大戦]]後の[[1919年]]1月の[[パリ講和会議]]によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「[[抗日]]愛国運動」が盛り上がった。[[五・四運動]]である。
この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく<ref>[[#天児2004|天児 2004]], p.61</ref>。[[陳独秀]]や[[毛沢東]]もこのときにマルクス主義に急接近する。この抗日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した<ref name="amako2004p63">[[#天児2004|天児 2004]], p.63</ref>。
旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、[[ボリシェビキ]]をモデルとした<ref name="amako2004p63" />。実際に、のちにロシアからコミンテルン代表の[[ミハイル・ボロディン|ボロディン]]を国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある<ref name="amako2004p63" />。
=== 佐々木到一軍事顧問就任 ===
[[ファイル:Sun Yat-sen and Chiang Kai-shek.jpg|thumb|200px|孫文(右)と蔣介石]]
[[1922年]]に日本の広東駐在武官となった[[佐々木到一]]は、当時、中国国民党の本拠であった広東で国民党について研究し、その要人たちと交わり、深い関係を持った。佐々木は後年に国民党通と言われる。孫文が陳炯明を追い払うと要請を受け、孫文の軍事顧問となる。
佐々木は孫文の軍用列車に便乗して国民党の戦いぶりを観察している。また列車の中で孫文から蔣介石を紹介された。なお[[人民服]](中山服)のデザインも佐々木の考案に基づいたされる。佐々木は[[1924年]]に帰国するが、その後も孫文とは交遊を続けた。
=== 孫文・ヨッフェ共同宣言 ===
[[1922年]]のコミンテルン極東民族大会において「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、[[1923年]]1月26日には孫文と[[ソビエト連邦]]代表[[アドリフ・ヨッフェ]]の共同声明である「[[汪兆銘#政治の表舞台へ|孫文・ヨッフェ共同宣言]]」が上海で発表され、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し、ソ連との連帯を鮮明にした<ref name="amako2004p64">[[#天児2004|天児 2004]], p.64</ref>。
この宣言は、[[コミンテルン]]、[[中国国民党]]および[[中国共産党]]の連携の布告であった。ソビエト連邦の支援の元、2月21日、孫文は広州で'''[[広東大元帥府]]'''の大元帥に就任した。
しかし、連ソ容共・工農扶助への方針転換に対して、反共的な[[蔣介石]]や財閥との結びつきの強い人物からの反発も強く、孫文の死後に大きな揺り戻しが起きることとなる。なお、孫文の妻でその遺志を継いだ宋慶齢は大陸に止まり、[[中国国民党革命委員会]]を結成して蔣介石を「裏切り者」と攻撃している。
=== 国共合作 ===
1923年6月の中国共産党第三回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン指導で、国共合作が方針となった<ref name="amako2004p64" />。
コミンテルンの工作員[[ミハイル・ボロディン]]は、ソ連共産党の路線に沿うように中国国民党の再編成と強化を援助するため1923年に中国に入り、孫文の軍事顧問・国民党最高顧問となった。ボロディンの進言により[[1924年]][[1月20日]]、中国共産党との[[国共合作#第一次国共合作|第一次国共合作]]が成立。軍閥に対抗するための素地が形成された。[[黄埔軍官学校]]も設立され、赤軍にあたる国民革命軍の組織を開始する。[[1925年]]にはソビエト連邦により中国人革命家を育成する機関を求める孫文のために[[モスクワ中山大学]]が設立された。
1924年10月、孫文は北上宣言を行い、全国の統一を図る国民会議の招集を訴えた。同11月には日本の[[神戸市|神戸]]で有名な「[[大アジア主義講演]]」を行う。日本に対して「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問い、[[欧米]]の[[帝国主義]]にたいし[[東洋]]の[[王道]]・[[平和]]の思想を説き、日中の友好を訴えた。
=== 死去 ===
[[ファイル:Sun Yat-sen 1924 Guangzhou.jpg|thumb|200px|孫文の晩年の写真(1924年)]]
このころより孫文はガンに侵されており、1925年、
{{cquote|
余、力を国民革命に致すこと爰に凡そ四十年、其の目的は中国の自由平等を求むるに在り。而して四十年の経験に依り、此の目的を達成せんと欲せば必ず克く民衆を喚起し、且つ世界に於て平等を以て我民族を待つものを聯合し、之と協同奮闘するの要あるを知れり。
'''現在、革命尚ほ未だ成功するに至らず'''。凡そ我同志は須く余の著す所の建国方略、建国大綱、三民主義及第一次全国代表大会の宣言に依り継続努力し、以て之が貫徹を期すべし。最近の主義たる国民会議の開催及不平等条約の廃除は、殊に最短期間に於て之を実現するを要す。之れ至嘱するところなり。孫文。<ref>{{Cite book|和書|author=孫文|others=[[外務省]]調査部訳編|year=1940|month=|title=孫文全集 第7巻 電文・書翰・遺書|chapter=遺書|publisher=第一公論社|ref=孫1939}}</ref>
}}
との遺言を記して(実際には[[汪兆銘]]が起草した文案を孫文が了承したもの)療養先の[[北京市|北京]]で客死し、南京に葬られた。その巨大な墓は[[中山陵]]と呼ばれる。
霊枢を北京より南京城外の中山陵に移すにあたり、31日国民政府中央党部で告別式を行い、国賓の礼を以て渡支した犬養毅が祭文を朗読<ref>[http://maesaka-toshiyuki.com/detail/582 辛亥革命百年(25)犬養木堂と孫文の友情]</ref>。
霊柩は犬養毅、頭山満の両名が先発して迎え、[[イタリア]]主席公使と蔣介石と共に廟後の墓の柩側に立った。
=== 死後 ===
精神的、政治的に主柱であった孫文没後の国民党は混迷し、孫文の片腕だった[[廖仲愷]]は暗殺され<ref name="amako2004p65">[[#天児2004|天児 2004]], p.65</ref>、孫文の妻の宋慶齢は国民党を去り、蔣介石と汪兆銘は対立、最高顧問ボロディンは解雇されるなどした。以降、蔣介石が権力基盤を拡大する。
孫文の死後に[[上海]]で発生した[[五・三〇事件]]を背景にして、汪兆銘は[[広州国民政府 (1925年-1926年)|広州国民政府]]を樹立。[[1926年]]7月には、約10万の[[国民革命軍]]が組織される<ref name="amako2004p65" />。総司令官には蔣介石が就任し、孫文の遺言でもあった[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を開始した。
[[1927年]]、蔣介石の[[上海クーデター]]により国共合作は崩壊。国民党は北伐を継続し、[[1928年]]6月9日には北京に入城し、[[北京政府]]を倒すことに成功した。
{{See also|蔣介石政権}}
== 思想 ==
=== 明治維新と孫文の革命観 ===
[[保阪正康]]によれば、[[宮崎滔天]]や[[山田良政]]・[[山田純三郎]]らが孫文の革命運動を援助した理由のひとつは、[[明治維新]]または[[自由民権運動]]の理想が日本で実現できなかったことの代償であったという<ref>{{Cite book|和書|author=保坂正康|authorlink=保阪正康|year=2009|month=8|title=孫文の辛亥革命を助けた日本人|series=ちくま文庫|publisher=筑摩書房|isbn=978-4-480-42634-5|ref=保坂2009}}</ref>。
しかし孫文自身も[[1919年]]に次のように発言している。
{{Squote|そもそも中国国民党は50年前の日本の志士なのである。日本は東方の一弱国であったが、幸いにして維新の志士が生まれたことにより、はじめて発奮して東方の雄となり、弱国から強国に変じることができた。わが党の志士も、また日本の志士の後塵を拝し中国を改造せんとした<ref>「中国の青島回収につき朝日新聞記者に回答せる書簡」1919年,『孫文選集』第三巻所収</ref>。}}
また[[1923年]]には、次のように発言している。
{{Squote|日本の維新は中国革命の原因であり、中国革命は日本の維新の結果であり、両者はもともと一つのつながって東亜の復興を達成する<ref>「犬養毅への書簡」1923年,『孫文選集』第三巻所収</ref>}}
このように明治維新への共感にもとづき日中の連携を模索した孫文にとって、日本による対華二十一ヶ条要求は「維新の志士の抱負を忘れ」、中国への侵略政策を進展させることであった<ref>{{Cite book|和書|author=清水美和|authorlink=清水美和|year=2003|month=5|title=中国はなぜ「反日」になったか|series-文春新書|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-660319-1|page= 62 f|ref=清水}}</ref>。
=== 革命三段階論 ===
孫文は決して[[民主制]]を絶対視していたわけではなく、中国民衆の民度は当時まだ低いと評価していたため民主制は時期尚早であるとし、[[軍事政権|軍政]]、訓政、憲政の'''三段階論'''を唱えていた。また、その革命方略は辺境を重視する根拠地革命であり、[[宋教仁]]らの唱える長江流域革命論と対立した。また孫文はアメリカ式[[大統領制]]による[[連邦制]]国家を目指していたが、宋教仁は[[議院内閣制]]による統一政府を目指した。 このように、孫文は終始革命運動全体のリーダーとなっていたのではなく、新国家の方針をめぐって宋教仁らと争っていた。
=== 民族主義 ===
[[三民主義]]の一つに民族主義を掲げ、[[秦]]以来[[万里の長城]]の内側を国土とした漢民族の国を再建すると訴えていたが、満州族の清朝が倒れると、清朝の版図である満州や[[ウイグル]]まで領土にしたくなり、民族主義の民族とは、漢とその周辺の五族の共和をいうと言い出した<ref>{{Cite book|和書|author=高山正之|authorlink=高山正之|year=2007|month=10|title=サダム・フセインは偉かった 変見自在|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-305871-7|ref=高山2007}}</ref>。
{{See|五族共和}}
しかし、この五族共和論は、すべての民族を中華民族に同化させ、融合させるという思想に変貌する<ref>加々美光行『中国の民族問題―危機の本質』岩波現代文庫、岩波書店、2008年。51頁</ref>。1921年の講演「三民主義の具体的実施方法」では「満、蒙、回、蔵を我が漢族に同化させて一大民族主義国家となさねばならぬ」と訴え、[[1928年]]には熱河、チャハルのモンゴル族居住地域、青海、西康のチベット族居住地域をすべて省制へと移行させ、内地化を行う<ref>加々美光行「中国の民族問題」51-52頁</ref>。
[[儒教]]や[[漢文]]、[[科挙]]とは無縁の、[[チベット仏教]]や[[イスラム教|イスラム]]の地が中国の不可分の[[国土]]であるなら、[[制度|制度文物]]をことごとく[[華制]]に従ってきた[[朝鮮]]は、なおいっそう中国の不可分の国土であるのは当然であり、孫文はその主著『三民主義』で、朝鮮を「失われた中国の地」と書いている<ref>{{Cite book|和書|author=松本厚治|authorlink=松本厚治|date=2019-02-27|title=韓国「反日主義」の起源|series= |publisher=[[草思社]]|ISBN=4794223870|pages=441-442}}</ref><ref>{{Cite news|author=[[鄭大均]]|date=2019|title=松本厚治 著『韓国「反日主義」の起源』|publisher=[[モラロジー研究所|モラロジー研究所歴史研究室]]|newspaper=歴史認識問題研究|url=http://harc.tokyo/wp/wp-content/uploads/2019/09/8cff5c3294c7d87bc89966eb33bfc3b4.pdf |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211003055059/http://harc.tokyo/wp/wp-content/uploads/2019/09/8cff5c3294c7d87bc89966eb33bfc3b4.pdf|archivedate=2021-10-03|page=145-146}}</ref>。
== 日本との関係 ==
孫文は生前、日本人とも幅広い交遊関係を持っていた<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009010843_00000 シリーズ 辛亥革命100年 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]</ref>。[[犬養毅]]の仲介を経て知り合った[[宮崎滔天]]<ref>{{Cite book|和書|author=宮崎滔天|authorlink=宮崎滔天|others=[[島田虔次]]・[[近藤秀樹]]校注|date=1993-05-17|title=三十三年の夢|series=[[岩波文庫]]|publisher=岩波書店|isbn=4-00-331221-X|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/X/3312210.html|ref=宮崎1993}}</ref> や[[頭山満]]・[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]らとは思想上も交遊し、資金援助を受けてもいた<ref>{{Cite book|和書|author=頭山統一|authorlink=頭山統一|year=1977|month=9|title=筑前玄洋社|publisher=[[葦書房]]|isbn=978-4-7512-0035-3|ref=頭山統一}}</ref>。また、実業家では、[[松方幸次郎]]、[[安川敬一郎]]や株式相場師の [[鈴木久五郎]]、[[梅屋庄吉]]<ref name="NHK2007-02-25" /><ref name="yomiuri2002-10" />からも資金援助を受けていた。また、滞日時の支援者の一人に、漫画家・[[柴田亜美]]の曽祖父もいた。
ほかにも日本陸軍の[[佐々木到一]]が軍事顧問にもなっている。ほか、[[南方熊楠]]とも友人で、ロンドン亡命中に知り合って以降親交を深めた<ref>日本孫文研究会『孫文と南方熊楠』『孫文と華僑』『孫文とアジア―1990年8月国際学術討論会報告集』[[汲古書院]]</ref>。
また孫の自伝『建国方略』の文書中では、犬養毅・[[平山周]]・[[大石正巳]]・[[尾崎行雄]]・[[副島種臣]]・頭山満・[[平岡浩太郎]]・[[秋山定輔]]・[[中野徳次郎]]・鈴木久三郎・安川敬一郎・[[犬塚信太郎]]・[[久原房之助]]・[[山田良政]]・宮崎寅蔵(滔天)・[[菊池良一]]・[[萱野長知]]・[[副島義一]]・[[寺尾亨]]の名前を列挙し、深く感謝の意を表している<ref>{{Cite book|和書|author=孫文|others=[[外務省]]調査部訳編|year=1939|month=|title=孫文全集 第2巻 建国方略|chapter=志あらばついに成る|publisher=第一公論社|ref=孫1939}}</ref>。
== 評価 ==
[[ファイル:TaiwanP1935-1Yuan-1946 a.jpg|250px|thumb|孫文の肖像画の旧台湾ドル紙幣]]
孫文の評価は一定していないのが実情である。1970年代以前は被抑圧民族の立場から[[帝国主義]]に抵抗した中国革命のシンボルとして高く評価された。特に1924年(大正13年)の「[[大アジア主義講演]]」が日本の対アジア政策に警鐘を鳴らすものとして絶賛的に扱われていた。しかし、革命への熱気が冷めた1980年代以降は、孫文の[[独裁]]主義的な志向性、人民の政治能力を劣等視するような愚民観、漢族中心的(孫文自身、漢民族の一つ・[[客家]]人である)な[[民族主義]]といった点が問題視されるようになり、現在の[[中華人民共和国]]や[[動員戡乱時期臨時条款|民主化以前]]の[[台湾]]([[中華民国]])の[[権威主義]]的・非民主的な体制の起源として批判的に言及されることも多くなった{{誰によって|date=2021年4月}}。
孫文の評価を難しくしているのは、民族主義者でありながらまだ所有すらしていない国家財産を抵当にして外国からの[[借款]]に頼ろうとしたり国籍を変えたり、革命家でありながらしばしば軍閥政治家と手を結んだり、最後にはソ連のコミンテルンの支援を得るなど、目先の目標のために短絡的で主義主張に反する手法にでることが多いためである。
彼の思想である「三民主義」も、[[マルクス・レーニン主義]]、[[自由民主主義]]、[[儒教]]に由来する多様な理念が同時に動員されており、思想と言えるような体系性や一貫性をもつものとは見なしづらい。もっとも、こうした場当たり的とも言える一貫性のなさは、孫文が臨機応変な対応ができる政治活動家であったという理由によって肯定的に評価されてきた。
孫文には中国の革命運動における具体的な実績はそれほどなく、中国国内よりも外国での活動のほうが長い。彼の名声は何らかの具体的な成果によるものと言うより、中国革命のシンボルとしての要素によるものと言える。
孫文の活動した時代を扱った中国史研究書でも、ほとんど言及がないものも少なくないが、これは史料の中に孫文の名前が登場しないという単純な理由による。
== 人物 ==
* [[春秋時代]]の[[孫武|孫子]]および[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の[[孫権]]の末裔と伝わる<ref group="注釈">清代の『[[四庫全書]]』および、現在の[[浙江省]][[杭州市]][[富陽区]]南部には観光地の龍門古鎮という村があり、9割の人の姓が孫武を祖とする富春孫氏の子孫と自称している。村の族譜によると、孫文もその系統に属するという。しかし孫文は客家出身のために、疑わしい部分も多く真偽の程は不明である。</ref>。
* 生前は、その主張を単なる冗談・大言壮語ととらえ、孫大砲(大砲とはほら吹きに対する揶揄的な表現)と呼ぶ者もいた
== 親族 ==
* [[盧慕貞]](1867-1952) - 前妻。子に孫科、孫娫、孫婉。1885年結婚、1915年離婚
* [[宋慶齢]](1893-1981) - 後妻。1915年に東京で結婚。
* [[宋美齢]] - 妻である宋慶齢の妹、蔣介石の妻
* [[孫科]] - 字は哲生、孫文の先妻の息子
* [[孫治平]]・[[孫治強]] - 孫文の孫、孫科の長男と次男
* [[孫国雄]]・[[孫偉仁]] - 孫文の曾孫と玄孫
* 陳粹芬(1873–1960) - 中国人妾。香港に生まれ、1892年に孫文と出会って革命的同志として活動を共にしたが、1911年帰郷。孫一族の墓に妾として名がある。
* [[浅田春]](1882–1902) - 日本人妾。1897年に横浜で接待係として出会い、1901年に病を理由に帰郷。
* [[大月薫]](1887-1970) - 日本人妻。1902年より同棲、1904年結婚、1906年離婚。
* [[宮川富美子]] - 孫文と大月薫との子
* [[宮川東一]] - 孫文の孫
* [[宮川祥子]] - 孫文の曾孫<ref>[http://sonbun.or.jp/jp/images//museum_info_14.pdf]孫文記念館</ref>
== 孫文が登場する作品 ==
;小説
*[[三好徹]]『革命浪人 滔天と孫文』[[中央公論社]], 1979.11. のち文庫
*[[陳舜臣]]『江は流れず-小説日清戦争』中央公論社、1981年(文庫、1984年)
*[[浅田次郎]]『蒼穹の昴』[[講談社]]、1996年(文庫、2004年)
*[[伴野朗]]『砂の密約 孫文外伝-革命いまだ成らず』[[実業之日本社]], 1997.9 のち集英社文庫.
*陳舜臣『山河在り』講談社、1999年(文庫、2002年)
*陳舜臣『青山一髪』(上下巻)中央公論新社、2003年(改題『孫文』文庫、2006年)
*平路 [[池上貞子]]訳『天の涯までも 小説・孫文と宋慶齢』[[風濤社]], 2003.6.
*浅田次郎『中原の虹』講談社、2006-07年(文庫、2010年)
;映画
;孫文が主人公の映画
*[[孫文 (1986年の中国映画)|孫文]](1986年、中国、監督:[[丁蔭楠]]、孫文役:[[劉文治]])
*[[孫文 (1986年の台湾映画)|孫文]](1986年、台湾・香港、監督:[[丁善璽]]、孫文役:[[ラム・ワイサン]])
*[[孫文 -100年先を見た男-]](2006年、中国、監督:[[デレク・チウ]]、孫文役:[[ウィンストン・チャオ]])
;孫文が登場する映画
*[[ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ#ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地大乱|ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地大乱]](1993年、香港、監督:[[ツイ・ハーク]]、孫文役:[[ジャン・ティエリン]])
*[[宋家の三姉妹]](1997年、香港、監督:[[メイベル・チャン]]、孫文役:[[ウィンストン・チャオ]])
*[[孫文の義士団]](2009年、香港・中国、監督:[[テディ・チャン]]、孫文役:[[チャン・ハンユー]])
*[[1911 (映画)|1911]](2011年、中国・香港、総監督:[[ジャッキー・チェン]]、監督:[[張黎 (映画監督)|チャン・リー]]、孫文役:[[ウィンストン・チャオ]])
*{{仮リンク|赤い星の生まれ|zh|建黨偉業}}(2011年、中国・香港、総監督:[[韓三平]]、孫文役:{{仮リンク|馬少驊|zh|马少骅}})
;ドラマ
;孫文が主人公のドラマ
*[[走向共和]](2003年、中国、監督:[[張黎 (映画監督)|チャン・リー]]、孫文役:{{仮リンク|馬少驊|zh|马少骅}})
;孫文が登場するドラマ
* [[アジアの曙 (テレビドラマ)|アジアの曙]](TBS、1964年-1965年、演:[[加藤嘉]])
* [[青天を衝け]]([[NHK]][[大河ドラマ]]、2021年、演:[[東浩]])
;漫画
*[[一輝まんだら]]([[手塚治虫]])
*[[王道の狗]]([[安彦良和]])
*[[MASTERキートン]]([[浦沢直樹]])
*[[拳児]]([[松田隆智]])
;同人誌
*[[鉄拳無敵孫中山]]
;ドキュメンタリー
*ハイビジョン特集「孫文を支えた日本人〜辛亥革命と梅屋庄吉」(NHK、2010年5月22日)
== 関連記念施設 ==
=== 記念館 ===
* [[孫文記念館]](移情閣) - {{JPN}}[[兵庫県]][[神戸市]][[垂水区]]にある孫文ゆかりの建物
* [[旧香港上海銀行長崎支店]] - {{JPN}}[[長崎県]][[長崎市]]松が枝町にある孫文と[[梅屋庄吉]]との関係や[[日華連絡船]]などの歴史記念館
* [[孫中山紀念館]] - {{CHN}}[[江蘇省]][[南京市]][[玄武区]]にある孫文の記念館
* [[国立国父紀念館]] - {{TWN}}[[台北市]][[信義区]]にある孫文の記念館
* [[国父史蹟館]] - {{TWN}}台北市[[中正區 (臺北市)|中正區]][[逸仙公園]]の園内にある記念館
* [[:en:Dr_Sun_Yat-sen_Museum|孫中山紀念館]] - {{HKG}}の[[中環]]にある孫文の記念館
=== 建築 ===
* [[中山陵]] - {{CHN}}江蘇省南京市玄武区にある孫文の陵墓
* [[中山楼]] - {{TWN}}台北市[[北投区]]にある[[多目的ホール]]。1966年から2005年まで[[国民大会]]の議事堂として使用された
=== 学校 ===
* [[中山大学]] - {{CHN}}[[広東省]]にある[[中華人民共和国教育部|教育部]]所属の[[国家重点大学]]
* [[国立中山大学]] - {{TWN}}[[高雄市]]にある[[台湾]]の[[国立大学]]
== 著作 ==
* {{Cite book|和書|author=孫中山|editor=[[孫中山]]|title=三民主義|publisher=三民書局|ref=孫2010}}
* {{Cite book|和書|author=孫中山|editor=秦孝儀主編|editor-link=秦孝儀|year=1989|month=11|title=国父全集|publisher=台北近代中国出版社|ref=孫1989}}
* {{Cite book|和書|author=孫中山|editor1=陳旭麓|editor1-link=陳旭麓|editor2=郝盛潮主編|editor2-link=郝盛潮|year=1990|month=7|title=孫中山集外集|publisher=上海人民出版社|ref=孫1990}}
* {{Cite book|和書|author=孫文|others=[[深町英夫]]編訳|date=2011-09-16|title=孫文革命文集|series=[[岩波文庫]]青230-3|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-332303-8|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/3/3323030.html|ref=孫2011}}
* 孫文全集 外務省調査部訳編. 第一公論社, 1939-40. のち原書房
* 孫文選集 全3巻 社会思想社, 1985-89
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=天児慧|authorlink=天児慧|editor=礪波護ほか|editor-link=礪波護|year=2004|month=11|title=巨龍の胎動 毛沢東vs鄧小平|series=中国の歴史 = A history of China 11|publisher=講談社|isbn=4-06-274061-3|ref=天児2004}}
* {{Cite book|和書|editor=孫文研究会|year=2003|month=12|title=辛亥革命の多元構造 辛亥革命90周年国際学術討論会(神戸)|publisher=汲古書院|isbn=4-7629-2690-6|ref=孫文研究会2003}}
* {{Cite book|和書|author=陳徳仁|authorlink=陳徳仁|coauthors=[[安井三吉]]|year=1985|month=10|title=孫文と神戸|series=シリーズ兵庫の歴史 3|publisher=神戸新聞出版センター|isbn=4-87521-052-3|ref=陳&安井1985}}
* {{Cite book|和書|author=藤村久雄|authorlink=藤村久雄|year=1994|month=4|title=革命家 孫文 革命いまだ成らず|series=[[中公新書]]|publisher=中央公論社|isbn=4-12-101184-8|ref=藤村1994}}
* {{Cite book|和書|author=横山宏章|authorlink=横山宏章|date=1996-01-08|title=孫文と袁世凱 中華統合の夢|series=現代アジアの肖像 1|publisher=岩波書店|isbn=4-00-004396-X|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/X/0043960.html|ref=横山宏章}}
*孫文主義の哲学的基礎 [[戴季陶]] 中山志郎 訳. 生活社, 1939.
*孫文主義国家論 林桂圃 中山志郎訳 生活社, 1940.
*孫文の生涯と国民革命 [[河野密]] 日本放送出版協会, 1940 ラジオ新書
*孫文 高橋勇治 日本評論社, 1943. 東洋思想叢書
*孫文の経済思想 出口勇蔵. 高桐書院, 1946.
*孫文 小野則秋. 大雅堂, 1948.
*孫文伝 [[鈴江言一]]. 岩波書店, 1950.
*孫文 中国革新の父 [[小田岳夫]] 偕成社, 1953. 偉人物語文庫
*革命前夜 孫文をめぐる人々 長崎武, 萱野長雄共著. 松沢書店, 1958.
*孫文 革命いまだ成らず [[野沢豊]] 誠文堂新光社, 1962. 歴史の人間像
*孫文と中国革命 野沢豊 1966. 岩波新書
*孫文の研究 とくに民族主義理論の発展を中心として [[藤井昇三]] 勁草書房, 1966.
*茫々の記 宮崎滔天と孫文 [[立野信之]] 東都書房, 1966.
*現代中国と孫文思想 [[安藤彦太郎]],[[岩村三千夫]],野沢豊編. 講談社, 1967.
*孫文と日本 [[貝塚茂樹]] 1967. 講談社現代新書
*孫文 [[横山英]],[[中山義弘]] 清水書院, 1968. センチュリーブックス. 人と思想
*孫文 中国の国父 R.チフビンスキー 高山洋吉訳. 刀江書院, 1972.
*孫文 救国の情熱と中国革命 [[堀川哲男]] 清水書院, 1973. センチュリーブックス. 人と歴史シリーズ 「孫文と中国の革命運動」清水新書
*孫文思想 王昇 松田憲澄 編訳. 世界情勢研究会, 1978.11.
*君ヨ革命ノ兵ヲ挙ゲヨ 日中友好秘録 革命の父・孫文に生涯した一日本人 [[車田譲治]] 六興出版, 1979.4.
*革命いまだ成功せず 孫文伝 安藤彦太郎 国土社, 1981.9. 世界を動かした人びと
*人類の知的遺産 63.孫文 堀川哲男 講談社, 1983.9.
*孫文と中国革命 孫文とその革命運動の史的研究 [[池田誠]] 法律文化社, 1983.11.
*孫文の革命運動と日本 兪辛焞 六興出版, 1989.4. 東アジアのなかの日本歴史
*移情閣遺聞 孫文と呉錦堂 [[中村哲夫 (歴史学者)|中村哲夫]] 阿吽社, 1990.3.
*醇なる日本人 孫文革命と山田良政・純三郎 結束博治 プレジデント社, 1992.9.
*仁あり義あり、心は天下にあり 孫文の辛亥革命を助けた日本人 [[保阪正康]] 朝日ソノラマ, 1992.2. のちちくま学芸文庫
*孫文の経済学説試論 中村哲夫. 法律文化社, 1999.10.
*孫文 百年先を見た男 [[田所竹彦]] 築地書館, 2000.3. のち新人物文庫
*孫文を守ったユダヤ人 モーリス・コーエンの生涯 ダニエル・S.レヴィ 吉村弘訳. 芙蓉書房出版, 2001.4.
*孫文 その指導者の資質 [[舛添要一]] 2011.10. 角川oneテーマ21
*王道の狗 安彦良和
*天の血脈 安彦良和
== 関連項目 ==
{{wikisourcelang|zh|作者:孫中山|孫文}}
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{{Commons&cat|Sun Yat-sen}}
* [[黄興]]
* [[章炳麟]]
* [[宋教仁]]
* [[北洋軍閥]]
* [[北一輝]]
* [[陳炯明]]
* [[中華民国憲法]]
* [[中華民国の政治]]
* [[中華民国の歴史]]
* [[北京飯店]]
* [[梅屋庄吉]] - 日本の支援者の一人
*[[松本楼]]
*[[辛亥革命]]
*[[宮崎兄弟の生家]]
== 外部リンク ==
* [http://sonbun.or.jp/jp/ 孫文記念館(日本)]{{ja icon}}{{zh icon}}{{en icon}}
* [http://www.nmhc.jp/museum_hsb/index.html 長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館 長崎近代交流史と孫文・梅屋庄吉ミュージアム(日本)]{{ja icon}}{{zh icon}}{{en icon}}{{ko icon}}
* [https://www.yatsen.gov.tw/ 国立国父紀念館(台湾)]{{zh icon}}{{en icon}}
* [http://www.sunyat-sen.org/ 孫中山故居記念館(広東省)]{{zh icon}}{{en icon}}{{ja icon}}
* [http://www.yocs.jp/YOCS/ 横濱中華學院(孫文創設校)]{{zh icon}}{{ja icon}}
* {{Cite journal|和書|author=福田惠子|editor=[[拓殖大学国際開発研究所]]編|year=2006|month=3|title=孫文の人物像と日本人ネットワークの検討 : 康有為と比較して|journal=国際開発学研究|volume=5|issue=2|pages=pp. 49-62|publisher=勁草書房|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110004812535/|naid=110004812535}}
* {{Cite journal|和書|author=竹之内安巳|year=1969|month=2|title=孫文革命の展開と何香凝―1―〔何香凝「我的回憶」(人民日報掲載)の要訳・注解〕|journal=鹿児島経大論集|volume=9|issue=3・4|pages=pp. 45-68|publisher=鹿児島経済大学経済学部学会|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110004671289/|issn=0288-0741|naid=110004671289}} - 孫文の盟友[[廖仲愷]]の妻であり革命運動を支えた[[何香凝]]による「我的回憶」の要約。
* {{Cite journal|和書|author=竹之内安巳|year=1969|month=7|title=孫文革命の展開と何香凝―2―|journal=鹿児島経大論集|volume=10|issue=1|pages=pp. 19-45|publisher=鹿児島経済大学経済学部学会|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110004671296/|issn=0288-0741|naid=110004671296}}
* {{Cite journal|和書|author=竹之内安巳|year=1969|month=10|title=孫文革命の展開と何香凝―3―|journal=鹿児島経大論集|volume=10|issue=2|pages=pp. 149-176|publisher=鹿児島経済大学経済学部学会|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110004671305/|issn=0288-0741|naid=110004671305}}
*[https://www.u-keiai.ac.jp/issn/menu/ronbun/no2/143-171.pdf 孫文の北京における死とその政治効果] - [[家近亮子]]、[[敬愛大学]]国際研究第2号、1998年
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%96%87 |
2,757 | UEFAヨーロッパリーグ | UEFAヨーロッパリーグ(UEL、英: UEFA Europa League)は、欧州サッカー連盟(UEFA)が主催する、ヨーロッパのクラブチームによるサッカーの国際大会である。この大会への参加資格は、各国のリーグ戦やカップ戦での成績に基づいている。
UEFAカップウィナーズカップが廃止される前の1971年から1999年までは"第3層"であったが、現在はUEFAチャンピオンズリーグの下、UEFAヨーロッパカンファレンスリーグの上に位置する"第2層"の大会である。
インターシティーズ・フェアーズカップとして創設された大会が前身となり、1972年にUEFAカップとして正式に発足。1999年、それまであった欧州三大カップ戦の一角、UEFAカップウィナーズカップ(ヨーロッパ各国のカップ戦優勝クラブによる国際大会)を吸収する形で(UEFAカップ出場資格に、ヨーロッパ各国のカップ戦優勝クラブを加える形で吸収)、統合された。
グループステージ以外においては、対戦の勝敗は基本的にH&A方式の2戦合計にて決められる。また、決勝戦のみ中立地での1戦で勝敗を決する(1997-98シーズンより)。グループステージには、2021-22シーズンからは4クラブ×8組の32クラブが出場する(2004-05シーズンより2008-09シーズンまでは5クラブ×8組の40クラブが出場(1回総当たり、各クラブがホームゲームとアウェーゲームを2回ずつ実施)、2009-10シーズンより2020-21シーズンまでは4クラブ×12組の48クラブが出場(H&Aの2回総当たり)していた)。
従来、UEFAヨーロッパリーグ(当時の名称はUEFAカップ)は、各国リーグの上位クラブ同士が対戦するということもあって、UEFAチャンピオンズリーグ(UCL)と並んでレベルの高い大会であった(90年代中盤までUEFAチャンピオンズリーグは、どの国も1クラブ(リーグ優勝したクラブのみ)しか出場できなかった。そのため当時のUEFAカップは、リーグ優勝を惜しくも逃した各国の上位クラブが多数参加する非常にレベルの高い大会であった)。しかし1997-98シーズン以降、UEFAチャンピオンズリーグ出場クラブ拡大の余波を受け、各国リーグから複数のクラブがUEFAチャンピオンズリーグへの参加が認められるようになると、欧州主要リーグのビッグクラブが軒並みUEFAチャンピオンズリーグに参加してしまう事態となり、UEFAカップは、「国内リーグで優勝もしくはUEFAチャンピオンズリーグ出場権を逃したチームのための大会」という不名誉な位置付けの大会に成り下がりつつあった。
この課題を解決するための施策として、UEFAチャンピオンズリーグ本大会グループリーグ(GL)3位敗退クラブなどが当年度のUEFAヨーロッパリーグに参加することを可能とすることで、例えば近年ではマンチェスター・シティ、チェルシー、リヴァプール、ユヴェントスのようなUEFAチャンピオンズリーグの優勝を目指すようなビッグクラブやアトレティコ・マドリード、ボルシア・ドルトムント、ポルト、バルセロナのようなUEFAチャンピオンズリーグでもGLを勝ち抜けるであろうと目される有力クラブが、UEFAヨーロッパリーグへ参加できるよう手配するようにしている。
その他の施策としては、グループリーグの導入(当初は変則H&A形式のリーグ戦として2004-05シーズンより導入)、決勝戦を中立地での1戦のみで決する(決勝戦はUEFA4つ星認定スタジアム以上の格付けを持ったスタジアムで開催する)、より格式高い大会とするためのセレモニーとしてUEFAヨーロッパリーグ・アンセム(賛美歌)の導入や新たな大会ロゴマークの新設、大会名も2009-10シーズンより従来のUEFAカップからUEFAヨーロッパリーグへと変更する、等、UEFAチャンピオンズリーグに近いような大会方式に変更された。さらに2014-15シーズンより、優勝クラブには翌年度のUEFAチャンピオンズリーグへの出場資格が与えられている。
2021-22シーズンより、UEFAヨーロッパカンファレンスリーグ(UECL)が創設されたことにより、UELに直接出場するクラブ数は大幅に削減された。UECL優勝クラブは翌年度のUELのグループステージ出場権を得る。
UEFAランキング1位~4位の国の前年度国内リーグ5位のクラブと同ランキングの5位の国の国内リーグ4位のクラブの計5クラブがUELのグループステージに直接出場する。
2018-19シーズンから2020-21シーズンまで UEFAランキング1位~51位の国は2つ、52位~54位の国は1つの出場枠を持つ。ただし、リヒテンシュタインは国内リーグが無いため、国内リーグ戦の成績による出場クラブはない。リーグカップ戦からの出場枠を有するイングランド、フランスは国内リーグ戦の成績による出場は1クラブのみとなる。
(1) UEFAランキング1位〜4位の前年度国内リーグ5位と6位クラブ (2) UEFAランキング5位〜6位の前年度国内リーグ4位と5位クラブ (3) UEFAランキング7位〜15位の前年度国内リーグ3位と4位クラブ (4) UEFAランキング16位〜51位の前年度国内リーグ2位と3位クラブ (5) UEFAランキング52位~54位の前年度国内リーグ2位クラブ
UEFAランキング1位~15位の国の前年度国内カップ戦優勝クラブ、計15クラブがUELに直接出場する。上位6か国の優勝クラブはグループステージから出場する。
2018-19シーズンから2020-21シーズンまで
1996-97シーズン以降、同じ年度のUEFAチャンピオンズリーグの敗退チームの一部も当大会に合流する。
2021-22シーズンから、UELを分割する形で、UCL、UELに次ぐ、3番目のレベルの大会として、UEFAヨーロッパカンファレンスリーグ(UECL)が創設された(かつて、3番目のレベルの大会としては、2008年までUEFAインタートトカップが存在し、上位入賞クラブがUEFAカップ出場権を得ていたが、UELに統合された)。そのため、従来、UEL出場権を得ていたUEFAランキング16位以下のカップ戦優勝クラブ、同1~4位の前年度国内リーグ6位クラブ、同5位の前年度国内リーグ5位クラブ、同6位以下で前年度国内リーグ成績により出場権を得ていたクラブは、当大会では無くヨーロッパカンファレンスリーグに出場する。
予選はトーナメント形式によるホーム・アンド・アウェー戦を実施する。2試合終了後同点の場合には延長戦、PK戦を行い勝者を決定する。なお、2020-21シーズンまではアウェーゴールルールが採用されていた。各対戦前に各クラブのランキングポイントによりポットを分けた上で同国のクラブ同士が対戦しないように抽選を行う。予選で敗退したクラブはカンファレンスリーグに出場する。
グループリーグは32チームを4クラブずつ、8グループに分けたホーム・アンド・アウェー戦のグループリーグを実施する。抽選は各クラブのランキングポイントにより4つのポットにわけ、また同国のクラブが同じグループに入らないように行われる。各グループ1位のクラブは自動的に決勝トーナメント進出が決まるが、2位のクラブはチャンピオンズリーグのグループリーグを3位で敗退したクラブとのプレーオフにより決勝トーナメント進出を争う。3位のクラブはカンファレンスリーグの決勝トーナメント進出を懸けたプレーオフに出場する。
決勝トーナメントは、16クラブでのトーナメント形式によるホーム・アンド・アウェー戦を実施する。2試合の合計スコアが同じ場合は延長戦→PK戦で次のステップ進出クラブを決める。(アウェーゴール方式は2020-21シーズン限りで廃止)決勝のみ(自国クラブが勝ち上がった場合は中立地でなくなるが)中立地での一発勝負となる。
決勝トーナメントプレーオフの組み合わせ抽選はグループリーグ2位の8クラブがシードされ、同国のクラブ同士が対戦しないように抽選される。1回戦の組み合わせ抽選はグループリーグ1位の8クラブがシードされ、同国のクラブ同士が対戦しないように、またグループリーグで対戦したクラブとも当たらないように考慮される。2回戦以降の抽選ではシード分けはされず、同国同士・グループリーグ同組同士の対戦も制限されない。
2024-25シーズンから
2021-22シーズンから
2018-19シーズンから2020-21シーズンまで
UEFAランキングによる出場クラブ数の変更
抽選はグループリーグ終了後に決勝トーナメント1回戦の抽選を行う。1回戦においては、UEFAチャンピオンズリーグ3位クラブのうち、成績上位4チームをグループステージ1位の枠に入れてシードし、成績下位4チームはグループステージ2位の枠に入れる。そして1位の枠から1つ、2位の枠から1つという形で抽選を行う。2位の枠から選ばれたチームが第1戦のホームとなる。また同国のクラブ同士が対戦しないように、またグループリーグで対戦したクラブとも当たらないように考慮される。準々決勝、準決勝は再度抽選となるが、この際には1回戦の抽選に伴う考慮はなく、全くのフリーで抽選を行う。
国内カップ戦優勝クラブがUCLに出場のため不参加でカップ戦準優勝クラブが出場する場合、各国の判断によっては、どのラウンドから参加するかを国内リーグの順位に従って決める。
2024-25シーズンより、現行の32チームから36チームに出場枠が拡大され、グループステージを4チーム、8組に分けるフォーマットは廃止され、スイス方式の総当たり方式が導入される。
シーズン途中に移籍して新加入した選手が前所属クラブでUEL本大会に出場歴のある場合、新たな所属クラブで同年度の大会に出場登録はできない。同年度のUCL本大会に出場歴のある選手は、1人に限り登録が可能(但しUCLに出場した際の前所属クラブが、UCLでグループリーグ3位になってUEL決勝トーナメントに参加する場合は不可)。UCL、UELの予選のみに前所属クラブで出場歴がある選手に関しては、新たな所属クラブで本大会から登録できるルールに変更された(元々は前所属クラブが敗退していない場合は登録不可だった)。
2022/23シーズンの例。
上記はステージ進出ごとに加算されることを意味している。そのためグループステージ全勝で優勝した場合の額は2291万ユーロとなる。加えて以下の額がクラブに与えられる。
注:優勝年度及び準優勝年度は、優勝が決定した年を並べている。例えば、1971-72年度王者は1972年としている。
大会がUEFAヨーロッパリーグになった2009-10シーズン以降、テーマ曲「UEFAヨーロッパリーグ賛歌 (UEFA Europa League Anthem) 」が使われており、試合開始前、テレビ中継開始時と終了時に流される。このアンセムには、UEFAチャンピオンズリーグアンセムとは違って歌詞は存在しない。初代アンセムは、2009-10シーズンから2014-15シーズンまでの6年間使われ、作曲はフランスのヨアン・ツバイクが担当し、パリ・オペラ座管弦楽団の演奏によるものだった。
2015-16シーズンから2017-2018シーズンまでのアンセム(2代目)は、ドイツの作曲家・ミヒャエル・カデルバッハによって作曲されたもので、アップテンポや拍手をベースに、選手・サポーター・チームスタッフとの一体感を表現したものとなっていた。
2018-19シーズンからは、本大会のヴィジュアル・アイデンティティ(VI)がリニューアルしたのに合わせ、アンセムも3代目のものに一新された。現行のアンセムは、夜に行われる試合の情熱とエネルギーを表しており、高揚感を生み出す力強い楽曲となっている。 | [
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"tag": "p",
"text": "2021-22シーズンより、UEFAヨーロッパカンファレンスリーグ(UECL)が創設されたことにより、UELに直接出場するクラブ数は大幅に削減された。UECL優勝クラブは翌年度のUELのグループステージ出場権を得る。",
"title": "参加資格"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "UEFAランキング1位~4位の国の前年度国内リーグ5位のクラブと同ランキングの5位の国の国内リーグ4位のクラブの計5クラブがUELのグループステージに直接出場する。",
"title": "参加資格"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "2018-19シーズンから2020-21シーズンまで UEFAランキング1位~51位の国は2つ、52位~54位の国は1つの出場枠を持つ。ただし、リヒテンシュタインは国内リーグが無いため、国内リーグ戦の成績による出場クラブはない。リーグカップ戦からの出場枠を有するイングランド、フランスは国内リーグ戦の成績による出場は1クラブのみとなる。",
"title": "参加資格"
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{
"paragraph_id": 10,
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"text": "(1) UEFAランキング1位〜4位の前年度国内リーグ5位と6位クラブ (2) UEFAランキング5位〜6位の前年度国内リーグ4位と5位クラブ (3) UEFAランキング7位〜15位の前年度国内リーグ3位と4位クラブ (4) UEFAランキング16位〜51位の前年度国内リーグ2位と3位クラブ (5) UEFAランキング52位~54位の前年度国内リーグ2位クラブ",
"title": "参加資格"
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{
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"text": "UEFAランキング1位~15位の国の前年度国内カップ戦優勝クラブ、計15クラブがUELに直接出場する。上位6か国の優勝クラブはグループステージから出場する。",
"title": "参加資格"
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{
"paragraph_id": 12,
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"text": "2018-19シーズンから2020-21シーズンまで",
"title": "参加資格"
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{
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"text": "1996-97シーズン以降、同じ年度のUEFAチャンピオンズリーグの敗退チームの一部も当大会に合流する。",
"title": "参加資格"
},
{
"paragraph_id": 14,
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"text": "2021-22シーズンから、UELを分割する形で、UCL、UELに次ぐ、3番目のレベルの大会として、UEFAヨーロッパカンファレンスリーグ(UECL)が創設された(かつて、3番目のレベルの大会としては、2008年までUEFAインタートトカップが存在し、上位入賞クラブがUEFAカップ出場権を得ていたが、UELに統合された)。そのため、従来、UEL出場権を得ていたUEFAランキング16位以下のカップ戦優勝クラブ、同1~4位の前年度国内リーグ6位クラブ、同5位の前年度国内リーグ5位クラブ、同6位以下で前年度国内リーグ成績により出場権を得ていたクラブは、当大会では無くヨーロッパカンファレンスリーグに出場する。",
"title": "参加資格"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "予選はトーナメント形式によるホーム・アンド・アウェー戦を実施する。2試合終了後同点の場合には延長戦、PK戦を行い勝者を決定する。なお、2020-21シーズンまではアウェーゴールルールが採用されていた。各対戦前に各クラブのランキングポイントによりポットを分けた上で同国のクラブ同士が対戦しないように抽選を行う。予選で敗退したクラブはカンファレンスリーグに出場する。",
"title": "開催方式"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "グループリーグは32チームを4クラブずつ、8グループに分けたホーム・アンド・アウェー戦のグループリーグを実施する。抽選は各クラブのランキングポイントにより4つのポットにわけ、また同国のクラブが同じグループに入らないように行われる。各グループ1位のクラブは自動的に決勝トーナメント進出が決まるが、2位のクラブはチャンピオンズリーグのグループリーグを3位で敗退したクラブとのプレーオフにより決勝トーナメント進出を争う。3位のクラブはカンファレンスリーグの決勝トーナメント進出を懸けたプレーオフに出場する。",
"title": "開催方式"
},
{
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"text": "決勝トーナメントは、16クラブでのトーナメント形式によるホーム・アンド・アウェー戦を実施する。2試合の合計スコアが同じ場合は延長戦→PK戦で次のステップ進出クラブを決める。(アウェーゴール方式は2020-21シーズン限りで廃止)決勝のみ(自国クラブが勝ち上がった場合は中立地でなくなるが)中立地での一発勝負となる。",
"title": "開催方式"
},
{
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"text": "決勝トーナメントプレーオフの組み合わせ抽選はグループリーグ2位の8クラブがシードされ、同国のクラブ同士が対戦しないように抽選される。1回戦の組み合わせ抽選はグループリーグ1位の8クラブがシードされ、同国のクラブ同士が対戦しないように、またグループリーグで対戦したクラブとも当たらないように考慮される。2回戦以降の抽選ではシード分けはされず、同国同士・グループリーグ同組同士の対戦も制限されない。",
"title": "開催方式"
},
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"text": "2024-25シーズンから",
"title": "開催方式"
},
{
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"text": "2021-22シーズンから",
"title": "開催方式"
},
{
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"text": "2018-19シーズンから2020-21シーズンまで",
"title": "開催方式"
},
{
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"text": "UEFAランキングによる出場クラブ数の変更",
"title": "開催方式"
},
{
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"text": "抽選はグループリーグ終了後に決勝トーナメント1回戦の抽選を行う。1回戦においては、UEFAチャンピオンズリーグ3位クラブのうち、成績上位4チームをグループステージ1位の枠に入れてシードし、成績下位4チームはグループステージ2位の枠に入れる。そして1位の枠から1つ、2位の枠から1つという形で抽選を行う。2位の枠から選ばれたチームが第1戦のホームとなる。また同国のクラブ同士が対戦しないように、またグループリーグで対戦したクラブとも当たらないように考慮される。準々決勝、準決勝は再度抽選となるが、この際には1回戦の抽選に伴う考慮はなく、全くのフリーで抽選を行う。",
"title": "開催方式"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "国内カップ戦優勝クラブがUCLに出場のため不参加でカップ戦準優勝クラブが出場する場合、各国の判断によっては、どのラウンドから参加するかを国内リーグの順位に従って決める。",
"title": "開催方式"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2024-25シーズンより、現行の32チームから36チームに出場枠が拡大され、グループステージを4チーム、8組に分けるフォーマットは廃止され、スイス方式の総当たり方式が導入される。",
"title": "開催方式"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "シーズン途中に移籍して新加入した選手が前所属クラブでUEL本大会に出場歴のある場合、新たな所属クラブで同年度の大会に出場登録はできない。同年度のUCL本大会に出場歴のある選手は、1人に限り登録が可能(但しUCLに出場した際の前所属クラブが、UCLでグループリーグ3位になってUEL決勝トーナメントに参加する場合は不可)。UCL、UELの予選のみに前所属クラブで出場歴がある選手に関しては、新たな所属クラブで本大会から登録できるルールに変更された(元々は前所属クラブが敗退していない場合は登録不可だった)。",
"title": "選手登録のルール"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2022/23シーズンの例。",
"title": "賞金"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "上記はステージ進出ごとに加算されることを意味している。そのためグループステージ全勝で優勝した場合の額は2291万ユーロとなる。加えて以下の額がクラブに与えられる。",
"title": "賞金"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "注:優勝年度及び準優勝年度は、優勝が決定した年を並べている。例えば、1971-72年度王者は1972年としている。",
"title": "統計"
},
{
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"text": "大会がUEFAヨーロッパリーグになった2009-10シーズン以降、テーマ曲「UEFAヨーロッパリーグ賛歌 (UEFA Europa League Anthem) 」が使われており、試合開始前、テレビ中継開始時と終了時に流される。このアンセムには、UEFAチャンピオンズリーグアンセムとは違って歌詞は存在しない。初代アンセムは、2009-10シーズンから2014-15シーズンまでの6年間使われ、作曲はフランスのヨアン・ツバイクが担当し、パリ・オペラ座管弦楽団の演奏によるものだった。",
"title": "大会アンセム"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2015-16シーズンから2017-2018シーズンまでのアンセム(2代目)は、ドイツの作曲家・ミヒャエル・カデルバッハによって作曲されたもので、アップテンポや拍手をベースに、選手・サポーター・チームスタッフとの一体感を表現したものとなっていた。",
"title": "大会アンセム"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2018-19シーズンからは、本大会のヴィジュアル・アイデンティティ(VI)がリニューアルしたのに合わせ、アンセムも3代目のものに一新された。現行のアンセムは、夜に行われる試合の情熱とエネルギーを表しており、高揚感を生み出す力強い楽曲となっている。",
"title": "大会アンセム"
}
] | UEFAヨーロッパリーグは、欧州サッカー連盟(UEFA)が主催する、ヨーロッパのクラブチームによるサッカーの国際大会である。この大会への参加資格は、各国のリーグ戦やカップ戦での成績に基づいている。 UEFAカップウィナーズカップが廃止される前の1971年から1999年までは"第3層"であったが、現在はUEFAチャンピオンズリーグの下、UEFAヨーロッパカンファレンスリーグの上に位置する"第2層"の大会である。 | {{出典の明記|date=2023年5月}}
{{Redirect-distinguish|ヨーロッパリーグ|ユーロリーグ|UEFAネーションズリーグ|UEFA欧州選手権|UEFAヨーロッパカンファレンスリーグ}}
{{国際サッカー大会
|大会名 = UEFAヨーロッパリーグ
|画像 = [[File:Europa League 2021.svg|200px]]
|開始年 = 1971
|終了年 =
|主催 = [[欧州サッカー連盟|UEFA]]
|地域 = [[ヨーロッパ]]
|参加チーム数 = 32 (グループステージ)<br />58 (合計)
|国 =
|前回優勝 = {{Fbaicon|ESP}} [[セビージャFC|セビージャ]] (7回目)
|最多優勝 = {{Fbaicon|ESP}} [[セビージャFC|セビージャ]] (7回)
|broadcasters= [[WOWOW]]
|サイト = [http://www.uefa.com/uefaeuropaleague/index.html 公式サイト]
|current_season = [[UEFAヨーロッパリーグ 2023-24|2023-24シーズン]]
}}
'''UEFAヨーロッパリーグ'''('''UEL'''、{{lang-en-short|UEFA Europa League}})は、[[欧州サッカー連盟]](UEFA)が主催する、[[ヨーロッパ]]の[[クラブチーム]]による[[サッカー]]の国際大会である。この大会への参加資格は、各国の[[リーグ戦]]や[[カップ戦]]での成績に基づいている。
[[UEFAカップウィナーズカップ]]が廃止される前の1971年から1999年までは"第3層"であったが、現在は[[UEFAチャンピオンズリーグ]]の下、[[UEFAヨーロッパカンファレンスリーグ]]の上に位置する"第2層"の大会である。
== 概要 ==
{{出典の明記|date=2023年5月|section=1}}
[[インターシティーズ・フェアーズカップ]]として創設された大会が前身となり、[[1972年]]に'''UEFAカップ'''として正式に発足。[[1999年]]、それまであった欧州三大カップ戦の一角、[[UEFAカップウィナーズカップ]](ヨーロッパ各国のカップ戦優勝クラブによる国際大会)を吸収する形で(UEFAカップ出場資格に、ヨーロッパ各国のカップ戦優勝クラブを加える形で吸収)、統合された。
グループステージ以外においては、対戦の勝敗は基本的に[[ホーム・アンド・アウェー|H&A]]方式の2戦合計にて決められる。また、決勝戦のみ中立地での1戦で勝敗を決する(1997-98シーズンより)。グループステージには、2021-22シーズンからは4クラブ×8組の32クラブが出場する(2004-05シーズンより2008-09シーズンまでは5クラブ×8組の40クラブが出場(1回総当たり、各クラブがホームゲームとアウェーゲームを2回ずつ実施)、2009-10シーズンより2020-21シーズンまでは4クラブ×12組の48クラブが出場(H&Aの2回総当たり)していた)。
従来、UEFAヨーロッパリーグ(当時の名称はUEFAカップ)は、各国リーグの上位クラブ同士が対戦するということもあって、[[UEFAチャンピオンズリーグ]](UCL)と並んでレベルの高い大会であった(90年代中盤までUEFAチャンピオンズリーグは、どの国も1クラブ(リーグ優勝したクラブのみ)しか出場できなかった。そのため当時のUEFAカップは、リーグ優勝を惜しくも逃した各国の上位クラブが多数参加する非常にレベルの高い大会であった)。しかし1997-98シーズン以降、UEFAチャンピオンズリーグ出場クラブ拡大の余波を受け、各国リーグから複数のクラブがUEFAチャンピオンズリーグへの参加が認められるようになると、欧州主要リーグのビッグクラブが軒並みUEFAチャンピオンズリーグに参加してしまう事態となり、UEFAカップは、「国内リーグで優勝もしくはUEFAチャンピオンズリーグ出場権を逃したチームのための大会」という不名誉な位置付けの大会に成り下がりつつあった。
この課題を解決するための施策として、UEFAチャンピオンズリーグ本大会グループリーグ(GL)3位敗退クラブなどが当年度のUEFAヨーロッパリーグに参加することを可能とすることで、例えば近年では[[マンチェスター・シティFC|マンチェスター・シティ]]、[[チェルシーFC|チェルシー]]、[[リヴァプールFC|リヴァプール]]、[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]のようなUEFAチャンピオンズリーグの優勝を目指すようなビッグクラブや[[アトレティコ・マドリード]]、[[ボルシア・ドルトムント]]、[[FCポルト|ポルト]]、[[FCバルセロナ|バルセロナ]]のようなUEFAチャンピオンズリーグでもGLを勝ち抜けるであろうと目される有力クラブが、UEFAヨーロッパリーグへ参加できるよう手配するようにしている。
その他の施策としては、グループリーグの導入(当初は変則H&A形式のリーグ戦として2004-05シーズンより導入)、決勝戦を中立地での1戦のみで決する(決勝戦は[[UEFAエリートスタジアム|UEFA4つ星認定スタジアム]]以上の格付けを持ったスタジアムで開催する)、より格式高い大会とするためのセレモニーとしてUEFAヨーロッパリーグ・アンセム(賛美歌)の導入や新たな大会ロゴマークの新設、大会名も2009-10シーズンより従来のUEFAカップから'''UEFAヨーロッパリーグ'''へと変更する、等、UEFAチャンピオンズリーグに近いような大会方式に変更された<ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/sport1/hi/football/europe/7637600.stm|title=Uefa Cup gets new name in revamp |accessdate=2008年9月28日 |work=bbc.co.uk}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.uefa.com/uefa/keytopics/kind=64/newsid=754085.html|title=UEFA Cup to become UEFA Europa League|accessdate=2008年9月28日|work=UEFA.com|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080929002657/http://www.uefa.com/uefa/keytopics/kind=64/newsid=754085.html|archivedate=2008-9-29|deadlinkdate=2021-11-30}}</ref>。さらに2014-15シーズンより、優勝クラブには翌年度のUEFAチャンピオンズリーグへの出場資格が与えられている。
== 参加資格 ==
2021-22シーズンより、[[UEFAヨーロッパカンファレンスリーグ]](UECL)が創設されたことにより、UELに直接出場するクラブ数は大幅に削減された。UECL優勝クラブは翌年度のUELのグループステージ出場権を得る。
=== 国内リーグ戦 ===
UEFAランキング1位~4位の国の前年度国内リーグ5位のクラブと同ランキングの5位の国の国内リーグ4位のクラブの計5クラブがUELのグループステージに直接出場する。
'''2018-19シーズンから2020-21シーズンまで'''
[[UEFAランキング]]1位~51位の国は2つ、52位~54位の国は1つの出場枠を持つ。ただし、リヒテンシュタインは国内リーグが無いため、国内リーグ戦の成績による出場クラブはない。リーグカップ戦からの出場枠を有するイングランド、フランスは国内リーグ戦の成績による出場は1クラブのみとなる。
(1) UEFAランキング1位〜4位の前年度国内リーグ5位と6位クラブ<br />
(2) UEFAランキング5位〜6位の前年度国内リーグ4位と5位クラブ<br />
(3) UEFAランキング7位〜15位の前年度国内リーグ3位と4位クラブ<br />
(4) UEFAランキング16位〜51位の前年度国内リーグ2位と3位クラブ<br />
(5) UEFAランキング52位~54位の前年度国内リーグ2位クラブ
=== 国内カップ戦 ===
UEFAランキング1位~15位の国の前年度国内カップ戦優勝クラブ、計15クラブがUELに直接出場する。上位6か国の優勝クラブはグループステージから出場する。
'''2018-19シーズンから2020-21シーズンまで'''
* 前年度国内カップ戦優勝クラブ
* [[EFLカップ|イングランド]]、[[クープ・ドゥ・ラ・リーグ|フランス]]の前年度国内リーグカップ戦優勝クラブ
* 1995-96~2015-16シーズンには、{{仮リンク|UEFAリスペクト・フェアプレーランキング|en|UEFA Respect Fair Play ranking}}上位の協会に与えられるフェアプレー枠(3枠・予選1回戦から出場)が存在した。
=== 当年度CL敗退チーム ===
1996-97シーズン以降、同じ年度のUEFAチャンピオンズリーグの敗退チームの一部も当大会に合流する。
* 同年度UEFAチャンピオンズリーグ予選敗退クラブ(1996-97シーズン以降)※1996-97シーズンは予選敗退した全クラブ、1997-98~1998-99シーズンは2回戦敗退クラブ、1999-2000~2017-18は3回戦とプレーオフ敗退クラブ、2018-19~2020-21は予選敗退した全クラブ、2021-22以降は2回戦~プレーオフ敗退クラブが対象。
* 同年度UEFAチャンピオンズリーグ本大会グループリーグ3位クラブ(1999-2000シーズン以降)※決勝トーナメントから参加。
2021-22シーズンから、UELを分割する形で、UCL、UELに次ぐ、3番目のレベルの大会として、[[UEFAヨーロッパカンファレンスリーグ]](UECL)が創設された(かつて、3番目のレベルの大会としては、2008年まで[[UEFAインタートトカップ]]が存在し、上位入賞クラブがUEFAカップ出場権を得ていたが、UELに統合された)。そのため、従来、UEL出場権を得ていたUEFAランキング16位以下のカップ戦優勝クラブ、同1~4位の前年度国内リーグ6位クラブ、同5位の前年度国内リーグ5位クラブ、同6位以下で前年度国内リーグ成績により出場権を得ていたクラブは、当大会では無くヨーロッパカンファレンスリーグに出場する。
: 国内カップ戦王者が国内リーグ成績でも出場権を獲得した場合の扱いは以下の通り。
* 2015-16シーズンより、国内カップ戦王者が、国内リーグ成績によりUCLもしくはUEL出場権を獲得した場合、出場枠はカップ戦準優勝クラブではなく、UCLとUELの出場権を得ていない国内リーグ最上位のクラブに与えられる<ref name="a">{{Cite web|和書|url=http://jp.uefa.com/uefaeuropaleague/news/newsid=2137619.html|title=UELの規定が変更に|accessdate=2015年5月18日|work=UEFA.com|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150526132748/http://jp.uefa.com/uefaeuropaleague/news/newsid=2137619.html|archivedate=2015-5-26|deadlinkdate=2021-12-3}}</ref>(それ以前は国内カップ戦王者がUCLに出場する場合、UEL出場枠はカップ戦準優勝クラブに与えられることもあった)。
* 国内カップ戦王者(国内の出場枠の中で最上位扱いとされる)が、国内リーグ成績によりUCL出場権も獲得した場合、UCLに出場するため、UELの他の出場権獲得チームの参加ラウンドが1つ繰り上がる。国内カップ戦王者が、国内リーグ成績によるUEL出場権も獲得した場合、そのチームより国内リーグ成績が下のUEL出場権獲得チームの参加ラウンドが1つ繰り上がる。
* イングランド、フランスの国内リーグカップ戦王者(国内の出場枠の中で最下位扱いとされる)が、国内リーグ成績によりUCLもしくはUEL出場権を獲得した場合、出場枠はUCLとUELの出場権を得ていない国内リーグ最上位のクラブに与えられる。
: 2015-16シーズン以降、前年度UEL優勝クラブが国内リーグ順位でUCL出場権獲得圏外かつ、UEL出場権を獲得した場合の扱いは以下の通り。
* 前年度UEL優勝クラブが、前年度国内リーグ順位がUEL出場権獲得圏であった場合や、前年度国内カップ戦もしくはリーグカップ戦で優勝し、かつ前年度国内リーグ順位がUCL出場権獲得圏外の場合、UEL優勝クラブはUELの代わりにUCLに出場し、その国のUELの出場枠は結果として1つ減少する。また、その国の他のUEL出場クラブの参加ラウンドは繰り上がらない。
== 開催方式 ==
予選はトーナメント形式によるホーム・アンド・アウェー戦を実施する。2試合終了後同点の場合には[[延長戦]]、[[PK戦]]を行い勝者を決定する。なお、2020-21シーズンまでは[[アウェーゴール|アウェーゴールルール]]が採用されていた<ref>{{Cite web|title=Abolition of the away goals rule in all UEFA club competitions {{!}} Inside UEFA|url=https://www.uefa.com/returntoplay/news/026a-1298aeb73a7a-5b64cb68d920-1000--abolition-of-the-away-goals-rule-in-all-uefa-club-competitions/|website=UEFA.com|date=2021-06-24|accessdate=2021-12-05|language=en|last=UEFA.com}}</ref>。各対戦前に各クラブのランキングポイントによりポットを分けた上で同国のクラブ同士が対戦しないように抽選を行う。予選で敗退したクラブはカンファレンスリーグに出場する。
グループリーグは32チームを4クラブずつ、8グループに分けたホーム・アンド・アウェー戦のグループリーグを実施する。抽選は各クラブのランキングポイントにより4つのポットにわけ、また同国のクラブが同じグループに入らないように行われる。各グループ1位のクラブは自動的に決勝トーナメント進出が決まるが、2位のクラブはチャンピオンズリーグのグループリーグを3位で敗退したクラブとのプレーオフにより決勝トーナメント進出を争う。3位のクラブはカンファレンスリーグの決勝トーナメント進出を懸けたプレーオフに出場する。
決勝トーナメントは、16クラブでのトーナメント形式によるホーム・アンド・アウェー戦を実施する。2試合の合計スコアが同じ場合は延長戦→PK戦で次のステップ進出クラブを決める。(アウェーゴール方式は2020-21シーズン限りで廃止)決勝のみ(自国クラブが勝ち上がった場合は中立地でなくなるが)中立地での一発勝負となる。
決勝トーナメントプレーオフの組み合わせ抽選はグループリーグ2位の8クラブがシードされ、同国のクラブ同士が対戦しないように抽選される。1回戦の組み合わせ抽選はグループリーグ1位の8クラブがシードされ、同国のクラブ同士が対戦しないように、またグループリーグで対戦したクラブとも当たらないように考慮される。2回戦以降の抽選ではシード分けはされず、同国同士・グループリーグ同組同士の対戦も制限されない。
'''2024-25シーズンから'''
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!colspan="2"| !!初登場!!前ラウンド勝者!!チャンピオンズリーグ敗者
|-
!colspan="2"|予選1回戦<br>(18チーム)
|'''16チーム'''
*16位から33位の国内カップ優勝の16チーム
|
|
*
*チャンピオンズリーグ 2次予選(リーグ・ルート)の敗者3チーム
|-
!予選2回戦<br>(16チーム)
!
|'''7チーム'''
*7位から12位の国内リーグ3位の6チーム
*6位の国内リーグ4位チーム
|予選1回戦の勝者6クラブ
|
|-
!colspan="2"|予選3回戦<br>(12チーム)
|
|
*
|チャンピオンズリーグ 2次予選(チャンピオンズ・ルート)の敗者12チーム
*
|-
!予選3回戦
(14チーム)
!
|13位から15位の国内カップ優勝の3チーム
|予選2回戦の勝者の8チーム
|チャンピオンズリーグ 2次予選(リーグ・ルート)の敗者3チーム
|-
!プレーオフ
(24チーム)
!
|8位から12位の国内カップ優勝の5チーム
|予選3回戦勝者の6チーム(チャンピオンズ・ルート)
予選3回戦勝者の7チーム(リーグ・ルート)
|チャンピオンズリーグ 3次予選(チャンピオンズ・ルート)の敗者6チーム
|-
! colspan="2" |グループステージ<br />(36チーム)
|'''13チーム'''
*1位から7位の国内カップ優勝の7チーム
*1位から5位の国内リーグ5位の5チーム
*UEFAヨーロッパカンファレンスリーグの前回優勝チーム
|
*プレーオフ勝者の12チーム
|'''11チーム'''
*チャンピオンズリーグ・3次予選(リーグ・ルート)の敗者の6チーム
*チャンピオンズリーグ・プレーオフ敗者の5チーム
|-
! colspan="2" |
|
|
*
|
|-
! colspan="2" |決勝トーナメント<br />(16チーム)
|
|
*
|
|}
'''2021-22シーズンから'''
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!colspan="2"| !!初登場!!前ラウンド勝者!!チャンピオンズリーグ敗者
|-
!colspan="2"|予選ラウンド<br>(16チーム)
|'''3チーム'''
*13位から15位の国内カップ優勝の3チーム
|
|
*チャンピオンズリーグ 2次予選(チャンピオンズ・ルート)の敗者10チーム
*チャンピオンズリーグ 2次予選(リーグ・ルート)の敗者3チーム
|-
!colspan="2"|プレーオフ<br>(20チーム)
|'''6チーム'''
*7位から12位の国内カップ優勝の6チーム
|
*予選勝者(チャンピオンズ・ルート)の5チーム
*予選勝者(リーグ・ルート)の3チーム
|
*チャンピオンズリーグ 3次予選(チャンピオンズ・ルート)の敗者6チーム
|-
|-
!colspan="2"|グループステージ<br />(32チーム)
|'''12チーム'''
*1位から6位の国内カップ優勝の6チーム
*5位の国内リーグ4位の1チーム
*1位から4位の国内リーグ5位の4チーム
*UEFAヨーロッパカンファレンスリーグの前回優勝チーム(2022-23シーズンから)
|
*プレーオフ勝者の10チーム
|'''10チーム'''
*チャンピオンズリーグ・3次予選(リーグ・ルート)の敗者の4チーム
*チャンピオンズリーグ・プレーオフ敗者の6チーム
|-
!colspan="2"|決勝トーナメント プレーオフ<br />(16チーム)
|
|
*グループステージ2位の8チーム
|'''8チーム'''
*チャンピオンズリーグ・グループステージ3位の8チーム
|-
!colspan="2"|決勝トーナメント<br />(16チーム)
|
|
*決勝トーナメント プレーオフの勝者8チーム
*グループステージ1位の8チーム
|
|}
'''2018-19シーズンから2020-21シーズンまで'''
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!colspan="2"| !!初登場!!前ラウンド勝者!!チャンピオンズリーグ敗者
|-
!colspan="2"|予備予選<br>(16チーム)
|'''16チーム'''
*50位から55位の国内カップ優勝の6チーム
*49位から54位の国内リーグ2位の6チーム
*48位から51位の国内リーグ3位の4チーム
|
|
|-
!colspan="2"|予選1回戦<br>(94チーム)
|'''86チーム'''
*25位から49位の国内カップ優勝の25チーム
*18位から48位の国内リーグ2位の30チーム<br />([[リヒテンシュタインサッカー連盟|リヒテンシュタイン]]は除く)
*16位から47位の国内リーグ3位の31チーム(同上)
|
*予備予選勝者の8チーム
|
|-
!rowspan="2"|予選2回戦
!チャンピオン・ルート<br>(20チーム)
|
|
|'''20チーム'''
*チャンピオンズリーグ・予選1回戦敗者の17チーム
*チャンピオンズリーグ・予備予選敗者の3チーム
|-
!メイン・ルート<br>(74チーム)
|'''27チーム'''
*18位から24位の国内カップ優勝の7チーム
*16位から17位の国内リーグ2位の2チーム
*13位から15位の国内リーグ3位の3チーム
*7位から15位の国内リーグ4位の9チーム
*5位から6位の国内リーグ5位の2チーム(又はフランスのリーグカップ優勝クラブ)
*1位から4位の国内リーグ6位の4チーム(又はイングランドのリーグカップ優勝クラブ)
|
*予選1回戦勝者の47チーム
|
|-
!rowspan="2"|予選3回戦
!チャンピオン・ルート<br>(20チーム)
|
|
*予選2回戦(チャンピオン・ルート)勝者の10チーム
|
'''10チーム'''
*チャンピオンズリーグ・予選2回戦(優勝チーム予選)敗者の10チーム
|-
!メイン・ルート<br>(52チーム)
|'''12チーム'''
*13位から17位の国内カップ優勝の5チーム
*7位から12位の国内リーグ3位の6チーム
*6位の国内リーグ4位の5チーム
|
*予選2回戦(メイン・ルート)勝者の37チーム
|
'''3チーム'''
*チャンピオンズリーグ・予選2回戦(上位チーム予選)敗者の3チーム
|-
!rowspan="2"|プレーオフ
!チャンピオン・ルート<br>(16チーム)
|
|
*予選3回戦(チャンピオン・ルート)勝者の10チーム
|'''6チーム'''
*チャンピオンズリーグ・予選3回戦(優勝チーム予選)敗者の6チーム
|-
!メイン・ルート<br>(26チーム)
|
|
*予選3回戦(メイン・ルート)勝者の26チーム
|
|-
!colspan="2"|グループステージ<br />(48チーム)
|'''17チーム'''
*1位から12位の国内カップ優勝の12チーム
*4位の国内リーグ4位の1チーム
*1位から3位の国内リーグ5位の3チーム
|
*プレーオフ勝者の21チーム
|'''10チーム'''
*チャンピオンズリーグ・プレーオフ敗者の6チーム
*チャンピオンズリーグ・予選3回戦(上位チーム予選)敗者の4チーム
|-
!colspan="2"|決勝トーナメント<br />(32チーム)
|
|
*グループステージ1位の12チーム
*グループステージ2位の12チーム
|'''8チーム'''
*チャンピオンズリーグ・グループステージ3位の8チーム
|}
=== 2008-09シーズンまで ===
* 予選-1回戦 トーナメント形式によるホーム・アンド・アウェー戦を実施する。2試合終了後同点の場合には[[アウェーゴール]]が多いクラブが勝者となる。それでも決まらない場合には[[延長戦]]、[[PK戦]]を行い勝者を決定する。各対戦前に組合せ抽選が行われ、同国のクラブが対戦しないように、また各クラブのランキングポイントによりポットを分けた上で、組合せ抽選を行う。
** 予選1回戦は以下のクラブによって行われる。組合せは南部、中東部、北部の各地域内の国同士で対戦するように抽選される。
*** UEFAフェアプレークラブ
*** UEFAランキング19位以下の国・地域の国内カップ戦優勝クラブ
*** UEFAランキング19位-51位の国・地域の第2順位のクラブ
*** UEFAランキング16位-21位の国・地域の第3順位のクラブ
** 予選2回戦は以下のチームによって行われ、32チームに絞られる。
*** [[UEFAインタートトカップ]]の勝者
*** UEFAランキング14位-18位の国・地域の国内カップ戦優勝クラブ
*** UEFAランキング16位-18位の国・地域の第2順位のクラブ
*** UEFAランキング9位-15位の国・地域の第3順位のクラブ
*** 予選1回戦の勝者
** 1回戦は以下のチームによって行われ、40チームがグループリーグに進出する。
*** UEFAカップの前年度優勝クラブ
*** UEFAランキング1位-13位の国・地域の国内カップ戦優勝クラブ
*** UEFAランキング7位-8位の国・地域の第3順位のクラブ
*** UEFAランキング4位-8位の国・地域の第4順位のクラブ
*** UEFAランキング1位-8位の国・地域の第5順位のクラブ
*** UEFAランキング1位-3位の国・地域の第6順位のクラブ
*** UEFAチャンピオンズリーグ予選3回戦の敗者
*** 予選2回戦の勝者(ただし、UEFAチャンピオンズリーグやUEFAカップの出場権重複により出場枠やシードには変動がある)
* グループリーグ 40チームを5クラブずつ、8グループに分けたグループリーグを実施する。抽選は各クラブのランキングポイントにより5つのポットにわけ、また同国のクラブが同じグループに入らないように行われる。ホーム・アウェーあわせて4試合(基本的には各2試合ずつが割り当てられる。完全H&Aではない)を戦い、各グループ上位3クラブが決勝トーナメントに進出する。勝ち点が同じクラブがある場合には以下の順により決定する。UEFAチャンピオンズリーグと異なり、完全H&Aではないため該当チーム同士の直接対決の結果は考慮されない。
*#グループリーグ全試合での得失点差
*#グループリーグ全試合での総得点
*#グループリーグ全試合でのアウェイゴール数
*#グループリーグ全試合での勝利数
*#グループリーグ全試合でのアウェイ勝利数
*#UEFAランキングの上位の国と地域
* 決勝トーナメント グループリーグを勝ち抜いた24クラブとUEFAチャンピオンズリーグ・グループリーグ3位クラブ8クラブを加えた32クラブでのトーナメント形式によるホーム・アンド・アウェー戦を実施する。
** 決勝トーナメントの抽選 グループリーグ終了後に決勝トーナメント1、2回戦の抽選を行う。1回戦においては、同国のクラブ同士が対戦しないように、またグループリーグで対戦したクラブとも当たらないように考慮される。また、グループリーグ1位のクラブは3位のクラブと、グループリーグ2位のクラブはUEFAチャンピオンズリーグ3位のクラブと対戦する。グループリーグ3位のクラブとUEFAチャンピオンズリーグ3位のクラブが第1戦のホームゲームとなる。2回戦以降はカントリープロテクションは考慮されない。また、2回戦終了後に準々決勝以降の組み合わせ抽選を行い、トーナメントが確定する。
=== 2009-10シーズンから ===
;大会名称の変更
:大会名がUEFAカップからUEFAヨーロッパリーグに変更される。
'''UEFAランキングによる出場クラブ数の変更'''
: [[UEFAランキング]]1位から6位のリーグからの出場クラブ数に変更はない。それ以下のリーグに与えられる出場枠に変更がなされた。まず、7位から9位のリーグは国内カップ戦優勝クラブとその他3クラブを出場させることができる。その他のリーグは国内カップ戦優勝クラブとその他2クラブを出場させることができる。
; グループステージの構成の変更
: 2008-09シーズンまでのグループステージは全40クラブを5クラブずつの8グループに分けて行われるが、2009-10シーズンから全48クラブを4クラブずつの12グループに分けて行われることになった。
* 予選 全試合[[ホーム・アンド・アウェー|H&A]]戦を実施する<ref group="注釈">国内カップ戦の準優勝クラブが代替出場する場合、各国の判断により準優勝クラブが先に出場する場合がある。</ref>。
** 予選1回戦
*** UEFAランキング35位〜53位の国内カップ戦優勝チーム
*** UEFAランキング22位〜51位の国内リーグ3位
*** UEFAランキング28位〜53位の国内リーグ2位
*** UEFAフェアプレーランキングで選ばれた3チーム
** 予選2回戦
*** 予選1回戦を勝ち上がったチーム
*** UEFAランキング20位〜34位の国内カップ戦優勝チーム
*** UEFAランキング7位〜9位の国内リーグ5位
*** UEFAランキング10位〜15位の国内リーグ4位
*** UEFAランキング16位〜21位の国内リーグ3位
*** UEFAランキング16位〜27位の国内リーグ2位
** 予選3回戦
*** 予選2回戦を勝ち上がったチーム
*** UEFAランキング17位〜19位の国内カップ戦優勝チーム
*** UEFAランキング1位〜3位の国内リーグ6位
*** UEFAランキング4位〜6位の国内リーグ5位
*** UEFAランキング7位〜9位の国内リーグ4位
*** UEFAランキング10位〜15位の国内リーグ3位
** プレーオフ
*** 予選3回戦を勝ち上がったチーム
*** UEFAランキング8位〜16位の国内カップ戦優勝チーム
*** UEFAランキング1位〜3位の国内リーグ5位
*** UEFAランキング4位〜6位の国内リーグ4位
*** UEFAランキング7位〜9位の国内リーグ3位
*** UEFAチャンピオンズリーグ予選3回戦敗退15チーム
* 本選
** グループステージ
*** プレーオフを勝ち上がった37チーム
*** UEFAランキング1位〜7位の国内カップ戦優勝チーム
*** UEFAチャンピオンズリーグ予選プレーオフ敗退10チーム
*** UEFAヨーロッパリーグ前年度優勝クラブ
** 決勝トーナメント
*** グループステージ各組上位2チーム
*** UEFAチャンピオンズリーグ・グループリーグ3位
抽選はグループリーグ終了後に決勝トーナメント1回戦の抽選を行う。1回戦においては、UEFAチャンピオンズリーグ3位クラブのうち、成績上位4チームをグループステージ1位の枠に入れてシードし、成績下位4チームはグループステージ2位の枠に入れる。そして1位の枠から1つ、2位の枠から1つという形で抽選を行う。2位の枠から選ばれたチームが第1戦のホームとなる。また同国のクラブ同士が対戦しないように、またグループリーグで対戦したクラブとも当たらないように考慮される。準々決勝、準決勝は再度抽選となるが、この際には1回戦の抽選に伴う考慮はなく、全くのフリーで抽選を行う。
国内カップ戦優勝クラブがUCLに出場のため不参加でカップ戦準優勝クラブが出場する場合、各国の判断によっては、どのラウンドから参加するかを国内リーグの順位に従って決める。
=== 2015-16シーズンから ===
* 前年度優勝クラブは、UCLに出場することになった。
* UEFAランキング7位から9位のグループステージからの出場枠が4チームから3チームに変更され、ランキング1位から51位の国は、全て3チームずつ出場枠を得ることになった。
* グループステージからの出場枠が7チームから16チームに拡大。拡大した9つの出場枠は、UEFAランキング8~12位の国のカップ戦王者、UEFAランキング4位の国の4位チーム、そしてUEFAランキング1位~3位の5位チームに与えられる<ref name="a" />。
* 国内カップ戦王者が、国内リーグ成績によりUCL出場権を獲得した場合、出場枠はカップ戦準優勝クラブではなく、UCLとUELの出場権を得ていない国内リーグ最上位のクラブに与えられる。
=== 2020-21シーズンまで ===
* UEFAチャンピオンズリーグの全ての予選ラウンドの敗退チームが、UEFAヨーロッパリーグの出場権(予選2回戦~プレーオフのいずれか)を得ることになった。
* 2020年後半戦より[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウィルス]]感染対策のため、選手・監督・スタッフらには[[COVID-19の検査|PCR検査]]が義務付けられた。陽性者は隔離対象となるため、試合や遠征には帯同出来ない。
; 2019-20シーズンの特別ルール
: [[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウィルスの世界的流行]]に伴い、準々決勝以降の全ての試合は、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]と同じく1試合決着方式の短期集中開催に変更され、中立地で開催されることになった。
=== 2024-25シーズンから ===
2024-25シーズンより、現行の32チームから36チームに出場枠が拡大され、グループステージを4チーム、8組に分けるフォーマットは廃止され、スイス方式の総当たり方式が導入される<ref>{{Cite web|和書|title=2024-25年以降の欧州CL“大改革”が正式決定!! 出場チーム32→36、グループステージ廃止で新リーグ戦に |url=https://web.gekisaka.jp/news/ucl/detail/?358638-358638-fl |website=[[ゲキサカ]] |access-date=2023-05-26 |date=2022-05-11 }}</ref>。
具体的には、予選リーグは参加36チームが、組み合わせ抽選により、オープン形式で8チームt対戦を行い、そのうちホーム・アウェー各4試合づつを実施。8試合終了時点での成績上位8チームは自動的に決勝トーナメントに進出。9-24位についても組み合わせ抽選によりホーム・アンド・アウェー方式によるプレーオフを行い、その勝者8チームを加えた16チームが決勝トーナメントを争う。
== 選手登録のルール ==
シーズン途中に移籍して新加入した選手が前所属クラブでUEL本大会に出場歴のある場合、新たな所属クラブで同年度の大会に出場登録はできない。同年度のUCL本大会に出場歴のある選手は、1人に限り登録が可能(但しUCLに出場した際の前所属クラブが、UCLでグループリーグ3位になってUEL決勝トーナメントに参加する場合は不可)。UCL、UELの予選のみに前所属クラブで出場歴がある選手に関しては、新たな所属クラブで本大会から登録できるルールに変更された(元々は前所属クラブが敗退していない場合は登録不可だった)。
== 賞金 ==
2022/23シーズンの例<ref>{{Cite web |url=https://editorial.uefa.com/resources/0277-158b0bea495a-ba6c18158cd3-1000/20220704_circular_2022_47_en.pdf |title=Distribution to clubs from the 2022/23 UEFA Champions League, UEFA Europa League and UEFA Europa Conference League and the 2022 UEFA Super Cup Payments for the qualifying phases Solidarity payments for non-participating clubs |publisher=UEFA |date=2022-07-04 |accessdate=2022-10-07}}</ref>。
: 総額は4億6500万[[ユーロ]]に上る。内訳は以下の通り
* グループステージ出場: 363万ユーロ
* グループステージでの勝利(1試合あたり): 63万ユーロ
* グループステージでの引き分け(1試合あたり): 21万ユーロ
* グループステージ1位: 110万ユーロ
* グループステージ2位: 55万ユーロ
* 決勝トーナメントプレーオフ進出: 50万ユーロ
* ラウンド16進出: 120万ユーロ
* 準々決勝進出: 180万ユーロ
* 準決勝進出: 280万ユーロ
* 準優勝: 460万ユーロ
* 優勝: 860万ユーロ
上記はステージ進出ごとに加算されることを意味している。そのためグループステージ全勝で優勝した場合の額は2291万ユーロとなる。加えて以下の額がクラブに与えられる。
; 過去10年のUEFAの大会におけるパフォーマンスにより定められたランキングに基づく額
: 最下位の額は13万2000ユーロで順位が1つ上がるたびに13万2000ユーロ加算されていく。最上位の額は422万4000ユーロ。
; マーケットプール
: 総額は1億3950万ユーロで各国のテレビマーケット、国内カップ戦・リーグ順位、ELの成績に基づいて配分される。
== 結果 ==
{| class="wikitable" border="1" style="border-collapse:collapse; font-size:90%; white-space:nowrap;" cellpadding="1" cellspacing="1"
!年度!!優勝!!結果!!準優勝!!会場
|-
!colspan="5"|UEFAカップ
|-
|[[UEFAカップ1971-72|1971-72]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム・ホットスパー]]'''
|'''2 - 1'''<br />'''1 - 1'''
|{{Fbaicon|ENG}} [[ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFC|ウルヴァーハンプトン]]
|{{Flagicon|ENG}} [[モリニュー・スタジアム|モリニュー]]([[ウルヴァーハンプトン]])<br />{{Flagicon|ENG}} [[ホワイト・ハート・レーン]]([[ロンドン]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAカップ1972-73|1972-73]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[リヴァプールFC|リヴァプール]]'''
|'''3 - 0'''<br />'''0 - 2'''
|{{Fbaicon|FRG}} [[ボルシア・メンヒェングラートバッハ|ボルシアMG]]
|{{Flagicon|ENG}} [[アンフィールド]]([[リヴァプール]])<br />{{Flagicon|FRG}} [[ベーケルベルク・シュタディオン|ベーケルベルク]]([[メンヒェングラートバッハ]])
|-
|[[UEFAカップ1973-74|1973-74]]
|{{Fbaicon|NED}} '''[[フェイエノールト]]'''
|'''2 - 2'''<br />'''2 - 0'''
|{{Fbaicon|ENG}} [[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム・ホットスパー]]
|{{Flagicon|ENG}} [[ホワイト・ハート・レーン]]([[ロンドン]])<br />{{Flagicon|NED}} [[フェイエノールト・スタディオン|デ・カイプ]]([[ロッテルダム]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAカップ1974-75|1974-75]]
|{{Fbaicon|FRG}} '''[[ボルシア・メンヒェングラートバッハ|ボルシアMG]]'''
|'''0 - 0'''<br />'''5 - 1'''
|{{Fbaicon|NED}} [[FCトゥウェンテ|トゥウェンテ]]
|{{Flagicon|FRG}} [[ラインシュタディオン|ライン]]([[デュッセルドルフ]])<br />{{Flagicon|NED}} [[ディックマン・スタディオン|ディックマン]]([[エンスヘデ]])
|-
|[[UEFAカップ1975-76|1975-76]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[リヴァプールFC|リヴァプール]]'''
|'''3 - 2'''<br />'''1 - 1'''
|{{Fbaicon|BEL}} [[クラブ・ブルッヘ]]
|{{Flagicon|ENG}} [[アンフィールド]]([[リヴァプール]])<br />{{Flagicon|BEL}} [[ヤン・ブレイデルスタディオン|オリンピア]]([[ブルッヘ]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAカップ1976-77|1976-77]]
|{{Fbaicon|ITA}} '''[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]'''
|'''1 - 0''' [[アウェーゴール|AG]]<br />'''1 - 2''' [[アウェーゴール|AG]]
|{{Fbaicon|ESP|1945}} [[アスレティック・ビルバオ]]
|{{Flagicon|ITA}} [[スタディオ・オリンピコ・ディ・トリノ|スタディオ・コムナーレ]]([[トリノ]])<br />{{Flagicon|ESP1945}} [[サン・マメス (1913年)|サン・マメス]]([[ビルバオ]])
|-
|[[UEFAカップ1977-78|1977-78]]
|{{Fbaicon|NED}} '''[[PSVアイントホーフェン|PSV]]
|'''0 - 0'''<br />'''3 - 0'''
|{{Fbaicon|FRA}} [[SCバスティア|バスティア]]
|{{Flagicon|FRA}} [[スタッド・アルマン=チェサーリ|アルマン=チェサーリ]]([[バスティア]])<br />{{Flagicon|NED}} [[フィリップス・スタディオン|フィリップス]]([[アイントホーフェン]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAカップ1978-79|1978-79]]
|{{Fbaicon|FRG}} '''[[ボルシア・メンヒェングラートバッハ|ボルシアMG]]
|'''1 - 1'''<br />'''1 - 0'''
|{{Fbaicon|YUG|1945}} [[レッドスター・ベオグラード|レッドスター]]
|{{Flagicon|YUG1945}} [[スタディオン・ツルヴェナ・ズヴェズダ|ツルヴェナ・ズヴェズダ]]([[ベオグラード]])<br />{{Flagicon|FRG}} [[ラインシュタディオン|ライン]]([[デュッセルドルフ]])
|-
|[[UEFAカップ1979-80|1979-80]]
|{{Fbaicon|FRG}} '''[[アイントラハト・フランクフルト|フランクフルト]]'''
|'''2 - 3''' [[アウェーゴール|AG]]<br />'''1 - 0''' [[アウェーゴール|AG]]
|{{Fbaicon|FRG}} [[ボルシア・メンヒェングラットバッハ|ボルシアMG]]
|{{Flagicon|FRG}} [[ベーケルベルク・シュタディオン|ベーケルベルク]]([[メンヒェングラートバッハ]])<br />{{Flagicon|FRG}} [[ヴァルトシュタディオン|ヴァルト]]([[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAカップ1980-81|1980-81]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[イプスウィッチ・タウンFC|イプスウィッチ・タウン]]'''
|'''3 - 0'''<br />'''2 - 4'''
|{{Fbaicon|NED}} [[AZアルクマール|AZ]]
|{{Flagicon|ENG}} [[ポートマン・ロード]]([[イプスウィッチ]])<br />{{Flagicon|NED}} [[オリンピスフ・スタディオン (アムステルダム)|オリンピスフ]]([[アムステルダム]])
|-
|[[UEFAカップ1981-82|1981-82]]
|{{Fbaicon|SWE}} '''[[IFKヨーテボリ|ヨーテボリ]]'''
|'''1 - 0'''<br />'''3 - 0'''
|{{Fbaicon|FRG}} [[ハンブルガーSV]]
|{{Flagicon|SWE}} [[ウッレヴィ]]([[ヨーテボリ]])<br />{{Flagicon|FRG}} [[フォルクスパルクシュタディオン|フォルクスパルク]]([[ハンブルク]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAカップ1982-83|1982-83]]
|{{Fbaicon|BEL}} '''[[RSCアンデルレヒト|アンデルレヒト]]'''
|'''1 - 0'''<br />'''1 - 1'''
|{{Fbaicon|POR}} [[SLベンフィカ|ベンフィカ]]
|{{Flagicon|BEL}} [[ボードゥアン国王競技場|ヘイゼル]]([[ブリュッセル]])<br />{{Flagicon|POR}} [[エスタディオ・ダ・ルス|ダ・ルス]]([[リスボン]])
|-
|[[UEFAカップ1983-84|1983-84]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム・ホットスパー]]'''
|'''1 - 1'''<br />'''1 - 1''' [[延長戦|aet]]<br /><small>([[PK戦|PK]] 4 - 3)</small>
|{{Fbaicon|BEL}} [[RSCアンデルレヒト|アンデルレヒト]]
|valign=top|{{Flagicon|BEL}} [[コンスタン・ヴァンデン・ストックスタディオン|コンスタン・ヴァンデン・ストック]]([[ブリュッセル]])<br />{{Flagicon|ENG}} [[ホワイト・ハート・レーン]]([[ロンドン]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAカップ1984-85|1984-85]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[レアル・マドリード]]'''
|'''[[UEFAカップ 1984-85 決勝|3 - 0<br />0 - 1]]'''
|{{Fbaicon|HUN}} [[ヴィデオトンFC|ヴィデオトン]]
|{{Flagicon|HUN}} [[シュタディオン・ショーシュトーイ|ショーシュトーイ]]([[セーケシュフェヘールヴァール]])<br />{{Flagicon|ESP}} [[エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ|サンティアゴ・ベルナベウ]]([[マドリード]])
|-
|[[UEFAカップ1985-86|1985-86]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[レアル・マドリード]]'''
|'''5 - 1'''<br />'''0 - 2'''
|{{Fbaicon|FRG}} [[1.FCケルン|ケルン]]
|{{Flagicon|ESP}} [[エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ|サンティアゴ・ベルナベウ]]([[マドリード]])<br />{{Flagicon|FRG}} [[ベルリン・オリンピアシュタディオン|ベルリン・オリンピア]]([[ベルリン]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAカップ1986-87|1986-87]]
|{{Fbaicon|SWE}} '''[[IFKヨーテボリ|ヨーテボリ]]'''
|'''1 - 0'''<br />'''1 - 1'''
|{{Fbaicon|SCO}} [[ダンディー・ユナイテッドFC|ダンディー・ユナイテッド]]
|{{Flagicon|SWE}} [[ウッレヴィ]]([[ヨーテボリ]])<br />{{Flagicon|SCO}} [[タナディス・パーク]]([[ダンディー (スコットランド)|ダンディー]])
|-
|[[UEFAカップ1987-88|1987-88]]
|{{Fbaicon|FRG}} '''[[バイエル・レバークーゼン]]'''
|'''0 - 3'''<br />'''3 - 0''' [[延長戦|aet]]<br /><small>([[PK戦|PK]] 3 - 2)</small>
|{{Fbaicon|ESP}} [[RCDエスパニョール|エスパニョール]]
|valign=top|{{Flagicon|FRG}} [[バイ・アレーナ|ウルリッヒ=ハーバーラント]]([[レバークーゼン]])<br />{{Flagicon|ESP}} [[エスタディ・デ・サリア]]([[バルセロナ]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAカップ1988-89|1988-89]]
|{{Fbaicon|ITA}} '''[[SSCナポリ|ナポリ]]'''
|'''2 - 1'''<br />'''3 - 3'''
|{{Fbaicon|FRG}} [[VfBシュトゥットガルト|シュトゥットガルト]]
|{{Flagicon|ITA}} [[スタディオ・サン・パオロ|サン・パオロ]]([[ナポリ]])<br />{{Flagicon|FRG}} [[メルセデス・ベンツ・アレーナ|ネッカー]]([[シュトゥットガルト]])
|-
|[[UEFAカップ1989-90|1989-90]]
|{{Fbaicon|ITA}} '''[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]'''
|'''3 - 1'''<br />'''0 - 0'''
|{{Fbaicon|ITA}} [[ACFフィオレンティーナ|フィオレンティーナ]]
|{{Flagicon|ITA}} [[スタディオ・オリンピコ・ディ・トリノ|スタディオ・コムナーレ]]([[トリノ]])<br />{{Flagicon|ITA}} [[スタディオ・パルテニオ|パルテニオ]]([[アヴェッリーノ]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAカップ1990-91|1990-91]]
|{{Fbaicon|ITA}} '''[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]'''
|'''2 - 0'''<br />'''0 - 1'''
|{{Fbaicon|ITA}} [[ASローマ|ローマ]]
|{{Flagicon|ITA}} [[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ|ジュゼッペ・メアッツァ]]([[ミラノ]])<br />{{Flagicon|ITA}} [[スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ|オリンピコ]]([[ローマ]])
|-
|[[UEFAカップ1991-92|1991-92]]
|{{Fbaicon|NED}} '''[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]'''
|'''2 - 2''' [[アウェーゴール|AG]]<br />'''0 - 0''' [[アウェーゴール|AG]]
|{{Fbaicon|ITA}} [[トリノFC|トリノ]]
|{{Flagicon|ITA}} [[スタディオ・デッレ・アルピ|デッレ・アルピ]]([[トリノ]])<br />{{Flagicon|NED}} [[オリンピスフ・スタディオン (アムステルダム)|オリンピスフ]]([[アムステルダム]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAカップ1992-93|1992-93]]
|{{Fbaicon|ITA}} '''[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]'''
|'''3 - 1'''<br />'''3 - 0'''
|{{Fbaicon|GER}} [[ボルシア・ドルトムント]]
|{{Flagicon|GER}} [[ジグナル・イドゥナ・パルク|ヴェストファーレン]]([[ドルトムント]])<br />{{Flagicon|ITA}} [[スタディオ・デッレ・アルピ|デッレ・アルピ]]([[トリノ]])
|-
|[[UEFAカップ1993-94|1993-94]]
|{{Fbaicon|ITA}} '''[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]'''
|'''1 - 0'''<br />'''1 - 0'''
|{{Fbaicon|AUT}} [[レッドブル・ザルツブルク|ザルツブルク]]
|{{Flagicon|AUT}} [[エルンスト・ハッペル・シュターディオン|エルンスト・ハッペル]]([[ウィーン]])<br />{{Flagicon|ITA}} [[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ|ジュゼッペ・メアッツァ]]([[ミラノ]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAカップ1994-95|1994-95]]
|{{Fbaicon|ITA}} '''[[パルマ・カルチョ1913|パルマ]]'''
|'''1 - 0'''<br />'''1 - 1'''
|{{Fbaicon|ITA}} [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]
|{{Flagicon|ITA}} [[スタディオ・エンニオ・タルディーニ|エンニオ・タルディーニ]]([[パルマ]])<br />{{Flagicon|ITA}} [[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ|ジュゼッペ・メアッツァ]]([[ミラノ]])
|-
|[[UEFAカップ1995-96|1995-96]]
|{{Fbaicon|GER}} '''[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]'''
|'''2 - 0'''<br />'''3 - 1'''
|{{Fbaicon|FRA}} [[FCジロンダン・ボルドー|ボルドー]]
|{{Flagicon|GER}} [[ミュンヘン・オリンピアシュタディオン|ミュンヘン・オリンピア]]([[ミュンヘン]])<br />{{Flagicon|FRA}} [[スタッド・シャバン=デルマス|パルク・レスキュール]]([[ボルドー]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAカップ1996-97|1996-97]]
|{{Fbaicon|GER}} '''[[シャルケ04|シャルケ]]'''
|'''1 - 0'''<br />'''0 - 1''' [[延長戦|aet]]<br /><small>([[PK戦|PK]] 4 - 1)</small>
|{{Fbaicon|ITA}} [[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]
|valign=top|{{Flagicon|GER}} [[パルクシュタディオン|パルク]]([[ゲルゼンキルヒェン]])<br />{{Flagicon|ITA}} [[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ|ジュゼッペ・メアッツァ]]([[ミラノ]])
|-
|[[UEFAカップ1997-98|1997-98]]
|{{Fbaicon|ITA}} '''[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]'''
|'''3 - 0'''
|{{Fbaicon|ITA}} [[SSラツィオ|ラツィオ]]
|{{Flagicon|FRA}} [[パルク・デ・プランス]]([[パリ]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAカップ1998-99|1998-99]]
|{{Fbaicon|ITA}} '''[[パルマ・カルチョ1913|パルマ]]'''
|'''3 - 0'''
|{{Fbaicon|FRA}} [[オリンピック・マルセイユ|マルセイユ]]
|{{Flagicon|RUS}} [[ルジニキ・スタジアム|ルジニキ]]([[モスクワ]])
|-
|[[UEFAカップ1999-2000|1999-00]]
|{{Fbaicon|TUR}} '''[[ガラタサライSK (サッカー)|ガラタサライ]]'''
|'''0 - 0''' [[延長戦|aet]]<br /><small>([[PK戦|PK]] 4 - 1)</small>
|{{Fbaicon|ENG}} [[アーセナルFC|アーセナル]]
|{{Flagicon|DEN}} [[パルケン・スタディオン|パルケン]]([[コペンハーゲン]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAカップ 2000-01|2000-01]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[リヴァプールFC|リヴァプール]]'''
|'''5 - 4''' [[ゴールデンゴール|GG]]
|{{Fbaicon|ESP}} [[デポルティーボ・アラベス]]
|{{Flagicon|GER}} [[ジグナル・イドゥナ・パルク|ヴェストファーレン]]([[ドルトムント]])
|-
|[[UEFAカップ 2001-02|2001-02]]
|{{Fbaicon|NED}} '''[[フェイエノールト]]'''
|'''[[UEFAカップ 2001-02 決勝|3 - 2]]'''
|{{Fbaicon|GER}} [[ボルシア・ドルトムント]]
|{{Flagicon|NED}} [[フェイエノールト・スタディオン|デ・カイプ]]([[ロッテルダム]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAカップ 2002-03|2002-03]]
|{{Fbaicon|POR}} '''[[FCポルト|ポルト]]'''
|'''3 - 2''' [[延長戦|aet]]
|{{Fbaicon|SCO}} [[セルティックFC|セルティック]]
|{{Flagicon|ESP}} [[エスタディオ・オリンピコ・セビージャ|オリンピコ]]([[セビリア]])
|-
|[[UEFAカップ 2003-04|2003-04]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[バレンシアCF|バレンシア]]'''
|'''2 - 0'''
|{{Fbaicon|FRA}} [[オリンピック・マルセイユ|マルセイユ]]
|{{Flagicon|SWE}} [[ウッレヴィ]]([[ヨーテボリ]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAカップ 2004-05|2004-05]]
|{{Fbaicon|RUS}} '''[[PFC CSKAモスクワ|CSKAモスクワ]]'''
|'''3 - 1'''
|{{Fbaicon|POR}} [[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]
|{{Flagicon|POR}} [[エスタディオ・ジョゼ・アルヴァラーデ|ジョゼ・アルヴァラーデ]]([[リスボン]])
|-
|[[UEFAカップ 2005-06|2005-06]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[セビージャFC|セビージャ]]'''
|'''4 - 0'''
|{{Fbaicon|ENG}} [[ミドルズブラFC|ミドルズブラ]]
|{{Flagicon|NED}} [[フィリップス・スタディオン|フィリップス]]([[アイントホーフェン]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAカップ 2006-07|2006-07]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[セビージャFC|セビージャ]]'''
|'''2 - 2''' [[延長戦|aet]]<br /><small>([[PK戦|PK]] 3 - 1)</small>
|{{Fbaicon|ESP}} [[RCDエスパニョール|エスパニョール]]
|{{Flagicon|SCO}} [[ハムデン・パーク]]([[グラスゴー]])
|-
|[[UEFAカップ 2007-08|2007-08]]
|{{Fbaicon|RUS}} '''[[FCゼニト・サンクトペテルブルク|ゼニト]]'''
|'''2 - 0'''
|{{Fbaicon|SCO}} [[レンジャーズFC|レンジャーズ]]
|{{Flagicon|ENG}} [[シティ・オブ・マンチェスター・スタジアム|シティ・オブ・マンチェスター]]([[マンチェスター]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAカップ 2008-09|2008-09]]
|{{Fbaicon|UKR}} '''[[FCシャフタール・ドネツク|シャフタール・ドネツク]]'''
|'''2 - 1''' [[延長戦|aet]]
|{{Fbaicon|GER}} [[ヴェルダー・ブレーメン]]
|{{Flagicon|TUR}} [[シュクリュ・サラジオウル・スタジアム|シュクリュ・サラジオウル]]([[イスタンブール]])
|-
!colspan="5"|UEFAヨーロッパリーグ
|-
|[[UEFAヨーロッパリーグ 2009-10|2009-10]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[アトレティコ・マドリード]]'''
|'''2 - 1''' [[延長戦|aet]]
|{{Fbaicon|ENG}} [[フラムFC|フラム]]
|{{Flagicon|GER}} [[フォルクスパルクシュタディオン|ハンブルク・アレーナ]]([[ハンブルク]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAヨーロッパリーグ 2010-11|2010-11]]
|{{Fbaicon|POR}} '''[[FCポルト|ポルト]]'''
|'''1 - 0'''
|{{Fbaicon|POR}} [[SCブラガ|ブラガ]]
|{{Flagicon|IRE}} [[アビバ・スタジアム|ダブリン・アリーナ]]([[ダブリン]])
|-
|[[UEFAヨーロッパリーグ 2011-12|2011-12]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[アトレティコ・マドリード]]'''
|'''3 - 0'''
|{{Fbaicon|ESP}} [[アスレティック・ビルバオ]]
|{{Flagicon|ROM}} [[スタディオヌル・ナツィオナル|ナツィオナル]]([[ブカレスト]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAヨーロッパリーグ 2012-13|2012-13]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[チェルシーFC|チェルシー]]'''
|'''2 - 1'''
|{{Fbaicon|POR}} [[SLベンフィカ|ベンフィカ]]
|{{Flagicon|NED}} [[ヨハン・クライフ・アレナ|アムステルダム・アレナ]]([[アムステルダム]])
|-
|[[UEFAヨーロッパリーグ 2013-14|2013-14]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[セビージャFC|セビージャ]]'''
|'''[[UEFAヨーロッパリーグ 2013-14 決勝|0 - 0]]''' [[延長戦|aet]]<br /><small>([[PK戦|PK]] 4 - 2)</small>
|{{Fbaicon|POR}} [[SLベンフィカ|ベンフィカ]]
|{{Flagicon|ITA}} [[ユヴェントス・スタジアム]]([[トリノ]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAヨーロッパリーグ 2014-15|2014-15]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[セビージャFC|セビージャ]]'''
|'''[[UEFAヨーロッパリーグ 2014-15 決勝|3 - 2]]'''
|{{Fbaicon|UKR}} [[FCドニプロ|ドニプロ]]
|{{Flagicon|POL}} [[ワルシャワ国立競技場]]([[ワルシャワ]])
|-
|[[UEFAヨーロッパリーグ 2015-16|2015-16]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[セビージャFC|セビージャ]]'''
|'''[[UEFAヨーロッパリーグ 2015-16 決勝|3 - 1]]'''
|{{Fbaicon|ENG}} [[リヴァプールFC|リヴァプール]]
|{{Flagicon|SUI}} [[ザンクト・ヤコブ・パルク]]([[バーゼル]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAヨーロッパリーグ 2016-17|2016-17]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]'''
|'''[[UEFAヨーロッパリーグ 2016-17 決勝|2 - 0]]'''
|{{Fbaicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]
|{{Flagicon|SWE}} [[フレンズ・アレーナ]]([[ソルナ]])
|-
|[[UEFAヨーロッパリーグ 2017-18|2017-18]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[アトレティコ・マドリード]]'''
|'''[[UEFAヨーロッパリーグ 2017-18 決勝|3 - 0]]'''
|{{Fbaicon|FRA}} [[オリンピック・マルセイユ|マルセイユ]]
|{{Flagicon|FRA}} [[パルク・オリンピック・リヨン]]([[リヨン]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAヨーロッパリーグ 2018-19|2018-19]]
|{{Fbaicon|ENG}} '''[[チェルシーFC|チェルシー]]'''
|'''[[UEFAヨーロッパリーグ 2018-19 決勝|4 - 1]]'''
|{{Fbaicon|ENG}} [[アーセナルFC|アーセナル]]
|{{Flagicon|AZE}} [[バクー・オリンピックスタジアム|バクー・オリンピック]]([[バクー]])
|-
|[[UEFAヨーロッパリーグ 2019-20|2019-20]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[セビージャFC|セビージャ]]'''
|'''[[UEFAヨーロッパリーグ 2019-20 決勝|3 - 2]]'''
|{{Fbaicon|ITA}} [[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]
|{{Flagicon|DEU}} [[ラインエネルギーシュタディオン|ミュンゲルスドルファー]]([[ケルン]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAヨーロッパリーグ 2020-21|2020-21]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[ビジャレアルCF|ビジャレアル]]'''
|'''[[UEFAヨーロッパリーグ 2020-21 決勝|1 - 1]]''' [[延長戦|aet]]<br /><small>([[PK戦|PK]] 11 - 10)</small>
|{{Fbaicon|ENG}} [[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]
|{{Flagicon|POL}} [[PGEアリーナ・グダニスク|アリーナ・グダニスク]]([[グダニスク]])
|-
|[[UEFAヨーロッパリーグ 2021-22|2021-22]]
|{{Fbaicon|GER}} '''[[アイントラハト・フランクフルト|フランクフルト]]'''
|'''[[UEFAヨーロッパリーグ 2021-22 決勝|1 - 1]]''' [[延長戦|aet]]<br /><small>([[PK戦|PK]] 5 - 4)</small>
|{{Fbaicon|SCO}} [[レンジャーズFC|レンジャーズ]]
|{{Flagicon|ESP}} [[エスタディオ・ラモン・サンチェス・ピスフアン|ラモン・サンチェス・ピスフアン]]([[セビリア]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAヨーロッパリーグ 2022-23|2022-23]]
|{{Fbaicon|ESP}} '''[[セビージャFC|セビージャ]]'''
|'''[[UEFAヨーロッパリーグ 2022-23 決勝|1 - 1]]''' [[延長戦|aet]]<br /><small>([[PK戦|PK]] 4 - 1)</small>
|{{Fbaicon|ITA}} [[ASローマ|ローマ]]
|{{Flagicon|HUN}} [[プシュカーシュ・アレーナ]]([[ブダペスト]])
|-
|[[UEFAヨーロッパリーグ 2023-24|2023-24]]
|{{Fbaicon|}}
|'''[[UEFAヨーロッパリーグ 2023-24 決勝| - ]]'''
|{{Fbaicon|}}
|{{Flagicon|IRL}} [[アビバ・スタジアム|ダブリン・アリーナ]]([[ダブリン]])
|- bgcolor="#d0e7ff"
|[[UEFAヨーロッパリーグ 2024-25|2024-25]]
|{{Fbaicon|}}
|'''[[UEFAヨーロッパリーグ 2024-25 決勝| - ]]'''
|{{Fbaicon|}}
|{{Flagicon|ESP}} [[サン・マメス (2013年)|サン・マメス]]([[ビルバオ]])
|}
== 統計 ==
=== クラブ別成績 ===
{| class="sortable wikitable" style="font-size:smaller"
!class="unsortable"|クラブ名!!{{Abbr|優|優勝回数}}!!{{Abbr|準|準優勝回数}}!!優勝年度!!準優勝年度
|-
|{{Fbaicon|ESP}} [[セビージャFC|セビージャ]]||align=right|'''7'''||align=right|0||2006,2007,2014,2015,2016,2020,2023||
|-
|{{Fbaicon|ITA}} [[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]||align=right|3||align=right|2||1991,1994,1998||1997,2020
|-
|{{Fbaicon|ENG}} [[リヴァプールFC|リヴァプール]]||align=right|3||align=right|1||1973,1976,2001||2016
|-
|{{Fbaicon|ITA}} [[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]||align=right|3||align=right|1||1977,1990,1993||1995
|-
|{{Fbaicon|ESP}} [[アトレティコ・マドリード]]||align=right|3||align=right|0||2010,2012,2018||
|-
|{{Fbaicon|GER}} [[ボルシア・メンヒェングラートバッハ|ボルシアMG]]||align=right|2||align=right|2||1975,1979||1973,1980
|-
|{{Fbaicon|ENG}} [[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム・ホットスパー]]||align=right|2||align=right|1||1972,1984||1974
|-
|{{Fbaicon|NED}} [[フェイエノールト]]||align=right|2||align=right|0||1974,2002||
|-
|{{Fbaicon|GER}} [[アイントラハト・フランクフルト|フランクフルト]]||align=right|2||align=right|0||1980,2022||
|-
|{{Fbaicon|SWE}} [[IFKヨーテボリ|ヨーテボリ]]||align=right|2||align=right|0||1982,1987||
|-
|{{Fbaicon|ESP}} [[レアル・マドリード]]||align=right|2||align=right|0||1985,1986||
|-
|{{Fbaicon|ITA}} [[パルマ・カルチョ1913|パルマ]]||align=right|2||align=right|0||1995,1999||
|-
|{{Fbaicon|POR}} [[FCポルト|ポルト]]||align=right|2||align=right|0||2003,2011||
|-
|{{Fbaicon|ENG}} [[チェルシーFC|チェルシー]]||align=right|2||align=right|0||2013,2019||
|-
|{{Fbaicon|BEL}} [[RSCアンデルレヒト|アンデルレヒト]]||align=right|1||align=right|1||1983||1984
|-
|{{Fbaicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]||align=right|1||align=right|1||1992||2017
|-
|{{Fbaicon|ENG}} [[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]||align=right|1||align=right|1||2017||2021
|-
|{{Fbaicon|NED}} [[PSVアイントホーフェン|PSV]]||align=right|1||align=right|0||1978||
|-
|{{Fbaicon|ENG}} [[イプスウィッチ・タウンFC|イプスウィッチ・タウン]]||align=right|1||align=right|0||1981||
|-
|{{Fbaicon|GER}} [[バイエル・レバークーゼン]]||align=right|1||align=right|0||1988||
|-
|{{Fbaicon|ITA}} [[SSCナポリ|ナポリ]]||align=right|1||align=right|0||1989||
|-
|{{Fbaicon|GER}} [[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]||align=right|1||align=right|0||1996||
|-
|{{Fbaicon|GER}} [[シャルケ04|シャルケ]]||align=right|1||align=right|0||1997||
|-
|{{Fbaicon|TUR}} [[ガラタサライSK (サッカー)|ガラタサライ]]||align=right|1||align=right|0||2000||
|-
|{{Fbaicon|ESP}} [[バレンシアCF|バレンシア]]||align=right|1||align=right|0||2004||
|-
|{{Fbaicon|RUS}} [[PFC CSKAモスクワ|CSKAモスクワ]]||align=right|1||align=right|0||2005||
|-
|{{Fbaicon|RUS}} [[FCゼニト・サンクトペテルブルク|ゼニト]]||align=right|1||align=right|0||2008||
|-
|{{Fbaicon|UKR}} [[FCシャフタール・ドネツク|シャフタール・ドネツク]]||align=right|1||align=right|0||2009||
|-
|{{Fbaicon|ESP}} [[ビジャレアルCF|ビジャレアル]]||align=right|1||align=right|0||2021||
|-
|{{Fbaicon|POR}} [[SLベンフィカ|ベンフィカ]]||align=right|0||align=right|'''3'''||||1983,2013,2014
|-
|{{Fbaicon|FRA}} [[オリンピック・マルセイユ|マルセイユ]]||align=right|0||align=right|'''3'''||||1999,2004,2018
|-
|{{Fbaicon|ESP}} [[アスレティック・ビルバオ]]||align=right|0||align=right|2||||1977,2012
|-
|{{Fbaicon|ESP}} [[RCDエスパニョール|エスパニョール]]||align=right|0||align=right|2||||1988,2007
|-
|{{Fbaicon|ITA}} [[ASローマ|ローマ]]||align=right|0||align=right|2||||1991,2023
|-
|{{Fbaicon|GER}} [[ボルシア・ドルトムント]]||align=right|0||align=right|2||||1993,2002
|-
|{{Fbaicon|ENG}} [[アーセナルFC|アーセナル]]||align=right|0||align=right|2||||2000,2019
|-
|{{Fbaicon|SCO}} [[レンジャーズFC|レンジャーズ]]||align=right|0||align=right|2||||2008,2022
|-
|{{Fbaicon|ENG}} [[ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFC|ウルヴァーハンプトン]]||align=right|0||align=right|1||||1972
|-
|{{Fbaicon|NED}} [[FCトゥウェンテ|トゥウェンテ]]||align=right|0||align=right|1||||1975
|-
|{{Fbaicon|BEL}} [[クラブ・ブルッヘ]]||align=right|0||align=right|1||||1976
|-
|{{Fbaicon|FRA}} [[SCバスティア|バスティア]]||align=right|0||align=right|1||||1978
|-
|{{Fbaicon|SRB}} [[レッドスター・ベオグラード|レッドスター]]||align=right|0||align=right|1||||1979
|-
|{{Fbaicon|NED}} [[AZアルクマール|AZ]]||align=right|0||align=right|1||||1981
|-
|{{Fbaicon|GER}} [[ハンブルガーSV]]||align=right|0||align=right|1||||1982
|-
|{{Fbaicon|HUN}} [[ヴィデオトンFC|ヴィデオトン]]||align=right|0||align=right|1||||1985
|-
|{{Fbaicon|GER}} [[1.FCケルン|ケルン]]||align=right|0||align=right|1||||1986
|-
|{{Fbaicon|SCO}} [[ダンディー・ユナイテッドFC|ダンディー・ユナイテッド]]||align=right|0||align=right|1||||1987
|-
|{{Fbaicon|GER}} [[VfBシュトゥットガルト|シュトゥットガルト]]||align=right|0||align=right|1||||1989
|-
|{{Fbaicon|ITA}} [[ACFフィオレンティーナ|フィオレンティーナ]]||align=right|0||align=right|1||||1990
|-
|{{Fbaicon|ITA}} [[トリノFC|トリノ]]||align=right|0||align=right|1||||1992
|-
|{{Fbaicon|AUT}} [[レッドブル・ザルツブルク|ザルツブルク]]||align=right|0||align=right|1||||1994
|-
|{{Fbaicon|FRA}} [[FCジロンダン・ボルドー|ボルドー]]||align=right|0||align=right|1||||1996
|-
|{{Fbaicon|ITA}} [[SSラツィオ|ラツィオ]]||align=right|0||align=right|1||||1998
|-
|{{Fbaicon|ESP}} [[デポルティーボ・アラベス]]||align=right|0||align=right|1||||2001
|-
|{{Fbaicon|SCO}} [[セルティックFC|セルティック]]||align=right|0||align=right|1||||2003
|-
|{{Fbaicon|POR}} [[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]||align=right|0||align=right|1||||2005
|-
|{{Fbaicon|ENG}} [[ミドルズブラFC|ミドルズブラ]]||align=right|0||align=right|1||||2006
|-
|{{Fbaicon|GER}} [[ヴェルダー・ブレーメン]]||align=right|0||align=right|1||||2009
|-
|{{Fbaicon|ENG}} [[フラムFC|フラム]]||align=right|0||align=right|1||||2010
|-
|{{Fbaicon|POR}} [[SCブラガ|ブラガ]]||align=right|0||align=right|1||||2011
|-
|{{Fbaicon|UKR}} [[FCドニプロ|ドニプロ]]||align=right|0||align=right|1||||2015
|}
注:優勝年度及び準優勝年度は、優勝が決定した年を並べている。例えば、1971-72年度王者は1972年としている。
=== クラブ所在国別成績 ===
{| class="sortable wikitable" style="font-size:smaller; text-align:right"
!class="unsortable"|国・地域名!!{{Abbr|優|優勝回数}}!!{{Abbr|準|準優勝回数}}
|-
|align=left|{{Fba|ESP}}||'''14'''||5
|-
|align=left|{{Fba|ENG}}||9||'''8'''
|-
|align=left|{{Fba|ITA}}||9||'''8'''
|-
|align=left|{{Fba|GER}}||7||'''8'''
|-
|align=left|{{Fba|NED}}||4||3
|-
|align=left|{{Fba|POR}}||2||5
|-
|align=left|{{Fba|SWE}}||2||0
|-
|align=left|{{Fba|RUS}}||2||0
|-
|align=left|{{Fba|BEL}}||1||2
|-
|align=left|{{Fba|UKR}}||1||1
|-
|align=left|{{Fba|TUR}}||1||0
|-
|align=left|{{Fba|FRA}}||0||5
|-
|align=left|{{Fba|SCO}}||0||4
|-
|align=left|{{Fba|AUT}}||0||1
|-
|align=left|{{Fba|SRB}}||0||1
|-
|align=left|{{Fba|HUN}}||0||1
|}
== 大会アンセム ==
大会がUEFAヨーロッパリーグになった2009-10シーズン以降、テーマ曲「UEFAヨーロッパリーグ賛歌 (UEFA Europa League Anthem) 」が使われており、試合開始前、テレビ中継開始時と終了時に流される。このアンセムには、[[UEFAチャンピオンズリーグアンセム]]とは違って歌詞は存在しない。初代アンセムは、2009-10シーズンから2014-15シーズンまでの6年間使われ、作曲は[[フランス]]の[[:fr:Yohann Zveig|ヨアン・ツバイク]]が担当し、[[パリ国立歌劇場管弦楽団|パリ・オペラ座管弦楽団]]の演奏によるものだった。
2015-16シーズンから2017-2018シーズンまでのアンセム(2代目)は、[[ドイツ]]の作曲家・[[:de:Michael Kadelbach|ミヒャエル・カデルバッハ]]によって作曲されたもので、アップテンポや拍手をベースに、選手・サポーター・チームスタッフとの一体感を表現したものとなっていた。
2018-19シーズンからは、本大会のヴィジュアル・アイデンティティ(VI)がリニューアルしたのに合わせ、アンセムも3代目のものに一新された。現行のアンセムは、夜に行われる試合の情熱とエネルギーを表しており、高揚感を生み出す力強い楽曲となっている<ref>{{Cite web|title=UEFA Europa League launches edgier brand identity {{!}} Inside UEFA|url=https://www.uefa.com/insideuefa/about-uefa/news/0245-0e98db67b64d-69c3929b7a02-1000--uefa-europa-league-launches-edgier-brand-identity/|website=UEFA.com|date=2018-05-30|accessdate=2021-12-05|language=en|last=UEFA.com}}</ref>。
== スポンサー ==
* オフィシャルスポンサー
** [[ハイネケン|ハイネケン・ゼロ]]
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** [[エレクトロニック・アーツ]](公式ゲーム)
** [https://www.socios.com/ Socios.com](公式ファントークン)<ref>“[https://www.uefa.com/returntoplay/news/0272-1473824c0479-593ea71c724a-1000--socios-com-becomes-the-official-fan-token-partner-of-uefa-club-/ Socios.com becomes the Official Fan Token Partner of UEFA Club Competitions]”. UEFA.com 2022年2月15日</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[UEFAランキング]]
* [[インターシティーズ・フェアーズカップ]]
== 外部リンク ==
* [http://www.uefa.com/uefaeuropaleague/index.html 大会公式サイト]{{en icon}} - UEFA.com
* [http://www.rsssf.com/tablese/ec3b.html RSSSFによる記録]
{{UEFAヨーロッパリーグ}}
{{各年のUEFAヨーロッパリーグ}}
{{UEFAヨーロッパリーグ優勝クラブ}}
{{ヨーロッパのサッカー国際大会}}
{{国際クラブサッカー}}
{{Normdaten}}
[[Category:UEFAヨーロッパリーグ|*]] | 2003-02-23T07:04:18Z | 2023-10-27T19:06:07Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/UEFA%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0 |
2,759 | 神道 | 神道(しんとう、しんどう)は、日本の宗教。惟神道(かんながらのみち)ともいう。多くの宗教と異なり、開祖や教祖・教典を持たず、森羅万象あらゆるものに神が宿るという思想に基づく。神話、八百万の神、自然や自然現象など、アニミズム的、祖霊崇拝的な民族宗教である。
神と自然は一体と認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。
神道は古代日本に起源をたどることができるとされる宗教である。伝統的な民俗信仰・自然信仰・祖霊信仰を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した。また、日本国家の形成に影響を与えたとされている宗教である。世の中の宗教名の多くは日本語では「○○教」と呼称するが、神道の宗教名だけは「神道教」ではなく、単に「神道」となっている。
神道には確定した教祖、創始者がおらず、キリスト教の聖書、イスラム教のコーランにあたるような公式に定められた「正典」も存在しないとされるが、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『先代旧事本紀』『宣命』といった「神典」と称される古典群が神道の聖典とされている。森羅万象に神が宿ると考え、また偉大な祖先を神格化し、天津神・国津神などの祖霊をまつり、祭祀を重視する。浄明正直 (じょうみょうせいちょく)(浄く明るく正しく直く)を徳目とする。他宗教と比べて現世主義的といった特徴がみられる。神道とは森羅万象を神々の体現として享受する「惟神の道(かんながらのみち、神とともにあるの意)」であるといわれる。教えや内実は神社と祭りの中に伝えられている。『五箇条の御誓文』や、よく知られている童歌『通りゃんせ』など、日本社会の広範囲に渡って神道の影響が見受けられる。
神道は奈良時代以降の長い間、仏教信仰と混淆してきた(神仏習合)。一方で、日本における神仏習合は、すっかりと混ざり合って一つの宗教となったのではなく、部分的に合一しながらも、なおそれぞれで独立性が維持されていた側面もあり、宮中祭祀や伊勢神宮の祭祀では仏教の関与が除去されていることから、神祇信仰は仏教と異なる宗教システムとして自覚されながら並存していた。明治時代には神道国教化を実現するために、神仏分離が行われた。
神道と仏教の違いについては、神道は地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教はおもに人々の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する。
神道は日本国内で約8万5,000の神社が登録され、約8,400万人の支持者がいると『宗教年鑑』(文化庁)には記載があるが、支持者は神社側の自己申告に基づく数字であり、地域住民をすべて氏子とみなす例、初詣の参拝者も信徒数に含める例、御守りや御札などの呪具の売上数や頒布数から算出した想定信徒数を計算に入れる例があるためである。このため、日本人の7割程度が無信仰を自称するという多くの調査結果とは矛盾する。
以上のような分類をすることができるが、今日、単に「神道」といった場合には神社神道を指すことが多い。
また、何に重きを置くかによって「祭り型」「教え型」という分け方も提唱されている。
以上のように分けられる。なお、陰陽道系の土御門神道は上記の家元神道のひとつではあるが、教え型とも祭り型とも決められるものではない。
神道の起源は非常に古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念である。農耕文化の進展とともに、自然の威力に神霊の存在を見出し、その神霊を丁重に祭ることで自然の脅威を和ませ、農耕生活の安寧を祈るという神観念が生じたことが、神道の始まりであった。このためキリスト教、仏教のような開祖が存在せず、縄文時代を起点に弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと考えられている。
現在の神道・神社に直接繋がる祭祀遺跡が出土するのは、農耕文化の成立に伴って自然信仰が生じた弥生時代で、この時代には、荒神谷遺跡などに代表される青銅器祭祀、池上曽根遺跡のような後の神社建築と共通する独立棟持柱を持つ建物、鹿などの骨を焼いて占う卜骨、副葬品としての鏡・剣・玉の出土など、神社祭祀や記紀の神道信仰と明らかに連続性を持つ要素が見られるようになる。魏志倭人伝において、邪馬台国の女王卑弥呼が「鬼道を事とし、衆を惑わすこと能ふ」との記述が見られ、この「鬼道」がシャーマニズム的な要素が強い初期の神道であるとする説が有力である。なお、「鬼」「惑」などのようにネガティヴ的なニュアンスを持つ漢字が用いられたのは、儒教に内包される反迷信的な理念(子曰く「怪力乱神を語るべからず」-『論語』)による所が大きいと考えられる。
大和王権が成立する古墳時代には、最初期の神社と考えられる宗像大社や大神神社で、古墳副葬品と共通する副葬品が出土することから、大和王権による国家祭祀が行われたと推定されており、この時期に神道の直接の原型が形成された。飛鳥時代には律令の整備に伴い、神祇令に基づいた祭祀制度の体系化が行われ、神祇官が全国の神社に幣帛を頒布する班幣制度の確立や、全国の神社への社格区分や神階・神位の授与など、全国の神社を包括する国家的な律令祭祀制度が整備されたため、この時期に体系的な「神道」が成立したとするのが、多くの研究者での概ねの共通認識となっている。
「神道」という名称については「かんながらの道(神道)」と言う意味である。中国の『易経』や『晋書』の中にみえる神道は「神(あや)しき道」という意味であり、これは日本の神道観念とは性質が異なる別個のものである。
日本における「神道」という言葉の初出は『日本書紀』の用明天皇紀にある「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」であるが、このように外来の宗教である仏教と対になる日本固有の信仰を指したものだった。また、稲作のような自然の理法に従う営みを指して神道とする解釈もある。
中世には仏教理論との関連から神道の教義化・内面化が模索され、最終的に仏教から独立した独自の教義・経典・祭祀を持つ吉田神道が形成されて、神道界の主流となった。さらに近世には日本の古典研究に神道が統合されることで国学が成立し、倒幕運動に影響を与えた。こうして近代に入ると、明治政府によって国家神道体制が形成されたが、第二次世界大戦終結後には国家主義的イデオロギーの根源とされた同体制は解体され、現代においては宗教法人として各地の神社が活動している。
明治20年代(19世紀末)になると、西欧近代的な宗教概念が日本でも輸入され、宗教としての「神道」の語も定着し始めた。同30年代(20世紀初)には宗教学が本格的に導入され、学問上で「神道」の語が確立した。
もともと、神道にはイエス・キリストや釈迦のようなカリスマ的創唱者が存在しなかった。政権による土着の民俗信仰との支配的な祭政一致が行われた神道が教義を言語で統一的に定着させなかったのは、古代より「神ながら 事挙げせぬ国」だったからであるとも言われている。そのため、外来諸教と融合しやすい性格を有することになったともいう。神道のような土着の民俗信仰と宗派宗教の併存例は世界各地でみられるものであるが、その多様性は特異なものである。ただ、実際には、仏教公伝の当初から、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間でひと悶着もあった。
このように神道には明確な教義がないものの、古事記や日本書紀などのいわゆる「神典」には、神道の基本的な観念をうかがうことのできる記述があり、常世、黄泉などの他界観や、荒魂・和魂、祖霊などの霊魂観、むすひ、惟神(かんながら)、浄明正直などの倫理観、禊祓により罪穢れを払う清浄観などが、神道の基本的な観念と考えられる。
中世には、このような神道古典に見られる基本観念を体系的に追求し、神道の教学化を図る動きが見られた。その最初期の動きは、両部神道や山王神道など、仏教の僧侶たちが仏教の教理に基づいた神道解釈を試みた仏家神道であった。それらの仏家神道説に影響を受けつつ、それに対抗する形で、神宮神官らにより社家の立場からの神道説である伊勢神道が形成された。伊勢神道の教説は、それまでの神道祭祀における観念を、外来宗教の語彙も活用しつつ論理化したものと捉えられ、これまで神道祭祀において重んじられてきた祓や禊などの身体的清浄を心の問題として解釈し、「正直」「清浄」を神道の徳目とした。中世後期には、それまでの中世神道の展開を集大成し、仏教から独立した教義・経典・儀礼を持つ神道説である吉田神道が形成された。吉田神道の教説は、この世の中の現象の全てに神が内在するという汎神論であった。
近世に入ると、儒教の隆盛に伴い、理当心地神道、吉川神道などの儒家神道が盛んになり、神仏習合が強く批判され、儒教の徳目と神道の一致が説かれた。儒家神道を集大成したのが垂加神道で、垂加神道説では神と人が「天人唯一之道」という合一状態にあるとし、神道とは人が神に従って生きることであり、人は神に一心不乱の祈祷を行うことで冥加を得なければならないが、それには人が「正直」でなければならず、その「正直」の実現には「敬(つつしみ)」が第一だとする教説が説かれた。近世中期には国学が出現し、本居宣長は神道を儒教や仏教の教理によせて解釈することを強く批判した。近世後期には、平田篤胤がキリスト教の最後の審判の観念の影響を受けた幽明審判思想を唱えたり、その門人らが天之御中主神を創造神とする単一神教的な観念を展開するなど、近代に連なる教理の展開を遂げた。また、幕末には後期水戸学による神道説も唱えられ、国学と儒教を結びつけることで国体論を説き、尊皇論を唱え、幕末の志士たちの思想に影響を与えた。
近代には神道事務局祭神論争という熾烈な教理闘争もあったが、結局は、政府も神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したため、大日本帝国憲法によって信教の自由が認められた。もっとも、それには欧米列強に対して日本が近代国家であることを明らかにしなければならないという事情もあった。このような経緯から、近代には神社非宗教論が説かれ、神社神道の神職らが宗教的な教義を説くことは政府により禁じられたが、他方で在野の神道家らによる神道教理が説かれるようになり、国家から公認を受けた教派神道13派が独自の神道の教えを説いて活動し、勢力を広げた。
神道では、気象、地理地形などの自然現象に始まり、あらゆる事象に「神」の存在を認める。いわゆる「八百万の神々」である。アイヌの信仰にも共通点があり、アイヌ語の「カムイ」と「神(かみ)」という語の関係も深いと考えられている。元来、神の姿は、浮遊する霊力で、物に寄り付いたり去っていったりする「魂」と想起されており、非人格的なものであるとされた(そのような性質から、神の分霊を無限に行うことができる)が、仏教の影響で神像などが製作されるようになり、次第に神は可視的なものと考えられるようになった。神は、自然を感じ取り、そのもののままでは厳しい自然の中で、人間として文化的な生活を営むのにふさわしい環境と状態を、自然との調和に配慮しながらバランスを取り調節していき、人民生活を見回って、生活するための知恵や知識のヒントを与えたり、少し手伝ってあげたり、体や物を借りたときや何かやってもらったときなどには少しお礼をしたり、それが、日本の「神(かみ)」が行っていた仕事のひとつであり、日本人にとって「神」は、とても身近な存在であった。
また、神道における神は、理念的・抽象的存在ではなく、具体的な現象において観念されるため、自然現象が恵みとともに災害をもたらすのと同様に、神も荒魂・和魂の両面を持ち、人間にとって善悪双方をもたらすものと考えられている。神は、地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える穏やかな「守護神」であるが、天変地異を引き起こし、病や死を招き寄せる「祟る」性格も持っている。このように神は自然神から人格神へ、精霊的な神から理性的神へ、恐ろしい神から貴い神へ、進化発展があったととらえることができる。
神道の神の種類は、大別すると自然神と文化神の二つに分類ができる。前者には、太陽神や月神、風神、雷神、山神、海神などの天体や地形、気象を神格した神のほか、蛇などの動物神も含まれる。また、文化神は、屋敷神、氏神、産土神などの社会集団を守る神や、疫病神、田の神、漁労神、軍神、竈神など、人間生活における特定の場面や職能を守護する神に分けられるほか、生前業績があった人物を、没後神社を建てて神として祀る風習なども認められる(人神)。神道には、人間も死後神になるという考え方があり、神話に描かれる一族の先祖(祖霊崇拝)や社会的に突出した人物、地域社会に貢献した人物、国民や国のために働いた人物、国家に反逆し戦乱を起こした人物、不遇な晩年を過ごし死後怨霊として祟りをなした人物(御霊信仰)なども「神」として神社に祭られ、多くの人々の崇敬を集めることがある。
1881年の神道事務局祭神論争では、明治天皇の裁決によって伊勢派が勝利し、天照大神が最高の神格を得たが、敗北した出雲派的なものがいまだに強く残っていたり、氏神信仰などの地域性の強いものも多い。
なお、戦前は学校の教科書などに、「神」についての認識の仕方の説明が載っていた。尋常小学校の歴史や修身の教科書などには、少年少女向けの歴史物語として、神話の説明が記載されている。神話の世界はとても人間的な世界で、そこには「神」と「人」を隔てる断絶は存在しない。神もまた、人間のように仕事をし、生活をしている。昭和8年の『少年國史物語』では、「神代の物語」の項目に、「どこの國でも大昔の事ははつきりとは分らないものだが」と前置きをして、神代の事から始まる日本の歴史について「神代といふのは、我が國の大昔に相當の身分であつた方たちを後の世の人が尊敬して、すべて神として崇めてゐるところから、その方たちの時代を指してさう呼んでゐるのである」と説明されている。
平安時代以前より出雲において日本神話との関わりが議論されていたとされ、『出雲風土記』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃くみることができる。
鎌倉時代には伊勢神宮の神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った。そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。一方で、本居宣長が江戸期に『古事記』の詳細な注釈を行い、国学の主流を形成していった。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。伊勢派の果たしたことはそれに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう。
神道史の本格的な研究は宮地直一によって体系化された。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を國學院大學の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い、『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している。
神道の成立期については諸説出されている。おもな説として次の四説があげられている。その第一説は、7世紀後半・8世紀、律令祭祀制。天武・持統天皇朝説。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。第二説は、8・9世紀、平安時代初期説。提唱者は高取正男。第三説は、11・12世紀、院政期成立説。提唱者は井上寛司。第四説は、15世紀、吉田神道成立期説。提唱者は黒田俊雄。
神道に属する神々を祭神とする社を神社(じんじゃ)といい、全国の神社の大部分は神社本庁が統括している。なお、神社本庁は「庁」と称しているが、行政機関ではなく宗教法人のひとつである。
宮中祭祀に見られるように、皇室と神道は歴史的に密接な関わりを持ってきた。記紀神話には、神武天皇が大和橿原の地で即位したのちに鳥見山の祭壇で祭祀を行ったとの記述があり、古代においては祭政一致の観念のもと、神祭りを行うことと国を治めることが一体であり、そのいずれもが天皇の役割であると考えられていたとされる。そして、記紀には崇神天皇の時代に天神地祇を祀る制度が整備されたとされ、律令制の整備が進む飛鳥時代には、神祇官より全国の神社へ幣帛が頒布される班幣制度が整備された。平安時代以降は、天皇が名神大社に対して勅使を派遣して奉幣と宣命の奏上を行わせる名神大社奉幣が盛んになり、次第に二十二社への奉幣と展開した。平安時代の中期以降は、律令制度の弛緩に伴う神祇官の衰退により、天皇の親祭が高まり、年始の元旦四方拝や天皇が内裏で毎朝、「石灰壇」と呼ばれる台で伊勢神宮を遥拝する毎朝の御拝や、即位に際して特定神社へ神宝を送る一代一度の大神宝使の制度が始められたほか、神社の行宮まで天皇が赴く行幸も始められた。
中世の戦乱で、皇室儀礼や皇室の神道儀礼などは廃絶していったが、江戸時代に入ると復興されてゆき、伊勢神宮の神嘗祭に際しての例幣使派遣(伊勢例幣使)は1647年(正保4年)に、二十二社のうちの上七社及び宇佐八幡宮・香椎宮への奉幣は1744年(延享元年)に復興された。天皇の特定神社への奉幣は、近代を経て現代にも受け継がれており、現在では賀茂神社、石清水八幡宮、春日大社をはじめ16の神社が勅祭社とされ、天皇からの奉幣にあずかっている。
多くの日本国民が仏教と神道の習慣と信仰を両立させているように、皇室も神道の祭祀と仏教の行事をともに行っていた。他方で、『貞観儀式』『儀式』などの規定によって、大嘗祭の期間は中央及び五畿の官吏が仏事を行うことが禁じられ、中祀および内裏の斎戒を伴う小祀には、僧尼の代理への参内を禁じ、内裏の仏事が禁じられたほか、平安時代中期以降には、新嘗祭、月次祭、神嘗祭などの天皇自らが斎戒を行う祭においては、斎戒の期間中内裏の仏事をやめ、官人も仏法を忌避することとなるなど、神道儀礼と仏教儀礼は、朝廷においては明確に区分されていた。朝廷の復権を志向した光格天皇以降は、朝廷の儀礼における神道の要素が高まった。明治天皇の代で行われた神仏分離や神道国教化に伴い、仏教と皇室の直接的な関係は薄れたが、皇室菩提寺であった泉涌寺と宮内省の特別な関係は日本国憲法施行時まで続いた。
八百万の神々を信仰対象とする神道は、すべてのものが精神的な性質(人格があるか、擬人化された魂、霊等)を持つと信じるアニミズムの特徴を保持してきたと考えられている。動植物やその他の事物に人格的な霊魂、霊神が宿るとするアニミズムは、非人格的な超常現象、超自然的な呪力を崇拝するマナイズム(呪力崇拝)とは区別される。アニミズムはすべてのものに魂があると主張するのに対し、物活論はすべてのものが生きていると主張する。
たたりを恐れ崇拝の対象とする死霊崇拝は未開宗教におけるアニミズムの一形態とされている。未開社会で行われるシャーマンによる呪術の代わりに、神社では怨霊を鎮めるために神として祀った。死を霊魂の永久離脱として他界に赴くが、死霊や動物霊は定められたときにこの世を訪れ、人に憑いて健康を損なわせるとされる。狐憑き、ヤコツキ、オサキツキは動物霊憑依の例である。
未開社会において特定の氏族、部族が自然現象・自然物や動植物と超自然的関係で結ばれることをトーテムと呼ぶ。南方熊楠は、大物主を蛇トーテムとした。
神道はアニミズム的宗教であり、その特徴の一つに祭政一致がある。祭政一致は英語ではSaisei itchiとしてそのまま神道の用語として用いられており、柳川啓一は祭政一致を職業聖職者が直接統治を行う神権政治とは異なるものとして定義した。原始・未開社会の宗教の超自然観はアニミズム的であり、霊的存在に対して呪術的にかかわる。特定の開祖がなく、儀礼が公的に行われる。法・政治・経済・道徳・慣習などと密接にかかわり、祭政一致し、祭と経済的活動が同一の場で行われ、タブー(禁忌)が法的または道徳的観念・行動と重なる。祭政一致は主として古代天皇制の文脈において言及されてきた。古代天皇制国家の形成において大嘗祭の祭式と密接に結びついて成立した王権神話に象徴されるように、政治主権者は原始・未開社会に遡り宗教祭祀者の機能とは未分化であり、天皇家が諸部族の首長の祭祀権、祖神とその神話を血縁的系譜関係の神話的設定を通して奪い取り政治的統合を実現した。原始・古代社会では風雨雷地震などの自然現象、狩猟・農耕の収穫にいたるまですべて神意と考えられていたが、この思想は古代天皇制国家統一の支柱となり、律令制において神祇官を設置、中世の神道思想から江戸時代の国学へと受け継がれ、明治維新以後は神道国家観によって天皇の「まつりごと」を強調する傾向が生じ、昭和に入ると天皇を現人神とするようになった。
明治維新後の新政府は「太政官布達」で祭政一致し神祇官を再興すると布告した。日本でも巫の告げる神託が政治的な権威をもったヤマト王権の統治体制に遡ることができる。
宗教人類学者の佐々木宏幹は、シャーマニズムには次のような3つの要素があるとした。
神代紀の天鈿女命、崇神紀の倭迹迹日百襲姫命、仲哀紀の神功皇后などは突然神がかり(憑依)、狂躁乱舞しており、シャーマンの例として挙げられてきた。
山上伊豆母は、4世紀の三輪王朝、5世紀の河内王朝、そして崇仏派の蘇我氏による大化の改新によって律令制国家となる以前の大和朝廷は、三輪氏や多氏といった巫を司る一族と政を司る大王の共同統治が行われてきたと主張している。
シャーマニズムは大きく脱魂と憑依(憑霊)の2つにわけることができるが、東アジア(日本、韓国、台湾、中国大陸)、東南アジアのシャーマンに脱魂(ecstasy)型がないとは言えないが、圧倒的に憑依(possession)型が多い。
小口偉一は、日本の宗教信仰の基底にシャーマニズム的傾向があるとし、神道系新宗教の集団の形成や基盤も同様であるとした。神道系新宗教の教祖らの中には召命型シャーマンの系統に属するものがいると考えられている。
神社信仰の性格は、大きく分類すると氏神型信仰と勧請型信仰(崇敬祈願型信仰)の2つに分けられる。古代における信仰は、前者の、地域ごとに氏神・産土神を祀る閉鎖的な共同体祭祀が中心であったが、中世に入ると、霊威のある神々が地域を越えて各地に勧請され、個人の祈願が行われる勧請型の信仰が増加した。中世期の律令制の崩壊と荘園制の成立に伴い、特定神社を国家が支える古代的な律令祭祀制度が崩壊し、荘園領主たちが有力神社を本所として荘園を寄進するようになった結果、その寄進された社領にその分霊社が勧請されるようになったことや、各神社が御師をして地方まで信仰を広げる活動をはじめたことなどが、中世期に入って神社信仰が拡散する要因となった。また、中世期の惣村では、村民たちは日常の農耕生活の中で神社に寄り合い、村民の中から一年交代で年番神主が選ばれていたり、オトナ・年寄と呼ばれる古老が取り仕切り若者衆が神事の奉仕に当たる神事運営のための祭りの編成組織である宮座が結成されるなどしたほか、村の取り決めに際しては起請文を記して神に誓約し、一揆の時には一味神水が行われるなど、神社は、民衆の精神的拠り所となっていった。
近世期に入ると、治安や交通の改善によって人々の神社参詣がさらに活性化し、一層庶民の間での神社信仰が広がった。各村では講が結成され、毎年わずかなお金を積み立て、その共同出資をもとに籤で選ばれた代表者が神社に参詣し、講員全員分のお札などを受け取って帰る代参講が流行し、各講は御師や先達と師檀関係を結び、御師は講員の祈祷や参詣における宿泊の便を図った。このようなことから、数百万人が短期間で伊勢神宮に参拝したと記録されるお蔭参りをはじめ、近世期には多数の人々が神社に参詣した。他方で、近世期の神社参詣は、近世社会における輸送組織の発達や道中での宿屋・遊楽施設の充実などにより、道中において様々な名所を見物したり、遊興を行うといった、観光・娯楽的な要素も多く持つものであった。このような観光と寺社参詣の結びつきは、近代を経て現代でも受け継がれており、観光における神社の存在感は大きなものとなっている。この他、現在における神社への信仰は、初詣、お宮参り、七五三、結婚式など、個人や家族の年中行事や人生儀礼において現れている。
以下では、特に全国的に広がった神社信仰について概覧する。
以下は一般的な参拝の流れである。神社によっては作法が異なることがある。多くの場合、その旨の表示がある。
参拝を行う日は毎月1日と15日がよいとされる。参拝する前に、本来は神の前に向かう前に心身を清める禊が必要である。これは神が「穢れ」を嫌うとされることによるが、現代であれば、一般参拝では入浴・シャワーなどで身体を清潔にしてから参拝する心がけが望ましい。神社に到着し、鳥居や神門をくぐる際は「小揖(身体を15度折り曲げるお辞儀。会釈に相当)」するのが望ましい。このときには脱帽し、服装もきちんと整えるようにする。
次に手水舎にて手水を使い、手口を洗う。これは拍手と神拝詞奏上を行う手口(さらには心)を清める意味合いを持つ、ひとつの禊である。手水の作法としては、
なお、巫女の補助がつく場合には、作法は巫女の指示にしたがうようにする。手水を使い終わったら拝礼を行うために参道を通り社殿へと向かう。神前ではまず神への供物として(供物を捧げるほかにお祓いの意味もあるといわれる)賽銭箱に賽銭を奉納する。次に賽銭箱の近くにある鈴鐘を鳴らすが、これには邪気を払う、清らかな音色で神を呼び寄せて参拝に訪れたことを神に告げる、参拝者を敬虔な気持ちにするとともに神霊の発動を願うなどの意味合いがあるとされる。
鈴鐘を鳴らした後に拝礼を行う。拝礼の基本的な作法は、現在は「再拝二拍手一拝」(あるいは「二拝二拍手一拝」「二礼二拍手一礼」)がおもに利用されている。すなわち、
というもの。再拝二拍手一拝の前後に深揖(身体を45度折り曲げるお辞儀。最敬礼に相当)を行うとより丁寧である。祈願を行う場合は二拍手と一拝の間に氏名および居住地と願い事を(声に出して、あるいは心の中で)陳べるのが一般的となっている。また、神恩感謝を述べたい場合も同様である。参拝時は、目を閉じることなく目を開けたままが望ましい。正式参拝や祈祷などで玉串を捧げる場合は、上記の深揖と再拝の間で、玉串に祈念を込めて根本を神前に向けるようにお供えする。
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"text": "神道は日本国内で約8万5,000の神社が登録され、約8,400万人の支持者がいると『宗教年鑑』(文化庁)には記載があるが、支持者は神社側の自己申告に基づく数字であり、地域住民をすべて氏子とみなす例、初詣の参拝者も信徒数に含める例、御守りや御札などの呪具の売上数や頒布数から算出した想定信徒数を計算に入れる例があるためである。このため、日本人の7割程度が無信仰を自称するという多くの調査結果とは矛盾する。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "以上のような分類をすることができるが、今日、単に「神道」といった場合には神社神道を指すことが多い。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "また、何に重きを置くかによって「祭り型」「教え型」という分け方も提唱されている。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "以上のように分けられる。なお、陰陽道系の土御門神道は上記の家元神道のひとつではあるが、教え型とも祭り型とも決められるものではない。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "神道の起源は非常に古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念である。農耕文化の進展とともに、自然の威力に神霊の存在を見出し、その神霊を丁重に祭ることで自然の脅威を和ませ、農耕生活の安寧を祈るという神観念が生じたことが、神道の始まりであった。このためキリスト教、仏教のような開祖が存在せず、縄文時代を起点に弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと考えられている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
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"text": "現在の神道・神社に直接繋がる祭祀遺跡が出土するのは、農耕文化の成立に伴って自然信仰が生じた弥生時代で、この時代には、荒神谷遺跡などに代表される青銅器祭祀、池上曽根遺跡のような後の神社建築と共通する独立棟持柱を持つ建物、鹿などの骨を焼いて占う卜骨、副葬品としての鏡・剣・玉の出土など、神社祭祀や記紀の神道信仰と明らかに連続性を持つ要素が見られるようになる。魏志倭人伝において、邪馬台国の女王卑弥呼が「鬼道を事とし、衆を惑わすこと能ふ」との記述が見られ、この「鬼道」がシャーマニズム的な要素が強い初期の神道であるとする説が有力である。なお、「鬼」「惑」などのようにネガティヴ的なニュアンスを持つ漢字が用いられたのは、儒教に内包される反迷信的な理念(子曰く「怪力乱神を語るべからず」-『論語』)による所が大きいと考えられる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "大和王権が成立する古墳時代には、最初期の神社と考えられる宗像大社や大神神社で、古墳副葬品と共通する副葬品が出土することから、大和王権による国家祭祀が行われたと推定されており、この時期に神道の直接の原型が形成された。飛鳥時代には律令の整備に伴い、神祇令に基づいた祭祀制度の体系化が行われ、神祇官が全国の神社に幣帛を頒布する班幣制度の確立や、全国の神社への社格区分や神階・神位の授与など、全国の神社を包括する国家的な律令祭祀制度が整備されたため、この時期に体系的な「神道」が成立したとするのが、多くの研究者での概ねの共通認識となっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
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"text": "「神道」という名称については「かんながらの道(神道)」と言う意味である。中国の『易経』や『晋書』の中にみえる神道は「神(あや)しき道」という意味であり、これは日本の神道観念とは性質が異なる別個のものである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "日本における「神道」という言葉の初出は『日本書紀』の用明天皇紀にある「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」であるが、このように外来の宗教である仏教と対になる日本固有の信仰を指したものだった。また、稲作のような自然の理法に従う営みを指して神道とする解釈もある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "中世には仏教理論との関連から神道の教義化・内面化が模索され、最終的に仏教から独立した独自の教義・経典・祭祀を持つ吉田神道が形成されて、神道界の主流となった。さらに近世には日本の古典研究に神道が統合されることで国学が成立し、倒幕運動に影響を与えた。こうして近代に入ると、明治政府によって国家神道体制が形成されたが、第二次世界大戦終結後には国家主義的イデオロギーの根源とされた同体制は解体され、現代においては宗教法人として各地の神社が活動している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "明治20年代(19世紀末)になると、西欧近代的な宗教概念が日本でも輸入され、宗教としての「神道」の語も定着し始めた。同30年代(20世紀初)には宗教学が本格的に導入され、学問上で「神道」の語が確立した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "もともと、神道にはイエス・キリストや釈迦のようなカリスマ的創唱者が存在しなかった。政権による土着の民俗信仰との支配的な祭政一致が行われた神道が教義を言語で統一的に定着させなかったのは、古代より「神ながら 事挙げせぬ国」だったからであるとも言われている。そのため、外来諸教と融合しやすい性格を有することになったともいう。神道のような土着の民俗信仰と宗派宗教の併存例は世界各地でみられるものであるが、その多様性は特異なものである。ただ、実際には、仏教公伝の当初から、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間でひと悶着もあった。",
"title": "教義"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "このように神道には明確な教義がないものの、古事記や日本書紀などのいわゆる「神典」には、神道の基本的な観念をうかがうことのできる記述があり、常世、黄泉などの他界観や、荒魂・和魂、祖霊などの霊魂観、むすひ、惟神(かんながら)、浄明正直などの倫理観、禊祓により罪穢れを払う清浄観などが、神道の基本的な観念と考えられる。",
"title": "教義"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "中世には、このような神道古典に見られる基本観念を体系的に追求し、神道の教学化を図る動きが見られた。その最初期の動きは、両部神道や山王神道など、仏教の僧侶たちが仏教の教理に基づいた神道解釈を試みた仏家神道であった。それらの仏家神道説に影響を受けつつ、それに対抗する形で、神宮神官らにより社家の立場からの神道説である伊勢神道が形成された。伊勢神道の教説は、それまでの神道祭祀における観念を、外来宗教の語彙も活用しつつ論理化したものと捉えられ、これまで神道祭祀において重んじられてきた祓や禊などの身体的清浄を心の問題として解釈し、「正直」「清浄」を神道の徳目とした。中世後期には、それまでの中世神道の展開を集大成し、仏教から独立した教義・経典・儀礼を持つ神道説である吉田神道が形成された。吉田神道の教説は、この世の中の現象の全てに神が内在するという汎神論であった。",
"title": "教義"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "近世に入ると、儒教の隆盛に伴い、理当心地神道、吉川神道などの儒家神道が盛んになり、神仏習合が強く批判され、儒教の徳目と神道の一致が説かれた。儒家神道を集大成したのが垂加神道で、垂加神道説では神と人が「天人唯一之道」という合一状態にあるとし、神道とは人が神に従って生きることであり、人は神に一心不乱の祈祷を行うことで冥加を得なければならないが、それには人が「正直」でなければならず、その「正直」の実現には「敬(つつしみ)」が第一だとする教説が説かれた。近世中期には国学が出現し、本居宣長は神道を儒教や仏教の教理によせて解釈することを強く批判した。近世後期には、平田篤胤がキリスト教の最後の審判の観念の影響を受けた幽明審判思想を唱えたり、その門人らが天之御中主神を創造神とする単一神教的な観念を展開するなど、近代に連なる教理の展開を遂げた。また、幕末には後期水戸学による神道説も唱えられ、国学と儒教を結びつけることで国体論を説き、尊皇論を唱え、幕末の志士たちの思想に影響を与えた。",
