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Microsoft Windows Millennium Edition
Microsoft Windows Millennium Edition(マイクロソフト ウィンドウズ ミレニアム エディション)または Windows Me(ウィンドウズ エムイー、ウィンドウズ ミー)はマイクロソフトが2000年に発売した、パーソナルコンピュータ用のオペレーティングシステム (OS) である。2000年6月19日(米国東部標準時)に製造工程向けリリース (RTM) が発表され、2000年9月14日に発売された。日本では2000年9月23日(日本標準時)に日本語版が発売された。 開発当初のコードネームは「Georgia(ジョージア)」であったが、その後、急遽「Millennium」に変更された。 Windows 9x系は Windows NT系への統合が計画されていたものの、 Windows 2000 がまだ一般ユーザ向きではないとの判断から、急遽 Windows 98 Second Edition(セカンド エディション/SE)の次版として Windows Me がリリースされた。そのため「Windows 98 Third Edition(サード エディション/TE)」と呼ばれることもある。 ちなみに名称の件においては、しばしば Windows 98 の後継は、2000ではなくMeと、それまでの9x系で用いられてきた数字による名称から、当OSが「Me」という数字ではないものに変わった事と、Windows NT 5.0 の名称に「2000」が使われたことによる混乱を避けるべく、強調されていた。 見た目が一新され、マルチメディア機能を全面に押し出された仕様になっており、USBメモリのようなUSB記憶デバイスやチップセットのドライバが充実しているため、 Windows 98 のように別途ドライバのインストールの必要がない簡便さが特徴である。起動ディスクが1枚に集約された上、98にあったFDISKのバグも解消されていることから、起動ディスクについての評価も高い。 しかし、もともと不安定な9x系に機能を追加したことで更に動作が不安定になり、2001年10月に Windows NT系と統合された次世代の家庭用向けOSである Windows XP Home Edition が発売されたため、 Windows Me の実質的な販売期間はおよそ1年2か月、ならびに実質的なサポート期間はおよそ5年10か月という異例の短さとなった。そのほとんどは2000年10月〜2001年10月までに出荷された家庭向けのPC製品にプリインストールの形で販売された。OSの性格上、法人向けのPC製品には全くといっていいほどプリインストールされておらず、 Windows XP が登場するまでは引き続き Windows 98 Second Edition がプリインストールされた。ただ、NECや富士通、東芝、シャープなど一部大手メーカーの法人向けBTOモデル(条件によっては個人でも購入が可能な場合もあり)では発注時に Windows Me と Windows 98 Second Edition の両方が選択可能となっていた。 マイクロソフトは、当初 Windows Me のサポートを2003年12月31日限りで打ち切る予定だったが、同年1月にこれを延長し、前身のWindows 98 や 98SE とともに2006年7月11日をもって修正モジュールの新規提供などのサポートを打ち切った。既存の修正モジュールの一部についてはオンラインセルフヘルプサポートとして2007年7月11日以降まで公開が続けられた(終了日は不明)。 2021年4月現在、Windows Me を含む9x系に対応する最新のソフトウェア・ハードウェア製品は、ほとんど発売されておらず、9x系からNT系(Windows XP/Vista/7/8(8.1含む)/10)に移行したと言える。もっとも、9x系OSをサポートしないのは、製品を発売するメーカーにとって製品の検証に要する負担を軽減できることや、ソフトウェアにNT系OSに依存したコードが記述可能になるなどのメリットがある。 しかし Windows Me は、Windows 95/98/98SE程ではないが Windows XP 以降の後継のOSよりも要求されるマシンスペックが低いこと、発売当時以前のソフトウェアを中心に対応ソフトウェアがまだ十分に実用性を保っているものも多く、9x系として唯一標準でUSBの大容量記憶装置をサポートしている(USB 1.0/1.1に限りドライバのインストールが不要)ことなどから、実使用において Windows 95/98/98SE に比較して幾分使い勝手がよく、中古パソコンやジャンクパソコンの有効活用、Virtual PCやVMwareなどのハイパーバイザ(仮想マシン)上でのゲストOSとしての需要もある等、現在でも一部で利用されているが、独立行政法人情報処理推進機構は、「(仮想マシン上であっても)サポートが終了したOSの利用は非常に危険な行為である」とアナウンスしており、使用する場合はネットに接続しない単独の専用システム(スタンドアローン)にしたうえ、なるべくUSBメモリやFD、MO、外付けHDD等の外部補助記憶装置でデータ交換しないことを呼びかけている。 2021年4月現在、Meを含む Windows 9x系ではすでに Windows Update を利用できなくなっているため、既出の修正ファイルの自動導入を行えない状況にある。ただし、修正ファイルの提供自体は続いているため、個別にダウンロードして手動で適用することは可能である。 Windows 9x系のOSであるため、 Windows 95 や Windows 98、98 Second Edition に対応するアプリケーションやドライバなどはほとんどそのまま動作する。しかし、ネイティブDOSサポートが削除されたため「MS-DOS モードで再起動する」コマンドが削除された。また、「MS-DOS プロンプト」におけるDOSプログラムの互換性も Windows 95 や Windows 98、Windows 98 SE と比べると低下している。 なお、PC-9800シリーズについては利用率の減少を理由に対応していない。 Windows Me には、 Windows 95 か Windows 98 (Second Editionも含む)からのみアップグレードできる。Windows 3.1、Windows NT、Windows 2000 からはアップグレードできない。また、Windows 95 からは Windows Me のアップグレード版の1つである「Windows 98ユーザー限定期間限定特別パッケージ」(Windows 98/98 SE からのアップグレードを前提にした低価格の専用アップグレードパッケージ)を使用してアップグレードする事はできない。Windows 95 からアップグレードしたい場合は、それに対応した標準アップグレードパッケージを用意する必要があるが、手元に Windows 98 のインストールCDが1枚あれば(通常版・アップグレード版問わず。Second Edition アップデートCDからでも可能)、セットアップの途中でこれを挿入する事でアップグレード認証を通過して、「Windows 98ユーザー限定期間限定特別パッケージ」を用いて Windows 95 からいきなり Windows Me にアップグレードする事ができる(この方法により、Windows 95 から Windows 98 を経由して Windows Me にアップグレードするという手間が省ける)。 Windows 95 と Windows 98 のどちらからアップグレードしてもシステムファイルが保存されていれば、旧バージョンに戻す事(アンインストール)は可能。 Windows Me からは Windows 2000 Professional、Windows XP Home Edition、Windows XP Professional のいずれかにアップグレードする事ができる。ただし、Windows 2000 Professional へのアップグレードインストールはサポートされておらず、フォーマットしての新規インストールのみがサポートされている(Windows 2000も参照)。また、Windows 2000 にアップグレードした場合、Windows Me に備わっていた一部の機能が利用できなくなる(システムの復元など)。Windows Me からいきなり Windows Vista 以降の Windows にアップグレードする事はできない。また、Windows XP(バージョンを問わず)にアップグレードした場合のみ、Windows XP をアンインストールして、Windows Me に戻す事ができる。
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Microsoft Windows Millennium Editionまたは Windows Meはマイクロソフトが2000年に発売した、パーソナルコンピュータ用のオペレーティングシステム (OS) である。2000年6月19日(米国東部標準時)に製造工程向けリリース (RTM) が発表され、2000年9月14日に発売された。日本では2000年9月23日(日本標準時)に日本語版が発売された。 開発当初のコードネームは「Georgia(ジョージア)」であったが、その後、急遽「Millennium」に変更された。
{{Pathnav|[[マイクロソフト|Microsoft]]|Microsoft Windows|Windows 9x系|this=Windows Millennium Edition (Windows Me)|frame=1}} {{Infobox OS version | name = Windows Me | family = Microsoft Windows | logo = [[ファイル:Microsoft Windows Me logo.svg|200px]] | screenshot = | developer = [[マイクロソフト|Microsoft]] | first_release_date = {{Start date|2000|09|23}}(日本語版)<ref>Windows 2000 Professional 期間限定特別パッケージは9月22日午後4時の先行発売。</ref><ref name="gr">{{Cite web|和書|date=2000-08-28 |url=https://www.microsoft.com/ja-jp/presspass/detail.aspx?newsid=925 |title=Microsoft(R) Windows(R) Millennium Edition 日本語版 9月23日(土)に発売開始 - News Center |publisher=マイクロソフト |accessdate=2016-11-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161114032052/https://www.microsoft.com/ja-jp/presspass/detail.aspx?newsid=925|archivedate=2016-11-14}}</ref> | release_version = 4.9 (Build 3000) | release_date = {{Start date|2000|09|23}}<ref name="gr" /> | source_model = [[クローズドソース]] | license = Microsoft [[ライセンス|EULA]] | kernel_type = [[カーネル#モノリシックカーネル|モノリシックカーネル]] | preceded_by = [[Microsoft Windows 98|Windows 98 Second Edition]] | support_status = '''延長サポート終了'''<br>[[2003年]][[12月31日]]メインサポート終了(米国日時) [[2006年]][[7月11日]]延長サポート終了(米国日時) |succeeded_by=[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]}} '''Microsoft Windows Millennium Edition'''(マイクロソフト ウィンドウズ ミレニアム エディション)または '''Windows Me'''(ウィンドウズ エムイー<ref>{{Cite web|和書|title=Insider's Computer Dictionary:Windows Me とは? - @IT|url=https://www.atmarkit.co.jp/icd/root/67/26125567.html|website=www.atmarkit.co.jp|accessdate=2021-04-22|publisher=[[ITmedia]]|date=2003-06-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書 | author = ASCII.jp | authorlink = ASCII.jp | title = ASCII.jp デジタル用語辞典 | url = https://yougo.ascii.jp/caltar/Windows_Me | publisher = [[アスキー (企業)|アスキー]] / [[KADOKAWA]] | date = 2008-10-07 | accessdate = 2021-07-16}}</ref><ref name="日経BP">{{Cite|和書 | author = 日経パソコン | authorlink = 日経パソコン | title = 日経パソコン用語事典 (2009年版) | publisher = [[日経BP|日経BP社]] | date = 2008-10-20 | isbn =9784822233907}}</ref>、ウィンドウズ ミー<ref name="日経BP"/><ref>{{Cite web|和書|title=Microsoft Windows Me - よく寄せられる質問(FAQ)|publisher=マイクロソフト|url=http://www.microsoft.com/japan/me/faq/default.asp|accessdate=2021-04-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030201092702/http://www.microsoft.com/japan/me/faq/default.asp|archivedate=2003-02-01|work=Windows Meってなんて読むの?}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=デジタルアドバンテージ 小川 誉久|title=Insider's Eye:新しくて古い「過渡的な」OS、Windows Meが登場 - @IT|url=https://www.atmarkit.co.jp/fwin2k/insiderseye/20000829windowsme/20000829windowsme.html|website=www.atmarkit.co.jp|date=2000-09-01|accessdate=2021-04-22}}</ref>)は[[マイクロソフト]]が[[2000年]]に発売した、[[パーソナルコンピュータ]]用の[[オペレーティングシステム]] (OS) である。2000年6月19日(米国[[東部標準時]])に製造工程向けリリース (RTM) が発表され<ref>{{Cite web|title=Microsoft Windows Millennium Edition Released to Manufacturing|url=https://news.microsoft.com/2000/06/19/microsoft-windows-millennium-edition-released-to-manufacturing/|website=Stories|publisher=マイクロソフト|date=2000-06-19|accessdate=2021-04-22|language=en-US}}</ref>、2000年9月14日に発売された<ref>{{Cite web|title=Microsoft Announces Immediate Availability Of Windows Millennium Edition (Windows Me)|url=https://news.microsoft.com/2000/09/14/microsoft-announces-immediate-availability-of-windows-millennium-edition-windows-me/|website=Stories|publisher=マイクロソフト|date=2000-09-14|accessdate=2021-04-22|language=en-US}}</ref>。日本では2000年9月23日([[日本標準時]])に日本語版が発売された<ref name="gr" />。 開発当初の[[コードネーム]]は「[[ジョージア州|Georgia(ジョージア)]]」であったが<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20121026-s_windows8/4 |title=~インストールから設定・活用まで~ すべてが分かるWindows 8大百科 |accessdate=2022-01-16 |publisher=マイナビ |date=2012-10-26 |website=マイナビニュース}}</ref>、その後、急遽「[[ミレニアム|Millennium]]」に変更された。 == 概要 == [[Windows 9x系]]は [[Windows NT系]]への統合が計画されていたものの、 [[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]] がまだ一般ユーザ向きではないとの判断から、急遽 [[Microsoft Windows 98|Windows 98 Second Edition(セカンド エディション/SE)]]の次版として Windows Me がリリースされた。そのため「Windows 98 Third Edition(サード エディション/TE)」と呼ばれることもある<ref name="ITmedia_20000531">{{Cite web|和書|author=小川誉久|date=2000-05-31|url=https://atmarkit.itmedia.co.jp/fwin2k/insiderseye/20000529windowsme/20000529windowsme001.html|title=Insider's Eye ― Windows Meの全貌|work=@IT ― Windows Server Insider|accessdate=2008-12-15}}</ref>。 ちなみに名称の件においては、しばしば '''Windows 98 の後継は、2000ではなくMe'''と、それまでの9x系で用いられてきた数字による名称から、当OSが「Me」という数字ではないものに変わった事と、Windows NT 5.0 の名称に「2000」が使われたことによる混乱を避けるべく、強調されていた{{要出典|date=2021年4月}}。<ref group="注釈">なお、[[Windows 9x系#バージョンの変遷|9x系]]のメジャーバージョンは4だが、[[Windows NT系#バージョンの変遷|NT系]](2000,XP)は5である。</ref> 見た目が一新され、[[マルチメディア]]機能を全面に押し出された仕様になっており、[[USBメモリ]]のような[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]記憶デバイスや[[チップセット]]の[[デバイスドライバ|ドライバ]]が充実しているため、 Windows 98 のように別途ドライバの[[インストール]]の必要がない簡便さが特徴である。起動ディスクが1枚に集約された上、98にあったFDISKのバグ<ref>[https://www.itmedia.co.jp/help/tips/windows/w0619.html Windows98で大容量ハードディスクを使いたい](ITmedia エンタープライズ)</ref>も解消されていることから、起動ディスクについての評価も高い。 しかし、もともと不安定な9x系に機能を追加したことで更に動作が不安定になり<ref>[https://staff.persol-xtech.co.jp/i-engineer/product/winXP Windows XPはなぜ「傑作」と言われるのか? 覇権を握ったXP、ダメではないが遅すぎたVista | i:Engineer(アイエンジニア)|パーソルクロステクノロジー]</ref>、2001年10月に Windows NT系と統合された次世代の家庭用向けOSである [[Microsoft Windows XP|Windows XP Home Edition]] が発売されたため、 Windows Me の実質的な販売期間はおよそ1年2か月<ref group="注釈">余談であるが、歴代Windowsで最も販売期間が短かったのは[[Microsoft Windows NT|Windows NT 3.51]]の日本語版(販売期間はおよそ11か月)となった。また、個人向けに限定した場合では[[Microsoft Windows 8|Windows 8(8.1除く)]]が最も販売期間が短い(販売期間はおよそ1年)。</ref>、ならびに実質的なサポート期間はおよそ5年10か月という異例の短さとなった。そのほとんどは2000年10月〜2001年10月までに出荷された家庭向けのPC製品に[[プリインストール]]の形で販売された。OSの性格上、法人向けのPC製品には全くといっていいほどプリインストールされておらず、 [[Microsoft Windows XP|Windows XP]] が登場するまでは引き続き Windows 98 Second Edition がプリインストールされた。ただ、[[日本電気|NEC]]や[[富士通]]、[[東芝]]、[[シャープ]]など一部大手メーカーの法人向け[[BTO]]モデル(条件によっては個人でも購入が可能な場合もあり)では発注時に Windows Me と Windows 98 Second Edition の両方が選択可能となっていた。 マイクロソフトは、当初 Windows Me のサポートを[[2003年]][[12月31日]]限りで打ち切る予定だったが、同年1月にこれを延長し、前身のWindows 98 や 98SE とともに[[2006年]][[7月11日]]をもって修正モジュールの新規提供などのサポートを打ち切った。既存の修正モジュールの一部についてはオンラインセルフヘルプサポートとして[[2007年]]7月11日以降まで公開が続けられた(終了日は不明)<ref>{{cite web | title=Windows 98, Windows 98 Second Edition, and Windows Millennium Edition Support ends on July 11, 2006 | publisher=マイクロソフト | url=http://support.microsoft.com/gp/lifean18 |accessdate=2006-03-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060407100629/http://support.microsoft.com/gp/lifean18|archivedate=2006-04-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.microsoft.com/japan/windows/support/endofsupport.mspx|title=Windows 98、および Windows Me に対するサポート終了のご案内|publisher=マイクロソフト|accessdate=2008-07-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081219171617/http://www.microsoft.com/japan/windows/support/endofsupport.mspx|archivedate=2008-12-19}}</ref>。 [[2021年]]4月現在、Windows Me を含む9x系に対応する最新のソフトウェア・ハードウェア製品は、ほとんど発売されておらず、9x系からNT系([[Microsoft Windows XP|Windows XP]]/[[Microsoft Windows Vista|Vista]]/[[Microsoft Windows 7|7]]/[[Microsoft Windows 8|8]]([[Microsoft Windows 8.1|8.1]]含む)/[[Microsoft Windows 10|10]])に移行したと言える。もっとも、9x系OSをサポートしないのは、製品を発売するメーカーにとって製品の検証に要する負担を軽減できることや、ソフトウェアにNT系OSに依存したコードが記述可能になるなどのメリットがある。 しかし Windows Me は、Windows 95/98/98SE程ではないが Windows XP 以降の後継のOSよりも要求されるマシンスペックが低いこと、発売当時以前のソフトウェアを中心に対応ソフトウェアがまだ十分に実用性を保っているものも多く、9x系として唯一標準でUSBの大容量記憶装置をサポートしている(USB 1.0/1.1に限りドライバのインストールが不要)ことなどから、実使用において Windows 95/98/98SE に比較して<!--不都合が少ない-->幾分使い勝手がよく、中古パソコンや[[ジャンク品 (パーソナルコンピュータ)|ジャンクパソコン]]の有効活用、[[Microsoft Virtual PC|Virtual PC]]や[[VMware]]などの[[仮想機械|ハイパーバイザ(仮想マシン)]]上でのゲストOSとしての需要もある等、現在でも一部で利用されているが、独立行政法人[[情報処理推進機構]]は、「(仮想マシン上であっても)サポートが終了した[[オペレーティングシステム|OS]]の利用は非常に危険な行為である」とアナウンスしており、使用する場合はネットに接続しない単独の専用システム([[スタンドアローン]])にしたうえ、'''なるべく[[USBメモリ]]や[[フロッピーディスク|FD]]、[[光磁気ディスク|MO]]、外付け[[ハードディスクドライブ|HDD]]等の外部[[補助記憶装置]]でデータ交換しない'''ことを呼びかけている<ref name="support_end">[http://www.ipa.go.jp/security/txt/2007/05outline.html コンピュータウイルス・不正アクセスの届出状況<nowiki>[4月分]</nowiki>について](情報処理推進機構)</ref>。 2021年4月現在、Meを含む [[Windows 9x系]]ではすでに [[Microsoft Update|Windows Update]] を利用できなくなっている<ref group="注釈">[[Internet Explorer 6]]でアクセスした場合、Internet Explorer 6はWindows Updateの内容を表示できないままWindows Update内の特定ページ間を転送され続けるといった、[[無限ループ]]状態に陥る。</ref>ため、既出の修正ファイルの自動導入を行えない状況にある。ただし、修正ファイルの提供自体は続いているため、個別にダウンロードして手動で適用することは可能である。 == 互換性 == Windows 9x系のOSであるため、 Windows 95 や Windows 98、98 Second Edition に対応するアプリケーションやドライバなどはほとんどそのまま動作する。しかし、ネイティブDOSサポートが削除されたため「[[MS-DOS]] モードで再起動する」コマンドが削除された。<ref group="注釈">以前はこのコマンドを利用して高速な再起動ができた。(DOS画面に移行した後「exit」と入力するだけである)</ref>また、「MS-DOS プロンプト」におけるDOSプログラムの互換性も Windows 95 や Windows 98、Windows 98 SE と比べると低下している。 なお、[[PC-9800シリーズ]]については利用率の減少を理由に対応していない。 == 主な機能 == *[[Universal Plug and Play|UPnP]] *[[Windows ムービーメーカー]] *[[システムの復元|システムの復元機能]] *[[Windows Image Acquisition]] *インターネットゲーム *システムファイル保護 *ヘルプシステムの改良による初心者への配慮 *圧縮フォルダ([[ZIP (ファイルフォーマット)|ZIP]]ファイル)操作 *[[Microsoft Update|自動アップデート]] == 出荷・販売本数の推移 == *日本語版、初日に16.3万本を販売(BCN総研調べ)<ref>"[[日経産業新聞]]" 2000年10月2日付</ref> == システム要件 == {| class="wikitable" |+ '''Windows Me 最小ハードウェア仕様要求''' ! !! 32 ビット |- ! アーキテクチャ | [[PC/AT互換機]] |- ! [[CPU|プロセッサー]] | 150 MHz以上の [[Intel Pentium (1993年)|Pentium]]互換CPU<br>300 MHz以上の [[Pentium II]] および [[AMD K6-2|K6-2]] を推奨 |- ! [[主記憶装置|物理メモリー]] | 32 MB以上<br>64 MB{{refnest|group=注|メモリ管理プログラムの関係で約1 GB以上のメモリを搭載したPCでは動作しない。動作させるには、事前にシステム側でメモリへのアクセスを制限する必要があるが、確実な動作を保証するものではない<ref>{{cite web | date = 2004-12-17 | url = http://support.microsoft.com/kb/304943 | title = Computer May Reboot Continuously with More Than 1.5 GB of RAM | language = English |accessdate=2006-11-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061116154817/http://support.microsoft.com/kb/304943 |archivedate=2006-11-16}}</ref>。}}以上を推奨 |- ! ストレージ | 250 - 490 MB |- ! 光学ドライブ | [[CD-ROM]] または [[DVD#DVD-ROM|DVD-ROM]] ドライブ |- ! 画面解像度 | 640 x 480 |- ! [[入力機器|入力装置]] | [[マウス (コンピュータ)|Microsoft Mouse]]、もしくは互換ポインティングデバイス |} {{Reflist|group="注"}} == 旧バージョンからのアップグレード / アンインストール == Windows Me には、 [[Microsoft Windows 95|Windows 95]] か [[Microsoft Windows 98|Windows 98]] (Second Editionも含む)からのみアップグレードできる。[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.1]]、[[Microsoft Windows NT|Windows NT]]、[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]] からはアップグレードできない。また、Windows 95 からは Windows Me のアップグレード版の1つである「'''Windows 98ユーザー限定期間限定特別パッケージ'''」(Windows 98/98 SE からのアップグレードを前提にした低価格の専用アップグレードパッケージ)を使用してアップグレードする事はできない。Windows 95 からアップグレードしたい場合は、それに対応した標準アップグレードパッケージを用意する必要があるが、手元に Windows 98 のインストールCDが1枚あれば(通常版・アップグレード版問わず。Second Edition アップデートCDからでも可能)、セットアップの途中でこれを挿入する事でアップグレード認証を通過して、「Windows 98ユーザー限定期間限定特別パッケージ」を用いて Windows 95 からいきなり Windows Me にアップグレードする事ができる(この方法により、Windows 95 から Windows 98 を経由して Windows Me にアップグレードするという手間が省ける)。 Windows 95 と Windows 98 のどちらからアップグレードしてもシステムファイルが保存されていれば、旧バージョンに戻す事([[アンインストール]])は可能。 == 新しいバージョンへのアップグレード / アンインストール == Windows Me からは [[Microsoft Windows 2000|Windows 2000 Professional]]、[[Microsoft Windows XP|Windows XP Home Edition]]、[[Microsoft Windows XP|Windows XP Professional]] のいずれかにアップグレードする事ができる。ただし、Windows 2000 Professional へのアップグレードインストールはサポートされておらず、フォーマットしての新規インストールのみがサポートされている(Windows 2000も参照)。また、Windows 2000 にアップグレードした場合、Windows Me に備わっていた一部の機能が利用できなくなる(システムの復元など)。Windows Me からいきなり [[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]] 以降の Windows にアップグレードする事はできない。また、Windows XP(バージョンを問わず)にアップグレードした場合のみ、Windows XP を[[アンインストール]]して、Windows Me に戻す事ができる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == *[[Windows 9x系]] == 外部リンク == {{wikinews|マイクロソフト、ウィンドウズ98とMeのサポートを打ち切りへ}} * {{Wayback |url=http://support.microsoft.com/ph/6519/ja |title=Microsoft Windows Millennium Edition サポート ページ |date=20130412155531 }} {{Windows}} {{Normdaten}} [[Category:MS-DOS・Windows 3.x・9x系|Windows Me]] [[Category:2000年のソフトウェア|WindowsMe]]
2003-02-24T06:44:52Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Microsoft_Windows_Millennium_Edition
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Delphi
Delphi(デルファイ)は、コンソール (CUI)、デスクトップ (GUI)、Web、モバイルアプリケーション開発のための統合開発環境 (IDE) である。 DelphiのコンパイラはObject Pascalの独自拡張 (Delphi 言語) を用いて、プラットフォーム毎にネイティブコードを生成する。開発環境としてサポートされているのはMicrosoft Windowsのみだが、アプリケーション配置の対応プラットフォーム(ターゲット環境)はWindows (x86/x64)、macOS (x64/ARM64)、iOS (ARM64)、Android (ARM32/ARM64)、Linux (x64) となっている。 元々DelphiはボーランドがTurbo Pascal / Borland Pascalの後継として開発したWindows用のRADツールである。C++Builderとは多くのコアコンポーネント、特にIDEとVisual Component Library (VCL) を共有していたが、RAD Studioの前身となるBorland Developer Studio 2006の登場まではそれぞれ独立した製品だった。 2006年にボーランドの開発ツール部門がコードギアとして完全子会社化され、2008年にエンバカデロ・テクノロジーズに買収された。2015年10月に、上記エンバカデロ・テクノロジーズがアイデラにより買収される発表がなされた。 本項では Delphi Prism として開発されていた 「Embacardero Prism(エンバカデロ プリズム)」 についても述べる。 DelphiはWindows、macOS、iOS、Android、Linux向けアプリケーションを開発するための統合開発環境 (IDE) である。 「コンポーネント」と呼ばれるソフトウェア部品を 「フォーム」 や 「データモジュール」 に貼り付ける手法により、ユーザインタフェースやアプリケーションロジックの設計を視覚的に行え、ソフトウェアの開発を迅速に行える。またコンポーネント自体も Delphi で開発可能であり、その開発環境自身も利用者(開発者)のニーズに従って拡張可能である。コンポーネント指向プログラミングを体現した開発環境といえる。 Delphiで使われるコンポーネントのフレームワークには「Visual Component Library (VCL)」、「Component Library for Cross Platform (CLX)」、「FireMonkey(英語版) (FMX)」がある。このフレームワークを用いてC++言語でのWindows向けソフトウェア開発を実現したものが「C++Builder」である。 GUIプログラミングでは、オブジェクトのイベントの処理をイベントハンドラーに委譲 (delegation) するスタイルの設計パターン(Observer パターン)を採用することが多い。このような場合、例えばJavaでは継承(インターフェイスの実装)を使用するが、Delphiはメソッドポインタの機能によって委譲をサポートしている(メソッドポインタはのちにC#/VB.NETのデリゲートにも引き継がれた)。 Delphiではビジュアルエディター上でオブジェクトのイベントハンドラーを設定することもでき、変更はソースコードに反映される。逆にコードエディター上でイベントハンドラーを記述してメソッドポインタをバインドするとビジュアルエディターにも変更が反映される。この双方向の同期手法はTwo-Way-Toolsと呼ばれ、ボーランドの特許である(発明者はアンダース・ヘルスバーグ)。 Delphiはバージョン1から5までは順調にバージョンアップを繰り返し、それなりに人気もあったが、Delphi 6 / 7ではドキュメントの品質が明らかに低下し、Delphi 8以降.NET FrameworkやC#もサポートした巨大な開発ツール (RAD Studio) に発展したが、製品自体の品質が落ちてしまい、利用者を急速に失った。その後、Delphiはボーランドのツール部門買収などの混乱の中で低迷が続いていたが、エンバカデロ・テクノロジーズのもとでC#と.NET Frameworkのサポートを廃止しスリム化、Delphi 2009で再びWin32用のツールとして再出発を果たした。その後Unicodeサポートなど多くの機能拡張も行われ、macOS、iOS、Android、Linux向けのアプリケーション開発にも対応、品質も安定してきており、往年の実力を取り戻しつつある。 「Delphi」 とは、ギリシャの古代都市 「デルフォイ」 に由来する。デルフォイにあるアポロン神殿は、その託宣 (Oracle) を時の為政者だけではなく、一般人にも授けたことから人気が集まり、その門前町である都市国家デルフォイは古代の人気観光スポットだった。 当初はOracle Databaseサーバのフロントエンドとしての採用を目論んでおり、それにちなんだコードネームとしてDelphiが選ばれた。AppBuilderという製品名で発売しようとしたがノベル製品の名称 (Visual AppBuilder) と競合してしまい、議論と市場調査の結果、コードネームがそのまま製品名となった。 Delphi(製品名: Delphi for Windows、コードネーム: Delphi)は1995年9月に発売された。最初のバージョンはWindows 3.1用として開発された。Turbo Pascal譲りのオブジェクト指向をその土台に据えつつ、インタプリタ動作と錯覚してしまうほどの高速なコンパイラを備え、「コンポーネント」 と呼ばれる設計部材による視覚的(ビジュアル)開発手法を採用するというDelphiの基本的な性格は、この時既に定まっており、この画期的な製品はソフトウェア開発者から大きな注目を浴びた。Delphi 1はシリーズを通して唯一の16ビット開発環境としての側面も併せ持っている。なお、当初の日本語版には英語版で提供されていたDatabase DesktopやInterBaseなどが含まれておらず、価格も安価(29,800円)に設定されていた。その後、これらのツールを含む Delphi and Database Tools(68,000円)が発売された。 25 周年を迎えた 2020年2月15日に Delphi 1.0 Client/Server (英語版) がアンティークソフトウェアとして無償公開された。 「Delphi 2」(コードネーム: Polaris)は1996年に発売された。これ以降、Delphiは開発対象をWindows 95に代表される32ビットWindows (Win32) に移した。マイクロソフトのVisual BasicとVisual C++の長所を兼ね備えた開発環境として人気を博し、その後も順調にバージョンアップを繰り返した。 「Delphi 3」(コードネーム: Ivory)は1997年に発売された。Delphi 1 発売以来の様々な問題点をほぼ改修し、パッケージと呼ばれるDelphi独自のDLL形式をサポート、ActiveXコントロールの開発をサポートし、ウェブアプリケーション開発機能を提供した。完成度の高いバージョンであり、その後のDelphiの原型となった。 「Delphi 3.1」 はDelphi 3のマイナーバージョンアップ版で、Delphi 3ユーザーにはDelphi 3.1のCD-ROMが郵送された。このバージョンは日本でのみリリースされた。 「Delphi 4」(コードネーム: Allegro)は1998年に発売された。NT サービスアプリケーションの開発、CORBAをサポート。 「Delphi 5」(コードネーム: Argus)は1999年に発売された。ADO対応 (ADO Express)、COMオブジェクトコンポーネントラッパーを提供。 「Delphi 6」(コードネーム: Iliad)は2001年7月9日に発表された。 SOAPを利用するWebサービスの作成機能、コンポーネントベースでWeb画面が設計できるWebSnap、新しいデータベースフレームワークdbExpress (DBX)、Linux版Delphi (Kylix) と共通のComponent Library for Cross-Platform (CLX) などを搭載した意欲作。BDE (Borland Database Engine) は、このDelphi 6付属のバージョンである5.2が最終版となった。Windows 2000に対応。日本でも無償のPersonal版が提供された。 「Delphi 7」(コードネーム: Aurora)は2002年8月22日に発表された。 Delphi 1以来の伝統的なIDEを用いた最後の製品で、完成度の面で評価が高い。Windows XPに対応。 Professional版以上では「Delphi 7 Studio」の名称を使用。6で無償であったPersonal版は有償に変更になった。IntraWeb、RaveReportを搭載。Delphi for .NETのプレビュー版を添付。Professional版以上にはObject Pascal (Delphi) 版のKylix 3が付属した。ただし、Kylix 3は最後のKylixであり、CLXサポートもDelphi 7を最後に廃止されている。エンバカデロ・テクノロジーズによるDelphi 7の再販版が存在するが、こちらも「Borland Delphi 7」の名称を用いていた。ただし、"Studio" の文字は外された。 Win9xで動作するDelphiとしては最終版となる。そのため、段階マイグレーションのチェックポイントとして有用であり、現在でも最新版を購入すれば「Delphi 7.1」を入手する事が可能となっている(サポートは終了している)。 「Delphi 8 for the Microsoft .NET Framework」(コードネーム: Octane)は2003年11月3日に発表された。 .NET Frameworkに対応した「Delphi for the Microsoft .NET Framework (Delphi.NET)」の最初の製品だった。それ以前のDelphiの言語構文を殆ど変更する事なく.NETアプリケーションを開発できる。「Galileo」と呼ばれる新しいIDEになり、Microsoft Visual Studioと似たユーザインタフェースや外観が導入されたが、品質はお世辞にも良いとは言えなかった。.NET専用という点でDelphiの系譜の中ではやや異端のバージョンである。Win32の開発の為にDelphi 7.1が付属した。また、DelphiのIDEはDelphi (VCL) で書かれており、IDEを拡張するためのWin32コンパイラとして IDE Integration pack for Delphi 8 が用意された。 「Delphi 2005」(コードネーム: DiamondBack、内部バージョン: 9.0)は2004年11月4日に発表された。 ボーランドのC#言語開発環境である「C#Builder」とWin32開発用および.NET開発用の「Delphi for .NET」が統合された。より正確には、「Delphi 8 (Delphi for .NET)」と「C#Builder」を統合し、そこへWin32開発用である「Delphi for Win32」を追加したものがDelphi 2005である。Delphi 2005には無償版が用意されていたが、実際に提供されたのは欧州など限られた国のみだった。この製品ではIDEが大幅に強化された。UMLモデリング機能 (Borland Together) や構成管理機能 (Borland StarTeam)、リファクタリング機能の導入などである。また言語にもfor ... in構文(C#のforeach に相当)やinline命令などが追加された。 「Borland Developer Studio 2006」(コードネーム: DeXter)は2005年11月24日に発表された。 「Delphi 2006」という名称の製品は単体では存在しない。他言語との統合版 (Borland Developer Studio 2006) と単体製品 (Turbo Delphi) で名称が異なっている。 「Delphi 2005」の後継製品であり、Win32開発環境として「Delphi 2006 for Win32」(内部バージョン: 10.0)が、.NET開発用の環境として「Delphi 2006 for .NET」と「C#Builder」が提供された。さらにボーランドのC++言語によるVCL開発環境 「C++Builder」 が統合されている。 「Turbo Delphi」(内部バージョン: 10.0)は2006年9月6日(英語版は8月8日)に発表された。これは「Borland Developer Studio 2006」からWin32開発用のDelphi for Win32を単体として分離したものである。Delphi 2006 Update 2とほぼ同等の機能を持ち、エディションとしてはProfessionalに相当する。同様に「Delphi 2006 for .NET」、「C++Builder」、「C#Builder」も単体分離され、それぞれ 「Turbo Delphi for .NET」、「Turbo C++」、「Turbo C#」の名称で同時リリースされた。無償版 (Turbo Delphi Explorer / Turbo Delphi for .NET Explorer / Turbo C++ Explorer / Turbo C# Explorer) も提供された。Turboシリーズは他のパーソナリティ(言語)と同時にインストールする事はできず、「Borland Developer Studio 2006」とも共存できない。 FastMM相当のメモリマネージャに変更され、クラスヘルパー等の新しい言語機能も追加されている。 2007年2月21日に 「Delphi 2007 for Win32」(コードネーム: Spacely、内部バージョン: 11.0)が発表された。 製品名が示す通り、Win32開発用の環境である。Windows Vistaに対応。 2007年9月6日にはこの他に.NET開発用の「Delphi 2007 for .NET」を含む統合版「CodeGear RAD Studio 2007」(コードネーム: Highlander)が発表された。.NET 2.0に対応し、ジェネリクス(.NET)が導入されている。なおC#BuilderやDelphi for .NETにおけるWinformのサポートは打ち切られた。 その後、2007年10月10日に「Delphi 2007 for Win32 R2」が発表された。これは「Delphi 2007 for Win32 (Update 3)」に、「BlackFish SQL(旧JDataStore)」を追加した物である。 内部コード体系がShift_JIS (ANSI) であるDelphiとしては最終版となる。旧バージョンとの互換性も高く、Windows Vista対応が可能なため、マイグレーション先としても、段階マイグレーションのチェックポイントとして有用なバージョンである。そのためか、2017年時点においてもサポートは継続されており、現在でも最新版を購入すれば「Delphi 2007 for Win32 (R2)」を入手する事が可能である。 2008年8月26日に「Delphi 2009」(コードネーム: Tiburón、内部バージョン: 12.0)が発表された。 長年の懸案であった VCLとRTLのUnicode化、ジェネリクス(Win32)や匿名メソッドの導入など、Delphiにとって大きな転機といえるバージョンアップだった。"for Win32" の文字はないがWin32開発用である。 2008年12月2日には.NET開発用の「Delphi Prism」を含む統合版「CodeGear RAD Studio 2009」が発表された。旧来のDelphi for .NETは廃止になっている。Delphi Prism については後述する。 2009年8月25日に「Delphi 2010」(コードネーム: Weaver、内部バージョン: 14.0)が発表された。内部バージョン13.0は忌み番のためスキップされた。 Windows 7に正式対応。タッチインタフェースやマウスジェスチャーの制作支援機能、オープンソースDBであるFirebirdのサポート、RTTIの強化、IDEの改良(言語切り替え機能、Delphi 7以前のIDEにあったコンポーネントツールバーの復活など)が盛り込まれた。開発環境をインストールするOSとしてWindows 2000以前はサポートされなくなった。 2010年9月2日に「Delphi XE」(コードネーム: Fulcrum、内部バージョン: 15.0)が発表された。 XEは "Cross Platform Edition" の略である。名称通りクロスプラットフォーム開発環境を目指して開発が進められたものの、不完全であったため、クロスプラットフォーム機能の搭載は見送られている。結果、前バージョンとの機能差はあまりなくなってしまっているが、純粋なWin32アプリケーション開発環境としては最終版であるため、段階マイグレーションのためのチェックポイントとして有用である。 2011年2月1日にはStarterエディションが追加発表された。「Turbo Delphi」 以来のエントリー向けエディションであり、無償ではないがコンポーネントのインストールが可能、1,000 USドルを超えない範囲であれば商用利用可能など、制限は大幅に緩和されている。ただし、Starterには旧Delphiのライセンスは付属しない。また、同時利用は同一サブネット内において5ライセンスまでとされている。このため教室での利用は向かないとされており、アカデミック版の提供はない。Starter版には通常価格とアップグレード価格が用意されているが、同社または他社の開発ツールユーザーであれば「誰でも」アップグレード版を購入できる。C++Builder Starterとの共存はできず、RAD StudioにもStarterは提供されない。 Starter版とアカデミック版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010のライセンスが付属する。 2011年9月1日に「Delphi XE2」(コードネーム: Pulsar、内部バージョン: 16.0)が発表された。 新たにFireMonkeyフレームワークを導入したことにより、HDや3Dに対応した高品質なユーザインタフェースの設計や、Windows 64bit、Mac OS X (Intel x86)、iOS向けのマルチプラットフォームアプリケーションの開発が可能になった。但し、iOS開発は実際にはFree Pascal (FPC) を使ったツールチェインであり、後述するXE4以降のiOS開発環境との互換性は乏しい。マルチプラットフォーム化によりVCL / FMX / RTLのユニットで、System.TypesやVcl.Stylesのような、ドットで接頭辞を連結する命名規則(ユニットスコープ)を使うようになったため、以前のバージョンにソースコードを移植する場合には注意が必要である。Windows以外のアプリケーションのデバッグ及びデプロイ(配置)には新しいリモートデバッガである 「プラットフォームアシスタントサーバー (PAServer)」 を利用する(デバッグ対象アプリケーションがWindowsであっても、リモートにあるPCのアプリケーションをデバッグするにはやはりPAServerが必要となる)。また、製品エディションとしてEnterpriseとArchitectの間にUltimateが追加された。 搭載されるコンパイラはDCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (Mac OS X) の3つとなった(ツールチェイン用のFPCを除く)。 Starterとアカデミック版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XEのライセンスが付属する。 2012年9月4日に「Delphi XE3」(コードネーム: WaterDragon、内部バージョン: 17.0)が発表された。 新たに「Metropolis UI」を導入したことにより、タッチ対応、ライブタイルサポートなどを実装したWindows 8デスクトップアプリケーションの開発が可能になった。ただしWindowsランタイム (WinRT) には対応しない。OS X v10.8 (Mountain Lion) アプリケーション開発に対応。Visual LiveBindingが追加されてデータとユーザインタフェースの紐付けが容易になった。Enterprise版以上のエディションに新しいデータベースフレームワークである FireDAC が追加された(SQLite を標準サポート)。ProfessionalエディションでFireDACを利用するには、別途「FireDAC Client/Server Add-On Pack」を購入しなければならない。XE2にあったFPCツールチェインなiOS開発環境は廃止されている。開発環境をインストールするOSとしてWindows XP以前はサポートされなくなった。 Starterとアカデミック版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE、XE2のライセンスが付属する。 2013年4月23日に「Delphi XE4」(コードネーム: Quintessence、内部バージョン: 18.0)が発表された。iOS開発機能が追加された。これはXE2のものとは異なり、コンパイルにFPCを必要としないが、デバッグ及びデプロイのためにOS X搭載のIntel Macが必要となる。Professional版でモバイル開発 (iOS) を行うには「Mobile Add-On Pack」を別途購入する必要がある。前バージョンのXE3から7ヶ月でのバージョンアップとなったため、XE3からのバージョンアップ料金はキャンペーン価格ながら格安の6,000円となった(モバイル開発環境を含まないProfessional 版の場合)。PAServer 実行環境としてのMac OS X v10.6 (Snow Leopard) はサポートされなくなった。 搭載されるコンパイラは DCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (OS X), DCCIOS32(iOSシミュレータ用), DCCIOSARM(iOSデバイス用)の5つとなった。 Starterとアカデミック版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE3のライセンスが付属する。 2013年9月11日に「Delphi XE5」(コードネーム: Zephyr、内部バージョン: 19.0)が発表された。 OS X v10.9 (Mavericks)、iOS 7アプリケーション開発に対応。Android開発機能が追加された。AndroidアプリケーションのデバッグにはPAServerを必要としない。原則としてARM v7以降のNEON対応SoCを載せた端末であれば、Delphi製アプリケーションを実行できる。モバイル開発 (iOS / Android) を行う場合、Professional版ではMobile Add-On Packを別途購入する必要がある。Professional版にもローカル接続専用ではあるがFireDACが追加された。Professional版でFireDAC(リモート接続)を使うにはFireDAC Client/Server Add-On Packを別途購入する必要がある。 搭載されるコンパイラはDCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (OS X), DCCIOS32(iOSシミュレータ用), DCCIOSARM(iOSデバイス用), DCCAARM (Android) の6つとなった。 Starter 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE4 のライセンスが付属する。 2014年3月1日にRAD StudioのFireMonkey専用開発環境である「Appmethod」が発表された。AppmethodにはObject Pascal (Delphi) 言語 / C++言語が含まれるが、VCLを用いたソースコードをコンパイルする事はできない。AppmethodはRAD Studio / Delphi / C++Builderとは異なり、プラットフォーム毎 / 年のサブスクリプション契約となっている。最初のリリースである「Appmethod 1.13」はXE5相当であり、以降RAD Studioの新版がリリースされるのとほぼ同時期にAppmethodもリリースされるようになった。Appmethodは同等バージョンのRAD Studio / Delphi / C++Builderとは同時にインストールできない。また、このAppmethodのリリースにより、ドキュメントなどで使われるDelphi の「言語の名称」が「Object Pascal言語」と記述される事が多くなった。 2014年4月16日に「Delphi XE6」(コードネーム: Proteus、内部バージョン: 20.0)が発表された。 Windows 8.1に対応。デザインおよびパフォーマンスを改善した「高品質リリース」。 Starter版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE5のライセンスが付属する。 2014年9月2日に「Delphi XE7」(コードネーム: Carpathia、内部バージョン: 21.0)が発表された。 OS X v10.10 (Yosemite)、iOS 8アプリケーション開発に対応、FireMonkeyにFireUIと呼ばれる機能が追加された。これはフォームを各デバイス向けに最適化されたユーザインタフェースにカスタマイズするものである。開発環境をインストールするOSとしてWindows Vista以前はサポートされなくなり、PAServer実行環境としてのMac OS X v10.7 (Lion) もサポートされなくなった。OS XおよびiOS向けアプリケーションの開発を行うのにSDKが必要となったため、コンパイルや構文チェックを行うだけでもMacの実機が必要となっている。また、このバージョン以降、BDE (Borland Database Engine) はデフォルトでインストールされなくなった。 並列プログラミング ライブラリ (PPL) が追加されている。 Starter 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE6 のライセンスが付属する。 2015年4月7日に「Delphi XE8」(コードネーム: Elbrus、内部バージョン: 22.0)が発表された。 作業実行支援ツール 「Castalia」 とパッケージマネージャ 「GetIt」 が統合された。にiOSデバイス用64ビットコンパイラも追加され、Android 5.x (Lolipop) アプリケーション開発に対応した。但しAndroid 2.3x (Gingerbread) には非対応となった。 搭載されるコンパイラは DCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (OS X), DCCIOS32(iOSシミュレータ用), DCCIOSARM(iOSデバイス用), DCCIOSARM64 (iOSデバイス用64ビット), DCCAARM (Android) の7つとなった。 Starter版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE7のライセンスが付属する。 2015年9月1日に「Delphi 10 Seattle」(コードネーム: Aitana、内部バージョン: 23.0)が発表された。 Windows 10に対応。OS X v10.11 (El Capitan)、iOS 9 アプリケーション開発に対応、Androidのサービスアプリケーションも作成可能となった。IDEが利用可能なメモリが倍増したため、大規模なプロジェクトをビルドしてもメモリ不足エラーが発生しにくくなっている。前バージョンまで続いた XE ナンバリングが廃止されている。 Starter版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8のライセンスが付属する。 2016年4月20日に「Delphi 10.1 Berlin」(コードネーム: BigBen、内部バージョン: 24.0)が発表された。 Android 6.0、iOS 10、macOS v10.12 (Sierra) アプリケーション開発に対応。FireMonkeyのフォームデザイナも独立表示可能になった(デフォルトでは埋め込みデザイナ)。クラスヘルパーの仕様変更が行われている。インストーラの改良により、インストールオプションによってはインストール時間が大幅に短縮されるようになった。このバージョンからUltimateエディションが廃止されている。 2016年8月22日以降、Starter Editionが無償で入手できるようになっている。2006年のTurbo Delphi Explorer以来、10年ぶりの無償版である。またStarter EditionはTurbo Explorerとは異なり、複数のパーソナリティ(言語)が共存できるため、DelphiとC++Builderを同じ環境で利用する事が可能となっている。コンポーネントのインストールにも制限がない。 Starter版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8、10 Seattleのライセンスが付属する。 2017年3月22日に「Delphi 10.2 Tokyo」(コードネーム: Godzilla、内部バージョン: 25.0)が発表された。 Enterprise 以上の SKU に LLVM エンジンベースの Linux 64ビット コンパイラが追加された (Ubuntu 16.04 LTS / RedHat Enterprise Linux 7 対応)。また、インストーラの改良により、インストール時間が大幅に短縮されるようになった。 搭載されるコンパイラは DCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (OS X), DCCIOS32(iOSシミュレータ用), DCCIOSARM(iOSデバイス用), DCCIOSARM64 (iOSデバイス用64ビット), DCCAARM (Android), DCCLINUX64 (Linux 64bit) の8つとなった。 2017年12月13日にリリースされた Release 2 (10.2.2) において、Enterprise 以上の SKU で RAD Server の単一サイト/単一サーバー配置ライセンスが含まれるようになった。 2018年3月14日にリリースされた Release 3 (10.2.3) において、Professional Edition にモバイルサポートが追加された。従来、Mobile Add-On Packとして別売されていたものが統合された形になる。 2018年7月19日に、従来の Professional Edition 相当を無償化した「Delphi Community Edition」がリリースされた。Windows 64bit, macOS, iOS, Android 向けの開発が可能となっている。無償版 Starter Edition とは異なり、「C++Builder Community Edition」と同時にインストールする事はできない。 Starter / Community 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8、10 Seattle、10.1 Berlinのライセンスが付属する。 2018年11月22日に「Delphi 10.3 Rio」(コードネーム: Carnival、内部バージョン: 26.0)が発表された。同日、Community Edition も更新されている。 Starter Edition は廃止された。Professional Edition にあった別売の FireDAC Client/Server Add-on Pack も廃止され、フル機能の FireDAC を利用するためには Enterprise Edition 以上の SKU が必要となった。 型推論可能なインライン変数宣言が行えるようになっており、 従来このような記述をしなければならなかったものが、 このように var ブロックを使わずにシンプルに書けるようになった。 Linux コンパイラ (DCCLINUX64) では ARC (自動参照カウント) が廃止され、AnsiString / AnsiChar がサポートされるようになった。 2019年7月19日にリリースされた Release 2 (10.3.2) において、LLVM エンジンベースの macOS 用 64bit コンパイラが追加された。また、Enterprise 以上の SKU で、Linuxデスクトップアプリを FireMonkey GUI で開発可能になる FMX Linux がバンドルされるようになった。 2019年11月21日にリリースされた Release 3 (10.3.3) において、LLVM エンジンベースの Android 用 64bit コンパイラが追加された。また、Enterprise 以上の SKU で、データベース接続と同じように多様なエンタープライズアプリケーションに接続可能となる Enterprise Connectors がバンドルされるようになった。 搭載されるコンパイラは DCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (macOS 32bit), DCCOSX64 (macOS 64bit), DCCIOS32(iOSシミュレータ用), DCCIOSARM(iOSデバイス用), DCCIOSARM64 (iOSデバイス用64ビット), DCCAARM (Android), DCCAARM64 (Android 64bit), DCCLINUX64 (Linux 64bit) の10種類となった。 Community 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8、10 - 10.2 のライセンスが付属する。 2020年5月27日に「Delphi 10.4 Sydney」(コードネーム: Denali、内部バージョン: 27.0)が発表された。 Community Edition に関してはライセンス違反の利用が増加しているとの分析から、有償版を先行させるという判断がなされたため、同日にはリリースされなかった。 Language Server Protocol (LSP) に対応し、コード補完 (Code Insight) の性能が向上した。モバイル開発用コンパイラにあった Automatic Reference Counting (ARC) は廃止された。10.3 Rio への実装が見送られていた カスタムマネージドレコードと呼ばれるコンストラクタとデストラクタを持つレコード型がこのバージョンで実装された。 macOS Catalina において32ビットアプリが動作しなくなったため、ターゲットプラットフォームから "macOS 32ビット" が選択できなくなっている。同様に "iOS デバイス 32ビット" も選択できない。ただし、これらのコマンドラインコンパイラ (DCCOSX, DCCIOSARM) は付属している。 2021年7月19日に 10.4.2 Community Edition がリリースされた。 Community 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8、10 - 10.3 のライセンスが付属する。 2021年9月10日に「Delphi 11 Alexandria」(コードネーム: Olympus、内部バージョン: 28.0)が発表された。 IDE が高 DPI に対応。フォームデザイナが VCL スタイルを使用してレンダリングできるようになった。Apple M1 Mac 用の 64bit コンパイラが追加され、前バージョンでサポート外になっていた macOS 32bit 用コンパイラ / iOSシミュレータ 32bit 用コンパイラ / iOSデバイス 32bit 用コンパイラが付属しなくなった。Visual Studio Code との連携機能が追加され、Delphi LSP 機能拡張が用意されている。 Delphi 2009 以降、Windows 用コンパイラが生成する実行形式ファイルの PE ヘッダーには OS Version / Subsystem Version ともに 5.0 が設定されていたが、11 Alexandria では 6.0 が設定されている。このため、11 Alexandria で生成された実行形式ファイルは Windows XP 以前の OS では動作しない。 2022年9月8日にリリースされた Release 2 (11.2) において、iOSシミュレータ 64bit 用コンパイラが追加された。iOSシミュレータを動作させるためにはARM-64 (M1 または M2) 搭載Macが必要。 搭載されるコンパイラは DCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX64 (macOS Intel 64bit), DCCOSXARM64 (macOS Arm 64bit), DCCIOSARM64 (iOS デバイス 64bit), DCCIOSSIMARM64 (iOS シミュレータ 64bit), DCCAARM (Android 32bit), DCCAARM64 (Android 64bit), DCCLINUX64 (Linux 64bit) の9種類となった。 2023年2月28日に製品の品質向上を目的とした Release 3 (11.3) がリリースされた。 2023年4月27日に 11.3 Community Edition がリリースされた。 Community 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8、10 - 10.4 のライセンスが付属する。 今後、追加のARM用コンパイラやWASMコンパイラを盛り込む可能性があると、2020年のロードマップにてアナウンスされている。 10.2 Tokyo より完全無料版の Community Edition が提供されている。有料の Delphi Professional と同等の機能を持ち、従来の Win32 アプリケーションのみならず Windows 64bit, macOS, iOS, Android の開発が可能となっている。 DelphiのVCL / CLX / FMXは、コンポーネントと呼ばれるソフトウェア部品の集合で構成され、プログラマはこのコンポーネントを組み合わせて視覚的にアプリケーションを開発する方式となっているが、ユーザープログラマがコンポーネントを自由に作成して開発環境自体に組み込み、開発環境の拡張が可能となっている。 多くの有償/無償のコンポーネントが作成・公開され、開発環境を容易に拡張できるシステムはユーザープログラマからの支持も高いが、Delphiのバージョン毎に互換性が無い場合も多く、コンポーネントのソースコードが公開されている場合は使用している Delphiのバージョンに合わせて自分でコンポーネントのコードを修正する必要がある。 有償 / 無償の製品、シェアウェア、フリーウェアが多数作成されている。Delphi 自身も Delphi によって作られている。 かつてボーランドから提供されていたVCL Scannerというツールを使うと、DelphiまたはC++Builderで作成されたアプリケーションを調べられた。現在では実行ファイルをダウンロードできないが、Delphi 5 でコンパイル可能なソースコードが公開されているため、自前で実行ファイルを生成できる。 Embarcadero Prism(エンバカデロ プリズム)は、かつてエンバカデロ・テクノロジーズが.NET向けの新たなIDEとして販売していた製品である。以前はDelphi Prismと呼ばれていたが、XE2より名称からDelphiが外れEmbarcadero Prismとなった。 DelphiはPrism登場以前から、バージョン8以降において、Delphiの.NET開発用の環境 (Delphi for .NET) はWin32版のVCLと互換性を持つフレームワークVCL.NETと、マイクロソフトのフレームワークWindows Formsの両方をサポートしていた。しかし、Delphi 2007ではWindows Formsのサポートが打ち切られることとなった。 Delphi 2009よりエンバカデロ・テクノロジーズは方針転換を行い、それまでのDelphi for .NET (Delphi.NET) を置き換える決定を下した。こうして生まれたのがPrismである。誕生当初はDelphiの名を冠してはいたものの、実際はRem Objectsの言語コンパイラOxygene (以前はChromeと呼ばれていた) とマイクロソフトのIDEを使用する全く新しい製品であった。PrismではそれまでのVCL.NETはサポートされず、フレームワークのサポートはWindows Formsのみとなっていた。 Delphi for Win32 (Delphi Win32) とは異なり、Prismは更新が頻繁に行われた。単体製品版には初年度分の年間メンテナンス & サポートが付属しており、翌年度以降も契約更新が可能で、この契約期間中であればいつでも最新版を入手することができた。このため、バージョンアップ版の設定がなかった。また、一度契約が切れてしまうと新規での製品購入が必要であった。さらにRAD Studio版には初年度分の年間メンテナンス & サポートも付属していないため、購入年度から加入していないとメンテナンスリリースを入手できないので注意が必要であった。 Embarcadero Prism は XE3 (XE3.2) が最終バージョンとなり、RAD Studio XE4 以降に含まれず、スタンドアロン製品としても提供されなくなった。サポートとメンテナンスのアップデートも2013年8月で終了している。エンバカデロ・テクノロジーズは、今後のPrismの最新版はRem Objectsから購入するようにアナウンスしている。なおRem ObjectsはPrismの名称を用いず、Oxygeneとする方針を打ち出している。 PrismとDelphi for .NET のどちらも.NET開発環境ではあるが、VCL.NETを利用したDelphi for .NETのコードとはフレームワークとしての互換性がない。 PrismにはDelphi for Win32とある程度の互換性を保つためのオプションが存在するものの、ほぼ互換性がない。「Oxidizer」と呼ばれるRem Objects製のコードコンバーターがあり、Delphi for Win32のコードをPrismへコンバートする事ができる。 これらの他、メンテナンスリリースが存在する。 「Delphi Prism 2009」 は2008年12月2日に発表された。Prismの最初のバージョン。 「Delphi Prism 2010」 は2009年8月25日に発表された。クロスプラットフォーム開発機能により、Linux用のアプリケーション開発をサポート。 「Delphi Prism 2011」 は2010年6月3日に発表された。クロスプラットフォーム開発機能がさらに拡張され、Mac OS X、iOS向けのアプリケーション開発をサポート。 「Delphi Prism XE」 は2010年9月2日に発表された。Delphi Prism 2009、2010、2011 のライセンスが付属する。 「Embacadero Prism XE2」 は2011年9月1日に発表された。Delphi Prism 2009、2010、2011、XEのライセンスが付属する。 「Embacadero Prism XE3」 は2012年9月4日に「Embarcadero RAD Studio XE3」の一部として発表された。Delphi / Embacadero Prism 2009、2010、2011、XE、XE2のライセンスが付属する。最後のメジャーリリースとなった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Delphi(デルファイ)は、コンソール (CUI)、デスクトップ (GUI)、Web、モバイルアプリケーション開発のための統合開発環境 (IDE) である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "DelphiのコンパイラはObject Pascalの独自拡張 (Delphi 言語) を用いて、プラットフォーム毎にネイティブコードを生成する。開発環境としてサポートされているのはMicrosoft Windowsのみだが、アプリケーション配置の対応プラットフォーム(ターゲット環境)はWindows (x86/x64)、macOS (x64/ARM64)、iOS (ARM64)、Android (ARM32/ARM64)、Linux (x64) となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "元々DelphiはボーランドがTurbo Pascal / Borland Pascalの後継として開発したWindows用のRADツールである。C++Builderとは多くのコアコンポーネント、特にIDEとVisual Component Library (VCL) を共有していたが、RAD Studioの前身となるBorland Developer Studio 2006の登場まではそれぞれ独立した製品だった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2006年にボーランドの開発ツール部門がコードギアとして完全子会社化され、2008年にエンバカデロ・テクノロジーズに買収された。2015年10月に、上記エンバカデロ・テクノロジーズがアイデラにより買収される発表がなされた。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "本項では Delphi Prism として開発されていた 「Embacardero Prism(エンバカデロ プリズム)」 についても述べる。", 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"Delphiではビジュアルエディター上でオブジェクトのイベントハンドラーを設定することもでき、変更はソースコードに反映される。逆にコードエディター上でイベントハンドラーを記述してメソッドポインタをバインドするとビジュアルエディターにも変更が反映される。この双方向の同期手法はTwo-Way-Toolsと呼ばれ、ボーランドの特許である(発明者はアンダース・ヘルスバーグ)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "Delphiはバージョン1から5までは順調にバージョンアップを繰り返し、それなりに人気もあったが、Delphi 6 / 7ではドキュメントの品質が明らかに低下し、Delphi 8以降.NET FrameworkやC#もサポートした巨大な開発ツール (RAD Studio) に発展したが、製品自体の品質が落ちてしまい、利用者を急速に失った。その後、Delphiはボーランドのツール部門買収などの混乱の中で低迷が続いていたが、エンバカデロ・テクノロジーズのもとでC#と.NET Frameworkのサポートを廃止しスリム化、Delphi 2009で再びWin32用のツールとして再出発を果たした。その後Unicodeサポートなど多くの機能拡張も行われ、macOS、iOS、Android、Linux向けのアプリケーション開発にも対応、品質も安定してきており、往年の実力を取り戻しつつある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "「Delphi」 とは、ギリシャの古代都市 「デルフォイ」 に由来する。デルフォイにあるアポロン神殿は、その託宣 (Oracle) を時の為政者だけではなく、一般人にも授けたことから人気が集まり、その門前町である都市国家デルフォイは古代の人気観光スポットだった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "当初はOracle Databaseサーバのフロントエンドとしての採用を目論んでおり、それにちなんだコードネームとしてDelphiが選ばれた。AppBuilderという製品名で発売しようとしたがノベル製品の名称 (Visual AppBuilder) と競合してしまい、議論と市場調査の結果、コードネームがそのまま製品名となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "Delphi(製品名: Delphi for Windows、コードネーム: Delphi)は1995年9月に発売された。最初のバージョンはWindows 3.1用として開発された。Turbo Pascal譲りのオブジェクト指向をその土台に据えつつ、インタプリタ動作と錯覚してしまうほどの高速なコンパイラを備え、「コンポーネント」 と呼ばれる設計部材による視覚的(ビジュアル)開発手法を採用するというDelphiの基本的な性格は、この時既に定まっており、この画期的な製品はソフトウェア開発者から大きな注目を浴びた。Delphi 1はシリーズを通して唯一の16ビット開発環境としての側面も併せ持っている。なお、当初の日本語版には英語版で提供されていたDatabase DesktopやInterBaseなどが含まれておらず、価格も安価(29,800円)に設定されていた。その後、これらのツールを含む Delphi and Database Tools(68,000円)が発売された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "25 周年を迎えた 2020年2月15日に Delphi 1.0 Client/Server (英語版) がアンティークソフトウェアとして無償公開された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "「Delphi 2」(コードネーム: Polaris)は1996年に発売された。これ以降、Delphiは開発対象をWindows 95に代表される32ビットWindows (Win32) に移した。マイクロソフトのVisual BasicとVisual C++の長所を兼ね備えた開発環境として人気を博し、その後も順調にバージョンアップを繰り返した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "「Delphi 3」(コードネーム: Ivory)は1997年に発売された。Delphi 1 発売以来の様々な問題点をほぼ改修し、パッケージと呼ばれるDelphi独自のDLL形式をサポート、ActiveXコントロールの開発をサポートし、ウェブアプリケーション開発機能を提供した。完成度の高いバージョンであり、その後のDelphiの原型となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "「Delphi 3.1」 はDelphi 3のマイナーバージョンアップ版で、Delphi 3ユーザーにはDelphi 3.1のCD-ROMが郵送された。このバージョンは日本でのみリリースされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "「Delphi 4」(コードネーム: Allegro)は1998年に発売された。NT サービスアプリケーションの開発、CORBAをサポート。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "「Delphi 5」(コードネーム: Argus)は1999年に発売された。ADO対応 (ADO Express)、COMオブジェクトコンポーネントラッパーを提供。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "「Delphi 6」(コードネーム: Iliad)は2001年7月9日に発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "SOAPを利用するWebサービスの作成機能、コンポーネントベースでWeb画面が設計できるWebSnap、新しいデータベースフレームワークdbExpress (DBX)、Linux版Delphi (Kylix) と共通のComponent Library for Cross-Platform (CLX) などを搭載した意欲作。BDE (Borland Database Engine) は、このDelphi 6付属のバージョンである5.2が最終版となった。Windows 2000に対応。日本でも無償のPersonal版が提供された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "「Delphi 7」(コードネーム: Aurora)は2002年8月22日に発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "Delphi 1以来の伝統的なIDEを用いた最後の製品で、完成度の面で評価が高い。Windows XPに対応。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "Professional版以上では「Delphi 7 Studio」の名称を使用。6で無償であったPersonal版は有償に変更になった。IntraWeb、RaveReportを搭載。Delphi for .NETのプレビュー版を添付。Professional版以上にはObject Pascal (Delphi) 版のKylix 3が付属した。ただし、Kylix 3は最後のKylixであり、CLXサポートもDelphi 7を最後に廃止されている。エンバカデロ・テクノロジーズによるDelphi 7の再販版が存在するが、こちらも「Borland Delphi 7」の名称を用いていた。ただし、\"Studio\" の文字は外された。 Win9xで動作するDelphiとしては最終版となる。そのため、段階マイグレーションのチェックポイントとして有用であり、現在でも最新版を購入すれば「Delphi 7.1」を入手する事が可能となっている(サポートは終了している)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "「Delphi 8 for the Microsoft .NET Framework」(コードネーム: Octane)は2003年11月3日に発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": ".NET Frameworkに対応した「Delphi for the Microsoft .NET Framework (Delphi.NET)」の最初の製品だった。それ以前のDelphiの言語構文を殆ど変更する事なく.NETアプリケーションを開発できる。「Galileo」と呼ばれる新しいIDEになり、Microsoft Visual Studioと似たユーザインタフェースや外観が導入されたが、品質はお世辞にも良いとは言えなかった。.NET専用という点でDelphiの系譜の中ではやや異端のバージョンである。Win32の開発の為にDelphi 7.1が付属した。また、DelphiのIDEはDelphi (VCL) で書かれており、IDEを拡張するためのWin32コンパイラとして IDE Integration pack for Delphi 8 が用意された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "「Delphi 2005」(コードネーム: DiamondBack、内部バージョン: 9.0)は2004年11月4日に発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ボーランドのC#言語開発環境である「C#Builder」とWin32開発用および.NET開発用の「Delphi for .NET」が統合された。より正確には、「Delphi 8 (Delphi for .NET)」と「C#Builder」を統合し、そこへWin32開発用である「Delphi for Win32」を追加したものがDelphi 2005である。Delphi 2005には無償版が用意されていたが、実際に提供されたのは欧州など限られた国のみだった。この製品ではIDEが大幅に強化された。UMLモデリング機能 (Borland Together) や構成管理機能 (Borland StarTeam)、リファクタリング機能の導入などである。また言語にもfor ... in構文(C#のforeach に相当)やinline命令などが追加された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "「Borland Developer Studio 2006」(コードネーム: DeXter)は2005年11月24日に発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "「Delphi 2006」という名称の製品は単体では存在しない。他言語との統合版 (Borland Developer Studio 2006) と単体製品 (Turbo Delphi) で名称が異なっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "「Delphi 2005」の後継製品であり、Win32開発環境として「Delphi 2006 for Win32」(内部バージョン: 10.0)が、.NET開発用の環境として「Delphi 2006 for .NET」と「C#Builder」が提供された。さらにボーランドのC++言語によるVCL開発環境 「C++Builder」 が統合されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "「Turbo Delphi」(内部バージョン: 10.0)は2006年9月6日(英語版は8月8日)に発表された。これは「Borland Developer Studio 2006」からWin32開発用のDelphi for Win32を単体として分離したものである。Delphi 2006 Update 2とほぼ同等の機能を持ち、エディションとしてはProfessionalに相当する。同様に「Delphi 2006 for .NET」、「C++Builder」、「C#Builder」も単体分離され、それぞれ 「Turbo Delphi for .NET」、「Turbo C++」、「Turbo C#」の名称で同時リリースされた。無償版 (Turbo Delphi Explorer / Turbo Delphi for .NET Explorer / Turbo C++ Explorer / Turbo C# Explorer) も提供された。Turboシリーズは他のパーソナリティ(言語)と同時にインストールする事はできず、「Borland Developer Studio 2006」とも共存できない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "FastMM相当のメモリマネージャに変更され、クラスヘルパー等の新しい言語機能も追加されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2007年2月21日に 「Delphi 2007 for Win32」(コードネーム: Spacely、内部バージョン: 11.0)が発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "製品名が示す通り、Win32開発用の環境である。Windows Vistaに対応。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2007年9月6日にはこの他に.NET開発用の「Delphi 2007 for .NET」を含む統合版「CodeGear RAD Studio 2007」(コードネーム: Highlander)が発表された。.NET 2.0に対応し、ジェネリクス(.NET)が導入されている。なおC#BuilderやDelphi for .NETにおけるWinformのサポートは打ち切られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "その後、2007年10月10日に「Delphi 2007 for Win32 R2」が発表された。これは「Delphi 2007 for Win32 (Update 3)」に、「BlackFish SQL(旧JDataStore)」を追加した物である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "内部コード体系がShift_JIS (ANSI) であるDelphiとしては最終版となる。旧バージョンとの互換性も高く、Windows Vista対応が可能なため、マイグレーション先としても、段階マイグレーションのチェックポイントとして有用なバージョンである。そのためか、2017年時点においてもサポートは継続されており、現在でも最新版を購入すれば「Delphi 2007 for Win32 (R2)」を入手する事が可能である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2008年8月26日に「Delphi 2009」(コードネーム: Tiburón、内部バージョン: 12.0)が発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "長年の懸案であった VCLとRTLのUnicode化、ジェネリクス(Win32)や匿名メソッドの導入など、Delphiにとって大きな転機といえるバージョンアップだった。\"for Win32\" の文字はないがWin32開発用である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2008年12月2日には.NET開発用の「Delphi Prism」を含む統合版「CodeGear RAD Studio 2009」が発表された。旧来のDelphi for .NETは廃止になっている。Delphi Prism については後述する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2009年8月25日に「Delphi 2010」(コードネーム: Weaver、内部バージョン: 14.0)が発表された。内部バージョン13.0は忌み番のためスキップされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "Windows 7に正式対応。タッチインタフェースやマウスジェスチャーの制作支援機能、オープンソースDBであるFirebirdのサポート、RTTIの強化、IDEの改良(言語切り替え機能、Delphi 7以前のIDEにあったコンポーネントツールバーの復活など)が盛り込まれた。開発環境をインストールするOSとしてWindows 2000以前はサポートされなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2010年9月2日に「Delphi XE」(コードネーム: Fulcrum、内部バージョン: 15.0)が発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "XEは \"Cross Platform Edition\" の略である。名称通りクロスプラットフォーム開発環境を目指して開発が進められたものの、不完全であったため、クロスプラットフォーム機能の搭載は見送られている。結果、前バージョンとの機能差はあまりなくなってしまっているが、純粋なWin32アプリケーション開発環境としては最終版であるため、段階マイグレーションのためのチェックポイントとして有用である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2011年2月1日にはStarterエディションが追加発表された。「Turbo Delphi」 以来のエントリー向けエディションであり、無償ではないがコンポーネントのインストールが可能、1,000 USドルを超えない範囲であれば商用利用可能など、制限は大幅に緩和されている。ただし、Starterには旧Delphiのライセンスは付属しない。また、同時利用は同一サブネット内において5ライセンスまでとされている。このため教室での利用は向かないとされており、アカデミック版の提供はない。Starter版には通常価格とアップグレード価格が用意されているが、同社または他社の開発ツールユーザーであれば「誰でも」アップグレード版を購入できる。C++Builder Starterとの共存はできず、RAD StudioにもStarterは提供されない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "Starter版とアカデミック版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010のライセンスが付属する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2011年9月1日に「Delphi XE2」(コードネーム: Pulsar、内部バージョン: 16.0)が発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "新たにFireMonkeyフレームワークを導入したことにより、HDや3Dに対応した高品質なユーザインタフェースの設計や、Windows 64bit、Mac OS X (Intel x86)、iOS向けのマルチプラットフォームアプリケーションの開発が可能になった。但し、iOS開発は実際にはFree Pascal (FPC) を使ったツールチェインであり、後述するXE4以降のiOS開発環境との互換性は乏しい。マルチプラットフォーム化によりVCL / FMX / RTLのユニットで、System.TypesやVcl.Stylesのような、ドットで接頭辞を連結する命名規則(ユニットスコープ)を使うようになったため、以前のバージョンにソースコードを移植する場合には注意が必要である。Windows以外のアプリケーションのデバッグ及びデプロイ(配置)には新しいリモートデバッガである 「プラットフォームアシスタントサーバー (PAServer)」 を利用する(デバッグ対象アプリケーションがWindowsであっても、リモートにあるPCのアプリケーションをデバッグするにはやはりPAServerが必要となる)。また、製品エディションとしてEnterpriseとArchitectの間にUltimateが追加された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "搭載されるコンパイラはDCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (Mac OS X) の3つとなった(ツールチェイン用のFPCを除く)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "Starterとアカデミック版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XEのライセンスが付属する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2012年9月4日に「Delphi XE3」(コードネーム: WaterDragon、内部バージョン: 17.0)が発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "新たに「Metropolis UI」を導入したことにより、タッチ対応、ライブタイルサポートなどを実装したWindows 8デスクトップアプリケーションの開発が可能になった。ただしWindowsランタイム (WinRT) には対応しない。OS X v10.8 (Mountain Lion) アプリケーション開発に対応。Visual LiveBindingが追加されてデータとユーザインタフェースの紐付けが容易になった。Enterprise版以上のエディションに新しいデータベースフレームワークである FireDAC が追加された(SQLite を標準サポート)。ProfessionalエディションでFireDACを利用するには、別途「FireDAC Client/Server Add-On Pack」を購入しなければならない。XE2にあったFPCツールチェインなiOS開発環境は廃止されている。開発環境をインストールするOSとしてWindows XP以前はサポートされなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "Starterとアカデミック版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE、XE2のライセンスが付属する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2013年4月23日に「Delphi XE4」(コードネーム: Quintessence、内部バージョン: 18.0)が発表された。iOS開発機能が追加された。これはXE2のものとは異なり、コンパイルにFPCを必要としないが、デバッグ及びデプロイのためにOS X搭載のIntel Macが必要となる。Professional版でモバイル開発 (iOS) を行うには「Mobile Add-On Pack」を別途購入する必要がある。前バージョンのXE3から7ヶ月でのバージョンアップとなったため、XE3からのバージョンアップ料金はキャンペーン価格ながら格安の6,000円となった(モバイル開発環境を含まないProfessional 版の場合)。PAServer 実行環境としてのMac OS X v10.6 (Snow Leopard) はサポートされなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "搭載されるコンパイラは DCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (OS X), DCCIOS32(iOSシミュレータ用), DCCIOSARM(iOSデバイス用)の5つとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "Starterとアカデミック版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE3のライセンスが付属する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2013年9月11日に「Delphi XE5」(コードネーム: Zephyr、内部バージョン: 19.0)が発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "OS X v10.9 (Mavericks)、iOS 7アプリケーション開発に対応。Android開発機能が追加された。AndroidアプリケーションのデバッグにはPAServerを必要としない。原則としてARM v7以降のNEON対応SoCを載せた端末であれば、Delphi製アプリケーションを実行できる。モバイル開発 (iOS / Android) を行う場合、Professional版ではMobile Add-On Packを別途購入する必要がある。Professional版にもローカル接続専用ではあるがFireDACが追加された。Professional版でFireDAC(リモート接続)を使うにはFireDAC Client/Server Add-On Packを別途購入する必要がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "搭載されるコンパイラはDCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (OS X), DCCIOS32(iOSシミュレータ用), DCCIOSARM(iOSデバイス用), DCCAARM (Android) の6つとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "Starter 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE4 のライセンスが付属する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2014年3月1日にRAD StudioのFireMonkey専用開発環境である「Appmethod」が発表された。AppmethodにはObject Pascal (Delphi) 言語 / C++言語が含まれるが、VCLを用いたソースコードをコンパイルする事はできない。AppmethodはRAD Studio / Delphi / C++Builderとは異なり、プラットフォーム毎 / 年のサブスクリプション契約となっている。最初のリリースである「Appmethod 1.13」はXE5相当であり、以降RAD Studioの新版がリリースされるのとほぼ同時期にAppmethodもリリースされるようになった。Appmethodは同等バージョンのRAD Studio / Delphi / C++Builderとは同時にインストールできない。また、このAppmethodのリリースにより、ドキュメントなどで使われるDelphi の「言語の名称」が「Object Pascal言語」と記述される事が多くなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2014年4月16日に「Delphi XE6」(コードネーム: Proteus、内部バージョン: 20.0)が発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "Windows 8.1に対応。デザインおよびパフォーマンスを改善した「高品質リリース」。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "Starter版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE5のライセンスが付属する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2014年9月2日に「Delphi XE7」(コードネーム: Carpathia、内部バージョン: 21.0)が発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "OS X v10.10 (Yosemite)、iOS 8アプリケーション開発に対応、FireMonkeyにFireUIと呼ばれる機能が追加された。これはフォームを各デバイス向けに最適化されたユーザインタフェースにカスタマイズするものである。開発環境をインストールするOSとしてWindows Vista以前はサポートされなくなり、PAServer実行環境としてのMac OS X v10.7 (Lion) もサポートされなくなった。OS XおよびiOS向けアプリケーションの開発を行うのにSDKが必要となったため、コンパイルや構文チェックを行うだけでもMacの実機が必要となっている。また、このバージョン以降、BDE (Borland Database Engine) はデフォルトでインストールされなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "並列プログラミング ライブラリ (PPL) が追加されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "Starter 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE6 のライセンスが付属する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "2015年4月7日に「Delphi XE8」(コードネーム: Elbrus、内部バージョン: 22.0)が発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "作業実行支援ツール 「Castalia」 とパッケージマネージャ 「GetIt」 が統合された。にiOSデバイス用64ビットコンパイラも追加され、Android 5.x (Lolipop) アプリケーション開発に対応した。但しAndroid 2.3x (Gingerbread) には非対応となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "搭載されるコンパイラは DCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (OS X), DCCIOS32(iOSシミュレータ用), DCCIOSARM(iOSデバイス用), DCCIOSARM64 (iOSデバイス用64ビット), DCCAARM (Android) の7つとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "Starter版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE7のライセンスが付属する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2015年9月1日に「Delphi 10 Seattle」(コードネーム: Aitana、内部バージョン: 23.0)が発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "Windows 10に対応。OS X v10.11 (El Capitan)、iOS 9 アプリケーション開発に対応、Androidのサービスアプリケーションも作成可能となった。IDEが利用可能なメモリが倍増したため、大規模なプロジェクトをビルドしてもメモリ不足エラーが発生しにくくなっている。前バージョンまで続いた XE ナンバリングが廃止されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "Starter版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8のライセンスが付属する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "2016年4月20日に「Delphi 10.1 Berlin」(コードネーム: BigBen、内部バージョン: 24.0)が発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "Android 6.0、iOS 10、macOS v10.12 (Sierra) アプリケーション開発に対応。FireMonkeyのフォームデザイナも独立表示可能になった(デフォルトでは埋め込みデザイナ)。クラスヘルパーの仕様変更が行われている。インストーラの改良により、インストールオプションによってはインストール時間が大幅に短縮されるようになった。このバージョンからUltimateエディションが廃止されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "2016年8月22日以降、Starter Editionが無償で入手できるようになっている。2006年のTurbo Delphi Explorer以来、10年ぶりの無償版である。またStarter EditionはTurbo Explorerとは異なり、複数のパーソナリティ(言語)が共存できるため、DelphiとC++Builderを同じ環境で利用する事が可能となっている。コンポーネントのインストールにも制限がない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "Starter版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8、10 Seattleのライセンスが付属する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "2017年3月22日に「Delphi 10.2 Tokyo」(コードネーム: Godzilla、内部バージョン: 25.0)が発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "Enterprise 以上の SKU に LLVM エンジンベースの Linux 64ビット コンパイラが追加された (Ubuntu 16.04 LTS / RedHat Enterprise Linux 7 対応)。また、インストーラの改良により、インストール時間が大幅に短縮されるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "搭載されるコンパイラは DCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (OS X), DCCIOS32(iOSシミュレータ用), DCCIOSARM(iOSデバイス用), DCCIOSARM64 (iOSデバイス用64ビット), DCCAARM (Android), DCCLINUX64 (Linux 64bit) の8つとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "2017年12月13日にリリースされた Release 2 (10.2.2) において、Enterprise 以上の SKU で RAD Server の単一サイト/単一サーバー配置ライセンスが含まれるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "2018年3月14日にリリースされた Release 3 (10.2.3) において、Professional Edition にモバイルサポートが追加された。従来、Mobile Add-On Packとして別売されていたものが統合された形になる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "2018年7月19日に、従来の Professional Edition 相当を無償化した「Delphi Community Edition」がリリースされた。Windows 64bit, macOS, iOS, Android 向けの開発が可能となっている。無償版 Starter Edition とは異なり、「C++Builder Community Edition」と同時にインストールする事はできない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "Starter / Community 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8、10 Seattle、10.1 Berlinのライセンスが付属する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "2018年11月22日に「Delphi 10.3 Rio」(コードネーム: Carnival、内部バージョン: 26.0)が発表された。同日、Community Edition も更新されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "Starter Edition は廃止された。Professional Edition にあった別売の FireDAC Client/Server Add-on Pack も廃止され、フル機能の FireDAC を利用するためには Enterprise Edition 以上の SKU が必要となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "型推論可能なインライン変数宣言が行えるようになっており、", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "従来このような記述をしなければならなかったものが、", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "このように var ブロックを使わずにシンプルに書けるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "Linux コンパイラ (DCCLINUX64) では ARC (自動参照カウント) が廃止され、AnsiString / AnsiChar がサポートされるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "2019年7月19日にリリースされた Release 2 (10.3.2) において、LLVM エンジンベースの macOS 用 64bit コンパイラが追加された。また、Enterprise 以上の SKU で、Linuxデスクトップアプリを FireMonkey GUI で開発可能になる FMX Linux がバンドルされるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "2019年11月21日にリリースされた Release 3 (10.3.3) において、LLVM エンジンベースの Android 用 64bit コンパイラが追加された。また、Enterprise 以上の SKU で、データベース接続と同じように多様なエンタープライズアプリケーションに接続可能となる Enterprise Connectors がバンドルされるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "搭載されるコンパイラは DCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (macOS 32bit), DCCOSX64 (macOS 64bit), DCCIOS32(iOSシミュレータ用), DCCIOSARM(iOSデバイス用), DCCIOSARM64 (iOSデバイス用64ビット), DCCAARM (Android), DCCAARM64 (Android 64bit), DCCLINUX64 (Linux 64bit) の10種類となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "Community 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8、10 - 10.2 のライセンスが付属する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "2020年5月27日に「Delphi 10.4 Sydney」(コードネーム: Denali、内部バージョン: 27.0)が発表された。 Community Edition に関してはライセンス違反の利用が増加しているとの分析から、有償版を先行させるという判断がなされたため、同日にはリリースされなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "Language Server Protocol (LSP) に対応し、コード補完 (Code Insight) の性能が向上した。モバイル開発用コンパイラにあった Automatic Reference Counting (ARC) は廃止された。10.3 Rio への実装が見送られていた カスタムマネージドレコードと呼ばれるコンストラクタとデストラクタを持つレコード型がこのバージョンで実装された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "macOS Catalina において32ビットアプリが動作しなくなったため、ターゲットプラットフォームから \"macOS 32ビット\" が選択できなくなっている。同様に \"iOS デバイス 32ビット\" も選択できない。ただし、これらのコマンドラインコンパイラ (DCCOSX, DCCIOSARM) は付属している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "2021年7月19日に 10.4.2 Community Edition がリリースされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "Community 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8、10 - 10.3 のライセンスが付属する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "2021年9月10日に「Delphi 11 Alexandria」(コードネーム: Olympus、内部バージョン: 28.0)が発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "IDE が高 DPI に対応。フォームデザイナが VCL スタイルを使用してレンダリングできるようになった。Apple M1 Mac 用の 64bit コンパイラが追加され、前バージョンでサポート外になっていた macOS 32bit 用コンパイラ / iOSシミュレータ 32bit 用コンパイラ / iOSデバイス 32bit 用コンパイラが付属しなくなった。Visual Studio Code との連携機能が追加され、Delphi LSP 機能拡張が用意されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "Delphi 2009 以降、Windows 用コンパイラが生成する実行形式ファイルの PE ヘッダーには OS Version / Subsystem Version ともに 5.0 が設定されていたが、11 Alexandria では 6.0 が設定されている。このため、11 Alexandria で生成された実行形式ファイルは Windows XP 以前の OS では動作しない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "2022年9月8日にリリースされた Release 2 (11.2) において、iOSシミュレータ 64bit 用コンパイラが追加された。iOSシミュレータを動作させるためにはARM-64 (M1 または M2) 搭載Macが必要。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "搭載されるコンパイラは DCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX64 (macOS Intel 64bit), DCCOSXARM64 (macOS Arm 64bit), DCCIOSARM64 (iOS デバイス 64bit), DCCIOSSIMARM64 (iOS シミュレータ 64bit), DCCAARM (Android 32bit), DCCAARM64 (Android 64bit), DCCLINUX64 (Linux 64bit) の9種類となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "2023年2月28日に製品の品質向上を目的とした Release 3 (11.3) がリリースされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "2023年4月27日に 11.3 Community Edition がリリースされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "Community 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8、10 - 10.4 のライセンスが付属する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "今後、追加のARM用コンパイラやWASMコンパイラを盛り込む可能性があると、2020年のロードマップにてアナウンスされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "10.2 Tokyo より完全無料版の Community Edition が提供されている。有料の Delphi Professional と同等の機能を持ち、従来の Win32 アプリケーションのみならず Windows 64bit, macOS, iOS, Android の開発が可能となっている。", "title": "Delphi Community Edition" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "DelphiのVCL / CLX / FMXは、コンポーネントと呼ばれるソフトウェア部品の集合で構成され、プログラマはこのコンポーネントを組み合わせて視覚的にアプリケーションを開発する方式となっているが、ユーザープログラマがコンポーネントを自由に作成して開発環境自体に組み込み、開発環境の拡張が可能となっている。", "title": "Delphi用コンポーネント" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "多くの有償/無償のコンポーネントが作成・公開され、開発環境を容易に拡張できるシステムはユーザープログラマからの支持も高いが、Delphiのバージョン毎に互換性が無い場合も多く、コンポーネントのソースコードが公開されている場合は使用している Delphiのバージョンに合わせて自分でコンポーネントのコードを修正する必要がある。", "title": "Delphi用コンポーネント" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "有償 / 無償の製品、シェアウェア、フリーウェアが多数作成されている。Delphi 自身も Delphi によって作られている。", "title": "Delphiで開発されたアプリケーション" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "かつてボーランドから提供されていたVCL Scannerというツールを使うと、DelphiまたはC++Builderで作成されたアプリケーションを調べられた。現在では実行ファイルをダウンロードできないが、Delphi 5 でコンパイル可能なソースコードが公開されているため、自前で実行ファイルを生成できる。", "title": "Delphiで開発されたアプリケーション" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "Embarcadero Prism(エンバカデロ プリズム)は、かつてエンバカデロ・テクノロジーズが.NET向けの新たなIDEとして販売していた製品である。以前はDelphi Prismと呼ばれていたが、XE2より名称からDelphiが外れEmbarcadero Prismとなった。", "title": "Embarcadero Prism" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "DelphiはPrism登場以前から、バージョン8以降において、Delphiの.NET開発用の環境 (Delphi for .NET) はWin32版のVCLと互換性を持つフレームワークVCL.NETと、マイクロソフトのフレームワークWindows Formsの両方をサポートしていた。しかし、Delphi 2007ではWindows Formsのサポートが打ち切られることとなった。", "title": "Embarcadero Prism" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "Delphi 2009よりエンバカデロ・テクノロジーズは方針転換を行い、それまでのDelphi for .NET (Delphi.NET) を置き換える決定を下した。こうして生まれたのがPrismである。誕生当初はDelphiの名を冠してはいたものの、実際はRem Objectsの言語コンパイラOxygene (以前はChromeと呼ばれていた) とマイクロソフトのIDEを使用する全く新しい製品であった。PrismではそれまでのVCL.NETはサポートされず、フレームワークのサポートはWindows Formsのみとなっていた。", "title": "Embarcadero Prism" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "Delphi for Win32 (Delphi Win32) とは異なり、Prismは更新が頻繁に行われた。単体製品版には初年度分の年間メンテナンス & サポートが付属しており、翌年度以降も契約更新が可能で、この契約期間中であればいつでも最新版を入手することができた。このため、バージョンアップ版の設定がなかった。また、一度契約が切れてしまうと新規での製品購入が必要であった。さらにRAD Studio版には初年度分の年間メンテナンス & サポートも付属していないため、購入年度から加入していないとメンテナンスリリースを入手できないので注意が必要であった。", "title": "Embarcadero Prism" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "Embarcadero Prism は XE3 (XE3.2) が最終バージョンとなり、RAD Studio XE4 以降に含まれず、スタンドアロン製品としても提供されなくなった。サポートとメンテナンスのアップデートも2013年8月で終了している。エンバカデロ・テクノロジーズは、今後のPrismの最新版はRem Objectsから購入するようにアナウンスしている。なおRem ObjectsはPrismの名称を用いず、Oxygeneとする方針を打ち出している。", "title": "Embarcadero Prism" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "PrismとDelphi for .NET のどちらも.NET開発環境ではあるが、VCL.NETを利用したDelphi for .NETのコードとはフレームワークとしての互換性がない。", "title": "Embarcadero Prism" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "PrismにはDelphi for Win32とある程度の互換性を保つためのオプションが存在するものの、ほぼ互換性がない。「Oxidizer」と呼ばれるRem Objects製のコードコンバーターがあり、Delphi for Win32のコードをPrismへコンバートする事ができる。", "title": "Embarcadero Prism" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "これらの他、メンテナンスリリースが存在する。", "title": "Embarcadero Prism" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "「Delphi Prism 2009」 は2008年12月2日に発表された。Prismの最初のバージョン。", "title": "Embarcadero Prism" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "「Delphi Prism 2010」 は2009年8月25日に発表された。クロスプラットフォーム開発機能により、Linux用のアプリケーション開発をサポート。", "title": "Embarcadero Prism" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "「Delphi Prism 2011」 は2010年6月3日に発表された。クロスプラットフォーム開発機能がさらに拡張され、Mac OS X、iOS向けのアプリケーション開発をサポート。", "title": "Embarcadero Prism" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "「Delphi Prism XE」 は2010年9月2日に発表された。Delphi Prism 2009、2010、2011 のライセンスが付属する。", "title": "Embarcadero Prism" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "「Embacadero Prism XE2」 は2011年9月1日に発表された。Delphi Prism 2009、2010、2011、XEのライセンスが付属する。", "title": "Embarcadero Prism" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "「Embacadero Prism XE3」 は2012年9月4日に「Embarcadero RAD Studio XE3」の一部として発表された。Delphi / Embacadero Prism 2009、2010、2011、XE、XE2のライセンスが付属する。最後のメジャーリリースとなった。", "title": "Embarcadero Prism" } ]
Delphi(デルファイ)は、コンソール (CUI)、デスクトップ (GUI)、Web、モバイルアプリケーション開発のための統合開発環境 (IDE) である。 DelphiのコンパイラはObject Pascalの独自拡張 を用いて、プラットフォーム毎にネイティブコードを生成する。開発環境としてサポートされているのはMicrosoft Windowsのみだが、アプリケーション配置の対応プラットフォーム(ターゲット環境)はWindows (x86/x64)、macOS (x64/ARM64)、iOS (ARM64)、Android (ARM32/ARM64)、Linux (x64) となっている。 元々DelphiはボーランドがTurbo Pascal / Borland Pascalの後継として開発したWindows用のRADツールである。C++Builderとは多くのコアコンポーネント、特にIDEとVisual Component Library (VCL) を共有していたが、RAD Studioの前身となるBorland Developer Studio 2006の登場まではそれぞれ独立した製品だった。 2006年にボーランドの開発ツール部門がコードギアとして完全子会社化され、2008年にエンバカデロ・テクノロジーズに買収された。2015年10月に、上記エンバカデロ・テクノロジーズがアイデラにより買収される発表がなされた。 本項では Delphi Prism として開発されていた 「Embacardero Prism」 についても述べる。
{{Otheruses||その他|デルファイ}} {{Infobox Software | 名称 = Delphi | スクリーンショット = | 開発元 = [[ボーランド|Borland International]] (1-3)<br />[[ボーランド|Inprise Corporation]] (4、5)<br />[[ボーランド|Borland Software Corporation]] (6-Turbo)<br />[[コードギア|CodeGear]] (2007、2009)<br />[[エンバカデロ・テクノロジーズ|Embarcadero Technologies]] (2010 以降) | 初版 = 1995年 | 最新版 = RAD Studio 12 Athens | 最新版発表日 = {{release date and age|2023|11|08}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://blogs.embarcadero.com/ja/announcing-the-availability-of-rad-studio-12-athens-ja/|title=『RAD Studio 12 Athens』の提供開始|date=2023-11-08|accessdate=2023-11-08}}</ref> | 対応OS = [[Microsoft Windows 11]]<ref>[https://www.embarcadero.com/jp/products/rad-studio/tech-spec RAD Studio: 動作環境 - エンバカデロ・テクノロジーズ]</ref> | 対応言語 = [[日本語]]、[[英語]]、[[フランス語]]、[[ドイツ語]] | サポート状況 = | 種別 = [[統合開発環境]] | 公式サイト = [https://www.embarcadero.com/jp/products/delphi www.embarcadero.com/jp/products/delphi] }} '''Delphi'''(デルファイ)は、[[コンソールアプリケーション|コンソール]] ([[キャラクタユーザインタフェース|CUI]])、デスクトップ ([[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]])、Web、[[モバイルアプリケーション]]開発のための[[統合開発環境]] (IDE) である。 Delphiの[[コンパイラ]]は[[Object Pascal]]の独自拡張 (Delphi 言語) を用いて、プラットフォーム毎にネイティブコードを生成する。開発環境としてサポートされているのは[[Microsoft Windows]]のみだが、アプリケーション配置の対応プラットフォーム(ターゲット環境)は[[Microsoft Windows|Windows]] ([[x86]]/[[x64]])、[[macOS]] (x64/[[ARM64]])、[[iOS]] (ARM64)、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]] (ARM32/ARM64)、[[Linux]] (x64) となっている。 元々Delphiは[[ボーランド]]が[[Turbo Pascal]] / Borland Pascalの後継として開発した[[Microsoft Windows|Windows]]用の[[Rapid Application Development|RAD]]ツールである。[[C++Builder]]とは多くのコアコンポーネント、特にIDEと[[Visual Component Library]] (VCL) を共有していたが、[[RAD Studio]]の前身となる[[#Delphi 2006 / Turbo Delphi|Borland Developer Studio 2006]]の登場まではそれぞれ独立した製品だった。 [[2006年]]にボーランドの開発ツール部門が[[コードギア]]として完全子会社化され、[[2008年]]に[[エンバカデロ・テクノロジーズ]]に買収された。[[2015年]]10月に、上記[[エンバカデロ・テクノロジーズ]]が{{仮リンク|アイデラ|en|Idera,_Inc.}}により買収される発表がなされた<ref>[http://blogs.itmedia.co.jp/barbaro/2015/11/post_5425.html エンバカデロ+アイデラの件]</ref>。 本項では '''Delphi Prism''' として開発されていた 「'''Embacardero Prism'''(エンバカデロ プリズム)」 についても述べる。 == 概要 == Delphiは[[Microsoft Windows|Windows]]、[[macOS]]、[[iOS]]、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]、[[Linux]]向けアプリケーションを開発するための[[統合開発環境]] (IDE) である。 「コンポーネント」と呼ばれるソフトウェア部品を 「[[フォーム]]」 や 「データモジュール」 に貼り付ける手法により、[[ユーザインタフェース]]やアプリケーションロジックの設計を視覚的に行え、ソフトウェアの開発を迅速に行える。またコンポーネント自体も Delphi で開発可能であり、その開発環境自身も利用者(開発者)のニーズに従って拡張可能である。[[コンポーネント指向プログラミング]]を体現した開発環境といえる。 <!-- Delphi は[[コンパイラ#ワンパスとマルチパス|ワンパス]]でコンパイルできる文法を採用しており、プログラムのコンパイル速度は[[Microsoft Visual C++|Visual C++]]などの他のソフトウェア開発製品に比べ群を抜いて速く、[[インタプリタ]]に近い使い勝手を与えている。これは[[Object Pascal]]が受け継いでいる[[Pascal]]の構文法に由来し、Delphiの前身である[[Turbo Pascal]]から続く伝統的性質である。 --> <!-- ↑ Delphiのように拡張された言語に、本来のPascalの単純さに由来する性質を主張するのは無理がある。ましてやワンパスでのコンパイルという主張は、ろくな最適化が不可能ということを意味していて、1980年代のTurbo Pascalについてならともかく、Delphiについてそれは不当。Microsoftの統合環境に比べてDelphiの統合環境が快適というのは、その対象言語の設計によるものではなく、統合環境の設計と実装の手腕によるものと見るべき。 --> <!-- ↑ 開発環境の動作の快適さには、言語仕様も強く関係している。C++はC、Java、C#、Object Pascalなどに比べて構文解析が極端に難しく、同じ規模のプログラムでもコンパイル時間が長くなる傾向がある。 --> Delphiで使われるコンポーネントのフレームワークには「[[Visual Component Library]] (VCL)」、「[[Component Library for Cross Platform]] (CLX)」、「{{仮リンク|FireMonkey|en|FireMonkey}} (FMX)」がある。このフレームワークを用いて[[C++]]言語でのWindows向けソフトウェア開発を実現したものが「[[C++Builder]]」である。 * [[Visual Component Library|VCL]]は最初期のDelphiから存在するWindows専用のフレームワークであり、[[Windows API]]およびWindowsコントロール(UI部品)を抽象化したものである。 * Object Pascal (Delphi) / C++ (C++Builder) 言語での[[Linux]]ソフトウェア開発を可能にした製品として「[[Kylix]]」がある。これはCLXフレームワークによるマルチプラットフォームアプリケーション作成を行うもので、WindowsではDelphi / C++Builderを、[[Linux]]では[[Kylix]]を用いてマルチプラットフォームアプリケーション開発を行うものだった。しかしながら[[Linux]]の[[デスクトップ環境]]のサポートの難しさから安定した品質を提供できず、Kylix 3を最後に開発を終了しており、DelphiでのCLXサポートもDelphi 7が最後となっている。 * Delphi XE2以降、FireMonkeyフレームワークによるマルチプラットフォームアプリケーション開発に対応し、最新版ではWindows、macOS、iOS、Android、Linux向けのアプリケーションを作成することが可能となっている。ただし、開発環境としてのDelphiは依然としてWindows上でしか動作しない。 GUIプログラミングでは、オブジェクトの[[イベント (プログラミング)|イベント]]の処理を[[イベントハンドラー]]に[[委譲]] (delegation) するスタイルの[[デザインパターン (ソフトウェア)|設計パターン]]([[Observer パターン]])を採用することが多い。このような場合、例えば[[Java]]では[[継承 (プログラミング)|継承]]([[インタフェース (抽象型)|インターフェイス]]の実装)を使用するが、Delphiは[[メソッド (計算機科学)|メソッド]]ポインタの機能によって委譲をサポートしている(メソッドポインタはのちに[[C Sharp|C#]]/[[VB.NET]]の[[デリゲート (プログラミング)|デリゲート]]にも引き継がれた)。 Delphiではビジュアルエディター上でオブジェクトのイベントハンドラーを設定することもでき、変更はソースコードに反映される。逆にコードエディター上でイベントハンドラーを記述してメソッドポインタをバインドするとビジュアルエディターにも変更が反映される。この双方向の同期手法は'''Two-Way-Tools'''と呼ばれ、[[ボーランド]]の特許である(発明者は[[アンダース・ヘルスバーグ]])<ref>[https://edn.embarcadero.com/jp/article/27281 Borland is awarded a patent for its Two-Way-Tools method]</ref><ref>[https://patft.uspto.gov/netacgi/nph-Parser?Sect1=PTO1&Sect2=HITOFF&d=PALL&p=1&u=%2Fnetahtml%2FPTO%2Fsrchnum.htm&r=1&f=G&l=50&s1=6,185,728.PN.&OS=PN/6,185,728&RS=PN/6,185,728 United States Patent: 6185728]</ref>。 Delphiはバージョン1から5までは順調にバージョンアップを繰り返し、それなりに人気もあったが、Delphi 6 / 7ではドキュメントの品質が明らかに低下し、Delphi 8以降[[.NET Framework]]や[[C Sharp|C#]]もサポートした巨大な開発ツール ([[RAD Studio]]) に発展したが、製品自体の品質が落ちてしまい、利用者を急速に失った。その後、Delphiはボーランドのツール部門買収などの混乱の中で低迷が続いていたが、エンバカデロ・テクノロジーズのもとで[[C_Sharp|C#]]と[[.NET Framework]]のサポートを廃止しスリム化、Delphi 2009で再び[[Windows API#Win32|Win32]]用のツールとして再出発を果たした。その後[[Unicode]]サポートなど多くの機能拡張も行われ、macOS、iOS、Android、Linux向けのアプリケーション開発にも対応、品質も安定してきており、往年の実力を取り戻しつつある。 == 歴史 == === 名前の由来 === 「Delphi」 とは、[[ギリシャ]]の古代都市 「[[デルポイ|デルフォイ]]」 に由来する。[[デルポイ|デルフォイ]]にあるアポロン神殿は、その託宣 (Oracle) を時の為政者だけではなく、一般人にも授けたことから人気が集まり、その門前町である都市国家[[デルポイ|デルフォイ]]は古代の人気観光スポットだった。 当初は[[Oracle Database]]サーバのフロントエンドとしての採用を目論んでおり、それにちなんだコードネームとしてDelphiが選ばれた。AppBuilderという製品名で発売しようとしたが[[ノベル (企業)|ノベル]]製品の名称 (Visual AppBuilder) と競合してしまい、議論と市場調査の結果、コードネームがそのまま製品名となった<ref>{{cite web | first=David | last=Intersimone | title=Borland History: Why the name "Delphi?" |url=http://edn.embarcadero.com/article/20396| accessdate=2013/01/07}}</ref>。 === Delphi 1から5まで === Delphi(製品名: '''Delphi for Windows'''、コードネーム: Delphi)は[[1995年]]9月に発売された。最初のバージョンは[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.1]]用として開発された。[[Turbo Pascal]]譲りの[[オブジェクト指向]]をその土台に据えつつ、インタプリタ動作と錯覚してしまうほどの高速なコンパイラを備え、「コンポーネント」 と呼ばれる設計部材による視覚的(ビジュアル)開発手法を採用するというDelphiの基本的な性格は、この時既に定まっており、この画期的な製品は[[ソフトウェア開発者]]から大きな注目を浴びた。Delphi 1はシリーズを通して唯一の[[16ビット]]開発環境としての側面も併せ持っている。なお、当初の日本語版には英語版で提供されていたDatabase Desktopや[[InterBase]]などが含まれておらず、価格も安価(29,800円)に設定されていた。その後、これらのツールを含む '''Delphi and Database Tools'''(68,000円)が発売された。 25 周年を迎えた [[2020年]][[2月15日]]に '''Delphi 1.0 Client/Server (英語版)'''<ref name="d1">{{cite web | url=https://cc.embarcadero.com/item/30911 | title=Historic Delphi 1 Client/Server Install ISO |accessdate=2020-02-15 | publisher=Embarcadero Technologies}}</ref> がアンティークソフトウェアとして無償公開された。 「'''Delphi 2'''」(コードネーム: Polaris)は[[1996年]]に発売された<ref>{{Cite web|和書|date=1996-5-16 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/960516/borland.htm |title=ボーランドが「Delphi 2.0J」を6月24日に発売 |publisher=PC Watch |accessdate=2012-05-01}}</ref>。これ以降、Delphiは開発対象を[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]に代表される[[32ビット]]Windows (Win32) に移した。[[マイクロソフト]]の[[Microsoft Visual Basic|Visual Basic]]と[[Microsoft Visual C++|Visual C++]]の長所を兼ね備えた開発環境として人気を博し、その後も順調にバージョンアップを繰り返した。 「'''Delphi 3'''」(コードネーム: Ivory)は[[1997年]]に発売された<ref>{{Cite web|和書|date=1997-5-15 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/970515/borland.htm |title=ボーランドが32bitアプリケーション開発ツール「Delphi3日本語版」を発表 |publisher=PC Watch |accessdate=2015-11-29}}</ref>。Delphi 1 発売以来の様々な問題点をほぼ改修し、パッケージと呼ばれるDelphi独自の[[ダイナミックリンクライブラリ|DLL]]形式をサポート、[[ActiveX]]コントロールの開発をサポートし、[[ウェブアプリケーション]]開発機能を提供した。完成度の高いバージョンであり、その後のDelphiの原型となった。 「'''Delphi 3.1'''」 はDelphi 3のマイナーバージョンアップ版で、Delphi 3ユーザーにはDelphi 3.1の[[CD-ROM]]が郵送された。このバージョンは日本でのみリリースされた<ref>{{Cite web|和書|url=http://blogs.itmedia.co.jp/mohno/2018/12/borland.html |title=Borland 時代のクロ歴史 |accessdate=2018-12-29}}</ref>。 「'''Delphi 4'''」(コードネーム: Allegro)は[[1998年]]に発売された<ref>{{Cite web|和書|date=1998-8-17 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/980817/delphi.htm |title=インプライズ、Windows 98対応のDelphi 4 |publisher=PC Watch |accessdate=2015-11-29}}</ref>。NT サービスアプリケーションの開発、[[Common Object Request Broker Architecture|CORBA]]をサポート。 「'''Delphi 5'''」(コードネーム: Argus)は[[1999年]]に発売された<ref>{{Cite web|和書|date=1999-8-17 |url=http://ascii.jp/elem/000/000/304/304684/ |title=インプライズ、統合環境を備えた開発ツール『Borland Delphi 5』日本語版を発表 |publisher=ASCII.jp |accessdate=2015-11-29}}</ref>。[[ActiveX Data Objects|ADO]]対応 ('''ADO Express''')、[[Component Object Model|COM]]オブジェクトコンポーネントラッパーを提供。 === Delphi 6 === 「'''Delphi 6'''」(コードネーム: Iliad)は[[2001年]][[7月9日]]に発表された。 [[SOAP (プロトコル)|SOAP]]を利用する[[Webサービス]]の作成機能、コンポーネントベースでWeb画面が設計できるWebSnap、新しいデータベースフレームワーク'''dbExpress''' (DBX)、[[Linux]]版Delphi ([[Kylix]]) と共通のComponent Library for Cross-Platform (CLX) などを搭載した意欲作。BDE (Borland Database Engine) は、このDelphi 6付属のバージョンである5.2が最終版となった。[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]に対応。日本でも無償のPersonal版が提供された。 === Delphi 7 / 7.1 === 「'''Delphi 7'''」(コードネーム: Aurora)は[[2002年]][[8月22日]]に発表された。 Delphi 1以来の伝統的なIDEを用いた最後の製品で、完成度の面で評価が高い。[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]に対応。 Professional版以上では「'''Delphi 7 Studio'''」の名称を使用。6で無償であったPersonal版は有償に変更になった。IntraWeb、RaveReportを搭載。Delphi for .NETのプレビュー版を添付。Professional版以上にはObject Pascal (Delphi) 版の[[Kylix|Kylix 3]]が付属した。ただし、[[Kylix|Kylix 3]]は最後の[[Kylix]]であり、CLXサポートもDelphi 7を最後に廃止されている。エンバカデロ・テクノロジーズによるDelphi 7の再販版が存在するが、こちらも「Borland Delphi 7」の名称を用いていた。ただし、"Studio" の文字は外された。 [[Windows 9x系|Win9x]]で動作するDelphiとしては最終版となる。そのため、段階マイグレーションのチェックポイントとして有用であり、現在でも最新版を購入すれば「Delphi 7.1」を入手する事が可能となっている(サポートは終了している)。 === Delphi 8 for the Microsoft .NET Framework === 「'''Delphi 8 for the Microsoft .NET Framework'''」(コードネーム: Octane)は[[2003年]][[11月3日]]に発表された。 [[.NET Framework]]に対応した「Delphi for the Microsoft .NET Framework (Delphi.NET)」の最初の製品だった。それ以前のDelphiの言語構文を殆ど変更する事なく[[.NET Framework|.NET]]アプリケーションを開発できる。「Galileo」と呼ばれる新しい<ref group="注釈">あくまで「Delphi にとっては」であり、同社の製品である[[C Sharp Builder|C#Builder]]が先に採用している。</ref>IDEになり、[[Microsoft Visual Studio]]と似たユーザインタフェースや外観が導入されたが、品質はお世辞にも良いとは言えなかった。.NET専用という点でDelphiの系譜の中ではやや異端のバージョンである。Win32の開発の為に'''Delphi 7.1'''が付属した。また、DelphiのIDEはDelphi ([[Visual_Component_Library|VCL]]) で書かれており、IDEを拡張するためのWin32コンパイラとして IDE Integration pack for Delphi 8 <ref>[http://cc.embarcadero.com/item/21333 21333 IDE Integration pack for Delphi 8]</ref>が用意された。 === Delphi 2005 === 「'''Delphi 2005'''」(コードネーム: DiamondBack、内部バージョン: 9.0)は[[2004年]][[11月4日]]に発表された。 ボーランドの[[C Sharp|C#]]言語開発環境である「[[C Sharp Builder|C#Builder]]」とWin32開発用および.NET開発用の「Delphi for .NET」が統合された。より正確には、「Delphi 8 (Delphi for .NET)」と「C#Builder」を統合し、そこへWin32開発用である「Delphi for Win32」を追加したものがDelphi 2005である。Delphi 2005には無償版が用意されていたが、実際に提供されたのは欧州など限られた国のみだった。この製品ではIDEが大幅に強化された。[[統一モデリング言語|UML]]モデリング機能 (Borland Together) や[[構成管理]]機能 (Borland StarTeam)、[[リファクタリング (プログラミング)|リファクタリング]]機能の導入などである。また言語にも<code>for</code> ... <code>in</code>構文(C#の<code>foreach</code> に相当)や<code>inline</code>命令などが追加された。 === Delphi 2006 / Turbo Delphi === 「'''Borland Developer Studio 2006'''」(コードネーム: DeXter)は[[2005年]][[11月24日]]に発表された。 「'''Delphi 2006'''」という名称の製品は単体では存在しない。他言語との統合版 ('''Borland Developer Studio 2006''') と単体製品 ('''Turbo Delphi''') で名称が異なっている。 「Delphi 2005」の後継製品であり、Win32開発環境として「'''Delphi 2006 for Win32'''」(内部バージョン: 10.0)が、.NET開発用の環境として「Delphi 2006 for .NET」と「C#Builder」が提供された。さらにボーランドの[[C++]]言語による[[Visual Component Library|VCL]]開発環境 「C++Builder」 が統合されている。 「'''Turbo Delphi'''」(内部バージョン: 10.0)は[[2006年]][[9月6日]](英語版は[[8月8日]])に発表された。これは「Borland Developer Studio 2006」からWin32開発用のDelphi for Win32を単体として分離したものである。Delphi 2006 Update 2とほぼ同等の機能を持ち、エディションとしてはProfessionalに相当する。同様に「Delphi 2006 for .NET」、「C++Builder」、「C#Builder」も単体分離され、それぞれ 「'''Turbo Delphi for .NET'''」、「'''Turbo C++'''」、「'''Turbo C#'''」の名称で同時リリースされた。無償版 (Turbo Delphi Explorer / Turbo Delphi for .NET Explorer / Turbo C++ Explorer / Turbo C# Explorer) も提供された。Turboシリーズは他のパーソナリティ(言語)と同時にインストールする事はできず、「Borland Developer Studio 2006」とも共存できない。 FastMM相当のメモリマネージャに変更され、クラスヘルパー等の新しい言語機能も追加されている。 === Delphi 2007 / R2 === [[2007年]][[2月21日]]に 「'''Delphi 2007 for Win32'''」(コードネーム: Spacely、内部バージョン: 11.0)が発表された。 製品名が示す通り、Win32開発用の環境である。[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]に対応。 [[2007年]][[9月6日]]にはこの他に.NET開発用の「'''Delphi 2007 for .NET'''」を含む統合版「'''CodeGear RAD Studio 2007'''」(コードネーム: Highlander)が発表された。.NET 2.0に対応し、[[ジェネリックプログラミング|ジェネリクス(.NET)]]が導入されている。なおC#BuilderやDelphi for .NETにおけるWinformのサポートは打ち切られた。 その後、[[2007年]][[10月10日]]に「'''Delphi 2007 for Win32 R2'''」が発表された。これは「Delphi 2007 for Win32 (Update 3)」に、「[[BlackFish SQL]](旧[[JDataStore]])」を追加した物である。 内部コード体系が[[Shift_JIS]] (ANSI) であるDelphiとしては最終版となる。旧バージョンとの互換性も高く、Windows Vista対応が可能なため、マイグレーション先としても、段階マイグレーションのチェックポイントとして有用なバージョンである。そのためか、[[2017年]]時点においてもサポートは継続されており<ref>[http://support.embarcadero.com/article/37740 Supported Versions]</ref>、現在でも最新版を購入すれば「Delphi 2007 for Win32 (R2)」を入手する事が可能である。 === Delphi 2009 === [[2008年]][[8月26日]]に「'''Delphi 2009'''」(コードネーム: Tiburón、内部バージョン: 12.0)が発表された。 長年の懸案であった [[Visual Component Library|VCL]]とRTLの[[Unicode]]化、[[ジェネリックプログラミング|ジェネリクス(Win32)]]や[[無名関数|匿名メソッド]]の導入など、Delphiにとって大きな転機といえるバージョンアップだった。"for Win32" の文字はないがWin32開発用である。 [[2008年]][[12月2日]]には.NET開発用の「'''Delphi Prism'''」を含む統合版「'''CodeGear RAD Studio 2009'''」が発表された。旧来のDelphi for .NETは廃止になっている。[[#Embarcadero Prism|Delphi Prism]] については後述する。 === Delphi 2010 === [[2009年]][[8月25日]]に「'''Delphi 2010'''」(コードネーム: Weaver、内部バージョン: 14.0)が発表された。内部バージョン13.0は[[忌み番]]のためスキップされた。 [[Microsoft Windows 7|Windows 7]]に正式対応。タッチインタフェースや[[マウスジェスチャー]]の制作支援機能、オープンソースDBである[[Firebird (データベース)|Firebird]]のサポート、[[実行時型情報|RTTI]]の強化、IDEの改良(言語切り替え機能、Delphi 7以前のIDEにあったコンポーネントツールバーの復活など)が盛り込まれた<ref>{{Cite web|和書 | url = http://docwiki.embarcadero.com/RADStudio/2010/ja/Delphi_2010_%E3%81%8A%E3%82%88%E3%81%B3_C%2B%2BBuilder_2010_%E3%81%AE%E6%96%B0%E6%A9%9F%E8%83%BD | title = Delphi 2010 および C++Builder 2010 の新機能 (Embarcadero DocWiki) |accessdate=2015年11月28日 }}</ref>。開発環境をインストールするOSとして[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]以前はサポートされなくなった。 === Delphi XE === [[2010年]][[9月2日]]に「'''Delphi XE'''」(コードネーム: Fulcrum、内部バージョン: 15.0)が発表された。 XEは "Cross Platform Edition" の略である。名称通り[[クロスプラットフォーム]]開発環境を目指して開発が進められたものの、不完全であったため、クロスプラットフォーム機能の搭載は見送られている。結果、前バージョンとの機能差はあまりなくなってしまっているが、純粋なWin32アプリケーション開発環境としては最終版であるため、段階マイグレーションのためのチェックポイントとして有用である。 [[2011年]][[2月1日]]にはStarterエディションが追加発表された。「Turbo Delphi」 以来のエントリー向けエディションであり、無償ではないがコンポーネントのインストールが可能、1,000 USドルを超えない範囲であれば商用利用可能など、制限は大幅に緩和されている。ただし、Starterには旧Delphiのライセンスは付属しない。また、同時利用は同一サブネット内において5ライセンスまでとされている。このため教室での利用は向かないとされており、アカデミック版の提供はない。Starter版には通常価格とアップグレード価格が用意されているが、同社または他社の開発ツールユーザーであれば「誰でも」アップグレード版を購入できる。C++Builder Starterとの共存はできず、[[RAD Studio]]にもStarterは提供されない。 Starter版とアカデミック版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010のライセンスが付属する<ref group="注釈" name="xeoldupg">アップグレードした場合、元のバージョンと同じバージョンのライセンスの重複取得はできない。</ref><ref group="注釈" name="xeold180">旧バージョンライセンスの取得は、購入180日以内に行う必要がある。</ref><ref group="注釈" name="xeoldrad">アカデミック版以外のRAD Studioでは、Delphi、Delphi Prismに含まれる旧バージョンライセンスの他、C++Builder 6、2007、2009、2010 のライセンスも含まれる。</ref>。 === Delphi XE2 === [[2011年]][[9月1日]]に「'''Delphi XE2'''」(コードネーム: Pulsar、内部バージョン: 16.0)が発表された。 新たに'''FireMonkey'''フレームワーク<ref group="注釈">ちなみにFireMonkeyという名前は[[2016年]]の[[丙申]] (ひのえさる) に由来している。</ref>を導入したことにより、[[ハイデフィニション|HD]]や[[3次元コンピュータグラフィックス|3D]]に対応した高品質なユーザインタフェースの設計や、[[Microsoft Windows#64ビットオペレーティングシステム|Windows 64bit]]、[[macOS|Mac OS X]] ([[X86|Intel x86]])、[[iOS]]向けのマルチプラットフォームアプリケーションの開発が可能になった。但し、iOS開発は実際には[[Free Pascal]] (FPC) を使った[[ツールチェイン]]であり、後述する[[#Delphi XE4|XE4]]以降のiOS開発環境との互換性は乏しい。マルチプラットフォーム化によりVCL / FMX / RTLのユニットで、System.TypesやVcl.Stylesのような、ドットで接頭辞を連結する命名規則(ユニットスコープ)を使うようになったため、以前のバージョンにソースコードを移植する場合には注意が必要である。Windows以外のアプリケーションのデバッグ及びデプロイ(配置)には新しいリモートデバッガである 「プラットフォームアシスタントサーバー ('''PAServer''')」 を利用する(デバッグ対象アプリケーションがWindowsであっても、リモートにあるPCのアプリケーションをデバッグするにはやはりPAServerが必要となる)。また、製品エディションとしてEnterpriseとArchitectの間にUltimateが追加された。 搭載されるコンパイラはDCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (Mac OS X) の3つとなった(ツールチェイン用のFPCを除く)。 Starterとアカデミック版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XEのライセンスが付属する。 === Delphi XE3 === [[2012年]][[9月4日]]に「'''Delphi XE3'''」(コードネーム: WaterDragon、内部バージョン: 17.0)が発表された<ref>{{Cite web|和書 | url = https://www.embarcadero.com/jp/press-releases/radstudio-xe3-announce-jp | title = エンバカデロ、Windows 8/Mountain Lionに対応したビジュアル開発環境最新版、Delphi® XE3とC++Builder® XE3を発表 |accessdate=2015年9月6日 }}</ref>。 新たに「'''Metropolis UI'''」を導入したことにより、タッチ対応、ライブタイルサポートなどを実装した[[Microsoft Windows 8|Windows 8]]デスクトップアプリケーションの開発が可能になった。ただし[[Windowsランタイム]] (WinRT) には対応しない。[[OS X Mountain Lion|OS X v10.8]] (Mountain Lion) アプリケーション開発に対応。Visual LiveBindingが追加されてデータとユーザインタフェースの紐付けが容易になった。Enterprise版以上のエディションに新しいデータベースフレームワークである '''FireDAC''' が追加された([[SQLite]] を標準サポート)。ProfessionalエディションでFireDACを利用するには、別途「'''FireDAC Client/Server Add-On Pack'''」を購入しなければならない。XE2にあったFPC[[ツールチェイン]]なiOS開発環境は廃止されている。開発環境をインストールするOSとしてWindows XP以前はサポートされなくなった。 Starterとアカデミック版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE、XE2のライセンスが付属する。 === Delphi XE4 === [[2013年]][[4月23日]]に「'''Delphi XE4'''」(コードネーム: Quintessence、内部バージョン: 18.0)が発表された<ref>{{Cite web|和書 | url = https://www.embarcadero.com/jp/press-releases/radstudio-xe4-announce-jp | title = エンバカデロ、iPhone/iPadアプリのネイティブ開発を実現したマルチデバイス開発ツールRAD Studio XE4を世界同時発表 |accessdate=2015年9月6日 }}</ref>。iOS開発機能が追加された。これはXE2のものとは異なり、コンパイルにFPCを必要としないが、デバッグ及びデプロイのために[[macOS|OS X]]搭載の[[Intel Mac]]が必要となる。Professional版でモバイル開発 (iOS) を行うには「'''Mobile Add-On Pack'''」を別途購入する必要がある。前バージョンのXE3から7ヶ月でのバージョンアップとなったため、XE3からのバージョンアップ料金はキャンペーン価格ながら格安の6,000円となった(モバイル開発環境を含まないProfessional 版の場合)。PAServer 実行環境としてのMac OS X v10.6 (Snow Leopard) はサポートされなくなった。 搭載されるコンパイラは DCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (OS X), DCCIOS32(iOSシミュレータ用), DCCIOSARM(iOSデバイス用)の5つとなった。 Starterとアカデミック版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE3のライセンスが付属する。 === Delphi XE5 === [[2013年]][[9月11日]]に「'''Delphi XE5'''」(コードネーム: Zephyr、内部バージョン: 19.0)が発表された<ref>{{Cite web|和書 | url = http://www.embarcadero.com/jp/press-releases/radstudio-xe5-announce-jp | title = エンバカデロ、AndroidおよびiOS向けネイティブ開発をサポートしたRAD Studio XE5を本日より販売開始 |accessdate=2015年9月6日 }}</ref>。 [[OS X Mavericks|OS X v10.9]] (Mavericks)、iOS 7アプリケーション開発に対応。[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]開発機能が追加された。[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]アプリケーションのデバッグにはPAServerを必要としない。原則として[[ARMアーキテクチャ|ARM v7]]以降の[[ARMアーキテクチャ#Advanced_SIMD_.28NEON.29|NEON]]対応[[System-on-a-chip|SoC]]を載せた端末であれば、Delphi製アプリケーションを実行できる。モバイル開発 (iOS / Android) を行う場合、Professional版ではMobile Add-On Packを別途購入する必要がある。Professional版にもローカル接続専用ではあるがFireDACが追加された。Professional版でFireDAC(リモート接続)を使うにはFireDAC Client/Server Add-On Packを別途購入する必要がある。 搭載されるコンパイラはDCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (OS X), DCCIOS32(iOSシミュレータ用), DCCIOSARM(iOSデバイス用), DCCAARM (Android) の6つとなった。 Starter 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE4 のライセンスが付属する。 [[2014年]][[3月1日]]に[[RAD Studio]]のFireMonkey専用開発環境である「[[Appmethod]]」が発表された。AppmethodにはObject Pascal (Delphi) 言語 / C++言語が含まれるが、VCLを用いたソースコードをコンパイルする事はできない。AppmethodはRAD Studio / Delphi / C++Builderとは異なり、プラットフォーム毎 / 年のサブスクリプション契約となっている。最初のリリースである「Appmethod 1.13」はXE5相当であり、以降[[RAD Studio]]の新版がリリースされるのとほぼ同時期にAppmethodもリリースされるようになった。Appmethodは同等バージョンのRAD Studio / Delphi / C++Builderとは同時にインストールできない。また、このAppmethodのリリースにより、ドキュメントなどで使われるDelphi の「言語の名称」が「[[Object Pascal]]言語」と記述される事が多くなった<ref>[http://www.publickey1.jp/blog/15/delphi20delphiobject_pascal.html Delphi生誕20周年、おめでとうございます。言語名は最近になって「Delphi言語」から「Object Pascal」に戻ったらしい - Publickey]</ref>。 === Delphi XE6 === [[2014年]][[4月16日]]に「'''Delphi XE6'''」(コードネーム: Proteus、内部バージョン: 20.0)が発表された<ref>{{Cite web|和書 | url = http://www.embarcadero.com/jp/press-releases/radstudio-xe6-announce-jp | title = エンバカデロ、デスクトップからモバイル、ウェアラブルに対応したビジュアル開発環境「RAD Studio XE6」を発表 |accessdate=2015年9月6日 }}</ref>。 [[Microsoft Windows 8#Windows 8.1|Windows 8.1]]に対応。デザインおよびパフォーマンスを改善した「高品質リリース」。 Starter版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE5のライセンスが付属する。 === Delphi XE7 === [[2014年]][[9月2日]]に「'''Delphi XE7'''」(コードネーム: Carpathia、内部バージョン: 21.0)が発表された<ref>{{Cite web|和書 | url = http://www.embarcadero.com/jp/press-releases/radstudio-xe7-announce-jp | title = エンバカデロ、Windows開発をモバイル、IoT対応に拡張するビジュアル開発環境「RAD Studio XE7」を発表 |accessdate=2015年9月6日 }}</ref>。 [[OS X Yosemite| OS X v10.10]] (Yosemite)、iOS 8アプリケーション開発に対応、FireMonkeyに'''FireUI'''と呼ばれる機能が追加された。これはフォームを各デバイス向けに最適化されたユーザインタフェースにカスタマイズするものである。開発環境をインストールするOSとして[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]以前はサポートされなくなり、PAServer実行環境としての[[Mac OS X Lion|Mac OS X v10.7]] (Lion) もサポートされなくなった。OS XおよびiOS向けアプリケーションの開発を行うのにSDKが必要となったため、コンパイルや構文チェックを行うだけでもMacの実機が必要となっている。また、このバージョン以降、BDE (Borland Database Engine) はデフォルトでインストールされなくなった。 並列プログラミング ライブラリ (PPL) が追加されている。 Starter 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE6 のライセンスが付属する。 === Delphi XE8 === [[2015年]][[4月7日]]に「'''Delphi XE8'''」(コードネーム: Elbrus、内部バージョン: 22.0)が発表された<ref>{{Cite web|和書 | url = http://www.embarcadero.com/jp/press-releases/radstudio-xe8-announce-jp | title = エンバカデロ、マルチデバイス ネイティブ開発環境の新バージョン「RAD Studio XE8」を発表 |accessdate=2015年9月6日 }}</ref>。 作業実行支援ツール 「'''Castalia'''」 とパッケージマネージャ 「'''GetIt'''」 が統合された。にiOSデバイス用[[64ビット]]コンパイラも追加され、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]] 5.x (Lolipop) アプリケーション開発に対応した。但し[[Android (オペレーティングシステム)|Android]] 2.3x (Gingerbread) には非対応となった。 搭載されるコンパイラは DCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (OS X), DCCIOS32(iOSシミュレータ用), DCCIOSARM(iOSデバイス用), DCCIOSARM64 (iOSデバイス用64ビット), DCCAARM (Android) の7つとなった。 Starter版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE7のライセンスが付属する。 === Delphi 10 Seattle === [[2015年]][[9月1日]]に「'''Delphi 10 Seattle'''」(コードネーム: Aitana、内部バージョン: 23.0)が発表された<ref>{{Cite web|和書 | url = https://www.embarcadero.com/jp/press-releases/rad-studio-10-seattle-announce-jp-press | title = エンバカデロ、Windows 10対応のマルチデバイスネイティブ開発環境の新バージョン「RAD Studio 10 Seattle」を発表 |accessdate=2016年5月7日 }}</ref>。 [[Microsoft Windows 10|Windows 10]]に対応。[[OS X El Capitan|OS X v10.11]] (El Capitan)、iOS 9 アプリケーション開発に対応、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]のサービスアプリケーションも作成可能となった。IDEが利用可能なメモリが倍増したため、大規模なプロジェクトをビルドしてもメモリ不足エラーが発生しにくくなっている<ref>[http://docwiki.embarcadero.com/RADStudio/Seattle/ja/%E6%96%B0%E6%A9%9F%E8%83%BD#IDE 新機能 - RAD Studio] "IDE"</ref><ref>[http://support.embarcadero.com/jp/article/44280 RAD Studio XE7での「メモリ不足エラー」について]</ref>。前バージョンまで続いた XE ナンバリングが廃止されている。 Starter版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8のライセンスが付属する。 === Delphi 10.1 Berlin === [[2016年]][[4月20日]]に「'''Delphi 10.1 Berlin'''」(コードネーム: BigBen、内部バージョン: 24.0)が発表された<ref>{{Cite web|和書 | url = https://www.embarcadero.com/jp/japan/rad-studio-berlin-announce-jp | title = エンバカデロ、マルチデバイス向けビジュアル開発ツールの新リリース「RAD Studio 10.1 Berlin」を本日より販売開始 |accessdate=2016年5月7日 }}</ref>。 [[Android (オペレーティングシステム)|Android]] 6.0、iOS 10、[[macOS Sierra|macOS v10.12]] (Sierra) アプリケーション開発に対応。FireMonkeyのフォームデザイナも独立表示可能になった(デフォルトでは埋め込みデザイナ)。クラスヘルパーの仕様変更が行われている。インストーラの改良により、インストールオプションによってはインストール時間が大幅に短縮されるようになった。このバージョンからUltimateエディションが廃止されている。 [[2016年]][[8月22日]]以降、Starter Editionが無償で入手できるようになっている<ref>{{Cite web|和書 | url = http://community.embarcadero.com/blogs/entry/delphi-boot-camp-delphi-starter-edition-japan | title = DELPHI BOOT CAMP / DELPHI STARTER EDITION 無料! [JAPAN] |accessdate=2016年8月26日 }}</ref>。[[2006年]]の'''Turbo Delphi Explorer'''以来、10年ぶりの無償版である。またStarter EditionはTurbo Explorerとは異なり、複数のパーソナリティ(言語)が共存できるため、DelphiとC++Builderを同じ環境で利用する事が可能となっている。コンポーネントのインストールにも制限がない。 Starter版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8、10 Seattleのライセンスが付属する。 === Delphi 10.2 Tokyo === [[2017年]][[3月22日]]に「'''Delphi 10.2 Tokyo'''」(コードネーム: Godzilla、内部バージョン: 25.0)が発表された<ref>{{cite web | url = https://community.embarcadero.com/blogs/entry/launch-webinar-10-2-tokyo | title = RAD Studio 10.2 is here - Get Delphi Linux Server Support today! |accessdate=2017年3月23日 }}</ref>。 Enterprise 以上の SKU に [[LLVM]] エンジンベースの [[Linux]] [[X64|64ビット]] コンパイラが追加された ([[Ubuntu]] 16.04 LTS / [[Red_Hat_Enterprise_Linux|RedHat Enterprise Linux]] 7 対応)。また、インストーラの改良により、インストール時間が大幅に短縮されるようになった。 搭載されるコンパイラは DCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (OS X), DCCIOS32(iOSシミュレータ用), DCCIOSARM(iOSデバイス用), DCCIOSARM64 (iOSデバイス用64ビット), DCCAARM (Android), DCCLINUX64 (Linux 64bit) の8つとなった。 [[2017年]][[12月13日]]にリリースされた Release 2 (10.2.2) において、Enterprise 以上の SKU で '''RAD Server''' の単一サイト/単一サーバー配置ライセンスが含まれるようになった。 [[2018年]][[3月14日]]にリリースされた Release 3 (10.2.3) において、Professional Edition にモバイルサポートが追加された。従来、Mobile Add-On Packとして別売されていたものが統合された形になる。 [[2018年]][[7月19日]]に、従来の Professional Edition 相当を無償化した「'''Delphi Community Edition'''」がリリースされた。Windows 64bit, macOS, iOS, Android 向けの開発が可能となっている。無償版 Starter Edition とは異なり、「'''C++Builder Community Edition'''」と同時にインストールする事はできない。 Starter / Community 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8、10 Seattle、10.1 Berlinのライセンスが付属する。 === Delphi 10.3 Rio === [[2018年]][[11月22日]]に「'''Delphi 10.3 Rio'''」(コードネーム: Carnival、内部バージョン: 26.0)が発表された<ref>{{Cite web|和書 | url = https://www.atpress.ne.jp/news/171513 | title =エンバカデロ、RAD Studio 10.3を11月22日から提供開始  ~Webアプリ開発のSenchaとの連携性アップや最新OSへの対応強化~ |accessdate=2018年11月22日 }}</ref>。同日、Community Edition も更新されている。 Starter Edition は廃止された。Professional Edition にあった別売の FireDAC Client/Server Add-on Pack も廃止され、フル機能の FireDAC を利用するためには Enterprise Edition 以上の SKU が必要となった。 型推論可能なインライン変数宣言が行えるようになっており、 <syntaxhighlight lang="pascal"> procedure Test; var i: Integer; begin for i := 1 to 100 do writeln(i); end; </syntaxhighlight> 従来このような記述をしなければならなかったものが、 <syntaxhighlight lang="pascal"> procedure Test; begin for var i := 1 to 100 do writeln(i); end; </syntaxhighlight> このように var ブロックを使わずにシンプルに書けるようになった。 Linux コンパイラ (DCCLINUX64) では ARC (自動参照カウント) が廃止され、AnsiString / AnsiChar がサポートされるようになった。 [[2019年]][[7月19日]]にリリースされた Release 2 (10.3.2) において、LLVM エンジンベースの macOS 用 64bit コンパイラが追加された。また、Enterprise 以上の SKU で、Linuxデスクトップアプリを FireMonkey GUI で開発可能になる '''FMX Linux''' がバンドルされるようになった。 [[2019年]][[11月21日]]にリリースされた Release 3 (10.3.3) において、LLVM エンジンベースの Android 用 64bit コンパイラが追加された。また、Enterprise 以上の SKU で、データベース接続と同じように多様なエンタープライズアプリケーションに接続可能となる '''Enterprise Connectors''' がバンドルされるようになった。 搭載されるコンパイラは DCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX (macOS 32bit), DCCOSX64 (macOS 64bit), DCCIOS32(iOSシミュレータ用), DCCIOSARM(iOSデバイス用), DCCIOSARM64 (iOSデバイス用64ビット), DCCAARM (Android), DCCAARM64 (Android 64bit), DCCLINUX64 (Linux 64bit) の10種類となった。 Community 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8、10 - 10.2 のライセンスが付属する。 === Delphi 10.4 Sydney === [[2020年]][[5月27日]]に「'''Delphi 10.4 Sydney'''」(コードネーム: Denali、内部バージョン: 27.0)が発表された<ref>{{Cite web|和書 | url = https://www.atpress.ne.jp/news/214000 | title =エンバカデロ、RAD Studio 10.4 Sydneyを提供開始 4K対応のモダンUI開発やLLDBベースの新しいデバッガ搭載など 新機能追加 |accessdate=2020年5月28日 }}</ref>。 Community Edition に関してはライセンス違反の利用が増加しているとの分析から、有償版を先行させるという判断がなされたため<ref>{{Cite web|和書|url=https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1255262.html|title=Embarcadero、「RAD Studio 10.4 Sydney」を公開 ~無償版「Delphi」「C++Builder」は延期|accessdate=2021-3-27}}</ref>、同日にはリリースされなかった。 {{仮リンク|Language Server Protocol|en|Language_Server_Protocol}} (LSP) に対応し、コード補完 (Code Insight) の性能が向上した。モバイル開発用コンパイラにあった {{仮リンク|Automatic Reference Counting|en|Automatic_Reference_Counting}} (ARC) は廃止された。10.3 Rio への実装が見送られていた '''カスタムマネージドレコード'''と呼ばれるコンストラクタとデストラクタを持つレコード型がこのバージョンで実装された。 macOS Catalina において32ビットアプリが動作しなくなったため、ターゲットプラットフォームから "macOS 32ビット" が選択できなくなっている。同様に "iOS デバイス 32ビット" も選択できない。ただし、これらのコマンドラインコンパイラ (DCCOSX, DCCIOSARM) は付属している。 [[2021年]][[7月19日]]に 10.4.2 Community Edition がリリースされた<ref>{{cite web | url = https://blogs.embarcadero.com/delphi-cbuilder-community-editions-now-available-in-version-10-4-2/?fbclid=IwAR0L8mkbuxWToT55CANZlx2vF-3KqkItZmOSEeKBc73e2rzrGenDn_8ROtU | title =Delphi & C++Builder FREE Community Editions Updated to Version 10.4.2 Are Now Available! |accessdate=2021年7月20日 }}</ref>。 Community 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8、10 - 10.3 のライセンスが付属する。 === Delphi 11 Alexandria === [[2021年]][[9月10日]]に「'''Delphi 11 Alexandria'''」(コードネーム: Olympus、内部バージョン: 28.0)が発表された<ref>{{Cite web|和書 | url = https://www.atpress.ne.jp/news/275125 | title =エンバカデロ、Windows 11やApple M1に対応した 新バージョン『RAD Studio 11 Alexandria』提供開始 |accessdate=2021年9月11日 }}</ref>。 IDE が高 DPI に対応。フォームデザイナが VCL スタイルを使用してレンダリングできるようになった。[[Apple M1]] Mac 用の 64bit コンパイラが追加され、前バージョンでサポート外になっていた macOS 32bit 用コンパイラ / iOSシミュレータ 32bit 用コンパイラ / iOSデバイス 32bit 用コンパイラが付属しなくなった。[[Visual Studio Code]] との連携機能が追加され、Delphi [[Language Server Protocol|LSP]] 機能拡張が用意されている。 Delphi 2009 以降、Windows 用コンパイラが生成する実行形式ファイルの PE ヘッダーには OS Version / Subsystem Version ともに 5.0 が設定されていたが、11 Alexandria では 6.0 が設定されている。このため、11 Alexandria で生成された実行形式ファイルは Windows XP 以前の OS では動作しない。 [[2022年]][[9月8日]]にリリースされた Release 2 (11.2) において、iOSシミュレータ 64bit 用コンパイラが追加された。iOSシミュレータを動作させるためにはARM-64 (M1 または M2) 搭載Macが必要。 搭載されるコンパイラは DCC32 (Windows 32bit), DCC64 (Windows 64bit), DCCOSX64 (macOS Intel 64bit), DCCOSXARM64 (macOS Arm 64bit), DCCIOSARM64 (iOS デバイス 64bit), DCCIOSSIMARM64 (iOS シミュレータ 64bit), DCCAARM (Android 32bit), DCCAARM64 (Android 64bit), DCCLINUX64 (Linux 64bit) の9種類となった。 [[2023年]][[2月28日]]に製品の品質向上を目的とした Release 3 (11.3) がリリースされた。 [[2023年]][[4月27日]]に 11.3 Community Edition がリリースされた<ref>{{cite web | url =https://blogs.embarcadero.com/delphi-11-and-cbuilder-11-community-editions-released/ | title =Delphi 11 and C++Builder 11 Community Editions Released! |accessdate=2023年4月27日 }}</ref>。 Community 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8、10 - 10.4 のライセンスが付属する。 === Delphi 12 Athens === [[2023年]][[11月8日]]に「'''Delphi 12 Athens'''」(コードネーム: Yukon、内部バージョン: 29.0)が発表された<ref>{{Cite web|和書 | url = https://blogs.embarcadero.com/ja/announcing-the-availability-of-rad-studio-12-athens-ja/ | title =『RAD Studio 12 Athens』の提供開始 |accessdate=2023年11月8日 }}</ref>。 255 文字を超える文字列リテラルが使えるようになり、三重引用符で囲んだ複数行に渡る (改行を含む) 文字列リテラルが使えるようになった。デフォルトで浮動小数点例外が無効となっている。VCL は MDI のサポートが強化され、モダンな MDI アプリケーションを構築可能になっている。FireMonkey がサポートするすべてのプラットフォームに対して、[[Skia]] サポートが追加された。Android ターゲット API レベル 33 サポートも追加されている。 Community 版を除き、Delphi 7、2007、2009、2010、XE - XE8、10 - 11 のライセンスが付属する。 === その後のDelphi === 今後、追加のARM用コンパイラや[[WebAssembly|WASM]]コンパイラを盛り込む可能性があると、[[2020年]]のロードマップにてアナウンスされている<ref>[https://blogs.embarcadero.com/ja/rad-studio-roadmap-november-2020/ RAD Studio 2020年11月付ロードマップ]</ref>。 == Delphi Community Edition == 10.2 Tokyo より完全無料版の '''Community Edition'''<ref name="ce">{{Cite web|和書| url=https://www.embarcadero.com/jp/products/delphi/starter | title=Delphi - Community Edition |accessdate=2019-01-15 | publisher=Embarcadero Technologies}}</ref> が提供されている。有料の Delphi Professional と同等の機能を持ち、従来の Win32 アプリケーションのみならず Windows 64bit, macOS, iOS, Android の開発が可能となっている。 === 過去の無料版 === * Delphi 6 では Personal 版が無料で提供されていた。 * Delphi 2006 Update2 相当の Turbo Delphi for Win32 Explorer / Turbo Delphi for .NET Explorer が無料で提供されていた。 * Delphi 10.1 Berlin では Starter Edition が無料で提供されていた。 * Delphi 10.2 Tokyo から Community Edition が無料で提供されている。 == Delphi用コンポーネント == DelphiのVCL / CLX / FMXは、コンポーネントと呼ばれるソフトウェア部品の集合で構成され、プログラマはこのコンポーネントを組み合わせて視覚的にアプリケーションを開発する方式となっているが、ユーザープログラマがコンポーネントを自由に作成して開発環境自体に組み込み、開発環境の拡張が可能となっている。 多くの有償/無償のコンポーネントが作成・公開され、開発環境を容易に拡張できるシステムはユーザープログラマからの支持も高いが、Delphiのバージョン毎に互換性が無い場合も多く、コンポーネントのソースコードが公開されている場合は使用している Delphiのバージョンに合わせて自分でコンポーネントのコードを修正する必要がある。 == Delphiで開発されたアプリケーション == 有償 / 無償の製品、[[シェアウェア]]、[[フリーウェア]]が多数作成されている<ref>https://www.embarcadero.com/jp/our-customers/case-studies</ref><ref>[https://jonlennartaasenden.wordpress.com/2014/11/06/famous-software-made-with-delphi/ Famous software made with Delphi | Jon L. Aasenden]</ref><ref>[https://delphi.fandom.com/wiki/Good_Quality_Applications_Built_With_Delphi Good Quality Applications Built With Delphi | Delphi Programming | Fandom]</ref>。Delphi 自身も Delphi によって作られている。 * [[バンクーバーオリンピック|バンクーバー冬季五輪]]のリング[[発光ダイオード|LED]]はDelphiで制御されている<ref>http://blog.marcocantu.com/blog/olympic_rings_delphi.html</ref>。 * [[欧州宇宙機関]] (ESA) の彗星探査機「[[ロゼッタ (探査機)|ロゼッタ]]」のシミュレータ等はDelphiで作られている<ref>https://community.embarcadero.com/blogs/entry/delphi-s-involvement-with-the-esa-rosetta-comet-spacecraft-project-1</ref>。 * [[ミニチュアワンダーランド]]はDelphiで制御されている<ref>https://www.embarcadero.com/jp/case-study/miniatur-wunderland-case-study</ref>。 かつてボーランドから提供されていたVCL Scannerというツールを使うと、DelphiまたはC++Builderで作成されたアプリケーションを調べられた。現在では実行ファイルをダウンロードできないが、[[#Delphi 1から5まで|Delphi 5]] でコンパイル可能なソースコードが公開されている<ref>http://cc.embarcadero.com/item/23078</ref>ため、自前で実行ファイルを生成できる。 == Embarcadero Prism == {{Infobox Software | 名称 = Embarcadero Prism | 開発元 = [[コードギア]](2009年)<br />[[エンバカデロ・テクノロジーズ]](2010年以降) | 初版 = 2009年 | 最新版 = XE3 | 最新版発表日 = 2012年9月4日 | 対応OS = [[Microsoft Windows|Windows]] | 対応言語 = [[日本語]]、[[英語]]、[[フランス語]]、[[ドイツ語]] | サポート状況 = | 種別 = [[統合開発環境]] | 公式サイト = [http://www.embarcadero.com/jp/products/prism www.embarcadero.com/jp/products/prism] | 備考 = 旧名 Delphi Prism }} '''Embarcadero Prism'''('''エンバカデロ プリズム''')は、かつて[[エンバカデロ・テクノロジーズ]]が.NET向けの新たなIDEとして販売していた製品である。以前は'''Delphi Prism'''と呼ばれていたが、XE2より名称からDelphiが外れEmbarcadero Prismとなった。 DelphiはPrism登場以前から、バージョン8以降において、Delphiの.NET開発用の環境 (Delphi for .NET) はWin32版のVCLと互換性を持つフレームワークVCL.NETと、[[マイクロソフト]]のフレームワーク[[Windows Forms]]の両方をサポートしていた。しかし、Delphi 2007ではWindows Formsのサポートが打ち切られることとなった。 Delphi 2009よりエンバカデロ・テクノロジーズは方針転換を行い、それまでのDelphi for .NET (Delphi.NET) を置き換える決定を下した。こうして生まれたのがPrismである。誕生当初はDelphiの名を冠してはいたものの、実際は{{仮リンク|Rem Objects|en|RemObjects_Software}}の言語コンパイラ{{仮リンク|Oxygene|en|Oxygene_(programming_language)}} (以前はChromeと呼ばれていた) とマイクロソフトのIDEを使用する全く新しい製品であった。PrismではそれまでのVCL.NETはサポートされず、フレームワークのサポートはWindows Formsのみとなっていた。 Delphi for Win32 (Delphi Win32) とは異なり、Prismは更新が頻繁に行われた。単体製品版には初年度分の年間メンテナンス & サポートが付属しており、翌年度以降も契約更新が可能で、この契約期間中であればいつでも最新版を入手することができた。このため、バージョンアップ版の設定がなかった。また、一度契約が切れてしまうと新規での製品購入が必要であった。さらにRAD Studio版には初年度分の年間メンテナンス & サポートも付属していないため、購入年度から加入していないとメンテナンスリリースを入手できないので注意が必要であった。 Embarcadero Prism は XE3 (XE3.2) が最終バージョンとなり、[[RAD Studio]] XE4 以降に含まれず、スタンドアロン製品としても提供されなくなった。サポートとメンテナンスのアップデートも2013年8月で終了している。エンバカデロ・テクノロジーズは、今後のPrismの最新版はRem Objectsから購入するようにアナウンスしている<ref>[http://www.embarcadero.com/jp/products/rad-studio/faq RAD Studio XE4 Q&A] - 「旧バージョンに含まれていて RAD Studio XE4 には含まれていない製品はありますか?」参照。</ref>。なおRem ObjectsはPrismの名称を用いず、Oxygene]する方針を打ち出している<ref>[http://www.remobjects.com/oxygene/prism.aspx From Prism to Oxygene]</ref>。 === 互換性 === ==== Delphi for .NET (Delphi.NET) との互換性 ==== PrismとDelphi for .NET のどちらも.NET開発環境ではあるが、VCL.NETを利用したDelphi for .NETのコードとはフレームワークとしての互換性がない。 ==== Delphi for Win32 (Delphi Win32) との互換性 ==== PrismにはDelphi for Win32とある程度の互換性を保つためのオプションが存在するものの、ほぼ互換性がない。「'''Oxidizer'''」と呼ばれるRem Objects製のコードコンバーターがあり<ref>http://docs.elementscompiler.com/Tools/Oxidizer/</ref>、Delphi for Win32のコードをPrismへコンバートする事ができる。 === 主要バージョン === これらの他、メンテナンスリリースが存在する。 「'''Delphi Prism 2009'''」 は[[2008年]][[12月2日]]に発表された。Prismの最初のバージョン。 「'''Delphi Prism 2010'''」 は[[2009年]][[8月25日]]に発表された。クロスプラットフォーム開発機能により、Linux用のアプリケーション開発をサポート。 「'''Delphi Prism 2011'''」 は[[2010年]][[6月3日]]に発表された。クロスプラットフォーム開発機能がさらに拡張され、Mac OS X、iOS向けのアプリケーション開発をサポート。 「'''Delphi Prism XE'''」 は[[2010年]][[9月2日]]に発表された。Delphi Prism 2009、2010、2011 のライセンスが付属する<ref group="注釈" name="xeoldupg" /><ref group="注釈" name="xeold180" /><ref group="注釈" name="xeoldrad" />。 「'''Embacadero Prism XE2'''」 は[[2011年]][[9月1日]]に発表された。Delphi Prism 2009、2010、2011、XEのライセンスが付属する。 「'''Embacadero Prism XE3'''」 は[[2012年]][[9月4日]]に「Embarcadero RAD Studio XE3」の一部として発表された。Delphi / Embacadero Prism 2009、2010、2011、XE、XE2のライセンスが付属する。最後のメジャーリリースとなった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{プログラミング言語}} * [[Appmethod]] * [[C_Sharp|C#]] * [[C++Builder]] * [[Free Pascal]] * [[Kylix]] * [[Object Pascal]] * [[Pascal]] * [[Rapid Application Development]] * [[RAD Studio]] * [[Turbo C]] * [[Turbo Pascal]] * [[アンダース・ヘルスバーグ]] * [[エンバカデロ・テクノロジーズ]] * [[コードギア]] * [[ボーランド]] == 外部リンク ==<!-- Delphiを使う上で参考になるサイトをリンクするのはどうでしょうか? --> * [https://www.embarcadero.com/jp/ Embarcadero Technologies] * [https://www.embarcadero.com/jp/products/delphi Delphi] 公式サイト * [https://docwiki.embarcadero.com/RADStudio/Alexandria/ja/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8 RAD Studio DocWiki] RAD Studio のオンライン ヘルプ * [https://www.remobjects.com/elements/oxygene/ RemObjects Software Oxygene] * [https://www.delphibasics.co.uk/ Delphi Basics] Help and reference for the fundamentals of the Delphi {{プログラミング言語一覧}} [[Category:Pascal]] [[Category:統合開発環境]] [[Category:コンパイラ]] [[Category:プログラミング言語]] [[Category:コードギアの開発ツール]] [[Category:1995年のソフトウェア]]
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2,801
テレレ
テレレ(Tereré)は冷水でいれるマテ茶(Yerba mate)の飲み方の一種。 グアラニー族伝統の飲み物。パラグアイでよく飲まれている。 木や動物の角などで作ったカップ(グアンパ)に茶葉(イエルバ)を入れ水を注ぎ、先に小さな穴がたくさん空いた特殊なストロー(ボンビーリャ)を使って飲む。
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テレレ(Tereré)は冷水でいれるマテ茶の飲み方の一種。 グアラニー族伝統の飲み物。パラグアイでよく飲まれている。 木や動物の角などで作ったカップ(グアンパ)に茶葉(イエルバ)を入れ水を注ぎ、先に小さな穴がたくさん空いた特殊なストロー(ボンビーリャ)を使って飲む。
{{出典の明記|date=2014年1月29日 (水) 16:52 (UTC)}} {{Expand English|date=2023年11月4日 (土) 01:56 (UTC)}} [[Image:Mate containing tereré.JPG|thumb|170px|]] '''テレレ'''('''Tereré''')は冷水でいれる[[マテ茶]](Yerba mate)の飲み方の一種。 [[グアラニー族]]伝統の飲み物。[[パラグアイ]]でよく飲まれている。 木や動物の角などで作ったカップ([[グアンパ]])に茶葉(イエルバ)を入れ水を注ぎ、先に小さな穴がたくさん空いた特殊なストロー([[ボンビーリャ]])を使って飲む。 {{デフォルトソート:てれれ}} [[Category:ソフトドリンク]] [[Category:中南米の食文化]] [[Category:パラグアイの食文化]] [[Category:無形文化遺産]]
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2,802
マテ茶
マテ茶(マテちゃ、スペイン語: mate [ˈmate], cimarrón [simaˈron]、ポルトガル語: mate [ˈmatʃi]、chimarrão [ʃimɐˈʁɐ̃w̃])は、南米のアルゼンチン、パラグアイ、ブラジル、ウルグアイ等を原産とするイェルバ・マテの葉や小枝を乾燥させた茶葉に、水または湯を注ぎ成分を浸出した飲料である。 ビタミンやミネラルの含有量が極めて高く、「飲むサラダ」とも言われている。このため、コーヒーや茶と同様の嗜好品ではあるが、野菜の栽培が困難な南米の一部の地域では単なる嗜好品の枠を超え、重要な栄養摂取源の一つとなっている。 日本茶に緑茶とほうじ茶があるように、マテ茶の茶葉にもグリーン・マテ(緑マテ茶)とロースト・マテ(黒マテ茶)がある。味わいはグリーンの場合、多少の青臭みと強い苦味を持つ。ローストは焙煎により青臭みが消え、香ばしい風味が付加される。ローストした茶葉は水出し用に利用されることが多い。 マテ茶の茶葉は、以下のような工程を経て製造される。 伝統的な飲み方は茶器に容量の1/2ないし3/4程度の茶葉を直接入れ、水または60 - 80°C程度のお湯を注ぐ。ここに先端に茶漉しがついた専用のストローを差し込み、抽出液を飲む。容器はヒョウタン製のものはマテ、クイアまたはポロンゴなどといい、木製や角製のものはグアンパ(グァンパ、グァンポ)と呼ばれる。マテ用ストローはボンビーリャと呼ばれ、金属製で先端が膨らみ茶葉を漉し取るための無数の小穴が空いている。なお、現地での飲み方については、クロード・レヴィ=ストロースが『悲しき熱帯』のパンタナルの章で詳しく解説している。 近年では、ティーポットで淹れて抽出液のみをカップに注いで飲む場合も多い。ティーバッグも普及している。しかし、マテ茶の淹れ方としては伝統的な方法が最も理に適っている。ボンビーリャで飲む場合、細かい茶葉を漉しきれずに抽出液と一緒に口に入ってくる。このため茶葉の一部を食べることになり、マテ茶の栄養成分を最も効率よく取り込むことが可能となっている。湯が90°Cより熱い場合は、金属製のストローでは唇が熱く、飲むことができない。 気温が高い地域では水出しでマテ茶を飲むことが多く、パラグアイではマテ茶に薬草やハーブを混ぜて水出ししたテレレと呼ばれる飲み方が一般的である。単に「マテ茶」というと温かいものを指し、テレレと区別している人もいる。ポルトガル語圏においてはテレレは水出しあるいは茶葉にジュースを加えたマテ茶のことを指し、温かいものはChimarrãoと称される。 茶葉に湯を注ぎ、そのまま飲むのが伝統的な方法であるが、現地でも砂糖を入れ甘みを加える飲み方が一般的になっている。また、スパイスや薬草・ハーブ等を混ぜて風味を変えたり、牛乳を加えたりした飲み方も広く行われている。 パラグアイ・アルゼンチン・ウルグアイ・ブラジル南部では、一組の茶器を使い複数人がマテ茶を回し飲みする習慣がある。ホスト役が茶器とボンビーリャを使いマテ茶をたて、一煎めは自分で飲む。二煎目からは順番に参加者に回していき、各人が満足するまで何杯でも回し続ける。客はホストから茶器を受け取り自分ですべて飲んでホストに返す。客から別の客に直接茶器を渡すことはせず、受け取った茶は自分ですべて飲みきりホストに返すのが作法である。茶器をホストに返すときにGracias(ありがとう)と言うと「もう満足しました」という意味になるので、次からは自分に茶は回ってこない。客から茶器を戻されたホストは湯を注ぎ、場合によってはボンビーリャの差している位置を調整したり茶葉を追加したりして味を調えた上で次の客に渡す。ボンビーリャの位置を動かすと茶漉し部分が目詰まりしたり、味の濃さが変化したりするので、客は勝手にボンビーリャを動かしてはならない。 アルゼンチン・ウルグアイ・ブラジル南部では伝統的な茶器は、ひょうたんでできている。マテとは、現地の言葉でひょうたんを意味し、マテ茶の名前はこのカップに由来する。ひょうたん以外では牛の角や、パロサントという木で作られたものが一般的である。茶器の表面や補強のために付けられる口金、すわりを良くする為の台座には彫刻・彫金などの意匠が施される場合が多く工芸品的な美しさを持っている。茶器は陶器やガラス製のものも使われるが、多孔質の天然材料製でしばらく使った茶器でないと本来の味は出ないとされる。 ボンビーリャの材料は古くは葦などの植物の茎を利用したが、現在は金属(銀・洋銀・ステンレスなど)のものがほとんどである。 アルゼンチン・ウルグアイで使われる茶器はひょうたんの実の先端の膨らんだ部分を使い、補強された口は狭くなっているため、ボンビーリャの先の茶漉し部分は細長い。ブラジル南部で使われるそれはひょうたんの実の膨らんだ部分で切ってあり、その部分を口にするため、専用の架台なしでは立てることができない。またパラグアイで使われる茶器は牛角製にしろ木製にしろ口が広い。そのためパラグアイやブラジルで購入したボンビーリャはアルゼンチン製の茶器にはほとんど使えない。 ウルグアイでは持ち歩いて飲む習慣もあり、マテラというボンピージャ等のマテ茶を飲むための道具を持ち歩くための専用かばんを使う。 イェルバ・マテ (Ilex paraguariensis) は、モチノキ科モチノキ属に分類される常緑樹。この植物の葉や小枝からマテ茶が作られる。 カフェインとタンニンを含む。ドイツコミッションE(英語版)(ドイツ連邦保健省の下部委員会で、ハーブを医薬品として利用する場合の効果と安全性を協議している)にて精神および肉体の疲労に対しての使用が承認されている。一方、熱いマテ茶に限り、食道がんや喉頭がんなどの発がんリスクがあるとの説があり、IARCの発がん性評価では、Group2A(ヒトに対する発癌性がある可能性が高い)に分類されている。また、65°C以上の熱い飲み物自体がGroup2Aに分類されている。ただしマテ茶そのものはGroup3(ヒトに対する発癌性が確認できない)に分類される。一説にはこの発がんリスクは上述のボンビーリャと呼ばれるストローを使った飲用方法に原因があるとされ、高温のままのマテ茶をストローで吸引する行為が咽頭部に影響を与えているので、冷たいものであれば安全であるという見方が一般的である。また、カフェインが含まれているためコーヒーなどと同様に、妊娠中および授乳期の摂取は避けたほうがよいとされる。 ボリビアではマテと言う言葉は単にハーブティー全般を指し、必ずしもイェルバ・マテのみから作られていないためその成分には注意が必要である。 アルゼンチンにはマテ茶で意思を伝える文化がある。 1970年代、アントニオ猪木が「アントンマテ茶」として売り出し、日本に定着させようとしたが失敗した。 長い間、日本ではあまり知られていなかったものの、2012年から日本コカ・コーラにより「太陽のマテ茶」が販売されたことにより、徐々に認知度が高まっている。 シリアはマテ茶の世界最大の輸入国。 日本マテ茶協会がマテ茶の生産国であるアルゼンチンの収穫祭にちなみ9月1日を「マテ茶の日」に制定している。
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マテ茶は、南米のアルゼンチン、パラグアイ、ブラジル、ウルグアイ等を原産とするイェルバ・マテの葉や小枝を乾燥させた茶葉に、水または湯を注ぎ成分を浸出した飲料である。 ビタミンやミネラルの含有量が極めて高く、「飲むサラダ」とも言われている。このため、コーヒーや茶と同様の嗜好品ではあるが、野菜の栽培が困難な南米の一部の地域では単なる嗜好品の枠を超え、重要な栄養摂取源の一つとなっている。 日本茶に緑茶とほうじ茶があるように、マテ茶の茶葉にもグリーン・マテ(緑マテ茶)とロースト・マテ(黒マテ茶)がある。味わいはグリーンの場合、多少の青臭みと強い苦味を持つ。ローストは焙煎により青臭みが消え、香ばしい風味が付加される。ローストした茶葉は水出し用に利用されることが多い。
{{複数の問題 | 参照方法 = 2014年5月 | 独自研究 = 2014年5月 }} [[ファイル:Mate en calabaza.jpg|thumb|200px|マテ茶]] '''マテ茶'''(マテちゃ、{{lang-es|mate}} {{IPA-es|ˈmate|}}, {{lang|es|cimarrón}} {{IPA-es|simaˈron|}}、{{lang-pt|mate}} {{IPA-pt|ˈmatʃi|}}、{{lang|pt|chimarrão}} {{IPA-pt|ʃimɐˈʁɐ̃w̃|}})は、[[南アメリカ|南米]]の[[アルゼンチン]]、[[パラグアイ]]、[[ブラジル]]、[[ウルグアイ]]等を原産とする[[イェルバ・マテ]]の[[葉]]や小枝を[[乾燥]]させた[[茶葉]]に、水または湯を注ぎ成分を浸出した[[飲料]]である。 [[ビタミン]]や[[ミネラル]]の含有量が極めて高く、「飲む[[サラダ]]」とも言われている{{要出典|date=2022年6月}}。このため、[[コーヒー]]や[[茶]]と同様の[[嗜好品]]ではあるが、[[野菜]]の栽培が困難な南米の一部の地域では単なる嗜好品の枠を超え、重要な[[栄養]]摂取源の一つとなっている。 [[日本茶]]に[[緑茶]]と[[ほうじ茶]]があるように、マテ茶の茶葉にもグリーン・マテ(緑マテ茶)とロースト・マテ(黒マテ茶)がある。味わいはグリーンの場合、多少の青臭みと強い[[苦味]]を持つ。ローストは焙煎により青臭みが消え、香ばしい風味が付加される。ローストした茶葉は水出し用に利用されることが多い。 == 製造法 == マテ茶の茶葉は、以下のような工程を経て製造される。 #イェルバ・マテなどの[[葉]]や[[枝|小枝]]を摘みとって採集する。 #すぐに火入れを行って葉に含まれている[[酸化酵素]]を不活性化させる。 #[[風|熱風]]で乾燥させ、適度な大きさに破砕する。 #1年間ほど熟成させた後に茶葉として出荷される。 == 飲み方 == 伝統的な飲み方は[[茶器]]に容量の1/2ないし3/4程度の茶葉を直接入れ、水または60 - 80℃程度のお湯を注ぐ<ref name=":0">{{Cite web |title=O que é Chimarrão e como preparar |url=https://ervagaucha.com.br/o-que-e-chimarrao-e-como-preparar/ |website=Erva Gaúcha |access-date=2023-12-04 |language=pt-BR}}</ref>。ここに先端に茶漉しがついた専用の[[ストロー]]を差し込み、抽出液を飲む。容器は[[ヒョウタン]]製のものはマテ、クイアまたはポロンゴなどといい、木製や角製のものは[[グアンパ]](グァンパ、グァンポ)と呼ばれる。マテ用ストローは[[ボンビーリャ]]と呼ばれ、金属製で先端が膨らみ茶葉を漉し取るための無数の小穴が空いている。なお、現地での飲み方については、[[クロード・レヴィ=ストロース]]が『[[悲しき熱帯 (レヴィ・ストロース)|悲しき熱帯]]』の[[パンタナル]]の章で詳しく解説している。 近年では、[[ティーポット]]で淹れて抽出液のみをカップに注いで飲む場合も多い。[[ティーバッグ]]も普及している。しかし、マテ茶の淹れ方としては伝統的な方法が最も理に適っている。ボンビーリャで飲む場合、細かい茶葉を漉しきれずに抽出液と一緒に口に入ってくる。このため茶葉の一部を食べることになり、マテ茶の栄養成分を最も効率よく取り込むことが可能となっている。湯が90℃より熱い場合は、金属製のストローでは唇が熱く、飲むことができない。 気温が高い地域では水出しでマテ茶を飲むことが多く、[[パラグアイ]]ではマテ茶に薬草や[[ハーブ]]を混ぜて水出しした[[テレレ]]と呼ばれる飲み方が一般的である。単に「マテ茶」というと温かいものを指し、テレレと区別している人もいる。ポルトガル語圏においてはテレレは水出しあるいは茶葉にジュースを加えたマテ茶のことを指し、温かいものはChimarrãoと称される<ref>{{Cite web |title=Qual a diferença entre chimarrão e tereré? |url=https://www.baraoervamate.com.br/qual-a-diferenca-entre-chimarrao-e-terere/ |website=Barão Erva Mate |date=2019-02-20 |access-date=2023-12-04 |publisher=Barão Erva Mate |language=pt}}</ref>。 茶葉に湯を注ぎ、そのまま飲むのが伝統的な方法であるが、現地でも[[砂糖]]を入れ甘みを加える飲み方が一般的になっている。また、[[香辛料|スパイス]]や[[薬草]]・[[ハーブ]]等を混ぜて風味を変えたり、[[牛乳]]を加えたりした飲み方も広く行われている。 パラグアイ・[[アルゼンチン]]・[[ウルグアイ]]・[[ブラジル]]南部では、一組の茶器を使い複数人がマテ茶を回し飲みする習慣がある<ref>{{Cite web|和書|title=Embassy in Japan {{!}} マテ茶 |url=https://ejapo.cancilleria.gob.ar/ja/content/%E3%83%9E%E3%83%86%E8%8C%B6 |website=ejapo.cancilleria.gob.ar |access-date=2022-06-23}}</ref><ref name=":0" />。ホスト役が茶器とボンビーリャを使いマテ茶をたて、一煎めは自分で飲む。二煎目からは順番に参加者に回していき、各人が満足するまで何杯でも回し続ける。客はホストから茶器を受け取り自分ですべて飲んでホストに返す。客から別の客に直接茶器を渡すことはせず、受け取った茶は自分ですべて飲みきりホストに返すのが作法である。茶器をホストに返すときにGracias(ありがとう)と言うと「もう満足しました」という意味になるので、次からは自分に茶は回ってこない。客から茶器を戻されたホストは湯を注ぎ、場合によってはボンビーリャの差している位置を調整したり茶葉を追加したりして味を調えた上で次の客に渡す。ボンビーリャの位置を動かすと茶漉し部分が目詰まりしたり、味の濃さが変化したりするので、客は勝手にボンビーリャを動かしてはならない。 == 茶器 == アルゼンチン・ウルグアイ・ブラジル南部では伝統的な茶器は、[[ひょうたん]]でできている。マテとは、現地の言葉でひょうたんを意味し、マテ茶の名前はこのカップに由来する。ひょうたん以外では牛の角や、パロサントという木で作られたものが一般的である。茶器の表面や補強のために付けられる口金、すわりを良くする為の台座には彫刻・彫金などの意匠が施される場合が多く工芸品的な美しさを持っている。茶器は[[陶磁器|陶器]]や[[ガラス]]製のものも使われるが、多孔質の天然材料製でしばらく使った茶器でないと本来の味は出ないとされる。 ボンビーリャの材料は古くは葦などの植物の茎を利用したが、現在は金属([[銀]]・[[洋白|洋銀]]・[[ステンレス]]など)のものがほとんどである。 アルゼンチン・ウルグアイで使われる茶器はひょうたんの実の先端の膨らんだ部分を使い、補強された口は狭くなっているため、ボンビーリャの先の茶漉し部分は細長い。ブラジル南部で使われるそれはひょうたんの実の膨らんだ部分で切ってあり、その部分を口にするため、専用の架台なしでは立てることができない。またパラグアイで使われる茶器は牛角製にしろ木製にしろ口が広い。そのためパラグアイやブラジルで購入したボンビーリャはアルゼンチン製の茶器にはほとんど使えない。 ウルグアイでは持ち歩いて飲む習慣もあり、マテラというボンピージャ等のマテ茶を飲むための道具を持ち歩くための専用かばんを使う<ref>{{Cite web|和書|title=モンテビデオのお土産、と言えば。 ウルグアイ/モンテビデオ特派員ブログ {{!}} 地球の歩き方 |url=https://tokuhain.arukikata.co.jp/montevideo/2012/07/post_14.html |website=地球の歩き方特派員ブログ |access-date=2022-07-01}}</ref>。 == イェルバ・マテ == [[ファイル:Ilex_paraguariensis_-_Köhler–s_Medizinal-Pflanzen-074.jpg|thumb|150px|イェルバ・マテ]] {{main|イェルバ・マテ}} '''イェルバ・マテ''' (''Ilex paraguariensis'') は、[[モチノキ科]][[モチノキ属]]に分類される常緑樹。この植物の葉や小枝からマテ茶が作られる。 == 医薬的効果と発がん性の指摘 == [[カフェイン]]と[[タンニン]]を含む。ドイツ{{仮リンク|コミッションE|en|Commission E}}(ドイツ連邦保健省の下部委員会で、ハーブを医薬品として利用する場合の効果と安全性を協議している)にて精神および肉体の疲労に対しての使用が承認されている。一方、'''熱いマテ茶'''に限り、食道がんや喉頭がんなどの発がんリスクがあるとの説があり、[[IARC発がん性リスク一覧|IARCの発がん性評価]]では、Group2A(ヒトに対する発癌性がある可能性が高い)に分類されている。また、65℃以上の熱い飲み物自体がGroup2Aに分類されている<ref>[http://monographs.iarc.fr/ENG/Classification/ClassificationsAlphaOrder.pdf Agents Classified by the IARC Monographs, Volumes 1–106]、[[国際がん研究機関|IARC]]、2016年7月18日閲覧</ref>。ただしマテ茶そのものはGroup3(ヒトに対する発癌性が確認できない)に分類される。一説にはこの発がんリスクは上述のボンビーリャと呼ばれるストローを使った飲用方法に原因があるとされ、高温のままのマテ茶をストローで吸引する行為が咽頭部に影響を与えているので、冷たいものであれば安全であるという見方が一般的である<ref>http://www.matecha-kyokai.jp/news.html 日本マテ茶協会</ref>。また、カフェインが含まれているため[[コーヒー]]などと同様に、妊娠中および授乳期の摂取は避けたほうがよいとされる。 ボリビアではマテと言う言葉は単にハーブティー全般を指し、必ずしもイェルバ・マテのみから作られていないためその成分には注意が必要である{{efn|[[コカ|コカ茶]]などであれば「マテ・デ・コカ」(mate de coca)と呼ばれる。}}。 ==マテ言葉== [[アルゼンチン]]にはマテ茶で意思を伝える文化がある。 {|class=wikitable !茶の状態 !意味 |- |シナモンを加えたもの |愛してる |- |はちみつを入れたもの |結婚して欲しい |- |ぬるいもの |会いたくない |- |コーヒーと混ぜたもの |仲直りしたい |} == 日本及びアジアにおけるマテ茶 == [[1970年]]代、[[アントニオ猪木]]が「アントンマテ茶」として売り出し、日本に定着させようとしたが失敗した。 長い間、日本ではあまり知られていなかったものの、[[2012年]]から[[日本コカ・コーラ]]により「太陽のマテ茶」が販売されたことにより、徐々に認知度が高まっている<ref>{{Cite web|和書|title=南米国民の“飲むサラダ”、マテ茶パワーと美味しい楽しみ方 |url=https://www.oricon.co.jp/special/20076/ |website=ORICON NEWS |accessdate=2020-11-05 |date=2014-06-11}}</ref>。 シリアはマテ茶の世界最大の輸入国<ref>{{cite news|url=https://jp.globalvoices.org/2019/04/12/51380/|title=南アメリカの大切な文化「マテ茶」が絵文字の仲間入り|newspaper=|publisher=|date=2019-04-12|accessdate=2019-08-14}}</ref>。 日本マテ茶協会がマテ茶の生産国であるアルゼンチンの収穫祭にちなみ9月1日を「マテ茶の日」に制定している<ref>{{Cite web|和書|title=9月1日は日本マテ茶協会が制定したマテ茶の日。マテ茶の生産国であるアルゼンチンの収穫祭であることにちなむ。 |url=https://news.nissyoku.co.jp/today/585570 |website=日本食糧新聞電子版 |access-date=2022-06-23 |language=ja}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[テレレ]] * [[グアンパ]] * [[ボンビーリャ]] * [[チェ・ゲバラ]] * マテ茶鶏 - マテ茶の葉を餌に配合して育てた[[鶏]][https://web.archive.org/web/20160304172152/http://www.nfgroup.co.jp/kantofood/products/chicken.html]。[[日本ハム]]グループと[[ブラジル]]の企業の提携により生み出された。 * [[苦丁茶]] - マテ茶同様モチノキ科モチノキ属の植物を使う場合もある == 外部リンク == {{Commonscat}} * {{Hfnet|540|マテ}} * [http://www.matecha-kyokai.jp/ 日本マテ茶協会] * {{Kotobank}} * [https://ejapo.cancilleria.gob.ar/ja/content/マテ茶 マテ茶] - 駐日アルゼンチン大使館 * [https://www.py.emb-japan.go.jp/files/000347953.pdf 『 パラグアイのマテ茶事情 』]- 在パラグアイ日本国大使館 {{茶}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:まてちや}} [[Category:茶外茶]] [[Category:中南米の食文化]] [[Category:モチノキ科]] [[Category:ウルグアイの食文化]] [[Category:アルゼンチンの食文化]] [[Category:ブラジルの食文化]] [[Category:パラグアイの食文化]] [[Category:チリの食文化]] [[Category:アントニオ猪木]] [[Category:日本コカ・コーラ]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%86%E8%8C%B6
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スポルティーフ
スポルティーフ(スポルティフ、仏: sportif )は、自転車の種類の一つ。フランス語で「スポーツの」を意味する形容詞 sportif に由来しているが、単体で自転車の種類の呼称としては日本国内でしか通用しないものである(Vélo sportifと言う表現もあるが、単にロードバイクやマウンテンバイクなどのスポーツ自転車を示す言葉であり、本項の自転車も含まれるが、それに限定される言葉ではない。)。 フランスでは第二次世界大戦前から、ディアゴナールまたはブルベと総称される規定距離を規定時間内に走るサイクリングが盛んで、スポルティーフは本来そのための自転車であった。これらのイベントは同時に使用車の美を競うコンクールを併催したため、1つの様式を生むに至った。 日本では1960年頃からオーダー車として製作され始め、1970年代から1980年代前半にかけてサイクリングが盛んだった時期には量産メーカーによって完成車が販売されるようになった。その後、世界的にロードバイクやその派生形がサイクリング愛好者にも広まった。ロードバイクやマウンテンバイクの隆盛とは対照的に、今日ではスポルティーフ完成車の販売は稀になっている。このためフレームオーダーから受け付ける老舗専門店での購入が一般的である。 一般的に、日本人にしか通用しない「スポルティーフ」という呼称の自転車は、英国流の「クラブモデル」と混同されている場合が少なくない。そのため、コンペティション仕様をベースに、英仏の様式の違いを区別しないまま以下のような構成をとっている。 またランドナーが「フル装備」と呼ばれる、フロントバッグ・前輪サイドバッグ・後輪サイドバッグの全てを装着出来る仕様になっているものがあるのに対し、スポルティーフはフロントバッグのほかサドルバックの装備などが限界になっている。 スポルティーフはフランスの自転車の形式を参考にしているため、フランス製の部品を使うことで雰囲気を楽しむという愛好家もいる。
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スポルティーフは、自転車の種類の一つ。フランス語で「スポーツの」を意味する形容詞 sportif に由来しているが、単体で自転車の種類の呼称としては日本国内でしか通用しないものである。
{{出典の明記|date=2008年9月}} '''スポルティーフ'''(スポルティフ<ref name=Nitta67>[[#Nitta1994|新田(1994)、67頁]]</ref>、{{Lang-fr-short|sportif}} )は、[[自転車]]の種類の一つ。フランス語で「スポーツの」を意味する形容詞 ''sportif'' に由来しているが、単体で自転車の種類の呼称としては日本国内でしか通用しないものである(Vélo sportifと言う表現もあるが、単にロードバイクやマウンテンバイクなどのスポーツ自転車を示す言葉であり、本項の自転車も含まれるが、それに限定される言葉ではない。)。 == 歴史と現状 == フランスでは第二次世界大戦前から、[[ディアゴナール]]または[[ブルベ]]と総称される規定距離を規定時間内に走る[[サイクリング]]が盛んで、スポルティーフは本来そのための自転車であった。これらのイベントは同時に使用車の美を競うコンクールを併催したため、1つの様式を生むに至った。 日本では1960年頃からオーダー車として製作され始め、1970年代から1980年代前半にかけて[[サイクリング]]が盛んだった時期には量産メーカーによって完成車が販売されるようになった。その後、世界的に[[ロードバイク]]やその派生形が[[サイクリング]]愛好者にも広まった。ロードバイクや[[マウンテンバイク]]の隆盛とは対照的に、今日ではスポルティーフ完成車の販売は稀になっている。このためフレームオーダーから受け付ける老舗専門店での購入が一般的である。 == 構成 == 一般的に、日本人にしか通用しない「スポルティーフ」という呼称の自転車は、英国流の「[[クラブモデル]]」と混同されている場合が少なくない。そのため、コンペティション仕様をベースに、英仏の様式の違いを区別しないまま以下のような構成をとっている。 * フレーム - [[クロムモリブデン鋼]]が使われるが、ロードバイクベースのものでは[[アルミニウム合金|アルミ]]や[[炭素繊維強化プラスチック|カーボン]]も使われる。 * ホイール - [[自転車用タイヤ#タイヤサイズ|タイヤ径]]は[[ランドナー]]とは異なり、一般的なロードレーサーと共通の700Cである。 * タイヤ - タイヤ幅は一般的なロードバイクよりやや太めの25mmから28mm程度である。サイズ表記は700×25C、700×28Cとなる。 * ブレーキ - 泥除けを跨ぐアーチの長さが必要とされるため[[センタープルブレーキ]]がよく使われる。ロードレーサーはサイドプルの[[キャリパーブレーキ]]。 * ハンドル - ドロップハンドル(ロードバイクと同様のマースバー) *泥除け * フロントキャリヤ * その他 - 変速の操作はダウンチューブシフターを用いることが多い。[[サドル (自転車)|サドル]]も伝統的な革サドルを使い、[[ペダル (自転車)|ペダル]]はロードレーサーやMTBで一般的なビンディング付きペダルではなく、トークリップとトーストラップを使用することが多い。 またランドナーが「フル装備」と呼ばれる、フロントバッグ・前輪サイドバッグ・後輪サイドバッグの全てを装着出来る仕様になっているものがあるのに対し、スポルティーフはフロントバッグのほかサドルバックの装備などが限界になっている。 スポルティーフはフランスの自転車の形式を参考にしているため、フランス製の部品を使うことで雰囲気を楽しむという愛好家もいる<ref>[[#TheWind|ザ・ウインド(1989)、38-47頁]]</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author=新田眞志 |year=1994 |title=美しき自転車 魔物たち SPECIAL MADE CYCLE |publisher=アテネ書房 |isbn=4-87152-188-5 |ref=Nitta1994}} * {{Cite book|和書 |editor=ザ・ウインド |year=1989 |title=自転車ターボブック2 |publisher=[[ナツメ社]] |isbn=4-8163-0765-6 |ref=TheWind}} {{Bicycle-stub}} {{DEFAULTSORT:すほるていふ}} [[category:自転車の形態]] [[category:自転車旅行]]
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ランドナー
ランドナー(フランス語: Randonneur、Randonneuse、ランドヌーズ)は、フランス発祥の自転車旅行用自転車。フランス語の「ランドネ」(小旅行)に由来する。 フランスではランドナーはランドヌーズという。650Bなど特有の太いホイールサイズが採用されている。このような太いホイールサイズが採用された理由はフランスにはパーヴェと呼ばれる石畳の道路が多く溝にはまってしまうことを防ぐ必要があったためである。 もともとランドナーは、ブルベという超長距離サイクリング・イベントに使われる自転車であった。これはスポルティーフに近い車種であり、当時のフランスの道路事情に合わせて、限られた時間内に規定のコースを走り切るという用途で作られていた。 フランスでは洒脱なデザインのランドナーが多く制作された。タイヤのほかハンドルバー、ブレーキシステム、ダイナモなどの備品に至るまで特徴的なデザインのものが多い。 日本への紹介は、第二次世界大戦後に、鳥山新一が持ち込んだルネ・エルス(仏: René Herse)の自転車が起源とされる。これを手本に研究が進められ、丸都自転車(現・東叡社)などのハンドメイド工房で作られ始めたのが日本版ランドナーの始まりである。当初、ランドナーはスポルティーフとともにフランス系のツーリング車として認知され、これが日本の制作者達の職人気質を刺激して、日本独自のランドナーの形へと発展していった。 日本では、当初イギリス式のクラブモデルがツーリングの用途に用いられていた。これは平地での高速移動を念頭に置いた設計であり、日本のような険しい山岳地帯が多い環境には不向きであった。また、当時は道路の舗装率も低かったなどの事情から、ギア比がワイドレシオ化され、かつ、太いタイヤを装着したランドナーがツーリング用に好まれるようになった。 日本では、1970年代から1980年代前半のいわゆる「サイクリングブーム」が後押しとなって、ランドナーが急速に普及し、かつては大手自転車メーカーからも各種のランドナーが販売され、現在より多く雑誌の広告を占めていた。ブリヂストンサイクル「ダイヤモンド(アトランティス)」・「ユーラシア」「トラベゾーン」、ミヤタ自転車「エディ・メルクス」「ジュネス」「ル・マン」、日米富士自転車の富士オリンピック「ニューエスト」・「ファイネスト」、パナソニック「ラ・スコルサ」、片倉自転車「シルク」、丸石自転車「エンペラー」、山口自転車(当時「丸紅山口」)「ベニックス」といった車種が有名であった。また、この時期には多くのサイクル・ショップ(プロ・ショップ)といわれる自転車店でも、ランドナーのオーダーやセミオーダーを受注するようになり、メーカー車に飽き足らない多くのユーザーが、こうした独自のランドナーを入手するようになった。 ランドナーの多くは、フロントバッグおよびサドルバッグ程度の荷物を積載することのできる「小旅行車」であったが、例えば大学サイクリング部の合宿や、いわゆる日本一周などの長距離サイクリングの際には、パニアバッグや前後のサイドバッグ、加えてキャリア上にもテント等を積載するなどの方法で重装備に対応した。ランドナーを改造する例が多かったが、キャンピング車として、重装備・長距離走行を前提にした専用の車種もオーダーされたほか、一時は大手自転車メーカーの製品も市場に出回っていた(ブリヂストンサイクル「ダイヤモンド・キャンピング」など) さらに1970年代後半頃から、一般的な峠越えや林道だけでなく、自動車の走行困難な山道などを走行したり、さらには自転車を担いだりもする山岳サイクリングが盛んになると、ランドナーを改造したパスハンターも登場した。代表的なものは、ランドナーのドロップハンドルをオールラウンダー・バーなどフラットハンドルに付け替え、キャリアやマッドガード、トウクリップを外すなど、山岳の走破に対応していた(この場合、荷物はザックで背負い、足下はトレッキングシューズなどで固めることになる)。パスハンターは、MTBが一般化するまでの間、山岳志向のサイクリストの間でランドナーの改造やオーダーなどによって愛用されたほか、神田にあった自転車店「スポーツサイクル・アルプス」(現在廃業)からは「クライマー」として販売もされていた。 日本のランドナーは、おおよそ1980年代後半まで隆盛を極めたが、それ以降は、悪路や山道走行に特化したMTBと、一般道路の整備に伴い普及したロードバイクに両極化し、ランドナーは急激に衰退した。日本の自転車ツーリングのあり方が変化したこと(荷物を積載して悪路や林道などを含む長距離を走行するツーリングから、自家用車や公共交通機関に自転車を積載するなどしてスポット的に楽しむ方向)や、いわゆる「サイクリングブーム」の終焉などもあり、主要メーカーが市販していたランドナーはそのほとんどが姿を消した。 その後、近年になって、かつて学生時代にランドナーでサイクリングした40歳代後半から50歳代を中心に、再度ランドナーを入手する例も増え、メディアで取り上げられる機会もこともある。しかし、ツーリング用自転車をランドナーとして完成車の形で販売しているメーカーは、丸石自転車(エンペラーの名称で販売を継続)や、アラヤなど数社のみとなったため、ランドナーの入手はハンドメイド工房などにオーダーされることが多い。 ただし、自転車をオーダーメイドとして依頼することは専門知識が必要であると思われることもあり、ツーリングの目的では、ランドナーの代わりに、近代的なクロスバイクやシクロクロスが使われるようにもなっている。また、サスペンションを装備するマウンテンバイクをツーリングに用いることも多い。ロードバイクなどを主に販売をしているメーカーからは、FUJIやルイガノなどが、「ツーリング」の名称でランドナーに相当する車種を販売している。 ホイールには、650A(26in×1 3/8)または 650B の規格を用いることが多い。ランドナーは旅行用途であることから荷物積載量が比較的多いことや、日本では、舗装道路が少ない時代に発展したという時代背景から、やや径が小さく太目の車輪が採用され、初期には650×42Bが好まれた。タイヤ幅は32 - 44mm程であり、空気圧は300 - 600kPa程度とされる。舗装路、砂利などの未舗装路や山道など、オールラウンドな走行が可能なうえ、緊急時には軽快車のタイヤも使える。そのため、入手が容易であることが最大のメリットである。タイヤが太くなると重量が増える傾向にあるが、比較的軽量なオープンサイドのWO(ワイヤードオン)タイアもあり、また650AタイヤにはMTBのようなブロックパターンのパスハンティング用も存在する。 現行製品では、リジダ(650B リム)、ユッチンソン(650B タイヤ&チューブ)、ミシュラン(650B タイヤ&チューブ)、日本国内ではアラヤ(650A リム)、パナレーサー(650A・650B タイヤ&チューブ)などが有名である。 最近になって、実用的なランドナーとして、26インチHE(フックドエッジ)規格のホイールを使う例も現れた。マウンテンバイクが世界中に普及したことにより、世界一周用のキャンピング車には現在では26インチHE規格のホイールを使うことが標準となっている。一方で、現在 650Bのタイヤは、相当大きな自転車店でも在庫していることが少なく、旅先では非常に入手困難であることから、メーカーが新規にツーリング用自転車を企画製作する場合は、26インチHEやロードバイク用の700Cなどの規格を採用することが多くなった。 主に、軽量なアルミ合金製の泥除けが装備される。メーカー車では、保守上の理由から表面にアルマイト加工したものが主であるが、一部のマニアは未加工のものを布バフで磨き上げた「ミガキもの」(バフ仕上げ)を好んで使用することもある。後輪の泥除けは、輪行を考慮して、分割式になっていることも多い。デザインは一般的な半丸型、亀甲型、パオン型などが存在する。 ランドナーやスポルティーフといったフランス系ツーリング車の特徴として、フロントキャリアおよび一部リアキャリアの装備があげられる。これはフロントバッグやサドルバッグなどを装備するためのものである。またフロントキャリアに電装品を装備する場合もある。フレームへの取り付けの多くはエンドに設けられたダボにネジ止めされるが、カンチブレーキの台座に固定するタイプもある。 サイドキャリアまで補えば、4つのサイドにバッグを装備することが可能となる。サイドキャリアは、前輪または後輪の両脇にサイドバッグを固定するためのキャリアであり、方形の金属枠がその特徴となる。日本では、現在、日東ハンドル製作所のキャンピーや、VIVAの製品などが有名である。 長距離の旅行に使われるため、夜間走行を考慮して、ヘッドランプ、テールランプやリフレクター、ダイナモ(発電機)を装備する。これと併用してバッテリーランプや近年ではLED式のランプを利用することが多い。 外装のダイナモを用いる場合はシートステーに装備されることが多く、ヘッドランプへの電線をフレームやキャリアのチューブの内側に通したり、前フォークが回転するヘッド小物に電気ブラシを内蔵させて電線を隠蔽する意匠を電線内装という。構造の都合から自転車を分解して輪行する用途には向かないと言われていたが、電気ブラシ(カーボン・ブラシと呼称)の改良により、フォーク部分の引き抜きや再装着に障害が起きないものが開発されて輪行に対応している。旧モデルにはリアフェンダーにまで配線を伸ばしてテールランプを点灯させるものが多かった。 外装式ダイナモは走行抵抗が大きく疲労を増長させるため採用例が減り、シティサイクルのようにフロントハブダイナモを採用したモデルに代わりつつある。 ランドナー用に設計されたドロップハンドル(ランドナーバー)を使用する。これはハンドルを握った手がフロントバッグに干渉しないようにハの字状に下広がり・両肩上がりの形状をしたものである。またフラットバーやプロムナードバーを装着し、ランドナー派生車種として楽しむ場合もある。 ランドナーなどのツーリング車では、ペダルに足を固定するために、トークリップとストラップを装着することが多い。ツーリングが観光やキャンプなどをするという一面を持ち、一般的なスニーカーやスポーツ用シューズ、ツーリング専用シューズなどで乗車する場合が多いためであり、また、ランドナーの雰囲気を出すためという一面もある。趣味性もあり、ストラップに革が用いられる例も多いが、本格的にツーリングをすることを念頭にビンディングペダルを使用するケースも見られる。 フレームの素材としてはクロムモリブデン鋼、古いものではマンガンモリブデン鋼が伝統的に用いられている。これらはアルミ素材に比べて強度に勝るものの、3倍程度比重が大きく、フレームはアルミ系のものよりやや重くなる。しかし、金属疲労に強く振動吸収性が良好で、乗員も疲れにくい。かつてはイギリスのレイノルズ社のマンガンモリブデン鋼「531」などが好まれた。世界旅行などで未開発地域にまで出かけるものは、現地で故障しても溶接修理が可能であることを長所に上げることもある。 フレーム設計は荷物を積載して登坂することが考慮され、低速走行向きとなる。このためヘッド角やシート角が寝ており、ゆったりした設計になることが多い。またトップチューブは地面と平行(ホリゾンタル)となるモデルが多い。ランドナーは通常のロードモデルと比較するとチェーンステーのチューブが長く、ホイールベースが大きい。これは直進安定性を高めるためと、ロードバイクより太いタイヤを使用するため、フェンダーを装備するためなどの理由がある。フレームのベースがマウンテンバイクに近い車両もある。 キャンピング車では、強度を確保する目的でクロスドシートステイが採用される場合がある。これはシートステイをシートチューブと交差させ、さらにトップチューブに溶接するものである。 ラグはフレームを構成するチューブを接続する継ぎ手である。本来、ラグは溶接される結合面積を増やして強度を向上させる目的で用いられるものであるが、ラグをさまざまな形にカットして装飾的に用いられることも多い。そのカットの形状によって「イタリアンカット」、「フレンチカット」、「コンチネンタルカット」などの意匠がある。ランドナーでは特にコンチネンタルカットに見られるような複雑な意匠が好まれるほか、ラグを用いないラグレス工法において、ロウを盛り上げて滑らかな曲線に仕上げられるのも好まれる。 主にカンチレバーブレーキ(cantilever brake)が用いられるほか、センタープルブレーキ(center pull brake)も用いられる。 カンチレバーブレーキは、カンチレバー(片持ち梁)構造のブレーキである。ブレーキワイヤーを外すことが容易であることから輪行やメンテナンスが容易であり、かつ、機構が単純なために故障が少ない。また、タイヤとのクリアランスが大きいために泥や雪が詰まることが少なく、泥除けとの併用も容易である。 ブレーキレバーは、フロントバッグとの干渉防止や輪行時の取り外しを考慮して、ケーブルを上に出す形が一般的である。ハンドルにケーブルを内蔵したりバーテープに巻き込む方式は主流でなかったが、輪行時にハンドルを取り外すケースが少なくなったことなどから、現在はシフト一体型も増えている。 フランス系ツーリング車であるため、往時はフランス製の部品も多く使われた。 フランスの自転車専門誌であるLe Cycle誌の編集長であったダニエル・ルブール(Daniel Rebour)によってイラスト化された部品がその典型的である。例えばT.A.やストロングライト(STRONGLIGHT)のチェーンホイール、ユーレ(Huret)やサンプレックス(Simplex)の変速機、イデアル(Ideale)のサドルなどである。 しかし、1980年代頃からランドナーの生産が減少し、それらの部品メーカーは、倒産や廃業、方針転換を余儀なくされた。そのため現代ではロードバイクやMTB用に設計されたコンポーネントが用いられることが多い。 変速は、ダウンチューブに装着されたダブルレバーで行うことが多い。これは輪行の際の利便性にもつながっている。しかし最近では、ロードバイクやMTBに多いハンドルバー取付型のレバーを採用するランドナーも少しずつ増えている。 輪行についての詳細は該当項を参照。 輪行は、スポーツ用自転車であればおおよそ可能であるが、ランドナーは設計の段階から輪行を意識されたものが多い。後輪の泥除けを分割式にして取り外しやすいものがあるほか、ダブルレバーはハンドルにシフトケーブルを取り回ししないため、手間が省略されコンパクトにまとめやすい。 さらに、日本のランドナーを特徴づける仕様のひとつに、いわゆる「輪行用ヘッド」がある。ヘッド部の、ヘッド小物と呼ばれる部品は、通常の構造であれば外すとボールベアリングがむき出しになり、リテーナー付きでない場合、不用意に作業するとボールを飛散させてしまう危険がある。「輪行用ヘッド」は、メンテナンスを目的とした分解作業の一部としてではなく、移動時に実用的に取り外しができるよう、シールドベアリング状に工夫されたヘッド小物を使っている。 そのような仕様のランドナーであれば、前輪と泥避け、キャリアをフォークごと外してさらにコンパクトにまとめることができる。これは「フォーク抜き輪行」ともいわれる。「スポーツサイクル・アルプス」が発案したことから、「アルプス式輪行」の別名もある。また、通常はヘッドスパナが必要だが、片岡シルクは前述の仕様に加えてクイックレリーズ式を用いた部品を使用し、丸石エンペラー(2010年モデルからは通常のヘッド)は、アレンキーで外せるようなロックを工夫していた。輪行用ヘッド小物の部品は、2013年現在もタンゲが製造販売しているほか、パナソニックのツーリングモデルのフレームに付属のものや、アメリカの Velo Orange 社が日本向けに製造しているものなどがある。 手回り品のサイズ規制が緩和されたこともあってか、現在、フォーク抜き輪行は、主にフロントキャリアやマッドガードの装備があるランドナーまたはスポルティーフに限られ、対応する輪行袋も少ない。自転車を趣味とする者の間でも、この方式でコンパクトに輪行することはあまり知られていない。しかし、列車内などで他の乗客の邪魔になりにくいため、好んで行う者もいる。
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}, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "さらに1970年代後半頃から、一般的な峠越えや林道だけでなく、自動車の走行困難な山道などを走行したり、さらには自転車を担いだりもする山岳サイクリングが盛んになると、ランドナーを改造したパスハンターも登場した。代表的なものは、ランドナーのドロップハンドルをオールラウンダー・バーなどフラットハンドルに付け替え、キャリアやマッドガード、トウクリップを外すなど、山岳の走破に対応していた(この場合、荷物はザックで背負い、足下はトレッキングシューズなどで固めることになる)。パスハンターは、MTBが一般化するまでの間、山岳志向のサイクリストの間でランドナーの改造やオーダーなどによって愛用されたほか、神田にあった自転車店「スポーツサイクル・アルプス」(現在廃業)からは「クライマー」として販売もされていた。", "title": "日本におけるランドナー" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "日本のランドナーは、おおよそ1980年代後半まで隆盛を極めたが、それ以降は、悪路や山道走行に特化したMTBと、一般道路の整備に伴い普及したロードバイクに両極化し、ランドナーは急激に衰退した。日本の自転車ツーリングのあり方が変化したこと(荷物を積載して悪路や林道などを含む長距離を走行するツーリングから、自家用車や公共交通機関に自転車を積載するなどしてスポット的に楽しむ方向)や、いわゆる「サイクリングブーム」の終焉などもあり、主要メーカーが市販していたランドナーはそのほとんどが姿を消した。", "title": "日本におけるランドナー" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "その後、近年になって、かつて学生時代にランドナーでサイクリングした40歳代後半から50歳代を中心に、再度ランドナーを入手する例も増え、メディアで取り上げられる機会もこともある。しかし、ツーリング用自転車をランドナーとして完成車の形で販売しているメーカーは、丸石自転車(エンペラーの名称で販売を継続)や、アラヤなど数社のみとなったため、ランドナーの入手はハンドメイド工房などにオーダーされることが多い。", "title": 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"最近になって、実用的なランドナーとして、26インチHE(フックドエッジ)規格のホイールを使う例も現れた。マウンテンバイクが世界中に普及したことにより、世界一周用のキャンピング車には現在では26インチHE規格のホイールを使うことが標準となっている。一方で、現在 650Bのタイヤは、相当大きな自転車店でも在庫していることが少なく、旅先では非常に入手困難であることから、メーカーが新規にツーリング用自転車を企画製作する場合は、26インチHEやロードバイク用の700Cなどの規格を採用することが多くなった。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "主に、軽量なアルミ合金製の泥除けが装備される。メーカー車では、保守上の理由から表面にアルマイト加工したものが主であるが、一部のマニアは未加工のものを布バフで磨き上げた「ミガキもの」(バフ仕上げ)を好んで使用することもある。後輪の泥除けは、輪行を考慮して、分割式になっていることも多い。デザインは一般的な半丸型、亀甲型、パオン型などが存在する。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ランドナーやスポルティーフといったフランス系ツーリング車の特徴として、フロントキャリアおよび一部リアキャリアの装備があげられる。これはフロントバッグやサドルバッグなどを装備するためのものである。またフロントキャリアに電装品を装備する場合もある。フレームへの取り付けの多くはエンドに設けられたダボにネジ止めされるが、カンチブレーキの台座に固定するタイプもある。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "サイドキャリアまで補えば、4つのサイドにバッグを装備することが可能となる。サイドキャリアは、前輪または後輪の両脇にサイドバッグを固定するためのキャリアであり、方形の金属枠がその特徴となる。日本では、現在、日東ハンドル製作所のキャンピーや、VIVAの製品などが有名である。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "長距離の旅行に使われるため、夜間走行を考慮して、ヘッドランプ、テールランプやリフレクター、ダイナモ(発電機)を装備する。これと併用してバッテリーランプや近年ではLED式のランプを利用することが多い。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "外装のダイナモを用いる場合はシートステーに装備されることが多く、ヘッドランプへの電線をフレームやキャリアのチューブの内側に通したり、前フォークが回転するヘッド小物に電気ブラシを内蔵させて電線を隠蔽する意匠を電線内装という。構造の都合から自転車を分解して輪行する用途には向かないと言われていたが、電気ブラシ(カーボン・ブラシと呼称)の改良により、フォーク部分の引き抜きや再装着に障害が起きないものが開発されて輪行に対応している。旧モデルにはリアフェンダーにまで配線を伸ばしてテールランプを点灯させるものが多かった。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "外装式ダイナモは走行抵抗が大きく疲労を増長させるため採用例が減り、シティサイクルのようにフロントハブダイナモを採用したモデルに代わりつつある。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ランドナー用に設計されたドロップハンドル(ランドナーバー)を使用する。これはハンドルを握った手がフロントバッグに干渉しないようにハの字状に下広がり・両肩上がりの形状をしたものである。またフラットバーやプロムナードバーを装着し、ランドナー派生車種として楽しむ場合もある。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ランドナーなどのツーリング車では、ペダルに足を固定するために、トークリップとストラップを装着することが多い。ツーリングが観光やキャンプなどをするという一面を持ち、一般的なスニーカーやスポーツ用シューズ、ツーリング専用シューズなどで乗車する場合が多いためであり、また、ランドナーの雰囲気を出すためという一面もある。趣味性もあり、ストラップに革が用いられる例も多いが、本格的にツーリングをすることを念頭にビンディングペダルを使用するケースも見られる。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "フレームの素材としてはクロムモリブデン鋼、古いものではマンガンモリブデン鋼が伝統的に用いられている。これらはアルミ素材に比べて強度に勝るものの、3倍程度比重が大きく、フレームはアルミ系のものよりやや重くなる。しかし、金属疲労に強く振動吸収性が良好で、乗員も疲れにくい。かつてはイギリスのレイノルズ社のマンガンモリブデン鋼「531」などが好まれた。世界旅行などで未開発地域にまで出かけるものは、現地で故障しても溶接修理が可能であることを長所に上げることもある。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "フレーム設計は荷物を積載して登坂することが考慮され、低速走行向きとなる。このためヘッド角やシート角が寝ており、ゆったりした設計になることが多い。またトップチューブは地面と平行(ホリゾンタル)となるモデルが多い。ランドナーは通常のロードモデルと比較するとチェーンステーのチューブが長く、ホイールベースが大きい。これは直進安定性を高めるためと、ロードバイクより太いタイヤを使用するため、フェンダーを装備するためなどの理由がある。フレームのベースがマウンテンバイクに近い車両もある。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "キャンピング車では、強度を確保する目的でクロスドシートステイが採用される場合がある。これはシートステイをシートチューブと交差させ、さらにトップチューブに溶接するものである。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ラグはフレームを構成するチューブを接続する継ぎ手である。本来、ラグは溶接される結合面積を増やして強度を向上させる目的で用いられるものであるが、ラグをさまざまな形にカットして装飾的に用いられることも多い。そのカットの形状によって「イタリアンカット」、「フレンチカット」、「コンチネンタルカット」などの意匠がある。ランドナーでは特にコンチネンタルカットに見られるような複雑な意匠が好まれるほか、ラグを用いないラグレス工法において、ロウを盛り上げて滑らかな曲線に仕上げられるのも好まれる。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "主にカンチレバーブレーキ(cantilever brake)が用いられるほか、センタープルブレーキ(center pull brake)も用いられる。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "カンチレバーブレーキは、カンチレバー(片持ち梁)構造のブレーキである。ブレーキワイヤーを外すことが容易であることから輪行やメンテナンスが容易であり、かつ、機構が単純なために故障が少ない。また、タイヤとのクリアランスが大きいために泥や雪が詰まることが少なく、泥除けとの併用も容易である。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ブレーキレバーは、フロントバッグとの干渉防止や輪行時の取り外しを考慮して、ケーブルを上に出す形が一般的である。ハンドルにケーブルを内蔵したりバーテープに巻き込む方式は主流でなかったが、輪行時にハンドルを取り外すケースが少なくなったことなどから、現在はシフト一体型も増えている。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "フランス系ツーリング車であるため、往時はフランス製の部品も多く使われた。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "フランスの自転車専門誌であるLe Cycle誌の編集長であったダニエル・ルブール(Daniel Rebour)によってイラスト化された部品がその典型的である。例えばT.A.やストロングライト(STRONGLIGHT)のチェーンホイール、ユーレ(Huret)やサンプレックス(Simplex)の変速機、イデアル(Ideale)のサドルなどである。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "しかし、1980年代頃からランドナーの生産が減少し、それらの部品メーカーは、倒産や廃業、方針転換を余儀なくされた。そのため現代ではロードバイクやMTB用に設計されたコンポーネントが用いられることが多い。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "変速は、ダウンチューブに装着されたダブルレバーで行うことが多い。これは輪行の際の利便性にもつながっている。しかし最近では、ロードバイクやMTBに多いハンドルバー取付型のレバーを採用するランドナーも少しずつ増えている。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "輪行についての詳細は該当項を参照。", "title": "輪行" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "輪行は、スポーツ用自転車であればおおよそ可能であるが、ランドナーは設計の段階から輪行を意識されたものが多い。後輪の泥除けを分割式にして取り外しやすいものがあるほか、ダブルレバーはハンドルにシフトケーブルを取り回ししないため、手間が省略されコンパクトにまとめやすい。", "title": "輪行" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "さらに、日本のランドナーを特徴づける仕様のひとつに、いわゆる「輪行用ヘッド」がある。ヘッド部の、ヘッド小物と呼ばれる部品は、通常の構造であれば外すとボールベアリングがむき出しになり、リテーナー付きでない場合、不用意に作業するとボールを飛散させてしまう危険がある。「輪行用ヘッド」は、メンテナンスを目的とした分解作業の一部としてではなく、移動時に実用的に取り外しができるよう、シールドベアリング状に工夫されたヘッド小物を使っている。", "title": "輪行" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "そのような仕様のランドナーであれば、前輪と泥避け、キャリアをフォークごと外してさらにコンパクトにまとめることができる。これは「フォーク抜き輪行」ともいわれる。「スポーツサイクル・アルプス」が発案したことから、「アルプス式輪行」の別名もある。また、通常はヘッドスパナが必要だが、片岡シルクは前述の仕様に加えてクイックレリーズ式を用いた部品を使用し、丸石エンペラー(2010年モデルからは通常のヘッド)は、アレンキーで外せるようなロックを工夫していた。輪行用ヘッド小物の部品は、2013年現在もタンゲが製造販売しているほか、パナソニックのツーリングモデルのフレームに付属のものや、アメリカの Velo Orange 社が日本向けに製造しているものなどがある。", "title": "輪行" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "手回り品のサイズ規制が緩和されたこともあってか、現在、フォーク抜き輪行は、主にフロントキャリアやマッドガードの装備があるランドナーまたはスポルティーフに限られ、対応する輪行袋も少ない。自転車を趣味とする者の間でも、この方式でコンパクトに輪行することはあまり知られていない。しかし、列車内などで他の乗客の邪魔になりにくいため、好んで行う者もいる。", "title": "輪行" } ]
ランドナーは、フランス発祥の自転車旅行用自転車。フランス語の「ランドネ」(小旅行)に由来する。
[[ファイル:Light Touring Bicycle.JPG|right|250px]] '''ランドナー'''({{Lang-fr|Randonneur}}、{{Fr|Randonneuse}}<ref>[[#Nitta1994|新田(1994)、67頁]]</ref>、ランドヌーズ)は、フランス発祥の[[自転車旅行]]用自転車。フランス語の「ランドネ」(小旅行)に由来する<ref>[[#Hirano2010|平野(2010)、6頁]]</ref>。 == 欧米におけるランドナー == フランスではランドナーはランドヌーズという<ref name="FLAT HOUSE Style50">アラタ・クールハンド、浅見英治『FLAT HOUSE Style 03』2014年、50頁</ref>。650Bなど特有の太いホイールサイズが採用されている<ref name="FLAT HOUSE Style50" />。このような太いホイールサイズが採用された理由はフランスにはパーヴェと呼ばれる[[石畳]]の道路が多く溝にはまってしまうことを防ぐ必要があったためである<ref name="FLAT HOUSE Style51">アラタ・クールハンド、浅見英治『FLAT HOUSE Style 03』2014年、51頁</ref>。 もともとランドナーは、[[ブルベ]]という超長距離サイクリング・イベントに使われる自転車であった。これは[[スポルティーフ]]に近い車種であり、当時のフランスの道路事情に合わせて、限られた時間内に規定のコースを走り切るという用途で作られていた。 フランスでは洒脱なデザインのランドナーが多く制作された<ref name="FLAT HOUSE Style50" />。タイヤのほかハンドルバー、ブレーキシステム、ダイナモなどの備品に至るまで特徴的なデザインのものが多い<ref name="FLAT HOUSE Style51" />。 == 日本におけるランドナー == === 日本への紹介 === 日本への紹介は、[[第二次世界大戦]]後に、[[鳥山新一]]が持ち込んだ[[ルネ・エルス]]({{Lang-fr-short|René Herse}})の自転車が起源とされる。これを手本に研究が進められ、丸都自転車(現・[[東叡社]])などのハンドメイド工房で作られ始めたのが日本版ランドナーの始まりである{{要出典|date=2008年8月}}。当初、ランドナーはスポルティーフとともにフランス系の[[自転車旅行|ツーリング]]車として認知され、これが日本の制作者達の職人気質を刺激して、日本独自のランドナーの形へと発展していった。 === ランドナーの普及 === 日本では、当初イギリス式の[[クラブモデル]]がツーリングの用途に用いられていた。これは平地での高速移動を念頭に置いた設計であり、日本のような険しい山岳地帯が多い環境には不向きであった。また、当時は道路の舗装率も低かったなどの事情から、ギア比がワイドレシオ化され、かつ、太いタイヤを装着したランドナーがツーリング用に好まれるようになった。 日本では、1970年代から1980年代前半のいわゆる「サイクリングブーム」が後押しとなって、ランドナーが急速に普及し、かつては大手自転車メーカーからも各種のランドナーが販売され、現在より多く雑誌の広告を占めていた。[[ブリヂストンサイクル]]「ダイヤモンド(アトランティス)」・「ユーラシア」「トラベゾーン」、[[ミヤタ自転車]]「エディ・メルクス」「ジュネス」「ル・マン」、[[日米富士自転車]]の富士オリンピック「ニューエスト」・「ファイネスト」、[[パナソニック サイクルテック|パナソニック]]「ラ・スコルサ」、[[片倉自転車]]「シルク」、[[丸石サイクル|丸石自転車]]「エンペラー」、[[山口自転車]](当時「丸紅山口」)「ベニックス」といった車種が有名であった。また、この時期には多くのサイクル・ショップ(プロ・ショップ)といわれる自転車店でも、ランドナーのオーダーやセミオーダーを受注するようになり、メーカー車に飽き足らない多くのユーザーが、こうした独自のランドナーを入手するようになった。 ランドナーの多くは、フロントバッグおよびサドルバッグ程度の荷物を積載することのできる「小旅行車」であったが、例えば大学サイクリング部の合宿や、いわゆる日本一周などの長距離サイクリングの際には、パニアバッグや前後のサイドバッグ、加えてキャリア上にもテント等を積載するなどの方法で重装備に対応した。ランドナーを改造する例が多かったが、[[キャンピング車]]として、重装備・長距離走行を前提にした専用の車種もオーダーされたほか、一時は大手自転車メーカーの製品も市場に出回っていた([[ブリヂストンサイクル]]「ダイヤモンド・キャンピング」など) さらに1970年代後半頃から、一般的な峠越えや林道だけでなく、自動車の走行困難な山道などを走行したり、さらには自転車を担いだりもする山岳サイクリングが盛んになると、ランドナーを改造した[[パスハンター]]も登場した。代表的なものは、ランドナーのドロップハンドルをオールラウンダー・バーなどフラットハンドルに付け替え、キャリアやマッドガード、トウクリップを外すなど、山岳の走破に対応していた(この場合、荷物はザックで背負い、足下はトレッキングシューズなどで固めることになる)<ref group="注">永松康夫・橋本二三次(1976)「富士を下る」(月刊『ニューサイクリング』14巻11号、pp. 44-47、ベロ出版社)など。</ref>。パスハンターは、MTBが一般化するまでの間、山岳志向のサイクリストの間でランドナーの改造やオーダーなどによって愛用されたほか、神田にあった自転車店「スポーツサイクル・アルプス」(現在廃業)からは「クライマー」として販売もされていた。 === ランドナーの衰退 === 日本のランドナーは、おおよそ1980年代後半まで隆盛を極めたが、それ以降は、悪路や山道走行に特化したMTBと、一般道路の整備に伴い普及した[[ロードバイク]]に両極化し、ランドナーは急激に衰退した。日本の自転車ツーリングのあり方が変化したこと(荷物を積載して悪路や林道などを含む長距離を走行するツーリングから、自家用車や公共交通機関に自転車を積載する<ref group="注">各交通機関への自転車持ち込み規制緩和に伴い、[[輪行]]」が以前より行い易くなった。</ref>などしてスポット的に楽しむ方向)や、いわゆる「サイクリングブーム」の終焉などもあり、主要メーカーが市販していたランドナーはそのほとんどが姿を消した。 その後、近年{{いつ|date=2015年9月}}になって、かつて学生時代にランドナーでサイクリングした40歳代後半から50歳代を中心に、再度ランドナーを入手する例も増え、メディアで取り上げられる機会もこともある<ref group="注">出版社「旅する自転車の本」シリーズなど。</ref>。しかし、ツーリング用自転車をランドナーとして完成車の形で販売しているメーカーは、[[丸石サイクル|丸石自転車]](エンペラーの名称で販売を継続)や、[[新家工業|アラヤ]]など数社のみとなったため、ランドナーの入手はハンドメイド工房などにオーダーされることが多い。 ただし、自転車をオーダーメイドとして依頼することは専門知識が必要であると思われることもあり、ツーリングの目的では、ランドナーの代わりに、近代的な[[クロスバイク]]や[[シクロクロス]]が使われるようにもなっている。また、サスペンションを装備する[[マウンテンバイク]]をツーリングに用いることも多い。[[ロードバイク]]などを主に販売をしているメーカーからは、[[FUJI BIKES|FUJI]]や[[ルイガノ]]などが、「ツーリング」の名称でランドナーに相当する車種を販売している。 == 構成 == === タイヤ === ホイールには、650A(26in×1 3/8)または 650B の規格を用いることが多い。ランドナーは旅行用途であることから荷物積載量が比較的多いことや、日本では、舗装道路が少ない時代に発展したという時代背景から、やや径が小さく太目の車輪が採用され、初期には650×42Bが好まれた。タイヤ幅は32 - 44mm程であり、空気圧は300 - 600kPa程度とされる。舗装路、砂利などの未舗装路や山道など、オールラウンドな走行が可能なうえ、緊急時には[[軽快車]]のタイヤも使える<ref group="注">軽快車によく用いられる26in×1 3/8のサイズのタイヤが使えるのは、26in×1 3/8 - 1 1/2と共用可能な650×32Aのホイールであり、650Bサイズのホイールには装着できない。</ref>。そのため、入手が容易であることが最大のメリットである。タイヤが太くなると重量が増える傾向にあるが、比較的軽量なオープンサイドのWO(ワイヤードオン)タイアもあり、また650Aタイヤには[[マウンテンバイク|MTB]]のようなブロックパターンの[[パスハンター|パスハンティング]]用も存在する。 現行製品では、リジダ(650B リム)、ユッチンソン(650B タイヤ&チューブ)、[[ミシュラン]](650B タイヤ&チューブ)、日本国内では[[アラヤ]](650A リム)、パナレーサー(650A・650B タイヤ&チューブ)などが有名である。 最近{{いつ|date=2015年9月}}になって、実用的なランドナーとして、26インチHE(フックドエッジ)規格のホイールを使う例も現れた。[[マウンテンバイク]]が世界中に普及したことにより、世界一周用のキャンピング車には現在では26インチHE規格のホイールを使うことが標準となっている。一方で、現在 650Bのタイヤは、相当大きな自転車店でも在庫していることが少なく、旅先では非常に入手困難であることから、メーカーが新規にツーリング用自転車を企画製作する場合は、26インチHEやロードバイク用の700Cなどの規格を採用することが多くなった。 === 泥除け === 主に、軽量なアルミ合金製の泥除けが装備される。メーカー車では、保守上の理由から表面に[[アルマイト]]加工したものが主であるが、一部のマニアは未加工のものを布バフで磨き上げた「ミガキもの」(バフ仕上げ)を好んで使用することもある。後輪の泥除けは、[[輪行]]を考慮して、分割式<ref group="注">シートステーブリッジ辺りで後半分が外れるようにできている。</ref>になっていることも多い。デザインは一般的な半丸型、亀甲型、パオン型などが存在する。 === キャリア === ランドナーやスポルティーフといったフランス系ツーリング車の特徴として、フロントキャリアおよび一部リアキャリアの装備があげられる。これはフロントバッグやサドルバッグなどを装備するためのものである。またフロントキャリアに電装品を装備する場合もある。フレームへの取り付けの多くはエンドに設けられたダボにネジ止めされるが、カンチブレーキの台座に固定するタイプもある。 サイドキャリアまで補えば、4つのサイドにバッグを装備することが可能となる。サイドキャリアは、前輪または後輪の両脇にサイドバッグを固定するためのキャリアであり、方形の金属枠がその特徴となる。日本では、現在、[[日東 (自転車部品メーカー)|日東ハンドル製作所]]のキャンピーや、[[VIVA]]の製品などが有名である。 === 電装品 === 長距離の旅行に使われるため、夜間走行を考慮して、[[ヘッドランプ]]、[[テールランプ]]や[[リフレクター]]、[[ダイナモ]]([[発電機]])を装備する。これと併用してバッテリーランプや近年では[[発光ダイオード|LED]]式のランプを利用することが多い。 外装のダイナモを用いる場合はシートステーに装備されることが多く、ヘッドランプへの電線をフレームやキャリアのチューブの内側に通したり、前フォークが回転するヘッド小物に電気ブラシを内蔵させて電線を隠蔽する意匠を電線内装という。構造の都合から自転車を分解して輪行する用途には向かないと言われていたが、電気ブラシ(カーボン・ブラシと呼称)の改良により、フォーク部分の引き抜きや再装着に障害が起きないものが開発されて輪行に対応している。旧モデルにはリアフェンダーにまで配線を伸ばしてテールランプを点灯させるものが多かった。 外装式ダイナモは走行抵抗が大きく疲労を増長させるため採用例が減り、シティサイクルのようにフロントハブダイナモを採用したモデルに代わりつつある。 === ハンドル === ランドナー用に設計された[[ハンドルバー (自転車)#ドロップバー|ドロップハンドル]](ランドナーバー)を使用する。これはハンドルを握った手がフロントバッグに干渉しないようにハの字状に下広がり・両肩上がりの形状をしたものである。また[[ハンドルバー (自転車)#フラットバー|フラットバー]]や[[プロムナードバー]]を装着し、ランドナー派生車種として楽しむ場合もある。 === ペダル === ランドナーなどのツーリング車では、ペダルに足を固定するために、[[ペダル (自転車)|トークリップ]]と[[ストラップ]]を装着することが多い。ツーリングが観光やキャンプなどをするという一面を持ち、一般的なスニーカーやスポーツ用シューズ、ツーリング専用シューズなどで乗車する場合が多いためであり、また、ランドナーの雰囲気を出すためという一面もある。趣味性もあり、ストラップに革が用いられる例も多いが、本格的にツーリングをすることを念頭に[[ビンディングペダル]]を使用するケースも見られる。 === フレーム === [[フレーム素材 (自転車)|フレームの素材]]としては[[クロムモリブデン鋼]]、古いものでは[[マンガンモリブデン鋼]]が伝統的に用いられている。これらはアルミ素材に比べて強度に勝るものの、3倍程度比重が大きく、フレームはアルミ系のものよりやや重くなる。しかし、金属疲労に強く振動吸収性が良好で、乗員も疲れにくい。かつてはイギリスのレイノルズ社のマンガンモリブデン鋼「531」<ref group="注">混合率にちなむ。[[マンガン]]と[[モリブデン]]、[[ニッケル]]がそれぞれ5:3:1であったことから。</ref>などが好まれた。世界旅行などで未開発地域にまで出かけるものは、現地で故障しても溶接修理が可能であることを長所に上げることもある。 [[フレーム (自転車)|フレーム]]設計は荷物を積載して登坂することが考慮され、低速走行向きとなる。このためヘッド角やシート角が寝ており、ゆったりした設計になることが多い。またトップチューブは地面と平行(ホリゾンタル)となるモデルが多い。ランドナーは通常のロードモデルと比較するとチェーンステーのチューブが長く、ホイールベースが大きい。これは直進安定性を高めるためと、ロードバイクより太いタイヤを使用するため、フェンダーを装備するためなどの理由がある。フレームのベースがマウンテンバイクに近い車両もある。 [[キャンピング車]]では、強度を確保する目的でクロスドシートステイが採用される場合がある。これはシートステイをシートチューブと交差させ、さらにトップチューブに溶接するものである。 ==== ラグ工法 ==== ラグはフレームを構成するチューブを接続する継ぎ手である。本来、ラグは溶接される結合面積を増やして強度を向上させる目的で用いられるものであるが、ラグをさまざまな形にカットして装飾的に用いられることも多い。そのカットの形状によって「イタリアンカット」、「フレンチカット」、「コンチネンタルカット」などの意匠がある。ランドナーでは特にコンチネンタルカットに見られるような複雑な意匠が好まれるほか、ラグを用いないラグレス工法において、ロウを盛り上げて滑らかな曲線に仕上げられるのも好まれる。 === ブレーキ === 主に[[カンチレバーブレーキ]](cantilever brake)が用いられるほか、[[センタープルブレーキ]](center pull brake)も用いられる。 カンチレバーブレーキは、[[カンチレバー]](片持ち梁)構造のブレーキである。ブレーキワイヤーを外すことが容易であることから[[輪行]]やメンテナンスが容易であり、かつ、機構が単純なために故障が少ない。また、タイヤとのクリアランスが大きいために泥や雪が詰まることが少なく、泥除けとの併用も容易である。 ブレーキレバーは、フロントバッグとの干渉防止や輪行時の取り外しを考慮して、ケーブルを上に出す形が一般的である。ハンドルにケーブルを内蔵したりバーテープに巻き込む方式は主流でなかったが、輪行時にハンドルを取り外すケースが少なくなったことなどから、現在はシフト一体型も増えている。 === コンポーネント === フランス系ツーリング車であるため、往時はフランス製の部品も多く使われた。 フランスの自転車専門誌であるLe Cycle誌の編集長であったダニエル・ルブール(Daniel Rebour)によってイラスト化された部品がその典型的である{{要出典|date=2008年4月}}。例えば[[T.A.]]や[[ストロングライト]](STRONGLIGHT)のチェーンホイール、[[ユーレ]](Huret)や[[サンプレックス]](Simplex)の変速機、[[イデアル (自転車)|イデアル]](Ideale)のサドルなどである。 しかし、[[1980年代]]頃からランドナーの生産が減少し、それらの部品メーカーは、倒産や廃業、方針転換を余儀なくされた。そのため現代では[[ロードバイク]]やMTB用に設計されたコンポーネントが用いられることが多い。 変速は、ダウンチューブに装着された[[変速機 (自転車)#ダウンチューブシフター|ダブルレバー]]で行うことが多い。これは[[輪行]]の際の利便性にもつながっている。しかし最近では、[[ロードバイク]]や[[マウンテンバイク|MTB]]に多いハンドルバー取付型のレバーを採用するランドナーも少しずつ増えている。 == 輪行 == [[ファイル:Cycle packing process (fork unplugged style).jpg|thumb|フォーク抜き輪行]] [[輪行]]についての詳細は該当項を参照。 輪行は、スポーツ用自転車であればおおよそ可能であるが、ランドナーは設計の段階から輪行を意識されたものが多い。後輪の泥除けを分割式にして取り外しやすいものがあるほか、ダブルレバーはハンドルにシフトケーブルを取り回ししないため、手間が省略されコンパクトにまとめやすい。 さらに、日本のランドナーを特徴づける仕様のひとつに、いわゆる「輪行用ヘッド」がある。ヘッド部の、ヘッド小物と呼ばれる部品は、通常の構造であれば外すとボールベアリングがむき出しになり、リテーナー付きでない場合、不用意に作業するとボールを飛散させてしまう危険がある。「輪行用ヘッド」は、メンテナンスを目的とした分解作業の一部としてではなく、移動時に実用的に取り外しができるよう、シールドベアリング状に工夫されたヘッド小物を使っている。 そのような仕様のランドナーであれば、前輪と泥避け、キャリアをフォークごと外してさらにコンパクトにまとめることができる。これは「フォーク抜き輪行」ともいわれる。「スポーツサイクル・アルプス」が発案したことから、「アルプス式輪行」の別名もある。また、通常はヘッドスパナが必要だが、片岡シルクは前述の仕様に加えてクイックレリーズ式を用いた部品を使用し、[[丸石サイクル|丸石]]エンペラー(2010年モデルからは通常のヘッド)は、アレンキーで外せるようなロックを工夫していた。輪行用ヘッド小物の部品は、2013年現在もタンゲが製造販売しているほか、パナソニックのツーリングモデルのフレームに付属のものや、アメリカの Velo Orange 社が日本向けに製造しているものなどがある。 手回り品のサイズ規制が緩和されたこともあってか、現在、フォーク抜き輪行は、主にフロントキャリアやマッドガードの装備があるランドナーまたはスポルティーフに限られ、対応する[[輪行袋]]も少ない。自転車を趣味とする者の間でも、この方式でコンパクトに輪行することはあまり知られていない。しかし、列車内などで他の乗客の邪魔になりにくいため、好んで行う者もいる。 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author=新田眞志 |year=1994 |title=美しき自転車 魔物たち SPECIAL MADE CYCLE |publisher=アテネ書房 |isbn=4-87152-188-5 |ref=Nitta1994}} * {{Cite book|和書 |author=平野勝之 |year=2010 |title=旅用自転車ランドナー読本 |publisher=山と溪谷社 |isbn=978-4-635-24225-7 |ref=Hirano2010}} * 「ルネ・エルス特集」 エヌシー企画〈ニューサイクリング 2001年9月増刊号〉 * ダニエル・ルブール 『イラストによるスポーツ車と部品の変遷』 エヌシー企画 == 外部リンク == * {{Kotobank|2=デジタル大辞泉}} {{DEFAULTSORT:らんとな}} [[category:自転車の形態]] [[category:自転車旅行]]
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写真フィルム
写真フィルム(しゃしんフィルム)とは、写真撮影(映画も含む)においてカメラによって得られた映像を記録する感光材料であり、現像することにより記録媒体となるフィルムのこと。かつては、家庭用カメラの感光材料として広く普及し、単に「フィルム」または「フイルム」と呼ばれた。 写真フィルムは、写真や映画などの映像を、感光剤の化学反応を利用して記録するメディアである。カメラ等を使用して、フィルムを実像に露出して感光させ、潜像を生成した後、現像・定着・焼き付けといったプロセスを経て「写真」を得ることができる。 一般的な銀塩写真のフィルムは、透明なフィルムのベース(支持体)に、「ゼラチン」と呼ばれる、銀塩を含む感光乳剤が塗布されている。ネガフィルムは焼き付けによってネガポジを反転することにより、ポジ像(元の映像を表現する写真)が得られる。ポジフィルム(リバーサルフィルム)は、リバーサル現像(反転現像)によってポジ像が得られるため、そのまま鑑賞できる。 銀塩方式の写真はカビなどによる劣化には注意する必要がある。また、警察の鑑識において使用するカメラは、かつては証拠能力の問題からフィルム式であったが、その後、ライトワンスのメモリーカードが開発され、デジタル化が進んでいる。 写真フィルムは、写真乾板から発展した感光材料である。脆いガラス製乾板に対し、取り扱いが容易で、保存性・即用性に優れ、かつ量産しやすい写真フィルムの発明は、写真の普及の原動力となった。ガラスでは不可能なロールフィルムの実現もフィルム化と同時であり、それは映画の発明へとつながっていった。 初期の写真フィルムは、ベース素材にセルロイドを使用した「ナイトレート・フィルム」が使用されていた。ニトロセルロースは燃えやすい特性をもっており、時に火災の原因となった。そのため映画館や写真館の火災保険が高価であった程で、危険物第5類に指定されていた。1950年代以降は燃えにくいアセテート・セルロースをベースとしたセーフティー・フィルムが発売され置き換わったが、セーフティー・フィルムは高温多湿下の環境において加水分解し、分解された酢酸がさらに劣化を早めることが問題(ビネガーシンドローム)となり、1990年代頃からポリエステル製に置換されていった。 1990年代後半は出荷本数が4億本を超え、1997年(平成9年)9月1日から1998年(平成10年)8月31日の統計ではロールフィルムにおいて日本国内で最多の約4億8283万本を出荷し、日本各地の写真用品店・スーパーマーケットなどに「スピード写真」「0〜10円プリント」などと謳った全自動カラー現像・プリント装置が設置されていたが、その後はデジタルカメラの普及で売り上げが激減しており、全盛期の10年後である2008年(平成20年)には10分の1近くの約5583万本にまで落ち込んだ。これにより、企業のフィルム事業からの撤退や、ラインナップの縮小が進んでいる。 主にモノクロフィルム。 カラーフィルムは特定の色温度下において正しいホワイトバランスが得られるように設計されている。プリント時の補正が出来ないリバーサルフィルムで主に問題となる。 ISO感度の高低により現在はほぼ以下のように分類されているが、技術の進歩によりだんだん高感度になっている。 特記しない限りロールフィルム。数字(昇順)、アルファベット順で記載。
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写真フィルム(しゃしんフィルム)とは、写真撮影(映画も含む)においてカメラによって得られた映像を記録する感光材料であり、現像することにより記録媒体となるフィルムのこと。かつては、家庭用カメラの感光材料として広く普及し、単に「フィルム」または「フイルム」と呼ばれた。
{{複数の問題|出典の明記=2021年9月|独自研究=2021年9月|内容過剰=2021年9月}} [[ファイル:Ilford FP4 HP5 XP2.jpg|right|200px|thumb|35mm[[スチールカメラ]]用の[[イルフォード]]社製造の[[パトローネ]]入りフィルムの例]] '''写真フィルム'''(しゃしんフィルム)とは、[[写真]]撮影([[映画]]も含む)において[[カメラ]]によって得られた映像を記録する感光材料であり、[[現像]]することにより記録[[メディア (媒体)|媒体]]となる[[フィルム]]のこと。かつては、家庭用カメラの感光材料として広く普及し、単に「フィルム」または「フイルム」<ref group="注釈">日本語の表記法に仮名の小書きの無かった時代の影響がまだあった時代に由来する商標であるため、といったような例がある。そういった場合、発音ではフ「イ」ルムとしないことがもっぱらであることも多い。</ref>と呼ばれた。 == 概説 == 写真フィルムは、[[写真]]や[[映画]]などの映像を、感光剤の[[化学反応]]を利用して記録する[[電子媒体|メディア]]である。[[カメラ]]等を使用して、フィルムを[[実像]]に露出して感光させ、[[潜像]]を生成した後、[[現像]]・[[定着]]・[[焼き付け]]といったプロセスを経て「写真」を得ることができる。 一般的な[[銀塩写真]]のフィルムは、透明なフィルムのベース(支持体)に、「[[ゼラチン]]」と呼ばれる、[[銀塩]]を含む感光乳剤が塗布されている。[[ネガフィルム]]は[[焼き付け]]によってネガポジを反転することにより、ポジ像(元の映像を表現する写真)が得られる。ポジフィルム([[リバーサルフィルム]])は、リバーサル現像(反転現像)によってポジ像が得られるため、そのまま鑑賞できる。 銀塩方式の写真は[[カビ]]などによる劣化には注意する必要がある。また、[[警察]]の[[鑑識]]において使用するカメラは、かつては証拠能力の問題からフィルム式であったが、その後、[[ライトワンス]]のメモリーカード<ref>例えば[[キオクシア]]の[https://www.kioxia.com/ja-jp/business/memory/write-once.html 改ざん防止機能付きSDメモリカード]。2022年12月18日閲覧</ref>が開発され、デジタル化が進んでいる。 == 歴史 == 写真フィルムは、[[写真乾板]]から発展した感光材料である。脆いガラス製乾板に対し、取り扱いが容易で、保存性・即用性に優れ、かつ量産しやすい写真フィルムの発明は、写真の普及の原動力となった。ガラスでは不可能な[[ロールフィルム]]の実現もフィルム化と同時であり、それは[[映画]]の発明へとつながっていった。 初期の写真フィルムは、ベース素材に[[セルロイド]]を使用した「[[ナイトレート・フィルム]]」が使用されていた。[[ニトロセルロース]]は燃えやすい特性をもっており、時に火災の原因となった。そのため映画館や[[写真館]]の[[火災保険]]が高価であった程で、[[危険物]]第5類に指定されていた。[[1950年代]]以降は燃えにくい[[アセチルセルロース|アセテート・セルロース]]をベースとした[[安全フィルム|セーフティー・フィルム]]が発売され置き換わったが、セーフティー・フィルムは高温多湿下の環境において加水分解し、分解された酢酸がさらに劣化を早める<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jps.gr.jp/center/main_content/vinaigre/e-1.html |title=ビネガーシンドロームとは -酸っぱい臭いがしたら… |accessdate=2015-06-01}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.imagepermanenceinstitute.org/resources/newsletter-archive/v12/vinegar-syndrome |title=Acetate Film Base Deterioration - The Vinegar Syndrome | publisher=Image Permanence Institute, Rochester Institute of Technology |accessdate=2015-06-01}}</ref>ことが問題(ビネガーシンドローム)となり、[[1990年代]]頃から[[ポリエステル]]製に置換されていった<ref group="注釈">ポリエステルに変更されたのは映画上映用フィルム、文書保存用マイクロフィルムである。映画撮影用フィルム、写真用フィルムはアセテート(TAC)である。</ref><ref group="注釈">シングル8フィルムのように始めから[[ポリエステル]]の製品も存在する。</ref>。 [[1990年代]]後半は出荷本数が4億本を超え、[[1997年]](平成9年)[[9月1日]]から[[1998年]](平成10年)[[8月31日]]の統計では[[ロールフィルム]]において日本国内で最多の約4億8283万本を出荷し、日本各地の写真用品店・[[スーパーマーケット]]などに「スピード写真」「0〜10円プリント」などと謳った全自動カラー現像・プリント装置が設置されていたが、その後は[[デジタルカメラ]]の普及で売り上げが激減しており、全盛期の10年後である[[2008年]](平成20年)には10分の1近くの約5583万本にまで落ち込んだ。これにより、企業のフィルム事業からの撤退や、ラインナップの縮小が進んでいる。 == 分類 == === 用途別 === ; モノクロフィルム : 黒と白の濃淡([[モノクローム|モノクロ]])で表現するフィルム。現在でもよく使われ、カラーフィルムの現像プロセスで現像するモノクロフィルムも市販されている。かつては[[ネガフィルム]]だけでなく[[リバーサルフィルム]](ポジフィルム)も製造されていた([[8ミリ映画]]用モノクロフィルムは大半がリバーサルだった)。現在は一部の現像液を用いて反転現像処理をすることでポジが得られる。 {{Main|モノクロフィルム}} ; コピー用フィルム : 文献等の複写を行なうときに使うフィルム。コントラストが強く、高解像度。一般的な[[マイクロフィルム]]はここに含まれる(マイクロフィルムは古くはモノクロ・文献用のみだったが、現在ではカラーの階調画像を記録するものもある)。 ; カラーフィルム :; リバーサルフィルム :: 被写体の色がそのまま再現されるフィルム。ポジフィルムともいう。透過原稿用・[[スライド映写機]]での鑑賞用に使われる。また8ミリ映画用カラーフィルムの大半はリバーサルだった。 {{Main|リバーサルフィルム}} :; ネガフィルム :: 被写体の色や濃度が反転するフィルム。映画用やプリント用などに一般に広く利用されている。ネガと略称することもある。 {{Main|ネガフィルム}} : ; インスタントフィルム : 撮影後、特別の現像作業を必要とせず写真が完成するフィルムまたは印画紙。数十秒から10分程度で可視像が得られることからインスタント(即席)と呼ばれる。{{Main|インスタントカメラ}} === 感色性別 === 主にモノクロフィルム。 ; レギュラー・クロマチック : 青紫 - 青色光の波長にのみ感光するフィルム。主に製版用フィルム。 ; オルソ・クロマチック : 青紫-黄色光の波長にのみ感光するフィルム。かつてはポートレート用に盛んに使用された。コダックのヴェリクロームが代表的なフィルムである。 ; パン・クロマチック : 全整色性フィルム、青紫 - 赤色光の可視光線全域の波長に感光するフィルム。現在のモノクロフィルムはほとんどがこのタイプである。 ; スーパーパン・クロマチック : 可視光線全域の波長、さらには一部の赤外線領域にまで感光するフィルム。 ; 赤外線フィルム : 赤外域に感度をもつ[[モノクロフィルム]]とカラー[[リバーサルフィルム]](両方とも[[コダック]]から発売)。科学記録や不可視環境撮影(夜間監視など)で使用される。肉眼(可視光)と異なる独特の画像が得られるので、芸術目的の風景写真などにも使われる。詳細は[[赤外線フィルム]]を参照。 ; 放射線用フィルム : [[放射線]]によって[[感光]]するフィルム。主に医療や産業で利用。広義にはエックス線用フィルムもここに含まれるが、通常は[[ガンマ線]]を使った撮影に使用されるフィルムを言う。そのほか、電離放射線を検出する感光材料という意味では、核物理学や天文学の分野では原子核乾板と呼ばれる[[写真乾板]]がなお主流である。 ; エックス線用フィルム : 医療用に用いられるエックス線フィルムは、X線を吸収して蛍光を放つ増感紙(スクリーン)と組み合わせて使用されるスクリーンタイプが一般的であった。患者を通過したエックス線は増感紙を発光させ、フィルムは増感紙の蛍光により感光する。フィルムの分光感度特性は増感紙の発する蛍光に対応しており、レギュラータイプの増感紙にはレギュラー・クロマチックタイプの乳剤を使用したフィルム、オルソタイプの増感紙にはオルソ・クロマチックタイプの乳剤を使用したフィルムを組み合わせるのが最適である。多くの用途では感度を稼ぐ(すなわち患者の被曝量を低減させる)ために、フィルムの表裏両面に乳剤が塗布されている両面乳剤フィルムが用いられた。この場合、増感紙は二枚使われ、フィルムを両面から挟み込む。 : 特に[[X線]]で直接感光させるフィルムをノンスクリーンタイプエックス線フィルムと呼ぶ。この種のフィルムは感光効率が低く、高いX線輝度を必要とするため、歯科など特定分野に限って使用された。 : 医療用途では、さらに高感度が望めること、現像処理に要する時間が不要なこと、現像液等の排液が出ないこと、電子カルテと相性が良く保存が確実でスペースをとらないことから、急激にフィルムからデジタル機器への置き換えが進行していて、撮影された画像は電子カルテのモニターで見るのが一般的になりつつある。フィルムとしての実体が必要な場合はレーザープリンター様の専用プリンターで専用のフィルム(当然のことながら乳剤は塗布されていない)に印刷する。 : なお、大半の写真フィルムはX線で感光する。そのため、[[空港]]での手荷物検査時にフィルムがX線かぶりを起こすことがある。 === 色温度別 === カラーフィルムは特定の色温度下において正しい[[ホワイトバランス]]が得られるように設計されている。プリント時の補正が出来ないリバーサルフィルムで主に問題となる。 ; デイライトタイプ : 色温度5500度K - 5900度Kによる撮影で正しいホワイトバランスが得られるよう設計されたフィルム。ほとんどのカラーリバーサルフィルムはこのデイライトタイプである。昼光、青色写真電球、青色フラッシュバルブ、フラッシュライトによる撮影に使用。 ; タイプA(タングステンタイプ) : 3400度Kの写真電球や小型映画用ハロゲンランプによる撮影で正しいホワイトバランスが得られるよう設計されたフィルム。小型映画用の8mmフィルムはこのタイプであったし、かつてコダクロームにKPAというプロ用のタイプAフィルムが存在した。 ; タイプB(タングステンタイプ) : 3100度K - 3200度Kの一般的な写真電球による撮影で正しいホワイトバランスが得られるよう設計されたフィルム。現在でもプロ用のエクタクロームEPYや[[フジクロームT64]]などが発売されており、スタジオでの商品や人物撮影に用いられている。コダックのラッテン(''Wratten'' )85Bフィルターまたはその同等品を用いることにより昼光でも使用できる。 ; タイプF : 3800度Kのクリアフラッシュバルブによる撮影で正しいホワイトバランスが得られるよう設計されたフィルム。かつてエクタクロームタイプF(ASA32)が存在したがフラッシュライトが普及して姿を消した。 ; タイプE : タイプEというのは正式な名称ではないが、6500度Kの初期のフラッシュライトによる撮影で正しいホワイトバランスが得られるよう設計されたフィルム。かつて[[アンスコ (アメリカ合衆国の企業)|アンスコ]]のアンスコクロームに存在したのが唯一のものである。 ; タイプS : プロ用カラーネガフィルムは[[相反則不軌]]の影響を避けるため、短時間露光用と長時間露光用の双方が製造された。タイプsは短時間露光用でデイライトタイプである。 ; タイプL : プロ用カラーネガの長時間露光用でタングステンタイプである。1/30秒より長い露光時間で適正なカラーバランスが得られる。 === 形態別 === ; ロールフィルム : 長いフィルムを巻いて使うもの。一般の写真フィルムは主にこれ。{{Main|ロールフィルム}} ; シートフィルム : ビューカメラやレントゲン装置(直接撮影)で用いられる。いわゆる4×5in、8×10inサイズはシートフィルム。{{Main|シートフィルム}}(なお、インスタントカメラにおいて像を得るために使われる材料は、シートフィルムに近いがどちらかというと印画紙の一種であるが、商品の名称としては「インスタントフィルム」となっている) ; ディスクフィルム : 円盤状のフィルムを回転させつつ撮影する。 === ISO感度別 === [[ISO感度]]の高低により現在はほぼ以下のように分類されているが、技術の進歩によりだんだん高感度になっている。 ; 低感度 : 一般にISO感度100未満を低感度という。粒状性は非常に細かく、解像力などの描写特性も非常に高い。そのため感度が低い事による使いにくさを覚悟しても、解像度や色再現、質感などを徹底して要求される被写体の撮影に用いる。その一例として、大きなサイズで高画質での引き延ばしが必要な場合や、精密さを要求される接写、風景写真、商品写真や若い女性のポートレートといった用途が挙げられる。また意図的に低シャッター速度や開放絞りが明るい条件で必要な場合にも用いられる。カラーの場合、ほとんどがリバーサルタイプである。 ; 中庸感度 : 一般にISO感度100 - 200程度を中庸感度という。感度・粒状性・解像度などが低感度や高感度に比べて中間的な性質を持ち、用途的にも比較的無難で、標準的なものである。しかし最近ではこのクラスも従前の低感度クラスと同等以上の描写性を持つようになって来たし、ネガフィルムの場合ISO400クラスが標準感度になりつつある。 ; 高感度 : 一般にISO感度400 - 1000程度を高感度という。粒状性はやや粗いが、今では従前のISO100と同等以上にまで描写性が改善され、感度本位のものとして、白黒ネガやカラーネガではISO400クラスが標準感度になりつつある。ISO100クラスに比べ日中屋外でも天候の変化などに対しても使いやすく、特にF値の暗いレンズが多いズームやコンパクトカメラでは有利である。F値の明るい単レンズでは、高速シャッターの使用や、室内でのノンフラッシュ手持ち撮影が可能となることもある。またモノクロや内式カラーリバーサルの場合、ISO1600 - 5000程度までの増感現像が可能な場合もある。 ; 超高感度 : 一般にISO感度1600以上を超高感度という。粗粒子であり、これも従前のISO400 - 800クラス並みに改善されたとはいえ、画質の面では他の感度に比べ明らかに差がつく。そのため室内スポーツや超望遠レンズの手持ち撮影、[[演奏会|ライブ]]などの舞台、[[盆踊り]]や[[縁日]]などの夜間の夏祭り、博覧会場などの屋内展示場、[[天体]]撮影など多少の写りの悪さを覚悟しても高い感度が必要な暗い場面や高速の被写体に用いる。また意図的に粗粒子表現を行いたい場合にも用いられる。モノクロの場合はISO6400またはそれ以上の増感が可能な場合もある。 === 規格別 === {{See also|en:film format}} 特記しない限り[[ロールフィルム]]。数字([[ソート|昇順]])、アルファベット順で記載。 ; 2×3in : [[シートフィルム]]。 ; 3×4in : シートフィルム。 ; 4×5in : [[大判カメラ]]用のシートフィルム。通称シノゴ。 揺らしてもフィルムがずれないというメリットがあるクイックロード式フィルムホルダーが使われていた時期があるが、現在はすべて生産を終えている。 ; 5×7in : 大判カメラ用のシートフィルム。通称ゴヒチ。 ; 8×10in : 大判カメラ用のシートフィルム。通称エイトバイテン、略してバイテンとも呼ばれる。 ; 11×14in : 大判カメラ用のシートフィルム。イレブンフォーティーンと呼ばれる。通常販売されていることは少なく、受注生産がほとんど。 ; 8ミリ {{Main|8ミリ映画|ダブル8|スーパー8mmフィルム|シングル8}} : [[映画]]用フィルムの規格。幅16ミリの映画用フィルムを半裁して片[[パーフォレーション]]の8ミリ幅としたもの。映画『[[ローマの休日]]』で有名になった鈴木光学の[[エコー8]]はこの8ミリ幅フィルムを使用した6×6mm判の20枚撮りスチールカメラ。 : その後、送り機構に必要な幅を小さくして画面寸法を広げ画質改善をはかった「スーパー8」「シングル8」という新規格が誕生した(旧来の16ミリフィルムを使う規格は「レギュラー8」「スタンダード8」「ダブル8」などと呼ばれて区別される)。 : 8ミリはアマチュア用の映画の規格と位置づけられており、フィルムの使用量の削減が重要であったことから、リバーサルフィルムが多く用いられていた(ネガタイプのフィルムを使うと、ネガとそれを反転させた上映用プリントが必要になり、フィルムの使用量が2倍になってしまうため)。 ; 9.5ミリ {{Main|9.5mmフィルム}} : [[映画]]用フィルムの規格。[[フランス]]の[[パテ (映画会社)|パテ]]が開発し[[1922年]]に発表したパテーベビー・ホームフィルムシステムの規格。フィルム幅は9.5ミリだがセンター[[パーフォレーション]]の独特のフォーマットを採用してフィルム幅いっぱいにフレームを取っていたことから画面寸法が広く画質が良いことが特徴だった(8ミリ・ダブル8規格と比べて、フィルム幅はわずかに20%増し程度であったものの、画面寸法は実に3倍にも達する<ref group="注釈">ダブル8の3.5×4.8mmに対し、パテーベビーは6.5×8.5mm。ただし、同じ駒数で必要になるフィルムは9.5ミリの方が2倍程度長い。</ref>)。 : この規格は、映画を商品として市販・流通させることを目的として開発された。35ミリフィルムでプリントを作成したのちパーフォレーション間を3等分したら幅が9.5ミリになったとされる。撮影用カメラも市販されていた。字幕のために約14秒で2コマを映写させるストップモーション機構があり、字幕のコマに投光する時間が長いことから難燃性のフィルムが用いられていた<ref>{{cite|author=松本夏樹|url=http://www.ritsumei.ac.jp/eizo/gp/image/gp_report2009_P33-38.pdf|format=pdf|title=小型映画(9.5mm)の 保存と復元について|work=立命館大学映像学部現代GP 「映像文化の創造を担う実践的教育プログラム」 報告書 (2009年度)|publisher=立命館大学映像学部|date=2010-03-25|pages=34|accessdate=2010-09-15}}</ref>。 : 日本には[[1924年]]に伴野商店(東京・銀座)(現:[[伴野貿易]]株式会社)によって輸入が開始され、第二次世界大戦前にはかなりの勢力となっていたが、戦争によりフィルムの入手が困難となり中断、敗戦後には16ミリや8ミリにとってかわられて消えていった。 : 9.5ミリ幅のパテーベビー規格のフィルムは、スパイカメラとして有名な超小型スチールカメラの[[ミノックス]]の規格にも影響を与えた。ただしパテーベビーとミノックスは、フィルム幅こそ同じではあるもののミノックス用にはパーフォレーションがなく、相互に転用はできない。 ; 16ミリ {{Main|16mmフィルム}} : [[映画]]用フィルムの規格。ニュース映画やドキュメンタリー映画の取材・テレビ番組やテレビCMの送り出し・ハイアマチュアの自主映画製作・小規模上映などの用途に使われた。編集を前提とする用途であったため、基本的にはネガフィルムでありその後反転焼付けをして上映用フィルムを得た。 : 本来は両パーフォレーションで1駒あたり2つずつあいていたが、その後いろいろと改善され、現在では長さあたりの穴数を半分に減らし1駒1パーフォレーションとしたものや、片パーフォレーションにしたものが多い(サウンドトラックは、片側のパーフォレーションがあった部分を使っている)。 : このフィルムを流用したスチールカメラもあり、1960年代頃まではそのための[[フィルムカートリッジ|カートリッジフィルム]]も販売されていた。画面サイズは10×14mm。その後は販売されていないが、映画用のフィルムをハンドロードすることで使用は可能。「[[ミノルタ16]]」「[[マミヤ16]]」などが有名。ビスカワイド16は画面サイズ10×52mmで水平包括角度100度。[[ローライ16]]、[[エディクサ|エディクサ16]]等が採用するドイツのDIN-16規格ではスーパー16のフィルムがマガジンに装填され画面サイズも12×17mmである。 ; 17.5ミリ {{Main|17.5mmフィルム}} : [[映画]]用フィルムの規格。規格として一番普及したのはフランスのパテが採用したパテールーラルで、32コマ/ft。本国では大都市35ミリ、小都市17.5ミリという棲み分けがされて一時かなり普及した。日本では伴野文三郎が1931年にフランスのサイレント映画を大量に輸入したが、日本での主流はすでにアメリカ式の16ミリになっていた。他に[[エルネマン]]のキノックスとそれをコピーした[[曽根春翠堂]]のキネオカメラ、日本デブリーのシリウス式、35ミリフィルムを片側ずつ往復撮影して裁断するニュースタンダード式などがある。 ; 22ミリ : [[映画]]映写用フィルム。トーマス・エジソンが1912年発売したホームキネトスコープが採用していた。画面は3列になっており、真ん中の列は天地逆になっている。上の列を上映し終わるとレンズをずらしてハンドル逆回転により真ん中の列を上映する。撮影機は製作されていない。酢酸セルロース製の緩燃性のセーフティーフィルムが初めて使用された。 ; 28ミリ : [[映画]]用フィルム。フランスのパテが1910年発売した「パテスコープ」が採用していた。パーフォレーションは片側が35ミリフィルムと同様の1コマ4個であるが、もう片側は1コマ1個。 ; 35ミリ : 元々は[[映画]]用フィルム。通常の商業映画に使われる。その後、スチール写真用フィルムにも転用され、映画・スチール両方の世界でもっとも一般的なフィルムとなった。 :; 映画用としての35ミリフィルム :: 世界最初の映画システムであるトーマス・エジソンの[[キネトグラフ]]/[[キネトスコープ]]、映写できる最初の映画システムである[[リュミエール兄弟]]の[[シネマトグラフ]]ともに採用していた。同じ幅になったのは、当時映画用フィルムに使用できた唯一のフィルムがコダック製の長さ200ft、幅42inのロールフィルムで、これを30分割したためである。ただし[[シネマトグラフ]]ではパーフォレーションが画面1駒につき左右1個ずつ。映画は原則フィルムを縦に走らせる。スタンダード比率の[[トーキー]]映画の場合には16×22mmの画面寸法を持つ。これ以外にも横走りワイドスクリーンの「[[ビスタビジョン]]」、フィルム節約用の特殊フォーマット「テクニスコープ」、サウンドトラックを取らない撮影専用の「スーパー35」など多くの規格が並存しており、必要に応じて選択される。 :; スチール写真用としての35ミリフィルム :: 35ミリフィルムはスチールカメラ用にも流用され、映画用と分岐したのち独自の発展を遂げた。[[2003年]]2月現在世界的に最も広く使われている写真フィルム規格ともなっている。 :: スチールに使われる35ミリフィルムは、短く切断した上でパトローネに装填して使われることが多かった。この様式について最初に製造したのは[[アグフア|アグフア・ゲバルト]]であるが、[[ナーゲル (カメラ)|ドイツ・コダック]]が「135」という規格名を与えて[[レチナ]]と同時発売し、レチナの大ヒットとともに一般化した。現在一般に販売されているのは、35mm判にして12枚分・24枚分<ref group="注釈">過去には12枚・20枚・36枚だったが、フィルム会社間の争いを経て、20枚のものは24枚に変更となった。</ref>・36枚分をそれぞれ格納したもの。長尺のフィルムも販売されており<ref group="注釈">厳密に言えば長尺のものは35mmフィルムではあっても135フィルムではない。</ref>、適宜切断してパトローネか専用マガジンに装填して使用する。過去の高級一眼レフの多くは33フィートを一括して格納できる250枚撮りアクセサリーを用意していたし、ニコンF2に至っては100フィートを格納し750枚撮りできるアクセサリーも用意されていた。 :: スチール写真用フォーマットとしては、24mm×36mmの画面寸法のものが主流であり、これは[[ライカ]]により普及したため「'''{{Anchors|ライカ判}}ライカ判'''」と呼ばれていたが、現在は「35mm判」と呼ばれている。ライカ以前にも35mmフィルムを使った[[カメラ]]は存在したが、普及には至らなかった。ライカ判では8[[パーフォレーション]]を1駒として撮影する。 :: 他にもいくつか画面寸法の規格がある。 :: 24mm×32mmの露光サイズのものはフィルムが高価だった[[第二次世界大戦]]敗戦直後に少しでも撮影枚数を増やそうという意図から作られた規格で、'''{{Anchors|ニホン判}}ニホン判'''ともいう。ワイド過ぎたライカ判に比して縦横比も美しかったがアメリカ市場における自動現像機の裁断に合わず、すぐに廃れた。採用したカメラには[[ニコン]]I、初期の[[ミノルタ]]35、初期の[[オリンパス]]35、ミニヨン35があり、また同時代日本メーカー群の動向と無関係に[[イギリス]]で製造されたレイフレックスオリジナル、[[チェコスロバキア]]で[[メオプタ]]が製造したオペマ、[[ハンガリー]]で製造されたモミコン/モメッタ<ref group="注釈">当初の名称はモミコンであったがツアイス・イコンの抗議を受けてモメッタに改名された。</ref>も全く同じフォーマットを使用する。このため'''{{Anchors|ニコン判}}ニコン判'''、'''{{Anchors|オペマ判}}オペマ判'''等とも呼ばれる場合がある。7パーフォレーションを1駒として撮影する。 :: 24mm×24mm判は[[オットー・ベルニング]]のロボット、[[ツァイス・イコン]]のテナックス、[[キルフィット]]のメカフレックス、[[マミヤ・オーピー|マミヤ]]のスケッチ等が採用しており「'''{{Anchors|ロボット判}}ロボット判'''」と呼ばれることがある。 :: 24mm×18mm判は「'''{{Anchors|ハーフ判}}ハーフ判'''」と呼ばれることが多い。ハーフとは先に一般化したライカ判に対して半分という意味だが、映画フィルムの一般的なフォーマットに近く、「ライカ判がダブルフレームである」とも言える<ref group="注釈">映画の場合には[[サウンドトラック]]のために使われる幅があり、厳密には異なる。</ref>)。[[ハーフサイズカメラ]]は、[[オリンパス]]ペンシリーズのヒットで一時一般化し[[ペトリカメラ|ペトリ]]ハーフ、[[ミノルタ]]レポ、[[コニカ]]アイ、[[リコー]]オートハーフ、[[ヤシカ]]ハーフ、[[キヤノン]]デミ、[[富士フイルム|フジカ]]ドライブ等の追随製品が出た。その後も[[コニカ]]レコーダー、[[京セラ]]サムライ等断続的に新製品が発売されていたがフィルムの低価格化に伴い廃れている。 :: その他マミヤ6MFにパノラマアダプターを使用する24×56mmパノラマ、ワイドラックスの24×59mmパノラマ、フジのTXシリーズとそのOEMであるハッセルブラッドX-Panが採用した24×65mmパノラマ等がある。 : {{Main2|スチールカメラ用35ミリフィルム|135フィルム}} ; APS(IX240) {{See|#IX240|アドバンストフォトシステム}} ;65ミリ/70ミリ {{Main|70mmフィルム}} : これも元々は[[映画]]用フィルムの規格として作られたもの。 : 映画用として、画質改善のために35ミリのものより大きな画面寸法を持つフィルムとして、65ミリ/70ミリシステムが開発された。撮影に65ミリ幅のフィルムを使い、上映にはその画面サイズにサウンドトラック(あるいは同期トラック)を付加した70ミリ幅のフィルムを使うというもの(「トッドAO」「ウルトラパナヴィジョン」の2方式)、撮影には35ミリ横走りのビスタビジョンを使い上映に70ミリを使うもの(「スーパーテクニラマ」)などがある。 : この規格のフィルムもまたスチール写真用に転用された。120/220フィルムを使用するカメラの交換マガジン用フィルムとして使用されることが多い。 ; 110 {{Main|110フィルム}} : カートリッジに入り、片パーフォレーション16mm幅で13×17mm判。「ワンテン」、「ポケットフィルム」、「ポケット[[インスタマチック]]」などとも言われる。[[1972年]]にコダックが発売し、やがて主要なカメラメーカーも対応カメラを製品化した。135フィルムを使用するカメラと比較して小型であることやカートリッジ式によるカメラへの装着のしやすさから「[[ポケットカメラ]]」と呼ばれ、携帯用・スナップ用の手軽な機種を中心として1970年代から1980年代にかけて普及した。カメラの構造(特にフィルム送給機構とそれに連動するシャッター)を簡素化できるため、普及後期には安価で簡素なカメラが多い。1980年代後半頃に入ると135フィルムカメラのコンパクト化や、フィルムサイズに由来する画質の低さにより急速に姿を消し、2000年以降では、わずかに[[トイカメラ]]が数種類製造されるのみとなった。フィルムは近年でも[[富士フイルム]](ISO100)、イタリアの[[フェッラーニア]](''Ferrania'' )の「Solaris」(ISO200)、アグファ(ISO200)、[[コダック]] (ISO400)の製品が国内で流通していたが、各社とも製造体制の維持が困難などの理由により、2008年に相次いで製造終了を発表。富士フイルムの[[2009年]][[9月]]の販売終了を最後に、いったんその歴史に終止符を打った。しかし[[2012年]]から[[ロモグラフィー]]社が再びフィルムの出荷を開始し、現在数種のフィルムが販売されている。 : 現像に関しては、一般の写真店に設置されているミニラボ機ではできない場合が多く、ほとんどは大手の現像所へ取り次ぎとなる。ただアメリカの「Yankee」社製や旧ソビエト製の現像タンクの中にはリールの幅を調節する事で110フィルムを現像出来る物がある。いずれも現在は生産されていないが、ネットで中古品を購入することは可能である。 : 初期のブラジル製[[レンズ付きフィルム]]である「LOVe」や国産初のレンズ付フィルムである「[[写ルンです]]」最初期モデルは110フィルムを使用していた。1898年から1929年まで同名の5×4in判のロールホルダー規格が存在したが全く関連はない。 <gallery> ファイル:Fujicolor 110 film cartridge (1 of 3) (front view).jpg|110フィルムの裏面(詳細は画像をクリック) ファイル:110 PICT0002.JPG|110フィルムの正面(詳細は画像をクリック) ファイル:110 PICT0003.jpg|トイカメラでの110フィルムの使用例(詳細は画像をクリック) ファイル:Tc PICT0068.JPG|110フィルムを使うトイカメラのフィルム室(詳細は画像をクリック)</gallery> ; 116 {{Main|116フィルム}} : 6.5×11cm判に使われた[[ロールフィルム]]。コダックではNo.1Aとつくカメラ、[[ツァイス・イコン]]では[[イコンタ]]Dや、[[ボックステンゴール]]の一部、フランスのルミエール6.5×11等がこの規格を使用する。このフォーマットのカメラを使用する愛好家向けに120フィルムに履かせるスペーサー(アダプター、ゲタ)が発売されており、日本国内では販売されていないが個人輸入で入手は可能である。 ; 117 : 6×6cm判で6枚撮り用[[ロールフィルム]]。フィルムの幅は120フィルムと同じだがスプールの幅は少し狭い。[[ローライ|フランケ&ハイデッケ]]のローライフレックス初期のモデルはこのフィルムを使用するようになっていたが早期に120フィルムに移行して廃れた。[[ブローニー]]No.1とも呼ばれ、アグフアによる呼称では1B。 ; 120 {{Main|120フィルム}} : フィルム幅61.5mm、長さ830mmで[[パーフォレーション]]なしの[[ロールフィルム]]。[[ブローニー]]No.2、2Bとも呼ばれる。120はコダックによる呼称、2Bはアグフアによる呼称である。裏紙が付いていてそこに各フォーマットで使用時のコマ数表示があり、[[赤窓]]式のカメラではそれでコマ送りを確認する。35mmフィルムよりも面積が大きい分画質に優れるため、ハイアマチュアやプロによって使用されている。本来は6×9cm判(ロクキュー、8枚撮り)用であったが早い時期に6×4.5cm判(ロクヨンゴまたはセミ判、一般に16枚撮り)、6×6cm判(ロクロク、一般に12枚撮り)に流用され裏紙にコマ数表示もされている。その後6×7cm判(ロクナナ、10枚撮り)、6×8cm判(ロクハチ、9枚撮り)、6×12cm判(ロクイチニー、6枚撮り)、6×17cm判(ロクイチナナ、4枚撮り)、6×24cm判(3枚撮り)などのフォーマットにも使用されている。特殊なものとしてパノンカメラのパノンカメラAIIは50×112mmの6枚撮り、日本パノックスのパノフィックは50×120mmの6枚撮り。一般の[[DPE]]店などミニラボでは現像やプリントの処理ができない場合があり、その場合は大手の現像所に依頼するか、もしくはミニラボで現像所に取り次いでもらうことになる。スプールは当初金属縁のついた木製であったが後に金属製、さらに現在ではプラスチック製になっている。 : 120フィルムは市場流通量が割合多いので愛好者も多いが、フィルムの取り扱いには注意を要する。120フィルムの構造はフィルムの裏面に遮光紙を重ね合わせ巻き軸に巻いただけのものなので、フィルム交換に時間が掛かる上、落としてしまえばフィルムが露光する危険性もある。 ; 126 {{Main|126フィルム}} : [[1963年]]、コダックがフォトキナで発表したカートリッジ入りフィルム。[[インスタマチック]]とも呼ばれる。フィルム幅35mm、画面寸法は「26×26mm判」の正方形で、カートリッジは後の「[[110フィルム]]」より一回り大きいがよく似た形状。カメラへの装着が簡単で一眼レフも発売されるなど、一時期広く普及したが110などの出現で廃れてしまい、1980年代には僅かに[[トイカメラ]]が発売されたのみにとどまる。日本でも各社が販売したが、ほとんど普及しなかった。1999年にコダックがフィルムの出荷を終了、近年までイタリアの[[フェッラーニア]]がフィルムを製造していた(日本未流通)が2007年に生産終了しており、入手は非常に困難。現在は愛好家の間ではカートリッジと裏紙を入手して35mmフィルムを巻き直して使用する手法が取られている。ただ、120を620に転用する様にスプールに巻き直すだけではない為巻き直し作業はより煩雑になる。1906年 - 1949年の期間に同名の「11×16.5cm判」用のロールフィルム規格が存在したが、コダックが廃番を流用しただけで関連はない。 ; 127 {{Main|127フィルム}} : 本来は4×6.5cm判(ベスト判、8枚撮り)用であったが、4×4cm判(ヨンヨン、12枚撮り)に流用され1960年代まで多用されたため127=ベスト判=4×4cm判と誤解されている向きもある。4×4cm判の他4×5cm判、4×4.5cm判、4×3cm判(ベスト半裁、16枚撮り)にも流用された。かつてはスーパーサイズと呼ばれたが[[コダック]]の[[ヴェスト・ポケット・コダック]]のヒットによりベスト判と呼ばれるようになった。4×4cm判は2×2inマウントに収まりライカ判用[[スライド映写機]]で映写できるため「スーパースライド」と呼ばれて一時期もてはやされた。細軸でカーリングがひどい欠点があり、また安価な機種は126へ移行し廃れてしまった。 : コダック社では1996年にエクタクロームを製造中止したことにより、127のフィルム生産は全て取りやめている。現在製品としては、[[クロアチア]]のフォトケミカ([[エフケ]])で生産されたフィルムが僅かに流通しているのみである。120フィルムから巻き直したフィルムが一部カメラ店で販売されているほか、愛好家自身による巻き直しも幅広く行われている。 ; 135 {{Main|135フィルム}} ; 220 {{Main|120フィルム}} : 120フィルムの裏紙をフィルムの先端と末端のみとしたフィルム。裏紙がない分、120比で2倍のコマ数の撮影が可能。120と直接の互換性はないが、専用のマガジンや圧板位置調整機構を用意する形で、120と220の両フィルムに対応したカメラが多数存在しており、画面寸法も120に準じる。[[赤窓]]式のカメラではフィルムが感光してしまうため使用できない。 ; 616 {{Main|616フィルム}} : フィルムは116と同じだがスプール軸はこちらの方が細い。既に生産中止。頭の「6」は6枚撮りを意味する。このフォーマットのカメラを使用する愛好家向けに120フィルムに履かせるスペーサー(アダプター、ゲタ)が発売されており、日本国内では販売されていないが個人輸入で入手は可能である。 ; 620 {{Main|620フィルム}} : フィルムは120と同じだがスプール軸はこちらの方が細い。既に生産中止。このフォーマットのカメラを使っている人は120を620のスプールに巻きなおすか、愛好家自身の手で巻き直されたフィルムが販売されているのでそれを購入して使用している。また120のフランジの周囲を溝に沿って爪切りなどで切り落として使用するより簡便な方法も取られている。頭の「6」は6枚撮りを意味するが、120フォーマットのフィルムを巻き直したものは8枚撮ることができる。現在でもアメリカには現像を請け負ってくれるラボが存在する。 ; 828 {{Main|828フィルム}} : 主に28×40mm判で使用される。使用したカメラの名称から「バンタム判」とも言われる。既にフィルム自体は生産中止になっているが、このフォーマットのカメラを使用している人は、愛好家自身の手で巻き直されたフィルムが販売されているのでそれを入手するか、スプールと裏紙を入手して自ら巻き直すかして使用している。本来は無穿孔(パーフォレーションが無い)35mmフィルムを巻き直すが、120フォーマットのフィルムを裁断して巻き直す事も行われている。また有穿孔の35mmフィルムでも可能だが、画像領域に穿孔が入り込むので有効画像サイズはそれだけ小さくなる。 ; ボルタフィルム {{Main|ボルタフィルム}} : 当初は [[1935年]]に[[ドイツ]]製のボルタヴィットというカメラ専用に開発されたもの。画面寸法は24×24mmまたは24×36mm。裏紙付きとし、[[赤窓]]式のフィルム送りが可能なためフィルム送給機構が簡易にでき、またカメラが比較的小型になるために玩具カメラに多用された。フィルムは裏紙付きで幅35mmの、パーフォレーションのない135フィルムの様である。ただし流通していたフィルムには135フィルムを流用したパーフォレーション付きの製品もあった。現在は生産されておらず、市販品の入手は不可能。愛好家はかつてのフィルムの裏紙に135フィルムを貼り付けて巻き直すなどして代用している。 ; {{Anchors|ディスクフィルム}}ディスクフィルム : [[ファイル:DISCFILM.jpg|thumb|日本国内で発売されていたディスクフィルム]] {{Main|ディスクカメラ}} : [[1982年]]に[[ディスクカメラ]]用としてコダックが発売。直径6.5cmの円盤状フィルムの周辺に放射状に15コマが撮影できる部分が付いており、フロッピーディスクのような薄型のケースに収められていた。画面寸法は8.2×10.6mmと「110」よりもさらに小さく画質が悪いためかあまり普及せず短命に終わり、[[1998年]]にフィルムの生産が終了した。ケースの問題や特殊な形状のフィルムのため、他のフィルムを加工しての代用は非常に困難である。カメラ本体の製造は[[コダック]]・[[ミノルタ]](現[[コニカミノルタホールディングス]])・[[富士フイルム]]・[[コニカ]](現コニカミノルタホールディングス)など数社にとどまっている。 ; {{Anchors|IX240}}IX240 {{Main|アドバンストフォトシステム}} : [[画像:35-APS PICT2214.JPG|thumb|135フィルム(上)とAPSフィルム(APSフィルムの下の円は大きさ比較のため置いた[[100円玉]])]] [[アドバンストフォトシステム|APS]]カメラ用のフィルム。[[1996年]]に登場。小型のカートリッジに収められている。フィルム幅は24mm、画面寸法は16.7×30.2mm。MRC(ミッド・ロール・チェンジ)機能に対応したカメラならば撮影途中でのフィルム交換が可能。またカメラ側で撮影時に様々な情報をフイルムに磁気記録することができるようになっており、現像/プリント/[[CD-R]]記録時にこの情報を利用できる。[[ニコン]]、[[キヤノン]]、[[ミノルタ]]から一眼レフカメラが発売される等意欲的な規格であったが、同時期に登場した[[デジタルカメラ]]に押されて売れ行きが伸びず、フイルムの生産も2011年で終了した。現在でもアメリカには現像を請け負ってくれるラボが存在する。 ; ミゼット {{See|ミゼットフィルム}} : [[美篶商会]]のミゼット(''Midget'' )が元祖であることからこう呼ばれる。戦前から1950年代にかけて販売された。幅[[17.5mmフィルム|17.5mm]]<ref>カメラレビュー増刊「クラシックカメラ」、p.134.</ref>、裏紙付きでリーダーペーパーは幅18mm。画面寸法は「14×14mm判」。生産中止となって久しく市販品を入手することが不可能となっていたが、東京の田中商会がフィルム部品を入手したのに伴い製造を2016年4月に再開した。また一部のユーザーは120フィルムを加工し、自作して使用している。 ; {{Anchors|ミノックス}}ミノックス {{See|ミノックス|9.5mmフィルム#写真用フィルム}} : 戦前に[[ラトビア]]で開発されたスパイカメラの代表格とも言える[[超小型カメラ]]「[[ミノックス]]」用のフィルム。本家ミノックスの他にヤシカがアトロンシリーズ、日向工業がミニマックスシリーズ、浅沼商会がアクメルシリーズ、フジがMC-007、メガハウスがシャランシリーズを出している。フイルム幅は9.5 mm、画面寸法は8×11 mm、かつては36または50枚撮りがあった。 : 日本国内では[[浅沼商会]](キング)がカラーネガ(ISO100、ISO400)の15枚撮りと30枚撮りを、ミノックスがモノクロネガフィルム(ミノパン)をそれぞれ出荷しており、最近まで大手カメラ店等で購入が可能だった。キングのフィルムは出荷が中止となったあと、株式会社シャランが販売を再開し、一時は白黒ネガフィルムやリバーサルフィルムも出荷したが、2013年にすべての製品が品切れとなった。ミノパンも入手難の状況にあり、一部で詰め替えフィルムが流通しているのみである。 : 自作する場合、市販の135フィルムをカッターで4分割する(フィルム上下の[[パーフォレーション]]部分をカットして取り、中央の撮影面をさらに2分割し、長さを調整して空のカートリッジに挿入する。もちろん作業は全暗黒の中でしなければならない)。 : 構造上フィルムカートリッジ内に光が入りやすく、フィルムの出し入れはなるべく暗い所で行わなければならないとともに、所定の撮影枚数が終了した際には必ず2枚空写しをして巻上げてから(それ以上空写しをしてフィルムをカートリッジに全部巻き込むと光線漏れのを起こす可能性がある)付属のフィルムケースに入れて現像に出さねばならない。一般の写真店に設置されているミニラボ機では現像や焼付けができないため専門の現像所へ送られ、通常のフィルムより時間がかかる。フィルムサイズの関係上から画質は低くなりがちで、用途の限られる特殊なフィルムとも言える。 <gallery> ファイル:35-110-minox PICT2215.JPG|35ミリフィルム(上)と110フィルム(中)とミノックス用フィルム(ミノックスフィルムの下の円は大きさ比較のため置いた100円玉) ファイル:Minox PICT0004.JPG|ミノックスフィルムを上面から見る ファイル:Minox PICT0005.JPG|ミノックスフィルムを下面から見る(詳細は画像をクリック) ファイル:Minox PICT0006.JPG|ミノックスフィルムを使うカメラのフィルム室(写真はアクメルMD。詳細は画像をクリック) </gallery> ; ペタル(Petal) : 聖ペテロ光学のペタル、さくらペタルが使用する。直径24 mmの円形[[シートフィルム]]に6 mm径の写真を6枚撮る。 ; ラピッドシステム(Rapid System) {{Main|de:Agfa Rapid}} : アグフアが1930年代から販売して来た{{仮リンク|アグフアカラート|de|Agfa Karat}}を感度自動セット機能を付加するなどの改良をし、[[126フィルム]]に対抗して1964年発表された<ref>[https://www.fujifilm.co.jp/corporate/aboutus/history/ayumi/dai3-05.html 富士フイルムのあゆみ スチルカメラで独自の分野を - カメラの自動露光化とコンパクト化]</ref>。35 mmフィルムをカートリッジに装填してあり装填が簡単で巻き戻し不要。画面寸法は18×24 mm、24×24 mmまたは24×36 mm。速やかに廃れて日本国内では[[愛光商会]]の製品を最後に1983年生産終了。フィルムそのものは普通の35 mmフィルムと同じであるため、カートリッジさえ残っていれば詰め替えは比較的容易である。 <gallery> File:Agfa_Optima_Rapid_250_back_opened.jpg|Agfa Optima Rapid 250に装填されたラピッドフィルム File:Кассета Рапид фотоаппаратов Смена-рапид и зоркий-12.JPG|ラピッドパトローネ File:Rapid - Zorki - Smena.JPG|分解されたラピッドパトローネ </gallery> ; アトム判 {{Main|アトム (カメラ)}} : 4.5×6 cmの[[シートフィルム]]。[[写真乾板]]から移行した規格。名称は[[アトム (カメラ)|アトム]]に由来する。 ; 大名刺判 : 6.5×9 cmのシートフィルム。写真乾板から移行した規格。 ; 手札判 : 8×10.5 cmのシートフィルム。写真乾板から移行した規格。 ; 大手札判 : 9×12 cmのシートフィルム。写真乾板から移行した規格。 ; その他 : 多くの規格があったが既に生産は終了している。 <!-- == 主要メーカー == {{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2019年11月}} かつては世界的なメーカーが数社あったが、フィルム需要の縮小によるフィルム生産の中止、OEMへの切り替え、事業売却、倒産などの理由により、現在はコダック・富士フイルム2社による寡占状態が続いている。この2社以外にもいくつかの中小メーカーがあり、中にはかつての有名ブランドを継承しているメーカーもある。 === 現行メーカー === * [[コダック|イーストマン・コダック]] - 世界のトップメーカー。 * [[富士フイルム]] - 世界第2位、日本のトップメーカー。 * [[イルフォード (写真)|イルフォード]] - [[イギリス]]のメーカー、現在は[[ハーマンテクノロジー]]のブランド。モノクロでは著名。 * [[ケントメア・フォトグラフィック]] - イギリスのメーカー、現在はハーマンテクノロジーのブランド。 * [[フォマ・ボヘミア]] - [[チェコ]]のメーカー。 * [[フィルム・フェッラーニア]] - [[イタリア]]のメーカー。旧来の''Ferrania(Original Ferrania)''の生産設備や建物の一部、2012年に解雇された多くの技術者を引き継ぐ形で2013年に設立された。2017年2月に銀濃度の非常に高いパンクロマチックフィルムでISO80の“Ferrania P30α”を発表した。 * [[ラッキーフィルム]](楽凱) - [[中国]]のメーカー。元中国の化学工業省附属第一フィルム工場である。2003年にコダックと資本提携を締結し、1億ドルの資金提供を受け、ライン建設や生産技術向上などがはかられたが2007年には契約解消。2012年には民生用フィルム製造から撤退していたが、2017年に入って再開した。現在、航空探査用1021および1024型フィルムまたは民生用LUCKY NEW SHD 100-135-36枚を供給している。 * [[インポッシブル・プロジェクト|ポラロイド・オリジナル]] - [[オーストリア]]に本部があり、旧ポラロイドのオランダ工場を取り壊しの前にリースし、2010年インスタントフィルムを復活させた。SX70カメラ用、600カメラ用、スペクトラカメラ用の自己現像方式を生産している。しかし一部の材料が既に製造不能で調達ができない、一部の薬剤がEUの規制に抵触するなどの問題から、ポラロイド時代と全く同一の品質を持ったフィルムの製造ができず、感光性、発色性、保存性などに違いがあり、非常に使い勝手が悪くなっている。2017年5月社名をそれまでの“インポッシブル・プロジェクト”から“ポラロイド・オリジナル”に変更した。 * [[ORWO]] - 「ORWO」は旧東ドイツの人民公社''VEBアグファ・ヴォルフェン・フィルムおよび化学繊維工場''所有のブランドだった。ドイツ統一後''ORWO''として民営化され、2度の倒産を経て現在は''フィルモテック''のブランドとして継続している。 * [[アドックス]] - [[ADOX]]の商標権を得たドイツの"フォト・インペックス"が2003年に設立した''アドックス・フォトヴェルケ''が現在"ADOX"ブランドのフィルムや写真材料などを製造している。また[[アグフア・ゲバルト]]がかつて製造していた製品の幾つか、例えば現像液の『ロジナール』などのリメイクをしている。1860年に設立された旧来の"アドックス・フォトヴェルケ"は[[デュポン]]によって[[フォトケミカ]]に機材を売却されるなどした為、現在は存在していない。 * [[ギガビットフィルム]] - ドイツのメーカー。白黒リバーサルフィルム「Gigabitfilm DIA 135/36」を製造している。 * [[バンズ&グローマン]] - ドイツのメーカー。''[[wephota]]''銘でオルソ・クロマティックフィルムやインフラレッド・フィルムを製造している。 * [[OWAX]] - ベルギーのメーカー。独自のブランドのフィルムを生産しているほか、タスマやアストラムのフィルム、コダックの赤外リバーサルフィルムである“アエロクローム”を長巻から手詰めして販売している。 * [[上海申貝感光材料廠]] - 中国・上海にある感光材料メーカーで“ShangGong group”の一員。「上海」ブランドの白黒フィルムを生産している。昔、「申光」ブランドのカラーネガティブフィルムも生産した。1998年前後、カラーフィルム業務がコダックに買収された。一時生産を止めていたが、2018年に入って再開した。 * [[ブルーファイア・ラボラトリーズ]] - カナダのメーカー。2001年“Frugal Photographer”が“ADOX”の商標権を購入したのを期に開業したフィルム製造工房。当初は“ADOX”を名乗るはずであったが、ドイツの“FOTOIMPEX”が"同じくADOX"の商標権を購入し同名の会社を設立した為混同を避ける意味で現在の社名を名乗っている。「127フィルム」([[ベストフィルム]])や「110フィルム」、「APSフィルム」、「フラッシュバルブ」等を供給している。 * [[フォト・ウエアハウス]] - カナダのメーカー。「ウルトラファイン・エクストリーム」銘のカラーフィルムおよびモノクロフィルムを生産している。 * [[ピクトリオグラフィカ]] - アメリカ・ニューハンプシャー州にあるショップで写真家ジェイソン・レーン(Jason Lane)が経営している。現在写真用乾板を専門に生産している唯一のメーカー。ハンドメイドで作られており、サイズは主にシートフィルムに準じているが注文に応じてカスタムしてもらえる。 * [[田中商会]] - 「豆カメラ」用ミゼット判フィルムの製造販売をしている。またミノックス判フィルムも販売している。 * [[タスマ]] - 旧ソビエト連邦時代から存在するロシアのフィルムメーカー。現在は一般向けのフィルムは製造していないが、X線フィルムや航空写真用フィルムなどを製造している。現在(2018年5月12日時点)アメリカのFPP(Film Photography Project)とベルギーのOWAXが長巻から手詰めした”Tasma NK-Ⅱ”を販売している。 * [[アストラム]] - [[スヴェーマ]]の後継企業で''[[Svema]]''銘を所有している。[[コダック]]の協力のもとに設立されたウクライナの写真メーカー。35mmフィルムの他、X線フィルムや航空写真用フィルムなどを生産している。 * [[フォーカス]] - ロシアのサンクトペテルブルグにある写真サービスショップで、フィルム及びフィルムカメラの販売や現像サービスなどを行っている。”A-125”と”Тип-Д (Type-D)”の2種類のフィルムを販売しており、2017年12月28日現在日本では”Тип-Д (Type-D)”が入手可能である。これらのフィルムはベースが薄い為フィルムの巻き上げの際は優しくする事、自家現像の際リールに巻取りにくい事など注意して扱う必要がある。 * [[FILM WASHI]] - 2013年に設立されたフランスのメーカーで、現在フランス唯一のフィルムメーカーでもある。「フィルム・ワシ」銘の白黒フィルムを生産している。日本では今のところ[[ロモグラフィー]]の公式サイト内のネットショップでのみ扱いがある。銘の「WASHI」は、日本の楮紙(和紙)の様な単繊維の質感を与えるコーティングが施されている事に由来している。なお、限定生産の''Washi-W''は本物の楮紙に感光材を塗布して作られている。その為現像は平皿に限り、日本国内では請け負ってくれるラボがなく、全て自家現像するしかない。 * [[revolog]] - ドイツのメーカー。様々なテクスチャーやエフェクトが写り込むユニークなカラーネガティブフィルムを生産している。ラインナップの中には現在では珍しい12枚撮りフィルムがある。日本では今のところ[[ロモグラフィー]]の公式サイト内のネットショップでのみ扱いがある。 * [[KONO!]] - オーストリアのメーカー。タングステンタイプのカラーネガティブフィルムや白黒フィルムなどを生産しており、ラインナップの中には超低感度(ISO3~6)のカラーフィルム''KONO! Donau''がある。日本では今のところ[[ロモグラフィー]]の公式サイト内のネットショップでのみ扱いがある。 === OEMメーカー === * [[アグファフォト・ホールディング]] - アグフア・ゲバルトから事業を継承したが、2005年に子会社アグファフォトが破産。現在フィルム事業はループスイメージングメディアとして再編し、モノクロ、カラー供に他社からOEMで供給を受けて販売している。 * [[ローライ]] - ドイツのメーカー。かつては自社でフィルムを生産していたが、現在はマコに対しライセンスの使用を認め、それによりアグファ・ベルギー工場で生産されたフィルムをマコがローライ銘で販売している。 * [[マコ (ドイツの企業)|マコ]] - [[ドイツ]]のメーカー。かつては自社ブランドである"MACO"銘のフィルムを生産していた他、OEMも請け負っていた。現在は自社でのフィルム生産は行っておらず、OEMによるフィルムの供給も受けていない。OEMを受託しているとされているローライやアグファのフィルムについては、ライセンスの使用許諾のもとアグファ・ベルギー工場で生産されたフィルムを、"Rollei"銘のモノクロフィルムはマコで販売し、"Agfa"銘のモノクロフィルムはループス・イメージング&メディアにOEM供給している。 * [[シュプール・フォト]] - ドイツのフィルム化学メーカーで現像液などを製造している。フィルムは[[アドックス]]から供給を受ける形で「SPUR ortho pan UR」と「SPUR DSX」の2種類を販売しており、現在日本では前者が“Silver Salt”で販売されている。 * [[FOTOIMPEX]] - ドイツ・ベルリンにある“ADOX”の商標権を保有している会社。ハーマンテクノロジーから「ケントメア」銘のフィルムの供給を受け“CHM”銘で販売している。 * {{仮リンク|ベルゲール|en|Bergger}} - フランスのメーカー。一度倒産している。モノクロフィルムは現在自社では製造せずに、他社から供給を受けて販売している。 * [[Kosmo Foto]] - 公式サイトには住所などの表記は無いが、イギリスで活動している写真関係のフォーラムグループ。2017年7月から「Kosmo Foto」銘の36枚攝りモノクロフィルムをOEMにより販売している。OEM委託先は不明だが、フィルムベースの色などから[[フォマ・ボヘミア]]と見られている。 * [[ロモグラフィー]] - [[オーストリア]]のメーカー。同社のブランドで中国・米国・EU・チェコでOEM生産されたフィルムを販売している。 * [[Silberra]] - [[ロシア]]の[[サンクトペテルブルク]]にある写真関係のサプライヤー。店舗もある。OEM生産されたモノクロフィルムやカラーフィルムを販売している。 * [[サイバーグラフィックス]] (旧[[オリエンタル写真工業]]) - 2016年モノクロフィルム「NEW SEAGULL」を新たに発売しフィルム産業に再参入した。外箱に“Maid in UK”と表記されており、[[ハーマンテクノロジー]]がOEM生産している。パッケージデザインは、「オリパン400」を踏襲している。 * [[エゾックス]] - 本来は貿易会社だが、その中の一般には“かわうそ商店”の名で知られるフィルム及び写真材料の販売部門を持つ。OEMブランドである127フィルム(ベスト判)白黒フィルム「Rera Pan」とカラーリバーサルフィルム「ReraChrome」を販売している。 * [[CAMERA FILM PHOTO]] - ローライやベルゲール、シネスチルなどのアジアにおける代理店である香港の会社。「CFP」銘のフィルムを販売している。またフィルムや写真材料、アクセサリーのネット通販なども行っている。 * [[FS DISTRIBUTION]] - アメリカ・カリフォルニア州サンタ・フェ・スプリングスにある会社で、[[フォマ・ボヘミア]]においてOEM生産された、「''HOLGA''」銘のフィルムを販売している。その為一部のサイトでは「''FOMA HOLGA''」と紹介されている場合がある。 * [[Freestyle]] - アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルスにある会社。写真材料をネット通販している。プライベートブランドとしてOEM生産された、「Legacy」、「ARISTA」、「ARISTA EDU」銘のフィルムなどを販売している。OEM委託先としては[[コダック|イーストマン・コダック]]、[[富士フイルム]]、[[フォマ・ボヘミア]]、[[フォトケミカ]]など。 * [[FILM PHOTOGRAPHY PROJECT]] - アメリカ・ニュージャージー州にあるサービスショップ。各フィルムメーカーのバルクフィルム(長巻フィルム)をパトローネに手詰めしたフィルムやシネフィルムを同じくパトローネに手詰めしたフィルムを販売している。また120フィルムを116や616、620に巻き直したフィルムや135フィルムを126や828に巻き直したフィルムも販売している。 * [[HILLVALEPHOTO]] - オーストラリアにある独立系写真サービス会社。カラーネガティヴフィルム「SUNNY 16」を販売している。パッケージには製造国などは記してないが、パトローネに貼られたシールを剥がすと“Made in Japan”と明記してある。おそらく富士フイルム製のフィルムをリパッケージしたもの。 * {{仮リンク|Japan Camera Hunter|en|Bellamy Hunt}} - 東京都町田市にある写真サービスショップで、ベルギーでOEM生産された「''JCH StreetPan 400''」を販売している。 === 撤退済み === * [[アグフア・ゲバルト]] - ヨーロッパのトップメーカーであり、世界第3位だったが、2004年にアグフアフォトに移管し撤退。 * [[コニカミノルタホールディングス|コニカミノルタ]](旧[[コニカ]]) - 日本のメーカー。1987年まで「サクラカラー」というブランド名で販売。2007年3月末で写真事業から撤退し、DNPフォトマーケティングへ移管。 * [[DNPフォトイメージングジャパン|DNPフォトルシオ]](旧 DNPフォトマーケティング) - コニカミノルタのフィルム・印画紙事業を継承した[[大日本印刷]]のグループ企業。ただし、フィルムはブランドのみ継承で、製造はコダックの[[OEM]]だった。2009年に写真フィルムの販売を終了。 * [[3M]] - 1964年にフェッラーニアを買収し、[[Imation]]の一環として“Scotch Chrome”ブランドのフィルムを販売していた。 * [[アンスコ (アメリカ合衆国の企業)|アンスコ]] * [[三菱化学]] * [[デュポン]] - かつては写真フィルムを生産していた事があり、戦前期の日本にも35mパンクロマティックフィルム「デュポン・スーペリオア」などが輸入されていた。 * [[フェッラーニア]] - イタリアにあったフィルムメーカー。1964年に[[3M]]に買収され、“Imation”の一環として「Solaris」、「Dynachrome」、「Scotch Chrome」ブランドのフィルムを製造していた他、様々な会社のフィルムのOEM生産を請け負っていた。2008年7月に同年(2008年)中にカラーフィルムの生産から撤退すると発表したが、2009年3月時点ではまだ2種類のカラーフィルム(ASA200とASA400の135フィルム)を生産し続けていた。しかし同年(2009年)12月までに全ての写真フィルムの生産を終了し、2010年にフィルム関連の最後の建物を閉鎖、2012年10月に映画用フィルムの制作と加工に携わっていた従業員のほとんどを解雇しフィルム産業から撤退した。 * [[フォトケミカ]] - [[クロアチア]]のメーカーで“フォトケミカ・ノヴァd.o.o(有限責任会社)”が正式名称。銘は[[エフケ]]。エフケのフィルムは銀の含有量が多くラティチュードが広いのが特徴で初心者でも扱い易いとされていた<ref group="注釈">銀の含有量を多くする技術は元々はアドックスが開発したものだが、アドックスを買収したデュポンによって商標以外の諸権利や機材がフォトケミカに売却された為生産出来るようになった。</ref>。一般的なフィルムの他、赤外フィルムや127のモノクロフィルムを出荷していた。2012年生産機材の修理が不可能になった事でフィルムや印画紙の生産から撤退した。会社自体は存続しているが、フィルムや印画紙などに関しては後継企業は設立されていない<ref group="注釈">銀の含有量の多いフィルムのみ旧来のアドックスの権利を取得して新たに設立された現在のアドックスが「ADOX SILVERMAX」として生産している。</ref>。 * [[フォルテ (企業)|フォルテ]] - [[ハンガリー]]のメーカー、2007年倒産。 * [[ポラロイド]] - インスタントカメラ用のフィルムの他、35mmカメラ向けのインスタントフィルム「ポラクローム」を製造していた。 * [[スヴェーマ]] - 2007年までウクライナ35mmや120のモノクロフィルムを生産し、主に16mmフィルムやスーパー8等のフィルムを製造していたソ連の主要な写真フィルムメーカーであった。 * [[アドックス]] - 旧来のアドックス・フォトヴェルケ(アドックス・フォトヴェルケ・ドクトル・C・シュロイスナー有限会社)は、買収により傘下に収めたデュポンによって機材を売却されるなどしたうえ、商標権も失い現在は存在していない。上述のアドックス・フォトヴェルケは全くの別会社である。 * {{仮リンク|ペールツ・フォトヴェルケ|de|Perutz-Photowerke}} - 1880年に設立されたドイツのフィルムメーカー。戦前期にはロールフィルムが日本にも輸入されていた。1933年にパンクロマチックフィルムを史上初めて生産したメーカーでもある。1964年に[[アグフア・ゲバルト]]に買収された。日本では一般に『ペルツ』と呼称されていた。 * ミモザ - ドイツのカメラメーカー。かつては乾板フィルムなども生産しており、戦前期には日本にも輸入されていた。 * [[ツァイス・イコン]] - コンタックスで有名なドイツのカメラメーカー。かつてフィルムを生産していたことがあり、日本にも輸入されていた。 * [[バイエル]] - ドイツの化学工業メーカー。かつてフィルムを生産していた事があり、日本にも輸入されていた。 * [[Turaphot]] - かつてドイツにあったメーカー。元々は1901年に「Bergmann & Co. 」として設立され、第二次大戦後「Turaphot」に社名を改めた。プライベート・ラベリング・メーカーとして知られ、自社でフィルムを製造していただけでなく、「イルフォード」や「アグファ」のフィルムをリパッケージして販売していた。2004年から2005年にかけて「アグファ」と「イルフォード」が供に相次いで破産し、その再編の過程の中で「アグファ」は独自のプライベートレーベル事業を始め、「イルフォード」銘を取得したハーマンテクノロジーは「イルフォード」についてはプライベート・レーベルを認めない方針を取った為にフィルムの供給が受けられず、注文を捌く事ができなくなり経営に行き詰ってしまう。現在「TURA」は“Photo Star”社が保有するブランドとして存続しているが、フィルムは生産しておらずOEMによる供給も受けていない。 * [[Kirkland]] - CMCと言う会社がAgfaからOEMで供給を受ける形で24枚撮りカラーフィルムを販売していた。2000年代初頭に市場から姿を消した。 * [[Lumière]] - Lumièreはかつてはフランスにおいて最も重きをなしたカメラ及びフィルムのメーカーだった。1960年代に[[イルフォード]]に買収され、のち1982年にスイスの「チバ」に吸収された。 * [[エペム]] - かつてイギリスに存在したフィルムメーカー。戦前期日本にも乾板フィルムが輸入されていた。戦前の写真関係の書籍では「英國寫眞材料會社」または「英國寫眞材料合同會社」の呼称で紹介されている場合がある。 * [[Tudor Photo]] - イギリス・ロンドンにある会社。「Tudorcolor XLX 200 135-36」をOEM生産により販売していた。OEM委託先は[[富士フイルム]]。2015年5月4日に既に生産が終了し、製造ラインが閉鎖されていることが公式にリリースされた。現在でも期限切れではあるが、アマゾンなどで購入できる。 * [[パンダ・ロールフィルム・カンパニー]] - イギリス・ロンドンにかつて存在した会社。アメリカで製造されたセルロイドベースを使用してロールフィルムを生産していた。 * {{仮リンク|シアトル・フィルムワークス|en|Seattle FilmWorks}} - 1976年にアメリカ・ワシントン州シアトルで設立された通販専門サプライヤー。コダックのシネフィルムをパトローネに詰めた35mmフィルムを販売していた。プロセスはECN-2でC-41ではない。1999年に売却された後2000年に訴訟などが原因で閉鎖された。 * {{仮リンク|ディフェンダー・フォト・サプライ|en|Defender Photo Supply}} - アメリカ・ニューヨーク州ロチェスターで1899年に設立されたメーカー。白黒シートフィルムや現像薬品、写真製版、印刷用紙などを生産していた。1945年デュポンに買収された。 * [[NEW55 FILM]] - アメリカ・マサチューセッツ州アシュランドにあるメーカー。4×5in判のインスタントフィルムを生産していた。2017年12月31日をもってフィルム生産を止めてしまった。 * [[ERA]] - ERA(公元)は中国・スワトウのフィルムメーカーであるが、中国初フィルム会社である。1984-1986年富士フイルムの技術移転によってカラーネガティブフィルムの生産を開始した。1998年にコダックとコダックのスワトウ工場を設立し、富士フイルムからのカラーネガティブ生産設備がコダックの指定によりコダックのスワトウ工場に譲渡された。1999年にモノクロームネガフィルム'''ERA 黒白胶卷 ISO100 125-36張'''やプレートフィルムなどの生産を開始したが、2008年以降市場から姿を消している。 * [[Fuda]] - Fuda(福達)は中国・アモイのフィルムメーカーである。1984年にコダックの助けを借りてフィルムの生産を開始する。1998年コダックに買収された。会社名が福建コダックの意味である。 *遠大 - 中国・天津で設立されたフィルムメーカーである。ブランド名「友誼」及び「FRIENDSHIP」または「天津」で知られる。1998年に民生用フィルム生産業務がコダックに買収された。ラッキーフィルムと同じ、中国の二つ航空フィルム生産会社の一つである。2004年にラッキーフィルムと合併事業を設立し、子会社化された。 *AERMEI - AERMEI(阿爾梅)は中国・無錫のフィルムメーカーである。[[アグフア・ゲバルト]]の技術移転によってカラーネガティブフィルムの生産を開始した。1998年にコダックに買収された。 * {{仮リンク|Hindustan Photo Films|en|Hindustan Photo Films}} - 1960年にインドのタミル・ナードゥ州に設立された公営企業である。フィルムや印画紙、現像薬品を製造していたが、2014年に工場が閉鎖された。 * [[旭日冩眞工業]] - 戦前期日本に存在したフィルムメーカー。日本で初めてロールフィルムを製造した事で知られる。 * [[東洋乾板]] - 戦前期日本に存在した乾板フィルムメーカー。主に色盲乾板と呼ばれた普通乾板を生産していた。感光度によって白札・靑札・赤札・黄札・綠札と種類が分けられていた。 * [[美篶商会]] - [[超小型写真]]用フィルム「[[ミゼットフィルム]]」を供給した。2004年解散。 * [[三和商会]] - 六和(のち[[チェリー商事]])とも。「みのりパン」で知られる。 * [[愛光商会]] - [[ボルタフィルム]]の「ライトパン」で知られる。 * [[東郷堂写真工業]] - 「メイカン」および「トーゴー」または「明光」の銘でパンクロマティックフィルムを製造していた。特に「メイカンロールパンクロフィルム」は[[日本写真学会]]のフィルム感度規格“NSG”でフィルム速度が表記されていた。 * [[昭和写真工業]] - 戦前期に日本に存在した乾板フィルムメーカー。昭和19年に小西六と合併した。 * [[クレーン・フォト・フィルム]] - 12枚撮りパンクロマティックフィルム「クレーン・フィルム」を製造していた。 * [[スバル35]] - かつて日本に存在したフィルムメーカーで、「スバル35パンクロ」を製造していた。 * [[サンフィルム]] - かつて日本に存在したフィルムメーカーで、「サンフィルムパンクロマティック」を製造していた。 * [[45コーポレーション]] - “写真屋さん45 Digital Conびni”と言うDPEチェーンを運営している会社。かつてPBで「45 Color」なるカラーフィルムを販売していた。 * [[55ステーション]] - 現在“55ステーション”及び“パレットプラザ”と言う写真サービスチェーンを運営している会社。かつてPBで「55 Color」なるカラーフィルムを販売していた。 * [[西友]] - バブル期にアグファ・ゲバルトから供給されたカラーフィルムをPBで販売していた。当時一般に流通していた「フジカラー(富士フイルム)」や「さくら(コニカ)カラー(小西六写真工業、コニカ)」、「コダカラー(イーストマン・コダック)」の最も安いフィルムよりも更に半額位もしくはそれ以下の価額で購入できたが、現像結果に難があった為販売期間は短かった。 --> == 参考文献 == {{参照方法|date=2021年9月|section=1}} * カラー写真技術事典([[写真工業出版社]]、1993年)ISBN 978-4-87956-030-8 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈" /> === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Photographic films}} {{commonscat|Photographic film}} * [[写真]] * [[フィルム]] * [[カメラ]] {{-}} == 外部リンク == * [https://www.jcii-cameramuseum.jp/kids/2005/01/01/7575/ カメラの歴史③ フィルムのはじまり](日本カメラ博物館) * [http://www.jps.gr.jp/archive/ 日本写真保存センター] {{写真}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しやしんふいるむ}} [[Category:写真フィルム|*]] [[Category:天体写真]]
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MSX