"title": "教義"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "近代には神道事務局祭神論争という熾烈な教理闘争もあったが、結局は、政府も神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したため、大日本帝国憲法によって信教の自由が認められた。もっとも、それには欧米列強に対して日本が近代国家であることを明らかにしなければならないという事情もあった。このような経緯から、近代には神社非宗教論が説かれ、神社神道の神職らが宗教的な教義を説くことは政府により禁じられたが、他方で在野の神道家らによる神道教理が説かれるようになり、国家から公認を受けた教派神道13派が独自の神道の教えを説いて活動し、勢力を広げた。",
"title": "教義"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "神道では、気象、地理地形などの自然現象に始まり、あらゆる事象に「神」の存在を認める。いわゆる「八百万の神々」である。アイヌの信仰にも共通点があり、アイヌ語の「カムイ」と「神(かみ)」という語の関係も深いと考えられている。元来、神の姿は、浮遊する霊力で、物に寄り付いたり去っていったりする「魂」と想起されており、非人格的なものであるとされた(そのような性質から、神の分霊を無限に行うことができる)が、仏教の影響で神像などが製作されるようになり、次第に神は可視的なものと考えられるようになった。神は、自然を感じ取り、そのもののままでは厳しい自然の中で、人間として文化的な生活を営むのにふさわしい環境と状態を、自然との調和に配慮しながらバランスを取り調節していき、人民生活を見回って、生活するための知恵や知識のヒントを与えたり、少し手伝ってあげたり、体や物を借りたときや何かやってもらったときなどには少しお礼をしたり、それが、日本の「神(かみ)」が行っていた仕事のひとつであり、日本人にとって「神」は、とても身近な存在であった。",
"title": "神道における「神」"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "また、神道における神は、理念的・抽象的存在ではなく、具体的な現象において観念されるため、自然現象が恵みとともに災害をもたらすのと同様に、神も荒魂・和魂の両面を持ち、人間にとって善悪双方をもたらすものと考えられている。神は、地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える穏やかな「守護神」であるが、天変地異を引き起こし、病や死を招き寄せる「祟る」性格も持っている。このように神は自然神から人格神へ、精霊的な神から理性的神へ、恐ろしい神から貴い神へ、進化発展があったととらえることができる。",
"title": "神道における「神」"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "神道の神の種類は、大別すると自然神と文化神の二つに分類ができる。前者には、太陽神や月神、風神、雷神、山神、海神などの天体や地形、気象を神格した神のほか、蛇などの動物神も含まれる。また、文化神は、屋敷神、氏神、産土神などの社会集団を守る神や、疫病神、田の神、漁労神、軍神、竈神など、人間生活における特定の場面や職能を守護する神に分けられるほか、生前業績があった人物を、没後神社を建てて神として祀る風習なども認められる(人神)。神道には、人間も死後神になるという考え方があり、神話に描かれる一族の先祖(祖霊崇拝)や社会的に突出した人物、地域社会に貢献した人物、国民や国のために働いた人物、国家に反逆し戦乱を起こした人物、不遇な晩年を過ごし死後怨霊として祟りをなした人物(御霊信仰)なども「神」として神社に祭られ、多くの人々の崇敬を集めることがある。",
"title": "神道における「神」"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1881年の神道事務局祭神論争では、明治天皇の裁決によって伊勢派が勝利し、天照大神が最高の神格を得たが、敗北した出雲派的なものがいまだに強く残っていたり、氏神信仰などの地域性の強いものも多い。",
"title": "神道における「神」"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "なお、戦前は学校の教科書などに、「神」についての認識の仕方の説明が載っていた。尋常小学校の歴史や修身の教科書などには、少年少女向けの歴史物語として、神話の説明が記載されている。神話の世界はとても人間的な世界で、そこには「神」と「人」を隔てる断絶は存在しない。神もまた、人間のように仕事をし、生活をしている。昭和8年の『少年國史物語』では、「神代の物語」の項目に、「どこの國でも大昔の事ははつきりとは分らないものだが」と前置きをして、神代の事から始まる日本の歴史について「神代といふのは、我が國の大昔に相當の身分であつた方たちを後の世の人が尊敬して、すべて神として崇めてゐるところから、その方たちの時代を指してさう呼んでゐるのである」と説明されている。",
"title": "神道における「神」"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "平安時代以前より出雲において日本神話との関わりが議論されていたとされ、『出雲風土記』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃くみることができる。",
"title": "神道の研究"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "鎌倉時代には伊勢神宮の神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った。そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。一方で、本居宣長が江戸期に『古事記』の詳細な注釈を行い、国学の主流を形成していった。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。伊勢派の果たしたことはそれに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう。",
"title": "神道の研究"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "神道史の本格的な研究は宮地直一によって体系化された。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を國學院大學の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い、『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している。",
"title": "神道の研究"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "神道の成立期については諸説出されている。おもな説として次の四説があげられている。その第一説は、7世紀後半・8世紀、律令祭祀制。天武・持統天皇朝説。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。第二説は、8・9世紀、平安時代初期説。提唱者は高取正男。第三説は、11・12世紀、院政期成立説。提唱者は井上寛司。第四説は、15世紀、吉田神道成立期説。提唱者は黒田俊雄。",
"title": "神道の研究"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "神道に属する神々を祭神とする社を神社(じんじゃ)といい、全国の神社の大部分は神社本庁が統括している。なお、神社本庁は「庁」と称しているが、行政機関ではなく宗教法人のひとつである。",
"title": "現代の神道"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "宮中祭祀に見られるように、皇室と神道は歴史的に密接な関わりを持ってきた。記紀神話には、神武天皇が大和橿原の地で即位したのちに鳥見山の祭壇で祭祀を行ったとの記述があり、古代においては祭政一致の観念のもと、神祭りを行うことと国を治めることが一体であり、そのいずれもが天皇の役割であると考えられていたとされる。そして、記紀には崇神天皇の時代に天神地祇を祀る制度が整備されたとされ、律令制の整備が進む飛鳥時代には、神祇官より全国の神社へ幣帛が頒布される班幣制度が整備された。平安時代以降は、天皇が名神大社に対して勅使を派遣して奉幣と宣命の奏上を行わせる名神大社奉幣が盛んになり、次第に二十二社への奉幣と展開した。平安時代の中期以降は、律令制度の弛緩に伴う神祇官の衰退により、天皇の親祭が高まり、年始の元旦四方拝や天皇が内裏で毎朝、「石灰壇」と呼ばれる台で伊勢神宮を遥拝する毎朝の御拝や、即位に際して特定神社へ神宝を送る一代一度の大神宝使の制度が始められたほか、神社の行宮まで天皇が赴く行幸も始められた。",
"title": "皇室と神道"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "中世の戦乱で、皇室儀礼や皇室の神道儀礼などは廃絶していったが、江戸時代に入ると復興されてゆき、伊勢神宮の神嘗祭に際しての例幣使派遣(伊勢例幣使)は1647年(正保4年)に、二十二社のうちの上七社及び宇佐八幡宮・香椎宮への奉幣は1744年(延享元年)に復興された。天皇の特定神社への奉幣は、近代を経て現代にも受け継がれており、現在では賀茂神社、石清水八幡宮、春日大社をはじめ16の神社が勅祭社とされ、天皇からの奉幣にあずかっている。",
"title": "皇室と神道"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "多くの日本国民が仏教と神道の習慣と信仰を両立させているように、皇室も神道の祭祀と仏教の行事をともに行っていた。他方で、『貞観儀式』『儀式』などの規定によって、大嘗祭の期間は中央及び五畿の官吏が仏事を行うことが禁じられ、中祀および内裏の斎戒を伴う小祀には、僧尼の代理への参内を禁じ、内裏の仏事が禁じられたほか、平安時代中期以降には、新嘗祭、月次祭、神嘗祭などの天皇自らが斎戒を行う祭においては、斎戒の期間中内裏の仏事をやめ、官人も仏法を忌避することとなるなど、神道儀礼と仏教儀礼は、朝廷においては明確に区分されていた。朝廷の復権を志向した光格天皇以降は、朝廷の儀礼における神道の要素が高まった。明治天皇の代で行われた神仏分離や神道国教化に伴い、仏教と皇室の直接的な関係は薄れたが、皇室菩提寺であった泉涌寺と宮内省の特別な関係は日本国憲法施行時まで続いた。",
"title": "皇室と神道"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "八百万の神々を信仰対象とする神道は、すべてのものが精神的な性質(人格があるか、擬人化された魂、霊等)を持つと信じるアニミズムの特徴を保持してきたと考えられている。動植物やその他の事物に人格的な霊魂、霊神が宿るとするアニミズムは、非人格的な超常現象、超自然的な呪力を崇拝するマナイズム(呪力崇拝)とは区別される。アニミズムはすべてのものに魂があると主張するのに対し、物活論はすべてのものが生きていると主張する。",
"title": "アニミズムと神道"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "たたりを恐れ崇拝の対象とする死霊崇拝は未開宗教におけるアニミズムの一形態とされている。未開社会で行われるシャーマンによる呪術の代わりに、神社では怨霊を鎮めるために神として祀った。死を霊魂の永久離脱として他界に赴くが、死霊や動物霊は定められたときにこの世を訪れ、人に憑いて健康を損なわせるとされる。狐憑き、ヤコツキ、オサキツキは動物霊憑依の例である。",
"title": "アニミズムと神道"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "未開社会において特定の氏族、部族が自然現象・自然物や動植物と超自然的関係で結ばれることをトーテムと呼ぶ。南方熊楠は、大物主を蛇トーテムとした。",
"title": "アニミズムと神道"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "神道はアニミズム的宗教であり、その特徴の一つに祭政一致がある。祭政一致は英語ではSaisei itchiとしてそのまま神道の用語として用いられており、柳川啓一は祭政一致を職業聖職者が直接統治を行う神権政治とは異なるものとして定義した。原始・未開社会の宗教の超自然観はアニミズム的であり、霊的存在に対して呪術的にかかわる。特定の開祖がなく、儀礼が公的に行われる。法・政治・経済・道徳・慣習などと密接にかかわり、祭政一致し、祭と経済的活動が同一の場で行われ、タブー(禁忌)が法的または道徳的観念・行動と重なる。祭政一致は主として古代天皇制の文脈において言及されてきた。古代天皇制国家の形成において大嘗祭の祭式と密接に結びついて成立した王権神話に象徴されるように、政治主権者は原始・未開社会に遡り宗教祭祀者の機能とは未分化であり、天皇家が諸部族の首長の祭祀権、祖神とその神話を血縁的系譜関係の神話的設定を通して奪い取り政治的統合を実現した。原始・古代社会では風雨雷地震などの自然現象、狩猟・農耕の収穫にいたるまですべて神意と考えられていたが、この思想は古代天皇制国家統一の支柱となり、律令制において神祇官を設置、中世の神道思想から江戸時代の国学へと受け継がれ、明治維新以後は神道国家観によって天皇の「まつりごと」を強調する傾向が生じ、昭和に入ると天皇を現人神とするようになった。",
"title": "アニミズムと神道"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "明治維新後の新政府は「太政官布達」で祭政一致し神祇官を再興すると布告した。日本でも巫の告げる神託が政治的な権威をもったヤマト王権の統治体制に遡ることができる。",
"title": "アニミズムと神道"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "宗教人類学者の佐々木宏幹は、シャーマニズムには次のような3つの要素があるとした。",
"title": "シャーマニズムと神道"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "神代紀の天鈿女命、崇神紀の倭迹迹日百襲姫命、仲哀紀の神功皇后などは突然神がかり(憑依)、狂躁乱舞しており、シャーマンの例として挙げられてきた。",
"title": "シャーマニズムと神道"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "山上伊豆母は、4世紀の三輪王朝、5世紀の河内王朝、そして崇仏派の蘇我氏による大化の改新によって律令制国家となる以前の大和朝廷は、三輪氏や多氏といった巫を司る一族と政を司る大王の共同統治が行われてきたと主張している。",
"title": "シャーマニズムと神道"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "シャーマニズムは大きく脱魂と憑依(憑霊)の2つにわけることができるが、東アジア(日本、韓国、台湾、中国大陸)、東南アジアのシャーマンに脱魂(ecstasy)型がないとは言えないが、圧倒的に憑依(possession)型が多い。",
"title": "シャーマニズムと神道"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "小口偉一は、日本の宗教信仰の基底にシャーマニズム的傾向があるとし、神道系新宗教の集団の形成や基盤も同様であるとした。神道系新宗教の教祖らの中には召命型シャーマンの系統に属するものがいると考えられている。",
"title": "シャーマニズムと神道"
},
{
"paragraph_id": 45,
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"text": "神社信仰の性格は、大きく分類すると氏神型信仰と勧請型信仰(崇敬祈願型信仰)の2つに分けられる。古代における信仰は、前者の、地域ごとに氏神・産土神を祀る閉鎖的な共同体祭祀が中心であったが、中世に入ると、霊威のある神々が地域を越えて各地に勧請され、個人の祈願が行われる勧請型の信仰が増加した。中世期の律令制の崩壊と荘園制の成立に伴い、特定神社を国家が支える古代的な律令祭祀制度が崩壊し、荘園領主たちが有力神社を本所として荘園を寄進するようになった結果、その寄進された社領にその分霊社が勧請されるようになったことや、各神社が御師をして地方まで信仰を広げる活動をはじめたことなどが、中世期に入って神社信仰が拡散する要因となった。また、中世期の惣村では、村民たちは日常の農耕生活の中で神社に寄り合い、村民の中から一年交代で年番神主が選ばれていたり、オトナ・年寄と呼ばれる古老が取り仕切り若者衆が神事の奉仕に当たる神事運営のための祭りの編成組織である宮座が結成されるなどしたほか、村の取り決めに際しては起請文を記して神に誓約し、一揆の時には一味神水が行われるなど、神社は、民衆の精神的拠り所となっていった。",
"title": "信仰"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "近世期に入ると、治安や交通の改善によって人々の神社参詣がさらに活性化し、一層庶民の間での神社信仰が広がった。各村では講が結成され、毎年わずかなお金を積み立て、その共同出資をもとに籤で選ばれた代表者が神社に参詣し、講員全員分のお札などを受け取って帰る代参講が流行し、各講は御師や先達と師檀関係を結び、御師は講員の祈祷や参詣における宿泊の便を図った。このようなことから、数百万人が短期間で伊勢神宮に参拝したと記録されるお蔭参りをはじめ、近世期には多数の人々が神社に参詣した。他方で、近世期の神社参詣は、近世社会における輸送組織の発達や道中での宿屋・遊楽施設の充実などにより、道中において様々な名所を見物したり、遊興を行うといった、観光・娯楽的な要素も多く持つものであった。このような観光と寺社参詣の結びつきは、近代を経て現代でも受け継がれており、観光における神社の存在感は大きなものとなっている。この他、現在における神社への信仰は、初詣、お宮参り、七五三、結婚式など、個人や家族の年中行事や人生儀礼において現れている。",
"title": "信仰"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "以下では、特に全国的に広がった神社信仰について概覧する。",
"title": "信仰"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "以下は一般的な参拝の流れである。神社によっては作法が異なることがある。多くの場合、その旨の表示がある。",
"title": "参拝の方法"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "参拝を行う日は毎月1日と15日がよいとされる。参拝する前に、本来は神の前に向かう前に心身を清める禊が必要である。これは神が「穢れ」を嫌うとされることによるが、現代であれば、一般参拝では入浴・シャワーなどで身体を清潔にしてから参拝する心がけが望ましい。神社に到着し、鳥居や神門をくぐる際は「小揖(身体を15度折り曲げるお辞儀。会釈に相当)」するのが望ましい。このときには脱帽し、服装もきちんと整えるようにする。",
"title": "参拝の方法"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "次に手水舎にて手水を使い、手口を洗う。これは拍手と神拝詞奏上を行う手口(さらには心)を清める意味合いを持つ、ひとつの禊である。手水の作法としては、",
"title": "参拝の方法"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "なお、巫女の補助がつく場合には、作法は巫女の指示にしたがうようにする。手水を使い終わったら拝礼を行うために参道を通り社殿へと向かう。神前ではまず神への供物として(供物を捧げるほかにお祓いの意味もあるといわれる)賽銭箱に賽銭を奉納する。次に賽銭箱の近くにある鈴鐘を鳴らすが、これには邪気を払う、清らかな音色で神を呼び寄せて参拝に訪れたことを神に告げる、参拝者を敬虔な気持ちにするとともに神霊の発動を願うなどの意味合いがあるとされる。",
"title": "参拝の方法"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "鈴鐘を鳴らした後に拝礼を行う。拝礼の基本的な作法は、現在は「再拝二拍手一拝」(あるいは「二拝二拍手一拝」「二礼二拍手一礼」)がおもに利用されている。すなわち、",
"title": "参拝の方法"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "というもの。再拝二拍手一拝の前後に深揖(身体を45度折り曲げるお辞儀。最敬礼に相当)を行うとより丁寧である。祈願を行う場合は二拍手と一拝の間に氏名および居住地と願い事を(声に出して、あるいは心の中で)陳べるのが一般的となっている。また、神恩感謝を述べたい場合も同様である。参拝時は、目を閉じることなく目を開けたままが望ましい。正式参拝や祈祷などで玉串を捧げる場合は、上記の深揖と再拝の間で、玉串に祈念を込めて根本を神前に向けるようにお供えする。",
"title": "参拝の方法"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "一部の神社では作法が異なっており、たとえば、出雲大社や宇佐神宮、彌彦神社では「四拍手」である。伊勢神宮や熱田神宮での神事では「八度拝、八開手」となっている。",
"title": "参拝の方法"
}
] | 神道(しんとう、しんどう)は、日本の宗教。惟神道(かんながらのみち)ともいう。多くの宗教と異なり、開祖や教祖・教典を持たず、森羅万象あらゆるものに神が宿るという思想に基づく。神話、八百万の神、自然や自然現象など、アニミズム的、祖霊崇拝的な民族宗教である。 神と自然は一体と認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。 | {{基礎情報 宗教
| 宗教名 = 神道
| 背景色 = #C22047
| 画像 = [[ファイル:Geku - Ise torii.svg|150px]]
| 画像2 = {{Multiple image
| border = infobox
| total_width = 290
| image_style = border:1;
| perrow = 1/2/2/2
| image1 = Fushimi Inari-taisha 千本鳥居 2012-2.jpg
| image2 = Votive offering of the Shinto,Katori-jingu,Katori-city,Japan.JPG
| image3 = Kazahinomi-sai04.jpg
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| image5 = Komainu of Shirayama Shrine (Kasugai) - 2.jpg
| image6 = Tamagushi.jpg
| image7 = Gyoubogaiwaya-cave-inside.jpg
}}
| 国・地域 = {{JPN}}
| 信者数 = 8,792万4,087人<ref>これは『宗教年鑑』(文化庁)に基づく神道支持者とされる者の数で、神社側の自己申告によるものである [https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/hakusho_nenjihokokusho/shukyo_nenkan/pdf/r03nenkan.pdf 『宗教年鑑 令和3年版』]</ref>
| 成立年 = 不明([[縄文時代]]から[[古墳時代]]にかけて原型が形成されたとされる)
| 創始者 = なし
| 信仰対象 = [[神 (日本)|八百万の神]]
| 聖典 = 正典なし<ref>[[神典]]という古典群が聖典として扱われることがある</ref>
| 母体 = [[民族宗教|民族信仰]]・[[自然崇拝|自然信仰]]・[[祖先信仰]]
| 宗派 = 下記神道諸派参照
| 主な指導者 = *[[天皇]](大祭司)
*[[氏子]](住民自ら)による祭祀<ref>{{Cite web|和書|title=伝説の後南朝 神器巡る悲劇、今に伝える 朝拝式(奈良県川上村) …|エンタメ!|NIKKEI STYLE|url=https://web.archive.org/web/20170409105854/http://style.nikkei.com:80/article/DGXNASHC30015_R00C12A2000000?|website=web.archive.org|date=2017-04-09|accessdate=2019-12-01}}</ref>
*[[神職]](神主・神官などの「[[祭司]]」)
| 聖地 = [[神社]]などの祭祀施設・[[山]]、[[岩]]、[[川]]などの自然物
| 教義 = 具体的な教義なし
| 備考 =
}}
[[ファイル:Hokora in Takeo no Okusu.jpg|thumb|250px|樹齢約3000年の[[武雄神社]]の[[御神木]]]]
'''神道'''(しんとう、しんどう<ref>{{Cite web|和書|author=松村明ほか|date=2018 |url=https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E9%81%93-82299#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 |title=デジタル大辞泉 |publisher=小学館 |accessdate=2019-01-08}}</ref>)は、[[日本]]の[[宗教]]。'''惟神道'''(かんながらのみち)ともいう。[[開祖]]や[[教祖]]・[[教典]]を持たず、[[森羅万象]]あらゆるものに[[神]]が宿るという思想に基づく。[[神話]]、[[神 (神道)|八百万の神]]、[[自然]]や[[自然現象]]など、[[アニミズム]]的、[[祖霊崇拝]]的な[[民族宗教]]である<ref name="[[神道国際学会]]">{{Cite web|和書|url= http://www.shinto.org/wordjp/?page_id=2|title=[[神道国際学会]]のホームページ|accessdate =2019-06-30}}</ref>。
[[神]]と[[自然]]は一体と認識され、[[神]]と[[人間]]を結ぶ[[作法|具体的作法]]が[[祭祀 (神道)|祭祀]]であり、その祭祀を行う場所が[[神社]]であり、[[聖域]]とされた<ref>岡田荘司 2010年 p.22-23</ref>。
== 概要 ==
[[ファイル:Kobayashi Izanami and Izanagi.jpg|thumb|250px|[[国産み]]を描いた『天瓊を以て滄海を探るの図』([[小林永濯]]画、[[ボストン美術館]]所蔵)]]
神道は古代日本に起源をたどることができるとされる宗教である。伝統的な[[民俗信仰]]・[[自然崇拝|自然信仰]]・[[祖霊信仰]]を基盤に、[[豪族]]層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した<ref name="jiten">『世界大百科事典』 217-218頁。</ref><ref>『神道』 12-13頁。</ref>。また、日本国家の形成に影響を与えたとされている宗教である<ref name="岡田(2010)_ⅲ">岡田荘司 2010年 ⅲページ</ref>。世の中の宗教名の多くは日本語では「○○教」と呼称するが、神道の宗教名だけは「神道教」ではなく、単に「神道」となっている<ref group="注">ただし[[仏教]]を仏道と呼んだり、[[儒教]]を儒学と呼んだりする。また、「キリスト教」は明治以降の語で、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]には「[[切支丹]]」と呼ばれていた。</ref>。
神道には確定した教祖、創始者がおらず{{r|岡田(2010)_ⅲ}}、[[キリスト教]]の[[聖書]]、[[イスラム教]]の[[コーラン]]にあたるような公式に定められた「[[正典]]」も存在しないとされるが<ref name="[[神道国際学会]]" />、『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』『[[古語拾遺]]』『[[先代旧事本紀]]』『[[宣命]]』といった「'''[[神典]]'''」と称される古典群が神道の[[聖典]]とされている<ref name="長野県神社庁">{{Cite web|和書|url= http://www.nagano-jinjacho.jp/jinjayougo/7syo.htm|title=長野県神社庁のホームページ|accessdate =2016-03-24}}</ref>。[[森羅万象]]に[[神 (神道)|神]]が宿ると考え、また偉大な祖先を神格化し、[[天津神・国津神]]などの[[祖霊]]をまつり、[[祭祀]]を重視する。浄明正直 (じょうみょうせいちょく)(浄く明るく正しく直く)を徳目とする<ref name="zukai">『神道』 18頁。</ref>。他宗教と比べて[[現世]]主義的といった特徴がみられる。神道とは森羅万象を神々の体現として享受する「惟神の道(かんながらのみち、神とともにあるの意)」であるといわれる<ref name="KS">大島宏之 『この一冊で「宗教」がわかる!』 [[三笠書房]]</ref>。教えや内実は神社と祭りの中に伝えられている。『[[五箇条の御誓文]]』や、よく知られている童歌『[[通りゃんせ]]』など、日本社会の広範囲に渡って神道の影響が見受けられる{{要出典|date=2020年10月}}。
神道は奈良時代以降の長い間、[[仏教]]信仰と混淆してきた([[神仏習合]])。一方で、日本における神仏習合は、すっかりと混ざり合って一つの宗教となったのではなく、部分的に合一しながらも、なおそれぞれで独立性が維持されていた側面もあり<ref name="末木文美士『中世の神と仏』山川出版社(2003)6頁">末木文美士『中世の神と仏』山川出版社(2003)6頁</ref>、宮中祭祀や伊勢神宮の祭祀では仏教の関与が除去されていることから、神祇信仰は仏教と異なる宗教システムとして自覚されながら並存していた<ref name="末木文美士『中世の神と仏』山川出版社(2003)14頁">末木文美士『中世の神と仏』山川出版社(2003)14頁</ref>。明治時代には[[神道国教化]]を実現するために、[[神仏分離]]が行われた<ref>{{Cite book|和書|author=全国歴史教育研究協議会 |title=日本史B用語集―A併記 |edition=改訂版|publisher=山川出版社}}</ref>。
神道と[[仏教]]の違いについては、'''神道'''は[[地縁]]・[[血縁]]などで結ばれた[[共同体]]([[部族]]や[[村]]など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、'''仏教'''はおもに人々の安心立命や[[魂]]の[[救済]]、[[鎮護国家|国家鎮護]]を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する{{r|jiten}}。
神道は日本国内で約8万5,000の神社が登録され、約8,400万人の支持者がいると『宗教年鑑』([[文化庁]])には記載があるが<ref>{{PDFlink|[https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/hakusho_nenjihokokusho/shukyo_nenkan/pdf/h29nenkan_gaiyo.pdf 『宗教年鑑 平成29年版』]}}</ref>、支持者は神社側の自己申告に基づく数字であり、地域住民をすべて[[氏子]]とみなす例、初詣の参拝者も信徒数に含める例、御守りや御札などの呪具の売上数や頒布数から算出した想定信徒数を計算に入れる例があるためである。このため、日本人の7割程度が無信仰を自称するという多くの調査結果とは矛盾する<ref name="武蔵野大学仏教文化研究所">{{Cite web|和書|url= http://www.musashino-u.ac.jp/bukken/pdf/watanabehiro27.pdf|title=日本の宗教人口-2億と2-3割の怪の解-|publisher=武蔵野大学仏教文化研究所 渡辺浩希|format=PDF|accessdate =2014-07-03}}</ref>。
== 分類 ==
;皇室神道 ([[宮中祭祀]])
:皇居内の[[宮中三殿]]を中心とする[[皇室]]の神道である<ref name="zukai2">『神道』 20頁。</ref>。新年の[[四方拝]]や[[歳旦祭]]、五穀豊穣や国家・国民の安寧を祈る[[新嘗祭]](天皇即位後初の新嘗祭は[[大嘗祭]]という)などが行われる<ref>{{Cite web|和書
|url = https://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html
|title = 主要祭儀一覧
|publisher = 宮内庁
|accessdate = 2018-05-24 }}</ref>。
[[ファイル:Dengai-omi-akusha (Reiwa Daijokyu).JPG|thumb|250px|大嘗祭が斎行された令和の[[大嘗祭#大嘗宮|大嘗宮]]]]
; [[神社神道]]
: [[神社]]を中心に、[[氏子]]・崇敬者などによる組織によって行われる祭祀儀礼をその中心とする信仰形態である<ref>『世界大百科事典』 219頁。</ref>。
; 民俗神道
: 民間神道ともいう。民間で行われてきた信仰行事をいう。[[道祖神]]・[[田の神]]・[[山の神]]・[[竈神]]など。[[修験道]]や[[密教]]や[[仏教]]、あるいは[[道教]]の思想と習合している場合も多い。[[いざなぎ流]]なども入る{{要出典|date=2020年10月}}。
; [[教派神道]](神道十三派)
: 教祖・開祖の宗教的体験にもとづく。創唱宗教的色彩が濃い{{要出典|date=2020年10月}}。
; [[古神道]](≒原始神道)
: 江戸時代の国学によって、儒教や仏教からの影響を受ける前の神道が仮構され、[[復古神道]]・[[古道]]・皇学・本教などと称された。明治時代以降に古神道だけを取り出し、新たな宗派として設立されたものも古神道と称している場合がある。近代以降の学問で研究されて国学色を排除してからは、純神道・原始神道ともいう{{要出典|date=2020年10月}}。
; [[国家神道]]
: 特に近代([[明治維新]]より[[第二次世界大戦]]終結まで)において国家の支援のもとに行われた神道を指す名称であり<ref>『神道』 134頁。</ref>{{Refnest|group="注"|教派神道の『神道各派』から区別された神ながらの道はとくに国家神道とも呼ばれるが、法律家や行政実務家は以前からそれを神社と呼ぶのが例であった<ref>{{Cite book|和書|author=宮沢俊義|authorlink=宮沢俊義|title=憲法講話|origdate=1967-04-20|accessdate=2009-05-22|edition=第2版|date=1967-06-01|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波新書]]|pages=pp. 28-29}}</ref>。現在では[[政教分離]]が進んで「神社」の語義が変化しており、国家神道を単に「神社」と称することはほぼなくなった。しかし、この様な国家神道の概念・語を、創作・捏造とする説もある。昭和26年の[[宗教法人法]]により、多くの神社が政府機関から[[伊勢神宮]]を中心とした[[神社本庁]]傘下の[[宗教法人]]へと変更された経緯がある<ref>石原藤夫 『靖国神社一問一答』([[展転社]]、2002年12月23日) 26頁。</ref>。}}、事実上の[[国教|国家宗教]]となっていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%A5%9E%E9%81%93-65214|title=国家神道|accessdate=2019-12-16|publisher=コトバンク}}</ref>。([[国家神道#語誌]]を参照)
以上のような分類をすることができるが、今日、単に「神道」といった場合には神社神道を指すことが多い{{要出典|date=2020年10月}}。
また、何に重きを置くかによって「祭り型」「教え型」という分け方も提唱されている。
* 祭り型神道(社人神道 - 儀礼を中心とする)
:これは上記の「皇室神道」「神社神道」「民俗神道」などのことである。
* 教え型神道(学派神道 - 教学を中心とする)
**[[神仏習合]]系 - [[両部神道]]・[[山王一実神道]]など
** [[神儒習合]]系 - [[儒家神道]]・[[忌部神道]]・[[吉川神道|理学神道]]・[[伊勢神道]](=度会神道)・[[垂加神道]]など
** 家元神道 - [[唯一神道]](=吉田神道)・[[土御門神道]]など
** [[復古神道]] - [[平田篤胤]]・[[大国隆正]]ら
*** 国学系の教団 - [[出雲大社教]]・[[神道修成派]]など
*** [[神道霊学|霊学]]系の教団 - [[神道天行居]]など
** その他の新宗教
***[[山岳信仰]]系 - [[実行教]]・[[御嶽教]]など
*** 霊示系(創唱宗教) - [[黒住教]]・[[金光教]]・[[天理教]](正確には、天理教は政府の弾圧を避けるために教派神道となり、現在は諸派に分類されている)・[[大本]]など
*** 大本系新宗教 - [[生長の家]]・[[世界救世教]]・[[白光真宏会]]など
*** 救世教系新宗教(いわゆる「手かざし」系) - [[世界真光文明教団]]・[[崇教真光]]・[[ス光光波世界神団]]・[[神慈秀明会]]など
*** [[キリスト教]]と習合した例 - [[かくれキリシタン]]の信仰。一部の新宗教の例([[キリストの幕屋]])。
*** その他 - 国外の[[シンクレティズム]]的な新興宗教や[[ニューエイジ]]・[[心霊主義]]において神道の神を自らが信じる神と同一視する場合がある。例:[[天道 (新宗教)|天道]]、[[ラエリアン・ムーブメント]]など。
以上のように分けられる{{r|zukai2}}。なお、[[陰陽道]]系の[[土御門神道]]は上記の家元神道のひとつではあるが、教え型とも祭り型とも決められるものではない{{要出典|date=2020年10月}}。
== 歴史 ==
[[ファイル:KasugaTaisha2.jpg|thumb|[[春日大社]]にて、[[おみくじ]]を結ぶ人々]]
[[ファイル:Kamidana.jpg|thumb|一般家庭で祀られる[[神棚]]]]
[[ファイル:Association of Shinto Shrines 2010.jpg|thumb|right|[[神社本庁]]([[東京都]][[渋谷区]]代々木)]]
{{main|神道の歴史}}
神道の起源は非常に古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念である。農耕文化の進展とともに、自然の威力に神霊の存在を見出し、その神霊を丁重に祭ることで自然の脅威を和ませ、農耕生活の安寧を祈るという神観念が生じたことが、神道の始まりであった<ref>{{Cite web|和書|author=小林宣彦 |title=コミュニケーションがとれない日本の神=自然 災害対策施策としての祭祀の歴史 |url=https://www.kokugakuin.ac.jp/article/157312 |publisher=國學院大學メディア |date=2020-04-10 |accessdate=2020-11-12}}</ref>。このためキリスト教、仏教のような開祖が存在せず、[[縄文時代]]を起点に[[弥生時代]]から[[古墳時代]]にかけてその原型が形成されたと考えられている{{r|KS}}。
現在の神道・神社に直接繋がる祭祀遺跡が出土するのは、農耕文化の成立に伴って[[自然崇拝|自然信仰]]が生じた弥生時代で、この時代には、[[荒神谷遺跡]]などに代表される青銅器祭祀、[[池上曽根遺跡]]のような後の神社建築と共通する独立棟持柱を持つ建物、鹿などの骨を焼いて占う[[卜骨]]、副葬品としての鏡・剣・玉の出土など、神社祭祀や記紀の神道信仰と明らかに連続性を持つ要素が見られるようになる<ref name="岡田莊司編『日本神道史』吉川弘文館(2010),68-69頁">岡田莊司編『日本神道史』吉川弘文館(2010),68-69頁</ref>。[[魏志倭人伝]]において、[[邪馬台国]]の女王[[卑弥呼]]が「[[鬼道]]を事とし、衆を惑わすこと能ふ」との記述が見られ、この「鬼道」が[[シャーマニズム]]的な要素が強い初期の神道であるとする説が有力である。なお、「鬼」「惑」などのようにネガティヴ的なニュアンスを持つ漢字が用いられたのは、[[儒教]]に内包される反[[迷信]]的な理念([[孔子|子]]曰く「怪力乱神を語るべからず」-『[[論語]]』)による所が大きいと考えられる。
大和王権が成立する古墳時代には、最初期の神社と考えられる[[宗像大社]]や[[大神神社]]で、古墳副葬品と共通する副葬品が出土することから、大和王権による国家祭祀が行われたと推定されており、この時期に神道の直接の原型が形成された<ref name="岡田莊司編『日本神道史』吉川弘文館(2010),72頁">岡田莊司編『日本神道史』吉川弘文館(2010),72頁</ref>。飛鳥時代には律令の整備に伴い、[[神祇令]]に基づいた祭祀制度の体系化が行われ、[[神祇官]]が全国の神社に幣帛を頒布する[[班幣]]制度の確立や、全国の神社への[[社格]]区分や[[神階]]・[[神位]]の授与など、全国の神社を包括する国家的な律令祭祀制度が整備されたため、この時期に体系的な「神道」が成立したとするのが、多くの研究者での概ねの共通認識となっている<ref name="岡田莊司編『日本神道史』吉川弘文館(2010),14-15頁">岡田莊司編『日本神道史』吉川弘文館(2010),14-15頁</ref>。
「神道」という名称については「かんながらの道(神道)<ref>表記例として、『[[日本文徳天皇実録]]』([[9世紀]]成立)[[仁寿]]元年([[851年]])に、「神那我良(かんながら)」の記述がみられる。</ref>」と言う意味である。中国の『[[易経]]』や『[[晋書]]』の中にみえる<ref>『世界大百科事典』216頁</ref>神道は「神(あや)しき道」という意味であり、これは日本の神道観念とは性質が異なる別個のものである。
日本における「神道」という言葉の初出は『[[日本書紀]]』の[[用明天皇]]紀にある「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」であるが<ref>即位前紀。</ref>、このように外来の宗教である仏教と対になる日本固有の信仰を指したものだった<ref>『世界大百科事典』216-217頁。</ref><ref>『神道』16頁。</ref>。また、稲作のような自然の理法に従う営みを指して神道とする解釈もある{{r|SS}}。
[[中世]]には[[仏教]]理論との関連から神道の教義化・内面化が模索され、最終的に仏教から独立した独自の教義・経典・祭祀を持つ[[吉田神道]]が形成されて、神道界の主流となった。さらに[[近世]]には日本の古典研究に神道が統合されることで[[国学]]が成立し、倒幕運動に影響を与えた。こうして[[近代]]に入ると、[[明治政府]]によって[[国家神道]]体制が形成されたが、[[第二次世界大戦]]終結後には[[国家主義]]的イデオロギーの根源とされた同体制は解体され、現代においては[[宗教法人]]として各地の神社が活動している。
明治20年代(19世紀末)になると、西欧近代的な宗教概念が日本でも輸入され、宗教としての「神道」の語も定着し始めた。同30年代(20世紀初)には宗教学が本格的に導入され<ref>{{Cite book |和書 |author=磯前順一 |authorlink=磯前順一 |title=近代における「宗教」概念の成立過程 |origdate=2002-01-15 |accessdate=2009-05-22 |edition=初版 |publisher=岩波書店 |series=近代日本の文化史 |isbn=400011073X |volume=第3巻 |page=185 }}</ref>、学問上で「神道」の語が確立した<ref>山口輝臣『明治国家と宗教』東京大学出版、1995年。</ref>{{要ページ番号|date=2020年10月}}。
== 教義 ==
もともと、神道には[[イエス・キリスト]]や[[釈迦]]のような[[カリスマ]]的創唱者が存在しなかった{{r|zukai}}。政権による土着の民俗信仰との支配的な[[祭政一致]]が行われた神道が教義を言語で統一的に定着させなかったのは、古代より「神ながら 事挙げせぬ国<ref>『[[万葉集]]』巻第13「[[柿本人麻呂|柿本朝臣人麻呂]]の歌集の歌に曰く」。[[国歌大観番号]]3253番。</ref>」だったからであるとも言われている{{要出典|date=2020年10月}}。そのため、外来諸教と融合しやすい性格を有することになったともいう{{要出典|date=2020年10月}}。神道のような土着の民俗信仰と[[教派|宗派宗教]]の併存例は世界各地でみられるものであるが、その多様性は特異なものである{{要出典|date=2020年10月}}。ただ、実際には、[[仏教公伝]]の当初から、廃仏派の[[物部氏]]と崇仏派の[[蘇我氏]]の間でひと悶着もあった。
このように神道には明確な教義がないものの、古事記や日本書紀などのいわゆる「[[神典]]」には、神道の基本的な観念をうかがうことのできる記述があり<ref name="國學院大學日本文化研究所『神道事典』弘文堂(1999),366頁">國學院大學日本文化研究所『神道事典』弘文堂(1999),366頁</ref>、[[常世]]、[[黄泉]]などの他界観や、[[荒魂・和魂]]、[[祖霊]]などの霊魂観、[[むすひ]]、惟神(かんながら)、浄明正直などの倫理観、[[禊]][[祓]]により[[天津罪・国津罪|罪]][[穢れ]]を払う清浄観などが、神道の基本的な観念と考えられる<ref name="國學院大學日本文化研究所『神道事典』弘文堂(1999),366頁">國學院大學日本文化研究所『神道事典』弘文堂(1999),366頁</ref>。
中世には、このような神道古典に見られる基本観念を体系的に追求し、神道の教学化を図る動きが見られた<ref name="國學院大學日本文化研究所『神道事典』弘文堂(1999),366頁">國學院大學日本文化研究所『神道事典』弘文堂(1999),366頁</ref>。その最初期の動きは、[[両部神道]]や[[山王神道]]など、仏教の僧侶たちが仏教の教理に基づいた神道解釈を試みた仏家神道であった<ref name="大隈和雄『中世神道論』岩波書店(1977),345頁">大隈和雄『中世神道論』岩波書店(1977),345頁</ref>。それらの仏家神道説に影響を受けつつ、それに対抗する形で、神宮神官らにより社家の立場からの神道説である[[伊勢神道]]が形成された<ref name="大隈和雄『中世神道論』岩波書店(1977),348頁">大隈和雄『中世神道論』岩波書店(1977),348頁</ref>。伊勢神道の教説は、それまでの神道祭祀における観念を、外来宗教の語彙も活用しつつ論理化したものと捉えられ<ref name="石田一良『神道思想集』筑摩書房(1970),16頁">石田一良『神道思想集』筑摩書房(1970),16頁</ref>、これまで神道祭祀において重んじられてきた祓や禊などの身体的清浄を心の問題として解釈し<ref name="大隈和雄『中世神道論』岩波書店(1977),355頁">大隈和雄『中世神道論』岩波書店(1977),355頁</ref>、「正直」「清浄」を神道の徳目とした<ref name="神社本庁編『神社のいろは 続』扶桑社(2013),101頁">神社本庁編『神社のいろは 続』扶桑社(2013),101頁</ref>。中世後期には、それまでの中世神道の展開を集大成し、仏教から独立した教義・経典・儀礼を持つ神道説である[[吉田神道]]が形成された<ref name="伊藤聡『神道とは何か』中公新書(2012),243頁">伊藤聡『神道とは何か』中公新書(2012),243頁</ref>。吉田神道の教説は、この世の中の現象の全てに神が内在するという汎神論であった<ref name="伊藤聡『神道とは何か』中公新書(2012),237-238頁">伊藤聡『神道とは何か』中公新書(2012),237-238頁</ref>。
近世に入ると、儒教の隆盛に伴い、[[林羅山|理当心地神道]]、[[吉川神道]]などの[[儒家神道]]が盛んになり、神仏習合が強く批判され、儒教の徳目と神道の一致が説かれた<ref name="阪本是丸・石井研士編『プレステップ神道学』弘文堂(2011),67頁">阪本是丸・石井研士編『プレステップ神道学』弘文堂(2011),67頁</ref>。儒家神道を集大成したのが[[垂加神道]]で、垂加神道説では神と人が「天人唯一之道」という合一状態にあるとし、神道とは人が神に従って生きることであり、人は神に一心不乱の祈祷を行うことで冥加を得なければならないが、それには人が「正直」でなければならず、その「正直」の実現には「敬(つつしみ)」が第一だとする教説が説かれた<ref name="平重道・阿部秋生編『近世神道論・前期国学』岩波書店(1972),545-550頁">平重道・阿部秋生編『近世神道論・前期国学』岩波書店(1972),545-550頁</ref>。近世中期には国学が出現し、本居宣長は神道を儒教や仏教の教理によせて解釈することを強く批判した。近世後期には、[[平田篤胤]]がキリスト教の[[最後の審判]]の観念の影響を受けた[[平田篤胤|幽明審判思想]]を唱えたり、その門人らが[[天之御中主神]]を[[創造神]]とする[[単一神教]]的な観念を展開するなど、近代に連なる教理の展開を遂げた{{要出典|date=2020年10月}}。また、幕末には後期水戸学による神道説も唱えられ、国学と儒教を結びつけることで国体論を説き、尊皇論を唱え、幕末の志士たちの思想に影響を与えた<ref name="阪本是丸・石井研士編『プレステップ神道学』弘文堂(2011),70頁">阪本是丸・石井研士編『プレステップ神道学』弘文堂(2011),70頁</ref>。
近代には[[国家神道#神道事務局 祭神論争|神道事務局祭神論争]]という熾烈な教理闘争もあったが、結局は、政府も神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したため、[[大日本帝国憲法]]によって[[信教の自由]]が認められた<ref>『日本史大事典』平凡社1993年、「[[国家神道]]」の項参照。</ref>。もっとも、それには欧米列強に対して日本が近代国家であることを明らかにしなければならないという事情もあった{{要出典|date=2020年10月}}。このような経緯から、近代には[[神社非宗教論]]が説かれ、神社神道の神職らが宗教的な教義を説くことは政府により禁じられたが、他方で在野の神道家らによる神道教理が説かれるようになり、国家から公認を受けた[[教派神道]]13派が独自の神道の教えを説いて活動し、勢力を広げた<ref name="阪本是丸・石井研士編『プレステップ神道学』弘文堂(2011),78頁">阪本是丸・石井研士編『プレステップ神道学』弘文堂(2011),78頁</ref>。
== 神道における「神」 ==
{{Main|神 (神道)}}
[[ファイル:Kamiiso torii at Oarai Isosaki Jinja.jpg|thumb|180px|[[大洗磯前神社]]の神磯の鳥居]]
[[ファイル:ItsukushimaTorii7396.jpg|thumb|180px|[[厳島神社]]]]
神道では、気象、地理地形などの自然現象に始まり、あらゆる事象に「神」の存在を認める{{r|SS}}。いわゆる「[[八百万の神々]]」である<ref name="SS">[[三橋健 (神道学者)|三橋健]]『決定版 知れば知るほど面白い!神道の本』 西東社</ref>。[[アイヌ]]の信仰にも共通点があり、アイヌ語の「カムイ」と「神(かみ)」という語の関係も深いと考えられている<ref name="O">[[菅田正昭]] 『面白いほどよくわかる神道のすべて』 [[日本文芸社]]</ref>。元来、神の姿は、浮遊する霊力で、物に寄り付いたり去っていったりする「魂」と想起されており、非人格的なものであるとされた<ref name="國學院大學日本文化研究所編「神の語義と類型」『神道事典』弘文堂(1999),37頁">國學院大學日本文化研究所編「神の語義と類型」『神道事典』弘文堂(1999),37頁</ref>(そのような性質から、神の[[分霊]]を無限に行うことができる)が、仏教の影響で神像などが製作されるようになり、次第に神は可視的なものと考えられるようになった<ref name="國學院大學日本文化研究所編「神の語義と類型」『神道事典』弘文堂(1999),38頁">國學院大學日本文化研究所編「神の語義と類型」『神道事典』弘文堂(1999),38頁</ref>。神は、自然を感じ取り、そのもののままでは厳しい[[自然]]の中で、人間として文化的な生活を営むのにふさわしい環境と状態を、自然との調和に配慮しながらバランスを取り調節していき、人民生活を見回って、生活するための知恵や知識のヒントを与えたり、少し手伝ってあげたり、体や物を借りたときや何かやってもらったときなどには少しお礼をしたり、それが、日本の「神(かみ)」が行っていた仕事のひとつであり、日本人にとって「神」は、とても身近な存在であった{{要出典|date=2020年10月}}。
また、神道における神は、理念的・抽象的存在ではなく、具体的な現象において観念されるため、自然現象が恵みとともに災害をもたらすのと同様に、神も[[荒魂・和魂]]の両面を持ち、人間にとって善悪双方をもたらすものと考えられている<ref name="國學院大學日本文化研究所編「神の語義と類型」『神道事典』弘文堂(1999),37頁">國學院大學日本文化研究所編「神の語義と類型」『神道事典』弘文堂(1999),37頁</ref>。神は、地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える穏やかな「守護神」であるが、天変地異を引き起こし、病や死を招き寄せる「[[祟り|祟る]]」性格も持っている<ref name="SS"/>。このように神は自然神から人格神へ、精霊的な神から理性的神へ、恐ろしい神から貴い神へ、進化発展があったととらえることができる<ref>[[直木孝次郎]]の説、1982年。[[岡田荘司]] 2010年 24頁。</ref>。
神道の神の種類は、大別すると自然神と文化神の二つに分類ができる<ref name="國學院大學日本文化研究所編「神の語義と類型」『神道事典』弘文堂(1999),38頁">國學院大學日本文化研究所編「神の語義と類型」『神道事典』弘文堂(1999),38頁</ref>。前者には、太陽神や月神、風神、雷神、山神、海神などの天体や地形、気象を神格した神のほか、蛇などの動物神も含まれる<ref name="國學院大學日本文化研究所編「神の語義と類型」『神道事典』弘文堂(1999),38頁">國學院大學日本文化研究所編「神の語義と類型」『神道事典』弘文堂(1999),38頁</ref>。また、文化神は、[[屋敷神]]、[[氏神]]、[[産土神]]などの社会集団を守る神や、[[疫病神]]、[[田の神]]、[[漁労神]]、[[軍神]]、[[竈神]]など、人間生活における特定の場面や職能を守護する神に分けられる<ref name="國學院大學日本文化研究所編「神の語義と類型」『神道事典』弘文堂(1999),38頁">國學院大學日本文化研究所編「神の語義と類型」『神道事典』弘文堂(1999),38頁</ref>ほか、生前業績があった人物を、没後神社を建てて神として祀る風習なども認められる([[人神]])<ref name="SS"/>。神道には、人間も死後神になるという考え方があり、神話に描かれる一族の先祖(祖霊崇拝)や社会的に突出した人物、地域社会に貢献した人物、国民や国のために働いた人物、国家に反逆し戦乱を起こした人物、不遇な晩年を過ごし死後[[怨霊]]として祟りをなした人物([[御霊信仰]])なども「神」として神社に祭られ、多くの人々の崇敬を集めることがある{{r|SS}}。
1881年の[[国家神道#神道事務局 祭神論争|神道事務局祭神論争]]では、[[明治天皇]]の裁決によって伊勢派が勝利し、[[天照大神]]が最高の神格を得たが<ref>『古神道の本』 [[学研ホールディングス|学研]] 30頁。</ref>、敗北した出雲派的なものがいまだに強く残っていたり、[[氏神]]信仰などの地域性の強いものも多い{{r|SS}}。
なお、戦前は学校の教科書などに、「神」についての認識の仕方の説明が載っていた。尋常小学校の歴史や修身の教科書などには、少年少女向けの歴史物語として、神話の説明が記載されている。神話の世界はとても人間的な世界で、そこには「神」と「人」を隔てる断絶は存在しない。神もまた、人間のように仕事をし、生活をしている{{要出典|date=2020年10月}}。昭和8年の『少年國史物語』では、「神代の物語」の項目に、「どこの國でも大昔の事ははつきりとは分らないものだが」と前置きをして、[[神代 (日本神話)|神代]]の事から始まる日本の歴史について「神代といふのは、我が國の大昔に相當の身分であつた方たちを後の世の人が尊敬して、すべて神として崇めてゐるところから、その方たちの時代を指してさう呼んでゐるのである」と説明されている<ref>石原藤夫 『靖国神社一問一答』([[展転社]]、2002年12月23日) 52頁。</ref><ref>[[前田晁]] 『少年國史物語』 [[早稲田大学#早稲田大学出版部|早稲田大学出版部]]</ref>。
== 神道の研究 ==
平安時代以前より出雲において日本神話との関わりが議論されていたとされ、『出雲風土記』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃くみることができる{{要出典|date=2020年10月}}。
[[鎌倉時代]]には[[伊勢神宮]]の[[神官]]による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った{{r|SS}}。そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期の[[お伊勢参り]]の確立によって知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。一方で、[[本居宣長]]が江戸期に『古事記』の詳細な注釈を行い、国学の主流を形成していった<ref>『神道の本』 学研 174、175頁。</ref>。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。神道が形成される過程において、古代は[[仏教]]から強く影響を受け、近世では[[儒教]]の日本への流入が大きい。伊勢派の果たしたことはそれに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう{{要出典|date=2020年10月}}。
神道史の本格的な研究は[[宮地直一]]によって体系化された{{要出典|date=2020年10月}}。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を[[國學院大學]]の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い、『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している<ref>岡田荘司 2010年 ⅴページ</ref>。
神道の成立期については諸説出されている。おもな説として次の四説があげられている。その第一説は、7世紀後半・8世紀、[[律令]]祭祀制。天武・持統天皇朝説。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。第二説は、8・9世紀、[[平安時代]]初期説。提唱者は[[高取正男]]。第三説は、11・12世紀、[[院政]]期成立説。提唱者は[[井上寛司]]。第四説は、15世紀、吉田神道成立期説。提唱者は[[黒田俊雄]]<ref>岡田荘司 2010年 15-16頁。</ref>。
== 現代の神道 ==
[[ファイル:Hakone Shrine Haiden.jpg|thumb|250px|神社の例([[箱根神社]])]]
神道に属する神々を祭神とする社を神社(じんじゃ)といい、全国の神社の大部分は[[神社本庁]]が統括している<ref>『神社』 136頁。</ref>。なお、神社本庁は「庁」と称しているが、行政機関ではなく[[宗教法人]]のひとつである<ref>島田 裕巳 神社で拍手を打つな! -日本の「しきたり」のウソ・ホント 出版社: 中央公論新社 (2019/11/7) P24</ref>。
== 皇室と神道 ==
[[ファイル:Oka Misanzai Kofun, haisho.jpg|thumb|250px|[[天皇陵]]([[仲哀天皇]]・恵我長野西陵)]]
[[ファイル:Naiku 001.jpg|thumb|250px|[[皇室]]の祖先神を祀る[[伊勢神宮内宮]]]]
[[ファイル:Emperor Akihito Daijōsai(1990).jpg|thumb|250px|[[1990年|1990年(平成2年)]]、[[明仁|第125代天皇]](現・[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]])の'''[[大嘗祭]]'''<br/>大嘗祭は新天皇の即位後、[[五穀豊穣]]と国民安寧を祈る神道祭祀である。]]
[[宮中祭祀]]に見られるように、皇室と神道は歴史的に密接な関わりを持ってきた。記紀神話には、神武天皇が大和橿原の地で即位したのちに[[鳥見山]]の祭壇で祭祀を行ったとの記述があり、古代においては[[祭政一致]]の観念のもと、神祭りを行うことと国を治めることが一体であり、そのいずれもが天皇の役割であると考えられていたとされる<ref name="神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社(2013),36頁">神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社(2013),36頁</ref>。そして、記紀には[[崇神天皇]]の時代に[[天神地祇]]を祀る制度が整備されたとされ<ref name="神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社(2013),18頁">神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社(2013),18頁</ref>、律令制の整備が進む飛鳥時代には、[[神祇官]]より全国の神社へ幣帛が頒布される班幣制度が整備された<ref name="神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社(2013),42-43頁">神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社(2013),42-43頁</ref>。平安時代以降は、天皇が[[名神大社]]に対して勅使を派遣して奉幣と[[宣命]]の奏上を行わせる名神大社奉幣が盛んになり、次第に[[二十二社]]への奉幣と展開した<ref name="神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社(2013),63頁">神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社(2013),63頁</ref>。平安時代の中期以降は、律令制度の弛緩に伴う神祇官の衰退により、天皇の親祭が高まり、年始の元旦[[四方拝]]や天皇が内裏で毎朝、「石灰壇」と呼ばれる台で伊勢神宮を遥拝する[[毎朝御拝|毎朝の御拝]]や、即位に際して特定神社へ神宝を送る[[一代一度の大神宝使]]の制度が始められたほか、神社の[[行宮]]まで天皇が赴く[[行幸]]も始められた<ref name="岡田莊司編『日本神道史』吉川弘文館(2010),140-148p">岡田莊司編『日本神道史』吉川弘文館(2010),140-148p</ref>。
中世の戦乱で、皇室儀礼や皇室の神道儀礼などは廃絶していったが、江戸時代に入ると復興されてゆき、伊勢神宮の神嘗祭に際しての例幣使派遣([[伊勢例幣使]])は[[1647年]]([[正保]]4年)に、二十二社のうちの上七社及び宇佐八幡宮・香椎宮への奉幣は[[1744年]]([[延享]]元年)に復興された。天皇の特定神社への奉幣は、近代を経て現代にも受け継がれており、現在では賀茂神社、石清水八幡宮、春日大社をはじめ16の神社が[[勅祭社]]とされ、天皇からの奉幣にあずかっている。
多くの日本国民が[[仏教]]と神道の習慣と信仰を両立させているように、皇室も神道の祭祀と仏教の行事をともに行っていた。他方で、『貞観儀式』『儀式』などの規定によって、大嘗祭の期間は中央及び五畿の官吏が仏事を行うことが禁じられ、中祀および内裏の斎戒を伴う小祀には、僧尼の代理への参内を禁じ、内裏の仏事が禁じられたほか、平安時代中期以降には、新嘗祭、月次祭、神嘗祭などの天皇自らが斎戒を行う祭においては、斎戒の期間中内裏の仏事をやめ、官人も仏法を忌避することとなるなど、神道儀礼と仏教儀礼は、朝廷においては明確に区分されていた<ref name="佐藤眞人「神道と仏教」『神道事典』弘文堂(1999),24-26p">佐藤眞人「神道と仏教」『神道事典』弘文堂(1999),24-26p</ref>。朝廷の復権を志向した[[光格天皇]]以降は、朝廷の儀礼における神道の要素が高まった。[[明治天皇]]の代で行われた神仏分離や神道国教化に伴い、仏教と皇室の直接的な関係は薄れたが、皇室菩提寺であった[[泉涌寺]]と宮内省の特別な関係は日本国憲法施行時まで続いた{{要出典|date=2020年10月}}。
== アニミズムと神道 ==
{{See Also|アニミズム|トーテミズム|祭政一致}}
八百万の神々を信仰対象とする神道は、すべてのものが精神的な性質(人格があるか、擬人化された魂、霊等)を持つと信じる[[アニミズム]]の特徴を保持してきたと考えられている{{sfnm|1a1=Nelson|1y=1996|1p=7|2a1=Picken|2y=2011|2p=40}}。動植物やその他の事物に人格的な霊魂、霊神が宿るとするアニミズムは、非人格的な超常現象、超自然的な呪力を崇拝する[[マナ]]イズム(呪力崇拝)とは区別される{{sfn|ブリタニカ・ジャパン|2021d|p=「自然崇拝」}}{{sfn|ブリタニカ・ジャパン|2021e|p=「精霊崇拝」}}。[[アニミズム]]はすべてのものに魂があると主張するのに対し、物活論はすべてのものが生きていると主張する。<ref name="Skrbina-2005">Skrbina, David. (2005). ''Panpsychism in the West''. MIT Press. {{ISBN2|0-262-19522-4}}</ref>{{rp|149}}<ref>Carus, Paul. (1893). "Panpsychism and Panbiotism." ''[[The Monist]]''. Vol. 3, No. 2. pp. 234–257. {{JSTOR|27897062}}</ref>
[[祟り|たたり]]を恐れ崇拝の対象とする死霊崇拝は未開宗教における[[アニミズム]]の一形態とされている{{sfn|小学館|2021d|p=「死霊崇拝」}}。未開社会で行われる[[シャーマニズム|シャーマン]]による[[呪術]]の代わりに、[[神社]]では怨霊を鎮めるために神として祀った{{sfn|ブリタニカ・ジャパン|2021c|p=「怨霊」}}。死を霊魂の永久離脱として他界に赴くが、死霊や動物霊は定められたときにこの世を訪れ、人に憑いて健康を損なわせるとされる。[[狐憑き]]、ヤコツキ、オサキツキは動物霊[[憑依]]の例である{{sfn|小学館|2021a|p=「アニミズム」}}。
未開社会において特定の氏族、部族が自然現象・自然物や動植物と超自然的関係で結ばれることをトーテムと呼ぶ{{sfn|平凡社|2021a|p=「トーテム」}}。[[南方熊楠]]は、[[大物主]]を[[蛇]]トーテムとした<ref>南方熊楠 『南方熊楠全集』第2巻 119頁</ref>。
神道は[[アニミズム]]的宗教であり、その特徴の一つに[[祭政一致]]がある<ref name="nigosian">{{Citation
| last = Nigosian | first = S. A.
| title = World Faiths
| publisher = Bedford/st Martins; 2nd edition
| pages = 217-218
| date = January 1, 1994
| isbn = 978-0312084141 }}</ref>。祭政一致は英語では'''Saisei itchi'''としてそのまま神道の用語として用いられており<ref name="nigosian" /><ref>{{Cite web |author= |url=https://www.britannica.com/topic/saisei-itchi |title=saisei-itchi |website= |publisher=Encyclopedia Britannica |date= |accessdate=2022-01-10}}</ref><ref>Public Shrine Forests? Shinto, Immanence, and Discursive Secularization, Aike P. Rots, Japan Review 30 Special Issue (2017): p.187</ref><ref>'''Saisei itchi'''は"the unity of religion and government"か"the unity of ritual and government"と直訳され神道固有の概念として解説されている</ref>、[[柳川啓一]]は祭政一致を職業聖職者が直接統治を行う神権政治とは異なるものとして定義した<ref name="yanagawa">Between Unity and Separation: Religion and Politics in Japan, 1965-1977 Yanagawa Keiichi and David Reid, Japanese Journal of Religious Studies 6/4 December 1979. p.502</ref>。原始・未開社会の宗教の超自然観はアニミズム的であり、霊的存在に対して[[呪術]]的にかかわる。特定の開祖がなく、儀礼が公的に行われる。法・政治・経済・道徳・慣習などと密接にかかわり、[[祭政一致]]し、祭と経済的活動が同一の場で行われ、[[タブー]](禁忌)が法的または道徳的観念・行動と重なる{{sfn|小学館|2021b|p=「原始宗教」}}{{sfn|小学館|2021c|p=「原始宗教」}}。祭政一致は主として古代天皇制の文脈において言及されてきた{{sfn|平凡社|2021d|p=「祭政一致」}}。古代天皇制国家の形成において[[大嘗祭]]の祭式と密接に結びついて成立した王権神話に象徴されるように、政治主権者は原始・未開社会に遡り宗教祭祀者の機能とは未分化であり{{sfn|平凡社|2021d|p=「祭政一致」}}{{sfn|平凡社|2021c|p=「祭政一致」}}、天皇家が諸部族の首長の祭祀権、祖神とその神話を血縁的系譜関係の神話的設定を通して奪い取り政治的統合を実現した{{sfn|平凡社|2021d|p=「祭政一致」}}。原始・古代社会では風雨雷地震などの自然現象、狩猟・農耕の収穫にいたるまですべて神意と考えられていたが、この思想は古代天皇制国家統一の支柱となり、[[律令制]]において[[神祇官]]を設置、中世の神道思想から[[江戸時代]]の[[国学]]へと受け継がれ、[[明治維新]]以後は神道国家観によって天皇の「まつりごと」を強調する傾向が生じ、[[昭和]]に入ると天皇を[[現人神]]とするようになった{{sfn|ブリタニカ・ジャパン|2021f|p=「祭政一致」}}。
[[明治維新]]後の新政府は「[[太政官布達]]」で祭政一致し[[神祇官]]を再興すると布告した<ref>「此度王政復古,神武創業ノ始ニ被為基,諸事御一新,祭政一致之御制度ニ御復被遊候ニ付テハ,先第一神祇官御再興御造立ノ上……(後略)」[[安丸良夫]]・[[宮地正人]]編『日本近代思想大系5 宗教と国家』425ページ</ref>。日本でも[[巫]]の告げる[[神託]]が政治的な権威をもった[[ヤマト王権]]の統治体制に遡ることができる{{sfn|山上|1989|pages=84-100}}。
== シャーマニズムと神道 ==
{{See Also|シャーマニズム|巫女|憑依}}
宗教人類学者の[[佐々木宏幹]]は、[[シャーマニズム]]には次のような3つの要素があるとした<ref>[[#佐々木 (1984)|佐々木 (1984)]]、4-11頁。</ref>。
*'''[[トランス (意識)|トランス]]'''という特別の精神状態において[[脱魂]](ecstasy)または[[憑依]](憑霊)(possession)が行われる
*[[神]][[仏]]・精霊などの超自然的存在と直接接触・交流・交信
*社会的に一定の役割を持つ[[信仰]]と行動の体系
神代紀の[[天鈿女命]]、崇神紀の[[倭迹迹日百襲姫命]]、仲哀紀の[[神功皇后]]などは突然神がかり([[憑依]])、狂躁乱舞しており、シャーマンの例として挙げられてきた{{sfn|平凡社|2021b|p=「神がかり」}}<ref name='shukyougaku-jiten'>[[#佐々木 (1973)|佐々木 (1973)]], pp. 249-253.</ref>。
[[山上伊豆母]]は、4世紀の[[三輪王朝]]、5世紀の[[河内王朝]]、そして崇仏派の[[蘇我氏]]による大化の改新によって[[律令制]]国家となる以前の[[大和朝廷]]は、[[三輪氏]]や[[多氏]]といった巫を司る一族と政を司る[[治天下大王|大王]]の共同統治が行われてきたと主張している{{sfn|山上|1989|pages=84-100}}。
[[シャーマニズム]]は大きく[[脱魂]]と[[憑依]](憑霊)の2つにわけることができるが、東アジア(日本、韓国、台湾、中国大陸)、東南アジアのシャーマンに脱魂(ecstasy)型がないとは言えないが、圧倒的に憑依(possession)型が多い<ref>{{Cite book|和書|title=宗教学事典|year=2010|publisher=丸善出版|page=311}}</ref>。
[[小口偉一]]は、日本の宗教信仰の基底にシャーマニズム的傾向があるとし、神道系新宗教の集団の形成や基盤も同様であるとした<ref name='shukyougaku-jiten' />。神道系[[新宗教]]の[[教祖]]らの中には召命型[[シャーマン]]の系統に属するものがいると考えられている<ref name='shukyougaku-jiten' />。
== 信仰 ==
神社信仰の性格は、大きく分類すると氏神型信仰と勧請型信仰(崇敬祈願型信仰)の2つに分けられる<ref name="阪本是丸・石井研士編『プレステップ神道学』弘文堂(2011),51頁">阪本是丸・石井研士編『プレステップ神道学』弘文堂(2011),51頁</ref>。古代における信仰は、前者の、地域ごとに[[氏神]]・[[産土神]]を祀る閉鎖的な共同体祭祀が中心であったが、中世に入ると、霊威のある神々が地域を越えて各地に勧請され、個人の祈願が行われる勧請型の信仰が増加した<ref name="阪本是丸・石井研士編『プレステップ神道学』弘文堂(2011),51頁">阪本是丸・石井研士編『プレステップ神道学』弘文堂(2011),51頁</ref>。中世期の律令制の崩壊と荘園制の成立に伴い、特定神社を国家が支える古代的な律令祭祀制度が崩壊し、荘園領主たちが有力神社を[[本所]]として荘園を寄進するようになった結果、その寄進された社領にその分霊社が勧請されるようになったことや、各神社が[[御師]]をして地方まで信仰を広げる活動をはじめたことなどが、中世期に入って神社信仰が拡散する要因となった<ref name="阪本是丸・石井研士編『プレステップ神道学』弘文堂(2011),51頁">阪本是丸・石井研士編『プレステップ神道学』弘文堂(2011),51頁</ref>。また、中世期の[[惣村]]では、村民たちは日常の農耕生活の中で神社に寄り合い、村民の中から一年交代で年番神主が選ばれていたり、オトナ・年寄と呼ばれる古老が取り仕切り若者衆が神事の奉仕に当たる神事運営のための祭りの編成組織である[[宮座]]が結成されるなどしたほか、村の取り決めに際しては[[起請文]]を記して神に誓約し、[[一揆]]の時には[[一味神水]]が行われるなど、神社は、民衆の精神的拠り所となっていった<ref name="阪本是丸・石井研士編『プレステップ神道学』弘文堂(2011),56頁">阪本是丸・石井研士編『プレステップ神道学』弘文堂(2011),56頁</ref>。
近世期に入ると、治安や交通の改善によって人々の神社参詣がさらに活性化し、一層庶民の間での神社信仰が広がった。各村では[[講]]が結成され、毎年わずかなお金を積み立て、その共同出資をもとに籤で選ばれた代表者が神社に参詣し、講員全員分のお札などを受け取って帰る代参講が流行し、各講は[[御師]]や先達と師檀関係を結び、御師は講員の祈祷や参詣における宿泊の便を図った<ref name="岡田莊司編『日本神道史』吉川弘文館(2010),219-220頁">岡田莊司編『日本神道史』吉川弘文館(2010),219-220頁</ref>。このようなことから、数百万人が短期間で伊勢神宮に参拝したと記録される[[お蔭参り]]をはじめ、近世期には多数の人々が神社に参詣した。他方で、近世期の神社参詣は、近世社会における輸送組織の発達や道中での宿屋・遊楽施設の充実などにより、道中において様々な名所を見物したり、遊興を行うといった、観光・娯楽的な要素も多く持つものであった<ref name="新城常三『社寺と交通』日本歴史新書(1960),118-119頁">新城常三『社寺と交通』日本歴史新書(1960),118-119頁</ref>。このような観光と寺社参詣の結びつきは、近代を経て現代でも受け継がれており、観光における神社の存在感は大きなものとなっている<ref>{{Cite web|和書|author=小林宣彦 |title=寺社観光とは|url=https://www.kokugakuin.ac.jp/article/157312 |publisher=全国寺社観光協会 |accessdate=2021-12-23}}</ref>。この他、現在における神社への信仰は、[[初詣]]、[[お宮参り]]、[[七五三]]、[[結婚式]]など、個人や家族の年中行事や人生儀礼において現れている<ref name="岡田莊司編『日本神道史』吉川弘文館(2010),324-325頁">岡田莊司編『日本神道史』吉川弘文館(2010),324-325頁</ref>。
以下では、特に全国的に広がった神社信仰について概覧する。
*[[ファイル:Hachiman torii.svg|25px]]'''[[八幡信仰]]'''([[八幡神社]])
*:古くは'''[[八幡神]]'''と呼ばれる[[皇祖神]]の'''[[須佐之男命]]'''・'''[[五十猛神]]'''を、現在は'''[[応神天皇]]'''、'''[[神功皇后]]'''として幅広く信仰されている。宇佐国造の祀った[[宇佐八幡宮]]がその起源で、早くに[[神仏習合]]が進み、朝廷だけでなく[[源氏]]など[[武家]]の氏神としても全国に広まった<ref>[[宝賀寿男]]『古代氏族の研究⑬ 天皇氏族 天孫族の来た道』青垣出版、2018年。</ref>。
*[[ファイル:Shinmei torii 2.svg|25px]]'''[[伊勢信仰]]'''([[神明神社]])
*:古代に皇祖神の'''[[天照大御神]]'''を[[伊勢神宮]]に祀り、'''[[大日如来]]'''と習合しつつも早くに神仏分離をした。朝廷からの崇拝を受けたが、歴史的に天皇が参拝した例はごくわずかである{{要出典|date=2020年10月}}。現在は神明神社が各地に鎮座する{{要出典|date=2020年10月}}。
*[[ファイル:Myoujin torii.svg|25px]]'''[[天神信仰]]'''([[天満宮|天神神社]])
*:[[延喜式]]に複数社見えるよう、本来[[天神]]は'''[[天津神]]'''を指す言葉であったが、'''[[菅原道真]]'''が死後[[怨霊]]として恐れられたあとに[[神仏習合]]し、'''[[天満大自在天神]]'''として神格化された[[御霊信仰]]。[[太宰府天満宮]]や[[北野天満宮]]を中心として広まり、おもに[[雷神]]・学問の神として信仰される。
*[[ファイル:Inari - daiwa torii.svg|25px]]'''[[稲荷信仰]]'''([[稲荷神社]])[[ファイル:Fushimi Inari-taisha 千本鳥居 2012-2.jpg|thumb|250px|[[伏見稲荷大社]]の千本鳥居]]
*:穀物神の'''[[宇迦之御魂神]]'''を祀る[[伏見稲荷大社]]を起源とし、江戸時代には[[神大市比売]]や[[大年神]]などとともに、商売繁盛、諸産業の神として厚く信仰された。[[秦氏]]の神ともされるが、もとは[[海神族]]の神であったと考えられる<ref>宝賀寿男「上古史の流れの概観試論」『古樹紀之房間』、2009年。</ref>。
*[[ファイル:Myoujin torii.svg|25px]]'''[[熊野信仰]]'''([[熊野神社]])
*:多くの名で語られるが総じて皇祖神の'''須佐之男命'''を祀る。[[出雲国造]]の祀った[[熊野大社]]や、[[熊野国造]]の祀った[[熊野那智大社]]、[[熊野速玉大社]]を起源とし、[[物部氏]]族系が多く祀る。仏教や[[修験道]]などとも深く結びついた<ref name="ReferenceA">宝賀寿男『古代氏族の研究⑬ 天皇氏族 天孫族の来た道』青垣出版、2018年。</ref>。
*[[ファイル:Myoujin torii.svg|25px]]'''[[諏訪信仰]]'''([[諏訪神社]])
*:[[大国主神|出雲神]]の子で、海神族の[[諏訪氏]]の祖・'''[[建御名方神]]'''とその妻・'''[[八坂刀売神]]'''を祀る<ref>宝賀寿男『古代氏族の研究⑦ 三輪氏 大物主神の祭祀者』青垣出版、2015年。</ref>。[[洲羽国造]]、[[科野国造]]の祀った[[諏訪大社]]を起源とし、古代は狩猟、農耕、風、水の神、鎌倉時代には[[武神]]として武家にも広く信仰された。
*[[ファイル:Myoujin torii.svg|25px]]'''[[祇園信仰]]'''([[八坂神社 (曖昧さ回避)|八坂神社]]、[[津島神社 (曖昧さ回避)|津島神社]])
*:元はインド由来の'''[[祇園牛頭天王]]'''と'''須佐之男命'''が集合した信仰。京都府の[[八坂神社]]や[[津島神社]]、[[須賀神社]]を中心に、牛頭天王の八柱の御子・[[八王子権現]]とともに[[蘇民将来]]説話から疫病除災の神として信仰された。
*[[ファイル:Ryoubu Torii.svg|25px]]'''[[白山信仰]]'''([[白山神社]])
*:[[白山比咩神社]]を起源とし、'''白山比咩神'''と呼ばれる'''[[菊理媛神]]'''(宇迦之御魂神と同神か<ref name="ReferenceA"/>)を祀る。水の神として信仰されるほか、[[伊弉諾尊]]と[[伊弉冉尊]]の仲を取り持った神話から、縁結びの神としても信仰される。
*[[ファイル:Sannou torii.svg|25px]]'''[[山王信仰]]'''([[日吉神社]])
*:[[比叡山]]の山の神として古くから'''[[大山咋神]]'''([[少名毘古那神]]と同一か<ref>宝賀寿男『古代氏族の研究⑭ 蘇我氏 権勢を誇った謎多き古代大族』青垣出版、2019年。</ref>)を祀る。[[日吉大社]]を起源として早くに神仏習合し、'''[[山王権現]]'''として各地の日吉神社や[[日枝神社]]に祀られる。疫病除災の神として信仰される。
*[[ファイル:Myoujin torii.svg|25px]]'''山神信仰'''([[山神社]])
*:山の神である'''[[大山津見神]]'''を祀り、鉱山などでは合わせて'''[[金山毘古神]]'''とともに信仰される。山への信仰や農耕神としても信仰を集める。
*[[ファイル:Myoujin torii.svg|25px]]'''[[浅間信仰]]'''([[浅間神社]])[[ファイル:Sakura and Mt. Fuji 桜(さくら)と富士山(ふじさん).jpg|thumb|250px|霊峰[[富士山]]]]
*:大山津見神の娘・'''[[木花之佐久夜毘売]]'''を祀るが、元は[[保食神]]であったか<ref>宝賀寿男「甲斐国造の系譜」『古樹紀之房間』、2016年。</ref>。[[富士山本宮浅間大社]]を起源とし、[[和邇氏]]族系によって祀られている。富士山との関連で火山の神、火中出産神話から安産の神として信仰される。
*[[ファイル:Kasuga torii.svg|25px]]'''[[春日信仰]]'''([[春日神社]])
*:中臣氏の祖・'''[[天児屋命]]'''、'''[[天美津玉照比売命]]'''、'''[[建御雷神]]'''の三柱の他、[[国譲り]]神話から'''[[経津主神]]'''も合わせて祀る。[[春日大社]]を起源とし、[[中臣氏]]族系によって祀られる。
*[[ファイル:Kashima Torii.svg|25px]]'''[[鹿島信仰]]'''([[鹿島神社]])
*:中臣氏の祖・'''建御雷神'''を祀る。本宗の[[鹿島神宮]]は春日大社の直接的な起源ともされており、[[地震]]を起こす[[鯰]]を封じる神とされたほか、建御名方神に勝利したことから[[武道]]の神としても幅広く信仰されている。
== 参拝の方法 ==
{{See also|二礼二拍手一礼}}
=== 簡易な参拝 ===
{{出典の明記| date = 2020年10月| section = 1}}
[[ファイル:ItsukushimaBasin7406.jpg|thumb|200px|right|[[厳島神社]](広島県廿日市市)]]
以下は一般的な[[参拝]]の流れである。神社によっては作法が異なることがある。多くの場合、その旨の表示がある。
参拝を行う日は毎月1日と15日がよいとされる。参拝する前に、本来は神の前に向かう前に心身を清める[[禊]]が必要である。これは神が「[[穢れ]]」を嫌うとされることによるが<ref name="zukai3">『神道』 120頁。</ref>、現代であれば、一般参拝では[[入浴]]・[[シャワー]]などで身体を清潔にしてから参拝する心がけが望ましい。神社に到着し、[[鳥居]]や[[神門]]をくぐる際は「小揖(身体を15度折り曲げるお辞儀。会釈に相当)」するのが望ましい。このときには脱帽し、服装もきちんと整えるようにする。
次に[[手水舎]]にて[[手水]]を使い、手口を洗う。これは[[拍手 (神道)|拍手]]と神拝詞奏上を行う手口(さらには[[心]])を清める意味合いを持つ、ひとつの禊である。手水の作法としては、
# まず、手水舎の前で小揖する。
# [[柄杓]]を右手で持って水をすくい、その水を左手にかけて清める。
# 柄杓を左手に持ち替え、右手を洗い清める。
# 柄杓を再度右手に持ち替え、すくった水を左手に受けて溜め、この水で口をすすぐ。口をすすぐ際には口が直に柄杓に触れないようにする。
# これらが終わったあと、使った柄杓を洗い清めるが、このときは水を入れた柄杓を立て、柄に水を流すようにして洗う。柄杓を洗うのには次の人のための配慮という意味合いもある。
# 洗い終わった柄杓は元の位置に伏せて置き、最後に口と手を拭紙や[[ハンカチ]]などでぬぐう。
# 最後にもう一度小揖する。
# これらの作法は一連の動作で行うのが好ましい。
なお、[[巫女]]の補助がつく場合には、作法は巫女の指示にしたがうようにする。[[手水]]を使い終わったら拝礼を行うために[[参道]]を通り社殿へと向かう。神前ではまず神への[[供物]]として(供物を捧げるほかにお祓いの意味もあるといわれる)賽銭箱に[[賽銭]]を奉納する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jinjahoncho.or.jp/omairi/osahou/osaisen|title=お賽銭について|publisher=神社本庁|language=日本語|accessdate=2020年2月1日}}</ref>。次に賽銭箱の近くにある[[鈴|鈴鐘]]を鳴らすが、これには邪気を払う{{r|zukai3}}、清らかな[[音色]]で神を呼び寄せて参拝に訪れたことを神に告げる、参拝者を敬虔な気持ちにするとともに神霊の発動を願うなどの意味合いがあるとされる<ref>外山晴彦、『サライ』編集部 編 『神社の見方』 [[小学館]] 122頁。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jinjahoncho.or.jp/omairi/osahou/suzu|title=参拝の際に鳴らす鈴について|publisher=神社本庁|language=日本語|accessdate=2020年2月1日}}</ref>。
鈴鐘を鳴らした後に拝礼を行う。拝礼の基本的な作法は、現在は「'''再拝二拍手一拝'''」(あるいは「'''二拝二拍手一拝'''」「'''[[二礼二拍手一礼]]'''」)がおもに利用されている{{r|zukai3}}。すなわち、
# 拝(身体を90度折り曲げるお辞儀)を二度行う。
# [[拍手 (神道)|拍手]]を二度打つ。より具体的には、両手を胸の高さで揃えて合わせ、右手を下方向に少し(指の第一関節ほど)ずらし、その状態で両手を二度打ち合わせて[[音]]を出し、ずらした右手を再び揃えて祈念を込め最後に両手を下ろす<ref>『神道の本』105頁。</ref>。
# 一拝する。
# [[祝詞|神拝詞]]を奏上する場合は、再拝→神拝詞奏上→再拝二拍手一拝の順で行う。
というもの。再拝二拍手一拝の前後に深揖(身体を45度折り曲げるお辞儀。最敬礼に相当)を行うとより丁寧である。祈願を行う場合は二拍手と一拝の間に氏名および居住地と願い事を(声に出して、あるいは心の中で)陳べるのが一般的となっている。また、神恩感謝を述べたい場合も同様である。参拝時は、目を閉じることなく目を開けたままが望ましい{{要出典|date=2019年11月}}。正式参拝や祈祷などで[[玉串]]を捧げる場合は、上記の深揖と再拝の間で、玉串に祈念を込めて根本を神前に向けるようにお供えする<ref>神社本庁編『神社祭式同行事作法』91頁</ref>。
一部の神社では作法が異なっており、たとえば、[[出雲大社]]や[[宇佐神宮]]、[[彌彦神社]]では「四拍手」である。[[伊勢神宮]]や[[熱田神宮]]での神事では「八度拝、八開手」となっている<ref>[[井沢元彦]] 神霊の国日本 p.32</ref>。
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|header = [[神]]への[[供物]]
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|image1 = Leaves_offered_to_the_shrine_by_d%27n%27c_at_Tsurugaoka_Hachiman.jpg
|caption1 = [[鶴岡八幡宮]]の供物
|image5 = Votive_offering_of_the_Shinto,Katori-jingu,Katori-city,Japan.JPG
|caption5 = [[香取神宮]]、御田植祭御斎田での供物。香取市。
|image3 = Mochi offerings by SaddaGocaraRupa at Meiji Jingu.jpg
|caption3 = [[鏡餅]]の[[供え物]]([[明治神宮]])
|image2 = Shinto Shinsen.jpg
|caption2 = 供物、[[アメリカ椿大神社]]
|image4 = ItsukushimaSakeOfferings.jpg
|caption4 = [[厳島神社]]に奉納された酒樽。手前に千福が見える。
}}
=== 注意事項 ===
* 身内に不幸があった人は50日間(仏式の49日)を経過するまで神社参拝は控える必要がある{{r|zukai3}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jinjahoncho.or.jp/omairi/gyouji/bukki|title=服忌|publisher=神社本庁|accessdate=2020年2月1日}}</ref>。[[穢れ|死穢]]の観念からである<ref>『神道行法の本』 学研 195頁。</ref>。
* 神前に捧げる御饌は、火を通したもの(熟饌)を供える場合、神聖な炎として厳粛に起こされた火を用いるのが望ましい<ref>『神道の本』43頁。</ref>。
* 一部で女性は音を立てて拍手してはいけないという珍説を信じる者がいるが、間違いである。そもそも拍手は音を立てるものであり、音をかすかにたてる拍手は「忍び手」と言って、性別関係なく葬儀で用いるものである<ref>[https://www.j-cast.com/2007/03/01005851.html 細木数子の参拝作法は「誤り」 全国の神社から苦情] JCASTニュース、2007/3/ 1</ref>。
== 神道諸派 ==
* [[伯家神道]](白川神道・[[白川伯王家]])
* [[伊勢神道]]
* [[吉田神道]]
* [[両部神道]]
* [[山王一実神道]]
* [[法華神道]]
*[[三輪流神道]] - 僧の[[慶円]]が説いた奈良の[[三輪山]]を中心に、[[三輪]]の[[神]]と[[伊勢]]の神を一体とし、[[大日如来]]を含めた神道。[[大神神社]]にて[[両部神道]]や[[神仏混交]]の影響などを受け、[[室町時代]]に発生し、[[伊勢神道]]や[[真言宗]]や[[陰陽道]]なども混ざり合った[[信仰]]。[[明治時代]]に廃絶に至るも、一部に細々と存続している<ref name="yaoyorozu">神道の本-八百万の神々がつどう秘教的祭祀の世界 (NEW SIGHT MOOK Books Esoterica 2) 出版:学習研究社 1992/3 ISBN 978-4051060244</ref>。現在の「大神教」であり、能「三輪」に影響を与えている{{要出典|date=2020年10月}}。
* 土御門神道([[天社土御門神道]])
* [[吉川神道]]
* [[垂加神道]]
* [[出雲神道]]
* [[物部神道]]
* [[忌部神道]]
* [[橘家神道]] - [[橘諸兄]]の[[子孫]]である[[玉木正英]]が[[江戸時代]]に[[家伝]][[宗教]]から興した神道。[[口伝]]や秘伝が多く「鳴弦」「蟇目」「守符」「軍陣」などの秘儀を行ったとされる。その一方、[[吉田神道]]、[[陰陽道]]の影響も受けていると言われる。橘家神道はほぼ消滅したとされるが、その[[修法]]や[[思想]]などが[[民間]][[信仰]]に残っていると言われる<ref name=shinto-g>『神道ガイド』村上書店1996年1月30日発行222頁中180頁</ref>。
* [[雲伝神道]] - [[慈雲]]が説いた神道。慈雲は[[真言宗]]僧だが、[[仏教]]色を感じさせず、[[古事記]][[日本書紀]]を中心にした[[復古神道]]的思想で、[[日本]]を[[世界]]の要とし「真心」を重要視した神道を興した。また[[儒教]]的な面もあったが、[[明治]]以降に[[断絶]]した{{r|shinto-g}}。
*[[烏伝神道]] - [[賀茂規清]]が[[江戸時代]]に興した神道説。万物や現象などは[[神霊]]や[[霊魂]]が影響するという[[思想]]。また[[人]]の[[誕生]]は「幸魂」、[[死]]は「奇魂」が作用すると説いた。しかしその[[教義]]は人を惑わすとして、規清は[[流罪]]になり、死去した。烏伝神道は廃絶したが、その一部は[[禊教]]に継承された{{r|yaoyorozu}}。
* [[復古神道]](古道)
* [[国家神道]]
* [[神社本庁]]
* [[教派神道]]
** [[神道十三派]]
*** [[神道大教]]
*** [[黒住教]](神道黒住派)
*** [[神道修成派]]
*** [[出雲大社教]]
*** [[扶桑教]]
*** [[実行教]]
*** [[神道大成教]]
*** [[神習教]]
*** [[御嶽教]]
*** [[神理教]]
*** [[禊教]]
*** [[金光教]]
*** [[大本]]
*** [[天理教]] - 天理教は政府から弾圧をさけるために神道十三派に入ったが、現在では神道十三派を抜け、[[諸派]]に分類されている。また、[[記紀]]神話を用いず、[[泥海古記]](どろうみこうき)と呼ばれる独自の創世神話を持っている。
** [[神宮教]]
* [[アニミズム]]
* [[太陽神]]
== 神道を題材とした作品 ==
{{see also|Category:神道を題材とした作品}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{refbegin}}
* {{Cite book|和書
|author=伊藤聡|authorlink=伊藤聡
|title=神道とは何か
|year=2012
|publisher=[[中央公論新社]]
|series=[[中公新書]]
|isbn=978-4-12-102158-8
}}
* {{Cite book|和書
|author=井上順孝|authorlink=井上順孝
|title=神道
|year=2006
|publisher=[[ナツメ社]]
|series=[[図解雑学シリーズ|図解雑学]]
|isbn=4-8163-4062-9
}}
* {{cite encyclopedia
|author = 景山春樹
|authorlink = 景山春樹
|encyclopedia = [[世界大百科事典]]
|title = 神道
|edition = 1972年
|date = 1972-04-25
|publisher = [[平凡社]]
|volume = 16
}}
* {{Cite book|和書
|author=石原藤夫|authorlink=石原藤夫
|title=靖国神社一問一答
|year=2002
|publisher=[[展転社]]
|isbn=4-88656-226-4
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|editor=岡田荘司|editor-link=岡田荘司|title=日本神道史
|year=2010
|publisher=[[吉川弘文館]]
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|author=茂木貞純|authorlink=茂木貞純
|title=神道と祭りの伝統
|year=2001
|publisher=[[神社新報社]]
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* 島田 裕巳 神社で拍手を打つな! -日本の「しきたり」のウソ・ホント 出版社: 中央公論新社 (2019/11/7) 253ページ ISBN 978-4121506702
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| title = 精選版 日本国語大辞典
| chapter = 死霊崇拝
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| author=ブリタニカ・ジャパン|authorlink=ブリタニカ・ジャパン
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| title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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| 和書
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| 和書
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* {{Cite book
| 和書
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| title = 日本大百科全書(ニッポニカ)
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* {{Cite book
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* 佐々木 (1973):{{Cite book|和書|editor=小口偉一・堀一郎|title = 宗教学辞典|year =1973|publisher =東京大学出版会|chapter = シャマニズム|author=佐々木宏幹|authorlink=佐々木宏幹|pages = 249-253|isbn=9784130100274 |ref=佐々木 (1973) }}<!--2008年1月23日 (水) 03:11 (UTC)-->
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* 佐々木 (1984):{{Cite book|和書|author=佐々木宏幹|title=シャーマニズムの人類学|publisher=弘文堂|isbn=9784335570315|year=1984|ref=佐々木 (1984) }}
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*{{Cite book|和書|author=佐々木宏幹|title=シャーマニズムの世界|publisher=講談社||series=講談社学術文庫|isbn=9784061590557|year=1992|}}<!--2007年10月6日 (土) 06:36 (UTC)-->
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== 関連項目 ==
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* [[神仏習合]]
* [[拍手 (神道)]]
* [[二礼二拍手一礼]]
== 外部リンク ==
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* [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1913333 神道大辞典 : 3巻. 第一卷(ア-ケ)]、[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1913348 第二卷(コ-テ)]、[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1913359 第三卷(ト-ワ)] 平凡社, 1941
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2,761 | カップ戦 | カップ戦(カップせん、英: cup competition)とは、スポーツ競技(主にサッカー競技)において賞杯(カップ)を懸けて競技を競う大会を指す。
大会方式がノックアウトトーナメントであることが多く、大会形式ははじめから終わりまですべての試合をノックアウトトーナメントで行う方式や、数チームを1組としその中のチーム同士による総当りのグループステージと、グループステージを勝ち抜いたチームによるノックアウトステージを組み合わせた方式を採用する場合などがある。
なお「カップ戦」と言う言い方は「リーグ戦」(=ラウンドロビントーナメント)と共に日本語特有の表現であり、英語では単に「cup」もしくは「cup competition」と称する。またカップの日本語訳に基づいて、大会名が「○○カップ」であるなら、「○○杯」と表記される場合がある(例:ワールドカップ→W杯、ルヴァンカップ→ルヴァン杯、リーグカップ→リーグ杯)。 | [
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] | カップ戦とは、スポーツ競技(主にサッカー競技)において賞杯(カップ)を懸けて競技を競う大会を指す。 | {{redirectlist|コパ|「コパ」を名乗る日本人|Dr.コパ|「コパ」と称されるスポーツ大会、その他の「コパ」|コパ (曖昧さ回避)}}
{{出典の明記|date=2022年6月20日 (日) 04:21 (UTC)}}
'''カップ戦'''(カップせん、{{Lang-en-short|cup competition}})とは、[[スポーツ]]競技(主に[[サッカー]]競技)において[[賞杯]]([[カップ]])を懸けて競技を競う大会を指す<ref name="daijisen">{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/カップ戦/#jn-260568|title=カップ戦|website=[[goo辞書]](デジタル[[大辞泉]])|accessdate=2021-02-11}}</ref>。
== 概要 ==
大会方式が[[トーナメント方式 #勝ち残り式トーナメント|ノックアウトトーナメント]]であることが多く{{R|daijisen}}、大会形式ははじめから終わりまですべての試合をノックアウトトーナメントで行う方式や、数チームを1組としその中のチーム同士による総当りのグループステージと、グループステージを勝ち抜いたチームによるノックアウトステージを組み合わせた方式を採用する場合などがある。
なお「カップ戦」と言う言い方は「[[リーグ戦]]」(=[[ラウンドロビン]]トーナメント)と共に日本語特有の表現であり、英語では単に「cup」もしくは「cup competition」と称する。またカップの日本語訳に基づいて、大会名が「○○カップ」であるなら、「○○[[杯]]」と表記される場合がある(例:ワールドカップ→W杯、ルヴァンカップ→ルヴァン杯、リーグカップ→リーグ杯)。
== 開催形式 ==
; ここでは「[[サッカー]]競技」を例にして記述する。
=== 各国国内のカップ戦 ===
* 国内におけるカップ戦としては大きく分けて、その国のトップリーグのチームのみに参加を限定する'''リーグカップ'''と、参加資格を限定しない(オープンにした)'''オープンカップ'''の2つに分けられる。参加資格を限定しないため、日本の[[天皇杯]]では、大学のサッカー部とプロクラブの対戦もありうる(かつては高校生年代のチームにも出場資格が与えられ、高校生とプロの対戦もあった)。オープンカップにおいては、参加チームの数が膨大になることが多いため、完全トーナメント方式(1ステージに付き1試合のみ、もしくは[[ホーム・アンド・アウェー|H&A]]方式で行われるのが普通)を採用する場合が多い。また、リーグカップであっても参加チームが多い場合は同様である。参加チームが少ない場合、もしくは試合数を多くしたい場合は、3〜8チームを1組とした総当りによる[[グループリーグ]]を行うこともある。
* リーグ戦と比べて試合数が少ないため、資金力や選手層が薄いチームでも何らかの不確定要素やその時の選手の体調、モチベーションなどの違いで上位に上がれることがある。そのため、上位のカテゴリーにいるチームを下位のカテゴリーにいるチームが下す、いわゆるジャイアント・キリング([[番狂わせ]])が起こりやすいのがカップ戦の大きな特徴である。これをカップ戦の醍醐味として楽しみにしているファンも多い。
* 優勝チームはカップウィナー(Cup Winner)と呼ばれる。カップウィナーはリーグ戦のチャンピオンとよくシーズンの初めに行われる[[スーパーカップ]]に出場できる権利を得る(ただし複数のカップ戦が行われている場合は、オープンカップのウィナーが優先する)。また、欧州各地のサッカーリーグにおいては、一般に各国のカップ戦で優勝すると[[UEFAヨーロッパリーグ]]に出場できる権利を得る。
* 近年、欧州の主要なサッカーリーグにおいて国内カップ戦の重要度が低下している。これは[[UEFAチャンピオンズリーグ]]に出場することによって、放送権料などの莫大な収入が得られるためで、特に[[ビッグクラブ]]と呼ばれるチームでは、国内リーグ戦やチャンピオンズリーグに主要メンバーをつぎ込み、国内カップ戦にはリザーブ組を出場させる、という起用法が頻繁に行われる。これにより、カップ戦の魅力がそがれることがあるため、今後国内カップ戦の存在意義が問われかねない、と言う指摘もなされている。
=== 国際大会のカップ戦 ===
* [[FIFAワールドカップ]]のような[[ナショナルチーム]]同士による国際大会においては、[[集中開催]]方式によるカップ戦形式で行われるのが普通である。例えば、仮にワールドカップを[[ホーム・アンド・アウェー|ホーム&アウェー方式]]で行おうとすると、移動費が高額になるばかりでなく、移動による選手、スタッフの疲労が避けられず、競技選手のパフォーマンスに多大なる影響が出る可能性が高い。そのため、大会のクオリティが最優先され、開催国の地の利については目をつぶらざるを得ない場合が多い。
* [[アジアサッカー連盟]](AFC)の各種予選においても、セントラル方式による予選リーグを行うことが多い。これは、加盟国の中にインフラ整備が遅れている国が多く、全試合においてホーム&アウェー方式による予選を行うのが困難なためである。
* [[クラブチーム]]同士による国際大会は、3〜5チームを1組とするグループリーグとトーナメントを組み合わせ、なおかつ完全ホーム&アウェー方式を採用した大会形式が多い。また、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]、[[UEFAヨーロッパカンファレンスリーグ]]、[[CAFチャンピオンズリーグ]]、[[CONCACAFチャンピオンズリーグ]]、[[AFCチャンピオンズリーグ]]のように、本大会への出場を賭けた予備予選を行う場合もある。
== 日本の主なカップ戦 ==
* [[天皇杯|天皇杯・皇后杯]](各種競技)
* [[Jリーグカップ|JリーグYBCルヴァンカップ]]([[サッカー]])
* [[スーパーカップ (日本サッカー)|FUJIFILM SUPER CUP]](サッカー)
* [[Fリーグ オーシャンカップ]]([[フットサル]])
* [[Bリーグチャンピオンシップ|日本生命B.LEAGUE FINALS]]([[バスケットボール]])
* [[黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会]]([[バレーボール]])
* [[日本ラグビーフットボール選手権大会]]([[ラグビーフットボール|ラグビー]])
* [[セ・パ交流戦|日本生命セ・パ交流戦]]([[野球]])
* [[クライマックスシリーズ]](野球)
* [[日本選手権シリーズ|SMBC日本シリーズ]](野球)
== 各国の主なカップ戦 ==
=== オープンカップ ===
* [[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]([[日本]]、サッカー)
* [[皇后杯 JFA 全日本女子サッカー選手権大会|皇后杯]](日本、[[女子サッカー]])
* [[FAカップ]]([[イングランド]]、サッカー)
* [[コパ・デル・レイ|スペイン国王杯]]([[スペイン]]、サッカー)
* [[コッパ・イタリア]]([[イタリア]]、サッカー)
* [[DFBポカール]]([[ドイツ]]、サッカー)
* [[クープ・ドゥ・フランス]]([[フランス]]、サッカー)
* [[タッサ・デ・ポルトガル]]([[ポルトガル]]、サッカー)
* [[KNVBカップ]]([[オランダ]]、サッカー)
* [[ベルギーカップ]]([[ベルギー]]、サッカー)
* [[ロシア・カップ (サッカー)|ロシア・カップ]]([[ロシア]]、サッカー)
* [[テュルキエ・クパス]]([[トルコ]]、サッカー)
* [[スコティッシュカップ]]([[スコットランド]]、サッカー)
* [[USオープンカップ]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]]、サッカー)
* [[サウジ国王杯]]([[サウジアラビア]]、サッカー)
* [[韓国FAカップ]]([[大韓民国|韓国]]、サッカー)
* [[中国FAカップ]]([[中華人民共和国|中国]]、サッカー)
* [[タイFAカップ]]([[タイ王国|タイ]]、サッカー)
=== リーグカップ ===
* [[Jリーグカップ|JリーグYBCルヴァンカップ]](日本、サッカー)
* [[WEリーグカップ]](日本、女子サッカー)
* [[EFLカップ|カラバオ・カップ]](イングランド、サッカー)
* [[タッサ・ダ・リーガ]](ポルトガル、サッカー)
* [[スコティッシュリーグカップ]](スコットランド、サッカー)
* [[ウェルシュ・リーグカップ]]([[ウェールズ]]、サッカー)
* [[北アイルランド・フットボールリーグカップ]]([[北アイルランド]]、サッカー)
* [[リーグ・オブ・アイルランドカップ]]([[アイルランド]]、サッカー)
* [[タイ・リーグカップ]](タイ、サッカー)
* [[NBAカップ]](アメリカ、バスケットボール)
=== 国際大会 ===
* サッカー
{{Main|サッカーの国際大会一覧}}
* バスケットボール
** [[ユーロリーグ]]
* ラグビー
** [[ヨーロピアンラグビーチャンピオンズカップ]]
* 野球
** [[カリビアンシリーズ]]、[[欧州チャンピオンズカップ (野球)|欧州チャンピオンズカップ]]
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[スーパーカップ]]
* [[番狂わせ|ジャイアントキリング]]
* [[カップウィナーズカップ]]
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2,762 | リーグ戦 | リーグ戦(リーグせん)とは、競技大会の大会形式を指す用語で、すべての参加チームが、少なくとも1回は他のすべての相手と対戦する試合方式、総当たり戦(そうあたりせん)方式を指す。参加者(チーム)同士がそれぞれに対戦を繰り返し、対戦結果を総合した成績によって順位を決定する。特殊な場合を除き、参加者の試合数は一定となる。参加者が多い場合には日程的に困難で,トーナメント形式(勝ち抜き戦)がとられる。この項では変則的なグループトーナメントである「スイス式トーナメント(ドロー)」についても述べる。
日本語において「リーグ戦」は、総当たり戦に代表される「グループトーナメント」のことを指す。英語本来の「league(リーグ)」は単に「主催団体・連盟」のことで、「リーグ戦」はリーグが主催する全ての試合をさすものであり、大会・試合の運営方式・形式とは無関係である。したがって、日本語の「リーグ戦」は用法を限定した狭義の意味で用いられている(「トーナメント戦」も同様)。但し、英語版Wikipediaにも総当たり戦を「League Format」と表現する例が確認できる。
総当たり戦は「全ての参加チームが、全ての相手と一定回数の対戦を行う方式」である。このうち特に、総当たりの回数が2回以下であるものをラウンド・ロビン・トーナメントと呼ぶ(いわゆる「ホーム・アンド・アウェイ方式」はこの一種)。一方、グループトーナメント(リーグ戦)には、相手によって対戦回数が異なるものや完全には総当たりでないものも含まれる。
プロスポーツリーグの多くは、レギュラーシーズンの試合を総当たり戦(全てのチームと対戦しないリーグも存在)で行い、その後勝ち残り式トーナメント(トーナメント戦)形式のプレーオフでシーズンの優勝チームを決定するという方式を取っている。また、国別の世界選手権などでは大会を複数のステージに分け、序盤・中盤は組ごとの総当たり戦で行い、最終ステージは勝ち残り式トーナメントとすることが多い。こうした使い分けが行われる背景には、それぞれの方式の特徴が関連している。
プロスポーツリーグによっては、戦時体制・パンデミック・ストライキ等により長期の開幕延期・中断・繰り上げ閉幕が発生し一定数以上の未消化試合を残したまま閉幕を迎えた場合、所属全チームの順位を決定せずポストシーズン・表彰・入れ替えも中止とする場合もある。
1つの大会に複数のリーグがある場合は、異なるリーグに所属するチーム間での試合(交流戦・インターリーグ)が組まれる場合もある。
グループトーナメントは、勝ち残り式トーナメントと比較して以下のような特徴がある。
順位の決定に当たっては、勝率や勝ち点を使用するのが一般的である。総当たり戦は各チームとも総試合数が同じであり、全ての試合において勝敗が決する場合には勝率による順位と勝利数による順位が一致する。この場合、勝利数でなく勝率を使うのが一般的であるが、これは単に暫定順位を正しく表示できるからであり、内容に差があるわけではない。しかし、勝利・敗北の他に引き分けを採用しているときは、引き分けをどう評価するかで差異が生じ、勝率の計算方法も違ってくる。引き分けを分母から除外して計算する方法(採用例:日本のプロ野球)・反対に引き分けを分母から除外せず、敗戦と同等とみなして計算する方式・引き分けを0.5勝0.5敗として計算する方法(採用例:NFL)などがある。(→勝率)
勝率による順位決定方式のほか、勝利や引き分けに相応の点数を与える勝ち点方式もサッカーをはじめとする多くの競技で採用されている。勝ち点方式を採用した場合、試合の消化数が一致しないと暫定順位に狂いが生じるが、伝統的な順位決定方法として多くの競技で採用されている。(→勝ち点)
二者の成績が並んだ場合の対処法は、大きく分けて2つある。複数の二次指標を優先順位をつけて用意する方法と、追加試合で決着をつける方法である。アメリカのプロ野球では、地区優勝または2本目のワイルドカードの対象チームが同率の場合、追加試合(one-game playoff)が実施される。日本プロ野球でもかつては同率首位の場合に同様のことを行っていたが、プレーオフの導入以降、直接対決の勝率や勝利数などで順位を決定するようになった。
二次指標の例として、以下のようなものがある。
また、複数の指標でそれぞれ1位となったチーム間で優勝決定戦を実施していた例もある。セントラル・リーグでは2001年は勝利数1位球団と勝率1位球団が異なる場合、2002-06年は勝率1位球団が勝利数で勝率2位球団を下回った場合に、追加の3試合で1位を決めることになっていた。
プレーオフの結果が地区順位決定に用いられることもある。パシフィック・リーグでは2004年から2006年までの間、プレーオフの第1ステージ勝利チームが第2ステージも突破して日本シリーズに進出した場合、第1ステージ勝利チームが(パシフィック・リーグの)リーグ優勝となるルールであった。またNFLでは、翌年のドラフト順を決定する際にプレーオフの結果が優先される。
※勝率は引き分けを除外して算出。勝点は勝利3、引き分け1で算出。
野球においては、総当たり戦で各チームと数試合から数十試合ずつ対戦し、勝率をもって優勝チームを決定する方式がいわば基本形である。ただし、参加チーム数が6チーム程度であれば、各チームとの対戦数は同数となることが多いが、例えばアメリカ大リーグではリーグのチーム数が30と多く、またディビジョンごとにチーム数が異なるため、試合数が対戦相手によって異なる。また、日本の野球リーグでは引き分けを導入しているため、引き分けを除外して算出した勝率で順位を決定したり、勝利数のみで順位を決定したりと、順位決定方法が年代・時期や所属リーグにより異なり一定していない。
正規の対戦(レギュラーシーズン)が終了した後に、レギュラーシーズンの上位者同士が対戦し最終的な優勝チームを決めるプレーオフも広く実施されている。プレーオフの実施形態は各国リーグごとに大きく異なる。
サッカーにおいては、各チームが2回ずつ対戦するホーム・アンド・アウェー方式が広く採用されている。中には1回の総当たり戦を前期とし、前期順位に従って上位リーグと下位リーグに分かれた後期戦を戦うリーグもある(かつてのクロアチア・プルヴァHNLなど)。また、チーム数が少ないために4回の総当たりとするリーグもある(オーストリアやかつてのJリーグ(1993-95年)、およびJ2(1999-2007年)など)。
順位決定に当たっては、伝統的に勝ち点制度が導入されている。サッカーでは、かつて勝利に2点、引き分けに1点、敗北に0点を与えていたが、勝利へのインセンティブを高めるため、1980年代ごろから勝利3点、引き分け1点、敗北0点とすることが通例となった。
イングランドやフランス、日本などのラグビー競技では、総当たり戦で、勝利4点・引き分け2点・7点差以内の敗北1点、4トライ以上の獲得1点という勝ち点制度(マッチポイント制)を採用している。一方、オーストラリア・ニュージーランドのラグビーリーグでは、勝利2点・引き分け1点・敗北0点が与えられるとともに、各クラブへ平等に2点が付与される。
NFLは、ディビジョン重視のやや変則的な方式となっている。同一ディビジョンのチームとはホーム・アンド・アウェイ方式の総当たり戦で、これに加えて他ディビジョンのチームとの単発試合がいくつか組まれるという形態である。現在のリーグ構成(総チーム数32)では、ディビジョン内の対戦が6試合、他ディビジョンのチームとの対戦が10試合となっている。ディビジョン内のチームとは毎年必ず2回対戦するため、特別なライバル関係が築かれることになる。また、2戦目はシーズン終盤の直接対決となり、多くの場合ディビジョン タイトル争いにおける重要な試合となる。順位決定は勝率(引き分けを0.5勝0.5敗に換算して計算)で行い、同率の場合は詳細に定められたタイブレークの手順に従う。それぞれシーズン16試合を戦い、ディビジョン首位とワイルドカードの計12チームによる勝ち残り式トーナメントのプレーオフで優勝チームを決定する。
日本の社会人リーグXリーグは6チームごとの3ディビジョン構成で、複雑な3ステージのシステムを用いている。ディビジョン内でそれぞれ1回の総当たり戦(第1ステージ)を行った後、各ディビジョンの上位3チームをシャッフルした3グループ内でそれぞれ1回の総当たり戦(第2ステージ)を行う。そして、第1・第2ステージの勝敗を合算した成績で選ばれた各グループの首位と1チームのワイルドカードによる勝ち残り式トーナメント(ファイナル ステージ)で優勝チームを決定する(一方、第1ステージの各ディビジョンの下位3チームには、順位決定のステージが用意されている)。また、日本の学生リーグの場合は各地方毎での総当たり戦が行われる。
日本のプロレスにおいては、日本プロレスのワールドリーグ戦、全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦、新日本プロレスのIWGPリーグ戦、全日本女子プロレスのタッグリーグ・ザ・ベストなどが行われた。プロレスという競技の性質上引き分けが頻発するため、これらの大会の多くは勝ち点制で行われた。国際プロレスのIWAワールド・シリーズでは、「開始時の持ち点が負けと引き分けで減点されていき、0点になると失格」というバッドマーク・システムなる方式が採用された。
バスケットボールにおいては、オリンピック及びワールドカップなどの国際大会は勝利には2点、敗北には1点、棄権・失格には0点の勝点制がとられている。
NBAは6ディビジョン30チームという構成で、MLB(野球)やNFL(アメリカンフットボール)と似た、偏りのある方式である。各ディビジョンの首位とワイルドカードによる勝ち残り式トーナメントのプレーオフで優勝チームを決定する。ただし、ディビジョンという区分けの意味合いはやや薄い。プレーオフの構成においてディビジョン首位が6チームに対しワイルドカードが10チームと多く、またプレーオフのシード順を決める際にディビジョン首位と最上位のワイルドカードを区別していない。さらに、シード順によって組み合わせが決まるのはプレーオフの初戦だけである(固定式の勝ち上がり式トーナメント)。これらのことから、ディビジョン タイトルの重要性は低く、実質的に両カンファレンスの上位8チームずつがプレーオフに進出するというシステムとなっている。
日本のBリーグの場合、3地区制を採用しており、各地区の勝率上位がプレーオフに進むという方式がとられている。
バレーボールにおいては、主要国際大会であるワールドカップでは12チームによる総当たり戦。オリンピックでは6チームずつ2組に分かれての予選リーグを行い上位4チームずつが決勝トーナメントへ進むという方式である。
男子のワールドリーグは4チームずつのグループリーグで、ホーム アンド アウェー方式の予選リーグを行い上位チームが決勝ラウンドへ進出。女子のワールドグランプリは12チームが4チームずつに分かれる予選リーグを3回戦行い上位チームが決勝ラウンドへ進む方式がとられている。
順位決定に当たっては長年にわたり、バスケットボール同様の「勝利には2点、敗北には1点、棄権・失格には0点」と言う形式がとられていたが、2009年のワールドリーグ以降一部の大会で、セットカウント3-0、3-1での勝利には3点、3-2での勝利には2点、敗れてもセットカウント2-3なら1点を与える方式が採用されつつある。
日本のVプレミアリーグでは、年度によって違うものの2-4回戦総当たりのレギュラーラウンドを行い、上位4チームがセミファイナル、ファイナルラウンドに進むという方式がとられている。
日本の囲碁の棋聖戦では、S・A・B・Cの4段階に分かれたリーグ戦が行われている。このほか、名人戦挑戦者決定リーグ、本因坊戦挑戦者決定リーグなどが行われている。
中国では中国囲棋甲級リーグ戦が行われている。
韓国ではリーグ戦(韓国囲碁リーグ)が主流となっている。
国際棋戦では中韓囲碁リーグ優勝対抗戦などがある。
日本の将棋では、名人戦の順位戦(総当たりはA級とB級1組のみ)、王位戦挑戦者決定リーグ(紅白二組制)、王将戦挑戦者決定リーグなどが行われている。これらのリーグでは開幕前から前期のリーグ成績に応じてあらかじめ棋士間の「順位」(当該期の成績とは別)が決められており、複数の棋士が同成績で全対局を終了した場合はその順位の上位者が優先されるケースがある(詳細は各棋戦の項を参照)。また、プロ棋士の養成機関である新進棋士奨励会の三段リーグでも、これと同様の方式が採用されている。将棋界では、このルールによって同星ながら下位者だけが昇級を逸したり降級を喫したりすることを「頭ハネ」と表現している。
スイス式トーナメント方式(Swiss style tournament)は、近いレベルの競技者どうしの対戦が増えるような組み合わせ方式によって、総当たり戦に比べて少ない試合数においてもある程度の順位の正当性を持たせたり、実力に差がある場合に生じやすい「観戦側にとって興ざめな試合」を減らすことが期待できる方式である。事前のデータとして各選手(チーム)のレイティングあるいはそれに準じたデータがあることが望ましい。但し、後半になると勝ち残りの可能性の無いプレイヤーによる消化試合が生じるため、棄権(ドロップ)を認めていることも多い。棄権があってもその後をスムーズに進行できることも、総当たり戦と比べての利点である。スイストーナメント(Swiss tournament)、スイスドロー(Swiss draw)とも呼ばれる。この方式は、参加者の実力が伯仲しているが、総当り戦とするには参加者が多すぎる場合に適している。
具体的には以下のような手順で行われる。
規定の試合数を消化した時点で最も成績の良い参加者が優勝者となる。成績の算定方法は基本的に勝ち星の数(引き分けは0.5勝とする)であり、同点の場合はさまざまなタイブレーク方法が使われる。
たとえば、
(表中カッコ内は対戦相手の頭文字とその人の最終勝利数)
勝ち残り式トーナメントに比べ順位がより厳密に算定され、また、全てのプレイヤーが一定回数の対戦を楽しめる。一方、次の対戦相手が、前の回戦のすべての試合が終了するまで分からず、また判定・組合せ決定に手間がかかるという欠点がある。
上記の、ある回戦の全試合が終わるまで次の対戦相手が分からない、というデメリットを減らす目的で考案された変形スイス式トーナメントを以下に示す。
思考型のゲームで使われることが多く、チェスやチェッカーの競技会の多くはこの形式を利用している。日本でも将棋や囲碁のアマチュア大会では積極的に採用されている。マジック:ザ・ギャザリングをはじめとするトレーディングカードゲームでも使用例は多い。
以下にスポーツ競技での使用例を幾つか紹介する。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "リーグ戦(リーグせん)とは、競技大会の大会形式を指す用語で、すべての参加チームが、少なくとも1回は他のすべての相手と対戦する試合方式、総当たり戦(そうあたりせん)方式を指す。参加者(チーム)同士がそれぞれに対戦を繰り返し、対戦結果を総合した成績によって順位を決定する。特殊な場合を除き、参加者の試合数は一定となる。参加者が多い場合には日程的に困難で,トーナメント形式(勝ち抜き戦)がとられる。この項では変則的なグループトーナメントである「スイス式トーナメント(ドロー)」についても述べる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "日本語において「リーグ戦」は、総当たり戦に代表される「グループトーナメント」のことを指す。英語本来の「league(リーグ)」は単に「主催団体・連盟」のことで、「リーグ戦」はリーグが主催する全ての試合をさすものであり、大会・試合の運営方式・形式とは無関係である。したがって、日本語の「リーグ戦」は用法を限定した狭義の意味で用いられている(「トーナメント戦」も同様)。但し、英語版Wikipediaにも総当たり戦を「League Format」と表現する例が確認できる。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "総当たり戦は「全ての参加チームが、全ての相手と一定回数の対戦を行う方式」である。このうち特に、総当たりの回数が2回以下であるものをラウンド・ロビン・トーナメントと呼ぶ(いわゆる「ホーム・アンド・アウェイ方式」はこの一種)。一方、グループトーナメント(リーグ戦)には、相手によって対戦回数が異なるものや完全には総当たりでないものも含まれる。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "プロスポーツリーグの多くは、レギュラーシーズンの試合を総当たり戦(全てのチームと対戦しないリーグも存在)で行い、その後勝ち残り式トーナメント(トーナメント戦)形式のプレーオフでシーズンの優勝チームを決定するという方式を取っている。また、国別の世界選手権などでは大会を複数のステージに分け、序盤・中盤は組ごとの総当たり戦で行い、最終ステージは勝ち残り式トーナメントとすることが多い。こうした使い分けが行われる背景には、それぞれの方式の特徴が関連している。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "プロスポーツリーグによっては、戦時体制・パンデミック・ストライキ等により長期の開幕延期・中断・繰り上げ閉幕が発生し一定数以上の未消化試合を残したまま閉幕を迎えた場合、所属全チームの順位を決定せずポストシーズン・表彰・入れ替えも中止とする場合もある。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "1つの大会に複数のリーグがある場合は、異なるリーグに所属するチーム間での試合(交流戦・インターリーグ)が組まれる場合もある。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "グループトーナメントは、勝ち残り式トーナメントと比較して以下のような特徴がある。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "順位の決定に当たっては、勝率や勝ち点を使用するのが一般的である。総当たり戦は各チームとも総試合数が同じであり、全ての試合において勝敗が決する場合には勝率による順位と勝利数による順位が一致する。この場合、勝利数でなく勝率を使うのが一般的であるが、これは単に暫定順位を正しく表示できるからであり、内容に差があるわけではない。しかし、勝利・敗北の他に引き分けを採用しているときは、引き分けをどう評価するかで差異が生じ、勝率の計算方法も違ってくる。引き分けを分母から除外して計算する方法(採用例:日本のプロ野球)・反対に引き分けを分母から除外せず、敗戦と同等とみなして計算する方式・引き分けを0.5勝0.5敗として計算する方法(採用例:NFL)などがある。(→勝率)",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "勝率による順位決定方式のほか、勝利や引き分けに相応の点数を与える勝ち点方式もサッカーをはじめとする多くの競技で採用されている。勝ち点方式を採用した場合、試合の消化数が一致しないと暫定順位に狂いが生じるが、伝統的な順位決定方法として多くの競技で採用されている。(→勝ち点)",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "二者の成績が並んだ場合の対処法は、大きく分けて2つある。複数の二次指標を優先順位をつけて用意する方法と、追加試合で決着をつける方法である。アメリカのプロ野球では、地区優勝または2本目のワイルドカードの対象チームが同率の場合、追加試合(one-game playoff)が実施される。日本プロ野球でもかつては同率首位の場合に同様のことを行っていたが、プレーオフの導入以降、直接対決の勝率や勝利数などで順位を決定するようになった。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "二次指標の例として、以下のようなものがある。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "また、複数の指標でそれぞれ1位となったチーム間で優勝決定戦を実施していた例もある。セントラル・リーグでは2001年は勝利数1位球団と勝率1位球団が異なる場合、2002-06年は勝率1位球団が勝利数で勝率2位球団を下回った場合に、追加の3試合で1位を決めることになっていた。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "プレーオフの結果が地区順位決定に用いられることもある。パシフィック・リーグでは2004年から2006年までの間、プレーオフの第1ステージ勝利チームが第2ステージも突破して日本シリーズに進出した場合、第1ステージ勝利チームが(パシフィック・リーグの)リーグ優勝となるルールであった。またNFLでは、翌年のドラフト順を決定する際にプレーオフの結果が優先される。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "※勝率は引き分けを除外して算出。勝点は勝利3、引き分け1で算出。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "野球においては、総当たり戦で各チームと数試合から数十試合ずつ対戦し、勝率をもって優勝チームを決定する方式がいわば基本形である。ただし、参加チーム数が6チーム程度であれば、各チームとの対戦数は同数となることが多いが、例えばアメリカ大リーグではリーグのチーム数が30と多く、またディビジョンごとにチーム数が異なるため、試合数が対戦相手によって異なる。また、日本の野球リーグでは引き分けを導入しているため、引き分けを除外して算出した勝率で順位を決定したり、勝利数のみで順位を決定したりと、順位決定方法が年代・時期や所属リーグにより異なり一定していない。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "正規の対戦(レギュラーシーズン)が終了した後に、レギュラーシーズンの上位者同士が対戦し最終的な優勝チームを決めるプレーオフも広く実施されている。プレーオフの実施形態は各国リーグごとに大きく異なる。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "サッカーにおいては、各チームが2回ずつ対戦するホーム・アンド・アウェー方式が広く採用されている。中には1回の総当たり戦を前期とし、前期順位に従って上位リーグと下位リーグに分かれた後期戦を戦うリーグもある(かつてのクロアチア・プルヴァHNLなど)。また、チーム数が少ないために4回の総当たりとするリーグもある(オーストリアやかつてのJリーグ(1993-95年)、およびJ2(1999-2007年)など)。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "順位決定に当たっては、伝統的に勝ち点制度が導入されている。サッカーでは、かつて勝利に2点、引き分けに1点、敗北に0点を与えていたが、勝利へのインセンティブを高めるため、1980年代ごろから勝利3点、引き分け1点、敗北0点とすることが通例となった。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "イングランドやフランス、日本などのラグビー競技では、総当たり戦で、勝利4点・引き分け2点・7点差以内の敗北1点、4トライ以上の獲得1点という勝ち点制度(マッチポイント制)を採用している。一方、オーストラリア・ニュージーランドのラグビーリーグでは、勝利2点・引き分け1点・敗北0点が与えられるとともに、各クラブへ平等に2点が付与される。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "NFLは、ディビジョン重視のやや変則的な方式となっている。同一ディビジョンのチームとはホーム・アンド・アウェイ方式の総当たり戦で、これに加えて他ディビジョンのチームとの単発試合がいくつか組まれるという形態である。現在のリーグ構成(総チーム数32)では、ディビジョン内の対戦が6試合、他ディビジョンのチームとの対戦が10試合となっている。ディビジョン内のチームとは毎年必ず2回対戦するため、特別なライバル関係が築かれることになる。また、2戦目はシーズン終盤の直接対決となり、多くの場合ディビジョン タイトル争いにおける重要な試合となる。順位決定は勝率(引き分けを0.5勝0.5敗に換算して計算)で行い、同率の場合は詳細に定められたタイブレークの手順に従う。それぞれシーズン16試合を戦い、ディビジョン首位とワイルドカードの計12チームによる勝ち残り式トーナメントのプレーオフで優勝チームを決定する。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "日本の社会人リーグXリーグは6チームごとの3ディビジョン構成で、複雑な3ステージのシステムを用いている。ディビジョン内でそれぞれ1回の総当たり戦(第1ステージ)を行った後、各ディビジョンの上位3チームをシャッフルした3グループ内でそれぞれ1回の総当たり戦(第2ステージ)を行う。そして、第1・第2ステージの勝敗を合算した成績で選ばれた各グループの首位と1チームのワイルドカードによる勝ち残り式トーナメント(ファイナル ステージ)で優勝チームを決定する(一方、第1ステージの各ディビジョンの下位3チームには、順位決定のステージが用意されている)。また、日本の学生リーグの場合は各地方毎での総当たり戦が行われる。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "日本のプロレスにおいては、日本プロレスのワールドリーグ戦、全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦、新日本プロレスのIWGPリーグ戦、全日本女子プロレスのタッグリーグ・ザ・ベストなどが行われた。プロレスという競技の性質上引き分けが頻発するため、これらの大会の多くは勝ち点制で行われた。国際プロレスのIWAワールド・シリーズでは、「開始時の持ち点が負けと引き分けで減点されていき、0点になると失格」というバッドマーク・システムなる方式が採用された。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "バスケットボールにおいては、オリンピック及びワールドカップなどの国際大会は勝利には2点、敗北には1点、棄権・失格には0点の勝点制がとられている。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "NBAは6ディビジョン30チームという構成で、MLB(野球)やNFL(アメリカンフットボール)と似た、偏りのある方式である。各ディビジョンの首位とワイルドカードによる勝ち残り式トーナメントのプレーオフで優勝チームを決定する。ただし、ディビジョンという区分けの意味合いはやや薄い。プレーオフの構成においてディビジョン首位が6チームに対しワイルドカードが10チームと多く、またプレーオフのシード順を決める際にディビジョン首位と最上位のワイルドカードを区別していない。さらに、シード順によって組み合わせが決まるのはプレーオフの初戦だけである(固定式の勝ち上がり式トーナメント)。これらのことから、ディビジョン タイトルの重要性は低く、実質的に両カンファレンスの上位8チームずつがプレーオフに進出するというシステムとなっている。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "日本のBリーグの場合、3地区制を採用しており、各地区の勝率上位がプレーオフに進むという方式がとられている。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "バレーボールにおいては、主要国際大会であるワールドカップでは12チームによる総当たり戦。オリンピックでは6チームずつ2組に分かれての予選リーグを行い上位4チームずつが決勝トーナメントへ進むという方式である。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "男子のワールドリーグは4チームずつのグループリーグで、ホーム アンド アウェー方式の予選リーグを行い上位チームが決勝ラウンドへ進出。女子のワールドグランプリは12チームが4チームずつに分かれる予選リーグを3回戦行い上位チームが決勝ラウンドへ進む方式がとられている。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "順位決定に当たっては長年にわたり、バスケットボール同様の「勝利には2点、敗北には1点、棄権・失格には0点」と言う形式がとられていたが、2009年のワールドリーグ以降一部の大会で、セットカウント3-0、3-1での勝利には3点、3-2での勝利には2点、敗れてもセットカウント2-3なら1点を与える方式が採用されつつある。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "日本のVプレミアリーグでは、年度によって違うものの2-4回戦総当たりのレギュラーラウンドを行い、上位4チームがセミファイナル、ファイナルラウンドに進むという方式がとられている。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "日本の囲碁の棋聖戦では、S・A・B・Cの4段階に分かれたリーグ戦が行われている。このほか、名人戦挑戦者決定リーグ、本因坊戦挑戦者決定リーグなどが行われている。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "中国では中国囲棋甲級リーグ戦が行われている。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "韓国ではリーグ戦(韓国囲碁リーグ)が主流となっている。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "国際棋戦では中韓囲碁リーグ優勝対抗戦などがある。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "日本の将棋では、名人戦の順位戦(総当たりはA級とB級1組のみ)、王位戦挑戦者決定リーグ(紅白二組制)、王将戦挑戦者決定リーグなどが行われている。これらのリーグでは開幕前から前期のリーグ成績に応じてあらかじめ棋士間の「順位」(当該期の成績とは別)が決められており、複数の棋士が同成績で全対局を終了した場合はその順位の上位者が優先されるケースがある(詳細は各棋戦の項を参照)。また、プロ棋士の養成機関である新進棋士奨励会の三段リーグでも、これと同様の方式が採用されている。将棋界では、このルールによって同星ながら下位者だけが昇級を逸したり降級を喫したりすることを「頭ハネ」と表現している。",
"title": "総当り戦"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "スイス式トーナメント方式(Swiss style tournament)は、近いレベルの競技者どうしの対戦が増えるような組み合わせ方式によって、総当たり戦に比べて少ない試合数においてもある程度の順位の正当性を持たせたり、実力に差がある場合に生じやすい「観戦側にとって興ざめな試合」を減らすことが期待できる方式である。事前のデータとして各選手(チーム)のレイティングあるいはそれに準じたデータがあることが望ましい。但し、後半になると勝ち残りの可能性の無いプレイヤーによる消化試合が生じるため、棄権(ドロップ)を認めていることも多い。棄権があってもその後をスムーズに進行できることも、総当たり戦と比べての利点である。スイストーナメント(Swiss tournament)、スイスドロー(Swiss draw)とも呼ばれる。この方式は、参加者の実力が伯仲しているが、総当り戦とするには参加者が多すぎる場合に適している。",
"title": "スイス式トーナメント"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "具体的には以下のような手順で行われる。",
"title": "スイス式トーナメント"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "規定の試合数を消化した時点で最も成績の良い参加者が優勝者となる。成績の算定方法は基本的に勝ち星の数(引き分けは0.5勝とする)であり、同点の場合はさまざまなタイブレーク方法が使われる。",
"title": "スイス式トーナメント"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "たとえば、",
"title": "スイス式トーナメント"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "(表中カッコ内は対戦相手の頭文字とその人の最終勝利数)",
"title": "スイス式トーナメント"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "勝ち残り式トーナメントに比べ順位がより厳密に算定され、また、全てのプレイヤーが一定回数の対戦を楽しめる。一方、次の対戦相手が、前の回戦のすべての試合が終了するまで分からず、また判定・組合せ決定に手間がかかるという欠点がある。",
"title": "スイス式トーナメント"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "上記の、ある回戦の全試合が終わるまで次の対戦相手が分からない、というデメリットを減らす目的で考案された変形スイス式トーナメントを以下に示す。",
"title": "スイス式トーナメント"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "思考型のゲームで使われることが多く、チェスやチェッカーの競技会の多くはこの形式を利用している。日本でも将棋や囲碁のアマチュア大会では積極的に採用されている。マジック:ザ・ギャザリングをはじめとするトレーディングカードゲームでも使用例は多い。",
"title": "スイス式トーナメント"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "以下にスポーツ競技での使用例を幾つか紹介する。",
"title": "スイス式トーナメント"
}
] | リーグ戦(リーグせん)とは、競技大会の大会形式を指す用語で、すべての参加チームが、少なくとも1回は他のすべての相手と対戦する試合方式、総当たり戦(そうあたりせん)方式を指す。参加者(チーム)同士がそれぞれに対戦を繰り返し、対戦結果を総合した成績によって順位を決定する。特殊な場合を除き、参加者の試合数は一定となる。参加者が多い場合には日程的に困難で,トーナメント形式(勝ち抜き戦)がとられる。この項では変則的なグループトーナメントである「スイス式トーナメント(ドロー)」についても述べる。 | '''リーグ戦'''(リーグせん)とは、競技大会の大会形式を指す用語で、すべての参加チームが、少なくとも1回は他のすべての相手と対戦する試合方式、'''総当たり戦'''(そうあたりせん)方式を指す<ref>コトバンク、精選版 日本国語大辞典</ref>。参加者(チーム)同士がそれぞれに対戦を繰り返し、対戦結果を総合した成績によって順位を決定する。特殊な場合を除き、参加者の試合数は一定となる。参加者が多い場合には日程的に困難で,'''[[トーナメント方式|トーナメント形式(勝ち抜き戦)]]'''がとられる<ref>コトバンク、平凡社百科事典マイペディア</ref>。この項では変則的なグループトーナメントである「[[スイス式トーナメント]](ドロー)」についても述べる。
== 定義 ==
日本語において「リーグ戦」は、総当たり戦に代表される「グループトーナメント」のことを指す。英語本来の「league(リーグ)」は単に「主催団体・連盟」のことで、「リーグ戦」はリーグが主催する全ての試合をさすものであり、大会・試合の運営方式・形式とは無関係である。したがって、日本語の「リーグ戦」は用法を限定した狭義の意味で用いられている(「[[トーナメント方式#勝ち残り式トーナメント|トーナメント戦]]」も同様)。
総当たり戦は「全ての参加チームが、全ての相手と一定回数の対戦を行う方式」である。このうち特に、総当たりの回数が2回以下であるものを[[ラウンドロビン|ラウンド・ロビン・トーナメント]]と呼ぶ(いわゆる「ホーム・アンド・アウェイ方式」はこの一種)。一方、グループトーナメント(リーグ戦)には、相手によって対戦回数が異なるものや完全には総当たりでないものも含まれる。
プロスポーツリーグの多くは、レギュラーシーズンの試合を総当たり戦(全てのチームと対戦しないリーグも存在)で行い、その後[[トーナメント方式#勝ち残り式トーナメント|勝ち残り式トーナメント(トーナメント戦)]]形式のプレーオフでシーズンの優勝チームを決定するという方式を取っている。また、国別の世界選手権などでは大会を複数のステージに分け、序盤・中盤は組ごとの総当たり戦で行い、最終ステージは勝ち残り式トーナメントとすることが多い。こうした使い分けが行われる背景には、それぞれの方式の特徴が関連している。
プロスポーツリーグによっては、[[戦時体制]]・[[パンデミック]]・[[ストライキ]]等により長期の開幕延期・中断・繰り上げ閉幕が発生し一定数以上の未消化試合を残したまま閉幕を迎えた場合、所属全チームの順位を決定せず[[ポストシーズン]]・表彰・入れ替えも中止とする場合もある。
1つの大会に複数のリーグがある場合は、異なるリーグに所属するチーム間での試合([[交流戦]]・[[インターリーグ]])が組まれる場合もある。
グループトーナメントは、勝ち残り式トーナメントと比較して以下のような特徴がある。
*参加チームが総当たりないしそれに近いかたちで対戦するため、より平等であり、総合的な実力が結果に反映される。
*参加チームごとの試合数が同じである(但し、雨天順延などで繰り延べられたゲームの非開催などによりばらつきが出ることはある)。
*試合数が多くなる。参加チーム数が多くなると試合数がチーム数の2乗オーダーで増加するため、そのままでは開催規模には限界があるといえる(これの解消策として、リーグ自体をいくつかの地区に分割して、閉幕後にそれぞれの地区の上位チームでポストシーズンを行い、優勝を争う方法がある)。
*[[消化試合]]が存在する。
*優勝チームだけでなく、それぞれの順位を決定できる。これにより下部リーグとの[[入れ替え戦]]の対象なども同時に選出できる。
== 総当り戦 ==
=== 順位の決定方式 ===
順位の決定に当たっては、[[勝率]]や勝ち点を使用するのが一般的である。総当たり戦は各チームとも総試合数が同じであり、全ての試合において勝敗が決する場合には勝率による順位と勝利数による順位が一致する。この場合、勝利数でなく勝率を使うのが一般的であるが、これは単に暫定順位を正しく表示できるからであり、内容に差があるわけではない。しかし、勝利・敗北の他に[[引き分け]]を採用しているときは、引き分けをどう評価するかで差異が生じ、勝率の計算方法も違ってくる。引き分けを分母から除外して計算する方法(採用例:日本の[[プロ野球]])・反対に引き分けを分母から除外せず、敗戦と同等とみなして計算する方式・引き分けを0.5勝0.5敗として計算する方法(採用例:[[NFL]])などがある。(→[[勝率]])
勝率による順位決定方式のほか、勝利や引き分けに相応の点数を与える[[勝ち点]]方式も[[サッカー]]をはじめとする多くの競技で採用されている。勝ち点方式を採用した場合、試合の消化数が一致しないと暫定順位に狂いが生じるが、伝統的な順位決定方法として多くの競技で採用されている。(→[[勝ち点]])
二者の成績が並んだ場合の対処法は、大きく分けて2つある。複数の二次指標を優先順位をつけて用意する方法と、追加試合で決着をつける方法である。アメリカのプロ野球では、地区優勝または2本目のワイルドカードの対象チームが同率の場合、追加試合(one-game playoff)が実施される。日本プロ野球でもかつては同率首位の場合に同様のことを行っていたが、[[プレーオフ]]の導入以降、直接対決の勝率や勝利数などで順位を決定するようになった。
二次指標の例として、以下のようなものがある。
*野球の[[ワールド・ベースボール・クラシック|WBC]]や[[アジアシリーズ]]では失点率が採用された。
*サッカーでは得失点差・総得点・直接対決成績などにより順位を決定する。
*セット率は主にバレーボールで利用される。取ったセット数を取られたセット数を除して算出する。取られたセットが0の場合は「MAX」などと表記し、数値としては無限大として扱う。
*卓球の団体戦では、人数・セット数・ポイント数を比較して順位を決定することがある。
*[[バスケットボール世界選手権]]ではかつて、得点合計÷失点合計 といった指標も用いられていた。
*将棋では、前期(あるいはそれ以前)の成績を元にして順位付けを行う。
また、複数の指標でそれぞれ1位となったチーム間で優勝決定戦を実施していた例もある。[[セントラル・リーグ]]では[[2001年]]は勝利数1位球団と勝率1位球団が異なる場合、2002-06年は勝率1位球団が勝利数で勝率2位球団を下回った場合に、追加の3試合で1位を決めることになっていた。
プレーオフの結果が地区順位決定に用いられることもある。[[パシフィック・リーグ]]では[[2004年]]から2006年までの間、プレーオフの第1ステージ勝利チームが第2ステージも突破して日本シリーズに進出した場合、第1ステージ勝利チームが(パシフィック・リーグの)リーグ優勝となるルールであった。またNFLでは、翌年のドラフト順を決定する際にプレーオフの結果が優先される。
{| class="wikitable" style="margin:0 0 0.5em 1.5em;text-align: center;"
|+表1:総当り戦の例
|-
! !!A!!B!!C!!D!!E!!F!!勝数!!敗数!!引分!!勝率!!勝点!!勝率<br />順位!!勝点<br />順位
|-
!Aチーム
|[[N/A]]||6-6-0||8-2-2||6-6-0||8-2-2||9-3-0||37||19||4||.661||115||1||2
|-
!Bチーム
|6-6-0||N/A||9-3-0||8-4-0||8-4-0||7-3-2||38||20||2||.655||116||2||1
|-
!Cチーム
|2-8-2||3-9-0||N/A||7-5-0||8-3-1||8-4-0||28||29||3||.491||87||3||3t
|-
!Dチーム
|6-6-0||4-8-0||5-7-0||N/A||7-5-0||7-5-0||29||31||0||.483||87||4||3t
|-
!Eチーム
|2-8-2||3-8-1||3-8-1||5-7-0||N/A||8-4-0||20||36||4||.357||64||5||5
|-
!Fチーム
|3-9-0||3-7-2||4-8-0||5-7-0||4-8-0||N/A||19||39||2||.328||59||6||6
|}
<small>※勝率は引き分けを除外して算出。勝点は勝利3、引き分け1で算出。</small>
=== 適用例 ===
==== 野球 ====
[[野球]]においては、総当たり戦で各チームと数試合から数十試合ずつ対戦し、勝率をもって優勝チームを決定する方式がいわば基本形である。ただし、参加チーム数が6チーム程度であれば、各チームとの対戦数は同数となることが多いが、例えば[[メジャーリーグベースボール|アメリカ大リーグ]]ではリーグのチーム数が30と多く、またディビジョンごとにチーム数が異なるため、試合数が対戦相手によって異なる。また、日本の野球リーグでは引き分けを導入しているため、引き分けを除外して算出した勝率で順位を決定したり、勝利数のみで順位を決定したりと、順位決定方法が年代・時期や所属リーグにより異なり<ref>日本では[[プロ野球]]と[[アマチュア野球]]は、組織運営がそれぞれ独立した形で行われてきた歴史があり(プロと登録アマチュアが対決する「サッカー天皇杯」に相当する全日本選手権大会も存在しない)、かつ、世界の中でも珍しく、野球全体の中に占めるアマチュア野球の影響が小さくない。そのため個々のリーグ事情により採用ルールは異なり多岐にわたる。総当たり戦トーナメントでも勝ち残り式トーナメントでも基本的に引き分け試合は発生するが、無効試合として再試合になる方法(勝ち残り式トーナメントでは極一部の特殊なケースを除きこの方法をとる)や、0.5勝0.5敗として[[勝率]]に反映させたりする。勝率や[[勝ち点]]については、それぞれの記事の野球に関する記述を参照のこと。</ref>一定していない。
正規の対戦(レギュラーシーズン)が終了した後に、レギュラーシーズンの上位者同士が対戦し最終的な優勝チームを決める[[プレーオフ]]も広く実施されている。プレーオフの実施形態は各国リーグごとに大きく異なる。
==== サッカー ====
[[サッカー]]においては、各チームが2回ずつ対戦する[[ホーム・アンド・アウェー]]方式が広く採用されている。中には1回の総当たり戦を前期とし、前期順位に従って上位リーグと下位リーグに分かれた後期戦を戦うリーグもある(かつてのクロアチア・[[プルヴァHNL]]など)。また、チーム数が少ないために4回の総当たりとするリーグもある(オーストリアやかつてのJリーグ(1993-95年)、およびJ2(1999-2007年)など)。
順位決定に当たっては、伝統的に勝ち点制度が導入されている。サッカーでは、かつて勝利に2点、引き分けに1点、敗北に0点を与えていたが、勝利へのインセンティブを高めるため、[[1980年代]]ごろから勝利3点、引き分け1点、敗北0点とすることが通例となった。
==== ラグビー ====
イングランドやフランス、日本などの[[ラグビーフットボール|ラグビー]]競技では、総当たり戦で、勝利4点・引き分け2点・7点差以内の敗北1点、4[[トライ (ラグビー)|トライ]]以上の獲得1点という勝ち点制度(マッチポイント制)を採用している。一方、オーストラリア・ニュージーランドのラグビーリーグでは、勝利2点・引き分け1点・敗北0点が与えられるとともに、各クラブへ平等に2点が付与される。
==== アメリカンフットボール ====
[[NFL]]は、ディビジョン重視のやや変則的な方式となっている。同一ディビジョンのチームとはホーム・アンド・アウェイ方式の総当たり戦で、これに加えて他ディビジョンのチームとの単発試合がいくつか組まれるという形態である。現在のリーグ構成(総チーム数32)では、ディビジョン内の対戦が6試合、他ディビジョンのチームとの対戦が10試合となっている。ディビジョン内のチームとは毎年必ず2回対戦するため、特別なライバル関係が築かれることになる。また、2戦目はシーズン終盤の直接対決となり、多くの場合ディビジョン タイトル争いにおける重要な試合となる。順位決定は勝率(引き分けを0.5勝0.5敗に換算して計算)で行い、同率の場合は詳細に定められた[[NFL#タイブレーク|タイブレークの手順]]に従う。それぞれシーズン16試合を戦い、ディビジョン首位と[[ワイルドカード_(スポーツ)|ワイルドカード]]の計12チームによる勝ち残り式トーナメントのプレーオフで優勝チームを決定する。
日本の社会人リーグ[[Xリーグ]]は6チームごとの3ディビジョン構成で、複雑な3ステージのシステムを用いている。ディビジョン内でそれぞれ1回の総当たり戦(第1ステージ)を行った後、各ディビジョンの上位3チームをシャッフルした3グループ内でそれぞれ1回の総当たり戦(第2ステージ)を行う。そして、第1・第2ステージの勝敗を合算した成績で選ばれた各グループの首位と1チームのワイルドカードによる勝ち残り式トーナメント(ファイナル ステージ)で優勝チームを決定する(一方、第1ステージの各ディビジョンの下位3チームには、順位決定のステージが用意されている)。また、日本の学生リーグの場合は各地方毎での総当たり戦が行われる。
==== プロレス ====
日本の[[プロレス]]においては、[[日本プロレス]]の[[ワールドリーグ戦]]、[[全日本プロレス]]の[[世界最強タッグ決定リーグ戦]]、[[新日本プロレス]]の[[IWGPリーグ戦]]、[[全日本女子プロレス]]の[[タッグリーグ・ザ・ベスト]]などが行われた。プロレスという競技の性質上引き分けが頻発するため、これらの大会の多くは勝ち点制で行われた。[[国際プロレス]]の[[IWAワールド・シリーズ]]では、「開始時の持ち点が負けと引き分けで減点されていき、0点になると失格」というバッドマーク・システムなる方式が採用された。
==== バスケットボール ====
[[バスケットボール]]においては、オリンピック及び[[FIBAバスケットボール・ワールドカップ|ワールドカップ]]などの国際大会は勝利には2点、敗北には1点、棄権・失格には0点の勝点制がとられている。
[[NBA]]は6ディビジョン30チームという構成で、MLB(野球)やNFL(アメリカンフットボール)と似た、偏りのある方式である。各ディビジョンの首位とワイルドカードによる勝ち残り式トーナメントのプレーオフで優勝チームを決定する。ただし、ディビジョンという区分けの意味合いはやや薄い。プレーオフの構成においてディビジョン首位が6チームに対しワイルドカードが10チームと多く、またプレーオフのシード順を決める際にディビジョン首位と最上位のワイルドカードを区別していない。さらに、シード順によって組み合わせが決まるのはプレーオフの初戦だけである(固定式の勝ち上がり式トーナメント)。これらのことから、ディビジョン タイトルの重要性は低く、実質的に両カンファレンスの上位8チームずつがプレーオフに進出するというシステムとなっている。
日本の[[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|Bリーグ]]の場合、3地区制を採用しており、各地区の勝率上位がプレーオフに進むという方式がとられている。
==== バレーボール ====
[[バレーボール]]においては、主要国際大会である[[バレーボールワールドカップ|ワールドカップ]]では12チームによる総当たり戦。オリンピックでは6チームずつ2組に分かれての予選リーグを行い上位4チームずつが決勝トーナメントへ進むという方式である。
男子の[[バレーボール・ワールドリーグ|ワールドリーグ]]は4チームずつのグループリーグで、ホーム アンド アウェー方式の予選リーグを行い上位チームが決勝ラウンドへ進出。女子の[[バレーボール・ワールドグランプリ|ワールドグランプリ]]は12チームが4チームずつに分かれる予選リーグを3回戦行い上位チームが決勝ラウンドへ進む方式がとられている。
順位決定に当たっては長年にわたり、バスケットボール同様の「勝利には2点、敗北には1点、棄権・失格には0点」と言う形式がとられていたが、2009年のワールドリーグ以降一部の大会で、セットカウント3-0、3-1での勝利には3点、3-2での勝利には2点、敗れてもセットカウント2-3なら1点を与える方式が採用されつつある。
日本の[[プレミアリーグ (バレーボール)|Vプレミアリーグ]]では、年度によって違うものの2-4回戦総当たりのレギュラーラウンドを行い、上位4チームがセミファイナル、ファイナルラウンドに進むという方式がとられている。
==== 囲碁 ====
日本の[[囲碁]]の[[棋聖 (囲碁)|棋聖戦]]では、S・A・B・Cの4段階に分かれたリーグ戦が行われている。このほか、[[名人 (囲碁)|名人戦]]挑戦者決定リーグ、[[本因坊|本因坊戦]]挑戦者決定リーグなどが行われている。
中国では[[中国囲棋甲級リーグ戦]]が行われている。
韓国ではリーグ戦([[韓国囲碁リーグ]])が主流となっている。
国際棋戦では[[中韓囲碁リーグ優勝対抗戦]]などがある。
==== 将棋 ====
日本の[[将棋]]では、[[名人戦 (将棋)|名人戦]]の[[順位戦]](総当たりはA級とB級1組のみ)、[[王位戦 (将棋)|王位戦]]挑戦者決定リーグ(紅白二組制)、[[王将戦]]挑戦者決定リーグなどが行われている。これらのリーグでは開幕前から前期のリーグ成績に応じてあらかじめ棋士間の「順位」(当該期の成績とは別)が決められており、複数の棋士が同成績で全対局を終了した場合はその順位の上位者が優先されるケースがある(詳細は各棋戦の項を参照)。また、プロ棋士の養成機関である[[新進棋士奨励会]]の三段リーグでも、これと同様の方式が採用されている。[[将棋界]]では、このルールによって同星ながら下位者だけが昇級を逸したり降級を喫したりすることを「頭ハネ」と表現している。
== スイス式トーナメント ==
{{Main|スイス式トーナメント}}
'''スイス式トーナメント方式'''(Swiss style tournament)は、近いレベルの競技者どうしの対戦が増えるような組み合わせ方式によって、総当たり戦に比べて少ない試合数においてもある程度の順位の正当性を持たせたり、実力に差がある場合に生じやすい「観戦側にとって興ざめな試合」を減らすことが期待できる方式である。事前のデータとして各選手(チーム)の[[レイティング]]あるいはそれに準じたデータがあることが望ましい。但し、後半になると勝ち残りの可能性の無いプレイヤーによる消化試合が生じるため、棄権(ドロップ)を認めていることも多い。棄権があってもその後をスムーズに進行できることも、総当たり戦と比べての利点である。スイストーナメント(Swiss tournament)、スイスドロー(Swiss draw)とも呼ばれる。この方式は、参加者の実力が伯仲しているが、総当り戦とするには参加者が多すぎる場合に適している。
具体的には以下のような手順で行われる。
* 1回戦はランダムな組合せで対戦する。
* 2回戦は、勝者同士と敗者同士が対戦するように組合せを決める。
* 3回戦は、2戦全勝・1勝1敗・2戦全敗のそれぞれが、同じ成績同士で対戦する。ただしすでに当たった相手とは対戦しない。
* 4回戦以降も同様に、できるだけ同じ成績同士で今まで当たっていない相手との対戦を繰り返す。
規定の試合数を消化した時点で最も成績の良い参加者が優勝者となる。成績の算定方法は基本的に勝ち星の数(引き分けは0.5勝とする)であり、同点の場合はさまざまなタイブレーク方法が使われる。
たとえば、
# ソルコフ点、対戦した相手の勝ち星の合計
# ソンボーン・ベルガー点(SB)、自分が勝利した相手の勝ち星の合計
# 勝利した相手の勝ち星のうち、最大のものと最小のものを除いた合計数(メディアン、MD)
# 同点の相手との直接対決での勝敗(DH)
# 自分が負けた相手の勝ち星の合計
# 引き分けのあるゲーム(チェスなど)では引き分けの少なさ、などである。
{| class="wikitable" style="margin:0 0 0.5em 1.5em; text-align:center;"
|+ 表1:スイス式4回戦トーナメントの例
|-
!!!1回戦!!2回戦!!3回戦!!4回戦!!勝利数!!敗北数!!ソルコフ!!SB!!順位
|-
!Anna
|○(J2)||○(F2)||●(H3)||○(C2)||3||1||9||6||2
|-
!Bill
|●(I2)||●(E1)||●(J2)||●(D2)||0||4||7||0||10
|-
!Charlie
|●(H3)||○(I2)||○(D2)||●(A3)||2||2||10||4||4
|-
!Davis
|○(G3)||●(H3)||●(C2)||○(B0)||2||2||8||3||5
|-
!Emmy
|●(F2)||○(B0)||●(G3)||●(I2)||1||3||7||0||9
|-
!Frank
|○(E1)||●(A3)||○(I2)||●(J2)||2||2||8||3||5
|-
!Gill
|●(D2)||○(J2)||○(E1)||○(H3)||3||1||8||6||3
|-
!Hance
|○(C2)||○(D2)||○(A3)||●(G3)||3||1||10||7||1
|-
!Ichiro
|○(B0)||●(C2)||●(F2)||○(E1)||2||2||5||1||8
|-
!Jan
|●(A3)||●(G3)||○(B0)||○(F2)||2||2||8||2||7
|}
(表中カッコ内は対戦相手の頭文字とその人の最終勝利数)
=== 利点と欠点 ===
勝ち残り式トーナメントに比べ順位がより厳密に算定され、また、全てのプレイヤーが一定回数の対戦を楽しめる。一方、次の対戦相手が、前の回戦のすべての試合が終了するまで分からず、また判定・組合せ決定に手間がかかるという欠点がある。
=== 変形スイス式トーナメント ===
上記の、ある回戦の全試合が終わるまで次の対戦相手が分からない、というデメリットを減らす目的で考案された'''変形スイス式トーナメント'''を以下に示す。
* 1回戦をランダムな組合せで対戦する(通常のスイス式トーナメントと同様)。
* 2回戦の対戦相手は、「1回戦はレイティングの上位者が勝った」と仮定した上での勝者同士と敗者同士の組合せとする。
* 3回戦以降は、最終戦を除いて2戦前までの結果(3回戦の組合せなら1回戦の実際の結果)に基づいて(通常のスイス式トーナメントの3回戦以降と同じ手法でその時点での同じ[[勝率]]同士で)組合せを決める。
=== 適用例 ===
思考型のゲームで使われることが多く、[[チェス]]や[[チェッカー]]の競技会の多くはこの形式を利用している。日本でも[[将棋]]や[[囲碁]]のアマチュア大会では積極的に採用されている。[[マジック:ザ・ギャザリング]]をはじめとする[[トレーディングカードゲーム]]でも使用例は多い。
以下にスポーツ競技での使用例を幾つか紹介する。
* [[大相撲]]
** [[幕下]]以下の各段でスイス式を採用している(対戦相手は[[番付]]により自動的に決定される。ただし、同じ[[相撲部屋|部屋]]の力士や、4親等以内の血縁者は本割で対戦しないといった決まりがある)。
* [[Xリーグ]]
** 完全なスイス式ではないが、4位以下による順位決定戦のうち、東日本を本拠とする「イーストディビジョン」・「セントラルディビジョン」では、それぞれ互いの3チームのうちの2チームと上位対上位・下位対下位で対戦する方式が採用されている。
* [[ワールド・リーグ戦]]・[[NWAタッグ・リーグ戦]]([[日本プロレス]])
** 日本人選手と外国人選手の間で対戦を組む形式となっているが、これも完全なスイス式ではない。
* [[オープン選手権]]([[全日本プロレス]])
** [[1975年]]に開催されたもので、参加者が20人を超えたこともあり、ファン投票を基とした番付方式を採用していた。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[トーナメント方式]]
* [[勝ち点]]
* [[勝率]]
* [[ゲーム差]]
* [[グループリーグ]]
== 参考サイト ==
* [http://sports.nikkei.co.jp/soccer/column/osumi.aspx?n=MMSOca247027092002 大住良之 『「勝ち点」をめぐる保守と革新の話』 NIKKEI NET SOCCER@Express、2002]{{リンク切れ|date=2020年6月}}
{{DEFAULTSORT:りいくせん}}
[[Category:スポーツリーグ|*]]
[[Category:トーナメント]] | 2003-02-23T07:41:03Z | 2023-11-25T13:21:51Z | false | false | false | [
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"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:リンク切れ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0%E6%88%A6 |
2,764 | 枕 | 枕(まくら)とは、就寝時に頭部を載せ支持するための寝具。 形状は数センチの厚みのある小さな板状のもので、クッション性を持たせたものが多い。スポンジや綿、羽毛など柔らかいものを布の袋に詰めた柔らかいものが欧米では一般的であるが、プラスチックや籾殻を詰めた適度な硬さがある枕も用いられている。
冬季など寒い時期には、首の横から冷たい空気が布団の中に入り込むのを防ぐ役割も果たす。
現代のような寝具としての枕の使用の起源は古代のメソポタミア、バビロニア、アッシリア、フェニキア時代といわれている。
それ以前については、1924年に南アフリカでアウストラロピテクスの頭蓋骨の下に人為的に砕かれた石が敷かれていたのが発見されたが、祭司的な意味で敷かれたのか、それとも実際に使われていたのか定かではない。古代においては丸太や平たい石をそのまま、あるいは藁やマコモ、スゲなどの茎を束ねて枕として利用した。
古代エジプトでは現代のベッドの原形が誕生したが、頭部はヘッドレストを使用していたため、ベッドには枕止め用のヘッドボードがなくフットボードしかなかった。
枕の発生によりメソポタミア、バビロニア、アッシリア、フェニキア時代にはベッドにヘッドボードが設けられるようになった。
木材・石材の加工や布の染色と裁縫、陶磁器製造の技術進歩に伴い、枕は重要な工芸品になり、まず中国で丹念に装飾された布製、陶磁器製の枕が広まり、中世ヨーロッパでも広く貴重品として売買された。貧しい人の間では、粗い布を縫い合わせたものに藁を詰めたものが広く用いられていたが、地域により骨や木、時には石に布を巻いたものが枕に用いられた。産業革命以後は、安価に大量生産された布を使い、様々な枕が作られるようになり、現在にいたる。
日本の古墳時代には、古墳の被葬者に対して、埴製(例、燈籠山古墳)・石製・琥珀製(例、竜田御坊山古墳)など多様な材質の枕を用いた。これらは権力者の文化であり、死者に用いる枕文化である。これらの枕文化は当時の加工技術を知る上でも重要な考古学資料となっている。
江戸時代以前の日本では髷(まげ)の形を崩さないようにする必要があった。そのため、箱の上に布製の括り枕を取り付け高さを上げた枕が使用された。 こうした枕は垜枕と呼ばれた。箱の多くには引き出しがついており、小物や金品など貴重品を入れる金庫の役目を果たしていた。そのため、盗人のことを「枕探し」と呼び、火事の時は枕を抱えて逃げた。また、引き出しに春画を入れることも多く、「枕絵」と呼ばれる所以となっている。
様々な文化において、枕は生や死と密接に結び付けられている。日本語のまくらは、たまくら、つまり魂の倉が語源であるとする説がある。 かつては海難事故などで葬儀の時に遺体がない場合に、故人の使っていた枕を代用する風習があった。
適度な硬さを持つ物を加工し頭を載せやすくしたものと袋に詰め物をしたものに大別できる。
枕の付属品として枕カバーがある。
人は睡眠中、一晩でコップ1杯ほどの汗をかく、と言われているが、頭部からもそれなりの量、汗をかいており枕にそれが吸い込まれる。また頭皮(の脱落したもの)や皮脂なども、本人が知らぬ間に、枕に付着することになる。
枕は、そのまま用いずに薄い布(木綿やポリエステル製の布)でできた枕カバーで包んで使うことが多い。枕カバーは定期的に洗い、清潔に保つのが望ましい。それでも枕本体は汗が吸収されてはその一部だけが蒸発し不十分に乾燥することを繰り返すので、枕本体の天日干しか陰干しを定期的に行い、しっかり乾燥させるのが望ましい。また、そうした作業をしても、どうしても頭皮・皮脂はカバーごしに枕本体に溜まってゆくものなので、枕本体の詰め物が洗濯可能な材質の場合は、枕本体も定期的に洗い・日干しを行うのが望ましい。
枕は上記のようなケア(枕本体の洗いや日干し・陰干し)をしっかりしないまま長く使用しつづけてしまうと、ダニが発生してしまうことが多い。ダニは湿っぽい場所では活発に繁殖する傾向があり、汗で湿っぽくなりさらに皮脂などの栄養物が蓄積した枕は、なおさらダニにとって繁殖しやすい環境となるためである。
ダニはアレルギーを引き起こす場合がある。これは特にアトピーや喘息を持つ人の場合には深刻な問題である。アレルギーの原因としてダニの糞・死骸などが主なアレルゲンであり、除去方法として枕に掃除機をかけ生きたダニやダニの死骸やダニの卵を吸い取って除去し、洗濯機でしっかり丸洗いし、よく晴れた日に日干しし、十分に高温にし、乾燥させるのが効果的とされている。
また問題を防止するため、最近では、防ダニ加工をしてある製品も販売されている。ただし防ダニ加工の効果はある程度期待でき状態は改善するものの、長期に渡って完璧を期待するのは無理な場合も多く、やはり時には洗濯・日干しなどのメンテナンスの手間がある程度はかかると覚悟しておいたほうがよい。
また抗菌加工が施された枕やアレルギー対策枕も販売されている。抗菌枕は、詰め物にポリエステル、布にポリプロピレンなどが使われる。
元島根大学の内藤浩平博士によれば、「人間は、もともと反射的・力学的に体にとって楽な姿勢をとろうとするもので、枕も、人間が体を健康に保つツールとして必然的に発生したもの」という。 最近では、ただ頭だけを支えるだけではなく、首の形を整えて頭を支えるものと言われている。また首や頭の形状は、体型、年齢、性差などで千差万別であるし、マットレスや敷き布団との相性もあり、誰にでも合う万能枕はなかなかお目にかかれない。しかし、最近ではエアバッグで調整できる枕や、綿やポリウレタンなどの柔らかい枕はそば殻の固い枕よりも高く、そば殻では綿やポリウレタンよりも低い枕を選ぶ方法がある。が、様々な要点があるのでこれだけが原因とは言えない。オーダーメイド枕もいろいろな会社から販売されている。 また、専門外来「枕外来」を行う山田朱織医学博士は、寝返りを促す枕調節は重要であり、適した高さの枕は睡眠姿勢の改善に寄与すると提言している。「寝返りを促す枕調節の意義と睡眠姿勢の改善-関節リウマチの睡眠を考えるー」第55回日本リウマチ学会総会・学術集会発表資料より
クッション類に「枕」の名がついているものもある。抱き枕、首枕、足枕などがある。
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] | 枕(まくら)とは、就寝時に頭部を載せ支持するための寝具。
形状は数センチの厚みのある小さな板状のもので、クッション性を持たせたものが多い。スポンジや綿、羽毛など柔らかいものを布の袋に詰めた柔らかいものが欧米では一般的であるが、プラスチックや籾殻を詰めた適度な硬さがある枕も用いられている。 冬季など寒い時期には、首の横から冷たい空気が布団の中に入り込むのを防ぐ役割も果たす。 | {{Otheruses||「'''枕'''」と「'''まくら'''」のその他の用法}}
[[File:Vrba postelja.jpg|thumb|200px|枕の一例]]
[[File:Japanese Pipe Pillow.jpg|thumb|right|200px|小さなパイプをつめた枕。つめものだけ手早く洗って乾かせる。]]
'''枕'''(まくら)とは、就寝時に頭部を載せ支持するための[[寝具]]<ref name="jpo-card-C1">[https://www.jpo.go.jp/shiryou/s_sonota/pdf/card/C1.pdf 意匠分類定義カード(C1)] 特許庁</ref><ref name="mingu100">[https://rekimin-sekigahara.jp/main/exhibition/mingu100/mingu-jyuu/100_23.html 枕] 関ケ原町歴史民俗資料館</ref>。
形状は数センチの厚みのある小さな板状のもので、クッション性を持たせたものが多い。[[スポンジ]]や[[綿]]、[[羽毛]]など柔らかいものを布の袋に詰めた柔らかいものが欧米では一般的であるが、プラスチックや籾殻を詰めた適度な硬さがある枕も用いられている。
冬季など寒い時期には、首の横から冷たい空気が[[布団]]の中に入り込むのを防ぐ役割も果たす。
== 歴史 ==