MSX(エム・エス・エックス)とは、パソコンの共通規格の名称である。 1983年に最初の規格であるMSX(通称「MSX1」)が米マイクロソフトとアスキー(後のアスキー・メディアワークス)によって8ビットの規格として提唱された。元々は、アスキー・マイクロソフト側がメーカー独自のハードウェアに合わせたマイクロソフトBASICをカスタマイズする形で移植していたが、この方法ではメーカーならびに機種単位の互換性がないという欠点があったため、共通規格としてMSXが誕生した。 1985年にはMSX2、1988年にはMSX2+、1990年には16ビットのMSXturboRが提唱された。この間、世界の複数のメーカーからMSXの仕様に沿ったパソコンが発売され、MSXの誕生にかかわった西和彦によるとMSX対応機種は日本で約300万台、海外で約100万台売れたとされている。その後、blueMSXの様なMSXエミュレーターや、MSX2+をFPGAで再構成した1チップMSXやSX1Mini+なども登場した。 2023年にはMSX0、MSX3、MSX turboがMSXの権利者である西和彦より提唱され、西が理事を務める特定非営利活動法人IoTメディアラボラトリーによってMSX0の実装であるMSX0 Stackのクラウドファンディングが開始された。 MSXはこれらの総称でもある。 規格の提唱元であるアスキーの創設者の一人である西和彦が2023年のインタビューの中で語ったところによると、NECや日立といった企業が自社製品向けのBASICの制作をアスキーに依頼する際、コマンドの追加や特定や周辺機器のサポートまで頼まれて大変だったため、統一した規格を制定してIBM PCと一緒に売ろうとしたことが、MSX誕生のきっかけだったという。とはいえ、16ビット機であるIBM PCは当時の価格で1000ドル以上もしたため、MSXはより安価なパソコンの決定版として位置づけられた。 1980年代初頭、日本国内におけるホビーユースのパーソナルコンピューター(ホビーパソコン)では主にマイクロソフト社のBASICインタープリタがROMで組み込まれ、システムの中心を担っていた。しかし、ハードウェアの設計は同じプロセッサーを用いても各々のシステムは大きく異なり、BASICレベルの互換性も、二次記憶装置の取り扱いやフォーマット・ハードウェアの仕様、性能の差異や拡張によって独自の変更が加えられ、俗にBASICの「方言」と呼ばれる非互換の部分が存在し、機種ごとにアプリケーションは作成・販売されていた。 当時マイクロソフトの極東担当副社長であり、アスキーの副社長だった西和彦は大半の機種の開発に関わっていたことから、多くのメーカーと繋がりがあった。そのため、日本電気 (NEC) ・シャープ・富士通のパソコン御三家に対して出遅れた家電メーカーの大同団結を背景として、西が主導権を握る形でMSX規格は考案され、1983年6月27日に発表された。ハードウェア規格はスペクトラビデオ社の「SV-318」と「SV-328」が参考にされている。当初、マイクロソフト社長(当時)のビル・ゲイツは「ソフトウェアに専念すべき」との考えからMSX規格には反対だったが、西に説得される形で承認。「MSX」の名称は発売当時マイクロソフトの商標だったが、1986年のアスキーとの提携解消の折に著作権をマイクロソフト、商標権(販売権)をアスキーが所有することになった。 MSXの発表会には参入家電メーカー以外にも家庭用パソコン市場に参入した経験を持つ企業、または参入を計画していた企業が参加した。しかし、参入メーカー各社の足並みを揃えるため1984年に発売時期を調整している間に、任天堂のファミリーコンピュータやセガ・エンタープライゼス(後のセガ)SC-3000等の競合機種が発売され、苦戦が予想された。また、当時国内パソコン市場シェア1位のNECは発売せず、シャープも海外でのみ発売するに留まった。FM-Xを発売した富士通も「自社の製品と競合する」といった理由でMSX市場からは短期間で撤退。そのため、MSX規格は「弱者連合」などと揶揄された。 発売は当初予定より前倒しされ、主要家電メーカーの製品は1983年の秋から年末までに出揃った。アスキーは当初「1年間で70万台の出荷」という強気な目標値を掲げ、目標は達成できなかったものの、発売から2年強が経過した1986年1月にはMSXシリーズの総出荷台数が100万台を突破した。当時、国内メーカー製の8ビットパソコン市場で大きなシェアを有していたNECのPC-8801シリーズが累計100万台キャンペーンを企画していたが、台数的に達成出来ず結果として実現しておらず、当時としてはMSXは“日本製で最も売れた8ビットパソコン”として位置づけられる。その後も1988年の年末年始商戦だけで、FDD内蔵型のMSX2(ソニーのHB-F1XDとパナソニックのFS-A1F)が22万台の売り上げを記録した。 そしてMSX参入各社は、他社製品と差別化を図るべくワープロや動画編集など様々な機能を付加したMSXパソコンを発売した。しかし大部分の購入者はMSXを単なるゲーム機としか見ておらず、高機能・高価格な機種よりも低機能・低価格な機種を購入したため、参入各社間で価格競争が勃発。また他機種のパソコンとの競争も熾烈であり、MSX2が発売された1980年代後半には16ビットや32ビットCPUを採用した、より高性能な他機種の次世代パソコンや家庭用ゲーム機との販売競争に晒されたこともあり、元々参入が少なかった国外メーカーはMSX2で大半が撤退、次の規格であるMSX2+の対応機種を発売したのは日本のメーカー3社のみとなった。 1990年には販売台数が全世界累計で400万台を突破。各MSX専門誌には「夢を乗せてMSX 400万台」のキャッチコピーが躍った。 しかし、この頃よりMSXを取り巻く環境は急速に悪化していき、1990年10月には16ビットCPUを搭載した新規格のMSXturboR{{Efn|MSX3という名称にはならなかったが、MSX2が発表された1985年前後には、Z80互換の16bitCPUのZ280、VDPはV9948、音源はMSX-AUDIO(Y8950)という内容でMSX3が計画されていたという資料が存在している。別の証言では、コードネームはTryX、CPUはZ80互換の高速CPU、VDPにはV9978かV9998とナンバリングされたVDPが予定されていたが、VDPの開発の遅れから高速CPUであるR800のみがMSXturboRに搭載されたとされるがリリースされたものの、参入メーカーは松下電器1社のみとなった。同社の機種は好調なセールスを記録し、翌1991年末にも新機種を投入したが、サードパーティーによるMSX向け商品のリリース数は減少傾向にあり、MSX専門誌は休刊や廃刊が相次ぎ、『MSX・FAN』 (徳間書店インターメディア) のみが形態を変えて発刊を続けた。 松下電器は1994年に家庭用ゲーム機3DO REALとIBM PC/AT互換機WOODYを発売。MSXの開発部隊は、大半が3DOの開発に移行した。同年に最後のMSX規格対応パソコンである「FS-A1GT」の生産を終了し、翌1995年には出荷も終了した。これをもって日本でのMSX規格は終焉したと世間一般では解釈されている。 この時期にはMicrosoft Windows 95が登場し、PC市場を拡大してデファクトスタンダードとなりつつあった。MSX以外にもX68000やFM TOWNSといった日本独自規格のPCが姿を消して行き、日本のPC市場はWindows 95が動作するPC/AT互換機およびPC-98またはその互換機か、あるいはMacintoshへと集約されていき、その一方でMSXのコアユーザーによるハード製作などの活動が活発に行われるようになった。有志が東京、大阪、名古屋、福岡、札幌、倉敷でイベントや集いを開催したり、パソコン通信上などでは多数のフリーウェアが公開されたりした。特に漫画家の青井泰研が東京で開催したイベント「MSXフェスタ」には、日本各地だけでなく海外からのユーザーも集まった。この他にもMSX復活プロジェクト(MFP)がハードディスクインターフェイスを開発するなど、最もMSXの同人の活動が盛んだったのもこの時期である。だが最終的には、それらコアユーザーの多くもWindowsなど別の環境へ移行した。 1990年代末期から顕著になったMSXコアユーザーや同人サークルによるMSX離れは、JavaやFlashなど自由度の高い環境の登場により拍車がかかっていた。その一方MSXを使い続けるユーザーも少なからず存在したが、MSXの製造・サポートの中止かつハードウェアの老朽化による問題を抱え、解決策にエミュレーターやFPGAなどが用いられた。 2000年8月20日、東京・秋葉原のヒロセ無線本社ビル5Fにて「MSX電遊ランド2000」が開催され、そのイベント中で西がMSXの復活計画を発表する。2002年には商標やシステムソフトウェアなどの管理を行う任意団体「MSXアソシエーション」が発足し、公式エミュレーター「MSXPLAYer」も公開された。後に従来多数のチップで構成されていたMSXの機能をひとつのチップに集積した「1chipMSX」が製品化されている。そのほかのエミュレーターとしてはfMSX、ルーMSX、NLMSX、blueMSX、openMSX、WebMSXなどがあり、Windowsやマッキントッシュのほか、PSPやニンテンドーDSやゲームボーイアドバンスといった携帯型ゲーム機や、Java、Pocket PCなどプラットフォーム上で動作させることができる。 2006年、Wiiの価格発表の場で、旧来のゲームマシン・パソコンで供給されていたゲームソフトをインターネット上からダウンロード販売する「バーチャルコンソール」へのMSXソフトの投入が発表された。i-revoなどで多くのMSXゲームの復刻実績を有するD4エンタープライズが参入したことによって実現した。 2007年、MSXの商標権は西和彦と共に『株式会社MSXライセンシングコーポレーション』へ移る。日本での商標登録番号は第2709130号ほか。 2011年、ロシアのAGE Labsがコンピューターの学習を目的としたGR8BITというMSXキットの発売を発表。価格はUS$499(369ユーロ)。また、日本の株式会社H&SがこのGR8BITを輸入販売すると発表し、価格は2012年3月末まで4万2千5百円、以降は5万3000円(送料/税/手数料別)で販売していたが、2015年にはドメインが失効しており、国内での販売はされていない。 2000年代の別の動向として、日本でもチップチューン(ゲームボーイやファミリーコンピュータ等による音楽演奏)ブームが起こった。それに伴いMSXによる音楽活動も比較的少数ではあるが再活発化した。かつて1980年代後半から1990年代前半頃に、MSXを扱う雑誌の投稿コーナーやパソコン通信のフォーラムで、その後のチップチューンに相当する音楽が発表されていた時期があった。しかし発表環境の衰退や消滅により、同ブームまでの間は一時停滞していた。 またエミュレータや1チップMSXの登場により、PSG・FM音源・SCC互換音源、さらにMSX-AUDIOや2個のSCC音源を同時発声させた音楽が昔に比べ多く発表されるようになった。 2022年9月3日、MSX DEVCON TOKYO 1が開催され、MSX0、MSX3、MSX turbo規格が西和彦及び同氏が理事を務める特定非営利活動法人IoTメディアラボラトリー発表された。 2023年1月13日、IoT向けMSX0規格の実装であるMSX0 Stackのクラウドファンディングが開始された。 MSXの400万台以上の販売台数のうち、約半分が日本、残りの半分は海外での販売である。 MSXは日本国内のみならず、オランダ、ブラジル、韓国を中心に現地企業でも生産され、他の国にも輸出された。日本でパソコン御三家に対して出遅れた家電メーカーがMSXに参入したのと同様に、ブラジルのグラジエンテやオランダのフィリップスといった、Apple IIやZX Spectrumに対して出遅れた現地の大手家電メーカーがMSX規格に頼らざるを得なかったという事情もあり、MSXに注力したこれら大手企業の影響力が強い諸国ではそれなりに普及した。 MSXは、文字キャラクタをROMに記憶せずユーザが生成することができ、各国の言語の独特の文字に柔軟に対応でき、英語以外のマイナーな言語を使う国々向けにローカライゼーションをするうえで好都合なので、非英語圏を中心に高く評価された。用途は国ごとに異なり、主に教育用途で使われた国と、主にゲーム用に使われた国に分かれる。アルゼンチンやソヴィエト連邦諸国では主に教育用コンピュータとして用いられた。スペイン、ブラジル、韓国などでは主にゲーム用に使われ、MSXはグラフィックチップにTMS9918を搭載するなどハードウェア構成がゲーム機のコレコビジョンやマスターシステムとよく似ておりそれらのゲームが移植しやすかった点も評価され普及に繋がることとなった。一方で英語圏ではあまり普及しなかった。 北米のホームコンピューターのマーケットは既にコモドールなどが低価格競争を繰り広げていたため、スペクトラビデオとヤマハのMSXのみ発売されたがほとんどシェアを獲得できず、現地企業として唯一MSXに参加したスペクトラビデオも倒産の憂き目にあった。MSXが発売された1984年の時点で価格帯やスペック的に直接的な競合製品となったのはコモドールPlus/4とコモドール16であるが、同時期に初代MSXのスペックを遥かに上回る上位機種のコモドール64やAtari 8ビット・コンピュータなどが低価格競争に突入し急速に普及したため、ZX Spectrumやコモドール16など同時期の諸外国でエントリークラスとされたパソコン自体がそれほど普及しなかった。学校などで使われる「教育用コンピュータ」としても既にApple IIが存在したため普及しなかった。 当時の欧州のマイコン(パソコン)の市場は、アメリカ系のコモドール64(略称 C64)とイギリス系シンクレアZX Spectrumがシェアを二分しており、1984年にはさらにイギリスのAmstrad社からCPC 464が発売され(300万台ほど売れ)先行するC64とZX Spectrumのシェアを少し奪うという状況だった。欧州全体ではMSXとほぼ同じスペックで値段が安かったイギリス産のZX Spectrumの方がMSXより人気が高く、特にシンクレア社の地元イギリス、コモドールとアタリが強かったドイツなどではMSXはほとんど売れなかった。一方で、フィリップス社の地元オランダのほか、イタリア、スペインではMSXは人気があった。しかしこれらの国でも、1985年発売のコモドールAmigaとAtari STにMSX2は対抗できず、1980年代末にかけて衰退していった。 欧州での展開では、序盤からテクニカルサポート体制の不備が指摘されるなど、海外進出を念頭に置いた戦略が十分ではなく、一部正規品の互換性問題などで苦戦を強いられていた。 マイクロソフト社員として欧州でのMSX2の普及に携わったトム佐藤は、欧州における初代MSXの失敗の理由として「アスキーの世界戦略の欠如」「英語版のマニュアルの出来が悪いなどのサポートの悪さ」などを理由に挙げている。また、自身が中心となってソニー・フィリップス・アスキー・マイクロソフトの4社による共同普及体制をまとめ上げたはずのMSX2が失敗した理由として「プラザ合意による円高」「ビル・ゲイツと西和彦の関係悪化によるアスキーとマイクロソフトの提携解消」「アスキー上層部でも対立があった」などを理由に挙げており、1985年9月のベルリン・ファンケスターラング見本市(IFA)で大きな反響を呼んだMSX2の発表会がMSXのピークだったとしている。 1985年にはMSX1の後継規格・MSX2が誕生し、ヨーロッパのほか、共産圏や南米にも進出したが、まもなくプラザ合意による円高によって他の輸出産業とともに窮地に立たされる。 同時期、アスキーとマイクロソフトの対立が激化し、翌年1986年2月に両社の提携が解消されたほか、アスキーの上層部の間でもMSXの扱いで対立が起きていた。 その結果、MSXはヨーロッパ市場からの撤退を余儀なくされた。 イギリスではZX Spectrumの人気が非常に高く、MSXは東芝の現地法人が大きな宣伝をかけたわりにほとんど売れなかった。現地企業のドラゴンデータ(英語版)が参入を表明していたが、「ドラゴンMSX(英語版)」として知られるプロトタイプ機がいくつか作られたのみで発売前に倒産した。MSXはZX SpectrumとCPUが同じだったため、ZX Spectrum用ソフトのベタ移植という形でMSX用ソフトもそれなりに発売されているが、MSXではスロットの割り当てやキーバインドなどメーカーごとの細かい差異を考慮する必要があり、さらにVDPを介したVRAMという構造は同一のアルゴリズムでの描画処理には速度的に足かせとなった(MSX Video access methodを参照)。規格としてはメモリ16Kだったものの現実にはメモリ48Kが標準だったZX Spectrumに対し、MSXにはメモリがたった8KBのCasio PV-7が現実に存在したことも悪い意味で大きかった。ヨーロッパでMSXの最低ラインとなったフィリップス VG 8000もメモリが16KBしかなく、しかもフィリップスの初期シリーズは正規のMSXを標榜しながら互換性問題が発生した。 オランダでは現地の家電大手フィリップスがMSX機を販売していた。1980年代のオランダではMSXはコモドール社のコモドール64やシンクレア社のZX Spectrumを抑え、最も人気のあるコンピューターであり、世界的にもユーザー数で考えた場合に日本に次ぐ第2の市場となった。MSX専門誌の「MSX Computer Club Magazine」の定期刊行は1995年12月/1996年1月号まで続き、これは日本のMSX・FANよりも長い。MSXの商業的な活動が終息した後、1990年代以降の同人ベースでの活動、また2000年代以降のwebベースでの活動も活発であり、世界のMSX情報の集積地となっているwebサイト「MSX Resource Center 」もオランダのサイトである。 スペインではリリースされたMSX用ソフトの数が日本に次いで多く、ソフトウェア販売数で考えた場合には日本に次ぐ第2の市場となった。リリースされたソフトはほとんどがゲームで、ほかに実用ソフトも販売されており、ワープロなどを含んだ統合GUI環境の「EASE」まで存在していた。EASEはフィリップス社製MSX2機に標準添付されたため、オランダやイタリアでも愛用者が多かった。スペインのMSX市場は1985年に最盛期を迎え、MSX専門誌が3誌も販売されていたが、1980年代末にかけて衰退していった。MSXの商業的な活動が終息した1989年以降は同人による活動が活発になり、やはり多くのゲームがリリースされたが、著作権的に問題のある移植ものが多い。webでは2002年設立の同人ゲームサークルが母体となった Karoshi MSX がコミュニティの総本山にあたり、2003年から開催されている欧州のMSX1用インディーズゲームコンテストの MSXdev を2011年より引き継いで主宰している。 韓国でMSXは三星電子、金星電子、大宇電子、と複数の現地大手メーカーから発売され、Apple IIとシェアを二分する成功を収めた。三星電子と金星電子は早期に撤退し、MSX2は大宇電子のみが発売した。FDDも周辺機器として発売されたが、当時としてはかなり高価だったためにあまり普及しなかった。ただしMSX発売当時の韓国はコンピュータプログラムに対する法的保護がなかったことから、コンピュータショップではROMゲームを手数料程度でFDにコピーするサービスを行っており、それらの恩恵を受けるために高額なFDDを買う需要が多少あった。ゲームマシンとしても利用され、MSXソフトが動作するもののキーボードがないなどMSX仕様を満たさない大宇電子のZemmixという家庭用ゲーム機も発売されている。 1990年代には三星電子のメガドライブ互換機や金星電子の3DO互換機なども発売されたが、高価な次世代機に移行できない層の存在と、Zemmixの普及率から、旧世代機であるZemmixの市場が長く併存したことにより、大宇電子は1995年までZemmixを販売し続け、日本国外の製品としては唯一MSX2+規格に対応したゲーム機Zemmix Turboまでも発売している。 また、韓国のMSX2ではハングル表示用のSCREEN9があり、ゲーム雑誌編集者の前田尋之は、これが韓国内で普及した一番の理由ではないかと推測している。 ブラジルでは現地大手家電メーカーのグラジエンテと、シャープのブラジル法人シャープ・ド・ブラジルが1986年頃より製造販売した。Atari 2600の代理店からMSX機の販売に切り替えた経緯があるグラジエンテを始めとして、シャープもMSXをパソコンというより安価なゲーム機の代替品として捉えていたようで、MSX2規格の発表以後にもかかわらず初代MSXしか販売されなかった。ブラジルでは国内産業保護のために海外製ハード・ソフトの輸入に法外な関税をかけて事実上禁止する法律があるため(ライセンスを得て現地生産することで関税を回避できる。または密輸か違法コピー)、当地で流通したゲームは全て国内製、販売されたMSX機は上記の現地大手家電メーカー2社によるものだけだったが、テレビCMを含む積極的なキャンペーンの結果、MSXは発売から2年で10万台、トータルで40万台の大ヒットとなった。 初代MSXが普及し専門誌による情報交換も盛んだったブラジルではユーザーコミュニティがMSX2の発売を切望していたが、シャープは1988年にMSXから撤退。グラジエンテも1990年にはMSXから撤退し、以降はMSX2ではなくファミコンを販売した。そのため、サードパーティーからMSX2相当にパワーアップする製品などが発売され、ユーザーコミュニティによる自主制作も盛んとなった。それなりの知識があれば、各種アップグレードパーツを用いてMSX2用のメガROMのゲームを日本と同様にプレイすることが可能だった。5.25インチフロッピーディスクを流通媒体とする独特の同人文化も発達した。 アルゼンチンでは地元メーカーのテレマティカが1984年にDaewoo MSX DPC-200をベースにしたTalent MSX DPC-200を発売。他にはスペクトラビデオやグラジエンテ、東芝の製品もわずかながら販売された。また、アルゼンチンではMSXを「教育用コンピューター」として学校教育で国家レベルで導入されたており、学校教育の中でMSX-LOGO言語が教えられていた。テレマティカが1987年に発売したMSX2 TPC-310はコマーシャルで「ターボ」のキャッチコピーを売りにしていたが、あくまでキャッチコピー上の文句だけで、実際は普通のMSX2機である。アルゼンチンでのMSXの販売は1990年に終息した。 キューバでは東芝とパナソニックのMSXが1985年に学校教育で採用され、"Intelligent keyboards"の名称で呼ばれた。ただしパソコンの一般への販売は禁止されていた。 アラブ諸国ではクウェートの大手SIであるAl Alamiahが日本からヤマハや三洋などのMSX機を輸入しており、子会社のSakhr社によってアラビア語用ローカライズを行い販売していた。このようにMSXは、韓国向けではハングル、アラブ諸国向けにアラビア文字を使えるなど、現地向けに仕様をローカライズすることが可能だった。Sakhr AX330はファミコンとMSXの複合機、Sakhr AX660とSakhr AX990はメガドライブとMSXの複合機であるが、アル・アラミアはMSXのライセンスを得ていないため、ハードの詳細は不明である。パソコンとゲーム機の複合機はテラドライブなど他に例があるが、1993年に発売されたSakhr AX990がMSX2以降ではなく初代MSXとの複合機なのは、MSXマガジンでも「謎」としている。ソフトウェアは、ファーストパーティであるAl Alamiah/Sakhr社が本体にバンドルしていたもの以外にも、Methali社など複数の現地メーカーから供給されていたが、SakhrはMSXを「教育用コンピューター」と銘打って販売していたため、教育ソフトや教育ゲームが多い。珍しいソフトとしては、Al AlamiahがMSX版『コーラン』を販売していた。 ソ連などの共産圏ではMSXは学校などに多数納入され、初等教育の現場でも応用されていた。当時の東側諸国は政府によって市場が統制された社会主義の国家であり、『物資は全て、国家が人民に供給・配給する』という形態をとっていたので、資本主義経済のもとで市場競争によってホビーパソコンが大きな市場を築いた西側諸国とは違って、東側諸国のパソコンは国営企業が独占的に製造し、ほとんどが産業用途か教育用途に回された。一方で年収くらいする高価なパソコンを自分で購入したり、市場に存在する数百個のパーツを集めてパソコンを文字通り自作する方法を指南する無線マニア向け雑誌も存在した。当時、輸入パソコンは外貨で購入可能な公営ショップ(東ドイツのインターショップなど)で高価格で販売されるのが一般的で、一般人が購入するのは現実的ではなかったが、実際には多くの東側諸国に西側諸国のパソコン(日本製も含む)が政府の監視をかいくぐってこっそりと持ち込まれており、その流通には不明な点が多い。 「東側諸国」と言っても、必ずしも国営企業の製造したパソコンがメインで普及したというわけではなく、例えばチェコスロバキアでは、国営メーカーが製造販売したZX Spectrum互換機に次いで、輸入パソコンなのになぜか普通に電気店で販売されていたSharp MZ-800の人気が高かったりするなど、国によって特色がある。MSXは、ソ連で特に教育用として普及し、国営メーカーによる教育用MSX互換機製造の試みが続けられたり、宇宙開発用として宇宙ステーションミールに搭載されるなど、1985年ごろは大きな影響力を持った。ただしソ連でMSXは「学校で使う教育用パソコン」のイメージがあったのと、高価だったため、1986年以後に低価格化した国産機のエレクトロニカBKシリーズの方が家庭用としてはユーザー数はずっと多かった。 冷戦時代、西側諸国ではコンピューターを含む電子機器の輸出を対共産圏輸出統制委員会(ココム)で制限しており、ソビエト連邦を中心とする共産圏の国々では16ビット以上の高性能コンピューターを西側から輸入することが出来なかった。そのため、規制対象外とされていた8ビット機を大量に輸入し、またコピーして使用していた。機種は用途に応じて選別されていた。 これらの中にはMSXも含まれており、特にソ連やキューバでは国家の教育プログラムで導入された。その拡張性や互換性などが評価された結果、学校教育のみならず各分野で応用された。教育用には独自に簡易ネットワークシステムまで構築して利用していた例もある。 冷戦終了前後にはMSX機が東側で正式に販売され、ビデオタイトラーやラベリング機のアーキテクチャなどとしても利用された。市場が開放された時期は国によって違うが、例えばソ連で西側のパソコンが正式に発売されるのはゴルバチョフ政権による1988年の協同組合(コーポラティヴ)解禁以降となる。ソ連では他の東欧諸国より市場開放そのものが遅れたうえ、ZX Spectrumが4万ルーブル(年収の13年分)で販売されるなど、西側の旧型機を輸入して高価格で売る企業が多かったので、パソコンの普及も他の東欧諸国より遅れたが、1991年にZX Spectrum互換機「ペンタゴン」がZX Spectrumの心臓部であるゲートアレイの解析を完了すると、旧ソ連地域でもZX Spectrumの海賊版であるPentagonのさらに海賊版メーカーが乱立して市場を埋め尽くした。 ソ連では1985年に学校へのコンピュータ導入プロジェクト「комплекс учебной вычислительной техники」、略称:КУВТ(KUVT)が開始され、ヤマハのMSX機をベースとする教育用ネットワークシステムが「YAMAHA KUVT」として各学校に構築された(そのため、ソ連ではMSXは「YAMAHA」(Ямаха)の愛称で呼ばれる)。ヤマハの機種を用いたシステムとしては、YIS 805R(先生側)とYIS 503IIR(生徒側)が採用されたКУВТと、YIS 128R(先生側)とYIS 503IIIR(生徒側)が採用されたКУВТ2が存在する。それぞれ、単純に輸入したものではなく、ロシア語キーボードを搭載したソ連向け専用モデルである。1986年度のКУВТ-86では国産機のБК-0010Шが採用されるなど、すぐに輸入機から国産機に切り替わったため、YISの採用数は1万5千台程度とされる。教育映画の『Поехал поезд в Бульзибар』(1986年)では、教育の一環として教師の監督の元『イーアルカンフー』や『けっきょく南極大冒険』を楽しそうにプレイする子供たちの姿が描かれている。 1985年当時、MSX機は一般には販売されておらず、国産機と言えども一般人には購入できないほど高価だったため、当時のソ連の人民が触れることのできたコンピュータは、基本的に学校にあるこのヤマハの教育用パソコンであり、「YAMAHA」はパソコンの代名詞となった。ただし導入状況は学校によるので、MSXを全然知らない人も多い。また、1980年代後半以降には、ヤマハ以外にも大宇電子や東芝など、数は少ないながら日本や韓国から複数のメーカのMSX機が教育用として輸入された。 1980年代後半には国産機の展開が本格的に始まったこともあり、MSX機は家庭用ホビーパソコンとしてはあまり普及したわけではない。当時は月収が100-150ルーブルの中、パソコンは1000ルーブルくらいの高価格のためにほとんど普及していなかったが、1987年頃には国産機のエレクトロニカBKシリーズが650ルーブルまで低価格化したこともあって、ホビースト向けに7万8000台を売り上げる大ヒット機となり、MSXの家庭普及率を大きく上回った。BKシリーズは教育用パソコンとしてもYAMAHAと並ぶ勢いがあったが、一方でMSXのアーキテクチャ自体は政府に好評で、その後もソ連で教育用パソコン向けにMSX互換機の開発が行われた。 ペンザ州計算機工場が1987年にリリースしたПК8000は、MSXアーキテクチャをベースとして開発が行われたが、当時のソ連はMSXの心臓部であるZ80互換プロセッサ、TMS9918互換ビデオプロセッサ、PSG互換音源を自国内だけで開発することができず、MSX規格との互換性は限定的にならざるを得なかった。それでもMSX-BASIC互換を目指し、GW-BASICを拡張したインタプリタを搭載した。64Kの大容量RAMなど良い点もあったが、場合によって非常に遅くなる、圧電スピーカー(ビープ1音)、1000ルーブルを超える高価格など、悪い点も多く、市場ではあまり受け入れられなかった。 1989年にリリースされた後継機の「ПК8002『エルフ』」は、MSX2アーキテクチャを目指して設計されたパソコンであり、PSG音源相当の3チャネルサウンドなどを搭載したが、V9938互換ビデオプロセッサを開発することができなかったため、MSX2規格との互換性は限定的にならざるを得なかった。それでも教育用コンピュータとしての導入を目指して1000台から2000台が製造され、『ロードファイター』や『ボンバーマン』の移植なども行われたが、ソ連崩壊に伴う経済危機により以後の開発は中止された。なお、ПК8002には『PUT UP』(MSXマガジン87年10月号に掲載)が移植されており、1987年当時のソ連政府はMマガを購読していたとされる。 ソ連の軌道宇宙船ミールでも、MSX2規格の動画編集機であるソニーHB-G900APと見られる機材 が設置されており、1990年12月のTBS宇宙プロジェクト『日本人初!宇宙へ』にて撮影されたビデオの編集に使用されていたことがスポンサーであるソニーの技術情報誌の特集記事として掲載された。 音楽制作ではYAMAHA CX-5が良く使われ(アルバムのジャケット写真やライナーの使用機材紹介でよく載っている)、アンドレイ・ロジオノフ&ボリスチホミーロフ(ロシア語版)はソ連初のテクノアルバム『パルス1』(1985年)を制作している。これは当時のソ連ではテレビのエアロビクス番組が流行っており、体操用の音楽としてソビエト連邦文化省の要請により制作されたものである。当時のソ連はアフガン侵攻による経済制裁中ながら、ヤマハがソ連の教育プログラム「YAMAHA KUVT」向けにMSXの特注モデルを制作して輸出するなど、ソ連と日本の通商は比較的活発であり、YAMAHA CX-5やRoland TR-909など、西側とそれほど変わらない日本製の機材が使用されていることがアルバムのライナーで紹介されている。アルバム『512 kbytes』(1987年)のジャケットでは、DTMやアートワークの制作に使ったYAMAHA YIS 805Rや、EIZO製のモニターなどの周辺機器が紹介されている(КУВТで導入されたものと同じ機材)。アンドレイ・ロジオノフはMSX用ゲームも制作してリリースしている。こちらも教育用としてソ連文化省と防衛省の要請によって作られたもので、パッケージにはその旨の記載がある。また、リズムマシンYAMAHA RX15の制御にCX-5を使用した『Танцы на битом стекле』(1989)を手掛けたアレクセイ・ヴィシュニャ(ロシア語版)や、CX-5に搭載されたFM音源モジュールYAMAHA SFG-05を活用したНовая Коллекцияなども、MSXを活用したソ連のテクノミュージシャンである。ただし、当時のソ連にテクノやDTMが存在したことが西側諸国に知られるのは、ソ連崩壊後のことである。 ソ連崩壊後にパソコンやゲーム機の海賊版メーカーが乱立した時期には、MSX-DOSと一部に互換性のあるOSを搭載したAmstrad CPCベースのMSX互換機Алеста(1993年)や、MSX-DOSと一部に互換性のあるOSを搭載したZX Spectrum互換機のATMターボ2(1993年)など、特殊なハードもリリースされた。なお、ソ連時代はMSX機は一般には販売されていないので、MSX機の所有者は存在しないはずだが、YAMAHA製のキーボードやリズムマシンと一緒にYAMAHAのMSX機を使っているテクノミュージシャン以外に一般人の中にもなぜか正規のYAMAHA製MSX機を所有している熱狂的なファンもおり、2000年代以降にも熱狂的なファンによる互換機が制作されたり、海賊版ハードの乱立時期に製造された製品をFPGAを利用してさらに進化させたハードがリリースされた。 MSXは「子供に買い与えられる安価なパーソナルコンピューター」「コンピューターの学習に繋げられるコンピューターの入門機」として構想された。その一方で必要に応じてシステムを拡張することで本格的なプログラミングや実務処理にも使うことが可能な、総合的なホームコンピューターとしても設計されている。 MZ-700、ぴゅう太、M5、JR-100、PC-6001、RX-78、SC-3000など、他の当時の低価格入門機のパソコンと同じ様にテレビやカセットデッキをモニターや二次記憶装置として流用するようなシステムとなっている。 MSXは単なる入門型パソコンとしてのみならず、当時の大人のマニア向けゲームハードという側面をもつ。時には家電品として、時には楽器として、時には当時の「ニューメディア」として分類される。それは、MSXが松下電器や日本ビクターなどのように家電品のルートで販売されたり、ヤマハや河合楽器などの楽器店のルートで販売されたり、フィリップスやNTTのキャプテンシステムのようにニューメディアと位置づけて販売されたが、それは主にゲーム機として利用された事情による。 またメーカーを越えてハードウェアおよびソフトウェア資産が利用できる統一規格であり、「オープンアーキテクチャ」のさきがけである。CPU、VDP、メモリーマップ、I/Oマップ等のハードウェア仕様を規定するレベルに留まらず、後述のようなスロット機構の採用とシステム(BASICおよびDOS)と密接に連携し、機能拡張の抽象化を担うBIOSを介することを前提に、柔軟性と互換性を維持する形となっている。 MSX仕様に準拠したハードウェアとソフトウェアにはMSXのロゴマークが付与された。このMSXマークで「MSXで動く」と分かるように、ホームビデオのVHSを参考に発案・デザインされた。以後、MSX2、MSX2+、MSXturboRとMSXがバージョンアップする度にロゴは作られ、MSX2からは起動画面にMSXロゴが表示されるようになった。公式MSXエミュレーターの「MSXPLAYer」でもMSXのロゴは踏襲された。デザインは全て西が元になるアイデアを出した。 このロゴマークのついたMSX仕様のソフトウェアを発売する際にロイヤルティーは不要だった。これはMSX発表当時、対抗規格を打ち出して来た日本ソフトバンク(後のソフトバンク)の孫正義と西和彦のトップ会談によって決定されたものである。 MSX0、MSX3、MSX turboでは従来のロゴマーク踏襲しつつ、やや細身となったMSXの文字と、ピクセル化された英数字の組み合わせとなっている。 後述のスロットによるアドレス空間の拡張や、BIOSによるリソース管理の仕組みの特徴は、後継製品でもモード切替に因らないシームレスな後方互換性の実現や、規格の拡張に寄与している。 MSX1, MSX2, MSX2+は8ビットCPUのZ80A相当のプロセッサを3.579545MHzで使用。MSXturboRはそれに加えて16ビットCPUのR800も搭載し、システムチップにより排他的にシステムを担うプロセッサを選択することが可能である。 MSX0、MSX3、MSX turboにおいては、MSX1、MSX2、MSX2+、及びMSXturboR(上位機種のみ)の下位互換機能が組み込まれたマイクロコントローラーやFPGAによる上位互換実装となっている。 互換性を維持しながらフレキシブルな実装を可能にするため、MSXではZ80のメモリ空間(アドレス空間)を拡張したバンク切り替えと、メモリ管理ユニットの間の性質を持つスロットと呼ばれる仕組みが設けられた。 MSXではメモリ空間を四分割した「ページ」を単位として管理し、16KiBごとにリソースを割り当てるようになっている。さらに「スロット」1つ当たり64KiBの空間を持ち、標準で4つの「プライマリ・スロット」が設定され、任意のスロットの該当アドレスのページをメモリ空間に接続することが可能になっている。また、プライマリスロットはさらに4つのセカンダリスロットを拡張することができ、仕様上は最大で16のスロットシステムに接続できるようになっている。従って仕様上は16KiB×4ページ×4スロット×4セカンダリスロットで=1MiBのアドレス空間が確保され、その空間に対し、ROM、RAM、I/Oをページ単位で任意に割り当ててアクセスする形になっている。 プライマリ/セカンダリスロットは基本的には同等とされ、多くの機器はどのスロットに挿入しても規格の上では変わらず動作する。なお、セカンダリスロットは再帰的な拡張を想定していないため、セカンダリスロット拡張を行う機器は、セカンダリスロットへの接続が出来ない。見かけは一つのカートリッジであっても、複数のデバイスを収めるために内部的にスロット拡張をしていたμ・PACKやMSX-DOS2カートリッジ、拡張スロットなどの周辺機器がこの制限にあたり、プライマリスロットへの挿入以外では動作しなかった。 Z80のシステムでありながら、ハードウェアとの接続にI/O空間ではなく基本的にメモリーマップドI/O方式を用いることが推奨された。アクセスの際にはBIOSコール(BIOS割り込みルーチン)の時点でスロット切り換えによってメモリ空間が切り替えられ、同時にハードウェアへの割り当てリソースも変更されることで競合は回避された。I/Oアドレス空間は8ビットとして想定されており、一部のアドレスが規格として予約されている。外付けデバイスとして実装される場合は接続先のI/O空間の状態が不定であるため初期化時にチェックの上割り当てるようになっているため、直接ハードウェアを初期化するような場合には設計の差異を考慮する必要がある。 これらの仕組みを物理的に拡張する手段として、スロット機構に接続するコネクターが最低1基装備された。多くの機種では差しこみ口が筐体上面や前面などに配置されていたため、他の多くのシステムのように、背面の拡張スロットで挿抜したり筐体を開けることなく手軽に増設機器の差し替えができた。電源投入時の着脱防止機構やホットプラグは規格としては用意されていない。着脱時に電源を切る機構は一部機種にあり、カートリッジが正常に装着されるとこの機構がキャンセルされ電源が入るようになっていた。 「スロット」の仕組みは柔軟な運用や設計を可能にしたものの、「1つのスロットに4ページ/64KiBを越える空間を配置できない」「ページ間のアドレス空間の移動や再マッピングができない」といった、Z80に由来するメモリー空間・アドレッシングに依存した制約があった。特にワークエリアとスタックが置かれるページ3の切り替えには若干の困難が伴い、単純にRAMページをスロットに増設するだけでは増設されたメモリーの有効な活用がやや煩雑なものとならざるを得ないという事情があった。これを改善するため、MSX2規格制定時にRAMページの拡張を行う“メモリーマッパー”が拡張規格として追加された。このメモリーマッパーを用いることで、ページの割り当てに対する制限を軽減することが出来た。また、後に登場したメガROMの一部にもメモリーマッパー規格を応用し、酷似した仕様でROM空間の切り替えや拡張を行う製品が登場した。ただし、これらは市販アプリケーションもしくはZ80バイナリによって直接実行するソフトに限られた話で、MSX-BASICではメモリ空間を前半にROM、後半にRAMを固定で割り当てその末尾に拡張用のワークエリア、フックなどを配置していることもあり、これらのメモリをユーザーエリアとして有効活用する仕組みが無く、RAMDISKなどの形で活用するようになっている。 MSX1、MSX2及びMSX2+は一般家庭への普及を目指すため、標準の構成で家庭用テレビにRFを標準装備し、専用モニターを必須としない仕様となっていた。 これは他の低価格帯の入門機にも見られた仕様で、文字の滲みや解像度の低さなどのデメリットもあったが、家庭用電気製品を流用できるようにすることでシステムのトータルコストを下げる効果があった。TMS9918Aの出力がそもそもNTSCであり、初代規格ではRGB出力を持つ製品は限られた。 初代規格のVDPがテキスト表示の拡張によってグラフィックス処理も実現していたこともあり、文字フォント(文字キャラクタ)は基本形状がシステムROMから初期化時に定義はされるものの、表示性能の制限の範囲で任意の形状、色に書き換えが可能なPCGとして利用することが可能である。SCREEN0,1,2,4では全ての文字形状をユーザーが自由に定義して使うことが出来、SCREEN1,2,4ではBASICのサポートは無いもののVDPの画面モードを変更することによって1ライン当たり任意の2色をフォントに割り当てることも可能である。 日本向けのMSXではPC-6000シリーズに近似したキャラクターコードを採用しており、特定の漢字(日月火水木金土・大中小・年時分秒・百千万円)や罫線が記号として定義されているほか、カタカナに加えてひらがなも標準で定義されていた。これらのコードは海外向けMSXではアクセント記号付きアルファベットに割り当てられた。なおMSXで半角ひらがなに割り当てられていたコード領域は、現在のSHIFT JISコードで使用されている。MSX1の時点では半角文字の80カラム(1行80桁)表示も不可能だった。初代規格の時点では漢字ROMの仕様がなく、ワープロなどの実装に伴うハードウェアが独自にアプリケーション依存で実装されていた。MSX2ではそれらのうち、第1水準のフォントを持つ東芝仕様のものが表示用のBIOSと共にオプションとして定義され、後にI/Oマップにも東芝仕様の物が割り当てられている。 コネクタ類に関しては、主にジョイパッドやマウスの接続用にアタリのAtari 2600相当の9ピンコネクター(アタリ仕様ジョイスティックのもの)が2ボタン仕様に拡張されて定義された。また、オプションでセントロニクス仕様の14ピンプリンターインターフェースも搭載された。 汎用的な仕様のコネクタを採用したことは、のちに電子工作の接続・制御用途として重宝された。上記のスロットコネクターに関しては、電子部品を扱う店で電子工作用の汎用基板が入手できた。 キーボードはパラレル入力で同時押しも可能である。規格の上では、いくつかの特定の3つのキーの組み合わせは動作の整合性が図られた以外、3つ以上のキーが同時に押下された場合の入力の整合性は保証されていない。なおセパレートタイプ(つまり本体と別の)キーボードは定義されておらず、キーボードのコネクタは機種によって異なる。なお日本向けキーボードの配列にはJIS配列と50音順配列(かな配列)の両方が規格にあり、ワークエリアの設定で選択することもできた。 初期はROMカートリッジ、並びにカセットテープ。MSX2の後期からはフロッピーディスクにより様々なソフトウェアが提供された。規格にたいして特徴的な実装は下記のとおりである。 前述のようにBASICやOSの収められたシステムROM、ゲーム等のROMカートリッジ、メインメモリなどのRAM、そして各社の独自拡張による周辺機器(ハードウェア)などのリソースは「スロット」に接続されているが、それを抽象化し、汎用的に利用できるようにしているのがBIOSである。基本的なBIOSのうち、主な機能はメモリの先頭部分からジャンプテーブルとして配置されており、システムがZ80の割り込みモード1で構成されているため、RST命令で呼び出せるエントリのうち、RST 00H~28HをBASICがサブルーチンコールに使用。RST 30Hがインタースロット・コール、RST 38Hがハードウェア割り込みに割り当てられている。基本機能に含まれない機能、ハードウェアには基本的に拡張BIOS並びに対応している場合は拡張BASICが付随し、起動時に初期化ルーチンを呼び出すことで割り込みベクタがワークエリアに登録され、システムに組み込まれる。ユーザーは対応アプリケーションなどではほぼ無意識に、BASICなどでは必要に応じてコマンドによる初期化で有効化し、利用することができた。 基本仕様に組み込まれたハードウェアも含め、互換性をBIOSレベルでのみ保証することによってある程度の設計の自由度を確保しており、ワープロやテレビなど民生機器と同化したような各社の商品としての独自性を発揮するのに寄与し、設計の共通化により低コスト化を可能とした他、プラグ&インストール&プレイではなく文字通りのプラグ&プレイを実現していた。 但し、基本仕様に含まれるBIOSの実装はハードウェアに強く依存する仕様になっており、PSGやVDPなどはBIOSが内部レジスタをラップするような実装になっているため後継製品などでも実際には仕様を包含したものを選択せざるを得ず、データレコーダの実装はZ80の実行クロックに強く依存した形でタイミングを取り波形を生成しているため、割り込みを禁止したうえ、規定のクロックでプロセッサが動作することを要求する仕様となっている。 これらスロットやBIOSなどによる特徴的な実装は柔軟性がある代わりに、ハードウェアの構成は規格として規定されたもの以外では固定されていることは期待できず、初期化・認識処理はスロットを検索する必要があるというオーバーヘッドを伴うものとなった。一部アプリケーションなどでは、特定の構成を期待したコードになっているためMSX2で動作しなくなったり、実際には接続されているにもかかわらず、その拡張機器を認識できないなどの非互換性につながっている。また、ハードウェアの相違を考えればかなり互換性が維持されているFDD等の「同じ種類」のハードウェアであっても、スタック領域やワークエリアなど、実装の違いから特定条件で動作しないなどの現象が発生することもあった。 またこれらの仕組みは、ハードウェアリソースに対するアクセス自体に演算リソースを必要とし、「スロット」の実装にともなうウェイト(wait)の挿入やBIOSコールを経由する等のオーバーヘッドは、3.579545MHz動作CPUのZ80に重くのしかかり、パフォーマンスを落とす原因ともなった。VDPについては処理速度を得るため、システムROMの特定のアドレスに書かれている値からI/Oアドレスを確認の上、直接制御することを正式に認めている。 二次記憶装置から直接起動するソフトウェアや機種固有の内蔵ソフトを除けば、ユーザーの操作、利用を支えるのがMSX-BASICである。他の実装で見られたマシン語モニタは標準システムとしては用意されておらず、直接のメモリ操作や実行ではなくDOSないしは、BASICから呼び出す形となっている。 当時の多くのPCで採用されていたマイクロソフト系の命令セットを持っていたが、変数名は先頭から2文字のみでgoto命令などの飛び先は行番号のみなど初期の実装に近い形となっている反面、浮動小数点の演算では仮数部は6桁または14桁のBCDを仮想計算機として実装しており、システムの規模や速度に対して精度の高いものとなっている。この演算部分はBASIC以外からの呼び出しも可能なようにMath-Packとして外部からも呼び出せる手順が公開されているCITEREFMSX-Datapack11991。精度は高いものの相応に演算コストが高いため、ゲームなどレスポンスや処理速度を重視するケースでは変数を整数として宣言することがTipsとなっていた。 更にオプションでMSX-DOSと呼ばれるCP/Mシステムコール互換OSも導入可能で、これを導入すれば既存のCP/Mアプリケーションの多くがファイルシステムをコンバートすることによりほぼそのまま動作し、CP/M環境で利用可能なアセンブリ言語、C言語、Pascal、COBOL、FORTRAN等も使え、またCP/Mで動く欧文ワープロや表計算等の実務アプリケーションも実行できた。 但し、本体が安価なMSXでは相対的にFDDは高価であり、活用されるようになるのはFDDを内蔵した本体が安価に提供されるようになったころからである。 初代規格ではその構成部品に専用品を用いず、その時点で市場に供給されていた利用実績の豊富な既存の汎用半導体製品を採用し、基本仕様が安価に製造できるよう構築されていた。各メーカーから発売された機種はほぼローエンド(低価格帯)だった。 その代償で、仕様は平凡なものとなり、当時の主だったパソコンが高解像度化を求められていた中にあって、最大でも256×192ドットの解像度だったことと合わせて「先進的でない」と批判する意見もあった。 価格帯と汎用性に舵を切った実装は、日本ではファミリーコンピュータと比較されてしまい、ゲーム専用のファミリーコンピュータのグラフィック性能と比較して劣っていたので「中途半端な子供の玩具」として受け取られた。 MSX向けの主要な商用パソコン通信サービスとしては、1986年12月からアスキーが運営したアスキーネットMSX、および松下グループ(後のパナソニックグループ)系のネットワーク企業・日本テレネットが運営するTHE LINKS(ザ・リンクス)がある。 アスキーネットMSXは、MSXを所有していることが使用の条件だったが、実際に使えるマシンはMSXに限らなかった。NHK学園のパソコンの通信講座で使われたこともあった。 対して、THE LINKSはMSX専用だった。画像通信やゲーム配信をサポートした独特のサービスで、対応機種をMSXに限定、モデムも専用ソフト搭載のカートリッジのみとすることにより、他のパソコン通信サービスにはないカラフルなコンテンツの提供や画像配信、動くメールなども実現していた。MSXによる日本語表現の特徴の一つである半角ひらがなやグラフィック文字はJISの規格外で、機種によって全く別のキャラクタが定義されており、MSXに限らず多機種混在のパソコン通信では使わないのが常識となっていたが、THE LINKSはその逆にJISやシフトJISの2bytes文字の日本語は書き込むことができず、1byteのMSX文字でコミュニケーションを取ることになっていた。THE LINKSのためだけの専用通信ソフトが必要で、通信ソフトが内蔵されたTHE LINKS専用モデムカートリッジがあった他、松下電器産業のモデムカートリッジに通信ソフトが内蔵されていた。 当初は通信速度300bpsのモデムカートリッジが発売され、後には1200bpsの物も出た。MSXturboRが発売された時期にはパソコン通信も9600bpsを超える速度のモデムが一般化し、MSXでもRS-232CカートリッジとPCモデムを使用するユーザーが増えた。MSX2の中には本体に1200bpsモデムを搭載した、通信パソコンと称される機種もいくつか存在する。 それ以外にもPC-VANやNIFTY-ServeにMSXに関係するSIGやフォーラムが設けられた。また、MSXの話題を扱う草の根BBSが全国に開設されており、MSX専門誌が休刊し、商業的にMSXが衰退した後は同人活動とともにパソコン通信での活動によって培われたコミュニティーがMSXを支えた。パソコン通信で発表されたフリーソフトウェアは、MSX専門誌のMSX・FANに付録ディスクに収録されたり、ソフトの自動販売機TAKERUで販売されたりもした。 その他にMSXを用いたネットワークサービスには、囲碁のネット対戦「GO-NET」や株式投資などがあった。 通信ソフトにはアスキーからMSX-TERMが発売されたが性能の悪さからあまり使用されず、フリーソフトウェアのmabTermやRAETERMや松戸タームが使われた。MSX向けのネット運営用ホストプログラムはMSXマガジンが開発した「網元さん」やMHRVなどが多く用いられた。 MSXは音源としてPSG(AY-3-8910相当品)を持っていた。1983年当初はそれでも十分だったが、他のゲーム機やパソコンが音源機能を強化する中、MSXにも対抗上各種ミュージックシステムが開発された。 MSXでMIDIを使用することができるハードウェアも開発された。 これらインテリジェントなものや、スロットに差し込むハードウェアはコストが高く、規定のシリアルデータとしての信号を生成できれば演奏は可能であるため、汎用インターフェイス等を利用したMIDI出力の方法ならびに実装がユーザによって行われている。 MSX規格のもの、MSX向けのもののみ MSXに賛同したメーカーには「メーカーコード」と呼ばれるIDが割り振られていた。メーカーコードを付与され1980年代から1990年代にかけてハードを製造した企業を以下にメーカーコード順に記す。 1980年代当時パソコンは、一般への普及を標榜していたため、テレビCMや雑誌・新聞広告に知名度の高い芸能人やキャラクターを起用する場合が多かった。MSXも数々のキャラクターでの宣伝を展開していた。 なお、MSX発売メーカーの機種の専門誌としては他にOh!FM・Oh!PASOPIAがあるが、どちらもMSXは発売時に紹介された程度の扱いしかされていない。 これら以外にも、ユーザーにより自主制作されたものも存在する。 MSXは単価が安く、またカートリッジスロットからZ80のメモリーバス、アドレスバスをそのまま引き出すことが出来るため、Z80の付随回路としてシンプルに設計でき、拡張や工作が容易である。80系/Z80系の環境では標準とも言えるCP/M互換のMSX-DOSという原始的なOSや開発環境も整っており、既存のCP/M環境やMS-DOS環境からのクロス開発も容易だったため、組み込み用や制御用にも多く流用されていた。 一部の市販ビデオタイトラーやビデオテックス(キャプテン)システム、また公共施設等に設置されたビデオ端末や簡易ゲーム機などにもMSXを流用したハードウェアが内蔵され、稼動していた例も少なくない。 特にビデオタイトラーでは、ソニーのXV-J550/J770/T55Fシリーズや松下電器産業のVW-KT300などの家庭用タイトラーのハードウェア構成は明らかにMSXを応用・流用したものである。ただし、これらの機種では基本はMSXシステムをベースとしていても独自の実装がなされており、特にBIOSなどは大幅に簡略化されMSXとしての機能は望めないなど、簡単な加工程度では汎用のMSXシステムとして使うことは不可能である。それらのMSXベースのタイトラーは安価なビデオタイトラーとしてはかなり普及していた時期があり、一時期は企業ビデオパッケージ、解説ビデオやインディーズAVなどの小規模なビデオ関連の作品などにMSXの漢字ROMフォントとまったく同じフォントを用いたテロップを多く見かけることが出来た。 日本で300万台、海外で100万台くらい売れたMSXは、1983年の日経優秀製品賞も受賞した一方で「失敗だった」と語られることがあり、これに関して西和彦は2つの理由を挙げている。1つ目はMSXの位置づけであり、上位機種である16ビット機はIBMが既に事実上の標準になっており、ゲーム機である任天堂のファミリーコンピュータは安かったことで、MSXは存在意義を発揮することができなかった点である。2つ目はネットワークが不十分であるがゆえに、電話やテレビのように一家に一台の必需品になれず、ペンや電卓などのアナログを代替することができなかった点である。 一方でMSXが発売されて10年以上過ぎたころ、西は「MSXが初めて出会ったコンピュータであり、この出会いがなければ、コンピュータの仕事をしていない」と語る人に出会ったことで、「MSXは使ってくれた人たちの記憶の中に生きていると思う」と語っている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "MSX(エム・エス・エックス)とは、パソコンの共通規格の名称である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1983年に最初の規格であるMSX(通称「MSX1」)が米マイクロソフトとアスキー(後のアスキー・メディアワークス)によって8ビットの規格として提唱された。元々は、アスキー・マイクロソフト側がメーカー独自のハードウェアに合わせたマイクロソフトBASICをカスタマイズする形で移植していたが、この方法ではメーカーならびに機種単位の互換性がないという欠点があったため、共通規格としてMSXが誕生した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1985年にはMSX2、1988年にはMSX2+、1990年には16ビットのMSXturboRが提唱された。この間、世界の複数のメーカーからMSXの仕様に沿ったパソコンが発売され、MSXの誕生にかかわった西和彦によるとMSX対応機種は日本で約300万台、海外で約100万台売れたとされている。その後、blueMSXの様なMSXエミュレーターや、MSX2+をFPGAで再構成した1チップMSXやSX1Mini+なども登場した。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2023年にはMSX0、MSX3、MSX turboがMSXの権利者である西和彦より提唱され、西が理事を務める特定非営利活動法人IoTメディアラボラトリーによってMSX0の実装であるMSX0 Stackのクラウドファンディングが開始された。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "MSXはこれらの総称でもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "規格の提唱元であるアスキーの創設者の一人である西和彦が2023年のインタビューの中で語ったところによると、NECや日立といった企業が自社製品向けのBASICの制作をアスキーに依頼する際、コマンドの追加や特定や周辺機器のサポートまで頼まれて大変だったため、統一した規格を制定してIBM PCと一緒に売ろうとしたことが、MSX誕生のきっかけだったという。とはいえ、16ビット機であるIBM PCは当時の価格で1000ドル以上もしたため、MSXはより安価なパソコンの決定版として位置づけられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1980年代初頭、日本国内におけるホビーユースのパーソナルコンピューター(ホビーパソコン)では主にマイクロソフト社のBASICインタープリタがROMで組み込まれ、システムの中心を担っていた。しかし、ハードウェアの設計は同じプロセッサーを用いても各々のシステムは大きく異なり、BASICレベルの互換性も、二次記憶装置の取り扱いやフォーマット・ハードウェアの仕様、性能の差異や拡張によって独自の変更が加えられ、俗にBASICの「方言」と呼ばれる非互換の部分が存在し、機種ごとにアプリケーションは作成・販売されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "当時マイクロソフトの極東担当副社長であり、アスキーの副社長だった西和彦は大半の機種の開発に関わっていたことから、多くのメーカーと繋がりがあった。そのため、日本電気 (NEC) ・シャープ・富士通のパソコン御三家に対して出遅れた家電メーカーの大同団結を背景として、西が主導権を握る形でMSX規格は考案され、1983年6月27日に発表された。ハードウェア規格はスペクトラビデオ社の「SV-318」と「SV-328」が参考にされている。当初、マイクロソフト社長(当時)のビル・ゲイツは「ソフトウェアに専念すべき」との考えからMSX規格には反対だったが、西に説得される形で承認。「MSX」の名称は発売当時マイクロソフトの商標だったが、1986年のアスキーとの提携解消の折に著作権をマイクロソフト、商標権(販売権)をアスキーが所有することになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "MSXの発表会には参入家電メーカー以外にも家庭用パソコン市場に参入した経験を持つ企業、または参入を計画していた企業が参加した。しかし、参入メーカー各社の足並みを揃えるため1984年に発売時期を調整している間に、任天堂のファミリーコンピュータやセガ・エンタープライゼス(後のセガ)SC-3000等の競合機種が発売され、苦戦が予想された。また、当時国内パソコン市場シェア1位のNECは発売せず、シャープも海外でのみ発売するに留まった。FM-Xを発売した富士通も「自社の製品と競合する」といった理由でMSX市場からは短期間で撤退。そのため、MSX規格は「弱者連合」などと揶揄された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "発売は当初予定より前倒しされ、主要家電メーカーの製品は1983年の秋から年末までに出揃った。アスキーは当初「1年間で70万台の出荷」という強気な目標値を掲げ、目標は達成できなかったものの、発売から2年強が経過した1986年1月にはMSXシリーズの総出荷台数が100万台を突破した。当時、国内メーカー製の8ビットパソコン市場で大きなシェアを有していたNECのPC-8801シリーズが累計100万台キャンペーンを企画していたが、台数的に達成出来ず結果として実現しておらず、当時としてはMSXは“日本製で最も売れた8ビットパソコン”として位置づけられる。その後も1988年の年末年始商戦だけで、FDD内蔵型のMSX2(ソニーのHB-F1XDとパナソニックのFS-A1F)が22万台の売り上げを記録した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "そしてMSX参入各社は、他社製品と差別化を図るべくワープロや動画編集など様々な機能を付加したMSXパソコンを発売した。しかし大部分の購入者はMSXを単なるゲーム機としか見ておらず、高機能・高価格な機種よりも低機能・低価格な機種を購入したため、参入各社間で価格競争が勃発。また他機種のパソコンとの競争も熾烈であり、MSX2が発売された1980年代後半には16ビットや32ビットCPUを採用した、より高性能な他機種の次世代パソコンや家庭用ゲーム機との販売競争に晒されたこともあり、元々参入が少なかった国外メーカーはMSX2で大半が撤退、次の規格であるMSX2+の対応機種を発売したのは日本のメーカー3社のみとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1990年には販売台数が全世界累計で400万台を突破。各MSX専門誌には「夢を乗せてMSX 400万台」のキャッチコピーが躍った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "しかし、この頃よりMSXを取り巻く環境は急速に悪化していき、1990年10月には16ビットCPUを搭載した新規格のMSXturboR{{Efn|MSX3という名称にはならなかったが、MSX2が発表された1985年前後には、Z80互換の16bitCPUのZ280、VDPはV9948、音源はMSX-AUDIO(Y8950)という内容でMSX3が計画されていたという資料が存在している。別の証言では、コードネームはTryX、CPUはZ80互換の高速CPU、VDPにはV9978かV9998とナンバリングされたVDPが予定されていたが、VDPの開発の遅れから高速CPUであるR800のみがMSXturboRに搭載されたとされるがリリースされたものの、参入メーカーは松下電器1社のみとなった。同社の機種は好調なセールスを記録し、翌1991年末にも新機種を投入したが、サードパーティーによるMSX向け商品のリリース数は減少傾向にあり、MSX専門誌は休刊や廃刊が相次ぎ、『MSX・FAN』 (徳間書店インターメディア) のみが形態を変えて発刊を続けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "松下電器は1994年に家庭用ゲーム機3DO REALとIBM PC/AT互換機WOODYを発売。MSXの開発部隊は、大半が3DOの開発に移行した。同年に最後のMSX規格対応パソコンである「FS-A1GT」の生産を終了し、翌1995年には出荷も終了した。これをもって日本でのMSX規格は終焉したと世間一般では解釈されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "この時期にはMicrosoft Windows 95が登場し、PC市場を拡大してデファクトスタンダードとなりつつあった。MSX以外にもX68000やFM TOWNSといった日本独自規格のPCが姿を消して行き、日本のPC市場はWindows 95が動作するPC/AT互換機およびPC-98またはその互換機か、あるいはMacintoshへと集約されていき、その一方でMSXのコアユーザーによるハード製作などの活動が活発に行われるようになった。有志が東京、大阪、名古屋、福岡、札幌、倉敷でイベントや集いを開催したり、パソコン通信上などでは多数のフリーウェアが公開されたりした。特に漫画家の青井泰研が東京で開催したイベント「MSXフェスタ」には、日本各地だけでなく海外からのユーザーも集まった。この他にもMSX復活プロジェクト(MFP)がハードディスクインターフェイスを開発するなど、最もMSXの同人の活動が盛んだったのもこの時期である。だが最終的には、それらコアユーザーの多くもWindowsなど別の環境へ移行した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1990年代末期から顕著になったMSXコアユーザーや同人サークルによるMSX離れは、JavaやFlashなど自由度の高い環境の登場により拍車がかかっていた。その一方MSXを使い続けるユーザーも少なからず存在したが、MSXの製造・サポートの中止かつハードウェアの老朽化による問題を抱え、解決策にエミュレーターやFPGAなどが用いられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2000年8月20日、東京・秋葉原のヒロセ無線本社ビル5Fにて「MSX電遊ランド2000」が開催され、そのイベント中で西がMSXの復活計画を発表する。2002年には商標やシステムソフトウェアなどの管理を行う任意団体「MSXアソシエーション」が発足し、公式エミュレーター「MSXPLAYer」も公開された。後に従来多数のチップで構成されていたMSXの機能をひとつのチップに集積した「1chipMSX」が製品化されている。そのほかのエミュレーターとしてはfMSX、ルーMSX、NLMSX、blueMSX、openMSX、WebMSXなどがあり、Windowsやマッキントッシュのほか、PSPやニンテンドーDSやゲームボーイアドバンスといった携帯型ゲーム機や、Java、Pocket PCなどプラットフォーム上で動作させることができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2006年、Wiiの価格発表の場で、旧来のゲームマシン・パソコンで供給されていたゲームソフトをインターネット上からダウンロード販売する「バーチャルコンソール」へのMSXソフトの投入が発表された。i-revoなどで多くのMSXゲームの復刻実績を有するD4エンタープライズが参入したことによって実現した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2007年、MSXの商標権は西和彦と共に『株式会社MSXライセンシングコーポレーション』へ移る。日本での商標登録番号は第2709130号ほか。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2011年、ロシアのAGE Labsがコンピューターの学習を目的としたGR8BITというMSXキットの発売を発表。価格はUS$499(369ユーロ)。また、日本の株式会社H&SがこのGR8BITを輸入販売すると発表し、価格は2012年3月末まで4万2千5百円、以降は5万3000円(送料/税/手数料別)で販売していたが、2015年にはドメインが失効しており、国内での販売はされていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2000年代の別の動向として、日本でもチップチューン(ゲームボーイやファミリーコンピュータ等による音楽演奏)ブームが起こった。それに伴いMSXによる音楽活動も比較的少数ではあるが再活発化した。かつて1980年代後半から1990年代前半頃に、MSXを扱う雑誌の投稿コーナーやパソコン通信のフォーラムで、その後のチップチューンに相当する音楽が発表されていた時期があった。しかし発表環境の衰退や消滅により、同ブームまでの間は一時停滞していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "またエミュレータや1チップMSXの登場により、PSG・FM音源・SCC互換音源、さらにMSX-AUDIOや2個のSCC音源を同時発声させた音楽が昔に比べ多く発表されるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2022年9月3日、MSX DEVCON TOKYO 1が開催され、MSX0、MSX3、MSX turbo規格が西和彦及び同氏が理事を務める特定非営利活動法人IoTメディアラボラトリー発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2023年1月13日、IoT向けMSX0規格の実装であるMSX0 Stackのクラウドファンディングが開始された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "MSXの400万台以上の販売台数のうち、約半分が日本、残りの半分は海外での販売である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "MSXは日本国内のみならず、オランダ、ブラジル、韓国を中心に現地企業でも生産され、他の国にも輸出された。日本でパソコン御三家に対して出遅れた家電メーカーがMSXに参入したのと同様に、ブラジルのグラジエンテやオランダのフィリップスといった、Apple IIやZX Spectrumに対して出遅れた現地の大手家電メーカーがMSX規格に頼らざるを得なかったという事情もあり、MSXに注力したこれら大手企業の影響力が強い諸国ではそれなりに普及した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "MSXは、文字キャラクタをROMに記憶せずユーザが生成することができ、各国の言語の独特の文字に柔軟に対応でき、英語以外のマイナーな言語を使う国々向けにローカライゼーションをするうえで好都合なので、非英語圏を中心に高く評価された。用途は国ごとに異なり、主に教育用途で使われた国と、主にゲーム用に使われた国に分かれる。アルゼンチンやソヴィエト連邦諸国では主に教育用コンピュータとして用いられた。スペイン、ブラジル、韓国などでは主にゲーム用に使われ、MSXはグラフィックチップにTMS9918を搭載するなどハードウェア構成がゲーム機のコレコビジョンやマスターシステムとよく似ておりそれらのゲームが移植しやすかった点も評価され普及に繋がることとなった。一方で英語圏ではあまり普及しなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "北米のホームコンピューターのマーケットは既にコモドールなどが低価格競争を繰り広げていたため、スペクトラビデオとヤマハのMSXのみ発売されたがほとんどシェアを獲得できず、現地企業として唯一MSXに参加したスペクトラビデオも倒産の憂き目にあった。MSXが発売された1984年の時点で価格帯やスペック的に直接的な競合製品となったのはコモドールPlus/4とコモドール16であるが、同時期に初代MSXのスペックを遥かに上回る上位機種のコモドール64やAtari 8ビット・コンピュータなどが低価格競争に突入し急速に普及したため、ZX Spectrumやコモドール16など同時期の諸外国でエントリークラスとされたパソコン自体がそれほど普及しなかった。学校などで使われる「教育用コンピュータ」としても既にApple IIが存在したため普及しなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "当時の欧州のマイコン(パソコン)の市場は、アメリカ系のコモドール64(略称 C64)とイギリス系シンクレアZX Spectrumがシェアを二分しており、1984年にはさらにイギリスのAmstrad社からCPC 464が発売され(300万台ほど売れ)先行するC64とZX Spectrumのシェアを少し奪うという状況だった。欧州全体ではMSXとほぼ同じスペックで値段が安かったイギリス産のZX Spectrumの方がMSXより人気が高く、特にシンクレア社の地元イギリス、コモドールとアタリが強かったドイツなどではMSXはほとんど売れなかった。一方で、フィリップス社の地元オランダのほか、イタリア、スペインではMSXは人気があった。しかしこれらの国でも、1985年発売のコモドールAmigaとAtari STにMSX2は対抗できず、1980年代末にかけて衰退していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "欧州での展開では、序盤からテクニカルサポート体制の不備が指摘されるなど、海外進出を念頭に置いた戦略が十分ではなく、一部正規品の互換性問題などで苦戦を強いられていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "マイクロソフト社員として欧州でのMSX2の普及に携わったトム佐藤は、欧州における初代MSXの失敗の理由として「アスキーの世界戦略の欠如」「英語版のマニュアルの出来が悪いなどのサポートの悪さ」などを理由に挙げている。また、自身が中心となってソニー・フィリップス・アスキー・マイクロソフトの4社による共同普及体制をまとめ上げたはずのMSX2が失敗した理由として「プラザ合意による円高」「ビル・ゲイツと西和彦の関係悪化によるアスキーとマイクロソフトの提携解消」「アスキー上層部でも対立があった」などを理由に挙げており、1985年9月のベルリン・ファンケスターラング見本市(IFA)で大きな反響を呼んだMSX2の発表会がMSXのピークだったとしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1985年にはMSX1の後継規格・MSX2が誕生し、ヨーロッパのほか、共産圏や南米にも進出したが、まもなくプラザ合意による円高によって他の輸出産業とともに窮地に立たされる。 同時期、アスキーとマイクロソフトの対立が激化し、翌年1986年2月に両社の提携が解消されたほか、アスキーの上層部の間でもMSXの扱いで対立が起きていた。 その結果、MSXはヨーロッパ市場からの撤退を余儀なくされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "イギリスではZX Spectrumの人気が非常に高く、MSXは東芝の現地法人が大きな宣伝をかけたわりにほとんど売れなかった。現地企業のドラゴンデータ(英語版)が参入を表明していたが、「ドラゴンMSX(英語版)」として知られるプロトタイプ機がいくつか作られたのみで発売前に倒産した。MSXはZX SpectrumとCPUが同じだったため、ZX Spectrum用ソフトのベタ移植という形でMSX用ソフトもそれなりに発売されているが、MSXではスロットの割り当てやキーバインドなどメーカーごとの細かい差異を考慮する必要があり、さらにVDPを介したVRAMという構造は同一のアルゴリズムでの描画処理には速度的に足かせとなった(MSX Video access methodを参照)。規格としてはメモリ16Kだったものの現実にはメモリ48Kが標準だったZX Spectrumに対し、MSXにはメモリがたった8KBのCasio PV-7が現実に存在したことも悪い意味で大きかった。ヨーロッパでMSXの最低ラインとなったフィリップス VG 8000もメモリが16KBしかなく、しかもフィリップスの初期シリーズは正規のMSXを標榜しながら互換性問題が発生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "オランダでは現地の家電大手フィリップスがMSX機を販売していた。1980年代のオランダではMSXはコモドール社のコモドール64やシンクレア社のZX Spectrumを抑え、最も人気のあるコンピューターであり、世界的にもユーザー数で考えた場合に日本に次ぐ第2の市場となった。MSX専門誌の「MSX Computer Club Magazine」の定期刊行は1995年12月/1996年1月号まで続き、これは日本のMSX・FANよりも長い。MSXの商業的な活動が終息した後、1990年代以降の同人ベースでの活動、また2000年代以降のwebベースでの活動も活発であり、世界のMSX情報の集積地となっているwebサイト「MSX Resource Center 」もオランダのサイトである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "スペインではリリースされたMSX用ソフトの数が日本に次いで多く、ソフトウェア販売数で考えた場合には日本に次ぐ第2の市場となった。リリースされたソフトはほとんどがゲームで、ほかに実用ソフトも販売されており、ワープロなどを含んだ統合GUI環境の「EASE」まで存在していた。EASEはフィリップス社製MSX2機に標準添付されたため、オランダやイタリアでも愛用者が多かった。スペインのMSX市場は1985年に最盛期を迎え、MSX専門誌が3誌も販売されていたが、1980年代末にかけて衰退していった。MSXの商業的な活動が終息した1989年以降は同人による活動が活発になり、やはり多くのゲームがリリースされたが、著作権的に問題のある移植ものが多い。webでは2002年設立の同人ゲームサークルが母体となった Karoshi MSX がコミュニティの総本山にあたり、2003年から開催されている欧州のMSX1用インディーズゲームコンテストの MSXdev を2011年より引き継いで主宰している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "韓国でMSXは三星電子、金星電子、大宇電子、と複数の現地大手メーカーから発売され、Apple IIとシェアを二分する成功を収めた。三星電子と金星電子は早期に撤退し、MSX2は大宇電子のみが発売した。FDDも周辺機器として発売されたが、当時としてはかなり高価だったためにあまり普及しなかった。ただしMSX発売当時の韓国はコンピュータプログラムに対する法的保護がなかったことから、コンピュータショップではROMゲームを手数料程度でFDにコピーするサービスを行っており、それらの恩恵を受けるために高額なFDDを買う需要が多少あった。ゲームマシンとしても利用され、MSXソフトが動作するもののキーボードがないなどMSX仕様を満たさない大宇電子のZemmixという家庭用ゲーム機も発売されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1990年代には三星電子のメガドライブ互換機や金星電子の3DO互換機なども発売されたが、高価な次世代機に移行できない層の存在と、Zemmixの普及率から、旧世代機であるZemmixの市場が長く併存したことにより、大宇電子は1995年までZemmixを販売し続け、日本国外の製品としては唯一MSX2+規格に対応したゲーム機Zemmix Turboまでも発売している。 また、韓国のMSX2ではハングル表示用のSCREEN9があり、ゲーム雑誌編集者の前田尋之は、これが韓国内で普及した一番の理由ではないかと推測している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ブラジルでは現地大手家電メーカーのグラジエンテと、シャープのブラジル法人シャープ・ド・ブラジルが1986年頃より製造販売した。Atari 2600の代理店からMSX機の販売に切り替えた経緯があるグラジエンテを始めとして、シャープもMSXをパソコンというより安価なゲーム機の代替品として捉えていたようで、MSX2規格の発表以後にもかかわらず初代MSXしか販売されなかった。ブラジルでは国内産業保護のために海外製ハード・ソフトの輸入に法外な関税をかけて事実上禁止する法律があるため(ライセンスを得て現地生産することで関税を回避できる。または密輸か違法コピー)、当地で流通したゲームは全て国内製、販売されたMSX機は上記の現地大手家電メーカー2社によるものだけだったが、テレビCMを含む積極的なキャンペーンの結果、MSXは発売から2年で10万台、トータルで40万台の大ヒットとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "初代MSXが普及し専門誌による情報交換も盛んだったブラジルではユーザーコミュニティがMSX2の発売を切望していたが、シャープは1988年にMSXから撤退。グラジエンテも1990年にはMSXから撤退し、以降はMSX2ではなくファミコンを販売した。そのため、サードパーティーからMSX2相当にパワーアップする製品などが発売され、ユーザーコミュニティによる自主制作も盛んとなった。それなりの知識があれば、各種アップグレードパーツを用いてMSX2用のメガROMのゲームを日本と同様にプレイすることが可能だった。5.25インチフロッピーディスクを流通媒体とする独特の同人文化も発達した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "アルゼンチンでは地元メーカーのテレマティカが1984年にDaewoo MSX DPC-200をベースにしたTalent MSX DPC-200を発売。他にはスペクトラビデオやグラジエンテ、東芝の製品もわずかながら販売された。また、アルゼンチンではMSXを「教育用コンピューター」として学校教育で国家レベルで導入されたており、学校教育の中でMSX-LOGO言語が教えられていた。テレマティカが1987年に発売したMSX2 TPC-310はコマーシャルで「ターボ」のキャッチコピーを売りにしていたが、あくまでキャッチコピー上の文句だけで、実際は普通のMSX2機である。アルゼンチンでのMSXの販売は1990年に終息した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "キューバでは東芝とパナソニックのMSXが1985年に学校教育で採用され、\"Intelligent keyboards\"の名称で呼ばれた。ただしパソコンの一般への販売は禁止されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "アラブ諸国ではクウェートの大手SIであるAl Alamiahが日本からヤマハや三洋などのMSX機を輸入しており、子会社のSakhr社によってアラビア語用ローカライズを行い販売していた。このようにMSXは、韓国向けではハングル、アラブ諸国向けにアラビア文字を使えるなど、現地向けに仕様をローカライズすることが可能だった。Sakhr AX330はファミコンとMSXの複合機、Sakhr AX660とSakhr AX990はメガドライブとMSXの複合機であるが、アル・アラミアはMSXのライセンスを得ていないため、ハードの詳細は不明である。パソコンとゲーム機の複合機はテラドライブなど他に例があるが、1993年に発売されたSakhr AX990がMSX2以降ではなく初代MSXとの複合機なのは、MSXマガジンでも「謎」としている。ソフトウェアは、ファーストパーティであるAl Alamiah/Sakhr社が本体にバンドルしていたもの以外にも、Methali社など複数の現地メーカーから供給されていたが、SakhrはMSXを「教育用コンピューター」と銘打って販売していたため、教育ソフトや教育ゲームが多い。珍しいソフトとしては、Al AlamiahがMSX版『コーラン』を販売していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ソ連などの共産圏ではMSXは学校などに多数納入され、初等教育の現場でも応用されていた。当時の東側諸国は政府によって市場が統制された社会主義の国家であり、『物資は全て、国家が人民に供給・配給する』という形態をとっていたので、資本主義経済のもとで市場競争によってホビーパソコンが大きな市場を築いた西側諸国とは違って、東側諸国のパソコンは国営企業が独占的に製造し、ほとんどが産業用途か教育用途に回された。一方で年収くらいする高価なパソコンを自分で購入したり、市場に存在する数百個のパーツを集めてパソコンを文字通り自作する方法を指南する無線マニア向け雑誌も存在した。当時、輸入パソコンは外貨で購入可能な公営ショップ(東ドイツのインターショップなど)で高価格で販売されるのが一般的で、一般人が購入するのは現実的ではなかったが、実際には多くの東側諸国に西側諸国のパソコン(日本製も含む)が政府の監視をかいくぐってこっそりと持ち込まれており、その流通には不明な点が多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "「東側諸国」と言っても、必ずしも国営企業の製造したパソコンがメインで普及したというわけではなく、例えばチェコスロバキアでは、国営メーカーが製造販売したZX Spectrum互換機に次いで、輸入パソコンなのになぜか普通に電気店で販売されていたSharp MZ-800の人気が高かったりするなど、国によって特色がある。MSXは、ソ連で特に教育用として普及し、国営メーカーによる教育用MSX互換機製造の試みが続けられたり、宇宙開発用として宇宙ステーションミールに搭載されるなど、1985年ごろは大きな影響力を持った。ただしソ連でMSXは「学校で使う教育用パソコン」のイメージがあったのと、高価だったため、1986年以後に低価格化した国産機のエレクトロニカBKシリーズの方が家庭用としてはユーザー数はずっと多かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "冷戦時代、西側諸国ではコンピューターを含む電子機器の輸出を対共産圏輸出統制委員会(ココム)で制限しており、ソビエト連邦を中心とする共産圏の国々では16ビット以上の高性能コンピューターを西側から輸入することが出来なかった。そのため、規制対象外とされていた8ビット機を大量に輸入し、またコピーして使用していた。機種は用途に応じて選別されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "これらの中にはMSXも含まれており、特にソ連やキューバでは国家の教育プログラムで導入された。その拡張性や互換性などが評価された結果、学校教育のみならず各分野で応用された。教育用には独自に簡易ネットワークシステムまで構築して利用していた例もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "冷戦終了前後にはMSX機が東側で正式に販売され、ビデオタイトラーやラベリング機のアーキテクチャなどとしても利用された。市場が開放された時期は国によって違うが、例えばソ連で西側のパソコンが正式に発売されるのはゴルバチョフ政権による1988年の協同組合(コーポラティヴ)解禁以降となる。ソ連では他の東欧諸国より市場開放そのものが遅れたうえ、ZX Spectrumが4万ルーブル(年収の13年分)で販売されるなど、西側の旧型機を輸入して高価格で売る企業が多かったので、パソコンの普及も他の東欧諸国より遅れたが、1991年にZX Spectrum互換機「ペンタゴン」がZX Spectrumの心臓部であるゲートアレイの解析を完了すると、旧ソ連地域でもZX Spectrumの海賊版であるPentagonのさらに海賊版メーカーが乱立して市場を埋め尽くした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ソ連では1985年に学校へのコンピュータ導入プロジェクト「комплекс учебной вычислительной техники」、略称:КУВТ(KUVT)が開始され、ヤマハのMSX機をベースとする教育用ネットワークシステムが「YAMAHA KUVT」として各学校に構築された(そのため、ソ連ではMSXは「YAMAHA」(Ямаха)の愛称で呼ばれる)。ヤマハの機種を用いたシステムとしては、YIS 805R(先生側)とYIS 503IIR(生徒側)が採用されたКУВТと、YIS 128R(先生側)とYIS 503IIIR(生徒側)が採用されたКУВТ2が存在する。それぞれ、単純に輸入したものではなく、ロシア語キーボードを搭載したソ連向け専用モデルである。1986年度のКУВТ-86では国産機のБК-0010Шが採用されるなど、すぐに輸入機から国産機に切り替わったため、YISの採用数は1万5千台程度とされる。教育映画の『Поехал поезд в Бульзибар』(1986年)では、教育の一環として教師の監督の元『イーアルカンフー』や『けっきょく南極大冒険』を楽しそうにプレイする子供たちの姿が描かれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1985年当時、MSX機は一般には販売されておらず、国産機と言えども一般人には購入できないほど高価だったため、当時のソ連の人民が触れることのできたコンピュータは、基本的に学校にあるこのヤマハの教育用パソコンであり、「YAMAHA」はパソコンの代名詞となった。ただし導入状況は学校によるので、MSXを全然知らない人も多い。また、1980年代後半以降には、ヤマハ以外にも大宇電子や東芝など、数は少ないながら日本や韓国から複数のメーカのMSX機が教育用として輸入された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1980年代後半には国産機の展開が本格的に始まったこともあり、MSX機は家庭用ホビーパソコンとしてはあまり普及したわけではない。当時は月収が100-150ルーブルの中、パソコンは1000ルーブルくらいの高価格のためにほとんど普及していなかったが、1987年頃には国産機のエレクトロニカBKシリーズが650ルーブルまで低価格化したこともあって、ホビースト向けに7万8000台を売り上げる大ヒット機となり、MSXの家庭普及率を大きく上回った。BKシリーズは教育用パソコンとしてもYAMAHAと並ぶ勢いがあったが、一方でMSXのアーキテクチャ自体は政府に好評で、その後もソ連で教育用パソコン向けにMSX互換機の開発が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ペンザ州計算機工場が1987年にリリースしたПК8000は、MSXアーキテクチャをベースとして開発が行われたが、当時のソ連はMSXの心臓部であるZ80互換プロセッサ、TMS9918互換ビデオプロセッサ、PSG互換音源を自国内だけで開発することができず、MSX規格との互換性は限定的にならざるを得なかった。それでもMSX-BASIC互換を目指し、GW-BASICを拡張したインタプリタを搭載した。64Kの大容量RAMなど良い点もあったが、場合によって非常に遅くなる、圧電スピーカー(ビープ1音)、1000ルーブルを超える高価格など、悪い点も多く、市場ではあまり受け入れられなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1989年にリリースされた後継機の「ПК8002『エルフ』」は、MSX2アーキテクチャを目指して設計されたパソコンであり、PSG音源相当の3チャネルサウンドなどを搭載したが、V9938互換ビデオプロセッサを開発することができなかったため、MSX2規格との互換性は限定的にならざるを得なかった。それでも教育用コンピュータとしての導入を目指して1000台から2000台が製造され、『ロードファイター』や『ボンバーマン』の移植なども行われたが、ソ連崩壊に伴う経済危機により以後の開発は中止された。なお、ПК8002には『PUT UP』(MSXマガジン87年10月号に掲載)が移植されており、1987年当時のソ連政府はMマガを購読していたとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ソ連の軌道宇宙船ミールでも、MSX2規格の動画編集機であるソニーHB-G900APと見られる機材 が設置されており、1990年12月のTBS宇宙プロジェクト『日本人初!宇宙へ』にて撮影されたビデオの編集に使用されていたことがスポンサーであるソニーの技術情報誌の特集記事として掲載された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "音楽制作ではYAMAHA CX-5が良く使われ(アルバムのジャケット写真やライナーの使用機材紹介でよく載っている)、アンドレイ・ロジオノフ&ボリスチホミーロフ(ロシア語版)はソ連初のテクノアルバム『パルス1』(1985年)を制作している。これは当時のソ連ではテレビのエアロビクス番組が流行っており、体操用の音楽としてソビエト連邦文化省の要請により制作されたものである。当時のソ連はアフガン侵攻による経済制裁中ながら、ヤマハがソ連の教育プログラム「YAMAHA KUVT」向けにMSXの特注モデルを制作して輸出するなど、ソ連と日本の通商は比較的活発であり、YAMAHA CX-5やRoland TR-909など、西側とそれほど変わらない日本製の機材が使用されていることがアルバムのライナーで紹介されている。アルバム『512 kbytes』(1987年)のジャケットでは、DTMやアートワークの制作に使ったYAMAHA YIS 805Rや、EIZO製のモニターなどの周辺機器が紹介されている(КУВТで導入されたものと同じ機材)。アンドレイ・ロジオノフはMSX用ゲームも制作してリリースしている。こちらも教育用としてソ連文化省と防衛省の要請によって作られたもので、パッケージにはその旨の記載がある。また、リズムマシンYAMAHA RX15の制御にCX-5を使用した『Танцы на битом стекле』(1989)を手掛けたアレクセイ・ヴィシュニャ(ロシア語版)や、CX-5に搭載されたFM音源モジュールYAMAHA SFG-05を活用したНовая Коллекцияなども、MSXを活用したソ連のテクノミュージシャンである。ただし、当時のソ連にテクノやDTMが存在したことが西側諸国に知られるのは、ソ連崩壊後のことである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ソ連崩壊後にパソコンやゲーム機の海賊版メーカーが乱立した時期には、MSX-DOSと一部に互換性のあるOSを搭載したAmstrad CPCベースのMSX互換機Алеста(1993年)や、MSX-DOSと一部に互換性のあるOSを搭載したZX Spectrum互換機のATMターボ2(1993年)など、特殊なハードもリリースされた。なお、ソ連時代はMSX機は一般には販売されていないので、MSX機の所有者は存在しないはずだが、YAMAHA製のキーボードやリズムマシンと一緒にYAMAHAのMSX機を使っているテクノミュージシャン以外に一般人の中にもなぜか正規のYAMAHA製MSX機を所有している熱狂的なファンもおり、2000年代以降にも熱狂的なファンによる互換機が制作されたり、海賊版ハードの乱立時期に製造された製品をFPGAを利用してさらに進化させたハードがリリースされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "MSXは「子供に買い与えられる安価なパーソナルコンピューター」「コンピューターの学習に繋げられるコンピューターの入門機」として構想された。その一方で必要に応じてシステムを拡張することで本格的なプログラミングや実務処理にも使うことが可能な、総合的なホームコンピューターとしても設計されている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "MZ-700、ぴゅう太、M5、JR-100、PC-6001、RX-78、SC-3000など、他の当時の低価格入門機のパソコンと同じ様にテレビやカセットデッキをモニターや二次記憶装置として流用するようなシステムとなっている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "MSXは単なる入門型パソコンとしてのみならず、当時の大人のマニア向けゲームハードという側面をもつ。時には家電品として、時には楽器として、時には当時の「ニューメディア」として分類される。それは、MSXが松下電器や日本ビクターなどのように家電品のルートで販売されたり、ヤマハや河合楽器などの楽器店のルートで販売されたり、フィリップスやNTTのキャプテンシステムのようにニューメディアと位置づけて販売されたが、それは主にゲーム機として利用された事情による。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "またメーカーを越えてハードウェアおよびソフトウェア資産が利用できる統一規格であり、「オープンアーキテクチャ」のさきがけである。CPU、VDP、メモリーマップ、I/Oマップ等のハードウェア仕様を規定するレベルに留まらず、後述のようなスロット機構の採用とシステム(BASICおよびDOS)と密接に連携し、機能拡張の抽象化を担うBIOSを介することを前提に、柔軟性と互換性を維持する形となっている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "MSX仕様に準拠したハードウェアとソフトウェアにはMSXのロゴマークが付与された。このMSXマークで「MSXで動く」と分かるように、ホームビデオのVHSを参考に発案・デザインされた。以後、MSX2、MSX2+、MSXturboRとMSXがバージョンアップする度にロゴは作られ、MSX2からは起動画面にMSXロゴが表示されるようになった。公式MSXエミュレーターの「MSXPLAYer」でもMSXのロゴは踏襲された。デザインは全て西が元になるアイデアを出した。", "title": "ロゴマーク" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "このロゴマークのついたMSX仕様のソフトウェアを発売する際にロイヤルティーは不要だった。これはMSX発表当時、対抗規格を打ち出して来た日本ソフトバンク(後のソフトバンク)の孫正義と西和彦のトップ会談によって決定されたものである。", "title": "ロゴマーク" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "MSX0、MSX3、MSX turboでは従来のロゴマーク踏襲しつつ、やや細身となったMSXの文字と、ピクセル化された英数字の組み合わせとなっている。", "title": "ロゴマーク" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "後述のスロットによるアドレス空間の拡張や、BIOSによるリソース管理の仕組みの特徴は、後継製品でもモード切替に因らないシームレスな後方互換性の実現や、規格の拡張に寄与している。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "MSX1, MSX2, MSX2+は8ビットCPUのZ80A相当のプロセッサを3.579545MHzで使用。MSXturboRはそれに加えて16ビットCPUのR800も搭載し、システムチップにより排他的にシステムを担うプロセッサを選択することが可能である。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "MSX0、MSX3、MSX turboにおいては、MSX1、MSX2、MSX2+、及びMSXturboR(上位機種のみ)の下位互換機能が組み込まれたマイクロコントローラーやFPGAによる上位互換実装となっている。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "互換性を維持しながらフレキシブルな実装を可能にするため、MSXではZ80のメモリ空間(アドレス空間)を拡張したバンク切り替えと、メモリ管理ユニットの間の性質を持つスロットと呼ばれる仕組みが設けられた。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "MSXではメモリ空間を四分割した「ページ」を単位として管理し、16KiBごとにリソースを割り当てるようになっている。さらに「スロット」1つ当たり64KiBの空間を持ち、標準で4つの「プライマリ・スロット」が設定され、任意のスロットの該当アドレスのページをメモリ空間に接続することが可能になっている。また、プライマリスロットはさらに4つのセカンダリスロットを拡張することができ、仕様上は最大で16のスロットシステムに接続できるようになっている。従って仕様上は16KiB×4ページ×4スロット×4セカンダリスロットで=1MiBのアドレス空間が確保され、その空間に対し、ROM、RAM、I/Oをページ単位で任意に割り当ててアクセスする形になっている。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "プライマリ/セカンダリスロットは基本的には同等とされ、多くの機器はどのスロットに挿入しても規格の上では変わらず動作する。なお、セカンダリスロットは再帰的な拡張を想定していないため、セカンダリスロット拡張を行う機器は、セカンダリスロットへの接続が出来ない。見かけは一つのカートリッジであっても、複数のデバイスを収めるために内部的にスロット拡張をしていたμ・PACKやMSX-DOS2カートリッジ、拡張スロットなどの周辺機器がこの制限にあたり、プライマリスロットへの挿入以外では動作しなかった。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "Z80のシステムでありながら、ハードウェアとの接続にI/O空間ではなく基本的にメモリーマップドI/O方式を用いることが推奨された。アクセスの際にはBIOSコール(BIOS割り込みルーチン)の時点でスロット切り換えによってメモリ空間が切り替えられ、同時にハードウェアへの割り当てリソースも変更されることで競合は回避された。I/Oアドレス空間は8ビットとして想定されており、一部のアドレスが規格として予約されている。外付けデバイスとして実装される場合は接続先のI/O空間の状態が不定であるため初期化時にチェックの上割り当てるようになっているため、直接ハードウェアを初期化するような場合には設計の差異を考慮する必要がある。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "これらの仕組みを物理的に拡張する手段として、スロット機構に接続するコネクターが最低1基装備された。多くの機種では差しこみ口が筐体上面や前面などに配置されていたため、他の多くのシステムのように、背面の拡張スロットで挿抜したり筐体を開けることなく手軽に増設機器の差し替えができた。電源投入時の着脱防止機構やホットプラグは規格としては用意されていない。着脱時に電源を切る機構は一部機種にあり、カートリッジが正常に装着されるとこの機構がキャンセルされ電源が入るようになっていた。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "「スロット」の仕組みは柔軟な運用や設計を可能にしたものの、「1つのスロットに4ページ/64KiBを越える空間を配置できない」「ページ間のアドレス空間の移動や再マッピングができない」といった、Z80に由来するメモリー空間・アドレッシングに依存した制約があった。特にワークエリアとスタックが置かれるページ3の切り替えには若干の困難が伴い、単純にRAMページをスロットに増設するだけでは増設されたメモリーの有効な活用がやや煩雑なものとならざるを得ないという事情があった。これを改善するため、MSX2規格制定時にRAMページの拡張を行う“メモリーマッパー”が拡張規格として追加された。このメモリーマッパーを用いることで、ページの割り当てに対する制限を軽減することが出来た。また、後に登場したメガROMの一部にもメモリーマッパー規格を応用し、酷似した仕様でROM空間の切り替えや拡張を行う製品が登場した。ただし、これらは市販アプリケーションもしくはZ80バイナリによって直接実行するソフトに限られた話で、MSX-BASICではメモリ空間を前半にROM、後半にRAMを固定で割り当てその末尾に拡張用のワークエリア、フックなどを配置していることもあり、これらのメモリをユーザーエリアとして有効活用する仕組みが無く、RAMDISKなどの形で活用するようになっている。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "MSX1、MSX2及びMSX2+は一般家庭への普及を目指すため、標準の構成で家庭用テレビにRFを標準装備し、専用モニターを必須としない仕様となっていた。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "これは他の低価格帯の入門機にも見られた仕様で、文字の滲みや解像度の低さなどのデメリットもあったが、家庭用電気製品を流用できるようにすることでシステムのトータルコストを下げる効果があった。TMS9918Aの出力がそもそもNTSCであり、初代規格ではRGB出力を持つ製品は限られた。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "初代規格のVDPがテキスト表示の拡張によってグラフィックス処理も実現していたこともあり、文字フォント(文字キャラクタ)は基本形状がシステムROMから初期化時に定義はされるものの、表示性能の制限の範囲で任意の形状、色に書き換えが可能なPCGとして利用することが可能である。SCREEN0,1,2,4では全ての文字形状をユーザーが自由に定義して使うことが出来、SCREEN1,2,4ではBASICのサポートは無いもののVDPの画面モードを変更することによって1ライン当たり任意の2色をフォントに割り当てることも可能である。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "日本向けのMSXではPC-6000シリーズに近似したキャラクターコードを採用しており、特定の漢字(日月火水木金土・大中小・年時分秒・百千万円)や罫線が記号として定義されているほか、カタカナに加えてひらがなも標準で定義されていた。これらのコードは海外向けMSXではアクセント記号付きアルファベットに割り当てられた。なおMSXで半角ひらがなに割り当てられていたコード領域は、現在のSHIFT JISコードで使用されている。MSX1の時点では半角文字の80カラム(1行80桁)表示も不可能だった。初代規格の時点では漢字ROMの仕様がなく、ワープロなどの実装に伴うハードウェアが独自にアプリケーション依存で実装されていた。MSX2ではそれらのうち、第1水準のフォントを持つ東芝仕様のものが表示用のBIOSと共にオプションとして定義され、後にI/Oマップにも東芝仕様の物が割り当てられている。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "コネクタ類に関しては、主にジョイパッドやマウスの接続用にアタリのAtari 2600相当の9ピンコネクター(アタリ仕様ジョイスティックのもの)が2ボタン仕様に拡張されて定義された。また、オプションでセントロニクス仕様の14ピンプリンターインターフェースも搭載された。 汎用的な仕様のコネクタを採用したことは、のちに電子工作の接続・制御用途として重宝された。上記のスロットコネクターに関しては、電子部品を扱う店で電子工作用の汎用基板が入手できた。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "キーボードはパラレル入力で同時押しも可能である。規格の上では、いくつかの特定の3つのキーの組み合わせは動作の整合性が図られた以外、3つ以上のキーが同時に押下された場合の入力の整合性は保証されていない。なおセパレートタイプ(つまり本体と別の)キーボードは定義されておらず、キーボードのコネクタは機種によって異なる。なお日本向けキーボードの配列にはJIS配列と50音順配列(かな配列)の両方が規格にあり、ワークエリアの設定で選択することもできた。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "初期はROMカートリッジ、並びにカセットテープ。MSX2の後期からはフロッピーディスクにより様々なソフトウェアが提供された。規格にたいして特徴的な実装は下記のとおりである。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "前述のようにBASICやOSの収められたシステムROM、ゲーム等のROMカートリッジ、メインメモリなどのRAM、そして各社の独自拡張による周辺機器(ハードウェア)などのリソースは「スロット」に接続されているが、それを抽象化し、汎用的に利用できるようにしているのがBIOSである。基本的なBIOSのうち、主な機能はメモリの先頭部分からジャンプテーブルとして配置されており、システムがZ80の割り込みモード1で構成されているため、RST命令で呼び出せるエントリのうち、RST 00H~28HをBASICがサブルーチンコールに使用。RST 30Hがインタースロット・コール、RST 38Hがハードウェア割り込みに割り当てられている。基本機能に含まれない機能、ハードウェアには基本的に拡張BIOS並びに対応している場合は拡張BASICが付随し、起動時に初期化ルーチンを呼び出すことで割り込みベクタがワークエリアに登録され、システムに組み込まれる。ユーザーは対応アプリケーションなどではほぼ無意識に、BASICなどでは必要に応じてコマンドによる初期化で有効化し、利用することができた。 基本仕様に組み込まれたハードウェアも含め、互換性をBIOSレベルでのみ保証することによってある程度の設計の自由度を確保しており、ワープロやテレビなど民生機器と同化したような各社の商品としての独自性を発揮するのに寄与し、設計の共通化により低コスト化を可能とした他、プラグ&インストール&プレイではなく文字通りのプラグ&プレイを実現していた。 但し、基本仕様に含まれるBIOSの実装はハードウェアに強く依存する仕様になっており、PSGやVDPなどはBIOSが内部レジスタをラップするような実装になっているため後継製品などでも実際には仕様を包含したものを選択せざるを得ず、データレコーダの実装はZ80の実行クロックに強く依存した形でタイミングを取り波形を生成しているため、割り込みを禁止したうえ、規定のクロックでプロセッサが動作することを要求する仕様となっている。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "これらスロットやBIOSなどによる特徴的な実装は柔軟性がある代わりに、ハードウェアの構成は規格として規定されたもの以外では固定されていることは期待できず、初期化・認識処理はスロットを検索する必要があるというオーバーヘッドを伴うものとなった。一部アプリケーションなどでは、特定の構成を期待したコードになっているためMSX2で動作しなくなったり、実際には接続されているにもかかわらず、その拡張機器を認識できないなどの非互換性につながっている。また、ハードウェアの相違を考えればかなり互換性が維持されているFDD等の「同じ種類」のハードウェアであっても、スタック領域やワークエリアなど、実装の違いから特定条件で動作しないなどの現象が発生することもあった。 またこれらの仕組みは、ハードウェアリソースに対するアクセス自体に演算リソースを必要とし、「スロット」の実装にともなうウェイト(wait)の挿入やBIOSコールを経由する等のオーバーヘッドは、3.579545MHz動作CPUのZ80に重くのしかかり、パフォーマンスを落とす原因ともなった。VDPについては処理速度を得るため、システムROMの特定のアドレスに書かれている値からI/Oアドレスを確認の上、直接制御することを正式に認めている。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "二次記憶装置から直接起動するソフトウェアや機種固有の内蔵ソフトを除けば、ユーザーの操作、利用を支えるのがMSX-BASICである。他の実装で見られたマシン語モニタは標準システムとしては用意されておらず、直接のメモリ操作や実行ではなくDOSないしは、BASICから呼び出す形となっている。 当時の多くのPCで採用されていたマイクロソフト系の命令セットを持っていたが、変数名は先頭から2文字のみでgoto命令などの飛び先は行番号のみなど初期の実装に近い形となっている反面、浮動小数点の演算では仮数部は6桁または14桁のBCDを仮想計算機として実装しており、システムの規模や速度に対して精度の高いものとなっている。この演算部分はBASIC以外からの呼び出しも可能なようにMath-Packとして外部からも呼び出せる手順が公開されているCITEREFMSX-Datapack11991。精度は高いものの相応に演算コストが高いため、ゲームなどレスポンスや処理速度を重視するケースでは変数を整数として宣言することがTipsとなっていた。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "更にオプションでMSX-DOSと呼ばれるCP/Mシステムコール互換OSも導入可能で、これを導入すれば既存のCP/Mアプリケーションの多くがファイルシステムをコンバートすることによりほぼそのまま動作し、CP/M環境で利用可能なアセンブリ言語、C言語、Pascal、COBOL、FORTRAN等も使え、またCP/Mで動く欧文ワープロや表計算等の実務アプリケーションも実行できた。 但し、本体が安価なMSXでは相対的にFDDは高価であり、活用されるようになるのはFDDを内蔵した本体が安価に提供されるようになったころからである。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "初代規格ではその構成部品に専用品を用いず、その時点で市場に供給されていた利用実績の豊富な既存の汎用半導体製品を採用し、基本仕様が安価に製造できるよう構築されていた。各メーカーから発売された機種はほぼローエンド(低価格帯)だった。 その代償で、仕様は平凡なものとなり、当時の主だったパソコンが高解像度化を求められていた中にあって、最大でも256×192ドットの解像度だったことと合わせて「先進的でない」と批判する意見もあった。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "価格帯と汎用性に舵を切った実装は、日本ではファミリーコンピュータと比較されてしまい、ゲーム専用のファミリーコンピュータのグラフィック性能と比較して劣っていたので「中途半端な子供の玩具」として受け取られた。", "title": "ソフトウェア" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "MSX向けの主要な商用パソコン通信サービスとしては、1986年12月からアスキーが運営したアスキーネットMSX、および松下グループ(後のパナソニックグループ)系のネットワーク企業・日本テレネットが運営するTHE LINKS(ザ・リンクス)がある。", "title": "ネットワーク" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "アスキーネットMSXは、MSXを所有していることが使用の条件だったが、実際に使えるマシンはMSXに限らなかった。NHK学園のパソコンの通信講座で使われたこともあった。", "title": "ネットワーク" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "対して、THE LINKSはMSX専用だった。画像通信やゲーム配信をサポートした独特のサービスで、対応機種をMSXに限定、モデムも専用ソフト搭載のカートリッジのみとすることにより、他のパソコン通信サービスにはないカラフルなコンテンツの提供や画像配信、動くメールなども実現していた。MSXによる日本語表現の特徴の一つである半角ひらがなやグラフィック文字はJISの規格外で、機種によって全く別のキャラクタが定義されており、MSXに限らず多機種混在のパソコン通信では使わないのが常識となっていたが、THE LINKSはその逆にJISやシフトJISの2bytes文字の日本語は書き込むことができず、1byteのMSX文字でコミュニケーションを取ることになっていた。THE LINKSのためだけの専用通信ソフトが必要で、通信ソフトが内蔵されたTHE LINKS専用モデムカートリッジがあった他、松下電器産業のモデムカートリッジに通信ソフトが内蔵されていた。", "title": "ネットワーク" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "当初は通信速度300bpsのモデムカートリッジが発売され、後には1200bpsの物も出た。MSXturboRが発売された時期にはパソコン通信も9600bpsを超える速度のモデムが一般化し、MSXでもRS-232CカートリッジとPCモデムを使用するユーザーが増えた。MSX2の中には本体に1200bpsモデムを搭載した、通信パソコンと称される機種もいくつか存在する。", "title": "ネットワーク" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "それ以外にもPC-VANやNIFTY-ServeにMSXに関係するSIGやフォーラムが設けられた。また、MSXの話題を扱う草の根BBSが全国に開設されており、MSX専門誌が休刊し、商業的にMSXが衰退した後は同人活動とともにパソコン通信での活動によって培われたコミュニティーがMSXを支えた。パソコン通信で発表されたフリーソフトウェアは、MSX専門誌のMSX・FANに付録ディスクに収録されたり、ソフトの自動販売機TAKERUで販売されたりもした。", "title": "ネットワーク" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "その他にMSXを用いたネットワークサービスには、囲碁のネット対戦「GO-NET」や株式投資などがあった。", "title": "ネットワーク" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "通信ソフトにはアスキーからMSX-TERMが発売されたが性能の悪さからあまり使用されず、フリーソフトウェアのmabTermやRAETERMや松戸タームが使われた。MSX向けのネット運営用ホストプログラムはMSXマガジンが開発した「網元さん」やMHRVなどが多く用いられた。", "title": "ネットワーク" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "MSXは音源としてPSG(AY-3-8910相当品)を持っていた。1983年当初はそれでも十分だったが、他のゲーム機やパソコンが音源機能を強化する中、MSXにも対抗上各種ミュージックシステムが開発された。", "title": "周辺機器" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "MSXでMIDIを使用することができるハードウェアも開発された。", "title": "周辺機器" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "これらインテリジェントなものや、スロットに差し込むハードウェアはコストが高く、規定のシリアルデータとしての信号を生成できれば演奏は可能であるため、汎用インターフェイス等を利用したMIDI出力の方法ならびに実装がユーザによって行われている。", "title": "周辺機器" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "MSX規格のもの、MSX向けのもののみ", "title": "周辺機器" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "MSXに賛同したメーカーには「メーカーコード」と呼ばれるIDが割り振られていた。メーカーコードを付与され1980年代から1990年代にかけてハードを製造した企業を以下にメーカーコード順に記す。", "title": "規格提唱企業と賛同メーカー" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "1980年代当時パソコンは、一般への普及を標榜していたため、テレビCMや雑誌・新聞広告に知名度の高い芸能人やキャラクターを起用する場合が多かった。MSXも数々のキャラクターでの宣伝を展開していた。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "なお、MSX発売メーカーの機種の専門誌としては他にOh!FM・Oh!PASOPIAがあるが、どちらもMSXは発売時に紹介された程度の扱いしかされていない。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "これら以外にも、ユーザーにより自主制作されたものも存在する。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "MSXは単価が安く、またカートリッジスロットからZ80のメモリーバス、アドレスバスをそのまま引き出すことが出来るため、Z80の付随回路としてシンプルに設計でき、拡張や工作が容易である。80系/Z80系の環境では標準とも言えるCP/M互換のMSX-DOSという原始的なOSや開発環境も整っており、既存のCP/M環境やMS-DOS環境からのクロス開発も容易だったため、組み込み用や制御用にも多く流用されていた。", "title": "派生品" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "一部の市販ビデオタイトラーやビデオテックス(キャプテン)システム、また公共施設等に設置されたビデオ端末や簡易ゲーム機などにもMSXを流用したハードウェアが内蔵され、稼動していた例も少なくない。", "title": "派生品" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "特にビデオタイトラーでは、ソニーのXV-J550/J770/T55Fシリーズや松下電器産業のVW-KT300などの家庭用タイトラーのハードウェア構成は明らかにMSXを応用・流用したものである。ただし、これらの機種では基本はMSXシステムをベースとしていても独自の実装がなされており、特にBIOSなどは大幅に簡略化されMSXとしての機能は望めないなど、簡単な加工程度では汎用のMSXシステムとして使うことは不可能である。それらのMSXベースのタイトラーは安価なビデオタイトラーとしてはかなり普及していた時期があり、一時期は企業ビデオパッケージ、解説ビデオやインディーズAVなどの小規模なビデオ関連の作品などにMSXの漢字ROMフォントとまったく同じフォントを用いたテロップを多く見かけることが出来た。", "title": "派生品" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "日本で300万台、海外で100万台くらい売れたMSXは、1983年の日経優秀製品賞も受賞した一方で「失敗だった」と語られることがあり、これに関して西和彦は2つの理由を挙げている。1つ目はMSXの位置づけであり、上位機種である16ビット機はIBMが既に事実上の標準になっており、ゲーム機である任天堂のファミリーコンピュータは安かったことで、MSXは存在意義を発揮することができなかった点である。2つ目はネットワークが不十分であるがゆえに、電話やテレビのように一家に一台の必需品になれず、ペンや電卓などのアナログを代替することができなかった点である。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "一方でMSXが発売されて10年以上過ぎたころ、西は「MSXが初めて出会ったコンピュータであり、この出会いがなければ、コンピュータの仕事をしていない」と語る人に出会ったことで、「MSXは使ってくれた人たちの記憶の中に生きていると思う」と語っている。", "title": "評価" } ]
MSX(エム・エス・エックス)とは、パソコンの共通規格の名称である。 1983年に最初の規格であるMSX(通称「MSX1」)が米マイクロソフトとアスキー(後のアスキー・メディアワークス)によって8ビットの規格として提唱された。元々は、アスキー・マイクロソフト側がメーカー独自のハードウェアに合わせたマイクロソフトBASICをカスタマイズする形で移植していたが、この方法ではメーカーならびに機種単位の互換性がないという欠点があったため、共通規格としてMSXが誕生した。 1985年にはMSX2、1988年にはMSX2+、1990年には16ビットのMSXturboRが提唱された。この間、世界の複数のメーカーからMSXの仕様に沿ったパソコンが発売され、MSXの誕生にかかわった西和彦によるとMSX対応機種は日本で約300万台、海外で約100万台売れたとされている。その後、blueMSXの様なMSXエミュレーターや、MSX2+をFPGAで再構成した1チップMSXやSX1Mini+なども登場した。 2023年にはMSX0、MSX3、MSX turboがMSXの権利者である西和彦より提唱され、西が理事を務める特定非営利活動法人IoTメディアラボラトリーによってMSX0の実装であるMSX0 Stackのクラウドファンディングが開始された。 MSXはこれらの総称でもある。
{{Otheruses}} {{出典の明記|date=2022年9月}} '''MSX'''(エム・エス・エックス)とは、[[パソコン]]の[[標準化|共通規格]]の名称である。 1983年に最初の規格である[[MSX (初代規格)|MSX]](通称「MSX1」{{Sfn|鎗田|宮崎|清水|1986|p=15}})が米[[マイクロソフト]]と[[アスキー (企業)|アスキー]](後の[[アスキー・メディアワークス]])によって[[8ビット]]の規格として提唱された。元々は、アスキー・マイクロソフト側がメーカー独自のハードウェアに合わせた[[BASIC|マイクロソフトBASIC]]をカスタマイズする形で移植していたが、この方法ではメーカーならびに機種単位の互換性がないという欠点があったため、共通規格としてMSXが誕生した<ref name=DiamondOnline_20201226>{{Cite web |和書 |author=西和彦 |authorlink=西和彦 |url=https://diamond.jp/articles/-/253320 |title=【伝説のパソコンMSX】仕掛け人がついに明かす「失敗の本質」|work=反省記 |website=ダイヤモンド・オンライン |publisher=ダイヤモンド社 |date=2020-12-26 |access-date=2023-10-11}}</ref>。 1985年には[[MSX2]]、1988年には[[MSX2+]]、1990年には[[16ビット]]の[[MSXturboR]]が提唱された。この間、世界の複数のメーカーからMSXの仕様に沿ったパソコンが発売され、MSXの誕生にかかわった[[西和彦]]によるとMSX対応機種は日本で約300万台、海外で約100万台売れたとされている{{R|DiamondOnline_20201226}}。その後、{{lang|en|[[:en:blueMSX|blueMSX]]}}の様なMSX[[エミュレータ (コンピュータ)|エミュレーター]]や、MSX2+を[[FPGA]]で再構成した[[1チップMSX]]やSX1Mini+なども登場した。 2023年には[[MSX0]]、[[MSX3]]、[[MSX turbo]]がMSXの権利者である[[西和彦]]より提唱され、西が理事を務める特定非営利活動法人IoTメディアラボラトリーによってMSX0の実装であるMSX0 Stackのクラウドファンディング<ref name="cloudfunding20230113">{{Cite web|和書|title=MSX0 Stackで伝説の8ビットMSXパソコンが甦り、IoT用コンピュータに |url=https://camp-fire.jp/projects/view/648742 |website=ダイヤモンド・オンライン |date=2023-01-13 |access-date=2023-02-01}}</ref>が開始された。 MSXはこれらの[[総称]]でもある。 == 歴史 == [[ファイル:MSX-Hit Bit HB-75P.jpg|thumb|200px|ソニー「HiT BiT」 HB-75]] [[ファイル:MSX FS-A1WX.JPG|thumb|200px|パナソニック FS-A1WX(MSX2+)]] === 日本 === {{出典範囲|text1=規格の提唱元であるアスキーの創設者の一人である[[西和彦]]が2023年のインタビューの中で語ったところによると、NECや日立といった企業が自社製品向けのBASICの制作をアスキーに依頼する際、コマンドの追加や特定や周辺機器のサポートまで頼まれて大変だったため、統一した規格を制定してIBM PCと一緒に売ろうとしたことが、MSX誕生のきっかけだったという。とはいえ、16ビット機であるIBM PCは当時の価格で1000ドル以上もしたため、MSXはより安価な[[パソコン]]の決定版として位置づけられた。|ref1=<ref name="4Gamer.net20230617">{{Cite web |title=[インタビュー]西 和彦氏に聞く「次世代MSX」とは何なのか――目指すのは,ユーザが自分で作り出す“遊び”の世界 |url=https://www.4gamer.net/games/663/G066303/20230529062/ |website=4Gamer.net |access-date=2023-06-17 |publisher=Aetas |date=2023/06/17}}</ref>}} ==== 1980年代 ==== [[1980年代]]初頭、日本国内におけるホビーユースの[[パーソナルコンピューター]]([[ホビーパソコン]])では主に[[マイクロソフト]]社の[[BASIC]][[インタープリタ]]が[[Read Only Memory|ROM]]で組み込まれ、システムの中心を担っていた。しかし、ハードウェアの設計は同じプロセッサーを用いても各々のシステムは大きく異なり、BASICレベルの互換性も、二次記憶装置の取り扱いやフォーマット・ハードウェアの仕様、性能の差異や拡張によって独自の変更が加えられ、俗にBASICの「方言」と呼ばれる非互換の部分が存在し、機種ごとにアプリケーションは作成・販売されていた。 当時マイクロソフトの極東担当副社長であり、[[アスキー (企業)|アスキー]]の副社長だった[[西和彦]]は大半の機種の開発に関わっていたことから、多くのメーカーと繋がりがあった。そのため、[[日本電気|日本電気 (NEC)]] ・[[シャープ]]・[[富士通]]の[[8ビット御三家|パソコン御三家]]に対して出遅れた[[家庭用電気機械器具|家電メーカー]]の大同団結を背景として、西が主導権を握る形でMSX規格は考案され、1983年6月27日に発表された。ハードウェア規格はスペクトラビデオ社の「[[:en:SV-318|SV-318]]」と「[[:en:SV-328|SV-328]]」が参考にされている。当初、マイクロソフト社長(当時)の[[ビル・ゲイツ]]は「ソフトウェアに専念すべき」との考えからMSX規格には反対だったが、西に説得される形で承認。「MSX」の名称は発売当時マイクロソフトの商標だったが、[[1986年]]のアスキーとの提携解消の折に著作権をマイクロソフト、商標権(販売権)をアスキーが所有することになった。 MSXの発表会には参入家電メーカー以外にも家庭用パソコン市場に参入した経験を持つ企業、または参入を計画していた企業が参加した。しかし、参入メーカー各社の足並みを揃えるため1984年に発売時期を調整している間に、[[任天堂]]の[[ファミリーコンピュータ]]やセガ・エンタープライゼス(後の[[セガ]])[[SC-3000]]等の競合機種が発売され、苦戦が予想された。また、当時国内パソコン市場シェア1位のNECは発売せず、シャープも海外でのみ発売するに留まった。[[FM-X]]を発売した富士通も「自社の製品と競合する」といった理由でMSX市場からは短期間で撤退。そのため、MSX規格は「弱者連合」などと揶揄された。 発売は当初予定より前倒しされ、主要家電メーカーの製品は1983年の秋から年末までに出揃った。アスキーは当初「1年間で70万台の出荷」という強気な目標値を掲げ、目標は達成できなかったものの、発売から2年強が経過した1986年1月にはMSXシリーズの総出荷台数が100万台を突破した。当時、国内メーカー製の8ビットパソコン市場で大きなシェアを有していたNECの[[PC-8801]]シリーズが累計100万台キャンペーンを企画していたが、台数的に達成出来ず結果として実現しておらず、当時としてはMSXは“日本製で最も売れた8ビットパソコン”として位置づけられる。その後も1988年の年末年始商戦だけで、FDD内蔵型のMSX2([[ソニー]]のHB-F1XDと[[パナソニック]]のFS-A1F)が22万台の売り上げを記録した<ref>[[テクノソフト (ゲーム会社)|テクノソフト]] MSX2版『[[ヘルツォーク (ゲーム)|ヘルツォーク]]』開発記より</ref>。 そしてMSX参入各社は、他社製品と差別化を図るべく[[ワープロ]]や動画編集など様々な機能を付加したMSXパソコンを発売した。しかし大部分の購入者はMSXを単なるゲーム機としか見ておらず、高機能・高価格な機種よりも低機能・低価格な機種を購入したため、参入各社間で価格競争が勃発。また他機種のパソコンとの競争も熾烈であり、MSX2が発売された1980年代後半には16ビットや32ビットCPUを採用した、より高性能な他機種の次世代パソコンや家庭用ゲーム機との販売競争に晒されたこともあり、元々参入が少なかった国外メーカーはMSX2で大半が撤退、次の規格であるMSX2+の対応機種を発売したのは日本のメーカー3社のみとなった。 ==== 1990年代 ==== 1990年には販売台数が全世界累計で400万台を突破{{Sfn|MSXマガジン永久保存版|2002|p={{要ページ番号|date=2023年10月}}}}。各MSX専門誌には「夢を乗せてMSX 400万台」のキャッチコピーが躍った。 しかし、この頃よりMSXを取り巻く環境は急速に悪化していき、1990年10月には16ビットCPUを搭載した新規格の[[MSXturboR]]{{Efn|MSX3という名称にはならなかったが、MSX2が発表された[[1985年]]前後には、Z80互換の16bitCPUの[[Z280]]、VDPはV9948、音源は[[MSX-AUDIO]](Y8950)という内容でMSX3が計画されていたという資料が存在している{{Sfn|MSXマガジン永久保存版2|2003|pp=60-61|loc=西和彦Special Interview 次期MSXの全貌 ユビキタスMSXが焦点}}。別の証言では、コードネームはTryX、CPUはZ80互換の高速CPU、VDPにはV9978かV9998とナンバリングされたVDPが予定されていたが、VDPの開発の遅れから高速CPUであるR800のみがMSXturboRに搭載されたとされる{{Sfn|MSXマガジン永久保存版2|2003|p=68|loc=超速コンパイラMSXべーしっ君たーぼとR800の秘密! 岸岡和也×鈴木仁志}}。後年に開発されたMSX3<ref>{{Cite web|和書|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1441900.html|title=「MSX3」のロゴマークが公開! 用途別に3種類が登場|publisher=GAME Watch|date=2022-09-22|accessdate=2022-10-31}}</ref>とは異なる。そちらはMSX3.1という試作機も作られた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/663/G066303/20221013156/|title=西和彦氏が「MSX 3.1」の写真を公開。複数モジュールを組み合わせたパワフルなマシンに|publisher=4Gamer.net|date=2022-10-13|accessdate=2022-10-31}}</ref>。}}がリリースされたものの、参入メーカーは松下電器1社のみとなった。同社の機種は好調なセールスを記録し、翌1991年末にも新機種を投入したが、[[サードパーティー]]によるMSX向け商品のリリース数は減少傾向にあり、MSX専門誌は休刊や廃刊が相次ぎ、『[[MSX・FAN]]』 ([[徳間書店インターメディア]]) のみが形態を変えて発刊を続けた。 松下電器は[[1994年]]に家庭用ゲーム機[[3DO|3DO REAL]]とIBM [[PC/AT互換機]]WOODYを発売。MSXの開発部隊は、大半が3DOの開発に移行した。同年に最後のMSX規格対応パソコンである「FS-A1GT」の生産を終了し、翌1995年には出荷も終了した。これをもって日本でのMSX規格は終焉したと世間一般では解釈されている。 この時期には[[Microsoft Windows 95]]が登場し、PC市場を拡大して[[デファクトスタンダード]]となりつつあった。MSX以外にも[[X68000]]や[[FM TOWNS]]といった日本独自規格のPCが姿を消して行き、日本のPC市場はWindows 95が動作するPC/AT互換機および[[PC-9800シリーズ|PC-98]]またはその互換機か、あるいは[[Macintosh]]へと集約されていき、その一方でMSXのコアユーザーによるハード製作などの活動が活発に行われるようになった。有志が東京、大阪、名古屋、福岡、札幌、倉敷でイベントや集いを開催したり、パソコン通信上などでは多数のフリーウェアが公開されたりした。特に漫画家の[[青井泰研]]{{Efn|後に青井大地に改名}}が東京で開催したイベント「MSXフェスタ」には、日本各地だけでなく海外からのユーザーも集まった。この他にもMSX復活プロジェクト(MFP)がハードディスクインターフェイスを開発するなど、最もMSXの同人の活動が盛んだったのもこの時期である。だが最終的には、それらコアユーザーの多くもWindowsなど別の環境へ移行した<ref>[http://rikunabi-next.yahoo.co.jp/tech/docs/ct_s03600.jsp?p=000631&__r=1 プログラムの“いろは”を教えてくれたMSXとは・前編|【Tech総研】]</ref><ref>[[NIGORO]]</ref>。 ==== 2000年代 ==== [[ファイル:1chipMSX (White background).jpg|thumb|200px|ワンチップMSX]] 1990年代末期から顕著になったMSXコアユーザーや同人サークルによるMSX離れは、JavaやFlashなど自由度の高い環境の登場により拍車がかかっていた。その一方MSXを使い続けるユーザーも少なからず存在したが、MSXの製造・サポートの中止かつハードウェアの老朽化による問題を抱え、解決策にエミュレーターやFPGAなどが用いられた。 [[2000年]]8月20日、東京・秋葉原のヒロセ無線本社ビル5Fにて「MSX電遊ランド2000」が開催され、そのイベント中で西がMSXの復活計画を発表する<ref>{{Cite web|和書|date=2000-08-21 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20000821/msx.htm |title=MSX電遊ランド開催、西和彦氏がMSXの公式エミュレータ提供を明言 |publisher=PC Watch |accessdate=2012-09-03}}</ref>。[[2002年]]には[[商標]]や[[システムソフトウェア]]などの管理を行う[[権利能力なき社団|任意団体]]「MSXアソシエーション」が発足し、公式[[エミュレータ (コンピュータ)|エミュレーター]]「[[MSXPLAYer]]」も公開された。後に従来多数のチップで構成されていたMSXの機能をひとつのチップに集積した「[[1チップMSX|1chipMSX]]」が製品化されている。そのほかのエミュレーターとしては[[fMSX]]、ルーMSX、NLMSX、blueMSX、openMSX、WebMSXなどがあり、Windowsやマッキントッシュのほか、[[PlayStation Portable|PSP]]や[[ニンテンドーDS]]や[[ゲームボーイアドバンス]]といった携帯型ゲーム機や、[[Java]]、[[Pocket PC]]などプラットフォーム上で動作させることができる。 2006年、[[Wii]]の価格発表の場で、旧来のゲームマシン・パソコンで供給されていたゲームソフトをインターネット上からダウンロード販売する「[[バーチャルコンソール]]」へのMSXソフトの投入が発表された。[[i-revo]]などで多くのMSXゲームの復刻実績を有する[[D4エンタープライズ]]が参入したことによって実現した。 [[2007年]]、MSXの商標権は西和彦と共に『株式会社MSXライセンシングコーポレーション』へ移る。日本での商標登録番号は第2709130号ほか{{Efn|[[2013年]]に[[本田技研工業]]が[[オートバイ]]・[[ホンダ・グロム|グロム]](海外名:MSX125)を発売する際、同年2月25日にMSXライセンシングコーポレーションが'''オートバイの商標として'''登録5717616で「MSX」を出願した。}}。 [[ファイル:GR8BIT assembled, out of the ATX chassis.jpg|thumb|GR8BITキット]] [[2011年]]、ロシアのAGE Labsがコンピューターの学習を目的としたGR8BITというMSXキットの発売を発表。価格はUS$499(369ユーロ)。また、日本の株式会社H&SがこのGR8BITを輸入販売すると発表し、価格は2012年3月末まで4万2千5百円<ref>[https://web.archive.org/web/20120224074513/http://www.offshore-ww.com:80/gr8bit-4.html GR8BIT(MSXを使用した教材)のお問い合わせ]</ref>、以降は5万3000円<ref>[https://web.archive.org/web/20150721173337/http://www.offshore-ww.com/gr8bit-4.html GR8BIT(MSXを使用した教材)のお問い合わせ]</ref>(送料/税/手数料別)で販売していたが、2015年にはドメインが失効しており、国内での販売はされていない。 ===== チップチューンブームとMSX ===== [[ファイル:AY-3-8910A Sound Chip.png|thumb|200px|PSG音源、AY-3-8910A]] 2000年代の別の動向として、日本でも[[チップチューン]]([[ゲームボーイ]]や[[ファミリーコンピュータ]]等による音楽演奏)ブームが起こった。それに伴いMSXによる音楽活動も比較的少数ではあるが再活発化した。かつて1980年代後半から1990年代前半頃に、MSXを扱う雑誌の投稿コーナーやパソコン通信のフォーラムで、その後のチップチューンに相当する音楽が発表されていた時期があった。しかし発表環境の衰退や消滅により、同ブームまでの間は一時停滞していた。 またエミュレータや1チップMSXの登場により、PSG・FM音源・SCC互換音源、さらにMSX-AUDIOや2個のSCC音源を同時発声させた音楽が昔に比べ多く発表されるようになった。 ==== 2020年代 ==== 2022年9月3日、MSX DEVCON TOKYO 1が開催され、MSX0、MSX3、MSX turbo規格が[[西和彦]]及び同氏が理事を務める特定非営利活動法人IoTメディアラボラトリー発表された。 2023年1月13日、IoT向けMSX0規格の実装であるMSX0 Stackのクラウドファンディングが開始された。 === 世界 === MSXの400万台以上の販売台数のうち、約半分が日本、残りの半分は海外での販売である{{Sfn|MSXマガジン永久保存版|2002|p=89}}。 MSXは日本国内のみならず、[[オランダ]]、[[ブラジル]]、[[大韓民国|韓国]]を中心に現地企業でも生産され、他の国にも輸出された。日本でパソコン御三家に対して出遅れた家電メーカーがMSXに参入したのと同様に、ブラジルの[[グラジエンテ]]やオランダの[[フィリップス]]といった、[[Apple II]]やZX Spectrumに対して出遅れた現地の大手家電メーカーがMSX規格に頼らざるを得なかったという事情もあり、MSXに注力したこれら大手企業の影響力が強い諸国ではそれなりに普及した。 MSXは、文字キャラクタをROMに記憶せずユーザが生成することができ、各国の言語の独特の文字に柔軟に対応でき、英語以外のマイナーな言語を使う国々向けにローカライゼーションをするうえで好都合なので、非英語圏を中心に高く評価された{{Sfn|前田|2020|loc=世界各国で発売されたMSX|pp=50-52}}。用途は国ごとに異なり、主に教育用途で使われた国と、主にゲーム用に使われた国に分かれる。アルゼンチンやソヴィエト連邦諸国では主に教育用コンピュータとして用いられた。スペイン、ブラジル、韓国などでは主にゲーム用に使われ、MSXはグラフィックチップに[[TMS9918]]を搭載するなどハードウェア構成がゲーム機の[[コレコビジョン]]や[[マスターシステム]]とよく似ておりそれらのゲームが移植しやすかった点も評価され普及に繋がることとなった。一方で英語圏ではあまり普及しなかった。 ==== 北米 ==== 北米のホームコンピューターのマーケットは既にコモドールなどが低価格競争を繰り広げていたため、スペクトラビデオとヤマハのMSXのみ発売されたがほとんどシェアを獲得できず、現地企業として唯一MSXに参加したスペクトラビデオも倒産の憂き目にあった。MSXが発売された1984年の時点で価格帯やスペック的に直接的な競合製品となったのはコモドールPlus/4と[[コモドール16]]であるが、同時期に初代MSXのスペックを遥かに上回る上位機種の[[コモドール64]]や[[Atari 8ビット・コンピュータ]]などが低価格競争に突入し急速に普及したため、ZX Spectrumやコモドール16など同時期の諸外国でエントリークラスとされたパソコン自体がそれほど普及しなかった。学校などで使われる「教育用コンピュータ」としても既にApple IIが存在したため普及しなかった。 ==== 欧州 ==== 当時の欧州のマイコン(パソコン)の市場は、アメリカ系のコモドール64(略称 C64)とイギリス系シンクレア[[ZX Spectrum]]がシェアを二分しており、1984年にはさらにイギリスのAmstrad社から[[Amstrad CPC|CPC 464]]が発売され(300万台ほど売れ)先行するC64とZX Spectrumのシェアを少し奪うという状況だった。欧州全体ではMSXとほぼ同じスペックで値段が安かったイギリス産のZX Spectrumの方がMSXより人気が高く、特にシンクレア社の地元イギリス、コモドールとアタリが強かったドイツなどではMSXはほとんど売れなかった。一方で、フィリップス社の地元オランダのほか、イタリア、スペインではMSXは人気があった。しかしこれらの国でも、1985年発売のコモドール[[Amiga]]と[[Atari ST]]にMSX2は対抗できず、1980年代末にかけて衰退していった。 欧州での展開では、序盤からテクニカルサポート体制の不備が指摘されるなど、海外進出を念頭に置いた戦略が十分ではなく、一部正規品の互換性問題などで苦戦を強いられていた{{efn|アスキーによる『マイクロソフト戦記―世界標準の作られ方―』(著:トム佐藤)の紹介記事の中では、本来ならマイクロソフトがMSXソフト開発キットをヨーロッパで発売すべきだったと指摘されている。また、同著では佐藤自身がアスキー側に「マイクロソフトが信頼できないのなら、アスキーがイギリスに拠点を置いてはどうか」と説得したものの失敗に終わったことが語られている{{R|ASCII20150313}}。}}{{R|ASCII20150313}}。 マイクロソフト社員として欧州でのMSX2の普及に携わったトム佐藤は、欧州における初代MSXの失敗の理由として「アスキーの世界戦略の欠如」「英語版のマニュアルの出来が悪いなどのサポートの悪さ」などを理由に挙げている<ref name="ASCII20150313">{{Cite web|和書|title=ビル・ゲイツ大激怒!? マイクロソフト側から見たMSXの物語:MSX31周年 |url=https://weekly.ascii.jp/elem/000/002/631/2631273/ |website=週刊アスキー |access-date=2022-09-05 |date=2015年03月13日}}</ref>。また、自身が中心となってソニー・フィリップス・アスキー・マイクロソフトの4社による共同普及体制をまとめ上げたはずのMSX2が失敗した理由として「[[プラザ合意]]による円高」「ビル・ゲイツと西和彦の関係悪化によるアスキーとマイクロソフトの提携解消」「アスキー上層部でも対立があった」などを理由に挙げており、1985年9月のベルリン・ファンケスターラング見本市([[IFA]])で大きな反響を呼んだMSX2の発表会がMSXのピークだったとしている{{R|ASCII20150313}}。 1985年にはMSX1の後継規格・MSX2が誕生し、ヨーロッパのほか、共産圏や南米にも進出したが、まもなく[[プラザ合意]]による円高によって他の輸出産業とともに窮地に立たされる{{R|ASCII20150313}}。 同時期、アスキーとマイクロソフトの対立が激化し、翌年1986年2月に両社の提携が解消されたほか、アスキーの上層部の間でもMSXの扱いで対立が起きていた。 その結果、MSXはヨーロッパ市場からの撤退を余儀なくされた<ref name="ASCII20150313">{{Cite web|和書|title=ビル・ゲイツ大激怒!? マイクロソフト側から見たMSXの物語:MSX31周年 |url=https://weekly.ascii.jp/elem/000/002/631/2631273/ |website=週刊アスキー |access-date=2022-09-05 |date=2015年03月13日}}</ref>。 [[イギリス]]ではZX Spectrumの人気が非常に高く、MSXは東芝の現地法人が大きな宣伝をかけたわりにほとんど売れなかった。現地企業の{{仮リンク|ドラゴンデータ|en|Dragon Data}}が参入を表明していたが、「{{仮リンク|ドラゴンMSX|en|Dragon MSX}}」として知られるプロトタイプ機がいくつか作られたのみで発売前に倒産した。MSXはZX SpectrumとCPUが同じだったため、ZX Spectrum用ソフトのベタ移植という形でMSX用ソフトもそれなりに発売されているが、MSXではスロットの割り当てやキーバインドなどメーカーごとの細かい差異を考慮する必要があり、さらにVDPを介したVRAMという構造は同一のアルゴリズムでの描画処理には速度的に足かせとなった([[:en:MSX Video access method|MSX Video access method]]を参照)。規格としてはメモリ16Kだったものの現実にはメモリ48Kが標準だったZX Spectrumに対し、MSXにはメモリがたった8KBのCasio [[PV-7]]が現実に存在したことも悪い意味で大きかった。ヨーロッパでMSXの最低ラインとなったフィリップス VG 8000もメモリが16KBしかなく、しかもフィリップスの初期シリーズは正規のMSXを標榜しながら互換性問題が発生した。 [[オランダ]]では現地の家電大手[[フィリップス]]がMSX機を販売していた{{Sfn|前田|2020|loc=世界各国で発売されたMSX|pp=50-52}}。1980年代のオランダではMSXは[[コモドール]]社の[[コモドール64]]や[[シンクレア・リサーチ|シンクレア]]社の[[ZX Spectrum]]を抑え、最も人気のあるコンピューター<ref>{{Cite web|url=http://computerworld.nl/article/1302/poll-resultaten.html |title=Computerworld - Poll resultaten |accessdate=2014-10-13}}</ref>であり、世界的にもユーザー数で考えた場合に日本に次ぐ第2の市場となった。MSX専門誌の「MSX Computer Club Magazine」の定期刊行は1995年12月/1996年1月号まで続き、これは日本のMSX・FANよりも長い。MSXの商業的な活動が終息した後、1990年代以降の同人ベースでの活動、また2000年代以降のwebベースでの活動も活発であり、世界のMSX情報の集積地となっているwebサイト「MSX Resource Center [https://www.msx.org/]」もオランダのサイトである。 [[スペイン]]ではリリースされたMSX用ソフトの数が日本に次いで多く{{Sfn|前田|2020|loc=世界各国で発売されたMSX|pp=50-52}}、ソフトウェア販売数で考えた場合には日本に次ぐ第2の市場となった{{Sfn|MSXマガジン永久保存版2|2003|p=160}}。リリースされたソフトはほとんどがゲームで、ほかに実用ソフトも販売されており、ワープロなどを含んだ統合GUI環境の「EASE」まで存在していた。EASEはフィリップス社製MSX2機に標準添付されたため、オランダやイタリアでも愛用者が多かった。スペインのMSX市場は1985年に最盛期を迎え、MSX専門誌が3誌も販売されていたが、1980年代末にかけて衰退していった。MSXの商業的な活動が終息した1989年以降は同人による活動が活発になり、やはり多くのゲームがリリースされたが、著作権的に問題のある移植ものが多い。webでは2002年設立の同人ゲームサークルが母体となった Karoshi MSX がコミュニティの総本山にあたり、2003年から開催されている欧州のMSX1用インディーズゲームコンテストの MSXdev を2011年より引き継いで主宰している。 ==== 韓国 ==== [[ファイル:Daewoo CPC-300E.png|thumb|200px|韓国で販売された、大宇電子「IQ-2000」 CPC-300E(MSX2)]] 韓国でMSXは三星電子、金星電子、大宇電子、と複数の現地大手メーカーから発売され、Apple IIとシェアを二分する成功を収めた。三星電子と金星電子は早期に撤退し、MSX2は大宇電子のみが発売した。FDDも周辺機器として発売されたが、当時としてはかなり高価だったためにあまり普及しなかった。ただしMSX発売当時の韓国はコンピュータプログラムに対する法的保護がなかったことから、コンピュータショップではROMゲームを手数料程度でFDにコピーするサービスを行っており、それらの恩恵を受けるために高額なFDDを買う需要が多少あった。ゲームマシンとしても利用され、MSXソフトが動作するもののキーボードがないなどMSX仕様を満たさない[[大宇財閥|大宇電子]]の[[Zemmix]]という[[家庭用ゲーム機]]も発売されている{{Sfn|前田|2020|loc=世界各国で発売されたMSX|pp=50-52}}。 1990年代には三星電子のメガドライブ互換機や金星電子の3DO互換機なども発売されたが、高価な次世代機に移行できない層の存在と、Zemmixの普及率から、旧世代機であるZemmixの市場が長く併存したことにより、大宇電子は1995年までZemmixを販売し続け、日本国外の製品としては唯一MSX2+規格に対応したゲーム機Zemmix Turboまでも発売している。 また、韓国のMSX2ではハングル表示用のSCREEN9があり、ゲーム雑誌編集者の前田尋之は、これが韓国内で普及した一番の理由ではないかと推測している{{Sfn|前田|2020|loc=世界各国で発売されたMSX|pp=50-52}}。 ==== 中南米 ==== [[ファイル:Gradiente_MSX.jpg|thumb|200px|ブラジルで販売された、Gradiente 「Expert」 GPC-1(MSX)]] ブラジルでは現地大手家電メーカーのグラジエンテと、シャープのブラジル法人シャープ・ド・ブラジルが1986年頃より製造販売した{{Sfn|前田|2020|loc=世界各国で発売されたMSX|pp=50-52}}<!--年代についての言及無し-->。[[Atari 2600]]の代理店からMSX機の販売に切り替えた経緯があるグラジエンテを始めとして、シャープもMSXをパソコンというより安価なゲーム機の代替品として捉えていたようで、MSX2規格の発表以後にもかかわらず初代MSXしか販売されなかった{{Sfn|前田|2020|loc=世界各国で発売されたMSX|pp=50-52}}<!--後半部分のみの出典-->。ブラジルでは国内産業保護のために海外製ハード・ソフトの輸入に法外な関税をかけて事実上禁止する法律があるため(ライセンスを得て現地生産することで関税を回避できる。または密輸か違法コピー)、当地で流通したゲームは全て国内製、販売されたMSX機は上記の現地大手家電メーカー2社によるものだけだったが、テレビCMを含む積極的なキャンペーンの結果、MSXは発売から2年で10万台、トータルで40万台の大ヒットとなった。 初代MSXが普及し専門誌による情報交換も盛んだったブラジルではユーザーコミュニティがMSX2の発売を切望していたが、シャープは1988年にMSXから撤退。グラジエンテも1990年にはMSXから撤退し、以降はMSX2ではなくファミコンを販売した。そのため、サードパーティーからMSX2相当にパワーアップする製品などが発売され{{Sfn|前田|2020|loc=世界各国で発売されたMSX|pp=50-52}}、ユーザーコミュニティによる自主制作も盛んとなった。それなりの知識があれば、各種アップグレードパーツを用いてMSX2用のメガROMのゲームを日本と同様にプレイすることが可能だった{{Sfn|MSXマガジン永久保存版2|2003|p=162}}。5.25インチフロッピーディスクを流通媒体とする独特の同人文化も発達した。 アルゼンチンでは地元メーカーのテレマティカが1984年にDaewoo MSX DPC-200をベースにしたTalent MSX DPC-200を発売。他にはスペクトラビデオやグラジエンテ、東芝の製品もわずかながら販売された。また、アルゼンチンではMSXを「教育用コンピューター」として学校教育で国家レベルで導入されたており、学校教育の中でMSX-[[LOGO]]言語が教えられていた。テレマティカが1987年に発売したMSX2 TPC-310はコマーシャルで「ターボ」のキャッチコピーを売りにしていたが、あくまでキャッチコピー上の文句だけで、実際は普通のMSX2機である。アルゼンチンでのMSXの販売は1990年に終息した。 キューバでは東芝とパナソニックのMSXが1985年に学校教育で採用され、"Intelligent keyboards"の名称で呼ばれた。ただしパソコンの一般への販売は禁止されていた。 ==== 中東 ==== [[File:Yamaha msx ax120 1.jpg|thumb|right|200px|アラビア語にローカライズされアラブ諸国で販売されたSakhr AX-150。YamahaのロゴとSakhr(صخر)のロゴが確認できる]] アラブ諸国ではクウェートの大手[[システムインテグレーター|SI]]であるAl Alamiahが日本からヤマハや三洋などのMSX機を輸入しており、子会社のSakhr社によって[[アラビア語]]用ローカライズを行い販売していた。このようにMSXは、韓国向けでは[[ハングル]]、[[アラブ諸国]]向けに[[アラビア文字]]を使えるなど、現地向けに仕様をローカライズすることが可能だった。Sakhr AX330はファミコンとMSXの複合機、Sakhr AX660とSakhr AX990はメガドライブとMSXの複合機であるが、アル・アラミアはMSXのライセンスを得ていないため、ハードの詳細は不明である。パソコンとゲーム機の複合機は[[テラドライブ]]など他に例があるが、1993年に発売されたSakhr AX990がMSX2以降ではなく初代MSXとの複合機なのは、MSXマガジンでも「謎」としている{{Sfn|MSXマガジン永久保存版3|2005|p={{要ページ番号|date=2023年10月}}}}。ソフトウェアは、ファーストパーティであるAl Alamiah/Sakhr社が本体にバンドルしていたもの以外にも、Methali社など複数の現地メーカーから供給されていたが、SakhrはMSXを「教育用コンピューター」と銘打って販売していたため、教育ソフトや教育ゲームが多い。珍しいソフトとしては、Al AlamiahがMSX版『[[コーラン]]』を販売していた。 ==== ソヴィエト連邦、東側諸国 ==== [[ソヴィエト連邦|ソ連]]などの共産圏ではMSXは学校などに多数納入され、初等教育の現場でも応用されていた。当時の東側諸国は政府によって市場が統制された[[社会主義]]の国家であり、『物資は全て、国家が人民に供給・配給する』という形態をとっていたので、資本主義経済のもとで市場競争によってホビーパソコンが大きな市場を築いた西側諸国とは違って、東側諸国のパソコンは国営企業が独占的に製造し、ほとんどが産業用途か教育用途に回された。一方で年収くらいする高価なパソコンを自分で購入したり、市場に存在する数百個のパーツを集めてパソコンを文字通り自作する方法を指南する無線マニア向け雑誌も存在した。当時、輸入パソコンは外貨で購入可能な公営ショップ(東ドイツの[[インターショップ]]など)で高価格で販売されるのが一般的で、一般人が購入するのは現実的ではなかったが、実際には多くの東側諸国に西側諸国のパソコン(日本製も含む)が政府の監視をかいくぐってこっそりと持ち込まれており、その流通には不明な点が多い。 「東側諸国」と言っても、必ずしも国営企業の製造したパソコンがメインで普及したというわけではなく、例えばチェコスロバキアでは、国営メーカーが製造販売したZX Spectrum互換機に次いで、輸入パソコンなのになぜか普通に電気店で販売されていたSharp [[MZ-800]]の人気が高かったりするなど、国によって特色がある。MSXは、ソ連で特に教育用として普及し、国営メーカーによる教育用MSX互換機製造の試みが続けられたり、宇宙開発用として宇宙ステーション[[ミール]]に搭載されるなど、1985年ごろは大きな影響力を持った。ただしソ連でMSXは「学校で使う教育用パソコン」のイメージがあったのと、高価だったため、1986年以後に低価格化した国産機の[[エレクトロニカBKシリーズ]]の方が家庭用としてはユーザー数はずっと多かった。 ===== MSXと冷戦 ===== [[ファイル:YAMAYAMA.JPG|thumb|ソ連の学校教育用ネットワークシステムKUVTで採用された、ヤマハ YIS 503IIR。日本市場向けYIS 503IIを[[SECAM]]のビデオ出力に対応させたソ連専用モデルで、{{Lang|ru|КУВТ}}のロゴが見える<ref>[http://tvtropes.org/pmwiki/pmwiki.php/Main/MSX MSX - Television Tropes & Idioms]</ref>。]] [[冷戦]]時代、[[西側諸国]]ではコンピューターを含む電子機器の輸出を[[対共産圏輸出統制委員会]](ココム)で制限しており、[[ソビエト連邦]]を中心とする[[共産圏]]の国々では[[16ビット]]以上の高性能コンピューターを[[西側諸国|西側]]から輸入することが出来なかった<ref>[http://samuelevansresearch.org/main/cocom-lists/ Samuel Evans’ Research » CoCom Lists] [http://www.scribd.com/doc/22775440/CoCom-Lists-1985 CoCom Lists - 1985] - 1985年のイギリスの禁輸品リスト。 ''"They fall within the scope of sub-item h 1 ii a and are micro-processor based systems having a word length of more than 16 bit;"''(P.41 IL1565>12>b>6>ii))</ref>。そのため、規制対象外とされていた[[8ビット]]機を大量に輸入し、また[[コピー]]して使用していた。機種は用途に応じて選別されていた。 これらの中にはMSXも含まれており、特にソ連やキューバでは国家の教育プログラムで導入された。その拡張性や互換性などが評価された結果、学校[[教育]]のみならず各分野で応用された。教育用には独自に簡易ネットワークシステムまで構築して利用していた例もある<ref>[http://www.leningrad.su/museum/show_calc.php?n=218 Soviet Digital Electronics Museum -- YAMAHA YIS805(KYBT2 MSX2) -- Ямаха YIS805(КУВТ2 MSX2) -- Коллекция советской цифровой электроники] ''"Teachers computer of the YIS805 / YIS503IIIR classroom network."''</ref>。 冷戦終了前後にはMSX機が東側で正式に販売され、ビデオタイトラーやラベリング機のアーキテクチャなどとしても利用された。市場が開放された時期は国によって違うが、例えばソ連で西側のパソコンが正式に発売されるのは[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]政権による1988年の協同組合(コーポラティヴ)解禁以降となる。ソ連では他の東欧諸国より市場開放そのものが遅れたうえ、ZX Spectrumが4万ルーブル(年収の13年分)で販売されるなど、西側の旧型機を輸入して高価格で売る企業が多かったので<ref>[https://hally.hatenadiary.com/entry/20040827/p2 ソヴィエト・ロシアのパソコン黎明期] - classic 8-bit/16-bit topics</ref>、パソコンの普及も他の東欧諸国より遅れたが、1991年にZX Spectrum互換機「[[:ru:Пентагон_(компьютер)|ペンタゴン]]」がZX Spectrumの心臓部である[[ゲートアレイ]]の解析を完了すると、旧ソ連地域でもZX Spectrumの海賊版であるPentagonのさらに海賊版メーカーが乱立して市場を埋め尽くした。 ソ連では1985年に学校へのコンピュータ導入プロジェクト「{{lang|ru|[[:ru:комплекс учебной вычислительной техники|комплекс учебной вычислительной техники]]}}」、略称:{{lang|ru|КУВТ}}(KUVT)が開始され、ヤマハのMSX機をベースとする教育用ネットワークシステムが「[[YAMAHA KUVT]]」として各学校に構築された(そのため、ソ連ではMSXは「YAMAHA」(Ямаха)の愛称で呼ばれる)。ヤマハの機種を用いたシステムとしては、YIS 805R(先生側)とYIS 503IIR(生徒側)が採用された{{lang|ru|КУВТ}}と、YIS 128R(先生側)とYIS 503IIIR(生徒側)が採用された{{lang|ru|КУВТ2}}が存在する。それぞれ、単純に輸入したものではなく、ロシア語キーボードを搭載したソ連向け専用モデルである。1986年度の{{lang|ru|КУВТ-86}}では国産機の{{lang|ru|БК-0010Ш}}が採用されるなど、すぐに輸入機から国産機に切り替わったため、YISの採用数は1万5千台程度とされる。教育映画の『{{lang|ru|Поехал поезд в Бульзибар}}』(1986年)では、教育の一環として教師の監督の元『[[イーアルカンフー]]』や『[[けっきょく南極大冒険]]』を楽しそうにプレイする子供たちの姿が描かれている。 1985年当時、MSX機は一般には販売されておらず、国産機と言えども一般人には購入できないほど高価だったため、当時のソ連の人民が触れることのできたコンピュータは、基本的に学校にあるこのヤマハの教育用パソコンであり、「YAMAHA」はパソコンの代名詞となった{{Efn|後にWikipediaのサーバーで使われている[[nginx]]を制作することになる、カザフ・ソビエト社会主義共和国生まれの[[イーゴリ・シソエフ]]({{lang|ru|Игорь Сысоев}})は、 nginxのユーザー会のために2014年に来日した際に、学校で日本の「YAMAHA」に出会ったことがきっかけでコンピュータサイエンスの道に進んだことを公言した<ref>{{Cite web|和書|author=三浦美沙 |url=https://heartbeats.jp/hbblog/2014/06/nginx-ug-jp-0.html#more |title=Nginx ユーザ会 #0 に行ってきました! |publisher=ハートビーツ |date=2014-06-25 |accessdate=2022-09-30}}</ref>。}}。ただし導入状況は学校によるので、MSXを全然知らない人も多い。また、1980年代後半以降には、ヤマハ以外にも大宇電子や東芝など、数は少ないながら日本や韓国から複数のメーカのMSX機が教育用として輸入された。 1980年代後半には国産機の展開が本格的に始まったこともあり、MSX機は家庭用ホビーパソコンとしてはあまり普及したわけではない。当時は月収が100-150ルーブルの中、パソコンは1000ルーブルくらいの高価格のためにほとんど普及していなかったが、1987年頃には国産機のエレクトロニカBKシリーズが650ルーブルまで低価格化したこともあって、ホビースト向けに7万8000台を売り上げる大ヒット機となり<ref>[https://jp.rbth.com/multimedia/pictures/2014/04/07/11_47837 インターネット以前:ソ連製PCトップ11] - ロシア・ビヨンド</ref>、MSXの家庭普及率を大きく上回った。BKシリーズは教育用パソコンとしてもYAMAHAと並ぶ勢いがあったが、一方でMSXのアーキテクチャ自体は政府に好評で、その後もソ連で教育用パソコン向けにMSX互換機の開発が行われた。 ペンザ州計算機工場が1987年にリリースした{{Lang|ru|ПК8000}}は、MSXアーキテクチャをベースとして開発が行われたが、当時のソ連はMSXの心臓部であるZ80互換プロセッサ、TMS9918互換ビデオプロセッサ、PSG互換音源を自国内だけで開発することができず、MSX規格との互換性は限定的にならざるを得なかった。それでもMSX-BASIC互換を目指し、GW-BASICを拡張したインタプリタを搭載した。64Kの大容量RAMなど良い点もあったが、場合によって非常に遅くなる、圧電スピーカー(ビープ1音)、1000ルーブルを超える高価格など、悪い点も多く、市場ではあまり受け入れられなかった。 1989年にリリースされた後継機の「[[:ru:ПК8002 «Эльф» |ПК8002『エルフ』]]」は、MSX2アーキテクチャを目指して設計されたパソコンであり、PSG音源相当の3チャネルサウンドなどを搭載したが、V9938互換ビデオプロセッサを開発することができなかったため、MSX2規格との互換性は限定的にならざるを得なかった。それでも教育用コンピュータとしての導入を目指して1000台から2000台が製造され、『[[ロードファイター]]』や『[[爆弾男 (ゲーム)|ボンバーマン]]』の移植なども行われたが、ソ連崩壊に伴う経済危機により以後の開発は中止された。なお、ПК8002には『PUT UP』(MSXマガジン87年10月号に掲載)が移植されており、1987年当時のソ連政府はMマガを購読していたとされる。 [[File:Interior of Mir Core Module.jpg|thumb|[[ミール・コアモジュール]](1996年)。左側の「GENLOCKER」(ゲンロッカー、複数の機器で映像を同期させる信号を生成する装置)と書かれた白い機材がHB-G900AP、その上にある「VIDEOTIZER」(ビデオタイザー、映像をパソコンに取り込む装置)と書かれた機材がHBI-G900と見られる]] ソ連の軌道宇宙船[[ミール]]でも、MSX2規格の動画編集機であるソニーHB-G900AP{{Efn|HB-G900シリーズは、日本ではソニー製MSXの最上位機種として「HitBit PRO」の愛称で1986年に発売されたSONY HB-F900シリーズの欧州版である。「AVクリエイター」の愛称で販売された周辺機器のHBI-F900と組み合わせることで、家庭でスーパーインポーズやモザイク処理など「プロ並み」のビデオ編集ができることがウリであり、HB-F900の本体価格が148,000円、「AVクリエイター」も64,800円とビデオ編集機としては安価なことから、日本でも結婚式や運動会などの用途で重宝された(なおソニーは業務用ビデオ編集機として「SMCシリーズ」と言う別のラインがあり、業務用や宇宙開発用としてMSX機を使うことは本来は想定されていない)。}}と見られる機材<ref>[http://www.msximages.com/displayimage.php?pid=4385 ソニーHB-G900AP]</ref> が設置されており、1990年12月のTBS宇宙プロジェクト『[[日本人初!宇宙へ]]』にて撮影されたビデオの編集に使用されていたことがスポンサーであるソニーの技術情報誌の特集記事として掲載された<ref>{{全国書誌番号|00052411}}</ref>。 音楽制作ではYAMAHA CX-5が良く使われ(アルバムのジャケット写真やライナーの使用機材紹介でよく載っている)、{{仮リンク|アンドレイ・ロジオノフ&ボリスチホミーロフ|ru|Андрей Родионов и Борис Тихомиров}}はソ連初のテクノアルバム『パルス1』(1985年)を制作している。これは当時のソ連ではテレビのエアロビクス番組が流行っており、体操用の音楽として[[ソビエト連邦文化省]]の要請により制作されたものである。当時のソ連はアフガン侵攻による経済制裁中ながら、ヤマハがソ連の教育プログラム「YAMAHA KUVT」向けにMSXの特注モデルを制作して輸出するなど、ソ連と日本の通商は比較的活発であり、YAMAHA CX-5やRoland TR-909など、西側とそれほど変わらない日本製の機材が使用されていることがアルバムのライナーで紹介されている。アルバム『512 kbytes』(1987年)のジャケットでは、DTMやアートワークの制作に使ったYAMAHA YIS 805Rや、EIZO製のモニターなどの周辺機器が紹介されている(КУВТで導入されたものと同じ機材)。アンドレイ・ロジオノフはMSX用ゲームも制作してリリースしている。こちらも教育用としてソ連文化省と防衛省の要請によって作られたもので、パッケージにはその旨の記載がある。また、リズムマシンYAMAHA RX15の制御にCX-5を使用した『Танцы на битом стекле』(1989)を手掛けた{{仮リンク|アレクセイ・ヴィシュニャ|ru|Вишня, Алексей Фёдорович}}や、CX-5に搭載されたFM音源モジュールYAMAHA SFG-05を活用したНовая Коллекцияなども、MSXを活用したソ連のテクノミュージシャンである。ただし、当時のソ連にテクノやDTMが存在したことが西側諸国に知られるのは、ソ連崩壊後のことである。 ソ連崩壊後にパソコンやゲーム機の海賊版メーカーが乱立した時期には、MSX-DOSと一部に互換性のあるOSを搭載した[[Amstrad CPC]]ベースのMSX互換機Алеста(1993年)や、MSX-DOSと一部に互換性のあるOSを搭載したZX Spectrum互換機のATMターボ2(1993年)など、特殊なハードもリリースされた。なお、ソ連時代はMSX機は一般には販売されていないので、MSX機の所有者は存在しないはずだが、YAMAHA製のキーボードやリズムマシンと一緒にYAMAHAのMSX機を使っているテクノミュージシャン以外に一般人の中にもなぜか正規のYAMAHA製MSX機を所有している熱狂的なファンもおり、2000年代以降にも熱狂的なファンによる互換機が制作されたり、海賊版ハードの乱立時期に製造された製品をFPGAを利用してさらに進化させたハードがリリースされた。 == 特徴 == MSXは「子供に買い与えられる安価なパーソナルコンピューター」「コンピューターの学習に繋げられるコンピューターの入門機」として構想された<ref>[http://research.cesa.or.jp/keifu/nishi/nishi02.html 第2回 ゲームもできるコンピューター入門機「MSX」]</ref>。その一方で必要に応じてシステムを拡張することで本格的なプログラミングや実務処理にも使うことが可能な、総合的なホームコンピューターとしても設計されている。 [[MZ-700]]、[[ぴゅう太]]、M5、JR-100、PC-6001、RX-78、SC-3000など、他の当時の低価格入門機のパソコンと同じ様にテレビやカセットデッキをモニターや二次記憶装置として流用するようなシステムとなっている。 MSXは単なる入門型パソコンとしてのみならず、当時の大人のマニア向けゲームハードという側面をもつ。時には家電品として、時には楽器として、時には当時の「[[ニューメディア]]」として分類される。それは、MSXが松下電器や日本ビクターなどのように家電品のルートで販売されたり、ヤマハや河合楽器などの楽器店のルートで販売されたり、フィリップスやNTTの[[キャプテンシステム]]のようにニューメディアと位置づけて販売されたが、それは主にゲーム機として利用された事情による。 またメーカーを越えてハードウェアおよびソフトウェア資産が利用できる統一規格であり、「[[オープンアーキテクチャ]]」のさきがけである。CPU、[[VDP]]、メモリーマップ、I/Oマップ等のハードウェア仕様を規定するレベルに留まらず、後述のようなスロット機構の採用とシステム(BASICおよびDOS)と密接に連携し、機能拡張の抽象化を担う[[Basic Input/Output System|BIOS]]を介することを前提に、柔軟性と互換性を維持する形となっている。 == 名称の由来 == ; マイクロソフト説 : アスキーの副社長だった[[西和彦]]が[[1984年]]に語ったところによれば、由来は'''M'''icro'''S'''oft e'''X'''の略とされる。Xには「'''eXchangeable'''」「'''eXpandable'''」「'''eXtended'''」などの意味が含有され、また日本語訳のときにXは拡張性が無限に広がるという意味もこめて未知数のXであるとされている。後年の[[DirectX|Direct'''X''']]、[[ActiveX|Active'''X''']]、[[Xbox (ゲーム機)|'''X'''box]]、[[Microsoft Windows XP|Windows '''X'''P]]、[[Microsoft XNA|'''X'''NA]]など、マイクロソフトの「'''X好き'''」はこの頃から現れていると指摘する声もある<ref>[https://atmarkit.itmedia.co.jp/fsys/pcencyclopedia/001jp_pc_history01/jp_pc_hist02.html 第1回 日本のPC史を振り返る(前編)~PC-9801の時代]</ref>。 ; 松下とソニー説(MSX販売当時) : MSX2+以降、参入メーカーが松下電器産業(後の[[パナソニックホールディングス]])、[[ソニー]]、[[三洋電機]]と、頭文字が軒並みMとSだったことから、そのうちの代表格と言えるメーカーから「'''M'''atsushita(松下)・'''S'''ony(ソニー)・Xの略では?」などと、当時のユーザーや雑誌編集者が冗談混じりに語ることもあった(三洋電機も略称内に含めることもあった)。この冗談は、統一規格を謳いながらも限られた会社からしかハードが発売されなくなってしまった状況の変化を皮肉ったものだった。 : 同様の説を冗談だと断った上で、単に家電メーカーの代表格が松下電器産業とソニーであるという趣旨で紹介した書籍もある{{Sfn|那野|1988|p={{要ページ番号|date=2023年10月}}}}。 ; 松下とソニー説(規格発表以前) : 主に後年になって語られるようになったものとして、規格構想時は確かに「'''松下とソニーのMSX'''」であり、それが後に建前上の理由から「MicroSoftX」に変化した、との説も存在する。書籍により語られるようになった後、当事者が当時を振り返っての公演・発言をする際に同様の趣旨の内容が言われるようになった。 : 曰く、MSXの初期の構想時にはマイクロソフトは関与しておらず、西和彦と、規格の推進役かつ後ろ盾だった松下電器産業(後のパナソニック)の前田一泰のイニシャルから、当初は'''MNX'''と呼ばれていた。だがこの名称は既に商標登録されていたため、ソニーが話に加わったことでMSXと改まった。西によると、松下電器産業に企画を持っていく際には「MSのMは松下」、[[ソニー]]に企画を持っていく際は「MSのSはソニー」だと言ってアピールしたと語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1200221.html |title=日本パソコン史のはじまりとも言える、NEC PC-8001の誕生を振り返る |access-date=2022-05-08 |publisher=インプレス}}</ref>。 : しかし日本のメーカーが提唱する規格にアメリカのMicrosoftが関与するという点に[[経済産業省|通商産業省]]からクレームがついたことで、松下電器産業とソニーは前面に立つわけにいかなかったため、名称はそのままに、「'''マイクロソフトのMSX'''」と説明したという経緯とされる。 : このことは書籍{{Sfn|滝田|1997|p={{要ページ番号|date=2023年10月}}}}に初めて書かれた後、規格発表当初はマイクロソフトから取ったと語った西和彦も同様に語るようになった。[[2000年]]のイベント「電遊ランド2000」の講演会で、この説について質問された際も「そう受け取っても構わない」と答えたという。翌[[2001年]]の「電遊ランド2001」での前田一泰の講演でも、同様の趣旨の発言がされている。 ; 候補に上がった名称 : 規格発表以前の段階では、'''MSX'''や前述の'''MNX'''の他に、西和彦の名から'''NSX'''、アスキーから取られた'''ASX'''などが候補に上り、商標登録された。 == ロゴマーク == [[ファイル:Canon V-20 MSX computer.jpg|thumb|right|キヤノンV-20。<br />右下隅にMSXのロゴマークが見える。]] MSX仕様に準拠したハードウェアとソフトウェアにはMSXのロゴマークが付与された。このMSXマークで「MSXで動く」と分かるように、ホームビデオの[[VHS]]を参考に発案・デザインされた。以後、MSX2、MSX2+、MSXturboRとMSXがバージョンアップする度にロゴは作られ、MSX2からは起動画面にMSXロゴが表示されるようになった。公式MSXエミュレーターの「MSXPLAYer」でもMSXのロゴは踏襲された。デザインは全て西が元になるアイデアを出した。 このロゴマークのついたMSX仕様のソフトウェアを発売する際に[[ロイヤルティー]]は不要だった。これはMSX発表当時、対抗規格を打ち出して来た日本ソフトバンク(後の[[ソフトバンク]])の[[孫正義]]と西和彦のトップ会談によって決定されたものである{{Sfn|パソコン大図鑑84|1983|p=87|loc=ホットランダムニュース}}{{Sfn|トム佐藤|2009|p=53}}。 MSX0、MSX3、MSX turboでは従来のロゴマーク踏襲しつつ、やや細身となったMSXの文字と、ピクセル化された英数字の組み合わせとなっている。 == ハードウェア == 後述のスロットによるアドレス空間の拡張や、BIOSによるリソース管理の仕組みの特徴は、後継製品でもモード切替に因らないシームレスな後方互換性の実現や、規格の拡張に寄与している。 === CPU === MSX1, MSX2, MSX2+は[[8ビット]][[CPU]]の[[Z80]]A相当のプロセッサを3.579545MHzで使用。MSXturboRはそれに加えて[[16ビット]]CPUの[[R800]]も搭載し、システムチップにより排他的にシステムを担うプロセッサを選択することが可能である。 MSX0、MSX3、MSX turboにおいては、MSX1、MSX2、MSX2+、及びMSXturboR(上位機種のみ)の下位互換機能が組み込まれたマイクロコントローラーやFPGAによる上位互換実装となっている。 === スロット === 互換性を維持しながらフレキシブルな実装を可能にするため、MSXでは[[Z80]]のメモリ空間([[アドレス空間]])を拡張した[[バンク切り替え]]と、[[メモリ管理ユニット]]の間の性質を持つ'''スロット'''と呼ばれる仕組みが設けられた{{Sfn |ASCII 1983年8月号 |p=115-117}}。 MSXではメモリ空間{{efn|Z80はI/O専用のアドレス空間が用意されている為明示的にメモリ空間と表記する。}}を四分割した「ページ」を単位として管理し、16KiBごとにリソースを割り当てるようになっている。さらに「スロット」1つ当たり64KiBの空間を持ち、標準で4つの「プライマリ・スロット」が設定され、任意のスロットの該当アドレスのページをメモリ空間に接続することが可能になっている。また、プライマリスロットはさらに4つのセカンダリスロットを拡張することができ、仕様上は最大で16のスロットシステムに接続できるようになっている。従って仕様上は16[[KiB]]×4ページ×4スロット×4セカンダリスロットで=1[[MiB]]のアドレス空間が確保され、その空間に対し、ROM、RAM、I/Oをページ単位で任意に割り当ててアクセスする形になっている。<!-- ただし、システムチップの仕様により実際にセカンダリスロットがサポートされているのは0番と3番のスロットのみである。--> プライマリ/セカンダリスロットは基本的には同等とされ、多くの機器はどのスロットに挿入しても規格の上では変わらず動作する。なお、セカンダリスロットは再帰的な拡張を想定していないため、セカンダリスロット拡張を行う機器は、セカンダリスロットへの接続が出来ない。見かけは一つのカートリッジであっても、複数のデバイスを収めるために内部的にスロット拡張をしていたμ・PACKやMSX-DOS2カートリッジ、拡張スロットなどの周辺機器がこの制限にあたり、プライマリスロットへの挿入以外では動作しなかった。 Z80のシステムでありながら、ハードウェアとの接続にI/O空間ではなく基本的に[[メモリマップドI/O|メモリーマップドI/O]]方式を用いることが推奨された。アクセスの際にはBIOSコール([[BIOS割り込みルーチン]])の時点でスロット切り換えによってメモリ空間が切り替えられ、同時にハードウェアへの割り当てリソースも変更されることで競合は回避された。I/Oアドレス空間は8ビットとして想定{{efn|Z80は制限付きで16bitのI/Oアドレス空間を確保することが可能な仕様となっている。}}{{Sfn|鎗田|宮崎|清水|1986|pp=390-391|loc=Appendix A.6 I/O マップ}}されており、一部のアドレスが規格として予約されている。外付けデバイスとして実装される場合は接続先のI/O空間の状態が不定であるため初期化時にチェックの上割り当てるようになっているため、直接ハードウェアを初期化するような場合には設計の差異を考慮する必要がある。 これらの仕組みを物理的に拡張する手段として、スロット機構に接続する[[コネクタ|コネクター]]が最低1基装備された。多くの機種では差しこみ口が筐体上面や前面などに配置されていたため、他の多くのシステムのように、背面の拡張スロットで挿抜したり筐体を開けることなく手軽に増設機器の差し替えができた。電源投入時の着脱防止機構やホットプラグは規格としては用意されていない。着脱時に電源を切る機構は一部機種にあり、カートリッジが正常に装着されるとこの機構がキャンセルされ電源が入るようになっていた。 === メモリーマッパー === 「スロット」の仕組みは柔軟な運用や設計を可能にしたものの、「1つのスロットに4ページ/64KiBを越える空間を配置できない」「ページ間のアドレス空間の移動や再マッピングができない」といった、Z80に由来するメモリー空間・アドレッシングに依存した制約があった。特にワークエリアとスタックが置かれるページ3の切り替えには若干の困難が伴い、単純にRAMページをスロットに増設するだけでは増設されたメモリーの有効な活用がやや煩雑なものとならざるを得ないという事情があった。これを改善するため、MSX2規格制定時にRAMページの拡張を行う“メモリーマッパー”が拡張規格として追加された。このメモリーマッパーを用いることで、ページの割り当てに対する制限を軽減することが出来た。また、後に登場したメガROMの一部にもメモリーマッパー規格を応用し、酷似した仕様でROM空間の切り替えや拡張を行う製品が登場した。ただし、これらは市販アプリケーションもしくはZ80バイナリによって直接実行するソフトに限られた話で、MSX-BASICではメモリ空間を前半にROM、後半にRAMを固定で割り当てその末尾に拡張用のワークエリア、フックなどを配置していることもあり、これらのメモリをユーザーエリアとして有効活用する仕組みが無く、RAMDISKなどの形で活用するようになっている。 === ディスプレイや文字表示関連の規格 === MSX1、MSX2及びMSX2+は一般家庭への普及を目指すため、標準の構成で[[テレビ受像機|家庭用テレビ]]に[[RF端子|RF]]を標準装備{{efn|設計当時[[コンポジット映像信号|コンポジット映像]]入力対応のテレビの普及率が低かったため。}}し、専用[[ディスプレイ (コンピュータ)|モニター]]を必須としない仕様となっていた。 これは他の低価格帯の入門機にも見られた仕様で、文字の滲みや解像度の低さなどのデメリットもあったが、家庭用電気製品を流用できるようにすることでシステムのトータルコストを下げる効果があった。TMS9918Aの出力がそもそもNTSCであり、初代規格ではRGB出力を持つ製品は限られた。 初代規格のVDPがテキスト表示の拡張によってグラフィックス処理も実現していたこともあり、文字[[フォント]](文字[[キャラクタ]])は基本形状がシステムROMから初期化時に定義はされるものの、表示性能の制限の範囲で任意の形状、色に書き換えが可能な[[キャラクタ (コンピュータ)#PCG|PCG]]として利用することが可能である。SCREEN0,1,2,4では全ての文字形状をユーザーが自由に定義して使うことが出来、SCREEN1,2,4ではBASICのサポートは無いもののVDPの画面モードを変更することによって1ライン当たり任意の2色をフォントに割り当てることも可能である。 日本向けのMSXでは[[PC-6000シリーズ]]に近似したキャラクターコードを採用しており、特定の漢字(日月火水木金土・大中小・年時分秒・百千万円)や[[罫線]]が記号として定義されているほか、カタカナに加えて[[ひらがな]]も標準で定義されていた。これらのコードは海外向けMSXではアクセント記号付きアルファベット{{Efn|例えばフランス語アルファベットのÉ, é、À, È, Ù, à, è, ù ,Â, Ê, Î, Ô, Û, â, ê, î, ô, û , Ë}}に割り当てられた。なおMSXで半角ひらがなに割り当てられていたコード領域は、現在の[[Shift_JIS|SHIFT JIS]]コードで使用されている。MSX1の時点では半角文字の80カラム(1行80桁)表示も不可能だった。初代規格の時点では[[漢字]]ROMの仕様がなく、ワープロなどの実装に伴うハードウェアが独自にアプリケーション依存で実装されていた。MSX2ではそれらのうち、第1水準のフォントを持つ東芝仕様のものが表示用のBIOSと共にオプションとして定義され{{Sfn|MSX-Datapack1|1991|p=4|loc=第1部ハードウェア 1章概略仕様 表1.1 MSXの概略仕様一覧}}、後にI/Oマップにも東芝仕様の物が割り当てられている{{Sfn|鎗田|宮崎|清水|1986|p=390-391|loc=Appendix A.6 I/O マップ}}。 === コネクター関連の規格 === コネクタ類に関しては、主に[[ジョイパッド]]や[[マウス (コンピュータ)|マウス]]の接続用に[[アタリ (企業)|アタリ]]の[[Atari 2600#コントローラ|Atari 2600]]相当の9ピンコネクター([[アタリ仕様ジョイスティック]]のもの)が2ボタン仕様に拡張されて定義された。また、オプションで[[セントロニクス]]仕様の14ピン[[プリンター]]インターフェースも搭載された。 汎用的な仕様のコネクタを採用したことは、のちに電子工作の接続・制御用途として重宝された。上記のスロットコネクターに関しては、[[電子部品]]を扱う店で電子工作用の汎用基板が入手できた。 === キーボード関連の規格 === [[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]はパラレル入力で同時押しも可能である。規格の上では、いくつかの特定の3つのキーの組み合わせは動作の整合性が図られた以外、3つ以上のキーが同時に押下された場合の入力の整合性は保証されていない。なおセパレートタイプ(つまり本体と別の)キーボードは定義されておらず、キーボードのコネクタは機種によって異なる。なお日本向け[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]の配列にはJIS配列と50音順配列(かな配列)の両方が規格にあり、ワークエリアの設定で選択することもできた。 == ソフトウェア == {{Main2|ゲーム|MSXのゲームタイトル一覧}} 初期はROMカートリッジ、並びにカセットテープ。MSX2の後期からはフロッピーディスクにより様々なソフトウェアが提供された。規格にたいして特徴的な実装は下記のとおりである。 === BIOS === 前述のようにBASICやOSの収められたシステムROM、ゲーム等のROMカートリッジ、メインメモリなどのRAM、そして各社の独自拡張による周辺機器(ハードウェア)などのリソースは「スロット」に接続されているが、それを抽象化し、汎用的に利用できるようにしているのがBIOSである。基本的なBIOSのうち、主な機能はメモリの先頭部分からジャンプテーブルとして配置されており、システムがZ80の割り込みモード1で構成されているため、RST命令で呼び出せるエントリのうち、RST 00H~28HをBASICがサブルーチンコールに使用。RST 30Hがインタースロット・コール、RST 38Hがハードウェア割り込みに割り当てられている{{Sfn|鎗田|宮崎|清水|1986|pp=343-355|loc=Appendix A.1 BIOS 一覧}}。基本機能に含まれない機能、ハードウェアには基本的に拡張BIOS並びに対応している場合は拡張BASICが付随し、起動時に初期化ルーチンを呼び出すことで[[割り込みベクタ]]がワークエリアに登録され、システムに組み込まれる。ユーザーは対応アプリケーションなどではほぼ無意識に、BASICなどでは必要に応じてコマンドによる初期化で有効化し、利用することができた{{efn|基本的にはユーザーがcall命令などにより初期化と組み込みを行う。起動時に無条件に組み込まれ、明示的に切り離したいときに操作を行うFDDや、特定アプリケーションからの直接制御を前提に汎用のサポートを提供しないSRAMカートリッジやSCCカートリッジが実装としては例外である。}}。 基本仕様に組み込まれたハードウェアも含め、互換性をBIOSレベルでのみ保証することによってある程度の設計の自由度を確保しており、ワープロやテレビなど民生機器と同化したような各社の商品としての独自性を発揮するのに寄与し、設計の共通化により低コスト化を可能とした他、プラグ&インストール&プレイではなく文字通りの[[プラグアンドプレイ|プラグ&プレイ]]を実現していた。 但し、基本仕様に含まれるBIOSの実装はハードウェアに強く依存する仕様になっており、PSGやVDPなどはBIOSが内部レジスタをラップするような実装になっているため後継製品などでも実際には仕様を包含したものを選択せざるを得ず、データレコーダの実装はZ80の実行クロックに強く依存した形でタイミングを取り波形を生成しているため、割り込みを禁止したうえ、規定のクロックでプロセッサが動作することを要求する仕様{{Sfn|MSX-Datapack2|1991|pp=42-51|loc=第6部標準的な周辺装置のアクセス 2章 カセット・インターフェイス}}となっている。 これらスロットやBIOSなどによる特徴的な実装は柔軟性がある代わりに、ハードウェアの構成は規格として規定されたもの以外では固定されていることは期待できず、初期化・認識処理はスロットを検索する必要があるというオーバーヘッドを伴うものとなった。一部アプリケーションなどでは、特定の構成を期待したコードになっているためMSX2で動作しなくなったり、実際には接続されているにもかかわらず、その拡張機器を認識できないなどの非互換性につながっている。また、ハードウェアの相違を考えればかなり互換性が維持されているFDD等の「同じ種類」のハードウェアであっても、スタック領域やワークエリアなど、実装の違いから特定条件で動作しないなどの現象が発生することもあった。 またこれらの仕組みは、ハードウェアリソースに対するアクセス自体に演算リソースを必要とし、「スロット」の実装にともなうウェイト(wait)の挿入やBIOSコールを経由する等の[[オーバーヘッド]]は、3.579545MHz動作CPUのZ80に重くのしかかり、パフォーマンスを落とす原因ともなった。VDPについては処理速度を得るため、システムROMの特定のアドレスに書かれている値からI/Oアドレスを確認の上、直接制御することを正式に認めている{{Sfn|鎗田|宮崎|清水|1986|pp=157-160|loc=第4部1章 MSX-VIDEOの構成}}。 === MSX-BASIC === {{See also|MSX-BASIC}} 二次記憶装置から直接起動するソフトウェアや機種固有の内蔵ソフトを除けば、ユーザーの操作、利用を支えるのがMSX-BASICである。他の実装で見られたマシン語モニタは標準システムとしては用意されておらず、直接のメモリ操作や実行ではなくDOSないしは、BASICから呼び出す形となっている。 当時の多くのPCで採用されていたマイクロソフト系の命令セットを持っていたが、変数名は先頭から2文字のみでgoto命令などの飛び先は行番号のみなど初期の実装に近い形となっている反面、浮動小数点の演算では仮数部は6桁または14桁のBCD{{efn|リリース時期からIEEE 754とは非互換のフォーマットである。}}を仮想計算機として実装しており、システムの規模や速度に対して精度の高いものとなっている。この演算部分はBASIC以外からの呼び出しも可能なようにMath-Packとして外部からも呼び出せる手順が公開されている{{Sfn|鎗田|宮崎|清水|1986|pp=356-361|loc=Appendix A.2 Math-Pack}}{{SfnRef|MSX-Datapack1|1991|pp=292-301|loc=第2部システムソフトウェア 6章内部ルーチン 6.3 Math-Pack}}。精度は高いものの相応に演算コストが高いため、ゲームなどレスポンスや処理速度を重視するケースでは変数を整数として宣言することがTipsとなっていた。 === MSX-DOS === {{See also|MSX-DOS}} 更にオプションで'''[[MSX-DOS]]'''と呼ばれる'''[[CP/M]]システムコール互換OS'''も導入可能で、これを導入すれば既存のCP/Mアプリケーションの多くがファイルシステムをコンバートすることによりほぼそのまま動作し、CP/M環境で利用可能な'''[[アセンブリ言語]]'''、'''[[C言語]]'''、'''[[Pascal]]'''、'''[[COBOL]]'''、'''[[FORTRAN]]'''等も使え、またCP/Mで動く欧文[[ワードプロセッサー|ワープロ]]や[[表計算]]等の実務アプリケーションも実行できた。 但し、本体が安価なMSXでは相対的にFDDは高価であり、活用されるようになるのはFDDを内蔵した本体が安価に提供されるようになったころからである。 === その他 === 初代規格ではその構成部品に専用品を用いず、その時点で市場に供給されていた利用実績の豊富な既存の汎用半導体製品を採用し、基本仕様が安価に製造できるよう構築されていた。各メーカーから発売された機種はほぼローエンド(低価格帯)だった。 その代償で、仕様は平凡なものとなり、当時の主だったパソコンが高解像度化を求められていた中にあって、最大でも256×192ドットの解像度だったことと合わせて「先進的でない」と批判する意見もあった<ref>I/O編集部「BIOS Number 0 規格統一問題を考える ユーザーにとってMSXとは何か。」『[[I/O (雑誌)|I/O]]』1983年12月号、pp.289-295</ref>。 価格帯と汎用性に舵を切った実装は、日本では[[ファミリーコンピュータ]]と比較されてしまい、ゲーム専用のファミリーコンピュータのグラフィック性能と比較して劣っていたので「中途半端な子供の玩具」として受け取られた。 == ネットワーク == MSX向けの主要な商用パソコン通信サービスとしては、1986年12月からアスキーが運営した[[アスキーネット]]MSX、および松下グループ(後のパナソニックグループ)系のネットワーク企業・[[日本テレネット (通信事業者)|日本テレネット]]が運営するTHE LINKS(ザ・リンクス)がある。 アスキーネットMSXは、MSXを所有していることが使用の条件だったが、実際に使えるマシンはMSXに限らなかった。[[学校法人日本放送協会学園|NHK学園]]のパソコンの通信講座で使われたこともあった<ref>BCN This Week 1987年9月28日</ref>。 対して、THE LINKSはMSX専用だった。画像通信やゲーム配信をサポートした独特のサービスで、対応機種をMSXに限定、モデムも専用ソフト搭載のカートリッジのみとすることにより、他のパソコン通信サービスにはないカラフルなコンテンツの提供や画像配信、動くメールなども実現していた。MSXによる日本語表現の特徴の一つである半角ひらがなやグラフィック文字はJISの規格外で、機種によって全く別のキャラクタが定義されており、MSXに限らず多機種混在のパソコン通信では使わないのが常識となっていたが、THE LINKSはその逆にJISやシフトJISの2bytes文字の日本語は書き込むことができず、1byteのMSX文字でコミュニケーションを取ることになっていた。THE LINKSのためだけの専用通信ソフトが必要で、通信ソフトが内蔵されたTHE LINKS専用モデムカートリッジがあった他、松下電器産業のモデムカートリッジに通信ソフトが内蔵されていた。 当初は通信速度300bpsのモデムカートリッジが発売され、後には1200bpsの物も出た。MSXturboRが発売された時期にはパソコン通信も9600bpsを超える速度のモデムが一般化し、MSXでも[[RS-232|RS-232C]]カートリッジとPCモデムを使用するユーザーが増えた。MSX2の中には本体に1200bpsモデムを搭載した、通信パソコンと称される機種もいくつか存在する。 それ以外にも[[PC-VAN]]や[[NIFTY-Serve]]にMSXに関係するSIGやフォーラムが設けられた。また、MSXの話題を扱う[[草の根BBS]]が全国に開設されており、MSX専門誌が休刊し、商業的にMSXが衰退した後は同人活動とともにパソコン通信での活動によって培われたコミュニティーがMSXを支えた。パソコン通信で発表されたフリーソフトウェアは、MSX専門誌の[[MSX・FAN]]に付録ディスクに収録されたり、ソフトの自動販売機[[ソフトベンダーTAKERU|TAKERU]]で販売されたりもした。 その他にMSXを用いたネットワークサービスには、囲碁のネット対戦「GO-NET」や株式投資などがあった。 通信ソフトにはアスキーからMSX-TERMが発売されたが性能の悪さからあまり使用されず、[[フリーソフトウェア]]のmabTermやRAETERMや松戸タームが使われた。MSX向けのネット運営用ホストプログラムは[[MSXマガジン]]が開発した「網元さん」やMHRVなどが多く用いられた。 == 周辺機器 == === ROM/RAMカートリッジ === ; [[ロムカセット]] : ページ先頭に書かれているヘッダによって、起動時の初期化(拡張BASIC等)や自動起動(ゲームソフト等)が可能。通常は[[マスクROM]]が使用されたほか、[[ソフトベンダーTAKERU]]用の[[EPROM]]カートリッジもあった。 :; メガROM :: メモリコントローラを内蔵し1メガビット(128KB)以上の容量を実現したカートリッジ。1986年4月にアスキーが仕様を制定し、同年7月22日発売の『[[グラディウス (ゲーム)|グラディウス]]』で初使用<ref>BCN This Week 1986年9月15日 vol.178</ref>。その後、長方形を斜めに3つ連ねた統一マークが定められたが、容量が基準でありコントローラには特殊なものを用いたソフトウェアも存在する。同様の物は特に名称はついていないものの、[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]などの家庭用ゲーム機でも見られる。 :; MegaRAM :: ブラジルのMSXマーケットでのみ普及したカートリッジでDDXとCIELの2社から発売されていた。メガROMのROMの部分をRAMに交換したような構造をしており、このRAM部分にROMイメージをLOADして使用する。ブラジルでは、このMegaRAMが存在したからこそMSXが普及したといわれる程、大ヒットした。もっとも、主な用途は「メガROMから吸い出したゲームを違法コピーして使用する」というものであり、カセットテープまたはFDDの形態で流通するメガROMのゲームをロードしてメガRAMに読み込むことで、元のメガROMのカートリッジと同じ動作をさせることができる。 :; [[BEE CARD]] :: アダプタカートリッジ「Bee Pack」と組み合わせて使用する。'''[[セガ・マークIII]]'''の[[マイカード]]と同様のもの。 ; 増設用[[Random Access Memory|RAM]]カートリッジ : MSXの内蔵RAMを増設するためのカートリッジ。スロットに直接接続し、メインメモリを増設するカートリッジと、メモリマッパカートリッジがある。前者は、カシオの「16KB増設RAMカートリッジ」「64KB増設RAMカートリッジ」電子部品通販 M.A.D.の「らむまっくす2」<ref>[https://la04528673.shop-pro.jp/?pid=100750799 MSX増設RAMカートリッジ 「らむまっくす2」 - 電子部品通販 M.A.D.]</ref> 等で、多くは純正の拡張機器として、小容量のRAMを持つMSXのために用意された。後者は、MSXDOS2カートリッジや、テラネットワークシステムの「AddRAM2」、似非職人工房の「うっかりくん」<ref>[http://www.hat.hi-ho.ne.jp/tujikawa/ese/ukkari.html ESE Artists' Factory - Nice Memory! Ukkarikun]</ref>、クラシックPC研究会の「MSX2/2+/turboR用 16MBメモリー拡張カートリッジ(CLPC-MSX16MBRAM)」<ref>[https://classicpc.org/jp/msx2-2-turbor用-16mbメモリー拡張カートリッジ/ MSX2/2+/turboR用 16MBメモリー拡張カートリッジ | クラシックPC研究会]</ref> 等。 ; [[Static Random Access Memory|SRAM]]カートリッジ : MSX1発売開始当初は、一般家庭での需要を見込んだ、家計簿ソフトなどのデータ保存用に発売、もしくは本体に同梱された。その後は主にゲームデータの保存用にシフトした。PAC(パナ・アミューズメント・カートリッジ)、FM-PAC、新10倍カートリッジなど。 === 入力機器 === [[ファイル:Canon VJ-200.JPG|thumb|right|キヤノンVJ-200]] [[ファイル:PIC_0653_Sony_JS-55_MSX.JPG|thumb|right|ソニーJS-55]] ; [[キーボード (コンピュータ)|キーボード]] : キーボードが本体と分離しているマシン用に各社独自仕様の物が用意された他、スロットコネクターやジョイスティック端子を介してつなぐテンキーパッドが市販されたり、専門誌の電子工作コーナーに作例掲載されたりした。なお、MSX規格では「キーボード接続専用の標準端子」のような物は定められていない。 ; [[キーボード (楽器)|鍵盤]] : ヤマハ・SFG-01/05専用の物や、MSX-AUDIO用専用キーボード、FS-MKB1等がある。 ; [[ジョイスティック]]・[[ジョイパッド]] : 8方向入力スティック+押しボタン1、2個を備える。当初は据え置きタイプは操縦桿型、手持ちタイプはスティック付きの物が多かったが、徐々にアーケードゲーム型・方向ボタン付きの物に移行し、連射機能などを備えたものもある。右がボタン、左がレバー(方向ボタン)の物が主流であるが、右側が操縦ボタンになっている製品も存在する。 :; ハイパーショット :: 押しボタン2個のみ、方向入力は無し。コナミ「'''ハイパーオリンピック'''」「'''ハイパースポーツ'''」シリーズ専用の[[入力機器]]。 :; [[ジョイボール]] :: [[HAL研究所]]製の[[連射]]モードを搭載したボール型ジョイスティック。 :; アナログジョイスティック :: 厳密にはデジタル256段階のデジタルスティック。[[電波新聞社]]が[[X68000]]用の'''[[アフターバーナー (ゲーム)|アフターバーナー]]'''用に開発、販売し、シャープも色違いのものを純正品として販売している。後継機はコンパクトな設計となり、[[メガドライブ]]との接続にも対応した。2軸スティック+1軸スティック+押しボタン12個。BASICマガジンでMSXでの制御方法がプログラムつきで記事として公開され、一部の市販ソフトでも隠し機能として対応した。 ; [[マウス (コンピュータ)|マウス]]・[[トラックボール]] : ジョイスティック端子に接続する。トラックボールはソニー・HAL研究所等が発売。後にマウスとともに正式に規格に取り込まれた。規格上での扱いには幾分かの差異があり、マウス用ソフトでトラックボールを使っても操作できない場合がある(逆も同様)。 : マウスはMSX規格準拠と同じ物が同じインターフェイスを持つPC-8801mkIISR以降のバスマウスや富士通[[FM-TOWNS]]用としても使用された。 ; パドル・タブレット : 前者は[[ブロック崩しゲーム]]等で用いられるダイヤル状の物でジョイスティック端子1つに最大6つ接続できる。後者は透明な板をペンでタッチするポインティングデバイスでその後の[[タッチパネル]]や[[ペンタブレット]]に近い。ともにジョイスティック端子に接続して使用。マウスやトラックボールよりも早く、MSX1発表当初から規格に組み入れられていたアナログ入力機器である。<br />ただし、パドルは専門誌の電子工作コーナーで作り方が紹介されたのみで、メーカー品は存在しない。タブレットもMSX1初期に同仕様の商品がいくつかのメーカーから発売されたのみで、対応ソフトも機器付属のもの以外ほとんど無い。turboRではいずれも非サポートで、対応BIOS・関数を呼び出しても必ず固定値が返る。 ; [[ライトペン]] : 三洋のMSX1・WAVY-10{{Sfn |ASCII 1983年11月号 |p=108}}とWAVY-11に標準添付、専用の端子に接続。他機種用にカートリッジスロットに接続する物が発売されたが、映像出力をカートリッジに経由させる必要があったため一部機種では使用できない。MSX2から規格化されたが、MSX2以降の画面モードに対応した機器は発売されていない。パドル等と同様にturboRでは非サポート。 ; [[ライトガン|光線銃(ライトガン)]] :; PLUS-X ターミネータレーザー :: 中東諸国で流行したゲーム用光線銃。ジョイスティック端子に接続。対応ソフトも中東で流通していたMSX1対応の物がほぼそのまま売られていた。 :; ガンスティック :: スペインの MHT Ingenieros というメーカーによって発売されていた銃型のコントローラー。ジョイスティックポートに接続して使用。MSX以外にもコモドール、SPECTRUM、AMSTRAD、PCにも使用できる。発売元のスペインでのみ普及。Space Smugglers など10本程対応ゲームが発売されていた。 ; [[マイクロフォン|マイク]] : turboRには音声取り込み用の物が本体に付属。それ以前にも(規格でサポートされていた訳ではないが)1ビットサンプリング用に市販品が使用された。 :; 「シャウトマッチ」付属マイク :: [[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター音楽産業]]製の同名ゲーム専用の物。ジョイスティック端子に接続。感知できるのは音量のみ。 === 記録装置 === [[ファイル:Call format.jpg|thumb|250px|ブラジル・グラジエンテ社のMSXでBASICより「call format」の命令を実施した際の表示。5インチ片面(1DD)と両面(2DD)が追加されている。]] ; [[データレコーダ|データレコーダー]] : 記録速度は1200bpsと2400bpsを選択でき、[[インターフェース|インターフェイス]]は大半の機種に装備。カシオ PV-7などではオプション、ソニーHB-T600・松下電器産業FS-A1WSX/MSXturboRでは削除。一部の機種にはカセットデッキが内蔵された。特に日立MB-H2は、音楽再生も意識したステレオ対応デッキで、頭出しや早送り巻き戻しなどデッキの操作を拡張BASICでコントロールできた。信号はコンパクトカセットの音声信号として扱われたため、以下のように音声信号を取り扱えるデバイスを流用してデータを記録したケースもあった。 :; [[コンパクトカセット|カセットテープ]] :: FDDのない環境では標準的な外部記憶メディアとして使われた。読み出し・書き込みの双方が可能。ROMカートリッジの生産にはある程度の資金力が必要なため、中小ソフトメーカーではMSX1時代を中心にゲームなどのソフト供給メディアでもあった。[[アイワ]]のデータレコーダーDR-20([[ソニー]]同型[[OEM]][[モデルナンバー]]SDC-600)はテープを倍速再生でき、1200bpsでSAVEしたプログラムやデータを倍速再生により2400bpsでLOADできた。 :; [[レコード]] :: アニメの主題歌とドラマが納められたレコード『'''みゆきメモリアル'''』(キティレコード)や小久保隆の「'''バウハウスの詩人たち'''」(ネクサスレコード)に音声データとしてMSX用プログラムが収録。それらのデータはMSXよりCLOADすることで読み込める。また、月刊誌[[PiO]]のソノシートにMSX用プログラムが収録されたこともあった。 :; [[ビデオテープ]] :: データレコーダーと同じフォーマットで音声記録。日本制作のプロモーションビデオ『'''ヴァリスクラブ'''』(日本ソフトバンク)に特典としてMSX用プログラムが収録。読み出し専用(書き込みも可能ではあるが実績の程は不明)。 ; [[フロッピーディスク]]ドライブ(3インチ、3.5インチ、5.25インチ) : 当初は日立などが3インチ、ソニーなどが3.5インチのドライブを開発しており、国内では1984年5月の発売前に3.5インチに一本化された。[[インターフェース]]カートリッジと[[ディスクドライブ|ドライブ]]との別売、またはセットで提供された。後年にはドライブがインターフェースと一体化した形状の物も発売。使用にはメインメモリーがMSX DISK-BASICで32KB以上、[[MSX-DOS]]で64KB以上、MSX-DOS2では128KB以上必要。MSX2末期以降は大半の機種に内蔵された。 : ヨーロッパでは当初、[[フィリップス]]が3.5インチ1DDを内蔵した安価な機種を市場に投入したため、1DDが普及した。その後、日本と同じく3.5インチ2DDが発売された。よって、ヨーロッパのMSX用ソフトウェアは3.5インチ1DDで発売される割合が日本よりも高い。また、1DDのドライブを2DDに入れ替えることも盛んに行われている。 : ブラジルではグラジエンテが3.5インチ2DD内蔵のMSX1を発売し普及したが、[[Apple II]]や[[Atari 800|アタリ400/800]]や[[コモドール64]]などが先に普及していたので、それらに接続されていた5インチ[[フロッピーディスク|FDD]]をMSXに接続できるようになっていた。また、DDXやCIELなどのメーカーが発売した拡張FDDシステムも3.5インチFDだけでなく、5インチFDもサポートした。よって、ブラジルでは3.5インチ1DD/2DDと5インチ1DD/2DDが並存する状況となった。 ; [[クイックディスク]]ドライブ : [[ミツミ電機]]製。[[カシオ計算機|カシオ]]、[[ロジテック]]、[[フィリップス]]から発売。3.5インチフロッピーディスクが郵送に当時70円かかったのに対し、60円(当時)の封書で郵送できたが、フロッピーディスクの急速な普及により、メリットが消失し余り普及はしていない。機械語でローダを書いてROMカートリッジよりも番号の若いスロットに差せば、ROMカートリッジより優先してブートされる仕様を悪用し、ROMカセットをセットした状態で、機械語ローダを書き込んだクイックディスクから起動し、ROMカセットの内容をクイックディスクにコピーするなどROMカセットのデッドコピーにも使われた。[[任天堂]]の[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]もクイックディスクと技術的仕様は同じである。 ; [[ハードディスクドライブ]] : SASI規格のインターフェースカートリッジ「MSX HD Interface」が1989年7月にアスキーより市販された。SASI規格は40MBまでしか利用できず、ハードディスクドライブも高価だったため、あまり普及しなかった。しかし、その後オランダの MSX Computer Club Gouda(ハウダ)が販売していたNovaxis SCSIをG-SCSIの名称でTEAM-PMKが輸入し販売し始めるとMSXでもハードディスクの普及が始まり、有限会社EJがMSX-IDE-INTERFACE{{Efn|ただし、販売については多くのトラブルを生んだ。}}を、似非職人工房がMEGA-SCSIを、Sunrise for MSXがSunrise ATA-IDEを開発し販売した。 ; ビデオディスク : MSXでは下記の2種類の規格が使用できた。 :; [[レーザーディスク]](Palcom) :: CPE(Computer Program Encoded)ディスクと呼ばれ、通常の映像の他にMSX側からのコントロールプログラムも格納されていた。アナログ音声トラックのRチャンネルに[[データレコーダ|データレコーダー]]と同じフォーマット(転送速度は2400bps)で音声記録されたデータを読み込む仕組みで、方式としては[[スタディボックス]]に近く、後の[[レーザーアクティブ]]によるLD-ROMとは全く異なる。拡張BASICのP-BASICでレーザーディスクを制御した。パイオニア製MSXでは標準で、他社MSX1ではオプション機器で接続可能。MSX2以降では使用不可。 :: 対応ソフトとしては、[[SEGA]]「[[アストロンベルト]]」、[[船井電機|FUNAI]]「[[インター・ステラ (ゲーム)|インター・ステラ]]」、[[コナミ|KONAMI]]「[[バッドランズ]]」、[[タイトー|TAITO]]「[[コスモスサーキット]]」、[[船井電機|FUNAI]]「[[エシュズオルンミラ]]」等が移植されたほか、[[ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン|レーザディスク]]「[[スターファイターズ]]」などのオリジナルソフトも発売された。教育用ソフトウェアとしては、レーザーディスク「スペースディスク」シリーズ(英語版からの移植、[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]撮影の衛星画像の検索ソフト)、アイペック「ラスコムメイト」シリーズ(中学生向け学習教材)等がある。 :; [[VHD]](VHDpc INTER ACTION) :: [[VHD#VHDpc INTER ACTION|VHD言語]]という異機種間共通の言語仕様が用意され、[[中間言語]]でVHDディスクにデジタル記録されたプログラムを、MSX側に用意されたインタプリターで実行する{{Sfn|平田|1985|p={{要ページ番号|date=2023年10月}}}}。ただし、実行速度の都合から一部、各機種個別のソフトをディスクと別売で用意した物もある。VHD言語はコードがVHD上にある前提からユーザー開発は想定されておらず、自作プログラムでVHDプレイヤーをコントロールする場合は、(VHD言語ではなく)拡張BASICを使う{{Sfn|平田|1985|p={{要ページ番号|date=2023年10月}}}}。MSX2規格で標準化したが、MSX2対応VHD言語インタプリターは出なかった。 :: 対応ソフトは[[データイースト]]「[[サンダーストーム]]」「[[ロードブラスター]]」、[[タイトー]]「[[タイムギャル]]」等(いずれもVHD言語非対応)。また、ユーザーがプログラムから制御する前提で、「[[ゼビウス]]マップ」も発売された。 ; [[CD-ROM]]ドライブ : MSX2の1987年頃に東芝が外付け型、ソニーが内蔵機を試作したという報道があったが、商品化には至らなかった。後にSCSI/IDE経由で利用できるようになった。 === 拡張音源 === MSXは音源として[[Programmable Sound Generator|PSG(AY-3-8910相当品)]]を持っていた。1983年当初はそれでも十分だったが、他のゲーム機やパソコンが音源機能を強化する中、MSXにも対抗上各種ミュージックシステムが開発された。 ; [[FM音源]] :; SFG-01/SFG-05(ヤマハ) :: SFG-01は「FM SOUND SYNTHESIZER UNIT」、SFG-05は「FM SOUND SYNTHESIZER UNIT II」。1983年に発売されたMSX初のFM音源カートリッジ。MSX-AUDIO以降のFM音源が2オペレータだったのに対して、より複雑な音色を作成できる4オペレータのチップを採用し、8声の再生が可能。詳細は下記MIDIインターフェイスの項を参照。 :; [[MSX-AUDIO]] :: MSX-AUDIOは規格名。音源チップはY8950。日本では1987年に[[パナソニック]]から FS-CA1 MSX AUDIO UNITの名称で発売された。MSX AUDIO UNIT は34,800円と非常に高価であり、ほとんど普及しなかった。[[ヨーロッパ]]では[[フィリップス]]が NMS-1205 Muziekmodule(ミュージックモジュール)、東芝が、HX-MU900 MSX MUSIC SYSTEMの名称で発売、標準音源として定着した。 :; [[FM-PAC|MSX-MUSIC]] :: MSX-MUSICは規格名。音源チップは[[YM2413]]。MSX-AUDIOが価格などから日本で普及しなかったため、同時発声数は同じだが自作音色が1声のみなど安価な仕様の[[YM2413]](OPLL)を採用したMSX-MUSICが策定された。拡張機器としては[[FM-PAC|FM Pana Amusement Cartridge]]として1988年にパナソニックより7,800円で発売されているが、初期化などの手順はMSX-MUSICがMSX本体に内蔵されている機種とは異なる。 :: MSX-AUDIOが標準音源となったヨーロッパでも、フィリップスがMSX市場より撤退し、MSX-MUSICを搭載したMSX2+/turboRがヨーロッパに輸出されたため、ある程度普及した。 :; [[SCC]]音源 :: コナミのMSX2ゲームソフト『[[スナッチャー]]』『[[SDスナッチャー]]』に拡張音源カートリッジとして付属(ゲーム本体は2DDディスク)。元々メモリコントローラとしての側面を持つSCCにDRAMを64KiB接続し、プロテクトを兼ねたゲームのディスクキャッシュとして用いている。各々のカートリッジはDRAMのアドレスが異なり、無改造では双方に互換性はない。後に制御の方法が雑誌上で公開され、フリーソフトを含む一部の音楽ソフトで対応が行われた。また、両作品が品薄になると、厳密には仕様が異なるSCC内蔵ROMカートリッジのROMの無効化や取り外し、電源が入った状態での接続などの方法によって用いられることもあった。 ; [[PCM音源]] :; とーくまん(エミールソフト) :: MSXで音声合成が楽しめるトーキングマシン。付属のマイクをつかって、PCM録音、再生ができる。サンプリング周波数は4kHzから8kHzの5段階。音声データはエディターを使ってエコーなどエフェクト処理、ディスクへのセーブやROMに書き込んで市販の「おしゃべりさん」の音声ROMとしても使用可能。内蔵の拡張BASICによって簡単に音声入りのプログラムが作製できる。 :; +PCM :: A.Hiramatsuという人物により開発され、同人サークルであるフロントラインが販売していたハードウェア。MSX本体とは別にPCMを追加することができる。M改が開発し、フロントラインが販売したシューティングゲーム「PLESURE HEARTS」では効果音に+PCMが使われた。 === MIDIインターフェイス === MSXで[[MIDI]]を使用することができるハードウェアも開発された。 ; SFG-01/SFG-05(ヤマハ) : MIDI-IN/OUT端子の他、FM音源(音源チップはSFG-01が[[YM2151]]、SFG-05は[[YM2164]])、鍵盤端子も搭載。音声出力はステレオ。SFG-01は19,800円、SFG-05は29,800円。SFG-01はMSX用FDDの仕様決定前に発売され、ワークエリアがMSX用FDDとバッティングしていた。それを変更してデータ保存先にフロッピーディスクを指定できるようにした物がSFG-05である{{Sfn|藤田|1986|p=45}}。 : 「サイドスロット」と呼ばれたヤマハ製MSX独自スロットに接続する。一部の日本ビクター製マシンでも動作保証はないが同様に使用できた。ヤマハ以外のMSXでも使用できるようアダプターUCN-01が7,800円で発売された{{Sfn|MSXスーパーAV活用法|1986|p=120}}。 ; SMD-01(ヤマハ) : 上記、SFG-01と同時期に「MIDI Unit」の名称で12.800円で発売されていた<ref>『MSXマガジン』1984年4月号、p.8。ヤマハ広告ページ。</ref>。SFGシリーズとの違いはFM音源が搭載されていないこと。SFGシリーズと同じくサイドスロットに接続する。 ; MIDIサウルス([[ビッツー]]) : 専用ソフト同梱で発売されたMIDIインターフェイス。専用ソフトはSCREEN6を使用してVRAM使用量を削減し、その分をトラックバッファに当てていた。ゲームソフトでも、同社のファミクルパロディックシリーズが対応していた。<br />演奏自体はカートリッジ内部に制御用としてZ80 CPU互換チップとZ80 CTC,Z80 SIO、Z80 PIO、ほか周辺チップ構成、バッファメモリを搭載することでCPU負荷をかけずに再生していたが、その仕様は一般公開されなかった。同社に問い合わせると一般人でも資料がもらえたが、MIDIポート直接入出力の手順だけとなっていた。 ; [[MSX-MIDI]] : turboRのオプション規格の一つ。オプション機器としては[[ビッツー]]のμPACKのカートリッジが発売されており、FS-A1GTには同規格に対応したインターフェイスが内蔵されている。拡張BASICの利用によりBASICからも制御ができるが、BIOSは定義されておらず、BASIC以外からは直接ハードウェアを制御する<ref>MSX-Datapack turbo R 版 第4部1章 MSX-MIDIとは</ref>。藤本昌利によって開発されたMSX MIDI Interface3は規格のうち、FS-A1GT相当のハードウェアのみを回路として実装したもの。ハードウェア設計の問題から、一定のCPUパワーを必要とし、MIDI-IN として使う場合や割り込み機能を使う場合はturboR相当のパフォーマンスを必要とする。取りこぼしなどの影響が無いよう、MIDI-OUT として使うだけなら turboR以外でもソフトウェアがサポートすれば利用可能である。ゲームソフトでは[[幻影都市]]とグラムキャッツ2、隠し機能として一部のBGMに対して[[ガゼルの塔|Xak -ガゼルの塔-]]が対応していた。 これらインテリジェントなものや、スロットに差し込むハードウェアはコストが高く、規定のシリアルデータとしての信号を生成できれば演奏は可能であるため、汎用インターフェイス等を利用したMIDI出力の方法ならびに実装がユーザによって行われている。 ; プリンター端子(パラレルポート)に接続して使用するもの : 只MIDI、Dual MIDIなどMSXのプリンター端子(ポート)に接続して利用する簡易インターフェイス。前者はソフトウェア的な検出ができないものの、抵抗二つとコネクターを配線するのみで完成し、後者はソフトウェアにより存在を検出できるほかプリンターポートの信号を出力ポートへ割り当てているため、処理が間に合えば最大8ポートの制御が可能となっている。 ; ジョイスティック端子を使用するもの : MSXのジョイスティック端子(汎用ポート)に接続してMIDI出力を行うもの。Acrobat232、Joy Serial、へろへろ5号などが存在する。 ; RS-232CインターフェイスとMIDIアダプターを使用するもの : RS-232Cに準拠するシリアル信号を前提としたアダプタも流用可能である。主に[[PC-9800シリーズ]]向けとして売られているものを利用する。インターフェイスが、RS-232Cに準拠していない場合は動作しない可能性もある。またSC-55mkIIなどMIDI楽器側にもパソコン接続用端子(RS-232Cから接続する端子)を持ち、MIDIアダプターを必要としない製品も存在する。RS-232Cカートリッジに関しては後述する。 === プリンター === MSX規格のもの、MSX向けのもののみ {{節スタブ}} * '''[[プリンター#ドットインパクト方式|ドットインパクトプリンター]]''' ** ブラザー工業 M-1024X(モノクロ・24ドット、MSXロゴあり) ** ソニー PRN-M24(モノクロ・24ドット、M-1024XのOEM供給品) ** 松下電器産業 FS-P400(モノクロ・24ドット、M-1024XのOEM供給品) ** ブラザー工業 M-1024II P/X(モノクロ・24ドット、M-1024X後継品、背面のディップスイッチ切換によりNEC PC-PR101系の互換プリンターとして使用可能、MSXロゴなし) ** 東芝 HX-P550(モノクロ) * '''[[プロッター|プロッタプリンター]]''' ** 松下電器産業 ** ソニー PRN-C41 ** [[セイコーエプソン]] * '''[[プリンター#熱転写方式|熱転写式サーマルプリンター]]''' ** ソニー HBP-F1(モノクロ)、HBP-F1C(カラー) ** 松下電器産業 FS-PW1(モノクロ・ワープロソフト付)、FS-PK1(モノクロ・JIS第1水準漢字ROM搭載)、FS-PA1(モノクロ)、FS-PC1(カラー・48ドット) ** カシオ計算機 MW-24(ワープロソフトを内蔵した専用ROMカートリッジを介して接続、ワープロソフトからの印刷のみ可能でありBASICからの利用はできない) ** YAMAHA PN-01 - FS-PC1以外は24ドット * '''[[プリンター#感熱式|感熱式サーマルプリンター]]''' * '''[[インクジェットプリンター]]''' * '''[[レーザープリンター]]''' === パソコン通信用 === ; RS-232Cカートリッジ : モデムの接続のほか、CP/Mのディスクが読めないMSX-DOSにソフトをコンバートするための他機種との接続などにも用いられた。 :; CT-80NET :: ブラジルのグラジエンテ社より発売されていたカートリッジで「CARTAO 80 COLUNAS & RS-232C(80カラム&RS-232Cカートリッジ)」と書かれている。つまり、RS-232CだけでなくMSX1で80文字を実現する機能を持っている。80文字を実現するためにV9938を搭載している。 :; ASCII MSX SERIAL-232 :: :; 似非職人工房 はるかぜ :: ; モデムカートリッジ :; THE LINKSモデム :: MSX専用のパソコン通信サービス"THE LINKS"専用モデム。300bps・半二重という当時の他のモデムではあまり見かけない仕様だった。THE LINKS利用者に事実上無償貸与されていた。 === その他の周辺機器 === ; 拡張スロットユニット : MSX本体のプライマリスロットに接続して4つのセカンダリスロットを供給する。各種拡張機器の併用や、複数スロットを使う周辺機器の使用に用いられた。MSX仕様準拠(MSXマーク付き)の物が、東芝HX-E601など複数のメーカーから発売。 :; EX-4(NEOS) :: MSX向けの製品だが、厳密にはMSXの仕様を満たさないため、MSXマークは付いていない。 ; 映像ユニット :; MPC-X(三洋電機) :: 同社のMSX1、WAVY-11などに接続する。MSX2が発表される前の1984年秋に発売。解像度512×204、もしくは256×204ドット。最大で512色中16色を使用可能。16色なら1面、2色なら4面というように色数と解像度で持てる画面数が変化した。スーパーインポーズ機能と8階調のビデオデジタイズ機能付き。価格は89,800円<ref>「ライトペンの世界を広げる MPC-X」『MSXマガジン』1984年12月号、p.143</ref>。GDCというLSIを採用している{{Sfn|MSXスーパーAV活用法|1986|p=64}}。一時期のMSXマガジンの表紙CGはこの両機の組み合わせで作成されていた。 :; HBI-V1(ソニー) :: MSX2以降用のビデオデジタイザ。ビデオ映像をMSX2のSCREEN8・MSX2+以降のSCREEN10から12までの画像に変換する。価格は29,800円。 :; VHDインターフェース(日本ビクター) :: VHD PC接続端子およびMSX1用VHD言語インタプリタを搭載、スーパーインポーズ機能つき。日本ビクター製MSXの独自スロットに接続する。ヤマハ製マシンでも同様に使用可能(ただし動作保証は無し)。他のMSXで使用する場合は要・専用アダプタ。 :; 拡張グラフィックプロセッサER-101(パイオニア) :: パイオニア製以外のMSXにLDプレーヤーを接続して使うための機器。スーパーインポーズ機能つき。MSX2以降では使用不可。 ; バージョンアップユニット :; MSX2バージョンアップアダプタ(NEOS MA-20) :: MSX1をMSX2(VRAM 128KB)にバージョンアップすることが出来る。RAMは要64KBで、増設でも可。MSX2+やturboRに挿入すると、MSX2にバージョンダウンする。メインROMとサブROMは同一スロットに並存できないため、メインROMカートリッジとVDP/サブROMカートリッジで2スロット使用。メインROMはサブROMよりも先に初期化される必要があるため、メインROMカートリッジの方をより若い番号のスロットに挿入しないと正常動作しない。 :; μ・PACK(ビッツー) :: FS-A1GTで拡張された機能を他のMSXturboRでも使用できるよう用意された。MSX-MIDIと拡張マッパーRAMを同時搭載。同一スロットに並存できないマッパーRAMとROMとを1カートリッジ内に収めるために、内部でプライマリ→セカンダリへのスロット拡張を行っており、セカンダリスロットに挿入した場合は動作しない。 ; 日本語処理カートリッジ :; MSX-WriteII(アスキー) :: MSX2用日本語処理ワードプロセッサーソフトでMSX-JE連文節変換機能つき。 :; HBI-J1(ソニー) :: MSX2用日本語処理カートリッジ。このカートリッジを挿すだけでMSX2でも漢字BASICがサポートされる。対応のワープロソフトは別売、FDDで供給。 ; GUI :; [[HALNOTE]](HAL研究所) :: MSX2以降向けのMSX-DOSにGUI環境、[[オフィススイート]]機能を提供するソフト。カートリッジにMSX-JEと漢字ROM、キャッシュメモリとなるSRAMを内蔵。後にMSXTurboRに標準搭載されたため、対応アプリケーションはMSXViewでも動作可能。 ; スキャナ :; スキャナ/ハンディプリンターインターフェイス FS-IFA1(松下電器産業) :: 同社のワープロ機パナワードU1シリーズのハンディスキャナFW-RSU1W等をMSX2で使用する周辺機器。 :; ハンディースキャナーMSX2(HAL研究所) :: モノクロのハンディスキャナー。カートリッジには「'''HALSCAN'''」のラベルが貼られている。 ; エミュレータ : MSX上で他のプラットフォームを動作させるハードウエア機器を挙げる。他のプラットフォームでMSX用ソフトを動作させるものについては[[#歴史]]を参照。 :; MEGA MSX ADAPTER (tanam) :: 一部店舗で一般販売された、MSX上で[[SG-1000]]用ソフトを吸い出して動作させる同人基板<ref>{{Cite web|和書|url=https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/news/news/1144475.html|title=MSXでSG-1000のゲームを動かすためのアダプタ「MEGA MSX ADAPTER」|publisher=AKIBA PC Hotline (Impress Watch)|date=2018-09-25|accessdate=2018-09-28}}</ref>。 == 規格提唱企業と賛同メーカー == MSXに賛同したメーカーには「メーカーコード」と呼ばれるIDが割り振られていた。メーカーコードを付与され1980年代から1990年代にかけてハードを製造した企業を以下にメーカーコード順に記す。 * 名前の後ろに「※」が付くのは後に[[AX|AX規格]]に参入したメーカー。 {| class="wikitable sortable" style="font-size:small" !ID!!メーカー名!!ブランド名!!MSX1!!MSX2!!MSX2+!!MSX<br />turboR!!class="unsortable"|備考 |- |0||{{Flagicon|JPN}} [[アスキー (企業)|アスキー]]||||||||||||rowspan="2"|規格提唱企業 |- |1||{{Flagicon|USA}} [[マイクロソフト]]||||||||||| |- |2||{{Flagicon|JPN}} [[キヤノン]]<sup>※</sup>||||style="text-align:center"|●||style="text-align:center"|●|||||| |- |3||{{Flagicon|JPN}} [[カシオ計算機]]<sup>※</sup>||||style="text-align:center"|●||||||||[[PV-7]]やPV-16など低価格のMSX1を投入した。 |- |4||{{Flagicon|JPN}} [[富士通]]||[[FM-X]]||style="text-align:center"|●||||||||[[FM-7]]に注力するため、MSXは1機種を発売したのみで早期に撤退した。 |- |5||{{Flagicon|JPN}} [[富士通ゼネラル|ゼネラル]]||PAXON||style="text-align:center"|●||||||||後の富士通ゼネラル。 |- |6||{{Flagicon|JPN}} [[日立製作所]]<sup>※</sup>||||style="text-align:center"|●||style="text-align:center"|●|||||| |- |7||{{Flagicon|JPN}} [[京セラ]]<sup>※</sup>||||style="text-align:center"|●||||||||[[ヤシカ|YASHICA]]ブランドで販売、輸出のみ。 |- |8||{{Flagicon|JPN}} [[パナソニック|松下電器産業]]||キングコング(初期)<br />A1(後期)||style="text-align:center"|●||style="text-align:center"|●||style="text-align:center"|●||style="text-align:center"|●||後のパナソニック。ナショナル(初期の国内向け)・パナソニック(海外向け・後期の国内向け)ブランドで販売、また[[河合楽器製作所|河合楽器]]がKAWAIブランドでOEM機を販売(おもに「ニコルの森」の教材として)した。 |- |9||{{Flagicon|JPN}} [[三菱電機]]<sup>※</sup>||style="white-space:nowrap"|MSX:Let us(一部機種のみ)<br />MSX2:Melbrain's||style="text-align:center"|●||style="text-align:center"|●|||||| |- |10||{{Flagicon|JPN}} [[日本電気|NEC]]|||||||||||||1983年6月27日の規格発表会にのみ参加し、「規格に賛同はするが参加はしない」と発言。 |- |11||{{Flagicon|JPN}} [[ヤマハ]]||YIS(AV機器ブランド)<br />CX(楽器ブランド)||style="text-align:center"|●||style="text-align:center"|●||||||YAMAHAブランドで販売。1987年に日本楽器製造からヤマハに社名変更。 |- |12||{{Flagicon|JPN}} [[日本ビクター]]<sup>※</sup>||io(一部機種のみ)||style="text-align:center"|●||style="text-align:center"|●||||||後の[[JVCケンウッド]]。VictorまたはJVCブランドで販売。 |- |13||{{Flagicon|NED}} [[フィリップス]]||||style="text-align:center"|●||style="text-align:center"|●||||||主に欧州市場で販売。 |- |14||{{Flagicon|JPN}} [[パイオニア]]||Palcom||style="text-align:center"|●||||||||[[レーザーディスクプレーヤー]]制御システムとして発売。 |- |15||{{Flagicon|JPN}} [[三洋電機]]<sup>※</sup>||WAVY||style="text-align:center"|●||style="text-align:center"|●||style="text-align:center"|●||||SANYOブランドで販売。三洋電機本体の直轄となる以前は、コンピュータ事業はグループ会社の三洋電機ビジネス機器・三洋電機特機の管掌であり、MSX1には三洋電機特機名義のものが存在する。 |- |16||{{Flagicon|JPN}} [[シャープ]]<sup>※</sup>||||||||||||規格に賛同するもハードを発売せず。ブラジル支社が販売した際には、日本本社とは別にメーカーコードを取得している。 |- |17||{{Flagicon|JPN}} [[ソニー]]<sup>※</sup>||[[HiTBiT]]||style="text-align:center"|●||style="text-align:center"|●||style="text-align:center"|●|||| |- |18||{{Flagicon|USA}} [[:en:Spectravideo|Spectravideo]]||||style="text-align:center"|●||||||||1981年設立、1988年倒産。[[MSX (初代規格)|初代MSX規格]]の策定前から、ほぼ同じ構成のSV-328というパソコンを販売していた。 |- |19||{{Flagicon|JPN}} [[東芝]]||[[パソピア|パソピアIQ]]||style="text-align:center"|●||style="text-align:center"|●|||||| |- |20||{{Flagicon|JPN}} [[ミツミ電機]]||||||||||||ミツミ本体からの発売はないが、ヤマハやビクターなどにOEM供給を行う形でハードを製造した。 |- |21||{{Flagicon|ARG}} Telematica||Talent||style="text-align:center"|●||style="text-align:center"|●||||||スペインではDynadata社が、イタリアではFenner社が輸入販売。 |- |22||{{Flagicon|BRA}} [[グラジエンテ|Gradiente]]||Expert||style="text-align:center"|●|||||||| |- |23||style="white-space:nowrap"|{{Flagicon|BRA}} [[シャープ|SHARP do Brasil]]||HOTBIT||style="text-align:center"|●||||||||[[シャープ]]のブラジル現地法人であるシャープ・ド・ブラジルと現地子会社のEPCOMが販売。 |- |24||{{Flagicon|KOR}} [[LGエレクトロニクス|金星電子]]||||style="text-align:center"|●||||||||後のLGエレクトロニクス。Goldstarブランドで販売。搭載BASICは英語版。 |- |25||{{Flagicon|KOR}} [[大宇財閥|大宇電子]]||大宇ポスコム(パソコン)<br />[[Zemmix]](ゲーム機)||style="text-align:center"|●||style="text-align:center"|●|||||||Daewooブランドで販売。ゲーム機として発売されたZemmixの最終形態であるZemmix Turboは、VDPにV9958を積んでいて一部のMSX2+ソフトが動作する。イタリアではYENO社・Perfect社が輸入販売。 |- |26||{{Flagicon|KOR}} [[サムスン電子|三星電子]]||三星ポスコム||style="text-align:center"|●||||||||サムスンの独自規格であるSPC-1000と並行販売。イタリアではFenner社が輸入販売。 |} ; 備考 * 同一の機種であっても、[[クウェート]]のAl Alamiah社やフランスのYENO社など各国の輸入業者によってカスタマイズされ独自のブランドが付けられている場合がある。 * ハングルBASICを搭載したMSXは共通で「ポスコム」の愛称が付けられた。実際はメーカ名を頭に付けて「○○ポスコム」となる。 * 周辺機器メーカーとしては、韓国のZEMINA社やブラジルのCIEL社がある。 == メディア == === 広告 === 1980年代当時パソコンは、一般への普及を標榜していたため、テレビCMや雑誌・新聞広告に知名度の高い芸能人やキャラクターを起用する場合が多かった。MSXも数々のキャラクターでの宣伝を展開していた。 ; アスキー : MSX坊や - 特定機種ではなく、規格としてのMSXのマスコットキャラクターとして作成。MSX1からMSX2初期にかけて雑誌広告やアスキー発行の『MSXマガジン』で使用された。 ; ソニー : [[松田聖子]] - MSXだけでなく[[SMC-777]]シリーズを含むソニーのパソコンブランド[[HiTBiT]]のイメージキャラクター<ref name="mmag198805">「MSX MAGAZINEの広告に見るあのMSXギャル!?たちに注目っ!」『MSXマガジン』1988年5月号、pp.121-122</ref>。 ; 三洋電機特機 : [[宮本武蔵]] - PHC-30が本体のみでROMカートリッジ・カセットテープの両メディアが使える機種だったことから、「二刀流」が謳い文句だった。 ; 三菱電機 : (名称不明) - 最初の機種・ML-8000の広告には、カエルに似たオリジナルキャラクタがマスコットとして用いられた。同機の発売時に行われた「おもしろ・ソフト・コンテスト」の告知を兼ねた広告には「三菱MSXのかわいいキャラクター」との記載のみで、キャラクター名は書かれていない。なお、キャラクターイラストには「©CHEWIE NEWGETT COMPANY 1983」とのコピーライト表記がされている。 : Let usシリーズの広告では一般の女子大生を起用、以降はCMキャラクターなし。 ; 東芝 : [[横山やすし]]・[[木村一八]] - MSX以前の[[パソピア]]シリーズからの続投。MSX1の初期広告に登場<ref>『MSXマガジン』1984年11月号。裏表紙の東芝広告。</ref>。 : [[岡田有希子]] - MSX1中期からMSX2に起用<ref>『MSXマガジン』1986年2月号。裏表紙の東芝広告。</ref>。1986年の死去以降の後継はおらず、同社撤退まではCMキャラクターなし。 ; 日立製作所 : [[工藤夕貴]]<ref name="mmag198805" /> - MB-H1の頃は月変わりで雑誌広告を展開、セーラー服姿の工藤がパソコンを持って色々なところを闊歩するシリーズが1年間続いた。以降撤退までは機種毎に固定の写真が使われた。 ; 松下電器産業(後のパナソニック) : [[キングコング]] - MSX1およびナショナルブランドで発売されたMSX2を担当。同社MSXマシン自体のブランド名にも「キングコング」の名称が使われた{{Sfn|MSXパソコン比較大図鑑|1984|p=72}}。 : [[アシュギーネ]] - MSX2のA1シリーズを担当。MSX2用ゲームの主人公に使われた他にボードゲーム<ref>「なんでもかんでもアシュギーネ」『MSXマガジン』1988年3月号、pp.108-111</ref> や[[神崎将臣]]作の漫画にもなった。 : スパーキー - MSX2+以降を担当。「デザインに[[ルーカスフィルム]]が関わった、[[スター・ウォーズ・シリーズ|スター・ウォーズ]]世界の住人」という触れ込みだった。 ; 富士通 : [[タモリ]]<ref name="mmag198805" /> - 他のFMシリーズから続けての起用。 ; カシオ計算機 : [[佐倉しおり]]<ref>『MSXマガジン』1985年1月号、p.2。カシオ計算機広告ページ。</ref><ref>『MSXマガジン』1985年8月号、pp.18-19。カシオ計算機広告ページ</ref> - PV-7、PV-16のイメージキャラクター。 : [[山田邦子]]<ref name="mmag198805" /> - MX-10のイメージキャラクター。 ; 日本ビクター : [[小泉今日子]]<ref name="mmag198805" /> - 同社MSXが"IO"(イオ)というブランド名を使用した頃に起用されていた。 === 専門誌 === * '''[[MSXマガジン]]([[アスキー (企業)|アスキー出版局]])''' ** 1983年10月創刊→1992年5月休刊→1992年8月「夏号([[ムック (出版)|ムック]])」発刊→2002年12月「永久保存版」としてムック形態で復刊 * '''[[MSX・FAN]]([[徳間書店インターメディア]])''' ** 1987年3月創刊→1995年7月'''休刊''' * '''[[MSX応援団]]([[大陸書房]]・[[マイクロマガジン社|マイクロデザイン]])''' ** 1987年7月創刊→1988年9月'''廃刊'''。1988年5月号からはMSX oendanと表記した。すべて創刊時は月刊、毎月8日発売 * '''[[Oh!HiTBiT]]([[ソフトバンククリエイティブ|日本ソフトバンク]])''' ** 季刊・1984年4月創刊→1986年12月休刊。創刊号の題号のみ、Bが小文字表記になっていた。<br />ソニーのパソコンの専門誌で、MSX以外にソニー独自マシン・SMCシリーズも扱っていた。ソニーMSXには独自拡張されている部分が少なかったため、掲載内容は他社MSXにもそのまま応用できた。 なお、MSX発売メーカーの機種の専門誌としては他に'''[[Oh!FM]]・[[Oh!PASOPIA]]'''があるが、どちらもMSXは発売時に紹介された程度の扱いしかされていない。 === ディスクマガジン === * [[ディスクステーション]]([[コンパイル (企業)|コンパイル]]) * [[T&Eマガジンディスクスペシャル]]([[T&E SOFT]]) * LAB Letter([[HAL研究所]]) * MSXディスク通信([[アスキー (企業)|アスキー]]) * [[MSXトレイン]]([[ファミリーソフト]]) * [[ピーチアップ]]([[もものきはうす]]) * [[ピンクソックス]]([[ウェンディマガジン]]) * DISC Pana Amusement Collection(パナソフト) * [[ディスクNG]]([[バンダイナムコゲームス|ナムコ]]) これら以外にも、ユーザーにより自主制作されたものも存在する。 == 派生品 == MSXは単価が安く、またカートリッジスロットからZ80のメモリーバス、アドレスバスをそのまま引き出すことが出来るため、Z80の付随回路としてシンプルに設計でき、拡張や工作が容易である。80系/Z80系の環境では標準とも言えるCP/M互換のMSX-DOSという原始的なOSや開発環境も整っており、既存のCP/M環境やMS-DOS環境からのクロス開発も容易だったため、組み込み用や制御用にも多く流用されていた。 一部の市販ビデオタイトラーやビデオテックス([[キャプテンシステム|キャプテン]])システム、また公共施設等に設置されたビデオ端末や簡易ゲーム機などにもMSXを流用したハードウェアが内蔵され、稼動していた例も少なくない。 特にビデオタイトラーでは、ソニーのXV-J550/J770/T55Fシリーズや松下電器産業のVW-KT300などの家庭用タイトラーのハードウェア構成は明らかにMSXを応用・流用したものである。ただし、これらの機種では基本はMSXシステムをベースとしていても独自の実装がなされており、特にBIOSなどは大幅に簡略化されMSXとしての機能は望めないなど、簡単な加工程度では汎用のMSXシステムとして使うことは不可能である。それらのMSXベースのタイトラーは安価なビデオタイトラーとしてはかなり普及していた時期があり、一時期は企業ビデオパッケージ、解説ビデオやインディーズAVなどの小規模なビデオ関連の作品などにMSXの漢字ROMフォントとまったく同じフォントを用いたテロップを多く見かけることが出来た。 ; まなぶくん : MSXをベースに[[学研ホールディングス|学研]]が作製した学習コンピューター。誰でも簡単に操作ができるようにパネルタッチ式のキー入力が可能。本体の製造および修理は[[三洋電機]]が行っていたが既にメーカー修理の受付は終了している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.marushin-web.com/manabukun.html|title=まなぶくんの修理|publisher=丸真商店|accessdate=2019-02-21}}</ref>。 ; ビデオタイトラー : SONYのXV-J550/XV-J555/XV-J770/XV-T55Fやビクターの漢字ビデオタイトラーの中身はMSXだった。基板上にカートリッジスロットが存在するがBIOS等が無いため、MSXのゲームは動かない。MSXマウスはそのまま使用可能<ref>{{Cite web|和書|url=https://goodoldbits.wordpress.com/2016/02/17/msx5-videotitler/|title=MSX(5)ビデオタイトラー|publisher=Good Old Bits|accessdate=2016-02-17}}</ref>。 == 評価 == 日本で300万台、海外で100万台くらい売れたMSXは、1983年の日経優秀製品賞も受賞した一方で「失敗だった」と語られることがあり、これに関して西和彦は2つの理由を挙げている{{R|DiamondOnline_20201226}}。1つ目はMSXの位置づけであり、上位機種である16ビット機はIBMが既に事実上の標準になっており、ゲーム機である任天堂のファミリーコンピュータは安かったことで、MSXは存在意義を発揮することができなかった点である{{R|DiamondOnline_20201226}}。2つ目はネットワークが不十分であるがゆえに、電話やテレビのように一家に一台の必需品になれず、ペンや電卓などのアナログを代替することができなかった点である<ref name=DiamondOnline_20201226_2>{{Cite web |author=西和彦 |authorlink=西和彦 |url=https://diamond.jp/articles/-/253320?page=2 |title=【伝説のパソコンMSX】仕掛け人がついに明かす「失敗の本質」2ページ |work=反省記 |website=ダイヤモンド・オンライン |publisher=ダイヤモンド社 |date=2020-12-26 |access-date=2023-10-11}}</ref>。 一方でMSXが発売されて10年以上過ぎたころ、西は「MSXが初めて出会ったコンピュータであり、この出会いがなければ、コンピュータの仕事をしていない」と語る人に出会ったことで、「MSXは使ってくれた人たちの記憶の中に生きていると思う」と語っている{{R|DiamondOnline_20201226_2}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|30em}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書 |author= |title=ASCII 1983年8月号 |volume=7 |issue=8 |publisher=アスキー出版 |date=1983-08-01 |isbn= |ref={{Sfnref |ASCII 1983年8月号}} }} * {{Cite journal|和書 |author= |title=ASCII 1983年11月号 |volume=7 |issue=11 |publisher=アスキー出版 |date=1983-11-01 |isbn= |ref={{Sfnref |ASCII 1983年11月号}} }} * {{Cite journal|和書 |title=MSXスーパーAV活用法 パソコンで創る映像と音楽 |publisher=アスキー |date=1986-08 |ref={{SfnRef|MSXスーパーAV活用法|1986}}}} * {{Cite book|和書 |others=渡辺茂 |title=パソコン大図鑑84 徹底納得パソコンガイド |date=1983-09-25 |publisher=講談社 |isbn=4-06-200580-8 |ref={{SfnRef|パソコン大図鑑84|1983}}}} * {{Cite book|和書 |author=角宮二郎 |title=MSXパソコン比較大図鑑 全機種・全ソフト徹底ガイド |publisher=学習研究社 |date=1984-04-01 |isbn=978-4051010447 |ref={{SfnRef|MSXパソコン比較大図鑑|1984}}}} * {{Cite book|和書 |author=平田渥美 |title=パソコンでVHDを楽しむ本 |publisher=工学社 |date=1985-12-05 |isbn=978-4-87593-070-9 |ref={{SfnRef|平田|1985}}}} * {{Cite book|和書 |author=藤田洋一 |title=ビギナー必読 MSXウルトラ活用術 |publisher=ナツメ社 |date=1986-01 |isbn=978-4816305627 |ref={{SfnRef|藤田|1986}}}} * {{Cite book|和書 |author=鎗田竜一 |author2=宮崎暁 |author3=清水真佐志 |title=MSX2テクニカル・ハンドブック |date=1986-04-05 |isbn=978-4871481946 |publisher=アスキー |ref={{SfnRef|鎗田|宮崎|清水|1986}}}} * {{Cite book|和書 |author=那野比古 |authorlink=那野比古 |title=アスキー 新人類企業の誕生 |publisher=文藝春秋 |date=1988-10-15 |isbn=978-4163426709 |ref={{SfnRef|那野|1988}}}} * {{Cite book|和書 |title=MSX-Datapack Volume 1 |publisher=アスキー |date=1991-02-01 |ref={{SfnRef|MSX-Datapack1|1991}}}} * {{Cite book|和書 |title=MSX-Datapack Volume 2 |publisher=アスキー |date=1991-02-01 |ref={{SfnRef|MSX-Datapack2|1991}}}} * {{Cite book|和書 |author=滝田誠一郎 |title=電脳のサムライたち-西和彦とその時代 |date=1997-02-01 |publisher=実業之日本社 |isbn=978-4408102535 |ref={{SfnRef|滝田|1997}}}} * {{Cite book|和書 |title=MSX MAGAZINE 永久保存版 |date=2002-12-24 |isbn=978-4756142108 |publisher=アスキー |ref={{SfnRef|MSXマガジン永久保存版|2002}}}} * {{Cite book|和書 |title=MSX MAGAZINE 永久保存版2 |date=2003-12-03 |isbn=978-4756143747 |publisher=アスキー |ref={{SfnRef|MSXマガジン永久保存版2|2003}}}} * {{Cite book|和書 |title=MSX MAGAZINE 永久保存版3 |date=2005-05-12 |isbn=978-4756146182 |publisher=アスキー |ref={{SfnRef|MSXマガジン永久保存版3|2005}}}} * {{Cite book|和書 |author=トム佐藤 |title=マイクロソフト戦記 世界標準の作られ方 |series=新潮新書 |date=2009-01-20 |publisher=新潮社 |isbn=978-4106102981 |ref={{SfnRef|トム佐藤|2009}}}} * {{Cite book|和書 |title=MSXパーフェクトカタログ |date=2020-05-28|isbn=978-4-86717-028-1|author=前田尋之|publisher=ジーウォーク |ref ={{SfnRef|前田|2020}} }} {{参照方法|date=2022年10月|section=1}} * 竹内あきら、湯浅敬、安田吾太『MSXホームコンピュータ読本』([[1984年]]、アスキー) - 表紙には「OFFICIAL MSX HANDBOOK」。「MicrosoftX」の記述や、メーカーの参入が記された「MSX月報」など。 * 小林紀興『西和彦の閃き孫正義のバネ-日本の起業家の光と影』([[1998年]]、[[光文社]]) == 関連項目 == {{Commons|Category:MSX}} * [[MSX-SYSTEM]] * [[MSX-ENGINE]] === MSXを音楽芸術活動に取り入れた主な人々 === * MSXをMIDIシーケンサーとして使用:[[浅倉大介]]、[[テイトウワ]]、[[小久保隆]]、[[マジカル・パワー・マコ]]、[[RAMRIDER]]、ponkan swing * MSXを舞台効果として使用:[[ナイロン100℃|ナイロン100{{℃}}]]の演目『ウチハソバヤジャナイ 〜ナイロン100{{℃}}version〜』 * MSXを用いた音楽演奏(ライブ演奏):[[荒木健太]] * MSXを用いた映像制作:大野一興『ザ・フライング・ルナクリッパー』 * MSXを用いた[[ビデオジョッキー]]:MSX CREW * アニメ『ウゴウゴルーガ』のMIDI制御にMSXを使用:[[岩井俊雄]] === MSXを使っていた事を公表している有名人(除く音楽関係) === *[[ひろゆき]] *[[劇団ひとり]] *[[ホリエモン]] == 外部リンク == {{ウィキポータルリンク|コンピュータ|[[ファイル:Computer.svg|36px|ウィキポータル コンピュータ]]|break=yes}} === 公式 === * [http://www.vc-msx.d4e.co.jp/ MSXバーチャルコンソール 公式サイト] * [http://ascii.asciimw.jp/pb/ant/msx/ MSX マガジン永久保存版]{{リンク切れ|date=2020年7月}} - 閉鎖 * [http://www.gr8bit.ru/ The GR8BIT(ロシアの自作MSXメーカー)] * {{Twitter|MSX30th|MSX30周年記念_unofficial}} - MSXアソシエーションのスタッフが非公式に運営 === 資料 === * [http://www.baboo.net/ Baboo! JAPAN] * [http://home.a02.itscom.net/msx_lab/ MSX研究所] * [http://www.msx.org/ MSX Resource Center Foundation] * [http://www.generation-msx.nl/ Generation MSX(Software database)] * [http://www2a.biglobe.ne.jp/~mizuki/lifelog/4.htm#146 MirのMSX] === 1チップMSX === * [http://www.msx.d4e.co.jp/1chipmsx.html 1チップMSX] * [http://www.msx.d4e.co.jp/ D4エンタープライズ] === その他 === * [irc://irc.afternet.org/#retrocomputing #retrocomputing] on AfterNET(MSX and general classic computing chat) * [http://webmsx.org/ web上で動作するmsxエミュレーター(外部リンク)] http://webmsx.org/ 開発元 https://github.com/ppeccin/webmsx {{デフォルトソート:えむえすえつくす}} [[Category:MSX|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/MSX
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戦闘潮流
『ジョジョの奇妙な冒険 Part2 戦闘潮流』(ジョジョのきみょうなぼうけん パート2 せんとうちょうりゅう、JOJO'S BIZARRE ADVENTURE Part2 Battle Tendency)は、荒木飛呂彦による日本の漫画作品『ジョジョの奇妙な冒険』のPart2(第2部)。波紋の戦士シリーズ・第2弾。単行本第5巻 - 第12巻に収録されている。 『戦闘潮流』は後年に付けられた副題で、連載当時の副題は「第二部 ジョセフ・ジョースター ―その誇り高き血統」。 2012年より放送されたテレビアニメ版『ジョジョの奇妙な冒険』において、第10話から第26話まで「戦闘潮流」編が放送された。詳細については「ジョジョの奇妙な冒険 (テレビアニメ)」を参照。 舞台は、Part1『ファントムブラッド』から約50年後の1938年。今は亡きジョナサン・ジョースターの親友で後に石油王となりスピードワゴン財団を結成したロバート・E・O・スピードワゴンは、メキシコでの調査中に大量の石仮面とともに2千年もの時を眠り続ける「柱の男」を発見し、消息を絶つ。 ニューヨーク在住のジョナサンの孫であるジョセフ・ジョースター(通称「ジョジョ」)はスピードワゴンの行方を追ってメキシコに向かうが、そこで覚醒した「柱の男」サンタナと遭遇する。「柱の男」は吸血鬼をも凌駕する力と知性を持った地上最強の生物であり、圧倒的な力を持つサンタナとの交戦に際して、ジョセフはジョナサンから受け継いでいた太陽の力「波紋」と自身の巧妙な駆け引きを駆使し、これを制す。 スピードワゴンを救出し、ローマにも3体の「柱の男」がいることを知ったジョセフは、祖父であるジョナサンが師事したウィル・A・ツェペリの孫であるシーザー・A・ツェペリと合流し、復活した3体の「柱の男」であるワムウ、エシディシ、カーズと戦うが、サンタナを大きく上回る実力を持つ彼らに惨敗を喫し、30日経つと融解し毒が噴出し、付けたものを死に至らせる医学的に摘出不可能なリングを2つ取り付けられる。このリングを解除するには、30日以内にエシディシとワムウの2人から解毒剤を奪う必要がある。 「柱の男」たちは波紋や太陽を克服して地上を支配するために、「エイジャの赤石」と呼ばれる宝石の中でも最も強力な「スーパーエイジャ」を探していた。ジョセフは「『柱の男』たちの野望を阻止し、解毒剤を得る」という目標のために、シーザーと共に彼の師であるリサリサのもとで波紋の修行を積み、心身を鍛え上げられるとともに、リサリサがスーパーエイジャの所有者であることを知る。最終試練の日、ジョセフは襲ってきたエシディシを成長した波紋と知恵で撃破し解毒剤を得るが、彼はリサリサの使用人であるスージーQを操ってスーパーエイジャを自身らのアジトがあるサンモリッツへ郵送する。 シーザーが「柱の男」たちのアジトへ単身で乗り込むもワムウに敵わず息絶えたが、その時にシーザーはワムウの持つ解毒剤を奪い、ジョセフに解毒剤を波紋で渡す。そして赤石を賭けての直接対決が行われる。ジョセフがワムウを撃破してカーズを追い詰めるが、騙し討ちで赤石を奪ったカーズは石仮面に赤石を組み込んで被り、不死身の究極生物に進化する。 カーズの猛攻に遭って絶望するまで追い詰められたジョセフは、ヘリコプターをも利用した逃走の果てに火山の噴火を利用した捨て身の攻撃により、カーズを大気圏外へ追放する。カーズが永遠に宇宙空間をさまようこととなった一方、ジョセフも噴火に巻き込まれて死亡したと思われていたが、船に救助され奇跡的に生還しており、自分の葬儀の当日に、妻となったスージーQを伴い悲しむ一同の前に姿を現すのだった。 それから約50年後、老齢の域に入ったジョセフは日本人に嫁いだ娘とその孫に会うため、飛行機で日本へ向かう。新たな「JOJO(ジョジョ)」への世代交代を示唆しつつ、第2部は幕を下ろす。 登場人物の名称は他のPart同様、洋楽のバンド名やメンバー名などをアレンジしたものが多い。 担当声優はテレビアニメ版および、それに準拠した関連作品での配役。それ以外のものは別途記載する。 その他、カーズによって生み出された約100人もの吸血鬼(全員、元はごろつきの類)が登場している。そのいずれもワムウとカーズに制裁を下されたり、カーズにエネルギーを吸収されている。大半はシュトロハイムとナチス親衛隊、スピードワゴン財団特別科学戦闘隊に倒されている。またTVアニメ版では夜明けの太陽によって、それまで残っていた吸血鬼はこの時に全員消滅している。 2012年10月5日から2013年4月5日まで、TOKYO MX、MBS、CBC、東北放送、RKB毎日放送、BS11で放送。全26話で第1部と第2部が映像化されており、第10話から第26話までが第2部の映像化に相当する。また第2部の映像化はこのテレビアニメが初となる。
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『ジョジョの奇妙な冒険 Part2 戦闘潮流』は、荒木飛呂彦による日本の漫画作品『ジョジョの奇妙な冒険』のPart2(第2部)。波紋の戦士シリーズ・第2弾。単行本第5巻 - 第12巻に収録されている。 『戦闘潮流』は後年に付けられた副題で、連載当時の副題は「第二部 ジョセフ・ジョースター ―その誇り高き血統」。 2012年より放送されたテレビアニメ版『ジョジョの奇妙な冒険』において、第10話から第26話まで「戦闘潮流」編が放送された。詳細については「ジョジョの奇妙な冒険 (テレビアニメ)」を参照。
{{Pathnav|ジョジョの奇妙な冒険|frame=1}} {{出典の明記|date=2019-12-31}} {{Infobox animanga/Header | タイトル= 戦闘潮流 | ジャンル= バトル・アドベンチャー }} {{Infobox animanga/Manga | タイトル= ジョジョの奇妙な冒険 Part2<br />戦闘潮流 | 作者= [[荒木飛呂彦]] | 作画= | 出版社= [[集英社]] | 掲載誌= [[週刊少年ジャンプ]] | レーベル= [[ジャンプ・コミックス]] | 開始号= 1987年47号 | 終了号= 1989年15号 | 開始日= 1987年11月2日 | 終了日= 1989年3月13日 | 巻数= 全8巻(5 - 12巻) | 話数= 全69話 }} {{Infobox animanga/Footer | ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:漫画|漫画]] | ウィキポータル = [[Portal:漫画|漫画]] }} 『'''ジョジョの奇妙な冒険 Part2 戦闘潮流'''』(ジョジョのきみょうなぼうけん パート2 せんとうちょうりゅう、''JOJO'S BIZARRE ADVENTURE Part2 Battle Tendency'')は、[[荒木飛呂彦]]による[[日本]]の[[漫画]]作品『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』のPart2(第2部)。波紋の戦士シリーズ・第2弾。単行本第5巻 - 第12巻に収録されている。 『戦闘潮流』は後年に付けられた副題で、連載当時の副題は「'''第二部 ジョセフ・ジョースター ―その誇り高き血統'''」。 2012年より放送されたテレビアニメ版『ジョジョの奇妙な冒険』において、第10話から第26話まで「戦闘潮流」編が放送された。詳細については「[[ジョジョの奇妙な冒険 (テレビアニメ)]]」を参照。 == あらすじ == 舞台は、Part1『[[ファントムブラッド]]』から約50年後の1938年。今は亡き'''[[ジョナサン・ジョースター]]'''の親友で後に石油王となりスピードワゴン財団を結成した'''[[ロバート・E・O・スピードワゴン]]'''は、[[メキシコ]]での調査中に大量の[[ファントムブラッド#ishikamen|石仮面]]とともに2千年もの時を眠り続ける「'''柱の男'''」を発見し、消息を絶つ。 ニューヨーク在住のジョナサンの孫である'''[[ジョセフ・ジョースター]]'''(通称「ジョジョ」)はスピードワゴンの行方を追ってメキシコに向かうが、そこで覚醒した「柱の男」'''サンタナ'''と遭遇する。「柱の男」は吸血鬼をも凌駕する力と知性を持った地上最強の生物であり、圧倒的な力を持つサンタナとの交戦に際して、ジョセフはジョナサンから受け継いでいた太陽の力「波紋」と自身の巧妙な駆け引きを駆使し、これを制す。 スピードワゴンを救出し、[[ローマ]]にも3体の「柱の男」がいることを知ったジョセフは、祖父であるジョナサンが師事したウィル・A・ツェペリの孫である'''シーザー・A・ツェペリ'''と合流し、復活した3体の「柱の男」である'''ワムウ'''、'''エシディシ'''、'''カーズ'''と戦うが、サンタナを大きく上回る実力を持つ彼らに惨敗を喫し、30日経つと融解し毒が噴出し、付けたものを死に至らせる医学的に摘出不可能なリングを2つ取り付けられる。このリングを解除するには、30日以内にエシディシとワムウの2人から解毒剤を奪う必要がある。 「柱の男」たちは波紋や太陽を克服して地上を支配するために、「'''エイジャの赤石'''」と呼ばれる宝石の中でも最も強力な「'''スーパーエイジャ'''」を探していた。ジョセフは「『柱の男』たちの野望を阻止し、解毒剤を得る」という目標のために、シーザーと共に彼の師である'''リサリサ'''のもとで波紋の修行を積み、心身を鍛え上げられるとともに、リサリサがスーパーエイジャの所有者であることを知る。最終試練の日、ジョセフは襲ってきたエシディシを成長した波紋と知恵で撃破し解毒剤を得るが、彼はリサリサの[[家庭内労働者|使用人]]である'''スージーQ'''を操ってスーパーエイジャを自身らのアジトがある[[サンモリッツ]]へ郵送する。 シーザーが「柱の男」たちのアジトへ単身で乗り込むもワムウに敵わず息絶えたが、その時にシーザーはワムウの持つ解毒剤を奪い、ジョセフに解毒剤を波紋で渡す。そして赤石を賭けての直接対決が行われる。ジョセフがワムウを撃破してカーズを追い詰めるが、騙し討ちで赤石を奪ったカーズは石仮面に赤石を組み込んで被り、不死身の究極生物に進化する。 カーズの猛攻に遭って絶望するまで追い詰められたジョセフは、ヘリコプターをも利用した逃走の果てに[[火山]]の噴火を利用した捨て身の攻撃により、カーズを[[大気圏]]外へ追放する。カーズが永遠に[[宇宙空間]]をさまようこととなった一方、ジョセフも噴火に巻き込まれて死亡したと思われていたが、船に救助され奇跡的に生還しており、自分の[[葬儀]]の当日に、妻となったスージーQを伴い悲しむ一同の前に姿を現すのだった。 それから約50年後、老齢の域に入ったジョセフは日本人に嫁いだ娘とその孫に会うため、飛行機で日本へ向かう。新たな「JOJO(ジョジョ)」への世代交代を示唆しつつ、第2部は幕を下ろす。 == 登場人物 == 登場人物の名称は他のPart同様、洋楽のバンド名やメンバー名などをアレンジしたものが多い。 担当[[声優]]は[[ジョジョの奇妙な冒険 (テレビアニメ)|テレビアニメ版]]および、それに準拠した関連作品での配役。それ以外のものは別途記載する。 === 波紋の戦士 === ; ジョセフ・ジョースター : 声 - [[杉田智和]]<ref name=jump51>{{Cite journal|和書|month=11|journal=[[週刊少年ジャンプ]]2012年NO.51|pages=|author=|year=2012|publisher=[[集英社]]}}</ref> / [[大塚芳忠]]([[ジョジョの奇妙な冒険 (対戦型格闘ゲーム)|Part3対戦型格闘ゲーム版]]) : 第2部のジョジョ。ジョナサンの孫。1920年9月27日生まれ。身長195センチメートル 体重97キログラム。B型。 : 生まれついての波紋使いで、シーザーと共に「柱の男」たちに立ち向かう。 {{main|ジョセフ・ジョースター}} ; <span id="シーザー・アントニオ・ツェペリ">シーザー・アントニオ・ツェペリ</span> : 声 - [[佐藤拓也 (声優)|佐藤拓也]]<ref name=jump51/> : ジョセフの戦友で波紋使い。Part1に登場したウィル・アントニオ・ツェペリの孫で、父は[[イタリア人]]のマリオ・ツェペリ。1918年5月13日生まれ。20歳。身長186センチメートル 体重90キログラム。[[ABO式血液型|血液型]]A型。両の頬に[[痣|アザ]]がある。ガールフレンドを大勢持つナンパ男だが、波紋の師であるリサリサのことは母のように慕っている。ジョセフに対しては無責任な性格と、祖父はジョナサンのせいで死んだという考えから、当初は打ち解けなかった(登場初期には、ジョセフを「イナカ者」と見下すシーンも多い)が、ワムウとの初戦でジョセフが自身を囮にスピードワゴンと自分を助けようとしたことを機に彼を見直すようになり、リサリサの下での修行を通して無二の親友となった。初登場の時点で波紋法を習得しており、[[シャボン玉]]を媒介とした波紋の攻撃「シャボンランチャー」を得意とする。いつでもシャボン玉を出せるよう、衣服には石鹸水を仕込んでいる。 : 母を早くに亡くしてはいたものの、かつては家族と共に幸せに暮らしていたが、シーザーが最も尊敬していた父が理由も告げずに突如失踪した(家族のための生活費は残していたが、悪い親戚に騙し取られた)ことから父を憎み、性格が荒れて放浪するようになる。[[孤児院]]に収容されるも脱走し、ローマの貧民街で犯罪に明け暮れる荒んだ青春を送る。このときに行った幾度もの喧嘩における素拳での一撃を恐れられており、すでに波紋の才能の片鱗を見せている。16歳の時に[[ローマ]]でマリオを発見するが、彼は石化中のカーズに不用意に近づいたシーザーのことを息子と気づかないまま庇い、目の前で捕食されてしまう。シーザーはマリオが家族を捨てたのではなく、「柱の男」や吸血鬼との戦いに巻き込まないためにあえて無言で去ったのだということを知り、祖父と父の遺志を継ぐことを決意する。それまでは父への恨みから「[[姓]]なんて無え」と言うほどであったが、以後は父およびその血統を強く誇るようになり、侮辱する者には容赦しなくなった。 : 罠を承知でカーズたちの隠れ家に単身乗り込み、ワムウを追いつめるもあと一歩で敗れる。瀕死の重傷を負いながらも自らの父と祖父が自己を犠牲にして他人を救ったことを思い返し、死力を振り絞ってワムウから解毒薬入りの[[ピアス]]を奪い取る。[[バンダナ]]に引っかけたピアスを自身の血で作ったシャボン玉に入れて飛ばし、ジョセフに託すと微笑を浮かべたまま死亡する。遺体は死亡直後に落ちてきた十字架状の瓦礫の下敷きとなったが、その戦いぶりと最期はワムウからも認められ、彼に「永遠に記憶の片隅に留めておく」とまで言わしめた。 : ジョセフがピアスと共に受け取ったバンダナは形見の品として彼が所持し、ワムウとの決戦ではそのバンダナをジョセフが額に巻いて戦った。そしてワムウとの戦いの最後の最後でバンダナを火種にすることでワムウを爆破し、勝利を収めた。 : 主な技は、衣装に仕込まれている特殊石鹸水に波紋を流し、シャボン玉を発射する「シャボンランチャー」や、それを高速自転させて円盤状に発射できる「シャボンカッター」。後者は祖父の使っていた波紋カッターの応用技で、「シャボンカッター・グライディン」としてそのエッジ部分で切断したり、円盤本体を「シャボンレンズ」として光の反射現象を利用して日光を操ることができる。 ; <span id="リサリサ">リサリサ / エリザベス・ジョースター</span> : 声 - [[田中敦子 (声優)|田中敦子]]<ref name=jump51/> : ヴェネチア、エア・サプレーナ島の波紋訓練場の主。シーザーの波紋の師であり、後に師事したジョセフに波紋の扱い方を厳しく指導した。 : 当初のジョセフは知らなかったが、正体は彼の実母エリザベスであり、1889年の大西洋の事件(Part1最終話)でエリナに助けられた赤ん坊。生年月日は1888年12月頃。50歳。身長175センチメートル。体重不明。血液型A型。 : 18歳になるまでストレイツォのもとで養護と指導を受け、波紋を習得する。成人後に[[イギリス空軍]]の[[パイロット (航空)|パイロット]]となったジョージ・ジョースターII世と結婚し、ジョセフを出産する。しかし、イギリス空軍司令官として潜んでいたゾンビ(詳細は[[ディオ・ブランドー#Part2『戦闘潮流』]]を参照)にジョージを殺害され、怒りと悲しみで冷静さを欠いたエリザベスはそのゾンビを波紋で倒す。その現場に目撃者がいたことから「イギリス空軍司令官殺し」の国家反逆罪で全世界へ指名手配となり、スピードワゴン財団の協力で姿をくらました以降は「リサリサ」と名乗っていた。 : 波紋の習得によって20代後半のような若々しい外見を保っており、波紋パワーはジョセフの軽く3倍。武器は、サティポロジア・ビートルという虫の「100%波紋を伝える糸」を用いて編まれた[[襟巻き|マフラー]]で、それに波紋を流して吸血鬼を倒す。また、このマフラーは武器であると同時に、生命反応を感知できるレーダーにもなっている。 : 「柱の男」たちとの最終決戦でカーズに重傷を負わされるも生還し、ジョセフに自分が母であることを打ち明け{{Efn2|テレビアニメ版エピローグでは、ジョセフは何とも言えない複雑な表情を浮かべていた。}}、スージーQを伴って3人で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へ移住し、1948年に[[ハリウッド]]映画の脚本家と再婚した。ジョセフには母としての愛情を押さえ込み、波紋戦士として育てるために常に厳しく接していたが、死亡したと思われていた彼が生きて現われた時には嬉し涙を浮かべている。[[スターダストクルセイダース|Part3]]には登場こそしないものの、ジョセフに「ジョースター家の血筋の人間には左肩に星型のアザがある」ことを教えていたことが、彼の台詞で明かされている。 : ノベライズ作品『[[JORGE JOESTAR]]』では、ジョージ ('''J'''orge) のヒロインとして登場する。名前は「エリザベス・ストレイツォ」で、海難事故に遭遇した際にジョナサンの波紋の影響を受けて波紋呼吸法の基礎を会得していたという設定になっている。 ; ロギンズ、メッシーナ : 声 - [[仲野裕]](ロギンズ)、[[中村秀利]](メッシーナ) : 2人ともリサリサの屋敷の召使であり、波紋の[[師範代]]。リサリサによる指示のもと、ロギンズがジョセフを、メッシーナがシーザーをそれぞれ厳しく指導した。ロギンズは最終試練の場にてジョセフを待っていたところをエシディシに肺への一撃で殺害され、ジョセフはロギンズの遺体に糸を介したトラップでエシディシの左腕を切断して一矢報いるが、ロギンズの遺体の左腕はエシディシに奪われ、新たな腕として再利用される。その直後、左腕を失ったロギンズの遺体はエシディシの血液を注入されたことで沸騰し、破裂している。 : メッシーナはエシディシが郵送した赤石の宛て先を突き止め、単独でカーズの潜伏している[[ホテル]]跡へ向かったシーザーを止めるべく追うが、ワムウに左腕を切断されて気絶する。負傷の影響もあり、最終決戦には参加できなかった。 : 終戦後、ジョセフの葬式に参列した際には左腕が元通りとなっており(本来の腕か義手かは不明)、リサリサたちと共にジョセフの生還に驚愕するが、彼と再会したキャラクターの中で唯一エピローグが描かれていない。 : 綴りは "Loggins"、"Messina" だが、『[[ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトル|オールスターバトル]]』以降および[[Crunchyroll]]で配信されているテレビアニメの北米版では、"Loggs"(ロッグス)、"Meshina" と改名されている。 === 柱の男 === ; サンタナ : 声 - [[乃村健次]]<ref name=natalie>{{Cite web|和書|publisher=コミックナタリー|url=https://natalie.mu/comic/news/81804|title=アニメ「ジョジョ」柱の男の声優陣は井上和彦らベテラン勢|accessdate=2012-12-19}}</ref> : 「柱の男」の1人で、彼ら4人の内では最下位の階級にあたる。カーズたちが旅を始めた頃は[[赤ちゃん|赤ん坊]]であり、カーズいわく「(自分たちの)十分の一しか生きていない若僧」「青っちろい[[子供|ガキ]]」。カーズたち3人と離れ[[メキシコ]]の遺跡で眠っていた。鉱物化して眠る柱をスピードワゴン財団が発見し、さらにそれをナチス・ドイツが将来人類の存亡に関わると考え、「柱の男」を倒す研究のために奪取し、研究の過程で多数の[[囚人]]の生き血を吸わせることによって目覚めさせた。後述の3人とは異なって特定の流法(モード)は見せておらず、「憎き肉片(ミート・インベイド)」「露骨な[[肋骨]](リブス・ブレード)」などの自らの肉体の一部を操作して攻撃を行う。最下位とはいえ「50センチメートルの鉄板に囲まれた密室」から遠くの声を聞ける聴力、わずかな時間で現代語を習得し、[[軽機関銃|サブマシンガン]]([[MP40]])を一目見ただけで数時間の訓練は必要とする分解を瞬時にするなど高い知能を持ち、かつ1人で[[ドイツ軍]]基地を蹂躙する圧倒的な能力を見せる。ただ、ジョセフが自分に吸収されなかったり、波紋で攻撃を防いだりしているのを見て不思議に思っていたことから、「波紋」の存在を知らなかったようである。シュトロハイムの文字通りの捨て身の行動とジョセフの攻撃によって太陽の光を浴びたために再び石化し、スピードワゴン財団に回収される。後述のワムウやエシディシのように波紋で倒されたわけではないため、SPW財団の施設で人工の[[紫外線]]ライトにさらされながらも[[ヘビ]]を吸収するなど、まだ生きていることが示唆されているが、その後の行方は劇中では語られていない。 : 「サンタナ」の名は、シュトロハイムが「メキシコに吹く熱風」という意味で便宜上名付けたもので、本名は不明。当初、他の柱の男は「ヤツ」と呼んでいたが、後にカーズもシュトロハイムに合わせて「サンタナ」と呼んでいた。 : 『オールスターバトル』のプロモーション動画の北米版では "San-Tan"(サンタン)、『オールスターバトル』本編以降および[[ビズメディア]]から発売された原作漫画、テレビアニメの北米版では "Santviento"(サンヴィエント)と改名されている。 ; ワムウ : 声 - [[大塚明夫]]<ref name=natalie/> : 「柱の男」の一人。年齢はおよそ12000歳。1939年1月30日にカーズやエシディシとともに2000年の眠りから復活。サンタナ同様カーズが旅を始めた際は[[赤ちゃん|赤子]]であり、階級はカーズやエシディシに次ぐ第3位であるものの、彼らやシーザーに「戦闘の天才」と言わしめるほどの実力者。紫外線に耐性があり、上記の紫外線ライトを照射されても、まるで害を受けずに平然と行動できる。 : 「風の流法」という、体機能の作用で空気の流れをすさまじい規模で操る技法を所有。必殺技は両腕を前に突き出した状態で関節ごと高速回転させ、巨大な[[竜巻]]を作り出して標的を粉砕する「神砂嵐(かみずなあらし)」と、膨大な量の空気を体内で圧縮し、極めて高圧の状態で噴出させて標的を切り刻む「最終流法(ファイナルモード)・渾楔颯(こんけつさつ)」。視覚無しでも収納可能な1本の角で風の流れから相手の動きを知ることができる。額の角は[[ドリル (工具)|ドリル]]のように回転する武器ともなる。風の流法の応用で、体周囲の光を迂回させるという[[光学迷彩]]の原理で、一時的に[[透明人間]]となり、またごく短時間ながら日光下でも行動できる。自分の影の中に入られるのを極端に嫌い、相手が「柱の男」の中で最も賢いと言われているカーズであっても無意識の内に反射攻撃をしてしまう。カーズやエシディシに対して非常に忠実であるが、戦いの場においては自らの戦いの美学を優先する。 : 自分が認めるに足る敵と戦うことを名誉とする誇り高き男。それゆえ、戦いを穢す者には制裁を加える。2000年の眠りから覚めた際にジョセフと戦い瀕死のダメージを与えるものの、自らに傷を与えた男としてジョセフを認めて彼の心臓に毒の[[指輪]]を埋め込み、決闘を約束した。その後は、[[ギリシャ]]で「エイジャの赤石」を探していたらしいが、スイスの[[サンモリッツ]]にいるカーズと合流すると、単独で攻撃を仕掛けてきたシーザーを苦戦しながらも倒すが、自らの命を失ってもジョセフに解毒剤を託そうとした彼の姿に敬意を表し、シーザーが自らの血で作った鮮赤のシャボンを割らずに見逃した。最後は、[[ベルニナ山|ピッツベルリナ山]]にてジョセフと古来の作法に基づく「[[チャリオット|戦車]]戦」での決闘を行い、死闘の末に敗れる。首だけの状態になりながらも自分の戦いを穢そうとした吸血鬼たちに制裁を加えた後、自分より戦士として高みに立ったジョセフの成長に立ち会えたことに喜びを感じながら、1万年以上に及ぶ自らの人生はジョセフに出逢うためにあった旨を言い残し、消滅した。ジョセフはそれに応え、無意識に[[敬礼]]している。 ; エシディシ : 声 - [[藤原啓治]]<ref name="natalie" /> : 「柱の男」の1人でカーズの同志。[[ダイナマイト]]を飲み込み、腹の中で爆発させても平然としているほど強靭な肉体を持つ。血液を[[セルシウス度|摂氏]]500℃にまで加温し、この熱を様々に利用する、「炎の流法」(テレビアニメ版では「熱の流法」)の使い手。切れた[[血管]]を針のように伸ばし、敵に突き刺し過熱血液を流し込む「怪焔王の流法」(かいえんのうのモード)、血管針を全身から突き出させて回転攻撃を行う「怪焔王大車獄(かいえんのうだいしゃごく)」でジョセフを苦しめた。性格はカーズやワムウと比べると荒っぽく直情的であるが、自身もそれを自覚しており、頭に血が上った時は大泣きして落ち着くことで感情を制御する。[[中国]]に行った経験を持っており、ジョセフとの会話で兵法書の「[[孫子 (書物)|孫子]]」を引用した。 : 復活後にワムウがジョセフの心臓に毒の[[指輪]]を埋め込んだ時、ジョセフの喉に毒の[[指輪]]を埋め込んだ{{Efn2|喉に埋め込まれた毒は、ジョセフに負けた時に奪われた解毒剤により、解毒された。}}。エイジャの赤石の所在を突き止め、[[1939年]][[2月25日]]の夜にエア・サプレーナ島を襲撃してロギンズを殺害し、ジョセフと戦うが敗北する。しかし、[[脳|脳髄]]だけになりながらもスージーQに取りついて赤石をスイスにいるカーズのもとへ郵送。そして、スージーQの肉体もろとも自爆することでジョセフたちも吹き飛ばそうと図るが、ジョセフとシーザーが連携して流した波紋によってスージーQの肉体から追い出される。それでも今度はジョセフの肉体に再度取り付こうとするが、最期はジョセフの背中の上で朝日を浴びて消滅した。 : プライドを捨ててまで仲間のために生きようとした姿には、ジョセフも善悪とは関係無い、一種の敬意を表していた。 : 作者の荒木飛呂彦は、Part2では敵キャラクターやエシディシが泣くシーンが気に入っており、「強い敵が、ある瞬間に弱みを見せたほうが怖い」と語っている<ref>[[SPUR (雑誌)|SPUR]]ムック『JOJOmenon』より。</ref>。 ; カーズ : 声 - [[井上和彦 (声優)|井上和彦]]<ref name="natalie" /> : 「柱の男」のリーダー格。柱の男たちの中では最も知能が高く、「究極生命体(アルティメット・シイング)」となることを望み、「石仮面」を作り出した天才(究極生命体となった時点では[[知能指数|IQ]]400)。身体から生やす刃を煌めせる光の流法「輝彩滑刀(きさいかっとう)」を武器として用いる。刃が光るからくりは、刃の表面を[[チェーンソー]]のように走る無数の[[牙|キバ]]状の突起が不規則に起こす乱反射によるもので、金属も容易に切断する切れ味を持つ。刃は腕以外にも脚などからも生やせる。 : 弱点なき究極の生命体の追求を信念としている。およそ12,000年前、同族の面々から思想を危険視され、彼らを返り討ちにして滅ぼした。そして、自分の思想に共感したエシディシと、当時は生まれたばかりで事情を知らないワムウとサンタナを引き連れ、旅に出た。究極生命体になるための研究の過程で「エイジャの赤石」の力を発見し、石仮面の完成に必要な「スーパーエイジャ」の所在を突き止めるが、その後は休眠期に入ったために柱の中で眠りについていた。自らの目的を果たすことは絶対のもので手段は選ばず、ワムウに倣うと見せかけた欺瞞的な戦法や両親をも含む殺戮にも罪悪感はほとんど持たない。一方、戦士としてのワムウの姿を讃えて尊重し、その純粋さに心を傷めたり、エシディシに対しての強い仲間意識を覗かせるなど、彼らへの心情は一貫して手厚い。子犬を轢きそうな[[自動車]]の[[ステアリング・ホイール|ハンドル]]と運転者の腕を斬る、谷の底に咲く花の上に落ちることを避けるといった一面も見せる。 : スイスでの決闘ではリサリサを騙し討ちし、ついにスーパーエイジャを手に入れる。その後はジョセフの策に嵌るが、直後に自らに止めを刺そうとしたシュトロハイム隊の攻撃を利用し、赤石と石仮面の力で究極生物と化す。 : 回想シーンでは柱の男と同じ闇の生物の一族が数人登場しているが、カーズの粛清を決定する会議を開いている姿や、彼に殺害された姿が描かれるのみである。テレビアニメ版では生前の姿や人数が増やされ、明確に女性とわかる者も数人登場している。 : ノベライズ作品『JORGE JOESTAR』にも登場する。不死ゆえに宇宙の終焉をも生き延び、37回目の宇宙で[[火星]]にいた。名探偵ジョージ・ジョースターに同行して[[2012年]]の杜王町に帰還したり、[[1920年]]のジョセフ0歳に出会ったり、スタンドを学習したり、究極生命体になったディオと戦ったりする。 :; 究極生命体カーズ :: エイジャの赤石と石仮面のパワーで進化したカーズ。太陽光や波紋を克服した他、さらに体細胞を変形させて、あらゆる生物の能力を体現できるまでになっている。完全生物ゆえに、性交による繁殖で種や仲間を残すことを不要とし、自らが思うがままの世界を創造していくことを目的とする。変形能力によって、空中から[[飛び道具]]で攻撃することができるようになった。たとえ[[溶岩]]に落ちても即死せず、燃え尽きるよりも早く適応して克服する。さらに波紋をも体得し、くらった人体を蒸発させるほどのジョセフの数百倍という比較にすらならないほどの高出力で練るまでに至る。 :: エシディシとワムウの仇討、および自分のけじめのためにジョセフを自分の手で殺そうと追跡する。一度はジョセフとシュトロハイムの捨て身の奇策にはまり、溶岩に落とされるも、脱出してジョセフの左腕を切断し、彼とシュトロハイムを死の絶望に追いやる。しかし、新たに得た「波紋」でジョセフに止めを刺そうとしたことが仇となり、ジョセフが無意識に掲げた赤石によってさらに増幅させられた波紋エネルギーが火山のさらなる噴火を誘い、噴出された[[火山岩]]に押し上げられて[[宇宙空間]]へ放逐される。体内の圧縮空気の噴出による反動で地球への帰還を試みるが、体内外の温度差によって噴出空気が固体に凍結してしまい失敗。不老不死ゆえに死ぬこともできず、最終的に生物と鉱物の中間の物体となって思考を停止し、永遠に宇宙空間を漂うことになった。 === 吸血鬼 === ; ストレイツォ : 声 - [[飛田展男]] : Part1で登場した波紋の戦士でリサリサの育ての親にして師匠。年齢は75歳でスピードワゴンと同い年だが、波紋の力によりスピードワゴンよりも若い姿を保っている。本人曰く、肉体の鍛錬のために波紋を学んだ。老師トンペティの後を継ぎ、波紋法の指導者となったが、波紋法をもってしても防ぎきれぬ自身の老化に危機感を持っており、年を経るごとに[[ディオ・ブランドー]]の吸血鬼の力に憧れだした。 : そのため、スピードワゴンに呼ばれて弟子たちとともにメキシコを訪問し、柱に埋め込まれたサンタナと多数の石仮面を目の当たりにした際、弟子たちを殺害した後にスピードワゴンを襲い、石仮面を持ち出して吸血鬼となった(その際に、容姿がPart1とほぼ同じ状態にまで若返った)。しかし、吸血鬼となった後も血を吸わず、無関係な人間を手にかけることはなかった(ジョセフを誘き出すために少女〈声 - [[吉田聖子]]〉を人質にとったが、その際にも奥歯を引き抜いただけで殺してはいない)。 : 自身の脅威になるであろうと判断したジョセフを抹殺すべく彼と戦い、Part1でディオも使用した「空裂眼刺驚(スペースリパースティンギーアイズ)」を使った。また、リサリサが所持しているのと同じような波紋をよく伝導するマフラーを身につけており、それでジョセフの波紋を散らして防いだ。だが、ジョセフの用意していた多数の兵器と機転によりマフラーを失い、空裂眼刺驚も撃ち返されて敗北。若返ったことを至上の幸福と称して、波紋の呼吸を行い、自らの命を絶った。 : 名前の由来はPart1のダイアーとともにイギリスのロックバンド「''[[ダイアー・ストレイツ]]''」<ref>『集英社ジャンプリミックス 戦闘潮流1 ジョセフ・ジョースター編』 P44 JOJO's CHARACTER Part1 ストレイツォ</ref>。 ; 鋼線(ワイアード)のベック : 声 - [[鶴岡聡]] : カーズの部屋の門番を任されている吸血鬼。厚ぼったい唇と、[[長野・山梨・静岡方言|静岡弁調]](語尾に「〜ズラ」をつける)の口調が特徴。恋人を絞め殺した脱獄囚だったが、逃亡中にカーズの持つ石仮面により吸血鬼となった。自分の体毛を棘状に変化させることができる。ジョセフのクラッカーを破壊し、リサリサを抱き締めてお仕置きしようとしたが、逆に波紋を流されて死亡した。 ; カーズの影武者 : カーズの影武者を務めていた吸血鬼。リサリサとカーズの戦いで、本物のカーズが「殺気の無い構え」を見せ姿を消した後、柱のヒビの中から現れる。リサリサに波紋を流され、呆気なく倒れるが、カーズが攻撃するための隙を作ることには成功した。頭髪は[[かつら (装身具)|かつら]]であり、倒された後はかつらが外れ、禿頭が露わになった。 ; 戦車の御者 : 声 - [[山本兼平]] : 吸血馬2頭が引く[[チャリオット|戦車]]の[[運転手|御者]]を任されていた吸血鬼。興奮し猛り狂った吸血馬を抑えることができず、ワムウ、カーズに避難を勧めた。吸血馬はワムウによって静められ、自身も命は助かった。 その他、カーズによって生み出された約100人もの吸血鬼(全員、元はごろつきの類)が登場している。そのいずれもワムウとカーズに制裁を下されたり、カーズにエネルギーを吸収されている。大半はシュトロハイムと[[親衛隊 (ナチス)|ナチス親衛隊]]、スピードワゴン財団特別科学戦闘隊に倒されている。またTVアニメ版では夜明けの太陽によって、それまで残っていた吸血鬼はこの時に全員消滅している。 === その他の登場人物 === ; ロバート・E・O・スピードワゴン : 声 - [[上田燿司]]<ref name=jump51/> : ディオとの戦いの後アメリカに渡り、運よく石油を掘り当てて石油王となり、スピードワゴン財団を設立。吸血鬼と柱の男たちについて調査をしていた。 {{main|ロバート・E・O・スピードワゴン}} ; エリナ・ジョースター : 声 - [[川澄綾子]] : 旧姓ペンドルトン。ジョセフの祖母であり、ジョナサンの妻であった。Part2では気品と厳格さを兼ね備えた淑女となっている。また、レストランにて友人であるスモーキー・ブラウンを黒人だという理由で侮辱した相手への怒りを露にしたジョセフに対し、「他の客に迷惑をかけずにやっつけなさい」という旨の発言をするなど、若い頃よりしたたかになっている。 : 孫のジョセフからは、育ての親として深く慕われており、第二部、第三部でジョセフに「エリナ婆ちゃん」と言われている。老齢ながら[[小学校]]の[[英語 (教科)|英語]]教師を務めており、学校をサボるジョセフに[[世界史|歴史]]を教えている。彼女が教えた[[孫子]]の兵法はジョセフがエシディシと戦う際大いに役立った。夫と息子を若くして失っているため、孫のジョセフには幸せになってもらいたいと願っている。そのため、ジョセフの父親と母親は(石仮面の宿命とは関係のない)戦死と病気でそれぞれ亡くなったことにして、波紋や石仮面の存在にまつわることは50年前に終わったと、ジョセフには真実を伝えずにいた。 : 1950年、自身も数奇で悲しい運命に何度も見舞われたが、最後は孫とその家族、友人たちに見守られながら81年の生涯を静かに閉じた。 : Part2では普段から[[サングラス]]を付けており、一度も取っていない。1コマだけ、サングラスと顔の間から素顔が見えるシーンがある。 : テレビアニメ版では普通の丸[[眼鏡]]となっており、素顔も見えている。また上述の最期のシーンにはベッドの上でジョセフや曾孫であるホリィ、その他大勢に見守られていた。 : 原作でのPart3以降は特に名が挙がるシーンは無かったが、テレビアニメ版でのPart3ではジョセフとDIOの直接対峙する場面において名が挙げられており、DIOからの台詞は「田舎娘」と言われている。 ; ルドル・フォン・シュトロハイム : 声 - [[伊丸岡篤]]<ref name=jump51/> : [[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の将校で、初登場時には[[親衛隊少佐|少佐]]としてメキシコ秘密基地の指揮官を務めていた。手柄を立てて勲章をもらうために、瀕死の重傷を負ったスピードワゴンを保護して尋問し、得た情報で基地内に移動させた柱の男たちの1人を復活させ、サンタナと命名する。しかし、サンタナの予想を上回る能力に翻弄され、基地内に甚大な被害を負ったことで、基地に侵入していたジョセフと一時共闘する。その後、サンタナに弱点の日光を浴びせるために自らの足をジョセフに[[斧]]で切り落とさせるなど身を挺した行動を取るが、逆に切断した足の傷口から体内に侵入されてしまう。最後の手段として[[手榴弾]]によって自爆したが、それでもサンタナは倒せなかった。しかし、シュトロハイムが自爆したことで再び日光に晒されたサンタナは、ジョセフによって石化される。 : 死んだと思われたものの、全身を[[サイボーグ]]化して再登場(それと同時に[[親衛隊大佐|大佐]]へ昇進)。再び柱の男たちとの戦いに参加する。サイボーグ化にはサンタナのデータが参考にされており、その身体能力は彼を上回ったが、サンタナよりもはるかに格上の存在であるカーズには内蔵された[[機関銃]]でダメージを与えたものの胴体を真っ二つにされる。しかし、片目に内蔵された紫外線[[ストロボ]]を駆使して生き残り、再改造・修理を受けて再度戦線に復帰。カーズとの最終決戦において、苦戦するジョセフを文字通り身を犠牲にして助けており、Part2における彼の最後の戦闘を見届けた唯一の人物となった。 : 台詞の最後を伸ばす(「世界一ィィィ!」など)独特の口調を持つ。サイボーグ化された後はこの傾向がさらに顕著になっていた。 : 性格面ではプライドが高く傲慢な反面、勇気のある人間は人種や年齢を問わず尊重するなどの面を持っている。カーズに止めを刺そうと意気込んで放ったはずの攻撃が、彼がエイジャの赤石を装着した石仮面をかぶっていたために究極生物化の手助けとなってしまうなど、間抜けな一面も見せている。また、単身で実験台になろうとした捕虜の少年(声 - [[井口祐一]])以外の捕虜全員を実験に使うなど冷酷な面がある一方、自身を犠牲にしてジョセフを助ける正義漢の一面も持つ。 : 柱の男たちとの戦いの後、ジョセフの生還を知ることなく1943年の[[スターリングラード攻防戦|スターリングラード戦線]]で誇り高きドイツ軍人として名誉ある戦死を遂げたことがエピローグで記されている{{Efn2|テレビアニメ版のエピローグでは、背中のアームパーツに仕込んだ銃火器で戦線に立つ姿が描写されている。また先述の「世界一ィィィ!」と叫んでいる。}}。 : 小説『[[恥知らずのパープルヘイズ -ジョジョの奇妙な冒険より-|恥知らずのパープルヘイズ]]』では名前のみ登場。石仮面による不死の研究の責任者になっていたことが判明しており、[[シチリア]]にあった石仮面を回収する予定であったが、スターリングラード戦線で戦死したためにそれは回収されず、シチリアに残されていた。 : 原作ではナチスと呼称されているが、アニメ版、およびゲームでは「ドイツ軍」に統一されている。 ; スージーQ : 声 - [[小島幸子]] : リサリサの使用人。ノリは良いがかなり[[天然ボケ]]な性格の[[イタリア人]]女性。脳髄のみとなったエシディシに操られて体内をボロボロにされるが、ジョセフに救われた。柱の男との戦いを終えたジョセフを介抱した後に結婚するが、彼の生存を仲間たちへ連絡し忘れていたため(ジョセフはカーズ戦で死んだと思われていた)、ジョセフは自分の結婚を自分の[[葬儀]]の場で発表する羽目となった。 : 結婚後、ジョセフとの間に娘のホリィ・ジョースター(空条ホリィ)をもうけ、さらには孫の[[空条承太郎]]が生まれることとなるが、[[ダイヤモンドは砕けない|Part4]]での彼の台詞によると、ジョセフの浮気が判明した時はかなり激怒した模様。 : 綴りは "Suzi Q" だが、原作漫画の北米版では、"Suzie Q" と改名されている。 ; スモーキー・ブラウン : 声 - [[林勇 (声優)|林勇]] : [[ジョージア州]]出身の黒人少年。自身をチンピラと自称するほど落ちぶれていたが、ニューヨークでジョセフの財布を盗んだところを見ていた警官の[[私刑|リンチ]]に遭っていた最中、自身の被害者であるはずのジョセフに助けられて友人となる。ストレイツォ戦の後はしばらく登場しなかった(ジョセフやスピードワゴンが不在の間、エリナの身辺の世話をしていた模様)が、カーズとの最終決戦で苦戦するジョセフの元へスピードワゴンやシュトロハイムらとともに駆けつけている。エピローグでは苦学した後、ジョージア初の黒人市長となったことが記されている。 : テレビアニメ版Part2最終話ではジョセフの生存を知った際に感極まって号泣する場面が描かれており、彼への友情が強調されている。テレビアニメ版では成長した姿が描写され、50年後のPart3では作中の雑誌でニューヨークの市長としての姿が描かれていた。 ; ジョージ・ジョースターII世 : ジョナサンとエリナの息子。リサリサの夫でジョセフの父。名は祖父のものを受け継いだ。ジョナサン譲りの容貌を持った[[イギリス空軍]]のパイロット。黎明期の乗り物で、その安全性が保障されていない[[飛行機]]に自ら志願して搭乗するなど、ジョナサン同様の強い意志と勇気を持っている。軍の上官がディオの生んだゾンビの生き残りであることに気付いたが、素質はあったものの波紋の修行をしていなかったために殺害された。息子のジョセフには、「父は幼い時に戦死した」としか知らされていなかった。 : なお、名前はPart2では単に「ジョージ・ジョースター」と語られているのみで、Part3以降の家系図において「ジョージII世」とされている(ジョージI世は祖父であるPart1のジョースター卿)。 : テレビアニメ版では出番が増やされ、花束を手にエリザベスの元を訪れるシーン、空軍パイロットとして活躍するシーン、生まれたばかりのジョセフを夫婦で見守る笑顔のシーンが描かれた。 : ノベライズ作品『JORGE JOESTAR』では主人公であり、名前は「'''J'''orge」となっている。 ; ブルート : ジョセフに挑みかかってきた大男。伴っていた女性からは「ブルりん」と呼ばれる。ジョセフがストレイツォを爆破して逃走したところその騒ぎを聞きつけ、新聞に載ってヒーローになろうと目論み彼を捕まえるが、ジョセフに鼻を集中的に踵で蹴られて取り逃がしてしまい、逆に醜態を晒すことになった。 : テレビアニメ版ではシーンがカットされ登場しない。 ; ドノヴァン : 声 - [[松田健一郎]] : ナチス親衛隊コマンドー。足跡をつけずに砂の上を歩けるほどの身軽さを持つ。メキシコの砂漠でジョセフを尾行し、ストレイツォの情報を得るために拉致しようと目論むが、戦闘に敗れて逆に拷問され、スピードワゴン生存の事実を自供する。その後、ジョセフに[[サボテン]]にくくり付けられた。 : テレビアニメの北米版では "Donobang"(ドノバン)と改名されている。 ; マルク : 声 - [[逢坂良太]] : ナチスの軍人で、シーザーの親友。シーザーいわく「仕事に一生懸命な人の良い青年」。シーザーに手伝ってもらいナンパした女性と婚約中であり、近い将来に結婚する予定だった。ナチスが監視しているローマの地下遺跡へジョセフやシーザーを案内するが、眠りから目ざめたワムウに右半身を食われて致命傷を負う。最期はシーザーに波紋で心臓を止めるよう頼み、シーザーに[[安楽死]]させられた。 ; マリオ・ツェペリ : 声 - [[山野井仁]] : ウィルの息子でシーザーの父。ナポリの[[家具]]職人だったが、ウィルの意志を受け継ぎ波紋の修行に生涯をかけており、ローマで地下遺跡に眠る柱の男を発見し、後に突然失踪する。世界を巡ってそれへの対処法を探っていたが、遺跡の罠に引っかかったシーザーを救おうとして死亡した。マリオ自身は成長したシーザーを自分の息子とは分からなかったが、マリオの死はシーザーを大いに成長させることとなる。 == 関連用語 == {{see also|ファントムブラッド#関連用語}} ; 柱の男(はしらのおとこ) : 2000年周期で眠りにつく謎の生物「闇の一族」のこと。メキシコの古代人が命名した仮称。作中ではその生き残りである、石柱の中で眠っていたカーズ、エシディシ、ワムウ、サンタナがこう呼ばれる。人間が歴史を持つ遥か前に進化の過程の中で地球に出現し、かつて[[神]]や[[悪魔]]などと[[先史時代|原始]]の人間たちに認識されていた存在。女性もいたようだが、その生物の頂点に立つ力故に[[食物連鎖]]の定義に漏れず繁殖率が極めて低く、地球の[[生態系]]にも考慮して他の生物には必要(必要最低限の食料)以上には干渉せずそれまでひっそりと生きていた。しかし一族は、より多くの生物のエネルギーを必要とする「石仮面」を作り出したカーズを恐れ抹殺しようとし、逆に返り討ちに遭って滅ぼされたため、作中の時点で生存するのはカーズら4人のみ。頭にはそれぞれ固有の角(ワムウの発言)、あるいは触角(カーズの発言)がある。人間とは比較にならぬほどの寿命・知能・身体能力を誇るが、[[紫外線]]に弱く、太陽光を受けると、吸血鬼のように灰化まではしないものの、硬直して石となる。ただしエシディシによると皮膚の内部や(負傷などでむき出しになった)内臓に紫外線や波紋の攻撃を受ければ消滅もする。また大威力武器攻撃(劇中では戦闘用ハンマーや、鋼鉄球のボウガン)を頭部に受ければ致死も有り得る(カーズの発言)。普通に口から物を摂取することもある(カーズが[[酒]]を飲んでいるなど)が、全身の細胞から消化液を出して「食事」を行うため、波紋使い以外の人間や吸血鬼、および他の動物が柱の男の肉体に接触すると、削り取られるようにして食われてしまう。「石仮面」は彼らに不死身の力と太陽光に対するある程度の抵抗力(石化)をもたらしたものの、究極生物となるには骨針の「押し」が弱かったらしく、「石仮面」に「エイジャの赤石」の力を取り込み、弱点の太陽光を克服、究極生物へ進化することを目論んでいた。Part1から登場する石仮面は、カーズが研究の過程で作った試作品である。その試作品の「石仮面」を使い、「柱の男」たちは、高効率のエネルギー源としてあらゆる生物を吸血鬼に変貌させ、捕食していた。「波紋使い」の一族は、この柱の男たちからエイジャの赤石を守るため、また柱の男たちを殲滅するために存在することも明らかになる。 ; エイジャの赤石(エイジャのせきせき) : カーズたちが捜し求めていた、[[ルビー]]のような赤い石。地球上に極めて稀に存在する「エイジャ」という希少鉱物で、[[結晶]]内で光を何億回も反射を繰り返し増幅した後、[[ルビーレーザー]]のように一点に照射する力を持っており、不純物の多い粗悪な石でさえ、[[ランプ (照明器具)|ランプ]]の炎の光だけでエシディシの掌を貫通する威力を発揮した。石仮面の骨針の力が自分たちの脳を完全に押すには不足していることに悩んでいたカーズは、赤石の力で骨針を強化しようと考え、[[ローマ皇帝]]が持つといわれた一点の曇りも無い「スーパーエイジャ」を入手すべく、ワムウとエシディシを連れて2,000年前の[[ヨーロッパ]]に現れた。「スーパーエイジャ」が無ければカーズの野望は実現しないのだが(実際にジョセフも赤石の破壊を提案していた)、これが無ければ「柱の男」を倒せないという言い伝えが残されていたため、代々の波紋戦士によって引き継がれ、作中の時代では宝石に偽装されて[[ペンダント]]に組み込まれた状態でリサリサが所持していた。究極生命体と化したカーズとの決戦時、ジョセフの生きるという執念が成せた偶然により赤石は「波紋増幅器」だということが判明。赤石によって増幅されたカーズの波紋は火山噴火を誘発した。 == 書誌情報 == {{main|ジョジョの奇妙な冒険#書誌情報}} * 『ジョジョの奇妙な冒険』5 - 12、[[ジャンプ・コミックス]]、1988年 - 1989年、全8巻 * 『ジョジョの奇妙な冒険』4 - 7「Part2 戦闘潮流」、[[集英社文庫]]、2002年、全4巻 * 『ジョジョの奇妙な冒険 戦闘潮流』、[[集英社ジャンプリミックス]]、2004年 - 2005年、全3巻 * 『ジョジョの奇妙な冒険 第2部 戦闘潮流 総集編』、集英社マンガ総集編シリーズ、2012年 - 2013年、全2巻 * 『ジョジョの奇妙な冒険 [函装版] JOJONIUM』4 - 7、愛蔵版コミックス、2014年、全4巻 == テレビアニメ == {{Main|ジョジョの奇妙な冒険 (テレビアニメ)}} 2012年10月5日から2013年4月5日まで、[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]、[[毎日放送|MBS]]、[[CBCテレビ|CBC]]、[[東北放送]]、[[RKB毎日放送]]、[[日本BS放送|BS11]]で放送。全26話で第1部と第2部が映像化されており、第10話から第26話までが第2部の映像化に相当する。また第2部の映像化はこのテレビアニメが初となる。 == その他 == * シーザーの祖父ウィルは『週刊少年ジャンプ』掲載時では、「結婚もしなかったし家族も持たなかった」と語っていたが、Part2で彼の孫であるシーザーが登場した。作者いわくこれには苦情が殺到したらしく、後に発行された単行本4巻では「若いころ結婚していたが石仮面に関わり家族を捨てた」という風に台詞が変えられ(TVアニメ版もこれに準拠している)、同巻末に謝罪文が載せられた。この作者コメントの一部は、[[日本テレビ系列]]で放送された[[バラエティ番組]]『[[人生が変わる1分間の深イイ話]]』(2008年6月9日放送分)で紹介された。 * 『週刊少年ジャンプ』連載当時、本作品には「ロマンホラー! 深紅の秘伝説」というキャッチコピーが添えられていたが、これは作者本人の意図するところではなく、担当編集の独断によって付けられた特に意味のないものだったという<ref>コラム「気分はJOJO 最終回SPECIAL!!〜5部Q&A〜」(『週刊少年ジャンプ』1998年9号)</ref>。しかしエイジャの赤石の登場により、このコピーがそれなりの意味を持つものとなっていった{{要出典|date=2021年1月}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} {{Jojo}} {{DEFAULTSORT:せんとうちようりゆう}} [[Category:ジョジョの奇妙な冒険の漫画作品]] [[Category:1987年の漫画]] [[Category:週刊少年ジャンプの漫画作品]] [[Category:吸血鬼漫画]] [[Category:ゾンビを題材とした漫画作品]]
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たけしの挑戦状
『たけしの挑戦状』(たけしのちょうせんじょう)は、1986年(昭和61年)12月10日にタイトーが発売した、ビートたけし監修のファミリーコンピュータ用ゲームソフト。会社員である主人公が南海の孤島に眠っているという財宝を探しに行くという内容で、パッケージや取扱説明書に書かれていないがゲーム内では「ポリネシアンキッド 南海の黄金」というサブタイトルが付けられていることが分かる。また、パッケージではタイトルロゴの上に「ビートたけし作」と記されており、任天堂の公式サイトでは『ビートたけし作 たけしの挑戦状』を正式タイトルとしている。 雑誌『ファミコン通信』でのクソゲーランキングでも1位を獲得するなど、攻略本なしではクリア困難なゲーム内容から、レトロゲームにおける「クソゲーの代名詞」として語られることが多い。 当時ファミコンに熱中していたビートたけしの「今までにない独創的な発想を入れたい」という意図が反映され数々の斬新な内容が盛り込まれている。キャッチコピーは「謎を解けるか。一億人。」でソフトのパッケージ表面には「常識があぶない。」(販促用のポスターでは「あぶない」の「あ」の字が鏡文字になっている)と称し、裏面ではたけし本人が「今までのゲームと同じレベルで考えるとクリアー出来ない」とコメントしている。広告には「成功確率 無限大数分の1」と書かれていた。 CMは、たけしが『雨の新開地』を歌うシーンと、たけしがIIコンのマイクに向かって「出ろ!!!」と言い、宝の地図が出てくるシーンの2パターンがあり、どちらのCMもゲーム攻略のささやかなヒントになっていた。 しかし、本作の発売前日の1986年12月9日に、たけし本人とたけし軍団の一部メンバーが講談社の『FRIDAY』編集部に殴り込みを行うという事件が起きた(フライデー襲撃事件)。このためたけしらは半年間芸能活動を自粛することになったが、本作は予定通り発売された。テレビCMは放映中止となったが、雑誌の攻略記事や広告は引き続き掲載された。再販分は1990年まで発売が延期されている。 パッケージには「ビートたけし、ファミコンソフト第1弾!」と書かれており、のちに第2弾の『たけしの戦国風雲児』(1988年)が同社より発売されている。 ゲームシステムはサイドビューのアクションゲームだが、ストーリーはアドベンチャーゲームのように選択肢によって進行していくため、ジャンルとしてはアクションアドベンチャーゲームと言える。また一部シーンにはシューティングゲームも含まれている。 日本の都市部、およびそこにある街が舞台らしいが、具体的な場所やそのモチーフはほとんどないうえ、雰囲気は極めて退廃的であり、主人公は薄汚れた町並みの中に住む貧しいサラリーマンである。台詞は汚く暴力的な言葉遣いが多く、店や事務所などの看板は極道的な内容である上、路上にはヤクザが彷徨き、さまざまな敵対的なキャラクターが主人公に攻撃してくる。 日本にいる時はバーでテキーラを飲むこと、ひんたぼ島では宿泊する(部屋を選ぶことができ、回復できる量も異なる)事によって体力が回復する。所持金は通行人を倒したり、特定の条件を満たすと手に入る。その他にコース中のある決まったところでしゃがめば、ハートが現れるのでそれでも回復できる。また、ライフがなくなってもすぐにAとBを3回同時に押せば復活できる裏技も存在する。 BGMの種類は少なく、メインテーマがエンディングまで含めたゲーム内のほぼ全編に渡って絶え間なく流れ続けている。 TAITO CLASSICS版は、画面が16:9対応となっている他(例として、ゲームオーバーの画面における献花が4:3対応のファミコン版並びにバーチャルコンソール版は4本に対し、TAITO CLASSICS版は8本に増加している。ただし、一部シーンは4:3のままであるためサイドカットとなる)、ファミコン版とバーチャルコンソール版に新ステージ「あめりか」などの新要素が加えられており、タイトーのサウンドチームであるZUNTATAによるゲームミュージックの新曲が追加されている。 ふとしたことから宝探しの情報を聞き出した主人公。本格的な宝探しに行くためには、まず身の周りのしがらみを取り払い、周到な準備をする必要があると思い立つ。「妻に離婚届を出す」「会社に退職届を出す」「地図を渡した老人を倒す」「カルチャーセンターで様々な技能を修得する」などがそれである。条件を満たさないでひんたぼ島に行くと、突然妻または社長が現れて日本に強制送還されたり、宝の山の前で尾行してきた老人に宝を横取りされて即ゲームオーバーになる。 このゲームは2Pコントローラのマイク機能を様々な場面で使う。主なものとして、カラオケをしたり、裏技として、 など通常では思い付き難い操作が要求される。また、住人に話しかけることもでき、稀にヒントを貰えることがある。 ただし声を判定しているわけではないため、「マイクに音が入力されている」状態なら同じように判定される。 ひんたぼ島より先の島に行く時にハンググライダーを使ってシューティングをする場面がある。しかし、途中で現れる潮風に操作を妨害されやすく、画面上に弾は1発しか出せない上、敵に当たると即ゲームオーバーと独特の操作性・ルールのため非常に難易度の高いものとなる(リゾートセンターでハンググライダー以外に飛行機・熱気球・船・スキューバダイビングといった他の手段も選べるが、着陸などが出来ないため結局クリア不可能である)。 スナックのカラオケで実際に2Pコントローラーのマイクを使って歌い高評価を得ないと進めないイベントがあるが、ニューファミコンではマイク機能が削除されている。マイク機能を使用した謎解きを入れた他のゲームでは、セレクトボタンを用いることでマイク機能の代用としたものが多いが、本作に関しては、IIコントローラーの下とAボタンを押す(バーチャルコンソール版ではWiiリモコン裏側についている「B」ボタンで代用できる)ことでマイク機能を使用しているのと同じ判定がなされる。これは旧型のファミコンでもマイク機能を使わずに同様の操作を行えばマイク機能を使用しているのと同じことになるためである。なお、マイクで音を判別しているとはいえ、後のゲームのように音声認識であったり、音程を判別する機能はないために、実際に歌唱力がなくともメロディの部分で息を吹きかけるだけで歌ったことになる。そのため、判定は曖昧であった。カラオケ曲のレパートリーは5ジャンル/計25曲あるが、実際に歌えるのは『えんか/あめのしんかいち』、『どうよう/はとぽっぽ』、『みんよう/おきなわゆんた』、『ぽっぷす/ねこにゃんたいけん』の4曲のみで、それ以外の曲は選択しても「その曲はありません」と断られる(『みんぞくおんがく』のジャンルに至っては、歌える曲が1曲も無い)。「はとぽっぽ」以外の3曲は、いずれもこのゲームのオリジナル曲である。「あめのしんかいち」はこのゲームのCMでたけしによって歌唱された。 このゲームはゲームオーバーの画面が主人公の葬式になっていることで知られている。ただし、ライフがなくなる以外にもゲームオーバーとなるイベントが非常に多い。以下にその例を示す。 このゲームはセーブ機能はないが、タイトル画面で右に進んだ先にある「こんてにゅうや」で平仮名・数字・記号で構成された20桁のパスワードを入力することで、ゲームをある程度進めた状態で始めることができる。また、ポーズ画面で「おわる」を選択して、そこに映っているパスワードを入力すれば、前回終了した時の状態からスタートできる。こうしたパスワード以外に、特定の文字のみで入力すると、あるステージからスタートできる。代表的なものとして「すきすきすきすきすき すきすきすきすきやき」があり、これを入力するとひんたぼ島から開始できるが、クリアに必要なハンググライダーの資格を持っていないためクリアすることができない。また厳密にはパスワードではないが、タイトル画面でパンチを約3万発程度繰り出すことで、ゲームクリア直前の状態から開始できる。 なお、パスワードを入力する以外に「おやじをなぐる」を選択すると、おやじが「ぎゃー ひとごろしーー」と叫び、ライフが突然ゼロになって気絶し、また間違ったパスワードを入力すると「ぱすわーどがちがいます」と言われたとたんに気絶してしまい、即ゲームオーバーとなる。 どこにでもいるごく普通のサラリーマンである男は、仕事を終わればパチンコをしたり、酒を飲んだりと好き勝手に楽しんでいた。ある日、常連のスナックでいつものように酒を飲んで、カラオケを歌っていると、ヤクザが絡んできたので追い払った。すると、怪しい老人が現れて宝の地図を男に渡す。宝の地図を手にした主人公は勤め先の会社を辞め、妻と離婚する。そしてあらゆる資格を取得し、遠い南の国へ。さらに主人公はハンググライダーで空を飛び、未開の島へとたどり着く。原住民や危険な地形を乗り越えて、冒険の末、男はついに宝を発見するのだった。 このゲームには、「ひんたぼ語」という独自の言語が登場する。ひんたぼ語とは、このゲームに登場するひんたぼ島の住民が操る言語で、例えば「あ→い」「そ→た」というように日本語の仮名を一文字ずつずらすというように、シーザー暗号をかけたような言語である。ただし、濁点および半濁点も一文字と数え、数字についても1ずつずらす。また「ん」以降は「ん→っ→ゃ→ゅ→ょ→?→ ゙→ ゚→×→ー→あ」の順になる。「ぁぃぅぇぉ」「ゎ」「ゐゑ」はゲーム中に文字が存在しない。インターネット上に存在するひんたぼ語変換ツールでは便宜上変換しないように処理されている。TAITO CLASSICS版は「ひんたぼ語検定」がある。 例4は仕様により、「ぃ」が変換しないようになっている。 カルチャーセンターでひんたぼ語を習ってからひんたぼ島に行くと普通の日本語で表示されるため、上記の文章は登場しない。 2009年3月31日よりWiiのバーチャルコンソールで配信されていた(2019年1月をもってWiiショッピングチャンネルのサービス自体が終了したことに伴い、現在は入手不可)。バーチャルコンソールにおいて実在タレントをモデルにしたタレントゲームを、タレント本人または芸能事務所より許諾を得たうえで配信するのは本作が初である。2017年8月15日よりTAITO CLASSICSの2作目ソフトとしてiOS並びにAndroidにて配信開始。TAITO CLASSICS版は、こんてにゅうやで課金により難易度変更が可能となっており、ファミコン版とバーチャルコンソール版より難易度が異様に高い「はーどもーど」と、主人公がダメージを受けなくなり、かつファミコン版とバーチャルコンソール版より難易度を下げた「むてきもーど」を選択できる。 他機種版のコピーライト表記は、バーチャルコンソール版が「©TAITO CORP. / ビートたけし 1986,2009」、TAITO CLASSICS版が「©TAITO CORP. / ビートたけし 1986,2017」となっている。 本作の企画経緯については、様々な経緯と説明が複数存在する。タイトー広報によれば、当時ゲームに興味を持っていたたけし側から企画が持ち込まれたことが発端となっている。一方別の説明では、タイトー側がたけしを題材としたタレントゲーム制作を企画し、『オレたちひょうきん族』(1981年 - 1989年)のキャラクターを生かした横スクロール型シューティングゲームを予定していたが、たけし側の了承を得るために話を持ち込んだところ、たけしが「作りたいゲームがある」と主張したとされる。タイトーで本作の販売に関与した中村栄の回想では、セタの社長であった富士本淳が「たけしがテレビ局をジャックしていく」企画書を持ち込み、その後タイトー側からオファーを行ったという。また外部発表では『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』(1986年 - 1989年)のゲーム化作品とされており、ゲーム雑誌にも「(仮称)風雲!たけし城」と記載されていた。 制作中のたけしの関与についても記録はまちまちで、たけしが飲み屋で酔っ払った勢いで言った内容がそのままゲーム化されたもの、などとテレビ番組などでは解説される。またビートたけし司会のテレビ番組『ビートたけしのこんなはずでは!!』(2003年 - 2004年)2003年7月12日放送分では、たけしは「太田プロの近くの喫茶店で一時間話しただけのゲームだぜ」などといい加減な企画だったことを語り「どうも失礼致しました」などと述べている。また2016年4月24日に放送された『ビートたけしのいかがなもの会』においても、有野晋哉の「酔っ払った勢いで言った内容がそのままゲーム化されたというのは本当か」という質問にも、たけしは「全部本当の事」と述べている。一方で「(打ち合わせ当時の)詳細を全く覚えていない」と語っている。 ただし、ゲーム会社側の証言はたけしの証言とは異なり、たけしはゲームの内容に積極的に発言しており、何度も打ち合わせを重ねている。中村栄の回想では、タイトー側が持ち込んだ企画に対して「この企画じゃないとダメなのか?」と難色を示し、その後自分のアイデアを次々に伝えてきたという。チーフプログラマの森永英一郎も「ビートたけしと新宿の有名ホテルの最上階で何度も頭を突き合わせて作りました。大学ノート一杯にかかれた彼のアイディアはとても印象的でした」と自身のサイトで語っている。たけしは「高橋名人にギャフンと言わせるゲーム」を作るとしていたが、「こんなに難しくしたらゲームバランスが崩壊する」「ここまで難しいと誰も喜ばないですよ」と忠告はしたもののたけしはそれを受け入れなかったという。 セタのディレクターであった福津浩によれば、当時たけしが「ゲームにハマっていた」ということもあり、「たけしが作ったゲームだが、たけしが出てこない」などと、構想を熱く語っていたという。当時たけし軍団のメンバーであったキドカラー大道の回想では、グレート義太夫の影響で『ポートピア連続殺人事件』をプレイしていたたけしは、ゲームの作成に関するアイデアをメモしていたという。また開発初期の段階で「主人公のサラリーマンが社長を殴って会社を辞め、南の島に行く」というストーリーを固めていた。さらにたけしは「何があって、そこで何をやるか」を断片的に提示したという。福島はたけしの出すアイデアを統合するためには街を作る必要があると考えゲームデザインを行った。 また通常この様なタレント名義の企画では、名義を貸すだけで打ち合わせなど一回も行われないことも珍しくないが、たけしが参加した打ち合わせは3回行われている。最初の打ち合わせは、たけしが経営していた居酒屋『北の屋』で行われた。高田文夫やたけし軍団のメンバーも同席しており、たけしが出すアイデアに高田や軍団が茶々を入れ、福島も悪乗りしてアイデアを出していたが、タイトーの中村は全く口を出さなかったという。その後の主な打ち合わせは富士本が半年間契約していたヒルトン東京のセミスイートルームで行われた。ただしたけしは多忙であり、「休みグセ」もあったことで予定されていた打ち合わせに来ないこともしばしばあった。 ハードウェアの制約や子供向けのテレビゲームには向かないという理由で、不採用になったり当初の意図より無難に改変されたりしたものが多数あったものの、「とにかくビートたけしさんが言っているのだから」と許す限りのアイデアを片っ端から盛り込まれた。このため開発後期には容量が足りず、数バイト程度しかあまりがないという状況となった。しかしこの結果、仕上がったゲームは規格外のものとなった。発売後に福津は「とんでもないゲームを作ってしまった」と、悪い意味で感じていたという。開発陣としては、このまま発売してしまってはまずいことになるとの自覚もあったが、引くに引けない所に来ていた。 劇団東京ミルクホールは2012年に当ソフトにちなんだ『たけしの挑戦状』という公演を行った。ポスターは当ソフトのパッケージがモチーフとなっている。 またヨーロッパ企画は、2020年4月に演出:上田誠、主演:西野亮廣(キングコング)により「たけしの挑戦状 ビヨンド」のタイトルで上演を予定していたが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行の影響で全公演中止となった。
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2004年)2003年7月12日放送分では、たけしは「太田プロの近くの喫茶店で一時間話しただけのゲームだぜ」などといい加減な企画だったことを語り「どうも失礼致しました」などと述べている。また2016年4月24日に放送された『ビートたけしのいかがなもの会』においても、有野晋哉の「酔っ払った勢いで言った内容がそのままゲーム化されたというのは本当か」という質問にも、たけしは「全部本当の事」と述べている。一方で「(打ち合わせ当時の)詳細を全く覚えていない」と語っている。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ただし、ゲーム会社側の証言はたけしの証言とは異なり、たけしはゲームの内容に積極的に発言しており、何度も打ち合わせを重ねている。中村栄の回想では、タイトー側が持ち込んだ企画に対して「この企画じゃないとダメなのか?」と難色を示し、その後自分のアイデアを次々に伝えてきたという。チーフプログラマの森永英一郎も「ビートたけしと新宿の有名ホテルの最上階で何度も頭を突き合わせて作りました。大学ノート一杯にかかれた彼のアイディアはとても印象的でした」と自身のサイトで語っている。たけしは「高橋名人にギャフンと言わせるゲーム」を作るとしていたが、「こんなに難しくしたらゲームバランスが崩壊する」「ここまで難しいと誰も喜ばないですよ」と忠告はしたもののたけしはそれを受け入れなかったという。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "セタのディレクターであった福津浩によれば、当時たけしが「ゲームにハマっていた」ということもあり、「たけしが作ったゲームだが、たけしが出てこない」などと、構想を熱く語っていたという。当時たけし軍団のメンバーであったキドカラー大道の回想では、グレート義太夫の影響で『ポートピア連続殺人事件』をプレイしていたたけしは、ゲームの作成に関するアイデアをメモしていたという。また開発初期の段階で「主人公のサラリーマンが社長を殴って会社を辞め、南の島に行く」というストーリーを固めていた。さらにたけしは「何があって、そこで何をやるか」を断片的に提示したという。福島はたけしの出すアイデアを統合するためには街を作る必要があると考えゲームデザインを行った。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また通常この様なタレント名義の企画では、名義を貸すだけで打ち合わせなど一回も行われないことも珍しくないが、たけしが参加した打ち合わせは3回行われている。最初の打ち合わせは、たけしが経営していた居酒屋『北の屋』で行われた。高田文夫やたけし軍団のメンバーも同席しており、たけしが出すアイデアに高田や軍団が茶々を入れ、福島も悪乗りしてアイデアを出していたが、タイトーの中村は全く口を出さなかったという。その後の主な打ち合わせは富士本が半年間契約していたヒルトン東京のセミスイートルームで行われた。ただしたけしは多忙であり、「休みグセ」もあったことで予定されていた打ち合わせに来ないこともしばしばあった。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ハードウェアの制約や子供向けのテレビゲームには向かないという理由で、不採用になったり当初の意図より無難に改変されたりしたものが多数あったものの、「とにかくビートたけしさんが言っているのだから」と許す限りのアイデアを片っ端から盛り込まれた。このため開発後期には容量が足りず、数バイト程度しかあまりがないという状況となった。しかしこの結果、仕上がったゲームは規格外のものとなった。発売後に福津は「とんでもないゲームを作ってしまった」と、悪い意味で感じていたという。開発陣としては、このまま発売してしまってはまずいことになるとの自覚もあったが、引くに引けない所に来ていた。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "劇団東京ミルクホールは2012年に当ソフトにちなんだ『たけしの挑戦状』という公演を行った。ポスターは当ソフトのパッケージがモチーフとなっている。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "またヨーロッパ企画は、2020年4月に演出:上田誠、主演:西野亮廣(キングコング)により「たけしの挑戦状 ビヨンド」のタイトルで上演を予定していたが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行の影響で全公演中止となった。", "title": "舞台" } ]
『たけしの挑戦状』(たけしのちょうせんじょう)は、1986年(昭和61年)12月10日にタイトーが発売した、ビートたけし監修のファミリーコンピュータ用ゲームソフト。会社員である主人公が南海の孤島に眠っているという財宝を探しに行くという内容で、パッケージや取扱説明書に書かれていないがゲーム内では「ポリネシアンキッド 南海の黄金」というサブタイトルが付けられていることが分かる。また、パッケージではタイトルロゴの上に「ビートたけし作」と記されており、任天堂の公式サイトでは『ビートたけし作 たけしの挑戦状』を正式タイトルとしている。 雑誌『ファミコン通信』でのクソゲーランキングでも1位を獲得するなど、攻略本なしではクリア困難なゲーム内容から、レトロゲームにおける「クソゲーの代名詞」として語られることが多い。
{{コンピュータゲーム | Title = たけしの挑戦状 | image = | Genre = [[アクションアドベンチャーゲーム|アクションアドベンチャー]] | Plat = [[ファミリーコンピュータ]](FC)<br />[[Wii]]<br />[[iOS]]<br />[[Android (オペレーティングシステム)|Android]] | Dev = [[タイトー]]<br />[[セタ (企業)|セタ]]<br />ノバ | Pub = タイトー | distributor = | producer = | director = 福津浩 | designer = [[ビートたけし]] | writer = | programmer = 森永英一郎 | composer = | artist = | series = | Play = 1人 | Media = 1[[メガビット]]+64キロRAM<br />[[ロムカセット]]<ref name="famimaga194">{{Cite journal|和書|title=5月10日号特別付録 ファミコンロムカセット オールカタログ|date=1991-05-10|publisher=[[徳間書店]]|journal=[[ファミリーコンピュータMagazine]]|volume=7|number=9|pages=217|ref=harv}}</ref> | Date = '''FC'''<br />{{vgrelease new|JP|1986-12-10}}'''Wii'''<br />{{vgrelease new|JP|2009-03-31}}'''iOS,Android'''<br />{{vgrelease new|JP|2017-08-15}} | Rating = {{CERO-B}} | ContentsIcon = 暴力<br />犯罪 | Download content = | Device = | Sale = 80万本<ref name="gccx" /> | etc = 型式:TFC-TC-5300 }} 『'''たけしの挑戦状'''』(たけしのちょうせんじょう)は、[[1986年]](昭和61年)[[12月10日]]に[[タイトー]]が発売した、[[ビートたけし]]監修の[[ファミリーコンピュータ]]用ゲームソフト。会社員である主人公が南海の孤島に眠っているという財宝を探しに行くという内容で、パッケージや取扱説明書に書かれていないがゲーム内では「'''ポリネシアンキッド 南海の黄金'''」というサブタイトルが付けられていることが分かる。また、パッケージではタイトルロゴの上に「ビートたけし作」と記されており、任天堂の公式サイトでは『'''ビートたけし作 たけしの挑戦状'''』を正式タイトルとしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.com/jp/famicom/vote/index.html|title=ファミコン国民投票|website=ファミコン40周年記念キャンペーンサイト|publisher=任天堂|accessdate=2023-09-07}}</ref>。 雑誌『[[ファミコン通信]]』での[[クソゲー]]ランキングでも1位を獲得するなど、[[攻略本]]なしではクリア困難なゲーム内容から、レトロゲームにおける「'''クソゲーの代名詞'''」として語られることが多い。 == 概要 == 当時ファミコンに熱中していた[[ビートたけし]]の「今までにない独創的な発想を入れたい」という意図が反映され数々の斬新な内容が盛り込まれている<ref name="muri200">マイウェイ出版『死ぬ前にクリアしたい200の無理ゲー ファミコン&スーファミ』 (ISBN 9784865119855、2018年10月10日発行)、27ページ</ref>。キャッチコピーは「'''謎を解けるか。一億人。'''」でソフトのパッケージ表面には「'''常識があぶない。'''」(販促用のポスターでは「あぶない」の「'''あ'''」の字が[[鏡文字]]になっている)と称し、裏面ではたけし本人が「'''今までのゲームと同じレベルで考えるとクリアー出来ない'''」とコメントしている。広告には「'''成功確率 無限大数分の1'''」と書かれていた。 CMは、たけしが『雨の新開地』を歌うシーンと、たけしがIIコンのマイクに向かって「出ろ!!!」と言い、宝の[[地図]]が出てくるシーンの2パターンがあり、どちらのCMもゲーム攻略のささやかなヒントになっていた。 しかし、本作の発売前日の1986年12月9日に、たけし本人と[[たけし軍団]]の一部メンバーが[[講談社]]の『[[FRIDAY (雑誌)|FRIDAY]]』編集部に殴り込みを行うという事件が起きた([[フライデー襲撃事件]])。このためたけしらは半年間芸能活動を自粛することになったが、本作は予定通り発売された{{sfn|4gamer|2022-01}}。テレビCMは放映中止となったが、雑誌の攻略記事や広告は引き続き掲載された{{efn2|[[月刊コロコロコミック]]等で確認できる。その中にはたけしの写真を使ったものもあった。}}。再販分は1990年まで発売が延期されている。 パッケージには「'''ビートたけし、ファミコンソフト第1弾!'''」と書かれており、のちに第2弾の『[[たけしの戦国風雲児]]』([[1988年]])が同社より発売されている。 == ゲーム内容 == === システム === ゲームシステムはサイドビューの[[アクションゲーム]]だが、ストーリーは[[アドベンチャーゲーム]]のように選択肢によって進行していくため、ジャンルとしては[[アクションアドベンチャーゲーム]]と言える。また一部シーンには[[シューティングゲーム]]も含まれている。 日本の都市部、およびそこにある街が舞台らしいが、具体的な場所やそのモチーフはほとんどないうえ、雰囲気は極めて退廃的であり、主人公は薄汚れた町並みの中に住む貧しいサラリーマンである。台詞は汚く暴力的な言葉遣いが多く、店や事務所などの看板は極道的な内容である上、路上には[[ヤクザ]]が彷徨き、さまざまな敵対的なキャラクターが主人公に攻撃してくる{{efn2|市街地では一般市民は攻撃してこないが、ヤクザと警察官、自宅に登場する妻と子供も攻撃してくる。ゲーム後半のひんたぼ島ではほとんどの原住民が攻撃する上、[[サソリ]]や[[コブラ]]などの動物に接触してもダメージを食らう。特に森林の猿が落とす実は大ダメージになるため注意が必要である。そして洞窟ではガイコツや地底人も攻撃するので、全て敵対的だといえる。}}。 日本にいる時はバーで[[テキーラ]]を飲むこと、ひんたぼ島では宿泊する(部屋を選ぶことができ、回復できる量も異なる)事によって体力が回復する。所持金は通行人を倒したり、特定の条件を満たすと手に入る。その他にコース中のある決まったところでしゃがめば、ハートが現れるのでそれでも回復できる。また、ライフがなくなってもすぐにAとBを3回同時に押せば復活できる[[裏技]]も存在する{{efn2|この裏技に回数制限は無いが、4回以上押すと無効でゲームオーバーとなる。}}。 BGMの種類は少なく、メインテーマがエンディングまで含めたゲーム内のほぼ全編に渡って絶え間なく流れ続けている。 TAITO CLASSICS版は、[[画面アスペクト比|画面]]が16:9対応となっている他(例として、ゲームオーバーの画面における花輪が4:3対応のファミコン版並びにバーチャルコンソール版は4本に対し、TAITO CLASSICS版は8本に増加している。ただし、一部シーンは4:3のままであるため[[額縁放送|サイドカット]]となる)<ref name="4gamer0731">[https://www.4gamer.net/games/376/G037616/20170731075/ スマホ向けアプリ「たけしの挑戦状」は16:9に対応。なんと新エリアも追加]4Gamer.net 2017年7月31日</ref>、ファミコン版とバーチャルコンソール版に新ステージ「あめりか」などの新要素が加えられており、タイトーのサウンドチームである[[ZUNTATA]]によるゲームミュージックの新曲が追加されている<ref name="goods">[https://www.taito.co.jp/mob/news/2834 「たけしの挑戦状」から公式グッズが登場!本日9月26日(火)より販売開始!]タイトー 2017年9月26日</ref>。 === クリア条件 === ふとしたことから宝探しの情報を聞き出した主人公。本格的な宝探しに行くためには、まず身の周りのしがらみを取り払い、周到な準備をする必要があると思い立つ。「妻に[[離婚届]]を出す」「会社に退職届を出す」「地図を渡した老人を倒す」「カルチャーセンターで様々な技能を修得する」などがそれである。条件を満たさないでひんたぼ島に行くと、突然妻または社長が現れて日本に強制送還されたり、宝の山の前で尾行してきた老人に宝を横取りされて即ゲームオーバーになる。 === マイク機能 === このゲームは2Pコントローラのマイク機能を様々な場面で使う。主なものとして、カラオケをしたり、裏技として、 *[[パチンコ]]の最中にIIコントローラーのマイクで「でねぇぞ」と叫ぶ *宝の地図を読み込む際に『水に浸してから5分経過後から10分経過する前に、または日光に1時間以上さらしてからIIコントローラのマイクに向かって「出ろ!!!」と叫ぶ』 など通常では思い付き難い操作が要求される<ref name="natasukashi">M.B.MOOK『懐かしファミコンパーフェクトガイド』27ページ</ref><ref name="muri200" />。また、住人に話しかけることもでき、稀にヒントを貰えることがある。 ただし声を判定しているわけではないため、「マイクに音が入力されている」状態なら同じように判定される。 === シューティング === ひんたぼ島より先の島に行く時に[[ハンググライダー]]を使ってシューティングをする場面がある。しかし、途中で現れる潮風に操作を妨害されやすく、画面上に弾は1発しか出せない上、敵に当たると即ゲームオーバーと独特の操作性・ルールのため非常に難易度の高いものとなる(リゾートセンターでハンググライダー以外に[[飛行機]]・[[熱気球]]・[[船]]・[[スクーバダイビング|スキューバダイビング]]といった他の手段も選べるが、着陸などが出来ないため結局クリア不可能である)<ref name="muri200"/>。 === カラオケ === スナックのカラオケで実際に2Pコントローラーのマイクを使って歌い高評価を得ないと進めないイベントがあるが、[[ファミリーコンピュータ#AV仕様ファミリーコンピュータ|ニューファミコン]]ではマイク機能が削除されている。マイク機能を使用した謎解きを入れた他のゲームでは、セレクトボタンを用いることでマイク機能の代用としたものが多いが、本作に関しては、'''IIコントローラーの下とAボタンを押す'''([[バーチャルコンソール]]版ではWiiリモコン裏側についている「B」ボタンで代用できる)ことでマイク機能を使用しているのと同じ判定がなされる。これは旧型のファミコンでもマイク機能を使わずに同様の操作を行えばマイク機能を使用しているのと同じことになるためである。なお、マイクで音を判別しているとはいえ、後のゲームのように音声認識であったり、音程を判別する機能はないために、実際に歌唱力がなくともメロディの部分で息を吹きかけるだけで歌ったことになる。そのため、判定は曖昧であった<ref name="vr">[https://www.taito.co.jp/takeshi_vr たけしの挑戦状VR]タイトー公式サイト</ref>。カラオケ曲のレパートリーは5ジャンル/計25曲あるが、実際に歌えるのは『[[演歌|えんか]]/あめのしんかいち』、『[[童謡|どうよう]]/[[鳩ぽっぽ|はとぽっぽ]]』、『[[民謡|みんよう]]/おきなわゆんた』、『[[ポピュラー音楽|ぽっぷす]]/ねこにゃんたいけん』の4曲のみで、それ以外の曲は選択しても「その曲はありません」と断られる(『[[民族音楽|みんぞくおんがく]]』のジャンルに至っては、歌える曲が1曲も無い)。「はとぽっぽ」以外の3曲は、いずれもこのゲームのオリジナル曲である。「あめのしんかいち」はこのゲームのCMでたけしによって歌唱された。 === ゲームオーバーについて === このゲームは[[ゲームオーバー]]の画面が'''主人公の葬式'''になっていることで知られている。ただし、ライフがなくなる以外にもゲームオーバーとなるイベントが非常に多い。以下にその例を示す。 *飛行機の行き先を間違える(南太平洋以外のルートを選ぶ)または宝の地図を持っていない状態で南太平洋に向かうと、乗っていた飛行機が突然爆発し「てろか?じこか?ひこうきはなぞのくうちゅうばくはつをとげた」と表示される<ref>スマホ版では「てろか?」の部分は「じけんか?」に差し替えられている。</ref>。 *シューティングの際に鳥やUFOなどの敵、陸地の山に接触する(UFOや戦闘機の弾に数発当たったり、セスナや熱気球など着陸できない乗り物で陸地にぶつかった場合も同じようなことになる)。 *シューティングの際に一番目の島に着陸する。ゲームオーバーの画面が表示されるわけではないが、何もすることができず、戻ることもできないため実質的に詰みであり、リセットするか電源を切るしかない。 *原住民の家で釜に入れられ、「しゃみせんをひく」「とびかかる」以外を選択してしまうと釜茹でにされる<!-- 「しゃくはちをふく」を選ぶと「なんだそれだけか」「ひをつけろ」と言われ釜茹で。 「ぶれーくだんすをする」を選ぶと「きがくるったようだな かまにいれろ」「ひをつけろ」と言われ釜茹で。 「いのちごいをする」を選ぶと「げいのないやつは いきていくかちが ない」「ひをつけろ」と言われ釜茹で。 「とびかかる」を選ぶとたくさんの原住民と戦闘になる。入りなおしても酋長に何も言われなくなってしまうため、手詰まりとなる。 -->。この時に「しゃこうだんすをおどる」を選択すると、「きにいった むすめをもらって このむらに すんでくれ」と原住民の娘との結婚を勧められ、その後「さようならーーーーーーー」「りせっとぼたんをおしてください」と表示される。この場合は通常のゲームオーバー画面は表示されないが、リセットするか電源を切る以外全ての操作ができなくなるため事実上ゲームオーバー(バッドエンド)である。 *先述通り、宝の地図を渡した老人を倒しておかないと、エンディング直前の宝の山の前で「ははは ばかなやつめ おまえのあとをつけてきたのだ たからはわしのものだ しねっ」と老人に宝を横取りされて、突然ゲームオーバーになる。 *こんてにゅうやで「おやじをなぐる」を選択したり、入力するパスワードを間違える。 === パスワード === このゲームはセーブ機能はないが、タイトル画面で右に進んだ先にある「こんてにゅうや」で平仮名・数字・記号で構成された20桁のパスワードを入力することで、ゲームをある程度進めた状態で始めることができる。また、ポーズ画面で「おわる」を選択して、そこに映っているパスワードを入力すれば、前回終了した時の状態からスタートできる。こうしたパスワード以外に、特定の文字のみで入力すると、あるステージからスタートできる。代表的なものとして「すきすきすきすきすき すきすきすきすきやき」があり、これを入力するとひんたぼ島から開始できるが、クリアに必要なハンググライダーの資格を持っていないためクリアすることができない。また厳密にはパスワードではないが、タイトル画面でパンチを約3万発程度繰り出すことで、ゲームクリア直前の状態から開始できる。 なお、パスワードを入力する以外に「おやじをなぐる」を選択すると、おやじが「ぎゃー ひとごろしーー」と叫び、ライフが突然ゼロになって気絶し、また間違ったパスワードを入力すると「ぱすわーどがちがいます」と言われたとたんに気絶してしまい、即ゲームオーバーとなる。 == ストーリー == どこにでもいるごく普通のサラリーマンである男は、仕事を終わればパチンコをしたり、酒を飲んだりと好き勝手に楽しんでいた。ある日、常連のスナックでいつものように酒を飲んで、カラオケを歌っていると、ヤクザが絡んできたので追い払った。すると、怪しい老人が現れて宝の地図を男に渡す。宝の地図を手にした主人公は勤め先の会社を辞め、妻と離婚する。そしてあらゆる資格を取得し、遠い南の国へ。さらに主人公は[[ハンググライダー]]で空を飛び、未開の島へとたどり着く。原住民や危険な地形を乗り越えて、冒険の末、男はついに宝を発見するのだった。 === 舞台 === ==== 日本・クレイジーシティ ==== ;極東興業 *主人公が勤める会社。へそくりがある。 ;カルチャークラブB.G *あらゆる資格が取得できる。 ;パチンコ玉玉デル *[[パチンコ]]ができる。「パ」の文字が傾いており、「玉」の文字が他の文字より大きく書かれている。 ;トラベル玉川 *旅券を販売している。「ベ」の文字を押しのけて「ブ」の文字が挿入されている。 ;映画館 *つまらない映画「やくざvsやくざ」を上演している。特定の席に座るとお金を落としてしまう。 ;カラオケスナック「あぜ道」 *酒を飲んだり、[[カラオケ]]ができる。 ;バーバー小森 *理髪店。カットを頼むと店員の手元が狂ってダメージを受ける。画面上部の場所表示部分に「[[小森和子|ばばーこもり]]」と表示される。 ;自宅 *主人公の自宅。妻と子供がいる。 ;東興銀行 *預金を引き出す事ができる。 ;新成田国際空港 *海外へと向かう事ができる(ファミコン版並びにバーチャルコンソール版は南太平洋のみ、TAITO CLASSICS版は南太平洋の他にも、アメリカへ行くことも可能)<ref name="4gamer0731" />。 ==== 南太平洋 ==== ;BANK :お金を預けたり、両替したりする事ができる。へそくりがある。 ;MIYAGE :土産物を買う事ができる。 ;EQUIPMENT :装備を買う事ができる。 ;RESORT CENTER :ハンググライダーや気球、セスナ、船に乗ったりスキューバダイビングをする事ができる。 ;リョンガ島・メロネン島・タンヒョー島・チョバリン島 :ハンググライダーなどでの飛行時に登場する島々。島の名は攻略本に掲載されたものでゲーム本編では登場しない。 ;赤い国 :ハンググライダーなどでの飛行時、4つ目の島の先にある国。赤を基調とした旗や最高指導者らしき人物の肖像画が大きく掲げられており、恐らく旧[[ソビエト連邦|ソ連]]がモデル。ただし着陸は不可能で、行き着いたが最後ゲームオーバー確定。 ;土人の家 / 現地の家 :原住民の住処。バーチャルコンソール版並びにTAITO CLASSICS版は、「どじんのいえ」から「げんちのいえ」に表記が変更されている。ただし、住民の外観を始めとするグラフィックに変更は無い。 ;隠れ家 :残留日本兵の住処。 ;洞窟 :宝が隠されている場所。 === ひんたぼ語 === このゲームには、「ひんたぼ語」という独自の言語が登場する。ひんたぼ語とは、このゲームに登場するひんたぼ島の住民が操る言語で、例えば「あ→い」「そ→た」というように日本語の仮名を一文字ずつずらすというように、[[シーザー暗号]]をかけたような言語である。ただし、[[濁点]]および[[半濁点]]も一文字と数え、数字についても1ずつずらす。また「ん」以降は「ん→っ→ゃ→ゅ→ょ→?→゛→゜→×→ー→あ」の順になる。「ぁぃぅぇぉ」「ゎ」「ゐゑ」はゲーム中に文字が存在しない。インターネット上に存在するひんたぼ語変換ツールでは便宜上変換しないように処理されている。TAITO CLASSICS版は「ひんたぼ語検定」がある<ref name="goods" />。 例1:たけしのちょうせんし゛ょう → ちこすはつ?えそっす゜?え 例2:ひんたほ゛こ゛ → ふっちま゜さ゜ 例3:ひゃっかし゛てん → ふゅゃきす゜とっ 例4:うぃきへ゜て゛ぃあ → えぃくほ×と゜ぃい 例4は仕様により、「ぃ」が変換しないようになっている。 カルチャーセンターでひんたぼ語を習ってからひんたぼ島に行くと普通の日本語で表示されるため、上記の文章は登場しない。 == 移植版 == [[2009年]][[3月31日]]より[[Wii]]の[[バーチャルコンソール]]で配信されていた(2019年1月をもって[[Wiiショッピングチャンネル]]のサービス自体が終了したことに伴い、現在は入手不可)。バーチャルコンソールにおいて実在タレントをモデルにした[[タレントゲーム]]を、タレント本人または芸能事務所より許諾を得たうえで配信するのは本作が初である<ref>[https://web.archive.org/web/20090330003658/http://www.famitsu.com/game/news/1223046_1124.html 「あんなクソゲーをまただすタイトーはえらい!」、『たけしの挑戦状』再リリースにビートたけしから愛のこもった賛辞!]([[ファミ通|ファミ通.com]]、2009年3月26日)</ref>。[[2017年]][[8月15日]]よりTAITO CLASSICSの2作目ソフトとして[[iOS]]並びに[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]にて配信開始<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1704/05/news143.html 正気か 伝説のクソゲー「たけしの挑戦状」がスマホで復活決定]ねとらぼ 2017年4月5日</ref>。TAITO CLASSICS版は、こんてにゅうやで課金により難易度変更が可能となっており、ファミコン版とバーチャルコンソール版より難易度が異様に高い「はーどもーど」と、主人公がダメージを受けなくなり、かつファミコン版とバーチャルコンソール版より難易度を下げた「むてきもーど」を選択できる<ref name="goods" />。 他機種版のコピーライト表記は、バーチャルコンソール版が「©TAITO CORP. / ビートたけし 1986,2009」、TAITO CLASSICS版が「©TAITO CORP. / ビートたけし 1986,2017」となっている。 {|class="wikitable" style="white-space:nowrap; font-size:85%" |- ! No. ! タイトル ! 発売日 ! 対応機種 ! 開発元 ! 発売元 ! メディア ! 型式 ! 備考 |- | style="text-align:right" | 1 ! たけしの挑戦状 | {{vgrelease new|JP|2009-03-31}} | [[Wii]] | タイトー<br />セタ<br />ノバ | タイトー | [[ダウンロード販売|ダウンロード]]<br />([[バーチャルコンソール]]) | - | |- | style="text-align:right" | 2 ! TAITO CLASSICS<br />たけしの挑戦状 | {{vgrelease new|JP|2017-08-15}} | [[iOS]]<br />[[Android (オペレーティングシステム)|Android]] | タイトー<br />セタ<br />ノバ | タイトー | ダウンロード | - | |} == 開発 == [[ファイル:TakeshiKitano.jpg|thumb|監修を行ったビートたけし。(2000年)]] 本作の企画経緯については、様々な経緯と説明が複数存在する。タイトー広報によれば、当時ゲームに興味を持っていたたけし側から企画が持ち込まれたことが発端となっている<ref name="oricon"/>。一方別の説明では、タイトー側がたけしを題材としたタレントゲーム制作を企画し、『[[オレたちひょうきん族]]』([[1981年]] - [[1989年]])のキャラクターを生かした横スクロール型[[シューティングゲーム]]を予定していたが、たけし側の了承を得るために話を持ち込んだところ、たけしが「作りたいゲームがある」と主張したとされる{{sfn|超クソゲー|1998|pp=10-12}}。タイトーで本作の販売に関与した中村栄<ref>発売の翌年にタイトーを退社し、[[アテナ (ゲーム会社)|アテナ]]を創業している</ref>の回想では、セタの社長であった[[富士本淳]]が「たけしがテレビ局をジャックしていく」企画書を持ち込み、その後タイトー側からオファーを行ったという{{Sfn|4gamer|2022-01}}。また外部発表では『[[痛快なりゆき番組 風雲!たけし城]]』([[1986年]] - 1989年)のゲーム化作品とされており、ゲーム雑誌にも「(仮称)風雲!たけし城」と記載されていた。 制作中のたけしの関与についても記録はまちまちで、たけしが飲み屋で酔っ払った勢いで言った内容がそのままゲーム化されたもの、などとテレビ番組などでは解説される<ref name="gccx">[[フジテレビTWO|フジテレビ721]]『[[ゲームセンターCX|ゲームセンター「CX」]]』第1シーズン第1回</ref>。またビートたけし司会のテレビ番組『[[ビートたけしのこんなはずでは!!]]』([[2003年]] - [[2004年]])[[2003年]][[7月12日]]放送分では、<!--「1時間放置する」行為をクイズ問題にしたりするなど、ゲーム内容を深く掘り下げた形で紹介された。この放送の中で、-->たけしは「[[太田プロダクション|太田プロ]]の近くの喫茶店で一時間話しただけのゲームだぜ」などといい加減な企画だったことを語り「どうも失礼致しました」などと述べている。また2016年4月24日に放送された『[[ビートたけしのいかがなもの会]]』においても、[[有野晋哉]]の「酔っ払った勢いで言った内容がそのままゲーム化されたというのは本当か」という質問にも、たけしは「全部本当の事」と述べている。一方で「(打ち合わせ当時の)詳細を全く覚えていない」と語っている。 ただし、ゲーム会社側の証言はたけしの証言とは異なり、たけしはゲームの内容に積極的に発言しており、何度も打ち合わせを重ねている。中村栄の回想では、タイトー側が持ち込んだ企画に対して「この企画じゃないとダメなのか?」と難色を示し、その後自分のアイデアを次々に伝えてきたという{{Sfn|4gamer|2022-01}}。チーフプログラマの森永英一郎も「ビートたけしと新宿の有名ホテルの最上階で何度も頭を突き合わせて作りました。大学ノート一杯にかかれた彼のアイディアはとても印象的でした」と自身のサイトで語っている。たけしは「[[高橋名人]]にギャフンと言わせるゲーム」を作るとしていたが、「こんなに難しくしたらゲームバランスが崩壊する」「ここまで難しいと誰も喜ばないですよ」と忠告はしたもののたけしはそれを受け入れなかったという<ref>[http://www8.big.or.jp/~morinaga/morinaga/gakusei.html 自己紹介]</ref>。 セタのディレクターであった福津浩によれば、当時たけしが「ゲームにハマっていた」ということもあり、「たけしが作ったゲームだが、たけしが出てこない」などと、構想を熱く語っていたという{{sfn|超クソゲー|1998|p=12}}。当時[[たけし軍団]]のメンバーであった[[キドカラー大道]]の回想では、[[グレート義太夫]]の影響で『[[ポートピア連続殺人事件]]』をプレイしていたたけしは、ゲームの作成に関するアイデアをメモしていたという{{Sfn|4gamer|2022-01}}。また開発初期の段階で「主人公のサラリーマンが社長を殴って会社を辞め、南の島に行く」というストーリーを固めていた。さらにたけしは「何があって、そこで何をやるか」を断片的に提示したという。福島はたけしの出すアイデアを統合するためには街を作る必要があると考えゲームデザインを行った{{sfn|4gamer|2022}}。 また通常この様なタレント名義の企画では、名義を貸すだけで打ち合わせなど一回も行われないことも珍しくないが、たけしが参加した打ち合わせは3回行われている{{sfn|超クソゲー|1998|pp=13-14}}。最初の打ち合わせは、たけしが経営していた居酒屋『北の屋』で行われた。[[高田文夫]]や[[たけし軍団]]のメンバーも同席しており、たけしが出すアイデアに高田や軍団が茶々を入れ、福島も悪乗りしてアイデアを出していたが、タイトーの中村は全く口を出さなかったという{{sfn|4gamer|2022}}。その後の主な打ち合わせは富士本が半年間契約していた[[ヒルトン東京]]のセミスイートルームで行われた。ただしたけしは多忙であり、「休みグセ」もあったことで予定されていた打ち合わせに来ないこともしばしばあった{{Sfn|4gamer|2022-01}}。 ハードウェアの制約や子供向けのテレビゲームには向かないという理由で、不採用になったり当初の意図より無難に改変されたりしたものが多数あったものの、「とにかくビートたけしさんが言っているのだから」と許す限りのアイデアを片っ端から盛り込まれた。このため開発後期には容量が足りず、数バイト程度しかあまりがないという状況となった{{sfn|4gamer|2022}}。しかしこの結果、仕上がったゲームは規格外のものとなった。発売後に福津は「とんでもないゲームを作ってしまった」と、悪い意味で感じていたという{{sfn|4gamer|2022}}。開発陣としては、このまま発売してしまってはまずいことになるとの自覚もあったが、引くに引けない所に来ていた<ref name=chou />。 == 評価 == {{コンピュータゲームレビュー |title = |rev1 = [[ファミリーコンピュータMagazine]] |rev1Score = 15.97/30点<ref name="famimaga194"/> |award1Pub = [[ファミ通]] |award1 = クソゲーランキング 第1位 |award2Pub = [[東京ゲームショウ|レトロゲーム・アワード2007]] |award2 = ゲーム秘宝館・殿堂入り }} *パッケージどおりのとても常識では考えられないような仕様や謎解きなど[[不条理]]ともいえる内容が多く、雑誌『[[ファミ通|ファミコン通信]]』での[[クソゲー]]ランキングでも1位を獲得しており、雑誌『[[ゲーム批評]]』やクソゲーを取り上げた書籍などでクソゲーの代表格とされることが多い。 *一方で、結果として印象深い作品ともなり、[[2007年]]の[[東京ゲームショウ]]の「レトロゲーム・アワード2007」では「ゲーム秘宝館・殿堂入りゲーム」となる。 *また、不条理さは上記にあるようにビートたけしの意向「高橋名人のようなゲームをある程度熟知した人でも攻略が難しくなるような高難度」を実現するために意図的に組み込まれたものであり、現在では「北野映画に通じるところがある」「早すぎた『[[グランド・セフト・オート]]』」など、ゲーム内容を再評価する声もある<ref name="oricon">[http://life-cdn.oricon.co.jp/68263/full/ 「“北野映画”に通じる先見性があった」伝説のクソゲー“たけ挑”制作秘話](ORICON STYLE、2009年8月8日)</ref>。フランスのメディアからは、ゲーム中の画面の背景が青色なのは、北野映画の『キタノブルー』ではないかという質問が行われたことがある。ただし、これは単に容量を削るためのものである{{sfn|4gamer|2022}}。 *たけしは[[2009年]]に発売した自著『漫才』の中で、相方である[[ビートキヨシ|ビートきよし]]が「攻略法を教えてくれ」と電話してきた事を明かしている。 *発売から30年経った2016年12月7日に開催された『[[龍が如く6 命の詩。]]』([[セガゲームス]])の完成披露会でたけしは、「子供が泣き出して親がクレームつけて、社会問題になった」「クレームは相当来た」と明かしている<ref name="mantan20161207">[https://mantan-web.jp/article/20161207dog00m200025000c.html ビートたけし:“伝説のクソゲー”「たけしの挑戦状」を回顧]まんたんウェブ 2016年12月7日</ref><ref name="wahch20161207">[https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1033981.html 豪華俳優陣がずらり勢揃い! 「龍が如く6 命の詩。」完成披露会を開催]GAME Watch 2016年12月7日</ref>。 *関係者が語ったところによると、売上はおよそ80万本と当時のヒット作である『[[ドラゴンクエスト]]』並の売り上げを記録した<ref name="gccx" />{{sfn|4gamer|2022}}。90年まで再販が4年近く延期されたことを考慮すれば、驚異的な売上だったと言える。 *『[[ファミリーコンピュータMagazine]]』の読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は以下の通りとなっており、15.97点(満30点)となっている<ref name="famimaga194"/>。また、同雑誌1991年5月10日号特別付録の「ファミコンロムカセット オールカタログ」では「ビートたけし作の超難解AVG」、「現代社会を風刺したAVG。パチンコ、カラオケ等ゲーム的にはバラエティーに富んでいるものの、奇想天外というより”突拍子も無いゲーム”」であると紹介されている<ref name="famimaga194"/>。 {|class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center; width:50%" |- ! 項目 | キャラクタ || 音楽 || お買得度 || 操作性 || 熱中度 || オリジナリティ ! 総合 |- ! 得点 | 2.76 || 2.44 || 2.34 || 2.64 || 2.62 || 3.17 ! 15.97 |} == 舞台 == [[劇団東京ミルクホール]]は2012年に当ソフトにちなんだ『たけしの挑戦状』という公演を行った<ref>[http://www.tokyomilkhall.com/paststage/s18_takeshi.shtml 過去の公演『たけしの挑戦状』]</ref>。ポスターは当ソフトのパッケージがモチーフとなっている。 また[[ヨーロッパ企画]]は、2020年4月に演出:[[上田誠]]、主演:[[西野亮廣]]([[キングコング (お笑いコンビ)|キングコング]])により「たけしの挑戦状 ビヨンド」のタイトルで上演を予定していた<ref>吹越友一「[https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1202272.html あの“伝説のクソゲー”が舞台化! 「たけしの挑戦状ビヨンド」2020年4月公演決定!]」2019年8月20日。</ref>が、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]流行の影響で全公演中止となった{{sfn|4gamer|2022}}。 == 備考 == *たけしが関与したゲームはこの後も発売されている。後年『[[たけしの戦国風雲児]]』([[1988年]])も同じくタイトーより、また『[[ファミリートレーナー 突撃!風雲たけし城]]{{efn2|これは元々当時のテレビ番組名から取ったもの。}}』([[1987年]])が[[バンダイ]]より発売される。 *たけしのネームバリューから当時の子供にも人気があり、『[[わんぱっくコミック]]』([[徳間書店]])でコミカライズされたり、『[[ファミコンロッキー]]』([[1985年]] - [[1987年]])で対決テーマのソフトに選ばれたりしたこともあった(単行本未収録)。 *街の映画館では「やくざ 対 やくざ」という、後にたけしが本名名義で監督する『[[アウトレイジ (2010年の映画)|アウトレイジ]]』([[2010年]])などのヤクザ映画を予言したかのような映画が上映されている。 *『[[ゲームセンターCX]]』のパーソナリティである[[有野晋哉]]がゲームにチャレンジする企画「[[ゲームセンターCX 有野の挑戦|有野の挑戦]]」は、本作のタイトルが元となっている<ref>{{Cite web|和書|title = よゐこ:有野晋哉伝説のオタク番組「ゲームセンターCX」24時間ゲーム生挑戦の舞台裏|url = https://mantan-web.jp/article/20100809dog00m200033000c.html|date = 2010-08-10|website = MANTANWEB|accessdate = 2023-8-15|ref=harv}}</ref>。また2003年11月4日の初回放送時に最初に攻略対象となったのが本作である。有野はこのゲームソフトに初回放送時と2009年4月14日の生放送スペシャルの2度挑戦し、いずれもクリアしている。また同番組のゲーム化作品のタイトルも『[[ゲームセンターCX 有野の挑戦状]]』ならびに『[[ゲームセンターCX 有野の挑戦状2]]』となっている。このソフトのエンディングから長時間待つと、有野が当ソフトにちなんだセリフを言ってくれるなどの特典がある。また『ゲームセンターCX』の関連書籍は、当ソフトの攻略本の出版を行った太田出版から発売されている。 *たけしと同じく『龍が如く6 命の詩。』に出演した[[宮迫博之]]と『[[龍が如く]]』シリーズの総合監督である[[名越稔洋]]もこのゲームソフトでプレイしていたことを明かした。名越は「最後まで意地でやったが、つらかった」と語っている<ref name="mantan20161207" /><ref name="wahch20161207" />。 *2017年の[[エイプリルフール]]において、タイトーは2017年8月に配信を開始したTAITO CLASSICS版の宣伝を兼ねて『たけしの挑戦状VR』を発売するというジョークを流した。VRの略は、Virtual Reality([[バーチャルリアリティ|仮想現実]])の略ではなく、VIP Realityの略である。ジョークの内容は、ファミコン版の内容がリアルに体験できるというものである<ref name="vr" />。 *2017年9月26日には、発売から31年にして初の公式グッズが発売された<ref name="goods" />。 *初代[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]を発売する際、日本向けローンチソフトとして『たけしの挑戦状2』を発売したいというオファーが[[マイクロソフト]]側からタイトーに寄せられた。たけしも乗り気であったが、タイトーの社内事情によって同作をふくむタイトーのプロジェクトはすべて白紙となってしまった。代わって[[ハドソン]]がライセンスを受けて開発を行うという話が進んだものの、たけしが中止の意向を述べたために開発には至らなかった{{sfn|4gamer|2022}}。打ち合わせでたけしは、「とにかく“逃げる”んだ。街中を逃げる。自分のあらゆる能力を使って逃げるゲームを作りたい」「太陽の光が入ってくる角度を三角関数で解き明かす」「ゴミ集積所に隠れているところに収集車が来てゴミ袋を持っていってしまい、隠れるところがなくなったみたいなシーンを入れたい」などの希望を語っていたという{{sfn|4gamer|2022}}。 == 関連作品 == ;攻略本 *『たけしの挑戦状 ファミコンゲーム虎の巻』([[太田出版]]) ISBN 4900416177 1986年12月発売<!--NDLでの「1987」表記は誤りとみられる--> ::実質的な著者は開発者の福津であり、「罪滅ぼしのつもり」で書いたものだと述べている。しかし重要なヒントをぼかして書いたため、わからないという声が多く寄せられた{{sfn|4gamer|2022}}。関係者インタビューによると、当時本作の[[攻略本]]を制作した太田出版には、「攻略本を読んでも解けない」との苦情電話が、問い合わせのものと合わせて一日400件も殺到したという<ref name="gccx" /><ref name = chou />。対応に追われ辟易した当時の編集者は、「'''担当者は死にました'''」と虚偽の回答をしていたという<ref name = chou />{{sfn|4gamer|2022-01}}。 *『たけしの挑戦状 ファミコンゲーム虎の巻Ⅱ 完全解決版』(太田出版) ISBN 4900416193 1987年3月発売 ::1冊目がほとんど攻略本として役に立たなかったことから「攻略本の攻略本」として2冊目が出版される<ref name="natasukashi"/><ref>[[テレビ朝日]]『[[アメトーーク!]]』の「思い出のファミコン芸人」(2017年6月15日放送)より</ref>。この本の後書きで、たけしが「'''これで解けないからといって、間違っても傘と消火器を持って太田出版に殴りこまないように'''」と自らが起こした[[フライデー襲撃事件]]をネタにしたコメントを書いている。なお、2冊目発行当時、たけしは既に謹慎中でメディアから姿を消していた時期だった。 == 脚注 == === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name = chou>{{Harvnb|超クソゲー|1998|p=8}}</ref> |2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=阿部広樹|author2=箭本進一|year=1998|title=超クソゲー|publisher=[[太田出版]]|isbn=4-87233-383-7|ref={{SfnRef|超クソゲー|1998}}}} **「『たけしの挑戦状』十二年目の懺悔」 開発者である福津と攻略本の苦情対応を担当していた太田出版編集者へのインタビュー。 *{{Cite web|和書|title = 「たけしの挑戦状」「デザエモン」を世に送り出した中村栄氏の既成概念なき冒険ビデオゲームの語り部たち:第26部|url = https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20220124001/|date = 2022-01-29|author = ライター:大陸新秩序,ライター:黒川文雄,カメラマン:愛甲武司|website = 4Gamer.net|accessdate = 2023-8-15|ref={{SfnRef|4gamer|2022-01}}}} *{{Cite web|和書|title = 「たけしの挑戦状」を作った男,福津 浩氏が追い続けた新世界(後編)たけしさんとの仕事と,幻の続編 「ビデオゲームの語り部たち」:第30部|url = https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20220618008/|website = 4Gamer.net|accessdate = 2023-8-15|date=2022-07-06|ref={{SfnRef|4gamer|2022}}}} == 関連項目 == * [[ビートたけし]] * [[たけしの戦国風雲児]] * [[ファミリートレーナー 突撃!風雲たけし城]] * [[ゲームセンターCX]] * [[キャラクターゲーム]] * [[タレントゲーム]] == 外部リンク == * {{Wiiバーチャルコンソール|tc}} * {{MobyGames|id=/57104/takeshi-no-chosenjo/|name=Takeshi no Chōsenjō}} * {{wayback|url=https://event.1242.com/special/takeshi_stage/ |title=たけしの挑戦状 ビヨンド|date=20210224125149}} * {{Twitter|Takeshi_Beyond|舞台『たけしの挑戦状 ビヨンド』公式}} {{ビートたけし}} {{DEFAULTSORT:たけしのちようせんしよう}} [[Category:1986年のコンピュータゲーム]] [[Category:ファミリーコンピュータ用ソフト]] [[Category:Android用ゲームソフト]] [[Category:iPhone用ゲームソフト]] [[Category:Wii用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:アクションアドベンチャーゲーム]] [[Category:タイトーのゲームソフト]] [[Category:タレントゲーム]] [[Category:日本で開発されたコンピュータゲーム]] [[Category:日本を舞台としたコンピュータゲーム]] [[Category:ビートたけし]] [[Category:日本の舞台作品]] [[Category:2012年の舞台作品]] [[Category:コンピュータゲームを原作とする舞台作品]]
2003-02-24T08:49:24Z
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可変電圧可変周波数制御
可変電圧可変周波数制御(かへんでんあつかへんしゅうはすうせいぎょ)英語Variable voltage variable frequency control(英語略称VVVF)とは、インバータ装置などの交流電力を出力する電力変換装置において、その出力交流電力の実効電圧と周波数を任意に制御する手法である。 日本では、鉄道車両の交流モータ駆動方式として、可変電圧可変周波数を英語に直訳した語 の頭文字をとって、VVVF制御(ブイブイブイエフせいぎょ、もしくは、スリーブイエフせいぎょ、トリプルブイエフ制御)と呼ぶが、鉄道分野以外で一般に「電動機の可変速駆動制御」などと呼ばれるものに含まれる。家電分野ではインバータ・エアコンなどに使われる。 なお、概要の項で示される通りVVVFは和製英語であり、英語圏では主にVFD(鉄道車両などではTraction inverter)などと呼称もしくは記述されることが多い。 をそれぞれ参照の事。 電力変換装置の出力電力手法には可変電圧可変周波数制御のほかに、定電圧定周波数制御(CVCF制御)、可変電圧定周波数制御(VVCF制御)、定電圧可変周波数制御(CVVF制御)がある。 電気鉄道では交流電圧波形の最大値が架線電圧に達するまでは周波数と電圧を比例させ(VVVF制御領域)、架線電圧に到達後は誘導電動機ではスベリを増やして定出力とし、スベリ限界以降はトルクが速度の2乗に反比例する特性が基準になる(CVVF制御領域)。このVVVF制御された出力特性は弱界磁制御を行う直流直巻モータの特性に酷似している。静止形インバータ(SIV)はCVCFとされるが、定電圧制御を行うものはVVCFに帰還制御を施したとも言える。 この制御で得られる可変電圧可変周波数の電力は、交流電動機を可変速駆動する目的で消費される。そのため、電力変換装置に接続された交流電動機を可変速駆動する制御方式を指すことがある。 このような出力や電動機制御を実現する鉄道用インバータ装置をVVVFインバータと呼ぶ。VVVFは和製英語である。台湾や韓国などでは、日本企業が名付けた呼称の影響を受けてこう呼ぶ場合もある。 この技術は鉄道車両(電車、電気機関車、トロリーバス)、自動車(電気自動車、燃料電池自動車、ハイブリッドカー、ホウルトラック)、エレベーターといった輸送用機器やファン、ポンプ、空調設備、圧延機などさまざまな産業用機器、さらには家庭用電気機械器具(家庭用エアコン、冷蔵庫、洗濯機他)などで広く搭載され活用している。 「PAM」、「PWM」というのは直流から任意の交流疑似正弦波波形を生成する方式に使用され、前者がパルス振幅を変えて交流波形を生成する(パルス振幅変調)もの、後者がパルス幅を変えて交流波形を生成する(パルス幅変調)方式でありPAMは電圧を昇圧(降圧)させる部分と交流に変換するインバータ部で構成される。 PAMは装置の構造がやや複雑になるため今は鉄道車両では採用および搭載されていない。PWMは多くのインバータ制御で使われており従来の多段合成変圧器を用いた正弦波インバータより小型高効率にすることが可能である。 大電力のVVVF制御に多用される方式である、「3レベルインバータ」は耐電圧の低い素子を使用するために電源の中間電圧レベルを供給する回路方式であるが、動作としてはPWMである。これに対して直流電源電圧をオン-オフする元々の単純な方式を「2レベルインバータ」と言う。高調波損失を抑えるという意味ではマルチレベルインバータの方が良いものの、高電圧用の半導体素子の開発に伴い2レベルインバータに回帰し始めた。 回生制動時には電力の通過方向が逆になり、実質コンバータとしての機能も持ちかねている。 交流での回生制動を可能にする交直変換回路として整流部にPWMコンバータが用いられるようになったが、その理由は力行・回生双方向性を持ち、力行時にはコンバータとして使用しつつ、回生時にはインバータとして使用する必要があるためである。 絶縁ゲートバイポーラトランジスタ(IGBT)の登場以前では2レベルがほとんどであった。例外として、黎明期のGTOサイリスタ素子は高耐圧対応の部品が無かったために敢えて3レベルとしたインバータもある。東急6000系電車 (初代)などが該当する。東日本旅客鉄道(JR東日本)の209系920番台(登場時は901系C編成)では従来の大電流の平型GTOサイリスタに代わり、冷却装置に取付ける際の絶縁を考慮しなくて済む低耐圧モジュール型GTOを使用して、制御装置の諸費用削減や整備性の向上を図っている。 一つのインバータで複数の非同期モーター (IM)を駆動することが行われているため、制御装置とモーターの関係が#C#Mで表記されている。例えば1つのインバータを持つ制御装置が4つの非同期モーターを駆動する場合、1C4Mとなる。永久磁石同期モーター (PMSM)などの同期モーター (SM)の場合は、一つのモーター毎に一つのインバータが必要となるため個別駆動 (1C1M)のみとなる が、4つのインバータを持ち4つの同期モーターを制御する制御装置も登場しており、これが1C4Mと表記されることもある。なお、非同期モーターの場合であってもインバータで空転再粘着制御が行われているため、粘着利用率だけを見る場合、軸毎に制御できる個別駆動の方が性能的に有利とされる。 VVVF制御は、交流電動機(誘導電動機、同期電動機)を可変速駆動するためのインバータの制御技術である。特にかご形誘導電動機は構造が簡単なため、保守費用が非常に安く、電動機自体の価格も安い、という利点があることが古くから知られていた。しかし、回転速度(回転数)が電源の周波数に依存するという特性があったため、長らく可変速度を必要とするものでの使用は困難であった。 かご形誘導電動機の速度制御には、インバータ開発以前にも極数変換によるものがあったが、これは連続的な速度制御はできなかった。インバータの出力電圧と周波数を連続的に変化させる可変電圧可変周波数制御が、交流電動機の連続的な速度制御を実現した。これは、近年の半導体技術、特にパワーエレクトロニクスの進歩に伴い、高速・高耐圧・大容量の制御素子が開発されて実現可能となったものである。 1960年代後半頃から、ファン・ポンプや抄紙機など産業用途での利用が始まり、1970年代後半から1980年代前半には鉄道やエレベータ、1990年代には冷蔵庫、エアコンなど家電機器でも利用されるようになった。 後に、汎用インバータの製品価格が安くなり、送風機などでは風量や静圧調整のためプーリー交換やモータ交換をするよりインバータ制御で調整した方が安価になっている。 なお、ブラシレスDCモータの可変速制御回路も回路的にはインバータと全く同じであるが、同期モータであるため『すべり』がなく、正確に回転子の位置を調整(フィードバック)しないと同期がずれる『脱調』を起こし、停止する。 主としてかご形三相誘導電動機や巻線形三相誘導電動機の制御に使用される。2000年代後半に入り、駆動周波数と回転周波数がほぼ正確に一致しオープンループ制御が可能となる高効率な永久磁石同期電動機(PMSM)や大容量な電磁石同期電動機が徐々に使用されつつある。ただしこれらは電動機1つにつき主制御器(インバータ)1台が必要な個別制御でなければ正常に駆動できず、重量、設置面積(この2点は、同期電動機に積極的な東芝が1つのパワーユニットに複数のインバータを収める2 in 1あるいは4 in 1と呼ばれる手法で軽減している)、価格、主制御器の保守などの面で課題が残る。対する誘導電動機は2つ以上の電動機を一括制御することも1つの電動機を個別に制御することもできる。 同期電動機の採用例を以下に挙げる。 単相誘導電動機は以下の点で可変速運転、特に低周波数での運転に適さないこと、また同出力であれば三相誘導電動機の方が安価であり費用面でも利点がないことから、基本的には使用されない。 もっとも、単相誘導電動機を用いた既設機器を可変速運転したい需要があることも事実であり、あまり低い回転数で使えないことを条件に、高回転もしくは常時回転が要求されるファン、ポンプ用途に限定して単相電源-単相出力のインバータが製造販売されている。 可変電圧可変周波数制御では、サイリスタやトランジスタといったスイッチング素子6個からなるブリッジ回路を用いて電流のON/OFFを繰り返し、キャリア三角波と基準電圧波形を比較してスイッチング素子のON/OFFを繰り返し、パルス波によるPWM(Pulse Width Modulation)方式により、位相差が120度の三相交流を作り出すことで、誘導電動機の固定子巻線に、6パターンの電力が供給される。電圧を可変するにはパルス波の幅を変化させ、周波数を変化させるにはスイッチング周期を変えることで行う。パルス波によって作られる制御波形には、1つのパルス波によって交流の正弦波に近い波形を作り出す2レベル制御波形、1つのパルス波の上にもう1つのパルス波を上積して2段階のパルス波にすることにより、波形をより正弦波に近い形を作り出す3レベル制御波形がある。 電気鉄道の主電動機駆動用のスイッチング素子としては初期には逆導通サイリスタ(RCT)が用いられていたが1990年代初頭からはスイッチング素子の駆動回路が簡素化できるゲートターンオフサイリスタ(GTOサイリスタ)が用いられるようになった。さらに1990年代終盤以降はスイッチング速度が速い絶縁ゲートバイポーラトランジスタ(IGBT)が主として用いられている。IGBTの採用により、より正弦波に近い出力が得られ、IGBTを2段直列に接続することで、電圧を2段階で加圧して、2段階のパルス波を発生させることにより、さらにより正弦波に近い出力を得ることができる3レベルインバータが開発され、電力変換器の低損失化や波形ひずみの軽減ができるようになった。また、キャリア周波数を人間にとって耳障りな周波数よりも高い領域にすることでインバータ装置や電動機の低騒音化が実現できるようになった。2010年代以降は、従来のケイ素(Si)より高耐圧でかつ高速動作も可能、高温下でも使用でき機器を小型化できる炭化ケイ素(SiC)を一部(ショットキーバリアダイオード)に使用したハイブリッド型ものや、さらにはSiCを全面的に用いたMOSFETが導入されつつある。SiCとはゲルマニウムやシリコンと同じ半導体の素材であって、当然SiC-IGBTなどもあり得る。従ってIGBTなどの半導体素子そのものを指すには不適切であるが、SiCというスイッチング素子があるかのような表現が広く用いられている。 SiC-MOSFETはSi-IGBTに比べゲート - ソース容量が低くなる ことからスイッチング損失が低く省電力である。損失が減って発熱が減ることで、回生ブレーキの使える範囲も広くなる。また、SiC-MOSFETはスイッチング速度が速く、時間当たり多くのオンオフが可能であり、これにより高速域でも高いパルスモードを使うことができ、モーターの高調波損失を低く抑えることが可能となる。 産業用や家電用のインバータに用いられることが多い素子であるバイポーラトランジスタは、電気鉄道用としては耐圧が不足する ことからほとんど使用されていない。実績を上げると、バイポーラトランジスタの一種であるパワートランジスタを利用した電車として、JR東日本901系A編成(後のJR東日本209系900番台)や同701系、西日本旅客鉄道(JR西日本)207系0番台が挙げられる。 VVVFインバータ制御は交流モーターである誘導電動機や同期電動機の基本特性に合わせ、その回転数・周波数にほぼ比例した電圧を加える制御方式である。 従前は供給電源の周波数を自由に変えられる装置が簡単には構成できなかったため、電圧を何段階かに切り換えたり、巻線の結線を変え、あるいは回転子のコイルにスベリ周波数に見合った直列起動抵抗を挿入して最大トルクを得る様に調整するなど、電気特性的にはイレギュラーな簡易的起動方法を採用して、起動後の定常運転状態では軽負荷で使っていた。商用周波数での起動の困難のために無用に大出力の電動機を採用していた。 しかし、大電力用半導体素子の発達でインバーターとして自由な周波数と電圧を生成できる様になったことで、モーター特性に合わせた電力供給が実現されて定常運転出力にあった小型のモータ-を採用できるようになった。 今、鉄心の磁気飽和による最大磁束以下の Φm に励磁された回転子が回転数 n で回転していた場合、固定子に巻かれたコイルには最大Φm のほぼ正弦波の磁束が鎖交する。コイル誘起電圧 e {\displaystyle e} は磁束の変化率( = 微分値)×巻数 N である。すなわち、 鎖交磁束を とする時、(Φに付くe,mは添数 ) sin ( 2 π n t ) {\displaystyle \sin(2\pi nt)\,} の時間微分(変化率)は、 2 π n ⋅ cos ( 2 π n t ) {\displaystyle 2\pi n\cdot \cos(2\pi nt)} であるから、 誘起電圧eは となって、一定磁束なら誘起起電力eは回転数 n ,周波数 f に比例することが分かる。「e/f が一定」とも言える。 モーターの端子電圧 = 供給電圧はこれ:誘起起電力eに巻線抵抗などのインピーダンス電圧降下分を加えたもので平衡するから、それをインバータで生成する方式がVVVFインバータ制御と言われるものである。常に最大トルク付近や最大効率を追えるので、使用する交流モーターを従前よりかなり小型化でき細かな制御ができるようになった。そのためエアコンなど家電製品でもインバータ方式( = VVVF制御方式)が主流になりつつある。 設定されているシークエンス(シーケンス)で電圧/周波数を連動させて制御する。 特徴 用途 回転部に回転数センサ(パルス発信器など)・回転子位置センサ(ホール素子など)を取り付け、その計測結果に基づいて電圧・周波数・位相などを適切に制御し、目的とする回転数・トルクを得る。 特徴 用途 回転部のセンサを省略し、代わりに各巻線の電流の大きさと位相で、トルクと回転数を推定し、それに基づいて電圧・周波数を変化させ、目的のトルク・回転数を得る。 特徴 用途 世界で初めて営業運転に投入されたインバータ制御車両は、電車では1973年に就役した、米Cleveland Transit System150型電車 "Airporter"のうち3両(ヘルシンキ地下鉄M100系電車は1977年試験開始であり、こちらより4年遅い)、機関車では1979年に就役した西ドイツ国鉄(現・ドイツ鉄道)120型電気機関車と言われている。この120型電気機関車は、電圧調整はチョッパ制御で行う電流型インバータ制御であり、「VVVF」ではない。誤表記がよく見られ、注意が必要である。 この電流型インバータは周波数の制御をするだけでよく、主にヨーロッパで普及した。 旧日本国有鉄道(国鉄)における無整流子電動機駆動方式の開発は、1972年(昭和47年)12月にクモヤ791形交流試験電車を用いて、同期電動機と(サイリスタモーター)とサイクロコンバータを用いての試験が実施されている。ただし、今日の自励式電圧形PWM-VVVFインバータとは異なり、サイリスタによる他励式に近い電流形サイクロコンバータによるものであって、回路構成や制御方法は大きく異なる。試験にあたっては勾配条件などを考慮して日豊本線の柳ヶ浦 - 杵築間約30kmの区間で行われた。日立製作所と富士電機の機器が使用され、試験結果は良好であったが機器の大きさや重量面において大きな問題が残された。 その後、1979年(昭和54年)から翌1980年(昭和55年)にかけて青函トンネル用電気機関車を想定した悪条件下における信頼性確保や保守性向上のため、サイリスタコンバータとPWMインバータ、大出力の650kW出力誘導電動機2台が試作製造され、試験台試験(台上試験)を実施している。装置は日立がインバータ装置と全体まとめ、三菱が変圧器と電源側変換装置・東芝が主電動機を担当した3社共同によるもので、素子には逆導通サイリスタ(RCT)が採用された。試験結果は良好であったが、青函トンネル開業時期の遅れと国鉄の財政悪化などから採用は見送られた。ここまでの試験は無整流子電動機への取り組みであり、厳密にはVVVFインバータ制御とは直接関係しない。 1984年(昭和59年)には将来の北陸新幹線など、整備新幹線への採用を想定したVVVFインバータ制御の試験として、在来線用のGTOサイリスタ素子を使用したVVVFインバータ装置と誘導電動機など機器一式を用意し、試験台試験(台上試験)を実施した。この試験結果を受け、実際に装置一式を車両に艤装して走行試験を実施することとなった。 試験車には廃車を控えた101系1両を使用し、装置一式(GTOサイリスタ素子(4,500 V - 2,000 A)を使用したVVVFインバータ装置(東芝製)など・1C4M制御)をクモハ101-60の床上に艤装し、1985年(昭和60年)12月から1986年(昭和61年)1月までの期間で2回に分けて試験を実施した(モハ100-35はT車代用、また測定用電源(静止形インバータ)を床上配置)。試験車は国鉄浜松工場で構内走行試験後、東海道本線静岡 - 豊橋間で本線走行試験を実施した。Aタイプ主電動機(後述)は構内走行が12月11 - 16日、本線走行は17 - 19日、Mタイプ主電動機は構内走行が1月10 - 16日、本線走行は20 - 22日に実施された。 試験を2回に分けたのは、国鉄では在来線用の通勤形電車から高速走行をする新幹線車両まで多様な車両が必要なことから、主電動機には特性の異なる4種類8台の誘導電動機(いずれも150kW出力)が用意され、これらの試験を実施するためであった。誘導電動機はMT993形、MT993A形、MT993B形、MT993C形の4種類があり、大きく分けて電気装荷重視形のAタイプ2種類と、磁気装荷重視形のMタイプ2種類を使用した。 その後、国鉄分割民営化を控えた1986年(昭和61年)秋に落成した207系900番台でVVVFインバータ制御(形式名SC20)を正式採用した試作車が完成した。その207系900番台はJR東日本に引き継がれたが、東日本を含むJR各社でのVVVFインバータ制御の本格的な採用は私鉄にやや遅れ、1990年以降となる。 新幹線では、1990年(平成2年)に東海道新幹線の300系の試作車9000番台(J0→J1編成)が作られ、1992年(平成4年)から量産が開始された。その後に登場した500系やE1系、E2系、E3系以降ではVVVFインバータ制御へ移行して、2013年(平成25年)に200系電車が引退したことにより、新幹線車両は全て民営化後に登場したVVVFインバータ車となった。 一方で、旧国鉄での開発と並行し、各電機企業で1975年(昭和50年)頃から大手私鉄・公営交通と手を組んだ開発が盛んとなり、特に日立製作所、東洋電機製造、東京芝浦電気、三菱電機が下記のとおり相次いで現車試験を実施している。 1978年(昭和53年)11月、帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄 = 東京メトロ)千代田線において6000系1次試作車に日立製作所製のVVVFインバータ装置(2,500V - 400Aの逆導通サイリスタ素子を使用・1C4M制御)と130kWのかご形三相誘導電動機を搭載した現車走行試験が実施された。これが日本国内における最初のVVVFインバータ装置を搭載しての走行試験である。 1980年(昭和55年)5月から6月、東洋電機製造が相鉄6000系電車にVVVFインバータ装置(2,500V - 400A(他社製)逆導通サイリスタ素子を使用・175kW主電動機4台制御×2台)を搭載して、かしわ台工機所構内ならびに本線かしわ台 - 相模大塚間で終電後に深夜走行試験を実施した。1次試作品の機器は客室内に艤装されたもので、室内を大きく占有するほどのものであり、実用化にはほど遠いものであった。相模鉄道で走行試験を行ったのは、当時東洋電機製造のVVVFインバータ装置の開発は相鉄相模大塚駅近くの相模工場で行っており(その後、横浜市内の横浜製作所に統合)、工場の近くに相鉄かしわ台工機所があったことが理由である。 同年11月には日立製作所水戸工場で東京急行電鉄から譲渡されたデハ3550形にVVVFインバータ装置(前述の営団地下鉄と同様のシステム)を搭載して構内走行試験が実施されている。試験に際しては、台車もインバーター駆動用として新たに開発されたKH-105台車に交換された。KH-105台車は軸箱支持にロールゴム式、車体支持をボルスタレス式、けん引装置として一本リンク式を採用した軽量台車で、その構造の多くが後の国鉄ボルスタレス振り子台車TR908、TR908Aに反映された。駆動装置は、中空軸たわみ継手式平行カルダンととWN継手式平行カルダンを各1台車づつ採用し、特性比較を行った。 1981年(昭和56年)9月から翌1982年(昭和57年)4月にかけて、大阪市交通局100形106号車にGTOサイリスタ素子を使用したVVVFインバータ装置(第三軌条方式)と160kW主電動機2台を装架して、森之宮検車場構内ならびに中央線において終電後に深夜走行試験が実施された。これは、当時大阪市交通局が導入を想定した小型地下鉄向けのシステムとして開発・試験を行ったものである。なお、同時に107号車が抵抗制御車のまま牽引車として使用された。装置は東京芝浦電気・日立製作所・三菱電機の順番で、1組ずつ試験が実施されたもので、最初に東京芝浦電気製の装置で行われた走行試験は、世界初のGTO-VVVFインバータ制御の本線走行である。 1982年(昭和57年)5月中旬、東洋電機製造が相模鉄道6000系を使用して再度のVVVFインバータ制御(2,500V-500A(自社製)逆導通サイリスタ素子を使用・175kW主電動機4台制御)の深夜走行試験を実施、そして9月から10月に阪急電鉄1600系1601号車にこのVVVFインバータ装置(150kW主電動機4台制御)を搭載して、車庫内ならびに本線上で走行試験が実施された。相模鉄道での試験(2次試作)は、1次試作時から大幅に改良されたもので、床下に艤装できるほど小型化された(ただし、床下艤装作業を省略するため、機器は室内に艤装された)。阪急電鉄の試験では、国内では架線電圧1500Vにおいて初めて110km/hの高速運転、100km/hからの回生ブレーキ走行となった。 営業用車両としては、1982年(昭和57年)8月2日に投入された熊本市交通局8200形電車が日本初となる(1983年のローレル賞受賞)。このインバータは逆導通サイリスタ(RCT)を用いたもので、ほかに国内の営業用車両で用いたのは札幌市交通局8500形電車(同様に路面電車)だけである。最初に路面電車へ採用されたのは、架線電圧が低く高耐圧・高電流の素子が不要であること(直流1,500V用の半分で済む)、軌道回路が不要で誘導障害のおそれがないことがあげられる。 一般的なゲートターンオフサイリスタ(GTO)素子による初のVVVFインバータ搭載の新製車両は、1984年(昭和59年)3月28日に落成した大阪市交通局20系電車(2代目)となる(第三軌条方式・直流750V電化)。しかし、日本国内の高速鉄道として初めての実用化であり、車両性能や誘導障害などの試験が長引いたため、営業運転開始は12月24日まで遅れた。このため、営業開始日順となる下表では4番目にある。 架線電圧1,500Vでの日本初のVVVFインバータ制御車両は東急6000系電車 (初代)のVVVFインバータ改造車である。1983年(昭和58年)にデハ6202に日立製作所製2,500V耐圧型GTOサイリスタ素子VVVFインバータ2台(電気回路はそれぞれ直列つなぎ)を搭載して各種試験を経て、1984年7月25日から大井町線で営業運転が開始された。その後、1985年にはデハ6302に東芝製VVVFインバータを、デハ6002に東洋電機製造製VVVFインバータを、1983年に改造された6202に4500V耐圧型GTOサイリスタ素子VVVFインバータを同時に改造した。 引き続いて1984年(昭和59年)7月に東大阪生駒電鉄(→近畿日本鉄道に統合)7000系試作車が落成(近鉄東大阪線→けいはんな線は未開業・走行試験を実施(第三軌条方式・直流750V電化)。量産・営業開始は1986年10月)、さらに直流1,500V電化用の新製車両では日本初となる近鉄1250系電車1251編成(現・近鉄1420系電車1421編成)の製造が続いた。 本格的な量産車両は、1986年(昭和61年)の新京成電鉄8800形電車や東急9000系電車、近鉄3200系電車、東大阪生駒電鉄→近鉄7000系電車(前述。1987年のローレル賞受賞及び鉄道車両初のグッドデザイン賞受賞)あたりからで、これをきっかけに多くの私鉄や地下鉄での試験導入(東武10000系電車10080型、京阪6000系電車初代6014Fの一部など)を経て本格的な導入が開始された。1995年に登場した阪神5500系電車をもって、大手私鉄の全てがVVVFインバータ制御車を保有することとなった。 IGBT素子を使用したインバータ搭載車両は、1992年の営団(現在の東京メトロ)06系・07系電車が初めてとなる。また、JR西日本207系電車0番台とJR東日本701系電車、及びJR東日本901系電車A編成(後に209系電車900番台に改造され、後年にはGTOに取り替え)ではパワートランジスタ(PTr)素子を使用したインバータが採用されている。 1990年代以降、日本での新造電車は路面電車から新幹線に至るまでVVVFインバータ制御が主体となった。営団地下鉄6000系や東急初代7000系→7700系など、従来の走行機器をVVVFインバータに更新したり、果ては伊予鉄道3000系電車やえちぜん鉄道MC7000形、名古屋市交通局5000形電車のように中古車両の譲渡に際して、電気機器をVVVFインバータに交換・改造した例も出現している。一方で実用化から20-30年以上が経過したことから、初期の採用車では半導体素子の経年劣化による制御装置のASSY交換(京王1000系電車 (2代)、阪急8000系電車、Osaka Metroの66系、JR西日本223系電車0番台体質改善車など)が行われたり、JR東日本209系電車やE217系電車、東京都交通局5300形電車などのように後継車への置き換えが始まった車両も発生している。新幹線の旅客車両で初期のGTOサイリスタを使用した車両は山陽新幹線の500系を除いて全て廃車となっている。特殊な例としては複数の形式の間での編成替えにより、古い形式の走行機器を新しい車両に合わせたものに更新する事例がある。京阪10000系電車の7両化で車両を供出した7200系、9000系がこれに該当する。一方で山陽電気鉄道の5000系・5030系のように、従来の直流電動機を使用する制御装置とVVVFインバータ装置が1つの編成で混在する例もある。 これらの改造や新車の導入により、営業用車両が全てVVVFインバータ制御になった鉄道事業者も出てきており、2012年(平成24年)9月には京王電鉄が大手私鉄初となる全営業車両のVVVFインバータ制御統一を達成し、JRグループでも2019年9月にJR四国が全営業電車のVVVF制御統一を達成している。 2010年代では、SiCをダイオードやトランジスタに使用したVVVFインバータが開発・実用化され、従来のIGBT素子よりも小型軽量化、より省電力化されたVVVFインバータが登場している。新製車ではJR東日本E235系電車に初導入されたのを皮切りに、神戸電鉄6500系電車やJR西日本323系電車、西鉄9000形電車、新幹線N700S系電車で採用されたほか、既存車やPTr-VVVF車、さらには初期のGTOを使用した車両の更新工事が行われており、小田急1000形更新車、京都市交通局10系更新車、新京成電鉄8800形更新車など改造・更新が進められている。 日本初の熊本市交通局8200形電車(1982年【昭和57年】)から1986年(昭和61年)までに登場のVVVF制御車両一覧。 全車両がVVVF制御(車輌数に「*」が付いているもの)の形式には、両数に付随車を含む。一部車両がVVVF制御の形式には、両数に付随車を含まない。 VVVFインバータ制御車両最大の特徴ともいえる、発車時・停車時に発生する何度も高低が変化するような音(磁励音)は、パルスモードが変化しているために発生するものである。車両発進時には、「ピーー」というような音や「ビーー」や「キーーン」という音で起動するが、その後は自動車がトランスミッションで変速するときのエンジン音のような音がする。これらの音は主にモーターから発せられ、インバータ装置自体からも「ジーー」とモーター音に合わせてスイッチング音が聞こえる場合がある。 これらの音は多種多様であり、同じ製造企業・機種のインバータを搭載していても中のプログラムや設定が異なるとまったく違う音を立てる。GTOでは近鉄のほとんどのGTO-VVVFインバータ車やJR東日本901系電車B編成(→209系910番台)、小田急1000形電車(未リニューアル車)や新京成電鉄8800形電車(機器更新前)などが、IGBTではJR西日本223系2000番台1次車の東芝製制御装置車や223系1000番台体質改善車、また近鉄50000系「しまかぜ」や22600系「Ace」のようにプログラムの更新により音が以前と全く変わった車両も存在する。 GTO素子を使用したインバータでは発車時・停車時の音を耳障りと感じる人も多いが、IGBT素子では、スイッチング周波数を高くできるため、耳障りな音色を改善できるようになった。 なおシーメンス製のGTO素子を用いたインバータ制御装置(SIBAS32)を搭載した車両の一部では、音階のような音が主電動機とインバータ制御装置より発せられる。このことから、このタイプのインバータ制御装置を「ドレミファインバータ」、搭載した車両を「歌う電車」と呼ぶことがある。日本ではJR東日本E501系電車や京急2100形電車・新1000形電車、日本国外では韓国鉄道8200形電気機関車などが実例となっている。 現在、電車用の直接形交流電力変換器は大電力の製品が実用化されていないため、交流電化区間に用いられる電車であっても、一旦直流に変換(整流)を行ってから、VVVFインバータを用いる制御(コンバータ・インバータ方式)を行う必要がある。小電力であれば「マトリクスコンバータ」などとして製品化されている。 他
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "可変電圧可変周波数制御(かへんでんあつかへんしゅうはすうせいぎょ)英語Variable voltage variable frequency control(英語略称VVVF)とは、インバータ装置などの交流電力を出力する電力変換装置において、その出力交流電力の実効電圧と周波数を任意に制御する手法である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本では、鉄道車両の交流モータ駆動方式として、可変電圧可変周波数を英語に直訳した語 の頭文字をとって、VVVF制御(ブイブイブイエフせいぎょ、もしくは、スリーブイエフせいぎょ、トリプルブイエフ制御)と呼ぶが、鉄道分野以外で一般に「電動機の可変速駆動制御」などと呼ばれるものに含まれる。家電分野ではインバータ・エアコンなどに使われる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "なお、概要の項で示される通りVVVFは和製英語であり、英語圏では主にVFD(鉄道車両などではTraction inverter)などと呼称もしくは記述されることが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "をそれぞれ参照の事。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "電力変換装置の出力電力手法には可変電圧可変周波数制御のほかに、定電圧定周波数制御(CVCF制御)、可変電圧定周波数制御(VVCF制御)、定電圧可変周波数制御(CVVF制御)がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "電気鉄道では交流電圧波形の最大値が架線電圧に達するまでは周波数と電圧を比例させ(VVVF制御領域)、架線電圧に到達後は誘導電動機ではスベリを増やして定出力とし、スベリ限界以降はトルクが速度の2乗に反比例する特性が基準になる(CVVF制御領域)。このVVVF制御された出力特性は弱界磁制御を行う直流直巻モータの特性に酷似している。静止形インバータ(SIV)はCVCFとされるが、定電圧制御を行うものはVVCFに帰還制御を施したとも言える。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "この制御で得られる可変電圧可変周波数の電力は、交流電動機を可変速駆動する目的で消費される。そのため、電力変換装置に接続された交流電動機を可変速駆動する制御方式を指すことがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "このような出力や電動機制御を実現する鉄道用インバータ装置をVVVFインバータと呼ぶ。VVVFは和製英語である。台湾や韓国などでは、日本企業が名付けた呼称の影響を受けてこう呼ぶ場合もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "この技術は鉄道車両(電車、電気機関車、トロリーバス)、自動車(電気自動車、燃料電池自動車、ハイブリッドカー、ホウルトラック)、エレベーターといった輸送用機器やファン、ポンプ、空調設備、圧延機などさまざまな産業用機器、さらには家庭用電気機械器具(家庭用エアコン、冷蔵庫、洗濯機他)などで広く搭載され活用している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "「PAM」、「PWM」というのは直流から任意の交流疑似正弦波波形を生成する方式に使用され、前者がパルス振幅を変えて交流波形を生成する(パルス振幅変調)もの、後者がパルス幅を変えて交流波形を生成する(パルス幅変調)方式でありPAMは電圧を昇圧(降圧)させる部分と交流に変換するインバータ部で構成される。 PAMは装置の構造がやや複雑になるため今は鉄道車両では採用および搭載されていない。PWMは多くのインバータ制御で使われており従来の多段合成変圧器を用いた正弦波インバータより小型高効率にすることが可能である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "大電力のVVVF制御に多用される方式である、「3レベルインバータ」は耐電圧の低い素子を使用するために電源の中間電圧レベルを供給する回路方式であるが、動作としてはPWMである。これに対して直流電源電圧をオン-オフする元々の単純な方式を「2レベルインバータ」と言う。高調波損失を抑えるという意味ではマルチレベルインバータの方が良いものの、高電圧用の半導体素子の開発に伴い2レベルインバータに回帰し始めた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "回生制動時には電力の通過方向が逆になり、実質コンバータとしての機能も持ちかねている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "交流での回生制動を可能にする交直変換回路として整流部にPWMコンバータが用いられるようになったが、その理由は力行・回生双方向性を持ち、力行時にはコンバータとして使用しつつ、回生時にはインバータとして使用する必要があるためである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "絶縁ゲートバイポーラトランジスタ(IGBT)の登場以前では2レベルがほとんどであった。例外として、黎明期のGTOサイリスタ素子は高耐圧対応の部品が無かったために敢えて3レベルとしたインバータもある。東急6000系電車 (初代)などが該当する。東日本旅客鉄道(JR東日本)の209系920番台(登場時は901系C編成)では従来の大電流の平型GTOサイリスタに代わり、冷却装置に取付ける際の絶縁を考慮しなくて済む低耐圧モジュール型GTOを使用して、制御装置の諸費用削減や整備性の向上を図っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "一つのインバータで複数の非同期モーター (IM)を駆動することが行われているため、制御装置とモーターの関係が#C#Mで表記されている。例えば1つのインバータを持つ制御装置が4つの非同期モーターを駆動する場合、1C4Mとなる。永久磁石同期モーター (PMSM)などの同期モーター (SM)の場合は、一つのモーター毎に一つのインバータが必要となるため個別駆動 (1C1M)のみとなる が、4つのインバータを持ち4つの同期モーターを制御する制御装置も登場しており、これが1C4Mと表記されることもある。なお、非同期モーターの場合であってもインバータで空転再粘着制御が行われているため、粘着利用率だけを見る場合、軸毎に制御できる個別駆動の方が性能的に有利とされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "VVVF制御は、交流電動機(誘導電動機、同期電動機)を可変速駆動するためのインバータの制御技術である。特にかご形誘導電動機は構造が簡単なため、保守費用が非常に安く、電動機自体の価格も安い、という利点があることが古くから知られていた。しかし、回転速度(回転数)が電源の周波数に依存するという特性があったため、長らく可変速度を必要とするものでの使用は困難であった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "かご形誘導電動機の速度制御には、インバータ開発以前にも極数変換によるものがあったが、これは連続的な速度制御はできなかった。インバータの出力電圧と周波数を連続的に変化させる可変電圧可変周波数制御が、交流電動機の連続的な速度制御を実現した。これは、近年の半導体技術、特にパワーエレクトロニクスの進歩に伴い、高速・高耐圧・大容量の制御素子が開発されて実現可能となったものである。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1960年代後半頃から、ファン・ポンプや抄紙機など産業用途での利用が始まり、1970年代後半から1980年代前半には鉄道やエレベータ、1990年代には冷蔵庫、エアコンなど家電機器でも利用されるようになった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "後に、汎用インバータの製品価格が安くなり、送風機などでは風量や静圧調整のためプーリー交換やモータ交換をするよりインバータ制御で調整した方が安価になっている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "なお、ブラシレスDCモータの可変速制御回路も回路的にはインバータと全く同じであるが、同期モータであるため『すべり』がなく、正確に回転子の位置を調整(フィードバック)しないと同期がずれる『脱調』を起こし、停止する。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "主としてかご形三相誘導電動機や巻線形三相誘導電動機の制御に使用される。2000年代後半に入り、駆動周波数と回転周波数がほぼ正確に一致しオープンループ制御が可能となる高効率な永久磁石同期電動機(PMSM)や大容量な電磁石同期電動機が徐々に使用されつつある。ただしこれらは電動機1つにつき主制御器(インバータ)1台が必要な個別制御でなければ正常に駆動できず、重量、設置面積(この2点は、同期電動機に積極的な東芝が1つのパワーユニットに複数のインバータを収める2 in 1あるいは4 in 1と呼ばれる手法で軽減している)、価格、主制御器の保守などの面で課題が残る。対する誘導電動機は2つ以上の電動機を一括制御することも1つの電動機を個別に制御することもできる。", "title": "使用される電動機" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "同期電動機の採用例を以下に挙げる。", "title": "使用される電動機" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "単相誘導電動機は以下の点で可変速運転、特に低周波数での運転に適さないこと、また同出力であれば三相誘導電動機の方が安価であり費用面でも利点がないことから、基本的には使用されない。", "title": "使用される電動機" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "もっとも、単相誘導電動機を用いた既設機器を可変速運転したい需要があることも事実であり、あまり低い回転数で使えないことを条件に、高回転もしくは常時回転が要求されるファン、ポンプ用途に限定して単相電源-単相出力のインバータが製造販売されている。", "title": "使用される電動機" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "可変電圧可変周波数制御では、サイリスタやトランジスタといったスイッチング素子6個からなるブリッジ回路を用いて電流のON/OFFを繰り返し、キャリア三角波と基準電圧波形を比較してスイッチング素子のON/OFFを繰り返し、パルス波によるPWM(Pulse Width Modulation)方式により、位相差が120度の三相交流を作り出すことで、誘導電動機の固定子巻線に、6パターンの電力が供給される。電圧を可変するにはパルス波の幅を変化させ、周波数を変化させるにはスイッチング周期を変えることで行う。パルス波によって作られる制御波形には、1つのパルス波によって交流の正弦波に近い波形を作り出す2レベル制御波形、1つのパルス波の上にもう1つのパルス波を上積して2段階のパルス波にすることにより、波形をより正弦波に近い形を作り出す3レベル制御波形がある。", "title": "スイッチング素子" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "電気鉄道の主電動機駆動用のスイッチング素子としては初期には逆導通サイリスタ(RCT)が用いられていたが1990年代初頭からはスイッチング素子の駆動回路が簡素化できるゲートターンオフサイリスタ(GTOサイリスタ)が用いられるようになった。さらに1990年代終盤以降はスイッチング速度が速い絶縁ゲートバイポーラトランジスタ(IGBT)が主として用いられている。IGBTの採用により、より正弦波に近い出力が得られ、IGBTを2段直列に接続することで、電圧を2段階で加圧して、2段階のパルス波を発生させることにより、さらにより正弦波に近い出力を得ることができる3レベルインバータが開発され、電力変換器の低損失化や波形ひずみの軽減ができるようになった。また、キャリア周波数を人間にとって耳障りな周波数よりも高い領域にすることでインバータ装置や電動機の低騒音化が実現できるようになった。2010年代以降は、従来のケイ素(Si)より高耐圧でかつ高速動作も可能、高温下でも使用でき機器を小型化できる炭化ケイ素(SiC)を一部(ショットキーバリアダイオード)に使用したハイブリッド型ものや、さらにはSiCを全面的に用いたMOSFETが導入されつつある。SiCとはゲルマニウムやシリコンと同じ半導体の素材であって、当然SiC-IGBTなどもあり得る。従ってIGBTなどの半導体素子そのものを指すには不適切であるが、SiCというスイッチング素子があるかのような表現が広く用いられている。", "title": "スイッチング素子" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "SiC-MOSFETはSi-IGBTに比べゲート - ソース容量が低くなる ことからスイッチング損失が低く省電力である。損失が減って発熱が減ることで、回生ブレーキの使える範囲も広くなる。また、SiC-MOSFETはスイッチング速度が速く、時間当たり多くのオンオフが可能であり、これにより高速域でも高いパルスモードを使うことができ、モーターの高調波損失を低く抑えることが可能となる。", "title": "スイッチング素子" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "産業用や家電用のインバータに用いられることが多い素子であるバイポーラトランジスタは、電気鉄道用としては耐圧が不足する ことからほとんど使用されていない。実績を上げると、バイポーラトランジスタの一種であるパワートランジスタを利用した電車として、JR東日本901系A編成(後のJR東日本209系900番台)や同701系、西日本旅客鉄道(JR西日本)207系0番台が挙げられる。", "title": "スイッチング素子" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "VVVFインバータ制御は交流モーターである誘導電動機や同期電動機の基本特性に合わせ、その回転数・周波数にほぼ比例した電圧を加える制御方式である。", "title": "制御方式" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "従前は供給電源の周波数を自由に変えられる装置が簡単には構成できなかったため、電圧を何段階かに切り換えたり、巻線の結線を変え、あるいは回転子のコイルにスベリ周波数に見合った直列起動抵抗を挿入して最大トルクを得る様に調整するなど、電気特性的にはイレギュラーな簡易的起動方法を採用して、起動後の定常運転状態では軽負荷で使っていた。商用周波数での起動の困難のために無用に大出力の電動機を採用していた。", "title": "制御方式" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "しかし、大電力用半導体素子の発達でインバーターとして自由な周波数と電圧を生成できる様になったことで、モーター特性に合わせた電力供給が実現されて定常運転出力にあった小型のモータ-を採用できるようになった。", "title": "制御方式" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "今、鉄心の磁気飽和による最大磁束以下の Φm に励磁された回転子が回転数 n で回転していた場合、固定子に巻かれたコイルには最大Φm のほぼ正弦波の磁束が鎖交する。コイル誘起電圧 e {\\displaystyle e} は磁束の変化率( = 微分値)×巻数 N である。すなわち、 鎖交磁束を", "title": "制御方式" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "とする時、(Φに付くe,mは添数 )", "title": "制御方式" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "sin ( 2 π n t ) {\\displaystyle \\sin(2\\pi nt)\\,} の時間微分(変化率)は、 2 π n ⋅ cos ( 2 π n t ) {\\displaystyle 2\\pi n\\cdot \\cos(2\\pi nt)} であるから、 誘起電圧eは", "title": "制御方式" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "となって、一定磁束なら誘起起電力eは回転数 n ,周波数 f に比例することが分かる。「e/f が一定」とも言える。", "title": "制御方式" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "モーターの端子電圧 = 供給電圧はこれ:誘起起電力eに巻線抵抗などのインピーダンス電圧降下分を加えたもので平衡するから、それをインバータで生成する方式がVVVFインバータ制御と言われるものである。常に最大トルク付近や最大効率を追えるので、使用する交流モーターを従前よりかなり小型化でき細かな制御ができるようになった。そのためエアコンなど家電製品でもインバータ方式( = VVVF制御方式)が主流になりつつある。", "title": "制御方式" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "設定されているシークエンス(シーケンス)で電圧/周波数を連動させて制御する。", "title": "制御方式" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "特徴", "title": "制御方式" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "用途", "title": "制御方式" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "回転部に回転数センサ(パルス発信器など)・回転子位置センサ(ホール素子など)を取り付け、その計測結果に基づいて電圧・周波数・位相などを適切に制御し、目的とする回転数・トルクを得る。", "title": "制御方式" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "特徴", "title": "制御方式" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "用途", "title": "制御方式" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "回転部のセンサを省略し、代わりに各巻線の電流の大きさと位相で、トルクと回転数を推定し、それに基づいて電圧・周波数を変化させ、目的のトルク・回転数を得る。", "title": "制御方式" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "特徴", "title": "制御方式" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "用途", "title": "制御方式" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "世界で初めて営業運転に投入されたインバータ制御車両は、電車では1973年に就役した、米Cleveland Transit System150型電車 \"Airporter\"のうち3両(ヘルシンキ地下鉄M100系電車は1977年試験開始であり、こちらより4年遅い)、機関車では1979年に就役した西ドイツ国鉄(現・ドイツ鉄道)120型電気機関車と言われている。この120型電気機関車は、電圧調整はチョッパ制御で行う電流型インバータ制御であり、「VVVF」ではない。誤表記がよく見られ、注意が必要である。 この電流型インバータは周波数の制御をするだけでよく、主にヨーロッパで普及した。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "旧日本国有鉄道(国鉄)における無整流子電動機駆動方式の開発は、1972年(昭和47年)12月にクモヤ791形交流試験電車を用いて、同期電動機と(サイリスタモーター)とサイクロコンバータを用いての試験が実施されている。ただし、今日の自励式電圧形PWM-VVVFインバータとは異なり、サイリスタによる他励式に近い電流形サイクロコンバータによるものであって、回路構成や制御方法は大きく異なる。試験にあたっては勾配条件などを考慮して日豊本線の柳ヶ浦 - 杵築間約30kmの区間で行われた。日立製作所と富士電機の機器が使用され、試験結果は良好であったが機器の大きさや重量面において大きな問題が残された。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "その後、1979年(昭和54年)から翌1980年(昭和55年)にかけて青函トンネル用電気機関車を想定した悪条件下における信頼性確保や保守性向上のため、サイリスタコンバータとPWMインバータ、大出力の650kW出力誘導電動機2台が試作製造され、試験台試験(台上試験)を実施している。装置は日立がインバータ装置と全体まとめ、三菱が変圧器と電源側変換装置・東芝が主電動機を担当した3社共同によるもので、素子には逆導通サイリスタ(RCT)が採用された。試験結果は良好であったが、青函トンネル開業時期の遅れと国鉄の財政悪化などから採用は見送られた。ここまでの試験は無整流子電動機への取り組みであり、厳密にはVVVFインバータ制御とは直接関係しない。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1984年(昭和59年)には将来の北陸新幹線など、整備新幹線への採用を想定したVVVFインバータ制御の試験として、在来線用のGTOサイリスタ素子を使用したVVVFインバータ装置と誘導電動機など機器一式を用意し、試験台試験(台上試験)を実施した。この試験結果を受け、実際に装置一式を車両に艤装して走行試験を実施することとなった。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "試験車には廃車を控えた101系1両を使用し、装置一式(GTOサイリスタ素子(4,500 V - 2,000 A)を使用したVVVFインバータ装置(東芝製)など・1C4M制御)をクモハ101-60の床上に艤装し、1985年(昭和60年)12月から1986年(昭和61年)1月までの期間で2回に分けて試験を実施した(モハ100-35はT車代用、また測定用電源(静止形インバータ)を床上配置)。試験車は国鉄浜松工場で構内走行試験後、東海道本線静岡 - 豊橋間で本線走行試験を実施した。Aタイプ主電動機(後述)は構内走行が12月11 - 16日、本線走行は17 - 19日、Mタイプ主電動機は構内走行が1月10 - 16日、本線走行は20 - 22日に実施された。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "試験を2回に分けたのは、国鉄では在来線用の通勤形電車から高速走行をする新幹線車両まで多様な車両が必要なことから、主電動機には特性の異なる4種類8台の誘導電動機(いずれも150kW出力)が用意され、これらの試験を実施するためであった。誘導電動機はMT993形、MT993A形、MT993B形、MT993C形の4種類があり、大きく分けて電気装荷重視形のAタイプ2種類と、磁気装荷重視形のMタイプ2種類を使用した。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "その後、国鉄分割民営化を控えた1986年(昭和61年)秋に落成した207系900番台でVVVFインバータ制御(形式名SC20)を正式採用した試作車が完成した。その207系900番台はJR東日本に引き継がれたが、東日本を含むJR各社でのVVVFインバータ制御の本格的な採用は私鉄にやや遅れ、1990年以降となる。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "新幹線では、1990年(平成2年)に東海道新幹線の300系の試作車9000番台(J0→J1編成)が作られ、1992年(平成4年)から量産が開始された。その後に登場した500系やE1系、E2系、E3系以降ではVVVFインバータ制御へ移行して、2013年(平成25年)に200系電車が引退したことにより、新幹線車両は全て民営化後に登場したVVVFインバータ車となった。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "一方で、旧国鉄での開発と並行し、各電機企業で1975年(昭和50年)頃から大手私鉄・公営交通と手を組んだ開発が盛んとなり、特に日立製作所、東洋電機製造、東京芝浦電気、三菱電機が下記のとおり相次いで現車試験を実施している。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1978年(昭和53年)11月、帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄 = 東京メトロ)千代田線において6000系1次試作車に日立製作所製のVVVFインバータ装置(2,500V - 400Aの逆導通サイリスタ素子を使用・1C4M制御)と130kWのかご形三相誘導電動機を搭載した現車走行試験が実施された。これが日本国内における最初のVVVFインバータ装置を搭載しての走行試験である。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1980年(昭和55年)5月から6月、東洋電機製造が相鉄6000系電車にVVVFインバータ装置(2,500V - 400A(他社製)逆導通サイリスタ素子を使用・175kW主電動機4台制御×2台)を搭載して、かしわ台工機所構内ならびに本線かしわ台 - 相模大塚間で終電後に深夜走行試験を実施した。1次試作品の機器は客室内に艤装されたもので、室内を大きく占有するほどのものであり、実用化にはほど遠いものであった。相模鉄道で走行試験を行ったのは、当時東洋電機製造のVVVFインバータ装置の開発は相鉄相模大塚駅近くの相模工場で行っており(その後、横浜市内の横浜製作所に統合)、工場の近くに相鉄かしわ台工機所があったことが理由である。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "同年11月には日立製作所水戸工場で東京急行電鉄から譲渡されたデハ3550形にVVVFインバータ装置(前述の営団地下鉄と同様のシステム)を搭載して構内走行試験が実施されている。試験に際しては、台車もインバーター駆動用として新たに開発されたKH-105台車に交換された。KH-105台車は軸箱支持にロールゴム式、車体支持をボルスタレス式、けん引装置として一本リンク式を採用した軽量台車で、その構造の多くが後の国鉄ボルスタレス振り子台車TR908、TR908Aに反映された。駆動装置は、中空軸たわみ継手式平行カルダンととWN継手式平行カルダンを各1台車づつ採用し、特性比較を行った。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1981年(昭和56年)9月から翌1982年(昭和57年)4月にかけて、大阪市交通局100形106号車にGTOサイリスタ素子を使用したVVVFインバータ装置(第三軌条方式)と160kW主電動機2台を装架して、森之宮検車場構内ならびに中央線において終電後に深夜走行試験が実施された。これは、当時大阪市交通局が導入を想定した小型地下鉄向けのシステムとして開発・試験を行ったものである。なお、同時に107号車が抵抗制御車のまま牽引車として使用された。装置は東京芝浦電気・日立製作所・三菱電機の順番で、1組ずつ試験が実施されたもので、最初に東京芝浦電気製の装置で行われた走行試験は、世界初のGTO-VVVFインバータ制御の本線走行である。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1982年(昭和57年)5月中旬、東洋電機製造が相模鉄道6000系を使用して再度のVVVFインバータ制御(2,500V-500A(自社製)逆導通サイリスタ素子を使用・175kW主電動機4台制御)の深夜走行試験を実施、そして9月から10月に阪急電鉄1600系1601号車にこのVVVFインバータ装置(150kW主電動機4台制御)を搭載して、車庫内ならびに本線上で走行試験が実施された。相模鉄道での試験(2次試作)は、1次試作時から大幅に改良されたもので、床下に艤装できるほど小型化された(ただし、床下艤装作業を省略するため、機器は室内に艤装された)。阪急電鉄の試験では、国内では架線電圧1500Vにおいて初めて110km/hの高速運転、100km/hからの回生ブレーキ走行となった。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "営業用車両としては、1982年(昭和57年)8月2日に投入された熊本市交通局8200形電車が日本初となる(1983年のローレル賞受賞)。このインバータは逆導通サイリスタ(RCT)を用いたもので、ほかに国内の営業用車両で用いたのは札幌市交通局8500形電車(同様に路面電車)だけである。最初に路面電車へ採用されたのは、架線電圧が低く高耐圧・高電流の素子が不要であること(直流1,500V用の半分で済む)、軌道回路が不要で誘導障害のおそれがないことがあげられる。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "一般的なゲートターンオフサイリスタ(GTO)素子による初のVVVFインバータ搭載の新製車両は、1984年(昭和59年)3月28日に落成した大阪市交通局20系電車(2代目)となる(第三軌条方式・直流750V電化)。しかし、日本国内の高速鉄道として初めての実用化であり、車両性能や誘導障害などの試験が長引いたため、営業運転開始は12月24日まで遅れた。このため、営業開始日順となる下表では4番目にある。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "架線電圧1,500Vでの日本初のVVVFインバータ制御車両は東急6000系電車 (初代)のVVVFインバータ改造車である。1983年(昭和58年)にデハ6202に日立製作所製2,500V耐圧型GTOサイリスタ素子VVVFインバータ2台(電気回路はそれぞれ直列つなぎ)を搭載して各種試験を経て、1984年7月25日から大井町線で営業運転が開始された。その後、1985年にはデハ6302に東芝製VVVFインバータを、デハ6002に東洋電機製造製VVVFインバータを、1983年に改造された6202に4500V耐圧型GTOサイリスタ素子VVVFインバータを同時に改造した。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "引き続いて1984年(昭和59年)7月に東大阪生駒電鉄(→近畿日本鉄道に統合)7000系試作車が落成(近鉄東大阪線→けいはんな線は未開業・走行試験を実施(第三軌条方式・直流750V電化)。量産・営業開始は1986年10月)、さらに直流1,500V電化用の新製車両では日本初となる近鉄1250系電車1251編成(現・近鉄1420系電車1421編成)の製造が続いた。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "本格的な量産車両は、1986年(昭和61年)の新京成電鉄8800形電車や東急9000系電車、近鉄3200系電車、東大阪生駒電鉄→近鉄7000系電車(前述。1987年のローレル賞受賞及び鉄道車両初のグッドデザイン賞受賞)あたりからで、これをきっかけに多くの私鉄や地下鉄での試験導入(東武10000系電車10080型、京阪6000系電車初代6014Fの一部など)を経て本格的な導入が開始された。1995年に登場した阪神5500系電車をもって、大手私鉄の全てがVVVFインバータ制御車を保有することとなった。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "IGBT素子を使用したインバータ搭載車両は、1992年の営団(現在の東京メトロ)06系・07系電車が初めてとなる。また、JR西日本207系電車0番台とJR東日本701系電車、及びJR東日本901系電車A編成(後に209系電車900番台に改造され、後年にはGTOに取り替え)ではパワートランジスタ(PTr)素子を使用したインバータが採用されている。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1990年代以降、日本での新造電車は路面電車から新幹線に至るまでVVVFインバータ制御が主体となった。営団地下鉄6000系や東急初代7000系→7700系など、従来の走行機器をVVVFインバータに更新したり、果ては伊予鉄道3000系電車やえちぜん鉄道MC7000形、名古屋市交通局5000形電車のように中古車両の譲渡に際して、電気機器をVVVFインバータに交換・改造した例も出現している。一方で実用化から20-30年以上が経過したことから、初期の採用車では半導体素子の経年劣化による制御装置のASSY交換(京王1000系電車 (2代)、阪急8000系電車、Osaka Metroの66系、JR西日本223系電車0番台体質改善車など)が行われたり、JR東日本209系電車やE217系電車、東京都交通局5300形電車などのように後継車への置き換えが始まった車両も発生している。新幹線の旅客車両で初期のGTOサイリスタを使用した車両は山陽新幹線の500系を除いて全て廃車となっている。特殊な例としては複数の形式の間での編成替えにより、古い形式の走行機器を新しい車両に合わせたものに更新する事例がある。京阪10000系電車の7両化で車両を供出した7200系、9000系がこれに該当する。一方で山陽電気鉄道の5000系・5030系のように、従来の直流電動機を使用する制御装置とVVVFインバータ装置が1つの編成で混在する例もある。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "これらの改造や新車の導入により、営業用車両が全てVVVFインバータ制御になった鉄道事業者も出てきており、2012年(平成24年)9月には京王電鉄が大手私鉄初となる全営業車両のVVVFインバータ制御統一を達成し、JRグループでも2019年9月にJR四国が全営業電車のVVVF制御統一を達成している。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2010年代では、SiCをダイオードやトランジスタに使用したVVVFインバータが開発・実用化され、従来のIGBT素子よりも小型軽量化、より省電力化されたVVVFインバータが登場している。新製車ではJR東日本E235系電車に初導入されたのを皮切りに、神戸電鉄6500系電車やJR西日本323系電車、西鉄9000形電車、新幹線N700S系電車で採用されたほか、既存車やPTr-VVVF車、さらには初期のGTOを使用した車両の更新工事が行われており、小田急1000形更新車、京都市交通局10系更新車、新京成電鉄8800形更新車など改造・更新が進められている。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "日本初の熊本市交通局8200形電車(1982年【昭和57年】)から1986年(昭和61年)までに登場のVVVF制御車両一覧。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "全車両がVVVF制御(車輌数に「*」が付いているもの)の形式には、両数に付随車を含む。一部車両がVVVF制御の形式には、両数に付随車を含まない。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "VVVFインバータ制御車両最大の特徴ともいえる、発車時・停車時に発生する何度も高低が変化するような音(磁励音)は、パルスモードが変化しているために発生するものである。車両発進時には、「ピーー」というような音や「ビーー」や「キーーン」という音で起動するが、その後は自動車がトランスミッションで変速するときのエンジン音のような音がする。これらの音は主にモーターから発せられ、インバータ装置自体からも「ジーー」とモーター音に合わせてスイッチング音が聞こえる場合がある。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "これらの音は多種多様であり、同じ製造企業・機種のインバータを搭載していても中のプログラムや設定が異なるとまったく違う音を立てる。GTOでは近鉄のほとんどのGTO-VVVFインバータ車やJR東日本901系電車B編成(→209系910番台)、小田急1000形電車(未リニューアル車)や新京成電鉄8800形電車(機器更新前)などが、IGBTではJR西日本223系2000番台1次車の東芝製制御装置車や223系1000番台体質改善車、また近鉄50000系「しまかぜ」や22600系「Ace」のようにプログラムの更新により音が以前と全く変わった車両も存在する。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "GTO素子を使用したインバータでは発車時・停車時の音を耳障りと感じる人も多いが、IGBT素子では、スイッチング周波数を高くできるため、耳障りな音色を改善できるようになった。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "なおシーメンス製のGTO素子を用いたインバータ制御装置(SIBAS32)を搭載した車両の一部では、音階のような音が主電動機とインバータ制御装置より発せられる。このことから、このタイプのインバータ制御装置を「ドレミファインバータ」、搭載した車両を「歌う電車」と呼ぶことがある。日本ではJR東日本E501系電車や京急2100形電車・新1000形電車、日本国外では韓国鉄道8200形電気機関車などが実例となっている。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "現在、電車用の直接形交流電力変換器は大電力の製品が実用化されていないため、交流電化区間に用いられる電車であっても、一旦直流に変換(整流)を行ってから、VVVFインバータを用いる制御(コンバータ・インバータ方式)を行う必要がある。小電力であれば「マトリクスコンバータ」などとして製品化されている。", "title": "日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "他", "title": "主なメーカー" } ]
可変電圧可変周波数制御(かへんでんあつかへんしゅうはすうせいぎょ)英語Variable voltage variable frequency control(英語略称VVVF)とは、インバータ装置などの交流電力を出力する電力変換装置において、その出力交流電力の実効電圧と周波数を任意に制御する手法である。 日本では、鉄道車両の交流モータ駆動方式として、可変電圧可変周波数を英語に直訳した語 の頭文字をとって、VVVF制御(ブイブイブイエフせいぎょ、もしくは、スリーブイエフせいぎょ、トリプルブイエフ制御)と呼ぶが、鉄道分野以外で一般に「電動機の可変速駆動制御」などと呼ばれるものに含まれる。家電分野ではインバータ・エアコンなどに使われる。 なお、概要の項で示される通りVVVFは和製英語であり、英語圏では主にVFDなどと呼称もしくは記述されることが多い。 半導体素子を用いた直流を交流に変換する装置は → インバータ 直流電化区間で運転される鉄道車両の補助電源装置は → 静止形インバータ 電圧-周波数比例モータ制御は → VVVFインバータ制御 鉄道関係(技術解説)は → 電気車の速度制御 をそれぞれ参照の事。
[[ファイル:JRW 281 VVVF.jpg|200px|thumb|right|[[JR西日本281系電車]]のVVVFインバータ部]] [[ファイル:JRE removed VVVF units.jpg|200px|thumb|right|山積されている使用済みのVVVF装置([[東京総合車両センター]])]] '''可変電圧可変周波数制御'''(かへんでんあつかへんしゅうはすうせいぎょ)英語Variable voltage variable frequency control(英語略称VVVF)とは、インバータ装置などの交流電力を出力する[[電源回路|電力変換装置]]において、その出力交流電力の[[実効値|実効電圧]]と[[周波数]]を任意に制御する手法である。 日本では、[[鉄道車両]]の[[誘導電動機|交流モータ]]駆動方式として、可変電圧可変周波数を英語に直訳した語<ref>{{lang|en-short|'''V'''ariable '''V'''oltage '''V'''ariable '''F'''requency}}</ref> の頭文字をとって、[[VVVFインバータ制御|'''VVVF制御''']](ブイブイブイエフせいぎょ、もしくは、スリーブイエフせいぎょ<ref>草思社「全国鉄道事情大研究」大阪都心部・奈良編 用語解説では「スリーブイエフと言う」と書かれている。</ref>、トリプルブイエフ制御<ref>[[ビコム]]の一部ビデオ作品でこのように呼ばれる場合がある。</ref>)と呼ぶが、鉄道分野以外で一般に「[[電動機]]の可変速駆動制御」などと呼ばれるものに含まれる<ref>[[20世紀]]末以降の[[電気自動車]]や[[ハイブリッドカー]]はインバータ制御が一般的であるため、単に「コントローラー」と呼ばれる。</ref>。家電分野ではインバータ・[[エア・コンディショナー|エアコン]]などに使われる。 なお、概要の項で示される通りVVVFは和製英語であり、英語圏では主にVFD<ref>{{lang-en-short|variable-frequency drive}}</ref>(鉄道車両などでは'''Traction inverter''')などと呼称もしくは記述されることが多い。 * [[半導体素子]]を用いた[[直流]]を[[交流]]に変換する装置は → [[インバータ]] * [[直流電化]]区間で運転される鉄道車両の補助[[電源]]装置は → [[静止形インバータ]] * 電圧-周波数比例モータ制御は → [[VVVFインバータ制御]] * 鉄道関係(技術解説)は → [[電気車の速度制御]] をそれぞれ参照の事。 == 概要 == 電力変換装置の出力電力手法には可変電圧可変周波数制御のほかに、定電圧定周波数制御(CVCF制御)、可変電圧定周波数制御(VVCF制御)、定電圧可変周波数制御(CVVF制御)がある。 電気鉄道では交流電圧波形の最大値が架線電圧に達するまでは周波数と電圧を比例させ(VVVF制御領域)、架線[[電圧]]に到達後は誘導電動機ではスベリを増やして定出力とし、スベリ限界以降はトルクが速度の2乗に反比例する特性が基準になる(CVVF制御領域)。このVVVF制御された出力特性は弱界磁制御を行う直流直巻モータの特性に酷似している<ref>モータ単独特性は電圧-回転数=周波数比例</ref>。静止形インバータ(SIV)はCVCFとされるが、定電圧制御を行うものはVVCFに帰還制御を施したとも言える。 この制御で得られる可変電圧可変周波数の電力は、[[交流電動機]]を可変速駆動する目的で消費される。そのため、電力変換装置に接続された交流電動機を可変速駆動する制御方式を指すことがある。 このような出力や電動機制御を実現する鉄道用インバータ装置をVVVFインバータと呼ぶ。VVVFは和製英語である。[[台湾]]や[[大韓民国|韓国]]などでは、日本企業が名付けた呼称の影響を受けてこう呼ぶ場合もある。 この技術は[[鉄道車両]]([[電車]]、[[電気機関車]]、[[トロリーバス]])、[[自動車]]([[電気自動車]]、[[燃料電池自動車]]、[[ハイブリッドカー]]、[[ホウルトラック]])、[[エレベーター]]といった輸送用機器や[[送風機|ファン]]、[[ポンプ]]、空調設備、[[圧延機]]などさまざまな産業用機器、さらには[[家庭用電気機械器具]]([[エア・コンディショナー|家庭用エアコン]]、[[冷蔵庫]]、[[洗濯機]]他)などで広く搭載され活用している。 「[[パルス振幅変調|PAM]]」、「[[パルス幅変調|PWM]]」というのは直流から任意の交流疑似正弦波波形を生成する方式に使用され、前者がパルス振幅を変えて交流波形を生成する(パルス振幅変調)もの、後者がパルス幅を変えて交流波形を生成する(パルス幅変調)方式でありPAMは電圧を昇圧(降圧)させる部分と交流に変換するインバータ部で構成される。 PAMは装置の構造がやや複雑になるため今は鉄道車両では採用および搭載されていない。PWMは多くのインバータ制御で使われており従来の多段合成変圧器を用いた正弦波インバータより小型高効率にすることが可能である。 大電力のVVVF制御に多用される方式である、「3レベルインバータ」は耐電圧の低い素子を使用するために電源の中間電圧レベルを供給する回路方式であるが、動作としてはPWMである。これに対して直流電源電圧をオン-オフする元々の単純な方式を「2レベルインバータ」と言う。高調波損失を抑えるという意味ではマルチレベルインバータの方が良いものの、高電圧用の半導体素子の開発に伴い2レベルインバータに回帰し始めた。 回生制動時には電力の通過方向が逆になり、実質コンバータとしての機能も持ちかねている。 交流での回生制動を可能にする交直変換回路として整流部にPWM[[整流器|コンバータ]]が用いられるようになったが、その理由は力行・回生双方向性を持ち、力行時にはコンバータとして使用しつつ、回生時にはインバータとして使用する必要があるためである。 <!--2レベルインバータ主回路の場合+側UVW、-側UVWの出力素子が2個直列、これを3組並列にした回路であり各素子は電源電圧の1/2以上の耐圧素子が必要である。 また出力電圧は 全電圧-0Vの二段階となり正弦波に近い波形とするにはPWM周波数をかなり高めにしなければならない<ref>PWM周波数を高くすると流せる電流量が減少する</ref>。 3レベルインバータ主回路は各素子が2個直列になり これがさらに2組直列、これを3組並列にしたもので、上から1つ目、3つ目の中点を6本まとめて電源電圧の中間点へ接続する構成である。中間電圧を利用するため、全電圧-1/2-0Vの三段階の電圧が得られ、より正弦波に近い波形を得られる。(実際はもっとたくさんの素子を直列並列接続している) 欠点は構造上多数の素子が必要なため、素子の特性がそろっていないと動作不良を起こしやすくなる点があり、特に経年が経った装置では日常保守で注意が必要である。 (一般的説明ではないので取りあえず非表示) --> [[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ]](IGBT)の登場以前では2レベルがほとんどであった。例外として、黎明期の[[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]]素子は高耐圧対応の部品が無かったために敢えて3レベルとしたインバータもある。[[東急6000系電車 (初代)]]などが該当する。[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[JR東日本209系電車#920番台|209系920番台]](登場時は901系C編成)では従来の大電流の平型GTOサイリスタに代わり、冷却装置に取付ける際の絶縁を考慮しなくて済む低耐圧モジュール型GTOを使用して、制御装置の諸費用削減や整備性の向上を図っている。 一つのインバータで複数の[[誘導電動機|非同期モーター (IM)]]を駆動することが行われているため、制御装置とモーターの関係が#C#Mで表記されている。例えば1つのインバータを持つ制御装置が4つの非同期モーターを駆動する場合、1C4Mとなる。[[永久磁石同期電動機|永久磁石同期モーター (PMSM)]]などの[[同期電動機|同期モーター (SM)]]の場合は、一つのモーター毎に一つのインバータが必要となるため個別駆動 (1C1M)のみとなる<ref>[https://www.toshiba.co.jp/tech/review/2013/04/68_04pdf/a07.pdf 鉄道車両用 PMSM主回路システム] 東芝 2013年</ref> が、4つのインバータを持ち4つの同期モーターを制御する制御装置も登場しており、これが1C4Mと表記されることもある。なお、非同期モーターの場合であってもインバータで空転再粘着制御が行われているため、粘着利用率だけを見る場合、軸毎に制御できる個別駆動の方が性能的に有利とされる<ref>{{Cite journal|和書|author=原崇文, 古関隆章, 岡田万基, 久富浩平 |title=誘導機駆動鉄道車両の超過角運動量補償に基づく再粘着制御 |url=https://doi.org/10.1541/ieejias.133.909 |journal=電気学会論文誌. D, 産業応用部門誌 |publisher=電気学会 |year=2013 |month=sep |volume=133 |issue=9 |pages=909-916 |naid=10031193736 |doi=10.1541/ieejias.133.909 |issn=09136339}}</ref>。 == 沿革 == VVVF制御は、[[交流電動機]]([[誘導電動機]]、[[同期電動機]])を可変速駆動するためのインバータの制御技術である。特に[[かご形三相誘導電動機|かご形誘導電動機]]は構造が簡単なため、保守費用が非常に安く、電動機自体の価格も安い、という利点があることが古くから知られていた。しかし、回転速度([[回転数]])が電源の[[周波数]]に依存するという特性があったため、長らく可変速度を必要とするものでの使用は困難であった。 かご形誘導電動機の速度制御には、インバータ開発以前にも極数変換によるものがあったが、これは連続的な速度制御はできなかった。インバータの出力電圧と周波数を連続的に変化させる可変電圧可変周波数制御が、交流電動機の連続的な速度制御を実現した。これは、近年の[[半導体]]技術、特に[[パワーエレクトロニクス]]の進歩に伴い、高速・高耐圧・大容量の制御素子が開発されて実現可能となったものである。 [[1960年代]]後半頃から、[[ファン]]・[[ポンプ]]や抄紙機など産業用途での利用が始まり、[[1970年代]]後半から[[1980年代]]前半には[[鉄道]]や[[エレベーター|エレベータ]]、[[1990年代]]には[[冷蔵庫]]、[[エア・コンディショナー|エアコン]]など[[家庭用電気機械器具|家電機器]]でも利用されるようになった。 後に、汎用インバータの製品価格が安くなり、[[送風機]]などでは風量や静圧調整のため[[プーリー]]交換やモータ交換をするよりインバータ制御で調整した方が安価になっている。 なお、[[無整流子電動機|ブラシレスDCモータ]]の可変速制御回路も回路的にはインバータと全く同じであるが、同期モータであるため『[[同期速度|すべり]]』がなく、正確に[[回転子]]の位置を調整([[フィードバック]])しないと同期がずれる『[[同期速度|脱調]]』を起こし、停止する。 == 使用される電動機 == 主として[[かご形三相誘導電動機]]や[[巻線形三相誘導電動機]]の制御に使用される。[[2000年代]]後半に入り、駆動周波数と回転周波数がほぼ正確に一致し[[オープンループ制御]]が可能となる高効率な[[永久磁石同期電動機]](PMSM)や大容量な[[電磁石同期電動機]]が徐々に使用されつつある。ただしこれらは電動機1つにつき主制御器(インバータ)1台が必要な個別制御でなければ正常に駆動できず、重量、設置面積(この2点は、同期電動機に積極的な[[東芝]]が1つのパワーユニットに複数のインバータを収める2 in 1あるいは4 in 1と呼ばれる手法で軽減している)、価格、主制御器の保守などの面で課題が残る。対する誘導電動機は2つ以上の電動機を一括制御することも1つの電動機を個別に制御することもできる。 [[同期電動機]]の採用例を以下に挙げる。 * [[フランス国鉄]] (SNCF) [[TGV]] - 前期型は電磁石同期電動機を採用していたが、後期型ではかご形三相誘導電動機に替わっている。 * [[東京地下鉄]](東京メトロ) [[営団02系電車|02系電車]](丸ノ内線)- [[営団01系電車|同01系電車]](銀座線)での試験の後、02系の[[電機子チョッパ制御]]車を対象に永久磁石同期電動機を用いて更新改造を始めている。また、同社の[[東京メトロ16000系電車|16000系電車]](千代田線)は永久磁石同期電動機を採用して新製・量産された日本初の例である。 * [[JR東日本E331系電車]](京葉線) - [[JR東日本E993系電車|E993系]]で採用された駆動方式、[[ダイレクトドライブ]]との組み合わせで[[プロトタイプ|量産先行車]]として製造したが、ダイレクトドライブ方式が他の系列に波及することなく2011年1月に運用を離脱し、そのまま2014年(平成26年)4月に[[廃車 (鉄道)|廃車]]され現存しない。 * [[揚水発電]]における揚水用電動機の始動。なお揚水用電動機は発電時は[[同期発電機]]として使用される。 [[単相誘導電動機]]は以下の点で可変速運転、特に低周波数での運転に適さないこと、また同出力であれば三相誘導電動機の方が安価であり費用面でも利点がないことから、基本的には使用されない。 * 一定回転数以下になると、始動用スタータコイルを制御する遠心力スイッチが動作しなくなり始動動作を繰り返す。 * コンデンサ始動式では低電圧時十分な進相電流を流すことができず、ある条件下で突然始動するか過電流で異常停止する。 もっとも、単相誘導電動機を用いた既設機器を可変速運転したい需要があることも事実であり、あまり低い回転数で使えないことを条件に、高回転もしくは常時回転が要求されるファン、ポンプ用途に限定して単相電源-単相出力のインバータが製造販売されている。 == スイッチング素子 == [[ファイル:PWM VFD Diagram.png|thumb|right|200px|整流後の直流から三相交流を作り出す回路]]<!-- 英語版しかないようなので、作れる方に翻訳をお願いできればと思います --> 可変電圧可変周波数制御では、[[サイリスタ]]や[[トランジスタ]]といったスイッチング素子6個からなるブリッジ回路を用いて電流のON/OFFを繰り返し、キャリア三角波と基準電圧波形を比較してスイッチング素子のON/OFFを繰り返し、パルス波によるPWM(Pulse Width Modulation)方式により、位相差が120度の三相交流を作り出すことで、誘導電動機の固定子巻線に、6パターンの電力が供給される。電圧を可変するにはパルス波の幅を変化させ、周波数を変化させるにはスイッチング周期を変えることで行う。パルス波によって作られる制御波形には、1つのパルス波によって交流の正弦波に近い波形を作り出す2レベル制御波形、1つのパルス波の上にもう1つのパルス波を上積して2段階のパルス波にすることにより、波形をより正弦波に近い形を作り出す3レベル制御波形がある。 電気鉄道の主電動機駆動用のスイッチング素子としては初期には[[サイリスタ|逆導通サイリスタ(RCT)]]が用いられていたが1990年代初頭からはスイッチング素子の駆動回路が簡素化できる[[ゲートターンオフサイリスタ]](GTOサイリスタ)が用いられるようになった。さらに1990年代終盤以降はスイッチング速度が速い[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ]](IGBT)が主として用いられている。IGBTの採用により、より正弦波に近い出力が得られ、IGBTを2段直列に接続することで、電圧を2段階で加圧して、2段階のパルス波を発生させることにより、さらにより正弦波に近い出力を得ることができる3レベルインバータが開発され、電力変換器の低損失化や波形ひずみの軽減ができるようになった。また、キャリア周波数を人間にとって耳障りな周波数よりも高い領域にすることで[[インバータ]]装置や電動機の低騒音化が実現できるようになった。2010年代以降は、従来の[[ケイ素]](Si)より高耐圧でかつ高速動作も可能、高温下でも使用でき機器を小型化できる[[炭化ケイ素]](SiC)を一部([[ショットキーバリアダイオード]])に使用したハイブリッド型ものや、さらにはSiCを全面的に用いた[[MOSFET]]が導入されつつある<ref>例:JR東日本 [https://www.jreast.co.jp/development/tech/pdf_51/tech-51-41-44.pdf E235系の主回路システムの紹介]</ref>。SiCとはゲルマニウムやシリコンと同じ半導体の素材であって、当然SiC-IGBTなどもあり得る。従ってIGBTなどの半導体素子そのものを指すには不適切であるが、SiCというスイッチング素子があるかのような表現が広く用いられている<ref>[https://www.jreast.co.jp/press/2014/20140701.pdf SiCに積極的な東芝も使用していた]</ref>。 SiC-MOSFETはSi-IGBTに比べゲート - ソース容量が低くなる<ref>[https://ednjapan.com/edn/articles/2005/27/news043.html SiCスイッチの特性と設計上の注意点 (1/2) - EDN Japan] 2020年12月5日閲覧。</ref> ことから[[スイッチングロス|スイッチング損失]]が低く省電力である<ref name="jr-tr51-e235"/>。損失が減って発熱が減ることで、回生ブレーキの使える範囲も広くなる<ref name="jr-tr51-e235"/>。また、SiC-MOSFETはスイッチング速度が速く、時間当たり多くのオンオフが可能であり、これにより高速域でも高いパルスモードを使うことができ、モーターの[[高調波損失]]を低く抑えることが可能となる<ref name="jr-tr51-e235">[https://www.jreast.co.jp/development/tech/pdf_51/tech-51-41-44.pdf JR EAST Technical Review-No.51 - E235系の主回路システムの紹介] P.42-43 JR東日本, {{naid|40020553020}}</ref>。 産業用や家電用のインバータに用いられることが多い素子であるバイポーラトランジスタは、電気鉄道用としては耐圧が不足する<ref>厳密には、低損失かつ高耐圧のものが製造できない状況である。</ref> ことからほとんど使用されていない。実績を上げると、バイポーラトランジスタの一種であるパワートランジスタを利用した電車として、JR東日本901系A編成(後のJR東日本209系900番台)や同[[JR東日本701系電車|701系]]、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[JR西日本207系電車|207系]]0番台が挙げられる。 == 制御方式 == {{重複|dupe=VVVFインバータ制御|date=2022年11月22日 (火) 13:08 (UTC)|section=1}} <!-- 鉄道向け記事と記載しつつも、題名が鉄道向けであることを明示しておらず、この節では鉄道以外の用途の記述があり、メイン記事である[[VVVFインバータ制御]]よりも当記事の方が内容が充実している状態になってしまっている --> === モーター特性に合わせた制御 === VVVFインバータ制御は交流モーターである誘導電動機や同期電動機の基本特性に合わせ、その回転数・周波数にほぼ比例した電圧を加える制御方式である。 従前は供給電源の周波数を自由に変えられる装置が簡単には構成できなかったため、電圧を何段階かに切り換えたり、巻線の結線を変え、あるいは回転子のコイルにスベリ周波数に見合った直列起動抵抗を挿入して最大トルクを得る様に調整するなど、電気特性的にはイレギュラーな簡易的起動方法を採用して、起動後の定常運転状態では軽負荷で使っていた。商用周波数での起動の困難のために無用に大出力の電動機を採用していた。 [[ファイル:emf_3vf.gif|thumb|260px|right|電動機の1相誘起電圧と回転数]] しかし、大電力用半導体素子の発達でインバーターとして自由な周波数と電圧を生成できる様になったことで、モーター特性に合わせた電力供給が実現されて定常運転出力にあった小型のモータ-を採用できるようになった。 今、鉄心の磁気飽和による最大磁束以下の ''Φ<sub>m</sub>'' に励磁された回転子が回転数 ''n'' で回転していた場合、固定子に巻かれたコイルには最大''Φ<sub>m</sub>'' のほぼ正弦波の磁束が鎖交する。コイル誘起電圧 <math>e</math> は磁束の変化率( = 微分値)×巻数 ''N'' である。すなわち、 鎖交磁束を : <math>\phi e=\phi m\cdot \sin \theta \ </math>・・・・<math>\ (\theta = 2\pi nt)</math> とする時、(Φに付くe,mは添数<!-- どなたかmath表記中の添数表記に改めてくだされ。書式が分からんもので --> <!-- 追記。 https://meta.wikimedia.org/wiki/Help:Displaying_a_formula/ja ←を参考にどなたか編集お願いします。。--> ) <math>\sin (2\pi nt) \, </math> の時間微分(変化率)は、<math>2\pi n\cdot \cos (2\pi nt)</math> であるから、 誘起電圧eは : <math>e=2\pi Nn\cdot \cos (2\pi nt)</math> となって、一定磁束なら誘起起電力''e''は回転数 ''n'' ,周波数 ''f'' に比例することが分かる。「[[#電圧/周波数 ( V/f ) 一定制御|''e/f'' が一定]]」とも言える。 モーターの端子電圧 = 供給電圧はこれ:誘起起電力'''e'''に巻線抵抗などのインピーダンス電圧降下分を加えたもので平衡するから、それをインバータで生成する方式がVVVFインバータ制御と言われるものである。常に最大トルク付近や最大効率を追えるので、使用する交流モーターを従前よりかなり小型化でき細かな制御ができるようになった。そのためエアコンなど家電製品でもインバータ方式( = VVVF制御方式)が主流になりつつある。 === 電圧/周波数 ( V/f ) 一定制御 === 設定されている[[シークエンス]](シーケンス)で[[電圧]]/[[周波数]]を連動させて制御する。 特徴 * 制御回路が単純で安価である。 * 外乱による変化に対応しにくい。 用途 * ファン・ブロワ・圧縮機・ポンプなど、2乗低減トルク負荷の部分負荷時の省エネルギー用。 === (回転部センサ付き)トルクベクトル制御 {{Anchors|ベクトル制御}} === 回転部に回転数[[センサ]](パルス発信器など)・回転子位置センサ(ホール素子など)を取り付け、その計測結果に基づいて電圧・周波数・位相などを適切に制御し、目的とする回転数・トルクを得る。 特徴 * 精密なトルク・回転数・位置制御が出来る。 * センサの保守が煩雑である。 用途 * [[マシニングセンタ]]・押出機・巻取機・[[鉄道車両]]・[[エレベーター|エレベータ]]など、大きな始動トルクと正確な制御が必要な負荷用。 === (回転部)センサレス・トルクベクトル制御 === 回転部のセンサを省略し、代わりに各[[巻線]]の[[電流]]の大きさと位相で、[[トルク]]と回転数を推定し、それに基づいて電圧・周波数を変化させ、目的のトルク・回転数を得る。 特徴 * センサの保守が必要ない。 * 鉄道車両等の、電動機の外形寸法に制約のある用途では、センサがなくなった分だけ大型の電動機を用いることができ、大出力化が可能になる。 * トルク・回転数推定のための、高速な演算回路が必要である。 * 制御回路に[[電動機]]・負荷の特性が正しく設定されていないと、制御が乱れる。 用途 * [[クレーン]]・ハイブリッドカーなど、大きな始動トルクが必要な負荷用。 * タンクレス給水用ポンプなど急速起動が必要な用途。 ** その後、鉄道車両の主電動機にもセンサレス制御が用いられるようになってきている。 == 日本の鉄道におけるVVVFインバータの歴史 == === 歴史 === 世界で初めて営業運転に投入されたインバータ制御車両は、電車では[[1973年]]に就役した、米[[:en:Greater Cleveland Regional Transit Authority|Cleveland Transit System]]150型電車 "Airporter"のうち3両([[ヘルシンキ地下鉄M100系電車]]は[[1977年]]試験開始であり、こちらより4年遅い)、機関車では[[1979年]]に就役した西ドイツ国鉄(現・[[ドイツ鉄道]])[[西ドイツ国鉄120型電気機関車|120型電気機関車]]と言われている。この120型電気機関車は、電圧調整はチョッパ制御で行う電流型インバータ制御であり、「VVVF」ではない。誤表記がよく見られ、注意が必要である。 この電流型インバータは周波数の制御をするだけでよく、主にヨーロッパで普及した。 ====国鉄・JRにおける取り組み==== [[画像:JNR-207-EMU.jpg|210px|thumb|right|国鉄(→JR東日本)[[国鉄207系電車|207系900番台]]]] 旧[[日本国有鉄道]](国鉄)における[[無整流子電動機]]駆動方式の開発は、[[1972年]](昭和47年)12月に[[国鉄791系電車|クモヤ791形]]交流[[試験車|試験電車]]を用いて、[[同期電動機]]と(サイリスタモーター)と[[電源回路|サイクロコンバータ]]を用いての試験が実施されている<ref name="Fan1986-5">交友社「鉄道ファン」1986年5月号「国鉄のVVVF車両開発」pp.64 - 66。</ref><ref name="Hitachi-1973-11">日立製作所『日立評論』1973年11月号「{{PDFlink|[https://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1973/11/1973_11_10.pdf 日本国有鉄道納め 110kW交流電車用サイリスタモータ]}}」。</ref><ref name="FUJI1974-2">富士電機『富士時報』1974年2月号「{{PDFlink|[https://www.fujielectric.co.jp/company/jihou_archives/pdf/47-02/FEJ-47-02-221-1974.pdf 車両用無整流子電動機]}}」。</ref>。ただし、今日の自励式電圧形PWM-VVVFインバータとは異なり、サイリスタによる他励式に近い電流形サイクロコンバータによるものであって、回路構成や制御方法は大きく異なる。試験にあたっては勾配条件などを考慮して[[日豊本線]]の[[柳ケ浦駅|柳ヶ浦]] - [[杵築駅|杵築]]間約30kmの区間で行われた<ref name="Fan1986-5"/><ref name="Hitachi-1973-11"/><ref name="FUJI1974-2"/>。[[日立製作所]]と[[富士電機]]の機器が使用され、試験結果は良好であったが機器の大きさや重量面において大きな問題が残された<ref name="Fan1986-5"/><ref name="Hitachi-1973-11"/><ref name="FUJI1974-2"/>。 その後、[[1979年]](昭和54年)から翌[[1980年]](昭和55年)にかけて[[青函トンネル]]用[[電気機関車]]を想定した悪条件下における信頼性確保や保守性向上のため、サイリスタコンバータと[[パルス幅変調|PWMインバータ]]、大出力の650kW出力誘導電動機2台が試作製造され、試験台試験(台上試験)を実施している<ref name="Fan1986-5"/><ref name="Hitachi-1981-6">日立製作所『日立評論』1981年6月号「{{PDFlink|[https://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1981/06/1981_06_04.pdf 電気機関車用大容量PWM方式インバータ]}}」。</ref>。装置は日立がインバータ装置と全体まとめ、[[三菱電機|三菱]]が変圧器と電源側変換装置・[[東芝]]が主電動機を担当した3社共同によるもので<ref name="Cyber2006-1">日本鉄道サイバネティクス協議会『サイバネティクス』2006年1月号技術情報「創生期における日立のインバータ開発」pp.64 - 66。</ref>、[[半導体素子|素子]]には[[サイリスタ|逆導通サイリスタ(RCT)]]が採用された<ref name="Cyber2006-1"/>。試験結果は良好であったが、青函トンネル開業時期の遅れと国鉄の財政悪化などから採用は見送られた<ref name="Fan1986-5"/>。ここまでの試験は無整流子電動機への取り組みであり、厳密にはVVVFインバータ制御とは直接関係しない。 [[1984年]](昭和59年)には将来の[[北陸新幹線]]など、[[整備新幹線]]への採用を想定したVVVFインバータ制御の試験として、在来線用の[[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]]素子を使用したVVVFインバータ装置と誘導電動機など機器一式を用意し、試験台試験(台上試験)を実施した<ref name="Fan1986-5"/>。この試験結果を受け、実際に装置一式を車両に艤装して走行試験を実施することとなった<ref name="Fan1986-5"/>。 試験車には[[廃車 (鉄道)|廃車]]を控えた[[国鉄101系電車|101系]]1両を使用し、装置一式(GTOサイリスタ素子(4,500 V - 2,000 A)を使用したVVVFインバータ装置(東芝製<ref>東芝『東芝レビュー』1986年4月号「昭和60年の技術成果」 p.378。</ref>)など・1C4M制御)をクモハ101-60の床上に艤装し、[[1985年]](昭和60年)12月から[[1986年]](昭和61年)1月までの期間で2回に分けて試験を実施した<ref name="Fan1986-5"/><ref name="KOTSU1986">交通協力会『交通技術』1986年7月号「VVVF電車走行試験結果」pp.25 - 27。</ref>(モハ100-35はT車代用、また測定用電源([[静止形インバータ]])を床上配置<ref name="Fan1986-5"/>)。試験車は[[東海旅客鉄道浜松工場|国鉄浜松工場]]で構内走行試験後、[[東海道本線]][[静岡駅|静岡]] - [[豊橋駅|豊橋]]間で本線走行試験を実施した<ref name="Fan1986-5"/>。Aタイプ主電動機(後述)は構内走行が12月11 - 16日、本線走行は17 - 19日、Mタイプ主電動機は構内走行が1月10 - 16日、本線走行は20 - 22日に実施された<ref name="KOTSU1986"/>。 ; 構内走行試験 * '''クモハ101-60''' + モハ100-35 + クハ100 ; 本線走行試験 * '''クモハ101-60''' + モハ100-35 + [[国鉄145系電車|クモヤ145]](緊急用) 試験を2回に分けたのは、国鉄では在来線用の[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]から高速走行をする[[新幹線車両]]まで多様な車両が必要なことから、主電動機には特性の異なる4種類8台の誘導電動機(いずれも150kW出力)が用意され、これらの試験を実施するためであった<ref name="Fan1986-5"/>。誘導電動機はMT993形、MT993A形、MT993B形、MT993C形の4種類があり、大きく分けて電気装荷重視形のAタイプ2種類と、磁気装荷重視形のMタイプ2種類を使用した<ref name="Fan1986-5"/>。 その後、[[国鉄分割民営化]]を控えた1986年(昭和61年)秋に落成した[[国鉄207系電車|207系900番台]]でVVVFインバータ制御(形式名SC20)を正式採用した試作車が完成した<ref name="KOTSU1986"/>。その207系900番台はJR東日本に引き継がれたが、東日本を含むJR各社でのVVVFインバータ制御の本格的な採用は私鉄にやや遅れ、1990年以降となる。 ;JR各社のVVVFインバータ制御量産形式の第一号(在来線) *[[北海道旅客鉄道]](JR北海道) ** [[JR北海道785系電車|785系]](1990年、JRグループ初のVVVFインバータ制御電車) *[[東日本旅客鉄道]](JR東日本) ** [[JR東日本209系電車|209系]](1993年) *[[東海旅客鉄道]](JR東海) ** [[JR東海383系電車|383系]](1994年) *[[西日本旅客鉄道]](JR西日本) ** [[JR西日本207系電車|207系]](1991年) *[[四国旅客鉄道]](JR四国) ** [[JR四国7000系電車|7000系]](1990年) *[[九州旅客鉄道]](JR九州) ** [[JR九州813系電車|813系]](1994年) *[[日本貨物鉄道]](JR貨物) ** [[JR貨物EF200形電気機関車|EF200形]](試作機は1990年。量産機は1992年) 新幹線では、[[1990年]](平成2年)に[[東海道新幹線]]の[[新幹線300系電車|300系]]の試作車9000番台(J0→J1編成)が作られ、[[1992年]](平成4年)から量産が開始された。その後に登場した[[新幹線500系電車|500系]]や[[新幹線E1系電車|E1系]]、[[新幹線E2系電車|E2系]]、[[新幹線E3系電車|E3系]]以降ではVVVFインバータ制御へ移行して、[[2013年]](平成25年)に[[新幹線200系電車|200系電車]]が引退したことにより、新幹線車両は全て民営化後に登場したVVVFインバータ車となった。 ====私鉄・公営交通における取り組み==== [[画像:Kumamoto8202 1.jpg|210px|thumb|right|営業用車両としては日本初の[[熊本市交通局8200形電車]]。]] [[画像:OsakaSubway20Series01.jpg|210px|thumb|right|高速鉄道としては日本初の[[大阪市交通局20系電車]]]] [[画像:Kintetsu1421F01.jpg|210px|thumb|right|直流1500Vの新製車両としては日本初の近鉄1250系→1420系。]] 一方で、旧国鉄での開発と並行し、各電機企業で[[1975年]](昭和50年)頃から[[大手私鉄]]・[[公営交通]]と手を組んだ開発が盛んとなり、特に[[日立製作所]]、[[東洋電機製造]]、[[東芝|東京芝浦電気]]、[[三菱電機]]が下記のとおり相次いで現車試験を実施している。 [[1978年]](昭和53年)11月、[[帝都高速度交通営団]](現・[[東京地下鉄]] = 東京メトロ)[[東京メトロ千代田線|千代田線]]において[[営団6000系電車|6000系1次試作車]]に日立製作所製のVVVFインバータ装置(2,500V - 400Aの逆導通サイリスタ素子を使用・1C4M制御)と130kWの[[かご形三相誘導電動機]]を搭載した現車走行試験が実施された<ref name="Hitachi-1979-10">日立製作所『日立評論』1979年10月号「{{PDFlink|[https://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1979/10/1979_10_06.pdf 鉄道車両におけるパワーエレクトロニクスの応用]}}」。</ref><ref name="Hitachi-1979-5">日立製作所『日立評論』1979年5月号「{{PDFlink|[https://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1979/05/1979_05_06.pdf 車両用誘導電動機のインバータ制御]}}」。</ref>。これが日本国内における最初のVVVFインバータ装置を搭載しての走行試験である<ref name="Hitachi-history4">日立製作所創業75周年記念事業推進委員会社史編纂小委員会編『日立製作所史4』p.393。</ref><ref name="Cyber2006-1"/><ref name="PICT1986-8">電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1986年8月号特集「インバータ制御電車」pp.18 - 24。</ref>。 [[1980年]](昭和55年)5月から6月、東洋電機製造が[[相鉄6000系電車]]にVVVFインバータ装置(2,500V - 400A(他社製)逆導通サイリスタ素子を使用・175kW主電動機4台制御×2台)を搭載して、[[かしわ台車両センター|かしわ台工機所]]構内ならびに[[相鉄本線|本線]][[かしわ台駅|かしわ台]] - [[相模大塚駅|相模大塚]]間で終電後に深夜走行試験を実施した<ref name="ToyoDenki75th">東洋電機製造『東洋電機七十五年史』pp.186。</ref><ref name="ToyoDenkiTechnology100">東洋電機製造『東洋電機技報』第100号(1998年2月)「交通におけるACドライブ」pp.14 - 15。</ref><ref name="Railandtech-2">レールアンドテック出版『インバータ制御電車開発の物語』pp.72 - 77。</ref>。1次試作品の機器は客室内に艤装されたもので、室内を大きく占有するほどのものであり、実用化にはほど遠いものであった<ref name="Railandtech-2"/>。相模鉄道で走行試験を行ったのは、当時東洋電機製造のVVVFインバータ装置の開発は相鉄相模大塚駅近くの相模工場で行っており(その後、[[横浜市]]内の横浜製作所に統合)、工場の近くに相鉄かしわ台工機所があったことが理由である<ref name="Railandtech-2"/>。 同年11月には日立製作所水戸工場で東京急行電鉄から譲渡された[[東急3000系電車 (初代)|デハ3550形]]にVVVFインバータ装置(前述の営団地下鉄と同様のシステム)を搭載して構内走行試験が実施されている<ref name="Hitachi-1986-3">日立製作所『日立評論』1986年3月号「{{PDFlink|[https://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1986/03/1986_03_03.pdf 鉄道車両へのパワーエレクトロニクスの応用]}}」。</ref><ref name="Cyber2006-1"/>。試験に際しては、台車もインバーター駆動用として新たに開発されたKH-105台車に交換された。KH-105台車は軸箱支持にロールゴム式、車体支持をボルスタレス式、けん引装置として一本リンク式を採用した軽量台車で、その構造の多くが後の国鉄ボルスタレス振り子台車TR908、TR908Aに反映された。駆動装置は、[[中空軸平行カルダン駆動方式|中空軸たわみ継手式平行カルダン]]とと[[WN駆動方式|WN継手式平行カルダン]]を各1台車づつ採用し、特性比較を行った。 [[1981年]](昭和56年)9月から翌[[1982年]](昭和57年)4月にかけて、[[大阪市交通局]][[大阪市交通局1100形電車|100形]]106号車に[[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]]素子を使用したVVVFインバータ装置([[第三軌条方式]])と160kW主電動機2台を装架して、[[森之宮検車場]]構内ならびに[[Osaka Metro中央線|中央線]]において終電後に深夜走行試験が実施された<ref name="Toshiba1982-5">東京芝浦電気「東芝レビュー」1982年5月号「可変電圧可変周波数(VVVF)インバータを使用した鉄道車両用誘導電動機駆動システム」pp.488- 492。</ref><ref name="PICT1986-8"/>。これは、当時大阪市交通局が導入を想定した[[日本の地下鉄#ミニ地下鉄|小型地下鉄]]向けのシステムとして開発・試験を行ったものである<ref name="Railandtech-1">レールアンドテック出版『インバータ制御電車開発の物語』pp.20 - 24。</ref>。なお、同時に107号車が抵抗制御車のまま牽引車として使用された<ref name="Railandtech-2"/>。装置は東京芝浦電気・日立製作所・三菱電機の順番で、1組ずつ試験が実施されたもので<ref name="Toshiba1982-5"/><ref name="Hitachi-1981-11">日立製作所『日立評論』1981年11月号「{{PDFlink|[https://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1981/11/1981_11_10.pdf GTOインバータによる車両用誘導電動機の制御]}}」。</ref><ref name="PICT1986-8"/><ref>「大阪市高速電気軌道第7号線京橋〜鶴見緑地間 リニアモータ地下鉄建設記録」 - 大阪市交通局(1990年)</ref><ref name="Cyber2006-1"/>、最初に東京芝浦電気製の装置で行われた走行試験は、世界初のGTO-VVVFインバータ制御の本線走行である<ref name="Toshiba1982-5"/><ref name="PICT1986-8"/>。 {{See also|大阪市交通局1100形電車#VVVFインバータ制御試験車}} 1982年(昭和57年)5月中旬、東洋電機製造が相模鉄道6000系を使用して再度のVVVFインバータ制御(2,500V-500A(自社製)逆導通サイリスタ素子を使用・175kW主電動機4台制御)の深夜走行試験を実施、そして9月から10月に[[阪急電鉄]][[阪急1600系電車|1600系]]1601号車にこのVVVFインバータ装置(150kW主電動機4台制御)を搭載して、車庫内ならびに本線上で走行試験が実施された<ref name="ToyoDenkiTechnology55">東洋電機製造『東洋電機技報』第55号(1983年5月)「VVVFインバータ制御による車両用誘導電動機駆動システム」pp.2 - 11。</ref><ref name="Railandtech-2"/><ref name="PICT1986-8"/>。相模鉄道での試験(2次試作)は、1次試作時から大幅に改良されたもので、床下に艤装できるほど小型化された<ref name="Railandtech-2"/>(ただし、床下艤装作業を省略するため、機器は室内に艤装された<ref name="Railandtech-2"/>)。阪急電鉄の試験では、国内では架線電圧1500Vにおいて初めて110km/hの高速運転、100km/hからの[[回生ブレーキ]]走行となった<ref name="ToyoDenkiTechnology55"/><ref name="ToyoDenkiTechnology100"/>。 ====実用化==== 営業用車両としては、[[1982年]](昭和57年)[[8月2日]]に投入された[[熊本市交通局8200形電車]]が日本初となる(1983年の[[ローレル賞]]受賞)<ref name="PICT1986-8"/>。このインバータは[[サイリスタ|逆導通サイリスタ(RCT)]]を用いたもので、ほかに国内の営業用車両で用いたのは[[札幌市交通局8500形電車]](同様に路面電車)だけである<ref name="PICT1986-8-1">電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1986年8月号特集「インバータ制御電車」pp.14 - 17。</ref>。最初に路面電車へ採用されたのは、架線電圧が低く高耐圧・高電流の素子が不要であること(直流1,500V用の半分で済む)、[[軌道回路]]が不要で[[誘導障害]]のおそれがないことがあげられる<ref name="PICT1986-8-1">電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1986年8月号特集「インバータ制御電車」pp.14 - 17。</ref>。 一般的な[[ゲートターンオフサイリスタ]](GTO)素子による初のVVVFインバータ搭載の新製車両は、[[1984年]](昭和59年)3月28日に落成した[[大阪市交通局20系電車]](2代目)となる<ref name="PICT1986-8-1"/><ref name="Railandtech-3">レールアンドテック出版『インバータ制御電車開発の物語』pp.16 ・30。</ref>([[第三軌条方式]]・直流750V電化)。しかし、日本国内の高速鉄道として初めての実用化であり、車両性能や誘導障害などの試験が長引いたため、営業運転開始は12月24日まで遅れた<ref name="Railandtech-3"/>。このため、営業開始日順となる下表では4番目にある。 架線電圧1,500Vでの日本初のVVVFインバータ制御車両は[[東急6000系電車 (初代)]]のVVVFインバータ改造車である<ref name="PICT1986-8"/>。[[1983年]](昭和58年)にデハ6202に[[日立製作所]]製2,500V耐圧型GTOサイリスタ素子VVVFインバータ2台(電気回路はそれぞれ直列つなぎ)を搭載して各種試験を経て、1984年[[7月25日]]から[[東急大井町線|大井町線]]で営業運転が開始された<ref name="PICT1986-8"/>。その後、[[1985年]]にはデハ6302に[[東芝]]製VVVFインバータを、デハ6002に[[東洋電機製造]]製VVVFインバータを、1983年に改造された6202に4500V耐圧型GTOサイリスタ素子VVVFインバータを同時に改造した。 {{See also|東急6000系電車 (初代)#VVVFインバータ制御の実用化試験}} 引き続いて1984年(昭和59年)7月に[[近鉄けいはんな線|東大阪生駒電鉄]](→[[近畿日本鉄道]]に統合)[[近鉄7000系電車|7000系]]試作車が落成(近鉄東大阪線→けいはんな線は未開業・走行試験を実施(第三軌条方式・直流750V電化)。量産・営業開始は[[1986年]]10月)<ref name="PICT1986-8-1"/>、さらに直流1,500V電化用の新製車両では日本初となる近鉄1250系電車1251編成(現・[[近鉄1420系電車]]1421編成)の製造が続いた<ref name="PICT1986-8-1"/>。 本格的な量産車両は、[[1986年]](昭和61年)の[[新京成電鉄8800形電車]]や[[東急9000系電車]]、[[近鉄3200系電車]]、東大阪生駒電鉄→[[近鉄7000系電車]](前述。1987年のローレル賞受賞及び鉄道車両初のグッドデザイン賞受賞)あたりからで、これをきっかけに多くの私鉄や地下鉄での試験導入([[東武10000系電車#10080型|東武10080型]]、[[京阪6000系電車]]初代6014Fの一部など)を経て本格的な導入が開始された。1995年に登場した[[阪神5500系電車]]をもって、大手私鉄の全てがVVVFインバータ制御車を保有することとなった。 ==== 発展 ==== [[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]素子を使用したインバータ搭載車両は、[[1992年]]の営団(現在の東京メトロ)[[営団06系電車|06系]]・[[営団07系電車|07系電車]]が初めてとなる<ref>ただし、06系は1992年12月に、07系は1993年1月に落成。営業開始は1993年3月。これ以前に、東西線の05系第14編成を使用して、IGBT素子VVVFインバータの走行試験を実施している。</ref>。また、[[JR西日本207系電車]]0番台と[[JR東日本701系電車]]、及びJR東日本901系電車A編成(後に209系電車900番台に改造され、後年にはGTOに取り替え)ではパワートランジスタ(PTr)素子を使用したインバータが採用されている。 1990年代以降、日本での新造電車は路面電車から[[新幹線]]に至るまでVVVFインバータ制御が主体となった。[[営団6000系電車|営団地下鉄6000系]]や[[東急7000系電車 (初代)|東急初代7000系]]→[[東急7700系電車|7700系]]など、従来の走行機器をVVVFインバータに更新したり、果ては[[伊予鉄道3000系電車]]や[[国鉄119系電車|えちぜん鉄道MC7000形]]、[[名古屋市交通局5000形電車]]のように中古車両の譲渡に際して、電気機器をVVVFインバータに交換・改造した例も出現している。一方で実用化から20-30年以上が経過したことから、初期の採用車では半導体素子の経年劣化による制御装置の[[ASSY]]交換([[京王1000系電車 (2代)]]、[[阪急8000系電車]]、[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]]の[[大阪市交通局66系電車|66系]]、[[JR西日本223系電車#0番台|JR西日本223系電車0番台]]体質改善車など)が行われたり、[[JR東日本209系電車]]や[[JR東日本E217系電車|E217系電車]]、[[東京都交通局5300形電車]]などのように後継車への置き換えが始まった車両も発生している<ref>E217系は209系と同様のGTOサイリスタのVVVFを採用して登場し、機器更新で全車E233系に準ずるIGBTの装置に交換され、E235系の導入で置き換えが行われている。</ref>。新幹線の旅客車両で初期のGTOサイリスタを使用した車両は[[山陽新幹線]]の500系を除いて全て廃車となっている。特殊な例としては複数の形式の間での編成替えにより、古い形式の走行機器を新しい車両に合わせたものに更新する事例がある。[[京阪10000系電車]]の7両化で車両を供出した[[京阪7200系電車|7200系]]、[[京阪9000系電車|9000系]]がこれに該当する<ref>ただしこれも事業者により扱いが異なり、阪和線用に増備されたJR西日本223系2500番台が同0番台の編成に組み込まれた際、0番台の機器更新はこの時点で行われず、GTOとIGBTが混在する形で組成した。</ref>。一方で[[山陽電気鉄道]]の[[山陽電気鉄道5000系電車|5000系]]・[[山陽電気鉄道5030系電車|5030系]]のように、従来の直流電動機を使用する制御装置とVVVFインバータ装置が1つの編成で混在する例もある。 これらの改造や新車の導入により、営業用車両が全てVVVFインバータ制御になった鉄道事業者も出てきており、2012年(平成24年)9月には[[京王電鉄]]が[[大手私鉄]]初となる全営業車両のVVVFインバータ制御統一を達成し、JRグループでも2019年9月にJR四国が全営業電車のVVVF制御統一を達成している。 [[2010年代]]では、[[炭化ケイ素|SiC]]をダイオードやトランジスタに使用したVVVFインバータが開発・実用化され、従来のIGBT素子よりも小型軽量化、より省電力化されたVVVFインバータが登場している。新製車では[[JR東日本E235系電車]]に初導入されたのを皮切りに、[[神戸電鉄6500系電車]]や[[JR西日本323系電車]]、[[西鉄9000形電車]]、[[新幹線N700S系電車]]で採用されたほか、既存車やPTr-VVVF車、さらには初期のGTOを使用した車両の更新工事が行われており、[[小田急1000形電車|小田急1000形更新車]]、[[京都市交通局10系電車|京都市交通局10系更新車]]、[[新京成電鉄8800形電車|新京成電鉄8800形更新車]]など改造・更新が進められている。 ==== 初期のVVVF制御車両一覧 ==== 日本初の[[熊本市交通局8200形電車]](1982年【昭和57年】)から1986年(昭和61年)までに登場のVVVF制御車両一覧。 {| class="wikitable" |- ! scope="col" width="100"|鉄道事業者 ! scope="col" width="120"|形式 ! scope="col" width="80"|電気方式 ! style="width:8em;" |営業開始日 !両数 ! scope="col" width="80"|製作所 ! scope="col" width="130"|型番 !備考 |- |<small>[[熊本市交通局]]</small>||[[熊本市交通局8200形電車|<small>8200形</small>]]||直流600V||1982年8月2日||2 |[[三菱電機|<small>三菱</small>]] |<small>SIV-244</small>||[[路面電車]]、1電動機RCT素子<br/>2006年にはIGBT素子(MAP-121-60VD155)に交換 |- | rowspan="3" |<small>[[東急電鉄|東京急行電鉄]]</small>|| rowspan="3" |<small>[[東急6000系電車 (初代)|6000系(初代)]](廃系列)</small>|| rowspan="4" |直流1500V|| rowspan="3" |1984年7月25日<br/>(日立車)||1 |<small>[[日立製作所|日立]]</small> |<small>VF-HR-102</small>|| rowspan="3" |実用化試験車として形式内の一部を改造<br/>1電動機、GTOサイリスタ素子 |- |1 |<small>[[東芝]]</small> | rowspan="2" |<small>不明</small> |- |1 |<small>[[東洋電機製造|東洋]]</small> |- |<small>[[近畿日本鉄道]]</small>||<small>1250系(→1251系→[[近鉄1420系電車|1420系]])</small>||1984年10月31日<ref>鉄道ピクトリアル2023年5月号『特集:インバータ制御の技術』p.23「1980〜90年代民営・公営鉄軌道のインバータ制御電車セレクション」</ref>||2 |[[三菱電機|<small>三菱</small>]] |<small>MAP-174-15VD05</small>||直流1500Vとしては日本初の本格的VVVF車。GTOサイリスタ素子<br />正式形式名を2度変更している |- | rowspan="3" |<small>[[大阪市交通局]]</small>|| rowspan="3" |[[大阪市交通局20系電車|<small>20系(2代)</small>]]|| rowspan="4" |直流750V|| rowspan="3" |1984年12月24日|| rowspan="3" |*96 |[[三菱電機|<small>三菱</small>]] |<small>SIV-V564-M-1/2</small>|| rowspan="3" |[[第三軌条方式]]地下鉄および編成された鉄道車両としては日本初のVVVF車<br />[[大阪市営地下鉄中央線]]・[[Osaka Metro谷町線|谷町線]](現在は撤退)・[[近鉄けいはんな線|近鉄(東大阪線 →)けいはんな線]]専用。GTOサイリスタ素子<br/>現在は日立IGBT素子(VFI-HR1415C)に交換 |- |[[日立製作所|<small>日立</small>]] |<small>VF-HR-103 (A·B)</small> |- |[[東芝|<small>東芝</small>]] |<small>BS-1408-A<br>BS-1408-B</small> |- |<small>[[西武鉄道]]</small>||[[西武8500系電車|<small>8500系</small>]] |1985年4月25日||*12 |[[日立製作所|<small>日立</small>]] |<small>VF-HR-105</small>||[[西武山口線|山口線]]用、[[新交通システム]]初のVVVF車、GTOサイリスタ素子<br/>2001年にはIGBT素子(VFI-HR2410A)に交換 |- |<small>[[札幌市交通局]]</small>||[[札幌市交通局8500形電車|<small>8500形</small>]]||直流600V||1985年5月13日||2 |[[三菱電機|<small>三菱</small>]] |<small>SIV-V324-M</small>||路面電車、RCT素子。改良型の[[札幌市交通局8510形電車|8510形]]・[[札幌市交通局8520形電車|8520形]]もRCT素子。<br/>2012年にはIGBT素子(MAP-062-60VD241)に交換 |- |<small>[[阪急電鉄]]</small>||<small>[[阪急2200系電車|2200系]](形式消滅)</small>|| rowspan="7" |直流1500V||1985年7月17日||2 |[[東芝|<small>東芝</small>]] |<small>BS-1425-A</small>||VVVF試験車、形式内の一部(2720・2721)<br/>GTOサイリスタ素子。[[阪神・淡路大震災]]の後2720は電装解除(2721は被災し廃車)、後に[[阪急6000系電車|6000系]]に編入 |- |<small>[[新京成電鉄]]</small>||[[新京成電鉄8800形電車|<small>8800形</small>]]||1986年2月26日||*96 |[[三菱電機|<small>三菱</small>]] |<small>MAP-148-15V06 (A·B·C·D)</small>||直流1500Vとしては世界で初めて長編成を組み<br/>[[関東地方]]初の本格的VVVF車、GTOサイリスタ素子 |- |<small>近畿日本鉄道</small>||[[近鉄3200系電車|<small>3200系</small>]]||1986年3月1日||*42 |[[三菱電機|<small>三菱</small>]] |<small>MAP-174-15V10</small>||GTOサイリスタ素子 |- |<small>東京急行電鉄</small>||<small>[[東急9000系電車|9000系]]</small>||1986年3月9日||*117 |[[日立製作所|<small>日立</small>]] |<small>VF-HR-107/112</small> |9001Fは107、9002F以降は112、GTOサイリスタ素子 |- |<small>[[小田急電鉄]]</small>||<small>[[小田急2600形電車|2600形]](廃系列)</small>||1986年3月17日||1 |[[三菱電機|<small>三菱</small>]] |<small>MAP-184-15V09</small>||形式内の一部改造<br/>1995年にはIGBT素子(MAP-178-15V50)に交換 |- |<small>近畿日本鉄道</small>||[[近鉄6400系電車|<small>6400系</small>]]||1986年3月||*12 |[[日立製作所|<small>日立</small>]] |<small>VF-HR-108</small>||[[近鉄南大阪線|南大阪線]]専用、GTOサイリスタ素子 |- |<small>東京急行電鉄</small>||<small>[[東急7600系電車|7600系]](廃系列)</small>||1986年5月1日||*9 |[[東洋電機製造|<small>東洋</small>]] |<small>RG614-A-M</small>||7200系改造、GTOサイリスタ素子 |- |<small>[[北大阪急行電鉄]]</small>||[[北大阪急行電鉄8000形電車|<small>8000形</small>]]|| rowspan="3" |直流750V||1986年7月1日||*70 |[[東芝|<small>東芝</small>]] |<small>INV002-A0</small> | 第三軌条地下鉄(自社線・[[大阪市営地下鉄]][[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]])<br />GTOサイリスタ素子、残存車はIGBTに交換 |- | rowspan="2" |<small>東大阪生駒電鉄→近畿日本鉄道</small>|| rowspan="2" |[[近鉄7000系電車|<small>7000系</small>]]|| rowspan="2" |1986年10月1日|| rowspan="2" |*54 |[[日立製作所|<small>日立</small>]] |<small>VF-HR-104 (A·B)</small>|| rowspan="2" |第三軌条地下鉄(近鉄東大阪線→けいはんな線・大阪市営地下鉄中央線専用)、GTOサイリスタ素子(奇数編成三菱、偶数編成日立)<br/>量産先行車4両は、近鉄子会社の東大阪生駒電鉄により1984年7月製造<br/>一部制御装置はIGBT素子(奇数編成はMAP-142-75VD339、偶数編成はVFI-HR2415J)に交換 |- |[[三菱電機|<small>三菱</small>]] |<small>SIV-V564-M-3/4<br/>MAP-144-75V03 (A·B)</small> |- |[[日本国有鉄道|<small>日本国有鉄道(国鉄)</small>]]||<small>[[国鉄207系電車|207系900番台]](廃系列)</small>|| rowspan="2" |直流1500V||1986年11月||*10 |<small>[[東芝]]・</small><small>[[東洋電機製造|東洋]]</small><small>・[[三菱電機|三菱]]・</small><small>[[富士電機|富士]]</small> |<small>SC20</small>||国鉄としては唯一VVVF。なお、JR化後に[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]が[[JR西日本207系電車|同名の系列]]を造っている(互換性は全くなく外見も全く異なる)ため、「廃形式」ではなく「廃区分番台」とされることもある。 |- |<small>阪急電鉄</small>||[[阪急7300系電車|<small>7300系</small>]] |1986年||1 |[[東洋電機製造|<small>東洋</small>]] |<small>RG614-C-M</small>||[[阪急京都本線|京都線]]用、形式内の一部(<nowiki>#</nowiki>7310)<br/>GTOサイリスタ素子、後に登場する8300系の初期3編成(RG619-A-M)と酷似した制御装置である。現在はリニューアルに伴い電装解除の末付随車化、IGBT素子(RG6021-B/B1-MとRG6026-A-M)に交換 |} 全車両がVVVF制御(車輌数に「*」が付いているもの)の形式には、両数に付随車を含む。一部車両がVVVF制御の形式には、両数に付随車を含まない。 === 利点 === * 従来の抵抗制御やチョッパ制御に比べて、エネルギー使用効率の向上([[省エネルギー]])が可能。一例として、JR東日本209系電車では、「[[国鉄103系電車|103系電車]]に比べ47%の消費電力」と喧伝されている。 * 回転数の制御が事実上無段階で可能であるため、加速・減速時の衝動を軽減できる。 * 従来の制御方式と比較して細やかなトルク制御が可能であり、粘着力の向上とそれによる動力軸数の減少、あるいは実効出力の高い交流電動機の使用と相まって[[起動加速度|加減速性能]]、更には[[鉄道の最高速度|高速性能]]の向上が可能である。 ** したがって、[[動力車|電動車]]と[[付随車]]の比率([[MT比]])を小さくできるため、電動車1両あたりの製造費用が若干上昇したとしても、編成全体では低価格化が可能である。 ** 電動車比率の低下は、点検作業の容易化にもつながる。 ** なお実用化初期の段階では変調の度に軽微なトルク変動が発生する事態が多かったため、粘着性能が[[電機子チョッパ制御]]より劣るという評価も見られた。実際にこの段階で製造された装置を使用している車両は、降雨時などに[[空転]]・[[滑走]]が起きやすい。 * 実際の回転数が目標回転数から外れた場合にはトルクが低下するという誘導電動機の特徴から、空転時の再粘着性にも優れる。 * 全体的な点検整備作業の軽減 ** 誘導電動機は直流電動機のような消耗品の[[ブラシ]]がないため、定期的なブラシの交換が不要。 ** 前述のようにMT比の低下による全体の点検整備作業の軽減。 ** [[非常ブレーキ]]使用時以外は、高速域から低速域までの減速を[[発電ブレーキ|電気ブレーキ]]・[[回生ブレーキ]]優先で行えるようになり、ブレーキパッド・ライニングの交換周期を大幅に延長でき、点検整備作業の費用が低減できる。 *** 三菱電機の技術では、回転磁界を逆転させることで停止寸前のブレーキ力を得ており、[[純電気ブレーキ]]という商品名で呼んでいる。 *** 日立製作所の技術では、電動機に直流電流を流すことで停止寸前のブレーキ力を得ており、全電気ブレーキという商品名で呼んでいる。 * またVVVFやVVCFでは、短時間であれば連続定格出力の150%といった過負荷での使用も可能であり、鉄道用主電動機のような間欠運転が前提の用途であれば、同サイズの電動機でさらなる大出力化が可能である。 === 欠点 === * VVVFインバータに限らず、多くのパワーエレクトロニクス機器の問題として、[[高調波]]による電磁[[ノイズ]]を発することが挙げられ、鉄道では[[自動列車制御装置|ATC]]等、微小な信号電流を扱う装置に影響を与える懸念がある。([[名古屋鉄道]]や[[都営地下鉄]][[都営地下鉄新宿線|新宿線]]においてVVVFインバータ搭載車の投入が遅れたのは[[誘導障害]]対策が大きな要因)。このため、実際の路線への導入に当たり、パワーエレクトロニクス機器の発するノイズが信号機器に悪影響を与えないよう、車両と信号機器を組み合わせて確認試験を実施し、問題のないことを確認している。特に[[JR]]や大手私鉄ではVVVFインバータの導入にあたって試作車を製造、または在来車を改造して試験車とするなどして、入念な試験が繰り返された。また発車時・停車時に発生する音が耳障り<ref>著しい大音量による騒音ではなく、環境音より高い周波数の音であることによる</ref> であることが挙げられる。詳細は[[誘導障害]]を参照のこと。 * VVVFインバータ装置搭載の車両に乗車しながら[[振幅変調|AMラジオ]]を聴取すると、ラジオにインバータ音そのままのノイズが盛大に入ることもある。 ** これを補償するため、運行地域のラジオ放送の電波を増幅して室内に発信するアンテナ装置を搭載した車輌が存在する。 ** [[1990年代]]以降に出た新型の[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]素子では、[[ゲートターンオフサイリスタ|GTO]]素子と比べて動作周波数が向上したため、この2つの問題を解決できた。その後はインバータの出力波形を調整することで、さらなる高周波ノイズの低減に努めている。 * VVVF制御では、インバータの設定とモーターを含めた従動側の応答性が一致していない場合、トルクの不安定化や発振による異音の発生などが起きることがあり、使いこなすために高い技術力を求められる。 * 数多くの半導体を使用しているため、装置の製造から年月が経つと交換部品の製造終了などで保守部品が手に入りにくくなる。このため経年劣化による動作不良などといった故障が目立つようになると、インバータ装置の全体または一部交換しなければいけなくなる。[[2004年]](平成16年)頃から初期のRCT素子やGTO素子を使用した装置がIGBT素子やMOSFET素子を使用した装置などへ更新される例が多くなっている。この場合は技術の進歩による利点も得られる。また、鉄道事業者と製造企業間において、保守部品が手に入りにくくなる事態を見越して最初から将来のインバータ装置交換も条項に入れた納入契約が結ばれる場合もある。また、[[阪神電気鉄道]]など、GTO素子が生産終了になる際に現車と同じ装置を購入し、予備部品確保を行う例もある。 === インバータの駆動音 === [[File:Keikyu-Type2100-73.jpg|210px|thumb|right|シーメンス製のインバータ制御装置を搭載していた[[京急2100形電車]]。]] [[File:E501系水カツK704編成.jpg|210px|thumb|right|シーメンス製のインバータ制御装置を搭載していた[[JR東日本E501系電車]]。]] VVVFインバータ制御車両最大の特徴ともいえる、発車時・停車時に発生する何度も高低が変化するような音([[磁励音]])は、パルスモードが変化しているために発生するものである。車両発進時には、「ピーー」というような音や「ビーー」や「キーーン」という音で起動するが、その後は自動車がトランスミッションで変速するときのエンジン音のような音がする。これらの音は主にモーターから発せられ、インバータ装置自体からも「ジーー」とモーター音に合わせてスイッチング音が聞こえる場合がある。 これらの音は多種多様であり、同じ製造企業・機種のインバータを搭載していても中のプログラムや設定が異なるとまったく違う音を立てる。[[ゲートターンオフサイリスタ|GTO]]では[[近畿日本鉄道|近鉄]]のほとんどのGTO-VVVFインバータ車<ref>三菱GTO車では1250系→1420系、[[近鉄1422系電車|1422系列]]、[[近鉄5200系電車|5200系]]、[[近鉄5800系電車|5800系]]、[[近鉄22000系電車|22000系「ACE」]]などが、日立GTO車では[[近鉄1220系電車|1220系列]]や[[近鉄6400系電車|6400系列]]などが該当。</ref>やJR東日本901系電車B編成(→209系910番台)、[[小田急1000形電車]](未リニューアル車)や[[新京成電鉄8800形電車]](機器更新前)などが、[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]では[[JR西日本223系電車#2000番台|JR西日本223系2000番台]]1次車の[[東芝]]製制御装置車や[[JR西日本223系電車#1000番台|223系1000番台]]体質改善車、また近鉄[[近鉄50000系電車|50000系「しまかぜ」]]や[[近鉄22600系電車|22600系「Ace」]]のようにプログラムの更新により音が以前と全く変わった[[車両]]も存在する。 GTO素子を使用したインバータでは[[発車]]時・[[停車]]時の音を耳障りと感じる人も多いが、IGBT[[半導体素子|素子]]では、スイッチング周波数を高くできるため、耳障りな音色を改善できるようになった。 なお[[シーメンス]]製のGTO素子を用いたインバータ制御装置([[SIBAS|SIBAS32]])を搭載した車両の一部では、音階のような音が主[[電動機]]とインバータ制御装置より発せられる<ref>シーメンス・ジャパン・レールシステムズの担当者によれば、一種の「遊び心」で、ソフトウエアにより周波数を段階的に引き上げる独自技術で音階をつけたという。([http://mainichi.jp/select/wadai/news/20111120mog00m040012000c.html 京急電鉄:「歌う電車」近く姿消す] 毎日jp、2011年11月20日、2011年11月20日閲覧。)</ref>。このことから、このタイプのインバータ制御装置を「ドレミファインバータ」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/report/2021/post_305.html|title=通称「ドレミファインバータ」は運行を終了しました|date=2021-07-21|publisher=京浜急行電鉄|accessdate=2021-12-21}}</ref>、搭載した車両を「歌う電車」と呼ぶことがある。日本では[[JR東日本E501系電車]]や[[京急2100形電車]]・[[京急1000形電車 (2代)|新1000形電車]]、日本国外では[[韓国鉄道8200形電気機関車]]などが実例となっている。 {{Multi-listen start}} {{Multi-listen item|filename=JRE209 0vvvf.ogg|title=JR東日本209系0番台|description= [[JR東日本209系電車#0番台|JR東日本209系0番台]]の発車・停止時の三菱製インバータの磁励音。|format=[[Ogg]]}} {{Multi-listen item|filename=JRW207_1000andJRW223_0vvvf.ogg |title=JR西日本223系0番台|description= [[JR西日本223系電車#0番台|JR西日本223系0番台]]の発車時の磁励音。[[JR西日本207系電車#1000番台|JR西日本207系1000番台]]などにも使われている東芝製GTOの音|format=[[Ogg]]}} {{Multi-listen item|filename=Sotetsu 8000 sound.ogg|title=相鉄8000系|description= [[相鉄8000系電車|相鉄8000系]]の発車・停止時の磁励音。日立製作所製GTOの音|format=[[Ogg]]}} {{Multi-listen item|filename=IC_A_002.ogg |title=東急9000系|description= [[東急9000系電車|東急9000系]]の発車・停止時の磁励音。GTO-VVVF黎明期に近い86年の日立製インバータ音|format=[[Ogg]]}} {{Multi-listen item|filename=Tkk2000.ogg |title=東急2000系|description= [[東急2000系電車|東急2000系]]の発車・停止時の磁励音。改良された92年日立製インバータの音|format=[[Ogg]]}} {{Multi-listen item|filename=IC_A_008.ogg |title=東急5000系|description= [[東急5000系電車|東急5000系]]の発車・停止時の磁励音。日立製作所のIGBTの音(初期)|format=[[Ogg]]}} {{Multi-listen item|filename=keikyu2100.ogg |title=京急2100形|description= [[京急2100形電車|京急2100形]]の発車・停止時の磁励音。シーメンス製の独特なGTOの音|format=[[Ogg]]}} {{Multi-listen item|filename=Keikyun1000.ogg|title=京急 新1000形|description= [[京急1000形電車 (2代)#製造時のバリエーション|京急 新1000形(1・2次車)]]の発車・停止時の磁励音。同社の2100形とは若干異なる音|format=[[Ogg]]}} {{Multi-listen item|filename=Tokyo Metropolitan Government Bureau of Transportation 5300 vvvf.ogg|title=都営地下鉄5300形|description= [[東京都交通局5300形電車|都営地下鉄5300形]]の発車・停止時の三菱製インバータ磁励音。|format=[[Ogg]]}} {{Multi-listen item|filename=Jrw321 toyo.ogg|title=JR西日本321系三菱・東洋インバータ車|description= [[JR西日本321系電車|JR西日本321系]]の発車・停止時の磁励音。三菱電機と東洋電機製造のものは共通設計。|format=[[Ogg]]}} {{Multi-listen end}} === 備考 === 現在、[[電車]]用の[[電源回路#交流入力交流出力電源(AC to AC)|直接形交流電力変換器]]は大電力の製品が[[実用]]化されていないため、[[交流電化]]区間に用いられる電車であっても、一旦直流に変換(整流)を行ってから、VVVFインバータを用いる制御(コンバータ・インバータ方式)を行う必要がある。小電力であれば「マトリクスコンバータ」などとして製品化されている。 == 主なメーカー == * [[三菱電機]] * [[日立製作所]] * [[東芝]] * [[東洋電機製造]] * [[富士電機]]([[富士電機機器制御]]) * [[安川電機]] * [[ボンバルディア]] * [[シーメンス]] * [[アルストム]] *[[アドトランツ]] * [[ABB]] * [[CAF (企業)|CAF]] * [[AEG]] * キーペ・エレクトリック * [[シュコダ・トランスポーテーション|シュコダ・エレクトリック]] *セゲレック * Holec * UTDC * [[フォイト]] * [[現代ロテム]] * [[中国中車株洲電力機車|株洲中車時代電気]] * [[宇進産電]] * [[タウォンシス]] 他 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * [[交友社]] 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1986年5月号「国鉄のVVVF車両開発」(園木武雄 国鉄車両設計課)pp.&nbsp;64 – 66 * [[電気車研究会]]『[[鉄道ピクトリアル]]』1986年8月号特集「インバータ制御電車」 * 東洋電機製造『東洋電機七十五年史』 * レールアンドテック出版『インバータ制御電車開発の物語』(鉄道車両用VVVFインバータ開発の歴史を残す会) * 日本鉄道サイバネティクス協議会『サイバネティクス』2006年1月号技術情報「創生期における日立のインバータ開発」(豊田瑛一・(株)日立製作所 水戸鉄道システム本部) == 関連項目 == * [[パワーエレクトロニクス]] * [[電源回路]] * [[チョッパ制御]] * [[サイリスタ位相制御]] * [[インバータ]]→インバータ一般 * [[VVVFインバータ制御]]→電圧-周波数比例モータ制御 * [[電気車の速度制御]] * [[三相交流]] * [[磁励音]] * [[赤い電車 (曲)]] - [[日本]]の[[ロックバンド]]、[[くるり]]のシングル。曲自体が[[電車]]をモチーフに作られており、曲中にVVVFの音が取り入れられている。 {{電動機}} {{DEFAULTSORT:かへんてんあつかへんしゆうはすうせいきよ}} [[Category:電動機]] [[Category:パワーエレクトロニクス]] [[Category:鉄道車両の制御方式]] [[Category:電力変換]] [[Category:オートメーション]]
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ASA
{{TOCright}} '''ASA''' == 団体 == * [[アメリカ自閉症協会]] ({{en|Autism Society of America}}) * [[広告基準局]] ({{interlang|en|Advertising Standards Authority (United Kingdom)|Advertising Standards Authority}}) - 広告内容の公正さと正確さを監視するイギリスの広告基準審査機関。 * [[アメリカ標準規格|アメリカ規格協会]]({{en|American Standards Association}}) - かつて存在した[[アメリカ合衆国]]の工業標準化組織。写真フィルムの感度を表す「ASA感度」で広く知られる。1969年に[[米国国家規格協会]](ANSI、{{en|American National Standards Institute}})に改組された。 * [[東南アジア連合]] ({{en|Association of Southeast Asia}}) - [[ASEAN]]の原型となった国際組織。 * [[アメリカ陸軍機密保全庁]]({{en|United States Army Security Agency}}) - [[アメリカ陸軍]]の[[諜報機関]]。[[1977年]]に[[アメリカ陸軍情報保全コマンド]]に統合された。 * [[芸術研究協会]] ({{en|Association for Study of Arts}}) - [[新国誠一]]、[[藤富保男]]らによる[[コンクリート・ポエトリー]]のグループ、およびその[[機関紙]]。 === 学会 === * [[アメリカ統計学会]]({{en|American Statistical Association}}) * [[アメリカ麻酔科学会]]({{interlang|en|American Society of Anesthesiologists}}) - 全身状態の基準である[[ASA-PS]]を定める。 * [[アメリカ社会学会]] ({{interlang|en|American Sociological Association}}) === サッカークラブ === * [[ASAアラピラカ]]({{interlang|en|Agremiação Sportiva Arapiraquense}}) - [[ブラジル]]のサッカークラブ。 * [[ASアビアソン]] ({{interlang|en|Atlético Sport Aviação}}) - [[アンゴラ]]のサッカークラブ。 === 自動車 === * [[ASA (自動車)|ASA]] ({{interlang|en|ASA (automobile)|Autocostruzioni Società per Azioni}}) - [[イタリア]]のスポーツカー。 == 企業 == * [[アラスカ航空]]の[[ICAO航空会社コード]]。 * [[アトランティック・サウスイースト航空]]({{interlang|en|Atlantic Southeast Airlines}}) * [[朝日新聞サービスアンカー]]({{en|Asahi‐Shimbun Service Anchor}}) - [[朝日新聞]]の[[新聞販売店]]。 * [[浅沼商会]]({{en|Asanuma‐Shoukai}}) - 同社の[[ロゴマーク]]に使用されている。 == 地名 == * [[アメリカ領サモア]]の[[IOCコード]]、[[FIFAコード]]。 * [[アッサブ]]の[[IATA都市コード]]。 ** [[アッサブ国際空港]]の[[IATA空港コード]]。 == 人名 == * [[アサ (ユダ王)]] - [[ユダ王国]]の第3代の王。 * [[アシャ]] ({{interlang|en|Aṣa}}) - ナイジェリア系フランス人の女性ソウル・シンガー。1982年生まれ。2007年デビュー。 * [[ASA-CHANG]] - 日本人男性[[パーカッショニスト]]。[[東京スカパラダイスオーケストラ]]の創設者にして、元[[パーカッション]]担当、元[[バンドマスター]]。同バンドの脱退後は[[ASA-CHANG&巡礼]]のリーダーとして、またパーカッショニスト、[[ドラマー]]、[[音楽プロデューサー]]などとして活動している。 == その他 == * [[Cisco ASA]] - [[システムズ]]製のファイアウォール。 * [[原子球近似]]({{en|atomic sphere approximation}}) - 扱う対象が非常に稠密な場合(周りに配位する[[原子]]が多いこと)に有効な近似。 * [[反ソ連扇動行為]]({{interlang|en|Anti-Soviet agitation}}) - [[ヨシフ・スターリン|スターリン]]時代の[[ソビエト連邦]]での思想犯罪。 * [[ASA (雑誌)]] - [[徳島県]]の女性向けタウン情報誌。同じく徳島のタウン誌『[[あわわfree|あわわ]]』の姉妹誌。 * [[航空協定]]({{en|air services agreement}}) * [[アクリロニトリル-スチレン-アクリレート樹脂]](Acrylonitrile-Styrene-Acrylate resin) *{{仮リンク|アルケニル無水コハク酸|en|Alkenylsuccinic anhydrides}} (Alkenylsuccinic anhydrides) ==関連項目== *{{prefix}} *{{intitle}} *[[アサ (曖昧さ回避)]] {{aimai}}
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Pulay補正
Pulay 補正(英: Pulay correction)はバンド計算における波動関数の補正で、以下の3つがある。
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Pulay 補正はバンド計算における波動関数の補正で、以下の3つがある。 基底が、原子の位置に依存しかつ完全系でない場合、力の計算に関して、Pulay 補正が生じる。この場合、平面波基底は原子の位置に依存しないので、Pulay 補正は生じない。 基底が完全系でない場合、Pulay 補正が生じる。APW法やLMTO法などでは、基底がオーバーコンプリートになっているので補正が必要。また、基底の数が十分でないことからも補正が必要。この場合は、平面波基底でも基底の数が少ない(エネルギーカットオフが小さ過ぎる)と問題となり得る。 バンド計算における、セルフコンシステントな計算が十分収束していない場合にも、Pulay 補正の問題が出てくる。これは、収束していないことにより、入力の電荷密度と出力の電荷密度が一致しないことによる。
{{複数の問題 | 脚注の不足 = 2021年10月12日 (火) 11:43 (UTC) | Wikify = 2021年10月12日 (火) 11:43 (UTC) }} '''Pulay 補正'''({{lang-en-short|Pulay correction}})は[[バンド計算]]における[[波動関数]]の補正で、以下の3つがある。 #[[基底]]が、[[原子]]の位置に依存しかつ[[完全系]]でない場合、[[力 (物理学)|力]]の計算に関して、Pulay 補正が生じる。この場合、[[平面波]]基底は原子の位置に依存しないので、Pulay 補正は生じない。 #基底が完全系でない場合、Pulay 補正が生じる。[[APW法]]や[[LMTO法]]などでは、基底が[[オーバーコンプリート]]になっているので補正が必要。また、基底の数が十分でないことからも補正が必要。この場合は、[[平面波基底]]でも基底の数が少ない([[エネルギーカットオフ]]が小さ過ぎる)と問題となり得る。 #バンド計算における、[[セルフコンシステント]]な計算が十分収束していない場合にも、Pulay 補正の問題が出てくる。これは、収束していないことにより、入力の[[電荷密度]]と出力の電荷密度が一致しないことによる。 == 参考文献 == *{{cite journal|author=P. Pulay|journal=[[:en:Molecular Physics (journal)|Mol. Phys.]] |volume=17|year=1969|pages=197|ref=Pulay1969}} *{{cite journal|author=P. Pulay|journal=Mol. Phys. |volume=18|year=1970|pages=473|ref=Pulay1970}} *{{cite journal|author=P. Pulay|journal=Mol. Phys. |volume=21|year=1971|pages=329|ref=Pulay1971}} *{{cite journal|author=C. Satoko|journal=Phys. Rev. B |volume=30|year=1984|pages=1754|ref=Satoko}} *{{cite book|和書|title=計算物理の方法|series=岩波講座応用数学|author=寺倉清之|ref=Terakura}} 第2章「[[物質設計]]の数理」、2.4(a) Hellmann-Feynman 力の節。 == 関連項目 == *[[バンド計算]] *[[第一原理バンド計算]] {{DEFAULTSORT:ふれいほせい}} [[Category:バンド計算]]
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趣味
趣味(しゅみ)は、以下の3つの意味を持つ。 職業(プロフェッショナル)として成立している範囲の事柄を趣味(ホビー)でおこなう人は、アマチュアと呼ばれる。 英語のネイティブ・スピーカーの感覚では、"hobby"とは切手などのコレクションや園芸・美術などの活動を継続するような「向上心をもちながら、ひとりで長期にわたって打ち込んできた活動」というニュアンスがあり、自分が好きで習慣的に繰り返しおこなう行為、事柄として日本人が「趣味」としてあげる「読書」「映画鑑賞」「スポーツ」などは"hobby"に含まれない。 美学の文脈で「趣味」という場合、対応する英語は "hobby" ではなく "taste" である。 趣味者(英:hobbyist)とは、長きにわたり熱中度が高い趣味活動をする者に言われることが多い。特に鉄道趣味者や共産趣味者が趣味者と呼ばれることが多く、単に趣味者(英:The Hobbyist)と言われるといずれかの確率が高い。 趣味が多い人では、全循環器疾患(虚血性心疾患・脳卒中)の発症リスクが低い。
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趣味(しゅみ)は、以下の3つの意味を持つ。 人間が自由時間に、好んで習慣的に繰り返しおこなう行為、事柄やその対象のこと。 物の持つ味わい・おもむきを指し、それを観賞しうる能力をもさす。調度品など品物を選定する場合の美意識や審美眼などに対して「趣味がよい / わるい」などと評価する時の趣味はこちらの意味である。→#美学用語の「趣味」 人間が熱中している、または詳しいカテゴリーのこと。
{{独自研究|date=2013年5月24日 (金) 19:03 (UTC)}} {{Redirect|ホビー|アメリカ海軍駆逐艦|ホビー (DD-610)}} '''趣味'''(しゅみ)は、以下の3つの意味を持つ。 # [[人間]]が自由時間に、好んで習慣的に繰り返しおこなう行為、事柄やその対象のこと。 # 物の持つ味わい・おもむきを指し、それを観賞しうる能力をもさす。[[調度品]]など[[品物]]を選定する場合の美意識や審美眼などに対して「趣味がよい / わるい」などと評価する時の趣味はこちらの意味である。→[[#美学用語の「趣味」]] #[[人間]]が熱中している、または詳しいカテゴリーのこと。 == アマチュア == 職業([[プロフェッショナル]])として成立している範囲の事柄を趣味(ホビー)でおこなう人は、[[アマチュア]]と呼ばれる。 {{main|アマチュア}} == 英語のhobbyとの違い == 英語の[[母語|ネイティブ・スピーカー]]の感覚では、"[[wikt:hobby|hobby]]"とは切手などの[[コレクション]]や園芸・美術などの活動を継続するような「向上心をもちながら、ひとりで長期にわたって打ち込んできた活動」というニュアンスがあり、自分が好きで習慣的に繰り返しおこなう行為、事柄として日本人が「趣味」としてあげる「読書」「映画鑑賞」「スポーツ」などは"hobby"に含まれない<ref>{{Cite book|和書|title=日本人の9割が知らない英語の常識181|year=2018|author=Kathryn A. Craft|translator=里中哲彦|publisher=筑摩書房|series=ちくま新書|page=24|isbn=9784480071330}}</ref>。 == 美学用語の「趣味」 == [[美学]]の文脈で「趣味」という場合、対応する英語は "hobby" ではなく "[[wikt:taste|taste]]" である<ref>{{Cite web|和書|url=https://artscape.jp/artword/index.php/趣味|title=趣味 {{!}} 現代美術用語辞典ver.2.0|accessdate=2020-10-03|publisher=[[大日本印刷]]}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=好古趣味の歴史: 江戸東京からたどる|date=|year=2020|publisher=文学通信|author=多田蔵人|chapter=「趣味」(Taste)とは何か─近代の「[[好古家|好古]]」|isbn=978-4909658296}}</ref>。 {{main|en:Taste (sociology)|判断力批判}} == 趣味者 == 趣味者(英:hobbyist)とは、長きにわたり熱中度が高い趣味活動をする者に言われることが多い。特に[[鉄道ファン|鉄道趣味者]]や[[共産趣味|共産趣味者]]が趣味者と呼ばれることが多く、単に趣味者(英:The Hobbyist)と言われるといずれかの確率が高い。 == 健康影響 == 趣味が多い人では、全[[循環器疾患]]([[虚血性心疾患]]・[[脳卒中]])の発症リスクが低い<ref>[https://epi.ncc.go.jp/jphc/outcome/8902.html 趣味と循環器疾患発症リスクとの関連]、JPHC Study 多目的コホート研究、 独立行政法人国立がん研究センター</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[オタク]] * [[マニア]] * [[コレクション]] * [[数寄者]] * [[道楽]] * [[嗜み]] * [[共産趣味]] {{Culture-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しゆみ}} [[Category:趣味|*]] [[Category:娯楽]]
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2,819
株式公開
株式公開(かぶしきこうかい)とは、株式会社が自社の発行する株式を自由に譲渡できるようにすること。会社関係者など制限的に所有されていた株式の一部を新たな出資者に譲渡できるようにすることなどをいう。 株式を企業の外部から募った新たな出資者に譲渡することができ、株主が不特定多数かつ広範囲に分布する株式会社を一般に公開会社(Publicly held corporation)という。会社関係者のみの間で制限的に所有されていた株式を自由に譲渡できるようにすることを株式の公開といい、その株式の所有者は譲受希望者との相対取引によって株式の譲渡を実現することができる。しかし、複雑化した現代社会では取引コストの点から一般人による相対取引はほとんど行われておらず公開市場(open market)で取引されることが多い。株式などが取引所の設けた市場において売買取引の対象となることを上場という。 大規模な株式会社では証券取引所での取引などを通じて自社が発行した株式が自由に譲渡できることが多い。一方、小規模な株式会社では自社が発行している株式は創業時の出資者やその関係者など限られた者のみが所有しており、定款などで株式を自由に譲渡できないようになっていることが多い。 公開会社ではない会社の規律については、日本の会社法のように併せて定められている場合(公開会社でない株式会社を参照)と、アメリカの一部の州法のように特別法が置かれている場合がある。 日本の会社法では公開会社は「その発行する全部又は一部の株式の内容として譲渡による当該株式の取得について株式会社の承認を要する旨の定款の定めを設けていない株式会社をいう。」と定義されている(会社法第2条第5号)。 長く非公開だった大塚ホールディングス・大塚製薬や出光興産、コーセーなども株式公開し、ある程度知名度のある大企業で非公開会社はサントリーHDや竹中工務店、ヤンマーHD、矢崎総業などごく限られた存在になった。結果的に、放送局を除けばメディア系企業に非公開会社が多い。いわゆる大手出版社のうちKADOKAWAグループ以外はすべて非公開である。 なお諸法令により、放送・通信事業者の一部、証券市場開設者と航空会社には、外国人の出資比率が一定以下に制限(外資規制)されている企業がある(NTT=NTT法・電気通信事業法、スカパーJSATホールディングス・各テレビ局および放送持株会社=電波法・放送法、日本取引所グループ・東京証券取引所・大阪取引所=金融商品取引法、ANA・日本航空=航空法)。また、日刊新聞を発行する会社は、公開会社となることができない(日刊新聞法)。 米国法では公開会社は一般的に自社の株式を異なる投資家によって広く保有されている株式会社をいい、連邦証券取引委員会等の規定により一定の開示義務が適用される会社をいう。 新規株式公開あるいは単に株式公開(英: Initial Public Offering、通称IPO)とは、自由な株式譲渡が制限され少数株主に限定されている株式を株式市場に上場して株式市場での売買を可能にすることをいう。 その方法には新株を発行して株式市場から新規に資金調達する公募増資や、既存株主の保有株式を市場に放出する売出しがある。 IPO銘柄は、証券会社で抽選に申し込み、当選した人だけが購入できる。 株式公開には次のような目的がある。 株式の公開によって会社の資産価値は株価の市場価格で客観的に把握できるようになる。公開会社では企業活動の動静が報道される機会も多くなり、金融機関の与信態度にも変化を生じるなど企業の知名度や信用度が向上し、有用な人材の確保にも資すると言われている。ただし、これらは副次的な経済的効果として現れるものである。 株を保有している経営陣が創業者利得を得ることが目的のように見える上場など、本来の目的とは違ったように思われる上場のことを「上場ゴール」と呼ぶことがある。 株式の公開により、会社は証券市場からの多様かつ機動的な資金調達が可能になる。既存株主にとっても株式の市場売却によって投下資本の回収が容易になるなどの利点がある。また、企業の知名度の向上や相対的な社会的信用度の増大が図られ、事業の展開の円滑化や、優秀な人材の確保がしやすくなるなど副次的な利点もある。一方、株主にとっては、市場での売却が可能になり、投下した資本の回収がしやすくなるというメリットがある。 株式を公開した場合には市場の厳しい評価にさらされ、投資家への説明責任を求められることになる。これには事業の改革を通じた競争力の強化や企業の社会的責任(CSR)などへの積極的な取り組みにつながるなどのメリットがあるとも考えられている。一方で企業活動に関する情報の完全・正確・公正な開示が求められるようになるが、企業側が保持しておきたい企業秘密(トレードシークレット)と相容れなくなるような側面もある。 また、株式を公開した場合には特定の個人やライバル企業が市場を通して株式を買い占めることも可能となるため従来の経営陣の地位も脅かされる可能性がある。株式の公開により会社の所有と経営の分離は一層強くなり経営支配権を奪取されるおそれが生じる。同族企業の多くは一部を除き株式を公開していない。 新規公開企業については財務諸表や株主構成の確認に十分な留意が必要であることや、過去に売買されていた他社銘柄と比較して時系列のデータ及び株価などの指数情報が不足していることから、同業他社と比較して公募価格が低く設定されることが一般的であり、上場後一定期間を経て同業他社並みの評価を得るようになる傾向が見られる。こうした株価形成のあり方をIPOディスカウントと称し、不透明な情報に関するリスクを株価に織り込むマーケットメカニズムの一端といえる。IPOディスカウントは一般的に主幹事がリテール向けサービスの一環として割安な価格で配分する狙いがある。このディスカウントの影響から、個人投資家をはじめとする一般投資家の間では、IPO銘柄を投資における「プラチナチケット」とする見解もある。 その一方で、企業価値が適正に評価されていなかったり、主幹事となる証券会社が合理的な根拠に基づかずに公募価格を低く設定しているとの批判もあり、公正取引委員会は「独占禁止法上問題となるおそれがある」との調査報告書を2022年1月に公表している。 新規公開企業については財務諸表や株主構成の確認に十分な留意が必要であることや、時系列のデータ及び株価などの指数情報が不足していることから、公募価格が設定されてなお株価が割高であったり、とても合理的と言えない初値が付くことがしばしばあり、上場後一定期間を経て財務諸表に見合った評価を得るようになる傾向が見られる。 上場は取引所で売買対象となることであり、上場を廃止して取引所の売買対象から除外されても、その会社の株式等の売買が一切できなくなるわけではない。非上場となった株式会社が株式の譲渡そのものを制限するためには定款変更といった一定の手続が必要になる。 一方、上場会社が定款変更により株式の譲渡につき制限を行うこととした場合には、不特定多数による市場での売買とは相容れないこととなるため上場規程等で原則として上場廃止の対象とされている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "株式公開(かぶしきこうかい)とは、株式会社が自社の発行する株式を自由に譲渡できるようにすること。会社関係者など制限的に所有されていた株式の一部を新たな出資者に譲渡できるようにすることなどをいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "株式を企業の外部から募った新たな出資者に譲渡することができ、株主が不特定多数かつ広範囲に分布する株式会社を一般に公開会社(Publicly held corporation)という。会社関係者のみの間で制限的に所有されていた株式を自由に譲渡できるようにすることを株式の公開といい、その株式の所有者は譲受希望者との相対取引によって株式の譲渡を実現することができる。しかし、複雑化した現代社会では取引コストの点から一般人による相対取引はほとんど行われておらず公開市場(open market)で取引されることが多い。株式などが取引所の設けた市場において売買取引の対象となることを上場という。", "title": "会社の形態と株式の公開" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大規模な株式会社では証券取引所での取引などを通じて自社が発行した株式が自由に譲渡できることが多い。一方、小規模な株式会社では自社が発行している株式は創業時の出資者やその関係者など限られた者のみが所有しており、定款などで株式を自由に譲渡できないようになっていることが多い。", "title": "会社の形態と株式の公開" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "公開会社ではない会社の規律については、日本の会社法のように併せて定められている場合(公開会社でない株式会社を参照)と、アメリカの一部の州法のように特別法が置かれている場合がある。", "title": "会社の形態と株式の公開" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本の会社法では公開会社は「その発行する全部又は一部の株式の内容として譲渡による当該株式の取得について株式会社の承認を要する旨の定款の定めを設けていない株式会社をいう。」と定義されている(会社法第2条第5号)。", "title": "会社の形態と株式の公開" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "長く非公開だった大塚ホールディングス・大塚製薬や出光興産、コーセーなども株式公開し、ある程度知名度のある大企業で非公開会社はサントリーHDや竹中工務店、ヤンマーHD、矢崎総業などごく限られた存在になった。結果的に、放送局を除けばメディア系企業に非公開会社が多い。いわゆる大手出版社のうちKADOKAWAグループ以外はすべて非公開である。", "title": "会社の形態と株式の公開" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なお諸法令により、放送・通信事業者の一部、証券市場開設者と航空会社には、外国人の出資比率が一定以下に制限(外資規制)されている企業がある(NTT=NTT法・電気通信事業法、スカパーJSATホールディングス・各テレビ局および放送持株会社=電波法・放送法、日本取引所グループ・東京証券取引所・大阪取引所=金融商品取引法、ANA・日本航空=航空法)。また、日刊新聞を発行する会社は、公開会社となることができない(日刊新聞法)。", "title": "会社の形態と株式の公開" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "米国法では公開会社は一般的に自社の株式を異なる投資家によって広く保有されている株式会社をいい、連邦証券取引委員会等の規定により一定の開示義務が適用される会社をいう。", "title": "会社の形態と株式の公開" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "新規株式公開あるいは単に株式公開(英: Initial Public Offering、通称IPO)とは、自由な株式譲渡が制限され少数株主に限定されている株式を株式市場に上場して株式市場での売買を可能にすることをいう。", "title": "新規株式公開(IPO)" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "その方法には新株を発行して株式市場から新規に資金調達する公募増資や、既存株主の保有株式を市場に放出する売出しがある。", "title": "新規株式公開(IPO)" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "IPO銘柄は、証券会社で抽選に申し込み、当選した人だけが購入できる。", "title": "新規株式公開(IPO)" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "株式公開には次のような目的がある。", "title": "新規株式公開(IPO)" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "株式の公開によって会社の資産価値は株価の市場価格で客観的に把握できるようになる。公開会社では企業活動の動静が報道される機会も多くなり、金融機関の与信態度にも変化を生じるなど企業の知名度や信用度が向上し、有用な人材の確保にも資すると言われている。ただし、これらは副次的な経済的効果として現れるものである。", "title": "新規株式公開(IPO)" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "株を保有している経営陣が創業者利得を得ることが目的のように見える上場など、本来の目的とは違ったように思われる上場のことを「上場ゴール」と呼ぶことがある。", "title": "新規株式公開(IPO)" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "株式の公開により、会社は証券市場からの多様かつ機動的な資金調達が可能になる。既存株主にとっても株式の市場売却によって投下資本の回収が容易になるなどの利点がある。また、企業の知名度の向上や相対的な社会的信用度の増大が図られ、事業の展開の円滑化や、優秀な人材の確保がしやすくなるなど副次的な利点もある。一方、株主にとっては、市場での売却が可能になり、投下した資本の回収がしやすくなるというメリットがある。", "title": "新規株式公開(IPO)" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "株式を公開した場合には市場の厳しい評価にさらされ、投資家への説明責任を求められることになる。これには事業の改革を通じた競争力の強化や企業の社会的責任(CSR)などへの積極的な取り組みにつながるなどのメリットがあるとも考えられている。一方で企業活動に関する情報の完全・正確・公正な開示が求められるようになるが、企業側が保持しておきたい企業秘密(トレードシークレット)と相容れなくなるような側面もある。", "title": "新規株式公開(IPO)" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "また、株式を公開した場合には特定の個人やライバル企業が市場を通して株式を買い占めることも可能となるため従来の経営陣の地位も脅かされる可能性がある。株式の公開により会社の所有と経営の分離は一層強くなり経営支配権を奪取されるおそれが生じる。同族企業の多くは一部を除き株式を公開していない。", "title": "新規株式公開(IPO)" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "新規公開企業については財務諸表や株主構成の確認に十分な留意が必要であることや、過去に売買されていた他社銘柄と比較して時系列のデータ及び株価などの指数情報が不足していることから、同業他社と比較して公募価格が低く設定されることが一般的であり、上場後一定期間を経て同業他社並みの評価を得るようになる傾向が見られる。こうした株価形成のあり方をIPOディスカウントと称し、不透明な情報に関するリスクを株価に織り込むマーケットメカニズムの一端といえる。IPOディスカウントは一般的に主幹事がリテール向けサービスの一環として割安な価格で配分する狙いがある。このディスカウントの影響から、個人投資家をはじめとする一般投資家の間では、IPO銘柄を投資における「プラチナチケット」とする見解もある。", "title": "新規株式公開(IPO)" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "その一方で、企業価値が適正に評価されていなかったり、主幹事となる証券会社が合理的な根拠に基づかずに公募価格を低く設定しているとの批判もあり、公正取引委員会は「独占禁止法上問題となるおそれがある」との調査報告書を2022年1月に公表している。", "title": "新規株式公開(IPO)" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "新規公開企業については財務諸表や株主構成の確認に十分な留意が必要であることや、時系列のデータ及び株価などの指数情報が不足していることから、公募価格が設定されてなお株価が割高であったり、とても合理的と言えない初値が付くことがしばしばあり、上場後一定期間を経て財務諸表に見合った評価を得るようになる傾向が見られる。", "title": "新規株式公開(IPO)" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "", "title": "新規株式公開(IPO)" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "上場は取引所で売買対象となることであり、上場を廃止して取引所の売買対象から除外されても、その会社の株式等の売買が一切できなくなるわけではない。非上場となった株式会社が株式の譲渡そのものを制限するためには定款変更といった一定の手続が必要になる。", "title": "株式の非公開化" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "一方、上場会社が定款変更により株式の譲渡につき制限を行うこととした場合には、不特定多数による市場での売買とは相容れないこととなるため上場規程等で原則として上場廃止の対象とされている。", "title": "株式の非公開化" } ]
株式公開(かぶしきこうかい)とは、株式会社が自社の発行する株式を自由に譲渡できるようにすること。会社関係者など制限的に所有されていた株式の一部を新たな出資者に譲渡できるようにすることなどをいう。
'''株式公開'''(かぶしきこうかい)とは、[[株式会社]]が自社の発行する[[株式]]を自由に譲渡できるようにすること。会社関係者など制限的に所有されていた株式の一部を新たな出資者に譲渡できるようにすることなどをいう<ref name="sugie69" />。 == 会社の形態と株式の公開 == 株式を企業の外部から募った新たな出資者に譲渡することができ、株主が不特定多数かつ広範囲に分布する株式会社を一般に[[公開会社]](Publicly held corporation)という<ref name="sugie69" />。会社関係者のみの間で制限的に所有されていた株式を自由に譲渡できるようにすることを株式の公開といい<ref name="sugie69" />、その株式の所有者は譲受希望者との相対取引によって株式の譲渡を実現することができる<ref name="sugie79">杉江雅彦ほか『証券論25講』晃洋書房、1989年、79頁</ref>。しかし、複雑化した現代社会では取引コストの点から一般人による相対取引はほとんど行われておらず公開市場(open market)で取引されることが多い<ref name="sugie79" />。株式などが取引所の設けた市場において売買取引の対象となることを'''[[上場]]'''という<ref>杉江雅彦ほか『証券論25講』晃洋書房、1989年、82頁</ref>。 大規模な株式会社では[[証券取引所]]での取引などを通じて自社が発行した株式が自由に譲渡できることが多い<ref name="sugie69">杉江雅彦ほか『証券論25講』晃洋書房、1989年、69頁</ref>。一方、小規模な株式会社では自社が発行している株式は創業時の出資者やその関係者など限られた者のみが所有しており、定款などで株式を自由に譲渡できないようになっていることが多い<ref name="sugie69" />。 公開会社ではない会社の規律については、日本の[[会社法]]のように併せて定められている場合([[公開会社でない株式会社]]を参照)と、アメリカの一部の州法のように特別法が置かれている場合がある<ref>ロバート・W・ハミルトン『アメリカ会社法』木鐸社、1999年、242頁</ref>。 === 日本 === 日本の会社法では公開会社は「その発行する全部又は一部の株式の内容として譲渡による当該株式の取得について株式会社の承認を要する旨の定款の定めを設けていない株式会社をいう。」と定義されている(会社法第2条第5号)。 長く非公開だった[[大塚ホールディングス]]・[[大塚製薬]]や[[出光興産]]、[[コーセー]]なども株式公開し、ある程度知名度のある大企業で非公開会社は[[サントリー|サントリーHD]]や[[竹中工務店]]、[[ヤンマー|ヤンマーHD]]、[[矢崎総業]]などごく限られた存在になった。結果的に、放送局を除けばメディア系企業に非公開会社が多い。いわゆる大手出版社のうち[[角川グループホールディングス|KADOKAWAグループ]]以外はすべて非公開である。{{see also|サントリー#非上場企業|ヤンマー#概要}} なお諸法令により、放送・通信事業者の一部、証券市場開設者と航空会社には、[[外国人]]の出資比率が一定以下に制限([[外資規制]])されている企業がある([[日本電信電話|NTT]]=[[日本電信電話株式会社等に関する法律|NTT法]]・[[電気通信事業法]]、[[スカパーJSATホールディングス]]・[[日本のテレビジョン放送局|各テレビ局]]および[[放送持株会社]]=[[電波法]]・[[放送法]]、[[日本取引所グループ]]・[[東京証券取引所]]・[[大阪取引所]]=[[金融商品取引法]]、[[ANAホールディングス|ANA]]・[[日本航空]]=[[航空法]])。また、[[日刊新聞]]を発行する会社は、公開会社となることができない([[日刊新聞紙の発行を目的とする株式会社の株式の譲渡の制限等に関する法律|日刊新聞法]])。 === アメリカ合衆国 === 米国法では公開会社は一般的に自社の株式を異なる投資家によって広く保有されている株式会社をいい、連邦証券取引委員会等の規定により一定の開示義務が適用される会社をいう<ref>ロバート・W・ハミルトン『アメリカ会社法』木鐸社、1999年、262-263頁</ref>。 == 新規株式公開(IPO) == 新規株式公開あるいは単に株式公開({{Lang-en-short|Initial Public Offering}}、通称IPO<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20211216-ATUOLDBSPRLRZF4MZWYTZNA7XA/|title=日本のホテル、「脱インバウンド」で再生なるか|publisher=産経ニュース|date=2021-12-16|accessdate=2021-12-16}}</ref>)とは、自由な株式譲渡が制限され少数株主に限定されている株式を株式市場に上場して株式市場での売買を可能にすることをいう<ref name="nomura">{{Cite web|和書|url=https://www.nomura.co.jp/terms/english/i/A02102.html|title=証券用語解説集 IPO |publisher=[[野村證券]] |accessdate=2018-09-19}}</ref><ref name="jpx">{{Cite web|和書|url=https://www.jpx.co.jp/glossary/ka/77.html|title=株式公開(IPO)(かぶしきこうかい) |publisher=日本取引所グループ|accessdate=2018-09-19}}</ref>。 その方法には新株を発行して株式市場から新規に資金調達する公募増資や、既存株主の保有株式を市場に放出する売出しがある<ref name="nomura" /><ref name="jpx" />。 IPO銘柄は、証券会社で抽選に申し込み、当選した人だけが購入できる<ref>{{Cite web|和書|url=https://navinavi-shoken.com/articles/ipo|title=IPOとは?買い方・デメリットなど【読むだけでIPO株がまるっと分かる】|accessdate=2020年8月24日|publisher=}}</ref>。 === 株式の公開の目的 === 株式公開には次のような目的がある。 *低廉な長期安定性資金の調達 *: 公開会社でない会社では資金を調達するのに自己資金か金融機関からの借り入れなどによるほかない<ref name="sugie70">杉江雅彦ほか『証券論25講』晃洋書房、1989年、70頁</ref>。しかし、公開会社では株式市場からの資金調達が可能となる<ref name="sugie70" />。 *創業者利得 *: ヒルファーディングの研究によると株式が公開され流通市場で自由に譲渡されるようになると、擬制資本価格が形成され、創業時の投下資本額と乖離が生じるようになる<ref name="sugie70" />。擬制資本価格が投下貨幣資本額を超過して形成された部分を創業者利得という<ref name="sugie70" />。株式の公開には形成された創業者利得を確保する狙いもある<ref name="sugie70" />。 株式の公開によって会社の資産価値は株価の市場価格で客観的に把握できるようになる<ref name="sugie70" />。公開会社では企業活動の動静が報道される機会も多くなり、金融機関の与信態度にも変化を生じるなど企業の知名度や信用度が向上し、有用な人材の確保にも資すると言われている<ref name="sugie71">杉江雅彦ほか『証券論25講』晃洋書房、1989年、71頁</ref>。ただし、これらは副次的な経済的効果として現れるものである<ref name="sugie71" />。 株を保有している経営陣が創業者利得を得ることが目的のように見える上場など、本来の目的とは違ったように思われる上場のことを「上場ゴール」と呼ぶことがある<ref>[http://diamond.jp/articles/-/81674 最近目立つ「上場ゴール」IPOは投資家を舐めている]</ref>。 === 公開のメリットとデメリット === 株式の公開により、会社は[[証券市場]]からの多様かつ機動的な資金調達が可能になる<ref name="nomura" /><ref name="jpx" />。既存株主にとっても株式の市場売却によって投下資本の回収が容易になるなどの利点がある。また、企業の知名度の向上や相対的な社会的信用度の増大が図られ、事業の展開の円滑化や、優秀な人材の確保がしやすくなるなど副次的な利点もある<ref name="nomura" /><ref name="jpx" />。一方、株主にとっては、市場での売却が可能になり、投下した資本の回収がしやすくなるというメリットがある。 株式を公開した場合には市場の厳しい評価にさらされ、投資家への説明責任を求められることになる。これには事業の改革を通じた競争力の強化や[[企業の社会的責任|企業の社会的責任(CSR)]]などへの積極的な取り組みにつながるなどのメリットがあるとも考えられている。一方で企業活動に関する情報の完全・正確・公正な開示が求められるようになるが、企業側が保持しておきたい[[企業秘密]]([[トレードシークレット]])と相容れなくなるような側面もある<ref name="sugie71" />。 また、株式を公開した場合には特定の個人やライバル企業が市場を通して株式を買い占めることも可能となるため従来の経営陣の地位も脅かされる可能性がある<ref name="sugie71" />。株式の公開により会社の[[所有と経営の分離]]は一層強くなり経営支配権を奪取されるおそれが生じる<ref name="sugie71" />。[[同族企業]]の多くは一部を除き株式を公開していない。 === IPOディスカウント === 新規公開企業については財務諸表や株主構成の確認に十分な留意が必要であることや、過去に売買されていた他社銘柄と比較して時系列のデータ及び株価などの指数情報が不足していることから、同業他社と比較して公募価格が低く設定されることが一般的であり、上場後一定期間を経て同業他社並みの評価を得るようになる傾向が見られる。こうした株価形成のあり方をIPOディスカウントと称し、不透明な情報に関するリスクを株価に織り込むマーケットメカニズムの一端といえる。IPOディスカウントは一般的に主幹事がリテール向けサービスの一環として割安な価格で配分する狙いがある。このディスカウントの影響から、[[個人投資家]]をはじめとする[[一般投資家]]の間では、IPO銘柄を投資における「プラチナチケット」とする見解もある<ref>[https://zuuonline.com/archives/134660 株初心者のIPO投資「高確率で勝つ」ための4つポイント]([[ZUUオンライン]] 2017年1月2日配信 2017年2月5日確認)</ref><ref>[https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2013-11-20/MWFVD56TTDSX01 勝率10割のIPO、初値高くプラチナ券に-12月件数は07年来] ([[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]] 2013年11月20日16:07配信 2017年2月1日確認)</ref><ref>[http://blogos.com/article/146018/ 何を持って「IPOの成功」を定義するのか] [[BLOGOS]] 梅木雄平執筆 2015年11月22日16:32配信 2017年2月2日確認</ref>。 その一方で、企業価値が適正に評価されていなかったり、主幹事となる証券会社が合理的な根拠に基づかずに公募価格を低く設定しているとの批判もあり、[[公正取引委員会]]は「[[独占禁止法]]上問題となるおそれがある」との調査報告書を2022年1月に公表している<ref>{{Cite web|和書|title=新規上場、過小値付けは「独禁法違反」 公取委報告書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA24DD90U2A120C2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2022-01-26 |accessdate=2022-02-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=証券会社の「一方的に低い価格設定、独禁法違反の恐れ」…公取委が報告書 |url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20220128-OYT1T50141/ |website=読売新聞 |date=2022-01-28 |accessdate=2022-02-21}}</ref>。 <!-- 本文に出典を付けた通り株式上場と株式公開は厳密には異なり上場に関する事項は[[上場]]等の記事で扱うほうがよいのでコメントアウト --> === IPOプレミアム === 新規公開企業については財務諸表や株主構成の確認に十分な留意が必要であることや、時系列のデータ及び株価などの指数情報が不足していることから、公募価格が設定されてなお株価が割高であったり、とても合理的と言えない初値が付くことがしばしばあり、上場後一定期間を経て財務諸表に見合った評価を得るようになる傾向が見られる。 {{節スタブ}} <!-- == 大型上場 == 上場規模が大きかったり、知名度が高い大企業が上場することを大型上場と呼ぶことがある *[[日本電信電話|NTT]] - 1987年2月9日上場 *[[東日本旅客鉄道|JR東日本]] - 1993年10月26日上場 *[[NTTドコモ]] - 1998年10月22日上場 *[[日本マクドナルドホールディングス]](中核企業は[[日本マクドナルド]]) - 2001年7月26日上場 *[[電通]] - 2001年11月30日上場 *[[電源開発]] - 2004年10月6日上場 *[[エルピーダメモリ]] - 2004年11月15日上場 *[[国際石油開発]] - 2004年11月17日上場 *[[野村不動産ホールディングス]] - 2006年10月3日上場 *[[あおぞら銀行]] - 2006年11月14日上場 *[[出光興産]] - 2006年10月24日上場 *[[第一生命保険]] - 2010年4月1日上場 *[[大塚ホールディングス]](中核企業は[[大塚製薬]]) - 2010年12月15日上場 *[[日本航空]] - 2012年9月19日上場(2010年上場廃止からの再上場)<ref>[http://www.sankeibiz.jp/macro/news/120919/eca1209190503000-n1.htm低迷する株式市場 日航再上場など大型上場で活性化期待]</ref> *[[サントリー食品インターナショナル]] - 2013年7月2日上場 *[[リクルートホールディングス]] - 2014年10月16日上場 *[[日本郵政]]([[ゆうちょ銀行]] - [[かんぽ生命]]) - 2015年11月4日上場 --> == 株式の非公開化 == 上場は取引所で売買対象となることであり、上場を廃止して取引所の売買対象から除外されても、その会社の株式等の売買が一切できなくなるわけではない<ref name="yokoyama">{{Cite web|和書|author= 横山淳|url=https://www.dir.co.jp/report/research/law-research/securities/12070201securities.pdf |title=大和総研調査季報 2012年春季号 Vol.6「上場廃止について」 |publisher=大和総研 |accessdate=2018-09-19}}</ref>。非上場となった株式会社が株式の譲渡そのものを制限するためには定款変更といった一定の手続が必要になる<ref>{{Cite web|和書|url=https://business.bengo4.com/category1/practice521 |title=公開会社の株式に譲渡制限を付す方法 |publisher=BUSINESS LAWYERS |accessdate=2018-09-19}}</ref>。 一方、上場会社が定款変更により株式の譲渡につき制限を行うこととした場合には、不特定多数による市場での売買とは相容れないこととなるため上場規程等で原則として上場廃止の対象とされている<ref name="yokoyama" />。 == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == *野海英『株式上場準備マニュアル』すばる舎、2008年5月、16-225頁。 == 関連項目 == * [[公募|募集]] * [[有価証券の売出し|売出し]] ** [[オーバーアロットメント]] * [[ロードショー (証券用語)|ロードショー]] * [[ブックビルディング]] * [[ITバブル]]([[インターネットバブル]]) * [[株式分割バブル]] * [[有価証券報告書]] * [[ディスクロージャー]] * [[株式公開買い付け]] * [[上場廃止]] * [[株式相場]] * [[新規公開株]] * [[新規公開株配分方針]] * [[グリーンシート]] * [[未公開株]] * [[特別買収目的会社]] * [[証券取引等監視委員会]] == 外部リンク == * [http://info.finance.yahoo.co.jp/ipo/ IPO・新規上場企業情報] - Yahoo!ファイナンス {{証券取引所}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:かふしきこうかい}} [[Category:コーポレートファイナンス]] [[Category:株式市場|かふしきこうかい かふしき]] [[Category:IPO|*]]
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倒産
倒産(とうさん)とは、明確な定義はないが、概ね、個人や法人などの経済主体が経済的に破綻して弁済期にある債務を一般的に弁済できなくなり、経済活動をそのまま続けることが不可能になること(あるいはそのような恐れが生じること)をいう。 法人の場合は、経営破綻(けいえいはたん)ともいう。なお、一社の企業が倒産することにより、関連会社や取引企業が連鎖的に倒産することを連鎖倒産(れんさとうさん)という。 また、日本においては「会社が潰れる」・「あの会社は潰れた」などの俗的な表現もある。 倒産状態になった経済主体による、債権者への弁済のための処理ないし手続を、倒産処理ないし倒産(処理)手続といい、私的・法的の区別と清算型・再建型の区別とがある。 法的倒産手続には、日本の場合、破産・会社更生・民事再生などがある。倒産手続は、債権者から申し立てられる場合と債務者(倒産者)自身が申し立てる場合のほか、特殊なケースとして監督当局の申立てによって開始することもある。 旧約聖書とユダヤ教聖典においては、モーセの律法が、聖年(ヨベルの年)が50年ごとに訪れ、天の命令により、ユダヤ人の間ですべての債務が除かれ、すべての債務奴隷は自由の身になると定めている。さらに、聖書の申命記15:1-2では、債務免除のヘブライ(ユダヤ)法を見ることができ、そこでは7年ごとに債務を免除することを命じている。 古代ギリシアでは、倒産(破産)というものは存在しなかった。もし父が債務を負い(都市で生まれた成年男子のみが市民となることができたので、法的に財産の所有者となるのは「父」であった。)、それを支払うことができなくなれば、彼の全家族(妻・子ども・使用人)は、債権者が彼らの労働によって損失を取り戻すまでの間、債務奴隷とされた。古代ギリシアの多くの都市国家では、債務奴隷となる期間を5年間に限っており、また債務奴隷は生命と手足については保護されていた。これは通常の奴隷には与えられていない保護であった。ただし、債務者の使用人については債権者がその一線を超えることもあり、新しい主人に死ぬまで仕えさせられることも多かった。そのような場合、労働条件は以前よりずっと過酷であるのが普通であった。 英語の bankruptcy という単語は、古代ラテン語のbancus(台、テーブル)とruptus(壊れた)から生成された。bank(銀行)はもともとは台のことを指している。昔の銀行家たちは、公の場所、市場や定期市などで、台を持ち、そこでお金を徴収したり為替手形を書いたりしていた。そのため、銀行家が破綻すると、彼はその台を壊し、公衆に、台の所有者はもはや事業を続ける状況にはなくなったということを知らせた。この慣行はイタリアでよく行われており、bankruptという単語はイタリア語のbanco rotto(broken bank)に由来すると言われている。しかし、フランス語のbanque(テーブル)とroute(痕跡・足跡)から来ているとする人もいる。これは、以前は地面に固定されていたが今はなくなってしまったテーブルの、地面に残った跡の隠喩である。このように考える人は、破産者の起源は、古代ローマの mensarii や argentarii に遡るとする。彼らは公の場所に tabernae や mensae という持ち場を持っており、夜逃げをするときや委託されたお金を持って逃げるときには、自分の持ち場の痕跡だけを跡に残して行った。 英米法上、債務の免除を伴う破産制度が導入されたのは、1705年のアン女王時代の制定法においてであり、そこでは、支払不能となった債務については、可能な限りの支払をするための資産を集めるのに協力した破産者に対する報奨として、免除が与えられた。 東アジアでも、破産についての記録が残っている。チンギス・ハーン法典には、3回破産をした者に死刑を科すとの規定があった。 現代の倒産法制や事業の債務整理は、清算及び支払不能になった者の排除よりも、経済的困窮に陥った債務者を財政的・組織的に再建し、事業の更生と継続を許すことに重点が置かれてきている。 法学上の文面でも破産や民事再生などのいわゆる法的倒産手続を総称する概念として「倒産」の文言を用いることがあるが、法令上に定義ある語ではない。明治時代に、フランス語の faillite の訳語として「破産」あるいは「倒産」の語が用いられたが、法令上「破産」の語が用いられるようになったとされている。 日常用語としては経営が行き詰まり会社がなくなる、といった限定的なニュアンスで使われる場合もあるが、倒産の対象となる経済主体は会社だけではなく個人(自然人)も含まれる。また、会社を含む法人が経済主体の場合であっても、再生型の倒産手続があることから、必ずしも法人がなくなるとは限らない。 1990年代後半以降、会社の倒産についての新聞などの報道では、「経営破綻」(または単に「破綻」)という言葉が使われることが多い。日常用語で「(会社が)つぶれる」というのも倒産とほぼ同じ意味で使われる。 どの時点で倒産と評価するかについて、明確な基準はないが、東京商工リサーチでは、次のような状況になった場合に企業の「倒産」と表現している。帝国データバンクでも同様の基準を用いている。 また、雇用保険の特定受給資格者の「倒産」等により離職した者の定義は とある。上記 1. と 3. (任意整理)が東京商工リサーチや帝国データバンクでの倒産の定義に相当する。 毎月中頃、マスメディアを通じて前月倒産件数(4月は前年度倒産件数も)が発表されるが、これは東京商工リサーチと帝国データバンクがマスコミ各社に行ったプレスリリースを基にしている。帝国データバンクは、手形を使用しない商習慣の拡大や、個人情報保護法の施行などの理由により情報収集が困難になったとして、2005年に倒産集計の基準から「銀行取引停止処分」を削除した。東京商工リサーチは独自の情報網を通じての取材活動によれば、「銀行取引停止処分」の集計も可能として、これを維持した。このため、従来の統計との整合性を持つ倒産件数は、東京商工リサーチ発表によるもののみである。 なお、日本国内の地方公共団体において財政が行き詰まった場合、地方財政再建促進特別措置法(再建法)に基づき、自治体が財政再建団体の指定を申請し許可を受けることがある。これを指して「自治体の倒産」と表現することがある。 経済主体が企業である場合、 手形や小切手の1回目の不渡りから6か月以内に2回目の不渡りを出した場合、銀行取引停止処分となる。こうなると、すべての銀行において当座取引および貸付を受けることが不可能になるため、企業の資金繰りは断たれる。このような状態をして事実上の倒産と呼ぶ。 このような場合でも、法人の解散事由(破産手続の開始等)が生じたわけではないから、法人としての存続は否定されたものではないが、多くの場合、法的倒産処理手続または任意的倒産処理(私的整理)に移行することから、当該時点において「事実上」という言い方を用いる。また、帝国データバンクなどの信用調査会社では、企業が事業停止しかつ事後処理を弁護士に一任した時点で事実上の倒産(この時点で倒産集計には入らないが破産手続に入ることがほぼ確実なため)として倒産情報を出している。 なお、かつて新聞などでは、再建型の法的倒産処理手続(下節参照)に着手した場合でも「事実上の倒産」という言葉を使用していたが、近年では「事実上の倒産」ではなく、「経営破綻」という言葉を使用する場合が多くなっている(前述)。 裁判所の監督の下で行われる倒産処理手続であり、この文脈では、「倒産」は経済主体が経済的に完全に破綻した場合のみならず、破綻するおそれがある場合をも含めて理解するのが一般的である。大まかに分類すると、清算型と再建型に分かれる。 清算型は、倒産状態になった債務者の財産を換価して債権者に可能な限り弁済することを目的とする制度であり、債務者が法人である場合にはその存続・再建を予定しないのに対し、再建型は、倒産状態になった債務者の財産を直ちに換価・分配することは必ずしも予定されず、債権者らの権利を変更(債務の減免、期限の猶予=分割弁済など)したうえで、現有財産を基礎にして収益を上げ、権利変更後の債務について弁済すること等により、債務者の事業又は経済生活の経済的再生を目的とする制度であるとされている。 もっとも、両者の差異は相対的なものであることに注意が必要である。清算型に位置づけられる破産手続は、これに付随する免責手続の存在により、いわゆる個人破産(消費者破産)の場面では再建型として事実上機能していることがほとんどであり、再建型に位置づけられる民事再生手続又は会社更生手続において、清算を目的とした再生計画案又は更生計画案が作成されることもある。 また、金融機関等の特殊な業態については、法的倒産処理手続以外に、特別法(金融機関等の更生手続の特例等に関する法律)に基づく破綻処理が予定されているものがある。 カナダにおける倒産は、破産・支払不能法(Bankruptcy and Insolvency Act)という連邦法により定められており、企業と個人の双方に適用される。連邦政府の破産監督局(Superintendent of Bankruptcy)が、倒産手続が公正かつ秩序立って執行されるようにする責任を負っている。破産管財人が破産財団を管理する。 管財人は、次のような職務を負っている。 債権者は、債権者集会に出席することにより手続に参加する。管財人が招集する第1回債権者集会は、次のような目的を持っている。 カナダでは、個人は、破産の代わりに、消費者提案(consumer proposal)を申し立てることができる。消費者提案は、債務者と債権者らとの間での交渉による解決である。 典型的な消費者提案は、債務者が最長で5年間、毎月支払を行い、資金を債権者らに配分するというものである。ほとんどの提案は債務の総額よりも支払額を少なくすることを求めるものだが、ほとんどのケースで、債権者らは取引に応じる。なぜなら、そうしなければ、次の選択肢は個人破産であり、その場合債権者らの受け取る金額は更に少なくなるからである。債権者らは、消費者提案を受け入れるか拒否するかの選択に45日間の猶予期間がある。一度提案が受け入れられると、債務者は提案執行者に毎月支払を行い、債権者らはそれ以上の訴訟や執行を行うことができなくなる。提案が拒否された場合は、債務者は個人破産の宣言をするほか選択肢がないこともある。 消費者提案を行えるのは、債務額が5000ドルを超え、7万5000ドルまで(主たる居住地の抵当権を含まない)の場合に限られる。債務額が7万5000ドルを超える場合、破産・支払不能法第3編第1部の下に提案を申し立てなければならない。提案執行者の補助が必要である。提案執行者は、破産管財人の資格を持った者がなるのが一般的であるが、破産監督局が他の人を執行者に任命することもできる。 2006年において、カナダでは9万8450件の個人からの支払不能の申立てがあった。うち7万9218件が破産、1万9232件が消費者提案である。 2004年には、ヨーロッパ各国で倒産の増加率が今までにない高い数字に上った。フランスでは、会社の倒産率が4%以上増加し、オーストリアでは10%以上、ギリシアでは20%以上も増加した。しかし、公的な倒産件数の統計は実態を十分に説明するものではない。公的統計は倒産件数を示しているだけで、各倒産案件の重要度を示すものではない。したがって、倒産件数の増加は、必ずしも経済全体にとっての不良債権化率が増加したことを意味しない。 返済に問題が生じたり回収不能になったりするのと、企業が実際に破産を宣言するのには時間的なずれがある。多くの場合、信用で商品を納品してから、それに対する破産手続が始まるまでの間に数か月ないし数年かかることもある。 法的側面や、税金の関係、あるいは文化的側面によっても、上記の説明は更に歪められている。国際的な比較においては特にそうである。例えば、オーストリアでは、2004年における全倒産手続の半分以上は、未払額の一部を清算するための資金不足のため、手続が開始されない。スペインでは、一定の種類の事業に対して倒産手続を開始することは経済的に割に合わないため、倒産件数は非常に少ない。比較すると、フランスでは、2004年に4万件以上の倒産手続が開始されたが、スペインでは600件未満である。その一方で、フランスの不良債権化率は1.3%なのに対しスペインでは2.6%である。 個人の倒産件数も、全体像を示すものではない。倒産手続の申立てを決意するのは、負債額の膨らんだごく一部の世帯に限られる。これは、破産宣告の不名誉と、職業上不利益を被るおそれがあるためである。 オランダの倒産法制は、オランダ倒産法 (Faillissementswet) によって規律されている。同法は、三つの異なる法的手続を定めている。第一は破産 (Faillissement) であり、その目的は債務者の資産を清算することである。破産手続は個人と会社の双方に適用される。倒産法における第二の法的手続は、Surseanceというものである。これは会社にのみ適用され、その目的は会社の債権者らとの間の合意を実現することである。第三はSchuldsaneringというもので、これは個人のみを対象としている。 イギリスでは、狭義の法的意味における破産 (bankruptcy) は、個人とパートナーシップのみに関係する。会社やその他の企業は、違う名称の法的倒産手続が用いられる。清算 (liquidation) と財産管理(administration――財産管理命令 (administration order) 及び管財人財産管理 (administrative receivership))である。しかし、「破産 (bankruptcy)」という言葉がメディアや日常会話の中で会社について用いられることは多い。スコットランドにおける破産手続はSequestrationと呼ばれる。 破産管財人は、公務員である公的破産管財人 (Official Receiver) か、資格を持った倒産弁護士でなければならない。 2002年企業法 (Enterprise Act 2002) が制定されてからは、イギリスの破産手続は通常12か月もかからない。公的破産管財人が裁判所に、調査が完全に行われたことを保証した場合は、それより短いこともある。 イギリス政府による破産の枠組みの自由化により、破産件数が増加することが見込まれている。これは政府の当初の統計により裏付けられていると見られる。 イングランドとウェールズでは、2005年第4四半期に2万0461件の個人倒産があった(季節調整された値)。これは、前の四半期よりも15.0%の増加、前年同時期よりも36.8%の増加である。このうち、1万3501件が破産であり、前の四半期よりも15.9%の増加、前年同時期よりも37.6%の増加である。6960件は個人任意的債務整理手続 (IVA) であり、前四半期よりも23.9%増、前年同時期よりも117.1%増である。 アメリカ合衆国においては、アメリカ合衆国憲法1条8節4項により、倒産(bankruptcy)は連邦法の管轄とされており、同条項によれば、連邦議会は「合衆国全域における倒産に関する統一法」を制定することが認められている。bankruptcyとの用語であるが、ここでは再建型手続を含むものと解されている。連邦議会は、倒産に関する制定法として、倒産法(Bankruptcy Code, 合衆国法典第11編)を定めている。連邦法が規定していない点や、明示的に州法に譲っている点については、州法の定めにより連邦法が一部修正されている。 倒産事件は、必ず連邦倒産裁判所(連邦地方裁判所に付設される)に申し立てられるが、倒産事件は、特に債権の有効性や自由財産に関しては、州法によることが多い。したがって、多くの倒産事件においては州法が大きな役割を果たしており、州境を超えて倒産法を一般化することはできないことが多い。 合衆国法典第11編に置かれた倒産法の下では、次の6種類の手続がある。 個人の倒産に際して最もよく用いられるのが、清算型の第7章及び再建型の第13章である。アメリカの個人による全倒産申立て件数のうち実に65%が、第7章によるものである。会社その他の企業は第7章又は再建型では第11章に基づいて申立てをすることが多い。 第7章では、債務者は、自由財産となるもの以外の財産を破産管財人に引き渡し、破産管財人がそれを換価して、その売上金を無担保債権者に配当する。その代わりに、債務者は債務の一部の免責を得る。ただし、債務者が一定の類型の不適切な行動(財産状況に関する資料を隠すなど)をとった場合には、免責は与えられない。また、一定の債務(配偶者及び子の扶養料、学生ローン、一定の税金など)については、債務者が一般的な免責を得た場合であっても免責されない。経済的に破綻した個人は、多くの場合、自由財産(衣服、生活必需品、中古車など)しか所有しておらず、その場合は破産管財人に財産を引き渡す必要はない。自由財産とすることができる財産の額は、州によって異なる。第7章による救済は、8年間に1回だけしか使うことができない。一般的に、担保権者の担保物件に対する権利は、債務の免責が行われても存続する。例えば、債務者が自動車を引き渡すという合意や債務の「再確認」が行われなくても、債務者の自動車に対する担保物権を有する債権者は、債務者の債務が免責になったとしてもその自動車を引き揚げることができる。 第13章の手続では、債務者はすべての財産の所有権や占有権を失わないが、通常3年間から5年間にわたり、将来の収入の一部を債権者への返済に当てなければならない。返済額や返済計画の期間は、債務者の財産の価値や債務者の収入・支出などの要素によって変わる。担保権者は、無担保債権者よりも多く返済を受けることができる。 第11章の手続では、債務者は財産の所有権と占有権を失わず、債務者占有型 (DIP) 手続とも呼ばれる。占有を継続する債務者が、日々の事業の運営を行う一方、債権者らと債務者は、連邦倒産裁判所とともに、交渉を重ね、再建計画を完成させるべく共同作業を行う。一定の条件(債権者間の公正、一定の債権者の優先など)を満たすと、提案された再建計画に対する債権者らの投票を行うことができる。再建計画が承認されると、債務者は経営と、承認された再建計画に従った債務の弁済を続ける。もし一定以上の多数の債権者が承認の投票を行わなかった場合は、裁判所から、計画を承認するための追加的な条件が課されることがある。 2005年の破産濫用防止・消費者保護法(BAPCPA)は、連邦倒産法を大きく修正するものであった。BAPCPAの多くの規定は、消費者金融業者から強く支持され、同時に多くの消費者保護論者、倒産法学者、倒産事件を担当する裁判官・弁護士から強い反対を受けた。BAPCPAは、連邦議会における8年間にわたる議論の末に制定されたものである。同法の多くの規定は、2005年10月17日に施行された。法律への署名に当たり、ジョージ・W・ブッシュ大統領は次のように述べた。 個人破産法に加えられた多くの変更の中で、BAPCPAは、「資力基準」を導入した。これは、債務のほとんどが消費者負債である、多くの経済的に破綻した個人債務者にとって、連邦倒産法第7章の救済資格を得ることをより難しくしようとするものであった。しかし、その意図とは反対に、資力基準はしばしば債務者が免責を得ることを簡単にする結果を生んでいる。資力基準のため、又は連邦倒産法第7章では担保付き債権(抵当権や自動車ローン)の延滞に対する完全な解決ができないために、債務者が連邦倒産法第7章の救済資格を得られない場合であっても、債務者は依然として連邦倒産法第13章による救済を求めることができるのである。第13章による再建計画は一般の無担保債権(クレジットカード利用代金や医療費)に対する返済を要求しないことが多い。 また、BAPCPAは、破産の救済を求める個人に、破産の申立てをする前に、認可を受けた相談機関に債務内容の相談をすること、第7章又は第13章による免責を受ける前に、認可を受けた機関で家計のやり繰りについての教育を受けることを要求している。この債務相談要件の実施状況についての研究によれば、債務相談要件は、相談を受ける債務者にとってはほとんど実益がないことが示されている。多くの債務者にとって、唯一の現実的な選択肢は、倒産法による救済を求めることしかないからである。
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"このような場合でも、法人の解散事由(破産手続の開始等)が生じたわけではないから、法人としての存続は否定されたものではないが、多くの場合、法的倒産処理手続または任意的倒産処理(私的整理)に移行することから、当該時点において「事実上」という言い方を用いる。また、帝国データバンクなどの信用調査会社では、企業が事業停止しかつ事後処理を弁護士に一任した時点で事実上の倒産(この時点で倒産集計には入らないが破産手続に入ることがほぼ確実なため)として倒産情報を出している。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "なお、かつて新聞などでは、再建型の法的倒産処理手続(下節参照)に着手した場合でも「事実上の倒産」という言葉を使用していたが、近年では「事実上の倒産」ではなく、「経営破綻」という言葉を使用する場合が多くなっている(前述)。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "裁判所の監督の下で行われる倒産処理手続であり、この文脈では、「倒産」は経済主体が経済的に完全に破綻した場合のみならず、破綻するおそれがある場合をも含めて理解するのが一般的である。大まかに分類すると、清算型と再建型に分かれる。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "清算型は、倒産状態になった債務者の財産を換価して債権者に可能な限り弁済することを目的とする制度であり、債務者が法人である場合にはその存続・再建を予定しないのに対し、再建型は、倒産状態になった債務者の財産を直ちに換価・分配することは必ずしも予定されず、債権者らの権利を変更(債務の減免、期限の猶予=分割弁済など)したうえで、現有財産を基礎にして収益を上げ、権利変更後の債務について弁済すること等により、債務者の事業又は経済生活の経済的再生を目的とする制度であるとされている。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "もっとも、両者の差異は相対的なものであることに注意が必要である。清算型に位置づけられる破産手続は、これに付随する免責手続の存在により、いわゆる個人破産(消費者破産)の場面では再建型として事実上機能していることがほとんどであり、再建型に位置づけられる民事再生手続又は会社更生手続において、清算を目的とした再生計画案又は更生計画案が作成されることもある。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また、金融機関等の特殊な業態については、法的倒産処理手続以外に、特別法(金融機関等の更生手続の特例等に関する法律)に基づく破綻処理が予定されているものがある。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "カナダにおける倒産は、破産・支払不能法(Bankruptcy and Insolvency Act)という連邦法により定められており、企業と個人の双方に適用される。連邦政府の破産監督局(Superintendent of Bankruptcy)が、倒産手続が公正かつ秩序立って執行されるようにする責任を負っている。破産管財人が破産財団を管理する。", "title": "カナダ" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "管財人は、次のような職務を負っている。", "title": "カナダ" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "債権者は、債権者集会に出席することにより手続に参加する。管財人が招集する第1回債権者集会は、次のような目的を持っている。", "title": "カナダ" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "カナダでは、個人は、破産の代わりに、消費者提案(consumer proposal)を申し立てることができる。消費者提案は、債務者と債権者らとの間での交渉による解決である。", "title": "カナダ" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "典型的な消費者提案は、債務者が最長で5年間、毎月支払を行い、資金を債権者らに配分するというものである。ほとんどの提案は債務の総額よりも支払額を少なくすることを求めるものだが、ほとんどのケースで、債権者らは取引に応じる。なぜなら、そうしなければ、次の選択肢は個人破産であり、その場合債権者らの受け取る金額は更に少なくなるからである。債権者らは、消費者提案を受け入れるか拒否するかの選択に45日間の猶予期間がある。一度提案が受け入れられると、債務者は提案執行者に毎月支払を行い、債権者らはそれ以上の訴訟や執行を行うことができなくなる。提案が拒否された場合は、債務者は個人破産の宣言をするほか選択肢がないこともある。", "title": "カナダ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "消費者提案を行えるのは、債務額が5000ドルを超え、7万5000ドルまで(主たる居住地の抵当権を含まない)の場合に限られる。債務額が7万5000ドルを超える場合、破産・支払不能法第3編第1部の下に提案を申し立てなければならない。提案執行者の補助が必要である。提案執行者は、破産管財人の資格を持った者がなるのが一般的であるが、破産監督局が他の人を執行者に任命することもできる。", "title": "カナダ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2006年において、カナダでは9万8450件の個人からの支払不能の申立てがあった。うち7万9218件が破産、1万9232件が消費者提案である。", "title": "カナダ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2004年には、ヨーロッパ各国で倒産の増加率が今までにない高い数字に上った。フランスでは、会社の倒産率が4%以上増加し、オーストリアでは10%以上、ギリシアでは20%以上も増加した。しかし、公的な倒産件数の統計は実態を十分に説明するものではない。公的統計は倒産件数を示しているだけで、各倒産案件の重要度を示すものではない。したがって、倒産件数の増加は、必ずしも経済全体にとっての不良債権化率が増加したことを意味しない。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "返済に問題が生じたり回収不能になったりするのと、企業が実際に破産を宣言するのには時間的なずれがある。多くの場合、信用で商品を納品してから、それに対する破産手続が始まるまでの間に数か月ないし数年かかることもある。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "法的側面や、税金の関係、あるいは文化的側面によっても、上記の説明は更に歪められている。国際的な比較においては特にそうである。例えば、オーストリアでは、2004年における全倒産手続の半分以上は、未払額の一部を清算するための資金不足のため、手続が開始されない。スペインでは、一定の種類の事業に対して倒産手続を開始することは経済的に割に合わないため、倒産件数は非常に少ない。比較すると、フランスでは、2004年に4万件以上の倒産手続が開始されたが、スペインでは600件未満である。その一方で、フランスの不良債権化率は1.3%なのに対しスペインでは2.6%である。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "個人の倒産件数も、全体像を示すものではない。倒産手続の申立てを決意するのは、負債額の膨らんだごく一部の世帯に限られる。これは、破産宣告の不名誉と、職業上不利益を被るおそれがあるためである。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "オランダの倒産法制は、オランダ倒産法 (Faillissementswet) によって規律されている。同法は、三つの異なる法的手続を定めている。第一は破産 (Faillissement) であり、その目的は債務者の資産を清算することである。破産手続は個人と会社の双方に適用される。倒産法における第二の法的手続は、Surseanceというものである。これは会社にのみ適用され、その目的は会社の債権者らとの間の合意を実現することである。第三はSchuldsaneringというもので、これは個人のみを対象としている。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "イギリスでは、狭義の法的意味における破産 (bankruptcy) は、個人とパートナーシップのみに関係する。会社やその他の企業は、違う名称の法的倒産手続が用いられる。清算 (liquidation) と財産管理(administration――財産管理命令 (administration order) 及び管財人財産管理 (administrative receivership))である。しかし、「破産 (bankruptcy)」という言葉がメディアや日常会話の中で会社について用いられることは多い。スコットランドにおける破産手続はSequestrationと呼ばれる。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "破産管財人は、公務員である公的破産管財人 (Official Receiver) か、資格を持った倒産弁護士でなければならない。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2002年企業法 (Enterprise Act 2002) が制定されてからは、イギリスの破産手続は通常12か月もかからない。公的破産管財人が裁判所に、調査が完全に行われたことを保証した場合は、それより短いこともある。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "イギリス政府による破産の枠組みの自由化により、破産件数が増加することが見込まれている。これは政府の当初の統計により裏付けられていると見られる。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "イングランドとウェールズでは、2005年第4四半期に2万0461件の個人倒産があった(季節調整された値)。これは、前の四半期よりも15.0%の増加、前年同時期よりも36.8%の増加である。このうち、1万3501件が破産であり、前の四半期よりも15.9%の増加、前年同時期よりも37.6%の増加である。6960件は個人任意的債務整理手続 (IVA) であり、前四半期よりも23.9%増、前年同時期よりも117.1%増である。", "title": "ヨーロッパ" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国においては、アメリカ合衆国憲法1条8節4項により、倒産(bankruptcy)は連邦法の管轄とされており、同条項によれば、連邦議会は「合衆国全域における倒産に関する統一法」を制定することが認められている。bankruptcyとの用語であるが、ここでは再建型手続を含むものと解されている。連邦議会は、倒産に関する制定法として、倒産法(Bankruptcy Code, 合衆国法典第11編)を定めている。連邦法が規定していない点や、明示的に州法に譲っている点については、州法の定めにより連邦法が一部修正されている。", "title": "アメリカ合衆国" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "倒産事件は、必ず連邦倒産裁判所(連邦地方裁判所に付設される)に申し立てられるが、倒産事件は、特に債権の有効性や自由財産に関しては、州法によることが多い。したがって、多くの倒産事件においては州法が大きな役割を果たしており、州境を超えて倒産法を一般化することはできないことが多い。", "title": "アメリカ合衆国" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "合衆国法典第11編に置かれた倒産法の下では、次の6種類の手続がある。", "title": "アメリカ合衆国" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "個人の倒産に際して最もよく用いられるのが、清算型の第7章及び再建型の第13章である。アメリカの個人による全倒産申立て件数のうち実に65%が、第7章によるものである。会社その他の企業は第7章又は再建型では第11章に基づいて申立てをすることが多い。", "title": "アメリカ合衆国" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "第7章では、債務者は、自由財産となるもの以外の財産を破産管財人に引き渡し、破産管財人がそれを換価して、その売上金を無担保債権者に配当する。その代わりに、債務者は債務の一部の免責を得る。ただし、債務者が一定の類型の不適切な行動(財産状況に関する資料を隠すなど)をとった場合には、免責は与えられない。また、一定の債務(配偶者及び子の扶養料、学生ローン、一定の税金など)については、債務者が一般的な免責を得た場合であっても免責されない。経済的に破綻した個人は、多くの場合、自由財産(衣服、生活必需品、中古車など)しか所有しておらず、その場合は破産管財人に財産を引き渡す必要はない。自由財産とすることができる財産の額は、州によって異なる。第7章による救済は、8年間に1回だけしか使うことができない。一般的に、担保権者の担保物件に対する権利は、債務の免責が行われても存続する。例えば、債務者が自動車を引き渡すという合意や債務の「再確認」が行われなくても、債務者の自動車に対する担保物権を有する債権者は、債務者の債務が免責になったとしてもその自動車を引き揚げることができる。", "title": "アメリカ合衆国" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "第13章の手続では、債務者はすべての財産の所有権や占有権を失わないが、通常3年間から5年間にわたり、将来の収入の一部を債権者への返済に当てなければならない。返済額や返済計画の期間は、債務者の財産の価値や債務者の収入・支出などの要素によって変わる。担保権者は、無担保債権者よりも多く返済を受けることができる。", "title": "アメリカ合衆国" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "第11章の手続では、債務者は財産の所有権と占有権を失わず、債務者占有型 (DIP) 手続とも呼ばれる。占有を継続する債務者が、日々の事業の運営を行う一方、債権者らと債務者は、連邦倒産裁判所とともに、交渉を重ね、再建計画を完成させるべく共同作業を行う。一定の条件(債権者間の公正、一定の債権者の優先など)を満たすと、提案された再建計画に対する債権者らの投票を行うことができる。再建計画が承認されると、債務者は経営と、承認された再建計画に従った債務の弁済を続ける。もし一定以上の多数の債権者が承認の投票を行わなかった場合は、裁判所から、計画を承認するための追加的な条件が課されることがある。", "title": "アメリカ合衆国" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2005年の破産濫用防止・消費者保護法(BAPCPA)は、連邦倒産法を大きく修正するものであった。BAPCPAの多くの規定は、消費者金融業者から強く支持され、同時に多くの消費者保護論者、倒産法学者、倒産事件を担当する裁判官・弁護士から強い反対を受けた。BAPCPAは、連邦議会における8年間にわたる議論の末に制定されたものである。同法の多くの規定は、2005年10月17日に施行された。法律への署名に当たり、ジョージ・W・ブッシュ大統領は次のように述べた。", "title": "アメリカ合衆国" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "個人破産法に加えられた多くの変更の中で、BAPCPAは、「資力基準」を導入した。これは、債務のほとんどが消費者負債である、多くの経済的に破綻した個人債務者にとって、連邦倒産法第7章の救済資格を得ることをより難しくしようとするものであった。しかし、その意図とは反対に、資力基準はしばしば債務者が免責を得ることを簡単にする結果を生んでいる。資力基準のため、又は連邦倒産法第7章では担保付き債権(抵当権や自動車ローン)の延滞に対する完全な解決ができないために、債務者が連邦倒産法第7章の救済資格を得られない場合であっても、債務者は依然として連邦倒産法第13章による救済を求めることができるのである。第13章による再建計画は一般の無担保債権(クレジットカード利用代金や医療費)に対する返済を要求しないことが多い。", "title": "アメリカ合衆国" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "また、BAPCPAは、破産の救済を求める個人に、破産の申立てをする前に、認可を受けた相談機関に債務内容の相談をすること、第7章又は第13章による免責を受ける前に、認可を受けた機関で家計のやり繰りについての教育を受けることを要求している。この債務相談要件の実施状況についての研究によれば、債務相談要件は、相談を受ける債務者にとってはほとんど実益がないことが示されている。多くの債務者にとって、唯一の現実的な選択肢は、倒産法による救済を求めることしかないからである。", "title": "アメリカ合衆国" } ]
倒産(とうさん)とは、明確な定義はないが、概ね、個人や法人などの経済主体が経済的に破綻して弁済期にある債務を一般的に弁済できなくなり、経済活動をそのまま続けることが不可能になること(あるいはそのような恐れが生じること)をいう。 法人の場合は、経営破綻(けいえいはたん)ともいう。なお、一社の企業が倒産することにより、関連会社や取引企業が連鎖的に倒産することを連鎖倒産(れんさとうさん)という。 また、日本においては「会社が潰れる」・「あの会社は潰れた」などの俗的な表現もある。 倒産状態になった経済主体による、債権者への弁済のための処理ないし手続を、倒産処理ないし倒産(処理)手続といい、私的・法的の区別と清算型・再建型の区別とがある。 法的倒産手続には、日本の場合、破産・会社更生・民事再生などがある。倒産手続は、債権者から申し立てられる場合と債務者(倒産者)自身が申し立てる場合のほか、特殊なケースとして監督当局の申立てによって開始することもある。
{{pp-vandalism|small=yes}} '''倒産'''(とうさん)とは、明確な定義はないが、概ね、個人や法人などの[[経済主体]]が経済的に破綻して弁済期にある[[債務]]を一般的に弁済できなくなり、経済活動をそのまま続けることが不可能になること(あるいはそのような恐れが生じること)をいう。 法人の場合は、'''経営破綻'''(けいえいはたん)ともいう。なお、一社の企業が倒産することにより、関連会社や取引企業が連鎖的に倒産することを'''連鎖倒産'''(れんさとうさん)という。 また、日本においては「会社が'''潰れる'''」・「あの会社は潰れた」などの俗的な表現もある。 倒産状態になった経済主体による、債権者への弁済のための処理ないし手続を、'''倒産処理'''ないし'''倒産(処理)手続'''といい、私的・法的の区別と清算型・再建型の区別とがある。 法的倒産手続には、日本の場合、[[破産]]・[[会社更生]]・[[民事再生]]などがある。倒産手続は、債権者から申し立てられる場合と債務者(倒産者)自身が申し立てる場合のほか、特殊なケースとして監督当局の申立てによって開始することもある。 == 歴史 == === 西洋 === [[旧約聖書]]とユダヤ教聖典においては、[[モーセ]]の律法が、聖年(ヨベルの年)が50年ごとに訪れ、天の命令により、ユダヤ人の間ですべての債務が除かれ、すべての債務奴隷は自由の身になると定めている<ref>Leviticus 25:8–54.</ref>。さらに、聖書の[[申命記]]15:1-2では、債務免除のヘブライ(ユダヤ)法を見ることができ、そこでは7年ごとに債務を免除することを命じている。 [[古代ギリシア]]では、倒産(破産)というものは存在しなかった。もし父が債務を負い(都市で生まれた成年男子のみが[[市民]]となることができたので、法的に財産の所有者となるのは「父」であった。)、それを支払うことができなくなれば、彼の全家族(妻・子ども・使用人)は、債権者が彼らの労働によって損失を取り戻すまでの間、債務奴隷とされた。古代ギリシアの多くの[[都市国家]]では、債務奴隷となる期間を5年間に限っており、また債務奴隷は生命と手足については保護されていた。これは通常の奴隷には与えられていない保護であった。ただし、債務者の使用人については債権者がその一線を超えることもあり、新しい主人に死ぬまで仕えさせられることも多かった。そのような場合、労働条件は以前よりずっと過酷であるのが普通であった。 英語の bankruptcy という単語は、古代[[ラテン語]]の''bancus''(台、テーブル)と''ruptus''(壊れた)から生成された。bank(銀行)はもともとは台のことを指している。昔の銀行家たちは、公の場所、市場や定期市などで、台を持ち、そこでお金を徴収したり[[為替手形]]を書いたりしていた。そのため、銀行家が破綻すると、彼はその台を壊し、公衆に、台の所有者はもはや事業を続ける状況にはなくなったということを知らせた。この慣行は[[イタリア]]でよく行われており、bankruptという単語は[[イタリア語]]の''banco rotto''(broken bank)に由来すると言われている。しかし、[[フランス語]]の''banque''(テーブル)と''route''(痕跡・足跡)から来ているとする人もいる。これは、以前は地面に固定されていたが今はなくなってしまったテーブルの、地面に残った跡の隠喩である。このように考える人は、破産者の起源は、[[古代ローマ]]の ''mensarii'' や ''argentarii'' に遡るとする。彼らは公の場所に ''tabernae'' や ''mensae'' という持ち場を持っており、夜逃げをするときや委託されたお金を持って逃げるときには、自分の持ち場の痕跡だけを跡に残して行った。 英米法上、債務の免除を伴う破産制度が導入されたのは、1705年の[[アン (イギリス女王)|アン女王]]時代の制定法においてであり、そこでは、支払不能となった債務については、可能な限りの支払をするための資産を集めるのに協力した破産者に対する報奨として、免除が与えられた。 === 東アジア === [[東アジア]]でも、破産についての記録が残っている。[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]法典には、3回破産をした者に[[死刑]]を科すとの規定があった。 === 現代 === 現代の[[倒産法|倒産法制]]や事業の[[債務整理]]は、清算及び支払不能になった者の排除よりも、経済的困窮に陥った債務者を財政的・組織的に再建し、事業の更生と継続を許すことに重点が置かれてきている。 == 日本 == {{law|section=1}} === 概要 === 法学上の文面でも[[破産]]や[[民事再生]]などのいわゆる法的倒産手続を総称する概念として「倒産」の文言を用いることがあるが、法令上に定義ある語ではない。明治時代に、フランス語の faillite の訳語として「[[破産]]」あるいは「倒産」の語が用いられたが、法令上「破産」の語が用いられるようになったとされている<ref>霜島甲一『倒産法体系』(勁草書房、1990年)4頁</ref>。 日常用語としては経営が行き詰まり会社がなくなる、といった限定的なニュアンスで使われる場合もあるが、倒産の対象となる経済主体は[[会社]]だけではなく個人([[自然人]])も含まれる。また、会社を含む[[法人]]が経済主体の場合であっても、再生型の倒産手続があることから、必ずしも法人がなくなるとは限らない。 1990年代後半以降、会社の倒産についての[[新聞]]などの[[報道]]では、「経営破綻」(または単に「破綻」)という言葉が使われることが多い。日常用語で「(会社が)つぶれる」というのも倒産とほぼ同じ意味で使われる。 どの時点で倒産と評価するかについて、明確な基準はないが、[[東京商工リサーチ]]では、次のような状況になった場合に企業の「倒産」と表現している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tsr-net.co.jp/news/flash/index.html |title=倒産とは? |publisher=東京商工リサーチ |accessdate=2010-10-17 }}</ref>。[[帝国データバンク]]でも同様の基準を用いている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tdb.co.jp/tosan/teigi.html |title=倒産の定義 |publisher=帝国データバンク |accessdate=2008-09-19 }}</ref>。 * 6月以内に2回目の[[手形]][[不渡り]]を出し、[[銀行取引]]停止処分を受けたとき * 裁判所に以下の法的整理手続の申立てをしたとき ** [[会社更生法]]に基づく会社更生手続 ** [[民事再生法]]に基づく再生手続 ** [[破産]]手続 ** [[特別清算]] * 任意整理(私的整理、内整理)を開始したとき : 法的倒産手続によらず、債権者との話し合いにより債務整理を図る方法である。 また、[[雇用保険]]の[[雇用保険#特定受給資格者・特定理由離職者|特定受給資格者]]の「倒産」等により離職した者の定義は #倒産(破産、民事再生、会社更生等の各倒産手続の申立て又は手形取引の停止等) に伴い離職した者 #事業所において大量雇用変動の場合 (1か月に30人以上の離職を予定) の届出が されたため離職した者及び当該事業主に雇用される被保険者の3分の1を超える者が 離職したため離職した者 #事業所の廃止 (事業活動停止後再開の見込みのない場合を含む。)に伴い離職した者 #事業所の移転により、 通勤することが困難となったため離職した者 とある。上記 1. と 3. (任意整理)が東京商工リサーチや帝国データバンクでの倒産の定義に相当する。 毎月中頃、マスメディアを通じて前月倒産件数(4月は前年度倒産件数も)が発表されるが、これは東京商工リサーチと帝国データバンクがマスコミ各社に行ったプレスリリースを基にしている。帝国データバンクは、手形を使用しない商習慣の拡大や、個人情報保護法の施行などの理由により情報収集が困難になったとして、2005年に倒産集計の基準から「銀行取引停止処分」を削除した。東京商工リサーチは独自の情報網を通じての取材活動によれば、「銀行取引停止処分」の集計も可能として、これを維持した。このため、従来の統計との整合性を持つ倒産件数は、東京商工リサーチ発表によるもののみである。 なお、日本国内の[[地方公共団体]]において財政が行き詰まった場合、[[地方財政再建促進特別措置法]](再建法)に基づき、自治体が[[財政再建団体]]の指定を申請し許可を受けることがある。これを指して「自治体の倒産」と表現することがある。 === 事実上の倒産 === 経済主体が企業である場合、''' [[手形]]や[[小切手]]の1回目の[[不渡り]]から6か月以内に2回目の不渡りを出した場合、銀行取引停止処分'''となる。こうなると、すべての銀行において当座取引および貸付を受けることが不可能になるため、企業の資金繰りは断たれる。このような状態をして'''[[事実上]]の倒産'''と呼ぶ。 このような場合でも、法人の解散事由(破産手続の開始等)が生じたわけではないから、法人としての存続は否定されたものではないが、多くの場合、法的倒産処理手続または任意的倒産処理(私的整理)に移行することから、当該時点において「事実上」という言い方を用いる。また、帝国データバンクなどの信用調査会社では、企業が事業停止しかつ事後処理を弁護士に一任した時点で事実上の倒産(この時点で倒産集計には入らないが破産手続に入ることがほぼ確実なため)として倒産情報を出している。 なお、かつて[[新聞]]などでは、再建型の法的倒産処理手続(下節参照)に着手した場合でも「事実上の倒産」という言葉を使用していたが、近年では「事実上の倒産」ではなく、「経営破綻」という言葉を使用する場合が多くなっている(前述)。 === 法的倒産処理手続 === [[裁判所]]の監督の下で行われる倒産処理手続であり、この文脈では、「倒産」は経済主体が経済的に完全に破綻した場合のみならず、破綻するおそれがある場合をも含めて理解するのが一般的である。大まかに分類すると、清算型と再建型に分かれる。 '''清算型'''は、倒産状態になった債務者の財産を換価して債権者に可能な限り弁済することを目的とする制度であり、債務者が法人である場合にはその存続・再建を予定しないのに対し、'''再建型'''は、倒産状態になった債務者の財産を直ちに換価・分配することは必ずしも予定されず、債権者らの権利を変更(債務の減免、期限の猶予=分割弁済など)したうえで、現有財産を基礎にして収益を上げ、権利変更後の債務について弁済すること等により、債務者の事業又は経済生活の経済的再生を目的とする制度であるとされている。 もっとも、両者の差異は相対的なものであることに注意が必要である。清算型に位置づけられる破産手続は、これに付随する免責手続の存在により、いわゆる個人破産(消費者破産)の場面では再建型として事実上機能していることがほとんどであり、再建型に位置づけられる民事再生手続又は会社更生手続において、清算を目的とした再生計画案又は更生計画案が作成されることもある。 また、金融機関等の特殊な業態については、法的倒産処理手続以外に、特別法([[金融機関等の更生手続の特例等に関する法律]])に基づく破綻処理が予定されているものがある。 ==== 清算型手続 ==== ;[[破産|破産手続]] :[[破産法]](平成16年法律第75号)により規律される手続であり、裁判所が選任した[[破産管財人]]が支払不能又は債務超過の状態にある者の財産を清算することを目的とした手続である。もっとも、消費者破産の急増により、個人が破産を申し立てる場合は、破産手続開始の決定はしつつも手続費用の不足を理由に破産管財人を選任しないことが多く([[破産廃止#同時廃止|同時廃止]])、その結果、財産の換価・清算ではなく、専ら免責を得るために手続が利用されることが多い。 :破産者を更生させ、人間に値する生活を営む権利を保障することも必要であり、さらに、もし免責を認めないとすれば、債務者は概して資産状態の悪化を隠し、最悪の事態にまで持ちこむ結果となって、却って債権者を害する場合が少くないから、免責は債権者にとっても最悪の事態をさける所以である。これらの点から見て、免責の規定は、[[公共の福祉]]のため[[日本国憲法|憲法上]]許された必要かつ合理的な[[財産権]]の制限である<ref>最高裁昭和36年(ク)第101号同36年12月13日大法廷決定民集第15巻11号2803頁</ref>。 ;[[特別清算]]手続 :[[会社法]](平成17年法律第86号)[[b:第2編第9章 清算 (コンメンタール会社法)#2-1|第2編第9章第2節第1款]]により規律される手続であり、解散して'''清算手続に入った[[株式会社]]'''([[特例有限会社]]は不可)について、清算の遂行に著しい支障を来す事情がある場合や、債務超過の疑いがある場合に、[[清算人]]が裁判所の監督の下で清算を行う手続である。会社法に組み込まれている手続であり独立した[[法典]]が存在しないが、倒産四法制の一つとして位置づけられている。破産手続と異なり、原則として従前の清算人がそのまま清算手続を行う。 ==== 再建型手続 ==== ;[[民事再生|民事再生手続]] :[[民事再生法]](平成11年法律第225号)により規律される手続であり、経済的に窮境にある者について、債権者の多数の同意を得てかつ裁判所の認可を受けた再生計画を定めること等により、事業又は経済生活の再生を図ることを目的とする手続である。和議法(大正11年法律第72号)により規律されていた和議手続に代わるものとして設けられた(民事再生法の制定に伴い和議法は廃止)。民事再生手続の対象となる経済主体は特に限定されていないが、個人が手続を利用しやすくするために、'''小規模個人再生'''及び'''給与所得者等再生'''に関する特則([[個人再生]]手続)が設けられている。 ;会社更生手続 :[[会社更生法]](平成14年法律第154号)により規律される手続であり、窮境にある'''株式会社'''(特例有限会社を含む)について、裁判所の監督の下に、裁判所が選任した[[更生管財人]]を中心として債権者や株主その他の利害関係人の利害を調整し、株式会社の事業の維持更生を図ることを目的とする手続である。 ;協同組織金融機関の更生手続 :[[金融機関等の更生手続の特例等に関する法律]]により規律される手続であり、[[信用協同組合]]、[[信用金庫]]または[[労働金庫]]を対象とする。 ;相互会社の更生手続 :金融機関等の更生手続の特例等に関する法律により規律される手続であり、[[相互会社]]を対象とする。 ;[[特定調停|特定調停手続]] :[[特定債務等の調整の促進のための特定調停に関する法律]](平成11年法律第158号)により規律される手続であり、支払不能に陥る恐れのある者の経済的再生を資するための調停手続として、[[民事調停法]](昭和26年法律第222号)の特例として設けられた手続である。いわゆる倒産処理手続のカテゴリーには含まれないことが多いが、現実的には、消費者破産を回避するために利用されることが多いため、倒産処理手続として把握される場合もある。 ;(会社整理手続) :[[商法]]旧第2編第4章第7節により規律されていた手続であり、支払不能又は債務超過に陥るおそれがある'''株式会社'''について、裁判所の監督の下に、利害関係者の協力を得て整理案をまとめ、会社の維持を図る手続である。債権者の多数決制度が採られていない等の問題があることや、民事再生法の制定により利用価値が激減したこともあり、[[会社法]]の施行に伴い廃止された。 === 任意的倒産処理 === :債務者が債権者らと任意に協議して財産関係を処理することをいう。法的倒産手続とは異なり、債権者と債務者の当事者間での合意に基づいて債権を処理するものである。 :大別して、法令または業界団体等のガイドラインに準拠して行われる[[準則型私的整理]](例として[[ADR]]一般や、[[自然災害債務整理ガイドライン]]など)と、債権者及び債務者が(多くの場合代理人弁護士を介して)全くの任意に交渉を行う[[純粋私的整理]]に分類されることが多い。 :債務者が個人である場合には経済的再生を目的とすることになるが、法人である場合には清算を目的とすることも再生を目的とすることもある。[[債権者]]が[[消費者金融]]、[[クレジット会社]]、[[銀行]]などの場合は、債務者本人が任意整理をしようとしても債権者がこれを相手にすることは少ないため、通常は[[弁護士]]や[[司法書士|認定司法書士]]などに依頼することになる。債権者らが消費者金融の場合、[[約定利息]]を[[利息制限法]]に引きなおすことで債務額を減額し、また36回から60回程度の分割払いで和解することによって債務を整理することが多い。 ;純粋私的整理(任意整理・内整理) :[[純粋私的整理]]では、法的倒産処理手続と異なり公の機関による監督がないため、時間的・経済的に有利ともいえるが、整理案に反対する債権者を拘束する手段がないことや、不平等な整理案が作られる可能性が高いなど不正が行われやすい弊害もある。複数の金融機関が関与する私的整理手続においては、私的整理を実現するためには、主導権を握る主要貸付を行った金融機関(メインバンク)が、他の金融機関の貸付を実質的肩代わりを余儀なくされる「メイン寄せ」の問題があることが、私的整理手続による債務整理の利用の障害となる問題がある。 ;準則型私的整理 :[[準則型私的整理]]では、各準則は対象となる債権者に対し事実上の拘束力(所管官庁又は業界団体としての監督権限を背景とするものなど)を有することがほとんどであるうえ、準則によっては弁護士・税理士・公認会計士等の専門家が関与する体制が整備されているため、上記のような問題は生じづらい。他方、対象となる債権者の範囲に制限がある(例えば、[[自然災害債務整理ガイドライン]]は原則として金融機関のみが対象となり、債務者が自営業者であっても取引債権者は対象とすることができない。同ガイドライン3.(2)本文。)など、一定の限界がある。 :2001年9月に私的整理に関するガイドライン委員会が作成した「[http://www.nta.go.jp/shiraberu/zeiho-kaishaku/bunshokaito/hojin/050511/guideline.pdf 私的整理に関するガイドライン]」を参照。 ;[[産業活力の再生及び産業活動の革新に関する特別措置法]]所定の特定認証紛争解決手続([[事業再生ADR]]手続) :準則型私的整理の一種である。特定認証紛争解決事業者である[[事業再生実務家協会]]がその運営を担っている。 :詳細は[[事業再生ADR]]の項目を参照。 === 日本で特に負債額の大きかった倒産 === * デフォルトでは'''負債額'''の降順に配列。ただし金融機関については、監督当局による経営破綻認定後に、預金や契約の解約により負債総額が減少するため基準日をいつにするかで負債額は大きく変化する。 {| class="sortable wikitable" style="line-height:1.4em; font-size:95%;" |- ! 社名 !! {{Nowrap|倒産年月}} !! {{Nowrap|負債額}} !! 業種 !! 倒産形態 |- | {{Display none|きようえいせいめいほけん/}}[[協栄生命保険]] || 2000年10月 || {{Display none|45297-}}4兆5297億円 || {{Display none|04-生保/}}[[生命保険]]業 || [[金融機関等の更生手続の特例等に関する法律|更生特例法]] |- | {{Display none|にほんちようきしんようきんこう/}}[[日本長期信用銀行]] || 1998年10月 || {{Display none|36000-}}約3兆6000億円<ref group="注釈">公的資金での2000年3月末時点での債務超過の損失補てん分(全てが損失となる返済義務のない金銭贈与3兆2350億円を含む。別途、瑕疵担保条項行使による負担発生。)グループ64社では約5兆2900億円 </ref>|| {{Display none|01-銀行/}}[[長期信用銀行]] || [[金融機能の再生のための緊急措置に関する法律|金融再生法]]による<br />[[特別危機管理銀行|特別公的管理]](一時国有化) |- | {{Display none|やまいちしようけん/}}[[山一證券]] || 1997年11月 || {{Display none|35085-}}3兆5085億円<ref group="注釈">5100億円説もあり。</ref> || {{Display none|04-証券/}}[[金融商品取引業|証券業]] || 破産 |- | {{Display none|りいまんふらさあす/}}[[リーマン・ブラザーズ|リーマン・ブラザーズ証券]]<br />(日本法人) || 2008年09月 || {{Display none|34000-}}約3兆4000億円 || {{Display none|04-証券/}}証券業 || 民事再生法 |- | {{Display none|にほんさいけんしんようきんこう/}}[[日本債券信用銀行]] || 1998年12月 || style="white-space:nowrap;" | {{Display none|32000-}}約3兆2000億円<ref group="注釈">公的資金での2000年9月はじめ時点での債務超過の損失補てん分(全てが損失となる返済義務のない金銭贈与3兆1414億円含む。別途、瑕疵担保条項行使による負担発生。)グループ67社では約3兆9400億円。 </ref>|| {{Display none|01-銀行/}}長期信用銀行 || [[金融機能の再生のための緊急措置に関する法律|金融再生法]]による<br />[[特別危機管理銀行|特別公的管理]](一時国有化) |- | {{Display none|ちよたせいめいほけん/}}[[千代田生命保険]] || 2000年10月 || {{Display none|29366-}}2兆9366億円 || {{Display none|04-生保/}}生命保険業 || 更生特例法 |- | {{Display none|ほつかいとうたくしよくきんこう/}}[[北海道拓殖銀行]] || 1997年11月 || {{Display none|23433-}}2兆3433億円 || {{Display none|01-銀行/}}[[都市銀行]] || 解散、営業譲渡 |- | {{Display none|にほんりいす/}}[[日本リース]] || 1998年{{Display none|0}}9月 || {{Display none|21803-}}2兆1803億円 || {{Display none|03-金融・リース/}}各種[[リース]]・金融 || 会社更生法 |- | {{Display none|まいかる/}}[[マイカル]] || 2001年9月 || {{Display none|15482-}}1兆5482億円 || {{Display none|07-総合/}}[[総合スーパー|総合小売業]] || 民事再生法 |- | {{Display none|にほんこうくういんたあなしよなる/}}[[日本航空|日本航空インターナショナル]]|| 2010年{{Display none|0}}1月 || {{Display none|15279-}}1兆5279億円<ref name="nihonkoukuu" group="注釈">[[日本航空]]・日本航空インターナショナル・ジャルキャピタル(いずれも会社更生法)の3社で2兆3221億円。</ref> || {{Display none|09-他/}}空運 || 会社更生法 |- | {{Display none|たかた/}}[[タカタ (企業)|タカタ]] || 2017年{{Display none|0}}6月 || {{Display none|15024-}}約1兆5024億円 || {{Display none|08-製造/}}[[製造業]] || 民事再生法 |- | {{Display none|くらうんりいしんく/}}[[クラウン・リーシング]] || 1997年{{Display none|0}}4月 || {{Display none|11874-}}1兆1874億円 || {{Display none|03-金融・リース/}}総合リース業 || 破産 |- | {{Display none|まれりほーるでぃんぐすく/}}[[マレリホールディングス]] || 2022年{{Display none|0}}6月 || {{Display none|11330-}}1兆1330億円 || {{Display none|08-製造/}}[[製造業]] || 民事再生法 |- | {{Display none|きつしんようくみあい/}}[[木津信用組合]] || 1995年{{Display none|0}}8月 || {{Display none|10044-}}1兆44億円 <ref group="注釈">公的資金での金銭贈与額(平成9年2月実施)</ref> || {{Display none|01-銀行/}}[[信用協同組合]] || [[整理回収機構]]に営業譲渡 |- | {{Display none|にちえいふあいなんす/}}[[日本保証|日榮ファイナンス]] || 1996年10月 || {{Display none|10000-}}1兆円 || {{Display none|03-金融・リース/}}[[住宅金融専門会社|住宅金融]][[機関保証|保証]] || 商法による会社整理 |- | {{Display none|とうきようせいめいほけん/}}[[東京生命保険]] || 2001年3月 || {{Display none|09802-}}9802億円 || {{Display none|04-生保/}}生命保険業 || 更生特例法 |- | {{Display none|らいふ/}}[[ライフ (信販)|ライフ]] || 2000年{{Display none|0}}5月 || {{Display none|09663-}}9663億円 || {{Display none|03-金融・リース/}}信販・クレジット || 会社更生法 |- | {{Display none|すえのこうさん/}}[[末野興産]] || 1996年11月 || {{Display none|07160-}}7160億円 || {{Display none|06-不動産/}}[[デベロッパー (開発業者)|不動産開発]] || 破産 |- | {{Display none|そこう/}}[[そごう]] || 2000年{{Display none|0}}7月 || {{Display none|06891-}}6891億円<ref group="注釈">グループ21社(民事再生法・自己破産・特別清算)合計で約1兆8000億円。内訳は千葉そごう4054億円、廣島そごう3282億円、横浜そごう1955億円など。</ref> || {{Display none|07-総合/}}[[百貨店]]業 || 民事再生法 |- | {{Display none|にほんこうくう/}}[[日本航空 (持株会社)|日本航空]] || 2010年{{Display none|0}}1月 || {{Display none|06715-}}6715億円<ref name="nihonkoukuu" group="注釈"></ref> || {{Display none|09-他/}}空運 || 会社更生法 |- | {{Display none|とうしよく/}}[[東食]] || 1997年12月 || {{Display none|06194-}}約6397億円 || {{Display none|07-商社/}}[[商社|食品商社]] || 会社更生法 |- | {{Display none|にほんしんこうきんこう/}}[[日本振興銀行]] || 2010年{{Display none|0}}9月 || {{Display none|06194-}}約6194億円 || {{Display none|01-銀行/}}[[銀行|銀行業]] || 民事再生法 |- | {{Display none|にほんとおたるふあいなんす/}}[[日本トータルファイナンス]] || 1997年{{Display none|0}}4月 || {{Display none|06180-}}6180億円 || {{Display none|03-金融・リース/}}総合リース業 || 破産 |- | {{Display none|たくきんほしよう/}}[[たくぎん保証]] || 1998年{{Display none|0}}3月 || {{Display none|06100-}}6100億円 || {{Display none|03-金融・リース/}}各種[[リース]]・金融 || 破産 |- | {{Display none|むらもとけんせつ/}}[[村本建設]] || 1993年11月 || {{Display none|05900-}}5900億円 || {{Display none|06-ゼネコン/}}ゼネコン || 会社更生法 |- | {{Display none|あさふたてもの/}}[[麻布建物]] || 2007年6月 || {{Display none|05648-}}5648億円 || {{Display none|06-不動産/}}不動産開発 || 会社更生法 |- | {{Display none|にほんひるふろしえくと/}}[[日本ビルプロヂェクト]] || 2000年6月 || {{Display none|05648-}}5648億円 || {{Display none|06-不動産/}}不動産開発 || 民事再生法 |- | {{Display none|いんたありいす/}}[[インターリース]] || 2000年11月 || {{Display none|05600-}}5600億円 || {{Display none|03-金融・リース/}}各種[[リース]]・金融 || 特別清算 |- | {{Display none|たくきんていとうしようけん/}}[[たくぎん抵当証券]] || 1997年11月 || {{Display none|05391-}}5391億円|| {{Display none|04-証券/}}[[抵当証券|証券業]] || 破産 |- | {{Display none|さんこうきせん/}}[[三光汽船]] || 1985年8月 || {{Display none|05200-}}5200億円 || {{Display none|09-他/}}[[海運]] || 会社更生法 |- | {{Display none|にほんもおけえし/}}日本モーゲージ || 1994年10月 || {{Display none|05185-}}5185億円 || {{Display none|03-金融・リース/}}不動産担保ローン || 特別清算 |- | {{Display none|せいようかんきようかいはつ/}}[[西洋環境開発]] || 2000年{{Display none|0}}7月 || {{Display none|05175-}}5175億円 || {{Display none|06-不動産/}}不動産開発 || 特別清算 |- | {{Display none|とうかいこうきよう/}}東海興業 || 1997年7月 || {{Display none|05110-}}5110億円 || {{Display none|06-ゼネコン/}}ゼネコン || 会社更生法 |- | {{Display none|えぬいいていい/}}[[エヌーイーディー]] || 1999年{{Display none|0}}3月 || {{Display none|05100-}}5100億円 || {{Display none|03-金融・リース/}}ベンチャーキャピタル || 特別清算 |- | {{Display none|かふとてこむ/}}[[カブトデコム]] || 2013年{{Display none|0}}4月 || {{Display none|05061-}}5061億円 || {{Display none|06-不動産/}}[[デベロッパー (開発業者)|不動産開発]] || 特別清算 |- |{{Display none|はなそにつくふらすまていす/}}[[パナソニック プラズマディスプレイ]] || 2016年11月 || {{Display none|05000-}}5000億円 || {{Display none|08-製造/}}製造業 || 特別清算 |- | {{Display none|えすていていかいはつ/}}[[エスティティ開発]] || 2002年10月 || {{Display none|04922-}}4922億円 || {{Display none|06-不動産/}}ゴルフ場経営 || 民事再生 |- | {{Display none|あほろりいす/}}[[アポロリース]] || 1999年{{Display none|0}}3月 || {{Display none|04900-}}4900億円 || {{Display none|03-金融・リース/}}賃貸・リース || 特別清算 |- | {{Display none|いあいいいんたあなしよなる/}}[[イ・アイ・イ・インターナショナル]] || 2000年{{Display none|0}}6月 || {{Display none|04764-}}4764億円 || {{Display none|06-不動産/}}[[デベロッパー (開発業者)|不動産開発]] || 破産 |- | {{Display none|にほんらんていつく/}}[[日本ランディック]] || 1999年{{Display none|0}}5月 || {{Display none|04708-}}4708億円 || {{Display none|06-不動産/}}[[不動産]] || 特別清算 |- | {{Display 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none|たいせいかさいかいしようほけん/}}[[大成火災海上保険]] || 2001年11月 || {{Display none|04131-}}4131億円 || {{Display none|04-生保/}}損害保険業 || 更生特例法 |- | {{Display none|にほんこくとかいはつ/}}[[日本国土開発]] || 1998年12月 || {{Display none|04067-}}4067億円 || {{Display none|06-不動産/}}不動産開発 || 会社更生法 |- | {{Display none|めくみかわ/}}[[恵川 (料亭)|恵川]] || 1991年{{Display none|0}}8月 || {{Display none|04100-}}4100億円 || {{Display none|07-総合/}}料亭 || 任意整理 |- | {{Display none|あおきけんせつ/}}[[青木建設]] || 2001年12月 || {{Display none|03900-}}3900億円 <ref group="注釈">別に1999年3月に債務免除2049億円</ref> || {{Display none|06-ゼネコン/}}ゼネコン || 会社更生法 |- | {{Display none|にほんしんようふあいなんすさあひす/}}[[日本信用ファイナンスサービス]] || 1997年{{Display none|0}}4月 || {{Display none|03784-}}3784億円 || {{Display none|03-金融・リース/}}総合リース業 || 破産 |- | {{Display none|さんようしようけん/}}[[三洋証券]] || 1997年11月 || {{Display none|03736-}}3736億円|| {{Display none|04-証券/}}[[金融商品取引業|証券業]] || 会社更生法 |- | {{Display none|ひようきんふあくたあ/}}[[兵銀ファクター]] || 1995年11月 || {{Display none|03692-}}3692億円 || {{Display none|02-貸金/}}債券保証 || 特別清算 |- | {{Display none|あさひしゆうけん/}}[[朝日住建]] || 2003年{{Display none|0}}9月 || {{Display none|03600-}}約3600億円 || {{Display none|06-不動産/}}不動産開発 || 破産 |- | {{Display none|ええしいりあるえすてえと/}}エー・シー・リアルエステート (旧[[フジタ]])|| 2005年11月 || {{Display none|03526-}}3526億円 <ref group="注釈">旧フジタは2002年10月会社分割、建設事業(新フジタ)と不動産事業(エー・シー・リアルエステート)に。分割時旧フジタは連結有利子負債約8600億円あり、新フジタに約2700億円、エーシーは約3500億円</ref>|| {{Display none|06-不動産/}}[[不動産]] || 民事再生法 |- | {{Display none|えすえふしいしい/}}[[SFCG]] || 2009年{{Display none|0}}2月 || {{Display none|03380-}}3380億円 || {{Display none|02-貸金/}}事業者向け貸金業 || 民事再生法→破産 |- | {{Display none|やまいちとちたてもの/}}[[山一土地建物]] || 1997年12月 || {{Display none|03350-}}3350億円 || {{Display none|06-不動産/}}不動産開発 || 破産 |- | {{Display none|えすこりいす/}}[[エスコリース]] || 2001年{{Display none|0}}5月 || {{Display none|03350-}}3350億円 || {{Display none|02-貸金/}}事業者向け貸金業 || 破産 |- | {{Display none|はしふいつくもおけえし/}}[[パシフィックモーゲージ]] || 2001年11月 || {{Display none|03339-}}3339億円 || {{Display none|02-貸金/}}不動産担保貸付 || 破産 |- | {{Display 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民事再生法 |- | {{Display none|にちほうしん/}}[[日貿信]] || 2000年{{Display none|0}}4月 || {{Display none|02899-}}2899億円 || {{Display none|02-貸金/}}事業者向け貸金業 || 民事再生法 |- | {{Display none|につとうこうきよう/}}[[日東興業]] || 2002年{{Display none|0}}7月 || {{Display none|02867-}}2867億円 || {{Display none|06-不動産/}}ゴルフ場経営 || 民事再生法 |- | {{Display none|まるこお/}}[[マルコー]] || 1991年8月 || {{Display none|02858-}}2858億円 || {{Display none|06-不動産/}}不動産 || 会社更生法 |- | {{Display none|ふえにつくすりそおと/}}[[フェニックスリゾート]] || 2001年{{Display none|0}}2月 || {{Display none|02762-}}2762億円 || {{Display none|06-不動産/}}第三セクター || 会社更生法 |- | {{Display none|しまのうちとちたてもの/}}[[島之内土地建物]] || 1995年{{Display none|0}}3月 || {{Display none|02725-}}2725億円 || {{Display none|06-不動産/}}不動産開発 || 任意整理 |- | {{Display none|たいにほんとほく/}}[[大日本土木]] || 2002年{{Display none|0}}7月 || {{Display none|02712-}}2712億円 || {{Display none|06-ゼネコン/}}ゼネコン || 会社更生法 |- | {{Display none|おさひる/}}[[長ビル]] || 1999年{{Display none|0}}4月 || {{Display none|02700-}}約2700億円 || {{Display none|06-不動産/}}不動産 || 特別清算 |- | {{Display none|たいわせいめいほけん/}}[[大和生命保険]] || 2008年10月 || {{Display none|02695-}}2695億円 || {{Display none|04-生保/}}生命保険業 || 会社更生法 |- | {{Display none|ふああすとくれしつと/}}[[ファーストクレジット]] || 2002年{{Display none|0}}3月 || {{Display none|02605-}}2605億円 || {{Display none|03-金融・リース/}}不動産担保融資 || 会社更生法 |- | {{Display none|ああはんこおほれえしよん/}}[[アーバン・コーポレーション]] || 2008年8月 || {{Display none|02558-}}2558億円 || {{Display none|06-不動産/}}[[デベロッパー (開発業者)|不動産開発]] || 民事再生法 |- | {{Display none|おおくらしようし/}}[[大倉商事]] || 1998年{{Display none|0}}7月 || {{Display none|02528-}}約2528億円 || {{Display none|07-商社/}}[[商社]] || 自己破産 |- | {{Display none|ろふろ/}}[[日本保証|ロプロ]] || 2009年11月 || {{Display none|02500-}}約2500億円<ref group="注釈">過払い金債権を含めた額。</ref> || {{Display none|02-貸金/}}事業者向け貸金業 || 会社更生法 |- | {{Display none|えるとしかいはつ/}}[[エル都市開発]] || 1999年{{Display none|0}}6月 || {{Display none|02419-}}2419億円 || {{Display none|06-不動産/}}不動産 || 特別清算 |- | {{Display none|つつきほうせき/}}[[都築紡績]] || 2003年11月 || {{Display none|02418-}}約2418億円 || {{Display none|08-製造/}}製造業 || 会社更生法 |- | {{Display none|しやはんらいふ/}}[[ジャパンライフ]] || 2017年12月 || {{Display none|02405-}}2405億円 || {{Display none|09-他/}}卸・販売|| 銀行取引停止 |- | {{Display none|ひようきんりいす/}}[[兵銀リース]] || 1995年{{Display none|0}}9月 || {{Display none|02341-}}2341億円 || {{Display none|03-金融・リース/}}賃貸・リース || 特別清算 |- | {{Display none|やまてこおほれえしよん/}}[[山手コーポレーション]] || 1998年{{Display none|0}}3月 || {{Display none|02300-}}約2300億円 || {{Display none|03-金融・リース/}}不動産担保ローン || 特別清算 |- | {{Display none|はうすてんほす/}}[[ハウステンボス]] || 2003年{{Display none|0}}2月 || {{Display none|02289-}}2289億円 || {{Display none|06-不動産/}}観光 || 会社更生法 |- | {{Display none|にいかたてつこう/}}[[新潟鐵工所]] || 2001年11月 || {{Display none|02270-}}約2270億円 || {{Display none|08-製造/}}製造業 || 会社更生法 |- | {{Display none|えふああるいい/}}[[エフ・アール・イー]] || 2007年{{Display none|0}}1月 || {{Display none|02223-}}2223億円 || {{Display none|06-不動産/}}[[デベロッパー (開発業者)|不動産開発]] || 破産 |- | {{Display none|ひようこふあいなんす/}}[[兵庫ファイナンス]] || 1995年{{Display none|0}}9月 || {{Display none|02172-}}2172億円 || {{Display none|02-貸金/}} 事業者向け貸金業|| 特別清算 |- | {{Display none|もりもとくみ/}}[[森本組]] || 2003年10月 || {{Display none|02513-}}2153億円 || {{Display none|06-ゼネコン/}}ゼネコン || 民事再生法 |- | {{Display none|ことふきや/}}[[カリーノ|壽屋]] || 2001年12月 || {{Display none|02126-}}2126億円 || {{Display none|07-総合/}}[[総合スーパー|総合小売業]] || 民事再生法 |- | {{Display none|すほおつしんこう/}}[[スポーツ振興]] || 2002年{{Display none|0}}2月 || {{Display none|02109-}}2109億円 || {{Display none|06-不動産/}}ゴルフ場経営 || 会社更生法 |- | {{Display none|ういるこむ/}}[[ウィルコム]] || 2010年{{Display none|0}}2月 || {{Display none|02060-}}2060億円 || {{Display none|09-他/}}通信業([[PHS]]事業) || 会社更生法 |- | {{Display none|みたこうきよう/}}[[京セラドキュメントソリューションズ|三田工業]] || 1998年{{Display none|0}}8月 || {{Display none|02057-}}約2057億円 || {{Display none|08-製造/}}製造業 || 会社更生法 |- | {{Display none|しんこお/}}[[シンコー]] || 2005年{{Display none|0}}2月 || {{Display none|02020-}}2020億円 || {{Display none|06-不動産/}}ゴルフ場経営 || 民事再生法 |- | {{Display none|ふしひる/}}[[フジビル]] || 1999年{{Display none|0}}3月 || {{Display none|02000-}}約2000億円 || {{Display none|06-不動産/}}不動産|| 特別清算 |- | {{Display none|こうしまちとちたてもの/}}[[麹町土地建物]] || 2003年11月 || {{Display none|02000-}}約2000億円 || {{Display none|06-不動産/}}不動産開発 || 破産 |- | {{Display none|にほんそうこうちしよ/}}[[大和地所レジデンス|日本綜合地所]] || 2009年{{Display none|0}}2月 || {{Display none|01975-}}1975億円 || {{Display none|06-不動産/}}[[デベロッパー (開発業者)|不動産開発]] || 会社更生法 |- | {{Display none|むつおかわはらかいはつ/}}[[むつ小川原開発]] || 2000年{{Display none|0}}9月 || {{Display none|01852-}}1852億円 || {{Display none|06-不動産/}}第三セクター || 特別清算 |- | {{Display none|ふしかんとりい/}}[[富士カントリー]] || 2004年12月 || {{Display none|01800-}}約1800億円 || {{Display none|06-不動産/}}ゴルフ場経営 || 特別清算 |- | {{Display none|たたけんせつ/}}[[多田建設]] || 1997年{{Display none|0}}7月 || {{Display none|01714-}}1714億円 || {{Display none|06-ゼネコン/}}ゼネコン || 会社更生法 |- | {{Display none|えぬえすあある/}}[[エヌ・エス・アール]]<br />(旧 山万アーバンフロント) || 2014年{{Display none|0}}2月 || {{Display none|01650-}}1650億円 || {{Display none|06-不動産/}}[[不動産]] || 破産 |- | {{Display none|はしふいつくほおるていんくす/}}[[パシフィックホールディングス]] || 2009年{{Display none|0}}3月 || {{Display none|01636-}}1636億円 || {{Display none|06-不動産/}}[[不動産投資]] || 会社更生法 |- | {{Display none|やおはんしやはん/}}[[ヤオハンジャパン]] || 1997年{{Display none|0}}9月 || {{Display none|01614-}}1614億円 || {{Display none|07-総合/}}[[総合スーパー|総合小売業]] || 会社更生法 |- | {{Display none|たいとこうきよう/}}[[大都工業]] || 1997年{{Display none|0}}8月 || {{Display none|01592-}}1592億円 || {{Display none|06-ゼネコン/}}ゼネコン || 会社更生法 |- | {{Display none|こうしん/}}[[興人]] || 1975年{{Display none|0}}8月 || {{Display none|01480-}}1480億円<ref group="注釈">関連企業分を含めると2000億円を超える。</ref> || {{Display none|08-製造/}}[[合成繊維]]・[[パルプ]]<br />不動産開発 || 会社更生法<br />→更生終結 |- | {{Display none|しよいんとこおほれえしよん/}}[[ジョイント・コーポレーション]] || 2009年{{Display none|0}}5月 || {{Display none|01476-}}1476億円 || {{Display none|06-不動産/}}[[デベロッパー (開発業者)|不動産開発]] || 会社更生法 |- | {{Display none|とうきようりんかいふくとしんけんせつ/}}[[東京臨海副都心建設]] || 2006年{{Display none|0}}5月 || {{Display none|01440-}}約1440億円 || {{Display none|06-不動産/}}第三セクター || 民事再生法 |- | {{Display none|とまこまいとうふかいはつ/}}[[苫小牧東部地域|苫小牧東部開発]] || 1999年{{Display none|0}}9月 || {{Display none|01423-}}1423億円 || {{Display none|06-不動産/}}第三セクター || 特別清算 |- | {{Display none|ひようこくれしつとさあひす/}}[[兵庫クレジットサービス]] || 1995年{{Display none|0}}8月 || {{Display none|01403-}}1403億円 || {{Display none|02-貸金/}} 貸金業|| 民事再生法 |- | {{Display none|あなふきこうむてん/}}[[穴吹工務店]] || 2009年11月 || {{Display none|01400-}}1400億円 || {{Display none|06-不動産/}}不動産<br />マンション建設・販売 || 会社更生法 |- | {{Display none|えいたいさんきよう/}}[[永大産業]] || 1978年{{Display none|0}}2月 || {{Display none|01350-}}1350億円<ref group="注釈">子会社も含めると1800億円。</ref> || {{Display none|08-製造/}}[[合板]]製造 || 会社更生法<br />→更生終結 |- | {{Display none|はやしはら/}}[[林原 (企業)|林原]] || 2011年{{Display none|0}}2月<ref group="注釈">会社更生法を申請した年月</ref> || {{Display none|01277-}}1277億円<ref group="注釈">グループ会社も含めると2281億円。</ref> || {{Display none|08-製造/}}[[医薬品]]・[[食品]]原料製造|| 事業再生ADR手続<br />→会社更生法 |- | {{Display none|あしあたいへいようとれえとせんたあ/}}[[アジア太平洋トレードセンター]] || 2003年{{Display none|0}}6月 || {{Display none|01263-}}約1263億円 || {{Display none|06-不動産/}}第三セクター || 特定調停 |- | {{Display none|おおさわしようかい/}}[[大沢商会]] || 1984年{{Display none|0}}2月 || {{Display none|01250-}}1250億円 || {{Display none|07-総合/}}[[商社#総合商社|総合商社]] || 会社更生法<br />→更生終結 |- | {{Display none|たいいちちゆうおうきせん/}}[[第一中央汽船]] || 2015年10月 || {{Display none|01197-}}1197億円 || {{Display none|09-他/}}[[海運]] || 民事再生法 |- | {{Display none|たけしはちいきかいはつ/}}[[竹芝地域開発]] || 2006年{{Display none|0}}5月 || {{Display none|01190-}}約1190億円 || {{Display none|06-不動産/}}第三セクター || 民事再生法 |- | {{Display none|とうきようてれほおとせんたあ/}}[[東京テレポートセンター]] || 2006年{{Display none|0}}5月 || {{Display none|01170-}}約1170億円 || {{Display none|06-不動産/}}第三セクター || 民事再生法 |- | {{Display none|りつかあ/}}[[リッカー]] || 1984年{{Display none|0}}7月 || {{Display none|01100-}}1100億円 || {{Display none|08-製造/}}[[ミシン]]製造 || [[強制和議|和議]]→会社更生法<br />→更生終結 |- |{{Display none|えむていえいそうていす/}}[[MT映像ディスプレイ]] || 2019年{{Display none|0}}2月 || {{Display none|01050-}}1050億円 || {{Display none|08-製造/}}製造業 || 特別清算 |- | {{Display none|あしかかきんこう/}}[[足利銀行]] || 2003年10月 || {{Display none|01023-}}1023億円 || {{Display none|01-銀行/}}[[地方銀行]] || [[特別危機管理銀行]]指定<br />→一時国有化 |- | {{Display none|あたかさんきよう/}}[[安宅産業]] || 1977年10月 || {{Display none|01000-}}1000億円以上 || {{Display none|07-総合/}}総合商社 || 吸収合併 |}<!-- よみがなのソートキーは濁音や半濁音・「っ」「ゃ」「ゅ」「ょ」などすべて清音に直してください 負債額の欄のソートキーは負債額に合わせた5桁の数字で統一してください 業種欄のソートキー * {{Display none|01-銀行/}} * {{Display none|02-貸金/}} * {{Display none|03-金融・リース/}} * {{Display none|04-証券/}} * {{Display none|05-生保/}} * {{Display none|06-不動産/}}不動産業およびゼネコン * {{Display none|07-総合/}} * {{Display none|08-製造/}} * {{Display none|09-他/}} --> == カナダ == [[カナダ]]における倒産は、破産・支払不能法([[:en:Bankruptcy and Insolvency Act (Canada)|Bankruptcy and Insolvency Act]])という連邦法により定められており、企業と個人の双方に適用される。連邦政府の破産監督局([[:en:Superintendent of Bankruptcy|Superintendent of Bankruptcy]])が、倒産手続が公正かつ秩序立って執行されるようにする責任を負っている。破産管財人が破産財団を管理する。 === 管財人の職務 === 管財人は、次のような職務を負っている。 * 詐欺的な優先弁済権や否認の対象となる取引がないか記録を調査すること。 * 債権者集会を主宰すること。 * 免除の対象となるもの以外の資産を売却すること。 * 破産者の免責に異議を申し立てること。 * 債権者に資金を配分すること。 === 債権者集会 === 債権者は、債権者集会に出席することにより手続に参加する。管財人が招集する第1回債権者集会は、次のような目的を持っている。 * 破産者の問題を検討すること。 * 管財人の任命を承認するか、別の管財人をもって代えること。 * 検査人を任命すること。 * 資産の管理に関して債権者が妥当と考える指示を管財人に与えること。 === 消費者提案 === カナダでは、個人は、破産の代わりに、消費者提案(consumer proposal)を申し立てることができる。消費者提案は、債務者と債権者らとの間での交渉による解決である。 典型的な消費者提案は、債務者が最長で5年間、毎月支払を行い、資金を債権者らに配分するというものである。ほとんどの提案は債務の総額よりも支払額を少なくすることを求めるものだが、ほとんどのケースで、債権者らは取引に応じる。なぜなら、そうしなければ、次の選択肢は個人破産であり、その場合債権者らの受け取る金額は更に少なくなるからである。債権者らは、消費者提案を受け入れるか拒否するかの選択に45日間の猶予期間がある。一度提案が受け入れられると、債務者は提案執行者に毎月支払を行い、債権者らはそれ以上の訴訟や執行を行うことができなくなる。提案が拒否された場合は、債務者は個人破産の宣言をするほか選択肢がないこともある。 消費者提案を行えるのは、債務額が5000[[カナダドル|ドル]]を超え、7万5000ドルまで(主たる居住地の抵当権を含まない)の場合に限られる。債務額が7万5000ドルを超える場合、破産・支払不能法第3編第1部の下に提案を申し立てなければならない。提案執行者の補助が必要である。提案執行者は、破産管財人の資格を持った者がなるのが一般的であるが、破産監督局が他の人を執行者に任命することもできる。 2006年において、カナダでは9万8450件の個人からの支払不能の申立てがあった。うち7万9218件が破産、1万9232件が消費者提案である<ref>{{cite web |url=http://strategis.ic.gc.ca/epic/site/bsf-osb.nsf/en/br01702e.html |title=Insolvency in Canada in 2006 |publisher=Office of the Superintendent of Bankruptcy (Industry Canada) |date=2007-02-05 |accessdate=2008-09-19 |language=英語 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070329033435/http://strategis.ic.gc.ca/epic/site/bsf-osb.nsf/en/br01702e.html |archivedate=2007年3月29日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。 == ヨーロッパ == 2004年には、ヨーロッパ各国で倒産の増加率が今までにない高い数字に上った。[[フランス]]では、会社の倒産率が4%以上増加し、[[オーストリア]]では10%以上、[[ギリシア]]では20%以上も増加した。しかし、公的な倒産件数の統計は実態を十分に説明するものではない。公的統計は倒産件数を示しているだけで、各倒産案件の重要度を示すものではない。したがって、倒産件数の増加は、必ずしも経済全体にとっての不良債権化率が増加したことを意味しない。 返済に問題が生じたり回収不能になったりするのと、企業が実際に破産を宣言するのには時間的なずれがある。多くの場合、信用で商品を納品してから、それに対する破産手続が始まるまでの間に数か月ないし数年かかることもある。 法的側面や、税金の関係、あるいは文化的側面によっても、上記の説明は更に歪められている。国際的な比較においては特にそうである。例えば、オーストリアでは、2004年における全倒産手続の半分以上は、未払額の一部を清算するための資金不足のため、手続が開始されない。[[スペイン]]では、一定の種類の事業に対して倒産手続を開始することは経済的に割に合わないため、倒産件数は非常に少ない。比較すると、[[フランス]]では、2004年に4万件以上の倒産手続が開始されたが、スペインでは600件未満である。その一方で、フランスの不良債権化率は1.3%なのに対しスペインでは2.6%である。 個人の倒産件数も、全体像を示すものではない。倒産手続の申立てを決意するのは、負債額の膨らんだごく一部の世帯に限られる。これは、破産宣告の不名誉と、職業上不利益を被るおそれがあるためである。 === オランダ === [[オランダ]]の倒産法制は、オランダ倒産法 (Faillissementswet) によって規律されている。同法は、三つの異なる法的手続を定めている。第一は破産 (Faillissement) であり、その目的は債務者の資産を清算することである。破産手続は個人と会社の双方に適用される。倒産法における第二の法的手続は、Surseanceというものである。これは会社にのみ適用され、その目的は会社の債権者らとの間の合意を実現することである。第三はSchuldsaneringというもので、これは個人のみを対象としている。 === イギリス === [[イギリス]]では、狭義の法的意味における破産 (bankruptcy) は、個人とパートナーシップのみに関係する。会社やその他の企業は、違う名称の法的倒産手続が用いられる。[[清算]] ([[:en:liquidation|liquidation]]) と財産管理([[:en:Administration (insolvency)|administration]]――財産管理命令 ([[:en:administration order|administration order]]) 及び管財人財産管理 ([[:en:administrative receivership|administrative receivership]]))である。しかし、「破産 (bankruptcy)」という言葉がメディアや日常会話の中で会社について用いられることは多い。[[スコットランド]]における破産手続はSequestrationと呼ばれる。 破産管財人は、公務員である公的破産管財人 ([[:en:Official Receiver|Official Receiver]]) か、資格を持った倒産弁護士でなければならない。 2002年企業法 ([[:en:Enterprise Act 2002|Enterprise Act 2002]]) が制定されてからは、イギリスの破産手続は通常12か月もかからない。公的破産管財人が裁判所に、調査が完全に行われたことを保証した場合は、それより短いこともある。 イギリス政府による破産の枠組みの自由化により、破産件数が増加することが見込まれている。これは政府の当初の統計により裏付けられていると見られる。 [[イングランド]]と[[ウェールズ]]では、2005年第4四半期に2万0461件の個人倒産があった(季節調整された値)。これは、前の四半期よりも15.0%の増加、前年同時期よりも36.8%の増加である。このうち、1万3501件が破産であり、前の四半期よりも15.9%の増加、前年同時期よりも37.6%の増加である。6960件は個人任意的債務整理手続 ([[:en:Individual Voluntary Arrangement|IVA]]) であり、前四半期よりも23.9%増、前年同時期よりも117.1%増である。 == アメリカ合衆国 == [[アメリカ合衆国]]においては、[[アメリカ合衆国憲法]]1条8節4項により、倒産(bankruptcy)は連邦法の管轄とされており、同条項によれば、[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]は「合衆国全域における倒産に関する統一法」を制定することが認められている<ref>[[s:アメリカ合衆国憲法#a1-8|アメリカ合衆国憲法1条8節日本語訳(ウィキソース)]]、[[s:en:Constitution of the United States of America#Article I|同(原文)]]</ref>。bankruptcyとの用語であるが、ここでは再建型手続を含むものと解されている。連邦議会は、倒産に関する[[制定法]]として、倒産法(Bankruptcy Code, [[合衆国法典]]第11編)を定めている。連邦法が規定していない点や、明示的に州法に譲っている点については、州法の定めにより連邦法が一部修正されている。 倒産事件は、必ず[[アメリカ合衆国連邦裁判所#倒産裁判所|連邦倒産裁判所]](連邦地方裁判所に付設される)に申し立てられるが、倒産事件は、特に債権の有効性や自由財産に関しては、州法によることが多い。したがって、多くの倒産事件においては州法が大きな役割を果たしており、州境を超えて倒産法を一般化することはできないことが多い。 === 連邦倒産法の手続 === 合衆国法典第11編に置かれた倒産法の下では、次の6種類の手続がある。 * [[連邦倒産法第7章]] : 個人及び企業の基本的な清算手続(破産手続)を定めるもの。 * [[連邦倒産法第9章]] : 地方自治体の倒産手続。 * [[連邦倒産法第11章]] : 更生・再建手続。主に債務者が企業の場合に用いられるが、負債・資産額の大きい個人に利用されることもある。 * [[連邦倒産法第12章]] : 家族経営の農家及び漁師のための再生手続。 * [[連邦倒産法第13章]] : 決まった収入源のある個人のための、支払計画を立てる再生手続。 * [[連邦倒産法第15章]] : 国際的な倒産事件の処理について定めるもの。 個人の倒産に際して最もよく用いられるのが、清算型の第7章及び再建型の第13章である。アメリカの個人による全倒産申立て件数のうち実に65%が、第7章によるものである。会社その他の企業は第7章又は再建型では第11章に基づいて申立てをすることが多い。 第7章では、債務者は、自由財産となるもの以外の財産を破産管財人に引き渡し、破産管財人がそれを換価して、その売上金を無担保債権者に配当する。その代わりに、債務者は債務の一部の免責を得る。ただし、債務者が一定の類型の不適切な行動(財産状況に関する資料を隠すなど)をとった場合には、免責は与えられない。また、一定の債務(配偶者及び子の扶養料、学生ローン、一定の税金など)については、債務者が一般的な免責を得た場合であっても免責されない。経済的に破綻した個人は、多くの場合、自由財産(衣服、生活必需品、中古車など)しか所有しておらず、その場合は破産管財人に財産を引き渡す必要はない。自由財産とすることができる財産の額は、州によって異なる。第7章による救済は、8年間に1回だけしか使うことができない。一般的に、担保権者の担保物件に対する権利は、債務の免責が行われても存続する。例えば、債務者が自動車を引き渡すという合意や債務の「再確認」が行われなくても、債務者の自動車に対する担保物権を有する債権者は、債務者の債務が免責になったとしてもその自動車を引き揚げることができる。 第13章の手続では、債務者はすべての財産の所有権や占有権を失わないが、通常3年間から5年間にわたり、将来の収入の一部を債権者への返済に当てなければならない。返済額や返済計画の期間は、債務者の財産の価値や債務者の収入・支出などの要素によって変わる。担保権者は、無担保債権者よりも多く返済を受けることができる。 第11章の手続では、債務者は財産の所有権と占有権を失わず、債務者占有型 (DIP) 手続とも呼ばれる。占有を継続する債務者が、日々の事業の運営を行う一方、債権者らと債務者は、[[アメリカ合衆国連邦裁判所#倒産裁判所|連邦倒産裁判所]]とともに、交渉を重ね、再建計画を完成させるべく共同作業を行う。一定の条件(債権者間の公正、一定の債権者の優先など)を満たすと、提案された再建計画に対する債権者らの投票を行うことができる。再建計画が承認されると、債務者は経営と、承認された再建計画に従った債務の弁済を続ける。もし一定以上の多数の債権者が承認の投票を行わなかった場合は、裁判所から、計画を承認するための追加的な条件が課されることがある。 === 破産濫用防止・消費者保護法 === 2005年の破産濫用防止・消費者保護法([[:en:Bankruptcy Abuse Prevention and Consumer Protection Act|BAPCPA]])<ref>制定法番号Pub. L. No. 109-8, 119 Stat. 23 (2005年4月20日)</ref>は、連邦倒産法を大きく修正するものであった。BAPCPAの多くの規定は、消費者金融業者から強く支持され、同時に多くの消費者保護論者、倒産法学者、倒産事件を担当する裁判官・弁護士から強い反対を受けた。BAPCPAは、連邦議会における8年間にわたる議論の末に制定されたものである。同法の多くの規定は、2005年10月17日に施行された。法律への署名に当たり、[[ジョージ・W・ブッシュ]]大統領は次のように述べた。 :新法の下では、返済する能力のあるアメリカ国民は、少なくともその債務の一部を返済することが求められる。州の[[中央値|中位]]収入よりも低い国民は、債務の返済は求められない。新法により、何度も申立てをしている者は、最も寛容な破産の恩恵を濫用することが難しくなるであろう。全債務の帳消しを求める債務者は、これからは再度の申立てをするまでに前回の破産から8年間待たなければならない。新法により、我々は、破産の濫用者たちにどうすれば制度を悪用できるかを教えて金もうけをしている破産工場の連中を取り締まることができる<ref>{{cite web |publisher=Press Release, White House |url=http://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2005/04/20050420-5.html |title=President Signs Bankruptcy Abuse Prevention, Consumer Protection Act |date=2005-04-20 |accessdate=2008-09-19 |language=英語 }}</ref>。 個人破産法に加えられた多くの変更の中で、BAPCPAは、「資力基準」を導入した。これは、債務のほとんどが消費者負債である、多くの経済的に破綻した個人債務者にとって、連邦倒産法第7章の救済資格を得ることをより難しくしようとするものであった。しかし、その意図とは反対に、資力基準はしばしば債務者が免責を得ることを簡単にする結果を生んでいる。資力基準のため、又は連邦倒産法第7章では担保付き債権(抵当権や自動車ローン)の延滞に対する完全な解決ができないために、債務者が連邦倒産法第7章の救済資格を得られない場合であっても、債務者は依然として連邦倒産法第13章による救済を求めることができるのである。第13章による再建計画は一般の無担保債権(クレジットカード利用代金や医療費)に対する返済を要求しないことが多い。 また、BAPCPAは、破産の救済を求める個人に、破産の申立てをする前に、認可を受けた相談機関に債務内容の相談をすること、第7章又は第13章による免責を受ける前に、認可を受けた機関で家計のやり繰りについての教育を受けることを要求している。この債務相談要件の実施状況についての研究によれば、債務相談要件は、相談を受ける債務者にとってはほとんど実益がないことが示されている。多くの債務者にとって、唯一の現実的な選択肢は、倒産法による救済を求めることしかないからである。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{cite book |title=Born Losers: A History of Failure in America |author= Scott A. Sandage |publisher=Harvard University Press |year=2005 }} == 関連項目 == *[[融資]] *[[負債]] *[[手形]]・[[小切手]] *[[決済]] *[[不渡り]] *[[貸倒れ]]-[[貸倒引当金]] *[[SAF2002モデル]] *[[未払賃金の立替払事業]] *:使用者が倒産した場合に、未払いの[[賃金]]、[[退職金]]の一部を[[労働者健康福祉機構|政府]]が立替払いする制度。倒産の定義が上記と異なる。 *[[帝国データバンク]] *[[東京経済]] *[[東京商工リサーチ]] *[[放漫経営]] *[[黒字倒産]] *[[倒産隔離]] *[[創造的破壊]] == 外部リンク == * [https://www.tdb.co.jp/tosan/teigi.html 倒産の定義] - [[帝国データバンク]] * [http://www.tsr-net.co.jp/guide/knowledge/glossary/ta_14.html 倒産とは…] - [[東京商工リサーチ]] * [http://www.tsr-net.co.jp/guide/feature/establishment/ 倒産とは? 倒産の定義] - [[東京商工リサーチ]] * {{Kotobank}} * {{Kotobank|破産}} {{債務}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とうさん}} [[Category:倒産|*]] [[Category:企業]] [[Category:経営学]]
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Internet Explorer
Internet Explorer(インターネット エクスプローラー)は、マイクロソフトがかつて開発していたウェブブラウザである。以前の名称はMicrosoft Internet ExplorerやWindows Internet Explorerであった。一般的に、IEやMSIEと呼ばれる。 Windows 95からWindows 10に至るまでのWindows ファミリーに標準で含まれている。Windows Mobile(Windows CEの一部構成を含む)にはInternet Explorer Mobileが含まれていた。以前はMac用のInternet Explorer for Mac(IE:mac)や HP-UXとSolaris用のInternet Explorer for UNIX(英語版)も存在したが、これらは現在サポートされていない。 Windows 10から標準ブラウザはMicrosoft Edgeに置き換えられ、Internet Explorerの開発は終了し、マイクロソフトはInternet Explorerを利用しないことを呼びかけている。ただし互換性維持のため、Internet Explorer 11はWindows 10に引き続き搭載されていたが、2021年10月にリリースされたWindows 11では、Internet Explorerは搭載されていない。 2022年6月16日(JST アメリカ東部時間では6月15日)をもって、Internet Explorerのサポートが完全終了となり、今後はIEのセキュリティープログラムの更新が提供されなくなるため、そのリスクが高まることから、Microsoft Edgeへの移行を促すように画面が表示されているほか、業務用利用者に対しても、Edgeを含む、サポートが継続されている他のブラウザへの移行などを求めている。 IEは1994年にSpyglass(英語版)からライセンスを受けたNCSA Mosaicをもとに開発された。Internet Explorerは1995年8月24日に公開されたMicrosoft Plus! for Windows 95に含まれた。このバージョンは表組みに対応していないほど機能が低く、使用するユーザーはほとんどいなかった。1996年5月に公開されたIE1.5では簡単なテーブル要素に対応した。 Internet Explorer 2は1995年11月27日に公開された。日本語版を含むいくつかの多言語版が提供された。SSL 2.0やCookie、読み込み限定ではあるがネットニュースのクライアント機能も持っていた(ただし、日本語等への考慮は皆無)。 Internet Explorer 3は1996年8月13日に公開された。日本語版は8月16日に公開されている。約100人の開発者を3か月の間につぎ込み、Spyglassの技術を使用しているが、Spyglassからのソースコードは使用せずに開発された。Internet Mail and NewsやNetMeetingを含む。メジャーなブラウザとして部分的ではあるがCSS1に最初に対応したブラウザで、ActiveX コントロールやJavaアプレットなどに対応した。IE3は以前のIEと別にインストールできたため、アップグレードしたユーザーは互換性を保つことができた。このバージョンから青い「e」のロゴマークが使用された。主要な機能追加だったCSSの対応が不十分で不具合が多く、JavaScriptもNetscapeとの互換性が皆無だったため、ライバルのネットスケープコミュニケーションズのNetscape Navigatorから乗り換えるユーザーは少なくシェアは増加しなかった。また、HTTP/1.1プロトコルに対応した最初のInternet Explorerでもある。 Internet Explorer 4は1997年9月30日に公開された。Windowsと統合がはかられWindows 95やWindows NT 4.0は「Windows デスクトップのアップデート」を行った場合Windowsシェルが更新された(Active Desktopを参照)。またWindows 98に標準で搭載され、強力な市場シェアを築く要因となった。しかし、この統合は多くの批判を受け、裁判の原因になった(アメリカ合衆国の司法省とマイクロソフトとの裁判など)。 グループ ポリシーでの構成に対応した。Internet Mail and NewsはOutlook Expressに置き換えられた。レンダリング エンジンは新しく「Trident」に切り替わった。新しい試みとしてActive Channelと呼ばれるプッシュメディアが採用されたが、当初の期待に反して普及しなかった。当時は常時接続が一般的ではなかったのが原因だといわれている。当時としては高い先進性を持っていたブラウザであり初めてHTML 4.01に対応し、CSS1に完全対応した。また、現在では一般的になった「白地の背景に黒文字」のデフォルトスタイルを初めて採用した。同年12月4日に不具合を修正したIE4.01が公開された。 Internet Explorer 5は1999年3月18日に公開された。ルビ、MHTMLなどに対応した。同年12月8日に公開された IE5.01はバグの修正や暗号強度の強化、ウィンドウ再利用などの機能を備えたマイナー アップデートが行われた。CSS2やDOM Level 1、XMLに部分対応した。IE5は標準準拠を比較的重視した手堅い設計でIE4と同様当時のブラウザとしては完成度が高く、OSとバンドルの効果も相まって高いシェアを得た。IE5.01 SP3以降のIEのサービスパックはWindowsのサービスパックの一部としてのみ提供され、単独では公開されていない(Windows 2000 SP3がIE5.01 SP3を、Windows 2000 SP4がIE5.01 SP4を含む)。IE:macはレンダリングエンジン Tasmanを基に再設計された。IE5.xは Mac OSとUNIX用の最後の提供となった。Windows 2000の延長サポート期限である2010年7月13日にサポートが終了した。 Internet Explorer 5.5は2000年7月17日に公開された。印刷プレビュー機能を搭載しCSS2の対応強化やXSLTの対応、縦書き表示、背景色でグラデーションに対応するなどの機能追加を行ったアップグレードとして公開した。このバージョンは動作安定性には比較的優れていたもののCSSやXSLTの対応は非常にずさんであったため、標準に従ったページの作成を行った場合に表示の不具合が多発し、ウェブ製作現場を混乱に陥れた。この頃から新興のブラウザが台頭し、これらのブラウザベンダーは標準準拠の重要性を訴えたことから標準準拠度が低く不具合の多いIE5.5はやり玉に挙げられた。また、セキュリティホールの多さと対応の遅さもこの時期に表面化した。2000年11月1日に Service Pack1 が提供された。2005年12月31日にサポートが終了した。 なお、IPv6への対応も、5.5から行われている。しかし、実際には、WindowsのDNSクライアントサービス(リゾルバ)の仕様によって、ネットワークの動作環境によってはIPv6で使用できないことが多い。リゾルバの問題であるため、IPv6でインターネットにアクセスできる環境であれば、URLにIPv6のIPアドレスを直接記述すれば、IPv6で使用可能である。 Internet Explorer 6は2001年8月27日(日本語版は9月19日)に公開された。DHTMLの拡張、CSS2の対応強化、DOM Level 2とSMIL 2.0への部分的な対応、内容制限されたインラインフレーム、JavaScriptによる独自のマウスポインタ指定にも対応した。他にメディアバー(SP2で廃止)、Windows Messengerの統合、エラー報告、自動画像サイズ変更、P3PとWindows XP ビジュアルスタイルでの表示が新機能として含まれる。反面、XHTMLやIDNに未対応、PNGも完全対応はしておらずCSS2対応も強化はしたものの不十分であるなど、公開時点ですでに時代遅れになっている仕様も目立った。IE6 SP2ではセキュリティ向上を目的とした幾つかの仕様の変更と廃止、ポップアップブロックなどいくつかの機能が追加された。2003年にはスタンドアロン版の開発と提供を停止した。 2005年にWindows XPとWindows Server 2003のx64版がリリースされた。それ以降のx64版Windowsには32ビット版と64ビット版の2つのInternet Explorerがインストールされているが、デフォルトは32ビット版になっている。プラグインには32ビット版しか用意されていないものが多く、64ビット版IEで32ビット版のプラグインを使う仕組みがないためである。 Internet Explorer 7は2006年10月18日(日本語版は11月2日)に公開された。名称が変更され、タブブラウジングなど新しいユーザーインターフェイス機能を実装した。設計段階でセキュリティの問題に多くの対策が施された。既に他のブラウザでは標準的でありIEのみが未対応であったPNGのアルファ合成などの対応に加え、IE6に比べてよりCSSなどで標準準拠が行われた。Outlook Expressのバンドルはなくなった。元々IE7はWindows Vista/Windows Server 2008専用としていたが、開発方針の変更によりWindows XP/Windows Server 2003にも提供された。 Internet Explorer 8は2009年3月20日に公開された。IE8の第1の目標は既存のページの表示を崩すことなく標準規格に沿った優れた実装で対応すること、第2の目標としてIE7で起きた問題を避けることが挙がった。ウェブ標準準拠に加え、最優先事項の1つに含まれるセキュリティ強化やプライバシー保護対策、パフォーマンスや使い勝手も全般的に改善が行われた。Windowsと完全に分離したソフトウェアとなり、アンインストールが可能になった。また、このバージョンがWindows XPがアップグレードできる最後のバージョンである。 Internet Explorer 9は日本語版を除き2011年3月15日に公開された。日本語版は3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で日本時間4月26日0時に延期され、発表の通り公開された。IE9はIE8で実施されたウェブ標準準拠の流れを踏襲しHTML5やCSS3といった新しいウェブ標準の一部や、カラーマネージメントやJPEG XRなどのグラフィックス標準に対応する。GPUやマルチコアを活用したパフォーマンスの向上も行われる。ユーザーインターフェイスはサイト表示を中心としたデザインに一新された。 Internet Explorer 10は2012年8月15日に公開された。Windows 8にはWindows UI(Modern UI)版と従来のデスクトップ版の2つがあり、以前のWindowsに従来のデスクトップ版が提供された。IE10はパフォーマンスの向上や、より多くのウェブ標準への対応が行われる。Windows 8とWindows RTではAdobe Flash Playerを統合。トラッキング防止(Do Not Track)が標準で有効になる。 Internet Explorer 11は2013年10月17日(日本時間)に公開された。WebGL、HTML5 メディア要素の拡張と保護メディアの対応、SPDY、JavaScriptオブジェクトモデル拡張等の機能が追加された。JavaScriptの実行速度をSunSpiderの結果で比較するとInternet Explorer 10より9%速くなった。なおこれがIEとして事実上最後のバージョンであり、以後はMicrosoft Edgeに機能移譲される格好となった。 Internet Explorer Developer Channelは、次期Internet Explorer機能の一部を開発者向けに事前公開することを目的としている。2014年6月16日に公開されたバージョンでは、WebDriver API、F12開発ツール機能更新(デバッグ機能)、WebGL機能更新、GamePad APIなどが実装されている。App-Vクライアント仮想化技術により通常バージョンのInternet Explorer 11と独立して動作可能になっているが、次期バージョンを開発する前に追加しようとしている機能を確認する目的の実験的バージョンであるため、通常使用するためのものではなく、性能やセキュリティ面で問題がある可能性がある。 IEは、Microsoft Windowsに標準バンドルされたため、次第にウェブコンテンツを作成する側からは、事実上の標準とみなされるようになった。またNetscape Navigatorと比較すると、レンダリングエンジンの表示時間が速く、オペレーティングシステムとの関係も深いため、ブラウザの起動時間が速かった。これとは対照的にNetscape 4は標準準拠に遅れていたうえ、レンダリングエンジンの不具合が多く、IE独自機能を使っていないページでも、まともに表示できないページが多かった。それらの理由により、第一次ブラウザ戦争を経て、最盛時にはIEのシェアは95%以上となった。 その後、IEのレンダリングエンジンを利用した IEコンポーネントブラウザも多数登場し、独自の機能やカスタマイズ性で人気を博した。これにより、IEの占有率が底上げされた。 2005年頃からMozilla Firefoxに代表されるIE以外のウェブブラウザが登場し、これら新興ウェブブラウザのレンダリング速度やカスタマイズ性がIEよりも高かったことなどから一定の人気を博したため、第二次ブラウザ戦争と呼ばれるブラウザシェアの変動が発生した。Net Applicationsによる調査では、2010年4月の時点でIEのシェアは60%を割り込み独占状態ではなくなった。2013年時点ではFirefoxを凌ぐ勢いで成長したGoogle ChromeがIEを抜かす勢いで大きくシェアを伸ばしている。2020年時点ではChromeがシェア60%を超え、2位がEdge、3位がFirefoxとなり、IEはシェア4位に転落している。 また、Internet Explorer for MacはMac OS 8.1からMac OS X v10.2まではデフォルトのウェブブラウザであったため、Macにおけるシェアも高かった。現在ではMac OSの開発元AppleによるSafariの提供、さらにはマイクロソフトによるInternet Explorer for Macの開発とサポート・配布の終了ならびに代替としてSafariなど(他にFirefoxやOperaなど)の使用の推奨を受け、MacにおけるInternet Explorer for Macの占有率は、絶滅した。 マイクロソフトは2011年3月にIE6 Countdownにて各国のIE6の使用状況を公開し、より新しいブラウザへの移行のプロモーション活動を行っている。2015年2月現在でIE6の利用率が最も多い国は中国(3.1%)である。 GoogleはYouTubeでIE6など、古いブラウザの対応を2010年3月1日で打ち切った。そういった経緯から、2010年3月4日にはアメリカのWebデザイン会社が企画した「IE6の葬儀」がコロラド州デンバーで行われ、マイクロソフトのIEチームが花を贈り「素晴らしい時をありがとう」とメッセージを送った。 その後もWindowsに同梱されていることに支えられ、パソコン用ブラウザー市場で長年首位を保ってきたが、徐々にGoogleのGoogle Chromeに世界シェアを伸ばされ、2016年4月にはついに逆転を許した(ネット・アプリケーションズ調査)。 ブラウザの脆弱性を利用した攻撃に対して、ブラウザシェアが最大であるため標的にされやすい。以前はOSと密接に結びついた構造であったため、サイバー攻撃を受けた場合に、ユーザー権限によってはオペレーティングシステムへ損害を及ぼすこともあった。また修正パッチプログラムが未発表の脆弱性「ゼロデイ攻撃」も多く、IEの使用が『最大のセキュリティーホール』といわれたこともある。 マイクロソフトは対応策として、修正プログラムを早期に配布するようにしたため、未修正の脆弱性は少なくなっている。また、IE7以降はOSとの分離やセキュリティ強化を目的とする仕様変更が積極的に行われたため、攻撃しづらくなった。また、Enhanced Mitigation Experience ToolkitやMicrosoft Security Essentialsなどのセキュリティツールがマイクロソフトから無償で提供されており、未知の脆弱性を狙った攻撃も困難になりつつある。これらの要因から攻撃先が変化し、以前ほどは攻撃されなくなった。 その後サードパーティー製アドオン経由の攻撃が増えており、この攻撃は対応する全てのブラウザに影響があることから、IEだから危険という状況は少なくなったといわれている。2014年8月度公開のInternet Explorerの累積的なセキュリティ更新プログラムでは、古い ActiveX コントロールの動作をブロックする機能が追加され、予告通り2014年9月10日(日本時間)から機能を始めた。まずは脆弱性が発見されている Java ActiveX コントロールが対象となっており、以降ブロック対象となる ActiveX コントロールの数が増える計画であるとしている。 ただし、IE本体への攻撃が全くなくなったわけではなく(たとえば、2010年1月に中国からGoogleへのサイバー攻撃にはIEの一般的に知られていない脆弱性を使った攻撃が使われ、特にWindows XPとIE6の組み合わせで危険であると報告され問題となった)どのような環境であってもセキュリティ強化は必要であるため、迅速に修正プログラムなどを導入し保護された環境にしておくことは重要なことである。 2022年6月15日(太平洋時間)にInternet Explorerのサポートは終了した。 以前のInternet ExplorerのサポートライフサイクルはインストールしているWindowsと同一だったが、2014年8月にサポート方針が変更され、太平洋時間2016年1月12日から各Windowsにインストール可能な最新版のInternet Explorerのみサポートするという変更が発表された。対象となるのは同日付けでサポート期間中のWindows Vista SP2以降のクライアントとWindows Server 2008 SP2以降のサーバー(Windows Embedded 製品も対象に含まれる)、それにインストール可能な最新版のInternet Explorerとなる。 2016年1月12日までは各Windowsで使用可能な複数のバージョンのInternet Explorerの修正プログラムの新規開発が行われるが、同日からは各Windowsの最新版のInternet Explorer用の修正プログラムのみ公開される。例えば、Windows VistaではInternet Explorer 7とInternet Explorer 8のサポートが2016年1月11日を最後に終了し、翌日以降はInternet Explorer 9のみサポート継続となり、2017年4月11日にWindows Vista自体のサポートが終了した。 2019年4月16日より、R2にアップデートしていないWindows Server 2012やWindows Embedded 8 StandardでもInternet Explorer 11が利用可能になり、2020年1月14日にこれらのOSでのInternet Explorer 10のサポートを終了させた。 Windows 10ではOS標準ブラウザがMicrosoft Edgeへと正式に切り替わり、Internet Explorerの開発は終了した。一方、Windows 10には互換性維持のためにInternet Explorer 11が引き続きバンドルされている。Windows 10はサポートポリシーがこれまでより大きく変更され、アップデートを続ける限り半永久的な使用が可能である。したがってこれまでのサポートポリシーをそのまま適用するならば、Internet Explorer 11がバンドルされ続ける限りは半永久的にサポートが継続されることを意味するため、Internet Explorerの完全なサポート終了およびEdgeへの正式移行の時期は不明である。尚、Microsoft Edgeは、2018年12月6日に独自エンジンの開発を終了し、2020年1月15日にChromiumベースのエンジンに切り替えられた。 Windows 10 Enterprise 2015 LTSB のサポート期限の2025年10月14日までという話もあったが、米Microsoftは2021年5月19日(現地時間)、Internet Explorerのコンシューマー向けバージョンのサポートを2022年6月15日(日本時間6月16日)に終了すると発表した。 なお、サポート期限である2022年6月現在でも企業のシステムの中にはInternet Explorerの利用を前提として開発されたものも多数残されており、これらのシステムは改修などの対応が必要になることから情報処理推進機構(IPA)は利用者に対して早めの対応をとるように呼び掛けている。 Internet Explorer Mobile はマイクロソフト製のモバイルオペレーティングシステムに同梱されるウェブブラウザである。 当初の名称はPocket Internet Explorer(略称はそれぞれの頭文字をとった『PIE』)で、1996年にWindows CEの初期バージョンに搭載された。 元々はパソコン版のInternet Explorerとは別系統で開発されたものであったが、バージョン2.0以降はそれぞれパソコン版から機能を削減したものが採用され、後にパソコン版と同じくInternet Explorerに改称される。 2009年にはWindows Mobile 6.5に搭載されたInternet Explorer Mobile 6からさらに名称を変更。2011年にリリースされた Windows Phone 7にはInternet Explorer Mobile 9が同梱され、Internet Explorer 9のレンダリングエンジンをベースにしている。Windows Phone 8にはInternet Explorer Mobile 10が搭載。 当初は、マイクロソフト製の家庭用ゲーム機・Xbox 360にはウェブブラウザ機能が搭載されていなかったが、2012年10月16日のアップデートでInternet Explorer for Xboxを搭載。Kinectでのジェスチャー・音声操作や、Xbox SmartGlassプラットフォームによるスマートフォン等からの遠隔操作が可能になる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Internet Explorer(インターネット エクスプローラー)は、マイクロソフトがかつて開発していたウェブブラウザである。以前の名称はMicrosoft Internet ExplorerやWindows Internet Explorerであった。一般的に、IEやMSIEと呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "Windows 95からWindows 10に至るまでのWindows ファミリーに標準で含まれている。Windows Mobile(Windows CEの一部構成を含む)にはInternet Explorer Mobileが含まれていた。以前はMac用のInternet Explorer for Mac(IE:mac)や HP-UXとSolaris用のInternet Explorer for UNIX(英語版)も存在したが、これらは現在サポートされていない。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "Windows 10から標準ブラウザはMicrosoft Edgeに置き換えられ、Internet Explorerの開発は終了し、マイクロソフトはInternet Explorerを利用しないことを呼びかけている。ただし互換性維持のため、Internet Explorer 11はWindows 10に引き続き搭載されていたが、2021年10月にリリースされたWindows 11では、Internet Explorerは搭載されていない。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2022年6月16日(JST アメリカ東部時間では6月15日)をもって、Internet Explorerのサポートが完全終了となり、今後はIEのセキュリティープログラムの更新が提供されなくなるため、そのリスクが高まることから、Microsoft Edgeへの移行を促すように画面が表示されているほか、業務用利用者に対しても、Edgeを含む、サポートが継続されている他のブラウザへの移行などを求めている。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "IEは1994年にSpyglass(英語版)からライセンスを受けたNCSA Mosaicをもとに開発された。Internet Explorerは1995年8月24日に公開されたMicrosoft Plus! for Windows 95に含まれた。このバージョンは表組みに対応していないほど機能が低く、使用するユーザーはほとんどいなかった。1996年5月に公開されたIE1.5では簡単なテーブル要素に対応した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "Internet Explorer 2は1995年11月27日に公開された。日本語版を含むいくつかの多言語版が提供された。SSL 2.0やCookie、読み込み限定ではあるがネットニュースのクライアント機能も持っていた(ただし、日本語等への考慮は皆無)。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "Internet Explorer 3は1996年8月13日に公開された。日本語版は8月16日に公開されている。約100人の開発者を3か月の間につぎ込み、Spyglassの技術を使用しているが、Spyglassからのソースコードは使用せずに開発された。Internet Mail and NewsやNetMeetingを含む。メジャーなブラウザとして部分的ではあるがCSS1に最初に対応したブラウザで、ActiveX コントロールやJavaアプレットなどに対応した。IE3は以前のIEと別にインストールできたため、アップグレードしたユーザーは互換性を保つことができた。このバージョンから青い「e」のロゴマークが使用された。主要な機能追加だったCSSの対応が不十分で不具合が多く、JavaScriptもNetscapeとの互換性が皆無だったため、ライバルのネットスケープコミュニケーションズのNetscape Navigatorから乗り換えるユーザーは少なくシェアは増加しなかった。また、HTTP/1.1プロトコルに対応した最初のInternet Explorerでもある。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "Internet Explorer 4は1997年9月30日に公開された。Windowsと統合がはかられWindows 95やWindows NT 4.0は「Windows デスクトップのアップデート」を行った場合Windowsシェルが更新された(Active Desktopを参照)。またWindows 98に標準で搭載され、強力な市場シェアを築く要因となった。しかし、この統合は多くの批判を受け、裁判の原因になった(アメリカ合衆国の司法省とマイクロソフトとの裁判など)。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "グループ ポリシーでの構成に対応した。Internet Mail and NewsはOutlook Expressに置き換えられた。レンダリング エンジンは新しく「Trident」に切り替わった。新しい試みとしてActive Channelと呼ばれるプッシュメディアが採用されたが、当初の期待に反して普及しなかった。当時は常時接続が一般的ではなかったのが原因だといわれている。当時としては高い先進性を持っていたブラウザであり初めてHTML 4.01に対応し、CSS1に完全対応した。また、現在では一般的になった「白地の背景に黒文字」のデフォルトスタイルを初めて採用した。同年12月4日に不具合を修正したIE4.01が公開された。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "Internet Explorer 5は1999年3月18日に公開された。ルビ、MHTMLなどに対応した。同年12月8日に公開された IE5.01はバグの修正や暗号強度の強化、ウィンドウ再利用などの機能を備えたマイナー アップデートが行われた。CSS2やDOM Level 1、XMLに部分対応した。IE5は標準準拠を比較的重視した手堅い設計でIE4と同様当時のブラウザとしては完成度が高く、OSとバンドルの効果も相まって高いシェアを得た。IE5.01 SP3以降のIEのサービスパックはWindowsのサービスパックの一部としてのみ提供され、単独では公開されていない(Windows 2000 SP3がIE5.01 SP3を、Windows 2000 SP4がIE5.01 SP4を含む)。IE:macはレンダリングエンジン Tasmanを基に再設計された。IE5.xは Mac OSとUNIX用の最後の提供となった。Windows 2000の延長サポート期限である2010年7月13日にサポートが終了した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "Internet Explorer 5.5は2000年7月17日に公開された。印刷プレビュー機能を搭載しCSS2の対応強化やXSLTの対応、縦書き表示、背景色でグラデーションに対応するなどの機能追加を行ったアップグレードとして公開した。このバージョンは動作安定性には比較的優れていたもののCSSやXSLTの対応は非常にずさんであったため、標準に従ったページの作成を行った場合に表示の不具合が多発し、ウェブ製作現場を混乱に陥れた。この頃から新興のブラウザが台頭し、これらのブラウザベンダーは標準準拠の重要性を訴えたことから標準準拠度が低く不具合の多いIE5.5はやり玉に挙げられた。また、セキュリティホールの多さと対応の遅さもこの時期に表面化した。2000年11月1日に Service Pack1 が提供された。2005年12月31日にサポートが終了した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "なお、IPv6への対応も、5.5から行われている。しかし、実際には、WindowsのDNSクライアントサービス(リゾルバ)の仕様によって、ネットワークの動作環境によってはIPv6で使用できないことが多い。リゾルバの問題であるため、IPv6でインターネットにアクセスできる環境であれば、URLにIPv6のIPアドレスを直接記述すれば、IPv6で使用可能である。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "Internet Explorer 6は2001年8月27日(日本語版は9月19日)に公開された。DHTMLの拡張、CSS2の対応強化、DOM Level 2とSMIL 2.0への部分的な対応、内容制限されたインラインフレーム、JavaScriptによる独自のマウスポインタ指定にも対応した。他にメディアバー(SP2で廃止)、Windows Messengerの統合、エラー報告、自動画像サイズ変更、P3PとWindows XP ビジュアルスタイルでの表示が新機能として含まれる。反面、XHTMLやIDNに未対応、PNGも完全対応はしておらずCSS2対応も強化はしたものの不十分であるなど、公開時点ですでに時代遅れになっている仕様も目立った。IE6 SP2ではセキュリティ向上を目的とした幾つかの仕様の変更と廃止、ポップアップブロックなどいくつかの機能が追加された。2003年にはスタンドアロン版の開発と提供を停止した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2005年にWindows XPとWindows Server 2003のx64版がリリースされた。それ以降のx64版Windowsには32ビット版と64ビット版の2つのInternet Explorerがインストールされているが、デフォルトは32ビット版になっている。プラグインには32ビット版しか用意されていないものが多く、64ビット版IEで32ビット版のプラグインを使う仕組みがないためである。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "Internet Explorer 7は2006年10月18日(日本語版は11月2日)に公開された。名称が変更され、タブブラウジングなど新しいユーザーインターフェイス機能を実装した。設計段階でセキュリティの問題に多くの対策が施された。既に他のブラウザでは標準的でありIEのみが未対応であったPNGのアルファ合成などの対応に加え、IE6に比べてよりCSSなどで標準準拠が行われた。Outlook Expressのバンドルはなくなった。元々IE7はWindows Vista/Windows Server 2008専用としていたが、開発方針の変更によりWindows XP/Windows Server 2003にも提供された。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "Internet Explorer 8は2009年3月20日に公開された。IE8の第1の目標は既存のページの表示を崩すことなく標準規格に沿った優れた実装で対応すること、第2の目標としてIE7で起きた問題を避けることが挙がった。ウェブ標準準拠に加え、最優先事項の1つに含まれるセキュリティ強化やプライバシー保護対策、パフォーマンスや使い勝手も全般的に改善が行われた。Windowsと完全に分離したソフトウェアとなり、アンインストールが可能になった。また、このバージョンがWindows XPがアップグレードできる最後のバージョンである。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "Internet Explorer 9は日本語版を除き2011年3月15日に公開された。日本語版は3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で日本時間4月26日0時に延期され、発表の通り公開された。IE9はIE8で実施されたウェブ標準準拠の流れを踏襲しHTML5やCSS3といった新しいウェブ標準の一部や、カラーマネージメントやJPEG XRなどのグラフィックス標準に対応する。GPUやマルチコアを活用したパフォーマンスの向上も行われる。ユーザーインターフェイスはサイト表示を中心としたデザインに一新された。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "Internet Explorer 10は2012年8月15日に公開された。Windows 8にはWindows UI(Modern UI)版と従来のデスクトップ版の2つがあり、以前のWindowsに従来のデスクトップ版が提供された。IE10はパフォーマンスの向上や、より多くのウェブ標準への対応が行われる。Windows 8とWindows RTではAdobe Flash Playerを統合。トラッキング防止(Do Not Track)が標準で有効になる。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "Internet Explorer 11は2013年10月17日(日本時間)に公開された。WebGL、HTML5 メディア要素の拡張と保護メディアの対応、SPDY、JavaScriptオブジェクトモデル拡張等の機能が追加された。JavaScriptの実行速度をSunSpiderの結果で比較するとInternet Explorer 10より9%速くなった。なおこれがIEとして事実上最後のバージョンであり、以後はMicrosoft Edgeに機能移譲される格好となった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "Internet Explorer Developer Channelは、次期Internet Explorer機能の一部を開発者向けに事前公開することを目的としている。2014年6月16日に公開されたバージョンでは、WebDriver API、F12開発ツール機能更新(デバッグ機能)、WebGL機能更新、GamePad APIなどが実装されている。App-Vクライアント仮想化技術により通常バージョンのInternet Explorer 11と独立して動作可能になっているが、次期バージョンを開発する前に追加しようとしている機能を確認する目的の実験的バージョンであるため、通常使用するためのものではなく、性能やセキュリティ面で問題がある可能性がある。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "IEは、Microsoft Windowsに標準バンドルされたため、次第にウェブコンテンツを作成する側からは、事実上の標準とみなされるようになった。またNetscape Navigatorと比較すると、レンダリングエンジンの表示時間が速く、オペレーティングシステムとの関係も深いため、ブラウザの起動時間が速かった。これとは対照的にNetscape 4は標準準拠に遅れていたうえ、レンダリングエンジンの不具合が多く、IE独自機能を使っていないページでも、まともに表示できないページが多かった。それらの理由により、第一次ブラウザ戦争を経て、最盛時にはIEのシェアは95%以上となった。", "title": "シェア" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "その後、IEのレンダリングエンジンを利用した IEコンポーネントブラウザも多数登場し、独自の機能やカスタマイズ性で人気を博した。これにより、IEの占有率が底上げされた。", "title": "シェア" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2005年頃からMozilla Firefoxに代表されるIE以外のウェブブラウザが登場し、これら新興ウェブブラウザのレンダリング速度やカスタマイズ性がIEよりも高かったことなどから一定の人気を博したため、第二次ブラウザ戦争と呼ばれるブラウザシェアの変動が発生した。Net Applicationsによる調査では、2010年4月の時点でIEのシェアは60%を割り込み独占状態ではなくなった。2013年時点ではFirefoxを凌ぐ勢いで成長したGoogle ChromeがIEを抜かす勢いで大きくシェアを伸ばしている。2020年時点ではChromeがシェア60%を超え、2位がEdge、3位がFirefoxとなり、IEはシェア4位に転落している。", "title": "シェア" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "また、Internet Explorer for MacはMac OS 8.1からMac OS X v10.2まではデフォルトのウェブブラウザであったため、Macにおけるシェアも高かった。現在ではMac OSの開発元AppleによるSafariの提供、さらにはマイクロソフトによるInternet Explorer for Macの開発とサポート・配布の終了ならびに代替としてSafariなど(他にFirefoxやOperaなど)の使用の推奨を受け、MacにおけるInternet Explorer for Macの占有率は、絶滅した。", "title": "シェア" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "マイクロソフトは2011年3月にIE6 Countdownにて各国のIE6の使用状況を公開し、より新しいブラウザへの移行のプロモーション活動を行っている。2015年2月現在でIE6の利用率が最も多い国は中国(3.1%)である。", "title": "シェア" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "GoogleはYouTubeでIE6など、古いブラウザの対応を2010年3月1日で打ち切った。そういった経緯から、2010年3月4日にはアメリカのWebデザイン会社が企画した「IE6の葬儀」がコロラド州デンバーで行われ、マイクロソフトのIEチームが花を贈り「素晴らしい時をありがとう」とメッセージを送った。", "title": "シェア" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "その後もWindowsに同梱されていることに支えられ、パソコン用ブラウザー市場で長年首位を保ってきたが、徐々にGoogleのGoogle Chromeに世界シェアを伸ばされ、2016年4月にはついに逆転を許した(ネット・アプリケーションズ調査)。", "title": "シェア" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ブラウザの脆弱性を利用した攻撃に対して、ブラウザシェアが最大であるため標的にされやすい。以前はOSと密接に結びついた構造であったため、サイバー攻撃を受けた場合に、ユーザー権限によってはオペレーティングシステムへ損害を及ぼすこともあった。また修正パッチプログラムが未発表の脆弱性「ゼロデイ攻撃」も多く、IEの使用が『最大のセキュリティーホール』といわれたこともある。", "title": "セキュリティ" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "マイクロソフトは対応策として、修正プログラムを早期に配布するようにしたため、未修正の脆弱性は少なくなっている。また、IE7以降はOSとの分離やセキュリティ強化を目的とする仕様変更が積極的に行われたため、攻撃しづらくなった。また、Enhanced Mitigation Experience ToolkitやMicrosoft Security Essentialsなどのセキュリティツールがマイクロソフトから無償で提供されており、未知の脆弱性を狙った攻撃も困難になりつつある。これらの要因から攻撃先が変化し、以前ほどは攻撃されなくなった。", "title": "セキュリティ" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "その後サードパーティー製アドオン経由の攻撃が増えており、この攻撃は対応する全てのブラウザに影響があることから、IEだから危険という状況は少なくなったといわれている。2014年8月度公開のInternet Explorerの累積的なセキュリティ更新プログラムでは、古い ActiveX コントロールの動作をブロックする機能が追加され、予告通り2014年9月10日(日本時間)から機能を始めた。まずは脆弱性が発見されている Java ActiveX コントロールが対象となっており、以降ブロック対象となる ActiveX コントロールの数が増える計画であるとしている。", "title": "セキュリティ" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ただし、IE本体への攻撃が全くなくなったわけではなく(たとえば、2010年1月に中国からGoogleへのサイバー攻撃にはIEの一般的に知られていない脆弱性を使った攻撃が使われ、特にWindows XPとIE6の組み合わせで危険であると報告され問題となった)どのような環境であってもセキュリティ強化は必要であるため、迅速に修正プログラムなどを導入し保護された環境にしておくことは重要なことである。", "title": "セキュリティ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2022年6月15日(太平洋時間)にInternet Explorerのサポートは終了した。", "title": "サポート期間" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "以前のInternet ExplorerのサポートライフサイクルはインストールしているWindowsと同一だったが、2014年8月にサポート方針が変更され、太平洋時間2016年1月12日から各Windowsにインストール可能な最新版のInternet Explorerのみサポートするという変更が発表された。対象となるのは同日付けでサポート期間中のWindows Vista SP2以降のクライアントとWindows Server 2008 SP2以降のサーバー(Windows Embedded 製品も対象に含まれる)、それにインストール可能な最新版のInternet Explorerとなる。", "title": "サポート期間" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2016年1月12日までは各Windowsで使用可能な複数のバージョンのInternet Explorerの修正プログラムの新規開発が行われるが、同日からは各Windowsの最新版のInternet Explorer用の修正プログラムのみ公開される。例えば、Windows VistaではInternet Explorer 7とInternet Explorer 8のサポートが2016年1月11日を最後に終了し、翌日以降はInternet Explorer 9のみサポート継続となり、2017年4月11日にWindows Vista自体のサポートが終了した。", "title": "サポート期間" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2019年4月16日より、R2にアップデートしていないWindows Server 2012やWindows Embedded 8 StandardでもInternet Explorer 11が利用可能になり、2020年1月14日にこれらのOSでのInternet Explorer 10のサポートを終了させた。", "title": "サポート期間" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "Windows 10ではOS標準ブラウザがMicrosoft Edgeへと正式に切り替わり、Internet Explorerの開発は終了した。一方、Windows 10には互換性維持のためにInternet Explorer 11が引き続きバンドルされている。Windows 10はサポートポリシーがこれまでより大きく変更され、アップデートを続ける限り半永久的な使用が可能である。したがってこれまでのサポートポリシーをそのまま適用するならば、Internet Explorer 11がバンドルされ続ける限りは半永久的にサポートが継続されることを意味するため、Internet Explorerの完全なサポート終了およびEdgeへの正式移行の時期は不明である。尚、Microsoft Edgeは、2018年12月6日に独自エンジンの開発を終了し、2020年1月15日にChromiumベースのエンジンに切り替えられた。", "title": "サポート期間" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "Windows 10 Enterprise 2015 LTSB のサポート期限の2025年10月14日までという話もあったが、米Microsoftは2021年5月19日(現地時間)、Internet Explorerのコンシューマー向けバージョンのサポートを2022年6月15日(日本時間6月16日)に終了すると発表した。", "title": "サポート期間" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "なお、サポート期限である2022年6月現在でも企業のシステムの中にはInternet Explorerの利用を前提として開発されたものも多数残されており、これらのシステムは改修などの対応が必要になることから情報処理推進機構(IPA)は利用者に対して早めの対応をとるように呼び掛けている。", "title": "サポート期間" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "Internet Explorer Mobile はマイクロソフト製のモバイルオペレーティングシステムに同梱されるウェブブラウザである。", "title": "Internet Explorer Mobile" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "当初の名称はPocket Internet Explorer(略称はそれぞれの頭文字をとった『PIE』)で、1996年にWindows CEの初期バージョンに搭載された。", "title": "Internet Explorer Mobile" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "元々はパソコン版のInternet Explorerとは別系統で開発されたものであったが、バージョン2.0以降はそれぞれパソコン版から機能を削減したものが採用され、後にパソコン版と同じくInternet Explorerに改称される。", "title": "Internet Explorer Mobile" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2009年にはWindows Mobile 6.5に搭載されたInternet Explorer Mobile 6からさらに名称を変更。2011年にリリースされた Windows Phone 7にはInternet Explorer Mobile 9が同梱され、Internet Explorer 9のレンダリングエンジンをベースにしている。Windows Phone 8にはInternet Explorer Mobile 10が搭載。", "title": "Internet Explorer Mobile" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "当初は、マイクロソフト製の家庭用ゲーム機・Xbox 360にはウェブブラウザ機能が搭載されていなかったが、2012年10月16日のアップデートでInternet Explorer for Xboxを搭載。Kinectでのジェスチャー・音声操作や、Xbox SmartGlassプラットフォームによるスマートフォン等からの遠隔操作が可能になる。", "title": "Internet Explorer for Xbox" } ]
Internet Explorerは、マイクロソフトがかつて開発していたウェブブラウザである。以前の名称はMicrosoft Internet ExplorerやWindows Internet Explorerであった。一般的に、IEやMSIEと呼ばれる。 Windows 95からWindows 10に至るまでのWindows ファミリーに標準で含まれている。Windows MobileにはInternet Explorer Mobileが含まれていた。以前はMac用のInternet Explorer for Mac(IE:mac)や HP-UXとSolaris用のInternet Explorer for UNIXも存在したが、これらは現在サポートされていない。 Windows 10から標準ブラウザはMicrosoft Edgeに置き換えられ、Internet Explorerの開発は終了し、マイクロソフトはInternet Explorerを利用しないことを呼びかけている。ただし互換性維持のため、Internet Explorer 11はWindows 10に引き続き搭載されていたが、2021年10月にリリースされたWindows 11では、Internet Explorerは搭載されていない。 2022年6月16日をもって、Internet Explorerのサポートが完全終了となり、今後はIEのセキュリティープログラムの更新が提供されなくなるため、そのリスクが高まることから、Microsoft Edgeへの移行を促すように画面が表示されているほか、業務用利用者に対しても、Edgeを含む、サポートが継続されている他のブラウザへの移行などを求めている。
{{Infobox Software | 名称 = Internet Explorer | ロゴ = [[ファイル:Internet Explorer 10+11 logo.svg|65px|ロゴ]] | スクリーンショット = [[ファイル:Internet Explorer 10 screenshot.png|325px]] | 説明文 = [[Microsoft Windows 8|Windows 8]]上で動作するInternet Explorer(バージョン10) | 開発元 = [[マイクロソフト]] | プログラミング言語 = [[C++]] | 対応OS = [[Microsoft Windows]]、[[Xbox360]] | 対応言語 = 95言語 | サポート状況 = サポート終了 | 種別 = [[ウェブブラウザ]] | エンジン = [[Trident]](HTML レンダリング)<br />[[Chakra]](JScript) | ライセンス = マイクロソフト ソフトウェア ライセンス条項 | 公式サイト = {{URL|microsoft.com/ie}} }} {{Infobox Windowsコンポーネント | name = Internet Explorer | logo = | included_with = [[Microsoft Plus!|Microsoft Plus! for Windows 95]]<br />[[Microsoft Windows 98]]以降 }} '''Internet Explorer'''(インターネット エクスプローラー)は、[[マイクロソフト]]がかつて開発していた[[ウェブブラウザ]]である。以前の名称は'''Microsoft Internet Explorer'''や'''Windows Internet Explorer'''であった。一般的に、'''IE'''や'''MSIE'''と呼ばれる。 [[Microsoft Windows 95|Windows 95]]から[[Microsoft Windows 10|Windows 10]]に至るまでの[[Microsoft Windows|Windows ファミリー]]に標準で含まれている。[[Windows Mobile]]([[Microsoft Windows Embedded CE|Windows CE]]の一部構成を含む)にはInternet Explorer Mobileが含まれていた。以前は[[Mac (コンピュータ)|Mac]]用の[[Internet Explorer for Mac]](IE:mac)や [[HP-UX]]と[[Solaris]]用の{{仮リンク|Internet Explorer for UNIX|en|Internet Explorer for UNIX}}も存在したが、これらは現在サポートされていない。 Windows 10から標準ブラウザは[[Microsoft Edge]]に置き換えられ、Internet Explorerの開発は終了し、マイクロソフトはInternet Explorerを利用しないことを呼びかけている<ref group="†">[https://techcommunity.microsoft.com/t5/Windows-IT-Pro-Blog/The-perils-of-using-Internet-Explorer-as-your-default-browser/ba-p/331732 The perils of using Internet Explorer as your default browser - Microsoft Tech Community - 331732]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20190208232857/https://japanese.engadget.com/2019/02/08/internet-explorer-ie/ マイクロソフト、企業にInternet Explorerの使用をやめるよう要請。「IEは技術的負債もたらす」 - Engadget 日本版]</ref>。ただし互換性維持のため、Internet Explorer 11はWindows 10に引き続き搭載されていたが、2021年10月にリリースされた[[Microsoft Windows 11|Windows 11]]では、Internet Explorerは搭載されていない。 [[2022年]][[6月16日]](JST アメリカ東部時間では[[6月15日]])をもって、Internet Explorerのサポートが完全終了となり、今後はIEのセキュリティープログラムの更新が提供されなくなるため、そのリスクが高まることから、Microsoft Edgeへの移行を促すように画面が表示されているほか、業務用利用者に対しても、Edgeを含む、サポートが継続されている他のブラウザへの移行などを求めている<ref>[https://www.ipa.go.jp/security/announce/ie_eos.html#:~:text=2022%20%E5%B9%B4%206%20%E6%9C%88%2016%20%E6%97%A5%EF%BC%88%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%99%82%E9%96%93%EF%BC%89%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%80%81,%E3%82%92%E6%94%B9%E4%BF%AE%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%81%A0%E3%81%95%E3%81%84%E3%80%82 Microsoft社Internet Explorerのサポート終了について]</ref>。 == 経緯 == === <span id="1"></span>Internet Explorer 1 === {{Main|Internet Explorer 1}} IEは[[1994年]]に{{仮リンク|スパイグラス|en|Spyglass, Inc.|label=Spyglass}}からライセンスを受けた[[NCSA Mosaic]]をもとに開発された。Internet Explorerは[[1995年]][[8月24日]]に公開された[[Microsoft Plus!|Microsoft Plus! for Windows 95]]に含まれた。このバージョンは表組みに対応していないほど機能が低く、使用するユーザーはほとんどいなかった。[[1996年]]5月に公開されたIE1.5では簡単なテーブル要素に対応した。 === <span id="2"></span>Internet Explorer 2 === {{Main|Internet Explorer 2}} Internet Explorer 2は[[1995年]][[11月27日]]に公開された。[[日本語]]版を含むいくつかの多言語版が提供された。[[Transport Layer Security|SSL 2.0]]や[[HTTP cookie|Cookie]]、読み込み限定ではあるが[[ネットニュース]]のクライアント機能も持っていた(ただし、日本語等への考慮は皆無)。 === Internet Explorer 3 === [[ファイル:Internet Explorer 3 logo and wordmark (1996-2001).svg|サムネイル|230x230ピクセル|Internet Explorer 3のロゴ]] Internet Explorer 3は[[1996年]][[8月13日]]に公開された<ref>{{Cite web|和書|date=1996-8-13 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/960813/ie-down.htm |title=速報:Internet Explorer 3.0を正式リリース |publisher=PC Watch |accessdate=2012-05-08}}</ref>。日本語版は[[8月16日]]に公開されている<ref>{{Cite web|和書|date=1996-08-16|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/960816/ie30w.htm|title=Internet Explorer 3.0 日本語版正式公開 |publisher=Impress Watch|accessdate=2011-03-20}}</ref>。約100人の開発者を3か月の間につぎ込み、Spyglassの技術を使用しているが、Spyglassからのソースコードは使用せずに開発された。[[Outlook Express|Internet Mail and News]]や[[Microsoft NetMeeting|NetMeeting]]を含む。メジャーなブラウザとして部分的ではあるが[[Cascading Style Sheets|CSS]]1に最初に対応したブラウザで、[[ActiveX|ActiveX コントロール]]や[[Javaアプレット]]などに対応した。IE3は以前のIEと別にインストールできたため、アップグレードしたユーザーは互換性を保つことができた。このバージョンから青い「e」のロゴマークが使用された<ref>{{Cite web|和書|title=フォトレポート:時代を振り返る--「Internet Explorer」の歴史(バージョン1から7まで) - 11/37|url=https://japan.cnet.com/article/20371731/11/|author=Greg Shultz|publisher=CNET Japan|date=2008-05-02|accessdate=2015-01-03}}</ref>。主要な機能追加だったCSSの対応が不十分で不具合が多く、[[JavaScript]]もNetscapeとの互換性が皆無だったため、ライバルの[[ネットスケープコミュニケーションズ]]のNetscape Navigatorから乗り換えるユーザーは少なくシェアは増加しなかった。また、HTTP/1.1プロトコルに対応した最初のInternet Explorerでもある。 === <span id="4"></span>Internet Explorer 4 === Internet Explorer 4は[[1997年]][[9月30日]]に公開された<ref>{{Cite web|和書|date=1997-10-01|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/971001/ie.htm|title=マイクロソフト、「Internet Explorer 4.0日本語版」製品版を公開|publisher=Impress Watch|accessdate=2011-03-20}}</ref>。Windowsと統合がはかられWindows 95やWindows NT 4.0は「Windows デスクトップのアップデート」を行った場合Windowsシェルが更新された<ref group="†">{{Cite web|和書|url=http://support.microsoft.com/kb/165695/ja|title=Windows デスクトップのアップデートコンポーネントを追加および削除する方法|publisher=マイクロソフト|date=2007-07-16|accessdate=2010-01-16}}</ref>([[Active Desktop]]を参照)。またWindows 98に標準で搭載され、強力な市場シェアを築く要因となった。しかし、この統合は多くの批判を受け、裁判の原因になった(アメリカ合衆国の司法省とマイクロソフトとの裁判など)。 グループ ポリシーでの構成に対応した。Internet Mail and Newsは[[Outlook Express]]に置き換えられた。[[HTMLレンダリングエンジン|レンダリング エンジン]]は新しく「[[Trident]]」に切り替わった。新しい試みとして[[Push技術|Active Channel]]と呼ばれるプッシュメディアが採用されたが、当初の期待に反して普及しなかった。当時は[[常時接続]]が一般的ではなかったのが原因だといわれている。当時としては高い先進性を持っていたブラウザであり初めて[[HyperText Markup Language|HTML 4.01]]に対応し、CSS1に完全対応した。また、現在では一般的になった「白地の背景に黒文字」のデフォルトスタイルを初めて採用した。同年[[12月4日]]に不具合を修正したIE4.01が公開された<ref>{{Cite web|和書|date=1997-12-04|url=https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/971204/ie401j.htm|title=Internet Explorer 4.01日本語版が公開|publisher=Impress Watch|accessdate=2011-03-20}}</ref>。 === Internet Explorer 5 === [[ファイル:Iexplore5+5.5.JPG|境界|フレーム]] Internet Explorer 5は[[1999年]][[3月18日]]に公開された<ref>{{Cite web|和書|date=1999-03-18|url=https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/1999/0318/ie5.htm|title=「Internet Explorer 5日本語版」公開――ストリーミングメディア対応を強化|publisher=Impress Watch|accessdate=2011-03-20}}</ref>。[[ルビ]]、[[MHTML]]などに対応した。同年[[12月8日]]に公開された IE5.01はバグの修正や暗号強度の強化、ウィンドウ再利用などの機能を備えたマイナー アップデートが行われた<ref>{{Cite web|和書|date=1999-12-08|url=https://forest.watch.impress.co.jp/article/1999/12/08/ie501.html|title=Internet Explorer 5.01日本語版がリリース|publisher=Impress Watch|accessdate=2011-03-20}}</ref>。[[Cascading Style Sheets#Cascading Style Sheets、level 2(CSS2)、勧告 1998年5月|CSS2]]や[[Document Object Model|DOM]] Level 1、[[Extensible Markup Language|XML]]に部分対応した。IE5は標準準拠を比較的重視した手堅い設計でIE4と同様当時のブラウザとしては完成度が高く、[[オペレーティングシステム|OS]]とバンドルの効果も相まって高いシェアを得た。IE5.01 SP3以降のIEのサービスパックは[[Microsoft Windows|Windows]]のサービスパックの一部としてのみ提供され、単独では公開されていない(Windows 2000 SP3がIE5.01 SP3を、Windows 2000 SP4がIE5.01 SP4を含む)。IE:macはレンダリングエンジン [[Tasman]]を基に再設計された。IE5.xは Mac OSとUNIX用の最後の提供となった。[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]の延長サポート期限である[[2010年]][[7月13日]]にサポートが終了した<ref group="†" name="support"/>。 Internet Explorer 5.5は[[2000年]][[7月17日]]に公開された<ref>{{Cite web|和書|date=2000-07-17|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20000717/ms.htm|title=マイクロソフト、Internet Explorer 5.5日本語版公開|publisher=Impress Watch|accessdate=2011-03-20}}</ref>。印刷プレビュー機能を搭載しCSS2の対応強化や[[XSL Transformations|XSLT]]の対応、縦書き表示、背景色で[[グラデーション]]に対応するなどの機能追加を行ったアップグレードとして公開した。このバージョンは動作安定性には比較的優れていたもののCSSやXSLTの対応は非常にずさんであったため、標準に従ったページの作成を行った場合に表示の不具合が多発し、ウェブ製作現場を混乱に陥れた<ref group="†">{{Cite web|和書|url=http://support.microsoft.com/kb/417057/ja|title=使用フォントをsans-serifに指定したHTMLファイルをInternet Explorerで表示すると文字化け|publisher=マイクロソフト|accessdate=2009-11-10}}が代表例。ほかにも多数存在した。</ref>。この頃から新興のブラウザが台頭し、これらのブラウザベンダーは標準準拠の重要性を訴えたことから標準準拠度が低く不具合の多いIE5.5はやり玉に挙げられた。また、セキュリティホールの多さと対応の遅さもこの時期に表面化した。2000年11月1日に Service Pack1 が提供された<ref>{{Cite journal |和書|title =IE5.5のService Pack1が早くも登場 NT/2000ユーザーはセットアップ時に注意 |date =2000-12-24 |publisher =日経BP |journal =日経ソフトウエア(2001/1) |volume =4 |issue =1 |naid = |pages =52 |ref = }}</ref>。[[2005年]][[12月31日]]にサポートが終了した<ref group="†" name="support">[http://support.microsoft.com/gp/lifesupsps#Internet_Explorer サポート対象サービスパック]</ref>。 なお、IPv6への対応も、5.5から行われている。しかし、実際には、WindowsのDNSクライアントサービス([[リゾルバ]])の仕様によって、ネットワークの動作環境によってはIPv6で使用できないことが多い。リゾルバの問題であるため、IPv6でインターネットにアクセスできる環境であれば、URLにIPv6のIPアドレスを直接記述すれば、IPv6で使用可能である。 === <span id="6"></span>Internet Explorer 6 === {{Main|Internet Explorer 6}} Internet Explorer 6は[[2001年]][[8月27日]](日本語版は[[9月19日]])に公開された<ref>{{Cite web|和書|date=2001-09-19|url=https://forest.watch.impress.co.jp/article/2001/09/19/ie6jp.html|title=マイクロソフト、「Internet Explorer 6」日本語正式版を公開|publisher=Impress Watch|accessdate=2011-03-20}}</ref>。[[ダイナミックHTML|DHTML]]の拡張、CSS2の対応強化、DOM Level 2と[[Synchronized Multimedia Integration Language|SMIL]] 2.0への部分的な対応、内容制限されたインラインフレーム、[[JavaScript]]による独自の[[マウスポインタ]]指定にも対応した。他にメディアバー(SP2で廃止)、[[Windows Messenger]]の統合、エラー報告、自動画像サイズ変更、[[Platform for Privacy Preferences Project|P3P]]とWindows XP ビジュアルスタイルでの表示が新機能として含まれる。反面、[[Extensible HyperText Markup Language|XHTML]]や[[国際化ドメイン名|IDN]]に未対応、[[Portable Network Graphics|PNG]]も完全対応はしておらずCSS2対応も強化はしたものの不十分であるなど、公開時点ですでに時代遅れになっている仕様も目立った。IE6 SP2ではセキュリティ向上を目的とした幾つかの仕様の変更と廃止、ポップアップブロックなどいくつかの機能が追加された。[[2003年]]にはスタンドアロン版の開発と提供を停止した<ref>{{Cite web|和書|url=https://japan.cnet.com/article/20054861/|title=マイクロソフト、IEスタンドアローン版廃止へ|publisher=CNET Japan|date=2003-06-02|accessdate=2009-11-10}}</ref>。 [[2005年]]にWindows XPとWindows Server 2003の[[x64]]版がリリースされた。それ以降のx64版Windowsには32ビット版と64ビット版の2つのInternet Explorerがインストールされているが、デフォルトは32ビット版になっている。プラグインには32ビット版しか用意されていないものが多く、64ビット版IEで32ビット版のプラグインを使う仕組みがないためである。 === <span id="7"></span>Internet Explorer 7 === {{Main|Internet Explorer 7}} Internet Explorer 7は[[2006年]][[10月18日]](日本語版は[[11月2日]])に公開された<ref>{{Cite web|和書|date=2006-11-02|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2006/1102/ms.htm|title=マイクロソフト、Internet Explorer 7日本語版を公開|publisher=Impress Watch|accessdate=2011-03-20}}</ref>。名称が変更され、[[タブブラウザ|タブブラウジング]]など新しいユーザーインターフェイス機能を実装した。設計段階でセキュリティの問題に多くの対策が施された。既に他のブラウザでは標準的でありIEのみが未対応であった[[Portable Network Graphics|PNG]]の[[アルファチャネル|アルファ合成]]などの対応に加え、IE6に比べてよりCSSなどで標準準拠が行われた。Outlook Expressのバンドルはなくなった。元々IE7はWindows Vista/Windows Server 2008専用としていたが、開発方針の変更によりWindows XP/Windows Server 2003にも提供された。 === <span id="8"></span>Internet Explorer 8 === {{Main|Internet Explorer 8}} Internet Explorer 8は[[2009年]][[3月20日]]に公開された<ref>{{Cite web|和書|date=2009-03-20|url=https://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2009/03/20/22855.html|title=「Internet Explorer 8」正式版のダウンロード提供が開始|publisher=Impress Watch|accessdate=2011-03-20}}</ref>。IE8の第1の目標は既存のページの表示を崩すことなく標準規格に沿った優れた実装で対応すること、第2の目標としてIE7で起きた問題を避けることが挙がった。ウェブ標準準拠に加え、最優先事項の1つに含まれるセキュリティ強化やプライバシー保護対策、パフォーマンスや使い勝手も全般的に改善が行われた。Windowsと完全に分離したソフトウェアとなり、アンインストールが可能になった。また、このバージョンがWindows XPがアップグレードできる最後のバージョンである。 === <span id="9"></span>Internet Explorer 9 === {{Main|Internet Explorer 9}} Internet Explorer 9は日本語版を除き[[2011年]][[3月15日]]に公開された<ref>{{Cite web|和書|date=2011-03-15|url=https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/432928.html|title=「Internet Explorer 9」正式版が公開、日本語版は地震の影響で公開延期|publisher=Impress Watch|accessdate=2011-03-20}}</ref>。日本語版は[[3月11日]]に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]の影響で日本時間[[4月26日]]0時に延期され<ref group="†">{{Cite web|和書|date=2011-04-06|url=http://www.microsoft.com/japan/presspass/news/default.aspx#110406|title=マイクロソフト PressPass お知らせ|publisher=日本マイクロソフト|accessdate=2011-04-06}}</ref>、発表の通り公開された<ref>{{Cite web|和書|date=2011-04-26|url=https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/442311.html|title=Microsoft、「Internet Explorer 9」の日本語正式版を公開|publisher=Impress Watch|accessdate=2011-04-27}}</ref>。IE9はIE8で実施されたウェブ標準準拠の流れを踏襲し[[HTML5]]やCSS3といった新しいウェブ標準の一部や、[[カラーマネージメント]]や[[JPEG XR]]などのグラフィックス標準に対応する。[[Graphics Processing Unit|GPU]]や[[マルチコア]]を活用したパフォーマンスの向上も行われる。ユーザーインターフェイスはサイト表示を中心としたデザインに一新された。 === <span id="10"></span>Internet Explorer 10 === {{Main|Internet Explorer 10}} Internet Explorer 10は[[2012年]][[8月15日]]に公開された。[[Microsoft Windows 8|Windows 8]]にはWindows UI([[Modern UI]])版と従来のデスクトップ版の2つがあり、以前のWindowsに従来のデスクトップ版が提供された。IE10はパフォーマンスの向上や、より多くのウェブ標準への対応が行われる。Windows 8と[[Microsoft Windows RT|Windows RT]]では[[Adobe Flash|Adobe Flash Player]]を統合。トラッキング防止([[:en:Do Not Track|Do Not Track]])が標準で有効になる<ref>{{Cite news|url=https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/537506.html|title=Windows 8同梱のIE 10 Platform Preview第6版〜Metroスタイルの操作感とパフォーマンス向上|publisher=INTERNET Watch|date=2012-06-04|accessdate=2012-06-05}}</ref>。 === <span id="11"></span>Internet Explorer 11 === {{Main|Internet Explorer 11}} Internet Explorer 11は[[2013年]][[10月17日]](日本時間)に公開された<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/611440.html Windows 8.1、日本時間10月17日より公開へ -INTERNET Watch]</ref>。[[WebGL]]、HTML5 メディア要素の拡張と保護メディアの対応、[[SPDY]]、[[JavaScript]]オブジェクトモデル拡張等の機能が追加された<ref>{{Cite news|author=François REMY|url=http://fremycompany.com/BG/2013/Internet-Explorer-11-rsquo-s-leaked-build-395/|title=Internet Explorer 11's leaked build(new features)|date=2012-03-25|accessdate=2012-04-05}}</ref>。JavaScriptの実行速度をSunSpiderの結果で比較するとInternet Explorer 10より9%速くなった<ref>{{Cite web|url=http://blogs.msdn.com/b/ie/archive/2013/11/07/ie11-for-windows-7-globally-available-for-consumers-and-businesses.aspx|title=IE11 for Windows 7 Globally Available for Consumers and Businesses|author=Rob Mauceri|coauthors=Sandeep Singhal|work=IEBlog|language=英語|date=2013-11-08|accessdate=2014-01-07}}</ref>。なおこれがIEとして事実上最後のバージョンであり、以後は[[Microsoft Edge]]に機能移譲される格好となった。 === <span id="Developer Channel"></span>Internet Explorer Developer Channel === Internet Explorer Developer Channelは、次期Internet Explorer機能の一部を開発者向けに事前公開することを目的としている<ref group="†">[http://msdn.microsoft.com/en-us/library/ie/dn722334(v=vs.85).aspx Internet Explorer Developer Channel]</ref>。2014年6月16日に公開されたバージョンでは、WebDriver API、F12開発ツール機能更新(デバッグ機能)、WebGL機能更新、GamePad APIなどが実装されている。App-Vクライアント仮想化技術により通常バージョンのInternet Explorer 11と独立して動作可能になっているが、次期バージョンを開発する前に追加しようとしている機能を確認する目的の実験的バージョンであるため、通常使用するためのものではなく、性能やセキュリティ面で問題がある可能性がある。 == シェア == {{See also|ブラウザ戦争}} IEは、[[Microsoft Windows]]に標準[[バンドル]]されたため、次第にウェブコンテンツを作成する側からは、[[デファクトスタンダード|事実上の標準]]とみなされるようになった。また[[Netscape Navigator]]と比較すると、[[レンダリングエンジン]]の表示時間が速く、[[オペレーティングシステム]]との関係も深いため、ブラウザの起動時間が速かった。これとは対照的にNetscape 4は標準準拠に遅れていたうえ、レンダリングエンジンの不具合が多く、IE独自機能を使っていないページでも、まともに表示できないページが多かった。それらの理由により、[[ブラウザ戦争#第一次ブラウザ戦争|第一次ブラウザ戦争]]を経て、最盛時にはIEの[[市場占有率|シェア]]は95%以上となった。 その後、IEのレンダリングエンジンを利用した [[IEコンポーネントブラウザ]]も多数登場し、独自の機能や[[カスタム|カスタマイズ]]性で人気を博した。これにより、IEの占有率が底上げされた。 2005年頃から[[Mozilla Firefox]]に代表されるIE以外のウェブブラウザが登場し、これら新興ウェブブラウザのレンダリング速度やカスタマイズ性がIEよりも高かったことなどから一定の人気を博したため、[[ブラウザ戦争#第二次ブラウザ戦争|第二次ブラウザ戦争]]と呼ばれるブラウザシェアの変動が発生した。Net Applicationsによる調査では、2010年4月の時点でIEのシェアは60%を割り込み<ref>{{Cite web|和書|url=http://japan.internet.com/busnews/20100506/10.html|title=4月の『IE』のシェア、ついに60%を割り込む|publisher=Webビジネス|accessdate=2010-06-06}}</ref>[[独占|独占状態]]ではなくなった。2013年時点ではFirefoxを凌ぐ勢いで成長した[[Google Chrome]]がIEを抜かす勢いで大きくシェアを伸ばしている。2020年時点ではChromeがシェア60%を超え、2位がEdge、3位がFirefoxとなり、IEはシェア4位に転落している。 また、[[Internet Explorer for Mac]]はMac OS 8.1から[[Mac OS X v10.2]]まではデフォルトのウェブブラウザであったため、Macにおけるシェアも高かった。現在ではMac OSの開発元[[Apple]]による[[Safari]]の提供、さらにはマイクロソフトによるInternet Explorer for Macの開発とサポート・配布の終了ならびに代替としてSafariなど(他にFirefoxやOperaなど)の使用の推奨を受け<ref group="†">{{Cite press release|和書|url=http://www.microsoft.com/japan/mac/products/ie/|title=Mactopia Japan: Internet Explorer 5 for Mac:Internet Explorer ユーザーの皆様へ|publisher=[[マイクロソフト]]|accessdate=2006-08-09}}</ref>、MacにおけるInternet Explorer for Macの占有率は、絶滅した。 ; 市場占有率 {| class="infobox bordered" style="float:right;margin:0 0 1em 1em; text-align:right" |+ style="font-size:1em"|Net Applications社<br />2019年8月<ref>{{Cite web|url=http://marketshare.hitslink.com/browser-market-share.aspx?qprid=2&qpcustomd=0|title=Desktop Browser Version Market Share|publisher=Net Applications社|accessdate=2011-09-01}}</ref><br />バージョン別の市場シェア(デスクトップのみ)<!-- これを更新される際はサイトのグラフの期間の開始月と終了月を同一にする必要があります --> !style="background-color:rgb(242, 242, 242); text-align:center"|バージョン!!style="background-color:rgb(242, 242, 242); text-align:center"|シェア |- |Internet Explorer 6||0.05% |- |Internet Explorer 7||0.08% |- |Internet Explorer 8||0.21% |- |Internet Explorer 9||0.10% |- |Internet Explorer 10||0.08% |- |Internet Explorer 11||6.99% |- !style="background-color:rgb(242, 242, 242); text-align:center"|全てのバージョン |style="background-color:rgb(242, 242, 242)"|7.50% |} {{Main|ウェブブラウザの利用シェア}} マイクロソフトは2011年3月に[http://ie6countdown.com/ IE6 Countdown]{{リンク切れ|date=2020年8月}}にて各国のIE6の使用状況を公開し、より新しいブラウザへの移行のプロモーション活動を行っている<ref>{{Cite web|和書|date=2011-03-07|url=https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/431674.html|title=MS、IE6消滅までのカウントダウン特設サイト開設〜日本のシェアは高止まり|publisher=Impress Watch|accessdate=2011-03-21}}</ref>。2015年2月現在でIE6の利用率が最も多い国は中国(3.1%)である。 [[Google]]は[[YouTube]]でIE6など、古いブラウザの対応を2010年3月1日で打ち切った<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1002/01/news026.html Google、IE6など古いブラウザのサポート終了へ - ITmedia News]</ref>。そういった経緯から、2010年[[3月4日]]にはアメリカのWebデザイン会社が企画した「IE6の葬儀」が[[コロラド州]][[デンバー]]で行われ、マイクロソフトのIEチームが花を贈り「素晴らしい時をありがとう」とメッセージを送った<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1003/08/news030.html IE6の“葬儀”行われる Microsoftから献花も - ITmedia News]</ref>。 その後も[[Windows]]に同梱されていることに支えられ、[[パソコン]]用[[ブラウザー]]市場で長年首位を保ってきたが、徐々に[[Google]]の[[Google Chrome]]に世界シェアを伸ばされ、[[2016年]]4月にはついに逆転を許した(ネット・アプリケーションズ調査)<ref>{{Cite web|和書|date=2016-05-03|title=ブラウザーのシェア、グーグル「クローム」が首位に|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASGN03H0M_T00C16A5000000/|publisher=日本経済新聞社|accessdate=2016-05-14}}</ref>。 == セキュリティ == ブラウザの脆弱性を利用した攻撃に対して、ブラウザシェアが最大であるため標的にされやすい。以前は[[オペレーティングシステム|OS]]と密接に結びついた構造であったため、[[サイバー攻撃]]を受けた場合に、ユーザー権限によってはオペレーティングシステムへ損害を及ぼすこともあった。また修正パッチプログラムが未発表の脆弱性「[[ゼロデイ攻撃]]」も多く、IEの使用が『最大の[[セキュリティーホール]]』といわれたこともある。 マイクロソフトは対応策として、修正プログラムを早期に配布するようにしたため、未修正の脆弱性は少なくなっている。また、IE7以降はOSとの分離やセキュリティ強化を目的とする仕様変更が積極的に行われたため、攻撃しづらくなった。また、[[Enhanced Mitigation Experience Toolkit]]や[[Microsoft Security Essentials]]などのセキュリティツールがマイクロソフトから無償で提供されており、未知の脆弱性を狙った攻撃も困難になりつつある。これらの要因から攻撃先が変化し、以前ほどは攻撃されなくなった。 その後[[サードパーティー]]製アドオン経由の攻撃が増えており、この攻撃は対応する全てのブラウザに影響があることから、IEだから危険という状況は少なくなったといわれている。2014年8月度公開のInternet Explorerの累積的なセキュリティ更新プログラムでは、古い [[ActiveX]] コントロールの動作をブロックする機能が追加され<ref group="†">{{Cite web|和書|title=&#x005b;MS14-051&#x005d; Internet Explorer用の累積的なセキュリティ更新プログラム(2014年8月12日)|url=http://support.microsoft.com/kb/2976627|publisher=マイクロソフト|date=2014-08-21|accessdate=2014-09-11}}</ref>、予告通り2014年9月10日(日本時間)から機能を始めた<ref group="†">{{Cite web|和書|title=古いバージョンの Java ActiveX コントロールのブロックを開始しました|url=http://blogs.technet.com/b/jpsecurity/archive/2014/09/10/ie-activex-block-start.aspx|publisher=マイクロソフト|date=2014-09-09|accessdate=2014-09-11}}</ref>。まずは脆弱性が発見されている Java ActiveX コントロールが対象となっており、以降ブロック対象となる ActiveX コントロールの数が増える計画であるとしている。 ただし、IE本体への攻撃が全くなくなったわけではなく(たとえば、2010年1月に[[中華人民共和国|中国]]からGoogleへのサイバー攻撃にはIEの一般的に知られていない脆弱性を使った攻撃が使われ、特にWindows XPとIE6の組み合わせで危険であると報告され問題となった<ref>[https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1001/18/news036.html IEの脆弱性を狙うコードが出回る、Google攻撃にも利用 - ITmedia エンタープライズ]</ref>)どのような環境であってもセキュリティ強化は必要であるため、迅速に修正プログラムなどを導入し保護された環境にしておくことは重要なことである。 == サポート期間 == 2022年6月15日(太平洋時間)にInternet Explorerのサポートは終了した<ref>{{Cite web|和書|title=IE11がついに2022年6月15日で終了へ 日本でのシェアは?|url=https://www.itmedia.co.jp/pcuser/articles/2105/21/news053.html|website=ITmedia|date=2021-05-21|accessdate=2021-07-26|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「Internet Explorer」サポート終了も「IEモード」で“ゾンビ化” 本当の混乱は7年後? |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/0198dc5ba3d9bec37e0e45a8bdef5f84e143298b |website=Yahoo!ニュース |access-date=2022-06-16 |date=2022-06-16}}</ref>。 以前のInternet ExplorerのサポートライフサイクルはインストールしているWindowsと同一だったが、2014年8月にサポート方針が変更され、太平洋時間2016年1月12日から各Windowsにインストール可能な最新版のInternet Explorerのみサポートするという変更が発表された<ref group="†">{{Cite web|title=Stay up-to-date with Internet Explorer|url=http://blogs.msdn.com/b/ie/archive/2014/08/07/stay-up-to-date-with-internet-explorer.aspx|publisher=マイクロソフト|date=2014-08-08|accessdate=2014-12-24}}</ref>。対象となるのは同日付けでサポート期間中のWindows Vista SP2以降のクライアントとWindows Server 2008 SP2以降のサーバー(Windows Embedded 製品も対象に含まれる)、それにインストール可能な最新版のInternet Explorerとなる。 2016年1月12日までは各Windowsで使用可能な複数のバージョンのInternet Explorerの修正プログラムの新規開発が行われるが、同日からは各Windowsの最新版のInternet Explorer用の修正プログラムのみ公開される。例えば、Windows VistaではInternet Explorer 7とInternet Explorer 8のサポートが2016年1月11日を最後に終了し、翌日以降はInternet Explorer 9のみサポート継続となり、2017年4月11日にWindows Vista自体のサポートが終了した<ref>{{Cite web|和書|title=Windows Vistaのサポート期限があと20日に迫る 2017年4月11日終了|url=https://www.itmedia.co.jp/pcuser/articles/1703/23/news054.html|website=ITmedia|date=2017-03-23|accessdate=2021-07-26|language=ja}}</ref>。 2019年4月16日より、R2にアップデートしていないWindows Server 2012やWindows Embedded 8 StandardでもInternet Explorer 11が利用可能になり<ref group="†">[https://support.microsoft.com/en-us/help/4492872/update-for-internet-explorer-april-16-2019 Internet Explorer 11 for Windows Server 2012 and Windows Embedded 8 Standard: April 16, 2019]</ref>、2020年1月14日にこれらのOSでのInternet Explorer 10のサポートを終了させた<ref group="†" name="ms-ie11-Windows-Server-2012">[https://techcommunity.microsoft.com/t5/Windows-IT-Pro-Blog/Bringing-Internet-Explorer-11-to-Windows-Server-2012-and-Windows/ba-p/325297 Bringing Internet Explorer 11 to Windows Server 2012 and Windows Embedded 8 Standard - Microsoft Tech Community - 325297]</ref>。 Windows 10ではOS標準ブラウザが[[Microsoft Edge]]へと正式に切り替わり、Internet Explorerの開発は終了した。一方、Windows 10には互換性維持のためにInternet Explorer 11が引き続きバンドルされている。Windows 10はサポートポリシーがこれまでより大きく変更され、アップデートを続ける限り半永久的な使用が可能である。したがってこれまでのサポートポリシーをそのまま適用するならば、Internet Explorer 11がバンドルされ続ける限りは半永久的にサポートが継続されることを意味するため、Internet Explorerの完全なサポート終了およびEdgeへの正式移行の時期は不明である。尚、Microsoft Edgeは、2018年12月6日に独自エンジンの開発を終了し、2020年1月15日<ref>[https://twitter.com/MicrosoftEdge/status/1191460360206848000 Microsoft Edge on Twitter: "The new Microsoft Edge is coming January 15 -- with improved performance, security, and privacy. Download the Beta to check it out today! https://t.co/juVlca7jk3 https://t.co/WQIz0KIb44" / Twitter]</ref>に[[Chromium]]ベースのエンジンに切り替えられた<ref group="†">[https://blogs.windows.com/windowsexperience/2018/12/06/microsoft-edge-making-the-web-better-through-more-open-source-collaboration/ Microsoft Edge: Making the web better through more open source collaboration | Windows Experience Blog]</ref>。 Windows 10 Enterprise 2015 LTSB のサポート期限の2025年10月14日までという話もあったが<ref>[https://atmarkit.itmedia.co.jp/ait/articles/1503/11/news134.html 一目で分かる、各Windows OSでのInternet Explorerのサポート終了時期:Tech TIPS - @IT]</ref>、米Microsoftは2021年5月19日(現地時間)、Internet Explorerのコンシューマー向けバージョンのサポートを2022年6月15日(日本時間6月16日)に終了すると発表した<ref group="†">{{Cite web|和書|title=Internet ExplorerはMicrosoft Edgeへ - Windows 10のInternet Explorer 11 デスクトップアプリは2022年6月15日にサポート終了|url=https://blogs.windows.com/japan/2021/05/19/the-future-of-internet-explorer-on-windows-10-is-in-microsoft-edge/|website=Windows Blog for Japan|date=2021-05-19|accessdate=2021-05-20|language=en-US-word-count}}</ref>。 なお、サポート期限である2022年6月現在でも企業のシステムの中にはInternet Explorerの利用を前提として開発されたものも多数残されており、これらのシステムは改修などの対応が必要になることから[[情報処理推進機構]](IPA)は利用者に対して早めの対応をとるように呼び掛けている<ref>{{Cite web|和書|title=「インターネット エクスプローラー」のサポート 16日に終了 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220612/k10013668311000.html |website=NHKニュース |access-date=2022-06-13 |date=2022-06-12 |author=日本放送協会}}</ref>。 == バージョン別のOS対応 == {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin-right:1em" |+Windowsの対応表 !rowspan="2" style="white-space:nowrap"|バージョン!!rowspan="2"|公開!!rowspan="2"|レイアウト<br />エンジン!!colspan="14"|Windows |- ![[Microsoft Windows 11|11]] ![[Microsoft Windows 10|10]]/[[Microsoft Windows Server 2016|Server 2016]]/[[Microsoft Windows Server 2019|2019]]/2022!![[Microsoft Windows 8#Windows 8.1|8.1]]/[[Microsoft Windows RT#Windows RT 8.1|RT 8.1]]/[[Microsoft Windows Server 2012#Windows Server 2012 R2|Server 2012 R2]]!![[Microsoft Windows 8|8]]/[[Microsoft Windows RT|RT]]/[[Microsoft Windows Server 2012|Server 2012]]!![[Microsoft Windows 7|7]]/[[Microsoft Windows Server 2008 R2|Server 2008 R2]]!![[Microsoft Windows Vista|Vista]]/[[Microsoft Windows Server 2008|Server 2008]]!![[Microsoft Windows Server 2003|Server 2003]]!![[Microsoft Windows XP|XP]]!![[Microsoft Windows Millennium Edition|Me]]!![[Microsoft Windows 2000|2000]]!![[Microsoft Windows 98|98]]!![[Microsoft Windows NT 4.0|NT 4.0]]!![[Microsoft Windows 95|95]]!![[Microsoft Windows 3.x|3.x]]/[[Microsoft Windows NT|NT 3.x]] |- !11.0 |style="white-space:nowrap"|2013年||style="white-space:nowrap"|Trident/7.0||{{Nowrap|{{Partial|可}}<ref group="注">EdgeのIEモードを通じて利用できる。</ref>}}||{{Nowrap|{{Yes|標準}}<ref group="注">Windows 10 Enterprise 以外では既定のブラウザではない。</ref>}}||{{Nowrap|{{Yes|標準}}}}||{{Nowrap|{{Yes2|可}}<ref group="注">Windows 8はWindows 8.1へのアップグレードが必要。Windows Server 2012は2019年4月より可能。</ref>}}||{{Nowrap|{{Yes2|可}}<ref group="注" name="SP1">Windows 7、Server 2008 R2ともにService Pack 1が必要。</ref>}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}} |- !10.0 |2012年||Trident/6.0||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{Yes|標準}}||{{Yes2|可}}<ref group="注" name="SP1"/>||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}} |- !9.0 |2011年||Trident/5.0||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{Yes2|可}}||{{Nowrap|{{Yes2|可}}<ref group="注">Windows Vista、Server 2008ともにService Pack 2およびプラットフォーム更新プログラムが必要。</ref>}}||{{No|不|可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}} |- !8.0 |2009年||Trident/4.0||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{Yes|標準}}||{{Yes2|可}}||{{Yes2|可}}<ref group="注">Windows Server 2003 SP2が必要。</ref>||{{Nowrap|{{Yes2|可}}<ref group="注" name="eight">Windows XP SP2が必要。</ref>}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}} |- !7.0 |2006年||Trident||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{Yes|標準}}||{{Yes2|可}}<ref group="注">Windows Server 2003 SP1が必要。</ref>||{{Yes2|可}}<ref group="注" name="eight"/>||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}} |- !6.0 |2001年||Trident||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{Yes|標準}}||{{Yes|標準}}||{{Nowrap|{{Yes2|可}}<ref group="注" name="six">IE6 SP1と修正プログラムが提供された。</ref>}}||{{Yes2|可}}<ref group="注" name="six"/>||{{Yes2|可}}<ref group="注" name="six"/>||{{Nowrap|{{Yes2|可}}<ref group="注" name="six"/>}}||{{No|不可}}||{{No|不可}} |- !5.5 |2000年||Trident||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{Yes|標準}}||{{Yes2|可}}||{{Yes2|可}}||{{Yes2|可}}||{{Yes2|可}}||{{No|不可}} |- !5.0 |1999年||Trident||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}} ||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{Nowrap|{{Yes|標準}}<ref group="注">Windows 2000はIE5.01が含まれた。</ref>}}||{{Nowrap|{{Yes|標準}}<ref group="注" name="five_2">IE4.01はWindows 98に含まれ、IE5.0はWindows 98 Second Editionに含まれた。</ref>}}||{{Yes2|可}}||{{Yes2|可}}||{{Nowrap|{{Yes2|可}}<ref group="注" name="five">IE3、IE4、IE5.01の各16ビット版が、Windows 3.1に対応した。</ref>}} |- !4.0 |1997年||Trident||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{Nowrap|{{Yes|標準}}<ref group="注" name="five_2"/>}}||{{Yes2|可}}||{{Nowrap|{{Yes|標準}}<ref group="注" name="two"/>}}||{{Yes2|可}}<ref group="注" name="five"/> |- !3.0 |1996年||?||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{Yes2|可}}||{{Yes|標準}}<ref group="注" name="two"/>||{{Yes2|可}}<ref group="注" name="five"/> |- !2.0 |1995年||?||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{Yes|標準}}||{{Yes|標準}}<ref group="注" name="two">IE2はOSR 1に含まれ、IE3はOSR 2に含まれ、IE4はWindows 95 OSR 2.5に含まれた。</ref>||{{Yes2|可}} |- !1.5 |1996年||Spyglass||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{Yes2|可}}||{{Yes2|可}}||{{Partial|可}}<ref group="注">IE1.5はInternet Information Server 1.0に含まれ、Windows NT 3.5とWindows NT 3.51が対応した。</ref> |- !1.0 |1995年||Spyglass||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{nonfree|[[Microsoft Plus!|Plus!]]}}||{{No|不可}} |} {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin-right:1em" |+Macの対応表 !rowspan="2"|バージョン!!rowspan="2"|公開!!rowspan="2"|レイアウトエンジン!![[macOS|Mac OS X]]!!colspan="3"|[[Mac OS]] |- !v10.0-v10.3!!9!!8!!7 |- !5.0 |2000年||Tasman||{{Yes|標準}}<ref group="注" name="mac_five">IE5はPPC Mac OS 7.6以上が対応する。</ref>||{{Yes2|可}}<ref group="注" name="mac_five"/>||{{Yes2|可}}<ref group="注" name="mac_five"/>||{{Yes2|可}}<ref group="注" name="mac_five"/> |- !4.5 |1999年||Trident||{{No|不可}}||{{Yes|標準}}<ref group="注" name="four_five">IE4.5はMac OS 8.6から9.04まで含まれた。Power Macintoshのみ対応。</ref>||{{Yes|標準}}<ref group="注" name="four_five"/>||{{Yes2|可}}<ref group="注" name="four_five"/> |- !4.0 |1998年||Trident||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{Yes|標準}}<ref group="注" name="four">IE4.0はMac OS 8.5から8.51まで含まれた。68k Mac向け最後の提供。</ref>||{{Yes2|可}}<ref group="注" name="four"/> |- !3.0 |1997年||?||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{Yes|標準}}<ref group="注">IE3はMac OS 8.1に含まれた。</ref>||{{Yes2|可}} |- !2.0 |1996年||?||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{No|不可}}||{{Yes2|可}}<ref group="注">IE2.0xはSystem 7.01以上が対応する。IE2.1はSystem 7.1以上が対応する。Mac OS 7.0x向け最後の提供。</ref> |} {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%" |+Unixの対応表 !バージョン!!公開!![[HP-UX]]/[[Solaris]] |- !5.0 |1999年||{{Yes2|可}}<ref group="注">IE5 SP1まで。</ref> |- !4.01 |1998年||{{Yes2|可}} |- !3.0 |1996年||{{Partial|Beta}} |} {{Clear}} == Internet Explorer Mobile == {{節スタブ}} Internet Explorer Mobile はマイクロソフト製の[[モバイルオペレーティングシステム]]に同梱されるウェブブラウザである。 当初の名称はPocket Internet Explorer(略称はそれぞれの頭文字をとった『PIE』)で、[[1996年]]に[[Microsoft Windows CE|Windows CE]]の初期バージョンに搭載された<ref group="注">ただしWindows CE 1.0では製品に同梱されているCD-ROMを用い、Windowsの動作しているパソコンと通信ケーブルで接続し、パソコンからインストールしなければならず、プリインストールされるのは2.0以降からであった。</ref>。 元々はパソコン版のInternet Explorerとは別系統で開発されたものであったが、バージョン2.0以降はそれぞれパソコン版から機能を削減したものが採用され、後にパソコン版と同じくInternet Explorerに改称される。 [[2009年]]には[[Windows Mobile]] 6.5に搭載されたInternet Explorer Mobile 6からさらに名称を変更。[[2011年]]にリリースされた [[Windows Phone 7]]にはInternet Explorer Mobile 9が同梱され、Internet Explorer 9のレンダリングエンジンをベースにしている。[[Windows Phone 8]]にはInternet Explorer Mobile 10が搭載。 == Internet Explorer for Xbox == 当初は、マイクロソフト製の家庭用[[ゲーム機]]・[[Xbox 360]]にはウェブブラウザ機能が搭載されていなかったが、[[2012年]][[10月16日]]のアップデートでInternet Explorer for Xboxを搭載。[[Kinect]]でのジェスチャー・音声操作や、[[:en:Xbox SmartGlass|Xbox SmartGlass]]プラットフォームによるスマートフォン等からの遠隔操作が可能になる<ref>{{Cite news|url=https://japan.cnet.com/article/35017783/|title=MS、「Xbox 360」向けに「Kinect」機能対応の「Internet Explorer」を発表|publisher=CNET Japan|date=2012-06-05|accessdate=2012-06-05}}</ref>。 == 注釈 == {{Reflist|2|group="注"}} == 出典 == {{Reflist|2}} === 一次資料 === {{Reflist|group="†"}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=エクスメディア|year=1997|month=12|title=超図解Internet Explorer 4.0:For Windows 95|publisher=エクスメディア|isbn=4872830334}} * {{Cite book|和書|author=エクスメディア|year=1998|month=12|title=超図解Internet Explorer 4.0 for Windows 95/98|publisher=エクスメディア|isbn=487283061X}} * {{Cite book|和書|author=エクスメディア|year=1999|month=4|title=超図解Internet Explorer 5:For Windows 95/98|publisher=エクスメディア|isbn=4872830741}} * {{Cite book|和書|author=エクスメディア|year=1999|month=3|title=超図解インターネット入門:Macintosh IE 4.5編|publisher=エクスメディア|isbn=4872830709}} * {{Cite book|和書|year=2007|month=2|title=超カンタン!IE7:最新ブラウザを使いこなす!(I/O別冊)|publisher=工学社|isbn=978-4-7775-0087-1}} == 関連項目 == * [[Microsoft Edge]] * [[MSN Explorer]] * [[ウェブブラウザの一覧]] == 外部リンク == * {{Official website|https://support.microsoft.com/en-us/windows/internet-explorer-help-23360e49-9cd3-4dda-ba52-705336cc0de2|Internet Explorer のヘルプ}} {{Internet Explorer}} {{ウェブブラウザ}} {{Windows Components}} {{マイクロソフト}} {{Normdaten}} [[Category:Internet Explorer|*]] [[Category:廃止されたマイクロソフトのソフトウェア]] [[Category:ウェブブラウザ]] [[Category:廃止されたWindowsのコンポーネント]] [[Category:RSS]] [[Category:1995年のソフトウェア]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Internet_Explorer
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IP
IP
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IP
{{pp-vandalism|small=yes}} '''IP''' ==普通名詞== ===IT関連用語=== * [[Internet Protocol]] - [[インターネット]]を実現しているネットワーク・プロトコル ** [[IPアドレス]] (Internet Protocol Address) の略 *** [[リモートホスト]]の[[ホスト名]]。[[インターネットサービスプロバイダ]]名が書かれている文字列についてはそちら。 * Instruction Pointer(インストラクションポインタ) - [[中央演算処理装置]] (CPU) の[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]の一つで、次に実行する機械語コードのアドレスを示す。プログラムカウンタ (PC) と呼んでいるCPUもある。 * [[IPコア]] (Intellectual Property Core) の略 - 大規模[[論理回路]]の設計において、知的財産権のある特定機能回路の設計データを他のメーカに[[ライセンス生産|ライセンス供与]]するときの、設計データ自体を指す。ソフトウェアにおけるライブラリに相当する。 * [[インタープリタ (曖昧さ回避)|インタープリタ]]のこと * 情報処理 (information processing) * [[IntelligentPad]]の略 ===科学・技術用語=== * [[International Protection]] - [[国際電気標準会議]]が標準化した電気機器などの[[筐体|エンクロージャ]]による(異物混入・防水などの)保護等級。[[電気機械器具の外郭による保護等級#IPコード]]も参照。 * [[イメージングプレート]]の略称。[[放射線]]の定量的な観測に用いるフィルム状の検出機。 * [[イオンプレーティング]] ('''I'''on '''P'''lating) の略称。 * [[整数計画問題]] (Integer Programming problem) の略 - [[線形計画問題]]のうち、解ベクトルの各要素を整数に限定したもの。 * [[屈折句]] (Inflection Phrase) - [[Xバー理論]]において、[[節 (文法)|節]]と同等の[[句範疇]]。 ===医学・医療用語=== * [[腸腰筋]] (Iliopsoas) の略 * [[間質性肺炎]] (Interstitial Pneumonitis) * [[免疫沈降法]] (Immunoprecipitation) - [[生化学]]分野の実験手法の一種で、[[抗原]]を検出・分離・精製する方法 * Identified Patient - 患者と見なされた人 →[[家族療法]] ===その他=== * [[知的財産権]] (Intellectual Property) - [[特許権]]、[[実用新案権]]、[[商標権]]、[[著作権]]などを総称する[[権利]]。 ** IPコンテンツ - [[漫画]]、[[アニメーション|アニメ]]、[[コンピュータゲーム|ゲーム]]といった分野で、[[キャラクター]]の著作権などのIPの利用を中心とした派生作品を指す。「IPもの」とも。[[メディアミックス]]を参照。 * Information Provider - 情報提供者、[[広告|広告主]] * International Procurement - 国際調達 * [[International Paper]] * [[保険証券]] (Insurance Policy) * [[野球]]における[[投球回]]の略称。"Innings pitched" から。 * IPハンドリング (Identity Preserved Handling)。日本語では「分別生産流通管理」と訳され、[[遺伝子組み換え作物|遺伝子組み換え食品]]の表示制度において、原材料の農作物に非組み換えのものがきちんと分けられて流通されてきたかどうか(組み換えのものが混ざっていないかどうか)を証明する根拠のこと。 * Imaginary Elements Print - 小説・映画『[[僕が愛したすべての君へ/君を愛したひとりの僕へ]]』内で、自分が今どの並行世界にいるのかを特定するための指紋。[[僕が愛したすべての君へ/君を愛したひとりの僕へ#用語]]を参照。 ==固有名詞・商標など== * JOIP/JOIP-DTV - [[NHK大分放送局]]ラジオ第1放送/総合テレビジョン * [[ソニー]]製の[[ビデオカメラ]]で[[MICROMV]]モデルを指す共通記号。[[ソニーのビデオカメラ製品一覧]]を参照。 * [[iP!]] - [[晋遊舎]]から発売されていたPC・IT関連の情報雑誌 * [[石原プロモーション]] - [[芸能事務所]]のひとつ * 日本の国家試験である[[ITパスポート試験]]の略語。 *[[IP〜サイバー捜査班]] - [[テレビ朝日]]系「[[木曜ミステリー]]」で放送されている[[刑事ドラマ]]。 {{aimai}}