現代のような寝具としての枕の使用の起源は古代のメソポタミア、バビロニア、アッシリア、フェニキア時代といわれている<ref name="toyokeizai1" />。
それ以前については、[[1924年]]に[[南アフリカ]]で[[アウストラロピテクス属|アウストラロピテクス]]の頭蓋骨の下に人為的に砕かれた[[石]]が敷かれていたのが発見されたが、祭司的な意味で敷かれたのか、それとも実際に使われていたのか定かではない。古代においては[[丸太]]や平たい石をそのまま、あるいは[[藁]]や[[マコモ]]、[[スゲ]]などの[[茎]]を束ねて枕として利用した。
[[古代エジプト]]では現代のベッドの原形が誕生したが、頭部はヘッドレストを使用していたため、ベッドには枕止め用のヘッドボードがなくフットボードしかなかった<ref name="toyokeizai1">{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/221190|title=人と寝具の意外と知られていない長く深い縁|publisher=東洋経済オンライン|accessdate=2021-09-29|page=1}}</ref>。
枕の発生によりメソポタミア、バビロニア、アッシリア、フェニキア時代にはベッドにヘッドボードが設けられるようになった<ref name="toyokeizai1" />。
[[木材]]・[[石材]]の加工や布の[[染色]]と[[裁縫]]、[[陶磁器]]製造の技術進歩に伴い、枕は重要な工芸品になり、まず[[中国]]で丹念に装飾された布製、陶磁器製の枕が広まり、[[中世#ヨーロッパ|中世ヨーロッパ]]でも広く貴重品として売買された。貧しい人の間では、粗い布を縫い合わせたものに藁を詰めたものが広く用いられていたが、地域により骨や木、時には石に布を巻いたものが枕に用いられた。[[産業革命]]以後は、安価に大量生産された布を使い、様々な枕が作られるようになり、現在にいたる。
日本の古墳時代には、古墳の被葬者に対して、埴製(例、燈籠山古墳)・石製・[[琥珀]]製(例、竜田御坊山古墳)など多様な材質の枕を用いた。これらは権力者の文化であり、死者に用いる枕文化である。これらの枕文化は当時の加工技術を知る上でも重要な考古学資料となっている。
[[江戸時代]]以前の日本では[[髷]](まげ)の形を崩さないようにする必要があった<ref name="mingu100" />。そのため、箱の上に布製の括り枕を取り付け高さを上げた枕が使用された<ref name="mingu100" />。
こうした枕は垜枕と呼ばれた。箱の多くには引き出しがついており、小物や金品など貴重品を入れる[[金庫]]の役目を果たしていた。そのため、[[窃盗|盗人]]のことを「[[邯鄲の枕#邯鄲師|枕探し]]」と呼び、火事の時は枕を抱えて逃げた。また、引き出しに[[春画]]を入れることも多く、「枕絵」と呼ばれる所以となっている<ref name="nazogaku">岩井宏實『日本の伝統を読み解く:暮らしの謎学』青春出版社、2003年、ISBN 4413040686、pp.137-140.</ref>。
様々な文化において、枕は生や死と密接に結び付けられている。日本語のまくらは、''たまくら''、つまり魂の倉が語源であるとする説がある<ref>{{Cite book|和書|author=花岡利昌|year=1993|title=枕の人間工学 -安眠の条件-|publisher=光生館|isbn=4-332-01010-8}}</ref>。
かつては海難事故などで葬儀の時に遺体がない場合に、故人の使っていた枕を代用する風習があった<ref name="nazogaku" />。
== 構造 ==
適度な硬さを持つ物を加工し頭を載せやすくしたものと袋に詰め物をしたものに大別できる。
=== 適度な硬さを持つ物 ===
*[[陶磁器|陶器]] - [[陶枕]]と呼ばれる。福徳陶枕が有名であった。
*[[石材]]
*[[木材]]
*[[竹]]
*[[トウ|籐]]
=== 詰め物の芯材 ===
{{Div col}}
*[[蕎麦殻]] - 日本でよく使われる。
*[[籾殻]]
*[[小豆]]
*[[ウレタン]]
*[[合成樹脂|プラスチック]]の小さな[[パイプ]]
*[[スポンジ]]
*[[カポック|パンヤ]]
*[[羽毛]]
*[[空気]] - 高さが調整できる枕も発売されている。
*[[キク|菊]] - [[菊枕]]を参照
*発泡天然ゴム(天然ラテックスフォーム、フォームラバー)
*[[ポリエステル]]
*[[ポリウレタン]]
{{Div col end}}
=== 枕カバー ===
枕の付属品として枕カバーがある<ref name="jpo-card-C1" />。
== 使用と手入れ ==
人は睡眠中、一晩でコップ1杯ほどの汗をかく、と言われているが、頭部からもそれなりの量、汗をかいており枕にそれが吸い込まれる。また頭皮(の脱落したもの)や皮脂なども、本人が知らぬ間に、枕に付着することになる。
枕は、そのまま用いずに薄い布([[木綿]]や[[ポリエステル]]製の布)でできた枕カバーで包んで使うことが多い。枕カバーは定期的<ref group="注">ホテルなどでは、基本的には毎日交換する。家庭では毎日〜数日おきに、長い場合でも1週おき程度で交換することが望ましい。それ以上つけっぱなしにすると、汗などによって臭いが発生し、本人が気づかないうちに頭髪がにおうようになる。</ref>に洗い、清潔に保つのが望ましい。それでも枕本体は汗が吸収されてはその一部だけが蒸発し不十分に乾燥することを繰り返すので、枕本体の天日干しか陰干しを定期的に行い、しっかり乾燥させるのが望ましい。また、そうした作業をしても、どうしても頭皮・皮脂はカバーごしに枕本体に溜まってゆくものなので、枕本体の詰め物が洗濯可能な材質の場合は、枕本体も定期的に洗い・日干しを行うのが望ましい<ref group="注">最近は[[百円均一]]の店で、枕を物干し竿でうまく干すための商品が販売されており、販売商品点数ランキングの上位にも登場することがある。</ref>。
枕は上記のようなケア(枕本体の洗いや日干し・陰干し)をしっかりしないまま長く使用しつづけてしまうと、[[ダニ]]が発生してしまうことが多い。ダニは湿っぽい場所では活発に繁殖する傾向があり、汗で湿っぽくなりさらに皮脂などの栄養物が蓄積した枕は、なおさらダニにとって繁殖しやすい環境となるためである。
ダニは[[アレルギー]]を引き起こす場合がある。これは特にアトピーや喘息を持つ人の場合には深刻な問題である。アレルギーの原因としてダニの糞・死骸などが主な[[アレルゲン]]であり、除去方法として枕に掃除機をかけ生きたダニやダニの死骸やダニの卵を吸い取って除去し、洗濯機でしっかり丸洗いし、よく晴れた日に日干しし、十分に高温にし、乾燥させるのが効果的とされている。
また問題を防止するため、最近では、防ダニ加工をしてある製品も販売されている。ただし防ダニ加工の効果はある程度期待でき状態は改善するものの、長期に渡って完璧を期待するのは無理な場合も多く、やはり時には洗濯・日干しなどのメンテナンスの手間がある程度はかかると覚悟しておいたほうがよい。
また抗菌加工が施された枕やアレルギー対策枕も販売されている。抗菌枕は、詰め物に[[ポリエステル]]、布に[[ポリプロピレン]]などが使われる。
== 枕の意義 ==
元島根大学の[[内藤浩平]]博士によれば、「人間は、もともと反射的・力学的に体にとって楽な姿勢をとろうとするもので、枕も、人間が体を健康に保つツールとして必然的に発生したもの」という。
最近では、ただ頭だけを支えるだけではなく、首の形を整えて頭を支えるものと言われている。また首や頭の形状は、体型、年齢、性差などで千差万別であるし、[[マットレス]]や[[敷き布団]]との相性もあり、誰にでも合う万能枕はなかなかお目にかかれない。しかし、最近ではエアバッグで調整できる枕や、綿やポリウレタンなどの柔らかい枕はそば殻の固い枕よりも高く、そば殻では綿やポリウレタンよりも低い枕を選ぶ方法がある。が、様々な要点がある{{要出典|date=2015年6月}}のでこれ{{どれ|date=2015年6月}}だけが原因{{何の|date=2015年6月}}とは言えない。オーダーメイド枕もいろいろな会社から販売されている。<br />
また、専門外来「枕外来」を行う[[山田朱織]]医学博士は、寝返りを促す枕調節は重要であり、適した高さの枕は睡眠姿勢の改善に寄与すると提言している。「寝返りを促す枕調節の意義と睡眠姿勢の改善-[[関節リウマチ]]の睡眠を考えるー」第55回日本リウマチ学会総会・学術集会発表資料より
=== クッション類 ===
クッション類に「枕」の名がついているものもある。[[抱き枕]]<ref name="jpo-card-C1" />、首枕<ref name="jpo-card-C1" />、足枕<ref name="jpo-card-C1" />などがある。
=== デスク枕 ===
昼寝や仮眠を取る際はデスクに腕を枕にうつ伏せで寝ることが多い。しかし腕がシビレてしまう。そうしたことのないようデスクで睡眠するための補助枕が出ている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Multicol}}
* [[膝枕]] - [[腰枕]]
* [[腕枕]]
* [[新婚さんいらっしゃい! #イエス・ノー枕|YES/NO枕]](TV番組「[[新婚さんいらっしゃい!]]」の賞品)
* [[枕投げ]]([[枕合戦]])
* [[ピローファイト]]
|
* [[枕営業]]
* [[枕木]]
* [[陶枕]]
* [[菊枕]]
* [[掛け布団]]
* [[マットレス]]
* [[ベッド]]
{{Multicol-end}}
== 外部リンク ==
{{wikiquote|枕}}
{{wiktionary|まくら|枕|pillow}}
{{commonscat|Pillows}}
* [https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/101739 枕 文化遺産オンライン] - 国立情報学研究所
* [https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/heart/k-01-003.html 快眠のためのテクニック -よく眠るために必要な寝具の条件と寝相・寝返りとの関係 e-ヘルスネット] - 厚生労働省
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:まくら}}
[[Category:枕|*]] | 2003-02-23T09:26:41Z | 2023-11-25T05:22:49Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%95 |
2,768 | Local area network | Local area network(ローカル・エリア・ネットワーク。LAN)とは、企業・官庁のオフィスや工場などの事業所、学校、家庭などで使用されるコンピュータネットワークである。 狭義にはイーサネットに代表される通信ケーブルとデータリンク層の技術方式、規格を指し、広義には事業所内、家庭内で使用されるコンピュータネットワークと情報処理システムを指す場合がある。 本項では狭義の技術方式、規格について解説する。
歴史的経緯から初期の技術規格として可能な配線長が数百m程度であったことから、室内、建物内を主な対象とする意味でLocal Area Networkという名称であるが、現在では数十kmの延長が可能な規格も存在する。
LANの標準化組織である米国電気電子技術者協会(IEEE)や国際標準化機構(ISO)での定義によると
といった特徴をもっている。
本項では狭義の技術方式、規格の種類と歴史を概観する。個別の方式の構成や動作についてはそれぞれの見出し項目を参照されたい。 また本項で解説する単独のLANを複数組み合わせた広義のLANである事業所内LAN、企業内LANなどについては、該当の節を参照されたい。
LANが商用化される初期の時期に規格化されたLANの種類には次のものが存在する。
この内イーサネットが商業的な普及を広め、以後それを高速化した後継規格がデファクト・スタンダードとなっている。
近年は無線方式による、無線LAN(IEEE 802.11シリーズ)も普及している。
HomePNAは家庭内の既設電話線を利用するLANである。
既設の電灯線・配電線を利用するPLCも家庭内LANの新技術として注目されている。
LANの発祥の一つであるイーサネットは1973年に米Xeroxパロアルト研究所でロバート・メトカーフを中心に開発された。 これに先立つ基となる研究として1960年代中頃のポール・バラン(アメリカ)またはドナルド・デービス(イギリス)によるパケット通信、1970年頃のハワイ大学におけるALOHAプロジェクトによる多重ランダムアクセス通信方式の研究がある。
1980年2月にIEEE 802委員会が発足する。これは可変サイズのパケットを伝送するネットワークに関する検討を目的としたものであった。 この年DIX規格のEthernet Iが発表される。
1982年、DIX規格のEthernet IIが発表される。
1983年、IEEE 802.3 10Base5が標準化される。
1984年、IEEE 802.3a 10Base2が標準化される。米IBMがトークンリングを開発する。
1987年、アメリカ国家規格協会(ANSI)でFDDIが標準化される。
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2006年、IEEE 802.3an 10GBase-Tが標準化される。
その後40GigabitEthernet、100GigabitEthernetの開発が続いている。
レイヤについてはOSI参照モデルを参照のこと。
トポロジー(形状)による分類では、スター型、バス型、リング型の3つに分類される。これらは各規格における伝送媒体と接続機器の実装により形成されるものである。
LANのトポロジーに関する議論は、伝送媒体(ケーブル、光ケーブル)とデータリンク層を接続する機器間で共有するイーサネット(10Base5、10Base2)、FDDIが現役であった1990年代までは意義のあるところだったが、その後のLANスイッチの普及拡大により、近年ではほぼすべてがスター型配線になっている。
各規格において使用する伝送媒体が定められている。主な例としては同軸ケーブル、ツイストペアケーブル(撚り対線)、光ファイバー、無線(大気の電波伝播)が利用される。
変調方式による分類では、ベースバンド方式とブロードバンド方式に分けられる。
LANの最も基本的な構成はケーブルとデータリンク層を共有する単独のLANである。それについては本項で種類を解説した。 企業などの事業所内で利用するコンピューターネットワークとしてのLANでは、複数のLANをブリッジ、ルーター、LANスイッチを用いて接続し、ネットワークを拡張する。 ネットワークの拡張に当たってはLAN技術以外にシリアル回線、ATM、WDM伝送装置などが利用される場合がある。 広義のLAN(大規模LAN)の構成や方式については先に述べたものの他にIP(Internet Protocol)や関係する技術、さらに上位レイヤも含めた技術の複合体として成り立っている。 これらの話題についてはネットワーク構築、(情報)システム構築の分野の技術として、関係する書籍などの情報を参照されたい。 | [
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] | Local area network(ローカル・エリア・ネットワーク。LAN)とは、企業・官庁のオフィスや工場などの事業所、学校、家庭などで使用されるコンピュータネットワークである。
狭義にはイーサネットに代表される通信ケーブルとデータリンク層の技術方式、規格を指し、広義には事業所内、家庭内で使用されるコンピュータネットワークと情報処理システムを指す場合がある。
本項では狭義の技術方式、規格について解説する。 歴史的経緯から初期の技術規格として可能な配線長が数百m程度であったことから、室内、建物内を主な対象とする意味でLocal Area Networkという名称であるが、現在では数十kmの延長が可能な規格も存在する。 | {{redirect|LAN}}
{{出典の明記|date=2019年12月}}
'''Local area network'''(ローカル・エリア・ネットワーク。'''LAN''')とは、企業・官庁のオフィスや工場などの事業所、学校、家庭などで使用される[[コンピュータネットワーク]]である。
狭義には[[イーサネット]]に代表される通信ケーブルとデータリンク層の技術方式、規格を指し、広義には事業所内、家庭内で使用される[[コンピュータネットワーク]]と情報処理システムを指す場合がある。
本項では狭義の技術方式、規格について解説する。
歴史的経緯から初期の技術規格として可能な配線長が数百m程度であったことから、室内、建物内を主な対象とする意味でLocal Area Networkという名称であるが、現在では数十kmの延長が可能な規格も存在する。
== 概説 ==
[[ファイル:Ethernet LAN ja.svg|200px|サムネイル|右|代替文=Ethernet LAN| バスネットワークトポロジを使用したローカルエリアネットワークの概念図。]]
LANの標準化組織である[[IEEE|米国電気電子技術者協会]](IEEE)や[[国際標準化機構]](ISO)での定義によると
# 限定された広がりをもつ地域で、コンピュータをはじめとする様々な機器の間で自由に情報交換ができる。
# 導入したユーザーが主体となって管理・運営する([[電気通信事業者]]資格が不要)。
# 異なる[[ベンダー]]で作成された機器をLANに接続でき、相互に通信可能(マルチベンダ接続)。
といった特徴をもっている。
本項では狭義の技術方式、規格の種類と歴史を概観する。個別の方式の構成や動作についてはそれぞれの見出し項目を参照されたい。
また本項で解説する単独のLANを複数組み合わせた広義のLANである事業所内LAN、企業内LANなどについては、該当の節を参照されたい。
== LANの種類 ==
LANが商用化される初期の時期に規格化されたLANの種類には次のものが存在する。
* '''[[イーサネット]]''' ('''Ethernet'''、DIX規格、[[Ethernet II]]、[[IEEE]] 802.3)
* '''[[トークンバス]]''' ('''Token Bus'''、IEEE 802.4)
* '''[[トークンリング]]''' ('''Token Ring'''、IEEE 802.5)
* '''[[FDDI]]'''('''Fiber-distributed data interface'''、ANSI X3T9.5など)
この内イーサネットが商業的な普及を広め、以後それを高速化した後継規格がデファクト・スタンダードとなっている。
<!-- この部分にFast Ethernet、Gigabit Ethernet、10Gbit Ethernet、40G/100Gbit Ethernetを加筆予定 -->
近年は無線方式による、[[無線LAN]]([[IEEE 802.11]]シリーズ)も普及している。
[[HomePNA]]は家庭内の既設[[ツイストペアケーブル|電話線]]を利用するLANである。
既設の電灯線・配電線を利用する[[電力線搬送通信|PLC]]も家庭内LANの新技術として注目されている。
== LANの歴史 ==
LANの発祥の一つである[[イーサネット]]は1973年に米[[Xerox]][[パロアルト研究所]]で[[ロバート・メトカーフ]]を中心に開発された。
これに先立つ基となる研究として1960年代中頃の[[ポール・バラン]](アメリカ)または[[ドナルド・デービス]](イギリス)による[[パケット通信]]、1970年頃のハワイ大学における[[ALOHAnet |ALOHAプロジェクト]]による[[ALOHA|多重ランダムアクセス通信方式]]の研究がある。
1980年2月に[[IEEE 802委員会]]が発足する。これは可変サイズのパケットを伝送するネットワークに関する検討を目的としたものであった。
この年DIX規格のEthernet Iが発表される。
1982年、DIX規格のEthernet IIが発表される。
1983年、IEEE 802.3 10Base5が標準化される。
1984年、IEEE 802.3a 10Base2が標準化される。米IBMがトークンリングを開発する。
1987年、[[ANSI|アメリカ国家規格協会(ANSI)]]でFDDIが標準化される。
1990年、IEEE 802.3i 10Base-Tが標準化される。
1995年、IEEE 802.3u 100Base-TXが標準化される。
1998年、IEEE 802.3z 1000Base-SX、LXが標準化される。
1999年、IEEE 802.3ab 1000Base-Tが標準化される。
2006年、IEEE 802.3an 10GBase-Tが標準化される。
その後40GigabitEthernet、100GigabitEthernetの開発が続いている。
== LANの分類 ==
レイヤについては'''[[OSI参照モデル]]を参照のこと。'''
=== トポロジーによる分類(レイヤ1) ===
トポロジー(形状)による分類では、'''スター型'''、'''バス型'''、'''リング型'''の3つに分類される。これらは各規格における伝送媒体と接続機器の実装により形成されるものである。
* '''スター型LAN'''は、中央に集線装置である[[ハブ (ネットワーク機器)|ハブ]]を置き、すべての端末を接続する形である。配置の変更が柔軟に行え、故障箇所の特定もしやすいことから、広く普及している。ただし、ハブ部分で故障が起きた場合には全端末で相互通信が不可能になるため、信頼性が必要な場合はハブを二重化するなどの対策をとることが多い。たとえば[[ツイストペアケーブル]](撚り対線)を利用した[[イーサネット]]([[10Base-T]]、100Base-TX、1000Base-T等)、トークンリング<ref>トークンリングという名称であるが、配線、機器の実装はツイストペアケーブルによるスター型トポロジーである。</ref>がある。
* '''バス型LAN'''は、バスと呼ばれる伝送路に接続する形であり、基幹ケーブルに短冊状に端末がぶら下がるような形となる。バス上の一部で故障が発生した場合、故障点を超える通信は不可能になる。構成上バスを増やす以外に信頼性向上の手段がないため、信頼性向上は難しい。たとえば同軸ケーブルを用いるイーサネット(10Base5、10Base2)、[[トークンバス]]がある。
* '''リング型LAN'''は、端末を順次伝送路につないでいく形であり、伝送路が数珠つなぎの円形となる。伝送路及び伝送路機器に障害が発生するとLANが停止するため、伝送路を2重にする場合が多い。また2重化することにより、途中、伝送路機器の故障、伝送路の切断などの各種障害に対し非常に強くなるため、基幹用に用いられることが多い。たとえば[[FDDI]]がある。
<gallery>
Image:Topoloxía en estrela.png|スター型
Image:Topoloxía en bus.png|バス型
Image:Topoloxía en anel.png|リング型
</gallery>LANのトポロジーに関する議論は、伝送媒体(ケーブル、光ケーブル)とデータリンク層を接続する機器間で共有するイーサネット(10Base5、10Base2)、[[FDDI]]が現役であった1990年代までは意義のあるところだったが、その後のLANスイッチの普及拡大により、近年ではほぼすべてがスター型配線になっている。
=== 伝送媒体による分類 ===
各規格において使用する伝送媒体が定められている。主な例としては[[同軸ケーブル]]、[[ツイストペアケーブル|ツイストペアケーブル(撚り対線)]]、[[光ファイバー]]、[[無線|無線(大気の電波伝播)]]が利用される。
{| class="wikitable"
|-
! 標準名称 !! 規格名称 !! 伝送媒体
|-
| IEEE 802.3 || 10Base5 || 外径9.5mm、特性インピーダンス50Ωの同軸ケーブル(Thickケーブル)
|-
| IEEE 802.3a || 10Base2 || 外径5mm、特性インピーダンス50Ωの同軸ケーブル(Thinケーブル)
|-
| IEEE 802.3i || 10BASE-T || カテゴリ3以上のツイステッド・ペア・ケーブル
|-
| IEEE 802.3u || 100Base-TX || カテゴリ5以上のツイステッド・ペア・ケーブル
|-
| IEEE 802.3ab || 1000Base-T || カテゴリ5e以上のツイステッド・ペア・ケーブル
|}
=== 変調方式による分類(レイヤ1) ===
変調方式による分類では、[[ベースバンド]]方式と[[ブロードバンド]]方式に分けられる。
* '''ベースバンド方式'''は、コンピュータで扱われるディジタルデータを符号化し、変調せずに電気パルスとして伝送路に送信する方式である。イーサネットや[[FDDI]] (TP-PMD, CDDI) がこの方式である。
* '''ブロードバンド方式'''は、コンピュータで扱われるディジタルデータを符号化し、変調して搬送波としてアナログ伝送路に送信する方式である。IEEE 802.4([[トークン・バス]])がこの方式である。
== 広義のLAN(大規模LAN) ==
LANの最も基本的な構成はケーブルとデータリンク層を共有する単独のLANである。それについては本項で種類を解説した。
企業などの事業所内で利用するコンピューターネットワークとしてのLANでは、複数のLANを[[ブリッジ (ネットワーク機器)|ブリッジ]]、[[ルーター]]、[[LANスイッチ]]を用いて接続し、ネットワークを拡張する。
ネットワークの拡張に当たってはLAN技術以外にシリアル回線、ATM、[[光波長多重通信|WDM]]伝送装置などが利用される場合がある。
広義のLAN(大規模LAN)の構成や方式については先に述べたものの他に[[Internet Protocol|IP(Internet Protocol)]]や関係する技術、さらに上位レイヤも含めた技術の複合体として成り立っている。
これらの話題についてはネットワーク構築、(情報)システム構築の分野の技術として、関係する書籍などの情報を参照されたい。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[Wide Area Network]]
* [[イーサネット]](Ethernet)
* [[イントラネット]]
* [[トークンリング]](Token Ring)
* [[IEEE 802.11]]
* [[LANパーティー]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Local_area_network |
2,769 | Zope | Zope(ゾープ、Z Object Publishing Environment)は、プログラミング言語Pythonで書かれた、オブジェクト指向ウェブアプリケーションサーバ、もしくはWebアプリケーションフレームワークである。Zope 2系列および、Zope 3が並行してリリースされている。Zope Public Licenseに基づき配布されるフリーソフトウェアである。
アプリケーションサーバ、ウェブサーバ、データベースの機能をすべて包含しているため、Zopeのみでの環境構築が可能である。導入時点で、ブログやウィキといったウェブアプリケーションが同梱されており、これらを組み合わせて容易にCMSが構築できる。より高機能なCMS、RDBMSとの連携など、様々な外部プロダクトによる機能拡張が可能である。
Zope の管理はウェブインターフェースの管理画面から行う。Pythonによる高度なカスタマイズが可能である。Zopeにおいてはすべては Python のオブジェクトであり、ZODBと呼ばれるオブジェクトデータベースに格納される。
Zope 3は、Zope 2から全面的に再実装され、Webアプリケーションフレームワークとなった。Zope 2.8.1より、Zope 3 の機能を利用することができる。
オブジェクト指向CMSとも言えるPloneは、Windows(XP以上)、Linux(CentOS、Ubuntuなど)、FreeBSD、Mac OS Xで動作する。最新版であるPlone3.3.5(2010年6月現在)のインストールには200MB以上のディスクスペースを必要とするが、これにはZope2.10.7およびPython2.4.5が含まれている。なお日本語文字コードはUTF-8となる。サイトの管理にはオブジェクト指向の考え方が必要で、ファイルマネージャーに近い感覚でコンテンツを取り扱うところに特徴がある。独自のWebサーバーを内蔵しているので、Apacheによる通常のWebサイトと共存するには、ポートの設定などに工夫が必要となる。 | [
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] | Zopeは、プログラミング言語Pythonで書かれた、オブジェクト指向ウェブアプリケーションサーバ、もしくはWebアプリケーションフレームワークである。Zope 2系列および、Zope 3が並行してリリースされている。Zope Public Licenseに基づき配布されるフリーソフトウェアである。 | {{出典の明記|date=2023年4月26日 (水) 11:14 (UTC)}}
'''Zope'''(ゾープ、'''Z Object Publishing Environment''')は、プログラミング言語[[Python]]で書かれた、[[オブジェクト指向]][[アプリケーションサーバ|ウェブアプリケーションサーバ]]、もしくは[[Webアプリケーションフレームワーク]]である。Zope 2系列および、Zope 3が並行してリリースされている。[[Zope Public License]]に基づき配布される[[フリーソフトウェア]]である。
== 概要 ==
アプリケーションサーバ、[[Webサーバ|ウェブサーバ]]、[[データベース]]の機能をすべて包含しているため、Zopeのみでの環境構築が可能である。導入時点で、[[ブログ]]や[[ウィキ]]といった[[ウェブアプリケーション]]が同梱されており、これらを組み合わせて容易に[[コンテンツ管理システム|CMS]]が構築できる。より高機能なCMS、[[関係データベース管理システム|RDBMS]]との連携など、様々な外部プロダクトによる機能拡張が可能である。
Zope の管理はウェブインターフェースの管理画面から行う。Pythonによる高度なカスタマイズが可能である。Zopeにおいてはすべては Python のオブジェクトであり、[[Zope Object Database|ZODB]]と呼ばれる[[オブジェクトデータベース]]に格納される。
== Zope 3 ==
Zope 3は、Zope 2から全面的に再実装され、Webアプリケーションフレームワークとなった。Zope 2.8.1より、Zope 3 の機能を利用することができる。
== Plone ==
{{Main|Plone}}
オブジェクト指向CMSとも言える[[Plone]]は、Windows(XP以上)、Linux(CentOS、Ubuntuなど)、FreeBSD、Mac OS Xで動作する。最新版であるPlone3.3.5(2010年6月現在)のインストールには200MB以上のディスクスペースを必要とするが、これにはZope2.10.7およびPython2.4.5が含まれている。なお日本語文字コードは[[UTF-8]]となる。サイトの管理にはオブジェクト指向の考え方が必要で、ファイルマネージャーに近い感覚でコンテンツを取り扱うところに特徴がある。独自のWebサーバーを内蔵しているので、[[Apache HTTP Server|Apache]]による通常のWebサイトと共存するには、ポートの設定などに工夫が必要となる。
== 外部リンク ==
* [http://www.zope.org/ Zope.org] {{Languageicon|en|英語}}
* [http://plone.org/ Plone] - Zope上で動作するCMS {{Languageicon|en|英語}}
* [http://plone.jp/ Plone.jp] - 同{{Languageicon|en|日本語}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Zope |
2,770 | オートバイ | オートバイとは、原動機を搭載した、主に二輪車を指す和製英語である。
日本では他に自動二輪車(じどうにりんしゃ)や単車(たんしゃ)やバイク (bike) も同じものを指す。また、車検の必要の無い排気量125cc以下の原動機付自転車をミニバイクと称することもある。
英語圏ではmotorcycle(モーターサイクル)またはmotorbike(モーターバイク)、短く表現する場合はmoto(モト)などとも呼ばれる。
原動機付二輪車の構造を流用して製造された、三輪以上の乗り物(トライクや全地形対応車など)も、オートバイの一種に含められる。
2つの車輪を前後に配置して、ガソリンエンジンや電気モーターといった原動機によって走行する乗り物を指す。自転車に原動機を備えたもので、原動機の動力のみで走行することができるものも含めてこのように呼ぶこともある。
基本的には二輪のものを指しているが、サイドカーを備えて三輪になっているものや、エンジン付き二輪車をベースにして開発・改造されてできた三輪車(及び、時に四輪や一輪)も広義の「オートバイ」に含める場合がある。
オートバイという呼び方はアメリカ英語「autobike」に由来する和製英語である。1902年(明治35年)にアメリカ合衆国からエンジン付き自転車「トーマス」が輸入された当時は英語と同様に「モーターサイクル」と呼ばれていたが、1923年(大正12年)に月刊誌『オートバイ』が発売されて以来、「オートバイ」という呼び方が日本人に広く認知されるようになったという意見がある。
ただし日本語では、他に「自動二輪車」「単車」などとも呼ばれている。「バイク」とも呼ばれる。
なお前述の雑誌『オートバイ』に対して、ライバルとして月刊誌『モーターサイクリスト』が存在しており、かつては『モトライダー』『サイクルワールド』『ビッグバイク』『モトラッド』など、「オートバイ」以外の呼称を使用している専門誌も多数存在した。日本の法令では「自動二輪車」(や、原動機搭載と明らかに分かる文脈では「二輪車」も)が用いられる。自動車検査証において「車体の形状名」として登場するケースはある。
英語で単にbikeと言うと二輪車全般を指すものの、どちらかというと自転車(bicycle)の略語として使われる場合が多いという意見もあるが、1970年代頃はイギリスには『Bike Magazine』(1971年創刊)や『Classic Bike』(1978年創刊)、またアメリカ合衆国でも『Dirt Bike』(1993年創刊)や『Hot Bike』(1994年創刊)などの雑誌も創刊されており、加えてモータースポーツでもスーパーバイク世界選手権(1988年~)やAMAスーパーバイクといった大会名があることからも分かるように、1970年や1980年代でも「bike」という英語は「原動機搭載の二輪車」も「自転車」も、つまり両方を指していた。
「単車」はサイドカーを付けたものを「側車付き」と呼ぶのに対して、サイドカーを付けていないオートバイ単体を指す言葉として用いられていたが、サイドカーが希少なものとなった現在も「単車」という言葉が生き残っている。なお、中国語でも二輪車の意味で単車という言葉が存在する。
自動二輪車については「原動機」を意味する「motor」を加えて「motorbike」、あるいは「motorcycle」と呼ばれることが多い。
なお1988年に出版された百科事典では「日本では...(中略)...、またスクーターはオートバイの範疇に含めないのがふつうである」と書かれたが、2012年時点では、様々な文献やメーカーのホームページにおいて、スクーターも「オートバイ」の範疇に含まれるように変化した、と指摘されている。
2012年時点で、日本のオートバイメーカーやオートバイ雑誌では、道路運送車両法で規定された排気量、道路交通法で規定された車両区分、免許区分、ギアシフトが自動か手動かによる区分などを用いてオートバイを分類し、「オートバイ」にスクーター類も含めることが一般的となっている。
20世紀に自動車(四輪)と共にオートバイは個人の移動手段として大きく普及した。自動車は2010年には10億台が世界で保有されており、6.9人あたり1台の割合となっている。 オートバイの保有台数(2011年または2012年)は全世界で約2億から4億台と推定されており、中国に約1億台(1台あたり13人、以下同)、インドネシアに約7598万台(3人/台)、インド5192万台(20人/台)、タイ1924万台(4人/台)、台湾(中華民国)1514万台(1.5人/台)、日本1199万台(11人/台)、マレーシア1059万台(3人/台)、イタリア858万台(7人/台)となっている。台湾、インドネシア、マレーシア、タイは普及率が非常に高く道路はオートバイで溢れている。とりわけ世界人口の約35%を占めるインド・中国は人口超大国であり、それなりの台数となっているが同時に国土も広大であるため、東南アジアほどのオートバイ天国ではない。
オートバイは中国やインドでの保有率の向上が見込まれ、世界の保有台数は2010年の約4億台から2030年には9億台へ達すると推定されている。統計的にはインドと中国におけるオートバイの台数が突出して多い。インドや中国ではオートバイはほとんどが実用目的で使われている。
中国では1985年北京市政府が初めてのオートバイ禁止令を発表されており、2019年中国では約190の市からオートバイ禁止令が出ている。
先進国の台数は相対的に小さいが、高価格帯の車種も売れており、モータースポーツも盛んで、趣味や道楽として楽しむ人も多い。
インドや東南アジア諸国も所得水準が向上しているため、富裕層や中産階級が単なる移動手段としてではなく趣味性の高いオートバイを購入するようになっている。日系メーカー各社もデザイン性を高めた製品を投入するようになっている。
2018年に新たに販売された自動二輪車は5736万台で、前年より約6%増えた(ヤマハ発動機による推計)。日本経済新聞社の推定による企業別シェア上位は、1位の本田技研工業(ホンダ)、3位のヤマハ発動機を日本企業が、2位と4-5位はインド企業(ヒーロー・モトコープ、バジャージ・オート、TVSモーター)が占めている。
1863年にフランスの発明家のルイ-ギヨーム・ペローが蒸気機関を動力とする二輪車を考案して特許を取得し、1873年のオーストリアのウィーンで開催されたウィーン万博に出品したものがオートバイの原型といわれている。しかし、蒸気機関の時代から実用化されていた鉄道、自動車、船舶に対してオートバイや飛行機は常に動力を確保しなければ体勢を維持できないという共通の課題があり、活発な開発や運用がなされるのはゴットリープ・ダイムラーによって内燃機関の発明がなされてからのことだった。1883年に最初のガソリン機関の製作に成功、1885年に特許取得、1886年に実地運転に成功、補助輪付きの考え方によっては四輪車とも呼べる車体に搭載されたエンジンは、縦型シリンダー、F型配置のバルブ、自動負圧式吸入バルブ、熱管型点火装置といった技術が用いられており、それまでは高性能なガス・エンジンなどでも毎分200回転程度であった回転数を一挙に4倍の毎分800回転程度まで引き上げた。この排気量260cc、4ストロークエンジンは、出力0.5ps、最高速度6 - 12km/h程度のものであった。また、当時は二輪車(自転車)の技術開発がオートバイの開発に先駆けて活発で、車体構成の基礎技術であるスポークホイール、チューブタイヤ、ベアリング、チェーン、スプロケットやハンドルといった技術が完成の域に達しており、そのまま転用ができ、人がまたがって搭乗するため基準値を算出しやすく、車体設計の方針が定めやすいといった点がオートバイの開発進度を速める上で非常に有利にはたらいた。
20世紀初頭のアメリカでは、マーケル、ポープ、カーチス、ミッチェル、ワグナー、オリエント、ローヤルなどといったオートバイメーカーが存在し、これに少し遅れハーレー、インディアン、リーディング・スタンダード、ヘンダーソン、エキセルシャー、エースなどといったメーカーが創立された。現存するメーカーによる製品の例としては、1903年、ウイリアム・ハーレーとアーサー・ダビッドソンによって創業されたハーレーダビッドソン社が発売した、自転車にエンジンを搭載したモペッドがなどが挙げられる。
活発に開発が行われていたオートバイに対して、同時期に発生した飛行機の技術開発は、同1903年、ライト兄弟によって動力飛行に成功してからも産業にまで拡大されるには更なる時間を要した。飛行機の黎明期にあっては、航空エンジンに必要とされる小型、軽量なエンジンという条件は鉄道や船舶など、小型化より高出力を優先する内燃機関とはコンセプトが異なり、同様に大型化が難しく、先んじて開発が進んでいたオートバイの技術から転用されるものが少なくなかった。なかには、フランスのアンザーニ社などオートバイの製造を行っていた企業の中に航空機エンジン開発に着手するものも現れた。アンザーニ社が開発したW型三3気筒エンジンは出力25ps、パワーウェイトレシオ2.5ps/kgを発生し、これをつんだブレリオ単葉飛行機は1909年にドーバー海峡横断に成功した。1907年には競技会としてマン島におけるオートバイレースが開催されており、そこではデイ式2ストローク機関エンジンの小型化に適した特性を利用したスコット式2ストロークガソリンエンジンを搭載したオートバイが4ストロークエンジンと並んで注目を集めた。
飛行機に先んじて開発が行われていたオートバイであったが、直後1914年に発生する第一次世界大戦(1914年7月28日-1918年11月11日)において飛行機の有用性が認識され、国家規模でこの開発が行われるようになったために、その立場を逆にする。オートバイから転用された諸々の技術は、それを下地として飛行機の分野で技術革新が行われ、以降レシプロエンジン開発の花形は動力をジェットエンジンに移行するまで飛行機であり、逆輸入されるような形でオートバイに再転用されることとなった。
それまでのオートバイは、アメリカのブリッグス・ストラットン社が開発したスミスモーターという自転車に装着する動力装置のような機構が簡便さから一定の評価を得ていたが、車軸に対して推進装置がずれていることや部品精度が低いために、速度が上がるとハンドルが揺れだすといった状況であった。始動を容易にするために圧力を開放するデコンプレッサーが装着されているなど、快適性に対する試行錯誤はみられるものの、始動方式は押しがけでクラッチや変速機、フロントブレーキも装着されていなかったため、運用や転倒せずに走行するには乗り手に高い技術が要求された。また、キャブレターは布にガソリンを染み込ませ、そこを空気が通ることによって混合気を作るといった非常に原始的なものであった。加えて、メーカーによる独自規格が乱立し、操縦方法の違いが顕著であった。代表的な例ではアメリカのハーレーとインディアンの間では同じ動作をするための装置が左右逆に装着されているなど、他社製品を操作するためにはまた新たな技能習得が必要であった。
その後の第二次世界大戦(1939年-1945年)では、戦闘に従事する各国軍隊において、サイドカーを付けて将校の移動手段や、偵察部隊などの機動部隊の装備としてオートバイは利用された。
第二次世界大戦後には日本で航空機などを製造していたメーカーがオートバイ製造に参入、コストパフォーマンスの高い製品を輸出し市場を拡大した。特にアジア圏では商用の低価格モデルを中心にシェアが高い。ヨーロッパの伝統的なブランドは趣味性の高い高級路線にシフトすることで棲み分けを図ったが、日本メーカーが高性能モデルを発売したことで競合するようになった。
中国では国内に多数のメーカーが存在し、庶民の乗り物として自転車と共にオートバイが利用されていたが、近年では環境規制の強化により排出規制が厳格化され、ガソリンエンジンを搭載したオートバイの保有・乗り入れが禁止された都市「禁限摩」の指定が増えている。上海市などの大都市ではガソリンエンジンを搭載するオートバイはナンバーの発行に450万円という懲罰的な金額が課されることや、電動オートバイや電動自転車のレンタル・充電設備が各所に設置され利便性が高いため、都市部では電動化が事実上完了している。
韓国の都市部では道路事情や運賃の低いバス路線が発達しているため、市民の移動手段としてはほとんど用いられないが、普通自動車の運転免許で125ccまで運転できることから、都市部ではアルバイト配達員がオートバイでデリバリーする文化(ペダル文化)が発達しており、日本製のオートバイが多く利用されている。国内メーカーはデーリムモーターとS&Tモータースの2社が大手であるが、日本を始めとした輸入車の方がシェアが高い。
2020年代には世界的な環境規制の強化により電気自動車が普及すると予想されており、オートバイでも電動化が進んでいる。
日本における最古のオートバイの記録としては、明治維新による近代化が推し進められる中で、1898年(明治31年)に紫義彦が組み立て、製作した車輌の写真が残されているが、明治期にはオートバイは道楽といった認識で、富国強兵の国是の下に国産化の進められた他の産業に比較すると特別な注力がなされることはなかった。そのため、わずかながら人の目に触れるようになりだしたオートバイはほぼ全てが輸入車であり、開発や製造は個人で小規模に行われるにすぎなかった。
1909年(明治42年)に島津楢蔵が初の国産車であるNS号を製造。その後、1910年(明治43年)に山田輪盛館(ドイツのNSU製品の輸入販売)や山口勝蔵店(イギリスのトライアンフ、アメリカのインディアンの輸入販売)といったオートバイ専門輸入商が創立され、1917年(大正6年)に大倉商事がハーレーの輸入を開始した。その後、島津楢蔵はいったん航空業界に転身し、9気筒回転型空冷80馬力エンジンを帝国飛行協会でのコンテストに出品して1等を受賞するなどの実績を残した。三井物産で取締役を勤めた山本条太郎により、その当時の航空事業はもはや個人に運営できる規模で太刀打ちできる産業ではない、といった助言を受けて自動車学校を設立するも、大阪府に総台数200台の時代にあって4年間で300名のエンジニアを輩出するなど迷走し、自動車学校は1922年(大正11年)に閉鎖の憂き目にあう。こうした紆余曲折を経た後にオートバイ開発に復帰し、航空業界で培った技術を応用したエーロ・ファースト号を3年後に完成させる。搭載された633cc、4ストロークサイドバルブ単気筒エンジンは6.5ps、最高速度40km/hを実現した。このまま事業化を画策していたが、世界情勢の悪化やニューヨーク株式市場の暴落に端を発する世界恐慌の不況による影響から計画は難航し、1930年(昭和5年)には廃業を余儀なくされる。結局、日本で初めてオートバイの量産、商品化が実現されるのは1933年(昭和8年)のアサヒ号A型であった。この車両は1914年(大正3年)に宮田製作所が製作し、一部が「黒バイ」として警察に納入されていた車両を発展させたもので、2ストローク175cc、単気筒エンジンを搭載し最大出力は5psだった。翌年1934年(昭和9年)に増加試作13台、翌々年1935年(昭和10年)4月から量産体勢に入り、販売価格は標準品340円、特級品370円で、生産量は1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)の期間に月産150台を製造していた。
以後、第二次世界大戦下の日本で「陸王」のみが生産されるようになるまでには、「陸王」の他に「アサヒ号」「JAC号」「SSD号」「あいこく号」「キャブトン」「リツリン号」「くろがね号」「メグロ号」などが存在していた。
戦況の長期化、悪化によってオートバイ産業は軍需品の製造に転換せねばならなくなり、陸王内燃機でのみがオートバイを製造していた。同社は三共の系列企業で、1931年(昭和6年)にハーレー・ダビッドソンの輸入販売業として設立された。その後、国産化の流れの中で同社の専務を務めた永井信二郎は生産体制を確立するためにアメリカ、ミルウォーキーのハーレー・ダビッドソン工場へ設備調達のため渡米する。本国アメリカからエンジニアを招聘し、100名程度の従業員や機械設備を整えて、1935年(昭和10年)に自社生産のハーレー・ダビッドソンが品川工場で初めて完成した。陸王の名称の由来は永井信二郎の母校である慶應義塾大学の『若き血』のフレーズ「陸の王者」にちなんでつけられたという。しかし次第に十分な資材確保も難しくなり、1937年(昭和12年)頃から製造を行っていた帝国陸軍用の九七式側車付自動二輪車は1943年(昭和18年)には月産90台程度製造されていたが、戦争末期には月産50台に減少した。
第二次世界大戦終戦後、日本の軍用機や軍用車を製造していた企業がアメリカ軍を中心として連合国軍の占領政策を実行したGHQ(SCAP)によって航空機や自動車の製造を禁止され、所属していた技術者達はその技術を活かす場を求めていた。一式戦「隼」や四式戦「疾風」といった陸軍機で知られる中島飛行機を源流に持ち、戦後に解体、平和産業へ転換させられた富士産業(後のSUBARU)もその1つであったが、1945年(昭和20年)当時、日本に駐留していた連合軍が持ち込んだアメリカのパウエル式やイギリスのコルギ式といったスクーターの簡素な車体が、材料が十分に確保できない状況で作れる製品として富士産業の技術者関心を集め、規制の緩かったオートバイ業界へ技術者が流入し始めたためである。しかしながら敗戦後間もない日本国内では開発は始まったものの材料不足でさらに材料調達自体がほぼ不可能に近いという状況は非常に深刻で、一時は海軍機である「銀河」の尾輪をタイヤに転用したり、ピストン周辺はダットサンの部品を流用したりするなど、新規に部品すら製造できない状況の中で試作品は作られた。1946年(昭和21年)の夏に試作機が完成し、同年11月からラビットスクーターS1として発売された。定価は11,000円程度であった。これは交通の不便な終戦直後にあって歓迎され、月産300台から500台程度生産されることとなった。
それから半年後、旧三菱重工業系の中日本重工(実質後の三菱自工)はアメリカのサルスベリー式をモデルにシルバーピジョンを開発し、これら2台が終戦直後の日本製スクーターの双璧となった。ラビットが好調な売れ行きを見せ、戦前のオートバイメーカーも製造再開を目指す中、1948年(昭和23年)に発足した日本小型自動車工業会によりGHQや官庁との交渉を経て様々な規制撤廃に成功し、オートバイ産業が有望であるとの認識が広まり、新規参入するメーカーも多く現れた。新明和興業、昌和など名前を残す企業も存在したが、社名を掲げながら実状としては自転車屋の軒先で月に数台製造する程度の個人店も多かった。1953年には113社が参入して製造会社数の全盛期を迎えるが、1955年の経済不況に直面すると既存のメーカーを含む137社が撤退。技術力と資金が伴わない業者は一気に淘汰された。
一方、スクーターが高額で購入することができなかった層を中心に自転車用補助動力、バイクモーターの需要が高まり、みづほ自動車製作所がビスモーターを発売し、本田技研工業は日本陸軍払い下げの軍事無線機用小型エンジンをベースに開発を重ね、後にホンダ・カブF型(通称「バタバタ」)を1952年(昭和27年)に発売する。こういったバイクモーターの流行に商機を見出し、スズキもオートバイ製造を開始した。
群雄割拠の時代にあって名前を売るにはレース活動が典型で、1950年(昭和25年)頃に復活し始めたレースはこういったメーカーの競争の場として利用されるようになっていった。当時はオートレース場は存在していたがサーキットは存在せず、レースは最初は競馬場や運動場、のちに公道で行われるようになっていった。まず口火を切ったのは1953年(昭和28年)3月21日に行われた名古屋TTレース、浜松静岡間レース、富士山本宮浅間大社から富士宮登山道を2合目まで走破する富士登山レース、そして国内レースの最高峰として浅間火山レースなどが行われるようになった。戦中に戦闘機用プロペラなどを製造していたヤマハは設備の平和的な利用方法としてオートバイ製作に着手、後発メーカーである知名度の低さをこうしたレースで高めようと、YA-1を浅間火山レースへ参加させ、125ccクラスで上位を独占するといった功績を残した。こうしてレース活動が熱を帯びるにつれ、高速走行に適さず、指示標識も足りない不十分なコースや警察との連携不足が問題になり、専用のコース新設を求める声に応える形で浅間高原自動車テストコース開設へと業界は動き出した。当時の国産車を見るとホンダ・カブF型で50cc1ps/3,500rpm、シルバーピジョンは150cc3馬力、対するドイツ製オートバイ、クライドラーK50は50ccで2.5ps/5,000rpmを発揮、国産オートバイに対し海外製オートバイの性能は圧倒的で、こうしたレース活動は名前を売る目的のほか、海外のオートバイに追いつく技術開発を進める場としても活躍した。
こうしてオートバイは単なる移動手段ではないという認識が広まりだすと、当時の好景気と相まって消費者による峻別が始まった。三種の神器と呼ばれる電化製品が家庭に広がりを見せる中、最低限の移動手段として提案されたバイクモーターの需要はなくなり、これらの製品を主として製造していたメーカーがまず打撃を受けた。あるいは戦前と戦後でオートバイの流行が大きく変わったことも影響は大きく、戦前においてはアメリカンが人気であったが、戦後になりイギリスやドイツなどの車両が人気となり、戦後勃興したメーカーに比べ、戦前から存在したメーカーほどこの流行を捕らえた車両開発に取り掛かるのが遅れた。また、当時の流行であったトライアンフやDKWなどのヨーロッパ製車両の外観は模すものの、ただ鈍重なだけで走行性能の伴わない車両を製造していたメーカーは、レースにおける実績に裏づけされた車両と比べられて選ばれることはなかった。加えて、戦後の統制下であっても自分達の技術や設備を行使できる分野として、規制が緩かったためにオートバイ産業を選んだメーカーには、統制が解かれたことや好景気を受けて、本業に復帰、あるいは他の産業に商機を求めて転業する企業も少なくなかった。目黒製作所が1960年(昭和35年)に業績悪化から川崎重工との提携を行うものの改善せず、1964年(昭和39年)にそのまま吸収される形で戦前から続いていた企業は全て消滅することとなった。
こうした過当競争は、販売車両の性能向上や量産体勢の拡大へとつながっていく。1958年(昭和33年)に発売されたスーパーカブは対抗車種が2.5ps程度の時代に空冷4ストロークOHV49ccエンジンから4.5psを発揮し、なおかつ55,000円の低価格で、当時の事業規模を大きく変えるほどの月産5万台を標榜し、業界の構造を大きく変えた。他の有力メーカーは同価格帯で対抗車種を販売し、対抗しうる性能や販売体制を実現できない企業は撤退を余儀なくされた。1959年(昭和34年)、この勢いそのままに、ホンダは独自の精密加工技術を生かした並列多気筒エンジンを採用してマン島TTに参戦し、1961年(昭和36年)に優勝を達成する。外国製オートバイの後塵を拝し続けてきた日本のオートバイが世界一になった瞬間であった。ホンダの偉業に負けじと国内各社も相次いでロードレース世界選手権へ参加を始め、日本車の国際舞台での勝利が常態化する。翌1962年(昭和37年)に国内初の全面舗装のサーキットとして完成した鈴鹿サーキットでロードレース世界選手権が開催され、この年のマニュファクチャラーズ・ランキングでは5部門中4部門を日本勢が制する。こうした権威あるレースでの実績は日本製オートバイの輸出を推し進め、日本はオートバイ大国の仲間入りを果たした。
しかし、モータリゼーションの到来とともに自動車が実用的な乗り物として普及すると、オートバイは一部の業務用を除いて趣味の乗り物として扱われるようになり、販売台数は頭打ちになった。1980年代前半になると、ヤマハが業界1位の座をホンダから奪おうとして、日本のみならずアメリカをも舞台にしてHY戦争が起きた。この競争のなかで、ラインナップが増えるとともに価格競争が進み、さらに1980年代後半からは好景気(バブル景気)も重なり、1990年代前半にかけて日本にバイクブームが訪れた。しかし、このバイクブームから暴走族が全国各地で増え、危険走行や騒音、交通事故が社会問題となった。それによって三ない運動に代表されるような「バイク=危険な乗り物・暴走族」という社会の認識が強くなり、バブル崩壊と共にバイクブームも急速に終息に向かった。
1990年代は東南アジアを中心とする発展途上国の市場が拡大し、2000年代には海外での日本国内向け車種の生産も増加した。
21世紀の国内需要は、原動機付自転車から四輪車への消費者のシフトや、都市部での路上駐車の取り締まり強化や排ガス規制強化、不況などに伴い、ピーク時に対して市場の大幅な縮小が起こった。また三ない運動の後遺症もしばしば言及されており、ホンダ社長八郷隆弘は、「82年には328万台だった日本の二輪車市場が、2018年には8分の1にまで減少した大きな要因として『三ない運動』が大きく影響している」と述べている。
2020年代頃より国内メーカーでは需要の減少や世界的な環境規制の強化に対応するため、電動オートバイの普及に向けて動いているが、電気自動車のような充電器の規格争いを防ぐため共通化など協調路線に動いている。
業界団体としては、日本自動車工業会(自工会)がバイクも所管するほか、バイクに特化した日本二輪車普及安全協会(二普協)がある。大手4社の国内販売台数は1982年の約328万台をピークに、2015年は約37万台に減った。このため業界団体や各メーカー、部品であるタイヤを製造するブリヂストン、中古車買い取り販売のバイク王&カンパニーといった流通企業は需要喚起に取り組んでおり、若者のバイク離れに歯止めをかけるためアニメ(『ばくおん!!』)のコラボも展開している。日本では8月19日が「バイクの日」とされている。
趣味の乗り物としての需要は減少したものの、配達業務での用途は依然として根強い。また、緊急時の機動性が見直されて、救急や消防での利用が新たに着目されている。
日本のオートバイメーカーや工場は、戦後復興期に移動手段としての高い需要から、多くの零細企業が参入したが技術や価格競争の激化により大手メーカーが有利となり、零細のみらなず中小メーカーも消えていった。2021年現在では、ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキの4社に収束している。
オートバイの構造は、その歴史のなかで様々な形態が現れ、変遷してきた。ここでは現在市販されている二輪のオートバイとして一般的なものを示す。したがって、いくつかの車種には例外があり、特に三輪のものについては構造が大きく異なる例もある。
オートバイの構成要素を機能で大きく分けると、フレーム、エンジン、クラッチ、トランスミッション(ギアボックス)、タイヤホイール、ブレーキ、サスペンションなどに大別される。
前後輪の役割としては前輪操舵・後輪駆動が一般的であるが、前輪が操舵と駆動の両方を担うものもある。エンジンの位置は前輪と後輪の間に搭載されるものが一般的である。前輪駆動のものはフロントホイール内(インホイールエンジン)やフロントフォークに搭載される。エンジンが発生した出力はまず1段減速された後に、クラッチを経て変速機に伝えられる。
運転操作は、右グリップがスロットル、右レバーが前ブレーキ、右ペダルが後ブレーキ、左レバーがクラッチ、左ペダルがギアチェンジという構成が現在では一般的である。ただし、イギリス車では伝統的に右足でギアチェンジ、左足で後輪ブレーキ操作を行う車種が多く、一時期は燃料タンクの左脇に手で操作するシフトレバーがある車種も多かった。
スクーターに関しては、構造や操作などに特徴がある。
エンジンは通常、車体フレームに固定されている(駆動輪と一体になっているスクーターなどはエンジンがスイングアームの一部となり可動する場合がある)。チェーン、または歯付ベルトドライブ(駆動)のものはクランクシャフトが車体進行方向に対して横向きに搭載される。このうち直列エンジンは、二輪車特有の表現である「並列エンジン」とも呼ばれる。一方、シャフトドライブの車種の多くは縦置きエンジンを採用している。
コスト削減やオートバイのキャラクターを維持するなどの観点から、キャブレター・空冷・2ストロークなどの四輪乗用車では失われた技術が、昨今の排気ガス規制の影響で以前よりは減少してはいるものの現在も改良を重ねながら採用され続けている。
2021年現在ではガソリンエンジンが主流であるが、電動機のみを搭載した電動オートバイ、また内燃機関と電動を組み合わせたハイブリッドシステム搭載モデルも販売されている。近年は水素燃料エンジンの研究も行われている。
マニュアルトランスミッション車は運転者が速度や負荷に応じたギアの組み合わせを選ぶ機構で、マニュアル車やミッション車(しかしトランスミッションがないオートバイは通常ない)とも呼ばれる。クラッチの操作も必要となるが、トルクコンバーターを用いたものや、湿式多板クラッチなどを用いたオートマチックトランスミッション車がある。
クラッチは、エンジンオイルに浸されていて複数の摩擦面を持つ湿式多板クラッチの他、BMWの水平対向エンジン車やモト・グッツィなど、縦置きエンジンの車種で乾式単板クラッチ、競技車両やイタリアのドゥカティの一部では乾式多板クラッチ、また自動遠心クラッチなどが存在している。
オートバイのトランスミッションは、エンジンのクランクケースと一体になったケースに収められている場合が多く、4ストロークエンジンの車種ではエンジンオイルがトランスミッション(と湿式多板クラッチ)の潤滑を兼ねている。トランスミッションは4段から6段程度の変速段数を持つ車種が多い。
トランスミッションから車軸へ動力(トルク)を伝達する手段には、ローラーチェーン、プロペラシャフト(シャフトドライブ)、歯付ベルト(オートマチックトランスミッションを採用するオートバイ)などが使用される。
ホイールは、チューブレスタイヤを使用する車種ではアルミダイカスト製の「キャストホイール」を採用しているモデルが多い。一方、リムとハブをワイヤースポークでつないだホイールを採用する車種もある。
ブレーキには自転車同様のバンドブレーキやリムブレーキも当初見られたが、自動車と同じ仕組のドラムブレーキがそれらに取って代わった。ドラムに対するブレーキシューの向きで自己サーボ効果を発揮する方向が異なるため、フロントをツーリーディング、リアをリーディング&トレーリングとする組み合わせが多い。1970年代末にはスポーツ車からディスクブレーキが普及し初め、スポーツ車以外にも採用が広がっている。
サスペンションは、走行中に路面からの衝撃を吸収させ、車輪をつねに路面に接触させ、操縦性・安定性に寄与している。前輪はテレスコピックフォークがほとんどで、後輪はスイングアーム(もしくはユニットスイングアーム)が多い。
多種多様なタイプが存在するが、用途別としては、舗装路の走行に適したオンロードモデル、未舗装路の走行に適したオフロードモデル、市街地での使用を想定されたタウンユースモデル、その他の特殊なモデルなどに分類される。
普通自動車の免許を取得する際、追加講習を受けることで小型自動二輪車相当の免許を同時に取得できる国もある。
日本におけるオートバイに関する運転免許や交通規制などの法規則については下記の関連項目を参照。
なお、オートバイは使用済自動車の再資源化等に関する法律(自動車リサイクル法)の対象外であるが、2004年10月から日本メーカ4社と国外製品の主要インポータ12社が自主的なリサイクルシステムを開始している。(ハーレーダビッドソンジャパンのみ、この枠組みとは別に独自のリサイクルシステムを構築している)
オートバイ特有の車体構造により、交通事故の形態や発生する傷害は独特の性質を具える。
オートバイは自動車一般に比べると、乗員が車体構造で覆われておらず、接地面積が狭く制動に利用できる力が小さい。特に二輪車は静止状態では自立が困難である。その他にも特有の性質により自動車一般とは異なる危険性を持っている。運転免許教習をはじめとする安全運転講習では、オートバイ特有の特性を理解して危険を自覚すれば、事故の確率を下げることができると指導されている。
乗員が車体構造によって覆われていないことは、衝突の際に乗員が直接対象物に衝突する危険性があるほか、車上から放り出された乗員が二重、三重の衝突に巻き込まれやすい。
二輪車は停車時に乗員が足で支える必要があり、停車中にバランスを崩して転倒し、事故に至る事例もある。走行中の二輪車はジャイロ効果によって自立しているが、速度が低いときはジャイロ効果が小さく不安定なため、ふらつきによる事故が発生する事例がある。比較的軽度のスリップでバランスを崩して転倒しやすく、高い速度で走行していて転倒する場合が多いことから、事故に至った場合は最も危険な転倒である。そのため、教習や講習では滑りやすい路面状況について特に指導している。スリップしやすい路面状況は次のようなものがある。
オートバイは他の交通に比べて車体が小さいことからオートバイの存在自体が見落とされやすい上、遠近感に錯覚を生じて実際よりも遠くにあると認識されたり、実際の速度より遅く感じられることが多い。交通渋滞の列の左側を直進するオートバイや交差点で直進中のオートバイと右折車両の衝突事故(いわゆる右直事故)の多くは相手車両の運転者がオートバイを見落したことによるものである。他にもオートバイの方が自動車よりも通行量が少ない、自動車と形状が違うなどの理由で相手車両の運転者が自動車にばかり気を取られやすくなるという理由で見落とされやすいのに加えて、特に夜間は、前照灯の照度が低い車種も多いことから、さらに見落とされやすくなる傾向にある。
一方で、自動車一般よりも天候の悪化が安全な運行に大きく影響を及ぼすことも特徴である。自動車一般は車両にワイパーや曇り止め装置を装備しているのが通常であるが、ヘルメットシールドやゴーグルでこれらを備えた製品は稀である。加えて夜間の雨天時は、シールドなどに付いた雨粒に対向車のライトが乱反射するため、視界が極めて悪くなる。あるいは、身体が濡れたり冷えたりすることで運転者の注意力や運動能力が低下して事故の危険性を増加する。
このほか、進路変更や追い越しの際のオートバイの機敏な動きを周囲の運転者が予測できないという点が事故原因の一つとして挙げられる事例や、渋滞のすり抜け中に停車車両がドアを開いて衝突する事例もある。
衝突事故では乗員が投げ出されて対象物に直接衝突することが多く、頭部外傷による死亡が最も高い。ヘルメット着用が義務化されていなかった時代は、頭部外傷による死亡が6割を占め、現在の日本を含めて義務化された国・地域でも、依然として頭部の損傷は死亡原因の4割である。特に初心運転者ほど頭部(顔面を含む)の損傷によって死亡する率が高い。
次いで多いのが体幹の損傷による死亡であり、ことに胸部外傷による死亡が多い。Krausらの研究によると、一本の肋骨が2箇所以上骨折するとフレイルチェストと呼ばれる症状を起こして呼吸困難になったり、肋骨や胸骨の骨折により心停止時に有効な心臓マッサージをすることができない場合があるほか、折れた肋骨が胸郭内臓器や腹腔内臓器を傷つけられる危険性がある。例えば、肺を傷つけると緊張性気胸や開放性気胸を起こす。あるいは、心臓や大動脈を傷つければ失血性ショックによる死亡率が非常に高くなる。また、肝臓や脾臓を傷つけた場合も緊急の開腹手術が必要な重傷となる。このことから、同研究では、胸部プロテクターの普及を図ることを推奨している。
一方、四肢の外傷だけで死に至ることは少ないが(ただし大腿部の動脈などを損傷すると重篤となる場合がある)、膝や肘などは軽微な転倒でも骨折などの骨格傷害を負う場合が多い。
日本でのオートバイ利用者の増加とオートバイの性能の向上に伴い、1989年には2575人の死者が出るに及んだ。「第2次交通戦争」と言われた。社会的にもオートバイ事故への対策が注目されるようになり、様々な対策が打たれた結果、オートバイ事故による死亡者数は1989年以降減少し続け、2006年には1119人となった。(これは第2次交通戦争といわれた1989年(2575人)の半数以下、第1次交通戦争と言われた1964年(3762人)の3分の1以下である。)
オートバイによる事故では頭部への負傷する確率が高いことから、多くの国と地域では法規によって乗車中のヘルメット着用が義務づけられている。
被視認性を改善するために、多くの国ではエンジン始動中はオートバイのヘッドライトが点灯する構造であることを法規やメーカーの自主規制によって定めている。日本においても、1980年代から前照灯の昼間点灯が推奨されるようになった。これに応えて、ヘッドライトスイッチ廃止のメーカー自主規制が1993年より始まり、1998年に道路運送車両法により法規化された。
オートバイメーカーは、各社より安全なオートバイの実現を目指して開発を行っている。例えば、本田技研工業はオートバイにエアバッグを装備し、ドイツのBMWはオートバイにシートベルトを装備して、衝突時に乗員が空中にはね飛ばされることを抑止、あるいは低減できる車種を販売した。
オートバイ用品の改良も行われていて、例えば、ヘルメットは事故の際に頚椎にできるだけ力をかけずに脱がせられる手段を設け、ジャケットは革ツナギのほかにも新素材によるパッド付きのものや、エアバッグを内蔵したものが販売されている。肘、肩、膝のプロテクターは普及率が低く、胸部のプロテクターを着用しているユーザーはほとんどいなかったが、白バイ隊に配備されている物が民生発売されて認知度が上がりつつある。ヨーロッパではCEマークを取得しないと販売できず、モーターサイクル装具の基準として肩、前腕、肘、尻、脛用プロテクターのEN1621-1:1997、脊椎プロテクター用のEN1621-2:2003がある。それぞれで衝撃吸収力が規定されていて、EN1621-1:1997の場合が衝撃を30%吸収して7割軽減し、EN1621-2:2003の場合が衝撃を64%吸収して約3分の1に軽減するLevel1、衝撃を80%吸収して約5分の1に軽減するLevel2とされている。日本ではプロテクターの販売に規格はないが、全国二輪車用品連合会が独自の安全基準を作成することを発表した。また日本では2018年10月から発売されるバイクについて、ABS(アンチロック・ブレーキ・システム)が義務化された。
このほかにも、行政、オートバイのメーカーや業界団体、オートバイ雑誌などによってユーザーに対する啓発活動が行われている。オートバイ愛好家の団体にも、自主的なイベントなどを通じて啓発活動を行っているところがある。こういった活動には、単に「事故を起こさない」「事故に遭わない」といった予防策だけではなく、救護技術の習得などの対応策も含んだ講習を行う例もある。
日本脊髄基金の統計 (1990 - 1992) によると、日本の脊髄損傷事故の原因のうち、約14%がオートバイによる事故である(四輪事故は約20%)。死亡率は高くないものの、救急救命士や医師は頚椎の保護を重要視する。これは初め無症状であっても頚部を動かすことによって脊髄損傷を誘発し、重度の傷害を負ってしまうことがあるからである。
自動二輪車は、エンジンを高回転にする操作も多く、また愛好家の一部には、高回転のエンジン音を好む者もいる。
しかし住宅街道路などで高回転で甲高いエンジン音を発生させることは、愛好家でない人々にとっては苦痛となり問題視される(騒音問題)。
また、構造やマフラーの性能不足に起因して騒音が発生する場合がある。 | [
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"text": "オートバイとは、原動機を搭載した、主に二輪車を指す和製英語である。",
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"text": "日本では他に自動二輪車(じどうにりんしゃ)や単車(たんしゃ)やバイク (bike) も同じものを指す。また、車検の必要の無い排気量125cc以下の原動機付自転車をミニバイクと称することもある。",
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"text": "英語圏ではmotorcycle(モーターサイクル)またはmotorbike(モーターバイク)、短く表現する場合はmoto(モト)などとも呼ばれる。",
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"text": "原動機付二輪車の構造を流用して製造された、三輪以上の乗り物(トライクや全地形対応車など)も、オートバイの一種に含められる。",
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"text": "基本的には二輪のものを指しているが、サイドカーを備えて三輪になっているものや、エンジン付き二輪車をベースにして開発・改造されてできた三輪車(及び、時に四輪や一輪)も広義の「オートバイ」に含める場合がある。",
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"text": "オートバイという呼び方はアメリカ英語「autobike」に由来する和製英語である。1902年(明治35年)にアメリカ合衆国からエンジン付き自転車「トーマス」が輸入された当時は英語と同様に「モーターサイクル」と呼ばれていたが、1923年(大正12年)に月刊誌『オートバイ』が発売されて以来、「オートバイ」という呼び方が日本人に広く認知されるようになったという意見がある。",
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"text": "なお前述の雑誌『オートバイ』に対して、ライバルとして月刊誌『モーターサイクリスト』が存在しており、かつては『モトライダー』『サイクルワールド』『ビッグバイク』『モトラッド』など、「オートバイ」以外の呼称を使用している専門誌も多数存在した。日本の法令では「自動二輪車」(や、原動機搭載と明らかに分かる文脈では「二輪車」も)が用いられる。自動車検査証において「車体の形状名」として登場するケースはある。",
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"text": "英語で単にbikeと言うと二輪車全般を指すものの、どちらかというと自転車(bicycle)の略語として使われる場合が多いという意見もあるが、1970年代頃はイギリスには『Bike Magazine』(1971年創刊)や『Classic Bike』(1978年創刊)、またアメリカ合衆国でも『Dirt Bike』(1993年創刊)や『Hot Bike』(1994年創刊)などの雑誌も創刊されており、加えてモータースポーツでもスーパーバイク世界選手権(1988年~)やAMAスーパーバイクといった大会名があることからも分かるように、1970年や1980年代でも「bike」という英語は「原動機搭載の二輪車」も「自転車」も、つまり両方を指していた。",
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"text": "「単車」はサイドカーを付けたものを「側車付き」と呼ぶのに対して、サイドカーを付けていないオートバイ単体を指す言葉として用いられていたが、サイドカーが希少なものとなった現在も「単車」という言葉が生き残っている。なお、中国語でも二輪車の意味で単車という言葉が存在する。",
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"text": "自動二輪車については「原動機」を意味する「motor」を加えて「motorbike」、あるいは「motorcycle」と呼ばれることが多い。",
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"text": "なお1988年に出版された百科事典では「日本では...(中略)...、またスクーターはオートバイの範疇に含めないのがふつうである」と書かれたが、2012年時点では、様々な文献やメーカーのホームページにおいて、スクーターも「オートバイ」の範疇に含まれるように変化した、と指摘されている。",
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"text": "2012年時点で、日本のオートバイメーカーやオートバイ雑誌では、道路運送車両法で規定された排気量、道路交通法で規定された車両区分、免許区分、ギアシフトが自動か手動かによる区分などを用いてオートバイを分類し、「オートバイ」にスクーター類も含めることが一般的となっている。",
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"text": "20世紀に自動車(四輪)と共にオートバイは個人の移動手段として大きく普及した。自動車は2010年には10億台が世界で保有されており、6.9人あたり1台の割合となっている。 オートバイの保有台数(2011年または2012年)は全世界で約2億から4億台と推定されており、中国に約1億台(1台あたり13人、以下同)、インドネシアに約7598万台(3人/台)、インド5192万台(20人/台)、タイ1924万台(4人/台)、台湾(中華民国)1514万台(1.5人/台)、日本1199万台(11人/台)、マレーシア1059万台(3人/台)、イタリア858万台(7人/台)となっている。台湾、インドネシア、マレーシア、タイは普及率が非常に高く道路はオートバイで溢れている。とりわけ世界人口の約35%を占めるインド・中国は人口超大国であり、それなりの台数となっているが同時に国土も広大であるため、東南アジアほどのオートバイ天国ではない。",
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"text": "オートバイは中国やインドでの保有率の向上が見込まれ、世界の保有台数は2010年の約4億台から2030年には9億台へ達すると推定されている。統計的にはインドと中国におけるオートバイの台数が突出して多い。インドや中国ではオートバイはほとんどが実用目的で使われている。",
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"text": "中国では1985年北京市政府が初めてのオートバイ禁止令を発表されており、2019年中国では約190の市からオートバイ禁止令が出ている。",
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"text": "先進国の台数は相対的に小さいが、高価格帯の車種も売れており、モータースポーツも盛んで、趣味や道楽として楽しむ人も多い。",
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"text": "インドや東南アジア諸国も所得水準が向上しているため、富裕層や中産階級が単なる移動手段としてではなく趣味性の高いオートバイを購入するようになっている。日系メーカー各社もデザイン性を高めた製品を投入するようになっている。",
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"paragraph_id": 19,
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"text": "2018年に新たに販売された自動二輪車は5736万台で、前年より約6%増えた(ヤマハ発動機による推計)。日本経済新聞社の推定による企業別シェア上位は、1位の本田技研工業(ホンダ)、3位のヤマハ発動機を日本企業が、2位と4-5位はインド企業(ヒーロー・モトコープ、バジャージ・オート、TVSモーター)が占めている。",
"title": "普及"
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1863年にフランスの発明家のルイ-ギヨーム・ペローが蒸気機関を動力とする二輪車を考案して特許を取得し、1873年のオーストリアのウィーンで開催されたウィーン万博に出品したものがオートバイの原型といわれている。しかし、蒸気機関の時代から実用化されていた鉄道、自動車、船舶に対してオートバイや飛行機は常に動力を確保しなければ体勢を維持できないという共通の課題があり、活発な開発や運用がなされるのはゴットリープ・ダイムラーによって内燃機関の発明がなされてからのことだった。1883年に最初のガソリン機関の製作に成功、1885年に特許取得、1886年に実地運転に成功、補助輪付きの考え方によっては四輪車とも呼べる車体に搭載されたエンジンは、縦型シリンダー、F型配置のバルブ、自動負圧式吸入バルブ、熱管型点火装置といった技術が用いられており、それまでは高性能なガス・エンジンなどでも毎分200回転程度であった回転数を一挙に4倍の毎分800回転程度まで引き上げた。この排気量260cc、4ストロークエンジンは、出力0.5ps、最高速度6 - 12km/h程度のものであった。また、当時は二輪車(自転車)の技術開発がオートバイの開発に先駆けて活発で、車体構成の基礎技術であるスポークホイール、チューブタイヤ、ベアリング、チェーン、スプロケットやハンドルといった技術が完成の域に達しており、そのまま転用ができ、人がまたがって搭乗するため基準値を算出しやすく、車体設計の方針が定めやすいといった点がオートバイの開発進度を速める上で非常に有利にはたらいた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "20世紀初頭のアメリカでは、マーケル、ポープ、カーチス、ミッチェル、ワグナー、オリエント、ローヤルなどといったオートバイメーカーが存在し、これに少し遅れハーレー、インディアン、リーディング・スタンダード、ヘンダーソン、エキセルシャー、エースなどといったメーカーが創立された。現存するメーカーによる製品の例としては、1903年、ウイリアム・ハーレーとアーサー・ダビッドソンによって創業されたハーレーダビッドソン社が発売した、自転車にエンジンを搭載したモペッドがなどが挙げられる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "活発に開発が行われていたオートバイに対して、同時期に発生した飛行機の技術開発は、同1903年、ライト兄弟によって動力飛行に成功してからも産業にまで拡大されるには更なる時間を要した。飛行機の黎明期にあっては、航空エンジンに必要とされる小型、軽量なエンジンという条件は鉄道や船舶など、小型化より高出力を優先する内燃機関とはコンセプトが異なり、同様に大型化が難しく、先んじて開発が進んでいたオートバイの技術から転用されるものが少なくなかった。なかには、フランスのアンザーニ社などオートバイの製造を行っていた企業の中に航空機エンジン開発に着手するものも現れた。アンザーニ社が開発したW型三3気筒エンジンは出力25ps、パワーウェイトレシオ2.5ps/kgを発生し、これをつんだブレリオ単葉飛行機は1909年にドーバー海峡横断に成功した。1907年には競技会としてマン島におけるオートバイレースが開催されており、そこではデイ式2ストローク機関エンジンの小型化に適した特性を利用したスコット式2ストロークガソリンエンジンを搭載したオートバイが4ストロークエンジンと並んで注目を集めた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "飛行機に先んじて開発が行われていたオートバイであったが、直後1914年に発生する第一次世界大戦(1914年7月28日-1918年11月11日)において飛行機の有用性が認識され、国家規模でこの開発が行われるようになったために、その立場を逆にする。オートバイから転用された諸々の技術は、それを下地として飛行機の分野で技術革新が行われ、以降レシプロエンジン開発の花形は動力をジェットエンジンに移行するまで飛行機であり、逆輸入されるような形でオートバイに再転用されることとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "それまでのオートバイは、アメリカのブリッグス・ストラットン社が開発したスミスモーターという自転車に装着する動力装置のような機構が簡便さから一定の評価を得ていたが、車軸に対して推進装置がずれていることや部品精度が低いために、速度が上がるとハンドルが揺れだすといった状況であった。始動を容易にするために圧力を開放するデコンプレッサーが装着されているなど、快適性に対する試行錯誤はみられるものの、始動方式は押しがけでクラッチや変速機、フロントブレーキも装着されていなかったため、運用や転倒せずに走行するには乗り手に高い技術が要求された。また、キャブレターは布にガソリンを染み込ませ、そこを空気が通ることによって混合気を作るといった非常に原始的なものであった。加えて、メーカーによる独自規格が乱立し、操縦方法の違いが顕著であった。代表的な例ではアメリカのハーレーとインディアンの間では同じ動作をするための装置が左右逆に装着されているなど、他社製品を操作するためにはまた新たな技能習得が必要であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "その後の第二次世界大戦(1939年-1945年)では、戦闘に従事する各国軍隊において、サイドカーを付けて将校の移動手段や、偵察部隊などの機動部隊の装備としてオートバイは利用された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦後には日本で航空機などを製造していたメーカーがオートバイ製造に参入、コストパフォーマンスの高い製品を輸出し市場を拡大した。特にアジア圏では商用の低価格モデルを中心にシェアが高い。ヨーロッパの伝統的なブランドは趣味性の高い高級路線にシフトすることで棲み分けを図ったが、日本メーカーが高性能モデルを発売したことで競合するようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "中国では国内に多数のメーカーが存在し、庶民の乗り物として自転車と共にオートバイが利用されていたが、近年では環境規制の強化により排出規制が厳格化され、ガソリンエンジンを搭載したオートバイの保有・乗り入れが禁止された都市「禁限摩」の指定が増えている。上海市などの大都市ではガソリンエンジンを搭載するオートバイはナンバーの発行に450万円という懲罰的な金額が課されることや、電動オートバイや電動自転車のレンタル・充電設備が各所に設置され利便性が高いため、都市部では電動化が事実上完了している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "韓国の都市部では道路事情や運賃の低いバス路線が発達しているため、市民の移動手段としてはほとんど用いられないが、普通自動車の運転免許で125ccまで運転できることから、都市部ではアルバイト配達員がオートバイでデリバリーする文化(ペダル文化)が発達しており、日本製のオートバイが多く利用されている。国内メーカーはデーリムモーターとS&Tモータースの2社が大手であるが、日本を始めとした輸入車の方がシェアが高い。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2020年代には世界的な環境規制の強化により電気自動車が普及すると予想されており、オートバイでも電動化が進んでいる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "日本における最古のオートバイの記録としては、明治維新による近代化が推し進められる中で、1898年(明治31年)に紫義彦が組み立て、製作した車輌の写真が残されているが、明治期にはオートバイは道楽といった認識で、富国強兵の国是の下に国産化の進められた他の産業に比較すると特別な注力がなされることはなかった。そのため、わずかながら人の目に触れるようになりだしたオートバイはほぼ全てが輸入車であり、開発や製造は個人で小規模に行われるにすぎなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1909年(明治42年)に島津楢蔵が初の国産車であるNS号を製造。その後、1910年(明治43年)に山田輪盛館(ドイツのNSU製品の輸入販売)や山口勝蔵店(イギリスのトライアンフ、アメリカのインディアンの輸入販売)といったオートバイ専門輸入商が創立され、1917年(大正6年)に大倉商事がハーレーの輸入を開始した。その後、島津楢蔵はいったん航空業界に転身し、9気筒回転型空冷80馬力エンジンを帝国飛行協会でのコンテストに出品して1等を受賞するなどの実績を残した。三井物産で取締役を勤めた山本条太郎により、その当時の航空事業はもはや個人に運営できる規模で太刀打ちできる産業ではない、といった助言を受けて自動車学校を設立するも、大阪府に総台数200台の時代にあって4年間で300名のエンジニアを輩出するなど迷走し、自動車学校は1922年(大正11年)に閉鎖の憂き目にあう。こうした紆余曲折を経た後にオートバイ開発に復帰し、航空業界で培った技術を応用したエーロ・ファースト号を3年後に完成させる。搭載された633cc、4ストロークサイドバルブ単気筒エンジンは6.5ps、最高速度40km/hを実現した。このまま事業化を画策していたが、世界情勢の悪化やニューヨーク株式市場の暴落に端を発する世界恐慌の不況による影響から計画は難航し、1930年(昭和5年)には廃業を余儀なくされる。結局、日本で初めてオートバイの量産、商品化が実現されるのは1933年(昭和8年)のアサヒ号A型であった。この車両は1914年(大正3年)に宮田製作所が製作し、一部が「黒バイ」として警察に納入されていた車両を発展させたもので、2ストローク175cc、単気筒エンジンを搭載し最大出力は5psだった。翌年1934年(昭和9年)に増加試作13台、翌々年1935年(昭和10年)4月から量産体勢に入り、販売価格は標準品340円、特級品370円で、生産量は1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)の期間に月産150台を製造していた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "以後、第二次世界大戦下の日本で「陸王」のみが生産されるようになるまでには、「陸王」の他に「アサヒ号」「JAC号」「SSD号」「あいこく号」「キャブトン」「リツリン号」「くろがね号」「メグロ号」などが存在していた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "戦況の長期化、悪化によってオートバイ産業は軍需品の製造に転換せねばならなくなり、陸王内燃機でのみがオートバイを製造していた。同社は三共の系列企業で、1931年(昭和6年)にハーレー・ダビッドソンの輸入販売業として設立された。その後、国産化の流れの中で同社の専務を務めた永井信二郎は生産体制を確立するためにアメリカ、ミルウォーキーのハーレー・ダビッドソン工場へ設備調達のため渡米する。本国アメリカからエンジニアを招聘し、100名程度の従業員や機械設備を整えて、1935年(昭和10年)に自社生産のハーレー・ダビッドソンが品川工場で初めて完成した。陸王の名称の由来は永井信二郎の母校である慶應義塾大学の『若き血』のフレーズ「陸の王者」にちなんでつけられたという。しかし次第に十分な資材確保も難しくなり、1937年(昭和12年)頃から製造を行っていた帝国陸軍用の九七式側車付自動二輪車は1943年(昭和18年)には月産90台程度製造されていたが、戦争末期には月産50台に減少した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "第二次世界大戦終戦後、日本の軍用機や軍用車を製造していた企業がアメリカ軍を中心として連合国軍の占領政策を実行したGHQ(SCAP)によって航空機や自動車の製造を禁止され、所属していた技術者達はその技術を活かす場を求めていた。一式戦「隼」や四式戦「疾風」といった陸軍機で知られる中島飛行機を源流に持ち、戦後に解体、平和産業へ転換させられた富士産業(後のSUBARU)もその1つであったが、1945年(昭和20年)当時、日本に駐留していた連合軍が持ち込んだアメリカのパウエル式やイギリスのコルギ式といったスクーターの簡素な車体が、材料が十分に確保できない状況で作れる製品として富士産業の技術者関心を集め、規制の緩かったオートバイ業界へ技術者が流入し始めたためである。しかしながら敗戦後間もない日本国内では開発は始まったものの材料不足でさらに材料調達自体がほぼ不可能に近いという状況は非常に深刻で、一時は海軍機である「銀河」の尾輪をタイヤに転用したり、ピストン周辺はダットサンの部品を流用したりするなど、新規に部品すら製造できない状況の中で試作品は作られた。1946年(昭和21年)の夏に試作機が完成し、同年11月からラビットスクーターS1として発売された。定価は11,000円程度であった。これは交通の不便な終戦直後にあって歓迎され、月産300台から500台程度生産されることとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "それから半年後、旧三菱重工業系の中日本重工(実質後の三菱自工)はアメリカのサルスベリー式をモデルにシルバーピジョンを開発し、これら2台が終戦直後の日本製スクーターの双璧となった。ラビットが好調な売れ行きを見せ、戦前のオートバイメーカーも製造再開を目指す中、1948年(昭和23年)に発足した日本小型自動車工業会によりGHQや官庁との交渉を経て様々な規制撤廃に成功し、オートバイ産業が有望であるとの認識が広まり、新規参入するメーカーも多く現れた。新明和興業、昌和など名前を残す企業も存在したが、社名を掲げながら実状としては自転車屋の軒先で月に数台製造する程度の個人店も多かった。1953年には113社が参入して製造会社数の全盛期を迎えるが、1955年の経済不況に直面すると既存のメーカーを含む137社が撤退。技術力と資金が伴わない業者は一気に淘汰された。",
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "一方、スクーターが高額で購入することができなかった層を中心に自転車用補助動力、バイクモーターの需要が高まり、みづほ自動車製作所がビスモーターを発売し、本田技研工業は日本陸軍払い下げの軍事無線機用小型エンジンをベースに開発を重ね、後にホンダ・カブF型(通称「バタバタ」)を1952年(昭和27年)に発売する。こういったバイクモーターの流行に商機を見出し、スズキもオートバイ製造を開始した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 37,
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"text": "群雄割拠の時代にあって名前を売るにはレース活動が典型で、1950年(昭和25年)頃に復活し始めたレースはこういったメーカーの競争の場として利用されるようになっていった。当時はオートレース場は存在していたがサーキットは存在せず、レースは最初は競馬場や運動場、のちに公道で行われるようになっていった。まず口火を切ったのは1953年(昭和28年)3月21日に行われた名古屋TTレース、浜松静岡間レース、富士山本宮浅間大社から富士宮登山道を2合目まで走破する富士登山レース、そして国内レースの最高峰として浅間火山レースなどが行われるようになった。戦中に戦闘機用プロペラなどを製造していたヤマハは設備の平和的な利用方法としてオートバイ製作に着手、後発メーカーである知名度の低さをこうしたレースで高めようと、YA-1を浅間火山レースへ参加させ、125ccクラスで上位を独占するといった功績を残した。こうしてレース活動が熱を帯びるにつれ、高速走行に適さず、指示標識も足りない不十分なコースや警察との連携不足が問題になり、専用のコース新設を求める声に応える形で浅間高原自動車テストコース開設へと業界は動き出した。当時の国産車を見るとホンダ・カブF型で50cc1ps/3,500rpm、シルバーピジョンは150cc3馬力、対するドイツ製オートバイ、クライドラーK50は50ccで2.5ps/5,000rpmを発揮、国産オートバイに対し海外製オートバイの性能は圧倒的で、こうしたレース活動は名前を売る目的のほか、海外のオートバイに追いつく技術開発を進める場としても活躍した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "こうしてオートバイは単なる移動手段ではないという認識が広まりだすと、当時の好景気と相まって消費者による峻別が始まった。三種の神器と呼ばれる電化製品が家庭に広がりを見せる中、最低限の移動手段として提案されたバイクモーターの需要はなくなり、これらの製品を主として製造していたメーカーがまず打撃を受けた。あるいは戦前と戦後でオートバイの流行が大きく変わったことも影響は大きく、戦前においてはアメリカンが人気であったが、戦後になりイギリスやドイツなどの車両が人気となり、戦後勃興したメーカーに比べ、戦前から存在したメーカーほどこの流行を捕らえた車両開発に取り掛かるのが遅れた。また、当時の流行であったトライアンフやDKWなどのヨーロッパ製車両の外観は模すものの、ただ鈍重なだけで走行性能の伴わない車両を製造していたメーカーは、レースにおける実績に裏づけされた車両と比べられて選ばれることはなかった。加えて、戦後の統制下であっても自分達の技術や設備を行使できる分野として、規制が緩かったためにオートバイ産業を選んだメーカーには、統制が解かれたことや好景気を受けて、本業に復帰、あるいは他の産業に商機を求めて転業する企業も少なくなかった。目黒製作所が1960年(昭和35年)に業績悪化から川崎重工との提携を行うものの改善せず、1964年(昭和39年)にそのまま吸収される形で戦前から続いていた企業は全て消滅することとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "こうした過当競争は、販売車両の性能向上や量産体勢の拡大へとつながっていく。1958年(昭和33年)に発売されたスーパーカブは対抗車種が2.5ps程度の時代に空冷4ストロークOHV49ccエンジンから4.5psを発揮し、なおかつ55,000円の低価格で、当時の事業規模を大きく変えるほどの月産5万台を標榜し、業界の構造を大きく変えた。他の有力メーカーは同価格帯で対抗車種を販売し、対抗しうる性能や販売体制を実現できない企業は撤退を余儀なくされた。1959年(昭和34年)、この勢いそのままに、ホンダは独自の精密加工技術を生かした並列多気筒エンジンを採用してマン島TTに参戦し、1961年(昭和36年)に優勝を達成する。外国製オートバイの後塵を拝し続けてきた日本のオートバイが世界一になった瞬間であった。ホンダの偉業に負けじと国内各社も相次いでロードレース世界選手権へ参加を始め、日本車の国際舞台での勝利が常態化する。翌1962年(昭和37年)に国内初の全面舗装のサーキットとして完成した鈴鹿サーキットでロードレース世界選手権が開催され、この年のマニュファクチャラーズ・ランキングでは5部門中4部門を日本勢が制する。こうした権威あるレースでの実績は日本製オートバイの輸出を推し進め、日本はオートバイ大国の仲間入りを果たした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "しかし、モータリゼーションの到来とともに自動車が実用的な乗り物として普及すると、オートバイは一部の業務用を除いて趣味の乗り物として扱われるようになり、販売台数は頭打ちになった。1980年代前半になると、ヤマハが業界1位の座をホンダから奪おうとして、日本のみならずアメリカをも舞台にしてHY戦争が起きた。この競争のなかで、ラインナップが増えるとともに価格競争が進み、さらに1980年代後半からは好景気(バブル景気)も重なり、1990年代前半にかけて日本にバイクブームが訪れた。しかし、このバイクブームから暴走族が全国各地で増え、危険走行や騒音、交通事故が社会問題となった。それによって三ない運動に代表されるような「バイク=危険な乗り物・暴走族」という社会の認識が強くなり、バブル崩壊と共にバイクブームも急速に終息に向かった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1990年代は東南アジアを中心とする発展途上国の市場が拡大し、2000年代には海外での日本国内向け車種の生産も増加した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "21世紀の国内需要は、原動機付自転車から四輪車への消費者のシフトや、都市部での路上駐車の取り締まり強化や排ガス規制強化、不況などに伴い、ピーク時に対して市場の大幅な縮小が起こった。また三ない運動の後遺症もしばしば言及されており、ホンダ社長八郷隆弘は、「82年には328万台だった日本の二輪車市場が、2018年には8分の1にまで減少した大きな要因として『三ない運動』が大きく影響している」と述べている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2020年代頃より国内メーカーでは需要の減少や世界的な環境規制の強化に対応するため、電動オートバイの普及に向けて動いているが、電気自動車のような充電器の規格争いを防ぐため共通化など協調路線に動いている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "業界団体としては、日本自動車工業会(自工会)がバイクも所管するほか、バイクに特化した日本二輪車普及安全協会(二普協)がある。大手4社の国内販売台数は1982年の約328万台をピークに、2015年は約37万台に減った。このため業界団体や各メーカー、部品であるタイヤを製造するブリヂストン、中古車買い取り販売のバイク王&カンパニーといった流通企業は需要喚起に取り組んでおり、若者のバイク離れに歯止めをかけるためアニメ(『ばくおん!!』)のコラボも展開している。日本では8月19日が「バイクの日」とされている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "趣味の乗り物としての需要は減少したものの、配達業務での用途は依然として根強い。また、緊急時の機動性が見直されて、救急や消防での利用が新たに着目されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "日本のオートバイメーカーや工場は、戦後復興期に移動手段としての高い需要から、多くの零細企業が参入したが技術や価格競争の激化により大手メーカーが有利となり、零細のみらなず中小メーカーも消えていった。2021年現在では、ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキの4社に収束している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "オートバイの構造は、その歴史のなかで様々な形態が現れ、変遷してきた。ここでは現在市販されている二輪のオートバイとして一般的なものを示す。したがって、いくつかの車種には例外があり、特に三輪のものについては構造が大きく異なる例もある。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "オートバイの構成要素を機能で大きく分けると、フレーム、エンジン、クラッチ、トランスミッション(ギアボックス)、タイヤホイール、ブレーキ、サスペンションなどに大別される。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "前後輪の役割としては前輪操舵・後輪駆動が一般的であるが、前輪が操舵と駆動の両方を担うものもある。エンジンの位置は前輪と後輪の間に搭載されるものが一般的である。前輪駆動のものはフロントホイール内(インホイールエンジン)やフロントフォークに搭載される。エンジンが発生した出力はまず1段減速された後に、クラッチを経て変速機に伝えられる。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "運転操作は、右グリップがスロットル、右レバーが前ブレーキ、右ペダルが後ブレーキ、左レバーがクラッチ、左ペダルがギアチェンジという構成が現在では一般的である。ただし、イギリス車では伝統的に右足でギアチェンジ、左足で後輪ブレーキ操作を行う車種が多く、一時期は燃料タンクの左脇に手で操作するシフトレバーがある車種も多かった。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "スクーターに関しては、構造や操作などに特徴がある。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "エンジンは通常、車体フレームに固定されている(駆動輪と一体になっているスクーターなどはエンジンがスイングアームの一部となり可動する場合がある)。チェーン、または歯付ベルトドライブ(駆動)のものはクランクシャフトが車体進行方向に対して横向きに搭載される。このうち直列エンジンは、二輪車特有の表現である「並列エンジン」とも呼ばれる。一方、シャフトドライブの車種の多くは縦置きエンジンを採用している。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "コスト削減やオートバイのキャラクターを維持するなどの観点から、キャブレター・空冷・2ストロークなどの四輪乗用車では失われた技術が、昨今の排気ガス規制の影響で以前よりは減少してはいるものの現在も改良を重ねながら採用され続けている。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2021年現在ではガソリンエンジンが主流であるが、電動機のみを搭載した電動オートバイ、また内燃機関と電動を組み合わせたハイブリッドシステム搭載モデルも販売されている。近年は水素燃料エンジンの研究も行われている。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "マニュアルトランスミッション車は運転者が速度や負荷に応じたギアの組み合わせを選ぶ機構で、マニュアル車やミッション車(しかしトランスミッションがないオートバイは通常ない)とも呼ばれる。クラッチの操作も必要となるが、トルクコンバーターを用いたものや、湿式多板クラッチなどを用いたオートマチックトランスミッション車がある。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "クラッチは、エンジンオイルに浸されていて複数の摩擦面を持つ湿式多板クラッチの他、BMWの水平対向エンジン車やモト・グッツィなど、縦置きエンジンの車種で乾式単板クラッチ、競技車両やイタリアのドゥカティの一部では乾式多板クラッチ、また自動遠心クラッチなどが存在している。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "オートバイのトランスミッションは、エンジンのクランクケースと一体になったケースに収められている場合が多く、4ストロークエンジンの車種ではエンジンオイルがトランスミッション(と湿式多板クラッチ)の潤滑を兼ねている。トランスミッションは4段から6段程度の変速段数を持つ車種が多い。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "トランスミッションから車軸へ動力(トルク)を伝達する手段には、ローラーチェーン、プロペラシャフト(シャフトドライブ)、歯付ベルト(オートマチックトランスミッションを採用するオートバイ)などが使用される。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ホイールは、チューブレスタイヤを使用する車種ではアルミダイカスト製の「キャストホイール」を採用しているモデルが多い。一方、リムとハブをワイヤースポークでつないだホイールを採用する車種もある。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ブレーキには自転車同様のバンドブレーキやリムブレーキも当初見られたが、自動車と同じ仕組のドラムブレーキがそれらに取って代わった。ドラムに対するブレーキシューの向きで自己サーボ効果を発揮する方向が異なるため、フロントをツーリーディング、リアをリーディング&トレーリングとする組み合わせが多い。1970年代末にはスポーツ車からディスクブレーキが普及し初め、スポーツ車以外にも採用が広がっている。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "サスペンションは、走行中に路面からの衝撃を吸収させ、車輪をつねに路面に接触させ、操縦性・安定性に寄与している。前輪はテレスコピックフォークがほとんどで、後輪はスイングアーム(もしくはユニットスイングアーム)が多い。",
"title": "基本構造"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "多種多様なタイプが存在するが、用途別としては、舗装路の走行に適したオンロードモデル、未舗装路の走行に適したオフロードモデル、市街地での使用を想定されたタウンユースモデル、その他の特殊なモデルなどに分類される。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "普通自動車の免許を取得する際、追加講習を受けることで小型自動二輪車相当の免許を同時に取得できる国もある。",
"title": "法規"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "日本におけるオートバイに関する運転免許や交通規制などの法規則については下記の関連項目を参照。",
"title": "法規"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "なお、オートバイは使用済自動車の再資源化等に関する法律(自動車リサイクル法)の対象外であるが、2004年10月から日本メーカ4社と国外製品の主要インポータ12社が自主的なリサイクルシステムを開始している。(ハーレーダビッドソンジャパンのみ、この枠組みとは別に独自のリサイクルシステムを構築している)",
"title": "法規"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "オートバイ特有の車体構造により、交通事故の形態や発生する傷害は独特の性質を具える。",
"title": "オートバイの事故"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "オートバイは自動車一般に比べると、乗員が車体構造で覆われておらず、接地面積が狭く制動に利用できる力が小さい。特に二輪車は静止状態では自立が困難である。その他にも特有の性質により自動車一般とは異なる危険性を持っている。運転免許教習をはじめとする安全運転講習では、オートバイ特有の特性を理解して危険を自覚すれば、事故の確率を下げることができると指導されている。",
"title": "オートバイの事故"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "乗員が車体構造によって覆われていないことは、衝突の際に乗員が直接対象物に衝突する危険性があるほか、車上から放り出された乗員が二重、三重の衝突に巻き込まれやすい。",
"title": "オートバイの事故"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "二輪車は停車時に乗員が足で支える必要があり、停車中にバランスを崩して転倒し、事故に至る事例もある。走行中の二輪車はジャイロ効果によって自立しているが、速度が低いときはジャイロ効果が小さく不安定なため、ふらつきによる事故が発生する事例がある。比較的軽度のスリップでバランスを崩して転倒しやすく、高い速度で走行していて転倒する場合が多いことから、事故に至った場合は最も危険な転倒である。そのため、教習や講習では滑りやすい路面状況について特に指導している。スリップしやすい路面状況は次のようなものがある。",
"title": "オートバイの事故"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "オートバイは他の交通に比べて車体が小さいことからオートバイの存在自体が見落とされやすい上、遠近感に錯覚を生じて実際よりも遠くにあると認識されたり、実際の速度より遅く感じられることが多い。交通渋滞の列の左側を直進するオートバイや交差点で直進中のオートバイと右折車両の衝突事故(いわゆる右直事故)の多くは相手車両の運転者がオートバイを見落したことによるものである。他にもオートバイの方が自動車よりも通行量が少ない、自動車と形状が違うなどの理由で相手車両の運転者が自動車にばかり気を取られやすくなるという理由で見落とされやすいのに加えて、特に夜間は、前照灯の照度が低い車種も多いことから、さらに見落とされやすくなる傾向にある。",
"title": "オートバイの事故"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "一方で、自動車一般よりも天候の悪化が安全な運行に大きく影響を及ぼすことも特徴である。自動車一般は車両にワイパーや曇り止め装置を装備しているのが通常であるが、ヘルメットシールドやゴーグルでこれらを備えた製品は稀である。加えて夜間の雨天時は、シールドなどに付いた雨粒に対向車のライトが乱反射するため、視界が極めて悪くなる。あるいは、身体が濡れたり冷えたりすることで運転者の注意力や運動能力が低下して事故の危険性を増加する。",
"title": "オートバイの事故"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "このほか、進路変更や追い越しの際のオートバイの機敏な動きを周囲の運転者が予測できないという点が事故原因の一つとして挙げられる事例や、渋滞のすり抜け中に停車車両がドアを開いて衝突する事例もある。",
"title": "オートバイの事故"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "衝突事故では乗員が投げ出されて対象物に直接衝突することが多く、頭部外傷による死亡が最も高い。ヘルメット着用が義務化されていなかった時代は、頭部外傷による死亡が6割を占め、現在の日本を含めて義務化された国・地域でも、依然として頭部の損傷は死亡原因の4割である。特に初心運転者ほど頭部(顔面を含む)の損傷によって死亡する率が高い。",
"title": "オートバイの事故"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "次いで多いのが体幹の損傷による死亡であり、ことに胸部外傷による死亡が多い。Krausらの研究によると、一本の肋骨が2箇所以上骨折するとフレイルチェストと呼ばれる症状を起こして呼吸困難になったり、肋骨や胸骨の骨折により心停止時に有効な心臓マッサージをすることができない場合があるほか、折れた肋骨が胸郭内臓器や腹腔内臓器を傷つけられる危険性がある。例えば、肺を傷つけると緊張性気胸や開放性気胸を起こす。あるいは、心臓や大動脈を傷つければ失血性ショックによる死亡率が非常に高くなる。また、肝臓や脾臓を傷つけた場合も緊急の開腹手術が必要な重傷となる。このことから、同研究では、胸部プロテクターの普及を図ることを推奨している。",
"title": "オートバイの事故"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "一方、四肢の外傷だけで死に至ることは少ないが(ただし大腿部の動脈などを損傷すると重篤となる場合がある)、膝や肘などは軽微な転倒でも骨折などの骨格傷害を負う場合が多い。",
"title": "オートバイの事故"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "日本でのオートバイ利用者の増加とオートバイの性能の向上に伴い、1989年には2575人の死者が出るに及んだ。「第2次交通戦争」と言われた。社会的にもオートバイ事故への対策が注目されるようになり、様々な対策が打たれた結果、オートバイ事故による死亡者数は1989年以降減少し続け、2006年には1119人となった。(これは第2次交通戦争といわれた1989年(2575人)の半数以下、第1次交通戦争と言われた1964年(3762人)の3分の1以下である。)",
"title": "オートバイの事故"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "オートバイによる事故では頭部への負傷する確率が高いことから、多くの国と地域では法規によって乗車中のヘルメット着用が義務づけられている。",
"title": "オートバイの事故"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "被視認性を改善するために、多くの国ではエンジン始動中はオートバイのヘッドライトが点灯する構造であることを法規やメーカーの自主規制によって定めている。日本においても、1980年代から前照灯の昼間点灯が推奨されるようになった。これに応えて、ヘッドライトスイッチ廃止のメーカー自主規制が1993年より始まり、1998年に道路運送車両法により法規化された。",
"title": "オートバイの事故"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "オートバイメーカーは、各社より安全なオートバイの実現を目指して開発を行っている。例えば、本田技研工業はオートバイにエアバッグを装備し、ドイツのBMWはオートバイにシートベルトを装備して、衝突時に乗員が空中にはね飛ばされることを抑止、あるいは低減できる車種を販売した。",
"title": "オートバイの事故"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "オートバイ用品の改良も行われていて、例えば、ヘルメットは事故の際に頚椎にできるだけ力をかけずに脱がせられる手段を設け、ジャケットは革ツナギのほかにも新素材によるパッド付きのものや、エアバッグを内蔵したものが販売されている。肘、肩、膝のプロテクターは普及率が低く、胸部のプロテクターを着用しているユーザーはほとんどいなかったが、白バイ隊に配備されている物が民生発売されて認知度が上がりつつある。ヨーロッパではCEマークを取得しないと販売できず、モーターサイクル装具の基準として肩、前腕、肘、尻、脛用プロテクターのEN1621-1:1997、脊椎プロテクター用のEN1621-2:2003がある。それぞれで衝撃吸収力が規定されていて、EN1621-1:1997の場合が衝撃を30%吸収して7割軽減し、EN1621-2:2003の場合が衝撃を64%吸収して約3分の1に軽減するLevel1、衝撃を80%吸収して約5分の1に軽減するLevel2とされている。日本ではプロテクターの販売に規格はないが、全国二輪車用品連合会が独自の安全基準を作成することを発表した。また日本では2018年10月から発売されるバイクについて、ABS(アンチロック・ブレーキ・システム)が義務化された。",
"title": "オートバイの事故"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "このほかにも、行政、オートバイのメーカーや業界団体、オートバイ雑誌などによってユーザーに対する啓発活動が行われている。オートバイ愛好家の団体にも、自主的なイベントなどを通じて啓発活動を行っているところがある。こういった活動には、単に「事故を起こさない」「事故に遭わない」といった予防策だけではなく、救護技術の習得などの対応策も含んだ講習を行う例もある。",
"title": "オートバイの事故"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "日本脊髄基金の統計 (1990 - 1992) によると、日本の脊髄損傷事故の原因のうち、約14%がオートバイによる事故である(四輪事故は約20%)。死亡率は高くないものの、救急救命士や医師は頚椎の保護を重要視する。これは初め無症状であっても頚部を動かすことによって脊髄損傷を誘発し、重度の傷害を負ってしまうことがあるからである。",
"title": "オートバイの事故"
},
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"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "自動二輪車は、エンジンを高回転にする操作も多く、また愛好家の一部には、高回転のエンジン音を好む者もいる。",
"title": "騒音"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "しかし住宅街道路などで高回転で甲高いエンジン音を発生させることは、愛好家でない人々にとっては苦痛となり問題視される(騒音問題)。",
"title": "騒音"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "また、構造やマフラーの性能不足に起因して騒音が発生する場合がある。",
"title": "騒音"
}
] | オートバイとは、原動機を搭載した、主に二輪車を指す和製英語である。 日本では他に自動二輪車(じどうにりんしゃ)や単車(たんしゃ)やバイク (bike) も同じものを指す。また、車検の必要の無い排気量125cc以下の原動機付自転車をミニバイクと称することもある。 英語圏ではmotorcycle(モーターサイクル)またはmotorbike(モーターバイク)、短く表現する場合はmoto(モト)などとも呼ばれる。 原動機付二輪車の構造を流用して製造された、三輪以上の乗り物(トライクや全地形対応車など)も、オートバイの一種に含められる。 | {{Pathnav|自動車|frame=1}}
{{Otheruses|乗り物|その他の用法|オートバイ (曖昧さ回避)}}
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{{Multiple image
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|image1=Honda Super Cub C100 - Tokyo Motor Show 2013.jpg
|caption1=世界で最も多くの台数が売れているオートバイである[[ホンダ・カブ|ホンダスーパーカブ]]シリーズ。(写真はその初代モデル・1958年式)
|image2=2007ModelwitLE.jpg
|caption2=[[スズキ・GSX1300Rハヤブサ|スズキ・ハヤブサ]]
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|caption3=[[インド]]の人々がオートバイに乗る様子
}}
'''オートバイ'''とは、[[原動機]]を搭載した、主に[[二輪車]]を指す[[和製英語]]である<ref name="kv5">『[[広辞苑]]』第五版</ref>{{efn|なお『[[大辞泉]]』では「[[ガソリン機関]]による[[動力]]で走る[[二輪車]]」とされたが、2012年時点ではガソリン機関だけでなく、[[電動機|モーター]]や[[ガスタービン機関|ガスタービン]]を[[動力]]とする製品も市販されている。}}。
[[日本]]では他に'''自動二輪車'''(じどうにりんしゃ)や'''単車'''(たんしゃ)<ref name="kv6">『広辞苑』第六版</ref>{{efn|「自動二輪車」は[[日本]]の[[道路交通法]]での用語、呼び方。「単車」のほうは法律用語ではなく、([[昭和時代]]の人々が好んで使った)日常語。}}や'''[[バイク]]''' ({{en|bike}}) も同じものを指す。また、車検の必要の無い排気量125cc以下の原動機付自転車をミニバイクと称することもある<!--{{efn|だが平成頃からは、英語圏での最近の「bike」という語の用法の影響を受けて、日本語でも「バイク」は[[自転車]]も指すようになっており、特に2010年頃以降は「バイク」が自転車を指す頻度がさらに非常に増しており、自転車に乗る人々の間では当然のように「バイク」は自転車を指すと思われるほどになっているようになっている。つまり、2010年以降では、どのグループの人々が話題にしているのか特定しないと、「バイク」という言葉だけでは、「原動機搭載の二輪車」なのか「自転車」を指しているのか全然分からないような状況になっている。}} ノート参照-->。
[[英語圏]]では{{en|motorcycle}}('''モーターサイクル''')または{{en|motorbike}}('''モーターバイク''')、短く表現する場合は{{en|moto}}('''モト''')などとも呼ばれる{{efn|[[ダカール・ラリー|パリ・ダカールラリー]]を創始した[[フランス語圏]]の人々は{{fr|motocyclette}}(モトシクレット)や{{fr|moto}}(モト)と呼び、日常では一般に短くmoto(モト)と呼ぶほうが好まれ、現在のダカール・ラリー競技でも二輪車部門をmoto(モト)と分類している。}}。
原動機付二輪車の構造を流用して製造された、三輪以上の乗り物([[トライク]]や[[全地形対応車]]など)も、オートバイの一種に含められる。
== 概要 ==
2つの[[車輪]]を前後に配置して、[[ガソリン]][[機関 (機械)|エンジン]]や[[電動機|電気モーター]]といった原動機によって走行する乗り物を指す。[[自転車]]に原動機を備えたもので、原動機の動力のみで走行することができるものも含めてこのように呼ぶこともある。
基本的には二輪のものを指しているが、[[サイドカー]]を備えて三輪になっているものや、エンジン付き二輪車をベースにして開発・改造されてできた[[トライク|三輪車]](及び、時に四輪や一輪)も広義の「オートバイ」に含める場合がある。
;呼称
'''オートバイ'''という呼び方は[[アメリカ英語]]「{{lang|en|autobike}}」に由来する和製英語である<ref>[[#日本のオートバイの歴史|『日本のオートバイの歴史。- 二輪車メーカーの興亡の記録』]]p.7</ref>。[[1902年]]([[明治]]35年)に[[アメリカ合衆国]]からエンジン付き自転車「トーマス」が輸入された当時は英語と同様に「モーターサイクル」と呼ばれていたが、[[1923年]]([[大正]]12年)に月刊誌『[[オートバイ (雑誌)|オートバイ]]』が発売されて以来、「オートバイ」という呼び方が日本人に広く認知されるようになったという意見がある<ref>[[#100TT|『百年のマン島 - TTレースと日本人』]]pp.179-180</ref>。
ただし[[日本語]]では、他に「自動二輪車<ref name="kv5" />」「単車<ref name="kv5" />」などとも呼ばれている<ref group="注釈">{{要出典範囲|原動機付きの二輪車全体を「オートバイ」と総称することは完全に定着しているわけではない|date=2021年1月}}。</ref>。「バイク」とも呼ばれる<!--<ref>冒頭でも説明したように平成時代や2010年ころからは、自転車乗りの間では「バイク」は自転車を指すようになっているので、徐々にオートバイ乗りでない人々には、どちらを指しているのか判然としなくなってきている。</ref>-->。
なお前述の雑誌『オートバイ』に対して、ライバルとして月刊誌『[[モーターサイクリスト]]』が存在しており、かつては『[[モトライダー]]』『[[サイクルワールド]]』『[[ビッグバイク]]』『[[モトラッド]]』など、「オートバイ」以外の呼称を使用している専門誌も多数存在した。日本の法令では「自動二輪車」(や、原動機搭載と明らかに分かる文脈では「二輪車」も)が用いられる。自動車検査証において「車体の形状名」として登場するケースはある。<ref group="注釈">「{{要出典範囲|「オートバイ」という語は単なる[[通称|俗称]]の一つに過ぎず、原動機付きの二輪車全体を指す言葉として用いるのに適さない|date=2021年1月}}」という意見を言う人もいる。</ref>
[[英語]]で単に{{読み|subst=2015-04|3=補助表示|{{lang|en|bike}}|バイク}}と言うと二輪車全般を指すものの、どちらかというと[[自転車]]({{lang|en|bicycle}})<ref group="注釈">「{{lang|en|bi}}」は「2」を意味する接頭辞で「{{lang|en|cycle}}」は「輪」輪を示す。いずれもラテン語に由来する。</ref>の略語として使われる場合が多いという意見もあるが、1970年代頃は[[イギリス]]には『[[Bike Magazine]]』(1971年創刊)や『[[Classic Bike]]』(1978年創刊)、またアメリカ合衆国でも『[[Dirt Bike]]』(1993年創刊)や『[[Hot Bike]]』(1994年創刊)などの雑誌も創刊されており、加えてモータースポーツでも[[スーパーバイク世界選手権]](1988年~)や[[AMAスーパーバイク]]といった大会名があることからも分かるように、1970年や1980年代でも「bike」という英語は「原動機搭載の二輪車」も「自転車」も、つまり両方を指していた。<!--のであるから、ここ十年ほど「bike」がやたらと自転車を指す頻度が増えたからといって、「もともとバイクという語は自転車を指す場合のほうが多い」と言ってしまっては間違い、言いすぎである。正しくは「(20世紀末における[[環境問題]]意識の高まりや[[エコロジー]]・ムーブメントの盛り上がりとともに欧米で(原動機搭載の乗り物を避けて)自転車に乗って通勤することが流行することになった影響もあり)<u>2000年~2010年ごろから</u>「bike」が(オートバイよりもむしろ)自転車を指していることのほうが多くなった」と言うほうが適切である。ただし繰り返しになるが「オートバイ」は和製英語であり、殆どの外国人に通じない。例外として、[[韓国]]では「オトバイ(오토바이)」と呼ぶ事があり、実際に[[Google翻訳]]でも、英語の「motorcycle」の訳語として表示されている事から、通じる可能性はある。-->
「単車」は[[サイドカー]]を付けたものを「側車付き」と呼ぶのに対して、サイドカーを付けていないオートバイ単体を指す言葉として用いられていたが、サイドカーが希少なものとなった現在も「単車」という言葉が生き残っている。なお、[[中国語]]でも二輪車の意味で単車という言葉が存在する。
自動二輪車については「原動機」を意味する「{{lang|en|motor}}」を加えて「{{lang|en|motorbike}}」、あるいは「{{lang|en|motorcycle}}」と呼ばれることが多い。
;オートバイとスクーターに関して、区別から包含関係への変化
なお1988年に出版された百科事典では「日本では…(中略)…、またスクーターはオートバイの範疇に含めないのがふつうである」と書かれたが<ref name="hp">[[#大百科|『世界大百科事典』第4巻]]</ref>、2012年時点では、様々な文献やメーカーのホームページにおいて、[[スクーター]]も「オートバイ」の範疇に含まれるように変化した、と指摘されている<ref>『図解入門よくわかる最新バイクの基本と仕組み』[[秀和システム]]、2010年)第二章</ref>。
2012年時点で、日本のオートバイメーカーやオートバイ雑誌では、[[道路運送車両法]]で規定された排気量、[[道路交通法]]で規定された車両区分、免許区分、ギアシフトが自動か手動かによる区分などを用いてオートバイを分類し、「オートバイ」にスクーター類も含めることが一般的となっている<!--。四輪と二輪を両方製造するメーカーの場合、それら二つで大別することや、コンセプトとしてスポーツ性を持たせたスクーターなどを開発した場合、他のスクーターと別記載し差別化することもあり、様々である--><ref group="注釈">また、ヤマハ発動機のウェブサイトでは、2012年3月29日時点で、Motorcyclesのページ内に大きく「スポーツバイク」「スクーター」「競技用」の3つを立てている[https://megalodon.jp/2012-0329-2124-28/www.yamaha-motor.jp/mc/]が、「スポーツバイク」の中に、TMAX(=スクーター タイプ)も含めている[https://megalodon.jp/2012-0329-2147-39/www.yamaha-motor.jp/mc/lineup/sportsbike/]</ref><ref>[https://megalodon.jp/2012-0329-2122-59/www.honda.co.jp/motor/ ホンダのホームページ]、[https://megalodon.jp/2012-0329-2122-08/www.honda.co.jp/motor-lineup/category/ 同ページカテゴリー区分]</ref><ref group="注釈">スズキのホームページでは、2012年3月29日時点で、「二輪車」というタイトルのページをつくり、そこで排気量別で大きく分け、各排気量の中に、スクーターも含めて表示した。[https://megalodon.jp/2012-0329-2141-30/www1.suzuki.co.jp/motor/full_line/index.html]</ref><ref group="注釈">『週刊バイクTV』は、オートバイに関する番組であるが、各社の大型スクーターの紹介を頻繁に行っている。</ref><ref group="注釈">あるいは「オートバイ」という用語は最初から避け、「{{lang|en|motorcycles}}」「二輪車」という用語を用いてスクーターも含めて様々なタイプのそれを説明・紹介している。</ref>。
{{see also|日本におけるオートバイ}}
== 普及 ==
{{multiple image
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| header = オートバイの普及状況 2002年
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| image1 = Bar of cars motorcycles population.png
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| caption1 = 濃い青がオートバイで、水色が四輪の自動車。単位は百万台。オートバイの台数の多い順でトップから20か国。[[インド]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[日本]]、[[インドネシア]]、[[タイ王国|タイ]]、[[イタリア]]…といった順になっている。人口は赤色の線(2002年)。
| image2 = Map Motorcycles vs cars by population millions 2002.png
| alt2 =
| caption2 = 2002年時点の各国のオートバイと四輪自動車の保有台数の割合。濃い青がオートバイ。水色が四輪の自動車。円の大きさは人口を表す。
}}
[[20世紀]]に[[自動車]](四輪)と共にオートバイは個人の移動手段として大きく普及した。自動車は2010年には10億台が世界で保有されており、6.9人あたり1台の割合となっている。
オートバイの保有台数(2011年または2012年)は全世界で約2億から4億<ref name=ICCT>International Council on Clean Transportation [http://www.theicct.org/sites/default/files/publications/EU_vehiclemarket_pocketbook_2013_Web.pdf European Vehicle Market Statistics - Pocketbook 2013] </ref>台と推定されており、[[中華人民共和国|中国]]に約1億台(1台あたり13人、以下同)、[[インドネシア]]に約7598万台(3人/台)、[[インド]]5192万台(20人/台)<ref>日本自動車工業会 [http://www.jama.or.jp/lib/jamagazine/200908/03.html 「インド自動車市場とその将来」] {{リンク切れ|date=2017年10月}}他の国のデータと年次が異なり2004年の数値である。</ref>、[[タイ王国|タイ]]1924万台(4人/台)、[[台湾]]([[中華民国]])1514万台(1.5人/台<ref group="注釈">出典に記載が無いため、記載されている台数と[[台湾]]の頁の人口より算出。</ref>)、[[日本]]1199万台(11人/台)、[[マレーシア]]1059万台(3人/台)、[[イタリア]]858万台(7人/台)となっている<ref>日本自動車工業会 [http://www.jama.or.jp/world/world/world_2t4.html 「世界各国/地域の二輪車保有台数」] </ref>。台湾、インドネシア、マレーシア、タイは普及率が非常に高く道路はオートバイで溢れている。とりわけ[[世界人口]]の約35%を占めるインド・中国は[[人口]]超大国であり、それなりの台数となっているが同時に国土も広大であるため、[[東南アジア]]ほどのオートバイ天国ではない。
オートバイは中国やインドでの保有率の向上が見込まれ、世界の保有台数は2010年の約4億台から2030年には9億台へ達すると推定されている<ref name=ICCT/>。統計的にはインドと中国におけるオートバイの台数が突出して多い。インドや中国ではオートバイはほとんどが実用目的で使われている<ref group="注釈">発展途上国では、四輪自動車は庶民の年収と比較して高額なため、オートバイが購入される。[[開発途上国|発展途上国]]の都市部では、オートバイは交通渋滞をすり抜けやすいという利点もあり、特に重要な交通手段である。</ref>。
中国では1985年[[北京市]]政府が初めてのオートバイ禁止令を発表されており<ref>{{Cite web |url=http://gaj.beijing.gov.cn/zhengce/tongzhi/202204/t20220415_2678604.html |title=北京市公安局通告 |access-date=2022-07-24 |publisher=北京市公安局}}</ref>、2019年中国では約190の[[市]]からオートバイ禁止令が出ている。<ref>{{Cite web |title=中国摩托车商会再度发文,呼吁解禁摩!_摩托车之家_杂闻_摩信网 |url=http://www.chmotor.cn/sidelight_detail.php?id=46119 |website=www.chmotor.cn |access-date=2022-07-24}}</ref>
[[先進国]]の台数は相対的に小さいが、高価格帯の車種も売れており、モータースポーツも盛んで、趣味や道楽として楽しむ人も多い。
インドや東南アジア諸国も所得水準が向上しているため、富裕層や[[中産階級]]が単なる移動手段としてではなく趣味性の高いオートバイを購入するようになっている。日系メーカー各社もデザイン性を高めた製品を投入するようになっている<ref>[https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00465934 【真相断面】“FUNバイク”アジア攻勢/富裕層・中産階級ターゲット]『[[日刊工業新聞]]』2018年3月16日</ref>。
2018年に新たに販売された自動二輪車は5736万台で、前年より約6%増えた([[ヤマハ発動機]]による推計)。[[日本経済新聞社]]の推定による企業別シェア上位は、1位の[[本田技研工業]](ホンダ)、3位のヤマハ発動機を日本企業が、2位と4-5位はインド企業([[ヒーロー・モトコープ]]、[[バジャージ・オート]]、[[TVSモーター]])が占めている<ref>【点検 世界シェア】自動二輪/首位ホンダ、初の2000万台『[[日経産業新聞]]』2019年8月6日(自動車・機械面)。</ref>。
{{-}}
== 歴史 ==
{{Double image stack|right|ZweiRadMuseumNSU Reitwagen.JPG|Daimler Reitwagen color drawing 1885 DE patent 36423.jpg|250|(上)[[1885年]]にダイムラー社が造ったオートバイ・{{lang|en|Reitwagen}}の[[レプリカ]]<br />(下){{lang|en|Reitwagen}}の設計図<br /><small>([[1885年]][[8月29日]]作成、メルセデス・ベンツ博物館)</small>}}
=== 世界のオートバイ史 ===
[[1863年]]に[[フランス]]の[[発明家]]のルイ-ギヨーム・ペローが[[蒸気機関]]を動力とする二輪車を考案して特許を取得し、[[1873年]]の[[オーストリア]]の[[ウィーン]]で開催された[[ウィーン万国博覧会|ウィーン万博]]に出品したものがオートバイの原型といわれている。しかし、蒸気機関の時代から実用化されていた[[鉄道]]、自動車、[[船舶]]に対してオートバイや[[飛行機]]は常に動力を確保しなければ体勢を維持できないという共通の課題があり、活発な開発や運用がなされるのは[[ゴットリープ・ダイムラー]]によって[[内燃機関]]の発明がなされてからのことだった<ref name ="hoja-3">[[#日本のオートバイの歴史|『日本のオートバイの歴史。』第3章 ガソリン・エンジンの誕生]] pp.23-30</ref>。[[1883年]]に最初のガソリン機関の製作に成功、[[1885年]]に特許取得、[[1886年]]に実地運転に成功、補助輪付きの考え方によっては四輪車とも呼べる車体に搭載されたエンジンは、縦型シリンダー、F型配置のバルブ、自動負圧式吸入バルブ、熱管型点火装置といった技術が用いられており、それまでは高性能なガス・エンジンなどでも毎分200回転程度であった回転数を一挙に4倍の毎分800回転程度まで引き上げた<ref name ="hoja-3" />。この排気量260[[立方センチメートル|cc]]、[[4ストローク機関|4ストローク]]エンジンは、出力0.5[[馬力#仏馬力|ps]]、最高速度6 - 12[[キロメートル毎時|km/h]]程度のものであった<ref name ="hoja-2">[[#日本のオートバイの歴史|『日本のオートバイの歴史。』第2章 後進・日本のオートバイ産業]] pp.19-22</ref>。また、当時は二輪車(自転車)の技術開発がオートバイの開発に先駆けて活発で、車体構成の基礎技術である[[スポーク#ワイヤー・スポーク|スポークホイール]]、[[タイヤ|チューブタイヤ]]、[[ベアリング]]、[[チェーン]]{{要曖昧さ回避|date=2023年7月}}、[[スプロケット]]や[[ハンドルバー (自転車)|ハンドル]]といった技術が完成の域に達しており、そのまま転用ができ、人がまたがって搭乗するため基準値を算出しやすく、車体設計の方針が定めやすい<ref group="注釈">人体を基準にするため黎明期から現代に至るまでおよそ全長200cm、幅70cm、高さ80cm程度の車格が用いられている</ref>といった点がオートバイの開発進度を速める上で非常に有利にはたらいた<ref name ="hoja-3" />。
20世紀初頭のアメリカでは、マーケル、ポープ、カーチス、ミッチェル、ワグナー、オリエント、ローヤルなどといったオートバイメーカーが存在し、これに少し遅れハーレー、[[インディアン (オートバイ)|インディアン]]、リーディング・スタンダード、ヘンダーソン、エキセルシャー、エースなどといったメーカーが創立された<ref name ="hoja-4">[[#日本のオートバイの歴史|『日本のオートバイの歴史。』第4章 黎明期の日本のオートバイ界]] pp.31-66</ref>。現存するメーカーによる製品の例としては、[[1903年]]、ウイリアム・ハーレーとアーサー・ダビッドソンによって創業された[[ハーレーダビッドソン]]社が発売した、自転車にエンジンを搭載した[[モペッド]]がなどが挙げられる。
活発に開発が行われていたオートバイに対して、同時期に発生した飛行機の技術開発は、同1903年、[[ライト兄弟]]によって動力飛行に成功してからも産業にまで拡大されるには更なる時間を要した<ref name ="hoja-1">[[#日本のオートバイの歴史|『日本のオートバイの歴史。』第1章 オートバイ技術の内容]] pp.7-18</ref>。飛行機の黎明期にあっては、航空エンジンに必要とされる小型、軽量なエンジンという条件は鉄道や船舶など、小型化より高出力を優先する内燃機関とはコンセプトが異なり、同様に大型化が難しく、先んじて開発が進んでいたオートバイの技術から転用されるものが少なくなかった<ref name ="hoja-1" />。なかには、フランスの[[アンザーニ|アンザーニ社]]などオートバイの製造を行っていた企業の中に航空機エンジン開発に着手するものも現れた。アンザーニ社が開発したW型三3気筒エンジンは出力25ps、パワーウェイトレシオ2.5ps/kgを発生し、これをつんだ[[ブレリオ XI|ブレリオ単葉飛行機]]は[[1909年]]に[[ドーバー海峡]]横断に成功した<ref name ="hoja-1" />。[[1907年]]には競技会として[[マン島TTレース|マン島におけるオートバイレース]]が開催されており、そこでは[[2ストローク機関#デイ式2ストロークエンジン|デイ式2ストローク機関エンジン]]の小型化に適した特性を利用したスコット式[[2ストローク機関|2ストローク]]ガソリンエンジンを搭載したオートバイが4ストロークエンジンと並んで注目を集めた<ref name="hoja-3" />。
飛行機に先んじて開発が行われていたオートバイであったが、直後[[1914年]]に発生する[[第一次世界大戦]](1914年7月28日-1918年11月11日)において飛行機の有用性が認識され、国家規模でこの開発が行われるようになったために、その立場を逆にする<ref name ="hoja-1" />。オートバイから転用された諸々の技術<ref group="注釈">代表的な技術として[[サイドバルブ]]機構が[[OHV]]機構に、自動負圧式バルブが機械駆動式に、[[鋳鉄]][[シリンダー]]および[[ピストン]]がシリンダーで鋼製削りだし、ピストンが鋳鉄、あるいは[[鍛造]][[アルミニウム]]、オイルリングの装着などが挙げられる</ref>は、それを下地として飛行機の分野で技術革新が行われ、以降[[レシプロエンジン]]開発の花形は動力を[[ジェットエンジン]]に移行するまで飛行機であり、逆輸入されるような形でオートバイに再転用されることとなった<ref name ="hoja-1" />。
それまでのオートバイは、アメリカのブリッグス・ストラットン社が開発したスミスモーター<ref group="注釈">60*60mm、180ccの空冷4ストローク単気筒エンジンは回転速度2000rpmまで回り、出力公証1.5psを発揮した</ref>という自転車に装着する動力装置のような機構が簡便さから一定の評価を得ていたが、車軸に対して推進装置がずれていることや部品精度が低いために、速度が上がるとハンドルが揺れだすといった状況であった。始動を容易にするために圧力を開放するデコンプレッサーが装着されているなど、快適性に対する試行錯誤はみられるものの、始動方式は[[押しがけ]]で[[クラッチ]]や[[変速機]]、[[ブレーキ|フロントブレーキ]]も装着されていなかったため<ref group="注釈">フロントブレーキや手を使ってのクラッチ操作には後に{{仮リンク|ボーデンケーブル|en|Bowden cable}}が用いられ、これは現代においても同様の機構を用いた車種が存在する。</ref>、運用や転倒せずに走行するには乗り手に高い技術が要求された。また、[[キャブレター]]は布にガソリンを染み込ませ、そこを空気が通ることによって混合気を作るといった非常に原始的なものであった<ref name ="hoja-1" />。加えて、メーカーによる独自規格が乱立し、操縦方法の違いが顕著であった。代表的な例ではアメリカのハーレーとインディアンの間では同じ動作をするための装置が左右逆に装着されているなど、他社製品を操作するためにはまた新たな技能習得が必要であった<ref name ="hoja-4" />。
その後の[[第二次世界大戦]](1939年-1945年)では、戦闘に従事する各国軍隊において、[[サイドカー]]を付けて[[将校]]の移動手段や、[[偵察]]部隊などの機動部隊の装備としてオートバイは利用された。
第二次世界大戦後には日本で航空機などを製造していたメーカーがオートバイ製造に参入、コストパフォーマンスの高い製品を輸出し市場を拡大した。特にアジア圏では商用の低価格モデルを中心にシェアが高い。ヨーロッパの伝統的なブランドは趣味性の高い高級路線にシフトすることで棲み分けを図ったが、日本メーカーが高性能モデルを発売したことで競合するようになった。
中国では国内に多数のメーカーが存在し、庶民の乗り物として自転車と共にオートバイが利用されていたが、近年では環境規制の強化により排出規制が厳格化され、ガソリンエンジンを搭載したオートバイの保有・乗り入れが禁止された都市「禁限摩」の指定が増えている<ref>{{Cite web|和書|title=世界の二輪車生産と販売:2013年世界販売は5700万台の見込み - 自動車産業ポータル マークラインズ|url=https://www.marklines.com/ja/report_all/rep1155_201303|website=www.marklines.com|accessdate=2021-07-17}}</ref>。[[上海市]]などの大都市ではガソリンエンジンを搭載するオートバイはナンバーの発行に450万円という懲罰的な金額が課されることや、電動オートバイや[[電動自転車#中国|電動自転車]]のレンタル・充電設備が各所に設置され利便性が高いため、都市部では電動化が事実上完了している<ref>{{Cite web|和書|title=【クルマ三昧】ときに首を捻りたくなる驚愕の「中国バイク事情」 ガソリン二輪車はどこへ|url=https://www.sankeibiz.jp/econome/news/191108/ece1911080700001-n1.htm|website=SankeiBiz|date=2019-11-08|accessdate=2021-07-17|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref>。
韓国の都市部では道路事情や運賃の低いバス路線が発達しているため、市民の移動手段としてはほとんど用いられないが、普通自動車の運転免許で125ccまで運転できることから、都市部ではアルバイト配達員がオートバイで[[デリバリー]]する文化(ペダル文化)が発達しており、日本製のオートバイが多く利用されている<ref>{{Cite web|和書|title=韓国で、日本製バイクの販売が伸びている理由|url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2021/07/post-96701.php|website=Newsweek日本版|date=2021-07-14|accessdate=2021-07-17|language=ja}}</ref>。国内メーカーは[[デーリムモーター]]と[[S&Tモータース]]の2社が大手であるが、日本を始めとした輸入車の方がシェアが高い。
2020年代には世界的な環境規制の強化により[[電気自動車]]が普及すると予想されており、オートバイでも[[電動スクーター|電動化]]が進んでいる<ref name=":0" /><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=【電動バイク】「各社EV用バッテリーの規格統一」で何が変わる?|国内バッテリーコンソーシアムの将来展望|Motor-Fan Bikes[モータファンバイクス]|url=https://motor-fan.jp/article/10018722|website=motor-fan.jp|accessdate=2021-04-13}}</ref>。
=== 日本のオートバイの歴史 ===
[[ファイル:RikuoVL-BluePaint.jpg|250px|サムネイル|右|[[三共 (製薬会社)|三共]]によって生産されていた「[[陸王 (オートバイ)|陸王]]」]]
[[ファイル:Fuji Rabbit Junior Parque Arauco 2009.jpg|250px|サムネイル|右|[[富士重工|富士産業]]が戦後まもなく生産したラビットスクーター]]
[[ファイル:1953 Honda Cub.jpg|250px|サムネイル|右|[[ホンダ・カブ#カブ(1952年)|カブF型]]]]
[[ファイル:Honda RC142.jpg|250px|thumb|日本のオートバイが世界に通用することを証明した[[ホンダ・ロードレーサー#125 ccクラス|ホンダ・ロードレーサー RC142]]]]
日本における最古のオートバイの記録としては、[[明治維新]]による[[近代化]]が推し進められる中で、[[1898年]]([[明治]]31年)に紫義彦が組み立て、製作した車輌の写真が残されているが<ref group="注釈">1896年(明治29年)に[[十文字信介]]([[十文字大元]]の実兄)が石油発動自転車を輸入して[[丸の内|丸ノ内]]で試乗とある[{{NDLDC|1920400/209}} 1896年1月26日『[[國民新聞 |国民新聞]]』『新聞集成明治編年史. 第九卷』]([[国立国会図書館]]近代デジタルライブラリー)</ref>、明治期にはオートバイは道楽といった認識で、[[富国強兵]]の国是の下に国産化の進められた他の産業に比較すると特別な注力がなされることはなかった<ref name ="hoja-4" />。そのため、わずかながら人の目に触れるようになりだしたオートバイはほぼ全てが輸入車であり、開発や製造は個人で小規模に行われるにすぎなかった。
[[1909年]](明治42年)に島津楢蔵が初の国産車であるNS号を製造<ref>『ポプラディア大図鑑 WONDA 自動車・船・飛行機』(2014年7月、[[ポプラ社]]発行)132 - 133ページ「自動車の歴史」より。</ref>。その後、[[1910年]](明治43年)に山田輪盛館([[ドイツ]]のNSU製品の輸入販売)や山口勝蔵店([[イギリス]]の[[トライアンフ (オートバイ)|トライアンフ]]、アメリカのインディアンの輸入販売)といったオートバイ専門輸入商が創立され、[[1917年]]([[大正]]6年)に大倉商事がハーレーの輸入を開始した<ref group="注釈">1935年(昭和10年)までに日本にはAJS、アリエル、ダグラス、BSA、JAP、[[ノートン (オートバイ)|ノートン]]、ラッジ、サンビーム、トライアンフ、ヴェロセット(以上イギリス)、[[モトグッチ]]([[イタリア]])、クリーブランド(アメリカ)、BMW(ドイツ)といった各国のオートバイが輸入されていた。</ref>。その後、島津楢蔵はいったん航空業界に転身し、9気筒回転型空冷80馬力エンジンを帝国飛行協会でのコンテストに出品して1等を受賞するなどの実績を残した<ref name ="hoja-4" />。[[三井物産]]で取締役を勤めた[[山本条太郎]]により、その当時の航空事業はもはや個人に運営できる規模で太刀打ちできる産業ではない、といった助言を受けて自動車学校を設立するも、[[大阪府]]に総台数200台の時代にあって4年間で300名のエンジニアを輩出するなど迷走し、自動車学校は[[1922年]]([[大正]]11年)に閉鎖の憂き目にあう<ref name ="hoja-4" />。こうした紆余曲折を経た後にオートバイ開発に復帰し、航空業界で培った技術を応用したエーロ・ファースト号を3年後に完成させる。搭載された633cc、4ストロークサイドバルブ単気筒エンジンは6.5ps、最高速度40km/hを実現した<ref name ="hoja-4" />。このまま事業化を画策していたが、世界情勢の悪化やニューヨーク株式市場の暴落に端を発する[[世界恐慌]]の不況による影響から計画は難航し、[[1930年]]([[昭和]]5年)には廃業を余儀なくされる<ref name ="hoja-4" />。結局、日本で初めてオートバイの量産、商品化が実現されるのは[[1933年]](昭和8年)のアサヒ号A型であった<ref name ="hoja-4" />。この車両は[[1914年]](大正3年)に[[モリタ宮田工業|宮田製作所]]が製作し、一部が「黒バイ」として警察に納入されていた車両を発展させたもので、2ストローク175cc、単気筒エンジンを搭載し最大出力は5psだった。翌年1934年(昭和9年)に増加試作13台、翌々年1935年(昭和10年)4月から量産体勢に入り、販売価格は標準品340円、特級品370円で、生産量は1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)の期間に月産150台を製造していた<ref name ="hoja-4" />。
以後、[[第二次世界大戦]]下の日本で「[[陸王 (オートバイ)|陸王]]」のみが生産されるようになるまでには、「陸王」の他に「アサヒ号」「JAC号<ref group="注釈">[[1928年]](昭和3年)、日本自動車の[[蒔田鉄司]]により設計された250cc、[[空冷]]2ストロークエンジンを搭載した車両。</ref>」「SSD号<ref group="注釈">[[1930年]](昭和5年)に宍戸兄弟の手により製作された350cc、および500ccエンジンを搭載した車両</ref>」「あいこく号<ref group="注釈">[[1934年]](昭和9年)東京モーター用品製造組合会員による共同製作車両。エンジン設計はJAC号と同じく蒔田鉄司。</ref>」「キャブトン<ref group="注釈">[[1927年]](昭和2年)[[愛知県]][[犬山市|犬山]]のみづほ自動車製作所により製作された車両。キャブトンとは、Come And Buy To Osaka Nakagawaの頭文字を並べたもので、もともとは大阪の中川幸四郎商店が設計したものであった。</ref>」「リツリン号<ref group="注釈">[[1936年]](昭和11年)にプロレーサーとしても活躍した栗林が経営する栗林部品店が製作した車両。同社は[[1928年]](昭和3年)創業、[[1933年]](昭和8年)にヴィリアース社製2ストロークエンジンを搭載した車両を製作し、1936年(昭和11年)には500cc、4ストロークエンジンを搭載した車両を製作した。</ref>」「くろがね号<ref group="注釈">[[1937年]](昭和12年)、日本内燃機会社が製作した1296cc、4ストロークV型2気筒の大型エンジン搭載し、最高出力は12psに達した。エンジン設計は蒔田鉄司、車名は同氏の名前にちなむ。</ref>」「メグロ号<ref group="注釈">[[1936年]](昭和11年)、[[目黒製作所]]が製作、販売した車両。目黒製作所は[[1923年]](大正12年)に[[村田延治]]、鈴木高広の二名によって創業され、当初は変速機やエンジンの製造を行っていた。この車両では500cc、4ストロークOHV単気筒エンジンを日本で初めて搭載していた。</ref>」などが存在していた<ref name ="hoja-4" />。
戦況の長期化、悪化によってオートバイ産業は軍需品の製造に転換せねばならなくなり、陸王内燃機でのみがオートバイを製造していた。同社は三共の系列企業で、[[1931年]](昭和6年)にハーレー・ダビッドソンの輸入販売業として設立された<ref name ="hoja-4" />。その後、国産化の流れの中で同社の専務を務めた永井信二郎は生産体制を確立するためにアメリカ、ミルウォーキーのハーレー・ダビッドソン工場へ設備調達のため渡米する。本国アメリカからエンジニアを招聘し、100名程度の従業員や機械設備を整えて、[[1935年]](昭和10年)に自社生産のハーレー・ダビッドソンが品川工場で初めて完成した<ref name ="hoja-4" />。陸王の名称の由来は永井信二郎の母校である[[慶應義塾大学]]の『[[若き血]]』のフレーズ「陸の王者」にちなんでつけられたという<ref name ="hoja-4" />。しかし次第に十分な資材確保も難しくなり、[[1937年]](昭和12年)頃から製造を行っていた[[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]]用の[[九七式側車付自動二輪車]]は[[1943年]](昭和18年)には月産90台程度製造されていたが、戦争末期には月産50台に減少した<ref name ="hoja-4" />。
第二次世界大戦終戦後、日本の[[軍用機]]や[[軍用車]]を製造していた企業が[[アメリカ軍]]を中心として連合国軍の占領政策を実行した[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]](SCAP)によって航空機や自動車の製造を禁止され、所属していた技術者達はその技術を活かす場を求めていた<ref name ="hoja-5">[[#日本のオートバイの歴史|『日本のオートバイの歴史。』第5章 敗戦とそのあとに来たもの]] pp.67-82</ref>。[[一式戦闘機|一式戦「隼」]]や[[四式戦闘機|四式戦「疾風」]]といった陸軍機で知られる[[中島飛行機]]を源流に持ち、戦後に解体、平和産業へ転換させられた[[SUBARU|富士産業(後のSUBARU)]]もその1つであったが、[[1945年]](昭和20年)当時、日本に駐留していた連合軍が持ち込んだアメリカのパウエル式やイギリスのコルギ式といった[[スクーター]]の簡素な車体が、材料が十分に確保できない状況で作れる製品として富士産業の技術者関心を集め、規制の緩かったオートバイ業界へ技術者が流入し始めたためである<ref name ="hoja-5" />。しかしながら[[日本の降伏|敗戦]]後間もない日本国内では開発は始まったものの材料不足でさらに材料調達自体がほぼ不可能に近いという状況は非常に深刻で、一時は海軍機である「[[銀河 (航空機)|銀河]]」の尾輪をタイヤに転用したり、ピストン周辺は[[ダットサン]]の部品を流用したりするなど、新規に部品すら製造できない状況の中で試作品は作られた<ref name ="hoja-5" />。[[1946年]](昭和21年)の夏に試作機が完成し、同年11月から[[ラビットスクーター|ラビットスクーターS1]]として発売された。定価は11,000円程度であった。これは交通の不便な終戦直後にあって歓迎され、月産300台から500台程度生産されることとなった<ref name ="hoja-5" />。
それから半年後、旧[[三菱重工業]]系の[[中日本重工]](実質後の[[三菱自動車工業|三菱自工]]<ref group="注釈">中日本重工は戦後の[[財閥解体]]により3社に分割された三菱重工業の自動車部門。後に中日本重工は新三菱重工となり、後に3社は合併し、再び三菱重工業となる。新三菱重工は実質上[[三菱自動車工業]]の前身ともいえる面を持っており、後の[[三菱・ミニカ|ミニカ]]や[[三菱・ミニキャブ|ミニキャブ]]の礎となった[[三菱・360]]の成功を契機に二輪・オート三輪を捨て四輪メーカーへと梶を切ることとなる。</ref>)はアメリカのサルスベリー式をモデルに[[三菱・シルバーピジョン|シルバーピジョン]]を開発し、これら2台が終戦直後の日本製スクーターの双璧となった<ref name ="hoja-5" />。ラビットが好調な売れ行きを見せ、戦前のオートバイメーカーも製造再開を目指す中、[[1948年]](昭和23年)に発足した[[日本自動車工業会#日本小型自動車工業会|日本小型自動車工業会]]により[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]や官庁との交渉を経て様々な規制撤廃に成功し、オートバイ産業が有望であるとの認識が広まり、新規参入するメーカーも多く現れた<ref name ="hoja-5" />。新明和興業、昌和など名前を残す企業も存在したが、社名を掲げながら実状としては自転車屋の軒先で月に数台製造する程度の個人店も多かった。1953年には113社が参入して製造会社数の全盛期を迎えるが、1955年の経済不況に直面すると既存のメーカーを含む137社が撤退。技術力と資金が伴わない業者は一気に淘汰された<ref>{{Cite web|和書|date=2020-04-12 |url=https://bizhint.jp/report/407395?trcd=feature1 |title=ホンダの2度の倒産危機・復活に凝縮される、本田宗一郎の真の凄さ |publisher=BIZ HINT |accessdate=2020-04-17}}</ref>。
一方、[[スクーター]]が高額で購入することができなかった層を中心に自転車用補助動力、バイクモーターの需要が高まり、みづほ自動車製作所がビスモーター<ref group="注釈">2ストローク42×45mm、62ccのエンジンで1.2馬力を発揮した。</ref>を発売し、[[本田技研工業]]は日本陸軍払い下げの軍事無線機用小型エンジン<ref group="注釈">戦時中に使われた無線電源用の2ストローク発電機の多くは[[トーハツ]]が製造、納品していた。</ref>をベースに開発を重ね、後に[[ホンダ・カブ#カブ(1952年)|ホンダ・カブF型]](通称「バタバタ」)を[[1952年]](昭和27年)に発売する<ref name ="hoja-7">[[#日本のオートバイの歴史|『日本のオートバイの歴史。』第7章 オートバイ大流行の先駆・バイクモーター]] pp.99-116</ref>。こういったバイクモーターの流行に商機を見出し、[[スズキ (企業)|スズキ]]もオートバイ製造を開始した。
群雄割拠の時代にあって名前を売るにはレース活動が典型で、[[1950年]](昭和25年)頃に復活し始めたレースはこういったメーカーの競争の場として利用されるようになっていった<ref name ="hoja-5" />。当時は[[船橋オートレース場|オートレース場]]は存在していたが[[サーキット]]は存在せず、レースは最初は競馬場や運動場、のちに公道で行われるようになっていった<ref name ="hoja-5" />。まず口火を切ったのは[[1953年]](昭和28年)[[3月21日]]に行われた[[名古屋TTレース]]、[[浜松市|浜松]][[静岡市|静岡]]間レース、[[富士山本宮浅間大社]]から富士宮登山道を2合目まで走破する[[富士登山軽オートバイ競争大会|富士登山レース]]、そして国内レースの最高峰として[[全日本オートバイ耐久ロードレース|浅間火山レース]]などが行われるようになった<ref name ="hoja-8">[[#日本のオートバイの歴史|『日本のオートバイの歴史。』第8章 本格的オートバイ時代到来]] pp.117-138</ref>。戦中に戦闘機用プロペラなどを製造していた[[ヤマハ発動機|ヤマハ]]は設備の平和的な利用方法としてオートバイ製作に着手、後発メーカーである知名度の低さをこうしたレースで高めようと、[[ヤマハ・YA-1|YA-1]]を浅間火山レースへ参加させ、125ccクラスで上位を独占するといった功績を残した。こうしてレース活動が熱を帯びるにつれ、高速走行に適さず、指示標識も足りない不十分なコースや警察との連携不足が問題になり、専用のコース新設を求める声に応える形で[[浅間高原自動車テストコース]]開設へと業界は動き出した<ref name ="hoja-8" />。当時の国産車を見るとホンダ・カブF型で50cc1ps/3,500rpm、シルバーピジョンは150cc3馬力、対するドイツ製オートバイ、[[クライドラー]]K50は50ccで2.5ps/5,000rpmを発揮<ref group="注釈">また、国産車にはないスリーブレスアルミメッキシリンダーといった技術も用いられていた。</ref>、国産オートバイに対し海外製オートバイの性能は圧倒的で、こうしたレース活動は名前を売る目的のほか、海外のオートバイに追いつく技術開発を進める場としても活躍した<ref name ="hoja-5" />。
こうしてオートバイは単なる移動手段ではないという認識が広まりだすと、当時の[[神武景気|好景気]]と相まって消費者による峻別が始まった。[[三種の神器 (電化製品)|三種の神器]]と呼ばれる電化製品が家庭に広がりを見せる中、最低限の移動手段として提案されたバイクモーターの需要はなくなり、これらの製品を主として製造していたメーカーがまず打撃を受けた<ref name ="hoja-7" /><ref group="注釈">。ビスモーターを他社に先駆け発売したみづほは需要の変化に戦前からの実績があった350cc単気筒や600cc二気筒エンジンを搭載した車両を市場に送り出すが、当時の流行からは大きすぎた。こうした市場との乖離による業績不振や、晩年のなりふり構わぬ小型車の発売などはブランドイメージの低下に拍車をかけ、最盛期であった1954年(昭和29年)のわずか2年後に倒産。</ref>。あるいは戦前と戦後でオートバイの流行が大きく変わったことも影響は大きく、戦前においてはアメリカンが人気であったが、戦後になりイギリスやドイツなどの車両が人気となり、戦後勃興したメーカーに比べ、戦前から存在したメーカーほどこの流行を捕らえた車両開発に取り掛かるのが遅れた<ref name ="hoja-9">[[#日本のオートバイの歴史|『日本のオートバイの歴史。』第9章 戦後派の大進出と制覇]] pp.139-168</ref><ref group="注釈">。戦中、唯一オートバイを製造していた陸王も1960年(昭和35年)に倒産したが、最後に販売した陸王AC型は空冷4ストロークOHV345cc単気筒、最大出力18ps/4,750rpm シャフトドライブで最高速度120km/h 車両重量180kgのドイツ車のような車両であった。</ref>。また、当時の流行であったトライアンフや[[DKW]]などのヨーロッパ製車両の外観は模すものの、ただ鈍重なだけで走行性能の伴わない車両を製造していたメーカーは、レースにおける実績に裏づけされた車両と比べられて選ばれることはなかった。加えて、戦後の統制下であっても自分達の技術や設備を行使できる分野として、規制が緩かったためにオートバイ産業を選んだメーカーには、統制が解かれたことや好景気を受けて、本業に復帰、あるいは他の産業に商機を求めて転業する企業も少なくなかった<ref name ="hoja-10">[[#日本のオートバイの歴史|『日本のオートバイの歴史。』第10章 優勝劣敗強まる]] pp.169-192</ref><ref group="注釈">。戦前の[[川西航空機]]が終戦を機に[[新明和興業]]と改名。航空機で培った技術を元にバイクモーターを手始めにオートバイ事業に参入したが、新進オートバイメーカーの躍進に業績が悪化。[[1963年]](昭和38年)に18年のオートバイ事業に幕を下ろす。</ref>。目黒製作所が[[1960年]](昭和35年)に業績悪化から[[川崎重工]]との提携を行うものの改善せず、[[1964年]](昭和39年)にそのまま吸収される形で戦前から続いていた企業は全て消滅することとなった<ref name ="hoja-9" />。
こうした過当競争は、販売車両の性能向上や量産体勢の拡大へとつながっていく。[[1958年]](昭和33年)に発売された[[ホンダ・カブ#スーパーカブ|スーパーカブ]]は対抗車種が2.5ps程度の時代に空冷4ストロークOHV49ccエンジンから4.5psを発揮し、なおかつ55,000円の低価格で、当時の事業規模を大きく変えるほどの月産5万台を標榜し、業界の構造を大きく変えた<ref name ="hoja-10" />。他の有力メーカーは同価格帯で対抗車種を販売し、対抗しうる性能や販売体制を実現できない企業は撤退を余儀なくされた<ref name ="hoja-10" />。[[1959年]](昭和34年)、この勢いそのままに、ホンダは独自の精密加工技術を生かした[[直列型エンジン|並列多気筒エンジン]]を採用して[[マン島TTレース|マン島TT]]に参戦し、[[1961年]](昭和36年)に優勝を達成する<ref name ="hoja-11">[[#日本のオートバイの歴史|『日本のオートバイの歴史。』第11章 日本オートバイの世界制覇]] pp.193-202</ref>。外国製オートバイの後塵を拝し続けてきた日本のオートバイが世界一になった瞬間であった。ホンダの偉業に負けじと国内各社も相次いで[[ロードレース世界選手権]]へ参加を始め、日本車の国際舞台での勝利が常態化する<ref name ="hoja-11" />。翌[[1962年]](昭和37年)に国内初の全面舗装のサーキットとして完成した[[鈴鹿サーキット]]でロードレース世界選手権が開催され、この年のマニュファクチャラーズ・ランキングでは5部門中4部門を日本勢が制する。こうした権威あるレースでの実績は日本製オートバイの輸出を推し進め、日本はオートバイ大国の仲間入りを果たした。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;margin-left:1em; text-align: right;"
|+ '''日本におけるオートバイの生産台数および輸出台数の推移'''<ref name ="hoja-11" />
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! 年度 !! 生産台数 !! 輸出台数 !! 輸出比率 !! 輸出金額
|-
!1963 (昭和38)
| 1,926,970 || 400,385 || 20.8 || 69,308
|-
!1964 (昭和39)
| 2,110,335 || 592,739 || 28.1 || 101,630
|-
!1965 (昭和40)
| 2,212,784 || 868,754 || 39.3 || 163,033
|-
!1966 (昭和41)
| 2,447,391 || 976,360 || 39.9 || 180,358
|-
!1967 (昭和42)
| 2,241,847 || 944,168 || 42.1 || 143,406
|-
!1968 (昭和43)
| 2,251,335 || 1,136,636 || 50.5 || 184,312
|-
!1969 (昭和44)
| 2,576,873 || 1,298,866 || 50.4 || 230,902
|-
!1970 (昭和45)
| 2,947,672 || 1,737,602 || 58.9 || 370,327
|-
!1971 (昭和46)
| 3,400,502 || 2,278,513 || 67.0 || 569,028
|-
!1972 (昭和47)
| 3,565,246 || 2,437,185 || 68.4 || 774,608
|-
!1973 (昭和48)
| 3,763,127 || 2,492,147 || 66.2 || 958,394
|-
!1974 (昭和49)
| 4,509,420 || 3,240,466 || 71.9 || 1,473,434
|-
!1975 (昭和50)
| 3,802,547 || 2,690,801 || 70.8 || 1,241,415
|-
!1976 (昭和51)
| 4,235,112 || 2,922,254 || 69.0 || 1,294,894
|-
!1977 (昭和52)
| 5,577,359 || 3,916,197 || 70.2 || 1,966,411
|-
!1978 (昭和53)
| 5,999,929 || 3,749,415 || 62.5 || 2,166,193
|-
|}
{| style="font-size:80%;margin:20px"
|+ '''日本におけるオートバイの輸出金額の推移'''<ref name ="hoja-11" />
|-
|
| valign="bottom" | <div style="width:16px; height:13.5px; background-color:#0080c0"></div>
| valign="bottom" | <div style="width:16px; height:15px; background-color:#0080c0"></div>
| valign="bottom" | <div style="width:16px; height:24.5px; background-color:#0080c0"></div>
| valign="bottom" | <div style="width:16px; height:27px; background-color:#0080c0"></div>
| valign="bottom" | <div style="width:16px; height:21.5px; background-color:#0080c0"></div>
| valign="bottom" | <div style="width:16px; height:27.5px; background-color:#0080c0"></div>
| valign="bottom" | <div style="width:16px; height:34.5px; background-color:#0080c0"></div>
| valign="bottom" | <div style="width:16px; height:55.5px; background-color:#0080c0"></div>
| valign="bottom" | <div style="width:16px; height:85.5px; background-color:#0080c0"></div>
| valign="bottom" | <div style="width:16px; height:116px; background-color:#0080c0"></div>
| valign="bottom" | <div style="width:16px; height:144px; background-color:#0080c0"></div>
| valign="bottom" | <div style="width:16px; height:221px; background-color:#0080c0"></div>
| valign="bottom" | <div style="width:16px; height:186px; background-color:#0080c0"></div>
| valign="bottom" | <div style="width:16px; height:193.5px; background-color:#0080c0"></div>
| valign="bottom" | <div style="width:16px; height:255px; background-color:#0080c0"></div>
| valign="bottom" | <div style="width:16px; height:325px; background-color:#0080c0"></div>
|- style="text-align:center"
| 輸出金額(千ドル) || 69,308 || 101,630 || 163,033 || 180,358 || 143,406 || 184,312 || 230,902 || 370,327 || 569,028 || 774,608 || 958,394 || 1,473,434 || 1,241,415 || 1,294,894 || 1,699,411 || 2,166,193
|- style="text-align:center"
| 年度 || 1963<br>(昭和38) || 1964<br>(S39) || 1965<br>(S40) || 1966<br>(S41) || 1967<br>(S42) || 1968<br>(S43) || 1969<br>(S44) || 1970<br>(S45) || 1971<br>(S46) || 1972<br>(S47) || 1973<br>(S48) || 1974<br>(S49) || 1975<br>(S50) || 1976<br>(S51) || 1977<br>(S52) || 1978<br>(S53)
|}
しかし、[[モータリゼーション]]の到来とともに自動車が実用的な乗り物として普及すると、オートバイは一部の業務用を除いて趣味の乗り物として扱われるようになり、販売台数は頭打ちになった。[[1980年代]]前半になると、ヤマハが業界1位の座をホンダから奪おうとして、日本のみならずアメリカをも舞台にして[[HY戦争]]が起きた。この競争のなかで、ラインナップが増えるとともに価格競争が進み、さらに[[1980年代]]後半からは好景気([[バブル景気]])も重なり、[[1990年代]]前半にかけて日本にバイクブームが訪れた。しかし、このバイクブームから[[暴走族]]が全国各地で増え、危険走行や騒音、[[交通事故]]が社会問題となった。それによって[[三ない運動]]に代表されるような「バイク=危険な乗り物・暴走族」という社会の認識が強くなり、[[バブル崩壊]]と共にバイクブームも急速に終息に向かった。
[[1990年代]]は東南アジアを中心とする発展途上国の市場が拡大し、[[2000年代]]には海外での日本国内向け車種の生産も増加した。
21世紀の国内需要は、原動機付自転車から四輪車への消費者のシフトや、都市部での路上駐車の取り締まり強化や排ガス規制強化、不況などに伴い、ピーク時に対して市場の大幅な縮小が起こった。また[[三ない運動]]の後遺症もしばしば言及されており、ホンダ社長[[八郷隆弘]]は、「82年には328万台だった日本の二輪車市場が、2018年には8分の1にまで減少した大きな要因として『三ない運動』が大きく影響している」と述べている<ref>[https://mc-web.jp/topics/18673/ 三ない運動よさらば!! 昭和から続く「負の遺産」に大きな動き | モーサイ]</ref>。
2020年代頃より国内メーカーでは需要の減少や世界的な環境規制の強化に対応するため、[[電動オートバイ]]の普及に向けて動いているが、電気自動車のような充電器の[[規格争い]]<ref>[[CHAdeMO]]と[[コンバインド・チャージング・システム]](英語版)</ref>を防ぐため共通化など協調路線に動いている<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=オートバイ電動化へ 国内メーカー4社 共通の電池づくりで合意|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210326/k10012937441000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-03-26|last=[[日本放送協会]]}}</ref><ref name=":2">{{Cite web|和書|title=川崎重工業 “2035年までにオートバイを電動化” 発表|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211006/k10013294801000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-10-06|last=日本放送協会}}</ref>。