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Internet Protocol
Internet Protocol (インターネット・プロトコル、IP) はインターネットにおいて基本的に利用されている通信プロトコルである。 Internet Protocol は、インターネット上のホストへデータを送信するための通信プロトコルである。IPの利用により、各ネットワークごとの環境の違いを意識せずに宛先へデータを送信できる(#機能)。IPを用いて接続された世界規模の情報通信網がインターネット(the Internet)である。イントラネットでも利用される。他プロトコルとの関係性という観点では、OSI参照モデルのネットワーク層にほぼ対応する機能を持つ。またインターネット・プロトコル・スイートの中核をなしている。 IPでは各ホストコンピュータに一意の番号/番地であるIPアドレスを割り当て(アドレッシング)、伝達したいデータをパケットへ格納し(カプセル化)、IPアドレスで指定されたホストへパケットを送信する(#仕組み)。なお、パケット送出手順を指定するがその到達は保証しないため、その保証が必要な場合は上位のプロトコルとしてTCPなどを利用することになる(#信頼性)。 歴史的には、ヴィントン・サーフとロバート・カーンが1974年に発表した Transmission Control Program のコネクションレスのデータグラムサービス部分がIPである。コネクション指向の部分は Transmission Control Protocol (TCP) となった。現在広く利用されているIPは32ビットのアドレス空間を持つ「IPv4」と128ビットのアドレス空間を持つ「IPv6」である(#バージョンと歴史)。 誤解に基づく俗称としてIPアドレスを「IP」と呼ぶことがある。 IPは2つの側面から理解できる。1つはIP層でのデータ転送モデル、もう1つはプロトコルスタックの層を跨いだデータ転送手順である。 IPは、パケットのヘッダ部分に記された宛先アドレスに基づいてネットワーク内でパケットを転送することによってデータを送信する。 パケット(英: packet)はIPにおける送受信単位である。パケットはヘッダとペイロードからなり、ヘッダの情報に基づいて宛先アドレスの経路へと送られる。ヘッダ(英: header)はメタデータの集合であり、バージョン番号・送信元アドレス・宛先アドレスなど、送受信に必要な情報が含まれている。ペイロード(英: payload)はパケットのヘッダ以外の部分であり、IPで転送するコンテンツが主体で、場合によりメタデータも含んでいる。 パケットは送信元から宛先へ直接送られるのではなく、いくつものホスト (gateway) を経由する。Gatewayはヘッダの宛先アドレスを確認し、宛先への経路上にある次のGateway(あるいは宛先そのもの)へとパケットを転送する。これを繰り返すことでパケットは最終的に宛先アドレスに到達する。 経路上に転送可能サイズ上限があった場合はパケットが弾かれる可能性がある。IPではパケット長制限が無い代わりに、フラグメント化機能(パケットを小パケットへ分割する機能)を提供してこの制約を回避する。 IPはプロトコルスタックの1層をなす。すなわち上層から転送対象と宛先アドレスを受け取り、リンク層へパケットを渡す。 IPでは、各々のLANで通信可能な範囲をセグメントと呼び、セグメント内のコンピュータをホストと呼ぶ。同じセグメントに属するホスト同士はそのLANで使用されている通信プロトコルをデータリンク層とし、その上のネットワーク層で稼動する。 つまり同じセグメントに属するホスト同士は(IP以前からそうであったように)直接通信する。IPはセグメントの外と通信することが可能であり、そして何も変更せずに(全く同じ機器/ソフトウェア構成で)セグメント内とセグメント外との区別なく通信が可能となることである。そのため、LAN内の通信にあえてIPを使うイントラネットを採用することで、インターネット用のソフトウェア資産やノウハウをそのままLAN内通信に利用することができる。 同じセグメント内のホスト同士の通信では、そのLANで使われているプロトコルを使って通信する。そのためIPの各実装では、そのLANで使われているプロトコルから完全に独立することはできない。 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"IPのバージョン0から3まではIPv4の開発途中のバージョンで、1977年から1979年までに使われた。バージョン5は実験的なストリーミング用プロトコル Internet Stream Protocol(英語版) で使われた。バージョン6から9までは、IPv4の後継として提案された各種プロトコルである。このうちバージョン6とされた SIPP (Simple Internet Protocol Plus) が IPv6 として採用されることになった。7から9は IP/IX (RFC 1475)、PIP (RFC 1621)、TUBA (TCP and UDP with Bigger Addresses, RFC 1347) である。", "title": "バージョンと歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "他にも IPv9や IPv8 を名乗ったプロトコルが提案されたことがあるが、全く支持されていない。", "title": "バージョンと歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1994年4月1日、IETFはエイプリルフールのジョークとしてIPv9を発表したことがある。", "title": "バージョンと歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "IPは様々な攻撃に対して脆弱である。網羅的な脆弱性アセスメントが対策の提案と共に2008年に公表され、その後IETF内で対策を検討中である。", "title": "脆弱性" } ]
Internet Protocol (インターネット・プロトコル、IP) はインターネットにおいて基本的に利用されている通信プロトコルである。
{{混同|IPアドレス}} {{IPstack}} '''Internet Protocol''' ('''インターネット・プロトコル'''、'''IP''') は[[インターネット]]において基本的に利用されている[[通信プロトコル]]である<ref>{{Cite web|和書|title=IPとは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/IP-214 |website=コトバンク |access-date=2023-05-17 |language=ja |last=ASCII.jpデジタル用語辞典,デジタル大辞泉,IT用語がわかる辞典,パソコンで困ったときに開く本,ブランド用語集,DBM用語辞典,世界大百科事典内言及}}</ref>。 == 概要 == '''Internet Protocol''' は、インターネット上の[[ホスト (ネットワーク)|ホスト]]へデータを送信するための[[通信プロトコル]]である<ref name=":0" />。IPの利用により、各ネットワークごとの環境の違いを意識せずに宛先へデータを送信できる([[#機能]])。IPを用いて接続された世界規模の情報通信網が[[インターネット]](the Internet)である。[[イントラネット]]でも利用される。他プロトコルとの関係性という観点では、[[OSI参照モデル]]の[[ネットワーク層]]にほぼ対応する機能を持つ。また[[インターネット・プロトコル・スイート]]の中核をなしている。 IPでは各ホストコンピュータに一意の番号/番地である[[IPアドレス]]を割り当て(アドレッシング)、伝達したいデータを[[パケット]]へ格納し([[カプセル化 (通信)|カプセル化]])、IPアドレスで指定されたホストへパケットを送信する([[#仕組み]])。なお、パケット送出手順を指定するがその到達は保証しないため、その保証が必要な場合は上位のプロトコルとして[[Transmission Control Protocol|TCP]]などを利用することになる([[#信頼性]])。 歴史的には、[[ヴィントン・サーフ]]と[[ロバート・カーン]]が1974年に発表した Transmission Control Program の[[コネクションレス型通信|コネクションレス]]のデータグラムサービス部分がIPである。コネクション指向の部分は [[Transmission Control Protocol]] (TCP) となった。現在広く利用されているIPは32ビットのアドレス空間を持つ「[[IPv4]]」と128ビットのアドレス空間を持つ「[[IPv6]]」である<ref> IPv4 アドレスの枯渇に際して http://www.wide.ad.jp/News/2011/20110204.html</ref>([[#バージョンと歴史]])。 誤解に基づく俗称としてIPアドレスを「IP」と呼ぶことがある。 == 仕組み == IPは2つの側面から理解できる。1つはIP層でのデータ転送モデル、もう1つはプロトコルスタックの層を跨いだデータ転送手順である。 === 転送モデル === IPは、パケットのヘッダ部分に記された宛先アドレスに基づいてネットワーク内でパケットを転送することによってデータを送信する。 '''パケット'''({{lang-en-short|packet}})<ref>IPv4における "''internet datagram"''、IPv6における "''packet''"</ref>はIPにおける送受信単位である<ref>"The internet protocol provides for transmitting blocks of data called datagrams from sources to destinations" IPv4 specification.</ref>。パケットはヘッダとペイロードからなり<ref>"packet an IPv6 header plus payload." IPv6 specification.</ref>、ヘッダの情報に基づいて宛先アドレスの経路へと送られる<ref>"The internet modules use the addresses carried in the internet header to transmit internet datagrams toward their destinations." IPv4 specification.</ref>。'''ヘッダ'''({{lang-en-short|header}})<ref>IPv4における "''internet header"''、IPv6における "''IPv6 header''"</ref>はメタデータの集合であり、バージョン番号・送信元アドレス・宛先アドレスなど、送受信に必要な情報が含まれている。'''ペイロード'''({{lang-en-short|payload}})<ref>IPv4における "''data portion"''、IPv6における "''payload''"</ref>はパケットのヘッダ以外の部分であり<ref>"the IPv6 payload, i.e., the rest of the packet following this IPv6 header" IPv6 specification.</ref>、IPで転送するコンテンツが主体で、場合によりメタデータも含んでいる。 パケットは送信元から宛先へ直接送られるのではなく、いくつものホスト (gateway) を経由する。Gatewayはヘッダの宛先アドレスを確認し、宛先への経路上にある次のGateway(あるいは宛先そのもの)へとパケットを転送する。これを繰り返すことでパケットは最終的に宛先アドレスに到達する<ref>"This is done by passing the datagrams from one internet module to another until the destination is reached." IPv4 specification.</ref>。 経路上に転送可能サイズ上限があった場合はパケットが弾かれる可能性がある。IPではパケット長制限が無い代わりに、フラグメント化機能(パケットを小パケットへ分割する機能)を提供してこの制約を回避する。 === 転送手順 === IPはプロトコルスタックの1層をなす<ref>" Internet protocol interfaces on one side to the higher level host-to-host protocols and on the other side to the local network protocol." IPv4 specification.</ref>。すなわち上層から転送対象と宛先アドレスを受け取り、リンク層へパケットを渡す<ref>"This protocol is called on by host-to-host protocols in an internet environment. This protocol calls on local network protocols to carry the internet datagram to the next gateway or destination host." IPv4 specification.</ref>。 IPでは、各々の[[Local Area Network|LAN]]で通信可能な範囲を[[セグメント]]と呼び、セグメント内のコンピュータを[[ホスト (ネットワーク)|ホスト]]と呼ぶ。同じセグメントに属するホスト同士はそのLANで使用されている通信プロトコルを[[データリンク層]]とし、その上のネットワーク層で稼動する。 つまり同じセグメントに属するホスト同士は(IP以前からそうであったように)直接通信する。IPはセグメントの外と通信することが可能であり、そして何も変更せずに(全く同じ機器/ソフトウェア構成で)セグメント内とセグメント外との区別なく通信が可能となることである。そのため、LAN内の通信にあえてIPを使う[[イントラネット]]を採用することで、インターネット用のソフトウェア資産やノウハウをそのままLAN内通信に利用することができる。 ==== 同じセグメント内の通信 ==== 同じセグメント内のホスト同士の通信では、そのLANで使われているプロトコルを使って通信する。そのためIPの各実装では、そのLANで使われているプロトコルから完全に独立することはできない。 まず、送信先となるIPアドレスを持つホストにデータリンク層のデータとして送信するために必要な情報を収集しなければならない。例えば[[イーサネット]]であれば、送信先のIPアドレスを持つホストのインターフェースが持っている[[MACアドレス]]が対象となる。そのために[[ブロードキャスト]]もしくは[[マルチキャスト]]によってその特定のIPアドレスを持つホストに返答を要求する。そのIPアドレスを持っているホストはそれに対してMACアドレスを返答する。 一般にブロードキャストは負荷が高くLAN内の通信を阻害するため、こうして得られたMACアドレスは今後同じIPアドレスに送信するときには再度ブロードキャストせずに、[[キャッシュ (コンピュータシステム)|キャッシュ]]に控えておく。 IPの実装では、こうしたアドレス解決と実際の送受信部分だけはデータリンク層のプロトコルに依存することになる。しかしこの依存部分は、実際にその''データリンク層のプロトコル'' を使うホストでのみ必要になるため、世界中に存在する各セグメントとの通信の際には問題にならない。異なる''データリンク層のプロトコル'' を使うセグメントに分かれたホスト同士の通信の場合は、後述するゲートウェイがこれを解決する。 ==== 異なるセグメント同士の相互通信 ==== セグメントとセグメントの間、あるいはセグメントとWANの間には[[ルーティング]]を行なうための特別なホストであるルータ設置される。ルータにはあらかじめ、自身が繋がれているそれぞれのセグメントにいるホストのIPアドレスを教えてある。これは[[ルーティングテーブル]]と呼ばれる。ルータは、一方のセグメントのホストから他方のセグメントのホストにパケットが送られようとしているとき、いったん受信側のホストの代わりにパケットを前者のLANのプロトコルで受け取る。ルーティングテーブルを参照してどのセグメントに送ればいいかを選択し、そのパケットを後者のLANのプロトコルで後者のホストに送る。ルータはルーティングテーブルにより、どのIPアドレスに送るにはどのセグメントに送ればよいかを把握している。経路の一部が破壊されても、このルーティングテーブルを書き換えるだけで破壊箇所を迂回することが可能になる。 ルータと似ているが、ルーティングテーブルを持たず、異なるLANのプロトコルを変換して互いに中継する[[ブリッジ (ネットワーク機器)|ブリッジ]]と呼ばれるものがある。しかしブリッジはIPより下位の層(OSI参照モデルのデータリンク層)の機器であり、IPとは関係なく動作する。 また特に、異なるプロトコルを用いるセグメント同士の間をつなぐルータはゲートウェイ(門)と呼ばれる。本来、ゲートウェイはOSI参照モデルのネットワーク層におけるブリッジに相当するルータの基本機能の一部だが、セグメントのほとんどがイーサネットになっているため、特にセグメントとWANとの間にあるルータだけがゲートウェイであることが多い。またルータが把握していないIPアドレスは(ルーティング処理の一環として)全て[[デフォルトゲートウェイ]]と呼ばれる特別なゲートウェイに送られる。デフォルトゲートウェイは通常WANとの接続部分にあるため、未知のIPアドレスへのパケットは全てWAN側(外の世界)のルータにパケットを送信することになる。そしてWANのルータが送信先となるIPアドレスの存在するセグメントのゲートウェイにパケットを送信し、ゲートウェイが送信先となるIPアドレスを持つホストにパケットを送信することで世界中のホストと通信が行なわれる。 == 機能 == Internet Protocol は、ホストのアドレッシング<ref>"The internet protocol implements two basic functions: addressing and fragmentation." IPv4 specification.</ref>とデータグラム(パケット)の送信元ホストから宛先ホストまでの1つまたは複数のIPネットワークをまたいだルーティングを担当する。このために、ホストの識別と論理的位置サービスの提供という2つの機能を持つアドレッシング体系を定義している。これは、標準データグラムと標準アドレッシング体系を定義することでなされる。 === データグラムの構成 === [[ファイル:UDP encapsulation.svg|thumb|[[User Datagram Protocol|UDP]] からリンク層プロトコルのフレームまで、アプリケーションのデータをカプセル化する例]] データグラムはヘッダとペイロードで構成される。IPヘッダには、送信元IPアドレス、宛先IPアドレス、データグラムのルーティングや転送に必要なメタデータが含まれる。ペイロードは転送すべきデータである。このようにデータ・ペイロードにパケットのヘッダを付与して入れ子状に構成していくことをカプセル化と呼ぶ。 === IPアドレッシングとルーティング === {{Main|IPアドレス}} IPアドレッシングとは、各ホストにIPアドレスを割り当てる方法であり、IP[[ホストアドレス]]群を分割・グループ化してサブネットワークを形成する方法である。IP[[ルーティング]]は全てのホストが行うが、最も重要な部分は[[ルータ]]が担っており、経路を決定するのに [[Interior Gateway Protocol]] (IGP) または [[Exterior Gateway Protocol]] (EGP) を使用する。 === 提供しない機能 === IPは「独立した単一パケットを、送信元から宛先へ、ネットワークのネットワークを介して、送ること」のみを上手くシンプルに扱うよう設計されている<ref>"specifically limited in scope to ... deliver a package of bits ... from a source to a destination over an interconnected system of networks. ... The internet protocol treats each internet datagram as an independent entity unrelated to any other internet datagram." IPv4 specification." IPv4 specification.</ref>。ゆえに意図時に提供しない機能がある<ref>"The internet protocol is specifically limited in scope ... There are no mechanisms to ..." IPv4 specification.</ref>。 * データ信頼性(data reliability)/ 再送(retransmission) * 流量制御(flow control) * 順序制御(sequencing) すなわち、送出に焦点を合わせているのでACKチェックや再送をおこなわない。また単一パッケージ管理を扱うので複数パケットに跨る流量制御や順序制御には関与しない。 == 信頼性 == IPの設計原理は、ネットワーク基盤はどのネットワーク要素や伝送媒体をとっても本質的に信頼できないと仮定しており、また、リンクやノードの可用性の面でも一定でないと仮定している。ネットワークの状態を追跡し維持する集中監視機能や性能測定機能は存在しない。ネットワークを単純化するため、知的な部分は意図的に各データ転送の端点であるノードに担わせ、これを[[エンドツーエンド原理]]と呼ぶ。転送経路の途中に位置する[[ルーター]]は、宛先アドレスのルーティングプレフィックスにマッチする最も近いゲートウェイにパケットを転送するだけである。 このような設計の結果、IPは[[ベストエフォート]]式配送のみを提供し、「信頼できない」と見なされている{{誰|date=2020年1月|post-text=によって}}。ネットワークアーキテクチャとしては「コネクションレス」プロトコルであり、コネクション指向の転送モードとは対照的である。信頼性がないため、{{仮リンク|データ破壊|en|Data corruption|label=データが壊れたり}}、パケットを消失したり、パケットが複製されたり、パケットの順序が入れ替わって受信されたりする。ルーティングはパケット毎に動的に行われ、ネットワークは以前のパケットが通った経路についても状態情報を保持しない。そのため一部のパケットが他より長い経路を通ることがあり、受信側でパケットを受信する順序がおかしくなる可能性がある。 信頼性のないIPv4で唯一確かなのは、IPパケットのヘッダには誤りがないという点である。ルーティングするノードは、パケットの[[チェックサム]]を計算する。もしチェックサムが合わない場合、そのノードはそのパケットを捨てる。そのノードは送信元にも宛先にも捨てたことを通知しないが、[[Internet Control Message Protocol]] (ICMP) でそのような通知をすることも可能である。一方、IPv6ではルーティングの高速化を優先してチェックサム計算をやめた。 [[上位層プロトコル]]は、この信頼性問題への対処を担う。例えば、アプリケーションにデータを渡す前にデータをキャッシュして正しい順序に並べ替えたりする。 信頼性問題に加え、動的性質とインターネットおよびその構成要素の多様性に関連し、データ転送経路のうちどれが適当かは全く保証できない。技術的制約の1つとして、リンクごとにデータパケットのサイズ上限が異なる。アプリケーションは適切な伝送特性を使うことを保証しなければならない。この責任の一端は、IPとアプリケーションの中間に位置する上位層プロトコル群にもある。ローカルなリンクにおける [[Maximum Transmission Unit]] (MTU) のサイズを調べるファシリティがあり、IPv6の場合は宛先までの経路全体を考慮したMTUサイズを調べるファシリティもある。IPv4には元のデータグラムを自動的に[[IPフラグメンテーション|断片化する]]機能がある。この場合、IPは断片化されたパケット群の到着順序を正しく保つ必要がある<ref>Siyan, Karanjit. ''Inside TCP/IP'', New Riders Publishing, 1997. ISBN 1-56205-714-6</ref>。 例えば [[Transmission Control Protocol]] (TCP) はセグメントサイズをMTUより小さく調整するプロトコルである。[[User Datagram Protocol]] (UDP) と [[Internet Control Message Protocol]] (ICMP) はMTUサイズを無視するので、必要ならIPが断片化を行う<ref>[http://www.securityfocus.com/infocus/1870 Basic Journey of a Packet]</ref>。 == バージョンと歴史 == 1974年5月、[[IEEE|Institute of Electrical and Electronic Engineers]] (IEEE) が "A Protocol for Packet Network Intercommunication" と題した論文を公表した<ref>Vinton G. Cerf, Robert E. Kahn, "A Protocol for Packet Network Intercommunication", IEEE Transactions on Communications, Vol. 22, No. 5, May 1974 pp. 637-648</ref>。この論文で筆者[[ヴィントン・サーフ]]と[[ロバート・カーン]]は、ノード間のパケット交換を使ってリソースを共有するインターネットワーキング・プロトコルを記述した。このモデルの中心となる制御コンポーネントが "Transmission Control Program" (TCP) で、コネクション指向のリンクとデータグラムサービスの両方を含んでいた。モノリシックな Transmission Control Program は後にモジュール化され、コネクション指向層の [[Transmission Control Protocol]] とインターネットワーキング(データグラム)層の Internet Protocol に分けられた。このモデルが一般に TCP/IP と呼ばれ、正式には[[インターネット・プロトコル・スイート]]と呼ばれている。 Internet Protocol は[[インターネット]]を定義する要素の1つである。[[インターネット層]]におけるインターネットワーキング・プロトコルで2012年現在主に使われているのは[[IPv4]]である。この4という番号はプロトコルのバージョン番号で、全てのIPデータグラムの先頭に書かれている。IPv4は {{IETF RFC|791}} (1981) で記述されている。 [[IPアドレス枯渇問題|IPアドレスの不足]]が発生することが予測されることから開発されたIPv4の後継が[[IPv6]]である。バージョン4からの最大の変更点はアドレッシング体系である。IPv4は[[32ビット]]のアドレス(約40億、4.3×10<sup>9</sup>)を使っていたが、IPv6では[[128ビット]]のアドレス(約 3.4×10<sup>38</sup>)を使っている。IPv6の採用はゆっくりとしていたが、2008年6月、[[アメリカ合衆国連邦政府]]がバックボーンレベルのみではあるが全システムでIPv6をサポートしてみせた<ref>[http://www.gcn.com/print/25_16/41051-1.html CIO council adds to IPv6 transition primer], gcn.com</ref>。 IPのバージョン0から3まではIPv4の開発途中のバージョンで、1977年から1979年までに使われた<ref>{{IETF RFC|750}}: "ASSIGNED INTERNET MESSAGE VERSIONS". Sep 28, 1978</ref>。バージョン5は実験的なストリーミング用プロトコル {{仮リンク|Internet Stream Protocol|en|Internet Stream Protocol}} で使われた。バージョン6から9までは、IPv4の後継として提案された各種プロトコルである。このうちバージョン6とされた SIPP (Simple Internet Protocol Plus) が IPv6 として採用されることになった。7から9は IP/IX ({{IETF RFC|1475}})、PIP ({{IETF RFC|1621}})、TUBA (TCP and UDP with Bigger Addresses, {{IETF RFC|1347}}) である。 他にも IPv9や IPv8 を名乗ったプロトコルが提案されたことがあるが、全く支持されていない<ref>[http://www.theregister.co.uk/2004/07/06/ipv9_hype_dismissed/ China disowns IPv9 hype] Theregister.com</ref>。 1994年4月1日、[[Internet Engineering Task Force|IETF]]は[[エイプリルフール]]のジョークとしてIPv9を発表したことがある<ref>{{IETF RFC|1606}}: ''A Historical Perspective On The Usage Of IP Version 9''. April 1, 1994.</ref>。 == 脆弱性 == IPは様々な攻撃に対して脆弱である。網羅的な脆弱性アセスメントが対策の提案と共に2008年に公表され<ref>[https://web.archive.org/web/20100211145721/http://www.cpni.gov.uk/Docs/InternetProtocol.pdf Security Assessment of the Internet Protocol (IP)(archived version)]</ref>、その後[[Internet Engineering Task Force|IETF]]内で対策を検討中である<ref>[http://tools.ietf.org/html/draft-ietf-opsec-ip-security Security Assessment of the Internet Protocol version 4 (IPv4)]</ref>。 == 脚注 == {{Reflist|refs= <ref name=":0">"The function or purpose of Internet Protocol is to move datagrams through an interconnected set of networks." IPv4 specification.</ref> }} == 関連項目 == {{Div col}} * [[インターネット]] * [[インターネット標準]] * [[パケット]] * [[Asynchronous Transfer Mode|ATM]] * [[Internet Assigned Numbers Authority|IANA]] * [[IPv4]] * [[IPv6]] * [[IPアドレス]] * [[IPアドレス枯渇問題]] * [[Next Generation Network]] * [[SCTP]] * [[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]] * [[TCPやUDPにおけるポート番号の一覧]] * [[時分割多重化|TDM]] * [[Transmission Control Protocol]] {{Div col end}} == 外部リンク == ; RFC * {{IETF RFC|791}} - {{lang|en|Internet Protocol}} * {{IETF RFC|1112}} - {{lang|en|Host Extensions for IP Multicasting}} * {{IETF RFC|1518}} - {{lang|en|An Architecture for IP Address Allocation with [[CIDR]]}} * {{IETF RFC|1519}} - {{lang|en|Classless Inter-Domain Routing (CIDR): an Address Assignment and Aggregation Strategy}} * {{IETF RFC|1817}} - {{lang|en|CIDR and Classful Routing}} * {{IETF RFC|2101}} - {{lang|en|IPv4 Address Behaviour Today}} ; その他 * [http://www.ict.tuwien.ac.at/lva/384.081/infobase/L30-IP_Technology_Basics_v4-6.pdf Data Communication Lectures of Manfred Lindner - Part IP Technology Basics] * [http://www.ict.tuwien.ac.at/lva/384.081/infobase/L31-IP_Technology_Details_v4-7.pdf Data Communication Lectures of Manfred Lindner - Part IP Technology Details] * [http://www.ict.tuwien.ac.at/lva/384.081/infobase/L80-IPv6_v4-6.pdf Data Communication Lectures of Manfred Lindner - Part IPv6] * [http://www.ipv6.com IPv6.com - Knowledge Center for Next Generation Internet IPv6] {{OSI}} {{Telecommunications}} {{authority control}} [[Category:Internet Protocol|*]] [[Category:インターネット層プロトコル]] [[Category:ネットワーク層プロトコル]] [[Category:RFC|0791]]
2003-02-24T14:03:47Z
2023-11-27T05:56:57Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Internet_Protocol
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11月11日
11月11日(じゅういちがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から315日目(閏年では316日目)にあたり、年末まであと50日ある。 数字がゾロ目で覚えやすく、多くの団体や企業がこの日を記念日にしている。特に形を数字の「1」に見立てた棒状の食品・日用品の記念日が多い。2022年11月時点で日本記念日協会が認定した11月11日の記念日は59件あり、一年の中で最も多い日となっていたが、翌2023年に8月8日の記念日が急増し、1位が8月8日、2位が10月10日、3位が11月11日となっている。
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11月11日(じゅういちがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から315日目(閏年では316日目)にあたり、年末まであと50日ある。
{{カレンダー 11月}} '''11月11日'''(じゅういちがつじゅういちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から315日目([[閏年]]では316日目)にあたり、年末まであと50日ある。 == できごと == [[ファイル:Route66 sign.jpg|thumb|210px|国道66号(ルート66)創設(1926)]] [[ファイル:旅行貯金 11111.jpg|thumb|250px|平成11年11月11日、飯田風越郵便局での1並び(1999)]] * [[1215年]] - [[第4ラテラン公会議]]が始まる。 * [[1572年]] - [[ティコ・ブラーエ]]が[[カシオペヤ座]]の[[超新星]][[SN 1572]](ティコの星)を発見。 * [[1790年]] - [[神聖ローマ帝国|神聖ローマ帝国皇帝]][[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]戴冠式。 * [[1811年]] - [[ヌエバ・グラナダ]]の[[カルタヘナ・デ・インディアス]]が[[スペイン]]からの独立を宣言。 * [[1813年]] - [[米英戦争]]: [[クライスラー農園の戦い]]。 * [[1855年]]([[安政]]2年[[10月2日 (旧暦)|10月2日]]) - [[安政江戸地震]]。 * [[1881年]] - 日本初の私鉄・[[日本鉄道]]に設立特許条約書が下付される。 * [[1889年]] - [[ワシントン準州]]が州に昇格し、[[アメリカ合衆国]]42番目の州・[[ワシントン州]]となる。 <!-- *[[1897年]] - [[沼垂駅]]で爆破事件発生。 --> * [[1918年]] - [[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]と[[ドイツ共和国]]が[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]に調印。[[第一次世界大戦]]が終結。 * 1918年 - [[オーストリア皇帝]][[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]が退位。700年余りに及ぶ[[ハプスブルク家]]のオーストリア支配が終わる。 * 1918年 - [[ユゼフ・ピウスツキ]]が[[ワルシャワ]]へ戻り軍の統帥権を掌握。[[ポーランド]]([[ポーランド第二共和国]])が[[ロシア帝国]]から事実上独立。 * [[1920年]] - アメリカ・[[アーリントン国立墓地]]に[[無名戦士の墓]]が作られる。 <!---*[[1921年]] - [[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]始まる。---「[[ワシントン会議 (1922年)]]」では"11月12日"と記載---> * [[1924年]] - 寿屋(現在の[[サントリー]])が京都・山崎に日本初の[[ウイスキー]]蒸留所([[山崎蒸溜所]])を竣工。 * [[1926年]] - アメリカ合衆国の[[国道66号線 (アメリカ合衆国)|国道66号線]](ルート66)が創設。 <!---*[[1937年]] - [[サンフランシスコ]]の[[ゴールデンゲートブリッジ]]が竣工。---英語版「Golden Gate Bridge」では"Opening date"として"27 May 1937"と記載---> * [[1937年]] - [[群馬県]][[吾妻郡]][[嬬恋村]]の[[小串鉱山|小串硫黄鉱業所]]一帯で[[土砂災害|地滑り]]が発生<ref>地すべり、火薬庫爆発で鉱山住宅が埋没『大阪毎日新聞』(昭和12年11月12日)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p217 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>、245人が死亡。 * [[1940年]] - [[第二次世界大戦]]: [[タラント空襲]]。 * [[1942年]] - 第二次世界大戦: [[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の北アフリカ上陸([[トーチ作戦]])に対抗して、ドイツ軍が[[フランス]]の非占領地域に進駐。 * [[1944年]] - [[松代大本営跡|松代大本営]]が着工。 * [[1951年]] - 日本で3番目の[[民間放送]][[ラジオ放送局|ラジオ局]]、[[朝日放送グループホールディングス|朝日放送]]([[朝日放送ラジオ|ABC]])開局。 * [[1955年]] - [[下中弥三郎]]・[[植村環]]・[[茅誠司]]・[[上代たの]]・[[平塚らいてう]]・[[前田多門]]・[[湯川秀樹]]の7人によって[[世界平和アピール七人委員会]]が結成される。 * [[1960年]] - [[1960年ベトナム共和国の軍事クーデター未遂|南ベトナムで軍事クーデター未遂事件]]起こる。 * [[1965年]] - [[ローデシア]]の白人政権が[[イギリス]]から{{仮リンク|一方的独立宣言|en|Unilateral Declaration of Independence|label=一方的に独立を宣言}}。 * [[1966年]] - アメリカで[[ジェミニ計画]]の最後の宇宙船「[[ジェミニ12号]]」が打ち上げ。 * [[1967年]] - [[日本エスペラント協会]]会員の[[由比忠之進]]が、佐藤栄作首相宛にベトナム戦争反対の抗議書を携え、首相官邸近くで[[焼身自殺]]。 * [[1968年]] - [[モルディブ]]が2度目の[[共和制]]に移行。[[イブラヒム・ナシル]]が初代大統領に就任。 * [[1971年]] - [[川崎ローム斜面崩壊実験事故]]。[[防災科学技術研究所|国立防災科学センター]]などが[[川崎市]]で行った防災実験で[[がけ崩れ]]、15人が死亡。 * [[1975年]] - [[アンゴラ]]が[[ポルトガル]]からの独立を宣言。 * [[1983年]] - [[新宿駅|新宿]]西口の[[キャッツ・シアター]]にて[[劇団四季]]が[[キャッツ (ミュージカル)|キャッツ]]の日本公演をスタート。これが後に日本初の[[ロングラン公演]]ミュージカルとなる。 * [[1984年]] - [[シンボリルドルフ]]が[[菊花賞]]で勝利し、2年連続、日本競馬史上4頭目の[[三冠 (競馬)|三冠馬]]となる。また、無敗で[[中央競馬クラシック三冠]]を制したのは史上初。 * 1984年 - [[1984年世界柔道選手権大会|第3回世界女子柔道選手権大会]]で[[山口香]]が初優勝する。 * [[1985年]] - [[ハレー艦隊]]: アメリカの彗星探査機「[[ISEE-3/ICE|ICE]]」が[[ジャコビニ・ツィナー彗星]]の探査を実施。世界初の[[彗星]]探査。 * [[1995年]] - [[オウム真理教]]の[[麻原彰晃]]が著書で[[ハルマゲドン]]が勃発すると予言していた日。日本各地で厳戒態勢が敷かれる。 * 1995年 - [[岐阜県]][[神岡町 (岐阜県)|神岡町]](現 [[飛騨市]])の[[神岡鉱山]]の地下に世界最大の[[ニュートリノ]]観測装置[[スーパーカミオカンデ]]が完成。 * 1995年 - 米[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]において、『[[日系米国人退役軍人慰霊碑]]』の除幕式が執り行われる。 <!-- 「できごと」ですか? * [[1999年]] - この日は日本の暦で平成11年にあたり、平成11年11月11日として"1"が6つならぶ。([[旅行貯金#平成11年11月11日飯田風越郵便局の騒動]]なども参照) --> * [[2000年]] - [[オーストリアケーブルカー火災事故]]。トンネル内の火災で155人が死亡。 * [[2011年]] - [[石川県]][[野々市市]]が市制施行。 * [[2015年]] - [[三菱航空機]]が開発したジェット[[旅客機]]MRJ(後に[[Mitsubishi SpaceJet]]に改称)が初飛行<ref>{{Cite web|和書 |date=2015-11-11 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ11HY1_R11C15A1TJC000/ |title=MRJ、17年納入手応え 三菱航空機社長「セールスに説得力」 |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2018-04-06}}</ref>。 * [[2020年]] - [[日経平均株価]]の終値が[[リーマン・ショック]]後、最高値を記録(2万5349円60銭)<ref>{{Cite news2|title= 東証終値は444円高|url= https://this.kiji.is/699138725034476641|newspaper= 共同通信|date= 2020-11-11|accessdate= 2020-11-11|publisher= 共同通信社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201111060919/https://this.kiji.is/699138725034476641|archivedate=2020-11-11}}</ref><ref>{{Cite news2|title= 日経平均終値、29年ぶり2万5000円台|url= https://www.nikkei.com/article/DGXMZO66073680R11C20A1000000/|newspaper= 日本経済新聞|date= 2020-11-11|accessdate= 2020-11-11|publisher= 日本経済新聞社}}</ref>。 * [[2022年]] - [[ウクライナ軍]]が[[ヘルソン]]を奪還し、[[ロシア軍]]撤退<ref>{{Cite news|和書 |title=ウクライナ軍、ヘルソン奪還 ロシア軍も撤退「完了」 |newspaper=[[日本経済新聞]] |date=2022年11月11日 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR1177E0R11C22A1000000/ |access-date=2023-11-10}}</ref>。([[ヘルソンの解放]]) == 誕生日 == <!---*[[1849年]] - [[乃木希典]]、[[軍人]](+ [[1912年]])---「[[乃木希典]]」では旧暦"11月11日"と記載---> [[File:Dostoevskij 1872.jpg|thumb|150px|ロシアの小説家[[フョードル・ドストエフスキー]](1821年)]] [[File:Pattonphoto.jpg|thumb|150px|アメリカの陸軍軍人[[ジョージ・パットン]](1885年)]] [[File:Leonardo DiCaprio 2010.jpg|thumb|150px|アメリカの俳優[[レオナルド・ディカプリオ]](1974年)]] [[File:Morning Musume 20100703 Japan Expo 39.jpg|thumb|right|150px|歌手・[[LoVendoЯ]]メンバー、元[[モーニング娘。]]メンバー[[田中れいな]]]] * [[1579年]] - [[フランス・スナイデルス]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Frans-Snyders Frans Snyders Flemish painter] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[画家]](+ [[1657年]]) * [[1591年]]([[天正]]19年[[9月25日 (旧暦)|9月25日]]) - [[伊達秀宗]]、初代[[宇和島藩|宇和島藩主]](+ [[1658年]]) * [[1686年]]([[貞享]]3年[[9月26日 (旧暦)|9月26日]]) - [[山名豊就]]、[[村岡藩|村岡領主]](+ [[1747年]]) * [[1729年]] - [[ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル]]、[[探検家]]、[[数学者]]、[[軍人]](+ [[1811年]]) * [[1737年]]([[元文]]2年[[10月19日 (旧暦)|10月19日]]) - [[前田利與]]、第6代[[富山藩|富山藩主]](+ [[1794年]]) * [[1743年]] - [[カール・ツンベルク]]、[[植物学者]](+ [[1828年]]) * [[1744年]] - [[アビゲイル・アダムズ]]、第2代[[アメリカ合衆国大統領]][[ジョン・アダムズ]]の妻(+ [[1818年]]) * [[1800年]]([[寛政]]12年9月25日) - [[松平直興]]、第8代[[母里藩|母里藩主]](+ [[1854年]]) * [[1821年]] - [[フョードル・ドストエフスキー]]、[[小説家]]、[[思想家]](+ [[1881年]]) * [[1840年]]([[天保]]11年[[10月18日 (旧暦)|10月18日]]) - [[松浦詮]]、第12代[[平戸藩|平戸藩主]]・[[伯爵]](+ [[1908年]]) * [[1852年]] - [[フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ]]、[[軍人]](+ [[1925年]]) * [[1858年]] - [[マリ・バシュキルツェフ]]、画家、[[彫刻家]](+ [[1884年]]) * [[1862年]] - [[エマニュエル・デュ・マルゲリー]]、[[地質学|地質学者]]、[[地球物理学|地球物理学者]](+ [[1953年]]) * [[1863年]] - [[ポール・シニャック]]、画家(+ [[1935年]]) * [[1864年]] - [[アルフレート・フリート]]、法学者(+ [[1921年]]) * [[1866年]] - [[アントワーヌ・メイエ]]、[[言語学者]](+ [[1936年]]) * [[1868年]] - [[エドゥアール・ヴュイヤール]]、画家(+ [[1940年]]) * [[1869年]] - [[ガエタノ・ブレーシ]]、[[ウンベルト1世]]暗殺者(+ [[1901年]]) * 1869年 - [[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]、イタリア国王(+ [[1947年]]) * [[1870年]] - [[鈴木大拙]]、[[仏教学者]](+ [[1966年]]) * [[1882年]] - [[グスタフ6世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ6世アドルフ]]、[[スウェーデン]]王(+ [[1973年]]) * 1882年 - [[織田一磨]]、[[版画|版画家]](+ [[1956年]]) * [[1883年]] - [[エルネスト・アンセルメ]]、[[指揮者]](+ [[1969年]]) * [[1885年]] - [[ジョージ・パットン]]、軍人(+ [[1945年]]) * [[1887年]] - ローランド・ヤング ([[:en:Roland Young|Roland Young]])、[[俳優]](+ [[1953年]]) * [[1888年]] - [[ヨハネス・イッテン]]、[[芸術家]](+ [[1967年]]) * [[1889年]] - [[佐佐木茂索]]、[[小説家]](+ [[1966年]]) * [[1891年]] - [[ラビット・モランビル]] 、プロ野球選手(+ [[1954年]]) * [[1898年]] - [[ルネ・クレール]]、映画監督(+ [[1981年]]) * [[1899年]] - [[パット・オブライエン]]、俳優(+ [[1983年]]) * 1899年 - [[奥野信太郎]]、[[中国文学者]]、[[随筆家]](+ [[1968年]]) * 1899年 - [[パイ・トレイナー]] 、[[プロ野球選手]](+ [[1972年]]) * [[1900年]] - [[ハリナ・コノパッカ]]、[[円盤投|円盤投げ]]選手(+ [[1989年]]) * [[1901年]] - [[サム・スピーゲル]]、映画監督(+ [[1985年]]) * 1901年 - [[マクダ・ゲッベルス]]、[[ナチス・ドイツ]]の[[宣伝大臣]]の妻(+ [[1945年]]) * [[1904年]] - [[J・H・C・ホワイトヘッド]] ([[:en:J. H. C. Whitehead|J. H. C. Whitehead]])、数学者(+ [[1960年]]) * 1904年 - [[アルジャー・ヒス]]、[[弁護士]]、[[スパイ]](+ [[1996年]]) * [[1906年]] - [[館稔]]、[[人口学]]者(+ [[1999年|1972年]]) * [[1905年]] - [[藤田圭雄]]、[[児童文学者]](+ [[1999年]]) * [[1908年]] - [[沢村貞子]]、[[俳優|女優]](+ [[1996年]]) * [[1909年]] - [[小森和子]]、[[映画評論家]] (+ [[2005年]]) * 1909年 - [[ロバート・ライアン]]、俳優(+ [[1973年]]) * [[1911年]] - [[マルタ・ゲネンゲル]]、競泳選手(+ [[1995年]]) * [[1912年]] - [[佐々木猛]]、[[騎手]]、[[調教師]] * [[1914年]] - [[ハワード・ファスト]]、[[小説家]](+ [[2003年]]) * 1914年 - [[楽以琴]]、[[エースパイロット]](+ [[1937年]]) * [[1915年]] - [[ウィリアム・プロクスマイアド]] ([[:en:William Proxmire|William Proxmire]])、[[政治家]](+ [[2005年]]) * [[1918年]] - [[鳩山威一郎]]、政治家(+ [[1993年]]) * [[1919年]] - [[カッレ・パータロ]] ([[:en:Kalle Päätalo|Kalle Päätalo]])、小説家(+ [[2000年]]) * [[1920年]] - [[ヴァルター・クルピンスキー]]、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]の[[エース・パイロット]](+ [[2000年]]) * 1920年 - [[ロイ・ジェンキンス]]、政治家(+ [[2003年]]) * [[1921年]] - [[大西寛介]]、プロ野球選手(+ [[1987年]]) * [[1922年]] - [[カート・ヴォネガット]]、小説家(+ [[2007年]]) * 1922年 - [[ジョージ・ブレイク]]、[[外交官]]、[[スパイ]](+ [[2020年]]) * [[1923年]] - [[阿部桂一]]、脚本家(+ [[1991年]]) * [[1926年]] - [[片山明彦]]、俳優(+ [[2014年]]) * [[1928年]] - [[カルロス・フエンテス]]、小説家(+ [[2012年]]) * [[1929年]] - [[清水貢]]、高校野球指導者(+ [[2010年]]) * [[1930年]] - [[常見忠]]、プロ野球選手、釣り師(+ [[2011年]]) * 1930年 - [[柴田英治]]、プロ野球選手(+ [[1999年]]) * [[1932年]] - [[鵜飼勝美]]、元プロ野球選手 * [[1933年]] - [[辻村寿三郎]]、人形師(+ [[2023年]]) * 1933年 - [[中井光雄]]、競輪選手(+ [[2020年]]) * 1933年 - [[財部鳥子]]、詩人(+ [[2020年]]) * 1933年 - [[池田敬子]]、体操選手(+ [[2023年]]) * 1933年 - [[塚原仲晃]]、医学者(+ [[1985年]]) * [[1934年]] - [[ナディーヌ・トランティニャン]]、映画監督 * [[1935年]] - [[朝崎郁恵]]、唄者 * 1935年 - [[佐川守一]]、元プロ野球選手 * [[1937年]] - [[養老孟司]]、[[解剖学者]] * [[1939年]] - [[奥山かずお]]、[[児童文学]]作家<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.city.nemuro.hokkaido.jp/dcitynd.nsf/doc/95E6B9DE48D207EC492571C300093A53?OpenDocument |title=ボイス オブ ねむろ 「愛と信頼と勇気」 |work=広報ねむろ |publisher=根室市 |date=2001-06 |accessdate=2015-08-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150727133427/http://www.city.nemuro.hokkaido.jp/dcitynd.nsf/doc/95E6B9DE48D207EC492571C300093A53?OpenDocument |archivedate=2015年07月27日 |deadlinkdate=2017年9月}}</ref>(+ [[2010年]]) * [[1940年]] - [[バロン吉元]]、[[漫画家]] * [[1941年]] - [[葛西治]]、[[アニメ監督]] * [[1945年]] - [[佐々木憲昭]]、政治家 * 1945年 - [[宮谷一彦]]、漫画家(+ [[2022年]]) * 1945年 - [[横田順彌]]、[[SF作家]]、明治文化研究家(+ [[2019年]]) * [[1946年]] - [[秋葉敬三]]、元プロ野球選手 * [[1949年]] - [[樹村みのり]]、漫画家 * 1949年 - [[河井昭司]]、元プロ野球選手 * [[1950年]] - [[藤田康夫]]、元[[野球選手]] * [[1951年]] - [[キム・ピーク]]、[[サヴァン症候群]]の患者(+ [[2009年]]) * [[1952年]] - [[吉幾三]]、[[演歌歌手]] * 1952年 - [[カマ・シウォール・カマンダ]]、[[詩人]]、[[作家]]、語り部 * [[1954年]] - [[徳山文宗]]、元プロ野球選手 * [[1955年]] - [[ジグミ・シンゲ・ワンチュク]]、第4代[[ブータンの国王一覧|ブータン国王]] * 1955年 - [[山本喜代宏]]、政治家 * [[1956年]] - [[見岳章]]、[[音楽家|ミュージシャン]] * [[1957年]] - [[柿沼清史]]、ミュージシャン([[スターダストレビュー]]) * [[1958年]] - [[入不二基義]]、哲学研究者 * 1958年 - [[龍居由佳里]]、脚本家 * [[1959年]] - [[田中美佐子]]、女優 * 1959年 - [[フランク・ランペン]]、元プロ野球選手 * [[1960年]] - [[ダンプ松本]]、[[プロレスラー]]、タレント * 1960年 - [[スタンリー・トゥッチ]]、俳優 * [[1962年]] - [[堤信子]]、[[アナウンサー]]、[[リポーター]] * 1962年 - [[デミ・ムーア]]、女優 * [[1964年]] - [[岩本千春]]、女優 * 1964年 - [[中西圭三]]、[[歌手]] * 1964年 - [[曽根麻矢子]]、チェンバロ奏者 * [[1965年]] - [[飯村真一]]、アナウンサー * 1965年 - [[永野椎菜]]、ミュージシャン([[TWO-MIX]]) * 1965年 - [[オキサイド・パン]]、[[映画監督]] * [[1966年]] - [[窪之内英策]]、漫画家 * 1966年 - [[アリソン・ドゥーディ]]、女優 * 1966年 - [[旭純]]、ミュージシャン * [[1969年]] - [[浜名千広]]、元プロ野球選手 * 1969年 - [[松井繁]]、[[競艇選手]] * 1969年 - [[寺田貴信]]、[[ゲームクリエイター]] * 1969年 - [[田中晶子]]、ヴァイオリニスト * [[1970年]] - [[高田景子]]、アナウンサー * [[1971年]] - [[櫛部静二]]、[[陸上競技]]選手、[[城西大学]]男子駅伝部監督 * 1971年 - [[首藤康之]]、[[バレエ]]ダンサー、俳優 * 1971年 - [[レイ・オルドニェス]]、元プロ野球選手 * [[1972年]] - [[ダニエル・リオス]]、元プロ野球選手 * [[1973年]] - [[マギー審司]]、[[お笑いタレント]] * 1973年 - [[山田みほ]]、[[声優]] * [[1974年]] - [[レオナルド・ディカプリオ]]、俳優 * [[1975年]] - [[大畑大介]]、元[[ラグビーユニオン]]選手 * 1975年 - [[香坂ゆかり]]、元[[AV女優]]、[[ストリッパー一覧|ストリッパー]] * 1975年 - [[野中りえ]]、[[タレント]] * [[1976年]] - [[ジェイソン・グリーリ]]、元プロ野球選手 * 1976年 - [[水野輝昭]]、漫画家 * [[1977年]] - [[マイク・バシック]]、プロ野球選手 * 1977年 - [[マニシェ]]、元[[サッカー選手]] * [[1979年]] - [[バーバロ・カニザレス]]、元プロ野球選手 * [[1980年]] - [[遠藤幸佑]]、元ラグビーユニオン選手 * [[1981年]] - [[ギヨーム・ド・リュクサンブール]]、[[ルクセンブルク大公]][[エルププリンツ|世子]] * 1981年 - [[ナタリー・グレボヴァ]]、2005年度ミス・ユニバース * 1981年 - [[Tiara (シンガーソングライター)|Tiara]]、歌手 * [[1982年]] - [[東原亜希]]、タレント * 1982年 - [[与沢翼]]、[[投資家]] * [[1983年]] - [[山口鉄也]]、元プロ野球選手 * 1983年 - [[蒼井そら]]、タレント、元AV女優 * 1983年 - [[鈴木達央]]、[[声優]]、歌手(元[[OLDCODEX]]) * 1983年 - [[芦沢明]]、元プロ野球選手 * 1983年 - [[フィリップ・ラーム]]、元サッカー選手 * 1983年 - [[マット・ガーザ]]、プロ野球選手 * [[1984年]] - [[山下結穂]]、女優 * 1984年 - [[ルース・カーニー]]、女優 * [[1985年]] - [[佐藤義朗]]、元アナウンサー * 1985年 - [[ルートン・シェルトン]]、サッカー選手(+ [[2021年]]) * [[1986年]] - [[マーク・サンチェス]]、元アメリカンフットボール選手 * 1986年 - [[さかいかな]]、声優 * [[1987年]] - [[手越祐也]]、歌手、タレント(元[[NEWS (ジャニーズ)|NEWS]]、元[[テゴマス]]) * 1987年 - [[まなせゆうな]]、[[プロレスラー]] * [[1988年]] - [[小松未可子]]、女優、声優 * 1988年 - [[谷ちあき]]、ファッションモデル * [[1989年]] - [[田中れいな]]、歌手(元[[LoVendoЯ]]、元[[モーニング娘。]]) * 1989年 - [[アダム・リッポン]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1989年 - [[小見川千明]]、女優、声優 * 1989年 - [[河西美希]]、ファッションモデル、YouTuber * 1989年 - [[ステファニー・ガードナー]]、フィギュアスケート選手 * 1989年 - [[藤澤亨明]] 、元プロ野球選手 * [[1990年]] - [[切陽什姐]]、陸上競技選手 * 1990年 - [[ジョルジニオ・ワイナルドゥム]]、サッカー選手 * 1990年 - [[濱井正吾]]、教育系ライター * 1990年 - [[葵ちひろ]]、元AV女優 * [[1991年]] - [[小野寺佳歩]]、[[カーリング]]選手 * [[1992年]] - [[糸原健斗]]、プロ野球選手 * 1992年 - らっだぁ、[[ゲーム実況者]]、配信者 * [[1994年]] - [[田中優奈 (アナウンサー)|田中優奈]]、元アナウンサー * 1994年 - [[松井千士]]、ラグビーユニオン選手 * [[1995年]] - [[園田みおん]]、元AV女優 * [[1996年]] - [[菅なな子]]、元アイドル(元[[SKE48]]) * 1996年 - [[佐倉ねね]]、AV女優 * [[1997年]] - [[青木陸]]、元プロ野球選手 * [[1998年]] - [[黒崎レイナ]]、女優、ファッションモデル * [[2000年]] - [[田澤廉]]、陸上選手 * 2000年 - [[花音うらら]]、AV女優 * [[2002年]] - [[安嶋秀生]]、アイドル([[ジャニーズJr.|ジュニア]]、少年忍者) * 2002年 - [[清水ひまわり]] 、元アイドル(元[[マジカル・パンチライン]]) * 2002年 - [[山野光]]、俳優、[[ダンサー]] * 生年不詳 - コーヘー、ミュージシャン([[ホイフェスタ]]) * 生年不詳 - ミンカ・リー、元[[ネットアイドル]](元[[DANCEROID]]) * 生年不詳 - [[三上小又]]、漫画家 * 生年不詳 - [[土屋トシヒデ]]、声優 * 生年不明 - [[早瀬俊行]]、声優 * 生年不詳 - [[天神子兎音]]、[[VTuber]] == 忌日 == * [[397年]] - [[トゥールのマルティヌス]]、[[キリスト教]]の[[聖人]](* [[316年]]頃) * [[683年]] - [[ヤズィード1世]]、[[ウマイヤ朝]]の[[カリフ]](* [[645年]]) * [[1085年]]([[応徳]]2年[[10月21日 (旧暦)|10月21日]]) - [[橘為仲]]、[[歌人]](* [[1014年]]頃) * [[1130年]] - [[テレサ・デ・レオン]]、[[エンリケ (ポルトゥカーレ伯)|ポルトゥカーレ伯エンリケ]]の妃(* [[1080年]]) * [[1238年]]([[嘉禎]]4年[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]) - [[松殿師家]]、[[平安時代]]・[[鎌倉時代]]の[[公卿]](* [[1172年]]) * [[1358年]]([[正平 (日本)|正平]]13年/[[延文]]3年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]) - [[新田義興]]、[[南朝 (日本)|南朝]]方の[[武将]](* [[1331年]]) * [[1510年]] - [[ボフスラフ・ハシシュテインスキー=ロプコヴィツ]]、[[人文主義者]](* [[1460年]]?) * [[1527年]]([[永正]]14年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]) - [[武田元繁]]、[[安芸国]]の[[戦国大名]](* [[1467年]]) * [[1614年]]([[慶長]]19年10月10日) - [[奥平家昌]]、[[宇都宮藩|宇都宮藩主]](* [[1577年]]) * [[1686年]] - [[ルイ2世 (コンデ公)|ルイ2世]]、[[コンデ公]](* [[1621年]]) * [[1751年]] - [[ジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリー]]、[[哲学者]](* [[1709年]]) * [[1806年]] - [[ヨーゼフ・ゴットリープ・ケールロイター]]、[[植物学者]](* [[1733年]]) * [[1831年]] - [[ナット・ターナー]]、[[アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史|アメリカ合衆国の奴隷]]反乱指導者(* [[1800年]]) * [[1855年]]([[安政]]2年[[10月2日 (旧暦)|10月2日]]) - [[戸田忠太夫]]、[[水戸藩]][[家老]](* [[1804年]]) * 1855年(安政2年10月2日) - [[藤田東湖]]、[[儒学者]](* [[1806年]]) * 1855年 - [[セーレン・キェルケゴール]]、哲学者(* [[1813年]]) * [[1861年]] - [[ペドロ5世 (ポルトガル王)|ペドロ5世]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル王]](* [[1837年]]) * [[1862年]] - [[ジェイムズ・マディソン・ポーター]]、第18代[[アメリカ合衆国陸軍長官]](* [[1793年]]) * [[1869年]] - [[ロバート・ウォーカー (財務長官)|ロバート・ウォーカー]]、第18代[[アメリカ合衆国財務長官]](* [[1801年]]) * [[1884年]] - [[アルフレート・ブレーム]]、[[動物学|動物学者]]、[[著作家|作家]](* [[1829年]]) * [[1892年]] - [[山田顕義]]、初代[[司法省 (日本)|司法大臣]]、[[日本大学]]創設者(* [[1844年]]) * [[1911年]] - [[川上音二郎]]、俳優、興行師(* [[1864年]]) * [[1912年]] - [[ユゼフ・ヴィエニャフスキ]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]](* [[1837年]]) * [[1917年]] - [[リリウオカラニ]]、[[ハワイ王国]]最後の国王(* [[1838年]]) * [[1918年]] - [[ジョージ・プライス]]、[[カナダ軍]]の[[二等兵]]、[[第一次世界大戦]]最後の戦死者(* [[1892年]]) * [[1931年]] - [[渋沢栄一]]、実業家(* [[1840年]]) * [[1934年]] - [[塚田清市]]、[[大日本帝国]]の[[陸軍]][[軍人]](* [[1855年]]) * [[1937年]] - [[瓜生外吉]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[大将]](* [[1857年]]) * [[1938年]] - [[メアリー・マローン]]、世界初の[[サルモネラ|チフス菌]]の健康保菌者(* [[1869年]]) * [[1939年]] - [[村上華岳]]、[[日本画家]](* [[1888年]]) * 1939年 - [[ヤン・オプレタル]]、[[プラハ]]の反[[ナチス]][[デモ]]で殺害された[[カレル大学|カレル大生]](* [[1915年]]) * [[1944年]] - [[松旭斎天勝]]、[[マジシャン (奇術)|奇術師]](* [[1886年]]) * [[1951年]] - [[臼田亞浪]]、[[俳人]](* [[1879年]]) * [[1952年]] - 2代目[[林家染丸]]、[[落語家]](* [[1867年]]) * [[1953年]] - [[桜井小太郎]]、[[建築家]](* [[1870年]]) * [[1958年]] - [[アンドレ・バザン]]、[[映画評論|映画評論家]](* [[1918年]]) * [[1959年]] - [[久保田権四郎]]、[[発明家]]、[[クボタ]]創業者(* [[1870年]]) * [[1966年]] - [[加藤顕清]]、[[彫刻家]](* [[1894年]]) * [[1968年]] - [[ジャンヌ・ドゥメッシュー]](ドゥメシュ)、[[オルガニスト]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](* [[1921年]]) * [[1969年]] - [[長谷川如是閑]]、ジャーナリスト・思想家(* [[1875年]]) * [[1970年]] - [[仲田定之助]]、[[美術評論家]]、[[美術家]](* [[1888年]]) * [[1973年]] - [[アルトゥーリ・ヴィルタネン]]、[[化学者]](* [[1895年]]) * [[1976年]] - [[アレクサンダー・カルダー]]、[[彫刻家]]、美術家(* [[1898年]]) * [[1979年]] - [[ディミトリ・ティオムキン]]、作曲家(* [[1895年]]) * [[1981年]] - [[篠田弘作]]、[[自治大臣]](* [[1899年]]) * [[1983年]] - [[アルノ・ババジャニアン]]、作曲家(* [[1921年]]) * [[1986年]] - [[平野威馬雄]]、[[詩人]]、[[フランス文学者]](* [[1900年]]) * [[1987年]] - [[地崎宇三郎 (三代)|地崎宇三郎]]、政治家、[[運輸大臣]](* [[1919年]]) * [[1993年]] - [[赤城宗徳]]、政治家、[[内閣官房長官]]、[[農林大臣]](* [[1904年]]) * 1993年 - [[早崎治]]、[[写真家]](* [[1933年]]) * 1993年 - [[リサ・デリュー]]、[[ポルノ女優]](* [[1958年]]) * [[1994年]] - [[エリザベス・マコンキー]]、作曲家(* [[1907年]]) * [[1998年]] - [[淀川長治]]、映画評論家(* [[1909年]]) * 1998年 - [[ジェラール・グリゼー]]、作曲家(* [[1946年]]) * 1998年 - [[ケニー・カークランド]]、[[ジャズ]][[ピアニスト]](* [[1955年]]) * 1998年 - [[栗木孝幸]]、[[プロ野球選手]](* [[1929年]]) * [[1999年]] - [[メアリー・ケイ・バーグマン]]、[[声優]](* [[1961年]]) * [[2001年]] - [[杉浦忠]]、[[プロ野球選手]]、監督 (* [[1935年]]) * [[2002年]] - [[江上波夫]]、[[考古学者]](* [[1906年]]) * [[2003年]] - [[山崎喜陽]]、雑誌『[[鉄道模型趣味]]』主筆(* [[1921年]]) * 2003年 - [[嶋俊介]]、声優(* [[1932年]]) * [[2004年]] - [[ヤーセル・アラファート]]、[[パレスチナ解放機構]]議長(* [[1929年]]) * 2004年 - [[荻島真一]]、[[俳優]](* [[1946年]]) * 2004年 - [[柳原義達]]、[[彫刻家]](* [[1910年]]) * [[2005年]] - [[ピーター・ドラッカー]]、経営学者(* 1909年) * [[2006年]] - [[宇井純]]、公害・環境科学者(* [[1932年]]) * 2006年 - [[ジャブ・クハニール]]、[[歌手]](* [[1957年]]) * 2006年 - [[村田渚]]、お笑い芸人([[鼻エンジン]]、[[フォークダンスDE成子坂]]) (* [[1971年]]) * [[2007年]] - [[林田悠紀夫]]、[[京都府知事]]、[[法務大臣]](* [[1915年]]) * 2007年 - [[関本忠弘]]、[[日本電気]]会長(* [[1926年]]) * 2007年 - [[草薙幸二郎]]、俳優(* [[1929年]]) * [[2008年]] - [[加藤一郎 (法学者)|加藤一郎]]、[[法学者]](* [[1922年]]) * [[2012年]] - [[桜井センリ]]、ミュージシャン、俳優([[クレイジーキャッツ]])(* [[1924年]]) * [[2016年]] - [[ロバート・ヴォーン]]、俳優(* [[1932年]]) * 2016年 - [[りりィ]]<ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2016/11/11/0009656865.shtml|title=りりィさん死去 64歳 肺がん闘病中だった「私は泣いています」大ヒット|work=Daily Sports Online|newspaper=[[デイリースポーツ]]|date=2016-11-11|accessdate=2020-10-28}}</ref>、[[シンガーソングライター]]、女優(* [[1952年]]) * [[2018年]] - [[園田博之]]、政治家(* [[1942年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASLCC3T3WLCCTIPE004.html|title=衆院議員の園田博之さんが死去 村山内閣で官房副長官|publisher=朝日新聞デジタル|date=2018-11-11|accessdate=2020-11-04}}</ref>) * [[2020年]] - [[熊本典道]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.saga-s.co.jp/articles/-/599972|title=熊本典道さんが死去 唐津市出身 袴田事件の一審裁判官 83歳|publisher=佐賀新聞LiVE|date=2020-11-14|accessdate=2020-12-23}}</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20201113072522/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020111300453&g=obt 熊本典道元判事が死去 「袴田事件」死刑判決に関与―退官後に「無罪」心証明かす] - 時事ドットコム 2020年11月13日</ref>、[[裁判官]]、[[弁護士]](* [[1938年]]) * [[2022年]] - [[村田兆治]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/201282?display=1 |title=【速報】元プロ野球選手・村田兆治さんが火災で死亡 東京・世田谷区の自宅 |access-date=2022-11-11 |publisher=TBS NEWS DIG |date=2022-11-11 |archive-date=2022-11-11 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221111120958/https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/201282?display=1}}</ref>、元プロ野球選手(* [[1949年]]) == 記念日・年中行事 == === 日本国外 === * [[聖マルティヌスの日]] *: [[トゥールのマルティヌス|聖マルティヌス]]の[[聖名祝日]]。西ヨーロッパでは[[収穫祭]]などの民俗行事が行われる。 * [[第一次世界大戦]]終結にちなんだ祝祭日 *: [[1918年]]11月11日に第一次世界大戦が停戦したことを記念し、特にヨーロッパ各地でこの日が祝日や記念日になっている。 ** [[リメンブランス・デー|戦没者追悼記念日]](Remembrance Day)、ポピー・デー (Poppy Day)({{GBR}}・{{CAN}}) ** [[退役軍人の日]] (Veteran's Day)({{USA}}) ** [[第一次世界大戦休戦記念日|休戦記念日]] (Jour de l'Armistice)({{FRA}}・{{BEL}}) * カルタヘナ独立記念日({{COL}}) *: [[1811年]]のこの日、[[ヌエバ・グラナダ]](現在の[[コロンビア]])の[[カルタヘナ・デ・インディアス]]が[[スペイン]]からの独立を宣言した。 ** [[独立記念日]] (Narodowe Święto Niepodległości)({{POL}}) **: 第一次世界大戦の停戦により、[[ドイツ]]と[[ソビエト連邦]]から領土が割譲されてポーランドが再置されたことを記念。かつてはソ連が[[ポーランド国民解放委員会]]を設立した([[1944年]])[[7月22日]]だったが、[[民主化]]後に変更された。 * 独立記念日({{AGO}}) *: [[1975年]]のこの日、アンゴラが[[ポルトガル]]からの独立を宣言した。 * [[光棍節]](独身の日、{{CHN}}) *: [[独身]]者のための記念日。中華人民共和国では(特に男性の)独身者のことを「光棍」(つるつるの棒の意)といい、11月11日は棒が4本並んでいるように見えることから、[[1990年]]ごろから学生の間で祝われるようになった。この日、中国の多くの電子商取引プラットフォーム([[淘宝網]]、[[天猫]]、[[京東]] など)が[[ar|プロモーション]]活動を行います。 * [[ペペロ]]デー ({{KOR}}) *: 親しい人にチョコプレッツェル菓子を贈るイベント。 *[[カート・ヴォネガット]]の日 *: ヴォネガットの誕生日。[[ニューヨーク市]]が制定。 === 日本 === 数字がゾロ目で覚えやすく、多くの団体や企業がこの日を記念日にしている。特に形を数字の「1」に見立てた棒状の食品・日用品の記念日が多い。2022年11月時点で[[日本記念日協会]]が認定した11月11日の記念日は59件あり、一年の中で最も多い日となっていたが<ref>[https://www.kinenbi.gr.jp/mypage/4539 一般社団法人 日本記念日協会]</ref>、翌2023年に[[8月8日]]の記念日が急増し、1位が8月8日、2位が[[10月10日]]、3位が11月11日となっている<ref>[https://www.kinenbi.gr.jp/mypage/5021 一般社団法人 日本記念日協会]</ref><ref>[https://www.kinenbi.gr.jp/mypage/5255 一般社団法人 日本記念日協会]</ref>。 ==== 食品関係 ==== *[[うまい棒]]の日 *: 株式会社[[やおきん]]が制定。「うまい棒」は2019年に発売40周年を迎え、これからも多くの人に愛され続けるようにとの願いが込められている。日付は、「うまい棒」を4本並べると1111と似ていることから<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 下|publisher=[[創元社]]|year=2020|page=199|isbn=978-4422021157}}</ref>。 *[[豚まん]]の日 *: 「(11)」が豚の鼻に見える事から。 *[[いただきます]]の日 *: 「いただきますの日」普及推進委員会が[[2011年]]に制定。「1111」が並んだ箸に見えることから11月11日と毎月11日に設定<ref>{{Cite web|和書 |url=http://itadakimasu1111.jp/?page_id=5 |title=いただきますの日ってなに? |access-date=2022-07-17 |publisher=「いただきますの日」普及推進委員会}}</ref>。 *[[麺]]の日 *: 全国製麺協同組合連合会が[[1999年]]に制定。「1111」が麺の細長いイメージにつながることから。 *[[ポッキー&プリッツの日]] *: [[江崎グリコ]]が[[1999年]](平成11年)11月11日に制定<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.pocky.jp/1111/index.html |title=ポッキー&プリッツの日 2022キャンペーン |access-date=2022-11-11 |publisher=ポッキー【Pocky】江崎グリコ公式サイト |archive-url=https://web.archive.org/web/20221111121824/https://www.pocky.jp/1111/index.html |archive-date=2022-11-11}}</ref>。「1111」が4本のポッキーあるいはプリッツに見えることに由来。以後、毎年キャンペーンを実施している。 *[[きりたんぽ]]の日 *: [[秋田県]][[鹿角市]]の「かづのきりたんぽ倶楽部」が制定。「1111」が、[[囲炉裏]]で焼いている4本のきりたんぽに見えることに由来。 *[[モヤシ|もやし]]の日<ref>{{Cite web|和書 |url=https://maidonanews.jp/article/14765048 |title=11月11日は「もやし」の日…広告を打ったワケ 「物価の優等生」も悲鳴、生産者側「次々と廃業者が出ている」 |access-date=2022-11-11 |publisher=まいどなニュース (maidonanews.jp) |date=2022-11-11 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221111122228/https://maidonanews.jp/article/14765048 |archive-date=2022-11-11}}</ref> *: 「1111」がもやしを4本並べたように見えることに由来。 *[[鮭の日]] *: [[新潟県]][[村上市]]が1988年ごろ制定。他に[[築地市場]]の北洋物産会も制定。いずれも、「鮭」という漢字が魚偏に「十一十一」と書くことに由来。 *[[ラッカセイ|ピーナッツ]]の日 *: 全国落花生協会が[[1985年]]に制定。ピーナッツは1つの殻に2粒の豆が双子のように同居している特徴があるので、ぞろ目の11に由来。 *[[沢庵漬け|たくあん]]の日 *: 全国各地の漬物協同組合、製造業、卸売業などの団体で構成される全日本漬物協同組合連合会が制定。日本の漬物の代表格であるたくあんの需要拡大を図ることが目的。日付は11月11日という文字が、たくあん用の大根を並べて干してある様子に似ていることと、たくさんの「1=わん=あん」があることから。 *[[キリン一番搾り生ビール|キリン一番搾り]]の日 *: [[キリンビール]]株式会社九州統括本部が制定。商品名に含まれる数字の「一」が一年の中で最も多く並ぶ日であることから。 *[[棒ラーメン]]の日 *: 株式会社[[マルタイ]]が制定。棒ラーメンの形状及び梱包方法(1パックに2食入り)が11に似ていることから。 *スティックパンの日 *: [[山崎製パン]]が制定。スティック状のパンが1が並んでいるように見えることから。 *[[ヤンヤンつけボー]]の日 *: 株式会社[[明治 (企業)|明治]]が制定。スティック状のクラッカーの形状が数字の1に似ていることから。 *岩下の新生姜の日 *: [[岩下食品]]が制定。岩下の新生姜の細長い形状が数字の1に似ていることから。 *[[串カツ田中]]の日 *: 株式会社串カツ田中が制定。「1111」が串が並んでいるように見えることから。 *ゴボチの日 *:株式会社デイリーマームが制定。ゴボチとは[[ごぼう]]を揚げたごぼうチップスで、2011年11月11日に販売を開始したことから。 ==== 日用品類 ==== *美しい[[まつ毛]]の日 *: [[株式会社アルマード]]が2011年に制定。「1111」の数字をまつ毛になぞらえ、それが1年の中で最も多く並ぶ日付であることから。一生涯つき合う自分の地まつ毛も、美しく健康的に保つことが大切、というコンセプトを呼びかけるため。 *配線器具の日 *: [[日本配線器具工業会]]が1999年に制定。[[コンセント]]の差込口の形状が「1111」に見えることに由来。また、「[[火災予防運動|秋の火災予防週間]]」の期間中であり、電気利用の安全啓発も兼ねる。 *[[靴下]]の日(ペアーズデー・恋人たちの日) *: 日本靴下協会が1993年に制定。靴下を2足並べた時の形が11 11に見えることに由来。1年に1度、同じ数字のペアが重なる日であることから、恋人同士(ペア)で靴下を贈り合おうと呼びかけるため。 *[[下駄]]の日 *: [[伊豆長岡温泉|伊豆長岡]]観光協会が制定。下駄の足跡が「11 11」に見えることに由来。 *[[ライター]]の日 *: [[日本喫煙具協会]]が制定。一般的な細長いライターを並べると「11 11」に見えることに由来。 *[[鏡]]の日 *: 全日本鏡連合会が2006年に制定。「11 11」や縦書きにした「十一 十一」が左右対称であることから。 *[[電池]]の日 *: 日本乾電池工業会([[電池工業会]])が1986年に制定。数字の部分を漢数字で書いた「十一十一」が「プラス・マイナス・プラス・マイナス」に見えることに由来。 *[[プラズマクラスター]]の日 *: [[シャープ]]株式会社が制定。プラズマクラスターの+(プラス)と−(マイナス)のイオンを「十一」に見立てたもの。 ==== その他 ==== * [[チンアナゴ]]の日 *: [[すみだ水族館]]が2013年に制定。チンアナゴが砂の中から体を出している姿が数字の「1」に似ており、群れで暮らす習性があることから、一年間に最も「1」が集まる日付を選んだ。<ref>http://www.sumida-aquarium.com/pdf/131031-1.pdf 2014年6月24日閲覧。</ref> * [[サッカー]]の日 *: [[ミズノ]]の直営店・エスポートミズノが制定。サッカーが11人対11人で行うスポーツであることに由来。 * いい獣医の日 *: 11と11で「いい獣医」と読む語呂合わせにちなみ、[[獣医師]]、獣医療、[[獣医学]]とその周辺領域の認知向上と今後の更なる発展を標榜し、目的とすることで制定された。 * ゆびリンガルの日 *: アシーマが制定。業種別多言語相互会話ツール「ゆびリンガル」が指を使って会話をするツールであり、数字の「1」が指に似ていることに由来。 * [[折り紙]]の日 *: 日本折紙協会が制定。世界平和記念日であること(折り紙と[[千羽鶴]]の関係)と、1を4つ組み合わせると折紙の形である[[正方形]]になることに由来。 * [[煙突]]の日 *: 「1111」が、煙突が4本立っているように見えることに由来。 * [[コピーライター]]の日 *: [[宣伝会議]]が、コピーライター養成講座を開講して50周年になる2007年に制定。1111が鉛筆が並んだように見えることに由来。 * [[磁気]]の日 *: 磁気治療器「ピップエレキバン」の[[ピップフジモト]]が1992年に制定。磁石のN極 (+) とS極 (-) を「十一」に見立てたことに由来。 * 公共建築の日 *: 数字の「1」が4つ並ぶ「1111」を建物の基本的な構造を象徴する4本の「柱」とイメージしたもの。日本公共建築協会が制定。国会議事堂の完成年月が昭和11年11月であることにも由来。 * [[介護]]の日 *: [[厚生労働省]]が2008年7月27日に発表・制定。「いい日、いい日、毎日あったか介護ありがとう」というキャッチフレーズより「いい(11)日いい(11)日」の語呂合わせから。 * [[ベース (弦楽器)|ベース]]の日 *: [[音楽プロデューサー]]・[[ベーシスト]]の[[亀田誠治]]が提案。[[クラウドファンディング]]による支援を経て制定された。弦楽器のベースに張られた四本の弦を1に見立てたことから決められた。 *寿司くんの足の日 *:[[ヤバイTシャツ屋さん]]のこやまたくや(Gt.Vo)ことkoyama takuyaが大阪芸術大学在学中に手がけたゆるふわ系(?)アニメのメインキャラクター「寿司くん」が2匹並んだ際に11月11日に見えることから。11月11日になるとTwitterの寿司くんのアカウントは「寿司くんの足の日だね!すごいね!」とツイートする。 *石棒の日 *:1111が縄文時代の石製品「石棒」が並んでいる様子に見えることから、飛騨市の博物館ファン団体、[[石棒クラブ]]が提唱。毎年11月に石棒をテーマとしたイベントを行っている。 *[[ネイルアート|ネイル]]の日 *:[[日本ネイリスト協会]]が2009年に制定。日付は11月が「ネイルエキスポ」の開催月であることと、爪の英語表記「NAIL」の中に縦線が4本あり「1111」のように見えることなどから。 *[[立ち飲み]]の日 *:11と11の形が人が集って立ち飲みをしている様に似ていることから。 *[[ヘアドネーション]]の日 *:ヘアドネーション活動を行っている[[山形市]]の[[ライオンズクラブ]]が制定。数字の1が並ぶ様子が毛髪の流れに見えることから。 *おそろいの日 *:株式会社[[フェリシモ]]が制定。日付は11と11が並んでいるように見え、1つ欠けても成り立たないことが「おそろい」というコンセプトにふさわしいことから。 *[[シマリス]]の日 *:背中の縞模様を「1111」に見立てたもの。 ==== 1111や十一十一と関係ない記念日 ==== *[[チーズ]]の日<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/omoshiro/202211/0015798899.shtml |title=11月11日はチーズの日 1600人が選んだチーズスイーツ・チーズベーカリーはコレ! (kobe-np.co.jp) |access-date=2022-11-11 |publisher=神戸新聞社 |date=2022-11-11 |website=神戸新聞NEXT |archive-date=2022-11-11 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221111122537/https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/omoshiro/202211/0015798899.shtml}}</ref> *: 日本輸入チーズ普及協会とチーズ普及協議会が1992年に制定。日本史上、チーズの製造が確認される最古の記録が、700(文武天皇4)年10月に、全国に「酥(そ)」(現在のチーズに近い発酵食品)の製造を命じたというものであることに由来。10月を新暦に置き換えた11月として、さらに覚えやすい11日とした。 *[[宝石]]の日(ジュエリーデー) *: 日本ジュエリー協会が制定。[[1909年]]のこの日、[[農商務省 (日本)|農商務省]]令第54号により宝石の重量の表示に[[カラット]]が採用されたことを記念。 *[[西陣織|西陣]]の日 *: 西陣織工業組合ら13団体からなる「西陣の日」事業協議会が1969年に制定。[[応仁の乱]]終結後、全国各地に散らばっていた[[織手]]達が西軍の本陣のあったあたり([[西陣]])に住みついたことが西陣織の由来であることから、応仁の乱が終結した[[1477年]]([[文明 (日本)|文明]]9年)11月11日を記念日とした。 *[[生ハム]]の日 *: 一般社団法人日本生ハム協会が制定。生ハムの生産が盛んなスペインで古くから「[[聖マルティヌスの日|サン・マルティンの日]]」である11月11日に豚を加工し生ハムを作る習慣があることから。 *ミュージカル「[[キャッツ (ミュージカル)|キャッツ]]」の日 *: 「キャッツ」の日本初演日(1983年11月11日)を記念して[[劇団四季]]が制定。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日1111|date=2011年7月}} * [[2001年]] - 御所河原が経営する[[遊園地]]「極道ランド」がオープンする。(漫画『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』129巻) * [[2007年]] - 紺谷希がオーナーパティシエを務めるケーキ店「プチ・ソルシエール」がオープンする。([[NHK連続テレビ小説]]『[[まれ]]』124話) * [[2009年]] - トロが引っ越し。引っ越し先は空き地で事実上の野良猫と化す。ただし有料会員だけは空き地から豪邸へ更に引っ越すことができる。(『[[まいにちいっしょ]]』第1099回〈最終回〉及び『[[週刊トロ・ステーション]]』第0回) === 誕生日(フィクション) === * [[1992年]](アニメでは[[1994年]]) - 藤崎佑助〈ボッスン〉、漫画・アニメ『[[SKET DANCE]]』の主人公<ref>{{Cite book|和書|author=篠原健太|title=SKET DANCE 公式ファンブック 開盟学園生徒手帳|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2011|page=18|isbn=978-4-08-870352-7}}</ref> * 1992年(アニメでは1994年) - 椿佐介、漫画・アニメ『SKET DANCE』に登場するキャラクター<ref>[[篠原健太]] 『SKET DANCE 公式ファンブック 開盟学園生徒手帳』 集英社〈ジャンプ・コミックス〉、2011年、70頁。</ref> * [[宇宙世紀]]0070年 - [[カミーユ・ビダン]]、アニメ『[[機動戦士Ζガンダム]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/research/articles/70785/ |title=TwitterでZガンダム「カミーユ・ビダン」の誕生祭が大盛り上がり お祝いメッセージとファンアートが大集合! |access-date=2022-08-11 |publisher=ねとらぼ |date=2020-11-11}}</ref> * [[未来世紀]]39年 - [[ジョルジュ・ド・サンド]]、アニメ『[[機動武闘伝Gガンダム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |editor=岸川靖|year = 1994 |title = 機動武闘伝Gガンダム テクニカルマニュアル 奥義大全 |page = 20 |publisher = [[徳間書店]] |series = ロマンアルバム エクストラ }}</ref> * 生年不明 - [[綾崎ハヤテ]]、漫画・アニメ『[[ハヤテのごとく!]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=http://hayatenogotoku.com/chara/index.html |title=ハヤテのごとく!!公式サイト・キャラクタープロフィールページ |accessdate=2018-11-11 |publisher=}}</ref> * 生年不明 - 衛宮切嗣、小説・アニメ『[[Fate/Zero]]』の主人公<ref>{{Twitter status|ufotable|1326511818462777345}}</ref> * 生年不明 - 鹿倉時雨、ゲーム、小説、漫画『[[NOeSIS]]』の主人公<ref>{{Twitter status|cutlass_charcot|491589317496545282}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://noe-sis.jp/character.php |title=CHARACTER|access-date=2022-11-07 |publisher=SpiritWorks/SHOCHIKU NAVI |work=『NOeSIS 嘘を吐いた記憶の物語』}}</ref> * 生年不明 - 東谷准太、漫画・アニメ『[[抱かれたい男1位に脅されています。]]』の主人公<ref>{{Twitter status|dakaretai_no1|1588365825722896384}}</ref> * 生年不明 - [[ロロノア・ゾロ]]、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/zoro.html |title=ロロノア・ゾロ |access-date=2022-11-07 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=ONE PIECE.com}}</ref><ref>原作第15巻SBS</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://mainichi.jp/articles/20221111/k00/00m/040/327000c |title=11月11日は「ワンピース」ゾロの誕生日 自慢の三刀流でお祝い |access-date=2022-11-11 |publisher=毎日新聞社 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221111121230/https://mainichi.jp/articles/20221111/k00/00m/040/327000c |archive-date=2022-11-11 |date=2022-11-11 |website=毎日新聞 (mainichi.jp)}}</ref> * 生年不明 - [[海賊 (ONE PIECE)#ジョズ|ジョズ]]、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=尾田栄一郎|authorlink=尾田栄一郎|year = 2012 |title = ONE PIECE BLUE DEEP CHARACTERS WORLD |page = 86 |publisher = 集英社 |series = ジャンプ・コミックス |isbn = 978-4-08-870445-6 }}</ref> * 生年不明 - ノイトラ・ジルガ、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|bleach_bs|1458676052050386945}}</ref> * 生年不明 - [[自来也 (NARUTO)|自来也]]、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=岸本斉史|authorlink=岸本斉史|year = 2002|title = NARUTO -ナルト- [秘伝・臨の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher = 集英社 |series = ジャンプ・コミックス |isbn = 4-08-873288-X|page = 73 }}</ref><ref>{{Cite book|和書 |author=岸本斉史|title=NARUTO -ナルト- [秘伝・闘の書] キャラクター オフィシャルデータ BOOK|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2005|page=93|ISBN=4-08-873734-2}}</ref> * 生年不明 - バク・チャン、漫画・アニメ『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|authorlink=星野桂|title=D.Gray-man 公式ファンブック 灰色ノ聖櫃|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2008|page=100|isbn=978-4-08-874248-9}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=星野桂|title=D.Gray-man キャラクター ランキングブック キャラグレ!|publisher=集英社|series=ジャンプ・コミックス|year=2011|page=87|isbn=978-4-08-870268-1}}</ref> * 生年不明 - 瀬見英太、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!|ハイキュー‼︎]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|year=2015|title=ハイキュー!!|publisher=集英社〈ジャンプ・コミックス〉|location=|isbn=978-4-08-880484-2|quote=|date=|volume=18巻|page=187}}</ref> * 生年不明 - 753♡、漫画『[[2.5次元の誘惑]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.shonenjump.com/ririsa/question/ |title=Q&A Q.013 奥村たちの誕生日が知りたいです! |accessdate=2022-11-07 |publisher=橋本 悠/[[集英社]] |work=『2.5次元の誘惑』}}</ref> * 生年不明 - 伊東倉元、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=石田スイ|authorlink=石田スイ|year=2015|title=[[東京喰種トーキョーグール]]:re|publisher=集英社|location=|isbn=978-4-08-890132-9|date=|volume=2巻|quote=カバー裏}}</ref> * 生年不明 - [[史上最強の弟子ケンイチの登場人物#天田橙子|天田橙子]]、漫画・アニメ『[[史上最強の弟子ケンイチ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=松江名俊|authorlink=松江名俊|year=2014|title=史上最強の弟子ケンイチ 公式ガイドブック 史上最強の秘伝書|page=128|publisher=[[小学館]]|series=[[少年サンデーコミックス]]|isbn=978-4-09-125016-2}}</ref> * 生年不明 - 中野梓、漫画・アニメ『[[けいおん!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hatenanews.com/articles/201111/6537 |title=11月11日は“あずにゃん”の誕生日! 記念グッズや限定バースデーカードが続々登場 |access-date=2022-11-07 |publisher=はてなニュース |date=2011-11-11}}</ref> * 生年不明 - 日向縁、漫画・アニメ『[[ゆゆ式]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=三上小又|year=2009|title=ゆゆ式|volume=第1巻|publisher=芳文社|page=2|series=まんがタイムKRコミックス|isbn=978-4-8322-7794-6}}</ref> * 生年不明 - 倉上ひなた、漫画・アニメ『[[ヤマノススメ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=[[ヤマノススメ]]|volume=4巻|publisher=[[アース・スター エンターテイメント]]|page=42|isbn=978-4-8030-0469-4}}</ref> * 生年不明 - 宇佐美陽菜、漫画『[[みならい女神 プルプルんシャルム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=ジコウリュウ(原作)|author2=キダニエル(漫画)|author3=マルイノ(キャラクターデザイン)|title=DVD付き みならい女神プルプルんシャルム|volume=1巻|publisher=[[講談社]]|series=講談社キャラクターズA|year=2014|page=21|ISBN=978-4-06-376438-3}}。</ref> * 生年不明 - 関野チコ、漫画・アニメ『[[おちこぼれフルーツタルト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |url=http://ochifuru-anime.com/chara06.html |title=CHARACTER |work=TVアニメ「おちこぼれフルーツタルト」公式サイト |accessdate=2021-04-22}}</ref> * 生年不明 - 伊部小百合、漫画・アニメ『[[恋する小惑星]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite tweet|user=koiastv |author=TVアニメ「恋する小惑星」公式ツイッター |number=1458449367896047620|title=🌟H A P P Y B I R T H D A Y🌟本日11月11日は新聞部のおっちょこちょいな女の子・イヴのお誕生日です‼|date=2021-11-11 |accessdate=2023-07-20}}</ref> * 生年不明 - フリー・デラホーヤ、漫画・ゲーム・アニメ『[[ベイブレードバースト]]』に登場するキャラクター<ref name="profile_3">『ベイブレードバースト 9』小学館〈コロコロコミックス〉、2018年5月2日、189頁。</ref> * 生年不明 - 牛久花和、漫画・アニメ『[[アニマエール!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 清木清、漫画『[[ばっどがーる]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |title=ばっとがーる 2巻 |date=2022-11-26 |publisher=[[芳文社]] |page=6 |author=肉丸 |isbn=978-4832274211}}</ref> * 生年不明 - 柴田颯、小説『[[ようこそ実力至上主義の教室へ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://youkosozitsuryoku-2nd.com/character/shibata.html |title=柴田 颯 |accessdate=2022-11-07 |publisher=[[衣笠彰梧]]・KADOKAWA刊/ようこそ実力至上主義の教室へ製作委員会 |work=『ようこそ実力至上主義の教室へ 2年生編』}}</ref> * 生年不明 - 中村和博、小説・漫画・アニメ『[[厨病激発ボーイ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://chubyou.net/chara04.html |title=中村和博 |accessdate=2022-11-07 |publisher=[[れるりり]]・藤並みなと/KADOKAWA/厨病激発ボーイ製作委員会 |work=『厨病激発ボーイ』}}</ref> * 生年不明 - メンメン、アニメ『[[デリシャスパーティ♡プリキュア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.toei-anim.co.jp/tv/delicious-party_precure/character/energy3.php |title=メンメン |publisher=ABC-A・[[東映アニメーション]] |accessdate=2022-11-07 |work=『デリシャスパーティ♡プリキュア』}}</ref> * 生年不明 - 鷹嵐、ゲーム『[[バーチャファイター]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|vf_official|1590902135352397824}}</ref> * 生年不明 - シュートっち、ゲーム・アニメ『[[たまごっち]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|editor=講談社|editor-link=講談社|title=Tamagotchi iD L ぴかぴか育て方ガイド|year=2011|page=40|isbn=978-4-06-364876-8}}</ref><ref>{{Cite book|和書|others=[[ウィズ (玩具)|ウィズ]]、[[バンダイ]](監修)|title=テレビ超ひゃっか たまごっち!たまともプロフずかん|publisher=[[小学館]]|year=2011|page=29|isbn=978-4-09-751048-2}}</ref> * 生年不明 - 辻薫、ゲーム『[[ゲッターラブ!! ちょー恋愛パーティーゲーム]]』に登場するキャラクター<ref>{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/gamenavi/gamedb/softinfo/getterlove/quest7.html|title=ゲッターラブ!!質問コーナー第7回|date=20040813070908}}</ref> * 生年不明 - 霜月甘菜、ゲーム『[[アットゲームズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|GCREST_official|532086071463399424}}</ref> * 生年不明 - 美月、ゲーム『[[ドリームクラブGogo.]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|year=2014|title=ドリームクラブ Gogo. ビジュアルファンブック|page=70|publisher=[[KADOKAWA]]|ISBN=978-4-04-729693-0}}</ref> * 生年不明 - 千代田こよみ、ゲーム、小説、漫画『[[NOeSIS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://noe-sis.jp/character.php |title=CHARACTER 千代田 こよみ |access-date=2022-11-07 |publisher=SpiritWorks/SHOCHIKU NAVI |work=『NOeSIS 嘘を吐いた記憶の物語』}}</ref> * 生年不明 - 相川千夏、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20001 |title=相川 千夏(あいかわ ちなつ) |access-date=2022-11-07 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター シンデレラガールズの登場人物#大石泉|大石泉]]、ゲーム『アイドルマスター シンデレラガールズ』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/search/detail/20030 |title=大石 泉(おおいし いずみ) |access-date=2022-11-07 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - 音城セイラ、ゲーム・アニメ『[[アイカツ! (アニメ)|アイカツ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=アイカツ! アイドル名鑑|author1=サンライズ(企画・原作)|authorlink1=サンライズ (アニメ制作ブランド)|author2=バンダイ(原案)|authorlink2=バンダイ|author3=サンライズ|author4=バンダイ(監修)|publisher=[[小学館]]|year=2014|page=56|isbn=978-4-09-280501-9}}</ref> * 生年不明 - 山野こだま、ゲーム『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://app.famitsu.com/20130618_178855/ |title=【ガールフレンド(仮)通信61】ロリ系ハイキングガール 山野こだまちゃん(CV:南里侑香) |access-date=2022-11-07 |publisher=ファミ通App |date=2013-06-18}}</ref><ref>{{Twitter status|girlfriend_kari|929001989165473792}}</ref> * 生年不明 - 千代浦あやめ、ゲーム『ガールフレンド(仮)』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|girlfriend_kari|1326177802886946823}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター ミリオンライブ!の登場人物#天空橋朋花|天空橋朋花]]、ゲーム『[[アイドルマスター ミリオンライブ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/search/detail/30018 |title=天空橋 朋花(てんくうばし ともか) |access-date=2022-11-07 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - 煌牙、ゲーム・アニメ・小説・漫画『[[夢王国と眠れる100人の王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yume-100.com/chara/prince.html?id=58&cate=name&cont=Koga |title=煌牙(コウガ) |access-date=2022-11-07 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢王国と眠れる100人の王子様』}}</ref> * 生年不明 - [[アイドルマスター シャイニーカラーズ#福丸小糸|福丸小糸]]、ゲーム『[[アイドルマスター シャイニーカラーズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/50019 |title=福丸 小糸(ふくまる こいと) |access-date=2022-11-07 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref> * 生年不明 - シャロン、ゲーム『[[クイズマジックアカデミー]] 』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://p.eagate.573.jp/game/qma/17/world/detail.html?c=101 |title=シャロン |access-date=2022-11-07 |publisher=KONAMI |work=『クイズマジックアカデミー 夢幻の鏡界』}}</ref> * 生年不明 - リンク、ゲーム『夢職人と忘れじの黒い妖精』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yumekuro.com/character/meister/nijinokanata/link/ |title=リンク |access-date=2023-01-26 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢職人と忘れじの黒い妖精』}}</ref> * 生年不明 - 是国竜持、メディアミックス『[[B-PROJECT]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://bpro-official.com/artists/kitakore/ |title=キタコレ 是国 竜持 |accessdate=2023-01-11 |publisher=B-PROJECT [[MAGES.]] |work=『B-PROJECT』}}</ref> * 生年不明 - 碧棺左馬刻、メディアミックス『[[ヒプノシスマイク|ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hypnosismic.com/character/yokohama/mr_hc/ |title=碧棺 左馬刻/Mr.Hc |accessdate=2022-11-07 |publisher=King Record Co. |work=『ヒプノシスマイク』}}</ref> * 生年不明 - 花守ミツキ、特撮『[[魔法×戦士 マジマジョピュアーズ!]]』の登場人物 * 生年不明 - 紫守ユヅキ、特撮『[[ビッ友×戦士 キラメキパワーズ!]]』の登場人物 * 生年不明 - 近江遥、メディアミックス『[[ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会]]』に登場するキャラクター <!-- * 1939年 - シギント、ゲーム『[[メタルギアソリッド]]』シリーズに登場するキャラクター * 生年不明 - [[べるぜバブの登場人物|古市貴之]]、漫画『[[べるぜバブ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 桐島波瑠、漫画・アニメ『[[SKET DANCE]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 鎌手多季、漫画『[[Aチャンネル]]』に登場するキャラクター--> === 忌日(フィクション) === *[[1992年]](アニメでは[[1994年]]) - 桐島亮輔、漫画・アニメ『[[SKET DANCE]]』に登場するキャラクター *[[2009年]](アニメでは[[2012年]]<ref>{{Cite book |和書 |year = 2007 |title = DEATH NOTE/A アニメーション公式解析ガイド |page = 10 |publisher = [[集英社]] |isbn = 978-4-08-874197-0 }}</ref>) - 夜神総一郎、漫画『[[DEATH NOTE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author1=大場つぐみ|authorlink1=大場つぐみ|author2=小畑健|authorlink2=小畑健|year=2006|title=DEATH NOTE|volume=第13巻|page=20|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4-08-874095-9}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{commonscat|11 November}} {{新暦365日|11|10|11|12|[[10月11日]]|[[12月11日]]|[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]|1111|11|11}} *[[1111]] {{1年の月と日}}
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2,832
6月4日
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6月4日(ろくがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から155日目(閏年では156日目)にあたり、年末まであと210日ある。
{{カレンダー 6月}} '''6月4日'''(ろくがつよっか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から155日目([[閏年]]では156日目)にあたり、年末まであと210日ある。 == できごと == [[File:Hohenfriedeberg - Attack of Prussian Infantry - 1745.jpg|thumb|180x180px|[[オーストリア継承戦争]]、[[ホーエンフリートベルクの戦い]](1745)]] [[File:BattleofMagenta.jpg|thumb|180x180px|[[第二次イタリア独立戦争]]、[[マジェンタの戦い]](1859)]] {{multiple image | footer = [[トリアノン条約]](1920)締結 | image1 = Treaty of trianon negotiations.jpg | width1 = 90 | alt1 = トリアノン条約 | image2 = Trianon_map_hu.png | width2 = 90 | alt2 = トリアノン条約による割譲地域 }} [[File:British_fisher_boat_dunkirk.png|thumb|180x180px|[[ダンケルクの戦い]]、ドイツ軍の勝利に終わる(1940)]] [[File:Japanese aircraft carrier Hiryu burning on 5 June 1942 (NH 73064).jpg|thumb|180x180px|[[ミッドウェー海戦]](1942)。画像は炎上する空母「飛龍」]] [[File:Omi-Kenshi Labor dispute2.jpg|thumb|204x204px|女工による106日間の[[ストライキ]]、[[近江絹糸争議]](1954)開始]] [[File:Shizuoka_Airport_20080501.jpg|thumb|180x180px|[[静岡空港]]開港(2009)]] *[[1039年]] - [[ローマ王]]・[[神聖ローマ皇帝|皇帝]]の[[コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート2世]]が死去。子の[[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ3世]]がローマ王に即位。 *[[1189年]] - [[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世]]率いる十字軍が[[ハンガリー]]・[[エステルゴム]]に着陣した。エステルゴムではハンガリー王[[ベーラ3世 (ハンガリー王)|ベーラ3世]]の盛大な出迎えを受けた。 * [[1584年]] - [[ウォルター・ローリー]]が[[新世界]]初のイングランド植民地である[[ロアノーク植民地]]を建設。 * [[1615年]]([[元和 (日本)|元和]]元年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]: [[徳川家康]]が[[豊臣秀頼]]と[[淀殿]]を切腹に追い込み、[[豊臣氏]]が滅亡<ref>{{Cite web|和書|url=https://tabi-mag.jp/os0187/ |title=豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地 |work=ニッポン旅マガジン |accessdate=2 Aug 2023 |publisher=プレスマンユニオン}}</ref>。 * [[1716年]]([[享保]]元年[[4月15日 (旧暦)|4月15日]]) - 江戸幕府が、[[東海道]]・[[中山道]]・[[日光道中]]・[[奥州道中]]・[[甲州道中]]の[[五街道]]の呼称を布達。 * [[1745年]] - [[オーストリア継承戦争]]: [[ホーエンフリートベルクの戦い]] * [[1783年]] - [[フランス王国|フランス]]の[[モンゴルフィエ兄弟]]が世界初の[[熱気球]]無人飛行を実施。 * [[1802年]] - [[サルデーニャ王国|サルデーニャ王]][[カルロ・エマヌエーレ4世]]が弟の[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世]]に譲位。 * [[1812年]] - [[ルイジアナ準州]]が[[ミズーリ準州]]に改称。 * [[1830年]] - 南米独立革命の志士[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]将軍が[[コロンビア]]で[[暗殺]]される。 * [[1858年]]([[安政]]5年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]]) - 彦根藩主・[[井伊直弼]]が江戸幕府[[大老]]に就任。 * [[1859年]] - [[イタリア統一運動|第二次イタリア独立戦争]]: [[マジェンタの戦い]]。 * [[1879年]] - 東京・九段の東京[[招魂社]]を[[別格官幣社]]として[[靖国神社]]に改称。 * [[1917年]] - [[1917年ピューリッツァー賞|第1回ピューリッツァー賞]]が発表される。授与式は6月6日<ref>{{Cite web |url=https://www.pulitzer.org/article/noble-profession-first-pulitzer-prize-cycle |title='A Noble Profession': The First Pulitzer Prize Cycle |accessdate=2 Aug 2023 |publisher=The Pulitzer Prizes}}</ref>。 * [[1920年]] - [[第一次世界大戦]]: [[ハンガリー]]が連合国と[[トリアノン条約]]を結び講和する。 * [[1928年]] - [[満州]]にて[[関東軍]]の[[河本大作]]が軍閥の[[張作霖]]を爆殺。([[張作霖爆殺事件]]) * [[1936年]] - フランスで[[社会党 (フランス)|社会党]][[レオン・ブルム]]首班の[[フランス人民戦線|人民戦線]]内閣が成立。 * [[1937年]] - [[第1次近衛内閣|第一次近衛文麿内閣]]発足。 * 1937年 - [[普天堡の戦い]]。 * [[1940年]] - [[第二次世界大戦]]: [[ダンケルクの戦い]]が終結。 * [[1942年]] - 第二次世界大戦: [[ミッドウェー海戦]]が始まる。(日本時間では[[6月5日]]) * [[1943年]] - 第二次世界大戦: 日本政府が「戦時衣生活簡素化実施要綱」を決定。男性は[[国民服]]、女性は元禄袖に。 * [[1944年]] - 第二次世界大戦: [[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍が[[ローマ]]に入城。初めて[[枢軸国]]の首都が陥落。 * [[1946年]] - 日本海軍潜水艦「[[伊400]]」、ハワイ近海に於いて撃沈処分。 * [[1950年]] - [[第2回参議院議員通常選挙]]。 * [[1951年]] - [[公営住宅法]]公布。 * [[1954年]] - [[近江絹糸争議]]。近江絹糸紡績(現:[[オーミケンシ]])の女子工員が、結婚の自由・信書の開封廃止など22項目を要求し106日間の[[ストライキ]]を開始。 * [[1960年]] - [[フィンランド]]の[[ヘルシンキ]]近郊、[[エスポー (フィンランド)|エスポー市]]にある湖で[[ボドム湖殺人事件]]が起こる。 * [[1961年]] - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]でバラエティ番組『[[シャボン玉ホリデー]]』の放送開始。 * [[1968年]] - [[日本女子プロレス]]から分裂して[[全日本女子プロレス]]が発足。 * [[1970年]] - [[トンガ]]がイギリスから独立。 * [[1973年]] - この日発売の[[週刊少年ジャンプ]]にて、[[中沢啓治]]による[[広島市への原子爆弾投下|広島原爆]]をテーマとした漫画「[[はだしのゲン]]」の連載が開始(以後、掲載誌を変えながら[[1985年]]まで連載が続く)。 * [[1974年]] - [[10セント・ビア・ナイト]]。 * [[1979年]] - [[ガーナ]]で[[ジェリー・ローリングス]]空軍大尉が軍事クーデターを起こし、{{仮リンク|フレッド・アクフォ|en|Fred Akuffo}}軍事政権を打倒。 * [[1989年]] - [[六四天安門事件|天安門事件]]: 民主化要求運動で最大100万人が集結していた[[天安門広場]]に、デモ鎮圧のため[[中国人民解放軍]]が出動。6月3日夜から4日未明にかけて無差別に発砲してデモを鎮圧した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/politics/kotoba/51817.html |title=天安門事件 |access-date=2 Aug 2023 |publisher=[[日本放送協会|NHK]]}}</ref>。中国当局の発表では死者は319人とされているが、英外交文書では死者「1万人以上」と推計されるなど、真相は明らかになっていない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20230604-FYBGS5V7HNKFZJ6Z3EFIT7OUFQ/ |title=天安門事件34年 殺戮の事実認め謝罪せよ |access-date=2 Aug 2023 |publisher=[[産経新聞]] |date=4 Jun 2023}}</ref>。 * 1989年 - 戦後初の[[1989年ポーランド議会選挙|ポーランド議会の部分自由選挙]]の第1回投票が行われ、ポーランド統一労働者党(PZPR)をはじめとする与党系の政党が、両院で圧勝した。 * 1989年 - [[アリー・ハーメネイー]]が[[イラン]]の[[イランの最高指導者|最高指導者]]に就任。 * 1989年 - [[北海道旅客鉄道|JR北海道]]池北線が[[第三セクター鉄道|第三セクター]][[北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線]]に転換、営業開始。 * 1989年 - [[ソビエト連邦|ソ連]]・[[ウラル連邦管区|ウラル地方]]で天然ガスの[[パイプライン輸送|パイプライン]]から漏れたガスが大爆発し、通りかかった列車2本が吹き飛ばされて607人が死亡する。 ([[ウファ鉄道事故]]) * [[1996年]] - 6か国による[[リムパック|環太平洋合同演習]]中に、[[海上自衛隊]]の[[護衛艦]]「[[ゆうぎり (護衛艦)|ゆうぎり]]」の撃った[[CIWS|20mm機関砲]]が米空母「インディペンデンス」の艦載機[[A-6 (航空機)|A-6]]艦上攻撃機に誤って命中。艦載機は海中へ墜落した。 * 1996年 - [[アリアンスペース]]のロケット「[[アリアン5]]」の初打ち上げが行われるが、コンピュータプログラムの異常により打ち上げ直後に爆発。 * [[1999年]] - [[短編映画]]祭の「[[ショートショートフィルムフェスティバル]]」が東京・[[表参道 (原宿)|表参道]]で初めて開催された。 * [[2001年]] - [[ネパール王族殺害事件]]: [[ディペンドラ・ビール・ビクラム・シャハ|ディペンドラ]]が死亡し、[[ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ|ギャネンドラ]]が[[ネパール]]国王に即位。 * [[2002年]] - [[サッカー日本代表]]が、[[埼玉スタジアム2002]]で行われた[[2002 FIFAワールドカップ]]対[[ベルギー]]戦で2-2で引き分け、日本代表としてワールドカップ史上初の勝点を挙げる。 * [[2004年]] - [[キルドーザー事件]]。[[コロラド州]][[グランビー (コロラド州)|グランビー]]で装甲化されたブルドーザーによる破壊行為が行われる。 * [[2004年]] - [[読売ジャイアンツ|巨人]]の[[清原和博]]が2000本安打を達成。 * [[2006年]] - [[NTT中継回線]]が[[光ファイバー]]伝送のデジタル回線に移行し、1960年代にかけて全国に拡大した[[マイクロ波]]を用いた中継回線は52年間続いた役目を終える。 * [[2008年]] - [[婚外子国籍訴訟]]の[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]][[大法廷]]判決で違憲との判断が下る。 * [[2009年]] - [[静岡空港]]が開港。 * 2009年 - 「[[足利事件]]」で無期刑確定で収監されていた男性に対し、[[東京高等検察庁]]が刑の執行停止を指示、釈放される。 * [[2010年]] - [[2010年6月民主党代表選挙]]が行われ、新代表に[[菅直人]]を選出。同日の国会での首班指名で第94代[[内閣総理大臣]]に菅が指名される。就任は[[6月8日]]。 * [[2011年]] - [[東日本旅客鉄道|JR東日本]]が[[動態保存|動態復元]]した[[蒸気機関車]][[国鉄C61形蒸気機関車20号機|C61形20号機]]が復活し、営業運転開始。 * [[2013年]] - [[埼玉スタジアム2002|埼玉スタジアム]]で[[2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選|ブラジルワールドカップアジア最終予選]][[サッカー日本代表|日本]]対[[サッカーオーストラリア代表|オーストラリア]]が行われ、1-1の引き分けに終わり、日本がホームで初めて[[FIFAワールドカップ]]の出場権を獲得。試合後、[[渋谷スクランブル交差点]]で、通称「DJポリス」の話術による誘導が混乱を収めたことで話題になる。 *[[2020年]] - [[宝塚ボーガン殺傷事件]]が起こる。 == 誕生日 == [[Image:François Quesnay.jpg|thumb|229x229px|[[重農主義]]の祖、[[経済学]]者[[フランソワ・ケネー]](1694-1774)誕生]] [[Image:George III As Prince of Wales.jpg|thumb|260x260px|イギリス王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]](1738-1820)誕生。[[アメリカ独立戦争]]を招いた]] [[Image:Inukai Tsuyoshi.jpg|thumb|230x230px|日本国第29代内閣総理大臣、[[犬養毅]](1855-1932)誕生]] [[Image:Mannerheim3.jpg|thumb|280x280px|フィンランドの元帥・大統領、[[カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム]](1867-1951)]] [[Image:Heinrich Wieland.jpg|thumb|255x255px|[[胆汁酸]]を研究した[[化学]]者[[ハインリッヒ・ヴィーラント]](1877-1957)]] [[Image:NazimovaDoll%27sHouse.jpg|thumb|311x311px|女優[[アラ・ナジモヴァ]](1879-1945)。画像は『[[人形の家]]』のノラを演じるアラ]] [[Image:Drfurchgott.jpg|thumb|180x180px|情報伝達物質としての[[一酸化窒素]]を発見した[[生化学]]者[[ロバート・ファーチゴット]](1916-2009)]] [[Image:Gyurcsany Ferenc-mszp-2-croped.jpg|thumb|209x209px|[[ハンガリー]]の政治家[[ジュルチャーニ・フェレンツ]](1961-)]] * [[1673年]]([[寛文]]13年[[4月19日 (旧暦)|4月19日]]) - [[森衆利]]、第5代[[津山藩|津山藩主]](+ [[1705年]]) * [[1694年]] - [[フランソワ・ケネー]]、[[経済学者]]、[[医師]](+ [[1774年]]) * [[1710年]]([[宝永]]7年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[松浦有信]]、第7代[[平戸藩|平戸藩主]](+ [[1728年]]) * [[1738年]] - [[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]、[[イギリス]]王(+ [[1820年]]) * [[1772年]]([[明和]]9年[[5月4日 (旧暦)|5月4日]]) - [[阿部正簡]]、第5代[[佐貫藩|佐貫藩主]](+ [[1825年]]) * [[1778年]]([[安永 (元号)|安永]]5年[[4月27日 (旧暦)|4月27日]]) - [[松平勝升]]、第5代[[多古藩|多古藩主]](+ [[1818年]]) * [[1785年]]([[天明]]5年[[4月27日 (旧暦)|4月27日]]) - [[永井直与]]、第10代[[高槻藩|高槻藩主]](+ [[1846年]]) * [[1809年]] - [[ベンジャミン・スタントン]]、第6代[[オハイオ州副知事]](+ [[1872年]]) * 1809年 - [[コロンバス・デラノ]]、第11代[[アメリカ合衆国内務長官]](+ [[1896年]]) * [[1811年]]([[文化 (元号)|文化]]7年[[4月14日 (旧暦)|4月14日]]) - [[谷衛昉]]、第11代[[山家藩|山家藩主]](+ [[1884年]]) * [[1829年]](文政12年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]) - [[陣幕久五郎]]、[[大相撲]]第12代横綱(+ [[1903年]]) * [[1850年]]([[嘉永]]3年[[4月24日 (旧暦)|4月24日]]) - [[森忠儀]]、第12代[[赤穂藩|赤穂藩主]]・[[子爵]](+ [[1885年]]) * [[1855年]]([[安政]]2年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]) - [[犬養毅]]、[[政治家]]、第29代[[内閣総理大臣]](+ [[1932年]]) * 1855年(安政2年4月20日) - [[久松勝慈]]、第12代多古藩主・子爵(+ [[1904年]]) * [[1867年]] - [[カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム]]、軍人、政治家(+ [[1951年]]) * [[1877年]] - [[ハインリッヒ・ヴィーラント]]、[[化学者]](+ [[1957年]]) * [[1879年]]([[ユリウス暦]]5月22日) - [[アラ・ナジモヴァ]]、[[俳優|女優]]、[[映画プロデューサー]](+ [[1945年]]) * [[1883年]] - [[諸橋轍次]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kangaku-morohashi.com/course/%E8%AB%B8%E6%A9%8B%E8%BD%8D%E6%AC%A1%E3%81%A8%E8%A8%98%E5%BF%B5%E9%A4%A8%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/ |title=諸橋轍次と記念館について |access-date=2 Aug 2023 |publisher=諸橋轍次記念館}}</ref>、漢字研究家、『[[大漢和辞典]]』編者(+ [[1982年]]) * [[1889年]] - [[ベノー・グーテンベルグ]]、[[地震学|地震学者]](+ [[1960年]]) * [[1893年]] - [[宮前進]]、実業家、政治家(+[[1972年]]) * [[1903年]] - [[エフゲニー・ムラヴィンスキー]]、 [[指揮者]] (+[[1988年]]) * [[1904年]] - [[末広恭雄]]、[[水産学|水産学者]]、[[随筆家]](+ [[1988年]]) * [[1907年]] - [[ロザリンド・ラッセル]]、女優(+ [[1976年]]) * [[1911年]] - [[島岡吉郎]]、野球監督(+ [[1989年]]) * 1911年 - [[ミロヴァン・ジラス]]、政治家、理論家(+ [[1995年]]) * [[1912年]] - [[森本薫]]、[[劇作家]](+ [[1946年]]) * 1916年 - [[ロバート・ファーチゴット]]、[[薬理学|薬理学者]](+ [[2009年]]) * [[1918年]] - [[田川誠一]]、[[政治家]](+ [[2009年]]) * [[1919年]] - [[山根実]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1965年]]) * [[1923年]] - [[崇仁親王妃百合子]]、[[皇族]] * 1923年 - [[大山倍達]]、空手家(+ [[1994年]]) * [[1924年]] - [[デニス・ウィーバー]]、[[俳優]](+ [[2006年]]) * [[1926年]] - [[大野公男]]、化学者、[[北海道大学]]名誉教授、[[北海道情報大学]][[名誉学長]](+[[2017年]]) * [[1929年]] - [[中村富十郎 (5代目)]]、[[歌舞伎役者一覧|歌舞伎役者]](+ [[2011年]]) * [[1930年]] - [[寺島尚彦]]、作詞家、作曲家(+[[2004年]]) * 1930年 - [[降旗節雄]]、経済学者(+ [[2009年]]) * [[1936年]] - [[高橋栄一郎]]、元プロ野球選手(+ [[2007年]]) * 1936年 - [[ブルース・ダーン]]、俳優 * [[1937年]] - [[橋詰文男]]、元プロ野球選手(+ [[1983年]]) * 1937年 - [[ゴリラ・モンスーン]]、[[プロレスラー]](+ [[1999年]]) * 1939年 - [[西川右近]]、[[舞踊家]](+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書|title=西川右近・日舞西川流三世家元が死去、81歳 「名古屋をどり」を定着 |url=https://mainichi.jp/articles/20201215/k00/00m/040/275000c |access-date=2 Aug 2023 |publisher=[[毎日新聞]] |date=15 Dec 2020}}</ref>) * [[1940年]] - [[黒沼ユリ子]]、[[ヴァイオリニスト]] * [[1941年]] - [[三宅博 (野球)|三宅博]]、元プロ野球選手 * 1941年 - [[石戸四六]]、元プロ野球選手(+ [[1980年]]) * 1941年 - [[日色ともゑ]]、女優 * [[1942年]] - [[金昌国]]、フルート奏者、指揮者、[[東京芸術大学]]名誉教授 * [[1943年]] - [[梓みちよ]]、[[歌手]]、女優(+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/02/03/kiji/20200203s00041000338000c.html |title=歌手の梓みちよさん死去 76歳「こんにちは赤ちゃん」「二人でお酒を」 |access-date=2 Aug 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |website=Sponichi Annex}}</ref>) * 1943年 - [[押田令三]]、元プロ野球選手 * [[1946年]] - [[設楽幸嗣]]、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、元子役 * 1946年 - [[鮑国安]]、俳優 * [[1950年]] - [[青柳いづみこ]]、ピアニスト、エッセイスト * 1950年 - [[上原敏夫]]、法学者、弁護士 * 1950年 - [[庄司陽子]]、[[漫画家]] * [[1951年]] - [[松寺千恵美]]、女優 * [[1952年]] - [[青木達也]]、実業家 * 1952年 - [[長松純明]]、元プロ野球選手 * [[1953年]] - [[小嶋進]]、実業家、[[ヒューザー]]創業者 * 1953年 - [[江木俊夫]]、歌手、[[タレント]](元[[フォーリーブス]]) * 1953年 - [[渡辺三男]]、元サッカー選手 * 1953年 - [[リンダ・リングル]]、政治家 * 1953年 - [[ジミー・マカロック]]、[[音楽家|ミュージシャン]](+ [[1979年]]) * [[1954年]] - [[山路和弘]]<ref name="seinenza">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20200813213535/https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/%E5%B1%B1%E8%B7%AF%E5%92%8C%E5%BC%98/ |title=山路和弘 |publisher=[[NTTドコモ|NTT DOCOMO]] |accessdate=2 Aug 2023}}</ref>、[[俳優]]、[[声優]] * 1954年 - [[楠山俊介]]、政治家、歯科医師 * [[1957年]] - [[トニー・ペーニャ]]、元プロ野球選手 * [[1958年]] - [[降矢由美子]]、女優 * 1958年 - [[神谷学]]、政治家 * 1958年 - [[神田裕]]、政治家 * [[1959年]] - [[久我朋乃]]、女優 * [[1960年]] - [[野瀬豊]]、政治家 * [[1961年]] - [[山本剛士]]、[[アナウンサー]] * 1961年 - [[ジュルチャーニ・フェレンツ]]、政治家 * [[1962年]] - [[ゼノン・ヤスクワ]]、自転車選手 * 1962年 - [[リンゼイ・フロスト]]、女優 * [[1963年]] - [[樋口潮]]、[[テレビプロデューサー]] * 1963年 - [[佐佐木あつし]]、漫画家 * 1963年 - [[宮戸優光]]、元[[プロレスラー]] * 1963年 - [[ショーン・フィッツパトリック]]、[[ラグビーユニオン|ラグビー]]選手 * 1963年 - [[山名規雄]]、財務官僚 * [[1964年]] - [[アントニオ・パチェコ]]、元野球選手 * 1964年 - [[森健 (農林水産官僚)|森健]]、農林水産官僚 * [[1965年]] - [[新井薫子]]、元歌手、[[イラストレーター]] * 1965年 - [[マイケル・ドゥーハン]]、[[オートバイ競技|オートバイ]]レーサー * [[1966年]] - [[チェチーリア・バルトリ]]、[[メゾソプラノ]]歌手 * 1966年 - [[ウラジーミル・ヴォエヴォドスキー]]<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography/Vladimir-Voevodsky |title=Vladimir Voevodsky|Russian mathematician |access-date=2 Aug 2023 |publisher=Britannica}}</ref>、[[数学者]](+ [[2017年]]) * [[1967年]] - [[大久保勝也]]、元プロ野球選手 * 1967年 - [[中野裕斗]]、俳優、声優 * 1967年 - [[マリー・ンディアイ]]、[[小説家]]、[[劇作家]] * 1967年 - [[スコット・サーバイス]]、元プロ野球選手 * [[1968年]] - [[石田千]]、エッセイスト、小説家 * [[1969年]] - [[作山和英]]、元プロ野球選手 * 1969年 - [[ロベルト・ペレス (外野手)|ロベルト・ペレス]] 、元プロ野球選手 * [[1970年]] - [[中原昌也]]、ミュージシャン、[[作家]] * 1970年 - [[後藤隆之]]、元野球選手 * 1970年 - [[榊英雄]]、俳優、[[映画監督]] * [[1971年]] - [[SUEMITSU & THE SUEMITH]]、[[シンガーソングライター]] * 1971年 - [[ノア・ワイリー]]、俳優 * [[1972年]] - [[山田かがり]]、元[[バスケットボール選手一覧|バスケットボール選手]] * 1972年 - [[山本智美]]、歌手 * [[1973年]] - [[竹内朋康]]、[[ギタリスト]] * 1973年 - [[GWINKO]]、歌手 * 1973年 - [[平川大輔]]、声優 * 1973年 - [[石本豊]]、元プロ野球選手 * 1973年 - [[デビッド・ランドクィスト]]、プロ野球選手 * [[1974年]] - [[和泉元彌]]、狂言師 * 1974年 - [[ダリン・アースタッド]]、元プロ野球選手 * [[1975年]] - [[アンジェリーナ・ジョリー]]、女優 * 1975年 - [[岩本公水]]、[[演歌歌手]] * 1975年 - [[石川貴之]](dj TAKA)、[[ゲームクリエイター]] * [[1976年]] - [[中村英児]]、俳優、映画監督 * 1976年 - [[林昌勇]]、元プロ野球選手 * 1976年 - [[納見佳容]]、元女優、元[[プロレスラー]] * [[1977年]] - [[西又葵]]、[[イラストレーター]] * [[1978年]] - [[小林宏之 (野球)|小林宏之]]、元プロ野球選手 * 1978年 - [[竹部さゆり]]、[[将棋]][[棋士 (将棋)|棋士]] * 1978年 - [[グローバー (ミュージシャン)|グローバー義和]]、ミュージシャン([[Jackson vibe]]、[[SKA SKA CLUB]]) * [[1979年]] - [[高原直泰]]、[[サッカー選手]] * 1979年 - [[柳田真孝]]、[[自動車競技|レーシングドライバー]] * [[1980年]] - [[秋山純]]、元俳優 * 1980年 - [[旭堂南龍]]、[[講談師]] * [[1981年]] - [[クリストフ・スミヨン]]、[[騎手]] * 1981年 - [[シャンティ・スナイダー]](SHANTI)、歌手 * 1981年 - [[真山祐一]]、政治家 * [[1982年]] - [[アントン・スミルノフ]]、フィギュアスケート選手 * [[1983年]] - [[エマニュエル・エブエ]]、[[サッカー選手一覧|サッカー選手]] * 1983年 - [[オリガ・サラドゥハ]]、[[陸上競技選手一覧|陸上選手]] * 1983年 - [[神田伯山 (6代目)|神田伯山(6代目)]]、[[講談師]] * [[1984年]] - [[半田健人]]、俳優 * 1984年 - [[佐々木麻衣 (女優)|佐々木麻衣]]、女優 * 1984年 - [[伊藤博樹]]、[[芸人]] * 1984年 - [[楊丞琳|レイニー・ヤン]]、歌手 * 1984年 - [[平林輝良寛]]、元サッカー選手 * [[1985年]] - [[加藤幹典]]、元プロ野球選手 * 1985年 - [[富貴晴美]]、[[作曲家]] * 1985年 - [[鈴木拡樹]]、俳優 * 1985年 - [[エヴァン・ライサチェク]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1985年 - [[平野貴志]]、[[野球選手]] * 1985年 - [[ルーカス・ポドルスキ]]、元サッカー選手 * 1985年 - [[アンナ=レナ・グローネフェルト]]、[[テニス選手一覧 (女子)|テニス選手]] * 1985年 - [[アナ・カロリナ・レストン]]、[[ファッションモデル]](+ [[2006年]]) * 1985年 - [[バー・ラファエリ]]、ファッションモデル * 1985年 - [[浅利遼太]]、声優 * [[1986年]] - [[西山由樹]]、元バレーボール選手 * 1986年 - [[本橋大輔]]、声優 * [[1987年]] - [[SunMin]]、歌手 * 1987年 - [[田中秀和 (作曲家)|田中秀和]]、作曲家 * 1987年 - [[中村祐輝]]、元サッカー選手 * [[1988年]] - [[伊集院峰弘]]、元プロ野球選手 * 1988年 - [[永木亮太]]、サッカー選手 * [[1989年]] - [[高橋生]]、アナウンサー * 1989年 - [[ホセ・フローレス (投手)|ホセ・フローレス]]、プロ野球選手 * 1989年 - [[畢贛]]、映画監督 * [[1990年]] - [[吉澤嘉代子]]、シンガーソングライター * 1990年 - [[ファーストサマーウイカ]]、タレント、アイドル(元[[BILLIE IDLE|BILLIE IDOLⓇ]]) * 1990年 - [[Men's石橋]]、お笑い芸人 * 1990年 - [[阪野豊史]]、サッカー選手 * 1990年 - [[加藤リナ]]、元[[AV女優]] * 1990年 - [[ジェツン・ペマ・ワンチュク]]、[[ブータン王国]]王妃 * 1990年 - [[エステベンソン・エンカーナシオン]]、野球選手 * 1990年 - [[グレッグ・モンロー]]、バスケットボール選手 * [[1991年]] - [[嶺井博希]]、プロ野球選手 * 1991年 - [[ロレンツォ・インシーニェ]]、サッカー選手 * [[1992年]] - [[秋山太郎]]、お笑い芸人、YouTuber * [[1992年]] - [[安藤輪子]]、女優 * [[1993年]] - [[下地紫野]]、声優 * 1993年 - [[宇佐見真吾]]、プロ野球選手 * [[1994年]] - [[岸野里香]]、YouTuber、歌手(元[[NMB48]]、元[[Over The Top (バンド)|Over The Top]]) * 1994年 - [[小林千晃]]、声優 * [[1995年]] - [[玉井詩織]]、アイドル、歌手、タレント([[ももいろクローバーZ]]) * [[1996年]] - [[立田将太]]、元プロ野球選手 * [[1997年]] - [[里歩]]、プロレスラー * 1997年 - [[中西香菜]]、歌手、元アイドル(元[[アンジュルム]]) * 1997年 - [[木村穂乃]]、[[NHK]]アナウンサー * [[1998年]] - [[織田奈那]]、タレント、元アイドル(元[[欅坂46]]) * 1998年 - [[吉井裕鷹]]、バスケットボール選手 * 1998年 - [[ラッキー・ブルー・スミス]]、ファッションモデル * [[1999年]] - [[筒井梨香]]、サッカー選手 * [[2001年]] - [[久保建英]]、サッカー選手 * [[2005年]] - [[吉田恵芽]]、モデル、アイドル([[Shibu3 project]]) * [[2009年]] - [[中野遥斗]]、子役 * 生年不明 - [[吉田恵芽]]、モデル * 生年不明 - [[高橋功一郎]]、漫画家 * 生年不明 - [[きらら萌]]、漫画家 * 生年不明 - [[堂本裕貴]]、漫画家、イラストレーター * 生年不明 - [[有葉]]、漫画家、イラストレーター * 生年不明 - [[八島さらら]]、声優 * 生年不明 - [[後藤啓介 (声優)|後藤啓介]]、声優 * 生年不明 - [[辻坂茜]]、声優 == 忌日 == [[Image:Emperor_Shomu.jpg|thumb|301x301px|[[聖武天皇]](701-756)没]] [[Image:Momohatozu Huizong.JPG|thumb|197x197px|芸術家でもあった[[北宋]]の皇帝[[徽宗]](1082-1135)、連行先の[[金 (王朝)|金]]で没。画像は『桃鳩図』]] {{multiple image | footer = [[豊臣秀頼]](1593-1615)と[[淀殿]](1569?-1615)が自害。[[豊臣氏]]滅亡 | image1 = Hideyori Toyotomi.jpg | width1 = 90 | alt1 = 豊臣秀頼 | image2 = Yodo-dono cropped.jpg | width2 = 90 | alt2 = 淀殿 }} [[Image:Mausoleumwhilhelm.JPG|thumb|180x180px|ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]](1859-1941)没]] [[Image:Bundesarchiv Bild 146-1972-039-44, Heydrich-Attentat.jpg|thumb|180x180px|[[ナチス・ドイツ]]の[[国家保安本部]]長官、[[ラインハルト・ハイドリヒ]](1904-1942)暗殺]] [[Image:John Myun.jpg|thumb|211x211px|大韓民国国務総理[[張勉]](1899-1966)没]] === 人物 === * [[756年]]([[天平勝宝]]8年[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]) - [[聖武天皇]]、第45代[[天皇]](* [[701年]]) * [[1039年]] - [[コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート2世]]、[[神聖ローマ皇帝]](* [[990年]]?) * [[1094年]] - [[サンチョ1世 (アラゴン王)|サンチョ1世]]、[[アラゴン王国|アラゴン王]](* [[1042年]]頃) * [[1135年]]([[紹興 (宋)|紹興]]5年[[4月21日 (旧暦)|4月21日]]) - [[徽宗]]、[[北宋]]第8代皇帝(* [[1082年]]) * [[1571年]]([[元亀]]2年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]) - [[氏家直元]]、[[武将]](* [[1512年]]?) * [[1615年]]([[元和 (日本)|元和]]元年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[豊臣秀頼]]、武将(* [[1593年]]) * 1615年(元和元年5月8日) - [[淀殿]]、[[豊臣秀吉]]の側室(* [[1569年]]?) * 1615年(元和元年5月8日) - [[安井道頓]]、[[道頓堀]]の開鑿者(* [[1533年]]) * 1615年(元和元年5月8日) - [[氏家行広]]、武将(* [[1546年]]) * 1615年(元和元年5月8日) - [[大野治長]]、武将(* [[1569年]]) * 1615年(元和元年5月8日) - [[毛利勝永]]、武将(* [[1577年]]) * 1615年(元和元年5月8日) - [[真田幸昌]]、武将(* [[1601年]]) * [[1661年]]([[寛文]]元年5月8日) - [[五郎八姫]]、[[松平忠輝]]の正室、[[伊達政宗]]の娘(* [[1594年]]) * [[1680年]]([[延宝]]8年5月8日) - [[徳川家綱]]、[[江戸幕府]]第4代[[征夷大将軍|将軍]](* [[1641年]]) * [[1689年]]([[元禄]]2年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]) - [[毛利綱広]]、第3代[[長州藩|長州藩主]](* [[1639年]]) * [[1746年]]([[貞享]]3年[[4月16日 (旧暦)|4月16日]]) - [[松平乗邑]]、江戸幕府[[老中]]、[[佐倉藩|佐倉藩主]](* [[1686年]]) * [[1792年]] - [[ヤーコプ・ミヒャエル・ラインホルト・レンツ]]、[[詩人]]、[[劇作家]](* [[1751年]]) * [[1798年]] - [[ジャコモ・カサノヴァ]]、術策家、作家(* [[1725年]]) * [[1830年]] - [[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]、[[ボリビア]]独立の父(* [[1795年]]) * [[1887年]] - [[ウィリアム・A・ウィーラー]]、第19代[[アメリカ合衆国副大統領]](* [[1819年]]) * [[1894年]] - [[ヴィルヘルム・ロッシャー]]、[[経済学者]](* [[1817年]]) * [[1907年]] - [[アガーテ・バッケル=グロンダール]]、[[作曲家]](* [[1847年]]) * [[1909年]] - [[吉川経健]]、[[岩国藩|岩国藩主]](* [[1855年]]) * [[1918年]] - [[チャールズ・W・フェアバンクス]]、第26代アメリカ合衆国副大統領(* [[1852年]]) * [[1919年]] - [[徳大寺実則]]、[[公卿]]、[[内大臣府|内大臣]]、[[侍従長]](* [[1840年]]) * [[1928年]] - [[張作霖]]、軍人、政治家(* [[1875年]]) * [[1929年]] - [[ハリー・フレイジー]]、[[メジャーリーグ]]球団オーナー(* [[1880年]]) * [[1938年]] - [[廣池千九郎]]、[[法学者]] 、[[歴史学者]]、道徳教育者(* [[1866年]]) * [[1941年]] - [[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]、[[ドイツ帝国|ドイツ]]皇帝(* [[1859年]]) * [[1942年]] - [[ラインハルト・ハイドリヒ]]、[[ナチス・ドイツ]][[親衛隊大将]](* [[1904年]]) * [[1946年]] - [[松井慶四郎]]、第39代[[外務大臣 (日本)|外務大臣]](* [[1868年]]) * [[1951年]] - [[セルゲイ・クーセヴィツキー]]、[[指揮者]](* [[1874年]]) * [[1954年]] - [[山崎朝雲]]、[[彫刻家]](* [[1867年]]) * [[1959年]] - [[土方与志]]、[[演出家]](* [[1898年]]) * 1959年 - [[チャールズ・ヴィダー]]、[[映画監督]](* [[1900年]]) * [[1962年]] - [[前田多門]]、第63代[[文部大臣]](* [[1884年]]) * [[1964年]] - [[サムイル・マルシャーク]]、詩人、[[児童文学]]作家、[[翻訳家]](* [[1887年]]) * [[1966年]] - [[市川團蔵 (8代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1882年]]) * 1966年 - [[張勉]]、[[第二共和国 (大韓民国)|大韓民国第二共和国]][[国務総理 (大韓民国)|国務総理]](* [[1899年]]) * [[1968年]] - [[大橋八郎]]、第4代[[日本放送協会|NHK]]会長、第2代[[日本電信電話公社]]総裁(* [[1885年]]) * 1968年 - [[保篠龍緒]]、[[翻訳家]](* [[1892年]]) * 1968年 - [[ドロシー・ギッシュ]]、[[俳優|女優]](* [[1898年]]) * 1968年 - [[アレクサンドル・コジェーヴ]]、[[哲学|哲学者]](* [[1902年]]) * [[1969年]] - [[ラファエル・オスナ]]、[[テニス]]選手(* [[1938年]]) * [[1971年]] - [[ルカーチ・ジェルジ]]、哲学者(* [[1885年]]) * [[1982年]] - [[黒田辰秋]]、[[漆工|漆芸家]](* [[1904年]]) * [[1994年]] - [[ジャン・デトワイラー]]、作曲家(* [[1907年]]) * 1994年 - [[斉藤丑松]]、作曲家(* [[1912年]]) * [[1997年]] - [[ロニー・レーン]]、[[ミュージシャン]](* [[1946年]]) * [[2001年]] - [[ディペンドラ・ビール・ビクラム・シャハ|ディペンドラ]]、[[ネパール]]皇太子・国王(* [[1972年]]) * [[2002年]] - [[ピョートル・イワシュチン]]、[[ロシア連邦軍参謀本部情報総局|ソ連軍参謀本部情報総局長]](* [[1909年]]) * [[2005年]] - [[印順]]、[[僧]]、[[仏教学者]](* [[1906年]]) * [[2007年]] - [[クリート・ボイヤー]]、元[[プロ野球選手]](* [[1937年]]) * [[2008年]] - [[斎藤守慶]]、[[毎日放送]]最高顧問・代表取締役社長・会長(* [[1928年]]) * 2008年 - [[アガタ・ムロズ]]、[[バレーボール]]選手(* [[1982年]]) * [[2011年]] - [[リリアン・J・ブラウン]]、[[推理作家]](* [[1913年]]) * [[2012年]] - [[ジョニー吉長]]、[[ドラマー]](* [[1949年]]) * [[2013年]] - [[長門勇]]、俳優(* [[1932年]]) * [[2014年]] - [[ドン・ジマー]]、元プロ野球選手(* [[1931年]]) * 2014年 - [[林隆三]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/06/10/kiji/K20140610008336130.html |title=林隆三さん急死 先月28日、熱唱ライブ直後に突然倒れる |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=10 Jun 2014 |accessdate=2 Aug 2023 |website=Sponichi Annex}}</ref>、俳優(* [[1943年]]) * [[2015年]] - [[ヘルマン・ツァップ]]<ref>{{cite web |url=http://typedrawers.com/discussion/987/hermann-zapf-8-november-1918-4-june-2015 |title=Hermann Zapf, a designer whose letters are sprinkled all over, dies at 96 |publisher=Tampa Bay Times |accessdate=2 Aug 2023 |date=June 14, 2015}}</ref>、[[書体デザイナー]](* [[1918年]]) * [[2022年]] - [[石井一]]<ref>{{Cite web|和書|title=石井一・元自治相が死去 87歳 元民主党副代表、政権交代に貢献 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202206/0015364470.shtml |website=[[神戸新聞]]NEXT |date=6 Jun 2022 |access-date=2 Aug 2023}}</ref>、政治家、元衆議院議員、参議院議員(* [[1934年]]) === 人物以外(動物など) === * [[1995年]] - [[ライスシャワー]]、[[競走馬]](* [[1989年]]) == 記念日・年中行事 == [[Image:Kailao.jpg|thumb|180x180px|[[トンガ]]の独立記念日。画像は伝統舞踊{{仮リンク|カイラオ|en|Kailao}}]] {{multiple image | direction = vertical | footer = [[歯と口の健康週間]] | image1 = Tooth model.jpg | width1 = 180 | alt1 = 歯のモデル | image2 = Mouth.jpg | width2 = 180 | alt2 = 閉じた口 }} * {{仮リンク|侵略による罪のない幼児犠牲者の国際デー|en|International Day of Innocent Children Victims of Aggression}}({{World}}) *: [[国際デー]]の一つ。 * 解放記念日({{TON}}) *: [[1970年]]のこの日、トンガが[[イギリス]]から独立したことを記念。 * [[国旗の日]]({{EST}}) *: [[1884年]]のこの日、最初の[[エストニアの国旗]]が制定されたことを記念。 * 国民連帯の日({{HUN}}) *: [[1920年]]のこの日、ハンガリーが連合国とトリアノン条約を結び講和する。 * 伝教大師忌({{JPN}}) *: 日本[[天台宗]]の開祖[[最澄]](伝教大師)は、弘仁13年6月4日([[822年]][[6月26日]])[[延暦寺|比叡山]]の中道院において、56歳で遷化された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tendai.or.jp/daihoue/saicyo/dengyo_01.html |title=伝教大師 最澄 -伝教大師のご生涯- |access-date=2 Aug 2023 |publisher=天台宗 祖師先徳鑽仰大法会事務局}}</ref>。この日、日本全国の天台宗の寺院では、山家会という法会が行われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tendai.or.jp/nenjyuu/#:~:text=%E5%B1%B1%E5%AE%B6%E4%BC%9A%EF%BC%88%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%92%E3%81%88%EF%BC%89 |title=年中行事・歳時記 山家会 |access-date=2 Aug 2023 |publisher=一隅を照らす 天台宗}}</ref>。 * ショートフィルムの日({{JPN}}) *: [[1999年]]、短編映画祭「アメリカン・ショートショート フィルムフェスティバル」が日本で初めて開催されたのを記念してショートショート実行委員会が制定。創設者は[[別所哲也]]。 * [[虫歯]]予防デー({{JPN}}、[[1928年]] - [[1938年]]) *: [[日本歯科医師会]]が実施していた記念日。6月4日の「64」が「むし」と読めることから。 * [[歯と口の健康週間]]({{JPN}}) [[6月10日]]まで *: [[昭和3年]]に「むし歯予防デー」として実施され、[[昭和33年]]から「歯の衛生週間」の名称で実施されていたが、歯のみでなく口腔及びその周囲等の健康を増進していくことを目的に、[[2013年]]に「歯と口の健康週間」に名称変更された。[[厚生労働省]]、[[文部科学省]]、[[日本歯科医師会]]、日本学校歯科医会が実施している。 * [[虫]]の日({{JPN}}) *: [[1988年]]に漫画家の[[手塚治虫]]が初代会長をつとめた日本昆虫倶楽部が「ムシの日」を制定。同日、「カブトムシ自然王国」を宣言している[[福島県]][[常葉町]](現:[[田村市]]常葉町)の常葉町振興公社(現:田村市常葉振興公社)が「ムシの日」制定した。 *: また、[[2018年]]には解剖学者の[[養老孟司]]によって「虫の日」が制定される。[[2015年]]養老孟司の発案により、[[鎌倉]]の[[建長寺]]に、建築家の[[隈研吾]]がデザインした虫のための慰霊碑「虫塚」が建立された<ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/73011|title=6月 4日 むしの日(ムシの日、虫の日)|work=ブルーバックス編集部|publisher=[[講談社]]|accessdate=2020-08-18}}</ref>。 * ムシキングの日({{JPN}}) *: [[株式会社セガ]]・インタラクティブ ムシキングチームが制定。「[[新甲虫王者ムシキング]]」の面白さとゲーム性を多くの人に知ってもらうのが目的。日付は「ム(6)シ(4)キング」と読む語呂合わせから。 * 水虫治療の日({{JPN}}) *: [[兵庫県]][[尼崎市]]の大源製薬株式会社が制定。水虫は完治する病気のため、早期治療の大切さと、あきらめずに治療に取り込むことを知ってもらうのが目的。日付は水虫の「む(6)し(4)」と読む語呂合わせから。 * ねずみ・衛生害虫駆除推進月間(ムシナシ月間)({{JPN}}) [[7月4日]]まで *: 「日本ペストコントロール協会」が主催。「む(6)し(4)な(7)し(4)」の語呂合せによる。 * [[土地改良]]制度記念日({{JPN}}) *: [[1949年]]6月4日に[[土地改良法]]が制定されたことを記念。 * [[蒸しパン]]の日({{JPN}}) *: [[北海道]][[札幌市]]の日糧製パン株式会社が制定。日付は6と4で蒸しパンの「蒸し」と読む語呂合わせから。 * [[ローメン]]の日({{JPN}}) *: [[長野県]][[伊那市]]の伊那商工会議所が制定。ローメンは羊の肉と蒸した固めの中華麺を、独特のスープでキャベツ、キクラゲなどと煮込んだもの。ローメンは蒸した麺を使うところから6と4で「蒸し」の語呂合せ。 * 蒸し豆の日({{JPN}}) *: [[兵庫県]][[神戸市]]灘区に本社を置く株式会社マルヤナギ小倉屋が制定。素材そのものの風味や香り、旨みや栄養価を逃がさない蒸し豆の良さを、多くの人に知ってもらうのが目的。日付は6と4で「蒸し」と読む語呂合わせから。 * 杖立温泉・蒸し湯の日({{JPN}}) *: [[熊本県]]観光課が制定。熊本県阿蘇郡小国町の杖立温泉の名物「蒸し湯」の魅力を、さらに多くの人に知ってもらうことが目的。日付は「蒸し湯」の「蒸(6)し(4)」と読む語呂合わせから。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0604|date=Aug 2023}} * 1942年 - [[横須賀基地 (海上自衛隊)|横須賀基地]]から出向した[[海上自衛隊]]のイージス護衛艦「みらい」が200X年より出現。歴史上ではミッドウェー海戦で戦死するはずだった海軍軍人、草加拓海を救助する。([[漫画]]『[[ジパング (漫画)|ジパング]]』) * 1959年 - [[ジェームズ・ボンド]]が[[M (架空の人物)|M]]より[[バハマ]]派遣の特命を受ける。(小説『[[007 サンダーボール作戦#出版|サンダーボール作戦]]』第8章<ref group="注">第7章で[[スペクター]][[:en:SPECTRE|(英語版)]]からの脅迫状が届いた日の翌日</ref>) * [[2035年]](推定) - 長野県立木崎高等学校に風見みずほが新任教師としてやってくる。同じ日の夜、みずほが乗っていた[[宇宙船]]が暴走していった。(信州UFO事件)([[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]『[[おねがい☆ティーチャー]]』) * [[2090年]] - USN軍によるフリーダム侵攻作戦。(ゲーム『[[フロントミッションシリーズ]]』) === 誕生日(フィクション) === * 生年不明 - [[武藤遊戯]]、漫画・アニメ『[[遊☆戯☆王]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://yu-gi-oh.jp/news_detail.php?page=details&&id=2#:~:text=6%E6%9C%884%E6%97%A5%E3%81%AF,640%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%A0%E3%82%92%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%88%E4%B8%AD%E3%80%82 |title=武藤遊戯のアクセサリープレゼント! |access-date=2 Aug 2023 |publisher=スタジオ・ダイス/[[集英社]]・[[テレビ東京]]・[[KONAMI]] |date=4 Jun 2017}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=高橋和希|title=遊☆戯☆王キャラクターズガイドブック 千年の書|publisher=集英社|series=Vジャンプブックス|year=2015|page=36|isbn=978-4-08-779722-0}}</ref> * 生年不明 - [[八神はやて]]、アニメ・ゲーム『[[魔法少女リリカルなのはシリーズ]]』 に登場する主人公のひとり<ref>{{Cite web|和書|url=https://cs62.cs-plaza.com/g/pachi/ads/b_calendar/detail.php?day=0604001 |title=八神はやて |access-date=2 Aug 2023 |publisher=パチマガスロマガ}}</ref> * 生年不明 - 若月ルリ子、漫画・アニメ『[[タイガーマスク]] 』のヒロイン<ref>梶原一騎/辻なおき『タイガーマスク』(東映、読売テレビ) 第88話「炎の死刑台」。主人公タイガーマスクを付け狙うミスターXのシステム手帳に、この旨の記載がある。</ref> * 生年不明 - 宮浜仁佳、『[[温泉むすめ]] 』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/miyahama_hitoka |title=広島 宮浜仁佳 |access-date=2 Aug 2023 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT}}</ref> * 生年不明 - クロッカス、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Crocus.html |title=クロッカス |work=『ONE PIECE』 |accessdate=2 Aug 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref> * 生年不明 - エポイダ、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Epoida.html|title=エポイダ|work=『ONE PIECE』 |accessdate=2 Aug 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref> * 生年不明 - 柳蓮二、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1532740149351698432}}</ref> * 生年不明 - 影浦雅人、漫画・アニメ『[[ワールドトリガー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|W_Trigger_off|1665011708711305217}}</ref> * 生年不明 - センチピーダー、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=センチピーダー |url=https://heroaca.com/character/chara_group05/05-24/ |accessdate=2 Aug 2023 |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |work=『僕のヒーローアカデミア』}}</ref> * 生年不明 - 宝生蝮、漫画・アニメ『[[青の祓魔師]]』に登場するキャラクター<ref name=":0">{{Twitter status|aoex_official|1400467490275086336}}</ref> * 生年不明 - 宝生錦、漫画・アニメ『青の祓魔師』に登場するキャラクター<ref name=":0" /> * 生年不明 - 宝生青、漫画・アニメ『青の祓魔師』に登場するキャラクター<ref name=":0" /> * 生年不明 - 古賀公貴、漫画・アニメ『[[弱虫ペダル]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|yowapeda_anime|1265163413254057984}}</ref> * 生年不明 - 大神和臣、漫画・アニメ『[[ReLIFE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://relife-anime.com/news/?id=38636 |title=本日限定、大神バースデー企画!誕生日イラスト&Twitterアイコンをプレゼント! |access-date=2 Aug 2023 |publisher=[[夜宵草]]/[[comico]]/リライフ研究所 |date=4 Jun 2016 |work=『ReLIFE』}}</ref> * 生年不明 - 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ピエール=オーギュスト・ルノワール
ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir 発音例、1841年2月25日 - 1919年12月3日)は、フランスの印象派の画家。後期から作風に変化が現れ始めたため、ポスト印象派の画家の一人として挙げられることもある。 ルノワールは、1841年、フランス中南部のリモージュで貧しい仕立屋の息子として生まれ、1844年(3歳)、一家でパリに移り住んだ。聖歌隊に入り、美声を評価されていた。1854年(13歳)、磁器の絵付職人の見習いとなったが、1858年(17歳)、失業した。その後は扇子の装飾など職人としての仕事を手がけていた(→出生、職人時代)。 1861年(20歳)、画家になることを決意してシャルル・グレールの画塾に入り、ここでモネ、シスレー、バジールら画家仲間と知り合った。フォンテーヌブローの森で一緒に写生もしている(→画塾時代(1860年代初頭))。1864年(23歳)、サロン・ド・パリに初入選し、以後度々入選している。経済的に苦しい中、親友バジールのアトリエを共同で使わせてもらった時期もあった。1869年(28歳)、ルーヴシエンヌの両親の家に滞在している時、モネとともに行楽地ラ・グルヌイエールでキャンバスを並べ、印象派の特徴の一つである筆触分割の手法を生み出していった(→サロンへの挑戦(1863年 - 1870年))。1870年(29歳)、普仏戦争が勃発し、騎兵隊に従軍したが、1871年(30歳)、パリ・コミューンの動乱に揺れるパリに戻った。スパイと間違われ、一時逮捕される出来事もあった(→普仏戦争(1870年 - 1871年))。 パリ・コミューン終息後のサロンは保守性を増し、ルノワールや仲間の画家たちは落選が続いた。こうしたこともあって、モネやピサロとともに、共同出資会社を設立し、1874年(33歳)、サロンから独立したグループ展を開催した。後に「第1回印象派展」と呼ばれる展覧会である。写実性と丁寧な仕上げを重視するアカデミズム絵画が規範であった当時、新しい表現を志したグループ展は、世間から酷評にさらされ、経済的にも成功しなかった(→第1回印象派展まで(1871年 - 1874年))。1876年(35歳)には第2回展に参加、1877年(36歳)には第3回展に参加して大作『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』を出したが、これらも厳しい評価を受けた。その一方で、ヴィクトール・ショケ、ジョルジュ・シャルパンティエといった愛好家も獲得していき、特にシャルパンティエ夫妻はルノワールの重要なパトロンとなった(→第2回・第3回印象派展(1875年 - 1877年))。 1878年(37歳)、経済的見通しを重視してサロンに再応募し、入選した。その後サロンへの応募・入選を繰り返し、一方で第4回から第6回までの印象派展からは離脱した。私生活では、1879年(38歳)頃、未来の妻となるアリーヌと知り合い、交際を始めた(→サロンへの復帰(1878年 - 1880年))。この頃、形態が曖昧になりがちな印象派の技法に限界を感じていたところ、1881年(40歳)の時にアルジェリア、次いでイタリアに旅し、特にローマでラファエロの作品に触れて大きな感銘を受けた。画商ポール・デュラン=リュエルの奔走を受けて1882年(41歳)の第7回印象派展に『舟遊びをする人々の昼食』などを出すが、この頃から明確な輪郭線が現れ始め、古典主義への関心が強まっている(→アルジェリア旅行・イタリア旅行(1880年代初頭))。そして、1883年(42歳)頃から1888年(47歳)頃にかけて、デッサン重視で冷たい「アングル風」の時代が訪れ、その集大成として『大水浴図』を制作した(→古典主義への回帰(1880年代半ば - 後半))。 1890年代以降は、「アングル風」を脱し、温かい色調の女性裸体画を数多く制作している。評価も定まり、『ピアノに寄る少女たち』が政府買上げになったり、勲章を授与されたりしている。私生活では、アリーヌと正式に結婚し、子にも恵まれた(→評価の確立(1890年代))。関節リウマチの療養のためもあって、南仏で過ごすことが多くなり、1900年代から晩年までは、カーニュ=シュル=メールで過ごし、リウマチと戦いながら最後まで制作を続けた(→南仏カーニュ(1903年 - 1919年))。 ルノワールは、1841年、フランス中南部の磁器の町リモージュで生まれた。7人兄弟の6番目であったが、上の2人は早世し、他に兄2人、姉1人、弟1人がいた。父レオナールは仕立屋、母マルグリットはお針子であった。後の印象派の画家たちがブルジョワ階級出身だったのに対し、ルノワールは1人労働者階級出身であった。 1844年、一家でパリに移住した。ルーヴル美術館の近くで、当時は貧しい人が暮らす下町であった。幼い頃から絵への興味を示していたが、美声でもあったルノワールは、1850年頃(9歳前後)、作曲家のシャルル・グノーが率いるサン・トゥスタッシュ教会(英語版)の聖歌隊に入り、グノーから声楽を学んだ。ルノワールの歌手としての才能を高く評価したグノーは、ルノワールの両親にルノワールをオペラ座の合唱団に入れることを提案したが、父親の知人からルノワールを磁器工場の徒弟として雇いたいという申出があったことから、グノーの提案を断り、聖歌隊も辞めた。 1854年、磁器工場に入り、磁器の絵付職人の見習いとなるが、産業革命や機械化の影響は伝統的な磁器絵付けの世界にも影響し、1858年に職人としての仕事を失うこととなった。ルノワールは、後に次のように回想している。 ルノワールは、次に扇子の装飾を仕事にし、アントワーヌ・ヴァトーやフランソワ・ブーシェの有名な名作を複製した扇子を繰り返し描いた。この時、ルノワールは、ブーシェやジャン・オノレ・フラゴナールといった18世紀のロココ絵画に興味を持つようになったようである。その後、メダル制作の紋章描き、窓の日除けの装飾、カフェの壁の装飾など、職人としての仕事を次々手がけた。仕事の合間に無料のデッサン学校に通い、1860年には、ルーヴル美術館で模写する許可を得た。特に、色彩派と言われるルーベンス、ブーシェ、フラゴナールを好んだ。 ルノワールは、画家になることを決意し、1861年11月、シャルル・グレールのアトリエ(画塾)に入った。ここでクロード・モネ、アルフレッド・シスレー、フレデリック・バジールら、後の印象派の画家たちと知り合った。また、近くにアトリエを持っていたアンリ・ファンタン=ラトゥールとも知り合った。グレール自身は、保守的なアカデミズムの画家であったが、生徒たちに、安い費用で、モデルを使って自由に描くことを許していたので、様々な傾向の画学生が集まっていた。ルノワールは、後に、グレールは「弟子にとって何の助けにもなってくれなかった」が、「弟子たちに思うようにさせる」という長所はあったと振り返っている。グレールが、画塾で制作中のルノワールの色遣いを見て、「君、絵具を引っかき回すのが、楽しいんだろうね。」と言うと、ルノワールが「もちろんです。楽しくなければやりません。」と応えたというエピソードが知られている。グレールの保守的な指導に飽き足らない点で、モネやルノワールは共感を深めていった。もっとも、ルーヴル美術館を毛嫌いするモネと異なり、ルノワールは、友人アンリ・ファンタン=ラトゥールとともにルーヴルに行き、18世紀フランスの画家たちを好んで研究した。 また、1862年4月にはエコール・デ・ボザール(官立美術学校)にも入学し、古典的なデッサン教育も並行して受けた。ここでは、夜間のデッサンと解剖学の授業に出席していたが、油彩画の習作をクラスに持って行ったところ、教師シニョルから、赤い色の使い方について批判され、「もう1人のドラクロワになったりしないよう気を付けることだ!」と警告されたという。当時、豊かな色彩を用いるドラクロワは、デッサンを重視する新古典主義が支配するアカデミーから排撃されていた。エコール・デ・ボザールで行われた1863年の構図の試験では、受験者12人中9番、1864年の彫刻とデッサンの試験では、106人中10番という成績を残している。 1863年には、バジール、モネ、シスレーとともにシャイイ=アン=ビエールに行き、フォンテーヌブローの森で写生している。ルノワールが戸外で制作していると、義足の男が現れ、「デッサンは悪くないが、一体どうしてこんなに黒く塗りつぶしてしまうんだね」と評したという。この男は、バルビゾン派の画家ナルシス・ヴィルジル・ディアズ・ド・ラ・ペーニャであり、その後、ディアズは、経済的に苦しいルノワールのために画材代の支援や助言をするようになり、ルノワールもディアズを尊敬するようになった。この年、グレールは、健康上・財政上の理由で画塾を閉鎖することとなった。 1863年のサロン・ド・パリに初めて応募したが、落選した。1864年のサロンに「グレールの弟子」として『エスメラルダ』を応募して、入選した。しかし、この作品は、ルノワール自身がサロン終了後に塗りつぶしてしまい、現在は残っていない。ヴィクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』を題材とした、ロマン派的主題の暗い絵であったという。 1864年、磁器の製造業者から、初めて9歳の娘の肖像画の依頼を受け、『ロメーヌ・ラコー嬢』を制作した。ベラスケス、アングル、コロー、エドガー・ドガの影響も感じられる作品となっている。 1865年、シスレーとともに、フォンテーヌブローの森近くのマルロット(英語版)に滞在した。ルノワールは、マルロットで画家ジュール・ル・クールと知り合い、滞在中は世話になるようになった。ル・クールは、クレマンス・トレオという女性と交際を始めたが、ルノワールは、クレマンスの妹である17歳のリーズ・トレオ(英語版)と知り合い、交際するようになった。その後、度々彼女をモデルに絵を描いている。1865年のサロンには、シスレーの父親を描いた肖像画を含む2点が入選した。シスレーが、経済的に苦しいルノワールを助けるため、肖像画を依頼して買い取ったものであった。この時も、ルノワールは「グレールの弟子」として出品している。 1866年にもシスレーとともにマルロットを再訪し、『アントニーおばさんの宿屋』を制作した。 1866年のサロンには、『フォンテーヌブローの森のジュール・ル・クール』を応募した。この年、サロンの審査委員にジャン=バティスト・カミーユ・コローやシャルル=フランソワ・ドービニーが入ったため、ルノワールや仲間の画家の多くが入選した。この時期、ルノワールは、クールベにならってパレットナイフを使った作品から、アカデミックな構想の作品まで、両極端の様々な様式を実験しており、フォンテーヌブローの森などで制作した。 バジールは、1866年7月、ヴィスコンティ通り(フランス語版)にアトリエを移し、ルノワールも共同で使用した。シスレーやモネもここをよく訪れた。南仏の裕福な家庭に育ったバジールは、ルノワールやモネら仲間の画家を経済的に助け、時にアトリエで生活を共にした。1867年、バジールとシスレーが同じあおさぎの静物を違う角度から描き、その制作中のバジールをルノワールが絵画に残している。バジールも、ルノワールの肖像を描いている。マネはルノワールによるバジールの肖像を賞賛し、ルノワールはこの絵をマネに贈った。 1867年のサロンは、前年から一転して審査が厳しくなり、ルノワールや仲間の画家の多くは落選した。ルノワールの『狩りをするディアナ』は、サロン向けの主題であったが、クールベの影響を受けた、モデルを理想化しない肉付きの良すぎる描写が不評であったとも考えられる。この作品のモデルもリーズ・トレオである。この年、ルノワールは、『シャン=ゼリゼの眺め』、『ポンデザール(芸術橋)』など、パリの都市風景画を制作している。夏の間は、シャイイで制作し、シスレーも合流した。戸外で『日傘のリーズ』を制作した。 ルノワールは、1868年、バジールがバティニョール地区(英語版)のラ・ペ通り(1869年12月にラ・コンダミンヌ通り(フランス語版)に改称)に借りたアトリエに一緒に移った。ラ・コンダミンヌ通りのアトリエは、エドゥアール・マネが通うカフェ・ゲルボワからすく近くの場所であった。後の印象派の画家たちは、カフェ・ゲルボワに集まり、「バティニョール派」と呼ばれていた。1868年のサロンには、『日傘のリーズ』が入選した。 1869年のサロンには、『夏・習作』が入選した。この年の夏には、ルーヴシエンヌに引っ越していた両親の家に滞在していたが、モネも近くのブージヴァルに滞在していた。モネは、金も絵具もない絶望的な状況に陥っていたが、ルノワールは、度々モネの家を訪れ、家からパンを持っていってやったりした。ルノワールは、モネとともに、パリ郊外の行楽地ラ・グルヌイエールでキャンバスを並べ、それぞれ作品を制作した。2人は、この頃を機に、パレット上で絵具を混ぜず、絵具を小さな筆触で画面上に置く筆触分割の手法を編み出しており、印象派の誕生を告げる出来事と言われる。 1870年のサロンには、リーズをモデルとした『浴女とグリフォンテリア』が入選した。女性のポーズは古代ギリシャのアフロディテに似ているが、クールベの写実主義の影響も指摘される。もう1点入選した『アルジェの女』は、ドラクロワの『アルジェの女たち』へのオマージュで、アルジェの女に扮したパリの女を描いたものであった。これまでバティニョール派への評価を避けてきた批評家アルセーヌ・ウーセイ(英語版)も、『ラルティスト』誌にモネとルノワールを擁護する評論を発表し、「ルノワール氏を入選させたのは良い判断である。堂々たる色彩を扱う気質が、ドラクロワが描いたかのような『アルジェの女』に、素晴らしく表れている。」と書いている。 1870年7月、普仏戦争が勃発すると、ルノワールは第10騎兵部隊に配属されたが、1871年3月、動員が解除された。赤痢にかかり、生命まで危ぶまれたが、おじがボルドーに引き取ってくれ、回復したようである。ルノワールがパリに戻ると、パリ・コミューンによる動乱の真っ只中であった。ルノワールは、セーヌ河岸で制作していたところ、パリ・コミューンの兵士から、第三共和政政府のスパイと勘違いされて逮捕された。連行される途中、知り合いだったパリ警視総監ラウル・リゴー(フランス語版)が通りがかって身元が判明し、釈放された。その上、リゴーに通行許可証を出してもらい、パリ・コミューンの動乱期に防衛線を越えてルーヴシエンヌの両親の家と行き来することができた。フランスに残っていたシスレーと、ルーヴシエンヌやマルリーで一緒に制作した。「血の1週間」の最中の5月23日夜、コミューン政府はセーヌ河岸の建物に火を放ったが、ルノワールは、ルーヴシエンヌの水道橋から、炎上するパリ市街を暗澹たる思いで見ていた。 普仏戦争では、友人バジールが戦死した。また、モネやピサロはロンドンに渡って画商ポール・デュラン=リュエルと知り合うなど、バティニョール派の画家たちにとっては一つの転機が訪れた。 第三共和政になってからのサロンは、保守性を増した。ルノワールは、1872年のサロンに『騎兵』と『アルジェリア風のパリの女たち』を応募したが、落選した。1873年のサロンには『ブーローニュの森の朝の乗馬』と『肖像画』を応募したが、これも落選し、この年5月から開かれた落選展に『ブーローニュの森の朝の乗馬』を出品した。この作品には好意的な批評と批判的な批評が出たが、エドガー・ドガの友人アンリ・ルアールが購入してくれた。また、ドガが、批評家テオドール・デュレに『日傘のリーズ』を勧めてくれ、デュレが1200フランで購入してくれた。 モネやピサロを介してバティニョール派の画家たちを知るようになったデュラン=リュエルも、彼らの作品を購入するようになった。1872年3月には、ルノワールとも会った。しかし、この頃は、他のバティニョール派のメンバーと比べ、ルノワールにはそれほど注目しておらず、1872年の購入額は500フラン、1873年の購入額は100フランにとどまっている。 なお、以前ルノワールが交際していたリーズ・トレオは、1872年4月、若い建築家と結婚した。ルノワールは、お祝いに彼女の肖像画を贈ったが、その後会うことはなかったようである。 少しずつ愛好家が増えてきたことで、1873年秋、パリ9区のサン=ジョルジュ通り(フランス語版)に広いアトリエ兼住居を借りることができた。すぐ近くにはドガのアトリエもあった。サン=ジョルジュ通りには、ジャーナリスト志望だった弟のエドモン・ルノワールが同居し、財務省官吏ジョルジュ・リヴィエール、音楽家カバネル、画家志望のフレデリック・コルデー(フランス語版)、フラン=ラミ、ロートなど、ルノワールの友人たちもここを訪れた。ルノワールがポンヌフを通る群衆を描いた時、弟エドモンは、通行人に声をかけて足止めさせ、兄が通行人のスケッチをしやすいようにした。 また、モネは、1871年からアルジャントゥイユにアトリエを構えたが、ルノワールは、1873年から1875年にかけて、モネのもとを度々訪問し、一緒に制作して風景画の傑作を生み出した。ルノワールは、戸外制作をするモネの姿も描いている。この時期、モネ、ルノワール、シスレーらは、アルジャントゥイユで共に制作する中で、筆触分割を用いて自然の一瞬の姿をキャンバスに写し取るための統一した様式を生み出した。 この頃、モネやピサロを中心に、サロンから独立したグループ展の構想が具体化しつつあった。ルノワールも、規約について意見を述べている。1874年1月17日、「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社(フランス語版)」の規約が発表された。審査も報奨もない自由な展覧会を組織することなどを目標として掲げ、その設立日は1873年12月27日とされている。 そして、サロン開幕の2週間前である同年4月15日に始まり、5月15日までの1か月間、パリ・キャピュシーヌ大通り(英語版)の写真家ナダールの写真館で、この共同出資会社の第1回展が開催された。後に「第1回印象派展」と呼ばれる歴史的展覧会であり、画家30人が参加し、展示作品は合計165点ほどであった。展覧会カタログは、弟エドモンが制作した。展覧会の構成は、主にルノワールが取り仕切った。 ルノワールは、7点を出品し、『踊り子』、『桟敷席』、『パリジェンヌ(青衣の女)』など風俗画5点、風景画1点、静物画1点であった。 しかし、第1回展は、世間から厳しい酷評にさらされた。第1回展の開会後間もない4月25日、『ル・シャリヴァリ(英語版)』紙上で、評論家ルイ・ルロワが、この展覧会を訪れた人物が余りにひどい作品に驚きあきれる、というルポルタージュ風の批評「印象派の展覧会」を発表した。その中で、ルノワールの『踊り子』について、作者を「ギヨマン」と誤記しているが、人物が背景に溶け込むような不明瞭な輪郭を批判している。この文章がきっかけで、「印象主義」「印象派」という呼び名が世に知られるようになり、次第にこのグループの名称として定着し、画家たち自身によっても使われるようになった。 1874年の第1回印象派展終了後、モネ、ルノワール、マネ、シスレー、カイユボットは、アルジャントゥイユに集まり、共に制作した。モネとルノワールは、同じ構図・モチーフで『アルジャントゥイユの帆船』を制作しているが、モネが現実から抽出した要素をパターン化して表現しているのに対し、ルノワールは現実の情景をより忠実に描いており、また、人物が強調されており、2人の個性の違いを示している。モネの回想によれば、1874年、マネとルノワールが、アルジャントゥイユのモネの家で、モネの妻カミーユと息子ジャンを一緒に描いたことがあったが、マネは、モネに、「あの青年には才能がない。君は友人なら、絵を諦めるように勧めなさい。」と言ったという。もっとも、マネは、心からルノワールを賞賛していたので、このエピソードは、ルノワールと競い合ったマネの苛立ちを表したものにすぎないとも指摘されている。 同年(1874年)12月17日、サン=ジョルジュ通りのルノワールのアトリエで、共同出資会社の総会が開かれ、債務清算のため共同出資会社を解散することが決まった。 ルノワールは、1875年初め、『婦人と2人の娘』の肖像画の依頼を1200フランで受けた。このことがきっかけで、競売場オテル・ドゥルオ(英語版)での競売会を思い付き、モネ、シスレー、ベルト・モリゾを誘って、同年3月24日、競売会を開いた。ルノワールは、20点を出品した。参加者の嘲笑を浴び、結果は芳しくなかったが、デュラン=リュエルは、ルノワールの2点を含む18点を購入している。また、収集家で出版業者のジョルジュ・シャルパンティエ(フランス語版)は、ルノワール3点を購入している。税官吏ヴィクトール・ショケも、競売会を見て、ルノワールに妻の肖像画を依頼した。こうしてルノワールとショケの間には友情が生まれ、ルノワールはショケをセザンヌやモネに紹介した。シャルパンティエ夫妻もルノワールの重要なパトロンとなり、ルノワールは、シャルパンティエの家で、ギ・ド・モーパッサン、エミール・ゾラといった文学者や、各界の名士、後に絵のモデルを務める女優ジャンヌ・サマリーとも知り合った。 並行して、1875年のサロンにも応募したが、落選した。 この頃、ルノワールは、絵の売上げが増えてきたことで、サン=ジョルジュ通りのアトリエのほかに、モンマルトルのコルトー通りにも庭付き一軒家のアトリエを借りることができた。そこで、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』の制作に取り掛かった。サン=ジョルジュ通りのアトリエには、相変わらず、リヴィエール、エドモン・メートル(フランス語版)、テオドール・デュレ、ヴィクトール・ショケといった友人たちが集まった。 1876年2月になり、ルノワールは、親友アンリ・ルアールとともに、ギュスターヴ・カイユボットに宛てて、第2回グループ展の開催を提案している。ルノワールが熱心だったのは、前年のオテル・ドゥルオでの競売会が不調だったこと、サロンにも落選したこと、マネのサロン入選作も激しい非難に遭ったことなどが理由と考えられる。ショケもこれを後押しした。そして、3月-4月、デュラン=リュエルの画廊で第2回印象派展が開かれた。ルノワールは、『習作』(『陽光の中の裸婦』)など18点を出品した。 批評家アルベール・ヴォルフ(英語版)は、「パリ暦」と題する文章で印象派を酷評した上、ルノワールについて次のように書いた。 これは、ルノワールの『陽光の中の裸婦』に対する批評であるが、ルノワールが、戸外で肌に落ちる影を紫色や緑色を使って表現したのに対し、物の固有色を重視するアカデミズム絵画の立場からは理解されず、腐敗しているようにしか見えなかったことを示している。他方、エミール・ゾラは、ルノワールの肖像画を賞賛した。 1877年、第3回印象派展が開かれた。カイユボットが中心となって推進し、ドガ、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレー、モリゾ、セザンヌが賛同した。ルノワールは、モネ、ピサロ、カイユボットとともに展示委員を務めた。ルノワールが出品した21点の中でも、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』は特に注目を集めた。ムーラン・ド・ラ・ギャレットは、モンマルトルの丘の中腹にある舞踏場で、庶民の憩いの場所であった。巨大な作品であったため、アトリエから舞踏場まで、友人たちがキャンバスを運んだという。美術批評家ジョルジュ・リヴィエールは、ルノワールの勧めにより、第3回展参加者らを紹介する小冊子『印象派』を刊行した。リヴィエールは、その中で、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』について、「この作品は、サロンを賑わす芝居がかった物語画(歴史画)に匹敵する現代の真の物語画である」と述べた。この絵はカイユボットが買い取ってくれたが、全体的には展覧会の売れ行きは不調であった。 第3回印象派展最終日の1877年5月28日、オテル・ドゥルオで、カイユボット、ピサロ、シスレーとともに競売会を開いたが、その成果も芳しくなかった。そうした中、シャルパンティエ夫妻のほかに、実業家ウジェーヌ・ミュレ、医師ポール・ガシェ、作曲家エマニュエル・シャブリエなどの愛好家の支援が頼みであった。 マネやドガら、カフェ・ゲルボワの常連は、カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌで飲むことが増えた。グループ展のメンバーには、パリを離れる者が多かったが、パリに残ったルノワールは、サン=ジョルジュ通りとモンマルトルのアトリエの間にカフェがあったこともあり、頻繁に顔を出した。ルノワールは、この頃、工芸品への興味を持っており、カフェでも、19世紀に美しい家具や時計を制作できる人がいないことに文句を漏らしていた。 ルノワールは、シャルパンティエの勧めもあって、1878年のサロンに応募した。「グレールの弟子」として応募した『一杯のショコラ』が入選した。このことは、シスレー、セザンヌ、モネのサロン応募を誘発することになるが、ドガは、印象派展参加者はサロンに応募すべきでないという主張を持っており、印象派グループの中での考え方の違いが深刻になってきた。当時のサロンは、一般大衆にとって作品の評価を保証する存在であり、労働者階級出身で経済的に苦しいルノワールには、サロンに入選して作品が売れることが切実な問題であった。 1878年5月、テオドール・デュレは、『印象派の画家たち』と題する小冊子を出版し、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ベルト・モリゾの5人を印象派グループの先導者として選び出し、解説を書いた。 1879年のサロンには、2点が入選した。そのうち女優ジャンヌ・サマリー(英語版)の立像は注目されなかったが、『シャルパンティエ夫人とその子どもたち(フランス語版)』は、目立つ場所に展示され、称賛を受けた。これは、モデルのシャルパンティエ夫人の知名度によるところが大きかったと考えられる。画中のシャルパンティエ夫人は、黒いドレスを着ており、それまでの印象派の美学に対する挑戦であった。一時的に戸外制作もやめていた。ピサロは、支援者ウジェーヌ・ミュレ(フランス語版)への手紙の中で、「ルノワールはサロンで大成功を収めました。彼はついにやったと思います。それはとても結構なことです。貧乏はとても辛いですから。」と書いている。シャルパンティエ家でこの絵を見たマルセル・プルーストもその優美さを称賛した。その頃から、肖像画の注文が増えてきた。 その年の4月には、ドガが中心となって第4回印象派展が開かれたが、ドガの主張により、サロンに応募する者は参加させないこととされ、展覧会の名称も「独立派(アンデパンダン)展」とされた。サロンに応募していたルノワールは参加せず、セザンヌやアルマン・ギヨマンも同様の理由で参加しなかった。モネも、当初サロン応募に傾いていたが、カイユボットの説得によって参加を決めた。 その年の6月、シャルパンティエ夫妻が、創刊した「ラ・ヴィ・モデルヌ(フランス語版)」誌のギャラリーで、ルノワールのパステル展を開いた。これと併せて、弟エドモンが、「ラ・ヴィ・モデルヌ」誌に、兄の作品を包括的に紹介した記事を載せた。 1879年、ルノワールは、モデルをしていた女性マルゴを病気で亡くし、落ち込んでいた。同年夏、シャルパンティエを通じて知り合った友人の収集家ポール・ベラールがディエップ近くのヴァルジュモンに持つ地所を訪れ、親しく交友するようになった。ヴァルジュモンからパリに戻った頃、サン=ジョルジュ通りの大衆食堂で、お針子をしていた女性アリーヌ・シャリゴ(スペイン語版)と出会った。アリーヌは、ルノワールの絵のモデルをするようになり、同棲を始めた。しかし、ルノワールは、労働者階級出身のアリーヌとの交際を周囲にはひた隠しにしていた 1880年のサロンは、芸術アカデミーが主催する最後のサロンであった。ルノワールは、2点が入選した。この年には、ルノワールだけでなくモネも、印象派展(第5回展)を離脱してサロンに応募した。ルノワールは、サロンの門戸を広げる改革案を公表したが、注目されるには至らなかった。 1881年初頭から、経済的危機を脱したデュラン=リュエルが、ルノワールの作品を定期的に購入し始めた。ルノワールは、この年3月から4月にかけて、アルジェリアに旅行した。ここでドラクロワを魅了した色彩豊かなオリエントに惹かれ、ドラクロワに倣い、『モスク』を描いた。ルノワールは、旅行先のアルジェから、デュラン=リュエルに宛てて、サロンに応募する理由について次のように書いている。 同年(1881年)夏には、ヴァルジュモンにあるポール・ベラールの別荘で過ごし、近くのプールヴィル(英語版)、ヴァランジュヴィル=シュル=メール、ディエップを訪れた。1881年のサロンは、アカデミーからフランス芸術家協会に移管されて初めてのサロンであった。ルノワールは、『ピンクと青、カーン・ダンヴェール家のアリスとエリザベート』と肖像画1点を入選させた。第6回印象派展には参加していない。かつての印象派グループは、ピサロを中心としたグループ、ドガを中心としたグループ、そして今や印象派展を離脱してサロンに戻ったルノワール、モネ、シスレー、セザンヌらのグループの三つに分裂していた。 同年(1881年)10月、ルノワールは、突然イタリアに旅立ち、まずヴェネツィアに滞在した。その地から、シャルパンティエ夫人に、「私はラファエロの作品を見たいという願望に取り憑かれました。」と書いている。そして、11月21日には、ナポリからデュラン=リュエルに、「私はローマでラファエロの作品を見てきました。非常に素晴らしい。私はそれをもっと早く見ておくべきでした。......私は油彩画ならドミニク・アングルが好きです。しかしラファエロのフレスコ画には、驚くべき単純さと偉大さがあります。」と書き送っている。ルノワールは、当初は、ラファエロを模倣するアカデミズム絵画を侮蔑しており、冷やかしのために見に行ったようだが、ローマのバチカン宮殿「署名の間」やヴィラ・ファルネジーナの『ガラテアの勝利』を見て感動した。なお、この時のイタリア旅行には、アリーヌ・シャリゴも同行した。カプリでアリーヌをモデルにして制作した『ブロンドの浴女』の左手薬指には、指輪がはめられている。 1882年1月には、友人から紹介状をもらってパレルモで作曲家リヒャルト・ワーグナーに会い、短時間でその肖像画を描いた。その後、パリに戻る予定を変更し、マルセイユ郊外のエスタックにポール・セザンヌを訪ね、共に制作した。2月初め、エスタックで風邪を引いて肺炎を起こし、療養した。そのような折、カイユボットとデュラン=リュエルから、第7回印象派展への参加を促す手紙が届いた。ルノワールは、デュラン=リュエルに次のように回答している。 第7回印象派展は、内紛の末、デュラン=リュエルが仲介して1882年3月に開催にこぎつけたが、出品作品の大半がデュラン=リュエルの所蔵品であった。ルノワールの出品作は、デュラン=リュエルが選定した25点で、うち9点がヴェネツィアやアルジェ、セーヌ川の風景画、5点が静物画、その他は風俗画である。批評家フィリップ・ビュルティは、ヴェネツィアとアルジェの太陽の光にあふれた風景画、そして『扇を持つ女性』を絶賛した。他方、大作『舟遊びをする人々の昼食』は、この展覧会ではそれほどの評価を得られなかった。『舟遊びをする人々の昼食』では、テーブル上の静物や、遠景のセーヌ川の描写は印象主義的であるが、人物の明確な輪郭線や、左下から右上に向かう構図は、この頃から古典主義への関心が強まったことを示している。 1882年のサロンには『青いリボンをつけたイヴォンヌ・グランレル』、1883年のサロンには『クラピソン夫人の肖像』を入選させた。1883年4月には、デュラン=リュエルがマドレーヌ大通り(英語版)に新しく開いた画廊で、ルノワールの個展が開かれた。 ルノワールは、イタリア旅行でのラファエロとの出会いを機に、ニコラ・プッサンから新古典主義に至る絵画に興味を持つようになり、色彩重視からデッサン重視に転向した。そして、1883年頃から1888年頃にかけて、写実性の強い「アングル風」の時代が訪れる。 1882年末から1883年にかけて、ダンス3部作と言われる『ブージヴァルのダンス』、『田舎のダンス』、『都会のダンス』を制作した。『田舎のダンス』の女性のモデルはアリーヌ・シャリゴ、その他の2作品のモデルはシュザンヌ・ヴァラドンである。この当時、ルノワールは2人と二股の交際をしていたようで、1883年12月にシュザンヌが産んだ画家モーリス・ユトリロの父親は、ルノワールであるとする説がある。 1883年4月には、デュラン=リュエルがマドレーヌ大通り(英語版)に新しく開いた画廊で、ルノワールの個展が開かれた。初期作品から近作まで約70点の中には、数多くの代表作が含まれ、印象派としてのルノワールを回顧する本格的な展覧会となった。デュラン=リュエルは、これと並行して海外での売出しを図り、ロンドンのニュー・ボンド・ストリートの画廊で開いた印象派の展覧会に、ヴェネツィアの風景画や『ブージヴァルのダンス』を含むルノワール9点を展示した。 同年(1883年)晩夏には、英領ジャージー、ガーンジーを訪れた。12月、モネとともに、新しいモティーフを探しに、地中海沿岸への短い旅に出た。モネは、この旅行について、「ルノワールとの楽しい旅は、なかなか素晴らしかったのですが、制作するには落ち着きませんでした。」と述べている。2人の関心が変化したこともあり、かつてのように共同制作から成果を得る手法は難しくなったことを示している。ポール・ベラールの別荘に招かれてその娘たちを描いた『ヴァルジュモンの午後』を制作したが、ベラールは、ルノワールの新しい画風を好まず、この後注文をやめてしまった。そのほかにも多くのパトロンが離れ、この時期ルノワールの絵は全く売れなくなってしまった。 1885年3月、アリーヌとの間に、後に俳優となる長男ピエール・ルノワール(英語版)が生まれた。その後、母子の健康のためと経済的理由から、一家は、ジヴェルニーに近いラ・ロシュ=ギュイヨン(英語版)に移った。この地から、デュラン=リュエルに宛てて、「私は昔の絵の柔らかい優美な描き方を、これから先再び取り入れていくことにしました。......新しさは全然ありませんが、18世紀の絵画を引き継ぐものです。」と書いている。同年秋、妻アリーヌの故郷エソワ(英語版)を初めて訪れ、その後もこの地を気に入って度々訪れている。 デュラン=リュエルは、1886年4月、ニューヨークで「パリ印象派の油絵・パステル画展」を開き、ルノワールの作品38点もその中に含まれていた。この展覧会は、アメリカの収集家が印象派に関心を持ち始める契機となった。同じ年、最後のグループ展となる第8回印象派展が開かれたが、画商ジョルジュ・プティの国際美術展に参加を決めていたモネ、ルノワールは参加しなかった。また、モネとともに、ブリュッセルの20人展にも参加した。 1886年頃から、ベルト・モリゾがパリの自宅で友人らを招いて夜会を催すようになったが、ルノワールはその常連客となった。また、モリゾを通じて、詩人ステファヌ・マラルメと知り合い、親交を深めた。 1887年までにかけて、それまでに制作した女性裸体画の集大成として『大水浴図』を制作した。ルノワールは、それまでの制作方法と異なり、この作品のためにデッサンや習作を重ねた。作品の中には、明確な輪郭線となめらかな表面の部分と、筆触を残して色彩を強調した部分とが混在している。彼は、この作品を1887年のジョルジュ・プティの展覧会に出品した。ピサロは、「彼の試みは理解できます。同じところに留まっていたくないのは分かりますが、線に集中しようとしたために色彩への配慮がなく、人物が1人1人ばらばらです。」と評したが、一般大衆の評価はむしろ好意的だった。フィンセント・ファン・ゴッホもこの作品を高く評価した。ルノワールは、デュラン=リュエルに、「私は、大衆に認めてもらえる一段階を、小さな一歩ではありますが、進んだと思っています。」と書いている。ただ、『大水浴図』には買い手がつかなかった。 1888年初めには、エクス=アン=プロヴァンスのジャス・ド・ブッファン別荘(英語版)にセザンヌを訪れ、一緒に制作した。ルノワールは、この年、激しい神経痛に見舞われるようになった。再び自分の作品に不満を持つようになり、美術批評家のロジェ・マルクス(フランス語版)に「私は、自分がこれまでに行ってきた全てを駄目だと感じており、それが展示されているのを見るのは、私にとって最も辛いことです。」と書き、パリ万国博覧会への展示に難色を示している。 1890年には、レジオンドヌール勲章の授与を打診されたが、辞退している。また、この年、7年ぶりにサロンに出品し、これを最後にサロンから引退した。この年、アリーヌと正式に結婚した。同年頃、ルノワール一家は、モンマルトルの丘のジラルドン通り(フランス語版)にある「ラ・ブルイヤール(霧の館)」に引っ越した。 1890年代初頭には、農作業をする女性や、都会の女性の牧歌的な情景を好んで描いた。そこでは、1880年代のようなはっきりした輪郭線はないが、かといって印象派の時代とも違い、人物がしっかりしたボリューム感を持っている。裸婦も好んで描いた。 1892年、美術局長官アンリ・ルージョンから、リュクサンブール美術館で展示すべき作品の制作依頼を受け、『ピアノに寄る少女たち』の油彩画5点、パステル画1点を集中的に制作した。これには、詩人ステファヌ・マラルメ、美術批評家ロジェ・マルクスの働きかけがあった。油彩画5点のうち、現在オルセー美術館に収蔵されている作品が、4000フランで政府買上げとなったもので、全体が暖かい色調で統一されている。同じ年、デュラン=リュエル画廊でルノワールの回顧展が開かれ、好評を博した。この頃、歯科医ジョルジュ・ヴィオー、仲買商人フェリックス=フランソワ・ドポー、劇場経営者ポール・ガリマール(フランス語版)など新しい愛好家も増えてきた。ルノワールは、同じ1892年、ポール・ガリマールに誘われてマドリードに旅行し、プラド美術館でディエゴ・ベラスケスの作品に感銘を受けた。 1894年、アリーヌとの間に、後に映画監督となる二男ジャン・ルノワールが生まれた。この年、アリーヌの遠縁の女性ガブリエル・ルナール(英語版)が、ルノワールの家のメイドとして働き始め、ジャンの世話をするだけでなく、ルノワールの絵のモデルも務めた。1896年の『画家の家族』には、「ラ・ブルイヤール」の庭先に、長男ピエールとその母親アリーヌ、幼いジャンとそれを支えるガブリエル、隣家の少女が勢揃いしているところが描かれている。 1894年2月、カイユボットが亡くなったが、カイユボットは、その遺言で、マネや印象派の作品68点をリュクサンブール美術館に、後にルーヴル美術館に収蔵すべく遺贈しており、その遺言執行者としてルノワールを指名していた。そのため、ルノワールは、この遺言実現のため奔走することになった。しかし、保守的な美術界や世論は、コレクションの受入れに反対し、大きな論争となった。結局、1896年、コレクションの一部がリュクサンブール美術館に収蔵されることで妥協が成立した。ルノワールの作品は8点中6点が受け入れられた。 1897年、自転車から落ちて右腕を骨折し、これが原因で慢性関節リウマチを発症した。その後は、療養のため冬を南フランスで過ごすことが多くなった。1899年、友人の画家ドゥコンシーの勧めで、カーニュ=シュル=メールのサヴルン・ホテルに滞在し、この町に惹かれるようになった。そして、パリ、エソワ、カーニュの3箇所を行き来するようになった。 1900年、パリ万国博覧会の「フランス絵画100周年記念展」にルノワールの作品11点が展示された。同年8月、レジオンドヌール勲章5等勲章を受章した。これも同じ年、ベルネーム=ジューヌ画廊で大規模な個展を開催した。ベルネーム=ジューヌ兄弟は、1890年代初めから、積極的に印象派の作品を扱い、ルノワールとも親交を築いており、1901年と1910年にはルノワールがベルネーム=ジューヌの家族の肖像画を描いている。 1901年、エソワで、アリーヌとの間に、三男クロードが生まれた。その頃、リューマチで階段を上がるのも難しくなったことから、モンマルトルのコーランクール通り(フランス語版)に移った。 1903年、南仏カーニュ=シュル=メールで、郵便局のある建物(ヴィラ・ド・ラ・ポスト)に住むようになった。子煩悩なルノワールは、これまでも、長男ピエール、二男ジャンをモデルに多くの作品を描いてきたが、三男クロード(愛称ココ)が生まれてからは、クロードの成長記録のように更に多くの作品のモデルとした。また、ルノワールは、晩年、リヨン出身の画家アルベール・アンドレ(英語版)を息子のように愛し、アンドレはエソワやカーニュのルノワール邸を頻繁に訪れた。彼は、晩年のルノワールの姿を数多く描くとともに、1919年、ルノワールの言行を記した『ルノワール』を刊行した。 ルノワールは、1904年のサロン・ドートンヌでは一室を与えられ、1905年には、サロン・ドートンヌから名誉総裁の称号を授与された。1906年、メトロポリタン美術館がルノワールの『シャルパンティエ夫人とその子どもたち』を購入した。 1907年、カーニュ=シュル=メールのレ・コレットに別荘を買い、晩年をここで過ごした。しかし、リューマチが悪化し、1910年夏にミュンヘンに旅行したものの、帰国後、歩くことができなくなり、車椅子での生活となった。ジャンの回想によれば、レ・コレットには、モーリス・ドニ、ポール・シニャック、ピエール・ボナール、アンドレ・ドラン、アンリ・マティス、パブロ・ピカソなど、若い画家が毎日のように訪れてきていたという。1906年にアリスティド・マイヨールがルノワールの胸像を制作したことを機に彫刻に興味を持ち始め、画商ヴォラールの勧めで彫刻を手がけるようになった。1913年以降は、マイヨールの弟子リシャール・ギノ(英語版)が、ルノワールのデッサンと指示に基づいていくつもの彫刻作品を生み出した。 1911年10月、レジオンドヌール勲章4等勲章を受章した。1912年、手術を受けたが、良い結果にはならなかった。この年、デュラン=リュエルがカーニュを訪れ、椅子から立ち上がることもできないルノワールの様子を見るが、「描く時は、かつてと変わらない、上機嫌で、幸福な彼を見ることができた。」と語っている。動かない手に絵筆を縛り付けたルノワールの写真が残っている。アルベール・アンドレによると、縛り付けた絵筆は制作中は外せないため、絵具を変える度に絵筆を洗わなければならず、画面とパレットと筆洗との間を慌ただしく行き来するうちに、腕は疲労で硬直していたという。こうした苦闘の中から、歓喜に満ちた作品を生み出していった。 1914年、息子ピエールとジャンが出征し、負傷した。1915年、妻アリーヌは、負傷したジャンを見舞いに行った帰り、糖尿病が悪化して56歳で亡くなった。 1919年2月、レジオンドヌール勲章3等勲章を受章した。その年、ルーヴル美術館が『シャルパンティエ夫人の肖像』を購入し、ルノワールは、美術総監に招かれ、自分の作品が憧れの美術館に展示されているのを見ることができた。 同年12月3日、カーニュのレ・コレットで、肺充血で亡くなった。ルノワールは、死の数時間前、花を描きたいからと言って筆とパレットを求め、これを返す時、「ようやく何か分かりかけてきたような気がする。」とつぶやいたという。もっとも、この伝説の出所は不明であり、デュラン=リュエルによれば、「私はもうだめだ。」とつぶやいたという。長男ピエールによれば、「2日にわたり肺の鬱血に襲われたが、心臓が止まった時には回復していた。彼の最後の瞬間はかき乱され、半ば無意識の一時的錯乱状態でよくしゃべったが、直接彼に話しかけると大丈夫だと答えた。それから彼はまどろみ、約1時間後に呼吸は止まった。」という。 ルノワールの訃報を聞いたモネは衝撃を受け、「とてもつらい。私だけが残ってしまったよ。仲間たちの唯一の生き残りだ。」と友人に書いている。 ルノワールのカタログ・レゾネ(作品総目録)は、編集作業が始まったところであるが、作品数は4000点を下らないだろうと言われている。 画家を志してシャルル・グレールの画塾に入った当初は、サロン風の絵を描く平凡な画学生にすぎなかった。しかし、「エスメラルダ」で初めてサロンに入選した頃から、モネたち友人や、ドラクロワの影響もあり、暗い色を払拭し、色彩画家としての本領を発揮するようになった。最初は、クールベの影響を受けた時期もあったが、1867年の『日傘のリーズ』や1868年の『婚約者たち(シスレー夫妻)』から、形態を肉付けのみで作り上げ、色彩を帯びた影を注意深く観察するなど、はっきりと個性を示すようになった。 1869年にモネとともに『ラ・グルヌイエール』を制作した頃からは、セーヌ川やモンマルトルの風景を明るく描く印象主義的な手法を確立していった。伝統的なアカデミズム絵画は、凝った構図、写実的なデッサン、なめらかな仕上げの細部を重視しており、色彩は物の固有色を表すものであって形態に従属するものにすぎないと考えていた。それに対し、モネを代表格とする印象派は、物の固有色という固定観念を否定し、目に映る色彩をそのままキャンバスに写し取ろうとした。そのため、パレットの上で絵具を混ぜず、細かな筆触(タッチ)をキャンバスに並べることで(筆触分割)、臨場感を伝えるとともに、戸外の光の明るさを表現しようとした。それに伴って、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』に見られるように、思い切って輪郭線をぼかすという手法を選んだ。 もっとも、この時期においても、モネとは違い、ルノワールの作品には、人物への関心の深さが表れており、陽光に照らされた明るい風景画よりも、若々しい女性の肌の上に点々と落ちかかる木漏れ日を描写することに熱意を燃やした。この時期、室内の人物画も数多く制作しており、モネが否定した黒も積極的に利用している。純粋な風景画においても、ルノワールの作品は、単に目に映る光の描写ではなく、植物の旺盛な生命力や生々しい実体に関心が向けられている。同じ『ラ・グルヌイエール』でも、ルノワールの作品では白いドレスの女性が目立ち、人々のファッションや観光地の楽しさに焦点が当たっている。自由で気楽なボヘミアン的気質も投影されている。 印象派は、筆触分割の手法を用いて色彩の輝きを捉えようとしたが、この手法においては、はっきりした輪郭線に規定された形態を表現することは難しかった。実際、モネやシスレーは、草野や水面など、明確な形態を持たない自然の風景に主な関心を寄せ、建物を描く場合でも、ゆらめく影のように光の表現に溶け込んでおり、明確な形態は放棄されている。しかし、もともと人物、特に若い女性の健康な肉体の輝きに魅力を感じていたルノワールは、印象派のあまりに感覚主義的な態度には飽き足りなかった。ルノワールは、後に画商アンブロワーズ・ヴォラールに次のように語っている。 戸外制作では余りに光の効果に気を取られてしまい、構成がおろそかになってしまうことにも気が付き、アトリエでの仕上げの必要性を認識した。 印象主義からの脱却には、1881年から1882年にかけてのアルジェリア旅行・イタリア旅行で、地中海の明るい太陽とルネサンスの古典作品に触れたことが影響したと思われる。その際、画面に構成的秩序を求めたルノワールの拠り所となったのが、新古典主義の巨匠ドミニク・アングルであった。1883年頃から1880年代後半まで続く「アングル風」時代の作品は、あまりにも冷たく、ぎこちない不自然さがあると評されるが、そのような犠牲を払ってでも、形態の確立によって印象主義の危機を克服することが必要であったと考えられる。 1881年頃から1886年頃にかけて制作された『雨傘』では、1881年頃に描かれた右側の2人の少女と2人の女性は、印象派風の軽快な筆触により表現されているのに対し、1885年頃描かれた左側の女性と男性は、明確な輪郭線が用いられており、印象主義の時代とアングル風の時代が混在している。そして、アングル風時代の総決算が、『大水浴図』である。この作品の表現は、アングルの『グランド・オダリスク』や『トルコ風呂』のように明確な形態を持っているが、反面、作り物のような冷たさがあることは否定できない。 1890年代以降のルノワールは、「アングル風」時代の冷たさがなくなり、珊瑚色の輝く色調で、女性の温かい肉体を描き出すようになった。肌のピンクがかった赤から、バラの紫がかった赤まで、様々な赤で生き生きとした表現をしている。絵具の表面は、かつての印象主義の時代のように大気の微妙な効果を伝えるものではなく、生命のイメージを作り出すものとなっている。1892年の『ピアノに寄る少女たち』は、その最初の成果といえ、豊麗な色彩によって、通俗的ではあるが平和で暖かな雰囲気を描き、第三共和政の泰平を楽しむパリ市民の生活を映し出している。ルノワールは、「私の好きな絵画は、風景ならばその中を散歩したくなるような絵、裸婦ならばその胸や腰を愛撫したくなるような絵だ。」と語っているとおり、見る人を喜ばせるような絵を描き続けた。 20世紀に入り、カーニュに住み始めてからは、伝統的な地中海文化への傾斜が見られる。19世紀後半にプロヴァンス地方に興った文学復興運動フェリブリージュと関わりがあるかもしれないと指摘されている。 ルノワールは、1908年、アメリカの画家ウォルター・パッチに対し、次のように語っている。 ルノワールは若い時貧窮に苦しみ、1875年には、1点100フランで肖像画を描かせてもらったが、それすら良い仕事であった。『桟敷席』は、1875年にようやく425フランで売れた。オテル・ドゥルオでの競売でも、『ポンヌフ』が300フランで売れたのが最高で、あとは最低額の50フランであった。 1892年にデュラン=リュエル画廊で開いた個展が成功するとともに、『ピアノに寄る少女たち』が4000フランで政府買上げになってから、ようやく経済的に安定するようになった。若い画家たちからも、大きな関心を寄せられた。1890年代に独自の様式を生み出したルノワールに対し、モーリス・ドニは、「ルノワールは、自分の感情やあらゆる自然や夢を、自分なりの技法で表現する。彼は自らの歓喜の目で、女性と花から成る見事な花束を作り出した。」と評した。アンリ・マティスは、「セザンヌに次いで、ルノワールは、私たちを、潤いに欠けた純然たる抽象化から救っている。」と語り、パブロ・ピカソは、ルノワールを「法王」と呼んだという。ルノワールは、彼ら若手画家たちに敬愛され、影響を与えた。 ルノワールは、晩年、レジオンドヌール勲章を授与されたり、1904年には大回顧展が開かれたりして、巨匠としての地位を確立した。1907年、メトロポリタン美術館が、『シャルパンティエ夫人とその子どもたち』を3500ポンドという空前の高値で購入した。フランス国内だけでなく、アメリカ、ドイツ、イタリア、ロシアなどで、新作・旧作のルノワール展が次々開催された。1912年には、ドイツの批評家ユリウス・マイヤー=グラーフェによる図版付き研究書が出版された。1918年頃には、ルノワールらの印象派の作品が18世紀の額縁に入れられてパリの裕福な美術愛好家の書斎に飾られるなど、ブルジョワ的価値観を体現するものとして受け入れられるようになっていた。この頃、印象派はアメリカでも確固たる地位を築き、経済的に台頭するアメリカに多くの作品が渡り、モーガン・ラッセル(英語版)の『Still-Life Synchromy with Nude in Yellow』などシンクロミズム(英語版)の作品やガイ・ペン・デュボワ(英語版)による、現代生活を題材とする絵画はルノワールの影響を受けたものとされ、フレデリック・カール・フリージキーの『木漏れ日の中のヌード』(1915年)における光と影の表現にもルノワールの影響がみられる。第1次世界大戦でフランスと敵対したドイツでさえ印象派は深く浸透しており、フランスに進駐したドイツ軍兵士は、1917年に塹壕の中で書いた日記に、フランスの風景の美しさを表現する時に「運河と並木の景色はまるでルノワールの夏の絵のようだ」と記している。 もっとも、ルノワールは、アメリカ人が絵に物語性や感傷を持ち込みすぎることを苦々しく感じ、コレクターが絵に「物思い(ラ・パンセ)」という題名を付けたことを嘆いていた。 ルノワール死後も作品の高騰は続き、1895年に300ポンドだった『舟遊びをする人々の昼食』は、1923年には20万ドル(5万ポンド以上)となった。この絵をデュラン=リュエル画廊で買ったアメリカのコレクター、ダンカン・フィリップス(英語版)は、「ルノワールの軽やかな陽気さは、18世紀のフランスの装飾画家たちを思わせる。この『舟遊びをする人々の昼食』の成熟した完璧さと、素晴らしい涼感の表現には、イタリア・ルネサンスの遅れてきた絶頂期を見ることができる。」と書いており、ルノワールを反逆者ではなく偉大な伝統に連なるものとして捉えている。アメリカでは1904年から1940年までの時期がルノワールの作品の影響が最も大きかった時期とされたが、以降は批評家の間の評判が下がり、以前ほどの影響力はなくなったという。2002年にサンディエゴ美術館(英語版)でルノワールの特別展が開かれたとき、ロサンゼルス・タイムズの記者リア・オルマン(Leah Ollman)はルノワールの絵画が「たびたびサッカリンの域に踏み入るほどの甘さ」と評し、批評家のジェームズ・ハネッカー(英語版)(1921年没)もルノワールをモダニズムの先駆者として評価したものの、「ルノワールは理解しにくい画家ではない」とも評した。 1950年代以降は、絵画取引としてオークションによる取引が一般的になるとともに、印象派絵画が高騰した時代である。モネやルノワールを競落することがステータスを意味するようになった。新富裕層が印象派に魅了されたのは、魅力的な色彩や親しみやすさのほかに、オールド・マスターの作品と比べ来歴がしっかりしているという理由もあった。1950年代には、ルノワール作品は概ね1点3万ポンド前後で取引されたが、時々、10万ポンドに迫る取引が現れた。そして、1968年、実業家ノートン・サイモン(英語版)によって『学士院と芸術橋』が64万5834ポンド(155万ドル)で競落されるという記録が生まれた。1970年代には、美術市場の帝王として君臨するようになり、数多くのセールで、最高位を保ち続けた。1980年代には更に高騰して、サザビーズやクリスティーズで数百万ドルから1000万ドル台(数億円から十数億円)の落札が相次いだ。1990年5月15日には、大昭和製紙の齊藤了英がニューヨーク・クリスティーズでフィンセント・ファン・ゴッホの『医師ガシェの肖像』を史上最高値の7500万ドル(114億6000万円)で落札し、その2日後の17日、ニューヨーク・サザビーズでルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』を7100万ドル(108億8430万円)で落札したことが大きな話題となった。 日本人で初めてルノワールの絵を買ったのは、パリで画商をしていた林忠正であった。しかし、林が購入した作品は、日本で知られることはなく、売却されてしまった。 日本で初めてルノワールに大きな影響を受けた画家は、梅原龍三郎であった。梅原は、1908年にパリのリュクサンブール美術館を訪れた時、ルノワールの作品に感動し、1909年2月、レ・コレットのルノワールに会いに行った。その年、山下新太郎や有島生馬を連れて再訪し、彼らはルノワールから『水浴の女』を譲り受け、日本に持ち帰った。 日本国内では、雑誌『白樺』などでルノワールが紹介され、中村彝、赤松麟作、土田麦僊などがその影響を受けた。山下が持ち帰った『水浴の女』が1912年の第4回白樺美術展で展示されたのが、日本の公衆がルノワールの絵画に触れた最初の機会であったが、この時はロダンが絶大な人気を博していたのに比べ、ルノワールへの反応は低調であった。第一次世界大戦後にルノワール人気が沸騰し、1919年にルノワールが死去すると、日本の新聞は大々的に関連記事を掲載した。中沢彦吉や岸本吉左衛門がフランスでロダンやルノワールの作品を買い集め、そのコレクションが1920年に東京と大阪の展覧会で公開されると、新聞でルノワールが熱心に取り上げられた。中村彝は、ルノワール作品に感動し、「どうしても人間を、裸体を、その生命を強調して、ナマナマしく表現し度い」と書き記し、『すわる水浴の女』の模写を制作した。一方、坂本繁二郎は物足りないと評し、岸田劉生は「ルノアルは甘いものだと思つた。画に惢がない。......中心へ行くと、綿をつかまされた様な気がする。」と批判した。この展覧会の頃が、ルノワール熱のピークとなった。また、この頃、松方幸次郎や大原孫三郎も膨大な西洋美術を収集し、その中にはルノワールの『アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)』(松方コレクションから国立西洋美術館)、『泉による女』(大原美術館)なども含まれていた。こうして日本に紹介されたルノワール作品は、印象派時代のものよりも、後期の作品が中心であり、日本人にとってのルノワールのイメージは、後期の様式を基に形成されてきた。 第二次世界大戦後は、1970年代に、広島銀行がルノワールの『パリスの審判』を購入するなど、再び西洋美術熱が到来した。1985年頃から1990年頃までのバブル景気時代には、前述のような齊藤了英による『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』の高額落札のほかにも、各地の県立美術館が競ってモネ、ルノワール、ピカソなどの作品を買い求めた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir 発音例、1841年2月25日 - 1919年12月3日)は、フランスの印象派の画家。後期から作風に変化が現れ始めたため、ポスト印象派の画家の一人として挙げられることもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ルノワールは、1841年、フランス中南部のリモージュで貧しい仕立屋の息子として生まれ、1844年(3歳)、一家でパリに移り住んだ。聖歌隊に入り、美声を評価されていた。1854年(13歳)、磁器の絵付職人の見習いとなったが、1858年(17歳)、失業した。その後は扇子の装飾など職人としての仕事を手がけていた(→出生、職人時代)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1861年(20歳)、画家になることを決意してシャルル・グレールの画塾に入り、ここでモネ、シスレー、バジールら画家仲間と知り合った。フォンテーヌブローの森で一緒に写生もしている(→画塾時代(1860年代初頭))。1864年(23歳)、サロン・ド・パリに初入選し、以後度々入選している。経済的に苦しい中、親友バジールのアトリエを共同で使わせてもらった時期もあった。1869年(28歳)、ルーヴシエンヌの両親の家に滞在している時、モネとともに行楽地ラ・グルヌイエールでキャンバスを並べ、印象派の特徴の一つである筆触分割の手法を生み出していった(→サロンへの挑戦(1863年 - 1870年))。1870年(29歳)、普仏戦争が勃発し、騎兵隊に従軍したが、1871年(30歳)、パリ・コミューンの動乱に揺れるパリに戻った。スパイと間違われ、一時逮捕される出来事もあった(→普仏戦争(1870年 - 1871年))。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "パリ・コミューン終息後のサロンは保守性を増し、ルノワールや仲間の画家たちは落選が続いた。こうしたこともあって、モネやピサロとともに、共同出資会社を設立し、1874年(33歳)、サロンから独立したグループ展を開催した。後に「第1回印象派展」と呼ばれる展覧会である。写実性と丁寧な仕上げを重視するアカデミズム絵画が規範であった当時、新しい表現を志したグループ展は、世間から酷評にさらされ、経済的にも成功しなかった(→第1回印象派展まで(1871年 - 1874年))。1876年(35歳)には第2回展に参加、1877年(36歳)には第3回展に参加して大作『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』を出したが、これらも厳しい評価を受けた。その一方で、ヴィクトール・ショケ、ジョルジュ・シャルパンティエといった愛好家も獲得していき、特にシャルパンティエ夫妻はルノワールの重要なパトロンとなった(→第2回・第3回印象派展(1875年 - 1877年))。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1878年(37歳)、経済的見通しを重視してサロンに再応募し、入選した。その後サロンへの応募・入選を繰り返し、一方で第4回から第6回までの印象派展からは離脱した。私生活では、1879年(38歳)頃、未来の妻となるアリーヌと知り合い、交際を始めた(→サロンへの復帰(1878年 - 1880年))。この頃、形態が曖昧になりがちな印象派の技法に限界を感じていたところ、1881年(40歳)の時にアルジェリア、次いでイタリアに旅し、特にローマでラファエロの作品に触れて大きな感銘を受けた。画商ポール・デュラン=リュエルの奔走を受けて1882年(41歳)の第7回印象派展に『舟遊びをする人々の昼食』などを出すが、この頃から明確な輪郭線が現れ始め、古典主義への関心が強まっている(→アルジェリア旅行・イタリア旅行(1880年代初頭))。そして、1883年(42歳)頃から1888年(47歳)頃にかけて、デッサン重視で冷たい「アングル風」の時代が訪れ、その集大成として『大水浴図』を制作した(→古典主義への回帰(1880年代半ば - 後半))。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1890年代以降は、「アングル風」を脱し、温かい色調の女性裸体画を数多く制作している。評価も定まり、『ピアノに寄る少女たち』が政府買上げになったり、勲章を授与されたりしている。私生活では、アリーヌと正式に結婚し、子にも恵まれた(→評価の確立(1890年代))。関節リウマチの療養のためもあって、南仏で過ごすことが多くなり、1900年代から晩年までは、カーニュ=シュル=メールで過ごし、リウマチと戦いながら最後まで制作を続けた(→南仏カーニュ(1903年 - 1919年))。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ルノワールは、1841年、フランス中南部の磁器の町リモージュで生まれた。7人兄弟の6番目であったが、上の2人は早世し、他に兄2人、姉1人、弟1人がいた。父レオナールは仕立屋、母マルグリットはお針子であった。後の印象派の画家たちがブルジョワ階級出身だったのに対し、ルノワールは1人労働者階級出身であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1844年、一家でパリに移住した。ルーヴル美術館の近くで、当時は貧しい人が暮らす下町であった。幼い頃から絵への興味を示していたが、美声でもあったルノワールは、1850年頃(9歳前後)、作曲家のシャルル・グノーが率いるサン・トゥスタッシュ教会(英語版)の聖歌隊に入り、グノーから声楽を学んだ。ルノワールの歌手としての才能を高く評価したグノーは、ルノワールの両親にルノワールをオペラ座の合唱団に入れることを提案したが、父親の知人からルノワールを磁器工場の徒弟として雇いたいという申出があったことから、グノーの提案を断り、聖歌隊も辞めた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1854年、磁器工場に入り、磁器の絵付職人の見習いとなるが、産業革命や機械化の影響は伝統的な磁器絵付けの世界にも影響し、1858年に職人としての仕事を失うこととなった。ルノワールは、後に次のように回想している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ルノワールは、次に扇子の装飾を仕事にし、アントワーヌ・ヴァトーやフランソワ・ブーシェの有名な名作を複製した扇子を繰り返し描いた。この時、ルノワールは、ブーシェやジャン・オノレ・フラゴナールといった18世紀のロココ絵画に興味を持つようになったようである。その後、メダル制作の紋章描き、窓の日除けの装飾、カフェの壁の装飾など、職人としての仕事を次々手がけた。仕事の合間に無料のデッサン学校に通い、1860年には、ルーヴル美術館で模写する許可を得た。特に、色彩派と言われるルーベンス、ブーシェ、フラゴナールを好んだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ルノワールは、画家になることを決意し、1861年11月、シャルル・グレールのアトリエ(画塾)に入った。ここでクロード・モネ、アルフレッド・シスレー、フレデリック・バジールら、後の印象派の画家たちと知り合った。また、近くにアトリエを持っていたアンリ・ファンタン=ラトゥールとも知り合った。グレール自身は、保守的なアカデミズムの画家であったが、生徒たちに、安い費用で、モデルを使って自由に描くことを許していたので、様々な傾向の画学生が集まっていた。ルノワールは、後に、グレールは「弟子にとって何の助けにもなってくれなかった」が、「弟子たちに思うようにさせる」という長所はあったと振り返っている。グレールが、画塾で制作中のルノワールの色遣いを見て、「君、絵具を引っかき回すのが、楽しいんだろうね。」と言うと、ルノワールが「もちろんです。楽しくなければやりません。」と応えたというエピソードが知られている。グレールの保守的な指導に飽き足らない点で、モネやルノワールは共感を深めていった。もっとも、ルーヴル美術館を毛嫌いするモネと異なり、ルノワールは、友人アンリ・ファンタン=ラトゥールとともにルーヴルに行き、18世紀フランスの画家たちを好んで研究した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また、1862年4月にはエコール・デ・ボザール(官立美術学校)にも入学し、古典的なデッサン教育も並行して受けた。ここでは、夜間のデッサンと解剖学の授業に出席していたが、油彩画の習作をクラスに持って行ったところ、教師シニョルから、赤い色の使い方について批判され、「もう1人のドラクロワになったりしないよう気を付けることだ!」と警告されたという。当時、豊かな色彩を用いるドラクロワは、デッサンを重視する新古典主義が支配するアカデミーから排撃されていた。エコール・デ・ボザールで行われた1863年の構図の試験では、受験者12人中9番、1864年の彫刻とデッサンの試験では、106人中10番という成績を残している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1863年には、バジール、モネ、シスレーとともにシャイイ=アン=ビエールに行き、フォンテーヌブローの森で写生している。ルノワールが戸外で制作していると、義足の男が現れ、「デッサンは悪くないが、一体どうしてこんなに黒く塗りつぶしてしまうんだね」と評したという。この男は、バルビゾン派の画家ナルシス・ヴィルジル・ディアズ・ド・ラ・ペーニャであり、その後、ディアズは、経済的に苦しいルノワールのために画材代の支援や助言をするようになり、ルノワールもディアズを尊敬するようになった。この年、グレールは、健康上・財政上の理由で画塾を閉鎖することとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1863年のサロン・ド・パリに初めて応募したが、落選した。1864年のサロンに「グレールの弟子」として『エスメラルダ』を応募して、入選した。しかし、この作品は、ルノワール自身がサロン終了後に塗りつぶしてしまい、現在は残っていない。ヴィクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』を題材とした、ロマン派的主題の暗い絵であったという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1864年、磁器の製造業者から、初めて9歳の娘の肖像画の依頼を受け、『ロメーヌ・ラコー嬢』を制作した。ベラスケス、アングル、コロー、エドガー・ドガの影響も感じられる作品となっている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1865年、シスレーとともに、フォンテーヌブローの森近くのマルロット(英語版)に滞在した。ルノワールは、マルロットで画家ジュール・ル・クールと知り合い、滞在中は世話になるようになった。ル・クールは、クレマンス・トレオという女性と交際を始めたが、ルノワールは、クレマンスの妹である17歳のリーズ・トレオ(英語版)と知り合い、交際するようになった。その後、度々彼女をモデルに絵を描いている。1865年のサロンには、シスレーの父親を描いた肖像画を含む2点が入選した。シスレーが、経済的に苦しいルノワールを助けるため、肖像画を依頼して買い取ったものであった。この時も、ルノワールは「グレールの弟子」として出品している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1866年にもシスレーとともにマルロットを再訪し、『アントニーおばさんの宿屋』を制作した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1866年のサロンには、『フォンテーヌブローの森のジュール・ル・クール』を応募した。この年、サロンの審査委員にジャン=バティスト・カミーユ・コローやシャルル=フランソワ・ドービニーが入ったため、ルノワールや仲間の画家の多くが入選した。この時期、ルノワールは、クールベにならってパレットナイフを使った作品から、アカデミックな構想の作品まで、両極端の様々な様式を実験しており、フォンテーヌブローの森などで制作した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "バジールは、1866年7月、ヴィスコンティ通り(フランス語版)にアトリエを移し、ルノワールも共同で使用した。シスレーやモネもここをよく訪れた。南仏の裕福な家庭に育ったバジールは、ルノワールやモネら仲間の画家を経済的に助け、時にアトリエで生活を共にした。1867年、バジールとシスレーが同じあおさぎの静物を違う角度から描き、その制作中のバジールをルノワールが絵画に残している。バジールも、ルノワールの肖像を描いている。マネはルノワールによるバジールの肖像を賞賛し、ルノワールはこの絵をマネに贈った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1867年のサロンは、前年から一転して審査が厳しくなり、ルノワールや仲間の画家の多くは落選した。ルノワールの『狩りをするディアナ』は、サロン向けの主題であったが、クールベの影響を受けた、モデルを理想化しない肉付きの良すぎる描写が不評であったとも考えられる。この作品のモデルもリーズ・トレオである。この年、ルノワールは、『シャン=ゼリゼの眺め』、『ポンデザール(芸術橋)』など、パリの都市風景画を制作している。夏の間は、シャイイで制作し、シスレーも合流した。戸外で『日傘のリーズ』を制作した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ルノワールは、1868年、バジールがバティニョール地区(英語版)のラ・ペ通り(1869年12月にラ・コンダミンヌ通り(フランス語版)に改称)に借りたアトリエに一緒に移った。ラ・コンダミンヌ通りのアトリエは、エドゥアール・マネが通うカフェ・ゲルボワからすく近くの場所であった。後の印象派の画家たちは、カフェ・ゲルボワに集まり、「バティニョール派」と呼ばれていた。1868年のサロンには、『日傘のリーズ』が入選した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1869年のサロンには、『夏・習作』が入選した。この年の夏には、ルーヴシエンヌに引っ越していた両親の家に滞在していたが、モネも近くのブージヴァルに滞在していた。モネは、金も絵具もない絶望的な状況に陥っていたが、ルノワールは、度々モネの家を訪れ、家からパンを持っていってやったりした。ルノワールは、モネとともに、パリ郊外の行楽地ラ・グルヌイエールでキャンバスを並べ、それぞれ作品を制作した。2人は、この頃を機に、パレット上で絵具を混ぜず、絵具を小さな筆触で画面上に置く筆触分割の手法を編み出しており、印象派の誕生を告げる出来事と言われる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1870年のサロンには、リーズをモデルとした『浴女とグリフォンテリア』が入選した。女性のポーズは古代ギリシャのアフロディテに似ているが、クールベの写実主義の影響も指摘される。もう1点入選した『アルジェの女』は、ドラクロワの『アルジェの女たち』へのオマージュで、アルジェの女に扮したパリの女を描いたものであった。これまでバティニョール派への評価を避けてきた批評家アルセーヌ・ウーセイ(英語版)も、『ラルティスト』誌にモネとルノワールを擁護する評論を発表し、「ルノワール氏を入選させたのは良い判断である。堂々たる色彩を扱う気質が、ドラクロワが描いたかのような『アルジェの女』に、素晴らしく表れている。」と書いている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1870年7月、普仏戦争が勃発すると、ルノワールは第10騎兵部隊に配属されたが、1871年3月、動員が解除された。赤痢にかかり、生命まで危ぶまれたが、おじがボルドーに引き取ってくれ、回復したようである。ルノワールがパリに戻ると、パリ・コミューンによる動乱の真っ只中であった。ルノワールは、セーヌ河岸で制作していたところ、パリ・コミューンの兵士から、第三共和政政府のスパイと勘違いされて逮捕された。連行される途中、知り合いだったパリ警視総監ラウル・リゴー(フランス語版)が通りがかって身元が判明し、釈放された。その上、リゴーに通行許可証を出してもらい、パリ・コミューンの動乱期に防衛線を越えてルーヴシエンヌの両親の家と行き来することができた。フランスに残っていたシスレーと、ルーヴシエンヌやマルリーで一緒に制作した。「血の1週間」の最中の5月23日夜、コミューン政府はセーヌ河岸の建物に火を放ったが、ルノワールは、ルーヴシエンヌの水道橋から、炎上するパリ市街を暗澹たる思いで見ていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "普仏戦争では、友人バジールが戦死した。また、モネやピサロはロンドンに渡って画商ポール・デュラン=リュエルと知り合うなど、バティニョール派の画家たちにとっては一つの転機が訪れた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "第三共和政になってからのサロンは、保守性を増した。ルノワールは、1872年のサロンに『騎兵』と『アルジェリア風のパリの女たち』を応募したが、落選した。1873年のサロンには『ブーローニュの森の朝の乗馬』と『肖像画』を応募したが、これも落選し、この年5月から開かれた落選展に『ブーローニュの森の朝の乗馬』を出品した。この作品には好意的な批評と批判的な批評が出たが、エドガー・ドガの友人アンリ・ルアールが購入してくれた。また、ドガが、批評家テオドール・デュレに『日傘のリーズ』を勧めてくれ、デュレが1200フランで購入してくれた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "モネやピサロを介してバティニョール派の画家たちを知るようになったデュラン=リュエルも、彼らの作品を購入するようになった。1872年3月には、ルノワールとも会った。しかし、この頃は、他のバティニョール派のメンバーと比べ、ルノワールにはそれほど注目しておらず、1872年の購入額は500フラン、1873年の購入額は100フランにとどまっている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "なお、以前ルノワールが交際していたリーズ・トレオは、1872年4月、若い建築家と結婚した。ルノワールは、お祝いに彼女の肖像画を贈ったが、その後会うことはなかったようである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "少しずつ愛好家が増えてきたことで、1873年秋、パリ9区のサン=ジョルジュ通り(フランス語版)に広いアトリエ兼住居を借りることができた。すぐ近くにはドガのアトリエもあった。サン=ジョルジュ通りには、ジャーナリスト志望だった弟のエドモン・ルノワールが同居し、財務省官吏ジョルジュ・リヴィエール、音楽家カバネル、画家志望のフレデリック・コルデー(フランス語版)、フラン=ラミ、ロートなど、ルノワールの友人たちもここを訪れた。ルノワールがポンヌフを通る群衆を描いた時、弟エドモンは、通行人に声をかけて足止めさせ、兄が通行人のスケッチをしやすいようにした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また、モネは、1871年からアルジャントゥイユにアトリエを構えたが、ルノワールは、1873年から1875年にかけて、モネのもとを度々訪問し、一緒に制作して風景画の傑作を生み出した。ルノワールは、戸外制作をするモネの姿も描いている。この時期、モネ、ルノワール、シスレーらは、アルジャントゥイユで共に制作する中で、筆触分割を用いて自然の一瞬の姿をキャンバスに写し取るための統一した様式を生み出した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "この頃、モネやピサロを中心に、サロンから独立したグループ展の構想が具体化しつつあった。ルノワールも、規約について意見を述べている。1874年1月17日、「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社(フランス語版)」の規約が発表された。審査も報奨もない自由な展覧会を組織することなどを目標として掲げ、その設立日は1873年12月27日とされている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "そして、サロン開幕の2週間前である同年4月15日に始まり、5月15日までの1か月間、パリ・キャピュシーヌ大通り(英語版)の写真家ナダールの写真館で、この共同出資会社の第1回展が開催された。後に「第1回印象派展」と呼ばれる歴史的展覧会であり、画家30人が参加し、展示作品は合計165点ほどであった。展覧会カタログは、弟エドモンが制作した。展覧会の構成は、主にルノワールが取り仕切った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ルノワールは、7点を出品し、『踊り子』、『桟敷席』、『パリジェンヌ(青衣の女)』など風俗画5点、風景画1点、静物画1点であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "しかし、第1回展は、世間から厳しい酷評にさらされた。第1回展の開会後間もない4月25日、『ル・シャリヴァリ(英語版)』紙上で、評論家ルイ・ルロワが、この展覧会を訪れた人物が余りにひどい作品に驚きあきれる、というルポルタージュ風の批評「印象派の展覧会」を発表した。その中で、ルノワールの『踊り子』について、作者を「ギヨマン」と誤記しているが、人物が背景に溶け込むような不明瞭な輪郭を批判している。この文章がきっかけで、「印象主義」「印象派」という呼び名が世に知られるようになり、次第にこのグループの名称として定着し、画家たち自身によっても使われるようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1874年の第1回印象派展終了後、モネ、ルノワール、マネ、シスレー、カイユボットは、アルジャントゥイユに集まり、共に制作した。モネとルノワールは、同じ構図・モチーフで『アルジャントゥイユの帆船』を制作しているが、モネが現実から抽出した要素をパターン化して表現しているのに対し、ルノワールは現実の情景をより忠実に描いており、また、人物が強調されており、2人の個性の違いを示している。モネの回想によれば、1874年、マネとルノワールが、アルジャントゥイユのモネの家で、モネの妻カミーユと息子ジャンを一緒に描いたことがあったが、マネは、モネに、「あの青年には才能がない。君は友人なら、絵を諦めるように勧めなさい。」と言ったという。もっとも、マネは、心からルノワールを賞賛していたので、このエピソードは、ルノワールと競い合ったマネの苛立ちを表したものにすぎないとも指摘されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "同年(1874年)12月17日、サン=ジョルジュ通りのルノワールのアトリエで、共同出資会社の総会が開かれ、債務清算のため共同出資会社を解散することが決まった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ルノワールは、1875年初め、『婦人と2人の娘』の肖像画の依頼を1200フランで受けた。このことがきっかけで、競売場オテル・ドゥルオ(英語版)での競売会を思い付き、モネ、シスレー、ベルト・モリゾを誘って、同年3月24日、競売会を開いた。ルノワールは、20点を出品した。参加者の嘲笑を浴び、結果は芳しくなかったが、デュラン=リュエルは、ルノワールの2点を含む18点を購入している。また、収集家で出版業者のジョルジュ・シャルパンティエ(フランス語版)は、ルノワール3点を購入している。税官吏ヴィクトール・ショケも、競売会を見て、ルノワールに妻の肖像画を依頼した。こうしてルノワールとショケの間には友情が生まれ、ルノワールはショケをセザンヌやモネに紹介した。シャルパンティエ夫妻もルノワールの重要なパトロンとなり、ルノワールは、シャルパンティエの家で、ギ・ド・モーパッサン、エミール・ゾラといった文学者や、各界の名士、後に絵のモデルを務める女優ジャンヌ・サマリーとも知り合った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "並行して、1875年のサロンにも応募したが、落選した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "この頃、ルノワールは、絵の売上げが増えてきたことで、サン=ジョルジュ通りのアトリエのほかに、モンマルトルのコルトー通りにも庭付き一軒家のアトリエを借りることができた。そこで、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』の制作に取り掛かった。サン=ジョルジュ通りのアトリエには、相変わらず、リヴィエール、エドモン・メートル(フランス語版)、テオドール・デュレ、ヴィクトール・ショケといった友人たちが集まった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1876年2月になり、ルノワールは、親友アンリ・ルアールとともに、ギュスターヴ・カイユボットに宛てて、第2回グループ展の開催を提案している。ルノワールが熱心だったのは、前年のオテル・ドゥルオでの競売会が不調だったこと、サロンにも落選したこと、マネのサロン入選作も激しい非難に遭ったことなどが理由と考えられる。ショケもこれを後押しした。そして、3月-4月、デュラン=リュエルの画廊で第2回印象派展が開かれた。ルノワールは、『習作』(『陽光の中の裸婦』)など18点を出品した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "批評家アルベール・ヴォルフ(英語版)は、「パリ暦」と題する文章で印象派を酷評した上、ルノワールについて次のように書いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "これは、ルノワールの『陽光の中の裸婦』に対する批評であるが、ルノワールが、戸外で肌に落ちる影を紫色や緑色を使って表現したのに対し、物の固有色を重視するアカデミズム絵画の立場からは理解されず、腐敗しているようにしか見えなかったことを示している。他方、エミール・ゾラは、ルノワールの肖像画を賞賛した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1877年、第3回印象派展が開かれた。カイユボットが中心となって推進し、ドガ、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレー、モリゾ、セザンヌが賛同した。ルノワールは、モネ、ピサロ、カイユボットとともに展示委員を務めた。ルノワールが出品した21点の中でも、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』は特に注目を集めた。ムーラン・ド・ラ・ギャレットは、モンマルトルの丘の中腹にある舞踏場で、庶民の憩いの場所であった。巨大な作品であったため、アトリエから舞踏場まで、友人たちがキャンバスを運んだという。美術批評家ジョルジュ・リヴィエールは、ルノワールの勧めにより、第3回展参加者らを紹介する小冊子『印象派』を刊行した。リヴィエールは、その中で、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』について、「この作品は、サロンを賑わす芝居がかった物語画(歴史画)に匹敵する現代の真の物語画である」と述べた。この絵はカイユボットが買い取ってくれたが、全体的には展覧会の売れ行きは不調であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "第3回印象派展最終日の1877年5月28日、オテル・ドゥルオで、カイユボット、ピサロ、シスレーとともに競売会を開いたが、その成果も芳しくなかった。そうした中、シャルパンティエ夫妻のほかに、実業家ウジェーヌ・ミュレ、医師ポール・ガシェ、作曲家エマニュエル・シャブリエなどの愛好家の支援が頼みであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "マネやドガら、カフェ・ゲルボワの常連は、カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌで飲むことが増えた。グループ展のメンバーには、パリを離れる者が多かったが、パリに残ったルノワールは、サン=ジョルジュ通りとモンマルトルのアトリエの間にカフェがあったこともあり、頻繁に顔を出した。ルノワールは、この頃、工芸品への興味を持っており、カフェでも、19世紀に美しい家具や時計を制作できる人がいないことに文句を漏らしていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ルノワールは、シャルパンティエの勧めもあって、1878年のサロンに応募した。「グレールの弟子」として応募した『一杯のショコラ』が入選した。このことは、シスレー、セザンヌ、モネのサロン応募を誘発することになるが、ドガは、印象派展参加者はサロンに応募すべきでないという主張を持っており、印象派グループの中での考え方の違いが深刻になってきた。当時のサロンは、一般大衆にとって作品の評価を保証する存在であり、労働者階級出身で経済的に苦しいルノワールには、サロンに入選して作品が売れることが切実な問題であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1878年5月、テオドール・デュレは、『印象派の画家たち』と題する小冊子を出版し、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ベルト・モリゾの5人を印象派グループの先導者として選び出し、解説を書いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1879年のサロンには、2点が入選した。そのうち女優ジャンヌ・サマリー(英語版)の立像は注目されなかったが、『シャルパンティエ夫人とその子どもたち(フランス語版)』は、目立つ場所に展示され、称賛を受けた。これは、モデルのシャルパンティエ夫人の知名度によるところが大きかったと考えられる。画中のシャルパンティエ夫人は、黒いドレスを着ており、それまでの印象派の美学に対する挑戦であった。一時的に戸外制作もやめていた。ピサロは、支援者ウジェーヌ・ミュレ(フランス語版)への手紙の中で、「ルノワールはサロンで大成功を収めました。彼はついにやったと思います。それはとても結構なことです。貧乏はとても辛いですから。」と書いている。シャルパンティエ家でこの絵を見たマルセル・プルーストもその優美さを称賛した。その頃から、肖像画の注文が増えてきた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "その年の4月には、ドガが中心となって第4回印象派展が開かれたが、ドガの主張により、サロンに応募する者は参加させないこととされ、展覧会の名称も「独立派(アンデパンダン)展」とされた。サロンに応募していたルノワールは参加せず、セザンヌやアルマン・ギヨマンも同様の理由で参加しなかった。モネも、当初サロン応募に傾いていたが、カイユボットの説得によって参加を決めた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "その年の6月、シャルパンティエ夫妻が、創刊した「ラ・ヴィ・モデルヌ(フランス語版)」誌のギャラリーで、ルノワールのパステル展を開いた。これと併せて、弟エドモンが、「ラ・ヴィ・モデルヌ」誌に、兄の作品を包括的に紹介した記事を載せた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1879年、ルノワールは、モデルをしていた女性マルゴを病気で亡くし、落ち込んでいた。同年夏、シャルパンティエを通じて知り合った友人の収集家ポール・ベラールがディエップ近くのヴァルジュモンに持つ地所を訪れ、親しく交友するようになった。ヴァルジュモンからパリに戻った頃、サン=ジョルジュ通りの大衆食堂で、お針子をしていた女性アリーヌ・シャリゴ(スペイン語版)と出会った。アリーヌは、ルノワールの絵のモデルをするようになり、同棲を始めた。しかし、ルノワールは、労働者階級出身のアリーヌとの交際を周囲にはひた隠しにしていた", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1880年のサロンは、芸術アカデミーが主催する最後のサロンであった。ルノワールは、2点が入選した。この年には、ルノワールだけでなくモネも、印象派展(第5回展)を離脱してサロンに応募した。ルノワールは、サロンの門戸を広げる改革案を公表したが、注目されるには至らなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1881年初頭から、経済的危機を脱したデュラン=リュエルが、ルノワールの作品を定期的に購入し始めた。ルノワールは、この年3月から4月にかけて、アルジェリアに旅行した。ここでドラクロワを魅了した色彩豊かなオリエントに惹かれ、ドラクロワに倣い、『モスク』を描いた。ルノワールは、旅行先のアルジェから、デュラン=リュエルに宛てて、サロンに応募する理由について次のように書いている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "同年(1881年)夏には、ヴァルジュモンにあるポール・ベラールの別荘で過ごし、近くのプールヴィル(英語版)、ヴァランジュヴィル=シュル=メール、ディエップを訪れた。1881年のサロンは、アカデミーからフランス芸術家協会に移管されて初めてのサロンであった。ルノワールは、『ピンクと青、カーン・ダンヴェール家のアリスとエリザベート』と肖像画1点を入選させた。第6回印象派展には参加していない。かつての印象派グループは、ピサロを中心としたグループ、ドガを中心としたグループ、そして今や印象派展を離脱してサロンに戻ったルノワール、モネ、シスレー、セザンヌらのグループの三つに分裂していた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "同年(1881年)10月、ルノワールは、突然イタリアに旅立ち、まずヴェネツィアに滞在した。その地から、シャルパンティエ夫人に、「私はラファエロの作品を見たいという願望に取り憑かれました。」と書いている。そして、11月21日には、ナポリからデュラン=リュエルに、「私はローマでラファエロの作品を見てきました。非常に素晴らしい。私はそれをもっと早く見ておくべきでした。......私は油彩画ならドミニク・アングルが好きです。しかしラファエロのフレスコ画には、驚くべき単純さと偉大さがあります。」と書き送っている。ルノワールは、当初は、ラファエロを模倣するアカデミズム絵画を侮蔑しており、冷やかしのために見に行ったようだが、ローマのバチカン宮殿「署名の間」やヴィラ・ファルネジーナの『ガラテアの勝利』を見て感動した。なお、この時のイタリア旅行には、アリーヌ・シャリゴも同行した。カプリでアリーヌをモデルにして制作した『ブロンドの浴女』の左手薬指には、指輪がはめられている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1882年1月には、友人から紹介状をもらってパレルモで作曲家リヒャルト・ワーグナーに会い、短時間でその肖像画を描いた。その後、パリに戻る予定を変更し、マルセイユ郊外のエスタックにポール・セザンヌを訪ね、共に制作した。2月初め、エスタックで風邪を引いて肺炎を起こし、療養した。そのような折、カイユボットとデュラン=リュエルから、第7回印象派展への参加を促す手紙が届いた。ルノワールは、デュラン=リュエルに次のように回答している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "第7回印象派展は、内紛の末、デュラン=リュエルが仲介して1882年3月に開催にこぎつけたが、出品作品の大半がデュラン=リュエルの所蔵品であった。ルノワールの出品作は、デュラン=リュエルが選定した25点で、うち9点がヴェネツィアやアルジェ、セーヌ川の風景画、5点が静物画、その他は風俗画である。批評家フィリップ・ビュルティは、ヴェネツィアとアルジェの太陽の光にあふれた風景画、そして『扇を持つ女性』を絶賛した。他方、大作『舟遊びをする人々の昼食』は、この展覧会ではそれほどの評価を得られなかった。『舟遊びをする人々の昼食』では、テーブル上の静物や、遠景のセーヌ川の描写は印象主義的であるが、人物の明確な輪郭線や、左下から右上に向かう構図は、この頃から古典主義への関心が強まったことを示している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1882年のサロンには『青いリボンをつけたイヴォンヌ・グランレル』、1883年のサロンには『クラピソン夫人の肖像』を入選させた。1883年4月には、デュラン=リュエルがマドレーヌ大通り(英語版)に新しく開いた画廊で、ルノワールの個展が開かれた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ルノワールは、イタリア旅行でのラファエロとの出会いを機に、ニコラ・プッサンから新古典主義に至る絵画に興味を持つようになり、色彩重視からデッサン重視に転向した。そして、1883年頃から1888年頃にかけて、写実性の強い「アングル風」の時代が訪れる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1882年末から1883年にかけて、ダンス3部作と言われる『ブージヴァルのダンス』、『田舎のダンス』、『都会のダンス』を制作した。『田舎のダンス』の女性のモデルはアリーヌ・シャリゴ、その他の2作品のモデルはシュザンヌ・ヴァラドンである。この当時、ルノワールは2人と二股の交際をしていたようで、1883年12月にシュザンヌが産んだ画家モーリス・ユトリロの父親は、ルノワールであるとする説がある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1883年4月には、デュラン=リュエルがマドレーヌ大通り(英語版)に新しく開いた画廊で、ルノワールの個展が開かれた。初期作品から近作まで約70点の中には、数多くの代表作が含まれ、印象派としてのルノワールを回顧する本格的な展覧会となった。デュラン=リュエルは、これと並行して海外での売出しを図り、ロンドンのニュー・ボンド・ストリートの画廊で開いた印象派の展覧会に、ヴェネツィアの風景画や『ブージヴァルのダンス』を含むルノワール9点を展示した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "同年(1883年)晩夏には、英領ジャージー、ガーンジーを訪れた。12月、モネとともに、新しいモティーフを探しに、地中海沿岸への短い旅に出た。モネは、この旅行について、「ルノワールとの楽しい旅は、なかなか素晴らしかったのですが、制作するには落ち着きませんでした。」と述べている。2人の関心が変化したこともあり、かつてのように共同制作から成果を得る手法は難しくなったことを示している。ポール・ベラールの別荘に招かれてその娘たちを描いた『ヴァルジュモンの午後』を制作したが、ベラールは、ルノワールの新しい画風を好まず、この後注文をやめてしまった。そのほかにも多くのパトロンが離れ、この時期ルノワールの絵は全く売れなくなってしまった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1885年3月、アリーヌとの間に、後に俳優となる長男ピエール・ルノワール(英語版)が生まれた。その後、母子の健康のためと経済的理由から、一家は、ジヴェルニーに近いラ・ロシュ=ギュイヨン(英語版)に移った。この地から、デュラン=リュエルに宛てて、「私は昔の絵の柔らかい優美な描き方を、これから先再び取り入れていくことにしました。......新しさは全然ありませんが、18世紀の絵画を引き継ぐものです。」と書いている。同年秋、妻アリーヌの故郷エソワ(英語版)を初めて訪れ、その後もこの地を気に入って度々訪れている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "デュラン=リュエルは、1886年4月、ニューヨークで「パリ印象派の油絵・パステル画展」を開き、ルノワールの作品38点もその中に含まれていた。この展覧会は、アメリカの収集家が印象派に関心を持ち始める契機となった。同じ年、最後のグループ展となる第8回印象派展が開かれたが、画商ジョルジュ・プティの国際美術展に参加を決めていたモネ、ルノワールは参加しなかった。また、モネとともに、ブリュッセルの20人展にも参加した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1886年頃から、ベルト・モリゾがパリの自宅で友人らを招いて夜会を催すようになったが、ルノワールはその常連客となった。また、モリゾを通じて、詩人ステファヌ・マラルメと知り合い、親交を深めた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1887年までにかけて、それまでに制作した女性裸体画の集大成として『大水浴図』を制作した。ルノワールは、それまでの制作方法と異なり、この作品のためにデッサンや習作を重ねた。作品の中には、明確な輪郭線となめらかな表面の部分と、筆触を残して色彩を強調した部分とが混在している。彼は、この作品を1887年のジョルジュ・プティの展覧会に出品した。ピサロは、「彼の試みは理解できます。同じところに留まっていたくないのは分かりますが、線に集中しようとしたために色彩への配慮がなく、人物が1人1人ばらばらです。」と評したが、一般大衆の評価はむしろ好意的だった。フィンセント・ファン・ゴッホもこの作品を高く評価した。ルノワールは、デュラン=リュエルに、「私は、大衆に認めてもらえる一段階を、小さな一歩ではありますが、進んだと思っています。」と書いている。ただ、『大水浴図』には買い手がつかなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1888年初めには、エクス=アン=プロヴァンスのジャス・ド・ブッファン別荘(英語版)にセザンヌを訪れ、一緒に制作した。ルノワールは、この年、激しい神経痛に見舞われるようになった。再び自分の作品に不満を持つようになり、美術批評家のロジェ・マルクス(フランス語版)に「私は、自分がこれまでに行ってきた全てを駄目だと感じており、それが展示されているのを見るのは、私にとって最も辛いことです。」と書き、パリ万国博覧会への展示に難色を示している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1890年には、レジオンドヌール勲章の授与を打診されたが、辞退している。また、この年、7年ぶりにサロンに出品し、これを最後にサロンから引退した。この年、アリーヌと正式に結婚した。同年頃、ルノワール一家は、モンマルトルの丘のジラルドン通り(フランス語版)にある「ラ・ブルイヤール(霧の館)」に引っ越した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1890年代初頭には、農作業をする女性や、都会の女性の牧歌的な情景を好んで描いた。そこでは、1880年代のようなはっきりした輪郭線はないが、かといって印象派の時代とも違い、人物がしっかりしたボリューム感を持っている。裸婦も好んで描いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1892年、美術局長官アンリ・ルージョンから、リュクサンブール美術館で展示すべき作品の制作依頼を受け、『ピアノに寄る少女たち』の油彩画5点、パステル画1点を集中的に制作した。これには、詩人ステファヌ・マラルメ、美術批評家ロジェ・マルクスの働きかけがあった。油彩画5点のうち、現在オルセー美術館に収蔵されている作品が、4000フランで政府買上げとなったもので、全体が暖かい色調で統一されている。同じ年、デュラン=リュエル画廊でルノワールの回顧展が開かれ、好評を博した。この頃、歯科医ジョルジュ・ヴィオー、仲買商人フェリックス=フランソワ・ドポー、劇場経営者ポール・ガリマール(フランス語版)など新しい愛好家も増えてきた。ルノワールは、同じ1892年、ポール・ガリマールに誘われてマドリードに旅行し、プラド美術館でディエゴ・ベラスケスの作品に感銘を受けた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "1894年、アリーヌとの間に、後に映画監督となる二男ジャン・ルノワールが生まれた。この年、アリーヌの遠縁の女性ガブリエル・ルナール(英語版)が、ルノワールの家のメイドとして働き始め、ジャンの世話をするだけでなく、ルノワールの絵のモデルも務めた。1896年の『画家の家族』には、「ラ・ブルイヤール」の庭先に、長男ピエールとその母親アリーヌ、幼いジャンとそれを支えるガブリエル、隣家の少女が勢揃いしているところが描かれている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "1894年2月、カイユボットが亡くなったが、カイユボットは、その遺言で、マネや印象派の作品68点をリュクサンブール美術館に、後にルーヴル美術館に収蔵すべく遺贈しており、その遺言執行者としてルノワールを指名していた。そのため、ルノワールは、この遺言実現のため奔走することになった。しかし、保守的な美術界や世論は、コレクションの受入れに反対し、大きな論争となった。結局、1896年、コレクションの一部がリュクサンブール美術館に収蔵されることで妥協が成立した。ルノワールの作品は8点中6点が受け入れられた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1897年、自転車から落ちて右腕を骨折し、これが原因で慢性関節リウマチを発症した。その後は、療養のため冬を南フランスで過ごすことが多くなった。1899年、友人の画家ドゥコンシーの勧めで、カーニュ=シュル=メールのサヴルン・ホテルに滞在し、この町に惹かれるようになった。そして、パリ、エソワ、カーニュの3箇所を行き来するようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "1900年、パリ万国博覧会の「フランス絵画100周年記念展」にルノワールの作品11点が展示された。同年8月、レジオンドヌール勲章5等勲章を受章した。これも同じ年、ベルネーム=ジューヌ画廊で大規模な個展を開催した。ベルネーム=ジューヌ兄弟は、1890年代初めから、積極的に印象派の作品を扱い、ルノワールとも親交を築いており、1901年と1910年にはルノワールがベルネーム=ジューヌの家族の肖像画を描いている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "1901年、エソワで、アリーヌとの間に、三男クロードが生まれた。その頃、リューマチで階段を上がるのも難しくなったことから、モンマルトルのコーランクール通り(フランス語版)に移った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "1903年、南仏カーニュ=シュル=メールで、郵便局のある建物(ヴィラ・ド・ラ・ポスト)に住むようになった。子煩悩なルノワールは、これまでも、長男ピエール、二男ジャンをモデルに多くの作品を描いてきたが、三男クロード(愛称ココ)が生まれてからは、クロードの成長記録のように更に多くの作品のモデルとした。また、ルノワールは、晩年、リヨン出身の画家アルベール・アンドレ(英語版)を息子のように愛し、アンドレはエソワやカーニュのルノワール邸を頻繁に訪れた。彼は、晩年のルノワールの姿を数多く描くとともに、1919年、ルノワールの言行を記した『ルノワール』を刊行した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ルノワールは、1904年のサロン・ドートンヌでは一室を与えられ、1905年には、サロン・ドートンヌから名誉総裁の称号を授与された。1906年、メトロポリタン美術館がルノワールの『シャルパンティエ夫人とその子どもたち』を購入した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "1907年、カーニュ=シュル=メールのレ・コレットに別荘を買い、晩年をここで過ごした。しかし、リューマチが悪化し、1910年夏にミュンヘンに旅行したものの、帰国後、歩くことができなくなり、車椅子での生活となった。ジャンの回想によれば、レ・コレットには、モーリス・ドニ、ポール・シニャック、ピエール・ボナール、アンドレ・ドラン、アンリ・マティス、パブロ・ピカソなど、若い画家が毎日のように訪れてきていたという。1906年にアリスティド・マイヨールがルノワールの胸像を制作したことを機に彫刻に興味を持ち始め、画商ヴォラールの勧めで彫刻を手がけるようになった。1913年以降は、マイヨールの弟子リシャール・ギノ(英語版)が、ルノワールのデッサンと指示に基づいていくつもの彫刻作品を生み出した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "1911年10月、レジオンドヌール勲章4等勲章を受章した。1912年、手術を受けたが、良い結果にはならなかった。この年、デュラン=リュエルがカーニュを訪れ、椅子から立ち上がることもできないルノワールの様子を見るが、「描く時は、かつてと変わらない、上機嫌で、幸福な彼を見ることができた。」と語っている。動かない手に絵筆を縛り付けたルノワールの写真が残っている。アルベール・アンドレによると、縛り付けた絵筆は制作中は外せないため、絵具を変える度に絵筆を洗わなければならず、画面とパレットと筆洗との間を慌ただしく行き来するうちに、腕は疲労で硬直していたという。こうした苦闘の中から、歓喜に満ちた作品を生み出していった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "1914年、息子ピエールとジャンが出征し、負傷した。1915年、妻アリーヌは、負傷したジャンを見舞いに行った帰り、糖尿病が悪化して56歳で亡くなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "1919年2月、レジオンドヌール勲章3等勲章を受章した。その年、ルーヴル美術館が『シャルパンティエ夫人の肖像』を購入し、ルノワールは、美術総監に招かれ、自分の作品が憧れの美術館に展示されているのを見ることができた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "同年12月3日、カーニュのレ・コレットで、肺充血で亡くなった。ルノワールは、死の数時間前、花を描きたいからと言って筆とパレットを求め、これを返す時、「ようやく何か分かりかけてきたような気がする。」とつぶやいたという。もっとも、この伝説の出所は不明であり、デュラン=リュエルによれば、「私はもうだめだ。」とつぶやいたという。長男ピエールによれば、「2日にわたり肺の鬱血に襲われたが、心臓が止まった時には回復していた。彼の最後の瞬間はかき乱され、半ば無意識の一時的錯乱状態でよくしゃべったが、直接彼に話しかけると大丈夫だと答えた。それから彼はまどろみ、約1時間後に呼吸は止まった。」という。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "ルノワールの訃報を聞いたモネは衝撃を受け、「とてもつらい。私だけが残ってしまったよ。仲間たちの唯一の生き残りだ。」と友人に書いている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "ルノワールのカタログ・レゾネ(作品総目録)は、編集作業が始まったところであるが、作品数は4000点を下らないだろうと言われている。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "画家を志してシャルル・グレールの画塾に入った当初は、サロン風の絵を描く平凡な画学生にすぎなかった。しかし、「エスメラルダ」で初めてサロンに入選した頃から、モネたち友人や、ドラクロワの影響もあり、暗い色を払拭し、色彩画家としての本領を発揮するようになった。最初は、クールベの影響を受けた時期もあったが、1867年の『日傘のリーズ』や1868年の『婚約者たち(シスレー夫妻)』から、形態を肉付けのみで作り上げ、色彩を帯びた影を注意深く観察するなど、はっきりと個性を示すようになった。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "1869年にモネとともに『ラ・グルヌイエール』を制作した頃からは、セーヌ川やモンマルトルの風景を明るく描く印象主義的な手法を確立していった。伝統的なアカデミズム絵画は、凝った構図、写実的なデッサン、なめらかな仕上げの細部を重視しており、色彩は物の固有色を表すものであって形態に従属するものにすぎないと考えていた。それに対し、モネを代表格とする印象派は、物の固有色という固定観念を否定し、目に映る色彩をそのままキャンバスに写し取ろうとした。そのため、パレットの上で絵具を混ぜず、細かな筆触(タッチ)をキャンバスに並べることで(筆触分割)、臨場感を伝えるとともに、戸外の光の明るさを表現しようとした。それに伴って、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』に見られるように、思い切って輪郭線をぼかすという手法を選んだ。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "もっとも、この時期においても、モネとは違い、ルノワールの作品には、人物への関心の深さが表れており、陽光に照らされた明るい風景画よりも、若々しい女性の肌の上に点々と落ちかかる木漏れ日を描写することに熱意を燃やした。この時期、室内の人物画も数多く制作しており、モネが否定した黒も積極的に利用している。純粋な風景画においても、ルノワールの作品は、単に目に映る光の描写ではなく、植物の旺盛な生命力や生々しい実体に関心が向けられている。同じ『ラ・グルヌイエール』でも、ルノワールの作品では白いドレスの女性が目立ち、人々のファッションや観光地の楽しさに焦点が当たっている。自由で気楽なボヘミアン的気質も投影されている。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "印象派は、筆触分割の手法を用いて色彩の輝きを捉えようとしたが、この手法においては、はっきりした輪郭線に規定された形態を表現することは難しかった。実際、モネやシスレーは、草野や水面など、明確な形態を持たない自然の風景に主な関心を寄せ、建物を描く場合でも、ゆらめく影のように光の表現に溶け込んでおり、明確な形態は放棄されている。しかし、もともと人物、特に若い女性の健康な肉体の輝きに魅力を感じていたルノワールは、印象派のあまりに感覚主義的な態度には飽き足りなかった。ルノワールは、後に画商アンブロワーズ・ヴォラールに次のように語っている。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "戸外制作では余りに光の効果に気を取られてしまい、構成がおろそかになってしまうことにも気が付き、アトリエでの仕上げの必要性を認識した。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "印象主義からの脱却には、1881年から1882年にかけてのアルジェリア旅行・イタリア旅行で、地中海の明るい太陽とルネサンスの古典作品に触れたことが影響したと思われる。その際、画面に構成的秩序を求めたルノワールの拠り所となったのが、新古典主義の巨匠ドミニク・アングルであった。1883年頃から1880年代後半まで続く「アングル風」時代の作品は、あまりにも冷たく、ぎこちない不自然さがあると評されるが、そのような犠牲を払ってでも、形態の確立によって印象主義の危機を克服することが必要であったと考えられる。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "1881年頃から1886年頃にかけて制作された『雨傘』では、1881年頃に描かれた右側の2人の少女と2人の女性は、印象派風の軽快な筆触により表現されているのに対し、1885年頃描かれた左側の女性と男性は、明確な輪郭線が用いられており、印象主義の時代とアングル風の時代が混在している。そして、アングル風時代の総決算が、『大水浴図』である。この作品の表現は、アングルの『グランド・オダリスク』や『トルコ風呂』のように明確な形態を持っているが、反面、作り物のような冷たさがあることは否定できない。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "1890年代以降のルノワールは、「アングル風」時代の冷たさがなくなり、珊瑚色の輝く色調で、女性の温かい肉体を描き出すようになった。肌のピンクがかった赤から、バラの紫がかった赤まで、様々な赤で生き生きとした表現をしている。絵具の表面は、かつての印象主義の時代のように大気の微妙な効果を伝えるものではなく、生命のイメージを作り出すものとなっている。1892年の『ピアノに寄る少女たち』は、その最初の成果といえ、豊麗な色彩によって、通俗的ではあるが平和で暖かな雰囲気を描き、第三共和政の泰平を楽しむパリ市民の生活を映し出している。ルノワールは、「私の好きな絵画は、風景ならばその中を散歩したくなるような絵、裸婦ならばその胸や腰を愛撫したくなるような絵だ。」と語っているとおり、見る人を喜ばせるような絵を描き続けた。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "20世紀に入り、カーニュに住み始めてからは、伝統的な地中海文化への傾斜が見られる。19世紀後半にプロヴァンス地方に興った文学復興運動フェリブリージュと関わりがあるかもしれないと指摘されている。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "ルノワールは、1908年、アメリカの画家ウォルター・パッチに対し、次のように語っている。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "ルノワールは若い時貧窮に苦しみ、1875年には、1点100フランで肖像画を描かせてもらったが、それすら良い仕事であった。『桟敷席』は、1875年にようやく425フランで売れた。オテル・ドゥルオでの競売でも、『ポンヌフ』が300フランで売れたのが最高で、あとは最低額の50フランであった。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "1892年にデュラン=リュエル画廊で開いた個展が成功するとともに、『ピアノに寄る少女たち』が4000フランで政府買上げになってから、ようやく経済的に安定するようになった。若い画家たちからも、大きな関心を寄せられた。1890年代に独自の様式を生み出したルノワールに対し、モーリス・ドニは、「ルノワールは、自分の感情やあらゆる自然や夢を、自分なりの技法で表現する。彼は自らの歓喜の目で、女性と花から成る見事な花束を作り出した。」と評した。アンリ・マティスは、「セザンヌに次いで、ルノワールは、私たちを、潤いに欠けた純然たる抽象化から救っている。」と語り、パブロ・ピカソは、ルノワールを「法王」と呼んだという。ルノワールは、彼ら若手画家たちに敬愛され、影響を与えた。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "ルノワールは、晩年、レジオンドヌール勲章を授与されたり、1904年には大回顧展が開かれたりして、巨匠としての地位を確立した。1907年、メトロポリタン美術館が、『シャルパンティエ夫人とその子どもたち』を3500ポンドという空前の高値で購入した。フランス国内だけでなく、アメリカ、ドイツ、イタリア、ロシアなどで、新作・旧作のルノワール展が次々開催された。1912年には、ドイツの批評家ユリウス・マイヤー=グラーフェによる図版付き研究書が出版された。1918年頃には、ルノワールらの印象派の作品が18世紀の額縁に入れられてパリの裕福な美術愛好家の書斎に飾られるなど、ブルジョワ的価値観を体現するものとして受け入れられるようになっていた。この頃、印象派はアメリカでも確固たる地位を築き、経済的に台頭するアメリカに多くの作品が渡り、モーガン・ラッセル(英語版)の『Still-Life Synchromy with Nude in Yellow』などシンクロミズム(英語版)の作品やガイ・ペン・デュボワ(英語版)による、現代生活を題材とする絵画はルノワールの影響を受けたものとされ、フレデリック・カール・フリージキーの『木漏れ日の中のヌード』(1915年)における光と影の表現にもルノワールの影響がみられる。第1次世界大戦でフランスと敵対したドイツでさえ印象派は深く浸透しており、フランスに進駐したドイツ軍兵士は、1917年に塹壕の中で書いた日記に、フランスの風景の美しさを表現する時に「運河と並木の景色はまるでルノワールの夏の絵のようだ」と記している。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "もっとも、ルノワールは、アメリカ人が絵に物語性や感傷を持ち込みすぎることを苦々しく感じ、コレクターが絵に「物思い(ラ・パンセ)」という題名を付けたことを嘆いていた。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "ルノワール死後も作品の高騰は続き、1895年に300ポンドだった『舟遊びをする人々の昼食』は、1923年には20万ドル(5万ポンド以上)となった。この絵をデュラン=リュエル画廊で買ったアメリカのコレクター、ダンカン・フィリップス(英語版)は、「ルノワールの軽やかな陽気さは、18世紀のフランスの装飾画家たちを思わせる。この『舟遊びをする人々の昼食』の成熟した完璧さと、素晴らしい涼感の表現には、イタリア・ルネサンスの遅れてきた絶頂期を見ることができる。」と書いており、ルノワールを反逆者ではなく偉大な伝統に連なるものとして捉えている。アメリカでは1904年から1940年までの時期がルノワールの作品の影響が最も大きかった時期とされたが、以降は批評家の間の評判が下がり、以前ほどの影響力はなくなったという。2002年にサンディエゴ美術館(英語版)でルノワールの特別展が開かれたとき、ロサンゼルス・タイムズの記者リア・オルマン(Leah Ollman)はルノワールの絵画が「たびたびサッカリンの域に踏み入るほどの甘さ」と評し、批評家のジェームズ・ハネッカー(英語版)(1921年没)もルノワールをモダニズムの先駆者として評価したものの、「ルノワールは理解しにくい画家ではない」とも評した。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "1950年代以降は、絵画取引としてオークションによる取引が一般的になるとともに、印象派絵画が高騰した時代である。モネやルノワールを競落することがステータスを意味するようになった。新富裕層が印象派に魅了されたのは、魅力的な色彩や親しみやすさのほかに、オールド・マスターの作品と比べ来歴がしっかりしているという理由もあった。1950年代には、ルノワール作品は概ね1点3万ポンド前後で取引されたが、時々、10万ポンドに迫る取引が現れた。そして、1968年、実業家ノートン・サイモン(英語版)によって『学士院と芸術橋』が64万5834ポンド(155万ドル)で競落されるという記録が生まれた。1970年代には、美術市場の帝王として君臨するようになり、数多くのセールで、最高位を保ち続けた。1980年代には更に高騰して、サザビーズやクリスティーズで数百万ドルから1000万ドル台(数億円から十数億円)の落札が相次いだ。1990年5月15日には、大昭和製紙の齊藤了英がニューヨーク・クリスティーズでフィンセント・ファン・ゴッホの『医師ガシェの肖像』を史上最高値の7500万ドル(114億6000万円)で落札し、その2日後の17日、ニューヨーク・サザビーズでルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』を7100万ドル(108億8430万円)で落札したことが大きな話題となった。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "日本人で初めてルノワールの絵を買ったのは、パリで画商をしていた林忠正であった。しかし、林が購入した作品は、日本で知られることはなく、売却されてしまった。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "日本で初めてルノワールに大きな影響を受けた画家は、梅原龍三郎であった。梅原は、1908年にパリのリュクサンブール美術館を訪れた時、ルノワールの作品に感動し、1909年2月、レ・コレットのルノワールに会いに行った。その年、山下新太郎や有島生馬を連れて再訪し、彼らはルノワールから『水浴の女』を譲り受け、日本に持ち帰った。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "日本国内では、雑誌『白樺』などでルノワールが紹介され、中村彝、赤松麟作、土田麦僊などがその影響を受けた。山下が持ち帰った『水浴の女』が1912年の第4回白樺美術展で展示されたのが、日本の公衆がルノワールの絵画に触れた最初の機会であったが、この時はロダンが絶大な人気を博していたのに比べ、ルノワールへの反応は低調であった。第一次世界大戦後にルノワール人気が沸騰し、1919年にルノワールが死去すると、日本の新聞は大々的に関連記事を掲載した。中沢彦吉や岸本吉左衛門がフランスでロダンやルノワールの作品を買い集め、そのコレクションが1920年に東京と大阪の展覧会で公開されると、新聞でルノワールが熱心に取り上げられた。中村彝は、ルノワール作品に感動し、「どうしても人間を、裸体を、その生命を強調して、ナマナマしく表現し度い」と書き記し、『すわる水浴の女』の模写を制作した。一方、坂本繁二郎は物足りないと評し、岸田劉生は「ルノアルは甘いものだと思つた。画に惢がない。......中心へ行くと、綿をつかまされた様な気がする。」と批判した。この展覧会の頃が、ルノワール熱のピークとなった。また、この頃、松方幸次郎や大原孫三郎も膨大な西洋美術を収集し、その中にはルノワールの『アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)』(松方コレクションから国立西洋美術館)、『泉による女』(大原美術館)なども含まれていた。こうして日本に紹介されたルノワール作品は、印象派時代のものよりも、後期の作品が中心であり、日本人にとってのルノワールのイメージは、後期の様式を基に形成されてきた。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後は、1970年代に、広島銀行がルノワールの『パリスの審判』を購入するなど、再び西洋美術熱が到来した。1985年頃から1990年頃までのバブル景気時代には、前述のような齊藤了英による『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』の高額落札のほかにも、各地の県立美術館が競ってモネ、ルノワール、ピカソなどの作品を買い求めた。", "title": "作品" } ]
ピエール=オーギュスト・ルノワールは、フランスの印象派の画家。後期から作風に変化が現れ始めたため、ポスト印象派の画家の一人として挙げられることもある。
{{Infobox 芸術家 | name = ピエール=オーギュスト・ルノワール<br />{{Lang|fr|Pierre-Auguste Renoir}} | image = PARenoir.jpg | imagesize = | alt = | caption = 1875年頃撮影 | birthname = | birthdate = {{birth date|1841|2|25}} | location = {{FRA1830}}・[[オート=ヴィエンヌ県]][[リモージュ]] | deathdate = {{死亡年月日と没年齢|1841|2|25|1919|12|3}} | deathplace = {{FRA1870}}・[[アルプ=マリティーム県]][[カーニュ=シュル=メール]] | 墓地 = {{FRA}}・[[オーブ県]]{{仮リンク|エソワ|en|Essoyes}}共同墓地<ref>{{Cite web |url=https://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=8087 |title=Auguste Renoir |publisher=Find a Grave |accessdate=2017-04-22}}</ref> | 墓地座標 = {{Coord|48|3|27|N|4|31|41|E|type:landmark|display=inline}} | nationality = {{FRA}} | field = [[絵画]] | training = [[シャルル・グレール]]画塾、[[エコール・デ・ボザール]] | movement = [[印象派]] | works = 『[[ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会]]』、『[[舟遊びをする人々の昼食]]』 | patrons = [[ジョルジュ・シャルパンティエ]]、[[ヴィクトール・ショケ]]、[[テオドール・デュレ]]、[[ポール・ベラール]]、[[ポール・デュラン=リュエル]]、[[アンブロワーズ・ヴォラール]]<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 44-45)]]。</ref> | influenced by = 18世紀[[ロココ]]絵画、[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]、[[クロード・モネ|モネ]]、[[ドミニク・アングル|アングル]] | influenced = | awards = [[レジオンドヌール勲章]]3等(コマンドゥール) | website = }} '''ピエール=オーギュスト・ルノワール'''({{Lang|fr|Pierre-Auguste Renoir}} <small>[https://ja.forvo.com/word/pierre-auguste_renoir/#fr 発音例]</small>、[[1841年]][[2月25日]] - [[1919年]][[12月3日]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/ピエール・オーギュスト+ルノアール-1635594 |title = 20世紀西洋人名事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-02-10 }}</ref>)は、[[フランス]]の[[印象派]]の[[画家]]。後期から[[wikt:作風|作風]]に変化が現れ始めたため、[[ポスト印象派]]の画家の一人として挙げられることもある。 == 概要 == {| border="0" align="left" cellpadding="7" cellspacing="0" style="margin: 0 0 0 0; background: #f9f9f9; border: 0px #aaaaaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 090%;" |<div style="position: relative">[[ファイル:France map Lambert-93 with rivers and regions-blank.svg|300px|center|フランスの地図]] <!-- --------------------------------------------------------------------------------- 国 --> <div style="position:absolute;font-size:100%;left:135px;top:161px">'''{{LinkColor|grey|フランス}}'''</div> <div style="position: absolute;font-size:80%;left:045px;top:010px">'''{{LinkColor|grey|イギリス}}'''</div> <div style="position:absolute;font-size:90%;left:160px;top:0px">'''{{LinkColor|grey|オランダ}}'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;right:013px;top:020px">'''{{LinkColor|grey|ドイツ}}'''</div> <div style="position:absolute;font-size:90%;left:160px;top:020px">'''{{LinkColor|grey|ベルギー}}'''</div> <div style="position:absolute;font-size:70%;left:230px;top:115px">'''{{LinkColor|grey|スイス}}'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:250px;top:160px">'''{{LinkColor|grey|イタリア}}'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:015px;top:220px">'''{{LinkColor|grey|スペイン}}'''</div> <!-- --------------------------------------------------------------------------------- 都市 --> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:137px;top:68px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[パリ]]'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:117px;top:148px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[リモージュ]]'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:180px;top:88px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[エソワ]]'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;right:60px;top:205px">'''[[カーニュ=シュル=メール]]'''[[ファイル:Red pog.svg|8px]]</div> <!-- --------------------------------------------------------------------------------- 海 --> <div style="position:absolute;font-size:90%;left:190px;top:250px">''[[地中海]]''</div> </div> |} ルノワールは、[[1841年]]、フランス中南部の[[リモージュ]]で貧しい仕立屋の息子として生まれ、[[1844年]](3歳)、一家でパリに移り住んだ。聖歌隊に入り、美声を評価されていた。[[1854年]](13歳)、[[磁器]]の絵付職人の見習いとなったが、[[1858年]](17歳)、失業した。その後は扇子の装飾など職人としての仕事を手がけていた(→''[[#出生、職人時代|出生、職人時代]]'')。 [[1861年]](20歳)、画家になることを決意して[[シャルル・グレール]]の画塾に入り、ここでモネ、シスレー、バジールら画家仲間と知り合った。フォンテーヌブローの森で一緒に写生もしている(→''[[#画塾時代(1860年代初頭)|画塾時代(1860年代初頭)]]'')。[[1864年]](23歳)、[[サロン・ド・パリ]]に初入選し、以後度々入選している。経済的に苦しい中、親友バジールのアトリエを共同で使わせてもらった時期もあった。[[1869年]](28歳)、[[ルーヴシエンヌ]]の両親の家に滞在している時、モネとともに行楽地ラ・グルヌイエールでキャンバスを並べ、印象派の特徴の一つである[[筆触分割]]の手法を生み出していった(→''[[#サロンへの挑戦(1863年 - 1870年)|サロンへの挑戦(1863年 - 1870年)]]'')。[[1870年]](29歳)、[[普仏戦争]]が勃発し、騎兵隊に従軍したが、[[1871年]](30歳)、[[パリ・コミューン]]の動乱に揺れるパリに戻った。スパイと間違われ、一時逮捕される出来事もあった(→''[[#普仏戦争(1870年 - 1871年)|普仏戦争(1870年 - 1871年)]]'')。 パリ・コミューン終息後のサロンは保守性を増し、ルノワールや仲間の画家たちは落選が続いた。こうしたこともあって、モネやピサロとともに、共同出資会社を設立し、[[1874年]](33歳)、サロンから独立したグループ展を開催した。後に「第1回印象派展」と呼ばれる展覧会である。写実性と丁寧な仕上げを重視するアカデミズム絵画が規範であった当時、新しい表現を志したグループ展は、世間から酷評にさらされ、経済的にも成功しなかった(→''[[#第1回印象派展まで(1871年 - 1874年)|第1回印象派展まで(1871年 - 1874年)]]'')。[[1876年]](35歳)には第2回展に参加、[[1877年]](36歳)には第3回展に参加して大作『[[ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会]]』を出したが、これらも厳しい評価を受けた。その一方で、[[ヴィクトール・ショケ]]、[[ジョルジュ・シャルパンティエ]]といった愛好家も獲得していき、特にシャルパンティエ夫妻はルノワールの重要なパトロンとなった(→''[[#第2回・第3回印象派展(1875年 - 1877年)|第2回・第3回印象派展(1875年 - 1877年)]]'')。 [[1878年]](37歳)、経済的見通しを重視してサロンに再応募し、入選した。その後サロンへの応募・入選を繰り返し、一方で第4回から第6回までの印象派展からは離脱した。私生活では、[[1879年]](38歳)頃、未来の妻となるアリーヌと知り合い、交際を始めた(→''[[#サロンへの復帰(1878年 - 1880年)|サロンへの復帰(1878年 - 1880年)]]'')。この頃、形態が曖昧になりがちな印象派の技法に限界を感じていたところ、[[1881年]](40歳)の時に[[アルジェリア]]、次いで[[イタリア]]に旅し、特に[[ローマ]]で[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]の作品に触れて大きな感銘を受けた。画商[[ポール・デュラン=リュエル]]の奔走を受けて1882年(41歳)の第7回印象派展に『[[舟遊びをする人々の昼食]]』などを出すが、この頃から明確な輪郭線が現れ始め、古典主義への関心が強まっている(→''[[#アルジェリア旅行・イタリア旅行(1880年代初頭)|アルジェリア旅行・イタリア旅行(1880年代初頭)]]'')。そして、[[1883年]](42歳)頃から[[1888年]](47歳)頃にかけて、デッサン重視で冷たい「[[ドミニク・アングル|アングル]]風」の時代が訪れ、その集大成として『[[大水浴図 (ルノワールの絵画)|大水浴図]]』を制作した(→''[[#古典主義への回帰(1880年代半ば - 後半)|古典主義への回帰(1880年代半ば - 後半)]]'')。 1890年代以降は、「アングル風」を脱し、温かい色調の女性裸体画を数多く制作している。評価も定まり、『[[ピアノに寄る少女たち]]』が政府買上げになったり、勲章を授与されたりしている。私生活では、アリーヌと正式に結婚し、子にも恵まれた(→''[[#評価の確立(1890年代)|評価の確立(1890年代)]]'')。関節リウマチの療養のためもあって、南仏で過ごすことが多くなり、1900年代から晩年までは、[[カーニュ=シュル=メール]]で過ごし<ref>{{Cite book|和書 |author= 布施英利|authorlink=布施英利 |year = 2015 |title = パリの美術館で美を学ぶ ルーブルから南仏まで |publisher = [[光文社]] |page = 184 |isbn = 978-4-334-03837-3}}</ref>、リウマチと戦いながら最後まで制作を続けた(→''[[#南仏カーニュ(1903年 - 1919年)|南仏カーニュ(1903年 - 1919年)]]'')。 == 生涯 == === 出生、職人時代 === ルノワールは、1841年、フランス中南部の[[磁器]]の町[[リモージュ]]で生まれた。7人兄弟の6番目であったが、上の2人は早世し、他に兄2人、姉1人、弟1人がいた。父レオナールは仕立屋、母マルグリットはお針子であった<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 7)]]、[[#賀川|賀川 (2010: 16)]]。</ref>。後の印象派の画家たちがブルジョワ階級出身だったのに対し、ルノワールは1人労働者階級出身であった<ref name="名前なし-1">[[#木村|木村 (2012: 148)]]。</ref>。 [[1844年]]、一家で[[パリ]]に移住した。[[ルーヴル美術館]]の近くで、当時は貧しい人が暮らす下町であった<ref name="名前なし-1"/>。幼い頃から絵への興味を示していたが、美声でもあったルノワールは、[[1850年]]頃(9歳前後)、[[作曲家]]の[[シャルル・グノー]]が率いる{{仮リンク|サン・トゥスタッシュ教会|en|Saint-Eustache, Paris}}の聖歌隊に入り、グノーから[[声楽]]を学んだ。ルノワールの歌手としての才能を高く評価したグノーは、ルノワールの両親にルノワールを[[パリ国立オペラ|オペラ座]]の合唱団に入れることを提案したが、父親の知人からルノワールを磁器工場の徒弟として雇いたいという申出があったことから、グノーの提案を断り、聖歌隊も辞めた<ref>[[#高階・巨匠|高階 (2008: 70-72)]]、[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 7)]]。</ref>。 [[1854年]]、磁器工場に入り、磁器の絵付職人の見習いとなるが、産業革命や機械化の影響は伝統的な磁器絵付けの世界にも影響し、[[1858年]]に職人としての仕事を失うこととなった<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 7)]]。</ref>。ルノワールは、後に次のように回想している<ref>[[#高階・巨匠|高階 (2008: 73)]]。</ref>。 {{Quotation|4年間の見習期間を終えて18歳になった時には、私の前には陶器絵師としての洋々たる未来が開かれていた。この仕事では、1日に6フラン稼ぐことができた。ところがその時、思いがけない大災厄が起こって、私の夢は台無しにされてしまった。……ちょうどその頃、陶器や磁器にプリントの絵付けをする方法が発明され、人々は手で描いた絵よりも機械の仕事の方を一層好むようになったのだ。}} ルノワールは、次に[[扇子]]の装飾を仕事にし、[[アントワーヌ・ヴァトー]]や[[フランソワ・ブーシェ]]の有名な名作を複製した扇子を繰り返し描いた。この時、ルノワールは、ブーシェや[[ジャン・オノレ・フラゴナール]]といった18世紀の[[ロココ]]絵画に興味を持つようになったようである。その後、メダル制作の紋章描き、窓の日除けの装飾、カフェの壁の装飾など、職人としての仕事を次々手がけた<ref>[[#高階・巨匠|高階 (2008: 73-75)]]。</ref>。仕事の合間に無料のデッサン学校に通い、[[1860年]]には、ルーヴル美術館で模写する許可を得た。特に、色彩派と言われる[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]、ブーシェ、フラゴナールを好んだ<ref>[[#木村|木村 (2012: 150)]]。</ref>。 === 画塾時代(1860年代初頭) === [[ファイル:Auguste Renoir-photo-1861.jpg|thumb|right|160px|1861年の写真。]] ルノワールは、画家になることを決意し、[[1861年]]11月、[[シャルル・グレール]]の[[アトリエ]](画塾)に入った<ref group="注釈">ルノワールがグレールのアトリエを選んだのは、子供の時からの友人エミール・ラポルトがいたからだと、ルノワール自身が説明している。ただし、ラポルトとの友情は長続きしなかった。[[#賀川|賀川 (2010: 27)]]。</ref>。ここで[[クロード・モネ]]、[[アルフレッド・シスレー]]、[[フレデリック・バジール]]ら、後の印象派の画家たちと知り合った。また、近くにアトリエを持っていた[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]とも知り合った<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 12-13)]]。</ref>。グレール自身は、保守的なアカデミズムの画家であったが、生徒たちに、安い費用で、モデルを使って自由に描くことを許していたので、様々な傾向の画学生が集まっていた<ref>[[#高階・絵画史|高階・上 (1975: 99)]]。</ref>。ルノワールは、後に、グレールは「弟子にとって何の助けにもなってくれなかった」が、「弟子たちに思うようにさせる」という長所はあったと振り返っている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 82)]]。</ref>。グレールが、画塾で制作中のルノワールの色遣いを見て、「君、絵具を引っかき回すのが、楽しいんだろうね。」と言うと、ルノワールが「もちろんです。楽しくなければやりません。」と応えたというエピソードが知られている<ref>[[#西岡|西岡 (2016: 103)]]。</ref>。グレールの保守的な指導に飽き足らない点で、モネやルノワールは共感を深めていった<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 79)]]。</ref>。もっとも、[[ルーヴル美術館]]を毛嫌いするモネと異なり、ルノワールは、友人[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]とともにルーヴルに行き、18世紀フランスの画家たちを好んで研究した<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 84)]]。</ref>。 また、[[1862年]]4月には[[エコール・デ・ボザール]](官立美術学校)にも入学し、古典的なデッサン教育も並行して受けた<ref name="名前なし-2">[[#木村|木村 (2012: 151)]]。</ref>。ここでは、夜間のデッサンと[[解剖学]]の授業に出席していたが、油彩画の習作をクラスに持って行ったところ、教師シニョルから、赤い色の使い方について批判され、「もう1人のドラクロワになったりしないよう気を付けることだ!」と警告されたという<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 83)]]。</ref>。当時、豊かな色彩を用いるドラクロワは、デッサンを重視する[[新古典主義]]が支配するアカデミーから排撃されていた<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 42)]]。</ref>。エコール・デ・ボザールで行われた1863年の構図の試験では、受験者12人中9番、1864年の彫刻とデッサンの試験では、106人中10番という成績を残している<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 21)]]。</ref>。 [[1863年]]には、バジール、モネ、シスレーとともに[[シャイイ=アン=ビエール]]に行き、[[フォンテーヌブロー]]の森で写生している<ref name="名前なし-3">[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 13)]]。</ref><ref group="注釈">彼らがフォンデーヌブローの森で写生したのは、文献によっては[[1862年]]としており、はっきりしない。[[#島田・セーヌ|島田 (2011: 31)]]。</ref>。ルノワールが戸外で制作していると、義足の男が現れ、「デッサンは悪くないが、一体どうしてこんなに黒く塗りつぶしてしまうんだね」と評したという。この男は、[[バルビゾン派]]の画家[[ナルシス・ヴィルジル・ディアズ・ド・ラ・ペーニャ]]であり、その後、ディアズは、経済的に苦しいルノワールのために画材代の支援や助言をするようになり、ルノワールもディアズを尊敬するようになった<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 101)]]、[[#賀川|賀川 (2010: 31-32)]]。</ref>。この年、グレールは、健康上・財政上の理由で画塾を閉鎖することとなった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 14)]]。</ref>。 === サロンへの挑戦(1863年 - 1870年) === [[ファイル:Lise Tréhot in 1864.jpg|thumb|right|100px|ルノワールの恋人でモデルとなったリーズ・トレオ(1864年)。]] [[ファイル:Frédéric Bazille - Renoir.jpg|thumb|left|150px|[[フレデリック・バジール|バジール]]『ルノワールの肖像』1867年<ref group="注釈" name="Bazille">油彩、キャンバス、61.2 × 50 cm。[[オルセー美術館]]。{{Cite web |url=https://www.musee-orsay.fr/fr/oeuvres/pierre-auguste-renoir-63 |title=Pierre Auguste Renoir |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-04-02}}</ref>。]] '''1863年の[[サロン・ド・パリ]]'''に初めて応募したが、落選した。'''1864年のサロン'''に「グレールの弟子」として『エスメラルダ』を応募して、入選した<ref name="名前なし-3"/>。しかし、この作品は、ルノワール自身がサロン終了後に塗りつぶしてしまい、現在は残っていない。[[ヴィクトル・ユーゴー]]の『[[ノートルダム・ド・パリ]]』を題材とした、ロマン派的主題の暗い絵であったという<ref>[[#高階・巨匠|高階 (2008: 68)]]。</ref>。 [[1864年]]、磁器の製造業者から、初めて9歳の娘の肖像画の依頼を受け、『ロメーヌ・ラコー嬢』を制作した。[[ディエゴ・ベラスケス|ベラスケス]]、[[ドミニク・アングル|アングル]]、コロー、[[エドガー・ドガ]]の影響も感じられる作品となっている<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 8)]]。</ref>。 [[1865年]]、シスレーとともに、フォンテーヌブローの森近くの{{仮リンク|ブロン=マルロット|en|Bourron-Marlotte|label=マルロット}}に滞在した<ref name="名前なし-4">[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 10)]]。</ref>。ルノワールは、マルロットで画家ジュール・ル・クールと知り合い、滞在中は世話になるようになった。ル・クールは、クレマンス・トレオという女性と交際を始めたが、ルノワールは、クレマンスの妹である17歳の{{仮リンク|リーズ・トレオ|en|Lise Tréhot}}と知り合い、交際するようになった<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 119)]]。</ref>。その後、度々彼女をモデルに絵を描いている<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 14-15)]]、[[#木村|木村 (2012: 152)]]。</ref>。'''1865年のサロン'''には、シスレーの父親を描いた肖像画を含む2点が入選した。シスレーが、経済的に苦しいルノワールを助けるため、肖像画を依頼して買い取ったものであった<ref name="名前なし-2"/>。この時も、ルノワールは「グレールの弟子」として出品している<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 112)]]。</ref>。 [[1866年]]にもシスレーとともにマルロットを再訪し、『アントニーおばさんの宿屋』を制作した<ref name="名前なし-4"/>。 '''1866年のサロン'''には、『フォンテーヌブローの森のジュール・ル・クール』を応募した。この年、サロンの審査委員に[[ジャン=バティスト・カミーユ・コロー]]や[[シャルル=フランソワ・ドービニー]]が入ったため、ルノワールや仲間の画家の多くが入選した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 31)]]。</ref>。この時期、ルノワールは、[[ギュスターヴ・クールベ|クールベ]]にならって[[パレットナイフ]]を使った作品から、アカデミックな構想の作品まで、両極端の様々な様式を実験しており、フォンテーヌブローの森などで制作した<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 137-38)]]。</ref>。 [[ファイル:Frédéric Bazille - Bazille's Studio - Google Art Project.jpg|thumb|right|180px|[[フレデリック・バジール|バジール]]『ラ・コンダミンヌ通りのアトリエ』1870年。左から3人の男性のうち1人がルノワールではないかと考えられている<ref group="注釈">油彩、キャンバス、98 × 128 cm。[[オルセー美術館]]。{{Cite web |url=https://www.musee-orsay.fr/fr/collections/oeuvres-commentees/recherche/commentaire/commentaire_id/latelier-de-bazille-11400.html |title=L'atelier de Bazille |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-04-01}}</ref>。]] バジールは、1866年7月、{{仮リンク|ヴィスコンティ通り|fr|Rue Visconti}}にアトリエを移し、ルノワールも共同で使用した。シスレーやモネもここをよく訪れた<ref>{{Cite web |url=http://www.ruevisconti.com/Histoire/EnfantsduMarais/Bazille.html |title=Frédéric Bazille et la rue Visconti |publisher=Rue Visconti.com |accessdate=2017-04-03}}</ref>。南仏の裕福な家庭に育ったバジールは、ルノワールやモネら仲間の画家を経済的に助け、時にアトリエで生活を共にした<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 23)]]。</ref>。[[1867年]]、バジールとシスレーが同じあおさぎの静物を違う角度から描き、その制作中のバジールをルノワールが絵画に残している<ref name="Renoir" /><ref>[[#吉川|吉川 (2010: 32)]]。</ref>。バジールも、ルノワールの肖像を描いている<ref group="注釈" name="Bazille" />。マネはルノワールによるバジールの肖像を賞賛し、ルノワールはこの絵をマネに贈った<ref name="名前なし-5">[[#リウォルド|リウォルド (2004: 148)]]。</ref>。 [[ファイル:Henri Fantin-Latour - A Studio at Les Batignolles - Google Art Project.jpg|thumb|left|180px|[[アンリ・ファンタン=ラトゥール|ファンタン=ラトゥール]]『バティニョールのアトリエ』1870年。絵筆を持つマネを、若手画家や批評家が囲んでいる。マネと、右横の椅子でモデルとなっている[[ザカリー・アストリュク|アストリュク]]との間で後ろに立ち、キャンバスを見るのがルノワール<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 23)]]。</ref>。]] '''1867年のサロン'''は、前年から一転して審査が厳しくなり、ルノワールや仲間の画家の多くは落選した。ルノワールの『狩りをするディアナ』は、サロン向けの主題であったが、クールベの影響を受けた、モデルを理想化しない肉付きの良すぎる描写が不評であったとも考えられる<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 32)]]、[[#木村|木村 (2012: 153)]]。</ref>。この作品のモデルもリーズ・トレオである<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 138)]]。</ref>。この年、ルノワールは、『[[シャンゼリゼ通り|シャン=ゼリゼ]]の眺め』、『[[ポンデザール (パリ)|ポンデザール]](芸術橋)』など、パリの都市風景画を制作している<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 36)]]。</ref>。夏の間は、シャイイで制作し、シスレーも合流した。戸外で『日傘のリーズ』を制作した<ref name="名前なし-5"/>。 ルノワールは、[[1868年]]、バジールが{{仮リンク|バティニョール地区|en|Batignolles}}のラ・ペ通り(1869年12月に{{仮リンク|ラ・コンダミンヌ通り|fr|Rue La Condamine}}に改称<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 219)]]。</ref>)に借りたアトリエに一緒に移った。ラ・コンダミンヌ通りのアトリエは、[[エドゥアール・マネ]]が通う[[カフェ・ゲルボワ]]からすく近くの場所であった。後の印象派の画家たちは、カフェ・ゲルボワに集まり、「バティニョール派」と呼ばれていた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 21)]]。</ref>。'''1868年のサロン'''には、『日傘のリーズ』が入選した<ref name="名前なし-6">[[#木村|木村 (2012: 153)]]。</ref>。 '''[[1869年]]のサロン'''には、『夏・習作』が入選した。この年の夏には、[[ルーヴシエンヌ]]に引っ越していた両親の家に滞在していたが、モネも近くの[[ブージヴァル]]に滞在していた<ref name="名前なし-6"/>。モネは、金も絵具もない絶望的な状況に陥っていたが、ルノワールは、度々モネの家を訪れ、家からパンを持っていってやったりした<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 178-79)]]。</ref>。ルノワールは、モネとともに、パリ郊外の行楽地ラ・グルヌイエールでキャンバスを並べ、それぞれ作品を制作した。2人は、この頃を機に、パレット上で絵具を混ぜず、絵具を小さな筆触で画面上に置く筆触分割の手法を編み出しており、印象派の誕生を告げる出来事と言われる<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 37-39)]]。</ref>。 '''[[1870年]]のサロン'''には、リーズをモデルとした『浴女とグリフォンテリア』が入選した。女性のポーズは古代ギリシャの[[アプロディーテー|アフロディテ]]に似ているが、クールベの写実主義の影響も指摘される<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 18)]]。</ref>。もう1点入選した『アルジェの女』は、[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]の『[[アルジェの女たち]]』へのオマージュで、アルジェの女に扮したパリの女を描いたものであった<ref>[[#木村|木村 (2012: 154)]]。</ref>。これまでバティニョール派への評価を避けてきた批評家{{仮リンク|アルセーヌ・ウーセイ|en|Arsène Houssaye}}も、『ラルティスト』誌にモネとルノワールを擁護する評論を発表し、「ルノワール氏を入選させたのは良い判断である。堂々たる色彩を扱う気質が、ドラクロワが描いたかのような『アルジェの女』に、素晴らしく表れている。」と書いている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 191-92)]]。</ref>。 {{Clear}} <gallery> ファイル:Pierre-Auguste Renoir - Mademoiselle Romaine Lascaux.jpg|『ロメーヌ・ラコー嬢』1864年。油彩、キャンバス、81.3 × 65 cm。[[クリーヴランド美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.clevelandart.org/print/art/1942.1065 |title=Romaine Lacaux, 1864 |publisher=The Cleveland Museum of Art |accessdate=2017-04-08}}</ref>。 ファイル:Renoir mother anthonys tavern 1866.JPG|『アントニーおばさんの宿屋』1866年。油彩、キャンバス、194 × 131 cm。[[スウェーデン国立美術館]]([[ストックホルム]])。 ファイル:Pierre-Auguste Renoir - Frédéric Bazille.jpg|『バジールの肖像』1867年。油彩、キャンバス、105 × 73.5 cm。[[オルセー美術館]]<ref name="Renoir">{{Cite web |url=https://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/frederic-bazille-17439.html |title=Frédéric Bazille |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-04-03}}</ref>。第2回印象派展出品。 ファイル:Pierre-Auguste Renoir 020.jpg|『狩りをするディアナ』1867年。油彩、キャンバス、199.5 × 129.5 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=https://www.nga.gov/collection/art-object-page.46680.html |title=Diana |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2017-04-08}}</ref>。1867年サロン落選。 ファイル:Renoir Lise With Umbrella.jpg|『日傘のリーズ』1867年。油彩、キャンバス、184 × 115 cm。[[フォルクヴァンク美術館]]([[エッセン]])。1868年サロン入選。 ファイル:Pierre-Auguste Renoir - Le Pont des Arts Paris.jpg|『[[ポンデザール (パリ)|]](芸術橋)』1867-68年。油彩、キャンバス、60.9 × 100.3 cm。[[ノートン・サイモン美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.nortonsimon.org/art/detail/F.1968.13.P |title=The Pont des Arts, Paris |publisher=The Norton Simon Foundation |accessdate=2017-04-13}}</ref>。 ファイル:Auguste Renoir - En été - La bohémienne - Google Art Project.jpg|『{{仮リンク|夏・習作|en|In Summer (Renoir)}}』1868年。油彩、キャンバス、85 × 59 cm。[[旧国立美術館 (ベルリン)|]]<ref>{{Cite web |url=https://www.google.com/culturalinstitute/beta/asset/8AHrE7jXKoFBQw |title=Summer |publisher=Google Arts & Culture |accessdate=2017-04-09}}</ref>。1869年サロン入選。 ファイル:Sisley et madame-par Renoir-1868.jpg|『{{仮リンク|婚約者たち(シスレー夫妻)|fr|Les Fiancés - Le Ménage Sisley}}』1868年。油彩、キャンバス、105 × 75 cm。[[ヴァルラフ・リヒャルツ美術館]]([[ケルン]])。 ファイル:Pierre Auuste Renoir 1868 Young Boy with a cat.jpg|『猫と少年』1868年。油彩、キャンバス、123 × 66 cm。オルセー美術館<ref>{{Cite web|url=https://www.musee-orsay.fr/en/artworks/le-garcon-au-chat-69323|title=Musée d'Orsey: Pierre Auguste Renoir The Boy with the Cat|accessdate=2021-04-13|publisher=[[オルセー美術館]]}}</ref>。 ファイル:Auguste Renoir - La Grenouillère - Google Art Project.jpg|『ラ・グルヌイエール』1869年。油彩、キャンバス、66.5 × 81 cm。[[スウェーデン国立美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://collection.nationalmuseum.se/eMP/eMuseumPlus?service=ExternalInterface&module=collection&objectId=19486&viewType=detailView |title=La Grenouillère |publisher=Nationalmuseum |accessdate=2016-12-04}}</ref>。 ファイル:Renoir - Banhista com Cão Grifon.jpg|『浴女とグリフォンテリア』1870年。油彩、キャンバス、184 × 115 cm。[[サンパウロ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://masp.org.br/?id=263 |title=A Banhista e o Cão Grifon (Lise à Beira do Sena) |publisher=Museu de Arte de São Paulo |accessdate=2017-04-08}}</ref>。1870年サロン入選。 ファイル:Pierre-Auguste Renoir - Odalisque.jpg|『アルジェの女(オダリスク)』1870年。油彩、キャンバス、69.2 × 122.6 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ロンドン]])<ref>{{Cite web |url=https://www.nga.gov/collection/art-object-page.46682.html |title=Odalisque |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2017-04-25}}</ref>。1870年サロン入選。 </gallery> === 普仏戦争(1870年 - 1871年) === 1870年7月、[[普仏戦争]]が勃発すると、ルノワールは第10騎兵部隊に配属されたが、[[1871年]]3月、動員が解除された<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 20-21)]]、[[#賀川|賀川 (2010: 60)]]。</ref>。[[赤痢]]にかかり、生命まで危ぶまれたが、おじが[[ボルドー]]に引き取ってくれ、回復したようである<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 197)]]。</ref>。ルノワールがパリに戻ると、[[パリ・コミューン]]による動乱の真っ只中であった。ルノワールは、セーヌ河岸で制作していたところ、パリ・コミューンの兵士から、[[フランス第三共和政|第三共和政]]政府のスパイと勘違いされて逮捕された。連行される途中、知り合いだったパリ警視総監{{仮リンク|ラウル・リゴー|fr|Raoul Rigault}}が通りがかって身元が判明し、釈放された。その上、リゴーに通行許可証を出してもらい、パリ・コミューンの動乱期に防衛線を越えてルーヴシエンヌの両親の家と行き来することができた<ref>[[#木村|木村 (2012: 155-56)]]。</ref>。フランスに残っていたシスレーと、ルーヴシエンヌやマルリーで一緒に制作した<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 201)]]。</ref>。「血の1週間」の最中の5月23日夜、コミューン政府はセーヌ河岸の建物に火を放ったが、ルノワールは、ルーヴシエンヌの水道橋から、炎上するパリ市街を暗澹たる思いで見ていた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 44)]]。</ref>。 普仏戦争では、友人バジールが戦死した。また、モネやピサロは[[ロンドン]]に渡って画商[[ポール・デュラン=リュエル]]と知り合うなど、バティニョール派の画家たちにとっては一つの転機が訪れた。 === 第1回印象派展まで(1871年 - 1874年) === {| border="0" align="right" cellpadding="5" cellspacing="0" style="margin: 0 0 0 0; background: #f9f9f9; border: 0px #aaaaaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 090%;" |<div style="position: relative">[[ファイル:Ile-de-France region location map.svg|center|360px|フランス北部・イル=ド=フランス地域圏の地図]] <div style="position:absolute;font-size:80%;right:0px;top:0px">100km</div> <!-- --------------------------------------------------------------------------------- 地域圏 --> <div style="position:absolute;font-size:100%;left:100px;top:150px">'''{{LinkColor|grey|イル=ド=フランス地域圏}}'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:170px;top:15px">'''{{LinkColor|grey|オー=ド=フランス地域圏}}'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:10px;top:270px">'''{{LinkColor|grey|サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏}}'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:0px;top:0px">'''{{LinkColor|grey|ノルマンディー地域圏}}'''</div> <!-- --------------------------------------------------------------------------------- 都市 --> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:150px;top:92px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[パリ]]'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;right:238px;top:90px">'''[[ルーヴシエンヌ]]'''[[ファイル:Red pog.svg|8px]]</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:135px;top:70px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[アルジャントゥイユ]]'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;left:209px;top:202px">[[ファイル:Red pog.svg|8px]]'''[[フォンテーヌブロー]]'''</div> <div style="position:absolute;font-size:80%;right:158px;top:188px">'''[[シャイイ=アン=ビエール|シャイイ]]'''[[ファイル:Red pog.svg|8px]]</div> <!-- --------------------------------------------------------------------------------- 川 --> <div style="position:absolute;font-size:90%;left:30px;top:60px">''[[セーヌ川]]''</div> </div> |} 第三共和政になってからのサロンは、保守性を増した<ref>[[#木村|木村 (2012: 16)]]。</ref>。ルノワールは、'''1872年のサロン'''に『騎兵』と『アルジェリア風のパリの女たち』を応募したが、落選した。'''1873年のサロン'''には『ブーローニュの森の朝の乗馬』と『肖像画』を応募したが、これも落選し、この年5月から開かれた[[落選展]]に『ブーローニュの森の朝の乗馬』を出品した。この作品には好意的な批評と批判的な批評が出たが、[[エドガー・ドガ]]の友人[[アンリ・ルアール]]が購入してくれた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 50-51)]]。</ref>。また、ドガが、批評家[[テオドール・デュレ]]に『日傘のリーズ』を勧めてくれ、デュレが1200フランで購入してくれた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 51-52]]、[[#木村|木村 (2012: 156)]]。</ref>。 モネやピサロを介してバティニョール派の画家たちを知るようになったデュラン=リュエルも、彼らの作品を購入するようになった。1872年3月には、ルノワールとも会った。しかし、この頃は、他のバティニョール派のメンバーと比べ、ルノワールにはそれほど注目しておらず、1872年の購入額は500フラン、1873年の購入額は100フランにとどまっている<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 47-48)]]。</ref>。 なお、以前ルノワールが交際していたリーズ・トレオは、1872年4月、若い建築家と結婚した。ルノワールは、お祝いに彼女の肖像画を贈ったが、その後会うことはなかったようである<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 211)]]。</ref>。 少しずつ愛好家が増えてきたことで、[[1873年]]秋、パリ[[9区 (パリ)|9区]]の{{仮リンク|サン=ジョルジュ通り (パリ)|fr|Rue Saint-Georges (Paris)|label=サン=ジョルジュ通り}}に広いアトリエ兼住居を借りることができた。すぐ近くにはドガのアトリエもあった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 52)]]、[[#木村|木村 (2012: 156-57)]]。</ref>。サン=ジョルジュ通りには、ジャーナリスト志望だった弟のエドモン・ルノワールが同居し、財務省官吏[[ジョルジュ・リヴィエール]]、音楽家カバネル、画家志望の{{仮リンク|フレデリック・コルデー|fr|Frédéric Samuel Cordey}}、[[フラン=ラミ]]、ロートなど、ルノワールの友人たちもここを訪れた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 74-75)]]。</ref>。ルノワールが[[ポンヌフ]]を通る群衆を描いた時、弟エドモンは、通行人に声をかけて足止めさせ、兄が通行人のスケッチをしやすいようにした<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 214)]]、[[#賀川|賀川 (2010: 56)]]。</ref>。 また、モネは、1871年から[[アルジャントゥイユ]]にアトリエを構えたが、ルノワールは、1873年から1875年にかけて、モネのもとを度々訪問し、一緒に制作して風景画の傑作を生み出した。ルノワールは、戸外制作をするモネの姿も描いている<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 24-25)]]。</ref>。この時期、モネ、ルノワール、シスレーらは、アルジャントゥイユで共に制作する中で、筆触分割を用いて自然の一瞬の姿をキャンバスに写し取るための統一した様式を生み出した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 101)]]。</ref>。 この頃、モネやピサロを中心に、サロンから独立したグループ展の構想が具体化しつつあった。ルノワールも、規約について意見を述べている。[[1874年]][[1月17日]]、「{{仮リンク|画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社|fr|Société anonyme des artistes peintres, sculpteurs et graveurs|redirect=1}}」の規約が発表された。審査も報奨もない自由な展覧会を組織することなどを目標として掲げ、その設立日は1873年12月27日とされている<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 55-56, 62)]]。</ref>。 そして、サロン開幕の2週間前である同年[[4月15日]]に始まり、5月15日までの1か月間、パリ・{{仮リンク|キャピュシーヌ大通り|en|Boulevard des Capucines}}の写真家[[ナダール]]の写真館で、この共同出資会社の第1回展が開催された。後に「'''[[第1回印象派展]]'''」と呼ばれる歴史的展覧会であり、画家30人が参加し、展示作品は合計165点ほどであった<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上82)]]。</ref>。展覧会カタログは、弟エドモンが制作した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 74)]]。</ref>。展覧会の構成は、主にルノワールが取り仕切った<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 234)]]。</ref>。 ルノワールは、7点を出品し、『踊り子』、『桟敷席』、『パリジェンヌ(青衣の女)』など風俗画5点、風景画1点、静物画1点であった<ref>[[#木村|木村 (2012: 158)]]。</ref>。 しかし、第1回展は、世間から厳しい酷評にさらされた。第1回展の開会後間もない4月25日、『{{仮リンク|ル・シャリヴァリ|en|Le Charivari}}』紙上で、評論家[[ルイ・ルロワ]]が、この展覧会を訪れた人物が余りにひどい作品に驚きあきれる、というルポルタージュ風の批評「印象派の展覧会<ref group="注釈">{{Wikisource-inline|印象派の展覧会|3=日本語訳}}</ref>」を発表した。その中で、ルノワールの『踊り子』について、作者を「[[アルマン・ギヨマン|ギヨマン]]」と誤記しているが、人物が背景に溶け込むような不明瞭な輪郭を批判している<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 89)]]、[[#西岡|西岡 (2016: 14)]]。</ref>。この文章がきっかけで、「印象主義」「印象派」という呼び名が世に知られるようになり、次第にこのグループの名称として定着し、画家たち自身によっても使われるようになった<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上82-84)]]。</ref>。 1874年の第1回印象派展終了後、モネ、ルノワール、マネ、シスレー、カイユボットは、アルジャントゥイユに集まり、共に制作した。モネとルノワールは、同じ構図・モチーフで『アルジャントゥイユの帆船』を制作しているが、モネが現実から抽出した要素をパターン化して表現しているのに対し、ルノワールは現実の情景をより忠実に描いており、また、人物が強調されており、2人の個性の違いを示している<ref>[[#島田・セーヌ|島田 (2011: 120-24)]]。</ref>。モネの回想によれば、1874年、マネとルノワールが、アルジャントゥイユのモネの家で、モネの妻カミーユと息子ジャンを一緒に描いたことがあったが、マネは、モネに、「あの青年には才能がない。君は友人なら、絵を諦めるように勧めなさい。」と言ったという。もっとも、マネは、心からルノワールを賞賛していたので、このエピソードは、ルノワールと競い合ったマネの苛立ちを表したものにすぎないとも指摘されている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 254)]]。</ref>。 同年(1874年)12月17日、サン=ジョルジュ通りのルノワールのアトリエで、共同出資会社の総会が開かれ、債務清算のため共同出資会社を解散することが決まった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 106)]]。</ref>。 <gallery> ファイル:Auguste Renoir - Pont Neuf, Paris - Google Art Project.jpg|『{{仮リンク|ポンヌフ (ルノワール)|fr|Le Pont-Neuf|label=ポンヌフ}}』1872年。油彩、キャンバス、75.3 × 93.7 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=https://www.nga.gov/collection/art-object-page.52202.html |title=Pont Neuf, Paris |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2017-04-12}}</ref>。 ファイル:Renoir Parisiennes in Algerian Costume or Harem.jpg|『アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)』1872年。油彩、キャンバス、156 × 128.8 cm。[[国立西洋美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.nmwa.go.jp/jp/collection/1959-0182.html |title=アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム) |publisher=国立西洋美術館 |accessdate=2017-04-25}}</ref>。1872年サロン落選。 ファイル:Renoir-Monet painting.png|『アルジャントゥイユの庭で制作するモネ』1873年。油彩、キャンバス、47 × 60 cm。{{仮リンク|ワズワース・アセニウム美術館|en|Wadsworth Atheneum}}([[ハートフォード (コネチカット州)|ハートフォード]])。 ファイル:Renoir Riding in the bois de Boulogne.jpg|『ブーローニュの森の朝の乗馬』1873年。油彩、キャンバス、226 × 262 cm。[[ハンブルク美術館]]。1873年サロン落選、落選展出品。 ファイル:The Dancer - Pierre-Auguste Renoir.JPG|『踊り子』1874年。油彩、キャンバス、142.5 × 94.5 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=https://www.nga.gov/collection/art-object-page.1211.html |title=The Dancer |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2017-04-12}}</ref>。第1回印象派展出品。 ファイル:Pierre-Auguste Renoir, La loge (The Theater Box).jpg|『[[桟敷席]]』1874年。油彩、キャンバス、80 × 64 cm。[[コートールド・ギャラリー]]<ref>{{Cite web |url=https://courtauld.ac.uk/gallery/exhibitions/past-exhibitions/ |title=Renoir at the Theatre: Looking at La Loge |publisher=Courtauld Gallery |accessdate=2017-04-12}}</ref>。第1回印象派展出品。 ファイル:Pierre-Auguste Renoir 089.jpg|『パリジェンヌ(青衣の女)』1874年。油彩、キャンバス、163.2 × 108.3 cm。[[カーディフ国立博物館]]<ref>{{Cite web |url=https://museum.wales/art/online/?action=show_item&item=1534 |title=The Parisian Girl <nowiki>[</nowiki>La Parisienne<nowiki>]</nowiki> |publisher=National Museum Wales |accessdate=2017-04-12}}</ref>。第1回印象派展出品。 ファイル:Pierre-Auguste Renoir - Madame Monet and her Son.jpg|『モネ夫人と息子』1874年。油彩、キャンバス、50.4 × 68 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ロンドン]])<ref>{{Cite web |url=https://www.nga.gov/collection/art-object-page.52204.html |title=Madame Monet and Her Son |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2017-04-17}}</ref>。 ファイル:Pierre-Auguste Renoir - La Seine à Argenteuil.jpg|『アルジャントゥイユの帆船』1874年。油彩、キャンバス、50.2 × 65.4 cm。[[ポートランド美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.portlandartmuseum.us/mwebcgi/mweb.exe?request=record;id=8022;type=101 |title= The Seine at Argenteuil |publisher=Portland Art Museum |accessdate=2017-04-22}}</ref>。 </gallery> === 第2回・第3回印象派展(1875年 - 1877年) === ルノワールは、[[1875年]]初め、『婦人と2人の娘』の肖像画の依頼を1200フランで受けた。このことがきっかけで、競売場{{仮リンク|オテル・ドゥルオ|en|Hôtel Drouot}}での競売会を思い付き、モネ、シスレー、[[ベルト・モリゾ]]を誘って、同年3月24日、競売会を開いた。ルノワールは、20点を出品した。参加者の嘲笑を浴び、結果は芳しくなかったが、デュラン=リュエルは、ルノワールの2点を含む18点を購入している。また、収集家で出版業者の{{仮リンク|ジョルジュ・シャルパンティエ|fr|Georges Charpentier}}は、ルノワール3点を購入している<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 106-08)]]。</ref>。税官吏[[ヴィクトール・ショケ]]も、競売会を見て、ルノワールに妻の肖像画を依頼した。こうしてルノワールとショケの間には友情が生まれ、ルノワールはショケをセザンヌやモネに紹介した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 109-10)]]。</ref>。シャルパンティエ夫妻もルノワールの重要なパトロンとなり、ルノワールは、シャルパンティエの家で、[[ギ・ド・モーパッサン]]、[[エミール・ゾラ]]といった文学者や、各界の名士、後に絵のモデルを務める女優ジャンヌ・サマリーとも知り合った<ref>[[#高階・巨匠|高階 (2008: 81)]]。</ref>。 並行して、1875年のサロンにも応募したが、落選した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 110)]]。</ref><ref group="注釈">[[#ディステル|ディステル (1996: 48)]] は、1875年にサロンに応募した確証はないという。</ref>。 この頃、ルノワールは、絵の売上げが増えてきたことで、サン=ジョルジュ通りのアトリエのほかに、[[モンマルトル]]のコルトー通りにも庭付き一軒家のアトリエを借りることができた。そこで、『[[ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会]]』の制作に取り掛かった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 106, 108)]]、[[#木村|木村 (2012: 159)]]。</ref>。サン=ジョルジュ通りのアトリエには、相変わらず、リヴィエール、{{仮リンク|エドモン・メートル|fr|Edmond Maître}}、[[テオドール・デュレ]]、ヴィクトール・ショケといった友人たちが集まった<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 275)]]。</ref>。 1876年2月になり、ルノワールは、親友アンリ・ルアールとともに、[[ギュスターヴ・カイユボット]]に宛てて、第2回グループ展の開催を提案している。ルノワールが熱心だったのは、前年のオテル・ドゥルオでの競売会が不調だったこと、サロンにも落選したこと、マネのサロン入選作も激しい非難に遭ったことなどが理由と考えられる。ショケもこれを後押しした<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 110-11)]]。</ref>。そして、3月-4月、デュラン=リュエルの画廊で'''第2回印象派展'''が開かれた。ルノワールは、『習作』(『[[陽光の中の裸婦]]』)など18点を出品した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 112, 264-65)]]。</ref>。 批評家{{仮リンク|アルベール・ヴォルフ (ジャーナリスト)|en|Albert Wolff (journalist)|label=アルベール・ヴォルフ}}は、「パリ暦」と題する文章で印象派を酷評した上、ルノワールについて次のように書いた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 115-17)]]。</ref>。 {{Quotation|さて、ルノワール氏には次のことを説明してほしい。女性の[[トルソー]](胴体)は、死体の完全な腐敗状態を示す、紫色がかった緑色の斑点を伴う分解中の肉の塊ではないことを!|アルベール・ヴォルフ|『[[フィガロ (新聞)|フィガロ]]』1876年4月3日}} これは、ルノワールの『陽光の中の裸婦』に対する批評であるが、ルノワールが、戸外で肌に落ちる影を紫色や緑色を使って表現したのに対し、物の固有色を重視するアカデミズム絵画の立場からは理解されず、腐敗しているようにしか見えなかったことを示している<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 117)]]。</ref>。他方、[[エミール・ゾラ]]は、ルノワールの肖像画を賞賛した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 120)]]。</ref>。 [[ファイル:Moulin de la Galette foto.jpg|thumb|right|180px|1885年頃の[[ムーラン・ド・ラ・ギャレット]]。]] [[1877年]]、'''第3回印象派展'''が開かれた。カイユボットが中心となって推進し、ドガ、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレー、モリゾ、セザンヌが賛同した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 126)]]。</ref>。ルノワールは、モネ、ピサロ、カイユボットとともに展示委員を務めた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 131)]]。</ref>。ルノワールが出品した21点の中でも、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』は特に注目を集めた。[[ムーラン・ド・ラ・ギャレット]]は、モンマルトルの丘の中腹にある舞踏場で、庶民の憩いの場所であった。巨大な作品であったため、アトリエから舞踏場まで、友人たちがキャンバスを運んだという。美術批評家[[ジョルジュ・リヴィエール]]は、ルノワールの勧めにより、第3回展参加者らを紹介する小冊子『印象派』を刊行した。リヴィエールは、その中で、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』について、「この作品は、サロンを賑わす芝居がかった物語画([[歴史画]])に匹敵する現代の真の物語画である」と述べた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 131-32, 268-69)]]。</ref>。この絵はカイユボットが買い取ってくれたが、全体的には展覧会の売れ行きは不調であった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 145)]]。</ref>。 第3回印象派展最終日の1877年5月28日、オテル・ドゥルオで、カイユボット、ピサロ、シスレーとともに競売会を開いたが、その成果も芳しくなかった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 145-46)]]。</ref>。そうした中、シャルパンティエ夫妻のほかに、実業家[[ウジェーヌ・ミュレ]]、医師[[ポール・ガシェ]]、作曲家[[エマニュエル・シャブリエ]]などの愛好家の支援が頼みであった<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 59-60)]]。</ref>。 マネやドガら、カフェ・ゲルボワの常連は、カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌで飲むことが増えた。グループ展のメンバーには、パリを離れる者が多かったが、パリに残ったルノワールは、サン=ジョルジュ通りとモンマルトルのアトリエの間にカフェがあったこともあり、頻繁に顔を出した。ルノワールは、この頃、工芸品への興味を持っており、カフェでも、19世紀に美しい家具や時計を制作できる人がいないことに文句を漏らしていた<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 287, 291)]]。</ref>。 <gallery> ファイル:Pierre-Auguste Renoir - Torse, effet de soleil.jpg|『習作(陽光の中の裸婦)』1876年頃。油彩、キャンバス、81 × 65 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&zsz=5&lnum=1 |title=Etude. Torse, effet de soleil |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-04-13}}</ref>。第2回印象派展出品<ref>『[[芸術新潮]]』2018年6月号、[[新潮社]]、 48頁。</ref>。 ファイル:Pierre-Auguste Renoir, Le Moulin de la Galette.jpg|『[[ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会]]』1876年。油彩、キャンバス、131 × 175 cm。オルセー美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/bal-du-moulin-de-la-galette-7083.html |title=Bal du moulin de la Galette |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-04-13}}</ref>。第3回印象派展出品。 ファイル:Auguste Renoir - The Swing - Google Art Project.jpg|『[[ぶらんこ (ルノワールの絵画)|ぶらんこ]]』1876年。油彩、キャンバス、92 × 73 cm。オルセー美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/la-balancoire-385.html |title=La balançoire |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-04-13}}</ref>。第3回印象派展出品。 ファイル:Pierre-Auguste Renoir - Georgette Charpeitier Seated.jpg|『[[すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢]]』1876年。油彩、キャンバス、98 × 71 cm。[[ブリヂストン美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/category_01/ |title=印象派とその周辺 |publisher=ブリヂストン美術館 |accessdate=2017-04-14}}</ref>。第3回印象派展出品。 </gallery> === サロンへの復帰(1878年 - 1880年) === ルノワールは、シャルパンティエの勧めもあって、'''[[1878年]]のサロン'''に応募した。「グレールの弟子」として応募した『一杯のショコラ』が入選した。このことは、シスレー、セザンヌ、モネのサロン応募を誘発することになるが、ドガは、印象派展参加者はサロンに応募すべきでないという主張を持っており、印象派グループの中での考え方の違いが深刻になってきた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 146)]]。</ref>。当時のサロンは、一般大衆にとって作品の評価を保証する存在であり、労働者階級出身で経済的に苦しいルノワールには、サロンに入選して作品が売れることが切実な問題であった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 149-50)]]。</ref>。 1878年5月、[[テオドール・デュレ]]は、『印象派の画家たち』と題する小冊子を出版し、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ベルト・モリゾの5人を印象派グループの先導者として選び出し、解説を書いた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 144)]]。</ref>。 '''[[1879年]]のサロン'''には、2点が入選した。そのうち女優{{仮リンク|ジャンヌ・サマリー|en|Jeanne Samary}}の立像は注目されなかったが、『{{仮リンク|シャルパンティエ夫人とその子どもたち|fr|Madame Charpentier et ses enfants}}』は、目立つ場所に展示され、称賛を受けた。これは、モデルのシャルパンティエ夫人の知名度によるところが大きかったと考えられる<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 149)]]。</ref>。画中のシャルパンティエ夫人は、黒いドレスを着ており、それまでの印象派の美学に対する挑戦であった。一時的に[[戸外制作]]もやめていた<ref name="名前なし-7">[[#リウォルド|リウォルド (2004: 300)]]。</ref>。ピサロは、支援者{{仮リンク|ウジェーヌ・ミュレ|fr|Eugène Murer}}への手紙の中で、「ルノワールはサロンで大成功を収めました。彼はついにやったと思います。それはとても結構なことです。貧乏はとても辛いですから。」と書いている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 306)]]。</ref>。シャルパンティエ家でこの絵を見た[[マルセル・プルースト]]もその優美さを称賛した<ref name="名前なし-7"/>。その頃から、肖像画の注文が増えてきた<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 47)]]。</ref>。 その年の4月には、ドガが中心となって第4回印象派展が開かれたが、ドガの主張により、サロンに応募する者は参加させないこととされ、展覧会の名称も「独立派(アンデパンダン)展」とされた。サロンに応募していたルノワールは参加せず、セザンヌや[[アルマン・ギヨマン]]も同様の理由で参加しなかった。モネも、当初サロン応募に傾いていたが、カイユボットの説得によって参加を決めた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 150-52)]]。</ref>。 その年の6月、シャルパンティエ夫妻が、創刊した「{{仮リンク|ラ・ヴィ・モデルヌ|fr|La Vie moderne (revue)}}」誌のギャラリーで、ルノワールのパステル展を開いた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 187)]]。</ref>。これと併せて、弟エドモンが、「ラ・ヴィ・モデルヌ」誌に、兄の作品を包括的に紹介した記事を載せた<ref name="名前なし-8">[[#リウォルド|リウォルド (2004: 307)]]。</ref>。 1879年、ルノワールは、モデルをしていた女性マルゴを病気で亡くし、落ち込んでいた<ref name="名前なし-8"/>。同年夏、シャルパンティエを通じて知り合った友人の収集家ポール・ベラールが[[ディエップ (セーヌ=マリティーム県)|ディエップ]]近くのヴァルジュモンに持つ地所を訪れ、親しく交友するようになった<ref name="名前なし-8"/>。ヴァルジュモンからパリに戻った頃、サン=ジョルジュ通りの大衆食堂で、お針子をしていた女性{{仮リンク|アリーヌ・シャリゴ|es|Aline Charigot}}と出会った。アリーヌは、ルノワールの絵のモデルをするようになり、同棲を始めた<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 50)]]。</ref>。しかし、ルノワールは、労働者階級出身のアリーヌとの交際を周囲にはひた隠しにしていた<ref name="名前なし-9">[[#木村|木村 (2012: 168)]]。</ref> '''[[1880年]]のサロン'''は、[[芸術アカデミー]]が主催する最後のサロンであった。ルノワールは、2点が入選した。この年には、ルノワールだけでなくモネも、印象派展(第5回展)を離脱してサロンに応募した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 180)]]。</ref>。ルノワールは、サロンの門戸を広げる改革案を公表したが、注目されるには至らなかった<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 317)]]。</ref>。 <gallery> ファイル:Jeanna Samary-Renoir.png|『{{仮リンク|女優ジャンヌ・サマリーの立像|fr|Portrait de Jeanne Samary en pied}}』1878年。油彩、キャンバス、174 × 105 cm。[[エルミタージュ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.hermitagemuseum.org/wps/portal/hermitage/digital-collection/!ut/p/z1/lZFNT4NAEIb_Ch444gywC_S4QaPWVLTaAnshWwRcWhZaNmr66wVPxqQlndNMMh_PvC9wSIAr8SkroWWrxG6oU-5lEWOe7YY4j0J6gyxaPtNl-HSHNoE1cOA7VUFaizHNle70B6Rb0cg-K5SJX-1h2xttaYiDNhHta6MTUmmpqt5EJ_CRjHNdLt8hDYrZZhaUwvIoEosQ4VkBFo5lCzcPKCmLDbUh_mXCE8EQ-HnkeOonfn59PPJOEPxjeHj0hxNv9D6K1qETEkgHBv8Ug7dw4HXcEYeL7GV1uxy6_0h8gVTzKS0Gf2W933M2ONcqXXxrSC6yrmuawG2sVYI17epj2cTs6gdgE-L8/dz/d5/L2dBISEvZ0FBIS9nQSEh/ |title=Portrait of the Actress Jeanne Samary |publisher=The State Hermitage Museum |accessdate=2017-04-15}}</ref>。 ファイル:Pierre-Auguste Renoir 094.jpg|『{{仮リンク|シャルパンティエ夫人とその子どもたち|fr|Madame Charpentier et ses enfants}}』1878年。油彩、キャンバス、153.7 × 190.2 cm。[[メトロポリタン美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/438815 |title=Madame Georges Charpentier (Marguérite-Louise Lemonnier, 1848–1904) and Her Children, Georgette-Berthe (1872–1945) and Paul-Émile-Charles (1875–1895) |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2017-04-14}}</ref>。1879年サロン入選。 ファイル:Mlle Irene Cahen d'Anvers.jpg|『[[イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢]]』1880年。油彩、キャンバス、65 × 54 cm。[[ビュールレ・コレクション]]<ref>{{Cite web |url=https://www.buehrle.ch/works_detail.php?lang=en&id_pic=62 |title=Portrait Mademoiselle Irène Cahen d`Anvers (Little Irene), 1880 |publisher=Foundation E.G. Bührle Collection |accessdate=2017-04-15}}</ref>。 </gallery> === アルジェリア旅行・イタリア旅行(1880年代初頭) === [[1881年]]初頭から、経済的危機を脱したデュラン=リュエルが、ルノワールの作品を定期的に購入し始めた<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 325-26)]]。</ref>。ルノワールは、この年3月から4月にかけて、[[アルジェリア]]に旅行した<ref name="名前なし-10">[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 203-04)]]。</ref>。ここでドラクロワを魅了した色彩豊かなオリエントに惹かれ、ドラクロワに倣い、『モスク』を描いた<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 326)]]。</ref>。ルノワールは、旅行先の[[アルジェ]]から、デュラン=リュエルに宛てて、サロンに応募する理由について次のように書いている<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 148)]]。</ref>。 {{Quotation|私がなぜサロンに作品を送るのか、あなたに説明しようと思う。サロンを通さずに絵画と結びつき得る美術愛好家はパリには15人もいない。サロンに入選しない画家の作品を1点も買おうとしない人は15万人はいます。これが、毎年少なくとも2点の肖像画をサロンに送っている理由です。}} 同年(1881年)夏には、ヴァルジュモンにあるポール・ベラールの別荘で過ごし、近くの{{仮リンク|オート=シュル=メール|en|Hautot-sur-Mer|label=プールヴィル}}、[[ヴァランジュヴィル=シュル=メール]]、[[ディエップ (セーヌ=マリティーム県)|ディエップ]]を訪れた<ref name="名前なし-10"/>。'''1881年のサロン'''は、アカデミーから[[フランス芸術家協会]]に移管されて初めてのサロンであった。ルノワールは、『ピンクと青、カーン・ダンヴェール家のアリスとエリザベート』と肖像画1点を入選させた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 196)]]。</ref>。第6回印象派展には参加していない<ref name="名前なし-11">[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 204)]]。</ref>。かつての印象派グループは、ピサロを中心としたグループ、ドガを中心としたグループ、そして今や印象派展を離脱してサロンに戻ったルノワール、モネ、シスレー、セザンヌらのグループの三つに分裂していた<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 323)]]。</ref>。 [[ファイル:Raphael Galatea.jpg|thumb|right|150px|[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]『ガラテアの勝利』1514年頃。]] 同年(1881年)10月、ルノワールは、突然[[イタリア]]に旅立ち、まず[[ヴェネツィア]]に滞在した。その地から、シャルパンティエ夫人に、「私は[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]の作品を見たいという願望に取り憑かれました。」と書いている。そして、11月21日には、[[ナポリ]]からデュラン=リュエルに、「私は[[ローマ]]でラファエロの作品を見てきました。非常に素晴らしい。私はそれをもっと早く見ておくべきでした。……私は油彩画なら[[ドミニク・アングル]]が好きです。しかしラファエロの[[フレスコ]]画には、驚くべき単純さと偉大さがあります。」と書き送っている<ref name="名前なし-11"/>。ルノワールは、当初は、ラファエロを模倣するアカデミズム絵画を侮蔑しており、冷やかしのために見に行ったようだが、ローマの[[バチカン宮殿]]「[[ラファエロの間|署名の間]]」や[[ヴィラ・ファルネジーナ]]の『[[ガラテアの勝利]]』を見て感動した<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 52-53)]]。</ref>。なお、この時のイタリア旅行には、アリーヌ・シャリゴも同行した<ref name="名前なし-9"/>。[[カプリ]]でアリーヌをモデルにして制作した『ブロンドの浴女』の左手薬指には、指輪がはめられている<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 120)]]。</ref>。 [[1882年]]1月には、友人から紹介状をもらって[[パレルモ]]で作曲家[[リヒャルト・ワーグナー]]に会い、短時間でその肖像画を描いた<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 329-30)]]。</ref>。その後、パリに戻る予定を変更し、[[マルセイユ]]郊外の[[エスタック]]に[[ポール・セザンヌ]]を訪ね、共に制作した。2月初め、エスタックで風邪を引いて肺炎を起こし、療養した。そのような折、カイユボットとデュラン=リュエルから、第7回印象派展への参加を促す手紙が届いた。ルノワールは、デュラン=リュエルに次のように回答している<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 204-05)]]。</ref>。 {{Quotation|あなたがお持ちの私の絵はあなたのものです。それらの絵をあなたが展示するのを妨げることはできません。しかし、展示するのは私ではありません。<br/>……もちろん私はどんなことがあっても、ピサロと[[ポール・ゴーギャン|ゴーギャン]]の結託には関与しませんし、一時といえども独立派(アンデパンダン)と呼ばれるグループに含まれることは受け入れられません。}} '''第7回印象派展'''は、内紛の末、デュラン=リュエルが仲介して1882年3月に開催にこぎつけたが、出品作品の大半がデュラン=リュエルの所蔵品であった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 201-02, 207)]]。</ref>。ルノワールの出品作は、デュラン=リュエルが選定した25点で、うち9点がヴェネツィアやアルジェ、セーヌ川の風景画、5点が静物画、その他は風俗画である。批評家[[フィリップ・ビュルティ]]は、ヴェネツィアとアルジェの太陽の光にあふれた風景画、そして『扇を持つ女性』を絶賛した。他方、大作『[[舟遊びをする人々の昼食]]』は、この展覧会ではそれほどの評価を得られなかった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 208-10)]]。</ref>。『舟遊びをする人々の昼食』では、テーブル上の静物や、遠景のセーヌ川の描写は印象主義的であるが、人物の明確な輪郭線や、左下から右上に向かう構図は、この頃から古典主義への関心が強まったことを示している<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 48)]]。</ref>。 '''1882年のサロン'''には『青いリボンをつけたイヴォンヌ・グランレル』、'''1883年のサロン'''には『クラピソン夫人の肖像』を入選させた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 219)]]。</ref>。1883年4月には、デュラン=リュエルが{{仮リンク|マドレーヌ大通り|en|Boulevard de la Madeleine}}に新しく開いた画廊で、ルノワールの個展が開かれた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 223)]]。