[[業界団体]]としては、[[日本自動車工業会]](自工会)がバイクも所管するほか、バイクに特化した日本二輪車普及安全協会(二普協)がある。大手4社の国内販売台数は1982年の約328万台をピークに、2015年は約37万台に減った。このため業界団体や各メーカー、部品である[[タイヤ]]を製造する[[ブリヂストン]]、中古車買い取り販売の[[バイク王&カンパニー]]といった流通企業は需要喚起に取り組んでおり、若者のバイク離れに歯止めをかけるためアニメ(『[[ばくおん!!]]』)のコラボも展開している。日本では8月19日が「バイクの日」とされている<ref>2輪復活 アニメとコラボ「ばくおん!!」人気に乗る 若年層の需要掘り起こし『日刊工業新聞』2016年8月18日(自動車面)</ref>。
趣味の乗り物としての需要は減少したものの、配達業務での用途は依然として根強い。また、緊急時の機動性が見直されて、救急や消防での利用が新たに着目されている。
=== オートバイ製造に携わった日本企業 ===
日本のオートバイメーカーや工場は、戦後復興期に移動手段としての高い需要から、多くの零細企業が参入したが技術や価格競争の激化により大手メーカーが有利となり、零細のみらなず中小メーカーも消えていった。2021年現在では、[[本田技研工業|ホンダ]]、[[ヤマハ発動機|ヤマハ]]、[[スズキ (企業)|スズキ]]、[[カワサキモータース|カワサキ]]の4社に収束している<ref name=":0" />。
{{Main2|日本の製造業者については[[オートバイ製造者の一覧#日本の製造者・ブランド]]および[[オートバイ製造者の一覧#過去に存在した日本の製造者・ブランド|#過去に存在した日本の製造者・ブランド]]を}}
== 基本構造 ==
オートバイの構造は、その歴史のなかで様々な形態が現れ、変遷してきた。ここでは現在市販されている二輪のオートバイとして一般的なものを示す。したがって、いくつかの車種には例外があり、特に三輪のものについては構造が大きく異なる例もある。
オートバイの構成要素を機能で大きく分けると、フレーム、[[機関 (機械)|エンジン]]、[[クラッチ]]、[[トランスミッション]](ギアボックス)、タイヤ[[ホイール]]、[[ブレーキ]]、[[サスペンション#オートバイのサスペンション|サスペンション]]などに大別される<ref name="hp" />。
{{seealso|フレーム (オートバイ)}}
前後輪の役割としては前輪[[舵|操舵]]・後輪駆動が一般的であるが、前輪が操舵と駆動の両方を担うものもある<ref group="注釈">画像は、[[ウィキメディア・コモンズ]]の「Category:Motorcycles with FWD (front wheel drive 前輪駆動のモーターサイクル」を参照。</ref>。エンジンの位置は前輪と後輪の間に搭載されるものが一般的である。前輪駆動のものはフロントホイール内(インホイールエンジン)やフロントフォークに搭載される。エンジンが発生した[[出力]]はまず1段減速された後に、クラッチを経て変速機に伝えられる<ref name="hp" />。
運転操作は、右グリップが[[スロットル]]、右レバーが前[[ブレーキ]]、右ペダルが後ブレーキ、左レバーがクラッチ、左ペダルがギアチェンジという構成が現在では一般的である。ただし、イギリス車では伝統的に右足でギアチェンジ、左足で後輪ブレーキ操作を行う車種が多く、一時期は燃料タンクの左脇に手で操作するシフトレバーがある車種も多かった。
[[スクーター]]に関しては、構造や操作などに特徴がある。
{{Main|スクーター}}
<!--基本構造ではないし多種あり、ここで長々と記述する必要性はない。-->
<!--現在の[[スクーター]]のほとんどが、変速と動力の伝達に、可変径の[[滑車|プーリー]]と[[Vベルト]]を組み合わせた[[無段変速機]]を採用している。この変速機構とVベルトのケース自体が[[リヤサスペンション (オートバイ)#スイングアーム式|スイングアーム]]を兼ねており、エンジンもその支点付近に一体化された「ユニットスイング」式が一般的となっている。
変速機には上記の他、[[マニュアルトランスミッション]]や[[トルクコンバーター]]を用いたものもある。
操作系については、日本製一般的な現在のスクーターではペダルがなく、右グリップが[[スロットル]]、右レバーが前輪ブレーキ、左レバーが後輪ブレーキである。
[[ピアジオ]]やランブレッタに代表されるマニュアルトランスミッション車は、右グリップがスロットル、右レバーが前輪ブレーキ、右ペダルが後輪ブレーキ、左レバーがクラッチ操作と、ここまでは一般的なオートバイと同じであるが、変速操作のみは左グリップの回転で行う。
[[ラビットスクーター|ラビット]]など、旧来の[[オートマチックトランスミッション|オートマチック]]車は左レバーがなく、後輪ブレーキ用右ペダルを持つ。
-->
=== エンジン ===
エンジンは通常、車体[[フレーム (オートバイ)|フレーム]]に固定されている(駆動輪と一体になっているスクーターなどはエンジンがスイングアームの一部となり可動する場合がある)。[[ローラーチェーン|チェーン]]、または[[歯付ベルト]]ドライブ(駆動)のものは[[クランクシャフト]]が車体進行方向に対して[[横置きエンジン|横向き]]に搭載される。このうち[[直列エンジン]]は、二輪車特有の表現である「並列エンジン」とも呼ばれる。一方、[[プロペラシャフト|シャフト]]ドライブの車種の多くは[[縦置きエンジン]]を採用している。
コスト削減やオートバイのキャラクターを維持するなどの観点から、[[キャブレター]]・[[空冷]]・[[2ストローク機関|2ストローク]]などの四輪[[乗用車]]では失われた技術が、昨今の排気ガス規制の影響で以前よりは減少してはいるものの現在も改良を重ねながら採用され続けている。
2021年現在では[[ガソリンエンジン]]が主流であるが、[[電動機]]のみを搭載した[[電動オートバイ]]、また内燃機関と電動を組み合わせた[[ハイブリッドシステム]]搭載モデルも販売されている。近年は[[水素燃料エンジン]]の研究も行われている<ref name=":2" />。
{{seealso|オートバイ用エンジン}}
=== 駆動系 ===
[[ファイル:1997SuzukiGS500E-001.jpg|thumb|200px|基本構造が分かりやすい例]]
[[ファイル:1997SuzukiGS500E-engine.jpg|thumb|200px|エンジンおよびトランスミッションケース、及びその周囲の[[フレーム (オートバイ)|フレーム]]を示す。エンジンと一体となったトランスミッションケースがフレームに直接固定されている。写真のフレームは[[アルミニウム合金|アルミ]]押出材のダブルクレードル形式]]
[[マニュアルトランスミッション]]車は運転者が[[速度]]や[[負荷]]に応じた[[歯車比|ギアの組み合わせ]]を選ぶ機構で、マニュアル車やミッション車(しかしトランスミッションがないオートバイは通常ない)とも呼ばれる。[[クラッチ]]の操作も必要となるが、[[トルクコンバーター]]を用いたものや、湿式多板クラッチなどを用いた[[オートマチックトランスミッション]]車がある。
クラッチは、[[エンジンオイル]]に浸されていて複数の摩擦面を持つ湿式多板クラッチの他、[[BMW]]の[[水平対向エンジン]]車や[[モト・グッツィ]]など、[[縦置きエンジン]]の車種で乾式単板クラッチ、競技車両やイタリアの[[ドゥカティ]]の一部では乾式多板クラッチ、また自動[[遠心クラッチ]]などが存在している。
オートバイのトランスミッションは、エンジンの[[クランクケース]]と一体になったケースに収められている場合が多く、[[4ストローク機関|4ストロークエンジン]]の車種ではエンジンオイルがトランスミッション(と湿式多板クラッチ)の[[潤滑]]を兼ねている。トランスミッションは4段から6段程度の変速段数を持つ車種が多い<ref name="hp" />。
トランスミッションから車軸へ動力([[トルク]])を伝達する手段には、[[ローラーチェーン]]<ref name="hp" />、[[プロペラシャフト]](シャフトドライブ)、[[歯付ベルト]](オートマチックトランスミッションを採用するオートバイ)などが使用される。
=== 足回り ===
[[ホイール]]は、チューブレスタイヤを使用する車種ではアルミ[[ダイカスト]]製の「キャストホイール」を採用しているモデルが多い。一方、[[リム (機械)|リム]]と[[ハブ (機械)|ハブ]]をワイヤー[[スポーク]]でつないだホイールを採用する車種もある<ref name="hp" />。
ブレーキには[[自転車]]同様の[[バンドブレーキ]]や[[リム (機械)|リム]]ブレーキも当初見られたが、自動車と同じ仕組の[[ドラムブレーキ]]がそれらに取って代わった。ドラムに対する[[ブレーキシュー]]の向きで自己[[サーボ]]効果を発揮する方向が異なるため、フロントをツーリーディング、リアをリーディング&トレーリングとする組み合わせが多い。[[1970年代]]末にはスポーツ車から[[ディスクブレーキ]]が普及し初め、スポーツ車以外にも採用が広がっている。
[[サスペンション (オートバイ)|サスペンション]]は、走行中に路面からの衝撃を吸収させ、車輪をつねに路面に接触させ、操縦性・安定性に寄与している<ref name="hp" />。前輪は[[フロントサスペンション (オートバイ)#テレスコピックフォーク|テレスコピックフォーク]]がほとんどで、後輪は[[リヤサスペンション (オートバイ)#スイングアーム式|スイングアーム]](もしくはユニットスイングアーム)が多い。
{{seealso|サスペンション (オートバイ)}}
{{seealso|フロントサスペンション (オートバイ)}}
{{seealso|リヤサスペンション (オートバイ)}}
<gallery>
ファイル:Yamaha YZR-M1 In-line 4-cylinder engine 2009 Tokyo Motor Show.jpg|4気筒並列エンジン周辺
ファイル:Honda VFR 1200F Dual Clutch Engine.jpg|[[デュアルクラッチトランスミッション]]のカットモデル
ファイル:W800 drum brake.jpg|ワイヤースポークのホイール、ドラムブレーキ、スイングアームを採用した後輪周辺
</gallery>
== 種類 ==
多種多様なタイプが存在するが、用途別としては、[[舗装]]路の走行に適したオンロードモデル、未舗装路の走行に適したオフロードモデル、市街地での使用を想定されたタウンユースモデル、その他の特殊なモデルなどに分類される。
{{main|オートバイの種類}}
== 法規 ==
普通自動車の免許を取得する際、追加講習を受けることで[[小型自動二輪車]]相当の免許を同時に取得できる国もある。
=== 日本 ===
日本におけるオートバイに関する[[運転免許]]や交通規制などの法規則については下記の関連項目を参照。
*[[高速道路でのオートバイの通行条件]]
*[[オートバイの二人乗り]]
*[[大型自動二輪車]]、[[普通自動二輪車]]、[[小型自動二輪車]]、[[特定二輪車]]
*[[原動機付自転車]]
なお、オートバイは[[使用済自動車の再資源化等に関する法律]](自動車リサイクル法)の対象外であるが、2004年10月から日本メーカ4社と国外製品の主要インポータ12社が自主的なリサイクルシステムを開始している<ref>[https://www.jmpsa.or.jp/distribution/recycle/ 二輪車リサイクル(一般社団法人 日本二輪車普及安全協会)]</ref>。(ハーレーダビッドソンジャパンのみ、この枠組みとは別に独自のリサイクルシステムを構築している<ref>[http://melma.com/backnumber_137272_2304890/ ハーレーダビッドソン!鉄馬マガジン 2005/9/30 No.21]</ref>)
== オートバイの事故 ==
[[ファイル:Hofmann crash laguna.JPG|200px|サムネイル|右|オートバイで転倒すると、なすすべもなく体は地面にさらされる。]]
オートバイ特有の車体構造により、[[交通事故]]の形態や発生する傷害は独特の性質を具える。
オートバイは自動車一般に比べると、乗員が車体構造で覆われておらず、接地面積が狭く制動に利用できる力が小さい。特に二輪車は静止状態では自立が困難である<ref group="注釈">乗員が足で支える、スタンドを使用する、乗員がバランスを取る、補助輪を使うなどの方法が必要である。</ref>。その他にも特有の性質により自動車一般とは異なる危険性を持っている。運転免許教習をはじめとする安全運転講習では、オートバイ特有の特性を理解して危険を自覚すれば、事故の確率を下げることができると指導されている。
乗員が車体構造によって覆われていないことは、衝突の際に乗員が直接対象物に衝突する危険性があるほか、車上から放り出された乗員が二重、三重の衝突に巻き込まれやすい。
二輪車は停車時に乗員が足で支える必要があり、停車中にバランスを崩して転倒し、事故に至る事例もある。走行中の二輪車は[[ジャイロ効果]]によって自立しているが、速度が低いときはジャイロ効果が小さく不安定なため、ふらつきによる事故が発生する事例がある。比較的軽度のスリップでバランスを崩して転倒しやすく、高い速度で走行していて転倒する場合が多いことから、事故に至った場合は最も危険な転倒である。そのため、教習や講習では滑りやすい路面状況について特に指導している。スリップしやすい路面状況は次のようなものがある。
* 路面に飛散した砂、砂利、[[火山灰]]、水溜まり
* 板状の路上落下物
* 工事現場の路面に敷かれる鉄板や鉄製の[[マンホールの蓋|マンホール蓋]]、[[側溝]]蓋、橋梁の継ぎ目(特に濡れていると極端に滑りやすい)
* 未舗装道路
* オイル類の飛散
* 路面標示
オートバイは他の交通に比べて車体が小さいことからオートバイの存在自体が見落とされやすい上、遠近感に[[錯覚]]を生じて実際よりも遠くにあると認識されたり、実際の速度より遅く感じられることが多い。[[交通渋滞]]の列の左側を直進するオートバイや交差点で直進中のオートバイと右折車両の衝突事故(いわゆる右直事故)の多くは相手車両の運転者がオートバイを見落したことによるものである。他にもオートバイの方が自動車よりも通行量が少ない、自動車と形状が違うなどの理由で相手車両の運転者が自動車にばかり気を取られやすくなるという理由で見落とされやすいのに加えて、特に夜間は、前照灯の照度が低い車種も多いことから、さらに見落とされやすくなる傾向にある。
一方で、自動車一般よりも天候の悪化が安全な運行に大きく影響を及ぼすことも特徴である。自動車一般は車両に[[ワイパー]]や曇り止め装置を装備しているのが通常であるが、[[ヘルメット (オートバイ)|ヘルメット]]シールドや[[ゴーグル]]でこれらを備えた製品は稀である。加えて夜間の雨天時は、シールドなどに付いた雨粒に対向車のライトが乱反射するため、視界が極めて悪くなる。あるいは、身体が濡れたり冷えたりすることで運転者の注意力や運動能力が低下して事故の危険性を増加する。
このほか、進路変更や追い越しの際のオートバイの機敏な動きを周囲の運転者が予測できないという点が事故原因の一つとして挙げられる事例や、渋滞のすり抜け中に停車車両がドアを開いて衝突する事例もある。
=== 事故による外傷の特徴 ===
衝突事故では乗員が投げ出されて対象物に直接衝突することが多く、[[頭部外傷]]による死亡が最も高い。ヘルメット着用が義務化されていなかった時代は、頭部外傷による死亡が6割を占め<ref name="Sarkar S">Sarkar S, Peek C, Kraus JF. "Fatal injuries in motorcycle riders according to helmet use." ''J Trauma.'' 1995 Feb;38 (2) :242-5. {{PMID|7869444}}</ref>、現在の日本を含めて義務化された国・地域でも、依然として頭部の損傷は死亡原因の4割である<ref>[http://www.npa.go.jp/toukei/koutuu41/20070228.pdf 平成18年中の交通事故の発生状況について ]</ref>。特に初心運転者ほど頭部(顔面を含む)の損傷によって死亡する率が高い<ref name="name">Stella J, Cooke C, Sprivulis P. "Most head injury related motorcycle crash deaths are related to poor riding practices." Emerg Med (Fremantle). 2002 Mar;14 (1) :58-61. {{PMID|11993836}}</ref>。
次いで多いのが体幹の損傷による死亡であり、ことに[[胸部外傷]]による死亡が多い。Krausら<ref name="Kraus JF">Kraus JF, Peek-Asa C, Cryer HG. "Incidence, severity, and patterns of intrathoracic and intra-abdominal injuries in motorcycle crashes." ''J Trauma.'' 2002 Mar;52 (3) :548-53. {{PMID|11901334}}</ref>の研究によると、一本の肋骨が2箇所以上骨折すると[[フレイルチェスト]]と呼ばれる症状を起こして呼吸困難になったり、[[肋骨]]や[[胸骨]]の骨折により心停止時に有効な[[心臓マッサージ]]をすることができない場合があるほか、折れた肋骨が胸郭内臓器や腹腔内臓器を傷つけられる危険性がある。例えば、肺を傷つけると緊張性[[気胸]]や開放性気胸を起こす。あるいは、[[心臓]]や[[大動脈]]を傷つければ失血性ショックによる死亡率が非常に高くなる。また、[[肝臓]]や[[脾臓]]を傷つけた場合も緊急の開腹手術が必要な重傷となる。このことから、同研究では、胸部プロテクターの普及を図ることを推奨している。
一方、四肢の外傷だけで死に至ることは少ないが(ただし大腿部の[[動脈]]などを損傷すると重篤となる場合がある)、膝や肘などは軽微な転倒でも骨折などの骨格傷害を負う場合が多い。
=== 日本の事故統計 ===
日本でのオートバイ利用者の増加とオートバイの性能の向上に伴い、[[1989年]]には2575人の死者が出るに及んだ。「第2次[[交通戦争]]」と言われた。社会的にもオートバイ事故への対策が注目されるようになり、様々な対策が打たれた結果、オートバイ事故による死亡者数は1989年以降減少し続け、[[2006年]]には1119人となった。(これは第2次[[交通戦争]]といわれた[[1989年]](2575人)の半数以下、第1次交通戦争と言われた[[1964年]](3762人)の3分の1以下である<ref>[http://www.jama.or.jp/lib/jamagazine/200705/09.html 交通安全の模範例となる二輪車 - 二輪車の利用環境改善と安全走行のために | JAMAGAZINE 2007年5月号]より</ref>。)
=== 社会的対策 ===
オートバイによる事故では頭部への負傷する確率が高いことから、多くの国と地域では法規によって乗車中の[[ヘルメット]]着用が義務づけられている。
{{main|ヘルメット (オートバイ)}}
被視認性を改善するために、多くの国ではエンジン始動中はオートバイのヘッドライトが点灯する構造であることを法規やメーカーの自主規制によって定めている。日本においても、[[1980年代]]から前照灯の[[昼間点灯]]が推奨されるようになった。これに応えて、[[前照灯|ヘッドライト]]スイッチ廃止のメーカー自主規制が1993年より始まり、1998年に[[道路運送車両法]]により法規化された。
オートバイメーカーは、各社より安全なオートバイの実現を目指して開発を行っている。例えば、[[本田技研工業]]はオートバイに[[エアバッグ]]を装備<ref group="注釈">[[2006年]]から、北米生産のアメリカンツアラー「ゴールドウィング」を皮切りに装備された。</ref>し、[[ドイツ]]の[[BMW]]はオートバイに[[シートベルト]]を装備して<ref group="注釈">[[BMW・C1|C1]]に装備して発売し、ヨーロッパの一部の国ではヘルメット着用義務の例外として扱われる車種となった。</ref>、衝突時に乗員が空中にはね飛ばされることを抑止、あるいは低減できる車種を販売した。
[[オートバイ用品]]の改良も行われていて、例えば、ヘルメットは事故の際に頚椎にできるだけ力をかけずに脱がせられる手段を設け<ref group="注釈">ヘルメットリムーバーまたエアジャッキの要領でヘルメットを頭から抜くツールも開発されており、ヘルメットリムーバーにおいてはロードレースなどの競技会で義務化されつつある。</ref>、ジャケットは革ツナギのほかにも新素材によるパッド付きのものや、[[エアバッグ]]を内蔵したものが販売されている。肘、肩、膝のプロテクターは普及率が低く、胸部のプロテクターを着用しているユーザーはほとんどいなかったが、[[白バイ]]隊に配備されている物が民生発売されて認知度が上がりつつある<ref name="autoby">[http://www.motormagazinesha.co.jp/autoby/ 月刊オートバイ] 2008年1月号「ライダーの「胸部」保護を考える」pp.203-210{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。ヨーロッパでは[[CEマーク]]を取得しないと販売できず、モーターサイクル装具の基準として肩、前腕、肘、尻、脛用プロテクターのEN1621-1:1997、脊椎プロテクター用のEN1621-2:2003がある。それぞれで衝撃吸収力が規定されていて、EN1621-1:1997の場合が衝撃を30%吸収して7割軽減し、EN1621-2:2003の場合が衝撃を64%吸収して約3分の1に軽減するLevel1、衝撃を80%吸収して約5分の1に軽減するLevel2とされている。日本ではプロテクターの販売に規格はないが、[[全国二輪車用品連合会]]が独自の安全基準を作成することを発表した。また日本では2018年10月から発売されるバイクについて、ABS([[アンチロック・ブレーキ・システム]])が義務化された。
このほかにも、行政、オートバイのメーカーや業界団体、オートバイ雑誌などによってユーザーに対する啓発活動が行われている。オートバイ愛好家の団体にも、自主的なイベントなどを通じて啓発活動を行っているところがある。こういった活動には、単に「事故を起こさない」「事故に遭わない」といった予防策だけではなく、救護技術の習得などの対応策も含んだ講習を行う例もある<ref>{{PDFlink|[http://www.motorcycleguidelines.org.uk/furniture/documents/server/FEMA%20EU%20AGENDA.PDF European Agenda for Motorcycle Safety]}}</ref>。
日本脊髄基金の統計 (1990 - 1992) によると、日本の[[脊髄]]損傷事故の原因のうち、約14%がオートバイによる事故である(四輪事故は約20%)。死亡率は高くないものの、[[救急救命士]]や[[医師]]は[[頚椎]]の保護を重要視する。これは初め無症状であっても頚部を動かすことによって[[脊髄損傷]]を誘発し、重度の傷害を負ってしまうことがあるからである。
===主なオートバイ専用の装備===
<gallery>
ファイル:Arai Helmet RX-7RR4.jpg|ヘルメット
ファイル:Dainese racing glove palms.jpg|グローブ
ファイル:Alpinestars S-MX Motorcycle boots.jpg|ブーツ
ファイル:Motorcycle kidney belt.jpg|プロテクター
ファイル:Liesel 22-09-2012 ISDE Saxony Womens Team Canada 3.jpg|オフロード用の装備を身につけた女性ライダー
</gallery>
== 騒音 ==
自動二輪車は、エンジンを高回転にする操作も多く、また愛好家の一部には、高回転のエンジン音を好む者もいる。
しかし住宅街道路などで高回転で甲高いエンジン音を発生させることは、愛好家でない人々にとっては苦痛となり問題視される([[騒音問題]])。
また、構造やマフラーの性能不足に起因して騒音が発生する場合がある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author = 下中直人
|year = 1988
|title = [[世界大百科事典]] 第4巻
|publisher = [[平凡社]]
|isbn = 4582022006
|ref = 大百科 }}
* {{Cite |和書
|author = 富塚清
|title = 日本のオートバイの歴史。- 二輪車メーカーの興亡の記録。
|date = 2001
|edition = 新訂版初
|publisher = [[三樹書房]]
|isbn = 9784895222686
|ref = 日本のオートバイの歴史 }}
* {{Cite journal|和書
|date = 2002-02
|title = 愛車の「絶対安心」保管術
|journal = Big Machine
|volume = 80
|pages = P. 42-79
|publisher = [[内外出版社]]
|id = 雑誌07695-2
|ref = BM80 }}
* {{Cite book|和書
|author= 大久保力|authorlink=大久保力
|year = 2008
|title = 百年のマン島 - TTレースと日本人
|publisher = [[三栄書房]]
|isbn = 9784779604072
|ref = 100TT }}
* {{Cite journal|和書|author=出水力 |title=国産二輪車の誕生から100年、最強の二輪車国となって50年--先駆者・島津楢蔵と戦後二輪車のイノベーション |journal=大阪産業大学経営論集 |issn=13451456 |publisher=大阪産業大学 |year=2010 |month=oct |volume=12 |issue=1 |pages=1-31 |naid=110007975310 |url=http://id.nii.ac.jp/1338/00000234/}}
== 関連項目 ==
* [[日本におけるオートバイ]]
* [[自動車]]
* [[スクーター]]
* [[オート三輪]]
* [[トライク]]
* [[特定二輪車]]
* [[全地形対応車]]
* [[モペッド]]
* [[サイドカー]]
* [[オートバイ用品]]
* [[自転車]]
* [[ノンシンクロトランスミッション]]
* [[サスペンション]]
* [[単気筒エンジン]]
* [[ポケットバイク]]
* [[書類チューン]]
* [[モーターサイクル・ダイアリーズ]]
* [[三ない運動]]
* [[トレールバイク]]
* [[オートバイ製造者の一覧]] - [[スクーター製造者の一覧]]
* [[オートバイ用オイル]]
* [[オートバイ競技]]
* [[ロードレース (オートバイ)]]
* [[高速道路でのオートバイの通行条件]]
*[[空飛ぶバイク]]
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Motorcycles}}
{{Wiktionary|オートバイ}}
* [http://www.nmca.gr.jp/ 日本二輪車協会 (NMCA)]
** [http://www.nmca.gr.jp/society/tra_east.html 東日本地域 通行規制路線一覧]
** [http://www.nmca.gr.jp/society/tra_west.html 西日本地域 通行規制路線一覧]
* [http://www.fim.ch/ 国際モーターサイクリズム連盟 (FIM)]
* [http://www.mfj.or.jp/ 日本モーターサイクルスポーツ協会 (MFJ)]
* [http://www.jmca.gr.jp/ 全国二輪車用品連合会 (JMCA)]
* [http://www.nifukyo.or.jp/ 全国二輪車安全普及協会(二普協)]
* [http://www.ajac.gr.jp/ 全国オートバイ協同組合連合会]
* [http://www.jarc.or.jp/motorcycle/ 自動車リサイクル促進センター 二輪車リサイクルについて]
{{オートバイの形態}}
{{オートバイ部品と関連技術}}
{{プライベート・トランスポート}}
{{Normdaten}}
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[[Category:オートバイ|*]]
[[Category:自動車の形態]]
[[Category:道路交通]]
[[Category:和製英語]] | 2003-02-23T12:45:21Z | 2023-12-15T12:38:47Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%90%E3%82%A4 |
2,771 | 引き伸ばし機 | 引き伸ばし機(ひきのばしき)とは、写真フィルムの像を拡大・投影し、印画紙に焼き付けるための機械である。
引き伸ばし機がいつ頃発明されたのかははっきりとはわかっていない。しかし一般的になったのはライカの発売によるとされている。それまでのカメラはフィルムないし乾板を印画紙に密着させポジ像を得ていたが、35mmフィルムはそのままでは鑑賞が難しい大きさなので、エルンスト・ライツはライカのシステムの一環として引き伸ばし機を用意していた。
近年は自動的に焼き増しをするミニラボ装置やセルフプリント装置が普及したことに加え、デジタルカメラの普及でフィルムカメラの需要が少なくなったため、2023年現在、引き伸ばし機単体の需要は少なくなりつつある。
初期の引き伸ばし機は太陽光を使うものもあったが、現在では専用の電球やハロゲンランプ、コールドライトをランプハウス(ヘッド)に装着して使うものが主流である。プラチナプリント(英語版)など露光に紫外線が必要な場合、紫外線蛍光灯を使うこともある。また近年LEDランプを使う製品も現れた
引き伸ばし用電球は一見普通の電球に見えるが、点灯スイッチを入れてから明るくなるのが早い仕様である。普通の電球はスイッチを入れると最初暗く点灯し、だんだん明るくなり、しばらく経って一定の明るさとなる。それでは露光時間を倍にしても露光量が正確な倍にならず、一種の相反則不規が発生する。プリントさえできれば良いのであれば代用できると言えなくもないが、露出をコントロールするためには引き伸ばし用電球を使用する必要がある。
集散光式、散光式などがある。
モノクロ引き伸ばし機では集散光式、カラー引き伸ばし機では散光式を採用していることが多い。機種によっては、ヘッドの部分を変えることにより集散光式、散光式のどちらでも使うことができるようになっている。
引き伸ばしレンズはフィルムの像を拡大・投影するために用いられる。
カメラレンズの互換性が低いのとは異なり、ほとんどの引き伸ばしレンズはマウントにライカスクリューマウントを使っているため、さまざまなレンズメーカーのレンズを使うことが可能である。 ブランドとしてはローデンシュトックのロダゴンやロゴナー、シュナイダー・クロイツナッハのコンポノンやコンポナー、ライカのフォコター、コダックのエンラージング・エクター、富士フイルムのフジノンEXやフジノンESやフジナーE、ニコンのELニッコール、ミノルタのCEロッコールやEロッコール等が知られる。ただしカラー化、さらにはデジタル化に伴い引き伸ばし市場は縮小しており、上に挙げた中でも撤退したメーカーが多い。
大きいプリントを作る際にはヘッドの位置を上げなければならず小さいプリントを作る際にはヘッドの位置を下げなければならない。あまりにヘッドの位置が高いとピント合わせが大変であり、あまりにヘッドの位置が低いとイーゼルの開閉や覆い焼き等に支障が出るので、作るプリントの大きさとネガの大きさに合った焦点距離のレンズを選択する必要がある。使用する引き伸ばしレンズの焦点距離は撮影時に標準レンズと呼ばれる焦点距離を基本とし、大きいプリントを作る際には短め、小さなプリントを作る際には長めの焦点距離のレンズを選ぶ。具体的には
が目安である。
フィルムキャリアとは、フィルムを挟んで引き伸ばし機にセットするためのホルダーである。
各種フォーマット専用のもの、ユニバーサルキャリアという様々なフォーマットに対応できるものまで多種多様である。ユニバーサルキャリアにはフィルムの四辺を囲む羽根がついており、これをスライドさせることにより開口部の面積を変えることができる。
またガラスなし、片面ガラス付、両面ガラス付などのタイプに分かれる。
なお、簡易的にはアンチニュートンガラス2枚でネガを挟むことで代用でき、面倒ではあるが平面性も高く保持できる。
フィルターポケットの付いた引き伸ばし機は、色調整用CPフィルター(イエロー・マゼンタ・シアン)を入れることによって色補正ができるようになっている。これをカラー引き伸ばし機と称した時代もあったが、現在はダイヤルを回すことによって値を簡単に変えることができるダイクロイックフィルターを装備する製品を指す場合が大半である。ラボやプロ写真家、一部ハイアマチュアの間では15枚ほどのフィルターを内蔵しカンザシ状のレバーを引くとフィルターが光路にセットされるように作業効率を高めたオプション機器も使われた。作業は若干煩雑になるが、フィルターポケットのないモノクロ引き伸ばし機であっても撮影用のCCフィルタをコンデンサーや引き伸ばしレンズの下に挿入することでカラー引き伸ばし機として使うことが可能である。
多階調印画紙を使う場合は専用のフィルターをフィルターポケットに挿入するのが一般的であるが、カラー引き伸ばし機の色調整機能を使っても可能である。
引き伸ばし機とセットで使うことができるオプション機材としては以下のようなものがある。
引き伸ばし機のピント調節に使用するルーペ。イーゼルマスク上に置きフィルム画像の一部を反射鏡とルーペで拡大して合焦状態を観察できる。著名なブランドにLPL、PEAK (東海産業)、ダースト (イタリア)、パターソン (イギリス)など。
使うフィルムのフォーマットにより
の大きく3つに分けられる。
またこれらの引き伸ばし機以外にもミノックス判専用、16mmフィルム専用、マイクロフィルム、マイクロフィッシュの引き伸ばし機なども存在する。
上述の通り
上述の通り
多くの引き伸ばし機ではヘッドの部分を支柱を中心に180度回転させて床面投影、もしくは90度回転させて壁面投影させることができる。こうすることで全紙やロール紙などの大サイズの印画紙への引き伸ばしが可能となる。この場合イーゼルマスクを使用することができないため、粘着テープなどで壁面もしくは床面に直接印画紙を固定して使用する。 | [
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] | 引き伸ばし機(ひきのばしき)とは、写真フィルムの像を拡大・投影し、印画紙に焼き付けるための機械である。 | [[ファイル:Enlarger.jpg|right|thumb|200px|引き伸ばし機<br />[[ケンコー・トキナー|藤本写真工業]]<br />「LUCKY G70 Computer」<br />カラーモノクロ両用/集散光・散光切り替え可能タイプで台板にカラーアナライザー及び露光タイマーを内蔵している]]
'''引き伸ばし機'''(ひきのばしき)とは、[[写真フィルム]]の像を拡大・投影し、[[印画紙]]に焼き付けるための機械である。
== 概要 ==
{{Main|en:Enlarger#History}}
引き伸ばし機がいつ頃発明されたのかははっきりとはわかっていない。しかし一般的になったのは[[ライカ]]の発売によるとされている。それまでのカメラはフィルムないし乾板を印画紙に密着させポジ像を得ていたが、35mmフィルムはそのままでは鑑賞が難しい大きさなので、エルンスト・ライツはライカのシステムの一環として引き伸ばし機を用意していた。
近年は自動的に焼き増しをするミニラボ装置や[[プリンター|セルフプリント装置]]が普及したことに加え、[[デジタルカメラ]]の普及でフィルムカメラの需要が少なくなったため、[[2023年]]現在、引き伸ばし機単体の需要は少なくなりつつある。
== 引き伸ばし機の構成 ==
[[File:Darkroom enlarger.svg|right|thumb|300px|標準的な引き伸ばし機の概略図]]
=== 光源 ===
初期の引き伸ばし機は太陽光を使うものもあったが、現在では専用の[[電球]]や[[ハロゲンランプ]]、[[冷陰極管|コールドライト]]をランプハウス(ヘッド)に装着して使うものが主流である。{{仮リンク|プラチナプリント|en|Platinum print}}など露光に[[紫外線]]が必要な場合、紫外線[[蛍光灯]]を使うこともある。また近年LEDランプを使う製品も現れた。
引き伸ばし用電球は一見普通の電球に見えるが、点灯スイッチを入れてから明るくなるのが早い仕様である。普通の電球はスイッチを入れると最初暗く点灯し、だんだん明るくなり、しばらく経って一定の明るさとなる。それでは露光時間を倍にしても露光量が正確な倍にならず、一種の相反則不規が発生する。プリントさえできれば良いのであれば代用できると言えなくもないが、露出をコントロールするためには引き伸ばし用電球を使用する必要がある。
=== 照明方式 ===
集散光式、散光式などがある。
==== 集散光式 ====
:光量が大きく、シャープなプリントを作ることができるというメリットがある反面、フィルムのホコリや傷が目立つというデメリットがある。モノクロでは散光式より0.5号程度硬調になる。
==== 散光式 ====
:フィルムのホコリや傷が目立ちにくいというメリットがある反面、光量の大きな引き伸ばし機を作ることが難しいため露光時間が長めになるというデメリットがある。モノクロではネガによってはコントラストの低いプリントになることがある。
モノクロ引き伸ばし機では集散光式、カラー引き伸ばし機では散光式を採用していることが多い。機種によっては、ヘッドの部分を変えることにより集散光式、散光式のどちらでも使うことができるようになっている。
=== 引き伸ばしレンズ ===
引き伸ばしレンズはフィルムの像を拡大・投影するために用いられる。
カメラレンズの互換性が低いのとは異なり、ほとんどの引き伸ばしレンズはマウントに[[ライカマウントレンズの一覧#ライカカメラAG|ライカスクリューマウント]]を使っているため、さまざまなレンズメーカーのレンズを使うことが可能である。
ブランドとしては[[ローデンシュトック]]のロダゴンやロゴナー、[[シュナイダー・クロイツナッハ]]のコンポノンやコンポナー、[[エルンスト・ライツ|ライカ]]のフォコター、[[コダック]]のエンラージング・エクター、[[富士フイルム]]のフジノンEXやフジノンESやフジナーE、[[ニコン]]のELニッコール、[[ミノルタ]]のCEロッコールやEロッコール等が知られる。ただしカラー化、さらにはデジタル化に伴い引き伸ばし市場は縮小しており、上に挙げた中でも撤退したメーカーが多い。
大きいプリントを作る際にはヘッドの位置を上げなければならず小さいプリントを作る際にはヘッドの位置を下げなければならない。あまりにヘッドの位置が高いとピント合わせが大変であり、あまりにヘッドの位置が低いとイーゼルの開閉や覆い焼き等に支障が出るので、作るプリントの大きさとネガの大きさに合った焦点距離のレンズを選択する必要がある。使用する引き伸ばしレンズの焦点距離は撮影時に標準レンズと呼ばれる焦点距離を基本とし、大きいプリントを作る際には短め、小さなプリントを作る際には長めの焦点距離のレンズを選ぶ。具体的には
*24×36mm(ライカ)判 40mm-63mm
*6×4.5cm判 75mm-80mm
*6×6cm判 75mm-80mm
*6×7cm判 80mm-90mm
*6×9cm判 90mm-105mm
*4×5in判 130mm-150mm
が目安である。
=== フィルムキャリア ===
フィルムキャリアとは、フィルムを挟んで引き伸ばし機にセットするためのホルダーである。
各種フォーマット専用のもの、ユニバーサルキャリアという様々なフォーマットに対応できるものまで多種多様である。ユニバーサルキャリアにはフィルムの四辺を囲む羽根がついており、これをスライドさせることにより開口部の面積を変えることができる。
またガラスなし、片面ガラス付、両面ガラス付などのタイプに分かれる。
==== ガラスなし ====
:値段が手頃なうえ取り扱いが容易である。ただし面積の大きいフィルムを使う場合、フィルムの平面性が問題になることがある。
==== 両面ガラス付き ====
:フィルムの平面性を保つことができる。ただし、ガラス面にホコリが付着したり[[ニュートンリング]]を生じることがある。また価格が高い。
==== 片面ガラス付き ====
:ガラスなし、両面ガラス付きの双方の利点を得ようとするものである。
なお、簡易的にはアンチニュートンガラス2枚でネガを挟むことで代用でき、面倒ではあるが平面性も高く保持できる。
==== 距離計付き ====
:[[一眼レフカメラ]]の{{仮リンク|フォーカシングスクリーン|en|Focusing screen}}の'''スプリットイメージ'''に似た上下像合致式の距離計を内蔵したキャリア。入射角の異なる2本のスリットがフィルムと同一面のフィルム枠外に配置されている。キャリアを引き出し光源下にスリットを移動させるとイーゼル上に上下2本の白光が投影され、フォーカスノブを調整して投影光を1本に合致させると合焦する。著名な製品にラッキーのフォーカシングキャリア、富士フイルムのマジックフォーカスキャリアがある。
=== フィルター ===
==== カラープリント用 ====
[[File:УПА-601.JPG|right|thumb|180px|フィルターポケット付きの引き伸ばし機とカラーフィルターのセット]]
:フィルターポケットの付いた引き伸ばし機は、色調整用CPフィルター(イエロー・マゼンタ・シアン)を入れることによって色補正ができるようになっている。これをカラー引き伸ばし機と称した時代もあったが、現在はダイヤルを回すことによって値を簡単に変えることができるダイクロイックフィルターを装備する製品を指す場合が大半である。ラボやプロ写真家、一部ハイアマチュアの間では15枚ほどのフィルターを内蔵しカンザシ状のレバーを引くとフィルターが光路にセットされるように作業効率を高めたオプション機器も使われた。作業は若干煩雑になるが、フィルターポケットのないモノクロ引き伸ばし機であっても撮影用の[[CCフィルタ]]をコンデンサーや引き伸ばしレンズの下に挿入することでカラー引き伸ばし機として使うことが可能である。
{{-}}
==== 多階調印画紙用 ====
[[File:Multigrade filtersatz IMGP1881 WP.jpg|right|thumb|180px|多階調印画紙用のフィルター]]
:多階調印画紙を使う場合は専用のフィルターをフィルターポケットに挿入するのが一般的であるが、レンズ直下にクリップで装着する製品も存在する。連続可変式の多階調フィルター内蔵機種やカラー引き伸ばし機の色調整機能を使うことも可能である。
{{-}}
==== 構図確認用 ====
[[File:Elgeet 51mm 1-4 Enlarging Lens.jpg|right|thumb|180px|構図確認用の赤フィルター]]
:モノクロブロマイド印画紙を台板上で位置決めする際に赤色のフィルターを光路上に置いてフィルム画像を投影しながら確認することができる。
:レンズ直下に光路外から回し入れる機種が多いが1970年代までのラッキー引き伸ばし機のようにフィルムキャリア直下に引き出しレバー式の赤フィルターを内蔵した機種もあった。
:モノクロ多階調印画紙や、モノクロパンクロマチック印画紙、カラー印画紙では光線被りを起こすため使用できない。
{{-}}
=== その他オプション機材 ===
引き伸ばし機とセットで使うことができるオプション機材としては以下のようなものがある。
==== 露光タイマー ====
[[File:Photo-lab timer FS 032.jpg|right|thumb|180px|Kaiser FS 032]]
{{Main|en:Photo-lab timer}}
:印画紙に露光する時間を調整するものである。×10秒、×1秒、×0.1秒などの桁に分かれた露光時間調整ダイヤルがついており、スタートボタンを押すとセットした合計時間だけ出力がオンになる。時間の表示形式はアナログ式の物とデジタル式の物がある。引き伸ばし機によってはタイマーを内蔵している機種もある。また、露光と連動して[[セーフライト]]を消灯・点灯できるものもある。
{{-}}
==== カラーアナライザー/露光計 ====
[[File:Analizzatore elettronico, a colori - Museo scienza tecnologia Milano 15481.jpg|right|thumb|180px|Durst CNA 100]]
:フィルムの色調や濃度を測定して必要とされる補正フィルターや露光時間を割り出すことができる。また露光時間の測定とタイマーが連動した機種もある。
{{-}}
==== フットスイッチ ====
:足で踏むことにより露光させることができる。セーフライトも同時に制御できるものもある。
{{-}}
==== イーゼルマスク ====
:引き伸ばし機の台板上に置いて印画紙を挟み込み固定するための機具である。
{{Main|イーゼルマスク}}
{{-}}
==== フォーカススコープ ====
引き伸ばし機のピント調節に使用する[[拡大鏡|ルーペ]]。イーゼルマスク上に置きフィルム画像の一部を反射鏡とルーペで拡大して合焦状態を観察できる。著名なブランドに[[LPL (写真)|LPL]]、[[PEAK]] (東海産業)、ダースト (イタリア)、パターソン (イギリス)など。
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|+'''製品例'''
|-
| style="vertical-align: center"|
{{File clip|Photo Fetzer, Bad Ragaz - 5 of 5 - Darkroom (2020-07-25 by Kecko).jpg|width=180|55|62|30|28|w=5200|h=3467|フォーカススコープ<br />(PEAK)<br /><small>※モバイル機器で正常に表示されないことがあります。</small>|align=center}}
| style="vertical-align: center"|
{{File clip|Durst F30.JPG|width=180|65|25|10|40|w=1944|h=2592|フォーカススコープ<br />(パターソン)<br /><small>※モバイル機器で正常に表示されないことがあります。</small>|align=center}}
| style="vertical-align: center"|
[[File:Fokuscope.jpg|center|thumb|140px|大型のフォーカススコープ<br />(旧ソ連Ekran社製)]]
| style="vertical-align: center"|
[[File:Lupa DSC00826 01.jpg|center|thumb|250px|大型のフォーカススコープ<br />(ポーランドPZO社製)]]
|}
{{-}}
== 引き伸ばし機の分類 ==
{{節スタブ|date=2023年11月}}
=== フィルムフォーマットによる分類 ===
使うフィルムのフォーマットにより
*[[135フィルム]]用 - 各社のラインナップで入門用として位置づけられていることが多い。
*135フィルム~[[120フィルム]]用 - 6×6cm判以下、6×7cm判以下、6×9cm判以下に対応する製品があり、使用する最大のフォーマットにより選択する。
*[[写真フィルム#規格別|4×5in判]]以上用 - 小さいフィルム用に使うと光量損失が大きく、引き伸ばし機自体が巨大であり取り回しがしづらいため、プロや写真学校、レンタル暗室などでは事実上そのフォーマット専用としていることが多い。
の大きく3つに分けられる。
またこれらの引き伸ばし機以外にも[[ミノックス]]判専用、16mmフィルム専用、[[マイクロフィルム]]、[[マイクロフィッシュ]]の引き伸ばし機なども存在する。
=== 光源による分類 ===
上述の通り
*引き伸ばし電球([[白熱電球]]) - モノクロ用など
*[[ハロゲンランプ]] - カラー用ダイクロイックフィルター内蔵機など
*[[冷陰極管]] - 広義の蛍光灯。業務用など。
*[[LED照明|LEDランプ]] - べセラー引き伸ばし機 (アメリカ)の一部、{{仮リンク|イントレピッド・カメラ|en|Intrepid Camera}} (イギリス)など
=== 照明方式による分類 ===
上述の通り
*集光式
*散光式
*集散光式
=== 変倍方式(支柱)による分類 ===
*垂直式
*斜行式
*[[パンタグラフ]]式 - ライツ[[フォコマート]] (ドイツ)や1970年代前半までのラッキー引き伸ばし機やハンザ引き伸ばし機など
*支柱が左右に2本あるもの - べセラー引き伸ばし機 (アメリカ)など
*撮影用三脚を使うもの - [[浅沼商会|キング]]、イントレピッド・カメラ (イギリス)など
=== 機能による分類 ===
*カラー式 - {{仮リンク|ダイクロイックフィルター|en|Interference filter|redirect=1}}を内蔵し色濃度を可変できるもの
*モノクロ多階調式 - ダイクロイックフィルターを内蔵しモノクロ多階調印画紙の[[コントラスト#写真機、映像機器|コントラスト]]を可変できるもの
*白昼式 - 引き伸ばし機をカバーで覆い明室でプリントできる機種が古くからあった。著名な製品に富士フイルムのダークレス引伸現像器、ダークレスボックス、[[ポラロイド]]・デイラボ300 (Polaroid Daylab 300)など。
*アタッシュケース式 - 主に新聞社のカメラマン向けに引き伸ばし機一式を[[ブリーフケース#ブリーフケースの種類|アタッシュケース]]に収納・携行できる機種があった。著名なブランドにラッキー、チェリーなど。
*一眼レフカメラと光源を組み合わせて使う携行可能なもの - キングなど
== 使用方法 ==
{{Main|b:白黒写真の暗室作業/プリント|en:Enlarger#Principles_of_operation}}
=== 大伸ばし ===
多くの引き伸ばし機ではヘッドの部分を支柱を中心に180度回転させて床面投影、もしくは90度回転させて壁面投影させることができる。こうすることで全紙やロール紙などの大サイズの印画紙への引き伸ばしが可能となる。この場合'''イーゼルマスク'''を使用することができないため、粘着テープなどで壁面もしくは床面に直接印画紙を固定して使用する。
== 主な引き伸ばし機メーカー ==
*[[富士フイルム]] - 日本のメーカーで引き伸ばし機など暗室用品などを扱い、現在は引き伸ばし機については販売を終了し若干の暗室用品のみ販売している。
*[[LPL (写真)|LPL]] - 日本のメーカーで引き伸ばし機など暗室用品などを扱う。
*ラッキー (''LUCKY'') - 日本の引き伸ばし機メーカー藤本写真工業のブランド。現在は事業を継承した[[ケンコー (光学)|ケンコー]]が最後まで続けていた専用の引き伸ばし電球やハロゲンランプの販売を終了し、アフターサービスのみ行っている。
*[[杉藤]]-日本の光学機器メーカーで、引き伸ばしレンズを製造している。(2023年11月現在受注生産のみ)
*[[ダースト]] (''DURST'') - イタリアの引き伸ばし機メーカーで小型、中型引き伸ばし機を得意とする。以前は[[ペンタックス]]が輸入代理店であった。
*{{仮リンク|チャールズ ベセラー|en|Charles Beseler Company}} (''Charles Beseler'') - アメリカの引き伸ばし機メーカーで、大型引き伸ばし機を得意とする。
*{{仮リンク|オメガ (写真)|label=オメガ|en|Omega (photographic brand)}} (''Omega'') - アメリカの引き伸ばし機メーカーで、大型引き伸ばし機を得意とする。以前は[[コニカミノルタ|小西六写真工業]]系列のチェリー商事が輸入代理店であった。
== 関連項目 ==
* [[引き伸ばし]]
*[[写真フィルム]]
**[[モノクロフィルム]]
*[[ライカ]]
**[[フォコマート]] - ライツ(現ライカ)製の引き伸ばし機
*[[富士フイルム]]
**[[富士フイルム引き伸ばし用レンズの一覧]]
*[[ローデンシュトック]]
**[[ローデンシュトック#引き伸ばし用レンズ|ローデンシュトック引き伸ばし用レンズの一覧]]
*[[シュナイダー・クロイツナッハ]]
**[[シュナイダー・クロイツナッハのレンズ製品一覧#引き伸ばし用レンズ|シュナイダー・クロイツナッハ引き伸ばし用レンズの一覧]]
== 外部リンク ==
* [http://fujifilm.jp/personal/film/monochrome/index.html 富士フイルム 黒白フィルム・関連製品]
* [http://www.lpl-web.co.jp/ LPL]
* [https://www.kenko-tokina.co.jp/imaging/eq/eq-camera/debeloping-enlargement/enlargement_related/4944915901693.html ラッキー]
* [http://www.durst.it/ ダースト]
* [http://www.beselerphoto.com/ チャールズ ベセラー]
* [http://www.beseler.com/ チャールズ ベセラー]
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2,772 | Pascal | ■カテゴリ / ■テンプレート
Pascal(パスカル)は、1970年に発表されたプログラミング言語。ニクラウス・ヴィルトにより構造化プログラミングとして設計・デザインされた。名称は、ブレーズ・パスカルにちなむ。
ALGOL、ALGOL Wをベースとし、簡素だがよく整った言語仕様(構文と意味)を持つ。プログラミング教育を意識しており、「判読性」を重視している反面、「最適化」を犠牲にしていると批判もされた。 言語的には、自身のコンパイラを自身で書けるといった、言語処理系のブートストラップを備え、多くの#実用プログラム例を持っている。
教育を主目的としつつ、コンパイラが記述できる程度に強力な言語を目指し、当初、ヴィルト自身がPascalコンパイラをPascal自身で書いてみせ、その能力を示した(後のModula-2では、オペレーティングシステムをModula-2で書いてみせた)。当時 FORTRAN 以外のコンパイラは生成される機械語が冗長で最適化が難しいと言われていたが、「言語仕様と最適化は独立した問題である」ことを証明するという目的もあったらしい。
Pascalの単純さは、例えば構文がLL(1)であることなどによく現れている。全ての名札、定数、型名、変数、サブルーチンは使用に先立って定義しておく必要がある。ポインタを用いたリストのような型の定義や、交互にサブルーチンが呼び合うためには、例外的な構文を使わねばならない。ポインタに限っては、参照される型の定義の前に、その型を参照するような定義ができた。また、サブルーチンの定義部分だけを先に記述する方法で解決した。
その結果、パーサはLL(1)パーサであり、バックエンドはいわゆるワンパスコンパイラであった。なお、他言語のコンパイラでは、2回以上走査を行うマルチパス形式のものが多かった。マルチパス形式では、最初の走査で識別子等の情報を中心に情報収集を行い、後続の走査でそれらの情報を参照しつつ実行ファイルを生成するため、コンパイル速度面では不利だが、最適化の点で有利となる。絶望的に遅いフロッピーディスクを作業ディスクとするユーザが多かった初期のパーソナルコンピュータでは、ワンパスコンパイラであることは大いに利点となった。 なお、Turbo Pascalの高速性は、アセンブラで記述されていたことも一因であるが、Pascalの簡潔な仕様を活かしメモリを使える限り使ってファイルアクセスを最小限に留めることで実現された。
ALGOL由来の制御構造、サブルーチンの中に、そのサブルーチン内からのみ見えるローカルな変数、そのサブルーチン内からのみ呼び出せるサブルーチン等を定義できるといった、スコープの概念と再帰的な構文構造(ブロック構造と呼ぶ)、静的スコープによる参照の局所化機能を持つ。さらに、豊富なデータ型と、COBOL に見られた構造体を含む新しいデータ型を定義できるという特徴も持っている。レコード型とポインタを用いてリスト、木といったデータ構造を自由に構築することができる(二分木#データの二分木への格納法の例参照)。なお由来は不明だが、最後にピリオドを付けるという、微妙にALGOLの構文と違う点がある。
Pascalの注目すべきは、変数の宣言を「変数名、型名」の順序とした記法であろう。ALGOLを源流とするC言語などでは、変数などの定義でint xといったような「型名 変数名」という順序で記述される。一方、Pascalでは「var x : int」というような、「変数名 型名」の順序で記述する。この記法は数学などと類似の記法であるため、ヴィルトの完全なオリジナルだとは言いにくいが、最初に述べたALGOL WではALGOLと同様であるので、プログラミング言語への導入としてはオリジナリティが高いものと考えられる。この点について、JavaなどはC言語の構文の小改良にとどまっているが、LimboやGo言語などC言語を使い尽した設計者らによる新言語が、Pascalに似た記法としていることは特筆事項であろう。なお、ALGOL系ではAdaも変数などの型の記述を、これに類似した構文としている。ScalaやKotlinといったJava VM環境で動作する後発言語も、型を後置する記法を採用している。この表記法は型推論の普及に伴って良い方向に働いた。型名を前置する言語では、「=」の左辺において、型名があれば変数の宣言と初期化、変数名だけなら代入として区別できるが、型推論では型名が省略されてしまうため区別できなくなる。その結果、C++やDでは「auto」などの接頭辞が必要で、初学者にとってはautoのような型があるかのようにみえてしまう。型名を後置する言語ではそのような問題はない。
コンパイル時にできるだけ多くの不注意による誤りを発見できる、強く型付けされた(strongly typed)言語であり、またハードウェアを隠蔽する思想が徹底している。たとえば集合型、ポインタ型はそれぞれビットマップとアドレスを抽象化したものと考えられる。また Pascal は教育用ということもあり、最初の仕様では分割コンパイルや外部ライブラリの利用が考慮されていなかった。これは大規模なプログラムを記述したり、ハードウェアを直接操作するプログラムを記述するには不便な仕様であり、入出力の扱いなど処理系に依存しなければならない部分を言語の中に抱える結果に繋がった。たとえばファイル型変数に特定のファイルを関連付ける標準的な方法はない。ヴィルト自身は Modula-2 でこれらの要請に応える一方で、Pascalでは実装のベンダがそれぞれ独自の拡張を施して、分割コンパイルやハードウェアの直接操作を可能としたが、この部分の互換性は乏しい。
配列についても問題点が発覚した。Pascalでは静的配列のみをサポートする。これはコンパイル時にサイズが決定され、実行中はサイズを変更できない。しかし実際のプログラムは実行するまでサイズが決められないことが多く、後発の言語は実行中にサイズを変更できる動的配列をサポートしている。
著名なものに、TeX、初期のMacintoshのオペレーティングシステムおよびアプリケーションなどがある。
処理系に関しても、2019年現在も多くのプラットフォームに多くの実装がある。
最初のPascalコンパイラは、CDC 6000 シリーズ用に1970年に書かれた1パスコンパイラで、それ自身が Pascal で書かれていた。CDC 6000 シリーズは 1ワードが 60ビットのマシンであった。Pascal には、メモリを節約するための詰め合わせ機能(pack/unpack)や、10文字(1文字は6ビット)の詰め合わせ文字列である alfa 型の存在、長いワードをビットごとに扱うための集合型など、CDC のアーキテクチャの影響を受けた箇所がある。CDC 用のコンパイラは、extern 宣言によって外部ライブラリを読み込むことができた。
1972年から1974年にかけてチューリッヒ工科大学で書かれたPascal-Pは、Pascal からP コードへのコンパイラと、Pコードインタプリタからなる中間言語コンパイラで、やはり Pascal 自身で書かれていた。このことにより、後の Java が異なるアーキテクチャの計算機への移植が進んだのと同様、多くの計算機への移植が進んだ。中間言語コンパイラを移植するためには、仮想スタックマシンであるPコードマシンのエミュレータを移植元の機械で開発し、コンパイラを移植先の機械でコンパイルするだけで良い。1970 - 80年代の低速な計算機では、このような中間言語方式では性能が不十分だった。Pascal-PにはPascal-P1・Pascal-P2・Pascal-P3・Pascal-P4の4つのバージョンがあるが、いずれもPascalのサブセット実装となっている。
1975年にニクラウス・ヴィルトがインタプリタであるPascal-Sを書いた。サブセットであるとはいえ、このPascalのソースコードは2,000行程しかない。
同じく1975年にカリフォルニア工科大学で Pascal を並列動作用に拡張したConcurrent Pascalが開発され、それを使ってシングルユーザのオペレーティングシステムを開発し、Pascal がシステムプログラミングにも優れていることを明らかにした。
1978年にカリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)でPascal-P2をベースにしたUCSD Pascalが開発された。これは、異なるプラットフォームに移植できるカスタムオペレーティングシステム(UCSD p-System)上で実行可能なバージョンである。Appleもライセンスを取得し、Apple IIやApple IIIへ移植されている。
日本では、1979年にシャープ製MZシリーズ向けに「Tiny PASCAL PALL」として発売されている。
ISOではPascalを1983年にISO 7185として標準化し現在は1990年版である。対応する日本の規格はJIS X 3008-1990で、改訂版は1994である。標準 Pascal には水準0と水準1があり、後者は長さの異なる配列を引数に取るための整合配列が使える。また、拡張規格としてISO/IEC 10206が1991年に策定された。1993年のオブジェクト指向拡張の規格はドラフトで終わっている。
以前ならばALGOLが使われていたであろう、論文や学会誌等におけるアルゴリズムの記述に、ALGOLに代わってPascalは使われるようになった。
Pascal は、アルゴリズムの教科書にしばしば使われた。ヴィルト自身による『アルゴリズム+データ構造=プログラム』をはじめ、エイホ・ホップクロフト・ウルマン『データ構造とアルゴリズム』などは Pascal を使用している。
1970年代末のパソコン上のシステムでは、Apple II や Z80 システムで動作する UCSD Pascalが動いていた。UCSD Pascal はPコードを使った中間コードコンパイラで、文字列型・case文の拡張・ユニットを使った Modula-2 風の分割コンパイルなどをサポートしており、言語以外にメニューを使ったユーザーインターフェースも優れていた。
ほかに、デジタルリサーチの Pascal/MT+ やJRTシステムズ社の JRT pascal(日本ではライフボートが αPascal として販売した)などが販売されていた。
1983年にボーランドが発売したTurbo Pascalは(当初はZ80マシンのCP/Mで動作する)、大変高速な1パスコンパイラ兼開発環境である。続いて8086マシン用(CP/M-86, MS-DOS)がリリースされ、1980年代後半〜1990年代前半に一般個人が所有するパーソナルコンピュータの環境として最も数の多かったMS-DOSにおいて大きな人気を得た。ビルドの高速さは、「コンパイラは、コンパイル時間があるので不便だ」という意識を、十分に速い環境であればたいして気にならないのだ、という事実を示して塗り替えた。さらにWordStar風のキー操作を持った、当時としては高機能なフルスクリーンエディタを備えていながら低価格であったため、日本では「フルスクリーンエディタを買うと、おまけに高速な Pascal コンパイラが付いてくる」とまで言われたほどである。
「Turbo Pascal」は、版を重ねるにつれてモジュール機能やオブジェクト指向の拡張を加え、「Pascal処理系の実装としての名前」というよりも「Pascal を拡張した言語の名前」となった。オブジェクト指向の拡張はやがてObject Pascalという言語として認知されるようになった。ボーランドはObject Pascalの開発環境をより充実させたWindows向けの製品としてDelphiをリリースした。
Turbo Pascal と Delphi の成功によって、互換を謳った実装が開発されている。商用のものとしては Speed Pascal、Virtual Pascal、マイクロソフトのQuickPascalがあり、フリーソフトとしては Free Pascal(元 FPK Pascal)が広い範囲のプラットフォームで動作する。ISO 標準 Pascal を意識したものでは、GNU Pascal がある。また、ボーランド自身がDelphiをベースにして作ったGNU/Linux向け開発環境のKylixもある。
以上のように「ボーランドの成功」が語られがちではあるが、実際のところ、Turbo Pascalの開発者であるアンダース・ヘルスバーグは、1990年代にマイクロソフトに移籍している。ヘルスバーグはマイクロソフトでVJ++などを担当した後、C#を開発している。C#は、C++とJavaの基本文法や特徴をベースに、ヘルスバーグの経験が反映された設計がなされており、DelphiおよびBorland C++ Builderの影響もあるが、「Object Pascal のブロック表記などをC言語風に置き換えた」と説明するのは間違っている。
当初、Macintoshにはセルフ開発環境はなく、システムの開発およびアプリケーションのクロス開発用プラットフォームとして、もっぱらLisa上でIDEのLisa Workshopを使用した。Lisaの公式開発言語はPascalだったためMacintosh Toolboxと呼ぶAPIにおいても、その呼び出し手法がPascalに準拠していたのはこうした理由による。Lisa PascalはSilicon Valley Software社の68000用ネイティブコードコンパイラをライセンス取得したもので、後にオブジェクト指向を取り入れたClascalに進化する。
後に登場したMacintosh用セルフ開発環境Macintosh Programmer's Workshop(英語版)(MPW)にはヴィルトと Apple のラリー・テスラー率いるチームが開発したObject Pascalが含まれていた。これはClascalの言語仕様を整理・発展させたものである。この環境で書かれていたアプリケーションとしてAdobe Photoshopがある。
ニクラス・ヴィルト自身によって、Pascalや他の言語の経験にもとづき、後継と言える言語が設計されている。Pascalとの互換性を残した拡張といったようなスタイルではなく、そのため名前にもPascalを含めていない。
その他の言語ないし実装
「本物のプログラマはPascalを使わない」というエッセイは、そのタイトルだけは有名だが、Pascalについては実のところ、構造化プログラミングの代名詞のような感じで引き合いに出されているだけであり、その内容についても、当のハッカーたちからも否定と肯定が半々といった所である(例えばジャーゴンファイルでは、用語集本体では否定的に、附録では肯定的に言及している)。本格的な批判の文章としては、カーニハンによるWhy Pascal is Not My Favorite Programming Languageがある。
初期の批判にもかかわらずPascalは進化し続けた。そしてカーニハンの批判ポイントの殆どは商用バージョンのPascalに当てはまらなくなった。例えば論文The Pascal Programming LanguageのMyth 6節で拡張Pascalの言語仕様に基づき、論文The Macintosh Programmer's Workshopでは、Object Pascal(MPW Pascal)の言語仕様に基づき、批判ポイントの殆どは克服していると語られている。 | [
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"text": "1972年から1974年にかけてチューリッヒ工科大学で書かれたPascal-Pは、Pascal からP コードへのコンパイラと、Pコードインタプリタからなる中間言語コンパイラで、やはり Pascal 自身で書かれていた。このことにより、後の Java が異なるアーキテクチャの計算機への移植が進んだのと同様、多くの計算機への移植が進んだ。中間言語コンパイラを移植するためには、仮想スタックマシンであるPコードマシンのエミュレータを移植元の機械で開発し、コンパイラを移植先の機械でコンパイルするだけで良い。1970 - 80年代の低速な計算機では、このような中間言語方式では性能が不十分だった。Pascal-PにはPascal-P1・Pascal-P2・Pascal-P3・Pascal-P4の4つのバージョンがあるが、いずれもPascalのサブセット実装となっている。",
"title": "初期の処理系実装"
},
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"text": "1975年にニクラウス・ヴィルトがインタプリタであるPascal-Sを書いた。サブセットであるとはいえ、このPascalのソースコードは2,000行程しかない。",
"title": "初期の処理系実装"
},
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"text": "同じく1975年にカリフォルニア工科大学で Pascal を並列動作用に拡張したConcurrent Pascalが開発され、それを使ってシングルユーザのオペレーティングシステムを開発し、Pascal がシステムプログラミングにも優れていることを明らかにした。",
"title": "初期の処理系実装"
},
{
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"text": "1978年にカリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)でPascal-P2をベースにしたUCSD Pascalが開発された。これは、異なるプラットフォームに移植できるカスタムオペレーティングシステム(UCSD p-System)上で実行可能なバージョンである。Appleもライセンスを取得し、Apple IIやApple IIIへ移植されている。",
"title": "初期の処理系実装"
},
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"text": "日本では、1979年にシャープ製MZシリーズ向けに「Tiny PASCAL PALL」として発売されている。",
"title": "初期の処理系実装"
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{
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"text": "ISOではPascalを1983年にISO 7185として標準化し現在は1990年版である。対応する日本の規格はJIS X 3008-1990で、改訂版は1994である。標準 Pascal には水準0と水準1があり、後者は長さの異なる配列を引数に取るための整合配列が使える。また、拡張規格としてISO/IEC 10206が1991年に策定された。1993年のオブジェクト指向拡張の規格はドラフトで終わっている。",
"title": "標準"
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"text": "以前ならばALGOLが使われていたであろう、論文や学会誌等におけるアルゴリズムの記述に、ALGOLに代わってPascalは使われるようになった。",
"title": "アルゴリズムの記述に"
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"text": "Pascal は、アルゴリズムの教科書にしばしば使われた。ヴィルト自身による『アルゴリズム+データ構造=プログラム』をはじめ、エイホ・ホップクロフト・ウルマン『データ構造とアルゴリズム』などは Pascal を使用している。",
"title": "アルゴリズムの教科書に"
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"text": "1970年代末のパソコン上のシステムでは、Apple II や Z80 システムで動作する UCSD Pascalが動いていた。UCSD Pascal はPコードを使った中間コードコンパイラで、文字列型・case文の拡張・ユニットを使った Modula-2 風の分割コンパイルなどをサポートしており、言語以外にメニューを使ったユーザーインターフェースも優れていた。",
"title": "パーソナルコンピュータとPascal"
},
{
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"text": "ほかに、デジタルリサーチの Pascal/MT+ やJRTシステムズ社の JRT pascal(日本ではライフボートが αPascal として販売した)などが販売されていた。",
"title": "パーソナルコンピュータとPascal"
},
{
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"text": "1983年にボーランドが発売したTurbo Pascalは(当初はZ80マシンのCP/Mで動作する)、大変高速な1パスコンパイラ兼開発環境である。続いて8086マシン用(CP/M-86, MS-DOS)がリリースされ、1980年代後半〜1990年代前半に一般個人が所有するパーソナルコンピュータの環境として最も数の多かったMS-DOSにおいて大きな人気を得た。ビルドの高速さは、「コンパイラは、コンパイル時間があるので不便だ」という意識を、十分に速い環境であればたいして気にならないのだ、という事実を示して塗り替えた。さらにWordStar風のキー操作を持った、当時としては高機能なフルスクリーンエディタを備えていながら低価格であったため、日本では「フルスクリーンエディタを買うと、おまけに高速な Pascal コンパイラが付いてくる」とまで言われたほどである。",
"title": "パーソナルコンピュータとPascal"
},
{
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"text": "「Turbo Pascal」は、版を重ねるにつれてモジュール機能やオブジェクト指向の拡張を加え、「Pascal処理系の実装としての名前」というよりも「Pascal を拡張した言語の名前」となった。オブジェクト指向の拡張はやがてObject Pascalという言語として認知されるようになった。ボーランドはObject Pascalの開発環境をより充実させたWindows向けの製品としてDelphiをリリースした。",
"title": "パーソナルコンピュータとPascal"
},
{
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"text": "Turbo Pascal と Delphi の成功によって、互換を謳った実装が開発されている。商用のものとしては Speed Pascal、Virtual Pascal、マイクロソフトのQuickPascalがあり、フリーソフトとしては Free Pascal(元 FPK Pascal)が広い範囲のプラットフォームで動作する。ISO 標準 Pascal を意識したものでは、GNU Pascal がある。また、ボーランド自身がDelphiをベースにして作ったGNU/Linux向け開発環境のKylixもある。",
"title": "パーソナルコンピュータとPascal"
},
{
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"text": "以上のように「ボーランドの成功」が語られがちではあるが、実際のところ、Turbo Pascalの開発者であるアンダース・ヘルスバーグは、1990年代にマイクロソフトに移籍している。ヘルスバーグはマイクロソフトでVJ++などを担当した後、C#を開発している。C#は、C++とJavaの基本文法や特徴をベースに、ヘルスバーグの経験が反映された設計がなされており、DelphiおよびBorland C++ Builderの影響もあるが、「Object Pascal のブロック表記などをC言語風に置き換えた」と説明するのは間違っている。",
"title": "パーソナルコンピュータとPascal"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "当初、Macintoshにはセルフ開発環境はなく、システムの開発およびアプリケーションのクロス開発用プラットフォームとして、もっぱらLisa上でIDEのLisa Workshopを使用した。Lisaの公式開発言語はPascalだったためMacintosh Toolboxと呼ぶAPIにおいても、その呼び出し手法がPascalに準拠していたのはこうした理由による。Lisa PascalはSilicon Valley Software社の68000用ネイティブコードコンパイラをライセンス取得したもので、後にオブジェクト指向を取り入れたClascalに進化する。",
"title": "パーソナルコンピュータとPascal"
},
{
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"tag": "p",
"text": "後に登場したMacintosh用セルフ開発環境Macintosh Programmer's Workshop(英語版)(MPW)にはヴィルトと Apple のラリー・テスラー率いるチームが開発したObject Pascalが含まれていた。これはClascalの言語仕様を整理・発展させたものである。この環境で書かれていたアプリケーションとしてAdobe Photoshopがある。",
"title": "パーソナルコンピュータとPascal"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "ニクラス・ヴィルト自身によって、Pascalや他の言語の経験にもとづき、後継と言える言語が設計されている。Pascalとの互換性を残した拡張といったようなスタイルではなく、そのため名前にもPascalを含めていない。",
"title": "後継や派生"
},
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"text": "その他の言語ないし実装",
"title": "後継や派生"
},
{
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"text": "「本物のプログラマはPascalを使わない」というエッセイは、そのタイトルだけは有名だが、Pascalについては実のところ、構造化プログラミングの代名詞のような感じで引き合いに出されているだけであり、その内容についても、当のハッカーたちからも否定と肯定が半々といった所である(例えばジャーゴンファイルでは、用語集本体では否定的に、附録では肯定的に言及している)。本格的な批判の文章としては、カーニハンによるWhy Pascal is Not My Favorite Programming Languageがある。",
"title": "批判"
},
{
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"text": "初期の批判にもかかわらずPascalは進化し続けた。そしてカーニハンの批判ポイントの殆どは商用バージョンのPascalに当てはまらなくなった。例えば論文The Pascal Programming LanguageのMyth 6節で拡張Pascalの言語仕様に基づき、論文The Macintosh Programmer's Workshopでは、Object Pascal(MPW Pascal)の言語仕様に基づき、批判ポイントの殆どは克服していると語られている。",
"title": "批判"
}
] | Pascal(パスカル)は、1970年に発表されたプログラミング言語。ニクラウス・ヴィルトにより構造化プログラミングとして設計・デザインされた。名称は、ブレーズ・パスカルにちなむ。 ALGOL、ALGOL Wをベースとし、簡素だがよく整った言語仕様(構文と意味)を持つ。プログラミング教育を意識しており、「判読性」を重視している反面、「最適化」を犠牲にしていると批判もされた。
言語的には、自身のコンパイラを自身で書けるといった、言語処理系のブートストラップを備え、多くの#実用プログラム例を持っている。 | {{複数の問題
|出典の明記=2018年10月
|言葉を濁さない=2018年10月
}}
{{Otheruses|プログラミング言語|その他の用法|パスカル (曖昧さ回避)}}
{{Infobox プログラミング言語
| fetchwikidata = ALL
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| name = Pascal
| released = {{start date and age|1970}}
| dialects = [[Delphi]]、[[Turbo Pascal]]、[[UCSD Pascal]]
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}}
{{プログラミング言語}}
'''Pascal'''(パスカル)は、1970年に発表された[[プログラミング言語]]。[[ニクラウス・ヴィルト]]により[[構造化プログラミング]]として設計・デザインされた。名称は、[[ブレーズ・パスカル]]にちなむ。
[[ALGOL]]、[[:en:ALGOL W|ALGOL W]]をベースとし、簡素だがよく整った言語仕様(構文と意味)を持つ。プログラミング教育を意識しており、「判読性」を重視している反面、「最適化」を犠牲にしていると批判もされた。
言語的には、自身の[[コンパイラ]]を自身で書けるといった、言語処理系の[[ブートストラップ]]を備え、多くの[[#実用プログラム例]]を持っている。
== 言語仕様 ==
教育を主目的としつつ、コンパイラが記述できる程度に強力な言語を目指し、当初、ヴィルト自身がPascal[[コンパイラ]]をPascal自身で書いてみせ、その能力を示した(後のModula-2では、オペレーティングシステムをModula-2で書いてみせた)。{{要出典範囲|date=2017年3月|当時 [[FORTRAN]] 以外のコンパイラは生成される[[機械語]]が冗長で[[最適化 (情報工学)|最適化]]が難しいと言われていたが、「言語仕様と最適化は独立した問題である」ことを証明するという目的もあったらしい。}}
Pascalの単純さは、例えば構文が[[LL法|LL(1)]]であることなどによく現れている{{Efn|{{要出典範囲|date=2018年8月|これは、プログラマに対して不親切なほどである。実際には多くの処理系が拡張しているが、本来の(構文がLL(1)の)Pascalでは、ラベルに普通に名前が使えず、数字による番号しか使えない。}}}}。全ての名札、定数、型名、変数、[[サブルーチン]]{{Efn|Pascalにおいては[[手続き]](<code>procedure</code>)または[[関数 (プログラミング)|関数]](<code>function</code>)と呼び、値を返し[[式 (プログラミング)|式]]の中で用いうるものを特に関数と読んで区別する。}}は使用に先立って定義しておく必要がある。[[ポインタ (プログラミング)|ポインタ]]を用いたリストのような型の定義や、交互にサブルーチンが呼び合うためには、例外的な構文を使わねばならない。ポインタに限っては、参照される型の定義の前に、その型を参照するような定義ができた。また、サブルーチンの定義部分だけを先に記述する方法で解決した。
その結果、パーサはLL(1)パーサであり、バックエンドはいわゆるワンパスコンパイラであった{{Efn|似たような長所が主張された処理系・言語に[[ダートマスBASIC]]がある。}}。なお、他言語のコンパイラでは、2回以上走査を行うマルチパス形式のものが多かった。マルチパス形式では、最初の走査で識別子等の情報を中心に情報収集を行い、後続の走査でそれらの情報を参照しつつ実行ファイルを生成するため、コンパイル速度面では不利だが、最適化の点で有利となる。絶望的に遅い[[フロッピーディスク]]を作業ディスクとするユーザが多かった初期のパーソナルコンピュータでは、ワンパスコンパイラであることは大いに利点となった。
なお、Turbo Pascalの高速性は、[[アセンブラ]]で記述されていたことも一因であるが、<!--ワンパスによるコンパイルが可能な-->Pascalの簡潔な仕様を活かしメモリを使える限り使ってファイルアクセスを最小限に留めることで実現された。
ALGOL由来の制御構造、サブルーチンの中に、そのサブルーチン内からのみ見えるローカルな変数、そのサブルーチン内からのみ呼び出せるサブルーチン等を定義できるといった、スコープの概念と[[再帰的]]な構文構造([[ブロック (プログラミング)|ブロック構造]]と呼ぶ)、[[静的スコープ]]による参照の局所化機能を持つ。さらに、豊富な[[データ型]]と、[[COBOL]] に見られた[[構造体]]を含む新しいデータ型を定義できるという特徴も持っている。レコード型とポインタを用いて[[線形リスト|リスト]]、[[木 (数学)|木]]といったデータ構造を自由に構築することができる([[二分木#データの二分木への格納法]]の例参照)。なお由来は不明だが、最後にピリオドを付けるという、微妙にALGOLの構文と違う点がある。
Pascalの注目すべきは、変数の宣言を「変数名、型名」の順序とした記法であろう。ALGOLを源流とする[[C言語]]などでは、変数などの定義で<code>int x</code>といったような「型名 変数名」という順序で記述される。一方、Pascalでは「<code>var x : int</code>」というような、「変数名 型名」の順序で記述する。この記法は数学などと類似の記法であるため、ヴィルトの完全なオリジナルだとは言いにくいが、最初に述べたALGOL WではALGOLと同様であるので、プログラミング言語への導入としてはオリジナリティが高いものと考えられる。この点について、[[Java]]などはC言語の構文の小改良にとどまっているが、[[Limbo (プログラミング言語)|Limbo]]や[[Go (プログラミング言語)|Go言語]]などC言語を使い尽した設計者らによる新言語が、Pascalに似た記法としていることは特筆事項であろう。なお、ALGOL系では[[Ada]]も変数などの型の記述を、これに類似した構文としている。[[Scala]]や[[Kotlin]]といった[[Java VM]]環境で動作する後発言語も、型を後置する記法を採用している。この表記法は[[型推論]]の普及に伴って良い方向に働いた。型名を前置する言語では、「<code>=</code>」の左辺において、型名があれば変数の宣言と初期化、変数名だけなら代入として区別できるが、型推論では型名が省略されてしまうため区別できなくなる。その結果、[[C++]]や[[D言語|D]]では「<code>auto</code>」などの接頭辞が必要で、初学者にとってはautoのような型があるかのようにみえてしまう。型名を後置する言語ではそのような問題はない。
コンパイル時にできるだけ多くの不注意による誤りを発見できる、強く型付けされた(strongly typed)言語であり、またハードウェアを隠蔽する思想が徹底している。たとえば[[集合 (プログラミング)|集合]]型、ポインタ型はそれぞれ[[ビットマップ]]と[[メモリアドレス|アドレス]]を抽象化したものと考えられる。また Pascal は教育用ということもあり、最初の仕様では[[分割コンパイル]]や外部[[ライブラリ]]の利用が考慮されていなかった。これは大規模なプログラムを記述したり、ハードウェアを直接操作するプログラムを記述するには不便な仕様であり、入出力の扱いなど処理系に依存しなければならない部分を言語の中に抱える結果に繋がった。たとえばファイル型変数に特定のファイルを関連付ける標準的な方法はない。ヴィルト自身は Modula-2 でこれらの要請に応える一方で、Pascalでは実装のベンダがそれぞれ独自の拡張を施して、分割コンパイルやハードウェアの直接操作を可能としたが、この部分の互換性は乏しい。
[[配列]]についても問題点が発覚した。Pascalでは静的配列のみをサポートする。これはコンパイル時にサイズが決定され、実行中はサイズを変更できない。しかし実際のプログラムは実行するまでサイズが決められないことが多く、後発の言語は実行中にサイズを変更できる動的配列をサポートしている。
== 実用プログラム例 ==
著名なものに、[[TeX|{{TeX}}]]{{Efn|{{TeX}}は特にその大規模さから、どんな実装でも少なくとも一つのバグが{{TeX}}によってあぶり出された、などと言われている。}}、初期の[[Macintosh]]の[[オペレーティングシステム]]および[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]などがある。
処理系に関しても、2019年現在も多くのプラットフォームに多くの実装がある。
* AVRco<ref>https://www.e-lab.de/AVRco/index_en.html</ref> - マイクロプロセッサ用の Pascal。
* [[Delphi]] - 現在最もメジャーな Pascal。
* DWScript<ref>https://www.delphitools.info/dwscript/</ref> - Delphi用のスクリプトエンジン。
* [[Free Pascal]] - オープンソースの Pascal。
* [[GNU Pascal]] - オープンソースの Pascal。
* IP Pascal <ref>http://www.moorecad.com/ippas/</ref>- 標準 Pascal をベースに拡張された Pascal。
* mikropascal<ref>https://www.mikroe.com/mikropascal</ref> - マイクロプロセッサ用の Pascal。
* Modern Pascal<ref>http://www.modernpascal.com/</ref> - Free Pascalで書かれたマルチプラットフォームのインタプリタおよびP-Codeコンパイラ。
* NewPascal<ref>http://newpascal.org/</ref> - Lazarus / [[Free Pascal]] のフォーク。
* Open Sibyl<ref>http://sibyl.netlabs.org/en/site/index.xml</ref> - Speedsoft Sibyl のオープンソース実装。
* [[:en:Oxygene (programming_language)|Oxygene]] - .NET 用の Object Pascal。
* PascalABC.NET<ref>http://pascalabc.net/en/</ref> - .NET 用の Object Pascal。
* Pascal Script<ref>https://www.remobjects.com/ps.aspx</ref> - DelphiまたはFree Pascalプロジェクト内で使えるスクリプトエンジン。
* Pascal-P5<ref>http://www.standardpascal.org/p5.html</ref> - 標準 Pascal に準拠したフルセットの Pascal-P。
* PICco<ref>https://www.e-lab.de/PICco/</ref> - マイクロプロセッサ用の Pascal。
* THINK Pascal<ref>http://www.think-pascal.org/</ref> - Classic MacOS 用の 4.5d4 が無償公開されている。
* Turbo Rascal<ref>http://www.lemonspawn.com/turbo-rascal-syntax-error-expected-but-begin/</ref> - Commodore 64/128、VIC-20、Nintendo ファミリーコンピュータ向けのクロスコンパイラ。
* Turbo51<ref>http://turbo51.com/</ref> - 8051 マイクロプロセッサ用の Pascal。
* Ultibo<ref>https://ultibo.org/</ref> - Raspberry Pi ベアメタルプログラミング用環境(Lazarus / [[Free Pascal]] のカスタマイズ)。
* Vector Pascal<ref>https://sourceforge.net/projects/vectorpascalcom/</ref> - MMXやAMD 3d NowなどのSIMD命令セット用のPascal。
* Virtual Pascal<ref>http://vpascal.ning.com/</ref> - DOS、Windows、OS/2用
* WDSibyl<ref>https://www.wdsibyl.org/</ref> - Speedsoft Sibyl のオープンソース実装。
== 初期の処理系実装 ==
最初のPascalコンパイラは、[[コントロール・データ・コーポレーション|CDC]] 6000 シリーズ用に1970年に書かれた1パスコンパイラで、それ自身が Pascal で書かれていた{{Sfn|Wirth, Niklaus|1986|pp=318-319}}。CDC 6000 シリーズは 1[[ワード]]が 60ビットのマシンであった。Pascal には、メモリを節約するための詰め合わせ機能(pack/unpack)や、10文字(1文字は6ビット)の詰め合わせ文字列である alfa 型の存在<ref>『Pascal』第二版 {{harvnb|イェンゼン|ヴィルト|1981|p=106}}</ref>、長いワードをビットごとに扱うための集合型など、CDC のアーキテクチャの影響を受けた箇所がある。CDC 用のコンパイラは、extern 宣言によって外部ライブラリを読み込むことができた<ref>『Pascal』第二版 {{harvnb|イェンゼン|ヴィルト|1981|p=99}}</ref>。
1972年から1974年にかけて[[チューリッヒ工科大学]]で書かれたPascal-P<ref>{{cite web|url=https://www.research-collection.ethz.ch/handle/20.500.11850/68666|title=The PASCAL "P" compiler - implementation notes|accessdate=2019年3月19日}}</ref>は、Pascal から[[Pコードマシン|P コード]]へのコンパイラと、Pコードインタプリタからなる中間言語コンパイラで、やはり Pascal 自身で書かれていた。このことにより、後の Java が異なるアーキテクチャの計算機への移植が進んだのと同様、多くの計算機への移植が進んだ。中間言語コンパイラを移植するためには、仮想スタックマシンであるPコードマシンのエミュレータを移植元の機械で開発し、コンパイラを移植先の機械でコンパイルするだけで良い。[[1970年代|1970]] - [[1980年代|80年代]]の低速な計算機では、このような中間言語方式では性能が不十分だった。<!--
なお、[[Pコードマシン]]は負値の表現に「[[補数|1の補数]]」を用いており、これは Object Pascal などにも引き継がれている。--><!--にわかには信じがたいが...(Pコードマシンの英語版の記事にもそんなこと書いてないし)それでなくても中間コード方式で遅いのに、ハードウェアと違う方法をわざわざ使ったら、輪をかけて遅くなる...-->Pascal-PにはPascal-P1・Pascal-P2・Pascal-P3・Pascal-P4の4つのバージョンがあるが、いずれもPascalのサブセット実装となっている。
1975年に[[ニクラウス・ヴィルト]]がインタプリタであるPascal-S<ref>{{cite web|url=https://www.research-collection.ethz.ch/handle/20.500.11850/68667|title=PASCAL-S - a subset and its implementation|accessdate=2019年3月19日}}</ref>を書いた。サブセットであるとはいえ、このPascalのソースコードは2,000行程しかない。
同じく1975年に[[カリフォルニア工科大学]]で Pascal を並列動作用に拡張した[[:en:Concurrent Pascal|Concurrent Pascal]]が開発され、それを使ってシングルユーザのオペレーティングシステムを開発し、Pascal が[[システムソフトウェア|システムプログラミング]]にも優れていることを明らかにした{{Sfn|Per Brinch Hansen|1980}}。
1978年に[[カリフォルニア大学サンディエゴ校]](UCSD)でPascal-P2をベースにした[[UCSD Pascal]]が開発された。これは、異なるプラットフォームに移植できるカスタムオペレーティングシステム([[UCSD p-System]])上で実行可能なバージョンである。[[Apple]]もライセンスを取得し、[[Apple II]]や[[Apple III]]へ移植されている。
日本では、1979年に[[シャープ]]製[[MZ (コンピュータ)|MZシリーズ]]向けに「Tiny PASCAL PALL」として発売されている<ref>工学舎 月刊I/O 1979年12月号 PASCAL時代がやってきた! mz-80k用Tiny PASCAL「PALL」全リスト公開</ref>。
== 標準 ==
ISOではPascalを[[1983年]]に'''ISO 7185'''として標準化し現在は1990年版である。対応する日本の規格はJIS X 3008-1990で、改訂版は1994である。標準 Pascal には水準0と水準1があり、後者は長さの異なる配列を引数に取るための整合配列が使える<ref>{{cite jis|X|3008|1994|name=プログラム言語Pascal}}</ref>。また、拡張規格として'''ISO/IEC 10206'''が1991年に策定された。1993年のオブジェクト指向拡張の規格はドラフトで終わっている。
== アルゴリズムの記述に ==
以前ならばALGOLが使われていたであろう、論文や学会誌等におけるアルゴリズムの記述に、ALGOLに代わってPascalは使われるようになった。
== アルゴリズムの教科書に ==
Pascal は、アルゴリズムの教科書にしばしば使われた。ヴィルト自身による『アルゴリズム+データ構造=プログラム』をはじめ、[[アルフレッド・エイホ|エイホ]]・[[ジョン・ホップクロフト|ホップクロフト]]・[[ジェフリー・ウルマン|ウルマン]]『データ構造とアルゴリズム』などは Pascal を使用している。
== パーソナルコンピュータとPascal ==
1970年代末のパソコン上のシステムでは、[[Apple II]] や [[Z80]] システムで動作する [[UCSD Pascal]]<!--(後に対応言語を増やして [[UCSD p-System]] に発展)-->が動いていた<ref>{{cite web|url=http://www.threedee.com/jcm/psystem/index.html|title=THE UCSD P-SYSTEM MUSEUM|publisher=THE JEFFERSON COMPUTER MUSEUM|year=2004|accessdate=2015-08-28}}</ref>。[[UCSD Pascal]] はPコードを使った中間コードコンパイラで、文字列型・case文の拡張・ユニットを使った [[Modula-2]] 風の分割コンパイルなどをサポートしており、言語以外にメニューを使ったユーザーインターフェースも優れていた。
ほかに、[[デジタルリサーチ]]の Pascal/MT+ やJRTシステムズ社の JRT pascal(日本では[[ライフボート]]が αPascal として販売した)などが販売されていた。
=== Turbo Pascalとその後継 ===
1983年に[[ボーランド]]が発売したTurbo Pascalは(当初はZ80マシンの[[CP/M]]で動作する)、大変高速な1パスコンパイラ兼開発環境である。<!--[[Intel 8080|i8080]]/[[Intel 8085|8085]] ベースマシン、[[NEC Vシリーズ#V30|V30]]の8080エミュレーションモードでは動作しなかった。-->続いて8086マシン用([[CP/M-86]], [[MS-DOS]])がリリースされ、1980年代後半〜1990年代前半に一般個人が所有するパーソナルコンピュータの環境として最も数の多かったMS-DOSにおいて大きな人気を得た。ビルドの高速さは、「コンパイラは、コンパイル時間があるので不便だ」という意識を、十分に速い環境であればたいして気にならないのだ、という事実を示して塗り替えた。さらに[[WordStar]]風のキー操作を持った、当時としては高機能な[[フルスクリーンエディタ]]を備えていながら低価格であったため、{{要出典範囲|日本では「フルスクリーンエディタを買うと、おまけに高速な Pascal コンパイラが付いてくる」とまで言われたほどである。|date=2013年7月}}
「Turbo Pascal」は、版を重ねるにつれてモジュール機能や[[オブジェクト指向]]の拡張を加え、「Pascal処理系の実装としての名前」というよりも「Pascal を拡張した言語の名前」となった。<!--ボーランドにいた技術者が TopSpeed Modula-2 という言語を作成したが、トップ・スピード社は買収により Modula-2 の開発を停止している。--><!-- ← この「歴史」、英語版の Turbo Modula-2 の記事に書いてあることとゼンゼン違うんですが…… -->オブジェクト指向の拡張はやがて[[Object Pascal]]という言語として認知されるようになった。ボーランドはObject Pascalの開発環境をより充実させたWindows向けの製品として[[Delphi]]をリリースした。
Turbo Pascal と Delphi の成功によって、互換を謳った実装が開発されている。商用のものとしては Speed Pascal、Virtual Pascal、[[マイクロソフト]]の[[:en:QuickPascal|QuickPascal]]があり、フリーソフトとしては [[Free Pascal]](元 FPK Pascal)が広い範囲のプラットフォームで動作する。ISO 標準 Pascal を意識したものでは、[[GNU Pascal]] がある。また、ボーランド自身がDelphiをベースにして作った[[GNU/Linux]]向け開発環境の[[Kylix]]もある。
以上のように「ボーランドの成功」が語られがちではあるが、実際のところ、Turbo Pascalの開発者である[[アンダース・ヘルスバーグ]]は、1990年代にマイクロソフトに移籍している{{Efn|本人によればボーランド社内で、「開発ツール部門の守護者」であった創業者[[フィリップ・カーン]]をはじめ、開発ツール部門を大幅に圧縮する内紛があったため。}}。ヘルスバーグはマイクロソフトで[[Microsoft Visual J++|VJ++]]などを担当した後、[[C Sharp|C#]]を開発している。C#は、C++とJavaの基本文法や特徴をベースに、ヘルスバーグの経験が反映された設計がなされており、Delphiおよび[[Borland C++ Builder]]の影響もある<ref>http://softwareengineering.stackexchange.com/questions/96793/in-what-specific-ways-did-delphi-influence-the-c-language/96927#96927</ref>が、「Object Pascal のブロック表記などをC言語風に置き換えた」と説明するのは間違っている。
=== MacintoshとPascal ===
当初、Macintoshにはセルフ開発環境はなく、システムの開発およびアプリケーションのクロス開発用プラットフォームとして、もっぱら[[Lisa (コンピュータ)|Lisa]]上で[[統合開発環境|IDE]]のLisa Workshopを使用した。Lisaの公式開発言語はPascalだったためMacintosh Toolboxと呼ぶAPIにおいても、その[[呼出規約#Pascal|呼び出し手法]]がPascalに準拠していたのはこうした理由による。Lisa PascalはSilicon Valley Software社の68000用ネイティブコードコンパイラをライセンス取得したもので、後にオブジェクト指向を取り入れたClascalに進化する。
後に登場したMacintosh用セルフ開発環境{{仮リンク|Macintosh Programmer's Workshop|en|Macintosh Programmer's Workshop}}(MPW)には[[ニクラウス・ヴィルト|ヴィルト]]と Apple の[[ラリー・テスラー]]率いるチームが開発した[[Object Pascal]]が含まれていた。これはClascalの言語仕様を整理・発展させたものである。この環境で書かれていたアプリケーションとして[[Adobe Photoshop]]がある。
== 後継や派生 ==
ニクラス・ヴィルト自身によって、Pascalや他の言語の経験にもとづき、後継と言える言語が設計されている。Pascalとの互換性を残した拡張といったようなスタイルではなく、そのため名前にもPascalを含めていない。
*Modula - モジュール化などを指向した。Modula-2の方へ移ったため実質未完成。{{要出典範囲|途上版のコンパイラだけがリリースされたらしい|date=2017年4月}}。
*[[Modula-2]] - モジュール化などの機能を追加した。ヴィルトは、Modula-2だけでオペレーティングシステムを含むシステムを作って見せた。
*[[Modula-3]] - [[オブジェクト指向]]など。
*[[Oberon]], [[Oberon-2]] - 言語を拡張して強力にするのではなく、拡張可能にしてコア部分は小さくする、という方向性で設計されている。
その他の言語ないし実装
*[[Object Pascal]] - [[オブジェクト指向]]的拡張
*Concurrent Pascal - コンカレント(並行{{Efn|並列(パラレル)ではない}})拡張
*[[Component Pascal]]
*[[Ada]] - [[アメリカ国防総省]]の意向で策定された多機能な言語。PascalないしAlgolの影響が大きいが、Pascalの「簡潔に」とは正反対の巨大化という方向性はALGOL 68([[:en:ALGOL 68]])の魂の影響があるかもしれない<ref>[[アントニー・ホーア|ホーア]]の ''The Emperor's Old Clothes'' {{DOI|10.1145/358549.358561}}も参照。</ref>
*[[VHDL]] - Adaの影響が多大な[[ハードウェア記述言語]]
*[[Verilog]] HDL - C言語風やPascal風などともいわれるが、どちらにも似ていないハードウェア記述言語
*[[SystemVerilog]] - Verilogの拡張
*[[Delphi]] - [[Object Pascal]] を、さらに拡張している。IDEによるGUIアプリの開発支援もある統合環境が用意された。
*[[Eiffel]] - 構文がPascalに似ている、とも言われる[[オブジェクト指向言語]]
== 批判 ==
「[[本物のプログラマはPascalを使わない]]」というエッセイは、そのタイトルだけは有名だが、Pascalについては実のところ、[[構造化プログラミング]]の代名詞のような感じで引き合いに出されているだけであり、その内容についても、当のハッカーたちからも否定と肯定が半々といった所である(例えば[[ジャーゴンファイル]]では、用語集本体では否定的に、附録では肯定的に言及している)。本格的な批判の文章としては、[[ブライアン・カーニハン|カーニハン]]による''Why Pascal is Not My Favorite Programming Language''<ref>https://www.lysator.liu.se/c/bwk-on-pascal.html</ref>がある。
初期の批判にもかかわらずPascalは進化し続けた。そして[[ブライアン・カーニハン|カーニハン]]の批判ポイントの殆どは商用バージョンのPascalに当てはまらなくなった。例えば論文''The Pascal Programming Language''<ref>http://pascal-central.com/ppl/index.html</ref>のMyth 6節で拡張Pascalの言語仕様に基づき、論文''The Macintosh Programmer's Workshop''<ref>http://collaboration.cmc.ec.gc.ca/science/rpn/biblio/ddj/Website/articles/DDJ/1988/8814/8814b/8814b.htm</ref>では、Object Pascal(MPW Pascal)の言語仕様に基づき、批判ポイントの殆どは克服していると語られている。
== 関連項目 ==
* [[ALGOL]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 文献 ==
{{Refbegin|2}}
*{{cite book|和書|author=Per Brinch Hansen|title=並行動作プログラムの構造|series=コンピュータ・サイエンス研究書シリーズ|translator=田中英彦|publisher=日本コンピュータ協会|year=1980|ncid=BN01967499}}
*{{cite journal|author=Charles Antony Richard Hoare |title=The emperor's old clothes |journal=Magazine Communications of the ACM |volume=24 |issue= 2 |date=1981-02 |publisher=ACM |location=New York |pages=75-83 |doi=10.1145/358549.358561 }}
* {{cite book|和書|author1=K・イェンゼン|author2=N・ヴィルト|title=PASCAL|series=情報処理シリーズ, 2|translator=原田賢一|publisher=培風館|year=1981|isbn=456300782X |edition=原書第二版 |ref={{SfnRef|イェンゼン|ヴィルト|1981}} }}
* {{cite book|和書|author=Wirth, Niklaus|chapter=プログラミング言語:要求項目と評価方法|editor=アラン・フォイヤー; ナレイン・ゲハーニ|title=Ada, C, Pascal|year=1986|translator=宇井康隆|publisher=[[工学社]]|isbn=4875930844|pages=305-325 |ref=harv}}
* {{cite book|和書|author1=K・イェンゼン|author2=N・ヴィルト |author3=A.B. ミケル |coauthors=J.F. マイナー |translator=原田賢一 |title=PASCAL |edition=原書第4版 |series=情報処理シリーズ, 2 |publisher=培風館 |date=1993-10 |isbn= 4-563-01466-4 |ref={{SfnRef|イェンゼン|ヴィルト|ミケル|1993}} }}
* {{cite book|和書|author=川合 彗|editor=|title=PASCAL入門|year=1981,1983|translator=|publisher=[[共立出版|共立出版株式会社]]|isbn=4-320-02150-9|pages= |ref=}}
{{Refend}}
== 外部リンク ==
*[http://www.freepascal.org/ FreePascal] - Pascal と Object Pascal のフリーなコンパイラ
*[http://www.gnu-pascal.de/gpc/h-index.html GNU Pascal] - [[GNUコンパイラコレクション|GCC]]のコンパイラ
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[[Category:プログラミング言語|PASCAL]]
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[[Category:ブレーズ・パスカル]]
[[Category:教育用プログラミング言語]] | 2003-02-23T13:18:30Z | 2023-08-16T11:12:56Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Pascal |
2,773 | 性感染症 |
性感染症(せいかんせんしょう、性行為感染症、性病、英: sexually transmitted infections: STI, sexually transmitted diseases: STD, venereal diseases: VD)とは、膣性交、肛門性交、口腔性交を含む性行為によって感染する感染症である。ほとんどの性感染症は感染初期に症状を示さない。そのため他の人へ感染させやすい。花街(花柳界)で流行する病気であることから性病は花柳病とも呼ばれる。
症状と徴候として膣やペニスの分泌物、性器やその周辺に生じる潰瘍、下腹部痛などが含まれる。妊娠や出産に伴う感染では新生児の予後不良となりうる。また、不妊の原因となることもある。
性感染症の原因となる細菌、ウイルス、寄生虫は30種以上にのぼる。細菌性にはクラミジア感染症、淋病、梅毒などがある。ウイルス性には性器ヘルペス、HIV/AIDS、尖圭コンジローマなどがある。寄生虫にはトリコモナス症などがある。性感染症は通常は性交によって伝播するが、汚染した血液や臓器との接触、授乳、出産など性交以外の接触によって伝播することもある。
診断検査は先進国では利用しやすいが、発展途上国においてはその限りでない。
性交を避けることは感染を回避する最も信頼のおける方法でもある。予防接種によってある種の性感染症のリスクを低減する事も可能であり、B型肝炎、一部の型のHPVがこれにあたる。コンドームの使用、不特定多数の相手と性交をしないといったセーフセックスの実施も感染のリスクを低下させる。男性の割礼はある種の性感染症の予防に効果的である。ほとんどの性感染症は寛解可能あるいは完治可能である。
一般的な性感染症の中では梅毒、淋病、クラミジア感染症、トリコモナス症が完治可能だが、ヘルペス、B型肝炎、HIV/AIDS、HPVは寛解可能である一方完治はできない。淋菌などの一部の病原体はある種の抗生物質に耐性を獲得しつつある。
2008年には5億人の人々が梅毒、淋病、クラミジア、トリコモナスのいずれかに感染したと推定された。さらに少なくとも5.3億人が性器ヘルペスに、2.9億人の女性がヒトパピローマウイルスに感染している。HIVを除いても性感染症は2013年の一年間で14万2千人の死を引き起こした。
アメリカ合衆国では2010年に1900万人が新たに性感染症に感染している。歴史的な記述は少なくとも紀元前1550年頃のエーベルス・パピルスや旧約聖書までさかのぼる。性感染症にはしばしば恥や汚名を伴う。英語では症状を示さない感染者を含む、sexually transmitted infection の語が、sexually transmitted disease や venereal disease よりも好まれて用いられる。
世界保健機構 (WHO) は1999年から sexually transmitted infection の単語の使用を推奨している。これは sexually transmitted disease より広い意味を持つ。Infection(感染)は寄生生物の侵入を意味するが、感染が必ずしも悪影響を与えるとは限らない。Disease(疾病、疾患)においては infection が機能の異常や障害につながる。そしていずれにおいても徴候や症状を示さないことがある。
日本においては1948年に公布された性病予防法にある、梅毒、淋病、軟性下疳、鼠径リンパ肉芽腫症の4疾患のことを「性病」と呼んでいたが、その後、性交およびその類似の性行為によって感染する病気を広く捉えて「STD(sexually transmitted disease)」、「性行為感染症」と呼ぶようになった。近年では「性感染症」の用語が使われることが多い。
すべての性感染症が症状を示す訳ではなく、また症状を示すとしても感染直後にそれが現れるとは限らない。症例によっては感染症が無症状で保有される事があり、このような場合は他の人を感染させる可能性が高くなる。感染症の種類によって性感染症は不妊や慢性痛、さらには死を引き起こしうる。
性感染症に思春期以前の子どもが感染していた場合は性的虐待の可能性を示すことがある。
なお、性感染症というが、あくまで「性行為で感染することが多い」というだけであり、性行為以外でも感染することはある。他人の唾液や咳、くしゃみのしぶきなどが偶然、口や目に入ったりしても感染する可能性はある。
感染した細菌によって、血液検査、尿検査、ぬぐい取って染色、または培養して観察など各種の方法がとられる。同じ細菌に対しても、方法によって検出精度に差があり不適切な場合がある。
検査機関には病院のほか、肝炎に関しては日本では無料で各自治体が行っている場合がある。エイズ、梅毒、淋病、クラミジアに関しても保健所が無料で行っている場合がある。こうした無料の検査は月に1~2度である。ほか、郵送での検査キットが販売されている。
日本では、1948年に性病予防法が施行されると、路上の売春婦などを摘発して保健所に同行させ、強制的に性感染症の検診を受けさせる「狩込み」が行われた時期がある。この狩込みについては、1950年10月30日に法制意見局から違憲の疑いがあるとして警告が出されて中止に追い込まれている。
梅毒やHIVでは特徴的な口腔の病変が生じ診断の機会となりうるが、淋菌やクラミジアでは症状がなかったり、特徴のない炎症が生じるため見逃されやすい。梅毒の感染が発覚した場合、HIVの検査も推奨される。
イボでは尖圭コンジローマや伝染性軟属腫。
排尿痛、尿道の痛みや分泌液は、性感染症以外でも起こりうるため鑑別が必要である。
男性の尿道炎の70%は非淋菌性であり、そのうち30-50%がクラミジアを検出するが、そのクラミジア性尿道炎と非クラミジア性非淋菌性尿道炎との症状の差はみられないため、症状による鑑別は困難であり検査により容易となる。初診時にグラム染色で淋菌の診断が得られれば、クラミジアの検査も行う。淋菌感染者の20-30%がクラミジアの感染を合併しており、クラミジアの検査も必須とされる。グラム染色で淋菌が検出できなければ、核酸増殖法(SDA法)を行う。
淋病では、3-7日で発症し強い排尿痛と膿を伴い、クラミジアでは1-3週間で発症し軽い排尿痛で粘液性の分泌物を伴う。非クラミジア性非淋菌性尿道炎では1-5週間である。
淋菌の保菌者の場合、非罹患者との性行為により一回あたり約3割の確率で相手への感染が生じるとされている。
一切の性行為(肛門性交や口腔性交などを含む)を避けることは性感染症を回避する最も信頼のおける方法となる。また、性感染症を防ぐ上では「特定の相手とのみ性行為を行う」「コンドームを使用する」などのセーファーセックスの実行が重要である。これは望まない妊娠を防ぐ上でも重要となる。
コンドームの使用は効率的に性感染症を予防する事ができる。
HPV感染症の一部とB型肝炎はワクチンの接種により予防可能である。さらにHIVとヘルペスウイルスについてもワクチンの開発が進められている。
男性の割礼はHIVをはじめとした性感染症に予防効果がある事が知られている。また、抗ウイルス薬であるテノホビルのゲルもHIVの感染予防等に効果があるとされる。
クラミジア感染症や淋病の診断を受けた人のパートナーの治療選択肢には、初回検査なしで医薬品を提供することも慣行である。パートナーの検査や治療を放置すると簡単に再感染する。
以下、日本の2016年のガイドラインより説明する。
オーラルセックスの増加により咽喉の淋菌やクラミジアの感染も増えており、咽喉にも有効な治療が第一選択となる。淋菌の薬剤耐性は著しく、薬剤感受性試験も行う。咽喉では淋菌、クラミジアともに2週間以上開けてから治療判定の検査を行う。
淋菌の薬剤耐性は著しく、ペニシリン系は90%、テトラサイクリン系、ニューキロノン系では70-80%、第三世代のセファロスポリン系でも30-50%が耐性を持ち、セイフィキシムでも無効例が報告されるようになり、セフトリアキソンやスペクチノマイシンの注射剤のみが保険適用の上で推奨でき、2016年時点で100%に近い有効性があり、治療後の検査は必須ではない。アジスロマイシンの2グラムは、90%以上の有効率であるが、1グラムでは40%が治療に失敗しており、地域的に耐性を持つ菌も増えており、第一選択肢ではない。例えば、福岡では2010年の1.8%の割合であったアジストロマイシンに耐性を持つ淋菌は2013年には22.6%だと報告されている。咽喉の淋菌では推奨されるのはセフトリアキソンを1グラムの注射剤のみである。セフトリアキソンの耐性菌も日本では世界に先駆けて報告されている。
クラミジアではマクロライド系のアジスロマイシンやニューキノロン系やテトラサイクリン系が用いられる。 咽喉のクラミジアでは性器への感染に準じる。非クラミジア性非淋菌性でも同様である。マイコプラズマ・ジェニタリウムは、薬剤耐性があり、テトラサイクリン系よりも、アジスロマイシンやクラリスロマイシンやなどマクロライド系が強い殺菌効果を持つが、それでも2000年前後にはほぼ100%であった有効率は低下してきており、2012年のオーストラリアの報告ではアジスロマイシン1グラムでは69%であり、日本ではそこまで失敗が頻発していないため1グラムか2グラムを第一選択とする。ウレアプラズマでは、アジスロマイシン1グラム、あるいはレボフロキサシン500mgを7日間、あるいはシタフロキサシン200mgを1日2回7日間で100%であったため、これらのマクロライド系やニューキノロン系が推奨される。
トリコモナスではメトロニダゾールによる治療が一般的である。
梅毒ではペニシリンが第一選択である。
国立感染症研究所の調査では、2008年のデータでは性感染症の罹患率は年々減少、もしくは横ばいとなっていたが、2010年以降は梅毒では増加傾向にあり、特に2014年以降急増している。後天性免疫不全症候群(AIDS)は2010年以降増加にあったが、新規報告件数の約80%を占める日本国籍男性は、2013年(1,401件)をピークとし2017年(1,150件)まで4年連続で緩やかな減少が認められ、代わりに外国国籍報告例数は2013年には約150件、 2017年は196件に達し再増加が認められる。
フォアダイス、および真珠様陰茎小丘疹は、発生部位や様態からいかにも尖圭コンジローマなどの性感染症のようにみえるが、性感染症ではない。他人に感染させることはなく、治療の必要もない。 | [
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"text": "クラミジアではマクロライド系のアジスロマイシンやニューキノロン系やテトラサイクリン系が用いられる。 咽喉のクラミジアでは性器への感染に準じる。非クラミジア性非淋菌性でも同様である。マイコプラズマ・ジェニタリウムは、薬剤耐性があり、テトラサイクリン系よりも、アジスロマイシンやクラリスロマイシンやなどマクロライド系が強い殺菌効果を持つが、それでも2000年前後にはほぼ100%であった有効率は低下してきており、2012年のオーストラリアの報告ではアジスロマイシン1グラムでは69%であり、日本ではそこまで失敗が頻発していないため1グラムか2グラムを第一選択とする。ウレアプラズマでは、アジスロマイシン1グラム、あるいはレボフロキサシン500mgを7日間、あるいはシタフロキサシン200mgを1日2回7日間で100%であったため、これらのマクロライド系やニューキノロン系が推奨される。",
"title": "治療"
},
{
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"text": "トリコモナスではメトロニダゾールによる治療が一般的である。",
"title": "治療"
},
{
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"text": "梅毒ではペニシリンが第一選択である。",
"title": "治療"
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{
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"text": "国立感染症研究所の調査では、2008年のデータでは性感染症の罹患率は年々減少、もしくは横ばいとなっていたが、2010年以降は梅毒では増加傾向にあり、特に2014年以降急増している。後天性免疫不全症候群(AIDS)は2010年以降増加にあったが、新規報告件数の約80%を占める日本国籍男性は、2013年(1,401件)をピークとし2017年(1,150件)まで4年連続で緩やかな減少が認められ、代わりに外国国籍報告例数は2013年には約150件、 2017年は196件に達し再増加が認められる。",
"title": "疫学"
},
{
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"text": "フォアダイス、および真珠様陰茎小丘疹は、発生部位や様態からいかにも尖圭コンジローマなどの性感染症のようにみえるが、性感染症ではない。他人に感染させることはなく、治療の必要もない。",
"title": "紛らわしい症状"
}
] | 性感染症とは、膣性交、肛門性交、口腔性交を含む性行為によって感染する感染症である。ほとんどの性感染症は感染初期に症状を示さない。そのため他の人へ感染させやすい。花街(花柳界)で流行する病気であることから性病は花柳病とも呼ばれる。 症状と徴候として膣やペニスの分泌物、性器やその周辺に生じる潰瘍、下腹部痛などが含まれる。妊娠や出産に伴う感染では新生児の予後不良となりうる。また、不妊の原因となることもある。 性感染症の原因となる細菌、ウイルス、寄生虫は30種以上にのぼる。細菌性にはクラミジア感染症、淋病、梅毒などがある。ウイルス性には性器ヘルペス、HIV/AIDS、尖圭コンジローマなどがある。寄生虫にはトリコモナス症などがある。性感染症は通常は性交によって伝播するが、汚染した血液や臓器との接触、授乳、出産など性交以外の接触によって伝播することもある。 診断検査は先進国では利用しやすいが、発展途上国においてはその限りでない。 性交を避けることは感染を回避する最も信頼のおける方法でもある。予防接種によってある種の性感染症のリスクを低減する事も可能であり、B型肝炎、一部の型のHPVがこれにあたる。コンドームの使用、不特定多数の相手と性交をしないといったセーフセックスの実施も感染のリスクを低下させる。男性の割礼はある種の性感染症の予防に効果的である。ほとんどの性感染症は寛解可能あるいは完治可能である。 一般的な性感染症の中では梅毒、淋病、クラミジア感染症、トリコモナス症が完治可能だが、ヘルペス、B型肝炎、HIV/AIDS、HPVは寛解可能である一方完治はできない。淋菌などの一部の病原体はある種の抗生物質に耐性を獲得しつつある。 2008年には5億人の人々が梅毒、淋病、クラミジア、トリコモナスのいずれかに感染したと推定された。さらに少なくとも5.3億人が性器ヘルペスに、2.9億人の女性がヒトパピローマウイルスに感染している。HIVを除いても性感染症は2013年の一年間で14万2千人の死を引き起こした。 アメリカ合衆国では2010年に1900万人が新たに性感染症に感染している。歴史的な記述は少なくとも紀元前1550年頃のエーベルス・パピルスや旧約聖書までさかのぼる。性感染症にはしばしば恥や汚名を伴う。英語では症状を示さない感染者を含む、sexually transmitted infection の語が、sexually transmitted disease や venereal disease よりも好まれて用いられる。 | {{半保護}}
{{Infobox medical condition
| Name = 性感染症
| Image =File:Syphilis_is_a_dangerous_disease.png
| Caption = 「梅毒は危険な病気ですが治せます」(Syphilis is a dangerous disease, but it can be cured) 梅毒の治療を促すこのポスターは、1936年から38年の間のものである。
| Field = [[感染症]]
| DiseasesDB = 27130
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}}
'''性感染症'''(せいかんせんしょう、'''性行為感染症'''、'''性病'''、{{lang-en-short|sexually transmitted infections: '''STI''', sexually transmitted diseases: '''STD''', venereal diseases: '''VD'''}})とは、[[性行為|膣性交]]、[[アナルセックス|肛門性交]]、[[オーラルセックス|口腔性交]]を含む[[性行為]]によって[[感染]]する[[感染症]]である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASK984V82K98UBQU01F.html|title=性行為感染症(STD) 性行為以外でうつることも|publisher=朝日新聞デジタル|date=2017-09-10|accessdate=2021-06-29}}</ref><!-- <ref name=WHO2014/> -->。ほとんどの性感染症は感染初期に症状を示さない<ref name=WHO2014/>。そのため他の人へ感染させやすい<ref>{{cite book|vauthors=Murray PR,Rosenthal KS, Pfaller MA|title=Medical microbiology|date=2013|publisher=Mosby|location=St. Louis, Mo.|isbn=9780323086929|page=418|edition=7th|url=https://books.google.com/books?id=RBEVsFmR2yQC&pg=PA418}}</ref><ref>{{cite book|last1=Goering|first1=Richard V.|title=Mims' medical microbiology.|date=2012|publisher=Saunders|location=Edinburgh|isbn=9780723436010|page=245|edition=5th|url=https://books.google.ca/books?id=pzQayLEQ5mQC&pg=PA245}}</ref>。[[花街]](花柳界)で流行する病気であることから性病は'''花柳病'''とも呼ばれる<ref>{{cite Kotobank|花柳病}}</ref>。
症状と徴候として膣やペニスの分泌物、性器やその周辺に生じる潰瘍、下腹部痛などが含まれる。<!-- <ref name=WHO2014/> -->妊娠や出産に伴う感染では新生児の予後不良となりうる。<!-- <ref name=WHO2014/> -->また、[[不妊]]の原因となることもある<ref name="WHO2014" />。
<!-- Causes and diagnosis -->
性感染症の原因となる[[細菌]]、[[ウイルス]]、[[寄生虫]]は30種以上にのぼる<ref name="WHO2014" />。細菌性には[[性器クラミジア感染症|クラミジア感染症]]、[[淋病]]、[[梅毒]]などがある。<!-- <ref name=WHO2014/> -->ウイルス性には[[性器ヘルペス]]、[[後天性免疫不全症候群|HIV/AIDS]]、[[尖圭コンジローマ]]などがある。<!-- <ref name=WHO2014/> -->寄生虫には[[トリコモナス症]]などがある。<!-- <ref name=WHO2014/> -->性感染症は通常は性交によって伝播するが、汚染した血液や臓器との接触、[[授乳]]、[[出産]]など性交以外の接触によって伝播することもある<ref name="WHO2014" />。
診断検査は先進国では利用しやすいが、発展途上国においてはその限りでない<ref name="WHO2014" />。
<!-- Prevention and treatment -->
[[禁欲|性交を避けること]]は感染を回避する最も信頼のおける方法でもある<ref name="CDC2013P" />。予防接種によってある種の性感染症のリスクを低減する事も可能であり、[[B型肝炎ワクチン|B型肝炎]]、一部の型の[[ヒトパピローマウイルスワクチン|HPV]]がこれにあたる<ref name="CDC2013P" />。[[コンドーム]]の使用、不特定多数の相手と性交をしないといった[[セーファーセックス|セーフセックス]]の実施も感染のリスクを低下させる<ref name="WHO2014" /><ref name="CDC2013P">{{cite web|title=How You Can Prevent Sexually Transmitted Diseases|url=http://www.cdc.gov/std/prevention/default.htm|website=cdc.gov|accessdate=5 December 2014|date=November 5, 2013}}</ref>。男性の[[割礼]]はある種の性感染症の予防に効果的である<ref name="WHO2014" />。ほとんどの性感染症は寛解可能あるいは完治可能である<ref name="WHO2014" />。
一般的な性感染症の中では[[梅毒]]、[[淋病]]、[[性器クラミジア感染症|クラミジア]]感染症、トリコモナス症が完治可能だが、ヘルペス、B型肝炎、HIV/AIDS、HPVは寛解可能である一方完治はできない<ref name="WHO2014" />。淋菌などの一部の病原体はある種の抗生物質に耐性を獲得しつつある<ref>{{cite journal|last1=Centers for Disease Control and Prevention|first1=(CDC)|title=Update to CDC's Sexually transmitted diseases treatment guidelines, 2010: oral cephalosporins no longer a recommended treatment for gonococcal infections.|journal=MMWR. Morbidity and mortality weekly report|date=10 August 2012|volume=61|issue=31|pages=590–4|pmid=22874837}}</ref>。
<!-- Epidemiology and history -->
2008年には5億人の人々が[[梅毒]]、[[淋病]]、クラミジア、トリコモナスのいずれかに感染したと推定された<ref name="WHO2014">{{cite web|title=Sexually transmitted infections (STIs) Fact sheet N°110|url=http://www.who.int/mediacentre/factsheets/fs110/en/|website=who.int|accessdate=30 November 2014|date=November 2013}}</ref>。さらに少なくとも5.3億人が性器ヘルペスに、2.9億人の女性が[[ヒトパピローマウイルス]]に感染している<ref name="WHO2014" />。HIVを除いても性感染症は2013年の一年間で14万2千人の死を引き起こした<ref>{{cite journal|last1=GBD 2013 Mortality and Causes of Death|first1=Collaborators|title=Global, regional, and national age-sex specific all-cause and cause-specific mortality for 240 causes of death, 1990-2013: a systematic analysis for the Global Burden of Disease Study 2013.|journal=Lancet|date=17 December 2014|pmid=25530442|doi=10.1016/S0140-6736(14)61682-2|volume=385|issue=9963|pages=117–71|pmc=4340604}}</ref>。
アメリカ合衆国では2010年に1900万人が新たに性感染症に感染している<ref>{{cite web|title=STD Trends in the United States: 2010 National Data for Gonorrhea, Chlamydia, and Syphilis|url=http://www.cdc.gov/std/stats10/trends.htm|publisher=[[Centers for Disease Control and Prevention]]|accessdate=15 September 2012}}</ref>。歴史的な記述は少なくとも紀元前1550年頃の[[エーベルス・パピルス]]や[[旧約聖書]]までさかのぼる<ref>{{cite book|author1=Gerd Gross, Stephen K. Tyring|title=Sexually transmitted infections and sexually transmitted diseases|date=2011|publisher=Springer Verlag|location=Heidelbergh|isbn=9783642146633|page=20|url=https://books.google.com/books?id=AnoGccgd7yQC&pg=PR20}}</ref>。性感染症にはしばしば恥や汚名を伴う<ref name="WHO2014" />。英語では症状を示さない感染者を含む、sexually transmitted infection の語が、sexually transmitted disease や venereal disease よりも好まれて用いられる<ref name="WHO2003Term">{{cite book|last1=Organization|first1=World Health|title=Guidelines for the management of sexually transmitted infections|date=2003|publisher=World Health Organization|location=Geneva|isbn=9241546263|page=vi|url=http://applications.emro.who.int/aiecf/web79.pdf}}</ref>。
== 名称 ==
<!--
Until the 1990s,{{citation needed|date=April 2015}} STIs were commonly known as ''venereal diseases'', the word ''venereal'' being derived from the Latin word venereus, and meaning relating to sexual intercourse or desire, ultimately derived from [[Venus (mythology)|Venus]], the [[Roman mythology|Roman goddess]] of love.<ref name="Venereal">{{cite web|title=Venereal|publisher=dictionary.reference.com|accessdate=June 18, 2013|url=http://dictionary.reference.com/browse/venereal}}</ref> "Social disease" was a phrase used as a euphemism.
-->
[[世界保健機関|世界保健機構]] (WHO) は1999年から sexually transmitted infection の単語の使用を推奨している<ref name=WHO2003Term/>。これは sexually transmitted disease より広い意味を持つ<ref name="PLWHA">{{cite web|title=Sexually transmitted diseases (STDs)?|publisher=PLWHA/National AIDS Resource Center|accessdate=March 25, 2013|url=http://plwha.etharc.org/faq/4-frequently-asked-questions-faq-about-sexually-transmitted-diseases-stds/22-sexually-transmitted-diseases-stds|quote=}}</ref>。[[感染|Infection]](感染)は[[寄生]]生物の侵入を意味するが、感染が必ずしも悪影響を与えるとは限らない。[[病気|Disease]](疾病、疾患)においては infection が機能の異常や障害につながる。そしていずれにおいても徴候や症状を示さないことがある<ref>{{cite book|author=K. Madhav Naidu|title=Community Health Nursing|publisher=Gyan Publishing House (2010)|chapter=Epidemiology and Management|page=248}}</ref>。
日本においては1948年に公布された[[性病予防法]]にある、[[梅毒]]、[[淋病]]、[[軟性下疳]]、[[鼠径リンパ肉芽腫症]]の4疾患のことを「性病」と呼んでいたが、その後、性交およびその類似の性行為によって感染する病気を広く捉えて「STD(sexually transmitted disease)」、「性行為感染症」と呼ぶようになった。近年では「性感染症」の用語が使われることが多い<ref>『現代性科学・性教育事典』小学館、1995年、pp.247-248</ref>。
==徴候と症状==
すべての性感染症が[[症状]]を示す訳ではなく、また症状を示すとしても感染直後にそれが現れるとは限らない。症例によっては感染症が無症状で保有される事があり、このような場合は他の人を感染させる可能性が高くなる。感染症の種類によって性感染症は[[不妊]]や[[慢性痛]]、さらには死を引き起こしうる<ref name="STI video">{{cite web|url=http://sexperienceuk.channel4.com/education/about/male-sti-check-up|title=Male STI check-up video|accessdate=2009-01-22|publisher=Channel 4|year=2008}}</ref>。
性感染症に思春期以前の子どもが感染していた場合は[[性的虐待]]の可能性を示すことがある<ref name=Hoffman2012>{{cite book | last = Hoffman | first = Barbara | title = Williams gynecology | publisher = McGraw-Hill Medical | location = New York | year = 2012 | isbn = 9780071716727 }}</ref>。
なお、性感染症というが、あくまで「[[性行為]]で感染することが多い」というだけであり、[[性行為]]以外でも感染することはある。他人の[[唾液]]や[[咳嗽|咳]]、[[くしゃみ]]のしぶきなどが偶然、[[口]]や[[目]]に入ったりしても感染する可能性はある<ref>{{cite news |title=性行為感染症(STD) 性行為以外でうつることも|newspaper=[[朝日新聞]] |date=2017-9-10|url=https://www.asahi.com/articles/ASK984V82K98UBQU01F.html|accessdate=2019-4-13 | author=齋藤紀先([[弘前大学]][[大学院]]医学研究科准教授)}}</ref>。
== 病原体 ==
=== 細菌===
* [[梅毒]] - ''[[:en:Treponema pallidum|Treponema pallidum]]''(英語版)<ref name="stmicrobiol585"/>。次第に全身症状。
* [[性器クラミジア感染症|クラミジア感染症]] - [[クラミジア・トラコマチス]]: ''Chlamydia trachomatis''<ref name="stmicrobiol585"/>。以下、主に性器の痒みや分泌物。
* [[淋病]] - [[淋菌]]: ''Neisseria gonorrhoeae''<ref name="stmicrobiol585"/>
* [[マイコプラズマ・ジェニタリウム]] - ''Mycoplasma genitalium''<ref name=Sternak>{{cite journal|last1=Ljubin-Sternak|first1=Suncanica|last2=Mestrovic|first2=Tomislav|title=Review: Clamydia trachonmatis and Genital Mycoplasmias: Pathogens with an Impact on Human Reproductive Health|journal=Journal of Pathogens|pages= 1–15|date=2014|volume=2014|issue=183167|doi=10.1155/2014/183167|pmid=25614838|pmc=4295611}}</ref><ref name="ZareiRezania2013">{{cite journal|last1=Zarei|first1=Omid|last2=Rezania|first2=Simin|last3=Mousavi|first3=Atefeh|title=Mycoplasma genitalium and Cancer: A Brief Review|journal=Asian Pacific Journal of Cancer Prevention|volume=14|issue=6|year=2013|pages=3425–3428|issn=1513-7368|doi=10.7314/APJCP.2013.14.6.3425}}</ref><ref name="ManchesterMcGowin2011">{{cite journal|last1=Manchester|first1=Marianne|last2=McGowin|first2=Chris L.|last3=Anderson-Smits|first3=Colin|title=Mycoplasma genitalium: An Emerging Cause of Sexually Transmitted Disease in Women|journal=PLoS Pathogens|volume=7|issue=5|year=2011|pages=e1001324|issn=1553-7374|doi=10.1371/journal.ppat.1001324}}</ref>
*[[マイコプラズマ・ホミニス]] - ''Mycoplasma hominis''<ref name="CainiGandini2014">{{cite journal|last1=Caini|first1=Saverio|last2=Gandini|first2=Sara|last3=Dudas|first3=Maria|last4=Bremer|first4=Viviane|last5=Severi|first5=Ettore|last6=Gherasim|first6=Alin|title=Sexually transmitted infections and prostate cancer risk: A systematic review and meta-analysis|journal=Cancer Epidemiology|volume=38|issue=4|year=2014|pages=329–338|issn=1877-7821|doi=10.1016/j.canep.2014.06.002|pmid=24986642}}</ref><ref name="Ljubin-SternakMeštrović2014">{{cite journal|last1=Ljubin-Sternak|first1=Sunčanica|last2=Meštrović|first2=Tomislav|title=Chlamydia trachomatisand Genital Mycoplasmas: Pathogens with an Impact on Human Reproductive Health|journal=Journal of Pathogens|volume=2014|year=2014|pages=1–15|issn=2090-3057|doi=10.1155/2014/183167|pmid=25614838|pmc=4295611}}</ref><ref name="SchlichtLovrich2004">{{cite journal|last1=Schlicht|first1=M. J.|last2=Lovrich|first2=S. D.|last3=Sartin|first3=J. S.|last4=Karpinsky|first4=P.|last5=Callister|first5=S. M.|last6=Agger|first6=W. A.|title=High Prevalence of Genital Mycoplasmas among Sexually Active Young Adults with Urethritis or Cervicitis Symptoms in La Crosse, Wisconsin|journal=Journal of Clinical Microbiology|volume=42|issue=10|year=2004|pages=4636–4640|issn=0095-1137|doi=10.1128/JCM.42.10.4636-4640.2004}}</ref><ref name="McIverRismanto2009">{{cite journal|last1=McIver|first1=C. J.|last2=Rismanto|first2=N.|last3=Smith|first3=C.|last4=Naing|first4=Z. W.|last5=Rayner|first5=B.|last6=Lusk|first6=M. J.|last7=Konecny|first7=P.|last8=White|first8=P. A.|last9=Rawlinson|first9=W. D.|title=Multiplex PCR Testing Detection of Higher-than-Expected Rates of Cervical Mycoplasma, Ureaplasma, and Trichomonas and Viral Agent Infections in Sexually Active Australian Women|journal=Journal of Clinical Microbiology|volume=47|issue=5|year=2009|pages=1358–1363|issn=0095-1137|doi=10.1128/JCM.01873-08}}</ref><ref>Taylor-Robinson D, Clin Infect Dis. 1996 Oct;23(4):671-82; quiz 683-4. Infections due to species of Mycoplasma and Ureaplasma: an update.</ref>
* [[ウレアプラズマ感染症]]<ref name="ClarkTal2014">{{cite journal|last1=Clark|first1=Natalie|last2=Tal|first2=Reshef|last3=Sharma|first3=Harsha|last4=Segars|first4=James|title=Microbiota and Pelvic Inflammatory Disease|journal=Seminars in Reproductive Medicine|volume=32|issue=01|year=2014|pages=043–049|issn=1526-8004|doi=10.1055/s-0033-1361822|pmid=24390920|pmc=4148456}}</ref><ref name="LarsenHwang2010">{{cite journal|last1=Larsen|first1=Bryan|last2=Hwang|first2=Joseph|title=Mycoplasma, Ureaplasma, and Adverse Pregnancy Outcomes: A Fresh Look|journal=Infectious Diseases in Obstetrics and Gynecology|volume=2010|year=2010|pages=1–7|issn=1064-7449|doi=10.1155/2010/521921}}</ref>
* [[軟性下疳]] - ''[[:en:Haemophilus ducreyi|Haemophilus ducreyi]]''(英語版)<ref name="stmicrobiol585">{{Cite book|和書|editor=平松啓一・中込治|title=標準微生物学|edition=第10版|year=2009|publisher=医学書院|page=585|isbn=978-4-260-00638-5}}</ref>。日本では少ない、性器の痛みや出血。
* [[鼠径リンパ肉芽腫]] - ''[[:en:Klebsiella granulomatis|Klebsiella granulomatis]]''(英語版)<ref>[https://www.msdmanuals.com/ja-jp/%e3%83%97%e3%83%ad%e3%83%95%e3%82%a7%e3%83%83%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%8a%e3%83%ab/13-%e6%84%9f%e6%9f%93%e6%80%a7%e7%96%be%e6%82%a3/%e6%80%a7%e6%84%9f%e6%9f%93%e7%97%87-%ef%bc%88std%ef%bc%89/%e9%bc%a0%e5%be%84%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%83%91%e8%82%89%e8%8a%bd%e8%85%ab-lgv メルクマニュアルー鼠径部肉芽腫]、Merck。2016年12月29日閲覧</ref>。痛みのない潰瘍。かつては「第四性病」と呼ばれた。
=== 真菌 ===
*[[性器カンジダ症|カンジダ症]]<ref name="stmicrobiol585"/>。性器の痒みや分泌物。
=== ウイルス ===
[[File:Herpes simplex virus pap test.jpg|thumb|{{仮リンク|顕微鏡写真|en|Micrograph}}はヘルペス・ウイルスの細胞変性効果を示す。 (ground glass nuclear inclusions, multi-nucleation). [[パップテスト]]。[[パパニコロウ染色]]。]]
*[[ウイルス性肝炎]](B型肝炎ウイルス)- 唾液、性器分泌液から感染し、肝機能に異常を示す。<br />([[A型肝炎]]と[[E型肝炎]]は糞口感染によって伝播、[[C型肝炎]]は稀に性交感染<!--
--><ref name=Workowski>{{cite journal |vauthors=Workowski K, Berman S |title=Sexually transmitted diseases treatment guidelines, 2006. |journal=MMWR Recomm Rep |volume=55 |issue=RR–11 |pages=1–94 |year=2006 |pmid=16888612 |url=http://www.cdc.gov/mmwr/PDF/rr/rr5511.pdf}}</ref><!-- -->、[[D型肝炎]](B型肝炎との共感染のみ)の感染経路ははっきりしないが、性交感染を含む可能性がある<ref>{{cite journal |vauthors=Wu J, Chen C, Sheen I, Lee S, Tzeng H, Choo K |title=Evidence of transmission of hepatitis D virus to spouses from sequence analysis of the viral genome |journal=Hepatology |volume=22 |issue=6 |pages=1656–60 |year=1995 | doi=10.1002/hep.1840220607 |pmid=7489970}}</ref><ref>{{cite journal |author=Farci P |title=Delta hepatitis: an update |journal=J Hepatol |volume=39 |issue=Suppl 1 |pages=S212–9 |year=2003 |pmid=14708706 |doi=10.1016/S0168-8278(03)00331-3}}</ref><ref>{{cite journal |vauthors=Shukla N, Poles M |title=Hepatitis B virus infection: co-infection with hepatitis C virus, hepatitis D virus, and human immunodeficiency virus |journal=Clin Liver Dis |volume=8 |issue=2 |pages=445–60, viii |year=2004 |pmid=15481349 |doi=10.1016/j.cld.2004.02.005}}</ref>。)
*[[後天性免疫不全症候群]](AIDS)([[ヒト免疫不全ウイルス]])- 性器分泌液、精液、乳、血液から感染。進行すると免疫不全に陥る。
*[[単純疱疹|単純ヘルペス]]([[単純ヘルペスウイルス]]、HSV-1、HSV-2)- 皮膚や粘膜から、疱疹の有無によらず感染しうる。主に性器の水膨れと潰瘍、女性ではそれによる痛み。
*[[ヒトパピローマウイルス]](HPV)感染症 - 皮膚や粘膜との接触から。高リスク型を除くHPVの一部は、イボの[[尖圭コンジローマ]]の病原体である。[[子宮頸癌]]のほとんどが高リスク型HPVの感染によるものであり、さらに一部の[[肛門癌]]、[[陰茎癌]]、[[外陰癌]]の原因でもある。
*[[伝染性軟属腫]](伝染性軟属腫ウイルス)- 肌に直接触れるなどの濃厚接触による。水イボ。
=== 寄生虫 ===
*[[ケジラミ症]]([[ケジラミ]]) 痒みと吸血跡。
*[[疥癬]]([[ヒゼンダニ]]) 痒みと線状の跡。
=== 原虫 ===
*[[トリコモナス症]]([[膣トリコモナス]])<ref name="stmicrobiol585"/>。性器の痛みと分泌物。
==検査==
感染した細菌によって、血液検査、尿検査、ぬぐい取って染色、または培養して観察など各種の方法がとられる。同じ細菌に対しても、方法によって検出精度に差があり不適切な場合がある。
検査機関には病院のほか、肝炎に関しては日本では無料で各自治体が行っている場合がある。エイズ、梅毒、淋病、クラミジアに関しても保健所が無料で行っている場合がある<ref>[https://www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp/iryo/koho/kansen.files/hc_map.pdf HIV・性感染症に関する検査・相談のための保健所マップ](東京都保健福祉局)</ref>。こうした無料の検査は月に1~2度である。ほか、郵送での検査キットが販売されている。
===強制検診===
日本では、[[1948年]]に[[性病予防法]]が施行されると、路上の[[売春婦]]などを摘発して保健所に同行させ、強制的に性感染症の検診を受けさせる「狩込み」が行われた時期がある。この狩込みについては、1950年10月30日に法制意見局から違憲の疑いがあるとして警告が出されて中止に追い込まれている<ref>「狩込み-検診は違憲 法制意見局から警告」『朝日新聞』昭和25年11月2日3面</ref>。
==診断==
梅毒やHIVでは特徴的な口腔の病変が生じ診断の機会となりうるが、淋菌やクラミジアでは症状がなかったり、特徴のない炎症が生じるため見逃されやすい{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=38}}。梅毒の感染が発覚した場合、HIVの検査も推奨される{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=48}}。
イボでは[[尖圭コンジローマ]]や[[伝染性軟属腫]]。
===鑑別診断===
排尿痛、尿道の痛みや分泌液は、性感染症以外でも起こりうるため鑑別が必要である{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=8}}。
*淋菌性尿道炎{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=8}}。
*クラミジア性尿道炎 - クラミジアが分離できる{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=8}}。
*非クラミジア性非淋菌性尿道炎 - 主にマイコプラズマ、ウレアプラズマ、トリコモナスなどであり、他の多くの細菌では確実な証拠は不足している{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|pp=8, 91}}。
男性の尿道炎の70%は非淋菌性であり、そのうち30-50%がクラミジアを検出するが、そのクラミジア性尿道炎と非クラミジア性非淋菌性尿道炎との症状の差はみられないため、症状による鑑別は困難であり検査により容易となる{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=91}}。初診時にグラム染色で淋菌の診断が得られれば、クラミジアの検査も行う{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=8}}。淋菌感染者の20-30%がクラミジアの感染を合併しており、クラミジアの検査も必須とされる{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=54}}。グラム染色で淋菌が検出できなければ、核酸増殖法(SDA法)を行う{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=8}}。
淋病では、3-7日で発症し強い排尿痛と膿を伴い、クラミジアでは1-3週間で発症し軽い排尿痛で粘液性の分泌物を伴う{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=8}}。非クラミジア性非淋菌性尿道炎では1-5週間である{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=91}}。
== 予防 ==
[[File:Sanfranciscocityclinicnight.jpeg|thumb|カリフォルニア州サンフランシスコにある性病検査のためのサンフランシスコ・シティ・クリニック。]]
{{Main article|セーファーセックス}}
=== カウンセリングと行動科学的アプローチ ===
淋菌の保菌者の場合、非罹患者との性行為により一回あたり約3割の確率で相手への感染が生じるとされている{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=51}}。
一切の性行為(肛門性交や口腔性交などを含む)を避けることは性感染症を回避する最も信頼のおける方法となる<ref name=CDC2013P/>。また、性感染症を防ぐ上では「特定の相手とのみ性行為を行う」「[[コンドーム]]を使用する」などのセーファーセックスの実行が重要である。これは望まない妊娠を防ぐ上でも重要となる<ref name=WHO2014/><ref name=CDC2013P/><ref name=FORTH>{{Cite web|和書|title=性感染症について (ファクトシート)|url=https://www.forth.go.jp/moreinfo/topics/2013/12041155.html|accessdate=2017-1-19|date=November 2013}}</ref>。
=== コンドーム ===
コンドームの使用は効率的に性感染症を予防する事ができる<ref name=WHO2014/><ref name=CDC2013P/>。
=== ワクチン ===
HPV感染症の一部と[[B型肝炎]]は[[ワクチン]]の接種により予防可能である。さらにHIVとヘルペスウイルスについてもワクチンの開発が進められている<ref name=WHO2014/><ref name=CDC2013P/>。
=== その他 ===
男性の[[割礼]]はHIVをはじめとした性感染症に予防効果がある事が知られている。また、抗ウイルス薬である[[テノホビル]]のゲルもHIVの感染予防等に効果があるとされる<ref name=WHO2014/>。
==治療==
[[性器クラミジア感染症|クラミジア感染症]]や[[淋病]]の診断を受けた人のパートナーの治療選択肢には、初回検査なしで医薬品を提供することも慣行である<ref name=EPTFinalReport2006>[http://www.cdc.gov/std/treatment/EPTFinalReport2006.pdf Expedited Partner Therapy in the Management of Sexually Transmitted Diseases (2 February 2006)] U.S. DEPARTMENT OF HEALTH AND HUMAN SERVICES PUBLIC HEALTH SERVICE. Centers for Disease Control and Prevention National Center for HIV, STD, and TB Prevention</ref>。パートナーの検査や治療を放置すると簡単に再感染する{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=58}}。
以下、日本の2016年のガイドラインより説明する。
オーラルセックスの増加により咽喉の淋菌やクラミジアの感染も増えており、咽喉にも有効な治療が第一選択となる{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=8}}。淋菌の[[薬剤耐性]]は著しく、薬剤感受性試験も行う{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=8}}。咽喉では淋菌、クラミジアともに2週間以上開けてから治療判定の検査を行う{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=37}}。
淋菌の薬剤耐性は著しく、[[ペニシリン#ペニシリン系抗生物質|ペニシリン系]]は90%、[[テトラサイクリン系抗生物質|テトラサイクリン系]]、[[ニューキノロン|ニューキロノン系]]では70-80%、第三世代のセファロスポリン系でも30-50%が耐性を持ち、セイフィキシムでも無効例が報告されるようになり、[[セフトリアキソン]]や[[スペクチノマイシン]]の注射剤のみが保険適用の上で推奨でき、2016年時点で100%に近い有効性があり、治療後の検査は必須ではない{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|pp=51-55}}。[[アジスロマイシン]]の2グラムは、90%以上の有効率であるが、1グラムでは40%が治療に失敗しており、地域的に耐性を持つ菌も増えており、第一選択肢ではない{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=54}}。例えば、福岡では2010年の1.8%の割合であったアジストロマイシンに耐性を持つ淋菌は2013年には22.6%だと報告されている<ref name="pmid25970312">{{cite journal|last1=Tanaka|first1=Masatoshi|last2=Furuya|first2=Ryusaburo|last3=Irie|first3=Shinichiro|coauthors=et al.|title=High Prevalence of Azithromycin-Resistant Neisseria gonorrhoeae Isolates With a Multidrug Resistance Phenotype in Fukuoka, Japan|journal=Sexually Transmitted Diseases|volume=42|issue=6|pages=337–341|year=2015|pmid=25970312|doi=10.1097/OLQ.0000000000000279}}</ref>。咽喉の淋菌では推奨されるのはセフトリアキソンを1グラムの注射剤のみである{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=37}}。セフトリアキソンの耐性菌も日本では世界に先駆けて報告されている{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=51}}。
クラミジアではマクロライド系のアジスロマイシンやニューキノロン系やテトラサイクリン系が用いられる{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=61}}。
咽喉のクラミジアでは性器への感染に準じる{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=37}}。非クラミジア性非淋菌性でも同様である{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=92}}。マイコプラズマ・ジェニタリウムは、薬剤耐性があり、テトラサイクリン系よりも、アジスロマイシンやクラリスロマイシンやなどマクロライド系が強い殺菌効果を持つが、それでも2000年前後にはほぼ100%であった有効率は低下してきており、2012年のオーストラリアの報告ではアジスロマイシン1グラムでは69%であり、日本ではそこまで失敗が頻発していないため1グラムか2グラムを第一選択とする{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|pp=92-93}}。ウレアプラズマでは、アジスロマイシン1グラム、あるいはレボフロキサシン500mgを7日間、あるいはシタフロキサシン200mgを1日2回7日間で100%であったため、これらのマクロライド系やニューキノロン系が推奨される{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|pp=92-93}}。
トリコモナスでは[[メトロニダゾール]]による治療が一般的である{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=77}}。
梅毒ではペニシリンが第一選択である{{sfn|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016|p=48}}。
== 疫学 ==
=== 日本 ===
国立感染症研究所の調査では、2008年のデータでは性感染症の罹患率は年々減少、もしくは横ばいとなっていた<ref>[http://idsc.nih.go.jp/iasr/29/343/tpc343-j.html IASR 29-9 性感染症, 感染症発生動向調査, 梅毒, 性器クラミジア感染症, 性器ヘルペスウイルス感染症, 尖圭コンジローマ, 淋菌感染症] 国立感染症研究所</ref>が、2010年以降は[[梅毒]]では増加傾向にあり<ref>[http://www.nih.go.jp/niid/ja/id/741-disease-based/ha/syphilis/idsc/idwr-topic/6083-idwrc-201544.html IDWR 2015年第44号 注目すべき感染症 「梅毒」] 国立感染症研究所</ref>、特に2014年以降急増している<ref>{{PDFlink|[https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10601000-Daijinkanboukouseikagakuka-Kouseikagakuka/0000203809.pdf 梅毒の発生動向の調査及び分析の強化について] 厚生労働省}}</ref>。[[後天性免疫不全症候群]](AIDS)は2010年以降増加<ref>[http://www.nih.go.jp/niid/ja/aids-m/aids-iasrtpc/5928-tpc427-j.html HIV/AIDS 2014年] IASR Vol. 36 p. 165-p. 166: 2015年9月号 国立感染症研究所</ref>にあったが、新規報告件数の約80%を占める日本国籍男性は、2013年(1,401件)をピークとし2017年(1,150件)まで4年連続で緩やかな減少が認められ、代わりに外国国籍報告例数は2013年には約150件、 2017年は196件に達し再増加が認められる<ref>[https://www.niid.go.jp/niid/ja/allarticles/surveillance/2434-iasr/related-articles/related-articles-463/8319-463r01.html 2015年以降の日本国内HIV/AIDS発生動向分析] IASR Vol. 39 p. 151- : 2018年9月号 国立感染症研究所</ref><ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20191011070753/https://api-net.jfap.or.jp/status/2017/17nenpo/bunseki.pdf 平成 29(2017)年エイズ発生動向 ―分析結果― ] API-Net}}</ref>。
== 紛らわしい症状 ==
[[フォアダイス]]、および[[真珠様陰茎小丘疹]]は、発生部位や様態からいかにも[[尖圭コンジローマ]]などの性感染症のようにみえるが、性感染症ではない。他人に感染させることはなく、治療の必要もない。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
==参考文献==
*{{Cite journal |和書|author=日本性感染症学会|date=2016-11|title=性感染症 診断・治療 ガイドライン2016|url=http://jssti.umin.jp/pdf/guideline-2016.pdf|format=pdf|journal=日本性感染症学会誌|volume=27|issue=1 Supplement|ref={{sfnref|性感染症 診断・治療ガイドライン|2016}} }}
== 関連項目 ==
* [[感染症新法]]
* [[性病予防法]]
* [[感染症専門医]] / [[インフェクションコントロールドクター]]
* [[新興感染症]] / [[再興感染症]] / [[輸入感染症]] / [[人獣共通感染症]]
* [[梅毒の歴史]]
== 外部リンク ==
* [https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/kekkaku-kansenshou/seikansenshou/ 性感染症] - [[厚生労働省]]
* [https://www.niid.go.jp/niid/ja/route/std.html 性感染症(STD)] - [[国立感染症研究所]]
* [http://jssti.umin.jp/ 日本性感染症学会]
* [https://www.msdmanuals.com/ja-jp/ホーム/16-感染症/性感染症-std/性感染症-std-の概要 性感染症(STD)の概要] - [[MSDマニュアル]] 家庭版
* {{Kotobank}}
{{性}}
{{Normdaten}}
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[[Category:性感染症|*]] | 2003-02-23T13:24:37Z | 2023-11-22T02:55:33Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E6%84%9F%E6%9F%93%E7%97%87 |
2,776 | EMTO | EMTO法(Exact Muffin-Tin Orbital)は、O. K. Andersen等によって開発されたバンド計算手法。
EMTOはScreened-KKR法をより発展させた手法であり、精度の高い計算が可能となっている。EMTO法の元であるLMTO法は、原子球近似(ASA)と併用して用いられることが多い。ただこの場合、稠密な系にしか適用できず、精度的にも十分でない問題があった。原子球近似ではマフィンティンポテンシャルの重なりが存在するが、それを保ったまま一電子状態を厳密に計算するものがEMTO法である。これにより原子球近似より精度の高い計算が可能となる。 | [
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] | EMTO法は、O. K. Andersen等によって開発されたバンド計算手法。 | '''EMTO'''法(Exact Muffin-Tin Orbital)は、O. K. Andersen等によって開発された[[バンド計算]]手法。
== 概要 ==
EMTOはScreened-[[KKR法]]をより発展させた手法であり、[[精度 (算術)|精度]]の高い[[計算]]が可能となっている。EMTO法の元である[[LMTO]]法は、[[原子球近似]](ASA)と併用して用いられることが多い。ただこの場合、稠密な系にしか適用できず、精度的にも十分でない問題があった。[[原子|原子球]]近似では[[マフィンティンポテンシャル]]の重なりが存在するが、それを保ったまま一電子状態を厳密に計算するものがEMTO法である。これにより原子球近似より精度の高い計算が可能となる。
== 参考文献 ==
# O.K. Andersen, O. Jepsen and G. Krier, "Exact Muffin-Tin Orbital Theory" in Lectures on Methods of Electronic Structure Calculations, edited by V. Kumar, O.K. Andersen and A. Mookerjee, World Scientific Publishing Co., Singapore, (1994) pp. 63-124.