</ref>。 <gallery> ファイル:Auguste Renoir - The Mosque - Google Art Project.jpg|『モスク』1881年。油彩、キャンバス、73.5 × 92 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/la-mosquee-16987.html |title=The Mosque |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-04-24}}</ref>。 ファイル:Renoir Mlles Cahen d Anvers.jpg|『{{仮リンク|ピンクと青、カーン・ダンヴェール家のアリスとエリザベート|en|Pink and Blue (Renoir)}}』1881年。油彩、キャンバス、119 × 74 cm。[[サンパウロ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://masp.org.br/?id=272 |title=Rosa e Azul (As Meninas Cahen d´Anvers) |publisher=Museu de Arte de São Paulo |accessdate=2017-04-14}}</ref>。1881年サロン入選。 ファイル:Auguste Renoir 1881.jpg|『[[舟遊びをする人々の昼食]]』1880-81年。油彩、キャンバス、130.2 × 175.6 cm。[[フィリップス・コレクション]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=https://www.phillipscollection.org/collection?id=1637 |title=Luncheon of the Boating Party |publisher=The Phillips Collection |accessdate=2017-04-14}}</ref>。第7回印象派展出品。 ファイル:Pierre-Auguste Renoir - Femme à l'éventail.jpg|『{{仮リンク|扇を持つ女性 (ルノワール)|label=扇を持つ女性|fr|La Femme à l'éventail (Renoir)}}』1881年。油彩、キャンバス、65 × 50 cm。[[エルミタージュ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.hermitagemuseum.org/wps/portal/hermitage/digital-collection/!ut/p/z1/lZFNT4NAEIb_Ch444gwfC-1xg0atqSjaAnsh2_Lh0rLQslHjr3fxZExa0jnNJPPxzPsCgxSY5B-i5kp0ku91nTE_jyj1bTfERRSSG6RR_Ezi8OkObQ_WwIDtZQ1Zw8d0K1Wv3iHb8VYMeSlN_OyOu8HoKoMflYloXxs9F1IJWQ8mOrMAyTjXb0UBmcfnpVt5peUW843llVVgbQgGVuCU3C6I6xMsIPllwhNBEdh55GTqJ3Z-fTLyThD8Y3h4DPSJN3IfRevQCT3INENwisFfOvA67kjCZf6yuo119x-JL5BqMaWF9lc0hwOj2rlOqvJLQXqRdX3bztzWWqXYkL75rtqEXv0A2uB19Q!!/dz/d5/L2dBISEvZ0FBIS9nQSEh/ |title=Girl with a Fan |publisher=The State Hermitage Museum |accessdate=2017-04-14}}</ref>。第7回印象派展出品。 ファイル:Pierre-Auguste Renoir - Two Sisters (On the Terrace) - Google Art Project.jpg|『{{仮リンク|2人の姉妹(テラスにて)|en|Two Sisters (On the Terrace)}}』1881年。油彩、キャンバス、100.4 × 80.9 cm。[[シカゴ美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.artic.edu/artworks/14655/two-sisters-on-the-terrace |title=Two Sisters (On the Terrace), 1881 |publisher=Art Institute Chicago |accessdate=2017-04-13}}</ref>。 ファイル:Pierre Auguste Renoir, Vue de Venise (Le Palais des Doges), 1881.jpg|『ヴェネツィアのパラッツォ・ドゥッカーレ』1881年。油彩、キャンバス、54 × 65 cm。{{仮リンク|クラーク美術館|en|Clark Art Institute}}([[マサチューセッツ州]]ウィリアムズタウン)。 ファイル:Pierre-Auguste Renoir - Baigneuse blonde.jpg|『ブロンドの浴女』1881年。油彩、キャンバス、81.8 × 65.7 cm。クラーク美術館。 ファイル:Pierre-Auguste Renoir - Richard Wagner.jpg|『リヒャルト・ワーグナーの肖像』1882年。油彩、キャンバス、53 × 46 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/richard-wagner-11042.html |title=Richard Wagner |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-04-14}}</ref>。 </gallery> === 古典主義への回帰(1880年代半ば - 後半) === ルノワールは、イタリア旅行でのラファエロとの出会いを機に、[[ニコラ・プッサン]]から[[新古典主義]]に至る絵画に興味を持つようになり、色彩重視からデッサン重視に転向した。そして、1883年頃から1888年頃にかけて、写実性の強い「アングル風」の時代が訪れる<ref>[[#木村|木村 (2012: 169)]]。</ref>。 1882年末から1883年にかけて、ダンス3部作と言われる『[[ブージヴァルのダンス]]』、『[[田舎のダンス]]』、『[[都会のダンス]]』を制作した。『田舎のダンス』の女性のモデルはアリーヌ・シャリゴ、その他の2作品のモデルは[[シュザンヌ・ヴァラドン]]である<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 54-55)]]。</ref>。この当時、ルノワールは2人と二股の交際をしていたようで、1883年12月にシュザンヌが産んだ画家[[モーリス・ユトリロ]]の父親は、ルノワールであるとする説がある<ref name="名前なし-12">[[#木村|木村 (2012: 170)]]。</ref>。 1883年4月には、デュラン=リュエルが{{仮リンク|マドレーヌ大通り|en|Boulevard de la Madeleine}}に新しく開いた画廊で、ルノワールの個展が開かれた。初期作品から近作まで約70点の中には、数多くの代表作が含まれ、印象派としてのルノワールを回顧する本格的な展覧会となった<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 129-30)]]。</ref>。デュラン=リュエルは、これと並行して海外での売出しを図り、[[ロンドン]]のニュー・ボンド・ストリートの画廊で開いた印象派の展覧会に、ヴェネツィアの風景画や『ブージヴァルのダンス』を含むルノワール9点を展示した<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 345)]]。</ref>。 同年(1883年)晩夏には、英領[[ジャージー]]、[[ガーンジー]]を訪れた<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 89)]]、[[#賀川|賀川 (2010: 130)]]。</ref>。12月、モネとともに、新しいモティーフを探しに、地中海沿岸への短い旅に出た。モネは、この旅行について、「ルノワールとの楽しい旅は、なかなか素晴らしかったのですが、制作するには落ち着きませんでした。」と述べている。2人の関心が変化したこともあり、かつてのように共同制作から成果を得る手法は難しくなったことを示している<ref name="名前なし-13">[[#リウォルド|リウォルド (2004: 349)]]。</ref>。ポール・ベラールの別荘に招かれてその娘たちを描いた『ヴァルジュモンの午後』を制作したが、ベラールは、ルノワールの新しい画風を好まず、この後注文をやめてしまった。そのほかにも多くのパトロンが離れ、この時期ルノワールの絵は全く売れなくなってしまった<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 132-35)]]。</ref>。 [[1885年]]3月、アリーヌとの間に、後に俳優となる長男{{仮リンク|ピエール・ルノワール|en|Pierre Renoir}}が生まれた<ref name="名前なし-12"/>。その後、母子の健康のためと経済的理由から、一家は、[[ジヴェルニー]]に近い{{仮リンク|ラ・ロシュ=ギュイヨン|en|La Roche-Guyon}}に移った<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 61)]]。</ref>。この地から、デュラン=リュエルに宛てて、「私は昔の絵の柔らかい優美な描き方を、これから先再び取り入れていくことにしました。……新しさは全然ありませんが、18世紀の絵画を引き継ぐものです。」と書いている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 350)]]。</ref>。同年秋、妻アリーヌの故郷{{仮リンク|エソワ|en|Essoyes}}を初めて訪れ、その後もこの地を気に入って度々訪れている<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 144)]]。</ref>。 デュラン=リュエルは、[[1886年]]4月、[[ニューヨーク]]で「パリ印象派の油絵・パステル画展」を開き、ルノワールの作品38点もその中に含まれていた。この展覧会は、アメリカの収集家が印象派に関心を持ち始める契機となった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 232)]]。</ref>。同じ年、最後のグループ展となる第8回印象派展が開かれたが、画商[[ジョルジュ・プティ]]の国際美術展に参加を決めていたモネ、ルノワールは参加しなかった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 235)]]、[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 47)]]。</ref>。また、モネとともに、[[ブリュッセル]]の[[20人展]]にも参加した<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 377)]]。</ref>。 1886年頃から、[[ベルト・モリゾ]]がパリの自宅で友人らを招いて夜会を催すようになったが、ルノワールはその常連客となった。また、モリゾを通じて、詩人[[ステファヌ・マラルメ]]と知り合い、親交を深めた<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 102-03)]]。</ref>。 [[ファイル:Les grandes Eaux (Versailles) (9669899561).jpg|thumb|right|180px|[[ヴェルサイユ宮殿]]の噴水を飾る[[フランソワ・ジラルドン]]の浅浮き彫りから、『大水浴図』の着想を得たという<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 98)]]。</ref>。]] 1887年までにかけて、それまでに制作した女性裸体画の集大成として『大水浴図』を制作した。ルノワールは、それまでの制作方法と異なり、この作品のためにデッサンや習作を重ねた。作品の中には、明確な輪郭線となめらかな表面の部分と、筆触を残して色彩を強調した部分とが混在している<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 58-59)]]、[[#ディステル|ディステル (1996: 98)]]。</ref>。彼は、この作品を1887年のジョルジュ・プティの展覧会に出品した。ピサロは、「彼の試みは理解できます。同じところに留まっていたくないのは分かりますが、線に集中しようとしたために色彩への配慮がなく、人物が1人1人ばらばらです。」と評したが、一般大衆の評価はむしろ好意的だった。[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]もこの作品を高く評価した。ルノワールは、デュラン=リュエルに、「私は、大衆に認めてもらえる一段階を、小さな一歩ではありますが、進んだと思っています。」と書いている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 389-90)]]。</ref>。ただ、『大水浴図』には買い手がつかなかった<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 142)]]。</ref>。 [[1888年]]初めには、[[エクス=アン=プロヴァンス]]の{{仮リンク|ジャス・ド・ブッファン別荘|en|Bastide du Jas de Bouffan}}にセザンヌを訪れ、一緒に制作した。ルノワールは、この年、激しい神経痛に見舞われるようになった。再び自分の作品に不満を持つようになり、美術批評家の{{仮リンク|ロジェ・マルクス|fr|Roger Marx}}に「私は、自分がこれまでに行ってきた全てを駄目だと感じており、それが展示されているのを見るのは、私にとって最も辛いことです。」と書き、[[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]への展示に難色を示している<ref name="名前なし-14">[[#リウォルド|リウォルド (2004: 393)]]。</ref>。 <gallery> ファイル:Pierre-Auguste Renoir - Suzanne Valadon - Dance at Bougival - 02.jpg|『[[ブージヴァルのダンス]]』1883年。油彩、キャンバス、181.9 × 98.1 cm。[[ボストン美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://collections.mfa.org/objects/32592 |title=Dance at Bougival |publisher=Museum of Fine Arts, Boston |accessdate=2017-04-13}}</ref>。 ファイル:Pierre Auguste Renoir - Country Dance - Google Art Project.jpg|『[[田舎のダンス]]』1883年。油彩、キャンバス、180 × 90 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/danse-a-la-ville-8844.html |title=City Dance. Country Dance |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-04-13}}</ref>。 ファイル:Pierre-Auguste Renoir 019.jpg|『[[都会のダンス]]』1883年。油彩、キャンバス、179.7 × 89.1 cm。オルセー美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&zsz=5&lnum=12 |title=Danse à la ville |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-04-13}}</ref>。 ファイル:Auguste Renoir - L'après-midi des enfants à Wargemont - Google Art Project.jpg|『ヴァルジュモンの午後』1884年。油彩、キャンバス、127 × 173 cm。[[旧国立美術館 (ベルリン)|ベルリン旧国立美術館]]。 ファイル:Pierre-Auguste Renoir, French - The Large Bathers - Google Art Project.jpg|『[[大水浴図 (ルノワールの絵画)|大水浴図]]』1884-87年。油彩、キャンバス、117.8 × 170.8 cm。[[フィラデルフィア美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://philamuseum.org/collection/object/59196 |title=The Large Bathers |publisher=Philadelphia Museum of Art |accessdate=2017-04-16}}</ref>。 </gallery> === 評価の確立(1890年代) === [[ファイル:Renoir à Montmartre vers 1885.jpg|thumb|left|150px|「霧の館」の石段に座るルノワール(1895年頃)<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 108-09)]]。</ref>。]] [[1890年]]には、[[レジオンドヌール勲章]]の授与を打診されたが、辞退している<ref name="名前なし-15">[[#木村|木村 (2012: 171)]]。</ref>。また、この年、7年ぶりにサロンに出品し、これを最後にサロンから引退した<ref name="名前なし-14"/>。この年、アリーヌと正式に結婚した<ref name="名前なし-16">[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 62)]]。</ref>。同年頃、ルノワール一家は、モンマルトルの丘の{{仮リンク|ジラルドン通り|fr|Rue Girardon}}にある「ラ・ブルイヤール(霧の館)」に引っ越した<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 63)]]。</ref>。 1890年代初頭には、農作業をする女性や、都会の女性の牧歌的な情景を好んで描いた。そこでは、1880年代のようなはっきりした輪郭線はないが、かといって印象派の時代とも違い、人物がしっかりしたボリューム感を持っている。裸婦も好んで描いた<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 145)]]。</ref>。 [[1892年]]、美術局長官アンリ・ルージョンから、[[リュクサンブール美術館]]で展示すべき作品の制作依頼を受け、『[[ピアノに寄る少女たち]]』の油彩画5点、パステル画1点を集中的に制作した。これには、詩人[[ステファヌ・マラルメ]]、美術批評家ロジェ・マルクスの働きかけがあった。油彩画5点のうち、現在オルセー美術館に収蔵されている作品が、4000フランで政府買上げとなったもので、全体が暖かい色調で統一されている<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 66)]]、[[#ディステル|ディステル (1996: 111)]]。</ref>。同じ年、デュラン=リュエル画廊でルノワールの回顧展が開かれ、好評を博した<ref>[[#木村|木村 (2012: 172)]]。</ref>。この頃、歯科医ジョルジュ・ヴィオー、仲買商人フェリックス=フランソワ・ドポー、劇場経営者{{仮リンク|ポール・ガリマール|fr|Paul Gallimard}}など新しい愛好家も増えてきた。ルノワールは、同じ1892年、ポール・ガリマールに誘われて[[マドリード]]に旅行し、[[プラド美術館]]で[[ディエゴ・ベラスケス]]の作品に感銘を受けた<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 150-51)]]</ref>。 [[1894年]]、アリーヌとの間に、後に[[映画監督]]となる二男[[ジャン・ルノワール]]が生まれた<ref name="名前なし-17">[[#木村|木村 (2012: 173)]]。</ref>。この年、アリーヌの遠縁の女性{{仮リンク|ガブリエル・ルナール|en|Gabrielle Renard}}が、ルノワールの家のメイドとして働き始め、ジャンの世話をするだけでなく、ルノワールの絵のモデルも務めた。1896年の『画家の家族』には、「ラ・ブルイヤール」の庭先に、長男ピエールとその母親アリーヌ、幼いジャンとそれを支えるガブリエル、隣家の少女が勢揃いしているところが描かれている<ref name="名前なし-16"/>。 1894年2月、カイユボットが亡くなったが、カイユボットは、その[[遺言]]で、マネや印象派の作品68点を[[リュクサンブール美術館]]に、後に[[ルーヴル美術館]]に収蔵すべく[[遺贈]]しており、その遺言執行者としてルノワールを指名していた。そのため、ルノワールは、この遺言実現のため奔走することになった。しかし、保守的な美術界や世論は、コレクションの受入れに反対し、大きな論争となった。結局、[[1896年]]、コレクションの一部がリュクサンブール美術館に収蔵されることで妥協が成立した<ref name="名前なし-15"/>。ルノワールの作品は8点中6点が受け入れられた<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 404)]]。</ref><ref group="注釈">リュクサンブール美術館に受け入れられたルノワールの作品は、『ぶらんこ』、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』、『陽光の中の裸婦』などであった。[[#賀川|賀川 (2010: 155)]]。</ref>。 [[ファイル:Essoyes atelier Renoir.jpg|thumb|right|150px|エソワにあるルノワールのアトリエ。]] [[1897年]]、[[自転車]]から落ちて右腕を骨折し、これが原因で慢性[[関節リウマチ]]を発症した。その後は、療養のため冬を南フランスで過ごすことが多くなった<ref name="名前なし-17"/>。[[1899年]]、友人の画家ドゥコンシーの勧めで、[[カーニュ=シュル=メール]]のサヴルン・ホテルに滞在し、この町に惹かれるようになった<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 70)]]。</ref>。そして、パリ、エソワ、カーニュの3箇所を行き来するようになった<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 178-79)]]。</ref>。 [[1900年]]、[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万国博覧会]]の「フランス絵画100周年記念展」にルノワールの作品11点が展示された<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 158)]]。</ref>。同年8月、レジオンドヌール勲章5等勲章を受章した<ref>[[#木村|木村 (2012: 172)]]、[[#賀川|賀川 (2010: 158)]]。</ref>。これも同じ年、[[ベルネーム=ジューヌ画廊]]で大規模な個展を開催した。ベルネーム=ジューヌ兄弟は、1890年代初めから、積極的に印象派の作品を扱い、ルノワールとも親交を築いており、1901年と1910年にはルノワールがベルネーム=ジューヌの家族の肖像画を描いている<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 120-21)]]、[[#賀川|賀川 (2010: 158)]]。</ref>。 [[1901年]]、エソワで、アリーヌとの間に、三男クロードが生まれた<ref>[[#木村|木村 (2012: 173)]]、[[#賀川|賀川 (2010: 170)]]。</ref>。その頃、リューマチで階段を上がるのも難しくなったことから、モンマルトルの{{仮リンク|コーランクール通り|fr|Rue Caulaincourt}}に移った<ref name="名前なし-18">[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 65)]]。</ref>。 <gallery> ファイル:Auguste Renoir - Young Girls at the Piano - Google Art Project.jpg|『[[ピアノに寄る少女たち]]』1892年。油彩、キャンバス、116 × 90 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/jeunes-filles-au-piano-17428.html |title=Young Girls at the Piano |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-04-16}}</ref>。 ファイル:Gabrielle et Jean, by Pierre-Auguste Renoir, from C2RMF cropped.jpg|『ガブリエルとジャン』1895-96年。油彩、キャンバス、65 × 54 cm。[[オランジュリー美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.musee-orangerie.fr/fr/collection/les-arts-a-paris |title=Gabrielle et Jean |publisher=RMN-Grand Palais (musée de l'Orangerie) / Hervé Lewandowski |accessdate=2017-06-18}}</ref>。 ファイル:Pierre Auguste Renoir La famille d artiste.jpg|『画家の家族』1896年。油彩、キャンバス、173 × 137.2 cm。[[バーンズ・コレクション]]<ref>{{Cite web |url=https://www.barnesfoundation.org/collections/art-collection/object/7002/the-artists-family-la-famille-de-lartiste |title=The Artist's Family |publisher=The Barnes Foundation |accessdate=2017-04-16}}</ref>。 </gallery> === 南仏カーニュ(1903年 - 1919年) === [[ファイル:Musée Renoir de Cagnes-sur-Mer SAM 1566.JPG|thumb|right|180px|ルノワールが、1908年、カーニュのレ・コレットに建てた邸宅で、現在はルノワール美術館。]] [[ファイル:Renoir, Pierre-Auguste, by Dornac, BNF Gallica.jpg|thumb|left|160px|1910年頃の写真。]] [[1903年]]、南仏[[カーニュ=シュル=メール]]で、郵便局のある建物(ヴィラ・ド・ラ・ポスト)に住むようになった<ref name="名前なし-18"/>。子煩悩なルノワールは、これまでも、長男ピエール、二男ジャンをモデルに多くの作品を描いてきたが、三男クロード(愛称ココ)が生まれてからは、クロードの成長記録のように更に多くの作品のモデルとした<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 170)]]。</ref>。また、ルノワールは、晩年、[[リヨン]]出身の画家{{仮リンク|アルベール・アンドレ|en|Albert André}}を息子のように愛し、アンドレはエソワやカーニュのルノワール邸を頻繁に訪れた。彼は、晩年のルノワールの姿を数多く描くとともに、1919年、ルノワールの言行を記した『ルノワール』を刊行した<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 174-75)]]。</ref>。 ルノワールは、[[1904年]]の[[サロン・ドートンヌ]]では一室を与えられ、[[1905年]]には、サロン・ドートンヌから名誉総裁の称号を授与された<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 251)]]。</ref>。[[1906年]]、[[メトロポリタン美術館]]がルノワールの『シャルパンティエ夫人とその子どもたち』を購入した<ref name="名前なし-19">[[#リウォルド|リウォルド (2004: 410)]]。</ref>。 [[ファイル:Maillol Pierre-Auguste Renoir.jpg|thumb|left|130px|[[アリスティド・マイヨール|マイヨール]]によるルノワール像(1907年)。]] [[1907年]]、カーニュ=シュル=メールのレ・コレットに別荘を買い、晩年をここで過ごした<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 252)]]。</ref>。しかし、リューマチが悪化し、[[1910年]]夏に[[ミュンヘン]]に旅行したものの、帰国後、歩くことができなくなり、[[車椅子]]での生活となった<ref>[[#木村|木村 (2012: 174)]]、[[#賀川|賀川 (2010: 182)]]。</ref>。ジャンの回想によれば、レ・コレットには、[[モーリス・ドニ]]、[[ポール・シニャック]]、[[ピエール・ボナール]]、[[アンドレ・ドラン]]、[[アンリ・マティス]]、[[パブロ・ピカソ]]など、若い画家が毎日のように訪れてきていたという<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 184)]]。</ref>。1906年に[[アリスティド・マイヨール]]がルノワールの胸像を制作したことを機に[[彫刻]]に興味を持ち始め、画商ヴォラールの勧めで彫刻を手がけるようになった。1913年以降は、マイヨールの弟子{{仮リンク|リシャール・ギノ|en|Richard Guino}}が、ルノワールのデッサンと指示に基づいていくつもの彫刻作品を生み出した<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 186)]]。</ref>。 [[1911年]]10月、レジオンドヌール勲章4等勲章を受章した<ref>[[#木村|木村 (2012: 176)]]。</ref>。[[1912年]]、手術を受けたが、良い結果にはならなかった。この年、デュラン=リュエルがカーニュを訪れ、椅子から立ち上がることもできないルノワールの様子を見るが、「描く時は、かつてと変わらない、上機嫌で、幸福な彼を見ることができた。」と語っている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 411)]]。</ref>。動かない手に絵筆を縛り付けたルノワールの写真が残っている。アルベール・アンドレによると、縛り付けた絵筆は制作中は外せないため、絵具を変える度に絵筆を洗わなければならず、画面とパレットと筆洗との間を慌ただしく行き来するうちに、腕は疲労で硬直していたという。こうした苦闘の中から、歓喜に満ちた作品を生み出していった<ref>[[#西岡|西岡 (2016: 118-89)]]、[[#賀川|賀川 (2010: 182)]]。</ref><ref group="注釈">後に、やや誇張されて、「両手に縛った筆で絵を描く」という伝説が語られるようになった。[[#賀川|賀川 (2010: 182)]]。</ref>。 [[1914年]]、息子ピエールとジャンが出征し、負傷した。[[1915年]]、妻アリーヌは、負傷したジャンを見舞いに行った帰り、糖尿病が悪化して56歳で亡くなった<ref>[[#木村|木村 (2012: 174)]]、[[#賀川|賀川 (2010: 193)]]。</ref>。 [[1919年]]2月、[[レジオンドヌール勲章]]3等勲章を受章した<ref>[[#木村|木村 (2012: 176)]]、[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 251)]]。</ref>。その年、[[ルーヴル美術館]]が『シャルパンティエ夫人の肖像』を購入し、ルノワールは、美術総監に招かれ、自分の作品が憧れの美術館に展示されているのを見ることができた<ref>[[#木村|木村 (2012: 172-73)]]。</ref>。 同年12月3日、カーニュのレ・コレットで、肺充血で亡くなった<ref>[[#木村|木村 (2012: 176)]]、[[#賀川|賀川 (2010: 196)]]。</ref>。ルノワールは、死の数時間前、花を描きたいからと言って筆とパレットを求め、これを返す時、「ようやく何か分かりかけてきたような気がする。」とつぶやいたという<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 131)]]。</ref>。もっとも、この伝説の出所は不明であり、デュラン=リュエルによれば、「私はもうだめだ。」とつぶやいたという。長男ピエールによれば、「2日にわたり肺の鬱血に襲われたが、心臓が止まった時には回復していた。彼の最後の瞬間はかき乱され、半ば無意識の一時的錯乱状態でよくしゃべったが、直接彼に話しかけると大丈夫だと答えた。それから彼はまどろみ、約1時間後に呼吸は止まった。」という<ref>[[#キング|キング (2018: 227-28)]]。</ref>。 ルノワールの訃報を聞いたモネは衝撃を受け、「とてもつらい。私だけが残ってしまったよ。仲間たちの唯一の生き残りだ。」と友人に書いている<ref>[[#キング|キング (2018: 228)]]。</ref>。 <gallery> ファイル:Pierre-AugusteRenoir-1905-Terrace at Cagnes.png|『カーニュのテラス』1905年。油彩、キャンバス、46 × 55 cm。[[ブリヂストン美術館]]。 ファイル:Pierre-Auguste Renoir - Femme nue couchée (Gabrielle).jpg|『{{仮リンク|横たわる裸婦 (ルノワール)|fr|Femme nue couchée (Renoir)|label=横たわる裸婦}}』1906年頃。油彩、キャンバス、67 × 160 cm。[[オランジュリー美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.musee-orangerie.fr/fr/collection/les-arts-a-paris |title=Reclining Nude (Gabrielle) |publisher=RMN-Grand Palais (musée de l'Orangerie) / Hervé Lewandowski |accessdate=2017-04-16}}</ref>。 ファイル:Pierre-Auguste Renoir 106.jpg|『アンブロワーズ・ヴォラールの肖像』1908年。油彩、キャンバス、81.6 × 65.2 cm。[[コートールド美術研究所]]。 ファイル:Auguste Renoir - Claude Renoir in Clown Costume - Google Art Project.jpg|『{{仮リンク|道化の衣装のクロード・ルノワール|fr|Claude Renoir en clown}}』1909年。油彩、キャンバス、120 × 77 cm。[[オランジュリー美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.musee-orangerie.fr/en/artwork/claude-renoir-clown-costume |title=Claude Renoir in Clown Costume |publisher=RMN-Grand Palais (musée de l'Orangerie) / Franck Raux |accessdate=2017-04-16}}</ref>。 ファイル:Pierre-Auguste Renoir - Autoportrait 5.JPG|『{{仮リンク|白い帽子の自画像|fr|Autoportrait au chapeau blanc}}』1910年。油彩、キャンバス、42 × 33 cm。個人蔵。 ファイル:Renoir - Banhista Enxugando a Perna Direita.jpg|『足を拭く浴女』1910年頃。油彩、キャンバス、84 × 65 cm。[[サンパウロ美術館]]。 ファイル:Pierre-Auguste Renoir 039.jpg|『{{仮リンク|薔薇を持つガブリエル|it|Gabrielle con la rosa}}』1911年。油彩、キャンバス、55.5 × 47 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.musee-orsay.fr/fr/oeuvres/gabrielle-la-rose-1170 |title=Gabrielle à la rose |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-06-18}}</ref>。 ファイル:Le Jugement de Pâris, par Pierre-Auguste Renoir.jpg|『[[パリスの審判 (ルノワール)|]]』1913-14年頃。油彩、キャンバス、73 × 92.5 cm。[[ひろしま美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.hiroshima-museum.jp/collection/eu/renoir.html |title=オーギュスト・ルノワール |publisher=ひろしま美術館 |accessdate=2017-06-18}}</ref>。 ファイル:'Venus Victorious' by Pierre-Auguste Renoir, 1914, Norton Simon Museum.JPG|『勝利のヴィーナス』1914年。ブロンズ、177.8 × 106.7 × 81.3 cm。[[ノートン・サイモン美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.nortonsimon.org/art/detail/M.1969.16.S |title=Venus Victorious |publisher=Norton Simon Museum |accessdate=2017-06-18}}</ref>。 ファイル:Pierre Auguste Renoir - The Bathers - Google Art Project.jpg|『浴女たち』1918-19年頃。油彩、キャンバス、110 × 160 cm。オルセー美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.musee-orsay.fr/en/collections/works-in-focus/search/commentaire/commentaire_id/les-baigneuses-383.html |title=The Bathers |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-04-16}}</ref>。 </gallery> == 作品 == === カタログ === ルノワールの[[カタログ・レゾネ]](作品総目録)は、編集作業が始まったところであるが、作品数は4000点を下らないだろうと言われている<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 5)]]。</ref>。 === 作風 === ==== 印象主義の時代 ==== {{Multiple image | align = right | direction = vertical | width = 160 | image1 = Claude Monet La Grenouillére.jpg | image2 = La Grenouillère (Auguste Renoir) - Nationalmuseum - 19486.tif | footer = モネの『[[ラ・グルヌイエール]]』(1869年)<ref group="注釈">油彩、キャンバス、74.6 × 99.7 cm。[[メトロポリタン美術館]]。{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/437135 |title=La Grenouillère |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2016-11-20}}</ref>とルノワールの『ラ・グルヌイエール』(同年)<ref group="注釈">油彩、キャンバス、66.5 × 81 cm。[[スウェーデン国立美術館]]。{{Cite web |url=https://collection.nationalmuseum.se/eMP/eMuseumPlus?service=ExternalInterface&module=collection&objectId=19486&viewType=detailView |title=La Grenouillère |publisher=Nationalmuseum |accessdate=2016-12-04}}</ref>。 }} 画家を志してシャルル・グレールの画塾に入った当初は、サロン風の絵を描く平凡な画学生にすぎなかった。しかし、「エスメラルダ」で初めてサロンに入選した頃から、モネたち友人や、ドラクロワの影響もあり、暗い色を払拭し、色彩画家としての本領を発揮するようになった<ref>[[#高階・巨匠|高階 (2008: 76-77)]]。</ref>。最初は、クールベの影響を受けた時期もあったが、1867年の『日傘のリーズ』や1868年の『婚約者たち(シスレー夫妻)』から、形態を肉付けのみで作り上げ、色彩を帯びた影を注意深く観察するなど、はっきりと個性を示すようになった<ref name="名前なし-5"/>。 1869年にモネとともに『ラ・グルヌイエール』を制作した頃からは、セーヌ川やモンマルトルの風景を明るく描く印象主義的な手法を確立していった。伝統的な[[アカデミズム絵画]]は、凝った構図、写実的なデッサン、なめらかな仕上げの細部を重視しており、色彩は物の固有色を表すものであって形態に従属するものにすぎないと考えていた。それに対し、モネを代表格とする[[印象派]]は、物の固有色という固定観念を否定し、目に映る色彩をそのままキャンバスに写し取ろうとした。そのため、パレットの上で絵具を混ぜず、細かな筆触(タッチ)をキャンバスに並べることで(筆触分割)、臨場感を伝えるとともに、戸外の光の明るさを表現しようとした<ref>[[#高階・絵画史|高階・上 (1975: 94-96)]]、[[#西岡|西岡 (2016: 116-19)]]。</ref>。それに伴って、『[[ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会]]』に見られるように、思い切って輪郭線をぼかすという手法を選んだ<ref>[[#ゴンブリッチ|ゴンブリッチ (2011: 397-99)]]。</ref>。 もっとも、この時期においても、モネとは違い、ルノワールの作品には、人物への関心の深さが表れており、陽光に照らされた明るい風景画よりも、若々しい女性の肌の上に点々と落ちかかる木漏れ日を描写することに熱意を燃やした。この時期、室内の人物画も数多く制作しており、モネが否定した黒も積極的に利用している。純粋な風景画においても、ルノワールの作品は、単に目に映る光の描写ではなく、植物の旺盛な生命力や生々しい実体に関心が向けられている<ref>[[#高階・絵画史|高階・上 (1975: 120-21)]]。</ref>。同じ『ラ・グルヌイエール』でも、ルノワールの作品では白いドレスの女性が目立ち、人々のファッションや観光地の楽しさに焦点が当たっている。自由で気楽な[[ボヘミアン]]的気質も投影されている<ref>[[#西岡|西岡 (2016: 132-35)]]。</ref>。 ==== 「アングル風」の時代 ==== [[ファイル:Pierre-Auguste Renoir, The Umbrellas, ca. 1881-86.jpg|thumb|left|140px|『{{仮リンク|雨傘 (ルノワール)|en|The Umbrellas (Renoir painting)|label=雨傘}}』1881-86年頃<ref group="注釈">油彩、キャンバス、180.3 × 114.9 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ロンドン]])。{{Cite web |url=https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/pierre-auguste-renoir-the-umbrellas |title=The Umbrellas |publisher=The National Gallery |accessdate=2017-04-16}}</ref>。]] [[ファイル:Le Bain Turc, by Jean Auguste Dominique Ingres, from C2RMF retouched.jpg|thumb|180px|right|[[ドミニク・アングル|アングル]]『[[トルコ風呂 (絵画)|トルコ風呂]]』1862年<ref group="注釈">油彩、板に張り付けたキャンバス、108 × 110 cm。[[ルーヴル美術館]]。{{Cite web |url=https://www.louvre.fr/oeuvre-notices/le-bain-turc |title=Le Bain turc |publisher=Musée du Louvre |accessdate=2017-04-25}}</ref>。]] 印象派は、筆触分割の手法を用いて色彩の輝きを捉えようとしたが、この手法においては、はっきりした輪郭線に規定された形態を表現することは難しかった。実際、モネやシスレーは、草野や水面など、明確な形態を持たない自然の風景に主な関心を寄せ、建物を描く場合でも、ゆらめく影のように光の表現に溶け込んでおり、明確な形態は放棄されている。しかし、もともと人物、特に若い女性の健康な肉体の輝きに魅力を感じていたルノワールは、印象派のあまりに感覚主義的な態度には飽き足りなかった<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 113-16)]]。</ref>。ルノワールは、後に画商[[アンブロワーズ・ヴォラール]]に次のように語っている<ref>[[#高階・フランス|高階 (1990: 309-10)]]。</ref>。 {{Quotation|1883年頃、私の作品の中に一つの断絶が訪れた。印象主義をとことんまで追いつめていった結果、自分はもう絵を描くこともデッサンをすることもできないのではないかという結論に達した。つまり一口に言えば、私は袋小路に入ってしまったのだ。}} [[戸外制作]]では余りに光の効果に気を取られてしまい、構成がおろそかになってしまうことにも気が付き、アトリエでの仕上げの必要性を認識した<ref name="名前なし-13"/>。 印象主義からの脱却には、1881年から1882年にかけてのアルジェリア旅行・イタリア旅行で、[[地中海]]の明るい太陽と[[ルネサンス]]の古典作品に触れたことが影響したと思われる<ref>[[#高階・名画|高階 (1971: 26)]]。</ref>。その際、画面に構成的秩序を求めたルノワールの拠り所となったのが、[[新古典主義]]の巨匠[[ドミニク・アングル]]であった<ref>[[#高階・絵画史|高階・上 (1975: 116)]]。</ref>。1883年頃から1880年代後半まで続く「アングル風」時代の作品は、あまりにも冷たく、ぎこちない不自然さがあると評されるが、そのような犠牲を払ってでも、形態の確立によって印象主義の危機を克服することが必要であったと考えられる<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 122-23)]]。</ref>。 1881年頃から1886年頃にかけて制作された『雨傘』では、1881年頃に描かれた右側の2人の少女と2人の女性は、印象派風の軽快な筆触により表現されているのに対し、1885年頃描かれた左側の女性と男性は、明確な輪郭線が用いられており、印象主義の時代とアングル風の時代が混在している<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 46)]]。</ref>。そして、アングル風時代の総決算が、『大水浴図』である<ref>[[#高階・フランス|高階 (1990: 312)]]。</ref>。この作品の表現は、アングルの『[[グランド・オダリスク]]』や『[[トルコ風呂 (絵画)|トルコ風呂]]』のように明確な形態を持っているが、反面、作り物のような冷たさがあることは否定できない<ref>[[#高階・名画|高階 (1971: 23-24)]]。</ref>。 ==== 円熟期 ==== [[ファイル:Pierre Auguste Renoir Les baigneuses.jpg|thumb|right|180px|『浴女たち』1918年頃<ref group="注釈">油彩、キャンバス、67.5 × 81 cm。[[バーンズ・コレクション]]。{{Cite web |url=https://www.barnesfoundation.org/collections/art-collection/object/5013/composition-five-bathers-composition-cinq-baigneuses?searchTxt=renoir&submit=submit&rNo=157 |title=Composition, Five Bathers |publisher=The Barnes Foundation |accessdate=2017-04-25}}</ref>。]] 1890年代以降のルノワールは、「アングル風」時代の冷たさがなくなり、珊瑚色の輝く色調で、女性の温かい肉体を描き出すようになった<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 123)]]。</ref>。肌のピンクがかった赤から、バラの紫がかった赤まで、様々な赤で生き生きとした表現をしている。絵具の表面は、かつての印象主義の時代のように大気の微妙な効果を伝えるものではなく、生命のイメージを作り出すものとなっている<ref name="名前なし-19"/>。1892年の『ピアノに寄る少女たち』は、その最初の成果といえ、豊麗な色彩によって、通俗的ではあるが平和で暖かな雰囲気を描き、第三共和政の泰平を楽しむパリ市民の生活を映し出している。ルノワールは、「私の好きな絵画は、風景ならばその中を散歩したくなるような絵、裸婦ならばその胸や腰を愛撫したくなるような絵だ。」と語っているとおり、見る人を喜ばせるような絵を描き続けた<ref>[[#高階・名画|高階 (1971: 15-24)]]。</ref>。 20世紀に入り、カーニュに住み始めてからは、伝統的な地中海文化への傾斜が見られる。19世紀後半に[[プロヴァンス]]地方に興った文学復興運動[[フェリブリージュ]]と関わりがあるかもしれないと指摘されている<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 74)]]。</ref>。 ルノワールは、1908年、アメリカの画家ウォルター・パッチに対し、次のように語っている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: )]]。</ref>。 {{Quotation|私には何の規則も方法もありません。〔中略〕私は、キャンバスの上で、その肉体が生き生きと、打ち震えるように輝く色を見出さなければなりません。今では、全てを説明するように求められますが、説明できてしまうような絵は、芸術ではありません。〔中略〕美術作品は、あなたを捉え、あなたをそれ自体で虜にし、あなたを感動させるものでなければなりません。それは、芸術家が情熱を表すための手段なのです。それは、芸術家からほとばしり出て、あなたを彼の情熱へと誘う流れです。}} === 影響と評価 === ==== 生前 ==== ルノワールは若い時貧窮に苦しみ、1875年には、1点100フランで肖像画を描かせてもらったが、それすら良い仕事であった。『桟敷席』は、1875年にようやく425フランで売れた。オテル・ドゥルオでの競売でも、『ポンヌフ』が300フランで売れたのが最高で、あとは最低額の50フランであった<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 102-03)]]。</ref>。 [[1892年]]にデュラン=リュエル画廊で開いた個展が成功するとともに、『ピアノに寄る少女たち』が4000フランで政府買上げになってから、ようやく経済的に安定するようになった。若い画家たちからも、大きな関心を寄せられた。1890年代に独自の様式を生み出したルノワールに対し、[[モーリス・ドニ]]は、「ルノワールは、自分の感情やあらゆる自然や夢を、自分なりの技法で表現する。彼は自らの歓喜の目で、女性と花から成る見事な花束を作り出した。」と評した<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 106-07)]]、[[#賀川|賀川 (2010: 150)]]。</ref>。[[アンリ・マティス]]は、「セザンヌに次いで、ルノワールは、私たちを、潤いに欠けた純然たる抽象化から救っている。」と語り、[[パブロ・ピカソ]]は、ルノワールを「法王」と呼んだという。ルノワールは、彼ら若手画家たちに敬愛され、影響を与えた<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 184-85)]]。</ref>。 ルノワールは、晩年、レジオンドヌール勲章を授与されたり、[[1904年]]には大回顧展が開かれたりして、巨匠としての地位を確立した。[[1907年]]、[[メトロポリタン美術館]]が、『シャルパンティエ夫人とその子どもたち』を3500ポンドという空前の高値で購入した<ref name="名前なし-20">[[#瀬木|瀬木 (1999: 104)]]。</ref>。フランス国内だけでなく、アメリカ、ドイツ、イタリア、ロシアなどで、新作・旧作のルノワール展が次々開催された。[[1912年]]には、ドイツの批評家[[ユリウス・マイヤー=グラーフェ]]による図版付き研究書が出版された<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 126-27)]]。</ref>。1918年頃には、ルノワールらの印象派の作品が18世紀の額縁に入れられてパリの裕福な美術愛好家の書斎に飾られるなど、ブルジョワ的価値観を体現するものとして受け入れられるようになっていた<ref>[[#フック|フック (2009: 70)]]。</ref>。この頃、印象派はアメリカでも確固たる地位を築き、経済的に台頭するアメリカに多くの作品が渡り、{{仮リンク|モーガン・ラッセル|en|Morgan Russell}}の『{{lang|en|Still-Life Synchromy with Nude in Yellow}}』など{{仮リンク|シンクロミズム|en|Synchromism}}の作品や{{仮リンク|ガイ・ペン・デュボワ|en|Guy Pène du Bois}}による、現代生活を題材とする絵画はルノワールの影響を受けたものとされ<ref>{{Cite web2|url=http://artdaily.com/news/1676/Pierre-Auguste-Renoir-and-American-Painting|title=Pierre-Auguste Renoir and American Painting|website=artdaily.org|language=en|date=4 July 2002<!--サイト内検索の検索結果より-->|accessdate=2 August 2019}}</ref>、[[フレデリック・カール・フリージキー]]の『木漏れ日の中のヌード』(1915年)における光と影の表現にもルノワールの影響がみられる<ref name="LosAngeles">{{Cite news2|language=en|newspaper=Los Angeles Times|title=A Modernist Connection: Renoir and American Art|date=8 July 2002|last=Ollman|first=Leah|url=https://www.latimes.com/archives/la-xpm-2002-jul-08-et-ollman8-story.html}}</ref>。第1次世界大戦でフランスと敵対したドイツでさえ印象派は深く浸透しており、フランスに進駐したドイツ軍兵士は、1917年に塹壕の中で書いた日記に、フランスの風景の美しさを表現する時に「運河と並木の景色はまるでルノワールの夏の絵のようだ」と記している<ref>[[#フック|フック (2009: 120-21)]]。</ref>。 もっとも、ルノワールは、アメリカ人が絵に物語性や感傷を持ち込みすぎることを苦々しく感じ、コレクターが絵に「物思い(ラ・パンセ)」という題名を付けたことを嘆いていた<ref>[[#フック|フック (2009: 108-09)]]。</ref>。 ==== 死後 ==== ルノワール死後も作品の高騰は続き、1895年に300ポンドだった『舟遊びをする人々の昼食』は、1923年には20万ドル(5万ポンド以上)となった<ref name="名前なし-20"/>。この絵をデュラン=リュエル画廊で買ったアメリカのコレクター、{{仮リンク|ダンカン・フィリップス|en|Duncan Phillips (art collector)}}は、「ルノワールの軽やかな陽気さは、18世紀のフランスの装飾画家たちを思わせる。この『舟遊びをする人々の昼食』の成熟した完璧さと、素晴らしい涼感の表現には、イタリア・ルネサンスの遅れてきた絶頂期を見ることができる。」と書いており、ルノワールを反逆者ではなく偉大な伝統に連なるものとして捉えている<ref>[[#フック|フック (2009: 115)]]。</ref>。アメリカでは1904年から1940年までの時期がルノワールの作品の影響が最も大きかった時期とされたが、以降は批評家の間の評判が下がり、以前ほどの影響力はなくなったという<ref name="LosAngeles" />。2002年に{{仮リンク|サンディエゴ美術館|en|San Diego Museum of Art}}でルノワールの特別展が開かれたとき、[[ロサンゼルス・タイムズ]]の記者リア・オルマン({{lang|en|Leah Ollman}})はルノワールの絵画が「たびたびサッカリンの域に踏み入るほどの甘さ」と評し、批評家の{{仮リンク|ジェームズ・ハネッカー|en|James Huneker}}(1921年没)もルノワールを[[モダニズム]]の先駆者として評価したものの、「ルノワールは理解しにくい画家ではない」とも評した<ref name="LosAngeles" />。 1950年代以降は、絵画取引としてオークションによる取引が一般的になるとともに、印象派絵画が高騰した時代である。モネやルノワールを競落することがステータスを意味するようになった<ref>[[#フック|フック (2009: 195-96)]]。</ref>。新富裕層が印象派に魅了されたのは、魅力的な色彩や親しみやすさのほかに、[[オールド・マスター]]の作品と比べ来歴がしっかりしているという理由もあった<ref>[[#フック|フック (2009: 212-13)]]。</ref>。1950年代には、ルノワール作品は概ね1点3万ポンド前後で取引されたが、時々、10万ポンドに迫る取引が現れた。そして、[[1968年]]、実業家{{仮リンク|ノートン・サイモン|en|Norton Simon}}によって『学士院と芸術橋』が64万5834ポンド(155万ドル)で競落されるという記録が生まれた。1970年代には、美術市場の帝王として君臨するようになり、数多くのセールで、最高位を保ち続けた。1980年代には更に高騰して、[[サザビーズ]]や[[クリスティーズ]]で数百万ドルから1000万ドル台(数億円から十数億円)の落札が相次いだ。[[1990年]]5月15日には、[[大昭和製紙]]の[[齊藤了英]]がニューヨーク・クリスティーズで[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]の『[[医師ガシェの肖像]]』を史上最高値の7500万ドル(114億6000万円)で落札し、その2日後の17日、ニューヨーク・サザビーズでルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』を7100万ドル(108億8430万円)で落札したことが大きな話題となった<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 104-09)]]。</ref>。 ==== 日本 ==== [[ファイル:Pierre-AugusteRenoir-1914-Seated Bather.png|thumb|right|160px|『すわる水浴の女』1914年。油彩、キャンバス、55 ×44.2 cm。岸本吉左衛門旧蔵、[[ブリヂストン美術館]]。]] 日本人で初めてルノワールの絵を買ったのは、パリで画商をしていた[[林忠正]]であった。しかし、林が購入した作品は、日本で知られることはなく、売却されてしまった<ref>[[#宮崎|宮崎 (2007: 201)]]。</ref>。 日本で初めてルノワールに大きな影響を受けた画家は、[[梅原龍三郎]]であった<ref>[[#宮崎|宮崎 (2007: 202)]]。</ref>。梅原は、1908年にパリのリュクサンブール美術館を訪れた時、ルノワールの作品に感動し、1909年2月、レ・コレットのルノワールに会いに行った。その年、[[山下新太郎 (洋画家)|山下新太郎]]や[[有島生馬]]を連れて再訪し、彼らはルノワールから『水浴の女』を譲り受け、日本に持ち帰った<ref name="名前なし-21">[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 73)]]。</ref>。 日本国内では、雑誌『[[白樺 (雑誌)|白樺]]』などでルノワールが紹介され、[[中村彝]]、[[赤松麟作]]、[[土田麦僊]]などがその影響を受けた<ref name="名前なし-21"/>。山下が持ち帰った『水浴の女』が1912年の第4回白樺美術展で展示されたのが、日本の公衆がルノワールの絵画に触れた最初の機会であったが、この時は[[オーギュスト・ロダン|ロダン]]が絶大な人気を博していたのに比べ、ルノワールへの反応は低調であった<ref>[[#宮崎|宮崎 (2007: 203-07)]]。</ref>。[[第一次世界大戦]]後にルノワール人気が沸騰し、1919年にルノワールが死去すると、日本の新聞は大々的に関連記事を掲載した。[[中沢彦吉]]や[[岸本吉左衛門]]がフランスでロダンやルノワールの作品を買い集め、そのコレクションが1920年に東京と大阪の展覧会で公開されると、新聞でルノワールが熱心に取り上げられた。中村彝は、ルノワール作品に感動し、「どうしても人間を、裸体を、その生命を強調して、ナマナマしく表現し度い」と書き記し、『すわる水浴の女』の模写を制作した。一方、[[坂本繁二郎]]は物足りないと評し、[[岸田劉生]]は「ルノアルは甘いものだと思つた。画に惢がない。……中心へ行くと、綿をつかまされた様な気がする。」と批判した。この展覧会の頃が、ルノワール熱のピークとなった<ref>[[#宮崎|宮崎 (2007: 211-23)]]。</ref>。また、この頃、[[松方幸次郎]]や[[大原孫三郎]]も膨大な西洋美術を収集し、その中にはルノワールの『アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)』(松方コレクションから[[国立西洋美術館]])、『泉による女』([[大原美術館]])なども含まれていた<ref>[[#宮崎|宮崎 (2007: 259-78)]]。</ref>。こうして日本に紹介されたルノワール作品は、印象派時代のものよりも、後期の作品が中心であり、日本人にとってのルノワールのイメージは、後期の様式を基に形成されてきた<ref>[[#宮崎|宮崎 (2007: 200, 325)]]。</ref>。 [[第二次世界大戦]]後は、1970年代に、[[広島銀行]]がルノワールの『パリスの審判』を購入するなど、再び西洋美術熱が到来した。1985年頃から1990年頃までの[[バブル景気]]時代には、前述のような齊藤了英による『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』の高額落札のほかにも、各地の県立美術館が競ってモネ、ルノワール、ピカソなどの作品を買い求めた<ref>[[#宮崎|宮崎 (2007: 397-98)]]。</ref>。 == 関連作品 == * [[ルノワール 陽だまりの裸婦]] - [[2012年の映画|2012年]]の[[フランスの映画|フランス映画]]。「浴女たち(ニンフ)」の誕生秘話を描いている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=賀川恭子 |title=ルノワール――光と色彩の画家 |publisher=[[角川書店]] |series=[[角川文庫]] |year=2010 |isbn=978-4-04-394329-6 |ref=賀川}} * {{Cite book |和書 |author=木村泰司 |title=印象派という革命 |publisher=[[集英社]] |year=2012 |isbn=978-4-08-781496-5 |ref=木村}}[[ちくま文庫]]、2018年。 * {{Cite book |和書 |author=ロス・キング |others=長井那智子訳 |title=クロード・モネ――狂気の眼と「睡蓮」の秘密 |publisher=[[亜紀書房]] |year=2018 |origyear=2016 |isbn=978-4-7505-1554-0 |ref=キング}} * {{Cite book |和書 |author=エルンスト・ゴンブリッチ|authorlink=エルンスト・ゴンブリッチ |title=美術の物語 ポケット版|publisher=ファイドン |date=2011年 |origyear=1950 |isbn=978-4-86441-006-9 |ref=ゴンブリッチ}}旧版は2007年。新版・[[河出書房新社]]、2019年 * {{Cite book |和書 |author=島田紀夫|authorlink=島田紀夫 |title=印象派の挑戦――モネ、ルノワール、ドガたちの友情と闘い |publisher=[[小学館]] |date=2009年 |isbn=978-4-09-682021-6 |ref=島田・挑戦}} * {{Cite book |和書 |author=島田紀夫 |title=もっと知りたい ルノワール――生涯と作品 |publisher=[[東京美術]] |series=アート・ビギナーズ・コレクション |date=2009年 |isbn=978-4-8087-0872-6 |ref=島田・ルノワール}} * {{Cite book |和書 |author=島田紀夫 |title=セーヌで生まれた印象派の名画 |publisher=小学館 |series=小学館101ビジュアル新書 |year=2011 |isbn=978-4-09-823017-4 |ref=島田・セーヌ}} * {{Cite book |和書 |author=瀬木慎一|authorlink=瀬木慎一 |title=西洋名画の値段 |series=[[新潮選書]] |publisher=[[新潮社]] |year=1999 |isbn=4-10-600576-X |ref=瀬木}} * {{Cite book |和書 |author=高階秀爾|authorlink=高階秀爾 |title=続 名画を見る眼 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波新書]] |year=1971 |isbn=4-00-414065-X |ref=高階・名画}} * {{Cite book |和書 |author=高階秀爾 |title=近代絵画史――ゴヤからモンドリアンまで |publisher=中央公論社 |series=[[中公新書]] 上・下|year=1975 |id=(上)ISBN 4-12-100385-3 (下)ISBN 4-12-100386-1 |ref=高階・絵画史}}改版2017年 * {{Cite book |和書 |author=高階秀爾 |title=フランス絵画史――ルネサンスから世紀末まで |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社学術文庫]] |year=1990 |isbn=4-06-158894-X |ref=高階・フランス}} * {{Cite book |和書 |author=高階秀爾 |title=近代美術の巨匠たち |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波現代文庫]] |year=2008 |isbn=978-4-00-602130-6 |ref=高階・巨匠}} * {{Cite book |和書 |author=アンヌ・ディステル |others=柴田都志子・田辺希久子訳、高階秀爾監修 |title=ルノワール――生命の讃歌 |publisher=[[創元社]] |series=[[「知の再発見」双書]] |year=1996 |origyear=1993 |isbn=978-4-422-21115-2 |ref=ディステル}} * {{Cite book |和書 |author=西岡文彦|authorlink=西岡文彦 |title=謎解き印象派――見方の極意 光と色彩の秘密 |publisher=[[河出書房新社]] |series=[[河出文庫]] |year=2016 |isbn=978-4-309-41454-6 |ref=西岡}} * {{Cite book |和書 |author=シルヴィ・パタン |others=渡辺隆司・村上伸子訳、高階秀爾監修 |title=モネ――印象派の誕生 |publisher=[[創元社]] |series=[[「知の再発見」双書]] |year=1997 |origyear=1991 |isbn=4-422-21127-7 |ref=パタン}} * {{Cite book |和書 |author=フィリップ・フック |others=中山ゆかり訳 |title=印象派はこうして世界を征服した |publisher=[[白水社]] |year=2009 |origyear=2009 |isbn=978-4-560-08001-6 |ref=フック}} * {{Cite book |和書 |author=宮崎克己 |title=西洋絵画の到来――日本人を魅了したモネ、ルノワール、セザンヌなど |publisher=[[日本経済新聞出版社]] |year=2007 |isbn=978-4-532-12412-0 |ref=宮崎}} * {{Cite book |和書 |author=吉川節子 |title=印象派の誕生――マネとモネ |publisher=[[中央公論新社]] |series=中公新書 |year=2010 |isbn=978-4-12-102052-9 |ref=吉川}} * {{Cite book |和書 |author=ジョン・リウォルド |others=[[三浦篤]]、[[坂上桂子]]訳 |title=印象派の歴史 |publisher=[[角川学芸出版]] |year=2004 |origyear=(1st ed.) 1946 |isbn=4-04-651912-6 |ref=リウォルド}}[[角川ソフィア文庫]](上下)、2019年 == 外部リンク == {{ウィキポータルリンク|美術}} {{Commons&cat|Pierre-Auguste Renoir}} * [http://www.renoirgallery.com/ Auguste Renoir Gallery]{{en icon}} * [http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/renoir/ WebMuseum, Paris]{{en icon}} * [http://www.moreeuw.com/histoire-art/pierre-auguste-renoir.htm Biographie Pierre-Auguste Renoir]{{fr icon}} {{ピエール=オーギュスト・ルノワール}} {{印象派|state=collapsed}} {{Normdaten}} {{Good article}} {{DEFAULTSORT:るのわる ぴえるおきゆすと}} [[Category:ピエール=オーギュスト・ルノワール|*]] [[Category:フランスの画家]] [[Category:印象派の画家]] [[Category:19世紀フランスの画家]] [[Category:20世紀フランスの画家]] [[Category:レジオンドヌール勲章コマンドゥール受章者]] 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ジャン・ルノワール
ジャン・ルノワール(Jean Renoir、1894年9月15日 - 1979年2月12日)は、フランスの映画監督、脚本家、俳優。印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワールの次男で、ジャン・ルノアールと表記される場合もある。 1894年9月15日、パリのモンマルトルに父・ピエール=オーギュスト・ルノワールと母・アリーヌの次男として生まれる。幼いころに南フランスに移住し、父の絵のモデルを務めさせられていた。各地の学校を転々とし、ニースの大学で数学と哲学を学ぶ。第一次世界大戦には騎兵少尉として参戦し、後に偵察飛行隊のパイロットを務めたが、偵察中に片足を銃撃され、終生まで傷の痛みに悩まされていた。その療養中にD・W・グリフィスやチャールズ・チャップリンらの作品を観て、映画に興味を持つ。1920年、前年に亡くなった父の絵のモデルをしていたカトリーヌ・エスランと結婚。大戦終結後は陶器を作っていたが、イワン・モジューヒンの『火花する恋』やエリッヒ・フォン・シュトロハイムの『愚なる妻』等の影響を受けて、映画監督を志す。 1924年、カトリーヌ主演の映画『カトリーヌ』に出資し、脚本を執筆する。同年にカトリーヌ主演の『水の娘』で監督デビューを果たす。1926年、『女優ナナ』を監督。高い評価を得、彼のサイレント期の代表作としたが、興行的には失敗し負債を抱え、父の絵を売却して借金返済を行う。1934年、季節労働者の姿をドキュメンタリータッチで描いた『トニ』を発表。徹底したリアリズムで描き、のちのネオレアリズモに影響を与えた。1937年には反戦映画の名作『大いなる幻影』を監督。他にも『のらくら兵』(1928年)、『どん底』(1936年)、『ゲームの規則』(1939年)など、興行的には失敗が多いものの傑作と評価されるべき作品を発表していき、ルネ・クレール、ジャック・フェデー、ジュリアン・デュヴィヴィエ、マルセル・カルネとともに戦前期のフランス映画界を代表する映画監督となった。 1939年、イタリアに渡って『トニ』『ピクニック』で助手を務めた当時32歳のルキノ・ヴィスコンティを助監督にして『トスカ』の撮影を行ったが、撮影中にイタリアが第二次世界大戦に参戦したため、製作を放棄してフランスに戻った。1940年にドイツがフランスに侵攻したため、戦火を避けるべく12月にマルセイユとポルトガルを経由して、シボニー号に乗ってアメリカに渡った。この船でサン=テグジュペリと相部屋になり、親交を結ぶ(『人間の土地』を製作しようとしたが、ハリウッド上層部の無理解で実現しなかった)。12月31日にアメリカに到着し、ロバート・フラハティに迎えられる。同じ頃、ルネ・クレールやジュリアン・デュヴィヴィエも渡米し、ジャック・フェデールはスイスに逃れていた。20世紀フォックスと契約を結び、ハリウッドの撮影システムに困惑しながらも『南部の人』や『自由への闘い』等の作品を創り上げた。1946年に市民権を獲得するが、フランス国籍は捨てなかった。 1949年にインドに渡り、1951年に彼の初のカラー映画『河』を撮る。父親譲りの美しい色彩感覚が評価され、ヴェネツィア国際映画祭国際賞を受賞した。1952年にイタリアで『黄金の馬車』を撮った後、フランスに戻り、『フレンチ・カンカン』を発表する。商業的な成功を収めることができたが、戦前のように作品は当たらず映画を撮る機会が次第になくなっていった。 1969年のテレビ映画『ジャン・ルノワールの小劇場』が最後の監督作品となり、その後は亡命時代の知己を訪ねアメリカで暮らし、終生フランスに戻ることはなかった。 1974年に『ジャン・ルノワール自伝』を出版。翌1975年にアカデミー賞名誉賞をハワード・ホークスとともに受賞。同年、レジオンドヌール勲章コマンドゥールを受章。 1979年2月12日、ビバリーヒルズの自宅で死去。アメリカで失意の底にあったルノワールを精神面で支えていたのは、ルノワールを師と仰ぐヌーヴェル・ヴァーグの旗手フランソワ・トリュフォーだった。オーブ県エソイエ(フランス語版)のエソイエ墓地に、両親と共に埋葬されている。 ジャン=リュック・ゴダールやトリュフォーなどのヌーヴェルヴァーグ、ロベルト・ロッセリーニやルキノ・ヴィスコンティらのネオレアリズモ、他にロバート・アルトマンやダニエル・シュミットなど、多くの映画作家に影響を与えた。また、ジャック・ベッケル、ジャック・リヴェット、ヴィスコンティやロバート・アルドリッチなど、後に各国を代表する映画監督が、ルノワールの下で助監督を務めている。著名な写真家のアンリ・カルティエ=ブレッソンも、写真家としてデビューする前にジャン・ルノワールのもとで助監督を務めていたことがある。 ジャンの作品で編集を務めていたマルグリット・ウーレとは恋愛関係にあったが、1939年頃に関係が薄れている。
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ジャン・ルノワールは、フランスの映画監督、脚本家、俳優。印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワールの次男で、ジャン・ルノアールと表記される場合もある。
{{Otheruses|映画監督のジャン・ルノワール|作曲家 ([[:fr:Jean Lenoir]])|ジャン・ルノワール (作曲家)}} {{ActorActress | 芸名 = ジャン・ルノワール | ふりがな = Jean Renoir | 画像ファイル =Jean Renoir (1959).tif | 画像サイズ = 240px | 画像コメント = | 本名 = | 出生地 = {{FRA}}<br />[[18区 (パリ)|パリ18区]]・[[モンマルトル]] | 死没地 = {{USA}}<br/>[[カリフォルニア州]]・[[ビバリーヒルズ]] | 国籍 = {{FRA}}<br />{{USA}} | 身長 = | 血液型 = | 生年 = 1894 | 生月 = 9 | 生日 = 15 | 没年 = 1979 | 没月 = 2 | 没日 = 12 | 職業 = [[映画監督]]、[[脚本家]]、[[俳優]] | 活動期間 = [[1924年]] - [[1969年]] | 配偶者 = [[カトリーヌ・エスラン]](1920年 - 1943年)<br/>ディド・フレール(1943年 - 1979年) | 著名な家族 = 父:[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]](1841年 - 1919年)<br/>兄:[[ピエール・ルノワール]](1885年 - 1952年)<br/>弟:[[クロード・ルノワール]](1901年 - 1969年)<br/>息子:[[アラン・ルノワール]](1921年生) | 事務所 = | 公式サイト = | 主な作品 = 『[[牝犬]]』(1931年)<br/>『[[トニ (1935年の映画)|トニ]]』(1935年) <br/>『[[大いなる幻影]]』(1937年)<br/>『[[ゲームの規則]]』(1939年) | アカデミー賞 = '''[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]'''<br/>[[1974年]] | ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[金獅子賞]]'''<br/>1946年『[[南部の人]]』<br/>'''芸術貢献賞'''<br/>1937年『[[大いなる幻影]]』<br/>'''[[国際賞]]'''<br/>1951年『[[河 (1951年の映画)|河]]』 | 全米映画批評家協会賞 = '''特別賞'''<br/>1974年 | ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]'''<br/>[[第4回ニューヨーク映画批評家協会賞|1938年]]『大いなる幻影』 | その他の賞 = '''[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]]'''<br/>'''[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 監督賞|監督賞]]'''<br/>1945年『南部の人』<br/>'''[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]'''<br/>1938年『大いなる幻影』<hr/>'''[[ルイ・デリュック賞]]'''<br/>1937年『[[どん底 (1936年の映画)|どん底]]』 | 備考 = }} '''ジャン・ルノワール'''('''Jean Renoir'''、1894年9月15日 - 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印象派の画家 * 兄:ピエール・ルノワール - 映画・舞台で活躍した[[俳優]]で、[[マルセル・カルネ]]の『[[天井桟敷の人々]]』などに出演。 * 甥(兄の息子):クロード・ルノワール - カメラマン。ジャンの作品を始め、『[[フレンチ・コネクション2]]』『[[007/私を愛したスパイ]]』などを手がけた。 * 弟:クロード・ルノワール(甥と同名) - 陶芸家となり、父の絵の管理をして暮らした。 * 先妻:[[カトリーヌ・エスラン]] - 1920年に結婚し、ジャンの作品で女優として活躍した。1943年に離婚。 * 長男:アラン・ルノワール(カトリーヌとの子、1921年10月31日 - 2008年12月12日) - 大学教授。 * 孫:John(ジャン)、Peter(ピエール)、Anne(アンヌ) - 長男アランの子供達。 * 後妻:ディド・フレール - 1943年に結婚し、終生の伴侶となった。 ジャンの作品で編集を務めていたマルグリット・ウーレとは恋愛関係にあったが、1939年頃に関係が薄れている。 == 主な監督作品 == * カトリーヌ ''Catherine''(1924年) * 水の娘 ''La Fille de l'eau''(1924年) * 女優ナナ ''Nana''(1926年) * マッチ売りの少女 ''La Petite marchande d'allumettes''(1928年) * のらくら兵 ''Tire-au-flanc''(1928年) * 坊やに下剤を ''On purge bébé''(1931年) * [[牝犬]] ''La Chienne''(1931年) * 十字路の夜 ''La nuit du carrefour''(1932年) * 素晴らしき放浪者 ''Boudu sauvé des eaux''(1932年) * [[ボヴァリー夫人|ボヴァリィ夫人]] ''Madame Bovary''(1933年) * [[トニ (1935年の映画)|トニ]] ''Toni''(1935年) * ランジュ氏の犯罪 ''Le crime de Monsieur Lange''(1936年) * [[どん底 (1936年の映画)|どん底]] ''[[:en:The Lower Depths (1936 film)|Les Bas-fonds]]''(1936年) * [[ピクニック (1936年の映画)|ピクニック]] ''Partie de campagne''(1936年) * [[大いなる幻影]] ''[[:en:Grand Illusion (film)|La Grande illusion]]''(1937年) * [[ラ・マルセイエーズ (映画)|ラ・マルセイエーズ]] ''[[:en:La Marseillaise (film)|La Marseillaise]]''(1938年) * [[獣人 (1938年の映画)|獣人]] ''[[:en:La Bête Humaine (film)|La Bête humaine]]''(1938年) * [[ゲームの規則]] ''La Règle du jeu''(1939年) * スワンプ・ウォーター ''Swamp Water''(1941年) * 自由への闘い ''This Land Is Mine''(1943年) * [[南部の人]] ''The Southerner''(1945年) * [[小間使の日記]] ''[[:en:The Diary of a Chambermaid (1946 film)|The Diary of a Chambermaid]]''(1946年) * 浜辺の女 ''The Woman on the Beach''(1946年) * [[河 (1951年の映画)|河]] ''[[:en:The River (1951 film)|The River]]''(1951年) * [[黄金の馬車]] ''[[:fr:Le Carrosse d'or|Le Carrosse d'or]]''(1953年) * [[フレンチ・カンカン (映画)|フレンチ・カンカン]] ''[[:en:French Cancan|French Cancan]]''(1954年) * [[恋多き女 (1956年の映画)|恋多き女]] ''Elena et les hommes'' (1956年) * [[コルドリエ博士の遺言]] ''Le Testament du Docteur Cordelier''(1959年) * [[草の上の昼食 (映画)|草の上の昼食]] ''Le Déjeuner sur l'herbe''(1959年) * [[捕えられた伍長]] ''Le Caporal épinglé''(1961年) == 関連文献 == ; 著書 * 『わが父[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]』 [[粟津則雄]]訳、[[みすず書房]]、新装版2008年ほか(初版1964年) * 『ジャン・ルノワール自伝』 [[西本晃二]]訳、みすず書房、新装版2001年ほか(初版1977年) * 『ゲームの規則』 窪川英水訳、[[新書館]]、1982年 * 『ジョルジュ大尉の手帳』 野崎歓訳、青土社、1996年 * 『[[イギリス]]人の犯罪』 野崎歓訳、青土社、1997年 * 『ジャン・ルノワールエッセイ集成』 [[野崎歓]]訳、[[青土社]]、1999年 ; 伝記・研究・図録 * 若菜薫 『ジャン・ルノワールの誘惑 薔薇のミロワール』鳥影社、2009年 * 『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 臨時増刊号 ジャン・ルノワール』 [[山田宏一]]責任編集、[[青土社]]、2008年3月 * [[野崎歓]] 『ジャン・ルノワール 越境する映画』青土社、2001年 * ロナルド・バーガン 『ジャン・ルノワール』関弘訳、トパーズプレス、1996年 * [[サン・テグジュペリ]] 『親愛なるジャン・ルノワールへ』[[山崎庸一郎]]、山崎紅子訳、ギャップ出版、2000年 - 二人は交流があった。 * 『生誕100年記念ジャン・ルノワール カイエ・デュ・シネマ・ジャポン13』 フィルムアート社、1994年 * [[アンドレ・バザン]]、[[フランソワ・トリュフォー]]編『ジャン・ルノワール』 奥村昭夫訳、フィルムアート社、1980年 * 『ルノワール+ルノワール展 画家の父、映画監督の息子』、展覧会図録  : 2008年に[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]・[[読売新聞]]主催。渋谷[[Bunkamura]]と[[京都国立近代美術館]]で開催。 * 『特集ルノワール+ルノワール展 ユニヴェール・デザール誌No.26 日本版』2008年春号、アートコミュニケーション * 『ルイ・リュミエール』 エリック・ロメール、[[紀伊国屋書店]]DVD KKDS-107 2004年 ; その他 * 『[[ルノワール 陽だまりの裸婦]]』[[2012年の映画|2012年]]の[[フランスの映画|フランス]]の[[伝記映画]] == 関連項目 == * [[フランス映画]] * [[フィルム・ノワール]] * [[カンヌ国際映画祭]] * [[ルノワール 陽だまりの裸婦]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * {{allcinema name|7753|ジャン・ルノワール}} * {{Kinejun name|15748|ジャン・ルノワール}} * {{IMDb name|0719756|Jean Renoir}} * {{Find A Grave|8088}} {{アカデミー名誉賞}} {{ジャン・ルノワール}} {{ピエール=オーギュスト・ルノワール}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:るのわある しやん}} [[Category:フランスの映画監督]] [[Category:フランスのサイレント映画監督]] [[Category:アカデミー賞名誉賞受賞者]] [[Category:レジオンドヌール勲章コマンドゥール受章者]] [[Category:パリ出身の人物]] [[Category:アメリカ合衆国帰化市民]] [[Category:第一次世界大戦期フランスの軍人]] [[Category:ピエール=オーギュスト・ルノワール]] [[Category:1894年生]] [[Category:1979年没]]
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LAN (曖昧さ回避)
LAN
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LAN local area network 局所漸近正規性 昇交点黄経 イギリス・ランカシャーの行政区分コード ランカスター駅 (イギリス)の駅コード ランシング首都圏国際空港のIATA空港コード LAN航空 - LATAM チリの旧称 ラン (台風の名前)
'''LAN''' * [[local area network]] * {{仮リンク|局所漸近正規性|en|Local asymptotic normality}} (local asymptotic normality) * [[昇交点黄経]] (longitude of the ascending node) * [[イギリス]]・[[ランカシャー]]の行政区分コード([[ISO 3166-2:GB]]) * {{仮リンク|ランカスター駅 (イギリス)|en|Lancaster railway station}}の駅コード * [[ランシング首都圏国際空港]]の[[IATA空港コード]] * LAN航空 - [[LATAM チリ]]の旧称 * [[ラン (台風の名前)]] ==関連項目== * [[ラン]] {{aimai}}
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GNU General Public License
GNU General Public License (GNU GPLもしくは単にGPLとも表記、呼称される) とは、GNUプロジェクトのためにリチャード・ストールマンにより作成されたフリーソフトウェアライセンスである。八田真行の日本語訳ではGNU 一般公衆利用許諾書と呼んでいる。現在、GNU公式サイト日本語ページでは GNU一般公衆ライセンスと表記されている。 GPLは、プログラム(日本国著作権法ではプログラムの著作物)の複製物を所持している者に対し、概ね以下のことを許諾するライセンスである。 GPLは二次的著作物についても上記4点の権利を保護しようとする。この仕組みはコピーレフトと呼ばれ、GPLでライセンスされた著作物は、その二次的著作物に関してもGPLでライセンスされなければならない。これはBSDライセンスをはじめとするパーミッシブ・ライセンスが、二次的著作物を独占的なものとして再頒布することを許しているのとは対照的である。GPLはコピーレフトのソフトウェアライセンスとしては初めてのものであり、そのもっとも代表的なものである。 GPLはフリーソフトウェア財団 (以下FSFと略称) によって公開され、その管理が行われている。GPLでライセンスされている傑出したフリーソフトウェアのプログラムには、LinuxカーネルやGNUコンパイラコレクション (GCC) がある。 FSFが公開、管理する他のライセンスには、GNU Lesser General Public License (GNU LGPL)、GNU Free Documentation License (GNU FDL、またはGFDL) そしてGNU Affero General Public Licenseバージョン3 (GNU AGPLv3) がある。 ストールマンは、ソフトウェアに対する自由とは何かという問題を提起し、そのひとつの答えを提示した。GPLは、「自由なソフトウェア」を、有償・無償に関係なく、頒布できるようにした、という単純な意味だけでなく、「ソフトウェアは自由であるべき」という思想が存在することを一般に認知させたという意味において極めて重要な意義がある。 GPLにより付与される強力なコピーレフトはGNU/Linuxの成功にとって重要な役割を果たしているとも言われる。なぜなら、コミュニティに全く還元しようとしないソフトウェア企業にただ搾取されるのではなく、著作物が世界全体に貢献し、自由であり続けるという確証をGPLはプログラマに与えたからである。 GPL誕生以前、Emacsの頒布条件となっていたライセンスが生まれたきっかけは、ジェームズ・ゴスリンが作成し、当初自由な利用が認められていたGosling Emacsのコードに突如ゴスリンが独占的な許諾条件を附してしまったことが契機となっている。この許諾条件の変更の影響により、ストールマンは自身のEmacsのコードを書き換えなければならなくなった。 またGPL、GNUプロジェクトの誕生について、次のような逸話もある。 当時、ストールマンはMIT人工知能研究所でSymbolics社製のLISPマシンで動くソフトウェアを開発していたが、ストールマンが作りSymbolics社に対して提供したパブリックドメイン版であるソースコードの改変版について、同社が著作権を根拠にソースコードを開示しなかったことに腹を立てGPLを考案したといわれる。いずれにせよ、これ以降いかにしてソースコードの自由な利用を保証するかということにストールマンは腐心するようになる。 GPLは1989年にリチャード・ストールマンによって、GNUプロジェクトのソフトウェアの配布を目的に作られた。オリジナルのGPLは、初期のGNU Emacs、GNUデバッガそしてGNU Cコンパイラの配布に利用していた類似のライセンスを基に、それらを組み合わせたものをベースとしている。前記3つのライセンスは、現在のGPLと似たような条文を含んでいる。しかし、それらは各プログラム固有のライセンスであり、似通っているとはいえ、互いの互換性は全くなかった。ストールマンの目標は、いかなるプロジェクトでも使用可能で、それゆえ多くのプロジェクトがコードを共有することを可能にさせる単一の汎用的なライセンスを作り出すことだった。 GPLは幾度か改訂されており、1991年にはバージョン2がリリースされている。バージョン3がリリースされるまで、それに従うこと15年間、FLOSSコミュニティの幾人かは、GPLでライセンスされているプログラムを、ライセンスの意図に反し、搾取する事につながる抜け道 (loopholes; 抜け穴、ループホール) に対し懸念を抱くようになった。これらの懸念の中には、TiVo化(Tivoization。GPLでライセンスされたプログラムが含まれているにも関わらず、改変版ソフトウェアの稼動を拒絶するハードウェアについての問題)、Webインタフェースの裏側に隠れ公開されることのない改変版GPLソフトウェアの利用、AGPLバージョン1と同等の互換性問題、GNU/Linuxコミュニティと敵対するための武器として特許を行使する企てと見なされる、マイクロソフトとGNU/Linuxディストリビュータとの特許契約などがある。 FSFならびにFLOSSコミュニティは、これら懸念に対し真剣に取り組むべく、バージョン3への改訂作業を始めた。2005年後半、FSFは、GPLバージョン3 (GPLv3) の策定に関するアナウンスを行った。2005年の時点でGPLは様々なFLOSSプロジェクトのソフトウェアに採用されていたこともあり、FSFが単独で改訂することにより起こりえる問題を回避するため、改訂プロセスは公開で行うことが同時に発表された。2006年1月16日、GPLv3の最初の議論用草稿 (discussion draft) が公開され、公開協議プロセスを開始した。当初公開協議は9ヶ月から15ヶ月を想定していたが、終わってみると、4つの草稿公開に延べ18ヶ月にまで要した。公式のGPLv3は2007年6月29日、FSFにより発表された。GPLv3は、リチャード・ストールマンにより起草され、エベン・モグレンならびにSoftware Freedom Law Center (SLFC) による法的助言を受けている。 公開協議プロセスは、FSFを調整役、SFLC・Free Software Foundation Europe (FSFE)その他フリーソフトウェア開発組織による支援のもと進められた。この間、gplv3.fsf.orgというウェブポータルサイトが立ち上げられ、ここを経由し多くの一般からのコメントが集められた。このポータルサイトは、策定プロセスのために開発されたstetというソフトウェア上で稼働している。これらコメントは、およそ130名ほどから成る4つの協議グループ (committee)に渡された。この130名はFSFの目標に対しそれを支持する人物並びにそれと対立する人物双方が含まれている。これら協議グループは一般から提示されたコメントを精査し、新しいライセンスがどうあるべきか決定するため、ストールマンにその要約を回付した。 公開協議プロセスを経て、初回の草稿には962ものコメントが提出された。終わってみると、延べ2,636ものコメントが提出されていた。 初版の草稿公開ののち、GPLv2とGPLv3の非公式な差分(但し、これはdiff出力による行単位ごとの単純な差分)が、FLOSSコミュニティ向け法律サイトGroklawにより公開された。 2006年7月27日、GPLv3の討議用第2次草稿が、LGPL第3版 (GNU LGPLv3) の初版草稿とともに公開された。初稿と第2稿の差分は、FSFとFSFEからそれぞれ提示されている。第2稿ではDRMに対抗する明確な目標が取り入れられている。 第3稿は2007年3月28日に公開された。この草稿は、かの物議を醸したマイクロソフトとノベルが締結したような特許相互ライセンス (patent cross-license)を排除する意図を持つ文言を含んでおり、反TiVo化条項 (anti-tivoization clauses) はユーザ製品 (User Product)・コンシューマ製品 (Consumer Product) といった一般家庭で使用される製品に限定する旨定めている。また、公開協議開始時点で削除が予告されていた地理的 (頒布) 制限 (Geographical Limitations)の項については、明白に削除されている。 最終稿となった第4の議論草稿は2007年5月31日に公開された。この草稿では、Apache Licenseとの組み合わせを可能にする条項が導入された他、外部契約者 (contractor) の役割を明確化し、マイクロソフト–ノベル間の契約のような明白な問題を回避する例外条項を加えている。この最後の例外条項は、第11項第7段落に次のように記載されている(条文は正式公開版と同一である)。 これは、そのような契約を将来に渡って無効化することを目的としている。また本ライセンスは、マイクロソフトが、あるGPLv3ソフトウェアを利用するノベルの顧客に許諾したような特許契約(特許ライセンス、特許許諾、パテントライセンス)を、まさにそのGPLv3ソフトウェアを利用するユーザーすべてにまで(ユーザーの行為如何に全く関わらず)自動的に拡大適用することを意味する。ただし、マイクロソフトが法的にGPLv3ソフトウェアの伝達者 (conveyor; 譲渡者) でもない限り、それは不可能である。これはある種、特許契約に対しそれを他者に無制限に提供してしまうことから、ポイズンピルのような働きを持つとの意見もある。ただし本条項導入の直接の契機となった、ノベルの行為そのものに対しては、本項第7段落最後に例外を設け、既得権条項(英語版)を適用している。 バージョン1は、1989年2月にリリースされた。このライセンスは、ソフトウェア頒布者が制限しようとする主に2つの手段から、フリーソフトウェアの定義たる自由を守る働きを持っていた。第一の問題は、頒布者がバイナリ、すなわち実行ファイルのみを公開するかもしれないということである。しかしながらバイナリは人間にとって読み取れる形式ではなく、また改変もできない。このことを防ぐため、GPLv1では、バイナリを頒布するいかなるベンダーも、同じライセンスの条項のもと、機械可読なソースコードの形で利用できるようにしなければならないとしている。 第二の問題は、ライセンスに追加の制限を加える、もしくは頒布において別の制限があるソフトウェアを組み合わせることのどちらかにより、頒布者が追加の制限を加える可能性があるということだった。もしこのことが成されれば、その時、制限の2つの集合の和は、組み合わされた著作物に適用されるだろうが、それはすなわち、受け入れられない制限が加えられたことに等しい。この様な事態を避けるため、GPLv1では、改変版は、全体として、GPLv1の条項の下頒布されなければならないと規定している。このため、GPLv1の条項の下頒布されているソフトウェアは、それよりもパーミッシブ・ライセンスで保護されるソフトウェアと組み合わせて頒布することが可能となる。なぜなら、組み合わせによって全体を通して頒布に係るライセンス条項に変化はないからである。しかし、GPLv1の条項の下頒布されているソフトウェアとそれよりも制限の厳しいライセンスで頒布されるソフトウェアを組み合わせることは、GPLv1の条項の下全体が頒布されるという要件と衝突するため、できない。 バージョン2は、1991年6月にリリースされた。 リチャード・ストールマンによれば、GPLv2で最大の変更は第7節、彼に言わせると、パトリック・ヘンリーの名文句「自由か然らずんば死を」("Liberty or Death") の一節である。他の利用者の自由を尊重するような方法で、GPLで保護されたソフトウェアの頒布が妨げられる場合(たとえば、法的規制によりソフトウェアをバイナリ形式でしか頒布できないとき)、この節に従えば、頒布は一切できない。GPLv3でも同様の条項が存在し、幾分簡素化されたうえ主旨が明確になっている。これは、フリーソフトウェア開発者や、フリーソフトウェアを単に使用する者から金を脅し取ろうと特許を行使する企業の企みをすこしでも減らすことを見込んでいる。 1990年までには、現存するプロプライエタリなライブラリと本質的には同等な機能を持つCライブラリや、その他のソフトウェア・ライブラリに対しては、制限の緩いライセンスのほうが戦略的に有効なことが明らかになってきた。1991年6月にGPL第2版がリリースされた際、Library General Public License (LGPL) が、初版にもかかわらずGPLと相補的なことを示すため第2版として同時に導入された。GNUの思想における位置づけを反映させるため、Lesser General Public Licenseと名を変え、1999年、LGPL2.1がリリースされた。 バージョン3は、2007年6月にリリースされた。GPLv3は、ソフトウェア(プログラム・ライブラリなど)を含む著作物に対し、著作物の著作者・著作権者やライセンス受諾者の権利や、プログラムの受領者のためにライセンス許諾者が与える権利、またソフトウェアの自由と衝突するような法や法的権利の制限(DRM、特許の利用、他者を差別するような特許ライセンスの排除)などに関する基本理念を以前のバージョンのライセンスより明文化している。 ストールマンによると、もっとも重要な改訂点は、ソフトウェア特許、他のフリーソフトウェア・ライセンスとの両立性(compatibility; 互換性)、「ソースコード」とは何を指すのかの定義、ソフトウェアの改変に関するハードウェアの制限(英語版)(TiVo化)そしてデジタル著作権管理 (Digital Rights Management, DRM) との関連がある。その他の改訂点は、国際化、ライセンス違反時の対処手段そして可能ならば著作権者により追加的条項(additional terms)を与える手段に関連している。 他注目に値する改訂点としては、GPLv3で保護された著作物の著作権者が、パッチなどを提供しそれに改変を加えた貢献者 (contributor) に対し、ある種の条件または要求を課すということを許諾する条項が加えられている。これらに加えて、新しく導入された要件の一つには、時折Affero条項 (Affero clause、Affero節) とも呼ばれるが、Software as a serviceのようなASPモデルによるGPLの条項を回避しようとする試み(ASP loophole; ASPの抜け道)に対し、これを封じようと意図しているものも含まれる。この条項が追加された結果、GNU Affero General Public Licenseバージョン3 (GNU AGPLv3) が作成されている。GPLv3とAGPLv3は互いに両立はしないが、リンクや結合のみを認める相補的な条項を共に持っている。 また、GPLv3で許諾されるソフトウェアは、米国のDMCAや日本の著作権法、不正競争防止法が規定している「技術的制限手段」(技術的保護手段、例: DRM)の「解除」を認める条項が追加されている(詳細はセクション"技術的保護手段回避を禁ずる法への対抗措置"を参照)。 「GPLが適用された著作物の複製を受け取る全ての者」(Recipients; 受領者)は、GPLの条項と条件 (terms and conditions; 利用条件) を遵守しなければならない。利用条件を遵守するライセンシー(the licensee; 被許諾者、ライセンシー)は著作物を改変する許諾を与えられるのと同時に著作物または二次的著作 (派生 derivative) 物の複製と頒布を許諾される。ライセンシーは、このようなサービスを提供するのに料金を課してもよいし、また無料で行ってもよい。この後者の許諾は、GPLと商用再頒布禁止のソフトウェアライセンスとの相違点である。FSFは、フリーソフトウェアは商用利用を制限するべきではないと主張している。また、GPLは、GPLが適用された著作物を如何なる値段で販売しても良い旨、明確に述べてある。 加えて、GPLは、頒布者がGPLにより許諾される以上のさらなる権利制限 (further restrictions on the rights granted by the GPL) を課してはならないと述べている(GPLv2第6節、GPLv3第10項)。これは(純粋に契約である)秘密保持契約 (non-disclosure agreement, non-disclosure contract) のもとソフトウェアを頒布するような手法を禁ずる。GPLのもと、頒布者はまた、GPLなソフトウェアにおける特許を行使するために、ソフトウェアにより行使されるいかなる特許をも「ライセンス」(特許ライセンス)として許諾する。 GPLv2の第3節とGPLv3の第6項によると、事前コンパイルされたバイナリとして頒布されるプログラムは次のいずれかを満たさなければならない。 また、GPLv2の第1節とGPLv3の第4項は、プログラムの受領者すべてにプログラムと共にGPLの複製を (all recipients a copy of this License along with the Program) 与えなければならないと規定している。GPLv3ではその第6項を満たす限りにおいて、ソースコードを利用可能な状態にするために、GPLv2で指定された物理媒体以外にも、明示的に追加の手段を講じても良いとする。コンパイル済みコードを取得する方法とソースコードのありかが明確に分かる場合、近くのネットワークサーバからまたはP2P送信によりソースコードをダウンロードさせる手段などもこの追加の手段に含まれる。 改変された著作物を頒布する権利は、GPLにより無制限に付与されるわけではない。頒布者自身による改変が加えられたGPLによる著作物を頒布する際に、著作物全体を頒布するための要件は、GPLよりも強い要件であってはならない。 その要件とは、コピーレフト (Copyleft) として知られている。これは、ソフトウェアプログラムに関し、著作権 (copyright) を利用した法的な権能をもたらす効果がある。GPLで保護される著作物もまた、著作権で保護されているため、改変された形態でなくとも、ライセンスで規定されている場合を除き、ライセンシーはその著作物の再頒布の権利を持たない(フェアユースを除く。ただし、その記事やGPL FAQで述べられている通り、フェアユースにworld-wide principle; 世界的な原則、統一見解などない)。再頒布のような、通常著作権法で制限される権利をある人物が行使しようと考える場合、その人物はGPLの条項をただ従う必要がある。逆に、GPLの条項を遵守せず(例えば、ソースコードを開示しない)著作物の複製を頒布すると、著作権法に基づき著作権者から頒布の差止め等で提訴される可能性がある。 コピーレフトは、著作権法を本来の使用目的と正反対の目的を実現するために利用する。すなわち制限を課す代わりに、コピーレフトは、権利がのちに消失しないような方法で、他者への権利を許諾する。コピーレフトはまた、ライセンシーに対し再頒布の権利を無制限に許諾するのではなく、コピーレフトが主張する点において発見されるのは法律上の任意の欠陥であるべきことを保証している。 コピーレフトライセンスで保護されるプログラムを頒布する多くの者は、ソースコードと共に実行ファイルを添付する。コピーレフトを満たす別の方法は、要求に応じて(CDのような)物理媒体を用いてソースコードを提供するという文書を提示することである。また事実としてコピーレフトライセンスで保護されるプログラムの多くは、インターネット上で頒布されており、ソースコードはFTPまたはHTTPなどを用いてソースコードを遣り取りできるようにしているものが多い。インターネット上での頒布は本ライセンスを満たしている。 コピーレフトが適用されるのは、ある人物がプログラムを再頒布しようと求める場合にのみである。改変したソフトウェアを他の誰にも頒布しない限り、改変箇所を公開しなければならない如何なる義務も免ぜられ、その改変版を私的な物とすることは許される。また、コピーレフトはソフトウェア自身のみに適用されるのであって、ソフトウェアの出力 (outputs, アウトプット) には適用されないことには注意しておきたい(ただし、そのアウトプット自身がプログラム自体の二次的著作物ではない場合)。例えば 、GPLで保護されたコンテンツ管理システム ("Contents Management Systems"; CMS) に対しその改変した派生版を動作させる一般ウェブポータル(ブログソフトウェアなど)は、その出力自体はプログラム自体の派生物ではないから、土台としたソフトウェアならびにその改変部分を頒布する必要はない。反例は、GPLで保護されたソフトウェア"GNU bison"である。この構文解析器の出力は、その派生物の一部をまさに含んでおり、そのため、この事実に対しGNU bisonにより許諾される特殊な例外条項 (a special exception) が仮に存在しないならば、出力結果はGPLで保護される派生物となっていたであろう。最新のGNU bisonでは、事実として、出力コードのヘッダにAs a special exception...という特殊例外条項が記述されている。 なお(GPLに従う著作物に限ったことではないが)、コピーレフトのもとで公開された著作物の著作権は、前述の通り譲渡しなければ個々のコードの著作権者が保有している。従ってコピーレフトを無視した再頒布に対して、頒布の差止めやコピーレフト違反是正(エンフォースメント)を求める権利があるのはプログラムの著作権者だけであり、一般のライセンシーにはない。ただ、大規模なFLOSS開発プロジェクトは一般的にワールドワイドであり、開発者の居住国が多岐に渡るため、多かれ少なかれ差異がある各国の著作権法にプロジェクト全体で合致させるのは困難を要す。このため一部のFLOSSプロジェクトでは各著作権者に代わり、コードの著作権を一括してプロジェクト(またはそれを統括する団体・法人組織)が引き受ける場合もある。GNUプロジェクトは、コードの受け入れに関し、米国著作権法の庇護を享受するため、ライセンス如何に関わらず、寄贈されたコードの著作権を原著作者より明示的にFSFに譲渡する場合にのみ受け入れている。CMSのPloneならびにPlone財団(Plone Foundation)も似たような形式を採用している。 FSFによると、「GPLは改変版、もしくは改変版の一部のリリースを要求することは述べていない。改変版を一切公開せず、改変を加えることや、私的に利用することは自由である。」と主張している。しかしながら、仮にある人物がGPLでライセンスされたオブジェクトを公開するならば、ライブラリリンクに関する問題が提起される。すなわち、もし、プロプライエタリなプログラムがGPLなライブラリを使用するならば、そのプロプライエタリなプログラムは(一般にプロプライエタリソフトウェアはソースコードが自由な許諾の下利用できない為)GPLに違反する、はたまたそうではないのか、という問題がある。 この重要な論点は、非GPLソフトウェアがライセンス的、すなわち著作権法的に、GPLなライブラリに静的リンクまたは動的リンク可能であるか否かという問題に行き着く。この問題に関して、異なるいくつかの見解が存在する。GPLのもとリリースされるコードの二次的著作物が全て、それら自身もまた、GPLに従わなければならないとの要求は明白である。しかし、GPLなライブラリを使用する、そして、GPLなソフトウェアをより巨大なパッケージと組み合わせる (bundle, バンドルする)(概ね静的リンクによりバイナリを混合する場合などを想定すればよい)点に関しては、曖昧さが惹起する。これは究極的には、GPLそれ自体 (per se, in itself) とは無関係の問題であるが、著作権法が二次的著作物をどう定義するかということと関連した問題である。この議論に関して、次のようないくつかの異なる見解が存在する。 GPLのライセンス条文自体の著作権を保持する法人組織でもあり、GPLでライセンスされる著名なソフトウェア製品を多数提供しているFSFは、動的リンクされたライブラリを利用する実行ファイルは、実際には二次的著作物である、と強く主張している。しかしながら、このことは、お互いを「結合する」(連携する、communicate) だけの分離された別個のプログラムには適用されないとしている。 FSFはまた、コピーレフトという点で、GPLとはほぼ同一であるが、「ライブラリ利用」という目的のために、リンクの許諾を追加的に与える、LGPLというライセンスも作成した。 リチャード・ストールマンとFSFは、プロプライエタリな世界と比較し、より豊富なツールを提供することによりフリーソフトウェアな世界を護持することを目的として、ライブラリ作者に対し、GPLの下でのライブラリのライセンシングを明確に促している。これは、ソースコードを公開しないならば、プロプライエタリ・プログラムがGPLで保護されたライブラリを一切使用できないようにすることを狙っている。 FSFは、プラグインの呼び出し方法についてはまた別であると認識している。もし、プラグインが動的リンクにより呼び出され、関数呼び出しをGPLプログラムに提供するならば、その時には、プラグインは、概ね二次的著作物であると見なされる。 静的リンクは二次的著作物を生じるが、他方、GPLコードに動的リンクされた実行ファイルが二次的著作物であると考慮されるべきか否かははっきりしないとする意見もある。詳細は (Weak copyleft) を参照せよ(ライセンス感染#相互運用性も参考になるかもしれない)。Linuxカーネルの著作権者リーナス・トーバルズは、状況により、動的リンクは派生物を生じ得るとの見解に同意する場合と同意しない場合があるとしている。 ノベルの弁護士は、動的リンクが二次的著作物でないのは「もっともらしい」が「断言」はできないとし、善意による動的リンクの証拠として、プロプライエタリなLinuxカーネルドライバの存在に見てとれる、と文書にて記載している。 ガルーブ対任天堂(英語版)訴訟において、アメリカ合衆国第9連邦巡回区控訴裁判所(英語版)は、二次的著作物を「『形式』または永続性」を所持するものと定義し、「当件における侵害された著作物が、ある形式で著作権の適用された著作物の一部と協働しなければならない」と言い渡した。しかし、特にこの対立を解決する明白な法廷判断は出ていない。 Linux Journal誌の記事によれば、IP法の専門家でOSIの法務顧問 (General counsel) も務めるローレンス・ローゼンは、リンクの動的・静的を含む種別は、ある種のソフトウェアが二次的著作物であるか否かについての問題とは概ね関係がない、すなわち、そのソフトウェアが、クライアントソフトウェアとライブラリ、またはそれら個別とのインタフェースが意図されているか否かについての問題のほうがより重要である、と主張している。彼は、「新規のプログラムが二次的著作物であるか否かの主な指標は、原著作物のプログラムのソースコードが、『複製と添付(コピーアンドペースト)』する意図をもって利用され、新たなプログラムを作成する任意の手段において、改変、翻案またはその他の変更を加えたか否かに係っている。もしそうでないならば、私はその新規のプログラムは二次的著作物ではないと主張するだろう」と述べる。また、彼はこの記事の中で、ソフトウェアの組み合わせ・バンドリング、リンクのメカニズムなど、その他関連する多くの指摘意図を挙げている。さらに、彼は、彼の弁護士事務所のウェブサイトにて、このような「市場原理」的要素はライブラリリンクの原理といった技術的な要素よりも重要であると主張している。 プラグインまたはモジュール(例えば、フリーなドライバ"nouveau"とは別個に存在する、NVIDIAのプロプライエタリなデバイスドライバ、またATI FireGL RXなどのグラフィックカード用カーネルモジュールがその一例)が固有の著作物と合理的に見なされる際、それらライブラリがGPLに従わなければならないか否かという、別個の問題もある。これに対する見解は、著作物がGPLv2ならば、分離していると合理的に理解されるプラグインまたは、プラグインを利用するために設計されたソフトウェア用のプラグインは、任意のライセンスで許諾され得る。GPLv2の条文段落において特に注目される箇所は以下の条文である。 You may modify your copy or copies of the Program or any portion of it, thus forming a work based on the Program, and copy and distribute such modifications or work under the terms of Section 1 above, provided that you also meet all of these conditions: ... b) You must cause any work that you distribute or publish, that in whole or in part contains or is derived from the Program or any part thereof, to be licensed as a whole at no charge to all third parties under the terms of this License. ... These requirements apply to the modified work as a whole. If identifiable sections of that work are not derived from the Program, and can be reasonably considered independent and separate works in themselves, then this License, and its terms, do not apply to those sections when you distribute them as separate works. But when you distribute the same sections as part of a whole which is a work based on the Program, the distribution of the whole must be on the terms of this License, whose permissions for other licensees extend to the entire whole, and thus to each and every part regardless of who wrote it. 実際にはGPLv3でも同じであり、条項の文面は多少異なっているが、上記と同様の内容が、以下となる(詳しくはセクション"改変版ソースの伝達"を参照)。 You may convey a work based on the Program, or the modifications to produce it from the Program, in the form of source code under the terms of section 4, provided that you also meet all of these conditions: ... c) You must license the entire work, as a whole, under this License to anyone who comes into possession of a copy. This License will therefore apply, along with any applicable section 7 additional terms, to the whole of the work, and all its parts, regardless of how they are packaged. This License gives no permission to license the work in any other way, but it does not invalidate such permission if you have separately received it. ... A compilation of a covered work with other separate and independent works, which are not by their nature extensions of the covered work, and which are not combined with it such as to form a larger program, in or on a volume of a storage or distribution medium, is called an “aggregate” if the compilation and its resulting copyright are not used to limit the access or legal rights of the compilation's users beyond what the individual works permit. Inclusion of a covered work in an aggregate does not cause this License to apply to the other parts of the aggregate. 事例分析として挙げると、DrupalやWordPressのようなGPLv2でリリースされていたCMSに対し、それらに提供されていたプロプライエタリと想定されるプラグイン、テーマ(英語版)、スキンなどは、両プロジェクトサイドにて議論が巻き起こる共に、非難されるようになってしまった。 一方、Linuxカーネルではこのような結合の状況分析を行うことなく、カーネルの著作権の影響範囲とユーザ空間プログラムが派生物ではないことをライセンステキスト冒頭で述べている。 参考訳: 前述のセクションの実例を挙げる。GPLソフトウェアへのパッチを提供した場合は、そのパッチが「適用したGPLソフトウェアとは別の著作物」とみなされる可能性も含んでいる。これは、前述の通り、 や に規定されている。即ちGPLソフトウェアを含む「集積物 (aggregate) の他の部分」と認められれば、GPLに反しない、言い換えればGPLよりパーミッシブ・ライセンスでパッチを公開しても良い。例えばパッチが単なる修正ではなく、単体で再利用可能な全く別種の機能強化と見なされればそれは集積物の別の部分と規定でき、そのパッチのみに対しGPLと矛盾せずかつGPL以外のライセンス(BSDライセンスやzlib Licenseなど)を適用する事も可能である。一例をあげると、MySQLは、「リンク例外条項付きGPLv2」と商用ライセンスとでデュアルライセンシングされている。これに対しGoogleはMySQL向けのパッチをBSDライセンスで提供していた。このパッチはオリジナルのMySQLに由来しないコードのため、GPLで保護されたMySQLの「集積物とは別の部分」となる。BSDライセンスは独占的なライセンスであろうとも両立するので、結果的にこのパッチは、MySQLをGPLで利用するライセンシーと共に商用ライセンスで利用する者も適用可能である。また同時にそのパッチからサブルーチンのみを取り出し、BSDライセンスされたソフトウェアにも同様のルーチンを導入する事も可能となる。 GPLなソフトウェアと別のプログラムが単に結合している場合は、本来、全てのソフトウェアをGPLにすることも要求されない、そしてGPLなソフトウェアを非GPLソフトウェアとともに頒布することも要求されない。しかし、稀な条件において、GPLの権利を保証することを妨げる障害が取り除かれるであろう。次の文は、GNU.org ウェブサイトに存在するGPL FAQからの引用である。これは、ソフトウェアが、バンドルされたGPLプログラムと結合を許される範囲がどこまでかを記述している。 'What is the difference between an “aggregate” and other kinds of “modified versions”? An “aggregate” consists of a number of separate programs, distributed together on the same CD-ROM or other media. The GPL permits you to create and distribute an aggregate, even when the licenses of the other software are non-free or GPL-incompatible. The only condition is that you cannot release the aggregate under a license that prohibits users from exercising rights that each program's individual license would grant them. Where's the line between two separate programs, and one program with two parts? This is a legal question, which ultimately judges will decide. We believe that a proper criterion depends both on the mechanism of communication (exec, pipes, rpc, function calls within a shared address space, etc.) and the semantics of the communication (what kinds of information are interchanged). If the modules are included in the same executable file, they are definitely combined in one program. If modules are designed to run linked together in a shared address space, that almost surely means combining them into one program. By contrast, pipes, sockets and command-line arguments are communication mechanisms normally used between two separate programs. So when they are used for communication, the modules normally are separate programs. But if the semantics of the communication are intimate enough, exchanging complex internal data structures, that too could be a basis to consider the two parts as combined into a larger program. このように、FSFは「ライブラリ」と「その他のプログラム」とを、次の2つの観点双方を用いて線引きしている。 しかし、FSFは、この問題は明確な結論はなく、複雑さの条件について判例 ("case law") により決められる必要があるだろう、と譲歩している。 GPL FAQでは「結合メカニズム」(「コミュニケーションのメカニズム」)の例として、プロセス間通信、遠隔手続き呼出し (RPC)、カーネル空間・ユーザー空間の通信やシステムコール、パイプ、execによるプロセス起動などを挙げている。これら「結合メカニズム」を用いてGPLなソフトウェアと接続する場合は、個別のプログラムであるため結合ではないとも見なせるが、そのやり取りするデータの如何によって接続先が二次的著作物であると見なされる余地も残されている(「コミュニケーションのセマンティクス」)。これに対する明確な法廷判断はまだない。 GPLの条文自体はGFDLやGPLの下に自由に配布されているわけではなく、ライセンス著作者は条文の改変 (modifications) を許可していない(GPLの条文自体の著作権はフリーソフトウェア財団が持つ)。GPLはプログラムの受領者に(本ライセンスの直接の対象となる)本プログラムと共に本ライセンスの複製を (a copy of this License along with the Program) 得る権利を与えているため、未改変のライセンスの複製と頒布 (distribution; 配布) は許されている。GPL FAQによると、仮に改変する場合は、別の名前とし、「GNU」について言及せず、フリーソフトウェア財団から許諾を得ている場合を除いて改変版ライセンスからGPLの前文 (Preamble) を削除した場合に限り、GPLの改変版を利用して新たなライセンスを作成しても良い。そのようにして作成された派生ライセンスに対し、FSFは一切の法的異議申し立てを行うことはないが、そういったライセンスは一般にGPLと両立しない (互換性が無い、incompatible) ので、FSFは推奨していない 。 前述のとおり、GPLの条文自体は著作権で管理されており、その保持者はFSFである。しかしながら、FSFはGPLのもとリリースされた著作物の著作権は保持しない。これも前述したが、例外は、著作権者が明示的にFSFに著作権を譲渡した場合である。ただし、そのような事例はGNUプロジェクトに属するプログラムや寄贈されたプログラムを除いてあまりない。ライセンス違反が発生した場合、個々の著作権者のみが、訴訟を起こす権限を持つ。 FSFは、FSFの許可なくGPLの前文 (Preamble) を含めた、派生ライセンスを使用しない限り、GPLに基づいた新しいライセンスを作成することを許可する。しかしながら、このようなライセンスはGPLと両立しない (incompatible) 場合があるので、作成しないほうがよい。またそれは、明らかにライセンスの氾濫を生じさせる。翻訳も翻案権の行使であるため、ライセンスの翻訳は原則認められないが、その翻訳が非公式であることを明記し、FSFの求めに応じて翻訳をアップデートできるならば翻訳を許可される。 その他、GNUプロジェクトにより作成されたライセンスには、GNU Lesser General Public License、GNU Free Documentation Licenseが含まれる。 あるオープンソースソフトウェアでライセンス上考慮すべき点があるなどして、またはもっと極端な例では、GPLの思想的な面に反発があるなどして、GPLと両立性を欠くようなライセンスを著作物に敢えて採用するケースがあるかもしれない。しかし、GPLを採用するフリーソフトウェア、オープンソースソフトウェアが多数存在するため(セクション"採用実績"を参照)、現実問題としてそのような行為はコードの再利用性を著しく欠く結果につながる(記事"ライセンスの氾濫"を参照)。このため、自身の採用するライセンスをGPLと非互換にしないよう、GPLとのライセンス両立性を考慮することは重要である。 著作物全体として影響を受けるライセンスの持つ制限の組み合わせにより、GPLが許諾する事項を越えるいかなる追加的制限が課されない限り、他のライセンスで許諾されたコードは、GPLで許諾されたプログラムと衝突することなく組み合わせることも可能である。また二次的著作物の観点として、互換性のあるフリーソフトウェアライセンス/オープンソースソフトウェアライセンスで許諾されるコードを組み合わせる場合は、原則コードの組み合わせ全体に、そのコピーレフト性が最も強くなるライセンスの影響を受ける。GPLの正規の条項に加えて、追加的な制限や許諾を適用することができる組み合わせは以下の通りである。 上述1.について、よくある表明文の例は、"either version 2 of the License, or (at your option) any later version" (「本ライセンスのバージョン2、または(あなたの選択で)任意の以後のバージョン」) である。これと対照的な例はLinuxカーネルや、バージョン1.9.2までのプログラミング言語Rubyの処理系(インタプリタ)である。これらは"any later version" statementなしのGPLv2単独でライセンスもしくはGPLv2を内部的に参照する形式を採るRubyライセンスである(後者はデュアルライセンスに類似する)。従ってGPLv3のコードを組み合わせることはできないので注意を要する。しかし、Rubyの処理系はデュアルライセンスのGPLを、バージョン1.9.3より、GPLよりパーミッシブ・ライセンスである2条項BSDライセンスに変更したため、以後のバージョンのRubyの処理系ではGPLv3で保護されるプログラムを組み合わせることも可能である。このような許諾変更が許されるのは、デュアルライセンスの片方であるRubyライセンスには著作権者(Rubyの処理系の場合はまつもと)に許諾変更を一任する条項(2.(d))が存在する為である。一般的に、ソフトウェアのライセンスを非互換なライセンスに変更する場合は、コードの全著作権者からライセンス変更の同意を取り付けなければならない。LinuxカーネルのライセンスはGPLv2単独であり、Ruby処理系のような特殊な規定を持っているわけではないので、仮に変更する場合はそうせざるを得ない。GNUプロジェクトはこのような事態に陥ることを回避するため、前述の通り著作権者からコードの著作権をFSFに譲渡するよう勧め、またソフトウェアのライセンスほぼ全てに"any later version"表明文を付したGPLを適用している。 FSFは、GPLと両立するフリーソフトウェアライセンスのリストを維持管理している。そのようなライセンスは、もっとも広く利用されている、オリジナルのMIT/X license、(現行の3条項形式の)BSDライセンスそしてArtistic License 2.0などを対象としている。 デイヴィッド・A・ウィーラー(英語版)は、GPLと非互換なライセンスを利用すると、他者のフリーソフトウェア/オープンソースソフトウェアプロジェクトへの参加や、コードの貢献を困難にするため、フリー/オープンソース開発者はGPL互換なライセンスのみ採用するよう強く主張し続けている。 特筆すべきライセンス非互換の例として、旧サン・マイクロシステムズのZFSが、GPLでライセンスされたLinuxカーネルに組み込めないというものが挙げられる。なぜなら、ZFSはGPL非互換なライセンス、CDDLで許諾されているからである。これに加え、ZFSは特許で保護されており、ZFSの機能を持つソフトウェアをサンとは独立にGPLのもと実装し頒布しようとしたとしても、それでもなおサン(現在はオラクル)の許諾が必要となると予想される。 他の一部のフリーソフトウェア・プログラムは、複数のライセンスによりデュアルライセンスされているものがある。その中にはライセンスの一つにGPLが選択されていることもよくあり、「デュアルライセンスはもっと広まる」と独立ソフトウェア・コンサルタントのテッド・ロシュ (Ted Roche) は指摘している。この方法だと、GPLを適用しないまま二次的著作物を頒布することを認めることができる。これは、二次的著作物に有償の商用ライセンスを適用することも可能にする。MySQLなどはまさにこの例に当てはまる特筆すべき例である。 一般的にプロプライエタリソフトウェアはGPLソフトウェアと組み合わせることはできない。しかしこのような場合でも、マルチライセンスを利用することでGPLソフトウェアを組み合わせることも可能となる。 GPLのもとで頒布するとともに、静的リンクなどを使用する場合やそうではなく動的リンクを使用する場合においても、パッケージにプロプライエタリなコードを組み合わせたいと望む企業のため、二次的著作物を独占的な条件・ライセンスで頒布・販売可能にする商用ライセンスを同時に提供するマルチライセンシング・ビジネスモデルが多く存在する。このようなビジネスモデルを採用する企業と採用したソフトウェアには、Oracle社(MySQL AB社のMySQL)、Digia(英語版)社(旧Trolltech社のQtフレームワーク )、Namesys(英語版)社 (ReiserFS)、Red Hat社 (Cygwin)、Riverbank Computing社 (PyQt) などがある。 その他、Mozilla Application Suite、Mozilla ThunderbirdそしてMozilla Firefoxを製品に持つMozilla Foundation (Mozilla Corporation) のような企業はGPLだけではなく同時に他のオープンソースライセンスでも頒布可能なようにマルチライセンスを採用するケースがある。 GPLv3はGPLv2と比べ、条文の大幅な変更にも関わらず、内容自体には大きな変更はないとも言える。しかし全く無いわけではなく、とりわけGPLv3の特許関連条項と、(反DRM条項改め)反TiVo化条項などは、GPLv2の第6節にある「(GPLv2で認められた) これ以上他のいかなる制限」(further restriction、同様の条項がGPLv3の第10項のさらなる権利制限) に相当するため、原則GPLv3はGPLv2と両立しない。ただし、GPLv2で保護される著作物が“version 2 or later,”でリリースされていれば両立する。 GPLはフリーあるいはオープンソースソフトウェア用のライセンスとして圧倒的な人気がある。 きわめて大きいソフトウェア・アーカイブをもつMetalab(英語版)の1997年の調査では、約半数をGPLのソフトウェアが占めていた。 2001年の調査では、Red Hat Linux 7.1 に使われているソースコードの 50%がGPLでライセンスされている。 2006年1月の時点で、SourceForge.netにホスティングされているプロジェクトの約68%が、2007年8月の時点で、Freshmeatに掲載されている43,442のフリーソフトウェア・プロジェクトのうち65%近くが保護されるライセンスとしてGPLを使用している(両サイトを運営しているのはLinuxとGPLに造詣の深い企業Geeknet社である)。 Black Duck Software社により管理される"Open Source License Resource Center"によると、フリーソフトウェア/オープンソースライセンスでリリースされたソフトウェアパッケージ全体の約60%がGPLをライセンスに採用していると示されている。 コンピュータ・プログラムの代わりにテキスト文書、またはより一般的にはあらゆる種類のメディア全てにGPLを採用することは可能である。ただしその条件は、それらメディアが「ソースコード」(その定義としては、「それ自身を変更することを可能にさせる著作物の好ましい形態」)を構成できるか明らかである必要がある。マニュアルや教科書は、FSF自身はGNU Free Documentation License (GFDL)の利用を代わりに薦めるが、この目的において前述の要件を形成できる媒体である。しかしながら、FSFの勧告にも関わらず、Debian開発者らは(2006年に採択された決議に基づき)、彼らのプロジェクトにおける文書をGPLのもとライセンスする勧告を出した。なぜなら、プログラム・メディア双方の著作物における「ソースコード」という概念に対し、GFDLにはGPLの条項と非互換な取り扱いが存在するからである。すなわちGFDLのもとライセンスされたテキストはGPLで保護されるソフトウェアに組み込めないというのである。詳細については、記事"Debianフリーソフトウェアガイドライン#GFDL"を参照せよ。また、フリーソフトウェア用のマニュアルなどの作成に貢献している組織、FLOSS Manuals(英語版) Foundationは、2007年に、本組織のテキストにGFDLの採用を忌避しGPLの採用を決定した。 仮にGPLがフォントのライセンスに採用された場合、このようなフォントにより形成されるあらゆる文書、画像、PDFは、これまたGPLの条項に従って配布する必要があるかもしれない。このケースは、著作権法がフォントの書体 (appearance of fonts, typeface) には及ばない国々(アメリカ合衆国とカナダのような国)では問題とならない。日本の場合も同じく、フォントの書体は意匠権を持ち、意匠法により管掌されると同時に、独創性と美的特性のない書体に著作権はないとの考えは現状一般的である。しかし、フォントヒンティング・テクノロジーなどのフォントファイル内に存在するプログラムコードは(それが「プログラム」であるから、)猶も著作権法で保護され得るとの主張もある(詳細は記事"知的財産権#その他の権利" "タイプフェース"を参照)。また、セクション"リンクと派生物"で述べたことと同様に、フォント埋め込みは文書がフォントと「リンク」していると見なされるので、事態をより複雑にさせる。FSFはこの想定外の事態に対し、GPLでフォントをライセンスする際には著作権者は「例外条項」を設けるべきと勧告している。 GPLは契約ではなくライセンスとして設計されている。コモン・ローの法的な権限の及ぶ範囲において、契約は契約法により支配されるが、他方ライセンスは著作権法のもと行使されるため、ライセンスと契約の法的な区別はいくらか重要である。しかしながら、大陸法のような契約とライセンスの相違点がない多くの法体系ではこの区別は意味を成さない。 また、GPLなソフトウェアを受け取ったライセンシーはどの国の著作権法に従うかであるが、これは著作権やライセンスの一般論として定められており、すなわち著作権の準拠法は著作物の利用のあった国の法体系である(これを属地主義という)。よってGPLなソフトウェアを受け取ったライセンシーはその居住する国の著作権法のもと当該ソフトウェアを利用することとなる。 GPLの条項や条件に同意しない("do not agree to")、またはそれらを受け入れない("do no accept")人々は、著作権法のもと、GPLでライセンスされたソフトウェアまたはその二次的著作物 (派生物) を複製または頒布する許諾を得ることはない(GPLv2第5節、GPLv3第9項)。しかしながら、もし彼らがGPLで保護されたプログラムを再頒布しないならば、彼らは猶も彼らの組織内でそのソフトウェアを好きなように使用しても構わない。そして、プログラムの利用により作成された著作物(生成されたプログラムもこの中に当てはまる)はこのライセンスの影響範囲に含めることを要求されない。 アリソン・ランダルは、ライセンスとしてのGPLv3はその支持者を不必要に混乱させており、同一の条件や法的効力を維持しつつ、簡略化すべきだと主張した。 日本の独立行政法人、情報処理推進機構がSoftware Freedom Law Centerの協力の下作成した「GNU GPLv3 逐条解説書」によると、GPLが契約かライセンスかの論争は、GPLがエンフォーシブル(enforceable)か否かという問題と同値であると結論付けられている。すなわち、ライセンス違反が発生し、解決が法廷に持ち込まれた場合、GPLソフトウェアの作者に認められる要求が著作権侵害による違反者の頒布差止請求や損害賠償請求に留まるのか、はたまた、ライセンスをエンフォース(強制)し、ソースコードの開示にまで持っていけるのか、といった議論は、GPLが契約か否かという問題に帰着する。大陸法ではGPLを契約と見なせるので(とりわけGPLv2の第2節、GPLv3の第9項は申込と承諾の意思表示であると解釈できる)、仮に法廷に持ち込まれた場合、大陸法の法体系では、差止請求だけに留まらずソースコードの開示まで請求できるとの解釈が述べられている。ただし実際にそのような法的な判断、すなわち判決を下すのは裁判所と裁判官であり、状況によってはGPLが対象とする法的範囲が著作権法よりもさらに小さなものだと見なされ、ライセンサーの権利不行使を宣言するものである、民法の権利濫用の禁止や禁反言を始めとする信義則を述べているだけにすぎないという判決が下される可能性すらもある。 また、契約をもってライセンスを制限することも理論上は可能であるため、GPLでの再頒布時の権限を契約を持って押さえ込むことも可能である。ただしそれが有効と認めた判例は未だもってない。 2002年、MySQL ABは著作権侵害ならびに商標権侵害でProgress NuSphere社をアメリカ合衆国マサチューセッツ連邦地方裁判所(英語版)に提訴した。伝えられる所では、NuSphereは、MySQLのGPLで保護されるコードを自社のGeminiテーブル型モジュールに静的リンクしたが、GPLの条項に従わず、Geminiのソースコードを一切公開しなかった。このためMySQLの著作権を侵害していたとされる。2002年2月27日、パティ・サリス(英語版)判事の予備審問ののち、当事者らは和解協議に入り、最終的に事実上合意に至った。審問終了後、FSFは「サリス判事は、GNU GPLが強制力と束縛力を持つライセンスであることが分かったことを表明した」とのコメントを発表した。 2003年8月、SCOグループは、「GPLに法的な有効性などない」と本気で考え、彼らはSCO UnixからLinuxカーネルへと不正に複製されたと疑わしいソースコードの断片を法廷で取り上げるつもりだと主張した。彼らは、当時GNU/Linuxディストリビューションを頒布しており、またそのディストリビューション、Caldera OpenLinuxディストリビューションに含まれていたその他GPLで保護されたコードも頒布していたため、これは問題のある行動であり、しかも、GPLの条項に従うことを除いてそのような問題行動をとる法的な権利などほとんど有って無いに等しかった。 ドイツのネットワーク機器メーカーSitecomは、GPLの条項に違反して、netfilter/iptables(英語版)プロジェクトのGPLで保護されたソフトウェアを頒布していたが、彼らは頒布停止を拒絶した。この後、事態は法廷に持ち込まれ、2004年4月、ミュンヘン地方裁判所はnetfilter/iptablesプロジェクトの訴えに対し、Sitecomドイツ法人の製品に対する予備的差止命令(英語版)(仮処分差止命令)を認める決定を下した。2004年7月、ドイツの法廷は、この差止命令がSitecomへの判決になると確定し、結審した。法廷で認められたのは次の内容である。 参考訳: netfilter/iptablesの開発者でその著作権を持つもののひとりでもある、ハラルト・ヴェルテは、ドイツにあるFLOSS関連の法的係争を扱う組織、ifrOSS(英語版)の共同設立者、ティル・イェーガー(Till Jaeger)に自身の法的代理人を要請した。この判決文は当時FSFの顧問だったエベン・モグレンが以前予想した通りの内容を反映していた。これは、GPLの条項違反が著作権侵害に与える影響を法廷が初めて認めた重要な判決だった。 2005年5月、ダニエル・ウォレス (Daniel Wallace) は「GPLは価格を零にしようとする違法な企て、すなわち価格固定(英語版)やダンピングである」と主張し、FSFをアメリカ合衆国インディアナ南部連邦地方裁判所(英語版)に提訴した。2006年3月、ウォレスはGPLが反トラスト法に違反する行為を促すとの正当な主張を法廷で証明することができなかったため、原告申立ては棄却された。「GPLは、自由競争、コンピュータ・オペレーティングシステム・ソフトウェアの頒布、消費者が直接得られる利点を阻害するというより、むしろ促進している」と、法廷は言い渡した。その後、ウォレスは、不服申立の控訴状も却下され、FSFへの訴訟費用の支払いを命じられた。 2005年9月8日、ソウル中央地方法院 (서울중앙지방법원, Seoul Central District Court, ソウル中央地方裁判所) は、GPLでライセンスされた著作物から派生した二次的著作物を企業秘密とする契約事項に対し、GPLは本件と関連なしとの判決を下した。判決主文の英文抄訳より事件のあらましを述べると、係争にあがった著作物は、GPLv2で保護されたソフトウェアVTun(英語版)である。被告の一人はVTunをベースとした二次的著作物であるソフトウェアを、原告である企業に雇用されている間作成した。彼が原告企業を退社後、そのソフトウェアのソースコードを個人的に複製しており、そのバグ修正を行ったうえ、そのソフトウェアを利用した商用サービスをもう一人の被告と立ち上げた。これに対し、原告はそのサービスが自社の企業秘密の漏洩であると主張した。 被告らは、GPLを遵守して著作物を頒布する限りは、企業秘密を維持することなど不可能であるので、守秘義務違反ではないと主張した。ソウル地裁はこの主張の法的根拠を認めず、「ライセンス如何にかかわらず、企業秘密の漏洩により公平な競争者に対抗し不公平な利益を得ることを守秘義務で縛ることは妥当である。また企業秘密は特許とは別であり、技術的である必要は無い(1998年大韓民国大法院判決による)。」と述べた。 2006年9月6日、gpl-violations.orgプロジェクトは、D-Link Germany GmbH(Dリンクのドイツ法人)を提訴し、これに勝訴した。原告は、被告が販売する(即ちこれ自体「対価を取って頒布する」ことであり、なんら問題ない)NAS機器に、Linuxカーネルの一部を利用していたが、GPLに違反した使用であり、著作権侵害である、と主張した。この判決により、GPLの有効性、法的拘束力がドイツの法廷で支持されたという判例が与えられたことになった。 2007年後半より、BusyBoxの開発者ならびにSoftware Freedom Law Center(SFLC)は、組み込みシステムに利用するBusyBoxの頒布者からGPLを遵守する旨の言質を得ることや、GPLを遵守しないものを提訴する計画に乗り出した。これら一連の訴訟は、アメリカ合衆国において、GPLの責務に対する強制力を法廷で争った初の機会であると述べられている。 2008年12月11日、FSFはシスコシステムズを提訴した。被告はそのLinksys部門にて、原告のFSFがGPLでライセンスした著作物である、 ソフトウェアパッケージを、Linksysの次に述べる製品のファームウェアにGNU/Linuxの形で組み込んで、対価を取って頒布、すなわち販売していたが、GPLの条項に違反していたためFSFの著作権を侵害している、と原告のFSFは主張した。該当する製品は、Linksysの有名な無線LANルーターWRT54Gやその他DSLモデム、ケーブルモデム、NAS機器、VoIPゲートウェイ、VPN機器そしてホームシアター、メディアプレーヤー機器などその他多くの機器にも及ぶ。 FSFがシスコを提訴するまでの6年間、FSFはシスコに何度も申立を行ったが、シスコは、「われわれは、(GPLで保護されたプログラムの全てのソースコードならびにその改変箇所を含む完全な複製を提供しなかったというGPLの)条項違反についての問題を修正する予定もしくは修正中である」と主張した。しかし、FSFはその後もより多くの製品から新たな違反が発覚したとの報告を受け、Linksysと多くの会談をとり行うこととなった。しかし、結局実りは少なかった。FSFのブログでは、この過程を「5年間にも及ぶモグラ叩きゲーム」("five-years-running game of Whack-a-Mole") と評している。この6年間の過程を経て、FSFは遂に本件を法廷に持ち込むことを決意した。 その後シスコは本訴訟の和解のテーブルに着き、6ヵ月後、 以上の和解内容に合意した。 2001年、マイクロソフトのCEO、スティーブ・バルマーは、Linuxを「知的財産権の意味において、触れるもの全てにくっつく癌である」と呼んだ。マイクロソフトがGPLを嫌う理由は「取り込み、拡張して、抹殺する」という独占的ベンダーの試みにGPLが抵抗するためであるとマイクロソフトの批判者らは主張する。 マイクロソフトは、以前、GPLでライセンスされたコードを含む製品である、Microsoft Windows Services for UNIXを販売(のちWindowsのEULAに従う者には無償ダウンロード可に)していたこともある。マイクロソフトのGPLに対する攻撃に対抗するため、幾人かの著名なフリーソフトウェア開発者とフリーソフトウェアの代弁者たちはライセンスを支持する旨の共同声明を発表した。しかしながら、この声明から7年以上たった、2009年7月、マイクロソフト自身が、GPLのもと本体が約20,000行程度となるLinuxカーネルのドライバコードをリリースした。ただし、提供されたコードの一部に相当するLinux用のHyper-Vドライバコードが、GPLのもとライセンスされているオープンソース・コンポーネントを利用しており、当初プロプライエタリなバイナリ部分と静的リンクしていた。後者はGPLソフトウェアに対するライセンス違反である。 また、これ以外にも、同社が提供するソフトウェアに意図せずGPLで保護されたコードが混入するケースもあった。 マイクロソフトのシニア・バイス・プレジデント、クレイグ・マンディは、GPLはプログラム全体を譲渡することしか許諾せず、これは、プログラマに、GPLと両立しないライセンスのライブラリとリンクするプログラムを譲渡することを許諾しないことを意味する故、GPLは「ウイルス的(viral)である」と評した。 このいわゆる「ウイルス的」効果とは、組み合わせることを考えているソフトウェアの、複数のライセンスのうち一つが変更されないならば、そのような状況下で、異なる別のライセンスで許諾されるソフトウェアと組み合わせることができないことを指す。ライセンスのいずれか一つは理論上変更することはできるけれども、「ウイルス的」なる考えの筋書きによれば、GPLは事実上撤回することはできない(なぜなら、GPLソフトウェアには通常極めて多くの貢献者(contributors)の存在があるが、彼らの幾人かはこの決定をおそらく拒絶するだろう)。他方、他のソフトウェアのライセンスは実際には可能なのである。 リチャード・ストールマンの見解によると、「ウイルス」というメタファーは誤りであり、また不親切な物言いである。GPLのもとリリースされるソフトウェアは、他のソフトウェアを、決して「攻撃」したり「感染」などしない。むしろ、GPLで保護されるソフトウェアは、オリヅルランのようなものである、と述べている。だれかが、GPLで保護されたソフトウェアのコード断片を持ち帰り、どこかよそへそれを組み込んだならば、GPLで保護されるソフトウェアもまた、そのどこかで成長するのである。このようにGPLのような二次的著作物にも適用を強制するという強い制約を持つライセンスは、独占的なソフトウェアを開発する企業や、他のライセンスを支持するソフトウェア開発者から批判されることがある。コピーレフトの考え方を支持する人々は、これは自由を守るために必要なことだと主張する。一方、二次的著作物への制限が少ないBSDスタイル・ライセンスを支持する人々はまた別の考え方を持っている。GPLの支持者が「フリーソフトウェアの自由が二次的著作物でも保護されることを、フリーソフトウェア自身が保証すべき」と確信する一方、そうでない人々は「フリーソフトウェアはその再頒布にあたって利用者に最大限の自由を与えるべきだ」と主張する。後者の考え方は、例えばBSDライセンスのように敢えて「ソフトウェアの自由を捨て去る」ことも可能という、ソフトウェア利用者の自由意志、選択の自由を述べている。 態度を鮮明にしている幾人かの有名なLinuxカーネル開発者は、マスメディアに対しコメントを出し、GPLv3の議論用の初稿ならびに第2稿の一部に反対する旨の声名を発表した。リーナス・トーバルズは、GPLv3の反DRM条項により、GPLv3でライセンスされたソフトウェアがDRMを利用したコンピュータ・セキュリティのメカニズムを享受できなくなるとして、LinuxカーネルのGPLv3への移行には明確に反対している。リチャード・ストールマンは、2007年初めにもこの動きは収束すると期待していた。 第3稿に関しては、(反TiVo化条項がいくらか緩められたため)トーバルズは「満足している」と語っていたが、最終稿が提出された後のコメントでは、GPLv3はGPLv2と比べ(両者のデュアルライセンスが可能か考慮に入れた上、コードの全著作者からライセンス移行の合意を得るという途方も無い手間を掛けたとしても)移行するメリットはないとトーバルズは述べた。 おおむね、これらの議論は本質的には全く同じ視点に立ってはいるが、主にソフトウェアのコードの自由を重視するオープンソース陣営と、それのみではなくソフトウェアを利用するユーザーの自由の最大化を目的とするフリーソフトウェア陣営の考え方の違いが浮き彫りになったに過ぎない。ソフトウェアの自由な利用のためには、GPLv3にはソフトウェアの範疇に留まらず、広く働きかけることを厭わ(いとわ)ないとする後者の考え方が色濃く出ている。 FreeBSDプロジェクトは、「GPLソフトウェアを公開しない、そして誤ってGPLソフトウェアを利用してしまったケースなどにより、これらの行為がソフトウェア企業の価値を下げたいと考えている巨大企業の格好の餌食になっている。言い換えれば、GPLは、潜在的に経済的利益の全体を低下させ、また寡占的行為を助長するゆえ、マーケティングの武器として利用されるのに、とてもふさわしい。」と主張し、GPLは「ソフトウェアの商用化やその利益を生み出そうと考えている人々にとって現実の問題として本当に邪魔になっている」と主張している。 FreeBSDの開発者で、Beerware(英語版)ライセンスの著作者でもある、ポール=ヘニング・カンプ(英語版)は、"GNUライセンス"を「ジョーク」であると見なしている。その理由は彼が気付く限りこのライセンスには曖昧な記述が存在するからだと述べている。 セクション"リンクと派生物"の通り、GPLで保護されたコードに由来する二次的著作物はGPLでなければならない、と明白に要求されているが、GPLのライブラリに動的にリンクしたプログラムが、二次的著作物と見なせるかどうかは、議論が分かれている。これに対しFSFとその他の人々の見解が異なることが新たな論争の種となっている。この点に関し、著作権法が二次的著作物をどう定義するかが問題になると述べたが、著作権の支分権の具体的内容についての問題が提起されている。アメリカ合衆国著作権法を収録した合衆国法典第17編の第101条 (各種用語の定義) によれば、著作物の改変・翻案を例にあげたうえで「既存の著作物を基礎とする」ことが二次的著作物の要素となっているため、動的リンクの場合でも既存の著作物を基礎としているのかが問題となり得る。これに対し、日本国著作権法第二条によれば、二次的著作物は原著作物の「翻案」を要素としているため、GPLのライブラリとGPLでないプログラムが動的にリンクするプログラムを作って頒布したところで、二次的著作物を作成したことにはならず、プログラムを実行したときに必然的に生じるメモリへの複製の段階で初めて問題になるに過ぎない。しかし、日本国著作権法ではプログラムを実行することそれ自体(これを使用権という)は著作権の支分権としては認められていない。 ちなみにGPLv3では"derivative work"という語が姿を消し、代わりに「改変されたバージョン」や「元プログラムに基づく作品」となっている。これらは「二次的著作物」を指している。 また、アメリカ合衆国著作権法においても、日本国著作権法においても、原著作物の著作権者は、二次的著作物に対して著作権行使をすることができるのは当然の前提なのだが、ソフトウェアが著作権の対象となるように法制度が確立する前は、改変したプログラムに対する権利範囲等が不明確であったこともあり、法の建前を前提として議論がされていない側面がある。 いずれにせよ、当該著作物が二次的著作物であるかの判断は、ライセンス如何の問題ではなく、最終的には法廷が個々の著作物毎に判断することとなる。しかし、現時点では明確な線引きを行った著作権法上の条文や判例は存在せず、その他法源となるものもない。ガルーブ対任天堂(英語版)訴訟においても二次的著作物の範囲が明確に定められなかったのは前述の通りである。 GPLが持つ制約とは全く別の問題として、一部の批判者らは、GPL前文のイデオロギー的な響きが嫌だとか、ライセンスが長過ぎて分かりにくいと愚痴をこぼす。この「落とし所」には、ソースやバイナリの複製 (reproduction) を認めないが、個人や会社での使用で修正の自由を認めるようなライセンス群を含むことがある。こういった変種の一つには、 Open Public License (OPL)がある。これら批判の原因は、GPLの条文が一見理解しにくいがために起こる誤解によるところもある。しかし、このGPLの手の込んだ条項は一見理解に困難を伴うが、これによりコピーレフトが創出され、著作権法の枠組みを徹底してハックしている点も忘れてはならない。 GPLの条文そのものや、その要求、許可する事項(義務、権利)については、GPLに賛同している者ですらも誤解していることがあり、そのことがGPLの議論に関し混乱を招く原因のひとつともなっている。既に解説済みの項目も多いが、改めて述べる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "GNU General Public License (GNU GPLもしくは単にGPLとも表記、呼称される) とは、GNUプロジェクトのためにリチャード・ストールマンにより作成されたフリーソフトウェアライセンスである。八田真行の日本語訳ではGNU 一般公衆利用許諾書と呼んでいる。現在、GNU公式サイト日本語ページでは GNU一般公衆ライセンスと表記されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "GPLは、プログラム(日本国著作権法ではプログラムの著作物)の複製物を所持している者に対し、概ね以下のことを許諾するライセンスである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "GPLは二次的著作物についても上記4点の権利を保護しようとする。この仕組みはコピーレフトと呼ばれ、GPLでライセンスされた著作物は、その二次的著作物に関してもGPLでライセンスされなければならない。これはBSDライセンスをはじめとするパーミッシブ・ライセンスが、二次的著作物を独占的なものとして再頒布することを許しているのとは対照的である。GPLはコピーレフトのソフトウェアライセンスとしては初めてのものであり、そのもっとも代表的なものである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "GPLはフリーソフトウェア財団 (以下FSFと略称) によって公開され、その管理が行われている。GPLでライセンスされている傑出したフリーソフトウェアのプログラムには、LinuxカーネルやGNUコンパイラコレクション (GCC) がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "FSFが公開、管理する他のライセンスには、GNU Lesser General Public License (GNU LGPL)、GNU Free Documentation License (GNU FDL、またはGFDL) そしてGNU Affero General Public Licenseバージョン3 (GNU AGPLv3) がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ストールマンは、ソフトウェアに対する自由とは何かという問題を提起し、そのひとつの答えを提示した。GPLは、「自由なソフトウェア」を、有償・無償に関係なく、頒布できるようにした、という単純な意味だけでなく、「ソフトウェアは自由であるべき」という思想が存在することを一般に認知させたという意味において極めて重要な意義がある。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "GPLにより付与される強力なコピーレフトはGNU/Linuxの成功にとって重要な役割を果たしているとも言われる。なぜなら、コミュニティに全く還元しようとしないソフトウェア企業にただ搾取されるのではなく、著作物が世界全体に貢献し、自由であり続けるという確証をGPLはプログラマに与えたからである。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "GPL誕生以前、Emacsの頒布条件となっていたライセンスが生まれたきっかけは、ジェームズ・ゴスリンが作成し、当初自由な利用が認められていたGosling Emacsのコードに突如ゴスリンが独占的な許諾条件を附してしまったことが契機となっている。この許諾条件の変更の影響により、ストールマンは自身のEmacsのコードを書き換えなければならなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "またGPL、GNUプロジェクトの誕生について、次のような逸話もある。 当時、ストールマンはMIT人工知能研究所でSymbolics社製のLISPマシンで動くソフトウェアを開発していたが、ストールマンが作りSymbolics社に対して提供したパブリックドメイン版であるソースコードの改変版について、同社が著作権を根拠にソースコードを開示しなかったことに腹を立てGPLを考案したといわれる。いずれにせよ、これ以降いかにしてソースコードの自由な利用を保証するかということにストールマンは腐心するようになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "GPLは1989年にリチャード・ストールマンによって、GNUプロジェクトのソフトウェアの配布を目的に作られた。オリジナルのGPLは、初期のGNU Emacs、GNUデバッガそしてGNU Cコンパイラの配布に利用していた類似のライセンスを基に、それらを組み合わせたものをベースとしている。前記3つのライセンスは、現在のGPLと似たような条文を含んでいる。しかし、それらは各プログラム固有のライセンスであり、似通っているとはいえ、互いの互換性は全くなかった。ストールマンの目標は、いかなるプロジェクトでも使用可能で、それゆえ多くのプロジェクトがコードを共有することを可能にさせる単一の汎用的なライセンスを作り出すことだった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "GPLは幾度か改訂されており、1991年にはバージョン2がリリースされている。バージョン3がリリースされるまで、それに従うこと15年間、FLOSSコミュニティの幾人かは、GPLでライセンスされているプログラムを、ライセンスの意図に反し、搾取する事につながる抜け道 (loopholes; 抜け穴、ループホール) に対し懸念を抱くようになった。これらの懸念の中には、TiVo化(Tivoization。GPLでライセンスされたプログラムが含まれているにも関わらず、改変版ソフトウェアの稼動を拒絶するハードウェアについての問題)、Webインタフェースの裏側に隠れ公開されることのない改変版GPLソフトウェアの利用、AGPLバージョン1と同等の互換性問題、GNU/Linuxコミュニティと敵対するための武器として特許を行使する企てと見なされる、マイクロソフトとGNU/Linuxディストリビュータとの特許契約などがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "FSFならびにFLOSSコミュニティは、これら懸念に対し真剣に取り組むべく、バージョン3への改訂作業を始めた。2005年後半、FSFは、GPLバージョン3 (GPLv3) の策定に関するアナウンスを行った。2005年の時点でGPLは様々なFLOSSプロジェクトのソフトウェアに採用されていたこともあり、FSFが単独で改訂することにより起こりえる問題を回避するため、改訂プロセスは公開で行うことが同時に発表された。2006年1月16日、GPLv3の最初の議論用草稿 (discussion draft) が公開され、公開協議プロセスを開始した。当初公開協議は9ヶ月から15ヶ月を想定していたが、終わってみると、4つの草稿公開に延べ18ヶ月にまで要した。公式のGPLv3は2007年6月29日、FSFにより発表された。GPLv3は、リチャード・ストールマンにより起草され、エベン・モグレンならびにSoftware Freedom Law Center (SLFC) による法的助言を受けている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "公開協議プロセスは、FSFを調整役、SFLC・Free Software Foundation Europe (FSFE)その他フリーソフトウェア開発組織による支援のもと進められた。この間、gplv3.fsf.orgというウェブポータルサイトが立ち上げられ、ここを経由し多くの一般からのコメントが集められた。このポータルサイトは、策定プロセスのために開発されたstetというソフトウェア上で稼働している。これらコメントは、およそ130名ほどから成る4つの協議グループ (committee)に渡された。この130名はFSFの目標に対しそれを支持する人物並びにそれと対立する人物双方が含まれている。これら協議グループは一般から提示されたコメントを精査し、新しいライセンスがどうあるべきか決定するため、ストールマンにその要約を回付した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "公開協議プロセスを経て、初回の草稿には962ものコメントが提出された。終わってみると、延べ2,636ものコメントが提出されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "初版の草稿公開ののち、GPLv2とGPLv3の非公式な差分(但し、これはdiff出力による行単位ごとの単純な差分)が、FLOSSコミュニティ向け法律サイトGroklawにより公開された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2006年7月27日、GPLv3の討議用第2次草稿が、LGPL第3版 (GNU LGPLv3) の初版草稿とともに公開された。初稿と第2稿の差分は、FSFとFSFEからそれぞれ提示されている。第2稿ではDRMに対抗する明確な目標が取り入れられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "第3稿は2007年3月28日に公開された。この草稿は、かの物議を醸したマイクロソフトとノベルが締結したような特許相互ライセンス (patent cross-license)を排除する意図を持つ文言を含んでおり、反TiVo化条項 (anti-tivoization clauses) はユーザ製品 (User Product)・コンシューマ製品 (Consumer Product) といった一般家庭で使用される製品に限定する旨定めている。また、公開協議開始時点で削除が予告されていた地理的 (頒布) 制限 (Geographical Limitations)の項については、明白に削除されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "最終稿となった第4の議論草稿は2007年5月31日に公開された。この草稿では、Apache Licenseとの組み合わせを可能にする条項が導入された他、外部契約者 (contractor) の役割を明確化し、マイクロソフト–ノベル間の契約のような明白な問題を回避する例外条項を加えている。この最後の例外条項は、第11項第7段落に次のように記載されている(条文は正式公開版と同一である)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "これは、そのような契約を将来に渡って無効化することを目的としている。また本ライセンスは、マイクロソフトが、あるGPLv3ソフトウェアを利用するノベルの顧客に許諾したような特許契約(特許ライセンス、特許許諾、パテントライセンス)を、まさにそのGPLv3ソフトウェアを利用するユーザーすべてにまで(ユーザーの行為如何に全く関わらず)自動的に拡大適用することを意味する。ただし、マイクロソフトが法的にGPLv3ソフトウェアの伝達者 (conveyor; 譲渡者) でもない限り、それは不可能である。これはある種、特許契約に対しそれを他者に無制限に提供してしまうことから、ポイズンピルのような働きを持つとの意見もある。ただし本条項導入の直接の契機となった、ノベルの行為そのものに対しては、本項第7段落最後に例外を設け、既得権条項(英語版)を適用している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "バージョン1は、1989年2月にリリースされた。このライセンスは、ソフトウェア頒布者が制限しようとする主に2つの手段から、フリーソフトウェアの定義たる自由を守る働きを持っていた。第一の問題は、頒布者がバイナリ、すなわち実行ファイルのみを公開するかもしれないということである。しかしながらバイナリは人間にとって読み取れる形式ではなく、また改変もできない。このことを防ぐため、GPLv1では、バイナリを頒布するいかなるベンダーも、同じライセンスの条項のもと、機械可読なソースコードの形で利用できるようにしなければならないとしている。", "title": "バージョン履歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "第二の問題は、ライセンスに追加の制限を加える、もしくは頒布において別の制限があるソフトウェアを組み合わせることのどちらかにより、頒布者が追加の制限を加える可能性があるということだった。もしこのことが成されれば、その時、制限の2つの集合の和は、組み合わされた著作物に適用されるだろうが、それはすなわち、受け入れられない制限が加えられたことに等しい。この様な事態を避けるため、GPLv1では、改変版は、全体として、GPLv1の条項の下頒布されなければならないと規定している。このため、GPLv1の条項の下頒布されているソフトウェアは、それよりもパーミッシブ・ライセンスで保護されるソフトウェアと組み合わせて頒布することが可能となる。なぜなら、組み合わせによって全体を通して頒布に係るライセンス条項に変化はないからである。しかし、GPLv1の条項の下頒布されているソフトウェアとそれよりも制限の厳しいライセンスで頒布されるソフトウェアを組み合わせることは、GPLv1の条項の下全体が頒布されるという要件と衝突するため、できない。", "title": "バージョン履歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "バージョン2は、1991年6月にリリースされた。 リチャード・ストールマンによれば、GPLv2で最大の変更は第7節、彼に言わせると、パトリック・ヘンリーの名文句「自由か然らずんば死を」(\"Liberty or Death\") の一節である。他の利用者の自由を尊重するような方法で、GPLで保護されたソフトウェアの頒布が妨げられる場合(たとえば、法的規制によりソフトウェアをバイナリ形式でしか頒布できないとき)、この節に従えば、頒布は一切できない。GPLv3でも同様の条項が存在し、幾分簡素化されたうえ主旨が明確になっている。これは、フリーソフトウェア開発者や、フリーソフトウェアを単に使用する者から金を脅し取ろうと特許を行使する企業の企みをすこしでも減らすことを見込んでいる。", "title": "バージョン履歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1990年までには、現存するプロプライエタリなライブラリと本質的には同等な機能を持つCライブラリや、その他のソフトウェア・ライブラリに対しては、制限の緩いライセンスのほうが戦略的に有効なことが明らかになってきた。1991年6月にGPL第2版がリリースされた際、Library General Public License (LGPL) が、初版にもかかわらずGPLと相補的なことを示すため第2版として同時に導入された。GNUの思想における位置づけを反映させるため、Lesser General Public Licenseと名を変え、1999年、LGPL2.1がリリースされた。", "title": "バージョン履歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "バージョン3は、2007年6月にリリースされた。GPLv3は、ソフトウェア(プログラム・ライブラリなど)を含む著作物に対し、著作物の著作者・著作権者やライセンス受諾者の権利や、プログラムの受領者のためにライセンス許諾者が与える権利、またソフトウェアの自由と衝突するような法や法的権利の制限(DRM、特許の利用、他者を差別するような特許ライセンスの排除)などに関する基本理念を以前のバージョンのライセンスより明文化している。", "title": "バージョン履歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ストールマンによると、もっとも重要な改訂点は、ソフトウェア特許、他のフリーソフトウェア・ライセンスとの両立性(compatibility; 互換性)、「ソースコード」とは何を指すのかの定義、ソフトウェアの改変に関するハードウェアの制限(英語版)(TiVo化)そしてデジタル著作権管理 (Digital Rights Management, DRM) との関連がある。その他の改訂点は、国際化、ライセンス違反時の対処手段そして可能ならば著作権者により追加的条項(additional terms)を与える手段に関連している。", "title": "バージョン履歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "他注目に値する改訂点としては、GPLv3で保護された著作物の著作権者が、パッチなどを提供しそれに改変を加えた貢献者 (contributor) に対し、ある種の条件または要求を課すということを許諾する条項が加えられている。これらに加えて、新しく導入された要件の一つには、時折Affero条項 (Affero clause、Affero節) とも呼ばれるが、Software as a serviceのようなASPモデルによるGPLの条項を回避しようとする試み(ASP loophole; ASPの抜け道)に対し、これを封じようと意図しているものも含まれる。この条項が追加された結果、GNU Affero General Public Licenseバージョン3 (GNU AGPLv3) が作成されている。GPLv3とAGPLv3は互いに両立はしないが、リンクや結合のみを認める相補的な条項を共に持っている。", "title": "バージョン履歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "また、GPLv3で許諾されるソフトウェアは、米国のDMCAや日本の著作権法、不正競争防止法が規定している「技術的制限手段」(技術的保護手段、例: DRM)の「解除」を認める条項が追加されている(詳細はセクション\"技術的保護手段回避を禁ずる法への対抗措置\"を参照)。", "title": "バージョン履歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "「GPLが適用された著作物の複製を受け取る全ての者」(Recipients; 受領者)は、GPLの条項と条件 (terms and conditions; 利用条件) を遵守しなければならない。利用条件を遵守するライセンシー(the licensee; 被許諾者、ライセンシー)は著作物を改変する許諾を与えられるのと同時に著作物または二次的著作 (派生 derivative) 物の複製と頒布を許諾される。ライセンシーは、このようなサービスを提供するのに料金を課してもよいし、また無料で行ってもよい。この後者の許諾は、GPLと商用再頒布禁止のソフトウェアライセンスとの相違点である。FSFは、フリーソフトウェアは商用利用を制限するべきではないと主張している。また、GPLは、GPLが適用された著作物を如何なる値段で販売しても良い旨、明確に述べてある。", "title": "利用条件" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "加えて、GPLは、頒布者がGPLにより許諾される以上のさらなる権利制限 (further restrictions on the rights granted by the GPL) を課してはならないと述べている(GPLv2第6節、GPLv3第10項)。これは(純粋に契約である)秘密保持契約 (non-disclosure agreement, non-disclosure contract) のもとソフトウェアを頒布するような手法を禁ずる。GPLのもと、頒布者はまた、GPLなソフトウェアにおける特許を行使するために、ソフトウェアにより行使されるいかなる特許をも「ライセンス」(特許ライセンス)として許諾する。", "title": "利用条件" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "GPLv2の第3節とGPLv3の第6項によると、事前コンパイルされたバイナリとして頒布されるプログラムは次のいずれかを満たさなければならない。", "title": "利用条件" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また、GPLv2の第1節とGPLv3の第4項は、プログラムの受領者すべてにプログラムと共にGPLの複製を (all recipients a copy of this License along with the Program) 与えなければならないと規定している。GPLv3ではその第6項を満たす限りにおいて、ソースコードを利用可能な状態にするために、GPLv2で指定された物理媒体以外にも、明示的に追加の手段を講じても良いとする。コンパイル済みコードを取得する方法とソースコードのありかが明確に分かる場合、近くのネットワークサーバからまたはP2P送信によりソースコードをダウンロードさせる手段などもこの追加の手段に含まれる。", "title": "利用条件" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "改変された著作物を頒布する権利は、GPLにより無制限に付与されるわけではない。頒布者自身による改変が加えられたGPLによる著作物を頒布する際に、著作物全体を頒布するための要件は、GPLよりも強い要件であってはならない。", "title": "利用条件" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "その要件とは、コピーレフト (Copyleft) として知られている。これは、ソフトウェアプログラムに関し、著作権 (copyright) を利用した法的な権能をもたらす効果がある。GPLで保護される著作物もまた、著作権で保護されているため、改変された形態でなくとも、ライセンスで規定されている場合を除き、ライセンシーはその著作物の再頒布の権利を持たない(フェアユースを除く。ただし、その記事やGPL FAQで述べられている通り、フェアユースにworld-wide principle; 世界的な原則、統一見解などない)。再頒布のような、通常著作権法で制限される権利をある人物が行使しようと考える場合、その人物はGPLの条項をただ従う必要がある。逆に、GPLの条項を遵守せず(例えば、ソースコードを開示しない)著作物の複製を頒布すると、著作権法に基づき著作権者から頒布の差止め等で提訴される可能性がある。", "title": "利用条件" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "コピーレフトは、著作権法を本来の使用目的と正反対の目的を実現するために利用する。すなわち制限を課す代わりに、コピーレフトは、権利がのちに消失しないような方法で、他者への権利を許諾する。コピーレフトはまた、ライセンシーに対し再頒布の権利を無制限に許諾するのではなく、コピーレフトが主張する点において発見されるのは法律上の任意の欠陥であるべきことを保証している。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "コピーレフトライセンスで保護されるプログラムを頒布する多くの者は、ソースコードと共に実行ファイルを添付する。コピーレフトを満たす別の方法は、要求に応じて(CDのような)物理媒体を用いてソースコードを提供するという文書を提示することである。また事実としてコピーレフトライセンスで保護されるプログラムの多くは、インターネット上で頒布されており、ソースコードはFTPまたはHTTPなどを用いてソースコードを遣り取りできるようにしているものが多い。インターネット上での頒布は本ライセンスを満たしている。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "コピーレフトが適用されるのは、ある人物がプログラムを再頒布しようと求める場合にのみである。改変したソフトウェアを他の誰にも頒布しない限り、改変箇所を公開しなければならない如何なる義務も免ぜられ、その改変版を私的な物とすることは許される。また、コピーレフトはソフトウェア自身のみに適用されるのであって、ソフトウェアの出力 (outputs, アウトプット) には適用されないことには注意しておきたい(ただし、そのアウトプット自身がプログラム自体の二次的著作物ではない場合)。例えば 、GPLで保護されたコンテンツ管理システム (\"Contents Management Systems\"; CMS) に対しその改変した派生版を動作させる一般ウェブポータル(ブログソフトウェアなど)は、その出力自体はプログラム自体の派生物ではないから、土台としたソフトウェアならびにその改変部分を頒布する必要はない。反例は、GPLで保護されたソフトウェア\"GNU bison\"である。この構文解析器の出力は、その派生物の一部をまさに含んでおり、そのため、この事実に対しGNU bisonにより許諾される特殊な例外条項 (a special exception) が仮に存在しないならば、出力結果はGPLで保護される派生物となっていたであろう。最新のGNU bisonでは、事実として、出力コードのヘッダにAs a special exception...という特殊例外条項が記述されている。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "なお(GPLに従う著作物に限ったことではないが)、コピーレフトのもとで公開された著作物の著作権は、前述の通り譲渡しなければ個々のコードの著作権者が保有している。従ってコピーレフトを無視した再頒布に対して、頒布の差止めやコピーレフト違反是正(エンフォースメント)を求める権利があるのはプログラムの著作権者だけであり、一般のライセンシーにはない。ただ、大規模なFLOSS開発プロジェクトは一般的にワールドワイドであり、開発者の居住国が多岐に渡るため、多かれ少なかれ差異がある各国の著作権法にプロジェクト全体で合致させるのは困難を要す。このため一部のFLOSSプロジェクトでは各著作権者に代わり、コードの著作権を一括してプロジェクト(またはそれを統括する団体・法人組織)が引き受ける場合もある。GNUプロジェクトは、コードの受け入れに関し、米国著作権法の庇護を享受するため、ライセンス如何に関わらず、寄贈されたコードの著作権を原著作者より明示的にFSFに譲渡する場合にのみ受け入れている。CMSのPloneならびにPlone財団(Plone Foundation)も似たような形式を採用している。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "FSFによると、「GPLは改変版、もしくは改変版の一部のリリースを要求することは述べていない。改変版を一切公開せず、改変を加えることや、私的に利用することは自由である。」と主張している。しかしながら、仮にある人物がGPLでライセンスされたオブジェクトを公開するならば、ライブラリリンクに関する問題が提起される。すなわち、もし、プロプライエタリなプログラムがGPLなライブラリを使用するならば、そのプロプライエタリなプログラムは(一般にプロプライエタリソフトウェアはソースコードが自由な許諾の下利用できない為)GPLに違反する、はたまたそうではないのか、という問題がある。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "この重要な論点は、非GPLソフトウェアがライセンス的、すなわち著作権法的に、GPLなライブラリに静的リンクまたは動的リンク可能であるか否かという問題に行き着く。この問題に関して、異なるいくつかの見解が存在する。GPLのもとリリースされるコードの二次的著作物が全て、それら自身もまた、GPLに従わなければならないとの要求は明白である。しかし、GPLなライブラリを使用する、そして、GPLなソフトウェアをより巨大なパッケージと組み合わせる (bundle, バンドルする)(概ね静的リンクによりバイナリを混合する場合などを想定すればよい)点に関しては、曖昧さが惹起する。これは究極的には、GPLそれ自体 (per se, in itself) とは無関係の問題であるが、著作権法が二次的著作物をどう定義するかということと関連した問題である。この議論に関して、次のようないくつかの異なる見解が存在する。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "GPLのライセンス条文自体の著作権を保持する法人組織でもあり、GPLでライセンスされる著名なソフトウェア製品を多数提供しているFSFは、動的リンクされたライブラリを利用する実行ファイルは、実際には二次的著作物である、と強く主張している。しかしながら、このことは、お互いを「結合する」(連携する、communicate) だけの分離された別個のプログラムには適用されないとしている。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "FSFはまた、コピーレフトという点で、GPLとはほぼ同一であるが、「ライブラリ利用」という目的のために、リンクの許諾を追加的に与える、LGPLというライセンスも作成した。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "リチャード・ストールマンとFSFは、プロプライエタリな世界と比較し、より豊富なツールを提供することによりフリーソフトウェアな世界を護持することを目的として、ライブラリ作者に対し、GPLの下でのライブラリのライセンシングを明確に促している。これは、ソースコードを公開しないならば、プロプライエタリ・プログラムがGPLで保護されたライブラリを一切使用できないようにすることを狙っている。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "FSFは、プラグインの呼び出し方法についてはまた別であると認識している。もし、プラグインが動的リンクにより呼び出され、関数呼び出しをGPLプログラムに提供するならば、その時には、プラグインは、概ね二次的著作物であると見なされる。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "静的リンクは二次的著作物を生じるが、他方、GPLコードに動的リンクされた実行ファイルが二次的著作物であると考慮されるべきか否かははっきりしないとする意見もある。詳細は (Weak copyleft) を参照せよ(ライセンス感染#相互運用性も参考になるかもしれない)。Linuxカーネルの著作権者リーナス・トーバルズは、状況により、動的リンクは派生物を生じ得るとの見解に同意する場合と同意しない場合があるとしている。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ノベルの弁護士は、動的リンクが二次的著作物でないのは「もっともらしい」が「断言」はできないとし、善意による動的リンクの証拠として、プロプライエタリなLinuxカーネルドライバの存在に見てとれる、と文書にて記載している。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ガルーブ対任天堂(英語版)訴訟において、アメリカ合衆国第9連邦巡回区控訴裁判所(英語版)は、二次的著作物を「『形式』または永続性」を所持するものと定義し、「当件における侵害された著作物が、ある形式で著作権の適用された著作物の一部と協働しなければならない」と言い渡した。しかし、特にこの対立を解決する明白な法廷判断は出ていない。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "Linux Journal誌の記事によれば、IP法の専門家でOSIの法務顧問 (General counsel) も務めるローレンス・ローゼンは、リンクの動的・静的を含む種別は、ある種のソフトウェアが二次的著作物であるか否かについての問題とは概ね関係がない、すなわち、そのソフトウェアが、クライアントソフトウェアとライブラリ、またはそれら個別とのインタフェースが意図されているか否かについての問題のほうがより重要である、と主張している。彼は、「新規のプログラムが二次的著作物であるか否かの主な指標は、原著作物のプログラムのソースコードが、『複製と添付(コピーアンドペースト)』する意図をもって利用され、新たなプログラムを作成する任意の手段において、改変、翻案またはその他の変更を加えたか否かに係っている。もしそうでないならば、私はその新規のプログラムは二次的著作物ではないと主張するだろう」と述べる。また、彼はこの記事の中で、ソフトウェアの組み合わせ・バンドリング、リンクのメカニズムなど、その他関連する多くの指摘意図を挙げている。さらに、彼は、彼の弁護士事務所のウェブサイトにて、このような「市場原理」的要素はライブラリリンクの原理といった技術的な要素よりも重要であると主張している。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "プラグインまたはモジュール(例えば、フリーなドライバ\"nouveau\"とは別個に存在する、NVIDIAのプロプライエタリなデバイスドライバ、またATI FireGL RXなどのグラフィックカード用カーネルモジュールがその一例)が固有の著作物と合理的に見なされる際、それらライブラリがGPLに従わなければならないか否かという、別個の問題もある。これに対する見解は、著作物がGPLv2ならば、分離していると合理的に理解されるプラグインまたは、プラグインを利用するために設計されたソフトウェア用のプラグインは、任意のライセンスで許諾され得る。GPLv2の条文段落において特に注目される箇所は以下の条文である。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "You may modify your copy or copies of the Program or any portion of it, thus forming a work based on the Program, and copy and distribute such modifications or work under the terms of Section 1 above, provided that you also meet all of these conditions:", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "...", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "b) You must cause any work that you distribute or publish, that in whole or in part contains or is derived from the Program or any part thereof, to be licensed as a whole at no charge to all third parties under the terms of this License.", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "...", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "These requirements apply to the modified work as a whole. If identifiable sections of that work are not derived from the Program, and can be reasonably considered independent and separate works in themselves, then this License, and its terms, do not apply to those sections when you distribute them as separate works. But when you distribute the same sections as part of a whole which is a work based on the Program, the distribution of the whole must be on the terms of this License, whose permissions for other licensees extend to the entire whole, and thus to each and every part regardless of who wrote it.", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "実際にはGPLv3でも同じであり、条項の文面は多少異なっているが、上記と同様の内容が、以下となる(詳しくはセクション\"改変版ソースの伝達\"を参照)。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "You may convey a work based on the Program, or the modifications to produce it from the Program, in the form of source code under the terms of section 4, provided that you also meet all of these conditions:", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "...", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "c) You must license the entire work, as a whole, under this License to anyone who comes into possession of a copy. This License will therefore apply, along with any applicable section 7 additional terms, to the whole of the work, and all its parts, regardless of how they are packaged. This License gives no permission to license the work in any other way, but it does not invalidate such permission if you have separately received it.", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "...", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "A compilation of a covered work with other separate and independent works, which are not by their nature extensions of the covered work, and which are not combined with it such as to form a larger program, in or on a volume of a storage or distribution medium, is called an “aggregate” if the compilation and its resulting copyright are not used to limit the access or legal rights of the compilation's users beyond what the individual works permit. Inclusion of a covered work in an aggregate does not cause this License to apply to the other parts of the aggregate.", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "事例分析として挙げると、DrupalやWordPressのようなGPLv2でリリースされていたCMSに対し、それらに提供されていたプロプライエタリと想定されるプラグイン、テーマ(英語版)、スキンなどは、両プロジェクトサイドにて議論が巻き起こる共に、非難されるようになってしまった。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "一方、Linuxカーネルではこのような結合の状況分析を行うことなく、カーネルの著作権の影響範囲とユーザ空間プログラムが派生物ではないことをライセンステキスト冒頭で述べている。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "参考訳:", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "前述のセクションの実例を挙げる。GPLソフトウェアへのパッチを提供した場合は、そのパッチが「適用したGPLソフトウェアとは別の著作物」とみなされる可能性も含んでいる。これは、前述の通り、", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "や", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "に規定されている。即ちGPLソフトウェアを含む「集積物 (aggregate) の他の部分」と認められれば、GPLに反しない、言い換えればGPLよりパーミッシブ・ライセンスでパッチを公開しても良い。例えばパッチが単なる修正ではなく、単体で再利用可能な全く別種の機能強化と見なされればそれは集積物の別の部分と規定でき、そのパッチのみに対しGPLと矛盾せずかつGPL以外のライセンス(BSDライセンスやzlib Licenseなど)を適用する事も可能である。一例をあげると、MySQLは、「リンク例外条項付きGPLv2」と商用ライセンスとでデュアルライセンシングされている。これに対しGoogleはMySQL向けのパッチをBSDライセンスで提供していた。このパッチはオリジナルのMySQLに由来しないコードのため、GPLで保護されたMySQLの「集積物とは別の部分」となる。BSDライセンスは独占的なライセンスであろうとも両立するので、結果的にこのパッチは、MySQLをGPLで利用するライセンシーと共に商用ライセンスで利用する者も適用可能である。また同時にそのパッチからサブルーチンのみを取り出し、BSDライセンスされたソフトウェアにも同様のルーチンを導入する事も可能となる。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "GPLなソフトウェアと別のプログラムが単に結合している場合は、本来、全てのソフトウェアをGPLにすることも要求されない、そしてGPLなソフトウェアを非GPLソフトウェアとともに頒布することも要求されない。しかし、稀な条件において、GPLの権利を保証することを妨げる障害が取り除かれるであろう。次の文は、GNU.org ウェブサイトに存在するGPL FAQからの引用である。これは、ソフトウェアが、バンドルされたGPLプログラムと結合を許される範囲がどこまでかを記述している。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "'What is the difference between an “aggregate” and other kinds of “modified versions”?", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "An “aggregate” consists of a number of separate programs, distributed together on the same CD-ROM or other media. The GPL permits you to create and distribute an aggregate, even when the licenses of the other software are non-free or GPL-incompatible. The only condition is that you cannot release the aggregate under a license that prohibits users from exercising rights that each program's individual license would grant them.", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "Where's the line between two separate programs, and one program with two parts? This is a legal question, which ultimately judges will decide. We believe that a proper criterion depends both on the mechanism of communication (exec, pipes, rpc, function calls within a shared address space, etc.) and the semantics of the communication (what kinds of information are interchanged).", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "If the modules are included in the same executable file, they are definitely combined in one program. If modules are designed to run linked together in a shared address space, that almost surely means combining them into one program.", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "By contrast, pipes, sockets and command-line arguments are communication mechanisms normally used between two separate programs. So when they are used for communication, the modules normally are separate programs. But if the semantics of the communication are intimate enough, exchanging complex internal data structures, that too could be a basis to consider the two parts as combined into a larger program.", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "このように、FSFは「ライブラリ」と「その他のプログラム」とを、次の2つの観点双方を用いて線引きしている。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "しかし、FSFは、この問題は明確な結論はなく、複雑さの条件について判例 (\"case law\") により決められる必要があるだろう、と譲歩している。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "GPL FAQでは「結合メカニズム」(「コミュニケーションのメカニズム」)の例として、プロセス間通信、遠隔手続き呼出し (RPC)、カーネル空間・ユーザー空間の通信やシステムコール、パイプ、execによるプロセス起動などを挙げている。これら「結合メカニズム」を用いてGPLなソフトウェアと接続する場合は、個別のプログラムであるため結合ではないとも見なせるが、そのやり取りするデータの如何によって接続先が二次的著作物であると見なされる余地も残されている(「コミュニケーションのセマンティクス」)。これに対する明確な法廷判断はまだない。", "title": "コピーレフト" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "GPLの条文自体はGFDLやGPLの下に自由に配布されているわけではなく、ライセンス著作者は条文の改変 (modifications) を許可していない(GPLの条文自体の著作権はフリーソフトウェア財団が持つ)。GPLはプログラムの受領者に(本ライセンスの直接の対象となる)本プログラムと共に本ライセンスの複製を (a copy of this License along with the Program) 得る権利を与えているため、未改変のライセンスの複製と頒布 (distribution; 配布) は許されている。GPL FAQによると、仮に改変する場合は、別の名前とし、「GNU」について言及せず、フリーソフトウェア財団から許諾を得ている場合を除いて改変版ライセンスからGPLの前文 (Preamble) を削除した場合に限り、GPLの改変版を利用して新たなライセンスを作成しても良い。そのようにして作成された派生ライセンスに対し、FSFは一切の法的異議申し立てを行うことはないが、そういったライセンスは一般にGPLと両立しない (互換性が無い、incompatible) ので、FSFは推奨していない 。", "title": "ライセンス条文の著作権者" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "前述のとおり、GPLの条文自体は著作権で管理されており、その保持者はFSFである。しかしながら、FSFはGPLのもとリリースされた著作物の著作権は保持しない。これも前述したが、例外は、著作権者が明示的にFSFに著作権を譲渡した場合である。ただし、そのような事例はGNUプロジェクトに属するプログラムや寄贈されたプログラムを除いてあまりない。ライセンス違反が発生した場合、個々の著作権者のみが、訴訟を起こす権限を持つ。", "title": "ライセンス条文の著作権者" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "FSFは、FSFの許可なくGPLの前文 (Preamble) を含めた、派生ライセンスを使用しない限り、GPLに基づいた新しいライセンスを作成することを許可する。しかしながら、このようなライセンスはGPLと両立しない (incompatible) 場合があるので、作成しないほうがよい。またそれは、明らかにライセンスの氾濫を生じさせる。翻訳も翻案権の行使であるため、ライセンスの翻訳は原則認められないが、その翻訳が非公式であることを明記し、FSFの求めに応じて翻訳をアップデートできるならば翻訳を許可される。", "title": "ライセンス条文の著作権者" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "その他、GNUプロジェクトにより作成されたライセンスには、GNU Lesser General Public License、GNU Free Documentation Licenseが含まれる。", "title": "ライセンス条文の著作権者" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "あるオープンソースソフトウェアでライセンス上考慮すべき点があるなどして、またはもっと極端な例では、GPLの思想的な面に反発があるなどして、GPLと両立性を欠くようなライセンスを著作物に敢えて採用するケースがあるかもしれない。しかし、GPLを採用するフリーソフトウェア、オープンソースソフトウェアが多数存在するため(セクション\"採用実績\"を参照)、現実問題としてそのような行為はコードの再利用性を著しく欠く結果につながる(記事\"ライセンスの氾濫\"を参照)。このため、自身の採用するライセンスをGPLと非互換にしないよう、GPLとのライセンス両立性を考慮することは重要である。", "title": "両立性とマルチライセンス" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "著作物全体として影響を受けるライセンスの持つ制限の組み合わせにより、GPLが許諾する事項を越えるいかなる追加的制限が課されない限り、他のライセンスで許諾されたコードは、GPLで許諾されたプログラムと衝突することなく組み合わせることも可能である。また二次的著作物の観点として、互換性のあるフリーソフトウェアライセンス/オープンソースソフトウェアライセンスで許諾されるコードを組み合わせる場合は、原則コードの組み合わせ全体に、そのコピーレフト性が最も強くなるライセンスの影響を受ける。GPLの正規の条項に加えて、追加的な制限や許諾を適用することができる組み合わせは以下の通りである。", "title": "両立性とマルチライセンス" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "上述1.について、よくある表明文の例は、\"either version 2 of the License, or (at your option) any later version\" (「本ライセンスのバージョン2、または(あなたの選択で)任意の以後のバージョン」) である。これと対照的な例はLinuxカーネルや、バージョン1.9.2までのプログラミング言語Rubyの処理系(インタプリタ)である。これらは\"any later version\" statementなしのGPLv2単独でライセンスもしくはGPLv2を内部的に参照する形式を採るRubyライセンスである(後者はデュアルライセンスに類似する)。従ってGPLv3のコードを組み合わせることはできないので注意を要する。しかし、Rubyの処理系はデュアルライセンスのGPLを、バージョン1.9.3より、GPLよりパーミッシブ・ライセンスである2条項BSDライセンスに変更したため、以後のバージョンのRubyの処理系ではGPLv3で保護されるプログラムを組み合わせることも可能である。このような許諾変更が許されるのは、デュアルライセンスの片方であるRubyライセンスには著作権者(Rubyの処理系の場合はまつもと)に許諾変更を一任する条項(2.(d))が存在する為である。一般的に、ソフトウェアのライセンスを非互換なライセンスに変更する場合は、コードの全著作権者からライセンス変更の同意を取り付けなければならない。LinuxカーネルのライセンスはGPLv2単独であり、Ruby処理系のような特殊な規定を持っているわけではないので、仮に変更する場合はそうせざるを得ない。GNUプロジェクトはこのような事態に陥ることを回避するため、前述の通り著作権者からコードの著作権をFSFに譲渡するよう勧め、またソフトウェアのライセンスほぼ全てに\"any later version\"表明文を付したGPLを適用している。", "title": "両立性とマルチライセンス" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "FSFは、GPLと両立するフリーソフトウェアライセンスのリストを維持管理している。そのようなライセンスは、もっとも広く利用されている、オリジナルのMIT/X license、(現行の3条項形式の)BSDライセンスそしてArtistic License 2.0などを対象としている。", "title": "両立性とマルチライセンス" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "デイヴィッド・A・ウィーラー(英語版)は、GPLと非互換なライセンスを利用すると、他者のフリーソフトウェア/オープンソースソフトウェアプロジェクトへの参加や、コードの貢献を困難にするため、フリー/オープンソース開発者はGPL互換なライセンスのみ採用するよう強く主張し続けている。", "title": "両立性とマルチライセンス" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "特筆すべきライセンス非互換の例として、旧サン・マイクロシステムズのZFSが、GPLでライセンスされたLinuxカーネルに組み込めないというものが挙げられる。なぜなら、ZFSはGPL非互換なライセンス、CDDLで許諾されているからである。これに加え、ZFSは特許で保護されており、ZFSの機能を持つソフトウェアをサンとは独立にGPLのもと実装し頒布しようとしたとしても、それでもなおサン(現在はオラクル)の許諾が必要となると予想される。", "title": "両立性とマルチライセンス" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "他の一部のフリーソフトウェア・プログラムは、複数のライセンスによりデュアルライセンスされているものがある。その中にはライセンスの一つにGPLが選択されていることもよくあり、「デュアルライセンスはもっと広まる」と独立ソフトウェア・コンサルタントのテッド・ロシュ (Ted Roche) は指摘している。この方法だと、GPLを適用しないまま二次的著作物を頒布することを認めることができる。これは、二次的著作物に有償の商用ライセンスを適用することも可能にする。MySQLなどはまさにこの例に当てはまる特筆すべき例である。", "title": "両立性とマルチライセンス" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "一般的にプロプライエタリソフトウェアはGPLソフトウェアと組み合わせることはできない。しかしこのような場合でも、マルチライセンスを利用することでGPLソフトウェアを組み合わせることも可能となる。", "title": "両立性とマルチライセンス" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "GPLのもとで頒布するとともに、静的リンクなどを使用する場合やそうではなく動的リンクを使用する場合においても、パッケージにプロプライエタリなコードを組み合わせたいと望む企業のため、二次的著作物を独占的な条件・ライセンスで頒布・販売可能にする商用ライセンスを同時に提供するマルチライセンシング・ビジネスモデルが多く存在する。このようなビジネスモデルを採用する企業と採用したソフトウェアには、Oracle社(MySQL AB社のMySQL)、Digia(英語版)社(旧Trolltech社のQtフレームワーク )、Namesys(英語版)社 (ReiserFS)、Red Hat社 (Cygwin)、Riverbank Computing社 (PyQt) などがある。 その他、Mozilla Application Suite、Mozilla ThunderbirdそしてMozilla Firefoxを製品に持つMozilla Foundation (Mozilla Corporation) のような企業はGPLだけではなく同時に他のオープンソースライセンスでも頒布可能なようにマルチライセンスを採用するケースがある。", "title": "両立性とマルチライセンス" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "GPLv3はGPLv2と比べ、条文の大幅な変更にも関わらず、内容自体には大きな変更はないとも言える。しかし全く無いわけではなく、とりわけGPLv3の特許関連条項と、(反DRM条項改め)反TiVo化条項などは、GPLv2の第6節にある「(GPLv2で認められた) これ以上他のいかなる制限」(further restriction、同様の条項がGPLv3の第10項のさらなる権利制限) に相当するため、原則GPLv3はGPLv2と両立しない。ただし、GPLv2で保護される著作物が“version 2 or later,”でリリースされていれば両立する。", "title": "両立性とマルチライセンス" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "GPLはフリーあるいはオープンソースソフトウェア用のライセンスとして圧倒的な人気がある。 きわめて大きいソフトウェア・アーカイブをもつMetalab(英語版)の1997年の調査では、約半数をGPLのソフトウェアが占めていた。 2001年の調査では、Red Hat Linux 7.1 に使われているソースコードの 50%がGPLでライセンスされている。 2006年1月の時点で、SourceForge.netにホスティングされているプロジェクトの約68%が、2007年8月の時点で、Freshmeatに掲載されている43,442のフリーソフトウェア・プロジェクトのうち65%近くが保護されるライセンスとしてGPLを使用している(両サイトを運営しているのはLinuxとGPLに造詣の深い企業Geeknet社である)。", "title": "採用実績" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "Black Duck Software社により管理される\"Open Source License Resource Center\"によると、フリーソフトウェア/オープンソースライセンスでリリースされたソフトウェアパッケージ全体の約60%がGPLをライセンスに採用していると示されている。", "title": "採用実績" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "コンピュータ・プログラムの代わりにテキスト文書、またはより一般的にはあらゆる種類のメディア全てにGPLを採用することは可能である。ただしその条件は、それらメディアが「ソースコード」(その定義としては、「それ自身を変更することを可能にさせる著作物の好ましい形態」)を構成できるか明らかである必要がある。マニュアルや教科書は、FSF自身はGNU Free Documentation License (GFDL)の利用を代わりに薦めるが、この目的において前述の要件を形成できる媒体である。しかしながら、FSFの勧告にも関わらず、Debian開発者らは(2006年に採択された決議に基づき)、彼らのプロジェクトにおける文書をGPLのもとライセンスする勧告を出した。なぜなら、プログラム・メディア双方の著作物における「ソースコード」という概念に対し、GFDLにはGPLの条項と非互換な取り扱いが存在するからである。すなわちGFDLのもとライセンスされたテキストはGPLで保護されるソフトウェアに組み込めないというのである。詳細については、記事\"Debianフリーソフトウェアガイドライン#GFDL\"を参照せよ。また、フリーソフトウェア用のマニュアルなどの作成に貢献している組織、FLOSS Manuals(英語版) Foundationは、2007年に、本組織のテキストにGFDLの採用を忌避しGPLの採用を決定した。", "title": "採用実績" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "仮にGPLがフォントのライセンスに採用された場合、このようなフォントにより形成されるあらゆる文書、画像、PDFは、これまたGPLの条項に従って配布する必要があるかもしれない。このケースは、著作権法がフォントの書体 (appearance of fonts, typeface) には及ばない国々(アメリカ合衆国とカナダのような国)では問題とならない。日本の場合も同じく、フォントの書体は意匠権を持ち、意匠法により管掌されると同時に、独創性と美的特性のない書体に著作権はないとの考えは現状一般的である。しかし、フォントヒンティング・テクノロジーなどのフォントファイル内に存在するプログラムコードは(それが「プログラム」であるから、)猶も著作権法で保護され得るとの主張もある(詳細は記事\"知的財産権#その他の権利\" \"タイプフェース\"を参照)。また、セクション\"リンクと派生物\"で述べたことと同様に、フォント埋め込みは文書がフォントと「リンク」していると見なされるので、事態をより複雑にさせる。FSFはこの想定外の事態に対し、GPLでフォントをライセンスする際には著作権者は「例外条項」を設けるべきと勧告している。", "title": "採用実績" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "GPLは契約ではなくライセンスとして設計されている。コモン・ローの法的な権限の及ぶ範囲において、契約は契約法により支配されるが、他方ライセンスは著作権法のもと行使されるため、ライセンスと契約の法的な区別はいくらか重要である。しかしながら、大陸法のような契約とライセンスの相違点がない多くの法体系ではこの区別は意味を成さない。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "また、GPLなソフトウェアを受け取ったライセンシーはどの国の著作権法に従うかであるが、これは著作権やライセンスの一般論として定められており、すなわち著作権の準拠法は著作物の利用のあった国の法体系である(これを属地主義という)。よってGPLなソフトウェアを受け取ったライセンシーはその居住する国の著作権法のもと当該ソフトウェアを利用することとなる。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "GPLの条項や条件に同意しない(\"do not agree to\")、またはそれらを受け入れない(\"do no accept\")人々は、著作権法のもと、GPLでライセンスされたソフトウェアまたはその二次的著作物 (派生物) を複製または頒布する許諾を得ることはない(GPLv2第5節、GPLv3第9項)。しかしながら、もし彼らがGPLで保護されたプログラムを再頒布しないならば、彼らは猶も彼らの組織内でそのソフトウェアを好きなように使用しても構わない。そして、プログラムの利用により作成された著作物(生成されたプログラムもこの中に当てはまる)はこのライセンスの影響範囲に含めることを要求されない。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "アリソン・ランダルは、ライセンスとしてのGPLv3はその支持者を不必要に混乱させており、同一の条件や法的効力を維持しつつ、簡略化すべきだと主張した。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "日本の独立行政法人、情報処理推進機構がSoftware Freedom Law Centerの協力の下作成した「GNU GPLv3 逐条解説書」によると、GPLが契約かライセンスかの論争は、GPLがエンフォーシブル(enforceable)か否かという問題と同値であると結論付けられている。すなわち、ライセンス違反が発生し、解決が法廷に持ち込まれた場合、GPLソフトウェアの作者に認められる要求が著作権侵害による違反者の頒布差止請求や損害賠償請求に留まるのか、はたまた、ライセンスをエンフォース(強制)し、ソースコードの開示にまで持っていけるのか、といった議論は、GPLが契約か否かという問題に帰着する。大陸法ではGPLを契約と見なせるので(とりわけGPLv2の第2節、GPLv3の第9項は申込と承諾の意思表示であると解釈できる)、仮に法廷に持ち込まれた場合、大陸法の法体系では、差止請求だけに留まらずソースコードの開示まで請求できるとの解釈が述べられている。ただし実際にそのような法的な判断、すなわち判決を下すのは裁判所と裁判官であり、状況によってはGPLが対象とする法的範囲が著作権法よりもさらに小さなものだと見なされ、ライセンサーの権利不行使を宣言するものである、民法の権利濫用の禁止や禁反言を始めとする信義則を述べているだけにすぎないという判決が下される可能性すらもある。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "また、契約をもってライセンスを制限することも理論上は可能であるため、GPLでの再頒布時の権限を契約を持って押さえ込むことも可能である。ただしそれが有効と認めた判例は未だもってない。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "2002年、MySQL ABは著作権侵害ならびに商標権侵害でProgress NuSphere社をアメリカ合衆国マサチューセッツ連邦地方裁判所(英語版)に提訴した。伝えられる所では、NuSphereは、MySQLのGPLで保護されるコードを自社のGeminiテーブル型モジュールに静的リンクしたが、GPLの条項に従わず、Geminiのソースコードを一切公開しなかった。このためMySQLの著作権を侵害していたとされる。2002年2月27日、パティ・サリス(英語版)判事の予備審問ののち、当事者らは和解協議に入り、最終的に事実上合意に至った。審問終了後、FSFは「サリス判事は、GNU GPLが強制力と束縛力を持つライセンスであることが分かったことを表明した」とのコメントを発表した。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "2003年8月、SCOグループは、「GPLに法的な有効性などない」と本気で考え、彼らはSCO UnixからLinuxカーネルへと不正に複製されたと疑わしいソースコードの断片を法廷で取り上げるつもりだと主張した。彼らは、当時GNU/Linuxディストリビューションを頒布しており、またそのディストリビューション、Caldera OpenLinuxディストリビューションに含まれていたその他GPLで保護されたコードも頒布していたため、これは問題のある行動であり、しかも、GPLの条項に従うことを除いてそのような問題行動をとる法的な権利などほとんど有って無いに等しかった。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "ドイツのネットワーク機器メーカーSitecomは、GPLの条項に違反して、netfilter/iptables(英語版)プロジェクトのGPLで保護されたソフトウェアを頒布していたが、彼らは頒布停止を拒絶した。この後、事態は法廷に持ち込まれ、2004年4月、ミュンヘン地方裁判所はnetfilter/iptablesプロジェクトの訴えに対し、Sitecomドイツ法人の製品に対する予備的差止命令(英語版)(仮処分差止命令)を認める決定を下した。2004年7月、ドイツの法廷は、この差止命令がSitecomへの判決になると確定し、結審した。法廷で認められたのは次の内容である。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "参考訳:", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "netfilter/iptablesの開発者でその著作権を持つもののひとりでもある、ハラルト・ヴェルテは、ドイツにあるFLOSS関連の法的係争を扱う組織、ifrOSS(英語版)の共同設立者、ティル・イェーガー(Till Jaeger)に自身の法的代理人を要請した。この判決文は当時FSFの顧問だったエベン・モグレンが以前予想した通りの内容を反映していた。これは、GPLの条項違反が著作権侵害に与える影響を法廷が初めて認めた重要な判決だった。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "2005年5月、ダニエル・ウォレス (Daniel Wallace) は「GPLは価格を零にしようとする違法な企て、すなわち価格固定(英語版)やダンピングである」と主張し、FSFをアメリカ合衆国インディアナ南部連邦地方裁判所(英語版)に提訴した。2006年3月、ウォレスはGPLが反トラスト法に違反する行為を促すとの正当な主張を法廷で証明することができなかったため、原告申立ては棄却された。「GPLは、自由競争、コンピュータ・オペレーティングシステム・ソフトウェアの頒布、消費者が直接得られる利点を阻害するというより、むしろ促進している」と、法廷は言い渡した。その後、ウォレスは、不服申立の控訴状も却下され、FSFへの訴訟費用の支払いを命じられた。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "2005年9月8日、ソウル中央地方法院 (서울중앙지방법원, Seoul Central District Court, ソウル中央地方裁判所) は、GPLでライセンスされた著作物から派生した二次的著作物を企業秘密とする契約事項に対し、GPLは本件と関連なしとの判決を下した。判決主文の英文抄訳より事件のあらましを述べると、係争にあがった著作物は、GPLv2で保護されたソフトウェアVTun(英語版)である。被告の一人はVTunをベースとした二次的著作物であるソフトウェアを、原告である企業に雇用されている間作成した。彼が原告企業を退社後、そのソフトウェアのソースコードを個人的に複製しており、そのバグ修正を行ったうえ、そのソフトウェアを利用した商用サービスをもう一人の被告と立ち上げた。これに対し、原告はそのサービスが自社の企業秘密の漏洩であると主張した。 被告らは、GPLを遵守して著作物を頒布する限りは、企業秘密を維持することなど不可能であるので、守秘義務違反ではないと主張した。ソウル地裁はこの主張の法的根拠を認めず、「ライセンス如何にかかわらず、企業秘密の漏洩により公平な競争者に対抗し不公平な利益を得ることを守秘義務で縛ることは妥当である。また企業秘密は特許とは別であり、技術的である必要は無い(1998年大韓民国大法院判決による)。」と述べた。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "2006年9月6日、gpl-violations.orgプロジェクトは、D-Link Germany GmbH(Dリンクのドイツ法人)を提訴し、これに勝訴した。原告は、被告が販売する(即ちこれ自体「対価を取って頒布する」ことであり、なんら問題ない)NAS機器に、Linuxカーネルの一部を利用していたが、GPLに違反した使用であり、著作権侵害である、と主張した。この判決により、GPLの有効性、法的拘束力がドイツの法廷で支持されたという判例が与えられたことになった。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "2007年後半より、BusyBoxの開発者ならびにSoftware Freedom Law Center(SFLC)は、組み込みシステムに利用するBusyBoxの頒布者からGPLを遵守する旨の言質を得ることや、GPLを遵守しないものを提訴する計画に乗り出した。これら一連の訴訟は、アメリカ合衆国において、GPLの責務に対する強制力を法廷で争った初の機会であると述べられている。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "2008年12月11日、FSFはシスコシステムズを提訴した。被告はそのLinksys部門にて、原告のFSFがGPLでライセンスした著作物である、", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "ソフトウェアパッケージを、Linksysの次に述べる製品のファームウェアにGNU/Linuxの形で組み込んで、対価を取って頒布、すなわち販売していたが、GPLの条項に違反していたためFSFの著作権を侵害している、と原告のFSFは主張した。該当する製品は、Linksysの有名な無線LANルーターWRT54Gやその他DSLモデム、ケーブルモデム、NAS機器、VoIPゲートウェイ、VPN機器そしてホームシアター、メディアプレーヤー機器などその他多くの機器にも及ぶ。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "FSFがシスコを提訴するまでの6年間、FSFはシスコに何度も申立を行ったが、シスコは、「われわれは、(GPLで保護されたプログラムの全てのソースコードならびにその改変箇所を含む完全な複製を提供しなかったというGPLの)条項違反についての問題を修正する予定もしくは修正中である」と主張した。しかし、FSFはその後もより多くの製品から新たな違反が発覚したとの報告を受け、Linksysと多くの会談をとり行うこととなった。しかし、結局実りは少なかった。FSFのブログでは、この過程を「5年間にも及ぶモグラ叩きゲーム」(\"five-years-running game of Whack-a-Mole\") と評している。この6年間の過程を経て、FSFは遂に本件を法廷に持ち込むことを決意した。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "その後シスコは本訴訟の和解のテーブルに着き、6ヵ月後、", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "以上の和解内容に合意した。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "2001年、マイクロソフトのCEO、スティーブ・バルマーは、Linuxを「知的財産権の意味において、触れるもの全てにくっつく癌である」と呼んだ。マイクロソフトがGPLを嫌う理由は「取り込み、拡張して、抹殺する」という独占的ベンダーの試みにGPLが抵抗するためであるとマイクロソフトの批判者らは主張する。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "マイクロソフトは、以前、GPLでライセンスされたコードを含む製品である、Microsoft Windows Services for UNIXを販売(のちWindowsのEULAに従う者には無償ダウンロード可に)していたこともある。マイクロソフトのGPLに対する攻撃に対抗するため、幾人かの著名なフリーソフトウェア開発者とフリーソフトウェアの代弁者たちはライセンスを支持する旨の共同声明を発表した。しかしながら、この声明から7年以上たった、2009年7月、マイクロソフト自身が、GPLのもと本体が約20,000行程度となるLinuxカーネルのドライバコードをリリースした。ただし、提供されたコードの一部に相当するLinux用のHyper-Vドライバコードが、GPLのもとライセンスされているオープンソース・コンポーネントを利用しており、当初プロプライエタリなバイナリ部分と静的リンクしていた。後者はGPLソフトウェアに対するライセンス違反である。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "また、これ以外にも、同社が提供するソフトウェアに意図せずGPLで保護されたコードが混入するケースもあった。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "マイクロソフトのシニア・バイス・プレジデント、クレイグ・マンディは、GPLはプログラム全体を譲渡することしか許諾せず、これは、プログラマに、GPLと両立しないライセンスのライブラリとリンクするプログラムを譲渡することを許諾しないことを意味する故、GPLは「ウイルス的(viral)である」と評した。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "このいわゆる「ウイルス的」効果とは、組み合わせることを考えているソフトウェアの、複数のライセンスのうち一つが変更されないならば、そのような状況下で、異なる別のライセンスで許諾されるソフトウェアと組み合わせることができないことを指す。ライセンスのいずれか一つは理論上変更することはできるけれども、「ウイルス的」なる考えの筋書きによれば、GPLは事実上撤回することはできない(なぜなら、GPLソフトウェアには通常極めて多くの貢献者(contributors)の存在があるが、彼らの幾人かはこの決定をおそらく拒絶するだろう)。他方、他のソフトウェアのライセンスは実際には可能なのである。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "リチャード・ストールマンの見解によると、「ウイルス」というメタファーは誤りであり、また不親切な物言いである。GPLのもとリリースされるソフトウェアは、他のソフトウェアを、決して「攻撃」したり「感染」などしない。むしろ、GPLで保護されるソフトウェアは、オリヅルランのようなものである、と述べている。だれかが、GPLで保護されたソフトウェアのコード断片を持ち帰り、どこかよそへそれを組み込んだならば、GPLで保護されるソフトウェアもまた、そのどこかで成長するのである。このようにGPLのような二次的著作物にも適用を強制するという強い制約を持つライセンスは、独占的なソフトウェアを開発する企業や、他のライセンスを支持するソフトウェア開発者から批判されることがある。コピーレフトの考え方を支持する人々は、これは自由を守るために必要なことだと主張する。一方、二次的著作物への制限が少ないBSDスタイル・ライセンスを支持する人々はまた別の考え方を持っている。GPLの支持者が「フリーソフトウェアの自由が二次的著作物でも保護されることを、フリーソフトウェア自身が保証すべき」と確信する一方、そうでない人々は「フリーソフトウェアはその再頒布にあたって利用者に最大限の自由を与えるべきだ」と主張する。後者の考え方は、例えばBSDライセンスのように敢えて「ソフトウェアの自由を捨て去る」ことも可能という、ソフトウェア利用者の自由意志、選択の自由を述べている。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "態度を鮮明にしている幾人かの有名なLinuxカーネル開発者は、マスメディアに対しコメントを出し、GPLv3の議論用の初稿ならびに第2稿の一部に反対する旨の声名を発表した。リーナス・トーバルズは、GPLv3の反DRM条項により、GPLv3でライセンスされたソフトウェアがDRMを利用したコンピュータ・セキュリティのメカニズムを享受できなくなるとして、LinuxカーネルのGPLv3への移行には明確に反対している。リチャード・ストールマンは、2007年初めにもこの動きは収束すると期待していた。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "第3稿に関しては、(反TiVo化条項がいくらか緩められたため)トーバルズは「満足している」と語っていたが、最終稿が提出された後のコメントでは、GPLv3はGPLv2と比べ(両者のデュアルライセンスが可能か考慮に入れた上、コードの全著作者からライセンス移行の合意を得るという途方も無い手間を掛けたとしても)移行するメリットはないとトーバルズは述べた。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "おおむね、これらの議論は本質的には全く同じ視点に立ってはいるが、主にソフトウェアのコードの自由を重視するオープンソース陣営と、それのみではなくソフトウェアを利用するユーザーの自由の最大化を目的とするフリーソフトウェア陣営の考え方の違いが浮き彫りになったに過ぎない。ソフトウェアの自由な利用のためには、GPLv3にはソフトウェアの範疇に留まらず、広く働きかけることを厭わ(いとわ)ないとする後者の考え方が色濃く出ている。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "FreeBSDプロジェクトは、「GPLソフトウェアを公開しない、そして誤ってGPLソフトウェアを利用してしまったケースなどにより、これらの行為がソフトウェア企業の価値を下げたいと考えている巨大企業の格好の餌食になっている。言い換えれば、GPLは、潜在的に経済的利益の全体を低下させ、また寡占的行為を助長するゆえ、マーケティングの武器として利用されるのに、とてもふさわしい。」と主張し、GPLは「ソフトウェアの商用化やその利益を生み出そうと考えている人々にとって現実の問題として本当に邪魔になっている」と主張している。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "FreeBSDの開発者で、Beerware(英語版)ライセンスの著作者でもある、ポール=ヘニング・カンプ(英語版)は、\"GNUライセンス\"を「ジョーク」であると見なしている。その理由は彼が気付く限りこのライセンスには曖昧な記述が存在するからだと述べている。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "セクション\"リンクと派生物\"の通り、GPLで保護されたコードに由来する二次的著作物はGPLでなければならない、と明白に要求されているが、GPLのライブラリに動的にリンクしたプログラムが、二次的著作物と見なせるかどうかは、議論が分かれている。これに対しFSFとその他の人々の見解が異なることが新たな論争の種となっている。この点に関し、著作権法が二次的著作物をどう定義するかが問題になると述べたが、著作権の支分権の具体的内容についての問題が提起されている。アメリカ合衆国著作権法を収録した合衆国法典第17編の第101条 (各種用語の定義) によれば、著作物の改変・翻案を例にあげたうえで「既存の著作物を基礎とする」ことが二次的著作物の要素となっているため、動的リンクの場合でも既存の著作物を基礎としているのかが問題となり得る。これに対し、日本国著作権法第二条によれば、二次的著作物は原著作物の「翻案」を要素としているため、GPLのライブラリとGPLでないプログラムが動的にリンクするプログラムを作って頒布したところで、二次的著作物を作成したことにはならず、プログラムを実行したときに必然的に生じるメモリへの複製の段階で初めて問題になるに過ぎない。しかし、日本国著作権法ではプログラムを実行することそれ自体(これを使用権という)は著作権の支分権としては認められていない。 ちなみにGPLv3では\"derivative work\"という語が姿を消し、代わりに「改変されたバージョン」や「元プログラムに基づく作品」となっている。これらは「二次的著作物」を指している。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "また、アメリカ合衆国著作権法においても、日本国著作権法においても、原著作物の著作権者は、二次的著作物に対して著作権行使をすることができるのは当然の前提なのだが、ソフトウェアが著作権の対象となるように法制度が確立する前は、改変したプログラムに対する権利範囲等が不明確であったこともあり、法の建前を前提として議論がされていない側面がある。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "いずれにせよ、当該著作物が二次的著作物であるかの判断は、ライセンス如何の問題ではなく、最終的には法廷が個々の著作物毎に判断することとなる。しかし、現時点では明確な線引きを行った著作権法上の条文や判例は存在せず、その他法源となるものもない。ガルーブ対任天堂(英語版)訴訟においても二次的著作物の範囲が明確に定められなかったのは前述の通りである。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "GPLが持つ制約とは全く別の問題として、一部の批判者らは、GPL前文のイデオロギー的な響きが嫌だとか、ライセンスが長過ぎて分かりにくいと愚痴をこぼす。この「落とし所」には、ソースやバイナリの複製 (reproduction) を認めないが、個人や会社での使用で修正の自由を認めるようなライセンス群を含むことがある。こういった変種の一つには、 Open Public License (OPL)がある。これら批判の原因は、GPLの条文が一見理解しにくいがために起こる誤解によるところもある。しかし、このGPLの手の込んだ条項は一見理解に困難を伴うが、これによりコピーレフトが創出され、著作権法の枠組みを徹底してハックしている点も忘れてはならない。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "GPLの条文そのものや、その要求、許可する事項(義務、権利)については、GPLに賛同している者ですらも誤解していることがあり、そのことがGPLの議論に関し混乱を招く原因のひとつともなっている。既に解説済みの項目も多いが、改めて述べる。", "title": "よくある誤解" } ]
GNU General Public License とは、GNUプロジェクトのためにリチャード・ストールマンにより作成されたフリーソフトウェアライセンスである。八田真行の日本語訳ではGNU 一般公衆利用許諾書と呼んでいる。現在、GNU公式サイト日本語ページでは GNU一般公衆ライセンスと表記されている。
{{redirect|GPL}} {{複数の問題 |独自研究=2012-1 |内容過剰=2012-1 }} {{Infobox software license | name = GNU General Public License | image = [[ファイル:GPLv3_Logo.svg|250px]] | caption = GNU GPLv3のロゴ | author = [[フリーソフトウェア財団]] | version = 3 | publisher = [[フリーソフトウェア財団]] | date = {{Start date and age|2007|06|29}}<ref name="gplv3" /> | OSI approved = Yes<ref name="osilicenselist"> {{cite web | url = http://www.opensource.org/licenses/alphabetical/ | title = Licenses by Name | Open Source Initiative | publisher = [[Open Source Initiative]] | accessdate = 2011-03-01 }}</ref> | Debian approved = Yes<ref name="debianlicenses"> {{cite web | url = http://www.debian.org/legal/licenses/ | title = Debian – License information | publisher = [[Debian]] | accessdate = 2011-03-01 }}</ref> | FSF approved = Yes<ref name="fsflicenselist"> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/license-list.html#GPLCompatibleLicenses | title = Licenses | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-01 }}</ref> | copyleft = Yes<ref name="fsflicenselist" /><ref name="fsfcopyleft"> {{cite web | url = http://www.gnu.org/philosophy/pragmatic.html | title = Copyleft: Pragmatic Idealism | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-01 }}</ref> <!--| GPL compatible = Yes--> | linking = No<ref group="注釈">但し、GNU AGPLv3ソフトウェアをGNU GPLv3ソフトウェアとリンクすることは可能。詳しくは、セクション"[[#両立性とマルチライセンス|両立性とマルチライセンス]]"を参照せよ。</ref> | website = {{URL|https://www.gnu.org/licenses/gpl.html|GNU一般公衆ライセンス}} }} '''GNU一般公衆ライセンス'''({{lang|en|'''GNU General Public License'''}}、'''GNU GPL'''または、単に'''GPL''') とは、[[GNUプロジェクト]]のために[[リチャード・ストールマン]]により作成された[[フリーソフトウェアライセンス]]である。[[八田真行]]の[[日本語]]訳では'''GNU 一般公衆利用許諾書'''と呼んでいる<ref> {{Cite web|和書 | url = https://osdn.net/projects/opensource/wiki/licenses%2FGNU_General_Public_License_version_3.0 | title = GNU 一般公衆利用許諾書 | author = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]]、[[八田真行]] | date = 2008-04-11 | publisher = [[SourceForge.JP]] | accessdate = 2011-03-28 }}</ref>。現在、GNU公式サイト日本語ページではGNU一般公衆ライセンスと表記されている<ref>{{Cite web|和書|title=GNU一般公衆ライセンス v3.0 - GNUプロジェクト - フリーソフトウェアファウンデーション |url=https://www.gnu.org/licenses/gpl-3.0.ja.html |website=www.gnu.org |access-date=2022-08-19}}</ref>。 == 概要 == GPLは、プログラム(日本国著作権法では[[著作物#著作物の例示|プログラムの著作物]])の複製物を所持している者に対し、概ね以下のことを許諾するライセンスである。 # プログラムの実行<ref group="注釈"> プログラムの実行は[[Random Access Memory|RAM]]に対するプログラムの複製を伴うことから、複製権との関係が問題にならないわけではないが、著作物の複製物を適法に入手した場合、日本国著作権法下では当該複製物を使用すること自体に許諾を得る必要はないので([[著作権#支分権|支分権]]に使用権がない)、入手手段に問題がない限りライセンスに著作権者が課す制約としての意味はない。 </ref> # プログラムの動作を調べ、それを改変すること(ソースコードへのアクセスは、その前提になる) # 複製物の再頒布 # プログラムを改良し、改良を公衆にリリースする権利(ソースコードへのアクセスは、その前提になる) GPLは[[二次的著作物]]についても上記4点の権利を保護しようとする。この仕組みは[[コピーレフト]]と呼ばれ、GPLでライセンスされた著作物は、その二次的著作物に関してもGPLでライセンスされなければならない。これは[[BSDライセンス]]をはじめとする[[パーミッシブ・ライセンス]]が、二次的著作物を独占的なものとして再頒布することを許しているのとは対照的である。GPLはコピーレフトの[[ソフトウェアライセンス]]としては初めてのものであり、そのもっとも代表的なものである<ref name="widelyused" />。 GPLは[[フリーソフトウェア財団]] (以下FSFと略称) によって公開され、その管理が行われている。GPLでライセンスされている傑出したフリーソフトウェアのプログラムには、[[Linuxカーネル]]や[[GNUコンパイラコレクション]] (GCC) がある。 FSFが公開、管理する他のライセンスには、[[GNU Lesser General Public License]] (GNU LGPL)、[[GNU Free Documentation License]] (GNU FDL、またはGFDL) そして[[GNU Affero General Public License]]バージョン3 (GNU AGPLv3) がある。 == 意義 == ストールマンは、ソフトウェアに対する[[自由]]とは何かという問題を提起し、そのひとつの答えを提示した。GPLは、「自由なソフトウェア」を、有償・無償に関係なく、頒布できるようにした、という単純な意味だけでなく、「ソフトウェアは自由であるべき」という思想が存在することを一般に認知させたという意味において極めて重要な意義がある。 GPLにより付与される強力な[[コピーレフト]]は[[GNU/Linux]]の成功にとって重要な役割を果たしているとも言われる。なぜなら、[[コミュニティ]]に全く還元しようとしないソフトウェア企業にただ搾取されるのではなく、著作物が世界全体に貢献し、自由であり続けるという確証をGPLは[[プログラマ]]に与えたからである<ref> {{cite web | url = http://www.dwheeler.com/blog/2006/09/01/#gpl-bsd | title = Why the GPL rocketed GNU/Linux to success | date = 2006-09-01 | author = {{仮リンク|デイヴィッド・A・ウィーラー|en|David A. Wheeler}} | publisher = www.dwheeler.com | quote = So while the BSDs have lost energy every time a company gets involved, the GPL'ed programs gain every time a company gets involved.(企業が関与するにつれて勢いを失うBSDソフトウェアに対し、GPLのプログラムは、企業の関与が更なる成長へとつながる。) | accessdate = 2011-03-03 }}</ref>。 == 歴史 == GPL誕生以前、[[Emacs]]の頒布条件となっていたライセンスが生まれたきっかけは、[[ジェームズ・ゴスリン]]が作成し、当初自由な利用が認められていたGosling Emacsのコードに突如ゴスリンが[[プロプライエタリソフトウェア|独占的な許諾条件]]を附してしまったことが契機となっている<ref name="gpl before dawn by mhatta" /><ref name="rms-kth-ja"> {{cite web | url = http://www.gnu.org/philosophy/stallman-kth.ja.html | title = RMS Lecture at KTH: Japanese | date = 1986-10-30 | author = [[リチャード・ストールマン|Richard Stallman]]、[[山形浩生]] | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-01 }}ストールマンはこの一件におけるゴスリンについて「臆病でふざけたやつ」(訳: 山形浩生)と評している。</ref>。この許諾条件の変更の影響により、ストールマンは自身のEmacsのコードを書き換えなければならなくなった。 またGPL、GNUプロジェクトの誕生について、次のような逸話もある。 当時、ストールマンは[[マサチューセッツ工科大学|MIT]][[MIT人工知能研究所|人工知能研究所]]で[[シンボリックス|Symbolics]]社製の[[LISPマシン]]で動くソフトウェアを開発していたが、ストールマンが作りSymbolics社に対して提供した[[パブリックドメイン]]版であるソースコードの改変版について、同社が著作権を根拠にソースコードを開示しなかったことに腹を立てGPLを考案したといわれる<ref name="rms-ts-lc"> {{cite web | url = http://www.gnu.org/gnu/rms-lisp.html | title = My Lisp Experiences and the Development of GNU Emacs | date = 2002-10-28 | author = [[リチャード・ストールマン|Richard Stallman]] | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-01 }}</ref>。いずれにせよ、これ以降いかにしてソースコードの自由な利用を保証するかということにストールマンは腐心するようになる。 GPLは[[1989年]]に[[リチャード・ストールマン]]によって、[[GNUプロジェクト]]の[[ソフトウェア]]の配布を目的に作られた。オリジナルのGPLは、初期の[[GNU Emacs]]、[[GNUデバッガ]]そして[[GNUコンパイラコレクション|GNU Cコンパイラ]]の配布に利用していた類似のライセンスを基に、それらを組み合わせたものをベースとしている<ref name="history of gpl"> {{cite web | url = http://www.free-soft.org/gpl_history/ | title = The History of the GPL | date = 2001-07-04 | author = Li-Cheng (Andy) Tai | publisher = www.free-soft.org | accessdate = 2011-03-01 }}</ref><ref name="gpl before dawn by mhatta"> {{Cite web|和書 | url = http://sourceforge.jp/magazine/03/06/30/167233 | title = GNU GPL登場前夜 | date = 2003-07-01 | author = [[八田真行]] | publisher = [[SourceForge.JP]] Magazine | accessdate = 2011-03-01 }}</ref>。前記3つのライセンスは、現在のGPLと似たような条文を含んでいる。しかし、それらは各プログラム固有のライセンスであり、似通っているとはいえ、互いの互換性は全くなかった<ref name="gplv3conf2stallman-before-gnu-gpl"> {{cite web | url = http://fsfe.org/projects/gplv3/fisl-rms-transcript.en.html#before-gnu-gpl | title = Transcript of Richard Stallman at the 2nd international GPLv3 conference ; 21st April 2006 | date = 2009-04-14 | author = [[リチャード・ストールマン|Richard Stallman]] | publisher = [[Free Software Foundation Europe]] | accessdate = 2011-03-01 }}[[ポルト・アレグレ]]で[[2006年]]4月21日に開催された第2回GPLv3カンファレンスでのスピーチ。リンク先はGPL登場前の歴史について。</ref>。ストールマンの目標は、いかなるプロジェクトでも使用可能で、それゆえ多くのプロジェクトが[[ソースコード|コード]]を共有することを可能にさせる単一の汎用的なライセンスを作り出すことだった。 GPLは幾度か改訂されており、[[1991年]]にはバージョン2がリリースされている。バージョン3がリリースされるまで、それに従うこと15年間、[[FLOSS]]コミュニティの幾人かは、GPLでライセンスされているプログラムを、ライセンスの意図に反し、搾取する事につながる''抜け道'' (''loopholes''; 抜け穴、ループホール) に対し懸念を抱くようになった<ref> {{cite web | url = http://gplv3.fsf.org/rms-why.html | title = Why Upgrade to GPL Version 3 | date = 2007-05-31 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate=2011-03-23 }}</ref>。これらの懸念の中には、[[TiVo化]](Tivoization。GPLでライセンスされたプログラムが含まれているにも関わらず、改変版ソフトウェアの稼動を拒絶するハードウェアについての問題)、Webインタフェースの裏側に隠れ公開されることのない改変版GPLソフトウェアの利用、[[AGPL]]バージョン1と同等の互換性問題、GNU/Linuxコミュニティと敵対するための武器として特許を行使する企てと見なされる、[[マイクロソフト]]とGNU/Linuxディストリビュータとの特許契約などがある。 [[image:Stallman GPLv3 launch MIT 060116.jpg|thumb|GNU GPLv3の初稿策定開始作業における[[リチャード・ストールマン]]。[[マサチューセッツ工科大学|MIT]]、[[アメリカ合衆国]]・[[マサチューセッツ州]][[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]。|right]] {{Wikinews|1=:en:Free Software Foundation releases first draft of GPLv3|d1=Free Software Foundation releases first draft of GPLv3|2=フリーソフトウェア財団がGPLv3の最初の草案を発表}} FSFならびにFLOSSコミュニティは、これら懸念に対し真剣に取り組むべく、バージョン3への改訂作業を始めた<ref name="dd1-rationale"> {{cite web | url = http://gplv3.fsf.org/gpl-rationale-2006-01-16.html | title = Rationale for 1st discussion draft | date = 2006-01-16 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate=2011-05-03 }}</ref><ref name="dd1-rationale-ja"> {{Cite web|和書 | url = http://sourceforge.jp/magazine/06/09/05/1933243 | title = GPLv3 Discussion Draft 1 Rationale 日本語訳 | date = 2006-09-06 | publisher = [[SourceForge.JP]] Magazine | accessdate = 2011-04-22 }}</ref>。[[2005年]]後半、FSFは、GPLバージョン3 (GPLv3) の策定に関するアナウンスを行った<ref name="revising-gpl"> {{cite web | url = http://www.fsf.org/news/gplv3launch | title = FSF releases guidelines for revising the GPL | date = 2005-11-30 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-05-04 }}</ref>。2005年の時点でGPLは様々な[[FLOSS]]プロジェクトのソフトウェアに採用されていたこともあり、FSFが単独で改訂することにより起こりえる問題を回避するため、改訂プロセスは公開で行うことが同時に発表された<ref name="revising-gpl" />。[[2006年]]1月16日、GPLv3の最初の''議論用草稿'' (''discussion draft'') が公開され<ref> {{cite web | url = http://gplv3.fsf.org/gpl-draft-2006-01-16.html | title = GPLv3, 1st discussion draft | date = 2007-06-29 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-04 }}</ref>、公開協議プロセスを開始した。当初公開協議は9ヶ月から15ヶ月を想定していたが、終わってみると、4つの草稿公開に延べ18ヶ月にまで要した。公式のGPLv3は[[2007年]]6月29日、FSFにより発表された。GPLv3は、リチャード・ストールマンにより起草され、[[エベン・モグレン]]ならびに[[Software Freedom Law Center]] (SLFC) による法的助言を受けている<ref name="fosdem2006stallman"> {{cite web | url = http://www.ifso.ie/documents/rms-gplv3-2006-02-25.html | title = Transcript of a talk by Richard Stallman about GPLv3, February 25th 2006 | date = 2006-02-25 | publisher = www.ifso.ie | accessdate = 2011-03-03 }}[[2006年]]2月25日、[[ベルギー]]・[[ブリュッセル]]の[[FOSDEM]]カンファレンス第1日目におけるリチャード・ストールマンのプレゼンテーション。</ref>。 公開協議プロセスは、FSFを調整役、SFLC・[[Free Software Foundation Europe]] (FSFE)<ref> {{cite web | url = http://fsfe.org/projects/gplv3/ | title = GPLv3: Drafting version 3 of the GNU General Public License | publisher = [[Free Software Foundation Europe]] | date = 2011-01-07 | accessdate = 2011-03-04 }}</ref>その他[[フリーソフトウェア]]開発組織による支援のもと進められた。この間、''gplv3.fsf.org''<ref> {{cite web | url = http://gplv3.fsf.org/ | title = Welcome to GPLv3 | date = 2007-12-10 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-04 }}</ref>というウェブポータルサイトが立ち上げられ、ここを経由し多くの一般からのコメントが集められた<ref name="draft4" />。このポータルサイトは、策定プロセスのために開発された''[[stet (ソフトウェア)|stet]]''<ref> ''stet''とは「[[校正]]で[[朱]]書きするイキ」の意。gplv3.fsf.orgサイトを閲覧すれば分かるが、このソフトウェアは文書に対し単語単位でコメントをつけることができ、コメント数に応じて、コメント箇所の色が目立つようになっている。 </ref>というソフトウェア上で稼働している。これらコメントは、およそ130名ほどから成る4つの''協議グループ'' (''committee'')<ref> {{cite web | url = http://gplv3.fsf.org/discussion-committees | title = Discussion Committees | date = 2006-02-02 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-04 }}</ref>に渡された。この130名はFSFの目標に対しそれを支持する人物並びにそれと対立する人物双方が含まれている。これら協議グループは一般から提示されたコメントを精査し、新しいライセンスがどうあるべきか決定するため、ストールマンにその要約を回付した。 公開協議プロセスを経て、初回の草稿には962ものコメントが提出された<ref> {{cite web | url = http://gplv3.fsf.org/comments/gplv3-draft-1 | title = gplv3.fsf.org comments for draft 1 | quote = Showing comments in file 'gplv3-draft-1' [...] found 962 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-04 }}</ref>。終わってみると、延べ2,636ものコメントが提出されていた<ref> {{cite web | url = http://gplv3.fsf.org/comments/gplv3-draft-2 | title = gplv3.fsf.org comments for draft 2 | quote = Showing comments in file 'gplv3-draft-1' [...] found 727 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-04 }}</ref><ref name="draft3"> {{cite web | url = http://gplv3.fsf.org/comments/gplv3-draft-3 | title = gplv3.fsf.org comments for draft 3 | quote = Showing comments in file 'gplv3-draft-3' [...] found 649 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-04 }}</ref><ref name="draft4"> {{cite web | url = http://gplv3.fsf.org/comments/gplv3-draft-4 | title = gplv3.fsf.org comments for draft 4 | quote = Showing comments in file 'gplv3-draft-4' [...] found 298 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-04 }}</ref>。 初版の草稿公開ののち、GPLv2とGPLv3の非公式な差分(但し、これは[[diff]]出力による行単位ごとの単純な差分)が、FLOSSコミュニティ向け法律サイト[[Groklaw]]により公開された<ref name="groklaw-gpl-diff"> {{cite web | url = http://www.groklaw.net/article.php?story=20060118155841115 | title = At Your Request, the GPLv2-GPL3 Chart - Columns Switched - Updated | date = 2006-01-18 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-04 }}</ref>。 [[ファイル:LGPLv3 Logo.svg|160px|right|GNU LGPLv3のロゴ]] [[2006年]]7月27日、GPLv3の討議用第2次草稿<ref> {{cite web | url = http://gplv3.fsf.org/gpl-draft-2006-07-27.html | title = GPLv3, 2nd discussion draft | date = 2007-06-29 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-04 }}</ref>が、[[GNU Lesser General Public License|LGPL]]第3版 (GNU LGPLv3) の初版草稿とともに公開された<ref name="gplv3-dd2-released"> {{cite web | url = http://www.fsf.org/news/gplv3-dd2-released.html | title = Second Discussion Draft of Revised GNU General Public License Released | date = 2006-07-28 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-04 }}</ref>。初稿と第2稿の差分は、FSF<ref name="dd1to2-markup-rationale"> {{cite web | url = http://gplv3.fsf.org/gpl3-dd1to2-markup-rationale.pdf | title = GPLv3 Second Discussion Draft Rationale | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-04 }}</ref>とFSFE<ref> {{cite web | url = http://fsfe.org/projects/gplv3/diff-draft1-draft2.en.html | title = GPLv3 - The changes from draft 1 to draft 2 | publisher = [[Free Software Foundation Europe]] | accessdate = 2011-03-04 }}</ref>からそれぞれ提示されている。第2稿ではDRMに対抗する明確な目標が取り入れられている<ref> {{cite web | url = http://gplv3.fsf.org/drm-dd2.html | title = Opinion on Digital Restrictions Management | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-04-28 }}</ref>。 第3稿は[[2007年]]3月28日に公開された<ref> {{cite web | url = http://gplv3.fsf.org/gpl3-dd3-guide | title = Guide to the third draft of GPLv3 | date = 2007-06-29 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-04 }}</ref><ref name="gplv3dd3-released"> {{cite web | url = http://www.fsf.org/news/gplv3dd3-released | title = FSF releases third draft of GPLv3 for discussion | date = 2007-03-28 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-05-03 }}</ref>。この草稿は、かの物議を醸した[[マイクロソフト]]と[[ノベル (企業)|ノベル]]が締結したような''[[特許]]相互ライセンス'' (''patent cross-license'')<ref name="sec-ms-novell-agreement"> {{cite web | url = http://www.sec.gov/Archives/edgar/data/758004/000075800406000109/novl-8k_110706.htm | title = NOVELL, INC - COLLABORATION AGREEMENT WITH MICROSOFT | date = 2006-11-02 | publisher = [[証券取引委員会|SEC]] | accessdate = 2011-05-03 }}</ref><ref name="mspress-ms-novell-agreement"> {{cite web | url = http://www.microsoft.com/presspass/press/2006/nov06/11-02MSNovellPR.mspx | title = Microsoft and Novell Announce Broad Collaboration on Windows and Linux Interoperability and Support | date = 2006-11-02 | publisher = [[マイクロソフト|Microsoft]] | accessdate = 2011-05-04 }}</ref><ref name="mspress-ms-novell-agreement-ja"> {{Cite web|和書 | url = http://www.microsoft.com/japan/presspass/detail.aspx?newsid=2864 | title = マイクロソフトとNovellがWindowsとLinux間の相互運用性を強化するための広範な提携に合意 | date = 2006-11-06 | publisher = [[マイクロソフト|Microsoft]] | accessdate = 2011-05-04 }}</ref><ref name="novellpress-ms-novell-agreement"> {{cite web | url = http://www.novell.com/news/press/2006/11/microsoft_and_novell_announce_broad_collaboration_on_windows_and_linux_interoperability_and_support.html | title = Microsoft and Novell Announce Broad Collaboration on Windows and Linux Interoperability and Support | date = 2006-11-02 | publisher = [[ノベル (企業)|ノベル]] | accessdate = 2011-05-03 }}</ref><ref name="enwp-ms-novell-agreement"> 詳しくは[[英語版ウィキペディア]]の[[:en:Novell#Agreement with Microsoft|Novell#Agreement with Microsoft]]を参照せよ。 </ref>を排除する意図を持つ文言を含んでおり<ref name="draft3" /><ref> 本文、11. Patents.(第11項. 特許)の第5段落を見よ。これは正式公開版の第11項第7段落に相当する。 </ref>、反[[TiVo化]]条項 (''anti-tivoization clauses'') は''ユーザ製品'' (''User Product'')・''コンシューマ製品'' (''Consumer Product'') といった一般家庭で使用される製品に限定する旨定めている<ref name="draft3" /><ref> 本文、6.''Conveying'' Non-Source Forms. (第6項. ソースコード形式ではない''伝達'' (''譲渡'') について) の第3段落(段落数は小項a)~e) を計数しない)以降を中心に見よ。第3稿では「ユーザ製品」の定義として{{仮リンク|マグナソン・モス保証法|label=Magnuson–Moss Warranty Act|en|Magnuson–Moss Warranty Act}}, {{usc|15|2301}} ''et seq.'')を直接参照している。しかしこの参照部分が米国法依存になりライセンスの国際化に逆行するものであるとして批判を受けたため、定義部分をより明確化した上で、当該法への参照は第4稿そして正式版で完全に削除されている。 </ref>。また、公開協議開始時点で削除が予告されていた''地理的 (頒布) 制限'' (''Geographical Limitations'')<ref> GPLv2の第8節を参照せよ。特定国の準拠法により、特許や著作権を持つ「''インタフェース''」(''interfaces'')が、本プログラムの頒布や利用を制限する場合は、プログラムの著作権者がそのような特定国での本プログラムの頒布を禁止する条項である。第3次議論用草稿趣旨説明書によると、この条項が利用されることが稀であったことが削除の理由としているが、条項自身にも問題があると述べられている。{{cite web | url = http://gplv3.fsf.org/gpl3-dd3-rationale.pdf | title = GPLv3 Third Discussion Draft Rationale | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | pages = 58 | quote = Having gathered comment on this provision for many months, we have decided to proceed with its removal. Although a principal reason for removing the provision is the fact that it has rarely been used, we have also encountered one current example of its use that we find troubling. | accessdate = 2011-05-04 }}</ref>の項については、明白に削除されている。 最終稿となった第4の議論草稿<ref> {{cite web | url = http://gplv3.fsf.org/gpl-draft-2007-05-31.html | title = GPLv3 - Last call draft | date = 2007-06-29 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-04 }}</ref><ref> {{cite web | url = http://www.fsf.org/news/gpl3dd4-released | title = FSF Releases "Last Call" Draft of GPLv3 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-05-03 }}</ref>は[[2007年]]5月31日に公開された。この草稿では、[[Apache License]]との組み合わせを可能にする条項が導入された他、外部''契約者'' (''contractor'') の役割を明確化し、マイクロソフト&ndash;ノベル間の契約のような明白な問題を回避する例外条項を加えている。この最後の例外条項は、第11項<ref group="注釈"> Section 11. [[八田真行]]による条文非公式日本語訳ではGPLv3のSectionに相当する語を''項''と訳している。GPLv2では''節''と訳されていた(''Article''との混同が避けられる場合は''条''と訳されることもある)。[[GNU Lesser General Public License|LGPL]]v3非公式日本語訳もGPLv3の条文を内部的に参照しているが、同じく「項」と訳してある。以下これに従う。 </ref>第7段落に次のように記載されている(条文は正式公開版と同一である)。 {{quote|You may not convey a covered work if you are a party to an arrangement with a third party that is in the business of distributing software, under which you make payment to the third party based on the extent of your activity of conveying the work, and under which the third party grants, to any of the parties who would receive the covered work from you, a discriminatory patent license [...]}} これは、そのような契約を将来に渡って無効化することを目的としている。また本ライセンスは、マイクロソフトが、あるGPLv3ソフトウェアを利用するノベルの顧客に許諾したような特許契約(特許ライセンス、特許許諾、パテントライセンス)を、まさにそのGPLv3ソフトウェアを利用するユーザー'''すべて'''にまで(ユーザーの行為如何に全く関わらず)'''自動的に'''拡大適用することを意味する。ただし、マイクロソフトが法的にGPLv3ソフトウェアの''伝達者'' (''conveyor''; ''譲渡者'') でもない限り、それは不可能である<ref> {{cite web | url = http://gplv3.fsf.org/dd3-faq | title = GPLv3 Discussion Draft FAQ | date = 2007-06-26 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-04 }}ドラフト段階のFAQ。ライセンス条文の言い回しよりも幾分その目的が読みやすく示されている。</ref><ref name="dd4-rationale"> {{cite web | url = http://gplv3.fsf.org/gpl3-dd4-rationale.pdf | title = GPLv3 Final Discussion Draft Rationale | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-04 }}</ref>。これはある種、特許契約に対しそれを他者に無制限に提供してしまうことから、[[ポイズンピル]]のような働きを持つとの意見もある<ref> {{cite web | url = http://www.eweek.com/c/a/Linux-and-Open-Source/Latest-Draft-of-GPL-3-Comes-Under-Fire/ | title = Latest Draft of GPL 3 Comes Under Fire | date = 2007-03-28 | author = Peter Galli | work = {{仮リンク|eWeek|en|eWeek}} | publisher = www.eweek.com | accessdate = 2011-03-04 }}</ref>。ただし本条項導入の直接の契機となった、ノベルの行為そのものに対しては、本項第7段落最後に例外を設け、{{仮リンク|既得権条項|en|Grandfather clause}}を適用している<ref> 正式リリースされたGPLv3第11項第7段落より引用すると、 "You may not convey a covered work [...] unless you entered into that arrangement, or that patent license was granted, ''prior to 28 March 2007''." ([[八田真行]]訳:「(前略)いる場合、あなたは『保護された作品』を伝達してはならない。ただし、あなたがそのような協定を締結したり、『パテントライセンス』を授与されたのが''2007年3月28日より以前''である場合は本節の例外とする。 )</ref><ref name="fsf-gf-clause"> {{cite web | url = http://www.fsf.org/blogs/licensing/2007-03-28-gplv3-grandfather | title = GPLv3: A grandfather clause, but not for Novell | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-05-26 }}</ref>。 == バージョン履歴 == === バージョン1 === バージョン1は、[[1989年]]2月にリリースされた<ref name="gplv1"> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/old-licenses/gpl-1.0.html | title = GNU General Public License, version 1 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate=2011-04-01 }}</ref>。このライセンスは、ソフトウェア頒布者が制限しようとする主に2つの手段から、[[フリーソフトウェアの定義]]たる自由を守る働きを持っていた。第一の問題は、頒布者が[[バイナリ]]、すなわち[[実行ファイル]]のみを公開するかもしれないということである。しかしながらバイナリは[[人間]]にとって読み取れる形式ではなく、また改変もできない。このことを防ぐため、GPLv1では、バイナリを頒布するいかなる[[ベンダー]]も、同じライセンスの条項のもと、機械可読な[[ソースコード]]の形で利用できるようにしなければならないとしている<ref group="注釈">ライセンスの第3a節、第3b節を見よ</ref>。 第二の問題は、ライセンスに追加の制限を加える、もしくは頒布において別の制限があるソフトウェアを組み合わせることのどちらかにより、頒布者が追加の制限を加える可能性があるということだった。もしこのことが成されれば、その時、制限の2つの[[合併 (集合論)|集合の和]]は、組み合わされた著作物に適用されるだろうが、それはすなわち、受け入れられない制限が加えられたことに等しい。この様な事態を避けるため、GPLv1では、改変版は、全体として、GPLv1の条項の下頒布されなければならないと規定している<ref group="注釈">ライセンスの第2b節、第4節を見よ</ref>。このため、GPLv1の条項の下頒布されているソフトウェアは、それよりも[[パーミッシブ・ライセンス]]で保護されるソフトウェアと組み合わせて頒布することが可能となる。なぜなら、組み合わせによって全体を通して頒布に係るライセンス条項に変化はないからである。しかし、GPLv1の条項の下頒布されているソフトウェアとそれよりも制限の厳しいライセンスで頒布されるソフトウェアを組み合わせることは、GPLv1の条項の下全体が頒布されるという要件と衝突するため、できない。 === バージョン2 === バージョン2は、[[1991年]]6月にリリースされた<ref name="gplv2"> {{cite web | url = https://www.gnu.org/licenses/old-licenses/gpl-2.0.html | title = GNU General Public License, version 2 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate=2011-04-01 }}</ref>。 リチャード・ストールマンによれば、GPLv2で最大の変更は第7節、彼に言わせると、[[パトリック・ヘンリー]]の名文句「''自由か然らずんば死を''」("''Liberty or Death''") の一節である<ref name="gplv3conf2stallman-liberty-or-death"> {{cite web | url = http://fsfe.org/projects/gplv3/fisl-rms-transcript.en.html#liberty-or-death | title = Transcript of Richard Stallman at the 2nd international GPLv3 conference ; 21st April 2006 | date = 2009-04-14 | author = [[リチャード・ストールマン|Richard Stallman]] | publisher = [[Free Software Foundation Europe]] | accessdate = 2011-03-03 }}[[ポルト・アレグレ]]で[[2006年]]4月21日に開催された第2回GPLv3カンファレンスでのスピーチ。リンク先は"Liberty or Death" (自由か死か) 節について。</ref>。他の利用者の自由を尊重するような方法で、GPLで保護されたソフトウェアの頒布が''妨げられる''場合(たとえば、法的規制によりソフトウェアを[[バイナリ]]形式でしか頒布できないとき)、この節に従えば、頒布は一切できない。GPLv3でも[[#他者の自由を明け渡してはならない|同様の条項]]が存在し、幾分簡素化されたうえ主旨が明確になっている。これは、[[フリーソフトウェア]]開発者や、フリーソフトウェアを単に使用する者から金を脅し取ろうと特許を行使する企業の企みをすこしでも減らすことを見込んでいる。 [[1990年]]までには、現存する[[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]な[[ライブラリ]]と本質的には同等な機能を持つ[[C言語|C]]ライブラリや、その他のソフトウェア・ライブラリに対しては、制限の緩いライセンスのほうが戦略的に有効なことが明らかになってきた<ref> この理由は、[http://www.gnu.org/gnu/thegnuproject.html The GNU Project]という文書で言及されている。 </ref><!-- It would be nice to have the original page instead of this newer one -->。[[1991年]][[6月]]にGPL第2版がリリースされた際、[[GNU Lesser General Public License|Library General Public License]] (LGPL) が、初版にもかかわらずGPLと相補的なことを示すため第2版として同時に導入された。GNUの思想における位置づけを反映させるため、[[GNU Lesser General Public License|Lesser General Public License]]と名を変え、[[1999年]]、LGPL2.1がリリースされた。 === バージョン3 ===<!-- このセクションは、[[ソフトウェア特許]]と関連があります。 --> バージョン3は、[[2007年]]6月にリリースされた<ref name="gplv3"> {{cite web | url = https://www.gnu.org/licenses/gpl.html | title = GNU General Public License, version 3 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate=2011-04-01 }}</ref>。GPLv3は、[[ソフトウェア]]([[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]・[[ライブラリ]]など)を含む[[著作物]]に対し、著作物の[[著作者]]・[[著作権者]]やライセンス受諾者{{ref label|gplv3-term-definitions|A|A}}の権利や、プログラムの受領者のためにライセンス許諾者が与える権利、またソフトウェアの自由と衝突するような法や法的権利の制限([[デジタル著作権管理|DRM]]、[[特許]]の利用、他者を差別するような特許ライセンスの排除)などに関する基本理念を以前のバージョンのライセンスより明文化している。 ストールマンによると、もっとも重要な改訂点は、[[ソフトウェア特許]]、他のフリーソフトウェア・ライセンスとの''[[ライセンスの互換性|両立性]]''(''compatibility''; 互換性)、「[[ソースコード]]」とは何を指すのかの定義{{ref label|gplv3-term-definitions|A|A}}、ソフトウェアの改変に関する{{仮リンク|ハードウェアの制限|en|Hardware restrictions}}(''[[TiVo化]]'')そして[[デジタル著作権管理]] (Digital Rights Management, DRM) との関連がある<ref name="fosdem2006stallman"/><ref name="FSMag-RMS-Interview"> {{cite web | url = http://www.freesoftwaremagazine.com/articles/interview_with_richard_stallman | title = Interview with Richard M. Stallman | author = Colin McGregor | date = 2008-01-23 | publisher = www.freesoftwaremagazine.com | accessdate = 2011-03-03 }}</ref>。その他の改訂点は、国際化{{ref label|gplv3-term-definitions|A|A}}、ライセンス違反時の対処手段そして可能ならば[[著作権者]]により''追加的条項''(''additional terms''<ref group="注釈" name="add-terms"> 正式公開されたGPLv3の 7. Additional Terms.(第7項「追加的条項」)には、許可・非許可事項に分けて記載している。またGPLv3を参照しつつ、追加的許可事項を認めたライセンスの一例に[[GNU Lesser General Public License|LGPL]]v3があり、これによりLGPLv3はGPLv3の補完的なライセンスとなっている。 </ref>)を与える手段に関連している。 他注目に値する改訂点としては、GPLv3で保護された著作物の著作権者が、[[パッチ]]などを提供しそれに改変を加えた''貢献者'' (''contributor'') に対し、ある種の条件または要求を課すということを許諾する条項が加えられている。これらに加えて、新しく導入された要件の一つには、時折''Affero条項'' (''Affero clause''、''Affero節'') とも呼ばれるが、[[SaaS|Software as a service]]のような[[アプリケーションサービスプロバイダ|ASP]]モデルによるGPLの条項を回避しようとする試み(''ASP loophole''; ASPの抜け道<ref name="asp-loopholes"> {{cite web | url = http://www.linux.com/archive/articles/4293 | title = Sneak preview of GPL v. 3: More business friendly | date = 2000-11-02 | author = JT Smith | publisher = Linux.com | accessdate = 2011-03-30 | quote = [...] to circumvent the GPL by means of the so-called "ASP loophole".[...] }}</ref>)に対し、これを封じようと意図しているものも含まれる。この条項が追加された結果、[[GNU Affero General Public License]]バージョン3 (GNU AGPLv3) が作成されている。GPLv3とAGPLv3は互いに両立はしないが、リンクや結合のみを認める相補的な条項を共に持っている。 また、GPLv3で許諾されるソフトウェアは、米国の[[デジタルミレニアム著作権法|DMCA]]や日本の[[著作権法]]、[[不正競争防止法]]が規定している「技術的制限手段」(技術的保護手段、例: [[デジタル著作権管理|DRM]])の「解除」を認める条項が追加されている<ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/quick-guide-gplv3.html#neutralizing-laws-that-prohibit-free-software-but-not-forbidding-drm | title = Neutralizing Laws That Prohibit Free Software — But Not Forbidding DRM | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-06-09 }}</ref>(詳細はセクション"[[#技術的保護手段回避を禁ずる法への対抗措置|技術的保護手段回避を禁ずる法への対抗措置]]"を参照)。 == 利用条件 == 「GPLが適用された著作物の複製を受け取る全ての者」(Recipients; 受領者)は、GPLの''条項と条件'' (''terms and conditions''; ''利用条件'') を遵守しなければならない。利用条件を遵守するライセンシー(''the licensee''; ''被許諾者''、''ライセンシー''<ref group="注釈"> 再頒布者もこの中に含まれる。ライセンシーは後述の説明からソフトウェアを受領して利用するだけの人物、すなわち受領者の一例である。 </ref>)は著作物を改変する許諾を与えられるのと同時に著作物または二次的著作 (派生 ''derivative'') 物の複製と頒布を許諾される。ライセンシーは、このようなサービスを提供するのに料金を課してもよいし、また無料で行ってもよい。この後者の許諾は、GPLと商用再頒布禁止のソフトウェアライセンスとの相違点である。FSFは、フリーソフトウェアは商用利用を制限するべきではないと主張している<ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/philosophy/selling.html | title = Selling Free Software | date = 2010-07-27 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-09 }}</ref>。また、GPLは、GPLが適用された著作物を如何なる値段で販売しても良い旨、明確に述べてある。 加えて、GPLは、頒布者が''GPLにより許諾される以上のさらなる権利制限'' (''further restrictions on the rights granted by the GPL'') を課してはならないと述べている(GPLv2第6節、GPLv3第10項)。これは(純粋に[[契約]]である)[[秘密保持契約]] (''non-disclosure agreement'', ''non-disclosure contract'') のもとソフトウェアを頒布するような手法を禁ずる。GPLのもと、頒布者はまた、GPLなソフトウェアにおける特許を行使するために、ソフトウェアにより行使されるいかなる特許をも「ライセンス」(特許ライセンス)として許諾する。 GPLv2の第3節とGPLv3の第6項によると、事前コンパイルされた[[バイナリ]]として頒布されるプログラムは次のいずれかを満たさなければならない。 # [[ソースコード]]の複製の直接の添付 # 事前コンパイルされたバイナリと同一の手段でソースコードを頒布するという書面での提案の添付 # GPLのもと、事前コンパイルされたバイナリを受け取った場合に得た何かを、ソースコードを提供する旨の文書で提示 また、GPLv2の第1節とGPLv3の第4項は、''プログラムの受領者すべてにプログラムと共にGPLの複製を'' (''all recipients a copy of this License along with the Program'') 与えなければならないと規定している。GPLv3ではその第6項を満たす限りにおいて、ソースコードを利用可能な状態にするために、GPLv2で指定された物理媒体以外にも、明示的に追加の手段を講じても良いとする。コンパイル済みコードを取得する方法とソースコードのありかが明確に分かる場合、近くのネットワーク[[サーバ]]からまたは[[Peer to Peer|P2P]]送信によりソースコードを[[ダウンロード]]させる手段などもこの追加の手段に含まれる。 改変された著作物を頒布する権利は、GPLにより無制限に付与されるわけではない。頒布者自身による改変が加えられたGPLによる著作物を頒布する際に、著作物全体を頒布するための要件は、GPLよりも強い要件であってはならない。 その要件とは、[[コピーレフト]] (Copyleft) として知られている。これは、ソフトウェアプログラムに関し、[[著作権]] (copyright) を利用した法的な権能をもたらす効果がある。GPLで保護される著作物もまた、著作権で保護されているため、改変された形態でなくとも、ライセンスで規定されている場合を除き、ライセンシーはその著作物の再頒布の権利を持たない([[フェアユース]]を除く。ただし、その記事やGPL FAQ<ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl-faq.html#GPLFairUse | title = Do I have “fair use” rights in using the source code of a GPL-covered program? | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | date = 2011-02-11 | accessdate = 2011-03-11 }}</ref>で述べられている通り、フェアユースに''world-wide principle''; ''世界的な原則''、''統一見解''などない)。再頒布のような、通常[[著作権法]]で制限される権利をある人物が行使しようと考える場合、その人物はGPLの条項をただ従う必要がある。逆に、GPLの条項を遵守せず(例えば、ソースコードを開示しない)著作物の複製を頒布すると、著作権法に基づき著作権者から頒布の[[差止請求権|差止め]]等で[[訴訟|提訴]]される可能性がある。 == コピーレフト == {{Main|コピーレフト}} コピーレフトは、著作権法を本来の使用目的と正反対の目的を実現するために利用する。すなわち制限を課す代わりに、コピーレフトは、権利がのちに消失しないような方法で、他者への権利を許諾する<ref group="注釈"> GPLはある種の"[[著作権|copyright]] [[ハッキング|hack]]"とも言える。 </ref>。コピーレフトはまた、ライセンシーに対し再頒布の権利を無制限に許諾するのではなく、コピーレフトが主張する点において発見されるのは法律上の任意の欠陥であるべきことを保証している。 コピーレフトライセンスで保護されるプログラムを頒布する多くの者は、ソースコードと共に[[実行ファイル]]を添付する。コピーレフトを満たす別の方法は、要求に応じて([[コンパクトディスク|CD]]のような)物理媒体を用いてソースコードを提供するという文書を提示することである。また事実としてコピーレフトライセンスで保護されるプログラムの多くは、[[インターネット]]上で頒布されており、ソースコードは[[File Transfer Protocol|FTP]]または[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]などを用いてソースコードを遣り取りできるようにしているものが多い。インターネット上での頒布は本ライセンスを満たしている。 コピーレフトが適用されるのは、ある人物がプログラムを再頒布しようと求める場合にのみである。改変したソフトウェアを他の誰にも頒布しない限り、改変箇所を公開しなければならない如何なる義務も免ぜられ、その改変版を私的な物とすることは許される。また、コピーレフトはソフトウェア自身のみに適用されるのであって、ソフトウェアの''出力'' (''outputs'', アウトプット) には適用されないことには注意しておきたい(ただし、そのアウトプット自身がプログラム自体の二次的著作物ではない場合)。例えば 、GPLで保護された[[コンテンツ管理システム]] ("Contents Management Systems"; CMS) に対しその改変した派生版を動作させる一般ウェブポータル([[ブログ]]ソフトウェアなど)は、その出力自体はプログラム自体の派生物ではないから、土台としたソフトウェアならびにその改変部分を頒布する必要はない。反例は、GPLで保護されたソフトウェア"[[Bison|GNU bison]]"である。この[[構文解析器]]の出力は、その派生物の一部を''まさに''含んでおり、そのため、この事実に対しGNU bisonにより許諾される''特殊な例外条項'' (''a special exception'') が仮に存在しないならば、出力結果はGPLで保護される派生物となっていたであろう<ref name="gcc-not-link-with-runtime"> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl-faq.html#CanIUseGPLToolsForNF | title = Can I use GPL-covered editors such as GNU Emacs to develop non-free programs? Can I use GPL-covered tools such as GCC to compile them? | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | date = 2011-02-11 | accessdate = 2011-03-11 }}</ref>。最新のGNU bisonでは、事実として、出力コードの[[ヘッダ (コンピュータ)|ヘッダ]]に''As a special exception...''という特殊例外条項が記述されている<ref> {{cite web | title = Bison | url = http://www.gnu.org/software/bison/manual/html_mono/bison.html | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | quote = [http://www.gnu.org/software/bison/manual/html_node/Conditions.html Conditions for Using Bison] | accessdate = 2008-12-11 }}</ref>。 なお(GPLに従う著作物に限ったことではないが)、コピーレフトのもとで公開された著作物の著作権は、前述の通り譲渡しなければ個々のコードの著作権者が保有している。従ってコピーレフトを無視した再頒布に対して、頒布の差止めやコピーレフト違反是正(エンフォースメント)を求める権利があるのはプログラムの著作権者だけであり、一般のライセンシーにはない<ref name="gpl-violations"> {{cite web | title = Violations of the GNU Licenses | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl-violation.html | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-29 | quote = The copyright holder is '''the one''' who is legally authorized to take action to enforce the license.(著作権者は、ライセンスを強制させる法的な権限を持つ'''唯一'''の[[人 (法律)|ひと]]である。) }}</ref>。ただ、大規模な[[FLOSS]]開発プロジェクトは一般的にワールドワイドであり、開発者の居住国が多岐に渡るため、多かれ少なかれ差異がある各国の[[著作権法]]にプロジェクト全体で合致させるのは困難を要す。このため一部のFLOSSプロジェクトでは各著作権者に代わり、コードの著作権を一括してプロジェクト(またはそれを統括する団体・[[法人]]組織)が引き受ける場合もある。GNUプロジェクトは、コードの受け入れに関し、米国著作権法の庇護を享受するため、ライセンス如何に関わらず、寄贈されたコードの著作権を原著作者より明示的にFSFに譲渡する場合にのみ受け入れている<ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/why-assign.html | title = Why the FSF gets copyright assignments from contributors | date = 2009-04-20 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-11 }}</ref>。CMSの[[Plone]]ならびにPlone財団(Plone Foundation)も似たような形式を採用している。 === ライブラリ === [[フリーソフトウェア財団|FSF]]によると、「GPLは改変版、もしくは改変版の一部のリリースを要求することは述べていない。改変版を一切公開せず、改変を加えることや、私的に利用することは自由である。」と主張している<ref name="redistrib"> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl-faq.html#GPLRequireSourcePostedPublic | title = GPL FAQ: Does the GPL require that source code of modified versions be posted to the public? | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | date = 2011-02-11 | accessdate = 2011-03-25 }}</ref><ref name="redistrib-ja"> {{Cite web|和書 | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl-faq.ja.html#GPLRequireSourcePostedPublic | title = GPL FAQ: GPLは、改変されたバージョンのソースコードを公に発表することを要求しますか? | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | date = 2005-05-05 | accessdate = 2011-03-26 }}</ref><ref name="internal-distrib"> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl-faq.html#InternalDistribution | title = Is making and using multiple copies within one organization or company “distribution”? | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-05-07 }}</ref>。しかしながら、仮にある人物がGPLでライセンスされたオブジェクトを公開するならば、[[ライブラリ]]リンクに関する問題が提起される。すなわち、もし、[[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]なプログラムがGPLなライブラリを使用するならば、そのプロプライエタリなプログラムは(一般にプロプライエタリソフトウェアはソースコードが自由な許諾の下利用できない為)GPLに違反する、はたまたそうではないのか、という問題がある。 この重要な論点は、非GPLソフトウェアがライセンス的、すなわち著作権法的に、GPLなライブラリに[[静的リンク]]または[[動的リンク]]可能であるか否かという問題に行き着く。この問題に関して、異なるいくつかの見解が存在する。GPLのもとリリースされるコードの[[二次的著作物]]が全て、それら自身もまた、GPLに従わなければならないとの要求は明白である。しかし、GPLなライブラリを使用する、そして、GPLなソフトウェアをより巨大なパッケージと組み合わせる (''bundle'', ''バンドルする'')(概ね[[静的リンク]]によりバイナリを混合する場合などを想定すればよい)点に関しては、曖昧さが惹起する。これは究極的には、GPL''それ自体'' (''per se'', in itself) とは無関係の問題であるが、著作権法が[[二次的著作物]]をどう定義するかということと関連した問題である。この議論に関して、次のようないくつかの異なる見解が存在する。 ====見解: プロプライエタリソフトウェアを動的リンク、静的リンクすることはGPLに違反する ==== GPLのライセンス条文自体の著作権を保持する[[法人]]組織でもあり、GPLでライセンスされる著名なソフトウェア製品を多数提供している[[フリーソフトウェア財団|FSF]]は、動的リンクされたライブラリを利用する[[実行ファイル]]は、実際には二次的著作物である、と強く主張している。しかしながら、このことは、お互いを「結合する」(連携する、''communicate'') だけの分離された別個のプログラムには適用されないとしている<ref name="GPL-FAQ"> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl-faq.html | title = Frequently Asked Questions about the GNU Licenses | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-25 }}</ref><ref group="注釈"> このような分離形態にあるプログラムを''集積物'' (''aggregate'') と、GPLv3では明確に定義している。[[#非GPLプログラムとの結合や組み合わせ|非GPLプログラムとの結合や組み合わせ]]も参照せよ。 </ref>。 FSFはまた、コピーレフトという点で、GPLとはほぼ同一であるが、「ライブラリ利用」という目的のために、リンクの許諾を追加的に与える、[[GNU Lesser General Public License|LGPL]]というライセンスも作成した。 [[リチャード・ストールマン]]とFSFは、プロプライエタリな世界と比較し、より豊富なツールを提供することにより[[フリーソフトウェア]]な世界を護持することを目的として、ライブラリ作者に対し、GPLの下でのライブラリのライセンシングを明確に促している。これは、ソースコードを公開しないならば、プロプライエタリ・プログラムがGPLで保護されたライブラリを一切使用できないようにすることを狙っている<ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/philosophy/why-not-lgpl.html | title = Why you shouldn't use the Lesser GPL for your next library | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-26 }}</ref>。 ===== プラグイン ===== FSFは、[[プラグイン]]の呼び出し方法についてはまた別であると認識している。もし、プラグインが動的リンクにより呼び出され、関数呼び出しをGPLプログラムに提供するならば、その時には、プラグインは、概ね二次的著作物であると見なされる<ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl-faq.html#GPLPluginsInNF | title = Can I apply the GPL when writing a plug-in for a non-free program? | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-26 }}</ref>。 ====見解: プロプライエタリソフトウェアを静的リンクすることはGPLに違反するが、動的リンクに関しては不明瞭 ==== [[静的リンク]]は二次的著作物を生じるが、他方、GPLコードに[[動的リンク]]された実行ファイルが二次的著作物であると考慮されるべきか否かははっきりしないとする意見もある。詳細は ([[:en:Copyleft#Strong and weak copyleft|Weak copyleft]]) を参照せよ([[ライセンス感染#相互運用性]]も参考になるかもしれない)。[[Linuxカーネル]]の著作権者[[リーナス・トーバルズ]]は、状況により、動的リンクは派生物を生じ得るとの見解に同意する場合と同意しない場合があるとしている<ref> {{cite mailing list | url = http://lkml.org/lkml/2006/12/17/79 | title = Re: GPL only modules | date = 2006-12-17 | accessdate = 2011-03-25 | mailinglist = Linux kernel | last = Torvalds | first = Linus | author = | authorlink = リーナス・トーバルズ | language = [[英語]] }}</ref>。 [[ノベル (企業)|ノベル]]の弁護士は、動的リンクが二次的著作物でないのは「もっともらしい」が「断言」はできないとし、善意による動的リンクの証拠として、プロプライエタリなLinuxカーネル[[デバイスドライバ|ドライバ]]の存在に見てとれる、と文書にて記載している<ref> {{cite web | url = http://www.novell.com/coolsolutions/feature/1532.html | title = The GPL: Understanding the License that Governs Linux | author = Matt Asay | date = 2004-01-16 | publisher = [[ノベル (企業)|Novell]] | accessdate = 2011-03-26 }}</ref>。 ''{{仮リンク|ルイス・ガルーブ・トイズ対ニンテンドーオブアメリカ事件|label=ガルーブ対任天堂|en|Lewis Galoob Toys, Inc. v. Nintendo of America, Inc.}}''訴訟において、{{仮リンク|アメリカ合衆国第9連邦巡回区控訴裁判所|en|United States Court of Appeals for the Ninth Circuit}}は、二次的著作物を「『形式』または永続性」を所持するものと定義し、「当件における侵害された著作物が、ある形式で著作権の適用された著作物の一部と協働しなければならない」と言い渡した<ref> {{cite court | litigants = {{仮リンク|ルイス・ガルーブ・トイズ対ニンテンドーオブアメリカ事件|label=Lewis Galoob Toys, Inc. v. Nintendo of America, Inc.|en|Lewis Galoob Toys, Inc. v. Nintendo of America, Inc.}} | vol = 964 | reporter = F.2d | opinion = 965 | pinpoint = ¶10 | court = 9th Cir. | date = 1992-05-21 | url = http://law.justia.com/cases/federal/appellate-courts/F2/964/965/341457/ | quote = }}</ref>。しかし、特にこの対立を解決する明白な法廷判断は出ていない。 ====見解: リンクは無関係である ==== [[Linux Journal]]誌の記事によれば、[[知的財産権|IP]]法の専門家で[[Open Source Initiative|OSI]]の''法務[[顧問]]'' (''General counsel'') も務める[[ローレンス・ローゼン (弁護士)|ローレンス・ローゼン]]は、リンクの動的・静的を含む種別は、ある種のソフトウェアが[[二次的著作物]]であるか否かについての問題とは概ね関係がない、すなわち、そのソフトウェアが、クライアントソフトウェアとライブラリ、またはそれら個別との[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]が意図されているか否かについての問題のほうがより重要である、と主張している<ref name="Rosen"> {{cite web | url = http://www.linuxjournal.com/article/6366 | title = Derivative Works | author = [[ローレンス・ローゼン (弁護士)|Lawrence Rosen]] | date = 2003-01-01 | work = [[Linux Journal]] | publisher = www.linuxjournal.com | accessdate = 2011-03-26 }}</ref>。彼は、「新規のプログラムが二次的著作物であるか否かの主な指標は、原著作物のプログラムのソースコードが、『複製と添付(コピーアンドペースト)』する意図をもって利用され、新たなプログラムを作成する任意の手段において、改変、翻案またはその他の変更を加えたか否かに係っている。もしそうでないならば、私はその新規のプログラムは二次的著作物ではないと主張するだろう」と述べる<ref name="Rosen" />。また、彼はこの記事の中で、ソフトウェアの組み合わせ・バンドリング、リンクのメカニズムなど、その他関連する多くの指摘意図を挙げている。さらに、彼は、彼の弁護士事務所のウェブサイト<ref name="Rosen-Firm-Website"> {{cite web | url = http://www.rosenlaw.com/lj19.htm | title = Derivative Works | author = [[ローレンス・ローゼン (弁護士)|Lawrence Rosen]] | date = 2004-05-25 | publisher = Rosenlaw & Einschlag Technology Law Offices | accessdate = 2011-03-26 }}</ref>にて、このような「市場原理」的要素はライブラリリンクの原理といった技術的な要素よりも重要であると主張している。 [[プラグイン]]または[[モジュール]](例えば、フリーなドライバ"[[nouveau]]"とは別個に存在する、[[NVIDIA]]の[[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]な[[デバイスドライバ]]、また[[ATI Technologies|ATI]] [[ATI FirePro|FireGL]] RXなどの[[グラフィックカード]]用[[ローダブル・カーネル・モジュール|カーネルモジュール]]がその一例)が固有の著作物と合理的に見なされる際、それらライブラリがGPLに従わなければならないか否かという、別個の問題もある。これに対する見解は、著作物がGPLv2ならば、分離していると合理的に理解されるプラグインまたは、プラグインを利用するために設計されたソフトウェア用のプラグインは、任意のライセンスで許諾され得る。GPLv2の条文段落において特に注目される箇所は以下の条文である。 {{quote| You may modify your copy or copies of the Program or any portion of it, thus forming a work based on the Program, and copy and distribute such modifications or work under the terms of Section 1 above, provided that you also meet all of these conditions: ... b) You must cause any work that you distribute or publish, that in whole or in part contains or is derived from the Program or any part thereof, to be licensed as a whole at no charge to all third parties under the terms of this License. ... These requirements apply to the modified work as a whole. If identifiable sections of that work are not derived from the Program, and can be reasonably considered independent and separate works in themselves, then this License, and its terms, do not apply to those sections when you distribute them as separate works. But when you distribute the same sections as part of a whole which is a work based on the Program, the distribution of the whole must be on the terms of this License, whose permissions for other licensees extend to the entire whole, and thus to each and every part regardless of who wrote it. }} 実際にはGPLv3でも同じであり、条項の文面は多少異なっているが<ref group="注釈"> とりわけ"a work based on the Program"はGPLv2とは全く同じ用語であるが、その意味するところは異なる。 </ref>、上記と同様の内容が、以下となる(詳しくはセクション"[[#改変版ソースの伝達|改変版ソースの伝達]]"を参照)。 {{quote| You may convey a work based on the Program, or the modifications to produce it from the Program, in the form of source code under the terms of section 4, provided that you also meet all of these conditions: ... c) You must license the entire work, as a whole, under this License to anyone who comes into possession of a copy. This License will therefore apply, along with any applicable section 7 additional terms, to the whole of the work, and all its parts, regardless of how they are packaged. This License gives no permission to license the work in any other way, but it does not invalidate such permission if you have separately received it. ... A compilation of a covered work with other separate and independent works, which are not by their nature extensions of the covered work, and which are not combined with it such as to form a larger program, in or on a volume of a storage or distribution medium, is called an “aggregate” if the compilation and its resulting copyright are not used to limit the access or legal rights of the compilation's users beyond what the individual works permit. Inclusion of a covered work in an aggregate does not cause this License to apply to the other parts of the aggregate. }} 事例分析として挙げると、[[Drupal]]や[[WordPress]]のようなGPLv2でリリースされていた[[コンテンツ管理システム|CMS]]に対し、それらに提供されていたプロプライエタリと想定される[[プラグイン]]、{{仮リンク|テーマ (コンピュータ)|label=テーマ|en|Theme (computing)}}、[[スキン (GUI)|スキン]]などは、両プロジェクトサイドにて議論が巻き起こる共に、非難されるようになってしまった<ref> {{cite web | url = http://www.webmaster-source.com/2009/01/29/why-theyre-wrong-wordpress-plugins-shouldnt-have-to-be-gpl/ | title = Why They’re Wrong: WordPress Plugins Shouldn’t Have to be GPL | publisher = Webmaster-source.com | date = 2009-01-29 | accessdate = 2011-03-27 }}</ref><ref> {{cite web | url = http://drupal.org/licensing/faq#q7 | title = Licensing FAQ (7: If I write a module or theme, do I have to license it under the GPL?) | publisher = [[Drupal]] | accessdate = 2011-03-27 | quote = Yes. Drupal modules and themes are a derivative work of Drupal. If you distribute them, you must do so under the terms of the GPL version 2 or later. }}</ref><ref> {{Cite web|和書 | url = http://jp.blogherald.com/2010/07/16/inevitable-wordpress-to-sue-thesis-founder/ | title = 衝突は不可避? WordPress、Thesisの創始者を訴える | publisher = jp.blogherald.com | date = 2010-07-16 | accessdate = 2011-03-28 }}</ref><ref> {{Cite web|和書 | url = http://jp.blogherald.com/2010/07/26/crisis-averted-thesis-submits-to-wordpress-gpl/ | title = 危機を回避: Thesis、WordPressのGPLを受け入れる | publisher = jp.blogherald.com | date = 2010-07-26 | accessdate = 2011-03-28 }}</ref><ref> {{Cite web|和書 | url = http://sourceforge.jp/magazine/09/07/06/0313240 | title = WordPress.org、テーマについてもGPLを要求へ | publisher = [[SourceForge.JP]] Magazine | date = 2009-07-06 | accessdate = 2011-04-24 }}</ref>。 一方、[[Linuxカーネル]]ではこのような結合の状況分析を行うことなく、カーネルの著作権の影響範囲とユーザ空間プログラムが派生物ではないことをライセンステキスト冒頭<ref> {{cite web | url = http://git.kernel.org/?p=linux/kernel/git/torvalds/linux.git;a=blob_plain;f=COPYING | title = COPYING of Linux kernel | publisher = git.kernel.org | accessdate = 2011-05-05 }}</ref>で述べている<ref group="注釈"> これはGPLの例外条項(GPLv3でいうところの「追加的許可条項」)ではなく、本来は司法の場で決定されるべき派生物に対しての一解釈を述べているだけに過ぎない。ライセンステキストに書かれてしまっているので、よくこのことは混同されがちである。 </ref>。 <pre> NOTE! This copyright does *not* cover user programs that use kernel services by normal system calls - this is merely considered normal use of the kernel, and does *not* fall under the heading of "derived work".[...] </pre> 参考訳: <pre> 注意! この(Linuxカーネルの)著作権は通常のシステムコールによる カーネル・サービスを利用するユーザ空間プログラムを影響下に置くことは「ない」。 このことは、カーネルの通常利用を考慮したものであるに過ぎない。 そして、このことは「派生物」との分類を受けるものでは「ない」。(後略) </pre> === 集積物の別の部分と見なされるパッチ === 前述のセクションの実例を挙げる。GPLソフトウェアへの[[パッチ]]を提供した場合は、そのパッチが「適用したGPLソフトウェアとは別の著作物」とみなされる''可能性''も含んでいる。これは、前述の通り、 * GPLv2の第2節後半部分 ''These requirements [...] do not apply to those sections when you distribute them as separate works.'' や * GPLv3第5項最終段落 ''Inclusion of a covered work in an aggregate does not cause this License to apply to the other parts of the aggregate.''<ref> [[八田真行]]訳: ''単に『保護された作品』を集積物に含めるだけでは、その集積物の他の部分にまで本ライセンスが適用されるということにはならない。''</ref> に規定されている。即ちGPLソフトウェアを含む「''集積物'' (''aggregate'') の他の部分」と認められれば、GPLに反しない、言い換えればGPLよりパーミッシブ・ライセンスでパッチを公開しても良い<ref group="注釈"> [[#改変版ソースの伝達|GPLv3の規定]]に従えば「集積物の他の部分」には任意のライセンスが適用できるが、そのパッチを作る基となったGPLv3ソフトウェアと両立しないライセンスでリリースすることは、基となったGPLv3ソフトウェアにはパッチを適用できないのでナンセンスである。 </ref>。例えばパッチが単なる修正ではなく、単体で再利用可能な全く別種の機能強化と見なされればそれは集積物の別の部分と規定でき、そのパッチのみに対しGPLと矛盾せずかつGPL以外のライセンス([[BSDライセンス]]や[[zlib License]]など)を適用する事も可能である。一例をあげると、[[MySQL]]は、「リンク例外条項付きGPLv2」と商用ライセンスとで[[デュアルライセンス|デュアルライセンシング]]されている。これに対し[[Google]]はMySQL向けのパッチをBSDライセンスで提供していた<ref> {{cite web | url = https://code.google.com/p/google-mysql-tools/wiki/Mysql5Patches | title = Mysql5Patches | date = 2009-08-10 | publisher = code.google.com | accessdate = 2011-03-11 }}</ref>。このパッチはオリジナルのMySQLに由来しないコードのため、GPLで保護されたMySQLの「集積物とは別の部分」となる。BSDライセンスは独占的なライセンスであろうとも両立するので、結果的にこのパッチは、MySQLをGPLで利用するライセンシーと共に商用ライセンスで利用する者も適用可能である<ref> {{Cite web|和書 | url = https://nippondanji.blogspot.com/2009/10/gplmysqlbsd.html | title = 漢(オトコ)のコンピュータ道: GPLが適用されているソフトウェア=MySQLのパッチをBSDライセンスでリリースする。 | date = 2009-10-30 | author = 奥野幹也 | publisher = nippondanji.blogspot.com | accessdate = 2011-03-11 }}</ref><ref name="BSDL'ed-patch-may-apply-GPL'ed-s/w"> {{Cite web|和書 | url = https://nippondanji.blogspot.com/2009/11/gplbsd.html | title = 漢(オトコ)のコンピュータ道: GPLソフトウェアのパッチをBSDライセンスで提供することの意義 | date = 2009-11-02 | author = 奥野幹也 | publisher = nippondanji.blogspot.com | accessdate = 2011-03-11 }}</ref>。また同時にそのパッチから[[サブルーチン]]のみを取り出し、BSDライセンスされたソフトウェアにも同様のルーチンを導入する事も可能となる<ref name="BSDL'ed-patch-may-apply-GPL'ed-s/w" />。 === 非GPLプログラムとの結合や組み合わせ === GPLなソフトウェアと別のプログラムが単に結合している場合は、本来、全てのソフトウェアをGPLにすることも要求されない、そしてGPLなソフトウェアを非GPLソフトウェアとともに頒布することも要求されない。しかし、稀な条件において、GPLの権利を保証することを妨げる障害が取り除かれるであろう。次の文は、[[GNU]].org ウェブサイトに存在するGPL [[FAQ]]からの引用である。これは、ソフトウェアが、バンドルされたGPLプログラムと結合を許される範囲がどこまでかを記述している。 {{quote| '''What is the difference between an “aggregate” and other kinds of “modified versions”?'' An “aggregate” consists of a number of separate programs, distributed together on the same CD-ROM or other media. The GPL permits you to create and distribute an aggregate, even when the licenses of the other software are non-free or GPL-incompatible. The only condition is that you cannot release the aggregate under a license that prohibits users from exercising rights that each program's individual license would grant them. Where's the line between two separate programs, and one program with two parts? This is a legal question, which ultimately judges will decide. We believe that a proper criterion depends both on the mechanism of communication (exec, pipes, rpc, function calls within a shared address space, etc.) and the semantics of the communication (what kinds of information are interchanged). If the modules are included in the same executable file, they are definitely combined in one program. If modules are designed to run linked together in a shared address space, that almost surely means combining them into one program. By contrast, pipes, sockets and command-line arguments are communication mechanisms normally used between two separate programs. So when they are used for communication, the modules normally are separate programs. But if the semantics of the communication are intimate enough, exchanging complex internal data structures, that too could be a basis to consider the two parts as combined into a larger program. }}<ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl-faq.html#MereAggregation | title = What is the difference between an “aggregate” and other kinds of “modified versions”? | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-27 }}</ref><ref>[[八田真行]]による日本語訳。 {{Cite web|和書 | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl-faq.ja.html#MereAggregation | title = 「単なる集積」と「二つのモジュールを一つのプログラムに結合すること」の違いは何ですか? | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-27 }}</ref> このように、FSFは「ライブラリ」と「その他のプログラム」とを、次の2つの観点双方を用いて線引きしている。 # データ・情報交換に係る「複雑さ」(''complexity'') と「親密さ」(''intimacy'') (「[[セマンティクス]]{{要曖昧さ回避|date=2023年6月}}」) # セマンティクスだけではなく[[メカニズム]](''mechanism rather than semantics'') しかし、FSFは、この問題は明確な結論はなく、複雑さの条件について[[判例]] ("case law") により決められる必要があるだろう、と譲歩している。 GPL FAQでは「結合メカニズム」(「コミュニケーションのメカニズム」)の例として、[[プロセス間通信]]、[[遠隔手続き呼出し]] (RPC)、[[カーネル空間]]・[[ユーザー空間]]の通信や[[システムコール]]、[[パイプ (コンピュータ)|パイプ]]、[[exec]]による[[プロセス]]起動などを挙げている。これら「結合メカニズム」を用いてGPLなソフトウェアと接続する場合は、個別のプログラムであるため結合ではないとも見なせるが、そのやり取りするデータの如何によって接続先が二次的著作物であると見なされる余地も残されている(「コミュニケーションのセマンティクス」)。これに対する明確な法廷判断はまだない。 == ライセンス条文の著作権者 == GPLの条文自体は[[GNU Free Documentation License|GFDL]]やGPLの下に自由に配布されているわけではなく、ライセンス著作者は条文の改変 (''modifications'') を許可していない(GPLの条文自体の[[著作権]]は[[フリーソフトウェア財団]]が持つ)。GPLはプログラムの受領者に''(本ライセンスの直接の対象となる)本プログラムと共に本ライセンスの複製を'' (''a copy of this License along with the Program'') 得る権利を与えているため、未改変のライセンスの複製と''頒布'' (''distribution''; 配布) は許されている<ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/copyleft/gpl.html | accessdate = 2009-07-21 | title = The GNU General Public License Version 3 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | date = 2007-06-29 }}</ref>。GPL FAQ<ref name="ModifyGPL"> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl-faq.html#ModifyGPL | title = Can I modify the GPL and make a modified license? | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | date = 2011-02-11 | accessdate = 2011-03-01 }}</ref>によると、仮に改変する場合は、別の名前とし、「GNU」について言及せず、[[フリーソフトウェア財団]]から許諾を得ている場合を除いて改変版ライセンスからGPLの''前文'' (''Preamble'') を削除した場合に限り、GPLの改変版を利用して新たなライセンスを作成しても良い。そのようにして作成された派生ライセンスに対し、FSFは一切の法的異議申し立てを行うことはないが、そういったライセンスは一般にGPLと''[[ライセンスの互換性|両立]]しない'' (''互換性が無い''、''incompatible'') ので、FSFは推奨していない 。 前述のとおり、GPLの条文自体は[[著作権]]で管理されており、その保持者は[[フリーソフトウェア財団|FSF]]である。しかしながら、FSFはGPLのもとリリースされた著作物の著作権は保持しない。これも前述したが、例外は、著作権者が明示的にFSFに著作権を譲渡した場合である。ただし、そのような事例はGNUプロジェクトに属するプログラムや寄贈されたプログラムを除いてあまりない。ライセンス違反が発生した場合、個々の著作権者のみが、[[訴訟]]を起こす権限を持つ<ref name="gpl-violations" />。 FSFは、FSFの許可なくGPLの''前文'' (''Preamble'') を含めた、派生ライセンスを使用しない限り、GPLに基づいた新しいライセンスを作成することを許可する。しかしながら、このようなライセンスはGPLと''[[ライセンスの互換性|両立]]しない'' (''incompatible'') 場合があるので、作成しないほうがよい<ref name="ModifyGPL" />。またそれは、明らかに[[ライセンスの氾濫]]を生じさせる。[[翻訳]]も[[翻案権]]の行使であるため、ライセンスの翻訳は原則認められないが、その翻訳が非公式であることを明記し、FSFの求めに応じて翻訳をアップデートできるならば翻訳を許可される<ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/translations.html | title = Unofficial Translations | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | date = 2011-04-07 | accessdate = 2011-04-21 }}</ref>。 その他、GNUプロジェクトにより作成されたライセンスには、[[GNU Lesser General Public License]]、[[GNU Free Documentation License]]が含まれる。 == 両立性とマルチライセンス == === ライセンスの互換性 === {{main|ライセンスの互換性}} [[Image:Quick-guide-gplv3-compatibility.svg|350px|thumb|GPLと両立するライセンスについてのクイックガイド。上段から順に[[コピーレフト]]性がまったく無い[[パブリックドメイン]]を含む[[パーミッシブ・ライセンス]]から、弱いコピーレフトを持つ[[GNU Lesser General Public License|LGPL]]、コピーレフトが最も強い'''GPL'''を示し、左列は(GPLv2を除いて)GPLv2・GPLv3双方と両立、右列はGPLv3''のみ''と両立するライセンスである。あるライセンスから矢印の向かう先のライセンスには再ライセンス可能である。そうでない場合は印がない。左最上部のライセンス群は相互再ライセンス可能である。GPLv2とGPLv3は互換性がないが、条件を満たせば、GPLv2からGPLv3に再ライセンス可能である(そのためか、GPLv2からGPLv3へ破線矢印が記されている)。]] あるオープンソースソフトウェアでライセンス上考慮すべき点があるなどして、またはもっと極端な例では、GPLの思想的な面に反発があるなどして、GPLと''[[ライセンスの互換性|両立性]]''<ref group="注釈"> ''compatible''。''両立する''、''互換性がある''と訳される。その逆は、''incompatible''。''両立しない''、''非互換である''と訳される。 </ref>を欠くようなライセンスを著作物に敢えて採用するケースがあるかもしれない。しかし、GPLを採用するフリーソフトウェア、オープンソースソフトウェアが多数存在するため(セクション"[[#採用実績|採用実績]]"を参照)、現実問題としてそのような行為はコードの再利用性を著しく欠く結果につながる(記事"[[ライセンスの氾濫]]"を参照)。このため、自身の採用するライセンスをGPLと非互換にしないよう、GPLとのライセンス両立性を考慮することは重要である。 著作物全体として影響を受けるライセンスの持つ制限の組み合わせにより、GPLが許諾する事項を越えるいかなる追加的制限が課されない限り、他のライセンスで許諾されたコードは、GPLで許諾されたプログラムと衝突することなく組み合わせることも可能である<ref name="gpl-all-text"> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl.html | title = GNU GENERAL PUBLIC LICENSE | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2010-03-28 }}</ref>。また二次的著作物の観点として、互換性のある[[フリーソフトウェアライセンス]]/[[オープンソース]]ソフトウェアライセンスで許諾されるコードを組み合わせる場合は、原則コードの組み合わせ全体に、その[[コピーレフト]]性が最も強くなるライセンスの影響を受ける<ref group="注釈"> すなわち、組み合わせた著作物を二次的著作物とし同一のライセンス下におくものに再ライセンスされる可能性がある。ただし、その他の条項、例えば特許の取り扱いの相違や原著作者の表示条件(宣伝条項)などが存在する場合必ずしも再ライセンス可能というわけではない。 </ref>。GPLの正規の条項に加えて、追加的な制限や許諾を適用することができる組み合わせは以下の通りである。 # ''異なるバージョン''のGPLのもとライセンスされるコードを組み合わせたいと考える場合は、より古いバージョンのGPLのコードに''"any later version" statement'' (''「任意の以後のバージョン」という表明文'') が認められているのならば許可される<ref name="v2-vs-v3"> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl-faq.html#v2v3Compatibility | title = Frequently Asked Questions about the GNU Licenses – Is GPLv3 compatible with GPLv2? | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-28 }}</ref> # [[GNU Lesser General Public License|LGPL]]のもとライセンスされるコードは、そのコードのライセンス如何に関わらず([[プロプライエタリソフトウェア|独占的]]なコードでさえも)、いかなるその他のコードともリンク可能である<ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/old-licenses/lgpl-2.1.html#SEC2 | title = GNU Lesser General Public License, version 2.1 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-28 }}</ref><ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/lgpl.html | title = GNU Lesser General Public License | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-28 }}</ref>。組み合わせた全体の著作物がGPLv2またはGPLv3でライセンスされる場合において、LGPLv2でライセンスされたコードに"any later version" statementが''存在しない''場合はコードを当該ライセンスで再ライセンスすることができる<ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl-faq.html#AllCompatibility | title = Frequently Asked Questions about the GNU Licenses – How are the various GNU licenses compatible with each other? | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-28 }}</ref>。 上述1.について、よくある表明文の例は、"either version 2 of the License, or (at your option) any later version" (「本ライセンスのバージョン2、または(あなたの選択で)任意の以後のバージョン」) である。これと対照的な例は[[Linuxカーネル]]や、バージョン1.9.2までのプログラミング言語[[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]]の処理系([[インタプリタ]])である。これらは"any later version" statementなしのGPLv2単独でライセンスもしくはGPLv2を''内部的に参照する''形式を採る[[Rubyライセンス]]である(後者は[[デュアルライセンス]]に類似する)。従ってGPL''v3''のコードを組み合わせることはできないので注意を要する。しかし、[[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]]の処理系はデュアルライセンスのGPLを、バージョン1.9.3より、GPLより[[パーミッシブ・ライセンス]]である2条項[[BSDライセンス]]に変更したため、以後のバージョンのRubyの処理系ではGPLv3で保護されるプログラムを組み合わせることも可能である。このような許諾変更が許されるのは、デュアルライセンスの片方である[[Rubyライセンス]]には著作権者(Rubyの処理系の場合は[[まつもとゆきひろ|まつもと]])に許諾変更を一任する条項(2.(d))が存在する為である。一般的に、ソフトウェアのライセンスを非互換なライセンスに変更する場合は、コードの全[[著作権者]]からライセンス変更の同意を取り付けなければならない<ref name="gplv3-not-applied" />。LinuxカーネルのライセンスはGPLv2単独であり、Ruby処理系のような特殊な規定を持っているわけではないので、仮に変更する場合はそうせざるを得ない<ref name="gplv3-not-applied" />。GNUプロジェクトはこのような事態に陥ることを回避するため、前述の通り著作権者からコードの著作権をFSFに譲渡するよう勧め、またソフトウェアのライセンスほぼ全てに"any later version"表明文を付したGPLを適用している。 FSFは、GPLと[[ライセンスの互換性|両立する]][[フリーソフトウェアライセンス]]のリストを維持管理している<ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl-faq.html#WhatIsCompatible | title = Frequently Asked Questions about the GNU Licenses – What does it mean to say that two licenses are "compatible"? | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] |accessdate=2011-03-28 }}</ref><ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl-faq.html#WhatDoesCompatMean | title = Frequently Asked Questions about the GNU Licenses – What does it mean to say a license is "compatible with the GPL?" | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-28 }}</ref><ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/license-list.html#GPLCompatibleLicenses | title = Various Licenses and Comments about Them – GPL-Compatible Free Software Licenses | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-28 }}</ref>。そのようなライセンスは、もっとも広く利用されている、オリジナルの[[MIT License|MIT/X license]]、(現行の3条項形式の)[[BSDライセンス]]そして[[Artistic License]] 2.0などを対象としている<ref> {{cite web | url = http://www.blackducksoftware.com/oss/licenses/ | title = Open Source License Data | publisher = www.blackducksoftware.com | accessdate = 2011-03-28 }}</ref>。 {{仮リンク|デイヴィッド・A・ウィーラー|en|David A. Wheeler}}は、GPLと非互換なライセンスを利用すると、他者の[[フリーソフトウェア]]/[[オープンソース]]ソフトウェアプロジェクトへの参加や、コードの貢献を困難にするため、[[フリーソフトウェア|フリー]]/[[オープンソース]]開発者はGPL互換なライセンス''のみ''採用するよう強く主張し続けている<ref name="d-a-w-statement" /><ref group="注釈"> [[コードの再利用|ソフトウェア全体の再利用性]]を低下させるとの記述もある。 </ref>。 特筆すべきライセンス非互換の例として、旧[[サン・マイクロシステムズ]]の[[ZFS]]が、GPLでライセンスされた[[Linuxカーネル]]に組み込めないというものが挙げられる。なぜなら、ZFSはGPL非互換なライセンス、[[Common Development and Distribution License|CDDL]]で許諾されているからである。これに加え、ZFSは[[特許]]で保護されており、ZFSの機能を持つソフトウェアをサンとは独立にGPLのもと実装し頒布しようとしたとしても、それでもなおサン(現在は[[オラクル (企業)|オラクル]])の許諾が必要となると予想される<ref> {{cite web | url = http://kerneltrap.org/node/8066 | title = Linux: ZFS, Licenses and Patents | author = Jeremy Andrews | work = {{仮リンク|KernelTrap|en|KernelTrap}} | publisher = kerneltrap.org | accessdate = 2011-03-28 |archiveurl=https://archive.is/wwok|archivedate=2012-05-25}}</ref>。 === マルチライセンス === {{Main|デュアルライセンス}} 他の一部のフリーソフトウェア・プログラムは、複数のライセンスにより[[デュアルライセンス]]されているものがある。その中にはライセンスの一つにGPLが選択されていることもよくあり、「デュアルライセンスはもっと広まる」と独立ソフトウェア・コンサルタントのテッド・ロシュ (Ted Roche) は指摘している<ref> ロシュは[[2003年]][[5月]]、要点を[http://www.tedroche.com/Present/VFPOOoAutomation.htm FoxTalk]にまとめている。 別のコンサルタントであるリッチ・ヴォーダー(Rich Voder)も同様に要点を[http://www.mironov.com/open_source_tree_museums/ Open Source: Tree Museums]としてまとめている([[2005年]]12月30日)。 </ref>。この方法だと、GPLを適用しないまま二次的著作物を頒布することを認めることができる。これは、二次的著作物に有償の商用ライセンスを適用することも可能にする。[[MySQL]]などはまさにこの例に当てはまる特筆すべき例である。 一般的に[[プロプライエタリソフトウェア]]はGPLソフトウェアと組み合わせることはできない。しかしこのような場合でも、マルチライセンスを利用することでGPLソフトウェアを組み合わせることも可能となる。 GPLのもとで頒布するとともに、[[静的リンク]]などを使用する場合やそうではなく[[動的リンク]]を使用する場合においても<ref group="注釈"> セクション"[[#リンクと派生物|リンクと派生物]]"で述べたとおり、二次的著作物か否かの線引きは未確定事項であるため、動的リンクにより二次的著作物となる場合も想定される。 </ref>、パッケージに[[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]なコードを組み合わせたいと望む[[企業]]のため、二次的著作物を[[プロプライエタリソフトウェア|独占的な]]条件・ライセンスで頒布・販売可能にする商用ライセンスを同時に提供するマルチライセンシング・[[ビジネスモデル]]が多く存在する。このようなビジネスモデルを採用する企業と採用したソフトウェアには、[[オラクル (企業)|Oracle]]社([[MySQL AB]]社の[[MySQL]])、{{仮リンク|Digia|en|Digia}}<ref> {{cite web | url = http://www.digia.com/C2256FEF0043E9C1/0/405002251 | title = Digia to acquire Qt commercial licensing business from Nokia | work = {{仮リンク|Digia|en|Digia}} | publisher = www.digia.com | accessdate = 2011-04-21 }}</ref>社(旧[[Qt Development Frameworks|Trolltech]]社の[[Qt|Qtフレームワーク]]<ref> [[2008年]]6月から[[2011年]]3月までは[[ノキア]]が所有していた。 {{Cite web|和書 | url = http://qt.nokia.com/about-jp/ | title = Qt Development Frameworks について | publisher = [[ノキア|Nokia]] | accessdate = 2011-04-21 }}</ref> )、{{仮リンク|Namesys|en|Namesys}}社 ([[ReiserFS]])、[[レッドハット|Red Hat]]社 ([[Cygwin]])、Riverbank Computing社 ([[PyQt]]) などがある。 <!--[[デュアルライセンス|マルチライセンス]]を利用し動的リンクでGPLの裏をかいたり、著作権者に提訴された際には、係争者が存在しない。マルチライセンス下の商用ライセンスによる制限は''正式'' ([[デ・ジュリ|de jure]]) にではないにしろ、''事実上の'' ([[デ・ファクト|de facto]]) 強制といえる。--> その他、[[Mozilla Application Suite]]、[[Mozilla Thunderbird]]そして[[Mozilla Firefox]]を製品に持つ[[Mozilla Foundation]] ([[Mozilla Corporation]]) のような企業はGPLだけではなく同時に他のオープンソースライセンスでも頒布可能なようにマルチライセンスを採用するケースがある。 === GPLv2とGPLv3の互換性 === GPLv3はGPLv2と比べ、条文の大幅な変更にも関わらず、内容自体には大きな変更はないとも言える。しかし全く無いわけではなく、とりわけGPLv3の特許関連条項と、(反DRM条項改め)反[[TiVo化]]条項などは、GPLv2の第6節にある「(GPLv2で認められた) ''これ以上他のいかなる制限''」(''further restriction''、同様の条項がGPLv3の第10項の''さらなる権利制限'') に相当するため、原則GPLv3はGPLv2と[[#両立性とマルチライセンス|両立]]しない。ただし、GPLv2で保護される著作物が“version 2 or later,”でリリースされていれば両立する<ref name="v2-vs-v3" />。 == 採用実績 == === ソフトウェアにおける利用 === {{see also|GPLリンク例外|GNAT Modified General Public License}} GPLはフリーあるいは[[オープンソースソフトウェア]]用のライセンスとして圧倒的な人気がある。 きわめて大きいソフトウェア・アーカイブをもつ{{仮リンク|ibiblio|label=Metalab|en|ibiblio}}の[[1997年]]の調査では、約半数をGPLのソフトウェアが占めていた<ref name="d-a-w-statement"> {{cite web | url = http://www.dwheeler.com/essays/gpl-compatible.html | title = Make Your Open Source Software GPL-Compatible. Or Else. | author = {{仮リンク|デイヴィッド・A・ウィーラー|en|David A. Wheeler}} | date = 2010-09-14 | accessdate = 2011-03-01 }}文書内で、[[エリック・レイモンド]]の''{{仮リンク|ノウアスフィアの開墾|en|Homesteading the Noosphere}}''への言及がある。</ref>。 [[2001年]]の調査では、[[Red Hat Linux]] 7.1 に使われているソースコードの 50%がGPLでライセンスされている<ref> {{cite web | url = http://www.dwheeler.com/sloc/redhat62-v1/redhat62sloc.html | title = Estimating GNU/Linux's Size | author = {{仮リンク|デイヴィッド・A・ウィーラー|en|David A. Wheeler}} | date = 2004-07-30 | accessdate = 2011-03-01 }}</ref>。 [[2006年]]1月の時点で、[[SourceForge.net]]にホスティングされているプロジェクトの約68%が、[[2007年]]8月の時点で、[[Freshmeat]]に掲載されている43,442のフリーソフトウェア・プロジェクトのうち65%近くが保護されるライセンスとしてGPLを使用している<ref> {{cite web | url = http://www.dwheeler.com/frozen/sourceforge-stats-20031110.html | title = SourceForge.net: Software Map | publisher = Dwheeler.com | accessdate = 2008-11-17 }}</ref>(両サイトを運営しているのはLinuxとGPLに造詣の深い企業[[Geeknet]]社である)。 Black Duck Software社により管理される"Open Source License Resource Center"によると、[[フリーソフトウェアライセンス|フリーソフトウェア]]/[[オープンソース]]ライセンスでリリースされたソフトウェアパッケージ全体の約60%がGPLをライセンスに採用していると示されている<ref name="widelyused"> {{cite web | url = http://www.blackducksoftware.com/oss/ | title = Open Source License Resource Center | publisher = www.blackducksoftware.com | date = | accessdate = 2008-11-17 }}</ref>。 === テキストメディアならびに他のメディアにおける利用 === {{Main|Debianフリーソフトウェアガイドライン#GFDL|GPLフォント例外}} [[プログラム (コンピュータ)|コンピュータ・プログラム]]の代わりに[[テキストファイル|テキスト]]文書、またはより一般的にはあらゆる種類の[[メディア (媒体)|メディア]]全てにGPLを採用することは可能である。ただしその条件は、それらメディアが「''ソースコード''」(その定義としては、「それ自身を変更することを可能にさせる著作物の好ましい形態」)を構成できるか明らかである必要がある<ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl-faq.html#GPLOtherThanSoftware | title = Frequently Asked Questions about the GNU Licenses: Can I use the GPL for something other than software? | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-28 }}</ref>。[[マニュアル]]や[[教科書]]は、''FSF自身は[[GNU Free Documentation License]] (GFDL)の利用を代わりに薦める''が、この目的において前述の要件を形成できる媒体である<ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl-faq.html#WhyNotGPLForManuals | title = Frequently Asked Questions about the GNU Licenses: Why don't you use the GPL for manuals? | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-28 }}</ref>。しかしながら、FSFの勧告にも関わらず、[[Debian]]開発者らは([[2006年]]に採択された決議に基づき)、彼らのプロジェクトにおける文書を''GPL''のもとライセンスする勧告を出した。なぜなら、プログラム・メディア双方の著作物における「ソースコード」という概念に対し、GFDLにはGPLの条項と非互換な取り扱いが存在するからである。すなわちGFDLのもとライセンスされたテキストはGPLで保護されるソフトウェアに組み込めないというのである<ref> {{cite web | url = http://www.debian.org/vote/2006/vote_001.html#amendmenttexta | title = General Resolution: Why the GNU Free Documentation License is not suitable for Debian main - Amendment Text A | publisher = [[Debian]] | accessdate = 2011-03-28 }}[[2006年]]2月から3月にかけて決議の投票が行われた。</ref>。詳細については、記事"[[Debianフリーソフトウェアガイドライン#GFDL]]"を参照せよ。また、[[フリーソフトウェア]]用の[[マニュアル]]などの作成に貢献している組織、{{仮リンク|FLOSS Manuals|en|FLOSS Manuals}} Foundationは、[[2007年]]に、本組織のテキストにGFDLの採用を忌避しGPLの採用を決定した<ref> {{cite web | url = http://en.flossmanuals.net/bin/view/Blog/LicenseChange | title = License Change | publisher = FLOSS Manuals foundation | accessdate = 2011-03-28 }}{{リンク切れ|date=2011年3月}}</ref>。 仮にGPLが[[フォント]]のライセンスに採用された場合、このようなフォントにより形成されるあらゆる文書、[[画像]]、[[Portable Document Format|PDF]]は、これまたGPLの条項に従って配布する必要があるかもしれない。このケースは、[[著作権法]]がフォントの'''[[書体]]''' (''appearance of fonts'', ''[[:en:Typeface|typeface]]'') には及ばない国々([[アメリカ合衆国]]と[[カナダ]]のような国)では問題とならない。[[日本]]の場合も同じく、フォントの[[書体]]は[[意匠権]]を持ち、[[意匠法]]により管掌されると同時に、独創性と美的特性のない書体に[[著作権]]はないとの考えは現状一般的である。しかし、[[フォントヒンティング]]・テクノロジーなどのフォント''ファイル''内に存在する'''プログラムコード'''は(それが「プログラム」である<ref> {{Cite web|和書 | url = http://www.jagat.or.jp/story_memo_view.asp?StoryID=6942 | title = アウトラインフォントの雑学(2)─フォント千夜一夜物語(30) | publisher = [[澤田善彦]] | accessdate = 2011-03-28 }}</ref>から、)猶も[[著作権法]]で保護され得るとの主張もある(詳細は記事"[[知的財産権#その他の権利]]" "タイプフェース"を参照)。また、セクション"[[#リンクと派生物|リンクと派生物]]"で述べたことと同様に、フォント埋め込みは文書がフォントと「リンク」していると見なされる<ref group="注釈"> 例えば、GPL FAQの解釈を杓子定規に適用すれば、[[Portable Document Format|PDF]]にフォントを埋め込んだ場合は、フォントと'''[[静的リンク]]'''している、フォントを埋め込まず、オブジェクト指定のみの場合'''[[動的リンク]]'''と見なせる。 </ref>ので、事態をより複雑にさせる。FSFはこの想定外の事態に対し、GPLでフォントをライセンスする際には著作権者は「例外条項」を設けるべきと勧告している<ref> {{cite web | url = http://www.fsf.org/blogs/licensing/20050425novalis | title = Font Licensing | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-28 }}</ref><ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl-faq.html#FontException | title = How does the GPL apply to fonts? | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-28 }}</ref>。 == 論争 == === ライセンスと契約にまつわる問題 === GPLは[[契約]]ではなく[[ライセンス]]として設計されている<ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/philosophy/no-ip-ethos.html | title = Don't Let ‘Intellectual Property’ Twist Your Ethos | author = [[リチャード・ストールマン|Richard Stallman]] | date = 2006-06-09 | accessdate = 2011-03-23 }}なぜライセンスが契約よりもふさわしいかストールマンが説明している論評。</ref><ref> {{cite web | url = http://fsfe.org/projects/gplv3/barcelona-moglen-transcript.en.html#q7-a-contract | title = Q7: How are you thinking about changing something in the title of the section, I think it's 9, "not a contract",... | publisher = [[Free Software Foundation Europe]] | date = 2006-06-22 | accessdate = 2011-03-23 }}「なぜGPLがライセンスで、なぜそれが問題となるのか」という[[エベン・モグレン]]の説明。</ref>。[[コモン・ロー]]の法的な権限の及ぶ範囲において、契約は[[契約法]]により支配されるが、他方ライセンスは[[著作権法]]のもと行使されるため、ライセンスと契約の法的な区別はいくらか重要である。しかしながら、[[大陸法]]のような契約とライセンスの相違点がない多くの法体系ではこの区別は意味を成さない<ref> {{cite journal | last = Guadamuz-Gonzalez | first = Andres | title = Viral contracts or unenforceable documents? Contractual validity of copyleft licenses | journal = European Intellectual Property Review | volume = 26 | issue = 8 | pages = 331–339 | year = 2004 | url = http://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=569101 }}</ref>。 また、GPLなソフトウェアを受け取ったライセンシーはどの国の著作権法に従うかであるが、これは著作権やライセンスの一般論として定められており、すなわち[[著作権の準拠法]]は著作物の利用のあった国の法体系である(これを[[属地主義]]という)。よってGPLなソフトウェアを受け取ったライセンシーはその居住する国の著作権法のもと当該ソフトウェアを利用することとなる。 GPLの条項や条件に同意しない("do not agree to")、またはそれらを受け入れない("do no accept")人々は、著作権法のもと、GPLでライセンスされたソフトウェアまたはその二次的著作物 (派生物) を複製または頒布する許諾を得ることはない(GPLv2第5節、GPLv3第9項)。しかしながら、もし彼らがGPLで保護されたプログラムを再頒布しないならば、彼らは猶も彼らの組織内でそのソフトウェアを好きなように使用しても構わない。そして、プログラムの利用により作成された著作物(生成されたプログラムもこの中に当てはまる)はこのライセンスの影響範囲に含めることを要求されない。<!-- 例えば、GPLv2でライセンスされた改変版Webサーバをソースコードを公開することなく、一般サイト上で稼動・利用する権利は留保されることなど。ただし、GPLv3ではこのことは特殊な条項により制限され得る。--> [[アリソン・ランダル]]は、ライセンスとしてのGPLv3はその支持者を不必要に混乱させており、同一の条件や法的効力を維持しつつ、簡略化すべきだと主張した<ref> {{cite web | url = http://radar.oreilly.com/archives/2007/05/gplv3-clarity-a.html | author = Allison Randal | authorlink = アリソン・ランダル | title = GPLv3, Clarity and Simplicity | publisher = radar.oreilly.com | date = 2007-05-14 | accessdate = 2011-03-25 }}</ref>。 日本の[[独立行政法人]]、[[情報処理推進機構]]が[[Software Freedom Law Center]]の協力の下作成した「GNU GPLv3 逐条解説書」<ref name="cmtr"> {{Cite web|和書 | url = http://ossipedia.ipa.go.jp/doc/187/ | title = GNU GPLv3 逐条解説書 | pages = 147-150 | date = 2010-05-26 | publisher = [[情報処理推進機構|IPA]] | accessdate = 2011-04-21 }}</ref>によると、GPLが契約かライセンスかの論争は、GPLがエンフォーシブル(''enforceable'')か否かという問題と同値であると結論付けられている<ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/philosophy/enforcing-gpl.html | title = Enforcing the GNU GPL | date = 2001-09-10 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-05-01 }}</ref>。すなわち、ライセンス違反が発生し、解決が法廷に持ち込まれた場合、GPLソフトウェアの作者に認められる要求が[[著作権侵害]]による違反者の頒布[[差止請求権|差止請求]]や[[損害賠償]]請求に留まるのか、はたまた、ライセンスをエンフォース(強制)し、ソースコードの開示にまで持っていけるのか、といった議論は、GPLが契約か否かという問題に帰着する。大陸法ではGPLを契約と見なせるので(とりわけGPLv2の第2節、GPLv3の第9項は[[申込]]と[[承諾]]の[[意思表示]]であると解釈できる)、仮に法廷に持ち込まれた場合、大陸法の法体系では、差止請求だけに留まらずソースコードの開示まで請求できるとの解釈が述べられている。ただし実際にそのような法的な判断、すなわち[[判決 (国際司法裁判所)|判決]]を下すのは裁判所と裁判官であり、状況によってはGPLが対象とする法的範囲が著作権法よりもさらに小さなものだと見なされ、ライセンサーの権利不行使を宣言するものである、[[民法]]の権利[[濫用]]の禁止や[[禁反言の法理|禁反言]]を始めとする[[信義誠実の原則|信義則]]を述べているだけにすぎないという判決が下される可能性すらもある。 また、[[契約]]をもって[[ライセンス]]を制限することも理論上は可能であるため、GPLでの再頒布時の権限を契約を持って押さえ込むことも可能である。ただしそれが有効と認めた判例は未だもってない。 === 法廷におけるGPL === {{main|ウォレス対インターナショナル・ビジネス・マシーンズ・コーポレーション他事件|SCO・Linux論争|{{仮リンク|SCO対IBM事件|en|SCO v. IBM}}|BusyBox#GPL違反問題|フリーソフトウェア財団対シスコシステムズ事件}} [[2002年]]、[[MySQL AB]]は[[著作権侵害]]ならびに[[商標]]権侵害でProgress NuSphere社<ref> http://www.nusphere.com/</ref><ref name="nusphere-contrib"> もともとNuSphereは[[MySQL]]の商用パッケージを販売したり、MySQLプロジェクトへのコードの貢献も行うなど、MySQLコミュニティでは有名な企業だった。 {{cite web | url = http://www.serverwatch.com/news/article.php/1128821/PR-NuSphere-to-Contribute-Row-Level-Locking-to-MySQL-Database.htm | title = PR: NuSphere to Contribute Row-Level Locking to MySQL Database | date = 2000-10-30 | publisher = www.serverwatch.com | accessdate = 2011-03-27 }}</ref>を{{仮リンク|アメリカ合衆国マサチューセッツ連邦地方裁判所|en|United States District Court for the District of Massachusetts}}に[[訴訟|提訴]]した。伝えられる所では、NuSphereは、[[MySQL]]のGPLで保護されるコードを自社のGemini[[表 (データベース)|テーブル]]型モジュール<ref> MySQL DB用の[[トランザクション]]・セーフなテーブル処理エンジンとある。 {{cite web | url = http://www.nusphere.com/products/library/gemini.pdf | title = What is NuSphere’s Gemini? | date = 2001-06 | publisher = www.nusphere.com | accessdate = 2011-03-27 }}</ref>に[[静的リンク]]したが、GPLの条項に従わず、Geminiの[[ソースコード]]を一切公開しなかった。このためMySQLの[[著作権]]を侵害していたとされる<ref> 本訴訟ではMySQL AB側をFSFが全面的に支援していた。 {{cite web | url = http://www.gnu.org/press/2002-02-26-MySQL.html | title = FSF Lawyer and Board Member Serves as Expert Witness in Lawsuit Related to GNU GPL | date = 2002-02-26 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-27 }}</ref><ref> 当訴訟ではFSFの当時法務[[顧問]]だった[[エベン・モグレン]]が[[鑑定人]] (''expert witness'') として宣誓供述している。 {{cite web | url = http://www.gnu.org/press/mysql-affidavit.html | title = Affidavit of Eben Moglen on Progress Software vs. MySQL AB Preliminary Injunction Hearing | date = 2002-02-26 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-27 }}</ref><ref> {{cite web | url = http://www.linux.com/archive/feature/21439 | title = GPL enforcement goes to court for first time in MySQL case | date = 2002-02-26 | author = JT Smith | publisher = Linux.com | accessdate = 2011-03-27 }}</ref>。[[2002年]]2月27日、{{仮リンク|パティ・B・サリス|label=パティ・サリス|en|Patti B. Saris}}判事の[[予備審問]]ののち、当事者らは[[和解]]協議に入り、最終的に事実上合意に至った<ref> 詳細は裁判記録「''Progress Software Corporation v. MySQL AB'', 195 F. Supp. 2d 328 (D. Mass. 2002)」における「'''{{仮リンク|予備的差止請求権|label=予備的差止命令|en|Preliminary injunction}}'''に対する'''[[被告]][[申立]]'''('''[[:en:defendant|defendant]]'s [[:en:Motion (legal)|motion]]''')」を参照のこと。 </ref>。審問終了後、FSFは「サリス判事は、GNU GPLが強制力と束縛力を持つライセンスであることが分かったことを表明した」とのコメントを発表した<ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/press/2002-03-01-pi-MySQL.html | title = Judge Saris defers GNU GPL Questions for Trial in MySQL vs. Progress Software | date = 2002-03-01 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-27 }}</ref><ref> {{cite web | url = http://www.theregister.co.uk/2002/11/21/mysql_nusphere_settle_gpl_contract/ | title = MySQL, NuSphere Settle GPL Contract Dispute | date = 2002-11-21 | work = {{仮リンク|ザ・レジスター|en|The Register}} | publisher = www.theregister.co.uk | accessdate = 2011-03-27 }}</ref>。 [[2003年]]8月、[[SCO]]グループは、「GPLに法的な有効性などない」と本気で考え、彼らはSCO Unixから[[Linuxカーネル]]へと不正に複製されたと疑わしいソースコードの断片を法廷で取り上げるつもりだと主張した。彼らは、当時[[Linuxディストリビューション|GNU/Linuxディストリビューション]]を頒布しており、またそのディストリビューション、[[Caldera OpenLinux]]ディストリビューションに含まれていたその他GPLで保護されたコードも頒布していたため、これは問題のある行動であり、しかも、GPLの条項に従うことを除いてそのような問題行動をとる[[著作権法|法]]的な権利などほとんど有って無いに等しかった。 [[ドイツ]]の[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]機器メーカー[[Sitecom]]は、GPLの条項に違反して、{{仮リンク|netfilter|label=netfilter/iptables|en|netfilter}}<ref group="注釈"> [[:en:netfilter|netfilter]]/[[iptables]]: [[Linuxカーネル]]に実装されたGPLのネットワーク・[[パケットフィルタリング|フィルタリング]]/[[ファイアウォール]][[ソフトウェアフレームワーク|フレームワーク]]。各記事も参照せよ。 </ref>プロジェクトのGPLで保護されたソフトウェアを頒布していたが、彼らは頒布停止を拒絶した。この後、事態は法廷に持ち込まれ、[[2004年]]4月、[[ミュンヘン]]地方裁判所はnetfilter/iptablesプロジェクトの訴えに対し、Sitecomドイツ法人の製品に対する{{仮リンク|予備的差止請求権|label=予備的差止命令|en|Preliminary injunction}}([[仮処分]]差止命令)を認める決定を下した。[[2004年]]7月、ドイツの法廷は、この[[差止請求権|差止命令]]がSitecomへの[[判決 (国際司法裁判所)|判決]]になると確定し、結審した<ref> 次のウェブページは、本訴訟「[[ハラルト・ヴェルテ]]対Sitecom事件」についての結審に係る判決文の英訳である。原文はドイツ語で、翻訳者はジェンズ・モーラー (Jens Maurer)。 {{cite web | url = http://www.groklaw.net/article.php?story=20040725150736471 | title = The German GPL Order - Translated | date = 2004-07-25 | publisher = [[Groklaw]] | accessdate = 2011-03-27 }}</ref>。法廷で認められたのは次の内容である。 :''Defendant has infringed on the copyright of plaintiff by offering the software 'netfilter/iptables' for download and by advertising its distribution, without adhering to the license conditions of the GPL. Said actions would only be permissible if defendant had a license grant [...] This is independent of the questions whether the licensing conditions of the GPL have been effectively agreed upon between plaintiff and defendant or not. If the GPL were not agreed upon by the parties, defendant would notwithstanding lack the necessary rights to copy, distribute, and make the software 'netfilter/iptables' publicly available.'' 参考訳: :''被告は、ソフトウェア'netfilter/iptables'を[[ダウンロード]]できる状態にし、その頒布物を宣伝したが、GPLのライセンス条件を遵守しなかったため、原告の著作権を侵害した。仮に被告がライセンスの許諾を受けている場合を除いて、当該行為は許されない。(中略) このことは、原告と被告との間で、GPLのライセンス条件に事実上合意したか否かという問題とは別である。仮に原告・被告の当事者がGPLに同意しなければ、にもかかわらず、被告は当該ソフトウェア'netfilter/iptables'を複製、頒布そして公開するのに必要な権利を失っていただろう。'' netfilter/iptablesの開発者でその著作権を持つもののひとりでもある、[[ハラルト・ヴェルテ]]は、[[ドイツ]]にある[[FLOSS]]関連の法的係争を扱う組織、{{仮リンク|ifrOSS|en|ifrOSS}}の共同設立者、ティル・イェーガー(Till Jaeger)に自身の法的代理人を要請した。この判決文は当時FSFの[[顧問]]だった[[エベン・モグレン]]が以前予想した通りの内容を反映していた。これは、GPLの条項違反が著作権侵害に与える影響を法廷が初めて認めた重要な判決だった。 [[2005年]]5月、ダニエル・ウォレス (Daniel Wallace) は「GPLは価格を零にしようとする違法な企て、すなわち{{仮リンク|価格固定|en|Price fixing}}や[[不当廉売|ダンピング]]である」と主張し、[[フリーソフトウェア財団|FSF]]を{{仮リンク|アメリカ合衆国インディアナ南部連邦地方裁判所|en|United States District Court for the Southern District of Indiana}}に[[訴訟|提訴]]した。[[2006年]]3月、ウォレスはGPLが[[独占禁止法|反トラスト法]]に違反する行為を促すとの正当な主張を法廷で証明することができなかったため、原告[[不服申立|申立]]ては[[棄却]]された。「GPLは、[[自由市場|自由競争]]、コンピュータ・[[オペレーティングシステム]]・ソフトウェアの頒布、消費者が直接得られる利点を阻害するというより、むしろ促進している」と、法廷は言い渡した<ref name="groklawwallacevsfsfdismiss"> [[Groklaw]]の[http://www.groklaw.net/article.php?story=20060320201540127 当該記事]からリンクされているウォレス対FSF事件の[http://www.groklaw.net/pdf/WallaceFSFGrantingDismiss.pdf 判決(原告提訴棄却)] </ref>。その後、ウォレスは、[[不服申立]]の[[控訴]]状も[[却下]]され、FSFへの[[訴訟費用]]の支払いを命じられた。 [[2005年]]9月8日、[[ソウル特別市|ソウル]]中央[[大韓民国の法制度#地方法院|地方法院]] (''서울중앙지방법원'', ''Seoul Central District Court'', ソウル中央地方裁判所) は、GPLでライセンスされた著作物から派生した二次的著作物を{{仮リンク|営業秘密|label=企業秘密|en|Trade secret}}<ref group="注釈"> [[:en:Trade secret|trade secret]]。日本の[[不正競争防止法]]では「営業秘密」と呼称される概念。 </ref>とする契約事項に対し、GPLは本件と関連なしとの判決を下した<ref> {{cite web | url = https://web.archive.org/web/20071018211119/http://korea.gnu.org/gv/sentence.html | title = ソウル中央地方法院の判決([[韓国語]]) | publisher = korea.gnu.org ([[インターネットアーカイブ]]によるホスト) | accessdate = 2011-03-27 }}</ref><ref> {{cite web | url = http://sparcs.kaist.ac.kr/~tinuviel/misc/sentence | title = English translation of the sentence of Korean legal case involving GPL, ElimNet vs. HaionNet, 2005GODAN2806(韓国におけるGPLに関する訴訟である、ElimNet対HaionNet事件, 2005GODAN2806の判決主文英語抄訳) | publisher = sparcs.kaist.ac.kr([[KAIST]]) | accessdate = 2011-03-27 }}</ref>。判決主文の英文抄訳より事件のあらましを述べると、係争にあがった著作物は、GPLv2で保護されたソフトウェア{{仮リンク|VTun|en|VTun}}である。被告の一人はVTunをベースとした二次的著作物であるソフトウェアを、原告である企業に雇用されている間作成した。彼が原告企業を退社後、そのソフトウェアのソースコードを個人的に複製しており、そのバグ修正を行ったうえ、そのソフトウェアを利用した商用サービスをもう一人の被告と立ち上げた<ref group="注釈"> ここで、そのソフトウェアを'''頒布'''したか否かは書かれていない。 </ref>。これに対し、原告はそのサービスが自社の企業秘密の漏洩であると主張した。 被告らは、GPLを遵守して著作物を頒布する限りは、企業秘密を維持することなど不可能であるので、守秘義務違反ではないと主張した。ソウル地裁はこの主張の法的根拠を認めず、「''ライセンス如何にかかわらず''、企業秘密の漏洩により公平な競争者に対抗し不公平な利益を得ることを守秘義務で縛ることは妥当である。また企業秘密は[[特許]]とは別であり、技術的である必要は無い([[1998年]][[大法院 (大韓民国)|大韓民国大法院]]判決による)。」と述べた。 2006年9月6日、[[gpl-violations.org]]プロジェクトは、D-Link Germany GmbH([[Dリンク]]のドイツ法人)を提訴し、これに勝訴した。原告は、被告が販売する(即ちこれ自体「対価を取って頒布する」ことであり、なんら問題ない)[[ネットワークアタッチトストレージ|NAS]]機器に、[[Linuxカーネル]]の一部を利用していたが、GPLに違反した使用であり、著作権侵害である、と主張した<ref> {{cite web | url = http://gpl-violations.org/news/20060922-dlink-judgement_frankfurt.html | title = gpl-violations.org project prevails in court case on GPL violation by D-Link | date = 2006-09-22 | publisher = [[gpl-violations.org]] | accessdate = 2011-03-28 }}</ref>。この判決<ref> {{cite web | url = http://www.jbb.de/fileadmin/download/urteil_lg_muenchen_gpl.pdf | title = 判決文 | year = 2006 | work = {{仮リンク|ミュンヘン第一地方裁判所|de|Landgericht München I}} | publisher = www.jbb.de | accessdate = 2011-03-28 | language = [[ドイツ語]] }}</ref><ref> {{cite web | url = http://www.jbb.de/judgment_dc_frankfurt_gpl.pdf | title = 判決文(英訳) | year = 2006 | work = {{仮リンク|ミュンヘン第一地方裁判所|de|Landgericht München I}} | publisher = www.jbb.de | accessdate = 2011-03-28 | language = [[英語]] }}</ref>により、GPLの有効性、法的拘束力がドイツの法廷で支持されたという判例が与えられたことになった。 [[2007年]]後半より、[[BusyBox]]の開発者ならびに[[Software Freedom Law Center]](SFLC)は、[[組み込みシステム]]に利用するBusyBoxの頒布者からGPLを遵守する旨の言質を得ることや、GPLを遵守しないものを提訴する計画に乗り出した。これら一連の[[訴訟]]は、[[アメリカ合衆国]]において、GPLの責務に対する強制力を法廷で争った初の機会であると述べられている。 [[2008年]]12月11日、FSFは[[シスコシステムズ]]を[[訴訟|提訴]]した<ref> {{cite web | url = http://www.fsf.org/licensing/complaint-2008-12-11.pdf | title = 申立全文 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-28 }}</ref>。被告はその[[リンクシス|Linksys]]部門にて、原告のFSFがGPLでライセンスした著作物である、 * [[GNU Core Utilities]] * [[GNU Readline]] * [[GNU Parted]] * [[GNU Wget]] * [[GNUコンパイラコレクション]] * [[GNU Binutils]] * [[GNUデバッガ]] ソフトウェアパッケージを、Linksysの次に述べる製品の[[ファームウェア]]にGNU/Linuxの形で組み込んで、対価を取って頒布、すなわち販売していたが、GPLの条項に違反していたためFSFの[[著作権侵害|著作権を侵害]]している、と原告のFSFは主張した。該当する製品は、Linksysの有名な[[無線LAN]][[ルーター]][[:en:Linksys WRT54G series|WRT54G]]やその他[[デジタル加入者線|DSL]][[モデム]]、[[ケーブルモデム]]、[[ネットワークアタッチトストレージ|NAS]]機器、[[VoIP]][[ゲートウェイ]]、[[Virtual Private Network|VPN]]機器そして[[ホームシアター]]、[[デジタルメディアプレーヤー|メディアプレーヤー]]機器などその他多くの機器にも及ぶ<ref name="FSF-Cisco"> {{cite press release | title = Free Software Foundation Files Suit Against Cisco For GPL Violations | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | date = 2008-12-11 | url = https://www.fsf.org/news/2008-12-cisco-suit | accessdate = 2011-08-22 }}</ref>。 FSFがシスコを提訴するまでの6年間、FSFはシスコに何度も申立を行ったが、シスコは、「われわれは、(GPLで保護されたプログラムの全てのソースコードならびにその改変箇所を含む完全な複製を提供しなかったというGPLの)条項違反についての問題を修正する予定もしくは修正中である」と主張した。しかし、FSFはその後もより多くの製品から新たな違反が発覚したとの報告を受け、Linksysと多くの会談をとり行うこととなった。しかし、結局実りは少なかった。FSFの[[ブログ]]では、この過程を「''5年間にも及ぶ[[モグラ叩き]]ゲーム''」("''five-years-running game of Whack-a-Mole''") と評している<ref> {{cite web | url = http://www.fsf.org/blogs/licensing/2008-12-cisco-complaint | title = More background about the Cisco case | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-28 }}</ref><ref name="FSF-Cisco" />。この6年間の過程を経て、FSFは遂に本件を法廷に持ち込むことを決意した。 その後シスコは本訴訟の和解のテーブルに着き、6ヵ月後、 * GPLのコンプライアンス遵守を保証することを目的とした「Linksysに対する''フリーソフトウェアの監査役'' (''Free Software Director'') を任命すること」 * 「GPLに基づき、FSFの著作物である当該プログラムを組み込んだLinksys製品を、対価を払って受領、すなわち購入した以前の顧客 (つまりGPLのライセンシーまたは受領者) に、当該顧客のGPL上の権利を保証する旨の通知を行うこと」 * FSFのプログラムのソースコードを、シスコの[[ウェブサイト]]上で[[自由]]に利用可能な状態にする([[アップロード]]する)こと<ref> {{cite web | url = http://homesupport.cisco.com/en-us/gplcodecenter | title = GPL Code Center | publisher = homesupport.cisco.com | accessdate = 2011-03-28 }}</ref> * FSFへの金銭的支払いを行うこと 以上の和解内容に合意した<ref> {{cite press release | url = https://www.fsf.org/news/2009-05-cisco-settlement.html | title = FSF Settles Suit Against Cisco | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-28 }}</ref>。 === マイクロソフトの評価 === {{main|ハロウィーン文書|ライセンス感染}} [[2001年]]、[[マイクロソフト]]の[[最高経営責任者|CEO]]、[[スティーブ・バルマー]]は、[[Linux]]を「[[知的財産権]]の意味において、触れるもの全てにくっつく[[癌]]である」と呼んだ<ref> {{cite news | first = Dave | last = Newbart | title = Microsoft CEO takes launch break with the Sun-Times | date = 2001-06-01 | publisher = [[シカゴ・サンタイムズ]] | url = http://suntimes.com/output/tech/cst-fin-micro01.html | archiveurl = https://web.archive.org/web/20010615205548/http://suntimes.com/output/tech/cst-fin-micro01.html | archivedate = 2001-06-15 }}([[インターネットアーカイブ]]によるリンク)</ref>。マイクロソフトがGPLを嫌う理由は「[[3E戦略|取り込み、拡張して、抹殺する]]」という独占的ベンダーの試みにGPLが抵抗するためであるとマイクロソフトの批判者らは主張する<ref> {{cite news | url = http://www.economist.com/node/298112?Story_ID=298112 | title = Deadly embrace (死の抱擁) | publisher = [[エコノミスト|The Economist]] | date = 2000-03-30 | accessdate = 2006-03-31 }}</ref>。 マイクロソフトは、以前、GPLでライセンスされたコードを含む製品である、[[Microsoft Windows Services for UNIX]]を販売(のち[[Microsoft Windows|Windows]]の[[ソフトウェア利用許諾契約|EULA]]に従う者には無償ダウンロード可に)していたこともある<ref> {{cite web | url = http://www.dwheeler.com/frozen/microsoft-interix-gpl.txt | title = License agreement of SFU | publisher = www.dwheeler.com | accessdate = 2011-03-29 }}microsoft.comのソースコード・ダウンロード・ウェブサイトに引用されていたライセンス。興味深いことに、GPLv1の条文も記載されている。</ref>。マイクロソフトのGPLに対する攻撃に対抗するため、幾人かの著名な[[フリーソフトウェア]]開発者とフリーソフトウェアの代弁者たちはライセンスを支持する旨の共同声明を発表した<ref> [[:s:en:Free Software Leaders Stand Together|Free Software Leaders Stand Together]] </ref><ref> {{Cite web|和書 | url = http://www.yamdas.org/column/technique/standj.html | title = フリーソフトウェアのリーダーは団結する | date = 2002-05-14 | publisher = yamdas.org | accessdate = 2011-03-29 }}</ref>。しかしながら、この声明から7年以上たった、[[2009年]]7月、マイクロソフト自身が、GPLのもと本体が約20,000行程度となる[[Linuxカーネル]]の[[デバイスドライバ|ドライバ]]コードをリリースした<ref> {{cite news | first = Gavin | last = Clarke | title = Microsoft embraces Linux cancer to sell Windows servers | date = 2009-07-20 | work = {{仮リンク|ザ・レジスター|en|The Register}} | publisher = www.theregister.co.uk | url = http://www.theregister.co.uk/2009/07/20/microsoft_windows_drivers_linux/ | accessdate = 2011-03-29 }}</ref><ref> {{Cite web|和書 | url = http://sourceforge.jp/magazine/09/07/21/0342227 | title = 米Microsoft、「Hyper-V」LinuxドライバをカーネルコミュニティにGPLv2で提供 | date = 2009-07-21 | publisher = [[SourceForge.JP]] Magazine | accessdate = 2011-04-25 }}</ref>。ただし、提供されたコードの一部に相当するLinux用の[[Hyper-V]]ドライバコードが、GPLのもとライセンスされている[[オープンソース]]・[[ソフトウェアコンポーネント|コンポーネント]]を利用しており、当初[[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]な[[バイナリ]]部分と[[静的リンク]]していた。後者はGPLソフトウェアに対するライセンス違反である<ref> {{cite news | first = Gavin | last = Clarke | title = Microsoft opened Linux-driver code after 'violating' GPL | date = 2009-07-23 | work = {{仮リンク|ザ・レジスター|en|The Register}} | publisher = www.theregister.co.uk | url = http://www.theregister.co.uk/2009/07/23/microsoft_hyperv_gpl_violation/ | accessdate = 2011-03-29 }}</ref><ref> {{cite news | first = Montalbano | last = Elizabeth | title = マイクロソフトが公開したLinuxコードはGPL違反――エンジニアが指摘 | date = 2009-07-24 | publisher = www.computerworld.jp | url = http://www.computerworld.jp/topics/ms/156530.html | accessdate = 2011-03-29 }}</ref><ref> {{Cite web|和書 | url = http://sourceforge.jp/magazine/09/07/27/0742227 | title = 米MicrosoftのLinuxドライバ公開の真相――当初GPL違反だった? | date = 2009-07-27 | publisher = [[SourceForge.JP]] Magazine | accessdate = 2011-04-25 }}</ref>。 また、これ以外にも、同社が提供するソフトウェアに意図せずGPLで保護されたコードが混入するケースもあった<ref> {{cite news | title = 「USB版Windows 7」作成ツールにGPLコード Microsoftが謝罪 | date = 2009-11-16 | publisher = [[ITmedia]] | url = https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0911/16/news026.html | accessdate = 2011-03-29 }}</ref>。 マイクロソフトの[[シニア・バイス・プレジデント]]、[[クレイグ・マンディ]]は、GPLはプログラム全体を譲渡することしか許諾せず、これは、[[プログラマ]]に、GPLと両立しないライセンスの[[ライブラリ]]と[[GPLリンク例外|リンク]]するプログラムを譲渡することを許諾しないことを意味する故、GPLは「[[ライセンス感染|ウイルス的]](''viral'')である」と評した<ref> {{Cite web|和書 | url = http://www.microsoft.com/presspass/exec/craig/05-03sharedsource.mspx | title = Speech Transcript - Craig Mundie, The New York University Stern School of Business (スピーチ全文 - クレイグ・マンディ、ニューヨーク大学 スターン・スクール・オブ・ビジネスにて) | date = 2001-03-03 | publisher = www.microsoft.com | accessdate = 2011-03-29 }}''[[クレイグ・マンディ]]、Microsoft Senior Vice Presidentによる意見準備稿''、商用ソフトウェアモデルについて。</ref>。 このいわゆる「ウイルス的」効果とは、組み合わせることを考えているソフトウェアの、複数のライセンスのうち一つが変更されないならば、そのような状況下で、異なる別のライセンスで許諾されるソフトウェアと組み合わせることができないことを指す。ライセンスのいずれか一つは理論上変更することはできるけれども、「ウイルス的」なる考えの筋書きによれば、GPLは事実上撤回することはできない(なぜなら、GPLソフトウェアには通常極めて多くの''貢献者''(''contributors'')の存在があるが、彼らの幾人かはこの決定をおそらく拒絶するだろう)。他方、他のソフトウェアのライセンスは実際には''可能''なのである。 [[リチャード・ストールマン]]の見解によると、「ウイルス」という[[メタファー]]は誤りであり、また不親切な物言いである。GPLのもとリリースされるソフトウェアは、他のソフトウェアを、決して「攻撃」したり「感染」などしない。むしろ、GPLで保護されるソフトウェアは、[[オリヅルラン]]のようなものである、と述べている。だれかが、GPLで保護されたソフトウェアのコード断片を持ち帰り、どこかよそへそれを組み込んだならば、GPLで保護されるソフトウェアもまた、そのどこかで成長するのである<ref> {{cite web | last = Poynder | first = Richard | title = The Basement Interviews: Freeing the Code | date = 2006-03-21 | accessdate = 2010-02-05 | url = https://archive.org/stream/The_Basement_Interviews/Richard_Stallman_Interview_djvu.txt }}</ref><ref> {{cite book | last = Chopra | first = Samir | last2 = Dexter | first2 = Scott | title = Decoding liberation: the promise of free and open source software | date = 2007-08-14 | publisher = Routledge | isbn = 0415978939 | page = 56 | url = https://books.google.co.jp/books?id=c7ppFih2mSwC&pg=PT74&redir_esc=y&hl=ja }}</ref><ref> {{cite book | last = Williams | first = Sam | title = Free as in Freedom: Richard Stallman's Crusade for Free Software | date = 2002-03 | publisher = [[オライリーメディア|O'Reilly Media]] | url = http://oreilly.com/openbook/freedom/ch02.html | isbn = 0596002874 }}</ref>。このようにGPLのような二次的著作物にも適用を強制するという強い制約を持つライセンスは、[[プロプライエタリソフトウェア|独占的なソフトウェア]]を開発する企業や、他のライセンスを支持する[[ソフトウェア開発者]]から批判されることがある。[[コピーレフト]]の考え方を支持する人々は、これは[[自由]]を守るために必要なことだと主張する。一方、[[二次的著作物]]への制限が少ないBSDスタイル・ライセンスを支持する人々はまた別の考え方を持っている。GPLの支持者が「フリーソフトウェアの自由が二次的著作物でも保護されることを、フリーソフトウェア自身が保証すべき」と確信する一方、そうでない人々は「フリーソフトウェアはその再頒布にあたって利用者に最大限の自由を与えるべきだ」と主張する。後者の考え方は、例えばBSDライセンスのように敢えて「ソフトウェアの自由を捨て去る」ことも可能という、ソフトウェア利用者の[[自由意志]]、選択の自由を述べている。 === Linuxカーネル開発者の評価 === 態度を鮮明にしている幾人かの有名な[[Linuxカーネル]]開発者は、[[マスメディア]]に対しコメントを出し、GPLv3の議論用の初稿ならびに第2稿の一部に反対する旨の声名を発表した<ref> {{cite web | url = http://lwn.net/Articles/200422/ | title = Kernel developers' position on GPLv3 | date = 2006-09-21 | work = {{仮リンク|LWN.net|en|LWN.net}} | publisher = lwn.net | accessdate = 2011-03-04 |language=en}}</ref>。[[リーナス・トーバルズ]]は、GPLv3の反DRM条項により、GPLv3でライセンスされたソフトウェアがDRMを利用したコンピュータ・セキュリティのメカニズムを享受できなくなるとして、[[Linuxカーネル]]のGPLv3への移行には明確に反対している<ref name="gplv3-anti-drm-disagreement"> {{Cite web|和書 | url = http://japan.zdnet.com/os/analysis/20095838/ | title = 「セキュリティの弱体化を招く」--L・トーバルズ、GPL第3版の反DRM条項を批判 | date = 2006-02-06 | publisher = [[ZDNet]] | accessdate = 2011-03-25 }}</ref>。[[リチャード・ストールマン]]は、[[2007年]]初めにもこの動きは収束すると期待していた{{efn|リチャード・ストールマンによる、GPLv3の改訂点に関する概略。[[2006年]]6月22日、[[バルセロナ]]にてFSFEにより開催された第3回GPLv3国際会議において行ったプレゼンテーションより<ref name="gplv3conf3stallman"> {{cite web | url = http://fsfe.org/projects/gplv3/barcelona-rms-transcript.en.html | title = Transcript of Richard Stallman at the 3nd international GPLv3 conference; 22nd June 2006 | publisher = [[Free Software Foundation Europe]] | accessdate = 2011-03-04 }}</ref>。}}。 第3稿に関しては、(反[[TiVo化]]条項がいくらか緩められたため)トーバルズは「満足している」と語っていた<ref name="linus-statement"> {{Cite web|和書 | url = http://japan.zdnet.com/cio/analysis/20346116/ | title = L・トーバルズ氏:「かなり満足している」--「GPLv3」ドラフト第3版 | date = 2007-03-29 | publisher = [[ZDNet]] | accessdate = 2011-03-04 }}</ref>が、最終稿が提出された後のコメントでは、GPLv3はGPLv2と比べ(両者の[[デュアルライセンス]]が可能か考慮に入れた上、コードの全著作者からライセンス移行の合意を得るという途方も無い手間を掛けたとしても<ref name="gplv3-not-applied"> {{cite web | url = http://blogs.fsfe.org/ciaran/?p=58 | title = (About GPLv3) Can the Linux Kernel Relicense? | author = Ciaran O’Riordan | date = 2006-10-16 | quote = While discussing GPLv3, some people have suggested that even when version 3 of the GPL is released, the Linux kernel developers will not have the option of using it due to copyright reasons. This is incorrect, but it is based on a real problem: The Linux kernel has no structures in place to facilitate relicensing. Moving to an incompatible licence requires that current code is relicenced with permission from the copyright holders, or is removed. [GPLv3について議論するにつき、GPLのバージョン3がリリースされたとしても、著作権上の理由からLinuxカーネルの開発者はそれを使用できないという声を聞く。 正しくない状態とは言えても、現実問題がその根底にある。Linuxカーネルは、再ライセンスを容易にする構造ではないからだ。 互換性のないライセンスに移行する対処は、著作権所有者の許諾を得て現行のコードを再ライセンスするか、削除するかである。] | publisher = [[Free Software Foundation Europe|FSFE]] | accessdate = 2011-04-29 |language=en}}</ref>)移行するメリットはないとトーバルズは述べた<ref name="linus-statement-for-final-draft"> {{cite web | url = http://www.linux.com/archive/articles/114336 | title = Torvalds on GPLv3 final draft | date = 2007-06-11 | author = Joe Barr | publisher = Linux.com | accessdate = 2011-03-26 |language=en}}</ref><ref name="linus-statement-for-final-draft-ja"> {{Cite web|和書 | url = http://sourceforge.jp/magazine/07/06/13/0026228 | title = GPLv3最終草案を巡るTorvaldsの見解 | date = 2007-06-13 | author = Joe Barr | publisher = [[SourceForge.JP]] Magazine | accessdate = 2011-03-26 }}</ref>。 おおむね、これらの議論は本質的には全く同じ視点に立ってはいるが、主にソフトウェアのコードの自由を重視する[[オープンソース]]陣営と、それのみではなくソフトウェアを利用するユーザーの自由の最大化を目的とする[[フリーソフトウェア]]陣営の考え方の違いが浮き彫りになったに過ぎない。{{疑問点範囲|ソフトウェアの自由な利用のためには、GPLv3にはソフトウェアの範疇に留まらず、広く働きかけることを厭わ(いとわ)ないとする後者の考え方が色濃く出ている|date=2022年4月}}。 === FreeBSDプロジェクトの評価 === [[FreeBSD]]プロジェクトは、「GPLソフトウェアを公開しない、そして誤ってGPLソフトウェアを利用してしまったケースなどにより、これらの行為がソフトウェア企業の価値を下げたいと考えている巨大企業の格好の餌食になっている。言い換えれば、GPLは、潜在的に経済的利益の全体を低下させ、また寡占的行為を助長するゆえ、マーケティングの武器として利用されるのに、とてもふさわしい。」と主張し、GPLは「ソフトウェアの商用化やその利益を生み出そうと考えている人々にとって現実の問題として本当に邪魔になっている」と主張している<ref> {{cite web | url = http://www.freebsd.org/doc/en_US.ISO8859-1/articles/bsdl-gpl/article.html#GPL-ADVANTAGES | title = Why you should use a BSD style license for your Open Source Project - 9 GPL Advantages and Disadvantages | date = 2008-10-11 | publisher = The [[FreeBSD]] Project | accessdate = 2011-03-28 }}$FreeBSD: doc/en_US.ISO8859-1/articles/bsdl-gpl/article.sgml,v 1.8 2008/10/11 10:43:29 brueffer Exp $</ref>。 FreeBSDの開発者で、{{仮リンク|Beerware|en|Beerware}}ライセンスの著作者でもある、{{仮リンク|ポール=ヘニング・カンプ|en|Poul-Henning Kamp}}は、"GNUライセンス"を「ジョーク」であると見なしている。その理由は彼が気付く限りこのライセンスには曖昧な記述が存在するからだと述べている<ref> {{cite web | url = http://people.freebsd.org/~phk/ | title = Poul-Henning Kamp - Beerware, am I really serious? | publisher = people.freebsd.org | quote = [...] I think the GNU license is a joke, it fights the capitalism it so much is against with their own tools, and no company is ever going to risk any kind of proximity to so many so vague statements assembled in a license. [...] | accessdate = 2011-07-14 }}</ref>。 === 二次的著作物 === セクション"[[#リンクと派生物|リンクと派生物]]"の通り、GPLで保護されたコードに由来する[[二次的著作物]]はGPLでなければならない、と明白に要求されているが、GPLのライブラリに動的にリンクしたプログラムが、二次的著作物と見なせるかどうかは、議論が分かれている。これに対し[[フリーソフトウェア財団|FSF]]とその他の人々の見解が異なることが新たな論争の種となっている。この点に関し、[[著作権法]]が二次的著作物をどう定義するかが問題になると述べたが、[[著作権]]の[[著作権#支分権|支分権]]の具体的内容についての問題が提起されている。[[著作権法 (アメリカ合衆国)|アメリカ合衆国著作権法]]を収録した[[合衆国法典]]第17編の[http://uscode.house.gov/view.xhtml?req=granuleid:USC-prelim-title17-section101&num=0&edition=prelim 第101条] (各種用語の定義) によれば、[[著作物]]の改変・[[翻案権|翻案]]を例にあげたうえで「既存の著作物を基礎とする」ことが二次的著作物の要素となっているため、動的リンクの場合でも既存の著作物を基礎としているのかが問題となり得る。これに対し、日本国[[著作権法]]第二条によれば、二次的著作物は原著作物の「[[翻案権|翻案]]」を要素としているため、GPLのライブラリとGPLでないプログラムが動的にリンクするプログラムを作って頒布したところで、二次的著作物を作成したことにはならず、プログラムを実行したときに必然的に生じる[[記憶装置|メモリ]]への複製の段階で初めて問題になるに過ぎない。しかし、日本国著作権法ではプログラムを実行することそれ自体(これを''使用権''という)は[[著作権]]の[[著作権#支分権|支分権]]としては認められていない。 ちなみにGPLv3では"derivative work"という語が姿を消し、代わりに「改変されたバージョン」や「元プログラムに基づく作品」となっている。これらは「二次的著作物」を指している{{ref label|gplv3-term-definitions|A|A}}。 また、アメリカ合衆国著作権法においても、日本国著作権法においても、原著作物の著作権者は、二次的著作物に対して著作権行使をすることができるのは当然の前提なのだが、ソフトウェアが著作権の対象となるように法制度が確立する前は、改変したプログラムに対する権利範囲等が不明確であったこともあり、法の建前を前提として議論がされていない側面がある。 いずれにせよ、当該著作物が二次的著作物であるかの判断は、ライセンス如何の問題ではなく、最終的には法廷が個々の著作物毎に判断することとなる。しかし、現時点では明確な線引きを行った著作権法上の条文や判例は存在せず、その他[[法源]]となるものもない。{{仮リンク|ルイス・ガルーブ・トイズ対ニンテンドーオブアメリカ事件|label=ガルーブ対任天堂|en|Lewis Galoob Toys, Inc. v. Nintendo of America, Inc.}}訴訟においても二次的著作物の範囲が明確に定められなかったのは前述の通りである。 === 条項の複雑さ === GPLが持つ制約とは全く別の問題として、一部の批判者らは、GPL前文の[[イデオロギー]]的な響きが嫌だとか、ライセンスが長過ぎて分かりにくいと愚痴をこぼす。この「落とし所」には、ソースやバイナリの複製 (reproduction) を認めないが、個人や会社での使用で修正の自由を認めるようなライセンス群を含むことがある。こういった変種の一つには、 Open Public License (OPL)<ref> {{cite web | url = http://wyatterp.com/opl.html | title = Open Public License | publisher = wyatterp.com | accessdate = 2011-03-28 }}</ref>がある。これら批判の原因は、GPLの条文が一見理解しにくいがために起こる誤解によるところもある。しかし、このGPLの手の込んだ条項は一見理解に困難を伴うが、これによりコピーレフトが創出され、著作権法の枠組みを徹底して[[ハッキング|ハック]]している点も忘れてはならない。 == よくある誤解 == GPLの条文そのものや、その要求、許可する事項(義務、権利)については、GPLに賛同している者ですらも誤解していることがあり、そのことがGPLの議論に関し混乱を招く原因のひとつともなっている。既に解説済みの項目も多いが、改めて述べる。 ; GPLなソースコードを改変・修正した場合、ソースコードを公開しなければならない: GPLで保護された著作物の修正や、GPLの影響が及ぶコードを新しい著作物で利用するとき、修正者であるライセンシー、またはライセンシーの組織内のみで私的に利用されるだけならば、ソースコードの公開は要求されない。組織内のみでの使用であれば、二次的著作物のソースコードを公開する義務が発生しないため、機密性の重要視される研究開発部門や顧客管理部門で使用されるパソコンやサーバーのほか、インフラシステムや軍事・防衛分野などでも広く用いられている。 ; 課金が許されていない : GPLで保護された著作物の複製を販売<ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl-faq.html#DoesTheGPLAllowMoney | title = Does the GPL allow me to sell copies of the program for money? | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-05-26 }}</ref><ref> {{Cite web|和書 | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl-faq.ja.html#DoesTheGPLAllowMoney | title = GPLは金銭目的でプログラムの複製を販売することを許可していますか? | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-05-26 }}</ref>したり、ダウンロードに課金<ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl-faq.html#DoesTheGPLAllowDownloadFee | title = Does the GPL allow me to charge a fee for downloading the program from my site? | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-05-26 }}</ref><ref> {{Cite web|和書 | url = http://www.gnu.org/licenses/gpl-faq.ja.html#DoesTheGPLAllowDownloadFee | title = GPLは、私のサイトからプログラムをダウンロードする人に料金を課すことを許可していますか? | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-05-26 }}</ref>したりすることをGPLはわざわざ許可している(セクション"[[#利用条件|利用条件]]"を参照)。頒布の手間にかかるコストは無視できないためこのことは都合がよい。また頒布の手段に拠ってGPLの下での購入者やベンダーの権利、責任に変更が生じることはない。実のところ、非商用の頒布だけを認めるライセンスは、自動的にGPLと矛盾する。 ; ソースコードは''無償で''頒布しなければならない : GPLが要求することは、ソースコードを入手する機会を保証することである。たとえば、ソースコードが記録されたCD-ROMを実費を請求する形で郵送しても一向にかまわない。GPLv3では第4項第2段落で「『プログラム』の『伝達』行為に対する課金」と定めている。ただ、「ライセンス料、ロイヤルティその他の対価」を徴収することは、「さらなる権利制限」になるので注意が必要である(セクション"[[#下流の受領者への自動的許諾|下流の受領者への自動的許諾]]"を参照)。 ; GPLのツールを使って開発したソフトウェアはGPLでなければならない : GPLでなければならないのは、GPLのソースコードを含んでいたり、GPLのライブラリをリンクや結合するときのみに限る。[[プロプライエタリソフトウェア|独占的なソフトウェア]]を[[GNUコンパイラコレクション|GCC]]でコンパイルして頒布することは、許可されている。ただし、<code>libgcc</code>など、GCCの各種ランタイムライブラリはGPLに関するライセンスの影響を受けることもある。プロプライエタリなソフトウェアとの動的リンクを可能とするため、GCCの各種ランタイムライブラリは例外条項が付帯したGPLとなっている<ref name="gcc-excpt"> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/gcc-exception.html | title = GCC Runtime Library Exception | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-26 }}</ref>。 ; GPLソフトウェアは改造して公開することは不自由なくできる : GPLは[[著作権]]を規定する[[ライセンス]]であり、[[商標権]]・[[意匠権]]やその他の法的な権利や義務には効力が及ばない。また、[[フォーク (ソフトウェア開発)|フォーク]]や独自パッチ適用バージョンを「改変前とまったく同一の名前のソフトウェア」として公開し、もともとの原著作者のソフトウェアと一見して区別できない場合には、[[著作権法]]上の問題が発生する。デジタルコンテンツのコピーガードを無効化したり、不正アクセス行為に使用することを主目的としたソフトウェアの作成や公開も法律により固く禁じられている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|2|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2022年4月}} * {{Cite web|和書 | url = http://ossipedia.ipa.go.jp/doc/187/ | title = GNU GPLv3 逐条解説書 | author = 江端俊昭、稲葉清高、岩切美和、上山浩、川上桂子、瀬戸邦雄、[[八田真行]]、松田久夫、松本美信、八木稔浩、柳沢茂樹 | date = 2010-05-26 | publisher = [[情報処理推進機構|IPA]] | accessdate = 2011-04-21 }}なおこの文献はあくまでも[[Software Freedom Law Center|SFLC]]ならびに[[情報処理推進機構|IPA]]両者の見解であり、実際の係争事例に対するGPLについての明確な法廷判断が存在するわけではない。 * {{Cite web|和書 | url = http://www.softic.or.jp/publication/oss/071116.pdf | title = オープンソースソフトウェアライセンスの最新動向に関する調査報告書 平成19年11月16日 | author = [[ソフトウェア情報センター|SOFTIC]] オープンソースソフトウェアライセンスの最新動向に関する調査研究委員会委員 | date = 2007-11-16 | publisher = [[ソフトウェア情報センター|SOFTIC]] | accessdate = 2011-04-29 }} * {{Cite web|和書 | url = https://osdn.net/projects/opensource/wiki/licenses%252FGNU_General_Public_License_version_3.0 | title = GNU 一般公衆利用許諾書 バージョン3(非公式日本語訳) | author = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | publisher = [[SourceForge.JP]] | accessdate = 2011-04-23 }} == 関連項目 == {{multicol}} * [[フリーソフトウェア]] * [[フリーソフトウェア財団]] (FSF) * [[Free Software Foundation Europe]] (FSFE) * [[Software Freedom Law Center]] (SFLC) * [[GNU]] * [[著作権]] * [[コピーレフト]] * [[ライセンス]] * [[ソフトウェアライセンス]] * [[フリーソフトウェアライセンス]] * [[パブリックドメインソフトウェア]] * [[デュアルライセンス]] * [[プロプライエタリソフトウェア]] * [[GPLリンク例外]] * [[GPLフォント例外]] * [[gpl-violations.org]] {{multicol-break}} * 関連法 ** [[著作権法]] (日本) ** [[著作権法 (アメリカ合衆国)]] ** [[著作権に関する世界知的所有権機関条約]](WIPO著作権条約) ** [[不正競争防止法]] ** [[デジタルミレニアム著作権法]] (DMCA) ** [[民法]] ** [[会社法]] ** [[特許法]] {{multicol-break}} * 関連ライセンス ** [[GNU Lesser General Public License]] (LGPL) ** [[GNU Affero General Public License]] (AGPL) ** [[BSDライセンス]] ** [[GNU Free Documentation License]] (GFDL) ** [[GNAT Modified General Public License]] (GMGPL) ** [[Mozilla Public License]] (MPL) ** [[Apache License]] {{multicol-end}} == 外部リンク == {{Portal|FLOSS|[[ファイル:FLOSS logo.svg|41px]]}} {{Wikibookslang|en|FOSS Licensing|FLOSSライセンス}} === 原文 === * [https://www.gnu.org/licenses/gpl.html The GNU General Public License] (原文) * [https://www.gnu.org/licenses/gpl-3.0.txt GNU General Public License v3.0]([[テキストファイル]]形式) * [https://www.gnu.org/licenses/old-licenses/gpl-1.0.txt GNU General Public License v1.0] – FSFによりすでに廃止済。 * [https://www.gnu.org/licenses/old-licenses/gpl-2.0.txt GNU General Public License v2.0] – FSFによりすでに廃止済であるが、Linux・GNUのパッケージを含む多くのソフトウェアプロジェクトで未だに使用されている。 === 非公式日本語翻訳版 === * [https://licenses.opensource.jp/GPL-3.0/GPL-3.0.html GNU 一般公衆利用許諾書 バージョン3 (GPLv3)] ([https://github.com/opensource-jp/licenses/blob/main/GPL-3.0/GPL-3.0.md GitHub]) * [https://licenses.opensource.jp/GPL-2.0/GPL-2.0.html GNU 一般公衆利用許諾契約書 バージョン2] ([https://github.com/opensource-jp/licenses/blob/main/GPL-2.0/GPL-2.0.md GitHub]) (非公式日本語訳) {{FLOSSライセンス}} {{FOSS}} {{GNU}} {{フリーソフトウェア財団}} {{Normdaten}} [[Category:オープンソースライセンス]] [[Category:コピーレフト]] [[Category:GNUプロジェクト]] [[Category:フリーソフトウェア財団]]
2003-02-24T23:08:15Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/GNU_General_Public_License
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GNU Lesser General Public License
GNU Lesser General Public License(以前は、GNU Library General Public Licenseだった)または GNU LGPL、単にLGPLは、フリーソフトウェア財団(Free Software Foundation、以下FSFと略称)が公開しているコピーレフト型のフリーソフトウェアライセンスである。八田真行による日本語訳ではGNU 劣等一般公衆利用許諾書と呼称している。 以前の名前から分かる通り、これは他のプログラムにリンクされることを前提としたライブラリのためのライセンスとして作成された。当ライセンスは、強いコピーレフト(strong copyleft)を持つライセンスであるGNU General Public LicenseすなわちGPLとBSDライセンス・MIT Licenseのようなパーミッシブ・ライセンスとの妥協の産物として設計されている。LGPLが最初にその略称を示していたGNU Library General Public Licenseは1991年に公開され、GPLv2との対等性を表すため同じバージョン2が付されることとなった。のちに小規模な改訂によりバージョン2.1という小数点リリース(ポイントリリース)となり、1999年に公開されたが、同時にライブラリにこのライセンスを利用すると限るべきではないというFSFの立ち位置を反映させるため、GNU Lesser General Public Licenseと改名された。LGPLv3は2007年に公開された。これは、GPLv3と完全な互換性があり、GPLv3にいくつか追加的(許諾)条項(Additional permissions。GPLv3第7項で許されている。)を加えた相補的形式を採用している。よって以前のバージョンよりも条文はかなり簡略化されており、GNU GPLv3への参照が条文に頻繁に現れる。しかしこれはGPLリンク例外を採用しているその他ソフトウェアよりも若干要件は多い。次のセクション"GPLとの違い"を参照。 LGPLはLGPLに従う限り、プログラム自身にコピーレフトの「保護」(立ち位置が異なるものからは、「制限」とも言われるが)を与えるが、単にLGPLで保護されたプログラムとリンクする、他のソフトウェアへこれら「制限」を適用することはない。しかしながら、当該ソフトウェアへ影響を与えるある種のその他の「制限」は存在する。 LGPLは主にソフトウェア・ライブラリに採用されるが、スタンドアローンなアプリケーションにも採用されるいくつかの例が存在した。もっとも有名な例は、かつてのMozillaとOpenOffice.orgである。 GPLとLGPLの主な相違点は、後者が、フリーソフトウェアかプロプライエタリソフトウェアかどうかに関わらず、非(L)GPLなプログラムにリンクされ得る(ライブラリの場合は「そのようなプログラムによって利用され得る」)というものである。この非(L)GPLプログラムはそれが二次的著作物(derivative work)ではない場合、任意の条項のもと頒布(英: distribution; 配布)してもよい。二次的著作物である場合は、LGPLv2.1第6節またはLGPLv3第4項の条項により、「顧客(カスタマー)自身の利用のための改変ならびにそのような改変をデバッグするためのリバースエンジニアリング」を許諾する必要がある。これは、GPLのように常に二次的著作物を同一の許諾条項に置くライセンスとは異なり、常に同一の許諾条件に置くとは限らないことを示している。LGPLなプログラムを利用する著作物が二次的著作物か否かは法的な問題である。ライブラリに動的リンク(すなわち共有ライブラリやダイナミックリンクライブラリなどによるリンク)する単体の実行ファイルは、法的に二次的著作物ではないと解釈される可能性がある。その場合、ライブラリにリンクするプログラムは、LGPLv2.1における第5パラグラフ(Section 5. 第5節)、または同等の内容のLGPLv3第4項(Section 4.)に定義されている「ライブラリを利用する著作物」に該当する。次の文はLGPLv2.1第5節の第1段落にある条文の引用である。 LGPL の一つの特徴は、(LGPLv2.1では第3節、LGPLv3では第2項の条項により)ソフトウェアのLGPLで保護された任意の部分をGPLで保護することも可能にさせる。この特徴により、GPLで保護されたライブラリやアプリケーションにおいて、LGPLで保護されたコードを直接再利用することや、また、プロプライエタリなソフトウェア製品に利用されないようにするコードのバージョンを作成したいと考える場合、有益となる。 以前の名前が"GNU Library General Public License"だったこともあり、FSFはライブラリはLGPLを採用することを望んでいるという印象を受ける人は多かった。1999年2月、リチャード・ストールマンは、Why you shouldn't use the Lesser GPL for your next library(なぜ次のライブラリには劣等GPLを利用するべきでないのか)という評論を執筆し、この中でなぜこのことが当てはまらないケースがあるのかということと、LGPLをライブラリに適用することは必ずしも適切とは限らないことを説明した。 このことは、LGPLが非推奨なのではなく、単に、LGPLを全てのライブラリに適用するべきではないと述べており、例えばGNU CライブラリはLGPLを利用するべきライブラリの一例として引き合いに出されるが、LGPLである理由は標準Cライブラリなどをはじめとするライブラリの実装が既に幾つか存在し、プロプライエタリソフトウェアからなる著作物が、GPLなライブラリを飛び越えて、競合するBSDライセンスなどのパーミッシブ・ライセンスにより許諾されるライブラリとリンクする可能性が単に存在するからである。— ストールマンは続けて次のことを主張している。 事実、ストールマンとFSFは時折、(利用者の自由を拡大するため、)戦略的事項として、意外なことだが、LGPLより制限の少ないライセンスの利用を強く主張している。有名な例は、Vorbis音声コーデックプロジェクトのライブラリにBSD形式のライセンスを採用したことをストールマンが支持したというケースである。 本ライセンスの条文は、C言語やその近縁言語により作成されたアプリケーションを主に意図している用語の使われ方が見られる。Franz Inc.は、Lispのコンテキストにおいて用語を明確化するため、当ライセンスに同社が独自に作成した前文(preamble)を加えた形で公開した。この独自の前文が付記されたLGPLは時折LLGPLと呼ばれる。 加えて別の事例として、Adaはジェネリクスという特別な性質を持つ言語であり、このことに対応するためGPLの改変版ライセンスMGPLが作成されている。 LGPLで保護されたソフトウェアが非(L)GPLコードにより継承する場合、オブジェクト指向クラスの適合性について若干の懸念が惹起している。明確な説明がGNUの公式ウェブサイト上に与えられている。 参考訳 以上をまとめると概ね次の内容になる。 LGPLは次のことを保証する。この内容はGPLでも保証されている権利の一部である(このことからGPLよりも弱いコピーレフト性を持つ)。 LGPLで頒布されたライブラリAについて、
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GNU Lesser General Public Licenseまたは GNU LGPL、単にLGPLは、フリーソフトウェア財団が公開しているコピーレフト型のフリーソフトウェアライセンスである。八田真行による日本語訳ではGNU 劣等一般公衆利用許諾書と呼称している。
{{出典の明記|date=2021年10月}} {{Infobox software license | name = GNU Lesser General Public License | image = [[File:LGPLv3 Logo.svg|250px]] | caption = GNU LGPLv3 ロゴ | author = [[フリーソフトウェア財団]] | version = 3 | copyright = フリーソフトウェア財団 (Free Software Foundation, ''Inc.''<ref group="注釈"> [[法人]]の意味を含めている。 </ref> | date = [[2007年]][[6月29日]] | OSI approved = Yes | Debian approved = Yes | FSF approved = Yes | GPL compatible = Yes | copyleft = Yes (''Weak copyleft''; ''弱いコピーレフト'') | linking = Yes }} '''GNU Lesser General Public License'''(以前は、'''GNU <u>Library</u> General Public License'''だった)または''' GNU LGPL'''、単に'''LGPL'''は、[[フリーソフトウェア財団]](Free Software Foundation、以下FSFと略称)が公開している[[コピーレフト]]型の[[フリーソフトウェアライセンス]]である。[[八田真行]]による[[日本語]]訳では'''GNU 劣等一般公衆利用許諾書'''と呼称している。 == 概要 == 以前の名前から分かる通り、これは他の[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]にリンクされることを前提とした[[ライブラリ]]のためのライセンスとして作成された。当ライセンスは、''強い[[コピーレフト]]''(''strong copyleft'')を持つライセンスである[[GNU General Public License|GNU General Public Licenseすなわち'''GPL''']]と[[BSDライセンス]]・[[MIT License]]のような[[パーミッシブ・ライセンス]]との妥協の産物として設計されている。LGPLが最初にその略称を示していたGNU Library General Public Licenseは[[1991年]]に公開され、GPLv2との対等性を表すため同じバージョン2が付されることとなった。のちに小規模な改訂によりバージョン2.1という小数点リリース(ポイントリリース)となり、[[1999年]]に公開されたが、同時にライブラリにこのライセンスを利用すると限るべきではないというFSFの立ち位置を反映させるため、GNU ''Lesser'' General Public Licenseと改名された。LGPLv3は[[2007年]]に公開された。これは、[[GNU General Public License|GPL]]v3と[[GNU General Public License#両立性とマルチライセンス|完全な互換性があり]]、GPLv3にいくつか''追加的(許諾)条項''(''Additional permissions''。GPLv3第7項で許されている。)を加えた相補的形式を採用している。よって以前のバージョンよりも条文はかなり簡略化されており、GNU GPLv3への参照が条文に頻繁に現れる。しかしこれは[[GPLリンク例外]]を採用しているその他ソフトウェアよりも若干要件は多い。次のセクション"[[#GPLとの違い|GPLとの違い]]"を参照。 LGPLはLGPLに従う限り、プログラム自身に[[コピーレフト]]の「保護」(立ち位置が異なるものからは、「制限」とも言われるが)を与えるが、単にLGPLで保護されたプログラムとリンクする、他のソフトウェアへこれら「制限」を適用することはない。しかしながら、当該ソフトウェアへ影響を与えるある種のその他の「制限」は存在する。 LGPLは主に[[ライブラリ|ソフトウェア・ライブラリ]]に採用されるが、スタンドアローンな[[アプリケーション]]にも採用されるいくつかの例が存在した。もっとも有名な例は、かつての[[Mozilla]]と[[OpenOffice.org]]である。 == GPLとの違い == GPLとLGPLの主な相違点は、後者が、[[フリーソフトウェア]]か[[プロプライエタリソフトウェア]]かどうかに関わらず、非(L)GPLなプログラムにリンクされ得る(ライブラリの場合は「そのようなプログラムによって利用され得る」)というものである<ref name="not_use_LGPL"> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/why-not-lgpl.html | title = Why you shouldn't use the Lesser GPL for your next library | author = [[リチャード・ストールマン|Richard Stallman]] | date = 2010-08-07 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-30 }}</ref><ref name="not_use_LGPL-ja"> {{Cite web|和書 | url = http://www.gnu.org/licenses/why-not-lgpl.ja.html | title = あなたの次のライブラリにはライブラリGPLを適用するべきでない理由 | author = [[リチャード・ストールマン|Richard Stallman]]、[[八田真行]] | date = 2006-11-16 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-29 }}</ref>。この非(L)GPLプログラムはそれが[[二次的著作物]]([[:en:derivative work|derivative work]])ではない場合、任意の条項のもと'''頒布'''({{lang-en-short|distribution}}; 配布)してもよい。二次的著作物である場合は、LGPLv2.1第6節またはLGPLv3第4項の条項により、「顧客(カスタマー)自身の利用のための改変ならびにそのような改変を[[デバッグ]]するための[[リバースエンジニアリング]]」を許諾する必要がある<ref> {{Cite web|和書 | url = http://ossipedia.ipa.go.jp/kb/Q%EF%BC%9AGNU_GPL%E3%81%A8GNU_LGPL%E3%81%AE%E9%81%95%E3%81%84%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B%EF%BC%9F | title = Q:GNU GPLとGNU LGPLの違いは何ですか? | publisher = ossipedia.ipa.go.jp | work = [[情報処理推進機構|IPA]] | accessdate = 2011-08-05 | quote = ほかのライセンスの適用が認められる条件とは、顧客が自分の用途に適応させるための改変を認めること、リバースエンジニアリングを認めることなどです。これらは、著作権法では認められているのに、商用ソフトウェアの利用許諾契約の多くで禁止されている項目です。 }}</ref>。<!-- 次の部分はコメントアウトされている。詳しくは、[[:en:Talk:GNU Lesser General Public License]]参照。Another major difference is that derivative works (which are not GPLed) must be software libraries.(また別の大きな違いは、(GPLで保護されていない)二次的著作物はソフトウェア・ライブラリでなければならないという点である。)-->これは、[[GNU General Public License|GPL]]のように'''常に'''二次的著作物を同一の許諾条項に置くライセンスとは異なり、常に同一の許諾条件に置くとは''限らない''ことを示している。LGPLなプログラムを利用する著作物が二次的著作物か否かは法的な問題である<ref group="注釈"> 二次的著作物の範囲の問題は[[ライセンス]]に関わらず[[ソフトウェア]]、そしてあらゆる[[著作物]]全てにおいて法的な問題であり、明確な判例はない。GPLについても同様であり、その見解についての詳細は、記事"[[GNU General Public License#リンクと派生物]]"に若干記載されている。 </ref>。ライブラリに[[動的リンク]](すなわち[[ライブラリ#共有ライブラリ|共有ライブラリ]]や[[ダイナミックリンクライブラリ]]などによるリンク)する単体の[[実行ファイル]]は、法的に二次的著作物ではないと解釈される可能性がある<ref group="注釈">ライブラリに動的リンクされた実行ファイルがライブラリの二次的著作物か否かは法的な問題であり、LGPLとGPLで扱いに差はない。これは、LGPLやGPLが適用されたライブラリに動的リンクされた単体の実行ファイルが、LGPLにおいてライブラリの二次的著作物とみなされないなら、すなわちリバースエンジニアリングを許可する必要がないならば、GPLにおいてもライブラリの二次的著作物とみなされない、すなわち実行ファイルをGPLにする必要がないことを意味する。逆もまた然りである。</ref>。その場合、ライブラリにリンクするプログラムは、LGPLv2.1における第5パラグラフ(Section 5. 第5節)、または同等の内容のLGPLv3第4項(Section 4.)に定義されている「ライブラリを利用する著作物」に該当する。次の文はLGPLv2.1第5節の第1段落にある条文の引用である。 :A program that contains no derivative of any portion of the Library, but is designed to work with the Library by being compiled or linked with it, is called a "work that uses the Library". Such a work, in isolation, is not a derivative work of the Library, and therefore falls outside the scope of this License.<ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/lgpl-2.1.html | title = GNU Lesser General Public License, version 2.1 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-30 }}</ref> LGPL の一つの特徴は、(LGPLv2.1では第3節、LGPLv3では第2項の条項により)ソフトウェアのLGPLで保護された任意の部分をGPLで保護することも可能にさせる。この特徴により、GPLで保護されたライブラリやアプリケーションにおいて、LGPLで保護されたコードを直接再利用することや、また、プロプライエタリなソフトウェア製品に利用されないようにするコードのバージョンを作成したいと考える場合、有益となる。 == ライブラリのライセンスにGPLとLGPLのどちらを選択するか == 以前の名前が"GNU Library General Public License"だったこともあり、FSFはライブラリはLGPLを採用することを望んでいるという印象を受ける人は多かった。[[1999年]][[2月]]、[[リチャード・ストールマン]]は、''Why you shouldn't use the Lesser GPL for your next library''<ref name="not_use_LGPL" />(''なぜ次のライブラリには劣等GPLを利用するべきでないのか''<ref name="not_use_LGPL-ja" />)という評論を執筆し、この中でなぜこのことが当てはまらないケースがあるのかということと、LGPLをライブラリに適用することは''必ずしも''適切とは限らないことを説明した。 :Which license is best for a given library is a matter of strategy, and it depends on the details of the situation. At present, most GNU libraries are covered by the Library GPL, and that means we are using only one of these two strategies <nowiki>[allowing/disallowing proprietary programs to use a library]</nowiki>, neglecting the other. So we are now seeking more libraries to release under the ordinary GPL.<ref name="not_use_LGPL" /> このことは、LGPLが[[非推奨]]なのではなく、単に、LGPLを''全ての''ライブラリに適用するべきではないと述べており、例えば[[GNU Cライブラリ]]はLGPLを利用するべきライブラリの一例として引き合いに出されるが、LGPLである理由は[[標準Cライブラリ]]などをはじめとするライブラリの実装が既に幾つか存在し、プロプライエタリソフトウェアからなる著作物が、GPLなライブラリを飛び越えて、競合するBSDライセンスなどの[[パーミッシブ・ライセンス]]により許諾されるライブラリとリンクする可能性が単に存在するからである。&mdash; ストールマンは続けて次のことを主張している。 :Using the ordinary GPL is not advantageous for every library. There are reasons that can make it better to use the Lesser GPL in certain cases.<ref name="not_use_LGPL" /> 事実、ストールマンとFSFは時折、(利用者の[[自由]]を拡大するため、)戦略的事項として、意外なことだが、LGPLより制限の少ないライセンスの利用を強く主張している。有名な例は、[[Vorbis]]音声[[コーデック]]プロジェクトのライブラリに[[BSDライセンス|BSD形式のライセンス]]を採用したことをストールマンが支持したというケースである<ref name="Vorbis_and_BSD"> {{cite web | url = http://lwn.net/2001/0301/a/rms-ov-license.php3 | title = <nowiki>Re: [open-source] [Fwd: [icecast-dev] Xiph.org announces Vorbis Beta 4 and the Xiph.org</nowiki> | date = 2001-02-26 | publisher = {{仮リンク|LWN.net|en|LWN.net}} | accessdate = 2011-03-29 }}</ref><ref group="注釈"> のち、FSFは、プロプライエタリ音声フォーマットに対し[[Ogg]]+[[Vorbis]]への置き換えを推奨する運動、PlayOggを開始している。 {{cite web | url = http://www.fsf.org/campaigns/playogg/ | title = PlayOgg! | date = 2011-01-04 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-04-03 }}</ref>。 == プログラミング言語による特異性 == 本ライセンスの条文は、[[C言語]]やその近縁言語により作成されたアプリケーションを主に意図している用語の使われ方が見られる。Franz Inc.は、[[LISP|Lisp]]のコンテキストにおいて用語を明確化するため、当ライセンスに同社が独自に作成した''前文''(''preamble'')を加えた形で公開した。この独自の前文が付記されたLGPLは時折LLGPLと呼ばれる<ref name="LGPL_preamble"> {{cite web | url = http://opensource.franz.com/preamble.html | title = Preamble to the Gnu Lesser General Public License | publisher = opensource.franz.com | accessdate = 2011-03-30 }}</ref>。 加えて別の事例として、[[Ada]]は[[ジェネリックプログラミング|ジェネリクス]]という特別な性質を持つ言語であり<ref group="注釈"> [[wikibooks:en:Ada Programming/Generics|generics]] </ref>、このことに対応するためGPLの改変版ライセンス[[GNAT Modified General Public License|MGPL]]が作成されている<!--{{Clarify|date=August 2010}}--><!--which feature uses the license, and how?(どのような特徴に適用され、そしてどのように許諾されているのか?)-->。 == 「継承」にまつわるLGPLの話題 == LGPLで保護されたソフトウェアが非(L)GPLコードにより[[継承 (プログラミング)|継承]]する場合、[[オブジェクト指向]][[クラス (コンピュータ)|クラス]]の適合性について若干の懸念が惹起している。明確な説明が[[GNU]]の公式ウェブサイト上に与えられている。 :The LGPL contains no special provisions for inheritance, because none are needed. Inheritance creates derivative works in the same way as traditional linking, and the LGPL permits this type of derivative work in the same way as it permits ordinary function calls.<ref name="lgpl-java"> 全文は次の通り。LGPLv2.1を対象に記述されているが、そのページの最上部に記載の通り、LGPLv3では条文の節番号が異なる点を除いて同じ内容が適用され得る。 {{cite web | url = http://www.gnu.org/licenses/lgpl-java.html | title = The LGPL and Java | author = David Turner | year = 2004 | publisher = [[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] | accessdate = 2011-03-30 }}</ref> 参考訳 :LGPLは、[[継承 (プログラミング)|継承]]についての特殊な規定を含めていない。なぜなら、何も必要とされないからである。継承は、古きよきリンクと同じ方法で二次的著作物を作成する。そして、LGPLが通常の(訳注: [[ライブラリ]]の)関数呼び出しを許諾しているのと同様に二次的著作物のこの形式も許諾しているのである。 == LGPLの特徴 == 以上をまとめると概ね次の内容になる。 LGPLは次のことを保証する。この内容はGPLでも保証されている権利の一部である(このことからGPLよりも弱いコピーレフト性を持つ)。 * 社内など''私的組織内部''や''個人で''(''private'')利用するにあたってのソースコード改変、再コンパイルには制限がない。 * LGPLで頒布されたプログラムを再頒布する際にはソースコードを公開する必要がある。 LGPLで頒布されたライブラリAについて、 * コンパイル時にライブラリAに(''[[動的リンク|動的]]・[[静的リンク|静的]]に関わらず'')'''リンク'''される可能性のあるプログラムBのソースコードについてはLGPLを適用する必要は無く、その頒布の制限にも関与しない{{citation needed|reason=[[GPLリンク例外]]の混同?|date=August 2016}})<ref group="注釈"> たとえば[[GNU/Linux]]などでは標準的なC言語のソースコードをコンパイルすると、LGPLである[[GNU Cライブラリ|glibc]]に'''リンク'''される。このときコンパイルしたソースコードが[[プロプライエタリソフトウェア|独占的]]であったとしても、LGPLの条項を適用しなくてよい。{{citation needed|reason=glibc は[[GPLリンク例外]]の対象外|date=August 2016}}) </ref>。 * ライブラリAに'''リンク'''したプログラムBを頒布する場合、Bのライセンスに[[リバースエンジニアリング]]を禁止する条項を含めてはならない。(LGPLv2第6節、LGPLv3第4節)<ref group="注釈"> ライブラリAに[[静的リンク]]した場合に加えて、[[動的リンク]]したプログラムが二次的著作物と見なされる場合も、リバースエンジニアリングを許可しなければならない。 </ref> * ライブラリAに[[静的リンク]]したプログラムBを頒布する場合、Bのソースコードまたは[[オブジェクトファイル|オブジェクトコード]]の頒布に制限があってはならない。(LGPLv2第6節a、LGPLv3第4節d0) * ライブラリAを改変して作成されたライブラリA'を頒布する場合、A'のライセンスはLGPLまたはGPLである必要がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Portal|FLOSS|[[ファイル:FLOSS logo.svg|41px]]}} * [[GNU General Public License]] (GPL) * [[GNU Affero General Public License]] (AGPL) * [[GPLリンク例外]] * [[GNU Free Documentation License]] (GFDL) * [[GNAT Modified General Public License]] (GMGPL) * [[GNUプロジェクト]] * [[フリーソフトウェアライセンス]] * [[BSDライセンス]] * [[パブリックドメインソフトウェア]] == 外部リンク == * [https://www.gnu.org/licenses/lgpl.html The GNU Lesser General Public License] (原文) ** [https://github.com/opensource-jp/licenses/blob/main/LGPL-3.0/LGPL-3.0.md GNU 劣等一般公衆利用許諾書 バージョン3] ([[八田真行]]による非公式日本語翻訳) * [https://www.gnu.org/licenses/old-licenses/lgpl-2.1.html The GNU Lesser General Public License, version 2.1] (原文) ** [https://github.com/opensource-jp/licenses/blob/main/LGPL-2.1/LGPL-2.1.md GNU 劣等一般公衆利用許諾契約書 バージョン2.1] ([[八田真行]]による非公式日本語翻訳) * [https://www.linuxjournal.com/article/6366 Derivative Works] - [[ライブラリ]]がGPLである場合の[[二次的著作物]]の定義に関する[[ローレンス・ローゼン (弁護士)|ローレンス・ローゼン]]の評論。 {{GNU}} {{FLOSSライセンス}} {{FOSS}} [[Category:オープンソースライセンス]] [[Category:コピーレフト]] [[Category:GNUプロジェクト]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/GNU_Lesser_General_Public_License
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ファクシミリ
ファクシミリ(英語: facsimile)は、文字や図形、写真などの静止画像を、電気信号に変換して送受信する通信方式、またはその用途で使用する機器である。通称はFAX(ファックスまたはファクス)。 一般的なFAXは、静止画像を電子データに変換するイメージスキャナ、電子データを送受信するための電気信号に変換するモデム、電子データを印字するためのプリンタが組み合わさった装置である。通信回線としては、有線と無線の両方が用いられるが、一般的には公衆交換電話網が利用される。 2000年代以降は電子メール、チャット、クラウドストレージの普及により世界的に利用者が減少しているが、日本ではデジタル・ディバイドによる格差をつけられた層(これらを使いこなせない高齢者や、IT導入の優先順位が低くデジタル化が遅れている職場など)や「情報を印刷物の形で記録したい」層からの需要があるため機器の製造が続けられている。特に中小企業の場合、ITの重要性を理解しない傾向が強く、8割の企業がFAXに頼る傾向がある。 ファクシミリが発明されたのは、1843年のことである。これは米国のサミュエル・モールスによる電信機の発明から7年後であり、ベルが電話機を発明する33年も前のことである。 1843年、イギリス人のアレクサンダー・ベインがファクシミリの原型を発明し、特許を取得した。 送信側では、振り子の振幅方向に平行な下部側面に絶縁板をセットする。その絶縁板上に金属の文字を置き、振り子の先に絶縁板に接触する金属針を取り付けて、左右に振り子を動かす。接触針は絶縁板を左右に移動して、絶縁部分に接触している時は“非導通”、金属部分に接触すると“導通”の信号を送る。1回の振幅毎に絶縁板を上方(又は下方)に少しずつ移動させて、絶縁板全体を走査させる。 受信側でも同様な振り子と接触針を設けて、化学反応によって変色する記録紙に接触針を走査させる。“導通”の信号のときに電流を流して、記録紙を変色させて送信側の絶縁板上の金属文字を再生させる。 送信側の読取走査と受信側の記録走査は、それぞれ別の振り子を利用しているので同期が難しく、記録位置にずれが発生して画像が乱れ実用化されなかった。 ベインの装置では同期が難しいという欠点を改良したのがイタリア人のジョヴァンニ・カゼッリである。1862年、カセルは送信側から振り子の同期信号を送り、受信側の振り子を電磁マグネットで制御して同期を取るパンテレグラフを発明した。フランス郵便・電信公社で採用され、手書きの文字や図面や絵等の電送に使用された。用紙は111mm×27mmで、約25文字程度が電送でき、主に銀行のサイン照合に利用された。 1848年、イギリス人ベイクウエル(Frederick Collier Bakewell)は、ベインの発明を大きく改良し、現在のファクシミリの基本形を発明した。 1851年のロンドン万国博覧会で展示された。送信側は、金属円筒に特殊な絶縁インクで書いた金属箔を巻き付ける。円筒の円周方向に固定して接触させた金属針(接触針)を設け、円筒を回転させて“導通”、“非導通”の信号を得る。円筒を回転しながら、接触針を円筒の片方の端から他端にむかって軸方向に少しずつ移動させることによって、円周面(金属箔)全体を走査して受信側に送る。受信側も送信側と同じ大きさの金属円筒と接触針を設け、電流が流れたときに変色する化学紙を巻き付け、送信側に同期して回転させる。送信側の導通・非導通の信号は記録紙に濃淡となって表示される。受信側の円筒の回転速度やスタート・ストップを送信側の円筒と同期することが難しく実用化されなかった。 1898年、アメリカ人ハンメル(Ernest A. Hummel)はベイクウエルの欠点を改良した装置(Telediagraph)を発明した。8インチ径の円筒を用い、送信側の円筒が1周回転する毎に同期信号を発生し、その信号毎に接触針を軸方向に1/56インチ移動していく。受信側では送信側の同期信号を受けて同様な方法で円筒と接触針を制御して同期を取る。同時に送信原稿の信号を受けて記録する。送信原稿は薄い金属箔に非導通のワニスで記載し、受信側では2枚の白紙に挟まれたカーボン紙に記録する。原稿サイズは最大8×6インチ(203mm×152mm)で送信時間は20 - 30分、いくつかの米国新聞社で採用された。 その後、1876年にベル(Alexander Graham Bell)により電話が発明され、更に、1883年にエジソンにより真空管が発明、更に真空管から光電管が発明された。 1906年、ドイツ人コルン(Arthur Korn)とフランス人ベラン(Edouard Belin)がほぼ同時に、同様な方法で写真の電送に成功した。送信側の円筒に巻き付けていた金属箔を写真やイラスト、文字等が書かれた用紙に変え、接触針の代わりに光電管を使用した。回転するドラムに巻き付けた用紙の小さな一点にレンズで焦点を合わせて、光電管に光を送る。固定したレンズと光電管をドラムの軸方向に少しずつ移動させる。用紙に書かれた文字やイラスト等の“白”と“黒”およびその中間色の部分は光電管によって色の濃さに比例した電気信号に変わり、その信号を電話回線で送る。受信側では送信側と同期して円筒を回転させ、円筒に巻いた印画紙に、送られてきた信号に基づいた光を当てて感光させる。写真の中間調(ハーフトーン)電送を実現させた。 コルン式もベラン式も、両方の円筒(ドラム)の回転を一致(同期)させるために、送受信それぞれ別の2個の音叉を使い、その振動に合わせて両方のモーターの回転数を同じにするという原理を使っていた。送信側と受信側の温度や湿度の違いで、音叉の周波数が微妙に変わるためにモーターの回転数に誤差が生じ、画像が乱れるという問題があった。 コルンのシステム(photoelectric telephotography)は1910年からパリ・ロンドン・ベルリン間を電話回線経由で結ばれて運用され、ベランのシステム(Belinograph)は1930年代・1940年代にニュースメディアで使用された。 その後、日本電気の丹羽保次郎と小林正次が画期的なFAXの技術を開発(後述)し、1920年代後半から実運用が開始された。 1929年、ドイツ人ヘル(Rudolf Hell)はテレプリンター方式をファクシミリに採用した新しい方式ヘルシュライバーを発明した。 タイプライタ型のキーボードで文字を入力する。その文字を7×7ドットのパターン(ピクセル)に分解して左側のドット列から順次ON-OFF信号として送信する。受信側ではカーボンコピー紙と記録紙を重ねたテープを円筒に接触させ、円筒の回転に合わせて移動させる。回転する円筒には螺旋状に等間隔な小さな突起が連なり、この突起列は円筒を2周している。円筒と記録用のテープが接する箇所にハンマーがセットされ、受信したON信号によりハンマーで円筒をヒットすると円筒の小さな突起部分がカーボン紙から記録紙に転写される。記録された文字は傾いているが充分可視、判読できる。有線、無線に対応できること、通信系のノイズや歪み、電文の漏洩(秘密の保持)に対して強いことで、1930年代の第2次世界大戦まではポータブルな装置(Feld-Hell)がドイツ軍に使用された。その後は1980年代までニュースの電送に使用された。 日本では1924年(大正13年)6月、大阪毎日新聞と東京日日新聞が日本で初めてドイツからコルン式の電送写真機を3台購入し試験したが不安定であった。次いで、朝日新聞が1928年(昭和3年)6月フランスからベラン式の電送機を3台購入した。実験は成功したが、画像乱れの問題があり、実用化されなかった。 1928年、日本電気の丹羽保次郎とその部下、小林正次はベラン式やコルン式の同期ずれによる画像乱れを改良したNE式写真電送機を開発した。NE式は在野の発明家安藤博による「同期検定装置」を採用。送信側の回転ドラムを三相交流モーターで回し三相の波を単相にした波を電話回線で相手側に送り、受信機側で三相交流電流に戻して記録用の交流モーターを回して同期を取る、同期信号を受信側に送ることで送信側と受信側のモーターを完全に同じ回転数で回せる方式だった、この方式の利点は送信側が一回転ごとに同期信号を送ってくるため送信側の回転数がブレても受信側も同じ回転数になるため同期が崩れない。当時三相交流は強電系の技術であり直流モーターを使用することが普通だった弱電で使用する機械は珍しかった。写真の明暗の変化は光電管で電気信号に変換して電話回線の中では音の強弱に変換されて送られる、電話の音の周波数をモーターの回転数に、音量を明暗の濃さに変換することで画像に乱れなく写真を電送出来た。この同期検定装置は後にファクシミリだけでなく遠隔地のモーターの回転数を制御する技術として広範囲に活用されている。高い精度で送れる反面、データー圧縮が行えないので通信速度面では不利であった。 1928年11月10日に京都御所で行われた昭和天皇の即位礼を、京都から東京に伝送したのが実用化第1号であった。即位礼の時、速報を大阪毎日新聞社と朝日新聞社がかって出た。 しかし、同じ音叉などを送受信双方に組み込んで同期を取るベラン式やコルン式は気温や湿度の影響を受けやすく環境変化で同期が崩れる問題が克服できず画像が歪んでしまい、国は歪んだ画像を文書に載せ公開することを禁止する法律を制定した。朝日新聞社にドイツのFAXの技術者が、大阪毎日新聞社に当時の日本電気の技術者が就き、両社とも試験時はまったく成功せず、NE式を採用した大阪毎日新聞社が本番のとき、初めて成功した。 朝日新聞社は、大阪毎日新聞社が速報を出した数時間後に、やっと成功した。 その後、NE式は新聞社から始まり官公庁や大企業で専用回線を使用した写真電送に使用され、一般向けでは逓信省が1930年(昭和5年)に「写真電報」という名でサービスを開始した。昭和11年には甲乙丙丁の四種類があり、送れる用紙の大きさによって値段が異なった。普通の電報がカタカナ数字しか送れなかったのに対して写真電報は手書きの文字がそのまま送れたので漢字が使える利点が大きかった。 1936年に開催されたベルリンオリンピックではベルリン - 東京間に敷設された短波通信回線により電送された写真が新聞紙面を飾り、それまでの飛行機便による速報写真は役目を終えていった。 1937年(昭和12年)にNE式は携帯端末となり、日中戦争の報道に使用された。NECの無線技術は高く評価され、後に日本陸軍の無線・通信設備を独占した。 戦後は、逓信省による東京 - 大阪間の公衆模写電信業務、電電公社の電報、気象庁の天気図、国鉄(現JR)による連絡指示事項を全国の駅に一斉同報、警察の手配写真、新聞報道の写真や記事伝送などに利用された。 FAXの普及が急速に進んだ理由は、CCITT(現 ITU-T)によるFAX画像データ伝送方式の標準化と、通信自由化による電話回線のデータ通信への開放である。 CCITT(現 ITU-T)において国際的なFAXの画像データ伝送方法(プロトコル)についての標準化が審議された。 最初に、1960年(昭和35年)に前述のコルンやベラン、小林らが開発した円筒・機械式走査の『写真電送装置の標準化』が行われた。 円筒の直径は66・70・88mmの3種が選定され、走査ピッチ(円筒軸方向の移動幅)は円筒直径を協約数(264または352)で除した数値(直径66mmで協約数264の場合の走査ピッチは0.25mm)とした。この規定により協約数が同一であれば、円筒径が異なる送受信機間でも画像乱れの無い通信が可能となる。その他、ドラムの回転速度(60・90・120・150rpmの4種)とその誤差、同期や位相、振幅変調や周波数変調等について勧告が出された。 1970年代までは、ファクシミリ通信というのは高価な装置を用いる通信手段で、使用するのは報道会社、鉄道会社、警察組織、軍の組織、特定の企業など限られていて、業務用であり、あくまでひとつの組織の内部の通信のために使われていた(基本的に、2つの異なる組織の間の通信には使われていなかった)。 平面走査タイプのスキャナや新しい記録方式の開発に対応して、1968年(昭和43年)G1規格(電話回線、データ圧縮無しでA4サイズ原稿を6分で送信)が勧告された。 G1規格は走査線密度は3.85本/mm、電話回線での走査線周波数は180本/分(3本/秒)、振幅変調(AM : Amplitude Modulation)と周波数変調(FM : Frequency Modulation)について規定している。スキャナで得られる画像信号はアナログで、振幅変調で送信する場合は、搬送周波数1,300 - 1,900Hzの範囲内で白を最大振幅、黒を最小振幅と定めている。周波数変調で送信する場合は、白が搬送周波数-400Hz、黒が搬送周波数+400Hzの範囲内と規定され、交換回線経由での搬送周波数は1,700Hzと規定されている。 1971年(昭和46年)の特定通信回線、1972年(昭和47年)の公衆通信回線を利用した通信の自由化(第1次通信回線開放)とともに、電話回線がデータ通信やFAX通信に広く利用され、東方電機(後の松下電送)・NEC・東芝・東京航空計器・日本無線等が競ってFAXのG1適用機を商品化した。 さらに、1976年(昭和51年)にA4サイズの原稿を3分で送信するG2規格が勧告された。 走査線密度はG1規格と同じ3.85本/mmで、走査線周波数を360本/分にし、2倍の速度の標準化をしている。 画像信号のデジタル化と伝送時間を短縮するデータ圧縮技術が実用化されて、1980年(昭和55年)にA4サイズの原稿を1分で送信するG3規格が勧告された(数回の改訂があり最新版は2003年7月)。対象とする用紙はA4・B4・A3・レターサイズ・リーガルサイズで、その短辺幅を考慮して、走査幅は215・255・303mmの3種を規定している。走査の送り方向の走査線密度(垂直方向)は3.85本/mm(G1・G2を踏襲)、オプションとして7.7本/mm・15.4本/mmを規格化している。走査方向(水平方向)の信号はG1・G2規格ではアナログであるが、G3規格では細かく分割した画素単位(8画素/mm)で白と黒の2値にデジタル化される。オプションとしてインチ系の規格もあり、走査の送り方向(垂直方向)は100・200・300・400・600・800・1,200本/1インチ(25.4mm)の7種が、走査方向(水平方向)は100・200・300・400・600・1,200画素/1インチ(25.4mm)の6種が規格化されている。画像データのデジタル化にともない、データ圧縮や誤り訂正の技術やFAXにメモリーを内蔵しての種々の機能(一斉同報、機密保護通信、ポーリング受信、時刻指定通信、マルチドロップ、メモリー間通信等)が開発された。 G3規格ではオプションとして1次元符号化と2次元符号化、拡張2次元符号化によるデータ圧縮やECM(Error Correction Mode)などを規定することにより、1分送信を実現している。 G3規格の登場により、ファクシミリの市場が一気に活性化。その結果日本の電機メーカー・通信機メーカー・事務機器メーカーなども開発・製造に乗り出し、特に、欧米と違い漢字といった象形文字の文化を持つ日本では図像電送へのさまざまなニーズがあり、ファクシミリの性能向上への要求も強く、それらの要求にこたえるための技術開発・商品開発に各社がしのぎを削り、質や機能や使い勝手の向上が図られ、そのおかげでファクシミリは同一企業内だけでなく不特定多数との交信にも使われる通信手段、情報通信の要(かなめ)として広く普及し、日本のメーカーのファクシミリは世界市場を席巻する情況になった。オフィス用途では高スピード、高解像度、大量送信、大量受信に対応できるファクシミリ機器が採用され、家庭用やスモールオフィス用には低価格で省スペースのファクシミリ機器が販売された。このような経緯で一般家庭にもFAX機の普及が進んだ。 1984年(昭和59年)にFAXデータを高速デジタル回線で送信するための標準化、G4規格が勧告された。 G4規格はG3規格を拡張して回線交換公衆データ網(CSPDN)、パケット交換公衆データ網(PSPDN)、ISDNに対応した規格である。 以上の規格の制定や回線開放と共に量産とコストダウンが進み、官庁や新聞社から大企業、さらに中小企業や個人へと使用が拡大した。 1981年には日本電信電話公社(電電公社)により、通信料金の安いファクシミリ通信網(Fネット)が開始された。同時に日本電気、日立製作所、富士通、松下電送、東芝が分担開発したミニファックスMF-1が電電公社から発売され、ヒット商品となった。1984年にはG3規格摘要の改良機MF-2を開発・販売を開始した,。 その間、現在の主力であるG3ファクスが開発され、また1985年に電話機を始めとする端末設備の接続が自由化(端末の自由化)されると、中小企業や商店などで急速にファクスが普及し始めるとともに、パーソナルコンピュータなどのFAX内蔵モデムが登場する。 1988年に開催されたソウルオリンピックを目前に高解像度のカラーイメージスキャナーが登場し、同時に日本の主要都市に光ファイバーが敷設され、デジタル通信回線により高解像度の電送された写真が地方新聞社に送られカラー写真が紙面を飾った。 1990年代に入ると、コードレス留守番電話機と結合された形で、一般家庭でも使われるようになった。また、ファクシミリの機能を活用しあらかじめ決められたコード番号を入力することで様々な情報を受信することが可能なFAXサービスの提供が主な企業より行われた。 日本では1990年代半ばまでファクシミリの通信網契約数は右肩上がりで増えつづけ、たとえば1984年に1万8千件ほどだった契約数は、5年後の1989年には36万9千件ほどになり、1994年には67万8千件ほどに達していた。 1990年代後半あたりから情報転送の技術としてインターネットの利用が普及し、2000年代に入ってからビジネスでも徐々に文字・図像情報の転送にインターネットを利用することも増え、それと連動してファクシミリの利用は徐々に減った。しかし、証拠を残す必要がある用途、パソコンを使わずに画像を即座に転送できるなどの有利な面があり、業務用では官公庁向け、家庭用では高齢者向けに需要が残っている。 2020年に新型コロナウイルスの流行が拡大した際、日本社会のファクシミリ依存が表面化した。日本の官公庁ではファクシミリに依存したシステムが使われ続けていることが業務の効率化を妨げているとして、2021年に河野太郎行政刷新担当大臣がファクシミリからの移行を提案しているが、事務方は国会対応のため議員とのやりとりに使うなどの理由から消極的である。例外的に外務省は外部とのやりとりが少ないため、裁判資料の送付などを除き電子メールへ移行している。 日本の芸能事務所などではファクシミリで情報のやり取りをすることが多く、特に有名人が結婚・離婚・妊娠などの重大事項を発表する際などは、本人もしくは所属事務所がテレビ局や新聞社にファクシミリで送信することが多い。これは、ファクシミリは文面の下に自筆で署名もできるほか、発信者の確認がしやすく、「怪文書」扱いになりにくい形で複数の報道会社に向けて一括で送信できるからとされる。 日本におけるファクシミリの世帯普及率は2017年(平成29年)に35.3%。世帯主年齢が20代で1.3%、30代で11.2%、40代では35.1%。2020年(令和2年)には20代は2.1%、30代は9.4%、40代は25.8%、50代は43.2%、60代は48%、70代は47.4%、80代以上は38.9%と高齢化傾向になっている。 ファクシミリ機器については、2000年代に入ってからはIP電話・LAN・インターネットなどの電話交換機を介さないIP通信網を利用したInternetFAXも利用されるようになった。市販されているファクシミリ機器は、電話機と一体になっているものがほとんどである。 2010年代にはスミソニアン博物館に産業遺産として収集されたファクシミリではあるが、2020年代においてもセキュリティーやプライバシーなどを理由にインターネット網に接続していない、デジタルな集計を行わない機関や分野(警察、医療関係)では使用され続けている。2020年に新型コロナウイルス感染症の集計が行なわれた際には、ファクシミリによる報告が少なからず行われ、現場が集計に手間取って恐慌をきたす場面もあった。 この種の伝送は最初から「ファクシミリ」という呼称で定まっていたわけではなく、様々な呼ばれ方をしてきた歴史があり、たとえば「telephotography テレフォトグラフィ」や「telecopy テレコピー」などと呼ばれていたこともある。 「ファクシミリ facsimile」という用語はラテン語のfac simile(=「同じものを作れ」)←{facere(為す)+simile(同一)}が語源である。「facsimile」は印欧語圏では、「(原版の)忠実なコピー」という意味が第一義的な意味であり、現在もそちらの意味でも広く使われており、たとえば「写本のファクシミリ(=忠実なコピー)」「肉筆の手紙のファクシミリ(=忠実なコピー)」などと日常的に言っており、「facsimile」という言葉のほうを中心に据えてみると、(この記事で説明している)図像の伝送装置は、実は、1番目ではなく、2番目に位置する用法として用いられている。 「FAX(ファックス)」は本来、ゼロックス社のファクシミリに附された登録商標であったが、商標の普通名称化により広く使われる言葉となっている。 いろいろな分類法があるが、ひとつには document facsimile 模写電送 / photograph facsimile 写真電送」と分類する方法がある(あった)。模写電送は、白か黒の2階調しかなく文字や線のようなものしか送れないものであり、写真電送とは中間調を含むも画像つまり白黒写真のようなものも送れるものである。 有線ファクシミリ / ラジオファクシミリ(無線ファクシミリ) と分類することもある。 日本の電波法施行規則内で「ファクシミリ」と呼ばれているのは、後者のラジオファクシミリのことで、「電波を利用して、永久的な形に受信するために静止影像を送り、又は受けるための通信設備」と定義している(電波法施行規則2条1項23号)。 伝送経路の歴史的な変化、広がりを踏まえつつ、有線ファクシミリ / ラジオファクシミリ / 電話線(電話網)ファクシミリ と分類することもある。 標準化をもとにG1 / G2 / G3 / G4などと分類することもある。 最終的に出力される紙(「記録紙」)を基準にして(FAX機を) 感熱紙FAX / 普通紙FAX などと分類することもある。 1843年、ベインは振り子の振幅方向に平行な下部側面に絶縁板をセット、その絶縁板上に金属の文字を置き、振り子の先に絶縁板に接触する金属針を取り付けて、左右に振り子を動かす方式を発明した。振り子の先の接触針は絶縁板を左右に移動して、絶縁部分に接触している時は“非導通”、金属部分に接触すると“導通”の信号を送る。1回の振幅毎に絶縁板を上方(又は下方)に少しずつ移動させて、絶縁板全体を走査させる。送信側の読取走査と受信側の記録走査は、それぞれ別の振り子を利用しているので同期が難しく、記録位置にずれが発生して画像が乱れ実用化されなかった。 1862年、カセルはベインの同期が難しいという欠点を改良した。1862年、カセルは送信側から振り子の同期信号を送り、受信側の振り子を電磁マグネットで制御して同期を取ることを発明した(Pantelegraph)。フランス郵便・電信公社で採用され、手書きの文字や図面や絵等の電送に使用された。 1848年、ベイクウエルは金属円筒に特殊な絶縁インクで書いた金属箔を巻き付け、金属針を接触させて、円筒を回転させて“導通”、“非導通”の信号を得る。円筒を回転しながら、接触針を円筒の片方の端から他端にむかって軸方向に少しずつ移動させることによって、円周面(金属箔)全体を走査(スキャン)してその信号を送信した。 1906年、コルンとベランはイラスト、文字等が書かれた用紙を回転する円筒に巻き付け、用紙の一点にレンズで焦点を合わせて、光電管に光を送る。固定したレンズと光電管をドラムの軸方向に少しずつ移動させて全体を走査する。用紙に書かれた文字やイラスト等の“白”と“黒”およびその中間色の部分を光電管によって色の濃さに比例した電気信号に変えて送信する。 ドラム回転式は原稿を1枚ずつセットするので操作が煩雑で多数の原稿に時間を要する等の問題があり、平面走査による操作性の改善が求められていた。 オプティカル・ファイバは極細に引き延ばした糸状のガラスである。そのガラス糸の端面に光を当てると光は直進し、ほとんどロス無く他端に到達する。そのファイバ約1,500本を横(原稿幅)一列に並べて、読み取りする原稿に接触させる。原稿に光を当てて白・黒の反射光を対応する1,500本のオプティカル・ファイバで反対側に送る。反対側の終端はセンサ側で、配列の順序はそのままで円形に固定し、その円形に対向して円盤を配置、モータで円盤を回転する。円盤にはファイバ終端の円形に相当する位置に1本のファイバがセットしてあり、円盤の回転により1,500本のファイバをスキャンする。ファイバの他端から出た光はフォト・マルチプライア(光電子増倍管)で電気信号に変換される。このオプティカル・ファイバは「ライン・サークル・コンバータ」と呼ばれ、オリンパス光学が開発した。 原稿に蛍光灯の光を当てレンズでフォト・ダイオード・アレイに焦点する。アレイはフォトダイオード512個を一列に並べてLSI化したものである。主走査方向256mm幅の原稿を4分割し4個のフォトダイオードアレイ面に焦点を合わせる。4×512個のフォトダイオードの出力を順次取り出すことにより1ラインの画像信号をスキャンする。8pel/mmの解像度を得る。 原稿に蛍光灯で光を当てレンズで一列に並べたフォトダイオードに焦点を合わせる。各フォトダイオードに対応してCCD(Charge Coupled Device Image Sensor)が配置されている。フォトダイオードが受けた光の強さを対応するCCDに伝えて記憶し、CCDを順次読み出すことによりスキャンする。 照明を蛍光ランプからLEDアレイに変えて長寿命化、屈折率分布型レンズアレイを使用して光路長を30cmから1cmに短縮、センサにCdSタイプを使用したスキャナが開発された。大幅な小型化が図られ、読み取り部のユニット化が実現した。 完全な密着イメージセンサは京セラが1996年に発売したのが最初で、その後各社が開発し、各社のファックスで広く採用された。 本や雑誌、薄い用紙や小さい用紙等の原稿をガラス面に伏せてセットしてスキャンする。現在のコピーマシーンで採用されている自動給紙機構を持つ高性能ファックスが出現した。 1843年、ベインは振り子の振幅方向に平行な下部側面に接触針を設けて、化学反応によって変色する記録紙に接触針を走査させた。“導通”の信号のときに電流を流して、記録紙を変色させて送信側の絶縁板上の金属文字を再生させる。 1848年ベイクウエルは金属円筒に送信側と同じ大きさの金属円筒と接触針を設け、電流が流れたときに変色する化学紙を巻き付け、送信側に同期して回転させる。送信側の導通・非導通の信号は記録紙に濃淡となって表示された。 1906年、コルンとベランは送信側と同期して円筒を回転させ、円筒に巻いた印画紙に、送られてきた信号に基づいた光を当てて感光させた。写真の中間調(ハーフトーン)電送を実現させた。 OFT(Optical Fiber Tube)は表示面にオプティカル・ファイバ(極細に引き延ばした糸状のガラス)を束にして板状にしたプレートを使用したCRT(ブラウン管)である。内面に塗布された蛍光体に電子が衝突して発光し、ファイバを直進して表示面に出てくる。表示面に記録紙を密着して感光させる。一般のCRTは光が発散するが、OFTではファイバの方向へ光が直進するので、レンズにより焦点を合わせる効果と同様な解像度の良い画質となる。FAXに使用するOFTは表示面が扁平な形状で、横幅は用紙の幅(A4の場合約210mm)、縦方向は約1cmである。 記録用紙(ZnO紙)を帯電器に通した後、OFTのファイバー・プレートに密着して少しずつ移動する。帯電した用紙はOFT表示面からの光に当たったところが放電(露光)して潜像をつくり、次工程で黒色微細粉をいれた液体で湿したローラと接触(液体現像 : ローラ現像)させることにより、記録紙の帯電していない箇所に黒色粉が付く(現像、定着)。 マルチスタイラスは32本の針状電極を微細間隔で一直線に並べてブロック化したものである。そのブロックを64個並べて1列2,048本とし、静電記録紙に密着させる。白・黒の信号により金属針の電圧をオンオフして記録紙に帯電させて潜像をつくる。記録紙を現像器に通すと帯電した箇所に黒色微細粉が付く。その記録紙をローラに通して圧力をかけ、黒色微細粉を紙の繊維間に押し込んで定着させる。 感熱記録紙は熱により黒色を発色する。FAXの場合は8個/mmの間隔で横一線に並べた発熱体(サーマルヘッド)を記録紙に密着させて画像を得る。多くの普及型FAXで採用されている。構造が簡単でコストが安いが、記録紙が長期保存により退色する短所がある。 感光ドラムを「帯電」させ、レーザーで照射すると、照射された箇所の電荷が放電して電荷像(潜像)を作る。帯電させた黒色の微細な粉末(トナー)を感光ドラムに近づけると電荷のない部分にのみトナーが付着する(「現像」)。感光ドラムに用紙を押しつけて、トナーを用紙に「転写」する。ドラムを通過した用紙に強いフラッシュ光を当てトナーを用紙に溶着させて「定着」をする。印字品質が良く印刷速度が速いが、複雑な構造で、コストが高い。現在ではレーザー・プリンタで使用されている。 普通紙の上にフィルム状の熱転写リボンを重ねて発熱体(サーマルヘッド)に接触させると、熱が加わった箇所にリボンの色(FAXの場合は黒)が転写される。初期のFAXはロール紙が使用されていたが、最近ではA4またはB4サイズのカット紙(市販のコピー用紙〈普通紙〉)が使用されている。また印刷はカット紙の普及に伴い、多くは各社純正品、ないしはそれを模した互換品のロール式インクリボンが用いられているが、メーカーによっては複合機(インクジェットプリンター)により、専用のインクカートリッジを用いる場合もある 1ラインごとに画像データを処理してデータを圧縮する符号化方式である。一般の文書の画素データ(pel)は黒または白の連続が多いことを利用したデータの圧縮方法である。黒(または白)画素の連続した数(ランレングスという)をコードに変換して送信し、受信側で元の画素に復元する。出現頻度の高いランレングスから順番に短いコードに変換して、画像データを符号化することにより、送信データを短く(圧縮)することができ、送信時間を短縮することができる。FAXでは従来の1/6になりA4原稿を約1分で電送できる。 1980年CCITTにおいて、G3規格の中でMH(Modified Huffman)符号化方式としてランレングスに対するコードが標準化され、「1次元符号化方式」として制定された。 文字や簡単な図形が中心の原稿は、画像データの上の行と下の行はほとんど同じで、変化は少ない。この性質を利用してデータ量の大幅な圧縮を図ったのがRAC(Relative Address Coding)である。RACは下の画像データを一段上のデータ(参照ライン)と比較して、変化している箇所を検出し、その位置を符号化してデータ圧縮をする方式である。 参照ラインのデータが圧縮なしの場合にMR(Modified Read)方式、参照ラインのデータがMH方式(上記「1次元符号化方式」)で圧縮されている場合はMMR(Modified Modified Read)方式という。1980年CCITTによるG3規格の中では上記「1次元符号化方式」のオプションとして「2次元符号化方式」として制定された。 1次元符号化方式(MH)は“白”と“黒”の2種の変化であるが、この方式は二ラインの“白・白”、“白・黒”、“黒・白”、“黒・黒”の4つの組み合わせがある。この組み合わせの変化とランレングスのデータを送信する。「2走査線一括ランレングス符号化方式」とも呼ばれている。 ファクシミリのG3規格には「標準モード」とオプションとして「ファインモード」がある。標準モードでは装置の縦方向(副走査)はmm当たり3.85ライン、ファインモードで7.7ラインであり解像度が良い。しかし、ファインモードはデータ量が2倍で、伝送時間が2倍長くなるという短所がある。ALDC(Adaptive Line Dencity Control)は、複雑な図や細かい文字かどうかを送信データのランレングスで判定してファインモードと標準モードに自動的に切り替える機能である。 FAXの送信データを蓄積交換装置に送ってメモリーし、後宛先FAXに送信する。1979年に商品化された蓄積交換装置は現在のFAXへ継承されている下記のように多数の機能を実現している。 上記の機能は1982年にはフロッピー・ディスク内蔵のファクシミリに受け継がれ、1986年にはRAMを画像メモリーとしたファクシミリ引き継がれた。 受信側のFAXから要求して送信側FAXのデータを送信させる機能である。受信側FAXのキー操作により、登録されたFAXに接続し、文書等を送信させて受信する。電話料金が安価になる遠距離・夜間等の通信に利用された。1980年に実用化された。その後、1984年以降では、メモリーを内蔵するFAXが商品化され、同報装置無しでこの機能を実現した。 FAXの画像データをメモリに蓄積し、宛先のFAXのメモリに高速で伝送する。1982年に世界で初めてフロッピーディスク内蔵のFAXが商品化され、A4サイズを世界最高速の9秒で電送(G3規格は1分)した。この方式を「スーパー伝送」と呼んだ。電話回線を利用してのファイル転送の先駆けとなった。 同報先の1台のFAXにデータを送信し、そのFAXから近隣のFAXに同報する。国際回線や東京・大阪間等の遠隔地の多数のFAXに同報する場合に効率が良く、低コストで伝送できるシステムである。1982年に商品化された。 FAXの画像データを圧縮して送信する際、途中の通信回線でノイズやひずみ等でデータが間違った場合、受信した画像が大きく乱れる。この対策として、受信データの間違いを修正する方法がECMである。FAXの画像データを分割して、その一つ一つの後に数ビットの補正データを附加して送信する。受信側では受信した画像データと補正データを照合して、正しく受信した場合はそのまま、エラーを起こしたデータに対しては補正データにより修正して印刷する。1987年(昭和62年)にCCITTがG3規格のオプションとして採用した。 電話回線経由の電気信号にはノイズや歪みがあり、送信したデータが正しく伝わらないことがある。FAXの画像データを送信した場合、データにエラーがあると画像が乱れ、ひどい場合には文字が読み取れない場合がある。高速伝送は送信時間を短縮できるがノイズや歪みの影響を受けやすい。低速での伝送は比較的にノイズや歪みの影響が少ない。モデムは伝送速度の切り替え機能があるが、当初は自動切り替えの機能を持っていなかった。モデムフォールバックは受信側で電話回線の状況を計測し(SQD : Signal Quality Detection)、品質が良くない場合には伝送速度を下げて品質を確保する機能である。この手法(フォールバック)は現在でもADSL等で採用されている。ステップアップはこの逆で、品質が良い場合に伝送速度を上げる方式である。 FAXは読取部、記録部、シーケンス制御部、データ圧縮・復元部、伝送制御部、モデム部で構成されている。自己診断プログラムにより各ユニットの機能の自動チェック、パターン発生器によるテスト、折り返し伝送テストができ、操作パネルにその結果を表示する。1979年に商品化されたFAXに採用された。 スキャナで読み込んだB4やA3サイズの原稿のデータを、宛先のFAXの記録紙のサイズに合わせて(A3→A4・B4、B4→A4)データ変換して送信する。 誤接続の防止をするために送信側のFAXに宛先FAXの電話番号を表示する。 自動受信待機時は主電源をOFFにし、受信の時点で自動的にONにすることで、大幅な省電力化が図られる。 陸上用では、2011年現在は、家庭用・業務用とも、一般の電話回線やIP電話を利用したG3 FAXがほとんどである。同一メーカー同士の通信の場合には、メーカー独自の手法でデータを圧縮して通信時間の短縮を行っていることが多い。 その他に、パーソナルコンピュータやサーバのFAXソフトウェアの発売企業や、InternetFAXとオンラインストレージとを組み合わせたASPがある。 設置時にFAX本体の設定をダイヤル回線かプッシュホン回線かISDNの何れか契約している回線に正しく設定しなければ正常な送受信が出来ない。また、ADSL等を使用している場合、干渉を避けるため、間にフィルタを取り付ける必要がある。収容される隣接する回線がADSLを使用している場合、影響を受ける場合がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ファクシミリ(英語: facsimile)は、文字や図形、写真などの静止画像を、電気信号に変換して送受信する通信方式、またはその用途で使用する機器である。通称はFAX(ファックスまたはファクス)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "一般的なFAXは、静止画像を電子データに変換するイメージスキャナ、電子データを送受信するための電気信号に変換するモデム、電子データを印字するためのプリンタが組み合わさった装置である。通信回線としては、有線と無線の両方が用いられるが、一般的には公衆交換電話網が利用される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2000年代以降は電子メール、チャット、クラウドストレージの普及により世界的に利用者が減少しているが、日本ではデジタル・ディバイドによる格差をつけられた層(これらを使いこなせない高齢者や、IT導入の優先順位が低くデジタル化が遅れている職場など)や「情報を印刷物の形で記録したい」層からの需要があるため機器の製造が続けられている。特に中小企業の場合、ITの重要性を理解しない傾向が強く、8割の企業がFAXに頼る傾向がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ファクシミリが発明されたのは、1843年のことである。これは米国のサミュエル・モールスによる電信機の発明から7年後であり、ベルが電話機を発明する33年も前のことである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1843年、イギリス人のアレクサンダー・ベインがファクシミリの原型を発明し、特許を取得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "送信側では、振り子の振幅方向に平行な下部側面に絶縁板をセットする。その絶縁板上に金属の文字を置き、振り子の先に絶縁板に接触する金属針を取り付けて、左右に振り子を動かす。接触針は絶縁板を左右に移動して、絶縁部分に接触している時は“非導通”、金属部分に接触すると“導通”の信号を送る。1回の振幅毎に絶縁板を上方(又は下方)に少しずつ移動させて、絶縁板全体を走査させる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "受信側でも同様な振り子と接触針を設けて、化学反応によって変色する記録紙に接触針を走査させる。“導通”の信号のときに電流を流して、記録紙を変色させて送信側の絶縁板上の金属文字を再生させる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "送信側の読取走査と受信側の記録走査は、それぞれ別の振り子を利用しているので同期が難しく、記録位置にずれが発生して画像が乱れ実用化されなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ベインの装置では同期が難しいという欠点を改良したのがイタリア人のジョヴァンニ・カゼッリである。1862年、カセルは送信側から振り子の同期信号を送り、受信側の振り子を電磁マグネットで制御して同期を取るパンテレグラフを発明した。フランス郵便・電信公社で採用され、手書きの文字や図面や絵等の電送に使用された。用紙は111mm×27mmで、約25文字程度が電送でき、主に銀行のサイン照合に利用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1848年、イギリス人ベイクウエル(Frederick Collier Bakewell)は、ベインの発明を大きく改良し、現在のファクシミリの基本形を発明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1851年のロンドン万国博覧会で展示された。送信側は、金属円筒に特殊な絶縁インクで書いた金属箔を巻き付ける。円筒の円周方向に固定して接触させた金属針(接触針)を設け、円筒を回転させて“導通”、“非導通”の信号を得る。円筒を回転しながら、接触針を円筒の片方の端から他端にむかって軸方向に少しずつ移動させることによって、円周面(金属箔)全体を走査して受信側に送る。受信側も送信側と同じ大きさの金属円筒と接触針を設け、電流が流れたときに変色する化学紙を巻き付け、送信側に同期して回転させる。送信側の導通・非導通の信号は記録紙に濃淡となって表示される。受信側の円筒の回転速度やスタート・ストップを送信側の円筒と同期することが難しく実用化されなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1898年、アメリカ人ハンメル(Ernest A. Hummel)はベイクウエルの欠点を改良した装置(Telediagraph)を発明した。8インチ径の円筒を用い、送信側の円筒が1周回転する毎に同期信号を発生し、その信号毎に接触針を軸方向に1/56インチ移動していく。受信側では送信側の同期信号を受けて同様な方法で円筒と接触針を制御して同期を取る。同時に送信原稿の信号を受けて記録する。送信原稿は薄い金属箔に非導通のワニスで記載し、受信側では2枚の白紙に挟まれたカーボン紙に記録する。原稿サイズは最大8×6インチ(203mm×152mm)で送信時間は20 - 30分、いくつかの米国新聞社で採用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "その後、1876年にベル(Alexander Graham Bell)により電話が発明され、更に、1883年にエジソンにより真空管が発明、更に真空管から光電管が発明された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1906年、ドイツ人コルン(Arthur Korn)とフランス人ベラン(Edouard Belin)がほぼ同時に、同様な方法で写真の電送に成功した。送信側の円筒に巻き付けていた金属箔を写真やイラスト、文字等が書かれた用紙に変え、接触針の代わりに光電管を使用した。回転するドラムに巻き付けた用紙の小さな一点にレンズで焦点を合わせて、光電管に光を送る。固定したレンズと光電管をドラムの軸方向に少しずつ移動させる。用紙に書かれた文字やイラスト等の“白”と“黒”およびその中間色の部分は光電管によって色の濃さに比例した電気信号に変わり、その信号を電話回線で送る。受信側では送信側と同期して円筒を回転させ、円筒に巻いた印画紙に、送られてきた信号に基づいた光を当てて感光させる。写真の中間調(ハーフトーン)電送を実現させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "コルン式もベラン式も、両方の円筒(ドラム)の回転を一致(同期)させるために、送受信それぞれ別の2個の音叉を使い、その振動に合わせて両方のモーターの回転数を同じにするという原理を使っていた。送信側と受信側の温度や湿度の違いで、音叉の周波数が微妙に変わるためにモーターの回転数に誤差が生じ、画像が乱れるという問題があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "コルンのシステム(photoelectric telephotography)は1910年からパリ・ロンドン・ベルリン間を電話回線経由で結ばれて運用され、ベランのシステム(Belinograph)は1930年代・1940年代にニュースメディアで使用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "その後、日本電気の丹羽保次郎と小林正次が画期的なFAXの技術を開発(後述)し、1920年代後半から実運用が開始された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1929年、ドイツ人ヘル(Rudolf Hell)はテレプリンター方式をファクシミリに採用した新しい方式ヘルシュライバーを発明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "タイプライタ型のキーボードで文字を入力する。その文字を7×7ドットのパターン(ピクセル)に分解して左側のドット列から順次ON-OFF信号として送信する。受信側ではカーボンコピー紙と記録紙を重ねたテープを円筒に接触させ、円筒の回転に合わせて移動させる。回転する円筒には螺旋状に等間隔な小さな突起が連なり、この突起列は円筒を2周している。円筒と記録用のテープが接する箇所にハンマーがセットされ、受信したON信号によりハンマーで円筒をヒットすると円筒の小さな突起部分がカーボン紙から記録紙に転写される。記録された文字は傾いているが充分可視、判読できる。有線、無線に対応できること、通信系のノイズや歪み、電文の漏洩(秘密の保持)に対して強いことで、1930年代の第2次世界大戦まではポータブルな装置(Feld-Hell)がドイツ軍に使用された。その後は1980年代までニュースの電送に使用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "日本では1924年(大正13年)6月、大阪毎日新聞と東京日日新聞が日本で初めてドイツからコルン式の電送写真機を3台購入し試験したが不安定であった。次いで、朝日新聞が1928年(昭和3年)6月フランスからベラン式の電送機を3台購入した。実験は成功したが、画像乱れの問題があり、実用化されなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1928年、日本電気の丹羽保次郎とその部下、小林正次はベラン式やコルン式の同期ずれによる画像乱れを改良したNE式写真電送機を開発した。NE式は在野の発明家安藤博による「同期検定装置」を採用。送信側の回転ドラムを三相交流モーターで回し三相の波を単相にした波を電話回線で相手側に送り、受信機側で三相交流電流に戻して記録用の交流モーターを回して同期を取る、同期信号を受信側に送ることで送信側と受信側のモーターを完全に同じ回転数で回せる方式だった、この方式の利点は送信側が一回転ごとに同期信号を送ってくるため送信側の回転数がブレても受信側も同じ回転数になるため同期が崩れない。当時三相交流は強電系の技術であり直流モーターを使用することが普通だった弱電で使用する機械は珍しかった。写真の明暗の変化は光電管で電気信号に変換して電話回線の中では音の強弱に変換されて送られる、電話の音の周波数をモーターの回転数に、音量を明暗の濃さに変換することで画像に乱れなく写真を電送出来た。この同期検定装置は後にファクシミリだけでなく遠隔地のモーターの回転数を制御する技術として広範囲に活用されている。高い精度で送れる反面、データー圧縮が行えないので通信速度面では不利であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1928年11月10日に京都御所で行われた昭和天皇の即位礼を、京都から東京に伝送したのが実用化第1号であった。即位礼の時、速報を大阪毎日新聞社と朝日新聞社がかって出た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "しかし、同じ音叉などを送受信双方に組み込んで同期を取るベラン式やコルン式は気温や湿度の影響を受けやすく環境変化で同期が崩れる問題が克服できず画像が歪んでしまい、国は歪んだ画像を文書に載せ公開することを禁止する法律を制定した。朝日新聞社にドイツのFAXの技術者が、大阪毎日新聞社に当時の日本電気の技術者が就き、両社とも試験時はまったく成功せず、NE式を採用した大阪毎日新聞社が本番のとき、初めて成功した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "朝日新聞社は、大阪毎日新聞社が速報を出した数時間後に、やっと成功した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "その後、NE式は新聞社から始まり官公庁や大企業で専用回線を使用した写真電送に使用され、一般向けでは逓信省が1930年(昭和5年)に「写真電報」という名でサービスを開始した。昭和11年には甲乙丙丁の四種類があり、送れる用紙の大きさによって値段が異なった。普通の電報がカタカナ数字しか送れなかったのに対して写真電報は手書きの文字がそのまま送れたので漢字が使える利点が大きかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1936年に開催されたベルリンオリンピックではベルリン - 東京間に敷設された短波通信回線により電送された写真が新聞紙面を飾り、それまでの飛行機便による速報写真は役目を終えていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1937年(昭和12年)にNE式は携帯端末となり、日中戦争の報道に使用された。NECの無線技術は高く評価され、後に日本陸軍の無線・通信設備を独占した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "戦後は、逓信省による東京 - 大阪間の公衆模写電信業務、電電公社の電報、気象庁の天気図、国鉄(現JR)による連絡指示事項を全国の駅に一斉同報、警察の手配写真、新聞報道の写真や記事伝送などに利用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "FAXの普及が急速に進んだ理由は、CCITT(現 ITU-T)によるFAX画像データ伝送方式の標準化と、通信自由化による電話回線のデータ通信への開放である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "CCITT(現 ITU-T)において国際的なFAXの画像データ伝送方法(プロトコル)についての標準化が審議された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "最初に、1960年(昭和35年)に前述のコルンやベラン、小林らが開発した円筒・機械式走査の『写真電送装置の標準化』が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "円筒の直径は66・70・88mmの3種が選定され、走査ピッチ(円筒軸方向の移動幅)は円筒直径を協約数(264または352)で除した数値(直径66mmで協約数264の場合の走査ピッチは0.25mm)とした。この規定により協約数が同一であれば、円筒径が異なる送受信機間でも画像乱れの無い通信が可能となる。その他、ドラムの回転速度(60・90・120・150rpmの4種)とその誤差、同期や位相、振幅変調や周波数変調等について勧告が出された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1970年代までは、ファクシミリ通信というのは高価な装置を用いる通信手段で、使用するのは報道会社、鉄道会社、警察組織、軍の組織、特定の企業など限られていて、業務用であり、あくまでひとつの組織の内部の通信のために使われていた(基本的に、2つの異なる組織の間の通信には使われていなかった)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "平面走査タイプのスキャナや新しい記録方式の開発に対応して、1968年(昭和43年)G1規格(電話回線、データ圧縮無しでA4サイズ原稿を6分で送信)が勧告された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "G1規格は走査線密度は3.85本/mm、電話回線での走査線周波数は180本/分(3本/秒)、振幅変調(AM : Amplitude Modulation)と周波数変調(FM : Frequency Modulation)について規定している。スキャナで得られる画像信号はアナログで、振幅変調で送信する場合は、搬送周波数1,300 - 1,900Hzの範囲内で白を最大振幅、黒を最小振幅と定めている。周波数変調で送信する場合は、白が搬送周波数-400Hz、黒が搬送周波数+400Hzの範囲内と規定され、交換回線経由での搬送周波数は1,700Hzと規定されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1971年(昭和46年)の特定通信回線、1972年(昭和47年)の公衆通信回線を利用した通信の自由化(第1次通信回線開放)とともに、電話回線がデータ通信やFAX通信に広く利用され、東方電機(後の松下電送)・NEC・東芝・東京航空計器・日本無線等が競ってFAXのG1適用機を商品化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "さらに、1976年(昭和51年)にA4サイズの原稿を3分で送信するG2規格が勧告された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "走査線密度はG1規格と同じ3.85本/mmで、走査線周波数を360本/分にし、2倍の速度の標準化をしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "画像信号のデジタル化と伝送時間を短縮するデータ圧縮技術が実用化されて、1980年(昭和55年)にA4サイズの原稿を1分で送信するG3規格が勧告された(数回の改訂があり最新版は2003年7月)。対象とする用紙はA4・B4・A3・レターサイズ・リーガルサイズで、その短辺幅を考慮して、走査幅は215・255・303mmの3種を規定している。走査の送り方向の走査線密度(垂直方向)は3.85本/mm(G1・G2を踏襲)、オプションとして7.7本/mm・15.4本/mmを規格化している。走査方向(水平方向)の信号はG1・G2規格ではアナログであるが、G3規格では細かく分割した画素単位(8画素/mm)で白と黒の2値にデジタル化される。オプションとしてインチ系の規格もあり、走査の送り方向(垂直方向)は100・200・300・400・600・800・1,200本/1インチ(25.4mm)の7種が、走査方向(水平方向)は100・200・300・400・600・1,200画素/1インチ(25.4mm)の6種が規格化されている。画像データのデジタル化にともない、データ圧縮や誤り訂正の技術やFAXにメモリーを内蔵しての種々の機能(一斉同報、機密保護通信、ポーリング受信、時刻指定通信、マルチドロップ、メモリー間通信等)が開発された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "G3規格ではオプションとして1次元符号化と2次元符号化、拡張2次元符号化によるデータ圧縮やECM(Error Correction Mode)などを規定することにより、1分送信を実現している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "G3規格の登場により、ファクシミリの市場が一気に活性化。その結果日本の電機メーカー・通信機メーカー・事務機器メーカーなども開発・製造に乗り出し、特に、欧米と違い漢字といった象形文字の文化を持つ日本では図像電送へのさまざまなニーズがあり、ファクシミリの性能向上への要求も強く、それらの要求にこたえるための技術開発・商品開発に各社がしのぎを削り、質や機能や使い勝手の向上が図られ、そのおかげでファクシミリは同一企業内だけでなく不特定多数との交信にも使われる通信手段、情報通信の要(かなめ)として広く普及し、日本のメーカーのファクシミリは世界市場を席巻する情況になった。オフィス用途では高スピード、高解像度、大量送信、大量受信に対応できるファクシミリ機器が採用され、家庭用やスモールオフィス用には低価格で省スペースのファクシミリ機器が販売された。このような経緯で一般家庭にもFAX機の普及が進んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1984年(昭和59年)にFAXデータを高速デジタル回線で送信するための標準化、G4規格が勧告された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "G4規格はG3規格を拡張して回線交換公衆データ網(CSPDN)、パケット交換公衆データ網(PSPDN)、ISDNに対応した規格である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "以上の規格の制定や回線開放と共に量産とコストダウンが進み、官庁や新聞社から大企業、さらに中小企業や個人へと使用が拡大した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1981年には日本電信電話公社(電電公社)により、通信料金の安いファクシミリ通信網(Fネット)が開始された。同時に日本電気、日立製作所、富士通、松下電送、東芝が分担開発したミニファックスMF-1が電電公社から発売され、ヒット商品となった。1984年にはG3規格摘要の改良機MF-2を開発・販売を開始した,。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "その間、現在の主力であるG3ファクスが開発され、また1985年に電話機を始めとする端末設備の接続が自由化(端末の自由化)されると、中小企業や商店などで急速にファクスが普及し始めるとともに、パーソナルコンピュータなどのFAX内蔵モデムが登場する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1988年に開催されたソウルオリンピックを目前に高解像度のカラーイメージスキャナーが登場し、同時に日本の主要都市に光ファイバーが敷設され、デジタル通信回線により高解像度の電送された写真が地方新聞社に送られカラー写真が紙面を飾った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1990年代に入ると、コードレス留守番電話機と結合された形で、一般家庭でも使われるようになった。また、ファクシミリの機能を活用しあらかじめ決められたコード番号を入力することで様々な情報を受信することが可能なFAXサービスの提供が主な企業より行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "日本では1990年代半ばまでファクシミリの通信網契約数は右肩上がりで増えつづけ、たとえば1984年に1万8千件ほどだった契約数は、5年後の1989年には36万9千件ほどになり、1994年には67万8千件ほどに達していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1990年代後半あたりから情報転送の技術としてインターネットの利用が普及し、2000年代に入ってからビジネスでも徐々に文字・図像情報の転送にインターネットを利用することも増え、それと連動してファクシミリの利用は徐々に減った。しかし、証拠を残す必要がある用途、パソコンを使わずに画像を即座に転送できるなどの有利な面があり、業務用では官公庁向け、家庭用では高齢者向けに需要が残っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2020年に新型コロナウイルスの流行が拡大した際、日本社会のファクシミリ依存が表面化した。日本の官公庁ではファクシミリに依存したシステムが使われ続けていることが業務の効率化を妨げているとして、2021年に河野太郎行政刷新担当大臣がファクシミリからの移行を提案しているが、事務方は国会対応のため議員とのやりとりに使うなどの理由から消極的である。例外的に外務省は外部とのやりとりが少ないため、裁判資料の送付などを除き電子メールへ移行している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "日本の芸能事務所などではファクシミリで情報のやり取りをすることが多く、特に有名人が結婚・離婚・妊娠などの重大事項を発表する際などは、本人もしくは所属事務所がテレビ局や新聞社にファクシミリで送信することが多い。これは、ファクシミリは文面の下に自筆で署名もできるほか、発信者の確認がしやすく、「怪文書」扱いになりにくい形で複数の報道会社に向けて一括で送信できるからとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "日本におけるファクシミリの世帯普及率は2017年(平成29年)に35.3%。世帯主年齢が20代で1.3%、30代で11.2%、40代では35.1%。2020年(令和2年)には20代は2.1%、30代は9.4%、40代は25.8%、50代は43.2%、60代は48%、70代は47.4%、80代以上は38.9%と高齢化傾向になっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ファクシミリ機器については、2000年代に入ってからはIP電話・LAN・インターネットなどの電話交換機を介さないIP通信網を利用したInternetFAXも利用されるようになった。市販されているファクシミリ機器は、電話機と一体になっているものがほとんどである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2010年代にはスミソニアン博物館に産業遺産として収集されたファクシミリではあるが、2020年代においてもセキュリティーやプライバシーなどを理由にインターネット網に接続していない、デジタルな集計を行わない機関や分野(警察、医療関係)では使用され続けている。2020年に新型コロナウイルス感染症の集計が行なわれた際には、ファクシミリによる報告が少なからず行われ、現場が集計に手間取って恐慌をきたす場面もあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "この種の伝送は最初から「ファクシミリ」という呼称で定まっていたわけではなく、様々な呼ばれ方をしてきた歴史があり、たとえば「telephotography テレフォトグラフィ」や「telecopy テレコピー」などと呼ばれていたこともある。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "「ファクシミリ facsimile」という用語はラテン語のfac simile(=「同じものを作れ」)←{facere(為す)+simile(同一)}が語源である。「facsimile」は印欧語圏では、「(原版の)忠実なコピー」という意味が第一義的な意味であり、現在もそちらの意味でも広く使われており、たとえば「写本のファクシミリ(=忠実なコピー)」「肉筆の手紙のファクシミリ(=忠実なコピー)」などと日常的に言っており、「facsimile」という言葉のほうを中心に据えてみると、(この記事で説明している)図像の伝送装置は、実は、1番目ではなく、2番目に位置する用法として用いられている。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "「FAX(ファックス)」は本来、ゼロックス社のファクシミリに附された登録商標であったが、商標の普通名称化により広く使われる言葉となっている。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "いろいろな分類法があるが、ひとつには document facsimile 模写電送 / photograph facsimile 写真電送」と分類する方法がある(あった)。模写電送は、白か黒の2階調しかなく文字や線のようなものしか送れないものであり、写真電送とは中間調を含むも画像つまり白黒写真のようなものも送れるものである。", "title": "種類や分類" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "有線ファクシミリ / ラジオファクシミリ(無線ファクシミリ) と分類することもある。 日本の電波法施行規則内で「ファクシミリ」と呼ばれているのは、後者のラジオファクシミリのことで、「電波を利用して、永久的な形に受信するために静止影像を送り、又は受けるための通信設備」と定義している(電波法施行規則2条1項23号)。", "title": "種類や分類" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "伝送経路の歴史的な変化、広がりを踏まえつつ、有線ファクシミリ / ラジオファクシミリ / 電話線(電話網)ファクシミリ と分類することもある。", "title": "種類や分類" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "標準化をもとにG1 / G2 / G3 / G4などと分類することもある。", "title": "種類や分類" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "最終的に出力される紙(「記録紙」)を基準にして(FAX機を) 感熱紙FAX / 普通紙FAX などと分類することもある。", "title": "種類や分類" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1843年、ベインは振り子の振幅方向に平行な下部側面に絶縁板をセット、その絶縁板上に金属の文字を置き、振り子の先に絶縁板に接触する金属針を取り付けて、左右に振り子を動かす方式を発明した。振り子の先の接触針は絶縁板を左右に移動して、絶縁部分に接触している時は“非導通”、金属部分に接触すると“導通”の信号を送る。1回の振幅毎に絶縁板を上方(又は下方)に少しずつ移動させて、絶縁板全体を走査させる。送信側の読取走査と受信側の記録走査は、それぞれ別の振り子を利用しているので同期が難しく、記録位置にずれが発生して画像が乱れ実用化されなかった。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1862年、カセルはベインの同期が難しいという欠点を改良した。1862年、カセルは送信側から振り子の同期信号を送り、受信側の振り子を電磁マグネットで制御して同期を取ることを発明した(Pantelegraph)。フランス郵便・電信公社で採用され、手書きの文字や図面や絵等の電送に使用された。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1848年、ベイクウエルは金属円筒に特殊な絶縁インクで書いた金属箔を巻き付け、金属針を接触させて、円筒を回転させて“導通”、“非導通”の信号を得る。円筒を回転しながら、接触針を円筒の片方の端から他端にむかって軸方向に少しずつ移動させることによって、円周面(金属箔)全体を走査(スキャン)してその信号を送信した。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1906年、コルンとベランはイラスト、文字等が書かれた用紙を回転する円筒に巻き付け、用紙の一点にレンズで焦点を合わせて、光電管に光を送る。固定したレンズと光電管をドラムの軸方向に少しずつ移動させて全体を走査する。用紙に書かれた文字やイラスト等の“白”と“黒”およびその中間色の部分を光電管によって色の濃さに比例した電気信号に変えて送信する。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ドラム回転式は原稿を1枚ずつセットするので操作が煩雑で多数の原稿に時間を要する等の問題があり、平面走査による操作性の改善が求められていた。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "オプティカル・ファイバは極細に引き延ばした糸状のガラスである。そのガラス糸の端面に光を当てると光は直進し、ほとんどロス無く他端に到達する。そのファイバ約1,500本を横(原稿幅)一列に並べて、読み取りする原稿に接触させる。原稿に光を当てて白・黒の反射光を対応する1,500本のオプティカル・ファイバで反対側に送る。反対側の終端はセンサ側で、配列の順序はそのままで円形に固定し、その円形に対向して円盤を配置、モータで円盤を回転する。円盤にはファイバ終端の円形に相当する位置に1本のファイバがセットしてあり、円盤の回転により1,500本のファイバをスキャンする。ファイバの他端から出た光はフォト・マルチプライア(光電子増倍管)で電気信号に変換される。このオプティカル・ファイバは「ライン・サークル・コンバータ」と呼ばれ、オリンパス光学が開発した。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "原稿に蛍光灯の光を当てレンズでフォト・ダイオード・アレイに焦点する。アレイはフォトダイオード512個を一列に並べてLSI化したものである。主走査方向256mm幅の原稿を4分割し4個のフォトダイオードアレイ面に焦点を合わせる。4×512個のフォトダイオードの出力を順次取り出すことにより1ラインの画像信号をスキャンする。8pel/mmの解像度を得る。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "原稿に蛍光灯で光を当てレンズで一列に並べたフォトダイオードに焦点を合わせる。各フォトダイオードに対応してCCD(Charge Coupled Device Image Sensor)が配置されている。フォトダイオードが受けた光の強さを対応するCCDに伝えて記憶し、CCDを順次読み出すことによりスキャンする。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "照明を蛍光ランプからLEDアレイに変えて長寿命化、屈折率分布型レンズアレイを使用して光路長を30cmから1cmに短縮、センサにCdSタイプを使用したスキャナが開発された。大幅な小型化が図られ、読み取り部のユニット化が実現した。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "完全な密着イメージセンサは京セラが1996年に発売したのが最初で、その後各社が開発し、各社のファックスで広く採用された。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "本や雑誌、薄い用紙や小さい用紙等の原稿をガラス面に伏せてセットしてスキャンする。現在のコピーマシーンで採用されている自動給紙機構を持つ高性能ファックスが出現した。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "1843年、ベインは振り子の振幅方向に平行な下部側面に接触針を設けて、化学反応によって変色する記録紙に接触針を走査させた。“導通”の信号のときに電流を流して、記録紙を変色させて送信側の絶縁板上の金属文字を再生させる。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "1848年ベイクウエルは金属円筒に送信側と同じ大きさの金属円筒と接触針を設け、電流が流れたときに変色する化学紙を巻き付け、送信側に同期して回転させる。送信側の導通・非導通の信号は記録紙に濃淡となって表示された。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "1906年、コルンとベランは送信側と同期して円筒を回転させ、円筒に巻いた印画紙に、送られてきた信号に基づいた光を当てて感光させた。写真の中間調(ハーフトーン)電送を実現させた。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "OFT(Optical Fiber Tube)は表示面にオプティカル・ファイバ(極細に引き延ばした糸状のガラス)を束にして板状にしたプレートを使用したCRT(ブラウン管)である。内面に塗布された蛍光体に電子が衝突して発光し、ファイバを直進して表示面に出てくる。表示面に記録紙を密着して感光させる。一般のCRTは光が発散するが、OFTではファイバの方向へ光が直進するので、レンズにより焦点を合わせる効果と同様な解像度の良い画質となる。FAXに使用するOFTは表示面が扁平な形状で、横幅は用紙の幅(A4の場合約210mm)、縦方向は約1cmである。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "記録用紙(ZnO紙)を帯電器に通した後、OFTのファイバー・プレートに密着して少しずつ移動する。帯電した用紙はOFT表示面からの光に当たったところが放電(露光)して潜像をつくり、次工程で黒色微細粉をいれた液体で湿したローラと接触(液体現像 : ローラ現像)させることにより、記録紙の帯電していない箇所に黒色粉が付く(現像、定着)。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "マルチスタイラスは32本の針状電極を微細間隔で一直線に並べてブロック化したものである。そのブロックを64個並べて1列2,048本とし、静電記録紙に密着させる。白・黒の信号により金属針の電圧をオンオフして記録紙に帯電させて潜像をつくる。記録紙を現像器に通すと帯電した箇所に黒色微細粉が付く。その記録紙をローラに通して圧力をかけ、黒色微細粉を紙の繊維間に押し込んで定着させる。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "感熱記録紙は熱により黒色を発色する。FAXの場合は8個/mmの間隔で横一線に並べた発熱体(サーマルヘッド)を記録紙に密着させて画像を得る。多くの普及型FAXで採用されている。構造が簡単でコストが安いが、記録紙が長期保存により退色する短所がある。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "感光ドラムを「帯電」させ、レーザーで照射すると、照射された箇所の電荷が放電して電荷像(潜像)を作る。帯電させた黒色の微細な粉末(トナー)を感光ドラムに近づけると電荷のない部分にのみトナーが付着する(「現像」)。感光ドラムに用紙を押しつけて、トナーを用紙に「転写」する。ドラムを通過した用紙に強いフラッシュ光を当てトナーを用紙に溶着させて「定着」をする。印字品質が良く印刷速度が速いが、複雑な構造で、コストが高い。現在ではレーザー・プリンタで使用されている。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "普通紙の上にフィルム状の熱転写リボンを重ねて発熱体(サーマルヘッド)に接触させると、熱が加わった箇所にリボンの色(FAXの場合は黒)が転写される。初期のFAXはロール紙が使用されていたが、最近ではA4またはB4サイズのカット紙(市販のコピー用紙〈普通紙〉)が使用されている。また印刷はカット紙の普及に伴い、多くは各社純正品、ないしはそれを模した互換品のロール式インクリボンが用いられているが、メーカーによっては複合機(インクジェットプリンター)により、専用のインクカートリッジを用いる場合もある", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "1ラインごとに画像データを処理してデータを圧縮する符号化方式である。一般の文書の画素データ(pel)は黒または白の連続が多いことを利用したデータの圧縮方法である。黒(または白)画素の連続した数(ランレングスという)をコードに変換して送信し、受信側で元の画素に復元する。出現頻度の高いランレングスから順番に短いコードに変換して、画像データを符号化することにより、送信データを短く(圧縮)することができ、送信時間を短縮することができる。FAXでは従来の1/6になりA4原稿を約1分で電送できる。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "1980年CCITTにおいて、G3規格の中でMH(Modified Huffman)符号化方式としてランレングスに対するコードが標準化され、「1次元符号化方式」として制定された。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "文字や簡単な図形が中心の原稿は、画像データの上の行と下の行はほとんど同じで、変化は少ない。この性質を利用してデータ量の大幅な圧縮を図ったのがRAC(Relative Address Coding)である。RACは下の画像データを一段上のデータ(参照ライン)と比較して、変化している箇所を検出し、その位置を符号化してデータ圧縮をする方式である。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "参照ラインのデータが圧縮なしの場合にMR(Modified Read)方式、参照ラインのデータがMH方式(上記「1次元符号化方式」)で圧縮されている場合はMMR(Modified Modified Read)方式という。1980年CCITTによるG3規格の中では上記「1次元符号化方式」のオプションとして「2次元符号化方式」として制定された。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "1次元符号化方式(MH)は“白”と“黒”の2種の変化であるが、この方式は二ラインの“白・白”、“白・黒”、“黒・白”、“黒・黒”の4つの組み合わせがある。この組み合わせの変化とランレングスのデータを送信する。「2走査線一括ランレングス符号化方式」とも呼ばれている。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "ファクシミリのG3規格には「標準モード」とオプションとして「ファインモード」がある。標準モードでは装置の縦方向(副走査)はmm当たり3.85ライン、ファインモードで7.7ラインであり解像度が良い。しかし、ファインモードはデータ量が2倍で、伝送時間が2倍長くなるという短所がある。ALDC(Adaptive Line Dencity Control)は、複雑な図や細かい文字かどうかを送信データのランレングスで判定してファインモードと標準モードに自動的に切り替える機能である。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "FAXの送信データを蓄積交換装置に送ってメモリーし、後宛先FAXに送信する。1979年に商品化された蓄積交換装置は現在のFAXへ継承されている下記のように多数の機能を実現している。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "上記の機能は1982年にはフロッピー・ディスク内蔵のファクシミリに受け継がれ、1986年にはRAMを画像メモリーとしたファクシミリ引き継がれた。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "受信側のFAXから要求して送信側FAXのデータを送信させる機能である。受信側FAXのキー操作により、登録されたFAXに接続し、文書等を送信させて受信する。電話料金が安価になる遠距離・夜間等の通信に利用された。1980年に実用化された。その後、1984年以降では、メモリーを内蔵するFAXが商品化され、同報装置無しでこの機能を実現した。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "FAXの画像データをメモリに蓄積し、宛先のFAXのメモリに高速で伝送する。1982年に世界で初めてフロッピーディスク内蔵のFAXが商品化され、A4サイズを世界最高速の9秒で電送(G3規格は1分)した。この方式を「スーパー伝送」と呼んだ。電話回線を利用してのファイル転送の先駆けとなった。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "同報先の1台のFAXにデータを送信し、そのFAXから近隣のFAXに同報する。国際回線や東京・大阪間等の遠隔地の多数のFAXに同報する場合に効率が良く、低コストで伝送できるシステムである。1982年に商品化された。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "FAXの画像データを圧縮して送信する際、途中の通信回線でノイズやひずみ等でデータが間違った場合、受信した画像が大きく乱れる。この対策として、受信データの間違いを修正する方法がECMである。FAXの画像データを分割して、その一つ一つの後に数ビットの補正データを附加して送信する。受信側では受信した画像データと補正データを照合して、正しく受信した場合はそのまま、エラーを起こしたデータに対しては補正データにより修正して印刷する。1987年(昭和62年)にCCITTがG3規格のオプションとして採用した。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "電話回線経由の電気信号にはノイズや歪みがあり、送信したデータが正しく伝わらないことがある。FAXの画像データを送信した場合、データにエラーがあると画像が乱れ、ひどい場合には文字が読み取れない場合がある。高速伝送は送信時間を短縮できるがノイズや歪みの影響を受けやすい。低速での伝送は比較的にノイズや歪みの影響が少ない。モデムは伝送速度の切り替え機能があるが、当初は自動切り替えの機能を持っていなかった。モデムフォールバックは受信側で電話回線の状況を計測し(SQD : Signal Quality Detection)、品質が良くない場合には伝送速度を下げて品質を確保する機能である。この手法(フォールバック)は現在でもADSL等で採用されている。ステップアップはこの逆で、品質が良い場合に伝送速度を上げる方式である。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "FAXは読取部、記録部、シーケンス制御部、データ圧縮・復元部、伝送制御部、モデム部で構成されている。自己診断プログラムにより各ユニットの機能の自動チェック、パターン発生器によるテスト、折り返し伝送テストができ、操作パネルにその結果を表示する。1979年に商品化されたFAXに採用された。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "スキャナで読み込んだB4やA3サイズの原稿のデータを、宛先のFAXの記録紙のサイズに合わせて(A3→A4・B4、B4→A4)データ変換して送信する。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "誤接続の防止をするために送信側のFAXに宛先FAXの電話番号を表示する。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "自動受信待機時は主電源をOFFにし、受信の時点で自動的にONにすることで、大幅な省電力化が図られる。", "title": "ファクシミリ基本技術の推移" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "陸上用では、2011年現在は、家庭用・業務用とも、一般の電話回線やIP電話を利用したG3 FAXがほとんどである。同一メーカー同士の通信の場合には、メーカー独自の手法でデータを圧縮して通信時間の短縮を行っていることが多い。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "その他に、パーソナルコンピュータやサーバのFAXソフトウェアの発売企業や、InternetFAXとオンラインストレージとを組み合わせたASPがある。", "title": "メーカー" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "設置時にFAX本体の設定をダイヤル回線かプッシュホン回線かISDNの何れか契約している回線に正しく設定しなければ正常な送受信が出来ない。また、ADSL等を使用している場合、干渉を避けるため、間にフィルタを取り付ける必要がある。収容される隣接する回線がADSLを使用している場合、影響を受ける場合がある。", "title": "設置時の注意" } ]
ファクシミリは、文字や図形、写真などの静止画像を、電気信号に変換して送受信する通信方式、またはその用途で使用する機器である。通称はFAX(ファックスまたはファクス)。
{{Otheruses|通信機器|書誌学における用語|ファクシミリ (書誌学)}} {{Redirect2|ファクス|FAX|ファクス (曖昧さ回避)|FAX (曖昧さ回避)}} [[File:Fax 'Impronta'.tif|thumb|right|220px|家庭用FAXを使用する若者(1994年)]] [[File:Image radiofax de la station émettrice Northwood.jpg|thumb|right|220px|[[ラジオファクシミリ]](無線で伝送するファクシミリ)で受信した気圧配置図。[[船舶]]の[[航行]]や[[漁]]においては、気象の変化について予想・判断せねばならず、[[気圧配置]]図が必要である。気圧配置図を海上で入手するには、無線FAXによる定時配信を自動受信することで行う。この図は2011年12月に[[イギリス軍]][[ノースウッド司令部]]内のJOMOC(Joint Operations Meteorology and Oceanography Centre 気象学と海洋学に関する統合運用センター)から配信されたもの。]] '''ファクシミリ'''({{lang-en|facsimile}})は、文字や図形、写真などの静止画像を、[[電気信号]]に変換して送受信する[[通信]]方式、またはその用途で使用する機器である<ref>{{Cite web|和書|title=ファクシミリとは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%AA-8001|website=コトバンク|accessdate=2021-02-17|language=ja|first=ASCII jpデジタル用語辞典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,世界大百科事典 第2版,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版|last=日本国語大辞典,世界大百科事典内言及}}</ref>。通称は'''[[wikt:fax|FAX]](ファックスまたはファクス)'''。 == 概要 == 一般的なFAXは、静止画像を電子データに変換する[[イメージスキャナ]]、電子データを送受信するための電気信号に変換する[[モデム]]、電子データを印字するための[[プリンター|プリンタ]]が組み合わさった装置である。通信回線としては、[[有線通信|有線]]と[[無線]]の両方が用いられるが、一般的には[[公衆交換電話網]]が利用される。 2000年代以降は[[電子メール]]、[[チャット]]、[[クラウドストレージ]]の普及により世界的に利用者が減少しているが、日本では[[情報格差|デジタル・ディバイドによる格差をつけられた層]](これらを使いこなせない高齢者や、[[情報技術|IT]]導入の優先順位が低く[[デジタル]]化が遅れている職場など)や「情報を印刷物の形で記録したい」層からの[[ニッチ市場|需要があるため機器の製造が続けられている]]<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=なんで日本はFAXなんだい? |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210802/k10013176381000.html |website=NHKニュース |accessdate=2021-08-03 |last=日本放送協会 |deadlinkdate=2022-12-01}}</ref>。特に中小企業の場合、[[情報技術|IT]]の重要性を理解しない傾向が強く、8割の企業がFAXに頼る傾向がある<ref>{{Cite web|和書|title=中小企業の8割が「ファクスで受発注」の現実、DX時代に日本の競争力が失われる|url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01229/080300031/|website=日経クロステック(xTECH)|accessdate=2021-11-02|language=ja|last=日経クロステック(xTECH)}}</ref>。 === ギャラリー === {{Gallery |File:Facsimile transmitter 1940s IMG 8587 telemuseet fetsund.JPG|1940年の[[ラジオファクシミリ]]装置 |File:Moscow Polytechnical Museum, Soviet fax machine.jpg|1960年の[[ソビエト連邦]]のファクシミリ機 |File:Fax 6000.jpg|Infotec 6000(1974年) |File:Mufax Courier fax machine (45618099595).jpg|Muirhead & Co.社のMufaxの送信機(1975年) }} == 歴史 == ファクシミリが発明されたのは、[[1843年]]のことである。これは米国の[[サミュエル・モールス]]による[[電信]]機の発明から7年後であり、ベルが[[電話]]機を発明する33年も前のことである。 === ベイン: ファクシミリの原型を発明 === [[File:Bain_improved_facsimile_1850.png|thumb|right|200px|ベインの装置(1850年のもの)]] 1843年、イギリス人の[[アレクサンダー・ベイン]]がファクシミリの原型を発明し、[[特許]]を取得した<ref name="名前なし-1">http://www.iieej.org/vfax/data/archive/ARC_A21.htm</ref><ref name="*2">http://library.thinkquest.org/04oct/01649/fax.htm</ref>。 送信側では、振り子の振幅方向に平行な下部側面に絶縁板をセットする。その絶縁板上に金属の文字を置き、振り子の先に絶縁板に接触する金属針を取り付けて、左右に振り子を動かす。接触針は絶縁板を左右に移動して、絶縁部分に接触している時は“非導通”、金属部分に接触すると“導通”の信号を送る。1回の振幅毎に絶縁板を上方(又は下方)に少しずつ移動させて、絶縁板全体を走査させる。 受信側でも同様な振り子と接触針を設けて、化学反応によって変色する記録紙に接触針を走査させる。“導通”の信号のときに電流を流して、記録紙を変色させて送信側の絶縁板上の金属文字を再生させる。 送信側の読取走査と受信側の記録走査は、それぞれ別の振り子を利用しているので同期が難しく、記録位置にずれが発生して画像が乱れ実用化されなかった<ref>http://www.iieej.org/vfax/data/tutorial/tutorial.index.htm</ref><ref name="*4">http://monoshiri-kagakuhaku.com/mechanism/fax/column.html</ref><ref name="*5">http://www.thehistoryof.net/history-of-fax-machines.html</ref>。 === パンテレグラフ === [[File:Pantelegrafo Caselli Museo scienza e tecnologia Milano.jpg|thumb|200px|right|1933年に作られた[[パンテレグラフ]]のレプリカ、レオナルドダビンチ博物館の展示]] ベインの装置では同期が難しいという欠点を改良したのがイタリア人の[[:en:Giovanni_Caselli|ジョヴァンニ・カゼッリ]]である。1862年、カセルは送信側から振り子の同期信号を送り、受信側の振り子を電磁マグネットで制御して同期を取る[[パンテレグラフ]]を発明した。フランス郵便・電信公社で採用され、手書きの文字や図面や絵等の電送に使用された。用紙は111mm×27mmで、約25文字程度が電送でき、主に銀行のサイン照合に利用された<ref name="*2" /><ref name="*5" /><ref name="*6">[[:en:Frederick Bakewell]]</ref><ref name="名前なし-2">[[:en:Pantelegraph]]</ref>。 === ベイクウエル: 現在のファクシミリの基本形を発明 === [[File:Bakewell_improved_facsimile_1848.png|thumb|right|200px|ベイクウエルの装置(1848年)]] 1848年、イギリス人ベイクウエル(Frederick Collier Bakewell)は、ベインの発明を大きく改良し、現在のファクシミリの基本形を発明した。 1851年の[[ロンドン万国博覧会 (1851年)|ロンドン万国博覧会]]で展示された。送信側は、金属円筒に特殊な絶縁インクで書いた金属箔を巻き付ける。円筒の円周方向に固定して接触させた金属針(接触針)を設け、円筒を回転させて“導通”、“非導通”の信号を得る。円筒を回転しながら、接触針を円筒の片方の端から他端にむかって軸方向に少しずつ移動させることによって、円周面(金属箔)全体を走査して受信側に送る。受信側も送信側と同じ大きさの金属円筒と接触針を設け、電流が流れたときに変色する化学紙を巻き付け、送信側に同期して回転させる。送信側の導通・非導通の信号は記録紙に濃淡となって表示される。受信側の円筒の回転速度やスタート・ストップを送信側の円筒と同期することが難しく実用化されなかった<ref name="*4" /><ref name="*5" /><ref name="*6" /><ref name="名前なし-3">http://www.iieej.org/vfax/data/archive/ARC_A22.htm</ref>。 === ハンメル: ベイクウエル方式の改良 === 1898年、アメリカ人ハンメル(Ernest A. Hummel)はベイクウエルの欠点を改良した装置(Telediagraph)を発明した。8インチ径の円筒を用い、送信側の円筒が1周回転する毎に同期信号を発生し、その信号毎に接触針を軸方向に1/56インチ移動していく。受信側では送信側の同期信号を受けて同様な方法で円筒と接触針を制御して同期を取る。同時に送信原稿の信号を受けて記録する。送信原稿は薄い金属箔に非導通のワニスで記載し、受信側では2枚の白紙に挟まれたカーボン紙に記録する。原稿サイズは最大8×6インチ(203mm×152mm)で送信時間は20 - 30分、いくつかの米国新聞社で採用された<ref name="*5" /><ref>http://faxmac.blogspot.com/2009/08/1898-hummels-telediagraph.html</ref>。 === コルンとベラン: 電子式ファクシミリの発明 === その後、1876年に[[アレクサンダー・グラハム・ベル|ベル]](Alexander Graham Bell)により電話が発明され、更に、1883年にエジソンにより[[真空管]]が発明、更に真空管から[[光電管]]が発明された。 [[File:Arthur Korn telephotography.gif|thumb|right|200px|Arthur Kornによるtelephotographyテレフォトグラフィの実験(1902年)]] 1906年、ドイツ人コルン(Arthur Korn)とフランス人ベラン(Edouard Belin)がほぼ同時に、同様な方法で写真の電送に成功した。送信側の円筒に巻き付けていた金属箔を写真やイラスト、文字等が書かれた用紙に変え、接触針の代わりに光電管を使用した。回転するドラムに巻き付けた用紙の小さな一点にレンズで焦点を合わせて、光電管に光を送る。固定したレンズと光電管をドラムの軸方向に少しずつ移動させる。用紙に書かれた文字やイラスト等の“白”と“黒”およびその中間色の部分は光電管によって色の濃さに比例した電気信号に変わり、その信号を電話回線で送る。受信側では送信側と同期して円筒を回転させ、円筒に巻いた印画紙に、送られてきた信号に基づいた光を当てて感光させる。写真の中間調(ハーフトーン)電送を実現させた。 コルン式もベラン式も、両方の円筒(ドラム)の回転を一致(同期)させるために、送受信それぞれ別の2個の音叉を使い、その振動に合わせて両方のモーターの回転数を同じにするという原理を使っていた。送信側と受信側の温度や湿度の違いで、音叉の周波数が微妙に変わるためにモーターの回転数に誤差が生じ、画像が乱れるという問題があった。 コルンのシステム(photoelectric telephotography)は1910年からパリ・ロンドン・ベルリン間を電話回線経由で結ばれて運用され、ベランのシステム(Belinograph)は1930年代・1940年代にニュースメディアで使用された<ref name="*2" /><ref name="*4" /><ref name="*5" /><ref>http://www.acmi.net.au/AIC/KORN_BIO.html</ref><ref>[[:en:Édouard Belin]]</ref>。 その後、[[日本電気]]の丹羽保次郎と小林正次が画期的なFAXの技術を開発(後述)し、1920年代後半から実運用が開始された。 === ヘル: テレプリンター方式ファクシミリの発明 === 1929年、ドイツ人ヘル(Rudolf Hell)はテレプリンター方式をファクシミリに採用した新しい方式[[ヘルシュライバー]]を発明した。 タイプライタ型のキーボードで文字を入力する。その文字を7×7ドットのパターン(ピクセル)に分解して左側のドット列から順次ON-OFF信号として送信する。受信側ではカーボンコピー紙と記録紙を重ねたテープを円筒に接触させ、円筒の回転に合わせて移動させる。回転する円筒には螺旋状に等間隔な小さな突起が連なり、この突起列は円筒を2周している。円筒と記録用のテープが接する箇所にハンマーがセットされ、受信したON信号によりハンマーで円筒をヒットすると円筒の小さな突起部分がカーボン紙から記録紙に転写される。記録された文字は傾いているが充分可視、判読できる。有線、無線に対応できること、通信系のノイズや歪み、電文の漏洩(秘密の保持)に対して強いことで、1930年代の第2次世界大戦まではポータブルな装置(Feld-Hell)がドイツ軍に使用された。その後は1980年代までニュースの電送に使用された<ref name="*5" /><ref>[[:en:Hellschreiber]]</ref><ref>http://www.hffax.de/history/html/hellschreiber.html</ref>。 === 日本 === 日本では1924年(大正13年)6月、[[大阪毎日新聞]]と[[東京日日新聞]]が日本で初めてドイツからコルン式の電送写真機を3台購入し試験したが不安定であった。次いで、[[朝日新聞]]が1928年(昭和3年)6月フランスからベラン式の電送機を3台購入した。実験は成功したが、画像乱れの問題があり、実用化されなかった。 ==== 丹羽と小林: コルン・ベラン方式の改良 ==== [[File:NE-type phototelegraphic system Transmitter.jpg|thumb|200px|right|NE式写真電送装置の送信装置。[[国立科学博物館]]の展示。]] [[File:NE-type phototelegraphic system Receiver.jpg|thumb|200px|right|NE式写真電送装置の受信装置。国立科学博物館の展示。]] 1928年、日本電気の[[丹羽保次郎]]とその部下、[[小林正次]]はベラン式やコルン式の同期ずれによる画像乱れを改良したNE式写真電送機を開発した<ref>{{Cite journal |和書 |author=[[丹羽保次郎]] |author2=[[小林正次]] |author3= |authorlink= |coauthors= |year=|date=1930/02/04. |month= |title=無線寫眞電送の一方式 |journal=電氣學會雜誌 |publisher=電氣學會 |volume=50 |issue=501 |pages=343-355 |doi=10.11526/ieejjournal1888.50.343 |url=https://doi.org/10.11526/ieejjournal1888.50.343 |accessdate= |quote= }}</ref><ref>[http://www.iieej.org/vfax/data/tokubetu/katsumi/houkoku1.doc 昭和初期の電信・ファクシミリに関する報文集ファイル名]</ref>。NE式は在野の発明家[[安藤博]]による「同期検定装置」を採用<ref>[http://www.ando-lab.or.jp/do-ki.htm 4.同期検定装置の発明について_財団法人 安藤研究所]</ref>。送信側の回転ドラムを三相交流モーターで回し三相の波を単相にした波を電話回線で相手側に送り、受信機側で三相交流電流に戻して記録用の交流モーターを回して同期を取る、同期信号を受信側に送ることで送信側と受信側のモーターを完全に同じ回転数で回せる方式だった、この方式の利点は送信側が一回転ごとに同期信号を送ってくるため送信側の回転数がブレても受信側も同じ回転数になるため同期が崩れない。当時三相交流は[[強電]]系の技術であり直流モーターを使用することが普通だった[[弱電]]で使用する機械は珍しかった。写真の明暗の変化は光電管で電気信号に変換して電話回線の中では音の強弱に変換されて送られる、電話の音の周波数をモーターの回転数に、音量を明暗の濃さに変換することで画像に乱れなく写真を電送出来た。この同期検定装置は後にファクシミリだけでなく遠隔地のモーターの回転数を制御する技術として広範囲に活用されている。高い精度で送れる反面、データー圧縮が行えないので通信速度面では不利であった。 1928年11月10日に[[京都御所]]で行われた昭和天皇の[[即位の礼|即位礼]]を、京都から東京に伝送したのが実用化第1号であった。即位礼の時、速報を大阪毎日新聞社と朝日新聞社がかって出た。 しかし、同じ音叉などを送受信双方に組み込んで同期を取るベラン式やコルン式は気温や湿度の影響を受けやすく環境変化で同期が崩れる問題が克服できず<ref group="注">当時は機械が設置されている環境の室温や湿度を管理する発想自体が無かった。</ref>画像が歪んでしまい、国は歪んだ画像を文書に載せ公開することを禁止する法律を制定した。朝日新聞社にドイツのFAXの技術者が、大阪毎日新聞社に当時の日本電気の技術者が就き、両社とも試験時はまったく成功せず、NE式を採用した大阪毎日新聞社が本番のとき、初めて成功した。 朝日新聞社は、大阪毎日新聞社が速報を出した数時間後に、やっと成功した<ref name="*4" /><ref>http://www.iieej.org/vfax/data/rekisi/REK_R3.html</ref><ref>http://www.nec.co.jp/profile/empower/history/1928.html</ref><ref>http://time-az.com/main/detail/5471</ref>。 その後、NE式は新聞社から始まり官公庁や大企業で専用回線を使用した写真電送に使用され、一般向けでは逓信省が1930年(昭和5年)に「写真電報」という名でサービスを開始した。昭和11年には甲乙丙丁の四種類があり、送れる用紙の大きさによって値段が異なった。普通の電報がカタカナ数字しか送れなかったのに対して写真電報は手書きの文字がそのまま送れたので漢字が使える利点が大きかった。<ref>読売新聞昭和11年6月21日夕刊による</ref> *甲:8円、18×26センチ *乙:5円、18×13センチ *丙:3円、18×8センチ *丁:1円、18×8センチ、用紙サイズは丙と同じだが半分しか書けない 1936年に開催された[[ベルリンオリンピック]]ではベルリン - 東京間に敷設された短波通信回線により電送された写真が新聞紙面を飾り、それまでの飛行機便による速報写真は役目を終えていった<ref name="b18">http://www.tanken.com/fax.html</ref>。 1937年(昭和12年)にNE式は携帯端末となり、日中戦争の報道に使用された。NECの無線技術は高く評価され、後に日本陸軍の無線・通信設備を独占した<ref name="b18" />。 戦後は、逓信省による東京 - 大阪間の公衆模写電信業務<ref>http://www.iieej.org/vfax/data/tech/E-24.htm</ref>、電電公社の電報<ref name="b21">https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/s51/html/s51a01030202.html</ref>、気象庁の天気図<ref name="b20">https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/261763/www.museum.uec.ac.jp/collection/original/327.html</ref>、国鉄(現JR)による連絡指示事項を全国の駅に一斉同報<ref name="b20" />、警察の手配写真<ref name="b20" />、新聞報道の写真や記事伝送<ref name="b21" />などに利用された。 ==== 画像データの伝送標準化と回線開放 ==== FAXの普及が急速に進んだ理由は、CCITT(現 [[ITU-T]])によるFAX画像データ伝送方式の標準化と、[[通信自由化]]による電話回線のデータ通信への開放である<ref>「[https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/s51/html/s51a01030202.html 第1部 第3章 2 ファクシミリ通信の成長と課題]」『[https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/s51.html 昭和51年版 通信白書]』 郵政省、1976年12月, 88 - 97ページ</ref>。 CCITT(現 ITU-T)において国際的なFAXの画像データ伝送方法(プロトコル)についての[[標準化]]が審議された。 最初に、1960年(昭和35年)に前述のコルンやベラン、小林らが開発した円筒・機械式走査の『写真電送装置の標準化』が行われた<ref>ITU-T Recommendation T-1 Standardization of Phototelegraph http://www.itu.int/rec/T-REC-T.1-198811-I/en</ref>。 円筒の直径は66・70・88mmの3種が選定され、走査ピッチ(円筒軸方向の移動幅)は円筒直径を協約数(264または352)で除した数値(直径66mmで協約数264の場合の走査ピッチは0.25mm)とした。この規定により協約数が同一であれば、円筒径が異なる送受信機間でも画像乱れの無い通信が可能となる。その他、ドラムの回転速度(60・90・120・150[[rpm (単位)|rpm]]の4種)とその誤差、同期や[[位相]]、[[振幅]][[変調方式|変調]]や[[周波数]]変調等について勧告が出された。 <u>[[1970年代]]までは</u>、ファクシミリ通信というのは高価な装置を用いる通信手段で、使用するのは報道会社、鉄道会社、警察組織、軍の組織、特定の企業など限られていて、業務用であり、あくまで<u>ひとつの組織の内部の通信のために</u>使われていた<ref name="mutsuo_ogawa">[http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/079.pdf]</ref>(基本的に、2つの異なる組織の間の通信には使われていなかった)。 ;G1 平面走査タイプのスキャナや新しい記録方式の開発に対応して、1968年(昭和43年)'''G1'''規格(電話回線、データ圧縮無しでA4サイズ原稿を6分で送信)が勧告された<ref>ITU-T Recommendation T-2 Standardization of Group 1 facsimile apparatus for document transmission</ref>。 G1規格は走査線密度は3.85本/mm、電話回線での走査線周波数は180本/分(3本/秒)、[[振幅変調]](AM : Amplitude Modulation)と[[周波数変調]](FM : Frequency Modulation)について規定している。スキャナで得られる画像信号は[[アナログ]]で、振幅変調で送信する場合は、[[搬送波|搬送]]周波数1,300 - 1,900Hzの範囲内で白を最大振幅、黒を最小振幅と定めている。周波数変調で送信する場合は、白が搬送周波数-400Hz、黒が搬送周波数+400Hzの範囲内と規定され、交換回線経由での搬送周波数は1,700Hzと規定されている。 1971年(昭和46年)の特定通信回線、1972年(昭和47年)の公衆通信回線を利用した通信の自由化(第1次通信回線開放)とともに、電話回線がデータ通信やFAX通信に広く利用され、東方電機(後の[[松下電送]])・[[日本電気|NEC]]・[[東芝]]・[[東京航空計器]]・[[日本無線]]等が競ってFAXのG1適用機を商品化した<ref name="b21" /><ref>http://nemesis.lonestar.org/reference/telecom/modems/protocols.html</ref><ref>http://www.kogures.com/hitoshi/history/tushin-kaisen/index.html#teishinsyou</ref>。 ;G2 さらに、1976年(昭和51年)にA4サイズの原稿を3分で送信する'''G2'''規格が勧告された<ref>ITU-T Recommendation T-3・T-30 Standardization of Group 2 facsimile apparatus for document transmission</ref>。 走査線密度はG1規格と同じ3.85本/mmで、走査線周波数を360本/分にし、2倍の速度の標準化をしている。 ;G3 画像信号のデジタル化と伝送時間を短縮するデータ圧縮技術が実用化されて、1980年(昭和55年)にA4サイズの原稿を1分で送信する'''G3'''規格が勧告された<ref>ITU-T Recommendation T-4 Standardization of Group 3 facsimile terminals for document transmission http://www.itu.int/rec/T-REC-T.4-200307-I/en</ref>(数回の改訂があり最新版は2003年7月)。対象とする用紙はA4・B4・A3・レターサイズ・リーガルサイズで、その短辺幅を考慮して、走査幅は215・255・303mmの3種を規定している。走査の送り方向の走査線密度(垂直方向)は3.85本/mm(G1・G2を踏襲)、オプションとして7.7本/mm・15.4本/mmを規格化している。走査方向(水平方向)の信号はG1・G2規格ではアナログであるが、G3規格では細かく分割した画素単位(8画素/mm)で白と黒の2値に[[デジタル]]化される。オプションとしてインチ系の規格もあり、走査の送り方向(垂直方向)は100・200・300・400・600・800・1,200本/1インチ(25.4mm)の7種が、走査方向(水平方向)は100・200・300・400・600・1,200画素/1インチ(25.4mm)の6種が規格化されている。画像データのデジタル化にともない、[[データ圧縮]]や[[誤り検出訂正|誤り訂正]]の技術やFAXに[[記憶装置|メモリー]]を内蔵しての種々の機能(一斉同報、機密保護通信、ポーリング受信、時刻指定通信、マルチドロップ、メモリー間通信等)が開発された。 G3規格ではオプションとして1次元符号化と2次元符号化、拡張2次元符号化によるデータ圧縮やECM(Error Correction Mode)などを規定することにより、1分送信を実現している。 G3規格の登場により、ファクシミリの市場が一気に活性化<ref name="mutsuo_ogawa" />。その結果日本の電機メーカー・通信機メーカー・事務機器メーカーなども開発・製造に乗り出し、特に、欧米と違い[[漢字]]といった[[象形文字]]の文化を持つ日本では図像電送へのさまざまなニーズがあり、ファクシミリの性能向上への要求も強く、それらの要求にこたえるための技術開発・商品開発に各社がしのぎを削り、質や機能や使い勝手の向上が図られ<ref name="mutsuo_ogawa" />、そのおかげでファクシミリは同一企業内だけでなく不特定多数との交信にも使われる通信手段、情報通信の要(かなめ)として広く普及し<ref name="mutsuo_ogawa" />、日本のメーカーのファクシミリは世界市場を席巻する情況になった<ref name="mutsuo_ogawa" />。オフィス用途では高スピード、高解像度、大量送信、大量受信に対応できるファクシミリ機器が採用され、家庭用やスモールオフィス用には低価格で省スペースのファクシミリ機器が販売された<ref name="mutsuo_ogawa" />。このような経緯で一般家庭にもFAX機の普及が進んだ。 ;G4 1984年(昭和59年)にFAXデータを高速デジタル回線で送信するための標準化、'''G4'''規格が勧告された<ref>ITU-T Recommendation T-563 Terminal characteristics for Group 4 facsimile apparatus http://www.itu.int/rec/T-REC-T.563-199610-I/en</ref>。 G4規格はG3規格を拡張して[[回線交換]]公衆データ網(CSPDN)、[[パケット通信|パケット交換]]公衆データ網(PSPDN)、[[ISDN]]に対応した規格である。 以上の規格の制定や回線開放と共に量産とコストダウンが進み、官庁や新聞社から大企業、さらに中小企業や個人へと使用が拡大した。 [[File:Minifax MF1.jpg|thumb|200px|right|日本電信電話公社が販売していたミニファクス MF1]] 1981年には[[日本電信電話公社]](電電公社)により、通信料金の安い[[ファクシミリ通信網]](Fネット)が開始された。同時に日本電気、日立製作所、富士通、松下電送、東芝が分担開発したミニファックスMF-1が電電公社から発売され、ヒット商品となった。1984年にはG3規格摘要の改良機MF-2を開発・販売を開始した<ref>http://jdream2.jst.go.jp/jdream/action/JD71001Disp?APP=jdream&action=reflink&origin=JGLOBAL&versiono=1.0&lang-japanese&db=JSTPlus&doc=81A0064988&fulllink=no&md5=dedf17a7a962a45152adc057f18d426d</ref><ref>http://www.hct.ecl.ntt.co.jp/library/F/NTA01.html</ref>,<ref>FUJITSU Vol.32 No.7 (1981) ファクシミリ通信システム用端末装置(MF-1形ファクシミリ)(p97)</ref>。 その間、現在の主力であるG3ファクスが開発され、また[[1985年]]に[[電話機]]を始めとする端末設備の接続が自由化([[通信自由化|端末の自由化]])されると、中小企業や商店などで急速にファクスが普及し始めるとともに、[[パーソナルコンピュータ]]などのFAX内蔵[[モデム]]が登場する。 [[1988年]]に開催された[[ソウルオリンピック]]を目前に高解像度のカラーイメージスキャナーが登場し、同時に日本の主要都市に光ファイバーが敷設され、デジタル通信回線により高解像度の電送された写真が地方新聞社に送られカラー写真が紙面を飾った。 [[1990年代]]に入ると、[[コードレス電話機|コードレス留守番電話機]]と結合された形で、一般家庭でも使われるようになった。また、ファクシミリの機能を活用しあらかじめ決められたコード番号を入力することで様々な情報を受信することが可能な[[FAXサービス]]の提供が主な企業より行われた。 日本では[[1990年代]]半ばまでファクシミリの通信網契約数は右肩上がりで増えつづけ、たとえば1984年に1万8千件ほどだった契約数は、5年後の1989年には36万9千件ほどになり、[[1994年]]には67万8千件ほどに達していた<ref>[https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h27/summary/summary01.pdf 総務省資料] p.5</ref>。 ==== 2000年代以降の利用状況 ==== 1990年代後半あたりから情報転送の技術としてインターネットの利用が普及し、2000年代に入ってからビジネスでも徐々に文字・図像情報の転送にインターネットを利用することも増え、それと連動してファクシミリの利用は徐々に減った<ref name=":0" />。しかし、証拠を残す必要がある用途、パソコンを使わずに画像を即座に転送できるなどの有利な面があり<ref name=":0" />、業務用では官公庁向け、家庭用では高齢者向けに需要が残っている<ref name=":0" />。 2020年に[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の流行が拡大した際、日本社会のファクシミリ依存が表面化した<ref>[https://www.independent.co.uk/news/world/asia/coronavirus-japan-fax-machine-online-hanko-a9501906.html Japan’s reliance on fax machines lambasted by coronavirus doctor | The Independent | The Independent]</ref>。日本の官公庁ではファクシミリに依存したシステムが使われ続けていることが業務の効率化を妨げているとして、2021年に[[河野太郎]][[内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)|行政刷新担当大臣]]がファクシミリからの移行を提案しているが、事務方は国会対応のため議員とのやりとりに使うなどの理由から消極的である<ref>{{Cite web|和書|title=河野行革相要請の「ファクス廃止」、霞が関が抵抗…「国会対応で必要」など反論400件 : 政治 : ニュース|url=https://www.yomiuri.co.jp/politics/20210726-OYT1T50312/|website=読売新聞オンライン|date=2021-07-26|accessdate=2021-08-03|language=ja}}</ref>。例外的に[[外務省]]は外部とのやりとりが少ないため、裁判資料の送付などを除き電子メールへ移行している<ref>{{Cite web|和書|title=外務省、“ほぼ”FAX廃止→原則メールに 企業では意外と現役? |url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2206/22/news219.html |website=ITmedia ビジネスオンライン |access-date=2022-06-23 |language=ja}}</ref>。 日本の芸能事務所などではファクシミリで情報のやり取りをすることが多く、特に有名人が結婚・離婚・妊娠などの重大事項を発表する際などは、本人もしくは所属事務所がテレビ局や新聞社にファクシミリで送信することが多い。これは、ファクシミリは文面の下に自筆で署名もできるほか、発信者の確認がしやすく、「[[怪文書]]」扱いになりにくい形で複数の報道会社に向けて一括で送信できるからとされる<ref>[http://b-chive.com/entertainmetnt/show-business/showbizannounce-fax.html 芸能人の発表なぜFAX?] ビーカイブ 2017年9月27日</ref>。 日本におけるファクシミリの世帯普及率は[[2017年]](平成29年)に35.3%。世帯主年齢が20代で1.3%、30代で11.2%、40代では35.1%<ref>{{Cite press release|和書|title=通信利用動向調査(世帯編)|publisher=総務省|date=2018-5-25|url=https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/statistics/statistics05b1.html|accessdate=2018-9-16}}</ref>。2020年(令和2年)には20代は2.1%、30代は9.4%、40代は25.8%、50代は43.2%、60代は48%、70代は47.4%、80代以上は38.9%と高齢化傾向になっている<ref name=":0" />。 ファクシミリ機器については、[[2000年代]]に入ってからは[[IP電話]]・[[Local Area Network|LAN]]・[[インターネット]]などの[[電話交換機]]を介さない[[IPネットワーク|IP通信網]]を利用した[[InternetFAX]]も利用されるようになった。市販されているファクシミリ機器は、[[電話機]]と一体になっているものがほとんどである。 <gallery> Philips magic2memo Fax machine.jpg|電話網に接続する家庭用ファクシミリ機(2004年) Canon_ir2270.jpg|コピー機とプリンター・スキャナー・FAXが一体になった複合機(2004年) </gallery> ===21世紀のアメリカ=== 2010年代には[[スミソニアン博物館]]に産業遺産として収集されたファクシミリではあるが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO88018060S5A610C1000000/ |title=FAXは日本だけ? まだあるガラパゴスに市場も注目 |publisher=日本経済新聞 |date=2015-06-13 |accessdate=2021-10-24}}</ref>、2020年代においても[[セキュリティー]]や[[プライバシー]]などを理由にインターネット網に接続していない、デジタルな集計を行わない機関や分野(警察、医療関係)では使用され続けている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2008/20/news011_3.html |title=まだまだ世界で人気? いまだに「FAX」を使い続けるワケ |publisher=IT media |date=2020-08-20 |accessdate=2021-10-24}}</ref>。2020年に[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]の集計が行なわれた際には、ファクシミリによる報告が少なからず行われ、現場が集計に手間取って恐慌をきたす場面もあった<ref>{{Cite web|和書|url=https://president.jp/articles/-/37491?page=2 |title=ニューヨーク・タイムズが報じた米国FAXの現状 |publisher=プレジデント |date=2020-08-03 |accessdate=2021-10-24}}</ref>。 == 名称 == この種の伝送は最初から「ファクシミリ」という呼称で定まっていたわけではなく、様々な呼ばれ方をしてきた歴史があり、たとえば「telephotography テレフォトグラフィ」や「telecopy テレコピー」などと呼ばれていたこともある。 「ファクシミリ facsimile」という用語は[[ラテン語]]の''[[wikt:fac|fac]] [[wikt:simile|simile]]''(=「同じものを作れ」)←{''[[wikt:facere|facere]]''(為す)+''simile''(同一)}が語源である。「facsimile」は[[印欧語]]圏では、「(原版の)忠実なコピー」という意味が第一義的な意味であり、現在もそちらの意味でも広く使われており、たとえば「[[写本]]のファクシミリ(=忠実なコピー)」「肉筆の手紙のファクシミリ(=忠実なコピー)」などと日常的に言っており、「facsimile」という言葉のほうを中心に据えてみると、(この記事で説明している)図像の伝送装置は、実は、1番目ではなく、2番目に位置する用法として用いられている<ref>[https://www.lexico.com/definition/facsimile]</ref>。 「FAX(ファックス)」は本来、ゼロックス社のファクシミリに附された登録商標であったが、[[商標の普通名称化]]により広く使われる言葉となっている<ref name=":0" />。 == 種類や分類 == いろいろな分類法があるが、ひとつには document facsimile '''模写電送'''<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%A8%A1%E5%86%99%E9%9B%BB%E9%80%81-874046]</ref> / photograph facsimile '''写真電送'''<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%86%99%E7%9C%9F%E9%9B%BB%E9%80%81-525249#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2]</ref>」と分類する方法がある(あった)。模写電送は、白か黒の2階調しかなく文字や線のようなものしか送れないものであり、写真電送とは中間調を含むも画像つまり白黒写真のようなものも送れるものである。 有線ファクシミリ / [[ラジオファクシミリ]](無線ファクシミリ) と分類することもある。 日本の[[電波法]]施行規則内で「ファクシミリ」と呼ばれているのは、後者の[[ラジオファクシミリ]]のことで、「電波を利用して、永久的な形に受信するために静止影像を送り、又は受けるための通信設備」と定義している(電波法施行規則2条1項23号)。 伝送経路の歴史的な変化、広がりを踏まえつつ、有線ファクシミリ / ラジオファクシミリ / 電話線(電話網)ファクシミリ と分類することもある。 標準化をもとにG1 / G2 / G3 / G4などと分類することもある。 最終的に出力される紙(「記録紙」)を基準にして(FAX機を) 感熱紙FAX / 普通紙FAX などと分類することもある。 == ファクシミリ基本技術の推移 == === スキャナ(送信側) === ==== 振り子方式 ==== 1843年、ベインは振り子の振幅方向に平行な下部側面に絶縁板をセット、その絶縁板上に金属の文字を置き、振り子の先に絶縁板に接触する金属針を取り付けて、左右に振り子を動かす方式を発明した。振り子の先の接触針は絶縁板を左右に移動して、絶縁部分に接触している時は“非導通”、金属部分に接触すると“導通”の信号を送る。1回の振幅毎に絶縁板を上方(又は下方)に少しずつ移動させて、絶縁板全体を走査させる。送信側の読取走査と受信側の記録走査は、それぞれ別の振り子を利用しているので同期が難しく、記録位置にずれが発生して画像が乱れ実用化されなかった<ref name="名前なし-1"/>。 1862年、カセルはベインの同期が難しいという欠点を改良した。1862年、カセルは送信側から振り子の同期信号を送り、受信側の振り子を電磁マグネットで制御して同期を取ることを発明した(Pantelegraph)。フランス郵便・電信公社で採用され、手書きの文字や図面や絵等の電送に使用された<ref name="名前なし-2"/>。 ==== 機械走査のドラム回転式 ==== 1848年、ベイクウエルは金属円筒に特殊な絶縁インクで書いた金属箔を巻き付け、金属針を接触させて、円筒を回転させて“導通”、“非導通”の信号を得る。円筒を回転しながら、接触針を円筒の片方の端から他端にむかって軸方向に少しずつ移動させることによって、円周面(金属箔)全体を走査(スキャン)してその信号を送信した<ref name="名前なし-4">[[:en:Frederick Bakewell]]</ref>。 1906年、コルンとベランはイラスト、文字等が書かれた用紙を回転する円筒に巻き付け、用紙の一点にレンズで焦点を合わせて、[[光電管]]に光を送る。固定したレンズと光電管をドラムの軸方向に少しずつ移動させて全体を走査する。用紙に書かれた文字やイラスト等の“白”と“黒”およびその中間色の部分を光電管によって色の濃さに比例した電気信号に変えて送信する<ref name="名前なし-3"/>。 ドラム回転式は原稿を1枚ずつセットするので操作が煩雑で多数の原稿に時間を要する等の問題があり、平面走査による操作性の改善が求められていた。 ==== オプチカル・ファイバによる平面走査 ==== [[光ファイバー|オプティカル・ファイバ]]は極細に引き延ばした糸状のガラスである。そのガラス糸の端面に光を当てると光は直進し、ほとんどロス無く他端に到達する。そのファイバ約1,500本を横(原稿幅)一列に並べて、読み取りする原稿に接触させる。原稿に光を当てて白・黒の反射光を対応する1,500本のオプティカル・ファイバで反対側に送る。反対側の終端は[[センサ]]側で、配列の順序はそのままで円形に固定し、その円形に対向して円盤を配置、モータで円盤を回転する。円盤にはファイバ終端の円形に相当する位置に1本のファイバがセットしてあり、円盤の回転により1,500本のファイバをスキャンする。ファイバの他端から出た光は[[光電子増倍管|フォト・マルチプライア]](光電子増倍管)で電気信号に変換される。このオプティカル・ファイバは「ライン・サークル・コンバータ」と呼ばれ、[[オリンパス|オリンパス光学]]が開発した<ref>雑誌 FUJITSU Vol.22 No.2 (1971) 高速ファクシミリ用オプチカルファイバー管とその応用339 (p83)</ref>。 ==== フォト・ダイオード・アレイによる固体走査 ==== 原稿に[[蛍光灯]]の光を当て[[レンズ]]でフォト・ダイオード・アレイに[[焦点 (光学)|焦点]]する。アレイは[[フォトダイオード]]512個を一列に並べてLSI化したものである。主走査方向256mm幅の原稿を4分割し4個のフォトダイオードアレイ面に焦点を合わせる。4×512個のフォトダイオードの出力を順次取り出すことにより1ラインの画像信号をスキャンする。8pel/mmの解像度を得る<ref>画像電子学会誌 第6巻 第3号 (1977) 富士通高速ファクシミリ (FACOM-6556,6557) (P160)</ref>。 ==== CCDによる固体走査 ==== 原稿に蛍光灯で光を当てレンズで一列に並べたフォトダイオードに焦点を合わせる。各フォトダイオードに対応してCCD(Charge Coupled Device Image Sensor)が配置されている。フォトダイオードが受けた光の強さを対応する[[CCDイメージセンサ|CCD]]に伝えて記憶し、CCDを順次読み出すことによりスキャンする<ref>雑誌FUJITSU Vol.31 No.2 (1980) ファクシミリ蓄積交換システム[川崎重工業(株)における摘要事例]219 (p63)</ref>。 ==== 密着イメージセンサによる固体走査 ==== 照明を蛍光ランプからLEDアレイに変えて長寿命化、[[屈折率分布型レンズ]]アレイを使用して光路長を30cmから1cmに短縮、センサにCdSタイプを使用したスキャナが開発された。大幅な小型化が図られ、読み取り部のユニット化が実現した<ref>http://web.canon.jp/technology/pdf/tech2011.pdf#search='Cds セルフォックレンズ ファクシミリ</ref>。 完全な密着イメージセンサは[[京セラ]]が1996年に発売したのが最初で、その後各社が開発し、各社のファックスで広く採用された。 ==== フラットベッドタイプのスキャナ ==== 本や雑誌、薄い用紙や小さい用紙等の原稿をガラス面に伏せてセットしてスキャンする。現在のコピーマシーンで採用されている自動給紙機構を持つ高性能ファックスが出現した。 === 記録(受信側) === ==== 振り子方式 ==== 1843年、ベインは振り子の振幅方向に平行な下部側面に接触針を設けて、[[化学反応]]によって変色する記録紙に接触針を走査させた。“導通”の信号のときに電流を流して、記録紙を変色させて送信側の絶縁板上の金属文字を再生させる<ref name="名前なし-1"/>。 ==== 機械走査のドラム回転式 ==== 1848年ベイクウエルは金属円筒に送信側と同じ大きさの金属円筒と接触針を設け、電流が流れたときに変色する化学紙を巻き付け、送信側に同期して回転させる。送信側の導通・非導通の信号は記録紙に濃淡となって表示された<ref name="名前なし-4"/>。 1906年、コルンとベランは送信側と同期して円筒を回転させ、円筒に巻いた[[印画紙]]に、送られてきた信号に基づいた光を当てて感光させた。写真の中間調(ハーフトーン)電送を実現させた<ref name="名前なし-3"/>。 ==== OFT記録 ==== OFT(Optical Fiber Tube)は表示面にオプティカル・ファイバ(極細に引き延ばした糸状のガラス)を束にして板状にしたプレートを使用したCRT([[ブラウン管]])である。内面に塗布された蛍光体に電子が衝突して発光し、ファイバを直進して表示面に出てくる。表示面に記録紙を密着して感光させる。一般のCRTは光が発散するが、OFTではファイバの方向へ光が直進するので、レンズにより焦点を合わせる効果と同様な解像度の良い画質となる。FAXに使用するOFTは表示面が扁平な形状で、横幅は用紙の幅(A4の場合約210mm)、縦方向は約1cmである<ref>雑誌 FUJITSU Vol.22 No.2 (1971) 高速ファクシミリ用オプチカルファイバー管とその応用333 (p77)</ref>。 記録用紙(ZnO紙)を帯電器に通した後、OFTのファイバー・プレートに密着して少しずつ移動する。帯電した用紙はOFT表示面からの光に当たったところが放電(露光)して潜像をつくり、次工程で黒色微細粉をいれた液体で湿したローラと接触(液体現像 : ローラ現像)させることにより、記録紙の帯電していない箇所に黒色粉が付く(現像、定着)<ref>雑誌 FUJITSU Vol.22 No.2 (1971) 高速ファクシミリ用オプチカルファイバー管とその応用341 (p85)</ref>。 ==== マルチスタイラスによる静電記録 ==== マルチスタイラスは32本の針状電極を微細間隔で一直線に並べてブロック化したものである。そのブロックを64個並べて1列2,048本とし、静電記録紙に密着させる。白・黒の信号により金属針の電圧をオンオフして記録紙に帯電させて潜像をつくる。記録紙を現像器に通すと帯電した箇所に黒色微細粉が付く。その記録紙をローラに通して圧力をかけ、黒色微細粉を紙の繊維間に押し込んで定着させる<ref>雑誌 FUJITSU Vol.31 No.4 (1980) 高速デジタルファクシミリFACOM FAX600シリーズ 561 (p77)</ref>。 ==== 感熱記録 ==== [[感熱紙|感熱記録紙]]は熱により黒色を発色する。FAXの場合は8個/mmの間隔で横一線に並べた発熱体(サーマルヘッド)を記録紙に密着させて画像を得る。多くの普及型FAXで採用されている。構造が簡単でコストが安いが、記録紙が長期保存により退色する短所がある。 ==== レーザーによる電子写真式記録 ==== 感光ドラムを「帯電」させ、レーザーで照射すると、照射された箇所の電荷が放電して電荷像(潜像)を作る。帯電させた黒色の微細な粉末(トナー)を感光ドラムに近づけると電荷のない部分にのみトナーが付着する(「現像」)。感光ドラムに用紙を押しつけて、トナーを用紙に「転写」する。ドラムを通過した用紙に強いフラッシュ光を当てトナーを用紙に溶着させて「定着」をする。印字品質が良く印刷速度が速いが、複雑な構造で、コストが高い。現在では[[レーザープリンター|レーザー・プリンタ]]で使用されている。 ==== 熱転写方式の普通紙記録 ==== 普通紙の上にフィルム状の熱転写リボンを重ねて発熱体(サーマルヘッド)に接触させると、熱が加わった箇所にリボンの色(FAXの場合は黒)が転写される。初期のFAXはロール紙が使用されていたが、最近ではA4またはB4サイズのカット紙(市販の[[コピー用紙]]〈普通紙〉)が使用されている。また印刷はカット紙の普及に伴い、多くは各社純正品、ないしはそれを模した互換品のロール式インクリボンが用いられているが、メーカーによっては[[複合機]]([[インクジェットプリンター]])により、専用の[[インクカートリッジ]]を用いる場合もある<ref>[https://e-tsa.info/fax-paper-select 普通、感熱、インクジェット?FAXの印刷方式と用紙の選び方!]</ref> === データの圧縮 === ==== 1次元符号化方式(MH) ==== {{main|MH符号}} 1ラインごとに画像データを処理してデータを圧縮する符号化方式である。一般の文書の画素データ(pel)は黒または白の連続が多いことを利用したデータの圧縮方法である。黒(または白)画素の連続した数(ランレングスという)をコードに変換して送信し、受信側で元の画素に復元する。出現頻度の高いランレングスから順番に短いコードに変換して、画像データを符号化することにより、送信データを短く(圧縮)することができ、送信時間を短縮することができる。FAXでは従来の1/6になりA4原稿を約1分で電送できる。 1980年CCITTにおいて、G3規格の中でMH(Modified Huffman)符号化方式としてランレングスに対するコードが標準化され、「1次元符号化方式」として制定された<ref>ITU-T Recommendation T-4 Standardization of Group 3 facsimile terminals for document transmission http://www.itu.int/rec/T-REC-T.4-200307-I/en </ref>。 ==== 二次元圧縮方式RAC ==== 文字や簡単な図形が中心の原稿は、画像データの上の行と下の行はほとんど同じで、変化は少ない。この性質を利用してデータ量の大幅な圧縮を図ったのがRAC(Relative Address Coding)である。RACは下の画像データを一段上のデータ(参照ライン)と比較して、変化している箇所を検出し、その位置を符号化してデータ圧縮をする方式である。 参照ラインのデータが圧縮なしの場合にMR(Modified Read)方式、参照ラインのデータがMH方式(上記「1次元符号化方式」)で圧縮されている場合はMMR(Modified Modified Read)方式という。1980年CCITTによるG3規格の中では上記「1次元符号化方式」のオプションとして「2次元符号化方式」として制定された<ref>FACSIMILE CODING SCHEMES AND CODING CONTROL FUNCTIONS FOR GROUP 4 FACSIMILE APPARATUS http://www.itu.int/rec/T-REC-T.6-198811-I</ref>。 ==== 2ライン一括符号化方式 ==== 1次元符号化方式(MH)は“白”と“黒”の2種の変化であるが、この方式は二ラインの“白・白”、“白・黒”、“黒・白”、“黒・黒”の4つの組み合わせがある。この組み合わせの変化とランレングスのデータを送信する。「2走査線一括ランレングス符号化方式」とも呼ばれている<ref>FUJITSU 1972年(昭和47年) Vol.23 No.7 ファクシミリ信号の帯域圧縮方式 日下田九十九、大山哲政、星野啓右、加藤均</ref>。 ==== ALDC(自動線密度切り替え) ==== ファクシミリのG3規格には「標準モード」とオプションとして「ファインモード」がある。標準モードでは装置の縦方向(副走査)はmm当たり3.85ライン、ファインモードで7.7ラインであり解像度が良い。しかし、ファインモードはデータ量が2倍で、伝送時間が2倍長くなるという短所がある。ALDC(Adaptive Line Dencity Control)は、複雑な図や細かい文字かどうかを送信データのランレングスで判定してファインモードと標準モードに自動的に切り替える機能である<ref>昭和52年度電子通信学会総合全国大会 1025 (p5-106) 高速ファクシミリにおける線密度自動選択について 及川清、飯塚良雄、斎藤寛康、山本充</ref><ref name="FACOM FAX600 556 p72">FUJITSU 1980年(昭和55年) Vol.31 No.4 高速デジタルファクシミリ FACOM FAX600 シリーズ 556 (p72)</ref>。 === 通信関係 === ==== 蓄積交換システム ==== FAXの送信データを蓄積交換装置に送ってメモリーし、後宛先FAXに送信する。1979年に商品化された蓄積交換装置は現在のFAXへ継承されている下記のように多数の機能を実現している<ref>昭和51年電気四学会連合大会 204 (p5-69) 電話網用ファクシミリ端末 石井淳、森田徹郎</ref><ref>1979年6月26日電子通信学会SE79-27 (P17) ファクシミリ蓄積交換システム 荻田悦弘、栗田満男、井上健治、森田徹郎</ref><ref>昭和54年画像電子学会予稿 ファクシミリ蓄積交換システムの概要 荻田悦弘、栗田満男、喜多村彰三、森田徹郎</ref><ref>FUJITSU 1980年(昭和55年) Vol.31 No.2 (P53) ファクシミリ蓄積交換システム</ref>。 ; 自動送信 : OMRシートやワンタッチキーにより自動送信する ; 同報サービス : 複数のFAXに同一電文を送信する ; 列信サービス : 受信した複数枚の原稿を纏めて送信する ; 優先サービス : 優先度の高い電文を先に宛先のFAXに送信する ; 代表サービス : 複数のFAXをグループ化して、一つの電話番号で送信し、空いているFAXで受信できる ; 機密保護サービス : 受信側FAXのパスワード入力により送信する ; 代行サービス : 宛先のFAXが障害等で受信できない場合、予め設定されている他のFAXへ送信、又はメモリーに一時蓄積する ; 通信証明サービス : 送信が完了した文書に送信済みスタンプを、受信した文書に受信時間等を印字する ; トレースサービス : 電文の状態を追跡させる 上記の機能は1982年には[[フロッピー・ディスク]]内蔵のファクシミリに受け継がれ、1986年にはRAMを画像メモリーとしたファクシミリ引き継がれた。 ==== 順次自動ポーリング受信 ==== 受信側のFAXから要求して送信側FAXのデータを送信させる機能である。受信側FAXのキー操作により、登録されたFAXに接続し、文書等を送信させて受信する。電話料金が安価になる遠距離・夜間等の通信に利用された。1980年に実用化された。その後、1984年以降では、メモリーを内蔵するFAXが商品化され、同報装置無しでこの機能を実現した<ref name="FACOM FAX600 556 p72"/>。 ==== スーパー電送方式 ==== FAXの画像データをメモリに蓄積し、宛先のFAXのメモリに高速で伝送する。1982年に世界で初めてフロッピーディスク内蔵のFAXが商品化され、A4サイズを世界最高速の9秒で電送(G3規格は1分)した。この方式を「スーパー伝送」と呼んだ。電話回線を利用してのファイル転送の先駆けとなった<ref>FUJITSU 1983年(昭和58年) Vol.34 No.3 ファクシミリ通信システム 479</ref><ref>FUJITSU 1984年(昭和59年) Vol.35 No.1 スーパーファクシミリFACOM FAX700 (p92)</ref>。 ==== 中継同報 ==== 同報先の1台のFAXにデータを送信し、そのFAXから近隣のFAXに同報する。国際回線や東京・大阪間等の遠隔地の多数のFAXに同報する場合に効率が良く、低コストで伝送できるシステムである。1982年に商品化された<ref>FUJITSU 1984年(昭和59年) Vol.35 No.1 スーパーファクシミリFACOM FAX700 (p94)</ref>。 ==== ECM(Error Correction Mode : 誤り訂正) ==== FAXの画像データを圧縮して送信する際、途中の通信回線で[[ノイズ]]やひずみ等でデータが間違った場合、受信した画像が大きく乱れる。この対策として、受信データの間違いを修正する方法がECMである。FAXの画像データを分割して、その一つ一つの後に数ビットの補正データを附加して送信する。受信側では受信した画像データと補正データを照合して、正しく受信した場合はそのまま、エラーを起こしたデータに対しては補正データにより修正して印刷する。1987年(昭和62年)にCCITTがG3規格のオプションとして採用した<ref>http://www.itu.int/rec/T-REC-T.4-200307-I/en</ref>。 ==== モデムフォールバック・ステップアップ ==== [[電話回線]]経由の電気信号にはノイズや歪みがあり、送信したデータが正しく伝わらないことがある。FAXの画像データを送信した場合、データにエラーがあると画像が乱れ、ひどい場合には文字が読み取れない場合がある。高速伝送は送信時間を短縮できるがノイズや歪みの影響を受けやすい。低速での伝送は比較的にノイズや歪みの影響が少ない。モデムは伝送速度の切り替え機能があるが、当初は自動切り替えの機能を持っていなかった。モデムフォールバックは受信側で電話回線の状況を計測し(SQD : Signal Quality Detection)、品質が良くない場合には伝送速度を下げて品質を確保する機能である。この手法(フォールバック)は現在でも[[ADSL]]等で採用されている。ステップアップはこの逆で、品質が良い場合に伝送速度を上げる方式である<ref name="FACOM FAX600 556 p72"/>。 === 機能 === ==== 自動診断機能 ==== FAXは読取部、記録部、シーケンス制御部、データ圧縮・復元部、伝送制御部、モデム部で構成されている。自己診断プログラムにより各ユニットの機能の自動チェック、パターン発生器によるテスト、折り返し伝送テストができ、操作パネルにその結果を表示する。1979年に商品化されたFAXに採用された<ref>FUJITSU 1980年(昭和55年) Vol.31 No.2 (P64) ファクシミリ蓄積交換システム</ref>。 ==== 受信側FAXに対応した縮小送信 ==== スキャナで読み込んだB4やA3サイズの原稿のデータを、宛先のFAXの記録紙のサイズに合わせて(A3→A4・B4、B4→A4)データ変換して送信する<ref name="FACOM FAX600 552 p68">FUJITSU 1980年(昭和55年) Vol.31 No.4 高速デジタルファクシミリ FACOM FAX600 シリーズ 552 (p68)</ref>。 ==== 相手側番号表示 ==== 誤接続の防止をするために送信側のFAXに宛先FAXの電話番号を表示する<ref name="FACOM FAX600 552 p68"/>。 ==== 省電力 ==== 自動受信待機時は主電源をOFFにし、受信の時点で自動的にONにすることで、大幅な省電力化が図られる<ref>FUJITSU 1981年(昭和56年) Vol.32 No.2 高速デジタルファクシミリ FACOM FAX610 シリーズ 372 (p218)</ref>。 == 操作および送信側と受信側の動作の時系列 == # (送信側は)精細度や原稿の濃さを設定し相手先[[電話番号]]を入力する。業務用の複合機ではここで用紙を1枚ずつ送り込んで、イメージ情報として読み取られ、一度内部のメモリに記憶される。 # (送信側は)[[交換機]]へダイヤル信号を送出し、相手のFAXに発信する。 # 受信側が応答しなかったり、話中の場合は、一定時間経過後にリダイヤルする。 # 送信側から受信側へ、CNG信号(CalliNG。0.5秒間の1,100Hzのトーンと3秒間の無音の繰り返し。「ポー」「ポー」(繰り返し)と聞こえ、多くの機材では回線接続前から発している)を送出する。 # 回線接続後、受信側では送信側からのCNG信号を検出し、必要に応じて電話/FAX切替器を動作させてFAX装置を起動。CED信号(受信側から送られる「ピー」と聞こえる2,100Hzの連続音。FAX専用の電話回線に接続されている場合、CNGの有無にかかわらずCED信号を出す装置も少なくない)を発して応答する。 # その後、送信側・受信側で互いに実装されている能力情報の受け渡しを行い利用可能な最大能力での通信速度・画像データの符号化・符号訂正方式などを決定、トレーニングにより[[モデム]]の調整を行う。 # 方式にあわせた画像信号形式で送信側からデータを送信する。家庭用など小型の機器はここで読み込みを開始し、同時にデータを送信する。 <!-- # 送信側から受信側へファクシミリトーン信号を送出する。 # 回線接続後、受信側では、FAXの受信可能方式などをファクシミリトーン信号として返信する。 # 受信側のFAXの受信可能方式にあわせた画像信号形式で送信側からデータを送信する。<br />家庭用など小型の機器はここで読み込みを開始し、同時にデータを送信する。--> # 受信側のFAXからの受信完了信号を確認しながら送信側はデータを次々送信する。エラーの場合は、再送信を行う(送信側の設定で再送信せずに終了させることもできる)。 # 送信終了または、相手から一定時間応答無い場合、回線を切断する。 # 受信側では記録紙に印刷を行う(家庭用のように受信と同時に印刷する機種もあれば、業務用のように受信を完了した時点で印刷を開始する機種もある)。記録紙が切れた場合には内蔵メモリである程度まで受信(代行受信)を行う(対応機種のみ。代行受信できない機種の場合は異常終了として通信を切断する)。また、受信中は内蔵メモリで記録しておき、他のFAXやパソコンなどへの転送、ディスプレイでの確認を行った上で、必要なものだけ印刷することが可能なものもある。 # 送信側では、正常終了または異常終了のメッセージが出力される。 == 規格 == {| class="wikitable" width="100%" summary="ITU-Tのファクシミリ規格の概要の表"> |+'''ITU-T(旧CCITT)のファクシミリ規格''' |-align=center ! rowspan="2" width="3%"|規格 ! rowspan="2" width="3%"|公称<br />伝送<br />時間<br />A4<br />1枚<br />当たり<br />/[[秒]] ! rowspan="2" width="3%"|使用<br />通信<br />回線 ! rowspan="2" width="3%"|最大<br />解像度<br />dpi ! rowspan="2" |特徴 ! colspan="2" |伝送・[[変調方式]] ! rowspan="2" width="3%"|[[コーデック#画像圧縮のコーデック|画像<br />圧縮]] ! colspan="4" |[[ITU-T]]勧告 |-align=center ! width="2%" |[[モデム#可聴帯域用のモデム|モデム]] ! width="2%" |最大<br />通信<br />速度<br />k[[ビット毎秒|bps]] ! width="2%" |端末<br />特性 ! width="2%" |伝送<br />手順 ! width="3%" | ! width="3%" |制定年 |-align=center |G1 |360 | rowspan="7" |0.3-<br />3.4<br />kHz<br />音声<br />回線 | rowspan="2" |100×<br />100 | rowspan="2" |[[アナログ]]伝送 | colspan="2" |DSB [[振幅変調|AM]] | |[[T.2]] | rowspan="6" colspan="2" |[[T.30]] |1968 |-align=center |G2 |180 | colspan="2" |VSB AM | |[[T.3]] |1976 |-align=center |rowspan="3" |G3 |60 | rowspan="6" |200×<br />200 |全てのG3が対応 |V.27<br />ter |4.8 | rowspan="2" |MH | rowspan="10" |[[T.4]] |1980 |-align=center |30 |家庭用 |V.29 |9.6 | colspan="2" | |-align=center |20 |業務用 |V.17 |14.4 |MR | |-align=center |Super<br />G3 |3 | |V.34 |33.6 |MMR<br />JBIG | |-align=center |カラーG3 | | | | |[[JPEG]] | colspan="2" |[[T.30E]] | |-align=center |インバンドIP<br />FAX | |[[IP電話]] |[[VoIP]]でモデム音声を伝送 |V.29 |9.6 |MH | colspan="2" | | |-align=center | rowspan="4" |[[InternetFAX|Internet FAX]] | rowspan="4" | | rowspan="4" |[[Internet Protocol]] | rowspan="4" | | colspan="3" |internet facsimile protocol[[パケット]]でリアルタイム伝送 | rowspan="2" |MH<br />MR<br />MMR<br />JBIG | colspan="2" |[[T.38]] | rowspan="2" |1998 |-align=center |基本的な機能を規定 | rowspan="3" colspan="2" |[[電子メール]]の[[Tagged Image File Format|TIFF]][[添付ファイル]]として<br />[[画像]][[データ]]を[[Simple Mail Transfer Protocol|SMTP]]で<br />[[ストアアンドフォワード|蓄積交換]] | rowspan="3" |[[T.37]] |Simple mode |-align=center |送達確認・機器間の能力確認などの双方向<br />カラー伝送などの付加機能を規定 | rowspan="2" |MH<br />MR<br />MMR<br />JBIG<br />JPEG |Full mode |1999 |-align=center |同一ローカルネットワーク内で<br />[[メールサーバ]]不要のリアルタイム直接通信 |[[ダイレクトSMTP]] |2007 |-align=center |G4 |3 |[[ISDN]] |400×<br />400 |G3の機能も備える<br />しかし通信相手がひかり電話回線の場合<br />G3モードでも通信が出来ない制約がある |デジ<br />タル<br />モード |64 |MMR<br />JBIG |[[T.6]]<br />[[T.503]]<br />[[T.521]]<br />[[T.563]] | colspan="2" |[[T.62]]<br />[[T.70]]<br />[[T.62bis]] |1988 |} 陸上用では、[[2011年]]現在は、家庭用・業務用とも、一般の電話回線やIP電話を利用したG3 FAXがほとんどである。同一メーカー同士の通信の場合には、メーカー独自の手法でデータを圧縮して通信時間の短縮を行っていることが多い。 == メーカー == {{main2|複合機のみを販売する企業は、[[複合機]]を}} その他に、[[パーソナルコンピュータ]]や[[サーバ]]のFAX[[ソフトウェア]]の発売企業や、[[InternetFAX]]と[[オンラインストレージ]]とを組み合わせた[[アプリケーションサービスプロバイダ|ASP]]がある。{{main2|ASPは、[[InternetFAX#蓄積交換方式]]を}} === 日本 === {| class="wikitable" width="100%" summary="ファクシミリ専用機を発売する日本の企業の50音順の表"> |+'''ファクシミリ専用機を発売する日本企業(50音順)''' |-align=center ! rowspan="2" width="12%"|[[企業]]名 ! colspan="2" |[[商標]] ! rowspan="2" |備考 |-align=center ! width="8%" |事業向け ! width="8%" |家庭向け |- |[[NTTグループ]] |NTT FAX |でんえもん |他社(=パナソニック。後述)からの[[OEM]]供給。 |- |[[キヤノン]] |キヤノフアクス |FAXPHONE<br />(2006年末に販売終了) | |-r |[[パナソニックグループ]]([[パナソニック システムソリューションズ ジャパン|九州松下電器→パナソニック コミュニケーションズ→パナソニック システムネットワークス]]→[[パナソニックホールディングス|パナソニック]]→[[パナソニック エンターテインメント&コミュニケーション]]) |Panafax |おたっくす |製品型番はKX-***(電話機はVE-***。ただし増設子機はFAXと同じKX-***)で始まる。<br />UF-***で始まる感熱紙FAX「パナファックス」シリーズは(消耗品も含め)生産を終了。感熱紙FAXも「おたっくすKX-PW211DL」を最後に2020年限りで生産を終了した。<br />現在家庭向けFAXを国内で唯一自社生産しており、量販店向けと[[系列電器店|系列店]]「[[パナソニックショップ]]」向けとで別々の製品型番を設定([[取扱説明書]]はシリーズごとに系列店・量販店両モデル兼用)。<br />NTTグループにも「でんえもん」シリーズとしてOEM供給している。<br />かつて「おたっくす」は九州松下電器が担当し、[[パナソニック モバイルコミュニケーションズ|松下通信工業]]はFAXを担当していなかった。<br />Panafaxは被合併会社の松下電送システムが担当していた。 |- |[[ブラザー工業]] |JUSTIO FAX |Commuche<br/>(2016年終了) |「PRIVIOシリーズ(カラー[[複合機]])」のみを生産。消耗品供給は継続中。<br/>NTTとの共同開発企業である為、製品型番がFAX-***で始まる。<br/>「Commuche」FAX単体機は在庫品限りの「FAX-210」のみ。 |- |[[村田機械]] | | |NTTにOEM供給しているほか、以前は[[コニカミノルタ]]、[[岩崎通信機]]にも供給していた。 |} {| class="wikitable" width="100%" summary="ファクシミリ専用機を発売する日本の企業の50音順の表"> |+'''ファクシミリ専用機の販売を終了した日本企業(50音順)''' |-align=center ! rowspan="2" width="10%"|[[企業]]名 ! colspan="2" |事業向け ! colspan="2" |家庭向け ! rowspan="2" |備考 |-align=center ! width="10%" |商標 ! width="5%" |販売終了年 ! width="10%" |商標 ! width="5%" |販売終了年 |- |[[NECプラットフォームズ]] | | |スピークス |2007 |FAX用消耗品供給は継続中。 |- |[[三洋電機]] | | |手ぶらコードるす |2011 |パナソニックの完全子会社化に伴い、「おたっくす」に吸収される形で撤退。「SANYO」ブランドFAX用消耗品供給は継続中。<br/>子機を置いたまま(手に持たずに)通話可能な「手ぶらコードるす」シリーズは[[所ジョージ]]を起用したCMで当時大ヒット。製品型番はSFX-***で始まる。 |- |[[シャープ]] | | |fappy |2015 |現在は電話機のみを生産。FAX用消耗品供給は継続中。<br/>製品型番はUX-***で始まる。<br/>現行モデルは在庫品限りの「UX-AF91シリーズ/AF90シリーズ/650シリーズ」のみ。 |- |リコー |RIFAX |2016 | | | |} {| class="wikitable" width="100%" summary="FAXソフトウェアを発売する日本企業の50音順の表"> |+'''FAXソフトウェアを発売する日本企業''' |-align=center ! rowspan="3" width="10%"|[[企業]]名 ! rowspan="3" width="10%"|[[商標]] ! colspan="9"|[[オペレーティングシステム|OS]] ! rowspan="3" width="4%"|[[ダイレクトSMTP]]<br />送信 ! rowspan="3" width="4%"|[[T.38]]<br />[[ゲートウェイ]]<br />対応 ! rowspan="3" width="4%"|[[Simple Mail Transfer Protocol|SMTP]]<br />[[メールサーバ]]<br />連携 ! rowspan="3" width="4%"|[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]] ! rowspan="3" width="4%"|システム<br />連携 ! rowspan="3" width="4%"|プリンタドライバ<br />送信 ! rowspan="3"|備考 |-align=center ! colspan="5"|[[Microsoft Windows|Windows]] ! colspan="4"|Windows Server |-align=center ! width="1%" |10 ! width="1%" |8.1 ! width="1%" |7 ! width="1%" |Vista ! width="1%" |XP ! width="1%" |2016 ! width="1%" |2012 ! width="1%" |2008 ! width="1%" |2003 |-align=center |[[インターコム]] |[http://www.intercom.co.jp/mytalkfax/ まいと~くFAX] | colspan="3"|32bit<br />Pro<br />Server<br />は64bit可 | colspan="2"|32bit | colspan="2"|64bit<br />32bit | colspan="2"|32bit |Pro | |Pro<br />Server<br />Center |Pro<br />OCX<br />ライセンス<br />Server<br />Center<br />API<br />連携キット |Center<br />[[Comma-Separated Values|CSV]] |○ | |-align=center |ウェアポータル |[http://www.wareportal.co.jp/products/rf/ RelayFax] | colspan="9"|32bit/64bit | |○ |○ | | |○ | |-align=center |[[エー・アイ・ソフト]] |イージーファクス | colspan="4"| |32bit | colspan="4"| | | | | | | |[[2007年]][[3月31日]]サポート終了 |-align=center |キヤノンソフト<br />情報システム |[http://www.canon-soft.co.jp/product/lightning_fax/index.html ライトニングFAX] | colspan="3"|64bit<br />32bit | colspan="2"|32bit | colspan="3"|64bit<br />32bit |32bit | | | colspan="3"|オプション | | |-align=center |ズィット |[http://www.zit-one.com/fax-soft/index.html 信汰楼<br />異文書同報] | colspan="4"|64bit<br />32bit |32bit | colspan="3"|64bit<br />32bit |32bit | | | | | |○ |コムユースの信乃助の後継 |-align=center |日本ワムネット |[http://www.wamnet.jp/products/mpfax4/ MultiPortFAX] | colspan="3"|64bit<br />32bit | colspan="2"|32bit | colspan="3"|64bit<br />32bit |32bit | | | colspan="2"|オプション |XML<br />準拠<br />txt | | |-align=center |ハンモック |[http://www.hammock.jp/rightfax/ RightFax] | colspan="9"|32bit/64bit | |FoIP |○ | |基幹システム<br />FAX機 | | |-align=center |[[メガソフト]] |[http://www.megasoft.co.jp/starfax/ STARFAX<br />(スターファクス)] | colspan="4"|32/64bit<br />Liteは<br />32bitのみ |32bit | colspan="4"|324bit<br />64bit | | |Lite<br />以外 |OCX |Engine |○ | |} == 類似の装置 == * テレメール(通信装置) : 日本電気が1970年代後半に販売していた装置。送信機にセットされた紙にボールペンで字を書くと、離れた場所にある受信機の[[X-Yプロッタ]]がリアルタイムで書いたとおりにプロットした。 == 設置時の注意 == 設置時にFAX本体の設定をダイヤル回線かプッシュホン回線かISDNの何れか契約している回線に正しく設定しなければ正常な送受信が出来ない。また、ADSL等を使用している場合、干渉を避けるため、間にフィルタを取り付ける必要がある。収容される隣接する回線がADSLを使用している場合、影響を受ける場合がある。 == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align:center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|8507|213b|-|全角FAX|font=MacJapanese}} {{CharCode|128224|1F4E0|-|FAX MACHINE|font=絵文字フォント}} |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[ラジオファクシミリ]] * [[ファクシミリ放送]] * [[Lモード]] * [[InternetFAX]] - [[IP電話]]や[[Internet Protocol]]でのFAX通信 * [[ファクシミリ通信網]] - [[D-FAX]] * [[複合機]] ** [[複写機]] ** [[プリンター]] ** [[イメージスキャナ]] * [[情報機器]] == 外部リンク == {{Commonscat|Fax machines}} * [http://www.secretlifeofmachines.com/secret_life_of_the_fax_machine.shtml ファックスの機械の生い立ちの秘密]{{en icon}} - 漫画家[[:en:Tim Hunkin]]による図による歴史の説明 * [http://www.exploratorium.edu/ronh/SLOM/0301-The_FAX_Machine.html ファックスの機械の生い立ちの秘密(動画)]{{en icon}} - [[:en:Tim Hunkin]]による[[:en:Secret Life of Machines]] テレビシリーズ * [http://www.hffax.de/html/hauptteil_faxhistory.htm FAXの大まかな歴史]{{en icon}} - HFFAX 無線ファクシミリサイト * [http://www.technikum29.de/en/communication/fax.shtm ファクスの歴史的な進化]{{リンク切れ|date=2020年10月}}{{en icon}} - technikum29、計算機、コンピュータ、および通信テクノロジーのミュージアム * [http://www.garretwilson.com/essays/computers/group3fax.html グループ3ファクシミリ通信]{{en icon}} - 97年度の圧縮と誤り訂正と呼び出し確立とリリースに関する技術詳細とエッセイ * [https://win10.blog.ss-blog.jp/2016-05-29 パソコンから文書をFAXするには?(3/9):Windows10を無償アップグレードして大丈夫?:So-netブログ] - Windows OSでFax機能を使うときの解説 * [http://www.megasoft.co.jp/starfax/modem2.html FAXモデムの確認方法 - パソコンFAXソフト STARFAXシリーズ] - [[メガソフト|メガソフト株式会社]] - パソコンのモデムデバイスの機能見分け方 {{Telecommunications}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ふあくしみり}} [[Category:通信]] [[Category:通信機器]] [[Category:情報機器]] [[Category:電話機]] [[Category:家電機器]] [[Category:ラテン語からの借用語]] [[Category:複製]] [[Category:イタリアの発明]]
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Request for Comments
Request for Comments(リクエスト フォー コメンツ、略称:RFC)はIETF(Internet Engineering Task Force)による技術仕様の保存、公開形式である。内容には特に制限はないが、プロトコルやファイルフォーマットが主に扱われる。RFCとは「コメント募集」を意味する英語の略語であり、もともとは技術仕様を公開し、それについての意見を広く募集してより良いものにしていく観点から始められたようである。全てのRFCはインターネット上で公開されており、誰でも閲覧することができる。 なお、IETF以外の組織・コミュニティにおいても、同様の目的の文書群をRFCと呼称する事例が存在する。 RFCというコンセプトは、1969年にARPANETプロジェクトにおいて生まれた。今日では、Internet Engineering Task Force (IETF)やインターネットアーキテクチャ委員会 (IAB)、およびコンピュータネットワーク研究者の世界的なコミュニティの公式発表の場となっている。 初期のRFCはタイプライターで執筆され、DARPAの研究者にそれをコピーした紙が配布された。現在のRFCとは異なり、初期のRFCの多くは文字通り実際にコメントを求めるものであり、宣言のような響きを避け、議論を促すために"Request for comments"という名前が付けられた。初期のRFCには、特に決まったフォーマットはなかった。現在では、RFCになる前の段階であるインターネットドラフトの文書がこのような形式になっている。ARPANETが1969年12月に稼働し始めると、RFCの配布はARPANET上で行われるようになった。 RFC 1 は、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のスティーブ・クロッカーが執筆し、1969年4月7日に発表された「ホスト・ソフトウェア」である。このRFCは、執筆したのはクロッカーであるが、クロッカーとスティーブ・カー、ジェフ・ルリフソンによる初期のワーキンググループでの議論により生まれたものである。 クロッカーが執筆した RFC 3 で「RFCとは何であるか」が最初に定義され、RFCはDARPAのネットワーク・ワーキンググループに帰属するものとされた。ただし、これは正式な委員会ではなく、ARPANETプロジェクトに関心のある研究者のゆるやかな集まりであり、誰でも参加できた。 UCLAにはARPANETの最初のIMP(Interface Message Processor)の一つが置かれていたため、1970年代のRFCの多くもUCLAから発信された。ダグラス・エンゲルバートが所長を務めたスタンフォード研究所のオーグメンテイション研究センター(ARC)は、ARPANETの最初の4つのノードのうちの1つであり、初期のRFCもここから発信された。ARCには最初のInterNICが置かれ、エリザベス・J・ファインラー(英語版)が管理し、他のネットワーク情報とともにRFCを配布した。1969年から1998年までは、ジョン・ポステルがRFCを管理した。1998年にポステルが亡くなると、彼の訃報が RFC 2468 として発表された。 アメリカ連邦政府とのARPANETの契約が切れた後、IETFを代表してインターネットソサエティが南カリフォルニア大学(USC)情報科学研究所(ISI)のネットワーク部門と契約し、IABの指示の下でRFCの発行を行うことになった。 RFCの歴史については RFC 2555 に30 Years of RFCsとしてまとめられている。 すべての RFC が標準というわけではない(RFC 1796 "Not All RFCs are Standards")。各 RFC には標準化プロセスにおける位置付け (status) が定められている。位置付けは「情報 (Informational)」、「実験的 (Experimental)」、「現状で最良の慣行 (Best Current Practice, BCP)」、「標準化過程 (Standards Track)」、「歴史的 (Historic)」のいずれかである。 「標準化過程」はさらに「標準への提唱 (Proposed Standard, PS)」、「インターネット標準 (Internet Standard, STD)」に分けられる(詳しくはインターネット標準を参照のこと)。 なお、非常に古い RFC には「不明 (unknown)」という位置付けのものがあり、もし同じ文書が現在公開されるとしたらどの位置付けになるかは明らかでない。 毎年、エイプリルフールには、ジョーク的な内容を含むRFC(Joke RFC、ジョークRFC)が公開される。また、インターネットに多大な貢献があった人への追悼のRFCが公開されたこともある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Request for Comments(リクエスト フォー コメンツ、略称:RFC)はIETF(Internet Engineering Task Force)による技術仕様の保存、公開形式である。内容には特に制限はないが、プロトコルやファイルフォーマットが主に扱われる。RFCとは「コメント募集」を意味する英語の略語であり、もともとは技術仕様を公開し、それについての意見を広く募集してより良いものにしていく観点から始められたようである。全てのRFCはインターネット上で公開されており、誰でも閲覧することができる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "なお、IETF以外の組織・コミュニティにおいても、同様の目的の文書群をRFCと呼称する事例が存在する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "RFCというコンセプトは、1969年にARPANETプロジェクトにおいて生まれた。今日では、Internet Engineering Task Force (IETF)やインターネットアーキテクチャ委員会 (IAB)、およびコンピュータネットワーク研究者の世界的なコミュニティの公式発表の場となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "初期のRFCはタイプライターで執筆され、DARPAの研究者にそれをコピーした紙が配布された。現在のRFCとは異なり、初期のRFCの多くは文字通り実際にコメントを求めるものであり、宣言のような響きを避け、議論を促すために\"Request for comments\"という名前が付けられた。初期のRFCには、特に決まったフォーマットはなかった。現在では、RFCになる前の段階であるインターネットドラフトの文書がこのような形式になっている。ARPANETが1969年12月に稼働し始めると、RFCの配布はARPANET上で行われるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "RFC 1 は、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のスティーブ・クロッカーが執筆し、1969年4月7日に発表された「ホスト・ソフトウェア」である。このRFCは、執筆したのはクロッカーであるが、クロッカーとスティーブ・カー、ジェフ・ルリフソンによる初期のワーキンググループでの議論により生まれたものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "クロッカーが執筆した RFC 3 で「RFCとは何であるか」が最初に定義され、RFCはDARPAのネットワーク・ワーキンググループに帰属するものとされた。ただし、これは正式な委員会ではなく、ARPANETプロジェクトに関心のある研究者のゆるやかな集まりであり、誰でも参加できた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "UCLAにはARPANETの最初のIMP(Interface Message Processor)の一つが置かれていたため、1970年代のRFCの多くもUCLAから発信された。ダグラス・エンゲルバートが所長を務めたスタンフォード研究所のオーグメンテイション研究センター(ARC)は、ARPANETの最初の4つのノードのうちの1つであり、初期のRFCもここから発信された。ARCには最初のInterNICが置かれ、エリザベス・J・ファインラー(英語版)が管理し、他のネットワーク情報とともにRFCを配布した。1969年から1998年までは、ジョン・ポステルがRFCを管理した。1998年にポステルが亡くなると、彼の訃報が RFC 2468 として発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "アメリカ連邦政府とのARPANETの契約が切れた後、IETFを代表してインターネットソサエティが南カリフォルニア大学(USC)情報科学研究所(ISI)のネットワーク部門と契約し、IABの指示の下でRFCの発行を行うことになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "RFCの歴史については RFC 2555 に30 Years of RFCsとしてまとめられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "すべての RFC が標準というわけではない(RFC 1796 \"Not All RFCs are Standards\")。各 RFC には標準化プロセスにおける位置付け (status) が定められている。位置付けは「情報 (Informational)」、「実験的 (Experimental)」、「現状で最良の慣行 (Best Current Practice, BCP)」、「標準化過程 (Standards Track)」、「歴史的 (Historic)」のいずれかである。", "title": "位置付け" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「標準化過程」はさらに「標準への提唱 (Proposed Standard, PS)」、「インターネット標準 (Internet Standard, STD)」に分けられる(詳しくはインターネット標準を参照のこと)。", "title": "位置付け" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "なお、非常に古い RFC には「不明 (unknown)」という位置付けのものがあり、もし同じ文書が現在公開されるとしたらどの位置付けになるかは明らかでない。", "title": "位置付け" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "毎年、エイプリルフールには、ジョーク的な内容を含むRFC(Joke RFC、ジョークRFC)が公開される。また、インターネットに多大な貢献があった人への追悼のRFCが公開されたこともある。", "title": "一風変わったRFC" } ]
Request for CommentsはIETFによる技術仕様の保存、公開形式である。内容には特に制限はないが、プロトコルやファイルフォーマットが主に扱われる。RFCとは「コメント募集」を意味する英語の略語であり、もともとは技術仕様を公開し、それについての意見を広く募集してより良いものにしていく観点から始められたようである。全てのRFCはインターネット上で公開されており、誰でも閲覧することができる。 なお、IETF以外の組織・コミュニティにおいても、同様の目的の文書群をRFCと呼称する事例が存在する。 PHP: PHP: rfc Rust: Rust RFCs Vue.js: Vue RFCs - GitHub
{{WikipediaPage|ウィキペディアで行われている議論へのコメント依頼は[[Wikipedia:コメント依頼]]をご覧ください。}} {{WikipediaPage|ウィキペディアの記事編集での Request for Comments への自動外部リンク機能については「[[Help:マジックリンク#RFC]]」をご覧ください。}} '''Request for Comments'''(リクエスト フォー コメンツ、略称:'''RFC''')は[[Internet Engineering Task Force|IETF]](Internet Engineering Task Force)による技術[[仕様]]の[[保存]]、公開形式である。内容には特に制限はないが、[[プロトコル]]や[[ファイルフォーマット]]が主に扱われる。RFCとは「コメント募集」を意味する英語の略語であり、もともとは技術仕様を公開し、それについての意見を広く募集してより良いものにしていく観点から始められたようである。全てのRFCは[[インターネット]]上で公開されており、誰でも[[閲覧]]することができる。 なお、IETF以外の組織・コミュニティにおいても、同様の目的の文書群をRFCと呼称する事例が存在する。 * [[PHP (プログラミング言語)|PHP]]: [https://wiki.php.net/rfc PHP: rfc] * [[Rust (プログラミング言語)|Rust]]: [https://rust-lang.github.io/rfcs/ Rust RFCs] * [[Vue.js]]: {{GitHub|vuejs/rfcs|Vue RFCs}} ==歴史== RFCというコンセプトは、1969年に[[ARPANET]]プロジェクトにおいて生まれた<ref name=nytimes>{{cite news|url=https://www.nytimes.com/2009/04/07/opinion/07crocker.html?_r=1&em |title=Stephen D. Crocker, ''How the Internet Got Its Rules'', The New York Times, 6 April 2009 |work=Nytimes.com |date= April 7, 2009|access-date=April 3, 2012}}</ref>。今日では、Internet Engineering Task Force (IETF)や[[インターネットアーキテクチャ委員会]] (IAB)、およびコンピュータネットワーク研究者の世界的なコミュニティの公式発表の場となっている。 初期のRFCは[[タイプライター]]で執筆され、[[DARPA]]の研究者にそれをコピーした紙が配布された。現在のRFCとは異なり、初期のRFCの多くは文字通り実際にコメントを求めるものであり、宣言のような響きを避け、議論を促すために"Request for comments"という名前が付けられた<ref>Hafner, Katie; Lyon, Matthew (1996). Where Wizards Stay Up Late: The Origins of the Internet.</ref><ref>{{cite magazine |title=Meet the man who invented the instructions for the Internet |url=https://www.wired.com/2012/05/steve-crocker/ |magazine=Wired |access-date=December 18, 2018|date=May 18, 2012 |last1=Metz |first1=Cade }}</ref>。初期のRFCには、特に決まったフォーマットはなかった。現在では、RFCになる前の段階である[[インターネットドラフト]]の文書がこのような形式になっている。ARPANETが1969年12月に稼働し始めると、RFCの配布はARPANET上で行われるようになった。 {{IETF RFC|1}} は、[[カリフォルニア大学ロサンゼルス校]](UCLA)の[[スティーブ・クロッカー]]が執筆し、1969年4月7日に発表された「ホスト・ソフトウェア」である<ref>{{cite document |url=https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc1 |title=RFC{{nbsp}}1 |first=Steve |last=Crocker |date=April 7, 1969}}</ref>。このRFCは、執筆したのはクロッカーであるが、クロッカーとスティーブ・カー、[[ジェフ・ルリフソン]]による初期のワーキンググループでの議論により生まれたものである。 クロッカーが執筆した {{IETF RFC|3}} で「RFCとは何であるか」が最初に定義され、RFCはDARPAのネットワーク・ワーキンググループに帰属するものとされた。ただし、これは正式な委員会ではなく、ARPANETプロジェクトに関心のある研究者のゆるやかな集まりであり、誰でも参加できた。 UCLAにはARPANETの最初のIMP([[Interface Message Processor]])の一つが置かれていたため、1970年代のRFCの多くもUCLAから発信された。[[ダグラス・エンゲルバート]]が所長を務めた[[SRIインターナショナル|スタンフォード研究所]]の[[オーグメンテイション研究センター]](ARC)は、ARPANETの最初の4つの[[ノード (ネットワーク)|ノード]]のうちの1つであり、初期のRFCもここから発信された。ARCには最初の[[InterNIC]]が置かれ、{{仮リンク|エリザベス・J・ファインラー|en|Elizabeth J. Feinler}}が管理し、他のネットワーク情報とともにRFCを配布した<ref>{{cite journal |title= The Network Information Center and its Archives |journal= Annals of the History of Computing |author= Elizabeth J. Feinler |date= July–September 2010 |volume= 32 |issue=3 |pages= 83–89 |doi= 10.1109/MAHC.2010.54 |s2cid= 206443021 |author-link= Elizabeth J. Feinler }}</ref>。1969年から1998年までは、[[ジョン・ポステル]]がRFCを管理した。1998年にポステルが亡くなると、彼の訃報が {{IETF RFC|2468}} として発表された。 アメリカ連邦政府とのARPANETの契約が切れた後、IETFを代表して[[インターネットソサエティ]]が[[南カリフォルニア大学]](USC)[[情報科学研究所]](ISI)のネットワーク部門と契約し、IABの指示の下でRFCの発行を行うことになった<ref>{{cite news |title= RFC Editor in Transition: Past, Present, and Future |author= Leslie Daigle |publisher= Cisco Systems |date= March 2010 |work= The Internet Protocol Journal |volume= 13 |number=1 |url= http://www.cisco.com/web/about/ac123/ac147/archived_issues/ipj_13-1/131_rfc.html |access-date= August 17, 2011 }}</ref>。 RFCの歴史については {{IETF RFC|2555}} に30 Years of RFCsとしてまとめられている。 == 位置付け == すべての RFC が[[標準]]というわけではない({{IETF RFC|1796}} "Not All RFCs are Standards")。各 RFC には標準化プロセスにおける位置付け (status) が定められている。位置付けは「情報 (Informational)」、「実験的 (Experimental)」、「現状で最良の慣行 (Best Current Practice, BCP)」、「標準化過程 (Standards Track)」、「歴史的 (Historic)」のいずれかである。 「標準化過程」はさらに「標準への提唱 (Proposed Standard, PS)」、「[[インターネット標準]] (Internet Standard, STD)」に分けられる(詳しくは[[インターネット標準]]を参照のこと)。 ;「情報(Informational, Info)」 :[[エイプリルフール]]のジョーク、[[プロプライエタリ]]なプロトコル、{{IETF RFC|1591}}([[DNS]]の構造と権限の委任)のように広く不可欠なものと認められた RFC など、ほとんどあらゆるものが含まれる。「情報」RFC には「参考 (for your information, FYI)」と呼ばれる一連の文書も含まれる。 ;「実験的(Experimental, Exp)」 :インターネットに関して有用と考えられる研究成果や実験結果を広く公開するためのものである。実験的といっても、実際には具体的な手続きをとろうとする者がいないために標準化過程へ昇格していないだけの文書も含まれる。 ;「現状で最良の慣行(Best Current Practice, BCP)」 :「情報」には留まらないが実際にネットワークで使われるデータには影響しない、公的なルールと見なされている実務上の文書などである。またインターネット標準を実践するための技術的な推奨事項も含まれる。 ;「歴史的(Historic, Hist)」 :標準化過程で破棄された文書や標準化以前に公開されていた廃れた RFC に適用される。 なお、非常に古い RFC には「不明 (unknown)」という位置付けのものがあり、もし同じ文書が現在公開されるとしたらどの位置付けになるかは明らかでない。 == 一風変わったRFC == 毎年、[[エイプリルフール]]には、ジョーク的な内容を含むRFC(Joke RFC、ジョークRFC)が公開される。<ref group="注釈">代表的なものとして[[鳥類キャリアによるIP]]</ref>また、インターネットに多大な貢献があった人への追悼のRFCが公開されたこともある。 == RFCの一覧 == {| class="wikitable sortable" |+ RFCの一覧 ! scope="col" | RFC !! scope="col" | タイトル |- | {{IETF RFC|3}} || 望ましいコメントについての文書。RFCが文字通りの「コメント募集」だった頃の様子が分かる。 |- | {{IETF RFC|748}} || Telnet ランダム喪失オプション(1978年のジョークRFC) |- | {{IETF RFC|768}} || [[User Datagram Protocol|UDP]] |- | {{IETF RFC|783}} || [[Trivial File Transfer Protocol|TFTP]] |- | {{IETF RFC|791}} || [[Internet Protocol|IP]] |- | {{IETF RFC|792}} || [[Internet Control Message Protocol|ICMP]] |- | {{IETF RFC|793}} || [[Transmission Control Protocol|TCP]] |- | {{IETF RFC|826}} || [[Address Resolution Protocol|ARP]] |- | {{IETF RFC|854}} || [[Telnet]] |- | {{IETF RFC|894}} || IP over Ethernet |- | {{IETF RFC|903}} || [[Reverse address resolution protocol|RARP]] |- | {{IETF RFC|959}} || [[File Transfer Protocol|FTP]] |- | {{IETF RFC|1034}}<br />{{IETF RFC|1035}} || [[Domain Name System|DNS]] |- | {{IETF RFC|1149}} || [[鳥類キャリアによるIP]]データグラムの標準規格(1990年のジョークRFC) |- | {{IETF RFC|1157}} || [[Simple Network Management Protocol|SNMP]] |- | {{IETF RFC|1179}} || LPR [[Line Printer Daemon protocol|Line PRinter daemon protocol]] |- | {{IETF RFC|1189}} || [[Common Management Information Protocol|CMIP]] |- | {{IETF RFC|1242}} || ネットワーク相互接続機器のための[[ベンチマーク]]用語 |- | {{IETF RFC|1305}} || [[Network Time Protocol|NTP]] |- | {{IETF RFC|1459}} || [[インターネット・リレー・チャット|IRC]] |- | {{IETF RFC|1468}} || インターネットメッセージのための日本語[[文字符号化]]([[ISO-2022-JP]]) |- | {{IETF RFC|1808}} || 相対[[Uniform Resource Locator|URL]]({{IETF RFC|3986}}により破棄) |- | {{IETF RFC|1855}} || [[ネチケット]]ガイドライン |- | {{IETF RFC|1866}} || [[HyperText Markup Language#HTML 2.0|HTML 2.0]]({{IETF RFC|2854}}により破棄) |- | {{IETF RFC|1867}} || HTMLにおけるフォームからのファイルアップロード({{IETF RFC|2854}}により破棄) |- | {{IETF RFC|1928}} || [[SOCKS]] v5 |- | {{IETF RFC|1939}} || [[Post Office Protocol|POP]] Version 3 |- | {{IETF RFC|1942}} || HTMLにおけるテーブル({{IETF RFC|2854}}により破棄) |- | {{IETF RFC|1951}} || [[Deflate]]圧縮フォーマット仕様 Version 1.3 |- | {{IETF RFC|1980}} || HTMLにおけるクライアントサイドイメージマップ({{IETF RFC|2854}}により破棄) |- | {{IETF RFC|2058}} || Remote Authentication Dial In User Service (RADIUS) |- | {{IETF RFC|2070}} || HTMLの国際化(ISO-8859-1以外の文字セットをHTMLで使えるようにしたもの。「[[HyperText Markup Language#HTML 2.x|HTML2.x]]」もしくは「HTML i18n」ともいわれる。{{IETF RFC|2854}}により破棄) |- | {{IETF RFC|2080}} || [[ルーティング・インフォメーション・プロトコル|RIPng]] for IPv6 |- | {{IETF RFC|2083}} || [[Portable Network Graphics|PNG]] |- | {{IETF RFC|2119}} || Key words for use in RFCs to Indicate Requirement Levels |- | {{IETF RFC|2131}} || [[Dynamic Host Configuration Protocol|DHCP]] |- | {{IETF RFC|2205}} || [[Resource Reservation Protocol|RSVP]] |- | {{IETF RFC|2247}} || LDAP/X.500 [[識別名]]における[[ドメイン名]]の使用 |- | {{IETF RFC|2251}} || [[Lightweight Directory Access Protocol|LDAP]] v3 |- | {{IETF RFC|2252}} || LDAP v3: 属性文法の定義 |- | {{IETF RFC|2253}} || LDAP v3: [[UTF-8]] 識別名のストリングリプレゼンテーション |- | {{IETF RFC|2254}} || LDAP v3: LDAP 検索フィルタの定義 |- | {{IETF RFC|2255}} || LDAP [[Uniform Resource Locator|URL]]形式 |- | {{IETF RFC|2256}} || LDAP v3 で利用される X.500(96) ユーザスキーマの要約 |- | {{IETF RFC|2318}} || Remote Authentication Dial In User Service (RADIUS) |- | {{IETF RFC|2322}} || Management of IP numbers by peg-dhcp([[洗濯ばさみ-DHCPによるIPアドレス管理]])(1998年のジョークRFC。実装例は[[#外部リンク]]参照) |- | {{IETF RFC|2324}} || [[Hyper Text Coffee Pot Control Protocol]](1998年のジョークRFC) |- | {{IETF RFC|2328}} || [[Open Shortest Path First|OSPF]] Version 2 |- | {{IETF RFC|2396}} || [[Uniform Resource Identifier|URI]]の一般的書式({{IETF RFC|3986}}により破棄) |- | {{IETF RFC|2401}} || [[IPSec]] : Security Architecture for the Internet Protocol |- | {{IETF RFC|2453}} || [[Routing Information Protocol|RIP]] Version 2 |- | {{IETF RFC|2459}} || Internet X.509 Public Key Infrastructure Certificate and CRL Profile |- | {{IETF RFC|2460}} || [[IPv6]] |- | {{IETF RFC|2468}} || 「[[Internet Assigned Numbers Authority|IANA]]を偲ぶ」(IANAの発起者である[[ジョン・ポステル]]を悼んで。[[ヴィントン・サーフ]]作) |- | {{IETF RFC|2527}} || Internet X.509 Public Key Infrastructure Certificate Policy and Certification Practices Framework({{IETF RFC|3647}}により破棄) |- | {{IETF RFC|2549}} || 鳥類キャリアによるIPのサービス品質(1999年のジョークRFC) |- | {{IETF RFC|2550}} || Y10K and Beyond(1999年のジョークRFC。[[2000年問題]](Y2K)ではなく[[西暦10000年問題|10000年問題]]について) |- | {{IETF RFC|2555}} || RFCの30年 |- | {{IETF RFC|2616}} || [[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]/1.1 |- | {{IETF RFC|2732}} || [[Uniform Resource Locator|URL]]への[[IPv6アドレス]]によるリテラルを含む書式({{IETF RFC|3986}}により破棄) |- | {{IETF RFC|2740}} || OSPF for IPv6 |- | {{IETF RFC|2795}} || The Infinite Monkey Protocol Suite (IMPS)(1999年のジョークRFC。[[無限の猿定理]]の実証で用いることのできるプロトコル) |- | {{IETF RFC|2845}} || Secret Key Transaction Authentication for DNS (TSIG) |- | {{IETF RFC|2854}} || text/html[[Multipurpose Internet Mail Extensions#Content-Type|メディアタイプ]](IETFにより標準化されたHTMLを破棄し、メディアタイプがtext/htmlである文書の仕様については[[World Wide Web Consortium|W3C]]の仕様書を参照するように定めた) |- | {{IETF RFC|2865}} || [[RADIUS|RADIUS認証プロトコル]] Remote Authentication Dial In User Service (RADIUS) |- | {{IETF RFC|2866}} || RADIUS Accounting |- | {{IETF RFC|2930}} || Secret Key Establishment for DNS (TKEY RR) |- | {{IETF RFC|3261}} || [[Session Initiation Protocol|SIP]] |- | {{IETF RFC|3280}} || Internet X.509 Public Key Infrastructure Certificate and Certificate Revocation List (CRL) Profile({{IETF RFC|5280}}により破棄) |- | {{IETF RFC|3305}} || Uniform Resource Identifiers (URIs), URLs, and Uniform Resource Names (URNs): Clarifications and Recommendations([[Uniform Resource Identifier|URI]]、[[Uniform Resource Locator|URL]]、[[Uniform Resource Name|URN]]という概念についての考え方) |- | {{IETF RFC|3377}} || LDAP v3: 技術仕様 |- | {{IETF RFC|3411}}<br />{{IETF RFC|3412}}<br />{{IETF RFC|3413}}<br />{{IETF RFC|3414}}<br />{{IETF RFC|3415}}<br />{{IETF RFC|3416}}<br />{{IETF RFC|3417}}<br />{{IETF RFC|3418}} || [[Simple Network Management Protocol|SNMP]] |- | {{IETF RFC|3490}} || Internationalizing Domain Names in Applications (IDNA) |- | {{IETF RFC|3501}} || [[Internet Message Access Protocol|IMAP]] Version 4rev1 |- | {{IETF RFC|3514}} || The Security Flag in the IPv4 Header(2003年のジョークRFC。このRFCは発行されたその日に[[FreeBSD]]上で実装された(すぐにキャンセルされたが)) |- | {{IETF RFC|3550}} || [[Real-time Transport Protocol|RTP]] |- | {{IETF RFC|3645}} || Generic Security Service Algorithm for Secret Key Transaction Authentication for DNS (GSS-TSIG) |- | {{IETF RFC|3647}} || Internet X.509 Public Key Infrastructure Certificate Policy and Certification Practices Framework |- | {{IETF RFC|3751}} || Omniscience Protocol Requirements(2004年のジョークRFC) |- | {{IETF RFC|3920}}<br />{{IETF RFC|3921}}<br />{{IETF RFC|3922}}<br />{{IETF RFC|3923}} || [[Extensible Messaging and Presence Protocol|XMPP]](Jabberを参照) |- | {{IETF RFC|3977}} || [[Network News Transfer Protocol|NNTP]] |- | {{IETF RFC|3986}} || [[Uniform Resource Identifier|URI]]の一般的書式 |- | {{IETF RFC|3987}} || Internationalized Resource Identifiers([[Unicode]]の文字を使えるようにしたリソース識別子である[[Internationalized Resource Identifier|IRI]]の仕様定義) |- | {{IETF RFC|4041}} || Requirements for Morality Sections in Routing Area Drafts(2005年のジョークRFC) |- | {{IETF RFC|4042}} || UTF-9 and UTF-18 Efficient Transformation Formats of [[Unicode]](2005年のジョークRFC) |- | {{IETF RFC|4158}} || Internet X.509 Public Key Infrastructure:Certification Path Building |- | {{IETF RFC|4250}}<br />{{IETF RFC|4251}}<br />{{IETF RFC|4252}}<br />{{IETF RFC|4253}}<br />{{IETF RFC|4254}}<br />{{IETF RFC|4255}}<br />{{IETF RFC|4256}} || [[Secure Shell|SSH]] |- | {{IETF RFC|4271}} || [[ボーダ・ゲートウェイ・プロトコル|BGP]] |- | {{IETF RFC|4325}} || Internet X.509 Public Key Infrastructure Authority Information Access Certificate Revocation List (CRL) Extension({{IETF RFC|5280}}により破棄) |- | {{IETF RFC|4346}} || [[Secure Socket Layer|TLS]] |- | {{IETF RFC|4627}} || The application/json Media Type for JavaScript Object Notation (JSON)({{IETF RFC|7159}}により破棄) |- | {{IETF RFC|4630}} || Update to DirectoryString Processing in the Internet X.509 Public Key Infrastructure Certificate and Certificate Revocation List (CRL) Profile({{IETF RFC|3280}}を更新) |- | {{IETF RFC|4635}} || HMAC SHA TSIG Algorithm Identifiers |- | {{IETF RFC|4824}} || [[手旗信号]]によるIPデータグラムの転送(SFSS)(2007年のジョークRFC) |- | {{IETF RFC|4844}} || The RFC Series and RFC Editor |- | {{IETF RFC|4960}} || [[Stream Control Transmission Protocol|SCTP]] |- | {{IETF RFC|5280}} || Internet X.509 Public Key Infrastructure Certificate and Certificate Revocation List (CRL) Profile |- | {{IETF RFC|5321}} || [[Simple Mail Transfer Protocol|SMTP]] |- | {{IETF RFC|5322}} || [[Internet Message Format]] |- | {{IETF RFC|5652}} || [[暗号メッセージ構文]] (CMS) |- | {{IETF RFC|5741}} || RFC Streams, Headers, and Boilerplates |- | {{IETF RFC|5914}} || Trust Anchor Format |- | {{IETF RFC|5937}} || Using Trust Anchor Constraints during Certification Path Processing |- | {{IETF RFC|6818}} || Updates to the Internet X.509 Public Key Infrastructure Certificate and Certificate Revocation List (CRL) Profile({{IETF RFC|5280}}を更新) |- | {{IETF RFC|6844}} || DNS Certification Authority Authorization (CAA) Resource Record |- | {{IETF RFC|6895}} || Domain Name System (DNS) IANA Considerations |- | {{IETF RFC|7158}} || The JavaScript Object Notation (JSON) Data Interchange Format({{IETF RFC|7159}}により破棄) |- | {{IETF RFC|7159}} || The JavaScript Object Notation (JSON) Data Interchange Format |- | {{IETF RFC|7168}} || [[HTCPCP-TEA|Hyper Text Coffee Pot Control Protocol for Tea Efflux Appliances (HTCPCP-TEA)]] |- | {{IETF RFC|7230}} || Hypertext Transfer Protocol (HTTP/1.1): Message Syntax and Routing |- | {{IETF RFC|7231}} || Hypertext Transfer Protocol (HTTP/1.1): Semantics and Content |- | {{IETF RFC|7232}} || Hypertext Transfer Protocol (HTTP/1.1): Conditional Requests |- | {{IETF RFC|7233}} || Hypertext Transfer Protocol (HTTP/1.1): Range Requests |- | {{IETF RFC|7234}} || Hypertext Transfer Protocol (HTTP/1.1): Caching |- | {{IETF RFC|7235}} || Hypertext Transfer Protocol (HTTP/1.1): Authentication |- | {{IETF RFC|7382}} || Template for a Certification Practice Statement (CPS) for the Resource PKI (RPKI) |- | {{IETF RFC|7519}} || [[JSON Web Token|JSON Web Token (JWT)]] |- | {{IETF RFC|7540}} || Hypertext Transfer Protocol Version 2 (HTTP/2) |- | {{IETF RFC|7541}} || HPACK: Header Compression for HTTP/2 |- | {{IETF RFC|8058}} || Signaling One-Click Functionality for List Email Headers - [[メールマガジン]]や[[メーリングリスト]]等において、受信者(購読者)がワンクリックのみで登録を解除(配信を停止)できるデータを、[[電子メール#ヘッダー情報|メールヘッダー]]に記載する方法 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == *[[インターネット標準]] *[[Internet Experiment Note]] (IEN) - インターネットの開発の最初期に発行されていた類似の文書 == 外部リンク == *[http://www.ietf.org/rfc.html Request for Comments (RFC)] (英語、[[Internet Engineering Task Force|IETF]]) *[http://www.rfc-editor.org/ RFC Editor] (英語) *[https://www.nic.ad.jp/ja/tech/rfc-jp.html IETFとRFC] (2001.8、江崎浩、社団法人[[ネットワークインフォメーションセンター]](JPNIC)) *[https://www.ipa.go.jp/security/rfc/RFC.html インターネットセキュリティに関する RFC] (独立行政法人 [[情報処理推進機構]](IPA)) *[https://bb.watch.impress.co.jp/cda/bbword/12722.html 槻ノ木隆のBBっとWORDS その65「RFCのプロセス」] (2006.2、槻ノ木隆、[[BB Watch]]、[[Impress Watch]]) *[http://www5d.biglobe.ne.jp/~stssk/rfcjlist.html RFC日本語版リスト] - Ishida Soによるリンク集。 *[http://www.imasy.or.jp/~yotti/rfc-joke.html ジョーク RFC(よっち@ほ~む)] {{Normdaten}} [[Category:RFC|*]] [[Category:インターネット標準]]
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2,846
RFC
RFC
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RFC Request for Comments - IETFによる技術仕様公開形式 Rugby Football Club - ラグビーフットボールクラブ(ラグビー部) Radio Frequency Choke Coil - 高周波チョークコイル、高周波チョーク Radio Fukusima Co.,Ltd. - ラジオ福島の略称 Radiant Fukuoka Cheers - プロバスケットボールB3.LEAGUE、ライジングゼファーフクオカのチアリーディングチーム。 RFC落語ファイトクラブ - WOWOWライブにて2012年よりに放送される落語番組。 Royal Flying Corp - イギリス陸軍航空隊 Rangers Football Club - レンジャーズFC Reconstruction Finance Corporation - 復興金融公社 Request for Change - 変更要求
{{WikipediaPage||Wikipedia:コメント依頼}} '''RFC''' *[[Request for Comments|'''R'''equest '''f'''or '''C'''omments]] - [[Internet Engineering Task Force|IETF]]による技術仕様公開形式 *'''R'''ugby '''F'''ootball '''C'''lub - ラグビーフットボールクラブ([[ラグビー部]]) *'''R'''adio '''F'''requency '''C'''hoke Coil - 高周波[[チョークコイル]]、高周波チョーク *'''R'''adio '''F'''ukusima '''C'''o.,Ltd. - [[ラジオ福島]]の略称 *'''R'''adiant '''F'''ukuoka '''C'''heers - プロバスケットボール[[ジャパン・バスケットボールリーグ|B3.LEAGUE]]、[[ライジングゼファーフクオカ]]の[[チアリーダー|チアリーディングチーム]]。 *[[RFC落語ファイトクラブ]] - [[WOWOW]]ライブにて2012年よりに放送される[[落語]]番組。 *'''R'''oyal '''F'''lying '''C'''orp - [[イギリス陸軍航空隊]] * '''R'''angers '''F'''ootball '''C'''lub - [[レンジャーズFC]] * '''R'''econstruction '''F'''inance '''C'''orporation - {{仮リンク|復興金融公社|en|Reconstruction Finance Corporation}} *'''R'''equest '''f'''or '''C'''hange - [[変更要求]] {{aimai}}
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2,849
メルコスール
メルコスール(スペイン語: Mercosur; Mercado Común del Sur、ポルトガル語: Mercosul; Mercado Comum do Sul、英:Mercosur; Southern Common Market)は、1991年のアスンシオン条約と1994年のウロ・プレト議定書により設立された、南アメリカの貿易圏である。 日本語では、南米南部共同市場または南米共同市場と訳される。日本の外務省やJETRO、JICAなどは、前者を用いることが多い。 アルゼンチン、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイが正加盟している。ベネズエラは正加盟国であったが、2016年から加盟資格を停止されている。準加盟国はボリビア、チリ、コロンビア、エクアドル、ガイアナ、ペルー、スリナム。 メルコスールの起源は、ラテンアメリカの地域経済市場の構成に関する議論に関連している。これは1960年のラテンアメリカ自由貿易連合条約にさかのぼり、1980年代にラテンアメリカ統合連合がそれを継承したことに由来する。当時、アルゼンチンとブラジルはイグアス宣言(1985年)に署名して二国間委員会を設置し、翌年には一連の貿易協定を締結するなど、この問題を進展させていた。1988年に両国間で調印された統合・協力・開発条約は、共通市場の確立を目標としており、他のラテンアメリカ諸国も参加できるようになっていた。パラグアイとウルグアイもこのプロセスに参加し、4カ国はアスンシオン条約(1991年)の調印国となった。この条約は南部共同市場を設立したもので、地域経済の活性化、物、人、労働力、資本の移動を目的とした貿易同盟である。当初は自由貿易圏が設定され、加盟国はお互いの輸入品に課税や制限をしないことになっていた。1995年1月1日からは、この地域は関税同盟となり、すべての加盟国が他国からの輸入品に同じ割当量を課すことができるようになった(共通対外関税)。翌年にはボリビアとチリが加盟国となった。他のラテンアメリカ諸国も加盟に関心を示している。 メルコスールの目的は、自由貿易とモノ・人・通貨の流動的な移動を促進することである。設立以来、メルコスールの機能は何度も更新され、修正されてきたが、現在は関税同盟限定されており、ゾーン内の自由な貿易と加盟国間の共通の貿易政策が存在する。2019年の名目国内総生産(GDP)は約4.6兆ドルで、世界で5位の経済圏となっている。この圏は人間開発指数でも上位に位置している。メルコスールは、イスラエル、エジプト、日本、欧州連合などと自由貿易協定を締結している。 欧州連合(EU)のような自由貿易市場の南米での創設、具体的には域内での関税撤廃と域外共通関税を実施することを目的として、1991年にパラグアイのアスンシオンでアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジルの4カ国が調印。1994年12月には4ヵ国首脳がブラジルのオウロ・プレットに集まり最終議定書に調印し、1995年1月に発足した。 加盟国は2004年12月以降アンデス共同市場(アンデス共同体)と相互に準加盟の形で協力関係にある。 2005年発足予定であった米国主導の米州自由貿易地域 (FTAA) 計画に先行するものとみる期待もあったが、2005年11月4日、5日にマル・デル・プラタで開かれた第4回米州首脳会議で当時のメルコスール諸国とベネズエラの反対でFTAA計画は頓挫している。この後にベネズエラがメルコスールへの加盟を表明した。 ベネズエラを加えて、南米全体の人口の約7割に当たる2億6千万人、国内総生産全体の75%を占めることになった。ベネズエラと他の加盟国との間の貿易関税は2010年から2013年にかけて撤廃される予定である。 アルゼンチンのフェルナンデス大統領とブラジルのルラ大統領は、2008年2月22日、メルコスールを強化することを謳った共同声明を発表した。声明は、不干渉と国際法の尊重が両国の基本原則と位置づけている。 2010年8月3日、アルゼンチン西部のサンフアンで首脳会議を開いた。ベネズエラ・コロンビア間の危機を打開するために、南米諸国連合(UNASUR)の首脳会議をできるだけ早く開催するように呼びかけた。会議には加盟国のアルゼンチン・ブラジル・ウルグアイ・パラグアイと準加盟国のチリ・ボリビアの大統領が参加した。正式加盟手続途中のベネズエラのチャベス大統領に代わり、マドゥロ外相が参加した。 2011年12月20日、ウルグアイの首都モンテビデオで首脳会議が開かれた。最終宣言で4か国は、南米地域で起こった「重大な人権侵害について記憶、真実、正義を追求する」立場を再確認し、左翼政党や労組活動家を弾圧した「コンドル作戦」をはじめ南米南部における共同弾圧網に関して情報を得る専門グループを設立する、と述べた。 2019年6月28日、欧州連合(EU)と自由貿易協定(FTA)を締結することで合意。欧州自由貿易連合(EFTA)、カナダ、シンガポール、韓国ともFTA締結を交渉している。
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メルコスールは、1991年のアスンシオン条約と1994年のウロ・プレト議定書により設立された、南アメリカの貿易圏である。 日本語では、南米南部共同市場または南米共同市場と訳される。日本の外務省やJETRO、JICAなどは、前者を用いることが多い。 アルゼンチン、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイが正加盟している。ベネズエラは正加盟国であったが、2016年から加盟資格を停止されている。準加盟国はボリビア、チリ、コロンビア、エクアドル、ガイアナ、ペルー、スリナム。 メルコスールの起源は、ラテンアメリカの地域経済市場の構成に関する議論に関連している。これは1960年のラテンアメリカ自由貿易連合条約にさかのぼり、1980年代にラテンアメリカ統合連合がそれを継承したことに由来する。当時、アルゼンチンとブラジルはイグアス宣言(1985年)に署名して二国間委員会を設置し、翌年には一連の貿易協定を締結するなど、この問題を進展させていた。1988年に両国間で調印された統合・協力・開発条約は、共通市場の確立を目標としており、他のラテンアメリカ諸国も参加できるようになっていた。パラグアイとウルグアイもこのプロセスに参加し、4カ国はアスンシオン条約(1991年)の調印国となった。この条約は南部共同市場を設立したもので、地域経済の活性化、物、人、労働力、資本の移動を目的とした貿易同盟である。当初は自由貿易圏が設定され、加盟国はお互いの輸入品に課税や制限をしないことになっていた。1995年1月1日からは、この地域は関税同盟となり、すべての加盟国が他国からの輸入品に同じ割当量を課すことができるようになった(共通対外関税)。翌年にはボリビアとチリが加盟国となった。他のラテンアメリカ諸国も加盟に関心を示している。 メルコスールの目的は、自由貿易とモノ・人・通貨の流動的な移動を促進することである。設立以来、メルコスールの機能は何度も更新され、修正されてきたが、現在は関税同盟限定されており、ゾーン内の自由な貿易と加盟国間の共通の貿易政策が存在する。2019年の名目国内総生産(GDP)は約4.6兆ドルで、世界で5位の経済圏となっている。この圏は人間開発指数でも上位に位置している。メルコスールは、イスラエル、エジプト、日本、欧州連合などと自由貿易協定を締結している。
{{基礎情報 行政区画 |IB_NameJa=メルコスール |IB_Name= |IB_Flag=[[Image:Flag of Mercosur Mercosul.svg|275px|メルコスール旗]] |IB_Coa= |IB_FlagSum=([[メルコスール旗]]) |IB_CoaSum= |IB_Add1=標語<br />{{lang|es|''Nuestro Norte es el Sur''}}{{spaces|2}}<small>([[スペイン語]])</small><br/>{{lang|pt|''Nosso norte é o Sul''}}{{spaces|2}}<small>([[ポルトガル語]])</small><br/>{{lang|gn|''Yvy mba'e yvate ojehegui''}}{{spaces|2}}<small>([[グアラニー語]])</small><br/><small>(日本語訳)「我らが北とは南なり」</small> |IB_Map1=[[File:MERCOSUR Ortographic Map 2020 with Observer States.png|275px|濃い緑:正加盟国、薄い緑:準加盟国、赤:加盟資格停止国、青:オブザーバー]] |IB_TH01=[[公用語]] |IB_TD01=[[スペイン語]]<br />[[ポルトガル語]]<br />[[グアラニー語]] |IB_TH02=事務局所在地 |IB_TD02=[[モンテビデオ]] |IB_TH03=加盟国 |IB_TD03='''正加盟国'''<br />{{ARG}}<br />{{BRA}}<br />{{PRY}}<br />{{URY}}<br />{{BOL}}<br />'''準加盟国'''<br />{{CHL}}<br />{{COL}}<br />{{ECU}}<br />{{GUY}}<br />{{PER}}<br />{{SUR}}<br/>'''オブザーバー'''<br />{{MEX}}<br />{{NZL}}<br />'''資格停止中'''<br />{{VEN}} |IB_TH04=設立<br />- フォス・ド・イグアス宣言<br />- [[アスンシオン条約]]発効<br />- [[オウロ・プレット議定書]]締結 |IB_TD04=<br />1985年12月30日<br /><br />1991年3月26日<br /><br />1994年12月16日 |IB_TH05=[[面積]]<br />- 総計 |IB_TD05=<br />- 12,781,179 km<sup>2</sup> |IB_TH06=[[人口]]<br />- 推計(2011年) |IB_TD06=<br />- 275,499,000人 |IB_TH07=[[国民総生産|GDP]] ([[購買力平価説|PPP]])<br />- 総計<br />- 1人あたり |IB_TD07=<br />- 3.471兆 [[アメリカ合衆国ドル|USドル]]<br />- 12,599 USドル |IB_TH08=[[通貨]] |IB_TD08=[[アルゼンチン・ペソ]]<br />[[ウルグアイ・ペソ]]<br />[[グアラニー (通貨)|グアラニー]]<br />[[レアル]] |IB_TH09=[[人間開発指数|HDI]] |IB_TD09={{increase}} 0.731 |IB_TH10=公式[[ウェブサイト|サイト]] |IB_TD10=http://www.mercosur.int/ }} [[ファイル:Mercosur - Montevideo (2).jpg|thumb|260px|[[モンテビデオ]]の'''メルコスール'''本部。]] '''メルコスール'''({{lang-es|Mercosur; Mercado Común del Sur}}、{{lang-pt|Mercosul; Mercado Comum do Sul}}、英:Mercosur; Southern Common Market<ref>{{lang-es|Mercado Común del Sur|link=no}}, {{lang-pt|Mercado Comum do Sul}}, {{lang-gn|Ñemby Ñemuha}}, ''Southern Common Market''</ref>)は、[[1991年]]の[[アスンシオン条約]]と[[1994年]]の[[ウロ・プレト議定書]]により設立された、[[南アメリカ]]の[[貿易圏]]である。 日本語では、'''南米南部共同市場'''または'''南米共同市場'''と訳される。[[日本国|日本の外務省]]や[[日本貿易振興機構|JETRO]]、[[国際協力機構|JICA]]などは、前者を用いることが多い。 [[アルゼンチン]]、[[ブラジル]]、[[パラグアイ]]、[[ウルグアイ]]、[[ボリビア]]<ref name=読売20231209>「ボリビア 関税同盟加盟」『[[読売新聞]]』朝刊2023年12月9日(国際面)</ref>が正加盟している。[[ベネズエラ]]は正加盟国であったが、[[2016年]]から加盟資格を停止されている。準加盟国は[[チリ]]、[[コロンビア]]、[[エクアドル]]、[[ガイアナ]]、[[ペルー]]、[[スリナム]]<ref>{{Cite web|url=http://dagbladdewest.com/2015/07/20/suriname-en-guyana-officieel-geassocieerd-lid-mercosur/|title=De West – Suriname en Guyana officieel Geassocieerd Lid Mercosur -|date=20 July 2015|publisher=|accessdate=2 December 2016}}</ref>。 メルコスールの起源は、[[ラテンアメリカ]]の地域経済市場の構成に関する議論に関連している。これは1960年の[[ラテンアメリカ自由貿易連合条約]]に遡り、1980年代に[[ラテンアメリカ統合連合]]がそれを継承したことに由来する。当時、アルゼンチンとブラジルはイグアス宣言(1985年)に署名して二国間委員会を設置し、翌年には一連の貿易協定を締結するなど、この問題を進展させていた。1988年に両国間で調印された統合・協力・開発条約は、[[共同市場|共通市場]]の確立を目標としており、他のラテンアメリカ諸国も参加できるようになっていた。パラグアイとウルグアイもこのプロセスに参加し、4カ国はアスンシオン条約(1991年)の調印国となった。この条約は南部共同市場を設立したもので、地域経済の活性化、物、人、労働力、資本の移動を目的とした貿易同盟である。当初は[[自由港|自由貿易圏]]が設定され、加盟国はお互いの輸入品に課税や制限をしないことになっていた。1995年1月1日からは、この地域は[[関税同盟]]となり、全ての加盟国が他国からの輸入品に同じ割当量を課すことができるようになった(共通対外関税)。翌年にはボリビアとチリが加盟国となった。他のラテンアメリカ諸国も加盟に関心を示している。 メルコスールの目的は、[[自由貿易]]とモノ・人・通貨の流動的な移動を促進することである。設立以来、メルコスールの機能は何度も更新され、修正されてきたが、現在は関税同盟に限定されており、ゾーン内の自由な貿易と加盟国間の共通の貿易政策が存在する。2019年の名目[[国内総生産]](GDP)は約4.6兆ドルで、[[国の国内総生産順リスト (購買力平価)|世界で5位の経済圏]]となっている。この圏は[[人間開発指数]]でも上位に位置している。メルコスールは、[[イスラエル]]、[[エジプト]]、[[日本]]、[[欧州連合]]などと自由貿易協定を締結している。 ==活動== [[File:Mercosul-04-jul-2005.jpeg|thumb|メルコスールの会議(2005年)]] [[File:XXX_Cumbre_del_Mercosur_-_Córdoba_-_21JUL06_-_presidenciagovar.jpg|thumb|メルコスールの会議(2006年)]] [[欧州連合]](EU)のような[[自由貿易]]市場の南米での創設、具体的には域内での[[関税]]撤廃と域外共通関税を実施することを目的として、[[1991年]]にパラグアイの[[アスンシオン]]で[[アルゼンチン]]、[[ウルグアイ]]、[[パラグアイ]]、[[ブラジル]]の4カ国が調印。[[1994年]]12月には4ヵ国首脳がブラジルの[[オウロ・プレット]]に集まり最終議定書に調印し、[[1995年]]1月に発足した。2023年12月7日、[[リオデジャネイロ]]で開かれた首脳会議において、ボリビアが同日から正式加盟国となることが承認された<ref name=読売20231209/>。 加盟国は[[2004年]]12月以降、アンデス共同市場([[アンデス共同体]])と相互に準加盟の形で協力関係にある。 [[2005年]]発足予定であった[[アメリカ合衆国|米国]]主導の[[米州自由貿易地域]] (FTAA) 計画に先行するものとみる期待もあったが、2005年11月4日、5日に[[マル・デル・プラタ]]で開かれた[[第4回米州首脳会議]]で当時のメルコスール諸国とベネズエラの反対でFTAA計画は頓挫している。この後にベネズエラがメルコスールへの加盟を表明した。 ベネズエラを加えて、南米全体の人口の約7割に当たる2億6千万人、国内総生産全体の75%を占めることになった。ベネズエラと他の加盟国との間の貿易関税は[[2010年]]から[[2013年]]にかけて撤廃される予定である。 アルゼンチンの[[クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル|フェルナンデス大統領]]とブラジルの[[ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ|ルラ大統領]]は、[[2008年]][[2月22日]]、メルコスールを強化することを謳った共同声明を発表した。声明は、不干渉と[[国際法]]の尊重が両国の基本原則と位置づけている。 [[2010年]][[8月3日]]、アルゼンチン西部の[[サンフアン (アルゼンチン)|サンフアン]]で首脳会議を開いた。ベネズエラ・コロンビア間の危機を打開するために、[[南米諸国連合]](UNASUR)の首脳会議をできるだけ早く開催するように呼びかけた。会議には加盟国のアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイ、パラグアイと準加盟国のチリ、ボリビアの大統領が参加した。正式加盟手続途中のベネズエラの[[ウゴ・チャベス|チャベス]]大統領に代わり、[[ニコラス・マドゥロ|マドゥロ]]外相が参加した。 [[2011年]][[12月20日]]、ウルグアイの首都[[モンテビデオ]]で首脳会議が開かれた。最終宣言で4か国は、南米地域で起こった「重大な人権侵害について記憶、真実、正義を追求する」立場を再確認し、左翼政党や労組活動家を弾圧した「[[コンドル作戦]]」をはじめ南米南部における共同弾圧網に関して情報を得る専門グループを設立する、と述べた<ref>{{Cite web|和書| url = http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-12-22/2011122207_01_1.html | title = 南米旧政権の弾圧追及 メルコスルが機関創設 首脳会議で4カ国合意 | date= 2011-12-22 | publisher = 『[[しんぶん赤旗]]』 | accessdate = 2011-12-23}}</ref>。 2019年6月28日、[[欧州連合]](EU)と[[自由貿易協定]](FTA)を締結することで合意。[[欧州自由貿易連合]](EFTA)、[[カナダ]]、[[シンガポール]]、[[韓国]]ともFTA締結を交渉している<ref>「南米、EUとのFTA警戒」『[[日経産業新聞]]』2019年8月14日グローバル面</ref>。 == 構成国 == {| class="wikitable sortable" style="float:center; text-align:center; white-space:nowrap;" ! class="unsortable" |紋章 !国または地域 !首都 !面積 !人口 (2018) !人口 密度 |- |[[File:Coat_of_arms_of_Argentina.svg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Coat_of_arms_of_Argentina.svg|42x42ピクセル]] |アルゼンチン (正加盟国) |ブエノスアイレス | style="text-align:right;" |2,766,890 km <sup>2</sup> (1,068,300平方マイル) | style="text-align:right;" |44,361,150 | style="text-align:right;" |16.03 / km <sup>2</sup> (41.5 /平方マイル) |- |[[File:Coat_of_arms_of_Brazil.svg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Coat_of_arms_of_Brazil.svg|30x30ピクセル]] |ブラジル (正加盟国) |ブラジリア | style="text-align:right;" |8,514,877 km <sup>2</sup> (3,287,612平方マイル) | style="text-align:right;" |209,469,323 | style="text-align:right;" |24.6 / km <sup>2</sup> (64 /平方マイル) |- |[[File:Coat_of_arms_of_Paraguay.svg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Coat_of_arms_of_Paraguay.svg|30x30ピクセル]] |パラグアイ (正加盟国) |アスンシオン | style="text-align:right;" |406,750 km <sup>2</sup> (157,050平方マイル) | style="text-align:right;" |6,956,066 | style="text-align:right;" |17.1 / km <sup>2</sup> (44 /平方マイル) |- |[[File:Coat_of_arms_of_Uruguay.svg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Coat_of_arms_of_Uruguay.svg|40x40ピクセル]] |ウルグアイ (正加盟国) |モンテビデオ | style="text-align:right;" |176,220 km <sup>2</sup> (68,040平方マイル) | style="text-align:right;" |3,449,285 | style="text-align:right;" |19.57 / km <sup>2</sup> (50.7 /平方マイル) |- |{{Coat of arms|Bolivia|text=none}} |ボリビア (正加盟国) |ラパス、 スクレ | style="text-align:right;" |1,098,580 km <sup>2</sup> (424,160平方マイル) | style="text-align:right;" |11,353,142 | style="text-align:right;" |10.3 / km <sup>2</sup> (27 / sq mi) |- |{{Coat of arms|Venezuela|text=none}} |ベネズエラ (無期限資格停止国) |カラカス | style="text-align:right;" |916,445 km <sup>2</sup> (353,841平方マイル) | style="text-align:right;" |28,887,118 | style="text-align:right;" |31.52 / km <sup>2</sup> (81.6 /平方マイル) |- |{{Coat of arms|Chile|text=none}} |チリ (準加盟国) |サンティアゴ | style="text-align:right;" |756,950 km <sup>2</sup> (292,260平方マイル) | style="text-align:right;" |18,729,160 | style="text-align:right;" |24.74 / km <sup>2</sup> (64.1 /平方マイル) |- |{{Coat of arms|Colombia|text=none}} |コロンビア (準加盟国) |ボゴタ | style="text-align:right;" |1,141,748 km <sup>2</sup> (440,831平方マイル) | style="text-align:right;" |49,661,048 | style="text-align:right;" |43.49 / km <sup>2</sup> (112.6 /平方マイル) |- |{{Coat of arms|Ecuador|text=none}} |エクアドル (準加盟国) |キト | style="text-align:right;" |283,560 km <sup>2</sup> (109,480平方マイル) | style="text-align:right;" |17,084,358 | style="text-align:right;" |60.24 / km <sup>2</sup> (156.0 /平方マイル) |- |{{Coat of arms|Guyana|text=none}} |ガイアナ (準加盟国) |ジョージタウン | style="text-align:right;" |214,999 km <sup>2</sup> (83,012平方マイル) | style="text-align:right;" |779,006 | style="text-align:right;" |3.62 / km <sup>2</sup> (9.4 /平方マイル) |- |{{Coat of arms|Peru|text=none}} |ペルー (準加盟国) |リマ | style="text-align:right;" |1,285,220 km <sup>2</sup> (496,230平方マイル) | style="text-align:right;" |31,989,260 | style="text-align:right;" |24.89 / km <sup>2</sup> (64.5 /平方マイル) |- |{{Coat of arms|Suriname|text=none}} |スリナム (準加盟国) |パラマリボ | style="text-align:right;" |163,270 km <sup>2</sup> (63,040平方マイル) | style="text-align:right;" |575,990 | style="text-align:right;" |3.52 / km <sup>2</sup> (9.1 /平方マイル) |- |{{Coat of arms|Mexico|text=none}} |メキシコ (オブザーバー国) |メキシコシティ | style="text-align:right;" |1,972,550 km <sup>2</sup> (761,610平方マイル) | style="text-align:right;" |126,190,788 | style="text-align:right;" |63.97 / km <sup>2</sup> (165.7 /平方マイル) |- |{{Coat of arms|New Zealand|text=none}} |ニュージーランド (オブザーバー国) |ウェリントン | style="text-align:right;" |268,021 km <sup>2</sup> (103,483平方マイル) | style="text-align:right;" |4,743,131 | style="text-align:right;" |17.69 / km <sup>2</sup> (45.8 /平方マイル |- class="sortbottom" ! colspan="3" |合計 ! style="text-align:right;" |{{cvt|19966080|km2||disp=br()|sortable=on|abbr=}} ! style="text-align:right;" |554,228,825 ! style="text-align:right;" |{{cvt|27.75|/km2||disp=br()|sortable=on|abbr=}} |- ! colspan="3" |合計(正加盟国のみ) !{{cvt|11864737|km2||disp=br()|sortable=on|abbr=}} !264,235,824 !{{cvt|22.27|/km2||disp=br()|sortable=on|abbr=}} |} *2012年6月29日閉幕のメルコスール首脳会議(開催地:アルゼンチン メンドーサ市)にて、政変のあったパラグアイの一時資格停止が決定した。 *ベネズエラに関しては2017年8月5日、ブラジルの[[サンパウロ]]で緊急外相会議が開かれ、無期限資格停止が決定した。 == 沿革 == *[[1991年]]:共同体市場創設(メルコスール発足)を目標とする[[アスンシオン条約]]が締結。 *[[1995年]]1月:ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイの4カ国で発足。 *[[1996年]]:チリが準加盟国入り。 *[[1997年]]:ボリビアが準加盟国入り。 *[[2000年]]4月:メルコスール会合において、将来的な共通通貨の創設を発表。 *[[2003年]]11月:ペルーが準加盟国入り。'''アンデス・グループ'''([[アンデス共同体]])と自由貿易協定を締結。 *[[2004年]]:エクアドルが準加盟国入り。7月にベネズエラ、コロンビアが準加盟国入り。メキシコも加盟の手続きに入った。 *[[2005年]]5月:[[中東]]の[[ペルシャ湾]]岸諸国と自由貿易協定の締結に向けて交渉開始した。 *[[2006年]]7月:2年前に準加盟していたベネズエラが正式加盟、人口約2億6500万、GDP合計約1兆400億ドルの自由貿易圏へと発展。 *2023年12月7日:ボリビアが正式加盟。 == 主要な経済ブロック比較 == {| class=toccolours style="text-align:right;" |+ '''[[貿易圏|主要な経済ブロック]]''' |- bgcolor="#ececec" style="text-align:left;" ! rowspan=2 abbr="Bloc" | 地域<br />ブロック<small><sup>1</sup></small> ! rowspan=2 abbr="Area" | 面積 <small>(km2)</small> ! rowspan=2 | 人口 ! colspan=2 | GDP (PPP) <small>(米ドル)</small> ! rowspan=2 abbr="Members" | 加盟国数 |- bgcolor="#ececec" style="text-align:left;" ! abbr="GDP in millions" | <small>in millions</small> ! abbr="GDP per capita" | <small>per capita</small> |- ! style="text-align:left;" | [[欧州連合]](EU)<small><sup>*</sup></small> | 3,977,487 | 460,124,266 | 11,723,816 | 25,480 | bgcolor=#ccffcc | 28 |- ! style="text-align:left;" | [[北米自由貿易協定]](NAFTA) | bgcolor=#ccffcc | 21,588,638 | 430,495,039 | bgcolor=#ccffcc | 12,889,900 | bgcolor=#ccffcc | 29,942 | bgcolor=#ffffcc | 3 |- ! style="text-align:left;" | [[東南アジア諸国連合]](ASEAN) | 4,400,000 | 553,900,000 | 2,172,000 | 4,044 | 10 |- ! style="text-align:left;" | [[南米共同体]](CSN) | 17,339,153 | 370,158,470 | 2,868,430 | 7,749 | 10 |- ! style="text-align:left;" | '''メルコスール'''・'''Mercosur''' | 2,693,418 | 250,000,000 | | | 5 |- |- bgcolor="#ececec" style="text-align:left;" ! rowspan=2 | Reference<br />blocs and<br />countries <small><sup>2</sup></small> ! rowspan=2 | 国土面積 <small>(km2)</small> ! rowspan=2 | 人口 ! colspan=2 | GDP (PPP) <small>($US)</small> ! rowspan=2 | 内部の国<br />の数 |- bgcolor="#ececec" style="text-align:left;" ! <small>百万ドル</small> ! <small>一人当り</small> |- bgcolor="#ececec" ! style="text-align:left;" | 世界全体 | 133,178,011 | 6,411,682,270 | 55,167,630 | 8,604 | 192 |- ! style="text-align:left;" | [[中華人民共和国]] <sup>4</sup> | 9,596,960 | 1,306,847,624 | 8,182,000 | 6,300 | 33 |- ! style="text-align:left;" | [[インド]] | 3,287,590 | 1,102,600,000 | 3,433,000 | 3,100 | 35 |- ! style="text-align:left;" | [[日本]] | 377,835 | 127,333,002 | 3,910,728 | 30,615 | 47 |- ! style="text-align:left;" | [[ロシア]] | 17,075,200 | 143,782,338 | 1,589,000 | 8,900 | 89 |- ! style="text-align:left;" | [[アメリカ合衆国]] | 9,631,418 | 296,900,571 | 11,190,000 | 39,100 | 50 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|南アメリカ|[[画像:P South America.png|42px|Portal:南アメリカ]]}} * [[自由貿易協定]](FTA) * [[経済連携協定]](EPA) * [[ラテンアメリカ統合連合]] * [[南米諸国連合]] * [[ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体]] == 外部リンク == {{commonscat|Mercosur}} *[https://www.mercosur.int/ メルコスール公式ホームページ] *[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/latinamerica/keizai/mercosur/ 南米南部共同市場(日本国外務省)] *[https://www.jetro.go.jp/world/cs_america/ 国・地域別情報〔中南米〕(日本貿易振興機構)] {{地域統合}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:めるこすうる}} [[Category:貿易圏]] [[Category:自由貿易協定]] [[Category:ラテンアメリカ]] [[Category:モンテビデオ]] [[Category:アルゼンチンの国際関係]] [[Category:ウルグアイの国際関係]] [[Category:エクアドルの国際関係]] [[Category:ガイアナの国際関係]] [[Category:コロンビアの国際関係]] [[Category:スリナムの国際関係]] [[Category:チリの国際関係]] [[Category:パラグアイの国際関係]] [[Category:ブラジルの国際関係]] [[Category:ベネズエラの国際関係]] [[Category:ペルーの国際関係]] [[Category:ボリビアの国際関係]]
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ウルグアイ
ウルグアイ東方共和国(ウルグアイとうほうきょうわこく、スペイン語: República Oriental del Uruguay)、通称ウルグアイは、南アメリカ南東部に位置する共和制国家である。首都はモンテビデオ。北と東にブラジルと、西にアルゼンチンと国境を接しており、南は大西洋に面している。スリナムに続いて南アメリカ大陸で二番目に面積が小さい国であり、コーノ・スールの一部を占める。 正式名称はスペイン語で、República Oriental del Uruguay(レプブリカ・オリエンタル・デル・ウルグアイ)。通称、Uruguay [uɾuˈɣwai̯] ( 音声ファイル)。 国名は西部を流れるウルグアイ川に由来し、語源はチャルーア語で「ウル(という名前の鳥)の川」を意味する。また、正式名称の東方とは、ウルグアイ川の東岸にあることに由来し、独立前に同地を「東方州(バンダ・オリエンタル)」と呼んだことに因む。 現在のウルグアイに当たる場所にはヨーロッパ人の到達直前には、約5,000人程の先住民がいたと推測されており、タワンティン・スウユ(インカ帝国)の権威がこの地には及ばなかったため、モンゴロイドのチャルーア人とグアラニー人をはじめとするインディオの諸集団が、狩猟や原始的な農耕を営みながら生計を立てていた。 1516年にスペイン人フアン・ディアス・デ・ソリスがここを探検。1520年にはフェルディナンド・マゼランがラ・プラタ川を遡上。その航海の中で、現在のモンテビデオに当たる地域にあった140m程の小高い丘を見た時に発した「山を見たり!(Monte Vide Eu!)」というポルトガル語が首都の名前の由来であるという説がある(名前の由来については他の説もある)。 平坦な丘陵が続き、特に鉱山資源もないこの土地は殖民が遅れたが、放牧された牛、馬、羊が大繁殖するといつの間にかガウチョが住むようになり、家畜を取り合ってスペインとポルトガルの争いが始まった。1680年にポルトガルがコロニア・デル・サクラメントを建設すると、スペインが追随して1726年にモンテビデオを建設した。こうしてこの地は両国の係争地になったが最終的にはスペインの植民地となり、「ウルグアイ川東岸地帯(Banda Oriental del Uruguay,バンダ・オリエンタル)」と呼ばれるようになった。その後、両国の戦争と、1750年代のイエズス会追放によるグアラニー戦争(英語版)で先住民グアラニー人がパラグアイに撤退した。1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領が創設されると、モンテビデオはブエノスアイレスに続く第二の港として発展した。 フランス革命以降、ヨーロッパで続いたナポレオン戦争により、ナポレオン・ボナパルトの指導するフランスとスペインが同盟を結び、イギリスと戦うことになると、イギリスはラ・プラタ地方に目をつけ、1806年にブエノスアイレスに侵攻し、また、同年モンテビデオを占領する。ホセ・アルティーガス(英語版)はこのイギリス軍の侵攻に対して民兵隊を率いてあたり、1807年にブエノスアイレスでポルテーニョ(英語版)民兵隊に敗れたイギリス軍はモンテビデオからも撤退した。翌1808年フランス軍がスペインに侵入し、ナポレオンは自身の兄ジョゼフをスペイン王ホセ1世として即位させた。それに反発する住民が蜂起し、スペイン独立戦争が勃発すると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否し、各地でクリオージョ達による自治、独立運動が進んだ。 1810年5月25日、ブエノスアイレスでの五月革命が勃発し、ポルテーニョ(英語版)達がラ・プラタ副王を追放すると、1811年から共和主義者で連邦派のカウディージョホセ・アルティーガス(英語版)によりスペインに対する独立戦争が始まった。1811年にブエノスアイレスと呼応してラス・ピエドラスの戦いでスペイン軍を破った後、アルティーガスはバンダ・オリエンタルを東方州に組織し直し、連邦同盟を結成して、貿易の独占を求めるブエノスアイレスの中央集権派と戦うが、1816年にブラジルからポルトガル軍が侵攻し全土を占領する。アルティーガスによるゲリラ的な抵抗は続いたが、1820年にアルティーガスは最終的な敗北を喫してパラグアイに亡命した。その後バンダ・オリエンタルはブラジルに併合され「シスプラチナ州(「ラ・プラタ河手前の州」の意)」と改称された。しかし、東方州からの亡命者や、連邦同盟に属していたラ・プラタ連合州のリトラル諸州の連邦派の間に東方州の奪還を求める声が上がり、ブエノスアイレスの政府もその声を無視することは出来なくなっていった。 ブラジル帝国とラ・プラタ連合州とのシスプラティーナ戦争の係争地帯になったバンダ・オリエンタルに、1825年、ラ・プラタ連合州に亡命していた、かつてアルティーガスの副官だったフアン・アントニオ・ラバジェハ(英語版)将軍が33人の東方人を率いて上陸し、ブラジルからの独立とラ・プラタ連合州への再編入を求めて再び独立戦争を開始する。この500日戦争ではラ・プラタ連合州は連邦派(en)、統一派(en)などの立場の違いを乗り越えてこれを支援し、ラバジェハ将軍は多くの人々の支持を集め、戦況はラ・プラタ連合州有利に進んだ。 しかし、戦争中に国内政策を誤ったベルナルディーノ・リバダビア(英語版)大統領が失脚すると、以降大統領職は空位となり、連邦派のブエノスアイレス州知事マヌエル・ドレーゴ(英語版)がその後の戦争指導に当たった。しかし、指導力の低下は隠し難く、アルゼンチンは有利な戦況を講和に生かすことが出来なかった。この結果1828年8月27日、アルゼンチンの勢力が伸張することを望まないイギリスの仲介により、ブラジルとアルゼンチンの間でモンテビデオ条約が結ばれ、バンダ・オリエンタルは「ウルグアイ東方共和国」として独立を果たした。長年にわたる戦争の惨禍により、独立時にはわずか74,000人の人口しか残っていなかった。また、この独立直後の1831年に初代大統領のフルクトゥオソ・リベラ(英語版)の甥が北部にわずかに生き残っていたチャルーア人を襲撃し、民族集団としてのチャルーアは絶滅した。 独立後は1839年にリベラ政権によるアルゼンチンへの宣戦布告により、大戦争がはじまった。アルゼンチンと結んだ元大統領のマヌエル・オリベ(英語版)がモンテビデオを包囲するも、最終的にフスト・ホセ・デ・ウルキーサ(英語版)の寝返りにより、大戦争は1852年にアルゼンチンでフアン・マヌエル・デ・ロサスが失脚することにより幕を閉じるが、このような争いに代表されるように、ブラジルとアルゼンチンとの対立の中で、両国の力関係次第でコロラド党(自由主義派、親ブラジル派)とブランコ党(保守派)が対立しあう政情不安が続いていた。 しかし、両党の内戦の結果の末に起きたパラグアイとの三国同盟戦争が終わると、緩衝国家の必要性を痛感したアルゼンチン、ブラジル両国の政策転換により、ウルグアイへの内政干渉が和らぎ、その後多くの移民がヨーロッパから渡来すると、有刺鉄線の普及による19世紀後半の畜産業の発展と、鉄道網の拡大により経済は繁栄した。政治的にはコロラド党・ブランコ党の二大政党制が定着したかに見えたが、安定には程遠く、しばしば両党が軍を率いての内戦になった。 20世紀に入り、最後となった内戦に勝利したコロラド党のホセ・バッジェ・イ・オルドーニェス大統領によってスイスをモデルにした社会経済改革が行われ、ウルグアイは南米で唯一の福祉国家となった。この後ウルグアイは南米でチリと並んで安定した民主主義国家として発展することになる。1929年にバッジェ大統領が死去するころにはウルグアイは南米で最も安定した民主主義国となっていたものの、バッジェの改革は経済構造にまでは手がつけられなかったため、後に大きな禍根を残すことになる。 バッジェは福祉国家を築き、ウルグアイは「南米のスイス」と呼ばれたが、バッジェの死後の1930年代に重工業化には失敗し、大土地所有制度にも手が付けられず、牧畜産業主体の経済構造を変えることができなかった。それでも第二次世界大戦、朝鮮戦争のころまで体制は安定していたが、1955年を境に輸出の激減と経済の衰退が進行した。 1955年から主要産業であった畜産業の低迷により経済が停滞すると、次第に政情は不安定になり、1966年には大土地所有制の解体などを求めて南米最強と呼ばれた都市ゲリラ、トゥパマロスが跋扈した。このような情勢の中で、1951年に一度廃止された大統領制は対ゲリラ指導力強化のために1967年に再び導入された。トゥパマロスと治安組織の抗争が進む中、1971年の大統領選挙で左翼系の拡大戦線が敗北すると、トゥパマロスの攻撃はさらに激化したが、政府は内戦状態を宣言してトゥパマロスを鎮圧した。しかし、内戦を軍部に頼って終結させたことにより、軍部の発言力の強化が進むことにもなった。 トゥパマロスの攻勢が収まると功績があった軍部が政治介入を進めた。1973年のクーデターにより軍部は政治の実権を握り、「南米のスイス」とも称された民主主義国ウルグアイにもブラジル型の官僚主義的権威主義体制が導入された。1976年にはアパリシオ・メンデス(英語版)が大統領に就任し、ミルトン・フリードマンの影響を受けた新自由主義的な政策の下で経済を回復させようとしたが、一方で労働人口の1/5が治安組織の要員という異常な警察国家体制による、左翼系、あるいは全く政治活動に関係のない市民への弾圧が進んだ。1981年に軍部は軍の政治介入を合法化する憲法改正を実行しようとしたが、この体制は国民投票により否決され、ウルグアイは再び民主化の道を歩むことになった。 1985年の民政移管によりコロラド党のフリオ・マリア・サンギネッティが大統領になったが、経済は安定しなかった。1990年代にはメルコスールに加盟した。2005年に拡大戦線からタバレ・バスケスが勝利すると、ウルグアイ初の左派政権が誕生し、同国の二大政党制は終焉した。バスケス政権は経済の再生と、メルコスールとの関係強化などに取り組み、現在は再び民主主義国家として小国ながらも存在感を見せている。 2010年3月1日、バスケス政権の政策継続を掲げた、元極左ゲリラトゥパマロス指導者で元農牧・水産相のホセ・ムヒカが大統領に就任した。2015年3月1日、バスケスが、再び大統領に就任した。2020年から、中道右派・国民党のルイス・ラカジェ・ポーが大統領に就任した。 米州機構、ラテンアメリカ統合連合、メルコスール、ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体の加盟国。ラテンアメリカ統合連合とメルコスールは首都モンテビデオに事務局がある。 立憲共和制であり、現在は大統領が国家元首となっている。また、過去に導入された執政委員会制度への反省から、1967年憲法は大統領に大きな権限を与えている。大統領の任期は5年であり、副大統領と組で選挙によって選出される。なお、大統領の再任は禁止となっている。 国会は二院制で、上院の定員は30名、下院は99名であり、任期は5年となっている。 トランスペアレンシー・インターナショナル(TI)による2018年度の腐敗認識指数ランキングでは23位と、ラテンアメリカでは第1位である。 ブラジルとアルゼンチンという対立する二大国に挟まれた地政学的関係から、伝統的に民主的な政治体制を維持しており、政治的混乱の少なくないラテンアメリカの中で、ヨーロッパを参考とした高い教育水準と高度な福祉を維持し、その安定ぶりから「南米のスイス」とも呼ばれた。第二次世界大戦後は、そのスイスの連邦参事会制度を参考にバッジェが構想した、大統領制に代わる複数行政制度が1952年の憲法で施行され、9人の執政官からなる執政評議会制度が完成し、ウルグアイ人は自国を「民主主義の実験室」と呼んだ。しかし、1960年代より頻発した左翼ゲリラ「トゥパマロス」によるテロに対処することができず、1967年の憲法改正で大統領制が復活した。 1973年、戒厳令を敷いた軍によってトゥパマロスが鎮圧されると、その功績によって発言力を拡大した軍部は政治に介入し、事実上の軍政が敷かれた。これにより、ウルグアイにもブラジル型の官僚主義的・権威主義的な軍事政権が誕生すると、諸外国には同時期のチリ・クーデターと同様の驚きをもって迎えられた。しかし、ウルグアイ人の民主主義への意識は高く、1981年に軍政の合法化を意図して行われた国民投票が否決され、1985年に民政移管されることになった。 2004年10月31日に実施された2004年ウルグアイ大統領選挙(スペイン語版)で、社会党、共産党を含む20以上の左翼・中道勢力を結集した拡大戦線(進歩会議・拡大戦線・新多数派)のタバレ・バスケス候補が、与党である国民党(ブランコ党)のホルヘ・ララニャガ候補を抑え当選した。これにより、1852年以来のコロラド党、国民党という親米保守の二大政党による独占支配に終止符が打たれた。 2009年10月末に実施された大統領選挙は、上位2人による決戦選挙にもつれ込んだ。その結果、11月29日に拡大戦線のホセ・ムヒカ上院議員が保守野党・国民党のラカジェ元大統領を破って当選した。ムヒカは、バスケス前政権の政策を継承すると強調し、税金の累進制の強化や奨学金の充実など国民生活支援を続けると公約した。ダニロ・アストリが副大統領に就任し、大統領就任式には中南米の7人の首脳のほか、米国のヒラリー・クリントン国務長官が参列している。ムヒカ大統領は就任直後から精力的な外交活動を展開、11日にはチリのセバスティアン・ピニェラ新大統領の就任式に出席、12日から14日までボリビアのエボ・モラレス大統領と資源問題を含む両国の関係強化に向けて会談した。 志願制で、陸海空の3軍を併せて約23,500人の兵員から構成され、2007年時点でおよそ2,500人程の兵員がコンゴ民主共和国及びハイチを中心に合わせて12のPKOに従事している。1960年代以前はラ・プラタ川の洪水時に出動する程度の任務しかなかった軍の政治力は余り強くなかったが、70年代にトゥパマロスと交戦、これを鎮圧したことを期に政治介入が進み軍政となったが、80年代の民政移管以降はその政治的影響力は低下しているとされる。 ウルグアイは19県で構成される(スペイン語でdepartamentos、単数形の場合departamento)。 国内第二都市のサルトでも人口は約10万人程度であり、極端なモンテビデオ一極集中である。 ウルグアイは南アメリカ大陸で2番目に面積が小さな国であり、パンパの国ゆえに国土のおよそ88%を可耕地が占め、ほとんどの土地は平らな荒れ地と、緩やかな丘の風景が広がっている。また、海岸近くには肥沃な耕作地帯が広がる。国土はネグロ川を境に南北に分けられ、北部のブラジル国境付近ではそのままブラジル高原に続くために標高が多少高くなっている。森林は約90万haしかなく国土の5%に過ぎない。そのため天然林は伐採禁止である。 国土の多くは草原となっており馬や牛や羊が飼育されている。野生動物にはカピバラやダチョウに良く似たニャンドゥなどがいる。 ウルグアイには高山はなく、国内で最も高い山は標高 513.66 m (1,685.2 ft) のカテドラル山である。 ブラジル、アルゼンチンと国境を接し、北西部のアルゼンチンとの国境地帯のサルト県には温泉があり、アルゼンチンから湯治客がやってくる。ブラジルとの国境のロチャ県には大湿原が広がる。ブラジル国境付近のリベラ(ブラジル側のサンタナ・ド・リブラメントとの双子都市)の人々にはポルトゥニョール・リヴェレンセ (Portuñol)と呼ばれる、スペイン語とポルトガル語が混ざった言葉を話す人々がいる。 ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候に属する。季節風を遮る高山がないので冬は南極からの冷風の影響を、夏はブラジルからの熱風の影響を強く受ける。モンテビデオでは一年を通じて穏やかな気候が続く。 6月が最も寒く、1月が最も暑い。一年を通して毎月大体同じ量の雨が降るが、特に秋には多くなる。また、夏はしばしば雷雨が吹き荒れる。冬に雪が降ることはまれである。 平均気温:春:17°C、夏:23°C、秋:18°C、冬:12°C 1984年からウルグアイは南極のキング・ジョージ島にヘネラル・アルティーガス観測所を設けている。 IMFの推計によると、2013年のウルグアイのGDPは約557億ドルである。一方、一人当たりのGDPでは16,421ドルとなり、これは世界平均の1.5倍を超え、南米では最も高い水準である。 メルコスール、南米共同体の加盟国であり、モンテビデオにはメルコスールの事務局がある。 ウルグアイの経済は国内市場が小さく、アルゼンチン、ブラジルとの貿易によって国の収支が大きく左右されるため、この二国の経済情勢の影響を大きく受ける。また、現在は南米で最も物価が高いと言われている。歴史的には19世紀から需要の高かった羊毛や牛肉の輸出により世界でも富裕な国となったが、1930年代から始まった重工業化は国内市場の小ささや化石資源の不足などの問題からあまり成功せず、朝鮮戦争が終わるころから代替技術の発展により世界市場でもウルグアイの農牧産品の需要が減り、畜産品モノカルチャー経済だったウルグアイはバッジェの福祉国家体制の支出を維持できずに破綻した。 農牧業は国の主産業であり、独立後長い間牛馬や羊の産品のモノカルチャー経済が続き、今も経済は農牧業に頼るところは大きい。今日においてはGDPの約10%ほどを占め、未だに主要な外貨の稼ぎ頭となっている。また、それだけには留まらず農牧業は20世紀の半ばまで、エスタンシア文化をはじめとするウルグアイの歴史的なアイデンティティにも繋がっていた。 ウルグアイの農牧業は他国に比べ、農業従事者に対する保護(手当て、農業機械などの援助)が弱く、それゆえヘクタール当たりの収益が少ないが、その分生産された農牧産品は「有機(オーガニック)食」「自然食」といった市場に適している。 牛肉はウルグアイの輸出総額の6分の1を占める主要輸出品である。 日本はウルグアイから、食肉の安全を守る技術を学ぶ研修員を1978年から受け入れており、東日本大震災の際にウルグアイ政府は、「日本の皆様が元気になりますように」との日本語のメッセージが書かれた特別包装のコンビーフ缶4600個を被災者に送っており、ウルグアイ食肉協会は「研修事業を通じて日本への愛着が培われた」と話している。 ウルグアイ産の牛肉は2000年に口蹄疫の発生から長らく日本に輸出されていなかったが、2019年に日本への輸出が解禁された。 東部のブラジルとの国境付近の県では米が栽培されている。北部は亜熱帯に近くなり、アルティーガス県では砂糖黍栽培が盛ん。 近年では産業としてエスタンシア観光が成長しつつあり、ウルグアイの伝統的なエスタンシアを見学しながら、ガウチョのフォルクローレなどを楽しむことが出来るようになった。 瑠璃、アメジスト、石灰岩などを産出するが、国土が平原と丘陵で高山がないため、鉱業自体があまり盛んとはいえない。 前述のように森林資源に乏しい国である。天然林は伐採禁止でありユーカリや松類を主体として人工林が利用される。用途は薪炭用・建築用・パルプ用など多岐にわたっている。消費の場として国内市場は規模が小さいため主に輸出されているが、国内に加工技術や品質管理基準がないために、輸出先の一方的な条件で取引されがちな状況である。近年ユーカリによる林業の成長が期待され、そのためのサムライ債が発行された。 総人口のうちヨーロッパ系白人が87.7%、黒人が4.6%、インディヘナおよびメスティーソが2.4%を占める。極僅かながら日系人などのアジア系も存在する。 かつてバンダ・オリエンタルと呼ばれたこの地の住人は、自らを「オリエンターレス(東方人)」と呼び、独自のアイデンティティを持っていた。19世紀まではスペイン植民地の中でもコスタリカと並んで特に辺境の地であったが、18世紀後半からの都市の発展により、黒人奴隷がポルトガルの奴隷商人によってアンゴラやコンゴ付近や赤道ギニアから移入された。先住民のグアラニー人は18世紀にパラグアイに撤退したが、地名にその影響を残している。一方独立戦争への参加により、1,000人ほどにまで数を減らしていたチャルーア人は、1831年のリベラ大統領の掃討作戦により虐殺され、絶滅した。この事件はウルグアイ人の心に大きなトラウマとなって残り、そのことを悔いてか、新聞のアンケート調査によれば、今でも約半数のウルグアイ人は自分に先住民の血が流れていると答え、毎年の事件の日が近くなると、モンテビデオ市内の「最後のチャルーア」の銅像に市民からの献花がなされる。2002年には、最後のチャルーア人の遺骨が169年ぶりに返還された。 ウルグアイの人口は、1828年の独立時には長年の戦争により74,000人程であり、パンパ開発のために他のラテンアメリカ諸国と同じように、ヨーロッパから大規模に移民を呼ぶようになった。こうしてスペイン人、特にガリシア出身者を中心とした移民がやってきた。他に多かった移民はイタリア人であり、総数で見ればスペイン人よりも多く、フランス人と共にモンテビデオに定住した。また、独立直後の時期にイングランド人やスコットランド人が農村部に入り込み、近代的地主となった。 その後ウルグアイの人口は、1963年のセンサスでは2,592,583人、1976年推計では3,101,000人、1983年年央推計では約297万人となった。出生率はアルゼンチンより低く、ラテンアメリカでは最も低い部類に入る。 19世紀から20世紀にかけてウルグアイに移入した多様な移民の出身国を列挙すると、圧倒的に多いのはスペインとイタリアで、次いでフランス、ドイツ、ポルトガル、イギリス、スイス、ロシア、ポーランド、ブルガリア、ハンガリー、ウクライナ、リトアニア、エストニア、ラトビア、オランダ、ベルギー、クロアチア、ギリシア、スカンディナヴィア、アイルランド、そしてアルメニアとなる。 移民受け入れ国だったウルグアイも、軍政期の1963年から1985年にかけて、推定約33万人、国民の約10%が国外脱出した。ただし、こうして去っていった人々の中には民政に移管した1980年代以降に帰国した者もいた。 2014年12月7日、グアンタナモ湾収容キャンプの収容者を受け入れる方針を示していたウルグアイ政府は、アメリカ軍機に輸送され、グアンタナモ湾収容キャンプの収容者が到着したことを受けて、「ウルグアイは世界中から移民を受け入れて成り立ってきた国であり、また平和のための国際的手段の世界の前衛として、歴史的に多くの難民などを受け入れてきた。グアンタナモ収容者の受け入れは、このようなウルグアイの歴史の延長線上にあり、人道的な理由によるものである。ウルグアイ政府は難民申請に応じ、彼らに対し、国際的人権保護の基準を厳密に維持するものである。また、兄弟国キューバへの封鎖の解除、プエルトリコ独立の闘志で政治的囚人のオスカル・ロペス・リベラ及びキューバ人囚人アントニオ・ゲレロ、ラモン・ラバニーニョ、ヘラルド・エルナンデスの釈放を改めて要求する」という見解を表明した。 近年はシリア内戦に伴うシリアからの難民を受け入れている。 憲法上の明記はないものの、スペイン語(正確には一方言のリオプラテンセ・スペイン語)が事実上の公用語となっている。ブラジル国境付近のリベラ市にはウルグアイポルトガル語(フロンテイリソ方言)を話す人々がおり、同じくリベラ県にはアラビア語を話すアラブ人のコミュニティが存在する。 ウルグアイでは1918年憲法によって国家とカトリック教会が法的に分離した。国民の62%はカトリックを信仰し、少数派として4%がプロテスタント、3%がユダヤ教であり、残りの31%が無宗教である。19世紀半ばにやってきたヨーロッパ系移民に無政府主義者が多かったことから、無信教の国民が多く、またカトリック教会の影響力もラテンアメリカの中では特に薄いとされる。 2003年の推計では、15歳以上の国民の識字率は1996年の調査で98%であり、これはラテンアメリカではアルゼンチン、キューバ、チリと並んで最高水準である。主な高等教育機関としては、共和国大学(スペイン語版)(1849年)、教員養成所であるアルティガス師範学校(スペイン語版)などが挙げられる。 ウルグアイの公立学校には、しばしば国の名前がついているものがあり、「日本」学校は4つある。 ウルグアイ唯一の総合国立大学である共和国大学(スペイン語版)では、日本からシニアボランティアが講師として派遣されており、アジア言語で唯一、日本語講座が正規の授業として開講されており、ウルグアイは日本への関心が高い国である。 2013年より、同性婚が法的に可能となった。 国連の調査によると、ウルグアイのジニ係数は0.448となる。これは周辺国に比べれば低い。2002年の調査では、同じ仕事についている男性と女性では、女性の賃金は男性の71.8%になる。また、黒人の平均収入は白人の平均収入の約65%である。 かつては中南米諸国の中で安全な国と言われてきたが、2012年8月に内務省が発表した同年7月までの犯罪統計は、前年同期に比べて殺人が56.7%増、強盗が5.3%増と、凶悪犯罪が急増している。特に人口の集中しているモンテビデオ県、カネローネス県、マルドナド県において犯罪が多発している。また、少年犯罪への処分が軽く、青少年向けの収容施設も十分に機能していないため、出所後の再犯率が高くなっている。 銃器の所持について規制はあるものの、比較的容易に入手する事ができる。また、不法な流通により、国民の3人に1人は銃器を所持していると推定されており、これを利用した凶悪犯罪も多発している。2013年、世界では初のマリファナなどの大麻を合法化した。密売価格を下落させるのが狙いという。 隣国アルゼンチンと同じく大畜産国である歴史を反映して、ウルグアイではアサードやチュラスコ、チョリソなど肉を多く食べる。特に牛肉が好まれる。文化的な理由で馬肉は忌避されるが、輸出は行っている。 イタリア移民が多いためスパゲッティなどのパスタ類も広く食べられている。その他の料理にはエンパナーダ、ドゥルセ・デ・レチェなどがある。 ラ・プラタ諸国の中でも特にマテ茶を好む国であり、アルゼンチン人とウルグアイ人を見分ける時は、マテ壺を24時間手放さないのがウルグアイ人であるといわれている。ウルグアイ人はマテ茶をアマルゴ(砂糖なし)にして飲むことを好む。 1819年にアルティーガスに仕えた連邦同盟の軍人だったバルトロメ・イダルゴ(スペイン語版)がガウチョ文学(英語版)を開始した。それまで浮浪者同様に見られていたガウチョを解放戦争の真の主体として描き、ウルグアイ、アルゼンチンのアイデンティティと結びつけた最初の人間である。 また、ウルグアイは19世紀末から20世紀初頭のモデルニスモ文学の中心地の一つであり、ラテン・アメリカ最大の詩人と呼ばれるニカラグアのルベン・ダリオに次ぐ唯一の詩人ホセ・エンリケ・ロドー(スペイン語版、英語版)の出身地である。代表作はアメリカ合衆国のラテン・アメリカに対する覇権主義を最初に警告した『アリエル(スペイン語版)』(1900)など。ホセ・マルティと同様にアメリカ合衆国との対比でラテンアメリカの精神文明を称揚したころのウルグアイは、ラテンアメリカ・ナショナリズムの中心地の一つであった。 20世紀以降の作家には、ノーベル文学賞に数回ノミネートされた女流詩人のフアナ・デ・イバルボウロウ(英語版)や、セルバンテス賞作家のフアン・カルロス・オネッティ、『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』(1971)で知られるジャーナリストのエドゥアルド・ガレアーノ、他にもマリオ・ベネデッティやフェリスベルト・エルナンデス、クリスティーナ・ペリ・ロッシ(スペイン語版、英語版)らが挙げられる。 タンゴ(ウルグアイ・タンゴ)やミロンガ、ブラジルのバツカーダに似た黒人音楽カンドンベや、ムルガといった音楽の本場であり、チャマメやパジャドールなど幾つかのフォルクローレはアルゼンチンと共通している。フォルクローレにおいて、特に有名な人物としてはアルフレド・シタロッサの名が挙げられる。タンゴにおいては、古典となっている「ラ・クンパルシータ」(1917)を作曲したのはウルグアイ出身のヘラルド・マトス・ロドリゲスである。 多くのミュージシャンは市場規模の違いからブエノスアイレスやスペインに渡って活動する傾向があるため、古くはフランシスコ・カナロ、フリオ・ソーサ、ドナート・ラシアッティ、ルベン・ラダ、エドゥアルド・マテオから、ハイメ・ロース、スペイン語で初めてアカデミー賞を取った、ホルヘ・ドレクスレルに至るまで、アルゼンチンやスペインの音楽界で活躍するのが実はウルグアイ人だったという事例には事欠かない。また、ロックが盛んでウルグアイのロックはブエノスアイレスの音楽シーンで人気を博したことを皮切りに、1960年代半ばまでの南米市場を席巻した。この現象はアメリカではウルグアヤン・インベイジョンとも呼ばれる。 ウルグアイ出身の画家としては、歴史画のフアン・マヌエル・ブラネスやギジェルモ・ラボルデ、ペトローナ・ビエラなどの名が挙げられる。1930年代の抽象絵画のホアキン・トーレス・ガルシアは特に有名である。 ウルグアイにおいて映画製作は盛んではないが、「ウイスキー」(2004)のフアン・パブロ・レベージャとパブロ・ストールは著名な映像作家として挙げられる。 ウルグアイ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。 ウルグアイサッカー協会(AUF)によって構成されるサッカーウルグアイ代表は、1930年に行われたFIFAワールドカップの第1回大会で初代優勝国となり、ブラジルで開催された1950年の第4回大会でも、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアムで行われた決勝戦にて、アウェーの満員のスタジアムでブラジル代表を逆転で破り、2度目の優勝に輝いている。なお、この試合はブラジル側から見た「マラカナンの悲劇」である。さらにオリンピックでも、1924年のパリ五輪と1928年のアムステルダム五輪で大会連覇を達成している。 しかし、FIFAワールドカップの1970年大会でベスト4入りして以降は優勝候補から遠ざかっており、長らく古豪と呼ばれ低調が続いていたが、2010年大会では南米予選を5位となり、北中米カリブ海4位のコスタリカ代表との大陸間プレーオフに勝利し本大会出場を決め、その本大会では40年ぶりのベスト4入りを果たした。さらに翌年のコパ・アメリカ2011では、その勢いのまま6大会ぶり15回目の優勝を果たし、サッカー強豪国として復活を強く印象付けた。 1900年にはプロリーグのプリメーラ・ディビシオンが創設されており、リーグは120年以上の長い歴史を誇っている。主なクラブとしては、ペニャロール、ナシオナル、デフェンソール・スポルティングなどが挙げられる。さらにウルグアイ人の著名な選手として、ディエゴ・ゴディン、ディエゴ・フォルラン、ルイス・スアレス、エディンソン・カバーニ、フェデリコ・バルベルデなどが存在している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ウルグアイ東方共和国(ウルグアイとうほうきょうわこく、スペイン語: República Oriental del Uruguay)、通称ウルグアイは、南アメリカ南東部に位置する共和制国家である。首都はモンテビデオ。北と東にブラジルと、西にアルゼンチンと国境を接しており、南は大西洋に面している。スリナムに続いて南アメリカ大陸で二番目に面積が小さい国であり、コーノ・スールの一部を占める。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "正式名称はスペイン語で、República Oriental del Uruguay(レプブリカ・オリエンタル・デル・ウルグアイ)。通称、Uruguay [uɾuˈɣwai̯] ( 音声ファイル)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "国名は西部を流れるウルグアイ川に由来し、語源はチャルーア語で「ウル(という名前の鳥)の川」を意味する。また、正式名称の東方とは、ウルグアイ川の東岸にあることに由来し、独立前に同地を「東方州(バンダ・オリエンタル)」と呼んだことに因む。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "現在のウルグアイに当たる場所にはヨーロッパ人の到達直前には、約5,000人程の先住民がいたと推測されており、タワンティン・スウユ(インカ帝国)の権威がこの地には及ばなかったため、モンゴロイドのチャルーア人とグアラニー人をはじめとするインディオの諸集団が、狩猟や原始的な農耕を営みながら生計を立てていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1516年にスペイン人フアン・ディアス・デ・ソリスがここを探検。1520年にはフェルディナンド・マゼランがラ・プラタ川を遡上。その航海の中で、現在のモンテビデオに当たる地域にあった140m程の小高い丘を見た時に発した「山を見たり!(Monte Vide Eu!)」というポルトガル語が首都の名前の由来であるという説がある(名前の由来については他の説もある)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "平坦な丘陵が続き、特に鉱山資源もないこの土地は殖民が遅れたが、放牧された牛、馬、羊が大繁殖するといつの間にかガウチョが住むようになり、家畜を取り合ってスペインとポルトガルの争いが始まった。1680年にポルトガルがコロニア・デル・サクラメントを建設すると、スペインが追随して1726年にモンテビデオを建設した。こうしてこの地は両国の係争地になったが最終的にはスペインの植民地となり、「ウルグアイ川東岸地帯(Banda Oriental del Uruguay,バンダ・オリエンタル)」と呼ばれるようになった。その後、両国の戦争と、1750年代のイエズス会追放によるグアラニー戦争(英語版)で先住民グアラニー人がパラグアイに撤退した。1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領が創設されると、モンテビデオはブエノスアイレスに続く第二の港として発展した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "フランス革命以降、ヨーロッパで続いたナポレオン戦争により、ナポレオン・ボナパルトの指導するフランスとスペインが同盟を結び、イギリスと戦うことになると、イギリスはラ・プラタ地方に目をつけ、1806年にブエノスアイレスに侵攻し、また、同年モンテビデオを占領する。ホセ・アルティーガス(英語版)はこのイギリス軍の侵攻に対して民兵隊を率いてあたり、1807年にブエノスアイレスでポルテーニョ(英語版)民兵隊に敗れたイギリス軍はモンテビデオからも撤退した。翌1808年フランス軍がスペインに侵入し、ナポレオンは自身の兄ジョゼフをスペイン王ホセ1世として即位させた。それに反発する住民が蜂起し、スペイン独立戦争が勃発すると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否し、各地でクリオージョ達による自治、独立運動が進んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1810年5月25日、ブエノスアイレスでの五月革命が勃発し、ポルテーニョ(英語版)達がラ・プラタ副王を追放すると、1811年から共和主義者で連邦派のカウディージョホセ・アルティーガス(英語版)によりスペインに対する独立戦争が始まった。1811年にブエノスアイレスと呼応してラス・ピエドラスの戦いでスペイン軍を破った後、アルティーガスはバンダ・オリエンタルを東方州に組織し直し、連邦同盟を結成して、貿易の独占を求めるブエノスアイレスの中央集権派と戦うが、1816年にブラジルからポルトガル軍が侵攻し全土を占領する。アルティーガスによるゲリラ的な抵抗は続いたが、1820年にアルティーガスは最終的な敗北を喫してパラグアイに亡命した。その後バンダ・オリエンタルはブラジルに併合され「シスプラチナ州(「ラ・プラタ河手前の州」の意)」と改称された。しかし、東方州からの亡命者や、連邦同盟に属していたラ・プラタ連合州のリトラル諸州の連邦派の間に東方州の奪還を求める声が上がり、ブエノスアイレスの政府もその声を無視することは出来なくなっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ブラジル帝国とラ・プラタ連合州とのシスプラティーナ戦争の係争地帯になったバンダ・オリエンタルに、1825年、ラ・プラタ連合州に亡命していた、かつてアルティーガスの副官だったフアン・アントニオ・ラバジェハ(英語版)将軍が33人の東方人を率いて上陸し、ブラジルからの独立とラ・プラタ連合州への再編入を求めて再び独立戦争を開始する。この500日戦争ではラ・プラタ連合州は連邦派(en)、統一派(en)などの立場の違いを乗り越えてこれを支援し、ラバジェハ将軍は多くの人々の支持を集め、戦況はラ・プラタ連合州有利に進んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "しかし、戦争中に国内政策を誤ったベルナルディーノ・リバダビア(英語版)大統領が失脚すると、以降大統領職は空位となり、連邦派のブエノスアイレス州知事マヌエル・ドレーゴ(英語版)がその後の戦争指導に当たった。しかし、指導力の低下は隠し難く、アルゼンチンは有利な戦況を講和に生かすことが出来なかった。この結果1828年8月27日、アルゼンチンの勢力が伸張することを望まないイギリスの仲介により、ブラジルとアルゼンチンの間でモンテビデオ条約が結ばれ、バンダ・オリエンタルは「ウルグアイ東方共和国」として独立を果たした。長年にわたる戦争の惨禍により、独立時にはわずか74,000人の人口しか残っていなかった。また、この独立直後の1831年に初代大統領のフルクトゥオソ・リベラ(英語版)の甥が北部にわずかに生き残っていたチャルーア人を襲撃し、民族集団としてのチャルーアは絶滅した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "独立後は1839年にリベラ政権によるアルゼンチンへの宣戦布告により、大戦争がはじまった。アルゼンチンと結んだ元大統領のマヌエル・オリベ(英語版)がモンテビデオを包囲するも、最終的にフスト・ホセ・デ・ウルキーサ(英語版)の寝返りにより、大戦争は1852年にアルゼンチンでフアン・マヌエル・デ・ロサスが失脚することにより幕を閉じるが、このような争いに代表されるように、ブラジルとアルゼンチンとの対立の中で、両国の力関係次第でコロラド党(自由主義派、親ブラジル派)とブランコ党(保守派)が対立しあう政情不安が続いていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "しかし、両党の内戦の結果の末に起きたパラグアイとの三国同盟戦争が終わると、緩衝国家の必要性を痛感したアルゼンチン、ブラジル両国の政策転換により、ウルグアイへの内政干渉が和らぎ、その後多くの移民がヨーロッパから渡来すると、有刺鉄線の普及による19世紀後半の畜産業の発展と、鉄道網の拡大により経済は繁栄した。政治的にはコロラド党・ブランコ党の二大政党制が定着したかに見えたが、安定には程遠く、しばしば両党が軍を率いての内戦になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "20世紀に入り、最後となった内戦に勝利したコロラド党のホセ・バッジェ・イ・オルドーニェス大統領によってスイスをモデルにした社会経済改革が行われ、ウルグアイは南米で唯一の福祉国家となった。この後ウルグアイは南米でチリと並んで安定した民主主義国家として発展することになる。1929年にバッジェ大統領が死去するころにはウルグアイは南米で最も安定した民主主義国となっていたものの、バッジェの改革は経済構造にまでは手がつけられなかったため、後に大きな禍根を残すことになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "バッジェは福祉国家を築き、ウルグアイは「南米のスイス」と呼ばれたが、バッジェの死後の1930年代に重工業化には失敗し、大土地所有制度にも手が付けられず、牧畜産業主体の経済構造を変えることができなかった。それでも第二次世界大戦、朝鮮戦争のころまで体制は安定していたが、1955年を境に輸出の激減と経済の衰退が進行した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1955年から主要産業であった畜産業の低迷により経済が停滞すると、次第に政情は不安定になり、1966年には大土地所有制の解体などを求めて南米最強と呼ばれた都市ゲリラ、トゥパマロスが跋扈した。このような情勢の中で、1951年に一度廃止された大統領制は対ゲリラ指導力強化のために1967年に再び導入された。トゥパマロスと治安組織の抗争が進む中、1971年の大統領選挙で左翼系の拡大戦線が敗北すると、トゥパマロスの攻撃はさらに激化したが、政府は内戦状態を宣言してトゥパマロスを鎮圧した。しかし、内戦を軍部に頼って終結させたことにより、軍部の発言力の強化が進むことにもなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "トゥパマロスの攻勢が収まると功績があった軍部が政治介入を進めた。1973年のクーデターにより軍部は政治の実権を握り、「南米のスイス」とも称された民主主義国ウルグアイにもブラジル型の官僚主義的権威主義体制が導入された。1976年にはアパリシオ・メンデス(英語版)が大統領に就任し、ミルトン・フリードマンの影響を受けた新自由主義的な政策の下で経済を回復させようとしたが、一方で労働人口の1/5が治安組織の要員という異常な警察国家体制による、左翼系、あるいは全く政治活動に関係のない市民への弾圧が進んだ。1981年に軍部は軍の政治介入を合法化する憲法改正を実行しようとしたが、この体制は国民投票により否決され、ウルグアイは再び民主化の道を歩むことになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1985年の民政移管によりコロラド党のフリオ・マリア・サンギネッティが大統領になったが、経済は安定しなかった。1990年代にはメルコスールに加盟した。2005年に拡大戦線からタバレ・バスケスが勝利すると、ウルグアイ初の左派政権が誕生し、同国の二大政党制は終焉した。バスケス政権は経済の再生と、メルコスールとの関係強化などに取り組み、現在は再び民主主義国家として小国ながらも存在感を見せている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2010年3月1日、バスケス政権の政策継続を掲げた、元極左ゲリラトゥパマロス指導者で元農牧・水産相のホセ・ムヒカが大統領に就任した。2015年3月1日、バスケスが、再び大統領に就任した。2020年から、中道右派・国民党のルイス・ラカジェ・ポーが大統領に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "米州機構、ラテンアメリカ統合連合、メルコスール、ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体の加盟国。ラテンアメリカ統合連合とメルコスールは首都モンテビデオに事務局がある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "立憲共和制であり、現在は大統領が国家元首となっている。また、過去に導入された執政委員会制度への反省から、1967年憲法は大統領に大きな権限を与えている。大統領の任期は5年であり、副大統領と組で選挙によって選出される。なお、大統領の再任は禁止となっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "国会は二院制で、上院の定員は30名、下院は99名であり、任期は5年となっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "トランスペアレンシー・インターナショナル(TI)による2018年度の腐敗認識指数ランキングでは23位と、ラテンアメリカでは第1位である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ブラジルとアルゼンチンという対立する二大国に挟まれた地政学的関係から、伝統的に民主的な政治体制を維持しており、政治的混乱の少なくないラテンアメリカの中で、ヨーロッパを参考とした高い教育水準と高度な福祉を維持し、その安定ぶりから「南米のスイス」とも呼ばれた。第二次世界大戦後は、そのスイスの連邦参事会制度を参考にバッジェが構想した、大統領制に代わる複数行政制度が1952年の憲法で施行され、9人の執政官からなる執政評議会制度が完成し、ウルグアイ人は自国を「民主主義の実験室」と呼んだ。しかし、1960年代より頻発した左翼ゲリラ「トゥパマロス」によるテロに対処することができず、1967年の憲法改正で大統領制が復活した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1973年、戒厳令を敷いた軍によってトゥパマロスが鎮圧されると、その功績によって発言力を拡大した軍部は政治に介入し、事実上の軍政が敷かれた。これにより、ウルグアイにもブラジル型の官僚主義的・権威主義的な軍事政権が誕生すると、諸外国には同時期のチリ・クーデターと同様の驚きをもって迎えられた。しかし、ウルグアイ人の民主主義への意識は高く、1981年に軍政の合法化を意図して行われた国民投票が否決され、1985年に民政移管されることになった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2004年10月31日に実施された2004年ウルグアイ大統領選挙(スペイン語版)で、社会党、共産党を含む20以上の左翼・中道勢力を結集した拡大戦線(進歩会議・拡大戦線・新多数派)のタバレ・バスケス候補が、与党である国民党(ブランコ党)のホルヘ・ララニャガ候補を抑え当選した。これにより、1852年以来のコロラド党、国民党という親米保守の二大政党による独占支配に終止符が打たれた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2009年10月末に実施された大統領選挙は、上位2人による決戦選挙にもつれ込んだ。その結果、11月29日に拡大戦線のホセ・ムヒカ上院議員が保守野党・国民党のラカジェ元大統領を破って当選した。ムヒカは、バスケス前政権の政策を継承すると強調し、税金の累進制の強化や奨学金の充実など国民生活支援を続けると公約した。ダニロ・アストリが副大統領に就任し、大統領就任式には中南米の7人の首脳のほか、米国のヒラリー・クリントン国務長官が参列している。ムヒカ大統領は就任直後から精力的な外交活動を展開、11日にはチリのセバスティアン・ピニェラ新大統領の就任式に出席、12日から14日までボリビアのエボ・モラレス大統領と資源問題を含む両国の関係強化に向けて会談した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "志願制で、陸海空の3軍を併せて約23,500人の兵員から構成され、2007年時点でおよそ2,500人程の兵員がコンゴ民主共和国及びハイチを中心に合わせて12のPKOに従事している。1960年代以前はラ・プラタ川の洪水時に出動する程度の任務しかなかった軍の政治力は余り強くなかったが、70年代にトゥパマロスと交戦、これを鎮圧したことを期に政治介入が進み軍政となったが、80年代の民政移管以降はその政治的影響力は低下しているとされる。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ウルグアイは19県で構成される(スペイン語でdepartamentos、単数形の場合departamento)。", "title": "地方行政区画" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "国内第二都市のサルトでも人口は約10万人程度であり、極端なモンテビデオ一極集中である。", "title": "地方行政区画" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ウルグアイは南アメリカ大陸で2番目に面積が小さな国であり、パンパの国ゆえに国土のおよそ88%を可耕地が占め、ほとんどの土地は平らな荒れ地と、緩やかな丘の風景が広がっている。また、海岸近くには肥沃な耕作地帯が広がる。国土はネグロ川を境に南北に分けられ、北部のブラジル国境付近ではそのままブラジル高原に続くために標高が多少高くなっている。森林は約90万haしかなく国土の5%に過ぎない。そのため天然林は伐採禁止である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "国土の多くは草原となっており馬や牛や羊が飼育されている。野生動物にはカピバラやダチョウに良く似たニャンドゥなどがいる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ウルグアイには高山はなく、国内で最も高い山は標高 513.66 m (1,685.2 ft) のカテドラル山である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ブラジル、アルゼンチンと国境を接し、北西部のアルゼンチンとの国境地帯のサルト県には温泉があり、アルゼンチンから湯治客がやってくる。ブラジルとの国境のロチャ県には大湿原が広がる。ブラジル国境付近のリベラ(ブラジル側のサンタナ・ド・リブラメントとの双子都市)の人々にはポルトゥニョール・リヴェレンセ (Portuñol)と呼ばれる、スペイン語とポルトガル語が混ざった言葉を話す人々がいる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候に属する。季節風を遮る高山がないので冬は南極からの冷風の影響を、夏はブラジルからの熱風の影響を強く受ける。モンテビデオでは一年を通じて穏やかな気候が続く。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "6月が最も寒く、1月が最も暑い。一年を通して毎月大体同じ量の雨が降るが、特に秋には多くなる。また、夏はしばしば雷雨が吹き荒れる。冬に雪が降ることはまれである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "平均気温:春:17°C、夏:23°C、秋:18°C、冬:12°C", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1984年からウルグアイは南極のキング・ジョージ島にヘネラル・アルティーガス観測所を設けている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "IMFの推計によると、2013年のウルグアイのGDPは約557億ドルである。一方、一人当たりのGDPでは16,421ドルとなり、これは世界平均の1.5倍を超え、南米では最も高い水準である。 メルコスール、南米共同体の加盟国であり、モンテビデオにはメルコスールの事務局がある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ウルグアイの経済は国内市場が小さく、アルゼンチン、ブラジルとの貿易によって国の収支が大きく左右されるため、この二国の経済情勢の影響を大きく受ける。また、現在は南米で最も物価が高いと言われている。歴史的には19世紀から需要の高かった羊毛や牛肉の輸出により世界でも富裕な国となったが、1930年代から始まった重工業化は国内市場の小ささや化石資源の不足などの問題からあまり成功せず、朝鮮戦争が終わるころから代替技術の発展により世界市場でもウルグアイの農牧産品の需要が減り、畜産品モノカルチャー経済だったウルグアイはバッジェの福祉国家体制の支出を維持できずに破綻した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "農牧業は国の主産業であり、独立後長い間牛馬や羊の産品のモノカルチャー経済が続き、今も経済は農牧業に頼るところは大きい。今日においてはGDPの約10%ほどを占め、未だに主要な外貨の稼ぎ頭となっている。また、それだけには留まらず農牧業は20世紀の半ばまで、エスタンシア文化をはじめとするウルグアイの歴史的なアイデンティティにも繋がっていた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ウルグアイの農牧業は他国に比べ、農業従事者に対する保護(手当て、農業機械などの援助)が弱く、それゆえヘクタール当たりの収益が少ないが、その分生産された農牧産品は「有機(オーガニック)食」「自然食」といった市場に適している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "牛肉はウルグアイの輸出総額の6分の1を占める主要輸出品である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "日本はウルグアイから、食肉の安全を守る技術を学ぶ研修員を1978年から受け入れており、東日本大震災の際にウルグアイ政府は、「日本の皆様が元気になりますように」との日本語のメッセージが書かれた特別包装のコンビーフ缶4600個を被災者に送っており、ウルグアイ食肉協会は「研修事業を通じて日本への愛着が培われた」と話している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ウルグアイ産の牛肉は2000年に口蹄疫の発生から長らく日本に輸出されていなかったが、2019年に日本への輸出が解禁された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "東部のブラジルとの国境付近の県では米が栽培されている。北部は亜熱帯に近くなり、アルティーガス県では砂糖黍栽培が盛ん。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "近年では産業としてエスタンシア観光が成長しつつあり、ウルグアイの伝統的なエスタンシアを見学しながら、ガウチョのフォルクローレなどを楽しむことが出来るようになった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "瑠璃、アメジスト、石灰岩などを産出するが、国土が平原と丘陵で高山がないため、鉱業自体があまり盛んとはいえない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "前述のように森林資源に乏しい国である。天然林は伐採禁止でありユーカリや松類を主体として人工林が利用される。用途は薪炭用・建築用・パルプ用など多岐にわたっている。消費の場として国内市場は規模が小さいため主に輸出されているが、国内に加工技術や品質管理基準がないために、輸出先の一方的な条件で取引されがちな状況である。近年ユーカリによる林業の成長が期待され、そのためのサムライ債が発行された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "総人口のうちヨーロッパ系白人が87.7%、黒人が4.6%、インディヘナおよびメスティーソが2.4%を占める。極僅かながら日系人などのアジア系も存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "かつてバンダ・オリエンタルと呼ばれたこの地の住人は、自らを「オリエンターレス(東方人)」と呼び、独自のアイデンティティを持っていた。19世紀まではスペイン植民地の中でもコスタリカと並んで特に辺境の地であったが、18世紀後半からの都市の発展により、黒人奴隷がポルトガルの奴隷商人によってアンゴラやコンゴ付近や赤道ギニアから移入された。先住民のグアラニー人は18世紀にパラグアイに撤退したが、地名にその影響を残している。一方独立戦争への参加により、1,000人ほどにまで数を減らしていたチャルーア人は、1831年のリベラ大統領の掃討作戦により虐殺され、絶滅した。この事件はウルグアイ人の心に大きなトラウマとなって残り、そのことを悔いてか、新聞のアンケート調査によれば、今でも約半数のウルグアイ人は自分に先住民の血が流れていると答え、毎年の事件の日が近くなると、モンテビデオ市内の「最後のチャルーア」の銅像に市民からの献花がなされる。2002年には、最後のチャルーア人の遺骨が169年ぶりに返還された。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ウルグアイの人口は、1828年の独立時には長年の戦争により74,000人程であり、パンパ開発のために他のラテンアメリカ諸国と同じように、ヨーロッパから大規模に移民を呼ぶようになった。こうしてスペイン人、特にガリシア出身者を中心とした移民がやってきた。他に多かった移民はイタリア人であり、総数で見ればスペイン人よりも多く、フランス人と共にモンテビデオに定住した。また、独立直後の時期にイングランド人やスコットランド人が農村部に入り込み、近代的地主となった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "その後ウルグアイの人口は、1963年のセンサスでは2,592,583人、1976年推計では3,101,000人、1983年年央推計では約297万人となった。出生率はアルゼンチンより低く、ラテンアメリカでは最も低い部類に入る。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "19世紀から20世紀にかけてウルグアイに移入した多様な移民の出身国を列挙すると、圧倒的に多いのはスペインとイタリアで、次いでフランス、ドイツ、ポルトガル、イギリス、スイス、ロシア、ポーランド、ブルガリア、ハンガリー、ウクライナ、リトアニア、エストニア、ラトビア、オランダ、ベルギー、クロアチア、ギリシア、スカンディナヴィア、アイルランド、そしてアルメニアとなる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "移民受け入れ国だったウルグアイも、軍政期の1963年から1985年にかけて、推定約33万人、国民の約10%が国外脱出した。ただし、こうして去っていった人々の中には民政に移管した1980年代以降に帰国した者もいた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2014年12月7日、グアンタナモ湾収容キャンプの収容者を受け入れる方針を示していたウルグアイ政府は、アメリカ軍機に輸送され、グアンタナモ湾収容キャンプの収容者が到着したことを受けて、「ウルグアイは世界中から移民を受け入れて成り立ってきた国であり、また平和のための国際的手段の世界の前衛として、歴史的に多くの難民などを受け入れてきた。グアンタナモ収容者の受け入れは、このようなウルグアイの歴史の延長線上にあり、人道的な理由によるものである。ウルグアイ政府は難民申請に応じ、彼らに対し、国際的人権保護の基準を厳密に維持するものである。また、兄弟国キューバへの封鎖の解除、プエルトリコ独立の闘志で政治的囚人のオスカル・ロペス・リベラ及びキューバ人囚人アントニオ・ゲレロ、ラモン・ラバニーニョ、ヘラルド・エルナンデスの釈放を改めて要求する」という見解を表明した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "近年はシリア内戦に伴うシリアからの難民を受け入れている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "憲法上の明記はないものの、スペイン語(正確には一方言のリオプラテンセ・スペイン語)が事実上の公用語となっている。ブラジル国境付近のリベラ市にはウルグアイポルトガル語(フロンテイリソ方言)を話す人々がおり、同じくリベラ県にはアラビア語を話すアラブ人のコミュニティが存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ウルグアイでは1918年憲法によって国家とカトリック教会が法的に分離した。国民の62%はカトリックを信仰し、少数派として4%がプロテスタント、3%がユダヤ教であり、残りの31%が無宗教である。19世紀半ばにやってきたヨーロッパ系移民に無政府主義者が多かったことから、無信教の国民が多く、またカトリック教会の影響力もラテンアメリカの中では特に薄いとされる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2003年の推計では、15歳以上の国民の識字率は1996年の調査で98%であり、これはラテンアメリカではアルゼンチン、キューバ、チリと並んで最高水準である。主な高等教育機関としては、共和国大学(スペイン語版)(1849年)、教員養成所であるアルティガス師範学校(スペイン語版)などが挙げられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ウルグアイの公立学校には、しばしば国の名前がついているものがあり、「日本」学校は4つある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ウルグアイ唯一の総合国立大学である共和国大学(スペイン語版)では、日本からシニアボランティアが講師として派遣されており、アジア言語で唯一、日本語講座が正規の授業として開講されており、ウルグアイは日本への関心が高い国である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2013年より、同性婚が法的に可能となった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "国連の調査によると、ウルグアイのジニ係数は0.448となる。これは周辺国に比べれば低い。2002年の調査では、同じ仕事についている男性と女性では、女性の賃金は男性の71.8%になる。また、黒人の平均収入は白人の平均収入の約65%である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "かつては中南米諸国の中で安全な国と言われてきたが、2012年8月に内務省が発表した同年7月までの犯罪統計は、前年同期に比べて殺人が56.7%増、強盗が5.3%増と、凶悪犯罪が急増している。特に人口の集中しているモンテビデオ県、カネローネス県、マルドナド県において犯罪が多発している。また、少年犯罪への処分が軽く、青少年向けの収容施設も十分に機能していないため、出所後の再犯率が高くなっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "銃器の所持について規制はあるものの、比較的容易に入手する事ができる。また、不法な流通により、国民の3人に1人は銃器を所持していると推定されており、これを利用した凶悪犯罪も多発している。2013年、世界では初のマリファナなどの大麻を合法化した。密売価格を下落させるのが狙いという。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "隣国アルゼンチンと同じく大畜産国である歴史を反映して、ウルグアイではアサードやチュラスコ、チョリソなど肉を多く食べる。特に牛肉が好まれる。文化的な理由で馬肉は忌避されるが、輸出は行っている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "イタリア移民が多いためスパゲッティなどのパスタ類も広く食べられている。その他の料理にはエンパナーダ、ドゥルセ・デ・レチェなどがある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ラ・プラタ諸国の中でも特にマテ茶を好む国であり、アルゼンチン人とウルグアイ人を見分ける時は、マテ壺を24時間手放さないのがウルグアイ人であるといわれている。ウルグアイ人はマテ茶をアマルゴ(砂糖なし)にして飲むことを好む。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1819年にアルティーガスに仕えた連邦同盟の軍人だったバルトロメ・イダルゴ(スペイン語版)がガウチョ文学(英語版)を開始した。それまで浮浪者同様に見られていたガウチョを解放戦争の真の主体として描き、ウルグアイ、アルゼンチンのアイデンティティと結びつけた最初の人間である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "また、ウルグアイは19世紀末から20世紀初頭のモデルニスモ文学の中心地の一つであり、ラテン・アメリカ最大の詩人と呼ばれるニカラグアのルベン・ダリオに次ぐ唯一の詩人ホセ・エンリケ・ロドー(スペイン語版、英語版)の出身地である。代表作はアメリカ合衆国のラテン・アメリカに対する覇権主義を最初に警告した『アリエル(スペイン語版)』(1900)など。ホセ・マルティと同様にアメリカ合衆国との対比でラテンアメリカの精神文明を称揚したころのウルグアイは、ラテンアメリカ・ナショナリズムの中心地の一つであった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "20世紀以降の作家には、ノーベル文学賞に数回ノミネートされた女流詩人のフアナ・デ・イバルボウロウ(英語版)や、セルバンテス賞作家のフアン・カルロス・オネッティ、『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』(1971)で知られるジャーナリストのエドゥアルド・ガレアーノ、他にもマリオ・ベネデッティやフェリスベルト・エルナンデス、クリスティーナ・ペリ・ロッシ(スペイン語版、英語版)らが挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "タンゴ(ウルグアイ・タンゴ)やミロンガ、ブラジルのバツカーダに似た黒人音楽カンドンベや、ムルガといった音楽の本場であり、チャマメやパジャドールなど幾つかのフォルクローレはアルゼンチンと共通している。フォルクローレにおいて、特に有名な人物としてはアルフレド・シタロッサの名が挙げられる。タンゴにおいては、古典となっている「ラ・クンパルシータ」(1917)を作曲したのはウルグアイ出身のヘラルド・マトス・ロドリゲスである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "多くのミュージシャンは市場規模の違いからブエノスアイレスやスペインに渡って活動する傾向があるため、古くはフランシスコ・カナロ、フリオ・ソーサ、ドナート・ラシアッティ、ルベン・ラダ、エドゥアルド・マテオから、ハイメ・ロース、スペイン語で初めてアカデミー賞を取った、ホルヘ・ドレクスレルに至るまで、アルゼンチンやスペインの音楽界で活躍するのが実はウルグアイ人だったという事例には事欠かない。また、ロックが盛んでウルグアイのロックはブエノスアイレスの音楽シーンで人気を博したことを皮切りに、1960年代半ばまでの南米市場を席巻した。この現象はアメリカではウルグアヤン・インベイジョンとも呼ばれる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ウルグアイ出身の画家としては、歴史画のフアン・マヌエル・ブラネスやギジェルモ・ラボルデ、ペトローナ・ビエラなどの名が挙げられる。1930年代の抽象絵画のホアキン・トーレス・ガルシアは特に有名である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "ウルグアイにおいて映画製作は盛んではないが、「ウイスキー」(2004)のフアン・パブロ・レベージャとパブロ・ストールは著名な映像作家として挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "ウルグアイ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ウルグアイサッカー協会(AUF)によって構成されるサッカーウルグアイ代表は、1930年に行われたFIFAワールドカップの第1回大会で初代優勝国となり、ブラジルで開催された1950年の第4回大会でも、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアムで行われた決勝戦にて、アウェーの満員のスタジアムでブラジル代表を逆転で破り、2度目の優勝に輝いている。なお、この試合はブラジル側から見た「マラカナンの悲劇」である。さらにオリンピックでも、1924年のパリ五輪と1928年のアムステルダム五輪で大会連覇を達成している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "しかし、FIFAワールドカップの1970年大会でベスト4入りして以降は優勝候補から遠ざかっており、長らく古豪と呼ばれ低調が続いていたが、2010年大会では南米予選を5位となり、北中米カリブ海4位のコスタリカ代表との大陸間プレーオフに勝利し本大会出場を決め、その本大会では40年ぶりのベスト4入りを果たした。さらに翌年のコパ・アメリカ2011では、その勢いのまま6大会ぶり15回目の優勝を果たし、サッカー強豪国として復活を強く印象付けた。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "1900年にはプロリーグのプリメーラ・ディビシオンが創設されており、リーグは120年以上の長い歴史を誇っている。主なクラブとしては、ペニャロール、ナシオナル、デフェンソール・スポルティングなどが挙げられる。さらにウルグアイ人の著名な選手として、ディエゴ・ゴディン、ディエゴ・フォルラン、ルイス・スアレス、エディンソン・カバーニ、フェデリコ・バルベルデなどが存在している。", "title": "スポーツ" } ]