# L. Vitos, H. Skriver, B. Johansson and J. Kollar, Comp. Mat. Sci. 18, (2000) 24. (SCA(Spherical Cell Approximation)-EMTOに関しての論文)
# L. Vitos, Phys. Rev. B'''64''' (2001) 014107. (FCD(Full Charge Density)-EMTOに関しての論文)
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2,777 | ASW法 | ASW法(ASWほう、英: Augmented Spherical Wave method)は、LMTO法に類似したバンド計算手法。LMTO法と同じくマフィンティンポテンシャルの領域とそのポテンシャル間の領域(格子間領域と言う)を考え、それぞれの領域上で基底関数を設定する。格子間領域の基底関数は、運動エネルギーを僅かに負の値に固定という条件を満たす球面波で記述される。マフィンテインポテンシャル内は、平らな格子間領域と異なりポテンシャル内を記述する基底関数はより複雑になる。そして格子間領域とマフィンティンポテンシャル内とをうまく接続するように球面波が補強される。ASW法は、LMTO法を同じく線形化されているが格子間領域での運動エネルギーの設定がLMTO法と異なる。LMTO法ではゼロとするが、ASW法では僅かに負の値を持つように設定する。
運動エネルギーを固定するという制約を課された球面波で格子間領域を記述すことには無理があり、ASW法(LMTO法)ではなるべく格子間領域が狭くなるような系での計算に向いている。 | [
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運動エネルギーを固定するという制約を課された球面波で格子間領域を記述すことには無理があり、ASW法(LMTO法)ではなるべく格子間領域が狭くなるような系での計算に向いている。
== 参考文献 ==
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== 関連項目 ==
*[[第一原理バンド計算]]
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[[Category:バンド計算]] | null | 2017-05-06T17:38:12Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/ASW%E6%B3%95 |
2,780 | CP/M | CP/M(Control Program for Microcomputers、シーピーエム)は1970年代にデジタルリサーチ (Digital Research Inc.) の創業者ゲイリー・キルドールによって開発、1976年に発売された、パソコン用のシングルユーザー・シングルタスクのオペレーティングシステム (OS) である。
最初は8ビットのCPUであるインテルの8080プロセッサー用に作られ、8ビットのパソコン用OSとしては最も代表的な存在だった。初期に普及したバージョンはCP/M 1.4で、そののち改訂されたCP/M 2.2が広く普及した。さらに、より洗練されたCP/M 3.0 (CP/M Plus) が登場したが、既に16ビットマシンへの移行が始まっていた時期でもあり普及することはなかった。
他のプロセッサに移植されたバージョンも存在するが、単にCP/Mといえば8080プロセッサ用のもの(中でもバージョン2.2)を指す。なおマイクロソフトによってOEMされたIBMのPC DOS(及び、のちにマイクロソフト自らが直販したMS-DOS)は、CP/Mをモデルに開発されたシアトル・コンピュータ・プロダクツの86-DOSを前身としている。
CP/Mは8080マイクロプロセッサ(およびその上位互換CPU)、0番地から配置されたRAM(最小はCP/M 1.4で16KB)、最低1台の8インチフロッピーディスク装置、シリアル端末(CRTディスプレイとキーボード、あるいはASR-33のようなテレタイプ端末)があれば動作した。オプションとして、プリンタ、紙テープ読取装置・紙テープ穿孔装置、ハードディスク装置をサポートした。一般的には32KB以上、可能なら56KBくらいのRAMがあると、当時としては大規模なコンパイラなどが実行できた。
CP/Mは、シェルであるCCP (Console Command Processor)、OSの本体であるBDOS(ビードス、Basic Disk Operating System)、入出力を処理する下位プログラムの集合体であるBIOS(バイオス、Basic Input and Output System)で構成される。ハードウェア依存部分はBIOSに集中させてあるので、BIOSだけを変更することで大抵のハードウェアに移植可能となっていた。BIOSの機能はシステムの初期化、CCPのリブート(アプリケーション実行の終了とシェルの再起動)、コンソールなどのキャラクタデバイスのリダイレクト付入出力、フロッピーディスク/ハードディスク等の1セクタ単位の入出力だけである。
なお、BIOSという用語は一般化して普通名詞となり、PC/AT互換機の普及以降はROMに記録された低レベル入出力プログラムを指すことが多くなったが、CP/MにおけるBIOSは殆どの場合はディスクからメモリにロードされるものである。
CCPに内蔵されているコマンドをビルトインコマンド (built-in command) といい、次のようなものがある。
これ以外はトランジェントコマンドに委ねている。
フロッピーディスクに実行ファイルとして記録されているコマンドをトランジェントコマンド (transient command)という。 次のようなものがある。
パソコンメーカーが自社製品用に供給するCP/Mのパッケージには、上記以外にもフロッピーのフォーマットやコピー、ハードウェアの設定など独自コマンドが追加されていることが多かった。
なお、トランジェントコマンドがロードされるメモリ上の領域 (0100H - ) をTPA (Transient Program Area) と呼ぶ。
CP/Mの特徴的な仕様の一つに、リブート(ウォームブート、ウォームスタート)がある。リブートとは、アプリケーションの終了、または^Cの入力により、ディスクからCCPとBDOSをロードし直してCCPのコマンドラインに戻ることをいう。他のOSのように、IPLから完全に再起動することを指すわけではない。
リブートは以下の場合に発生する。
いずれの場合も最終的にBIOSの先頭にジャンプし、BIOSはドライブAのディスクのシステム領域からCCPとBDOSをメモリにロードし、CCPの先頭にジャンプする。これにより、CCPのコマンドラインに戻ることになる。リブートはCP/Mの使用中に頻繁に発生するので、ドライブAにはCCPとBDOSの入ったフロッピー(通常、CP/Mの起動フロッピー)を入れておく必要がある。
CCPとBDOSをロードするのは、アプリケーションによって破壊されている可能性があるためである。 アプリケーションの動作中にはCCPは不要なので、CP/MのアプリケーションはCCPのメモリ領域を食いつぶしてもよいことになっている。さらに、滅多に存在しないが、BDOSすら利用しないアプリケーションでは、BDOSも食いつぶしてよい。そのため、アプリケーションの終了時にはCCPとBDOSをロードする必要がある。ただし、小規模なアプリケーションでは、JMP 0でなく単にRET命令でCCPに直接戻るものもある。この場合はリブートは発生しない。なお、MS-DOSにおいても、COMMAND.COMの非常駐部の再ロードという、似たような機能がある。
このようにリブートとはCP/Mにおけるきわめて基本的かつ重要な動作であるが、一方で多くのユーザーにとっては苦い思い出を呼び起こす言葉でもある。
CP/Mでは、フロッピーの入れ替えを検出すると、前のフロッピーのデータを現在のフロッピーに書き込んでしまうことを避けるため、一時的にフロッピーへのアクセスをリードオンリーに限定し、リブートすることで解除する。すなわち、CP/Mでフロッピーを入れ替えるときは、アプリケーションが動作中であればまず終了し、フロッピーを入れ替えてから^Cを押さなければならない。これを怠って、アプリケーションを終了せずにディスクを入れ替えてリードオンリーになってしまっているフロッピーにデータを書き込もうとすると、BDOSエラーが発生し、データは書き込めず、リブートを余儀なくされ、データは失われる。この事態に見舞われる“よくある状況”としては、フロッピーの残り記録容量が足りないことに気付かずに作業をしている際が挙げられる。こうなると、もはや通常の操作ではその作業結果を残す方法がない。救済方法としては、一旦BDOSエラーを発生させ、saveコマンドで空ディスクにメモリイメージを記録し、サードパーティー製ディスク操作ソフトを使用してその記録内容のうちトランジェントコマンド部分を削除した上ディレクトリ情報を書き換える方法がある。これは推奨された使用方法からは大きく外れた事態であり、救済に失敗することもまれではない。
これはCP/Mの重大な問題点で、この事態に陥ったときに表示される"Bdos Err On x: $R/O"(x:はドライブレター)というメッセージは、PC-9800シリーズのMS-DOSの"Int trap halt"や、Windows 3.1の一般保護例外 (GPE)、Windows 95/NTの青画面、Classic Mac OSの爆弾マークと同様に、ユーザーを恐怖と絶望におとしいれた。
この問題は、後のPersonal CP/MやCP/M Plus、CP/M-86では改善されている。
キルドールは、インテルからマイクロコンピュータ開発システム (MDS) 用の高級言語を受注。PL/I風に作られた8080用のシステム記述向け言語であるPL/M(Programming Language for Microcomputer、後のPL/M-80)コンパイラを開発した。
このPL/Mの動作環境として、キルドールがインテルに提案したフロッピーディスクベースのDOSがあった。これは採用されなかったため、後に自ら販売することにしたものがCP/Mである。インテルは後に8080/8085からの移行を支援するため、8086/8088用にPL/M-86を開発した。
ゲイリー・キルドールが1974年に開発したオリジナルのCP/Mは、インテルIntellec-8開発システム用に開発されたもので、シュガートアソシエイツの8インチフロッピーディスクドライブを独自のフロッピーディスクコントローラー(英語版)で接続していた。キルドールは自分で開発したマイクロプロセッサ用のプログラミング言語であるPL/Mで記述した。キルドールはメインフレームコンピュータのDECsystem-10を開発に使用したことがあり、そのOSであるTOPS-10の影響を大きく受けていた。
CP/Mは元々Control Program/Monitorの略称で、OSが起動する前の小さな内蔵モニターを意味していた。しかし商品化のため1977年11月に商標登録した際にはControl Program for Microcomputersの略であるとされた。CP/Mの名前は当時流行していたスタイルに従ったもので、例えばキルドールが開発したプログラミング言語はPL/Mであり、プライムコンピュータが開発したプログラミング言語はPL/P (Programming Language for Prime)で、いずれもIBMのPL/Iからインスパイアされた。またIBMにはCP/CMSというオペレーティングシステムがあり、キルドールはNaval Postgraduate School(NPS)で働いている時にこれを使っていた。
CP/Mの名前の変遷は、キルドールと、キルドールの妻であり共同経営者でもあるドロシー・マキュアンが、キルドールの個人的なプロジェクトに過ぎなかったCP/Mと、インテルと契約していたPL/Mをビジネスに変えるための努力の一環だった。IBMとマイクロソフトが後にパソコンの代名詞となったように、デジタルリサーチがマイクロコンピュータの代名詞となることをキルドールは意識していた。
インターギャラクティック・デジタルリサーチは後にデジタルリサーチへと社名変更の登記手続きを行った。
1981年9月までにデジタルリサーチは25万本のCP/Mを販売していた。InfoWorldによるとこれにはサブライセンスが含まれておらず実際のマーケットシェアはさらに大きいとされた。様々な企業が様々なCP/Mマシンを販売した。InfoWorldは「CP/Mがマイクロコンピュータ用のオペレーティングシステムとしてその地位を確実に確立しつつある」と述べた。非常に多くのアプリケーションがあったため多くのコンピュータメーカーがCP/Mをサポートした。ゼロックスは「文字通り数千本のアプリケーションがあるのにこれをサポートしないのは賢い選択とは言えない」としてXerox 820に対応した。デジタルリサーチのマニュアルは1982年にInfoWorldから批判されるほど酷く、ゼロックスはハワード・サムが執筆したCP/Mマニュアルを同社の製品に同梱した。1984年までにコロンビア大学はファイル転送プロトコルのカーミットを1つのソースコードから複数のCP/M機用のバイナリを出力できるようにしており、またどのCP/M機でも動作する汎用版も開発した。このオペレーティングシステムは複数のプログラムが異なるハードウェアと標準的な方法で通信でき、自らをソフトウェア・バスと呼んだ。一部の例外を除き、CP/Mに記述されたプログラムは他のマシンでも動作する互換性があり、エスケープシーケンスだけを使ってコンソールやプリンタを制御することが互換性を維持するために求められた。この互換性の高さがCP/Mの普及を促し、特定のハードウェアだけで動作するソフトウェアよりもCP/M上で動作するソフトウェアがより多く開発されるようになった。Z80の拡張命令を用いた一部のプログラムは8080や8085で動作しなかった。またグラフィック処理にも互換性の問題があり、特にゲームや映像ソフトはパフォーマンスを稼ぐためにOSやBIOSを経由せず直接ハードウェアにアクセスすることが普通だった(初期のDOS機にも共通の問題があった)。
ビル・ゲイツによるとApple IIシリーズとZ-80 SoftCardの組み合わせはCP/Mの動作環境として当時最も普及していた。Altair 8800、IMSAI 8080、Osborne 1、Kaypro luggable、MSXなど、非常に多くの機種で動作した。最も多く売れたCP/M対応システムはアムストラッド PCW(英語版)だと考えられている。イギリスではリサーチマシーンズ社の教育用コンピュータでCP/Mが動作し、CP/Mのソースコードが教育用として添付されたほか、Z80コプロセッサを搭載したBBCマイクロでも動作した。さらにアムストラッドCPCシリーズ、コモドール128、TRS-80、ZXスペクトラムの後期モデルでも動作した。ACニールセン用に開発された、1MBのSSDメモリを搭載した携帯用マシンであるNIATでもCP/M 3が動作した。
CP/Mは8ビットマイコン市場で広く普及したため、CP/M環境で動作するプログラムが大量に発売されており、ソフトウェア開発用ソフトのみならず1バイト文字圏におけるビジネスソフトウェアも数多くあった。
ワードプロセッサとして初めて広く普及したWordStarと、フルスクリーンエディタのWordMaster、マイクロコンピュータ用として初期に人気を博したデータベースのdBaseは、いずれも元々はCP/M用に開発された。WordStar/WordMasterのカーソル移動キーバインドはダイヤモンドカーソルと呼ばれ、その使いやすさからCP/MやMS-DOSの多くのスクリーンエディタに受け継がれた。初期のアウトラインプロセッサであるKAMAS(Knowledge and Mind Amplification System)と、その廉価版であるOut-Think(マクロ機能が削除され8080/V20互換として再設計された)もまたCP/M用に開発され、後にMS-DOSへ移植された。Delphiの祖先であるTurbo Pascalや、Microsoft Excelの祖先であるMultiplanもCP/Mでリリースされた後にMS-DOSへ移植された。世界初の表計算ソフトであるVisiCalcはCP/M用に作られた。SorcimはCP/M用の表計算ソフトSuperCalcを開発し、CP/M上ではデファクトスタンダードになった。SuperCalcはMS-DOSの表計算ソフト業界にも参入した。AutodeskはAutoCADをCP/Mでリリースした。
BASICやFORTRANなど当時主流のプログラミング言語を利用できた。マイクロソフトは、当時OEM各社より発売していたマイコン用のスタンドアロンBASICとは別に、CP/M汎用のBASIC処理系としてM-BASICインタープリタ (MB80) およびコンパイラ (BASCOM) をリリースしていた。他に、マクロ機能付リロケータブルアセンブラMACRO-80やFORTRAN-80、COBOL-80なども製品ラインに存在し、これらの言語製品は当時のマイクロソフトの主力商品だった。
デジタルリサーチ自身は、PL/I-80、 CBASIC(ビジネス向きBASICコンパイラ)、MACとRMAC(マクロアセンブラとリロケータブル・マクロアセンブラ)、Pascal/MT+(MT Microsystemsから買収したZ80専用コードも生成できるコンパイラで、高速なオブジェクトコードを出力した)などを出荷した。
CP/M上でC言語の処理系として、Leor ZolmanのBDS-C、Whitesmith、AZTEC、HITECHのCコンパイラ、日本のLSIジャパンのLSI-C80などが有名だった。日本では、ライフボート(当時)とそのOEM供給を受けたシャープが、CP/M向けに安価な各種言語のパッケージを販売していた。ラインアップとしては、FORTRAN、COBOL、LISP、LOGO、Prolog、BDS-C(サブセット)、Pascal、Forthなどが存在した。
また、統合開発環境という概念を打ち立てたボーランドのTurbo Pascalは、WordMasterライクなスクリーンエディタ、極めて高速なコンパイラと、リンカのすべてをわずか30KB程度の実行形式に組み込んで提供されていた。さらに販売価格も廉価に抑えられていたため、驚きの目で迎えられ一時代を築いた。これは以後のマイコン向け開発用ソフトウェアに影響を与え、同時にボーランド社の地位を確立した。
CP/M用のソフトは様々な機種に対応するためにインストーラーが付属することが多かった。BASICで開発されたプログラムは簡単にソースコードを見ることができ、コピープロテクトはほとんど無意味だった。Kaypro IIの開発者はXerox 820フォーマットを採用し、Kayproフォーマットと名付けてソフトを提供し、この上でプログラムを実行させた。
グラフィック機能は標準化されておらずコンピュータゲームのサポートは限定的であったものの、Telengard(英語版)、Gorillas(英語版)、Hamurabi(英語版)、Lunar Lander(英語版)、初期のテキストアドベンチャーであるゾークシリーズやコロッサル・ケーブ・アドベンチャーなどのテキストベースのゲームが移植された。テキストアドベンチャーに強いインフォコムはCP/Mで定期的にゲームをリリースしていた数少ない開発会社だった。
ユーザ・コミュニティでのフリーソフトウェアの流通もあり、当時はPDSと呼ばれていた。当時は通信環境がまだ普及しておらず、フロッピーで配布するのが主流だった。CP/M UGなど、組織的にソフトの収集と配布を行なっていたユーザグループも存在した。Lifeboat Associates(英語版)はユーザーが開発したフリーソフトウェアを集めて配布した。XMODEMはそうしたフリーウェアの初期の作品の1つで、電話からモデムを使って安定的にファイルを転送できた。
CP/Mの公式な標準フォーマットはIBM System/34やIBM 3740で使われた片面単密度フォーマットの8インチディスクだった。非公式な5.25インチディスクもあり、フォーマットにはKaypro、Morrow Designs、Osborneなどの種類があった。InfoWorldは1981年9月に、ソフトウェアメーカーがサポートすべき主なフォーマットは20種類以上あると考えていると推測した。例えばJRT PascalはNorth Star、Osborne、Apple、Heathなどのフォーマットで5.25インチディスクのハードセクタ版やソフトセクタ版をリリースし、Superbrainに8インチ版をリリースした。Ellis ComputingもHeathの両フォーマットや、2つのTRS-80用CP/Mの改変版を含む16種類の5.25インチフォーマットでリリースした。
一部のフォーマットは普及したが他のフォーマットは普及しなかった。最も多くのソフトが採用したのはXerox 820フォーマットで、Kaypro IIなどの他のコンピュータも対応していた。CP/Mが利用されていた時代は5.25インチディスクのフォーマットが1社に統一されるということは無く、基本的にハードメーカーが異なればフォーマットに互換性がなかった。ソフト自体はどのマシンで動作しても、ソフトメーカーはハード毎にメディアを分けてソフトを販売しなければならなかった。Kayproなど一部のメーカーのディスクドライブは、自社の製品でも機種が変わると互換性がない事すらあった。こうした状況によりフォーマット変換プログラムが流行し、混乱を軽減させる一助になったほか、カーミットなどの通信プロトコルによりどのCP/M機にもあるシリアルポートを使ってプログラムやデータを転送することもできた。
様々なフォーマットがハードの特徴や設計者の一存により選ばれた。CP/Mはディスクの予約領域やディレクトリ領域のサイズを指定でき、CP/Mのアプリケーションから見える論理セクタとディスク上の実際の配置である物理セクタのマッピングなどを指定可能だった。各システムはこれらのパラメーターを用いて様々なカスタマイズを加えることができたが、一度設定を決めた後は、どのような設定のディスクであるのかを調べる標準的な方法がなかった。CP/Mの時代は8インチ、5.25インチ共に様々なフロッピーディスクのフォーマットが存在しており、異なるCP/Mマシンの互換性は採用したディスクドライブのタイプやコントローラーに依存した。ディスクはハードセクタ方式とソフトセクタ方式があり、単密度や倍密度、片面や両面、35トラック、40トラック、77トラック、80トラック、セクタのレイアウト、サイズ、インターリーブなどの様々な違いがあった。異なるマシン用のディスクを読むために変換プログラムを使用できたが、これもまたディスクのタイプやコントローラーに依存した。1982年頃にはソフトセクタ、片面、40トラックの5.25インチディスクがCP/Mソフトの配布用として最も普及したフォーマットとなり、Apple II、TRS-80、Osborne 1、Kaypro II、IBM PCなど当時主流だったマシンのほとんどが採用した。変換プログラムはタイプが近いディスクドライブ用のフォーマットを読むことを可能にした。例えばKaypro IIはTRS-80、Osborne、IBM PC、Epson QX-10(英語版)などのディスクを読めた。80トラックのような他のフォーマットや、ハードセクタ方式のディスクは全く読めなかった。Epson QX-10などが採用した両面ディスクは半分だけデータを読むことができた。Apple IIはAppleのGCRフォーマットだけしか読めず他社のフォーマットを読めなかったため、Appleフォーマット版のCP/Mソフトを入手するか、またはシリアルポートで転送するしかなかった。
CP/M市場によるディスクフォーマットの断片化は、複数のフォーマットに対応したディスクの在庫を抱えたり、複数のフォーマットに対応したディスクコピー装置を購入したりすることをソフトメーカーに強いた一方で、IBM PCはディスクが規格化されて統一されており、1981年以降にCP/Mが急速に市場を失う要因となった。
1985年に発売されたコモドール128は末期に発売されたCP/M機で、6502ベースのCPUを採用しながら、CP/MをサポートするためにZ80も搭載していた。CP/Mを使うには、ソフトセクタ40トラックMFM方式のディスクが読み書きできるディスクドライブの1571(英語版)か1581(英語版)が必須だった。
始めて3.5インチフロッピーを採用したSony SMC-70(英語版)ではCP/M 2.2が動作した。
コモドール128、ラップトップのBondwell-2(英語版)、Micromint/Ciarcia SB-180、MSX、TRS-80 Model 4(英語版) (Montezuma CP/M 2.2が動作)なども3.5インチディスク版のCP/Mが動作した。アムストラッドPCW(英語版)は当初3インチフロッピーでCP/Mが動作し、後に3.5インチフロッピーへ切り替えた。
S-100バス(アルテアバス)に対応したグラフィックシステムは存在していたが、CP/Mは1982年にGSX (Graphics System Extension)をリリースするまでグラフィック機能を全くサポートしていなかった。当時は使用できるメモリが非常に限られており、8ビットのCP/Mでグラフィック機能が一般的になることは無かった。ほとんどの機種ではテキストモードでアスキーアートにより図表を表示するか、機種依存文字を使う事しかできなかった。KayproシリーズやTRS-80 Model 4(英語版)などの一部の機種は絵文字をサポートしており、アセンブラで直接ハードウェアを叩くか、BASICからCHR$コマンドを使ってアクセスすることができた。Model 4はオプションのハイレゾリューションボードで640×240ドットのグラフィックを表示できた。
1979年にマルチユーザーに対応したCP/Mがリリースされた。MP/Mは複数のユーザーが1台のコンピューターに接続でき、ユーザーはディスプレイとキーボードを備えた端末が個別に与えられた。後のバージョンは16ビットCPUで動作した。
1983年にリリースされた8ビット版CP/Mの最終版はバージョン3で、CP/M Plusと呼ばれた。CP/M 2.2のアプリケーションと互換性があるMP/Mが持つバンク切り替えによるメモリ管理機能を、MP/Mのシングルユーザー、シングルタスク版という形で導入した。これによりCP/M 3では8080やZ80でも64KB以上のメモリを扱うことができた。ファイルにタイムスタンプを付けるようシステムを設定できた。またアセンブラとリンカが付属した。CP/M 3は、アムストラッドPCW、アムストラッドCPC、ZXスペクトラム+3、コモドール128、MSX、ラジオシャックのTRS-80モデル4など、8ビットマイコンの最後の世代で利用できた。
16ビットCPU用のCP/Mも存在した。
最初の16ビット版であるCP/M-86はIntel 8086版で、続けてモトローラ68000版のCP/M-68Kがリリースされた。1982年にリリースされたオリジナル版のCP/M-68KはPascal/MT+68k(英語版)で開発され、後にC言語に移植された。混乱を避けるため、オリジナルの8ビット版CP/MはCP/M-80と呼ばれるようになった。1982~1983年頃にオリベッティM20(英語版)用としてZ8000で動作するCP/M-8000がC言語で開発された。
CP/M-86はIBM PCの標準OSとなることが期待されていたが、デジタルリサーチとIBMは開発や契約の話をまとめることができなかった。IBMはマイクロソフトに白羽の矢を立て、マイクロソフトは86-DOSをもとにPC DOSを開発して提供した。デジタルリサーチはIBMに対して提訴すると脅し、CP/M-86もIBM PCで利用できるようになったが、マイクロソフトを超えることはできなかった。IBMの設定価格はPC DOSが$40だったのに対してCP/M-86は$240で、その大きな差に顧客は驚かされた。
DECがIBMの対抗馬として発売したRainbow 100(英語版)は、Z80を使ったCP/M-80と、8088を使ったCP/M-86及びMS-DOSが付属し、CP/M-86とCP/M-80を同時に使用できた。Z80と8088は並列で動作した。Rainbowでは8ビット版CP/Mの大量のソフトウェア資産を続けて利用しながら、16ビットのMS-DOSへ移行することが可能だった。
モトローラEXORmacs(英語版)で既に動作していたCP/M-68KはAtari STに搭載されて出荷されるはずだったが、アタリはGEMDOSという新しいDOSを使うことに決めた。CP/M-68KはSORDのM68とM68MXでも使われた。
16ビット版CP/Mのアプリケーションは新CPU向けに再コンパイルが必要で、もしアプリケーションがアセンブラで記述されている場合は、ゲイリー・キルドールが1981年に開発したトランスレーターのXLT86を使い、8080用のASMファイルを8086用のA86ファイルに変換した。8080のレジスタがどのように使われているのかを分析し、関数呼び出しを正しく理解して、CP/M-80やMP/M-80用に書かれたアプリケーションを自動的にCP/M-86やMP/M-86用アプリケーションへコードを最適化しつつ変換することができた。XLAT86はそれ自身がPL/I-80で記述されており、CP/M-80だけでなくDEC VMS (VAX 11/750用と11/780用)でも動作した。
アーキテクチャの種類ごとに各々トランジェントコマンドの拡張子が異なっており(CP/M-80:.COM、CP/M-86:.CMD、CP/M-68K:.68Kなど)、同一のファイルシステム内で複数のアーキテクチャ用のCP/Mを混在させることが出来た。実際の製品としては、PC-9800シリーズ用のSPARKシリーズがあり、実行を指示されたコマンドを拡張子によって区別し、8086で動作するコマンドと、Z80で動作するコマンドを混用することが出来た。
当時多くの人が16ビット機でもCP/Mが標準になるだろうと考えていた。1980年にIBMは、ビル・ゲイツの提案に従ってデジタルリサーチに連絡を取り、開発中のIBM PCに提供する新しいCP/Mのライセンス契約について話し合おうとした。秘密保持契約を結ぶことができずに話し合いは決裂し、IBMは代わりにマイクロソフトへOSの提供を打診した。その結果生まれたMS-DOSは間もなくCP/Mより売れるようになった。
初期バージョンのMS-DOSは基本となるコンセプトや仕組みがCP/Mと似ていた。ファイルのデータ構造が同じで、ディスクドライブにドライブレター(A:や B:など)を割り当てる形も同じだった。ファイルシステムのFATはCP/Mと比べてMS-DOSが最も違う所だった。全体的に大きな違いがないことから、WordStarやdBaseなどのCP/Mの人気ソフトウェアを簡単に移植できた。一方でCP/Mにあった、ユーザーごとにディスクの領域を分割する機能はMS-DOSに採用されることはなかった。IBM PCは一部を除いて64KB以上のメモリを利用できた一方で、CP/Mは16KBのメモリで動作するよう設計されていたため、MS-DOSは多くのメモリを使ってCOMMAND.COMの内蔵コマンドを増やすことができ、フロッピーディスクからコマンドを読む必要が減ることで処理が速くなり、OSのフロッピーをアプリケーションやデータファイルのフロッピーに変えても操作できることが増えて使いやすくなった。
8ビット版CP/Mのソフトが利用できるSoftCardのような拡張ボードがIBM PC用にすぐにリリースされたが、マイコン市場がIBM互換機市場に移るにつれてCP/Mのシェアは急速に小さくなり、以前のようなCP/Mブームが再び訪れることはなかった。マイコン業界誌最大手のByte誌は、IBM PCがリリースされると1年も経たないうちにCP/M関連商品の記事を事実上扱わなくなった。1983にはS-100ボードの広告がわずかにあり、CP/Mソフトの記事も数件あったが、1987年には全く見られなくなった。1984年にInfoWorldが掲載した記事では、企業に普及したCP/Mを一般家庭に広めようとする努力は失敗に終わり、CP/Mソフトは個人で買うには高すぎたとし、1986年にはこれまで他社が次々にCP/Mから撤退する中でCP/M用の周辺機器やソフトのリリースを長く続けていたKayproがついに8ビット版CP/M用のソフト開発を中止してMS-DOS互換機の開発販売に集中するという記事が掲載された。
後期バージョンのCP/M-86はパフォーマンスや使い勝手で大幅な進化を遂げた。マルチユーザー版のMP/Mからマルチプロセスなどの機能をマージしてコンカレントCP/Mとなり、Linuxの仮想コンソールのように画面を切り替えて複数のアプリケーションを使用することができるようになった。MS-DOSとの互換性が実現してDOS Plusと改名され、さらにDR-DOSと改名された。一方MP/MもDR-DOSから逆マージされ、マルチユーザーDOSに改名した。
1982年2月2日に公開されたZCPR (Z80 Command Processor Replacement)はデジタルリサーチ標準のコンソールコマンドプロセッサ(CPP)をそのまま置き換えるプログラムで、CCPグループと呼ばれる趣味のユーザーグループが開発した。フランク・ワンチョ、キース・ピーターセン(Simtel(英語版)の管理者)、ロン・フローラー、チャーリー・ストローム、ボブ・マティアス、リチャード・コンらが開発に参加した。実際にはリチャードがこのグループを推進していた(全員電子メールで連絡を取り合っていた)。
ZCPR1はニュージャージーにあるアマチュアコンピュータークラブのパソコン通信掲示板SIG/M(Special Interest Group/Microcomputers)のメンバー間でディスクを直接手渡しする形で配布された。
ZCPR2は1983年2月14日に公開された。SIG/Mでディスク10枚組のパッケージでリリースされた。ZCPR2は2.3にバージョンアップし、8080版もリリースされ、8080や8085でZCPR2が使えるようになった。
ZCPR3は1984年7月14日のパリ祭の日にSIG/Mからディスク9枚組のパッケージでリリースされた。ZCPR3のソースコードは一部機能を制限することで8080用としてビルドすることができ、Z80ではない機種でも実行できた。
1987年1月にリチャード・コンがZCPRの開発から撤退し、ZCPRを個人的に3.1へバージョンアップしていた実績のあるジェイ・セージにエシュロンは開発の継続を頼んだ。結果的にZCPR 3.3がリリースされた。ZCPR 3.3は8080系CPUをサポートせず、大きな機能拡張もなかった。
ZCPRバージョン3には以下の機能があった。
ZCPR3.3はまた使い勝手を大幅に改善する数多くのユーティリティがフルセットで付いてきた。当時CP/Mユーザーから熱烈な歓迎を受けたが、ZCPRだけではCP/Mの衰退を止めることはできなかった。
SCP(Single User Control Program(ドイツ語版))、SCP/M、CP/A、CP/KC、CP/L、CP/KSOB、CP/Z、MICRODOS、BCU880、ZOAZ、OS/M、TOS/M、ZSDOS、M/OS、COS-PSA、 DOS-PSA、CSOC、CSOS、CZ-CPMなど、旧東ヨーロッパには非常に多くの派生版CP/M-80が存在した。またSCP1700、CP/K、K8918-OSなどのCP/M-86の派生版も存在した。旧東ドイツのロボトロンなどが開発していた。
初期のMS-DOS/PC DOS(の前身であるシアトルコンピュータプロダクツの86-DOS)は、CP/Mをモデルとして設計されたため、さまざまな面で類似点が見られる。
一方で、以下のような相違点(改善点)もある。
また、マイクロソフトがCP/M向けに出していたソフトでは、コマンドラインのスイッチはスラッシュで始まっており(例: M80 =FOO.MAC /R)、PC DOS/MS-DOS 1.xではこれがOS標準の書式として受け継がれた。 そのため、PC DOS/MS-DOS 2.xで階層ディレクトリを導入する際に、UNIXのようにパス名の区切りにスラッシュを使うことができず、バックスラッシュを使うことになった。 しかし、ASCIIのバックスラッシュはISO 646各国版で置き換えが認められており、たとえば日本のJIS X 0201では円記号になっているため、日本のPCではパス名の区切りが円記号で表示されることになった。
なお、これはコマンドラインに限った話であり、MS-DOSのシステムコールやWindows APIにパス名を渡す場合には、コマンドラインスイッチと混同するおそれがないため、区切りとしてスラッシュもバックスラッシュも受け付ける。
2016年に、ザイドマン・コンサルティングのボッブ・ザイドマンは、デジタルリサーチが開発したCP/Mとティム・パターソンが開発し、長年前者のコードを基にしたと疑われたDOSのソースコードを比較し、初版のDOSのソースコードがCP/Mのソースコード基にしたかを調べた。
DOSとCP/Mのコマンドを比べると、一致するものは極僅かである。DOSとOS/8のコマンドの間には、DOSとCP/Mの間よりも共通コマンドが多くある。当該コマンドは全て動作を直接表す英単語となることが原因である。
しかし、両OSのシステムコールを分析すると、DOSにあるシステムコールは、明らかにCP/Mのシステムコールを真似るものであることがわかる。同じ機能を表す同じ数字がいくつもあることから、ティム・パターソンがDOSを開発した時にCP/Mの説明書を参考にしたことは明らかである。
ザイドマンの結論は、DOSはCP/Mのコードを一切基にしていないとのことであるものの、システムコールの多くの部分が真似られた。
デジタルリサーチは1991年にノベルに買収され、さらにカルデラ(2002年SCOに改称)に売却された。現在CP/M資産は同社の子会社であるリネオが所持しており、その大半は同社の許諾を受けた「非公式なCP/Mサイト」からダウンロードすることが可能である。
現在、日本国内でのCP/Mの商標は技術少年出版が保有する。 | [
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"text": "CP/M(Control Program for Microcomputers、シーピーエム)は1970年代にデジタルリサーチ (Digital Research Inc.) の創業者ゲイリー・キルドールによって開発、1976年に発売された、パソコン用のシングルユーザー・シングルタスクのオペレーティングシステム (OS) である。",
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"text": "最初は8ビットのCPUであるインテルの8080プロセッサー用に作られ、8ビットのパソコン用OSとしては最も代表的な存在だった。初期に普及したバージョンはCP/M 1.4で、そののち改訂されたCP/M 2.2が広く普及した。さらに、より洗練されたCP/M 3.0 (CP/M Plus) が登場したが、既に16ビットマシンへの移行が始まっていた時期でもあり普及することはなかった。",
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"text": "他のプロセッサに移植されたバージョンも存在するが、単にCP/Mといえば8080プロセッサ用のもの(中でもバージョン2.2)を指す。なおマイクロソフトによってOEMされたIBMのPC DOS(及び、のちにマイクロソフト自らが直販したMS-DOS)は、CP/Mをモデルに開発されたシアトル・コンピュータ・プロダクツの86-DOSを前身としている。",
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"text": "CP/Mは8080マイクロプロセッサ(およびその上位互換CPU)、0番地から配置されたRAM(最小はCP/M 1.4で16KB)、最低1台の8インチフロッピーディスク装置、シリアル端末(CRTディスプレイとキーボード、あるいはASR-33のようなテレタイプ端末)があれば動作した。オプションとして、プリンタ、紙テープ読取装置・紙テープ穿孔装置、ハードディスク装置をサポートした。一般的には32KB以上、可能なら56KBくらいのRAMがあると、当時としては大規模なコンパイラなどが実行できた。",
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"text": "CP/Mは、シェルであるCCP (Console Command Processor)、OSの本体であるBDOS(ビードス、Basic Disk Operating System)、入出力を処理する下位プログラムの集合体であるBIOS(バイオス、Basic Input and Output System)で構成される。ハードウェア依存部分はBIOSに集中させてあるので、BIOSだけを変更することで大抵のハードウェアに移植可能となっていた。BIOSの機能はシステムの初期化、CCPのリブート(アプリケーション実行の終了とシェルの再起動)、コンソールなどのキャラクタデバイスのリダイレクト付入出力、フロッピーディスク/ハードディスク等の1セクタ単位の入出力だけである。",
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"text": "CP/Mの特徴的な仕様の一つに、リブート(ウォームブート、ウォームスタート)がある。リブートとは、アプリケーションの終了、または^Cの入力により、ディスクからCCPとBDOSをロードし直してCCPのコマンドラインに戻ることをいう。他のOSのように、IPLから完全に再起動することを指すわけではない。",
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"text": "このようにリブートとはCP/Mにおけるきわめて基本的かつ重要な動作であるが、一方で多くのユーザーにとっては苦い思い出を呼び起こす言葉でもある。",
"title": "リブートについて"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "CP/Mでは、フロッピーの入れ替えを検出すると、前のフロッピーのデータを現在のフロッピーに書き込んでしまうことを避けるため、一時的にフロッピーへのアクセスをリードオンリーに限定し、リブートすることで解除する。すなわち、CP/Mでフロッピーを入れ替えるときは、アプリケーションが動作中であればまず終了し、フロッピーを入れ替えてから^Cを押さなければならない。これを怠って、アプリケーションを終了せずにディスクを入れ替えてリードオンリーになってしまっているフロッピーにデータを書き込もうとすると、BDOSエラーが発生し、データは書き込めず、リブートを余儀なくされ、データは失われる。この事態に見舞われる“よくある状況”としては、フロッピーの残り記録容量が足りないことに気付かずに作業をしている際が挙げられる。こうなると、もはや通常の操作ではその作業結果を残す方法がない。救済方法としては、一旦BDOSエラーを発生させ、saveコマンドで空ディスクにメモリイメージを記録し、サードパーティー製ディスク操作ソフトを使用してその記録内容のうちトランジェントコマンド部分を削除した上ディレクトリ情報を書き換える方法がある。これは推奨された使用方法からは大きく外れた事態であり、救済に失敗することもまれではない。",
"title": "リブートについて"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "これはCP/Mの重大な問題点で、この事態に陥ったときに表示される\"Bdos Err On x: $R/O\"(x:はドライブレター)というメッセージは、PC-9800シリーズのMS-DOSの\"Int trap halt\"や、Windows 3.1の一般保護例外 (GPE)、Windows 95/NTの青画面、Classic Mac OSの爆弾マークと同様に、ユーザーを恐怖と絶望におとしいれた。",
"title": "リブートについて"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "この問題は、後のPersonal CP/MやCP/M Plus、CP/M-86では改善されている。",
"title": "リブートについて"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "キルドールは、インテルからマイクロコンピュータ開発システム (MDS) 用の高級言語を受注。PL/I風に作られた8080用のシステム記述向け言語であるPL/M(Programming Language for Microcomputer、後のPL/M-80)コンパイラを開発した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "このPL/Mの動作環境として、キルドールがインテルに提案したフロッピーディスクベースのDOSがあった。これは採用されなかったため、後に自ら販売することにしたものがCP/Mである。インテルは後に8080/8085からの移行を支援するため、8086/8088用にPL/M-86を開発した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ゲイリー・キルドールが1974年に開発したオリジナルのCP/Mは、インテルIntellec-8開発システム用に開発されたもので、シュガートアソシエイツの8インチフロッピーディスクドライブを独自のフロッピーディスクコントローラー(英語版)で接続していた。キルドールは自分で開発したマイクロプロセッサ用のプログラミング言語であるPL/Mで記述した。キルドールはメインフレームコンピュータのDECsystem-10を開発に使用したことがあり、そのOSであるTOPS-10の影響を大きく受けていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "CP/Mは元々Control Program/Monitorの略称で、OSが起動する前の小さな内蔵モニターを意味していた。しかし商品化のため1977年11月に商標登録した際にはControl Program for Microcomputersの略であるとされた。CP/Mの名前は当時流行していたスタイルに従ったもので、例えばキルドールが開発したプログラミング言語はPL/Mであり、プライムコンピュータが開発したプログラミング言語はPL/P (Programming Language for Prime)で、いずれもIBMのPL/Iからインスパイアされた。またIBMにはCP/CMSというオペレーティングシステムがあり、キルドールはNaval Postgraduate School(NPS)で働いている時にこれを使っていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "CP/Mの名前の変遷は、キルドールと、キルドールの妻であり共同経営者でもあるドロシー・マキュアンが、キルドールの個人的なプロジェクトに過ぎなかったCP/Mと、インテルと契約していたPL/Mをビジネスに変えるための努力の一環だった。IBMとマイクロソフトが後にパソコンの代名詞となったように、デジタルリサーチがマイクロコンピュータの代名詞となることをキルドールは意識していた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "インターギャラクティック・デジタルリサーチは後にデジタルリサーチへと社名変更の登記手続きを行った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1981年9月までにデジタルリサーチは25万本のCP/Mを販売していた。InfoWorldによるとこれにはサブライセンスが含まれておらず実際のマーケットシェアはさらに大きいとされた。様々な企業が様々なCP/Mマシンを販売した。InfoWorldは「CP/Mがマイクロコンピュータ用のオペレーティングシステムとしてその地位を確実に確立しつつある」と述べた。非常に多くのアプリケーションがあったため多くのコンピュータメーカーがCP/Mをサポートした。ゼロックスは「文字通り数千本のアプリケーションがあるのにこれをサポートしないのは賢い選択とは言えない」としてXerox 820に対応した。デジタルリサーチのマニュアルは1982年にInfoWorldから批判されるほど酷く、ゼロックスはハワード・サムが執筆したCP/Mマニュアルを同社の製品に同梱した。1984年までにコロンビア大学はファイル転送プロトコルのカーミットを1つのソースコードから複数のCP/M機用のバイナリを出力できるようにしており、またどのCP/M機でも動作する汎用版も開発した。このオペレーティングシステムは複数のプログラムが異なるハードウェアと標準的な方法で通信でき、自らをソフトウェア・バスと呼んだ。一部の例外を除き、CP/Mに記述されたプログラムは他のマシンでも動作する互換性があり、エスケープシーケンスだけを使ってコンソールやプリンタを制御することが互換性を維持するために求められた。この互換性の高さがCP/Mの普及を促し、特定のハードウェアだけで動作するソフトウェアよりもCP/M上で動作するソフトウェアがより多く開発されるようになった。Z80の拡張命令を用いた一部のプログラムは8080や8085で動作しなかった。またグラフィック処理にも互換性の問題があり、特にゲームや映像ソフトはパフォーマンスを稼ぐためにOSやBIOSを経由せず直接ハードウェアにアクセスすることが普通だった(初期のDOS機にも共通の問題があった)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ビル・ゲイツによるとApple IIシリーズとZ-80 SoftCardの組み合わせはCP/Mの動作環境として当時最も普及していた。Altair 8800、IMSAI 8080、Osborne 1、Kaypro luggable、MSXなど、非常に多くの機種で動作した。最も多く売れたCP/M対応システムはアムストラッド PCW(英語版)だと考えられている。イギリスではリサーチマシーンズ社の教育用コンピュータでCP/Mが動作し、CP/Mのソースコードが教育用として添付されたほか、Z80コプロセッサを搭載したBBCマイクロでも動作した。さらにアムストラッドCPCシリーズ、コモドール128、TRS-80、ZXスペクトラムの後期モデルでも動作した。ACニールセン用に開発された、1MBのSSDメモリを搭載した携帯用マシンであるNIATでもCP/M 3が動作した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "CP/Mは8ビットマイコン市場で広く普及したため、CP/M環境で動作するプログラムが大量に発売されており、ソフトウェア開発用ソフトのみならず1バイト文字圏におけるビジネスソフトウェアも数多くあった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ワードプロセッサとして初めて広く普及したWordStarと、フルスクリーンエディタのWordMaster、マイクロコンピュータ用として初期に人気を博したデータベースのdBaseは、いずれも元々はCP/M用に開発された。WordStar/WordMasterのカーソル移動キーバインドはダイヤモンドカーソルと呼ばれ、その使いやすさからCP/MやMS-DOSの多くのスクリーンエディタに受け継がれた。初期のアウトラインプロセッサであるKAMAS(Knowledge and Mind Amplification System)と、その廉価版であるOut-Think(マクロ機能が削除され8080/V20互換として再設計された)もまたCP/M用に開発され、後にMS-DOSへ移植された。Delphiの祖先であるTurbo Pascalや、Microsoft Excelの祖先であるMultiplanもCP/Mでリリースされた後にMS-DOSへ移植された。世界初の表計算ソフトであるVisiCalcはCP/M用に作られた。SorcimはCP/M用の表計算ソフトSuperCalcを開発し、CP/M上ではデファクトスタンダードになった。SuperCalcはMS-DOSの表計算ソフト業界にも参入した。AutodeskはAutoCADをCP/Mでリリースした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "BASICやFORTRANなど当時主流のプログラミング言語を利用できた。マイクロソフトは、当時OEM各社より発売していたマイコン用のスタンドアロンBASICとは別に、CP/M汎用のBASIC処理系としてM-BASICインタープリタ (MB80) およびコンパイラ (BASCOM) をリリースしていた。他に、マクロ機能付リロケータブルアセンブラMACRO-80やFORTRAN-80、COBOL-80なども製品ラインに存在し、これらの言語製品は当時のマイクロソフトの主力商品だった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "デジタルリサーチ自身は、PL/I-80、 CBASIC(ビジネス向きBASICコンパイラ)、MACとRMAC(マクロアセンブラとリロケータブル・マクロアセンブラ)、Pascal/MT+(MT Microsystemsから買収したZ80専用コードも生成できるコンパイラで、高速なオブジェクトコードを出力した)などを出荷した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "CP/M上でC言語の処理系として、Leor ZolmanのBDS-C、Whitesmith、AZTEC、HITECHのCコンパイラ、日本のLSIジャパンのLSI-C80などが有名だった。日本では、ライフボート(当時)とそのOEM供給を受けたシャープが、CP/M向けに安価な各種言語のパッケージを販売していた。ラインアップとしては、FORTRAN、COBOL、LISP、LOGO、Prolog、BDS-C(サブセット)、Pascal、Forthなどが存在した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "また、統合開発環境という概念を打ち立てたボーランドのTurbo Pascalは、WordMasterライクなスクリーンエディタ、極めて高速なコンパイラと、リンカのすべてをわずか30KB程度の実行形式に組み込んで提供されていた。さらに販売価格も廉価に抑えられていたため、驚きの目で迎えられ一時代を築いた。これは以後のマイコン向け開発用ソフトウェアに影響を与え、同時にボーランド社の地位を確立した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "CP/M用のソフトは様々な機種に対応するためにインストーラーが付属することが多かった。BASICで開発されたプログラムは簡単にソースコードを見ることができ、コピープロテクトはほとんど無意味だった。Kaypro IIの開発者はXerox 820フォーマットを採用し、Kayproフォーマットと名付けてソフトを提供し、この上でプログラムを実行させた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "グラフィック機能は標準化されておらずコンピュータゲームのサポートは限定的であったものの、Telengard(英語版)、Gorillas(英語版)、Hamurabi(英語版)、Lunar Lander(英語版)、初期のテキストアドベンチャーであるゾークシリーズやコロッサル・ケーブ・アドベンチャーなどのテキストベースのゲームが移植された。テキストアドベンチャーに強いインフォコムはCP/Mで定期的にゲームをリリースしていた数少ない開発会社だった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ユーザ・コミュニティでのフリーソフトウェアの流通もあり、当時はPDSと呼ばれていた。当時は通信環境がまだ普及しておらず、フロッピーで配布するのが主流だった。CP/M UGなど、組織的にソフトの収集と配布を行なっていたユーザグループも存在した。Lifeboat Associates(英語版)はユーザーが開発したフリーソフトウェアを集めて配布した。XMODEMはそうしたフリーウェアの初期の作品の1つで、電話からモデムを使って安定的にファイルを転送できた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "CP/Mの公式な標準フォーマットはIBM System/34やIBM 3740で使われた片面単密度フォーマットの8インチディスクだった。非公式な5.25インチディスクもあり、フォーマットにはKaypro、Morrow Designs、Osborneなどの種類があった。InfoWorldは1981年9月に、ソフトウェアメーカーがサポートすべき主なフォーマットは20種類以上あると考えていると推測した。例えばJRT PascalはNorth Star、Osborne、Apple、Heathなどのフォーマットで5.25インチディスクのハードセクタ版やソフトセクタ版をリリースし、Superbrainに8インチ版をリリースした。Ellis ComputingもHeathの両フォーマットや、2つのTRS-80用CP/Mの改変版を含む16種類の5.25インチフォーマットでリリースした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "一部のフォーマットは普及したが他のフォーマットは普及しなかった。最も多くのソフトが採用したのはXerox 820フォーマットで、Kaypro IIなどの他のコンピュータも対応していた。CP/Mが利用されていた時代は5.25インチディスクのフォーマットが1社に統一されるということは無く、基本的にハードメーカーが異なればフォーマットに互換性がなかった。ソフト自体はどのマシンで動作しても、ソフトメーカーはハード毎にメディアを分けてソフトを販売しなければならなかった。Kayproなど一部のメーカーのディスクドライブは、自社の製品でも機種が変わると互換性がない事すらあった。こうした状況によりフォーマット変換プログラムが流行し、混乱を軽減させる一助になったほか、カーミットなどの通信プロトコルによりどのCP/M機にもあるシリアルポートを使ってプログラムやデータを転送することもできた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "様々なフォーマットがハードの特徴や設計者の一存により選ばれた。CP/Mはディスクの予約領域やディレクトリ領域のサイズを指定でき、CP/Mのアプリケーションから見える論理セクタとディスク上の実際の配置である物理セクタのマッピングなどを指定可能だった。各システムはこれらのパラメーターを用いて様々なカスタマイズを加えることができたが、一度設定を決めた後は、どのような設定のディスクであるのかを調べる標準的な方法がなかった。CP/Mの時代は8インチ、5.25インチ共に様々なフロッピーディスクのフォーマットが存在しており、異なるCP/Mマシンの互換性は採用したディスクドライブのタイプやコントローラーに依存した。ディスクはハードセクタ方式とソフトセクタ方式があり、単密度や倍密度、片面や両面、35トラック、40トラック、77トラック、80トラック、セクタのレイアウト、サイズ、インターリーブなどの様々な違いがあった。異なるマシン用のディスクを読むために変換プログラムを使用できたが、これもまたディスクのタイプやコントローラーに依存した。1982年頃にはソフトセクタ、片面、40トラックの5.25インチディスクがCP/Mソフトの配布用として最も普及したフォーマットとなり、Apple II、TRS-80、Osborne 1、Kaypro II、IBM PCなど当時主流だったマシンのほとんどが採用した。変換プログラムはタイプが近いディスクドライブ用のフォーマットを読むことを可能にした。例えばKaypro IIはTRS-80、Osborne、IBM PC、Epson QX-10(英語版)などのディスクを読めた。80トラックのような他のフォーマットや、ハードセクタ方式のディスクは全く読めなかった。Epson QX-10などが採用した両面ディスクは半分だけデータを読むことができた。Apple IIはAppleのGCRフォーマットだけしか読めず他社のフォーマットを読めなかったため、Appleフォーマット版のCP/Mソフトを入手するか、またはシリアルポートで転送するしかなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "CP/M市場によるディスクフォーマットの断片化は、複数のフォーマットに対応したディスクの在庫を抱えたり、複数のフォーマットに対応したディスクコピー装置を購入したりすることをソフトメーカーに強いた一方で、IBM PCはディスクが規格化されて統一されており、1981年以降にCP/Mが急速に市場を失う要因となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1985年に発売されたコモドール128は末期に発売されたCP/M機で、6502ベースのCPUを採用しながら、CP/MをサポートするためにZ80も搭載していた。CP/Mを使うには、ソフトセクタ40トラックMFM方式のディスクが読み書きできるディスクドライブの1571(英語版)か1581(英語版)が必須だった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "始めて3.5インチフロッピーを採用したSony SMC-70(英語版)ではCP/M 2.2が動作した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "コモドール128、ラップトップのBondwell-2(英語版)、Micromint/Ciarcia SB-180、MSX、TRS-80 Model 4(英語版) (Montezuma CP/M 2.2が動作)なども3.5インチディスク版のCP/Mが動作した。アムストラッドPCW(英語版)は当初3インチフロッピーでCP/Mが動作し、後に3.5インチフロッピーへ切り替えた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "S-100バス(アルテアバス)に対応したグラフィックシステムは存在していたが、CP/Mは1982年にGSX (Graphics System Extension)をリリースするまでグラフィック機能を全くサポートしていなかった。当時は使用できるメモリが非常に限られており、8ビットのCP/Mでグラフィック機能が一般的になることは無かった。ほとんどの機種ではテキストモードでアスキーアートにより図表を表示するか、機種依存文字を使う事しかできなかった。KayproシリーズやTRS-80 Model 4(英語版)などの一部の機種は絵文字をサポートしており、アセンブラで直接ハードウェアを叩くか、BASICからCHR$コマンドを使ってアクセスすることができた。Model 4はオプションのハイレゾリューションボードで640×240ドットのグラフィックを表示できた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1979年にマルチユーザーに対応したCP/Mがリリースされた。MP/Mは複数のユーザーが1台のコンピューターに接続でき、ユーザーはディスプレイとキーボードを備えた端末が個別に与えられた。後のバージョンは16ビットCPUで動作した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1983年にリリースされた8ビット版CP/Mの最終版はバージョン3で、CP/M Plusと呼ばれた。CP/M 2.2のアプリケーションと互換性があるMP/Mが持つバンク切り替えによるメモリ管理機能を、MP/Mのシングルユーザー、シングルタスク版という形で導入した。これによりCP/M 3では8080やZ80でも64KB以上のメモリを扱うことができた。ファイルにタイムスタンプを付けるようシステムを設定できた。またアセンブラとリンカが付属した。CP/M 3は、アムストラッドPCW、アムストラッドCPC、ZXスペクトラム+3、コモドール128、MSX、ラジオシャックのTRS-80モデル4など、8ビットマイコンの最後の世代で利用できた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "16ビットCPU用のCP/Mも存在した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "最初の16ビット版であるCP/M-86はIntel 8086版で、続けてモトローラ68000版のCP/M-68Kがリリースされた。1982年にリリースされたオリジナル版のCP/M-68KはPascal/MT+68k(英語版)で開発され、後にC言語に移植された。混乱を避けるため、オリジナルの8ビット版CP/MはCP/M-80と呼ばれるようになった。1982~1983年頃にオリベッティM20(英語版)用としてZ8000で動作するCP/M-8000がC言語で開発された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "CP/M-86はIBM PCの標準OSとなることが期待されていたが、デジタルリサーチとIBMは開発や契約の話をまとめることができなかった。IBMはマイクロソフトに白羽の矢を立て、マイクロソフトは86-DOSをもとにPC DOSを開発して提供した。デジタルリサーチはIBMに対して提訴すると脅し、CP/M-86もIBM PCで利用できるようになったが、マイクロソフトを超えることはできなかった。IBMの設定価格はPC DOSが$40だったのに対してCP/M-86は$240で、その大きな差に顧客は驚かされた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "DECがIBMの対抗馬として発売したRainbow 100(英語版)は、Z80を使ったCP/M-80と、8088を使ったCP/M-86及びMS-DOSが付属し、CP/M-86とCP/M-80を同時に使用できた。Z80と8088は並列で動作した。Rainbowでは8ビット版CP/Mの大量のソフトウェア資産を続けて利用しながら、16ビットのMS-DOSへ移行することが可能だった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "モトローラEXORmacs(英語版)で既に動作していたCP/M-68KはAtari STに搭載されて出荷されるはずだったが、アタリはGEMDOSという新しいDOSを使うことに決めた。CP/M-68KはSORDのM68とM68MXでも使われた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "16ビット版CP/Mのアプリケーションは新CPU向けに再コンパイルが必要で、もしアプリケーションがアセンブラで記述されている場合は、ゲイリー・キルドールが1981年に開発したトランスレーターのXLT86を使い、8080用のASMファイルを8086用のA86ファイルに変換した。8080のレジスタがどのように使われているのかを分析し、関数呼び出しを正しく理解して、CP/M-80やMP/M-80用に書かれたアプリケーションを自動的にCP/M-86やMP/M-86用アプリケーションへコードを最適化しつつ変換することができた。XLAT86はそれ自身がPL/I-80で記述されており、CP/M-80だけでなくDEC VMS (VAX 11/750用と11/780用)でも動作した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "アーキテクチャの種類ごとに各々トランジェントコマンドの拡張子が異なっており(CP/M-80:.COM、CP/M-86:.CMD、CP/M-68K:.68Kなど)、同一のファイルシステム内で複数のアーキテクチャ用のCP/Mを混在させることが出来た。実際の製品としては、PC-9800シリーズ用のSPARKシリーズがあり、実行を指示されたコマンドを拡張子によって区別し、8086で動作するコマンドと、Z80で動作するコマンドを混用することが出来た。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "当時多くの人が16ビット機でもCP/Mが標準になるだろうと考えていた。1980年にIBMは、ビル・ゲイツの提案に従ってデジタルリサーチに連絡を取り、開発中のIBM PCに提供する新しいCP/Mのライセンス契約について話し合おうとした。秘密保持契約を結ぶことができずに話し合いは決裂し、IBMは代わりにマイクロソフトへOSの提供を打診した。その結果生まれたMS-DOSは間もなくCP/Mより売れるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "初期バージョンのMS-DOSは基本となるコンセプトや仕組みがCP/Mと似ていた。ファイルのデータ構造が同じで、ディスクドライブにドライブレター(A:や B:など)を割り当てる形も同じだった。ファイルシステムのFATはCP/Mと比べてMS-DOSが最も違う所だった。全体的に大きな違いがないことから、WordStarやdBaseなどのCP/Mの人気ソフトウェアを簡単に移植できた。一方でCP/Mにあった、ユーザーごとにディスクの領域を分割する機能はMS-DOSに採用されることはなかった。IBM PCは一部を除いて64KB以上のメモリを利用できた一方で、CP/Mは16KBのメモリで動作するよう設計されていたため、MS-DOSは多くのメモリを使ってCOMMAND.COMの内蔵コマンドを増やすことができ、フロッピーディスクからコマンドを読む必要が減ることで処理が速くなり、OSのフロッピーをアプリケーションやデータファイルのフロッピーに変えても操作できることが増えて使いやすくなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "8ビット版CP/Mのソフトが利用できるSoftCardのような拡張ボードがIBM PC用にすぐにリリースされたが、マイコン市場がIBM互換機市場に移るにつれてCP/Mのシェアは急速に小さくなり、以前のようなCP/Mブームが再び訪れることはなかった。マイコン業界誌最大手のByte誌は、IBM PCがリリースされると1年も経たないうちにCP/M関連商品の記事を事実上扱わなくなった。1983にはS-100ボードの広告がわずかにあり、CP/Mソフトの記事も数件あったが、1987年には全く見られなくなった。1984年にInfoWorldが掲載した記事では、企業に普及したCP/Mを一般家庭に広めようとする努力は失敗に終わり、CP/Mソフトは個人で買うには高すぎたとし、1986年にはこれまで他社が次々にCP/Mから撤退する中でCP/M用の周辺機器やソフトのリリースを長く続けていたKayproがついに8ビット版CP/M用のソフト開発を中止してMS-DOS互換機の開発販売に集中するという記事が掲載された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "後期バージョンのCP/M-86はパフォーマンスや使い勝手で大幅な進化を遂げた。マルチユーザー版のMP/Mからマルチプロセスなどの機能をマージしてコンカレントCP/Mとなり、Linuxの仮想コンソールのように画面を切り替えて複数のアプリケーションを使用することができるようになった。MS-DOSとの互換性が実現してDOS Plusと改名され、さらにDR-DOSと改名された。一方MP/MもDR-DOSから逆マージされ、マルチユーザーDOSに改名した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "1982年2月2日に公開されたZCPR (Z80 Command Processor Replacement)はデジタルリサーチ標準のコンソールコマンドプロセッサ(CPP)をそのまま置き換えるプログラムで、CCPグループと呼ばれる趣味のユーザーグループが開発した。フランク・ワンチョ、キース・ピーターセン(Simtel(英語版)の管理者)、ロン・フローラー、チャーリー・ストローム、ボブ・マティアス、リチャード・コンらが開発に参加した。実際にはリチャードがこのグループを推進していた(全員電子メールで連絡を取り合っていた)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ZCPR1はニュージャージーにあるアマチュアコンピュータークラブのパソコン通信掲示板SIG/M(Special Interest Group/Microcomputers)のメンバー間でディスクを直接手渡しする形で配布された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ZCPR2は1983年2月14日に公開された。SIG/Mでディスク10枚組のパッケージでリリースされた。ZCPR2は2.3にバージョンアップし、8080版もリリースされ、8080や8085でZCPR2が使えるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ZCPR3は1984年7月14日のパリ祭の日にSIG/Mからディスク9枚組のパッケージでリリースされた。ZCPR3のソースコードは一部機能を制限することで8080用としてビルドすることができ、Z80ではない機種でも実行できた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "1987年1月にリチャード・コンがZCPRの開発から撤退し、ZCPRを個人的に3.1へバージョンアップしていた実績のあるジェイ・セージにエシュロンは開発の継続を頼んだ。結果的にZCPR 3.3がリリースされた。ZCPR 3.3は8080系CPUをサポートせず、大きな機能拡張もなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ZCPRバージョン3には以下の機能があった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "ZCPR3.3はまた使い勝手を大幅に改善する数多くのユーティリティがフルセットで付いてきた。当時CP/Mユーザーから熱烈な歓迎を受けたが、ZCPRだけではCP/Mの衰退を止めることはできなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "SCP(Single User Control Program(ドイツ語版))、SCP/M、CP/A、CP/KC、CP/L、CP/KSOB、CP/Z、MICRODOS、BCU880、ZOAZ、OS/M、TOS/M、ZSDOS、M/OS、COS-PSA、 DOS-PSA、CSOC、CSOS、CZ-CPMなど、旧東ヨーロッパには非常に多くの派生版CP/M-80が存在した。またSCP1700、CP/K、K8918-OSなどのCP/M-86の派生版も存在した。旧東ドイツのロボトロンなどが開発していた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "初期のMS-DOS/PC DOS(の前身であるシアトルコンピュータプロダクツの86-DOS)は、CP/Mをモデルとして設計されたため、さまざまな面で類似点が見られる。",
"title": "MS-DOSとの比較"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "一方で、以下のような相違点(改善点)もある。",
"title": "MS-DOSとの比較"
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"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "また、マイクロソフトがCP/M向けに出していたソフトでは、コマンドラインのスイッチはスラッシュで始まっており(例: M80 =FOO.MAC /R)、PC DOS/MS-DOS 1.xではこれがOS標準の書式として受け継がれた。 そのため、PC DOS/MS-DOS 2.xで階層ディレクトリを導入する際に、UNIXのようにパス名の区切りにスラッシュを使うことができず、バックスラッシュを使うことになった。 しかし、ASCIIのバックスラッシュはISO 646各国版で置き換えが認められており、たとえば日本のJIS X 0201では円記号になっているため、日本のPCではパス名の区切りが円記号で表示されることになった。",
"title": "MS-DOSとの比較"
},
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"paragraph_id": 68,
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"text": "なお、これはコマンドラインに限った話であり、MS-DOSのシステムコールやWindows APIにパス名を渡す場合には、コマンドラインスイッチと混同するおそれがないため、区切りとしてスラッシュもバックスラッシュも受け付ける。",
"title": "MS-DOSとの比較"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2016年に、ザイドマン・コンサルティングのボッブ・ザイドマンは、デジタルリサーチが開発したCP/Mとティム・パターソンが開発し、長年前者のコードを基にしたと疑われたDOSのソースコードを比較し、初版のDOSのソースコードがCP/Mのソースコード基にしたかを調べた。",
"title": "CP/MとDOSのソースコード比較"
},
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"paragraph_id": 70,
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"text": "DOSとCP/Mのコマンドを比べると、一致するものは極僅かである。DOSとOS/8のコマンドの間には、DOSとCP/Mの間よりも共通コマンドが多くある。当該コマンドは全て動作を直接表す英単語となることが原因である。",
"title": "CP/MとDOSのソースコード比較"
},
{
"paragraph_id": 71,
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"text": "しかし、両OSのシステムコールを分析すると、DOSにあるシステムコールは、明らかにCP/Mのシステムコールを真似るものであることがわかる。同じ機能を表す同じ数字がいくつもあることから、ティム・パターソンがDOSを開発した時にCP/Mの説明書を参考にしたことは明らかである。",
"title": "CP/MとDOSのソースコード比較"
},
{
"paragraph_id": 72,
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"text": "ザイドマンの結論は、DOSはCP/Mのコードを一切基にしていないとのことであるものの、システムコールの多くの部分が真似られた。",
"title": "CP/MとDOSのソースコード比較"
},
{
"paragraph_id": 73,
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"text": "デジタルリサーチは1991年にノベルに買収され、さらにカルデラ(2002年SCOに改称)に売却された。現在CP/M資産は同社の子会社であるリネオが所持しており、その大半は同社の許諾を受けた「非公式なCP/Mサイト」からダウンロードすることが可能である。",
"title": "現状"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "現在、日本国内でのCP/Mの商標は技術少年出版が保有する。",
"title": "現状"
}
] | CP/Mは1970年代にデジタルリサーチ の創業者ゲイリー・キルドールによって開発、1976年に発売された、パソコン用のシングルユーザー・シングルタスクのオペレーティングシステム (OS) である。 最初は8ビットのCPUであるインテルの8080プロセッサー用に作られ、8ビットのパソコン用OSとしては最も代表的な存在だった。初期に普及したバージョンはCP/M 1.4で、そののち改訂されたCP/M 2.2が広く普及した。さらに、より洗練されたCP/M 3.0 が登場したが、既に16ビットマシンへの移行が始まっていた時期でもあり普及することはなかった。 他のプロセッサに移植されたバージョンも存在するが、単にCP/Mといえば8080プロセッサ用のもの(中でもバージョン2.2)を指す。なおマイクロソフトによってOEMされたIBMのPC DOS(及び、のちにマイクロソフト自らが直販したMS-DOS)は、CP/Mをモデルに開発されたシアトル・コンピュータ・プロダクツの86-DOSを前身としている。 | [[ファイル:C128cpmboot.jpg|サムネイル|CP/Mのシステムディスク]]
'''CP/M'''(Control Program for Microcomputers、シーピーエム)は[[1970年代]]に[[デジタルリサーチ]] (Digital Research Inc.) の創業者[[ゲイリー・キルドール]]によって開発、[[1976年]]<ref>伏見 (1982:11)</ref>に発売された、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]用のシングルユーザー・[[シングルタスク]]の[[オペレーティングシステム]] (OS) である。
最初は[[8ビット]]の[[CPU]]である[[インテル]]の[[Intel 8080|8080]][[マイクロプロセッサ|プロセッサー]]用に作られ、8ビットのパソコン用OSとしては最も代表的な存在だった。初期に普及したバージョンはCP/M 1.4で、そののち改訂されたCP/M 2.2が広く普及した。さらに、より洗練されたCP/M 3.0 (CP/M Plus) が登場したが、既に[[16ビット]]マシンへの移行が始まっていた時期でもあり普及することはなかった。
他のプロセッサに移植されたバージョンも存在するが、単にCP/Mといえば8080プロセッサ用のもの(中でもバージョン2.2)を指す。なお[[マイクロソフト]]によって[[OEM]]された[[IBM]]の[[IBM PC DOS|PC DOS]](及び、のちにマイクロソフト自らが直販した[[MS-DOS]])は、CP/Mをモデルに開発された[[シアトル・コンピュータ・プロダクツ]]の[[86-DOS]]を前身としている。
== 動作環境 ==
CP/Mは8080マイクロプロセッサ(およびその上位互換CPU)、0番地から配置された[[Random Access Memory|RAM]](最小はCP/M 1.4で16KB)、最低1台の8インチ[[フロッピーディスク]]装置、[[端末|シリアル端末]]([[ブラウン管|CRT]][[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]と[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]、あるいは[[ASR-33]]のような[[テレタイプ端末]])があれば動作した。オプションとして、[[プリンター|プリンタ]]、[[紙テープ]]読取装置・紙テープ穿孔装置、[[ハードディスク]]装置をサポートした。一般的には32KB以上、可能なら56KBくらいのRAMがあると、当時としては大規模なコンパイラなどが実行できた。
<!--
[[MS-DOS|PC DOS]]1.x同様、[[ファイルシステム]]に[[ディレクトリ|階層化構造]]は存在しなかった。
-->
== 構成 ==
CP/Mは、[[シェル]]であるCCP (Console Command Processor)、OSの本体であるBDOS(ビードス、Basic Disk Operating System)、入出力を処理する下位プログラムの集合体である[[Basic Input/Output System|BIOS]](バイオス、Basic Input and Output System)で構成される{{sfn|伏見|1982|p=13}}。ハードウェア依存部分はBIOSに集中させてあるので、BIOSだけを変更することで大抵のハードウェアに移植可能となっていた。BIOSの機能はシステムの初期化、CCPのリブート([[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]実行の終了とシェルの再起動)、[[コンソール]]などの[[キャラクタデバイス]]の[[リダイレクト (CLI)|リダイレクト]]付入出力、フロッピーディスク/ハードディスク等の1[[ディスクセクタ|セクタ]]単位の入出力だけである。
なお、BIOSという用語は一般化して普通名詞となり、[[PC/AT互換機]]の普及以降はROMに記録された低レベル入出力プログラムを指すことが多くなったが、CP/MにおけるBIOSは殆どの場合はディスクからメモリにロードされるものである。
== コマンド ==
=== ビルトインコマンド ===
CCPに内蔵されているコマンドをビルトインコマンド (built-in command) といい、次のようなものがある。
; DIR
; REN
; TYPE
: それぞれ、[[MS-DOS]]の同名コマンドと同様。
; ERA
: MS-DOSのDEL (ERASE)に相当。
; SAVE
: アドレス0100hから、256バイトを1ページとして指定のページ数のメモリイメージをディスクに記録する。
; USER
: ユーザ切り替え。主に、MP/Mでユーザごとに記録されたファイルを扱うために存在する。CP/M単独ではあまり意味がない。
これ以外はトランジェントコマンドに委ねている。
=== トランジェントコマンド ===
フロッピーディスクに実行ファイルとして記録されているコマンドをトランジェントコマンド (transient command)という。
次のようなものがある。
; STAT
: ディスクやファイルのサイズを表示する、ファイルの保護属性を表示・変更する、デバイスのリダイレクト状況を表示・変更する、など様々なシステムの状態を表示・操作する。
; PIP
: 周辺装置やディスクの間でファイルをコピーする([[Peripheral Interchange Program]])。[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]の[[PDPシリーズ]]のコマンドに由来する。
; SUBMIT
: [[バッチファイル]]を実行する。
; ED
: キャラクタ単位のラインエディタ。
; ASM
: 8080用アブソリュート[[アセンブラ]]。
; LOAD
: ASMの出力したオブジェクト([[Intel HEX|インテルHEXフォーマット]])を.COMファイルに変換する。コマンド名から機能を連想しづらいことで有名。
; DUMP
: ファイルの[[16進ダンプ]]ツール。アセンブリソースコードが添付されており、プログラミングのサンプルでもあった。特に、ASCIIダンプがついていなかったため、この機能を追加することは定番の改造だった。
; DDT
: セルフ環境の[[デバッガ]] (Dynamic Debugging Tool)。殺虫剤の[[DDT]]にかけた命名である。
; XSUB
: バッチ処理中にコンソール入力をファイルから取得する際にSUBMITと同時に用いる。CP/M 2.x以降に用意された。
; MOVCPM
: CP/M自身の再配置ツール (move CP/M)。CP/M自身のコードは実装されたRAMの最上位に配置される。つまり、実装メモリが変わるとCP/M自身の配置を変更する必要があった。[[リロケータブル]]でない8080コードで書かれたBDOSとCCPを再配置するためのツールがMOVCPMである。各マシン向けのBIOS (Customized BIOS, CBIOS) はソースコードが供給されるのが普通だったので、インストールする人が自分で再アセンブルすることで必要なアドレスで実行できるバイナリを得られた。
パソコンメーカーが自社製品用に供給するCP/Mのパッケージには、上記以外にもフロッピーのフォーマットやコピー、ハードウェアの設定など独自コマンドが追加されていることが多かった。
なお、トランジェントコマンドがロードされるメモリ上の領域 (0100H - ) をTPA (Transient Program Area) と呼ぶ{{sfn|伏見|1982|p=13}}。
== リブートについて ==
CP/Mの特徴的な仕様の一つに、'''リブート'''(ウォームブート、ウォームスタート){{efn2|通常のコールド・スタートに対してこう呼ばれるようになった。}}がある<ref>{{Harvnb|伏見|1982|p=19}} 大方の概念について言及。</ref>{{efn2|なお、国産機の多く(NEC PC等)は更に通常の電源断からの再起動を「コールドリスタート」、CP/Mのリブート相当の再起動を「ホットリスタート」とも呼ぶ。}}<ref>この2者の用語はNEC PC-8801シリーズやPC-9801シリーズのリファレンスマニュアル等(機種によって構成が違う場合には名称も異なる場合があるので一概に文献名を記載し得ない)に明記されている。</ref>。リブートとは、アプリケーションの終了、または^Cの入力により、ディスクからCCPとBDOSをロードし直してCCPのコマンドラインに戻ることをいう。他のOSのように、[[IPL]]から完全に再起動することを指すわけではない。
リブートは以下の場合に発生する。
* CP/Mのアプリケーションは、終了してOSに戻るために、0番地にジャンプする (JMP 0)。
* CCPのコマンドライン上、またはアプリケーションの動作中に、^Cを入力すると、任意にリブートすることができる。
* ディスクI/Oでエラー(BDOSエラー)が発生した際に、Abort(中断)を選ぶとリブートする。
いずれの場合も最終的にBIOSの先頭にジャンプし、BIOSはドライブAのディスクのシステム領域からCCPとBDOSをメモリにロードし、CCPの先頭にジャンプする。これにより、CCPのコマンドラインに戻ることになる。リブートはCP/Mの使用中に頻繁に発生するので、ドライブAにはCCPとBDOSの入ったフロッピー(通常、CP/Mの起動フロッピー)を入れておく必要がある。
CCPとBDOSをロードするのは、アプリケーションによって破壊されている可能性があるためである。
アプリケーションの動作中にはCCPは不要なので、CP/MのアプリケーションはCCPのメモリ領域を食いつぶしてもよいことになっている。さらに、滅多に存在しないが、BDOSすら利用しないアプリケーションでは、BDOSも食いつぶしてよい。そのため、アプリケーションの終了時にはCCPとBDOSをロードする必要がある。ただし、小規模なアプリケーションでは、JMP 0でなく単にRET命令でCCPに直接戻るものもある。この場合はリブートは発生しない。なお、MS-DOSにおいても、[[COMMAND.COM]]の非常駐部の再ロードという、似たような機能がある。
このようにリブートとはCP/Mにおけるきわめて基本的かつ重要な動作であるが、一方で多くのユーザーにとっては苦い思い出を呼び起こす言葉でもある。
CP/Mでは、フロッピーの入れ替えを検出すると、前のフロッピーのデータを現在のフロッピーに書き込んでしまうことを避けるため、一時的にフロッピーへのアクセスをリードオンリーに限定し、リブートすることで解除する。すなわち、CP/Mでフロッピーを入れ替えるときは、アプリケーションが動作中であればまず終了し、フロッピーを入れ替えてから'''^Cを押さなければならない'''。これを怠って、アプリケーションを終了せずにディスクを入れ替えてリードオンリーになってしまっているフロッピーにデータを書き込もうとすると、BDOSエラーが発生し、データは書き込めず、リブートを余儀なくされ、データは失われる。この事態に見舞われる“よくある状況”としては、フロッピーの残り記録容量が足りないことに気付かずに作業をしている際が挙げられる。こうなると、もはや通常の操作ではその作業結果を残す方法がない。救済方法としては、一旦BDOSエラーを発生させ、saveコマンドで空ディスクにメモリイメージを記録し、サードパーティー製ディスク操作ソフトを使用してその記録内容のうちトランジェントコマンド部分を削除した上ディレクトリ情報を書き換える方法がある。これは推奨された使用方法からは大きく外れた事態であり、救済に失敗することもまれではない。
これはCP/Mの重大な問題点で、この事態に陥ったときに表示される"'''Bdos Err On x: $R/O'''"(x:は[[ドライブレター]])というメッセージは、PC-9800シリーズのMS-DOSの"Int trap halt"や、Windows 3.1の一般保護例外 (GPE)、Windows 95/NTの[[ブルースクリーン|青画面]]、[[Classic Mac OS]]の[[爆弾マーク]]と同様に、ユーザーを恐怖と絶望におとしいれた。
この問題は、後のPersonal CP/MやCP/M Plus、CP/M-86では改善されている。
==歴史==
[[ファイル:CP⁄M Ad, InfoWorld, November 29, 1982.jpg|thumbnail|right|雑誌''{{仮リンク|InfoWorld|en|InfoWorld|label=InfoWorld}}''1982年11月29日号に掲載されたCP/Mの広告]]
==={{Anchors|1.0|1.1|1.2|1.3|1.4}}始まりとCP/Mの全盛期===
キルドールは、インテルから[[マイクロコンピュータ開発システム]] (MDS) 用の[[高級言語]]を受注。[[PL/I]]風に作られた8080用のシステム記述向け言語である[[PL/M]](Programming Language for Microcomputer、後のPL/M-80)[[コンパイラ]]を開発した。
このPL/Mの動作環境として、キルドールがインテルに提案した[[フロッピーディスク]]ベースの[[DOS (OS)|DOS]]があった。これは採用されなかったため、後に自ら販売することにしたものがCP/Mである。インテルは後に8080/8085からの移行を支援するため、[[Intel 8086|8086]]/[[Intel 8088|8088]]用にPL/M-86を開発した。
[[ゲイリー・キルドール]]が1974年に開発したオリジナルのCP/M<ref name="Shustek_2016"/><ref name="Kildall_1993"/>は、[[インテル]][[Intellec|Intellec-8]]開発システム用に開発されたもので、[[シュガートアソシエイツ]]の8インチ[[フロッピーディスク]]ドライブを独自の{{仮リンク|floppy disk controller|en|floppy disk controller|label=フロッピーディスクコントローラー}}<ref name="Kildall_1980_CPM"/>で接続していた。キルドールは自分で開発したマイクロプロセッサ用の[[プログラミング言語]]である[[PL/M]]で記述した<ref name="Kildall_1975_BDOS"/>。キルドールは[[メインフレーム]]コンピュータの[[PDP-10|DECsystem-10]]を開発に使用したことがあり、そのOSである[[TOPS-10]]の影響を大きく受けていた<ref name="johnson"/><ref name="Dr. Dobb's Journal Apr 1976"/><ref name="Digital Research (Firm)"/>。
====名称====
CP/Mは元々Control Program/Monitorの略称で<ref name=CPM.NYT83/>、OSが起動する前の小さな内蔵モニターを意味していた。しかし商品化のため1977年11月に商標登録した際にはControl Program for Microcomputersの略であるとされた<ref name="Kildall_1993"/>。CP/Mの名前は当時流行していたスタイルに従ったもので、例えばキルドールが開発したプログラミング言語はPL/Mであり、プライムコンピュータが開発したプログラミング言語はPL/P (Programming Language for Prime)で、いずれもIBMの[[PL/I]]からインスパイアされた。またIBMにはCP/CMSというオペレーティングシステムがあり、キルドールはNaval Postgraduate School(NPS)で働いている時にこれを使っていた。
CP/Mの名前の変遷は、キルドールと、キルドールの妻であり共同経営者でもあるドロシー・マキュアン<ref name=Kildall.NYT/>が、キルドールの個人的なプロジェクトに過ぎなかったCP/Mと、インテルと契約していたPL/Mをビジネスに変えるための努力の一環だった。IBMとマイクロソフトが後にパソコンの代名詞となったように、デジタルリサーチがマイクロコンピュータの代名詞となることをキルドールは意識していた。
インターギャラクティック・デジタルリサーチは後にデジタルリサーチへと社名変更の登記手続きを行った<ref name=Kildall.NYT/>。
====互換性====
1981年9月までにデジタルリサーチは25万本のCP/Mを販売していた。InfoWorldによるとこれにはサブライセンスが含まれておらず実際のマーケットシェアはさらに大きいとされた。様々な企業が様々なCP/Mマシンを販売した。InfoWorldは「CP/Mがマイクロコンピュータ用のオペレーティングシステムとしてその地位を確実に確立しつつある」と述べた{{R|hogan19810914state}}。非常に多くのアプリケーションがあったため多くのコンピュータメーカーがCP/Mをサポートした。ゼロックスは「文字通り数千本のアプリケーションがあるのにこれをサポートしないのは賢い選択とは言えない」としてXerox 820に対応した<ref name="wise19820510"/>。デジタルリサーチのマニュアルは1982年にInfoWorldから批判されるほど酷く<ref name="meyer19820614"/>、ゼロックスはハワード・サムが執筆したCP/Mマニュアルを同社の製品に同梱した。1984年までに[[コロンビア大学]]はファイル転送プロトコルの[[カーミット (プロトコル)|カーミット]]を1つのソースコードから複数のCP/M機用のバイナリを出力できるようにしており、またどのCP/M機でも動作する汎用版も開発した<ref name="dacruz19840427"/>。このオペレーティングシステムは複数のプログラムが異なるハードウェアと標準的な方法で通信でき、自らをソフトウェア・バスと呼んだ<ref name="Swaine_1997_Entrepreneurship"/>。一部の例外を除き、CP/Mに記述されたプログラムは他のマシンでも動作する互換性があり、[[エスケープシーケンス]]だけを使って[[端末|コンソール]]やプリンタを制御することが互換性を維持するために求められた。この互換性の高さがCP/Mの普及を促し、特定のハードウェアだけで動作するソフトウェアよりもCP/M上で動作するソフトウェアがより多く開発されるようになった。Z80の拡張命令を用いた一部のプログラムは8080や8085で動作しなかった。またグラフィック処理にも互換性の問題があり、特にゲームや映像ソフトはパフォーマンスを稼ぐためにOSやBIOSを経由せず直接ハードウェアにアクセスすることが普通だった(初期のDOS機にも共通の問題があった)。
[[ファイル:M Karte.JPG|thumb|right|アップルの''CP/Mカード''とマニュアル]]
[[ビル・ゲイツ]]によると[[Apple II]]シリーズと[[Z-80 SoftCard]]の組み合わせはCP/Mの動作環境として当時最も普及していた<ref name="bunnell19820203"/>。[[Altair 8800]]、[[IMSAI 8080]]、[[Osborne 1]]、Kaypro luggable、[[MSX]]など、非常に多くの機種で動作した。最も多く売れたCP/M対応システムは{{仮リンク|Amstrad PCW|en|Amstrad PCW|label=アムストラッド PCW}}だと考えられている。イギリスではリサーチマシーンズ社の教育用コンピュータでCP/Mが動作し、CP/Mのソースコードが教育用として添付されたほか、Z80コプロセッサを搭載した[[BBC Micro|BBCマイクロ]]でも動作した。さらに[[Amstrad CPC|アムストラッドCPC]]シリーズ、[[コモドール128]]、[[TRS-80]]、[[ZX Spectrum|ZXスペクトラム]]の後期モデルでも動作した。ACニールセン用に開発された、1MBのSSDメモリを搭載した携帯用マシンであるNIATでもCP/M 3が動作した。
====アプリケーション====
[[ファイル:Wordstar 4 CPM.jpg|thumb|right|8ビット版CP/M用に発売されたワードプロセッサ[[WordStar]]の最終バージョン(バージョン4)の5.25インチフロッピーのインストールディスクとパッケージ。]]
CP/Mは8ビットマイコン市場で広く普及したため、CP/M環境で動作するプログラムが大量に発売されており、ソフトウェア開発用ソフトのみならず1バイト文字圏における[[ビジネスソフトウェア]]も数多くあった。
[[ワードプロセッサ]]として初めて広く普及した[[WordStar]]と、フルスクリーンエディタのWordMaster、マイクロコンピュータ用として初期に人気を博したデータベースの[[DBASE|dBase]]は、いずれも元々はCP/M用に開発された。WordStar/WordMasterのカーソル移動キーバインドは[[ダイヤモンドカーソル]]と呼ばれ、その使いやすさからCP/MやMS-DOSの多くのスクリーンエディタに受け継がれた。初期の[[アウトラインプロセッサ]]であるKAMAS(Knowledge and Mind Amplification System)と、その廉価版であるOut-Think(マクロ機能が削除され8080/V20互換として再設計された)もまたCP/M用に開発され、後にMS-DOSへ移植された。[[Delphi]]の祖先である[[Turbo Pascal]]や、[[Microsoft Excel]]の祖先である[[Microsoft Multiplan|Multiplan]]もCP/Mでリリースされた後にMS-DOSへ移植された。世界初の表計算ソフトである[[VisiCalc]]はCP/M用に作られた。SorcimはCP/M用の表計算ソフト[[SuperCalc]]を開発し、CP/M上では[[デファクトスタンダード]]になった。SuperCalcはMS-DOSの表計算ソフト業界にも参入した。Autodeskは[[AutoCAD]]をCP/Mでリリースした。
[[BASIC]]や[[FORTRAN]]など当時主流の[[プログラミング言語]]を利用できた。[[マイクロソフト]]は、当時[[OEM]]各社より発売していたマイコン用のスタンドアロン[[BASIC]]とは別に、CP/M汎用のBASIC処理系としてM-BASICインタープリタ (MB80) およびコンパイラ (BASCOM) をリリースしていた。他に、[[マクロ (コンピュータ用語)|マクロ]]機能付[[リロケータブルアセンブラ]]MACRO-80やFORTRAN-80、COBOL-80なども製品ラインに存在し、これらの言語製品は当時のマイクロソフトの主力商品だった。
デジタルリサーチ自身は、PL/I-80<ref>{{Cite web
|url=http://bitsavers.informatik.uni-stuttgart.de/pdf/digitalResearch/pl1/PL1_Language_Programmers_Guide_Dec82.pdf
|title=PL/I Language Programmer's Guide |publisher=[[デジタルリサーチ]]|access-date=2019-12-22}}</ref>、 CBASIC(ビジネス向きBASICコンパイラ)、MACとRMAC(マクロアセンブラとリロケータブル・マクロアセンブラ)、Pascal/MT+(MT Microsystemsから買収した[[Z80]]専用コードも生成できるコンパイラで、高速なオブジェクトコードを出力した)などを出荷した。
CP/M上でC言語の処理系として、Leor Zolmanの[[BDS-C]]、Whitesmith、AZTEC、HITECHのCコンパイラ、日本のLSIジャパンのLSI-C80などが有名だった。日本では、ライフボート(当時)とそのOEM供給を受けた[[シャープ]]が、CP/M向けに安価な各種言語のパッケージを販売していた。ラインアップとしては、[[FORTRAN]]、[[COBOL]]、[[LISP]]、[[LOGO]]、[[Prolog]]、BDS-C(サブセット)、[[Pascal]]、[[Forth]]などが存在した。
また、[[統合開発環境]]という概念を打ち立てた[[ボーランド]]の[[Turbo Pascal]]は、WordMasterライクな[[テキストエディタ|スクリーンエディタ]]、極めて高速なコンパイラと、[[リンケージエディタ|リンカ]]のすべてをわずか30KB程度の[[実行ファイル|実行形式]]に組み込んで提供されていた。さらに販売価格も廉価に抑えられていたため、驚きの目で迎えられ一時代を築いた。これは以後のマイコン向け開発用ソフトウェアに影響を与え、同時にボーランド社の地位を確立した。
CP/M用のソフトは様々な機種に対応するために[[インストール|インストーラー]]が付属することが多かった<ref name="mace19840109_16"/>。BASICで開発されたプログラムは簡単にソースコードを見ることができ、[[コピーガード|コピープロテクト]]はほとんど無意味だった<ref name="pournelle198306"/>。Kaypro IIの開発者はXerox 820フォーマットを採用し、Kayproフォーマットと名付けてソフトを提供し、この上でプログラムを実行させた{{R|derfler19821018}}。
グラフィック機能は標準化されておらず[[コンピュータゲーム]]のサポートは限定的であったものの、''{{仮リンク|Telengard|en|Telengard|label=Telengard}}''<ref name="loguidice20120728"/>、''{{仮リンク|Gorillas (video game)|en|Gorillas (video game)|label=Gorillas}}''<ref name="githubgorilla001"/>、''{{仮リンク|Hamurabi (video game)|en|Hamurabi (video game)|label=Hamurabi}}''、''{{仮リンク|Lunar Lander (video game series)|en|Lunar Lander (video game series)|label=Lunar Lander}}''、初期の[[インタラクティブフィクション|テキストアドベンチャー]]である[[ゾーク]]シリーズや''[[コロッサル・ケーブ・アドベンチャー]]''などのテキストベースのゲームが[[移植 (ソフトウェア)|移植]]された。[[インタラクティブフィクション|テキストアドベンチャー]]に強い[[インフォコム (アメリカ合衆国の企業)|インフォコム]]はCP/Mで定期的にゲームをリリースしていた数少ない開発会社だった。
ユーザ・コミュニティでのフリーソフトウェアの流通もあり、当時は[[パブリックドメインソフトウェア|PDS]]と呼ばれていた。当時は通信環境がまだ普及しておらず、フロッピーで配布するのが主流だった。CP/M UGなど、組織的にソフトの収集と配布を行なっていたユーザグループも存在した。{{仮リンク|Lifeboat Associates|en|Lifeboat Associates|label=Lifeboat Associates}}はユーザーが開発したフリーソフトウェアを集めて配布した。[[XMODEM]]はそうしたフリーウェアの初期の作品の1つで、電話から[[モデム]]を使って安定的にファイルを転送できた。
====ディスクフォーマット====
CP/Mの公式な標準フォーマットは[[System/34|IBM System/34]]や[[IBM 3740]]で使われた片面単密度フォーマットの8インチディスクだった。非公式な5.25インチディスクもあり、フォーマットにはKaypro、Morrow Designs、Osborneなどの種類があった<ref name="pournelle198204"/>{{R|meyer19820614}}<ref name="128book"/>。''InfoWorld''は1981年9月に、ソフトウェアメーカーがサポートすべき主なフォーマットは20種類以上あると考えていると推測した<ref name="hogan19810914state"/>。例えばJRT PascalはNorth Star、Osborne、Apple、Heathなどのフォーマットで5.25インチディスクのハードセクタ版やソフトセクタ版をリリースし、Superbrainに8インチ版をリリースした<ref name="byte198212"/>。Ellis ComputingもHeathの両フォーマットや、2つのTRS-80用CP/Mの改変版を含む16種類の5.25インチフォーマットでリリースした<ref name="byte198312"/>。
一部のフォーマットは普及したが他のフォーマットは普及しなかった。最も多くのソフトが採用したのはXerox 820フォーマットで、Kaypro IIなどの他のコンピュータも対応していた<ref name="derfler19821018"/><ref name="byte198309"/>。CP/Mが利用されていた時代は5.25インチディスクのフォーマットが1社に統一されるということは無く、基本的にハードメーカーが異なればフォーマットに互換性がなかった。ソフト自体はどのマシンで動作しても、ソフトメーカーはハード毎にメディアを分けてソフトを販売しなければならなかった。Kayproなど一部のメーカーのディスクドライブは、自社の製品でも機種が変わると互換性がない事すらあった。こうした状況によりフォーマット変換プログラムが流行し、混乱を軽減させる一助になったほか、カーミットなどの通信プロトコルによりどのCP/M機にもある[[RS-232|シリアルポート]]を使ってプログラムやデータを転送することもできた。
様々なフォーマットがハードの特徴や設計者の一存により選ばれた。CP/Mはディスクの予約領域やディレクトリ領域のサイズを指定でき、CP/Mのアプリケーションから見える論理セクタとディスク上の実際の配置である物理セクタのマッピングなどを指定可能だった。各システムはこれらのパラメーターを用いて様々なカスタマイズを加えることができた<ref name="Johnson-Laird_1983"/>が、一度設定を決めた後は、どのような設定のディスクであるのかを調べる標準的な方法がなかった。CP/Mの時代は8インチ、5.25インチ共に様々なフロッピーディスクのフォーマットが存在しており、異なるCP/Mマシンの互換性は採用したディスクドライブのタイプやコントローラーに依存した。ディスクはハードセクタ方式とソフトセクタ方式があり、単密度や倍密度、片面や両面、35トラック、40トラック、77トラック、80トラック、セクタのレイアウト、サイズ、インターリーブなどの様々な違いがあった。異なるマシン用のディスクを読むために変換プログラムを使用できたが、これもまたディスクのタイプやコントローラーに依存した。1982年頃にはソフトセクタ、片面、40トラックの5.25インチディスクがCP/Mソフトの配布用として最も普及したフォーマットとなり、Apple II、TRS-80、Osborne 1、Kaypro II、IBM PCなど当時主流だったマシンのほとんどが採用した。変換プログラムはタイプが近いディスクドライブ用のフォーマットを読むことを可能にした。例えばKaypro IIは[[TRS-80]]、[[Osborne 1|Osborne]]、[[IBM PC]]、{{仮リンク|Epson QX-10|en|Epson QX-10|label=Epson QX-10}}などのディスクを読めた。80トラックのような他のフォーマットや、ハードセクタ方式のディスクは全く読めなかった。Epson QX-10などが採用した両面ディスクは半分だけデータを読むことができた。Apple IIはAppleのGCRフォーマットだけしか読めず他社のフォーマットを読めなかったため、Appleフォーマット版のCP/Mソフトを入手するか、またはシリアルポートで転送するしかなかった。
CP/M市場によるディスクフォーマットの断片化は、複数のフォーマットに対応したディスクの在庫を抱えたり、複数のフォーマットに対応したディスクコピー装置を購入したりすることをソフトメーカーに強いた一方で、[[IBM PC]]はディスクが規格化されて統一されており、1981年以降にCP/Mが急速に市場を失う要因となった。
1985年に発売された[[コモドール128]]は末期に発売されたCP/M機で、6502ベースのCPUを採用しながら、CP/MをサポートするためにZ80も搭載していた。CP/Mを使うには、ソフトセクタ40トラック[[Modified Frequency Modulation|MFM]]方式のディスクが読み書きできるディスクドライブの{{仮リンク|Commodore 1571|en|Commodore 1571|label=1571}}か{{仮リンク|Commodore 1581|en|Commodore 1581|label=1581}}が必須だった。
始めて3.5インチフロッピーを採用した{{仮リンク|Sony SMC-70|en|Sony SMC-70|label=Sony SMC-70}}<ref>{{Cite web |accessdate=2017-10-06
|url=http://www.old-computers.com/museum/computer.asp?c=362
|title=Old-computers.com: The Museum}}</ref>ではCP/M 2.2が動作した。
[[コモドール128]]、ラップトップの{{仮リンク|Bondwell-2|en|Bondwell-2|label=Bondwell-2}}、Micromint/Ciarcia SB-180<ref name="Ciarcia_1985"/>、[[MSX]]、{{仮リンク|TRS-80 Model 4|en|TRS-80 Model 4|label=TRS-80 Model 4}} (Montezuma CP/M 2.2が動作)なども3.5インチディスク版のCP/Mが動作した。{{仮リンク|Amstrad PCW|en|Amstrad PCW|label=アムストラッドPCW}}は当初3インチフロッピーでCP/Mが動作し、後に3.5インチフロッピーへ切り替えた。
====グラフィック====
S-100バス(アルテアバス)に対応したグラフィックシステムは存在していたが、CP/Mは1982年に[[Graphics Environment Manager|GSX]] (Graphics System Extension)をリリースするまでグラフィック機能を全くサポートしていなかった。当時は使用できるメモリが非常に限られており、8ビットのCP/Mでグラフィック機能が一般的になることは無かった。ほとんどの機種ではテキストモードで[[アスキーアート]]により図表を表示するか、機種依存文字を使う事しかできなかった。[[ケイプロ#ハードウェア|Kaypro]]シリーズや{{仮リンク|TRS-80 Model 4|en|TRS-80 Model 4|label=TRS-80 Model 4}}などの一部の機種は絵文字をサポートしており、アセンブラで直接ハードウェアを叩くか、BASICからCHR$コマンドを使ってアクセスすることができた。Model 4はオプションのハイレゾリューションボードで640×240ドットのグラフィックを表示できた。
===マルチユーザー===
1979年に[[マルチユーザー]]に対応したCP/Mがリリースされた。[[MP/M]]は複数のユーザーが1台のコンピューターに接続でき、ユーザーはディスプレイとキーボードを備えた[[端末]]が個別に与えられた。後のバージョンは16ビットCPUで動作した。
==={{Anchors|3.0}}CP/M Plus===
[[ファイル:CP-M Plus System Guide.jpg|thumb|right|CP/M Plus (CP/M 3) システムガイド]]
1983年にリリースされた8ビット版CP/Mの最終版はバージョン3で、CP/M Plusと呼ばれた。CP/M 2.2のアプリケーションと互換性があるMP/Mが持つバンク切り替えによるメモリ管理機能を、MP/Mのシングルユーザー、シングルタスク版という形で導入した。これによりCP/M 3では8080やZ80でも64KB以上のメモリを扱うことができた。ファイルにタイムスタンプを付けるようシステムを設定できた。またアセンブラとリンカが付属した<ref name="Mann83"/>。CP/M 3は、アムストラッドPCW、[[Amstrad CPC|アムストラッドCPC]]、[[ZX Spectrum|ZXスペクトラム+3]]、[[コモドール128]]、[[MSX]]、[[ラジオシャック]]のTRS-80モデル4<ref name="Radio_Shack_1985"/>など、8ビットマイコンの最後の世代で利用できた。
==={{Anchors|CP/M-68K|CP/M-8000|Portable CP/M|GEMDOS}}16ビット版===
[[ファイル:PRO CPM-80.jpg|thumb|right|DEC PRO-CP/M-80のフロッピーディスク。Z80-Aコプロセッサを搭載したDEC Professional 3xxシリーズ用。]]
[[16ビット]]CPU用のCP/Mも存在した。
最初の16ビット版である[[CP/M-86]]は[[Intel 8086]]版で、続けて[[MC68000|モトローラ68000]]版の'''[[CP/M-68K]]'''がリリースされた。1982年にリリースされたオリジナル版のCP/M-68Kは{{仮リンク|Pascal/MT+68k|en|Pascal/MT+68k|label=Pascal/MT+68k}}で開発され、後に[[C言語]]に移植された。混乱を避けるため、オリジナルの[[8ビット]]版CP/Mは'''CP/M-80'''と呼ばれるようになった。1982~1983年頃に{{仮リンク|Olivetti M20|en|Olivetti M20|label=オリベッティM20}}用として[[Z8000]]で動作する'''[[CP/M-8000]]'''がC言語で開発された<ref name="Olmstead"/>。
CP/M-86は[[IBM PC]]の標準OSとなることが期待されていたが、デジタルリサーチと[[IBM]]は開発や契約の話をまとめることができなかった。IBMはマイクロソフトに白羽の矢を立て、マイクロソフトは[[86-DOS]]をもとに[[IBM PC DOS|PC DOS]]を開発して提供した。デジタルリサーチはIBMに対して提訴すると脅し、CP/M-86もIBM PCで利用できるようになったが、マイクロソフトを超えることはできなかった。IBMの設定価格はPC DOSが$40だったのに対してCP/M-86は$240で、その大きな差に顧客は驚かされた<ref>{{Cite web |author1=Jimmy Maher |title=The complete history of the IBM PC, part two: The DOS empire strikes |url=https://arstechnica.com/gadgets/2017/07/ibm-pc-history-part-2/ |website=[[Ars Technica]] |accessdate=September 8, 2019 |page=3 |date=July 31, 2017}}</ref>。
[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]がIBMの対抗馬として発売した{{仮リンク|Rainbow 100|en|Rainbow 100|label=Rainbow 100}}は、Z80を使ったCP/M-80と、8088を使ったCP/M-86及びMS-DOSが付属し、CP/M-86とCP/M-80を同時に使用できた。Z80と8088は並列で動作した<ref name="Kildall_1982_8-bit"/><ref name="snyder198306"/>。Rainbowでは8ビット版CP/Mの大量のソフトウェア資産を続けて利用しながら、16ビットのMS-DOSへ移行することが可能だった<ref name="Kildall_1982_8-bit"/>。
モトローラ{{仮リンク|EXORmacs|en|EXORmacs|label=EXORmacs}}で既に動作していたCP/M-68Kは[[Atari ST]]に搭載されて出荷されるはずだったが、アタリは[[Graphics Environment Manager|GEMDOS]]という新しいDOSを使うことに決めた。CP/M-68KはSORDのM68とM68MXでも使われた<ref name="M68"/>。
16ビット版CP/Mのアプリケーションは新CPU向けに再コンパイルが必要で、もしアプリケーションが[[アセンブリ言語|アセンブラ]]で記述されている場合は、ゲイリー・キルドールが1981年に開発したトランスレーターの[[トランスコンパイラ|XLT86]]を使い、8080用のASMファイルを8086用のA86ファイルに変換した。8080のレジスタがどのように使われているのかを分析し、関数呼び出しを正しく理解して、CP/M-80やMP/M-80用に書かれたアプリケーションを自動的に[[CP/M-86]]やMP/M-86用アプリケーションへコードを最適化しつつ変換することができた。[[トランスコンパイラ|XLAT86]]はそれ自身が[[PL/I|PL/I-80]]で記述されており、CP/M-80だけでなくDEC VMS (VAX 11/750用と11/780用)でも動作した<ref name="DR_1981_XLT"/>。
アーキテクチャの種類ごとに各々トランジェントコマンドの[[拡張子]]が異なっており(CP/M-80:.COM、CP/M-86:.CMD、CP/M-68K:.68Kなど)、同一のファイルシステム内で複数の[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]用のCP/Mを混在させることが出来た。実際の製品としては、[[PC-9800シリーズ]]用のSPARKシリーズがあり、実行を指示されたコマンドを拡張子によって区別し、8086で動作するコマンドと、[[Z80]]で動作するコマンドを混用することが出来た。
===MS-DOSとの競争===
当時多くの人が16ビット機でもCP/Mが標準になるだろうと考えていた<ref name="pournelle198403"/>。1980年にIBMは、[[ビル・ゲイツ]]の提案に従ってデジタルリサーチに連絡を取り<ref name="Isaacson_2014"/>、開発中の[[IBM PC]]に提供する新しいCP/Mのライセンス契約について話し合おうとした。[[秘密保持契約]]を結ぶことができずに話し合いは決裂し、IBMは代わりにマイクロソフトへOSの提供を打診した<ref name="Bellis_2010"/>。その結果生まれた[[MS-DOS]]は間もなくCP/Mより売れるようになった。
初期バージョンのMS-DOSは基本となるコンセプトや仕組みがCP/Mと似ていた。ファイルのデータ構造が同じで、ディスクドライブにドライブレター(<code>A:</code>や <code>B:</code>など)を割り当てる形も同じだった。[[ファイルシステム]]の[[File Allocation Table|FAT]]はCP/Mと比べてMS-DOSが最も違う所だった。全体的に大きな違いがないことから、[[WordStar]]や[[DBASE|dBase]]などのCP/Mの人気ソフトウェアを簡単に移植できた。一方でCP/Mにあった、ユーザーごとにディスクの領域を分割する機能はMS-DOSに採用されることはなかった。IBM PCは一部を除いて64KB以上のメモリを利用できた一方で、CP/Mは16KBのメモリで動作するよう設計されていたため、MS-DOSは多くのメモリを使って[[COMMAND.COM]]の内蔵コマンドを増やすことができ、フロッピーディスクからコマンドを読む必要が減ることで処理が速くなり、OSのフロッピーをアプリケーションやデータファイルのフロッピーに変えても操作できることが増えて使いやすくなった。
8ビット版CP/Mのソフトが利用できるSoftCardのような拡張ボードがIBM PC用にすぐにリリースされたが<ref name="magid1982febmar"/>、マイコン市場がIBM互換機市場に移るにつれてCP/Mのシェアは急速に小さくなり、以前のようなCP/Mブームが再び訪れることはなかった。マイコン業界誌最大手の''[[バイト (雑誌)|Byte]]''誌は、IBM PCがリリースされると1年も経たないうちにCP/M関連商品の記事を事実上扱わなくなった。1983にはS-100ボードの広告がわずかにあり、CP/Mソフトの記事も数件あったが、1987年には全く見られなくなった。1984年に''InfoWorld''が掲載した記事では、企業に普及したCP/Mを一般家庭に広めようとする努力は失敗に終わり、CP/Mソフトは個人で買うには高すぎたとし<ref name="Mace_1984"/>、1986年にはこれまで他社が次々にCP/Mから撤退する中でCP/M用の周辺機器やソフトのリリースを長く続けていたKayproがついに8ビット版CP/M用のソフト開発を中止してMS-DOS互換機の開発販売に集中するという記事が掲載された<ref name="Groth_1986"/>。
後期バージョンのCP/M-86はパフォーマンスや使い勝手で大幅な進化を遂げた。マルチユーザー版のMP/Mからマルチプロセスなどの機能をマージして[[コンカレントCP/M]]となり、[[Linux]]の[[仮想コンソール]]のように画面を切り替えて複数のアプリケーションを使用することができるようになった。MS-DOSとの互換性が実現してDOS Plusと改名され、さらに[[DR-DOS]]と改名された。一方MP/MもDR-DOSから逆マージされ、マルチユーザーDOSに改名した。
===ZCPR===
1982年2月2日に公開されたZCPR<ref>{{Cite web
|url=http://oldcomputers-ddns.org/public/pub/manuals/zcpr
|title=ZCPR - oldcomputers.ddns.org
|access-date=2019-12-22}}</ref> (Z80 Command Processor Replacement)はデジタルリサーチ標準のコンソールコマンドプロセッサ(CPP)をそのまま置き換えるプログラムで、CCPグループと呼ばれる趣味のユーザーグループが開発した。フランク・ワンチョ、キース・ピーターセン({{仮リンク|Simtel|en|Simtel|label=Simtel}}の管理者)、ロン・フローラー、チャーリー・ストローム、ボブ・マティアス、リチャード・コンらが開発に参加した。実際にはリチャードがこのグループを推進していた(全員電子メールで連絡を取り合っていた)。
ZCPR1は[[ニュージャージー州|ニュージャージー]]にあるアマチュアコンピュータークラブのパソコン通信掲示板SIG/M(Special Interest Group/Microcomputers)のメンバー間でディスクを直接手渡しする形で配布された。
ZCPR2は1983年2月14日に公開された。SIG/Mでディスク10枚組のパッケージでリリースされた。ZCPR2は2.3にバージョンアップし、8080版もリリースされ、8080や8085でZCPR2が使えるようになった。
ZCPR3<ref>{{Cite web
|url=http://susowa.homeftp.net/index.php/magazines-mainmenu/morrow-owners-review-mainmenu-143/113-the-wonderful-world-of-zcpr3.html
|title=The Wonderful World of ZCPR3
|date=November 30, 1987
|access-date=2019-12-22}}</ref>は1984年7月14日の[[パリ祭]]の日にSIG/Mからディスク9枚組のパッケージでリリースされた。ZCPR3のソースコードは一部機能を制限することで8080用としてビルドすることができ、[[Z80]]ではない機種でも実行できた。
1987年1月にリチャード・コンがZCPRの開発から撤退し、ZCPRを個人的に3.1へバージョンアップしていた実績のあるジェイ・セージにエシュロンは開発の継続を頼んだ。結果的にZCPR 3.3がリリースされた。ZCPR 3.3は8080系CPUをサポートせず、大きな機能拡張もなかった。
ZCPRバージョン3には以下の機能があった。
* シェル
* エイリアス
* I/Oリダイレクト
* フロー処理
* 名前付きディレクトリ
* 検索パス
* カスタムメニュー
* パスワード
* オンラインヘルプ
ZCPR3.3はまた使い勝手を大幅に改善する数多くのユーティリティがフルセットで付いてきた。当時CP/Mユーザーから熱烈な歓迎を受けたが、ZCPRだけではCP/Mの衰退を止めることはできなかった。
==={{Anchors|SCP|MICRODOS|Eastern derivatives}}旧東ヨーロッパの派生版CP/M===
[[ファイル:Robotron1715SCREEN.gif|thumb|320px|[[ドイツ民主共和国|旧東ドイツ]]の[[ロボトロン]]{{仮リンク|PC 1715|en|PC 1715|label=PC 1715}}で動作する派生版CP/Mの1つ''SCP'']]
SCP({{仮リンク|Single User Control Program|de|Single User Control Program}})、SCP/M、CP/A、CP/KC、CP/L、CP/KSOB、CP/Z、MICRODOS、BCU880、ZOAZ、OS/M、TOS/M、ZSDOS、M/OS、COS-PSA、 DOS-PSA、CSOC、CSOS、CZ-CPMなど、旧東ヨーロッパには非常に多くの派生版CP/M-80が存在した<ref name="Robotron_2019"/><ref name="SCP_2019"/>。またSCP1700、CP/K、K8918-OSなどのCP/M-86の派生版も存在した<ref name="SCP_2019"/>。旧東ドイツの[[ロボトロン]]などが開発していた<ref name="SCP_2019"/><ref name="Robotron_2019"/>。
== 日本での状況 ==
* [[日本電気]] (NEC) の[[PC-8000シリーズ]]/[[PC-8800シリーズ]]、[[シャープ]]の[[MZ (コンピュータ)|MZシリーズ]]/[[X1 (コンピュータ)|X1シリーズ]]など、Z80プロセッサ搭載の8ビットパソコンに移植されたCP/Mのパッケージが、ハードメーカーや[[サードパーティー]]から提供されていた。特にシャープ自ら供給したX1シリーズ用のものは完成度が高く、しかも安価だった。
* NECのワープロ専用機、[[文豪]]ミニ5シリーズは、特定のキーを押しながら電源を入れるとCP/M-80が起動し、パソコンとして利用することができた。
* [[ソニー]]のSMCシリーズのうち、[[SMC-777]]は、CP/M 1.4ベースのSONY FILERというOSを標準搭載した。SMC-70, SMC-70G は、別売りではあったが事実上、CP/M 2.2が標準OSとして利用されていた。
* [[MC6809|6809]]プロセッサを採用した[[富士通]]の[[FM-7|FMシリーズ]]でも、オプションのZ80ボードを搭載することでCP/Mが動作する。ワープロ専用機MY OASYSでも同等のボードが提供されていた。
* シャープの[[MZ-2500]]版はPersonal CP/Mの名前で提供された。
* [[MSX]]に提供された[[MSX-DOS]]は、外見はMS-DOS、中身はCP/MとでもいうべきOSで、CP/Mのソフトがおおむね動作した。
* CP/M-86は、日本語化されたものが[[三菱電機]][[MULTI 16シリーズ|MULTI 16]]、富士通FM-11EX/BS、FM-16β/πなどに標準採用された他、NECの[[PC-9800シリーズ]]にも提供されていた。三菱電機と[[アスキー (企業)|アスキー]]によるCP/M-86の日本語化の過程で三菱電機側の提案で策定されたのが[[Shift JIS|シフトJIS]]である。
* [[MC68000|68000]]プロセッサ用のCP/M-68Kは各社製パソコンに対応する68000搭載拡張CPUボード向けに提供された他、[[東芝パソコンシステム|ソード]]の68000とZ80をデュアル搭載するM68およびシャープ[[X68000]]に提供された。また、X68000の標準添付OSである[[Human68k]]上で動作するCP/M-68kエミュレータが2社から発売された。
* 一部機種には、CP/M PlusやコンカンレントCP/M-86も提供されていた。
* 日本でCD-ROMにて初めてCP/Mシリーズを提供していたのは、LASER 5であった。このCP/MはNEC PC-8801MC2等を使用して実機に導入可能なものである。
== MS-DOSとの比較 ==
{{独自研究|section=1|date=2018年9月}}
初期のMS-DOS/PC DOS(の前身であるシアトルコンピュータプロダクツの[[86-DOS]])は、CP/Mをモデルとして設計されたため、さまざまな面で類似点が見られる。
* ファイル名が[[8.3形式|8文字+3文字]]であり、[[拡張子]]でファイルの種類を区別する。実行可能ファイルの拡張子は.COMである。[[ワイルドカード (情報処理)|ワイルドカード]]「*」「?」がある。ワイルドカード自体はUNIX由来だが、CP/M、MS-DOSとも機能は大幅に簡略化されている。なお、CP/Mでは「ファイルマッチ」の名称を用いる。
* ドライブレター、カレントドライブ、デバイス名などの概念がある。
* [[コマンドプロンプト]]は「>」である(例: A>)。
* DIR、REN、TYPEなどのビルトインコマンドがある。
* ^Sで出力の一時停止、^Cでアプリケーションの中断、^Pでプリンタ出力の切り替えを行う。これもUNIX系のシェル環境由来の機能である。
* CP/MのCCP、BDOS、BIOSの三層構造は、MS-DOSではCOMMAND.COM、MSDOS.SYS、IO.SYS(PC DOSではCOMMAND.COM、IBMDOS.COM、IBMBIO.COM)となる。
* [[システムコール]]の機能や呼び出し方法、アプリケーションのメモリ配置、[[コマンドライン]]引数の渡し方などが酷似している。通常、MS-DOSでシステムコールを利用する場合には「INT 21H」のソフトウェア[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]]を利用するという大原則があるが、「CALL 5H」でもそのまま動作するようになっていた。アセンブラのソースファイルをMS-DOSへ転送後、レジスターの名称を置換するだけで動作するプログラムもある。
* ファイルを削除すると、ディレクトリエントリの先頭バイトがE5Hになる。
:このE5Hという値は、当時フロッピーを物理[[フォーマット (ストレージ)|フォーマット]]する際に書き込まれた値に由来する。つまり、物理フォーマット後に論理フォーマットする必要がないように設計されている。ただし、MS-DOSの場合は[[File Allocation Table|FAT]]やブートセクタを書き込む必要があるため、別途論理フォーマットが必須である。
一方で、以下のような相違点(改善点)もある。
* CP/Mでファイルを削除するERA (ERASE) コマンドに相当するMS-DOSのコマンドは、DEL (DELETE) である。ただしERASEという別名も使用可能。
* CP/MのDIRコマンドは、MS-DOSのDIR/Wに相当する出力形式しかない。ファイルの詳細を知るにはSTATコマンドを使う。
* CP/MのRENコマンドは「REN 新ファイル名 = 旧ファイル名」と書き、さらにMS-DOSのそれとは引数の順序が逆である。
* CP/MではファイルのコピーはトランジェントコマンドのPIPを必要としたが、MS-DOSでは内部コマンドのCOPYで行える。引数の順序もRENコマンドと同様に逆になる。
* CP/Mでは前述したようなフロッピー入れ替えにまつわる問題があるが、MS-DOSではそのようなことはない。
* CP/Mではバッチファイル(.SUB)の実行にはトランジェントコマンドのSUBMITを必要としたが、MS-DOSではCOMMAND.COM自身がバッチファイル実行機能を持っている。
* CP/MではCCPなどのOS構成要素はディスク上の専用領域に格納されるが、MS-DOSではCOMMAND.COMについては通常のファイルと同様の方法で格納されるようになった。
* CP/MのディスクI/Oの基本単位は128バイトであり、ファイルサイズも128バイト単位である{{sfn|伏見|1982|p=120}}。これは、標準メディアが8インチ単密度フロッピー(セクタサイズ128バイト)だったことによる。一方、MS-DOSのディスクI/Oは128/256/512/1024バイトなどの単位で行え、ファイルサイズもバイト単位でとることができる。
* CP/Mのファイルシステムではファイルの配置情報がディレクトリと一体化しており、大きなファイルがあるとディレクトリエントリをいくつも消費するという問題があったが、MS-DOSではFATとして独立している。
また、マイクロソフトがCP/M向けに出していたソフトでは、コマンドラインのスイッチは[[スラッシュ (記号)|スラッシュ]]で始まっており(例: M80 =FOO.MAC /R)、PC DOS/MS-DOS 1.xではこれがOS標準の書式として受け継がれた。
そのため、PC DOS/MS-DOS 2.xで階層ディレクトリを導入する際に、UNIXのようにパス名の区切りにスラッシュを使うことができず、[[バックスラッシュ]]を使うことになった。
しかし、[[ASCII]]のバックスラッシュは[[ISO/IEC 646|ISO 646]]各国版で置き換えが認められており、たとえば日本の[[JIS X 0201]]では[[¥記号|円記号]]になっているため、日本のPCではパス名の区切りが円記号で表示されることになった。
なお、これはコマンドラインに限った話であり、MS-DOSの[[システムコール]]やWindows APIにパス名を渡す場合には、コマンドラインスイッチと混同するおそれがないため、区切りとしてスラッシュもバックスラッシュも受け付ける。
== CP/MとDOSのソースコード比較 ==
2016年に、ザイドマン・コンサルティングのボッブ・ザイドマンは、[[デジタルリサーチ]]が開発したCP/Mとティム・パターソンが開発し、長年前者のコードを基にしたと疑われたDOSのソースコードを比較し、初版のDOSのソースコードがCP/Mのソースコード基にしたかを調べた。
DOSとCP/Mのコマンドを比べると、一致するものは極僅かである。DOSとOS/8のコマンドの間には、DOSとCP/Mの間よりも共通コマンドが多くある。当該コマンドは全て動作を直接表す英単語となることが原因である。
しかし、両OSのシステムコールを分析すると、DOSにあるシステムコールは、明らかにCP/Mの[[システムコール]]を真似るものであることがわかる。同じ機能を表す同じ数字がいくつもあることから、ティム・パターソンがDOSを開発した時にCP/Mの説明書を参考にしたことは明らかである。
ザイドマンの結論は、DOSはCP/Mのコードを一切基にしていないとのことであるものの、システムコールの多くの部分が真似られた<ref>{{Cite journal|author=Bob Zeidman |authorlink=:en:Robert Zeidman |title=Source Code Comparison of DOS and CP/M |date=2016-10-18 |website=scirp.org |publisher=Scientific Research Publishing |journal=Journal of Computer and Communications |volume=4 |issue=No.12 |id={{doi|10.4236/jcc.2016.412001}} |url=https://www.scirp.org/journal/paperinformation.aspx?paperid=71259 |accessdate=2021-10-03 |language=en}}</ref>。
== 現状 ==
デジタルリサーチは[[1991年]]に[[ノベル (企業)|ノベル]]に買収され、さらにカルデラ(2002年[[SCO]]に改称)に売却された。現在CP/M資産は同社の子会社である[[リネオ]]が所持しており、その大半は同社の許諾を受けた「[http://www.cpm.z80.de/ 非公式なCP/Mサイト]」からダウンロードすることが可能である。
現在、日本国内でのCP/Mの[[商標]]は[[技術少年出版]]が保有する<ref>[http://www.gijyutu-shounen.co.jp/info-002.html 株式会社技術少年出版 会社概要]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em|refs=
<ref name=CPM.NYT83>{{Cite news |newspaper=[[ニューヨーク・タイムズ]]
|url=https://www.nytimes.com/1983/05/03/science/personal-computers-the-operating-system-in-the-middle.html
|title=Personal Computers: The Operating System in the middle
|author=Erik Sandberg-Diment |date=May 3, 1983}}</ref>
<ref name=Kildall.NYT>{{Cite news |newspaper=[[ニューヨーク・タイムズ]]
|url=https://www.nytimes.com/1994/07/13/obituaries/gary-kildall-52-crucial-player-in-computer-development-dies.html
|title=Gary Kildall, 52, Crucial Player In Computer Development, Dies
|author=John Markoff |date=July 13, 1994}}</ref>
<ref name="Mann83">{{Cite journal |author-last=Mann |author-first=Stephen |title=CP/M Plus, a third, updated version of CP/M |journal={{仮リンク|InfoWorld|en|InfoWorld|label=InfoWorld}} |date=1983-08-15 |volume=5 |issue=33 |page=49ff |issn=0199-6649}}</ref>
<ref name="Kildall_1975_BDOS">{{Citation
|title=CP/M 1.1 or 1.2 BIOS and BDOS for Lawrence Livermore Laboratories |date=June 1975 |author-first=Gary Arlen |author-last=Kildall |author-link=Gary Arlen Kildall |quote=An excerpt of the BDOS.PLM file header in the PL/M source code of [[CP/M 1.1]] or [[CP/M 1.2]] for [[ローレンス・リバモア国立研究所|Lawrence Livermore Laboratories]] (LLL):}}</ref>
<ref name="Kildall_1980_CPM">{{Cite web |title=The History of CP/M, THE EVOLUTION OF AN INDUSTRY: ONE PERSON'S VIEWPOINT
|author-first=Gary Arlen |author-last=Kildall |author-link=Gary Arlen Kildall
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== 参考文献 ==
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== 関連項目 ==
* [[Intel 8080]]
* [[MSX-DOS]]
* [[MZ-2500]]
* [[SMC-777]]
* [[CP/M-86]]
* [[MS-DOS]]
* [[Human68k]]
* [[OS-9]]
* [[ケイプロ]]
* [[文豪]] - [[日本電気|NEC]]の[[ワープロ専用機]]。ミニ5シリーズでは、CP/M上でワープロソフトウェアが動作していた。
== 外部リンク ==
* [http://www.cpm.z80.de/index.html The Unofficial CP/M Web site]
{{Normdaten}}
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[[Category:CP/M|*]]
[[Category:デジタルリサーチ]]
[[Category:フリーソフトウェアOS]]
[[Category:1976年のソフトウェア]] | null | 2023-04-29T08:05:45Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/CP/M |
2,781 | ゲイリー・キルドール | ゲイリー・アーレン・キルドール(Gary Arlen Kildall、1942年5月19日 - 1994年7月11日)は、アメリカ合衆国のコンピュータ科学者・マイクロコンピュータの起業家である。
オペレーティングシステム・CP/Mを製作し、デジタルリサーチ(DRI, Digital Research, Inc.)を創業したことで知られる。キルドールは、マイクロプロセッサを単なる機器の制御用ではなくより能力のある「コンピュータ」とみなし、このコンセプトで起業した最初の人々の一人だった。彼はPBSのテレビ番組『コンピュータ・クロニクルズ(英語版)』の司会者の一人でもあった。
ゲイリー・キルドールはワシントン州シアトルで生まれ、そこで育った。一家は船乗りのための学校を運営していた。父ジョセフは、ノルウェー人を祖先に持つ船長だった。母エマはスウェーデン系のハーフである。エマの母はスウェーデンのシェレフテオに生まれ、23歳のときにカナダに移住した。
彼は数学教師を志望してワシントン大学(UW)に入学したが、在学中にコンピュータ技術に興味を持つようになった。学士号を受けた後、徴兵義務を果たすためにカリフォルニア州モントレーのアメリカ海軍大学院(NPS)で教授を務めた。また、海軍除隊後も教鞭をとった。勤務地はシリコンバレーから車で1時間以内の距離だった。彼は在職中に世界初の商用マイクロプロセッサであるIntel 4004の話を聞き、4004を購入して実験的なプログラムを書き始めた。プロセッサについてもっとよく知るために、休日にインテルでコンサルタントとして働いた。
彼は短期間だけワシントン大学に戻り、1972年に計算機科学の博士号を受けた後、海軍大学院での教育を再開した。
彼は、今日コンパイラ最適化で使用されるデータフロー解析理論についての論文を発表した。そして、マイクロコンピュータとフロッピーディスクのエマージングテクノロジー(英語版)について実験を続けた。インテルは彼に8008プロセッサと8080プロセッサを使用したシステムを貸し出し、1973年、彼は初のマイクロプロセッサ用の高水準プログラミング言語、PL/Mを開発した。同年、8080でフロッピー・ドライブが制御できるようにCP/Mを作成した。これにより、マイクロコンピュータ・スケールのコンピュータで初めて全ての必要な構成要素が結合された。彼はインテルにCP/Mのデモンストレーションをしたが、インテルはほとんど興味を示さず、その代わりにPL/Mを市場に出すことを選択をした。
1974年、キルドールと彼の妻ドロシーは、CP/Mの開発の継続と販売のためにIntergalactic Digital Research(後にデジタルリサーチに改称)を設立し、ホビイスト向けの雑誌にCP/Mの広告を出した。デジタルリサーチは、Altair 8800の人気のあった互換機であるIMSAI 8080に対しCP/Mをライセンスした。多くのメーカーがCP/Mのライセンスを受けたため、CP/Mはデファクト・スタンダードとなり、多くのハードウェア・バリエーションに対応しなければならなくなった。それに対応するため、キルドールはBIOSの概念を創始した。BIOSはハードウェアに格納された一連の単純なプログラムで、それによりCP/M自体を修正することなく異なるシステム上で動作できるようにした。
CP/Mの素速い成功はキルドールを驚かせた。これほどまでに大当たりするとは思っていなかったと述べている。彼は高密度フロッピーディスクとハードディスクにCP/Mを対応させるのに時間がかかった。ハードウェアメーカーが対抗するオペレーティングシステムを作成することを検討し始めたため、キルドールはあわててCP/M 2を開発する計画を始めた。
CP/Mの人気のピークであった1981年までに、CP/Mは3000種類の異なるコンピューター・モデルで動作し、デジタルリサーチは毎年540万ドルの収益を上げていた。従来にない革新的な機能を持ったCP/Mは爆発的に売れ、設立後わずか数年でデジタルリサーチは急成長を遂げたことで巨万の富を手にした。
1980年、IBMはビル・ゲイツの提案でデジタルリサーチに接近した。IBM PC用CP/M-86と呼ばれるCP/Mの次のバージョンの購入を協議するためだった。彼は同僚のトム・ローランダーと共に自家用飛行機でソフトウェアをビル・ゴッドバウトに届けに行くため、いつものように、IBMとの交渉を妻のドロシーに任せた。IBMの代表は、訪問の目的を説明する前に、ドロシーに秘密保持契約にサインするよう要求した。デジタルリサーチの弁護士ゲリー・デービスのアドバイスに従い、ドロシーはゲイリーの賛成なしで合意に署名することを拒否した。ゲイリーは午後に戻りIBMと協議しようとしたが、彼が秘密保持契約にサインしたかどうか、彼がIBMの代表と会ったかどうかについては、デジタルリサーチ側とIBM側とで話が相反している。
2社が合意に達しなかった理由として多数の説がある。あまり製品を作っていないデジタルリサーチが、主要製品であるCP/Mを一回払いではなくロイヤルティー・ベースで売ろうとしていたのかもしれない。同社がデータゼネラル向けのプログラミング言語PL/Iの開発に忙しかったため、IBMから提案された予定通りにCP/M-86をリリースすることができないと、ドロシーが思っていたのかもしれない。あるいは、彼らが単調な形式と考えたものについてDRIが時間をかけていることに、IBMの代表が怒ったのかもしれない。キルドールによれば、その夜、彼とドロシーは休暇をとるためにフロリダへ行ったので、同じ便にIBMの代表が乗り、機内でさらに交渉して合意に達したという。IBMの主任交渉者のジャック・サムズは、ゲイリーには会っていないと主張しており、IBMの同僚の1人も、サムズがその時にそう言ったことを確認した。代表者グループの他の誰かがキルドールと同じ便に乗っていたかもしれないとサムズは認めたが、それは再びマイクロソフトと交渉するためにシアトルへ向かったのかもしれないとした。
サムズはこの話をゲイツにした。ゲイツは、BASICインタプリタや他のいくつかのプログラムをIBM PCに提供することですでに同意していた。その話についてのゲイツの印象は、ゲイリーが気まぐれに「飛びに行った」ということだったと、ゲイツは後に記者に語った。サムズは、使えるオペレーティングシステムを見つけるために、ゲイツのもとを去り、数週間後、シアトル・コンピュータ・プロダクツ (SCP) の86-DOSを提案した。これは、キルドールのCP/MのAPIの実装する独自に開発されたオペレーティングシステムであった。ポール・アレンが、SCPでライセンスの取引を協議した。アレンが86-DOSをIBMのハードウェアに対応させて、IBMはそれをPC DOSとして出荷した。
キルドールはPC DOSのコピーを入手してそれを調査し、CP/Mのソースコードを使用していると結論づけた。
キルドールはどんな法的手段が利用できるかをゲリー・デービスに相談し、ソフトウェアのための知的所有権法が訴えるのに十分明白でないと、デイビスは話した。
キルドールはIBMを法的措置で脅し、IBMは、責任の免除と引き換えにIBM PCのオプションとしてCP/M-86を提供することを提案した。キルドールはそれを受け入れた。彼は、IBMの新しいシステムは重要な商業的な成功でないと思っていた。IBM PCが発売されたとき、IBMはオペレーティングシステムを別売りのオプションとして販売した。オペレーティングシステム・オプションの1つはPC DOSで、40ドルの値段がつけられた。PC DOSは必要なオプションとみなされ、ほとんどのソフトウェア・タイトルはそれを必要とした。PC DOSがない場合、IBM PCはビルトインのカセットBASICしか使用できなかった。CP/M-86は数ヶ月後に240ドルで出荷されたが、DOSと比べるとほとんど売れず、はるかにより少ないソフトウェアのサポートしか享受できなかった。
IBMとの取引の喪失を受け、ゲイリーとドロシーはより経験豊かな経営陣を引き入れる必要に迫られていることに気づいた。そして、会社に対するゲイリーの影響力は弱くなった。彼は、様々な実験的な研究プロジェクト(マルチタスク版CP/M(MP/M)やプログラミング言語LOGOの実装など)に関わった。彼はLISPの教育的な方言であるLOGOが教育でBASICに取って代わることを望んだが、そうはならなかった。アップルのLisaのデモンストレーションを見た後、キルドールはGraphical Environment Manager(GEM)デスクトップと呼ばれるデジタルリサーチ独自のグラフィカルユーザインタフェースの作成を監督した。1991年、ノベルがデジタルリサーチを買収した。
キルドールは、デジタルリサーチの外でもコンピュータ関連のプロジェクトを進めた。1983年から始まった、パーソナル・コンピューティングの傾向を取り上げる公共放送のテレビ番組『コンピュータ・クロニクルズ(英語版)』の司会者の一人となった。KnowledgeSetという別の会社を起業し、光ディスク技術をコンピュータでの使用に適応させた。1985年に、世界初のコンピュータ百科事典であるグロリアの『アカデミックアメリカン百科事典(英語版)』を公開した。キルドールの最後の事業はテキサス州オースティンに拠点を置くPrometheus Light and Soundで、固定電話と携帯電話を統合した家庭用PBXシステムを開発した。
キルドールの同僚は、彼を創造的で、寛大で、大胆であると言う。飛行機だけでなく、彼はスポーツカー、カーレース、ボート漕ぎ(英語版)が好きだった。そして、彼は生涯にわたって海を愛していた。
キルドールは、IBM事件は過去のものとして、その前後の業績で知られることを望んだ。しかし、彼の貢献についての記憶は薄れて行き、彼とビル・ゲイツとの比較に絶えず直面するようになった。ゲイツとジャーナリストたちによって、宿命的なIBMとデジタルリサーチの会議についての、「キルドールは気晴らしに飛行機に乗るために無責任に休暇をとった」という伝説は次第に成長した。彼はその伝説を絶えず否定するのに嫌気がさした。
1992年、ワシントン大学がコンピューターサイエンス・プログラム記念祭に優秀な卒業生として出席するよう彼に尋ねたとき、キルドールは悩んだ。ハーバードを中退したゲイツが基調演説をしたためである。それに応えて、彼は『Computer Connections』のタイトルで回顧録を書き始めた。回顧録は数人の友人だけに配布されたが、その中で、人々がソフトウェアの優雅さを評価しようとしたかったことに対する欲求不満を表明した。そして、ゲイツについて「彼は対立を生じさせる。彼は巧みに人を扱う。彼はユーザーである。彼は、私と産業から多くの物を奪った」と述べた。加えて、最初の26のシステムコールがCP/Mのものと同じように機能したので、彼はDOSを「明白で単純な窃盗」と述べた。CP/Mを主流から外すためにPC DOSとCP/M-86の価格差をつけたとして、彼はIBMを非難した。
ハロルド・エヴァンズ(英語版)は2004年の著書『They Made America』のキルドールについての章の情報源として、彼の回顧録を使用した。そして、マイクロソフトがキルドールから彼の発明を奪ったと結論づけた。IBM PCプロジェクトからのIBM出身者は、この本の説明に異議を唱えた。マイクロソフトはそれを「一方的で不正確である」と述べた。
ノベルにデジタルリサーチを売却することで、キルドールは裕福になり、オースティン郊外のウェストレイクヒルズへ引っ越した。彼のオースティンの家は湖畔にあり、スポーツカーのための車庫と地階のビデオ・スタジオを備えていた。キルドールは、リアジェットの自家用小型ジェット機を所有して自ら操縦し、湖には1隻以上のボートを所有していた。オースティンでは、エイズの子供たちを助けるボランティア活動に参加した。彼は、デジタルリサーチの本社の近くのカリフォルニア州ペブルビーチで、パノラマのオーシャンビューの大邸宅を所有した。
1994年7月8日、キルドールはカリフォルニア州モントレーのバイカーバー(英語版)で転落して頭部を打った。怪我の正確な状況は不明なままであるが、彼は晩年アルコール中毒で苦しんでいた。負傷の理由は、椅子から落ちたとか、階段で転んだ、または何者かに襲われたといった説がある。3日後の7月11日にモントレー半島(英語版)の公共病院で亡くなった。検死官は、死因を頭部への打撲と特定した。彼が心臓発作を経験していたという証拠もあったが、死因とは確証的に決定されなかった。北シアトルのEvergreen-Washelli Memorial Parkに埋葬されている。
転落事故の前日、NHKスペシャル『新・電子立国』取材班のインタビューに応じ、「ソフトウェアで儲けて車やジェット機を買うのさ」と語った。
キルドールの死の発表の後、ビル・ゲイツは、キルドールは「PC革命の最初のパイオニアの一人」であり「優れた仕事をした非常に創造的なコンピューター科学の専門家である。我々は競争者であったが、私はPC産業への彼の貢献に相当な敬意を常に持っていた。彼の早すぎる死は非常に不運であり、彼の業績は惜しまれる物である」とコメントした。
1995年3月、キルドールはソフトウェア発行者協会(現ソフトウェア・情報産業協会(英語版))によって、マイクロコンピュータ産業への以下の貢献について死後に名誉を与えられた。
2014年4月、パシフィック・グローヴ市は、デジタルリサーチの初期の本社として用いられたキルドールの以前の住居に記念の飾り額を設置した。 | [
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] | ゲイリー・アーレン・キルドールは、アメリカ合衆国のコンピュータ科学者・マイクロコンピュータの起業家である。 オペレーティングシステム・CP/Mを製作し、デジタルリサーチ(DRI, Digital Research, Inc.)を創業したことで知られる。キルドールは、マイクロプロセッサを単なる機器の制御用ではなくより能力のある「コンピュータ」とみなし、このコンセプトで起業した最初の人々の一人だった。彼はPBSのテレビ番組『コンピュータ・クロニクルズ』の司会者の一人でもあった。 | {{Infobox person
| name = ゲイリー・キルドール<br/>Gary Kildall
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| birth_date = {{birth date|1942|5|19}}
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| years_active = 1972年 - 1994年
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}}
'''ゲイリー・アーレン・キルドール'''(Gary Arlen Kildall、[[1942年]][[5月19日]] - [[1994年]][[7月11日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[計算機科学|コンピュータ科学者]]・[[マイクロコンピュータ]]の[[起業家]]である。
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== 若年期 ==
ゲイリー・キルドールは[[ワシントン州]][[シアトル]]で生まれ、そこで育った。一家は船乗りのための学校を運営していた。父ジョセフは、ノルウェー人を祖先に持つ船長だった。母エマは[[スウェーデン]]系のハーフである。エマの母はスウェーデンの[[シェレフテオ]]に生まれ、23歳のときに[[カナダ]]に移住した<ref>{{cite news |first=Ulrika |last=Andersson |title=Skellefteåättling kunde ha varit Bill Gates |work=Norra Västerbotten |date=January 19, 2009 |accessdate=May 7, 2009 |url=http://norran.se/familj/article233923.ece |language=Swedish}}</ref>。
彼は数学教師を志望して[[ワシントン大学 (ワシントン州)|ワシントン大学]](UW)に入学したが、在学中に[[コンピューティング|コンピュータ技術]]に興味を持つようになった。学士号を受けた後、[[徴兵制度|徴兵]]義務を果たすために[[カリフォルニア州]][[モントレー]]の{{仮リンク|アメリカ海軍大学院|en|Naval Postgraduate School}}(NPS)で教授を務めた<ref name="swaine">{{cite journal|first=Michael|last=Swaine|authorlink=Michael Swaine (technical author)|date=1997-04-01|title=Gary Kildall and Collegial Entrepreneurship|journal=Dr. Dobb's Journal|url=http://www.ddj.com/184410428|accessdate=2006-11-20}}</ref>。また、海軍除隊後も教鞭をとった{{Sfn |実録!天才プログラマー |1987 |p=54}}。勤務地は[[シリコンバレー]]から車で1時間以内の距離だった。彼は在職中に世界初の商用マイクロプロセッサである[[Intel 4004]]の話を聞き、4004を購入して実験的な[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]を書き始めた。プロセッサについてもっとよく知るために、休日に[[インテル]]で[[コンサルタント]]として働いた。
彼は短期間だけワシントン大学に戻り、1972年に[[計算機科学]]の博士号を受けた後、海軍大学院での教育を再開した。
彼は、今日[[コンパイラ最適化]]で使用される[[データフロー解析]]理論についての論文を発表した<ref>{{cite journal| first=Gary|last=Kildall| year=1973| title=A Unified Approach to Global Program Optimization| journal=Proceedings of the 1st Annual ACM SIGACT-SIGPLAN Symposium on Principles of Programming Languages| url=http://portal.acm.org/citation.cfm?id=512945&coll=portal&dl=ACM| accessdate=2006-11-20| doi=10.1145/512927.512945| pages=194}}([http://static.aminer.org/pdf/PDF/000/546/451/a_unified_approach_to_global_program_optimization.pdf PDF])</ref>。そして、マイクロコンピュータと[[フロッピーディスク]]の{{仮リンク|エマージングテクノロジー|en|Emerging technologies}}について実験を続けた。インテルは彼に[[Intel 8008|8008]]プロセッサと[[Intel 8080|8080]]プロセッサを使用したシステムを貸し出し、1973年、彼は初のマイクロプロセッサ用の[[高水準言語|高水準]][[プログラミング言語]]、[[PL/M]]を開発した<ref name="swaine"/>。同年、8080でフロッピー・ドライブが制御できるように[[CP/M]]を作成した。これにより、マイクロコンピュータ・スケールのコンピュータで初めて全ての必要な構成要素が結合された。彼はインテルにCP/Mのデモンストレーションをしたが、インテルはほとんど興味を示さず、その代わりにPL/Mを市場に出すことを選択をした。
== 職歴 ==
=== CP/M ===
1974年、キルドールと彼の妻ドロシーは、CP/Mの開発の継続と販売のためにIntergalactic Digital Research(後にデジタルリサーチに改称)を設立し、ホビイスト向けの雑誌にCP/Mの広告を出した。デジタルリサーチは、[[Altair 8800]]の人気のあった互換機である[[IMSAI 8080]]に対しCP/Mをライセンスした。多くのメーカーがCP/Mのライセンスを受けたため、CP/Mは[[デファクト・スタンダード]]となり、多くの[[ハードウェア]]・バリエーションに対応しなければならなくなった。それに対応するため、キルドールは[[Basic Input/Output System|BIOS]]の概念を創始した。BIOSはハードウェアに格納された一連の単純なプログラムで、それによりCP/M自体を修正することなく異なるシステム上で動作できるようにした<ref name="swaine"/>。
CP/Mの素速い成功はキルドールを驚かせた。これほどまでに大当たりするとは思っていなかったと述べている{{Sfn |実録!天才プログラマー |1987 |p=58}}。彼は高密度フロッピーディスクと[[ハードディスクドライブ|ハードディスク]]にCP/Mを対応させるのに時間がかかった。ハードウェアメーカーが対抗するオペレーティングシステムを作成することを検討し始めたため、キルドールはあわててCP/M 2を開発する計画を始めた<ref name="eubanksrecollections">{{cite web|first=Clive|last=Akass|title=Interview: Gordon Eubanks, Former Student & CEO of Oblix, Inc.|work=Recollections of Gary Kildall|publisher=DigitalResearch.biz|url=http://www.digitalresearch.biz/EUBANKS.HTM|accessdate=2006-11-30}}</ref>。
CP/Mの人気のピークであった1981年までに、CP/Mは3000種類の異なるコンピューター・モデルで動作し、デジタルリサーチは毎年540万ドルの収益を上げていた<ref name="swaine"/>。従来にない革新的な機能を持ったCP/Mは爆発的に売れ、設立後わずか数年でデジタルリサーチは急成長を遂げたことで巨万の富を手にした。
=== IBMとの取引 ===
1980年、[[IBM]]は[[ビル・ゲイツ]]の提案でデジタルリサーチに接近した<ref name="Isaacson_2014">{{cite book |first=Walter |last=Isaacson |author-link=Walter Isaacson |title=The Innovators: How a Group of Inventors, Hackers, Geniuses, and Geeks Created the Digital Revolution |title-link=The Innovators: How a Group of Inventors, Hackers, Geniuses, and Geeks Created the Digital Revolution |date=2014 |publisher=[[Simon & Schuster]] |isbn=978-1476708690 |page=358}}</ref>。[[IBM PC]]用[[CP/M-86]]と呼ばれるCP/Mの次のバージョンの購入を協議するためだった。彼は同僚のトム・ローランダーと共に自家用飛行機で[[ソフトウェア]]を[[ビル・ゴッドバウト]]に届けに行くため、いつものように、IBMとの交渉を妻のドロシーに任せた<ref name="chronicles"/><ref name="harddrive">{{cite book|first1=James|last1=Wallace|first2=Jim|last2=Erickson|year=1993|title=Hard Drive: Bill Gates and the Making of the Microsoft Empire|isbn=0-88730-629-2|publisher=HarperBusiness|location=New York}}</ref>。IBMの代表は、訪問の目的を説明する前に、ドロシーに[[秘密保持契約]]にサインするよう要求した。デジタルリサーチの弁護士ゲリー・デービスのアドバイスに従い、ドロシーはゲイリーの賛成なしで合意に署名することを拒否した。ゲイリーは午後に戻りIBMと協議しようとしたが、彼が秘密保持契約にサインしたかどうか、彼がIBMの代表と会ったかどうかについては、デジタルリサーチ側とIBM側とで話が相反している<ref name="fireinthevalley">{{cite book|last1 = Freiberger | first1 = Paul | authorlink1 = Paul Freiberger | first2 = Michael | last2 = Swaine | authorlink2 = Michael Swaine (technical author)|title=Fire in the Valley: The Making of the Personal Computer|origyear=1984|edition=2nd|year=2000|publisher=McGraw-Hill|location=New York|isbn=0-07-135892-7}}</ref>。
2社が合意に達しなかった理由として多数の説がある。あまり製品を作っていないデジタルリサーチが、主要製品であるCP/Mを一回払いではなく[[ロイヤルティー]]・ベースで売ろうとしていたのかもしれない<ref name="young">{{cite journal|first=Jeffrey|last=Young|date= July 7, 1997|title=Gary Kildall: The DOS That Wasn't|journal=Forbes|url= http://www.forbes.com/forbes/1997/0707/6001336a.html|accessdate= August 29, 2011}}</ref>。同社が[[データゼネラル]]向けのプログラミング言語[[PL/I]]の開発に忙しかったため、IBMから提案された予定通りにCP/M-86をリリースすることができないと、ドロシーが思っていたのかもしれない<ref name="evans">{{cite book|first1=Harold|last1=Evans|first2=Gail|last2=Buckland|first3=David|last3=Lefer|year=2004|title=They Made America: From the Steam Engine to the Search Engine: Two Centuries of Innovators|publisher=Little, Brown and Co|isbn=0-316-27766-5}}</ref>。あるいは、彼らが単調な形式と考えたものについてDRIが時間をかけていることに、IBMの代表が怒ったのかもしれない<ref name="harddrive"/>。キルドールによれば、その夜、彼とドロシーは休暇をとるために[[フロリダ]]へ行ったので、同じ便にIBMの代表が乗り、機内でさらに交渉して合意に達したという。IBMの主任交渉者のジャック・サムズは、ゲイリーには会っていないと主張しており、IBMの同僚の1人も、サムズがその時にそう言ったことを確認した。代表者グループの他の誰かがキルドールと同じ便に乗っていたかもしれないとサムズは認めたが、それは再び[[マイクロソフト]]と交渉するためにシアトルへ向かったのかもしれないとした<ref name="harddrive"/>。
サムズはこの話をゲイツにした。ゲイツは、[[BASIC]][[インタプリタ]]や他のいくつかのプログラムをIBM PCに提供することですでに同意していた。その話についてのゲイツの印象は、ゲイリーが気まぐれに「飛びに行った」ということだったと、ゲイツは後に記者に語った<ref>{{cite book|first1=Stephen|last1=Manes|authorlink1=Stephen Manes|first2=Paul|last2=Andrews|year=1992|title=Gates: How Microsoft's Mogul Reinvented an Industry—and Made Himself the Richest Man in America|publisher=Doubleday|isbn=0-671-88074-8}}</ref>。サムズは、使えるオペレーティングシステムを見つけるために、ゲイツのもとを去り、数週間後、[[シアトル・コンピュータ・プロダクツ]] (SCP) の[[86-DOS]]を提案した。これは、キルドールのCP/MのAPIの実装する独自に開発されたオペレーティングシステムであった。[[ポール・アレン]]が、SCPでライセンスの取引を協議した。アレンが86-DOSをIBMのハードウェアに対応させて、IBMはそれを[[IBM PC DOS|PC DOS]]として出荷した<ref name="fireinthevalley"/>。
キルドールはPC DOSのコピーを入手してそれを調査し、CP/Mの[[ソースコード]]を使用していると結論づけた。
キルドールはどんな法的手段が利用できるかをゲリー・デービスに相談し、ソフトウェアのための知的所有権法が訴えるのに十分明白でないと、デイビスは話した<ref name="hamm">{{cite journal|first1=Steve|last1=Hamm|first2=Jay|last2=Greene|title=The Man Who Could Have Been Bill Gates|date=October 25, 2004|journal=[[BusinessWeek]]|url=http://www.businessweek.com/magazine/content/04_43/b3905109_mz063.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060404211733/http://www.businessweek.com/magazine/content/04_43/b3905109_mz063.htm|archivedate=2006-04-04|accessdate=2006-11-13}}</ref>。
キルドールはIBMを法的措置で脅し、IBMは、責任の免除と引き換えにIBM PCのオプションとしてCP/M-86を提供することを提案した<ref>{{cite interview | first=Gordon | last=Eubanks | interviewer=Daniel S. Morrow |date=November 8, 2000 |location=Cupertino, CA | title=Gordon Eubanks Oral History (Computerworld Honors Program International Archives) | url=http://www.cwhonors.org/archives/histories/Eubanks.pdf | accessdate=2006-11-20|format=PDF}}
</ref>。キルドールはそれを受け入れた。彼は、IBMの新しいシステムは重要な商業的な成功でないと思っていた<ref name="scoble">{{cite interview|first=Tom|last=Rolander|interviewer=Robert Scoble|title=Scoble Show|work=PodTech.net|date=2007-08-08|url=http://www.podtech.net/scobleshow/technology/1593/the-rest-of-the-story-how-bill-gates-beat-gary-kildall-in-os-war-part-1|accessdate=2007-09-13}}</ref>。IBM PCが発売されたとき、IBMはオペレーティングシステムを別売りのオプションとして販売した。オペレーティングシステム・オプションの1つはPC DOSで、40ドルの値段がつけられた。PC DOSは必要なオプションとみなされ、ほとんどのソフトウェア・タイトルはそれを必要とした。PC DOSがない場合、IBM PCはビルトインのカセットBASICしか使用できなかった。CP/M-86は数ヶ月後に240ドルで出荷されたが、DOSと比べるとほとんど売れず、はるかにより少ないソフトウェアのサポートしか享受できなかった<ref name="chronicles"/>。
=== その後 ===
IBMとの取引の喪失を受け、ゲイリーとドロシーはより経験豊かな経営陣を引き入れる必要に迫られていることに気づいた。そして、会社に対するゲイリーの影響力は弱くなった。彼は、様々な実験的な研究プロジェクト([[マルチタスク]]版CP/M([[MP/M]])やプログラミング言語[[LOGO]]の実装など)に関わった<ref name="swaine"/>。彼は[[LISP]]の教育的な方言であるLOGOが教育でBASICに取って代わることを望んだが、そうはならなかった<ref name="eulogy">{{cite web|url=http://www.tomrolander.com/GaryKildall/In%20memory%20of%20Gary%20Kildall.htm|accessdate=2006-11-30|first=Tom|last=Rolander|title=Eulogy|date=July 15, 1994|work=Tom Rolander's Website and Album}}</ref>。アップルの[[Lisa (コンピュータ)|Lisa]]のデモンストレーションを見た後、キルドールは[[Graphical Environment Manager]](GEM)デスクトップと呼ばれるデジタルリサーチ独自の[[グラフィカルユーザインタフェース]]の作成を監督した。[[1991年]]、[[ノベル (企業)|ノベル]]がデジタルリサーチを買収した<ref name="hamm" />。
キルドールは、デジタルリサーチの外でもコンピュータ関連のプロジェクトを進めた。1983年から始まった、パーソナル・コンピューティングの傾向を取り上げる[[公共放送]]のテレビ番組『{{仮リンク|コンピュータ・クロニクルズ|en|Computer Chronicles}}』の司会者の一人となった。KnowledgeSetという別の会社を起業し、[[光ディスク]]技術をコンピュータでの使用に適応させた。1985年に、世界初のコンピュータ[[百科事典]]であるグロリアの『{{仮リンク|アカデミックアメリカン百科事典|en|Academic American Encyclopedia}}』を公開した<ref name="fireinthevalley"/>。キルドールの最後の事業は[[テキサス州]][[オースティン (テキサス州)|オースティン]]に拠点を置くPrometheus Light and Soundで、[[固定電話]]と[[携帯電話]]を統合した家庭用[[構内交換機|PBX]]システムを開発した<ref name="swaine"/>。
== 私生活 ==
キルドールの同僚は、彼を創造的で、寛大で、大胆であると言う。飛行機だけでなく、彼は[[スポーツカー]]、[[カーレース]]、{{仮リンク|ボート漕ぎ|en|boating}}が好きだった。そして、彼は生涯にわたって海を愛していた<ref name="chronicles"/><ref name="swaine"/>。
キルドールは、IBM事件は過去のものとして、その前後の業績で知られることを望んだ。しかし、彼の貢献についての記憶は薄れて行き、彼とビル・ゲイツとの比較に絶えず直面するようになった。ゲイツとジャーナリストたちによって、宿命的なIBMとデジタルリサーチの会議についての、「キルドールは気晴らしに飛行機に乗るために無責任に休暇をとった」という伝説は次第に成長した。彼はその伝説を絶えず否定するのに嫌気がさした<ref name="evans"/>。
1992年、ワシントン大学がコンピューターサイエンス・プログラム記念祭に優秀な卒業生として出席するよう彼に尋ねたとき、キルドールは悩んだ。ハーバードを中退したゲイツが基調演説をしたためである。それに応えて、彼は『Computer Connections』のタイトルで回顧録を書き始めた<ref name="hamm"/>。回顧録は数人の友人だけに配布されたが、その中で、人々がソフトウェアの優雅さを評価しようとしたかったことに対する欲求不満を表明した<ref name="eulogy"/>。そして、ゲイツについて「彼は対立を生じさせる。彼は巧みに人を扱う。彼はユーザーである。彼は、私と産業から多くの物を奪った」と述べた。加えて、最初の26の[[システムコール]]がCP/Mのものと同じように機能したので、彼はDOSを「明白で単純な窃盗」と述べた<ref name="gatesshadow">{{cite news| last=Andrews | first=Paul | date=July 14, 1994| title=A Career Spent in Gates' Shadow—Computer Pioneer Dies at 52| work=Seattle Times}}</ref>。CP/Mを主流から外すためにPC DOSとCP/M-86の価格差をつけたとして、彼はIBMを非難した。
{{仮リンク|ハロルド・エヴァンズ|en|Harold Evans}}は2004年の著書『They Made America』のキルドールについての章の情報源として、彼の回顧録を使用した。そして、マイクロソフトがキルドールから彼の発明を奪ったと結論づけた<ref name="evans"/>。IBM PCプロジェクトからのIBM出身者は、この本の説明に異議を唱えた。マイクロソフトはそれを「一方的で不正確である」と述べた<ref name="hamm"/>。
ノベルにデジタルリサーチを売却することで、キルドールは裕福になり、オースティン郊外のウェストレイクヒルズへ引っ越した。彼のオースティンの家は湖畔にあり、スポーツカーのための車庫と地階のビデオ・スタジオを備えていた。キルドールは、[[リアジェット]]の自家用小型ジェット機を所有して自ら操縦し、湖には1隻以上のボートを所有していた。オースティンでは、[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]の子供たちを助けるボランティア活動に参加した。彼は、デジタルリサーチの本社の近くのカリフォルニア州ペブルビーチで、パノラマのオーシャンビューの大邸宅を所有した。
== 事故死 ==
1994年7月8日、キルドールはカリフォルニア州モントレーの{{仮リンク|バイカーバー|en|biker bar}}で転落して頭部を打った<ref>{{cite news |title=The Man Who Gave Bill Gates The World |url=http://www.pcw.co.uk/personal-computer-world/analysis/2162044/man-gave-bill-gates-world}}</ref>。怪我の正確な状況は不明なままであるが、彼は晩年[[アルコール中毒]]で苦しんでいた<ref>{{cite news |title=The Man Who Could Have Been Bill Gates |url=http://www.businessweek.com/magazine/content/04_43/b3905109_mz063.htm}}</ref><ref name="rivlin">{{cite book|first=Gary|last=Rivlin|year=1999|title=The Plot to Get Bill Gates}}</ref>。負傷の理由は、椅子から落ちたとか、階段で転んだ、または何者かに襲われたといった説がある<ref name="young"/>。3日後の[[7月11日]]に{{仮リンク|モントレー半島|en|Monterey Peninsula}}の公共病院で亡くなった。[[検死官]]は、死因を頭部への[[打撲]]と特定した。彼が[[心臓発作]]を経験していたという証拠もあったが、死因とは確証的に決定されなかった<ref name="gatesshadow"/><ref>{{cite news|first=John|last=Markoff|date=July 13, 1994|title=Gary Kildall, 52, Crucial Player In Computer Development, Dies|work=New York Times|page=D19|url=http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F00B10F7395B0C708DDDAE0894DC494D81&n=Top}}</ref><ref>{{cite web|last=Kirkpatrick|first=Don|date=1999-01-12|title=comp.os.cpm Frequently Asked Questions (FAQ)|url=http://www.faqs.org/faqs/CPM-faq/|accessdate=2006-11-20}}</ref>。北シアトルのEvergreen-Washelli Memorial Parkに埋葬されている。
転落事故の前日、[[NHKスペシャル]]『[[新・電子立国]]』取材班のインタビューに応じ、「ソフトウェアで儲けて車やジェット機を買うのさ」と語った。
== 評価 ==
キルドールの死の発表の後、ビル・ゲイツは、キルドールは「PC革命の最初のパイオニアの一人」であり「優れた仕事をした非常に創造的なコンピューター科学の専門家である。我々は競争者であったが、私はPC産業への彼の貢献に相当な敬意を常に持っていた。彼の早すぎる死は非常に不運であり、彼の業績は惜しまれる物である」とコメントした<ref name="chronicles"/>。
1995年3月、キルドールはソフトウェア発行者協会(現{{仮リンク|ソフトウェア・情報産業協会|en|Software and Information Industry Association}})によって、マイクロコンピュータ産業への以下の貢献について死後に名誉を与えられた<ref name="swaine"/>。
*[[プリエンプティブ・マルチタスク]]とウィンドウ生成能力によるオペレーティングシステムおよびとメニュー選択方式ユーザ・インタフェースの導入
*初のディスケット・トラック・バッファリング方式、先読みアルゴリズム、ファイル・ディレクトリ・キャッシュ、[[RAMディスク]]・エミュレータの作成
*1980年代の[[バイナリ・リコンパイラ]]の導入
*初のマイクロプロセッサのための[[プログラミング言語]]と初の[[コンパイラ]]
*最終的に約25万部販売された、初のマイクロプロセッサ・ディスク・オペレーティング・システム
*自動[[ノンリニア編集|ノンリニア再生]]が可能なビデオ・ディスクのための初のコンピュータ・[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]](今日のインタラクティブなマルチメディアの前兆となる)
*初の消費者向け[[CD-ROM]]のためのファイルシステムとデータ構造
*BIOSルーチンでシステムに特有のハードウェア・インタフェースを分離することによる、初の成功した[[オープンシステム]]アーキテクチャ<ref name="Kildall_1975_BDOS"/><ref name="Kildall_1980_CPM"/><ref name="Fischer_2001_Ewing"/><ref name="Fraley_2007_Killian"/>
2014年4月、パシフィック・グローヴ市は、デジタルリサーチの初期の本社として用いられたキルドールの以前の住居に記念の飾り額を設置した<ref>{{cite news|last=Sammon|first=John|title=Computer pioneer honored in Pacific Grove|url=http://www.montereyherald.com/News/Local/ci_25645008/Computer-pioneer-honored-in-Pacific-Grove|newspaper=Monterey Herald|date=2014-04-27}}</ref>。
== 出典 ==
<references>
<ref name="Kildall_1975_BDOS">{{citation
|title=CP/M 1.1 or 1.2 BIOS and BDOS for Lawrence Livermore Laboratories
|date=June 1975
|first=Gary A.
|last=Kildall
<!-- |authorlink=Gary Kildall -->
|quote=An excerpt of the BDOS.PLM file header in the [[PL/M]] source code of [[CP/M 1.1]] or [[CP/M 1.2]] for [[Lawrence Livermore Laboratories]] (LLL):<pre>[...]
/* C P / M B A S I C I / O S Y S T E M (B I O S)
COPYRIGHT (C) GARY A. KILDALL
JUNE, 1975 */
[...]
/* B A S I C D I S K O P E R A T I N G S Y S T E M (B D O S)
COPYRIGHT (C) GARY A. KILDALL
JUNE, 1975 */
[...]</pre><!-- some whitespace removed from original citation -->}}</ref>
<ref name="Kildall_1980_CPM">{{cite web
|title=The History of CP/M, The Evolution of an Industry: One Person's Viewpoint
|first=Gary A.
|last=Kildall
<!-- |authorlink=Gary Kildall -->
|date=January 1980
|publisher=[[Dr. Dobb's Journal]] of Computer Calisthenics & Orthodontia
|pages=6–7
|edition=Vol. 5, No. 1, Number 41
|url=http://www.retrotechnology.com/dri/CPM_history_kildall.txt
|accessdate=2013-06-03
|quote=[...] The first commercial licensing of [[CP/M]] took place in 1975 with contracts between Digital Systems<!-- a company by [[John Torode (physicist)|John Torode]] --> and [[オムロン|Omron of America]] for use in their intelligent terminal, and with [[ローレンス・リバモア国立研究所|Lawrence Livermore Laboratories]] where CP/M was used to monitor programs in the Octopus network. Little attention was paid to CP/M for about a year. In my spare time, I worked to improve overall facilities [...] By this time, CP/M had been adapted for four different controllers. [...] In 1976, [[Glenn Ewing]] approached me with a problem: [[IMS Associates Inc.|Imsai]], Incorporated, for whom Glenn consulted, had shipped a large number of disk subsystems with a promise that an operating system would follow. I was somewhat reluctant to adapt CP/M to yet another controller, and thus the notion of a separated Basic I/O System (BIOS) evolved. In principle, the hardware dependent portions of CP/M were concentrated in the BIOS, thus allowing Glenn, or anyone else, to adapt CP/M to the Imsai equipment. Imsai was subsequently licensed to distribute [[CP/M 1.3|CP/M version 1.3]], which eventually evolved into an operating system called [[IMDOS]]. [...]}}</ref>
<ref name="Fischer_2001_Ewing">{{cite web
|title=Gary Kildall's CP/M: Some early CP/M history - 1976-1977
|first=A. Joseph "Joe"
|last=Killian
|authorlink=Joe Killian
|publisher=[[Thomas Fischer (IMSAI)|Thomas "Todd" Fischer]], [[IMSAI]]
|year=2001
|url=http://www.imsai.net/history/imsai_history/cp-m_history.htm
|accessdate=2013-06-03
|quote=[...] When [[IMSAI|we]] failed to produce an operating system in a timely manner, [[Glenn Ewing|Glenn]] started talking with Gary about [[CP/M|CPM]], which Gary had written for [[インテル|Intel]] under contract. It took several months of twisting Gary's arm to get Gary to port it to the 8080. The final success came when Glenn talked Gary into just separating the I/O from the rest of it, with Glenn promising to re-write the I/O module for the [[IMSAI 8080]] (which he did). So CPM on the [[IMS Associates Inc.|IMSAI]] was a joint effort between Glenn and Gary. [...]}}</ref>
<ref name="Fraley_2007_Killian">{{cite web
|title=Oral History of Joseph Killian, Interviewed by: Bob Fraley, Edited by: Dag Spicer, Recorded: January 26, 2007, Mountain View, California, CHM Reference number: X3879.2007,
|first1=Bob
|last1=Fraley
|first2=Dag
|last2=Spicer
|date=2007-01-26
|publisher=Computer History Museum
|url=http://archive.computerhistory.org/resources/access/text/2012/10/102658016-05-01-acc.pdf
|accessdate=2013-06-03
|quote=[[Joe Killian|Killian]]: "[...] [[インテル|Intel]] had hired him<!-- Gary Kildall --> a few months earlier to write a control program monitor to run on their little demo system for 8008 and now 8080. [...] [[Glenn Ewing|Glenn]] knew this and he would be talking with Gary, and he started twisting Gary's arm. He said, "Hey Gary, why can't we run this in this IMSAI?" "The I/O's all different, won't run." But Glenn persists and finally makes a deal with Gary. He says, "Okay Gary, if you split out the I/O, I'll write the BIOS, basic I/O's system," and Glenn named it then. "We'll split it out separately. I'll write that part, as long as you can make a division in the program there." And he got Gary to do that and Glenn put those two pieces together and was running Gary's CP/M on an IMSAI. Glenn let us know that, and it wasn't too much later than {{仮リンク|ウィルアム・ミラード|en|William Millard (businessman)|label=Bill}} was down there making arrangements with Gary Kildall to license [[CP/M]]. [...] Now that the BIOS is separated out, anybody could write a BIOS for their machine, if it was 8080-based, and run this, so he started selling that separately under the company [[デジタルリサーチ|Digital Research]] that he formed and did quite well."}}
</ref>
</references>
== 参考文献 ==
* Kildall, Gary (1973). "A Unified Approach to Global Program Optimization". ''Proceedings of the 1st Annual ACM SIGACT-SIGPLAN Symposium on Principles of Programming Languages''.
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* Hamm, Steve; Greene, Jay (October 25, 2004). "The Man Who Could Have Been Bill Gates," ''BusinessWeek''.
* {{Cite book|和書
| author= スーザン・ラマース 著、岡 和夫 訳
| title= 実録!天才プログラマー
| year=1987
| date=1987-7-11
| publisher=[[アスキー (企業)|株式会社アスキー]]|isbn = 4-87148-363-0
| ref={{Sfnref |実録!天才プログラマー |1987 }} }}
== 関連項目 ==
* {{仮リンク|マイクロコンピュータ革命|en|Microcomputer revolution}}
== 外部リンク ==
* [https://archive.org/details/GaryKild Computer Chronicles - Gary Kildall Special]. Documentary video originally broadcast in 1995.
* [http://www.digitalresearch.biz/Gary.Kildall.htm Digital Research]: tribute to Dr. Kildall
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* {{Wayback |date=20041010032349 |url=http://www.maxframe.com/DR.HTM |title=Digital Research website }}
* [http://www.cadigital.com/kildall.htm The Gary Kildall Legacy] by Sol Libes
* [http://www.freeenterpriseland.com/BOOK/KILDALL.html The man who could have been richer than Bill Gates]
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* [http://www.intel-vintage.info/apps/videos/videos/show/18129431-intel-ipds-100-cp-m Intel iPDS-100 Using CP/M-Video]
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2,782 | 18世紀 | 18世紀(じゅうはっせいき)は、西暦1701年から西暦1800年までの100年間を指す世紀。
18世紀には、農業生産の飛躍的向上により人口の増加をもたらした農業革命に続き、世界初の工業化である産業革命が起こったことにより、イギリスの生産力が飛躍的に向上した。産業革命の原動力のひとつに大西洋の三角貿易(奴隷貿易)に支えられた砂糖や綿花のプランテーション、そしてそこでの労働力となった黒人奴隷の存在がある。重商主義によりヨーロッパ各国で激しい貿易競争がおこなわれた。オランダの自由貿易は衰え、イギリスとフランスが台頭し両国は、激しい植民地戦争を繰り広げた。一方、18世紀後半のヨーロッパでは、啓蒙主義思想が広がった。
アジアの大帝国の腐敗、弱体化が始まり、それに乗じて西欧諸国のアジア進出が始まった。インドでは、アウラングゼーブのもとムガル帝国が最大領土を実現したが、その死後における数次の継承戦争とマラーター王国を中心とするマラーター同盟の台頭より、19世紀には弱体化した。そして、デリー周辺をかろうじて支配する一勢力に転落し、各地に地方政権が割拠するようになり、イギリス、フランスの進出を許した。オスマン帝国は改革がおこなわれたが大きな成果はなく、腐敗と弱体化がいっそう進んだ。清は乾隆帝の治世で最盛期にあたり人口が増えたため華僑が登場した。内政面で充実し、経済力も増したが、18世紀後期には腐敗が進んだ。また、貿易を巡って西ヨーロッパ諸国と対立するようになっていった。
18世紀のヨーロッパなどでは、自然権や平等、社会契約説、人民主権論など理性による人間の解放を唱える啓蒙思想が広まっていた。この帰結として、18世紀の後半から末にかけてアメリカ独立革命、フランス革命といった市民革命がおこり、市民社会への流れが始まった。一方で、プロイセンやロシア帝国では啓蒙専制君主が登場し、上からの近代化が進められた。
産業革命以後の各国の工業化や資本主義の成立、一連の市民革命以後の市民社会の成立や国民国家の誕生など、19世紀にかけて国や社会のあり方が大きく変容していくことは、近代化の始まりともされる。これらの変革以降は西洋史において近代に区分されている。
科学の分野では、ミュッセンブルークにより静電気を貯める装置「ライデン瓶」が発明されると、これに興味を持ったベンジャミン・フランクリンが雷を伴う嵐のなか凧糸の末端にライデン瓶を接続した凧を揚げ、「雷雲の帯電を証明する」という実験を通じて、雷の正体がelectricity(=電気)であることを明らかにした。それと同時に、このelectricityには"プラスとマイナスの両方の極性があること"も確認したといわれている。フランクリンの観察によって電気技術の基礎となる様々な研究にスポットが当てられ、18世紀末にはアレッサンドロ・ボルタによる、世界最初の化学電池としても知られる「ボルタの電堆」の発明に至った。
18世紀に開花した電気技術は19世紀において、現代の生活に欠かすことのできない電話機、モーター、発電機、白熱電球などの発明に繋がっていく。
18世紀はバッハ(1685-1750)、ハイドン(1732-1809)、モーツァルト(1756-1791)、ベートーヴェン(1770-1827)など、ヨーロッパの多くの大音楽家達が生きた時代でもある。
「典雅さの世紀」とも呼ばれたこの時代に芸術の分野では、豪壮華麗なバロック様式から繊細優美なロココ様式への変質(ただしロココとバロックに明確な区別はない)が見られる。また、この世紀の後半にはポンペイやヘルクラネウムの遺跡発掘に始まる古典・古代への憧憬が高まり、新古典主義様式が隆盛に向かう。
アイスランドのラキ、グリムスボトン、エルトギャウ(英語版)、日本では浅間山(天明大噴火)、岩木山などで激しい火山噴火が起こった。
江戸時代の中期から後期にあたる。江戸初から続いた新田開発ラッシュとそれによる米穀増産のもたらす経済と文化の発展は17世紀末の元禄文化に結実したが、農地開墾可能な土地はすでに枯渇して経済成長は行き詰まり、幕府財政は次第に逼迫していった。八代将軍・徳川吉宗は享保の改革を推し進め、慢性悪化に陥っていた財政の復興を果たしたが、一方で一時凌ぎ的な法令を濫発した事などは却って幕府の権威を弱体化し、社会的な矛盾を残すこととなった。18世紀の後期には田沼意次による重商主義的政策が執られ、幕府の財政状況は一定の改善をみた。だが、田沼による改革は江戸の経済・文化の繁栄をもたらした一方、浅間山の大噴火に代表される天災の続発と諸藩の財政維持のための大阪米市場への飢餓輸出が重なり農民層の困窮を招いて中絶。代わりに老中となった松平定信により儒教的農本主義に基づく守旧的な寛政の改革が進められ、経済・文化の停滞が進んだ。
1703年に元禄地震(相模トラフ巨大地震)、1707年に関東南西部、東海地方〜紀伊半島〜四国にかけて宝永地震(南海トラフ巨大地震)という二つの巨大地震が発生すると、宝永地震から49日後に宝永大噴火が起きた。これは、現在までにおける歴史上最後の富士山の噴火である。
※フランス革命関連人物一覧も参照のこと。 | [
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] | 18世紀(じゅうはっせいき)は、西暦1701年から西暦1800年までの100年間を指す世紀。 | {{出典の明記|date=2012年3月}}
{{centurybox}}
[[ファイル:Prise de la Bastille.jpg|250px|thumb|right|フランス革命。1789年7月14日の「[[バスティーユ襲撃]]」から始まった革命はフランスのみならずヨーロッパ全域に大きな衝撃を与えた。画像は{{仮リンク|ジャン・ピエール・ウエル|fr|Jean-Pierre Houël}}が描いたバスティーユ襲撃([[フランス国立図書館]]蔵)。]]
[[ファイル:Salon de Madame Geoffrin.jpg|250px|thumb|right|「[[啓蒙時代|啓蒙の世紀]](Siècle des Lumières)」。理性による進歩が広く信じられた時代で、多くの啓蒙思想家が[[サロン]]を舞台に活躍した。画像は{{仮リンク|ジョフラン夫人|fr|Marie-Thérèse Rodet Geoffrin}}のサロンに集まる啓蒙思想家たちを描いたシャルル・ガブリエル・ルモニエの絵画([[マルメゾン城|国立マルメゾン城美術館]]蔵)。]]
[[ファイル:An Experiment on a Bird in an Air Pump by Joseph Wright of Derby, 1768.jpg|250px|thumb|right|科学的精神の広がり。イギリスでは科学者間の交流を深める[[ルナー・ソサエティ]](月光協会)などの団体が生まれた。画像はこの協会に影響を受けた[[ジョセフ・ライト (画家)|ジョゼフ・ライト(ライト・オブ・ダービー)]]の「空気ポンプの実験」([[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ロンドン・ナショナル・ギャラリー]]蔵)。]]
[[File:Goya-Capricho-43.jpg|thumb|right|200px|啓蒙時代の裏面。18世紀末になると楽天的な啓蒙思想には重大な疑義が付きつけられるようになる。画像はスペインの画家[[フランシスコ・デ・ゴヤ]]の版画集『ロス・カプリチョス』の「{{仮リンク|理性の眠りは怪物を生む|en|The Sleep of Reason Produces Monsters}}」。]]
'''18世紀'''(じゅうはっせいき)は、[[西暦]][[1701年]]から西暦[[1800年]]までの100年間を指す[[世紀]]。
== 18世紀の歴史 ==
[[ファイル:Maquina vapor Watt ETSIIM.jpg|thumb|right|250px|産業革命。[[ジェームズ・ワット]]の蒸気機関。]]
[[File:Montgolfier brothers flight.jpg|thumb|right|200px|[[18世紀の航空|有人飛行の成功]]。1783年にフランスでは[[モンゴルフィエ兄弟]]が開発した気球により有人飛行が行われた。]]
[[ファイル:Philippe Pinel à la Salpêtrière .jpg|thumb|right|230px|「監禁」から「治療」へ。精神病理学の進展から「[[狂気の歴史|狂気]]」の位置づけが大きく変化した。画像は1795年に閉鎖病棟から精神疾患患者の開放を実現させた[[サルペトリエール病院]]の医師[[フィリップ・ピネル]]を描いた歴史画。]]<br />
[[File:Kant gemaelde 1.jpg|thumb|right|200px|[[ドイツ観念論]]の形成。[[ケーニヒスベルク]]大学教授[[インマヌエル・カント]]は三批判書を通じて人間の主観性を重んじる道徳的で内省的な哲学を作り上げ、ドイツ観念論の先駆けとなった。]]
[[ファイル:Boucher Marquise de Pompadour 1756.jpg|thumb|right|200px|[[ロココ]]様式。画像は芸術の庇護者として知られるフランスのルイ15世の寵妃[[ポンパドゥール夫人]]の肖像画で[[フランソワ・ブーシェ]]によるもの([[アルテ・ピナコテーク]]蔵)。]]
[[ファイル:Pannini, Giovanni Paolo - Musical Fête - 1747.png|thumb|right|250px|[[オペラ]]の隆盛。16世紀末に生まれたオペラはこの世紀までに広範な人気を得て専属の劇場も作られるようになった。画像は[[ローマ]]最古のアルジェンティーナ劇場(1732年に完成)を描いた[[ジョバンニ・パオロ・パンニーニ]]の画。]]
[[File:SchafferBrothersDesignForMagicFlute1793ArrivalOfSarastro.png|thumb|right|250px|「[[魔笛]]」と[[フリーメイソン]]。神童ぶりを謳われた[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の作品の中でもオペラ「魔笛」はこの時代に影響を及ぼしたフリーメイソンの思想が強く反映している。画像はモーツァルト没後まもなく描かれたシェーファー兄弟による「魔笛」の舞台デザイン画でザラストロが到来する場面(1793年)。]]
[[ファイル:Johan Zoffany - Tribuna of the Uffizi - Google Art Project.jpg|250px|thumb|right|「[[グランド・ツアー]]」。古典教養の涵養や芸術品の蒐集なども兼ねて上流階級の旅行が盛んになった。画像は[[ウフィツィ美術館]]のトリブーナを描いた{{仮リンク|ヨハン・ゾッファニー|en|Johan Zoffany}}の絵画。]]
[[ファイル:Jean-François de Troy - Le Déjeuner d’huîtres - Google Art Project.jpg|180px|thumb|right|美食の広がり。宮廷社会の洗練により人々はより美味なるものを求めるようになり、フランスでは「[[ガストロノミー]]」と呼ばれる美食学が成立した。画像は[[1735年]]に描かれた[[ジャン=フランソワ・ド・トロワ]]の「[[牡蠣]]の昼食([[コンデ美術館]]蔵)」。]]
[[ファイル:Scene Carnival Tiepolo1750.jpg|thumb|right|250px|[[ヴェネツィア共和国]]の終焉。18世紀を通じてヴェネツィアは低落傾向を示し、フランス革命戦争の[[カンポ・フォルミオ条約]]でオーストリアに併合される。画像はジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロにより描かれた18世紀半ばのヴェネツィアの[[謝肉祭|カーニバル]]。]]
[[ファイル:Adolph Menzel - Flötenkonzert Friedrichs des Großen in Sanssouci - Google Art Project.jpg|thumb|right|250px|[[フリードリヒ大王]]。オーストリアとの戦いを通じプロイセンを強国に仕立て上げた[[啓蒙専制君主]]。画像は[[アドルフ・フォン・メンツェル]]による[[フルート]]を吹く大王の歴史画([[旧国立美術館 (ベルリン)|ベルリンの旧国立美術館]]蔵)。]]
[[ファイル:Maria Theresia Familie.jpg|thumb|right|200px|[[マリア・テレジア]]。ハプスブルク家を支えオーストリア継承戦争や七年戦争ではプロイセンを向こうに回し戦い続けた。画像は[[マルティン・ファン・マイテンス]]による「[[1755年の皇帝一家の肖像]]([[シェーンブルン宮殿]]蔵)」。]]
[[ファイル:Samson and Lion Fountain.jpg|200px|thumb|[[サンクトペテルブルク]]の建設。スウェーデンに勝利した皇帝ピョートル1世の改革によりロシアの首都は「西欧への窓」と呼ばれたサンクトペテルブルクに遷された。画像はサンクトペテルブルク近郊に造られた「ピョートル大帝の夏の宮殿([[ペテルゴフ]])」。]]
[[File:Dmitry Levitsky - Екатерина II в виде Законодательницы в храме богини Правосудия - Google Art Project.jpg|thumb|right|200px|女帝[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]。夫であるピョートル3世を政変で廃位し、代わってロシアの女帝として登位し、トルコとの戦いやポーランド分割を通じてロシアの強大化を図った。画像は[[ドミトリー・レヴィツキー]]による「正義の女神」に扮するエカチェリーナ2世の肖像画([[モスクワ]]の[[トレチャコフ美術館]]蔵)。]]
[[ファイル:Rejtan Upadek Polski Matejko.jpg|250px|thumb|ポーランド分割。東欧の[[啓蒙専制君主]]たちによりポーランド国家は消滅した。画像はポーランド分割を決議する国会への議員の入場を阻もうとするタデウシュ・レイタンを描いた[[ヤン・マテイコ]]の歴史画。]]
[[File:Mordet på Gustav III.jpg|thumb|right|250px|スウェーデン国王暗殺事件。啓蒙専制君主であった[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]もフランス革命後は反革命派に転じ、国内は政情不安から陰謀が渦巻いた。そして1792年に国王は劇場の仮面舞踏会にて狙撃され絶命するのである。画像はこの事件を伝える版画の挿絵。]]
[[File:O Terramoto de 1755 (1756-92) - João Glama (MNAA).png|thumb|right|250px|[[リスボン大地震]]。1755年11月1日の[[諸聖人の日]]に起きた惨劇で[[リスボン]]市街の80%以上が大破したと伝わる。この混乱を鎮めたのが、啓蒙主義的な宰相[[ポンバル侯爵]]で、危機に乗じて強権的な措置がとられた。画像はジョアン・グラマによるこの地震の寓意図。]]
[[File:Jean-Baptiste van Loo - Robert Walpole.jpg|thumb|right|180px|[[ロバート・ウォルポール]]。[[ハノーヴァー朝]]歴代国王に信任され[[第一大蔵卿]]から[[首相]]となり任期は20年に及んだ。[[責任内閣制]]が固まり、[[ダウニング10番地]]が首相官邸となったのは彼の時代である。]]
[[ファイル:Highland soldier 1744.jpg|thumb|right|180px|[[ジャコバイト]]壊滅。名誉革命後もスコットランドでは[[ステュアート家]]再興を望むジャコバイトの反乱がたびたび起こった。1745年の[[カロデンの戦い]]での大敗でこの動きは沈静化したが、イングランド側は民族衣装の[[キルト]]や[[タータン]]を禁圧する強硬な同化政策を強いた。画像はタータンをまとった[[ハイランド]]連隊の兵士たち。]]
[[ファイル:Benjamin West 005.jpg|thumb|right|250px|[[第二次百年戦争|英仏第二次百年戦争]]。ヨーロッパを越えて新大陸やインドにも植民地をめぐる戦争は拡大した。画像は[[ベンジャミン・ウエスト]]による歴史画で[[フレンチ・インディアン戦争]]([[エイブラハム平原の戦い]])で戦死したウルフ将軍を描いたもの([[カナダ国立美術館]]蔵)。]]
[[ファイル:Washington Crossing the Delaware by Emanuel Leutze, MMA-NYC, 1851.jpg|250px|thumb|[[アメリカ独立戦争]]。この戦争の帰趨はヨーロッパの旧体制にも大きな影響を与えた。画像はエマヌエル・ロイツェによる歴史画「[[デラウェア川を渡るワシントン]]([[メトロポリタン美術館]]蔵)」。]]
[[ファイル:Agostino Brunias - A Linen Market with a Linen-stall and Vegetable Seller in the West Indies - Google Art Project.jpg|right|thumb|250px|[[黒人奴隷]]貿易の最盛期。アフリカから多くの黒人が大西洋を越えて新大陸へ奴隷として運ばれた。画像はアゴスティーノ・ブルニアスの描いた「西インドにおける[[リネン]]市場のリネン露店と野菜販売商」。]]
[[File:Aleijadinho - Prisão de Jesus - Jesus restaura a orelha de Malco - Santuário do Bom Jesus de Matosinhos - Congonhas.jpg|thumb|right|250px|「ブラジルのミケランジェロ」。身体に障害を抱えながら優れた造形感覚により卓越した教会建築や彫刻を残したのがアレイジャディーニョである。画像は[[コンゴーニャス]]の{{仮リンク|ボン・ジェズス・デ・マトジーニョス聖堂|pt|Santuário do Bom Jesus de Matosinhos}}にある「[[キリストの捕縛]]」の場面の群像。]]
[[ファイル:Zoffany Death of Captain Cook.jpg|right|thumb|250px|「ジェームズ・クックの死」。イギリスの海軍士官クックは太平洋各地を探検し新しい知見を得た。しかし最後の航海ではハワイ島住民との争いから殺害された。画像はヨハン・ゾッファニーによる歴史画でロンドンの{{仮リンク|国立海洋博物館|en|National Maritime Museum}}のもの。]]
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[[ファイル:Levni 002 detail.jpg|200px|thumb|[[チューリップ時代]]。18世紀初頭にオスマン帝国は安定期を迎え、西欧文化がスルタン周辺でも盛んに取り入れられた。画像はこの時代を代表するスルタン・[[アフメト3世]]の肖像画で細密画家レヴニーの作。]]
[[ファイル:Diriyahpic.jpg|thumb|right|250px|[[ワッハーブ派]]の発展。イスラム教の原点回帰を目指すワッハーブ運動を受け入れたのがアラビア半島の豪族であった[[サウード家]]のムハンマド・イブン・サウードであった。彼は周囲を征服し[[ディルイーヤ]]を都とする[[第一次サウード王国]]を建国することになる。画像はディルイーヤのサアド・イブン・サウード宮殿の遺跡。]]
[[ファイル:نادر شاه.jpg|right|thumb|200px|アフシャール朝の君主[[ナーディル・シャー]]の肖像。イランのサファヴィー朝を滅ぼし、インドのムガル帝国を急襲し一時的にデリーを制圧するなど「第二のアレクサンドロス」の異名をとる活躍を見せた。]]
[[File:Capture and Sack of Kerman by Agha Mohammad Khan Qajar.png|thumb|right|200px|[[カージャール朝]]の勃興。初代君主[[アーガー・モハンマド・シャー]]は[[テヘラン]]を根拠地として一族をまとめあげ[[ザンド朝]]を倒してペルシアに新王朝を設立した。画像はアーガーが勝敗を決めた[[ケルマーン]]の征服を描いた図。]]
[[File:Peshwa Baji Rao I riding horse.jpg|thumb|right|200px|[[マラータ同盟]]。ムガル帝国が衰退したインドではデカンを根拠地とするマラータ同盟の勢力が拡大した。画像はこの同盟を率いてムガル帝国を翻弄した宰相([[ペーシュワー]])[[バージー・ラーオ]]。]]
[[File:19 Four Women in a Palace Garden, Bundi, mid-18th century, The David Collection , Copenhagen.jpg|thumb|right|200px|[[ラージプート]]絵画。ムガル帝国の衰退とともに各地のヒンドゥー勢力による芸術の振興が図られ、地方の特色を生かした作品が多く生み出された。画像は[[ラージャスターン]]地方の[[ブーンディー]]で1700年代に描かれた宮廷の女性たちの細密画。]]
[[ファイル:Palempore, India, ca. 1750.jpeg|thumb|right|200px|インド[[木綿]]の流行と衰退。ヨーロッパ諸国の需要増大によりインドの木綿産業は18世紀半ばまでに絶頂を迎えた。白綿布は[[キャラコ]]と、染めた綿布はチンツ([[更紗|インド更紗]])と呼ばれ人気を博した。しかし18世紀の後半には産業革命によるイギリス綿織物業の追い上げがあり、次第に衰勢に向かうことになる。]]
[[ファイル:Tipu's Tiger with keyboard on display 2006AH4168.jpg|right|thumb|250px|「マイソールの虎」[[ティプー・スルターン]]。マイソールの君主としてティプー・スルターンは[[第四次マイソール戦争]]ではイギリス軍を相手に壮絶な最期を遂げた。画像は彼が所有していた「ティプーの虎」と呼ばれた自動楽器で白人に飛びかかる虎のデザインが印象的である。]]
[[ファイル:Wat Phra Sri Rattana Satsadaram 12.jpg|thumb|right|250px|[[ワット・プラケーオ]](エメラルド寺院)。[[チャクリー王朝|チャクリー朝]]初代の[[ラーマ1世]]によって建立された仏教寺院。正式名称はワット・シーラッタナーサーサダーラーム。]]
[[File:2015-03-08 Swayambhunath,Katmandu,Nepal,சுயம்புநாதர் கோயில்,スワヤンブナート DSCF4192.jpg|thumb|right|250px|[[ネパール]]の統一。[[ゴルカ]]の[[プリトビ・ナラヤン・シャハ]]王により[[マッラ朝]]の三都体制は崩壊し、[[カトマンズ]]を中心とする[[ゴルカ朝]][[ネパール王国]]が成立した。画像はカトマンズを代表するスワヤンブナート寺院の仏塔と「仏陀の目」。]]
[[ファイル:清 郎世宁绘《清高宗乾隆帝朝服像》.jpg|220px|thumb|清朝の繁栄。[[乾隆帝]]はおよそ60年間の治世で「十全武功」を誇り、東アジアの大帝国の君主として君臨した。画像は[[イエズス会]]士[[ジュゼッペ・カスティリオーネ]](郎世寧)によって描かれたもの。]]
[[ファイル:Lion Forest Garden 3.jpg|250px|thumb|[[蘇州古典園林]]。五代から清にかけて[[蘇州市|蘇州]]では美しい庭園が数多く作られた。画像はその一つ「獅子林」で造営は元代に遡るが、六度の南巡を行った乾隆帝は蘇州に来ると必ず立ち寄り詩を詠むほどの愛好ぶりを示した。]]
[[File:Siku Quanshu Replica of Wenlan Pavilion.jpg|thumb|right|250px|[[乾嘉の学]]。乾隆帝と次の[[嘉慶帝]]の時代にかけて[[考証学]]は大きく花開いた。とりわけ乾隆帝による「[[四庫全書]]」の編纂には総編集の[[紀昀]]を始め[[戴震]]ら考証学者の多くが参加した。画像は西湖博物館所蔵の「四庫全書」文瀾閣本複製。]]
[[ファイル:Traum-der-roten-Kammer.jpg|thumb|right|200px|『紅楼夢』。没落した漢人[[八旗]]の家に生まれた[[曹雪芹]]により描かれた長編小説で、男女の情愛の細かな機微をとらえていることで定評がある。当時の皇帝乾隆帝も目を通したと言われ、身分の上下を問わず「紅迷」と呼ばれる熱狂的なファンも生み出した。画像は徐宝篆の挿絵。]]
[[File:Clevelandart 1944.184 (cropped).jpg|thumb|right|200px|[[清朝]]陶磁器の精華。乾隆帝の時代までに西洋の[[七宝焼]]の技術が導入され、官窯陶磁の絵付けは写実的なものとなり、技巧は極限まで追求された。画像は「粉彩桃文天球瓶」([[クリーブランド美術館]]蔵)。]]
[[ファイル:Le Jardin chinois (detail) by François Boucher.jpg|thumb|right|200px|[[中国趣味]]([[シノワズリ]])。イエズス会士らの報告による清朝の繁栄ぶりは西欧諸国の人々に「幻想の東洋」のイメージを膨らまさせた。画像はフランス人フランソワ・ブーシェによる「中国の庭園(部分 [[ブザンソン]]美術館蔵)」。]]
[[File:The reception of the diplomatique and his suite, at the Court of Pekin by James Gillray.jpg|right|thumb|250px|[[マカートニー]]の来訪。イギリス全権使節として派遣されたマカートニーは[[熱河]]離宮にて既に80歳を超えていた乾隆帝と貿易拡大の交渉を行った。交渉は不調で中国に対する視線は一方的な賛美から批判的なものへと変わっていった。画像はマカートニー使節団を描いたジェイムズ・ギルレイの風刺画(ロンドン・[[ナショナル・ポートレート・ギャラリー]]蔵)。]]
[[ファイル:Irises screen 2.jpg|thumb|right|300px|[[元禄文化]]。17世紀末から18世紀の初めの将軍[[徳川綱吉]]の時代に[[上方]]を中心に豪華で活気ある文化が花開いた。画像は[[尾形光琳]]の「燕子花図屏風」([[東京]]・[[根津美術館]]蔵)。]]
[[File:Utagawa-Kuniyoshi-the-night-attack.jpg|thumb|right|220px|[[忠臣蔵]]。[[大石良雄]]率いる赤穂浪士が[[吉良義央]]を襲撃した「[[赤穂事件]]」は、1748年には『[[仮名手本忠臣蔵]]』として舞台化され大当たりをとったばかりでなく、日本人の倫理観や美意識にも大きな影響を与えた。画像は幕末の浮世絵師[[歌川国芳]]による浪士討ち入りの図。]]
[[File:Arai Hakuseki - Japanischer Gelehrter.jpg|thumb|right|200px|[[正徳の治]]。6代将軍家宣と7代将軍家継の治世に文治政治を進めたのが学者政治家[[新井白石]]である。8代将軍吉宗にその政策の多くは否定されたが、『[[西洋紀聞]]』や『[[采覧異言]]』など重要な著作を残している。画像は新井白石の肖像。]]
[[ファイル:Tokugawa Yoshimune.jpg|240px|thumb|[[享保の改革]]。この改革は8代将軍[[徳川吉宗]]により始められた。これを範として、18世紀半ば以降、復古的な倹約令と綱紀粛正を軸とした幕藩体制維持のため様々な改革が断続して行われることになる。画像は[[徳川記念財団]]所蔵の徳川吉宗の肖像。]]
[[File:MASANOBU-Theater.jpg|thumb|right|250px|[[歌舞伎]]の発展。この時代には成人男性のみが演じ手となる演劇となり、民衆の娯楽として定着した。画像は[[奥村政信]]の「芝居狂言浮絵根元」で[[寛保]]3年([[1743年]])上演の『艤貢太平記』を描いた浮世絵。]]
[[ファイル:Shiba Kokan A meeting of Japan China and the West late 18th century.jpg|200px|thumb|「[[鎖国]]」の中の国際交流。将軍吉宗が漢訳洋書の輸入を緩和したことで「[[蘭学]]」が一世を風靡した。画像は蘭学や海外事情にも詳しかった銅版画家[[司馬江漢]]による日本人、中国人、西洋人の対談の図。]]
[[File:Tanuma Okitsugu2.jpg|thumb|right|220px|[[田沼時代]]。[[田沼意次]]は将軍家治のもとで老中となり[[株仲間]]の奨励など重商主義的な政策を行った。[[蝦夷地]]の開発やロシアとの交易を計画するなど時代に先んじた目を持っていたが、反対派からは賄賂政治と誹謗されていた。画像は田沼意次の肖像。]]
[[File:Tenmei Eruption 1783 Mount Asama Drawing 1.png|thumb|right|220px|[[天明大噴火]]。[[1783年]][[8月5日]](天明3年7月8日)に起きた[[浅間山]]の爆発はそれまでにない規模のもので、[[鎌原村]]など近隣を壊滅させたばかりか[[関東平野]]全体に被害は及んだ。これが[[天明の大飢饉]]を引き起こし、田沼意次失脚の原因ともなった。画像は噴火を描いた「夜分大焼之図」。]]
[[ファイル:Kitagawa Utamaro - Toji san bijin (Three Beauties of the Present Day)From Bijin-ga (Pictures of Beautiful Women), published by Tsutaya Juzaburo - Google Art Project.jpg|200px|thumb|[[錦絵]]から[[大首絵]]へ。町人によって育まれた[[浮世絵]]は[[宝暦・天明文化|宝暦・天明]]年間には江戸を代表する文化として成長していた。画像は[[喜多川歌麿]]の「当時三美人(寛政三美人)」。]]
[[File:Motoori Norinaga.jpg|thumb|right|180px|[[国学]]の展開。幕府の官学となった儒学に対し、国学とは江戸中期以降に日本の古典研究を通じて「[[古道]]」を究めようとした学問を指す。画像は「国学四大人」の一人である「[[本居宣長]]六十一歳自画自賛像(1790年)」。]]
[[ファイル:Ishuretsuzo (Tsukinoe) by Kakizaki Hakyo (MBAA Besancon).jpg|thumb|right|180px|「[[夷酋列像]]」。1789年に起きた[[クナシリ・メナシの戦い]]で[[松前藩]]に協力した[[アイヌ]]の人々を画家[[蠣崎波響]]が記録したもの。画像は列伝に記録されたクナシリ惣乙名ツキノエの肖像画([[ブザンソン美術館]]蔵)。]]
=== 世界 ===
==== ヨーロッパの躍進とアジア大帝国の弱体化 ====
18世紀には、[[農業]]生産の飛躍的向上により[[人口]]の増加をもたらした[[農業革命]]に続き、世界初の[[工業化]]である'''[[産業革命]]'''が起こったことにより、[[イギリス]]の生産力が飛躍的に向上した。産業革命の原動力のひとつに[[大西洋]]の[[三角貿易]]([[奴隷貿易]])に支えられた[[砂糖]]や[[綿花]]の[[プランテーション]]、そしてそこでの労働力となった[[黒人]][[奴隷]]の存在がある。[[重商主義]]により[[ヨーロッパ]]各国で激しい貿易競争がおこなわれた。[[オランダ]]の[[自由貿易]]は衰え、イギリスと[[フランス]]が台頭し両国は、激しい[[植民地]]戦争を繰り広げた。一方、18世紀後半のヨーロッパでは、[[啓蒙主義]]思想が広がった。
[[アジア]]の大帝国の腐敗、弱体化が始まり、それに乗じて西欧諸国のアジア進出が始まった。[[インド]]では、[[アウラングゼーブ]]のもと[[ムガル帝国]]が最大領土を実現したが、その死後における数次の継承戦争と[[マラーター王国]]を中心とする[[マラーター同盟]]の台頭より、19世紀には弱体化した。そして、[[デリー]]周辺をかろうじて支配する一勢力に転落し、各地に地方政権が割拠するようになり、イギリス、フランスの進出を許した。[[オスマン帝国]]は改革がおこなわれたが大きな成果はなく、腐敗と弱体化がいっそう進んだ。[[清]]は乾隆帝の治世で最盛期にあたり人口が増えたため[[華僑]]が登場した。内政面で充実し、経済力も増したが、18世紀後期には腐敗が進んだ。また、貿易を巡って西ヨーロッパ諸国と対立するようになっていった。
==== 市民革命と近代化の始まり ====
18世紀のヨーロッパなどでは、[[自然権]]や[[平等]]、[[社会契約説]]、[[人民主権]]論など[[理性]]による人間の[[解放]]を唱える[[啓蒙思想]]が広まっていた。この帰結として、18世紀の後半から末にかけて'''[[アメリカ独立革命]]'''、'''[[フランス革命]]'''といった[[市民革命]]がおこり、[[市民]]社会への流れが始まった。一方で、[[プロイセン王国|プロイセン]]や[[ロシア帝国]]では[[啓蒙専制君主]]が登場し、上からの[[近代化]]が進められた。
産業革命以後の各国の工業化や[[資本主義]]の成立、一連の市民革命以後の市民社会の成立や[[国民国家]]の誕生など、19世紀にかけて国や社会のあり方が大きく変容していくことは、近代化の始まりともされる。これらの変革以降は[[西洋史]]において[[近代]]に区分されている。
==== 電気技術の夜明け ====
[[科学]]の分野では、[[ミュッセンブルーク]]により[[静電気]]を貯める装置「[[ライデン瓶]]」が[[発明]]されると、これに興味を持った[[ベンジャミン・フランクリン]]が[[雷]]を伴う[[嵐]]のなか凧糸の末端にライデン瓶を接続した[[凧]]を揚げ、「[[雷雲]]の[[帯電]]を証明する」という[[実験]]を通じて、雷の正体がelectricity(=[[電気]])であることを明らかにした。それと同時に、このelectricityには"[[プラス]]とマイナスの両方の[[極性]]があること"も確認したといわれている。フランクリンの[[観察]]によって電気技術の基礎となる様々な[[研究]]にスポットが当てられ、18世紀末には[[アレッサンドロ・ボルタ]]による、世界最初の[[化学電池]]としても知られる「[[ボルタの電堆]]」の発明に至った。
18世紀に開花した電気技術は19世紀において、現代の生活に欠かすことのできない[[電話機]]、[[電動機|モーター]]、[[発電機]]、[[白熱電球]]などの発明に繋がっていく。
==== 18世紀の音楽と芸術 ====
18世紀は[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]](1685-1750)、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]](1732-1809)、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]](1756-1791)、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]](1770-1827)など、ヨーロッパの多くの大[[音楽家]]達が生きた時代でもある。
「典雅さの世紀」とも呼ばれたこの時代に[[芸術]]の分野では、豪壮華麗な[[バロック]]様式から繊細優美な[[ロココ]]様式への変質(ただしロココとバロックに明確な区別はない)が見られる。また、この世紀の後半には[[ポンペイ]]や[[ヘルクラネウム]]の遺跡発掘に始まる古典・古代への憧憬が高まり、[[新古典主義]]様式が隆盛に向かう。
==== 火山の噴火と異常気象 ====
アイスランドの[[ラキ]]、[[グリムスボトン]]、{{仮リンク|エルトギャウ|en|Eldgjá}}、日本では[[浅間山]]([[天明大噴火]])、[[岩木山]]などで激しい[[火山噴火]]が起こった。
=== 日本 ===
==== 元禄文化と江戸の改革 ====
[[江戸時代]]の中期から後期にあたる。江戸初から続いた[[新田]]開発ラッシュとそれによる米穀増産のもたらす[[経済]]と[[文化 (代表的なトピック)|文化]]の発展は[[17世紀]]末の[[元禄文化]]に結実したが、農地開墾可能な土地はすでに枯渇して経済成長は行き詰まり、[[江戸幕府|幕府]][[財政]]は次第に逼迫していった。八代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川吉宗]]は[[享保の改革]]を推し進め、慢性悪化に陥っていた財政の復興を果たしたが、一方で一時凌ぎ的な法令を濫発した事などは却って幕府の[[権威]]を弱体化し、社会的な矛盾を残すこととなった。18世紀の後期には[[田沼意次]]による[[重商主義]]的政策が執られ、幕府の財政状況は一定の改善をみた。だが、[[田沼時代|田沼による改革]]は江戸の経済・文化の繁栄をもたらした一方、[[浅間山]]の[[天明大噴火|大噴火]]に代表される天災の続発と諸藩の財政維持のための大阪米市場への飢餓輸出が重なり農民層の困窮を招いて中絶。代わりに[[老中]]となった[[松平定信]]により[[儒教]]的[[農本主義]]に基づく守旧的な[[寛政の改革]]が進められ、経済・文化の停滞が進んだ。
==== 宝永大噴火 ====
1703年に[[元禄地震]]([[相模トラフ巨大地震]])、1707年に[[関東]]南西部、[[東海地方]]〜[[紀伊半島]]〜[[四国]]にかけて[[宝永地震]]([[南海トラフ巨大地震]])という二つの[[巨大地震]]が発生すると、宝永地震から49日後に[[宝永大噴火]]が起きた<ref>[[小山真人]] [http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/Fuji/hoei1707.html 富士山噴火:過去の前兆や大地震との連動について]</ref>。これは、現在までにおける歴史上最後の[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]の[[噴火]]である。
== できごと ==
=== 1700年代 ===
{{main|1700年代}}
* [[1701年]]
** [[スペイン継承戦争]]( - [[1714年]])。
** イングランドで「[[1701年王位継承法]]」制定。
** ブランデンブルク選帝侯[[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ1世]]がプロイセン王として戴冠([[プロイセン王国]]の成立)。
** [[モントリオール]]で[[イロコイ族]]とフランス・イギリス両植民地政府の間に「偉大なる平和」が結ばれる([[ビーバー戦争]]の終わり)。
** [[イェール大学]]が創設される。
** [[播州]][[赤穂藩]]主[[浅野長矩]]が[[江戸城]]中で[[高家 (江戸時代)|高家肝煎]][[吉良義央]]に斬りつける。
*** 浅野長矩は[[切腹]]の刑となり、[[浅野家]]は[[改易]]される([[赤穂事件]])。
* [[1702年]]
** 赤穂浪士[[大石良雄]]ら四十七士が[[本所松坂町公園|本所松坂町]]の吉良義央を討つ。
** フランスで[[カミザールの乱]]( - [[1705年]])。
** 清で皇太子[[愛新覚羅胤礽|胤礽]]の外戚[[ソンゴトゥ]](索額図)が失脚させられる。
* [[1703年]]
** [[ロシア]]のピョートル1世が新都[[サンクトペテルブルク]]の建設に着工。
** [[メシュエン条約]]がイングランドとポルトガルで結ばれる。
** [[江戸幕府|幕府]]により大石良雄ら赤穂浪士が切腹を命じられる。
** [[長州藩]]が製蝋所を設置。
** [[元禄地震]]([[房総半島|房総]]沖M8.1〜8.5)。
** オスマン帝国皇帝[[アフメト3世]]の即位。
* [[1704年]]
** 教皇クレメンス11世の教皇勅書「クム・デウス・オプティムス」。
*** カトリック信者の[[儒教]]祭儀への参加を禁止し、[[典礼論争]]を差し止めとする。
** フランスの東洋学者[[アントワーヌ・ガラン]]が『[[千一夜物語]]』を初めてヨーロッパに紹介する。
* [[1705年]] - 大阪の豪商[[淀屋]]廣當(辰五郎)が幕府の命により闕所所払に処せられる。
* [[1706年]]
** トーマス・トワイニングがロンドンで「トムズ・コーヒーハウス」を開業([[トワイニング]]社の始まり)。
** [[パラグアイ]]の[[ラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナとヘスース・デ・タバランゲのイエズス会伝道所群|ラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナのイエズス会伝道所]]が設立される。
** 清の康熙帝がイエズス会以外の修道会のキリスト教布教を禁止する。
* [[1707年]]
** [[宝永地震]]([[東海地震|東海]]・[[東南海地震|東南海]]・[[南海地震|南海]]M8.4〜9.3)、[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]][[宝永大噴火]](降灰砂は東方90kmの川崎で5cm・大被害)。
** [[イングランド王国]]と[[スコットランド王国]]の合同で[[グレートブリテン王国]]成立。
*** 以下の年表では「グレートブリテン王国」を「イギリス王国」あるいは「イギリス」と表記する。
** ムガル帝国皇帝[[アウラングゼーブ]]死去、ムガル帝国軍はデカンを撤退し[[デカン戦争]]終結、以後ムガル帝国は急速に衰退。
* [[1708年]]
** 清の[[康熙帝]]が第2皇子胤礽を廃太子とする([[1709年]]に復権するも[[1712年]]に再度廃太子)。
** イタリア人宣教師[[ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ|シドッティ]]が[[屋久島]]に上陸し捕縛される。翌年に江戸へ移送される。
** 教皇クレメンス11世の令状により[[ポール・ロワイヤル修道院]]の廃止が布告される。
** [[マントヴァ公国]]の[[ゴンザーガ家]]が断絶する。
** [[マラーター同盟]]結成( - [[1818年]])。
* [[1709年]]
** [[徳川綱吉]]が64歳で死去し、[[徳川家宣]]が江戸幕府第6代[[征夷大将軍|将軍]]となる。
*** [[生類憐れみの令]]を廃止する。[[新井白石]]が将軍侍講として登用される。
** [[東山天皇]]が譲位し、第114代[[中御門天皇]]が即位。
** [[東大寺]]大仏殿が再建され、落慶供養行われる。
** [[ポルタヴァの戦い]]でロシアが勝利し、スウェーデン国王カール12世はオスマン帝国に亡命。
=== 1710年代 ===
{{main|1710年代}}
* [[1710年]]
** [[閑院宮家]]の設立。[[宝永小判|宝永の改鋳]]。
** [[ドレスデン]]近郊の[[マイセン]]にヨーロッパ最初の王立ザクセン磁器工場が創立される。
** ロンドンの[[セント・ポール大聖堂]]が完成する(1675年 - )。
** [[ジョージ・バークリー]]『[[人知原理論]]』刊行。
* [[1711年]]
** [[清]]の[[康熙帝]]在位50周年に伴い、丁税免除を実施(「盛世滋生人丁」)。
** {{仮リンク|南山集事件|zh|南山案}}。
** 新井白石が[[朝鮮通信使]]の聘礼改革を行う。
** レネ・デュゲイ・トルーアン率いるフランスの[[私掠船]]団が[[リオデジャネイロ]]を襲撃。
* [[1712年]]
** ピョートル1世がモスクワからサンクトペテルブルクに遷都。
** [[勘定奉行]][[荻原重秀]]が罷免される。
* [[1713年]]
** 教皇[[クレメンス11世 (ローマ教皇)|クレメンス11世]]が[[教皇勅書]]「ウニゲニトゥス」で[[ジャンセニスム]]を禁止とする。
** 徳川家宣が死去し、[[徳川家継]]が江戸幕府第7代[[征夷大将軍|将軍]]となる。
** [[ユトレヒト条約]]。
** 神聖ローマ皇帝[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]が国事詔書で領土の分割禁止と長子相続を決定。
** ウダール・ド・ラ・モットの『[[イリアス]]』仏訳を古典学者[[アンヌ・ダシエ|ダシエ夫人]]が批判して[[ホメロス]]論争が起きる。
* [[1714年]]
** [[ラシュタット条約]]。
** [[正徳小判|正徳の改鋳]]。[[江島生島事件]]。
** イギリス女王[[アン (イギリス女王)|アン]]が死去し、[[ステュアート朝]]断絶。
*** [[ハノーヴァー選帝侯]]ゲオルクがイギリス王[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]となり、[[ハノーヴァー朝]]成立。
** [[バーナード・デ・マンデヴィル]]『[[蜂の寓話]]』刊行。
** [[オネガ湖]]の[[キジ島]]に[[顕栄聖堂 (キジ島)|プレオプラジェンスカヤ教会]](顕栄聖堂)が建てられる。
*** 隣接する[[生神女庇護聖堂|ポクローフスカヤ教会]](生神女庇護聖堂(1764年完成))とともに「キジ島の木造教会建築」を形成している。
* [[1715年]]
** [[海舶互市新例]](長崎新令)が定められる。
** スコットランドでマー伯ジョン・アースキンによる[[ジャコバイト]]の反乱。
*** ジェームズ2世の遺児である[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート|ジェームズ老僭王]]がスコットランドに上陸するも反乱は鎮圧される。
** フランス国王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が死去す、曾孫の[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]が即位。
** 教皇クレメンス11世の[[教皇勅書]]「エクス・イラ・ディエ」。
*** [[典礼論争]]における[[イエズス会]]の宣教方法を禁止とする。
* [[1716年]]
** [[徳川家継]]が8歳で死去し、将軍家秀忠系は断絶。
*** [[紀州家]]出身の[[徳川吉宗]]が江戸幕府第8代[[征夷大将軍|将軍]]となり、[[享保の改革]]に着手する。
*** 家継に仕えていた[[間部詮房]]・[[新井白石]]らが[[罷免]]される。[[大奥法度十九箇条]]が出される。
** 清で地丁併徴が進められ[[地丁銀制]]が導入される。
* [[1717年]]
** [[大岡忠相]]越前守が[[江戸町奉行]]就任。
** プロイセンでヨーロッパ最初の[[義務教育]]制度が導入される。
** スペインが[[ヌエバ・グラナダ副王領]]を設置(1723年に廃止の後1739年に再設置)。
** [[トワイニング|トーマス・トワイニング]]がイングランド初の[[紅茶]]専門店「ゴールデン・ライオン」を開業する。
** 近代[[フリーメイソン]]組織であるグランドロッジ・オブ・イングランドが発足する。
* [[1718年]]
** [[四カ国同盟戦争]]。
** フレデリクスハルド要塞攻囲中のスウェーデン国王カール12世が流れ弾により落命。
** [[パッサロヴィッツ条約]]。オスマン帝国の安定により[[チューリップ時代]]始まる( - [[1730年]])。
** ピョートル1世の皇子[[アレクセイ・ペトロヴィチ|アレクセイ]]に死刑判決が下り、処刑直前に獄死。
** フランス領[[ルイジアナ州|ルイジアナ]]の[[ミシシッピ川]]河口付近にヌーヴェル・オルレアン([[ニューオーリンズ]])が建設される。
* [[1719年]]
** 享保4年の[[相対済令]]。
** ファドゥーツ伯爵領とシェレンベルク男爵領とを併せて[[リヒテンシュタイン公国]]が成立。
=== 1720年代 ===
{{main|1720年代}}
* [[1720年]]
** 江戸の[[火消#町火消|町火消]](町人による消防組織)の「いろは組」が設置される。
** 日本でキリスト教以外の漢訳洋書輸入の禁が緩められる。
** ハーグ条約。
*** サヴォイア領シチリア島とオーストリア領サルデーニャ島の領有が交換される。
*** [[サヴォイア公]][[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]]が[[サルデーニャ王国|サルデーニャ王]]の称号を獲得。
** イギリスで[[南海泡沫事件]]が起こる。
*** フランスでも同年[[ミシシッピ計画]]の[[バブル経済|バブル]]が崩壊する。
** イギリスで[[キャラコ]]使用禁止法が出される。
** [[マルセイユのペスト大流行]](ヨーロッパで最後のペスト大流行)。
** [[ハサンプルの戦い]]で、ムガル皇帝[[ムハンマド・シャー]]が[[サイイド兄弟]]を倒す。
* [[1721年]]
** [[ロバート・ウォルポール]]がイギリス最初の[[首相]]となる([[議院内閣制|責任内閣制]]の始まり)。
*** 20年以上にわたる安定政権を築き、戦争回避に努めたのでこの時期を「パクス・ウォルポリアナ(Pax Walpoleana)」と呼ぶ。
** [[ニスタット条約]]により[[大北方戦争]]が終結( - [[1700年]])。
*** [[ロシア]]の勝利による「[[バルト帝国]]」[[スウェーデン]]の没落。
*** ロシアはスウェーデンから[[カレリア]]・[[エストニア]]・[[リヴォニア]]・[[イングリア]]を獲得。
** [[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]が元老院から[[ツァーリ]]([[ロシア皇帝]])に戴冠される([[ロシア帝国]]の始まり)。
*** 同年にピョートル1世は[[モスクワ総主教庁]]を廃止し、[[聖務会院]]を設置。
** [[デンマーク]]の宣教師ハンス・エデゲが[[グリーンランド]]に上陸し先住民[[イヌイット]]に宣教する。
** 吉宗の命令で全国人口調査が初めて行われる(「子午改め」)。この頃、江戸の人口は100万人を超える。
** [[小石川養生所]]完成。
* [[1722年]]
** オランダ海軍提督[[ヤコブ・ロッゲフェーン]]が南太平洋の[[イースター島]]([[ラパ・ヌイ国立公園|ラパ・ヌイ島]])を発見。
** イギリスで[[アタベリー陰謀事件]]。
** オスマン皇帝アフメト3世により{{仮リンク|サーダバード宮殿|en|Sa'dabad Pavilion}}が建設される。
** アフガン系ギルザイ部[[ホータキー朝|ホタキ朝]]のミール・マフムードがサファヴィー朝の都[[イスファハーン]]を制圧。
*** [[ナーディル・シャー]]がサファヴィー朝の[[タフマースブ2世]]を擁立し、実権を握る。
** [[清]]の[[雍正帝]]が第5代皇帝に即位。
* [[1723年]]
** ジュンガルの[[カザフ・ハン国|カザフ地方]]侵攻(大いなる災厄([[アクタバン・シュブルンドゥ]]))。
** [[清]]で[[改土帰流]]が行われる。清でキリスト教布教が全面的に禁止される。
** [[足高の制]]。
* [[1724年]]
** 神聖ローマ皇帝カール6世が国事詔書で領土の分割禁止に加え女子相続の承認を決定。
** [[シャカル・ケーダーの戦い]]で、[[カマルッディーン・ハーン]]がムガル朝に勝利し[[ニザーム王国]]を独立させる。
** 五同志が[[大坂]][[船場]]に[[懐徳堂]]を創設。
* [[1725年]]
** [[雍正のチベット分割]]。
** ロシア皇帝ピョートル1世死去、その皇后が女帝[[エカチェリーナ1世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ1世]]として即位。
** ローマ市内の「[[スペイン広場 (ローマ)|スペイン階段]](スパーニャ階段)」が完成する。
* [[1726年]]
** 『[[古今図書集成]]』の刊行。
** [[ジョナサン・スウィフト|スウィフト]]が『[[ガリヴァー旅行記]]』を出版する。
* [[1727年]]
** [[キャフタ条約 (1727年)|キャフタ条約]]。
** イギリス国王ジョージ1世が死去、[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]](ジョージ・オーガスタス)が即位。
*** 王の名にちなみこの時代を[[オーガスタン時代]]またはジョージアン時代と呼ぶ。
** [[モラヴィア兄弟団]]が結成される。
** [[イブラヒム・ミュテフェッリカ]]によりイスラム教徒最初の活版印刷所が[[イスタンブル]]に創設される。
** [[ラージャスターン]]地方の[[アンベール王国]]の君主[[ジャイ・シング2世]]が、首都を[[アンベール]]から[[ジャイプル]]へと遷都。
* [[1728年]]
** [[文字の獄]]で{{仮リンク|曾静|zh|曾静}}が逮捕され、影響を与えた[[呂留良]]の著作が処分される。
** 徳川吉宗の命で[[ベトナム]]から[[象]]が輸入される。
*** 京都で中御門天皇の上覧があり([[広南従四位白象]])、江戸では将軍吉宗も見物するなど、各地で象ブームが起こる。
** [[天一坊事件]]。
** [[オヨ王国]]が[[ダホメ王国]]を服属させる。
** [[イーフレイム・チェンバーズ]]が『[[サイクロペディア|サイクロペディア、または諸芸諸学の百科事典]]』を刊行。
* [[1729年]]
** 清で[[軍機処]]の前身である軍機房が設置される。
** 清の雍正帝により編纂された『[[大義覚迷録]]』が刊行される。
** [[コルシカ独立戦争]]( - [[1769年]])。
=== 1730年代 ===
{{main|1730年代}}
* [[1730年]]
** オスマン帝国で{{仮リンク|パトロナ・ハリル|en|Patrona Halil}}の反乱、チューリップ時代終わる。
*** 大宰相{{仮リンク|ネヴシェヒルリ・イブラヒム・パシャ|en|Nevşehirli Damat Ibrahim Pasha}}が殺害され、皇帝アフメト3世が退位させられる。
** カザフ人の君主[[アブル=ハイル・ハン (小ジュズ)|アブル=ハイル・ハン]]がロシアに臣従する。
** プロイセンの[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ王子]]が逃亡に失敗し捕えられる。
** [[大坂]]の[[堂島]]で世界初の[[先物取引]]がおこなわれる。
* [[1731年]]
** 徳川幕府からの招聘により清の画家[[沈南蘋]]が来日する( - [[1733年]])。
** [[山井鼎]]・[[荻生北渓]]『七経孟子攷文』刊行。
** [[パルマ公国]]の[[ファルネーゼ家]]男系が断絶する。
* [[1732年]]
** [[享保の大飢饉]]。[[林鳳岡]]による『[[華夷変態]]』が編纂される。
** 教皇[[クレメンス12世 (ローマ教皇)|クレメンス12世]]の命で[[トレヴィの泉]]の建設が始まる( - [[1762年]])。
** マラータ同盟の宰相バージー・ラーオによる[[プネー]]の[[シャニワール・ワーダー]]宮殿が完成する。
* [[1733年]]
** [[ポーランド継承戦争]]( - [[1735年]])。
** プロイセンで[[カントン制度]]([[徴兵制度|選抜徴兵制]])を導入。
** [[ヴォルテール]]の『哲学書簡』がイギリスで出版される。
** [[ジョージア植民地]]が設立される(イギリス系アメリカ[[13植民地]]の最後)。
* [[1734年]]
** [[ビトントの戦い]]で、スペイン軍がオーストリア軍に勝利。
*** スペイン王子のパルマ公[[カルロス3世 (スペイン王)|ドン・カルロス]]が南イタリアを征服し、[[両シチリア王国|ナポリ・シチリア国王]]カルロ7世として即位。
* [[1735年]]
** 中御門天皇が譲位し、第[[115]]代[[桜町天皇]]が即位。
** [[清]]の雍正帝が死去、最初の[[太子密建]]により[[乾隆帝]]が第6代皇帝に即位。
* [[1736年]]
** [[イラン]]の[[サファヴィー朝]]を滅ぼし、ナーディル・シャーが[[アフシャール朝]]を開く。
** [[元文小判|元文の改鋳]]。
* [[1737年]]
** [[マラーター王国]]がムガル帝国の首都[[デリー]]を攻撃([[デリーの戦い (1737年)|デリーの戦い]])。
** [[トスカーナ大公]][[ジャン・ガストーネ・デ・メディチ|ジャン・ガストーネ]]の死去に伴い[[メディチ家]]が断絶。
** ハノーファー選帝侯国に[[ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン|ゲッティンゲン大学]]が創設される。
* [[1738年]]
** 教皇クレメンス12世が教皇勅書「{{仮リンク|イン・エミネンティ|en|In eminenti apostolatus}}」で初めて[[フリーメイソン]]を排斥する。
** [[アフシャール朝]]の[[ナーディル・シャー]]がギルザイ族を倒し[[カンダハール]]・[[カーブル]]など全アフガニスタンを占領。
* [[1739年]]
** [[ジェンキンスの耳の戦争]]。
** [[ナーディル・シャーのムガル帝国侵攻]]。
*** ナーディル・シャーが北西インドの[[ラホール]]を占領。[[カルナールの戦い]]。
*** ムガル帝国の首都[[デリー]]を占領、デリー大虐殺、「[[孔雀の玉座]]」他の宝物を略奪。
** イギリスで[[ジョン・ウェスレー]]が[[メソジスト]]運動を始める。
** [[デイヴィッド・ヒューム]]『[[人間本性論]]』が刊行される。
** ロシア船籍の船が太平洋側にたびたび出没する([[元文の黒船]])。
=== 1740年代 ===
{{main|1740年代}}
* [[1740年]]
** [[プロイセン王国|プロイセン国王]]フリードリヒ・ヴィルヘルム1世死去、その息子フリードリヒ2世が即位。
*** この年にフリードリヒ2世はヴォルテールに依頼し、オランダで『[[マキャヴェリ駁論|反マキャヴェリ論]]』を出版。
** 神聖ローマ皇帝カール6世死去、その長女[[マリア・テレジア]]が[[ハプスブルク家]]家督を継承。
** [[オーストリア継承戦争]]( - [[1748年]])。
** [[オランダ領東インド]]で[[華僑虐殺事件 (バタヴィア)|バタヴィア華僑虐殺事件]]。
** 清朝が漢人の満洲への移住を禁止する封禁令を出す。
* [[1741年]]
** ロシアで[[イヴァン6世 (ロシア皇帝)|イヴァン6世]]が政変で廃位され摂政[[アンナ・レオポルドヴナ]]が追放される。女帝[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ]]が即位。
** [[ジョナサン・エドワーズ (神学者)|ジョナサン・エドワーズ]]の説教「[[怒れる神の御手の中にある罪人]]」が[[コネチカット州]][[エンフィールド]]で行われる。
*** 1730年代から1740年代にかけての植民地アメリカにおける「[[第一次大覚醒]]」([[リバイバル (キリスト教)|信仰復活運動]])に大きな影響を与える。
* [[1742年]]
** [[松平乗邑]]らにより『[[公事方御定書]]』が制定される。
** 教皇[[ベネディクトゥス14世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス14世]]が[[教皇勅書]]「{{仮リンク|エクス・クオ・シングラリ|de|Ex quo singulari}}」にて典礼論争におけるイエズス会の宣教方法を改めて禁止とする。
** ロシア人探検家セミョン・チェリュスキンが[[ユーラシア大陸]]最北端の[[チェリュスキン岬]]に到達。
** [[ヴィッテルスバッハ家]]の神聖ローマ皇帝[[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|カール7世]]が即位(1437年以来のハプスブルク家出身でない皇帝)。
* [[1743年]]
** [[メーワール王国|メーワール国王]]の[[ジャガト・シング2世]]が[[ウダイプル]]のピチョーラ湖の小島にジャグニワース宮殿を建設( - [[1746年]])。
* [[1744年]]
** 乾隆帝の命で[[雍和宮]]が北京最初のチベット仏教寺院ガンデン・チンチャクリンに改められる。
** [[クリンケンベルグ彗星]]の最接近(「1744年の大彗星」)。
** [[第一次カーナティック戦争]]。
* [[1745年]]
** [[徳川家重]]が江戸幕府第9代[[征夷大将軍|将軍]]となる。老中松平乗邑が解任される。
** アラビアの[[サウード家]]がイスラーム教[[ワッハーブ派]]に帰依し同派の守護者となる。
** 神聖ローマ皇帝カール7世死去、マリア・テレジアの夫君[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]が即位。
* [[1746年]]
** [[ペルー]]の[[リマ]]・カヤオ沖地震(M8.6〜8.8)。
** 乾隆帝が紫禁城乾清宮養心殿に三希堂を設置する。
** [[カロデンの戦い]]で[[チャールズ若僭王]]の反乱が失敗し、[[ジャコバイト]]運動は壊滅。
*** 反乱を支持した[[スコットランドの氏族|スコットランドの氏族制度(クラン)]]を解体するため「{{仮リンク|1746年の衣装法|en|Dress Act 1746}}」などの法令が制定される。
* [[1747年]]
** 桜町天皇が譲位し、第[[116]]代[[桃園天皇]]が即位。
** [[ドゥニ・ディドロ|ディドロ]]と[[ジャン・ル・ロン・ダランベール|ダランベール]]が『[[百科全書]]』の共同編集者となる。
** ナーディル・シャーが暗殺され、アフシャール朝から各地に独立勢力が生まれる。
*** [[カブール]]を中心に[[アフマド・シャー・ドゥッラーニー]]が[[ドゥッラーニー朝]](サドーザイ朝)を興す。
** [[ジュゼッペ・カスティリオーネ]]らにより[[円明園]]付属の西洋楼海晏堂の建設が始まる。
* [[1748年]]
** [[モンテスキュー]]の『[[法の精神]]』が刊行される。
** スペインの[[バレンシア州|バレンシア]]地方の[[シャティバ]]を中心に大地震が発生。
** [[加賀騒動]]。
* [[1749年]]
** [[第二次カーナティック戦争]]。
** [[シェーンブルン宮殿]]が完成する。
** [[ノバスコシア]]植民地の新総督府として[[ハリファックス]]市が建設される。
=== 1750年代 ===
{{main|1750年代}}
* [[1750年]]
** ヴォルテールがプロイセンのフリードリヒ2世を訪問し[[ポツダム]]の[[サンスーシ宮殿|サン・スーシー宮殿]]に滞在( - [[1753年]])。
** マドリード条約により、ポルトガルとスペインとの[[アマゾン熱帯雨林|アマゾン]]地域の領土が確定される。
* [[1751年]]
** [[ドゥニ・ディドロ]]らにより『[[百科全書]]』が刊行される( - [[1772年]])。
** {{仮リンク|乾隆帝の第一次南巡|zh|乾隆帝南巡}}。
* [[1752年]]
** [[ミャンマー]]で[[アラウンパヤー朝]](コンバウン朝)が成立する。
** アメリカの[[ベンジャミン・フランクリン]]が[[雷]]が[[電気]]であることを[[凧]]揚げ実験で証明する。
* [[1753年]]
** [[カール・フォン・リンネ]]の『植物の種』が刊行され、[[学名]]が初めて用いられる。
** イギリスで博物館法が制定され[[大英博物館]]が設立される(一般公開は[[1759年]]から)。
* [[1754年]]
** [[宝暦治水事件|宝暦治水]]( - [[1755年]])。
** [[コロンビア大学]]が創設される。
* [[1755年]]
** [[リスボン地震 (1755年)|リスボン大地震]]。
** [[モスクワ大学]]創建。
** [[フレンチ・インディアン戦争]]( - [[1763年]])。
** [[ジャン=ジャック・ルソー]]の『[[人間不平等起源論]]』が刊行される。
* [[1756年]]
** [[外交革命]]。[[七年戦争]]( - [[1763年]])。
** [[プラッシーの戦い]]でフランスに対するインドでのイギリスの優位が確定。
* [[1757年]]
** 清が[[ジュンガル王国]]を滅ぼし、東トルキスタンを「[[新疆]]」と名づけ藩部とする。
** 清が西洋人との交易を[[広州]]一港に限定し、特権商人[[広東十三行|公行]]にのみ貿易を許可する([[広東貿易体制]]の成立)。
** [[ロベール=フランソワ・ダミアン|ダミアン]]によるフランス国王ルイ15世暗殺未遂事件。
* [[1758年]]
** [[ハレー彗星]]接近([[12月25日]])。
*** 天文学者[[エドモンド・ハレー]]はこの彗星が約75年周期で出現することを1703年に予言していたので、彼の名を取りハレー彗星と呼ぶ。
** [[宝暦事件]]。
* [[1759年]]
** [[クネルスドルフの戦い]]でプロイセン軍がロシア・オーストリア軍で惨敗するも窮地を脱する([[ブランデンブルクの奇跡]])。
** {{仮リンク|リッチモンド宮殿|en|Richmond Palace}}所属の王立植物園[[キューガーデン]]が建てられる。
** [[アダム・スミス]]による『[[道徳感情論]]』が出版される。
=== 1760年代 ===
{{main|1760年代}}
* [[1760年]]
** [[徳川家治]]が江戸幕府第10代[[征夷大将軍|将軍]]となる。
** ヴォルテールがジュネーヴ近郊のフェルネーに定住する(「フェルネーの長老」)。
** フランス領[[モントリオール]]市が陥落し、[[ヌーベルフランス]]全域がイギリスに征服される。
* [[1761年]]
** フランスで{{仮リンク|カラス事件|fr|affaire Calas}}がおきる。
** [[バッキンガム公爵]]の邸宅をイギリス王ジョージ3世が私邸として購入する([[バッキンガム宮殿]]の始まり)。
** [[第三次パーニーパットの戦い]]で、[[ドゥッラーニー朝]]アフガンが[[マラータ同盟]]に勝利する。
* [[1762年]]
** 桃園天皇が没し、第117代[[後桜町天皇]]が即位。
** 壬午士禍により李氏朝鮮の英祖の王子[[荘献世子]]が廃され窮死する。
** 清朝が新疆支配のため[[イリ将軍]]府を設置。
** ロシアで[[ピョートル3世 (ロシア皇帝)|ピョートル3世]]が政変で廃位され、皇后が即位し女帝[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]となる( - [[1796年]])。
*** サンクトペテルブルクの[[エルミタージュ美術館|エルミタージュ宮殿]]([[冬宮殿]](ズィームニイ・ドヴァリェーツ)が完成する。
** イギリスがスペイン領[[キューバ]]の首府[[ハバナ]]を占領( - [[1763年]])。
** ジャン=ジャック・ルソーの『[[社会契約論]]』が刊行される。
* [[1763年]]
** [[ポンティアック戦争]]( - [[1766年]])。
** [[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]と[[フベルトゥスブルク条約]]により七年戦争が終わる。
** ブラジルの首府がサルヴァドールからミナス・ジェライスの外港[[リオデジャネイロ]]に遷る。
** [[ヨハン・ニコラウス・フォン・ホントハイム|ユスティヌス・フェブロニウス]]の『教会の現状とローマ教皇の正統なる権限について』が出版される(フェブロニウス主義)。
** [[豊後国]][[耶馬渓]]の[[青の洞門]]が完成する(1730年 - )。
* [[1764年]]
** [[ブクサールの戦い]]で、イギリス東インド会社がムガル皇帝・アワド太守・ベンガル太守の連合軍に大勝する。
** エカチェリーナ2世が[[ヘーチマン]]制を廃止する。
** 幕府が清朝への輸出向け[[俵物]]三品(煎海鼠・乾鮑・鱶鰭)の増産を奨励。
** [[ジェヴォーダンの獣]]事件( - [[1767年]])。
** [[チェーザレ・ベッカリーア]]の『[[犯罪と刑罰]]』が出版される。
** [[ホレス・ウォルポール]]の『オトラント城奇譚』が出版される([[ゴシック・リヴァイヴァル]]の始まり)。
* [[1765年]]
** [[清緬戦争]]( - [[1769年]])。
** イギリスが13植民地に対し[[1765年印紙法|印紙法]]を課す。
** イギリス東インド会社が[[ベンガル]]・[[オリッサ]]・[[ビハール]]の[[ディーワーニー]](州財務長官の職務権限)を獲得。
* [[1766年]]
** フランスが[[ロレーヌ公国]]を併合する。
** イギリスの科学者[[ヘンリー・キャベンディッシュ]]が[[水素]]を発見する。
** スペインで{{仮リンク|エスキラーチェ暴動|en|Esquilache Riots}}が起こる
* [[1767年]]
** [[田沼意次]]が側用人になる。いわゆる「[[田沼時代]]」の始まり ( - [[1786年]])。
** [[明和事件]]。
** イギリス人[[サミュエル・ウォリス]]が[[タヒチ島]]を発見。
* [[1768年]]
** [[ジェノヴァ]]がフランスに[[コルシカ島]]を売却する。
** [[トリエステ]]で[[美術史家]][[ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン]]が殺害される。
** [[スコットランド]]の[[エディンバラ]]で『[[ブリタニカ百科事典]]』初版本が出版される。
* [[1769年]]
** [[ゴルカ王国|ゴルカ]]王[[プリトビ・ナラヤン・シャハ]]が[[カトマンズ]]を征服し[[ネパール]]を統一。
** [[フィレンツェ]]の[[ウフィツィ美術館]]が開館する。
=== 1770年代 ===
{{main|1770年代}}
* [[1770年]]
** 後桜町天皇が譲位し、第118代[[後桃園天皇]]が即位。
** [[ジェームズ・クック]]がイギリスによる[[オーストラリア]]東南部の領有を宣言。
** フランス王太子ルイ([[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]])とオーストリア王女[[マリー・アントワネット]]の結婚。
** デンマークで[[ヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセ|ストルーエンセ]]が請願審議官(メートル・デ・ルケット)に就任(「ストルーエンセ時代」 - [[1772年]])
* [[1771年]]
** [[ベトナム]]で[[西山朝|西山党の乱]]起こる( - [[1802年]])。
** [[ヴォルガ川]]周辺の[[カルムイク人]]が[[東トルキスタン]]の[[イリ地方]]へ移動(トルグート部)。カルムイク人の一部はこの地に残留。
** フランスで大法官{{仮リンク|モプー|en|René Nicolas Charles Augustin de Maupeou}}の司法改革によるパリと地方の[[高等法院 (フランス)|高等法院]]の解体。
** 教皇[[クレメンス14世 (ローマ教皇)|クレメンス14世]]が[[ヴァティカン美術館]](ピオ・クレメンティーノ美術館)を公開する。
** ロシア支配下の[[カムチャッカ半島]]から脱出した[[モーリツ・ベニョヴスキー]]が日本に来航するも入国拒否される。
* [[1772年]]
** [[第一次ポーランド分割]]。
** [[明和の大火]]([[行人坂|目黒行人坂]]の大火)。
** 田沼意次が老中となる。[[南鐐二朱銀]]を発行。
* [[1773年]]
** 教皇[[クレメンス14世 (ローマ教皇)|クレメンス14世]]の回勅「{{仮リンク|ドミヌス・アク・レデンプトール|en|Dominus ac Redemptor}}」が出される。
*** これにより{{仮リンク|イエズス会が解散|en|Suppression of the Society of Jesus}}となる(- [[1814年]])。
** [[ボストン茶会事件]]。
** ロシアで[[プガチョフの乱]]( - [[1775年]])。
** [[ウォーレン・ヘースティングズ]]が最初の[[ベンガル総督]](のちの[[インド総督]])となる。
* [[1774年]]
** [[キュチュク・カイナルジ条約]]によりロシアは[[黒海]]北岸を獲得。
** フランス国王ルイ15世死去、孫のルイ16世が即位。
*** 宰相[[ジャン=フレデリック・フェリポー・ド・モールパ|モールパ伯]]の進言により高等法院が復活。
** イギリスでキャラコ禁止法が廃止され、機械輸出禁止法が制定される。
** [[杉田玄白]]らによる『[[解体新書]]』が出版される。
** 山東省で白蓮教系清水教徒による{{仮リンク|王倫 (清)|zh|王倫 (清)}}の乱が起こる。
* [[1775年]]
** スウェーデン人植物学者[[カール・ツンベルク]]が長崎に来航。翌年には江戸で将軍家治に謁見。
** [[アメリカ独立戦争]]( - [[1783年]])。
*** [[レキシントン・コンコードの戦い]]、[[ボストン包囲戦]]、[[ジョージ・ワシントン]]が最高司令官となる。
** [[アワド太守]][[アーサフ・ウッダウラ]]が[[ファイザーバード]]から[[ラクナウ]]に遷都。
* [[1776年]]
** [[7月4日]]、[[アメリカ独立宣言]]が採択される。
** スペインが[[リオ・デ・ラ・プラタ副王領]]を設置。
** フランスで財務総監[[ジャック・テュルゴー]]が失脚。後任に[[ジャック・ネッケル]]が就任。
** [[アダム・スミス]]による『[[国富論]]』が出版される。
** [[エドワード・ギボン]]による『[[ローマ帝国衰亡史]]』第1巻が出版される。
** 李氏朝鮮の[[正祖]]の命で[[漢城]]に[[奎章閣]]が設立される。
* [[1777年]]
** [[サラトガの戦い]]。
** バイエルン系ヴィッテルスバッハ家が断絶。
*** [[プファルツ選帝侯]]が[[バイエルン選帝侯]]位を継承し[[ヴィッテルスバッハ家]]が統合される。
* [[1778年]]
** [[バイエルン継承戦争]]( - [[1779年]])。
** [[ミラノ]]の[[スカラ座]]が完成する。
** [[仏米同盟条約]]の締結。
* [[1779年]]
** イランで[[アーガー・モハンマド・シャー]]が[[カージャール朝]]を開く( - [[1925年]])。
** [[ハワイ島]]のケアラケクア湾でイギリス人探検家[[ジェームズ・クック]]が現地住民に殺害される。
** 後桃園天皇が死去する。
=== 1780年代 ===
{{main|1780年代}}
* [[1780年]]
** 閑院宮師仁親王が、第119代[[光格天皇]]として即位。
** オーストリアのマリア・テレジア死去。
** ロシアのエカチェリーナ2世の提唱で[[武装中立同盟]]が結成される( - [[1783年]])。
** [[ロンドン]]で反カトリック派による{{仮リンク|ゴードン暴動|en|Gordon Riots}}が発生。
** 第四次英蘭戦争( - [[1784年]])。
** [[ナポリ王国]]の[[カゼルタ宮殿]]が完成する(1752年 - )。
** イラン北西部[[タブリーズ]]の大地震。
** インドの[[ヴァーラーナシー]](ベナレス)の[[カーシー・ヴィシュヴァナート寺院]]が、[[アヒリヤー・バーイー・ホールカル]]によって再建される。
** [[銭大昕]]『[[二十二史考異]]』が刊行される。
** 殺人罪で投獄されていた[[平賀源内]]が獄死。
** 植民地[[ペルー]]における[[トゥパク・アマルー2世]]の反乱。
* [[1781年]]
** 神聖ローマ皇帝[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]の農奴解放令と[[宗教寛容令]]([[ヨーゼフ主義]])。
** [[イマヌエル・カント]]の『[[純粋理性批判]]』が刊行される。
** 世界初の鋳鉄製アーチ橋の[[アイアンブリッジ (橋)|アイアンブリッジ]]が完成する。
** [[ウィリアム・ハーシェル]]が[[天王星]]を発見。
** 清で乾隆帝の命による[[四庫全書]]完成する([[1741年]]- )。
* [[1782年]]
** [[天明の大飢饉]]( - [[1787年]])。
** 幕府が[[印旛沼]]・[[手賀沼]]の干拓に着手。
** タイ王国で[[チャクリー王朝|チャクリー朝]]が成立し[[ラーマ1世]]が即位。
* [[1783年]]
** [[パリ条約 (1783年)|パリ条約]]でイギリスがアメリカの独立を承認。
** [[モンゴルフィエ兄弟]]により[[熱気球]]による史上初の有人飛行が行われる。
** [[アイスランド]]で[[ラキ火山]]と[[グリムスヴォトン|グリムスヴォトン火山]]が連続して噴火。
** [[浅間山]]の[[天明大噴火]]。
* [[1784年]]
** 江戸城中で[[若年寄]][[田沼意知]]が[[佐野政言]]により殺害される。
** [[筑前国]][[福岡藩]]領内の[[志賀島]]にて「[[漢委奴国王印]]」が発見される。
** [[スタンウィックス砦条約]]で、[[イロコイ連邦]]が合衆国政府に領土を割譲する。
** イギリス首相[[ウィリアム・ピット (小ピット)|ウィリアム・ピット]]がインド法を制定し、{{仮リンク|インド庁|en|India Board}}を設置。
** [[カロン・ド・ボーマルシェ]]の「[[フィガロの結婚]]」が上演される。
** 黒海沿岸のロシア領[[オデッサ]]が開港する。
** [[グリゴリー・シェリホフ]]が[[コディアック島]]のスリー・セインツ湾に[[アラスカ]]最初のロシア人植民地を形成。
* [[1785年]]
** [[マリー・アントワネット]]の[[首飾り事件]]。
** ジョン・ウォルターが世界最古の日刊[[新聞]]『[[タイムズ]](ロンドン・タイムズ)』を創刊。
** ロシア女帝エカチェリーナ2世による「貴族への特許状(恵与状)」が発布される。
** 山口鉄五郎ら幕府の蝦夷地調査団が派遣される。
* [[1786年]]
** 英仏通商条約({{仮リンク|イーデン条約|en|Eden Agreement}})でイギリス製品がフランスに流れ込む。
** [[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]の[[イタリア紀行|イタリア旅行]]( - [[1788年]])。
** [[トスカーナ大公]][[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルド1世]]がヨーロッパで最初の死刑完全廃止を行う。
** [[台湾]]で[[林爽文]]事件。
** 将軍徳川家治死去、老中田沼意次が辞任させられる。
** [[最上徳内]]らが[[国後島]]・[[択捉島]]・[[得撫島]]を調査。
* [[1787年]]
** [[フィラデルフィア]]の憲法制定議会において、[[アメリカ合衆国憲法]]が制定される。
** [[北西部条例 (アメリカ)|北西部条例]]によりアメリカ合衆国が[[オハイオ領土]]を統治することが決定される。
** [[徳川家斉]]が江戸幕府第11代[[征夷大将軍|将軍]]となる。
*** 江戸や大阪で[[天明の打ちこわし]]が最高潮に達する。京都で[[御所千度参り]]が起こる。
*** [[松平定信]]が老中首座になり[[寛政の改革]]に着手( - [[1793年]])。
** [[ピニョー・ド・ベーヌ]]が[[阮福暎]]の息子[[阮福景]]を伴いフランスに帰国。
*** ルイ16世と会見しフランスとベトナムの攻守同盟([[ヴェルサイユ条約 (1787年)|ヴェルサイユ条約]])を締結。
* [[1788年]]
** [[オーストラリア]]が流刑植民地とされ、イギリス人の移民が始まる。
** フランスの探検家[[ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー|ラ・ペルーズ伯]]が南太平洋で消息不明となる。
** [[第一次ロシア・スウェーデン戦争]](- [[1790年]])。
** [[清・ネパール戦争]]( - [[1792年]])。
** 京都で[[天明の大火]]。
* [[1789年]]
** [[フランス革命]]( - [[1794年]])。
*** 革命時代を1789年 - 1799年とする説もある。[[フランス革命の年表]]も参照のこと。
*** [[三部会]]の召集、[[球戯場の誓い]]、[[バスティーユ襲撃|バスティーユ牢獄襲撃]]、[[国民議会]]の創設、
*** [[フランスにおける封建制の廃止|封建制の廃止]](八月四日の夜)、[[人権宣言]]、[[ヴェルサイユ行進]]、国王と議会のパリ移動。
** [[リエージュ]]革命、[[ブラバント革命]]。
** [[ジェレミ・ベンサム]]『[[道徳および立法の諸原理序説]]』が刊行される。
** [[ジョージ・ワシントン]]が初代[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]]に選出される( - [[1797年]])。
** [[ドンダーの戦い]]で、[[阮恵]]率いる[[西山朝]]がベトナム黎朝と清朝の連合軍を撃破。
*** 昭統帝が清に亡命し、黎朝滅亡([[1428年]] - )。
** [[尊号一件]]。[[棄捐令]]。
** 寛政蝦夷の乱([[クナシリ・メナシの戦い]])。
** [[バウンティ号の反乱]]。
=== 1790年代 ===
{{main|1790年代}}
* [[1790年]]
** [[承徳避暑山荘と外八廟]]が完成する([[1703年]] - )。
** 乾隆帝八十歳の祝賀で[[安徽省]]から「四大徽班」が相次いで北京に来訪する([[京劇]]の起源)。
** [[寛政異学の禁]]。[[昌平坂学問所]]を幕府直轄とする。[[石川島]][[人足寄場]]の設置。全国に薬草栽培を奨励。
** フランスで修道団体の解散、[[アッシニア]]債券(紙幣)発行、[[聖職者民事基本法]]の導入、高等法院の解体。
** [[エドマンド・バーク]]の『[[フランス革命の省察]]』が刊行される。
** [[アレクサンドル・ラジーシチェフ]]が『ペテルブルクからモスクワへの旅』を刊行したことで[[シベリア]]に流刑にされる。
* [[1791年]]
** ポーランド[[5月3日憲法]]。
** フランスで同職組合([[ギルド]])の解散、[[1791年憲法]]、[[ヴァレンヌ事件]]、[[ピルニッツ宣言]]。
** [[フランス科学アカデミー]]が[[メートル法]]を採用する。
** ジェレミ・ベンサム『[[パノプティコン]]』が刊行される。
** [[ベルリン]]の[[ブランデンブルク門]]が完成する。
** [[ヤッシー条約]]によりロシアが[[クリミア・ハン国]]を併合。
** [[七分積金]]([[囲米]])の導入。戯作者[[山東京伝]]が[[手鎖]]50日の処分を受ける。最初の[[上覧相撲]]。
* [[1792年]]
** フランスがオーストリアに宣戦布告し[[フランス革命戦争]]始まる。
** [[8月10日事件]]でフランス王権の停止。[[九月虐殺]]。[[フランス第一共和政]]成立。
** [[スウェーデン]]国王[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]が[[仮面舞踏会]]で暗殺される。
** オスマン帝国の[[セリム3世]]が西洋式新軍隊の[[ニザーム・ジェディード]](新秩序)導入を開始する。
** ロシア使節[[アダム・ラクスマン|ラクスマン]]が漂流民[[大黒屋光太夫]]らを連れて[[根室]]に来航。
** [[林子平]]が処罰されその著作『[[海国兵談]]』は発禁・版木没収にされる。学問吟味の実施。
** [[島原大変肥後迷惑]]。
* [[1793年]]
** [[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の処刑。[[第一次対仏大同盟]]結成。
*** [[革命裁判所]]・[[公安委員会]]の設置により[[ジャコバン派]]独裁による[[恐怖政治]]が始まる。
*** [[フランス革命暦]]の採用、国民総徴集法によるフランス[[国民皆兵]]の[[徴兵制度]]の成立。
*** [[ヴァンデの反乱]]、[[リヨンの反乱]]、[[トゥーロン攻囲戦]]。
*** ノートルダム大聖堂で「[[理性の祭典]]」、[[ルーヴル美術館]]開館。
** [[第二次ポーランド分割]]。
** イギリス統治下の[[ベンガル地方]]に[[ザミーンダーリー制度]]が導入される。
** 清の乾隆帝とイギリス全権大使[[ジョージ・マカートニー (初代マカートニー伯爵)|ジョージ・マカートニー]]が貿易の交渉するが決裂。
** [[松平定信]]が老中首座及び将軍補佐役を辞任、老中首座に[[松平信明 (三河吉田藩主)|松平信明]]が就任([[寛政の遺老]])。
* [[1794年]]
** 「[[最高存在の祭典]]」。[[テルミドールの反動]]。[[総裁政府]]成立。
** [[桂川甫周]]の『[[北槎聞略]]』がまとめられる。
** [[蔦屋重三郎]]が[[東洲斎写楽]]の[[役者]][[大首絵]]を出版( - [[1795年]])。
** [[オランダ東インド会社]]代表[[イサーク・ティチング]]が紫禁城に入り歓待される。
** {{仮リンク|ヌートカ条約|en|Nootka Convention}}により、イギリスが太平洋沿岸の[[ブリティッシュ・コロンビア]]を獲得。
* [[1795年]]
** フランスがオランダを占領し、[[バタヴィア共和国]]を建てる。
** [[第三次ポーランド分割]]によりポーランド国家が消滅。
** [[カメハメハ1世]](大王)により[[ハワイ]]諸島が統一され[[ハワイ王国]]が成立。
* [[1796年]]
** [[清]]の乾隆帝が譲位し、[[嘉慶帝]]が第7代皇帝に即位。
*** 清政府による最初の[[アヘン]]輸入禁止令。
*** 湖北にて[[白蓮教徒の乱]]が起こり、三世の春は終わる( - [[1804年]])。
** ナポレオンの[[イタリア戦役 (1796-1797年)|第一次イタリア遠征]]。
** [[アーガー・モハンマド・シャー]]がイランを統一し、[[ガージャール朝]]を建てる。
** ロシア女帝エカチェリーナ2世死去、息子の[[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル1世]]が即位。
* [[1797年]]
** [[湯島聖堂]]の林家私塾を幕府直轄の[[昌平坂学問所]](昌平黌)に変更する。
** [[カンポ・フォルミオ条約]]により[[ジェノヴァ共和国]]と[[ヴェネツィア共和国]]が消滅。
*** フランスは[[リーグレ共和国]]と[[チザルピーナ共和国]]を建て、オーストリアは[[ヴェネツィア]]他を併合。
* [[1798年]]
** [[本居宣長]]が『[[古事記伝]]』を完成させる。
** フランスが教皇領を占領し[[ローマ共和国 (18世紀)|ローマ共和国]]を、スイスを占領し[[ヘルヴェティア共和国]]を建てる。
** [[エジプト・シリア戦役|ナポレオンのエジプト遠征]]。[[第二次対仏大同盟]]結成。
** [[タラの丘]]でのユナイテッド・アイリッシュメンの反乱がイギリス政府に鎮圧される。
** [[トマス・ロバート・マルサス]]が匿名で『[[人口論]]』を刊行。
** [[エドワード・ジェンナー]]が[[種痘]]法を発表。
* [[1799年]]
** 清の乾隆太上皇帝死去、嘉慶帝は親政を開始し、先帝の寵臣[[ヘシェン]](和珅)に自死を命じる。
** [[第四次マイソール戦争]]にイギリスが勝利し、南インドの[[マイソール王国]]が[[藩王国]]となる。
** [[ブリュメール18日のクーデタ]]で[[統領政府]]成立。
=== 1800年代 ===
{{main|1800年代}}
* [[1800年]]
** [[伊能忠敬]]が[[蝦夷]]地の測量に向かう。松平定信編纂による『[[集古十種]]』が刊行される。
** [[アレッサンドロ・ボルタ]]が後に[[電池]]として知られる大[[電流]]を発生させる装置([[ボルタの電堆]])を発明。
** ナポレオンの[[第二次対仏大同盟|第二次イタリア遠征]]。ナポレオンのアルプス越え。[[マレンゴの戦い]]。
** [[ワシントンD.C.|コロンビア特別区]](ワシントンD.C.)がアメリカ合衆国の首都になる。
== 人物 ==
=== ヨーロッパ ===
==== 政治と軍事 ====
* [[イヴァン・マゼーパ]]([[1639年]] - [[1709年]]) - ウクライナの政治家
* [[クレメンス11世]]([[1649年]] - [[1721年]]) - ローマ教皇(在位[[1700年]] - [[1721年]])
* [[マールバラ公|マールバラ公爵]][[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]([[1650年]] - [[1722年]]) - イギリスの軍人
* [[アンドレ=エルキュール・ド・フルーリー|アンドレ・エルキュール・ド・フルーリー]]([[1653年]] - [[1743年]]) - フランス宰相
* [[オイゲン・フォン・ザヴォイエン]]([[1663年]] - [[1736年]]) - オーストリアの軍人
* [[アン (イギリス女王)|アン]]([[1665年]] - [[1714年]]) - イギリス女王(在位[[1702年]] - [[1714年]])
* [[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]([[1660年]] - [[1727年]]) - イギリス国王(在位[[1714年]] - [[1727年]])
* [[アウグスト2世 (ポーランド王)|アウグスト2世]]([[1670年]] - [[1733年]]) - ポーランド王・ザクセン選帝侯
* [[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]([[1671年]] - [[1725年]]) - ロシアの皇帝(在位[[1682年]] - [[1725年]])
* [[ジョン・ロー]]([[1671年]] - [[1729年]]) - フランスの財務総監
* [[ロバート・ウォルポール]]([[1676年]] - [[1745年]]) - イギリス首相
* [[ラーコーツィ・フェレンツ2世]]([[1676年]] - [[1735年]]) - ハンガリーの独立指導者
* [[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]([[1682年]] - [[1718年]]) - スウェーデン王(在位[[1697年]] - [[1718年]])
* [[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]([[1683年]] - [[1746年]]) - ボルボン朝スペイン初代国王(在位[[1700年]] - [[1724年]]、[[1724年]] - [[1746年]])
* [[ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ]]([[1699年]] - [[1782年]]) - ポルトガル首相
* [[クレメンス14世]]([[1705年]] - [[1774年]]) - ローマ教皇(在位[[1769年]] - [[1774年]])
* [[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|チャタム伯爵ウィリアム・ピット]](大ピット)([[1708年]] - [[1778年]]) - イギリス首相
* [[ヴェンツェル・アントン・カウニッツ]]([[1711年]] - [[1794年]]) - オーストリア宰相
* [[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]](大王)([[1712年]] - [[1786年]]) - プロイセン王(在位[[1740年]] - [[1786年]])
* [[カルロス3世 (スペイン王)|カルロス3世]]([[1716年]] - [[1788年]]) - スペイン王(在位[[1759年]] - [[1788年]])
* [[マリア・テレジア]]([[1717年]] - [[1780年]]) - オーストリア女帝(在位[[1740年]] - [[1780年]])
* [[エティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズール]]([[1719年]] - [[1785年]]) - フランスの外交官
* [[ポンパドゥール夫人]]([[1721年]] - [[1764年]]) - フランス王ルイ15世の寵妃
* [[ジェームズ・ウルフ]]([[1727年]] - [[1759年]]) - イギリスの軍人
* [[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]([[1729年]] - [[1796年]]) - ロシア女帝(在位[[1762年]] - [[1796年]])
* [[アレクサンドル・スヴォーロフ]]([[1729年]] - [[1800年]]) - ロシアの軍人・大元帥
* [[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ|スタニスワフ2世アウグスト]]([[1732年]] - [[1798年]]) - ポーランド王(在位[[1764年]] - [[1795年]])
* [[ギルフォード伯爵]][[フレデリック・ノース (第2代ギルフォード伯爵)|フレデリック・ノース]](ノース卿)([[1732年]] - [[1792年]]) - イギリス首相
* [[ヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセ]]([[1737年]] - [[1772年]]) - デンマークの摂政
* [[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]([[1738年]] - [[1820年]]) - イギリス王(在位[[1760年]] - [[1820年]])
* [[エメリヤン・プガチョフ]]([[1740年]] - [[1775年]]) - ロシアの反乱指導者
* [[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]([[1741年]] - [[1790年]]) - 神聖ローマ皇帝(在位[[1765年]] - [[1790年]])
* [[デュ・バリー夫人]]([[1743年]] - [[1793年]]) - フランス国王ルイ15世の寵妃
* コシチューシコ([[コシューシコ]])([[1746年]] - [[1817年]]) - ポーランド愛国者
* [[グスタフ3世|グスタフ3世アドルフ]]([[1746年]] - [[1792年]]) - スウェーデン王(在位[[1771年]] - [[1792年]])
* [[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]([[1754年]] - [[1793年]]) - フランス王(在位[[1774年]] - [[1792年]])
* [[ハンス・アクセル・フォン・フェルセン]]([[1755年]] - [[1810年]]) - スウェーデン貴族
* [[マリー・アントワネット]]([[1755年]] - [[1793年]]) - フランス王妃
* [[ラファイエット|ラファイエット侯爵ジルベール・デュ・モティエ]]([[1757年]] - [[1834年]]) - フランスの軍人・政治家、
* [[マクシミリアン・ロベスピエール]]([[1758年]] - [[1794年]]) - フランスの政治家
* [[ネルソン子爵]][[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]([[1758年]] - [[1805年]]) - イギリスの軍人
* [[ウィリアム・ピット (小ピット)|ウィリアム・ピット]](小ピット)([[1759年]] - [[1806年]]) - イギリス首相
* [[マヌエル・デ・ゴドイ]]([[1767年]] - [[1851年]]) - スペインの宰相
* [[ナポレオン・ボナパルト]]([[1769年]] - [[1821年]]) - フランスの軍人のちに皇帝
* [[グスタフ4世アドルフ]]([[1778年]] - [[1837年]]) - スウェーデン王(在位[[1792年]] - [[1809年]])
※[[フランス革命関連人物一覧]]も参照のこと。
==== 思想と歴史・人文諸学 ====
* [[アントワーヌ・ガラン]]([[1646年]] - [[1715年]])
* [[ベルナール・フォントネル]]([[1657年]] - [[1757年]])
* シャルル・サン・ピエール([[1658年]] - [[1743年]])
* [[ジャンバッティスタ・ヴィーコ]]([[1668年]] - [[1744年]])
* [[バーナード・デ・マンデヴィル]]([[1670年]] - [[1733年]])
* [[アントニー・アシュリー=クーパー (第3代シャフツベリ伯爵)|シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー・クーパー]]([[1671年]] - [[1713年]])
* サン・シモン公爵ルイ・ド・ルヴロワ([[1675年]] - [[1755年]])
* [[ピエトロ・ジャンノーネ]]([[1676年]] - [[1748年]])
* [[クリスティアン・ヴォルフ]]([[1679年]] - [[1754年]])
* [[イーフレイム・チェンバーズ]]([[1680年]]? - [[1740年]])
* [[ジョージ・バークリー]]([[1685年]] - [[1753年]])
* [[シャルル・ド・モンテスキュー]]([[1689年]] - [[1755年]])
* [[フランソワ・ケネー]]([[1694年]] - [[1774年]])
* [[ヴォルテール]]([[1694年]] - [[1778年]])
* フランシス・ハチソン([[1694年]] - [[1747年]])
* [[イスラエル・ベン・エリエゼル]]([[1700年]]頃 - [[1760年]])
* [[ジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリー]]([[1709年]] - [[1751年]])
* [[トマス・リード]] ([[1710年]] - [[1796年]])
* [[デイヴィッド・ヒューム]]([[1711年]]- [[1776年]])
* [[ジャン=ジャック・ルソー]]([[1712年]] - [[1778年]])
* [[ドゥニ・ディドロ]]([[1713年]] - [[1784年]])
* ギヨーム・トマ・レーナル([[1713年]] - [[1796年]])
* [[アレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテン]]([[1714年]] - [[1762年]])
* [[クロード=アドリアン・エルヴェシウス]]([[1715年]] - [[1771年]])
* [[エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック]]([[1715年]] - [[1780年]])
* [[ジャン・ル・ロン・ダランベール]]([[1717年]] - [[1783年]])
* [[ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン]]([[1717年]] - [[1768年]])
* エリザベス・モンタギュー([[1720年]] - [[1800年]])
* [[アダム・スミス]]([[1723年]] - [[1790年]])
* [[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック|ポール・アンリ・ティリ・ドルバック男爵]]([[1723年]] - [[1789年]])
* [[イマヌエル・カント]]([[1724年]] - [[1804年]])
* [[ジャック・テュルゴー]]([[1727年]] - [[1781年]])
* [[エドマンド・バーク]]([[1729年]] - [[1797年]])
* [[モーゼス・メンデルスゾーン]]([[1729年]] - [[1786年]])
* [[ゴットホルト・エフライム・レッシング]]([[1729年]] - [[1781年]])
* [[ヨハン・ゲオルク・ハーマン]]([[1730年]] - [[1788年]])
* [[トマス・ペイン]]([[1737年]] - [[1809年]])
* [[エドワード・ギボン]]([[1737年]] - [[1794年]])
* [[チェーザレ・ベッカリーア]]([[1738年]] - [[1794年]])
* [[フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ]]([[1743年]] - [[1819年]])
* [[ニコラ・ド・コンドルセ]]([[1743年]] - [[1794年]])
* [[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー]]([[1744年]] - [[1803年]])
* [[エカテリーナ・ダーシュコワ|エカチェリーナ・ダーシュコワ]]([[1744年]] - [[1810年]])
* [[ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ]]([[1746年]] - [[1827年]])
* [[ウィリアム・ジョーンズ (言語学者)|ウィリアム・ジョーンズ]]([[1746年]] - [[1794年]])
* [[オランプ・ド・グージュ]]([[1748年]] - [[1793年]])
* [[アレクサンドル・ラジーシチェフ]]([[1749年]] - [[1802年]])
* [[アウグスト・ルートヴィッヒ・フォン・シュレーツァー]]([[1753年]] - [[1809年]])
* [[ウィリアム・ゴドウィン]]([[1756年]] - [[1836年]])
* [[メアリ・ウルストンクラフト]]([[1759年]] - [[1797年]])
==== 宗教と神秘主義 ====
* [[エマヌエル・スヴェーデンボリ]]([[1688年]] - [[1772年]])
* [[アルフォンソ・デ・リゴリ]]([[1696年]] - [[1787年]])
* [[ヨハン・ニコラウス・フォン・ホントハイム]]([[1701年]] - [[1790年]])
* [[ジョン・ウェスレー]]([[1703年]] - [[1791年]])
* ロレンツォ・リッチ([[1703年]] - [[1775年]])
* [[ザドンスクのティーホン]]([[1724年]] - [[1783年]])
* ルイ・クロード・ド・サン・マルタン([[1743年]] - [[1803年]])
* マグダレナ・ソフィア・バラ([[1779年]] - [[1865年]])
==== 文学 ====
* [[ダニエル・デフォー]]([[1660年]] - [[1731年]])
* [[ジョナサン・スウィフト]]([[1667年]] - [[1745年]])
* [[エドワード・ヤング (詩人)|エドワード・ヤング]]([[1683年]] - [[1765年]])
* [[ルズヴィ・ホルベア]]([[1684年]] - [[1754年]])
* [[ピエール・ド・マリヴォー]]([[1688年]] - [[1763年]])
* [[アレキサンダー・ポープ]]([[1688年]] - [[1744年]])
* [[サミュエル・リチャードソン]]([[1689年]] - [[1761年]])
* [[アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ|アベ・プレヴォー]] ([[1697年]] - [[1763年]])
* [[ヘンリー・フィールディング]]([[1707年]] - [[1754年]])
* [[カルロ・ゴルドーニ]]([[1707年]] - [[1793年]])
* [[サミュエル・ジョンソン]]([[1709年]] - [[1784年]])
* [[ジョン・クレランド]]([[1709年]] - [[1789年]])
* [[ローレンス・スターン]]([[1713年]] - [[1768年]])
* [[トマス・グレイ]]([[1716年]] - [[1771年]])
* [[ホレス・ウォルポール]]([[1717年]] - [[1797年]])
* [[ジャック・カゾット]]([[1719年]] - [[1792年]])
* [[カルロ・ゴッツィ]]([[1720年]] - [[1806年]])
* [[ギルバート・ホワイト]]([[1720年]] - [[1793年]])
* {{仮リンク|ウィリアム・ギルピン|en|William Gilpin (priest)}}([[1724年]] - [[1804年]])
* [[カロン・ド・ボーマルシェ]]([[1732年]] - [[1799年]])
* [[ニコラ・エドム・レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ]]([[1734年]] - [[1806年]])
* [[ジェイムズ・マクファーソン (詩人)|ジェイムズ・マクファーソン]]([[1736年]] - [[1796年]])
* ルイ・セバスチャン・メルシェ([[1740年]] - [[1814年]])
* [[マルキ・ド・サド|サド侯爵ドナシアン・アルフォンス・フランソワ]]([[1740年]] - [[1814年]])
* [[ジェイムズ・ボズウェル]]([[1740年]] - [[1795年]])
* [[ピエール・ショデルロ・ド・ラクロ]]([[1741年]] - [[1803年]])
* オラウダ・イクイアーノ([[1745年]]頃 - [[1797年]])
* [[ロレンツォ・ダ・ポンテ]] ([[1749年]] - [[1838年]])
* [[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]([[1749年]] - [[1832年]])
* [[トーマス・チャタートン]]([[1752年]] - [[1770年]])
* [[フリードリヒ・フォン・シラー]]([[1759年]] - [[1805年]])
* [[ウィリアム・トマス・ベックフォード]]([[1760年]] – [[1844年]])
* [[アンドレ・シェニエ]]([[1762年]] - [[1794年]])
* [[フリードリヒ・ヘルダーリン]] ([[1770年]] - [[1843年]])
* [[ノヴァーリス]]([[1772年]] - [[1801年]])
* [[マシュー・グレゴリー・ルイス]]([[1775年]] - [[1818年]])
==== 芸術 ====
* ニコラ・ド・ラルジリエール([[1656年]] - [[1746年]])
* [[イアサント・リゴー]]([[1659年]] - [[1743年]])
* ホセ・ベニート・デ・チュリゲラ([[1665年]] - [[1725年]])
* ジェルマン・ボフラン([[1667年]] - [[1754年]])
* [[アレッサンドロ・マニャスコ]]([[1667年]] - [[1749年]])
* [[アントワーヌ・ヴァトー]]([[1684年]] - [[1721年]])
* [[ジャン=マルク・ナティエ]]([[1685年]] - [[1766年]])
* [[フランソワ・ルモワーヌ]]([[1688年]] - [[1737年]])
* [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ]]([[1696年]] - [[1770年]])
* [[ウィリアム・ホガース]]([[1697年]] - [[1764年]])
* ニコラ・サルヴィ([[1697年]] - [[1751年]])
* [[カナレット]]([[1697年]] - [[1768年]])
* [[ジャン・シメオン・シャルダン]]([[1699年]] - [[1779年]])
* [[シャルル=ジョゼフ・ナトワール]]([[1700年]] - [[1777年]])
* ピエトロ・ブラッチ([[1700年]] - [[1773年]])
* ジャン・エティエンヌ・リオタール([[1702年]] - [[1789年]])
* [[フランソワ・ブーシェ]]([[1703年]] - [[1770年]])
* [[モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール]]([[1704年]] - [[1788年]])
* ヨハン・ヨアキム・ケンドラー([[1706年]] - [[1775年]])
* ポンペオ・バトーニ([[1708年]] - [[1787年]])
* フランシスコ・グァルディ([[1712年]] - [[1793年]])
* リチャード・ウィルソン([[1713年]] - [[1782年]])
* エティエンヌ・モーリス・ファルコネ([[1716年]] - [[1791年]])
* [[ルイス・メレンデス]]([[1716年]] - [[1780年]])
* [[トーマス・チッペンデール]]([[1718年]] – [[1779年]])
* [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ]]([[1720年]] - [[1778年]])
* [[ジョシュア・レノルズ]]([[1723年]] - [[1792年]])
* [[ウィリアム・チェンバーズ (建築家)|ウィリアム・チェンバーズ]]([[1723年]] - [[1796年]])
* [[ジョージ・スタッブス]]([[1724年]] - [[1806年]])
* [[ジャン=バティスト・グルーズ|ジャン・バティスト・グルーズ]]([[1725年]] - [[1805年]])
* [[トマス・ゲインズバラ]]([[1727年]] - [[1788年]])
* [[アントン・ラファエル・メングス]] ([[1728年]] - [[1779年]])
* [[ジャン・オノレ・フラゴナール]]([[1732年]] - [[1806年]])
* [[ユベール・ロベール]]([[1733年]] - [[1808年]])
* {{仮リンク|ヨハン・ゾッファニー|en|Johan Zoffany}}([[1733年]] - [[1810年]])
* [[ジョセフ・ライト (画家)|ジョセフ・ライト]](ライト・オブ・ダービー)([[1734年]] - [[1797年]])
* {{仮リンク|フランツ・メッサーシュミット|en|Franz Xaver Messerschmidt}}([[1736年]] - [[1783年]])
* [[ジャン=アントワーヌ・ウードン|ジャン・アントワーヌ・ウードン]]([[1741年]] - [[1828年]])
* [[ヨハン・ハインリヒ・フュースリー]]([[1741年]] - [[1825年]])
* [[フランシスコ・デ・ゴヤ]]([[1746年]] - [[1828年]])
* [[ジャック・ルイ・ダヴィッド]]([[1748年]] - [[1825年]])
* [[エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン|エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン]]([[1755年]] - [[1842年]])
* [[アントニオ・カノーヴァ]]([[1757年]] - [[1822年]])
* [[ヨハン・ゴットフリート・シャドウ]]([[1764年]] - [[1850年]])
==== 音楽 ====
* [[アントニオ・ストラディバリ]]([[1644年]] - [[1737年]])
* [[アレッサンドロ・スカルラッティ]]([[1660年]] - [[1725年]])
* [[フランソワ・クープラン]]([[1668年]] - [[1733年]])
* [[アントニオ・ヴィヴァルディ]]([[1678年]] - [[1741年]])
* [[ゲオルク・フィリップ・テレマン]]([[1681年]] - [[1767年]])
* [[ジャン=フィリップ・ラモー|ジャン・フィリップ・ラモー]]([[1683年]] - [[1764年]])
* [[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]([[1685年]] - [[1750年]])
* [[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル]]([[1685年]] - [[1759年]])
* [[ジュゼッペ・タルティーニ]]([[1692年]] - [[1770年]])
* [[ファリネッリ]]([[1705年]] - [[1782年]])
* [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ]]([[1710年]] - [[1736年]])
* [[クリストフ・ヴィリバルト・グルック]]([[1714年]] - [[1787年]])
* [[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン]]([[1732年]] - [[1809年]])
* [[フランソワ=ジョセフ・ゴセック|フランソワ=ジョゼフ・ゴセック]]([[1734年]] - [[1829年]])
* [[ジョヴァンニ・パイジエッロ]]([[1740年]] - [[1816年]])
* [[ドメニコ・チマローザ]]([[1749年]] - [[1801年]])
* [[アントニオ・サリエリ]]([[1750年]] - [[1825年]])
* [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]([[1756年]] - [[1791年]])
* [[ルイージ・ケルビーニ]]([[1760年]] - [[1842年]])
==== 科学と技術 ====
* [[アイザック・ニュートン]]([[1642年]] - [[1727年]])
* [[エドモンド・ハレー]]([[1656年]] - [[1742年]])
* [[トーマス・ニューコメン]]([[1664年]] - [[1729年]])
* [[ヨハン・ヤーコブ・ショイヒツァー]]([[1672年]] – [[1733年]])
* ダービー父子
** エイブラハム・ダービー1世([[1678年]] - [[1717年]])
** エイブラハム・ダービー2世([[1711年]] - [[1763年]])
* [[ヨハン・フリードリッヒ・ベトガー]]([[1682年]] - [[1719年]])
* [[ルネ・レオミュール]]([[1683年]] - [[1757年]])
* [[ガブリエル・ファーレンハイト]]([[1686年]] - [[1736年]])
* [[ピーテル・ファン・ミュッセンブルーク]]([[1692年]] - [[1761年]])
* [[ジョン・ハリソン (時計職人)|ジョン・ハリソン]]([[1693年]] - [[1776年]])
* [[ピエール・ルイ・モーペルテュイ]]([[1698年]] - [[1759年]])
* [[ダニエル・ベルヌーイ]]([[1700年]] - [[1782年]])
* [[アンデルス・セルシウス]]([[1701年]] - [[1744年]])
* [[エミリー・デュ・シャトレ]]([[1706年]] - [[1749年]])
* [[レオンハルト・オイラー]]([[1707年]] - [[1783年]])
* [[カール・フォン・リンネ]]([[1707年]] - [[1778年]])
* [[ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォン|ジョルジュ・ルイ・クレール・ド・ビュフォン]]([[1707年]] - [[1788年]])
* [[ジャック・ド・ヴォーカンソン]]([[1709年]] - [[1782年]])
* {{仮リンク|アンドレアス・マルクグラーフ|en|Andreas Sigismund Marggraf}}([[1709年]] - [[1782年]])
* [[ミハイル・ロモノーソフ]]([[1711年]] - [[1765年]])
* [[ジェームズ・ハーグリーブス]]([[1720年]]頃 - [[1778年]])
* [[ニコラ=ジョゼフ・キュニョー|ニコラ・ジョゼフ・キュニョー]]([[1725年]] - [[1804年]])
* [[ジョン・ハンター (外科医)|ジョン・ハンター]]([[1728年]] - [[1793年]])
* [[ラザロ・スパランツァーニ]] ([[1729年]] - [[1799年]])
* [[シャルル・メシエ]]([[1730年]] - [[1817年]])
* [[ヘンリー・キャヴェンディッシュ]]([[1731年]] - [[1810年]])
* [[エラズマス・ダーウィン]]([[1731年]] - [[1802年]])
* [[リチャード・アークライト]]([[1732年]] - [[1792年]])
* [[ジョゼフ・プリーストリー]]([[1733年]] - [[1804年]])
* [[ジェームズ・ワット]]([[1736年]] - [[1819年]])
* [[ルイージ・ガルヴァーニ]]([[1737年]] - [[1798年]])
* [[フレデリック・ウィリアム・ハーシェル]]([[1738年]] - [[1822年]])
* [[モンゴルフィエ兄弟]]
** ジョセフ・ミシェル・モンゴルフィエ([[1740年]] - [[1810年]])
** ジャック・エティエンヌ・モンゴルフィエ([[1745年]] - [[1799年]])
* [[カール・ヴィルヘルム・シェーレ]]([[1742年]] - [[1786年]])
* [[ジョゼフ・バンクス]]([[1743年]] - [[1820年]])
* [[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]([[1743年]] - [[1794年]])
* [[カール・ツンベルク]]([[1743年]] - [[1828年]])
* [[エドモンド・カートライト]]([[1743年]] - [[1823年]])
* [[アレッサンドロ・ヴォルタ]]([[1745年]] - [[1827年]])
* [[フィリップ・ピネル]]([[1745年]] - [[1826年]])
* [[ピエール・シモン・ラプラス]]([[1749年]] - [[1827年]])
* [[エドワード・ジェンナー]]([[1749年]] - [[1823年]])
* [[サミュエル・クロンプトン]]([[1753年]] - [[1827年]])
* [[アロイス・ゼネフェルダー]]([[1771年]] - [[1834年]])
==== 探検家・旅行家 ====
* [[ヤーコプ・ロッヘフェーン]]([[1659年]] - [[1729年]])
* [[ヴィトゥス・ベーリング]]([[1681年]] - [[1741年]])
* [[ジェームズ・クック]]([[1728年]] - [[1779年]])
* [[ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル]]([[1729年]] - [[1811年]])
* [[ジョン・ケンドリック]]([[1740年]]頃 - [[1794年]])
* [[ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー]]([[1741年]] - [[1788年]]?)
* [[ジョージ・バンクーバー]]([[1757年]] - [[1798年]])
* [[アレグザンダー・マッケンジー (探検家)|アレグザンダー・マッケンジー]]([[1764年]] - [[1820年]])
==== その他 ====
* [[ジョルジュ・サルマナザール]]([[1679年]] - [[1763年]])
* ジェームズ・アンダーソン([[1679年]]/[[1680年]] - [[1739年]])
* ヨハン・エルンスト・エリアス・ベスラー(オルフィレウス)([[1680年]] - [[1745年]])
* [[サンジェルマン伯爵]]([[1691年]]/[[1707年]]? - [[1784年]])
* [[フランシス・ダッシュウッド]]([[1708年]] - [[1781年]])
* [[ミュンヒハウゼン男爵]]カール・フリードリヒ・ヒエロニュムス([[1720年]] - [[1797年]])
* [[ジャコモ・カサノヴァ]]([[1725年]] - [[1798年]])
* [[シュヴァリエ・デオン|デオン・ド・ボーモン]]([[1728年]] - [[1810年]])
* [[ヴォルフガング・フォン・ケンペレン]]([[1734年]] - [[1804年]])
* [[フランツ・アントン・メスメル]]([[1734年]] - [[1815年]])
* [[ヨハン・カスパー・ラヴァーター]]([[1741年]] - [[1801年]])
* [[カリオストロ|アレッサンドロ・ディ・カリオストロ]]([[1743年]] - [[1795年]])
* アダム・ヴァイスハウプト([[1748年]] - [[1830年]])
* サミュエル・ハーネマン([[1755年]] - [[1843年]])
* [[ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロア]]([[1756年]] - [[1791年]])
* [[ヘアート・アドリアーンス・ブームハールト]]([[1788年]] - [[1899年]])
* [[マーガレット・アン・ネーヴ]]([[1792年]] - [[1903年]])
=== 北アメリカ ===
* [[ジョナサン・エドワーズ (神学者)|ジョナサン・エドワーズ]]([[1703年]] - [[1758年]]) - アメリカの牧師・[[第一次大覚醒|大覚醒運動]]の指導者
* [[ベンジャミン・フランクリン]]([[1706年]] - [[1790年]]) - アメリカの政治家・外交官・科学者
* [[サミュエル・アダムズ]]([[1722年]] - [[1803年]]) - アメリカの政治家
* [[ジェイムズ・オーティス]]([[1725年]] - [[1783年]]) - アメリカの法律家・政治家
* [[ジョージ・ワシントン]]([[1732年]] - [[1799年]]) - アメリカ初代大統領・軍人
* [[パトリック・ヘンリー]]([[1736年]] - [[1799年]]) - アメリカの法律家・政治家
* [[アレクサンダー・ハミルトン]]([[1755年]] - [[1804年]]) - アメリカ財務長官・思想家
* [[イーライ・ホイットニー]]([[1765年]] - [[1825年]]) - アメリカの発明家
* [[サロメ・セラーズ]]([[1800年]] - [[1909年]]) - 18世紀生まれ最後の生き残り
=== ラテン・アメリカとカリブ海 ===
* {{仮リンク|フランシスコ・ヒメネス|en|Francisco Ximénez}}([[1666年]] - [[1729年]]頃) - 植民地[[グアテマラ]]のドミニコ会士・マヤ時代の写本を整理翻訳し『[[ポポル・ヴフ]]』として編纂
* [[黒髭|エドワード・ティーチ]](黒髭)([[1680年]]? - [[1718年]]) - [[カリブ海]]で活躍したイギリス人[[海賊]]・[[海賊の黄金時代]]を代表する
* ホセ・デ・アンテケラ・イ・カストロ([[1689年]] - [[1731年]]) - 植民地[[パラグアイ]]の総督・イエズス会とパラグアイ支配権を争い反乱を起こし処刑される
* [[フランソワ・マッカンダル]](? - [[1758年]]) - 植民地[[ハイチ]]の[[マルーン]]の指導者・もとは逃亡奴隷でブードゥー教司祭となりフランス人農園主と対決
* [[フニペロ・セラ]]([[1713年]] - [[1784年]]) - 植民地[[アルタ・カリフォルニア]]のフランシスコ会士・先住民強制改宗で「最後のコンキスタドール」と呼ばれる
* {{仮リンク|アレイジャディーニョ|pt|Aleijadinho}}([[1738年]] - [[1814年]]) - 植民地ブラジルの建築家で彫刻家・コンゴーニャスのボン・ジェズス教会が有名
* [[ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ]]([[1742年]] - [[1781年]]) - 植民地ペルーの反乱指導者・インカの末裔[[トゥパク・アマル2世]]と名乗る
* [[チラデンテス]]([[1746年]] - [[1792年]]) - 植民地ブラジルの軍人・「[[ミナスの陰謀]]」でポルトガルからの独立を企てるも失敗・ブラジルの英雄とされる
=== 西アジア・中央アジア ===
* アブドゥルガニー・ナーブルスィー([[1641年]] - [[1731年]]) - オスマン帝国シリアの神秘主義者・存在一性論の立場から自由意思論に言及
* {{仮リンク|ネヴシェヒルリ・イブラヒム・パシャ|en|Nevşehirli Damat Ibrahim Pasha}}([[1666年]] - [[1730年]]) - オスマン帝国の大宰相・チューリップ時代にアフメト3世を支える
* イルミセキズ・チェレビー([[1670年]] - [[1732年]]) - オスマン帝国の外交官・大宰相の命によりフランスを訪問し西欧文化を紹介する
* [[アフメト3世]]([[1673年]] - [[1736年]]) - オスマン帝国の第23代皇帝(在位[[1703年]] - [[1730年]])・チューリップ時代を現出する
* [[イブラヒム・ミュテフェッリカ]]([[1674年]] - [[1745年]]) - オスマン帝国の外交官・ムスリムによる最初の活版印刷所を[[イスタンブール]]に創設
* [[クロード・アレクサンドル・ド・ボンヌヴァル]]([[1675年]] - [[1747年]]) - フランス出身のオスマン帝国軍人・イスラム教徒となり帝国の軍事改革を行う
* ネディーム ([[1681年]]? - [[1730年]]) - オスマン帝国のチューリップ時代の[[トルコ文学|トルコ語]]の詩人・現世的喜びを詠う
* アブドルジェリル・レヴニー(? - [[1732年]]) - オスマン帝国のチューリップ時代の画家で[[細密画]](ミニアチュール)に優れる
* パトロナ・ハリル(? - [[1732年]]) - オスマン帝国の反乱指導者・元は[[イェニチェリ]]で無頼・反乱を起こしチューリップ時代を終わらせる
* [[ムハンマド・イブン・サウード]]([[1685年]] - [[1765年]]) - 第一次サウード王国国王(在位[[1726年]] - [[1765年]])・[[ワッハーブ派]]の守護者となる
* [[ナーディル・シャー]]([[1688年]] - [[1747年]]) - イランの[[アフシャール朝]]の君主(在位[[1736年]] - [[1747年]])・「第二のアレクサンドロス」
* [[ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ]]([[1703年]] - [[1792年]]) - アラビアの宗教家・[[ワッハーブ派]]の創始者で[[サウード家]]と結ぶ
* [[カリーム・ハーン]]([[1705年]]頃 - [[1779年]]) - イランの[[ザンド朝]]の初代君主([[1750年]] - [[1779年]])・イランを復興し[[シーラーズ]]に遷都
* [[アフマド・シャー・ドゥッラーニー]]([[1723年]] - [[1773年]]) - アフガニスタンの[[ドゥッラーニー朝]]の初代君主(在位[[1747年]] - [[1773年]])
* [[アーガー・モハンマド・シャー]]([[1742年]]? - [[1797年]]) - イランの[[カージャール朝]]の初代君主(在位[[1796年]] - [[1797年]])・[[テヘラン]]に遷都
=== インド・東南アジア ===
* [[ムルシド・クリー・ハーン]]([[1665年]]頃 - [[1727年]]) - 東インドの[[ベンガル太守]](在位:[[1717年]] - [[1727年]])・ムガル帝国から自立する
* [[カマルッディーン・ハーン]]([[1671年]] - [[1748年]]) - ムガル帝国の宰相・後に[[ハイダラーバード]]の[[ニザーム王国]]の初代君主(在位:[[1724年]] - [[1748年]])
* [[ターラー・バーイー]]([[1675年]] - [[1761年]]) - マラーター国王[[ラージャーラーム]]の妃で[[シヴァージー2世]]の母・アウラングゼーブを翻弄する
* [[サアーダト・アリー・ハーン]]([[1680年]]頃 - [[1739年]]) - 北インドの[[アワド太守]](在位:[[1722年]] - [[1739年]])・ムガル帝国から自立する
* [[サアーダトゥッラー・ハーン]](? - [[1732年]]) - 南インドの[[カルナータカ太守]](在位:[[1710年]] - [[1732年]])・ムガル帝国から自立する
* [[ジョゼフ・フランソワ・デュプレクス]]([[1697年]] - [[1763年]]) - フランス領インド総督・第一次カーナティック戦争で優位に立つ
* [[バージー・ラーオ]]([[1700年]] - [[1740年]]) - [[マラーター王国]]の宰相(在位:[[1720年]] - [[1740年]])・「[[シヴァージー]]の再来」と呼ばれ帝都[[デリー]]を攻撃
* シャー・ワリー・ウッラー([[1702年]]/[[1703年]] - [[1762年]]) - イスラーム神学者・近代イスラーム思想の先駆者・著作に『神の究極の明証』がある
* [[アラウンパヤー]]([[1714年]] - [[1760年]]) - ミャンマーの[[コンバウン朝]]の創設者(在位:[[1752年]] - [[1760年]])・国内を統一し[[ラングーン]]市を整備
* [[ハイダル・アリー]]([[1717年]]/[[1722年]] - [[1782年]]) - マイソール王国の将軍・首席大臣・後に[[オデヤ朝]]に代わり国王(在位:[[1761年]] - [[1782年]])となる
* [[ミール・タキー・ミール]]([[1723年]] - [[1810年]]) - インドの[[ガザル|ウルドゥー抒情詩(ガザル)]]詩人・『ニカートッシュアラー』『ジィクレ・ミール』がある
* [[ロバート・クライヴ]]([[1725年]] - [[1774年]]) - イギリス出身の軍人・プラッシーの戦いでフランスに勝利しイギリス領インドの基礎を築く
* [[ウォーレン・ヘースティングズ]]([[1732年]] - [[1818年]]) - イギリス出身の政治家・ベンガル知事からインドの初代総督となる
* [[タークシン]]([[1734年]] - [[1782年]]) - [[トンブリー朝]]唯一のシャム国王(在位:[[1767年]] - [[1782年]])・アユタヤ朝滅亡後の国家を再建する
* [[ラーマ1世]]([[1737年]] - [[1809年]]) - チャクリー朝初代のシャム国王(在位:[[1782年]] - [[1809年]])・新たにバンコクを建設し遷都する
* [[ティプー・スルターン]]([[1750年]] - [[1799年]]) - インドのマイソール王国国王(在位:[[1782年]] - [[1799年]])・イギリスとの熾烈な戦いで有名
=== 東アジア ===
==== 清 ====
* [[康熙帝]]([[1654年]] - [[1722年]]) - 清の第4代皇帝(在位[[1661年]] - [[1722年]])・中国屈指の名君・在位60年で「三世の春」時代を迎える
* [[ジョアシャン・ブーヴェ]](白進)([[1656年]] - [[1730年]]) - フランス人のイエズス会士・「皇輿全覧図」を作成し『康熙帝伝』を執筆
* ジャン・バティスト・レジス(雷孝思)([[1663年]] - [[1738年]]) - フランス人のイエズス会士・ブーヴェらと「皇輿全覧図」を作成
* [[張廷玉]]([[1672年]] - [[1755年]]) - 清の政治家・軍機大臣・康熙帝から乾隆帝までの三朝五十年仕える・『[[明史]]』などの編纂にも従事
* [[沈徳潜]]([[1673年]] - [[1769年]]) - 清の文人・学者・乾隆帝から「東南二老」の一人と讃えられる・『五朝詩別裁集』がある
* [[雍正帝]]([[1678年]] - [[1735年]]) - 清の第5代皇帝(在位[[1722年]] - [[1735年]])・政務に精励し独裁権を確立・[[軍機処]]を設置
* 曾静([[1679年]] - [[1735年]]) - 清の思想家・反清思想で捕縛されるが転向・その経緯は『[[大義覚迷録]]』に詳しい・乾隆帝により処刑される
* [[沈南蘋]]([[1682年]] - [[1760年]]以降) - 清の画家・徳川幕府に招聘され長崎に滞在・写生的な花鳥画の技法を日本に伝える
* 岳鍾琪([[1686年]] - [[1754年]]) - 清の軍人・ジュンガルを追ってチベットを制圧し青海にも進出・失脚するも復権し大金川遠征にも参加
* 金農([[1687年]] - [[1763年]]) - 清の書家・画家・官途につかず揚州八怪の一人として在野で活躍・[[金石学]]から学んだ[[隷書]]が有名
* [[ジュゼッペ・カスティリオーネ]](郎世寧)([[1688年]] - [[1766年]]) - イタリア人のイエズス会士・乾隆帝に画家として仕え[[円明園]]を設計
* [[鄭燮]]([[1693年]] - [[1765年]]) - 清の書家・画家・官途につくも辞任・揚州八怪の一人・金農とともに金石学を学び碑学派の先駆となる
* [[呉敬梓]]([[1701年]] - [[1754年]]) - 清の文人・官吏の弊風を諷刺した長編口語小説『[[儒林外史]]』を書く
* [[乾隆帝]]([[1711年]] - [[1799年]]) - 清の第6代皇帝(在位[[1735年]] - [[1795年]])・「三世の春」の円熟期を代表し「十全武功」を誇った
* [[ミシェル・ブノワ]](蒋友仁)([[1715年]] - [[1774年]]) - フランスのイエズス会士・円明園西洋楼の設計を行い『坤輿全図』を作成
* [[袁枚]]([[1716年]] - [[1797年]]) - 清の詩人・散文作家・性霊説を唱えた詩論『随園詩話』や料理書『[[随園食単]]』怪異談『[[子不語]]』が有名
* [[ジョセフ・マリー・アミオ]](銭徳明)([[1718年]] - [[1793年]]) - フランス人のイエズス会士・乾隆帝に仕え『孫子』『呉子』など中国古典を翻訳
* 劉墉([[1719年]] - [[1804年]]) - 清の政治家・乾隆帝と嘉慶帝に仕え高官を歴任・書家としては帖学派を代表し「濃墨宰相」と呼ばれる
* [[戴震]]([[1724年]] - [[1777年]]) - 清の学者(考証学)・『四庫全書』の編纂官となり天算(暦)の部の校訂を行う・著書に『孟子字義疏証』
* [[紀昀]]([[1724年]] - [[1805年]]) - 清の官吏・学者・『四庫全書』の総編集を担当・詩文や論文は残さず怪異談『閲微草堂筆記』が残る
* [[曹雪芹]]([[1724年]]頃 - [[1763年]]頃) - 清の作家・没落した旗人に生まれ貧窮の中で長編口語小説『[[紅楼夢]]』を完成させる
* [[趙翼]]([[1727年]] - [[1812年]]) - 清の官吏・学者(考証学)・正史二十二史の編纂形式や内容を考証した『[[二十二史箚記]]』を執筆
* [[銭大昕]]([[1728年]] - [[1804年]]) - 清の官吏・学者(考証学)・正史二十二史の編纂形式や内容を考証した『[[二十二史考異]]』を執筆
* [[畢沅]]([[1730年]] - [[1797年]]) - 清・官吏([[湖広総督]])・学者(考証学)・銭大昕らを召し抱え『[[続資治通鑑]]』を執筆編纂する
* 王倫(? - [[1774年]]) - 清の反乱指導者・白蓮教系清水教の頭目として反乱を起こすが鎮圧される
* [[林爽文]](? - [[1788年]]) - 清の反乱指導者・[[天地会]]に参加し台湾で反乱を起こすが鎮圧される・乾隆帝の「十全武功」の一つとされる
* 容妃([[1734年]] - [[1788年]]) - 清の乾隆帝の后妃・西域から召されながら乾隆帝の寵愛を拒んで自殺したという伝説の「香妃」のモデル
* [[段玉裁]]([[1735年]] - [[1815年]]) - 清の官吏・学者(考証学)・戴震に音韻論を学び『説文解字注』などの著作を残す
* [[ジョージ・マカートニー (初代マカートニー伯爵)|ジョージ・マカートニー]]([[1737年]] - [[1806年]]) - イギリスの政治家・外交官・熱河で乾隆帝と会見するが貿易制限改善の交渉は失敗
* [[章学誠]]([[1738年]] - [[1801年]]) - 清の学者(考証学)・史学研究から『文史通義』や『[[校讐通義]]』などの著作を残す
* [[鄧石如]]([[1743年]] - [[1805年]]) - 清の書家・篆刻家・秦篆や漢隷を再評価し[[碑学派]]の祖とされる・『完白山人印譜』がある
* [[洪亮吉]]([[1746年]] - [[1809年]]) - 清の官僚・思想家・[[マルサス]]に先んじて『治平論』で人口問題に言及・嘉慶帝により追放される
* [[ヘシェン]](和珅)([[1750年]] - [[1799年]]) - 清の政治家(軍機大臣)・晩年の乾隆帝の寵を受け専横を尽くす・不正蓄財を行い [[嘉慶帝]]に処罰される
==== チベット ====
* [[ダライ・ラマ6世]](ツァンヤン・ギャツォ)([[1683年]] - [[1706年]]) - チベットの教主(在位[[1697年]] - [[1706年]])・沙弥戒を返上し廃位される・恋愛詩で有名
==== 大越 ====
* [[ピニョー・ド・ベーヌ]](百多禄)([[1741年]] - [[1799年]]) - フランス人宣教師・越南の[[阮福暎]](後の嘉隆帝)を補佐し[[西山朝]]と戦う
* [[阮恵]]([[1753年]] - [[1792年]]) - 大越の西山朝の皇帝(在位[[1788年]] - [[1792年]])・西山三兄弟の末弟・広南阮氏や東京鄭氏を倒し[[黎朝]]を滅ぼす
==== 李氏朝鮮 ====
* 申維翰([[1681年]] - [[1752年]]) - 李氏朝鮮の儒者・第9次[[朝鮮通信使]]の製述官・[[雨森芳洲]]らと交流し『[[海游録]]』を残す
* [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]([[1694年]] - [[1776年]]) - 李氏朝鮮の21代国王(在位[[1724年]] - [[1776年]])・党争を抑え長期間王位にあった・[[荘献世子]]を廃太子とする
* 金仁謙([[1707年]] - [[1772年]]) - 李氏朝鮮の儒者・第11次朝鮮通信使の外交書記官・[[ハングル]]で書かれた『[[日東壮遊歌]]』を残す
=== 日本 ===
* [[英一蝶]]([[1652年]] - [[1724年]]) - 画家・[[吉原遊廓]]で[[幇間]]としても活躍するが[[三宅島]]に流罪となる・赦免後は画業に復帰
* [[近松門左衛門]]([[1653年]] - [[1725年]]) - 浄瑠璃作者・時代物『[[国姓爺合戦]]』や世話物『[[曽根崎心中]]』などがある
* [[霊元天皇]]([[1654年]] - [[1732年]]) - 第112代天皇(在位[[1663年]] - [[1684年]])・[[立太子礼]]や[[大嘗祭]]などの朝儀再興を推進・譲位後も長期にわたって院政を敷く
* [[新井白石]]([[1657年]] - [[1725年]]) - 儒学者・政治家として将軍家宣・将軍家継に仕え[[正徳の治]]を推進・著作に『読史余論』ほか
* [[柳沢吉保]]([[1658年]] - [[1714年]]) - 大名(甲斐甲府藩主)・[[老中格]]・[[大老|大老格]]・将軍綱吉に仕え元禄から宝永の幕政を指導
* [[荻原重秀]]([[1658年]] - [[1713年]]) - 江戸幕府の[[勘定奉行]]・[[元禄]]から[[宝永]]での[[貨幣改鋳]]を行う・新井白石により罷免される
* [[尾形光琳]]([[1658年]] - [[1716年]]) - 画家([[琳派]])・「紅白梅図屏風」「燕子花図屏風」がある・陶芸家[[尾形乾山]]は弟
* [[大石良雄]]([[1659年]] - [[1703年]]) - 義士・赤穂藩家老・[[赤穂事件]]で主君[[浅野長矩]]の敵[[吉良義央]]を討つ
* [[山本常朝]]([[1659年]] - [[1719年]]) - 武士(佐賀藩士)・思想家・[[武士道]]で知られる『[[葉隠]]』を著す
* [[徳川家宣]]([[1662年]] - [[1712年]]) - 江戸幕府6代将軍(在任[[1709年]] - [[1712年]])・[[甲府藩|甲府藩主]]より徳川将軍家を継いで[[正徳の治]]を開始。
* [[寺島良安]](生没年不詳) - 医師・中国の『[[三才図会]]』を範とした日本最初の絵入り[[百科事典]]『[[和漢三才図会]]』を著述
* [[荻生徂徠]]([[1666年]] - [[1728年]]) - 儒学者([[古文辞学]])・蘐園学派を形成し著作に『政談』『論語徴』がある
* [[間部詮房]]([[1666年]] - [[1720年]]) - 大名(上野高崎藩主)・側用人・老中格・将軍家宣・将軍家継に仕え[[正徳の治]]を推進
* [[雨森芳洲]]([[1668年]] - [[1755年]]) - 儒学者・中国語や朝鮮語に通じ[[対馬藩]]に仕えて李氏朝鮮との通好実務にも携わる
* [[ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ]]([[1668年]] - [[1714年]]) - カトリック司祭・鎖国下の日本に潜入・新井白石との交流で有名
* [[荷田春満]]([[1669年]] - [[1736年]]) - 国学者・国学の四大人の一人・著作に『万葉集僻案抄』などがある
* [[売茶翁]]([[1675年]] - [[1763年]]) - [[黄檗宗]]の僧・[[煎茶]]の中興の祖・日本初の喫茶店である東山通仙亭を開き文人たちと交友
* [[大岡忠相]]([[1677年]] - [[1752年]]) - 政治家(寺社奉行ほか)・大名(西大平藩初代藩主)・将軍吉宗を補佐し享保の改革を推進
* [[絵島]]([[1681年]] - [[1741年]]) - [[大奥]]御年寄・将軍家継生母[[月光院]]の側近・大奥風紀粛清に伴う疑獄事件([[江島生島事件]])の中心人物
* [[徳川吉宗]]([[1684年]] - [[1751年]]) - 江戸幕府8代将軍(在任[[1716年]] - [[1745年]])・享保の改革を進め江戸幕府中興の祖とされる
* [[石田梅岩]]([[1685年]] - [[1744年]]) - 思想家・石門心学の祖・商人の職業倫理を肯定し『[[都鄙問答]]』などを著す
* [[白隠慧鶴]]([[1686年]] - [[1768年]]) - 禅僧・臨済宗中興の祖・公案を用いた[[看話禅]]を体系化・『夜船閑話』『[[坐禅和讃]]』ほか禅画も有名
* [[竹田出雲]]([[1691年]] - [[1756年]]) - 浄瑠璃作者・竹本座の座元・『[[仮名手本忠臣蔵]]』『[[義経千本桜]]』を著す
* [[徳川宗春]]([[1696年]] - [[1764年]]) - 大名([[御三家]]尾張藩主)・規制緩和政策をとり倹約重視の徳川吉宗と対立し蟄居させられる
* [[賀茂真淵]]([[1697年]] - [[1769年]]) - 国学者・国学の四大人の一人・『[[源氏物語新釈]]』『[[にひまなび]]』の著作がある
* [[青木昆陽]]([[1698年]] - [[1769年]]) - 蘭学者・救荒作物である[[サツマイモ|甘藷]](サツマイモ)の栽培に尽くし「甘藷先生」と呼ばれる
* [[安藤昌益]]([[1703年]] - [[1762年]]) - 思想家・医師・封建社会批判の『自然真営道』を執筆するが生前は郷里以外ではほとんど無名だった
* [[徳川家継]]([[1709年]] - [[1716年]]) - 江戸幕府7代将軍(在任[[1713年]] - [[1716年]])・その治世が正徳の治
* [[大岡忠光]]([[1709年]] - [[1760年]]) - 大名(武蔵岩槻藩藩主)・若年寄・[[側用人]]として病弱な将軍家重を補佐し重きをなす
* [[徳川家重]]([[1712年]] - [[1761年]]) - 江戸幕府9代将軍(在任[[1745年]] - [[1760年]])・病弱のため側用人大岡忠光が補佐をする
* [[竹内敬持|竹内式部]]([[1712年]] - [[1768年]]) - 国学者・神道家・公卿に尊王論を説き追放される(宝暦事件)・明和事件にも連座
* [[伊藤若冲]]([[1716年]] - [[1800年]]) - 画家・「[[動植綵絵]]」「鹿苑寺大書院障壁画」などの細密描写から「奇想の画家」とも呼ばれる
* [[与謝蕪村]]([[1716年]] - [[1784年]]) - 俳人としては江戸俳諧中興の祖と呼ばれる・画家としては文人画として「[[十便十宜図]]」などを残す
* [[木喰|木喰五行]]([[1718年]] - [[1810年]]) - 真言宗の僧侶・仏師として日本各地に「木喰仏」と呼ばれる木造仏を残す
* [[慈雲|慈雲飲光]]([[1718年]] - [[1805年]]) - 真言宗の僧侶・[[雲伝神道]]の開祖・[[梵語]]研究の大著『梵学津梁』を著す・能書家でもある
* [[柄井川柳]]([[1718年]] - [[1790年]]) - 俳人・[[前句付け]][[点者]]として編んだ『[[誹風柳多留]]』により名が知られ「[[川柳]]」の語の由来となった
* [[田沼意次]]([[1719年]] - [[1788年]]) - 大名(遠江相良藩主)・老中・重商主義による政治を行い「田沼時代」を現出した
* [[前野良沢]]([[1723年]] - [[1803年]]) - 藩医(豊前中津藩)・蘭学者・杉田玄白らとともに『[[解体新書]]』の翻訳を行う
* [[池大雅]]([[1723年]] - [[1776年]]) - 画家・与謝蕪村とともに日本の[[文人画]](南画)の大成者とされる・代表作に「楼閣山水図」ほか
* [[三浦梅園]]([[1723年]] - [[1789年]]) - 医師・経世論家・条理学と言われる独自の学問体系を築き『[[玄語]]』ほかの著作を残す
* [[山県大弐]]([[1725年]] - [[1767年]]) - 儒学者・神道家・江戸に私塾「柳荘」を営むが謀反の疑いをかけられ処刑される(明和事件)
* [[鈴木春信]]([[1725年]]? - [[1770年]]) - 浮世絵師・多色摺りから[[錦絵]]を発展させる・代表作は「風流四季歌仙」ほか
* [[平賀源内]]([[1728年]] - [[1780年]]) - 本草学者・蘭学者・戯作家・発明家・画家・多種多芸の才能を持ちエレキテル実用などで有名
* [[本居宣長]]([[1730年]] - [[1801年]]) - 国学者・国学の四大人の一人・『[[古事記伝]]』『[[源氏物語玉の小櫛]]』を著した
* [[中井竹山]]([[1730年]] - [[1804年]]) - 儒学者・大坂の学問所[[懐徳堂]]の4代目学主・懐徳堂の全盛期を支える・[[中井履軒]]は弟
* [[曾我蕭白]]([[1730年]] - [[1781年]]) - 画家・「群仙図屏風」「商山四皓図屏風」など大胆で創意に満ちた作風から「奇想の画家」とも呼ばれる
* [[円山応挙]]([[1733年]] - [[1795年]]) - 画家(四条円山派)・写生を重視した画風で代表作に「[[大乗寺 (兵庫県香美町)|大乗寺障壁画]]」「雪松図屏風」がある
* [[杉田玄白]]([[1733年]] - [[1817年]]) - 藩医(若狭小浜藩)・蘭学者・前野良沢らとともに『[[解体新書]]』の翻訳を行う
* [[上田秋成]]([[1734年]] - [[1809年]]) - 読本作者・歌人・国学者・怪異小説『[[雨月物語]]』『[[春雨物語]]』ほかを執筆する
* [[工藤平助]]([[1734年]] - [[1801年]]) - 仙台藩の藩医・経世論家・『[[赤蝦夷風説考]]』でロシアの南下を警告・田沼意次の[[蝦夷地]]開発計画に影響
* [[木村蒹葭堂]]([[1736年]] - [[1802年]]) - 文人・画家・本草学者・本業の造り酒屋を営む一方で文化人と交流し「浪速の知の巨人」と呼ばれる
* [[柴野栗山]]([[1736年]] - [[1807年]]) - 儒学者・[[湯島聖堂]]の責任者となり「[[寛政異学の禁]]」を指導・「[[寛政の三博士]]」の一人
* [[徳川家治]]([[1737年]] - [[1786年]]) - 江戸幕府10代将軍(在任[[1760年]] - [[1786年]])・田沼意次に政務を任せ「田沼時代」を迎える
* [[林子平]]([[1738年]] - [[1793年]]) - 経世論家・国防の充実を唱えた『[[海国兵談]]』や『[[三国通覧図説]]』を執筆・「[[寛政の三奇人]]」の一人
* [[長谷川宣以]]([[1745年]] - [[1795年]]) - 幕吏・旗本・[[火付盗賊改方|火付盗賊改役]]・[[石川島]][[人足寄場]]の設置を建言・[[時代劇]]でも有名
* [[浦上玉堂]]([[1745年]] - [[1820年]]) - 文人画家・備中[[鴨方藩]]士・脱藩して琴棋書画の生活を送る・代表作は「[[東雲篩雪図]]」
* [[塙保己一]]([[1746年]] - [[1821年]]) - 国学者・総検校・失明を乗り越え古典籍の一大叢書である『[[群書類従]]』『[[続群書類従]]』を編纂
* [[高山彦九郎]]([[1747年]] - [[1793年]]) - 思想家・勤皇論を唱えて日本各地を歴訪し膨大な旅日記を残す・「寛政の三奇人」の一人
* [[司馬江漢]]([[1747年]] - [[1818年]]) - 浮世絵師であったが後に日本最初の[[銅版画]]家となる・蘭学者として『和蘭天説』などの啓蒙書を残す
* [[大田南畝]]([[1749年]] - [[1823年]]) - 幕吏・文人・狂歌師としては『[[万載狂歌集]]』を編纂し「天明狂歌」の流行の中心人物となる
* [[蔦屋重三郎]]([[1750年]] - [[1797年]]) - 版元(出版人)・戯作者の[[山東京伝]]や浮世絵師の喜多川歌麿や東洲斎写楽を世に出す
* [[谷風梶之助 (2代)|谷風梶之助]]([[1750年]] - [[1795年]]) - [[大相撲力士]]・第4代[[横綱]](実質的な初代横綱)・江戸本場所63連勝の大記録を残す
* [[上杉治憲|上杉鷹山]]([[1751年]] - [[1822年]]) - 大名(出羽米沢藩主)(在任[[1767年]] - [[1785年]])・天明の大飢饉を克服し藩政改革を成し遂げる
* [[松平治郷]]([[1751年]] - [[1818年]]) - 大名(出雲松江藩主)・藩政改革を指導し一定の成果をあげる・茶人としても有名で号は不昧
* [[大黒屋光太夫]]([[1751年]] - [[1828年]]) - 漂流者・ロシアに渡り女帝エカチェリーナ2世に謁見・[[桂川甫周]]により『[[北槎聞略]]』が記録される
* [[喜多川歌麿]]([[1750年代]] - [[1806年]]) - 浮世絵師・[[大首絵]]と呼ばれる[[美人画]]で一世を風靡・代表作に「寛政三美人」がある
* [[最上徳内]]([[1754年]] - [[1836年]]) - 幕府普請役・探検家・近藤重蔵と[[千島列島]]から[[択捉島]]を探検し「大日本恵土呂府」の標識を立てる
* [[大槻玄沢]]([[1757年]] - [[1827年]]) - 蘭学者・江戸に[[芝蘭堂]]を開く・『[[重訂解体新書|解体新書]]』を改訂し『西賓対晤』を執筆・「[[オランダ正月]]」でも有名
* [[松平定信]]([[1759年]] - [[1829年]]) - 大名(陸奥白河藩主)・老中・徳川吉宗の孫であり祖父に習って[[寛政の改革]]を行う
* [[山東京伝]]([[1761年]] - [[1816年]]) - 戯作者・浮世絵師・[[黄表紙]]『[[江戸生艶気樺焼]]』他に[[洒落本]]を執筆・寛政の改革で処罰される
* [[高橋至時]]([[1764年]] - [[1804年]]) - 天文学者・[[麻田剛立]]に暦学を学び[[寛政暦]]を作成・[[高橋景保]]は子・[[伊能忠敬]]は弟子
* [[アダム・ラクスマン]]([[1766年]] - [[1806年]]以降) - ロシアの軍人・最初の遣日使節・大黒屋光太夫の保護と帰国に尽力したが通商は拒否される
* [[蒲生君平]]([[1768年]] - [[1813年]]) - 思想家・北辺防備を唱えた『不恤緯』や天皇陵墓を調査した『[[山陵志]]』がある・「寛政の三奇人」の一人
* [[近藤重蔵]]([[1771年]] - [[1829年]]) - 幕臣・探検家・最上徳内と千島列島から択捉島を探検し「大日本恵土呂府」の標識を立てる
* [[徳川家斉]]([[1773年]] - [[1841年]]) - 江戸幕府11代将軍(在任[[1787年]] - [[1837年]])・治世は寛政の改革から[[大御所時代]]に及ぶ
* [[東洲斎写楽]](活躍時期[[1794年]] - [[1795年]]) - 浮世絵師・阿波の能役者斎藤十郎兵衛説が有力・代表作に「大谷鬼次の江戸兵衛」
== 科学技術 ==
* [[ピアノ]]の発明。
* [[科学アカデミー (フランス)|フランス科学アカデミー]]が、[[地球楕円体]]の形状の論争に決着をつけるために[[赤道]]近傍と[[北極]]近傍の[[子午線弧]]長を比較し([[1735年]]〜[[1740年]])、[[地球]]の数学的形状は[[扁球]]として解釈できることが確認された。
* [[ベンジャミン・フランクリン]]による[[雷]]がelectricity([[電気]])であることの解明と[[避雷針]]の発明。[[アレッサンドロ・ボルタ]]による[[ボルタ電堆]]の発明。
== 伝説・架空のできごと ==
* 18世紀 - イギリスのある海岸のさびれた宿屋ベンボー提督亭に顔面に傷を負った大男ビリー・ボーンズが現れる。ひょんなことから急死した彼の遺品整理をしていた宿屋の息子[[ジム・ホーキンズ]]は、ビリーがフリント船長率いる海賊団の船員であったことを知り、密かに宝を隠した地図があることを発見。これから宝探しの冒険の旅が始まる([[ロバート・ルイス・スティーヴンソン]]の『[[宝島]]』)。
* [[1709年]] - 5月21日にガリヴァーが日本東端の港ザモスキに到着し、日本の皇帝に江戸で拝謁を許される。その後ナンガサク(長崎)まで護送され、6月9日オランダ船で出港しイギリスに帰国する([[ジョナサン・スウィフト]]『[[ガリヴァー旅行記]]』)。
* [[1716年]] - トルコ対オーストリアの戦争でテッラルバのメダルド子爵は、砲弾を受け体が左右まっぷたつになってしまった。病院で右半分だけは無事に命をとりとめたが、領地テッラルバに 戻ってきた右半分だけの子爵は人間らしい心を失った人間になっていた([[イタロ・カルヴィーノ]]『まっぷたつの子爵』)。
* [[1735年]] - [[享保]]20年のこの年、老中[[松平信祝]]の陰謀により[[陸奥国]][[磐城]]の[[湯長谷藩]]藩主[[内藤政醇]]は通常よりも過酷な参勤交代を申し付けられる。小藩ではあるが藩主を盛り立て湯長谷藩主従が知恵と策を用いてこの難局を乗り越えていく([[土橋章宏]]の脚本・小説『[[超高速!参勤交代]]』。映画化もされている)。
* [[1749年]] - [[備後国]]三次(現在の広島県三次市)で、16歳となる[[稲生正令|稲生武太夫]]が7月1日から30日まで連日、妖怪の仕業と思われる奇怪な現象に悩まされる。しかし豪胆な武太夫はものともしなかったため、気丈さを称賛した妖怪の首魁[[山本五郎左衛門]]は眷属を伴って退去することになった(柏正甫『[[稲生物怪録]]』)。
* [[1750年]] - [[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]王配下のイギリス軍、[[フェルナンド6世]]王配下のスペイン軍、海賊[[黒髭]]の一団との「生命の泉」争奪戦に、海賊[[ジャック・スパロウ]]も加わり波乱万丈の航海が展開していく(映画「[[パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉]]」)。
* [[1751年]] - [[ケープタウン]]に向かいテーブル湾に入る直前に一隻の[[アムステルダム]]船が向かい風に煽られた。腹を立てた船長ヘンドリック・ファン・デル・デッケンがその風を罵ったため、風の呪いを受け湾内に入ることもできず幽霊船となって永遠に彷徨い続けることになった(「[[フライング・ダッチマン]]」伝説。[[リヒャルト・ワーグナー]]作曲のオペラ「[[さまよえるオランダ人]]」の原型でもある)。
* [[1756年]]以降 - 決闘事件で故郷アイルランドを逃亡した青年バリーが[[七年戦争]]での志願兵として大陸に渡る。この後、各地で遍歴を続け出世欲からリンドン家の乗っ取りを画策する([[ウィリアム・メイクピース・サッカレー]]の小説『[[バリー・リンドン]]』・この小説を基にした[[スタンリー・キューブリック]]監督の映画「[[バリー・リンドン]]」も有名)。
* [[1761年]] - 旗本飯島平左衛門の娘お露は、一目惚れした相手の萩原新三郎に恋い焦がれて死ぬが、以来、新三郎はその思いを断つように念仏三昧に明け暮れる。その年の盆の十三夜、新三郎の家を死んだはずのお露が訪れた。その手には牡丹燈籠が下げられていた([[三遊亭圓朝]]の怪談『[[牡丹灯籠]]』)。
* [[1767年]] - [[香水]]の名産地[[グラース]]にて有力者の令嬢ロール・リシを殺害し特殊な香水の力を借りて死刑判決から逃亡したグルヌイユがパリに出現する([[パトリック・ジュースキント]]の『[[香水 ある人殺しの物語]]』。映画「[[パフューム ある人殺しの物語]]」の原作)。
* [[1772年]] - リベルタンで奔放な大貴族アルフォンス([[サド侯爵]])の無罪放免を勝ち取るため、夫人のルネとその母モントルイユ夫人が思案する一方で、シミアーヌ男爵夫人やサン・フォン伯爵夫人らが、それぞれの立場から助言を行う([[三島由紀夫]]『[[サド侯爵夫人]]』)。
* [[1773年]] - フランス王太子[[ルイ16世|ルイ]]と王太子妃[[マリー・アントワネット]]の初の正式なパリ訪問の際、[[オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ]]が近衛連隊長付近衛兵として警備を務め、この邂逅から運命の歯車が動き始める([[池田理代子]]の漫画『[[ベルサイユのばら]]』。映画や舞台にもされている)。
* [[1774年]]以前 - [[ルイ15世]]治世下のパリ。不吉な天文現象が暗示に続き、飢饉の波が押し寄せ、財務総監の無策に怒った民衆による反乱が勃発する。そして突如巨大な鰐の姿をした怪物が姿を現し、瞬時のうちに反乱軍と正規軍を呑み込んでしまう。暴徒を操る怪物に対し、エレアザールは超自然的存在の助けを借り、超能力を駆使して怪物に戦いを挑む(ルイ・クロード・サン・マルタン『クロコディル 18世紀パリを襲った鰐の怪物』)。
* [[1775年]]以降 - [[アメリカ独立戦争]]の頃、ニューヨーク州に住む呑気な木こりリップ・ヴァン・ウィンクルは、猟に出掛け深山に足を踏み入れた。そこで九柱戯を楽しむ見知らぬ男たちの一群が酒盛りをしていたのに加わる。酔いが覚めて山を下ると、ふもとでは20数年の歳月が流れており、既にアメリカは独立国になっていた([[ワシントン・アーヴィング]]の短編小説『[[リップ・ヴァン・ウィンクル]]』)。
* [[1775年]]以降 - ダーニーとカートンという2人の青年と、無罪の牢人の娘であるルーシーとの恋愛関係が、フランス革命に巻き込まれ悲劇的な運命を辿っていく([[チャールズ・ディケンズ]]『[[二都物語]]』)。
* [[1780年代]] - 江戸の[[天明]]年間、老中[[田沼意次]]の金権政治に対し、汚れた世の中を正さんと悪人たちを成敗する「紫頭巾」が大活躍。紫頭巾は浮世絵師狩田秀麿と人気を二分することとなったが、その秀麿こそ紫頭巾の正体だった([[寿々喜多呂九平]]原作による時代劇映画「[[紫頭巾]]」)。
* [[1791年]] - 天真爛漫だが節度を弁えぬ若き[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]には天賦の音楽の才能があり、これを見いだした宮廷音楽家の[[アントニオ・サリエリ|サリエリ]]が自分の凡庸さに苦悩する。やがてサリエリはモーツァルトに殺意を抱いていく(作家[[ピーター・シェーファー]]の戯曲『[[アマデウス]]』・この戯曲を基にした[[ミロス・フォアマン]]監督の映画「[[アマデウス (映画)|アマデウス]]」も有名)。
* [[1792年]] - 秘密裏に貴族を救出する謎の組織「紅はこべ(スカーレット・ピンパーネル)」の暗躍に業を煮やしたフランス革命政府は、組織壊滅のため全権大使[[ベルナール・フランソワ・ド・ショーヴラン|ショーヴラン]]を派遣し、ブレイクニー准男爵夫妻に接近させる([[バロネス・オルツィ]]の小説『[[紅はこべ]]』)。
* [[1793年]] - 前年に国王グスタフ3世が仮面舞踏会で暗殺されて以来、社会不安が高まっているスウェーデンの首都[[ストックホルム]]の湖で、四肢を切断された金髪の男性の痛ましい死体が発見された。インテリ法律家と荒くれ風紀取締官がその謎を追う(ニクラス・ナット・オ・ダーグ『1793』)。
* [[1793年]] - [[1794年]] - 駆け出しの画家エヴァリスト・ガムランがフランス革命の中で共和主義に傾倒し、やがて革命裁判所の陪審員に選ばれて恐怖政治に身を投じ破滅していく([[アナトール・フランス]]『[[神々は渇く]]』)。
== 脚注 ==
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<!--=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
* [[年表]]
* [[江戸時代]]
== 外部リンク ==
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[[Category:18世紀|*]] | 2003-02-23T17:53:15Z | 2023-11-25T08:21:40Z | false | false | false | [
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2,783 | 周期表 | 周期表(しゅうきひょう、英: periodic table)は、物質を構成する基本単位である元素を、周期律を利用して並べた表である。元素を原子番号の順に並べたとき、物理的または化学的性質が周期的に変化する性質を周期律といい、周期表では性質の類似した元素が縦に並ぶように配列されている。「周期律表」や「元素周期表」などとも呼ばれる。
周期表は原則、左上から原子番号の順に並ぶよう作成されている。周期表上で元素はその原子の電子配置に従って並べられ、似た性質の元素が規則的に出現する。
同様の主旨を元に作成された先駆的な表も存在するが、一般に周期表は1869年にロシアの化学者ドミトリ・メンデレーエフによって提案された、原子量順に並べた元素がある周回で傾向が近似した性質を示す周期的な特徴を例証した表に始まると見なされている。この表の形式は、新元素の発見や理論構築など元素に対する知見が積み重なるとともに改良され、現在では各元素のふるまいを説明する洗練された表となっている。
周期表は、錬金術師、化学者、物理学者、その他の科学者など、無数の人たちによる知の集大成である。元素の性質を簡潔かつ完成度が高く示した周期表は「化学のバイブル」とも呼ばれる。現在、周期表は化学のあらゆる分野で、反応の分類や体系化および比較を行うための枠組みを与えるものとして汎用的に用いられている。そして、化学だけでなく物理学、生物学、化学工学を中心に工学全体に、多くの法則を示す表として用いられる。
脚注
周期表の配列は、原子の中心に位置する核が保持する陽子の個数に基づいて付けられる原子番号順に並べられる。陽子が1個である水素から始まり、1マス進むごとに陽子が1つ多い元素記号を示しながら並べる。周期律に沿って改行され、2段目・3段目...と順次追加されてゆく。そのため、左から右へ、また上から下へ行くにつれて原子番号が大きな元素が並ぶ。
しかし周期表は長方形ではなく、中央に谷間があるおおまかな凹型をしている。これは周期律が示す元素の近似的な性質が必ずしも同じ原子番号の整数倍で現れない現象を反映しているためである。周期表において右端にある原子番号2のヘリウムと近い性質を持つ元素の仲間(族という)では、次に現れる元素は原子番号10のネオンであり、その次はアルゴン(元素番号18)となる。ここまでは原子番号数の差分はいずれも8だが、続く仲間はクリプトン(同36)、キセノン(同54)と、増分は18に増える。上に示された一般的なレイアウトの周期表では、この18で一巡し貴ガスで改行する法則を採り、縦方向でまとまる元素の族を1 – 18族という名称で設定する。このためヘリウムやネオンがある行では途中に空白が生じ、結果として周期表は凹型となる。
ところが貴ガスにおいてキセノンの下に続く元素はラドン(同86)であり、差分は32に増える。これを1元素1マスを使い表示した拡張周期表という形式もあるが、一般的なレイアウトでは原子番号57–71までをランタノイド、89–103までをアクチノイドとして纏めて切り離し、欄外に表示する。結果この周期表は縦18列、横7段、欄外2行の枠組みで構成される。この形式はスイスのアルフレッド・ベルナーが1905年に提唱したもので、現在でも国際的な標準となっている。
周期表には118個の元素が表示されており、これらすべてに正式な元素名がつけられている。ただし、原子番号82の鉛までが安定な元素である(原子番号83のビスマスの同位体は全て放射性と判明)。
原子には陽子数(原子番号)と同じ数の電子があり、それが陽子核のまわりに電子殻と呼ばれる層を形成して存在すること。この殻は複数あり、電子は基本的に内側から順番に埋まってゆくこと。そして、最も外側にある電子(価電子)は化学反応などの変化においてやりとりがしやすく、その個数が元素の性質を決める要因だということが分かった。
ところが、単純に電子殻を内側から埋めてゆく法則は、アルゴン(原子番号18)までにしか当てはまらない。現在のところ電子殻が複数定められており、内側からK・L・M・N・O・P・Qと名称が続いてつけられている。それぞれには収まる電子の最大数が決まっており、K殻=2個、L=8、M=18、N=32、O=50である。さらにこれは、構成原理に基づくエネルギー準位によって電子が順に埋まる電子軌道(亜殻)に分けられる。K殻は2個の電子が入る1s軌道、L殻は2個の電子が入る2s軌道と6個の電子が入る2p軌道、以下、M殻(3s軌道=2個、3p軌道=6個、3d軌道=10個)、N殻(4s=2、4p=6、4d=10、4f=14)、O殻(5s=2、5p=6、5d=10、5f=14、...)、P殻(6s=2、6p=6、...)、Q殻(7s=2、...)となっている。このうち第4周期において、4s軌道は3d軌道よりも先に電子が満たされる傾向がある。そのためカリウム(同19)からニッケル(同28)まではM殻に空席がある状態でN殻の4s軌道に電子が配置され、これが最外殻として元素の性質を形作る。そして、周期表のへこんだ中央部にあるこの元素群は表の横方向で近似した傾向を備え、これらに該当する3–11族は遷移元素と呼ばれ、このような特性は第4周期以降の長周期と呼ばれる部分で現れる。未だ電子の存在が解明されていなかった時代、メンデレーエフはこの元素の一群をどう解釈すべきかで非常に頭を痛めたという。このような現象が起こる理由について、現在ではM殻内の電子同士が負電荷で反発するために起こると説明されている。
族(groupまたはfamily)は、周期表における縦方向の集合である。この族は元素を分類する上で最も重要な方法と考えられている。いくつかの族に当る各元素の特性は非常に似かよっており、原子量が多くなる方向で明らかな傾向が見られる。この族には名称がつけられているが、それらはアルカリ金属(alkali metals)、アルカリ土類金属(alkaline earth metals)、ニクトゲン(pnictogens)、カルコゲン(chalcogens)、ハロゲン(halogens)、貴ガス(noble gases)と、統一性があまり無い。第14族元素など周期表におけるその他の族は垂直方向での近似性があまり見られず、基本的に族の数字で表されることが多い。
現代の量子力学理論が要請する原子の構造は、族が持つ傾向で説明され、それは特性ごとに分ける上で最も重要な要素に影響を与える原子価殻において電子配置が同一である原子は同じ族に含まれる。同じ族の元素グループには原子半径・イオン化エネルギー・電気陰性度の傾向にも近似性が見られる。上から下に行くにつれ全体のエネルギー値が高くなるため、原子価電子は原子核から遠くなってゆき、元素の原子半径は大きくなる。原子全体が電子を捕まえる力は強くなるため、下に行くほどイオン化エネルギーは小さくなり、同様に原子核と原子価電子の距離が長くなるにつれ電気陰性度も低くなる。
周期(period)は、周期表のおける横方向の集合である。基本的に各元素の特性に族で示される程の似かよった所は無いが、例外的な箇所もある。これは、遷移金属と、特にランタノイドやアクチノイドにおいて、水平方向で近似性を持つ特徴が相当する。この周期は、最外電子殻が内側から何番目であるかを表している。
同じ周期にある元素は原子半径、イオン化エネルギー、電子親和力、電気陰性度のパターンで似た傾向を示す。左から右に行くにつれ、一般に原子半径は小さくなる。これは、元素に含まれる陽子の数は段々と増えるため、それに応じて電子が原子核にひきつけられるためである。これに伴ってイオン化エネルギーは大きくなり、貴ガスで最大となる。原子半径が小さくなると全体を捉える力が強まり、電子を引き剥がすために必要なエネルギーが大きくなる。電気陰性度も同じく核による電子の牽引力が増すため大きくなる。電子親和力の周期内による変化傾向はわずかである。周期表左側にある金属元素は一般に、貴ガスを除いて右側の非金属元素よりも電子親和力は低い。
最外殻電子が元素の特徴に大きな影響を与える点を考慮して周期表を領域で分ける分類もあり、これはブロック(periodic table blockまたは単にblock)と呼ばれ、「最後の電子」が存在する亜殻の位置に応じて名称がつけられる。sブロック元素はアルカリ金属とアルカリ土類金属のふたつの族に水素とヘリウムが加わるブロックである。pブロック元素は残り6つの族(13–18族元素)が該当し、半金属はここに含まれる。dブロック元素は3-12族元素に当る遷移金属を包括する。通常、周期表の欄外に置かれるランタノイドとアクチノイドはfブロック元素となる。
元素は他の集合でも分類され、周期表の縦横またはブロックでも示しにくい場合がある。金属・半金属元素と非金属元素の区分は暗示的にしか表現されない階段状の斜め線で区別されている。その線の右側が非金属元素、左側が金属元素であり、間に半金属が挟まれている。金属が持つ典型的特徴である電子を放出しやすい性質は、周期表の左下で強くなる。
また、単体が常温常圧下で取る物質の状態(固体・液体・気体)もブロックでは表しにくい。全体の傾向は水素と右上のヘリウム付近(窒素から右、塩素から右および貴ガス)が気体であり、例外的に液体の相となる臭素と水銀とフランシウムを除いた元素は固体である。このような分類は、マスや文字色などそれぞれの周期表で工夫をこらした表現で示される場合もある。
18世紀後半から19世紀前半にかけて化学の発展に伴い元素が数多く発見され、1789年にアントワーヌ・ラヴォアジエが作成したリストでは33個の元素が記載された。1830年までにその数は55種まで増え、それとともに化学者の中には漠然とした不安が持ち上がっていた。元素は一体何種類あるのか、そしてこの増えるばかりの元素には何かしらの法則性が隠されていないのだろうかという疑念である。1829年、ドイツのヨハン・デーベライナーは1826年に発見された臭素の色や反応における性質、そして原子量が塩素およびヨウ素の中間にあることに気づいた。彼は他にも同様の組み合わせが無いか研究したところ、カルシウム-ストロンチウム-バリウムと硫黄-セレン-テルルにも同じような性質の近似性があることを見つけた。デーベライナーはこの組み合わせを三つ組元素と名付けた。しかし、当時知られた元素のうちこれに当てはまるものは1⁄6に過ぎず、多くの化学者は単なる偶然と片付けた。当時、原子量と分子量、そして化学当量は明確に区別されておらず、混同も多かった。
1862年にフランスの鉱物学者ベギエ・ド・シャンクルトワが「地のらせん」という説を発表し、円筒状の紙に元素を螺旋型に並べると垂直方向に性質が近似した元素が並ぶと唱えた。しかし彼は数学における錬金術的な「数秘学」という方法でこれを説明し、的確な図を添付しなかったために他の科学者には理解されなかった。1864年、イギリスのジョン・ニューランズが当時知られていた元素を並べると、最初(水素)と8番目(フッ素)の性質が似ており、以下2番目(リチウム)と9番目(ナトリウム)も同じ傾向があり、これは7番目(酸素)と14番目(硫黄)まで同様に見られることを、音楽の音階になぞらえて「オクターブの法則」と名付けて発表した。ただしこれはさらに大きな元素には当てはまらなかったために賛同を得られずかえって「では元素記号のアルファベット順に並べたらどうなる」と嘲笑の的になった。1864年、ドイツのロータル・マイヤーは既知49種類の元素を原子容(原子体積)に着目し16列にわけた周期表を考案した。これは価電子数が同じ元素が近似した性質を持つことを表していた。
ドイツのアウグスト・ケクレは、原子量や分子量などの概念がまだしっかりとしていないことを問題視して、1860年にカールスルーエで「元素の質量測定」をテーマとした史上初の国際化学者会議を開催した。この会議に出席したロシアの教師であり化学者であったドミトリー・メンデレーエフはそこでイタリアのスタニズラオ・カニッツァーロが唱えた原子量を重視すべきであるという主張に影響を受けた。
メンデレーエフはロシアに帰国した後にペテルブルク大学の教授となり、1869年に化学の教科書を執筆していた際に、発見済みの数が63個にまで増えていた元素を説明する方法に悩んでいた。彼は自分の好きなカードゲームから発案して、元素名を書き込んだカードを原子量順に並べ替えることを何度も繰り返すうちにひとつの表を作り上げた。それは原子価を重視し、かつ適切に当てはめられる元素が表中に無い場所には「エカホウ素」「エカアルミニウム」「エカケイ素」(「エカ」はサンスクリット語で「1」の意味)などの仮の名をつけて元素を割り当てずに空けておくという工夫を施したものだった。この表は1870年にドイツの科学雑誌に発表された。
当初はこの彼の表の価値を認める学者はほとんどいなかった。しかし、マイヤーはこれに注目し、原子容の考え方を加えた論文を発表した。彼は原子量順の原子容を調べたところ、リチウム・ナトリウム・カリウムと並ぶアルカリ金属族に該当する元素は原子容が前後と飛びぬけて高いことを示した。メンデレーエフはマイヤーの論文も参照し、改良を加えた周期表(第二周期表)を作成した。これにはローマ数字IからVIIIで縦の分類が施され、うちI–VIIが基本的に1–2族および13–17族に対応し、VIIIには遷移元素群を入れ、また貴ガスは反映されていなかった。それぞれには2種類の亜族を設け、表の左右に振り分けて区分した。
メンデレーエフの周期表はすぐに認められたわけではなかった。しかし1875年にフランスのポール・ボアボードランが新元素ガリウムを発見し、これが周期表中の「エカアルミニウム」と一致した性質を持つことが判明すると周期表が注目を浴びるようになった。その後も1879年に発見されたスカンジウム(「エカホウ素」)、1886年に発見されたゲルマニウム(「エカケイ素」)がメンデレーエフの表の空白の位置を埋めるものだということが判明し、彼の周期表による予想の正しさが証明された。これに伴って「オクターブの法則」のジョン・ニューランズも再評価され、1887年にイギリス化学学会から賞を授与された。
しかし周期表による予言では収められないケースもあった。1794年にスウェーデンの小村イッテルビーで発見された鉱物群からは多くの新元素が見つかっていたが、1907年までにその数は14にもなった。これらはいずれもよく似た性質を持っており希土類元素と呼ばれたが、メンデレーエフの周期表に当てはめようとしても、いずれの族にも納まらないものであった。この問題は常に意識されていたが、1920年以降にこれらの元素はランタノイドという概念の下にまとめられて決着を見た。
メンデレーエフは化合物のでき方、すなわち原子価を重視して周期表を作成した。ここに、1894年にジョン・ウィリアム・ストラット(レイリー卿)とウィリアム・ラムゼーが発見した新元素アルゴンが立ちはだかった。「怠け者」を意味する化合物を作らないアルゴンをどのように周期表の中に組み込むべきかが悩まれた。しかし1898年までに同様な性質を持つヘリウム・ネオン・クリプトン・キセノンが相次いで発見され、これらも周期表の族の一種だと考えられるようになった。
これら元素は貴ガスと呼ばれたが、原子価を示すとゼロとなる。原子量で考えるとアルゴンはカリウムとカルシウムの間に入るべきだが、原子価で見るとイオウ−塩素−カリウム−カルシウムが2−1−1−2となる点を重視して塩素とカリウムの間に入れると2−1−0−1−2となったため、貴ガスは周期表の右端に置かれるようになった。
周期表で示される元素の性質を作り出す構造は、1913年にニールス・ボーアが提唱したボーアの原子模型で理論説明が成された。彼の理論によって、元素は電子配置によって性質が左右し、その軌道が周期表の周期と対応していることが説明された。
周期表の各マスには、最低限元素記号と原子番号が記される。大きな周期表においては、これに加えさまざまな情報が追記されたものもある。日本ならば日本語の名称というように作成地域の言語における元素名、原子量や価電子数、さらに拡張的なものでは電子配置や利用例なども加えられることがある。
原子量について、元素の多くは同位元素を持つ。これらの原子量は一定ではないため、表記する際には慣例的に半減期が最も長い同位体を括弧つきで示す。なお、原子量には絶対質量と相対質量があり、後者は質量数12の炭素(C)を基準「12」と置いて設定される。これには物理学会と化学学会の間で紆余曲折があり、1820年頃は酸素を基準16として設定していたが、1890年代になって天然の酸素は実は3つの同位体の混合物であることが判明した。そこで物理では厳密にOを基準として定めたが、化学では従来通り酸素の3つの天然同位体が混ざった状態を基準としていた。1960年になり、基準の統一についての検討がなされたが、Oを基準に設定すると化学では原子量や分子量の数字が従来の値から0.027 %も変化してしまうので、天然の同位体の存在割合が比較的少ないCを新しい基準に採用することにして基準の変更による数値の変化を0.0043 %に収めた。
現在一般的な周期表では、水素は最も左上の場所にある。しかしこれは適切ではないのではという意見が過去IUPACの雑誌にて提唱された。現状では水素は、最外殻に一つの電子を持つ1族の位置にあるが、リチウム以下でこの属はアルカリ金属を指しており、金属ではない水素がここにある矛盾が指摘された。また、電子殻(この場合亜殻の1p軌道)が満たされる状態からひとつ電子が少ないと捉えると、フッ素以下の17族(ハロゲン)の仲間と考えることも可能であり、実際に水素はアルカリ金属的な性質とハロゲン的な性質を併せ持つ。IUPACは水素の位置を左上端に置くとする見解を示しているが、アメリカ化学会などはこれらを考慮し、水素を第1周期の中央部分に置いた周期表を掲載した書籍を発行している。また、周期表によっては、17族のフッ素の上に水素のための別枠を設け、ヘリウムの左隣に併記する方法をとった物も存在する。
また、ヘリウムも最外殻の電子数が2つであることを重視して2族のベリリウムの上に置くべきという主張もある。しかしヘリウムは貴ガスの性質を持つため、右端に置く現状が最適という考えが一般的である。
平面的な周期表では1族と18族が大きく断絶しているように見えるが、本来この2つの族は原子番号が隣り合っている通り、連続して示されるべきものである。一般的な周期表は、いわば螺旋状に連なるべきものを無理に平面で表示している。京都大学教授の前野悦輝は円筒の上に示すエレメンタッチを考案し、立体的な周期表を示した。
欄外に置かれたランタノイドとアクチノイドを取り込んだ立体周期表を、化学者ポール・ジゲールが提案した。平面状の周期表を立てた棒に貼り付け、ランタノイドとアクチノイドの部分を直角に差し込んだもので、将来119番目以降の元素が発見された際に設ける必要が生じる欄外も取り込むことができる。
カナダの化学者フェルナンド・デュフォーは、柱に取り付けた複数の透明なプレート上に各原子を配列し、プレートで同一の周期を示しながら、族を上から見下ろした際に元素の表示が重なって見えることで周期律を表す立体周期表を提案した。これは、柱を中心にそれぞれの方向に近似する性質を持つ元素の集団が見通せ、それが規則的に増加する周期それぞれの性質を把握しやすい形となっている。
電子軌道で分類する周期表もある。分類は次の通り。
1960年代後半から1970年代前半まで、理科教育現場では1980年代頃まで周期律表との用語が使われていたが、それ以降は主に「周期表」という表記がされている。周期律表は誤った用法との指摘もあるが、古い用語で教育を受けた者が使い続けている現実があると指摘されている。 | [
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"text": "18世紀後半から19世紀前半にかけて化学の発展に伴い元素が数多く発見され、1789年にアントワーヌ・ラヴォアジエが作成したリストでは33個の元素が記載された。1830年までにその数は55種まで増え、それとともに化学者の中には漠然とした不安が持ち上がっていた。元素は一体何種類あるのか、そしてこの増えるばかりの元素には何かしらの法則性が隠されていないのだろうかという疑念である。1829年、ドイツのヨハン・デーベライナーは1826年に発見された臭素の色や反応における性質、そして原子量が塩素およびヨウ素の中間にあることに気づいた。彼は他にも同様の組み合わせが無いか研究したところ、カルシウム-ストロンチウム-バリウムと硫黄-セレン-テルルにも同じような性質の近似性があることを見つけた。デーベライナーはこの組み合わせを三つ組元素と名付けた。しかし、当時知られた元素のうちこれに当てはまるものは1⁄6に過ぎず、多くの化学者は単なる偶然と片付けた。当時、原子量と分子量、そして化学当量は明確に区別されておらず、混同も多かった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1862年にフランスの鉱物学者ベギエ・ド・シャンクルトワが「地のらせん」という説を発表し、円筒状の紙に元素を螺旋型に並べると垂直方向に性質が近似した元素が並ぶと唱えた。しかし彼は数学における錬金術的な「数秘学」という方法でこれを説明し、的確な図を添付しなかったために他の科学者には理解されなかった。1864年、イギリスのジョン・ニューランズが当時知られていた元素を並べると、最初(水素)と8番目(フッ素)の性質が似ており、以下2番目(リチウム)と9番目(ナトリウム)も同じ傾向があり、これは7番目(酸素)と14番目(硫黄)まで同様に見られることを、音楽の音階になぞらえて「オクターブの法則」と名付けて発表した。ただしこれはさらに大きな元素には当てはまらなかったために賛同を得られずかえって「では元素記号のアルファベット順に並べたらどうなる」と嘲笑の的になった。1864年、ドイツのロータル・マイヤーは既知49種類の元素を原子容(原子体積)に着目し16列にわけた周期表を考案した。これは価電子数が同じ元素が近似した性質を持つことを表していた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 20,