ウルグアイ東方共和国、通称ウルグアイは、南アメリカ南東部に位置する共和制国家である。首都はモンテビデオ。北と東にブラジルと、西にアルゼンチンと国境を接しており、南は大西洋に面している。スリナムに続いて南アメリカ大陸で二番目に面積が小さい国であり、コーノ・スールの一部を占める。
{{基礎情報 国 | 略名 = ウルグアイ | 日本語国名 = ウルグアイ東方共和国 | 公式国名 = {{lang|es|'''República Oriental del Uruguay'''}} | 国旗画像 = Flag of Uruguay.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of Uruguay.svg|88px|ウルグアイの国章]] | 国章リンク =([[ウルグアイの国章|国章]]) | 標語 = {{lang|es|''Libertad o Muerte''}}<br />([[スペイン語]]: 自由か死か) | 位置画像 = Uruguay (orthographic projection).svg | 公用語 = [[スペイン語]] | 首都 = [[モンテビデオ]] | 最大都市 = モンテビデオ | 元首等肩書 = [[ウルグアイの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[ルイス・ラカジェ・ポー]] | 首相等肩書 = {{ill2|ウルグアイの副大統領|en|Vice President of Uruguay|label=副大統領}} | 首相等氏名 = {{ill2|ベアトリス・アルヒモン|en|Beatriz Argimón}} | 面積順位 = 88 | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 176,220 | 水面積率 = 1.5% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 132 | 人口大きさ = 1 E6 | 人口値 = 3,474,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/uy.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-11 }}</ref> | 人口密度値 = 19.8<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2017 | GDP値元 = 1兆6970.75億<ref name="imf201810">{{Cite web|url=https://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2018/02/weodata/weorept.aspx?sy=2015&ey=2023&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=298&s=NGDP%2CNGDPD%2CPPPGDP%2CNGDPDPC%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=47&pr.y=11|title=World Economic Outlook Database, October 2018|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2018-10|accessdate=2018-12-08}}</ref> | GDP統計年MER = 2017 | GDP順位MER = 75 | GDP値MER = 591.80億<ref name="imf201810" /> | GDP統計年 = 2017 | GDP順位 = 95 | GDP値 = 781.58億<ref name="imf201810" /> | GDP/人 = 22,374.370<ref name="imf201810" /> | 建国形態 = [[独立]]<br />&nbsp;- 宣言<br />&nbsp;- 認可 | 建国年月日 = [[ブラジル帝国]]より<br /> [[1825年]][[8月25日]]<br /> [[1828年]][[8月27日]] | 通貨 = [[ウルグアイ・ペソ]] ($) | 通貨コード = UYU | 時間帯 = -3 | 夏時間 = なし | 国歌 = [[ウルグアイの国歌|{{lang|es|Himno nacional de Uruguay (Orientales, la Patria o la Tumba)}}]]{{es icon}}<br>''ウルグアイの国歌(東方人よ、祖国か墓か)''<br>{{center|[[File:United_States_Navy_Band_-_National_Anthem_of_Uruguay_(complete).ogg]]}} | ISO 3166-1 = UY / URY | ccTLD = [[.uy]] | 国際電話番号 = 598 | 注記 = }} '''ウルグアイ東方共和国'''(ウルグアイとうほうきょうわこく、{{lang-es|República Oriental del Uruguay}})、通称'''ウルグアイ'''は、[[南アメリカ]]南東部に位置する[[共和制]][[国家]]である。首都は[[モンテビデオ]]。北と東に[[ブラジル]]と、西に[[アルゼンチン]]と国境を接しており、南は[[大西洋]]に面している。[[スリナム]]に続いて[[南アメリカ大陸]]で二番目に面積が小さい国であり、[[コーノ・スール]]の一部を占める。 == 国名 == [[ファイル:Riouruguay.JPG|thumb|180px|[[ウルグアイ川]]]] 正式名称は[[スペイン語]]で、''{{Lang|es|República Oriental del Uruguay}}''(レプブリカ・オリエンタル・デル・ウルグアイ)。通称、''{{Lang|es|Uruguay}}'' {{IPA-es|uɾuˈɣwai̯||Es-Uruguay.ogg|}}。 国名は西部を流れる[[ウルグアイ川]]に由来し、語源は[[チャルーア人|チャルーア語]]で「ウル(という名前の鳥)の川」を意味する。また、正式名称の東方とは、ウルグアイ川の東岸にあることに由来し、独立前に同地を「[[東方州]]([[バンダ・オリエンタル]])」と呼んだことに因む。 == 歴史 == {{Main|ウルグアイの歴史}} === 先コロンブス期 === 現在のウルグアイに当たる場所には[[コーカソイド|ヨーロッパ人]]の到達直前には、約5,000人程の先住民がいたと推測されており、タワンティン・スウユ([[インカ帝国]])の権威がこの地には及ばなかったため、[[モンゴロイド]]の[[チャルーア人]]と[[グアラニー人]]をはじめとする[[インディオ]]の諸集団が、[[狩猟]]や原始的な[[農耕]]を営みながら生計を立てていた。 === スペイン植民地時代 === {{See also|スペインによるアメリカ大陸の植民地化}} 1516年に[[スペイン]]人[[フアン・ディアス・デ・ソリス]]がここを探検。1520年には[[フェルディナンド・マゼラン]]が[[ラ・プラタ川]]を遡上。その航海の中で、現在の[[モンテビデオ]]に当たる地域にあった140m程の小高い丘を見た時に発した「山を見たり!(Monte Vide Eu!)」という[[ポルトガル語]]が首都の名前の由来であるという説がある(名前の由来については他の説もある)。 平坦な丘陵が続き、特に鉱山資源もないこの土地は殖民が遅れたが、放牧された牛、馬、羊が大繁殖するといつの間にか[[ガウチョ]]が住むようになり、家畜を取り合ってスペインとポルトガルの争いが始まった。1680年に[[ポルトガル]]が[[コロニア・デル・サクラメント]]を建設すると、スペインが追随して1726年に[[モンテビデオ]]を建設した。こうしてこの地は両国の係争地になったが最終的にはスペインの植民地となり、「ウルグアイ川東岸地帯(Banda Oriental del Uruguay,[[バンダ・オリエンタル]])」と呼ばれるようになった。その後、両国の戦争と、1750年代の[[イエズス会]]追放による{{仮リンク|グアラニー戦争|en|Guaraní War}}で先住民[[グアラニー人]]が[[パラグアイ]]に撤退した。1776年に[[リオ・デ・ラ・プラタ副王領]]が創設されると、モンテビデオはブエノスアイレスに続く第二の港として発展した。 === 独立戦争とアルティーガス === {{See also|近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立}} [[ファイル:Juan Manuel Blanes - Artigas en la Ciudadela.jpg|thumb|180px|街角に佇む{{仮リンク|ホセ・ヘルバシオ・アルティーガス|en|José Gervasio Artigas|label=ホセ・アルティーガス}}<br/>[[フアン・マヌエル・ブラネス]]画。]] [[フランス革命]]以降、[[ヨーロッパ]]で続いた[[ナポレオン戦争]]により、[[ナポレオン・ボナパルト]]の指導する[[フランス]]と[[スペイン]]が同盟を結び、[[イギリス]]と戦うことになると、イギリスはラ・プラタ地方に目をつけ、1806年に[[ブエノスアイレス]]に侵攻し、また、同年[[モンテビデオ]]を占領する。{{仮リンク|ホセ・ヘルバシオ・アルティーガス|en|José Gervasio Artigas|label=ホセ・アルティーガス}}はこの[[イギリス軍]]の侵攻に対して民兵隊を率いてあたり、1807年にブエノスアイレスで{{仮リンク|ポルテーニョ|en|Porteño}}民兵隊に敗れたイギリス軍はモンテビデオからも撤退した。翌1808年フランス軍がスペインに侵入し、ナポレオンは自身の兄[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]]を[[スペイン王]]ホセ1世として即位させた。それに反発する住民が蜂起し、[[スペイン独立戦争]]が勃発すると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否し、各地で[[クリオージョ]]達による自治、独立運動が進んだ。 1810年5月25日、ブエノスアイレスでの[[五月革命 (アルゼンチン)|五月革命]]が勃発し、{{仮リンク|ポルテーニョ|en|Porteño}}達がラ・プラタ副王を追放すると、1811年から[[共和主義者]]で連邦派のカウディージョ{{仮リンク|ホセ・ヘルバシオ・アルティーガス|en|José Gervasio Artigas|label=ホセ・アルティーガス}}によりスペインに対する独立戦争が始まった。1811年にブエノスアイレスと呼応して[[ラス・ピエドラスの戦い]]でスペイン軍を破った後、アルティーガスは[[バンダ・オリエンタル]]を[[東方州]]に組織し直し、[[連邦同盟]]を結成して、貿易の独占を求める[[ブエノスアイレス]]の中央集権派と戦うが、1816年にブラジルからポルトガル軍が侵攻し全土を占領する。アルティーガスによる[[ゲリラ]]的な抵抗は続いたが、1820年にアルティーガスは最終的な敗北を喫して[[パラグアイ]]に亡命した。その後バンダ・オリエンタルはブラジルに併合され「[[シスプラチナ州]](「ラ・プラタ河手前の州」の意)」と改称された。しかし、東方州からの亡命者や、連邦同盟に属していたラ・プラタ連合州の[[リトラル (アルゼンチン)|リトラル諸州]]の連邦派の間に東方州の奪還を求める声が上がり、ブエノスアイレスの政府もその声を無視することは出来なくなっていった。 === ブラジル戦争とウルグアイの独立 === [[ファイル:Juan Antonio Lavalleja.png|thumb|180px|フアン・アントニオ・ラバジェハ。]] [[ファイル:Juan Manuel Blanes - El Juramento de los Treinta y Tres Orientales.jpg|thumb|left|260px|33人の東方人の誓い]] [[ブラジル帝国]]と[[リオ・デ・ラ・プラタ諸州連合|ラ・プラタ連合州]]との[[シスプラティーナ戦争]]の係争地帯になった[[バンダ・オリエンタル]]に、1825年、ラ・プラタ連合州に亡命していた、かつてアルティーガスの副官だった{{仮リンク|フアン・アントニオ・ラバジェハ|en|Juan Antonio Lavalleja}}将軍が[[33人の東方人]]を率いて上陸し、ブラジルからの独立とラ・プラタ連合州への再編入を求めて再び独立戦争を開始する。この[[500日戦争]]ではラ・プラタ連合州は[[連邦派]]([[:en:Federales (Argentina)|en]])、[[統一派]]([[:en:Unitarian Party|en]])などの立場の違いを乗り越えてこれを支援し、ラバジェハ将軍は多くの人々の支持を集め、戦況はラ・プラタ連合州有利に進んだ。 しかし、戦争中に国内政策を誤った{{仮リンク|ベルナルディーノ・リバダビア|en|Bernardino Rivadavia}}大統領が失脚すると、以降大統領職は空位となり、連邦派のブエノスアイレス州知事{{仮リンク|マヌエル・ドレーゴ|en|Manuel Dorrego}}がその後の戦争指導に当たった。しかし、指導力の低下は隠し難く、アルゼンチンは有利な戦況を講和に生かすことが出来なかった。この結果1828年8月27日、アルゼンチンの勢力が伸張することを望まない[[イギリス]]の仲介により、ブラジルとアルゼンチンの間で[[モンテビデオ条約]]が結ばれ、バンダ・オリエンタルは「ウルグアイ東方共和国」として独立を果たした。長年にわたる戦争の惨禍により、独立時にはわずか74,000人の人口しか残っていなかった。また、この独立直後の1831年に初代大統領の{{仮リンク|フルクトゥオソ・リベラ|en|Fructuoso Rivera}}の甥が北部にわずかに生き残っていた[[チャルーア人]]を襲撃し、民族集団としてのチャルーアは絶滅した。 <!-- [[ファイル:Estacion Central Montevideo.jpg|thumb|280px| "ヘネラル・アルティーガス"中央駅.]]--> 独立後は1839年にリベラ政権によるアルゼンチンへの宣戦布告により、[[大戦争]]がはじまった。アルゼンチンと結んだ元大統領の{{仮リンク|マヌエル・オリベ|en|Manuel Oribe}}がモンテビデオを包囲するも、最終的に{{仮リンク|フスト・ホセ・デ・ウルキーサ|en|Justo José de Urquiza}}の寝返りにより、大戦争は1852年にアルゼンチンで[[フアン・マヌエル・デ・ロサス]]が失脚することにより幕を閉じるが、このような争いに代表されるように、ブラジルとアルゼンチンとの対立の中で、両国の力関係次第で[[コロラド党 (ウルグアイ)|コロラド党]](自由主義派、親ブラジル派)と[[ブランコ党]](保守派)が対立しあう政情不安が続いていた。 しかし、両党の内戦の結果の末に起きたパラグアイとの[[三国同盟戦争]]が終わると、緩衝国家の必要性を痛感したアルゼンチン、ブラジル両国の政策転換により、ウルグアイへの内政干渉が和らぎ、その後多くの移民がヨーロッパから渡来すると、有刺鉄線の普及による19世紀後半の[[畜産業]]の発展と、鉄道網の拡大により経済は繁栄した。政治的にはコロラド党・ブランコ党の二大政党制が定着したかに見えたが、安定には程遠く、しばしば両党が軍を率いての内戦になった。 === 南米のスイス === [[ファイル:Jbatlle.jpg|thumb|180px|[[ホセ・バッジェ・イ・オルドーニェス]]。]] 20世紀に入り、最後となった内戦に勝利したコロラド党の[[ホセ・バッジェ・イ・オルドーニェス]]大統領によって[[スイス]]をモデルにした社会経済改革が行われ、ウルグアイは南米で唯一の[[福祉国家]]となった。この後ウルグアイは南米でチリと並んで安定した民主主義国家として発展することになる。1929年にバッジェ大統領が死去するころにはウルグアイは南米で最も安定した民主主義国となっていたものの、バッジェの改革は経済構造にまでは手がつけられなかったため、後に大きな禍根を残すことになる。 バッジェは福祉国家を築き、ウルグアイは「南米のスイス」と呼ばれたが<ref name="senya">{{Cite web|和書|url=https://1000ya.isis.ne.jp/1232.html |title=反米大陸 |publisher=松岡正剛の千夜一夜・遊蕩篇 |author=[[松岡正剛]] |date= |accessdate=2012-04-07 }}</ref>、バッジェの死後の1930年代に重工業化には失敗し、大土地所有制度にも手が付けられず、牧畜産業主体の経済構造を変えることができなかった。それでも[[第二次世界大戦]]、[[朝鮮戦争]]のころまで体制は安定していたが、1955年を境に輸出の激減と経済の衰退が進行した。 === 福祉国家の没落 === 1955年から主要産業であった畜産業の低迷により経済が停滞すると、次第に政情は不安定になり、1966年には大土地所有制の解体などを求めて南米最強と呼ばれた[[都市ゲリラ]]、[[トゥパマロス]]が跋扈した。このような情勢の中で、1951年に一度廃止された大統領制は対ゲリラ指導力強化のために1967年に再び導入された。トゥパマロスと治安組織の抗争が進む中、1971年の大統領選挙で左翼系の[[拡大戦線 (ウルグアイ)|拡大戦線]]が敗北すると、トゥパマロスの攻撃はさらに激化したが、政府は内戦状態を宣言してトゥパマロスを鎮圧した。しかし、内戦を軍部に頼って終結させたことにより、軍部の発言力の強化が進むことにもなった。 === 軍事政権時代 === トゥパマロスの攻勢が収まると功績があった軍部が政治介入を進めた。1973年のクーデターにより軍部は政治の実権を握り、「南米のスイス」とも称された民主主義国ウルグアイにもブラジル型の[[官僚主義]]的[[権威主義]]体制が導入された。1976年には{{仮リンク|アパリシオ・メンデス|en|Aparicio Méndez}}が大統領に就任し、[[ミルトン・フリードマン]]の影響{{要出典|date=2016年4月}}を受けた[[新自由主義]]的な政策の下で経済を回復させようとしたが、一方で労働人口の1/5が治安組織の要員という異常な警察国家体制による、左翼系、あるいは全く政治活動に関係のない市民への弾圧が進んだ。1981年に軍部は軍の政治介入を合法化する憲法改正を実行しようとしたが、この体制は国民投票により否決され、ウルグアイは再び民主化の道を歩むことになった。 === 民政移管以降 === 1985年の民政移管によりコロラド党の[[フリオ・マリア・サンギネッティ]]が大統領になったが、経済は安定しなかった。1990年代には[[メルコスール]]に加盟した。2005年に拡大戦線から[[タバレ・バスケス]]が勝利すると、ウルグアイ初の左派政権が誕生し<ref name="senya" />、同国の二大政党制は終焉した。バスケス政権は経済の再生と、メルコスールとの関係強化などに取り組み、現在は再び民主主義国家として小国ながらも存在感を見せている。 2010年3月1日、バスケス政権の政策継続を掲げた、元極左ゲリラ[[トゥパマロス]]指導者で元農牧・水産相の[[ホセ・ムヒカ]]が大統領に就任した。2015年3月1日、バスケスが、再び大統領に就任した。2020年から、中道右派・国民党の[[ルイス・ラカジェ・ポー]]が大統領に就任した。 == 政治 == {{main|[[ウルグアイの政治]]}}{{See also|{{仮リンク|ウルグアイの国際関係|en|Foreign relations of Uruguay}}}} [[File:Foto Oficial Presidente Luis Lacalle Pou (cropped).jpg|thumb|260px|[[ルイス・ラカジェ・ポー]]第42代大統領]] [[米州機構]]、[[ラテンアメリカ統合連合]]、[[メルコスール]]、[[ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体]]の加盟国。ラテンアメリカ統合連合とメルコスールは首都[[モンテビデオ]]に事務局がある。 立憲共和制であり、現在は大統領が国家[[元首]]となっている。また、過去に導入された執政委員会制度への反省から、1967年憲法は大統領に大きな権限を与えている。大統領の任期は5年であり、副大統領と組で選挙によって選出される。なお、大統領の再任は禁止となっている。 [[国会 (ウルグアイ)|国会]]は二院制で、上院の定員は30名、下院は99名であり、任期は5年となっている。 [[トランスペアレンシー・インターナショナル]](TI)による2018年度の[[腐敗認識指数]]ランキングでは23位<ref>{{Cite web|url=https://www.transparency.org/cpi2018|title=CPI Index 2018|accessdate=2019-09-06|publisher=[[トランスペアレンシー・インターナショナル]]}}</ref>と、[[ラテンアメリカ]]では第1位である<ref>[http://www.mercopress.com/vernoticia.do?id=11452&formato=HTML Chile and Uruguay least corrupt countries in Latam] 2009-03-25 閲覧</ref>。 ブラジルとアルゼンチンという対立する二大国に挟まれた地政学的関係から、伝統的に民主的な政治体制を維持しており、政治的混乱の少なくないラテンアメリカの中で、ヨーロッパを参考とした高い教育水準と高度な福祉を維持し、その安定ぶりから「南米の[[スイス]]」とも呼ばれた。第二次世界大戦後は、そのスイスの[[連邦参事会]]制度を参考に[[ホセ・バッジェ・イ・オルドーニェス|バッジェ]]が構想した、大統領制に代わる複数行政制度が[[1952年]]の憲法で施行され、9人の[[執政官]]からなる[[執政評議会制度]]が完成し、ウルグアイ人は自国を「民主主義の実験室」と呼んだ。しかし、[[1960年代]]より頻発した左翼ゲリラ「[[ツパマロス|トゥパマロス]]」によるテロに対処することができず、[[1967年]]の憲法改正で大統領制が復活した。 [[1973年]]、戒厳令を敷いた軍によってトゥパマロスが鎮圧されると、その功績によって発言力を拡大した軍部は政治に介入し、事実上の軍政が敷かれた。これにより、ウルグアイにもブラジル型の官僚主義的・権威主義的な軍事政権が誕生すると、諸外国には同時期の[[チリ・クーデター]]と同様の驚きをもって迎えられた。しかし、ウルグアイ人の民主主義への意識は高く、[[1981年]]に軍政の合法化を意図して行われた国民投票が否決され、[[1985年]]に民政移管されることになった。 2004年10月31日に実施された{{仮リンク|2004年ウルグアイ大統領選挙|es|Elección presidencial en Uruguay (2004)}}で、社会党、共産党を含む20以上の左翼・中道勢力を結集した[[拡大戦線 (ウルグアイ)|拡大戦線]](進歩会議・拡大戦線・新多数派)の[[タバレ・バスケス]]候補が、与党である[[国民党 (ウルグアイ)|国民党]](ブランコ党)の[[ホルヘ・ララニャガ]]候補を抑え当選した。これにより、[[1852年]]以来の[[コロラド党 (ウルグアイ)|コロラド党]]、国民党という親米保守の二大政党による独占支配に終止符が打たれた。 2009年10月末に実施された大統領選挙は、上位2人による決戦選挙にもつれ込んだ<ref group="注釈">本選挙におけるムヒカ候補の得票率は47.96%で、過半数に達しなかったため決選投票が行なわれた。ラカジェ候補の得票率は29.07%。</ref>。その結果、11月29日に拡大戦線の[[ホセ・ムヒカ]]上院議員が保守野党・国民党のラカジェ元大統領を破って当選した<ref> ウルグアイ大統領選 元ゲリラの左派候補当選(スポニチアネックス09年11月30日記事) http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20091130016.html{{リンク切れ|date=2012年4月}}</ref>。ムヒカは、バスケス前政権<ref group="注釈">2005年に発足した「拡大戦線」のバスケス政権は貧困層支援の変革をはじめとして、最低賃金や年金の増額、貧困家庭への支援金給付、教育予算の増額などを進めてきた。外交では中南米諸国との関係を強め、地域統合を促進してきた。また、新自由主義と対米従属の路線を転換した。</ref>の政策を継承すると強調し、税金の累進制の強化や奨学金の充実など国民生活支援を続けると公約した。ダニロ・アストリが副大統領に就任し、大統領就任式には中南米の7人の首脳のほか、米国の[[ヒラリー・クリントン]]国務長官が参列している<ref>http://www.elpais.com.uy/100301/ultmo-474061/ultimomomento/mujica-asumio-como-presidente(スペイン語)</ref>。ムヒカ大統領は就任直後から精力的な外交活動を展開、11日にはチリの[[セバスティアン・ピニェラ]]新大統領の就任式に出席、12日から14日までボリビアの[[エボ・モラレス]]大統領と資源問題を含む両国の関係強化に向けて会談した。 == 軍事 == {{Main|ウルグアイの軍事}} 志願制で、陸海空の3軍を併せて約23,500人の兵員から構成され、2007年時点でおよそ2,500人程の兵員が[[コンゴ民主共和国]]及び[[ハイチ]]を中心に合わせて12の[[国際連合平和維持活動|PKO]]に従事している。[[1960年代]]以前はラ・プラタ川の洪水時に出動する程度の任務しかなかった軍の政治力は余り強くなかったが、70年代にトゥパマロスと交戦、これを鎮圧したことを期に政治介入が進み軍政となったが、80年代の民政移管以降はその政治的影響力は低下しているとされる。 * [[ウルグアイ陸軍]] * [[ウルグアイ海軍]] * [[ウルグアイ空軍]] == 地方行政区画 == {{main|ウルグアイの地方行政区画}} ウルグアイは19県で構成される(スペイン語で''departamentos''、単数形の場合''departamento'')。 [[ファイル:Departments of Uruguay (map).png|thumb|300px|ウルグアイの行政地図。]] {| class="wikitable" |- style="background-color:#ffebad" ! 県 ! 面積(km{{sup|2}}) !! 人口* !! 県都 |- | [[アルティガス県]] |align="right"| 11,928 ||align="right"| 78,019 || [[アルティガス]] |- | [[カネローネス県]] |align="right"| 4,536 ||align="right"| 485,028 || [[カネローネス]] |- | [[セロ・ラルゴ県]] |align="right"| 13,648 ||align="right"| 86,564 || [[メロ (ウルグアイ)|メロ]] |- | [[コロニア県]] |align="right"| 6,106 ||align="right"| 119,266 || [[コロニア・デル・サクラメント]] |- | [[ドゥラスノ県]] |align="right"| 11,643 ||align="right"| 58,859 || [[ドゥラスノ]] |- | [[フローレス県]] |align="right"| 5,144 ||align="right"| 25,104 || [[トリニダ (ウルグアイ)|トリニダ]] |- | [[フロリダ県]] |align="right"| 10,417 ||align="right"| 68,181 || [[フロリダ (ウルグアイ)|フロリダ]] |- | [[ラバジェハ県]] |align="right"| 10,016 ||align="right"| 60,925 || [[ミナス (ウルグアイ)|ミナス]] |- | [[マルドナド県]] |align="right"| 4,793 ||align="right"| 140,192 || [[マルドナド]] |- | [[モンテビデオ県]] |align="right"| 530 ||align="right"| 1,326,064 || [[モンテビデオ]] |- | [[パイサンドゥー県]] |align="right"| 13,922 ||align="right"| 113,244 || [[パイサンドゥー]] |- | [[リオ・ネグロ県]] |align="right"| 9,282 ||align="right"| 53,989 || [[フライ・ベントス]] |- | [[リベラ県]] |align="right"| 9,370 ||align="right"| 104,921 || [[リベラ (ウルグアイ)|リベラ]] |- | [[ロチャ県]] |align="right"| 10,551 ||align="right"| 69,937 || [[ロチャ]] |- | [[サルト県 (ウルグアイ)|サルト県]] |align="right"| 14,163 ||align="right"| 123,120 || [[サルト (ウルグアイ)|サルト]] |- | [[サン・ホセ県]] |align="right"| 4,992 ||align="right"| 103,104 || [[サン・ホセ・デ・マジョ]] |- | [[ソリアノ県]] |align="right"| 9,008 ||align="right"| 84,563 || [[メルセデス (ウルグアイ)|メルセデス]] |- | [[タクアレンボー県]] |align="right"| 15,438 ||align="right"| 90,489 || [[タクアレンボー]] |- | [[トレインタ・イ・トレス県]] |align="right"| 9,676 ||align="right"| 49,318 || [[トレインタ・イ・トレス]] |- |colspan="4"| {{smaller|* 2004年}} |} ===主要都市=== {{Main|ウルグアイの都市の一覧}} 国内第二都市のサルトでも人口は約10万人程度であり、極端なモンテビデオ一極集中である。 * [[モンテビデオ]](135万人) * [[サルト (ウルグアイ)|サルト]](11万人) * [[シウダ・デ・ラ・コスタ]](10万人) * [[パイサンドゥー]](8万人) * [[ラス・ピエドラス]](7万人) * [[コロニア・デル・サクラメント]](2万人) * [[プンタ・デル・エステ]](9000人) == 地理 == {{main|{{仮リンク|ウルグアイの地理|en|Geography of Uruguay}}}} [[ファイル:Uruguay mapa.png|thumb|ウルグアイの地図。]] [[File:Uruguay fisico.png|thumb|地形図]] [[ファイル:Capybara.jpg|thumb|カピバラの毛皮は高級品である。]] [[ファイル:Represa Salto Grande.jpg|thumb|サルト・グランデのダム。]] ウルグアイは[[南アメリカ大陸]]で2番目に面積が小さな国であり、[[パンパ]]の国ゆえに国土のおよそ88%を可耕地が占め、ほとんどの土地は平らな荒れ地と、緩やかな丘の風景が広がっている。また、海岸近くには肥沃な耕作地帯が広がる。国土は[[ネグロ川 (ウルグアイ)|ネグロ川]]を境に南北に分けられ、北部のブラジル国境付近ではそのまま[[ブラジル高原]]に続くために標高が多少高くなっている。森林は約90万haしかなく国土の5%に過ぎない<ref name="paraulu1995">パラグアイ国とウルグアイ国の木材事情  西村勝美 (森林総研) No.17 Page.23‑25 1995年10月 JST資料番号 : L1770A ISSN : 1347‑9504</ref>。そのため天然林は伐採禁止である<ref name="paraulu1995" />。<!-- 又、[[朝鮮半島]](特に[[大韓民国|韓国]]本土南西部及び[[済州島]])の[[対蹠地]]でもあり、朝鮮半島とは時刻と季節が正反対になる。--><!-- 脱線トリビア --> 国土の多くは草原となっており[[ウマ|馬]]や[[ウシ|牛]]や[[ヒツジ|羊]]が飼育されている。野生動物には[[カピバラ]]や[[ダチョウ]]に良く似た[[レア (鳥類)|ニャンドゥ]]などがいる。 === 河川と湖 === {{see|{{仮リンク|ウルグアイの河川の一覧|en|List of rivers of Uruguay}}|{{仮リンク|ウルグアイの湖の一覧|en|List of lakes of Uruguay}}}} * [[ウルグアイ川]] * [[ラ・プラタ川]] * [[ネグロ川 (ウルグアイ)|ネグロ川]] * [[メリン湖]] === 山 === ウルグアイには高山はなく、国内で最も高い山は[[標高]] {{convert|513.66|m|ft|abbr=on}} の[[カテドラル山]]である。 === 国境 === ブラジル、アルゼンチンと国境を接し、北西部のアルゼンチンとの国境地帯の[[サルト県 (ウルグアイ)|サルト県]]には[[温泉]]があり、アルゼンチンから湯治客がやってくる。ブラジルとの国境の[[ロチャ県]]には大[[湿原]]が広がる。ブラジル国境付近の[[リベラ (ウルグアイ)|リベラ]](ブラジル側の[[サンタナ・ド・リブラメント]]との双子都市)の人々には[[ポルトゥニョール・リヴェレンセ]] (Portuñol)と呼ばれる、[[スペイン語]]と[[ポルトガル語]]が混ざった言葉を話す人々がいる。 === 気候 === {{see|{{仮リンク|ウルグアイの気候|en|Climate of Uruguay}}}} [[ケッペンの気候区分]]では[[温暖湿潤気候]]に属する。[[季節風]]を遮る高山がないので冬は南極からの冷風の影響を、夏はブラジルからの熱風の影響を強く受ける。モンテビデオでは一年を通じて穏やかな気候が続く。 6月が最も寒く、1月が最も暑い。一年を通して毎月大体同じ量の雨が降るが、特に秋には多くなる。また、夏はしばしば雷雨が吹き荒れる。冬に雪が降ることはまれである。 平均気温:春:17℃、夏:23℃、秋:18℃、冬:12℃ === 飛び地と飛び領土 === [[1984年]]からウルグアイは[[南極]]の[[キング・ジョージ島]]にヘネラル・アルティーガス観測所を設けている。 == 経済 == {{main|{{仮リンク|ウルグアイの経済|en|Economy of Uruguay}}}} [[ファイル:Playa Pocitos.jpg|thumb|left|220px|ウルグアイの首都モンテビデオ。]] [[国際通貨基金|IMF]]の推計によると、[[2013年]]のウルグアイの[[国内総生産|GDP]]は約557億ドルである。一方、一人当たりのGDPでは16,421ドルとなり、これは世界平均の1.5倍を超え、南米では最も高い水準である。<ref name="imf201410">{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/02/weodata/weorept.aspx?sy=2012&ey=2014&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=298&s=NGDP%2CNGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=71&pr.y=11|title=World Economic Outlook Database, October 2014|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2014-10|accessdate=2015-01-03}}</ref> [[メルコスール]]、[[南米共同体]]の加盟国であり、モンテビデオにはメルコスールの事務局がある。 ウルグアイの経済は国内市場が小さく、アルゼンチン、ブラジルとの貿易によって国の収支が大きく左右されるため、この二国の経済情勢の影響を大きく受ける。また、現在は南米で最も物価が高いと言われている。歴史的には19世紀から需要の高かった羊毛や牛肉の輸出により世界でも富裕な国となったが、1930年代から始まった[[重工業]]化は国内市場の小ささや化石資源の不足などの問題からあまり成功せず、朝鮮戦争が終わるころから代替技術の発展により世界市場でもウルグアイの農牧産品の需要が減り、畜産品[[モノカルチャー]]経済だったウルグアイはバッジェの[[福祉国家体制]]の支出を維持できずに破綻した。 === 農牧業 === {{see|{{仮リンク|ウルグアイの農業|en|Agriculture in Uruguay}}}} [[ファイル:Estanciahistorica-florida-uruguay.jpg|thumb|280px|歴史的に[[エスタンシア]]の中心地だったサン・エウヘニオのエスタンシア。エスタンシアはウルグアイの原風景である。フロリダ県南部。]] 農牧業は国の主産業であり、独立後長い間牛馬や羊の産品のモノカルチャー経済が続き、今も経済は農牧業に頼るところは大きい。今日においてはGDPの約10%ほどを占め、未だに主要な外貨の稼ぎ頭となっている。また、それだけには留まらず農牧業は20世紀の半ばまで、[[エスタンシア]]文化をはじめとするウルグアイの歴史的なアイデンティティにも繋がっていた。 ウルグアイの農牧業は他国に比べ、農業従事者に対する保護(手当て、農業機械などの援助)が弱く、それゆえヘクタール当たりの収益が少ないが、その分生産された農牧産品は「有機([[オーガニック]])食」「自然食」といった市場に適している。 牛肉はウルグアイの輸出総額の6分の1を占める主要輸出品である<ref name="朝日新聞"/>。 [[日本]]はウルグアイから、食肉の安全を守る技術を学ぶ研修員を[[1978年]]から受け入れており<ref name="朝日新聞">{{cite news |author=堀内隆 |title=〈世界から被災地へ〉元気になるコンビーフ |publisher=[[朝日新聞]]|date=2011-04-08|url=http://www.asahi.com/special/10005/TKY201104080144.html|accessdate=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170525104148/http://www.asahi.com/special/10005/TKY201104080144.html|archivedate=2017-05-25 |deadlinkdate=}}</ref>、[[東北地方太平洋沖地震|東日本大震災]]の際にウルグアイ政府は、「日本の皆様が元気になりますように」との[[日本語]]のメッセージが書かれた特別包装の[[コンビーフ|コンビーフ缶]]4600個を被災者に送っており、ウルグアイ食肉協会は「研修事業を通じて日本への愛着が培われた」と話している<ref name="朝日新聞"/>。 ウルグアイ産の牛肉は2000年に[[口蹄疫]]の発生から長らく日本に輸出されていなかったが、2019年に日本への輸出が解禁された<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45599850T00C19A6QM8000/ 輸入牛肉に新興勢 ウルグアイ産 19年ぶり登場] – 日本経済新聞2019年6月3日付記事 2019年6月23日閲覧</ref>。 東部のブラジルとの国境付近の県では[[米]]が栽培されている。北部は[[亜熱帯]]に近くなり、アルティーガス県では[[砂糖黍]]栽培が盛ん。 近年では産業としてエスタンシア観光が成長しつつあり、ウルグアイの伝統的なエスタンシアを見学しながら、ガウチョのフォルクローレなどを楽しむことが出来るようになった。 === 鉱業 === {{see|{{仮リンク|ウルグアイの鉱業|en|Mineral industry of Uruguay}}}} [[瑠璃]]、[[アメジスト]]、[[石灰岩]]などを産出するが、国土が平原と丘陵で高山がないため、鉱業自体があまり盛んとはいえない。 === 林業 === 前述のように森林資源に乏しい国である<ref name="paraulu1995" />。天然林は伐採禁止であり[[ユーカリ]]や[[松類]]を主体として[[人工林]]が利用される<ref name="paraulu1995" />。用途は薪炭用・建築用・パルプ用など多岐にわたっている。消費の場として国内市場は規模が小さいため主に輸出されているが<ref name="paraulu1995" />、国内に加工技術や品質管理基準がないために<ref name="paraulu1995" />、輸出先の一方的な条件で取引されがちな状況である<ref name="paraulu1995" />。近年[[ユーカリ]]による[[林業]]の成長が期待され、そのための[[サムライ債]]が発行された。 == 国民 == {{main|ウルグアイ人}} {{bar box |title=ウルグアイの人種構成(2011年時点)<ref name=enha_asc>{{cite web|title=Atlas Sociodemografico y de la Desigualdad en Uruguay, 2011: Ancestry |language=Spanish |format=PDF |publisher=National Institute of Statistics |url=http://www.ine.gub.uy/biblioteca/Atlas_Sociodemografico/Atlas_fasciculo_2_Afrouruguayos.pdf |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140209083630/http://www.ine.gub.uy/biblioteca/Atlas_Sociodemografico/Atlas_fasciculo_2_Afrouruguayos.pdf |archivedate=9 February 2014 |page=15|accessdate=2017年3月30日}}</ref> |titlebar=#ddd |left1= |float=right |bars= {{bar percent|白人|MistyRose|87.7}} {{bar percent|黒人|Black|4.6}} {{bar percent|インディヘナ|Peru|2.4}} {{bar percent|アジア系|Gold|0.2}} {{bar percent|その他|DimGray|5.1}} |caption= }} [[ファイル:Uruguay-demography.png|thumb|280px|1961年から2003年までのウルグアイの人口動態グラフ。]] 総人口のうちヨーロッパ系白人が87.7%、[[アフリカ系ウルグアイ人|黒人]]が4.6%、[[インディオ|インディヘナ]]および[[メスティーソ]]が2.4%を占める。極僅かながら[[日系人]]などのアジア系も存在する。 かつて[[バンダ・オリエンタル]]と呼ばれたこの地の住人は、自らを「オリエンターレス(東方人)」と呼び、独自のアイデンティティを持っていた。19世紀まではスペイン植民地の中でも[[コスタリカ]]と並んで特に辺境の地であったが、18世紀後半からの[[都市]]の発展により、[[黒人奴隷]]が[[ポルトガル王国|ポルトガル]]の奴隷商人によって[[アンゴラ]]や[[コンゴ]]付近や[[赤道ギニア]]から移入された。[[先住民]]の[[グアラニー人]]は18世紀に[[パラグアイ]]に撤退したが、地名にその影響を残している。一方独立戦争への参加により、1,000人ほどにまで数を減らしていた[[チャルーア人]]は、1831年のリベラ大統領の掃討作戦により虐殺され、絶滅した。この事件はウルグアイ人の心に大きな[[トラウマ]]となって残り、そのことを悔いてか、新聞のアンケート調査によれば、今でも約半数のウルグアイ人は自分に先住民の血が流れていると答え、毎年の事件の日が近くなると、モンテビデオ市内の「最後のチャルーア」の銅像に市民からの献花がなされる<ref>井上忠恕、後藤信男(著)『ビバ! ウルグアイ』STEP pp.20-28</ref>。[[2002年]]には、最後のチャルーア人の遺骨が169年ぶりに返還された。 === 人口 === {{see|{{仮リンク|ウルグアイの人口統計|en|Demographics of Uruguay}}}} ウルグアイの人口は、[[1828年]]の独立時には長年の[[戦争]]により74,000人程であり、[[パンパ]]開発のために他のラテンアメリカ諸国と同じように、[[ヨーロッパ]]から大規模に[[移民]]を呼ぶようになった。こうして[[スペイン人]]、特に[[ガリシア]]出身者を中心とした移民がやってきた。他に多かった移民は[[イタリア人]]であり、総数で見ればスペイン人よりも多く、[[フランス人]]と共にモンテビデオに定住した。また、独立直後の時期に[[イングランド人]]や[[スコットランド人]]が農村部に入り込み、近代的[[地主]]となった。 その後ウルグアイの人口は、1963年のセンサスでは2,592,583人、1976年推計では3,101,000人、1983年年央推計では約297万人となった。[[出生率]]はアルゼンチンより低く、ラテンアメリカでは最も低い部類に入る。 === 移民 === {{see|{{仮リンク|ウルグアイへの移民|en|Immigration to Uruguay}}}} 19世紀から20世紀にかけてウルグアイに移入した多様な移民の出身国を列挙すると、圧倒的に多いのはスペインとイタリアで、次いで[[フランス]]、[[ドイツ]]、[[ポルトガル]]、[[イギリス]]、[[スイス]]、[[ロシア]]、[[ポーランド]]、[[ブルガリア]]、[[ハンガリー]]、[[ウクライナ]]、[[リトアニア]]、[[エストニア]]、[[ラトビア]]、[[オランダ]]、[[ベルギー]]、[[クロアチア]]、[[ギリシア]]、[[スカンディナヴィア]]、[[アイルランド]]、そして[[アルメニア]]となる。 移民受け入れ国だったウルグアイも、軍政期の1963年から1985年にかけて、推定約33万人、国民の約10%が国外脱出した<ref>{{Cite news |author= |url=http://countrystudies.us/uruguay/30.htm |title=Population |newspaper= |publisher={{仮リンク|カントリースタディ|en|Library of Congress Country Studies}}|date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110430025459/http://countrystudies.us/uruguay/30.htm |archivedate=2011-04-30}}</ref>。ただし、こうして去っていった人々の中には民政に移管した1980年代以降に帰国した者もいた。 [[2014年]][[12月7日]]、[[グアンタナモ湾収容キャンプ]]の収容者を受け入れる方針を示していたウルグアイ政府は、[[アメリカ軍機の一覧|アメリカ軍機]]に輸送され、[[グアンタナモ湾収容キャンプ]]の収容者が到着したことを受けて、「ウルグアイは世界中から[[移民]]を受け入れて成り立ってきた国であり、また[[平和]]のための国際的手段の世界の前衛として、歴史的に多くの[[難民]]などを受け入れてきた。グアンタナモ収容者の受け入れは、このような[[ウルグアイの歴史]]の延長線上にあり、人道的な理由によるものである。ウルグアイ政府は難民申請に応じ、彼らに対し、国際的人権保護の基準を厳密に維持するものである。また、[[米国の対キューバ禁輸措置|兄弟国キューバへの封鎖の解除]]、プエルトリコ独立の闘志で政治的囚人のオスカル・ロペス・リベラ及びキューバ人囚人アントニオ・ゲレロ、ラモン・ラバニーニョ、ヘラルド・エルナンデスの釈放を改めて要求する」という見解を表明した<ref name="外務省12">{{Cite news|url=https://www.uy.emb-japan.go.jp/japones/Info%20Uruguay/naisei%20gaiko/Naisei%20Diciemb%202014.pdf |title=定期報告(ウルグアイ内政・外交:2014年12月) |author=|publisher=[[外務省]]|date=2015-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210810160036/https://www.uy.emb-japan.go.jp/japones/Info%20Uruguay/naisei%20gaiko/Naisei%20Diciemb%202014.pdf |format=PDF |archivedate=2021-08-10}}</ref>。 近年は[[シリア内戦]]に伴う[[シリア]]からの[[難民]]を受け入れている<ref>{{Cite news|author=|url=http://www.sankei.com/west/news/151110/wst1511100004-n1.html|title=「最も貧しい大統領」の温情がアダ…南米小国が助けたシリア難民「出国させろ」の皮肉|publisher=[[産経新聞]]|date=2015-11-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160815175752/http://www.sankei.com/west/news/151110/wst1511100004-n1.html|archivedate=2016-08-15|accessdate=}}</ref><ref>{{Cite news|author=|url=http://www.sankei.com:80/west/news/151110/wst1511100004-n2.html|title=「最も貧しい大統領」の温情がアダ…南米小国が助けたシリア難民「出国させろ」の皮肉|publisher=[[産経新聞]]|date=2015-11-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160320155719/http://www.sankei.com:80/west/news/151110/wst1511100004-n2.html|archivedate=2016-03-20|accessdate=}}</ref><ref>{{Cite news|author=|url=http://www.sankei.com:80/west/news/151110/wst1511100004-n3.html|title=「最も貧しい大統領」の温情がアダ…南米小国が助けたシリア難民「出国させろ」の皮肉|publisher=[[産経新聞]]|date=2015-11-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160220220316/http://www.sankei.com:80/west/news/151110/wst1511100004-n3.html|archivedate=2016-02-20|accessdate=}}</ref><ref>{{Cite news|author=|url=http://www.sankei.com:80/west/news/151110/wst1511100004-n4.html|title=「最も貧しい大統領」の温情がアダ…南米小国が助けたシリア難民「出国させろ」の皮肉|publisher=[[産経新聞]]|date=2015-11-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160219233936/http://www.sankei.com:80/west/news/151110/wst1511100004-n4.html|archivedate=2016-02-19|accessdate=}}</ref>。 === 言語 === 憲法上の明記はないものの、[[スペイン語]](正確には一方言の[[リオプラテンセ・スペイン語]])が事実上の公用語となっている。ブラジル国境付近の[[リベラ (ウルグアイ)|リベラ市]]には[[ウルグアイポルトガル語]](フロンテイリソ方言)を話す人々がおり、同じく[[リベラ県]]には[[アラビア語]]を話す[[アラブ人]]のコミュニティが存在する。 === 宗教 === {{see|ウルグアイの宗教}} ウルグアイでは[[1918年]]憲法によって国家とカトリック教会が[[政教分離|法的に分離]]した<ref>内田みどり「ウルグアイの新しい社会と女性 先進国の憂鬱」『ラテンアメリカ新しい社会と女性』国本伊代:編、新評論 2000年3月</ref>。国民の62%は[[カトリック教会|カトリック]]を信仰し、少数派として4%が[[プロテスタント]]、3%が[[ユダヤ教]]であり、残りの31%が[[無宗教]]である。19世紀半ばにやってきたヨーロッパ系移民に[[アナキズム|無政府主義者]]が多かったことから、無信教の国民が多く、また[[カトリック教会]]の影響力もラテンアメリカの中では特に薄いとされる。 === 教育 === {{see|ウルグアイの教育}} 2003年の推計では、15歳以上の国民の[[識字率]]は[[1996年]]の調査で98%であり<ref>https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/uy.html 2009年3月30日閲覧</ref>、これは[[ラテンアメリカ]]ではアルゼンチン、[[キューバ]]、[[チリ]]と並んで最高水準である。主な高等教育機関としては、{{仮リンク|共和国大学|es|Universidad de la República}}(1849年)、教員養成所である{{仮リンク|アルティガス師範学校|es|Instituto de Profesores Artigas}}などが挙げられる。 ウルグアイの[[公立学校]]には、しばしば国の名前がついているものがあり、「日本」学校は4つある<ref>{{Cite news|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/kuni/0103uruguay.html |title=世界の学校を見てみよう ウルグアイ東方共和国(Oriental Republic of Uruguay)|author=|publisher=[[外務省]]|date=2012-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151115114211/https://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/kuni/0103uruguay.html |archivedate=2015-11-15}}</ref>。 ウルグアイ唯一の[[国立大学|総合国立大学]]である{{仮リンク|共和国大学|es|Universidad de la República}}では、日本から[[シニア海外協力隊|シニアボランティア]]が講師として派遣されており、[[アジア#言語|アジア言語]]で唯一、[[日本語]]講座が正規の授業として開講されており、ウルグアイは日本への関心が高い国である<ref>{{Cite news|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/mail/bn_205.html |title=ODAメールマガジン第205号 |author=|publisher=[[外務省]]|date=2011-05-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20201123225615/https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/mail/bn_205.html |archivedate=2020-11-23}}</ref>。 === 結婚 === 2013年より、[[同性婚]]が法的に可能となった。 === 社会問題 === 国連の調査によると、ウルグアイの[[ジニ係数]]は0.448となる。これは周辺国に比べれば低い。2002年の調査では、同じ仕事についている男性と女性では、女性の賃金は男性の71.8%になる。また、黒人の平均収入は白人の平均収入の約65%である。 === 治安 === かつては中南米諸国の中で安全な国と言われてきたが、2012年8月に内務省が発表した同年7月までの犯罪統計は、前年同期に比べて殺人が56.7%増、強盗が5.3%増と、凶悪犯罪が急増している。特に人口の集中している[[モンテビデオ県]]、[[カネローネス県]]、[[マルドナド県]]において犯罪が多発している。また、少年犯罪への処分が軽く、青少年向けの収容施設も十分に機能していないため、出所後の再犯率が高くなっている<ref name="名前なし-1">http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure.asp?id=242 2014年12月20日閲覧</ref><ref>http://www.anzen.mofa.go.jp/manual/uruguay.html 2014年12月20日閲覧</ref>。 銃器の所持について規制はあるものの、比較的容易に入手する事ができる。また、不法な流通により、国民の3人に1人は銃器を所持していると推定されており、これを利用した凶悪犯罪も多発している<ref name="名前なし-1"/>。2013年、世界では初のマリファナなどの大麻を合法化した。密売価格を下落させるのが狙いという<ref>{{Cite news|title=マフィア滅ぼす合法大麻 ウルグアイ、世界初の法案可決|newspaper=[[MSN産経ニュース]]|date=2013-12-12|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/131212/asi13121213570004-n1.htm|access-date=2022-09-03|archive-url=https://web.archive.org/web/20131212075718/http://sankei.jp.msn.com/world/news/131212/asi13121213570004-n1.htm|archive-date=2013-12-12}}</ref>。 == 交通 == {{Main|{{仮リンク|ウルグアイの交通|en|Transport in Uruguay}}}} === 鉄道 === {{main|ウルグアイの鉄道}} === 道路 === {{節スタブ}} === 航空 === {{main|ウルグアイの空港の一覧}} == 文化 == {{main|{{仮リンク|ウルグアイの文化|en|Culture of Uruguay}}}} === 食文化 === {{main|{{仮リンク|ウルグアイ料理|en|Uruguayan cuisine}}}} [[ファイル:Asado.jpg|180px|thumb|[[アサード]]。]] [[ファイル:Flan con dulce de leche.jpg|180px|thumb|left|[[ドゥルセ・デ・レチェ]](左側奥)。]] 隣国アルゼンチンと同じく大畜産国である歴史を反映して、ウルグアイでは[[アサード]]や[[チュラスコ]]、[[チョリソ]]など肉を多く食べる。特に[[牛肉]]が好まれる<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=「気高い動物」を食用処理 ウルグアイで馬救出の取り組み |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3446804 |website=www.afpbb.com |access-date=2023-01-25 |language=ja}}</ref>。文化的な理由で[[馬肉]]は忌避されるが、輸出は行っている<ref name=":0" />。 イタリア移民が多いため[[スパゲッティ]]などの[[パスタ]]類も広く食べられている。その他の料理には[[エンパナーダ]]、[[ドゥルセ・デ・レチェ]]などがある。 ラ・プラタ諸国の中でも特に[[マテ茶]]を好む国であり、[[アルゼンチン人]]とウルグアイ人を見分ける時は、マテ壺を24時間手放さないのがウルグアイ人であるといわれている。ウルグアイ人はマテ茶を''アマルゴ''(砂糖なし)にして飲むことを好む。 === 文学 === {{Main|ウルグアイ文学|ラテンアメリカ文学}} 1819年にアルティーガスに仕えた[[連邦同盟]]の軍人だった{{仮リンク|バルトロメ・イダルゴ|es|Bartolomé Hidalgo}}が{{仮リンク|ガウチョ文学|en|Gaucho literature}}を開始した。それまで浮浪者同様に見られていた[[ガウチョ]]を解放戦争の真の主体として描き、ウルグアイ、アルゼンチンのアイデンティティと結びつけた最初の人間である。 また、ウルグアイは19世紀末から20世紀初頭の[[モデルニスモ文学]]の中心地の一つであり、[[ラテン・アメリカ]]最大の詩人と呼ばれる[[ニカラグア]]の[[ルベン・ダリオ]]に次ぐ唯一の詩人{{仮リンク|ホセ・エンリケ・ロドー|es|José Enrique Rodó|en|José Enrique Rodó}}の出身地である。代表作は[[アメリカ合衆国]]のラテン・アメリカに対する覇権主義を最初に警告した『{{仮リンク|アリエル (随筆)|es|Ariel (ensayo)|label=アリエル}}』(1900)など。[[ホセ・マルティ]]と同様にアメリカ合衆国との対比でラテンアメリカの精神文明を称揚したころのウルグアイは、ラテンアメリカ・ナショナリズムの中心地の一つであった。 20世紀以降の作家には、[[ノーベル文学賞]]に数回ノミネートされた女流詩人の{{仮リンク|フアナ・デ・イバルボウロウ|en|Juana de Ibarbourou}}や、[[セルバンテス賞]]作家の[[フアン・カルロス・オネッティ]]、『[[収奪された大地 ラテンアメリカ五百年]]』(1971)で知られるジャーナリストの[[エドゥアルド・ガレアーノ]]、他にも[[マリオ・ベネデッティ]]や[[フェリスベルト・エルナンデス]]、{{仮リンク|クリスティーナ・ペリ・ロッシ|es|Cristina Peri Rossi|en|Cristina Peri Rossi}}らが挙げられる。 === 音楽 === {{Main|ウルグアイ音楽|ラテン音楽}} [[ファイル:Murgas (Vazquez, Marzo 2005 -2).jpg|thumb|ウルグアイの[[ムルガ]]のグループ。]] [[タンゴ]]([[ウルグアイ・タンゴ]])や[[ミロンガ]]、ブラジルの[[バツカーダ]]に似た黒人音楽[[カンドンベ]]や、[[ムルガ]]といった音楽の本場であり、[[チャマメ]]や[[パジャドール]]など幾つかの[[フォルクローレ]]はアルゼンチンと共通している。フォルクローレにおいて、特に有名な人物としては[[アルフレド・シタロッサ]]の名が挙げられる。タンゴにおいては、古典となっている「[[ラ・クンパルシータ]]」(1917)を作曲したのはウルグアイ出身の[[ヘラルド・マトス・ロドリゲス]]である。 多くのミュージシャンは市場規模の違いから[[ブエノスアイレス]]や[[スペイン]]に渡って活動する傾向があるため、古くは[[フランシスコ・カナロ]]、[[フリオ・ソーサ]]、[[ドナート・ラシアッティ]]、[[ルベン・ラダ]]、[[エドゥアルド・マテオ]]から、[[ハイメ・ロース]]、スペイン語で初めて[[アカデミー賞]]を取った、[[ホルヘ・ドレクスレル]]に至るまで、アルゼンチンやスペインの音楽界で活躍するのが実はウルグアイ人だったという事例には事欠かない。また、[[ロック (音楽)|ロック]]が盛んで[[ウルグアイのロック]]はブエノスアイレスの音楽シーンで人気を博したことを皮切りに、1960年代半ばまでの南米市場を席巻した。この現象はアメリカでは[[ウルグアヤン・インベイジョン]]とも呼ばれる。 === 美術 === [[ファイル:Joaquín Torres García - América Invertida.jpg|180px|thumb|''América invertida(ひっくり返ったアメリカ)'' (1943年) [[ホアキン・トーレス・ガルシア]]画。]] ウルグアイ出身の画家としては、歴史画の[[フアン・マヌエル・ブラネス]]や[[ギジェルモ・ラボルデ]]、ペトローナ・ビエラなどの名が挙げられる。1930年代の抽象絵画の[[ホアキン・トーレス・ガルシア]]は特に有名である。 === 映画 === {{main|{{仮リンク|ウルグアイの映画|en|Cinema of Uruguay}}}} ウルグアイにおいて映画製作は盛んではないが、「[[ウイスキー]]」(2004)の[[フアン・パブロ・レベージャ]]と[[パブロ・ストール]]は著名な映像作家として挙げられる。 === 世界遺産 === {{Main|ウルグアイの世界遺産}} ウルグアイ国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が2件存在する。 === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|ウルグアイの祝日|en|Public holidays in Uruguay}}}} {| class="wikitable" style= |+ ! 日付 !! 日本語表記 !! 現地語表記 !! 備考 |- |[[1月1日]] || [[元日]] || Año nuevo || |- |[[1月6日]] || [[公現祭]] || Día de los niños || |- |可変 || [[謝肉祭|カルナバル]] || Carnaval || |- |可変 || [[聖週間]] || Semana de turismo || |- |[[4月19日]] || [[33人の東方人]]上陸の日 || Desembarco de los 33 Orientales || |- |[[5月1日]] || [[メーデー]] || Día de los trabajadores || |- |[[5月18日]] || [[ラス・ピエドラスの戦い]]の日 || Batalla de Las Piedras || |- |[[6月19日]] || {{仮リンク|ホセ・ヘルバシオ・アルティーガス|en|José Gervasio Artigas|label=ホセ・アルティーガス}}生誕の日 || Natalicio de José Artigas || |- |[[7月18日]] || [[憲法記念日|憲法宣誓の日]] || Jura de la Constitución || |- |[[8月25日]] || [[独立宣言]]の日 || Declaratoria de la Independencia || |- |[[10月12日]] || [[民族]]の日 || Día de las Américas || |- |[[11月2日]] || [[死者の日]] || Día de los difuntos || |- |[[12月25日]] || [[クリスマス]] || Día de la familia |} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|ウルグアイのスポーツ|en|Sport in Uruguay}}}} {{See also|オリンピックのウルグアイ選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|ウルグアイのサッカー|en|Football in Uruguay}}}} [[ファイル:Estadio centenario 2.JPG|thumb|[[1930 FIFAワールドカップ|第1回ワールドカップ]]が開かれた[[エスタディオ・センテナリオ]]。]] [[File:Uruguay national football team 1930.jpg|thumb|right|250px|[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ代表チーム]] (1930年撮影)]] [[ウルグアイサッカー協会]](AUF)によって構成される[[サッカーウルグアイ代表]]は、[[1930年]]に行われた[[FIFAワールドカップ]]の[[1930 FIFAワールドカップ|第1回大会]]で'''初代優勝国'''となり、[[ブラジル]]で開催された[[1950年]]の[[1950 FIFAワールドカップ|第4回大会]]でも、[[リオデジャネイロ]]の[[エスタジオ・ド・マラカナン|マラカナン・スタジアム]]で行われた決勝戦にて、アウェーの満員のスタジアムで[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]を逆転で破り、2度目の優勝に輝いている。なお、この試合はブラジル側から見た「[[マラカナンの悲劇]]」である。さらに[[オリンピックのサッカー競技|オリンピック]]でも、[[1924年]]の[[1924年パリオリンピックのサッカー競技|パリ五輪]]と[[1928年]]の[[1928年アムステルダムオリンピックのサッカー競技|アムステルダム五輪]]で大会連覇を達成している。 しかし、[[FIFAワールドカップ]]の[[1970 FIFAワールドカップ|1970年大会]]でベスト4入りして以降は優勝候補から遠ざかっており、長らく'''古豪'''と呼ばれ低調が続いていたが、[[2010 FIFAワールドカップ|2010年大会]]では[[2010 FIFAワールドカップ・南米予選|南米予選]]を5位となり、[[2010 FIFAワールドカップ・北中米カリブ海予選|北中米カリブ海]]4位の[[サッカーコスタリカ代表|コスタリカ代表]]との大陸間プレーオフに勝利し本大会出場を決め、その本大会では40年ぶりのベスト4入りを果たした<ref>[http://www.fifa.com/worldcup/matches/round=249718/match=300061508/index.html 2010 FIFAワールドカップ ウルグアイ対ガーナ] FIFA.com</ref>。さらに翌年の[[コパ・アメリカ2011]]では、その勢いのまま6大会ぶり15回目の優勝を果たし、サッカー強豪国として復活を強く印象付けた<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/copa/text/201107280004-spnavi.html ウルグアイ、南米を制した偉大なチームの可能性] -スポーツナビ: 2011年7月29日</ref>。 [[1900年]]にはプロリーグの[[プリメーラ・ディビシオン (ウルグアイ)|プリメーラ・ディビシオン]]が創設されており、リーグは120年以上の長い歴史を誇っている。主なクラブとしては、[[CAペニャロール|ペニャロール]]、[[クルブ・ナシオナル・デ・フットボール|ナシオナル]]、[[デフェンソール・スポルティング]]などが挙げられる。さらに[[ウルグアイ人]]の著名な選手として、[[ディエゴ・ゴディン]]、[[ディエゴ・フォルラン]]、[[ルイス・アルベルト・スアレス|ルイス・スアレス]]、[[エディンソン・カバーニ]]、[[フェデリコ・バルベルデ]]などが存在している。 == 著名な出身者 == {{Main|ウルグアイ人の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == ; 歴史 * {{Cite book|和書|author=エドゥアルド・ガレアーノ|authorlink=エドゥアルド・ガレアーノ|translator=大久保光夫|date=1986年9月|title=[[収奪された大地 ラテンアメリカ五百年|収奪された大地──ラテンアメリカ五百年]]|series=|publisher=[[新評論]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=ガレアーノ/大久保訳(1986)}} * {{Cite book|和書|author1=中川文雄|authorlink1=中川文雄|author2=松下洋|authorlink2=松下洋|author3=遅野井茂雄|authorlink3=遅野井茂雄|date=1985年1月|title=ラテン・アメリカ現代史III|series=世界現代史34|publisher=[[山川出版社]]|location=[[東京]]|isbn=4-634-42280-8|ref=中川、松下、遅野井(1985)}} * {{Cite book|和書|editor=増田義郎|editor-link=増田義郎|date=2000年7月|title=ラテンアメリカ史II|series=新版世界各国史26|publisher=[[山川出版社]]|location=[[東京]]|isbn=4-634-41560-7|ref=増田編(2000)}} ; 政治 * {{Cite book|和書|author=後藤政子|authorlink=後藤政子|date=1993年4月|title=新現代のラテンアメリカ|series=|publisher=[[時事通信社]]|location=[[東京]]|isbn=4-7887-9308-3|ref=後藤(1993)}} ; 地理 * {{Cite book|和書|editor=下中彌三郎|editor-link=下中彌三郎|date=1954年|title=ラテンアメリカ|series=世界文化地理体系24|publisher=[[平凡社]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=下中(1954)}} * {{Cite book|和書|author1=P.E.ジェームズ|authorlink1=P.E.ジェームズ|translator=[[山本正三]]、[[菅野峰明]]|date=1979年|title=ラテンアメリカII|publisher=[[二宮書店]]|isbn=|ref=ジェームズ/山本、菅野訳(1979)}} * {{Cite book|和書|editor=野沢敬|editor-link=野沢敬|date=1986年|title=ラテンアメリカ|series=朝日百科世界の地理12|publisher=[[朝日新聞社]]|location=[[東京]]|isbn=4-02-380006-6|ref=野沢(1986)}} * {{Cite book|和書|editor=福井英一郎|editor-link=福井英一郎|date=1978年|title=ラテンアメリカII|series=世界地理15|publisher=[[朝倉書店]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=福井(1978)}} ; 社会 * {{Cite book|和書|editor1=中川文雄|editor1-link=中川文雄|editor2=三田千代子|editor2-link=三田千代子|date=1995年10月|title=ラテン・アメリカ人と社会|series=ラテンアメリカ・シリーズ4|publisher=[[新評論]]|location=[[東京]]|isbn=4-7948-0272-2|ref=中川、三田編(1995)}} * [[内田みどり]]「ウルグアイの新しい社会と女性──先進国の憂鬱」『ラテンアメリカ──新しい社会と女性』[[国本伊代]]編、[[新評論]]、2000年3月。 ; ジャーナリズム * {{Cite book|和書|author1=井上忠恕|authorlink1=井上忠恕|author2=後藤信男|authorlink2=後藤信男|date=2003年3月|title=ビバ!ウルグアイ──ワールドカップを制した人口三〇〇万人の小国|series=|publisher=STEP|location=[[つくば市|つくば]]|isbn=4-915834-49-2|ref=井上、後藤(2003)}} == 関連項目 == * [[ウルグアイ関係の記事一覧]] * [[ウルグアイ・ラウンド]] * [[メソポタミア (アルゼンチン)|メソポタミア地方]] * [[ガウチョ]] == 外部リンク == {{Wiktionary}} {{Commons&cat|Uruguay}} {{osm box|r|287072}} * 政府 ** [https://www.presidencia.gub.uy/ ウルグアイ大統領府] {{es icon}} ** [https://www.gub.uy/ ウルグアイ政府ポータル] {{es icon}} * 日本政府 ** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/uruguay/index.html 日本外務省 - ウルグアイ] {{ja icon}} ** [https://www.uy.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在ウルグアイ日本国大使館] {{ja icon}} * 観光 ** [http://www.turismo.gub.uy/ ウルグアイ観光スポーツ省] {{es icon}}{{en icon}} ** [http://www.mercosur.jp/04_uruguay/index.html メルコスール観光サイト - ウルグアイ] {{ja icon}} ** {{ウィキトラベル インライン|ウルグアイ|ウルグアイ}} {{ja icon}} ** {{Wikivoyage-inline|es:Uruguay|ウルグアイ{{es icon}}}} ** {{Wikivoyage-inline|Uruguay|ウルグアイ{{en icon}}}} * その他 ** {{CIA World Factbook link|uy|Uruguay}} {{en icon}} ** {{Curlie|Regional/South_America/Uruguay}} {{en icon}} ** {{Wikiatlas|Uruguay}} {{en icon}} ** {{Googlemap|アルゼンチン}} ** {{Kotobank}} {{南米共同体}} {{アメリカ}} {{OIF}} {{CPLP}} {{Normdaten}} {{Coord|34|53|S|56|10|W|type:country_region:UY|display=title}} {{DEFAULTSORT:うるくあい}} [[Category:ウルグアイ|*]] [[Category:南アメリカの国]] [[Category:共和国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:フランコフォニーのオブザーバー]]
2003-02-25T00:56:15Z
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Network News Transfer Protocol
Network News Transfer Protocol(ネットワーク ニュース トランスファー プロトコル、NNTP)は、インターネットアプリケーションプロトコルのひとつである。おもに、ネットニュース (Usenet) の記事を読むことと記事を投稿することのために使われる。記事はニュースサーバ間を相互に配送される。カリフォルニア大学サンディエゴ校のBrian Kantorとカリフォルニア大学バークレー校のPhil LapsleyがNetwork News Transfer Protocolの仕様であるRFC 977を1986年の5月に完成させた。他の貢献者として、Baylor College of MedicineのStan BarberとApple ComputerのErik Fairがいる。 UsenetはもともとはUUCPネットワーク上での使用を前提として設計された。つまり、ほとんどの記事は電話回線で直接コンピュータ同士を接続して配送されていた。読者と投稿者は同じニュースサーバにログインし、そのサーバのディスクにある記事を直接読んでいた。 LANとインターネットが一般に普及すると、パーソナルコンピュータ上で使用できるニュースリーダーと、インターネット上で記事を配送する手段が必要とされた。インターネットで互換性のあるファイルシステムがまだ広くは利用できなかったため、SMTP に類似した新しいプロトコルを作ることになった。 ウェルノウンTCPポート番号である119番はNNTPのために予約されている。クライアントがSSLでニュースサーバに接続するときはTCPのポート563番が使われる。これはNNTPSと呼ばれることがある。 最近では、Webで利用可能なBBSやその他インターネットコミュニティサイトが普及したことと、NNTPがボットネットの活動に利用されることが多くなったことが原因で、殆ど利用されなくなってきている。 1990年代のはじめにNNTP標準が策定されようとしていたとき、NNTPをクライアント側での使用に特化したもの (NNRP) が提案された。このプロトコルは決して完全には実装されていなかったが、INNに付属するnnrpdというプログラムでその名前が使われ続けている。結果として、クライアントにとって使いやすい標準的なNNTPコマンドのサブセットが、今もNNRPと呼ばれている。 en:Network News Transfer Protocol 2006-05-02 12:34 UTCより翻訳。著者 : Aldie, Nanshu, Christian, Fleminra ほか
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Network News Transfer Protocolは、インターネットアプリケーションプロトコルのひとつである。おもに、ネットニュース (Usenet) の記事を読むことと記事を投稿することのために使われる。記事はニュースサーバ間を相互に配送される。カリフォルニア大学サンディエゴ校のBrian Kantorとカリフォルニア大学バークレー校のPhil LapsleyがNetwork News Transfer Protocolの仕様であるRFC 977を1986年の5月に完成させた。他の貢献者として、Baylor College of MedicineのStan BarberとApple ComputerのErik Fairがいる。 UsenetはもともとはUUCPネットワーク上での使用を前提として設計された。つまり、ほとんどの記事は電話回線で直接コンピュータ同士を接続して配送されていた。読者と投稿者は同じニュースサーバにログインし、そのサーバのディスクにある記事を直接読んでいた。 LANとインターネットが一般に普及すると、パーソナルコンピュータ上で使用できるニュースリーダーと、インターネット上で記事を配送する手段が必要とされた。インターネットで互換性のあるファイルシステムがまだ広くは利用できなかったため、SMTP に類似した新しいプロトコルを作ることになった。 ウェルノウンTCPポート番号である119番はNNTPのために予約されている。クライアントがSSLでニュースサーバに接続するときはTCPのポート563番が使われる。これはNNTPSと呼ばれることがある。 最近では、Webで利用可能なBBSやその他インターネットコミュニティサイトが普及したことと、NNTPがボットネットの活動に利用されることが多くなったことが原因で、殆ど利用されなくなってきている。
{{IPstack}} '''Network News Transfer Protocol'''(ネットワーク ニュース トランスファー プロトコル、'''NNTP''')は、[[インターネット]]アプリケーション[[通信プロトコル|プロトコル]]のひとつである。おもに、[[ネットニュース]] (Usenet) の記事を読むことと記事を投稿することのために使われる。記事は[[:en:news server|ニュースサーバ]]間を相互に配送される。[[カリフォルニア大学サンディエゴ校]]のBrian Kantorと[[カリフォルニア大学バークレー校]]の[[:en:Phil Lapsley|Phil Lapsley]]がNetwork News Transfer Protocolの仕様である{{IETF RFC|977}}を[[1986年]]の5月に完成させた。他の貢献者として、[[:en:Baylor College of Medicine|Baylor College of Medicine]]のStan Barberと[[Apple|Apple Computer]]のErik Fairがいる。 Usenetはもともとは[[UUCP]]ネットワーク上での使用を前提として設計された。つまり、ほとんどの記事は電話回線で直接コンピュータ同士を接続して配送されていた。読者と投稿者は同じニュースサーバにログインし、そのサーバのディスクにある記事を直接読んでいた。 [[Local Area Network|LAN]]とインターネットが一般に普及すると、[[パーソナルコンピュータ]]上で使用できるニュースリーダーと、インターネット上で記事を配送する手段が必要とされた。インターネットで互換性のあるファイルシステムがまだ広くは利用できなかったため、[[Simple Mail Transfer Protocol|SMTP]] に類似した新しいプロトコルを作ることになった。 [[TCPやUDPにおけるポート番号の一覧#ウェルノウンポート|ウェルノウンTCPポート番号]]である119番はNNTPのために予約されている。クライアントが[[Secure Sockets Layer|SSL]]でニュースサーバに接続するときはTCPのポート563番が使われる<ref>'''STARTTLS'''拡張コマンドでTLS (SSL) へ移行する方法が{{IETF RFC|4642}}で提案されている。</ref>。これは'''NNTPS'''と呼ばれることがある。 最近では、Webで利用可能な[[電子掲示板|BBS]]やその他[[インターネットコミュニティ]]サイトが普及したことと、NNTPが[[ボットネット]]の活動に利用されることが多くなったことが原因で、殆ど利用されなくなってきている。 == Network News Reader Protocol (NNRP) == 1990年代のはじめにNNTP標準が策定されようとしていたとき、NNTPをクライアント側での使用に特化したもの (NNRP) が提案された。このプロトコルは決して完全には実装されていなかったが、[[:en:InterNetNews|INN]]に付属する'''nnrpd'''というプログラムでその名前が使われ続けている。結果として、クライアントにとって使いやすい標準的なNNTPコマンドのサブセットが、今も'''NNRP'''と呼ばれている。 ==<span id="NNTP"></span>NNTP サーバソフトウェア== * [[Leafnode]] * [[InterNetNews]] * [[C News]] * [[Apache James]] * [[Synchronet]] * [[Cyrus IMAP server]] * [[Diablo (ソフトウェア)|Diablo]] == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ニュースグループ]] * [[ネットニュース]] * [[電子掲示板]] * [[SCTP]] == 外部リンク == * Kantor, Brian and Phil Lapsley. {{IETF RFC|977}} "Network News Transfer Protocol: A Proposed Standard for the Stream-Based Transmission of News." [[1986年|1986]]. (Obsoleted by: 3977) * Horton, Mark, and R. Adams. {{IETF RFC|1036}} "Standard for Interchange of USENET Messages." [[1987年|1987]]. (Obsoleted by: 5536, 5537) * [http://www.academ.com/academ/nntp/ietf/1996-July/000022.html NNTP Version 2 draft] an early, abandoned attempt to revise NNTP * Barber, Stan, et al. {{IETF RFC|2980}} "Common NNTP Extensions." [[2000年|2000]] (Updated by: 3977, 4643, 4644, 6048) * [http://www.eyrie.org/~eagle/nntp/ietf.html IETF nntpext Working Group] * {{IETF RFC|3977}} "Network News Transfer Protocol (NNTP)" (Updated by: 6048) * {{IETF RFC|4642}} "Using Transport Layer Security (TLS) with Network News Transfer Protocol (NNTP)" (Updated by: 8143, 8996) * {{IETF RFC|4643}} "Network News Transfer Protocol (NNTP) Extension for Authentication" * {{IETF RFC|4644}} "Network News Transfer Protocol (NNTP) Extension for Streaming Feeds" * {{IETF RFC|6048}} "Network News Transfer Protocol (NNTP) Additions to LIST Command" * {{IETF RFC|8143}} "Using Transport Layer Security (TLS) with Network News Transfer Protocol (NNTP)" * {{IETF RFC|850}} "Standard for Interchange of USENET Messages" (Obsoleted by: 1036) * {{IETF RFC|1036}} "Standard for Interchange of USENET Messages" (Obsoleted by: 5536, 5537) * {{IETF RFC|5536}} "Netnews Article Format" * {{IETF RFC|5537}} "Netnews Architecture and Protocols" (Updated by: 8315) * {{IETF RFC|8315}} "Cancel-Locks in Netnews Articles" * {{IETF RFC|4707}} "Netnews Administration System (NAS)" (EXPERIMENTAL) == 翻訳元 == <!--これは改変しないでください。さもなければGFDL上の問題となります--> ''[[:en:Network News Transfer Protocol]] 2006-05-02 12:34 UTCより翻訳。著者 : Aldie, Nanshu, Christian, Fleminra ほか'' {{Computer-stub}} {{URI scheme}} [[Category:ネットニュース]] [[Category:アプリケーション層プロトコル]] [[Category:インターネット標準]] [[Category:RFC|0977]]
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北大西洋条約機構
北大西洋条約機構(きたたいせいようじょうやくきこう)は、北大西洋同盟(きたたいせいようどうめい)とも呼ばれ、北米2か国と欧州29か国の計31か国が加盟する、北大西洋両岸にまたがる集団防衛機構である。 NATOには超国家的な中央機構は存在しておらず、その盟主は「各加盟国の政府それぞれ」であり「各国政府の権利は平等」とされている。そのため中央機関であり、加盟国の政府代表が参加する北大西洋理事会(英: North Atlantic Council、NAC)においては、あらゆる議案が全会一致によって承認・決定されている。多数決の制度は採用されていない。 理事会ではNATOが抱えるあらゆる問題が協議され、各加盟国からの代表によって週1回行われる「常設理事会」と、慣例上年2回行われる外相・国防相など閣僚級の理事会、さらに臨時で行われる首脳会合などによって意思決定が行われる。この席上においてNATO事務総長は理事会の実施する各種会議の議長としての役職を担い、事務総局はその補佐を行う。 また一時期フランスがNATO軍事機構からの脱退、およびその理由として挙げられた「アメリカ合衆国連邦政府(アメリカ軍)主導による軍事計画の進行」という事由から、特に軍事関係の意思決定は理事会ではなく各国の国防相により構成される「防衛計画委員会」によって行われる。また核問題に関しては専門の「核計画グループ」も存在しており、核に関連する項目に関しては理事会と同等の権限が付与されている。 これら理事会・防衛計画委員会の下にはさらに、この2つの組織を支援するための常設委員会が設置されており、また必要にあわせて臨時の委員会も設置が可能となっている。 軍事機構に関しては、「軍事委員会」が理事会と防衛計画委員会の決定のもとでNATO軍の各級司令部を統制する。この軍事委員会は任期制の委員長と各加盟国軍の参謀総長クラスの将官によって構成され、下部組織として加盟国の大将・中将により構成される『常設軍事代表委員会』、各国軍の派遣幕僚による「国際参謀部」が付設されている。 当初は軍事計画の立案を実施する「常設グループ」(アメリカ合衆国首都ワシントンD.C.に設置)と「地域計画グループ」(各地域に設置)のみが設置されており、本格的な軍事機構が設置されるのは旧西ドイツが加盟して以降であった。軍事機構の成立後、NATOの各級司令部は概してアメリカ方面と欧州方面とに分かれており、その組織機構の大半は欧州に集中している。 これらの組織は地域レベルの司令部や特定種類の部隊・集団の統括組織としての役割を持つが、平時において下部組織に対しては査察権限のみを有し、指揮統制権は戦時にのみ発生するものとされている。ただし、航空関係の各部隊は即応性を求められることもあり、その大半が既に各級司令部の指揮下に収められている。 歴史的背景から、米軍はNATO諸国に多くの部隊を配置している。以下各国ごとの米軍駐留状況を示す。 第二次世界大戦後に1949年4月4日にアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.で調印された北大西洋条約に基づき設立された。略称は英語で NATO(ナトー、発音: [ˈneɪtoʊ] "ネイトウ"、North Atlantic Treaty Organization)、フランス語で OTAN(Organisation du Traité de l'Atlantique Nord)。NATOは集団安全保障のシステムであり、独立した加盟国は第三国(者)による攻撃から互いに防衛することに合意している。冷戦時代、NATOはソビエト連邦や東側諸国などで構成されるワルシャワ条約機構(1955年-1991年)の脅威に対する牽制の役割を果たし、ソ連崩壊後もバルカン半島、中東、南アジア、アフリカで軍事作戦を展開してきた。2022年ロシアのウクライナ侵攻に対しては、参戦はしていないもののウクライナへ軍事援助や情報を提供している(後述)。 NATOの本部はベルギーの首都ブリュッセルにあり、欧州連合軍最高司令部は同国のモンス近郊にある。NATOは東ヨーロッパにNATO即応部隊を配備しており、NATO加盟国の軍隊を合わせると、約350万人の兵士と職員を保有する。2020年時点の軍事費合計は、世界の名目総額の57%以上を占めている。加盟国は、2024年までにGDPの少なくとも2%という目標防衛支出を達成または維持することに合意している。 NATOは12か国の設立メンバーで結成され、これまでに8回新メンバーを加え、直近では2023年4月にフィンランドが加盟した。NATOは現在、スウェーデンの加盟申請を手続き中であり、このほかボスニア・ヘルツェゴビナ、ジョージア、ウクライナを加盟希望国として認めている。 旧ソ連の領土と軍事力の大半を継承したロシア連邦は、NATOの「平和のためのパートナーシップ」プログラムに参加しているNATO加盟国以外の20か国のうちの1か国であるが、一方で旧東欧諸国のNATO加盟を「NATOの東方拡大」と呼んで激しく反発している。2022年にロシアがウクライナに侵攻したことにより、それまで中立国だった北欧のフィンランドやスウェーデンもNATO加盟を申請する外交政策の歴史的転換を行った。 第二次世界大戦がナチス・ドイツなど枢軸国の敗北で終わり、アメリカ合衆国や西欧諸国は、東欧を影響圏に置いた共産主義国家であるソ連の脅威に直面し、東西冷戦が始まった。西欧では共同防衛条約として1948年にブリュッセル条約が結ばれた。これには、ドイツの再侵略に対する警戒が条約文に明記されていたが、実態としてはソ連に対抗する意図があった。アメリカ合衆国の外交姿勢には伝統的な孤立主義があったが、アメリカ合衆国上院において1948年6月11日にバンデンバーグ決議がなされ、集団防衛体制への参加が認められた。イギリス外相のアーネスト・ベヴィンらは、アメリカ合衆国も含めた共同防衛条約の成立に動き、1949年4月4日に北大西洋条約が調印された。 結成当初は、ソ連を中心とする共産圏に対抗するための西側陣営の多国間軍事同盟であり、「アメリカ合衆国を引き込み、ロシア(ソ連)を締め出し、ドイツを抑え込む」(反共主義と封じ込め)という、初代事務総長であるヘイスティングス・イスメイの言葉が象徴するように、欧州諸国を長年にわたって悩ませたドイツ問題に対する一つの回答でもあった。 当初はアメリカ合衆国などの一部でドイツの徹底した脱工業化・非ナチ化が構想されていた(「モーゲンソー・プラン」も参照)。また連合軍占領下ではドイツは武装解除され、小規模な国境警備隊や機雷掃海艇部隊以外の国軍を持つことは許されず、アメリカ合衆国、フランス、イギリス、ソ連の4か国が治安に責任を担っていた。しかし、冷戦の開始とともに西ドイツ経済の復興が求められ、主権回復後の1950年には西ドイツの再軍備検討も解禁された。西ドイツは新たな「ドイツ連邦軍」の設立とNATOへの加盟準備を始めたが、フランスなどはドイツ再軍備とNATO加盟に反対し、欧州防衛共同体構想で対抗した。この構想は1952年に西ドイツを含む西欧各国間で調印されたが、ド・ゴール主義者たちの反対によりフランス議会で否決され、批准に至らなかった。この結果、フランスもドイツ再軍備を認め、ドイツ連邦軍(ドイツ軍)が1955年11月12日に誕生し、西ドイツはNATOに加盟した。一方、この事態を受けてソ連を中心とする東側8か国はワルシャワ条約を締結してワルシャワ条約機構を発足させ、ヨーロッパは少数の中立国を除き、2つの軍事同盟によって東西に分割されることとなった。 1949年から1954年まで、パウル・ファン・ゼーラントがアメリカ合衆国連邦政府とNATO双方の経済顧問を務めた。 第二次世界大戦から冷戦を通じて、西欧諸国はNATOの枠組みによってアメリカ合衆国の強い影響下に置かれることとなったが、それは西欧諸国の望んだことでもあった。二度の世界大戦による甚大な被害と、1960年代にかけての主要植民地の独立による帝国主義の崩壊により、それぞれの西欧諸国は大きく弱体化した。そのため欧州各国は、アメリカ合衆国の核抑止力と強大な通常兵力による実質的な庇護の下、安定した経済成長を遂げる道を持とうとした。なお、1960年代にはそれまでフランスやイギリスの植民地として加盟していたアルジェリア、キプロス、マルタが独立後に脱退した。 東側との直接戦争に向け、アメリカによって核兵器搭載可能の中距離弾道ミサイルが西欧諸国に配備され、アメリカ合衆国製兵器が各国に供給された(ニュークリア・シェアリング)。途中、フランスは米英と外交歩調がずれ、独自戦略路線に踏み切って1966年に軍事機構から離脱、そのため、1967年にNATO本部がフランス首都のパリからブリュッセルに移転した。一方、戦闘機などの航空兵器分野では、開発費増大も伴って、欧州各国が共同で開発することが増えたが、これもNATO同盟の枠組みが貢献している。航空製造企業エアバス誕生も、NATOの枠組みによって西欧の一員となったフランスと西ドイツの蜜月関係が生んだものといえる。また、1975年にキプロス紛争が事実上終結、ここにギリシャとトルコが介入しており、結果はトルコ側の勝利で、ギリシャが支援していたキプロスからトルコの支援を受けた北キプロスが建国される。ギリシャはキプロス紛争に対してNATOが何ら役に立たなかったとして、NATOを1974年に一時脱退した(6年後の1980年に再加盟)。 西欧はアメリカ合衆国の庇護を利用することによって、ソ連を初めとする東欧の軍事的脅威から国を守ることに成功した。「冷戦」の名の通り、欧州を舞台とした三度目の大戦は阻止された。つまり、NATOは冷戦期間中を通じ、実戦を経験することはなかった。 西側諸国はNATOによる共同防衛と並行して、冷戦時代から冷戦後にかけて、中立国を含めた欧州統合や東側諸国との対話・協力も進めた。デタント期に設立された全欧安全保障協力会議(CSCE)は1995年に欧州安全保障協力機構(OSCE)へ改称された。東欧・旧ソ連諸国と軍事・安全保障について協議する北大西洋協力評議会(NACC)が1991年に発足し、1997年には欧州・大西洋パートナーシップ理事会へ発展した。 1989年の米ソ首脳によるマルタ会談で冷戦が終焉し、続く東欧革命と1991年のワルシャワ条約機構解体、ソ連崩壊によりNATOは大きな転機を迎え、新たな存在意義を模索する必要性に迫られた。1991年に「新戦略概念」を策定し、脅威対象として周辺地域における紛争を挙げ、域外地域における紛争予防および危機管理(非5条任務)に重点を移した。 ユーゴスラビア解体の過程で1992年に勃発したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、初めてこの項目が適用され、1995年より軍事介入と国連による停戦監視に参加した。続いて1999年のコソボ紛争ではセルビアに対し、NATO初の軍事行動となった空爆(アライド・フォース作戦)を行い、アメリカ空軍主導で行われた印象を国際社会に与えた。 一方で、ソ連の崩壊によりソ連の影響圏に置かれていた東欧諸国が相次いで欧州連合(EU)およびNATOへの加盟を申請するようになり、西側の外交的勝利を象徴するものとなった。一方これらの諸国の加盟によって問題も発生した。旧東側諸国の多くがソ連の支配を逃れてNATO加盟を希望する一方、ソ連崩壊により誕生した旧ソ連中枢国家だったロシアは「NATOの東方拡大」と称してこれに警戒・反発を表明しているためである。1991年にソ連も参加して発効されたドイツ最終規定条約では西ドイツを継承する統一ドイツにNATO加盟国としての地位を認める一方で旧東ドイツ領域での外国軍部隊駐留を禁止することが規定された。1994年、「平和のためのパートナーシップ」(PfP)によって、東欧諸国との軍事協力関係が進展。1997年5月にNATOとロシアはNATO・ロシア基本文書に署名し、NATOは新加盟国に対して外国軍部隊について大規模な部隊を恒久的配備しないとした。そのため、新加盟国ではNATO加盟国の外国軍部隊は短期間でローテーションで駐留する方法を取っている。1999年に3か国(ポーランド、チェコ、ハンガリー)、2004年に7か国(スロバキア、ルーマニア、ブルガリア、旧ソ連バルト三国および旧ユーゴスラビア連邦のうちスロベニア)、2009年に2か国(アルバニアと旧ユーゴスラビア連邦のクロアチア)が加盟。旧ユーゴスラビア連邦からは2017年にモンテネグロが、2020年には北マケドニアが続いた。 こうして旧ワルシャワ条約機構加盟国はソ連以外の加盟国がすべてNATOに参加することになった。旧ソ連各国のうちバルト三国を除くロシア、ウクライナ、モルドバ、ジョージア、ベラルーシなどは加盟していないが、ロシアがウクライナ紛争などで見られるように、東欧・北欧諸国に対して威嚇や挑発を強めているため(「新冷戦」参照)、他の国々にもNATO加盟を模索する動きがある。政府がNATO加盟を希望する国としてはウクライナ、ジョージアがある。 フィンランドやスウェーデンはNATO加盟を求める世論が台頭していたことを背景に、ロシアがウクライナに侵攻したことを受け、2022年5月18日にNATO加盟を申請し、同年7月5日にブリュッセルで加盟議定書に署名した。なお、両国は加盟申請前からNATOの軍事演習に参加していた。 2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件への対応については、10月2日に北大西洋条約第5条を発動し、共同組織としては行動しなかったものの、アフガニスタン攻撃(アフガン侵攻、イスラム原理主義武装勢力のタリバンをアフガン政府から追放した作戦)やアメリカ本土防空、領空通過許可等の支援を実施している。その後の対テロ戦争には賛同しつつも、各国が自主的に参戦するに留め、新生アフガン軍の訓練にNATOの教官が参加することで協力した。 しかし、2003年のイラク戦争にはフランスとドイツが強く反対したために足並みは乱れ、アメリカ合衆国に追従するポーランドなど東欧の新加盟国と、仏独など旧加盟国に内部分裂した。 2005年にはアフガニスタンでの軍事行動に関する権限の一部が、イラク戦争で疲弊したアメリカ軍からNATOに移譲され、NATO軍は初の地上軍による作戦を行うに至った。2006年7月にはアフガニスタンでの権限を全て委譲され、NATO加盟国以外を含む多国籍軍である国際治安支援部隊(ISAF)を率いることとなった。 2002年1月。1992年にワルシャワ条約機構に加盟していた国々との間で調印された「領空開放条約」が発効した。 2000年代後半に入り、アメリカ合衆国が推進する東欧ミサイル防衛問題や、ロシアの隣国であるウクライナ、ジョージア(グルジア)がNATO加盟を目指していることに対し、経済が復興してプーチン政権下で大国の復権を謳っていたロシアは強い反発を示すようになった。2008年8月にはグルジア紛争が勃発、NATO諸国とロシアの関係は険悪化し、「新冷戦」と呼ばれるようになった。ロシアは2002年に設置されたNATO-ロシア理事会により準加盟国的存在であったが、2008年8月の時点ではNATOとの関係断絶も示唆していたが、2009年3月には関係を修復した。 しかしロシアはウクライナ、ジョージアのNATO加盟は断固阻止する構えを見せ、ロシアの首相として実権を握り続けていたへのプーチンは2008年のNATO-ロシアサミットで、もしウクライナがNATOに加盟する場合ロシアはウクライナ東部(ロシア系住民が多い)とクリミア半島を併合するためにウクライナと戦争をする用意がある、と公然と述べた。そしてプーチンの言葉通り、ウクライナにおいて親米欧派政権が誕生したのを機に、クリミア半島およびウクライナ東部にロシアが軍事介入し、ウクライナ東部では紛争となった。 2017年にアメリカ合衆国で大統領選挙中からNATO不要論を掲げたドナルド・トランプが大統領に就任すると、アメリカ合衆国とそれ以外の軍事費負担の格差に不満を隠さなくなり、2017年7月にはトランプがNATO事務総長との朝食会の場で、ドイツなどに対して軍事費負担の少なさについて不満を展開。「こんな不適なことに我慢していくつもりはない」と主張するなど、アメリカ軍の関与を縮小する意向を示していた。2019年1月にはトランプがNATO離脱意向を漏らしたと報道された。 2020年、アメリカ合衆国が領空開放条約から離脱したことを受け、ロシア側も翌年に離脱した。 2021年12月、ロシアは新たにNATOへの加盟を求めるウクライナに対して、ウクライナ周辺の4か所にロシア軍の部隊を集結させ最大17万5000人規模にまで増強して威圧(ロシア・ウクライナ危機 (2021年-2022年))。2022年2月24日にウクライナへの全面侵攻を開始した。 11月15日には加盟国のポーランド(ウクライナとの国境に近いプシェヴォドゥフ)にロシア製のミサイルが着弾し、2名が死亡した。NATO史上、加盟国にミサイルによる被害を受けたのは初である。ウクライナの大統領ウォロディミル・ゼレンスキーは、ロシアからの攻撃と発言したが、アメリカ合衆国のバイデン大統領は、ロシアから攻撃された可能性は低いと発言した。その後、着弾したミサイルについてポーランド・ウクライナ国境近くにあるウクライナ側の電力施設を狙ったロシアのミサイル攻撃に対して、ウクライナ軍が迎撃のために発射したS-300ミサイルだったとの可能性が浮上し、ポーランドの大統領アンジェイ・ドゥダは、ロシアによる意図的な攻撃ではなく「不運な出来事」であったと発表し、NATOのイェンス・ストルテンベルグ事務総長は意図的な攻撃やロシアによるNATOへの軍事行動の兆候を否定したうえでウクライナの迎撃ミサイルの公算が大きいという認識を示しつつ、最終的な責任は戦争を始めたロシア側にあると強調した。 ソ連崩壊以降、西側志向と親ロシアの間で揺れてきたウクライナは、ロシアによる全面侵攻を受けてNATOとEUへの加盟を目指す路線を鮮明にし、NATOもロシアの膨張主義を食い止めるためウクライナへの支援を行なっている。2023年6月15~16日開催されたNATOの国防相会合では、ウクライナとの協議隊を「委員会」から対等の立場の「ウクライナ理事会」に昇格させることを決定するとともに、冷戦後では初となる、機密扱いの新地域防衛計画を協議した。 2023年4月4日、ウクライナ侵攻の影響を受けて、フィンランドはロシアからの攻撃を徹底的に防ぐため、1948年以来、75年間も続けていた中立政策も放棄し、NATOに加盟した。これによってNATO加盟国とロシアの国境線が1340キロメートル延びた。現在、フィンランド軍がNATO軍の一員として欧州北部に滞在するロシア軍に対する防衛工事を始めている。ロシアはフィンランドに対抗措置を講ずると反発した。。 NATOが介入したのはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、コソボ紛争、マケドニア紛争、アフガニスタン紛争、2011年リビア内戦である。 2011年リビア内戦においては、2011年3月17日にリビア上空の飛行禁止区域を設定した国連安保理決議1973が採択されたことを受け、3月19日よりNATO軍が空爆を開始し、反体制派のリビア国民評議会を支援。リビアのカダフィ政権が崩壊する最大の要因となった。 NATOには北米と欧州を中心に31か国が加盟している。これらの国々の中には、複数大陸に領土を持つ国もあり、南方は北大西洋条約第6条に基づくNATOの「責任領域」を定める大西洋の北回帰線までしかカバーすることができない。当初の条約交渉で、アメリカはベルギー領コンゴなどの植民地を条約から除外するよう主張した 。しかし、フランス領アルジェリアは、1962年7月3日の独立まで対象となった。この30か国のうち12か国は1949年に加盟した原加盟国であり、残りの18か国は8回の拡大ラウンドのうちのいずれか1回で加盟している。 国防費がGDPの2%を超える加盟国はほとんどなく、アメリカがNATOの防衛費(国防費)の4分の3を占めている。 NATOの設立メンバーとして加盟したデンマーク、アイスランド、ノルウェーの北欧3か国は、自国領土に平時の恒久的な基地、核弾頭、連合国の軍事活動を(招待しない限り)認めないという3つの分野で参加を制限することを選択した。しかし、デンマークはグリーンランドにある既存の基地、チューレ空軍基地の維持をアメリカ空軍に許可した。 1960年代半ばから1990年代半ばにかけて、フランスは「ド・ゴール=ミッテラン主義」と呼ばれる政策のもと、NATOから独立した軍事戦略を追求した。2009年にニコラ・サルコジが統合軍司令部と防衛計画委員会への復帰を交渉し、翌年には防衛計画委員会が解散した。フランスは依然として核計画グループから外れた唯一のNATO加盟国であり、アメリカやイギリスとは異なり、核武装した潜水艦を同盟に参加させることはない 。 NATOへの加盟は、個々の加盟行動計画によって管理され、現加盟国の承認を必要とする。例として、北マケドニアは、NATO加盟国になるための加盟議定書に2019年2月に署名し、2020年3月27日に加盟国となった 。その加盟は、マケドニア名称論争により、長年ギリシャに阻まれていたが、2018年にプレスパ協定により解決された。その過程で互いに支え合うために、この地域の新規加盟国と加盟候補国は2015年、両国の西にある海域の名を冠した「アドリア海憲章」を制定した。ジョージアも加盟希望国として名を連ね、2008年のルーマニアの首都ブカレストで開かれた首脳会議で「将来の加盟」を約束されたが、2014年にアメリカ合衆国大統領バラク・オバマは、同国が加盟への「道筋を現在示していない」と述べている。 ウクライナと欧州やNATOとの関係は政治的に議論を呼んでおり、2014年に親露派大統領のヴィクトル・ヤヌコーヴィチを追放した「ユーロマイダン」抗議デモでは、こうした関係の改善が目標の一つとされた。ウクライナは、東欧で「個別パートナーシップ行動計画(IPAP)」を持つ8か国のうちの1つである。IPAPは2002年に始まり、NATOとの関係を深める政治的意思と能力を持つ国々に開かれている。2019年2月21日、ウクライナ憲法が改正され、EUとNATOへの加盟に向けたウクライナの戦略的方向性に関する規範が、基本法の前文、3つの条項、暫定規定に明記された。2021年6月のブリュッセル・サミットで、NATO首脳は、ウクライナが加盟行動計画(MAP)を不可欠のプロセスとして同盟の一員となり、ウクライナが自国の将来と外交政策を決定する権利を、もちろん外部の干渉を受けずに持つという2008年のブカレスト・サミットでの決定を改めて表明した。2021年11月30日、ロシア大統領のプーチン大統領は、ウクライナにおけるNATOのプレゼンスの拡大、特にロシアの都市を攻撃できる長距離ミサイルや、ルーマニアやポーランドと同様の(ロシアのミサイルに対する)ミサイル防衛システムの配備は、ロシアにとって「レッドライン」の問題であると表明している 。プーチンは、アメリカ大統領のジョー・バイデンに対し、NATOが東方へ拡大したり、「我々を脅かす兵器システムをロシア領土の近くに設置したりしない」という法的保証を求めた。NATO事務総長のイェンス・ストルテンベルグは、「ウクライナがいつNATOに加盟できるかを決めるのは、ウクライナとNATO30カ国だけだ。ロシアには拒否権も発言権もなく、ロシアには隣国を支配しようとする勢力圏を確立する権利もない」と答えた 。 ロシアは、ソ連指導者のミハイル・ゴルバチョフと米欧の交渉担当者の間で交わされた、ドイツの平和的統一を可能にする非公式な理解と矛盾すると考え、さらなる拡張に政治的に反対し続けた。NATOの拡張努力は、モスクワの指導者プーチンからはロシアを包囲し孤立させようとする冷戦時代の試みの継続と見られることが多いが、西側諸国からも批判されている。2016年6月のレバダ世論調査によると、ロシアに隣接する旧東欧圏の国々であるバルト三国とポーランドにNATO軍を配備することは、ロシアにとって脅威であると考えているロシア人が68%もいることが判明した。一方、2017年のピュー・リサーチ・センターのレポートで調査したポーランド人の65%がロシアを「大きな脅威」とし、NATO諸国全体で平均31%がそう答え、2018年に調査したポーランド人の67%が米軍のポーランド駐留に賛成している。 2016年にギャラップ社が調査した非CIS東欧諸国のうち、セルビアとモンテネグロ以外は、NATOを脅威ではなく保護同盟とみなす傾向が強かった。雑誌『セキュリティー・スタディーズ』の2006年の研究では、NATOの拡大は中東欧の民主主義の定着に貢献したと論じている。中国もまた、さらなる拡大に反対している。 2022年、ロシアがウクライナに侵攻した後、フィンランドとスウェーデンでは、NATO加盟を支持する世論が急速に高まった。 フィンランド放送協会(YLE)の2月末発表の世論調査では加盟への支持が53%、スウェーデンでも、大手日刊紙アフトンブラッドが委託した4日発表の世論調査で加盟支持は51%となり、ともに初めて過半数に達した。4月中旬、フィンランドとスウェーデンの両国政府は、 ウクライナ侵攻を受けた安全保障政策見直しの一環で、 NATO加盟の検討開始を明らかにした。北欧2か国が加わることで、北極圏、北欧、バルト海地域におけるNATOの能力が大幅に拡大する。これに対し、ロシア安全保障会議副議長のメドベージェフ前大統領はバルト海周辺への核兵器配備を示唆し、加盟を断念するよう牽制した。 2022年5月15日、フィンランド政府は加盟申請の政府方針を決定、スウェーデンも16日に決めた。 両国ともに首相が国会に報告した上で、17日に外相が加盟申請書に署名した。2022年5月18日、フィンランドとスウェーデンが正式にNATOへの加盟を申請。これに対し加盟国のトルコは、政府がテロ組織に指定しているクルディスタン労働者党(PKK)と人民防衛隊(YPG)を両国が支援しているとして、NATO加盟に反対。明確な安全保障上の確約をした上で、トルコに対する輸出禁止を撤回するべきと主張した。同年6月28日、マドリードで開催されたNATO首脳会議において、トルコはフィンランドとスウェーデンがPKKとYPGへの支援を取り止めることなどを条件に、フィンランドとスウェーデンのNATO加盟申請を支持することで合意した 。 2022年7月5日、NATO加盟国はフィンランド、スウェーデンの「NATO加盟議定書」に署名した。 申請から1カ月余りでの承認は異例。全加盟国が国内での批准手続きを終えればNATOは32カ国体制となる。同日、カナダ、デンマーク、アイスランド、ノルウェーが、翌6日にエストニアと英国が、7月7日にアルバニアが、7月8日にドイツが、12日にオランダとルクセンブルクが、13日にブルガリアが、14日にラトビア、スロべニアが、15日にクロアチアが、20日にポーランド、リトアニア、ベルギーが、21日に羅が、27日に北マケドニアとモンテネグロが、8月2日にフランスが、8月3日に米国、イタリアが、8月27日にチェコが、9月15日にギリシャとスペインが、16日にポルトガルが、27日にスロバキアが北欧2カ国のNATO加盟を批准した。2022年9月までにハンガリーとトルコを除くNATO加盟国が異例の早さで北欧2カ国の加盟を批准することを完了した。2022年11月25日、ハンガリーは来年の早い時期に北欧2カ国の加盟を批准すると表明した。2022年9月30日、ウクライナのゼレンスキー大統領がロシアによる4州の一方的な併合宣言への対抗措置として、 NATOへの加盟申請を表明した。 米国のジェイク・サリバン国家安全保障担当大統領補佐官は「現在、ウクライナを支援する最善の方法は、実用的な支援を提供することだ。(NATO加盟を巡る)手続きは別の機会に検討すべきだ」と早期加盟に慎重な見方を示した。 またNATOのストルテンベルグ事務総長は「ウクライナには自身の将来を選択する権利があるとしたが、現在はウクライナ政府への支援に注力している」と述べた。 紛争中のウクライナを加盟させればNATO加盟国は集団的自衛権に基づいて紛争の当事国になるため、NATOもウクライナの加盟申請には慎重姿勢を取るとみられる。 2023年3月、ハンガリーは3月27日から始まる会期で北欧2カ国の加盟手続きを開始すると公式に発表した。同年3月18日、トルコのエルドアン大統領はフィンランドのニーニスト大統領との首脳会談で「加盟に必要な条件をフィンランドは履行した」としてフィンランドの加盟承認手続きを先行して始めると明らかにした。2023年3月28日、ハンガリー議会は圧倒的多数でフィンランドのNATO加盟を批准した。一方スウェーデンについては判断を保留とした。 同国とオルバン首相の与党が法の支配を巡り欧州連合(EU)と対立しているという背景もある。2023年3月30日、トルコ議会は全会一致でフィンランドのNATO加盟を批准した。これによりNATO全加盟国がフィンランドの加盟議定書を批准した。一方で、スウェーデンについてはテロ組織への対策が不十分であるとして批准を見送った 。 2023年4月4日、フィンランドがNATOに正式に加盟。これによりNATOは31カ国体制となった。 2023年7月10日、トルコのエルドアン大統領は3月の議会で先送りされていたスウェーデンのNATO加盟に同意し、議会が10月に再開された際に批准案を提出すると明らかにした。また、ハンガリーも加盟に同意する意向を示し、年内に議会で批准される可能性を示唆した。 欧米諸国及び旧ソ連構成国との軍事面を中心とした各種協力を目的として1997年に設立された枠組み。1997年にはPfPとNATO全加盟国で構成される欧州・大西洋パートナーシップ理事会が設立され、50の全参加国での政治上・安全保障上の協力、協議をするための会合が開かれている。 NATOと地中海諸国の相互理解、地中海地域の安全と安定を目的として1994年に創設された枠組み。 中東諸国との関係強化を目的として2004年に創設された協力枠組み。現加盟国に加え、オマーン及びサウジアラビアが参加に関心を示している。 他の枠組みに参加していないパートナー国を指し、共通の利益に基づくNATOとの個別の協力の枠組み。 特に東シナ海・南シナ海で力による一方的な現状変更の試みを続け、台湾周辺でも軍事活動を活発化させている中国にはNATOも警戒感を示しており、インド太平洋地域の国々との関係強化を進めている。日本、オーストラリア、韓国、ニュージーランドをアジア太平洋パートナー国(AP4)とし、2022年から2年連続でNATO首脳会議に招待しているほか、AP4各国と国別パートナーシップ協力計画 (IPCP)から格上げとなる国別適合パートナーシップ計画(ITPP)を締結したか、締結を進めている。 自衛隊では在日米軍が使用する武器・弾薬の相互運用性を確保するために、小銃のNATO弾を使用しているほか、兵器に様々なNATOとの共通規格を採用している。 2005年にNATO事務総長が来日、また2007年には内閣総理大臣の安倍晋三が欧州歴訪の一環としてNATO本部を訪問しており、協力関係が構築され始めた。このとき、安倍が来賓として演説を行った北大西洋理事会やNATO加盟各国の代表との会談の中で、加盟各国が軒並み日本との緊密な協力関係を構築することに賛意を表したことが注目された。これ以降、NACの下部組織である政治委員会と自衛隊との非公式協議の開催やローマにあるNATO国防大学への自衛官の留学、NATO災害派遣演習への自衛隊のオブザーバーとしての参加など、実務レベルでの提携も行われるようになった。 2014年5月6日にも、安倍総理が欧州歴訪の際にNATO事務総長のラスムセンと会談。海賊対策のためのNATOの訓練に自衛隊が参加することや、国際平和協力活動に参加した経験を持つ日本政府の女性職員をNATO本部に派遣することなどで合意。さらに日本とNATOとの間で具体的な協力項目を掲げた「国別パートナーシップ協力計画 (IPCP)」に署名した。 2018年5月、北大西洋理事会は、ブリュッセルの在ベルギー日本大使館にNATO日本政府代表部を開設することに同意。2018年7月1日、NATO日本政府代表部を開設した。 2022年6月29日、スペインの首都マドリードで開催されたNATO首脳会議(北大西洋理事会)には日本の内閣総理大臣として初めて岸田文雄が、同じくグローバル・パートナー国のオーストラリア、ニュージーランド、韓国の首脳と共に出席した。 2023年5月9日、冨田浩司駐米大使はNATOが東京連絡事務所を開設する方向で検討を進めていると明らかにした。しかし、フランス大統領のエマニュエル・マクロンが「中国との緊張を高める」として、連絡事務所の開設に反対しているとフィナンシャル・タイムズが報じた。 2023年7月10日、リトアニアの首都ビリニュスで開かれたNATO首脳会議に出席した。首相とストルテンベルグ事務総長は会談後、サイバー防衛や宇宙安全保障、偽情報への対処など16分野での安全保障協力を明記した「国別適合パートナーシップ計画(ITPP)」を発表した。2014年に策定されたIPCPを発展させたもので、対象期間は2023年から2026年の4年間。 2023年時点で、日本は「グローバル・パートナー国」と位置付けられている。 韓国はNATOパートナーであり、またNATO以外の主要な同盟国として複数分野で協力してきた。近年の協力ではアフガニスタン戦争後の復興、ソマリア沖の海賊に対するアデン湾における商船護衛がある。 2022年、韓国はNATOの補助組織であるサイバー防衛協力センター(CCDCOE)に貢献国として参加した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "北大西洋条約機構(きたたいせいようじょうやくきこう)は、北大西洋同盟(きたたいせいようどうめい)とも呼ばれ、北米2か国と欧州29か国の計31か国が加盟する、北大西洋両岸にまたがる集団防衛機構である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "NATOには超国家的な中央機構は存在しておらず、その盟主は「各加盟国の政府それぞれ」であり「各国政府の権利は平等」とされている。そのため中央機関であり、加盟国の政府代表が参加する北大西洋理事会(英: North Atlantic Council、NAC)においては、あらゆる議案が全会一致によって承認・決定されている。多数決の制度は採用されていない。", "title": "組織構成" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "理事会ではNATOが抱えるあらゆる問題が協議され、各加盟国からの代表によって週1回行われる「常設理事会」と、慣例上年2回行われる外相・国防相など閣僚級の理事会、さらに臨時で行われる首脳会合などによって意思決定が行われる。この席上においてNATO事務総長は理事会の実施する各種会議の議長としての役職を担い、事務総局はその補佐を行う。", "title": "組織構成" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "また一時期フランスがNATO軍事機構からの脱退、およびその理由として挙げられた「アメリカ合衆国連邦政府(アメリカ軍)主導による軍事計画の進行」という事由から、特に軍事関係の意思決定は理事会ではなく各国の国防相により構成される「防衛計画委員会」によって行われる。また核問題に関しては専門の「核計画グループ」も存在しており、核に関連する項目に関しては理事会と同等の権限が付与されている。", "title": "組織構成" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "これら理事会・防衛計画委員会の下にはさらに、この2つの組織を支援するための常設委員会が設置されており、また必要にあわせて臨時の委員会も設置が可能となっている。", "title": "組織構成" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "軍事機構に関しては、「軍事委員会」が理事会と防衛計画委員会の決定のもとでNATO軍の各級司令部を統制する。この軍事委員会は任期制の委員長と各加盟国軍の参謀総長クラスの将官によって構成され、下部組織として加盟国の大将・中将により構成される『常設軍事代表委員会』、各国軍の派遣幕僚による「国際参謀部」が付設されている。", "title": "組織構成" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "当初は軍事計画の立案を実施する「常設グループ」(アメリカ合衆国首都ワシントンD.C.に設置)と「地域計画グループ」(各地域に設置)のみが設置されており、本格的な軍事機構が設置されるのは旧西ドイツが加盟して以降であった。軍事機構の成立後、NATOの各級司令部は概してアメリカ方面と欧州方面とに分かれており、その組織機構の大半は欧州に集中している。", "title": "組織構成" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "これらの組織は地域レベルの司令部や特定種類の部隊・集団の統括組織としての役割を持つが、平時において下部組織に対しては査察権限のみを有し、指揮統制権は戦時にのみ発生するものとされている。ただし、航空関係の各部隊は即応性を求められることもあり、その大半が既に各級司令部の指揮下に収められている。", "title": "組織構成" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "歴史的背景から、米軍はNATO諸国に多くの部隊を配置している。以下各国ごとの米軍駐留状況を示す。", "title": "組織構成" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後に1949年4月4日にアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.で調印された北大西洋条約に基づき設立された。略称は英語で NATO(ナトー、発音: [ˈneɪtoʊ] \"ネイトウ\"、North Atlantic Treaty Organization)、フランス語で OTAN(Organisation du Traité de l'Atlantique Nord)。NATOは集団安全保障のシステムであり、独立した加盟国は第三国(者)による攻撃から互いに防衛することに合意している。冷戦時代、NATOはソビエト連邦や東側諸国などで構成されるワルシャワ条約機構(1955年-1991年)の脅威に対する牽制の役割を果たし、ソ連崩壊後もバルカン半島、中東、南アジア、アフリカで軍事作戦を展開してきた。2022年ロシアのウクライナ侵攻に対しては、参戦はしていないもののウクライナへ軍事援助や情報を提供している(後述)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "NATOの本部はベルギーの首都ブリュッセルにあり、欧州連合軍最高司令部は同国のモンス近郊にある。NATOは東ヨーロッパにNATO即応部隊を配備しており、NATO加盟国の軍隊を合わせると、約350万人の兵士と職員を保有する。2020年時点の軍事費合計は、世界の名目総額の57%以上を占めている。加盟国は、2024年までにGDPの少なくとも2%という目標防衛支出を達成または維持することに合意している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "NATOは12か国の設立メンバーで結成され、これまでに8回新メンバーを加え、直近では2023年4月にフィンランドが加盟した。NATOは現在、スウェーデンの加盟申請を手続き中であり、このほかボスニア・ヘルツェゴビナ、ジョージア、ウクライナを加盟希望国として認めている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "旧ソ連の領土と軍事力の大半を継承したロシア連邦は、NATOの「平和のためのパートナーシップ」プログラムに参加しているNATO加盟国以外の20か国のうちの1か国であるが、一方で旧東欧諸国のNATO加盟を「NATOの東方拡大」と呼んで激しく反発している。2022年にロシアがウクライナに侵攻したことにより、それまで中立国だった北欧のフィンランドやスウェーデンもNATO加盟を申請する外交政策の歴史的転換を行った。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦がナチス・ドイツなど枢軸国の敗北で終わり、アメリカ合衆国や西欧諸国は、東欧を影響圏に置いた共産主義国家であるソ連の脅威に直面し、東西冷戦が始まった。西欧では共同防衛条約として1948年にブリュッセル条約が結ばれた。これには、ドイツの再侵略に対する警戒が条約文に明記されていたが、実態としてはソ連に対抗する意図があった。アメリカ合衆国の外交姿勢には伝統的な孤立主義があったが、アメリカ合衆国上院において1948年6月11日にバンデンバーグ決議がなされ、集団防衛体制への参加が認められた。イギリス外相のアーネスト・ベヴィンらは、アメリカ合衆国も含めた共同防衛条約の成立に動き、1949年4月4日に北大西洋条約が調印された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "結成当初は、ソ連を中心とする共産圏に対抗するための西側陣営の多国間軍事同盟であり、「アメリカ合衆国を引き込み、ロシア(ソ連)を締め出し、ドイツを抑え込む」(反共主義と封じ込め)という、初代事務総長であるヘイスティングス・イスメイの言葉が象徴するように、欧州諸国を長年にわたって悩ませたドイツ問題に対する一つの回答でもあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "当初はアメリカ合衆国などの一部でドイツの徹底した脱工業化・非ナチ化が構想されていた(「モーゲンソー・プラン」も参照)。また連合軍占領下ではドイツは武装解除され、小規模な国境警備隊や機雷掃海艇部隊以外の国軍を持つことは許されず、アメリカ合衆国、フランス、イギリス、ソ連の4か国が治安に責任を担っていた。しかし、冷戦の開始とともに西ドイツ経済の復興が求められ、主権回復後の1950年には西ドイツの再軍備検討も解禁された。西ドイツは新たな「ドイツ連邦軍」の設立とNATOへの加盟準備を始めたが、フランスなどはドイツ再軍備とNATO加盟に反対し、欧州防衛共同体構想で対抗した。この構想は1952年に西ドイツを含む西欧各国間で調印されたが、ド・ゴール主義者たちの反対によりフランス議会で否決され、批准に至らなかった。この結果、フランスもドイツ再軍備を認め、ドイツ連邦軍(ドイツ軍)が1955年11月12日に誕生し、西ドイツはNATOに加盟した。一方、この事態を受けてソ連を中心とする東側8か国はワルシャワ条約を締結してワルシャワ条約機構を発足させ、ヨーロッパは少数の中立国を除き、2つの軍事同盟によって東西に分割されることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1949年から1954年まで、パウル・ファン・ゼーラントがアメリカ合衆国連邦政府とNATO双方の経済顧問を務めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦から冷戦を通じて、西欧諸国はNATOの枠組みによってアメリカ合衆国の強い影響下に置かれることとなったが、それは西欧諸国の望んだことでもあった。二度の世界大戦による甚大な被害と、1960年代にかけての主要植民地の独立による帝国主義の崩壊により、それぞれの西欧諸国は大きく弱体化した。そのため欧州各国は、アメリカ合衆国の核抑止力と強大な通常兵力による実質的な庇護の下、安定した経済成長を遂げる道を持とうとした。なお、1960年代にはそれまでフランスやイギリスの植民地として加盟していたアルジェリア、キプロス、マルタが独立後に脱退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "東側との直接戦争に向け、アメリカによって核兵器搭載可能の中距離弾道ミサイルが西欧諸国に配備され、アメリカ合衆国製兵器が各国に供給された(ニュークリア・シェアリング)。途中、フランスは米英と外交歩調がずれ、独自戦略路線に踏み切って1966年に軍事機構から離脱、そのため、1967年にNATO本部がフランス首都のパリからブリュッセルに移転した。一方、戦闘機などの航空兵器分野では、開発費増大も伴って、欧州各国が共同で開発することが増えたが、これもNATO同盟の枠組みが貢献している。航空製造企業エアバス誕生も、NATOの枠組みによって西欧の一員となったフランスと西ドイツの蜜月関係が生んだものといえる。また、1975年にキプロス紛争が事実上終結、ここにギリシャとトルコが介入しており、結果はトルコ側の勝利で、ギリシャが支援していたキプロスからトルコの支援を受けた北キプロスが建国される。ギリシャはキプロス紛争に対してNATOが何ら役に立たなかったとして、NATOを1974年に一時脱退した(6年後の1980年に再加盟)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "西欧はアメリカ合衆国の庇護を利用することによって、ソ連を初めとする東欧の軍事的脅威から国を守ることに成功した。「冷戦」の名の通り、欧州を舞台とした三度目の大戦は阻止された。つまり、NATOは冷戦期間中を通じ、実戦を経験することはなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "西側諸国はNATOによる共同防衛と並行して、冷戦時代から冷戦後にかけて、中立国を含めた欧州統合や東側諸国との対話・協力も進めた。デタント期に設立された全欧安全保障協力会議(CSCE)は1995年に欧州安全保障協力機構(OSCE)へ改称された。東欧・旧ソ連諸国と軍事・安全保障について協議する北大西洋協力評議会(NACC)が1991年に発足し、1997年には欧州・大西洋パートナーシップ理事会へ発展した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1989年の米ソ首脳によるマルタ会談で冷戦が終焉し、続く東欧革命と1991年のワルシャワ条約機構解体、ソ連崩壊によりNATOは大きな転機を迎え、新たな存在意義を模索する必要性に迫られた。1991年に「新戦略概念」を策定し、脅威対象として周辺地域における紛争を挙げ、域外地域における紛争予防および危機管理(非5条任務)に重点を移した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ユーゴスラビア解体の過程で1992年に勃発したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、初めてこの項目が適用され、1995年より軍事介入と国連による停戦監視に参加した。続いて1999年のコソボ紛争ではセルビアに対し、NATO初の軍事行動となった空爆(アライド・フォース作戦)を行い、アメリカ空軍主導で行われた印象を国際社会に与えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一方で、ソ連の崩壊によりソ連の影響圏に置かれていた東欧諸国が相次いで欧州連合(EU)およびNATOへの加盟を申請するようになり、西側の外交的勝利を象徴するものとなった。一方これらの諸国の加盟によって問題も発生した。旧東側諸国の多くがソ連の支配を逃れてNATO加盟を希望する一方、ソ連崩壊により誕生した旧ソ連中枢国家だったロシアは「NATOの東方拡大」と称してこれに警戒・反発を表明しているためである。1991年にソ連も参加して発効されたドイツ最終規定条約では西ドイツを継承する統一ドイツにNATO加盟国としての地位を認める一方で旧東ドイツ領域での外国軍部隊駐留を禁止することが規定された。1994年、「平和のためのパートナーシップ」(PfP)によって、東欧諸国との軍事協力関係が進展。1997年5月にNATOとロシアはNATO・ロシア基本文書に署名し、NATOは新加盟国に対して外国軍部隊について大規模な部隊を恒久的配備しないとした。そのため、新加盟国ではNATO加盟国の外国軍部隊は短期間でローテーションで駐留する方法を取っている。1999年に3か国(ポーランド、チェコ、ハンガリー)、2004年に7か国(スロバキア、ルーマニア、ブルガリア、旧ソ連バルト三国および旧ユーゴスラビア連邦のうちスロベニア)、2009年に2か国(アルバニアと旧ユーゴスラビア連邦のクロアチア)が加盟。旧ユーゴスラビア連邦からは2017年にモンテネグロが、2020年には北マケドニアが続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "こうして旧ワルシャワ条約機構加盟国はソ連以外の加盟国がすべてNATOに参加することになった。旧ソ連各国のうちバルト三国を除くロシア、ウクライナ、モルドバ、ジョージア、ベラルーシなどは加盟していないが、ロシアがウクライナ紛争などで見られるように、東欧・北欧諸国に対して威嚇や挑発を強めているため(「新冷戦」参照)、他の国々にもNATO加盟を模索する動きがある。政府がNATO加盟を希望する国としてはウクライナ、ジョージアがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "フィンランドやスウェーデンはNATO加盟を求める世論が台頭していたことを背景に、ロシアがウクライナに侵攻したことを受け、2022年5月18日にNATO加盟を申請し、同年7月5日にブリュッセルで加盟議定書に署名した。なお、両国は加盟申請前からNATOの軍事演習に参加していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件への対応については、10月2日に北大西洋条約第5条を発動し、共同組織としては行動しなかったものの、アフガニスタン攻撃(アフガン侵攻、イスラム原理主義武装勢力のタリバンをアフガン政府から追放した作戦)やアメリカ本土防空、領空通過許可等の支援を実施している。その後の対テロ戦争には賛同しつつも、各国が自主的に参戦するに留め、新生アフガン軍の訓練にNATOの教官が参加することで協力した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "しかし、2003年のイラク戦争にはフランスとドイツが強く反対したために足並みは乱れ、アメリカ合衆国に追従するポーランドなど東欧の新加盟国と、仏独など旧加盟国に内部分裂した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2005年にはアフガニスタンでの軍事行動に関する権限の一部が、イラク戦争で疲弊したアメリカ軍からNATOに移譲され、NATO軍は初の地上軍による作戦を行うに至った。2006年7月にはアフガニスタンでの権限を全て委譲され、NATO加盟国以外を含む多国籍軍である国際治安支援部隊(ISAF)を率いることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2002年1月。1992年にワルシャワ条約機構に加盟していた国々との間で調印された「領空開放条約」が発効した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2000年代後半に入り、アメリカ合衆国が推進する東欧ミサイル防衛問題や、ロシアの隣国であるウクライナ、ジョージア(グルジア)がNATO加盟を目指していることに対し、経済が復興してプーチン政権下で大国の復権を謳っていたロシアは強い反発を示すようになった。2008年8月にはグルジア紛争が勃発、NATO諸国とロシアの関係は険悪化し、「新冷戦」と呼ばれるようになった。ロシアは2002年に設置されたNATO-ロシア理事会により準加盟国的存在であったが、2008年8月の時点ではNATOとの関係断絶も示唆していたが、2009年3月には関係を修復した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "しかしロシアはウクライナ、ジョージアのNATO加盟は断固阻止する構えを見せ、ロシアの首相として実権を握り続けていたへのプーチンは2008年のNATO-ロシアサミットで、もしウクライナがNATOに加盟する場合ロシアはウクライナ東部(ロシア系住民が多い)とクリミア半島を併合するためにウクライナと戦争をする用意がある、と公然と述べた。そしてプーチンの言葉通り、ウクライナにおいて親米欧派政権が誕生したのを機に、クリミア半島およびウクライナ東部にロシアが軍事介入し、ウクライナ東部では紛争となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2017年にアメリカ合衆国で大統領選挙中からNATO不要論を掲げたドナルド・トランプが大統領に就任すると、アメリカ合衆国とそれ以外の軍事費負担の格差に不満を隠さなくなり、2017年7月にはトランプがNATO事務総長との朝食会の場で、ドイツなどに対して軍事費負担の少なさについて不満を展開。「こんな不適なことに我慢していくつもりはない」と主張するなど、アメリカ軍の関与を縮小する意向を示していた。2019年1月にはトランプがNATO離脱意向を漏らしたと報道された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2020年、アメリカ合衆国が領空開放条約から離脱したことを受け、ロシア側も翌年に離脱した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2021年12月、ロシアは新たにNATOへの加盟を求めるウクライナに対して、ウクライナ周辺の4か所にロシア軍の部隊を集結させ最大17万5000人規模にまで増強して威圧(ロシア・ウクライナ危機 (2021年-2022年))。2022年2月24日にウクライナへの全面侵攻を開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "11月15日には加盟国のポーランド(ウクライナとの国境に近いプシェヴォドゥフ)にロシア製のミサイルが着弾し、2名が死亡した。NATO史上、加盟国にミサイルによる被害を受けたのは初である。ウクライナの大統領ウォロディミル・ゼレンスキーは、ロシアからの攻撃と発言したが、アメリカ合衆国のバイデン大統領は、ロシアから攻撃された可能性は低いと発言した。その後、着弾したミサイルについてポーランド・ウクライナ国境近くにあるウクライナ側の電力施設を狙ったロシアのミサイル攻撃に対して、ウクライナ軍が迎撃のために発射したS-300ミサイルだったとの可能性が浮上し、ポーランドの大統領アンジェイ・ドゥダは、ロシアによる意図的な攻撃ではなく「不運な出来事」であったと発表し、NATOのイェンス・ストルテンベルグ事務総長は意図的な攻撃やロシアによるNATOへの軍事行動の兆候を否定したうえでウクライナの迎撃ミサイルの公算が大きいという認識を示しつつ、最終的な責任は戦争を始めたロシア側にあると強調した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ソ連崩壊以降、西側志向と親ロシアの間で揺れてきたウクライナは、ロシアによる全面侵攻を受けてNATOとEUへの加盟を目指す路線を鮮明にし、NATOもロシアの膨張主義を食い止めるためウクライナへの支援を行なっている。2023年6月15~16日開催されたNATOの国防相会合では、ウクライナとの協議隊を「委員会」から対等の立場の「ウクライナ理事会」に昇格させることを決定するとともに、冷戦後では初となる、機密扱いの新地域防衛計画を協議した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2023年4月4日、ウクライナ侵攻の影響を受けて、フィンランドはロシアからの攻撃を徹底的に防ぐため、1948年以来、75年間も続けていた中立政策も放棄し、NATOに加盟した。これによってNATO加盟国とロシアの国境線が1340キロメートル延びた。現在、フィンランド軍がNATO軍の一員として欧州北部に滞在するロシア軍に対する防衛工事を始めている。ロシアはフィンランドに対抗措置を講ずると反発した。。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "NATOが介入したのはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、コソボ紛争、マケドニア紛争、アフガニスタン紛争、2011年リビア内戦である。", "title": "介入した紛争" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2011年リビア内戦においては、2011年3月17日にリビア上空の飛行禁止区域を設定した国連安保理決議1973が採択されたことを受け、3月19日よりNATO軍が空爆を開始し、反体制派のリビア国民評議会を支援。リビアのカダフィ政権が崩壊する最大の要因となった。", "title": "介入した紛争" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "NATOには北米と欧州を中心に31か国が加盟している。これらの国々の中には、複数大陸に領土を持つ国もあり、南方は北大西洋条約第6条に基づくNATOの「責任領域」を定める大西洋の北回帰線までしかカバーすることができない。当初の条約交渉で、アメリカはベルギー領コンゴなどの植民地を条約から除外するよう主張した 。しかし、フランス領アルジェリアは、1962年7月3日の独立まで対象となった。この30か国のうち12か国は1949年に加盟した原加盟国であり、残りの18か国は8回の拡大ラウンドのうちのいずれか1回で加盟している。", "title": "加盟国" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "国防費がGDPの2%を超える加盟国はほとんどなく、アメリカがNATOの防衛費(国防費)の4分の3を占めている。", "title": "加盟国" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "NATOの設立メンバーとして加盟したデンマーク、アイスランド、ノルウェーの北欧3か国は、自国領土に平時の恒久的な基地、核弾頭、連合国の軍事活動を(招待しない限り)認めないという3つの分野で参加を制限することを選択した。しかし、デンマークはグリーンランドにある既存の基地、チューレ空軍基地の維持をアメリカ空軍に許可した。", "title": "加盟国" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1960年代半ばから1990年代半ばにかけて、フランスは「ド・ゴール=ミッテラン主義」と呼ばれる政策のもと、NATOから独立した軍事戦略を追求した。2009年にニコラ・サルコジが統合軍司令部と防衛計画委員会への復帰を交渉し、翌年には防衛計画委員会が解散した。フランスは依然として核計画グループから外れた唯一のNATO加盟国であり、アメリカやイギリスとは異なり、核武装した潜水艦を同盟に参加させることはない 。", "title": "加盟国" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "NATOへの加盟は、個々の加盟行動計画によって管理され、現加盟国の承認を必要とする。例として、北マケドニアは、NATO加盟国になるための加盟議定書に2019年2月に署名し、2020年3月27日に加盟国となった 。その加盟は、マケドニア名称論争により、長年ギリシャに阻まれていたが、2018年にプレスパ協定により解決された。その過程で互いに支え合うために、この地域の新規加盟国と加盟候補国は2015年、両国の西にある海域の名を冠した「アドリア海憲章」を制定した。ジョージアも加盟希望国として名を連ね、2008年のルーマニアの首都ブカレストで開かれた首脳会議で「将来の加盟」を約束されたが、2014年にアメリカ合衆国大統領バラク・オバマは、同国が加盟への「道筋を現在示していない」と述べている。", "title": "加盟国" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ウクライナと欧州やNATOとの関係は政治的に議論を呼んでおり、2014年に親露派大統領のヴィクトル・ヤヌコーヴィチを追放した「ユーロマイダン」抗議デモでは、こうした関係の改善が目標の一つとされた。ウクライナは、東欧で「個別パートナーシップ行動計画(IPAP)」を持つ8か国のうちの1つである。IPAPは2002年に始まり、NATOとの関係を深める政治的意思と能力を持つ国々に開かれている。2019年2月21日、ウクライナ憲法が改正され、EUとNATOへの加盟に向けたウクライナの戦略的方向性に関する規範が、基本法の前文、3つの条項、暫定規定に明記された。2021年6月のブリュッセル・サミットで、NATO首脳は、ウクライナが加盟行動計画(MAP)を不可欠のプロセスとして同盟の一員となり、ウクライナが自国の将来と外交政策を決定する権利を、もちろん外部の干渉を受けずに持つという2008年のブカレスト・サミットでの決定を改めて表明した。2021年11月30日、ロシア大統領のプーチン大統領は、ウクライナにおけるNATOのプレゼンスの拡大、特にロシアの都市を攻撃できる長距離ミサイルや、ルーマニアやポーランドと同様の(ロシアのミサイルに対する)ミサイル防衛システムの配備は、ロシアにとって「レッドライン」の問題であると表明している 。プーチンは、アメリカ大統領のジョー・バイデンに対し、NATOが東方へ拡大したり、「我々を脅かす兵器システムをロシア領土の近くに設置したりしない」という法的保証を求めた。NATO事務総長のイェンス・ストルテンベルグは、「ウクライナがいつNATOに加盟できるかを決めるのは、ウクライナとNATO30カ国だけだ。ロシアには拒否権も発言権もなく、ロシアには隣国を支配しようとする勢力圏を確立する権利もない」と答えた 。", "title": "加盟国" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ロシアは、ソ連指導者のミハイル・ゴルバチョフと米欧の交渉担当者の間で交わされた、ドイツの平和的統一を可能にする非公式な理解と矛盾すると考え、さらなる拡張に政治的に反対し続けた。NATOの拡張努力は、モスクワの指導者プーチンからはロシアを包囲し孤立させようとする冷戦時代の試みの継続と見られることが多いが、西側諸国からも批判されている。2016年6月のレバダ世論調査によると、ロシアに隣接する旧東欧圏の国々であるバルト三国とポーランドにNATO軍を配備することは、ロシアにとって脅威であると考えているロシア人が68%もいることが判明した。一方、2017年のピュー・リサーチ・センターのレポートで調査したポーランド人の65%がロシアを「大きな脅威」とし、NATO諸国全体で平均31%がそう答え、2018年に調査したポーランド人の67%が米軍のポーランド駐留に賛成している。", "title": "加盟国" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2016年にギャラップ社が調査した非CIS東欧諸国のうち、セルビアとモンテネグロ以外は、NATOを脅威ではなく保護同盟とみなす傾向が強かった。雑誌『セキュリティー・スタディーズ』の2006年の研究では、NATOの拡大は中東欧の民主主義の定着に貢献したと論じている。中国もまた、さらなる拡大に反対している。", "title": "加盟国" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2022年、ロシアがウクライナに侵攻した後、フィンランドとスウェーデンでは、NATO加盟を支持する世論が急速に高まった。 フィンランド放送協会(YLE)の2月末発表の世論調査では加盟への支持が53%、スウェーデンでも、大手日刊紙アフトンブラッドが委託した4日発表の世論調査で加盟支持は51%となり、ともに初めて過半数に達した。4月中旬、フィンランドとスウェーデンの両国政府は、 ウクライナ侵攻を受けた安全保障政策見直しの一環で、 NATO加盟の検討開始を明らかにした。北欧2か国が加わることで、北極圏、北欧、バルト海地域におけるNATOの能力が大幅に拡大する。これに対し、ロシア安全保障会議副議長のメドベージェフ前大統領はバルト海周辺への核兵器配備を示唆し、加盟を断念するよう牽制した。", "title": "加盟国" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2022年5月15日、フィンランド政府は加盟申請の政府方針を決定、スウェーデンも16日に決めた。 両国ともに首相が国会に報告した上で、17日に外相が加盟申請書に署名した。2022年5月18日、フィンランドとスウェーデンが正式にNATOへの加盟を申請。これに対し加盟国のトルコは、政府がテロ組織に指定しているクルディスタン労働者党(PKK)と人民防衛隊(YPG)を両国が支援しているとして、NATO加盟に反対。明確な安全保障上の確約をした上で、トルコに対する輸出禁止を撤回するべきと主張した。同年6月28日、マドリードで開催されたNATO首脳会議において、トルコはフィンランドとスウェーデンがPKKとYPGへの支援を取り止めることなどを条件に、フィンランドとスウェーデンのNATO加盟申請を支持することで合意した 。", "title": "加盟国" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2022年7月5日、NATO加盟国はフィンランド、スウェーデンの「NATO加盟議定書」に署名した。 申請から1カ月余りでの承認は異例。全加盟国が国内での批准手続きを終えればNATOは32カ国体制となる。同日、カナダ、デンマーク、アイスランド、ノルウェーが、翌6日にエストニアと英国が、7月7日にアルバニアが、7月8日にドイツが、12日にオランダとルクセンブルクが、13日にブルガリアが、14日にラトビア、スロべニアが、15日にクロアチアが、20日にポーランド、リトアニア、ベルギーが、21日に羅が、27日に北マケドニアとモンテネグロが、8月2日にフランスが、8月3日に米国、イタリアが、8月27日にチェコが、9月15日にギリシャとスペインが、16日にポルトガルが、27日にスロバキアが北欧2カ国のNATO加盟を批准した。2022年9月までにハンガリーとトルコを除くNATO加盟国が異例の早さで北欧2カ国の加盟を批准することを完了した。2022年11月25日、ハンガリーは来年の早い時期に北欧2カ国の加盟を批准すると表明した。2022年9月30日、ウクライナのゼレンスキー大統領がロシアによる4州の一方的な併合宣言への対抗措置として、 NATOへの加盟申請を表明した。 米国のジェイク・サリバン国家安全保障担当大統領補佐官は「現在、ウクライナを支援する最善の方法は、実用的な支援を提供することだ。(NATO加盟を巡る)手続きは別の機会に検討すべきだ」と早期加盟に慎重な見方を示した。 またNATOのストルテンベルグ事務総長は「ウクライナには自身の将来を選択する権利があるとしたが、現在はウクライナ政府への支援に注力している」と述べた。 紛争中のウクライナを加盟させればNATO加盟国は集団的自衛権に基づいて紛争の当事国になるため、NATOもウクライナの加盟申請には慎重姿勢を取るとみられる。", "title": "加盟国" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2023年3月、ハンガリーは3月27日から始まる会期で北欧2カ国の加盟手続きを開始すると公式に発表した。同年3月18日、トルコのエルドアン大統領はフィンランドのニーニスト大統領との首脳会談で「加盟に必要な条件をフィンランドは履行した」としてフィンランドの加盟承認手続きを先行して始めると明らかにした。2023年3月28日、ハンガリー議会は圧倒的多数でフィンランドのNATO加盟を批准した。一方スウェーデンについては判断を保留とした。 同国とオルバン首相の与党が法の支配を巡り欧州連合(EU)と対立しているという背景もある。2023年3月30日、トルコ議会は全会一致でフィンランドのNATO加盟を批准した。これによりNATO全加盟国がフィンランドの加盟議定書を批准した。一方で、スウェーデンについてはテロ組織への対策が不十分であるとして批准を見送った 。", "title": "加盟国" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2023年4月4日、フィンランドがNATOに正式に加盟。これによりNATOは31カ国体制となった。", "title": "加盟国" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2023年7月10日、トルコのエルドアン大統領は3月の議会で先送りされていたスウェーデンのNATO加盟に同意し、議会が10月に再開された際に批准案を提出すると明らかにした。また、ハンガリーも加盟に同意する意向を示し、年内に議会で批准される可能性を示唆した。", "title": "加盟国" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "欧米諸国及び旧ソ連構成国との軍事面を中心とした各種協力を目的として1997年に設立された枠組み。1997年にはPfPとNATO全加盟国で構成される欧州・大西洋パートナーシップ理事会が設立され、50の全参加国での政治上・安全保障上の協力、協議をするための会合が開かれている。", "title": "第三国との関係" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "NATOと地中海諸国の相互理解、地中海地域の安全と安定を目的として1994年に創設された枠組み。", "title": "第三国との関係" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "中東諸国との関係強化を目的として2004年に創設された協力枠組み。現加盟国に加え、オマーン及びサウジアラビアが参加に関心を示している。", "title": "第三国との関係" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "他の枠組みに参加していないパートナー国を指し、共通の利益に基づくNATOとの個別の協力の枠組み。", "title": "第三国との関係" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "特に東シナ海・南シナ海で力による一方的な現状変更の試みを続け、台湾周辺でも軍事活動を活発化させている中国にはNATOも警戒感を示しており、インド太平洋地域の国々との関係強化を進めている。日本、オーストラリア、韓国、ニュージーランドをアジア太平洋パートナー国(AP4)とし、2022年から2年連続でNATO首脳会議に招待しているほか、AP4各国と国別パートナーシップ協力計画 (IPCP)から格上げとなる国別適合パートナーシップ計画(ITPP)を締結したか、締結を進めている。", "title": "第三国との関係" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "自衛隊では在日米軍が使用する武器・弾薬の相互運用性を確保するために、小銃のNATO弾を使用しているほか、兵器に様々なNATOとの共通規格を採用している。", "title": "第三国との関係" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2005年にNATO事務総長が来日、また2007年には内閣総理大臣の安倍晋三が欧州歴訪の一環としてNATO本部を訪問しており、協力関係が構築され始めた。このとき、安倍が来賓として演説を行った北大西洋理事会やNATO加盟各国の代表との会談の中で、加盟各国が軒並み日本との緊密な協力関係を構築することに賛意を表したことが注目された。これ以降、NACの下部組織である政治委員会と自衛隊との非公式協議の開催やローマにあるNATO国防大学への自衛官の留学、NATO災害派遣演習への自衛隊のオブザーバーとしての参加など、実務レベルでの提携も行われるようになった。", "title": "第三国との関係" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2014年5月6日にも、安倍総理が欧州歴訪の際にNATO事務総長のラスムセンと会談。海賊対策のためのNATOの訓練に自衛隊が参加することや、国際平和協力活動に参加した経験を持つ日本政府の女性職員をNATO本部に派遣することなどで合意。さらに日本とNATOとの間で具体的な協力項目を掲げた「国別パートナーシップ協力計画 (IPCP)」に署名した。", "title": "第三国との関係" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2018年5月、北大西洋理事会は、ブリュッセルの在ベルギー日本大使館にNATO日本政府代表部を開設することに同意。2018年7月1日、NATO日本政府代表部を開設した。", "title": "第三国との関係" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2022年6月29日、スペインの首都マドリードで開催されたNATO首脳会議(北大西洋理事会)には日本の内閣総理大臣として初めて岸田文雄が、同じくグローバル・パートナー国のオーストラリア、ニュージーランド、韓国の首脳と共に出席した。", "title": "第三国との関係" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2023年5月9日、冨田浩司駐米大使はNATOが東京連絡事務所を開設する方向で検討を進めていると明らかにした。しかし、フランス大統領のエマニュエル・マクロンが「中国との緊張を高める」として、連絡事務所の開設に反対しているとフィナンシャル・タイムズが報じた。", "title": "第三国との関係" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2023年7月10日、リトアニアの首都ビリニュスで開かれたNATO首脳会議に出席した。首相とストルテンベルグ事務総長は会談後、サイバー防衛や宇宙安全保障、偽情報への対処など16分野での安全保障協力を明記した「国別適合パートナーシップ計画(ITPP)」を発表した。2014年に策定されたIPCPを発展させたもので、対象期間は2023年から2026年の4年間。", "title": "第三国との関係" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2023年時点で、日本は「グローバル・パートナー国」と位置付けられている。", "title": "第三国との関係" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "韓国はNATOパートナーであり、またNATO以外の主要な同盟国として複数分野で協力してきた。近年の協力ではアフガニスタン戦争後の復興、ソマリア沖の海賊に対するアデン湾における商船護衛がある。", "title": "第三国との関係" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2022年、韓国はNATOの補助組織であるサイバー防衛協力センター(CCDCOE)に貢献国として参加した。", "title": "第三国との関係" } ]
北大西洋条約機構(きたたいせいようじょうやくきこう)は、北大西洋同盟(きたたいせいようどうめい)とも呼ばれ、北米2か国と欧州29か国の計31か国が加盟する、北大西洋両岸にまたがる集団防衛機構である。
{{Redirect|ナトー}} {{Infobox geopolitical organization |common_name = 北大西洋条約機構(NATO) |name = 北大西洋条約機構<br/>{{lang-en-short|North Atlantic Treaty Organization}}<br/>{{lang-fr-short|Organisation du traité de l'Atlantique nord}} |image_flag = NATO flag.svg |flag_width = |flag_caption = [[北大西洋条約機構の旗|NATO旗]] |image_symbol = NATO OTAN landscape logo.svg |symbol_width = |symbol_type = ロゴ |image_map = North Atlantic Treaty Organization (orthographic projection).svg |map_width = |org_type = [[軍事同盟|集団防衛機構]]<ref name="a1"/> |membership_type = 加盟国 |membership = {{Collapsible list|{{ALB}}|{{BEL}}|{{BGR}}|{{CAN}}|{{HRV}}|{{CZE}}|{{DNK}}|{{EST}}|{{FIN}}|{{FRA}}|{{DEU}}|{{GRC}}|{{HUN}}|{{ISL}}|{{ITA}} |{{LVA}}|{{LTU}}|{{LUX}}|{{MNE}}|{{NLD}}|{{MKD}}|{{NOR}}|{{POL}}|{{PRT}}|{{ROU}}|{{SVK}}|{{SVN}}|{{ESP}}|{{TUR}}|{{Flagcountry|GBR}}|{{Flagcountry|USA}}}}<ref name=mofa>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/nato/|title=北大西洋条約機構(NATO)|publisher=[[日本国外務省]]|date=2023-02-01|accessdate=2023-02-13}}</ref> |leader_title1 = [[北大西洋条約機構事務総長|事務総長]] |leader_name1 = [[イェンス・ストルテンベルグ]] |leader_title2 = 軍事委員会議長 |leader_name2 = {{仮リンク|ロブ・バウアー|en|Rob_Bauer}} |established = [[1949年]][[4月4日]](NATO条約締結) |admin_center_type = 本部 |admin_center = [[ベルギー]] [[ブリュッセル市|ブリュッセル]] |coordinates= {{Coord|50|52|34.16|N|4|25|19.24|E}} |official_languages = {{Unbulleted list|英語|フランス語}} |official_website = https://www.nato.int/ |footnotes = 地位 [[北大西洋条約]]<br> 目的  *[[集団防衛]]体制の構築 *加盟国間の[[集団的自衛権]]の発動 *加盟国に対する軍事攻撃の抑止 *域外安全保障への協力 兵力 *合計:約331万人 国防費総額 *約1兆510億[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]] }} '''北大西洋条約機構'''(きたたいせいようじょうやくきこう)は、[[北アメリカ|北米]]2か国と[[ヨーロッパ|欧州]]29か国の計31か国<ref>{{Cite web|和書|title=フィンランドが正式加盟 NATO北方拡大、31カ国に―対ロ緊張高まる恐れ |url=https://www.jiji.com/amp/article?k=2023040400595&g=int |website=[[時事通信]] |access-date=2023-04-04}}</ref>からなる[[北大西洋]]両岸にまたがる[[軍事同盟|集団防衛機構]]である<ref name="a1">https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84%E6%A9%9F%E6%A7%8B-50900#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 北大西洋条約機構]</ref>。'''北大西洋同盟'''(きたたいせいようどうめい)とも呼ばれる。 ==組織構成== [[ファイル:NATO_Ministers_of_Defense_and_of_Foreign_Affairs_meet_at_NATO_headquarters_in_Brussels_2010.jpg|サムネイル|2010年に開催された加盟国同士による北大西洋評議会(ブリュッセル)]] NATOには超国家的な中央機構は存在しておらず、その盟主は「各加盟国の政府それぞれ」であり「各国政府の権利は平等」とされている。そのため中央機関であり、加盟国の政府代表が参加する[[北大西洋理事会]]({{lang-en-short|North Atlantic Council}}、NAC)においては、あらゆる議案が[[全会一致]]によって承認・決定されている。多数決の制度は採用されていない。 理事会ではNATOが抱えるあらゆる問題が協議され、各加盟国からの代表によって週1回行われる「常設理事会」と、慣例上年2回行われる外相・国防相など閣僚級の理事会、さらに臨時で行われる首脳会合などによって意思決定が行われる。この席上において[[北大西洋条約機構事務総長|NATO事務総長]]は理事会の実施する各種会議の議長としての役職を担い、事務総局はその補佐を行う。 また一時期フランスがNATO軍事機構からの脱退、およびその理由として挙げられた「[[アメリカ合衆国連邦政府]]([[アメリカ軍]])主導による軍事計画の進行」という事由から、特に軍事関係の意思決定は理事会ではなく各国の国防相により構成される「防衛計画委員会」によって行われる。また核問題に関しては専門の「核計画グループ」も存在しており、核に関連する項目に関しては理事会と同等の権限が付与されている。 これら理事会・防衛計画委員会の下にはさらに、この2つの組織を支援するための常設委員会が設置されており、また必要にあわせて臨時の委員会も設置が可能となっている。 軍事機構に関しては、「軍事委員会」が理事会と防衛計画委員会の決定のもとでNATO軍の各級司令部を統制する。この軍事委員会は任期制の委員長と各加盟国軍の参謀総長クラスの将官によって構成され、下部組織として加盟国の大将・中将により構成される『常設軍事代表委員会』、各国軍の派遣幕僚による「国際参謀部」が付設されている。 *北大西洋理事会(各種問題の協議) *防衛計画委員会(軍事問題の協議。2010年にNACに吸収) *[[核兵器|核]]計画グループ(核問題に関する審議) **NATO事務総長(理事会主催の会合での議長役) ***国際事務総局 **軍事委員会(軍事機構の統括) ***常設軍事代表委員会 ***国際参謀部 **常設委員会(理事会の支援) === 機構軍 === 当初は軍事計画の立案を実施する「常設グループ」(アメリカ合衆国首都[[ワシントンD.C.]]に設置)と「地域計画グループ」(各地域に設置)のみが設置されており、本格的な軍事機構が設置されるのは旧西ドイツが加盟して以降であった。軍事機構の成立後、NATOの各級司令部は概してアメリカ方面と欧州方面とに分かれており、その組織機構の大半は欧州に集中している。 これらの組織は地域レベルの司令部や特定種類の部隊・集団の統括組織としての役割を持つが、平時において下部組織に対しては査察権限のみを有し、指揮統制権は戦時にのみ発生するものとされている。ただし、航空関係の各部隊は即応性を求められることもあり、その大半が既に各級司令部の指揮下に収められている。 [[File:Corps sectors in NATO's Central Region.jpg|thumb|1980年代のNATO中欧連合部隊の管区<!--Corps sectors of military responsability in NATO's central region in the '80.-->]] ==== 発足当初 ==== *常設グループ(アメリカ首都ワシントンD.C) **北大西洋・カナダおよびアメリカ、西欧、北欧、[[南ヨーロッパ|南欧]]および[[地中海]]の5個地域計画グループ ==== 1960年代以降 ==== *[[欧州連合軍]]({{lang-en-short|Allied Command, Europe}}、ACE) **北欧連合部隊 **中欧連合部隊 **南欧連合部隊 **地中海[[潜水艦]]部隊 *[[大西洋連合軍]](ACLANT<ref group="注釈">{{lang-en-short|Allied Command, Atlantic}}</ref>) **大西洋打撃艦隊:[[第2艦隊 (アメリカ軍)|アメリカ海軍の第2艦隊]] **東大西洋管区 **西大西洋管区 **大西洋連合[[潜水艦]]部隊 *[[英仏海峡|海峡地区]]連合軍({{lang-en-short|Allied Command, Channel}}、ACCHAN) *地中海連合軍({{lang-en-short|Allied Command, Mediterranean}}) ==== 現在(2010年代) ==== *作戦連合軍(旧欧州連合軍、司令官は[[アメリカ欧州軍]]司令官が兼任) **[[欧州連合軍最高司令部]](ベルギーの[[モンス]]駐在、最上級作戦司令部) **[[ブルンスム統連合軍司令部]](オランダの[[ブルンスム]]駐在、 欧州北部を担当) ***ノースウッド連合海上部隊司令部(英国[[ノースウッド司令部]]内駐在、管区内の海上部隊を統括・指揮) ***ラムシュタイン連合航空部隊司令部(ドイツの[[ラムシュタイン空軍基地]]内駐在、管区内の航空部隊を統括・指揮) ***ハイデルベルク連合陸上部隊司令部(ドイツの[[ハイデルベルク]]在、管区内の地上部隊を統括・指揮) **[[ナポリ統連合軍司令部]](イタリアの[[ナポリ]]駐在、欧州南部を担当) ***ナポリ連合海上部隊司令部(ナポリ駐在、管区内の海上部隊を統括・指揮) ***イズミル連合航空部隊司令部(トルコの[[イズミル]]駐在、管区内の航空部隊を統括・指揮) ***マドリッド連合陸上部隊司令部(スペイン首都マドリード駐在、管区内の地上部隊を統括・指揮) ***NATO[[サラエヴォ|サラエボ]]司令部(旧ユーゴスラヴィア安定化作戦のための臨時編成) ***NATO[[ティラナ]]司令部(旧ユーゴスラヴィア安定化作戦のための臨時編成) ***NATO[[スコピエ]]司令部(旧ユーゴスラヴィア安定化作戦のための臨時編成) **[[リスボン統連合軍司令部]](ポルトガル首都[[リスボン]]駐在、海上配備打撃戦力を担当、ブルンスム、ナポリの両司令部より小規模) ***[[NATO即応部隊]](NRF、ブルンスム、ナポリ、リスボンの三司令部がローテーションで指揮を担当) **即応部隊司令部(陸上部隊主体の即応部隊を統括) ***[[連合緊急対応軍団|欧州連合軍即応部隊]](ARRC)司令部(旧イギリス第1軍団、[[在独イギリス軍]]主体) ***[[欧州合同軍]](EUROCORPS)司令部(フランスの[[ストラスブール]]駐在) ***[[イタリアNATO緊急展開軍団|イタリア即応部隊司令部]](イタリアの[[ミラノ]]駐在、[[イタリア軍]]主体) ***トルコ即応部隊司令部(トルコの[[イスタンブール]]駐在、[[トルコ軍]]主体) ***[[第1ドイツ=オランダ軍団|ドイツ=オランダ即応部隊]]司令部(ドイツ・[[ミュンスター]]駐在) ***[[スペインNATO緊急展開軍団|スペイン即応部隊]]司令部(スペインの[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]駐在) ***ギリシア即応部隊司令部(ギリシア駐在) **その他部隊 ***即応部隊航空参謀部 ***NATO早期警戒部隊([[早期警戒管制機|AWACS]]の共同運用) ***海上即応部隊司令部 ***欧州連合軍機動部隊(空中機動部隊) ***海上打撃・支援部隊 ***[[第1常設NATO海洋グループ]](常設大西洋艦隊、同盟国による持ち回り) ***[[第2常設NATO海洋グループ]](常設地中海艦隊、同盟国による持ち回り) ***常設海峡艦隊(同盟国による持ち回り) *[[変革連合軍]](旧大西洋連合軍、司令官は[[アメリカ統合戦力軍]]司令官が兼任) **変革連合軍最高司令部 **統合軍事センター **NATO統合軍訓練センター **NATO[[海上阻止行動]]訓練センター **NATO深海調査センター *その他の組織 **カナダ=アメリカ地域計画作業部会 **NATO早期警戒指揮管制部隊司令部(SHAPEと同居) **統合運用計画参謀部(SHAPEと同居) **情報通信局(ベルギーに置かれ、NATOに対する[[サイバーテロ|サイバー攻撃]]を監視)<ref>{{Cite web |url=https://www.nato.int/cps/en/natohq/topics_69332.htm |title=NCI Agency |publisher=NATO |accessdate=2017-12-20}}</ref><ref>「サイバー攻撃1日500件検知 NATO責任者に聞く」『[[日経産業新聞]]』2017年11月30日エレクトロニクス・ネット・通信面</ref> **サイバー防衛協力センター(CCDCOE、エストニアの首都[[タリン]]に2008年設置)<ref>エストニア国防相ユリ・ルイク氏(52)「サイバー防衛 国際協力で」『読売新聞』朝刊2018年10月12日(解説面)。</ref> **[[NATO戦略的コミュニケーション能力向上センター|戦略コミュニケーション・センター]](ラトビアの首都[[リガ]]に設置され、ロシアによる世論工作などを調査・監視)<ref>{{Cite news |url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM20H60_V21C16A2FF8000/ |title=ロシアの欧米サイバー攻撃「内政揺さぶり狙う」NATO所長 |work=日本経済新聞 |publisher=[[日本経済新聞社]] |date=2016年12月26日}}</ref> === 米軍が駐留するヨーロッパの国々 === {{Main|アメリカ欧州軍}} 歴史的背景から、米軍はNATO諸国に多くの部隊を配置している。以下各国ごとの米軍駐留状況を示す。 *ドイツ 約4万0,000人 *イタリア 約1万1,500人 *イギリス 約1万1,000人 *ポーランド 約1万500人 *ノルウェー 約3,000人 *ルーマニア 約2,300人 *スペイン 約2,000人 *トルコ 約2,000人 *ラトビア 約1,600人 *スロバキア 約1,500人 *ベルギー 約1,000人 ==概要== [[第二次世界大戦]]後に[[1949年]]4月4日に[[アメリカ合衆国]]の首都[[ワシントンD.C.]]で調印された[[北大西洋条約]]に基づき設立された<ref name=":1">{{Cite web |date=n.d. |title=What is NATO? |url=https://www.nato.int/nato-welcome/index.html |archive-url=https://web.archive.org/web/20220228095023/https://www.nato.int/nato-welcome/index.html |archive-date=28 February 2022 |access-date=3 March 2022 |website=NATO – Homepage |publisher=}}</ref><ref>{{Cite news|last=Cook|first=Lorne|date=25 May 2017|title=NATO, the world's biggest military alliance, explained|url=https://www.militarytimes.com/news/pentagon-congress/2017/05/25/nato-the-world-s-biggest-military-alliance-explained/|archive-url=https://web.archive.org/web/20170525215404/http://www.militarytimes.com/articles/nato-the-worlds-biggest-military-alliance-explained|archive-date=25 May 2017|access-date=3 March 2022|newspaper=[[Military Times]]|agency=Associated Press}}</ref>。略称は英語で {{lang|en|'''NATO'''}}(ナトー<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/NATO-174823|title=NATOとは|website=[[コトバンク]]|accessdate=2022-08-19}}</ref>、発音: {{IPAc-en|ˈ|n|eɪ|t|oʊ}} "ネイトウ"<ref>{{Cite web|和書|title=北大西洋条約機構の英訳|url=https://eow.alc.co.jp/search?q=%E5%8C%97%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84%E6%A9%9F%E6%A7%8B|website=[[英辞郎]] on the WEB|publisher=[[アルク]]|accessdate=2020-11-20|language=ja}}</ref><ref name="hatori">{{Cite book|和書|editor=永田博人・赤瀬川史朗|others=羽鳥博愛(監修)|title=アクセスアンカー英和辞典|edition=第2版|publisher=[[学研プラス]]|year=2016|page=696|isbn=978-4-05-304553-9}}</ref>、''{{lang|en|North Atlantic Treaty Organization}}'')、フランス語で {{lang|fr|OTAN}}(''{{lang|fr|Organisation du Traité de l'Atlantique Nord}}'')。NATOは[[集団安全保障]]のシステムであり、独立した加盟国は第三国(者)による攻撃から互いに防衛することに合意している。[[冷戦]]時代、NATOは[[ソビエト連邦]]や[[東側諸国]]などで構成される[[ワルシャワ条約機構]](1955年-1991年)の脅威に対する牽制の役割を果たし、[[ソ連崩壊]]後も[[バルカン半島]]、[[中東]]、[[南アジア]]、[[アフリカ]]で軍事作戦を展開してきた。[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]に対しては、参戦はしていないもののウクライナへ軍事援助や情報を提供している(後述)。 NATOの本部は[[ベルギー]]の首都[[ブリュッセル]]にあり、[[欧州連合軍最高司令部]]は同国の[[モンス]]近郊にある。NATOは[[東ヨーロッパ]]に[[NATO即応部隊]]を配備しており、NATO加盟国の軍隊を合わせると、約350万人の兵士と職員を保有する<ref>{{Cite news|url=https://www.independent.co.uk/news/world/europe/nato-troops-russia-ukraine-estonia-map-b2031894.html|title=Where are Nato troops stationed and how many are deployed across Europe?|newspaper=[[インデペンデント|The Independent]]|first=Tom|last=Batchelor|date=9 March 2022|access-date=8 June 2022}}</ref>。2020年時点の軍事費合計は、世界の名目総額の57%以上を占めている<ref name="sipri12">{{Cite web |date=2021 |title=The SIPRI Military Expenditure Database |url=https://sipri.org/sites/default/files/SIPRI-Milex-data-1949-2020_0.xlsx |archive-url=https://web.archive.org/web/20220224071552/https://sipri.org/sites/default/files/SIPRI-Milex-data-1949-2020_0.xlsx |archive-date=24 February 2022 |access-date=3 March 2022 |website=SIPRI |publisher=IMF World Economic Outlook}}</ref>。加盟国は、2024年までに[[国内総生産|GDP]]の少なくとも2%という目標防衛支出を達成または維持することに合意している<ref>[https://www.nato.int/cps/en/natohq/official_texts_112985.htm The Wales Declaration on the Transatlantic Bond] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20180610061817/https://www.nato.int/cps/en/natohq/official_texts_112985.htm|date=10 June 2018}}, NATO, 5 September 2014.</ref><ref name="NYT spending2">{{Cite news|last=Erlanger|first=Steven|date=26 March 2014|title=Europe Begins to Rethink Cuts to Military Spending|url=https://www.nytimes.com/2014/03/27/world/europe/europe-begins-to-rethink-cuts.html|newspaper=The New York Times|access-date=3 April 2014|quote=Last year, only a handful of NATO countries met the target, according to NATO figures, including the United States, at 4.1 percent, and Britain, at 2.4 percent.|archive-url=https://web.archive.org/web/20140329132620/http://www.nytimes.com/2014/03/27/world/europe/europe-begins-to-rethink-cuts.html|archive-date=29 March 2014}}</ref>。 NATOは12か国の設立メンバーで結成され、これまでに8回新メンバーを加え、直近では2023年4月に[[フィンランド]]が加盟した<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=フィンランド NATOに正式加盟 ロシアのウクライナ軍事侵攻受け {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230404/k10014028981000.html |website=[[日本放送協会|NHK NEWS WEB]] |access-date=2023-04-04 |language=ja}}</ref>。NATOは現在、[[スウェーデン]]の加盟申請を手続き中であり、このほか[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、[[ジョージア (国)|ジョージア]]、[[ウクライナ]]を加盟希望国として認めている。 旧ソ連の領土と軍事力の大半を継承した[[ロシア連邦]]は、NATOの「[[平和のためのパートナーシップ]]」プログラムに参加しているNATO加盟国以外の20か国のうちの1か国であるが、一方で旧東欧諸国のNATO加盟を「NATOの東方拡大」と呼んで激しく反発している。2022年にロシアがウクライナに侵攻したことにより、それまで[[中立国]]だった北欧のフィンランドやスウェーデンもNATO加盟を申請する外交政策の歴史的転換を行った<ref>[https://www.bbc.com/japanese/61461201 スウェーデンとフィンランド、NATO加盟申請を正式決定] BBCnews</ref>。 {{-}} == 歴史 == [[file:Ernest Bevin (1881-1951) General Secretary of the Transport and General Workers Union and Labour politician; MP for Wandsworth Central and Woolwich East.jpg|thumb|180px|right|NATO創設に尽力した英外相[[アーネスト・ベヴィン]]。]] {{main|{{仮リンク|北大西洋条約機構の歴史|en|History_of_NATO}}}} === 設立の経緯について === [[ファイル:NATO-2002-Summit.jpg|right|thumb|200px|NATOのサミット(2002年)]] [[ファイル:NATO Summit in Poiana Brasov 2004.jpg|right|thumb|200px|NATOのサミット(2004年)]] [[第二次世界大戦]]が[[ナチス・ドイツ]]など[[枢軸国]]の敗北で終わり、アメリカ合衆国や[[西ヨーロッパ|西欧]]諸国は、[[東ヨーロッパ|東欧]]を影響圏に置いた[[共産主義]]国家であるソ連の脅威に直面し、東西冷戦が始まった。西欧では共同防衛条約として1948年に[[ブリュッセル条約 (1948年)|ブリュッセル条約]]が結ばれた{{Sfn |佐瀬昌盛|p=28-41}}。これには、ドイツの再侵略に対する警戒が条約文に明記されていたが、実態としてはソ連に対抗する意図があった{{Sfn |佐瀬昌盛|p=28-41}}。アメリカ合衆国の外交姿勢には伝統的な孤立主義があったが、[[アメリカ合衆国上院]]において1948年6月11日に[[バンデンバーグ決議]]がなされ、集団防衛体制への参加が認められた{{Sfn |佐瀬昌盛|p=28-41}}。[[イギリス外相]]の[[アーネスト・ベヴィン]]らは、アメリカ合衆国も含めた共同防衛条約の成立に動き、[[1949年]][[4月4日]]に[[北大西洋条約]]が調印された{{Sfn|佐瀬昌盛|p=28-41}}。 結成当初は、ソ連を中心とする共産圏に対抗するための[[西側諸国|西側陣営]]の多国間軍事同盟であり、「'''アメリカ合衆国を引き込み、ロシア(ソ連)を締め出し、ドイツを抑え込む'''」<ref group="注釈">{{lang-en-short|Keep the Americans in, the Russians out, and the Germans down.}}</ref>([[反共主義]]と[[封じ込め]])という、初代[[北大西洋条約機構事務総長|事務総長]]である[[ヘイスティングス・イスメイ]]の言葉が象徴するように、欧州諸国を長年にわたって悩ませたドイツ問題に対する一つの回答でもあった<ref group="注釈">第二次大戦後のドイツ問題は、 1.ドイツを復興させてソ連の影響力を排除する 2.再びドイツがヨーロッパを蹂躙することがないように歯止めをかける 3.ドイツを誰が守るのか という3点に集約された。上記のイスメイの言葉は、ロシアを排除してアメリカによってドイツを守らせ、同時に歯止めをかけるという処方箋を端的に示している。</ref>。 当初はアメリカ合衆国などの一部でドイツの徹底した脱工業化・[[非ナチ化]]が構想されていた(「[[モーゲンソー・プラン]]」も参照)。また[[連合軍軍政期 (ドイツ)|連合軍占領下]]ではドイツは[[武装解除]]され、小規模な[[国境警備隊]]や[[機雷]][[掃海艇]]部隊以外の国軍を持つことは許されず、アメリカ合衆国、フランス、イギリス、ソ連の4か国が治安に責任を担っていた。しかし、冷戦の開始とともに[[西ドイツ]]経済の復興が求められ、主権回復後の[[1950年]]には西ドイツの再軍備検討も解禁された。西ドイツは新たな「[[ドイツ連邦軍]]」の設立とNATOへの加盟準備を始めたが、フランスなどはドイツ再軍備とNATO加盟に反対し、[[欧州防衛共同体]]構想で対抗した。この構想は[[1952年]]に西ドイツを含む西欧各国間で調印されたが、[[ド・ゴール主義]]者たちの反対によりフランス議会で否決され、[[批准]]に至らなかった。この結果、フランスもドイツ再軍備を認め、ドイツ連邦軍(ドイツ軍)が1955年11月12日に誕生し、西ドイツはNATOに加盟した。一方、この事態を受けてソ連を中心とする東側8か国は[[ワルシャワ条約 (1955年)|ワルシャワ条約]]を締結して[[ワルシャワ条約機構]]を発足させ<ref group="注釈">同時に[[東ドイツ]]も、1952年に編成された[[兵営人民警察]]を格上げする形で、1956年に正式に[[国家人民軍]]を創設した。</ref>、ヨーロッパは少数の中立国を除き、2つの軍事同盟によって[[冷戦|東西に分割されることとなった]]。 1949年から1954年まで、[[パウル・ファン・ゼーラント]]が[[アメリカ合衆国連邦政府]]とNATO双方の経済顧問を務めた。 [[File:Cold war europe military alliances map en.png|thumb|冷戦期のヨーロッパ勢力図。青がNATO、赤が[[ワルシャワ条約機構]]、斜線は脱退した国家、白が両同盟に属さない国家である。濃い色は発足時の加盟国、薄い色はその後の加盟国を指す。]] 第二次世界大戦から冷戦を通じて、西欧諸国はNATOの枠組みによって[[アメリカ合衆国]]の強い影響下に置かれることとなったが、それは西欧諸国の望んだことでもあった。二度の世界大戦による甚大な被害と、1960年代にかけての主要[[植民地]]の独立による[[帝国主義]]の崩壊により、それぞれの西欧諸国は大きく弱体化した。そのため欧州各国は、アメリカ合衆国の[[核抑止]]力と強大な通常兵力による実質的な庇護の下、安定した[[経済成長]]を遂げる道を持とうとした。なお、1960年代にはそれまでフランスやイギリスの植民地として加盟していた[[アルジェリア]]、[[キプロス]]、[[マルタ]]が独立後に脱退した。 東側との直接戦争に向け、アメリカによって[[核兵器]]搭載可能の[[中距離弾道ミサイル]]が西欧諸国に配備され、アメリカ合衆国製兵器が各国に供給された([[ニュークリア・シェアリング]])。途中、フランスは米英と外交歩調がずれ、独自戦略路線に踏み切って1966年に軍事機構から離脱<ref>『現代国際関係の基礎と課題』(建帛社 平成11年4月15日初版発行)第1章「第二次世界大戦後の国際関係」河内信幸 p.8</ref>、そのため、1967年にNATO本部がフランス首都の[[パリ]]からブリュッセルに移転した<ref>{{Cite web |url=http://www.nato.int/docu/update/60-69/1967e.htm |title= NATO Update - 1967 |publisher=NATO |accessdate=2017-07-01}}</ref>。一方、[[戦闘機]]などの航空兵器分野では、開発費増大も伴って、欧州各国が共同で開発することが増えたが、これもNATO同盟の枠組みが貢献している。航空製造企業[[エアバス]]誕生も、NATOの枠組みによって西欧の一員となったフランスと西ドイツの蜜月関係が生んだものといえる。また、1975年に[[キプロス紛争]]が事実上終結、ここに[[ギリシャ]]と[[トルコ]]が介入しており、結果はトルコ側の勝利で、ギリシャが支援していた[[キプロス]]からトルコの支援を受けた[[北キプロス・トルコ共和国|北キプロス]]が建国される。ギリシャはキプロス紛争に対してNATOが何ら役に立たなかったとして、NATOを[[1974年]]に一時脱退した(6年後の[[1980年]]に再加盟)。 西欧はアメリカ合衆国の庇護を利用することによって、ソ連を初めとする東欧の軍事的脅威から国を守ることに成功した。「冷戦」の名の通り、欧州を舞台とした[[第三次世界大戦|三度目の大戦]]は阻止された。つまり、NATOは冷戦期間中を通じ、実戦を経験することはなかった。 西側諸国はNATOによる共同防衛と並行して、冷戦時代から冷戦後にかけて、中立国を含めた[[欧州統合]]や東側諸国との対話・協力も進めた。[[米ソデタント|デタント]]期に設立された[[全欧安全保障協力会議]](CSCE)は1995年に[[欧州安全保障協力機構]](OSCE)へ改称された。東欧・旧ソ連諸国と軍事・安全保障について協議する北大西洋協力評議会(NACC)が1991年に発足し、1997年には[[欧州・大西洋パートナーシップ理事会]]へ発展した。 === 冷戦終結後と旧東欧諸国の加盟 === [[ファイル:Berlin_Wall_at_NATO_Headquarters.jpg|サムネイル|NATO本部には[[ベルリンの壁]]の一部が展示されている。]] 1989年の米ソ首脳による[[マルタ会談]]で冷戦が終焉し、続く[[東欧革命]]と1991年のワルシャワ条約機構解体、[[ソビエト連邦の崩壊|ソ連崩壊]]によりNATOは大きな転機を迎え、新たな存在意義を模索する必要性に迫られた。1991年に「新戦略概念」を策定し、脅威対象として周辺地域における紛争を挙げ、域外地域における紛争予防および危機管理(非5条任務)に重点を移した。 [[ユーゴスラビア紛争|ユーゴスラビア解体]]の過程で1992年に勃発した[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]では、初めてこの項目が適用され、1995年より軍事介入と[[国際連合|国連]]による停戦監視に参加した。続いて1999年の[[コソボ紛争]]では[[セルビア]]に対し、NATO初の軍事行動となった空爆([[アライド・フォース作戦]])を行い、[[アメリカ空軍]]主導で行われた印象を国際社会に与えた。 一方で、ソ連の崩壊によりソ連の影響圏に置かれていた東欧諸国が相次いで[[欧州連合]](EU)およびNATOへの加盟を申請するようになり、西側の外交的勝利を象徴するものとなった。一方これらの諸国の加盟によって問題も発生した。旧東側諸国の多くがソ連の支配を逃れてNATO加盟を希望する一方、ソ連崩壊により誕生した旧ソ連中枢国家だったロシアは「NATOの東方拡大」と称してこれに警戒・反発を表明しているためである。1991年にソ連も参加して発効された[[ドイツ最終規定条約]]では西ドイツを継承する統一ドイツにNATO加盟国としての地位を認める一方で旧東ドイツ領域での外国軍部隊駐留を禁止することが規定された。1994年、「[[平和のためのパートナーシップ]]」(PfP)によって、東欧諸国との軍事協力関係が進展。1997年5月にNATOとロシアはNATO・ロシア基本文書に署名し、NATOは新加盟国に対して外国軍部隊について大規模な部隊を恒久的配備しないとした。そのため、新加盟国ではNATO加盟国の外国軍部隊は短期間でローテーションで駐留する方法を取っている。1999年に3か国([[ポーランド]]、[[チェコ]]、[[ハンガリー]])、2004年に7か国([[スロバキア]]、[[ルーマニア]]、[[ブルガリア]]、旧ソ連[[バルト三国]]および旧[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア連邦]]のうち[[スロベニア]])、2009年に2か国([[アルバニア]]と旧ユーゴスラビア連邦の[[クロアチア]])が加盟。旧ユーゴスラビア連邦からは2017年に[[モンテネグロ]]が、[[2020年]]には[[北マケドニア]]<ref name=mofa />が続いた。 こうして旧ワルシャワ条約機構加盟国はソ連以外の加盟国がすべてNATOに参加することになった。旧ソ連各国のうちバルト三国を除くロシア、[[ウクライナ]]、[[モルドバ]]、[[ジョージア (国)|ジョージア]]、[[ベラルーシ]]などは加盟していないが、ロシアが[[ウクライナ紛争 (2014年-)|ウクライナ紛争]]などで見られるように、東欧・[[北ヨーロッパ|北欧]]諸国に対して威嚇や挑発を強めているため(「[[#米露新冷戦|新冷戦]]」参照)、他の国々にもNATO加盟を模索する動きがある。政府がNATO加盟を希望する国としてはウクライナ<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/ukraine/data.html#section3 ウクライナ/外交・国防] 日本国外務省ホームページ(2018年10月17日閲覧)</ref>、[[ジョージア (国)|ジョージア]]<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/georgia/data.html ジョージア/外交・国防] 日本国外務省ホームページ(2018年10月17日閲覧)</ref>がある。 フィンランドやスウェーデンはNATO加盟を求める世論が台頭していた<ref>[http://wedge.ismedia.jp/articles/-/10916 「中立かNATO加盟か、スウェーデンの安保政策」][[岡崎久彦|岡崎研究所]]、[[Wedge|Wedge Infinity]](2017年10月30日)2018年10月30日閲覧</ref><ref>{{Cite news|title=フィンランドがNATO加盟示唆、米ロ協議控え権利強調|newspaper=[[日本経済新聞|日本經濟新聞]] 電子版|publisher=[[日本経済新聞社|株式会社日本経済新聞社]]|date=2022年1月4日|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB041GU0U2A100C2000000/|accessdate=2022-02-15}}</ref><ref>{{Cite news|title=フィンランド NATO加盟の権利主張 欧露間で緊張も|newspaper=[[産経新聞|産經ニュース]]|publisher=[[産業経済新聞社|株式会社産業経済新聞社]] / [[産経デジタル|株式会社産経デジタル]]|date =2022/1/6|url=https://www.sankei.com/article/20220106-O4IY6DORNJJ7RNXLS6MKM5XRME/|accessdate=2022-02-15|author=板東 和正}}</ref><ref>{{Cite news|author=[[ロイター]]編集|title=フィンランド、NATO加盟計画せず 対ロ制裁なら協調へ|newspaper=REUTERS|publisher=ロイター|agency=ロイター|date=2022年1月20日|url=https://jp.reuters.com/article/finland-security-marin-idJPKBN2JU07J|accessdate=2022-02-15}}</ref><ref>{{Cite news|title=<nowiki>[FT]</nowiki>スウェーデン、フィンランドのNATO加盟論が再燃|newspaper=[[日本経済新聞|日本經濟新聞]] 電子版 / [[フィナンシャル・タイムズ|The Financial Times]] (FT)|publisher=[[日本経済新聞社|株式会社日本経済新聞社]] / [[フィナンシャル・タイムズ|The Financial Times Ltd.]]|date=2022年1月26日|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB260SM0W2A120C2000000/|accessdate=2022-02-15}}</ref>ことを背景に、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアがウクライナに侵攻]]したことを受け、2022年5月18日にNATO加盟を申請し<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB183JK0Y2A510C2000000/ 「フィンランドとスウェーデン、NATOに加盟申請」][[日本経済新聞]]ニュースサイト(2022年5月18日)2022年5月19日閲覧。</ref>、同年7月5日にブリュッセルで加盟議定書に署名した<ref>{{Cite web|和書|title=NATO加盟国、フィンランドとスウェーデンの加盟議定書に署名 |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20220706-OYT1T50023/amp/ |website=読売新聞オンライン |access-date=2022-07-09}}</ref>。なお、両国は加盟申請前からNATOの[[軍事演習]]に参加していた<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO36918880V21C18A0FF2000/ 「NATO、冷戦後最大の軍事演習 北欧中心に5万人規模」]日本経済新聞ニュースサイト(2018年10月25日)2018年10月29日閲覧</ref>。 {{seealso|ノルディックバランス|北大西洋条約機構によるバルト三国の領空警備}} === 対テロ戦争 === [[ファイル:Nato awacs.jpg|right|thumb|200px|NATO軍]] [[ファイル:National_Park_Service_9-11_Statue_of_Liberty_and_WTC.jpg|サムネイル|200x200ピクセル|アメリカ同時多発テロ]] 2001年9月11日に発生した[[アメリカ同時多発テロ事件]]への対応については、10月2日に北大西洋条約第5条を発動し、共同組織としては行動しなかったものの、[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)|アフガニスタン攻撃]]([[アメリカのアフガニスタン侵攻|アフガン侵攻]]、[[イスラム原理主義]]武装勢力の[[ターリバーン|タリバン]]をアフガン政府から追放した作戦)や[[アメリカ合衆国本土|アメリカ本土]]防空、領空通過許可等の支援を実施している<ref>{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_999996_po_062604.pdf?contentNo=1 |title=対テロ戦とNATO 集団的自衛権発動とその影響 |author=福田毅 |date=2003年 |work=『レファレンス』平成15年3月号 |format=PDF |publisher=国立国会図書館 |accessdate=2016-07-02}}</ref>。その後の[[対テロ戦争]]には賛同しつつも、各国が自主的に参戦するに留め、新生アフガン軍の訓練にNATOの教官が参加することで協力した。 しかし、2003年の[[イラク戦争]]にはフランスとドイツが強く反対したために足並みは乱れ、アメリカ合衆国に追従するポーランドなど東欧の新加盟国と、仏独など旧加盟国に内部分裂した。 2005年にはアフガニスタンでの軍事行動に関する権限の一部が、イラク戦争で疲弊したアメリカ軍からNATOに移譲され、NATO軍は初の地上軍による作戦を行うに至った。2006年7月には[[アフガニスタン・イスラム共和国|アフガニスタン]]での権限を全て委譲され、NATO加盟国以外を含む多国籍軍である[[国際治安支援部隊]](ISAF)を率いることとなった。 {{main|国際治安支援部隊}} === 米露新冷戦 === {{Main|新冷戦}} 2002年1月。1992年にワルシャワ条約機構に加盟していた国々との間で調印された「領空開放条約」が発効した<ref>{{Cite web|和書|title=オープンスカイ(領空開放)条約|ワードBOX|url=https://www.nishinippon.co.jp/wordbox/10262/|website=西日本新聞me|accessdate=2021-12-19|language=ja}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|title=ロシア 領空開放条約を正式離脱「全責任はアメリカに」|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211219/k10013394341000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-12-19|last=日本放送協会}}</ref>。 ==== ロシア-グルジア戦争 ==== {{Main|ジョージア (国)#ロシア-グルジア戦争|南オセチア紛争 (2008年)}} 2000年代後半に入り、アメリカ合衆国が推進する東欧[[ミサイル防衛]]問題や、ロシアの隣国であるウクライナ、[[ジョージア (国)|ジョージア]](グルジア)がNATO加盟を目指していることに対し、経済が復興して[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]政権下で大国の復権を謳っていたロシアは強い反発を示すようになった。2008年8月にはグルジア紛争が勃発、NATO諸国とロシアの関係は険悪化し、「[[新冷戦]]」と呼ばれるようになった。ロシアは2002年に設置されたNATO-ロシア理事会により準加盟国的存在であったが、2008年8月の時点ではNATOとの関係断絶も示唆していたが、2009年3月には関係を修復した。 ==== ロシアによるウクライナ侵攻 ==== {{see|ウクライナ紛争 (2014年-)|ロシアによるクリミアの併合|2022年ロシアのウクライナ侵攻}} しかしロシアはウクライナ、ジョージアのNATO加盟は断固阻止する構えを見せ、[[ロシアの首相]]として実権を握り続けていたへのプーチンは2008年のNATO-ロシアサミットで、もし[[ウクライナ]]がNATOに加盟する場合ロシアはウクライナ東部([[ロシア人|ロシア]]系住民が多い)と[[クリミア半島]]を併合するためにウクライナと戦争をする用意がある、と公然と述べた<ref>[http://www3.pravda.com.ua/news/2008/7/3/78290.htm {{lang|ru|Імперські комплекси братів росіян Або Не розсипайте перли перед свинями}}] {{ru icon}} </ref>。そしてプーチンの言葉通り、ウクライナにおいて親米欧派政権が誕生したのを機に、クリミア半島およびウクライナ東部にロシアが軍事介入し、ウクライナ東部では紛争となった。 2017年にアメリカ合衆国で大統領選挙中からNATO不要論を掲げた[[ドナルド・トランプ]]が[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]に就任すると、アメリカ合衆国とそれ以外の軍事費負担の格差に不満を隠さなくなり、2017年7月にはトランプがNATO事務総長との[[朝食]]会の場で、ドイツなどに対して軍事費負担の少なさについて不満を展開。「こんな不適なことに我慢していくつもりはない」と主張するなど<ref>{{Cite news |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3182069 |title=トランプ氏、独はロシアの「捕らわれの身」と批判 メルケル氏は反論 |work=AFPBB News |agency=[[フランス通信社]] |date=2018-07-11 |accessdate=2018-07-11}}</ref>、アメリカ軍の関与を縮小する意向を示していた。2019年1月にはトランプがNATO離脱意向を漏らしたと報道された<ref>{{Cite news|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2019011500862&g=int|title=トランプ米大統領がNATO離脱意向=周囲に複数回漏らす-報道|work=時事ドットコム|agency=[[時事通信社]]|date=2019-01-15|accessdate=2019-01-15}}</ref>。 2020年、アメリカ合衆国が領空開放条約から離脱したことを受け、ロシア側も翌年に離脱した<ref name=":0" />。 2021年12月、ロシアは新たにNATOへの加盟を求めるウクライナに対して、ウクライナ周辺の4か所にロシア軍の部隊を集結させ最大17万5000人規模にまで増強して威圧<ref>{{Cite web|和書||title=【詳しく】ロシアがウクライナに軍事攻勢?その背景に何が?|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211218/k10013392021000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-12-29|last=日本放送協会}}</ref>([[ロシア・ウクライナ危機 (2021年-2022年)]])。[[2022年]][[2月24日]]に[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ウクライナへの全面侵攻]]を開始した<ref>{{Cite web|和書|title=ロシア軍、ウクライナ南部上陸 全面侵攻に |url=https://www.sankei.com/article/20220224-QY3IVFEBPFJENO7DO5FY3X7C2I/ |website=産経ニュース |date=2022-02-24 |accessdate=2022-02-27 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。 11月15日には加盟国のポーランド(ウクライナとの国境に近い[[プシェヴォドゥフ]])に[[2022年ポーランドでのミサイル爆発|ロシア製のミサイルが着弾]]し、2名が死亡した。NATO史上、加盟国にミサイルによる被害を受けたのは初である<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=ポーランドにロシア製ミサイル着弾 2人死亡、NATO域内で初―G7首脳、緊急会合 |url=https://www.jiji.com/amp/article?k=2022111600172&g=int |website=時事通信 |access-date=2022-11-16}}</ref>。[[ウクライナの大統領]][[ウォロディミル・ゼレンスキー]]は、ロシアからの攻撃と発言したが、アメリカ合衆国のバイデン大統領は、ロシアから攻撃された可能性は低いと発言<ref name=":2" />した。その後、着弾したミサイルについてポーランド・ウクライナ国境近くにあるウクライナ側の電力施設を狙ったロシアのミサイル攻撃に対して、[[ウクライナ軍]]が迎撃のために発射した[[S-300 (ミサイル)|S-300]]ミサイルだったとの可能性が浮上し、[[ポーランドの大統領]][[アンジェイ・ドゥダ]]は、ロシアによる意図的な攻撃ではなく「不運な出来事」であったと発表し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20221116-OYT1T50211/ |title=ウクライナ電力施設狙った露軍ミサイル迎撃で着弾か…ポーランド大統領「不運な出来事」 |publisher=読売新聞 |date=2022-11-17 |accessdate=2022-11-17}}</ref>、NATOの[[イェンス・ストルテンベルグ]]事務総長は意図的な攻撃やロシアによるNATOへの軍事行動の兆候を否定したうえでウクライナの迎撃ミサイルの公算が大きいという認識を示しつつ、最終的な責任は戦争を始めたロシア側にあると強調した<ref>{{Cite web|和書|title=ウクライナ迎撃ミサイル着弾の公算、ロシアに最終責任=NATO|url=https://jp.reuters.com/article/ukraine-crisis-nato-idJPKBN2S61KF|website=Reuters|date=2022-11-16|access-date=2022-11-25|language=ja}}</ref>。 ソ連崩壊以降、西側志向と親ロシアの間で揺れてきたウクライナは、ロシアによる全面侵攻を受けてNATOとEUへの加盟を目指す路線を鮮明にし、NATOもロシアの膨張主義を食い止めるためウクライナへの支援を行なっている。2023年6月15~16日開催されたNATOの国防相会合では、ウクライナとの協議隊を「委員会」から対等の立場の「ウクライナ理事会」に昇格させることを決定するとともに、冷戦後では初となる、機密扱いの新地域防衛計画を協議した<ref name=朝日新聞20230617>[https://www.asahi.com/articles/DA3S15664886.html ウクライナ理事会設置へ NATO「加盟国と対応に協議」]『朝日新聞』夕刊2023年6月17日(社会・総合面)2023年6月27日閲覧</ref>。 ==== フィンランド加盟 ==== [[2023年]]4月4日、ウクライナ侵攻の影響を受けて、フィンランドはロシアからの攻撃を徹底的に防ぐため、[[フィンランド化|1948年以来、75年間も続けていた中立政策]]も放棄し<ref>{{Citation|title=戦後の欧州情勢の変化とフィンランドの中立政策の変貌|publisher=外務省調査月報| url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/pub/geppo/pdfs/00_2_3.pdf|language=ja|access-date=2023-04-05}}</ref>、NATOに加盟した<ref name=":3" /><ref>{{Cite web|和書|title=フィンランド、NATOに正式加盟 対ロシア抑止力強化 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB046870U3A400C2000000/ |website=日本経済新聞 |access-date=2023-04-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=フィンランド、NATO加盟 ウクライナ侵攻受け米欧同盟に |url=https://mainichi.jp/articles/20230404/k00/00m/030/309000c |website=毎日新聞 |access-date=2023-04-04 |language=ja}}</ref>。これによってNATO加盟国とロシアの国境線が1340キロメートル延びた。現在、フィンランド軍がNATO軍の一員として欧州北部に滞在するロシア軍に対する防衛工事を始めている<ref>{{Citation|title=フィンランド、NATOに正式加盟 31番目の加盟国に|url=https://www.bbc.com/japanese/65176549|language=ja|publisher=BBC NEWS JAPAN|access-date=2023-04-05}}</ref><ref>{{Citation|title=Finland’s long road to NATO|publisher=EL PAÍS ENGLISH|url=https://english.elpais.com/opinion/2023-04-21/finlands-long-road-to-nato.html|language=en|access-date=2023-04-21}}</ref><ref>{{Citation|title=Finland fencing along Russian border amid security concerns after joining NATO|url=https://www.wionews.com/world/finland-fencing-along-russian-border-amid-security-concerns-after-joining-nato-585059|language=en|publisher=WION|access-date=2023-04-22}}</ref>。ロシアはフィンランドに対抗措置を講ずると反発した。<ref>{{Cite web|和書|title=フィンランドがNATO加盟…ロシア大統領報道官「対抗策講じざるを得ない」 |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20230404-OYT1T50204/ |website=読売新聞オンライン |date=2023-04-04 |access-date=2023-04-04 |language=ja}}</ref>。 == 介入した紛争 == {{節スタブ}} NATOが介入したのは[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]、[[コソボ紛争]]、[[マケドニア紛争]]、[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)|アフガニスタン紛争]]、[[2011年リビア内戦]]である。 2011年リビア内戦においては、2011年3月17日に[[リビア]]上空の飛行禁止区域を設定した[[国際連合安全保障理事会決議1973|国連安保理決議1973]]が採択されたことを受け、3月19日よりNATO軍が空爆を開始し<ref>{{Cite news |url=http://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPnJS886805620110320 |title=米英仏軍がリビアに対地攻撃、カダフィ大佐は国民に抗戦呼び掛け |work=ロイター日本語ニュース |publisher=ロイター |date=2011-03-20 |accessdate=2011-03-20}}</ref>、反体制派の[[リビア国民評議会]]を支援。リビアの[[ムアンマル・アル=カッザーフィー|カダフィ政権]]が崩壊する最大の要因となった。 == 加盟国 == {{main|{{仮リンク|北大西洋条約機構の加盟国|en|Member states of NATO}}}} {| style="background:white; border:1px solid rgb(153, 153, 153); margin: 1em auto 1em auto; overflow:auto; overflow-x:auto; overflow-y:hidden;" |- style="text-align:center;" |[[File:NATO partnerships.svg|1000px|alt=A world map with countries in blue, cyan, orange, yellow, purple, and green, based on their NATO affiliation.]] |- style="font-size:85%;" | {| class="wikitable collapsible collapsed" style="background:white; border:1px solid white;" | style="border:0; width:2em;" |{{Legend|darkblue|outline=black}} | style="border:0;" |'''NATO加盟国''' | style="border:0; width:2em;" |{{Legend|#2a7fff|outline=black}} | style="border:0;" |'''[[NATOの拡大|加盟行動計画]]''' | style="border:0; width:2em;" |{{Legend|#88b7ff|outline=black}} | style="border:0;" |'''エンハンスト・オポチュニティ・パートナー''' | style="border:0; width:2em;" |{{Legend|#ffd900|outline=black}} | style="border:0;" |'''個別パートナーシップ行動計画''' &nbsp; | style="border:0; width:2em;" |{{Legend|#ff7826|outline=black}} | style="border:0;" |'''[[平和のためのパートナーシップ]]''' | style="border:0; width:2em;" |{{Legend|#d40000|outline=black}} | style="border:0;" |'''地中海ダイアローグ''' | style="border:0; width:2em;" |{{Legend|#cc00ff|outline=black}} | style="border:0;" |'''イスタンブール協力イニシアチブ''' | style="border:0; width:2em;" |{{Legend|#008000|outline=black}} | style="border:0;" |'''グローバルパートナー''' ! style="border:0; background:none; width:3.6em;" | |- valign="top" | colspan="2" style="border:0;" |{{Plainlist|* {{Flag|Albania}} * {{Flag|Belgium}} * {{Flag|Bulgaria}} * {{Flag|Canada}} * {{Flag|Croatia}} * {{Flag|Czech Republic}} * {{Flag|Denmark}} * {{Flag|Estonia}} * {{Flag|Finland}} * {{Flag|France}} * {{Flag|Germany}} * {{Flag|Greece}} * {{Flag|Hungary}} * {{Flag|Iceland}} * {{Flag|Italy}} * {{Flag|Latvia}} * {{Flag|Lithuania}} * {{Flag|Luxembourg}} * {{Flag|Montenegro}} * {{Flag|Netherlands}} * {{Flag|North Macedonia}} * {{Flag|Norway}} * {{Flag|Poland}} * {{Flag|Portugal}} * {{Flag|Romania}} * {{Flag|Slovakia}} * {{Flag|Slovenia}} * {{Flag|Spain}} * {{Flag|Turkey}} * {{Flag|United Kingdom}} * {{Flag|United States}}}} | colspan="2" style="border:0;" |{{Plainlist|* {{Flag|Bosnia-Herzegovina}}}} | colspan="2" style="border:0;" |{{Plainlist|* {{Flag|Australia}} * {{Flag|Georgia}} * {{Flag|Jordan}} * {{Flag|Sweden}} * {{Flag|Ukraine}}}} | colspan="2" style="border:0;" |{{Plainlist|* {{Flag|Armenia}} * {{Flag|Azerbaijan}} * {{Flag|Bosnia-Herzegovina}} * {{Flag|Georgia}} * {{flag|Kazakhstan}} * {{flag|Moldova}} * {{flag|Serbia}} * {{Flag|Ukraine}}}} | colspan="2" style="border:0;" |{{Plainlist|* {{Flag|Armenia}} * {{Flag|Austria}} * {{Flag|Azerbaijan}} * {{Flag|Belarus}} * {{Flag|Bosnia-Herzegovina}} * {{Flag|Georgia}} * {{Flag|Ireland}} * {{Flag|Kazakhstan}} * {{Flag|Kyrgyzstan}} * {{Flag|Malta}} * {{Flag|Moldova}} * {{Flag|Russia}} * {{Flag|Serbia}} * {{Flag|Sweden}} * {{Flag|Switzerland}} * {{Flag|Tajikistan}} * {{Flag|Turkmenistan}} * {{Flag|Ukraine}} * {{Flag|Uzbekistan}}}} | colspan="2" style="border:0;" |{{Plainlist|* {{Flag|Algeria}} * {{Flag|Egypt}} * {{Flag|Israel}} * {{Flag|Jordan}} * {{Flag|Mauritania}} * {{Flag|Morocco}} * {{Flag|Tunisia}}}} | colspan="2" style="border:0;" |{{Plainlist|* {{Flag|Bahrain}} * {{Flag|Kuwait}} * {{Flag|Oman}} * {{Flag|Qatar}} * {{Flag|United Arab Emirates}} * {{Flag|Yemen}}}} | colspan="3" style="border:0;" |{{Plainlist|* {{Flag|Australia}} * {{Flag|Colombia}} * {{Flag|East Timor}} * {{Flag|Iraq}} * {{Flag|Japan}} * {{Flag|Mongolia}} * {{Flag|Myanmar}} * {{Flag|New Zealand}} * {{Flag|Pakistan}} * {{Flag|Philippines}} * {{Flag|South Korea}} * ''{{Flag|Taiwan}}'' * {{Flag|Thailand}}}} |} |}NATOには北米と欧州を中心に31か国が加盟している。これらの国々の中には、複数大陸に領土を持つ国もあり、南方は[[北大西洋条約]]第6条に基づくNATOの「責任領域」を定める大西洋の[[北回帰線]]までしかカバーすることができない。当初の条約交渉で、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]は[[ベルギー領コンゴ]]などの植民地を条約から除外するよう主張した{{Sfn|Collins|2011|pp=122–123}} <ref>{{Cite web |url=http://www.nato.int/ebookshop/video/declassified/#/en/encyclopedia/the_birth_of_nato/the_key_issues_of_contention/the_area_of_responsibility/ |title=The area of responsibility |website=NATO Declassified |publisher=NATO |date=23 February 2013 |access-date=28 September 2013 |archive-url=https://web.archive.org/web/20130601131134/http://www.nato.int/ebookshop/video/declassified/#/en/encyclopedia/the_birth_of_nato/the_key_issues_of_contention/the_area_of_responsibility/ |archive-date=1 June 2013}}</ref>。しかし、[[フランス領アルジェリア]]は、1962年7月3日の独立まで対象となった<ref>{{Cite web |url=http://www.nato.int/cps/en/SID-C6AD72DE-2E05A89E/natolive/topics_67656.htm?selectedLocale=en |title=Washington Treaty |publisher=NATO |date=11 April 2011 |access-date=28 September 2013 |archive-url=https://web.archive.org/web/20131016081817/http://www.nato.int/cps/en/SID-C6AD72DE-2E05A89E/natolive/topics_67656.htm?selectedLocale=en |archive-date=16 October 2013}}</ref>。この30か国のうち12か国は1949年に加盟した原加盟国であり、残りの18か国は8回の拡大ラウンドのうちのいずれか1回で加盟している。 [[軍事費|国防費]]が[[国内総生産|GDP]]の2%を超える加盟国はほとんどなく<ref>{{Cite news|title=Some EU states may no longer afford air forces-general|last=Adrian Croft|url=http://mobile.reuters.com/article/idUSL5E8KJJSL20120919?irpc=932|newspaper=Reuters|date=19 September 2013|access-date=31 March 2013|archive-url=https://web.archive.org/web/20130510035915/http://mobile.reuters.com/article/idUSL5E8KJJSL20120919?irpc=932|archive-date=10 May 2013}}</ref>、アメリカがNATOの防衛費(国防費)の4分の3を占めている<ref>{{Cite news|title=NATO allies grapple with shrinking defense budgets|last=Craig Whitlock|url=https://articles.washingtonpost.com/2012-01-29/world/35437915_1_nato-allies-defense-budgets-european-members|newspaper=Washington Post|date=29 January 2012|access-date=29 March 2013|archive-url=https://web.archive.org/web/20130530110403/http://articles.washingtonpost.com/2012-01-29/world/35437915_1_nato-allies-defense-budgets-european-members|archive-date=30 May 2013}}</ref>。 === 特別な取り決め === NATOの設立メンバーとして加盟した[[デンマーク]]、[[アイスランド]]、[[ノルウェー]]の北欧3か国は、自国領土に平時の恒久的な基地、核弾頭、連合国の軍事活動を(招待しない限り)認めないという3つの分野で参加を制限することを選択した。しかし、デンマークは[[グリーンランド]]にある既存の基地、[[チューレ空軍基地]]の維持をアメリカ空軍に許可した<ref>{{Cite web |url=https://www.nato.int/cps/en/natohq/declassified_162357.htm |title=Denmark and NATO - 1949|accessdate=2022-11-17}}</ref>。 1960年代半ばから1990年代半ばにかけて、フランスは「ド・ゴール=ミッテラン主義」と呼ばれる政策のもと、NATOから独立した軍事戦略を追求した<ref>{{Cite web |title=Why the concept of Gaullo-Mitterrandism is still relevant |url=https://www.iris-france.org/136272-why-the-concept-of-gaullo-mitterrandism-is-still-relevant/ |website=IRIS |access-date=7 March 2022 |date=29 April 2019 |archive-date=7 March 2022 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220307043522/https://www.iris-france.org/136272-why-the-concept-of-gaullo-mitterrandism-is-still-relevant/}}</ref>。2009年に[[ニコラ・サルコジ]]が統合軍司令部と防衛計画委員会への復帰を交渉し、翌年には防衛計画委員会が解散した。フランスは依然として核計画グループから外れた唯一のNATO加盟国であり、アメリカやイギリスとは異なり、核武装した潜水艦を同盟に参加させることはない<ref name="WP-France">{{Cite news|newspaper=[[ワシントン・ポスト|The Washington Post]]|url=https://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/03/11/AR2009031100547.html|title=After 43 Years, France to Rejoin NATO as Full Member|date=12 March 2009|first=Edward|last=Cody|access-date=19 December 2011|archive-url=https://web.archive.org/web/20171026171515/http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/03/11/AR2009031100547.html|archive-date=26 October 2017}}</ref> <ref name="guardian-france">{{Cite news|title=Sarkozy military plan unveiled|last=Stratton|first=Allegra|url=https://www.theguardian.com/world/2008/jun/17/france.military|newspaper=The Guardian|location=UK|date=17 June 2008|access-date=17 December 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20160307184804/http://www.theguardian.com/world/2008/jun/17/france.military|archive-date=7 March 2016}}</ref>。 === 拡大 === {{Main|NATOの拡大}}[[ファイル:History of NATO enlargement.svg|300px|thumb|NATOは、ドイツの再統一と冷戦の終結以来、14か国を新たに加盟させた。]] NATOへの加盟は、個々の加盟行動計画によって管理され、現加盟国の承認を必要とする。例として、[[北マケドニア]]は、NATO加盟国になるための加盟議定書に2019年2月に署名し、2020年3月27日に加盟国となった<ref>{{Cite web |url=https://www.bbc.com/news/world-europe-47139118 |title=Macedonia signs Nato accession agreement |date=6 February 2019 |website=[[英国放送協会|BBC]] |access-date=6 February 2019 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190207032125/https://www.bbc.com/news/world-europe-47139118 |archive-date=7 February 2019}}</ref> <ref>{{Cite web |url=https://www.nato.int/cps/en/natohq/news_174589.htm |title=North Macedonia joins NATO as 30th Ally |date=27 March 2020 |website=NATO |access-date=27 March 2020 |archive-date=21 May 2020 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200521150245/https://www.nato.int/cps/en/natohq/news_174589.htm}}</ref>。その加盟は、[[マケドニア名称論争]]により、長年[[ギリシャ]]に阻まれていたが、2018年にプレスパ協定により解決された<ref>{{Cite news|url=http://edition.cnn.com/2014/01/14/business/macedonia-prime-minister-greece/|title=Macedonian PM: Greece is avoiding talks over name dispute|first=Oliver|last=Joy|newspaper=CNN|date=16 January 2014|access-date=18 April 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20140419013140/http://edition.cnn.com/2014/01/14/business/macedonia-prime-minister-greece/|archive-date=19 April 2014}}</ref>。その過程で互いに支え合うために、この地域の新規加盟国と加盟候補国は2015年、両国の西にある海域の名を冠した「[[アドリア海]]憲章」を制定した<ref>{{Cite news|url=http://www.setimes.com/cocoon/setimes/xhtml/en_GB/features/setimes/features/2008/12/09/feature-02|title=Montenegro, BiH join Adriatic Charter|date=12 September 2008|first=Jusuf|last=Ramadanovic|author2=Nedjeljko Rudovic|newspaper=[[Southeast European Times]]|access-date=24 March 2009|archive-url=https://web.archive.org/web/20081220115939/http://www.setimes.com/cocoon/setimes/xhtml/en_GB/features/setimes/features/2008/12/09/feature-02|archive-date=20 December 2008}}</ref>。[[ジョージア (国)|ジョージア]]も加盟希望国として名を連ね、2008年のルーマニアの首都[[ブカレスト]]で開かれた首脳会議で「将来の加盟」を約束された<ref>{{Cite journal|last=George J, Teigen JM|year=2008|title=NATO Enlargement and Institution Building: Military Personnel Policy Challenges in the Post-Soviet Context|journal=European Security|volume=17|issue=2|page=346|DOI=10.1080/09662830802642512}}</ref>が、2014年にアメリカ合衆国大統領[[バラク・オバマ]]は、同国が加盟への「道筋を現在示していない」と述べている<ref name="Obama says no">{{Cite news|last=Cathcourt|first=Will|date=27 March 2014|title=Obama Tells Georgia to Forget About NATO After Encouraging It to Join|url=http://www.thedailybeast.com/articles/2014/03/27/obama-tells-georgia-to-forget-about-nato-after-encouraging-it-to-join.html|newspaper=[[The Daily Beast]]|access-date=15 April 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20140416193123/http://www.thedailybeast.com/articles/2014/03/27/obama-tells-georgia-to-forget-about-nato-after-encouraging-it-to-join.html|archive-date=16 April 2014}}</ref>。 [[ウクライナ]]と欧州やNATOとの関係は政治的に議論を呼んでおり、2014年に親露派大統領の[[ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ]]を追放した「[[ユーロマイダン]]」抗議デモでは、こうした関係の改善が目標の一つとされた。ウクライナは、東欧で「個別パートナーシップ行動計画(IPAP)」を持つ8か国のうちの1つである。IPAPは2002年に始まり、NATOとの関係を深める政治的意思と能力を持つ国々に開かれている<ref>{{Cite web |url=http://www.nato.int/cps/en/natolive/topics_49290.htm |title=NATO Topics: Individual Partnership Action Plans |publisher=Nato.int |access-date=29 January 2013 |archive-url=https://web.archive.org/web/20130310015635/http://www.nato.int/cps/en/natolive/topics_49290.htm |archive-date=10 March 2013}}</ref>。2019年2月21日、ウクライナ憲法が改正され、[[欧州連合|EU]]とNATOへの加盟に向けたウクライナの戦略的方向性に関する規範が、基本法の前文、3つの条項、暫定規定に明記された<ref>{{Cite web |title=The law amending the Constitution on the course of accession to the EU and NATO has entered into force {{!}} European integration portal |url=https://eu-ua.org/novyny/zakon-pro-zminy-do-konstytuciyi-shchodo-kursu-na-vstup-v-yes-i-nato-nabuv-chynnosti |website=eu-ua.org |access-date=2021-03-23 |language=uk |archive-date=28 September 2020 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200928024828/https://eu-ua.org/novyny/zakon-pro-zminy-do-konstytuciyi-shchodo-kursu-na-vstup-v-yes-i-nato-nabuv-chynnosti}}</ref>。2021年6月のブリュッセル・サミットで、NATO首脳は、ウクライナが加盟行動計画(MAP)を不可欠のプロセスとして同盟の一員となり、ウクライナが自国の将来と外交政策を決定する権利を、もちろん外部の干渉を受けずに持つという2008年のブカレスト・サミットでの決定を改めて表明した<ref name=":02">{{Cite web |url=https://www.nato.int/cps/en/natohq/news_185000.htm |title=Brussels Summit Communiqué issued by the Heads of State and Government participating in the meeting of the North Atlantic Council in Brussels 14 June 2021 |website=NATO |access-date=14 June 2021 |archive-date=21 February 2022 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220221172546/https://www.nato.int/cps/en/natohq/news_185000.htm}}</ref>。2021年11月30日、ロシア大統領のプーチン大統領は、ウクライナにおけるNATOのプレゼンスの拡大、特にロシアの都市を攻撃できる[[弾道ミサイル|長距離ミサイル]]や、ルーマニアやポーランドと同様の(ロシアのミサイルに対する)[[ミサイル防衛]]システムの配備は、ロシアにとって「レッドライン」の問題であると表明している<ref>{{Cite news|title=Russia will act if Nato countries cross Ukraine 'red lines', Putin says|url=https://www.theguardian.com/world/2021/nov/30/russia-will-act-if-nato-countries-cross-ukraine-red-lines-putin-says|newspaper=[[ガーディアン|The Guardian]]|date=30 November 2021|access-date=13 December 2021|archive-date=17 December 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20211217112550/https://www.theguardian.com/world/2021/nov/30/russia-will-act-if-nato-countries-cross-ukraine-red-lines-putin-says}}</ref> <ref>{{Cite news|title=NATO Pushes Back Against Russian President Putin's 'Red Lines' Over Ukraine|url=https://www.thedrive.com/the-war-zone/43334/nato-pushes-back-against-russian-president-putins-red-lines-over-ukraine|newspaper=The Drive|date=1 December 2021|access-date=13 December 2021|archive-date=14 December 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20211214164345/https://www.thedrive.com/the-war-zone/43334/nato-pushes-back-against-russian-president-putins-red-lines-over-ukraine}}</ref> <ref>{{Cite news|title=Putin warns Russia will act if NATO crosses its red lines in Ukraine|url=https://www.reuters.com/markets/stocks/putin-warns-russia-will-act-if-nato-crosses-its-red-lines-ukraine-2021-11-30/|newspaper=Reuters|date=30 November 2021|access-date=13 December 2021|archive-date=19 January 2022|archive-url=https://web.archive.org/web/20220119022224/https://www.reuters.com/markets/stocks/putin-warns-russia-will-act-if-nato-crosses-its-red-lines-ukraine-2021-11-30/}}</ref>。プーチンは、アメリカ大統領の[[ジョー・バイデン]]に対し、NATOが東方へ拡大したり、「我々を脅かす兵器システムをロシア領土の近くに設置したりしない」という法的保証を求めた<ref>{{Cite news|title=Putin Demands NATO Guarantees Not to Expand Eastward|url=https://www.usnews.com/news/business/articles/2021-12-01/russia-says-its-worried-about-ukrainian-military-buildup|newspaper=[[U.S. News & World Report]]|date=1 December 2021|access-date=13 December 2021|archive-date=12 December 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20211212174653/https://www.usnews.com/news/business/articles/2021-12-01/russia-says-its-worried-about-ukrainian-military-buildup}}</ref>。NATO事務総長の[[イェンス・ストルテンベルグ]]は、「ウクライナがいつNATOに加盟できるかを決めるのは、ウクライナとNATO30カ国だけだ。ロシアには拒否権も発言権もなく、ロシアには隣国を支配しようとする勢力圏を確立する権利もない」と答えた<ref>{{Cite news|title=NATO chief: "Russia has no right to establish a sphere of influence"|url=https://www.axios.com/nato-russia-ukraine-invasion-18619fd7-be80-4d37-86f8-fcebcb1fbe8a.html|newspaper=Axios|date=1 December 2021|access-date=13 December 2021|archive-date=14 February 2022|archive-url=https://web.archive.org/web/20220214172403/https://www.axios.com/nato-russia-ukraine-invasion-18619fd7-be80-4d37-86f8-fcebcb1fbe8a.html}}</ref> <ref>{{Cite news|title=Is Russia preparing to invade Ukraine? And other questions|url=https://www.bbc.com/news/world-europe-56720589|newspaper=BBC News|date=10 December 2021|access-date=13 December 2021|archive-date=19 December 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20211219125518/https://www.bbc.com/news/world-europe-56720589}}</ref>。 ロシアは、ソ連指導者の[[ミハイル・ゴルバチョフ]]と米欧の交渉担当者の間で交わされた、ドイツの平和的統一を可能にする非公式な理解と矛盾すると考え、さらなる拡張に政治的に反対し続けた<ref name="Spiegel review">{{Cite news|last=Klussmann|first=Uwe|author2=Schepp|first2=Matthias|author3=Wiegrefe|first3=Klaus|date=26 November 2009|title=NATO's Eastward Expansion: Did the West Break Its Promise to Moscow?|url=http://www.spiegel.de/international/world/nato-s-eastward-expansion-did-the-west-break-its-promise-to-moscow-a-663315.html|newspaper=[[Spiegel Online]]|access-date=7 April 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20140405190301/http://www.spiegel.de/international/world/nato-s-eastward-expansion-did-the-west-break-its-promise-to-moscow-a-663315.html|archive-date=5 April 2014}}</ref>。NATOの拡張努力は、モスクワの指導者プーチンからはロシアを包囲し孤立させようとする冷戦時代の試みの継続と見られることが多い<ref>{{Cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7312045.stm|newspaper=BBC News|title=Medvedev warns on Nato expansion|date=25 March 2008|access-date=20 May 2010|archive-url=https://web.archive.org/web/20100421004059/http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7312045.stm|archive-date=21 April 2010}}</ref>が、西側諸国からも批判されている<ref name="Art1998 383 to 384">{{Harvnb|Art|1998|pp=383–384}}</ref>。2016年6月のレバダ世論調査によると、ロシアに隣接する旧東欧圏の国々である[[バルト三国]]とポーランドにNATO軍を配備することは、ロシアにとって脅威であると考えているロシア人が68%もいることが判明した<ref>[http://www.levada.ru/en/2016/11/04/levada-center_chicago_council/ Levada-Center and Chicago Council on Global Affairs about Russian-American relations] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20170819190307/http://www.levada.ru/en/2016/11/04/levada-center_chicago_council/|date=19 August 2017}}.</ref>。一方、2017年のピュー・リサーチ・センターのレポートで調査したポーランド人の65%がロシアを「大きな脅威」とし、NATO諸国全体で平均31%がそう答え、2018年に調査したポーランド人の67%が米軍のポーランド駐留に賛成している<ref>{{Cite web |title=NATO summit: Poland pins its hopes on the USA |url=https://www.dw.com/en/nato-summit-poland-pins-its-hopes-on-the-usa/a-44606598 |publisher=Deutsche Welle |access-date=4 September 2018 |archive-url=https://web.archive.org/web/20180904121243/https://www.dw.com/en/nato-summit-poland-pins-its-hopes-on-the-usa/a-44606598 |archive-date=4 September 2018}}</ref>。 2016年に[[ギャラップ (企業)|ギャラップ社]]が調査した非[[独立国家共同体|CIS]]東欧諸国のうち、[[セルビア]]と[[モンテネグロ]]以外は、NATOを脅威ではなく保護同盟とみなす傾向が強かった<ref>{{Cite web |author=Smith |first=Michael |title=Most NATO Members in Eastern Europe See It as Protection |date=10 February 2017 |url=https://news.gallup.com/poll/203819/nato-members-eastern-europe-protection.aspx |publisher=Gallup |access-date=4 September 2018 |archive-url=https://web.archive.org/web/20180904153827/https://news.gallup.com/poll/203819/nato-members-eastern-europe-protection.aspx |archive-date=4 September 2018}}</ref>。雑誌『セキュリティー・スタディーズ』の2006年の研究では、NATOの拡大は中東欧の民主主義の定着に貢献したと論じている<ref>{{Cite journal|last=Epstein|first=Rachel|date=2006|title=Nato Enlargement and the Spread of Democracy: Evidence and Expectations|journal=Security Studies|volume=14|page=63|DOI=10.1080/09636410591002509}}</ref>。[[中華人民共和国|中国]]もまた、さらなる拡大に反対している<ref>{{Cite news|title=China joins Russia in opposing Nato expansion|newspaper=BBC News|date=4 February 2022|url=https://www.bbc.com/news/world-asia-60257080|access-date=4 February 2022|archive-url=https://web.archive.org/web/20220217171200/https://www.bbc.com/news/world-asia-60257080|archive-date=17 February 2022}}</ref>。 === ロシアによるウクライナ侵攻を受けて === [[File:We_Stand_with_Ukraine_2022_Helsinki_-_Finland_(51905505001).jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:We_Stand_with_Ukraine_2022_Helsinki_-_Finland_(51905505001).jpg|代替文=A crowd of people in winter coats march past a white domed church above a set of snowy stairs, some carrying signs and blue and yellow Ukrainian flags.|サムネイル|ロシアのウクライナ侵攻に反対する2022年2月の集会で、フィンランドの首都[[ヘルシンキ]]の[[元老院広場 (ヘルシンキ)|元老院広場]]にある皇帝[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]の像の前を行進するデモ参加者たち。]] [[2022年ロシアのウクライナ侵攻|2022年、ロシアがウクライナに侵攻]]した後、フィンランドとスウェーデンでは、NATO加盟を支持する世論が急速に高まった<ref name=":5">{{Cite web|和書|title=フィンランドとスウェーデン NATO加盟「賛成」の世論が初の過半数に:東京新聞 TOKYO Web |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/164262 |website=東京新聞 TOKYO Web |access-date=2023-07-14 |language=ja}}</ref>。 [[フィンランド放送協会]](YLE)の2月末発表の世論調査では加盟への支持が53%、スウェーデンでも、大手日刊紙アフトンブラッドが委託した4日発表の世論調査で加盟支持は51%となり、ともに初めて過半数に達した<ref name=":5" /><ref>{{Cite web|和書|title=スウェーデン、NATO加盟支持が初めて過半数に 世論調査 |url=https://www.afpbb.com/articles/amp/3393492 |website=www.afpbb.com |access-date=2023-07-14}}</ref>。4月中旬、フィンランドとスウェーデンの両国政府は、 ウクライナ侵攻を受けた安全保障政策見直しの一環で、 NATO加盟の検討開始を明らかにした<ref>{{Cite web|和書|title=北欧2か国がNATO加盟検討、「軍事的中立」転換か…ロシアは反発 |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20220414-OYT1T50384/ |website=読売新聞オンライン |date=2022-04-15 |access-date=2023-07-14 |language=ja}}</ref>。北欧2か国が加わることで、[[北極圏]]、[[北欧]]、[[バルト海]]地域におけるNATOの能力が大幅に拡大する<ref name="Going Nordic">{{Cite web |url=https://www.realcleardefense.com/articles/2022/04/18/going_nordic_what_nato_membership_would_mean_for_finland_and_sweden_827561.html |title=Going Nordic: What NATO Membership Would Mean for Finland and Sweden |author= |publisher=RealClear Defense |date=18 April 2022 |access-date=19 April 2022}}</ref>。これに対し、[[ロシア安全保障会議|ロシア安全保障会]]議副議長の[[メドベージェフ]]前大統領はバルト海周辺への核兵器配備を示唆し、加盟を断念するよう牽制した<ref>{{Cite web|和書|title=北欧のNATO加盟をロシアがけん制 バルト海周辺への核の配備も示唆:東京新聞 TOKYO Web |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/172019 |website=東京新聞 TOKYO Web |access-date=2023-07-14 |language=ja}}</ref>。 2022年5月15日、フィンランド政府は加盟申請の政府方針を決定、スウェーデンも16日に決めた<ref name=":6">{{Cite web|和書|title=フィンランドとスウェーデン、NATOに加盟申請書を同時提出:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ5L4KBMQ5KUHBI02Y.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2022-05-18 |access-date=2023-07-14 |language=ja |last=https://www.facebook.com/asahicom}}</ref>。 両国ともに首相が国会に報告した上で、17日に外相が加盟申請書に署名した<ref name=":6" />。2022年5月18日、フィンランドとスウェーデンが正式にNATOへの加盟を申請<ref name="fin-swe-appliction">{{Cite web |title=Sweden and Finland formally apply to join Nato |url=https://www.theguardian.com/world/2022/may/18/sweden-and-finland-formally-apply-to-join-nato |first=Jon |author=Henley |date=18 May 2022 |access-date=18 May 2022}}</ref>。これに対し加盟国のトルコは、政府がテロ組織に指定している[[クルディスタン労働者党]](PKK)と[[クルド人民防衛隊|人民防衛隊]](YPG)を両国が支援しているとして、NATO加盟に反対。明確な安全保障上の確約をした上で、トルコに対する輸出禁止を撤回するべきと主張した<ref>{{Cite news |title=スウェーデンとフィンランド、NATO加盟申請を正式決定 |url=https://www.bbc.com/japanese/61461201 |work=BBCニュース |access-date=2023-07-14 |language=ja}}</ref>。同年6月28日、[[マドリード]]で開催されたNATO首脳会議において、トルコはフィンランドとスウェーデンがPKKとYPGへの支援を取り止めることなどを条件に、フィンランドとスウェーデンのNATO加盟申請を支持することで合意した<ref name="turkey.finland.sweden.reuters">{{Cite web |url=https://www.reuters.com/world/europe/turkey-clears-way-finland-sweden-join-nato-stoltenberg-2022-06-28/ |title=Turkey clears way for Finland, Sweden to join NATO - Stoltenberg |archive-url=https://archive.today/20220628185507/https://www.reuters.com/world/europe/turkey-clears-way-finland-sweden-join-nato-stoltenberg-2022-06-28/ |archive-date=28 June 2022 |website=[[Reuters]] |date=28 June 2022|accessdate =2022-06-28}}</ref> <ref name="turkey.finland.sweden.sky">{{Cite web |url=https://news.sky.com/story/nato-turkey-agrees-to-back-finland-and-swedens-bid-to-join-alliance-12642100 |title=NATO: Finland and Sweden poised to join NATO after Turkey drops objection |archive-url=https://archive.today/20220628185639/https://news.sky.com/story/nato-turkey-agrees-to-back-finland-and-swedens-bid-to-join-alliance-12642100 |archive-date=28 June 2022 |website=[[Sky News]] |date=28 June 2022|accessdate =2022-06-28}}</ref>。 2022年7月5日、NATO加盟国はフィンランド、スウェーデンの「NATO加盟議定書」に署名した<ref>{{Cite web|和書|title=NATO加盟国 フィンランドとスウェーデンの「加盟議定書」署名 {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220705/k10013703881000.html |website=NHKニュース |date=2022-07-05 |access-date=2023-07-14 |last=日本放送協会}}</ref>。 申請から1カ月余りでの承認は異例。全加盟国が国内での批准手続きを終えればNATOは32カ国体制となる。同日、カナダ、デンマーク、アイスランド、ノルウェーが、翌6日にエストニアと英国が、7月7日にアルバニアが、7月8日にドイツが、12日にオランダとルクセンブルクが、13日にブルガリアが、14日にラトビア、スロべニアが、15日にクロアチアが、20日にポーランド、リトアニア、ベルギーが、21日に羅が、27日に北マケドニアとモンテネグロが、8月2日にフランスが、8月3日に米国、イタリアが、8月27日にチェコが、9月15日にギリシャとスペインが、16日にポルトガルが、27日にスロバキアが北欧2カ国のNATO加盟を批准した。2022年9月までにハンガリーとトルコを除くNATO加盟国が異例の早さで北欧2カ国の加盟を批准することを完了した。2022年11月25日、ハンガリーは来年の早い時期に北欧2カ国の加盟を批准すると表明した。<br />2022年9月30日、ウクライナのゼレンスキー大統領がロシアによる4州の一方的な併合宣言への対抗措置として、 NATOへの加盟申請を表明した<ref>「[https://www.jiji.com/jc/article?k=2022093000757&g=int ウクライナ、NATO加盟申請 対ロシア抑止強化、併合強行で]」時事通信(2022年10月2日)</ref>。 米国の[[ジェイク・サリバン]][[国家安全保障担当大統領補佐官]]は「現在、ウクライナを支援する最善の方法は、実用的な支援を提供することだ。(NATO加盟を巡る)手続きは別の機会に検討すべきだ」と早期加盟に慎重な見方を示した<ref name=":7">{{Cite web|和書|title=ウクライナがNATO加盟申請表明、米は「実用的な支援の提供が最善」と慎重姿勢 |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20221001-OYT1T50097/ |website=読売新聞オンライン |date=2022-10-01 |access-date=2023-07-14 |language=ja}}</ref>。 またNATOのストルテンベルグ事務総長は「ウクライナには自身の将来を選択する権利があるとしたが、現在はウクライナ政府への支援に注力している」と述べた<ref>{{Cite web|和書|title=ウクライナ、NATO加盟を正式申請-戦時中の承認は困難か |url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2022-09-30/RJ1BCFDWX2PS01 |website=Bloomberg.com |date=2022-09-30 |access-date=2023-07-14 |language=ja}}</ref>。 紛争中のウクライナを加盟させればNATO加盟国は集団的自衛権に基づいて紛争の当事国になるため、NATOもウクライナの加盟申請には慎重姿勢を取るとみられる<ref name=":7" />。 2023年3月、ハンガリーは3月27日から始まる会期で北欧2カ国の加盟手続きを開始すると公式に発表した。同年3月18日、トルコの[[レジェップ・タイイップ・エルドアン|エルドアン]]大統領はフィンランドの[[サウリ・ニーニスト|ニーニスト]]大統領との首脳会談で「加盟に必要な条件をフィンランドは履行した」としてフィンランドの加盟承認手続きを先行して始めると明らかにした<ref>{{Cite web|和書|title=フィンランドのNATO加盟固まる…トルコが承認手続き開始表明、ハンガリーも近く承認 |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20230318-OYT1T50081/ |website=読売新聞オンライン |date=2023-03-18 |access-date=2023-07-14 |language=ja}}</ref>。2023年3月28日、ハンガリー議会は圧倒的多数でフィンランドのNATO加盟を批准した。一方スウェーデンについては判断を保留とした。 同国とオルバン首相の与党が法の支配を巡り欧州連合(EU)と対立しているという背景もある<ref>{{Cite web|和書|title=ハンガリー議会、フィンランドのNATO加盟を批准 |url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2023-03-27/RS6T7BDWX2PS01 |website=Bloomberg.com |date=2023-03-27 |access-date=2023-07-14 |language=ja}}</ref>。2023年3月30日、トルコ議会は全会一致でフィンランドのNATO加盟を批准した。これによりNATO全加盟国がフィンランドの加盟議定書を批准した<ref>{{Cite web|和書|title=フィンランドNATO加盟へ、最後の障害クリア-トルコが批准 |url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2023-03-30/RSCRYHT0G1KW01 |website=Bloomberg.com |date=2023-03-30 |access-date=2023-07-14 |language=ja}}</ref>。一方で、スウェーデンについてはテロ組織への対策が不十分であるとして批准を見送った <ref>https://www.sankei.com/article/20230331-CDYSKOXVIFKEBIIE2E7DUHTUWI/</ref>。 2023年4月4日、フィンランドがNATOに正式に加盟。これによりNATOは31カ国体制となった<ref>{{Cite news |title=フィンランド、NATOに正式加盟 31番目の加盟国に |url=https://www.bbc.com/japanese/65176549 |work=BBCニュース |access-date=2023-07-14 |language=ja}}</ref>。 2023年7月10日、トルコのエルドアン大統領は3月の議会で先送りされていたスウェーデンのNATO加盟に同意し、議会が10月に再開された際に批准案を提出すると明らかにした<ref>{{Cite news |title=スウェーデンNATO加盟、ハンガリーも秋に批准の公算 |url=https://jp.reuters.com/article/nato-nordics-sweden-hungary-idJPKBN2YT1Z2 |work=Reuters |date=2023-07-13 |access-date=2023-07-14 |language=ja}}</ref>。また、ハンガリーも加盟に同意する意向を示し、年内に議会で批准される可能性を示唆した<ref>{{Cite news |title=ハンガリー、スウェーデンのNATO加盟を支持=外相 |url=https://jp.reuters.com/article/nato-summit-hungary-minister-idJPL6N38X092 |work=Reuters |date=2023-07-11 |access-date=2023-07-14 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite news |title=スウェーデンNATO加盟、ハンガリーも秋に批准の公算 |url=https://jp.reuters.com/article/nato-nordics-sweden-hungary-idJPKBN2YT1Z2 |work=Reuters |date=2023-07-13 |access-date=2023-07-14 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite news |title=スウェーデンのNATO加盟、トルコが支持 NATO事務総長が発表 |url=https://www.bbc.com/japanese/66161213 |work=BBCニュース |access-date=2023-07-14 |language=ja}}</ref>。 == 第三国との関係 == {{main|{{仮リンク|北大西洋条約機構の対外関係|en|Foreign relations of NATO}}}} === 平和のためのパートナーシップ(PfP) === 欧米諸国及び旧ソ連構成国との軍事面を中心とした各種協力を目的として1997年に設立された枠組み<ref name=":4">{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100156880.pdf |title=北大西洋条約機構(NATO)について |access-date=2023-07-13 |publisher=日本国外務省}}</ref>。1997年にはPfPとNATO全加盟国で構成される[[欧州・大西洋パートナーシップ理事会]]が設立され、50の全参加国での政治上・安全保障上の協力、協議をするための会合が開かれている。 ====加盟国==== {{col| ;{{IRL}} ;{{AZE}} ;{{ARM}} ;{{UKR}} ;{{UZB}} | ;{{AUT}} ;{{KAZ}} ;{{KGZ}} ;{{GEO}} ;{{CHE}} | ;{{SWE}} ;{{SRB}} ;{{TJK}} ;{{TKM}} ;{{BLR}} | ;{{BIH}} ;{{MLT}} ;{{MDA}} ;{{RUS}} }} ===地中海ダイアローグ=== NATOと地中海諸国の相互理解、地中海地域の安全と安定を目的として1994年に創設された枠組み<ref name=":4" />。 ====加盟国==== {{col| ;{{DZA}} ;{{ISR}} | ;{{EGY}} ;{{TUN}} | ;{{MRT}} ;{{MAR}} | ;{{JOR}} }} ===イスタンブール協力イニシアチブ=== 中東諸国との関係強化を目的として2004年に創設された協力枠組み。現加盟国に加え、オマーン及びサウジアラビアが参加に関心を示している<ref name=":4" />。 ====加盟国==== {{col| ;{{ARE}} | ;{{QAT}} | ;{{KWT}} | ;{{BHR}} }} ===世界におけるパートナー(グローバル・パートナー国)=== 他の枠組みに参加していないパートナー国を指し、共通の利益に基づくNATOとの個別の協力の枠組み<ref name=":4" />。 特に東シナ海・南シナ海で力による一方的な現状変更の試みを続け、台湾周辺でも軍事活動を活発化させている中国にはNATOも警戒感を示しており、インド太平洋地域の国々との関係強化を進めている。日本、オーストラリア、韓国、ニュージーランドを'''アジア太平洋パートナー国(AP4)'''とし、2022年から2年連続でNATO首脳会議に招待しているほか、AP4各国と国別パートナーシップ協力計画 (IPCP)から格上げとなる国別適合パートナーシップ計画(ITPP)を締結したか、締結を進めている<ref>{{Cite web|和書|title=中国牽制ために韓日豪と協力…NATO、アジアで領域拡張 |url=https://s.japanese.joins.com/JArticle/306547?sectcode=210&servcode=200 |website=中央日報 - 韓国の最新ニュースを日本語でサービスします |access-date=2023-07-14 |language=ja}}</ref>。 ====パートナー国一覧==== {{col| ;{{IRQ}} ;{{AUS}} | ;{{KOR}} ;{{COL}} | ;{{JPN}} ;{{NZL}} | ;{{PAK}} ;{{MNG}} }} === 日本との関係 === [[自衛隊]]では[[在日米軍]]が使用する武器・弾薬の[[相互運用性]]を確保するために、[[小銃]]の[[NATO弾]]<ref group="注釈">一般には[[7.62x51mm NATO弾]]および[[5.56x45mm NATO弾]]のこと。</ref>を使用しているほか、兵器に様々なNATOとの共通規格を採用している。 2005年にNATO事務総長が来日、また2007年<!--1月-->には[[内閣総理大臣]]の[[安倍晋三]]が欧州歴訪の一環としてNATO本部を訪問しており、協力関係が構築され始めた。このとき、安倍が来賓として演説を行った[[北大西洋理事会]]やNATO加盟各国の代表との会談の中で、加盟各国が軒並み日本との緊密な協力関係を構築することに賛意を表したことが注目された<ref>{{Cite press release|和書|title=北大西洋理事会(NAC)における安倍総理演説「日本とNATO:更なる協力に向けて」(仮訳)|publisher=外務省|date=2007-01-12|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/19/eabe_0112.html}}</ref>。これ以降、NACの下部組織である政治委員会と自衛隊との非公式協議の開催や[[ローマ]]にあるNATO国防大学への[[自衛官]]の留学、NATO災害派遣演習への自衛隊のオブザーバーとしての参加など、実務レベルでの提携も行われるようになった。 [[2014年]][[5月6日]]にも、安倍総理が欧州歴訪の際にNATO事務総長の[[アナス・フォー・ラスムセン|ラスムセン]]と会談<ref name="mainichi20140507">{{Cite news|title=安倍首相:中国軍拡,名指し批判 NATO演説で|url=http://mainichi.jp/select/news/20140507k0000e010105000c.html|newspaper=[[毎日新聞]]|publisher=[[毎日新聞社]]|date=2014年5月5日|accessdate=2014年5月18日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140531001309/http://mainichi.jp/select/news/20140507k0000e010105000c.html|archivedate=2014-05-07}}</ref>。[[海賊]]対策のためのNATOの訓練に自衛隊が参加することや、[[国際平和協力]]活動に参加した経験を持つ[[日本国政府|日本政府]]の女性職員をNATO本部に派遣することなどで合意<ref name="mainichi20140507" />。さらに日本とNATOとの間で具体的な協力項目を掲げた「'''国別パートナーシップ協力計画 (IPCP)'''」に署名した<ref name="mainichi20140507" />。 [[2018年]]5月、北大西洋理事会は、ブリュッセルの在ベルギー日本大使館に[[北大西洋条約機構日本政府代表部|NATO日本政府代表部]]を開設することに同意<ref>{{Cite news|title=NATOに日本政府代表部 理事会で開設同意|work=[[共同通信]]|url=https://web.archive.org/web/20180526015307/https://this.kiji.is/372920906697163873|accessdate=2018-05-31}}</ref>。2018年7月1日、NATO日本政府代表部を開設した<ref>{{Cite news|title=NATO日本政府代表部を開設|newspaper=Qnewニュース|date=2018-7-3|url=https://qnew-news.net/news/2018-7/2018070302.html|accessdate=2018-7-8}}</ref>。 2022年6月29日、スペインの首都[[マドリード]]で開催されたNATO首脳会議(北大西洋理事会)には日本の[[内閣総理大臣]]として初めて[[岸田文雄]]が、同じくグローバル・パートナー国のオーストラリア、ニュージーランド、韓国の首脳と共に出席した。 2023年5月9日、[[冨田浩司]]駐米大使はNATOが東京連絡事務所を開設する方向で検討を進めていると明らかにした<ref>{{Cite web|和書|title=NATO日本に事務所検討 駐米大使が記者会見 |url=https://nordot.app/1028683770087211713 |website=共同通信 |date=2023-05-09 |access-date=2023-05-10}}</ref>。しかし、[[共和国大統領 (フランス)|フランス大統領]]の[[エマニュエル・マクロン]]が「中国との緊張を高める」として、連絡事務所の開設に反対していると[[フィナンシャル・タイムズ]]が報じた<ref>{{Cite web|和書|title=マクロン仏大統領、NATO東京事務所に反対 FT報道 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR060510W3A600C2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2023-06-06 |access-date=2023-06-14 |author=北松円香、田島如生}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=NATOが日本に開設を検討する連絡事務所にフランス外交筋は難色 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230607/k10014092111000.html |website=NHKニュース |date=2023-06-07 |access-date=2023-06-14 |author=日本放送協会}}</ref>。 2023年7月10日、リトアニアの首都ビリニュスで開かれたNATO首脳会議に出席した。首相とストルテンベルグ事務総長は会談後、サイバー防衛や宇宙安全保障、偽情報への対処など16分野での安全保障協力を明記した「'''国別適合パートナーシップ計画(ITPP)'''」を発表した<ref>{{Cite web|和書|title=【主張】日本とNATO 連携に東京事務所必要だ |url=https://www.sankei.com/article/20230713-UTN33POXPFJ3TM6PPF22RR7QGY/ |website=産経ニュース |date=2023-07-12 |access-date=2023-07-13 |language=ja}}</ref>。2014年に策定されたIPCPを発展させたもので、対象期間は2023年から2026年の4年間<ref>{{Cite web|和書|title=日本とNATO サイバー防衛や宇宙安全保障など新たな課題への「協力文書」を発表 |url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/598544 |website=TBS NEWS DIG |date=2023-07-12 |access-date=2023-07-13 |language=ja}}</ref>。 2023年時点で、日本は「グローバル・パートナー国」と位置付けられている<ref>https://www.nato.int/nato_static_fl2014/assets/pdf/2020/6/pdf/What_is_NATO_jp_20200507.pdf</ref>。 ==== 近年の具体的な協力 ==== * 2007年、アフガニスタンにおける人道支援において、 「日本の草の根・無償資金協力」の枠組みを活用したPRT(地方復興支援チーム)に外務省職員1名を連絡調整員として派遣した<ref>{{Cite web|和書|title=外務省: NATO文民代表部に対する連絡調整員について |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/h19/12/1176620_818.html |website=www.mofa.go.jp |access-date=2023-07-13}}</ref>。さらに ISAF(国際治安支援部隊)司令部内のNATO上級文民代表事務所にも連絡調整員が派遣された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.spf.org/iina/articles/tsuruoka_18.html |title=日本外交にとってアフガニスタンは何だったのか |access-date=2023-07-14 |publisher=笹川平和財団}}</ref>。 * 2014年9月25日、IPCPに基づき NATOオーシャン・シールド作戦参加部隊と自衛隊部隊との海賊対処共同訓練を実施<ref>{{Cite web|和書|title=日・NATO海賊対処共同訓練 |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_001274.html |website=Ministry of Foreign Affairs of Japan |access-date=2023-07-13 |language=ja}}</ref>。 * 2019年6月より、NATO海上司令部(MARCOM)へ海上自衛隊より連絡官(在英国防衛駐在官)を派遣<ref name=":4" />。 * 2019年11月、NATO本部諮問・指揮統制幕僚部に対して3代目となる女性自衛官を派遣(2代目までは女性・平和・安全保障(WPS)オフィスへ派遣)。2021年11月、4代目となる女性自衛官をNATO本部国際機関/NGO協力オフィスに対して派遣<ref name=":4" />。 * 2023年3月、[[トルコ・シリア地震]]に関し、NATOからの要請を受けパキスタンにある緊急援助物資を航空自衛隊の[[KC-767|KC-767空中給油・輸送機]]がトルコへ輸送<ref>{{Cite web|和書|title=NATO要請でトルコへ輸送機 防衛相「意義深い」 |url=https://www.sankei.com/article/20230314-TGNTGZ2EBBJA3OKDJR7R33QAWE/ |website=産経ニュース |date=2023-03-14 |access-date=2023-07-13 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。 * 2023年3月30日、日本政府はウクライナに対する殺傷性のない装備品の供与を実施するため、 NATOのCAP(ウクライナのための包括的支援パッケージ)信託基金に対して3,000万米ドルを拠出<ref>{{Cite web|和書|title=NATOの「ウクライナのための包括的支援パッケージ(CAP)」信託基金に対する拠出を通じたウクライナ支援 |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_009653.html |website=Ministry of Foreign Affairs of Japan |access-date=2023-07-13 |language=ja}}</ref>。 * 2023年6月16日、ドイツ空軍が主導しNATO加盟国が参加する最大規模の空軍演習「エアディフェンダー23」に内倉浩昭航空幕僚長と幹部自衛官3人がオブザーバーとして参加<ref>{{Cite web|和書|title=NATO最大演習に空自参加 空幕長と幹部3人派遣:時事ドットコム |url=https://www.jiji.com/amp/article?k=2023061501022&g=pol |website=www.jiji.com |access-date=2023-07-13}}</ref><ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/jasdf_pao/status/1671790124248727553?s=46&t=-zPfstPdaSnvdwZOL61bFg |url=https://twitter.com/jasdf_pao/status/1671790124248727553?s=46&t=-zPfstPdaSnvdwZOL61bFg |website=Twitter |access-date=2023-07-13 |language=ja}}</ref>。 ==== 国際サイバー防衛協力への参画 ==== *2015年〜2016年:NATO主催サイバー演習ロックド・シールズにオブザーバ参加。 *2021年4月 - NATO主催サイバー演習ロックド・シールズ2021に日米共同チームで正式参加(初参加)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mod.go.jp/j/press/news/2021/04/13b.pdf |title=NATOサイバー防衛協力センターによるサイバー防衛演習「ロックド・シールズ2021」への参加について|publisher=防衛省 |date=2021-04-13|accessdate=2022-11-04}}</ref>。 *2022年4月:NATO主催サイバー演習ロックド・シールズ2022に日英共同チームで正式参加<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mod.go.jp/j/press/news/2022/04/19e.html |title=NATOサイバー防衛協力センターによるサイバー防衛演習「ロックド・シールズ2022」への参加について|publisher=防衛省 |date=2022-04-19|accessdate=2022-11-04}}</ref>。 *2022年10月:日本がNATOサイバー防衛協力センターに正式加盟<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mod.go.jp/j/press/news/2022/11/04b.html |title=NATOサイバー防衛協力センターの活動への正式参加について|publisher=防衛省 |date=2022-11-04|accessdate=2022-11-04}}</ref>。 === 韓国との関係 === 韓国はNATOパートナーであり、またNATO以外の主要な同盟国として複数分野で協力してきた。近年の協力ではアフガニスタン戦争後の復興、[[ソマリア沖の海賊]]に対する[[アデン湾]]における商船護衛がある<ref>{{Cite web |url=https://www.nato.int/cps/en/natohq/topics_50098.htm? |title=Relations with the Republic of Korea |access-date=2022年6月8日 |publisher=北大西洋条約機構}}</ref>。 2022年、韓国はNATOの補助組織であるサイバー防衛協力センター(CCDCOE)に貢献国として参加した<ref>{{Cite web|和書|url=https://japan.zdnet.com/article/35187189/ |title=NATOサイバー防衛協力センターに韓国が参加--アジアの国で初 |access-date=2022年6月8日 |publisher=ZDnetjapan}}</ref>。 == 歴代事務総長 == {{see|北大西洋条約機構事務総長}} == 関連作品 == *[[ジョン・ハケット]]『[[:en:The Third World War: The Untold Story|第三次世界大戦]]』(上下巻、[[青木栄一 (1930年生の翻訳家)|青木榮一]]訳、[[講談社文庫]]、1984年) *[[トム・クランシー]]、ラリー・ボンド『[[レッド・ストーム作戦発動]]』(上下巻、[[文春文庫]]) *[[青池保子]]『[[エロイカより愛をこめて]]』 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == * [[佐瀬昌盛]]『NATO――21世紀からの世界戦略』([[文春新書]])ISBN 978-4166600564 * 軍事同盟研究会編『最強の軍事同盟NATO』(アリアドネ企画) * 防衛法学会編『新訂 世界の国防制度』([[第一法規|第一法規出版]]) * {{PDFlink|[https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000066708.pdf NATO概要]}} 平成27年1月 外務省(図解あり) * [https://worldjpn.net/documents/texts/docs/19490404.T1J.html 北大西洋条約]1949年にNATOを設立した基本条約の全文(日本語訳) == 関連項目 == * [[集団安全保障条約機構]](CSTO):ロシア、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、アルメニア、ベラルーシの旧ソ連6か国で構成。 * {{ill2|NATO国防大学|en|NATO Defense College}} * [[アメリカ欧州軍]]:1952年に設立された、ヨーロッパ駐留アメリカ軍の[[統合軍 (アメリカ軍)|統合軍]]の一つ。日本においては在欧米軍とも書かれる。 * [[中国脅威論]] * [[大西洋主義]] * [[北大西洋条約機構の旗]] * [[NATOコードネーム]] * [[NATOフォネティックコード]] * [[NATO弾]] ** [[12.7x99mm NATO弾]] ** [[7.62mm NATO弾]] ** [[5.56mm NATO弾]] * [[NATOの拡大]] * {{仮リンク|NATOからの離脱|en|Withdrawal from NATO}} * [[NATO陸軍士官の階級と徽章]] * [[MNNA]]:同機構のメンバーに該当しない同盟国に軍事的、財政的な優遇を与える目的で、米国政府の指定により結ばれた軍事同盟およびその参加国 * [[フォークランド紛争]] * [[リフォージャー演習]] * {{仮リンク|個別的パートナーシップ行動計画|en|Individual Partnership Action Plan}} * [[国際治安支援部隊]] * [[アグスタ・スキャンダル]] &mdash; [[ベルギー陸軍]]のヘリコプター選考過程において贈賄が行われたとされ、当時のベルギー出身の事務総長が辞任した事件。 * [[東南アジア条約機構]] * [[西欧同盟]] * [[.nato]] * [[ネイト (エジプト神話)]] * [[オーディン]] * [[シャイヨ宮]]/[[パリ・ドーフィン大学|パリ・ドフィーンヌ大学]] == 外部リンク == {{Sisterlinks | wikt = NATO | q = no | v = no }} * [https://www.nato.int/ 北大西洋条約機構公式ウェブサイト]{{en icon}} * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/nato/ 北大西洋条約機構 (NATO)] - 外務省 ** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/nato/gaiyo.html 北大西洋条約機構 (NATO:North Atlantic Treaty Organization) の概要] - 外務省 * [http://www.php.isn.ethz.ch/ {{lang|en|The Parallel History Project on Cooperative Security (PHP)}}] - [[:en:Parallel History Project]] * {{Kotobank}} * [https://twitter.com/NATO NATO] - Twitter {{NATO}} {{地域統合}} {{現行の軍事同盟・安全保障条約・集団安全保障}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きたたいせいようしようやくきこう}} [[Category:NATO|*]] [[Category:冷戦]] [[Category:新冷戦]] [[Category:反共主義]] [[Category:1949年設立の組織]] [[Category:アメリカ合衆国・欧州の国際関係]]
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グラミー賞
グラミー賞(グラミーしょう、英語: Grammy Awards)は、ザ・レコーディング・アカデミーが主催する音楽賞。当初はグラモフォン・アウォード(Gramophone Award)と呼ばれており、現在は単にグラミー(Grammy)と呼ばれることが多い。アメリカ合衆国の音楽産業において優れた作品を創り上げたクリエイターの業績を讃え、業界全体の振興と支援を目的とする賞だが、今日世界で最も権威ある音楽賞のひとつとみなされており、テレビにおけるエミー賞、舞台におけるトニー賞、映画におけるアカデミー賞と同列に扱われる。毎年2月に授賞式が行われ、著名なアーティストによるパフォーマンスや代表的な賞の授賞の模様が全米をはじめ世界の多くの国で放映される。 1959年5月4日、1958年の音楽業界での功績を称える第1回グラミー賞(英語版)授賞式が行われた。 1997年、ザ・レコーディング・アカデミーは当時のグラミー賞で十分にカバーできていなかったラテン・ミュージック部門の充実を目的とし、ザ・ラテン・レコーディング・アカデミー (旧ラテン・アカデミー・オブ・レコーディング・アーツ・アンド・サイエンス)を新たに設立。それにより2000年からラテン・グラミー賞が始まる。 グラミー賞はハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム計画から始まった。ウォーク・オブ・フェーム委員会に選出されたレコード会社の重役達は、ハリウッド大通りに星を埋め込まれることのない音楽業界のリーダー達が数多く存在することを理解しており、ウォーク・オブ・フェームの星に値する音楽業界の重要な人々のリストを編集していた。音楽業界の重鎮達はアカデミー賞やエミー賞のような音楽業界の賞を創立することを決心。これがナショナル・アカデミー・オブ・レコーディング・アーツ・アンド・サイエンス(現ザ・レコーディング・アカデミー)の始まりである。名称には蓄音機を発明したトーマス・エジソンに敬意を表しエディー賞が候補に挙がったが、1958年、最終的にエミール・ベルリナーが発明した蓄音機に因みグラミー賞と名付けられた。 1960年代には「The Best on Record」というタイトルでNBCで放映されていたが、1971年にはABCにて生放映される。1973年からはCBSが放映権を取得している。 なお、日本では「グラミー賞」創設に啓発されるかたちで、翌1959年に日本レコード大賞が創設されている。また、1977年イギリスにおいて、音楽雑誌グラモフォン誌が主催するクラシック音楽の賞グラモフォン・アワード(英語版)と、英国レコード産業協会が主催するポピュラー音楽に関する賞ブリット・アワードが創設され、現在に至っている。 毎年、米国内でリリースされた楽曲とアーティストを対象に選考され、ザ・レコーディング・アカデミーの会員の投票によって選考され、第1回目でノミネート作品が選考され、第2回目で決定されている。 音楽業界で最も栄誉ある賞だとみなされ、受賞結果はセールスに多大な影響を与える。また、アメリカでは注目度の高い祭典の一つであり、2013年2月に行われた第55回グラミー賞の中継番組は2837万人の視聴者数を得た。これはスーパーボウルなどNFLの一部の試合中継やアカデミー賞授賞式中継などに次いで、全米で非常に視聴者数の多い番組の一つになっている。 売り上げが良くても確実にグラミー賞にノミネートするわけではなく、年間第1位の曲でも受賞を逃すことが多い。加えて、2000年に入ってから、その年に最多ノミネートした歌手が最多受賞を逃すケースが増えている。2009年は7部門ノミネートのコールドプレイを筆頭にイギリス出身アーティストが多くノミネートされている。この年の最優秀レコード賞は全てイギリス出身アーティストによる作品が候補に選ばれた。 金色の蓄音機を表現した金めっきのトロフィーはコロラド州リッジウェイ(英語版)のビリングス・アートワークスにより手作りされている。1990年、オリジナルのトロフィーのデザインは改訂され、損傷を防ぐためそれまでの軟鉛からより強い合金となり、トロフィーは以前より大きく壮大になった。受賞者の名前が刻まれたトロフィーは受賞者名の発表があるまで手にすることができないため、テレビで放送されるのは毎年同じ代用品である。 以下の4部門は「主要4部門」として特に衆目を集める。これらの賞はジャンルで制限されない。 主要4部門の受賞者はグラミー賞受賞者一覧を参照。 その他の賞はジャンルによってアートワークやビデオを含み演奏者や製作者に授与される。音楽業界へ長年貢献してきた者には特別賞が授与される。 2023年現在、84カテゴリーと膨大であり、様々なアーチストの演奏も行われることから、上記の主要4部門およびポップ・ミュージック、ロック、カントリー・ミュージック、ラップなど最も人気のあるジャンルから1から2カテゴリーの授賞式のみテレビ放送される。その他の賞は授賞式当日昼間からテレビ放送前に授与される。 2011年4月6日、NARASは2012年に行われる第54回グラミー賞のカテゴリーの多くの大幅な見直しを発表し、カテゴリー数は109から78に減少した。最も重要な変更点はラップ、ロック、リズム・アンド・ブルース、カントリー、ラップで男女、コラボレーションおよびデュオやグループの区別がなくなったことである。また、インストゥルメンタルのソロのいくつかのカテゴリーがなくなった。これらのカテゴリーは現在他のジャンルの最優秀ソロに含まれる。 ロック部門ではハードロックとメタルは一緒にされ、最優秀ロック・インストゥルメンタル・パフォーマンス賞は演奏者の減少により削除された。 リズム・アンド・ブルース部門ではコンテンポラリー・リズム・アンド・ブルースと他のリズム・アンド・ブルースとのアルバムの差異はなくなった。現在どちらも最優秀リズム・アンド・ブルース・アルバム賞として授与される。 ラップ部門ではソロとデュオおよびグループは合併され、最優秀ラップ・パフォーマンス賞となった。 アメリカン・ルーツ・ミュージック部門において大幅な削除が行われた。2011年まではハワイアン・ミュージック、ネイティブ・アメリカン・ミュージック、ザディコまたはケイジャン・ミュージックなどアメリカ国内の様々な地域の音楽のカテゴリーがあった。しかしこのカテゴリーでの演奏者の数が常に少なく、2009年に削除されたポルカと共に最優秀リージョナル・ルーツ・ミュージック・アルバム賞として統合された。 また同部門において、コンテンポラリー・フォークとアメリカーナ、コンテンポラリー・ブルースとトラディショナル・ブルースの区別がなくなってきたことから、ブルースのトラディショナルとコンテンポラリー、フォークのトラディショナルとコンテンポラリーがそれぞれ統合された。ワールドミュージック部門でもトラディショナルとコンテンポラリーが合併された。 クラシック音楽部門では最優秀クラシック・アルバム賞が広義すぎるため、この賞に受賞したアルバムがクラシック部門の他のアルバム賞でも受賞し重複することが多いため削除された。クラシックのアルバムも現在最優秀アルバム賞を受賞可能である。 その他にもより自然に近い名前に変更されるなど、小さな改変がいくつか加えられた。ゴスペル部門は「ゴスペル」という言葉がコンテンポラリー・クリスチャン・ミュージックとかけ離れた伝統的なソウル・ゴスペルを思い起こさせるため、ゴスペル/コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック部門となった。 1971年までグラミー賞授賞式は毎年違う会場で行われ、元々はニューヨーク市とロサンゼルスが主催地であった。1962年、シカゴが主催地に加わり、1965年、ナッシュビルが第4の主催地となった。 1971年、ロサンゼルスのハリウッド・パラディアム(英語版)で行われた第13回グラミー賞(英語版)が、1箇所で行われた最初の授賞式となった。その後ニューヨーク市のマディソン・スクエア・ガーデンのフェルト・フォーラムに移動し、更にその後2年間はナッシュビルのテネシー・シアターで行われた。1974年から2003年、ニューヨーク市とロサンゼルスのいくつかの会場で行われた。主な会場はニューヨーク市のマディソン・スクエア・ガーデン、ラジオシティ・ミュージックホール、ロサンゼルスのシュライン・オーディトリアム、ステイプルズ・センター、ハリウッド・パラディアムである。 2004年、ステイプルズ・センターが恒久的授賞式会場となった。グラミー賞の歴史を振り返るグラミー博物館がステイプルズ・センターの向かい側のL.A.ライブに創設された。博物館の歩道にはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのように毎年の最優秀アルバム賞、最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞の受賞者のブロンズ・ディスクが埋め込まれている。 ビヨンセが史上最多の32回の受賞者である。 グループでは22回受賞のU2が最多である。 グラミー賞はミュージシャンや音楽評論家から批判を受けることがある。 1991年、シネイド・オコナーは4部門でノミネート(1部門受賞)されたものの、商業的な祭典であることを理由に授賞式への参加を拒否した。これはグラミー賞史上初めての出来事となった。1996年、パール・ジャムが最優秀ハードロック・パフォーマンス賞を受賞した際には、リードボーカルのエディ・ヴェダーが「この賞に何の意味があるのか分からない。全く意味がないと思う」とスピーチし、物議を醸した。 同年、6部門にノミネートされていたマライア・キャリーが何も受賞できなかったことに論争が巻き起こった。彼女のアルバム『デイドリーム』は全米で1,000万枚以上を売り上げ、ボーイズIIメンと歌ったシングル『ワン・スウィート・デイ』が当時のビルボード Hot 100で史上最長となる16週連続1位を記録するなど、評論家たちは彼女の受賞は間違いないものと予想していた。受賞を完全に逃した瞬間の彼女の落胆した表情がテレビ画面に映し出され、話題となった。 2021年にドレイクがグラミー賞にノミネートされるも、ドレイクはこれを拒否し取り下げを要求した。また、en:Rap-A-Lot RecordsのCEOen:James Princeは、2022年のグラミー賞授賞式と同日にヒップホップのイベントを開催するよう呼び掛けるなど、ヒップホップカルチャーでグラミー賞ボイコットの動きが見られている。 秘密委員会は1989年に設置され、1995年から主要4部門の最終選考に関与していた。2019年にグラミー会長となったデボラ・ドゥーガンはノミネートの選考過程の見直しを唱えたところ、他の上層部からの猛反発を受け、2020年にグラミー協会から追放された。 2020年にザ・ウィークエンドのブラインディング・ライツが世界的に大ヒット。グラミー賞主要部門を独占すると予想されていたが、1部門もノミネートすらされなかったという事件が発生。これは、ザ・ウィークエンドが2021年スーパーボウルのハーフタイムショーに出演することが原因とも言われている。これを受けて、ザ・ウィークエンドはグラミー協会を猛批判し、今後のグラミー賞ボイコットを発表した。世論はザ・ウィークエンドを支持し、これを受けてグラミー協会は2021年以降の秘密委員会の廃止を決定した。 1989年の授賞式まではテレビ朝日系で放送され、翌1990年の授賞式からはテレビ東京系に移る。その後、1990年代後半よりWOWOWで放送されている。生中継は同時通訳を介して放送され、再放送は字幕スーパーによる放送となる。 1980年に、FM大阪が日本国内での独占放送権を獲得し、JFN系全国ネットで放送された。なお、一時期阪急グループがラジオ中継の冠スポンサーに付き、同グループと関係が深い高島忠夫がメインパーソナリティを担当したことがある。その後、InterFM、2008年はミュージックバードが生中継した。親会社のTOKYO FMでもその一部を放送した。2014年は新たにcross fmが時報、コマーシャル無しでの生中継を実施。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "グラミー賞(グラミーしょう、英語: Grammy Awards)は、ザ・レコーディング・アカデミーが主催する音楽賞。当初はグラモフォン・アウォード(Gramophone Award)と呼ばれており、現在は単にグラミー(Grammy)と呼ばれることが多い。アメリカ合衆国の音楽産業において優れた作品を創り上げたクリエイターの業績を讃え、業界全体の振興と支援を目的とする賞だが、今日世界で最も権威ある音楽賞のひとつとみなされており、テレビにおけるエミー賞、舞台におけるトニー賞、映画におけるアカデミー賞と同列に扱われる。毎年2月に授賞式が行われ、著名なアーティストによるパフォーマンスや代表的な賞の授賞の模様が全米をはじめ世界の多くの国で放映される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1959年5月4日、1958年の音楽業界での功績を称える第1回グラミー賞(英語版)授賞式が行われた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1997年、ザ・レコーディング・アカデミーは当時のグラミー賞で十分にカバーできていなかったラテン・ミュージック部門の充実を目的とし、ザ・ラテン・レコーディング・アカデミー (旧ラテン・アカデミー・オブ・レコーディング・アーツ・アンド・サイエンス)を新たに設立。それにより2000年からラテン・グラミー賞が始まる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": 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"音楽業界で最も栄誉ある賞だとみなされ、受賞結果はセールスに多大な影響を与える。また、アメリカでは注目度の高い祭典の一つであり、2013年2月に行われた第55回グラミー賞の中継番組は2837万人の視聴者数を得た。これはスーパーボウルなどNFLの一部の試合中継やアカデミー賞授賞式中継などに次いで、全米で非常に視聴者数の多い番組の一つになっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "売り上げが良くても確実にグラミー賞にノミネートするわけではなく、年間第1位の曲でも受賞を逃すことが多い。加えて、2000年に入ってから、その年に最多ノミネートした歌手が最多受賞を逃すケースが増えている。2009年は7部門ノミネートのコールドプレイを筆頭にイギリス出身アーティストが多くノミネートされている。この年の最優秀レコード賞は全てイギリス出身アーティストによる作品が候補に選ばれた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "金色の蓄音機を表現した金めっきのトロフィーはコロラド州リッジウェイ(英語版)のビリングス・アートワークスにより手作りされている。1990年、オリジナルのトロフィーのデザインは改訂され、損傷を防ぐためそれまでの軟鉛からより強い合金となり、トロフィーは以前より大きく壮大になった。受賞者の名前が刻まれたトロフィーは受賞者名の発表があるまで手にすることができないため、テレビで放送されるのは毎年同じ代用品である。", "title": "蓄音機形のトロフィー" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "以下の4部門は「主要4部門」として特に衆目を集める。これらの賞はジャンルで制限されない。", "title": "部門" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "主要4部門の受賞者はグラミー賞受賞者一覧を参照。", "title": "部門" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "その他の賞はジャンルによってアートワークやビデオを含み演奏者や製作者に授与される。音楽業界へ長年貢献してきた者には特別賞が授与される。", "title": "部門" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2023年現在、84カテゴリーと膨大であり、様々なアーチストの演奏も行われることから、上記の主要4部門およびポップ・ミュージック、ロック、カントリー・ミュージック、ラップなど最も人気のあるジャンルから1から2カテゴリーの授賞式のみテレビ放送される。その他の賞は授賞式当日昼間からテレビ放送前に授与される。", "title": "部門" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2011年4月6日、NARASは2012年に行われる第54回グラミー賞のカテゴリーの多くの大幅な見直しを発表し、カテゴリー数は109から78に減少した。最も重要な変更点はラップ、ロック、リズム・アンド・ブルース、カントリー、ラップで男女、コラボレーションおよびデュオやグループの区別がなくなったことである。また、インストゥルメンタルのソロのいくつかのカテゴリーがなくなった。これらのカテゴリーは現在他のジャンルの最優秀ソロに含まれる。", "title": "部門" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ロック部門ではハードロックとメタルは一緒にされ、最優秀ロック・インストゥルメンタル・パフォーマンス賞は演奏者の減少により削除された。", "title": "部門" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "リズム・アンド・ブルース部門ではコンテンポラリー・リズム・アンド・ブルースと他のリズム・アンド・ブルースとのアルバムの差異はなくなった。現在どちらも最優秀リズム・アンド・ブルース・アルバム賞として授与される。", "title": "部門" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ラップ部門ではソロとデュオおよびグループは合併され、最優秀ラップ・パフォーマンス賞となった。", "title": "部門" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "アメリカン・ルーツ・ミュージック部門において大幅な削除が行われた。2011年まではハワイアン・ミュージック、ネイティブ・アメリカン・ミュージック、ザディコまたはケイジャン・ミュージックなどアメリカ国内の様々な地域の音楽のカテゴリーがあった。しかしこのカテゴリーでの演奏者の数が常に少なく、2009年に削除されたポルカと共に最優秀リージョナル・ルーツ・ミュージック・アルバム賞として統合された。", "title": "部門" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また同部門において、コンテンポラリー・フォークとアメリカーナ、コンテンポラリー・ブルースとトラディショナル・ブルースの区別がなくなってきたことから、ブルースのトラディショナルとコンテンポラリー、フォークのトラディショナルとコンテンポラリーがそれぞれ統合された。ワールドミュージック部門でもトラディショナルとコンテンポラリーが合併された。", "title": "部門" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "クラシック音楽部門では最優秀クラシック・アルバム賞が広義すぎるため、この賞に受賞したアルバムがクラシック部門の他のアルバム賞でも受賞し重複することが多いため削除された。クラシックのアルバムも現在最優秀アルバム賞を受賞可能である。", "title": "部門" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "その他にもより自然に近い名前に変更されるなど、小さな改変がいくつか加えられた。ゴスペル部門は「ゴスペル」という言葉がコンテンポラリー・クリスチャン・ミュージックとかけ離れた伝統的なソウル・ゴスペルを思い起こさせるため、ゴスペル/コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック部門となった。", "title": "部門" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1971年までグラミー賞授賞式は毎年違う会場で行われ、元々はニューヨーク市とロサンゼルスが主催地であった。1962年、シカゴが主催地に加わり、1965年、ナッシュビルが第4の主催地となった。", "title": "会場" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1971年、ロサンゼルスのハリウッド・パラディアム(英語版)で行われた第13回グラミー賞(英語版)が、1箇所で行われた最初の授賞式となった。その後ニューヨーク市のマディソン・スクエア・ガーデンのフェルト・フォーラムに移動し、更にその後2年間はナッシュビルのテネシー・シアターで行われた。1974年から2003年、ニューヨーク市とロサンゼルスのいくつかの会場で行われた。主な会場はニューヨーク市のマディソン・スクエア・ガーデン、ラジオシティ・ミュージックホール、ロサンゼルスのシュライン・オーディトリアム、ステイプルズ・センター、ハリウッド・パラディアムである。", "title": "会場" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2004年、ステイプルズ・センターが恒久的授賞式会場となった。グラミー賞の歴史を振り返るグラミー博物館がステイプルズ・センターの向かい側のL.A.ライブに創設された。博物館の歩道にはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのように毎年の最優秀アルバム賞、最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞の受賞者のブロンズ・ディスクが埋め込まれている。", "title": "会場" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ビヨンセが史上最多の32回の受賞者である。 グループでは22回受賞のU2が最多である。", "title": "受賞者" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "グラミー賞はミュージシャンや音楽評論家から批判を受けることがある。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1991年、シネイド・オコナーは4部門でノミネート(1部門受賞)されたものの、商業的な祭典であることを理由に授賞式への参加を拒否した。これはグラミー賞史上初めての出来事となった。1996年、パール・ジャムが最優秀ハードロック・パフォーマンス賞を受賞した際には、リードボーカルのエディ・ヴェダーが「この賞に何の意味があるのか分からない。全く意味がないと思う」とスピーチし、物議を醸した。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "同年、6部門にノミネートされていたマライア・キャリーが何も受賞できなかったことに論争が巻き起こった。彼女のアルバム『デイドリーム』は全米で1,000万枚以上を売り上げ、ボーイズIIメンと歌ったシングル『ワン・スウィート・デイ』が当時のビルボード Hot 100で史上最長となる16週連続1位を記録するなど、評論家たちは彼女の受賞は間違いないものと予想していた。受賞を完全に逃した瞬間の彼女の落胆した表情がテレビ画面に映し出され、話題となった。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2021年にドレイクがグラミー賞にノミネートされるも、ドレイクはこれを拒否し取り下げを要求した。また、en:Rap-A-Lot RecordsのCEOen:James Princeは、2022年のグラミー賞授賞式と同日にヒップホップのイベントを開催するよう呼び掛けるなど、ヒップホップカルチャーでグラミー賞ボイコットの動きが見られている。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "秘密委員会は1989年に設置され、1995年から主要4部門の最終選考に関与していた。2019年にグラミー会長となったデボラ・ドゥーガンはノミネートの選考過程の見直しを唱えたところ、他の上層部からの猛反発を受け、2020年にグラミー協会から追放された。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2020年にザ・ウィークエンドのブラインディング・ライツが世界的に大ヒット。グラミー賞主要部門を独占すると予想されていたが、1部門もノミネートすらされなかったという事件が発生。これは、ザ・ウィークエンドが2021年スーパーボウルのハーフタイムショーに出演することが原因とも言われている。これを受けて、ザ・ウィークエンドはグラミー協会を猛批判し、今後のグラミー賞ボイコットを発表した。世論はザ・ウィークエンドを支持し、これを受けてグラミー協会は2021年以降の秘密委員会の廃止を決定した。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1989年の授賞式まではテレビ朝日系で放送され、翌1990年の授賞式からはテレビ東京系に移る。その後、1990年代後半よりWOWOWで放送されている。生中継は同時通訳を介して放送され、再放送は字幕スーパーによる放送となる。", "title": "日本での放送" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1980年に、FM大阪が日本国内での独占放送権を獲得し、JFN系全国ネットで放送された。なお、一時期阪急グループがラジオ中継の冠スポンサーに付き、同グループと関係が深い高島忠夫がメインパーソナリティを担当したことがある。その後、InterFM、2008年はミュージックバードが生中継した。親会社のTOKYO FMでもその一部を放送した。2014年は新たにcross fmが時報、コマーシャル無しでの生中継を実施。", "title": "日本での放送" } ]
グラミー賞は、ザ・レコーディング・アカデミーが主催する音楽賞。当初はグラモフォン・アウォードと呼ばれており、現在は単にグラミー(Grammy)と呼ばれることが多い。アメリカ合衆国の音楽産業において優れた作品を創り上げたクリエイターの業績を讃え、業界全体の振興と支援を目的とする賞だが、今日世界で最も権威ある音楽賞のひとつとみなされており、テレビにおけるエミー賞、舞台におけるトニー賞、映画におけるアカデミー賞と同列に扱われる。毎年2月に授賞式が行われ、著名なアーティストによるパフォーマンスや代表的な賞の授賞の模様が全米をはじめ世界の多くの国で放映される。 1959年5月4日、1958年の音楽業界での功績を称える第1回グラミー賞授賞式が行われた。 1997年、ザ・レコーディング・アカデミーは当時のグラミー賞で十分にカバーできていなかったラテン・ミュージック部門の充実を目的とし、ザ・ラテン・レコーディング・アカデミー (旧ラテン・アカデミー・オブ・レコーディング・アーツ・アンド・サイエンス)を新たに設立。それにより2000年からラテン・グラミー賞が始まる。
{{for|2022年のグラミー賞|第64回グラミー賞}} {{Infobox award | name = <small>グラミー賞</small><br>Grammy Awards | image = | imagesize = 180px | Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> | caption = | current_awards = 第65回グラミー賞 | description = 音楽産業において傑出した実績をあげたもの | presenter = ザ・レコーディング・アカデミー | country = [[アメリカ合衆国]] | year = 1959年 - | website = https://www.grammy.com/ }} '''グラミー賞'''(グラミーしょう、{{lang-en|Grammy Awards}})は、[[ナショナル・アカデミー・オブ・レコーディング・アーツ・アンド・サイエンス|ザ・レコーディング・アカデミー]]が主催する音楽賞。当初はグラモフォン・アウォード(Gramophone Award)と呼ばれており、現在は単に'''グラミー'''(Grammy)と呼ばれることが多い。[[アメリカ合衆国]]の[[音楽産業]]において優れた作品を創り上げたクリエイターの業績を讃え、業界全体の振興と支援を目的とする賞だが、今日世界で最も権威ある音楽賞のひとつとみなされており、テレビにおける[[エミー賞]]、舞台における[[トニー賞]]、映画における[[アカデミー賞]]と同列に扱われる。毎年2月に授賞式が行われ、著名なアーティストによるパフォーマンスや代表的な賞の授賞の模様が全米をはじめ世界の多くの国で放映される。 1959年5月4日、1958年の音楽業界での功績を称える{{仮リンク|第1回グラミー賞|en|1st Annual Grammy Awards}}授賞式が行われた。 1997年、ザ・レコーディング・アカデミーは当時のグラミー賞で十分にカバーできていなかったラテン・ミュージック部門の充実を目的とし、[[:en:The Latin Recording Academy|ザ・ラテン・レコーディング・アカデミー]] (旧ラテン・アカデミー・オブ・レコーディング・アーツ・アンド・サイエンス)を新たに設立。それにより2000年から[[ラテン・グラミー賞]]が始まる。 == 沿革 == [[ファイル:Grammy_Award_icon.svg|thumb|180px|グラミー賞のアイコン]] グラミー賞は[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]計画から始まった<ref>{{cite news|url=http://projects.latimes.com/hollywood/star-walk/about/|title=Hollywood Walk of Fame History|work=Los Angeles Times|accessdate=May 21, 2011}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.walkoffame.com/pages/history|title=Hollywood Walk of Fame History|publisher=Hollywood Walk of Fame|accessdate=May 21, 2011}}</ref>。ウォーク・オブ・フェーム委員会に選出されたレコード会社の重役達は、{{仮リンク|ハリウッド大通り|en|Hollywood Boulevard}}に星を埋め込まれることのない音楽業界のリーダー達が数多く存在することを理解しており、[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム|ウォーク・オブ・フェーム]]の星に値する音楽業界の重要な人々のリストを編集していた。音楽業界の重鎮達はアカデミー賞やエミー賞のような音楽業界の賞を創立することを決心。これがナショナル・アカデミー・オブ・レコーディング・アーツ・アンド・サイエンス(現ザ・レコーディング・アカデミー)の始まりである。名称には[[蓄音機]]を発明した[[トーマス・エジソン]]に敬意を表しエディー賞が候補に挙がったが、1958年、最終的に[[エミール・ベルリナー]]が発明した蓄音機に因みグラミー賞と名付けられた<ref>{{cite news|url=https://news.google.com/newspapers?id=NnRPAAAAIBAJ&sjid=5wQEAAAAIBAJ&pg=1440,1446700&dq=paul+weston&hl=en|title=Record Academy Plans TV Spectacular Of Its Own|author=Thomas, Bob|date=April 8, 1959|publisher=Ocala Star-Banner|accessdate=January 29, 2011}}</ref><ref>{{cite news|url=https://news.google.com/newspapers?id=ca9NAAAAIBAJ&sjid=cEgDAAAAIBAJ&pg=7065,1739274&dq=paul+weston&hl=en|title=Recording Stars Plan Eddie To Join Oscar And Emmy|date=August 9, 1957|publisher=The Deseret News|accessdate=February 2, 2011}}</ref><ref>{{cite news|url=https://news.google.com/newspapers?id=aSBAAAAAIBAJ&sjid=Z1gMAAAAIBAJ&pg=3612,4838071&dq=paul+weston+grammy&hl=en|title=Bronze Stars Begot Grammy|date=February 22, 1976|publisher=The Robesonian|accessdate=May 2, 2011}}</ref>。 1960年代には「The Best on Record」というタイトルで[[NBC]]で放映されていたが、1971年には[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]にて生放映される。1973年からは[[CBS]]が放映権を取得している。 なお、[[日本]]では「グラミー賞」創設に啓発されるかたちで、翌1959年に[[日本レコード大賞]]が創設されている。また、[[1977年]][[イギリス]]において、音楽雑誌[[グラモフォン (雑誌)|グラモフォン誌]]が主催する[[クラシック音楽]]の賞{{仮リンク|グラモフォン・アワード|en|Gramophone Award}}と、[[英国レコード産業協会]]が主催する[[ポピュラー音楽]]に関する賞[[ブリット・アワード]]が創設され、現在に至っている。 == 概要 == 毎年、[[アメリカ合衆国|米国]]内でリリースされた楽曲とアーティストを対象に選考され、ザ・レコーディング・アカデミーの会員の投票によって選考され、第1回目でノミネート作品が選考され、第2回目で決定されている。 音楽業界で最も栄誉ある賞だとみなされ、受賞結果はセールスに多大な影響を与える。また、アメリカでは注目度の高い祭典の一つであり、2013年2月に行われた第55回グラミー賞の中継番組は2837万人の視聴者数を得た<ref>[http://www.grammy.com/news/fyitmi-55th-annual-grammy-awards-draws-high-ratings-and-record-social-media-comments FYI/TMI: 55th Annual GRAMMY Awards Draws High Ratings And Record Social Media Comments] ''Grammy.com'' February 13, 2013. 2013年2月14日閲覧。</ref>。これは[[スーパーボウル]]など[[NFL]]の一部の試合中継や[[アカデミー賞]]授賞式中継などに次いで、全米で非常に視聴者数の多い番組の一つになっている。 売り上げが良くても確実にグラミー賞にノミネートするわけではなく、年間第1位の曲でも受賞を逃すことが多い。加えて、2000年に入ってから、その年に最多ノミネートした歌手が最多受賞を逃すケースが増えている。[[第51回グラミー賞|2009年]]は7部門ノミネートの[[コールドプレイ]]を筆頭に[[イギリス]]出身アーティストが多くノミネートされている。この年の最優秀レコード賞は全てイギリス出身アーティストによる作品が候補に選ばれた<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000045440 グラミー・アワーズ・ノミネート、UKアーティストが大健闘]</ref>。 == 蓄音機形のトロフィー == 金色の蓄音機を表現した金[[めっき]]の[[トロフィー]]は[[コロラド州]]{{仮リンク|リッジウェイ (コロラド州)|label=リッジウェイ|en|Ridgway, Colorado}}のビリングス・アートワークスにより手作りされている<ref>[https://web.archive.org/web/20100423143542/http://www.billingsartworks.com/grammy_making.php Contact Information and Directions] - Billings Artworks</ref>。1990年、オリジナルのトロフィーのデザインは改訂され、損傷を防ぐためそれまでの軟鉛からより強い[[合金]]となり、トロフィーは以前より大きく壮大になった<ref>{{cite web|url=http://www.billingsartworks.com/grammy_making.php |title=Making the Grammy |publisher=Billingsartworks.com |year= 2006|accessdate=2010-08-28}}</ref>。受賞者の名前が刻まれたトロフィーは受賞者名の発表があるまで手にすることができないため、テレビで放送されるのは毎年同じ代用品である<ref>{{cite web|url=http://www.billingsartworks.com/about.php |title=About Billings Artworks |publisher=Billingsartworks.com |year= 2006|accessdate=2010-08-28}}</ref>。 == 部門 == {{Main|グラミー賞カテゴリー一覧}} 以下の4部門は「主要4部門」として特に衆目を集める。これらの賞はジャンルで制限されない。 * {{lang|en|Album of the Year}}(最優秀アルバム賞) - [[アルバム]]演奏者および製作チームに授与される。 * {{lang|en|Record of the Year}}(最優秀レコード賞) - [[シングル]]曲演奏者および製作チームに授与される。 * {{lang|en|Song of the Year}}(最優秀楽曲賞) - シングル曲の作詞者、作曲者に授与される。 * {{lang|en|Best New Artist}}(最優秀新人賞) - この1年で著しい活躍をみせた新人に授与される。正確な発売日やデビュー日時は考慮されない。 主要4部門の受賞者は[[グラミー賞受賞者一覧]]を参照。 その他の賞はジャンルによってアートワークやビデオを含み演奏者や製作者に授与される。音楽業界へ長年貢献してきた者には特別賞が授与される。 2023年現在、84カテゴリーと膨大であり、様々なアーチストの演奏も行われることから、上記の主要4部門および[[ポップ・ミュージック]]、[[ロック (音楽)|ロック]]、[[カントリー・ミュージック]]、[[ラップ]]など最も人気のあるジャンルから1から2カテゴリーの授賞式のみテレビ放送される。その他の賞は授賞式当日昼間からテレビ放送前に授与される。 === カテゴリー再編 === 2011年4月6日、NARASは2012年に行われる第54回グラミー賞のカテゴリーの多くの大幅な見直しを発表し<ref>{{cite web|url=http://www.grammy.org/recording-academy/announcement |title=Recording Academy Awards Category Restructuring |publisher=Grammy.org |date=April 6, 2011 |accessdate=2011-08-05}}</ref>、カテゴリー数は109から78に減少した。最も重要な変更点はラップ、ロック、[[リズム・アンド・ブルース]]、カントリー、ラップで男女、コラボレーションおよびデュオやグループの区別がなくなったことである。また、インストゥルメンタルのソロのいくつかのカテゴリーがなくなった。これらのカテゴリーは現在他のジャンルの最優秀ソロに含まれる。 ロック部門では[[ハードロック]]と[[ヘヴィメタル|メタル]]は一緒にされ、最優秀ロック・インストゥルメンタル・パフォーマンス賞は演奏者の減少により削除された。 リズム・アンド・ブルース部門ではコンテンポラリー・リズム・アンド・ブルースと他のリズム・アンド・ブルースとのアルバムの差異はなくなった。現在どちらも最優秀リズム・アンド・ブルース・アルバム賞として授与される。 ラップ部門ではソロとデュオおよびグループは合併され、最優秀ラップ・パフォーマンス賞となった。 [[ルーツ・ミュージック|アメリカン・ルーツ・ミュージック]]部門において大幅な削除が行われた。2011年までは[[ハワイの音楽|ハワイアン・ミュージック]]、[[ネイティブ・アメリカン]]・ミュージック、[[ザディコ]]または[[ケイジャン (音楽)|ケイジャン・ミュージック]]などアメリカ国内の様々な地域の音楽のカテゴリーがあった。しかしこのカテゴリーでの演奏者の数が常に少なく、2009年に削除された[[ポルカ]]と共に最優秀リージョナル・ルーツ・ミュージック・アルバム賞として統合された。 また同部門において、コンテンポラリー・フォークとアメリカーナ、コンテンポラリー・ブルースとトラディショナル・ブルースの区別がなくなってきたことから、[[ブルース]]のトラディショナルとコンテンポラリー、[[フォークソング|フォーク]]のトラディショナルとコンテンポラリーがそれぞれ統合された。[[ワールドミュージック]]部門でもトラディショナルとコンテンポラリーが合併された。 [[クラシック音楽]]部門では最優秀クラシック・アルバム賞が広義すぎるため、この賞に受賞したアルバムがクラシック部門の他のアルバム賞でも受賞し重複することが多いため削除された。クラシックのアルバムも現在最優秀アルバム賞を受賞可能である。 その他にもより自然に近い名前に変更されるなど、小さな改変がいくつか加えられた。[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]部門は「ゴスペル」という言葉が[[コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック]]とかけ離れた伝統的なソウル・ゴスペルを思い起こさせるため、ゴスペル/コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック部門となった。 == 会場 == 1971年までグラミー賞授賞式は毎年違う会場で行われ、元々は[[ニューヨーク市]]と[[ロサンゼルス]]が主催地であった。1962年、[[シカゴ]]が主催地に加わり、1965年、[[ナッシュビル]]が第4の主催地となった。 1971年、ロサンゼルスの{{仮リンク|ハリウッド・パラディアム|en|Hollywood Palladium}}で行われた{{仮リンク|第13回グラミー賞|en|13th Annual Grammy Awards}}が、1箇所で行われた最初の授賞式となった。その後ニューヨーク市の[[マディソン・スクエア・ガーデン]]のフェルト・フォーラムに移動し、更にその後2年間はナッシュビルのテネシー・シアターで行われた。1974年から2003年、ニューヨーク市とロサンゼルスのいくつかの会場で行われた。主な会場はニューヨーク市のマディソン・スクエア・ガーデン、[[ラジオシティ・ミュージックホール]]、ロサンゼルスの[[シュライン・オーディトリアム]]、[[ステイプルズ・センター]]、ハリウッド・パラディアムである。 2004年、ステイプルズ・センターが恒久的授賞式会場となった。グラミー賞の歴史を振り返る[[グラミー博物館]]がステイプルズ・センターの向かい側の[[L.A.ライブ]]に創設された。博物館の歩道にはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのように毎年の最優秀アルバム賞、最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞の受賞者のブロンズ・ディスクが埋め込まれている。 == 受賞者 == ;最多受賞者 [[ビヨンセ]]が史上最多の32回の受賞者である。 グループでは22回受賞の[[U2]]が最多である。 ;日本人受賞者 {{Main|日本人のグラミー賞受賞者}} == 批判 == グラミー賞は[[ミュージシャン]]や[[音楽評論家]]から批判を受けることがある。 1991年、[[シネイド・オコナー]]は4部門でノミネート(1部門受賞)されたものの、商業的な祭典であることを理由に授賞式への参加を拒否した。これはグラミー賞史上初めての出来事となった<ref>{{Cite news|url=https://www.latimes.com/archives/la-xpm-1991-02-02-ca-227-story.html|title=O'Connor Pulls Out of Grammys|date=1991-02-2|work=Los Angeles Times|accessdate=2020-01-28}}</ref>。 1996年、[[パール・ジャム]]が[[:en:Grammy Award for Best Hard Rock Performance|最優秀ハードロック・パフォーマンス賞]]を受賞した際には、[[歌手|リードボーカル]]の[[エディ・ヴェダー]]が「この賞に何の意味があるのか分からない。全く意味がないと思う」とスピーチし、物議を醸した<ref>{{Cite news|url=https://japan.techinsight.jp/excerpt?id=350457|title=グラミー賞授賞式 過去最悪の珍スピーチの内容はコレだ!|date=2017-02-10|work=[[Techinsight]]|accessdate=2020-01-28}}</ref>。 同年、6部門にノミネートされていた[[マライア・キャリー]]が何も受賞できなかったことに論争が巻き起こった。彼女のアルバム『[[デイドリーム (マライア・キャリーのアルバム)|デイドリーム]]』は全米で1,000万枚以上を売り上げ、[[ボーイズIIメン]]と歌ったシングル『[[ワン・スウィート・デイ]]』が当時の[[Billboard Hot 100|ビルボード Hot 100]]で史上最長となる16週連続1位を記録するなど、評論家たちは彼女の受賞は間違いないものと予想していた<ref>{{Cite news|url=https://blog.dtlr.com/2019/12/five-of-the-biggest-snubs-in-the-history-of-grammy-awards/?__cf_chl_captcha_tk__=410a370166298c9888716dd05cd0540767578c59-1616581154-0-AYo6SYNyLI0iNp5TVBOfFnLRWK44cXOt5sGPnDFUL_nsgi7T9ILKsTMAk1Cmqe1_SfBPPmE3R8ALBntsw-rgAiOGQEOJNfLJvvkm6CxmykJGSJQxO1TpW5bQGTjuM1ds_C0hmQj1L3ORY1D9FTenAg7FVYW729RHKNFjPZYMEK9kOph4ekxWubPK5h_TceJvObe0ifdkOu__HYijWp-lcDZaW-Z92XFx_OcQfGQ6HVvJJ5aHvpei0opw4rzJZsrrmMEmZU1mTiD3fPGxpZJ_z8kGWa9huWJTeT-1Os_LSHkjDrkIhIBc8aJw0SJfZIJ-ZHUFuYeZFAEsvJN0JBSVfpSG2UPUbOGVFrdf7m10xY-XU_HghK1SzCSkjy0YdXHBxpIBbVl-zX94e03nKWeEK38QvzEtgsmWbm6czGlWKX9DGO1Lmh9Ad_moUCiEig2vnWJQbSUO0M3RH5sE0uwEHmTBkpm9tijM_OzqZCui6QGmt-Ybb71SqcX_y3Ri8R5mPpLUcr_KtSO3EScffCnUPlN5Xb5vFsk3TJzPVsI3QRNAd7yHld9gpo0KN7YWr3TCN_rGoYo31E5U2QdzCc3YRBF698tE7mLLTZWoXXXq6Rk7mtFoLQEbCZSdIMGkh0uwbw|title=FIVE OF THE BIGGEST SNUBS IN THE HISTORY OF GRAMMY AWARDS|date=2019-12-10|work=DTLR VILLA|accessdate=2020-01-28}}</ref>。受賞を完全に逃した瞬間の彼女の落胆した表情がテレビ画面に映し出され、話題となった。 2021年に[[ドレイク (ラッパー)|ドレイク]]がグラミー賞にノミネートされるも、ドレイクはこれを拒否し取り下げを要求した<ref>{{cite web|url=https://iflyer.tv/article/2021/12/07/drake-grammy-rejects/ |title=Drake(ドレイク)、2022年度のグラミー賞「ベスト・ラップアルバム賞」「ラップ・パフォーマンス賞」にノミネートされるも拒否、取り下げ要求 |accessdate=2022-08-19}}</ref>。また、[[:en:Rap-A-Lot Records]]のCEO[[:en:James Prince]]は、2022年のグラミー賞授賞式と同日にヒップホップのイベントを開催するよう呼び掛けるなど、ヒップホップカルチャーでグラミー賞ボイコットの動きが見られている<ref>{{cite web |url=https://www.cinra.net/article/202204-briefing-grammyboycott2022_ymmtscl |title=「グラミーに代わるアワードを」ヒップホップ文化の威信をかけ『グラミー賞』ボイコットの動きが |accessdate=2022-08-19}}</ref>。 === 秘密委員会問題 === 秘密委員会は1989年に設置され、1995年から主要4部門の最終選考に関与していた。2019年にグラミー会長となったデボラ・ドゥーガンはノミネートの選考過程の見直しを唱えたところ、他の上層部からの猛反発を受け、2020年にグラミー協会から追放された<ref>{{cite web |url=https://xn--qck0e3a7e272rw29a14yc.com/prediction/2022.php |title=グラミー賞2022 |accessdate=2022-08-19}}</ref>。 2020年に[[ザ・ウィークエンド]]の[[ブラインディング・ライツ]]が世界的に大ヒット。グラミー賞主要部門を独占すると予想されていた<ref>{{cite web |url=https://www.udiscovermusic.jp/columns/the-weeknd-after-hours-becoming-soundtrack-of-covid-19 |title=ザ・ウィークエンド『After Hours』は、いかにして「コロナ時代のサウンドトラック」となったか? |accessdate=2022-08-19}}</ref>が、1部門もノミネートすらされなかったという事件が発生。これは、ザ・ウィークエンドが[[第55回スーパーボウル|2021年スーパーボウル]]の[[ハーフタイムショー]]に出演することが原因とも言われている<ref>{{cite web |url=https://front-row.jp/_ct/17411977 |title=ザ・ウィークエンド、グラミー賞から『完全無視』で波紋&本人も苦言「グラミー賞は腐ったまま」 |accessdate=2022-08-19}}</ref>。これを受けて、ザ・ウィークエンドはグラミー協会を猛批判し、今後のグラミー賞ボイコットを発表した。世論はザ・ウィークエンドを支持し、これを受けてグラミー協会は2021年以降の秘密委員会の廃止を決定した<ref>{{cite web |url=https://rockinon.com/blog/nakamura/198777 |title=ザ・ウィークエンドのグラミー賞ノミネーションがゼロだった原因とされる「秘密委員会」が廃止、という衝撃の発表。ザ・ウィークエンドがそれを受けて、グラミー賞は「それでも腐敗している」とコメント |accessdate=2022-08-19}}</ref>。 == 日本での放送 == === テレビ中継 === 1989年の授賞式までは[[テレビ朝日]]系で放送され、翌1990年の授賞式からは[[テレビ東京]]系に移る。その後、1990年代後半より[[WOWOW]]で放送されている。生中継は[[同時通訳]]を介して放送され、[[再放送]]は字幕スーパーによる放送となる。 ; 2017年の放送 * WOWOWで生中継 : 案内役:[[ジョン・カビラ]]、[[ホラン千秋]] === ラジオ中継 === 1980年に、[[エフエム大阪|FM大阪]]が日本国内での独占放送権を獲得し、[[全国FM放送協議会|JFN]]系全国ネットで放送された。なお、一時期[[阪急グループ]]がラジオ中継の冠スポンサーに付き、同グループと関係が深い[[高島忠夫]]がメインパーソナリティを担当したことがある。その後、[[エフエムインターウェーブ|InterFM]]、2008年は[[ミュージックバード]]が生中継した。親会社の[[エフエム東京|TOKYO FM]]でもその一部を放送した。2014年は新たに[[cross fm]]が時報、コマーシャル無しでの生中継を実施。 ; 2007年の放送 * InterFMが生中継。 ; 2008年の放送 * MUSIC BIRD : パーソナリティ:[[萩原健太]]、荒ヶ田貴美 * TOKYO FM : パーソナリティ:[[西任白鵠]](第1部)、[[Filiz]](第2部) * FM NORTH WAVE : パーソナリティ:[[タック・ハーシー]] ; 2009年以降の放送 * InterFMが生中継。 ; 2014年以降の放送 * InterFM : パーソナリティ:[[アリ・モリズミ]]、[[南美布]] / 現地リポーター:[[大友博]] * cross fm : パーソナリティ:[[立山律子]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[ラテン・グラミー賞]] * [[グラミー賞 クラシック現代作品部門]] * [[グラミー賞 映画・テレビサウンドトラック部門]] * [[音楽に関する賞]] == 外部リンク == {{sisterlinks|d=Q41254|c=category:Grammy Award|n=no|b=no|v=no|voy=no|m=no|mw=no|species=no|wikt=no|s=no|q=no}} * {{Official website|https://www.grammy.com/}}{{en icon}} {{グラミー賞史}} {{Culture Award of US}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:くらみいしよう}} [[Category:グラミー賞|*]] [[Category:CBS]] [[Category:1959年開始のイベント]]
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ハッシュテーブル
ハッシュテーブル (英: hash table) は、キーと値の組(エントリと呼ぶ)を複数個格納し、キーに対応する値をすばやく参照するためのデータ構造。ハッシュ表ともいう。ハッシュテーブルは連想配列や集合の効率的な実装のうち1つである。 ハッシュテーブルはキーをもとに生成されたハッシュ値を添え字とした配列である。通常、配列の添え字には非負整数しか扱えない。そこで、キーを要約する値であるハッシュ値を添え字として値を管理することで、検索や追加を要素数によらず定数時間O(1)で実現する。しかしハッシュ関数の選び方(例えば、異なるキーから頻繁に同じハッシュ値が生成される場合)によっては、性能が劣化して最悪の場合O(n)となってしまう。 複数の異なるキーが同じハッシュ値になることを衝突 (collision) と呼ぶ。キーの分布が予めわからない場合、衝突を避けることはできない。同じハッシュ値となるキーを同族キーと呼ぶ。衝突が発生したときの対処の方法は、開番地法と連鎖法に大別される。 衝突を起こしたキー同士をポインタでつなぐ方式を連鎖法と呼ぶ。テーブルの各番地にはキーそのものではなく、同族キーを保持するリンクリストを格納する。 衝突が発生した際、テーブル中の空いている別の番地を探す方式を開番地法と呼ぶ。その方法としてハッシュ関数とは別の関数を用いて次の候補となる番地を求める。別の番地を探す関数は繰り返し適用することによってテーブル内の全ての番地を走査できるように選ぶ。 連鎖法の一つの実装例を示す。まず、ルート配列と呼ばれる要素数 N の配列を一つ用意する。ルート配列の各要素は、リスト(便宜上エントリリストと呼ぶ)とする。エントリリストには、少数のエントリを格納する。 エントリを格納する場合、エントリのキーをもとにハッシュ関数を用いてハッシュ値を生成する。ハッシュ関数は 0 から N - 1 までの整数値を生成するものであって、一様な分布と高速な計算が要求される。ハッシュ値を i とするとき、ルート配列上の i 番目のエントリリストにこのエントリを格納する。衝突が発生したとき、それらのエントリは同一のエントリリストに格納される。 あるキーをもつエントリを検索する場合、そのキーからハッシュ値を生成する。ハッシュ値を j とするとき、ルート配列上の j 番目のエントリリストに入っているエントリを一つずつ検索し、キーが一致しているものを取り出す。ルート配列上のエントリリストが高速でアクセスできる必要がある。 ハッシュテーブルはエントリの数が配列のサイズに近づくほど衝突の確率が高くなり、性能が悪化してしまう。この比率をload factor(座席利用率)と呼び、n/Nの形で表す。nはエントリの数、Nは配列のサイズを指す。 連鎖法の場合はload factorの増加に対して線形に性能が悪化する。しかし開番地法の場合は衝突したキーが配列の空いた番地に格納されるため、load factorが0.8を超える付近で性能が急激に悪化する。 この問題を回避するため、load factorが一定を超えた場合に、より大きいサイズのハッシュテーブルを用意して格納し直す操作が必要となる。これをリハッシュ (rehash) と呼ぶ。この操作はすべての要素のハッシュ値を再計算して新たなハッシュテーブルに格納するためO(n)であるが、配列のサイズを指数的に拡張する事で、動的配列の末尾追加操作と同様に償却解析によって計算量をO(1)とみなす事ができる。 より単純な回避方法として、あらかじめ想定されるエントリの数に対して十分に大きなサイズの配列を用意する方法もあるが、エントリの数を事前に想定できない場合には適用できない。 最も単純な実装として、ハッシュテーブルのルート配列上を 0 から N - 1 まで走査し、その中に存在するエントリを列挙する方法がある。連鎖法の場合は見つかったエントリリストをさらにたどる必要がある。しかしこの方法で列挙した場合、各エントリはハッシュ関数によって格納位置を決められているために、全く意味を持たない順序で要素が列挙される。これはランダムな順序という意味ではない。利用方法によっては列挙操作が追加した順序を保持しているかのように見えるため、ハッシュテーブルの利用者が誤解する場合がある。この実装による列挙の計算量はルート配列のサイズ N と連鎖法でのルート配列上にないエントリリストの数 m との合計O(N + m)となる。そのため、ルート配列をあらかじめ大きなサイズで確保しているとこの実装での列挙に時間がかかる。 追加した順序で要素を列挙する実装方法として、各エントリに追加順を保持するリンクリストのポインタを別に持たせ、列挙する際はそちらのポインタをたどる方法がある。検索・追加操作のみならば単方向リストで実現可能だが、削除操作もサポートする場合は双方向リストで実装しなければO(1)での操作を実現できない。JavaのLinkedHashMapはこの実装であり、その他言語でも利便性からハッシュテーブルが標準で追加順を保証している事がある。欠点として、各エントリに別のリンクリスト用ポインタが必要なためにメモリ消費量が増加する。
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ハッシュテーブル は、キーと値の組(エントリと呼ぶ)を複数個格納し、キーに対応する値をすばやく参照するためのデータ構造。ハッシュ表ともいう。ハッシュテーブルは連想配列や集合の効率的な実装のうち1つである。