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"text": "ドイツのアウグスト・ケクレは、原子量や分子量などの概念がまだしっかりとしていないことを問題視して、1860年にカールスルーエで「元素の質量測定」をテーマとした史上初の国際化学者会議を開催した。この会議に出席したロシアの教師であり化学者であったドミトリー・メンデレーエフはそこでイタリアのスタニズラオ・カニッツァーロが唱えた原子量を重視すべきであるという主張に影響を受けた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "メンデレーエフはロシアに帰国した後にペテルブルク大学の教授となり、1869年に化学の教科書を執筆していた際に、発見済みの数が63個にまで増えていた元素を説明する方法に悩んでいた。彼は自分の好きなカードゲームから発案して、元素名を書き込んだカードを原子量順に並べ替えることを何度も繰り返すうちにひとつの表を作り上げた。それは原子価を重視し、かつ適切に当てはめられる元素が表中に無い場所には「エカホウ素」「エカアルミニウム」「エカケイ素」(「エカ」はサンスクリット語で「1」の意味)などの仮の名をつけて元素を割り当てずに空けておくという工夫を施したものだった。この表は1870年にドイツの科学雑誌に発表された。",
"title": "歴史"
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"text": "当初はこの彼の表の価値を認める学者はほとんどいなかった。しかし、マイヤーはこれに注目し、原子容の考え方を加えた論文を発表した。彼は原子量順の原子容を調べたところ、リチウム・ナトリウム・カリウムと並ぶアルカリ金属族に該当する元素は原子容が前後と飛びぬけて高いことを示した。メンデレーエフはマイヤーの論文も参照し、改良を加えた周期表(第二周期表)を作成した。これにはローマ数字IからVIIIで縦の分類が施され、うちI–VIIが基本的に1–2族および13–17族に対応し、VIIIには遷移元素群を入れ、また貴ガスは反映されていなかった。それぞれには2種類の亜族を設け、表の左右に振り分けて区分した。",
"title": "歴史"
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"text": "メンデレーエフの周期表はすぐに認められたわけではなかった。しかし1875年にフランスのポール・ボアボードランが新元素ガリウムを発見し、これが周期表中の「エカアルミニウム」と一致した性質を持つことが判明すると周期表が注目を浴びるようになった。その後も1879年に発見されたスカンジウム(「エカホウ素」)、1886年に発見されたゲルマニウム(「エカケイ素」)がメンデレーエフの表の空白の位置を埋めるものだということが判明し、彼の周期表による予想の正しさが証明された。これに伴って「オクターブの法則」のジョン・ニューランズも再評価され、1887年にイギリス化学学会から賞を授与された。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし周期表による予言では収められないケースもあった。1794年にスウェーデンの小村イッテルビーで発見された鉱物群からは多くの新元素が見つかっていたが、1907年までにその数は14にもなった。これらはいずれもよく似た性質を持っており希土類元素と呼ばれたが、メンデレーエフの周期表に当てはめようとしても、いずれの族にも納まらないものであった。この問題は常に意識されていたが、1920年以降にこれらの元素はランタノイドという概念の下にまとめられて決着を見た。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "メンデレーエフは化合物のでき方、すなわち原子価を重視して周期表を作成した。ここに、1894年にジョン・ウィリアム・ストラット(レイリー卿)とウィリアム・ラムゼーが発見した新元素アルゴンが立ちはだかった。「怠け者」を意味する化合物を作らないアルゴンをどのように周期表の中に組み込むべきかが悩まれた。しかし1898年までに同様な性質を持つヘリウム・ネオン・クリプトン・キセノンが相次いで発見され、これらも周期表の族の一種だと考えられるようになった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 26,
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"text": "これら元素は貴ガスと呼ばれたが、原子価を示すとゼロとなる。原子量で考えるとアルゴンはカリウムとカルシウムの間に入るべきだが、原子価で見るとイオウ−塩素−カリウム−カルシウムが2−1−1−2となる点を重視して塩素とカリウムの間に入れると2−1−0−1−2となったため、貴ガスは周期表の右端に置かれるようになった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "周期表で示される元素の性質を作り出す構造は、1913年にニールス・ボーアが提唱したボーアの原子模型で理論説明が成された。彼の理論によって、元素は電子配置によって性質が左右し、その軌道が周期表の周期と対応していることが説明された。",
"title": "歴史"
},
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"text": "周期表の各マスには、最低限元素記号と原子番号が記される。大きな周期表においては、これに加えさまざまな情報が追記されたものもある。日本ならば日本語の名称というように作成地域の言語における元素名、原子量や価電子数、さらに拡張的なものでは電子配置や利用例なども加えられることがある。",
"title": "色々な周期表"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "原子量について、元素の多くは同位元素を持つ。これらの原子量は一定ではないため、表記する際には慣例的に半減期が最も長い同位体を括弧つきで示す。なお、原子量には絶対質量と相対質量があり、後者は質量数12の炭素(C)を基準「12」と置いて設定される。これには物理学会と化学学会の間で紆余曲折があり、1820年頃は酸素を基準16として設定していたが、1890年代になって天然の酸素は実は3つの同位体の混合物であることが判明した。そこで物理では厳密にOを基準として定めたが、化学では従来通り酸素の3つの天然同位体が混ざった状態を基準としていた。1960年になり、基準の統一についての検討がなされたが、Oを基準に設定すると化学では原子量や分子量の数字が従来の値から0.027 %も変化してしまうので、天然の同位体の存在割合が比較的少ないCを新しい基準に採用することにして基準の変更による数値の変化を0.0043 %に収めた。",
"title": "色々な周期表"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "現在一般的な周期表では、水素は最も左上の場所にある。しかしこれは適切ではないのではという意見が過去IUPACの雑誌にて提唱された。現状では水素は、最外殻に一つの電子を持つ1族の位置にあるが、リチウム以下でこの属はアルカリ金属を指しており、金属ではない水素がここにある矛盾が指摘された。また、電子殻(この場合亜殻の1p軌道)が満たされる状態からひとつ電子が少ないと捉えると、フッ素以下の17族(ハロゲン)の仲間と考えることも可能であり、実際に水素はアルカリ金属的な性質とハロゲン的な性質を併せ持つ。IUPACは水素の位置を左上端に置くとする見解を示しているが、アメリカ化学会などはこれらを考慮し、水素を第1周期の中央部分に置いた周期表を掲載した書籍を発行している。また、周期表によっては、17族のフッ素の上に水素のための別枠を設け、ヘリウムの左隣に併記する方法をとった物も存在する。",
"title": "色々な周期表"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "また、ヘリウムも最外殻の電子数が2つであることを重視して2族のベリリウムの上に置くべきという主張もある。しかしヘリウムは貴ガスの性質を持つため、右端に置く現状が最適という考えが一般的である。",
"title": "色々な周期表"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "平面的な周期表では1族と18族が大きく断絶しているように見えるが、本来この2つの族は原子番号が隣り合っている通り、連続して示されるべきものである。一般的な周期表は、いわば螺旋状に連なるべきものを無理に平面で表示している。京都大学教授の前野悦輝は円筒の上に示すエレメンタッチを考案し、立体的な周期表を示した。",
"title": "色々な周期表"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "欄外に置かれたランタノイドとアクチノイドを取り込んだ立体周期表を、化学者ポール・ジゲールが提案した。平面状の周期表を立てた棒に貼り付け、ランタノイドとアクチノイドの部分を直角に差し込んだもので、将来119番目以降の元素が発見された際に設ける必要が生じる欄外も取り込むことができる。",
"title": "色々な周期表"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "カナダの化学者フェルナンド・デュフォーは、柱に取り付けた複数の透明なプレート上に各原子を配列し、プレートで同一の周期を示しながら、族を上から見下ろした際に元素の表示が重なって見えることで周期律を表す立体周期表を提案した。これは、柱を中心にそれぞれの方向に近似する性質を持つ元素の集団が見通せ、それが規則的に増加する周期それぞれの性質を把握しやすい形となっている。",
"title": "色々な周期表"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "電子軌道で分類する周期表もある。分類は次の通り。",
"title": "色々な周期表"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "1960年代後半から1970年代前半まで、理科教育現場では1980年代頃まで周期律表との用語が使われていたが、それ以降は主に「周期表」という表記がされている。周期律表は誤った用法との指摘もあるが、古い用語で教育を受けた者が使い続けている現実があると指摘されている。",
"title": "表記について"
}
] | 周期表は、物質を構成する基本単位である元素を、周期律を利用して並べた表である。元素を原子番号の順に並べたとき、物理的または化学的性質が周期的に変化する性質を周期律といい、周期表では性質の類似した元素が縦に並ぶように配列されている。「周期律表」や「元素周期表」などとも呼ばれる。 | [[File:Atom(ver.2018.06).jpg|thumb|400px|周期表(2018年6月時点の版)]]
[[File:Дмитрий Иванович Менделеев 3.jpg|thumb|200px|[[ドミトリ・メンデレーエフ]]]]
'''周期表'''(しゅうきひょう、{{Lang-en-short|periodic table}})は、[[物質]]を構成する基本[[単位]]である[[元素]]を、[[周期律]]を利用して並べた表である。元素を原子番号の順に並べたとき、[[物理]]的または[[化学]]的[[性質]]が周期的に変化する性質を周期律といい、周期表では性質の類似した元素が縦に並ぶように配列されている。「周期律表」や「元素周期表」などとも呼ばれる。
== 解説 ==
周期表は原則、左上から[[原子番号]]の順に並ぶよう作成されている<ref name="Yone">{{Cite book|和書|author=米沢富美子|year=2006|title=人物で語る物理入門(下)|chapter=第11章 原子核物理学を築いた女性たち、元素周期表|pages=112-116|publisher=[[岩波新書]]|edition=第1刷|isbn=4-00-430981-6}}</ref>。周期表上で[[元素]]はその[[原子]]の[[電子配置]]に従って並べられ、似た性質の元素が規則的に出現する<ref>{{Citation | ref = none | title = 物理化学キーノート | last1 = Whittaker | first1 = G. Allan | last2 = Mount | first2 = A. R. | last3 = Heal | first3 = M. R | editor = 中村 亘男 訳 | publisher = シュプリンガー・フェアラーク東京 | year = 2002 | publication-date = 2002-12 | isbn = 4431709568 | page = 208}}</ref>。
同様の主旨を元に作成された先駆的な表も存在するが、一般に周期表は[[1869年]]に[[ロシア]]の[[化学者]][[ドミトリ・メンデレーエフ]]によって提案された<ref>{{Citation | ref = none | title = 地球環境化学入門 | last = Andrews | first = Julian E. | last2 = Brimblecombe | first2 = Peter | last3 = Jickells | first3 = Tim D. | last4 = Liss | first4 = Peter. S. | last5 = Reid | first5 = Brian J. | author6 = 渡辺 正 訳 | publisher = シュプリンガー・ジャパン | year = 2005 | isbn = 9784431711117 | pages = 16}}</ref>、[[原子量]]順に並べた元素がある周回で傾向が近似した性質を示す周期的な特徴を例証した表に始まると見なされている。この表の形式は、新元素の発見や理論構築など元素に対する知見が積み重なるとともに改良され、現在では各元素のふるまいを説明する洗練された表となっている<ref>{{Cite web|url=http://www.iupac.org/didac/Didac%20Eng/Didac01/Content/S01.htm|title=The periodic table of the elements|publisher=IUPAC|language=英語|accessdate=2011-01-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080213082719/http://www.iupac.org/didac/Didac%20Eng/Didac01/Content/S01.htm|archivedate=2008年2月13日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。
周期表は、錬金術師、化学者、物理学者、その他の科学者など、無数の人たちによる知の集大成である。元素の性質を簡潔かつ完成度が高く示した周期表は「化学のバイブル」とも呼ばれる<ref>[[#竹内1996|竹内(1996)、pp.78-79]]</ref>。現在、周期表は化学のあらゆる分野で、[[反応]]の分類や体系化および比較を行うための枠組みを与えるものとして汎用的に用いられている。そして、化学だけでなく物理学、[[生物学]]、[[化学工学]]を中心に[[工学]]全体に、多くの法則を示す表として用いられる。
== 周期表 ==
{{center|<!--{{周期表}}を正しくレンダリングするために、この改行は必要です。-->
{{周期表}}}}
[[ファイル:Electron shell 118 Oganesson.svg|サムネイル|215x215ピクセル|現時点で命名されているもっとも[[原子番号]]が大きい元素、[[オガネソン]]の電子配置]]
周期表の配列は、[[原子]]の中心に位置する[[原子核|核]]が保持する[[陽子]]の個数に基づいて付けられる[[原子番号]]順に並べられる。[[陽子]]が1個である[[水素]]から始まり、1マス進むごとに[[陽子]]が1つ多い[[元素記号]]を示しながら並べる。周期律に沿って改行され、2段目・3段目…と順次追加されてゆく。そのため、左から右へ、また上から下へ行くにつれて原子番号が大きな元素が並ぶ<ref name="Yone" />。
しかし周期表は[[長方形]]ではなく、中央に谷間があるおおまかな凹型をしている<ref name="Okawa44" />。これは周期律が示す元素の近似的な性質が必ずしも同じ原子番号の[[整数]][[倍]]で現れない現象を反映しているためである。周期表において右端にある原子番号2の[[ヘリウム]]と近い性質を持つ元素の仲間([[元素の族|族]]という)では、次に現れる元素は原子番号10の[[ネオン]]であり、その次は[[アルゴン]](元素番号18)となる。ここまでは原子番号数の差分はいずれも8だが、続く仲間は[[クリプトン]](同36)、[[キセノン]](同54)と、増分は18に増える。上に示された一般的なレイアウトの周期表では、この18で一巡し[[第18族元素|貴ガス]]で改行する法則を採り、縦方向でまとまる元素の族を1 – 18族という名称で設定する。このためヘリウムやネオンがある行では途中に空白が生じ、結果として周期表は凹型となる。
ところが貴ガスにおいてキセノンの下に続く元素は[[ラドン]](同86)であり、差分は32に増える。これを1元素1マスを使い表示した[[拡張周期表]]という形式もあるが、一般的なレイアウトでは原子番号57–71までを[[ランタノイド]]、89–103までを[[アクチノイド]]として纏めて切り離し、欄外に表示する<ref name="Yone" />。結果この周期表は縦18列、横7段、欄外2行の枠組みで構成される。この形式は[[スイス]]の[[アルフレート・ヴェルナー]]が[[1905年]]に提唱したもので、現在でも国際的な[[標準]]となっている<ref name="New30">[[#ニュートン別2010|ニュートン別冊(2010)、pp.30-31、周期表は140年もの間、重要な役割をになってきた]]</ref>。
周期表には118個の元素が表示されており、これらすべてに正式な元素名がつけられている。ただし、原子番号82の[[鉛]]までが安定な元素である(原子番号83の[[ビスマス]]の同位体は全て放射性と判明)<ref>新版元素ビジュアル図鑑(2016)、p.102</ref>。
{{clear}}
== 元素の特徴をつくりだす電子 ==
{| class="wikitable floatright" style="text-align:center; font-size:80%"
|+ 主な元素の電子配置
|colspan="2" rowspan="2"|
!colspan="5"|電子殻(亜殻)
|-
|K||L||M<br />(3s+3p)||M<br />(3d)||N<br />(4S)
|-
|K||[[カリウム]]||rowspan="12"|2||rowspan="12"|8||rowspan="12"|8||rowspan="2"|0||1
|-
|Ca||[[カルシウム]]||rowspan="4"|2
|-
|Sc||[[スカンジウム]]||1
|-
|Ti||[[チタン]]||2
|-
|V||[[バナジウム]]||3
|-
|Cr||[[クロム]]||rowspan="2"|5||1
|-
|Mn||[[マンガン]]||rowspan="4"|2
|-
|Fe||[[鉄]]||6
|-
|Co||[[コバルト]]||7
|-
|Ni||[[ニッケル]]||8
|-
|Cu||[[銅]]||rowspan="2"|10||1
|-
|Zn||[[亜鉛]]||2
|}
{{Main|周期律|電子配置}}
原子には陽子数(原子番号)と同じ数の電子があり、それが陽子核のまわりに電子殻と呼ばれる層を形成して存在すること。この殻は複数あり、電子は基本的に内側から順番に埋まってゆくこと。そして、最も外側にある電子(価電子)は化学反応などの変化においてやりとりがしやすく<ref name="Okawa44" />、その個数が元素の性質を決める要因だということが分かった<ref>[[#ニュートン別2010|ニュートン別冊(2010)、pp.34-35、メンデレーエフの正しさは、原子構造で証明された]]</ref>。
ところが、単純に電子殻を内側から埋めてゆく法則は、[[アルゴン]](原子番号18)までにしか当てはまらない。現在のところ電子殻が複数定められており、内側からK・L・M・N・O・P・Qと名称が続いてつけられている<ref name="Take76">[[#竹内1996|竹内(1996)、pp.76-83、5.1周期表]]</ref>。それぞれには収まる電子の最大数が決まっており、K殻=2個、L=8、M=18、N=32、O=50である。さらにこれは、[[構造原理|構成原理]]に基づく[[エネルギー準位]]によって電子が順に埋まる電子軌道([[亜殻]])に分けられる。K殻は2個の電子が入る1s軌道、L殻は2個の電子が入る2s軌道と6個の電子が入る2p軌道、以下、M殻(3s軌道=2個、3p軌道=6個、3d軌道=10個)、N殻(4s=2、4p=6、4d=10、4f=14)、O殻(5s=2、5p=6、5d=10、5f=14、…)、P殻(6s=2、6p=6、…)、Q殻(7s=2、…)となっている。このうち第4周期において、4s軌道は3d軌道よりも先に電子が満たされる傾向がある<ref name="Take76" />。そのため[[カリウム]](同19)から[[ニッケル]](同28)まではM殻に空席がある状態でN殻の4s軌道に電子が配置され、これが最外殻として元素の性質を形作る。そして、周期表のへこんだ中央部にあるこの元素群は表の横方向で近似した傾向を備え、これらに該当する3–11族は[[遷移元素]]と呼ばれ、このような特性は第4周期以降の長周期と呼ばれる部分で現れる<ref name="Take76" />。未だ電子の存在が解明されていなかった時代、メンデレーエフはこの元素の一群をどう解釈すべきかで非常に頭を痛めたという<ref>[[#ニュートン別2010|ニュートン別冊(2010)、pp.36-37、メンデレーエフを最後まで悩ませた元素の一群]]</ref>。このような現象が起こる理由について、現在ではM殻内の電子同士が負電荷で反発するために起こると説明されている<ref name="Okawa44">[[#大川2002|大川(2002)、pp.44-48、1.7周期表と電子配置]]</ref>。
== 分類 ==
=== 族 ===
{{Main|元素の族}}
[[元素の族|族]](groupまたはfamily)は、周期表における縦方向の集合である。この族は元素を分類する上で最も重要な方法と考えられている。いくつかの族に当る各元素の特性は非常に似かよっており、原子量が多くなる方向で明らかな傾向が見られる。この族には名称がつけられているが、それらは[[第1族元素#アルカリ金属|アルカリ金属]](alkali metals)、[[第2族元素#アルカリ土類金属|アルカリ土類金属]](alkaline earth metals)、[[第15族元素|ニクトゲン]](pnictogens)、[[第16族元素|カルコゲン]](chalcogens)、[[第17族元素|ハロゲン]](halogens)、[[貴ガス]](noble gases)と、統一性があまり無い。[[第14族元素]]など周期表におけるその他の族は垂直方向での近似性があまり見られず、基本的に族の数字で表されることが多い。
現代の[[量子力学]]理論が要請する原子の構造は、族が持つ傾向で説明され、それは特性ごとに分ける上で最も重要な要素に影響を与える原子価殻において電子配置が同一である原子は同じ族に含まれる。同じ族の元素グループには[[原子半径]]・[[イオン化エネルギー]]・[[電気陰性度]]の傾向にも近似性が見られる。上から下に行くにつれ全体のエネルギー値が高くなるため、原子価電子は原子核から遠くなってゆき、元素の原子半径は大きくなる。原子全体が電子を捕まえる力は強くなるため、下に行くほどイオン化エネルギーは小さくなり、同様に原子核と原子価電子の距離が長くなるにつれ電気陰性度も低くなる<ref name="Take83">[[#竹内1996|竹内(1996)、pp.83-91、5.2単体の性質の周期性]]</ref>。
=== 周期 ===
[[Image:First Ionization Energy.svg|lang=ja|thumb|300px|原子番号(横軸)と[[イオン化エネルギー]](縦軸)のグラフ。それぞれの周期においてアルカリ金属で最も低く、貴ガスで最も高くなる<ref name="Take83" />|リンク=ファイル:First_Ionization_Energy.svg%3Flang=ja]]
{{Main|元素の周期}}
[[元素の周期|周期]](period)は、周期表のおける横方向の集合である。基本的に各元素の特性に族で示される程の似かよった所は無いが、例外的な箇所もある。これは、[[遷移金属]]と、特に[[ランタノイド]]や[[アクチノイド]]において、水平方向で近似性を持つ特徴が相当する。この周期は、最外電子殻が内側から何番目であるかを表している<ref name="Okawa44" />。
同じ周期にある元素は原子半径、イオン化エネルギー、[[電子親和力]]、電気陰性度のパターンで似た傾向を示す。左から右に行くにつれ、一般に原子半径は小さくなる。これは、元素に含まれる陽子の数は段々と増えるため、それに応じて電子が原子核にひきつけられるためである。これに伴ってイオン化エネルギーは大きくなり、貴ガスで最大となる<ref name="Take83" />。原子半径が小さくなると全体を捉える力が強まり、電子を引き剥がすために必要なエネルギーが大きくなる。電気陰性度も同じく核による電子の牽引力が増すため大きくなる。電子親和力の周期内による変化傾向はわずかである。周期表左側にある金属元素は一般に、貴ガスを除いて右側の非金属元素よりも電子親和力は低い<ref name="Take83" />。
{{clear}}
=== ブロック ===
[[File:Periodic Table structure.svg|right|thumb|300px|この図は、周期表における[[元素のブロック]]を示す]]
{{Main|元素のブロック}}
最外殻電子が元素の特徴に大きな影響を与える点を考慮して周期表を領域で分ける分類もあり、これは[[元素のブロック|ブロック]](periodic table blockまたは単にblock)と呼ばれ、「最後の電子」が存在する亜殻の位置に応じて名称がつけられる。[[sブロック元素]]はアルカリ金属とアルカリ土類金属のふたつの族に[[水素]]と[[ヘリウム]]が加わるブロックである。[[pブロック元素]]は残り6つの族(13–18族元素)が該当し、[[半金属]]はここに含まれる。[[dブロック元素]]は3-12族元素に当る遷移金属を包括する。通常、周期表の欄外に置かれるランタノイドとアクチノイドは[[fブロック元素]]となる。
{{clear}}
=== その他 ===
元素は他の集合でも分類され、周期表の縦横またはブロックでも示しにくい場合がある。[[金属]]・[[半金属]]元素と[[非金属]]元素の区分は暗示的にしか表現されない階段状の斜め線で区別されている。その線の右側が非金属元素、左側が金属元素であり、間に半金属が挟まれている。金属が持つ典型的特徴である電子を放出しやすい性質は、周期表の左下で強くなる<ref>[[#大川2002|大川(2002)、pp.52-55、1.9 イオン]]</ref>。
また、単体が常温常圧下で取る[[物質の状態]]([[固体]]・[[液体]]・[[気体]])もブロックでは表しにくい。全体の傾向は[[水素]]と右上のヘリウム付近([[窒素]]から右、[[塩素]]から右および[[貴ガス]])が気体であり、例外的に液体の相となる[[臭素]]と[[水銀]]と[[フランシウム]]を除いた元素は固体である。このような分類は、マスや文字色などそれぞれの周期表で工夫をこらした表現で示される場合もある<ref name="New30" />。
== 歴史 ==
[[ファイル:Chancourtois elements.png|thumb|125px|[[ベギエ・ド・シャンクルトワ]]の「地のらせん」概略図]]
=== 先駆的な周期律の考察 ===
[[18世紀]]後半から[[19世紀]]前半にかけて化学の発展に伴い元素が数多く発見され、[[1789年]]に[[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]が作成したリストでは33個の元素が記載された。[[1830年]]までにその数は55種まで増え、それとともに化学者の中には漠然とした不安が持ち上がっていた。元素は一体何種類あるのか、そしてこの増えるばかりの元素には何かしらの法則性が隠されていないのだろうかという疑念である<ref name="Asi155">[[#アシモフ1967|アシモフ(1967)、第8章 周期表、pp.155-161、乱雑に並んだ元素]]</ref>。[[1829年]]、ドイツの[[ヨハン・デーベライナー]]は[[1826年]]に発見された[[臭素]]の色や反応における性質、そして原子量が[[塩素]]および[[ヨウ素]]の中間にあることに気づいた。彼は他にも同様の組み合わせが無いか研究したところ、[[カルシウム]]-[[ストロンチウム]]-[[バリウム]]と[[硫黄]]-[[セレン]]-[[テルル]]にも同じような性質の近似性があることを見つけた。デーベライナーはこの組み合わせを[[三つ組元素]]と名付けた<ref name="Asi155" /><ref name="New26">[[#ニュートン別2010|ニュートン別冊(2010)、pp.26-27、元素の周期性に気づいた先人たち]]</ref>。しかし、当時知られた元素のうちこれに当てはまるものは{{分数|1|6}}に過ぎず、多くの化学者は単なる偶然と片付けた。当時、原子量と分子量、そして[[化学当量]]は明確に区別されておらず、混同も多かった<ref name="Asi155" />。
[[1862年]]に[[フランス]]の[[鉱物学者]][[ベギエ・ド・シャンクルトワ]]が「地のらせん」という説を発表し、円筒状の紙に元素を螺旋型に並べると垂直方向に性質が近似した元素が並ぶと唱えた<ref name="Asi161">[[#アシモフ1967|アシモフ(1967)、第8章 周期表、pp.161-170、元素の体系化]]</ref>。しかし彼は[[数学]]における[[錬金術]]的な「数秘学」という方法でこれを説明し、的確な図を添付しなかったために他の科学者には理解されなかった。1864年、[[イギリス]]の[[ジョン・ニューランズ]]が当時知られていた元素を並べると、最初(水素)と8番目(フッ素)の性質が似ており、以下2番目(リチウム)と9番目(ナトリウム)も同じ傾向があり、これは7番目([[酸素]])と14番目(硫黄)まで同様に見られることを、音楽の音階になぞらえて「[[オクターブの法則]]」と名付けて発表した<ref name="Asi161" /><ref>{{Citation | ref = none | title = 元素を知る事典 : 先端材料への入門 | author1 = 村上雅人 編著 | author2 = 阿部泰之 ら | place = 東京 | publisher = 海鳴社 | year = 2004 | publication-date = 2004-11 | isbn = 487525220X | page = 240}}</ref><ref>{{Cite journal | title = On the Law of Octaves | author = Newlands, John A. R. | journal = Chemical News | volume = 12 | page = 83 | date = 1865-08-18 | url = http://web.lemoyne.edu/~giunta/EA/NEWLANDSann.HTML#newlands4}}</ref>。ただしこれはさらに大きな元素には当てはまらなかったために賛同を得られず<ref name="New26" />かえって「では元素記号のアルファベット順に並べたらどうなる」と嘲笑の的になった<ref>{{Cite book|last=Bryson|first=Bill|title=A Short History of Nearly Everything|publisher=Black Swan|year=2004|location=London|pages=141–142|isbn=9780552151740}}</ref>。[[1864年]]、ドイツの[[ロータル・マイヤー]]は既知49種類の元素を原子容(原子体積)に着目し<ref name="Asi161" />16列にわけた周期表を考案した。これは[[価電子]]数が同じ元素が近似した性質を持つことを表していた<ref>{{Citation | ref = none | title = タングステンおじさん: 化学と過ごした私の少年時代 | author-link = オリバー・サックス | first = Oliver W | last = Sacks | author2 = 斉藤隆央 訳 | publisher = 早川書房 | year = 2003 | isbn = 9784152085177}}</ref><ref>Ball, p. 101.</ref>。
=== メンデレーエフの周期表 ===
[[File:Mendeleev's 1869 periodic table.png|left|thumb|200px|メンデレーエフが1869年に、最初に作成した周期表]]
ドイツの[[アウグスト・ケクレ]]は、原子量や分子量などの概念がまだしっかりとしていないことを問題視して、[[1860年]]に[[カールスルーエ]]で「元素の質量測定」をテーマとした史上初の国際化学者会議を開催した<ref name="Asi155" />。この会議に出席したロシアの[[教員|教師]]であり化学者であった[[ドミトリー・メンデレーエフ]]はそこで[[イタリア]]の[[スタニズラオ・カニッツァーロ]]が唱えた原子量を重視すべきであるという主張<ref name="Asi155" />に影響を受けた<ref name="New46">[[#ニュートン別2010|ニュートン別冊(2010)、pp.46-47、周期表を生み出したメンデレーエフの生涯]]</ref>。
メンデレーエフはロシアに帰国した後に[[ペテルブルク大学]]の教授となり、1869年に化学の[[教科書]]を執筆していた際に<ref name="New46" />、発見済みの数が63個にまで増えていた元素を説明する方法に悩んでいた。彼は自分の好きなカードゲームから発案して、元素名を書き込んだカードを原子量順に並べ替えることを何度も繰り返すうちにひとつの表を作り上げた。それは原子価を重視し、かつ適切に当てはめられる元素が表中に無い場所には「エカホウ素」「エカアルミニウム」「エカケイ素」(「エカ」は[[サンスクリット語]]で「1」の意味<ref>{{Citation | ref = none | title = アイザック・アシモフの科学と発見の年表 | author-link = アイザック・アシモフ | author1 = アイザック・アシモフ著 |author2 = 小山慶太・輪湖博 訳 | publisher = 丸善 | year = 1996 |page=261| isbn = 4621045377}}</ref>)などの仮の名をつけて元素を割り当てずに空けておくという工夫を施したものだった<ref name="Asi161" />。この表は[[1870年]]にドイツの科学雑誌に発表された<ref name="New28">[[#ニュートン別2010|ニュートン別冊(2010)、pp.28-29、カードゲームでひらめいた!周期表の誕生物語]]</ref>。
[[File:Mendelejevs periodiska system 1871.png|right|thumb|300px|メンデレーエフの第二周期表。[[1871年]]。表の上部には水素化物と酸化物があるように、彼は化合物を重視してこの表を作成した<ref name="Saito35" />]]
当初はこの彼の表の価値を認める学者はほとんどいなかった<ref name="New28" />。しかし、マイヤーはこれに注目し、原子容の考え方を加えた論文を発表した。彼は原子量順の原子容を調べたところ、リチウム・ナトリウム・カリウムと並ぶアルカリ金属族に該当する元素は原子容が前後と飛びぬけて高いことを示した<ref name="Saito35">[[#斉藤1982|斉藤(1982)、2章 元素の種類と周期律、pp.35-39、2.1.4.メンデレーエフとマイヤー]]</ref>。メンデレーエフはマイヤーの論文も参照し、改良を加えた周期表(第二周期表)を作成した。これにはローマ数字IからVIIIで縦の分類が施され、うちI–VIIが基本的に1–2族および13–17族に対応し、VIIIには遷移元素群を入れ、また貴ガスは反映されていなかった。それぞれには2種類の亜族を設け、表の左右に振り分けて区分した<ref name="Saito35" />。
{{clear}}
=== 認められた周期表 ===
メンデレーエフの周期表はすぐに認められたわけではなかった。しかし[[1875年]]に[[フランス]]の[[ポール・ボアボードラン]]が新元素[[ガリウム]]を発見し、これが周期表中の「エカアルミニウム」と一致した性質を持つことが判明すると周期表が注目を浴びるようになった<ref name="Asi170">[[#アシモフ1967|アシモフ(1967)、第8章 周期表、pp.170-175、空所を埋める]]</ref>。その後も[[1879年]]に発見された[[スカンジウム]](「エカホウ素」)、1886年に発見された[[ゲルマニウム]](「エカケイ素」)がメンデレーエフの表の空白の位置を埋めるものだということが判明し、彼の周期表による予想の正しさが証明された<ref name="New28" /><ref name="Asi170" />。これに伴って「オクターブの法則」のジョン・ニューランズも再評価され、[[1887年]]にイギリス化学学会から賞を授与された<ref>[[#竹内1996|竹内(1996)、pp.97]]</ref>。
しかし周期表による予言では収められないケースもあった。[[1794年]]に[[スウェーデン]]の小村[[イッテルビー]]で発見された鉱物群からは多くの新元素が見つかっていたが、[[1907年]]までにその数は14にもなった。これらはいずれもよく似た性質を持っており[[希土類元素]]と呼ばれたが、メンデレーエフの周期表に当てはめようとしても、いずれの族にも納まらないものであった<ref name="Asi175">[[#アシモフ1967|アシモフ(1967)、第8章 周期表、pp.175-182、新しい元素の群]]</ref>。この問題は常に意識されていたが、[[1920年]]以降にこれらの元素はランタノイドという概念の下にまとめられて決着を見た<ref>[[#斉藤1982|斉藤(1982)、2章 元素の種類と周期律、pp.40-41、2.1.5.周期表の完成]]</ref>。
=== 貴ガスを反映 ===
メンデレーエフは化合物のでき方、すなわち原子価を重視して周期表を作成した。ここに、[[1894年]]に[[ジョン・ウィリアム・ストラット (第3代レイリー男爵)|ジョン・ウィリアム・ストラット]](レイリー卿)と[[ウィリアム・ラムゼー]]が発見した新元素[[アルゴン]]が立ちはだかった。「怠け者」を意味する化合物を作らないアルゴンをどのように周期表の中に組み込むべきかが悩まれた。しかし[[1898年]]までに同様な性質を持つヘリウム・ネオン・クリプトン・キセノンが相次いで発見され、これらも周期表の族の一種だと考えられるようになった<ref>[[#斉藤1982|斉藤(1982)、2章 元素の種類と周期律、pp.47-51、2.2.3.アルゴンと貴ガス]]</ref>。
これら元素は[[貴ガス]]と呼ばれたが、原子価を示すとゼロとなる。原子量で考えるとアルゴンはカリウムとカルシウムの間に入るべきだが、原子価で見るとイオウ−塩素−カリウム−カルシウムが2−1−1−2となる点を重視して塩素とカリウムの間に入れると2−1−0−1−2となったため、貴ガスは周期表の右端に置かれるようになった<ref name="Asi175" />。
=== 原子モデル構築 ===
周期表で示される元素の性質を作り出す構造は、[[1913年]]に[[ニールス・ボーア]]が提唱した[[ボーアの原子模型]]で理論説明が成された<ref name="Take76" />。彼の理論によって、元素は電子配置によって性質が左右し、その軌道が周期表の周期と対応していることが説明された<ref name="Take76" />。
== 色々な周期表 ==
[[ファイル:Periodic table Real things.jpg|サムネイル|実物周期表([[国立科学博物館]]の展示)]]
=== 周期表に表示される情報 ===
周期表の各マスには、最低限元素記号と原子番号が記される。大きな周期表においては、これに加えさまざまな情報が追記されたものもある。日本ならば[[日本語]]の名称というように作成地域の[[言語]]における元素名、[[原子量]]や[[価電子帯|価電子数]]、さらに拡張的なものでは[[電子配置]]や利用例なども加えられることがある。
原子量について、元素の多くは[[同位元素]]を持つ。これらの原子量は一定ではないため、表記する際には慣例的に[[半減期]]が最も長い同位体を[[括弧]]つきで示す<ref>{{Cite web|url=http://www.ptable.com/ |title= Dynamic periodic table |publisher= ptable.com |language=en|accessdate=2011-01-04}}</ref>。なお、原子量には絶対質量と相対質量があり、後者は質量数12の炭素(<sup>12</sup>C)を基準「12」と置いて設定される。これには物理学会と化学学会の間で紆余曲折があり、[[1820年]]頃は酸素を基準16として設定していたが、[[1890年代]]になって天然の酸素は実は3つの同位体の混合物であることが判明した。そこで物理では厳密に<sup>16</sup>Oを基準として定めたが、化学では従来通り酸素の3つの天然同位体が混ざった状態を基準としていた。[[1960年]]になり、基準の統一についての検討がなされたが、<sup>16</sup>Oを基準に設定すると化学では原子量や分子量の数字が従来の値から0.027 %も変化してしまうので、天然の同位体の存在割合が比較的少ない<sup>12</sup>Cを新しい基準に採用することにして基準の変更による数値の変化を0.0043 %に収めた<ref>[[#ニュートン別2010|ニュートン別冊(2010)、pp.64-65、元素の基準はなぜ水素から炭素になったのか]]</ref>。
=== 水素の位置 ===
現在一般的な周期表では、水素は最も左上の場所にある。しかしこれは適切ではないのではという意見が過去IUPACの雑誌にて提唱された。現状では水素は、最外殻に一つの電子を持つ1族の位置にあるが、[[リチウム]]以下でこの属はアルカリ金属を指しており、金属ではない水素がここにある矛盾が指摘された。また、電子殻(この場合亜殻の1p軌道)が満たされる状態からひとつ電子が少ないと捉えると、[[フッ素]]以下の17族([[ハロゲン]])の仲間と考えることも可能であり、実際に水素はアルカリ金属的な性質とハロゲン的な性質を併せ持つ。IUPACは水素の位置を左上端に置くとする見解を示しているが、[[アメリカ化学会]]などはこれらを考慮し、水素を第1周期の中央部分に置いた周期表を掲載した書籍を発行している<ref name="New42">[[#ニュートン別2010|ニュートン別冊(2010)、pp.42-43、水素の位置で新提案!周期表の並び方が変わる?]]</ref>。また、周期表によっては、17族のフッ素の上に水素のための別枠を設け、ヘリウムの左隣に併記する方法をとった物も存在する<ref>「まんが アトム博士の科学探検」(東洋出版)60ページ・187ページ</ref>。
また、ヘリウムも最外殻の電子数が2つであることを重視して2族の[[ベリリウム]]の上に置くべきという主張もある。しかしヘリウムは貴ガスの性質を持つため、右端に置く現状が最適という考えが一般的である<ref name="New42" />。
=== 立体周期表 ===
平面的な周期表では1族と18族が大きく断絶しているように見えるが、本来この2つの族は原子番号が隣り合っている通り、連続して示されるべきものである。一般的な周期表は、いわば螺旋状に連なるべきものを無理に平面で表示している。[[京都大学]]教授の[[前野悦輝]]は円筒の上に示す[[エレメンタッチ]]を考案し、立体的な周期表を示した<ref name="New44">[[#ニュートン別2010|ニュートン別冊(2010)、pp.44-45、さまざまなタイプの周期表が考案されている]]</ref>。
欄外に置かれたランタノイドとアクチノイドを取り込んだ立体周期表を、化学者[[ポール・ジゲール]]が提案した。平面状の周期表を立てた棒に貼り付け、ランタノイドとアクチノイドの部分を直角に差し込んだもので、将来119番目以降の元素が発見された際に設ける必要が生じる欄外も取り込むことができる<ref name="New44" />。
[[カナダ]]の化学者[[フェルナンド・デュフォー]]は、柱に取り付けた複数の透明なプレート上に各原子を配列し、プレートで同一の周期を示しながら、族を上から見下ろした際に元素の表示が重なって見えることで周期律を表す立体周期表を提案した。これは、柱を中心にそれぞれの方向に近似する性質を持つ元素の集団が見通せ、それが規則的に増加する周期それぞれの性質を把握しやすい形となっている<ref name="New44" />。
=== 電子軌道による周期表 ===
[[電子軌道]]で分類する周期表もある。分類は次の通り。
{| class="wikitable" style="overflow:visible"
|+ 電子軌道周期表
!style="position:sticky;top:0"|周期
!style="position:sticky;top:0"|族または元素名
!style="position:sticky;top:0"|軌道名
|-
|1||1と18||1s
|-
|rowspan="2"|2||1と2||2s
|-
|13-18||2p
|-
|rowspan="2"|3||1と2||3s
|-
|13-18||3p
|-
|rowspan="3"|4||1と2||4s
|-
|3-12||3d
|-
|13-18||4p
|-
|rowspan="3"|5||1と2||5s
|-
|3-12||4d
|-
|13-18||5p
|-
|rowspan="4"|6||1と2||6s
|-
|[[ランタノイド|ランタノイド元素]]||4f
|-
|3-12||5d
|-
|13-18||6p
|-
|rowspan="4"|7||1と2||7s
|-
|[[アクチノイド|アクチノイド元素]]||5f
|-
|3-12と[[トリウム]]||6d
|-
|13-18||7p
|}
=== 様々な周期表 ===
<gallery>
ファイル:Elementspiral.svg|スパイラル周期表(テーオドール・ベンファイ、1960年<ref>{{Cite web|url= http://www.glencoe.com/sec/science/chemistry/mc/pow/chapter06.shtml |title=Problem of the Week |publisher= Chemistry|language=en|accessdate=2011-01-04}}</ref>)
ファイル:Circular form of periodic table.svg|円形
ファイル:The Ring Of Periodic Elements (TROPE).png|リング型
ファイル:Mendeleev flower.jpg|花型
ファイル:Periodic system Pyramid format.svg|ピラミッド型
ファイル:Periodic system Stowe format.svg|ストウ型(Timothy Stoweによる)
ファイル:Periodic system Zmaczynski&Bayley.svg|"Zmaczynski & Bayley"型
ファイル:ADOMAH periodic table - electron orbitals.svg|ADOMAH 型、2006年<ref>{{Cite web|url=http://www.perfectperiodictable.com/ |title=Reriodic Law can be understood in terms of the Tetrahedral Sphere Packing |publisher= perfectperiodictable.com |language=en|accessdate=2011-01-04}}</ref>
</gallery>
== 表記について ==
1960年代後半から1970年代前半まで、理科教育現場では1980年代頃まで'''周期律表'''との用語が使われていたが、それ以降は主に「周期表」という表記がされている。周期'''律'''表は誤った用法との指摘もある<ref name=kakyoshi.58.4_190>坂根弦太、[https://doi.org/10.20665/kakyoshi.58.4_190 化学用語としての周期表の今昔物語(講座:化学の大学入試問題を考えるための基本)] 化学と教育 Vol.58 (2010) No.4 p.190-193, {{doi|10.20665/kakyoshi.58.4_190}}</ref><ref>[http://www.chem.ous.ac.jp/~gsakane/periodic.html “周期律表”という言葉について]</ref>が、古い用語で教育を受けた者が使い続けている<ref>三宅正二郎、関根幸男、金鍾得 ほか、[https://doi.org/10.2493/jjspe.66.1958 ナノ周期積層膜の摩耗特性を活用したナノ加工技術の開発] 精密工学会誌 Vol.66 (2000) No.12 P.1958-1962, {{doi|10.2493/jjspe.66.1958}}</ref>現実があると指摘されている<ref name=kakyoshi.58.4_190 />。
== 語呂合わせ ==
{{main|語呂合わせ#化学}}
{{出典の明記|section=1|date=2022-12-20}}
* [[原子番号]]順の語呂合わせ
** 水兵([[水素|H]] [[ヘリウム|He]]) リーベ([[リチウム|Li]] [[ベリリウム|Be]]) 僕の船([[ホウ素|B]] [[炭素|C]] [[窒素|N]] [[酸素|O]] [[フッ素|F]] [[ネオン|Ne]]) なあに間がある([[ナトリウム|Na]] [[マグネシウム|Mg]] [[アルミニウム|Al]]) シップス([[ケイ素|Si]] [[リン|P]] [[硫黄|S]]) すぐ(・) 来らあ([[塩素|Cl]] [[アルゴン|Ar]])
*** (「リーベ」は[[ドイツ語]]の {{de|liebe}}(愛する)より。「シップス」は[[英語]]の {{en|ships}}(船)より)
** 水兵([[水素|H]] [[ヘリウム|He]]) リーベ([[リチウム|Li]] [[ベリリウム|Be]]) 僕の船([[ホウ素|B]] [[炭素|C]] [[窒素|N]] [[酸素|O]] [[フッ素|F]] [[ネオン|Ne]]) 七曲がり([[ナトリウム|Na]] [[マグネシウム|Mg]] [[アルミニウム|Al]]) シップス([[ケイ素|Si]] [[リン|P]] [[硫黄|S]])クラークか([[塩素|Cl]] [[アルゴン|Ar]] [[カリウム|K]] [[カルシウム|Ca]])
=== 引用 ===
* DA SCHOOL RAP - [[バブルガム・ブラザーズ]]の楽曲で語呂合わせが歌詞になっている<ref>TVクイズ番組『[[たけし・逸見の平成教育委員会]]』エンディングテーマ曲・二番歌詞</ref>。
* スイヘイリーベ 〜魔法の呪文〜 - [[柿島伸次|かっきー&アッシュポテト]]の楽曲で語呂合わせが歌詞になっている<ref>テレビアニメ『[[エレメントハンター]]』エンディングテーマ曲。</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 == <!-- {{Cite book}} --> <!-- {{Cite journal}} -->
* {{Cite book|和書|author=編集長:水谷仁|year=2010|title=[[ニュートン (雑誌)|ニュートン]]別冊周期表第2版|publisher=[[ニュートンプレス]]|location=[[東京都]]|isbn=978-4-315-51876-4|ref=ニュートン別2010}}
* {{Cite book|和書|title=化学入門コース 化学の基礎|author=竹内敬人|publisher=岩波書店|edition=第1刷|year=1996|isbn=4-00-007981-6|ref=竹内1996}}
* {{Cite book|和書|title=化学の歴史|author=アイザック・アシモフ|authorlink=アイザック・アシモフ|translator=玉虫文一、竹内敬人 |publisher=[[ちくま学芸文庫]]|edition=第1刷|oridate=1967年|year=2010|isbn=978-4-480-09282-3|ref=アシモフ1967}}
* {{Cite book|和書|title=高校化学とっておき勉強法|author=大川貴史|publisher=[[講談社]]|edition=第1刷| year=2002|isbn=4-06-257356-3|ref=大川2002}}
* {{Cite book|和書|title=元素の話|author=斉藤一夫|publisher=[[培風館]]|edition=初版第12刷| oriyear=1982|year=1996|isbn=4-563-02014-1|ref=斉藤1982}}
* {{Cite book|和書|title=[[図解雑学シリーズ|図解雑学]] 元素|author=富永裕久|publisher=[[ナツメ社]]|edition=初版| oriyear=2005|year=2005|isbn=978-4816340185|ref=富永2005}}
* {{Cite book|title=The Periodic Kingdom|author=Atkins, P. W.|publisher=HarperCollins Publishers, Inc.|year=1995|isbn=0-465-07265-8}}
* {{Cite book|title=The Ingredients: A Guided Tour of the Elements|author=Ball, Philip|publisher=Oxford University Press|year=2002|isbn=0-19-284100-9}}
* {{Cite book|author=Brown, Theodore L.; LeMay, H. Eugene; Bursten, Bruce E.|title=Chemistry: The Central Science|year=2005|publisher=Prentice Hall|edition=10th|isbn=0-13-109686-9}}
* {{Cite book|author=Pullman, Bernard|title=The Atom in the History of Human Thought|publisher=Oxford University Press|year=1998|isbn=0-19-515040-6|others=Translated by Axel Reisinger}}
== 関連項目 ==
* [[化学元素発見の年表]]
* [[核図表]]
* [[拡張周期表]]
* [[元素の系統名]]
* [[元素の一覧]]
* [[未発見元素の一覧]]
* [[国際周期表年]] - メンデレーエフによる周期律発見150周年を記念した、[[2019年]]の[[国際年]]
== 外部リンク ==<!-- {{Cite web}} -->
{{Commonscat|Periodic table}}
{{Wikiversity}}
* [https://www.chemistry.or.jp/know/atom-unit/ 原子量表/化学で使われる量・単位・記号] - 日本化学会
* [https://www.mext.go.jp/stw/series.html 一家に1枚|科学技術週間 SCIENCE & TECHNOLOGY WEEK]{{Ja icon}}(JPEGおよびPDF形式で周期表がダウンロード可能)
* [https://www.meta-synthesis.com/webbook/35_pt/pt_database.php INTERNET Database of Periodic Tables | Chemogenesis]{{En icon}} - 様々な周期表
*{{Kotobank}}
{{周期表 (ナビゲーション)}}
{{元素周期表}}
{{化学}}
{{未発見元素を含む元素周期表}}
{{Good article}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しゆうきひよう}}
[[Category:周期表|*]]
[[Category:ドミトリ・メンデレーエフ]]
[[Category:ロシアの発明]] | 2003-02-23T20:12:38Z | 2023-12-24T12:25:26Z | false | false | false | [
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2,788 | メダル | メダル (medal) は、直径数センチ大の金属の延べ板に、業績や事績の記念などの目的で、何らかの意匠を刻印したものをいう。 ただし、通貨として利用される貨幣(硬貨・コイン)は含まれない。 メダルの形状は円形のものが一般的であるが、四角形や星形など円形以外の形状のものもある。また、単に形状が印刷されただけの物も有る。 メダイユ、メダイ(フランス語のmedailleなど)とも。
メダルは、板に何らかの意匠を施したものである。金属製で円形のものが一般的であるが、金属以外の材料や円形以外の形状にデザインされることもある。
コイン(硬貨)は、貴金属を通貨として利用する上で、ニセ金貨(→偽札)など公正性を欠くようなものが出回るのを予防する観点から、意匠が凝らされる。 メダルの場合は、褒賞として与えられる記念品(表彰)であることから、元来の意味からすれば、鋳潰して貴金属の資源的価値に還元される必要も無い。 このため、メダルの意匠は、偽造防止を目的としたコインの意匠とは異なり、賞を記念した、独自の意匠が凝らされるのが常である。 また、貴金属以外に、卑金属にめっきをして見栄えがするようにされたものも多く、この他にもリボンなどで装飾されたものが見られる。
商品や認定などでメダルが与えられる場合、実物は無く、単に意匠が印刷されただけの場合も有る。
現代、特に日本においてメダルと呼ぶ場合は、中でもスポーツなどの競技で勝利選手、優秀選手を表彰して贈られる各メダルのことを指す。団体競技の場合、トロフィー及び優勝旗・準優勝旗は「チーム」にひとつだけ授与され、また次回中央大会で返還しなければならない持ち回り、優勝盾は当該チームに、メダルは構成選手全員に贈呈されるが、メダルの獲得数は「一個」と計算される。通例、優勝者に金メダル、準優勝者に銀メダル、第3位の選手に銅メダルが授与され、受賞者はメダリストと呼ばれる。ただし第1回近代オリンピックでは優勝者に銀メダル、準優勝者に銅メダルが贈られた。
その性質上、“メダリスト”の呼称に見られるように、メダルを受けることはそれぞれの競技の世界における強力なステータスとして一般に認識されている。ゆえにメダル獲得を第一とするプレイを行う選手が後を絶たない。一方そういった勝利至上主義の競技姿勢は、スポーツの本来の理念(→スポーツマンシップ)に反するとして、しばしば批判の対象にされる。
勲章、従軍記章の事を英語で「medal」と呼ぶ、著しい軍功をあげた・軍に功績のあった人物を表彰するためのものである。「medal」は日本語で一般的に「記章」や「褒章」、「メダル」などと呼称されるが、通常勲章などをメダルとは言わない。こちらは「order」と呼ばれる。
勲章までに至らない、若しくは記念等ではチャレンジコインが用いられる。
学術研究などにおいて、ある分野で著しい功績があった研究者・技術者に対して授与するものがある。その分野の有名な研究者の名前を冠していることが多い。生物学におけるダーウィン・メダルや、電気電子工学分野でのエジソンメダルが有名である。ベンジャミン・フランクリン・メダル (フランクリン協会)のように、複数の分野を対象としたものも存在する。
メダル名に人名を冠する場合、一般的にその分野での著名な研究者の名前を採用する。また、死後にそのメダルが創設される場合が多い。しかしロスビー研究メダルのように、生前から研究者(この場合カール=グスタフ・ロスビー)の名前を冠したメダルが作られることもある。
ノーベル賞やフィールズ賞などといった著名な賞においてもメダルが授与されている。
カトリック教会のロザリオには中心部分にメダイ(メダル)を連結させているものも多い。聖母の出現により製作された「不思議のメダイ」をはじめ聖ベネディクトのメダイ、ルルドの聖母と聖ベルナデッタのメダイなど、様々なものがある。メダリオン、メダリオなどとも呼ばれる。
ミッションスクールでは、華美な装飾品は禁止されていることが殆どであるが、メダイ(おメダイとも呼ばれる)ならば、身につけることが許されることもある。これにはキリストや聖母マリアなどがデザインされている。
記念・表彰メダル以外にも、擬似的な硬貨(代用貨幣)、いわば硬貨の形態を取ったチケットとして利用される場合がある。
日本では、ゲームセンターのメダルゲームやライブハウスのドリンクチケット、パチスロなどにおいて、硬貨を模したものとして利用される。 サイズは、取り扱いのし易さから、直径25 - 30mm程度が多いが、勿論、それより大きいものや小さいものもある。
海外では、一部の公共交通機関や遊戯施設において、硬貨やチケットの代替として、硬貨程度のサイズのメダルが利用される。 英語圏では、この様な一種のチケットとしての役割を持つメダルは、トークン(→代用貨幣)と呼ばれる。
カジノなどのギャンブルで使われる物はメダルとは呼ばずに「チップ」と呼ばれる(英語ではcasino tokenである)。
日本のカタカナ語としての「コイン」は硬貨を含め、上記のメダルやトークンという意味で使われる。
なお、英語のcoinは硬貨という意味であり、トークン類を示す意味で使うのは明白な誤用である。 | [
{
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"text": "メダル (medal) は、直径数センチ大の金属の延べ板に、業績や事績の記念などの目的で、何らかの意匠を刻印したものをいう。 ただし、通貨として利用される貨幣(硬貨・コイン)は含まれない。 メダルの形状は円形のものが一般的であるが、四角形や星形など円形以外の形状のものもある。また、単に形状が印刷されただけの物も有る。 メダイユ、メダイ(フランス語のmedailleなど)とも。",
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"text": "メダルは、板に何らかの意匠を施したものである。金属製で円形のものが一般的であるが、金属以外の材料や円形以外の形状にデザインされることもある。",
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"text": "コイン(硬貨)は、貴金属を通貨として利用する上で、ニセ金貨(→偽札)など公正性を欠くようなものが出回るのを予防する観点から、意匠が凝らされる。 メダルの場合は、褒賞として与えられる記念品(表彰)であることから、元来の意味からすれば、鋳潰して貴金属の資源的価値に還元される必要も無い。 このため、メダルの意匠は、偽造防止を目的としたコインの意匠とは異なり、賞を記念した、独自の意匠が凝らされるのが常である。 また、貴金属以外に、卑金属にめっきをして見栄えがするようにされたものも多く、この他にもリボンなどで装飾されたものが見られる。",
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"text": "商品や認定などでメダルが与えられる場合、実物は無く、単に意匠が印刷されただけの場合も有る。",
"title": "概要"
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"text": "現代、特に日本においてメダルと呼ぶ場合は、中でもスポーツなどの競技で勝利選手、優秀選手を表彰して贈られる各メダルのことを指す。団体競技の場合、トロフィー及び優勝旗・準優勝旗は「チーム」にひとつだけ授与され、また次回中央大会で返還しなければならない持ち回り、優勝盾は当該チームに、メダルは構成選手全員に贈呈されるが、メダルの獲得数は「一個」と計算される。通例、優勝者に金メダル、準優勝者に銀メダル、第3位の選手に銅メダルが授与され、受賞者はメダリストと呼ばれる。ただし第1回近代オリンピックでは優勝者に銀メダル、準優勝者に銅メダルが贈られた。",
"title": "スポーツにおけるメダル"
},
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"text": "その性質上、“メダリスト”の呼称に見られるように、メダルを受けることはそれぞれの競技の世界における強力なステータスとして一般に認識されている。ゆえにメダル獲得を第一とするプレイを行う選手が後を絶たない。一方そういった勝利至上主義の競技姿勢は、スポーツの本来の理念(→スポーツマンシップ)に反するとして、しばしば批判の対象にされる。",
"title": "スポーツにおけるメダル"
},
{
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"text": "勲章、従軍記章の事を英語で「medal」と呼ぶ、著しい軍功をあげた・軍に功績のあった人物を表彰するためのものである。「medal」は日本語で一般的に「記章」や「褒章」、「メダル」などと呼称されるが、通常勲章などをメダルとは言わない。こちらは「order」と呼ばれる。",
"title": "軍隊におけるメダル"
},
{
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"text": "勲章までに至らない、若しくは記念等ではチャレンジコインが用いられる。",
"title": "軍隊におけるメダル"
},
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"text": "学術研究などにおいて、ある分野で著しい功績があった研究者・技術者に対して授与するものがある。その分野の有名な研究者の名前を冠していることが多い。生物学におけるダーウィン・メダルや、電気電子工学分野でのエジソンメダルが有名である。ベンジャミン・フランクリン・メダル (フランクリン協会)のように、複数の分野を対象としたものも存在する。",
"title": "学術におけるメダル"
},
{
"paragraph_id": 9,
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"text": "メダル名に人名を冠する場合、一般的にその分野での著名な研究者の名前を採用する。また、死後にそのメダルが創設される場合が多い。しかしロスビー研究メダルのように、生前から研究者(この場合カール=グスタフ・ロスビー)の名前を冠したメダルが作られることもある。",
"title": "学術におけるメダル"
},
{
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"text": "ノーベル賞やフィールズ賞などといった著名な賞においてもメダルが授与されている。",
"title": "学術におけるメダル"
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"text": "カトリック教会のロザリオには中心部分にメダイ(メダル)を連結させているものも多い。聖母の出現により製作された「不思議のメダイ」をはじめ聖ベネディクトのメダイ、ルルドの聖母と聖ベルナデッタのメダイなど、様々なものがある。メダリオン、メダリオなどとも呼ばれる。",
"title": "宗教におけるメダル"
},
{
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"text": "ミッションスクールでは、華美な装飾品は禁止されていることが殆どであるが、メダイ(おメダイとも呼ばれる)ならば、身につけることが許されることもある。これにはキリストや聖母マリアなどがデザインされている。",
"title": "宗教におけるメダル"
},
{
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"text": "記念・表彰メダル以外にも、擬似的な硬貨(代用貨幣)、いわば硬貨の形態を取ったチケットとして利用される場合がある。",
"title": "トークンとしての利用"
},
{
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"text": "日本では、ゲームセンターのメダルゲームやライブハウスのドリンクチケット、パチスロなどにおいて、硬貨を模したものとして利用される。 サイズは、取り扱いのし易さから、直径25 - 30mm程度が多いが、勿論、それより大きいものや小さいものもある。",
"title": "トークンとしての利用"
},
{
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"text": "海外では、一部の公共交通機関や遊戯施設において、硬貨やチケットの代替として、硬貨程度のサイズのメダルが利用される。 英語圏では、この様な一種のチケットとしての役割を持つメダルは、トークン(→代用貨幣)と呼ばれる。",
"title": "トークンとしての利用"
},
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"text": "カジノなどのギャンブルで使われる物はメダルとは呼ばずに「チップ」と呼ばれる(英語ではcasino tokenである)。",
"title": "トークンとしての利用"
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"text": "日本のカタカナ語としての「コイン」は硬貨を含め、上記のメダルやトークンという意味で使われる。",
"title": "トークンとしての利用"
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"text": "なお、英語のcoinは硬貨という意味であり、トークン類を示す意味で使うのは明白な誤用である。",
"title": "トークンとしての利用"
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] | メダル (medal) は、直径数センチ大の金属の延べ板に、業績や事績の記念などの目的で、何らかの意匠を刻印したものをいう。
ただし、通貨として利用される貨幣(硬貨・コイン)は含まれない。
メダルの形状は円形のものが一般的であるが、四角形や星形など円形以外の形状のものもある。また、単に形状が印刷されただけの物も有る。
メダイユ、メダイ(フランス語のmedailleなど)とも。 | {{redirect|メダイ|魚|メダイ属}}
{{出典の明記|date=2019年6月27日 (木) 22:15 (UTC)}}
[[File:1998 Winter Olympics medals 2.jpg|thumb|[[1998年長野オリンピック]]のメダル]]
'''メダル''' (medal) は、直径数センチ大の[[金属]]の延べ[[wikt:板|板]]に、業績や事績の記念などの目的で、何らかの[[意匠]]を刻印したものをいう。
ただし、[[通貨]]として利用される[[貨幣]]([[硬貨]]・コイン)は含まれない。
メダルの形状は円形のものが一般的であるが、四角形や星形など円形以外の形状のものもある。また、単に形状が印刷されただけの物も有る。
'''メダイユ'''、'''メダイ'''([[フランス語]]の[[wikt:médaille|medaille]]など)とも。
== 概要 ==
メダルは、板に何らかの意匠を施したものである。金属製で円形のものが一般的であるが、金属以外の材料や円形以外の形状にデザインされることもある{{Efn2|例えば[[2009年世界陸上競技選手権大会]]では長方形の形状のメダルがデザインされた。[[アルベールビルオリンピック]]では主にガラスが使われた。}}。
コイン(硬貨)は、[[貴金属]]を通貨として利用する上で、ニセ[[金貨]](→[[偽札]])など公正性を欠くようなものが出回るのを予防する観点から、意匠が凝らされる。
メダルの場合は、褒賞として与えられる記念品([[表彰]])であることから、元来の意味からすれば、鋳潰して貴金属の資源的価値に還元される必要も無い。
このため、メダルの意匠は、偽造防止を目的としたコインの意匠とは異なり、賞を記念した、独自の意匠が凝らされるのが常である。
また、貴金属以外に、[[卑金属]]に[[めっき]]をして見栄えがするようにされたものも多く、この他にも[[リボン]]などで装飾されたものが見られる。
商品や認定などでメダルが与えられる場合、実物は無く、単に意匠が印刷されただけの場合も有る。
== スポーツにおけるメダル ==
現代、特に[[日本]]において'''メダル'''と呼ぶ場合は、中でも[[スポーツ]]などの競技で勝利選手、優秀選手を[[表彰]]して贈られる各メダルのことを指す。団体競技の場合、[[トロフィー]]及び[[優勝旗]]・準優勝旗は「チーム」にひとつだけ授与され、また次回中央大会で返還しなければならない持ち回り{{Efn2|完全に贈呈されるケースもある。}}、優勝[[盾]]は当該チームに、メダルは構成選手全員に贈呈されるが、メダルの獲得数は「一個」と計算される{{Efn2|例えば、陸上個人と四人のリレー競技でメダルを取得した場合、合計5個のメダルが贈呈されるが、メダルの獲得数としては2個と計算される。}}。通例、優勝者に'''[[金メダル]]'''、準優勝者に'''[[銀メダル]]'''、第3位の選手に'''[[銅メダル]]'''が授与され、受賞者は'''メダリスト'''と呼ばれる。ただし[[アテネオリンピック (1896年)|第1回近代オリンピック]]では優勝者に銀メダル、準優勝者に銅メダルが贈られた。
その性質上、“メダリスト”の呼称に見られるように、メダルを受けることはそれぞれの競技の世界における強力なステータスとして一般に認識されている。ゆえにメダル獲得を第一とするプレイを行う選手が後を絶たない。一方そういった[[勝利至上主義]]の競技姿勢は、スポーツの本来の理念(→[[スポーツマンシップ]])に反するとして、しばしば批判の対象にされる。
=== 上記以外のメダルの運用 ===
==== 優勝者のみに授与 ====
* [[全米ゴルフ協会]]主催競技の優勝者に金メダル。なお[[全米オープン (ゴルフ)|全米オープン]]では[[ジャック・ニクラス]]金メダル、[[全米女子オープン]]では[[ミッキー・ライト]]金メダルが授与される。[[囲碁]]の[[棋聖 (囲碁)|棋聖]]挑戦手合勝者には'''棋聖大賞メダル'''が贈呈される。
==== 2位までに授与 ====
* [[UEFA欧州選手権]]は制度上3位決定戦がないので銅メダルがない。表彰対象は準優勝まで。
==== 4位にも授与 ====
* [[FIFAワールドカップ]]で4位チーム(3位決定戦敗退)にも銅メダルが授与されたことがある。
* [[全米フィギュアスケート選手権]]は、4位までがメダル授与対象となる。4位選手には'''[[錫]]メダル'''が授与される。
==== 全ての順位に授与 ====
* [[東京マラソン]]など主要マラソン大会では、完走者にメダルを授与する。
== 軍隊におけるメダル ==
[[File:Distservmedal.jpg|thumb|120px|right|[[:en:Distinguished Service Medal (United States)|アメリカ陸軍のメダル]]]]
[[勲章]]、[[従軍記章]]の事を英語で「medal」と呼ぶ、著しい軍功をあげた・軍に功績のあった人物を表彰するためのものである。「medal」は日本語で一般的に「記章」や「褒章」、「メダル」などと呼称されるが、通常勲章などをメダルとは言わない。こちらは「order」と呼ばれる。
勲章までに至らない、若しくは記念等では[[チャレンジコイン]]が用いられる。
{{-}}
== 学術におけるメダル ==
学術研究などにおいて、ある分野で著しい功績があった研究者・技術者に対して授与するものがある。その分野の有名な研究者の名前を冠していることが多い。生物学における[[ダーウィン・メダル]]や、電気電子工学分野での[[エジソンメダル]]が有名である。[[ベンジャミン・フランクリン・メダル (フランクリン協会)]]のように、複数の分野を対象としたものも存在する。
メダル名に人名を冠する場合、一般的にその分野での著名な研究者の名前を採用する。また、死後にそのメダルが創設される場合が多い。しかしロスビー研究メダルのように、生前から研究者(この場合[[カール=グスタフ・ロスビー]])の名前を冠したメダルが作られることもある。
[[ノーベル賞]]や[[フィールズ賞]]などといった著名な賞においてもメダルが授与されている。
=== 学術におけるメダルの一覧 ===
* [[IEEE]]メダル
** [[IEEEアレクサンダー・グラハム・ベル・メダル]]
** [[IEEE ジュンイチ・ニシザワメダル]]
** [[エジソンメダル]]
** [[ハミングメダル]]
** [[フォン・ノイマンメダル]]
* [[王立協会]]メダル
** [[ロイヤル・メダル]]
** [[コプリ・メダル]]
** [[ダーウィン・メダル]]
** [[デービーメダル]]
** [[ヒューズ・メダル]]
** [[シルヴェスター・メダル]]
** [[ランフォード・メダル]]
** [[リーバーヒューム・メダル]]
* [[地理学]]の賞
** [[ヴィクトリア・メダル (地理学)]]
** [[金メダル (王立地理学会)]]
** [[チャールズ・P・デイリー・メダル]]
** [[ハバード・メダル]]
* [[建築]]の賞
** [[AIAゴールドメダル]]
** [[UIAゴールドメダル]]
** [[RIBAゴールドメダル]]
* [[地球科学]]の賞
** [[ウィリアム・ボウイ・メダル]]
** [[スヴェルドラップ金メダル]]
** [[プレストウィッチ・メダル]]
** [[ビグスビー・メダル]]
** [[ペンローズ・メダル]]
** [[ボイス・バロット・メダル]]
** [[マーチソン・メダル]]
** [[ライエル・メダル]]
** [[ロモノーソフ金メダル]]
* [[生物学]]の賞
** [[ヴィーチ記念メダル]]
** [[ダーウィン=ウォレス・メダル]]
** [[リンネ・メダル]]
** [[レーウェンフック・メダル]]
* [[天文学]]の賞
** [[王立天文学会ゴールドメダル]]
** [[カール・シュヴァルツシルト・メダル]]
** [[ジェームズ・クレイグ・ワトソン・メダル]]
** [[ジャクソン=グウィルト・メダル]]
** [[ハーシェル・メダル]]
** [[ブルース・メダル]]
** [[ヘンリー・ドレイパー・メダル]]
** [[レオナード・メダル]]
* [[数学]]の賞
** [[カントール・メダル]]
** [[ド・モルガン・メダル]]
* [[物理学]]の賞
** [[エルステッド・メダル]]
** [[ジュリアーノ・プレパラータ・メダル]]
** [[マックス・プランク・メダル]]
** [[マテウチ・メダル]]
** [[ラザフォードメダル賞]]
** [[ローレンツメダル]]
* 複数の分野を対象とする[[科学技術]]の賞
** [[ジョージ・サートン・メダル]]
** [[ベンジャミン・フランクリン・メダル (フランクリン協会)]]
** [[フランクリン・メダル]]
== 人道的活動におけるメダル ==
*[[オットー・ハーン平和メダル]]
== 宗教におけるメダル ==
[[File:Csodásérem.gif|thumb|100px|おメダイの1つ「[[不思議のメダイ]]」]]
カトリック教会のロザリオには中心部分にメダイ(メダル)を連結させているものも多い。[[聖母の出現]]により製作された「[[不思議のメダイ]]」をはじめ[[ヌルシアのベネディクトゥス|聖ベネディクト]]のメダイ、[[ルルド]]の聖母と[[ベルナデッタ・スビルー|聖ベルナデッタ]]のメダイなど、様々なものがある。メダリオン、メダリオなどとも呼ばれる。
[[ミッションスクール]]では、華美な装飾品は禁止されていることが殆どであるが、メダイ(おメダイ{{Efn2|メダイユ―medalのオランダ語読みから。}}とも呼ばれる)ならば、身につけることが許されることもある。これにはキリストや聖母マリアなどがデザインされている。
{{-}}
== トークンとしての利用 ==
[[ファイル:Kiew Metro Jeton.jpg|thumb|150px|[[ロシア]] 地下鉄乗車券の[[代用貨幣|トークン]]]]
[[ファイル:Medal for souvenir.jpg|thumb|150px|記念メダル販売機(茶平工業)]]
記念・表彰メダル以外にも、擬似的な[[硬貨]]([[代用貨幣]])、いわば硬貨の形態を取った[[チケット]]として利用される場合がある。
[[日本]]では、[[ゲームセンター]]の[[メダルゲーム]]や[[ライブハウス]]の[[ドリンク]]チケット、[[パチスロ]]などにおいて、硬貨を模したものとして利用される。
サイズは、取り扱いのし易さから、直径25 - 30mm程度が多いが、勿論、それより大きいものや小さいものもある。
海外では、一部の[[公共交通機関]]や[[遊戯施設]]において、硬貨やチケットの代替として、硬貨程度のサイズのメダルが利用される。
[[英語圏]]では、この様な一種のチケットとしての役割を持つメダルは、トークン(→[[代用貨幣]])と呼ばれる。
[[カジノ]]などの[[ギャンブル]]で使われる物はメダルとは呼ばずに「チップ」と呼ばれる(英語ではcasino tokenである)。
日本のカタカナ語としての「コイン」は硬貨を含め、上記のメダルやトークンという意味で使われる。
なお、英語のcoinは硬貨という意味であり、トークン類を示す意味で使うのは明白な誤用である。
{{-}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
<!--
=== 出典 ===
{{Reflist}}-->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Medals|メダル}}
* [[近代オリンピック]]
* [[金メダル]]
* [[銀メダル]]
* [[銅メダル]]
* [[オリンピックメダル]]
* [[勲章#アメリカ合衆国の勲章]]
* [[メダルゲーム]]
* [[メダロット]]
* [[スーベニアメダル]]
* [[国連メダル]]
* [[トロフィー]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:めたる}}
[[Category:勲章]]
[[Category:栄章]]
[[Category:記章]]
[[Category:メダル|*]] | 2003-02-24T02:14:26Z | 2023-12-31T03:40:38Z | false | false | false | [
"Template:Efn2",
"Template:-",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Notelist2",
"Template:Commonscat",
"Template:Normdaten",
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"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%80%E3%83%AB |
2,789 | 平野 | 平野 (へいや) または平地 (へいち) とは、山地に対して、低く平らな広い地形のことを指す地理用語である。
平野は一般に標高が大きく変化しない。平野は谷底に沿った地域や山の周辺の段状の地域に見られる。海岸平野として見られる場合もある。山の中の平らな所は平野とは呼ばずに盆地、あるいは高原という。
平原を含めた平野は地球上の主要な地形の一つである。全ての国に存在し、世界の陸域の3分の1以上を占める。溶岩流や、河川、湖沼、氷河、風による堆積、丘陵や山地からの侵食によって形成される。
一般に、(温帯や亜熱帯の) 草原、(半乾燥地域の) ステップ、(熱帯の) サヴァナ、(極域の)ツンドラなどの生物群系(バイオーム)に覆われる。砂漠や熱帯雨林が平野に生成される場合もある。
平野は土壌が深く発達し肥沃であり、平坦なので農業生産における機械化が容易であることや、牧畜に必要な良質の牧草が草原を通して供給されることから、農地としても利用されやすい。
成因などにより、以下のように分けられる。
日本の平野のほとんどが沖積平野である。若干、海岸平野があるものの、それも河川の影響が皆無というわけではない。
以下、各地方の代表的な平野を挙げる。括弧内は平野内の河川と都府県(北海道は地方名を記載)。 | [
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"text": "日本の平野のほとんどが沖積平野である。若干、海岸平野があるものの、それも河川の影響が皆無というわけではない。",
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] | 平野 (へいや) または平地 (へいち) とは、山地に対して、低く平らな広い地形のことを指す地理用語である。 | {{otheruses|地形}}
{{出典の明記|date=2023年9月}}
'''平野''' (へいや) または'''平地''' (へいち) とは、[[山地]]に対して、低く平らな広い地形のことを指す地理用語である。
==概要==
平野は一般に標高が大きく変化しない。平野は谷底に沿った地域や山の周辺の段状の地域に見られる。[[海岸平野]]として見られる場合もある。山の中の平らな所は平野とは呼ばずに[[盆地]]、あるいは[[高原]]という。
平原を含めた平野は地球上の主要な地形の一つである。全ての国に存在し、世界の陸域の3分の1以上を占める。[[溶岩流]]や、[[河川]]、[[湖沼]]、[[氷河]]、[[風]]による[[堆積]]、[[丘陵]]や山地からの[[侵食]]によって形成される。
一般に、([[温帯]]や[[亜熱帯]]の) [[草原]]、(半乾燥地域の) [[ステップ (植生)|ステップ]]、([[熱帯]]の) [[サバナ (植生)|サヴァナ]]、([[極域]]の)[[ツンドラ]]などの[[生物群系|生物群系(バイオーム)]]に覆われる。[[砂漠]]や[[熱帯雨林]]が平野に生成される場合もある。
平野は土壌が深く発達し肥沃であり、平坦なので農業生産における[[機械化]]が容易であることや、[[牧畜]]に必要な良質の牧草が草原を通して供給されることから、[[農地]]としても利用されやすい。
== 平野の分類 ==
成因などにより、以下のように分けられる。
* [[堆積平野]] - [[河川]]などが運んだ堆積物が積もってできたもの
** [[沖積平野]] - 河川の働きによるもの
** [[海岸平野]] - [[沿岸流]]や[[波]]の働きによるもの
** {{仮リンク|風成平野|en|Aeolian landform}} - [[風]]の働きによるもの
* 侵食平野 - 河川などの[[侵食]]により土地が削られてできたもの
** [[地形輪廻#準平原|準平原]]
** [[構造平野]] - [[古生代]]から[[中生代]]にかけて堆積した[[地層]]が、緩やかな侵食を受けてできた平坦地。
** [[ケスタ]]
== 日本の平野一覧 ==
[[File:Satellite image of Japan in May 2003.jpg|thumb|250px|right|日本の衛星画像]]
日本の平野のほとんどが沖積平野である。若干、海岸平野があるものの、それも河川の影響が皆無というわけではない。
以下、各地方の代表的な平野を挙げる。括弧内は平野内の河川と都府県(北海道は地方名を記載)。
=== 北海道地方 ===
* [[幕別平野]]([[声問川]]、宗谷地方)
* [[天塩平野]]([[天塩川]]、宗谷地方)
* [[頓別平野]]([[頓別川]]、宗谷地方)
* [[湧別平野]]([[湧別川]]、北見地方)
* [[美幌平野]]([[網走川]]、北見地方)
* [[斜里平野]]([[止別川]]・[[斜里川]]、北見地方)
* [[石狩平野]]([[石狩川]]・[[夕張川]]、石狩地方・空知地方)
* [[岩内平野]]([[堀株川]]、後志地方)
* [[釧路平野]]([[釧路川]]、釧路地方)
* [[十勝平野]]([[十勝川]]、十勝地方)
* [[勇払平野]]([[安平川]]、胆振地方)
* [[長万部平野]]([[長万部川]]、渡島地方)
* [[八雲平野]]([[遊楽部川]]、渡島地方)
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* [[相模平野]]([[相模川]]、[[神奈川県]]中央部。定義上は、関東平野に含むことがある。地形学上は、関東平野には含まない)
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2,792 | ブエノスアイレス | ブエノスアイレス自治市(ブエノスアイレスじちし、西: Ciudad Autónoma de Buenos Aires)、通称ブエノスアイレス(西: Buenos Aires)は、アルゼンチンの首都。州には属さず、他23州とともにアルゼンチンを構成する。
大ブエノスアイレス都市圏の都市圏人口は2016年時点で1,428万人であり、世界第21位である。
建国以来アルゼンチンの政治、経済、文化の中心である。アルゼンチンの縮図ともなっている一方で、内陸部との差異が大きすぎるため、しばしば「国内共和国」と呼ばれる。
「南米のパリ」の名で親しまれ、南米の中で美しい町の1つとして数えられる。
ラ・プラタ川(Río de la Plata スペイン語で「銀の川」の意)に面しており、対岸はウルグアイのコロニア・デル・サクラメント。
意味はスペイン語で「buenos(良い)aires(空気、風)」の意。船乗りの望む「順風」が街の名前になったものである。
独立当時は「偉大な田舎」と呼ばれる人口5万人程の小さな町だったが、サルミエント (Sarmiento) 政権による欧州化、文明化政策の実施以降数多くの移民がイタリア・スペインなどから渡来し、中南米の中でも最も欧州的な街になった。
かつて南米随一の豊かさを誇ったアルゼンチンの首都として、20世紀において長らくブエノスアイレスは南米最大級の都市であった。1970年代以降のアルゼンチン経済の悪化に伴い、南米最大の都市はブラジルのサンパウロに移ってしまったものの、現在でもブエノスアイレスはスペイン語圏の都市として重要性を保ち、アメリカのシンクタンクが2019年に発表した世界都市ランキングでは24位に評価され、南米の都市の中で首位であった。
かの有名なアルゼンチン・タンゴはこの街のボカ地区で育った。また、サッカーが盛んなことでも有名で、ディエゴ・マラドーナが在籍したボカ・ジュニアーズやCAリーベル・プレートなど名門チームを数多く擁する。
市民はポルテーニョ(porteño, 女性はポルテーニャporteña; 港の人、浜っ子の意)と呼ばれる。
1516年にスペイン王の命により新大陸の探検をしていた、スペイン人航海者 フアン・ディアス・デ・ソリスは、ラ・プラタ川に到達した。ソリスは今日のラ・プラタ地域に到達した最初のヨーロッパ人だと思われるが、今日のウルグアイ領で、先住民のチャルーア族により殺害される。
1536年2月2日、バスク人貴族でスペインの探検家だったペドロ・デ・メンドーサ(スペイン語版)の植民団一行は、現在のブエノス・アイレス南部のサン・テルモ地区に、ヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリーア・デル・ブエン・アイレ市(西: Ciudad de Nuestra Señora Santa María del Buen Ayre 直訳すると「良き風の我々の聖母マリア市」) を建設した。しかしグアラニー族やチャルーア族を始めとする先住民の包囲攻撃と、それに伴う飢餓のために町は1541年に放棄され、生き残りはパラナ川を上ってアスンシオンを建設した。
1580年、アスンシオンからパラナ川を下って来た、フアン・デ・ガライ率いるヨーロッパ人植民団により、街はラ・トリニダー (La Trinidad) 市として再建された。町は当初ラ・プラタ地域の皮革などを輸出する貿易港として賑わったが、16世紀、17世紀の大半をスペインの植民地政府は、ヨーロッパへの輸出品は全てペルーのリマを経由することを強制しつづけたので、市内の貿易業者の不満が高まり、イギリスやフランス、オランダとの密貿易が盛んになった。
1776年にブラジル方面から侵攻を続けるポルトガルからバンダ・オリエンタルを防衛するために、ペルー副王領が分離され、リオ・デ・ラ・プラタ副王領が設置されると、ブエノスアイレスは副王領の首府となり、正式に開港された。しかし、完全な自由貿易を求めるクリオーリョ達にとっては、この措置は未だに不十分なものであり、スペイン当局への憤懣を鬱積させるもとになった。フランス革命後、ヨーロッパでの戦乱の中でスペインがフランスと同盟を結ぶと、スペインの敵対国となったイギリスはこの地域の支配を目論み、1806年、ブエノスアイレスに侵攻を試みた(イギリスのラプラタ侵略(英語版))。ラ・プラタ副王は逃亡したが、ポルテーニョ民兵隊は副王不在のままイギリス軍を撃退し、翌1807年再侵略をも撃退すると、自信をつけたポルテーニョ達のスペインへの忠誠は揺らいでいった。現在もブエノスイアレス市民のことをポルテーニョ(港の人)と呼ぶのはこの時の民兵隊の名前から来ている。
1808年にナポレオン・ボナパルトの指導するフランス帝国がスペインに侵攻し、兄のジョゼフ・ボナパルトをホセ1世に据えると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。1810年5月25日に五月革命が勃発し、ラ・プラタ副王はポルテーニョ達により追放され自治政府が発足した。1816年7月9日にはトゥクマンの議会でブエノスアイレスを首都に定めたリオ・デ・ラ・プラタ連合州の独立が宣言された。独立後はすぐに連邦同盟のアルティーガス派との内戦が続いたが、各州の妥協により、ブエノスアイレス州が連合州の外交権を行使することが認められた。1821年にベルナルディーノ・リバダビアが州内務大臣として辣腕を振るい、ブエノスアイレス大学が設立された。
1825年のブラジル戦争の最中に連合州はアルゼンチンと改名し、リバダビアはブエノスアイレス市をブエノスアイレス州から切り離した連邦直轄の首都に定める憲法を公布したが、この憲法はブエノスアイレス港を中央政府に奪われることを嫌って反対運動を起こした連邦派、統一派双方の利害よって流れ、結局この憲法とブラジル戦争の指導失敗が下でリバダビアは失脚した。
リバダビアの失脚後、連邦派のマヌエル・ドレーゴが戦争の指導を継続するが、イギリスの圧力により、1828年のモンテビデオ条約でウルグアイの独立を認めさせられると(事実上の引き分け)帰還兵の不満は募り、同年ドレーゴは統一派のフアン・ラバージェによって暗殺され、ラバージェが自ら州知事になった。このことがさらに連邦派と統一派の戦いを激化させ、1829年、ラバージェを打倒したフアン・マヌエル・デ・ロサスが州知事となった。
1835年、ロサスが州知事に返り咲いた。ロサスは州内一の「馬上の人」(モントネーロ)であり、自らもガウチョより上手に馬を操ったといわれ、黒人や都市下層民、ガウチョ、友好的なインディオから圧倒的な支持を得ており、ロサス時代にはそのような人々からなる街に「ロサシート」と呼ばれるロサス派が街練り歩き、街はロサスの肖像画と、ロサスが好んだ連邦派の赤色で埋め尽くされた。また、秘密警察が市民を監視し、多くの自由主義者がチリのサンティアゴをはじめとする国外に亡命することになった。しかし、1852年、連邦派でロサスの腹心だったフスト・ホセ・デ・ウルキーサが、ブラジル、ウルグアイと同盟を結んでエントレ・リオス州からロサスに対して反旗を翻すと、1852年2月3日ブエノスアイレス郊外のカセーロスの丘(現在は市街地になっている)でロサスはウルキーサを迎え撃つが、ウルキーサ軍に破れるとイギリスに亡命し、ロサスは失脚した。
ウルキーサは連邦主義を体制化することを望み、フアン・バウティスタ・アルベルディが起草した1853年憲法を連邦の憲法に制定して同年アルゼンチン連邦の成立を宣言したが、ブエノスアイレス州は連邦派の支配を嫌って離反し、連邦はエントレ・リオス州のパラナに首都を置いた。その後、連邦とブエノスアイレスの戦いが繰り返されたが、1862年11月に州知事のバルトロメ・ミトレがウルキーサをバポンの戦いで破ると、ここにブエノスアイレスが連邦を併合する形で国家統一が実現し、アルゼンチン共和国の成立が宣言された。
ミトレは当時のアルゼンチンの自由主義者の御多分に漏れず、ヨーロッパを崇拝し、ガウチョ、インディオ、黒人を野蛮なものとして嫌っていたが、こうした自由主義者が政権を握ったことにより、以降ブエノスアイレスから黒人は消えていくことになる。1865年にアルゼンチン初の国政調査が行われた際、全人口の165万人の内およそ2万人が黒人だったが、1864年にパラグアイのロペス元帥が起こした三国同盟戦争により、黒人は人口に対して不釣合いな規模が徴兵された。1871年に黄熱病が流行したが、これが黒人のコミュニティに止めを刺し、僅かな黒人もウルグアイなどの周辺国に出国していった。
1880年にブエノスアイレス州の反対を押し切ってブエノスアイレス市が分離され、ブエノスアイレスは連邦直轄区となり、正式にアルゼンチンの首都になった。また、この頃にカサ・ロサダが大統領府となった。自由主義者の政権はヨーロッパから多数の移民を導入し、アルゼンチンの発展を目指した。リアチュエロ川河口の港に面したラ・ボカ地区ではイタリア系移民が多く集まり、彼等によってタンゴが発達した。また、輸出経済の進展と共にアルゼンチンには広大な鉄道網が建設され、国内の全ての鉄道がブエノスアイレスのレティーロ駅に行き着いた。
1911年にはスペイン語圏、及び南半球初の地下鉄(A線)が五月広場から市内西部に向かって開通した。1920年代以降はアルゼンチンの富裕さを反映して南北アメリカ大陸最大規模の都市の一つとして成長すると同時に、内陸部諸州からの国内移民が増加し、市内に吸収しきれなかった人口が郊外に巨大なスラム街(ビジャス・ミセリアス)を築いた。
1976年にホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍が治安維持のために「汚い戦争」に従事し、多くの反体制、左翼、及び全く政治活動に無関係の市民を暗殺したが、しかし経済の回復は全く見込めず、日夜スト、デモ、暴動が起き、情勢はより悪化した。こうして殺害された市民の数はおよそ30,000人と見積もられている。1987年には急進市民同盟のラウル・アルフォンシン政権の下で、ブエノスアイレスの一極集中を緩和するため首都をパタゴニア北端のリオネグロ州の州都ビエドマに移転する法案が下院を通過したものの、上院で否決され遷都案は立ち消えとなった。
1992年5月17日、イスラエル大使館がイスラム系のテロ組織に爆破され、多くの死傷者を出した。メネム大統領(たまたまアラブ系である)はこの事件を非難した。
近年は政情の安定を反映して暴動などはあまり起きていないが、それでもサッカーの試合の際にサポーターが暴動を起こしたり(ボカが負けると危険である)、マルビナス戦争帰還兵がデモを行うことが多い。
1880年の首都令によって正式にアルゼンチン共和国の首都となり、政府や議会が置かれている。ただし同法令によりブエノスアイレス州の州庁はブエノスアイレス市から南東のラ・プラタ市に移されている。
選挙によって選ばれたブエノスアイレス市政府長官(es:Anexo:Jefes de gobierno de la ciudad de Buenos Aires)が首長である。議会はブエノスアイレス市議会(es:Legislatura de la Ciudad de Buenos Aires)で、一院制を採用している。
国政では下院の25議席と上院の3議席が割り当てられている。大統領選挙の場合の結果は非常に流動的かつ他地域とは大きく異なった結果が出ることがあり、ブエノスアイレス市でのみ最多得票を得る候補者が出現するほどである。
ブエノスアイレス市は、コムーナ(comuna、「共同体」という意味)と呼ばれる15の区域に分けられ、またバリオ(Barrio、「地区」という意味)と呼ばれる48の区域に分けられる。
パンパの真ん中に位置し、東を大西洋に接している。市内をリアチュエーロ川とラ・プラタ川が流れる。
市内東部のラ・プラタ川沿岸の南海岸公園(スペイン語版)は1985年にユネスコの生物圏保護区に指定され、2005年にラムサール条約登録地となった。一帯にはパンパの草地のほか、沼地、湿地およびヨーロッパエノキ(英語版)やCeltis ehrenbergiana(英語版)の乾燥森林が広がり、ピューマ、オセロット、アメリカヌマジカ、クロエリハクチョウなどが生息している。
気候は温暖湿潤気候で四季がある。しかし南半球にある為、北半球の日本とは季節が逆になり、一番暑いのは1月(平均気温25.1°C)、一番寒いのは7月(平均気温10.9°C)である。年間通じて降雨があるものの年中一定というわけではなく、3月と10月、11月がやや多く、6月と7月はやや少ない。年間降水量は1214mm。史上最高気温は1957年1月29日に記録された43.3°Cである。
アルゼンチンの全産業の中心地でもあるため、都市部を中心に環境汚染が酷い。特にリアチュエロ川の汚染が酷くなっている。
2008年、プライスウォーターハウスクーパースの公表した調査によると、ブエノスアイレスの都市GDPは3620億ドルであり、世界第13位である。南米ではサンパウロに次いで第2位。また2011年3月、英国のシンクタンクにより、世界第64位の金融センターと評価されており、南米ではサンパウロ、リオデジャネイロに次ぐ第3位である。
アルゼンチンはブエノスアイレス一極集中型の経済を持ち、ブエノスアイレスはアルゼンチンのすべての産業の中心となっている。
ブエノスアイレスは港町として発展してきた歴史を持ち、現在でもアルゼンチン最大の港を持つ。世界有数の肥沃な農業地域であるパンパの中心部にあり、さらにラ・プラタ川の水運とも連絡があるため、アルゼンチンの主要輸出品である牛肉や小麦、大豆やトウモロコシ、さらに羊毛や皮革などの輸出港として発展してきた。ラ・プラタ川を通じてパラグアイと、さらにウルグアイやブラジルともつながりがあり、アルゼンチンのみならず南アメリカ大陸南部の物流拠点となっている。
工業としては、パンパからの農業輸出に関連した食品加工や製粉業、皮革工業に加え、自動車や石油精製、繊維や出版などの産業も盛んである。
ブエノスアイレス市内で最も一般的な移動手段はコレクティーボ(市内バス)と地下鉄であり、タクシーも使いやすい。20世紀を通じて多く利用された鉄道は、市内や郊外では21世紀に入り更に便利になっているが、中・長距離路線は1993年より減少傾向のため、国内の地方都市や海外を訪れるには長距離バスや航空機を使うことが多い。
ブエノスアイレスには地下鉄、ライトレール・トラム、近郊列車があり、近郊列車の路線網はアメリカ大陸ではニューヨークに次いで第2位の規模を誇る。また、1993年より減便・廃止が進んでいるものの同州各都市や同国各都市へ向かう中・長距離列車も運行されている。
レティーロ駅のすぐ近くにレティーロ長距離バスターミナルがあり、国内各地やブラジル、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビア、チリ、ペルーといった近隣諸国を結ぶ便がひっきりなしに発着している。利用者の多い路線では新しい2階建てバスも使用されている。
市内はコレクティーボ(バス)が多数運行しており、24時間運行している。タクシーは黄色と黒で塗り分けられている。
プエルト・マデーロ地区のフェリー乗り場から、ブケブス社によりウルグアイのコロニア・デル・サクラメント、モンテビデオ行きのフェリーが毎日運行している。
国内線はホルヘ・ニューベリー空港 (AEP)から運行しており、ポルテーニョからはアエロパルケと呼ばれて親しまれている。国際線はブエノスアイレス州のエセイサにあるミニストロ・ピスタリーニ国際空港 (EZE) から運行し、ラテンアメリカ諸国やヨーロッパ、北アメリカ、オセアニア、アフリカを結んでいる。
主な観光地としてはコロン劇場、ブエノスアイレス大聖堂、レコレータ墓地、カミニートなど。
ラプラタ川沿いには「パレルモの森」と呼ばれる広大な緑地があり、市民の憩いの場所となっている。かつてフアン・マヌエル・デ・ロサスの私邸があった場所で、カセーロスの戦い(英語版)の日を記念して、公式には「2月3日公園」という名称が付けられている。
フロリダ通り、ラバージェ通りは日夜観光客で賑わい、サン・テルモ地区には「バー・スール」、「エル・ビエホ・アルマセン」を始めとした多くの老舗タンゲリア(タンゴ・バー)があり、多くの観光客を引き寄せている。
ブエノスアイレス市民はポルテーニョ(英語版)と呼ばれ、プロビンシアーノと呼ばれる内陸部の住民とはお互いに感情的対立がある。
ブエノスアイレス市には303万人(2007年)の人口が居住しているが、ブエノスアイレス州の一部を含めた周辺の大ブエノスアイレス都市圏には約1240万人が居住している。これは国民の約3割ほどである。
住民の大多数を19世紀半ばから20世紀初めに移民してきたヨーロッパ系の白人が占めるが、その一方で、国内の貧しい州から移住してきた先住民系のアルゼンチン人や、近隣のボリビア、パラグアイからの移民、日系人、中国系人、韓国系人、台湾系人、ラオス系人などのアジア系アルゼンチン人は見た目で非白人だと分かる人も多い。また、アフリカ系アルゼンチン人はかつてに比べれば大きくその数を減らしたが、それでもいなくなったわけではない。
市域は15のコムーナ(共同体)、48のバリオ(地区)に分けられる。
「南米のパリ」として知られ、白人系人口と、ヨーロッパ的な建築物の多さにより、南アメリカで最もヨーロッパ的な都市となっている。
ブエノスアイレス市は五月広場が中心地であり、広場付近にはブエノスアイレス大聖堂、カサ・ロサダ、国立銀行などの重厚な建築物が多い。7月9日大通りにはオベリスコがあり、その近くには世界三大劇場の1つ、コロン劇場がある。
大聖堂にはアルゼンチン、チリ、ペルーの解放者、ホセ・デ・サン=マルティン将軍の亡骸が安置されている。
ロサリオ、モンテビデオと共に、リオプラテンセ・スペイン語が話される最大の都市である。ポルテーニョのアクセントはイタリア語のナポリ方言に近い。
アルゼンチンは19世紀に多くの移民を受け入れ、移民の多くはブエノスアイレスに定着したため、今でもブエノスアイレスではドイツ語、フランス語、ガリシア語など多種多様な言語が話されている。
南米先住民の言語もパラグアイからの移民によるグアラニー語や、ブエノスアイレスで最も危険なスラムとなっているボリビア人街ではアイマラ語が使われている。 アジア系の言語も近年増加したアジア系の移民により、中国語やラーオ語、ボリビア人街のすぐ側の韓国人街では韓国語が日常的に使われている。日系人もいるが、日本語はあまり話されていない。
アルゼンチン・タンゴの本場である。タンゴはこの街のラ・ボカで発祥したとも言われている。
ブエノスアイレスには、アルゼンチンリーグのプリメーラ・ディビシオン(1部)に所属するプロサッカークラブが4つ存在しており、世界的にも非常に有名なボカ・ジュニアーズやリーベル・プレートを筆頭に、サン・ロレンソやウラカンなどのクラブもある。
ボカ・ジュニアーズのホームタウンであるラ・ボカ地区には、1938年にサッカー専用スタジアムのラ・ボンボネーラ(La Bombonera)が建設され、1996年には改修工事が行われメインスタンドにVIP専用のボックス席を増設。さらに警備上の問題からスタジアムとピッチの間に設置されていた金網のフェンスの代わりに、透明な防弾ガラスを設置し臨場感が増すようになった。
一方で、リーベル・プレートも当初はラ・ボカ地区からクラブをスタートしたものの、現在はヌニェス地区を本拠地としている。ホームスタジアムは、収容人数7万人のエル・モヌメンタル(El Monumental)である。
ブエノスアイレス市と姉妹関係にある都市を列挙する。
ブエノスアイレス市と姉妹関係にある地域や州を列挙する。 | [
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"text": "ブエノスアイレス自治市(ブエノスアイレスじちし、西: Ciudad Autónoma de Buenos Aires)、通称ブエノスアイレス(西: Buenos Aires)は、アルゼンチンの首都。州には属さず、他23州とともにアルゼンチンを構成する。",
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"text": "大ブエノスアイレス都市圏の都市圏人口は2016年時点で1,428万人であり、世界第21位である。",
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"text": "建国以来アルゼンチンの政治、経済、文化の中心である。アルゼンチンの縮図ともなっている一方で、内陸部との差異が大きすぎるため、しばしば「国内共和国」と呼ばれる。",
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"text": "「南米のパリ」の名で親しまれ、南米の中で美しい町の1つとして数えられる。",
"title": "概要"
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"text": "ラ・プラタ川(Río de la Plata スペイン語で「銀の川」の意)に面しており、対岸はウルグアイのコロニア・デル・サクラメント。",
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"text": "意味はスペイン語で「buenos(良い)aires(空気、風)」の意。船乗りの望む「順風」が街の名前になったものである。",
"title": "概要"
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"text": "独立当時は「偉大な田舎」と呼ばれる人口5万人程の小さな町だったが、サルミエント (Sarmiento) 政権による欧州化、文明化政策の実施以降数多くの移民がイタリア・スペインなどから渡来し、中南米の中でも最も欧州的な街になった。",
"title": "概要"
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"text": "かつて南米随一の豊かさを誇ったアルゼンチンの首都として、20世紀において長らくブエノスアイレスは南米最大級の都市であった。1970年代以降のアルゼンチン経済の悪化に伴い、南米最大の都市はブラジルのサンパウロに移ってしまったものの、現在でもブエノスアイレスはスペイン語圏の都市として重要性を保ち、アメリカのシンクタンクが2019年に発表した世界都市ランキングでは24位に評価され、南米の都市の中で首位であった。",
"title": "概要"
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"text": "かの有名なアルゼンチン・タンゴはこの街のボカ地区で育った。また、サッカーが盛んなことでも有名で、ディエゴ・マラドーナが在籍したボカ・ジュニアーズやCAリーベル・プレートなど名門チームを数多く擁する。",
"title": "概要"
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"text": "市民はポルテーニョ(porteño, 女性はポルテーニャporteña; 港の人、浜っ子の意)と呼ばれる。",
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"text": "1516年にスペイン王の命により新大陸の探検をしていた、スペイン人航海者 フアン・ディアス・デ・ソリスは、ラ・プラタ川に到達した。ソリスは今日のラ・プラタ地域に到達した最初のヨーロッパ人だと思われるが、今日のウルグアイ領で、先住民のチャルーア族により殺害される。",
"title": "歴史"
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"text": "1536年2月2日、バスク人貴族でスペインの探検家だったペドロ・デ・メンドーサ(スペイン語版)の植民団一行は、現在のブエノス・アイレス南部のサン・テルモ地区に、ヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリーア・デル・ブエン・アイレ市(西: Ciudad de Nuestra Señora Santa María del Buen Ayre 直訳すると「良き風の我々の聖母マリア市」) を建設した。しかしグアラニー族やチャルーア族を始めとする先住民の包囲攻撃と、それに伴う飢餓のために町は1541年に放棄され、生き残りはパラナ川を上ってアスンシオンを建設した。",
"title": "歴史"
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"text": "1580年、アスンシオンからパラナ川を下って来た、フアン・デ・ガライ率いるヨーロッパ人植民団により、街はラ・トリニダー (La Trinidad) 市として再建された。町は当初ラ・プラタ地域の皮革などを輸出する貿易港として賑わったが、16世紀、17世紀の大半をスペインの植民地政府は、ヨーロッパへの輸出品は全てペルーのリマを経由することを強制しつづけたので、市内の貿易業者の不満が高まり、イギリスやフランス、オランダとの密貿易が盛んになった。",
"title": "歴史"
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"text": "1776年にブラジル方面から侵攻を続けるポルトガルからバンダ・オリエンタルを防衛するために、ペルー副王領が分離され、リオ・デ・ラ・プラタ副王領が設置されると、ブエノスアイレスは副王領の首府となり、正式に開港された。しかし、完全な自由貿易を求めるクリオーリョ達にとっては、この措置は未だに不十分なものであり、スペイン当局への憤懣を鬱積させるもとになった。フランス革命後、ヨーロッパでの戦乱の中でスペインがフランスと同盟を結ぶと、スペインの敵対国となったイギリスはこの地域の支配を目論み、1806年、ブエノスアイレスに侵攻を試みた(イギリスのラプラタ侵略(英語版))。ラ・プラタ副王は逃亡したが、ポルテーニョ民兵隊は副王不在のままイギリス軍を撃退し、翌1807年再侵略をも撃退すると、自信をつけたポルテーニョ達のスペインへの忠誠は揺らいでいった。現在もブエノスイアレス市民のことをポルテーニョ(港の人)と呼ぶのはこの時の民兵隊の名前から来ている。",
"title": "歴史"
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"text": "1808年にナポレオン・ボナパルトの指導するフランス帝国がスペインに侵攻し、兄のジョゼフ・ボナパルトをホセ1世に据えると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。1810年5月25日に五月革命が勃発し、ラ・プラタ副王はポルテーニョ達により追放され自治政府が発足した。1816年7月9日にはトゥクマンの議会でブエノスアイレスを首都に定めたリオ・デ・ラ・プラタ連合州の独立が宣言された。独立後はすぐに連邦同盟のアルティーガス派との内戦が続いたが、各州の妥協により、ブエノスアイレス州が連合州の外交権を行使することが認められた。1821年にベルナルディーノ・リバダビアが州内務大臣として辣腕を振るい、ブエノスアイレス大学が設立された。",
"title": "歴史"
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"text": "1825年のブラジル戦争の最中に連合州はアルゼンチンと改名し、リバダビアはブエノスアイレス市をブエノスアイレス州から切り離した連邦直轄の首都に定める憲法を公布したが、この憲法はブエノスアイレス港を中央政府に奪われることを嫌って反対運動を起こした連邦派、統一派双方の利害よって流れ、結局この憲法とブラジル戦争の指導失敗が下でリバダビアは失脚した。",
"title": "歴史"
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"text": "リバダビアの失脚後、連邦派のマヌエル・ドレーゴが戦争の指導を継続するが、イギリスの圧力により、1828年のモンテビデオ条約でウルグアイの独立を認めさせられると(事実上の引き分け)帰還兵の不満は募り、同年ドレーゴは統一派のフアン・ラバージェによって暗殺され、ラバージェが自ら州知事になった。このことがさらに連邦派と統一派の戦いを激化させ、1829年、ラバージェを打倒したフアン・マヌエル・デ・ロサスが州知事となった。",
"title": "歴史"
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"text": "1835年、ロサスが州知事に返り咲いた。ロサスは州内一の「馬上の人」(モントネーロ)であり、自らもガウチョより上手に馬を操ったといわれ、黒人や都市下層民、ガウチョ、友好的なインディオから圧倒的な支持を得ており、ロサス時代にはそのような人々からなる街に「ロサシート」と呼ばれるロサス派が街練り歩き、街はロサスの肖像画と、ロサスが好んだ連邦派の赤色で埋め尽くされた。また、秘密警察が市民を監視し、多くの自由主義者がチリのサンティアゴをはじめとする国外に亡命することになった。しかし、1852年、連邦派でロサスの腹心だったフスト・ホセ・デ・ウルキーサが、ブラジル、ウルグアイと同盟を結んでエントレ・リオス州からロサスに対して反旗を翻すと、1852年2月3日ブエノスアイレス郊外のカセーロスの丘(現在は市街地になっている)でロサスはウルキーサを迎え撃つが、ウルキーサ軍に破れるとイギリスに亡命し、ロサスは失脚した。",
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"text": "ウルキーサは連邦主義を体制化することを望み、フアン・バウティスタ・アルベルディが起草した1853年憲法を連邦の憲法に制定して同年アルゼンチン連邦の成立を宣言したが、ブエノスアイレス州は連邦派の支配を嫌って離反し、連邦はエントレ・リオス州のパラナに首都を置いた。その後、連邦とブエノスアイレスの戦いが繰り返されたが、1862年11月に州知事のバルトロメ・ミトレがウルキーサをバポンの戦いで破ると、ここにブエノスアイレスが連邦を併合する形で国家統一が実現し、アルゼンチン共和国の成立が宣言された。",
"title": "歴史"
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"text": "ミトレは当時のアルゼンチンの自由主義者の御多分に漏れず、ヨーロッパを崇拝し、ガウチョ、インディオ、黒人を野蛮なものとして嫌っていたが、こうした自由主義者が政権を握ったことにより、以降ブエノスアイレスから黒人は消えていくことになる。1865年にアルゼンチン初の国政調査が行われた際、全人口の165万人の内およそ2万人が黒人だったが、1864年にパラグアイのロペス元帥が起こした三国同盟戦争により、黒人は人口に対して不釣合いな規模が徴兵された。1871年に黄熱病が流行したが、これが黒人のコミュニティに止めを刺し、僅かな黒人もウルグアイなどの周辺国に出国していった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "1880年にブエノスアイレス州の反対を押し切ってブエノスアイレス市が分離され、ブエノスアイレスは連邦直轄区となり、正式にアルゼンチンの首都になった。また、この頃にカサ・ロサダが大統領府となった。自由主義者の政権はヨーロッパから多数の移民を導入し、アルゼンチンの発展を目指した。リアチュエロ川河口の港に面したラ・ボカ地区ではイタリア系移民が多く集まり、彼等によってタンゴが発達した。また、輸出経済の進展と共にアルゼンチンには広大な鉄道網が建設され、国内の全ての鉄道がブエノスアイレスのレティーロ駅に行き着いた。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 21,
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"text": "1911年にはスペイン語圏、及び南半球初の地下鉄(A線)が五月広場から市内西部に向かって開通した。1920年代以降はアルゼンチンの富裕さを反映して南北アメリカ大陸最大規模の都市の一つとして成長すると同時に、内陸部諸州からの国内移民が増加し、市内に吸収しきれなかった人口が郊外に巨大なスラム街(ビジャス・ミセリアス)を築いた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 22,
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"text": "1976年にホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍が治安維持のために「汚い戦争」に従事し、多くの反体制、左翼、及び全く政治活動に無関係の市民を暗殺したが、しかし経済の回復は全く見込めず、日夜スト、デモ、暴動が起き、情勢はより悪化した。こうして殺害された市民の数はおよそ30,000人と見積もられている。1987年には急進市民同盟のラウル・アルフォンシン政権の下で、ブエノスアイレスの一極集中を緩和するため首都をパタゴニア北端のリオネグロ州の州都ビエドマに移転する法案が下院を通過したものの、上院で否決され遷都案は立ち消えとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1992年5月17日、イスラエル大使館がイスラム系のテロ組織に爆破され、多くの死傷者を出した。メネム大統領(たまたまアラブ系である)はこの事件を非難した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "近年は政情の安定を反映して暴動などはあまり起きていないが、それでもサッカーの試合の際にサポーターが暴動を起こしたり(ボカが負けると危険である)、マルビナス戦争帰還兵がデモを行うことが多い。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1880年の首都令によって正式にアルゼンチン共和国の首都となり、政府や議会が置かれている。ただし同法令によりブエノスアイレス州の州庁はブエノスアイレス市から南東のラ・プラタ市に移されている。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "選挙によって選ばれたブエノスアイレス市政府長官(es:Anexo:Jefes de gobierno de la ciudad de Buenos Aires)が首長である。議会はブエノスアイレス市議会(es:Legislatura de la Ciudad de Buenos Aires)で、一院制を採用している。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "国政では下院の25議席と上院の3議席が割り当てられている。大統領選挙の場合の結果は非常に流動的かつ他地域とは大きく異なった結果が出ることがあり、ブエノスアイレス市でのみ最多得票を得る候補者が出現するほどである。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ブエノスアイレス市は、コムーナ(comuna、「共同体」という意味)と呼ばれる15の区域に分けられ、またバリオ(Barrio、「地区」という意味)と呼ばれる48の区域に分けられる。",
"title": "行政区"
},
{
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"text": "パンパの真ん中に位置し、東を大西洋に接している。市内をリアチュエーロ川とラ・プラタ川が流れる。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "市内東部のラ・プラタ川沿岸の南海岸公園(スペイン語版)は1985年にユネスコの生物圏保護区に指定され、2005年にラムサール条約登録地となった。一帯にはパンパの草地のほか、沼地、湿地およびヨーロッパエノキ(英語版)やCeltis ehrenbergiana(英語版)の乾燥森林が広がり、ピューマ、オセロット、アメリカヌマジカ、クロエリハクチョウなどが生息している。",
"title": "地理"
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{
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"tag": "p",
"text": "気候は温暖湿潤気候で四季がある。しかし南半球にある為、北半球の日本とは季節が逆になり、一番暑いのは1月(平均気温25.1°C)、一番寒いのは7月(平均気温10.9°C)である。年間通じて降雨があるものの年中一定というわけではなく、3月と10月、11月がやや多く、6月と7月はやや少ない。年間降水量は1214mm。史上最高気温は1957年1月29日に記録された43.3°Cである。",
"title": "気候"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチンの全産業の中心地でもあるため、都市部を中心に環境汚染が酷い。特にリアチュエロ川の汚染が酷くなっている。",
"title": "気候"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2008年、プライスウォーターハウスクーパースの公表した調査によると、ブエノスアイレスの都市GDPは3620億ドルであり、世界第13位である。南米ではサンパウロに次いで第2位。また2011年3月、英国のシンクタンクにより、世界第64位の金融センターと評価されており、南米ではサンパウロ、リオデジャネイロに次ぐ第3位である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "アルゼンチンはブエノスアイレス一極集中型の経済を持ち、ブエノスアイレスはアルゼンチンのすべての産業の中心となっている。",
"title": "経済"
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{
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"text": "ブエノスアイレスは港町として発展してきた歴史を持ち、現在でもアルゼンチン最大の港を持つ。世界有数の肥沃な農業地域であるパンパの中心部にあり、さらにラ・プラタ川の水運とも連絡があるため、アルゼンチンの主要輸出品である牛肉や小麦、大豆やトウモロコシ、さらに羊毛や皮革などの輸出港として発展してきた。ラ・プラタ川を通じてパラグアイと、さらにウルグアイやブラジルともつながりがあり、アルゼンチンのみならず南アメリカ大陸南部の物流拠点となっている。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 36,
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"text": "工業としては、パンパからの農業輸出に関連した食品加工や製粉業、皮革工業に加え、自動車や石油精製、繊維や出版などの産業も盛んである。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 37,
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"text": "ブエノスアイレス市内で最も一般的な移動手段はコレクティーボ(市内バス)と地下鉄であり、タクシーも使いやすい。20世紀を通じて多く利用された鉄道は、市内や郊外では21世紀に入り更に便利になっているが、中・長距離路線は1993年より減少傾向のため、国内の地方都市や海外を訪れるには長距離バスや航空機を使うことが多い。",
"title": "交通"
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{
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"text": "ブエノスアイレスには地下鉄、ライトレール・トラム、近郊列車があり、近郊列車の路線網はアメリカ大陸ではニューヨークに次いで第2位の規模を誇る。また、1993年より減便・廃止が進んでいるものの同州各都市や同国各都市へ向かう中・長距離列車も運行されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "レティーロ駅のすぐ近くにレティーロ長距離バスターミナルがあり、国内各地やブラジル、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビア、チリ、ペルーといった近隣諸国を結ぶ便がひっきりなしに発着している。利用者の多い路線では新しい2階建てバスも使用されている。",
"title": "交通"
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"text": "市内はコレクティーボ(バス)が多数運行しており、24時間運行している。タクシーは黄色と黒で塗り分けられている。",
"title": "交通"
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"tag": "p",
"text": "プエルト・マデーロ地区のフェリー乗り場から、ブケブス社によりウルグアイのコロニア・デル・サクラメント、モンテビデオ行きのフェリーが毎日運行している。",
"title": "交通"
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"text": "国内線はホルヘ・ニューベリー空港 (AEP)から運行しており、ポルテーニョからはアエロパルケと呼ばれて親しまれている。国際線はブエノスアイレス州のエセイサにあるミニストロ・ピスタリーニ国際空港 (EZE) から運行し、ラテンアメリカ諸国やヨーロッパ、北アメリカ、オセアニア、アフリカを結んでいる。",
"title": "交通"
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"text": "主な観光地としてはコロン劇場、ブエノスアイレス大聖堂、レコレータ墓地、カミニートなど。",
"title": "観光"
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"text": "ラプラタ川沿いには「パレルモの森」と呼ばれる広大な緑地があり、市民の憩いの場所となっている。かつてフアン・マヌエル・デ・ロサスの私邸があった場所で、カセーロスの戦い(英語版)の日を記念して、公式には「2月3日公園」という名称が付けられている。",
"title": "観光"
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"text": "フロリダ通り、ラバージェ通りは日夜観光客で賑わい、サン・テルモ地区には「バー・スール」、「エル・ビエホ・アルマセン」を始めとした多くの老舗タンゲリア(タンゴ・バー)があり、多くの観光客を引き寄せている。",
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"text": "ブエノスアイレス市民はポルテーニョ(英語版)と呼ばれ、プロビンシアーノと呼ばれる内陸部の住民とはお互いに感情的対立がある。",
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"text": "住民の大多数を19世紀半ばから20世紀初めに移民してきたヨーロッパ系の白人が占めるが、その一方で、国内の貧しい州から移住してきた先住民系のアルゼンチン人や、近隣のボリビア、パラグアイからの移民、日系人、中国系人、韓国系人、台湾系人、ラオス系人などのアジア系アルゼンチン人は見た目で非白人だと分かる人も多い。また、アフリカ系アルゼンチン人はかつてに比べれば大きくその数を減らしたが、それでもいなくなったわけではない。",
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"text": "市域は15のコムーナ(共同体)、48のバリオ(地区)に分けられる。",
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"text": "「南米のパリ」として知られ、白人系人口と、ヨーロッパ的な建築物の多さにより、南アメリカで最もヨーロッパ的な都市となっている。",
"title": "文化"
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"text": "ブエノスアイレス市は五月広場が中心地であり、広場付近にはブエノスアイレス大聖堂、カサ・ロサダ、国立銀行などの重厚な建築物が多い。7月9日大通りにはオベリスコがあり、その近くには世界三大劇場の1つ、コロン劇場がある。",
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"text": "大聖堂にはアルゼンチン、チリ、ペルーの解放者、ホセ・デ・サン=マルティン将軍の亡骸が安置されている。",
"title": "文化"
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"text": "ロサリオ、モンテビデオと共に、リオプラテンセ・スペイン語が話される最大の都市である。ポルテーニョのアクセントはイタリア語のナポリ方言に近い。",
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"text": "アルゼンチンは19世紀に多くの移民を受け入れ、移民の多くはブエノスアイレスに定着したため、今でもブエノスアイレスではドイツ語、フランス語、ガリシア語など多種多様な言語が話されている。",
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"text": "南米先住民の言語もパラグアイからの移民によるグアラニー語や、ブエノスアイレスで最も危険なスラムとなっているボリビア人街ではアイマラ語が使われている。 アジア系の言語も近年増加したアジア系の移民により、中国語やラーオ語、ボリビア人街のすぐ側の韓国人街では韓国語が日常的に使われている。日系人もいるが、日本語はあまり話されていない。",
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"text": "アルゼンチン・タンゴの本場である。タンゴはこの街のラ・ボカで発祥したとも言われている。",
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"text": "ブエノスアイレスには、アルゼンチンリーグのプリメーラ・ディビシオン(1部)に所属するプロサッカークラブが4つ存在しており、世界的にも非常に有名なボカ・ジュニアーズやリーベル・プレートを筆頭に、サン・ロレンソやウラカンなどのクラブもある。",
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"text": "ボカ・ジュニアーズのホームタウンであるラ・ボカ地区には、1938年にサッカー専用スタジアムのラ・ボンボネーラ(La Bombonera)が建設され、1996年には改修工事が行われメインスタンドにVIP専用のボックス席を増設。さらに警備上の問題からスタジアムとピッチの間に設置されていた金網のフェンスの代わりに、透明な防弾ガラスを設置し臨場感が増すようになった。",
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"text": "ブエノスアイレス市と姉妹関係にある地域や州を列挙する。",
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] | ブエノスアイレス自治市、通称ブエノスアイレスは、アルゼンチンの首都。州には属さず、他23州とともにアルゼンチンを構成する。 大ブエノスアイレス都市圏の都市圏人口は2016年時点で1,428万人であり、世界第21位である。 建国以来アルゼンチンの政治、経済、文化の中心である。アルゼンチンの縮図ともなっている一方で、内陸部との差異が大きすぎるため、しばしば「国内共和国」と呼ばれる。 | {{Otheruses|首都であるブエノスアイレス自治市|その他の用法|ブエノスアイレス (曖昧さ回避)}}
{{Infobox settlement
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'''ブエノスアイレス自治市'''(ブエノスアイレスじちし、{{lang-es-short|Ciudad Autónoma de Buenos Aires}}、CABA)、通称'''ブエノスアイレス'''({{lang-es-short|Buenos Aires}})は、[[アルゼンチン]]の[[首都]]<ref>{{Cite web|和書| url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%83%96%E3%82%A8%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%82%B9/|title=Buenos Aires(ブエノスアイレス)の意味 |publisher=goo国語辞書 |accessdate=2020-07-01}}</ref>。[[アルゼンチンの地方行政区画|州]]には属さず<ref group="注釈">なお、[[1880年]]の首都令以来、[[ブエノスアイレス州]]の州都は[[ラプラタ (アルゼンチン)|ラ・プラタ]]市である</ref>、他23州とともにアルゼンチンを構成する。
[[大ブエノスアイレス都市圏]]の[[世界の都市圏人口の順位|都市圏人口]]は[[2016年]]時点で1,428万人であり、世界第21位である<ref>[http://www.demographia.com/db-worldua.pdf 世界の都市圏人口の順位(2016年4月更新)] Demographia 2016年10月29日閲覧。</ref>。
建国以来アルゼンチンの政治、経済、文化の中心である。アルゼンチンの縮図ともなっている一方で、内陸部との差異が大きすぎるため、しばしば「国内共和国」と呼ばれる。
== 概要 ==
「[[南アメリカ|南米]]の[[パリ]]」の名で親しまれ<ref name="a-short-history">''Argentina: A Short History'' by Colin M. Lewis, Oneworld Publications, Oxford, 2002. ISBN 1-85168-300-3</ref><ref>[http://travel.canoe.ca/Travel/SouthAmerica/2005/03/06/953104-sun.html 'Paris of the South'] by Kenneth Bagnell, [[Canadian Online Explorer|Canoe]] travel, 7 March 2005.</ref>、南米の中で美しい町の1つとして数えられる。
[[ラプラタ川|ラ・プラタ川]]({{lang|es|Río de la Plata}} スペイン語で「銀の川」の意)に面しており、対岸は[[ウルグアイ]]の[[コロニア・デル・サクラメント]]。
意味はスペイン語で「buenos(良い)aires(空気、風)」の意。船乗りの望む「順風」が街の名前になったものである。
独立当時は「偉大な田舎」と呼ばれる人口5万人程の小さな町だったが、[[ドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント|サルミエント]] (Sarmiento) 政権による欧州化、文明化政策の実施以降数多くの移民が[[イタリア]]・[[スペイン]]などから渡来し、中南米の中でも最も欧州的な街になった。
かつて南米随一の豊かさを誇ったアルゼンチンの首都として、20世紀において長らくブエノスアイレスは南米最大級の都市であった<ref>{{Cite web|url=http://worldpopulationreview.com/world-cities/|title=World City Populations 2020|accessdate=2020年1月9日|publisher=}}</ref>。1970年代以降のアルゼンチン経済の悪化に伴い、南米最大の都市は[[ブラジル]]の[[サンパウロ]]に移ってしまったものの、現在でもブエノスアイレスはスペイン語圏の都市として重要性を保ち、アメリカのシンクタンクが2019年に発表した世界都市ランキングでは24位に評価され、南米の都市の中で首位であった<ref>{{Cite web|title=Read @ATKearney: Una Cuestión de Talento: Cómo el Capital Humano Determinará los Próximos Líderes Mundiales|url=http://www.atkearney.com/global-cities/2019|website=www.atkearney.com|accessdate=2020-01-09|language=en-US}}</ref>。
かの有名な[[アルゼンチン・タンゴ]]はこの街のボカ地区で育った。また、[[サッカー]]が盛んなことでも有名で、[[ディエゴ・マラドーナ]]が在籍した[[ボカ・ジュニアーズ]]や[[CAリーベル・プレート]]など名門チームを数多く擁する。
市民は[[ポルテーニョ]](porteño, 女性はポルテーニャporteña; 港の人、浜っ子の意)と呼ばれる<ref>{{cite web|url=http://www.portenospanish.com/word/138/Porte%C3%B1o|title=What is Porteño in English? – Porteño Spanish|publisher=Portenospanish.com|accessdate=2011-09-15}}</ref>。
== 歴史 ==
[[1516年]]に[[スペイン君主一覧|スペイン王]]の命により新大陸の[[探検]]をしていた、[[スペイン人]]航海者 [[フアン・ディアス・デ・ソリス]]は、[[ラプラタ川|ラ・プラタ川]]に到達した。ソリスは今日のラ・プラタ地域に到達した最初のヨーロッパ人だと思われるが、今日の[[ウルグアイ]]領で、先住民の[[チャルーア族]]により殺害される。
[[ファイル:Buenos Aires shortly after its foundation 1536.png|left|thumb|200px|1536年創設当初のブエノスアイレス市の風景図。]]
[[1536年]][[2月2日]]、[[バスク人]]貴族でスペインの探検家だった{{仮リンク|ペドロ・デ・メンドーサ|es|Pedro de Mendoza}}の植民団一行は、現在のブエノス・アイレス南部の[[サン・テルモ地区]]に、ヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリーア・デル・ブエン・アイレ市({{lang-es-short|''Ciudad de Nuestra Señora Santa María del Buen Ayre''}} 直訳すると「良き風の我々の聖母マリア市」)<ref name="a-short-history">''Argentina: A Short History'' by Colin M. Lewis, Oneworld Publications, Oxford, 2002. ISBN 1-85168-300-3</ref> を建設した。しかしグアラニー族やチャルーア族を始めとする先住民の包囲攻撃と、それに伴う飢餓のために町は[[1541年]]に放棄され<ref>[http://www.laeducacion.com/vinculos/materias/historia/not020107.htm Aborígenes de la Argentina] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140605092500/http://www.laeducacion.com/vinculos/materias/historia/not020107.htm |date=2014年6月5日 }}. (Spanish) John D. Torres Barreto. Retrieved 9 February 2012.</ref><ref>[http://www.mendoza.edu.ar/efemerid/p_mendoz.htm Pedro de Mendoza] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140711021051/http://www.mendoza.edu.ar/efemerid/p_mendoz.htm |date=2014年7月11日 }}. (Spanish) Retrieved 8 February 2012.</ref>、生き残りは[[パラナ川]]を上って[[アスンシオン]]を建設した。
[[1580年]]、アスンシオンから[[パラナ川]]を下って来た、[[フアン・デ・ガライ]]率いるヨーロッパ人植民団により、街はラ・トリニダー (La Trinidad) 市として再建された<ref name="provincia">[http://www.buenosaires.gov.ar/areas/ciudad/historico/calendario/destacado.php?menu_id=23203&ide=44 Calendario Histórico – Segunda fundación de Buenos Aires] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20121024201506/http://www.buenosaires.gov.ar/areas/ciudad/historico/calendario/destacado.php?menu_id=23203&ide=44 |date=2012年10月24日 }}. (Spanish) Gobierno de la Ciudad de Buenos Aires. Retrieved 9 February 2012.</ref>。町は当初ラ・プラタ地域の皮革などを輸出する貿易港として賑わったが、16世紀、17世紀の大半をスペインの植民地政府は、[[ヨーロッパ]]への輸出品は全て[[ペルー]]の[[リマ]]を経由することを強制しつづけたので、市内の貿易業者の不満が高まり、イギリスやフランス、オランダとの密貿易が盛んになった<ref name="a-short-history" />。
[[1776年]]にブラジル方面から侵攻を続ける[[ポルトガル]]から[[バンダ・オリエンタル]]を防衛するために、[[ペルー副王領]]が分離され、[[リオ・デ・ラ・プラタ副王領]]が設置されると、ブエノスアイレスは副王領の首府となり、正式に開港された。しかし、完全な[[自由貿易]]を求める[[クリオーリョ]]達にとっては、この措置は未だに不十分なものであり、スペイン当局への憤懣を鬱積させるもとになった。[[フランス革命]]後、ヨーロッパでの戦乱の中でスペインがフランスと同盟を結ぶと、スペインの敵対国となったイギリスはこの地域の支配を目論み、1806年、ブエノスアイレスに侵攻を試みた({{仮リンク|イギリスのラプラタ侵略|en|British invasions of the Río de la Plata}})。ラ・プラタ副王は逃亡したが、[[ポルテーニョ]]民兵隊は副王不在のまま[[イギリス軍]]を撃退し、翌1807年再侵略をも撃退すると、自信をつけたポルテーニョ達のスペインへの忠誠は揺らいでいった。現在もブエノスイアレス市民のことをポルテーニョ(港の人)と呼ぶのはこの時の民兵隊の名前から来ている。
[[ファイル:Cabildoabierto-Subercaseaux.jpg|thumb|220px|left|[[五月革命 (アルゼンチン)|五月革命]]]]
1808年に[[ナポレオン・ボナパルト]]の指導するフランス帝国が[[半島戦争|スペインに侵攻]]し、兄の[[ジョゼフ・ボナパルト]]をホセ1世に据えると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。[[1810年]]5月25日に[[五月革命 (アルゼンチン)|五月革命]]が勃発し、ラ・プラタ副王はポルテーニョ達により追放され自治政府が発足した。[[1816年]]7月9日には[[トゥクマンの議会]]でブエノスアイレスを首都に定めた[[アルゼンチン#国名|リオ・デ・ラ・プラタ連合州]]の独立が宣言された。独立後はすぐに[[連邦同盟]]のアルティーガス派との内戦が続いたが、各州の妥協により、ブエノスアイレス州が連合州の外交権を行使することが認められた。1821年に[[ベルナルディーノ・リバダビア]]が州内務大臣として辣腕を振るい、[[ブエノスアイレス大学]]が設立された。
[[ファイル:Bernardino Rivadavia 2.jpg|thumb|200px|[[ベルナルディーノ・リバダビア]]]]
1825年の[[アルゼンチン・ブラジル戦争|ブラジル戦争]]の最中に連合州はアルゼンチンと改名し、リバダビアはブエノスアイレス市をブエノスアイレス州から切り離した連邦直轄の首都に定める憲法を公布したが、この憲法はブエノスアイレス港を中央政府に奪われることを嫌って反対運動を起こした連邦派、統一派双方の利害よって流れ、結局この憲法とブラジル戦争の指導失敗が下でリバダビアは失脚した。
リバダビアの失脚後、連邦派の[[マヌエル・ドレーゴ]]が戦争の指導を継続するが、イギリスの圧力により、1828年の[[モンテビデオ条約]]で[[ウルグアイ]]の独立を認めさせられると(事実上の引き分け)帰還兵の不満は募り、同年ドレーゴは統一派の[[フアン・ラバージェ]]によって暗殺され、ラバージェが自ら州知事になった。このことがさらに連邦派と統一派の戦いを激化させ、1829年、ラバージェを打倒した[[フアン・マヌエル・デ・ロサス]]が州知事となった。
1835年、ロサスが州知事に返り咲いた。ロサスは州内一の「馬上の人」(モントネーロ)であり、自らも[[ガウチョ]]より上手に馬を操ったといわれ、[[黒人]]や都市下層民、ガウチョ、友好的なインディオから圧倒的な支持を得ており、ロサス時代にはそのような人々からなる街に「ロサシート」と呼ばれるロサス派が街練り歩き、街はロサスの肖像画と、ロサスが好んだ連邦派の赤色で埋め尽くされた。また、秘密警察が市民を監視し、多くの自由主義者がチリのサンティアゴをはじめとする国外に亡命することになった。しかし、1852年、連邦派でロサスの腹心だった[[フスト・ホセ・デ・ウルキーサ]]が、ブラジル、ウルグアイと同盟を結んで[[エントレ・リオス州]]からロサスに対して反旗を翻すと、1852年2月3日ブエノスアイレス郊外のカセーロスの丘(現在は市街地になっている)でロサスはウルキーサを迎え撃つが、ウルキーサ軍に破れるとイギリスに亡命し、ロサスは失脚した。
ウルキーサは連邦主義を体制化することを望み、[[フアン・バウティスタ・アルベルディ]]が起草した1853年憲法を連邦の憲法に制定して同年[[アルゼンチン連邦]]の成立を宣言したが、ブエノスアイレス州は連邦派の支配を嫌って離反し、連邦はエントレ・リオス州のパラナに首都を置いた。その後、連邦とブエノスアイレスの戦いが繰り返されたが、1862年11月に州知事の[[バルトロメ・ミトレ]]がウルキーサを[[バポンの戦い]]で破ると、ここにブエノスアイレスが連邦を併合する形で国家統一が実現し、アルゼンチン共和国の成立が宣言された。
ミトレは当時のアルゼンチンの自由主義者の御多分に漏れず、ヨーロッパを崇拝し、ガウチョ、インディオ、黒人を野蛮なものとして嫌っていたが、こうした自由主義者が政権を握ったことにより、以降ブエノスアイレスから黒人は消えていくことになる。1865年にアルゼンチン初の国政調査が行われた際、全人口の165万人の内およそ2万人が黒人だったが、1864年に[[パラグアイ]]の[[フランシスコ・ソラーノ・ロペス|ロペス]]元帥が起こした[[三国同盟戦争]]により、黒人は人口に対して不釣合いな規模が徴兵された。1871年に[[黄熱|黄熱病]]が流行したが、これが黒人のコミュニティに止めを刺し、僅かな黒人もウルグアイなどの周辺国に出国していった。
[[ファイル:Muelle de La Boca.jpg|thumb|210px|1880年のラ・ボカの港]]
1880年にブエノスアイレス州の反対を押し切ってブエノスアイレス市が分離され、ブエノスアイレスは連邦直轄区となり、正式にアルゼンチンの首都になった。また、この頃に[[カサ・ロサダ]]が大統領府となった。自由主義者の政権はヨーロッパから多数の移民を導入し、アルゼンチンの発展を目指した。[[リアチュエロ川]]河口の港に面した[[ラ・ボカ]]地区ではイタリア系移民が多く集まり、彼等によって[[タンゴ]]が発達した。また、輸出経済の進展と共にアルゼンチンには広大な鉄道網が建設され、国内の全ての鉄道がブエノスアイレスのレティーロ駅に行き着いた。
[[1911年]]にはスペイン語圏、及び[[南半球]]初の[[地下鉄]](A線)が五月広場から市内西部に向かって開通した。1920年代以降はアルゼンチンの富裕さを反映して南北アメリカ大陸最大規模の都市の一つとして成長すると同時に、内陸部諸州からの国内移民が増加し、市内に吸収しきれなかった人口が郊外に巨大な[[スラム]]街([[ビジャス・ミセリアス]])を築いた。
[[1976年]]に[[ホルヘ・ラファエル・ビデラ]]将軍が治安維持のために「[[汚い戦争]]」に従事し、多くの反体制、左翼、及び全く政治活動に無関係の市民を暗殺したが、しかし経済の回復は全く見込めず、日夜スト、デモ、暴動が起き、情勢はより悪化した。こうして殺害された市民の数はおよそ30,000人と見積もられている<ref name="Millions">''We are Millions: Neo-liberalism and new forms of political action in Argentina'', Marcela Lópéz Levy, Latin America Bureau, London, 2004. ISBN 189936563X.</ref>。[[1987年]]には[[急進市民同盟]]の[[ラウル・アルフォンシン]]政権の下で、ブエノスアイレスの一極集中を緩和するため首都を[[パタゴニア]]北端の[[リオネグロ州]]の州都[[ビエドマ]]に移転する法案が下院を通過したものの、上院で否決され遷都案は立ち消えとなった。
1992年5月17日、[[イスラエル]]大使館が[[イスラーム|イスラム]]系のテロ組織に爆破され、多くの死傷者を出した。[[カルロス・メネム|メネム]]大統領(たまたま[[アラブ人|アラブ]]系である)はこの事件を非難した。
近年は政情の安定を反映して暴動などはあまり起きていないが、それでもサッカーの試合の際にサポーターが暴動を起こしたり([[ボカ・ジュニアーズ|ボカ]]が負けると危険である)、[[フォークランド紛争|マルビナス戦争]]帰還兵がデモを行うことが多い。
{{-}}
== 景観 ==
{{wide image|Buenos Aires Panorama.jpg|1570px|ブエノスアイレス中心部のパノラマ}}
{{wide image|Skyline Puerto Madero.jpg|1000px|プエルト・マテロ地区からのブエノスアイレスの夜景}}
{{wide image|196 - Buenos Aires - Plaza de Mayo - Janvier 2010.jpg|1400px|マージョ(五月)広場の夜景}}
{{wide image|Avenida 9 de Julio Décembre 2007 - Vue Panoramique.jpg|1170px|[[7月9日大通り]]とオベリスコ}}
== 政治 ==
[[File:Atardecer en el Congreso de la Nación Argentina.jpg|thumb|[[国会議事堂 (アルゼンチン)|アルゼンチン国会議事堂]]]]
1880年の首都令によって正式にアルゼンチン共和国の首都となり、政府や議会が置かれている。ただし同法令によりブエノスアイレス州の州庁はブエノスアイレス市から南東のラ・プラタ市に移されている。
=== 地方政治 ===
選挙によって選ばれた[[ブエノスアイレス市政府長官]]([[:es:Anexo:Jefes de gobierno de la ciudad de Buenos Aires]])が首長である。議会は[[ブエノスアイレス市議会]]([[:es:Legislatura de la Ciudad de Buenos Aires]])で、[[一院制]]を採用している。
=== 国政 ===
国政では下院の25議席と上院の3議席が割り当てられている。大統領選挙の場合の結果は非常に流動的かつ他地域とは大きく異なった結果が出ることがあり、ブエノスアイレス市でのみ最多得票を得る候補者が出現するほどである。
== 行政区 ==
{{main|ブエノスアイレスのコムーナとバリオ}}
ブエノスアイレス市は、コムーナ(comuna、「共同体」という意味)と呼ばれる15の区域に分けられ、またバリオ(Barrio、「地区」という意味)と呼ばれる48の区域に分けられる。
== 地理 ==
[[ファイル:River Plate.jpg|right|thumb|220px|ラ・プラタ川流域を捉えた衛星写真]]
[[パンパ]]の真ん中に位置し、東を大西洋に接している。市内を[[リアチュエーロ川]]と[[ラプラタ川|ラ・プラタ川]]が流れる。
市内東部のラ・プラタ川沿岸の{{仮リンク|南海岸公園|es|Parque Costero del Sur}}は1985年に[[ユネスコ]]の[[生物圏保護区]]に指定され<ref name=":1">{{Cite web |title=Parque Costero del Sur Biosphere Reserve, Argentina |url=https://en.unesco.org/biosphere/lac/parque-costero-del-sur |website=UNESCO |date=2020-5 |access-date=2023-04-09 |language=en}}</ref>、2005年に[[ラムサール条約]]登録地となった<ref name=":2">{{Cite web |title=Reserva Ecológica Costanera Sur {{!}} Ramsar Sites Information Service |url=https://rsis.ramsar.org/ris/1459 |website=rsis.ramsar.org |access-date=2023-04-09 |date=2005-03-22}}</ref>。一帯にはパンパの[[草地]]のほか、[[沼地]]、[[湿地]]および{{仮リンク|ヨーロッパエノキ|en|Celtis australis}}や{{仮リンク|Celtis ehrenbergiana|en|Celtis ehrenbergiana|label=''Celtis ehrenbergiana''}}の乾燥[[森林]]が広がり、[[ピューマ]]、[[オセロット]]、[[アメリカヌマジカ]]、[[クロエリハクチョウ]]などが生息している<ref name=":1" /><ref name=":2" />。
== 気候 ==
気候は[[温暖湿潤気候]]で四季がある。しかし[[南半球]]にある為、[[北半球]]の[[日本]]とは季節が逆になり、一番暑いのは1月(平均気温25.1℃)、一番寒いのは7月(平均気温10.9℃)である。年間通じて降雨があるものの年中一定というわけではなく、3月と10月、11月がやや多く、6月と7月はやや少ない。年間降水量は1214mm<ref name=SMN>{{cite web
|url=http://www.smn.gov.ar/?mod=clima&id=5|title={{En icon}} Características Climáticas Ciudad de Buenos Aires
|accessdate=Dec 2008
|language=}}</ref>。史上最高気温は1957年1月29日に記録された43.3℃である<ref>{{cite web | accessdate = 2008-01-23 |title = Monthly Information of the city of Buenos Aires, January in the city of Buenos Aires | publisher = Servicio Meteorológico Nacional (Argentine National Meteorological Service) | language = Spanish | url = http://www.smn.gov.ar/?mod=clima&id=8}}</ref>。
{{Weather box
|location = ブエノスアイレス (1981–1990)
|metric first = Yes
|single line = Yes
|Jan record high C = 43.3
|Feb record high C = 38.7
|Mar record high C = 37.9
|Apr record high C = 36.0
|May record high C = 31.6
|Jun record high C = 28.5
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|Sep record high C = 34
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|Aug high C = 17.3
|Sep high C = 18.9
|Oct high C = 22.5
|Nov high C = 25.3
|Dec high C = 28.1
|year high C = 21.5
|Jan mean C = 25.1
|Feb mean C = 23.7
|Mar mean C = 21.4
|Apr mean C = 17.7
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|Aug mean C = 12.7
|Sep mean C = 14.2
|Oct mean C = 17.7
|Nov mean C = 20.6
|Dec mean C = 23.2
|Jan low C = 20.4
|Feb low C = 19.4
|Mar low C = 17.0
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|Aug low C = 8.9
|Sep low C = 9.9
|Oct low C = 13.0
|Nov low C = 15.9
|Dec low C = 18.4
|year low C = 12.9
|Jan record low C = 5.9
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|year record low C = −5.4
|precipitation colour = green
|Jan precipitation mm = 121.6
|Feb precipitation mm = 122.6
|Mar precipitation mm = 153.9
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|Oct precipitation days = 10
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|Dec precipitation days = 9
|source 1 = Servicio Meteorológico Nacional<ref name=SMN>{{cite web
|url=http://www.smn.gov.ar/?mod=clima&id=5|title={{En icon}} Características Climáticas Ciudad de Buenos Aires
|accessdate=Dec 2008
|language=}}</ref>
|date=August 2010
}}
=== 環境 ===
[[File:Buenos_Aires,_Argentina.jpg|thumb|170px|ブエノスアイレス都心部の衛星写真]]
アルゼンチンの全産業の中心地でもあるため、都市部を中心に環境汚染が酷い。特に[[リアチュエロ川]]の汚染が酷くなっている。
== 経済 ==
2008年、[[プライスウォーターハウスクーパース]]の公表した調査によると、ブエノスアイレスの[[域内総生産順リスト|都市GDP]]は3620億ドルであり、世界第13位である<ref>[https://www.ukmediacentre.pwc.com/Content/Detail.asp?ReleaseID=3421&NewsAreaID=2 プライスウォーターハウスクーパースによる都市のGDP] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110513194342/https://www.ukmediacentre.pwc.com/Content/Detail.asp?ReleaseID=3421&NewsAreaID=2 |date=2011年5月13日 }}</ref>。南米では[[サンパウロ]]に次いで第2位。また[[2011年]]3月、英国の[[シンクタンク]]により、世界第64位の[[金融センター]]と評価されており、南米では[[サンパウロ]]、[[リオデジャネイロ]]に次ぐ第3位である<ref>[http://www.zyen.com/GFCI/GFCI%209.pdf The Global Financial Centres Index 9]</ref>。
アルゼンチンはブエノスアイレス一極集中型の経済を持ち、ブエノスアイレスはアルゼンチンのすべての産業の中心となっている。
ブエノスアイレスは港町として発展してきた歴史を持ち、現在でもアルゼンチン最大の港を持つ。世界有数の肥沃な農業地域であるパンパの中心部にあり、さらに[[ラプラタ川|ラ・プラタ川]]の水運とも連絡があるため、アルゼンチンの主要輸出品である[[牛肉]]や[[コムギ|小麦]]、[[ダイズ|大豆]]や[[トウモロコシ]]、さらに[[ウール|羊毛]]や[[皮革]]などの輸出港として発展してきた。ラ・プラタ川を通じてパラグアイと、さらにウルグアイやブラジルともつながりがあり、アルゼンチンのみならず南アメリカ大陸南部の物流拠点となっている。
工業としては、パンパからの農業輸出に関連した食品加工や製粉業、皮革工業に加え、自動車や石油精製、繊維や出版などの産業も盛んである。
== 交通 ==
[[File:Alstom serie 300 (18).jpg|thumb|[[ブエノスアイレス地下鉄|地下鉄]] 新型の300形]]
[[File:J31 576 Bf Retiro Mitre, S-Bahn-Triebzug.jpg|thumb|[[レティーロ駅]]の近郊列車]]
[[File:Colonia del Sacramento 2016 042.jpg|thumb|[[ウルグアイ]]行きフェリー]]
ブエノスアイレス市内で最も一般的な移動手段はコレクティーボ(市内バス)と地下鉄であり、タクシーも使いやすい。20世紀を通じて多く利用された鉄道は、市内や郊外では21世紀に入り更に便利になっているが、中・長距離路線は1993年より減少傾向のため、国内の地方都市や海外を訪れるには長距離バスや航空機を使うことが多い。
=== 鉄道と地下鉄 ===
{{Main|ブエノスアイレスの鉄道}}
ブエノスアイレスには[[ブエノスアイレス地下鉄|地下鉄]]、[[ライトレール]]・[[路面電車|トラム]]、近郊列車があり、近郊列車の路線網は[[アメリカ大陸]]では[[ニューヨーク]]に次いで第2位の規模を誇る。また、1993年より減便・廃止が進んでいるものの同州各都市や同国各都市へ向かう中・長距離列車も運行されている。
=== 長距離バス ===
[[レティーロ駅]]のすぐ近くにレティーロ長距離バスターミナルがあり、国内各地やブラジル、ウルグアイ、[[パラグアイ]]、[[ボリビア]]、[[チリ]]、[[ペルー]]といった近隣諸国を結ぶ便がひっきりなしに発着している。利用者の多い路線では新しい[[2階建てバス]]も使用されている。
=== 市内交通 ===
市内はコレクティーボ(バス)が多数運行しており、24時間運行している。[[タクシー]]は黄色と黒で塗り分けられている。
=== 海運 ===
プエルト・マデーロ地区のフェリー乗り場から、[[ブケブス]]社によりウルグアイの[[コロニア・デル・サクラメント]]、[[モンテビデオ]]行きのフェリーが毎日運行している。
=== 空港 ===
国内線は[[ホルヘ・ニューベリー空港]] (AEP)から運行しており、ポルテーニョからはアエロパルケと呼ばれて親しまれている。国際線は[[ブエノスアイレス州]]の[[エセイサ (パルティード)|エセイサ]]にある[[エセイサ国際空港|ミニストロ・ピスタリーニ国際空港]] (EZE) から運行し、ラテンアメリカ諸国や[[ヨーロッパ]]、[[北アメリカ]]、[[オセアニア]]、[[アフリカ]]を結んでいる。
== 観光 ==
{{multiple image
| direction = horizontal
| align = right
| width =
| image1 = Teatro Colón.jpg
| width1 = 270
| caption1 = コロン劇場(テアトロ・コロン)
| image2 = Caminito apr2008.jpg
| width2 = 240
| caption2 = ラ・ボカ地区のカミニート(2008年)
}}
主な観光地としては[[テアトロ・コロン|コロン劇場]]、[[ブエノスアイレス大聖堂]]、レコレータ墓地、カミニートなど。
[[ラプラタ川]]沿いには「パレルモの森」と呼ばれる広大な緑地があり、市民の憩いの場所となっている。かつて[[フアン・マヌエル・デ・ロサス]]の私邸があった場所で、{{仮リンク|カセーロスの戦い|en|Battle of Caseros}}の日を記念して、公式には「2月3日公園」という名称が付けられている。
フロリダ通り、ラバージェ通りは日夜観光客で賑わい、サン・テルモ地区には「バー・スール」、「エル・ビエホ・アルマセン」を始めとした多くの老舗[[タンゲリア]](タンゴ・バー)があり、多くの観光客を引き寄せている。
== 市民 ==
ブエノスアイレス市民は{{仮リンク|ポルテーニョ|en|Porteño}}と呼ばれ、プロビンシアーノと呼ばれる内陸部の住民とはお互いに感情的対立がある。
ブエノスアイレス市には303万人(2007年)の人口が居住しているが、ブエノスアイレス州の一部を含めた周辺の大ブエノスアイレス都市圏には約1240万人が居住している。これは国民の約3割ほどである。
住民の大多数を19世紀半ばから20世紀初めに移民してきたヨーロッパ系の白人が占めるが、その一方で、国内の貧しい州から移住してきた先住民系の[[アルゼンチン人]]や、近隣の[[ボリビア]]、[[パラグアイ]]からの移民、[[日系アルゼンチン人|日系人]]、[[中華人民共和国|中国]]系人、[[大韓民国|韓国]]系人、[[台湾]]系人、[[ラオス]]系人などの[[アジア系アルゼンチン人]]は見た目で非白人だと分かる人も多い。また、[[アフリカ系アルゼンチン人]]はかつてに比べれば大きくその数を減らしたが、それでもいなくなったわけではない。
市域は15のコムーナ(共同体)、48のバリオ(地区)に分けられる。{{main|[[ブエノスアイレスのコムーナとバリオ]]}}
== 文化 ==
「南米のパリ」として知られ、白人系人口と、ヨーロッパ的な建築物の多さにより、南アメリカで最もヨーロッパ的な都市となっている。
=== 建築 ===
[[ファイル:Buenos Aires - Argentina (9145918097).jpg|thumb|ブエノスアイレス大聖堂]]
[[ファイル:Tango au01.JPG|thumb|190px|街頭でのタンゴ舞踊]]
ブエノスアイレス市は五月広場が中心地であり、広場付近には[[ブエノスアイレス大聖堂]]、[[カサ・ロサダ]]、国立銀行などの重厚な建築物が多い。[[7月9日大通り]]にはオベリスコがあり、その近くには世界三大劇場の1つ、[[テアトロ・コロン|コロン劇場]]がある。
大聖堂にはアルゼンチン、チリ、ペルーの解放者、[[ホセ・デ・サン=マルティン]]将軍の亡骸が安置されている。
=== 言語 ===
[[ロサリオ]]、モンテビデオと共に、[[リオプラテンセ・スペイン語]]が話される最大の都市である。ポルテーニョのアクセントは[[イタリア語]]のナポリ方言に近い。
アルゼンチンは19世紀に多くの移民を受け入れ、移民の多くはブエノスアイレスに定着したため、今でもブエノスアイレスでは[[ドイツ語]]、[[フランス語]]、[[ガリシア語]]など多種多様な言語が話されている。
南米先住民の言語もパラグアイからの移民による[[グアラニー語]]や、ブエノスアイレスで最も危険なスラムとなっているボリビア人街では[[アイマラ語]]が使われている。
アジア系の言語も近年増加したアジア系の移民により、[[中国語]]や[[ラーオ語]]、ボリビア人街のすぐ側の韓国人街では[[朝鮮語|韓国語]]が日常的に使われている。日系人もいるが、[[日本語]]はあまり話されていない。
=== タンゴ ===
[[アルゼンチン・タンゴ]]の本場である。タンゴはこの街のラ・ボカで発祥したとも言われている。
== スポーツ ==
=== サッカー ===
{{Main|Category:ブエノスアイレスのサッカークラブ}}
ブエノスアイレスには、[[アルゼンチンのサッカーリーグ構成|アルゼンチンリーグ]]の[[プリメーラ・ディビシオン (アルゼンチン)|プリメーラ・ディビシオン]](1部)に所属するプロ[[サッカー]]クラブが4つ存在しており、世界的にも非常に有名な'''[[ボカ・ジュニアーズ]]'''や'''[[CAリーベル・プレート|リーベル・プレート]]'''を筆頭に、[[CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ|サン・ロレンソ]]や[[CAウラカン|ウラカン]]などのクラブもある。
ボカ・ジュニアーズの[[ホームタウン]]である[[ラ・ボカ]]地区には、[[1938年]]にサッカー専用[[スタジアム]]の'''[[ラ・ボンボネーラ]]'''(''La Bombonera'')が建設され、[[1996年]]には改修工事が行われメインスタンドにVIP専用のボックス席を増設。さらに警備上の問題からスタジアムとピッチの間に設置されていた金網のフェンスの代わりに、透明な[[防弾ガラス]]を設置し臨場感が増すようになった。
一方で、リーベル・プレートも当初はラ・ボカ地区からクラブをスタートしたものの、現在は[[ヌニェス (ブエノスアイレス)|ヌニェス]]地区を[[本拠地]]としている。ホームスタジアムは、収容人数7万人の'''[[エスタディオ・モヌメンタル・アントニオ・ベスプチオ・リベルティ|エル・モヌメンタル]]'''(''El Monumental'')である。
{{wide image|River Monumental Panoramic.jpg|1200px|[[エスタディオ・モヌメンタル・アントニオ・ベスプチオ・リベルティ|エル・モヌメンタル]]では『[[1978 FIFAワールドカップ]]・決勝』も開催された}}
== 教育 ==
*[[ブエノスアイレス大学]]
*[[トルクァト・ディ・テラ大学]]
*[[教皇庁立アルゼンチンカトリック大学]]
== 姉妹都市・友好都市 ==
ブエノスアイレス市と姉妹関係にある都市を列挙する。
{{Col-begin}}
{{Col-2}}
* {{Flagicon|ESP}} [[マドリード]]([[スペイン]], 1975年)<ref name="hermanadas">{{cite web |title=Mapa Mundi de las ciudades hermanadas |publisher=Ayuntamiento de Madrid |url=http://www.munimadrid.es/portal/site/munimadrid/menuitem.dbd5147a4ba1b0aa7d245f019fc08a0c/?vgnextoid=4e84399a03003110VgnVCM2000000c205a0aRCRD&vgnextchannel=4e98823d3a37a010VgnVCM100000d90ca8c0RCRD&vgnextfmt=especial1&idContenido=1da69a4192b5b010VgnVCM100000d90ca8c0RCRD |work=Madrid city council |accessdate=2009-07-22 |archiveurl=https://archive.is/20120526204453/http://www.munimadrid.es/portal/site/munimadrid/menuitem.dbd5147a4ba1b0aa7d245f019fc08a0c/?vgnextoid=4e84399a03003110VgnVCM2000000c205a0aRCRD&vgnextchannel=4e98823d3a37a010VgnVCM100000d90ca8c0RCRD&vgnextfmt=especial1&idContenido=1da69a4192b5b010VgnVCM100000d90ca8c0RCRD |archivedate=2012年5月26日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>
* {{Flagicon|ESP}} [[カディス]]([[スペイン]], 1975年)<ref name="Listado de ciudades hermanas" />
* {{Flagicon|ESP}} [[セビリア|セビージャ]]([[スペイン]], 1976年)<ref>''[http://www.femp.es/index.php/femp/content/download/7117/65153/file/070202_con_latinoamérica.pdf Hermanamientos con Latinoamérica] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160313081200/http://femp.es/index.php/femp/content/download/7117/65153/file/070202_con_latinoam%C3%A9rica.pdf |date=2016年3月13日 }}'' (102,91 kB). [29-9-2008]</ref>
* {{Flagicon|ESP}} [[グアディクス]]([[スペイン]], 1987年)
* {{Flagicon|ESP}} [[ビルバオ]]([[スペイン]], 1992年)
* {{Flagicon|ESP}} [[ビゴ]]([[スペイン]], 1992年)
* {{Flagicon|ESP}} [[サラマンカ]]([[スペイン]], 2006)
* {{Flagicon|ESP}} [[サンタ・クルス・デ・ラ・パルマ]]([[スペイン]])
* {{Flagicon|ESP}} [[バルセロナ]]([[スペイン]])
* {{Flagicon|ESP}} [[オビエド]]、[[スペイン]]
* {{Flagicon|ESP}} [[サンティアゴ・デ・コンポステーラ]]、スペイン
* {{Flagicon|ITA}} [[ジェノヴァ]]、[[イタリア]]
* {{Flagicon|ITA}} [[ナポリ]]、イタリア
* {{Flagicon|ITA}} [[ローマ]]、イタリア
* {{Flagicon|ITA}} [[ミラノ]]、イタリア
* {{Flagicon|ITA}} [[カリャリ|カリアリ]]、イタリア
* {{Flagicon|ITA}} [[ルッカ]]、イタリア
* {{Flagicon|PRT}} [[リスボン]]、[[ポルトガル]]
* {{Flagicon|FRA}} [[パリ]]([[フランス]])
* {{Flagicon|FRA}} [[トゥールーズ]]([[フランス]], 1990年)
* {{Flagicon|NED}} [[ロッテルダム]]([[オランダ]], 1990年)
* {{Flagicon|GER}} [[ベルリン]]([[ドイツ]], 1994年)<ref>
[http://www.buenosaires.gov.ar/areas/internacionales/docs/berlin_buenos_aires_convenio_de_cooperacion_2.pdf Ley Nº 682]</ref><ref>{{cite web|url=http://www.berlin.de/rbmskzl/staedteverbindungen/index.en.html|title=Berlin's international city relations|publisher=Berlin Mayor's Office|accessdate=2009-07-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080822100321/http://www.berlin.de/rbmskzl/staedteverbindungen/index.en.html|archivedate=2008年8月22日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>
* {{Flagicon|UK}} [[ロンドン]]([[イギリス]])
* {{flagicon|GRE}} [[アテネ]]([[ギリシャ]], 1992年)
* {{flagicon|POL}} [[ワルシャワ]]([[ポーランド]], 1992年)<ref name="Listado de ciudades hermanas" />
* {{flagicon|CZE}} [[プラハ]]([[チェコ]], 1992年)
* {{flagicon|CRO}} [[ザグレブ]]([[クロアチア]])<ref name="Zagreb Twinning">{{cite web|url=http://www1.zagreb.hr/mms/en/index.html|title=Intercity and International Cooperation of the City of Zagreb|publisher=2006–2009 City of Zagreb|accessdate=2009-06-23}}</ref>
* {{flagicon|SRB}} [[ベオグラード]]、[[セルビア]]
* {{flagicon|UKR}} [[キエフ]]([[ウクライナ]], 1993年)<ref name="Listado de ciudades hermanas" />
* {{flagicon|RUS}} [[モスクワ]]、[[ロシア]]<ref name="Listado de ciudades hermanas" />
{{Col-2}}
* {{flagicon|URU}} [[モンテビデオ]]([[ウルグアイ]], 1975年)
* {{flagicon|PAR}} [[アスンシオン]]、[[パラグアイ]]
* {{flagicon|CHI}} [[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]]([[チリ]], 1992年)<ref name="São Paulo2" />
* {{flagicon|COL}} [[ボゴタ]]([[コロンビア]], 1986年)
* {{flagicon|COL}} [[メデジン]]([[コロンビア]])
* {{flagicon|DOM}} [[サントドミンゴ]]([[ドミニカ共和国]], 1991年)
* {{flagicon|PER}} [[リマ]]([[ペルー]], 1983年)
* {{flagicon|PER}} [[クスコ]]([[ペルー]], 1986年)
* {{Flagicon|ECU}} [[グアヤキル]]([[エクアドル]])
* {{Flagicon|ECU}} [[キト]]([[エクアドル]])
* {{Flagicon|BRA}} [[ブラジリア]]([[ブラジル]], 1986年, 1997年)
* {{Flagicon|BRA}} [[ポルト・アレグレ]]、[[ブラジル]]
* {{Flagicon|BRA}} [[リオデジャネイロ]]([[ブラジル]], 1996年)
* {{Flagicon|BRA}} [[サンパウロ]]([[ブラジル]], 1999年)<ref name="São Paulo">[http://www2.prefeitura.sp.gov.br/secretarias/relacoes_internacionais/ingles/descentralized_cooperation/sister_cities/0001 Prefeitura.Sp – Descentralized Cooperation] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20081224222805/http://www2.prefeitura.sp.gov.br/secretarias/relacoes_internacionais/ingles/descentralized_cooperation/sister_cities/0001 |date=2008年12月24日 }}</ref><ref name="São Paulo2">{{cite web|url=http://www.prefeitura.sp.gov.br/cidade/secretarias/relacoes_internacionais/cidadesirmas/index.php?p=1066 |title=International Relations – São Paulo City Hall – Official Sister Cities |publisher=Prefeitura.sp.gov.br |accessdate=2012-05-02}}</ref>
* {{flagicon|MEX}} [[メキシコシティ]]([[メキシコ]])
* {{flagicon|BIZ}} [[ベリーズシティ]]、[[ベリーズ]]
* {{flagicon|USA}} [[マイアミ]]([[アメリカ合衆国]], 1978年)
* {{flagicon|CAN}} [[オタワ]]([[カナダ]])
* {{flagicon|RSA}} [[ケープタウン]]([[南アフリカ共和国]])
* {{flagicon|LIB}} [[ベイルート]]([[レバノン]])
* {{flagicon|SYR}} [[ダマスカス]]([[シリア]], 1989年)
* {{flagicon|EGY}} [[カイロ]]([[エジプト]], 1992年)<ref name="Listado de ciudades hermanas">{{cite web|url=http://estatico.buenosaires.gov.ar/areas/internacionales/hermanamientos.pdf|title=Listado de ciudades hermanas|accessdate=2010-10-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110716150342/http://estatico.buenosaires.gov.ar/areas/internacionales/hermanamientos.pdf|archivedate=2011年7月16日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>
* {{flagicon|ARM}} [[エレバン]]([[アルメニア]])
* {{flagicon|TUR}} [[イスタンブール]]([[トルコ]])
* {{flagicon|ISR}} [[エルサレム]]([[イスラエル]])
* {{flagicon|ISR}} [[テルアビブ]]([[イスラエル]])
* {{flagicon|JPN}} [[大阪市]]、[[日本]]
* {{flagicon|KOR}} [[ソウル特別市|ソウル]]([[大韓民国]], 1992年)
* {{flagicon|CHN}} [[北京市|北京]]([[中華人民共和国]], 1991年; 1993年)<ref>{{cite web|url=http://www.ebeijing.gov.cn/Sister_Cities/Sister_City/|title=Sister Cities|publisher=Beijing Municipal Government|accessdate=2009-06-23}}</ref>
{{Col-end}}
ブエノスアイレス市と姉妹関係にある地域や州を列挙する。
* [[ファイル:Flag of Andalucía.svg|20px]] [[アンダルシア州]]([[スペイン]], 2001年)
* [[ファイル:Flag of Basilicata.svg|20px]] [[バジリカータ州]]([[イタリア]])
* [[ファイル:Flag of Calabria.svg|20px]] [[カラブリア州]]([[イタリア]], 1987年)
* [[ファイル:Flag of Galicia.svg|20px]] [[ガリシア州]]([[スペイン]], 1998年)
* [[ファイル:Flag of New Jersey.svg|20px]] [[ニュージャージー州]]([[アメリカ合衆国]])
* [[ファイル:Flag of Ohio.svg|20px]] [[オハイオ州]]([[アメリカ合衆国]])
== 写真集 ==
{{wide image|193 - Buenos Aires - Puerto Madero - Janvier 2010.jpg|950px|プエルト・マテロ地区の黄昏}}
{{Gallery
|ファイル:20060128 - Estación de Retiro (Buenos Aires).jpg|レティーロ駅
|ファイル:Monumento Caidos Malvinas.jpg|サンマルティン広場
|ファイル:MNBA3.jpg|国立美術館
|ファイル:Angiebrizuelaplanetario.jpg|プラネタリウム
|ファイル:Puerto Madero DLightning.jpg|プエルト・マテロの夜景
|ファイル:Calle Florida, Buenos Aires.jpg|フロリダ通り
|ファイル:Aerial view - Palermo, Buenos Aires.jpg|パレルモの森
|File:Jardines botánicos.jpg|[[ブエノスアイレス植物園]]
|ファイル:Vista general de Parque Chacabuco.jpg|[[チャカブコ公園]]
|ファイル:Puente de la mujer Buenos Aires Argentina.JPG|乙女の橋
|ファイル:Casa Rosada in Buenos Aires.jpg|[[カサ・ロサダ]]
|ファイル:Cabildo-Buenos-Aires.jpg|カビルド
|ファイル:Iglesia de Santo Domingo Buenos Aires.jpg|サント・ドミンゴ教会
|File:Argentina-02271 - Metropolitan Cathedral (49024465657).jpg|ブエノスアイレス大聖堂
|ファイル:Torre Monumental.jpg|アルゼンチン空軍広場
|ファイル:Aguas Corrientes-full-HDR.jpg|流水宮殿
|ファイル:Buenos Aires - Cementerio de la Recoleta - 200808a.jpg|レコレータ墓地
|File:Palacio Barolo.JPG|[[バローロ宮殿]]
|ファイル:LaBoca ST 98.jpg|ラ・ボカ地区のカミニート
|ファイル:El Ateneo Bookstore.jpg|エル・アテネオ(本屋)
|ファイル:NASA ISS006-E-24987.jpg|夜のブエノスアイレス<br />(衛星写真)
}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 松下マルタ/松下洋訳「ブエノスアイレス 南米のパリからラテンアメリカ型首都へ」『ラテンアメリカ都市と社会』国本伊代、乗浩子編、新評論、1991年(ISBN 4-7948-0105-X)
* 栗本斉『ブエノスアイレス 雑貨と文化の旅手帖』毎日コミュニケーションズ、2008年(ISBN 978-4-8399-2530-7)
* 栗本斉『アルゼンチン音楽手帖』DU BOOKS([[ディスクユニオン]])2013年 ISBN 978-4-925064-79-8
== 関連項目 ==
* [[アスンシオン]]
* [[モンテビデオ]]
* [[モントリオール]] - 「北米のパリ」と呼ばれている。
* [[ベイルート]] - 「中東のパリ」と呼ばれている。
* [[プノンペン]] - 「東洋のパリ」と呼ばれている。
* [[ワルシャワ]] - 「北のパリ」と呼ばれている。
== 外部リンク ==
{{Sisterlinks|wikt=en:Buenos_Aires|commons=Buenos_Aires|commonscat=Buenos_Aires|v=no|voy=en:Buenos_Aires|d=Q1486|q=no|s=no|b=no}}
{{osm box|r|1224652}}
{{Wikivoyage|es:Buenos Aires|ブエノスアイレス{{es icon}}}}
* [http://www.buenosaires.gov.ar/ ブエノスアイレス市公式サイト]{{es icon}}
* {{Curlie|Regional/South_America/Argentina/Provinces/Buenos_Aires}}{{en icon}}
* {{Kotobank|ブエノス・アイレス}}
* {{ウィキトラベル インライン|ブエノスアイレス|ブエノスアイレス}}{{ja icon}}
* {{WikiMapia|-34.603611|-58.381667|14|ブエノスアイレスの地図}}
* {{Googlemap|Buenos%20Aires}}
{{アルゼンチンの地方行政区画}}
{{ユースオリンピック開催都市}}
{{アメリカの首都}}
{{首都特別地域}}
{{メガシティ}}
{{Authority control}}
{{DEFAULTSORT:ふえのすあいれす}}
[[Category:ブエノスアイレス|*]]
[[Category:アルゼンチンの都市]]
[[Category:南アメリカの首都]]
[[Category:南アメリカの港町]]
[[Category:無形文化遺産]] | 2003-02-24T04:55:04Z | 2023-12-01T02:07:22Z | false | false | false | [
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2,794 | 漢字 | 漢字(かんじ)は、中国古代の黄河文明で発祥した表記文字。四大文明で使用された古代文字のうち、現用される唯一の文字体系である。また最も文字数が多い文字体系であり、その数は約10万字に上る。古代から周辺諸国家や地域に伝わり漢字文化圏を形成し、言語のみならず文化上に大きな影響を与えた。
現代では中国語、日本語、朝鮮語(韓国語)、広西の東興市にいるジン族が使用するベトナム語の記述に使われる。現在、朝鮮語ではほとんど使用されなくなっている。20世紀に入り、漢字文化圏内でも中国語と日本語以外は漢字表記をほとんど廃止したが、なお約15億人が使用し、約50億人が使うラテン文字についで、世界で2番目に使用者数が多い文字体系である。
ラテン文字に代表されるアルファベットが1つの音価を表記する音素文字であるのに対し、漢字は一般に、それぞれが個別の意味を持ち音節に対応している形態素である。しかし現代中国語の単語は、大部分が2つ以上の漢字を組み合わせたものになっている。
本来、1字が一義を表すことだけを重視して表意文字としてきたのだが、これは古代中国語の1音節が1つの意味を表す孤立語的な言語構造に由来するのであって、正確には音と意味両者を表記する表語文字である。つまり、1字が1語を表しているのである。このような漢字の特徴から伝統的な文字学では漢字を形・音・義の3要素によって分析してきた。
しかし、1つの音の持つ語が派生義を生んで、1字が複数の(まったく正反対の、あるいは無関係で一方の字義からは想像することはできないような)字義を持っていたり、読みが変わって、複数の字音を持っていたりする場合もある。また、外来語を表記する場合など、単純に音を表すために作られた漢字もあり、字義を持たない場合もある。字義の有無を問わず、1音節を表す文字という点において音節文字である日本語の仮名とは近い関係にある。
日本、朝鮮、琉球王国、ベトナムは、古代中国から漢字を輸入して使用した。また、シンガポール、マレーシアのように、中国から移住した人たちが多く住み、漢字を使用している地域がある。これらの漢字を使用する・していた周辺諸国を包括して漢字文化圏と呼ぶ。
日本では漢委奴国王印や古墳時代の稲荷台1号墳に埋蔵されていた鉄剣の銘文が、日本における初期の漢字事例とされており、また近年の研究で、朝鮮半島を経由して伝来した文字・使用方法が存在する可能性が指摘されている。
現在、漢字は、中国・台湾・日本で日常的に、韓国・シンガポールなどで限定的で用いられている。しかし、20世紀後半の各国政府の政策で漢字を簡略化したり使用の制限などを行ったりしたため、現在では、これらの国で完全に文字体系を共有しているわけではない。
また、北朝鮮やベトナムのように、漢字使用を公式にやめた国もある。しかし、漢字は使わなくなっても漢字とともに流入した語彙が各言語の語種として大きな割合を占めている。
漢字音は地域・時代によって変化する。しかしながら、淵源となる中古音から各地域の音韻変化に従って規則的に変化しているため、類推可能な共通性を持っている。また地域により発音が違う場合でも同じ字で表すことができるため、国境を越えて漢字を使った筆談でコミュニケーションを取ることもある。字形の複雑さから、手書きする場合には、書き間違いや省略などによって字体は少なからず変化してきた。そうして変化した字体のうち、ある程度の範囲に定着した俗字が各国において正字に選ばれ、字形にわずかな差異が見られる場合がある。また地域音や地域特有の字義を表すための国字・方言字や異体字も多く作られてきた。
中国語の音節の数は、現代普通話の場合、声調の組み合わせを考えても1,600種未満であり、音節文字であれば、これだけの文字種があれば足りる計算になる。しかし、同音異義の語を、部首をつけるなどの手法を用いて区別する漢字は、5,000種前後が同時代的に使用されてきた。これに、時代の変遷による字体の変化、同じ字音、字義を表す異体字、地域変種などを加えて整理すると、簡単に1万を越す漢字が集まることになり、歴代の字書は時代が下るにつれて多くの漢字を集め、1994年の『中華字海』に至っては85,568字を収録している。ただし、ほとんどの文字は歴史的な文書の中でしか見られない使用頻度の低いものである。研究によると、中国で機能的非識字状態にならないようにするには、3,000字から4,000字の漢字を知っていれば充分という。
一般に非文明化部族の言語は語彙が多すぎて整理されていない傾向にあり、漢字は発生当時の時代の非合理性をそのまま引き継いでしまったと批判される。このように近代以降、異体字を整理したり使用頻度の少ない漢字の利用を制限しようとする動きは何度もあったが、現在でもその数は増え続けている。常に新しい字が創作されるため、過去から現在に至る過程で、どれだけの数の漢字が作られたかは明確ではない。たとえば、既存の中で考慮される漢字がない何かしらの意図を表現するために、新しい種類が作られてきた。漢字の理論とは万人に開かれたもので、適当と思われれば新たな漢字をつくる事が誰にでもできる。しかしながら、このように発明された漢字は、公的に認められた一覧からはしばしば除かれて行く。以下に、主要な歴史的中国語辞典(字書)が採録した漢字数を表す。
コンピュータで処理するための文字集合では、Unicode 13.0が92,856字以上を、日本の企業のソフトウェア『今昔文字鏡』が(漢字以外の文字も含むが)約16万字を収録するなど、さらに多くの漢字を集めているものもある。一方、中華民国(台湾)行政院教育部の『異體字字典(正式六版)』によれば、漢字の正字数(異体字を含まない)は29,921字であるが、こちらは国字を含んでいない(「付録」としてだけ収録してある)。
伝承によると、中国における文字の発祥は、黄帝の代に倉頡が砂浜を歩いた鳥の足跡を見て、足跡から鳥の種類が分かるように概念も同じようにして表現できることに気づいて作った文字とされる。また『易経』には聖人が漢字を作ったと記されている。考古学的に現存する最古の漢字は、殷において占いの一種である卜(ぼく)の結果を書き込むために使用された文字である。これを現在甲骨文字(亀甲獣骨文)と呼ぶ。甲骨文以前にも文字らしきものは存在していたが、これは漢字と系統を同じくするものがあるか定かではない。当時の卜は亀の甲羅や牛の肩胛骨などの裏側に小さな窪みを穿ち、火に炙って熱した金属棒(青銅製と言われる)を差し込む。しばらく差し込んだままにすると熱せられた表側に亀裂が生じる。この亀裂の形で吉凶を見るのであるが、その卜をした甲骨に、卜の内容・結果を彫り込んだのである。
現在存在する中での最古の漢字は、殷墟から発掘される甲骨などに刻まれた甲骨文字である。その内容は殷王朝第22代武丁のころから書かれたものであるため、それ以前には新石器時代の遺跡等で発見される記号はあっても、文字として使用できる漢字ができあがったのは紀元前1300年ごろのことだと考えられる。この甲骨文字は物の見たままを描く象形文字であり、当時の甲骨文字は絵に近い様相を持つものも多かった。その一方で、ある種の事態を表現する動詞や形容詞の文字も存在した。たとえば、「立」の原型である人が地面を表す横棒の上に書かれた字(指示文字)、女性が子供をあやす様から「好」や、人が木の袂(たもと)にいる様から「休」などの字(会意文字)も既に含まれていた。さらに、同音の単語をすでにある別の字で表す代用字もあり、たとえば鳥の羽を示す「翼」の原型は、同音で次のことを示す単語に流用され、これがのちに「翌」となった。このように、すでに現在の漢字の書体に似通っている部分が見受けられ、非常に発展したものであり、おそらくはこれ以前から発展の経路を辿ってきたものとみられる。最古の漢字には左右や上下が反転したものや、絵や記号に近い部品がつけられているものなど、現在の常識では考えられない(当然ながら現在では使用されていない)漢字が存在する。その後、青銅器に鋳込まれた金文という文字が登場した。「NHKスペシャル 中国文明の謎第2集 漢字誕生」では、古代メソポタミアの文字が商取引の記録から始まっているのに対して、政治の方針を決めるための占いの用途で、骨(これまでに14,000体の殷の生贄の犠牲となった人骨が出土)に刻むために使われ始めた漢字は、文字としてはきわめて特殊なルーツであったとしている。たとえば、白は人間の頭蓋骨の白に由来する象形文字である。このように、鬼神と王を繋ぐための手段として、初期の漢字は始まった。
周の時代になると、外交や商取引など多くの用途に漢字が使われるようになり、それまでの種類だけでは足りなくなった。そこで多くの新しい漢字が作られた。中国では「清らかで澄んだ」様子を「セイ(tseng)」と呼び、新芽が井戸端に生えた様子から「青」に連なる象形文字を用いた。この「セイ」という発音と文字「青」は形容詞だけでなく「清らかで澄んだ」ものを呼ぶさまざまな名詞にも使われたが、これらにもそれぞれの漢字が割り当てられるようになった。水が「セイ」ならば「清」、日差しが「セイ」ならば「晴」などである。このような漢字の一群を「漢字家族」と言う。侖(liuan-luan、リン-ロン)も短冊を揃えた様子から発し「揃えたもの」を示す象形文字だが、これも車が揃えば「輪」、人間関係が整っておれば「倫」、理論整然としていれば「論」という漢字が作られた。このように、音符に相当する「青」「侖」などと、意味の類別を表す意符が組み合わさった「形声文字」が発達した。紀元100年ごろに後漢の許慎が著した『説文解字』は中国初の字書であり、9,353字の漢字について成り立ちを解説しているが、この中の約8割は形声文字である。このような文字形成の背景には、中国では事物を感性的にとらえ、枠にはめ込む習慣が影響しているともいう。このため、音素文字や単音文字を作り出す傾向が抑えられたと考えられる。
周が混乱の時代を迎えると、漢字は各地で独自の発展をすることになる。その後、意義・形ともに抽象化が進み、春秋戦国時代になると地方ごとに通用する字体が違うという事態が発生した。そして天下を覇した秦の始皇帝が字体統一に着手、そして生まれたのが小篆である。秦は西周の故地を本拠地にしたのであり、その文字は周王朝から受け継がれたものだったため、その系統性が保持されたといえる。
小篆は尊厳に溢れ難解な書式だった。秦、そして後の漢代になると、下級役人を中心に使いにくい小篆の装飾的な部分を省き、曲線を直線化する変化が起こり、これが隷書となった。毛筆で書かれる木簡や竹簡に書き込む漢字から始まった隷書は、書物から石碑に刻まれる字にまで及んだ。この隷書を走り書きしたものは「草隷」と呼ばれたが、やがてこれが草書となった。一方で、隷書をさらに直線的に書いたものが楷書へ発達し、これをさらに崩して行書が生まれた。
なお、隷書から楷書ができてそれをくずす形で草書と行書ができたという説があるが現在ではこの見解は定説から外れており、『総合百科事典ポプラディア第三版』でも誤りとして修正されている。
六朝から唐の時代には書写が広まり、個人や地域による独特の崩れが発生するようになったが、科挙の制では「正字」という由緒正しい漢字が求められたが、一般庶民では「通字」や「俗字」と呼ばれる漢字が多く使われた。宋の時代には手工業者や商人など文字を仕事で使う層が台頭し、俗字が幅広く用いられた。さらに木版技術の発展により、楷書に印刷書体が生まれ、宋朝体と呼ばれる書体が誕生した。明代から清代にかけて、康熙字典に代表される明朝体が確立した。
現在、書籍やコンピューター文書などの印刷に使用されている漢字の書体は明の時代に確立された明朝体が中心である。この起源を遡ると、後漢末期に確立された楷書に行き着く。
現代中国ではさらに簡素化を進めた簡体字が使われる。「飛」→「飞」のような大胆な省略、「機」→「机」のような同音代替、「車」→「车」のような草書体の借用から、「從(従)」→「从」のような古字の復活まである。基本的に10画以下に抑えるため、民間に流布していた文字のほかに、投書を集め「文字改革委員会」が選択することで決められた。
文字は書く道具、書かれる媒体、書く速度、書き方などにより字形の様式を変えることがある。この様式の違いが文字体系全体に及ぶ場合、これを書体と呼ぶ。現在、使われている漢字の書体には篆書・隷書・草書・行書・楷書の五体があり、楷書の印刷書体として広く使われているものに明朝体がある。
なお、各書体発展の経緯については#歴史を参照されたい。
漢字は点や横棒、縦棒などの筆画を組み合わせて作られている。ある漢字がほかの漢字から区別される筆画の組み合わせを字体と呼ぶ。
漢字は、筆画、筆順、偏旁、偏旁の配置構造という構成要素を持つ。この構成方法の違いによって1つの字体を形成する。漢字は点や線で表される筆画の組み合わせで作られるが、必ずしも一字一字が形態として独特であるわけではなく、複数の漢字に共通の部分が存在する。これを偏旁といい、偏・旁・冠・脚・構・垂・繞などの呼び名が、字の構成上の位置などに基づいて、これらの共通部分に与えられる。非常に単純な構成の漢字を除けば、多くの漢字はこれらの共通部分を少なくとも1つ、含んでいる。また、共通部分は、場合によってはそれ自体が独立した文字としても存在している場合もある。これらのうち、一部の共通部分は部首と呼ばれ、漢字の分類、検索の手がかりとして重要な役割を果たす。
漢字は造字および運用の原理を表す六書(指事・象形・形声・会意・転注・仮借)に基づき、象形文字・指事文字・会意文字・形声文字に分類される。漢字の85%近くが形声文字と言われている。
日本の国字は、それぞれの部首が本来持つ意味を解釈して新たに組み合わせて、会意に倣って作られたものが多いといわれる。
漢字には同じ語を表すのに異なる字体を用いる場合がある。たとえば、「からだ」を意味する「タイ」という音をもつ漢語には「體」「体」「軆」「躰」という何通りかが当てられるが、これらは同じ漢字の異なる字体とされる。
互いに同じ意味と音を表しても字体を異にする字を異体と呼ぶ。異体字のあいだで、正式に用いられる字体を正字または本字と呼ぶ。本字の認定は時代や国によって異なっている。一方、民間で広く使われているが、正字とは認められない異体字を俗字と呼ぶ。また正字を簡略化してできた異体字を略字と呼ぶことがある。
戦後、中国でも日本でも漢字改革が行われ、異体字間でも簡単な字体を正字としたり、新しく簡略化した字体を作ったりした。中国では字形の複雑さを基準に元の正字を繁体字、簡化された字体のものを簡体字と呼んでいる。簡体字は1956年の「漢字簡化方案」公布以降、正式に用いる字体として選ばれている。一方、日本では1946年の「当用漢字表」と1949年の「当用漢字字体表」で簡略化された字体を定め、以後、使用してきた。このため「当用漢字表」以後に用いられた字体を新字体、それ以前に用いられた字体を旧字体と呼んでいる。繁体字・旧字体と、簡体字・新字体とは「體」と「体」、「萬」と「万」のようにまったく字形の異なる俗字を採用したものもあるが、「聲」と「声」、「醫」と「医」のように一部を使ったものや、「學」と「学」のように一部の字形が変形されたものが多い。
字形の分析は許慎の『説文解字』に始まる。ただし、そこで求められていたものは字の本義と解字を探ることであり、古典解釈学のためであって、親字には、おもに小篆が用いられている。しかし、その部首法や六書、古字・異体字の分別など後世に大きな影響を与えている。このような字形によって分類された辞典を字書という。『説文解字』は540部首で小篆9,353字および重文1,163字を扱っている。『説文解字』を発展させたものに梁の顧野王の『玉篇』がある。『玉篇』は、字義を分類して示すとともに、反切による字音情報がつけられ、親字は隷書体に改められている。542部首で12,824字を扱っている。『玉篇』は日本での字書の成立に影響を及ぼしている。
こういった解字を重視した部首法をとる字書に対して、検字という実用的な目的から部首法を発展させた字書が現れるようになった。その濫觴は遼の僧侶行均の『龍龕手鑑』であり、『説文解字』が篆書に従って部首を立てたのに対して、楷書体の字形によって部首を立てなおし、字形を字源から切り離して記号として扱い、さらに部首字を声調によって4巻に分けることがなされている。『龍龕手鑑』は240部首で26,430字あまりを扱っている。その後、金の韓孝彦・韓道昭によって『五音篇海』が作られた。その特徴は部首字を五音三十六字母と声調によって配列したことであり、また部分的にではあるが部首以外の部分の筆画数順に字が並べられている。444部首で54,595字を扱った。明の万暦43年(1615年)梅膺祚(ばいようそ)によって作られた『字彙』はその後の字書の規範となる画期的な字書であった。部首の統合整理を行って214部首で33,179字を扱い、部首字および各部首に属する親字を筆画数順に配列したのである。その方法は214部首49,000字あまりを収録した清の『康熙字典』に継承された。
漢字1字は中国語の1音節を表す。中国語の音節構造は「(子音)+ 母音 +(子音)」である。現代の中国語では英語のように多重子音はない。また母音は三重母音まである。
中国の伝統的な音声言語学である音韻学の分類では、語頭子音・ゼロ子音を声母、母音または母音+語尾子音を韻母という。さらに、中国語は1音節の音の高低で意味を区別するトーン言語であり、この音の高低の違いを声調という。つまり、漢字音は「声母」「韻母」「声調」(略して声・韻・調)の3つの要素によって構成されると考えられた。
古代の漢字音の情報は、詩など韻文にある押韻や漢字を韻母別に分類した「韻書」によって得られる。
最古の韻書は3世紀の『声類』とされているが、散逸しており、詳細は不明である。広く一般に通用した最初の韻書は7世紀の韻書『切韻』である。それ以前の漢字音は『詩経』の押韻などを元に復元が試みられており、上古音と呼ばれる。中国の字音は、この上古音、『切韻』に代表される中古音、14世紀の韻書『中原音韻』に代表される近世音、および現行の現代音に分類されている。
古代漢字音復元の基準とされているのは中古音であり、日本の漢和辞典にも反切や詩韻で中古音が示されている場合が多い。反切とは韻書や古典の注釈書で使用されている漢字音表記法で、前の漢字の声母と後ろの漢字の韻母と声調を組あせて表記する。たとえば「漢」は「暁翰」、「字」は「従志」であり、「漢」は「暁」の声母と「翰」の韻母と声調を、「字」は「従」の声母と「志」の韻母と声調を組み合わせた音であったと推測される。
反切の声母の代表として使う漢字を字母と呼ぶ。字母は五音に基づき唐では三十字母、宋では三十六字母が整理された。韻母に関しては『切韻』を宋代に増補改訂した『広韻』では二百六韻が韻目に立てられたが、時代や地域を無視してたくさん作られていると言われている。その後、金の王文郁の『平水新刊韻略』が立てた平水韻106韻がその後の漢詩の押韻にとっては規範とされた。
また漢字のほとんどが形声文字であり、それは通常、左側の偏や上側の冠を意符、右側や下側の旁を音符とするが、宋代以降、旁にあらわされている字音こそが基本義を表しているのだとする「右文説」が唱えられた。20世紀に入り、スウェーデンの言語学者ベルンハルド・カールグレンや日本の藤堂明保が上古音の声母の分類による単語家族の語源分析を行っている。
漢字1字は大体において1つの形態素を表す。これは古代中国語の1音節が1形態素を表すためである。ただし、古代中国語の中でも外来語やオノマトペには2音節1形態素の構造を持つものがあり、これを連綿語という。連綿語は意味は1つであるが、音節数に従って漢字2字が当てられる。たとえば「葡萄」「琵琶」「彷彿」「恍惚」などがある。この場合の1つの漢字はもう1つの漢字と区別されるような1つの意味を持たず、表音文字的な要素が強い。逆に1音節2形態素を表す語もある。これはもともと2つの音節であったものが縮約されて1音節になったものである。これを縮約語といい、漢字1字が当てられる。たとえば之於(シオ)→諸(ショ)、不可(フカ)→叵(ハ)、而已(ジイ)→耳(ジ)などである。この場合、1つの漢字に2つの意味があることになる。
単語がその意味を歴史的・地理的に変化させるのと同様、語を表している漢字はその字義を歴史的・地理的に変化させている。
字義は本義・引申義・仮借義などに分けられて分析されてきた。字義を研究する中国伝統の学問は訓詁学である。
本義とはその字が持つ基本的な意味である。歴史的に考察すれば語源ということになる。本格的な本義研究は後漢の許慎『説文解字』に始まる。その方法は字形から本義を探るというものである。これを形訓とも呼ぶ。六書という造字法が本義分析に大きな役割を果たした。それは20世紀甲骨文字の研究に際しても大きな役割を果たしている。また後漢末、劉熙の『釈名』は、本義を音声に求めた。これを声訓という。たとえば「日(ジツ)は実(ジツ)である。光輝いて充実しているからである」「月(ゲツ)は欠(ケツ)である。満ちて欠けるからである」といったものである。声訓の方法論は宋代以降の「右文説」や20世紀カールグレンや藤堂明保の音声による語源分析に発展していった。
引申義とは、本義から引き伸ばされて、つまり派生してできた意味である。たとえば「長」の本義は長短の意味で距離的に「ながい」ことを表すが、引申されて長久の意味、時間的にながいことも意味するようになる。さらにそれは植物の生長の意味に引申され、さらに人間の成長を意味するようになり、長幼の区別を生じ、長老、首長へと引申されていったと考えられる。引申義の研究は、現代の語彙研究に相当する。それは古典の注釈で使われて訓詁学から発展し、前漢には同義語を分類した『爾雅』という書物にまとめられ、これにより古語や俗語などが系統的に整理された。また前漢の揚雄は『方言』を著し、同時代の地域言語を列挙して共通語でまとめている。
仮借義(かしゃぎ)とは、ある語を表すのに同音または音が近い字を借用することを仮借というが、字義の中で仮借によってできたものをいう。たとえば「求」の本義は「かわごろも」であるが、「もとめる」の意味を持つ同音語に仮借された。やがて「もとめる」の方が基本義となってくると本義は「裘」という別に漢字を作られるようになった。仮借は『説文解字』の六書で用字法の1つに挙げられたものである。これにより、字義に本義とまったく関係のないものがあることを説明できる。
漢字とは由来を異にする、漢字に似せた文字を「擬似漢字」(契丹文字、女真文字、西夏文字など)、漢字に由来する文字を「派生漢字」(仮名など)と呼ぶことがある。
漢字には本来、固定された筆順はない。日本では戦後教育で使われた、行書の影響を受けたと類推される手引書によって筆順が決められているが、これは決して漢字の決まりではない。同様に、「はね」や「止め」または線の長短など字形も良し悪しはなく、1949年(昭和24年)4月に当用漢字字体表が公布された際、国語審議会は注意事項として「本表の字体は活字用であり、筆写(楷書)を拘束しない」と記している。 | [
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"text": "一般に非文明化部族の言語は語彙が多すぎて整理されていない傾向にあり、漢字は発生当時の時代の非合理性をそのまま引き継いでしまったと批判される。このように近代以降、異体字を整理したり使用頻度の少ない漢字の利用を制限しようとする動きは何度もあったが、現在でもその数は増え続けている。常に新しい字が創作されるため、過去から現在に至る過程で、どれだけの数の漢字が作られたかは明確ではない。たとえば、既存の中で考慮される漢字がない何かしらの意図を表現するために、新しい種類が作られてきた。漢字の理論とは万人に開かれたもので、適当と思われれば新たな漢字をつくる事が誰にでもできる。しかしながら、このように発明された漢字は、公的に認められた一覧からはしばしば除かれて行く。以下に、主要な歴史的中国語辞典(字書)が採録した漢字数を表す。",
"title": "概要"
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"text": "コンピュータで処理するための文字集合では、Unicode 13.0が92,856字以上を、日本の企業のソフトウェア『今昔文字鏡』が(漢字以外の文字も含むが)約16万字を収録するなど、さらに多くの漢字を集めているものもある。一方、中華民国(台湾)行政院教育部の『異體字字典(正式六版)』によれば、漢字の正字数(異体字を含まない)は29,921字であるが、こちらは国字を含んでいない(「付録」としてだけ収録してある)。",
"title": "概要"
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"text": "伝承によると、中国における文字の発祥は、黄帝の代に倉頡が砂浜を歩いた鳥の足跡を見て、足跡から鳥の種類が分かるように概念も同じようにして表現できることに気づいて作った文字とされる。また『易経』には聖人が漢字を作ったと記されている。考古学的に現存する最古の漢字は、殷において占いの一種である卜(ぼく)の結果を書き込むために使用された文字である。これを現在甲骨文字(亀甲獣骨文)と呼ぶ。甲骨文以前にも文字らしきものは存在していたが、これは漢字と系統を同じくするものがあるか定かではない。当時の卜は亀の甲羅や牛の肩胛骨などの裏側に小さな窪みを穿ち、火に炙って熱した金属棒(青銅製と言われる)を差し込む。しばらく差し込んだままにすると熱せられた表側に亀裂が生じる。この亀裂の形で吉凶を見るのであるが、その卜をした甲骨に、卜の内容・結果を彫り込んだのである。",
"title": "歴史"
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"text": "現在存在する中での最古の漢字は、殷墟から発掘される甲骨などに刻まれた甲骨文字である。その内容は殷王朝第22代武丁のころから書かれたものであるため、それ以前には新石器時代の遺跡等で発見される記号はあっても、文字として使用できる漢字ができあがったのは紀元前1300年ごろのことだと考えられる。この甲骨文字は物の見たままを描く象形文字であり、当時の甲骨文字は絵に近い様相を持つものも多かった。その一方で、ある種の事態を表現する動詞や形容詞の文字も存在した。たとえば、「立」の原型である人が地面を表す横棒の上に書かれた字(指示文字)、女性が子供をあやす様から「好」や、人が木の袂(たもと)にいる様から「休」などの字(会意文字)も既に含まれていた。さらに、同音の単語をすでにある別の字で表す代用字もあり、たとえば鳥の羽を示す「翼」の原型は、同音で次のことを示す単語に流用され、これがのちに「翌」となった。このように、すでに現在の漢字の書体に似通っている部分が見受けられ、非常に発展したものであり、おそらくはこれ以前から発展の経路を辿ってきたものとみられる。最古の漢字には左右や上下が反転したものや、絵や記号に近い部品がつけられているものなど、現在の常識では考えられない(当然ながら現在では使用されていない)漢字が存在する。その後、青銅器に鋳込まれた金文という文字が登場した。「NHKスペシャル 中国文明の謎第2集 漢字誕生」では、古代メソポタミアの文字が商取引の記録から始まっているのに対して、政治の方針を決めるための占いの用途で、骨(これまでに14,000体の殷の生贄の犠牲となった人骨が出土)に刻むために使われ始めた漢字は、文字としてはきわめて特殊なルーツであったとしている。たとえば、白は人間の頭蓋骨の白に由来する象形文字である。このように、鬼神と王を繋ぐための手段として、初期の漢字は始まった。",
"title": "歴史"
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"text": "周の時代になると、外交や商取引など多くの用途に漢字が使われるようになり、それまでの種類だけでは足りなくなった。そこで多くの新しい漢字が作られた。中国では「清らかで澄んだ」様子を「セイ(tseng)」と呼び、新芽が井戸端に生えた様子から「青」に連なる象形文字を用いた。この「セイ」という発音と文字「青」は形容詞だけでなく「清らかで澄んだ」ものを呼ぶさまざまな名詞にも使われたが、これらにもそれぞれの漢字が割り当てられるようになった。水が「セイ」ならば「清」、日差しが「セイ」ならば「晴」などである。このような漢字の一群を「漢字家族」と言う。侖(liuan-luan、リン-ロン)も短冊を揃えた様子から発し「揃えたもの」を示す象形文字だが、これも車が揃えば「輪」、人間関係が整っておれば「倫」、理論整然としていれば「論」という漢字が作られた。このように、音符に相当する「青」「侖」などと、意味の類別を表す意符が組み合わさった「形声文字」が発達した。紀元100年ごろに後漢の許慎が著した『説文解字』は中国初の字書であり、9,353字の漢字について成り立ちを解説しているが、この中の約8割は形声文字である。このような文字形成の背景には、中国では事物を感性的にとらえ、枠にはめ込む習慣が影響しているともいう。このため、音素文字や単音文字を作り出す傾向が抑えられたと考えられる。",
"title": "歴史"
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"text": "周が混乱の時代を迎えると、漢字は各地で独自の発展をすることになる。その後、意義・形ともに抽象化が進み、春秋戦国時代になると地方ごとに通用する字体が違うという事態が発生した。そして天下を覇した秦の始皇帝が字体統一に着手、そして生まれたのが小篆である。秦は西周の故地を本拠地にしたのであり、その文字は周王朝から受け継がれたものだったため、その系統性が保持されたといえる。",
"title": "歴史"
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"text": "小篆は尊厳に溢れ難解な書式だった。秦、そして後の漢代になると、下級役人を中心に使いにくい小篆の装飾的な部分を省き、曲線を直線化する変化が起こり、これが隷書となった。毛筆で書かれる木簡や竹簡に書き込む漢字から始まった隷書は、書物から石碑に刻まれる字にまで及んだ。この隷書を走り書きしたものは「草隷」と呼ばれたが、やがてこれが草書となった。一方で、隷書をさらに直線的に書いたものが楷書へ発達し、これをさらに崩して行書が生まれた。",
"title": "歴史"
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"text": "なお、隷書から楷書ができてそれをくずす形で草書と行書ができたという説があるが現在ではこの見解は定説から外れており、『総合百科事典ポプラディア第三版』でも誤りとして修正されている。",
"title": "歴史"
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"text": "六朝から唐の時代には書写が広まり、個人や地域による独特の崩れが発生するようになったが、科挙の制では「正字」という由緒正しい漢字が求められたが、一般庶民では「通字」や「俗字」と呼ばれる漢字が多く使われた。宋の時代には手工業者や商人など文字を仕事で使う層が台頭し、俗字が幅広く用いられた。さらに木版技術の発展により、楷書に印刷書体が生まれ、宋朝体と呼ばれる書体が誕生した。明代から清代にかけて、康熙字典に代表される明朝体が確立した。",
"title": "歴史"
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"text": "現在、書籍やコンピューター文書などの印刷に使用されている漢字の書体は明の時代に確立された明朝体が中心である。この起源を遡ると、後漢末期に確立された楷書に行き着く。",
"title": "歴史"
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"text": "現代中国ではさらに簡素化を進めた簡体字が使われる。「飛」→「飞」のような大胆な省略、「機」→「机」のような同音代替、「車」→「车」のような草書体の借用から、「從(従)」→「从」のような古字の復活まである。基本的に10画以下に抑えるため、民間に流布していた文字のほかに、投書を集め「文字改革委員会」が選択することで決められた。",
"title": "歴史"
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"text": "文字は書く道具、書かれる媒体、書く速度、書き方などにより字形の様式を変えることがある。この様式の違いが文字体系全体に及ぶ場合、これを書体と呼ぶ。現在、使われている漢字の書体には篆書・隷書・草書・行書・楷書の五体があり、楷書の印刷書体として広く使われているものに明朝体がある。",
"title": "字形"
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"text": "なお、各書体発展の経緯については#歴史を参照されたい。",
"title": "字形"
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"text": "漢字は点や横棒、縦棒などの筆画を組み合わせて作られている。ある漢字がほかの漢字から区別される筆画の組み合わせを字体と呼ぶ。",
"title": "字形"
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"text": "漢字は、筆画、筆順、偏旁、偏旁の配置構造という構成要素を持つ。この構成方法の違いによって1つの字体を形成する。漢字は点や線で表される筆画の組み合わせで作られるが、必ずしも一字一字が形態として独特であるわけではなく、複数の漢字に共通の部分が存在する。これを偏旁といい、偏・旁・冠・脚・構・垂・繞などの呼び名が、字の構成上の位置などに基づいて、これらの共通部分に与えられる。非常に単純な構成の漢字を除けば、多くの漢字はこれらの共通部分を少なくとも1つ、含んでいる。また、共通部分は、場合によってはそれ自体が独立した文字としても存在している場合もある。これらのうち、一部の共通部分は部首と呼ばれ、漢字の分類、検索の手がかりとして重要な役割を果たす。",
"title": "字形"
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"text": "漢字は造字および運用の原理を表す六書(指事・象形・形声・会意・転注・仮借)に基づき、象形文字・指事文字・会意文字・形声文字に分類される。漢字の85%近くが形声文字と言われている。",
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"text": "日本の国字は、それぞれの部首が本来持つ意味を解釈して新たに組み合わせて、会意に倣って作られたものが多いといわれる。",
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"text": "漢字には同じ語を表すのに異なる字体を用いる場合がある。たとえば、「からだ」を意味する「タイ」という音をもつ漢語には「體」「体」「軆」「躰」という何通りかが当てられるが、これらは同じ漢字の異なる字体とされる。",
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},
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"text": "互いに同じ意味と音を表しても字体を異にする字を異体と呼ぶ。異体字のあいだで、正式に用いられる字体を正字または本字と呼ぶ。本字の認定は時代や国によって異なっている。一方、民間で広く使われているが、正字とは認められない異体字を俗字と呼ぶ。また正字を簡略化してできた異体字を略字と呼ぶことがある。",
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"text": "戦後、中国でも日本でも漢字改革が行われ、異体字間でも簡単な字体を正字としたり、新しく簡略化した字体を作ったりした。中国では字形の複雑さを基準に元の正字を繁体字、簡化された字体のものを簡体字と呼んでいる。簡体字は1956年の「漢字簡化方案」公布以降、正式に用いる字体として選ばれている。一方、日本では1946年の「当用漢字表」と1949年の「当用漢字字体表」で簡略化された字体を定め、以後、使用してきた。このため「当用漢字表」以後に用いられた字体を新字体、それ以前に用いられた字体を旧字体と呼んでいる。繁体字・旧字体と、簡体字・新字体とは「體」と「体」、「萬」と「万」のようにまったく字形の異なる俗字を採用したものもあるが、「聲」と「声」、「醫」と「医」のように一部を使ったものや、「學」と「学」のように一部の字形が変形されたものが多い。",
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"paragraph_id": 31,
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"text": "字形の分析は許慎の『説文解字』に始まる。ただし、そこで求められていたものは字の本義と解字を探ることであり、古典解釈学のためであって、親字には、おもに小篆が用いられている。しかし、その部首法や六書、古字・異体字の分別など後世に大きな影響を与えている。このような字形によって分類された辞典を字書という。『説文解字』は540部首で小篆9,353字および重文1,163字を扱っている。『説文解字』を発展させたものに梁の顧野王の『玉篇』がある。『玉篇』は、字義を分類して示すとともに、反切による字音情報がつけられ、親字は隷書体に改められている。542部首で12,824字を扱っている。『玉篇』は日本での字書の成立に影響を及ぼしている。",
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"paragraph_id": 32,
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"text": "こういった解字を重視した部首法をとる字書に対して、検字という実用的な目的から部首法を発展させた字書が現れるようになった。その濫觴は遼の僧侶行均の『龍龕手鑑』であり、『説文解字』が篆書に従って部首を立てたのに対して、楷書体の字形によって部首を立てなおし、字形を字源から切り離して記号として扱い、さらに部首字を声調によって4巻に分けることがなされている。『龍龕手鑑』は240部首で26,430字あまりを扱っている。その後、金の韓孝彦・韓道昭によって『五音篇海』が作られた。その特徴は部首字を五音三十六字母と声調によって配列したことであり、また部分的にではあるが部首以外の部分の筆画数順に字が並べられている。444部首で54,595字を扱った。明の万暦43年(1615年)梅膺祚(ばいようそ)によって作られた『字彙』はその後の字書の規範となる画期的な字書であった。部首の統合整理を行って214部首で33,179字を扱い、部首字および各部首に属する親字を筆画数順に配列したのである。その方法は214部首49,000字あまりを収録した清の『康熙字典』に継承された。",
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"paragraph_id": 33,
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"text": "漢字1字は中国語の1音節を表す。中国語の音節構造は「(子音)+ 母音 +(子音)」である。現代の中国語では英語のように多重子音はない。また母音は三重母音まである。",
"title": "字音"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "中国の伝統的な音声言語学である音韻学の分類では、語頭子音・ゼロ子音を声母、母音または母音+語尾子音を韻母という。さらに、中国語は1音節の音の高低で意味を区別するトーン言語であり、この音の高低の違いを声調という。つまり、漢字音は「声母」「韻母」「声調」(略して声・韻・調)の3つの要素によって構成されると考えられた。",
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"text": "古代の漢字音の情報は、詩など韻文にある押韻や漢字を韻母別に分類した「韻書」によって得られる。",
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{
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"text": "最古の韻書は3世紀の『声類』とされているが、散逸しており、詳細は不明である。広く一般に通用した最初の韻書は7世紀の韻書『切韻』である。それ以前の漢字音は『詩経』の押韻などを元に復元が試みられており、上古音と呼ばれる。中国の字音は、この上古音、『切韻』に代表される中古音、14世紀の韻書『中原音韻』に代表される近世音、および現行の現代音に分類されている。",
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},
{
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"text": "古代漢字音復元の基準とされているのは中古音であり、日本の漢和辞典にも反切や詩韻で中古音が示されている場合が多い。反切とは韻書や古典の注釈書で使用されている漢字音表記法で、前の漢字の声母と後ろの漢字の韻母と声調を組あせて表記する。たとえば「漢」は「暁翰」、「字」は「従志」であり、「漢」は「暁」の声母と「翰」の韻母と声調を、「字」は「従」の声母と「志」の韻母と声調を組み合わせた音であったと推測される。",
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{
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"text": "反切の声母の代表として使う漢字を字母と呼ぶ。字母は五音に基づき唐では三十字母、宋では三十六字母が整理された。韻母に関しては『切韻』を宋代に増補改訂した『広韻』では二百六韻が韻目に立てられたが、時代や地域を無視してたくさん作られていると言われている。その後、金の王文郁の『平水新刊韻略』が立てた平水韻106韻がその後の漢詩の押韻にとっては規範とされた。",
"title": "字音"
},
{
"paragraph_id": 39,
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"text": "また漢字のほとんどが形声文字であり、それは通常、左側の偏や上側の冠を意符、右側や下側の旁を音符とするが、宋代以降、旁にあらわされている字音こそが基本義を表しているのだとする「右文説」が唱えられた。20世紀に入り、スウェーデンの言語学者ベルンハルド・カールグレンや日本の藤堂明保が上古音の声母の分類による単語家族の語源分析を行っている。",
"title": "字音"
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{
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"text": "漢字1字は大体において1つの形態素を表す。これは古代中国語の1音節が1形態素を表すためである。ただし、古代中国語の中でも外来語やオノマトペには2音節1形態素の構造を持つものがあり、これを連綿語という。連綿語は意味は1つであるが、音節数に従って漢字2字が当てられる。たとえば「葡萄」「琵琶」「彷彿」「恍惚」などがある。この場合の1つの漢字はもう1つの漢字と区別されるような1つの意味を持たず、表音文字的な要素が強い。逆に1音節2形態素を表す語もある。これはもともと2つの音節であったものが縮約されて1音節になったものである。これを縮約語といい、漢字1字が当てられる。たとえば之於(シオ)→諸(ショ)、不可(フカ)→叵(ハ)、而已(ジイ)→耳(ジ)などである。この場合、1つの漢字に2つの意味があることになる。",
"title": "字義"
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"text": "単語がその意味を歴史的・地理的に変化させるのと同様、語を表している漢字はその字義を歴史的・地理的に変化させている。",
"title": "字義"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "字義は本義・引申義・仮借義などに分けられて分析されてきた。字義を研究する中国伝統の学問は訓詁学である。",
"title": "字義"
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{
"paragraph_id": 43,
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"text": "本義とはその字が持つ基本的な意味である。歴史的に考察すれば語源ということになる。本格的な本義研究は後漢の許慎『説文解字』に始まる。その方法は字形から本義を探るというものである。これを形訓とも呼ぶ。六書という造字法が本義分析に大きな役割を果たした。それは20世紀甲骨文字の研究に際しても大きな役割を果たしている。また後漢末、劉熙の『釈名』は、本義を音声に求めた。これを声訓という。たとえば「日(ジツ)は実(ジツ)である。光輝いて充実しているからである」「月(ゲツ)は欠(ケツ)である。満ちて欠けるからである」といったものである。声訓の方法論は宋代以降の「右文説」や20世紀カールグレンや藤堂明保の音声による語源分析に発展していった。",
"title": "字義"
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"paragraph_id": 44,
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"text": "引申義とは、本義から引き伸ばされて、つまり派生してできた意味である。たとえば「長」の本義は長短の意味で距離的に「ながい」ことを表すが、引申されて長久の意味、時間的にながいことも意味するようになる。さらにそれは植物の生長の意味に引申され、さらに人間の成長を意味するようになり、長幼の区別を生じ、長老、首長へと引申されていったと考えられる。引申義の研究は、現代の語彙研究に相当する。それは古典の注釈で使われて訓詁学から発展し、前漢には同義語を分類した『爾雅』という書物にまとめられ、これにより古語や俗語などが系統的に整理された。また前漢の揚雄は『方言』を著し、同時代の地域言語を列挙して共通語でまとめている。",
"title": "字義"
},
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"paragraph_id": 45,
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"text": "仮借義(かしゃぎ)とは、ある語を表すのに同音または音が近い字を借用することを仮借というが、字義の中で仮借によってできたものをいう。たとえば「求」の本義は「かわごろも」であるが、「もとめる」の意味を持つ同音語に仮借された。やがて「もとめる」の方が基本義となってくると本義は「裘」という別に漢字を作られるようになった。仮借は『説文解字』の六書で用字法の1つに挙げられたものである。これにより、字義に本義とまったく関係のないものがあることを説明できる。",
"title": "字義"
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{
"paragraph_id": 46,
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"text": "漢字とは由来を異にする、漢字に似せた文字を「擬似漢字」(契丹文字、女真文字、西夏文字など)、漢字に由来する文字を「派生漢字」(仮名など)と呼ぶことがある。",
"title": "文字の体系"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "漢字には本来、固定された筆順はない。日本では戦後教育で使われた、行書の影響を受けたと類推される手引書によって筆順が決められているが、これは決して漢字の決まりではない。同様に、「はね」や「止め」または線の長短など字形も良し悪しはなく、1949年(昭和24年)4月に当用漢字字体表が公布された際、国語審議会は注意事項として「本表の字体は活字用であり、筆写(楷書)を拘束しない」と記している。",
"title": "筆順や字形"
}
] | 漢字(かんじ)は、中国古代の黄河文明で発祥した表記文字。四大文明で使用された古代文字のうち、現用される唯一の文字体系である。また最も文字数が多い文字体系であり、その数は約10万字に上る。古代から周辺諸国家や地域に伝わり漢字文化圏を形成し、言語のみならず文化上に大きな影響を与えた。 現代では中国語、日本語、朝鮮語(韓国語)、広西の東興市にいるジン族が使用するベトナム語の記述に使われる。現在、朝鮮語ではほとんど使用されなくなっている。20世紀に入り、漢字文化圏内でも中国語と日本語以外は漢字表記をほとんど廃止したが、なお約15億人が使用し、約50億人が使うラテン文字についで、世界で2番目に使用者数が多い文字体系である。 | {{複数の問題
| 出典の明記 = 2021年1月
| 更新 = 2021年1月
}}
{{WikipediaPage|漢字の使用|Wikipedia:表記ガイド#漢字}}
{{Otheruses|漢字全般|日本で使用される漢字|日本における漢字}}
{{Infobox WS
| name = 漢字
| type =[[表意文字]]/[[表語文字]]
| typedesc =
| time =およそ[[紀元前1300年]] -
| languages =[[漢字を使用する言語]]
| unicode =U+4E00 - U+9FFF<ref>{{Cite web |url=http://www.unicode.org/charts/PDF/U4E00.pdf |title=UNICODE U+4E00 - U+9FFF |access-date=2009-11-19 |archive-date=2007-01-08 |archive-url=https://web.archive.org/web/20070108063930/http://www.unicode.org/charts/PDF/U4E00.pdf |dead-url=no }}</ref><br />
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U+2F800 - U+2FA1F<ref>{{Cite web |url=http://www.unicode.org/charts/PDF/U2F800.pdf |title=UNICODE U+2F800 - U+2FA1F |access-date=2009-11-19 |archive-date=2007-03-15 |archive-url=https://web.archive.org/web/20070315191246/http://www.unicode.org/charts/PDF/U2F800.pdf |dead-url=no }}</ref>(互換漢字補助)<br />
U+2F00 - U+2FDF<ref>{{Cite web |url=http://www.unicode.org/charts/PDF/U2F00.pdf |title=UNICODE U+2F00 - U+2FDF |access-date=2009-11-19 |archive-date=2014-09-25 |archive-url=https://web.archive.org/web/20140925064541/http://www.unicode.org/charts/PDF/U2F00.pdf |dead-url=no }}</ref>([[康煕部首]])<br />
U+2E80 - U+2EFF<ref>{{Cite web |url=http://www.unicode.org/charts/PDF/U2E80.pdf |title=UNICODE U+2E80 - U+2EFF |access-date=2009-11-19 |archive-date=2014-09-25 |archive-url=https://web.archive.org/web/20140925064535/http://www.unicode.org/charts/PDF/U2E80.pdf |dead-url=no }}</ref>([[康煕部首]]補助)<br />
U+31C0 - U+31EF<ref>{{Cite web |url=http://www.unicode.org/charts/PDF/U31C0.pdf |title=UNICODE U+31C0 - U+31EF |access-date=2009-11-19 |archive-date=2021-01-31 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210131064709/http://www.unicode.org/charts/PDF/U31C0.pdf |dead-url=no }}</ref>([[筆画]])
|iso15924=Hani
| sample =
|footnotes=Hans(簡体字) Hant(繁体字)|altname=<small>真名</small>|children=[[仮名 (文字)|仮名]]、[[チュノム]]、[[女書]]、[[契丹文字]]、[[西夏文字]]、[[女真文字]]など}}
{{漢字}}
'''漢字'''(かんじ)は、[[中国]][[古代]]の[[黄河文明]]で発祥した[[表語文字|表記文字]]。[[四大文明]]で使用された古代[[文字]]のうち、現用される唯一の文字体系である<ref>{{cite web|url= http://www.kwintessential.co.uk/articles/article/China/Chinese-Writing-Symbols/1651|title=Chinese Writing Symbols|publisher=Kwintessential|accessdate=2010-03-20}}</ref><ref>{{cite web|url= http://en.artintern.net/index.php/news/main/html/1/1101|title=History of Chinese Writing Shown in the Museums|publisher=CCTV online|accessdate=2010-03-20}}</ref>。また最も文字数が多い文字体系であり、その数は約10万字に上る。古代から周辺諸国家や地域に伝わり[[漢字文化圏]]を形成し、言語のみならず文化上に大きな影響を与えた。
現代では[[中国語]]、[[日本語]]、[[朝鮮語]](韓国語)、[[広西チワン族自治区|広西]]の[[東興市]]にいる[[ジン族]]が使用する[[ベトナム語]]の記述に使われる。現在、朝鮮語ではほとんど使用されなくなっている。[[20世紀]]に入り、漢字文化圏内でも中国語と日本語以外は漢字表記をほとんど廃止したが、なお約15億人が使用し、約50億人が使う[[ラテン文字]]についで、世界で2番目に使用者数が多い文字体系である<ref>{{cite web |url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/31666/Arabic-alphabet|title=Arabic Alphabet |accessdate=2015-05-16 |publisher=Encyclopaedia Britannica online| archiveurl= https://web.archive.org/web/20150426185709/http://www.britannica.com/EBchecked/topic/31666/Arabic-alphabet| archivedate= 26 April 2015 | deadurl= no}}</ref>。
== 概要 ==
=== 漢字の特徴 ===
[[ラテン文字]]に代表される[[アルファベット]]が1つの[[単音|音価]]を表記する[[音素文字]]であるのに対し、漢字は一般に、それぞれが個別の意味を持ち音節に対応している[[形態素]]である<ref>[http://www.pinyin.info/readings/texts/east_asian_languages.html East Asian Languages at pinyin.info]</ref>。しかし現代[[中国語]]の単語は、大部分が2つ以上の漢字を組み合わせたものになっている<ref>{{cite book|last=Wood|first=Clare Patricia|title=Contemporary perspectives on reading and spelling| url=https://books.google.co.jp/books?id=QNaj6rkBgKsC&redir_esc=y&hl=ja | year=2009|publisher=Routledge|location=New York|isbn=978-0-415-49716-9|page=203|coauthors=Connelly, Vincent}}</ref>。
本来、1字が一義を表すことだけを重視して[[表意文字]]としてきたのだが、これは古代中国語の1音節が1つの意味を表す[[孤立語]]的な言語構造に由来するのであって、正確には音と意味両者を表記する[[表語文字]]である。つまり、1字が1語を表しているのである。このような漢字の特徴から伝統的な文字学では漢字を形・音・義の3要素によって分析してきた。
しかし、1つの音の持つ語が派生義を生んで、1字が複数の(まったく正反対の、あるいは無関係で一方の字義からは想像することはできないような)字義を持っていたり、読みが変わって、複数の字音を持っていたりする場合もある。また、[[外来語]]を表記する場合など、単純に音を表すために作られた漢字もあり、字義を持たない場合もある。字義の有無を問わず、1音節を表す文字という点において[[音節文字]]である日本語の[[仮名 (文字)|仮名]]とは近い関係にある。
=== 漢字を輸入した国と、現在の使用状況 ===
{{see also|漢字廃止論|漢字復活論|日本における漢字}}
[[File:漢字文化圈/汉字文化圈 · 한자 문화권 · Vòng văn hóa chữ Hán · 漢字文化圏.svg|thumb|漢字文化圏における主な言語での「漢字文化圏」「東アジア文化圏」という概念の言い方と書き方|453x453px]]
[[日本]]、[[朝鮮]]、[[琉球王国]]、[[ベトナム]]は、古代中国から漢字を輸入して使用した。また、[[シンガポール]]、[[マレーシア]]のように、中国から移住した人たちが多く住み、漢字を使用している地域がある。これらの漢字を使用する・していた周辺諸国を包括して[[漢字文化圏]]と呼ぶ。
日本では[[漢委奴国王印]]や[[古墳時代]]の[[稲荷台1号墳]]に埋蔵されていた鉄剣の銘文が、日本における初期の漢字事例とされており<ref name="nishida1998">日本人の文字生活史序章--漢字の伝来と定着(奈良時代まで),[[西田直敏]],甲南女子大学研究紀要 (35), 77-108,1998年</ref><ref name="reference">{{CRD|1000071818|漢字は中国から入って来たと言われていますが、どういう経路で日本に伝わってきたのですか。|北九州市立中央図書館 }}</ref><ref>犬飼隆、「[[doi:10.15024/00002218|漢字が来た道 : 大陸から半島を経由して列島へ]]」『国立歴史民俗博物館研究報告』 2015年 第194集 p.237-244, {{doi|10.15024/00002218}}</ref>、また近年の研究で、[[朝鮮半島]]を経由して伝来した文字・使用方法が存在する可能性が指摘されている<ref>{{Cite journal|和書|author=藤井茂利 |title=上代日本文献に見える「魚韻」の漢字 : 朝鮮漢字音との関連について |url=https://doi.org/10.15017/12141 |journal=語文研究 |publisher=九州大学国語国文学会 |year=1974 |month=aug |issue=37 |pages=7-15 |naid=120000981763 |doi=10.15017/12141 |issn=04360982}}</ref><ref>[https://www.rekihaku.ac.jp/outline/press/p141015/ 文字がつなぐ-古代の日本列島と朝鮮半島-,国立歴史民俗博物館,2014年]</ref><ref name="reference" />。
現在、漢字は、中国・[[台湾]]・日本で日常的に、[[大韓民国|韓国]]・[[シンガポール]]などで限定的で用いられている。しかし、20世紀後半の各国政府の政策で漢字を簡略化したり使用の制限などを行ったりしたため、現在では、これらの国で完全に文字体系を共有しているわけではない。
また、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]や[[ベトナム]]のように、漢字使用を公式にやめた国もある。しかし、漢字は使わなくなっても漢字とともに流入した語彙が各言語の語種として大きな割合を占めている。
漢字音は地域・時代によって変化する。しかしながら、淵源となる[[中古音]]から各地域の[[音韻]]変化に従って規則的に変化しているため、類推可能な共通性を持っている。また地域により発音が違う場合でも同じ字で表すことができるため、国境を越えて漢字を使った[[筆談]]でコミュニケーションを取ることもある。字形の複雑さから、手書きする場合には、書き間違いや省略などによって字体は少なからず変化してきた。そうして変化した字体のうち、ある程度の範囲に定着した[[俗字]]が各国において正字に選ばれ、字形にわずかな差異が見られる場合がある。また地域音や地域特有の字義を表すための[[国字]]・[[方言字]]や[[異体字]]も多く作られてきた。
=== 漢字の数 ===
[[中国語]]の[[音節]]の数は、現代[[普通話]]の場合、[[声調]]の組み合わせを考えても1,600種未満であり、[[音節文字]]であれば、これだけの文字種があれば足りる計算になる。しかし、[[同音異義語|同音異義の語]]を、[[部首]]をつけるなどの手法を用いて区別する漢字は、5,000種前後が同時代的に使用されてきた。これに、時代の変遷による字体の変化、同じ字音、字義を表す異体字、地域変種などを加えて整理すると、簡単に1万を越す漢字が集まることになり、[[中国王朝|歴代]]の[[字書]]は時代が下るにつれて多くの漢字を集め、[[1994年]]の『[[中華字海]]』に至っては85,568字を収録している。ただし、ほとんどの文字は歴史的な[[文書]]の中でしか見られない使用頻度の低いものである。研究によると、中国で[[機能的非識字]]状態にならないようにするには、3,000字から4,000字の漢字を知っていれば充分という<ref>{{cite web|url= http://www.asiasociety.org/education-learning/world-languages/chinese-language-initiatives/chinese-writing|title=Chinese Writing|author=Norman, Jerry|authorlink=ジェリー・ノーマン|year=2008|accessdate=2009-08-17}}</ref>。
一般に[[非文明化部族]]の[[言語]]は[[語彙]]が多すぎて整理されていない傾向にあり、漢字は発生当時の時代の[[非合理性]]をそのまま引き継いでしまったと批判される<ref>カナモジカイ [http://www.kanamozi.org/doc_kanamoziron.html カナモジ論「未開社会のコトバ」]</ref>。このように[[近代]]以降、[[異体字]]を整理したり使用頻度の少ない漢字の利用を制限しようとする動きは何度もあったが、現在でもその数は増え続けている<ref group="注釈">例えば近代以降には[[西洋]]の事物を表すために漢字が作られた。具体的には[[日本]]での「[[瓩]](キログラム)」「[[粁]](キロメートル)」と言った[[度量衡]]を表す文字や、[[中国]]での[[元素]]を表す文字「氧([[酸素]])」「氫([[水素]])」「鈽([[プルトニウム]])」など([[元素の中国語名称]])がその例である。</ref>。常に新しい字が創作されるため、過去から現在に至る過程で、どれだけの数の漢字が作られたかは明確ではない。たとえば、既存の中で考慮される漢字がない何かしらの意図を表現するために、新しい種類が作られてきた。漢字の理論とは万人に開かれたもので、適当と思われれば新たな漢字をつくる事が誰にでもできる。しかしながら、このように発明された漢字は、公的に認められた一覧からはしばしば除かれて行く<ref>{{cite web|title=Creating New Chinese Characters|url=http://weber.ucsd.edu/~dkjordan/chin/mojicakes.html|accessdate=2013-02-22}}</ref>。以下に、主要な歴史的中国語辞典([[字書]])が採録した漢字数を表す。
{| class="wikitable" align="center"
|+中国語辞典に記された漢字の数<ref>Updated from Norman, Jerry. ''Chinese''. New York: Cambridge University Press. 1988, p. 72. ISBN 0-521-29653-6.</ref><ref>Zhou Youguang [[周有光]]. ''The Historical Evolution of Chinese Languages and Scripts; 中国语文的时代演进'', translated by Zhang Liqing 张立青. Ohio State University National East Asian Language Resource Center. 2003, pp.72-73.</ref>
|-
! 年
! abbr="Dictionary" | 辞書名
! abbr="Characters" | 漢字数
|-
! 100
| ''[[説文解字]]''
| 9,353
|-
! 543
| ''[[玉篇]]''
| 12,158
|-
! 601
| ''[[切韻]]''
| 16,917
|-
! 997
| ''[[龍龕手鑑]]''
| 26,430
|-
! 1011
| ''[[広韻]]''
| 26,194
|-
! 1039
| ''[[集韻]]''
| 53,525
|-
! 1208
| ''[[五音篇海]]''
| 54,595
|-
! 1615
| ''[[字彙]]''
| 33,179
|-
! 1675
| ''[[正字通]]''
| 33,440
|-
! 1716
| ''[[康熙字典]]''
| 47,035
|-
! 1916
| ''{{仮リンク|中華大字典|en|Zhonghua Da Zidian}}''
| 48,000
|-
! 1989
| ''[[漢語大字典]]''(第一版)
| 54,678
|-
! 1994
| ''[[中華字海]]''
| 85,568
|-
! 2001
| ''[[異體字字典]]''(正式一版)
| 105,982
|-
! 2010
| ''[[漢語大字典]]''(第二版)
| 60,370
|-
! 2014
| ''[[漢字海]]''
| 102,447
|-
! 2017
| ''[[異體字字典]]''(正式六版)
| 106,333
|}
コンピュータで処理するための[[文字集合]]では、[[Unicode]] 13.0が92,856字以上を{{Refnest |group="注釈" |92,856字は、Unihan Database<ref>{{Cite web |url=http://www.unicode.org/Public/13.0.0/ucd/Unihan.zip |title=Unicode 13.0 - Unihan Database |date=2020-03-10 |accessdate=2020-03-11}}</ref> の Unihan_IRGSources.txt 中にある[[CJK互換漢字|互換漢字]]でない単一コードポイントの数。このため、互換漢字および[[異体字セレクタ]]付きの漢字を含めるともっと多くなる。}}、日本の企業の[[ソフトウェア]]『[[今昔文字鏡]]』が(漢字以外の文字も含むが)約16万字を<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mojikyo.co.jp/software/mojikyo45/ |accessdate=2016-06-20 |title=今昔文字鏡 - 製品紹介 |publisher=株式会社エーアイ・ネット}}</ref>収録するなど、さらに多くの漢字を集めているものもある。一方、[[中華民国]]([[台湾]])行政院教育部の『[[異體字字典]](正式六版)』によれば、漢字の'''正字'''数(異体字を含まない)は'''29,921字'''<ref>[http://dict.variants.moe.edu.tw/variants/rbt/page_content3.rbt?pageId=2981893 中華民國教育部異體字字典編輯略例]</ref>であるが、こちらは[[国字]]を含んでいない(「付録」としてだけ収録してある<ref>[https://dict.variants.moe.edu.tw/variants/rbt/page_content.rbt?pageId=2982199 中日韓共用漢字表 附表編製原則]</ref>)。
== 歴史 ==
伝承によると、中国における文字の発祥は、[[黄帝]]の代に[[倉頡]]が砂浜を歩いた鳥の足跡を見て、足跡から鳥の種類が分かるように概念も同じようにして表現できることに気づいて作った文字とされる。また『[[易経]]』には[[聖人]]が漢字を作ったと記されている。
新石器時代の出土土器の表面に文字状の彫り込みが見られる。しかし記号・デザインの一種とも考えられており、[[殷]]中期まで続く。これらは漢字と系統を同じくするかは定かではなく、漢字の誕生と言えるかは不明である。
考古学的に現存する最古の漢字は、[[殷]]後期において占いの一種である[[占い|卜(ぼく)]]の結果を書き込むために使用された文字である。これを現在[[甲骨文字]](亀甲獣骨文)と呼ぶ。 漢字としての完成度が高いことが研究により明らかにされている。
当時の卜は[[カメ|亀]]の甲羅や[[ウシ|牛]]の肩胛骨などの裏側に小さな窪みを穿ち、火に炙って熱した金属棒(青銅製と言われる)を差し込む。しばらく差し込んだままにすると熱せられた表側に亀裂が生じる。この亀裂の形で吉凶を見るのであるが、その卜をした甲骨に、卜の内容・結果を彫り込んだのである。
[[筆]]や[[木簡]]を表す甲骨文字が見られることから、それらを用いて記した文字もその時代にあったと推測されるが、考古学的出土はない。
現在存在する中での最古の漢字は、[[殷墟]]から発掘される甲骨などに刻まれた甲骨文字である<ref>[http://www.um.u-tokyo.ac.jp/DM_CD/DM_CONT/KOKOTSU/HOME.HTM 甲骨文字,東京大学総合研究博物館]</ref>。その内容は[[殷]]王朝第22代[[武丁]]のころから書かれたものであるため、それ以前には[[新石器時代]]の[[遺跡]]等で発見される記号はあっても、文字として使用できる漢字ができあがったのは紀元前1300年ごろのことだと考えられる<ref name="AT3">[[漢字#藤堂(上)(1986|藤堂(上)1986、p.3-4 漢字の誕生]]</ref>。この甲骨文字は物の見たままを描く[[象形文字]]であり、当時の甲骨文字は[[絵]]に近い様相を持つものも多かった。その一方で、ある種の事態を表現する[[動詞]]や[[形容詞]]の文字も存在した。たとえば、「立」の原型である人が地面を表す横棒の上に書かれた字(指示文字)、女性が子供をあやす様から「好」や、人が木の袂(たもと)にいる様から「休」などの字(会意文字)も既に含まれていた<ref name="AT4">[[漢字#藤堂(上)(1986|藤堂(上)1986、p.4-6 漢字のなりたち]]</ref>。さらに、同音の単語をすでにある別の字で表す代用字もあり、たとえば鳥の羽を示す「翼」の原型は、同音で次のことを示す単語に流用され、これがのちに「翌」となった<ref name="AT4" />。このように、すでに現在の漢字の書体に似通っている部分が見受けられ、非常に発展したものであり、おそらくはこれ以前から発展の経路を辿ってきたものとみられる。最古の漢字には左右や上下が反転したものや、絵や記号に近い部品がつけられているものなど、現在の常識では考えられない(当然ながら現在では使用されていない)漢字が存在する<ref>[http://www.sf.airnet.ne.jp/~ts/language/coelacanth.html 漢字のシーラカンス]より抜粋。</ref>。その後、[[青銅器]]に鋳込まれた[[金文]]という文字が登場した。「NHKスペシャル 中国文明の謎第2集 漢字誕生」では、古代メソポタミアの文字が商取引の記録から始まっているのに対して、政治の方針を決めるための占いの用途で、骨(これまでに14,000体の殷の生贄の犠牲となった人骨が出土)に刻むために使われ始めた漢字は、文字としてはきわめて特殊なルーツであったとしている。たとえば、白は人間の頭蓋骨の白に由来する象形文字である。このように、鬼神と王を繋ぐための手段として、初期の漢字は始まった<ref>[https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2012044292SA000/ 『NHKスペシャル 中国文明の謎第2集 漢字誕生 王朝交代の秘密』]2012年</ref>。
[[周]]の時代になると、外交や商取引など多くの用途に漢字が使われるようになり、それまでの種類だけでは足りなくなった。そこで多くの新しい漢字が作られた<ref>[https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2012044292SA000/ 『NHKスペシャル 中国文明の謎第2集 漢字誕生 王朝交代の秘密』]2012年、43:00</ref>。中国では「清らかで澄んだ」様子を「セイ(tseng)」と呼び、新芽が井戸端に生えた様子から「青」に連なる象形文字を用いた。この「セイ」という発音と文字「青」は形容詞だけでなく「清らかで澄んだ」ものを呼ぶさまざまな名詞にも使われたが、これらにもそれぞれの漢字が割り当てられるようになった。水が「セイ」ならば「清」、日差しが「セイ」ならば「晴」などである。このような漢字の一群を「漢字家族」と言う。侖(liuan-luan、リン-ロン)も短冊を揃えた様子から発し「揃えたもの」を示す象形文字だが、これも車が揃えば「輪」、人間関係が整っておれば「倫」、理論整然としていれば「論」という漢字が作られた。このように、音符に相当する「青」「侖」などと、意味の類別を表す意符が組み合わさった「形声文字」が発達した<ref name="AT6">[[#藤堂(上)(1986|藤堂(上)1986、p.6-9 漢字の増殖]]</ref>。紀元100年ごろに[[後漢]]の[[許慎]]が著した『[[説文解字]]』は中国初の字書であり、9,353字の漢字について成り立ちを解説しているが、この中の約8割は形声文字である<ref name="AT6" />。このような文字形成の背景には、中国では事物を感性的にとらえ、枠にはめ込む習慣が影響しているともいう。このため、[[音素文字]]や[[単音文字]]を作り出す傾向が抑えられたと考えられる<ref name="AT6" />。
周が混乱の時代を迎えると、漢字は各地で独自の発展をすることになる。その後、意義・形ともに抽象化が進み、[[春秋戦国時代]]になると地方ごとに通用する字体が違うという事態が発生した。そして天下を覇した[[秦]]の[[始皇帝]]が字体統一に着手<ref name="AT12">[[#藤堂(上)(1986|藤堂(上)1986、p.12-15 権力と行政]]</ref>、そして生まれたのが[[小篆]]である。秦は西周の故地を本拠地にしたのであり、その文字は周王朝から受け継がれたものだったため、その系統性が保持されたといえる。
小篆は尊厳に溢れ難解な書式だった。秦、そして後の[[漢]]代になると、下級役人を中心に使いにくい小篆の装飾的な部分を省き、曲線を直線化する変化が起こり、これが[[隷書]]となった。[[毛筆]]で書かれる[[木簡]]や[[竹簡]]に書き込む漢字から始まった隷書は、書物から[[石碑]]に刻まれる字にまで及んだ<ref name="AT19">[[#藤堂(上)(1986|藤堂(上)1986、p.19-21 権力と行政]]</ref>。この隷書を走り書きしたものは「草隷」と呼ばれたが、やがてこれが[[草書]]となった<ref name="AT19" />。一方で、隷書をさらに直線的に書いたものが[[楷書]]へ発達し、これをさらに崩して[[行書]]が生まれた<ref name="AT19" />。
なお、隷書から楷書ができてそれをくずす形で草書と行書ができたという説があるが現在ではこの見解は定説から外れており、『総合百科事典[[ポプラディア]]第三版』でも誤りとして修正されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://kodomottolab.poplar.co.jp/hello-poplardia/correction-information/dl/seigo-poplardia3rd-04.pdf |title=『総合百科事典ポプラディア第三版』(第1刷)正誤表 訂正4巻 |access-date=2022-01-24 |publisher=[[ポプラ社]]}}</ref>。
[[六朝]]から[[唐]]の時代には書写が広まり、個人や地域による独特の崩れが発生するようになったが、[[科挙]]の制では「正字」という由緒正しい漢字が求められたが、一般庶民では「通字」や「俗字」と呼ばれる漢字が多く使われた<ref name="AT19" />。[[宋 (王朝)|宋]]の時代には[[手工業]]者や[[商人]]など文字を仕事で使う層が台頭し、俗字が幅広く用いられた<ref name="AT19" />。さらに木版技術の発展により、楷書に印刷書体が生まれ、[[宋朝体]]と呼ばれる[[書体]]が誕生した。[[明代]]から[[清代]]にかけて、[[康熙字典]]に代表される[[明朝体]]が確立した。
現在、[[本|書籍]]や[[テキスト|コンピューター文書]]などの印刷に使用されている漢字の書体は[[明]]の時代に確立された明朝体が中心である。この起源を遡ると、[[後漢]]末期に確立された[[楷書]]に行き着く。
現代中国ではさらに簡素化を進めた[[簡体字]]が使われる。「飛」→「飞」のような大胆な省略、「機」→「机」のような同音代替、「車」→「车」のような草書体の借用から、「從(従)」→「从」のような古字の復活まである。基本的に10画以下に抑えるため、民間に流布していた文字のほかに、投書を集め「文字改革委員会」が選択することで決められた<ref name="AT19" />。
== 字形 ==
=== 書体 ===
[[文字]]は書く道具、書かれる媒体、書く速度、書き方などにより字形の様式を変えることがある。この様式の違いが文字体系全体に及ぶ場合、これを[[書体]]と呼ぶ。現在、使われている漢字の書体には[[篆書]]・[[隷書]]・[[草書]]・[[行書]]・[[楷書]]の五体があり、楷書の印刷書体として広く使われているものに[[明朝体]]がある。
{| class="wikitable"
|-
! [[甲骨文]]
! [[金文]]
! 大[[篆書]]
! 小[[篆書]]
! [[隷書]]
! [[楷書]]
|-
| [[ファイル:馬-oracle.svg|60px]]
| [[ファイル:馬-bronze.svg|60px]]
| [[ファイル:馬-bigseal.svg|60px]]
| [[ファイル:馬-seal.svg|60px]]
| [[ファイル:馬-clerical.svg|60px]]
| [[ファイル:馬-kaishu.svg|60px]]
|}
なお、各書体発展の経緯については[[#歴史]]を参照されたい。
=== 字体 ===
漢字は点や横棒、縦棒などの[[筆画]]を組み合わせて作られている。ある漢字がほかの漢字から区別される筆画の組み合わせを[[字体]]と呼ぶ。
==== 構成要素 ====
漢字は、[[筆画]]、[[筆順]]、[[偏旁]]、偏旁の配置構造という構成要素を持つ。この構成方法の違いによって1つの[[字体]]を形成する。漢字は点や線で表される筆画の組み合わせで作られるが、必ずしも一字一字が形態として独特であるわけではなく、複数の漢字に共通の部分が存在する。これを[[偏旁]]といい、'''[[偏]]'''・'''[[旁]]'''・'''[[冠 (漢字)|冠]]'''・'''[[脚 (漢字)|脚]]'''・'''[[構]]'''・'''[[垂れ (漢字)|垂]]'''・'''[[繞]]'''などの呼び名が、字の構成上の位置などに基づいて、これらの共通部分に与えられる。非常に単純な構成の漢字を除けば、多くの漢字はこれらの共通部分を少なくとも1つ、含んでいる。また、共通部分は、場合によってはそれ自体が独立した文字としても存在している場合もある。これらのうち、一部の共通部分は[[部首]]と呼ばれ、漢字の[[分類]]、[[検索]]の手がかりとして重要な役割を果たす。
==== 造字構造 ====
漢字は造字および運用の原理を表す'''[[六書]]'''([[指事]]・[[象形]]・[[形声]]・[[会意]]・[[転注]]・[[仮借]])に基づき、[[象形文字]]・[[指事文字]]・[[会意文字]]・[[形声文字]]に分類される。漢字の85%近くが形声文字と言われている。
日本の[[国字]]は、それぞれの部首が本来持つ意味を解釈して新たに組み合わせて、会意に倣って作られたものが多いといわれる。
==== 異体字 ====
[[画像:Ryakuji.png|thumb|600px|左から1.第 2.門 3.点 4.職 5.曜 6.前 7.個 8.選 9.濾 10.機 11.闘 12.品,器 13.摩、魔の略字例]]
漢字には同じ語を表すのに異なる字体を用いる場合がある。たとえば、「からだ」を意味する「タイ」という音をもつ漢語には「體」「体」「軆」「躰」という何通りかが当てられるが、これらは同じ漢字の異なる字体とされる。
互いに同じ意味と音を表しても字体を異にする字を異体と呼ぶ。異体字のあいだで、正式に用いられる字体を正字または本字と呼ぶ。本字の認定は時代や国によって異なっている。一方、民間で広く使われているが、正字とは認められない異体字を俗字と呼ぶ。また正字を簡略化してできた異体字を[[略字]]と呼ぶことがある。
[[ファイル:Hanzi.svg|thumb|right|左が繁体字、右が簡体字]]
戦後、中国でも日本でも漢字改革が行われ、異体字間でも簡単な字体を正字としたり、新しく簡略化した字体を作ったりした。中国では字形の複雑さを基準に元の正字を[[繁体字]]、簡化された字体のものを[[簡体字]]と呼んでいる。簡体字は1956年の「漢字簡化方案」公布以降、正式に用いる字体として選ばれている。一方、日本では1946年の「当用漢字表」と1949年の「当用漢字字体表」で簡略化された字体を定め、以後、使用してきた。このため「当用漢字表」以後に用いられた字体を[[新字体]]、それ以前に用いられた字体を[[旧字体]]と呼んでいる。繁体字・旧字体と、簡体字・新字体とは「體」と「体」、「萬」と「万」のようにまったく字形の異なる俗字を採用したものもあるが、「聲」と「声」、「醫」と「医」のように一部を使ったものや、「學」と「学」のように一部の字形が変形されたものが多い。
=== 字書 ===
{{Main|字書}}
字形の分析は[[許慎]]の『[[説文解字]]』に始まる。ただし、そこで求められていたものは字の本義と解字を探ることであり、古典解釈学のためであって、親字には、おもに[[小篆]]が用いられている。しかし、その[[部首]]法や六書、古字・異体字の分別など後世に大きな影響を与えている。このような字形によって分類された辞典を'''[[字書]]'''という。『説文解字』は540部首で小篆9,353字および重文1,163字を扱っている。『説文解字』を発展させたものに[[梁 (南朝)|梁]]の[[顧野王]]の『[[玉篇]]』がある。『玉篇』は、字義を分類して示すとともに、[[反切]]による字音情報がつけられ、親字は隷書体に改められている。542部首で12,824字を扱っている。『玉篇』は日本での字書の成立に影響を及ぼしている。
こういった解字を重視した部首法をとる字書に対して、検字という実用的な目的から部首法を発展させた字書が現れるようになった。その濫觴は[[遼]]の僧侶[[行均]]の『[[龍龕手鑑]]』であり、『説文解字』が篆書に従って部首を立てたのに対して、[[楷書体]]の字形によって部首を立てなおし、字形を字源から切り離して記号として扱い、さらに部首字を[[声調]]によって4巻に分けることがなされている。『龍龕手鑑』は240部首で26,430字あまりを扱っている。その後、[[金 (王朝)|金]]の韓孝彦・韓道昭によって『[[五音篇海]]』が作られた。その特徴は部首字を[[五音]][[三十六字母]]と[[声調]]によって配列したことであり、また部分的にではあるが部首以外の部分の[[筆画]]数順に字が並べられている。444部首で54,595字を扱った。[[明]]の[[万暦]]43年([[1615年]])梅膺祚(ばいようそ)によって作られた『[[字彙]]』はその後の字書の規範となる画期的な字書であった。部首の統合整理を行って214部首で33,179字を扱い、部首字および各部首に属する親字を筆画数順に配列したのである。その方法は214部首49,000字あまりを収録した清の『[[康熙字典]]』に継承された。
== 字音 ==
{{音韻学}}
=== 構成 ===
漢字1字は中国語の1[[音節]]を表す。中国語の音節構造は「([[子音]])+ [[母音]] +(子音)」である。現代の中国語では[[英語]]のように多重子音はない。また母音は[[三重母音]]まである。
中国の伝統的な音声言語学である[[中国音韻学|音韻学]]の分類では、語頭子音・ゼロ子音を'''[[声母]]'''、母音または母音+語尾子音を'''[[韻母]]'''という。さらに、中国語は1音節の音の高低で意味を区別する[[トーン言語]]であり、この音の高低の違いを'''[[声調]]'''という。つまり、漢字音は「声母」「韻母」「声調」(略して声・韻・調)の3つの要素によって構成されると考えられた。
=== 字音研究史 ===
古代の漢字音の情報は、詩など韻文にある[[押韻]]や漢字を韻母別に分類した「[[韻書]]」によって得られる。
最古の韻書は[[3世紀]]の『[[声類]]』とされているが、散逸しており、詳細は不明である。広く一般に通用した最初の韻書は[[7世紀]]の韻書『[[切韻]]』である。それ以前の漢字音は『[[詩経]]』の押韻などを元に復元が試みられており、'''[[上古音]]'''と呼ばれる。中国の字音は、この上古音、『切韻』に代表される'''[[中古音]]'''、[[14世紀]]の韻書『[[中原音韻]]』に代表される'''[[近世音]]'''、および現行の'''現代音'''に分類されている。
古代漢字音復元の基準とされているのは中古音であり、日本の漢和辞典にも反切や詩韻で中古音が示されている場合が多い。'''[[反切]]'''とは韻書や古典の注釈書で使用されている漢字音表記法で、前の漢字の声母と後ろの漢字の韻母と声調を組あせて表記する。たとえば「漢」は「暁翰」、「字」は「従志」であり、「漢」は「暁」の声母と「翰」の韻母と声調を、「字」は「従」の声母と「志」の韻母と声調を組み合わせた音であったと推測される。
反切の声母の代表として使う漢字を'''[[字母]]'''と呼ぶ。字母は'''[[五音]]'''に基づき[[唐]]では三十字母、[[宋 (王朝)|宋]]では'''三十六字母'''が整理された。韻母に関しては『切韻』を宋代に増補改訂した『[[広韻]]』では'''二百六韻'''が韻目に立てられたが、時代や地域を無視してたくさん作られていると言われている。その後、[[金 (王朝)|金]]の[[王文郁]]の『平水新刊韻略』が立てた'''[[平水韻]]'''106韻がその後の[[漢詩]]の押韻にとっては規範とされた。
また漢字のほとんどが形声文字であり、それは通常、左側の偏や上側の冠を意符、右側や下側の旁を音符とするが、宋代以降、旁にあらわされている字音こそが基本義を表しているのだとする「[[右文説]]」が唱えられた。[[20世紀]]に入り、スウェーデンの言語学者[[ベルンハルド・カールグレン]]や日本の[[藤堂明保]]が上古音の声母の分類による単語家族の語源分析を行っている。
== 字義 ==
=== 字義の特徴 ===
漢字1字は大体において1つの[[形態素]]を表す。これは古代中国語の1音節が1形態素を表すためである。ただし、古代中国語の中でも[[外来語]]や[[オノマトペ]]には2音節1形態素の構造を持つものがあり、これを[[連綿語]]という。連綿語は意味は1つであるが、音節数に従って漢字2字が当てられる。たとえば「葡萄」「琵琶」「彷彿」「恍惚」などがある。この場合の1つの漢字はもう1つの漢字と区別されるような1つの意味を持たず、[[表音文字]]的な要素が強い。逆に1音節2形態素を表す語もある。これはもともと2つの音節であったものが縮約されて1音節になったものである。これを[[縮約語]]といい、漢字1字が当てられる。たとえば之於(シオ)→諸(ショ)、不可(フカ)→{{JIS2004フォント|叵}}(ハ)、而已(ジイ)→耳(ジ)などである。この場合、1つの漢字に2つの意味があることになる。
単語がその意味を歴史的・地理的に変化させるのと同様、語を表している漢字はその字義を歴史的・地理的に変化させている。
=== 字義研究史 ===
字義は本義・引申義・仮借義などに分けられて分析されてきた。字義を研究する中国伝統の学問は[[訓詁学]]である。
'''本義'''とはその字が持つ基本的な意味である。歴史的に考察すれば語源ということになる。本格的な本義研究は[[後漢]]の[[許慎]]『[[説文解字]]』に始まる。その方法は字形から本義を探るというものである。これを'''形訓'''とも呼ぶ。六書という造字法が本義分析に大きな役割を果たした。それは20世紀甲骨文字の研究に際しても大きな役割を果たしている。また後漢末、劉熙の『[[釈名]]』は、本義を音声に求めた。これを[[声訓]]という。たとえば「日(ジツ)は実(ジツ)である。光輝いて充実しているからである」「月(ゲツ)は欠(ケツ)である。満ちて欠けるからである」といったものである。声訓の方法論は宋代以降の「右文説」や20世紀カールグレンや藤堂明保の音声による語源分析に発展していった。
'''引申義'''とは、本義から引き伸ばされて、つまり派生してできた意味である。たとえば「長」の本義は長短の意味で距離的に「ながい」ことを表すが、引申されて長久の意味、時間的にながいことも意味するようになる。さらにそれは植物の生長の意味に引申され、さらに人間の成長を意味するようになり、長幼の区別を生じ、長老、首長へと引申されていったと考えられる。引申義の研究は、現代の語彙研究に相当する。それは古典の注釈で使われて訓詁学から発展し、[[前漢]]には[[同義語]]を分類した『[[爾雅]]』という書物にまとめられ、これにより古語や俗語などが系統的に整理された。また[[前漢]]の[[揚雄]]は『[[方言 (辞典)|方言]]』を著し、同時代の地域言語を列挙して共通語でまとめている。
'''仮借義'''(かしゃぎ)とは、ある語を表すのに同音または音が近い字を借用することを[[仮借]]というが、字義の中で仮借によってできたものをいう。たとえば「求」の本義は「かわごろも」であるが、「もとめる」の意味を持つ同音語に仮借された。やがて「もとめる」の方が基本義となってくると本義は「裘」という別に漢字を作られるようになった。仮借は『説文解字』の六書で用字法の1つに挙げられたものである。これにより、字義に本義とまったく関係のないものがあることを説明できる。
== 文字の体系 ==
{{Infobox WS
| name = 漢字
| type=[[表語文字]]
| time = [[紀元前15世紀]]以前-現在
| languages = [[中国語]]<br>日本語([[仮名 (文字)|仮名]]との併用)<br>[[琉球諸語]](仮名との併用)<br>[[朝鮮語]]([[ハングル]]との併用)<br>[[ベトナム語]]([[チュノム]]との併用、近代以前)<br>[[ミャオ語派]]<br>[[モンゴル語]](13世紀 - 15世紀)
| fam1 = 不明
| children = [[平仮名]]<br/>[[片仮名]]<br/>[[チュノム]]<br/>[[西夏文字]]<br/>[[契丹文字]]<br/>[[女真文字]]<br/>[[古壮字]]<br/>[[注音符号]]
| unicode = CJK[[部首]]補助:<br />[https://www.unicode.org/charts/PDF/U2E80.pdf U+2E80-U+2EFF]<br/>[[康熙字典|康熙部首]]:<br />[https://www.unicode.org/charts/PDF/U2F00.pdf U+2F00-U+2FDF]<br/>CJK統合漢字拡張A:<br />[https://www.unicode.org/charts/PDF/U3400.pdf U+3400-U+4DBF]<br/>[[CJK統合漢字]]:<br />[https://www.unicode.org/charts/PDF/U4E00.pdf U+4E00-U+9FFF]<br/>[[CJK互換漢字]]:<br />[https://www.unicode.org/charts/PDF/UF900.pdf U+F900-U+FAFF]<br/>CJK統合漢字拡張B:<br />[https://www.unicode.org/charts/PDF/U20000.pdf U+20000-U+2A6DF]<br/>CJK統合漢字拡張C:<br />[https://www.unicode.org/charts/PDF/U2A700.pdf U+2A700-U+2B73F]<br />CJK統合漢字拡張D:<br />[https://www.unicode.org/charts/PDF/U2B740.pdf U+2B740-U+2B81F]<br />CJK統合漢字拡張E:<br />[https://www.unicode.org/charts/PDF/U2B820.pdf U+2B820-U+2CEAF]<br />CJK統合漢字拡張F:<br />[https://www.unicode.org/charts/PDF/U2CEB0.pdf U+2CEB0-U+2EBEF]<br />CJK統合漢字拡張G:<br />[https://www.unicode.org/charts/PDF/U30000.pdf U+30000-U+3134F]<br />CJK互換漢字追加:<br />[https://www.unicode.org/charts/PDF/U2F800.pdf U+2F800-U+2FA1F]
| iso15924=Hani
}}
{{要出典範囲|漢字とは由来を異にする、漢字に似せた文字を「擬似漢字」([[契丹文字]]、[[女真文字]]、[[西夏文字]]など)、漢字に由来する文字を「派生漢字」([[仮名 (文字)|仮名]]など)と呼ぶことがある|date=2021年12月}}。
=== 国字・派生文字 ===
{{See also|国字}}
* 中国[[白話字]]、[[方言字]]、[[簡体字]]、[[繁体字]]
* [[和製漢字]](日本生まれの漢字)、[[旧字体]]、[[新字体]]
* [[朝鮮国字]](朝鮮生まれの漢字)
* [[ベトナム]]の[[チュノム]]([[字喃]])(現在は使われていないベトナム国字)
** {{仮リンク|タイーノム|zh|岱喃字}}
* [[チワン族]]の[[古壮字]]([[方塊壮字]])(現在は使われていない)
* [[水族]]の[[水字]](現在は使われていない)
* [[ペー族]]の[[方塊ペー字]](現在は使われていない)
* [[プイ族]]の[[方塊プイ字]]
* [[ヤオ族]]の女性の[[女書]]
* [[契丹文字]](漢字とウイグル文字より)
* [[女真文字]](漢字と契丹文字より)
* [[西夏文字]]
* 日本語の[[仮名 (文字)|仮名]]([[平仮名|ひらがな]]、[[片仮名|カタカナ]]、[[変体仮名]])
** [[アイヌ語仮名]]
** [[台湾語仮名]]
* [[注音符号]](注音字母)(中国語の音標文字)
* [[蘇州号碼]](中国の算用数字)
* [[琉球古字]] (諸説あり。[[甲骨文字]]より)
=== 直接的に漢字に由来しない周辺地域の文字 ===
* 朝鮮語の[[ハングル]]
* ベトナム語の[[クオック・グー]]([[ラテン文字]])
* [[イ族]]の[[彝文字]](ロロ文字とも言う)
* [[ナシ族]]の[[トンパ文字]]
* 中国語の[[小児経]]
== 漢字文化圏 ==
{{see also|漢字文化圏}}
; [[日本における漢字]]
: [[戦後]]からは[[新字体]]を使用する。[[音読み]]、[[訓読み]]と日本にだけ2種類の読み方があるため文面から発音を予測するのが難しい。
; [[朝鮮における漢字]]
: [[韓国]]では[[ハングル]]との併用を経由して、現代ではほとんど用いられなくなっている。[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]では[[漢字廃止論|漢字を廃止]]して、朝鮮語用の文字である[[ハングル|チョソングル(ハングル)]]だけが用いられている。
; [[チュハン|ベトナムにおける漢字]]
: [[中国文化]]の影響を受けた[[ベトナム]]にも漢字が伝わって用いられるようになったが、漢字を元にした独自の文字である[[チュノム]]に変化し複雑化した。近代に入り[[フランス]]の[[フランス植民地帝国|植民地]]になって以後、中国文化圏から切り離されて漢字ではなく「[[クオック・グー]](国語)」と呼ばれる[[ローマ字]]が使用されるようになった。[[ベトナム民主共和国]]成立後は漢字はほとんど用いられていないが、[[ベトナム語]]の単語には漢語の影響が多く残る。[[国文学]]を専攻した者であれば、漢字を解する可能性があるほか、漢字廃止以前に出生した[[高齢者]]の中にも漢字を解する人がいる。
; [[琉球における漢字]]
:
; [[シンガポールにおける漢字]]
: [[シンガポール]]の国民は[[華人]]が多く、[[中国語]]([[普通話]]とほぼ同一である[[シンガポール華語]])は[[公用語]]のひとつであるため、漢字も盛んに用いられる。使用される[[字体]]は、[[簡体字]]が中心である。
; [[マレーシアにおける漢字]]
:
== 筆順や字形 ==
'''漢字には本来、固定された筆順はない'''。日本では戦後教育で使われた、行書の影響を受けたと類推される手引書によって筆順が決められているが、これは決して漢字の決まりではない<ref name="AT2-261">[[#藤堂(下)(1986|藤堂(下)1986、p.261-262 ばかげた筆順の強制]]</ref><ref>[https://www.asahi.com/edua/article/14568837 漢字の「正しい筆順」存在しないのに… 教科書に掲載、入試に出題されることも|漢字学習 どこまで必要?|朝日新聞EduA]</ref>。同様に、「はね」や「止め」または線の長短など字形も良し悪しはなく、1949年(昭和24年)4月に当用漢字字体表が公布された際、[[国語審議会]]は注意事項として「本表の字体は活字用であり、筆写(楷書)を拘束しない」と記している<ref name="AT2-263">[[#藤堂(下)(1986|藤堂(下)1986、p.263 誤った字形教育]]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author =[[藤堂明保]] |title = 漢字の話 上|edition = 第1版第11刷|year = 1986|publisher = [[朝日新聞社]]|isbn = 4-02-259409-8|page = |ref = 藤堂(上)(1986}}
* {{Cite book|和書|author =藤堂明保 |title = 漢字の話 下|edition = 第1版第11刷|year = 1986|publisher = 朝日新聞社|isbn = 4-02-259410-1|page = |ref = 藤堂(下)(1986}}
== 関連項目 ==
{{Sisterlinks
}}{{関連項目過剰|date=2021年8月29日 (日) 20:48 (UTC)}}
* [[蒼頡]] - 漢字の発明者と言われる伝説上の人物
* [[難読漢字]]
* [[漢字廃止論]]
* [[漢字復活論]]
* [[理義字]]
* [[大字 (数字)|大字]]
* [[漢字を使用する言語]]
* [[漢字文化圏]]
* [[CJKV]]
* [[簡体字]]
** [[中国]]
*** [[通用規範漢字表]]
*** [[現代漢語常用字表]](使用停止)
*** [[第二次漢字簡化方案]]
** [[シンガポール]]
*** [[シンガポールにおける漢字]]
** [[マレーシア]]
* [[繁体字]]
** [[台湾]]
*** [[国字標準字体]]
**** [[常用国字標準字体表]] - 別名「甲表」
**** [[次常用国字標準字体表]] - 別名「乙表」
**** [[罕用字体表]] - 別名「丙表」
**** {{仮リンク|異体字表|zh|異體字表}} - 別名「丁表」
** [[香港]]
*** [[常用字字形表]]
** [[マカオ]](澳門)
* [[日本]]
** [[当用漢字]](廃止)
** [[常用漢字]] - [[教育漢字]] - [[人名用漢字]]
** [[表外漢字字体表]]([[印刷標準字体]]) - [[表外漢字字体表の漢字一覧]]
** [[日本漢字能力検定|漢字検定]]
** [[日本における漢字]]
** [[和製漢字]]
** [[国字]]
** [[おもしろ漢字ミニ字典]]
** [[神代文字]]:漢字伝来以前に日本にあったとされる文字。偽作説が有力。
* [[朝鮮]]
** [[朝鮮における漢字]]
** [[朝鮮漢字音]]
** [[漢文教育用基礎漢字]]([[大韓民国]])
** [[人名用漢字#韓国]]、[[朝鮮人の人名#個人名]](漢文教育用基礎漢字+人名用追加漢字表+人名用漢字許容字体表)
* [[ベトナム]]
** [[チュハン]](<span style="font-size:1.5em;font-family: 'SimSun', 'SimSun-ExtB';">𡨸漢</span>) - 漢字
** [[チュノム]](<span style="font-size:1.5em;font-family: 'SimSun', 'SimSun-ExtB';">𡨸喃</span>) - 漢字を応用して作られた文字
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
* [http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~yasuoka/kanjibukuro/ 漢字袋]
* [http://kanjibunka.com/ 大修館書店:漢字文化資料館]
* [http://www.kanjijiten.net/ 漢字辞典ネット]
* [http://ekanji.u-shimane.ac.jp/ 島根県立大学 e漢字]{{リンク切れ|date=2020年10月}} - コード(番号)検索、部首・画数検索、漢音・ピンイン検索、総画数検索。
* [https://kanji.jitenon.jp/ 漢字辞典オンライン]
* [https://chisikiyoku.com/%e6%bc%a2%e5%ad%97%e4%b8%80%e8%a6%a7/ 知識欲ドットコム]
* [http://gattin.world.coocan.jp/kanji/kaindex.htm 漢字の写真字典]
* [https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/index.html 文化庁 国語施策情報]
** [https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/sisaku/enkaku/index.html 国語施策沿革資料]
** [https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kijun/naikaku/kanji/index.html 常用漢字表(平成22年内閣告示第2号)]
* [https://dict.variants.moe.edu.tw/ 教育部異體字字典] - 中華民国(台湾)教育部のオンライン漢字辞典(106,333字、国字含まず)。
* [https://data.gov.tw/dataset/5961 CNS11643中文標準交換碼全字庫] - 中華民国(台湾)国家発展委員会製の漢字フォント(108,060字、国字含み)。ダウンロード:「資料資源下載網址」の「ZIP」→(解凍)「Open_Data」→「Fonts」。
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2,795 | アスンシオン | ヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デ・ラ・アスンシオン(スペイン語: Nuestra Señora Santa María de la Asunción)、またはアスンシオン市(スペイン語: Ciudad de Asunción、グアラニー語: Táva Paraguay)は、パラグアイの首都。郊外の都市とともに、人口200万人を超すアスンシオン都市圏を形成する。名前は「聖母の被昇天 (Asunción de María)」に由来する。アメリカ合衆国の首都のワシントンD.C.などと同じくアスンシオンはパラグアイのどの州にも属さない特別区になっている。高度は約53m。
パラグアイ川の東岸に位置し、港が設置されている。市の中心付近には高層建築が見られるがそれ以外には10階以上の建築物は少ない。
Mercer Human Resource Consultingの発表によると、5年連続で世界一物価の安い都市となっている。(2007年現在)
1537年に、ラプラタ川からアルト・ペルー(現在のボリビア)への陸路を探す遠征の途上に、フアン・デ・サラサール(スペイン語版、英語版) (Juan de Salazar) らによって建設された。当初は砦であり、1541年に先住民の攻撃のため放棄されたブエノスアイレスからの避難者を迎え、市としての体裁が整えられた。市は南米の都市の中でも歴史の古い部類に属し、スペイン人やクリオーリョたちに大陸中南部の征服と植民地建設の足掛かりを提供した。同市からの植民団がラプラタ川流域内外の広い範囲に都市を建設したため、諸都市の母 (Madre de Ciudades) と呼ばれる。 1731年アンテケラ=イ=カストロ (José de Antequera y Castro) の率いる市民がスペインの支配に対して蜂起した。
三国同盟戦争(1865年-1870年)中の1869年、市はブラジルの軍隊に占領され、首都はルケに、さらにそこも危険になると60kmほど東のピリベブィ (Piribebuy) に移転した。戦後、ロペス政権によって国外に追放されたりヨーロッパに留学したりしていた人々が帰国し、ブラジルの傀儡政権を立てた。国の成人男性が戦死・病死・無差別な殺戮によって著しく減少していたからである。ブラジル軍の占領は1876年まで続いた。
アスンシオンは、温暖湿潤気候と熱帯気候の境界線にあり、暑くて湿度の高い夏と、温和な冬に特徴がある。夏の相対湿度は高く、熱指数は実際の気温よりも高い。 年間平均気温は、23 °C (74°F)であり、年間平均降水量は1,400 mmで、年に80日以上雨が降る。 アスンシオンは、4月と9月の間にとても短い乾季があるが、最も気温が低いのは6月と7月である。それ以外の時期は雨季である。 | [
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"title": "気候"
}
] | ヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デ・ラ・アスンシオン、またはアスンシオン市は、パラグアイの首都。郊外の都市とともに、人口200万人を超すアスンシオン都市圏を形成する。名前は「聖母の被昇天 (Asunción de María)」に由来する。アメリカ合衆国の首都のワシントンD.C.などと同じくアスンシオンはパラグアイのどの州にも属さない特別区になっている。高度は約53m。 | {{Expand language|langcode=es|langcode2=en|date=2023年5月}}{{世界の市
|正式名称 = アスンシオン市
|公用語名称 = {{Lang|es|Ciudad de Asunción}}<br/>{{flagicon|Paraguay}}<!--必須-->
|愛称 =
|標語 =
|画像 =Asuncion Montage.jpg
|画像サイズ指定 =
|画像の見出し =
|市旗 = Flag of Asunción.svg
|市章 = Escudo de Asunción (Paraguay).svg
|位置図 =Pa-map.png
|位置図サイズ指定 =
|位置図の見出し = パラグアイ内のアスンシオンの位置
|位置図B = {{Location map|Paraguay#South America|relief=1|float=center|label=アスンシオン}}
|位置図2B= {{Maplink2|zoom=11|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=270|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|frame-latitude=-25.30|frame-longitude=-57.605}}
|緯度度= 25|緯度分= 17|緯度秒= 47|N(北緯)及びS(南緯)= S
|経度度= 57|経度分= 38|経度秒= 29|E(東経)及びW(西経)= W
|成立区分 = 建設
|成立日 = [[1537年]]8月15日
|旧名 =
|創設者 =
|下位区分名 ={{PRY}}
|下位区分種類1 = [[パラグアイの行政区画|県]]
|下位区分名1 =
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|下位区分名2 =
|下位区分種類3 =
|下位区分名3 =
|下位区分種類4 =
|下位区分名4 =
|規模 = 市<!--必須-->
|最高行政執行者称号 =
|最高行政執行者名 =
|最高行政執行者所属党派 =
|総面積(平方キロ) = 117
|総面積(平方マイル) = 45.2
|陸上面積(平方キロ) =
|陸上面積(平方マイル) =
|水面面積(平方キロ) =
|水面面積(平方マイル) =
|水面面積比率 =
|市街地面積(平方キロ) =
|市街地面積(平方マイル) =
|都市圏面積(平方キロ) = 1000
|都市圏面積(平方マイル) = 400
|標高(メートル) = 43
|標高(フィート) = 141
|人口の時点 = 2016年
|人口に関する備考 =
|総人口 = 525,294<ref name="msn">{{cite encyclopedia|url=http://encarta.msn.com/fact_631504839/paraguay_facts_and_figures.html |title=Paraguay Facts and Figures |encyclopedia=MSN Encarta|accessdate=2009-07-07|archiveurl=https://webcitation.org/5kwKnRO5X|archivedate=2009-10-31|deadurl=yes}}</ref>
|人口密度(平方キロ当たり) = 4,411
|人口密度(平方マイル当たり) = 11,420
|市街地人口 =
|市街地人口密度(平方キロ) =
|市街地人口密度(平方マイル) =
|都市圏人口 = 2,198,662
|都市圏人口密度(平方キロ) =
|都市圏人口密度(平方マイル) =
|等時帯 = UTC-4
|協定世界時との時差 =-4
|夏時間の等時帯 = UTC-3
|夏時間の協定世界時との時差 =-3
|郵便番号の区分 =
|郵便番号 =
|市外局番 =
|ナンバープレート =
|ISOコード = PY-ASU
|公式ウェブサイト = [https://www.asuncion.gov.py/ www.asuncion.gov.py]
|備考 =
}}
'''ヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デ・ラ・アスンシオン'''({{Lang-es|Nuestra Señora Santa María de la Asunción}})、または'''アスンシオン市'''({{Lang-es|Ciudad de Asunción}}、{{Lang-gn|Táva Paraguay}})は、[[パラグアイ]]の首都。郊外の都市とともに、人口200万人を超すアスンシオン都市圏を形成する。名前は「[[聖母の被昇天]] ({{Lang|es|Asunción de María}})」に由来する。[[アメリカ合衆国]]の首都の[[ワシントンD.C.]]などと同じくアスンシオンはパラグアイのどの州にも属さない特別区になっている。高度は約53m。
== 概要 ==
[[ファイル:Calle palma asuncion.jpg|left|thumb|中心部カレパルマ通り]]
[[パラグアイ川]]の東岸に位置し、港が設置されている。市の中心付近には高層建築が見られるがそれ以外には10階以上の建築物は少ない。
Mercer Human Resource Consultingの発表によると、5年連続で世界一物価の安い都市となっている。([[2007年]]現在)
{{Clearleft}}
== 歴史 ==
[[ファイル:Asunción del Paraguay 1892.jpg|thumb|left|[[1892年]]のダウンタウン]]
[[1537年]]に、[[ラプラタ川]]から[[アルト・ペルー]](現在の[[ボリビア]])への陸路を探す遠征の途上に、{{仮リンク|フアン・デ・サラサール|es|Juan de Salazar|en|Juan de Salazar de Espinosa}} (Juan de Salazar) らによって建設された。当初は砦であり、[[1541年]]に先住民の攻撃のため放棄された[[ブエノスアイレス]]からの避難者を迎え、市としての体裁が整えられた。市は南米の都市の中でも歴史の古い部類に属し、スペイン人や[[クリオーリョ]]たちに大陸中南部の征服と[[植民地]]建設の足掛かりを提供した。同市からの植民団がラプラタ川流域内外の広い範囲に都市を建設したため、諸都市の母 ({{Lang|es|Madre de Ciudades}}) と呼ばれる。
[[1731年]]アンテケラ=イ=カストロ (José de Antequera y Castro) の率いる市民が[[スペイン]]の支配に対して蜂起した。
[[三国同盟戦争]]([[1865年]]-[[1870年]])中の[[1869年]]、市は[[ブラジル]]の軍隊に占領され、首都は[[ルケ]]に、さらにそこも危険になると60kmほど東のピリベブィ (Piribebuy) に移転した。戦後、ロペス政権によって国外に追放されたりヨーロッパに留学したりしていた人々が帰国し、ブラジルの傀儡政権を立てた。国の成人男性が戦死・病死・無差別な殺戮によって著しく減少していたからである。ブラジル軍の占領は[[1876年]]まで続いた。
=== アスンシオンからの植民団により建設された主な都市 ===
*[[サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ]](ボリビア)[[1561年]]
*サンタフェ(アルゼンチン)[[1573年]]
*[[ブエノスアイレス]](アルゼンチン)[[1580年]](再建)
*コリエンテス(アルゼンチン)[[1588年]]
*コンセプシオン(パラグアイ)[[1620年]]
== 隣接する県 ==
* [[プレシデンテ・アイェス県]]
* [[中央県 (パラグアイ)|中央県]]
* {{flagicon|アルゼンチン}} [[フォルモサ州]]
== 気候 ==
アスンシオンは、[[温暖湿潤気候]]と[[熱帯]]気候の境界線にあり、暑くて湿度の高い夏と、温和な冬に特徴がある。夏の相対湿度は高く、熱指数は実際の気温よりも高い。
年間平均気温は、23 °C (74°F)であり、年間平均降水量は1,400 mmで、年に80日以上雨が降る。
アスンシオンは、4月と9月の間にとても短い[[乾季]]があるが、最も気温が低いのは6月と7月である。それ以外の時期は[[雨季]]である。
{{Weather box|location = アスンシオン (1971-2000)
|metric first = Yes
|single line = Yes
|Jan record high C = 42.0
|Feb record high C = 39.6
|Mar record high C = 39.6
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|Jun record high C = 32.4
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|Jan high C = 33.5
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|year record low C = -1.2
|Jan rain mm = 147.2
|Feb rain mm = 129.2
|Mar rain mm = 117.9
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|year rain mm =
|Jan humidity= 68
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|year humidity = 70
|unit precipitation days = 1.0 mm
|Jan precipitation days = 8
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|Mar precipitation days = 7
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|Jan sun = 276
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|year sun =
|source 1 = World Meteorological Organization<ref name=WN>{{cite web
|url=http://worldweather.wmo.int/138/c00292.htm
|title= World Weather Information Service - Asuncion
|publisher = World Meteorological Organization
|accessdate=November 8, 2012
|language=}}</ref>
|source 2 = NOAA updated to 9/2012.,<ref name= NOAA>{{cite web
|url = ftp://dossier.ogp.noaa.gov/GCOS/WMO-Normals/RA-III/PY/86218.TXT
|title = ASUNCION Climate Normals 1961-1990
|publisher = National Oceanic and Atmospheric Administration
|accessdate = November 8, 2012}}</ref> Danish Meteorological Institute (sun only)<ref name=DMI>{{cite web
| url = http://www.dmi.dk/dmi/tr01-17.pdf
| work = Climate Data for Selected Stations (1931-1960)
| title = Paraguay - Asuncion (pg 208)
| publisher = Danish Meteorological Institute
| language = Danish
| accessdate = December 18, 2012 }}</ref>
|date=March 2012}}
==交通==
*[[シルビオ・ペッティロッシ国際空港]]:同市の北東約20kmの近郊のルケにある。パラグアイ最大の空港である。
*市内の公共交通は専ら[[バス (交通機関)|バス]]が使用される。郊外に大きなバスターミナルが存在し、[[シウダ・デル・エステ]]など同国内の主要都市や近隣諸国の主要都市とを結ぶバスが頻繁に発着している。市街中心地とバスターミナルを結ぶ路線バスは同市でもっとも大きな市場であるメルカド4を経由する。
*一部地区には[[路面電車]]も存在するが運休している。[[パラグアイの鉄道|鉄道]]はアスンシオン-アレグア間、アスンシオン-[[エンカルナシオン]]間に存在するが、ウパカライ (Ypacaraí) - サプカイ (Sapucaí) 間のみ運行の不定期の観光列車を除き貨物列車が主力。この鉄道は新たに[[ライトレール|LRT]](ライトレール路線)として生まれ変わる計画が進んでいる。
== 姉妹都市 ==
<div style="float:left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right:8em;">
*{{Flagicon|CHI}} [[イキケ]]、[[チリ]]
*{{Flagicon|JPN}} [[千葉市]]、[[日本]]
*{{Flagicon|ARG}} [[ブエノスアイレス]]、[[アルゼンチン]]
*{{Flagicon|ARG}} [[レシステンシア]]、[[アルゼンチン]]
*{{Flagicon|BRA}} [[カンピーナス]]、[[ブラジル]]
*{{Flagicon|BRA}} [[サンパウロ]]、[[ブラジル]]
*{{Flagicon|BRA}} [[クリチバ]]、[[ブラジル]]
</div>
<div style="float:left; vertical-align: top; white-space: nowrap;">
*{{Flagicon|ESP}} [[マドリード]]、[[スペイン]]
*{{Flagicon|COL}} [[ボゴタ]]、[[コロンビア]]
*{{Flagicon|MEX}} [[プエブラ]]、[[メキシコ]]
*{{Flagicon|BOL}} [[ラパス]]、[[ボリビア]]
*{{Flagicon|VEN}} [[カラカス]]、[[ベネズエラ]]
*{{Flagicon|TWN}} [[台北市]]、[[中華民国|台湾]]
*{{Flagicon|URU}} [[モンテビデオ]]、[[ウルグアイ]]
</div>
{{clear|left}}
== 画像 ==
<gallery>
ファイル:Efificios_en_Asunción_Paraguay.jpg|中心街
ファイル:Omnibus-asu.jpg|ダウンタウンを走る市バス
ファイル:Juan Augusto Sosa Ocampos - Título Brillante Asunción.jpg|夜景
ファイル:AsunciónFromTheISS.jpg|衛星写真
ファイル:Distritos de Asunción.png|市内の行政区域
ファイル:Paraguay asuncion---barrios transitoprincipal.svg|主要な幹線道路図
</gallery>
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Asunción|Asunción}}
*[https://aja.org.py/wp/ アスンシオン日本人会 (日本語)]
*[https://www.asuncion.gov.py/ アスンシオン市公式サイト] {{ref-es}}
*{{Wayback|url=http://www.geocities.jp/paraguaymiya/ |title=パラグアイの情報 |date=20190326125548}}
*[http://paraguay.starfree.jp/ アスンシオンに行こう 個人ページ]
*[http://nikkeijournal.blog39.fc2.com/ 日系ジャーナル(パラグアイの日本語新聞社)]
{{パラグアイの行政区画}}
{{アメリカの首都}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あすんしおん}}
[[Category:アスンシオン|*]]
[[Category:パラグアイの都市]]
[[Category:南アメリカの首都]]
[[Category:南アメリカの港町]]
[[Category:1537年設立]] | 2003-02-24T05:26:05Z | 2023-12-23T14:23:14Z | false | false | false | [
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"Template:脚注ヘルプ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%B3 |
2,796 | 386BSD | 386BSDとは、4.3BSD Net/2をベースにして、ウィリアム・ジョリッツとリン・ジョリッツ夫妻によって開発された386で動作するUNIXライクなオープンソースのオペレーティングシステムである。
ベースとなった4.3BSD Net/2は、4.3BSD RenoからAT&Tのライセンスが必要な部分を除いて、自由に配付ができるようにしたもので、そのままではオペレーティングシステムとして完全に機能するものではなかった。Jolitz夫妻は4.3BSD Net/2に欠けている機能と386で動作させるのに必要な部分を独自に補い、それを1992年2月に386BSD 0.0としてリリースした。これは、4.3BSD Net/2と同様に、AT&Tのライセンスに縛られる事なく自由に配付できるものであった。1992年7月にはバグを修正した386BSD 0.1がリリースされた。
386BSDは広く利用されたが、386BSD 0.1以降開発が滞った。そのため、ユーザらによって作成されたバグを修正するパッチは膨大な量となり、ユーザらは独自に「Unofficial 386BSD Patchkit」を製作するようになった。しかし、その後もバグの修正や新たな開発は行われなかったため、ユーザらは386BSDをベースとした新しいオペレーティングシステムの開発を始めた。この時できたのが、FreeBSDとNetBSDである。
1993年にUNIX Systems Laboratoriesがカリフォルニア大学バークレー校に対し起こした訴訟で、4.3BSD Net/2にライセンスが必要な部分が含まれているということが認められたため、4.3BSD Net/2は公開禁止となり、それをベースとした386BSDも同時に公開する事ができなくなった。
2016年、22年ぶりに386BSDは公開された。 公開されたバージョンは1.0および2.0。(以前公開されていたバージョン 0.1ではない)創始者が運営するサイト「386BSD.org」でもGitHubのアドレスが公開されている。 | [
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] | 386BSDとは、4.3BSD Net/2をベースにして、ウィリアム・ジョリッツとリン・ジョリッツ夫妻によって開発された386で動作するUNIXライクなオープンソースのオペレーティングシステムである。 ベースとなった4.3BSD Net/2は、4.3BSD RenoからAT&Tのライセンスが必要な部分を除いて、自由に配付ができるようにしたもので、そのままではオペレーティングシステムとして完全に機能するものではなかった。Jolitz夫妻は4.3BSD Net/2に欠けている機能と386で動作させるのに必要な部分を独自に補い、それを1992年2月に386BSD 0.0としてリリースした。これは、4.3BSD Net/2と同様に、AT&Tのライセンスに縛られる事なく自由に配付できるものであった。1992年7月にはバグを修正した386BSD 0.1がリリースされた。 386BSDは広く利用されたが、386BSD 0.1以降開発が滞った。そのため、ユーザらによって作成されたバグを修正するパッチは膨大な量となり、ユーザらは独自に「Unofficial 386BSD Patchkit」を製作するようになった。しかし、その後もバグの修正や新たな開発は行われなかったため、ユーザらは386BSDをベースとした新しいオペレーティングシステムの開発を始めた。この時できたのが、FreeBSDとNetBSDである。 1993年にUNIX Systems Laboratoriesがカリフォルニア大学バークレー校に対し起こした訴訟で、4.3BSD Net/2にライセンスが必要な部分が含まれているということが認められたため、4.3BSD Net/2は公開禁止となり、それをベースとした386BSDも同時に公開する事ができなくなった。 2016年、22年ぶりに386BSDは公開された。 公開されたバージョンは1.0および2.0。創始者が運営するサイト「386BSD.org」でもGitHubのアドレスが公開されている。 | '''386BSD'''とは、[[4.3BSD Net/2]]をベースにして、[[ウィリアム・ジョリッツ]]と[[リン・ジョリッツ]]夫妻によって開発された[[Intel 80386|386]]で動作する[[Unix系|UNIXライク]]な[[オープンソース]]の[[オペレーティングシステム]]である。
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}}
ベースとなった'''4.3BSD Net/2'''は、[[4.3BSD Reno]]から[[AT&T]]のライセンスが必要な部分を除いて、自由に配付ができるようにしたもので、そのままでは[[オペレーティングシステム]]として完全に機能するものではなかった。Jolitz夫妻は'''4.3BSD Net/2'''に欠けている機能と386で動作させるのに必要な部分を独自に補い、それを[[1992年]]2月に'''386BSD 0.0'''としてリリースした。これは、'''4.3BSD Net/2'''と同様に、AT&Tのライセンスに縛られる事なく自由に配付できるものであった。1992年7月にはバグを修正した'''386BSD 0.1'''がリリースされた。
'''386BSD'''は広く利用されたが、'''386BSD 0.1'''以降開発が滞った。そのため、ユーザらによって作成されたバグを修正するパッチは膨大な量となり、ユーザらは独自に「Unofficial 386BSD Patchkit」を製作するようになった。しかし、その後もバグの修正や新たな開発は行われなかったため、ユーザらは'''386BSD'''をベースとした新しいオペレーティングシステムの開発を始めた。この時できたのが、[[FreeBSD]]と[[NetBSD]]である。
[[1993年]]に[[UNIX Systems Laboratories]]が[[カリフォルニア大学バークレー校]]に対し起こした訴訟で、'''4.3BSD Net/2'''にライセンスが必要な部分が含まれているということが認められたため、'''4.3BSD Net/2'''は公開禁止となり、それをベースとした'''386BSD'''も同時に公開する事ができなくなった。
[[2016年]]、22年ぶり<ref>After_22_Years,_386BSD_Gets_An_Update_Slashdot) https://bsd.slashdot.org/story/16/10/09/0230203/after-22-years-386bsd-gets-an-update/</ref>に386BSDは公開された<ref>386bsd/386bsd:386BSD(GitHub) https://github.com/386bsd/386bsd</ref>。 公開されたバージョンは1.0および2.0。(以前公開されていたバージョン 0.1ではない)創始者が運営するサイト「386BSD.org<ref>386BSD http://386bsd.org/</ref>」でも[[GitHub]]のアドレスが公開されている。
== 脚注 ==
<references/>
[[Category:フリーソフトウェアOS]]
[[Category:BSD]]
[[Category:1992年のソフトウェア]] | 2003-02-24T05:37:18Z | 2023-12-23T04:17:02Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/386BSD |
2,798 | Microsoft Windows 98 | Microsoft Windows 98(マイクロソフト ウィンドウズ 98)は、マイクロソフトが1998年に発売したパーソナルコンピュータ用のオペレーティングシステム (OS) である。当初1997年に発売されるとアナウンスされており、Windows 97という仮称でも呼ばれていた。コードネームはMemphis(メンフィス)。クリーンインストール版(通常版)日本語リテールパッケージの希望小売価格は24,800円(税別・1998年7月当時)。また、「Microsoft Plus! for Windows 98」もあった。なお、本記事では1999年に発売された一部改良版のWindows 98 Second Edition(ウィンドウズ 98 セカンドエディション、略記はWindows 98 SEや98SE)を含めて記述する。
Windows 95 OSR2 (OEM Service Release 2) 以降から引き継いだ機能として、USB、IEEE 1394(ただしWindows 98では暫定的な対応となっており、正式対応はWindows 98 SEから)などのインタフェースに対応。また、ファイルシステムとしてFAT32にも対応しているために効率的なディスクの管理が可能で、大容量のハードディスクドライブを使用できるのもWindows 95 OSR2以降と同様である。
ウェブブラウザのInternet Explorer 4.0をOSに統合し、ネットワーク上のファイルもローカルファイルと同様に操作ができる点も、Windows 95 OSR2.5を踏襲している。
Windows 95と一線を画している特徴の1つとして、スタートメニューもドラッグアンドドロップの対象となった点が挙げられる。
Windows 98はWindows 9x系のOSでWindows 95などと同様に32ビットと16ビットのカーネルコードが混在しており、システムの随所でMS-DOSのコードを呼んでいること、メモリ保護が不十分にしかなされていないこと、システムリソースと呼ばれる領域の一部が64キロバイトという狭い領域に制限されていることなどが要因で、動作が不安定になる場合も多い。このため、Windows NT系と比べて安定性は低い。しかし、Windows 9x系の安定性についてはドライバやハード面の影響も大きく、Windows 98に最適なデバイスやドライバ、OSや使用ソフトに見合ったPCのスペックがあればさほどブルースクリーンやフリーズに見舞われることはない。
また、本OSの後継にあたるWindows Meや別系統(NT系カーネル)のWindows 2000やWindows XPなど後継のOSよりも要求されるPCのスペックが低いこと、古いソフトが動作することなどから、マイクロソフトによるサポートが終了(後述)した後においても一部(主として組み込みシステム)で利用された。中古PCやジャンクPCの有効活用、Virtual PCやVMware、VirtualBoxなどの仮想マシン上でのゲストOSとしての利用、後継OSでは動作しないゲームソフトのためなどの場面が考えられる。特に法人用途については98SEが家庭・法人兼用OSである(したがってダウングレード権の対象にもなる)のに対し、Meは家庭向けエディションのみで法人向けエディションが存在しないという事情もあった。このためNT系 (2000/XP) では動作しない9x系ソフト資産に対する法人需要に対してはMeではなく98SE機を提供することになり、一部の法人ユーザー向けのPC製品には2003年ごろまでWindows 98 SEがプリインストールされた機種が販売されていた。
2020年現在、マイクロソフトの各種サポートが打ち切られていることからWindows 98に正式に対応する製品は完全に姿を消している。マイクロソフトのサポート終了後、Windows XP以降のNT系統への移行が加速したことが窺える。また、Windows 98に対応することは、NEC PC-9800シリーズでの動作をもサポートしなければならないことを意味するため、当時からPC-9800シリーズをサポートしないなどと明言する製品も少なくなかったのだが、XP以降を対象とすることでその制限が完全に解消された形になった。
1999年以前に登場したWindows 98及びWindows 98 SEは、ブロードバンドインターネット接続の普及が本格化する前に発売されたためにMTU値などの設定が電話回線(ダイヤルアップ接続)やISDNといった低速回線に最適化されており、その一方でADSLやFTTHといった大容量・高速回線で回線本来の性能を発揮できない(ただし、レジストリでMTU値などの設定をブロードバンド回線向けに最適化できる)。
Windows 98では、マルチモニタがサポートされるようになった。
Windows 98とWindows 98 SE(および後継のWindows Me)は、2006年7月11日限りでセキュリティホール対策モジュール提供などのサポートが打ち切られた。2007年5月2日、独立行政法人情報処理推進機構は、「サポートが終了したOSの利用は非常に危険な行為である」と表明しており、使用する場合はネットに接続しない単独の専用システム(スタンドアローン)にしたうえ、なるべくUSBメモリやFD、MO、外付けHDD等の外部補助記憶装置でデータ交換しないことを呼びかけている。
2020年現在、Windows 9x系ではすでにWindows Updateを利用できなくなっているため、既出の修正ファイルの自動導入を行えない状況にある。ただし、修正ファイルの提供自体は続いているため、個別にダウンロードして手動で適用することは可能。
1999年5月5日にWindows 98 Second Edition (Win98 SE) (日本語版はSP1適用で9月10日)が発売された。Second Editionではいくつかの機能の強化や拡張の他、西暦2000年問題などのバグの修正が行われている。このリリース要因としては、アメリカの放送局CNNのテレビ番組に出演していたビル・ゲイツの目の前でWindows 98がクラッシュするというハプニング があったためとも言われている。
スタートメニュー横に表示される「Windows 98」の部分には、Second Editionの表記はない。
このCD-ROMは、MicrosoftがWindows 98ユーザー(プリインストール版・アップグレード版を問わず)を対象に格安(1,000円・税別)で配布していたWindows 98専用のアップデートディスクである(現在では配布終了)。ゆえにこのCD-ROMに収録されているセットアッププログラムは、Windows 98上からしか実行できないように設計されている(セットアップの手順はWindows 98のそれと同じである。そのためぱっと見ると、Windows 98からWindows 98にアップグレードしているように見える)。Windows 3.1やWindows 95から実行すると、途中で「必要なWindows 98ファイルが見つかりませんでした」というメッセージが表示され、セットアップが強制終了してしまう(MS-DOSからの新規インストールもできない)。なお、このCD-ROMは通常のWindows 98 Second Editionアップグレード版と違って、アップグレード対象製品であるWindows 98のCDが手元にあったとしても、Windows 98が実際にインストールされていなければセットアップが実行できないように制限されている。ただし、このCDのWin98フォルダをハードディスクにコピーしてから、単体でインストール可能なWindows 98 CD-ROMから不足分のファイルを抽出し、Setup.exeとdossetup.binファイルをコピーしたWin98フォルダに上書きすることで、Windows 98をインストールせずにこのCDのファイルからWindows 98 Second Editionを新規インストールするといった荒業もある。 しかし、その場合でも通常版かアップグレード版のWindows 98 CD-ROMが必要不可欠であるため、この方法でインストールする利点は皆無と言える。
このCD-ROMはセットアッププログラム(Setup.exe)と不足しているファイル以外は、通常のWindows 98 Second Edition CD-ROM(アップグレード版)と同じように認識される。従って、Windows 98の後継であるWindows Meの「Windows 98ユーザー限定期間限定特別パッケージ」(Windows 98/98SEからのアップグレードを前提にした低価格の専用アップグレードパッケージ)を使ってWindows 95からいきなりWindows Meにアップグレードする際に、このCD-ROMを利用すればアップグレード認証を通過できる。あるいは、 Windows 2000 ProfessionalやWindows XPのアップグレード版を使って新規インストールを開始した場合、途中で行われるアップグレード認証の際に、挿入を要求される旧バージョンのインストールCDにもこのCD-ROMを利用することができる。
Windows 98には、Windows 3.1かWindows 95からのみアップグレード可能。Windows NTからのアップグレードはできない。Windows 98からWindows 98 Second Editionにアップグレードするには別途「Windows 98 Second Edition アップグレード版CD-ROM」か「Windows 98 Second Edition Update CD-ROM」を用意する必要がある。また、アップグレード時にシステムファイルを保存していれば、旧バージョンに戻すこと(アンインストール)は可能。
Windows 98がアップグレード元OSの場合、他のバージョンに比べてアップグレードできるバージョンが多いことが特徴。Windows 98からはSecond Editionの有無に関わらず、Windows Me、Windows 2000 Professional、Windows XP Home Edition、Windows XP Professionalのいずれかにアップグレードすることができる。しかし、Windows 98からいきなりWindows Vistaにアップグレードしたり、その後継OSであるWindows 7にアップグレードすることはできない。
なお、上記のWindowsのうちWindows 2000以外のバージョンにアップグレードした場合は、後でそのバージョンをアンインストールしてWindows 98に戻すことができる。 | [
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] | Microsoft Windows 98は、マイクロソフトが1998年に発売したパーソナルコンピュータ用のオペレーティングシステム (OS) である。当初1997年に発売されるとアナウンスされており、Windows 97という仮称でも呼ばれていた。コードネームはMemphis(メンフィス)。クリーンインストール版(通常版)日本語リテールパッケージの希望小売価格は24,800円(税別・1998年7月当時)。また、「Microsoft Plus! for Windows 98」もあった。なお、本記事では1999年に発売された一部改良版のWindows 98 Second Editionを含めて記述する。 | {{Pathnav|[[マイクロソフト|Microsoft]]|Microsoft Windows|Windows 9x系|this=Windows 98|frame=1}}
{{Infobox OS version
| name = Windows 98/<br/>98 Second Edition
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| first_release_date = {{Start date and age|1998|6|25}}(英語版)<br/>{{Start date and age|1998|7|25}}(日本語版)
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{{Start date and age|2006|7|11}}[[2006年]][[7月11日]]延長サポート終了(米国日時)
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[[Microsoft Windows Millennium Edition|Windows Me]]}}
'''Microsoft Windows 98'''(マイクロソフト ウィンドウズ 98)は、[[マイクロソフト]]が[[1998年]]に発売した[[パーソナルコンピュータ]]用の[[オペレーティングシステム]] (OS) である<ref>{{Cite|和書
| author = 日経パソコン
| authorlink = 日経パソコン
| title = 日経パソコン用語事典 (2009年版)
| publisher = [[日経BP|日経BP社]]
| date = 2008-10-20
| isbn =9784822233907}}</ref><ref>{{Cite web|和書
| author = ASCII.jp
| authorlink = ASCII.jp
| title = ASCII.jp デジタル用語辞典
| url = https://yougo.ascii.jp/caltar/Windows_98
| publisher = [[アスキー (企業)|アスキー]] / [[KADOKAWA]]
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| accessdate = 2021-07-16}}</ref>。当初[[1997年]]に発売されるとアナウンスされており、'''Windows 97'''という仮称でも呼ばれていた<ref>{{cite web |url=http://news.cnet.com/Next-Windows-goes-into-full-beta/2100-1001_3-201072.html |title=Next Windows goes into full beta |publisher=CNET |date=1997-06-30 |accessdate=2014-07-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140714203435/http://news.cnet.com/Next-Windows-goes-into-full-beta/2100-1001_3-201072.html |archivedate=2014-07-14 }}</ref>。コードネームは[[メンフィス|Memphis(メンフィス)]]<ref>{{Cite web|和書|date=1997-07-24 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/970724/win98.htm |title=Microsoft、Windows 95の次期バージョンを「Windows 98」として正式発表 |publisher=PC Watch |accessdate=2012-08-30}}</ref>。クリーンインストール版(通常版)日本語リテールパッケージの希望小売価格は24,800円([[消費税|税別]]・1998年7月当時)。また、「[[Microsoft Plus!]] for Windows 98」もあった。なお、本記事では[[1999年]]に発売された一部改良版の'''[[Microsoft Windows 98#Windows 98 Second Edition|Windows 98 Second Edition]]'''(ウィンドウズ 98 セカンドエディション、略記はWindows 98 SEや98SE)を含めて記述する。
== 概要 ==
[[Microsoft Windows 95|Windows 95]] OSR2 (OEM Service Release 2) 以降から引き継いだ機能として、[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]、[[IEEE 1394]](ただしWindows 98では暫定的な対応となっており、正式対応はWindows 98 SEから)などの[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]に対応。また、[[ファイルシステム]]として[[File Allocation Table#FAT32|FAT32]]にも対応しているために効率的な[[補助記憶装置|ディスク]]の管理が可能で、大容量の[[ハードディスクドライブ]]を使用できるのもWindows 95 OSR2以降と同様である。
[[ウェブブラウザ]]の[[Internet Explorer]] 4.0をOSに統合し、[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]上のファイルもローカルファイルと同様に操作ができる点も、Windows 95 OSR2.5を踏襲している。
Windows 95と一線を画している特徴の1つとして、スタートメニューもドラッグアンドドロップの対象となった点が挙げられる。
Windows 98は[[Windows 9x系]]のOSでWindows 95などと同様に32ビットと16ビットのカーネルコードが混在しており、システムの随所で[[MS-DOS]]のコードを呼んでいること、メモリ保護が不十分にしかなされていないこと、[[リソース (Windows)|システムリソース]]と呼ばれる領域の一部が64キロバイトという狭い領域に制限されていることなどが要因で、動作が不安定になる場合も多い。このため、[[Windows NT系]]と比べて安定性は低い<ref group="注釈">このため、マイクロソフトはWindows 95をもって32ビット/16ビット混在カーネルのWindowsの開発は打ち切り、Windows NT 4.0で完全32ビットOSへの移行を計画していた。しかし、企業向け機能を盛り込んだゆえにビギナーにはハードルが高いものとなったほか、Windows 95の大ヒットにより周辺機器のサポートが95優先となり、NT用のドライバは作られないことなどもままあったため、本製品がリリースされた経緯がある。{{要出典|date=2010年3月}}</ref>。しかし、Windows 9x系の安定性についてはドライバやハード面の影響も大きく、Windows 98に最適なデバイスやドライバ、OSや使用ソフトに見合った[[パーソナルコンピュータ|PC]]のスペックがあればさほど[[ブルースクリーン]]や[[フリーズ#フリーズ (コンピュータ)|フリーズ]]に見舞われることはない。
また、本OSの後継にあたる[[Microsoft Windows Millennium Edition|Windows Me]]や別系統(NT系カーネル)の[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]や[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]など後継のOSよりも要求されるPCのスペックが低いこと、古いソフトが動作することなどから、マイクロソフトによるサポートが終了(後述)した後においても一部(主として[[組み込みシステム]])で利用された。中古PCや[[ジャンク品 (パーソナルコンピュータ)|ジャンクPC]]の有効活用<ref group="注釈">この件については、後発のWindows 9x系カーネルのWindows MeおよびNT系カーネルのWindows 2000も同じことがいえる。</ref>、[[Microsoft Virtual PC|Virtual PC]]や[[VMware]]、[[VirtualBox]]などの[[仮想マシン]]上でのゲストOSとしての利用、後継OSでは動作しないゲームソフトのためなどの場面が考えられる。特に法人用途については[[Microsoft Windows 98#Windows 98 Second Edition|98SE]]が家庭・法人兼用OSである(したがってダウングレード権の対象にもなる)のに対し、Meは家庭向けエディションのみで法人向けエディションが存在しないという事情もあった。このためNT系 (2000/XP) では動作しない9x系ソフト資産に対する法人需要に対してはMeではなく98SE機を提供することになり、一部の法人ユーザー向けのPC製品には2003年ごろまで<!--(少なくともPC-9800シリーズ受注終了は2003年である。)-->Windows 98 SEが[[プリインストール]]された機種が販売されていた。
2020年現在、マイクロソフトの各種サポートが打ち切られていることからWindows 98に正式に対応する製品は完全に姿を消している。マイクロソフトのサポート終了後、Windows XP以降のNT系統への移行が加速したことが窺える。また、Windows 98に対応することは<!-- (Windows 95での動作を保証するわけではないので、富士通FM RやFM TOWNSは関係無い) -->、NEC PC-9800シリーズでの動作をもサポートしなければならないことを意味するため、当時からPC-9800シリーズをサポートしないなどと明言する製品も少なくなかったのだが、XP以降を対象とすることでその制限が完全に解消された形になった。
1999年以前に登場したWindows 98及びWindows 98 SEは、[[ブロードバンドインターネット接続]]の普及が本格化する前に発売されたために[[Maximum Transmission Unit|MTU]]値などの設定が電話回線([[ダイヤルアップ接続]])や[[ISDN]]といった低速回線に最適化されており、その一方で[[ADSL]]や[[FTTH]]といった大容量・高速回線で回線本来の性能を発揮できない(ただし、[[レジストリ]]でMTU値などの設定をブロードバンド回線向けに最適化できる)。
Windows 98では、[[マルチモニタ]]がサポートされるようになった。
Windows 98とWindows 98 SE(および後継のWindows Me)は、2006年7月11日限りで[[セキュリティホール]]対策モジュール提供などのサポートが打ち切られた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.microsoft.com/japan/windows/support/endofsupport.mspx|title=Windows 98、および Windows Me に対するサポート終了のご案内|publisher=マイクロソフト|accessdate=2008-07-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081219171617/http://www.microsoft.com/japan/windows/support/endofsupport.mspx|archivedate=2008-12-19}}</ref><ref group="注釈">当初は2004年1月16日限りでサポートを打ち切る予定だった。</ref>。2007年5月2日、独立行政法人[[情報処理推進機構]]は、「サポートが終了したOSの利用は'''非常に危険な行為'''である」と表明しており、使用する場合はネットに接続しない単独の専用システム([[スタンドアローン]])にしたうえ、'''なるべく[[USBメモリ]]や[[フロッピーディスク|FD]]、[[光磁気ディスク|MO]]、外付け[[ハードディスクドライブ|HDD]]等の外部[[補助記憶装置]]でデータ交換しない'''ことを呼びかけている<ref>[http://www.ipa.go.jp/security/txt/2007/05outline.html コンピュータウイルス・不正アクセスの届出状況<nowiki>[4月分]</nowiki>について](情報処理推進機構)</ref>。
2020年現在、Windows 9x系ではすでにWindows Updateを利用できなくなっているため<ref group="注釈">[[Internet Explorer 6]]でアクセスした場合、Internet Explorer 6はWindows Updateの内容を表示できないままWindows Update内の特定ページ間を転送され続けるといった、[[無限ループ]]状態に陥る。</ref>、既出の修正ファイルの自動導入を行えない状況にある。ただし、修正ファイルの提供自体は続いているため、個別にダウンロードして手動で適用することは可能。
{{main|Microsoft Update#歴史}}
== Windows 98 Second Edition ==
1999年[[5月5日]]に'''Windows 98 Second Edition''' (Win98 SE) (日本語版はSP1適用で[[9月10日]])が発売された。Second Editionではいくつかの機能の強化や拡張の他、[[2000年問題|西暦2000年問題]]などの[[バグ]]の修正が行われている。このリリース要因としては、アメリカの放送局[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]の[[テレビ番組]]に出演していた[[ビル・ゲイツ]]の目の前でWindows 98がクラッシュするというハプニング<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=fVbXC0QgMoU ビルゲイツ生放送でWindows98がクラッシュ - YouTube]</ref> があったためとも言われている。
===Second Editionでの主な変更点===
*Internet Explorer 5.0を搭載し、新たに[[DVD#DVD-ROM|DVD-ROM]]などのサポート、USB 1.1対応やIEEE 1394への対応の強化
*[[フロッピーディスク]]版の提供が打ち切られた。(起動ディスクを除く)
*Windows 98では、デスクトップ上に「チャンネル」と呼ばれる画面(チャンネル ガイドや新聞社、天気予報サイトへのボタンが並んでいる)が表示されていたが、Second Editionでは削除されている。
*プリインストールの[[DirectX]]がバージョン5から6になっている。
スタートメニュー横に表示される「Windows 98」の部分には、Second Editionの表記はない。
=== Windows 98 Second Edition Update CD-ROM ===
このCD-ROMは、MicrosoftがWindows 98ユーザー([[プリインストール]]版・アップグレード版を問わず)を対象に格安(1,000円・税別)で配布していたWindows 98専用のアップデートディスクである(現在では配布終了)。ゆえにこのCD-ROMに収録されているセットアッププログラムは、Windows 98上からしか実行できないように設計されている(セットアップの手順はWindows 98のそれと同じである。そのためぱっと見ると、Windows 98からWindows 98にアップグレードしているように見える)。[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.1]]や[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]から実行すると、途中で「必要なWindows 98ファイルが見つかりませんでした」というメッセージが表示され、セットアップが強制終了してしまう(MS-DOSからの新規インストールもできない)。なお、このCD-ROMは通常のWindows 98 Second Editionアップグレード版と違って、アップグレード対象製品であるWindows 98のCDが手元にあったとしても、Windows 98が実際にインストールされていなければセットアップが実行できないように制限されている<ref group="注釈">このCD自体に、インストールを完了させるためのファイルが不足しており、インストール済みのWindows 98から不足分のファイルを供給しているため、このCDだけではインストールを完了できないため。</ref>。ただし、このCDのWin98フォルダをハードディスクにコピーしてから、単体でインストール可能なWindows 98 CD-ROMから不足分のファイルを抽出し、Setup.exeとdossetup.binファイルをコピーしたWin98フォルダに上書きすることで、Windows 98をインストールせずにこのCDのファイルからWindows 98 Second Editionを新規インストールするといった荒業もある。 しかし、その場合でも通常版かアップグレード版のWindows 98 CD-ROMが必要不可欠であるため、この方法でインストールする利点は皆無と言える。
このCD-ROMはセットアッププログラム(Setup.exe)と不足しているファイル以外は、通常のWindows 98 Second Edition CD-ROM(アップグレード版)と同じように認識される。従って、Windows 98の後継である[[Windows Me]]の「'''Windows 98ユーザー限定期間限定特別パッケージ'''」(Windows 98/98SEからのアップグレードを前提にした低価格の専用アップグレードパッケージ)を使ってWindows 95からいきなりWindows Meにアップグレードする際に、このCD-ROMを利用すればアップグレード認証を通過できる<ref group="注釈">つまり、このCD-ROMがあればわざわざWindows 98の製品版を購入しなくても、Windows 95からWindows Meに「Windows 98ユーザー限定期間限定特別パッケージ」を使ってアップグレードを完了することができる。</ref>。あるいは、[[Windows 2000 | Windows 2000 Professional]]や[[Windows XP]]のアップグレード版を使って新規インストールを開始した場合、途中で行われるアップグレード認証の際に、挿入を要求される旧バージョンのインストールCDにもこのCD-ROMを利用することができる。
== システム要件 ==
{| class="wikitable"
|+ '''Windows 98 最小ハードウェア仕様要求'''
! !! 32 ビット
|-
! アーキテクチャ
| [[PC/AT互換機]]または[[PC-9800シリーズ]]
|-
! [[CPU|プロセッサー]]
| [[Intel 486|486DX]] 66 MHz<ref group="注">Windows 98においては2.2 GHz以上のCPUではインストール不可能な場合がある。Windows 98SEでは改善されている。</ref> 以上のCPU
|-
! [[主記憶装置|物理メモリー]]
| 16 MB以上<br>32 MB{{refnest|group=注|メモリ管理プログラムの関係で約1GB以上のメモリを搭載したPCでは動作しない。動作させるには、事前にシステム側でメモリへのアクセスを制限する必要があるが、確実な動作を保証するものではない<ref>{{cite web | date = 2004-12-17 | url = http://support.microsoft.com/kb/304943 | title = Computer May Reboot Continuously with More Than 1.5 GB of RAM |publisher=Microsoft| language = English |accessdate=2006-11-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061116154817/http://support.microsoft.com/kb/304943 |archivedate=2006-11-16}}</ref>。}}以上を推奨<ref group="注">Windows 98SEでは単に「24MB以上」とパッケージに表記されている。</ref>
|-
! ストレージ
| 200MB - 380 MB<ref group="注">アップグレード版では、98で190 - 240MB、98SEで310 - 390MBとパッケージに表記されている。</ref>
|-
! 光学ドライブ
| [[CD-ROM]]または[[DVD#DVD-ROM|DVD-ROM]]ドライブ
|-
! 画面解像度
| [[Video Graphics Array|640 x 480]]
|-
! 入力装置
| [[マウス (コンピュータ)|Microsoft Mouse]]、もしくは互換ポインティングデバイス
|}
{{Reflist|group="注"}}
== 旧バージョンからのアップグレード / アンインストール ==
Windows 98には、[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.1]]か[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]からのみアップグレード可能<ref group="注釈">ただし同じ言語である必要がある。例えば、英語版に日本語版のアップグレード版をインストールすることはできない。</ref>。[[Microsoft Windows NT|Windows NT]]からのアップグレードはできない。Windows 98からWindows 98 Second Editionにアップグレードするには別途「Windows 98 Second Edition アップグレード版CD-ROM」か「[[Microsoft Windows 98#Windows 98 Second Edition Update CD-ROM|Windows 98 Second Edition Update CD-ROM]]」を用意する必要がある。また、アップグレード時にシステムファイルを保存していれば、旧バージョンに戻すこと([[アンインストール]])は可能。
== 新しいバージョンへのアップグレード / アンインストール ==
Windows 98がアップグレード元OSの場合、他のバージョンに比べてアップグレードできるバージョンが多いことが特徴。Windows 98からはSecond Editionの有無に関わらず、[[Microsoft Windows Millennium Edition|Windows Me]]、[[Windows 2000|Windows 2000 Professional]]、[[Windows XP|Windows XP Home Edition]]、[[Windows XP|Windows XP Professional]]のいずれかにアップグレードすることができる。しかし、Windows 98からいきなり[[Windows Vista]]にアップグレードしたり、その後継OSである[[Windows 7]]にアップグレードすることはできない。
なお、上記のWindowsのうちWindows 2000以外のバージョンにアップグレードした場合は、後でそのバージョンを[[アンインストール]]してWindows 98に戻すことができる。
== 出来事 ==
; 1998年
: [[6月25日]] - Windows 98(英語版)発売。
: [[7月25日]] - Windows 98(日本語版)発売。
; 1999年
: [[5月5日]] - Windows 98 Second Edition(英語版)発売。
: [[8月2日]] - Service Pack 1公開<ref>{{Cite web|和書| date = 1999-07-30 | url = http://www.microsoft.com/japan/presspass/detail.aspx?newsid=816 | title = 「Microsoft(R) Windows(R) 98 SECOND EDITION アップデート CD 日本語版」7月30日(金)に受付開始 |publisher=Microsoft |accessdate=2006-08-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090506092344/http://www.microsoft.com/japan/presspass/detail.aspx?newsid=816|archivedate=2009-05-06}}</ref>。
: [[9月10日]] - Windows 98 Second Edition(日本語版)発売。
;2002年
:[[6月30日]] - メインストリームフェーズ終了日を迎えるものの、無償サポートを1年間延長<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2003/0610/ms2.htm|title=マイクロソフト、Windows 98などサポート期限に関する説明会を開催|publisher=Impress Watch|date=2003-06-10|accessdate=2015-08-25}}</ref>。
;2003年
:6月30日 - 無償サポートを終了し、完全に延長フェーズに移行。有償サポートとセキュリティパッチのみのサポートとなる<ref>{{Cite web|和書|url=https://cloud.watch.impress.co.jp/epw/cda/software/2003/12/16/885.html|title=Windows 98/98 SEのセキュリティパッチ、提供終了迫る|publisher=Impress Watch|date=2003-12-16|accessdate=2015-08-25}}</ref>。
; 2004年
: [[1月12日]] - 2004年1月16日で終了予定だったWindows 98/98 SEの延長サポートを、2006年6月30日に変更<ref>{{Cite web|和書|url=https://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2004/01/14/1738.html|title=マイクロソフト、Windows 98/Meのサポートを2006年6月30日まで延長|publisher=Impress Watch|date=2004-01-14|accessdate=2015-08-23}}</ref>。
; 2006年
: [[7月11日]] - 延長サポート終了。
== 出荷・販売本数の推移 ==
* 日本での初回出荷47万本。
* 1998年8月27日 - 日本で、発売から2日でパッケージ25万本を販売(29日、IDCジャパン発表)<ref>『日経産業新聞』1998年8月30日付。</ref><ref>『日本経済新聞』1998年8月30日付朝刊。</ref>
* 1998年9月3日 - 日本で、発売から9日でパッケージ33万本を販売(8月、GfKジャパン発表)<ref>『日経産業新聞』1998年9月7日付。</ref>
* 1998年9月14日 - 日本での販売本数40万本<ref>『日経産業新聞』1998年9月17日付。</ref>
* 1998年9月25日 - 日本での累計の販売本数50万本<ref>『日本経済新聞』1998年9月26日付朝刊。</ref>
* 1998年10月20日 - 全世界1000万本<ref>『日本経済新聞』1998年10月21日付夕刊。</ref>
* 1999年2月 - 全世界2500万本<ref>『日経産業新聞』1999年2月18日付。</ref>
* 1999年3月末 - 日本国内での出荷本数335万本を突破(IDCジャパン発表)<ref>『日経産業新聞』1999年7月13日付。</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|オペレーティングシステム|[[ファイル:Alternative virtual machine host.svg|36px|ウィキポータル オペレーティングシステム]]}}
* [[Windows 9x系]]
== 外部リンク ==
{{wikinews|マイクロソフト、ウィンドウズ98とMeのサポートを打ち切りへ}}
{{Commonscat-inline}}
* {{Wayback |url=http://support.microsoft.com/ph/1139/ja |title=Microsoft Windows 98 サポート ページ |date=20130317013408 }}
* [http://update.microsoft.com/windowsupdate/v6/default.aspx?ln=de Windows Update (Windows の更新)]
* {{Wayback |url=http://www.bpa23.host.sk/wupg.html |title=Windows 98/98SE UpgradePack (Windows 98 改善のパック) |date=20160304074940 }}
{{Windows}}
{{Normdaten}}
[[Category:MS-DOS・Windows 3.x・9x系|Windows 98]]
[[Category:1998年のソフトウェア|Windows98]] | 2003-02-24T06:14:07Z | 2023-09-28T07:01:20Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Microsoft_Windows_98 |
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