{{出典の明記|date=2016-09-13}} [[画像:HASHTB08.svg|thumb|right|300px|ハッシュテーブルの例(名前をキーとして電話番号を検索)]] '''ハッシュテーブル''' ({{lang-en-short|hash table}}) は、キーと値の組(エントリと呼ぶ)を複数個格納し、キーに対応する値をすばやく参照するための[[データ構造]]。'''ハッシュ表'''ともいう。ハッシュテーブルは[[連想配列]]や[[集合 (プログラミング)|集合]]の効率的な実装のうち1つである。 == 概要 == ハッシュテーブルはキーをもとに生成された[[ハッシュ関数|ハッシュ値]]を添え字とした[[配列]]である。通常、配列の添え字には非負整数しか扱えない。そこで、キーを要約する値であるハッシュ値を添え字として値を管理することで、検索や追加を要素数によらず[[定数時間]]''[[ランダウの記号|O]]''(1)で実現する。しかしハッシュ関数の選び方(例えば、異なるキーから頻繁に同じハッシュ値が生成される場合)によっては、性能が劣化して最悪の場合''O''(n)となってしまう。 == 衝突処理 == 複数の異なるキーが同じハッシュ値になることを'''衝突''' (collision) と呼ぶ。キーの分布が予めわからない場合、衝突を避けることはできない。同じハッシュ値となるキーを同族キーと呼ぶ。衝突が発生したときの対処の方法は、開番地法と連鎖法に大別される。 === 連鎖法 === 衝突を起こしたキー同士をポインタでつなぐ方式を連鎖法と呼ぶ。テーブルの各番地にはキーそのものではなく、同族キーを保持する[[連結リスト|リンクリスト]]を格納する。 === 開番地法 === 衝突が発生した際、テーブル中の空いている別の番地を探す方式を開番地法と呼ぶ。その方法としてハッシュ関数とは別の関数を用いて次の候補となる番地を求める。別の番地を探す関数は繰り返し適用することによってテーブル内の全ての番地を走査できるように選ぶ。 == 実装方法 == 連鎖法の一つの実装例を示す。まず、ルート配列と呼ばれる要素数 ''N'' の[[配列]]を一つ用意する。ルート配列の各要素は、[[リスト (抽象データ型)|リスト]](便宜上エントリリストと呼ぶ)とする。エントリリストには、少数のエントリを格納する。 エントリを格納する場合、エントリのキーをもとに[[ハッシュ関数]]を用いてハッシュ値を生成する。ハッシュ関数は 0 から ''N'' - 1 までの整数値を生成するものであって、一様な分布と高速な計算が要求される。ハッシュ値を ''i'' とするとき、ルート配列上の ''i'' 番目のエントリリストにこのエントリを格納する。衝突が発生したとき、それらのエントリは同一のエントリリストに格納される。 あるキーをもつエントリを検索する場合、そのキーからハッシュ値を生成する。ハッシュ値を ''j'' とするとき、ルート配列上の ''j'' 番目のエントリリストに入っているエントリを一つずつ検索し、キーが一致しているものを取り出す。ルート配列上のエントリリストが高速で[[アクセス]]できる必要がある。 == ハッシュテーブルの自動拡張 == ハッシュテーブルはエントリの数が配列のサイズに近づくほど衝突の確率が高くなり、性能が悪化してしまう。この比率を''load factor''(座席利用率)と呼び、''n/N''の形で表す。''n''はエントリの数、''N''は配列のサイズを指す。 連鎖法の場合は''load factor''の増加に対して線形に性能が悪化する。しかし開番地法の場合は衝突したキーが配列の空いた番地に格納されるため、''load factor''が0.8を超える付近で性能が急激に悪化する。 この問題を回避するため、''load factor''が一定を超えた場合に、より大きいサイズのハッシュテーブルを用意して格納し直す操作が必要となる。これを'''リハッシュ''' (rehash) と呼ぶ。この操作はすべての要素のハッシュ値を再計算して新たなハッシュテーブルに格納するため''O''(n)であるが、配列のサイズを指数的に拡張する事で、[[動的配列]]の末尾追加操作と同様に[[償却解析]]によって計算量を''O''(1)とみなす事ができる。 より単純な回避方法として、あらかじめ想定されるエントリの数に対して十分に大きなサイズの配列を用意する方法もあるが、エントリの数を事前に想定できない場合には適用できない。 == 全要素の列挙 == === 順序保証のない列挙 === 最も単純な実装として、ハッシュテーブルのルート配列上を 0 から ''N'' - 1 まで走査し、その中に存在するエントリを列挙する方法がある。連鎖法の場合は見つかったエントリリストをさらにたどる必要がある。しかしこの方法で列挙した場合、各エントリはハッシュ関数によって格納位置を決められているために、全く意味を持たない順序で要素が列挙される。これはランダムな順序という意味ではない。利用方法によっては列挙操作が追加した順序を保持しているかのように見えるため、ハッシュテーブルの利用者が誤解する場合がある。この実装による列挙の計算量はルート配列のサイズ ''N'' と連鎖法でのルート配列上にないエントリリストの数 ''m'' との合計''O''(N + m)となる。そのため、ルート配列をあらかじめ大きなサイズで確保しているとこの実装での列挙に時間がかかる。 === 追加した順序での列挙 === 追加した順序で要素を列挙する実装方法として、各エントリに追加順を保持するリンクリストのポインタを別に持たせ、列挙する際はそちらのポインタをたどる方法がある。検索・追加操作のみならば単方向リストで実現可能だが、削除操作もサポートする場合は双方向リストで実装しなければ''O''(1)での操作を実現できない。JavaのLinkedHashMapはこの実装であり、その他言語でも利便性からハッシュテーブルが標準で追加順を保証している事がある。欠点として、各エントリに別のリンクリスト用ポインタが必要なためにメモリ消費量が増加する。 == プログラミング言語におけるハッシュテーブルの実装 == * [[Java]]における<code>{{Javadoc:SE|java/util|HashMap}}</code>, <code>{{Javadoc:SE|java/util|LinkedHashMap}}</code>, <code>{{Javadoc:SE|java/util|Hashtable}}</code> [[クラス (コンピュータ)|クラス]] * [[AWK]]における[[連想配列]] * [[Perl]]におけるHash * [[JavaScript]]におけるオブジェクト * [[Python]]における[[連想配列|辞書]] * [[C++]]の[[Standard Template Library|STL]]の<code>std::unordered_map</code> * [[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]]の<code>Hash</code>クラス * [[Common Lisp]]における<code>hash-table</code>クラス * [[共通言語基盤|CLI (Common Language Infrastructure)]] の <code>System.Collections.Hashtable</code>, <code>System.Collections.Specialized.ListDictionary</code>, <code>System.Collections.Specialized.HybridDictionary</code>, <code>System.Collections.Generic.Dictionary<TKey, TValue></code> * [[Rust (プログラミング言語)|Rust]]のHashMap * [[Nim]]の[https://nim-lang.org/docs/tables.html <code>std/tables</code>] <!-- Javaのライブラリを使用する際の詳細はこの項目の内容としては不要と思われるのでコメントアウト --> <!-- === Javaの例 === [[Java]]における<code>{{Javadoc:SE|java/util|HashMap}}</code>、<code>{{Javadoc:SE|java/util|LinkedHashMap}}</code>、<code>{{Javadoc:SE|java/util|Hashtable}}</code> [[クラス (コンピュータ)|クラス]]を正しく、かつ効率よく扱うためには、<code>{{Javadoc:SE|name=Object#equals(Object)|java/lang|Object|equals(java.lang.Object)}}</code>, <code>{{Javadoc:SE|name=Object#hashCode()|java/lang|Object|hashCode()}}</code> 二つの[[メソッド (計算機科学)|メソッド]]を、このコレクションで扱いたい[[オブジェクト (プログラミング)|オブジェクト]]のクラスに[[オーバーライド]]する必要がある。これらを正しく実装することで<code>{{Javadoc:SE|java/util|HashMap}}</code>、<code>{{Javadoc:SE|java/util|LinkedHashMap}}</code>、<code>{{Javadoc:SE|java/util|Hashtable}}</code>のキーに<code>{{Javadoc:SE|name=HashMap#put(K, V)|java/util|HashMap|put(K,%20V)}}</code>するときに効率よくオブジェクトを管理できるようになる。 <code>{{Javadoc:SE|name=Object#equals(Object)|java/lang|Object|equals(java.lang.Object)}}</code>, {{Javadoc:SE|name=Object#hashCode()|java/lang|Object|hashCode()}}</code>を正しく実装するには、以下の条件を満たしていなければならない。 * <code>{{Javadoc:SE|name=Object#equals(Object)|java/lang|Object|equals(java.lang.Object)}}</code>の[[契約プログラミング|実装契約]]([[同値関係]]) ** x != null のとき、x.equals(x) が真となる([[再帰性]], [[反射的]], {{Lang|en|reflexive}}))。 ** x.equals(y) が真ならば、 y.equals(x) も真でなければならない([[対称性]], [[対照的]]({{Lang|en|symmetric}}))。 ** nullでないx, yに対して、x.equals(y) と y.equals(z) 双方が真のとき、x.equals(z) も真になる([[二項関係|推移性]], [[推移関係|推移的]] ({{Lang|en|transitive}}))。 ** nullでないxとyに対して、xとyの情報が修正されなければ、<code>x.equals(y)</code>の複数回の呼び出しは終始一貫して真または終始一貫して偽でなければならない([[整合的]], {{Lang|en|consistent}})。 ** nullでないxに対して<code>x.equals(null)</code>は偽でなけれなならない。 * {{Javadoc:SE|name=Object#hashCode()|java/lang|Object|hashCode()}}</code>の[[契約プログラミング|実装契約]] ** equals()比較で使用されるオブジェクトが変更されないとき、プログラムを最初に実行したときから、hashCode()は首尾一貫して同じ値を返さなければならない。ただし、プログラムを実行し直したときは、以前の値と首尾一貫して同じ値である必要はない。 ** <code>x.equals(y)</code> が真のとき、 必ず <code>x.hashCode() == y.hashCode()</code> が真(ハッシュ値が等価)でなければならない。 ** ただし、 <code>x.hashCode() == y.hashCode()</code> が真であっても、必ずしも <code>x.equals(y)</code>である必要はなく、<code>x.equals(y)</code> が偽のとき、 必ず <code>x.hashCode() == y.hashCode()</code> が偽(必ずハッシュ値が異なる)でなければならない必要もないが、後者は、等しくない結果を返すことによって'''ハッシュテーブル'''の[[パフォーマンス]]を改善することもできる。 Javaではあるクラスに<code>{{Javadoc:SE|name=Object#equals(Object)|java/lang|Object|equals(java.lang.Object)}}</code>を実装した場合、<code>{{Javadoc:SE|name=Object#hashCode()|java/lang|Object|hashCode()}}</code>も同時に実装しなければ、<code>{{Javadoc:SE|name=Object#hashCode()|java/lang|Object|hashCode()}}</code>の一般[[契約プログラミング|契約]]を破ることになる。 ==== {{Javadoc:SE|name=Object#hashCode()|java/lang|Object|hashCode()}}</code>の実装 ==== {{Javadoc:SE|name=Object#hashCode()|java/lang|Object|hashCode()}}</code>を正しく実装しパフォーマンスを改善するには上記の契約を守る必要がある。この実装方法はいくつか上げられるが、容易に実装する方法は [[Jakarta Commons]] Langの<code>HashCodeBuilder</code>クラスを使うことである。[[Eclipse (統合開発環境)|Eclipse]]のプラグインには、この<code>{{Javadoc:SE|name=Object#equals()|java/lang|Object|equals()}}</code>と<code>{{Javadoc:SE|name=Object#hashCode()|java/lang|Object|hashCode()}}</code>をCommons Langを用いて容易に実装できる[http://www.jiayun.org/mediawiki/entry/Commons4E Commons4E]という便利なものがある。 --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[プログラミング言語]] * [[ハッシュ関数]] * [[アーサー・サミュエル]] {{データ構造}} 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AWK
■カテゴリ / ■テンプレート AWK(オーク)は、プログラミング言語の一つ。 テキストファイル、特に空白類(スペースの他、タブなど)やカンマなどで区切られたデータファイルの処理を念頭に置いた仕様となっているが、一般的なプログラミングに用いることも可能である。UNIX上で開発された。 AWKは、ベル研究所におけるUNIX開発の過程で、sedやgrepのようなテキスト処理ツールに演算機能を持たせた拡張ツールとして1977年に開発された。そのため、UNIX上のユーティリティである sort の存在を前提としている。 簡単なスクリプトを記述することで効率的にテキストファイルを処理することが目的であった。 当初はそれほど多くの機能は無かったが、普及するにつれ、さまざまな処理をAWKで実行したいと考えるユーザーが増え、その希望に応えて1985年に機能の拡張が行われた。その結果、汎用のプログラミング言語と比べても遜色が無いほどの機能を持つようになり、テキスト処理だけに留まらず、開発者も予想しなかったような大規模なプログラミングに使われるような例もあらわれた。一方、本来のテキスト処理用ツールとしても扱いやすく、現在でもCSV形式のファイルを簡易に処理する、などの目的で広く使用されている。 「AWK」という名称は、開発者であるアルフレッド・エイホ、ピーター・ワインバーガー、ブライアン・カーニハンの3人の苗字の頭文字を取って付けられたものであるが、AWKは「オーク」と読み、「エー・ダブリュー・ケー」と読んではならないと著者らはしている。 また、全て小文字でawkとした場合、Unix系OSないしPlan 9における、AWKのインタプリタ処理系プログラム自体(他の多くのコマンドと同じく全て小文字である)を指してそうしていることがある。 AWKのスクリプトは、パターンとアクションの組を並べた形になっている。 実行を開始すると、まずBEGINパターンのアクションを実行する。 以降、入力を読み込んでは、レコード分離文字(既定では改行)までを1レコードとし、ユニット分離文字(既定では連続するスペースまたは水平タブ)に従ってフィールドに分割してから、レコードがパターンにマッチするかを調べ、パターンにマッチしたらそのパターンに対応するアクションを実行する。 一致するパターンが複数ある時は、該当するアクションが上から順に全て実行される。これを入力が尽きるまで繰り返す。入力が尽きたら、ENDパターンのアクションを実行し、終了する。すなわち、テキストストリームをシーケンシャルに読み込み、入力されるテキストストリームをレコードセパレータ毎に区切り、1行毎にスクリプトに記述されたアクションを順次実行する。 ファーストクラスのデータ型は、数値(全て倍精度浮動小数点型で扱われる)と文字列である。 他に文字列をキーとした連想配列があるが、連想配列はファーストクラスではなく関数の返戻値にできないなどデータというよりは、配列変数という変種の変数があるといったような扱いである。連想配列の中身(要素)を連想配列にすることはできないため、ループするようなデータ構造を作ることは不可能。連想配列のキーに数値を使うと、文字列に変換したものがキーとなる。 arr[x, y]のようにして多次元配列のように見えるアクセスもできるが、実際には各次元を必要であればまず文字列化した後に、グローバル変数SUBSEPの文字列(デフォルトではU+001C <control-001C>)をセパレータとして連結した文字列をキーとしてアクセスする。 スクリプトの基本構成は次のようになる。 BEGIN,ENDアクションは必須ではない。 例として、テキストファイル内の全ての行のうち、空行の数と「林檎」・「りんご」または「リンゴ」という文字列を含む行の数をそれぞれ出力するAWKプログラムを示す。 なお、AWKでは、まだ代入されていない変数は暗黙のうちに0または""で初期化されると仮定してよいので、上の例でのBEGINブロックは必須ではない。 パターンには以下のように開始と終了を定義するパターンもある。 例えば、以下のようなプログラムは、「<script>」を含む行から「</script>」を含む行まで(その行自身を含む)の間、指定されたアクションが実行する(この場合は単に行全体を出力する)。 AWKの特徴の一つとして変数が型を持たないことが挙げられる。変数宣言が不要で、プログラム中で使用される変数は暗黙のうちに初期化される。このため、未定義変数や未初期化変数を参照することによるエラーはAWKには存在しない。 AWKは算術演算のような数値を必要とする文脈では暗黙に値を数値に変換し、逆に文字列を必要とする場合には文字列に変換する。 例えば、 のような例では、dおよびeの値は3になる。 こうした暗黙の変換は便利であると同時に、利用者の意図しない結果を生むこともある。 また、変数に入っているのがどちらかわからないが、必ず数値が必要という場合などにx + 0のように0を足したり、逆に必ず文字列が必要という場合などにx ""のように""を結合させたりする、という常套手段がある。 AWKでは、関数を定義して使用することが可能である。 関数の定義は次のようになる。 AWKの変数は、引数を除いて全て大域変数であり、局所のスコープを持つのは引数として宣言された変数だけである。このため、技法として、関数定義で余分な引数を宣言し、それを局所変数として使う、ということが行なわれる。AWKでは、関数の呼び出し時に、実引数の個数が仮引数の個数より少なくても、省略とみなしエラーとしない。これを利用して、余分な引数を局所変数として使うのである。 このように関数を定義した上で,呼び出すときに引数を3つしか使わなければ、局所変数1以降は局所変数として扱える。構文上の区別は無いが、判読性を向上させるために両者の間に十分な空白を挿入するのが慣例になっている。 また、関数は再帰呼び出しもできる。 AWKの制御構造には以下のようなものがある。 また、制御構造の他に、以下の文がある。 連想配列の全部ないし一部の要素を削除 もともとのAWKは、UNIXに付属していたものであったが、 様々なプラットフォームに移植された他、GNU AWK(gawk)を代表に、他の実装も多い。
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AWK(オーク)は、プログラミング言語の一つ。 テキストファイル、特に空白類(スペースの他、タブなど)やカンマなどで区切られたデータファイルの処理を念頭に置いた仕様となっているが、一般的なプログラミングに用いることも可能である。UNIX上で開発された。
{{Infobox プログラミング言語 |fetchwikidata = ALL |screenshot = Awk-example-usage-gimp.gif |名前=AWK}} {{プログラミング言語}} '''AWK'''('''オーク''')は、[[プログラミング言語]]の一つ。 [[テキストファイル]]、特に空白類(スペースの他、タブなど)やカンマなどで区切られたデータファイルの処理を念頭に置いた仕様となっているが、一般的なプログラミングに用いることも可能である。[[UNIX]]上で開発された。 == 概要 == AWKは、[[ベル研究所]]におけるUNIX開発の過程で、[[sed (コンピュータ)|sed]]や[[grep]]のようなテキスト処理ツールに演算機能を持たせた拡張ツールとして1977年{{Sfn|アルフレッド・エイホ|ブライアン・カーニハン|ペーター・ワインバーガ|1989|pp={{abbr|x|10}}-{{abbr|xi|11}} |loc=&sect;序文}}に開発された。そのため、UNIX上のユーティリティである sort の存在を前提としている{{Sfn|アルフレッド・エイホ|ブライアン・カーニハン|ペーター・ワインバーガ|1989|pp={{abbr|x|10}}-{{abbr|xi|11}} |loc=&sect;序文}}。 簡単なスクリプトを記述することで効率的にテキストファイルを処理することが目的であった。 当初はそれほど多くの機能は無かったが、普及するにつれ、さまざまな処理をAWKで実行したいと考えるユーザーが増え、その希望に応えて1985年{{Sfn|アルフレッド・エイホ|ブライアン・カーニハン|ペーター・ワインバーガ|1989|pp={{abbr|x|10}}-{{abbr|xi|11}} |loc=&sect;序文}}に機能の拡張が行われた。その結果、汎用のプログラミング言語と比べても遜色が無いほどの機能を持つようになり、テキスト処理だけに留まらず、開発者も予想しなかったような大規模なプログラミングに使われるような例もあらわれた。一方、本来のテキスト処理用ツールとしても扱いやすく、現在でも[[CSV形式]]のファイルを簡易に処理する、などの目的で広く使用されている。 「AWK」という名称は、開発者である[[アルフレッド・エイホ]]、[[ピーター・ワインバーガー]]、[[ブライアン・カーニハン]]の3人の苗字の頭文字を取って付けられたものであるが、AWKは「オーク」と読み、「エー・ダブリュー・ケー」と読んではならないと著者らはしている<ref group="注釈">たとえばカーニハンによる『プログラミング言語AWK』の日本語版序文に見られる。なお、同書の表紙には[[オオウミガラス]]({{lang-en-short|great auk}})が描かれており、これもその主張の強調である。</ref>。 また、全て小文字で<code>awk</code>とした場合、Unix系OSないし[[Plan 9 from Bell Labs|Plan 9]]における、AWKの[[インタプリタ]]処理系プログラム自体(他の多くのコマンドと同じく全て小文字である)を指してそうしていることがある。 == AWKの文法 == === 基本構成 === AWKのスクリプトは、パターンとアクションの組を並べた形になっている。 実行を開始すると、まず{{code|lang=awk|BEGIN}}パターンのアクションを実行する。 以降、入力を読み込んでは、[[レコード分離文字]](既定では[[改行コード|改行]])までを1レコードとし、[[ユニット分離文字]](既定では連続するスペースまたは水平タブ)に従ってフィールドに分割してから、レコードがパターンにマッチするかを調べ、パターンにマッチしたらそのパターンに対応するアクションを実行する。 一致するパターンが複数ある時は、該当するアクションが上から順に全て実行される。これを入力が尽きるまで繰り返す。入力が尽きたら、{{code|lang=awk|END}}パターンのアクションを実行し、終了する。すなわち、テキストストリームをシーケンシャルに読み込み、入力されるテキストストリームをレコードセパレータ毎に区切り、1行毎にスクリプトに記述されたアクションを順次実行する。 [[第一級オブジェクト|ファーストクラス]]の[[データ型]]は、数値(全て倍精度浮動小数点型で扱われる)と[[文字列]]である。 他に文字列をキーとした[[連想配列]]があるが、連想配列はファーストクラスではなく関数の返戻値にできないなどデータというよりは、配列変数という変種の変数があるといったような扱いである。連想配列の中身(要素)を連想配列にすることはできないため、ループするようなデータ構造を作ることは不可能。連想配列のキーに数値を使うと、文字列に変換したものがキーとなる。 {{code|lang=awk|arr[x, y]}}のようにして多次元配列のように見えるアクセスもできるが、実際には各次元を必要であればまず文字列化した後に、グローバル変数{{code|lang=awk|SUBSEP}}の文字列(デフォルトでは{{unichar|1c}})をセパレータとして連結した文字列をキーとしてアクセスする。 スクリプトの基本構成は次のようになる。 {{sxhl |lang=awk | BEGIN { 開始時処理 } パターン1 { アクション1 } パターン2 { アクション2 } …… # コメント END { 終了時処理 } }} {{code|lang=awk|BEGIN}},{{code|lang=awk|END}}アクションは必須ではない。 例として、テキストファイル内の全ての行のうち、空行の数と「林檎」・「りんご」または「リンゴ」という文字列を含む行の数をそれぞれ出力するAWKプログラムを示す。 {{sxhl |lang=awk | BEGIN { # 行の個数を表わす変数を宣言・初期化 blank_line {{=}} 0 bol_apple {{=}} 0 } /^$/ { ++blank_line } /(林檎{{!}}りんご{{!}}リンゴ)/ { ++bol_apple } END { print "空行は" blank_line "行です。" print "「林檎」・「りんご」または「リンゴ」という文字列を含むのは" bol_apple "行です。" } }} なお、AWKでは、まだ代入されていない変数は暗黙のうちに{{code|lang=awk|0}}または{{code|lang=awk|""}}で初期化されると仮定してよいので、上の例での{{code|lang=awk|BEGIN}}ブロックは必須ではない。 パターンには以下のように開始と終了を定義するパターンもある。 {{sxhl |lang=awk | /開始パターン/,/終了パターン/ { アクション } }} 例えば、以下のようなプログラムは、「<nowiki><script></nowiki>」を含む行から「<nowiki></script></nowiki>」を含む行まで(その行自身を含む)の間、指定されたアクションが実行する(この場合は単に行全体を出力する)。 {{sxhl |lang=awk | /<script>/,/<\/script>/ { print $0; } }} === 変数 === AWKの特徴の一つとして変数が型を持たないことが挙げられる。変数宣言が不要で、プログラム中で使用される変数は暗黙のうちに初期化される。このため、未定義変数や未初期化変数を参照することによるエラーはAWKには存在しない。 AWKは算術演算のような数値を必要とする文脈では暗黙に値を数値に変換し、逆に文字列を必要とする場合には文字列に変換する。 例えば、 {{sxhl |lang=awk | a {{=}} "01" b {{=}} 2 d {{=}} a + b e {{=}} a + b + c }} のような例では、{{code|lang=awk|d}}および{{code|lang=awk|e}}の値は{{code|lang=awk|3}}になる。 こうした暗黙の変換は便利であると同時に、利用者の意図しない結果を生むこともある。 また、変数に入っているのがどちらかわからないが、必ず数値が必要という場合などに{{code|lang=awk|x + 0}}のように0を足したり、逆に必ず文字列が必要という場合などに{{code|lang=awk|x ""}}のように""を結合させたりする、という常套手段がある。 ===関数=== AWKでは、関数を定義して使用することが可能である。 関数の定義は次のようになる。 {{sxhl |lang=awk | function 関数名 (引数1, 引数2, ……) { 命令文1 命令文2 …… } }} AWKの変数は、引数を除いて全て[[大域変数]]であり、局所のスコープを持つのは引数として宣言された変数だけである。このため、技法として、関数定義で余分な引数を宣言し、それを局所変数として使う、ということが行なわれる。AWKでは、関数の呼び出し時に、実引数の個数が仮引数の個数より少なくても、省略とみなしエラーとしない。これを利用して、余分な引数を局所変数として使うのである。 {{sxhl |lang=awk | function 関数名 (引数1, 引数2, 引数3, 局所変数1, 局所変数2, ……) { …… } }} このように関数を定義した上で,呼び出すときに引数を3つしか使わなければ、{{code|lang=awk|局所変数1}}以降は局所変数として扱える。構文上の区別は無いが、判読性を向上させるために両者の間に十分な空白を挿入するのが慣例になっている。 {{sxhl |lang=awk | function 関数名 (引数1, 引数2, 引数3, 局所変数1, 局所変数2, ……) { …… } }} また、関数は再帰呼び出しもできる。 === 制御構造 === AWKの制御構造には以下のようなものがある。 ; if文 :* {{code|lang=awk|if (式) 式が真の時に実行される文}} :* {{code|lang=awk|if (式) 式が真の時に実行される文 else 式が偽の時に実行される文}} ; for/while文 :* {{code|lang=awk|for (初期化式; 条件式; 更新式) 実行される文}} :* {{code|lang=awk|for (変数 in 配列) 実行される文}} :* {{code|lang=awk|while (式) 実行される文}} :* {{code|lang=awk|do 実行される文 while (式)}} :* {{code|lang=awk|break}} :* {{code|lang=awk|continue}} ; その他 :; {{code|lang=awk|next}} :: 以降の文の実行および以降のパターン処理をせずに、次のレコードの処理を開始する :; {{code|lang=awk|nextfile}} :: 現在の入力ファイルの残りを読み込まずに、次のファイルの処理を開始する :; {{code|lang=awk|return}} :: 関数の処理を停止し、関数の呼び出し元に制御を戻す。値が指定されてあれば値を返す。 :; {{code|lang=awk|exit}} :: プログラムの実行を終了させる また、制御構造の他に、以下の文がある。 * {{code|lang=awk|{文1; 文2; ……; 文n{{)}}}} * {{code|lang=awk|print}} * {{code|lang=awk|printf}} * {{code|lang=awk|delete}} 連想配列の全部ないし一部の要素を削除 == AWKの処理系 == もともとのAWKは、UNIXに付属していたものであったが、 様々なプラットフォームに移植された他、[[GNU]] AWK(<code>gawk</code>)を代表に、他の実装も多い。 ; 旧版 : 1970年代後半から1980年頃開発されていたもので、[[Unix Version 7|V7]]の頃のUNIXに付属、『UNIXプログラミング環境』([[:en:The Unix Programming Environment]])4.4節での説明で使われている版でもある{{Sfn|志村拓|鷲北賢|西村克信|1993|p=43}}。関数のユーザー定義ができないのが、現在と比べると大きな制限である。これ、ないし次を指して、日本ではくだけた感じで「元祖」などと呼ぶ。 ; <code>nawk</code> : 1980年代後半頃までのバージョンアップにより登場したもので、SVR3の頃のUNIXに付属{{Sfn|志村拓|鷲北賢|西村克信|1993|p=43}}。旧バージョンと区別してnawk(new awk)とも。関数のユーザー定義などの機能が追加された。一つの真正の、といった感じで、他と区別する場合は'''one true awk'''などとも呼ばれる。(BSDでは本家 {{lang|en|UNIX}} とは別の実装になっているtoolも多いが)[[FreeBSD]](バージョン5およびそれ以降)の<code>/usr/bin/awk</code>などはこれである。大きな機能追加などは以前から無いが、現在もメンテナンスされている<ref> ソースリポジトリ − [https://github.com/onetrueawk/awk https://github.com/onetrueawk/awk]</ref>。 FreeBSD、NetBSD、OpenBSD、macOS、illumos、Android などで使用されている。 ; <code>gawk</code> : [[GNUプロジェクト]]によるAWKの実装。GNU/Linuxディストリビューションでは<code>awk</code>という名前のプログラムがこの実装であることが多い。[[POSIX]] 1003.2コマンド言語とユーティリティ規約に定められた言語の定義に適合している。[[マルチバイト文字]]への対応や[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]への接続機能など、オリジナルのAWKには無い多数の拡張が加えられており、現在もバージョンアップが続いている。 <div style="padding-left: 2rem;"> ; <code>jgawk</code> : <code>gawk</code> がマルチバイト文字に対応する以前に作られた <code>gawk</code> の日本語文字対応拡張版。 </div> ; <code>mawk</code> : マイク・ブレナン({{lang-en-short|Mike Brennan}})作。旧版の<code>awk</code>に少数の拡張が加えられている。[[バイトコード]]に変換されて実行されるため,高速な動作が期待できる。また<code>gawk</code>よりもバイナリサイズが小さい。 <div style="padding-left: 2rem;"> ; <code>mawk</code> MBCS : 木村浩一(ハンドル名:Bruce)による<code>mawk</code>のマルチバイト拡張。 </div> <!-- ; <code>a2p</code> : AWKスクリプトを[[Perl]]スクリプトに変換するトランスレータ。Perl配布キットに含まれている。 --> ; 標準 : AWKは<code>awk(1)</code>としてIEEE Std 1003.1-2017で標準化されている<ref>{{Cite web |date=2013 |url=http://pubs.opengroup.org/onlinepubs/9699919799/utilities/awk.html |title=awk |publisher= [[IEEE]] 及び [[The Open Group]] |accessdate=2018-10-14}} </ref>。また、[[Linux Standard Base]]でも指定コマンドになっている<ref>{{Cite web |date=2015 |url=http://refspecs.linuxbase.org/LSB_5.0.0/LSB-Common/LSB-Common/rcommands.html |title=Relevant Commands |publisher= [[Linux Foundation]] |accessdate=2018-10-14}} </ref>。 == 脚注 == ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} == 参考文献 == *プログラミング言語AWK *# {{Cite book|和書|author=アルフレッド・エイホ|authorlink=アルフレッド・エイホ|author2=ブライアン・カーニハン|authorlink2=ブライアン・カーニハン |author3=ペーター・ワインバーガ|authorlink3=ペーター・ワインバーガ|translator=足立高徳|year=1989|month=11|title=プログラミング言語{{lang|en|AWK}}|publisher=[[トッパン]]|isbn=4-8101-8008-5 |ref=harv}} - 「AWK book」(AWK 本)などと呼ばれ、C言語におけるK&Rのような扱いの本である。日本版は版元の出版事業撤退により最初に絶版となる。 *# {{Cite book|和書|author=A・エイホ|author2=B・カーニハン |author3=P・ワインバーガー|translator=足立高徳|year=2001|month=2|title=プログラミング言語{{lang|en|AWK}}|publisher=[[シイエム・シイ出版部]]|isbn=4901280406}} - トッパン 1989年刊の再刊。 *# {{Cite book|和書|author=A・エイホ|author2=B・カーニハン |author3=P・ワインバーガー|translator=足立高徳|year=2004|month=2|title=プログラミング言語{{lang|en|AWK}}|publisher=[[新紀元社]]|isbn=4-7753-0249-3}} - 新紀元社から復刊されたものの、3度目の絶版となる。 *# {{Cite book|和書|author=A・エイホ|author2=B・カーニハン |author3=P・ワインバーガー|translator=足立高徳|year=2010|month=1|title=プログラミング言語{{lang|en|AWK}}|publisher=[[ユニバーサル・シェル・プログラミング研究所]]|isbn=978-4-904807-00-2}} - ユニバーサル・シェル・プログラミング研究所から3度目の復刊がなされた。 *{{Cite book|和書|author=志村拓|author2=鷲北賢 |author3=西村克信|year=1993|month=3|title={{lang|en|AWK}}を256倍使うための本|publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]]|isbn=4-7561-0162-3|ref=harv}} - アスキーの256本のひとつで、通称「AWK256本」とも呼ばれており、現在も販売中のベストセラーである。 *{{Cite book|和書|author=Dale Dougherty|translator=福崎俊博|coauthors=アーノルド・ロビンス|year=1997|month=10|title={{lang|en|sed}} & {{lang|en|awk}} プログラミング 改訂版|publisher=[[オライリー・ジャパン]]|isbn=4-900900-58-3}} *{{Cite book|和書|author=Arnold Robbins|translator=福崎俊博|year=2000|month=7|title={{lang|en|sed}} & {{lang|en|awk}} デスクトップリファレンス |publisher=オライリー・ジャパン|isbn=4-87311-017-3}} == 関連項目 == * [[sed (コンピュータ)|sed]] * [[Perl]] * [[Ruby (代表的なトピック)|Ruby]] == 外部リンク == * [http://www.kt.rim.or.jp/%7Ekbk/gawk-30/gawk_toc.html {{lang|en|Effective AWK Programming}}] - {{lang|en|A User's Guide for GNU Awk}} の日本語訳 * [https://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~kokugo/nonami/awk/awkmini.html {{lang|en|AWK}} のまとめ] &mdash; 弘前大学 教育学部 教育実践研究指導センター 小山智史 * [http://doc.cat-v.org/henry_spencer/amazing_awk_assembler/ {{lang|en|aaa - the Amazing Awk Assembler by Henry Spencer}}](英語) * {{man|1|awk}} {{Unixコマンド}} {{プログラミング言語一覧}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:AWK}} [[Category:プログラミング言語]] [[Category:スクリプト言語]] [[Category:標準UNIXプログラム]] [[Category:1977年のソフトウェア]]
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ヱビスビール
ヱビスビール (エビス)(恵比寿ビール、YEBISUとも)は、サッポロビールが製造・販売する麦芽100%ビールの商標。プレミアムビールに分類される。 サッポロビールの前身である日本麦酒醸造會社に、ドイツ人技師カール・カイザーを招聘して醸造されたビール。当時の名称は「恵比寿麦酒」だった。当初は「大黒天」から命名しようとしていたが、横浜に既に「大黒ビール」が存在したために「えびす」(恵比寿) を採用したという経緯が見られる資料が2000年代に発見されている。 恵比寿麦酒は、1900年代には既に世界的な評価を獲得している。 1943年(昭和18年)にビールが配給制になり、名称が「麦酒」に統一されたことで一旦消滅するが、1971年(昭和46年)に戦後初の麦芽100%使用のビール(熱処理)として復活した。1980年代前半に低迷期に陥ったが、1986年(昭和61年)にパッケージデザインの変更と中味の生ビール化、1988年(昭和63年)に漫画「美味しんぼ」の「五十年目の味覚(後編)」(単行本第16巻)で取り上げられたことなどが契機となり、売上が回復し伸びていった。長期間に亘りプレミアムビール市場の首位銘柄となっていたが、2000年代中盤にサントリーのザ・プレミアム・モルツが急成長した影響を受け、サッポロビールは2006年(平成18年)からヱビスブランドのテコ入れに着手し、同年10月にはヱビスブランド戦略部を立ち上げて「ヱビス」の名を冠した商品を複数販売する展開を始めた。 恵比寿のマークそのものがブランド表示とされ、サッポロビールのビール類商品には(他社ライセンス商品を除き)必ずあしらわれるシンボルの「星(★)」が、ヱビスビールには付されない。 「ビールはござりまっせん」 「ビールがない?――君ビールはないとさ。何だか日本の領地でないような気がする。情ない所だ」 「なければ、飲まなくっても、いいさ」と圭さんはまた泰然たる挨拶をする。 「ビールはござりませんばってん、恵比寿ならござります」 「ハハハハいよいよ妙になって来た。おい君ビールでない恵比寿があるって云うんだが、その恵比寿でも飲んで見るかね」
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ヱビスビール (エビス)(恵比寿ビール、YEBISUとも)は、サッポロビールが製造・販売する麦芽100%ビールの商標。プレミアムビールに分類される。
{{redirect|ヱビス|その他の用法|えびす (曖昧さ回避)}} {{酒概要 | 名前=ヱビスビール | 画像=[[File:Yebisu2021.jpg|300px]] | 画像説明=『ヱビスビール』各種(2021年現在) | 分類1=[[ビール]] | 分類2=[[ピルスナー]] | アルコール度数=5%<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sapporobeer.jp/product/nutrition/ |title=栄養成分一覧 |accessdate=2017-04-09}}</ref> | 発泡= | 主原料=[[麦芽]]、[[ホップ]] | 副原料= | 原産国={{JPN}} | 原産地= | 製造元=[[サッポロビール]] | 販売元=サッポロビール | 糖度= | 日本酒度= | エキス分= | 残糖量= | 酸度= | 初期比重= | 最終比重= | IBU= | 色= | 蒸留= | 熟成= | 呼称統制= | 格付け= | 備考= }} [[File:YEBISU CREAMY STOUT SAPPARO JAPAN JUNE 2012 (7456188018).jpg|thumb|240px|ヱビス・スタウト・クリーミートップ]] [[File:Joelrobuchon-beer-japan.jpg|thumb|240px|薫り華やぐヱビス]] '''ヱビスビール (エビス)'''(恵比寿ビール、YEBISUとも)は、[[サッポロビール]]が製造・販売する[[麦芽100%ビール]]の[[商標]]。[[プレミアムビール]]に分類される。 == 概要 == サッポロビールの前身である[[大日本麦酒|日本麦酒醸造會社]]に、ドイツ人技師[[カール・カイザー]]を招聘して醸造された[[ビール]]<ref name="hasida2008"/>。当時の名称は「恵比寿麦酒」だった<ref name="hasida2008"/>。当初は「[[大黒天]]」から命名しようとしていたが、横浜に既に「大黒ビール」が存在したために「[[えびす]]」(恵比寿) を採用したという経緯が見られる資料が[[2000年代]]に発見されている<ref name="hasida2008"/><!--メモ: 出典とした書籍はサッポロビール社員の著書であるため、社内資料である可能性もある。該当書籍参照のこと。-->。 恵比寿麦酒は、[[1900年代]]には既に世界的な評価を獲得している<ref name="hasida2008"/>。 [[1943年]]([[昭和]]18年)にビールが[[配給制]]になり、名称が「麦酒」に統一されたことで一旦消滅するが、[[1971年]](昭和46年)に戦後初の麦芽100%使用のビール(熱処理)として復活した。[[1980年代]]前半に低迷期に陥ったが、[[1986年]](昭和61年)にパッケージデザインの変更と中味の[[生ビール]]化、[[1988年]](昭和63年)に[[漫画]]「[[美味しんぼ]]」の「五十年目の味覚(後編)」(単行本第16巻)で取り上げられたことなどが契機となり、売上が回復し伸びていった<ref name="rp49">{{Cite web|和書|author=水越康介|coauthors=[[首都大学東京]]大学院社会科学研究科|date=2008-04|url=http://www.mizkos.jp/mt/mt-static/files/thesis/rp49.pdf|title=プレミアムビール市場形成の歴史|format=PDF|work=Research Paper Series|pages=No.49|publisher=水越康介 私的市場戦略研究室|language=日本語 |accessdate=2013年7月6日 }}</ref>。長期間に亘り[[プレミアムビール]]市場の首位銘柄となっていたが、2000年代中盤に[[サントリー]]の[[ザ・プレミアム・モルツ]]が急成長した影響を受け、サッポロビールは[[2006年]]([[平成]]18年)からヱビスブランドの[[テコ入れ]]に着手し、同年10月にはヱビスブランド戦略部を立ち上げて「ヱビス」の名を冠した商品を複数販売する展開を始めた<ref name="rp49"/>。 恵比寿のマークそのものがブランド表示とされ、サッポロビールのビール類商品には(他社ライセンス商品を除き)必ずあしらわれるシンボルの「星(★)」が、ヱビスビールには付されない。 == 商品構成 == * 通年販売商品 **ヱビスビール([[スタイル (ビール)|スタイル]]は{{仮リンク|ドルトムンダー|en|Dortmunder Export}}) **ヱビス プレミアムブラック(スタイルは[[シュヴァルツビール]]。2013年5月にヱビス<ザ・ブラック>をリニューアルし名称変更) **ヱビス プレミアムエール(2019年2月26日より通年販売。本格エールタイプのビール。カスケードホップを一部使用) **[[ヱビス マイスター]](2016年5月17日より販売。ヱビスビール同様、ハラタウトラディション種のホップを使用し、さらに旨みと薫りが豊潤なロイヤルリーフホップを一部使用。缶製品は生産終了済) *限定販売商品 **琥珀ヱビス(缶は10月-12月の期間限定で、樽生は[[北海道]]以外で通年販売)(スタイルはアンバー) **ヱビス〈ザ・ホップ〉([[東日本大震災]]の影響で、販売を休止するも、出荷再開を断念し、通年販売終了。その後[[2012年]][[4月4日]]に、[[チェコ]]産「エリートザーツホップ」を一部使用し、数量限定アンコール発売)(スタイルは[[ピルスナー]]) **ヱビスASUKA CRUISE([[日本郵船]]グループの[[クルーズ客船]]「[[飛鳥II]]」の船内限定)(スタイルはドルトムンダー) **ヱビス・スタウト・クリーミートップ(2009年7月3日より業務用の樽生限定発売。320ml缶は2012年9月5日より数量限定販売(8月1日よりコンビニエンスストアで先行発売))(日本のビールに関する定義<ref name="beerkiyaku">{{PDFlink|[http://www.jfftc.org/cgi-bin/data/bunsyo/B-1.pdf ビールの表示に関する公正競争規約]}}</ref>において[[スタウト]]に分類されるが[[下面発酵]]でシュバルツに近い) **福ヱビス(2014年の年末に「2015年干支デザイン缶」、2015年の年末に「ヱビス めでたい缶」が発売され、2016年以降の年末は「福ヱビス」として発売されている。年末年始の縁起物として発売され、缶に富士山や鶴、亀等毎年異なったものが描かれている。2015年~2017年年末のものは冷やすと色が白から赤に変化した。※2010年、2011年の年末は、缶は通常のものだが6缶パックのパッケージにそれぞれ「めでたいヱビス2011」、「福ヱビス 2012」と書かれた限定パックが発売された。正確には2011年年末の限定パックも「福ヱビス」として発売されており、「福ヱビス」と称して発売されたのは2011年の年末が最初である。) **復刻特製ヱビス(2019年4月23日から期間限定販売。現在の「ヱビスビール」の原型となった1972年当時の熱処理製法を再現) **ヱビス 和の芳醇(2016年以降お歳暮ギフト限定販売。国産麦芽と国産ホップ(一部北海道富良野産)を使用した商品) **ヱビス with ジョエル・ロブション フレンチピルス(2019年11月26日より期間限定販売。シャンパーニュ産淡色麦芽と「ネルソン・ソーヴィン」「シトラ」2種のホップを使用した、ジョエル・ロブション氏との生前最後となる共同開発商品)(スタイルはピルスナー) **ヱビス 雫(2019年12月9日からセブン&アイグループの酒類取扱い店舗で限定発売。穀皮分離製法により雑味や渋みのバランスを調整することでヱビス本来の厚みを残しつつ上品で凛とした味わいを目指して造られた商品) **ヱビス 吟醸(2020年4月21日から期間限定発売。穀皮分離仕込により雑味のない繊細な味わいを実現。爽やかな香りの国産ホップ「リトルスター」を一部使用) **ヱビス プレミアムホップブレンド(2020年12月8日からセブン&アイグループの酒類取扱い店舗で限定発売。バイエルン産ホップを2種類ブレンドし、上質な苦みと香りを付与する伝統的なホップと上品な香りのホップを組み合わせ、上面発酵で仕上げることで心地よい香りと苦みに仕上げた商品)(スタイルはゴールデンエール) **ヱビス プレミアムホワイト(2021年3月30日から期間限定発売。吟味された小麦麦芽と香り高いホップ、そして上面発酵酵母が奏でる、白ワインを思わせる清々しい香りと、余韻つづく心地よいコクが特長のホワイトビール。<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=「ヱビス プレミアムホワイト」期間限定発売 {{!}} ニュースリリース {{!}} サッポロビール|url=https://www.sapporobeer.jp/news_release/0000012411/|website=サッポロビール株式会社|accessdate=2021-02-25|language=ja|last=www.sapporobeer.jp}}</ref>) *生産終了商品<ref>{{Cite web|和書|title=製造終了商品 {{!}} 商品情報 {{!}} サッポロビール|url=https://www.sapporobeer.jp/product/close/|website=サッポロビール株式会社|accessdate=2021-01-07|language=ja|last=www.sapporobeer.jp}}</ref> **シルクヱビス(2009年に数量限定販売。2010年から通年販売となったが、2017年、「ヱビス 華みやび」の発売に伴い販売終了)(ドルトムンダー+小麦麦芽) **ヱビス超長期熟成(2005年と2009年に限定発売)(スタイルはドルトムンダー) ** 薫り華やぐヱビス(2013年、2014年、2015年に期間限定発売。[[フランス]]・[[シャンパーニュ]]地方の麦芽とネルソンソーヴィン種のホップを使用した[[ジョエル・ロブション]]との共同開発商品)(スタイルはドルトムンダー) ** ヱビス ロイヤルセレクション(2014年と2015年に期間限定販売。2014年はコンビニ販売のみ)(ピルスナー麦芽、カラメル麦芽、小麦麦芽、クリスタル麦芽、ミュンヘン麦芽の5種の麦芽を使用) **深み味わうヱビス(2015年11月10日から期間限定発売。2017年はお中元ギフト限定販売。通常より麦芽を多く用いることでより深いコクと飲みごたえを実現した商品) ** ヱビス 夏のコク(2014年お中元ギフト限定販売。店頭での単品販売はなし)(アルコール分7% [[オンザロック]]でも飲める商品設定) **ヱビス 冬のコク(2015年お歳暮ギフト限定販売。店頭での単品販売はなし)(アルコール分5.5%) **ヱビス with ジョエル・ロブション 華やぎの時間(2016年と2017年に期間限定販売。薫り華やぐヱビスのリニューアル品) **ヱビス with ジョエル・ロブション 余韻の時間(2016年と2017年に期間限定販売。ヨーロッパ産麦芽と希少ホップ「モザイク」を使用したジョエル・ロブションとの共同開発商品) **ヱビス #126(2016年6月21日からセブン&アイグループの酒類取扱い店舗で期間限定販売。「デュアルスムース製法」を採用し、渋みや苦みを抑えたスムースな味わいの商品) **ヱビス #127(2017年8月1日からセブン&アイグループの酒類取扱い店舗で期間限定販売。ヱビス #126同様「デュアルスムース製法」を採用) **ヱビス 和のつむぎ(2017年にお歳暮ギフト限定販売。厳選された国産原料を使用した商品) **ヱビス with ジョエル・ロブション 格別の乾杯(2018年に数量限定販売) **ヱビス 薫るルージュ(2018年11月20日から期間限定販売。カラメル麦芽とフレーバーホップ「モザイク」を使用した赤ワインのような芳醇な味わいの商品) **ヱビス 華みやび(2017年3月7日より通年販売であったが、2020年に生産を終了。ヱビスブランドで初めて上面酵母を使用した[[ホワイトビール]]) **ヱビス プレミアムセゾン(セブン&アイグループ限定、季節を楽しむヱビスのセゾン。) == 誕生まで == * 明治に入り急速に欧米化しビールも浸透したが粗悪品が出回る<ref name="nd201407">日経デザイン2014.7</ref>。 * [[1887年]] (明治20) 中小の資本家がドイツ人技師を招いて本場の味を再現すべく日本麦酒醸造會社をつくる<ref name="sapprohist">{{Cite web|和書 | url=http://www.sapporobeer.jp/company/history/ | title=サッポロビールについて > 歴史・沿革 | accessdate=2014-08-18 }}</ref>。 == 歴史 == * [[1887年]](明治20年)[[9月6日]] - 有限責任日本麦酒醸造会社設立。社長は鎌田増蔵。 * [[1890年]](明治23年)[[2月25日]] - 「惠比壽麦酒」を発売。 * [[1893年]](明治26年)[[2月4日]] - 日本麦酒株式会社に社名変更。 * [[1894年]](明治27年)[[12月12日]] - 「惠比壽[[黒ビール|黒麦酒]]」を追加。 * [[1895年]](明治28年)[[日清戦争]]により売れ行き増。増産体制を整え、生産量が国内トップになる。<ref name="nd201407" /> * [[1889年]](明治22年) **[[8月4日]] - 初の[[ビアホール]]を名乗った「恵比寿ビールBeer Hall」が人気となる<ref name="nd201407" />。つまみは大根スライス、エビ、フキ佃煮、エンドウ豆など<ref>ヱビスビール記念館</ref>。ただし、[[アサヒビール|大阪麦酒株式会社]]は[[1897年]](明治30年)に「アサヒ軒」を開いている。<ref>[http://www.asahigroup-holdings.com/company/history/ 歴史・沿革] アサヒビール</ref><ref>[[ビアホール#日本のビアホール]]</ref> **10月 - 日本麦酒醸造会社の工場竣工(後のサッポロビール恵比寿工場→1988年閉鎖)。 * [[1900年]](明治33年) - [[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ萬國博覧會]]にて出品30カ国の中「金賞」受賞<ref name="hasida2008"/><ref name="nd201407"/>。 * [[1901年]](明治34年)売れ行きがよく、荷馬車での配送が追いつかないため、[[恵比寿駅#歴史|出荷用貨物駅]]をつくる。<ref name="sapprohist" /> * [[1904年]](明治37年) - [[セントルイス万国博覧会|セントルイス萬國博覧會]]にて「グランプリ」獲得<ref name="hasida2008"/>。 * [[1906年]](明治39年)[[3月26日]] - 札幌麦酒(サッポロビール)、日本麦酒(ヱビスビール)、大阪麦酒(アサヒビール)が合併し、大日本麦酒株式会社設立。社長は[[馬越恭平]]。本店は[[東京府]][[荏原郡]][[目黒町 (東京府)|目黒村]]大字三田247。 * [[1941年]]([[昭和]]16年)[[12月8日]] 開戦。次第に、大麦・ホップが入手困難になる。電力・石炭の不足。 * [[1943年]](昭和18年)[[3月1日]] - ビールが[[配給制]]となり、商標も各社共通の「麦酒」に統一されて一旦消滅。<ref name="nd201407" /> *[[1966年]](昭和41年) - [[渋谷区]]に地名[[恵比寿 (渋谷区)|恵比寿]]が正式に誕生。なお、1928 (昭和3)年から一部地域に「恵比寿通」という地名が「恵比寿」のエリアに存在していた。 * [[1971年]](昭和46年) **[[12月1日]] - 目黒工場を恵比寿工場に改称。 **[[12月10日]] - 28年振りにヱビスブランド復活。国産で麦芽100%、唯一のプレミアムビール。瓶入。<ref name="nd201407" />発売当初は少量の副原料を使用したが、半年後には麦芽100%に変更した<ref>{{Cite book|和書|author=サッポロビール株式会社広報室社史編纂室|date = 1996-03-10|title = サッポロビール120年史|pages=487-488}}</ref>。 * [[1972年]](昭和47年)缶ビール発売。一般に受け入れられず、鉄道弘済会を通じ旅行客向けに販売。採用した金色は現在も使用するブランドカラー。<ref name="nd201407" /> * [[1983年]](昭和58年)生ビール化し、メタリック赤色に金の枠、小さな恵比寿像に、「生」の文字。ブランドより生ビールを押し出す形。<ref name="nd201407" /><ref name="canmus">{{Cite web|和書 | url=https://web.archive.org/web/20140819082037/http://sun.ap.teacup.com/beercanmuseum/234.html | title=めでたいヱビスビール | accessdate=2014-08-18 }}</ref><ref name="ebisubr">{{Cite web|和書 | url=http://www2.bus.osaka-cu.ac.jp/~nakase/seminar/2008/ebisu/ebisubrand.pdf | title=ヱビスブランドによる新価値創造の取組みについて | format=PDF | accessdate=2014-08-18 }}</ref> * [[1986年]](昭和61年) - <!-- [[生ビール]]化<ref name="rp49"/>。--> 金ラベル復活、イラスト化された恵比寿像。生ビールは普通となり、伝統とモダンを強調するブランドの再構成が行われる。<ref name="nd201407" /> * [[1988年]](昭和63年)7月20日 - 恵比寿工場閉鎖。 * [[1991年]]([[平成]]3年) - 現在とほぼ同じデザインに変更<ref group="注">基本デザインは変わっていないが、小変更はその後行われている。2001年頃に大瓶のラベルがやや大きくなり、缶では1993年に下部の表記を変更(容量「350ml若しくは500ml」から現在の「麦芽100% ヱビスビール〈生〉」へ)し、2007年に缶がつや消しになり、地色の金色も以前より黄色っぽくなり、2011年に入り、全体のバランスを修正し、2012年2月頃に缶の右下に誤飲防止のための「お酒」表示が入る</ref>。高級感、高品質感を高める意図で、ビールに近い深みのある金マット地、絵画的表現に戻された恵比寿像、ロゴにややクラシカルなセリフ体などを用いている。<ref name="nd201407" /> * [[1994年]](平成6年)- 恵比寿工場跡地に、[[恵比寿ガーデンプレイス]]が開業。 * [[2003年]](平成15年)[[5月28日]] - 「ヱビス〈黒〉」を追加(60年振りに復活)。 * [[2005年]](平成17年) - 「ヱビス超長期熟成〈至福の贅沢〉」が限定で発売<ref group="注">[[2008年]]にはキャンペーン賞品として再度限定醸造</ref>。 * [[2006年]](平成18年) ** 「むかし惠比壽」プレゼントキャンペーンを実施 ** 10月 - 「琥珀ヱビス」<ref group="注">通常のヱビスビールに厳選したクリスタル麦芽を追加した琥珀色の特別版</ref>を限定発売。 * [[2007年]](平成19年) **[[3月7日]] - ヱビス〈黒〉の商品名を「ヱビス〈ザ・ブラック〉」に改名。 ** [[4月3日]] - 日本最大の[[クルーズ客船]]「[[飛鳥II]]」の船内限定オリジナルヱビスビール「ヱビス ASUKA CRUISE まろやか熟成 」を発売。 ** [[4月4日]] - 「ヱビス〈ザ・ホップ〉」を追加。 ** 11月21日 -「琥珀ヱビス」缶を期間限定販売。[[首都圏 (日本)|首都圏]]1都3県の飲食店向けに「琥珀ヱビス」の樽生10Lを通年発売。 * [[2008年]](平成20年) **10月29日 - 「琥珀ヱビス缶」と新たに「琥珀ヱビス」[[贈り物|ギフト]]を限定発売。 * [[2009年]](平成21年) **[[3月4日]] - 「シルクヱビス」を限定発売。 ** [[7月3日]] - 「ヱビス スタウト クリーミートップ」を樽生限定発売。 **10月7日 - 「琥珀ヱビス」缶を限定発売。 * [[2010年]](平成22年) **[[2月24日]] - 「シルクヱビス」を通年販売化 **2月25日 - 「ヱビスビール記念館」オープン。 **[[2月25日]] - [[4月20日]] - 生誕120年を記念して醸造された「匠ヱビス」プレゼントキャンペーンを実施。 **[[6月2日]] - 「ヱビス超長期熟成」を限定発売(「ヱビスビール」生誕120年記念限定品発売第1弾)。「ヱビスビール<父の日>パック」を数量限定発売。 **7月14日 - 「ヱビスビール12缶美麗カートン」を数量限定発売。 **7月28日 - 「商売繁盛!ラッキーヱビス缶」を数量限定発売(「ヱビスビール」生誕120年記念限定品発売第2弾)。 **[[9月8日]] - [[クルーズ客船]]「[[飛鳥II]]」の船内限定オリジナルヱビスビールだった「ヱビス ASUKA CRUISE まろやか熟成 」を、缶ビールとして全国で限定発売(「ヱビスビール」生誕120年記念限定品発売第3弾)。 **9月16日 - 9月20日 - 第2回「恵比寿麦酒祭」を開催。 **11月10日 - 「琥珀ヱビス」缶を期間限定発売。 **12月8日 - 「ヱビスビール美麗カートン」、「ヱビスビールクーラートート付6缶」を限定発売。 **12月22日 - 「めでたい、めでたい、ヱビスビール」を限定発売。 * [[2011年]](平成23年) **[[2月23日]] - 「シルクヱビス」の味とパッケージをリニューアル **3月頃 - 「ヱビス〈ザ・ホップ〉」の通年販売終了(東日本大震災の影響で、販売を休止するも、出荷再開を断念) **9月16日 - 9月19日 - 第3回「恵比寿麦酒祭」を開催。 **10月12日 - 「琥珀ヱビス」缶を期間限定発売。 **11月22日 - 「シルクヱビス ウィンターデザイン缶」を数量限定発売。 **12月7日 - 「ヱビスビール美麗カートン」、「ヱビスビールクーラートート付6缶」を限定発売。 **12月21日 - 「福ヱビス」を限定発売。 * [[2012年]](平成24年) **[[2月25日]] - 生誕122周年を機に2月25日を「ヱビスの日」と制定。1890年2月25日発売当時のレトロラベルデザイン缶限定復刻販売。 **3月7日 - ヱビスビール「ヱビスでつなごう福の和キャンペーン」パックを東北、関東の1都13県で限定発売。 **4月 - 8月 - 「ヱビスビール12缶美麗カートン」と「シルクヱビス12缶美麗カートン」を4回にわたって予約受注発売。(「エビルビール12缶美麗カートン」は4月25日、5月30日、7月11日、8月1日からの4回、「シルクヱビス12缶美麗カートン」は4月25日からの1回のみ) **[[4月4日]] - 「ヱビス〈ザ・ホップ〉」をチェコ産「エリートザーツホップ」を一部使用し、数量限定アンコール発売 **5月30日 - 「ヱビスビール・シルクヱビス<父の日>6缶パック」を限定発売。 **[[9月5日]] - 「ヱビス スタウト クリーミートップ」の320ml缶を数量限定販売([[8月1日]]よりコンビニエンスストアで先行発売)。 **9月14日 - 9月17日 - 第4回「恵比寿麦酒祭」を開催。 **10月17日 - 「琥珀ヱビス」缶を期間限定発売。 **[[10月22日]] - [[11月2日]] -「ヱビス一年熟成」1,000セットWEB限定発売の抽選を行う。 * [[2013年]](平成25年) **[[2月20日]] - 「薫り華やぐヱビス」を限定発売。 ** [[5月22日]] - 「ヱビス<ザ・ブラック>」を「ヱビス プレミアムブラック」に全面リニューアルし発売。 **9月11日 - 9月16日 - 第5回「恵比寿麦酒祭」を開催(11日、12日は前夜祭、13日~16日は本祭)。 **10月16日 - 「琥珀ヱビス」缶を期間限定発売。 **10月30日 - ヱビスビールが「2013年グッドデザイン・ロングライフデザイン賞」を受賞。 *[[2014年]](平成26年) **1月22日 - 「薫り華やぐヱビス」を数量限定発売。 **缶のデザインのマイナーチェンジ。rを筆記体からブロック体に変える。恵比寿像を大きく、能書きの色を薄めるなど。<ref name="nd201407" /> **5月上旬 - 「ヱビス 夏のコク」をお中元ギフト限定販売。店頭での単品販売はなし。 **[[5月20日]] - 「ヱビス ロイヤルセレクション」をコンビニエンスストア数量限定販売。 **9月2日 - 「琥珀ヱビス」缶を期間限定発売。中身をリニューアル。 *2015年(平成27年) **2月9日 - 6月30日 - 「バカラ ビアタンブラー」プレゼントキャンペーンを実施。 **4月24日 - 5月24日 - 期間中の全ヱビスツアーで、1名に「ヱビスロゴ入りバカラ オノロジー ビアタンブラー」でヱビスビールの試飲を体験していただくイベントを実施すると同時に、このタンブラーを10客限定で販売。 **6月15日 - 三越限定お中元ギフト商品「〈サッポロ〉歌川広重画 ヱビスビール」を発売し、6月15日頃から順次お届け。 **7月頃 - 「ヱビス プレミアムブラック」の中身及びパッケージを7月中旬製造分よりリニューアル。 **8月18日 - 8月30日(ただし、24日を除く)- ヱビスビール記念館にて小学生とその保護者を対象に夏休み特別企画『夏休み自由研究「ヱビスビール歴史新聞」を作ろう』を開催。 **8月25日・8月27日 - 西武鉄道とサッポロビールにより、ヱビスビール<生ビール>が特急レッドアロー号の車内で楽しめる「ヱビスビール特急」を運行。また、池袋を深夜に出発し、秩父のパワースポット「三峯神社」で明け方の雲海鑑賞を目指す「ヱビスビール<生ビール>飲み放題 夜行特急ツアー」を実施。(100年プレミアムブランド「ヱビスビール」と西武鉄道100年アニバーサリーのコラボレーション第1弾と第2弾) **9月1日 - 「琥珀ヱビス クリスタルアンバー」缶を期間限定発売。 **10月中旬 - 「ヱビス 冬のコク」をお歳暮ギフト限定販売。店頭での単品販売はなし。 **10月15日 - 三越限定お歳暮ギフト商品「〈サッポロ〉三越歌舞伎衣裳文様 ヱビスビール」の受注を開始。11月15日頃からお届け。 **11月6日・11月28日 - 西武鉄道とサッポロビールにより、「ヱビスビール<缶>4種類飲み比べ放題 夜行特急ツアー」を実施。(100年プレミアムブランド「ヱビスビール」と西武鉄道100年アニバーサリーのコラボレーション第3弾) **11月10日 - 「深み味わうヱビス」を限定発売。 **12月22日 - 「ヱビス めでたい缶」を販売(冷やすとパッケージにデザインされた鯛が白色から桃色に変化するというもの) **12月15日 - 12月25日(ただし、19日・20日・23日を除く)- ヱビスビール記念館にて「ヱビスロゴ入りバカラ ビアタンブラー」でヱビスビールの試飲を体験できる「ヱビスプレミアムナイトツアー」を開催。 * [[2016年]](平成28年) **1月26日 - 「ヱビス with ジョエル・ロブション 華やぎの時間」を限定発売。 **3月1日 - 「ヱビス with ジョエル・ロブション 余韻の時間」を限定発売。 **3月15日 - 「ヱビスビール」の味とパッケージをリニューアル **4月13日 - 8月31日 - 「ヱビスオリジナル バカラ グラス<ペア>プレゼントキャンペーン」を実施。 **5月17日 - 「ヱビス マイスター」を発売。 **5月24日 - 「ヱビス マイスター」樽生を業務用限定商品として通年販売。 **5月25日 - 「ヱビス東海道新幹線の旅」をエリア・数量限定発売(「ヱビスビール」の東海道新幹線オリジナルデザイン缶第1弾)。 **5月31日 - 「ヱビス 父の日デザイン缶」を期間限定発売。 **[[6月21日]] - 「ヱビス #126(ヱビス イチニーロク)」を、[[セブン&アイグループ]]の酒類取扱い店舗及び、[[オムニ7]]で限定販売。<ref name="ebisu126">{{Cite web|和書 | url=http://www.sapporobeer.jp/news_release/0000021356/ | title=『ヱビス#126(ヱビス イチニーロク)』新発売 | accessdate=2017-05-07 }}</ref> **7月26日 - 7月29日 - ヱビスビール記念館特別企画 夏休み自由研究「恵比寿の歴史とヱビスビール」を開催。 **9月6日 - 「琥珀ヱビス」缶を期間限定発売。「街の名になったヱビス。デザイン缶」を限定発売。 **9月20日 - 「ヱビス東海道新幹線の旅」をエリア・数量限定発売(「ヱビスビール」の東海道新幹線オリジナルデザイン缶第2弾)。 **9月27日 - 「ヱビス マイスター」500ml缶を新発売。 **10月中旬 - 「ヱビス 和の芳醇」をお歳暮ギフト限定販売。 *[[2017年]](平成29年) **2月10日 - 12日・14日 - ヱビスビール記念館にて「ヱビス バレンタインツアー」を開催。 **2月14日 - 「ヱビス 桜デザイン缶」を期間限定発売。 **2月頃 - 「ヱビス マイスター」のパッケージデザインを2月上旬製造分よりリニューアル。 **3月1日 - 3月12日(2日・6日を除く) - ヱビスビール記念館にて、「ヱビス 華みやび」を先行試飲できるツアー「発売記念!ヱビス 華みやびツアー」を開催。 **3月3日 - 3月5日 - 東京ミッドタウンアトリウムにて、発売前の「ヱビス 華みやび」を一足早く味わえる「YEBISU 華みやび FLOWER LOUNGE」をオープン。 **3月10日 - 3月12日 - 東京ミッドタウンアトリウムにて、ヱビスビールと共に旬の食を愉しむイベント「旬×YEBISU PREMIUM LOUNGE ~spring~」を開催。 **[[3月7日]] - 「ヱビス 華みやび」を発売。それに伴い、「シルクヱビス」の販売終了。 **4月26日 - 日本の鉄道のヘッドマークチャーム付「ヱビスビール」と「ヱビス マイスター」をコンビニエンスストア限定で発売(日本の鉄道ヘッドマークチャーム第3弾)。 **5月9日 - 6月19日 - 「ヱビスVIPメンバーズ」を500口限定で募集。 **5月中旬 - お中元ギフトセットとして、2016年秋の「ヱビスプレミアム総選挙」で1位に選ばれた「深み味わうヱビス」のセットや、「ヱビス〈ザ・ホップ〉」の缶セットを発売。 **5月25日 - 「ヱビス 東海道新幹線の旅」をエリア・数量限定発売(「ヱビスビール」の東海道新幹線オリジナルデザイン缶第3弾)。 **5月30日 - 「ヱビスビール<冷やすと変わる>デザイン缶」を数量限定発売。 **6月1日 - 6月30日 - ヱビスビール記念館と九州日田工場ウエルカム館にて、「ヱビス<ザ・ホップ>2017ツアー」を開催。 **6月15日頃 - 三越伊勢丹限定お中元ギフト商品「東京国立博物館 限定ギフト〈サッポロ〉富嶽三十六景 駿河薩タ之海上 ヱビスビール」を発売。 **6月頃 - 11月13日 - 「ヱビスオリジナル バカラ グラス<ペア>プレゼント」キャンペーンを実施。 **7月7日 - 7月9日 - 東京ミッドタウンアトリウムにて、日本の夏を旬の食とヱビスビールで楽しむイベント「旬×YEBISU PREMIUM LOUNGE ~summer~」を開催。 **7月22日・23日・25日 - 28日 - ヱビスビール記念館特別企画として小学生対象の夏休み自由研究「ヱビス クイズラリー」を開催。 **7月11日 - 「ヱビスビール<冷やすと変わる>デザイン缶」「ヱビス 華みやび<冷やすと変わる>デザイン缶」を数量限定発売。 **8月1日 - 「ヱビス #127(ヱビス イチニーナナ)」を、[[セブン&アイグループ]]の酒類取扱い店舗及び、[[オムニ7]]で限定販売。 **8月頃 - 「ヱビス マイスター」の味とパッケージを8月上旬製造分よりリニューアル **8月11日 - 7月の九州北部豪雨災害の復興支援企画として、九州旅客鉄道株式会社が運営する特急「ゆふいんの森I世号」の車内で購入したヱビスビール<樽生>1杯につき100円を復興支援金として寄付するキャンペーンを実施。 **9月上旬 - [[韓国]]で販売を開始(海外で販売のヱビスビール名は「サッポロプレミアムビール」)<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ07HTX_X00C17A9TJ2000/ サッポロ、韓国で「ヱビスビール」発売][[日本経済新聞]]アジアニュース(2017年9月7日)</ref>。 **9月12日 - 「琥珀ヱビス」缶を期間限定発売。「ヱビスビール<冷やすと変わる>秋デザイン缶」を数量限定発売。 **9月14日 - 「ヱビス 東海道新幹線の旅<秋>」をエリア・数量限定発売(「ヱビスビール」の東海道新幹線オリジナルデザイン缶第4弾)。 **9月20日 - 「ヱビス 華みやび ハロウィンデザイン缶」を数量限定発売。 **10月6日 - 10月7日 - 「西武鉄道ヱビスビール特急2017withシークレット駅酒場」を運行。 **10月10日 - 「ヱビス 和の芳醇」「ヱビス 和のつむぎ」「ヱビス マイスター瓶」をお歳暮ギフト限定発売。 **11月21日 - 「ヱビス 華みやび 冬デザイン缶」を数量限定発売。 **12月12日 - 「福ヱビス」を数量限定発売。 **12月20日 - 12月25日 - ヱビスビール記念館にてクリスマス特別企画「ヱビス プレミアム ナイトツアー」を実施。 *2018年(平成30年) **1月23日 - 「ヱビス with ジョエル・ロブション 格別の乾杯」を数量限定販売。 **2月20日 - 「ヱビス 華みやび」の味とパッケージをリニューアル。「ヱビスビール 桜デザイン缶」を販売。 **3月9日 - 3月11日 - 東京ミッドタウンアトリウムにて、「桜と、ヱビスと。YEBISU premium lounge」を期間限定オープン。 **4月23日 - 「ヱビスビール 鉄道ヘッドマークチャームデザイン缶」をコンビニエンスストア限定発売。同時に6月18日まで「鉄道ヘッドマークチャーム人気投票」を実施。 **5月8日 - 「ヱビス〈ザ・ホップ〉2018」を期間限定販売。 **5月8日 - 6月18日 - 2018ヱビスVIPメンバーズを700口限定で募集。 **5月29日 - 「ヱビス 華みやび デザイン缶」を数量限定販売。 **7月24日 - 7月26日 - 「ヱビスビール特急2018 for ライオンズ」を運行。 **9月11日 - 「琥珀ヱビス」缶を期間限定発売。 **10月9日 - 「ヱビス 和の芳醇」をお歳暮ギフト限定販売。 **10月10日 - 日本の鉄道ヘッドマークメタルチャーム付「ヱビスビール」をコンビニエンスストア限定販売。(※4月~6月の人気投票で得票数の多かった上位12種類のヘッドマークチャームが付いている) **10月30日 - ヤオコー限定お歳暮ギフト商品「ヱビスビール ヤオコー川越美術館オリジナルデザイン缶 ギフトセット」を数量限定発売。 **11月20日 - 「ヱビス 薫るルージュ」を限定発売。 **12月11日 - 「福ヱビス」と「ヱビス マイスター・ヱビスビール ギフトボックス」を数量限定販売。 *2019年(平成31年/[[令和]]元年) **1月上旬頃 - 7月1日 - 「ヱビス 超長期熟成 7年目の刻」プレゼントキャンペーンを実施。 **2月26日 - 「ヱビス プレミアムエール」を発売。 **3月19日 - 「ヱビスビール 今川義元公生誕500年記念館」を静岡県内限定販売。 **4月23日 - 「復刻特製ヱビス」を限定発売。 **5月7日 - 「ヱビス〈ザ・ホップ〉」をお中元ギフト限定販売。 **5月7日 - 6月17日 - 2019ヱビスVIPメンバーズを600口限定で募集。 **5月15日 - ヱビスビール記念館で、海外からの客向けの英語と韓国語によるツアー「YEBISU Guided Tour」を開始。 **5月28日 - 「ヱビスビール 大漁祭りキャンペーンデザイン缶」を全国のコンビニエンスストアで数量限定販売(第一弾)。ヤオコー限定お中元ギフト商品「ヱビスビール ヤオコー川越美術館 オリジナルデザイン缶 ギフトセット」を数量限定販売。 **9月10日 - 「琥珀ヱビス」缶を期間限定発売。 **10月7日 - 「ヱビス 和の芳醇」をお歳暮ギフト限定販売。 **10月頃 - 「ヱビスマイスター ザ・ロイヤルリーフ2019」130名様限定プレゼントキャンペーンを実施。 **10月21日 - 「ヱビスビール 大漁祭りキャンペーンデザイン缶」を全国のコンビニエンスストアで数量限定販売(第二弾)。 **11月26日 - 「ヱビスwithジョエル・ロブション フレンチピルス」を限定発売。 **12月9日 - 「ヱビス雫」をセブン&アイグループの酒類取扱い店舗で限定発売。 **12月10日 - 「福ヱビス」を数量限定発売。 *2020年(令和2年) **2月25日 - ヱビスビール誕生130年を記念して「130周年特別限定記念商品 130万円ヱビス」(「ヱビス 超長期熟成 7年目の刻」2本と純金エビス像1体のセット)をサッポロビールネットショップで3セット限定販売。 **3月頃 - 「ヱビスビール」と「ヱビス プレミアムエール」のパッケージを2019年12月下旬製造品から130周年デザインパッケージに切替。 **3月10日 - 「ヱビスビール パリ万博木箱風美麗カートン」を数量限定発売。 **4月1日 - 「ヱビス 超長期熟成 7年目の刻」2本セットをサッポロビールネットショップで1000セット限定販売。 **4月6日 - 「ヱビスビール 全国宝船の旅キャンペーンデザイン缶」をコンビニエンスストア限定発売。 **4月21日 - 「ヱビス 吟醸」を期間限定発売。ヱビスビール「磨き抜かれた職人技が生んだTOKYOの逸品が当たる」キャンペーンパック(第3弾)を数量限定発売。 **7月7日 - ヱビスビール「磨き抜かれた職人技が生んだTOKYOの逸品が当たる」キャンペーンパック(第4弾)を数量限定発売。 **7月14日 - 9月6日 - JR山手線高輪ゲートウェイ駅前特設会場で「ヱビス プレミアムカウンター」を期間限定開催。 **7月17日 - ヱビスビールを台湾で販売開始。 **8月25日 - 「琥珀ヱビス プレミアムアンバー」缶を期間限定発売。 **11月4日 - 「エビス マイスター ザ・ロイヤルリーフ2020」を飲食店・ヱビスビール記念館で限定発売。 **12月8日 - 「ヱビス プレミアムホップブレンド」缶をセブン&アイグループの酒類取扱い店舗で限定発売<ref>{{Cite web|和書|title=セブン&アイ「ヱビスプレミアムホップブレンド」発売、こだわりのホップを2種類ブレンド/サッポロビール|url=https://www.ssnp.co.jp/liquor/250510/|website=食品産業新聞社ホームページ|accessdate=2020-12-08|language=ja|last=食品産業新聞社}}</ref>。「福ヱビス」と「ヱビス12缶アソートパック 美麗カートン入り」を数量限定発売。 *2021年(令和3年) **1月7日 - 2021年事業方針の中で、「ヱビスビール」・「プレミアムブラック」・「プレミアムエール」のリニューアルが発表された。また、ヴァイツェンとアンバースタイルを期間限定で発売することが表明された。家庭用需要が増加したため、2020年販売実績は4年ぶりに缶商品が前年超えを果たした<ref>{{Cite web|和書|title=2021年 サッポロビール事業方針 {{!}} ニュースリリース {{!}} サッポロビール|url=https://www.sapporobeer.jp/news_release/0000012357/|website=サッポロビール株式会社|accessdate=2021-01-07|language=ja|last=www.sapporobeer.jp}}</ref>。 **3月30日 - 「ヱビス プレミアムホワイト」を期間限定発売<ref name=":0" />。 *2022年(令和4年) **3月15日 - 「ヱビス プレミアムホワイト」を再度期間限定発売<ref>{{Cite web|和書|title=「ヱビス プレミアムホワイト」期間限定発売 {{!}} ニュースリリース {{!}} サッポロビール |url=https://www.sapporobeer.jp/news_release/0000014452/ |website=サッポロビール株式会社 |accessdate=2022-04-06 |language=ja |last=www.sapporobeer.jp}}</ref>。 == 原材料 == * [[麦芽]] * [[ホップ]] == 栄養成分(350mlあたり) == * エネルギー:147k[[カロリー|cal]] * [[タンパク質]]:1.8[[g]] * 脂質:0g * 糖質:10.5g * 食物繊維:0.35 - 0.7g * [[ナトリウム]]:0mg == その他 == * 当時は工場が[[東京府]][[荏原郡]]三田村(現・[[東京都]][[目黒区]]三田)にあった<ref name="hasida2008">{{Cite book|和書|title=もっと美味しくビールが飲みたい! - 酒と酒場の耳学問|author=端田晶|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社文庫]]|date=2008-07-15|edition=第1刷|isbn=978-4-06-276113-0|chapter=第三講義 慶応元年のビール王子|pages=130から136ページ}}</ref>。当初は馬車で積み出されていたが、販売量の増加に伴って[[1901年]](明治34年)には出荷専用の貨物駅「[[恵比寿駅|恵比寿停留場]]」が作られた<ref name="hasida2008"/>。[[1906年]](明治39年)に貨物駅「恵比寿停留所」のそばに作られた旅客駅が「[[恵比寿駅]]」である<ref name="hasida2008"/>。[[渋谷区]]に存在する地名「[[恵比寿 (渋谷区)|恵比寿]]」はヱビスビールが由来となっている<ref name="hasida2008"/>。また、これにちなんで[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]恵比寿駅の[[発車メロディ]]には、ヱビスビールの[[コマーシャルメッセージ|CM]]ソングである[[第三の男]]のテーマ音楽が導入されている。 * [[アサヒグループ食品]]のビール酵母「エビオス」はヱビスビールより名付けられたものである。戦後の[[大日本麦酒]]分割時にエビオスが[[アサヒビール]]に承継されたため、ビールとは会社系列が異なる状態になってしまった。 * ラベルの[[えびす|戎]]様は[[鯛]]を一匹抱えているが、ヱビスビールの瓶製品、大・中・小ビンの中で、数百本に一本の[[確率]]で後ろの[[びく|魚籠]]から鯛の尾が出ているものがある。これを'''ラッキーヱビス'''という。2007年8月17日放映の「[[やりすぎコージー|ウソかホントかわからない やりすぎ都市伝説]]」([[テレビ東京]]系)において、サッポロビールはラッキーヱビスの存在を認めている。缶製品では、2010年7月28日に、「商売繁盛!ラッキーヱビス缶」というラッキーヱビスをデザインした商品が発売された。また、発売130周年となる2020年お歳暮ギフト「ヱビスビール缶セット」でラッキーヱビス缶が市販された<ref>{{Cite web|和書|title=ヱビスギフト一覧 {{!}} サッポロビール(ヱビスビール)のお歳暮 {{!}} サッポロビール|url=https://www.sapporobeer.jp/feature/gift/oseibo/product/|website=サッポロビール株式会社|accessdate=2020-12-09|language=ja|last=www.sapporobeer.jp}}</ref>。 * 戦前、中国の[[大連市|大連]]で「ヱビスビール」が販売された事があったが、ほとんど売れなかった。その原因は、この地域が[[日本]]の支配下に置かれる前は[[ロシア]]の影響を強く受けていた地域であり、[[ロシア語]]では[[女性器]]を意味する言葉に「ヱビス」の発音が近かったことから、忌み嫌われたためであるとされている。 * 発売は[[1890年]](明治23年)だが、ラベルに書かれているのは当時の日本麦酒醸造会社が設立された[[1887年]](明治20年)になっていて、戎様を挟んで(左から)「BORN」「1887」と書かれている。(※2016年3月15日のリニューアルによって、発売年の「BORN」「1890」に変更された) *[[夏目漱石]]の[[1906年]](明治39年)に発表された中編小説『[[二百十日 (小説)|二百十日]]』中に、当時、ビールの銘柄として代表的であったことを示す以下の記述があり、1980年代に本製品のCMにも用いられた。 {{Quotation| 「姉さん、ビールもついでに持ってくるんだ。玉子とビールだ。分ったろうね」<br/> 「ビールはござりまっせん」<br/> 「ビールがない?――君ビールはないとさ。何だか日本の領地でないような気がする。{{ruby|情|なさけ}}ない所だ」<br/> 「なければ、飲まなくっても、いいさ」と圭さんはまた泰然たる{{ruby|挨拶|あいさつ}}をする。<br/> 「ビールはござりませんばってん、{{ruby|恵比寿|えびす}}ならござります」<br/> 「ハハハハいよいよ妙になって来た。おい君ビールでない恵比寿があるって云うんだが、その恵比寿でも飲んで見るかね」 |夏目漱石|『[[二百十日 (小説)|二百十日]]』}} * [[ゑ|ヱ]]の文字は[[わ行|ワ行]]に属するのに[[ローマ字]]表記はWEBISUあるいはEBISUではなく'''YE'''BISUと[[や行|ヤ行]]になっているが、これは古い[[ローマ字]]のつづり方で[[え|エ]]・ヱのどちらも'''ye'''とつづることがあった名残である。[[円 (通貨)|日本円]]を'''Ye'''nと表記するのも同じ理由である。かつては[[江戸]]を'''Ye'''doとつづったこともあった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sapporobeer.jp/inquire/0000000127/index.html|title=恵比寿駅のローマ字はEBISUなのに、ヱビスビールはなぜ「YEBISU」と書くの?|publisher=[[サッポロビール]]|accessdate=2016-05-26}}</ref>。なお、工場跡地に開業した[[恵比寿ガーデンプレイス]]の英語表記もYEBISUとなっている。 * ヱビスビール公式サイトでは、[[2009年]](平成21年)より「Y列車で行こう!」を展開。その中で、YEBISU特製駅弁「ヱビス亭」という高級駅弁を企画化し、第一弾「暑中乃膳」は2009年(平成21年)[[7月18日]]から一部のJR駅構内で1,000個限定で発売され、連日行列ができる人気企画となった。また、第二弾「仲冬乃膳」は、2009年(平成21年)[[12月5日]]から一部のJR駅構内で600個限定で発売され、こちらも大人気を博した。 * 東京・恵比寿の工場跡地となる恵比寿ガーデンプレイスの一角に、ヱビス誕生120年を記念した「ヱビスビール記念館」がある。記念館入口にあるヱビス缶でできたモニュメントの中にひとつ上述のラッキーヱビス缶が存在する。 * ヱビスビール公式サイトによると、キャンペーンとして「ヱビス超長期熟成七年目の刻」(非売品)を当選商品して製造。(2020年2月下旬発送予定) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[恵比寿ガーデンプレイス]] - 恵比寿工場跡地 * [[三田用水]] - ビール醸造の工業用水 * [[恵比寿神社 (渋谷区)]] *[[第三の男]] - この映画のテーマ曲がCMに使われている * [[サッポロ生ビール黒ラベル]] == 外部リンク == * [https://www.sapporobeer.jp/yebisu/ YEBISU | サッポロビール] * {{Facebook|yebisubeer.jp|ヱビスビール YEBISU BEER}} {{サッポロホールディングス}} {{デフォルトソート:ゑひすひいる}} [[Category:サッポロビール]] [[Category:恵比寿 (渋谷区)]] [[Category:東京都の酒]] [[Category:サッポロビールの商品名]]
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モンテビデオ
モンテビデオ(スペイン語: Montevideo [monteβiˈðe.o])は、ウルグアイの首都。モンテビデオ県の県都でもある。メルコスールの事務局が置かれている。同国南部、ラ・プラタ川の河口左岸に位置する最大の都市で、2011年の人口は約130万人である。ウルグアイ最大の貿易港を有し、温暖な気候で知られる。 ポシートス、ブセオ、マルビン、プラシャ・デ・ロス・イングレセス(イギリス人の砂浜)、プラシャ・ベルデ(緑の砂浜)、プンタ・ゴルダ(太い岬)、カラスコなどの美しいビーチがあり、その他にも観光地として多くの記念碑や博物館、歴史的建造物や通りがある。マーサー・ヒューマンリソースコンサルティングによると、ラテンアメリカで最も生活の質が高い都市とされている(これにブエノスアイレスとサンティアゴが続く)。 由来には諸説あるが、いずれの説もスペイン語で山を意味する「モンテ」がモンテビデオ湾の西岸にそびえるフォルタレーザ・デル・セロを指すことについては共通している。しかし、ビデオの語源をめぐっては、以下のように複数の説がある。 1516年にフアン・ディアス・デ・ソリスがここを訪れたが、チャルーア族に殺害された。1624年に、現在のモンテビデオの地にグアラニー族を対象とするイエズス会伝道所が建設された。 その後、1680年にポルトガル人が、今のモンテビデオの西にコロニア・デル・サクラメントを建設する。その後、スペイン人はトルデシリャス条約を持ち出してポルトガル人と戦い、1720年にサンホセ要塞が建設された。1726年に、ブエノスアイレス総督のブルーノ・マウリシオ・デ・サバーラがサンホセ要塞を拡大して、都市サン・フェリペ・イ・サンティアゴ・デ・モンテビデオ(San Felipe y Santiago de Montevideo)を建設する。これが現在のモンテビデオ市の基礎となった。 1828年にウルグアイが独立すると、その首都となった。 1832年7月26日から8月19日まで、チャールズ・ダーウィンの乗ったイギリス海軍のビーグル号が投錨した。ダーウィンはここを拠点にして、モンテビデオ一帯の調査旅行を行っている。彼はバイア・ブランカ(アルゼンチン)に近いプンタ・プラタで、巨大な化石貧歯類メガテリウムの、歯の一本ついた顎骨を発見した。ビーグル号は第1回の測量調査を終えて1832年11月14日から27日までの間、2回目の停泊をしている。この間にダーウィンは、チャールズ・ライエルの『地質学原理』第2巻を受け取っている。 19世紀から20世紀のはじめまで、モンテビデオはアルゼンチンとブラジルの影響を回避するためにイギリスの強力な影響下で発展し、1869年には内陸に向かう鉄道が開通した。 1860年に5万7913人だった人口は、多くの移民を迎えて、1884年には10万4472人になった。移民の大半はスペインとイタリアの出身者であったが、中欧からも多くの移民を受け入れた。1930年にはFIFAワールドカップが開催され、初代優勝国の栄冠を勝ち取った。 第二次世界大戦初頭の1939年12月13日、プンタ・デル・エステ沖に現れたドイツ海軍のポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペーをイギリス海軍が追撃し、ラプラタ沖海戦が起きた。海戦の後、艦長のハンス・ラングスドルフ大佐はモンテビデオ港に退避した。この間にウルグアイの中立を巡るドイツ・イギリス・ウルグアイの外交戦が繰り広げられ、この町は一躍世界的に有名になった。ウルグアイは英寄りの中立を貫き、グラーフ・シュペーに72時間以内の退去を通告、その直後12月17日、モンテビデオ港外で同艦は自沈した。 1950年代には人口が90万人近くに達したが、その頃から経済停滞に苦しみ、さらに軍事政権(1973-85年)下の混乱の影響もあって街は衰退し、その後遺症は現在まで続いている。多くの貧しい地方出身者が都市に溢れ、特に旧市街に集中した。2002年にはブラジル、アルゼンチンから波及した経済危機により貨幣価値が下落、物価が高騰した。 2004年には135万人近い人口を数え、大モンテビデオ都市圏を含めると180万人になる。近年の経済回復と隣国との強力な貿易上の結びつきによって、ウルグアイの農業は発展してきており、将来の繁栄が望まれている。 ラプラタ川が大西洋に流れ込む河口部の左岸に位置する。 温暖湿潤気候に属し、一年を通して降水がある。 市街は下記の地区に分かれる。 1860年、モンテビデオ市街の人口は57,913人だった。 2016年現在、モンテビデオ市街の人口は約1,349,000人であるが、モンテビデオ大都市圏全体では1,814,400人が住んでいることになる。モンテビデオ市民はヨーロッパ人の影響を特に強く受けており、イタリア系、スペイン系の家系が最も一般的だが、その一方でアフリカ系ウルグアイ人の家系やユダヤ人の共同体の存在も重要である。 モンテビデオにはおおまかに言って国民の約44%が居住しており、モンテビデオの郊外と言っても良いカネロネス県は約12%を占めている。 地下鉄はなく、市民の足としては、もっぱらコレクティーボと呼ばれるバスとタクシーが使われている。 近隣諸国や国内各地への主な交通手段は、長距離バスや、ブケブス社によるラプラタ川を運航する船舶の他に、航空機が利用されており、近郊にあるカラスコ国際空港が使用されている。だが、同空港には長距離国際線がそれほど就航していないため、欧米など遠くに行く場合には隣国ブラジル・サンパウロにあるグアルーリョス国際空港、アルゼンチン・ブエノスアイレス郊外にあるエセイサ国際空港が利用されることも多い。 上記以外にも鉄道が国有のAFE(Administración de Ferrocarriles del Estado、ウルグアイ国鉄局)により運営され、日曜日を除き朝モンテビデオ周辺の町からモンテビデオへ向かい、夕方に再び周辺の町へ向かう形態のディーゼル動車による旅客列車が2路線に1往復運行されているが、同国での鉄道は貨物輸送が中心であり、モンテビデオ市内ではタンク貨車を連ねた貨物列車が目立つ。 共和国大学などのウルグアイの主要教育機関が集中する。 モンテビデオ市民にとって、最も親しみのあるスポーツはサッカーである。1930年にはエスタディオ・センテナリオで世界初のFIFAワールドカップが開催された。この1930 FIFAワールドカップでロス・チャルーアズ(ウルグアイ代表チームの愛称)は勝利を飾り、ウルグアイは初代優勝国となった。国内リーグにおいては、ペニャロール、ナシオナルなどのクラブチームが熱い戦いを繰り広げている。 その他、バスケットボールや競馬なども盛んである。 主にアルゼンチンとブラジルから観光客がやって来る。ポシトスや旧市街が観光地として有名である。 1月から2月にかけては、約1ヶ月にわたりカーニバルの期間となる。特に2月上旬(年により変動)に2日間にわたって行なわれるジャマーダス (Llamadas) では、数十組の打楽器奏者やダンサーがパレードを行い、モンテビデオは賑わいを見せる。
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モンテビデオは、ウルグアイの首都。モンテビデオ県の県都でもある。メルコスールの事務局が置かれている。同国南部、ラ・プラタ川の河口左岸に位置する最大の都市で、2011年の人口は約130万人である。ウルグアイ最大の貿易港を有し、温暖な気候で知られる。 ポシートス、ブセオ、マルビン、プラシャ・デ・ロス・イングレセス(イギリス人の砂浜)、プラシャ・ベルデ(緑の砂浜)、プンタ・ゴルダ(太い岬)、カラスコなどの美しいビーチがあり、その他にも観光地として多くの記念碑や博物館、歴史的建造物や通りがある。マーサー・ヒューマンリソースコンサルティングによると、ラテンアメリカで最も生活の質が高い都市とされている(これにブエノスアイレスとサンティアゴが続く)。
{{Otheruses|ウルグアイの首都|その他}} {{世界の市 |正式名称 = モンテビデオ |公用語名称 = Montevideo<br/>{{flagicon|Uruguay}} |愛称 = モンテビデオ、汝の館 (Montevideo, tu casa) |標語 = |画像 = Montevideo aerial.jpg |画像サイズ指定 = |画像の見出し = 空から見たモンテビデオ |市章 = |位置図 = Montevideo in Uruguay.svg |位置図サイズ指定 = |位置図の見出し = |位置図B = {{Location map|Uruguay#South America|relief=1|float=center|label=モンテビデオ}} |位置図2B = {{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=250|frame-height=140|type=shape|fill=#fffff0|stroke-color=#cc0000|stroke-width=1|coord2={{coord|-34.8833|-56.1666}}|type2=point|frame-latitude=-34.89|frame-longitude=-56.16}} |緯度度= 34|緯度分= 53|緯度秒=0 |N(北緯)及びS(南緯)= S |経度度= 56|経度分= 10|経度秒=0 |E(東経)及びW(西経)= W |下位区分名 = {{URY}} |下位区分種類1 = [[ウルグアイの地方行政区画|県]] |下位区分名1 = [[モンテビデオ県]] |下位区分種類2 = |下位区分名2 = |下位区分種類3 = |下位区分名3 = |下位区分種類4 = |下位区分名4 = |規模 = 市 |最高行政執行者称号 = 市長 |最高行政執行者名 = カロリーナ・コッセ |最高行政執行者所属党派 = |成立区分 = 建設 |成立日 = [[1726年]] |総面積(平方キロ) =194 |総面積(平方マイル) = |陸上面積(平方キロ) = |陸上面積(平方マイル) = |水面面積(平方キロ) = |水面面積(平方マイル) = |水面面積比率 = |市街地面積(平方キロ) = |市街地面積(平方マイル) = |都市圏面積(平方キロ) = 1,350 |都市圏面積(平方マイル) = |標高(メートル) = 43 |標高(フィート) = |人口の時点 =2011年 |人口に関する備考 = <ref>{{cite web|url=http://www.ine.gub.uy/censos2011/index.html|title=Datos Departamentales Censo 2011|accessdate=2014-02-27|publisher=INE}}</ref> |総人口 =1,305,082 |人口密度(平方キロ当たり) =6,726 |人口密度(平方マイル当たり) = |市街地人口 = 1,719,453 |市街地人口密度(平方キロ) = |市街地人口密度(平方マイル) = |都市圏人口 = 1,947,604<ref name="Presidencia">[http://www.presidencia.gub.uy/comunicacion/comunicacionnoticias/agenda-metropolitana-uruguay-barcelona-firma-convenio-cooperacion "...el Área Metropolitana de Uruguay nuclea a los departamentos de San José, Canelones y Montevideo..."] Retrieved 10 November 2014.</ref><ref name="INE">[http://www.ine.gub.uy/censos2011/index.html Info censal de departamentos/Data 2011 census]. Retrieved 10 November 2014.</ref> |都市圏人口密度(平方キロ) = |都市圏人口密度(平方マイル) = |等時帯 = [[ウルグアイ時間]] |協定世界時との時差 =-3 |夏時間の等時帯 = |夏時間の協定世界時との時差 = |郵便番号の区分 =郵便番号 |郵便番号 = 10000 |市外局番 =+02 |ナンバープレート = |ISOコード = |公式ウェブサイト = [http://www.montevideo.gub.uy www.montevideo.gub.uy] |備考 = }} '''モンテビデオ'''({{Lang-es|Montevideo}} {{IPA-es|monteβiˈðe.o|}})は、[[ウルグアイ]]の[[首都]]。[[モンテビデオ県]]の県都でもある。[[メルコスール]]の事務局が置かれている。同国南部<ref group=n name=note-1 />、[[ラ・プラタ川]]の河口左岸に位置する最大の都市で、[[2011年]]の人口は約130万人である。ウルグアイ最大の貿易港を有し、温暖な気候で知られる。 [[ポシートス]]、[[ブセオ]]、[[マルビン]]、[[プラシャ・デ・ロス・イングレセス]](イギリス人の砂浜)、[[プラシャ・ベルデ]](緑の砂浜)、[[プンタ・ゴルダ]](太い岬)、[[カラスコ (モンテビデオ)|カラスコ]]などの美しいビーチがあり、その他にも観光地として多くの記念碑や博物館、歴史的建造物や通りがある。マーサー・ヒューマンリソースコンサルティングによると、[[ラテンアメリカ]]で最も生活の質が高い都市とされている<ref name="rrhh">[http://www.mercerhr.com/pressrelease/details.jhtml/dynamic/idContent/1173105 International Mercer of Human Resources]</ref>(これに[[ブエノスアイレス]]と[[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]]が続く)。 == 歴史 == === 地名の由来 === 由来には諸説あるが、いずれの説もスペイン語で[[山]]を意味する「モンテ」がモンテビデオ湾の西岸にそびえる[[:en:Fortaleza del Cerro|フォルタレーザ・デル・セロ]]を指すことについては共通している。しかし、ビデオの語源をめぐっては、以下のように複数の説がある<ref>{{cite web |url=http://www.montevideanos.com/index.html |title= Día del Patrimonio |accessdate=17 November 2010|author=Nelson Ormazábal |publisher=montevideanos.com |language=Spanish|quote= Pocas villas con deseos de ser ciudad, tuvieron tantos prenombres hasta llegar al definitivo de Montevideo. Pináculo de la Tentación, Monte de la Detención, Nuestra Señora de la Candelaria, Monte de San Pedro, Santo Vidio, Monte Seredo, Monte Vidi, Monte veo, Montem Video, Monte Vide Eu, Monte Ovidio, Monte VI D. E-O... Tales fueron, entre el viaje de Amerigo Vespucci (1501) y la fundación por Bruno Mauricio de Zabala (1726), las diversas denominaciones que la elevación al oeste de la bahía recibió.}}</ref>。 *Monte Ovidio説 - フォルタレーザ・デル・セロは当初「聖オヴィディオ山(Monte Ovidio)」と命名されたとする説。市の観光案内では、これが採用されている<ref name=OriMon />。 *Monte vide eu説 - [[フェルディナンド・マゼラン]]の艦隊がこの土地を見つけた際、[[ポルトガル語]]で「Monte vide eu(我、山を見たり)」と述べたとする説。 *Monte VI De Este a Oeste説 - スペイン人がこの土地を地図に記す際に「Monte VI De Este a Oeste(東から西に向けて六番目の山)」と記し、それの頭文字が略されたとする説。 === 初期の歴史 === [[ファイル:Cerro de Montevideo desde la ciudad. Año 1865.jpg|thumb|left|240px|モンビデオの丘からみた市街地([[1865年]])]] [[ファイル:Karte Montevideo MKL1888 kl.png|thumb|left|200px|[[1888年]]のモンテビデオ]] 1516年に[[フアン・ディアス・デ・ソリス]]がここを訪れたが、[[チャルーア族]]に殺害された。1624年に、現在のモンテビデオの地に[[グアラニー族]]を対象とする[[イエズス会伝道所]]が建設された。 その後、[[1680年]]に[[ポルトガル]]人が、今のモンテビデオの西に[[コロニア・デル・サクラメント]]を建設する。その後、[[スペイン]]人は[[トルデシリャス条約]]を持ち出してポルトガル人と戦い、1720年にサンホセ要塞が建設された。1726年に、ブエノスアイレス総督の[[ブルーノ・マウリシオ・デ・サバーラ]]がサンホセ要塞を拡大して、都市'''サン・フェリペ・イ・サンティアゴ・デ・モンテビデオ'''(San Felipe y Santiago de Montevideo)を建設する。これが現在のモンテビデオ市の基礎となった。 [[1828年]]にウルグアイが独立すると、その首都となった。 [[1832年]][[7月26日]]から[[8月19日]]まで、[[チャールズ・ダーウィン]]の乗ったイギリス海軍の[[ビーグル (帆船)|ビーグル号]]が投錨した。ダーウィンはここを拠点にして、モンテビデオ一帯の調査旅行を行っている。彼は[[バイア・ブランカ]](アルゼンチン)に近いプンタ・プラタで、巨大な化石貧歯類[[メガテリウム]]の、歯の一本ついた顎骨を発見した<ref>パトリック・トール著、平山廉監修、南條郁子、藤丘樹実訳 『ダーウィン』 《「知の再発見」双書99》 創元社 2001年 37ページ</ref>。ビーグル号は第1回の測量調査を終えて1832年11月14日から27日までの間、2回目の停泊をしている。この間にダーウィンは、[[チャールズ・ライエル]]の『地質学原理』第2巻を受け取っている<ref>パトリック・トール著、平山廉監修、南條郁子、藤丘樹実訳 『ダーウィン』 《「知の再発見」双書99》 創元社 2001年 38ページ</ref>。 19世紀から20世紀のはじめまで、モンテビデオはアルゼンチンとブラジルの影響を回避するためにイギリスの強力な影響下で発展し、[[1869年]]には内陸に向かう鉄道が開通した。 {{Clearleft}} === 20世紀以降 === [[ファイル:MontevideoIndependencePlaza1900.jpg|thumb|独立広場([[1900年]])]] 1860年に5万7913人だった人口は、多くの移民を迎えて、1884年には10万4472人になった。移民の大半はスペインとイタリアの出身者であったが、中欧からも多くの移民を受け入れた。[[1930年]]には[[FIFAワールドカップ]]が開催され、初代優勝国の栄冠を勝ち取った。 [[第二次世界大戦]]初頭の[[1939年]][[12月13日]]、[[プンタ・デル・エステ]]沖に現れた[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]の[[ドイッチュラント級装甲艦|ポケット戦艦]][[アドミラル・グラーフ・シュペー (装甲艦)|アドミラル・グラーフ・シュペー]]を[[イギリス海軍]]が追撃し、[[ラプラタ沖海戦]]が起きた。海戦の後、艦長の[[ハンス・ラングスドルフ]]大佐はモンテビデオ港に退避した。この間にウルグアイの中立を巡るドイツ・イギリス・ウルグアイの外交戦が繰り広げられ、この町は一躍世界的に有名になった。ウルグアイは英寄りの中立を貫き、グラーフ・シュペーに72時間以内の退去を通告、その直後12月17日、モンテビデオ港外で同艦は自沈した。 1950年代には人口が90万人近くに達したが、その頃から経済停滞に苦しみ、さらに軍事政権(1973-85年)下の混乱の影響もあって街は衰退し、その後遺症は現在まで続いている。多くの貧しい地方出身者が都市に溢れ、特に旧市街に集中した。2002年にはブラジル、アルゼンチンから波及した経済危機により貨幣価値が下落、物価が高騰した。 2004年には135万人近い人口を数え、大モンテビデオ都市圏を含めると180万人になる。近年の経済回復と隣国との強力な貿易上の結びつきによって、ウルグアイの農業は発展してきており、将来の繁栄が望まれている。 == 地理 == ラプラタ川が大西洋に流れ込む河口部の左岸に位置する。 [[ファイル:Montevideo Panorama.jpg|750px|center|thumb|<center>テレコムニカシオネス塔から見たモンテビデオ]] ===気候=== [[温暖湿潤気候]]に属し、一年を通して降水がある。 {{Weather box |location = モンテビデオ (1961–1990) |metric first = yes |single line = yes |Jan record high C = 42.8 |Feb record high C = 40.3 |Mar record high C = 38.4 |Apr record high C = 36.7 |May record high C = 32.0 |Jun record high C = 27.4 |Jul record high C = 29.8 |Aug record high C = 30.8 |Sep record high C = 32.0 |Oct record high C = 35.8 |Nov record high C = 38.2 |Dec record high C = 40.8 |year record high C = 42.8 |Jan high C = 28.4 |Feb high C = 27.5 |Mar high C = 25.5 |Apr high C = 22.0 |May high C = 18.6 |Jun high C = 15.1 |Jul high C = 15.0 |Aug high C = 16.2 |Sep high C = 18.0 |Oct high C = 20.5 |Nov high C = 23.7 |Dec high C = 26.5 |year high C = 21.4 |Jan mean C = 23.0 |Feb mean C = 22.5 |Mar mean C = 20.6 |Apr mean C = 17.2 |May mean C = 14.0 |Jun mean C = 11.1 |Jul mean C = 10.9 |Aug mean C = 11.7 |Sep mean C = 13.4 |Oct mean C = 16.0 |Nov mean C = 18.6 |Dec mean C = 21.3 |year mean C = 16.7 |Jan low C = 18.0 |Feb low C = 17.9 |Mar low C = 16.2 |Apr low C = 12.9 |May low C = 10.2 |Jun low C = 7.7 |Jul low C = 7.2 |Aug low C = 7.8 |Sep low C = 9.1 |Oct low C = 11.5 |Nov low C = 14.2 |Dec low C = 16.3 |year low C = 12.4 |Jan record low C = 6.0 |Feb record low C = 6.8 |Mar record low C = 3.8 |Apr record low C = 1.3 |May record low C = -2.0 |Jun record low C = -5.6 |Jul record low C = -5.0 |Aug record low C = -3.8 |Sep record low C = -2.4 |Oct record low C = -1.5 |Nov record low C = 2.5 |Dec record low C = 5.0 |year record low C = -5.6 |Jan precipitation mm = 86.8 |Feb precipitation mm = 101.5 |Mar precipitation mm = 104.6 |Apr precipitation mm = 85.5 |May precipitation mm = 89.0 |Jun precipitation mm = 83.1 |Jul precipitation mm = 86.4 |Aug precipitation mm = 88.2 |Sep precipitation mm = 93.9 |Oct precipitation mm = 108.5 |Nov precipitation mm = 89.3 |Dec precipitation mm = 84.4 |year precipitation mm = 1101.2 |unit precipitation days = 1.0 mm |Jan precipitation days = 6 |Feb precipitation days = 7 |Mar precipitation days = 6 |Apr precipitation days = 6 |May precipitation days = 6 |Jun precipitation days = 7 |Jul precipitation days = 7 |Aug precipitation days = 6 |Sep precipitation days = 6 |Oct precipitation days = 7 |Nov precipitation days = 7 |Dec precipitation days = 6 |year precipitation days = 77 |Jan humidity = 68 |Feb humidity = 69 |Mar humidity = 73 |Apr humidity = 75 |May humidity = 78 |Jun humidity = 82 |Jul humidity = 80 |Aug humidity = 77 |Sep humidity = 74 |Oct humidity = 71 |Nov humidity = 71 |Dec humidity = 67 |year humidity = 74 |Jan sun = 294.9 |Feb sun = 230.6 |Mar sun = 222.8 |Apr sun = 179.6 |May sun = 164.2 |Jun sun = 129.7 |Jul sun = 139.7 |Aug sun = 164.4 |Sep sun = 182.3 |Oct sun = 239.0 |Nov sun = 248.9 |Dec sun = 285.3 |year sun = 2481.4 |source 1 = Dirección Nacional de Meteorología (extremes 1901–1994)<ref name = DNM> {{cite web | url = http://meteorologia.gub.uy/index.php/estadisticas-climaticas | title = Estadísticas climatológicas : Estacion Meteorologica Prado | publisher = Dirección Nacional de Meteorología | accessdate = March 26, 2013 | language = Spanish}}</ref> [[World Meteorological Organization]] (precipitation data)<ref name = WMO> {{cite web | url = http://worldweather.wmo.int/094/c00293.htm | title = World Weather Information Service – Montevideo | publisher = World Meteorological Organization | accessdate = March 26, 2013}}</ref> |date=August 2010 }} == 区域 == {{main|モンテビデオの地区 }} [[ファイル:Montevideo Map.png|350 px|right|モンテビデオの地区]] [[ファイル:Montevideo, Uruguay, city and vicinities, LandSat-5 satellite image, near natural colors, 2011-08-21.jpg|thumb|モンテビデオ周辺のランドサット写真]] 市街は下記の地区に分かれる。 {| |- | width="34%" valign="top" | # [[旧市街]] <small>[[:es:Ciudad Vieja (Montevideo)|Ciudad Vieja]]</small> # [[セントロ (モンテビデオ)|セントロ]] <small>[[:es:Centro (Montevideo)|Centro]]</small> # [[バリオ・スール]] <small>[[:es:Barrio Sur (Montevideo)|Barrio Sur]]</small>(南地区) # [[ラ・アグアダ]] <small>[[:es:La Aguada (Montevideo)|La Aguada]]</small> # [[ビジャ・ムニョス]] <small>[[:es:Villa Muñoz]]</small>, <small>[[Goes]]</small> # [[コルドン]] <small>[[:es:Cordón (Montevideo)|Cordón]]</small> # [[パレルモ(モンテビデオ)|パレルモ]] <small>[[:es:Palermo (Montevideo)|Palermo]]</small> # [[ロドー公園]] <small>[[:es:Parque Rodó]]</small> # [[トレス・クルーセス]] <small>[[:es:Tres Cruces (Montevideo)|Tres Cruces]]</small> # [[ラ・コメルシアル]] <small>[[:es:La Comercial (barrio)|La Comercial]]</small> # [[ララニャーガ]] <small>[[:es:Larrañaga (Montevideo)|Larrañaga]]</small> # [[ラ・ブランケアーダ]] <small>[[:es:La Blanqueada|La Blanqueada]]</small> # [[Parque Batlle]], [[Villa Dolores (Montevideo)|Villa Dolores]] # [[ポシートス]] <small>[[:es:Pocitos (Montevideo)|Pocitos]]</small> # [[プンタ・カレータス]] <small>[[:es:Punta Carretas|Punta Carretas]]</small> # [[ウニオン(モンテビデオ)|ウニオン]] <small>[[:es:Unión (Montevideo)|Unión]]</small> # [[ブセオ]] <small>[[:es:Buceo (Montevideo)|Buceo]]</small> # [[マルビン]] <small>[[:es:Malvín|Malvín]]</small> # [[マルビン・ノルテ]] <small>[[:es:Malvín Norte|Malvín Norte]]</small> # [[ラス・カンテーラス]] <small>[[:es:Las Canteras (Montevideo)|Las Canteras]]</small> # [[プンタ・ゴルダ]] <small>[[:es:Punta Gorda (Montevideo)|Punta Gorda]]</small> | width="33%" valign="top"| <ol start=22><li> [[カラスコ(モンテビデオ)]] <small>[[:es:Carrasco (Montevideo)]]</small> <li> [[カラスコ・ノルテ]] <small>[[:es:Carrasco Norte]]</small> <li> [[バニャードス・デ・カラスコ]] <small>[[:es:Bañados de Carrasco]]</small> <li> [[フロール・デ・マローニャス]] <small>[[:es:Flor de Maroñas]]</small> <li> [[マローニャス]] <small>[[:es:Maroñas]]</small>, <small>[[:es:Parque Guaraní]]</small> <li> [[ビジャ・エスパニョーラ]] <small>[[:es:Villa Española (barrio)|Villa Española]]</small> <li> [[イトゥサインゴ]] <small>[[:es:Ituzaingó (Montevideo)|Ituzaingó]]</small> <li> [[カストロ・カステジャーノス]] <small>[[:es:Castro Castellanos]]</small> (Pérez Castellanos) <li> [[メルカド・モデーロ]] <small>[[:es:Mercado Modelo]]</small>, <small>[[:es:Bolívar (Montevideo)|Bolívar]]</small> <li> [[ブラソ・オリエンタル]] <small>[[:es:Brazo Oriental]]</small> <li> [[ハシント・ベラ(モンテビデオ)]] <small>[[:es:Jacinto Vera (Montevideo)|Jacinto Vera]]</small> <li> [[ラ・フィグリータ]] <small>[[:es:La Figurita]]</small> <li> [[レドゥクト]] <small>[[:es:Reducto (Montevideo)|Reducto]]</small> <li> [[カプーロ]] <small>[[:es:Capurro]]</small>, <small>[[:es:Bella Vista (Montevideo)|Bella Vista]]</small>, <small>[[:es:Arroyo Seco (Montevideo)|Arroyo Seco]]</small> <li> [[プラド(モンテビデオ)]] <small>[[:es:Prado (Montevideo)|(El) Prado, Nueva Savona]]</small> <li> [[アタワルパ(モンテビデオ)]] <small>[[:es:Atahualpa (barrio)|Atahualpa]]</small> <li> [[アイレス・プーロス]] <small>[[:es:Aires Puros]]</small> <li> [[パソ・デ・ラス・ドゥラーナス]] <small>[[:es:Paso de las Duranas]]</small> <li> [[ベルベデーレ]] <small>[[:es:Belvedere (Montevideo)|Belvedere]]</small> <li> [[ラ・テハ]] <small>[[:es:La Teja]]</small> <li> [[トレス・オンブーエス]] <small>[[:es:Tres Ombúes]]</small>, <small>[[:es:Pueblo Victoria]]</small> </ol> | width="33%" valign="top" | <ol start=43> <li> [[ビジャ・デル・セーロ]] <small>[[:es:Villa del Cerro|セーロ]]</small> <li> [[カサボー]] <small>[[:es:Casabó]]</small>, <small>[[:es:Pajas Blancas]]</small> <li> [[ラ・パロマ(モンテビデオ)]] <small>[[:es:La Paloma (Montevideo)|La Paloma, Tomkinson]]</small> <li> [[パソ・デ・ラ・アレーナ]] <small>[[:es:Paso de la Arena]]</small> <li> [[ヌエボ・パリス]] <small>[[:es:Nuevo París]]</small> <li> [[コンシリアシオン]] <small>[[:es:Conciliación (Montevideo)|Conciliación]]</small> <li> [[サジャーゴ]] <small>[[:es:Sayago (Montevideo)|サシャゴ]]</small> <li> {{仮リンク|ペニャロール(モンテビデオ)|en|Peñarol, Montevideo}} ラバジェーハ <small>[[:es:Peñarol (barrio)|ペニャロール]]</small>, <small>[[:es:Lavalleja (Montevideo)|Lavalleja, 40 Semanas]]</small> <li> [[ビジャ・コロン]] <small>[[:es:Villa Colón|(Villa) Colón]]</small> Centro y Noroeste <li> [[レシカ]] <small>[[:es:Lezica]]</small>, <small>[[:es:Melilla]]</small> <li> [[ビジャ・コロン]]東南 <small>[[:es:Villa Colón|(Villa) Colón]]</small> Sudeste, <small>[[:es:Abayubá]]</small> <li> [[マンガ(モンテビデオ)]] トレード・チコ <small>[[:es:Manga (Montevideo)|Manga]]</small>, <small>[[:es:Toledo Chico]]</small> <li> [[カサバージェ]] <small>[[:es:Casavalle]]</small> <li> [[セリート・デ・ラ・ビクトーリア]] <small>[[:es:Cerrito de la Victoria]]</small> <li> [[ラス・アカシアス]] <small>[[:es:Las Acacias (Montevideo)|Las Acacias]]</small> <li> [[ハルディーネス・デル・イポードロモ]] <small>[[:es:Jardines del Hipódromo]]</small> <li> [[ピエドラス・ブランカス]] <small>[[:es:Piedras Blancas (Montevideo)|Piedras Blancas]]</small> <li> [[マンガ(モンテビデオ)]] <small>[[:es:Manga (Montevideo)|Manga]]</small> <li> [[プンタ・デ・リエーレス]] ベージャ・イターリア <small>[[:es:Punta de Rieles]]</small>, <small>[[:es:Bella Italia]]</small> <li> [[ビジャ・ガルシーア]] <small>[[:es:Villa García (Montevideo)|Villa García]]</small>, <small>[[:es:Manga (Montevideo)|Manga]]</small> </ol> |} == 人口 == 1860年、モンテビデオ市街の人口は57,913人だった<ref>http://www.tacuy.com.uy/Servicios/Montevideo/index.htm</ref>。 2016年現在、モンテビデオ市街の人口は約1,349,000人であるが、モンテビデオ大都市圏全体では1,814,400人が住んでいることになる。モンテビデオ市民は[[ヨーロッパ]]人の影響を特に強く受けており、[[イタリア]]系、[[スペイン]]系の家系が最も一般的だが、その一方で[[アフリカ系ウルグアイ人]]の家系や[[ユダヤ人]]の共同体の存在も重要である。 モンテビデオにはおおまかに言って国民の約44%が居住しており、モンテビデオの郊外と言っても良い[[カネロネス県]]は約12%を占めている。 == 交通 == [[File:stk 1340.jpg|260px|thumb|right|モンテビデオ港]] [[地下鉄]]はなく、市民の足としては、もっぱらコレクティーボと呼ばれるバスとタクシーが使われている。 近隣諸国や国内各地への主な交通手段は、長距離[[バス (交通機関)|バス]]や、ブケブス社によるラプラタ川を運航する船舶の他に、航空機が利用されており、近郊にある[[カラスコ国際空港]]が使用されている。だが、同空港には長距離国際線がそれほど就航していないため、欧米など遠くに行く場合には隣国ブラジル・サンパウロにある[[グアルーリョス国際空港]]、[[アルゼンチン]]・[[ブエノスアイレス]]郊外にある[[エセイサ国際空港]]が利用されることも多い。 上記以外にも鉄道が国有の[[:es:Administraci%C3%B3n_de_Ferrocarriles_del_Estado|AFE(Administración de Ferrocarriles del Estado、ウルグアイ国鉄局)]]により運営され、日曜日を除き朝モンテビデオ周辺の町からモンテビデオへ向かい、夕方に再び周辺の町へ向かう形態の[[気動車|ディーゼル動車]]による旅客列車が2路線に1往復運行されているが、同国での鉄道は貨物輸送が中心であり、モンテビデオ市内ではタンク[[貨車]]を連ねた貨物列車が目立つ。 == 教育 == 共和国大学などのウルグアイの主要教育機関が集中する。 == スポーツ == [[ファイル:Estadio centenario 2.JPG|thumb|200px|エスタディオ・センテナリオ]] モンテビデオ市民にとって、最も親しみのあるスポーツはサッカーである。[[1930年]]には[[エスタディオ・センテナリオ]]で世界初の[[1930 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ]]が開催された。この[[1930 FIFAワールドカップ]]で[[ロス・チャルーアズ]](ウルグアイ代表チームの愛称)は勝利を飾り、ウルグアイは初代優勝国となった。[[プリメーラ・ディビシオン (ウルグアイ)|国内リーグ]]においては、[[CAペニャロール|ペニャロール]]、[[クルブ・ナシオナル・デ・フットボール|ナシオナル]]などのクラブチームが熱い戦いを繰り広げている。 その他、バスケットボールや競馬なども盛んである。 == 観光 == [[ファイル:Playa Pocitos.jpg|thumb|200px|ポシトス]] 主にアルゼンチンとブラジルから観光客がやって来る。ポシトスや旧市街が観光地として有名である。 1月から2月にかけては、約1ヶ月にわたり[[謝肉祭|カーニバル]]の期間となる。特に2月上旬(年により変動)に2日間にわたって行なわれるジャマーダス (Llamadas) では、数十組の打楽器奏者やダンサーがパレードを行い、モンテビデオは賑わいを見せる。 {{-}} == 姉妹都市 == {{multicol}} ;アフリカ :{{flagicon|ESH}} [[アイウン]]、[[西サハラ]] (2009年12月13日) <ref name=Aaiun-Mdeo /> :{{flagicon|ESP}} [[メリリャ]]、[[スペイン]] (2008年) <ref name=Melilla-Mdeo /> ;アメリカ州 :{{flagicon|ARG}} [[ベリッソ]]、[[アルゼンチン]] (2011年6月6日) :{{flagicon|ARG}} [[ブエノスアイレス]]、[[アルゼンチン]] :{{flagicon|ARG}} [[コルドバ (アルゼンチン)|コルドバ]]、[[アルゼンチン]] :{{flagicon|ARG}} [[フルリンガム (アルゼンチン)|フルリンガム]]、[[アルゼンチン]] :{{flagicon|ARG}} [[ラプラタ (アルゼンチン)|ラ・プラタ]]、[[アルゼンチン]] :{{flagicon|ARG}} [[マル・デル・プラタ]]、[[アルゼンチン]] :{{flagicon|ARG}} [[ロサリオ]]、[[アルゼンチン]] (1998年6月1日) <ref name=Rosario-Mdeo /> :{{flagicon|BOL}} [[コチャバンバ]]、[[ボリビア]] :{{flagicon|BOL}} [[コロイコ]]、[[ボリビア]] :{{flagicon|BOL}} [[ラパス]]、[[ボリビア]] :{{flagicon|BOL}} [[サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ]]、[[ボリビア]] :{{flagicon|BRA}} [[ブラジリア]]、[[ブラジル]] {{multicol-break}} :{{flagicon|BRA}} [[クリチバ]]、[[ブラジル]] (1990年4月10日) <ref name=Curitiba-Mdeo /> :{{flagicon|BRA}} [[リオデジャネイロ]]、[[ブラジル]] (1997年4月30日) <ref name=RioJaneiro-Mdeo /> :{{flagicon|BRA}} [[サン・パウロ]]、[[ブラジル]] :{{flagicon|COL}} [[ボゴタ]]、[[コロンビア]] :{{flagicon|USA}} [[モンテビデオ (ミネソタ州)|モンテビデオ]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]] :{{flagicon|USA}} [[マイアミ]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]] :{{flagicon|CAN}} [[ケベック・シティー|ケベック]]、[[カナダ]] :{{flagicon|CAN}} [[ミシサガ (オンタリオ州)|ミシサガ]]、[[カナダ]] ;アジア :{{flagicon|CHN}} [[青島市|青島]]、[[中華人民共和国]] :{{flagicon|KOR}} [[蔚山広域市|蔚山広域]]、[[大韓民国]] (2012年6月11日) <ref name=Ulsan-mdeo /> ;ヨーロッパ :{{flagicon|ESP}} [[バルセロナ]]、[[スペイン]] :{{flagicon|ESP}} [[カディス]]、[[スペイン]] :{{flagicon|ESP}} [[マドリード]]、[[スペイン]] :{{flagicon|RUS}} [[サンクトペテルブルク]]、[[ロシア]] {{multicol-end}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{reflist|group=n|refs= <ref group=n name=note-1>{{Coord|34|54|21.06|S|56|11|29.04|W}}に位置。</ref> }} ===出典=== {{reflist|2|refs= <ref name=OriMon>{{cite web |url= http://www.montevideanos.com/origen.htm|title=El origen de la palabra "Montevideo"|accessdate=2009-11-17|first=Nelson|last=Ormazábal|work=montevideanos.com|language=スペイン語}}</ref> <ref name=Rosario-Mdeo>{{cite web|url=http://www.montevideo.gub.uy/sites/default/files/documentos-rrii/Rosario.pdf|title=Acuerdo de Hermanamiento entre la ciudad de Montevideo y la ciudad de Rosario|language=スペイン語|author=[[:d:Q5918649|Intendencia Municipal de Montevideo]]|accessdate=2014-04-30}}</ref> <ref name=Ulsan-mdeo>{{cite web|url=http://www.montevideo.gub.uy/noticias/hermanamiento-con-ulsan|title=Hermanamiento con Ulsan|language=スペイン語|author=[[:d:Q5918649|Intendencia Municipal de Montevideo]]|accessdate=2014-04-30}}</ref> <ref name=Curitiba-Mdeo>Câmara Municipal de Curitiba. "[[:s:pt:Lei Municipal de Curitiba 7438 de 1990|Lei Municipal de Curitiba 7438 de 1990]]" にウィキソース {{pt icon}}。 2014年5月2日閲覧。</ref> <ref name=RioJaneiro-Mdeo>{{cite web|url=http://www.montevideo.gub.uy/sites/default/files/documentos-rrii/Rio_de_Janeiro.pdf|title=Hermanamiento entre la ciudad de Río de Janeiro y Montevideo|language=スペイン語|author=[[:d:Q5918649|Intendencia Municipal de Montevideo]]|accessdate=2014-05-02}}</ref> <ref name=Aaiun-Mdeo>{{cite web|url=http://www.montevideo.gub.uy/sites/default/files/documentos-rrii/Aauin.pdf|title=Acta de hermanamiento entre las ciudades de Montevideo y Aaiun|language=スペイン語|author=[[:d:Q5918649|Intendencia Municipal de Montevideo]]|accessdate=2014-05-02}}</ref> <ref name=Melilla-Mdeo>{{cite web|url=http://www.infomelilla.com/noticias/index.php?accion=1&id=7899|title=Melilla se hermana con Montevideo para unir lazos y promocionar valores|language=スペイン語|author=InfoMellilla.com|date=2008-04-20|accessdate=2014-05-02}}</ref> }} == 関連項目 == *[[交換船]] *[[ラプラタ沖海戦]] *[[もんてびでお丸]] - 第二次世界大戦中に沈没した日本の貨物船 ==外部リンク== {{commons&cat|Montevideo}} {{osm box|r|2929054}} * [http://www.montevideo.gub.uy/ 公式ウェブサイト] {{es icon}} * {{Googlemap|Montevideo}} * {{Wikivoyage-inline|es:Montevideo|モンテビデオ{{es icon}}}} * {{Wikivoyage-inline|Montevideo|モンテビデオ{{en icon}}}} {{アメリカの首都}} {{Authority control}} {{Coord|34|53|0|S|56|10|0|W|region:UY-MO_scale:100000|display=title|name=モンテビデオ}} {{DEFAULTSORT:もんてひてお}} [[Category:ウルグアイの都市]] [[Category:南アメリカの首都]] [[Category:南アメリカの港町]] [[Category:モンテビデオ|*]] [[Category:モンテビデオ県]]
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平仮名
平仮名(ひらがな)は、音節文字の一つ。かなの一種である。異体字は変体仮名と呼ばれる。 平仮名のもとになったのは、奈良時代を中心に使われていた万葉仮名(まんようがな)である。 万葉仮名は楷書や行書のほか、草書で書かれることもあった。草書の万葉仮名を、平仮名の前段階として草仮名(そうがな)と呼ぶ。すでに8世紀末の正倉院文書には、字形や筆順の上で平安時代の平仮名と通じる草仮名が記されている。9世紀中頃の『藤原有年申文』(貞観9年〈867年〉)や同時期の『智証大師病中言上艸書』などの文書類、京都市の藤原良相(冬嗣の五男で右大臣に上り詰めた公卿。813〜867)邸遺跡から見つかった土器群にも見られる。また、宮城県の多賀城跡遺跡から発掘された土器や、富山県射水市の赤田遺跡からも草仮名の書かれた墨書土器が発掘されているため、同時期に地方へ赴任した官人らによって、日本各地で普及し始めたと考えられる。 宇多天皇宸翰の『周易抄』(寛平9年〈897年〉)では、訓注に草仮名を、傍訓に片仮名をそれぞれ使い分けており、この頃から平仮名が独立した文字体系として次第に意識されつつあったことが窺える。その後、草仮名の略化が進み、ついに漢字の草書体から形が逸脱した。こうして、文章を記す書記体系として確立したのが平仮名(ひらがな)である。 伝統的に平安時代初期の名僧で能筆家でもあった空海が作ったという俗説がある。空海が「いろは歌」及びいろは手本を作ったという俗説から発展して、空海が平仮名まで創作したということになったとみられる。 平仮名は誕生した当初から、ひとつの音節に対して複数の字体 (異体字) があった。異体字は万葉仮名と比べると遥かに少ない。平仮名による表現が頂点に達した平安時代末期の時点で、異体字の総数が約300種、そのうち個人が使用したのはおよそ100から200種ほどとされる。 9世紀後半から歌文の表記などに用いられていた平仮名が公的な文書に現れるのは、醍醐天皇の時代の勅撰和歌集である『古今和歌集』(延喜5年〈905年〉)が最初である。その序文は漢文である真名序と、仮名で書かれた仮名序のふたつがある。また承平5年(935年)頃に紀貫之が著した『土佐日記』については、後にその貫之自筆本の巻尾を藤原定家が臨書したものが伝わっており、当時すでに後世の平仮名とほぼ同じ字体が用いられていたことが確認できる。天暦5年(951年)の「醍醐寺五重塔天井板落書」になると、片仮名で記された和歌の一節を平仮名で書き換えており、この頃には平仮名は文字体系として完全に独立したものになっていたと考えられる。なお「平仮名」という言葉が登場するのは16世紀以降のことであり、これは片仮名と区別するために「普通の仮名」の意で呼ばれたものである。 山梨県のケカチ遺跡(甲州市塩山下於曽)からは、全て平仮名で和歌を刻んだうえで焼成したとみられる10世紀半ばの皿状土器が2016年に出土しており、国司ら官人の赴任により地方にも次第に伝播したことがうかがえる。 平仮名による最初期の文学作品である紀貫之の著『土佐日記』は、作者が女性に仮託して書かれているというのが通説である。貴族社会における平仮名は私的な場かあるいは女性によって用いられるものとされ、女流文学が平仮名で書かれた以外にも、和歌や消息などには性別を問わず平仮名を用いていた。それにより女手(おんなで)とも呼ばれた。平安時代の貴族の女性は、大和言葉を用いた平仮名を使って多くの作品を残した。平仮名で書かれたものは私的な性格が強い文書に使われ、地位が低く見られていたが、中国との公的交流の断絶が長くなるにつれて、勅撰の和歌集に用いられるまでに進出した。 明治33年(1900年)、「小学校令施行規則」の「第一号表」に48種の平仮名が示された。以後この字体だけが公教育において教授され、一般に普及した。これにより、数多くの変体仮名が用いられなくなった。 ただし変体仮名の判読可能な人々はその後も当然存在していることから、その後数十年ほどは変体仮名を使った書籍の出版も併存したと思われる。例えば昭和2年(1927年)発行の随筆叢書には、変体仮名を使った文も使っていない文も載っている。しかし第二次大戦後は、変体仮名を使った書籍は1900年代以前(江戸時代を含む)の書籍の復刻版に限られている。 第二次世界大戦後、現代仮名遣いが制定された。これにより、特殊な場合を除いて「ゐ」と「ゑ」が用いられなくなった。 現在、日本語で主に使われているものは以下の通りである。 1900年頃、日本語で主に使われていたものは以下の通りである。 以下の画像に、平仮名の筆順(書き順)と発音を示す。 "平仮名の書き順" - YouTube 現在の日本語で最も基本的な文字であり、主に次のような場面で用いられる。 現在の日本の学校教育では文字の中では「平仮名」が最初に教えられる。 現代では、平仮名を敢えて使用する理由の一つとして「柔らかで親しみやすいイメージ」が考えられるといわれる。カタカナ(ヘ/へ、リ/りは形状が近いが)や漢字の多くと比較して、平仮名の特徴には「丸み・流れるような」などが挙げられる。ひらがな・カタカナ地名のような使用例もある。 選挙法では候補者の通称使用が認められていることもあり、平仮名を用いる候補者も度々見られる。これを俗に「名前をひらく」などという人もいる。
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平仮名(ひらがな)は、音節文字の一つ。かなの一種である。異体字は変体仮名と呼ばれる。
{{Redirect|女文字|中国の女文字|女書}} {{出典の明記|date=2021年2月}} {{Infobox WS |name = {{big|{{ruby-ja|平仮名|ひらがな}}}} |altname = |type = [[音節文字]] |languages = [[日本語]]、[[琉球語]] |time = [[800年]] - |fam1 = [[漢字]] |fam2 = [[万葉仮名]] |sisters = [[片仮名]] |sample = ひ 教科書体.svg |unicode = [https://www.unicode.org/charts/PDF/U3040.pdf U+3041-U+309F] - [[平仮名 (Unicodeのブロック)|平仮名]]<br />[https://www.unicode.org/charts/PDF/U1B000.pdf U+1B001] - [[仮名補助]]<br />[https://www.unicode.org/charts/PDF/U1B130.pdf U+1B150-U+1B152] - [[小書き仮名拡張]] |image_size = 100px |iso15924 = Hira |fam3=[[草仮名]]}} {{仮名}} '''平仮名'''(ひらがな)は、[[音節文字]]の一つ。[[仮名 (文字)|かな]]の一種である。異体字は[[変体仮名]]と呼ばれる。 == 歴史 == === 平安時代~明治時代 === [[画像:Koyagire 1stVolume fragment.jpg|thumb|300px|left|[[高野切]]]] 平仮名のもとになったのは、[[奈良時代]]を中心に使われていた'''[[万葉仮名]]'''(まんようがな)である。 万葉仮名は楷書や行書のほか、草書で書かれることもあった。草書の万葉仮名を、平仮名の前段階として'''草仮名'''(そうがな)と呼ぶ。すでに[[8世紀]]末の[[正倉院文書]]には、字形や筆順の上で[[平安時代]]の平仮名と通じる草仮名が記されている。[[9世紀]]中頃の『[[藤原有年#藤原有年申文|藤原有年申文]]』(<!--[[藤原有年|有年]]は主に地方官。-->[[貞観 (日本)|貞観]]9年〈[[867年]]〉)や同時期の『智証大師病中言上艸書』などの文書類、京都市の[[藤原良相]]([[藤原冬嗣|冬嗣]]の五男で右大臣に上り詰めた公卿。813〜867)邸遺跡から見つかった土器群にも見られる<ref>{{Cite news|url= http://mainichi.jp/select/news/20121129k0000m040087000c.html |title= 平仮名:9世紀後半の土器から発見 最古のものか |newspaper= 毎日jp |publisher= 毎日新聞 |date= 2012-11-28 |accessdate= 2020-04-14 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20121201033436/http://mainichi.jp/select/news/20121129k0000m040087000c.html |archivedate= 2012-12-01 }}</ref>。また、[[宮城県]]の[[多賀城]]跡遺跡から発掘された土器や、[[富山県]][[射水市]]の赤田遺跡からも草仮名の書かれた墨書土器が発掘されているため、同時期に地方へ赴任した官人らによって、日本各地で普及し始めたと考えられる。 [[宇多天皇]][[宸翰]]の『周易抄』([[寛平]]9年〈[[897年]]〉)では、訓注に草仮名を、傍訓に[[片仮名]]をそれぞれ使い分けており、この頃から平仮名が独立した文字体系として次第に意識されつつあったことが窺える。その後、<!--「あ」は「安」、「い」は「以」に由来するように、-->草仮名の略化が進み、ついに漢字の[[草書体]]から形が逸脱した。こうして、文章を記す書記体系として確立したのが'''平仮名'''(ひらがな)である。 伝統的に[[平安時代]]初期の名僧で能筆家でもあった[[空海]]が作ったという俗説がある。空海が「[[いろは歌]]」及びいろは手本を作ったという俗説から発展して、空海が平仮名まで創作したということになったとみられる<ref>既に空海と同時代からこのような説明がなされていたことが江談鈔などに記されている。後代でも度々このように説明されている。[[14世紀]]後半に成立した『仮名文字遣』([[行阿]]著)には、「行阿思案するに、権者(空海)の製作として真名(漢字)の極草の字を伊呂波に縮なして…」とあり、すなわち[[いろは歌]]を作ったのが弘法大師空海であるという伝承から、いろは歌を記すために「真名の極草」から平仮名を作ったのも空海であるということである。これはのちの『仮字本末』([[伴信友]]著)にも、「空海僧都、その草体の仮名にもとづきて、さらに目安くなだらめ書きて、四十七音の字体を製り定めて…」とある。『国語学大系』第七巻・第九巻(厚生閣、1939年)所収『仮名文字遣』および『仮字本末』参照。</ref>。 平仮名は誕生した当初から、ひとつの[[音節]]に対して複数の字体 (異体字) があった。異体字は万葉仮名と比べると遥かに少ない。平仮名による表現が頂点に達した平安時代末期の時点で、異体字の総数が約300種、そのうち個人が使用したのはおよそ100から200種ほどとされる。 [[9世紀]]後半から歌文の表記などに用いられていた平仮名が公的な文書に現れるのは、[[醍醐天皇]]の時代の[[勅撰和歌集]]である『[[古今和歌集]]』([[延喜]]5年〈[[905年]]〉)が最初である。その序文は漢文である真名序と、仮名で書かれた仮名序のふたつがある。また[[承平 (日本)|承平]]5年([[935年]])頃に[[紀貫之]]が著した『[[土佐日記]]』については、後にその貫之自筆本の巻尾を[[藤原定家]]が臨書したものが伝わっており、当時すでに後世の平仮名とほぼ同じ字体が用いられていたことが確認できる。天暦5年([[951年]])の「醍醐寺五重塔天井板落書」になると、片仮名で記された和歌の一節を平仮名で書き換えており、この頃には平仮名は文字体系として完全に独立したものになっていたと考えられる。なお「平仮名」という言葉が登場するのは[[16世紀]]以降のことであり、これは片仮名と区別するために「普通の仮名」の意で呼ばれたものである。 [[山梨県]]のケカチ[[遺跡]]([[塩山市|甲州市塩山下於曽]])からは、全て平仮名で和歌を刻んだうえで焼成したとみられる10世紀半ばの[[皿]]状[[土器]]が2016年に出土しており、[[国司]]ら官人の赴任により地方にも次第に伝播したことがうかがえる<ref>[http://www.sankei.com/life/news/170827/lif1708270031-n1.html 平安和歌刻む土器出土 全国初 平仮名確立の時期裏付け/山梨・甲州ケカチ遺跡][[産経新聞]]ニュース2017年8月27日</ref>。 平仮名による最初期の文学作品である[[紀貫之]]の著『[[土佐日記]]』は、作者が女性に仮託して書かれているというのが通説である<ref>実際に冒頭の一節に「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」というくだりがある。ただし平成18年([[2006年]])に[[小松英雄]]が行った検証によると、この日記は女性に仮託したものではなく、冒頭の一節は「漢字ではなく、仮名文字で書いてみよう」という表明を、仮名の特性を活かした技法で巧みに表現したものであるという。</ref>。貴族社会における平仮名は私的な場かあるいは女性によって用いられるものとされ、[[女流文学]]が平仮名で書かれた以外にも、[[和歌]]や消息などには性別を問わず平仮名を用いていた。それにより'''女手'''(おんなで)とも呼ばれた。平安時代の貴族の女性は、[[大和言葉]]を用いた平仮名を使って多くの作品を残した。<!--しかし、その作者の本名は未だにほとんど分かっていない。-->平仮名で書かれたものは私的な性格が強い文書に使われ、地位が低く見られていたが、中国との公的交流の断絶が長くなるにつれて、勅撰の和歌集に用いられるまでに進出した。 === 異体字・変体仮名の抑圧 === {{seealso|変体仮名#歴史}} [[File:Distorted hentaigana.png|left|thumb|変体仮名は人々から忘れ去られ、形も崩れていった。]] [[明治]]33年([[1900年]])、「小学校令施行規則」の「第一号表」に48種の平仮名が示された。以後この字体だけが公教育において教授され、一般に普及した。これにより、数多くの[[変体仮名]]が用いられなくなった。 ただし変体仮名の判読可能な人々はその後も当然存在していることから、その後数十年ほどは変体仮名を使った書籍の出版も併存したと思われる。例えば[[昭和]]2年([[1927年]])発行の随筆叢書には、変体仮名を使った文も使っていない文も載っている<ref>たとえば『日本随筆大成』第2巻(吉川弘文館、1927年)など。</ref>。しかし第二次大戦後は、変体仮名を使った書籍は[[1900年代]]以前([[江戸時代]]を含む)の書籍の復刻版に限られている<ref>例えば『[[去来抄]]』中村俊定、山下登喜子 解説、笠間書房、1969年など。</ref>。 === 仮名遣いの改変 === 第二次世界大戦後、[[現代仮名遣い]]が制定された。これにより、特殊な場合を除いて「[[ゐ]]」と「[[ゑ]]」が用いられなくなった。 ==字体の由来== [[ファイル:Origin of Hiragana .png|none|400px|ひらがなの由来]] *「'''つ'''」は「{{Color|red|'''州'''}}」の変形とする説が有力である。 *「'''へ'''」は「{{Color|red|'''部'''}}」の異体字「{{Color|red|'''阝'''}}」の変形である。 ==一覧== {{seealso|変体仮名|合略仮名}} 現在、日本語で主に使われているものは以下の通りである。 {| class="wikitable" |- style="background-color: #becfeb; text-align: center; vertical-align: center;" ! style="background-color: #becfeb;" |[[わ行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[ら行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[や行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[ま行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[は行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[な行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[た行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[さ行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[か行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[あ行]]!!style="background-color: #ffffff;" | |-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;" ! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Wa.svg|20px|link=わ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Ra.svg|20px|link=ら]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Ya.svg|20px|link=や]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Ma.svg|20px|link=ま]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Ha.svg|20px|link=は]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Na.svg|20px|link=な]]!! 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style="background-color: #becfeb;" |[[う段]] |-style="background-color: #e9e9e9; text-align: center; vertical-align: top;" ! !! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Re.svg|20px|link=れ]]!! style="background-color: #e9e9e9;" | !! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Me.svg|20px|link=め]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter He.svg|20px|link=へ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Ne.svg|20px|link=ね]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Te.svg|20px|link=て]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Se.svg|20px|link=せ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Ke.svg|20px|link=け]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter E.svg|20px|link=え]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[え段]] |-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;" ! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Wo.svg|20px|link=を]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Ro.svg|20px|link=ろ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Yo.svg|20px|link=よ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Mo.svg|20px|link=も]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Ho.svg|20px|link=ほ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter No.svg|20px|link=の]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter To.svg|20px|link=と]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter So.svg|20px|link=そ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Ko.svg|20px|link=こ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter O.svg|20px|link=お]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[お段]] |} {| class="wikitable" |- style="background-color: #becfeb; text-align: center; vertical-align: top;" ! style="background-color: #becfeb;" |[[撥音]] |-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;" ! style="background-color: #e7f5de;" |[[ん]] |} {| class="wikitable" |- style="background-color: #becfeb; text-align: center; vertical-align: top;" ! style="background-color: #becfeb;" |[[拗音]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[促音]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[拗音]] |-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;" ! style="background-color: #e7f5de;" |[[ゃ]]!! style="background-color: #e9e9e9;" | !!style="background-color: #e7f5de;" |[[ぁ]] |-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;" ! style="background-color: #e9e9e9;" | !! style="background-color: #e9e9e9;" | !!style="background-color: #e7f5de;" |[[ぃ]] |-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;" ! style="background-color: #e7f5de;" |[[ゅ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[っ]]!!style="background-color: #e7f5de;" |[[ぅ]] |-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;" ! style="background-color: #e9e9e9;" | !! style="background-color: #e9e9e9;" | !!style="background-color: #e7f5de;" |[[ぇ]] |-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;" ! style="background-color: #e7f5de;" |[[ょ]]!! style="background-color: #e9e9e9;" | !!style="background-color: #e7f5de;" |[[ぉ]] |} {| class="wikitable" |- style="background-color: #becfeb; text-align: center; vertical-align: top;" ! style="background-color: #becfeb;" |[[半濁音]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[濁音]] |-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;" ! style="background-color: #e7f5de;" |[[゜]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[゛]] |} 1900年頃、日本語で主に使われていたものは以下の通りである。{{要説明範囲|<ref>「[東京築地活版製造所]活版見本」野村宗十郎 編、東京築地活版製造所、1903年</ref>|date=2022年3月}} {| class="wikitable" |- style="background-color: #becfeb; text-align: center; vertical-align: center;" ! style="background-color: #becfeb;" |[[わ行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[ら行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[や行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[ま行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[は行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[な行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[た行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[さ行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[か行]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[あ行]]!!style="background-color: #ffffff;" | |-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;" ! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana WA 01.svg|20px|link=わ]][[File:Hiragana letter Wa.svg|20px|link=わ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Ra.svg|20px|link=ら]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Ya.svg|20px|link=や]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Ma.svg|20px|link=ま]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana HA 01.svg|20px|link=は]][[File:Hiragana letter Ha.svg|20px|link=は]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana NA 01.svg|20px|link=な]][[File:Hiragana letter Na.svg|20px|link=な]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana TA 01.svg|20px|link=た]][[File:Hiragana letter Ta.svg|20px|link=た]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Sa.svg|20px|link=さ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana KA 01.svg|20px|link=か]][[File:Hiragana letter Ka.svg|20px|link=か]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter A.svg|20px|link=あ]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[あ段]] |-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;" ! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Wi.svg|20px|link=ゐ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Ri.svg|20px|link=り]]!! style="background-color: #e9e9e9;" | !! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Mi.svg|20px|link=み]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Hi.svg|20px|link=ひ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Ni.svg|20px|link=に]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Ti.svg|20px|link=ち]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana SI 01.svg|20px|link=し]][[File:Hiragana letter Si.svg|20px|link=し]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana KI 01.svg|20px|link=き]][[File:Hiragana letter Ki.svg|20px|link=き]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana I 01.svg|20px|link=い]][[File:Hiragana letter I.svg|20px|link=い]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[い段]] |-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;" ! style="background-color: #e9e9e9;" | !! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Ru.svg|20px|link=る]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana YU 01.svg|20px|link=ゆ]][[File:Hiragana letter Yu.svg|20px|link=ゆ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Mu.svg|20px|link=む]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Hu.svg|20px|link=ふ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Nu.svg|20px|link=ぬ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Tu.svg|20px|link=つ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana SU 01.svg|20px|link=す]][[File:Hiragana letter Su.svg|20px|link=す]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Ku.svg|20px|link=く]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter U.svg|20px|link=う]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[う段]] |-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;" ! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter We.svg|20px|link=ゑ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana RE 01.svg|20px|link=れ]][[File:Hiragana letter Re.svg|20px|link=れ]]!! style="background-color: #e9e9e9;" | !! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Me.svg|20px|link=め]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter He.svg|20px|link=へ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Ne.svg|20px|link=ね]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Te.svg|20px|link=て]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Se.svg|20px|link=せ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Ke.svg|20px|link=け]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana E 01.svg|20px|link=え]][[File:Hiragana letter E.svg|20px|link=え]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[え段]] |-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;" ! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Wo.svg|20px|link=を]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana RO 01.svg|20px|link=ろ]][[File:Hiragana letter Ro.svg|20px|link=ろ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Yo.svg|20px|link=よ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Mo.svg|20px|link=も]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter Ho.svg|20px|link=ほ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana NO 01.svg|20px|link=の]][[File:Hiragana letter No.svg|20px|link=の]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter To.svg|20px|link=と]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter So.svg|20px|link=そ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana KO 01.svg|20px|link=こ]][[File:Hiragana letter Ko.svg|20px|link=こ]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana O 01.svg|20px|link=お]][[File:Hiragana letter O.svg|20px|link=お]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[お段]] |} {| class="wikitable" |- style="background-color: #becfeb; text-align: center; vertical-align: top;" ! style="background-color: #becfeb;" |[[より (仮名)|より]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[まいらせ候 (仮名)|まいらせ候]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[なり (仮名)|なり]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[さま (仮名)|さま]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[こと (仮名)|こと]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[かしこ (仮名)|かしこ]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[撥音]] |-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;" ! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana digraph Yori.svg|20px|link=より (仮名)]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana mairasesoro 2.svg|20px|link=まいらせ候 (仮名)]][[File:Hiragana mairasesoro 1.svg|20px|link=まいらせ候 (仮名)]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana nari.svg|20px|link=なり (仮名)]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana sama 2.svg|20px|link=さま (仮名)]][[File:Hiragana sama 1.svg|20px|link=さま (仮名)]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana koto.svg|20px|link=こと (仮名)]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana kashiko.svg|20px|link=かしこ (仮名)]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[File:Hiragana letter N.svg|20px|link=ん]] |} {| class="wikitable" |- style="background-color: #becfeb; text-align: center; vertical-align: center;" ! style="background-color: #becfeb;" |[[半濁音]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[濁音]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[長音]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[踊り字|畳音]]!! style="background-color: #becfeb;" |[[踊り字|畳音]] |-style="background-color: #e7f5de; text-align: center; vertical-align: top;" ! style="background-color: #e7f5de;" |[[゜]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[゛]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[ー]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[〱]]!! style="background-color: #e7f5de;" |[[ゝ]] |} == 筆順 == 以下の画像に、平仮名の筆順(書き順)と発音を示す。 [[File:Table hiragana.svg|center]] {{youtube|hSQi34uKMmY|"平仮名の書き順"}} == 使い道 == 現在の[[日本語]]で最も基本的な文字であり、主に次のような場面で用いられる。 * 文章の表記に用いる場合 ** [[仮名交じり文]] ** 漢字表記が無い[[大和言葉|和語]]を表す場合 ** 漢字表記がある単語でも、漢字が[[常用漢字]]に含まれていないなど、読み書きしづらい場合 * 音を示すことを目的とする場合 ** [[漢字]]の訓{{main|[[訓読み]]|[[振り仮名]]|[[ルビ]]}} ** 日本語の初学者を対象とする、他の文字の代替 * [[書道]]の一分野である[[かな (書道)|かな]]に用いる場合 * [[人名]]につけられることがある 現在の[[日本]]の[[学校教育]]では文字の中では「平仮名」が最初に教えられる。 現代では、平仮名を敢えて使用する理由の一つとして「柔らかで親しみやすいイメージ」が考えられるといわれる<ref>{{Cite news|url= https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201510/0008518756.shtml |title= 駅名、ひらがなブームから漢字に回帰 JR西 |newspaper= 神戸新聞NEXT |date= 2015-10-28 |accessdate= 2020-04-14 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20151028093252/https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201510/0008518756.shtml |archivedate= 2015-10-28 }}</ref>。カタカナ([[ヘ]]/[[へ]]、[[リ]]/[[り]]は形状が近いが)や漢字の多くと比較して、平仮名の特徴には「丸み・流れるような」などが挙げられる<ref>[http://weblog.city.hamamatsu-szo.ed.jp/yuto-e/index.php?m=201501 浜松市立雄踏小学校]</ref>。[[ひらがな・カタカナ地名]]のような使用例もある。 選挙法では候補者の通称使用が認められていることもあり、平仮名を用いる候補者も度々見られる<ref>{{Cite news|url= http://n-knuckles.com/case/politics/news000110.html |title= 【数字で検証】それほど有効なのか?「ともあき、のぶあき...」保守系政党ほど平仮名での立候補にこだわる謎 |author= [[藤木TDC]] |newspaper= 日刊ナックルズ |date= 2013-07-30 |accessdate= 2020-04-14 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20130806050027/http://n-knuckles.com/case/politics/news000110.html |archivedate= 2013-08-06 }}</ref>。これを俗に「名前をひらく」などという人もいる。 [[画像:New daichi gaisensha.jpg|thumb|200px|[[街宣車|選挙カー]]での例。より投票者に名前を覚えてもらいやすくするため、名字や名前を漢字から平仮名に書き換えることが多い。]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 参考文献 == * 江守賢治 『字と書の歴史』 日本習字普及協会、1967年(ISBN 481950004X) * [[小松茂美]] 『かな その成立と変遷』 岩波新書、1968年(ISBN 4004120977) == 関連項目 == {{Wiktionary}} {{Commons&cat|Hiragana}} * [[仮名 (文字)|仮名]] * [[借字]](万葉仮名) * [[変体仮名]] * [[合略仮名]] * [[片仮名|片仮名(カタカナ)]] * [[捨て仮名]] - 「ぁぃぅぇぉゃゅょ ァィゥェォャュョヵヶ」といった小字で表される仮名。 * [[いろは歌]] * [[ひらがな・カタカナ地名]] <!--* [[国語国字問題]] * [[ローマ字]] * [[五十音]] * [[中古日本語]]--> * [[平仮名 (Unicodeのブロック)]] * [[日向坂46]]([[けやき坂46]]時代にひらがなけやきと呼ばれていた。) == 外部リンク == * [http://daijirin.dual-d.net/extra/hiragana.html 大辞林 特別ページ 日本語の世界3 平仮名] 2012年12月20日閲覧。 * {{Kotobank}} {{日本語}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひらかな}} [[Category:仮名|*ひらかな]] [[sv:Kana (skriftsystem)#Hiragana]]
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チリ
チリ共和国(チリきょうわこく、スペイン語: República de Chile)、通称チリは、南アメリカ大陸南西部に位置する共和制国家。国土はアンデス山脈西側で南北に細長く、東にアルゼンチン、北東にボリビア、北にペルーと隣接する。西は南太平洋、南はフエゴ島を挟んでドレーク海峡に面している。首都はサンティアゴ。アルゼンチンとともに南アメリカ最南端に位置し、国土の大部分がコーノ・スールの域内に収まる。太平洋上に浮かぶフアン・フェルナンデス諸島や、サン・フェリクス島、サン・アンブロシオ島およびポリネシアのサラ・イ・ゴメス島、パスクア島(イースター島)などの離島も領有しており、さらにアルゼンチンやイギリスなどと同様に「チリ領南極」として125万平方キロメートルにも及ぶ南極の領有権を主張している(「南極における領有権主張の一覧」参照)。OECD諸国の中で貧困率と経済格差は最も大きい。 正式名称はRepública de Chile(レプブリカ・デ・チレ)。通称 Chile(チーレ [ˈt͡siːle]],或いはシーレ[ʃiːle])。公式の英語表記はRepublic of Chile。通称 Chile(チリ /ˈʧɪl(i)/。 日本語の表記はチリ共和国。通称チリ。かつては「チリー」と表記されていたこともあった。漢字表記は智利。日本語での初出は、西川如見『増補華夷通商考』(1708年、宝永5年)に「チイカ」として紹介されるものとされる。その後の江戸時代の文献では、谷川士清『倭訓栞』、斎藤彦麻呂『傍廂』が、それぞれ「智加」という漢字表記を用いている。 国名の由来は諸説ある。植民地時代初期は「Chili」と表記されていたが、17世紀のスペイン人史家ディエゴ・デ・ロサーレス(英語版)によると、インカ人によるアコンカグアにある渓谷の呼称で、元は15世紀にインカ帝国に征服される前、同地を支配していた先住民ピクンチェ族(スペイン語版、英語版)の族長、「ティリ(Tili)」から転じたものとされている。このほか、先住民の言葉で「地の果て」「カモメ」、ケチュア語で「寒い」を意味する「Chiri」、「雪」もしくは「地上最深の場所」を意味する「Tchili」、マプチェ族の言葉で同地に生息する鳥の鳴き声を表す擬音語「cheele-cheele」に由来するなどの説がある。 チリは1818年にスペインより独立した。1990年のピノチェト軍事独裁政権崩壊後は、ラテンアメリカでは最も経済・生活水準が安定し、政治や労働でも最高度の自由を保っているとされてきたが、21世紀以降は国民の所得格差・不平等、教育への公的予算は中南米でも下位となるなどの諸問題も抱えている。 政治制度は大統領を元首とする共和制国家であり、三権分立を旨とする議会制民主主義を採用している。行政は大統領を長とする。大統領は4年任期で選挙により選ばれ、2期連続で就任することはできない。内閣の閣僚は大統領が任命する。2006年1月15日に社会党のミシェル・バチェレが大統領に就任した。これはチリ史上初の女性大統領である。2008年現在のチリ憲法は、アウグスト・ピノチェトを最高権力者とする軍政下に制定された1980年憲法である。特徴としては、大統領の権力が強められ、また国政への軍の最高司令官の参加が制度化された。しかし、1988年のピノチェト大統領の信任を問う国民投票に敗北したあと、憲法に対して大統領の権力を弱め、軍部の発言力を抑えるような修正がなされた。憲法の民主的な改正に関する議論は継続され、2005年に再改正された。2022年には制憲議会より大きな政府を志向する左派主導の新憲法案が提示されたが、急進的な内容が災いし9月4日の国民投票では賛成が38%にとどまり否決された。仕切り直しとなった2023年5月7日の制憲議会選挙では現行憲法に肯定的な右派勢力が草案承認に必要な3分の2を確保する結果となっている。 立法は、両院制であり、議会はバルパライソに所在する。上院は43議席であり、一般投票により選出され、任期は8年。2005年までそのほかに国家安全保障委員会や司法機関、共和国大統領、前大統領などが11名を任命する制度があったが、憲法改正によりこの11議席は廃止された。下院は120議席であり、任期は4年。法案が採択されるには、両院および拒否権を持つ共和国大統領の承認を得なければならない。また両者ともに法案を提議することができるが、これを施行する権限は大統領にしかない点が問題とされている。 司法の最高機関は最高裁判所である。憲法に関する判断は憲法裁判所が行い、憲法に反すると考えられた法律を差し止めることができる。 チリにも公権力の腐敗・汚職がないわけではないが、それは恒常的なものではなく、世界の「透明度」の高い国の上位30か国以内に過去10年間連続してランクづけされており、2017年度のトランスペアレンシー・インターナショナル(TI)による世界腐敗認識指数では26位とウルグアイに次いでラテンアメリカで2番目であった。ラテンアメリカ諸国の中では腐敗しておらず、比較的しっかりした法治国家だと認識されている。 ピノチェト軍事独裁から民政移管した1990年以降の中道左派と中道右派の政権交代の下で、医療・教育・福祉予算を抑える新自由主義路線が維持されてきた。 独立直後からチリは隣国のペルー、ボリビアに干渉を行ってきた。1836年から1839年までの連合戦争ではペルー・ボリビア連合に終始敵対し、これを崩壊させるのに大きな役割を果たした。その後、1879年にアタカマの硝石資源を巡ってペルー、ボリビア両国に宣戦布告し、この太平洋戦争によって両国から領土を得た。その影響でボリビアは現在でも国交がない。 19世紀を通してチリは経済的にはイギリスと、文化的にはフランスと関係が深かった。この時期にチリ海軍はイギリスの、法や教育はフランスの、陸軍はプロイセンの影響を強く受けた。 1973年のクーデターにより、チリは軍事政権による人権侵害などのために国際的孤立に陥ったが、民政移管した1990年以来、チリは国際的孤立から復活した。2010年、チリはOECDの31番目の公式加盟国になった。 軍政期の1983年に長年緊張関係が続いており、何度も戦争直前にまで陥った隣国アルゼンチンがラウル・アルフォンシン政権の下でチリとの歴史的な和解を進めてピクトン島、レノックス島、ヌエバ島のチリ領有を認めると、パタゴニアをめぐってのチリの領土問題は解決した。また、太平洋戦争以来続いたペルーとの緊張も収まりつつある。しかし、太平洋戦争で併合したアントファガスタを返還するように求めるボリビアとの緊張はいまだに続いている。 なお、チリはイギリス、アルゼンチンと同様に南極大陸の一部に対して領有権(チリ領南極)を主張している。 2009年3月27、28日の両日、中部の都市ビニャデルマルで欧米(スペイン、イギリス、ノルウェーの首相、アメリカの副大統領)と南米(ブラジル、チリ、アルゼンチン、ウルグアイの大統領)の8か国による首脳会議が開かれた。首脳らは同会議を「進歩派首脳会議」と呼んでいる。会議は、4月20日にロンドンで開かれる第2回20か国・地域首脳会合(G20金融サミット)に向けた意見調整を目的に行われた。各首脳は新たな世界秩序の形成に向けた展望を論議した。同会議は最終宣言を発表した。 1897年に日本チリ修好通商条約が締結され、同年9月25日に外交関係を樹立。太平洋戦争末期の1945年4月11日にチリが対日宣戦布告し断交するものの、サンフランシスコ講和条約締結後の1952年10月17日に外交関係を再開した。 日本とチリは日本・チリ経済連携協定(2007年9月3日発効)を締結している。また、ともに環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(CPTPP, TPP11協定)の署名国である。ただし、チリは国内手続が遅れ、2022年12月23日に国内手続きの完了を通報したため、CPTPPはチリについては2023年2月21日に発効する。 チリの大統領は軍隊の指揮権を有し、軍は国防相と大統領の統制を受けている。また、チリでは徴兵制が実施され、国民は2年間の兵役の義務を有している。陸海空三軍のほかに憲兵(カラビネーロス)が存在し、規模は4万人ほどである。また、チリはブラジルに続いて南アメリカで2番目に大きな軍事予算を組んでいる。 伝統的にチリの軍隊は、「軍は憲法の番人である」として、他のラテンアメリカ諸国より政治に介入する頻度は比較的大きくなかったが、アジェンデがスト解決のために軍人を利用し始めたことから崩れ始め、1973年のピノチェト将軍らによるチリ・クーデターにより崩された。その後、軍政期に軍はコンドル作戦や「汚い戦争」などを遂行し、自国民や近隣諸国の反体制派市民の拷問、殺害に携わったが、1990年の民政移管後は、それなりの規模と発言力を保ちながら国民との和解が進められた。 チリ陸軍は兵員4万5,000人を有し、サンティアゴに司令部がある。6つの軍管区に分けられ、ランカグアに飛行旅団が、コリナに特殊部隊の司令部がある。チリ陸軍はラテンアメリカでも最も整備され、専門的かつ技術革新の進んだ軍隊の一つである。 チリ海軍は海兵隊2,300人を含む兵員2万3,000人を有している。29隻の艦艇を有するが、水上戦闘艦艇は内8隻のフリゲートのみである。水上艦隊の母港はバルパライソにある。海軍は輸送と警戒にあたる航空機を保有しているが、戦闘機や爆撃機は有していない。4隻の潜水艦を運用し、潜水艦の基地はタルカワノにある。 チリ空軍は兵員1万2,500人を有し、それぞれイキケ、アントファガスタ、サンティアゴ、プエルト・モント、プンタ・アレーナスに5つの飛行旅団を置いている。空軍は南極のキング・ジョージ島の基地でも活動している。2006年にF-16が14機、2007年にも14機導入された。なお空軍は、軍政期は警察とともに反軍政派だった。 1973年9月の軍事クーデターに参加後、チリ国家警察(カラビネーロス・デ・チレ)は国防省と一体化した。民政移管後に、警察の実質的な指揮権は内務省の下に置かれたが、国防省の名目的指揮下に置かれたままとなった。40,964人の男女が法の執行、交通整理、麻薬鎮圧、国境の管理、対テロ作戦などの任務にチリ国内で従事する。 チリは、州監督官(Intendente)を長とする16の州(Region)に分けられる。州はさらにいくつかの県(Provincia)に分割され、それぞれに県知事(Gobernador provincial)が置かれる。県はさらに市町村(Comunas)に分けられ、市(町、村)長がいる。監督官と知事は大統領により任命され、市(町、村)長は一般投票により選ばれる。 1974年に各州には北から南へ順にローマ数字が割り当てられた。しかし首都州は例外的に頭文字のRMとされたこと、またその後に新設された州には位置に関係なく割り振られたことから、当初の意義を失い2018年2月に廃止された。 主要な都市はサンティアゴ(首都)、バルパライソがある。 西部の太平洋との海岸線、東部のアンデス山脈、北部のアタカマ砂漠によって囲まれた国土は南北に細長く、北から南までの総延長は約4,300キロメートルに及ぶ。海岸線に沿ったペルー・チリ海溝では過去にしばしば超巨大地震(チリ地震)が発生して、太平洋対岸にあたる日本の三陸海岸などの環太平洋全域に津波で大きな被害が起きてきた歴史がある(→チリ地震 (1960年))。また、ペルー・チリ海溝に沿う形でプジェウエ=コルドン・カウジェ火山群などの活発な活火山を多数擁している。 北部の砂漠地帯(Norte Grande)では年間を通してほとんど雨が降らない。銅など鉱物資源に富む。ラ・セレナの南から地中海性気候の渓谷地域(Norte Chico)となり、チリの主要輸出品目の一つであるブドウなどの果物の栽培や、最近輸出量が増えてきたワインの生産に適している。19世紀後半から発展した歴史を有するこの国の主要地域であり、人口と農産物が集中する。Zona Central。バルディビアからプエルト・モントまでの南部地域(Zona Sur)は森林地帯の続く牧畜に適した湖水地方であり、火山地域である。年間を通して雨が多い。南緯40度以南(Zona Austral)にはパタゴニアと呼ばれ、沿海部は典型的なフィヨルド地形が形成されている。マゼラン海峡を越えて南にはフエゴ島が存在し、島の西半分がチリ領となっている。南極大陸の125万平方キロメートルの領有権を主張するが(チリ領南極)、南極条約で棚上げとなっている。チリはポリネシアにも領土を有し、サラ・イ・ゴメス島、ロビンソン・クルーソー島とチリ本土から西に3,700キロメートルほど離れてラパ・ヌイ(イースター島)が存在する。最高地点はアンデス山脈のオホス・デル・サラード山の海抜6,893メートル。チリの対蹠地は北・中部が中華人民共和国、南部はモンゴル国、最南部はロシアのシベリアである。 気候は幅広く、太平洋上に浮かぶラパ・ヌイ島(パスクア島、イースター島)の亜熱帯から、国土の北3分の1を占め、世界で最も乾燥した砂漠とされるアタカマ砂漠、中央部の肥沃な渓谷地域、そして元々は森林に覆われていた湿度は高いが寒い南部、ツンドラ気候が広がる最南部のパタゴニア地方に大きく分けられる。 チリは南北に大変長細い国であるため、北の方から順に砂漠気候、ステップ気候、地中海性気候、西岸海洋性気候、ツンドラ気候と気候が違っている(南半球であるため亜寒帯は存在しない)。寒流であるペルー海流の影響により、北部でもあまり気温は上がらない。また寒流は西岸砂漠の成因であり、アタカマ砂漠は世界で降水量が最も少ない地域となっている。 チリ本土ではUTC-4(マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ州はUTC-3)だが、パスクア島ではUTC-6となっている。また、マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ州を除いて夏時間を実施している。 チリは中南米の国の中では治安が良い国とされてきたが、2013年以降は悪化傾向にあり、貧富の格差の拡大も相まって地方にも犯罪が波及しつつある。そのため防犯意識を持って行動する必要があるとされる。 2021年のチリの名目GDPは、世界44位であり、3,167.70億USドルである。チリのGDPは、2000年代から大幅に成長しており、4倍以上の著しい伸び率が見られる。2022年9月時点では、経済活動指数の変動も少なく、国民の生活は比較的安定している。しかし、失業率は7.9%と未だに高い水準であり、日本の3倍以上にもなる。 アジア太平洋経済協力(APEC)に加盟しており、メルコスール準加盟国であるゆえに南米共同体にも加盟している。また、ブラジルやアルゼンチンなどともにラテンアメリカで最も工業化された国の一つであり、域内ではベネズエラ、アルゼンチン、ブラジル、メキシコとともに中進国とされ、2007年からOECD加盟に向けて交渉を進め、2010年5月7日に加盟を果たした。 経済はほとんど輸出により成り立っている。輸出品目の第2位は農業関連製品で、第1位は以前より世界一の生産量を誇る銅である。1970年代初頭は輸出品の70%を銅が占めていたが、現在は40%とその重要度は低下している。最近では、各地で産出される良質なワイン、サーモン、木材パルプの輸出が始められた。 チリ北部の主要産業は鉱業であるが、南部には大規模な農業、酪農がある。バルパライソといった主要港のある中央部にはサービス業と工業が集中している。チリのサービス業部門は大きく、世界で最も自由化され先端をいく通信インフラが整っている。1990年代のにわか景気では、毎年7 - 12%の経済成長を記録したが、1997年のアジア通貨危機以降は、年3%にまで落ち着いた。 近年、欧州連合(EU)、アメリカ合衆国、カナダ、メキシコ、韓国などと自由貿易協定を結んでいる。日本のほかカナダ、メキシコやニュージーランド、オーストラリア、シンガポールなど一部の東南アジア諸国とはともにTPP11署名国である。 農業では、果樹類の生産が特筆される。16世紀からポトシ市場向けにワインの原材料としてぶどうが広く生産されている。1970年代には過剰生産とワインの品質低下がたたって、一時生産量が低迷したが、ワインの品質改良などの地道な努力が功を奏し、1990年代以降は再び生産量を増やしている。日本のワイン輸入量の国別シェアで、フランスなど南欧諸国を上回り首位となっている(2018年)。 農業従事者は、2005年にはチリの労働者の13.2%を占めている。 チリの主な農産物は、穀物であるオート麦、トウモロコシ、小麦、果物 - 桃、リンゴ、ナシやブドウと野菜ニンニク、タマネギ、アスパラガスと豆などである。果物や野菜の輸出は、アジアと欧州市場である。 林業については、国土の2割が森林となっており木材生産が盛んに行われてきたが、1980年代以降、アメリカ合衆国や日本の業者が進出し、パルプ用の木材チップの生産を飛躍的に高めた。南部のパタゴニア地方を中心とした原生林での生産が有望視されているが、無秩序に近い環境破壊を訴える自然保護団体も存在し、先住民マプーチェ人をはじめとする現地の住民も無軌道な乱伐に反対している。 近年では、チリはノルウェーとともにサケの世界有数の輸出国となっている。 漁業については、東太平洋がアンチョビなどの好漁場であり、古くから活発に漁業が営まれてきた。気候や地形の類似点から、北半球のサケ類の移植が進められたが、自然放流により再生産を図る計画は失敗。しかし、代わりに始まったサケ類の養殖事業は大成功を収め、2005年には世界のサケ類の養殖生産高の3分の1、約60万トンを誇る規模(世界第2位)となっている。 鉱業については、地下資源、特に金属鉱物資源に恵まれている。2003年時点で、銅の採掘量は世界一であり、490万トンに達する。これは世界シェアの36.0%に相当する。銀は1,250トンであり、世界第6位、シェア6.7%である。金の世界シェアも1.5%である。このほか、亜鉛、鉄、鉛を産出する。 金属以外の無機鉱物資源では、ヨウ素、硫黄、塩、カリ塩、リン鉱石が有望であり、リン鉱石以外は世界シェア1%を上回る。有機鉱物資源も見られるが、規模は小さい。たとえば、石炭の産出量は43万トンに留まる。19世紀に火薬の原料として世界最大の産出量があったアタカマ砂漠のチリ硝石は20世紀に入ると化学製品に押され役目が終わった。 チリのアントファガスタ州タフレタルでアメリカ大陸最古の酸化鉄採掘が始まった。北部鉱山チャニャルシヨでは銀・硝石と連続する石炭採掘がチリ経済を主要な役割へと導いた。 鉱業は、国内15地域のうち13地域で存在し、25種類の製品を産する。特にタラパカ、アントファガスタ、アタカマ地域の主要な経済活動であり、コキンボ、バルパライソ、オヒギンス地域でも非常に重要である。マガヤネス地域では石油生産が重要である。 主な製品は銅で、世界の36%を供給する世界最大の生産国であり、世界の銅埋蔵量の28%を占めている。チリの輸出の30%を占める銅鉱山アカウントは1970年には60%以上をカバーしていた。世界最大の銅会社、国営コデルコは、チュキカマタ、エルテニエンテで世界最大の露天掘りおよび地下の主要鉱床で操業している。 鉄、モリブデン、硝石、銀 - 金のような他の資源開発も重要である。2012年に、鉱物の世界生産の37%がこの国に集中しており、さらにリチウムの世界埋蔵量の21.9%が存在する。ラピスラズリは、チリ北部コムバルバラ地域に原石が豊富に存在すると1984年に宣言された貴重な装飾用の石である。 近年、観光業も成長を続けている。南部の森林地帯の荒々しい美しさ、北部のアタカマ砂漠の広漠とした風景、5月から9月にかけてのアンデス山脈のスキーシーズンが観光客を惹きつけている。また、パタゴニアや、モアイなどの独自の観光資源を持つラパ・ヌイ島(イースター島)も観光地としての人気がある。その他にはビーニャ・デル・マルなどのビーチ・リゾートも存在するが、寒流であるペルー海流(フンボルト海流)の影響のため、チリの海は海水浴には適していない。 観光は、2005年にこの部門は国のGDPの1.33%に相当し、15億ドル以上を生成して13.6%増加した1990年代半ば以降、チリの主要な経済資源の一つとなっている。海外での観光振興では、チリは2012年に合計600万ドルの資金を投資した。 観光客が本土への全ての訪問の1.8%に達したとき、世界観光機関(WTO)によると、チリのラテン語圏の外国人観光客のための政策は2010年に始まったという。その年、国は1,636万ドルの売上高を挙げ、観光客は276万人に達した。これらの訪問者のほとんどは、アルゼンチンや大陸の国から来た人々であった。しかし近年の最大の成長は、主にドイツなどのヨーロッパからの訪問者に対応したことである。2011年第1四半期中に、その年の終わりまでに合計306万人となった前年同期比9.2%の増加を表す104万人以上の観光客が来訪した。一方では、合計372万人のチリ人が、2011年に他の国を訪問した。 チリは、COVID-19流行前の2019年、GEM(Global Entrepreneurship Monitor)の研究における総合起業活動指数®(TEA)が世界1位である。チリ政府は、2010年よりStart-Up Chileを設立し、2021年には、資金提供や資金調達プラットフォームを設立し、スタートアップを試みる企業への支援を行っている。しかし、事業の休業や廃業も多くみられる。革新的な世界のスタートアップ100社が選出された「テクノロジー・パイオニア・コミュニティ2022」では、チリ発のスタートアップとして、ホームとグロバル66の2社が選出された。チリからは継続的に選出されており、今後の成長が期待される。 チリでは、再生可能資源があまり多くないため化石燃料に依存しており、その価格と国際情勢に大きく左右される。2010年には、消費量の30%に相当する日量10640バレルの石油を南部で生産し、残りは輸入された。 また、国内で消費される天然ガスの約53%が輸入されている。推計によると、2009年の消費量、28.4億立方メートルの47.53パーセントに相当する13.5億立方メートルが輸入された。 2000年代のを通して、アルゼンチンはパイプラインを介して主要な輸入元であったが、2009年にキンテロ港に液化天然ガス(LNG)ターミナルが開設され、輸入元を世界中に多様化している。 チリでは、ノルテグランデ、電力中央相互接続システム、電力システム、アイセン電力システム、マガジャネスの相互接続システムの4つの電力システムがある。2008年には電力生産は、主に火力発電により、次に水力発電によって生成され、6万280ギガワット時であったと推定される。また、818ギガワット時は、アルゼンチン北部から電気を輸入する計画があったが、実際に輸入されたのは2009年であった。水力発電の発電量が少ないのは、ダムの建設による環境や生態系の破壊を防止するために、政府は水力埋蔵量の20%未満に抑えている。 チリの最初の水力発電は、トーマス・エジソンによって設計され、1896年にロタに建てられた南米で2番目の水力発電所であるチビリンゴ水力発電所である。 現時点では原子力発電所はないものの、2006年には原子力エネルギーの安全な使用の技術的実現可能性についての議論が始まった。再生可能な資源の候補としては、風力発電、地熱、潮力、太陽光、太陽熱などがある。 チリは、本島と南極基地を含め、国土の多くをカバーする通信システムを持っている。1968年にはエンテルチリ社が所有する、ラテンアメリカで最初の南極衛星通信地球局が稼働した。 2012年には327.6万の固定電話回線と2,413万の携帯電話加入者がいる。チリは2009年、携帯電話100%普及率を達成した第三のラテンアメリカの国となった。また、ネットブック、スマートフォン、タブレット-含む人あたりのモバイルブロードバンドサービスの消費量は、OECD平均に等しかった。この現象は、他の要因の中で自由な競争、MVNOの市場参入や番号ポータビリティを保護するための政策が愛用した。 2010年の人間開発指数によれば、チリは100人あたり32.5のインターネットユーザーがいる。 1987年に国別トップレベルドメイン「.cl」が登録され、1993年に最初のラテンアメリカのWebサーバがチリに設置された。 世界は2011年にソーシャルネットワークに多くの時間を捧げた。2013年には総人口の66.5%のインターネット普及率であり、ブロードバンド普及率は、ラテンアメリカ中で最高であった。 2014年に国内でのインターネットとの統合は、ラテンアメリカでもっとも大きかった。 フラッグ・キャリアである、LATAM チリが、イースター島を含むチリ国内のみならず、ヨーロッパやオセアニア、北アメリカなど世界各国への路線網を築いている。ハブ空港はアルトゥーロ・メリノ・ベニテス国際空港で、多くの外国航空会社も乗り入れている。 細長い国土を縦に貫く「チリ縦貫鉄道」と、そこから分かれてアンデス山脈や太平洋側の町を結ぶ「支線」が国内の鉄道を構成している。詳細はチリの鉄道を参照。 チリ国鉄が後述の近郊電車のほか、サンティアゴと中部のタルカ・チリャンの間に中距離電車を、コンセプシオンやテムコの間に季節運行の夜行列車を走らせている。南部のプエルトモントを発着する夜行列車は「車両の老朽化」を理由として、2003年に運行が休止された。 サンティアゴ大都市圏にはメトロトレン(スペイン語版)と呼ばれる近郊電車が運行されているほか、サンティアゴの都心にはフランスの協力で建設された5路線の地下鉄(メトロ=Metro)があり、さらに数年以内には2路線の開通が予定されている。渋滞の影響を受けない交通機関として信頼されている。 また、バルパライソと郊外のビニャ・デル・マールの間にはMervalと呼ばれる近郊電車が、コンセプシオンとその近郊の間にはビオトレン(スペイン語版)と呼ばれる近郊電車が運行されている。 鉄道による貨物輸送も盛んであり、特に鉱石や木材、水産物などの運搬に重宝されている。 サンティアゴ近郊には高速道路網があるほか、パンアメリカンハイウェイが国内を通っており、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスや、ペルーの首都リマとの間を結んでいる。 独立直後の1830年にようやく100万人を越えたチリの人口は、1960年のセンサスでは737万4,115人、1970年のセンサスでは888万4,768人、1983年年央推計では約1,168万人となった。 チリの人口は約1,750万人ほどであり、1990年代から出生率の低下とともに人口増加率は低くなっている。2050年までには人口2,020万人に達すると見積もられている。国民の85%が都市部に居住し、そのうち40%が大サンティアゴ都市圏に居住している。 チリの国民は約95%がヨーロッパ系の白人もしくはメスティーソであり、人口の52.7%が純粋な白人であり、44.1%がメスティーソとなっている。 そのほか、インディヘナとしては、パスクア島(イースター島)にはポリネシア系の、北部のアンデス山岳地帯にはケチュア人やアイマラ人など、南部ビオビオ川以南の森林地帯にはマプーチェ人が、その他にはピクンチェ人、ウイリンチェ人、アタカメーニョ人、ディアグイタ人、ペウエンチェ人などが、クリストファー・コロンブスの到来以前より居住しており、こうしたインディヘナを合わせると全人口の5%ほどになる。また、きわめて少数であるが、植民地時代に連れて来られた黒人奴隷の子孫としてアフリカ系チリ人が存在するが、チリの黒人は人口の1%に満たない。 ヨーロッパからの移住は19世紀に加速した。特に南部のマプーチェ人の土地がアラウカニア制圧作戦により国家に併合されると、隣国のアルゼンチンやブラジルほどの規模ではないが、スペインやバスク地方(バスク系チリ人)、クロアチア、イタリア、ドイツ、フランス、パレスチナ(パレスチナ系チリ人)などから移民が導入され、東ヨーロッパとアイルランド(アイルランド系チリ人)からも少数が移住した。日本からの集団移民は行われておらず、移住したペルーやボリビアなどから再移住した日系チリ人がごく少数存在するのみである。 チリの公用語はスペイン語(チリ・スペイン語とチロエ・スペイン語)であり、日常生活でも広く使われている。そのほかにはインディヘナによってマプーチェ語や、ケチュア語、アイマラ語、ラパ・ヌイ語、ウイリンチェ語などが話されており、植民地時代にマプーチェ人はアラウカナイゼーションを進めたため、マプーチェ語はチリ最大の非公用語言語となっている。また、移民のコミュニティ内でドイツ語やイタリア語やクロアチア語が話されることもある。 チリは伝統的にローマ・カトリックの国だったが、2002年のセンサスによればカトリックは国民の70%ほどとなっており、福音派、またはプロテスタントが15%、エホバの証人が1%、末日聖徒イエス・キリスト教会が0.9%、ユダヤ教が0.1%、その他が4.4%、無宗教が8.3%、ムスリムと正教はそれぞれ0.1%以下である。 コピアポ鉱山落盤事故では閉じ込められた作業員が、聖書と十字架像を所望したり、聖書をもとに作られた映画が地上から提供されるなど、国民の間ではキリスト教が深く根付いていることが伺える。 通常、婚姻によって改姓することはない(夫婦別姓)。社交上「de+夫の姓」を追加した複合姓を用いることもあるが、一般的ではなくなりつつある。 平均寿命は78.8歳と先進国並み。ユニバーサルヘルスケアが達成され、医療支出の33%が自己負担である。 チリの教育は、2009年の教育法(LGE)によって支配される。 19世紀にフランスとドイツの制度を参考に近代的教育制度が確立された。6歳から13歳までの8年間の初等教育と前期中等教育が無償の義務教育期間となり、その後4年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。 識字率は約96.4%であり、これはアルゼンチン、ウルグアイ、キューバと共にラテンアメリカでもっとも高い部類に入る。 代表的な高等教育機関としては、チリ大学(1738年、1842年)、サンティアゴ・デ・チレ大学(1848年)、チリ・カトリック大学(1888年)などが挙げられる。 スペイン人による征服以前のチリの文化はインカ帝国とマプーチェ人によるものが主流だったが、スペインによる征服後はスペイン人の文化的影響を強く受けた。19世紀初頭の独立後にはエリート層が憧れを抱いたイギリス、フランスをはじめとするヨーロッパ諸国の文化の影響を受けた。また、19世紀後半のドイツ移民の影響により、特に南部のバルディビアやプエルト・モントにはドイツのバイエルン地方の文化の影響が強い。また、ウアッソという独自の農村的文化アイデンティティを表す表象が存在する。 チリ料理はスペイン植民地時代の料理に伝統を持つ。トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、牛肉、羊肉が使われ、長い海岸線を有するために大海産国であることもあって魚介類を使う料理も多い。 代表的なチリ料理としてはカルネラ、カルボナーダ、アサード、クラント、ウミータ、パステル・デ・チョクロ、エンパナーダなどが挙げられる。北部のかつてペルー領だった地域ではセビッチェが食べられることもある。 チリはワインの大生産国として知られ、チリワインはアジェンデ政権末期に品質を落としたものの、高い品質で知られる。ワインの他の地酒としてはチチャやピスコ・デ・チレが挙げられる。また、南部ではアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジル南部などと同様にマテ茶を飲む習慣がある。 チリは大衆的伝統の中で多くの詩人を生み出してきた。これはチリの文学者の持つ長い歴史に相応して重要なことであり、特に詩の分野において傑出した人物としてはニカノル・パラ、ビセンテ・ウイドブロ、ホルヘ・テイジエール、エンリケ・リン、ゴンサロ・ロハス、パブロ・デ・ロカが挙げられ、ガブリエラ・ミストラルとパブロ・ネルーダはノーベル文学賞を、ミストラルは1945年に、ネルーダは1971年にそれぞれ受賞した。 小説の分野で代表的な作家としては、フランシスコ・コロアネ、マヌエル・ロハス、ホセ・ドノソ、ルイス・セプルベダ、ロベルト・ボラーニョ、イサベル・アジェンデ、ホルヘ・エドワーズ、ゴンサロ・ロハス、マルセラ・パスなどが挙げられる。ホルヘ・エドワーズは1999年に、ゴンサロ・ロハスは2003年にセルバンテス賞を受賞した。マルセラ・パスはパペルーチョと呼ばれる児童文学の作家である。 チリのフォルクローレにおいてはクエッカと呼ばれるリズムが中央部で発達し、そのほかに北部のケチュア人、アイマラ人にはワイニョなどが、南部のマプーチェ人や、パスクア島のポリネシア系住民にも独自のフォルクローレが存在する。 1960年代前半に特に活躍したフォルクローレグループとしてはロス・デ・ラモンが挙げられる。1960年代後半からは政治と強く結びついたフォルクローレ、ヌエバ・カンシオンが流行した。ビオレータ・パラ、ビクトル・ハラ、インティ・イリマニ、イジャプー、キラパジュンなどが活躍していたが、1973年のクーデター後に軍事政権によって音楽家が殺害・拷問・追放されるとヌエバ・カンシオンは衰退することになった。 2009年12月5日、首都サンティアゴ・デ・チレでハラの葬儀が催され、数万人の市民が参加した。1973年当時、ピノチェト軍事独裁政府の弾圧によってハラの葬儀を公式に開催することができなかった。死後36年を経て公式の葬儀が行われ、バチェレ政権の閣僚や政党幹部らも参加した。 ポピュラー音楽においては、ロックは60年代に中産階級によって始められ、軍政期を通してインカ・ロックなどの形態で独自の発達をたどることになった。その後、80年代に軍事政権の言論弾圧が一時期弱まると、ロックはフォルクローレよりも盛んになり、チリ・ロックはメキシコなどのラテンアメリカ市場でも成功するミュージシャンを生み出している。代表的なミュージシャンとしてはロス・ジョッカーズ、ロス・トレス、ロス・プリシオネロス、ロス・ブンケルス、ラ・レイ、クダイなどが挙げられる。フォルクローレに独自のプログレッシヴ・ロック的な風味を加えたバンド「Los Jaivas」は国外でも高く評価されており、1960年代後半にデビューして以来、現在も現役で活動している。 チリ出身の著名な映像作家としては、『戒厳令下チリ潜入記』『サンディーノ』のミゲル・リティン、『クリムト』(2006)のラウル・ルイス、ボリス・ケルシア、アレハンドロ・ホドロフスキー(チリ出身)などが挙げられる。 チリ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件存在する。 チリ国内でも他のラテンアメリカ諸国と同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。サッカーは19世紀にイギリス人によってチリにもたらされ、1933年にはプロリーグのプリメーラ・ディビシオンが創設された。主なクラブとしては、コロコロ、コブレロア、ウニオン・エスパニョーラ、ウニベルシダ・デ・チレ、ウニベルシダ・カトリカなどが挙げられる。欧州のビッグクラブで活躍した選手には、アレクシス・サンチェスやクラウディオ・ブラーボ、アルトゥーロ・ビダルがいる。 チリサッカー連盟(FFC)によって構成されるサッカーチリ代表は、FIFAワールドカップには自国開催となった1962年大会で3位に輝いている。さらに1998年大会に出場した際には、「4チーム制によるグループリーグを3引き分け(0勝で勝ち点3)で突破し、決勝トーナメントに進出する」という珍しい記録をもつ。これは「8グループ、上位2チーム勝ち上がり」の1998年大会以降では初であり、現在まで唯一のケースとなっている。 チリ代表は近年コパ・アメリカでの躍進も著しく、2015年大会で初優勝を果たすと、翌年に行われた「100周年記念大会」であるコパ・アメリカ・センテナリオでも、リオネル・メッシのいるアルゼンチン代表を決勝で破って優勝し、大会連覇を達成した。また、FIFAコンフェデレーションズカップの2017年大会では、決勝に進出したがドイツ代表に0-1で敗れ準優勝となった。 多数の科学刊行物によると、チリは2011年時点、ラテンアメリカで4位、世界で38位の科学的特許を持つ。また南極に4つの通年運用拠点、夏の間活動する8つの一時的な拠点を所有している。 天体観測においては、パラナル天文台、世界最先端の国際共同利用施設であるALMA、世界最大級の国際共同利用施設であるラ・シヤ天文台など12のステーションがあり、世界の天文観測施設の40%が集中している。しかし、ラスカンパナス天文台での巨大マゼラン望遠鏡やパチョン山での大型シノプティック・サーベイ望遠鏡の建設決定、OWL望遠鏡計画におけるE-ELTの建設決定、ALMAの拡大などにより、今後数十年で世界全体の約70%へと拡大する見込みである。 チリの紋章には、国の動物であるコンドル(Vultur gryphus、山岳地帯に棲む大型の鳥)とアンデスジカ(Hippocamelus bisulcus、絶滅が危惧されている尾部の白い鹿)が描かれている。これらは国の標語である「理性によって、または力によって」とも関連がある。 国花はコピウエであり、この花は南部の森林地帯に自生している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "チリ共和国(チリきょうわこく、スペイン語: República de Chile)、通称チリは、南アメリカ大陸南西部に位置する共和制国家。国土はアンデス山脈西側で南北に細長く、東にアルゼンチン、北東にボリビア、北にペルーと隣接する。西は南太平洋、南はフエゴ島を挟んでドレーク海峡に面している。首都はサンティアゴ。アルゼンチンとともに南アメリカ最南端に位置し、国土の大部分がコーノ・スールの域内に収まる。太平洋上に浮かぶフアン・フェルナンデス諸島や、サン・フェリクス島、サン・アンブロシオ島およびポリネシアのサラ・イ・ゴメス島、パスクア島(イースター島)などの離島も領有しており、さらにアルゼンチンやイギリスなどと同様に「チリ領南極」として125万平方キロメートルにも及ぶ南極の領有権を主張している(「南極における領有権主張の一覧」参照)。OECD諸国の中で貧困率と経済格差は最も大きい。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "正式名称はRepública de Chile(レプブリカ・デ・チレ)。通称 Chile(チーレ [ˈt͡siːle]],或いはシーレ[ʃiːle])。公式の英語表記はRepublic of Chile。通称 Chile(チリ /ˈʧɪl(i)/。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本語の表記はチリ共和国。通称チリ。かつては「チリー」と表記されていたこともあった。漢字表記は智利。日本語での初出は、西川如見『増補華夷通商考』(1708年、宝永5年)に「チイカ」として紹介されるものとされる。その後の江戸時代の文献では、谷川士清『倭訓栞』、斎藤彦麻呂『傍廂』が、それぞれ「智加」という漢字表記を用いている。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "国名の由来は諸説ある。植民地時代初期は「Chili」と表記されていたが、17世紀のスペイン人史家ディエゴ・デ・ロサーレス(英語版)によると、インカ人によるアコンカグアにある渓谷の呼称で、元は15世紀にインカ帝国に征服される前、同地を支配していた先住民ピクンチェ族(スペイン語版、英語版)の族長、「ティリ(Tili)」から転じたものとされている。このほか、先住民の言葉で「地の果て」「カモメ」、ケチュア語で「寒い」を意味する「Chiri」、「雪」もしくは「地上最深の場所」を意味する「Tchili」、マプチェ族の言葉で同地に生息する鳥の鳴き声を表す擬音語「cheele-cheele」に由来するなどの説がある。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "チリは1818年にスペインより独立した。1990年のピノチェト軍事独裁政権崩壊後は、ラテンアメリカでは最も経済・生活水準が安定し、政治や労働でも最高度の自由を保っているとされてきたが、21世紀以降は国民の所得格差・不平等、教育への公的予算は中南米でも下位となるなどの諸問題も抱えている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "政治制度は大統領を元首とする共和制国家であり、三権分立を旨とする議会制民主主義を採用している。行政は大統領を長とする。大統領は4年任期で選挙により選ばれ、2期連続で就任することはできない。内閣の閣僚は大統領が任命する。2006年1月15日に社会党のミシェル・バチェレが大統領に就任した。これはチリ史上初の女性大統領である。2008年現在のチリ憲法は、アウグスト・ピノチェトを最高権力者とする軍政下に制定された1980年憲法である。特徴としては、大統領の権力が強められ、また国政への軍の最高司令官の参加が制度化された。しかし、1988年のピノチェト大統領の信任を問う国民投票に敗北したあと、憲法に対して大統領の権力を弱め、軍部の発言力を抑えるような修正がなされた。憲法の民主的な改正に関する議論は継続され、2005年に再改正された。2022年には制憲議会より大きな政府を志向する左派主導の新憲法案が提示されたが、急進的な内容が災いし9月4日の国民投票では賛成が38%にとどまり否決された。仕切り直しとなった2023年5月7日の制憲議会選挙では現行憲法に肯定的な右派勢力が草案承認に必要な3分の2を確保する結果となっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "立法は、両院制であり、議会はバルパライソに所在する。上院は43議席であり、一般投票により選出され、任期は8年。2005年までそのほかに国家安全保障委員会や司法機関、共和国大統領、前大統領などが11名を任命する制度があったが、憲法改正によりこの11議席は廃止された。下院は120議席であり、任期は4年。法案が採択されるには、両院および拒否権を持つ共和国大統領の承認を得なければならない。また両者ともに法案を提議することができるが、これを施行する権限は大統領にしかない点が問題とされている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "司法の最高機関は最高裁判所である。憲法に関する判断は憲法裁判所が行い、憲法に反すると考えられた法律を差し止めることができる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "チリにも公権力の腐敗・汚職がないわけではないが、それは恒常的なものではなく、世界の「透明度」の高い国の上位30か国以内に過去10年間連続してランクづけされており、2017年度のトランスペアレンシー・インターナショナル(TI)による世界腐敗認識指数では26位とウルグアイに次いでラテンアメリカで2番目であった。ラテンアメリカ諸国の中では腐敗しておらず、比較的しっかりした法治国家だと認識されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ピノチェト軍事独裁から民政移管した1990年以降の中道左派と中道右派の政権交代の下で、医療・教育・福祉予算を抑える新自由主義路線が維持されてきた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "独立直後からチリは隣国のペルー、ボリビアに干渉を行ってきた。1836年から1839年までの連合戦争ではペルー・ボリビア連合に終始敵対し、これを崩壊させるのに大きな役割を果たした。その後、1879年にアタカマの硝石資源を巡ってペルー、ボリビア両国に宣戦布告し、この太平洋戦争によって両国から領土を得た。その影響でボリビアは現在でも国交がない。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "19世紀を通してチリは経済的にはイギリスと、文化的にはフランスと関係が深かった。この時期にチリ海軍はイギリスの、法や教育はフランスの、陸軍はプロイセンの影響を強く受けた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1973年のクーデターにより、チリは軍事政権による人権侵害などのために国際的孤立に陥ったが、民政移管した1990年以来、チリは国際的孤立から復活した。2010年、チリはOECDの31番目の公式加盟国になった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "軍政期の1983年に長年緊張関係が続いており、何度も戦争直前にまで陥った隣国アルゼンチンがラウル・アルフォンシン政権の下でチリとの歴史的な和解を進めてピクトン島、レノックス島、ヌエバ島のチリ領有を認めると、パタゴニアをめぐってのチリの領土問題は解決した。また、太平洋戦争以来続いたペルーとの緊張も収まりつつある。しかし、太平洋戦争で併合したアントファガスタを返還するように求めるボリビアとの緊張はいまだに続いている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "なお、チリはイギリス、アルゼンチンと同様に南極大陸の一部に対して領有権(チリ領南極)を主張している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2009年3月27、28日の両日、中部の都市ビニャデルマルで欧米(スペイン、イギリス、ノルウェーの首相、アメリカの副大統領)と南米(ブラジル、チリ、アルゼンチン、ウルグアイの大統領)の8か国による首脳会議が開かれた。首脳らは同会議を「進歩派首脳会議」と呼んでいる。会議は、4月20日にロンドンで開かれる第2回20か国・地域首脳会合(G20金融サミット)に向けた意見調整を目的に行われた。各首脳は新たな世界秩序の形成に向けた展望を論議した。同会議は最終宣言を発表した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1897年に日本チリ修好通商条約が締結され、同年9月25日に外交関係を樹立。太平洋戦争末期の1945年4月11日にチリが対日宣戦布告し断交するものの、サンフランシスコ講和条約締結後の1952年10月17日に外交関係を再開した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "日本とチリは日本・チリ経済連携協定(2007年9月3日発効)を締結している。また、ともに環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(CPTPP, TPP11協定)の署名国である。ただし、チリは国内手続が遅れ、2022年12月23日に国内手続きの完了を通報したため、CPTPPはチリについては2023年2月21日に発効する。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "チリの大統領は軍隊の指揮権を有し、軍は国防相と大統領の統制を受けている。また、チリでは徴兵制が実施され、国民は2年間の兵役の義務を有している。陸海空三軍のほかに憲兵(カラビネーロス)が存在し、規模は4万人ほどである。また、チリはブラジルに続いて南アメリカで2番目に大きな軍事予算を組んでいる。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "伝統的にチリの軍隊は、「軍は憲法の番人である」として、他のラテンアメリカ諸国より政治に介入する頻度は比較的大きくなかったが、アジェンデがスト解決のために軍人を利用し始めたことから崩れ始め、1973年のピノチェト将軍らによるチリ・クーデターにより崩された。その後、軍政期に軍はコンドル作戦や「汚い戦争」などを遂行し、自国民や近隣諸国の反体制派市民の拷問、殺害に携わったが、1990年の民政移管後は、それなりの規模と発言力を保ちながら国民との和解が進められた。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "チリ陸軍は兵員4万5,000人を有し、サンティアゴに司令部がある。6つの軍管区に分けられ、ランカグアに飛行旅団が、コリナに特殊部隊の司令部がある。チリ陸軍はラテンアメリカでも最も整備され、専門的かつ技術革新の進んだ軍隊の一つである。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "チリ海軍は海兵隊2,300人を含む兵員2万3,000人を有している。29隻の艦艇を有するが、水上戦闘艦艇は内8隻のフリゲートのみである。水上艦隊の母港はバルパライソにある。海軍は輸送と警戒にあたる航空機を保有しているが、戦闘機や爆撃機は有していない。4隻の潜水艦を運用し、潜水艦の基地はタルカワノにある。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "チリ空軍は兵員1万2,500人を有し、それぞれイキケ、アントファガスタ、サンティアゴ、プエルト・モント、プンタ・アレーナスに5つの飛行旅団を置いている。空軍は南極のキング・ジョージ島の基地でも活動している。2006年にF-16が14機、2007年にも14機導入された。なお空軍は、軍政期は警察とともに反軍政派だった。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1973年9月の軍事クーデターに参加後、チリ国家警察(カラビネーロス・デ・チレ)は国防省と一体化した。民政移管後に、警察の実質的な指揮権は内務省の下に置かれたが、国防省の名目的指揮下に置かれたままとなった。40,964人の男女が法の執行、交通整理、麻薬鎮圧、国境の管理、対テロ作戦などの任務にチリ国内で従事する。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "チリは、州監督官(Intendente)を長とする16の州(Region)に分けられる。州はさらにいくつかの県(Provincia)に分割され、それぞれに県知事(Gobernador provincial)が置かれる。県はさらに市町村(Comunas)に分けられ、市(町、村)長がいる。監督官と知事は大統領により任命され、市(町、村)長は一般投票により選ばれる。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1974年に各州には北から南へ順にローマ数字が割り当てられた。しかし首都州は例外的に頭文字のRMとされたこと、またその後に新設された州には位置に関係なく割り振られたことから、当初の意義を失い2018年2月に廃止された。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "主要な都市はサンティアゴ(首都)、バルパライソがある。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "西部の太平洋との海岸線、東部のアンデス山脈、北部のアタカマ砂漠によって囲まれた国土は南北に細長く、北から南までの総延長は約4,300キロメートルに及ぶ。海岸線に沿ったペルー・チリ海溝では過去にしばしば超巨大地震(チリ地震)が発生して、太平洋対岸にあたる日本の三陸海岸などの環太平洋全域に津波で大きな被害が起きてきた歴史がある(→チリ地震 (1960年))。また、ペルー・チリ海溝に沿う形でプジェウエ=コルドン・カウジェ火山群などの活発な活火山を多数擁している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "北部の砂漠地帯(Norte Grande)では年間を通してほとんど雨が降らない。銅など鉱物資源に富む。ラ・セレナの南から地中海性気候の渓谷地域(Norte Chico)となり、チリの主要輸出品目の一つであるブドウなどの果物の栽培や、最近輸出量が増えてきたワインの生産に適している。19世紀後半から発展した歴史を有するこの国の主要地域であり、人口と農産物が集中する。Zona Central。バルディビアからプエルト・モントまでの南部地域(Zona Sur)は森林地帯の続く牧畜に適した湖水地方であり、火山地域である。年間を通して雨が多い。南緯40度以南(Zona Austral)にはパタゴニアと呼ばれ、沿海部は典型的なフィヨルド地形が形成されている。マゼラン海峡を越えて南にはフエゴ島が存在し、島の西半分がチリ領となっている。南極大陸の125万平方キロメートルの領有権を主張するが(チリ領南極)、南極条約で棚上げとなっている。チリはポリネシアにも領土を有し、サラ・イ・ゴメス島、ロビンソン・クルーソー島とチリ本土から西に3,700キロメートルほど離れてラパ・ヌイ(イースター島)が存在する。最高地点はアンデス山脈のオホス・デル・サラード山の海抜6,893メートル。チリの対蹠地は北・中部が中華人民共和国、南部はモンゴル国、最南部はロシアのシベリアである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "気候は幅広く、太平洋上に浮かぶラパ・ヌイ島(パスクア島、イースター島)の亜熱帯から、国土の北3分の1を占め、世界で最も乾燥した砂漠とされるアタカマ砂漠、中央部の肥沃な渓谷地域、そして元々は森林に覆われていた湿度は高いが寒い南部、ツンドラ気候が広がる最南部のパタゴニア地方に大きく分けられる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "チリは南北に大変長細い国であるため、北の方から順に砂漠気候、ステップ気候、地中海性気候、西岸海洋性気候、ツンドラ気候と気候が違っている(南半球であるため亜寒帯は存在しない)。寒流であるペルー海流の影響により、北部でもあまり気温は上がらない。また寒流は西岸砂漠の成因であり、アタカマ砂漠は世界で降水量が最も少ない地域となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "チリ本土ではUTC-4(マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ州はUTC-3)だが、パスクア島ではUTC-6となっている。また、マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ州を除いて夏時間を実施している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "チリは中南米の国の中では治安が良い国とされてきたが、2013年以降は悪化傾向にあり、貧富の格差の拡大も相まって地方にも犯罪が波及しつつある。そのため防犯意識を持って行動する必要があるとされる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2021年のチリの名目GDPは、世界44位であり、3,167.70億USドルである。チリのGDPは、2000年代から大幅に成長しており、4倍以上の著しい伸び率が見られる。2022年9月時点では、経済活動指数の変動も少なく、国民の生活は比較的安定している。しかし、失業率は7.9%と未だに高い水準であり、日本の3倍以上にもなる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "アジア太平洋経済協力(APEC)に加盟しており、メルコスール準加盟国であるゆえに南米共同体にも加盟している。また、ブラジルやアルゼンチンなどともにラテンアメリカで最も工業化された国の一つであり、域内ではベネズエラ、アルゼンチン、ブラジル、メキシコとともに中進国とされ、2007年からOECD加盟に向けて交渉を進め、2010年5月7日に加盟を果たした。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "経済はほとんど輸出により成り立っている。輸出品目の第2位は農業関連製品で、第1位は以前より世界一の生産量を誇る銅である。1970年代初頭は輸出品の70%を銅が占めていたが、現在は40%とその重要度は低下している。最近では、各地で産出される良質なワイン、サーモン、木材パルプの輸出が始められた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "チリ北部の主要産業は鉱業であるが、南部には大規模な農業、酪農がある。バルパライソといった主要港のある中央部にはサービス業と工業が集中している。チリのサービス業部門は大きく、世界で最も自由化され先端をいく通信インフラが整っている。1990年代のにわか景気では、毎年7 - 12%の経済成長を記録したが、1997年のアジア通貨危機以降は、年3%にまで落ち着いた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "近年、欧州連合(EU)、アメリカ合衆国、カナダ、メキシコ、韓国などと自由貿易協定を結んでいる。日本のほかカナダ、メキシコやニュージーランド、オーストラリア、シンガポールなど一部の東南アジア諸国とはともにTPP11署名国である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "農業では、果樹類の生産が特筆される。16世紀からポトシ市場向けにワインの原材料としてぶどうが広く生産されている。1970年代には過剰生産とワインの品質低下がたたって、一時生産量が低迷したが、ワインの品質改良などの地道な努力が功を奏し、1990年代以降は再び生産量を増やしている。日本のワイン輸入量の国別シェアで、フランスなど南欧諸国を上回り首位となっている(2018年)。 農業従事者は、2005年にはチリの労働者の13.2%を占めている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "チリの主な農産物は、穀物であるオート麦、トウモロコシ、小麦、果物 - 桃、リンゴ、ナシやブドウと野菜ニンニク、タマネギ、アスパラガスと豆などである。果物や野菜の輸出は、アジアと欧州市場である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "林業については、国土の2割が森林となっており木材生産が盛んに行われてきたが、1980年代以降、アメリカ合衆国や日本の業者が進出し、パルプ用の木材チップの生産を飛躍的に高めた。南部のパタゴニア地方を中心とした原生林での生産が有望視されているが、無秩序に近い環境破壊を訴える自然保護団体も存在し、先住民マプーチェ人をはじめとする現地の住民も無軌道な乱伐に反対している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "近年では、チリはノルウェーとともにサケの世界有数の輸出国となっている。 漁業については、東太平洋がアンチョビなどの好漁場であり、古くから活発に漁業が営まれてきた。気候や地形の類似点から、北半球のサケ類の移植が進められたが、自然放流により再生産を図る計画は失敗。しかし、代わりに始まったサケ類の養殖事業は大成功を収め、2005年には世界のサケ類の養殖生産高の3分の1、約60万トンを誇る規模(世界第2位)となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "鉱業については、地下資源、特に金属鉱物資源に恵まれている。2003年時点で、銅の採掘量は世界一であり、490万トンに達する。これは世界シェアの36.0%に相当する。銀は1,250トンであり、世界第6位、シェア6.7%である。金の世界シェアも1.5%である。このほか、亜鉛、鉄、鉛を産出する。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "金属以外の無機鉱物資源では、ヨウ素、硫黄、塩、カリ塩、リン鉱石が有望であり、リン鉱石以外は世界シェア1%を上回る。有機鉱物資源も見られるが、規模は小さい。たとえば、石炭の産出量は43万トンに留まる。19世紀に火薬の原料として世界最大の産出量があったアタカマ砂漠のチリ硝石は20世紀に入ると化学製品に押され役目が終わった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "チリのアントファガスタ州タフレタルでアメリカ大陸最古の酸化鉄採掘が始まった。北部鉱山チャニャルシヨでは銀・硝石と連続する石炭採掘がチリ経済を主要な役割へと導いた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "鉱業は、国内15地域のうち13地域で存在し、25種類の製品を産する。特にタラパカ、アントファガスタ、アタカマ地域の主要な経済活動であり、コキンボ、バルパライソ、オヒギンス地域でも非常に重要である。マガヤネス地域では石油生産が重要である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "主な製品は銅で、世界の36%を供給する世界最大の生産国であり、世界の銅埋蔵量の28%を占めている。チリの輸出の30%を占める銅鉱山アカウントは1970年には60%以上をカバーしていた。世界最大の銅会社、国営コデルコは、チュキカマタ、エルテニエンテで世界最大の露天掘りおよび地下の主要鉱床で操業している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "鉄、モリブデン、硝石、銀 - 金のような他の資源開発も重要である。2012年に、鉱物の世界生産の37%がこの国に集中しており、さらにリチウムの世界埋蔵量の21.9%が存在する。ラピスラズリは、チリ北部コムバルバラ地域に原石が豊富に存在すると1984年に宣言された貴重な装飾用の石である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "近年、観光業も成長を続けている。南部の森林地帯の荒々しい美しさ、北部のアタカマ砂漠の広漠とした風景、5月から9月にかけてのアンデス山脈のスキーシーズンが観光客を惹きつけている。また、パタゴニアや、モアイなどの独自の観光資源を持つラパ・ヌイ島(イースター島)も観光地としての人気がある。その他にはビーニャ・デル・マルなどのビーチ・リゾートも存在するが、寒流であるペルー海流(フンボルト海流)の影響のため、チリの海は海水浴には適していない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "観光は、2005年にこの部門は国のGDPの1.33%に相当し、15億ドル以上を生成して13.6%増加した1990年代半ば以降、チリの主要な経済資源の一つとなっている。海外での観光振興では、チリは2012年に合計600万ドルの資金を投資した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "観光客が本土への全ての訪問の1.8%に達したとき、世界観光機関(WTO)によると、チリのラテン語圏の外国人観光客のための政策は2010年に始まったという。その年、国は1,636万ドルの売上高を挙げ、観光客は276万人に達した。これらの訪問者のほとんどは、アルゼンチンや大陸の国から来た人々であった。しかし近年の最大の成長は、主にドイツなどのヨーロッパからの訪問者に対応したことである。2011年第1四半期中に、その年の終わりまでに合計306万人となった前年同期比9.2%の増加を表す104万人以上の観光客が来訪した。一方では、合計372万人のチリ人が、2011年に他の国を訪問した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "チリは、COVID-19流行前の2019年、GEM(Global Entrepreneurship Monitor)の研究における総合起業活動指数®(TEA)が世界1位である。チリ政府は、2010年よりStart-Up Chileを設立し、2021年には、資金提供や資金調達プラットフォームを設立し、スタートアップを試みる企業への支援を行っている。しかし、事業の休業や廃業も多くみられる。革新的な世界のスタートアップ100社が選出された「テクノロジー・パイオニア・コミュニティ2022」では、チリ発のスタートアップとして、ホームとグロバル66の2社が選出された。チリからは継続的に選出されており、今後の成長が期待される。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "チリでは、再生可能資源があまり多くないため化石燃料に依存しており、その価格と国際情勢に大きく左右される。2010年には、消費量の30%に相当する日量10640バレルの石油を南部で生産し、残りは輸入された。", "title": "インフラ" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また、国内で消費される天然ガスの約53%が輸入されている。推計によると、2009年の消費量、28.4億立方メートルの47.53パーセントに相当する13.5億立方メートルが輸入された。 2000年代のを通して、アルゼンチンはパイプラインを介して主要な輸入元であったが、2009年にキンテロ港に液化天然ガス(LNG)ターミナルが開設され、輸入元を世界中に多様化している。", "title": "インフラ" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "チリでは、ノルテグランデ、電力中央相互接続システム、電力システム、アイセン電力システム、マガジャネスの相互接続システムの4つの電力システムがある。2008年には電力生産は、主に火力発電により、次に水力発電によって生成され、6万280ギガワット時であったと推定される。また、818ギガワット時は、アルゼンチン北部から電気を輸入する計画があったが、実際に輸入されたのは2009年であった。水力発電の発電量が少ないのは、ダムの建設による環境や生態系の破壊を防止するために、政府は水力埋蔵量の20%未満に抑えている。", "title": "インフラ" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "チリの最初の水力発電は、トーマス・エジソンによって設計され、1896年にロタに建てられた南米で2番目の水力発電所であるチビリンゴ水力発電所である。", "title": "インフラ" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "現時点では原子力発電所はないものの、2006年には原子力エネルギーの安全な使用の技術的実現可能性についての議論が始まった。再生可能な資源の候補としては、風力発電、地熱、潮力、太陽光、太陽熱などがある。", "title": "インフラ" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "チリは、本島と南極基地を含め、国土の多くをカバーする通信システムを持っている。1968年にはエンテルチリ社が所有する、ラテンアメリカで最初の南極衛星通信地球局が稼働した。", "title": "インフラ" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2012年には327.6万の固定電話回線と2,413万の携帯電話加入者がいる。チリは2009年、携帯電話100%普及率を達成した第三のラテンアメリカの国となった。また、ネットブック、スマートフォン、タブレット-含む人あたりのモバイルブロードバンドサービスの消費量は、OECD平均に等しかった。この現象は、他の要因の中で自由な競争、MVNOの市場参入や番号ポータビリティを保護するための政策が愛用した。", "title": "インフラ" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2010年の人間開発指数によれば、チリは100人あたり32.5のインターネットユーザーがいる。", "title": "インフラ" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1987年に国別トップレベルドメイン「.cl」が登録され、1993年に最初のラテンアメリカのWebサーバがチリに設置された。", "title": "インフラ" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "世界は2011年にソーシャルネットワークに多くの時間を捧げた。2013年には総人口の66.5%のインターネット普及率であり、ブロードバンド普及率は、ラテンアメリカ中で最高であった。", "title": "インフラ" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2014年に国内でのインターネットとの統合は、ラテンアメリカでもっとも大きかった。", "title": "インフラ" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "フラッグ・キャリアである、LATAM チリが、イースター島を含むチリ国内のみならず、ヨーロッパやオセアニア、北アメリカなど世界各国への路線網を築いている。ハブ空港はアルトゥーロ・メリノ・ベニテス国際空港で、多くの外国航空会社も乗り入れている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "細長い国土を縦に貫く「チリ縦貫鉄道」と、そこから分かれてアンデス山脈や太平洋側の町を結ぶ「支線」が国内の鉄道を構成している。詳細はチリの鉄道を参照。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "チリ国鉄が後述の近郊電車のほか、サンティアゴと中部のタルカ・チリャンの間に中距離電車を、コンセプシオンやテムコの間に季節運行の夜行列車を走らせている。南部のプエルトモントを発着する夜行列車は「車両の老朽化」を理由として、2003年に運行が休止された。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "サンティアゴ大都市圏にはメトロトレン(スペイン語版)と呼ばれる近郊電車が運行されているほか、サンティアゴの都心にはフランスの協力で建設された5路線の地下鉄(メトロ=Metro)があり、さらに数年以内には2路線の開通が予定されている。渋滞の影響を受けない交通機関として信頼されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "また、バルパライソと郊外のビニャ・デル・マールの間にはMervalと呼ばれる近郊電車が、コンセプシオンとその近郊の間にはビオトレン(スペイン語版)と呼ばれる近郊電車が運行されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "鉄道による貨物輸送も盛んであり、特に鉱石や木材、水産物などの運搬に重宝されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "サンティアゴ近郊には高速道路網があるほか、パンアメリカンハイウェイが国内を通っており、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスや、ペルーの首都リマとの間を結んでいる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "独立直後の1830年にようやく100万人を越えたチリの人口は、1960年のセンサスでは737万4,115人、1970年のセンサスでは888万4,768人、1983年年央推計では約1,168万人となった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "チリの人口は約1,750万人ほどであり、1990年代から出生率の低下とともに人口増加率は低くなっている。2050年までには人口2,020万人に達すると見積もられている。国民の85%が都市部に居住し、そのうち40%が大サンティアゴ都市圏に居住している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "チリの国民は約95%がヨーロッパ系の白人もしくはメスティーソであり、人口の52.7%が純粋な白人であり、44.1%がメスティーソとなっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "そのほか、インディヘナとしては、パスクア島(イースター島)にはポリネシア系の、北部のアンデス山岳地帯にはケチュア人やアイマラ人など、南部ビオビオ川以南の森林地帯にはマプーチェ人が、その他にはピクンチェ人、ウイリンチェ人、アタカメーニョ人、ディアグイタ人、ペウエンチェ人などが、クリストファー・コロンブスの到来以前より居住しており、こうしたインディヘナを合わせると全人口の5%ほどになる。また、きわめて少数であるが、植民地時代に連れて来られた黒人奴隷の子孫としてアフリカ系チリ人が存在するが、チリの黒人は人口の1%に満たない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "ヨーロッパからの移住は19世紀に加速した。特に南部のマプーチェ人の土地がアラウカニア制圧作戦により国家に併合されると、隣国のアルゼンチンやブラジルほどの規模ではないが、スペインやバスク地方(バスク系チリ人)、クロアチア、イタリア、ドイツ、フランス、パレスチナ(パレスチナ系チリ人)などから移民が導入され、東ヨーロッパとアイルランド(アイルランド系チリ人)からも少数が移住した。日本からの集団移民は行われておらず、移住したペルーやボリビアなどから再移住した日系チリ人がごく少数存在するのみである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "チリの公用語はスペイン語(チリ・スペイン語とチロエ・スペイン語)であり、日常生活でも広く使われている。そのほかにはインディヘナによってマプーチェ語や、ケチュア語、アイマラ語、ラパ・ヌイ語、ウイリンチェ語などが話されており、植民地時代にマプーチェ人はアラウカナイゼーションを進めたため、マプーチェ語はチリ最大の非公用語言語となっている。また、移民のコミュニティ内でドイツ語やイタリア語やクロアチア語が話されることもある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "チリは伝統的にローマ・カトリックの国だったが、2002年のセンサスによればカトリックは国民の70%ほどとなっており、福音派、またはプロテスタントが15%、エホバの証人が1%、末日聖徒イエス・キリスト教会が0.9%、ユダヤ教が0.1%、その他が4.4%、無宗教が8.3%、ムスリムと正教はそれぞれ0.1%以下である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "コピアポ鉱山落盤事故では閉じ込められた作業員が、聖書と十字架像を所望したり、聖書をもとに作られた映画が地上から提供されるなど、国民の間ではキリスト教が深く根付いていることが伺える。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "通常、婚姻によって改姓することはない(夫婦別姓)。社交上「de+夫の姓」を追加した複合姓を用いることもあるが、一般的ではなくなりつつある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "平均寿命は78.8歳と先進国並み。ユニバーサルヘルスケアが達成され、医療支出の33%が自己負担である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "チリの教育は、2009年の教育法(LGE)によって支配される。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "19世紀にフランスとドイツの制度を参考に近代的教育制度が確立された。6歳から13歳までの8年間の初等教育と前期中等教育が無償の義務教育期間となり、その後4年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "識字率は約96.4%であり、これはアルゼンチン、ウルグアイ、キューバと共にラテンアメリカでもっとも高い部類に入る。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "代表的な高等教育機関としては、チリ大学(1738年、1842年)、サンティアゴ・デ・チレ大学(1848年)、チリ・カトリック大学(1888年)などが挙げられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "スペイン人による征服以前のチリの文化はインカ帝国とマプーチェ人によるものが主流だったが、スペインによる征服後はスペイン人の文化的影響を強く受けた。19世紀初頭の独立後にはエリート層が憧れを抱いたイギリス、フランスをはじめとするヨーロッパ諸国の文化の影響を受けた。また、19世紀後半のドイツ移民の影響により、特に南部のバルディビアやプエルト・モントにはドイツのバイエルン地方の文化の影響が強い。また、ウアッソという独自の農村的文化アイデンティティを表す表象が存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "チリ料理はスペイン植民地時代の料理に伝統を持つ。トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、牛肉、羊肉が使われ、長い海岸線を有するために大海産国であることもあって魚介類を使う料理も多い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "代表的なチリ料理としてはカルネラ、カルボナーダ、アサード、クラント、ウミータ、パステル・デ・チョクロ、エンパナーダなどが挙げられる。北部のかつてペルー領だった地域ではセビッチェが食べられることもある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "チリはワインの大生産国として知られ、チリワインはアジェンデ政権末期に品質を落としたものの、高い品質で知られる。ワインの他の地酒としてはチチャやピスコ・デ・チレが挙げられる。また、南部ではアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジル南部などと同様にマテ茶を飲む習慣がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "チリは大衆的伝統の中で多くの詩人を生み出してきた。これはチリの文学者の持つ長い歴史に相応して重要なことであり、特に詩の分野において傑出した人物としてはニカノル・パラ、ビセンテ・ウイドブロ、ホルヘ・テイジエール、エンリケ・リン、ゴンサロ・ロハス、パブロ・デ・ロカが挙げられ、ガブリエラ・ミストラルとパブロ・ネルーダはノーベル文学賞を、ミストラルは1945年に、ネルーダは1971年にそれぞれ受賞した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "小説の分野で代表的な作家としては、フランシスコ・コロアネ、マヌエル・ロハス、ホセ・ドノソ、ルイス・セプルベダ、ロベルト・ボラーニョ、イサベル・アジェンデ、ホルヘ・エドワーズ、ゴンサロ・ロハス、マルセラ・パスなどが挙げられる。ホルヘ・エドワーズは1999年に、ゴンサロ・ロハスは2003年にセルバンテス賞を受賞した。マルセラ・パスはパペルーチョと呼ばれる児童文学の作家である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "チリのフォルクローレにおいてはクエッカと呼ばれるリズムが中央部で発達し、そのほかに北部のケチュア人、アイマラ人にはワイニョなどが、南部のマプーチェ人や、パスクア島のポリネシア系住民にも独自のフォルクローレが存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "1960年代前半に特に活躍したフォルクローレグループとしてはロス・デ・ラモンが挙げられる。1960年代後半からは政治と強く結びついたフォルクローレ、ヌエバ・カンシオンが流行した。ビオレータ・パラ、ビクトル・ハラ、インティ・イリマニ、イジャプー、キラパジュンなどが活躍していたが、1973年のクーデター後に軍事政権によって音楽家が殺害・拷問・追放されるとヌエバ・カンシオンは衰退することになった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "2009年12月5日、首都サンティアゴ・デ・チレでハラの葬儀が催され、数万人の市民が参加した。1973年当時、ピノチェト軍事独裁政府の弾圧によってハラの葬儀を公式に開催することができなかった。死後36年を経て公式の葬儀が行われ、バチェレ政権の閣僚や政党幹部らも参加した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "ポピュラー音楽においては、ロックは60年代に中産階級によって始められ、軍政期を通してインカ・ロックなどの形態で独自の発達をたどることになった。その後、80年代に軍事政権の言論弾圧が一時期弱まると、ロックはフォルクローレよりも盛んになり、チリ・ロックはメキシコなどのラテンアメリカ市場でも成功するミュージシャンを生み出している。代表的なミュージシャンとしてはロス・ジョッカーズ、ロス・トレス、ロス・プリシオネロス、ロス・ブンケルス、ラ・レイ、クダイなどが挙げられる。フォルクローレに独自のプログレッシヴ・ロック的な風味を加えたバンド「Los Jaivas」は国外でも高く評価されており、1960年代後半にデビューして以来、現在も現役で活動している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "チリ出身の著名な映像作家としては、『戒厳令下チリ潜入記』『サンディーノ』のミゲル・リティン、『クリムト』(2006)のラウル・ルイス、ボリス・ケルシア、アレハンドロ・ホドロフスキー(チリ出身)などが挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "チリ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "チリ国内でも他のラテンアメリカ諸国と同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。サッカーは19世紀にイギリス人によってチリにもたらされ、1933年にはプロリーグのプリメーラ・ディビシオンが創設された。主なクラブとしては、コロコロ、コブレロア、ウニオン・エスパニョーラ、ウニベルシダ・デ・チレ、ウニベルシダ・カトリカなどが挙げられる。欧州のビッグクラブで活躍した選手には、アレクシス・サンチェスやクラウディオ・ブラーボ、アルトゥーロ・ビダルがいる。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "チリサッカー連盟(FFC)によって構成されるサッカーチリ代表は、FIFAワールドカップには自国開催となった1962年大会で3位に輝いている。さらに1998年大会に出場した際には、「4チーム制によるグループリーグを3引き分け(0勝で勝ち点3)で突破し、決勝トーナメントに進出する」という珍しい記録をもつ。これは「8グループ、上位2チーム勝ち上がり」の1998年大会以降では初であり、現在まで唯一のケースとなっている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "チリ代表は近年コパ・アメリカでの躍進も著しく、2015年大会で初優勝を果たすと、翌年に行われた「100周年記念大会」であるコパ・アメリカ・センテナリオでも、リオネル・メッシのいるアルゼンチン代表を決勝で破って優勝し、大会連覇を達成した。また、FIFAコンフェデレーションズカップの2017年大会では、決勝に進出したがドイツ代表に0-1で敗れ準優勝となった。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "多数の科学刊行物によると、チリは2011年時点、ラテンアメリカで4位、世界で38位の科学的特許を持つ。また南極に4つの通年運用拠点、夏の間活動する8つの一時的な拠点を所有している。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "天体観測においては、パラナル天文台、世界最先端の国際共同利用施設であるALMA、世界最大級の国際共同利用施設であるラ・シヤ天文台など12のステーションがあり、世界の天文観測施設の40%が集中している。しかし、ラスカンパナス天文台での巨大マゼラン望遠鏡やパチョン山での大型シノプティック・サーベイ望遠鏡の建設決定、OWL望遠鏡計画におけるE-ELTの建設決定、ALMAの拡大などにより、今後数十年で世界全体の約70%へと拡大する見込みである。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "チリの紋章には、国の動物であるコンドル(Vultur gryphus、山岳地帯に棲む大型の鳥)とアンデスジカ(Hippocamelus bisulcus、絶滅が危惧されている尾部の白い鹿)が描かれている。これらは国の標語である「理性によって、または力によって」とも関連がある。", "title": "国の象徴" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "国花はコピウエであり、この花は南部の森林地帯に自生している。", "title": "国の象徴" } ]
チリ共和国、通称チリは、南アメリカ大陸南西部に位置する共和制国家。国土はアンデス山脈西側で南北に細長く、東にアルゼンチン、北東にボリビア、北にペルーと隣接する。西は南太平洋、南はフエゴ島を挟んでドレーク海峡に面している。首都はサンティアゴ。アルゼンチンとともに南アメリカ最南端に位置し、国土の大部分がコーノ・スールの域内に収まる。太平洋上に浮かぶフアン・フェルナンデス諸島や、サン・フェリクス島、サン・アンブロシオ島およびポリネシアのサラ・イ・ゴメス島、パスクア島(イースター島)などの離島も領有しており、さらにアルゼンチンやイギリスなどと同様に「チリ領南極」として125万平方キロメートルにも及ぶ南極の領有権を主張している(「南極における領有権主張の一覧」参照)。OECD諸国の中で貧困率と経済格差は最も大きい。
{{Otheruses}} {{基礎情報 国 | 略名 = チリ | 日本語国名= チリ共和国 | 公式国名 = '''{{Lang|es|República de Chile}}''' | 国旗画像 = Flag of Chile.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of Chile.svg|120px|チリの国章]] | 国章リンク =([[チリの国章|国章]]) | 標語 = ''{{lang|es|Por la razón o la fuerza}}''<br>(スペイン語:理性によって、または力によって) | 位置画像 = Chile (orthographic projection).svg | 公用語 = [[スペイン語]]([[チリスペイン語]]) | 首都 = [[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]]<ref group="注記">立法府(国会)は[[バルパライソ]]。</ref> | 最大都市 = サンティアゴ | 元首等肩書 = [[チリ大統領の一覧|大統領]] | 元首等氏名 = [[ガブリエル・ボリッチ]] | 首相等肩書 = [[元老院 (チリ)|元老院議長]] | 首相等氏名 = {{ill2|フアン・アントニオ・コロマ・コレア|en|Juan Antonio Coloma Correa}} | 他元首等肩書1 = [[代議院 (チリ)|代議院議長]] | 他元首等氏名1 = {{ill2|リカルド・シフエンテス|en|Ricardo Cifuentes}} | 面積順位 = 37 | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 756,950 | 水面積率 = 1.1% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 61 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 1911万6000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/cl.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-11-7}}</ref> | 人口密度値 = 25.7<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 200兆2764億4100万<ref name="imf202110">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=228,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database, October 2021|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2021-10|accessdate=2021-11-07}}</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 46 | GDP値MER = 2528億2100万<ref name="imf202110" /> | GDP MER/人 = 12,992.976<ref name="imf202110" /> | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 43 | GDP値 = 4546億200万<ref name="imf202110" /> | GDP/人 = 23,362.885<ref name="imf202110" /> | 建国形態 = 独立 | 建国年月日 = [[スペイン]]より<br>[[1818年]][[2月12日]] | 通貨 = [[チリ・ペソ]] | 通貨コード = CLP | 時間帯 = -3、-4、-6 | 夏時間 = -3、-5 | 国歌 = [[チリ国歌]]([[スペイン語]]: Himno Nacional de Chile) [[File:National Anthem of Chile.ogg|National Anthem of Chile]] | ISO 3166-1 = CL / CHL | ccTLD = [[.cl]] | 国際電話番号 = 56 | 注記 = {{Reflist|group="注記"}} }} '''チリ共和国'''(チリきょうわこく、{{lang-es|República de Chile}})、通称'''チリ'''は、[[南アメリカ大陸]]南西部に位置する[[共和制]][[国家]]。国土は[[アンデス山脈]]西側で南北に細長く、東に[[アルゼンチン]]、北東に[[ボリビア]]、北に[[ペルー]]と隣接する。西は[[南太平洋]]、南は[[フエゴ島]]を挟んで[[ドレーク海峡]]に面している。[[首都]]は[[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]]。アルゼンチンとともに南アメリカ最南端に位置し、国土の大部分が[[コーノ・スール]]の域内に収まる。太平洋上に浮かぶ[[フアン・フェルナンデス諸島]]や、[[サン・フェリクス島]]、[[サン・アンブロシオ島]]および[[ポリネシア]]の[[サラ・イ・ゴメス島]]、パスクア島([[イースター島]])などの[[離島]]も領有しており、さらにアルゼンチンや[[イギリス]]などと同様に「[[チリ領南極]]」として125万[[平方キロメートル]]にも及ぶ[[南極]]の領有権を主張している<ref name="USDoS">{{cite web|url=http://www.state.gov/outofdate/bgn/chile/192190.htm|title=Bureau of Western Hemisphere Affairs, Background Note: Chile|publisher=[[United States Department of State]]|accessdate=2011-12-16}}</ref>(「[[南極における領有権主張の一覧]]」参照)。[[経済協力開発機構|OECD]]諸国の中で貧困率と経済格差は最も大きい<ref>{{Cite web|和書|url=http://nambei.jp/2017/08/chile-economias-desiguales-oecd/|title=OECD: 経済格差の最も大きい国ランキング|publisher=南米ニュース|accessdate=2019-11-1}}</ref>。 == 国名 == [[ファイル:Paraguay - O Prov de Rio de la Plata - cum regionibus adiacentibus Tvcvman et Sta. Cruz de la Sierra - ca 1600.jpg|thumb|upright|[[1600年]]ごろのラ・プラタ地方の地図。「Chili」「Chicas」と表記されている。]] 正式名称はRepública de Chile(レプブリカ・デ・チレ)。通称 Chile(チーレ {{IPA|ˈt͡siːle]}},或いはシーレ{{IPA|ʃiːle}})。公式の[[英語]]表記はRepublic of Chile。通称 Chile(チリ {{ipa|ˈʧɪl(i)}}。 日本語の表記は'''チリ共和国'''。通称'''チリ'''。かつては「'''チリー'''」と表記されていたこともあった<ref>下中彌三郎(編)『世界文化地理体系24 ラテンアメリカ』[[平凡社]]、1954年</ref>。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は'''智利'''。日本語での初出は、[[西川如見]]『増補華夷通商考』([[1708年]]、[[宝永]]5年)に「チイカ」として紹介されるものとされる<ref>富田虎男「日本人のインディアン像 : その1. 徳川時代のインディアン像」(アメリカ研究シリーズ8巻1頁), 1986年3月30日, 2頁。</ref>。その後の[[江戸時代]]の文献では、[[谷川士清]]『倭訓栞』、[[斎藤彦麻呂]]『傍廂』が、それぞれ「智加」という漢字表記を用いている。 国名の由来は諸説ある。[[スペインによるアメリカ大陸の植民地化|植民地時代]]初期は「Chili」と表記されていたが、[[17世紀]]の[[スペイン人]]史家{{仮リンク|ディエゴ・デ・ロサーレス|en|Diego de Rosales}}によると、インカ人による[[アコンカグア]]にある渓谷の呼称で、元は[[15世紀]]に[[インカ帝国]]に征服される前、同地を支配していた先住民{{仮リンク|ピクンチェ族|es|Picunche|en|Picunche people}}の族長、「ティリ(Tili)」から転じたものとされている。このほか、先住民の言葉で「地の果て」「[[カモメ]]」<ref>{{cite encyclopedia|url=http://ea.grolier.com|title=Chile|encyclopedia=Encyclopedia Americana|publisher=Grolier Online|year=2005|accessdate=2 March 2005|quote=The name Chile is of Native American origin, meaning possibly "ends of the earth" or simply "sea gulls."}}</ref>、[[ケチュア語]]で「寒い」を意味する「Chiri」、「雪」もしくは「地上最深の場所」を意味する「Tchili」、[[マプチェ族]]の言葉で同地に生息する鳥の鳴き声を表す[[擬音語]]「cheele-cheele」に由来するなどの説がある<ref>{{cite web |url=http://www.chile.com/tpl/articulo/detalle/ver.tpl?cod_articulo=7225 |title=Chile.com.La Incógnita Sobre el Origen de la Palabra Chile |publisher=Chile.com |date=2000-06-15 |accessdate=2009-12-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090415204553/http://www.chile.com/tpl/articulo/detalle/ver.tpl?cod_articulo=7225 |archivedate=2009年4月15日 |deadlinkdate=2017年9月 }}{{cite web |author=Encyclopædia Britannica |url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/459648/Picunche |title=Picunche (people) - Britannica Online Encyclopedia |publisher=Britannica.com |accessdate=2009-12-17 }}</ref><ref name="encina">{{Cite book|last=Encina|first=Francisco A., and Leopoldo Castedo|title=Resumen de la Historia de Chile. 4th ed. Santiago|page=44|volume=I|publisher=Zig-Zag|year=1961|url=http://img242.imageshack.us/img242/6293/chilenameuo6.jpg}}</ref>。 == 歴史 == {{Main|[[チリの歴史]]}} チリは[[1818年]]に[[スペイン]]より独立した。[[1990年]]の[[アウグスト・ピノチェト|ピノチェト]][[軍事政権|軍事独裁政権]]崩壊後は、[[ラテンアメリカ]]では最も経済・生活水準が安定し、政治や労働でも最高度の自由を保っているとされてきたが、21世紀以降は国民の所得格差・不平等、教育への公的予算は中南米でも下位<ref>{{Cite web|和書|url=http://nambei.jp/2016/09/chile-desigualdad/|title=チリ、ラテンアメリカで最も格差のある国々内に入り続ける|publisher=南米ニュース|accessdate=2019-11-1}}</ref>となるなどの諸問題も抱えている。 == 政治 == {{Main|{{仮リンク|チリの政治|en|Politics of Chile}}}} [[ファイル:Palacio de La Moneda.png|thumb|チリ大統領府、[[モネダ宮殿|モネーダ宮殿]]]] [[ファイル:Kongress in valparaiso.jpg|thumb|[[バルパライソ]]の[[チリ国民議会|国民議会]]]] 政治制度は[[大統領]]を[[元首]]とする共和制国家であり、[[三権分立]]を旨とする[[議会制民主主義]]を採用している。[[行政]]は大統領を長とする。大統領は4年任期で選挙により選ばれ、2期連続で就任することはできない。内閣の閣僚は大統領が任命する。[[2006年]][[1月15日]]に[[チリ社会党|社会党]]の[[ミシェル・バチェレ]]が大統領に就任した。これはチリ史上初の[[女性]]大統領である<ref>{{Cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/4157908.stm|title=Chile scraps Pinochet-era system|publisher=BBC | date=2005-08-16 | accessdate=2009-12-31}}</ref>。2008年現在のチリ憲法は、[[アウグスト・ピノチェト]]を最高権力者とする軍政下に制定された1980年憲法である。特徴としては、[[大統領]]の権力が強められ、また国政への軍の最高司令官の参加が制度化された。しかし、[[1988年]]のピノチェト大統領の信任を問う国民投票に敗北したあと、憲法に対して大統領の権力を弱め、軍部の発言力を抑えるような修正がなされた。憲法の民主的な改正に関する議論は継続され、2005年に再改正された。2022年には制憲議会より大きな政府を志向する左派主導の新憲法案が提示されたが、急進的な内容が災いし9月4日の国民投票では賛成が38%にとどまり否決された<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20220905005731/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022090500193&g=int|title=チリ国民投票、新憲法案を否決=「急進的内容」忌避か|work=時事ドットコム|agency=[[時事通信社]]|date=2022-09-05|accessdate=2022-09-05}}</ref>。仕切り直しとなった2023年5月7日の制憲議会選挙では現行憲法に肯定的な右派勢力が草案承認に必要な3分の2を確保する結果となり<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20230509/k00/00m/030/008000c|title=チリの憲法草案作成メンバー選挙、右派が圧勝 左派大統領に打撃|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2023-05-09|accessdate=2023-05-09}}</ref>、右派色の強い改憲案が12月17日の国民投票にかけられたがやはり否決されており、ピノチェト時代の憲法を変える見通しは立っていない<ref>{{Cite web|author=西濵徹|url=https://www.dlri.co.jp/report/macro/288210.html|title=チリ・制憲評議会が新たな憲法草案提出、一転して右派色の強い内容に|publisher=[[第一生命経済研究所]]|date=2023-11-13|accessdate=2023-12-18}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2023-12-18/S5U1QADWX2PS00|title=チリの新憲法草案、国民投票で再び否決-世論調査の結果と一致|work=bloomberg.co.jp|agency=[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]]|date=2023-12-18|accessdate=2023-12-18}}</ref>。 [[立法]]は、[[両院制]]であり、議会は[[バルパライソ]]に所在する。[[元老院 (チリ)|上院]]は43議席であり、一般投票により選出され、任期は8年。2005年までそのほかに国家安全保障委員会や司法機関、共和国大統領、前大統領などが11名を任命する制度があったが、憲法改正によりこの11議席は廃止された。[[代議院 (チリ)|下院]]は120議席であり、任期は4年。法案が採択されるには、両院および拒否権を持つ共和国大統領の承認を得なければならない。また両者ともに法案を提議することができるが、これを施行する権限は大統領にしかない点が問題とされている。 [[司法]]の最高機関は最高裁判所である。憲法に関する判断は憲法裁判所が行い、憲法に反すると考えられた法律を差し止めることができる。 チリにも公権力の腐敗・汚職がないわけではないが、それは恒常的なものではなく、世界の「透明度」の高い国の上位30か国以内に過去10年間連続してランクづけされており、2017年度の[[トランスペアレンシー・インターナショナル]](TI)による世界腐敗認識指数では26位<ref>https://www.transparency.org/news/feature/corruption_perceptions_index_2017 2018-10-24 閲覧</ref>と[[ウルグアイ]]に次いで[[ラテンアメリカ]]で2番目であった。ラテンアメリカ諸国の中では腐敗しておらず、比較的しっかりした法治国家だと認識されている<ref>[http://www.mercopress.com/vernoticia.do?id=11452&formato=HTML Chile and Uruguay least corrupt countries in Latam] 2009-03-25 閲覧</ref>。 ピノチェト軍事独裁から民政移管した1990年以降の中道左派と中道右派の政権交代の下で、医療・教育・福祉予算を抑える新自由主義路線が維持されてきた<ref>{{cite news|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik21/2021-12-21/2021122101_05_0.html|title=新自由主義から転換へ|newspaper=|publisher=|date=2021-12-21|accessdate=2022-01-10}}</ref>。 == 国際関係 == {{Main|{{仮リンク|チリの国際関係|en|Foreign relations of Chile}}}} [[ファイル:Foreign relations of Chile.svg|thumb|520px|チリと外交関係を有する諸国の一覧図]] 独立直後からチリは隣国のペルー、ボリビアに干渉を行ってきた。1836年から1839年までの連合戦争では[[ペルー・ボリビア連合]]に終始敵対し、これを崩壊させるのに大きな役割を果たした。その後、1879年に[[アタカマ]]の硝石資源を巡ってペルー、ボリビア両国に[[宣戦布告]]し、この太平洋戦争によって両国から領土を得た。その影響でボリビアは現在でも国交がない。 19世紀を通してチリは経済的にはイギリスと、文化的にはフランスと関係が深かった。この時期に[[チリ海軍]]はイギリスの、法や教育はフランスの<ref>{{cite web |url=http://www.un.org/members/list.shtml#c |title=United Nations Member States |publisher=United Nations |accessdate=2011-08-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090417145758/http://www.un.org/members/list.shtml#c |archivedate=2009年4月17日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.un.org/members/growth.shtml |title=United Nations Member States |publisher=United Nations |accessdate=2011-08-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071216164953/http://www.un.org/members/growth.shtml |archivedate=2007年12月16日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.un.org/av/photo/detail/0001314.html?browse=all.html|title=The San Francisco Conference: Chile Signs United Nations Charter|accessdate=2010-05-14}}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>、陸軍は[[プロイセン王国|プロイセン]]の影響を強く受けた。 1973年のクーデターにより、チリは軍事政権による人権侵害などのために国際的孤立に陥ったが、民政移管した1990年以来、チリは国際的孤立から復活した。2010年、チリは[[経済協力開発機構|OECD]]の31番目の公式加盟国になった。 軍政期の1983年に長年緊張関係が続いており、何度も戦争直前にまで陥った隣国アルゼンチンが[[ラウル・アルフォンシン]]政権の下でチリとの歴史的な和解を進めて[[ピクトン島・レノックス島・ヌエバ島|ピクトン島、レノックス島、ヌエバ島]]のチリ領有を認めると、パタゴニアをめぐってのチリの領土問題は解決した。また、太平洋戦争以来続いたペルーとの緊張も収まりつつある。しかし、太平洋戦争で併合した[[アントファガスタ]]を返還するように求めるボリビアとの緊張はいまだに続いている。 なお、チリはイギリス、アルゼンチンと同様に[[南極大陸]]の一部に対して領有権([[チリ領南極]])を主張している。 2009年3月27、28日の両日、中部の都市[[ビニャデルマル]]で欧米(スペイン、イギリス、ノルウェーの首相、[[アメリカ合衆国副大統領|アメリカの副大統領]])<ref>{{cite web|title=Election (13 May 2010) Human Rights Council|url=http://www.un.org/en/ga/64/elections/hrc/index.shtml|work=64th Session|publisher=[[United Nations General Assembly]]|accessdate=2010-05-13}}</ref>と南米([[ブラジル]]、チリ、アルゼンチン、[[ウルグアイ]]の大統領)の8か国による首脳会議が開かれた。首脳らは同会議を「進歩派首脳会議」と呼んでいる<ref>{{cite web|title=Chad, Chile, Lithuania, Nigeria and Saudi Arabia were elected to serve on the UN Security Council|date=2013-10-17|accessdate=2013-10-17|publisher=United Nations|url=http://www.un.org/apps/news/story.asp?NewsID=46277&Cr=security+council&Cr1=#.UmAVWCQd5TQ}}</ref>。会議は、4月20日に[[ロンドン]]で開かれる[[第2回20か国・地域首脳会合]](G20金融サミット)に向けた意見調整を目的に行われた。各首脳は新たな世界秩序の形成に向けた展望を論議した。同会議は最終宣言を発表した。 === 日本との関係 === {{Main|日本とチリの関係}} [[1897年]]に日本チリ修好通商条約が締結され、同年[[9月25日]]に外交関係を樹立。[[太平洋戦争]]末期の[[1945年]][[4月11日]]にチリが対日宣戦布告し断交するものの、[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]締結後の[[1952年]][[10月17日]]に外交関係を再開した<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/chile/data.html#section6 チリ共和国(Republic of Chile)基礎データ 二国間関係] 日本国外務省(2020年7月9日閲覧)</ref>。 日本とチリは[[日本・チリ経済連携協定]](2007年9月3日発効)を締結している。また、ともに[[環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定]](CPTPP, TPP11協定)の署名国である<ref name="TPP11">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/tpp/index.html 環太平洋パートナーシップ(TPP)協定交渉] 日本国外務省(2020年7月9日閲覧)</ref>。ただし、チリは国内手続が遅れ、2022年12月23日に国内手続きの完了を通報したため、CPTPPはチリについては2023年2月21日に発効する<ref>{{cite news|title =チリによるTPP11発効のための国内手続完了の通報|url =https://www.cas.go.jp/jp/tpp/tppinfo/2022/pdf/20221223_tpp_kaiken.pdf|publisher = 内閣官房TPP等政府対策本部|date =2022-12-23 | accessdate = 2022-12-25}}</ref>。 {{See also|在チリ日本国大使館|駐日チリ大使館}} == 軍事 == {{main|チリ軍}} [[ファイル:Leopard 2A4CHL Chile.jpg|thumb|チリ陸軍の装備するレオパルド戦車]] [[ファイル:Almirante Blanco Encalada (FF-15).jpg|thumb|[[チリ海軍]]の[[フリゲート]]艦''アルミランテ・ブランコ・エンカラダ'' (FF-15)]] チリの大統領は軍隊の指揮権を有し、軍は国防相と大統領の統制を受けている。また、チリでは[[徴兵制]]が実施され、国民は2年間の兵役の義務を有している。陸海空三軍のほかに[[軍警察|憲兵]]([[カラビネーロス・デ・チレ|カラビネーロス]])が存在し<ref>{{cite web|url=http://chds.dodlive.mil/2014/05/19/chilean-army-commander-in-chief-visits-wjpc/|title=Chilean Army Commander-in-Chief Visits WJPC|publisher=|accessdate=2014-05-19}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.carlisle.army.mil/banner/article.cfm?id=3477|title=Army War College Community Banner|publisher= |accessdate=2014-05-12}}</ref>、規模は4万人ほどである。また、チリは[[ブラジル]]に続いて南アメリカで2番目に大きな軍事予算を組んでいる。 伝統的にチリの軍隊は、「軍は憲法の番人である」として、他のラテンアメリカ諸国より政治に介入する頻度は比較的大きくなかったが、アジェンデがスト解決のために軍人を利用し始めたことから崩れ始め、1973年のピノチェト将軍らによるチリ・クーデターにより崩された<ref>{{cite web |url=http://www.carabineros.cl/sitioweb/web/verSeccion.do?cod=239&codContenido=429 |title=Carabineros de Chile |publisher=Wayback.archive.org |date=2007-10-24 |accessdate=2013-07-13 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120312050416/http://www.carabineros.cl/sitioweb/web/verSeccion.do?cod=239&codContenido=429 |archivedate=2012年3月12日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。その後、軍政期に軍は[[コンドル作戦]]や「[[汚い戦争]]」などを遂行し、自国民や近隣諸国の反体制派市民の[[拷問]]、殺害に携わったが、1990年の民政移管後は、それなりの規模と発言力を保ちながら国民との和解が進められた<ref>{{cite web |url=http://www.armada.cl/p4_ingles/site/artic/20050719/pags/20050719132849.html |title=Submarine Force |publisher=Wayback.archive.org |accessdate=2013-07-14 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070610100430/http://www.armada.cl/p4_ingles/site/artic/20050719/pags/20050719132849.html |archivedate=2007年6月10日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。 === 陸軍 === [[チリ陸軍]]は兵員4万5,000人を有し、サンティアゴに司令部がある。6つの軍管区に分けられ、[[ランカグア]]に飛行[[旅団]]が、[[コリナ]]に[[特殊部隊]]の司令部がある。チリ陸軍はラテンアメリカでも最も整備され、専門的かつ技術革新の進んだ軍隊の一つである。 === 海軍 === [[チリ海軍]]は[[海兵隊]]2,300人を含む兵員2万3,000人を有している。29隻の艦艇を有するが、水上戦闘艦艇は内8隻の[[フリゲート]]のみである。水上艦隊の母港は[[バルパライソ]]にある。海軍は輸送と警戒にあたる航空機を保有しているが、戦闘機や爆撃機は有していない。4隻の[[潜水艦]]を運用し、潜水艦の基地は[[タルカワノ]]にある。 === 空軍 === [[チリ空軍]]は兵員1万2,500人を有し、それぞれ[[イキケ]]、アントファガスタ、サンティアゴ、[[プエルト・モント]]、[[プンタ・アレーナス]]に5つの飛行旅団を置いている。空軍は[[南極]]の[[キング・ジョージ島]]の基地でも活動している。2006年に[[F-16 (戦闘機)|F-16]]が14機、2007年にも14機導入された。なお空軍は、軍政期は警察とともに反軍政派だった。 === カラビネーロス === 1973年9月の軍事クーデターに参加後、チリ国家警察([[カラビネーロス・デ・チレ]])は国防省と一体化した。民政移管後に、警察の実質的な指揮権は内務省の下に置かれたが、国防省の名目的指揮下に置かれたままとなった。40,964人<ref>[http://www.carabineros.cl/sitioweb/web/verSeccion.do?cod=239&codContenido=429 Carabineros de Chile] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120312050416/http://www.carabineros.cl/sitioweb/web/verSeccion.do?cod=239&codContenido=429 |date=2012年3月12日 }}, accessed on May 31, 2008</ref>の男女が法の執行、交通整理、[[麻薬]]鎮圧、国境の管理、[[対テロ作戦]]などの任務にチリ国内で従事する。 == 地方行政区分 == {{Main|チリの地方行政区分}} チリは、州監督官(Intendente)を長とする16の州(Region)に分けられる。州はさらにいくつかの県(Provincia)に分割され、それぞれに県知事(Gobernador provincial)が置かれる。県はさらに市町村(Comunas)に分けられ、市(町、村)長がいる<ref>{{cite web |url=http://www.gobiernodechile.cl/organigrama/organigrama.asp |title=Organigrama |work=Gobierno de Chile |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071214000711/http://www.gobiernodechile.cl/organigrama/organigrama.asp |archivedate=2007年12月14日 |accessdate=2015-04-15 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。監督官と知事は大統領により任命され、市(町、村)長は一般投票により選ばれる。 1974年に各州には北から南へ順に[[ローマ数字]]が割り当てられた。しかし首都州は例外的に頭文字のRMとされたこと、またその後に新設された州には位置に関係なく割り振られたことから、当初の意義を失い2018年2月に廃止された<ref>{{Cite web |url=http://www.cooperativa.cl/noticias/pais/ciudades/ley-les-quito-los-numeros-a-las-regiones-ahora-solo-se-conoceran-por-su-nombre/2018-03-07/101936.html |title=Ley les quitó los números a las regiones: Ahora solo se conocerán por su nombre |publisher=cooperativa |date=2018-03-07 |accessdate=2020-03-04}}</ref>。 {| |- | [[ファイル:Mapa-chile.svg|250px|none|チリの16州]] | width="10" | | {| class="wikitable sortable" |- bgcolor=#ececec !旧番号 !! 日本語表記 !! [[スペイン語]]表記 !! 州都 |- |XV |{{Flagicon|Arica y Parinacota}} [[アリカ・イ・パリナコータ州]] |Región de Arica y Parinacota |[[アリカ (チリ)|アリカ]] |- |I |{{Flagicon|Tarapacá}} [[タラパカ州]] |Región de Tarapacá |[[イキケ]] |- |II |{{Flagicon|Antofagasta}} [[アントファガスタ州]] |Región de Antofagasta |[[アントファガスタ]] |- |III |{{Flagicon|Atacama}} [[アタカマ州]] |Región de Atacama |[[コピアポ]] |- |IV |{{Flagicon|Coquimbo}} [[コキンボ州]] |Región de Coquimbo |[[ラ・セレナ]] |- |V |{{Flagicon|Valparaíso}} [[バルパライソ州]] |Región de Valparaíso |[[バルパライソ]] |- |RM |{{Flagicon|Metropolitana}} [[首都州 (チリ)|首都州]] |Región Metropolitana de Santiago |[[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ・デ・チレ]] |- |VI |{{Flagicon|Libertador General Bernardo O'Higgins}} [[リベルタドール・ベルナルド・オイギンス州]] |Región del Libertador General Bernardo O'Higgins |[[ランカグア]] |- |VII |{{Flagicon|Maule}} [[マウレ州]] |Región del Maule |[[タルカ]] |- |XVI |{{Flagicon image|Flag of Ñuble Region, Chile.svg}} [[ニュブレ州]] |Región de Ñuble |[[チヤン]] |- |VIII |{{Flagicon|Biobío}} [[ビオビオ州]] |Región del Biobío |[[コンセプシオン (チリ)|コンセプシオン]] |- |IX |{{Flagicon|Araucanía}} [[ラ・アラウカニア州]] |Región de la Araucanía |[[テムコ]] |- |XIV |{{Flagicon|Los Ríos}} [[ロス・リオス州]] |Región de Los Ríos |[[バルディビア]] |- |X |{{Flagicon|Los Lagos}} [[ロス・ラゴス州]] |Región de Los Lagos |[[プエルト・モント]] |- |XI |{{Flagicon|Aisén del General Carlos Ibáñez del Campo}} [[アイセン・デル・ヘネラル・カルロス・イバニェス・デル・カンポ州]] |Región Aisén del General Carlos Ibáñez del Campo |[[コイアイケ]] |- |XII |{{Flagicon|Magallanes y de la Antártica Chilena}} [[マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ州]] |Región de Magallanes y de la Antártica Chilena |[[プンタ・アレーナス]] |- |} |} ===主要都市=== {{Main|チリの都市の一覧}} 主要な都市は[[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]](首都)、[[バルパライソ]]がある。 == 地理 == [[ファイル:Mapa administrativo de Chile.png|thumb|upright|left|280px|チリの地図]] [[ファイル:Chile topo en.jpg|thumb|left|地形図]] [[ファイル:Parinacota volcano.jpg|thumb|[[パリナコータ山|パリナコータ火山]]]] [[ファイル:Volcano Osorno and Petrohué waterfalls.JPG|thumb|チリ富士と呼ばれる南部の[[オソルノ山]]]] [[ファイル:Cuernos del Paine from Lake Pehoé.jpg|thumb|[[トーレス・デル・パイネ国立公園]]]] [[ファイル:BeagleChannelGlacier.jpg|thumb|[[ビーグル水道]]の[[氷河]]]] [[ファイル:Glaciar Grey, Torres del Paine.jpg|thumb|南部の氷河]] {{Main|{{仮リンク|チリの地理|es|Geografía de Chile|en|Geography of Chile}}}} 西部の[[太平洋]]との海岸線、東部の[[アンデス山脈]]、北部の[[アタカマ砂漠]]によって囲まれた国土は南北に細長く、北から南までの総延長は約4,300[[キロメートル]]に及ぶ。海岸線に沿った[[ペルー・チリ海溝]]では過去にしばしば[[超巨大地震]]([[チリ地震]])が発生して、太平洋対岸にあたる[[日本]]の[[三陸海岸]]などの[[環太平洋]]全域に[[津波]]で大きな被害が起きてきた歴史がある(→[[チリ地震 (1960年)]])。また、ペルー・チリ海溝に沿う形で[[プジェウエ=コルドン・カウジェ火山群]]などの活発な[[活火山]]を多数擁している。 北部の[[砂漠]]地帯([[:es:Norte Grande de Chile|Norte Grande]])では年間を通してほとんど雨が降らない。[[銅]]など鉱物資源に富む。ラ・セレナの南から[[地中海性気候]]の渓谷地域([[:es:Norte Chico de Chile|Norte Chico]])となり、チリの主要輸出品目の一つである[[ブドウ]]などの果物の栽培や、最近輸出量が増えてきた[[ワイン]]の生産に適している。19世紀後半から発展した歴史を有するこの国の主要地域であり、人口と農産物が集中する。[[:es:Zona Central de Chile|Zona Central]]。バルディビアからプエルト・モントまでの南部地域([[:es:Zona Sur de Chile|Zona Sur]])は[[森林]]地帯の続く[[牧畜]]に適した湖水地方であり、火山地域である。年間を通して雨が多い。南緯40度以南([[:es:Zona Austral de Chile|Zona Austral]])には[[パタゴニア]]と呼ばれ、沿海部は典型的な[[フィヨルド]]地形が形成されている。[[マゼラン海峡]]を越えて南には[[フエゴ島]]が存在し、島の西半分がチリ領となっている。南極大陸の125万平方キロメートルの領有権を主張するが([[チリ領南極]])、[[南極条約]]で棚上げとなっている。チリは[[ポリネシア]]にも領土を有し、[[サラ・イ・ゴメス島]]、[[ロビンソン・クルーソー島]]とチリ本土から西に3,700キロメートルほど離れて[[ラパ・ヌイ]]([[イースター島]])が存在する。最高地点はアンデス山脈の[[オホス・デル・サラード山]]の[[海抜]]6,893メートル。チリの[[対蹠地]]は北・中部が[[中華人民共和国]]、南部は[[モンゴル国]]、最南部は[[ロシア]]の[[シベリア]]である。 === 気候 === {{Main|{{仮リンク|チリの気候|en|Climate of Chile}}}} 気候は幅広く、太平洋上に浮かぶ[[ラパ・ヌイ島]](パスクア島、イースター島)の[[亜熱帯]]から、国土の北3分の1を占め、世界で最も乾燥した砂漠とされる[[アタカマ砂漠]]、中央部の肥沃な渓谷地域、そして元々は森林に覆われていた湿度は高いが寒い南部、[[ツンドラ]]気候が広がる最南部の[[パタゴニア]]地方に大きく分けられる。 チリは南北に大変長細い国であるため、北の方から順に[[砂漠気候]]、[[ステップ気候]]、[[地中海性気候]]、[[西岸海洋性気候]]、[[ツンドラ気候]]と気候が違っている(南半球であるため亜寒帯は存在しない)。寒流である[[ペルー海流]]の影響により、北部でもあまり気温は上がらない。また寒流は[[西岸砂漠]]の成因であり、[[アタカマ砂漠]]は世界で降水量が最も少ない地域となっている。 === 時間帯 === チリ本土では[[UTC-4]]([[マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ州]]は[[UTC-3]])だが、パスクア島では[[UTC-6]]となっている。また、マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ州を除いて[[夏時間]]を実施している。 {{Clearleft}} == 治安 == {{main|{{仮リンク|チリにおける犯罪|en|Crime in Chile}}}} チリは中南米の国の中では治安が良い国とされてきたが、2013年以降は悪化傾向にあり、貧富の格差の拡大も相まって地方にも犯罪が波及しつつある。そのため防犯意識を持って行動する必要があるとされる<ref name="外務省">{{Cite web|和書| publisher = [[外務省]]| title = 安全対策基礎データ | url =http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure.asp?id=251|date = 2013-05-14 | accessdate = 2014-07-05}}</ref>。 == 経済 == {{main|{{仮リンク|チリの経済|en|Economy of Chile}}}} [[2021年]]のチリの名目[[国内総生産|GDP]]は、世界44位であり、3,167.70億[[アメリカ合衆国ドル|USドル]]である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.globalnote.jp/post-1409.html |title=世界の名目GDP 国別ランキング・推移(IMF) |access-date=2023-01-12 |publisher=GLOBAL NOTE |date=2022-10-14}}</ref>。チリのGDPは、2000年代から大幅に成長しており、4倍以上の著しい伸び率が見られる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.globalnote.jp/p-cotime/?dno=8860&c_code=152&post_no=1409 |title=チリ(Chile)名目GDP(IMF統計) |access-date=2023-01-12 |publisher=GLOBAL NOTE |date=2022-10-14}}</ref>。2022年9月時点では、経済活動指数の変動も少なく、国民の生活は比較的安定している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cl.emb-japan.go.jp/files/100408490.pdf |title=チリ経済情勢報告(2022年9月) |access-date=2023-01-12 |publisher=在チリ日本大使館経済班 |date=2022-09}}</ref>。しかし、[[失業|失業率]]は7.9%と未だに高い水準であり、日本の3倍以上にもなる<ref>{{Cite web|和書|url=https://graphtochart.com/education/chile-unemployment-total-of-total-labor-force-modeled-ilo-estimate.php |title=グラフで見るチリの失業率 |access-date=2023-01-12 |publisher=Graph To Chart |date=2020‐06‐21}}</ref>。 <!-- オーバーUSD303.23億の姿に達し、<ref>{{cite web |url=http://data.worldbank.org/indicator/BX.KLT.DINV.CD.WD |title=Foreign direct investment, net inflows (BoP, current US$) |accessdate=2013-07-07 |author=Banco Mundial |date=2013 |language=英語}}</ref>外国直接投資として、以上$3133.25億に達しても、<ref>{{cite web |url=http://data.worldbank.org/indicator/CM.MKT.LCAP.CD |title=Market capitalization of listed companies (current US$) |accessdate=2013-07-07 |author=Banco Mundial |date=2013 |language=英語}}</ref>市場価値として知られる2012年のデータは、両方の国の時価総額によると、ラテンアメリカで最も高い。チリは世界銀行によって高所得国に分類されており、2013年については、額面のGDPは2772億ドル、一人当たりのGDPな15791ドルと推定された。購買力平価を調整するために、2014年の一人当たりのGDPは19067ドルに達した。--> [[ファイル:Santiago en invierno.jpg|thumb|left|首都サンティアゴ・デ・チレの景観。サンティアゴ・デ・チレはチリ最大の都市であり、南米有数の[[世界都市]]である。]] [[アジア太平洋経済協力]](APEC)に加盟しており、[[メルコスール]]準加盟国であるゆえに[[南米諸国連合|南米共同体]]にも加盟している。また、[[ブラジル]]やアルゼンチンなどともにラテンアメリカで最も工業化された国の一つであり、域内では[[ベネズエラ]]、アルゼンチン、ブラジル、[[メキシコ]]とともに[[新興工業経済地域|中進国]]とされ、2007年から[[経済協力開発機構|OECD]]加盟に向けて交渉を進め、[[2010年]]5月7日に加盟を果たした。 経済はほとんど輸出により成り立っている<ref>{{cite web |url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2095.html#ci |title=Labor Force |accessdate=2011-05-01 |format=HTML |author=Agencia Central de Inteligencia |date=2011 |language=英語}}</ref>。輸出品目の第2位は農業関連製品で、第1位は以前より世界一の生産量を誇る[[銅]]である。[[1970年代]]初頭は輸出品の70%を銅が占めていたが、現在は40%とその重要度は低下している。最近では、各地で産出される良質な[[ワイン]]、[[サケ|サーモン]]、[[木材パルプ]]の輸出が始められた<ref name="laborforce">{{cite web |url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2048.html#ci |title=Labor Force - By occupation |accessdate=2011-05-01 |formate=HTML |author=Agencia Central de Inteligencia |date=2011 |language=英語}}</ref>。 チリ北部の主要産業は[[鉱業]]であるが、南部には大規模な[[農業]]、[[酪農]]がある。[[バルパライソ]]といった主要港のある中央部には[[サービス業]]と[[工業]]が集中している。チリのサービス業部門は大きく、世界で最も自由化され先端をいく通信インフラが整っている。[[1990年代]]のにわか景気では、毎年7 - 12%の経済成長を記録したが、[[1997年]]の[[アジア通貨危機]]以降は、年3%にまで落ち着いた。 近年、[[欧州連合]](EU)、[[アメリカ合衆国]]、[[カナダ]]、メキシコ、[[大韓民国|韓国]]などと[[自由貿易協定]]を結んでいる。日本のほかカナダ、メキシコや[[ニュージーランド]]、[[オーストラリア]]、[[シンガポール]]など一部の[[東南アジア]]諸国とはともにTPP11署名国である<ref name="TPP11"/>。 {{Clearleft}} === 第一次産業 === [[ファイル:Tree map export 2009 Chile.jpeg|thumb|色と面積で示したチリの輸出品目(2009年)]] ==== 農業 ==== {{see|{{仮リンク|チリの農業|en|Agriculture in Chile}}}} [[農業]]では、[[果樹]]類の生産が特筆される。[[16世紀]]から[[ポトシ]]市場向けにワインの原材料として[[ブドウ|ぶどう]]が広く生産されている。[[1970年代]]には過剰生産とワインの品質低下がたたって、一時生産量が低迷したが、ワインの品質改良などの地道な努力が功を奏し、[[1990年代]]以降は再び生産量を増やしている。日本のワイン輸入量の国別シェアで、フランスなど南欧諸国を上回り首位となっている(2018年)<ref>『[[日経ヴェリタス]]』2019年11月17日50面【Econo Graphics】日本の2018年のワイン輸入量ランキング</ref>。 農業従事者は、2005年にはチリの労働者の13.2%を占めている。 [[ファイル:Gauchowheat edit2.jpg|サムネイル|左|[[ウアッソ]]とトウモロコシ畑(1940年)]] チリの主な農産物は、穀物である[[オート麦]]、[[トウモロコシ]]、[[小麦]]、[[果物]] - [[桃]]、[[リンゴ]]、ナシやブドウと[[野菜]][[ニンニク]]、[[タマネギ]]、[[アスパラガス]]と[[豆]]などである。果物や野菜の輸出は、アジアと欧州市場である。 ==== 林業 ==== {{see|{{仮リンク|チリの林業|en|Forestry in Chile}}}} [[林業]]については、国土の2割が[[森林]]となっており木材生産が盛んに行われてきたが、1980年代以降、[[アメリカ合衆国]]や[[日本]]の業者が進出し、[[パルプ]]用の木材チップの生産を飛躍的に高めた。南部のパタゴニア地方を中心とした[[原生林]]での生産が有望視されているが、無秩序に近い[[自然破壊|環境破壊]]を訴える[[自然保護団体]]も存在し、先住民マプーチェ人をはじめとする現地の住民も無軌道な乱伐に反対している。 ==== 水産業 ==== 近年では、チリは[[ノルウェー]]とともにサケの世界有数の輸出国となっている。 [[漁業]]については、東太平洋が[[アンチョビ]]などの好漁場であり、古くから活発に漁業が営まれてきた。[[気候]]や[[地形]]の類似点から、[[北半球]]の[[サケ類]]の移植が進められたが、自然[[放流]]により再生産を図る計画は失敗。しかし、代わりに始まったサケ類の[[養殖]]事業は大成功を収め、[[2005年]]には世界のサケ類の養殖生産高の3分の1、約60万トンを誇る規模(世界第2位)となっている。 === 鉱業 === {{see|{{仮リンク|チリの鉱業|en|Mining in Chile}}}} [[鉱業]]については、地下資源、特に[[金属]][[鉱物]]資源に恵まれている。[[2003年]]時点で、[[銅]]の採掘量は世界一であり、490万トンに達する。これは世界シェアの36.0%に相当する。[[銀]]は1,250<!-- 万ではない -->トンであり、世界第6位、シェア6.7%である。金の世界シェアも1.5%である。このほか、[[亜鉛]]、[[鉄]]、[[鉛]]を産出する。 金属以外の無機鉱物資源では、[[ヨウ素]]、[[イオウ|硫黄]]、塩、カリ塩、[[リン鉱石]]が有望であり、リン鉱石以外は世界シェア1%を上回る。有機鉱物資源も見られるが、規模は小さい。たとえば、[[石炭]]の産出量は43万トンに留まる。19世紀に火薬の原料として世界最大の産出量があったアタカマ砂漠の[[チリ硝石]]は20世紀に入ると化学製品に押され役目が終わった。 [[ファイル:Trabajadores salitre.jpg|150px|サムネイル|[[硝石]]労働者]] [[ファイル:Chuquicamata-003.jpg|150px|サムネイル|チュキカマタは[[露天掘り]]で世界最大の鉱山である。]] チリの[[アントファガスタ州]][[タフレタル]]でアメリカ大陸最古の[[酸化鉄]]採掘が始まった<ref>{{Cite web|和書|url=http://papeldigital.info/lt/?2011052001# |title=研究ではアメリカで最も古い鉱山がタフレタルにあった確認し |accessdate=2011-05-21 |author=Rodríguez, F. |date=2011-05-20 |editorial=''La Tercera'' |pages=52 |deadlinkdate=2016-04}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.sciencenewsline.com/archaeology/2011052013000004.html |title=Archaeologists uncover oldest mine in the Americas |accessdate=2011-05-21 |formate=HTML |author=University of Chicago Press Journals |fecha=2011年5月20日 |languages=英語}}</ref>。北部鉱山[[チャニャルシヨ]]では[[銀]]・[[硝石]]と連続する[[石炭]]採掘がチリ経済を主要な役割へと導いた。<ref>{{cite web |url=http://quepasamineria.cl/index.php/noticias/item/819-%C2%BFsería-posible-un-chile-sin-esta-actividad |title=Minería - ¿Sería posible un Chile sin esta actividad? |accessdate=2013-07-03 |formate=PHP |author=[[:es:Felipe Morandé|Morandé, Felipe]] |date=2012-08-06}}</ref><ref>{{cite journal |date=2010年7月 |title=Editorial: 200 años de tradición minera |url=http://www.mch.cl/revistas/PDF/MCH%20349.pdf |formate=PDF |publisher=Minería Chilena |number=349 |pages=13 |accessdate=2012-05-25 |issn=0716-1042|urlarchivo=https://web.archive.org/web/http://www.mch.cl/revistas/PDF/MCH%20349.pdf|archivedat=2015年12月3日}}</ref> 鉱業は、国内15地域のうち13地域で存在し、25種類の製品を産する。特にタラパカ、アントファガスタ、アタカマ地域の主要な経済活動であり、コキンボ、バルパライソ、オヒギンス地域でも非常に重要である。マガヤネス地域では[[石油]]生産が重要である。 主な製品は銅で、世界の36%を供給する世界最大の生産国であり、世界の銅埋蔵量の28%を占めている。チリの輸出の30%を占める銅鉱山アカウントは1970年には60%以上をカバーしていた。世界最大の銅会社、国営コデルコは、チュキカマタ、エルテニエンテで世界最大の露天掘りおよび地下の主要鉱床で操業している。 鉄、[[モリブデン]]、硝石、銀 - 金のような他の資源開発も重要である。2012年に、鉱物の世界生産の37%がこの国に集中しており、さらに[[リチウム]]の世界埋蔵量の21.9%が存在する。[[ラピスラズリ]]は、チリ北部コムバルバラ地域に原石が豊富に存在すると1984年に宣言された貴重な装飾用の石である。 === 観光 === {{see|{{仮リンク|チリの観光地|en|Tourism in Chile}}}} [[ファイル:Salar d'Atacama hé.jpg|thumb|left|220px|[[アタカマ塩原]]]] 近年、[[観光業]]も成長を続けている。南部の森林地帯の荒々しい美しさ、北部の[[アタカマ砂漠]]の広漠とした風景、5月から9月にかけての[[アンデス山脈]]の[[スキー]]シーズンが観光客を惹きつけている。また、[[パタゴニア]]や、[[モアイ]]などの独自の観光資源を持つラパ・ヌイ島(イースター島)も観光地としての人気がある。その他には[[ビーニャ・デル・マル]]などのビーチ・リゾートも存在するが、[[寒流]]であるペルー海流([[フンボルト海流]])の影響のため、チリの海は海水浴には適していない<ref>Blanco, Hernán ''et al.'' (August 2007) [https://web.archive.org/web/20080408235147/http://www.rides.cl/pdf/trade_tourism_chile.pdf International Trade and Sustainable Tourism in Chile]. International Institute for Sustainable Development</ref>。 [[観光]]は、2005年にこの部門は国のGDPの1.33%に相当し、15億ドル以上を生成して13.6%増加した1990年代半ば以降、チリの主要な経済資源の一つとなっている。海外での観光振興では、チリは2012年に合計600万ドルの資金を投資した<ref>{{cite news |title=Zalaquett (UDI) aboga por aumento de recursos para fomentar el turismo chileno en el exterior |url=http://www.elmostrador.cl/noticias/pais/2013/01/05/zalaquett-udi-aboga-por-aumento-de-recursos-para-fomentar-el-turismo-chileno-en-el-exterior/ |agency=UPI |date=2013-01-05 |accessdate=2013-01-05}}</ref>。 観光客が本土への全ての訪問の1.8%に達したとき、[[世界観光機関]](WTO)によると<ref>{{cite book |author=[[Organización Mundial del Turismo]] |title=[http://mkt.unwto.org/sites/all/files/docpdf/unwtohighlights11enlr_1.pdf UNWTO Tourism Highlights 2011 Edition] |format=PDF |accessdate=2011-04-20 |language=英語 |year=2010 |chapter=Regional Results: Americas |pages=8}}</ref>、チリのラテン語圏の外国人観光客のための政策は2010年に始まったという<ref>{{cite web |url=http://www.sernatur.cl/institucional/scripts/estadisticas.php |title=Estudios y estadísticas - Estadísticas - Llegadas de turistas extranjeros a Chile - Por nacionalidad: Turistas extranjeros entrados según nacionalidad, año 2011 |accessdate=2012-06-19 |format=PHP |author=[[Servicio Nacional de Turismo]] |date=s/f}}{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。その年、国は1,636万ドルの売上高を挙げ、観光客は276万人に達した。これらの訪問者のほとんどは、アルゼンチンや大陸の国から来た人々であった<ref>{{cite web |url=http://www.sernatur.cl/noticias/llegada-de-turistas-extranjeros-a-chile-aumenta-en-un-9 |title=Llegada de turistas extranjeros a Chile aumenta en un 9&nbsp;% |accessdate=2011-04-08 |author=Servicio Nacional de Turismo |date=2011-04-01|urlarchivo=https://web.archive.org/web/http://www.sernatur.cl/noticias/llegada-de-turistas-extranjeros-a-chile-aumenta-en-un-9|date-archive=2015年12月3日}}</ref>。しかし近年の最大の成長は、主にドイツなどのヨーロッパからの訪問者に対応したことである。2011年第1四半期中に、その年の終わりまでに合計306万人となった前年同期比9.2%の増加を表す104万人以上の観光客が来訪した。一方では、合計372万人のチリ人が、2011年に他の国を訪問した<ref>{{cite web |url=http://www.sernatur.cl/institucional/scripts/estadisticas.php |title=Estudios y estadísticas - Estadísticas - Salidas de chilenos al exterior - Por destinos: Salidas de chilenos según país de destino, año 2011 |accessdate=2012-08-03 |format=PHP |author=Servicio Nacional de Turismo |fecha=s/f }}{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。 === 起業 === チリは、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|COVID-19]]流行前の2019年、GEM(Global Entrepreneurship Monitor)の研究における総合起業活動指数®(TEA)が世界1位である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meti.go.jp/policy/newbusiness/main_01/press001/GSE2019_1.pdf |title=起業家精神に関する調査報告書 |access-date=2023-01-12 |publisher=経済産業省委託調査 |date=2020-03}}</ref>。チリ政府は、2010年より[[:en:Start-Up_Chile|Start-Up Chile]]を設立し、2021年には、資金提供や資金調達プラットフォームを設立し、<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cl.emb-japan.go.jp/files/100408490.pdf |title=チリ経済情勢報告(2022年9月) |access-date=2023-01-12 |publisher=在チリ日本大使館経済班 |date=2022-09}}</ref>[[スタートアップ企業|スタートアップ]]を試みる企業への支援を行っている。しかし、事業の休業や廃業も多くみられる。革新的な世界のスタートアップ100社が選出された「テクノロジー・パイオニア・コミュニティ2022」では、チリ発のスタートアップとして、ホームとグロバル66の2社が選出された。チリからは継続的に選出されており、今後の成長が期待される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2022/05/f9c41ca42b2d90e7.html |title=世界経済フォーラムが選ぶ革新的な世界のスタートアップ100社にチリ企業2社選出 |access-date=2023-01-12 |publisher=独立行政法人日本貿易振興機構 |date=2022-05-17}}</ref>。 == インフラ == === エネルギー === {{see|{{仮リンク|チリのエネルギー|en|Energy in Chile}}}} チリでは、[[再生可能資源]]があまり多くないため[[化石燃料]]に依存しており、その価格と国際情勢に大きく左右される。2010年には、消費量の30%に相当する日量10640[[バレル]]の石油を南部で生産し、残りは輸入された。<!--2009年にはそれが52390の埋蔵を150億バレルと推定された2011年に輸出されている間、油の305100バレルは、輸入されたと推定された。--> [[ファイル:Vertedero Ralco en operación.JPG|200px|サムネイル|ビオビオ州の[[ラルコー水力発電所]]]] また、国内で消費される[[天然ガス]]の約53%が輸入されている。推計によると、2009年の消費量、28.4億立方メートルの47.53パーセントに相当する13.5億立方メートルが輸入された。<!--598は、残りの輸入に対応していた。--> 2000年代のを通して、アルゼンチンは[[パイプライン輸送|パイプライン]]を介して主要な輸入元であったが、2009年に[[キンテロ]]港に[[液化天然ガス]](LNG)ターミナルが開設され、輸入元を世界中に多様化している。<!--2011年に準備金を979.7億立方メートルと推定されました。--> チリでは、ノルテグランデ、電力中央相互接続システム、電力システム、[[アイセン・デル・ヘネラル・カルロス・イバニェス・デル・カンポ州|アイセン]]電力システム、マガジャネスの相互接続システムの4つの電力システムがある。2008年には電力生産は、主に[[火力発電]]により、次に[[水力発電]]によって生成され、6万280[[ギガワット]]時であったと推定される。また、818ギガワット時は、アルゼンチン北部から電気を輸入する計画があったが、実際に輸入されたのは2009年であった。水力発電の発電量が少ないのは、ダムの建設による環境や生態系の破壊を防止するために、政府は水力埋蔵量の20%未満に抑えている。 チリの最初の水力発電は、[[トーマス・エジソン]]によって設計され、1896年にロタに建てられた南米で2番目の水力発電所であるチビリンゴ水力発電所である。 現時点では[[原子力発電所]]はないものの、2006年には原子力エネルギーの安全な使用の技術的実現可能性についての議論が始まった。再生可能な資源の候補としては、[[風力発電]]、[[地熱]]、[[潮力]]、[[太陽光]]、[[太陽熱]]などがある。 === 電気通信 === [[ファイル:Andes y Torre Entel.jpg|thumb|アンデスを望む[[エンテルタワー]]]] {{see|{{仮リンク|チリの通信|en|Telecommunications in Chile}}}} チリは、本島と南極基地を含め、国土の多くをカバーする[[電気通信|通信]]システムを持っている。1968年にはエンテルチリ社が所有する、ラテンアメリカで最初の南極[[衛星通信]]地球局が稼働した<ref>{{cite web |url=http://www.longovilo.cl/index4.htm |title=Estación terrena Longovilo: Introducción |accessdate=2011-05-09 |format=HTM |author=[[:es:Entel Chile|エンテルチリ]] |date=s/f |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110522071723/http://www.longovilo.cl/index4.htm |archivedate=2011年5月22日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。 2012年には327.6万の[[固定電話]]回線と2,413万の[[携帯電話]]加入者がいる<ref>{{cite web |url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2150.html#ci |title=Telephones - Main lines in use |accessdate=2015-04-15 |format=HTML |author=Agencia Central de Inteligencia |date=2011 |language=英語}}</ref><ref>{{cite web |url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2151.html#ci |title=Telephones - Mobile cellular |accessdate=2015-04-15 |format=HTML |author=Agencia Central de Inteligencia |date=2011 |language=英語}}</ref>。チリは2009年、携帯電話100%普及率を達成した第三のラテンアメリカの国となった<ref>{{cite journal |author=Troncoso Ostornol, José |date=2009-11-21 |title=Chile alcanza 100&nbsp;% de penetración de celulares |url=http://www.mundomovilagencia.cl/2009/11/24/chile-alcanza-100-de-penetracion-celulares-superan-167-millones/ |publisher=Economía y Negocios, [[El Mercurio]] |accessdate=2009-12-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100110014835/http://www.mundomovilagencia.cl/2009/11/24/chile-alcanza-100-de-penetracion-celulares-superan-167-millones/ |archivedate=2010年1月10日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。また、[[ネットブック]]、[[スマートフォン]]、[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]-含む人あたりの[[モバイルブロードバンド]]サービスの消費量は、OECD平均に等しかった<ref>{{Cite web|和書|url=http://diario.latercera.com/2012/05/10/01/contenido/tendencias/16-108092-9-chile-iguala-a-paises-ocde-en-penetracion-de-computadores-y-celulares-en-hogares.shtml |title=チリは、家庭内のコンピュータや携帯普及率でOECD諸国に等しいです |accessdate=2012-06-22 |format=SHTML |author=Christiansen Z., Axel |date=2012-05-10 |publisher=La Tercera}}</ref>。この現象は、他の要因の中で自由な競争、MVNOの市場参入や番号ポータビリティを保護するための政策が愛用した。 2010年の[[人間開発指数]]によれば、チリは100人あたり32.5のインターネットユーザーがいる<ref>{{Cite web|和書|url=http://hdrstats.undp.org/es/indicadores/43606.html |title=国際人間開発指標:インターネットユーザー(100人あたり) |accessdate=2011-05-04 |format=HTML |author=Programa de las Naciones Unidas para el Desarrollo |date=2010-11-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110818022605/http://hdrstats.undp.org/es/indicadores/43606.html |archivedate=2011年8月18日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。 1987年に国別トップレベルドメイン「.cl」が登録され、1993年に最初のラテンアメリカの[[Webサーバ]]がチリに設置された<ref name="cl">{{cite book |title=25 años de NIC Chile 1987-2012 |url=http://www.nic.cl/acerca/memoria25/MemoriaNICChile25anos.pdf |accessdate=2014-01-01 |format=PDF |date=2012年6月 |publisher=[[Facultad de Ciencias Físicas y Matemáticas de la Universidad de Chile]] |pages=38}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.nic.cl/estadisticas/crecimiento-detalle.html |title=Estadísticas de nombres de dominio .CL |accessdate=2015-04-15 |format=HTML |author=NIC Chile |date=s/f}}</ref>。 世界は2011年に[[ソーシャルネットワーク]]に多くの時間を捧げた<ref>{{cite journal |author=Christiansen, Axel |date=2011-07-22 |title=チリは、より多くの時間がソーシャルネットワーク上で費やした世界で3番目の国です |url=http://papeldigital.info/lt/2011/07/22/01/paginas/048.pdf |format=PDF |publisher=La Tercera |pages=48 |accessdate=2011-07-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111010085938/http://papeldigital.info/lt/2011/07/22/01/paginas/048.pdf |archivedate=2011年10月10日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。2013年には総人口の66.5%の[[インターネット]]普及率であり<ref>{{cite web |url=http://www.internetworldstats.com/stats10.htm#spanish |title=Latin America Internet Usage Statistics - Latin America Internet Usage |accessdate=2015-04-15 |format=HTM |author=Internetworldstats.com |date=2015 |language=英語}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.emol.com/noticias/tecnologia/2012/07/18/551348/chile-esta-en-cuarto-lugar-en-penetracion-de-banda-ancha-en-paises-de-la-oecd.html |title=チリは、OECD諸国におけるブロードバンドの普及に4位です |accessdate=2011-03-07 |formato=HTML |author=EMOL |date=2011-07-18 }}</ref>、[[ブロードバンド]]普及率は、ラテンアメリカ中で最高であった。 2014年に国内での[[インターネット]]との統合は、ラテンアメリカでもっとも大きかった<ref>{{cite web |url=http://thewebindex.org/data/?indicator=INDEX&country=CHL |title=Web Index 2014 data |accessdate=2015-04-15 |author=[[:en:World Wide Web Foundation|World Wide Web Foundation]] |date=2014 |publisher=The Web Index |language=英語}}</ref>。 <!-- 自動翻訳のような意味のとれない文章のためコメントアウト === 媒体 === チリのマスコミュニケーションの伝統的な手段は、プレス、ラジオやテレビに書かれている。 [[ファイル:El Mercurio de Valparaíso Nº 1 (12.09.1827).png|サムネイル|[[バルパライソのエルメルキュリオ]]新聞は、世界最古のスペイン語の循環である。]] 創刊号1812年2月13日に公開された最初の全国紙チリのアウロラ、でオリジンとし、チリのプレスがその主な全国紙2のニュースコンソーシアムのCOPESAとマーキュリージャーナリズムSA、に主に焦点を当ててそれぞれラ・テルセラ、エル・メルクリオのです。後者の[[バルパライソ]]版はまた9月12日、1827年から公開され、現在のスペイン語新聞の国と世界最古である、いくつかの地域の出版物の循環があります。週刊隔週または全国全国雑誌を回覧される。 国の第1の無線局は、ラジオチレーナは、3月26日に発足したが、チリで初の公式ラジオ放送は、それがFMコンキスタドールの放送を開始した、1923数十年後に、1922年8月19日にサンティアゴで開催されました1962年3月1日にFMの最初のチリのラジオ放送と同じでは、全国の1490年に登録したラジオ局を2006年に1963年にステレオで-175 AMとFM-1315を放送する最初のステーションであったほとんどのそれらのARCHIと提携。 テレビは、国内での主な通信手段である。唯一のチリのテレビは、国家報道ナショナル・テレビジョンの状態で7 TV局を持つチリワールドカップ1962年に実行するからマッシフィエドが、彼の最初の放送は、1957年10月5日にバルパライソで開催されましたチリ(1969)とプライベートUCVテレビ(1957)、バルパライソカトリック大学の下で、国内最古。ルクシクグループとチリ・カトリック大学の下のチャネル13(1959);メガチレビジョン(1960)、(1990)、ネットワーク(1991)とテレカナル(2005)ANATELにグループ化され、いくつかの地域。2009年から1985年とHD以来ステレオで、1978年からNTSC方式、カラーで送信チリのテレビ。 --> == 交通 == [[ファイル:Chile-Santiago-Airport.jpg|thumb|[[アルトゥーロ・メリノ・ベニテス国際空港]]]] [[ファイル:Mural de Toral en metro estacion Universidad de Chile.jpg|thumb|サンティアゴ地下鉄]] {{main|{{仮リンク|チリの交通|en|Transport in Chile}}}} === 航空 === {{see|チリの空港の一覧}} [[フラッグ・キャリア]]である、[[LATAM チリ]]が、[[イースター島]]を含むチリ国内のみならず、[[ヨーロッパ]]や[[オセアニア]]、[[北アメリカ]]など世界各国への路線網を築いている。ハブ空港は[[アルトゥーロ・メリノ・ベニテス国際空港]]で、多くの外国航空会社も乗り入れている。 === 鉄道 === {{see|チリの鉄道}} 細長い国土を縦に貫く「チリ縦貫鉄道」と、そこから分かれてアンデス山脈や太平洋側の町を結ぶ「支線」が国内の鉄道を構成している。詳細は[[チリの鉄道]]を参照。 [[チリ国鉄]]が後述の近郊電車のほか、サンティアゴと中部のタルカ・チリャンの間に中距離電車を、[[コンセプシオン (チリ)|コンセプシオン]]や[[テムコ]]の間に季節運行の夜行列車を走らせている。南部の[[プエルトモント]]を発着する夜行列車は「車両の老朽化」を理由として、2003年に運行が休止された。 サンティアゴ大都市圏には{{仮リンク|メトロトレン|es|Metrotrén}}と呼ばれる近郊電車が運行されているほか、サンティアゴの都心には[[フランス]]の協力で建設された5路線の[[サンティアゴ地下鉄|地下鉄]](メトロ=Metro)があり、さらに数年以内には2路線の開通が予定されている。渋滞の影響を受けない[[交通機関]]として信頼されている。 また、[[バルパライソ]]と郊外の[[ビニャ・デル・マール]]の間には[[Merval]]と呼ばれる近郊電車が、コンセプシオンとその近郊の間には{{仮リンク|ビオトレン|es|Biotrén}}と呼ばれる近郊電車が運行されている。 鉄道による貨物輸送も盛んであり、特に鉱石や木材、水産物などの運搬に重宝されている。 === 道路 === サンティアゴ近郊には[[高速道路]]網があるほか、[[パンアメリカンハイウェイ]]が国内を通っており、アルゼンチンの首都[[ブエノスアイレス]]や、ペルーの首都[[リマ]]との間を結んでいる。 == 国民 == {{main|{{仮リンク|チリの人口統計|en|Demographics of Chile}}}} 独立直後の1830年にようやく100万人を越えたチリの人口は、1960年のセンサスでは737万4,115人、1970年のセンサスでは888万4,768人、1983年年央推計では約1,168万人となった。 === 人口 === {{Main|チリ人}} [[ファイル:Chile-demography.png|thumb|left|1835年から2050年までのチリの人口グラフ(INE)]] [[ファイル:Population pyramid of Chile 2015.png|thumb|2015年のチリ[[人口ピラミッド]]]] [[ファイル:Cerro Concepcion.jpg|thumb| [[バルパライソ]]港付近の住宅街]] [[ファイル:Bachelet y campeones de polo.jpg|thumb|220px|チリの[[ポロ]]チーム]] チリの人口は約1,750万人ほどであり<ref name="fqa">{{Cite web |url=http://www.ine.cl/canales/elemento_persistente/preguntas_frecuentes/preguntas_frecuentes.php |title=Preguntas frecuentes - Demografía - 77.-¿Cuál es la población estimada por sexo y edad? - Población total estimada al 30 de junio, por sexo (2000-2050) |accessdate=21 ene 2012 |format=PHP |author=Instituto Nacional de Estadísticas (INE) |fecha=s/f |editorial=www.ine.cl}}</ref>、1990年代から出生率の低下とともに人口増加率は低くなっている。2050年までには人口2,020万人に達すると見積もられている。国民の85%が都市部に居住し、そのうち40%が大サンティアゴ都市圏に居住している。 チリの国民は約95%が[[ヨーロッパ]]系の[[コーカソイド|白人]]もしくは[[メスティーソ]]であり<ref>[http://www.condortravel.com/chile.php?p_idioma=eng Chile.]</ref><ref>[http://www.bartleby.com/151/ci.html www.bartleby.com]</ref>、人口の52.7%<ref name="autogenerated2">[https://books.google.cl/books?id=LcabJ98-t1wC&pg=PA93&lpg=PA93&dq=chile+60%25+blancos+Esteva-Fabregat&source=bl&ots=AMUjY09aVi&sig=3PCwfKDokrZYem3dcZ2gkToFIoE&hl=es&ei=k8WjSYT3HJaitgfGncnOBA&sa=X&oi=book_result&resnum=9&ct=result#PPA110,M1 Composición Étnica de las Tres Áreas Culturales del Continente Americano al Comienzo del Siglo XXI]</ref>が純粋な白人であり、44.1%がメスティーソとなっている<ref name="UC">{{cite web | title =5.2.6. Estructura racial | url =http://mazinger.sisib.uchile.cl/repositorio/lb/ciencias_quimicas_y_farmaceuticas/medinae/cap2/5b6.html | work =La Universidad de Chile | accessdate =2007-08-26 | language = | archiveurl =https://web.archive.org/web/20071016124831/http://mazinger.sisib.uchile.cl/repositorio/lb/ciencias_quimicas_y_farmaceuticas/medinae/cap2/5b6.html | archivedate =2007年10月16日 | deadlinkdate =2017年9月 }}</ref>。 そのほか、インディヘナとしては、パスクア島(イースター島)にはポリネシア系の、北部のアンデス山岳地帯にはケチュア人やアイマラ人など、南部ビオビオ川以南の森林地帯には[[マプチェ族|マプーチェ人]]が、その他にはピクンチェ人、ウイリンチェ人、アタカメーニョ人、ディアグイタ人、ペウエンチェ人などが、[[クリストファー・コロンブス]]の到来以前より居住しており、こうしたインディヘナを合わせると全人口の5%ほどになる。また、きわめて少数であるが、植民地時代に連れて来られた[[ネグロイド|黒人]][[奴隷]]の子孫としてアフリカ系チリ人が存在するが、チリの黒人は人口の1%に満たない。 ヨーロッパからの移住は[[19世紀]]に加速した。特に南部のマプーチェ人の土地が[[アラウカニア制圧作戦]]により国家に併合されると、隣国のアルゼンチンやブラジルほどの規模ではないが、スペインや[[バスク地方]]([[バスク系チリ人]])、[[クロアチア]]、[[イタリア]]、[[ドイツ]]、[[フランス]]、[[パレスチナ]]([[パレスチナ系チリ人]])などから移民が導入され、[[東ヨーロッパ]]と[[アイルランド]]([[アイルランド系チリ人]])からも少数が移住した。日本からの集団[[移民]]は行われておらず、移住したペルーやボリビアなどから再移住した[[日系チリ人]]がごく少数存在するのみである。 === 言語 === {{Main|{{仮リンク|チリの言語|en|Languages of Chile}}}} チリの[[公用語]]は[[スペイン語]]([[チリ・スペイン語]]と[[チロエ・スペイン語]])であり、日常生活でも広く使われている。そのほかにはインディヘナによって[[マプーチェ語]]や、[[ケチュア語]]、[[アイマラ語]]、ラパ・ヌイ語、ウイリンチェ語などが話されており、植民地時代にマプーチェ人は[[アラウカナイゼーション]]を進めたため、マプーチェ語はチリ最大の非公用語言語となっている。また、移民のコミュニティ内で[[ドイツ語]]や[[イタリア語]]や[[クロアチア語]]が話されることもある。 === 宗教 === {{Main|{{仮リンク|チリの宗教|en|Religion in Chile}}}} [[ファイル:Iglesia de Nercón.JPG|サムネイル|左|[[チロエの教会群]]([[世界遺産]])]] チリは伝統的に[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]の国だったが、2002年のセンサスによればカトリックは国民の70%ほどとなっており、[[福音派]]、または[[プロテスタント]]が15%、[[エホバの証人]]が1%、[[末日聖徒イエス・キリスト教会]]が0.9%、[[ユダヤ教]]が0.1%、その他が4.4%、[[無宗教]]が8.3%、[[ムスリム]]と[[正教会|正教]]はそれぞれ0.1%以下である<ref name="religiousfreedomreport">{{cite web |url=http://www.state.gov/g/drl/rls/irf/2008/10851.htm |title=Chile - International Religious Freedom Report 2008 |work=United States Department of State |accessdate=2008-09-19 }}</ref>。 [[コピアポ鉱山落盤事故]]では閉じ込められた作業員が、聖書と十字架像を所望したり、聖書をもとに作られた映画が地上から提供されるなど、国民の間ではキリスト教が深く根付いていることが伺える。 === 婚姻 === 通常、婚姻によって改姓することはない([[夫婦別姓]])。社交上「de+夫の姓」を追加した複合姓を用いることもあるが、一般的ではなくなりつつある<ref>[https://culturalatlas.sbs.com.au/chilean-culture/naming-9784719e-1a2c-4fa9-89af-57e612110b3e Chilean Culture], Cultural Atlas.</ref>。 === 保健 === [[平均寿命]]は78.8歳と先進国並み<ref name="OECDhg">{{Cite |publisher=OECD |date=2015-11 |title=Health at a Glance 2015 |doi=10.1787/19991312 |isbn=9789264247680}}</ref>。[[ユニバーサルヘルスケア]]が達成され、[[医療費|医療支出]]の33%が自己負担である<ref name="OECDhg" />。 {{see also|{{仮リンク|チリの医療|en|Healthcare in Chile}}}} === 教育 === {{Main|{{仮リンク|チリの教育|en|Education in Chile}}}} [[ファイル:Niños estudiantes chilenos.jpg|サムネイル|チリの学生]] チリの教育は、2009年の教育法(LGE)によって支配される。 19世紀にフランスとドイツの制度を参考に近代的教育制度が確立された。6歳から13歳までの8年間の[[初等教育]]と前期[[中等教育]]が無償の義務教育期間となり、その後4年間の後期中等教育を経て[[高等教育]]への道が開ける。 識字率は約96.4%<ref>UNESCO Institute for Statistics estimates based on its Global Age-specific Literacy Projections model, April 2008.</ref>であり、これはアルゼンチン、[[ウルグアイ]]、[[キューバ]]と共にラテンアメリカでもっとも高い部類に入る。 代表的な高等教育機関としては、[[チリ大学]](1738年、1842年)、[[サンティアゴ・デ・チレ大学]](1848年)、[[チリ・カトリック大学]](1888年)などが挙げられる。 == 文化 == {{Main|{{仮リンク|チリの文化|en|Culture of Chile}}}} [[ファイル:Gabriela Mistral-01.jpg|thumb|upright|[[ガブリエラ・ミストラル]]]] [[ファイル:Pablo Neruda.jpg|thumb|upright|[[パブロ・ネルーダ]]]] [[スペインによるアメリカ大陸の植民地化|スペイン人による征服]]以前のチリの文化はインカ帝国とマプーチェ人によるものが主流だったが、スペインによる征服後はスペイン人の文化的影響を強く受けた。19世紀初頭の独立後にはエリート層が憧れを抱いた[[イギリス]]、[[フランス]]をはじめとするヨーロッパ諸国の文化の影響を受けた。また、19世紀後半のドイツ移民の影響により、特に南部の[[バルディビア]]や[[プエルト・モント]]にはドイツの[[バイエルン州|バイエルン地方]]の文化の影響が強い。また、[[ウアッソ]]という独自の農村的文化アイデンティティを表す表象が存在する<ref>{{cite web |url=http://www.allsouthernchile.com/southamerica/valdivia-southern-chile-city-guide/index.html |title=Valdivia Chile |publisher=Allsouthernchile.com |accessdate=2011-08-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090919231219/http://www.allsouthernchile.com/southamerica/valdivia-southern-chile-city-guide/index.html |archivedate=2009年9月19日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref>{{cite web |author=International Web Solutions, Inc. <http://www.iwsinc.net> |url=http://www.globaladrenaline.com/latinamerica/chile/ |title=Latin America :: Chile |publisher=Global Adrenaline |accessdate=2011-08-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130208083925/http://www.globaladrenaline.com/latinamerica/chile/ |archivedate=2013年2月8日 }}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.learnapec.org/index.cfm?action=exploration&cou_id=4 |title=Learning About Each Other |publisher=Learnapec.org |accessdate=2011-08-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110429020520/http://www.learnapec.org/index.cfm?action=exploration&cou_id=4 |archivedate=2011年4月29日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.country-studies.com/chile/foreign-relations.html |title=Chile Foreign Relations |publisher=Country-studies.com |accessdate=2011-08-01}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.foodbycountry.com/Algeria-to-France/Chile.html |title=Food in Chile - Chilean Food, Chilean Cuisine - traditional, popular, dishes, recipe, diet, history, common, meals, rice, main, people, favorite, customs, fruits, country, bread, vegetables, bread, drink, typical |publisher=Foodbycountry.com |accessdate=2011-08-01}}</ref>。 === 食文化 === {{Main|チリ料理}} [[ファイル:Chorrillana.jpg|サムネイル|左|[[チョッリヤナ]]]] チリ料理はスペイン植民地時代の料理に伝統を持つ。[[トマト]]、[[ジャガイモ]]、[[トウモロコシ]]、[[牛肉]]、[[羊肉]]が使われ、長い海岸線を有するために大海産国であることもあって[[魚介類]]を使う料理も多い。 代表的なチリ料理としては[[カルネラ]]、[[カルボナーダ]]、[[アサード]]、[[クラント]]、[[ウミータ]]、[[パステル・デ・チョクロ]]、[[エンパナーダ]]などが挙げられる。北部のかつてペルー領だった地域では[[セビッチェ]]が食べられることもある<ref>{{cite book|author=Maria Baez Kijac|title=The South American Table: The Flavor and Soul of Authentic...|url=https://books.google.com/books?id=LlePAePLlqkC|accessdate=2013-07-14|year=2003|publisher=Harvard Common Press|isbn=978-1-55832-249-3}}</ref>。 チリは[[ワイン]]の大生産国として知られ、[[チリワイン]]はアジェンデ政権末期に品質を落としたものの、高い品質で知られる。ワインの他の地酒としては[[チチャ]]や[[ピスコ・デ・チレ]]が挙げられる。また、南部ではアルゼンチン、ウルグアイ、[[パラグアイ]]、[[南部地域 (ブラジル)|ブラジル南部]]などと同様に[[マテ茶]]を飲む習慣がある。 === 文学 === {{Main|チリ文学|ラテンアメリカ文学}} チリは大衆的伝統の中で多くの詩人を生み出してきた<ref>{{cite web |url=http://www.uchile.cl/cultura/poetasjovenes/bianchi26.htm |title=Un mapa por completar: la joven poesia chilena - ¿Por qué tanta y tan variada poesía? |publisher=Uchile.cl |accessdate=2009-12-17}}</ref>。これはチリの文学者の持つ長い歴史に相応して重要なことであり、特に詩の分野において傑出した人物としては[[ニカノル・パラ]]、[[ビセンテ・ウイドブロ、ホルヘ]]・[[テイジエール]]、[[エンリケ・リン]]、[[ゴンサロ・ロハス]]、[[パブロ・デ・ロカ]]が挙げられ、[[ガブリエラ・ミストラル]]と[[パブロ・ネルーダ]]は[[ノーベル文学賞]]を<ref>{{cite web |url=http://www.laht.com/article.asp?ArticleId=346023&CategoryId=13003 |title=Latin American Herald Tribune - Isabel Allende Named to Council of Cervantes Institute |publisher=Laht.com |accessdate=2010-11-14}}</ref>、ミストラルは1945年に、ネルーダは1971年にそれぞれ受賞した。 小説の分野で代表的な作家としては、[[フランシスコ・コロアネ]]、[[マヌエル・ロハス]]、[[ホセ・ドノソ]]、[[ルイス・セプルベダ]]、[[ロベルト・ボラーニョ]]、[[イサベル・アジェンデ]]、[[ホルヘ・エドワーズ]]、[[ゴンサロ・ロハス]]、[[マルセラ・パス]]などが挙げられる。ホルヘ・エドワーズは1999年に、ゴンサロ・ロハスは2003年に[[セルバンテス賞]]を受賞した。マルセラ・パスは''[[パペルーチョ]]''と呼ばれる児童文学の作家である<ref>{{Cite news |url=http://www.time.com/time/arts/article/0,8599,1857951,00.html |work=Time |date=2008-11-10 |accessdate=2010-04-28 |first=Lev |last=Grossman |title=Bolaño's 2666: The Best Book of 2008}}</ref><ref>{{cite web |author=Sarah Kerr |url=http://www.nybooks.com/articles/22171 |title=The Triumph of Roberto Bolaño |publisher=The New York Review of Books |date=2008-12-18|accessdate=2008-12-18}}</ref><ref>{{Cite news| url=http://www.nytimes.com/2007/04/15/books/review/Wood.t.html |work=The New York Times |title=The Visceral Realist |first=James |last=Wood |date=2007-04-15 |accessdate=2010-04-01}}</ref>。 === 音楽 === {{Main|{{仮リンク|チリの音楽|en|Music of Chile}}|ラテン音楽}} チリの[[フォルクローレ]]においては[[クエッカ]]と呼ばれるリズムが中央部で発達し<ref>{{cite web |url=http://www.memoriachilena.cl/temas/index.asp?id_ut=elfolclordechileysustresgrandesraices |title=Memoria Chilena |publisher=Memoriachilena.cl|accessdate=2015-03-09}}</ref>、そのほかに北部のケチュア人、アイマラ人には[[ワイニョ]]などが、南部のマプーチェ人や、パスクア島のポリネシア系住民にも独自のフォルクローレが存在する。 1960年代前半に特に活躍したフォルクローレグループとしては[[ロス・デ・ラモン]]が挙げられる。1960年代後半からは政治と強く結びついたフォルクローレ、[[ヌエバ・カンシオン]]が流行した。[[ビオレータ・パラ]]、[[ビクトル・ハラ]]、[[インティ・イリマニ]]、[[イジャプー]]、[[キラパジュン]]などが活躍していたが、1973年のクーデター後に軍事政権によって音楽家が殺害・拷問・追放されるとヌエバ・カンシオンは衰退することになった。 [[2009年]][[12月5日]]、首都[[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ・デ・チレ]]でハラの葬儀が催され、数万人の市民が参加した。1973年当時、ピノチェト軍事独裁政府の弾圧によってハラの葬儀を公式に開催することができなかった。死後36年を経て公式の葬儀が行われ、バチェレ政権の閣僚や政党幹部らも参加した。 [[ポピュラー音楽]]においては、[[ロック (音楽)|ロック]]は60年代に中産階級によって始められ、軍政期を通して[[インカ・ロック]]などの形態で独自の発達をたどることになった。その後、80年代に軍事政権の言論弾圧が一時期弱まると<ref>{{cite web |url=http://musicapopular.cl/2.0/index2.php?op=Artista&id=444 |title=Conjuntos Folkloricos de Chile |publisher=Musicapopular.cl |accessdate=1984-04-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071013104352/http://musicapopular.cl/2.0/index2.php?op=Artista&id=444 |archivedate=2007年10月13日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>、ロックはフォルクローレよりも盛んになり、[[チリ・ロック]]はメキシコなどのラテンアメリカ市場でも成功するミュージシャンを生み出している。代表的なミュージシャンとしては[[ロス・ジョッカーズ]]、[[ロス・トレス]]、[[ロス・プリシオネロス]]、[[ロス・ブンケルス]]、[[ラ・レイ]]、[[クダイ]]などが挙げられる。フォルクローレに独自の[[プログレッシヴ・ロック]]的な風味を加えたバンド「[[Los Jaivas]]」は国外でも高く評価されており、1960年代後半にデビューして以来、現在も現役で活動している<ref>{{cite news|last=Martinez|first=Jessica|title=Top Cultural Celebrations and Festivals in Chile|url=http://traveltips.usatoday.com/top-cultural-celebrations-festivals-chile-61003.html|newspaper=USA Today}}</ref>。 === 映画 === {{Main|{{仮リンク|チリの映画|en|Cinema of Chile}}}} チリ出身の著名な映像作家としては、『[[戒厳令下チリ潜入記]]』『[[サンディーノ]]』の[[ミゲル・リティン]]、『[[クリムト (映画)|クリムト]]』(2006)の[[ラウル・ルイス]]、[[ボリス・ケルシア]]、[[アレハンドロ・ホドロフスキー]](チリ出身)などが挙げられる。 === 世界遺産 === {{Main|チリの世界遺産}} チリ国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が6件存在する<ref>{{Cite web|和書|url=http://whc.unesco.org/en/convention/ |title=世界遺産条約 |publisher=ユネスコ |accessdate=2015-10-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://whc.unesco.org/en/statesparties/cl/ |title=チリ - 世界遺産リストに刻まプロパティ |publisher=ユネスコ |accessdate=2015-10-31}}</ref>。 <gallery> Paaseiland Kempeneers.jpg|[[ラパ・ヌイ国立公園]] - (1995年、文化遺産) Iglesia de Castro.jpg|[[チロエの教会群]] - (2000年、文化遺産) Cerro Concepcion.jpg|[[バルパライソ]]の海港都市の歴史的街並み - (2003年、文化遺産) Humberstone.png|[[ハンバーストーンとサンタ・ラウラの硝石工場群]] - (2005年、文化遺産) Sewell Chile.JPG|[[スウェル|スウェルの鉱山都市]] - (2006年、文化遺産) Incatrail in Peru.jpg|アンデスの道路網カパック・ニャン - (2014年、文化遺産) </gallery> === 祝祭日 === {{Main|{{仮リンク|チリの祝日|en|Public holidays in Chile}}}} {| class="wikitable" style="text-align: left;font-size:small" |- !日付 !日本語表記 !現地語表記 !備考 |- |[[1月1日]] |新年([[元日]]) |Año Nuevo | |- |''[[3月]]〜[[4月]]'' |[[聖金曜日]] |Viernes Santo |移動祝日、復活祭前の金曜日 |- |''[[3月]]〜[[4月]]'' |[[聖土曜日]] |Sábado Santo |移動祝日、復活祭前の土曜日 |- |''[[3月]]〜[[4月]]'' |[[復活祭]] |Pascua de Resurrección |移動祝日 |- |[[5月1日]] |[[メーデー]] |Día del Trabajador | |- |[[5月21日]] |[[海軍記念日]] |Combate Naval de Iquique | |- |[[6月]] |[[聖体の祭日]] |Corpus Christi |移動祝日 |- |[[6月29日]] |教皇[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]表敬記念日 |San Pedro y San Pablo | |- |[[8月15日]] |[[聖母被昇天]]祭 |Asunción de la Virgen | |- |[[9月18日]] |[[独立記念日]] |Primera Junta Nacional de Gobierno | |- |[[9月19日]] |[[陸軍記念日]] |Día de las Glorias del Ejército | |- |[[10月12日]] |アメリカ大陸発見の日([[クリストファー・コロンブス|コロン]]の日) |Descubrimiento de América | |- |[[11月1日]] |[[諸聖人の日]] |Día de todos los Santos | |- |[[12月8日]] |[[無原罪の聖母]] |Inmaculada Concepción | |- |[[12月25日]] |[[クリスマス]] |Navidad, Pascua | |} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|チリのスポーツ|en|Sport in Chile}}}} {{See also|オリンピックのチリ選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|チリのサッカー|en|Football in Chile}}}} [[File:Chile VS. Australia (13) (cropped).jpg|thumb|right|200px|[[サッカーチリ代表]]の[[アルトゥーロ・ビダル]] (2017年)]] チリ国内でも他の[[ラテンアメリカ]]諸国と同様に、[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっている。サッカーは[[19世紀]]に[[イギリス人]]によってチリにもたらされ、[[1933年]]にはプロリーグの[[プリメーラ・ディビシオン (チリ)|プリメーラ・ディビシオン]]が創設された。主なクラブとしては、[[CSDコロコロ|コロコロ]]、[[CDコブレロア|コブレロア]]、[[ウニオン・エスパニョーラ]]、[[クルブ・ウニベルシダ・デ・チレ|ウニベルシダ・デ・チレ]]、[[ウニベルシダ・カトリカ (チリ)|ウニベルシダ・カトリカ]]などが挙げられる。欧州の[[ビッグクラブ]]で活躍した選手には、[[アレクシス・サンチェス]]や[[クラウディオ・ブラーボ]]、[[アルトゥーロ・ビダル]]がいる<ref>{{Cite web|和書|title=ビダル、バイエルン・ミュンヘンへ移籍|url=http://www.juventus.com/jp/news/news/2015/vidal-completes-move-to-bayern-munich.php|accessdate=2020-05-26|publisher=Juventus|date=2015-07-28}}</ref>。 [[チリサッカー連盟]](FFC)によって構成される[[サッカーチリ代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]には自国開催となった[[1962 FIFAワールドカップ|1962年大会]]で3位に輝いている。さらに[[1998 FIFAワールドカップ|1998年大会]]に出場した際には、「4チーム制による[[1998 FIFAワールドカップ #グループ B|グループリーグ]]を3引き分け(0勝で勝ち点3)で突破し、決勝トーナメントに進出する」という珍しい記録をもつ。これは「8グループ、上位2チーム勝ち上がり」の1998年大会以降では初であり、現在まで唯一のケースとなっている。 チリ代表は近年[[コパ・アメリカ]]での躍進も著しく、[[コパ・アメリカ2015|2015年大会]]で初優勝を果たすと<ref>{{Cite web|和書|title=決勝MOMのビダル「王者になるなんて素晴らしいことだ」|url=https://www.sanspo.com/soccer/news/20150705/wor15070511270006-n1.html|website=サンスポ|date=2015-07-05|accessdate=2020-05-26}}</ref>、翌年に行われた「100周年記念大会」である[[コパ・アメリカ・センテナリオ]]でも、[[リオネル・メッシ]]のいる[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]を決勝で破って優勝し、大会連覇を達成した。また、[[FIFAコンフェデレーションズカップ]]の[[FIFAコンフェデレーションズカップ2017|2017年大会]]では、決勝に進出したが[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]に0-1で敗れ準優勝となった。 == 科学技術 == {{main|{{仮リンク|チリの科学技術|en|Science and technology in Chile}}}} 多数の科学刊行物によると、チリは2011年時点、ラテンアメリカで4位、世界で38位の科学的[[特許]]を持つ。また南極に4つの通年運用拠点、夏の間活動する8つの一時的な拠点を所有している。 [[ファイル:Paranal Platform as Night Sets In.jpg|サムネイル|左|[[パラナル天文台]]]] 天体観測においては、[[パラナル天文台]]、世界最先端の国際共同利用施設である[[アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計|ALMA]]、世界最大級の国際共同利用施設である[[ラ・シヤ天文台]]など12のステーションがあり、世界の天文観測施設の40%が集中している。しかし、[[ラスカンパナス天文台]]での[[巨大マゼラン望遠鏡]]やパチョン山での[[大型シノプティック・サーベイ望遠鏡]]の建設決定、[[OWL望遠鏡]]計画におけるE-ELTの建設決定、[[ALMA]]の拡大などにより、今後数十年で世界全体の約70%へと拡大する見込みである。 == 国の象徴 == [[ファイル:Lapageria rosea.jpg|thumb|upright|100px|[[コピウエ]]の花]] チリの紋章には、国の動物である[[コンドル]](Vultur gryphus、山岳地帯に棲む大型の鳥)と[[アンデスジカ]](Hippocamelus bisulcus、絶滅が危惧されている尾部の白い鹿)が描かれている。これらは国の標語である「理性によって、または力によって」とも関連がある。 国花は[[コピウエ]]であり、この花は南部の森林地帯に自生している。 == 著名な出身者 == {{Main|チリ人の一覧}} {{-}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Notelist}}--> === 出典 === {{Reflist|2|refs= <!-- <ref name="imf201410">{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/02/weodata/weorept.aspx?sy=2012&ey=2014&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=228&s=NGDP%2CNGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=46&pr.y=12|title=World Economic Outlook Database, October 2014|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2014-10|accessdate=2015-01-03}}</ref> --> }} == 参考文献 == ; 歴史 * {{Cite book|和書|author1=ハイメ・エイサギルレ|authorlink1=ハイメ・エイサギルレ|author2=山本雅俊訳|authorlink2=山本雅俊|date=1998年6月|title=チリの歴史──世界最長の国を歩んだ人びと|series=|publisher=[[新評論]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=エイサギルレ/山本訳(1998)}} * {{Cite book|和書|author=エドゥアルド・ガレアーノ|authorlink=エドゥアルド・ガレアーノ|translator=大久保光夫|date=1986年9月|title=[[収奪された大地 ラテンアメリカ五百年|収奪された大地──ラテンアメリカ五百年]]|series=|publisher=新評論|location=東京|isbn=|ref=ガレアーノ/大久保訳(1986)}} * {{Cite book|和書|author1=中川文雄|authorlink1=中川文雄|author2=松下洋|authorlink2=松下洋|author3=遅野井茂雄|authorlink3=遅野井茂雄|date=1985年1月|title=ラテン・アメリカ現代史III|series=世界現代史34|publisher=[[山川出版社]]|location=東京|isbn=4-634-42280-8|ref=中川、松下、遅野井(1985)}} * {{Cite book|和書|editor=増田義郎|editor-link=増田義郎|date=2000年7月|title=ラテンアメリカ史II|series=新版世界各国史26|publisher=山川出版社|location=東京|isbn=4-634-41560-7|ref=増田編(2000)}} ; 政治 * {{Cite book|和書|author=後藤政子|authorlink=後藤政子|date=1993年4月|title=新現代のラテンアメリカ|series=|publisher=[[時事通信社]]|location=東京|isbn=4-7887-9308-3|ref=後藤(1993)}} ;地理 * {{Cite book|和書|editor=下中彌三郎|editor-link=下中彌三郎|date=1954年|title=ラテンアメリカ|series=世界文化地理体系24|publisher=[[平凡社]]|location=東京|isbn=|ref=下中(1954)}} * {{Cite book|和書|author1=P.E.ジェームズ|authorlink1=P.E.ジェームズ|author2=山本正三|authorlink2=山本正三|author3=菅野峰明訳|authorlink3=菅野峰明|date=1979年|title=ラテンアメリカII|publisher=[[二宮書店]]|isbn=|ref=ジェームズ/山本、菅野訳(1979)}} * {{Cite book|和書|editor=野沢敬|editor-link=野沢敬|date=1986年|title=ラテンアメリカ|series=朝日百科世界の地理12|publisher=[[朝日新聞社]]|location=東京|isbn=4-02-380006-6|ref=野沢(1986)}} * {{Cite book|和書|editor=福井英一郎|editor-link=福井英一郎|date=1978年|title=ラテンアメリカII|series=世界地理15|publisher=[[朝倉書店]]|location=東京|isbn=|ref=福井(1978)}} ; 経済 * {{Cite book|和書|author=岡本哲史|authorlink=岡本哲史|date=2000年12月|title=衰退のレギュラシオン──チリ経済の開発と衰退化1830-1914年|series=|publisher=新評論|location=東京|isbn=|ref=岡本(2000)}} * 岡本哲史「チリ経済の「奇跡」を再検証する 新自由主義改革の虚像と実像」『ラテン・アメリカは警告する──「構造改革」日本の未来』[[内橋克人]]、[[佐野誠]]編、新評論〈「失われた10年」を超えて──ラテン・アメリカの教訓第1巻〉、東京、2005年4月。 ; 社会 * {{Cite book|和書|editor1=中川文雄|editor1-link=中川文雄|editor2=三田千代子|editor2-link=三田千代子|date=1995年10月|title=ラテン・アメリカ人と社会|series=ラテンアメリカ・シリーズ4|publisher=新評論|location=東京|isbn=4-7948-0272-2|ref=中川、三田編(1995)}} ; 紀行 * {{Cite book|和書|author=伊藤千尋|authorlink=伊藤千尋 (ジャーナリスト)|date=1988年5月|title=燃える中南米──特派員報告|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波新書]]|location=東京|isbn=4-00-430023-1|ref=伊藤(1988)}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|南アメリカ|[[画像:P South America.png|42px|Portal:南アメリカ]]}} * [[チリ関係記事の一覧]] * [[ウアッソ]] * [[チリ地震 (曖昧さ回避)]] * [[日本とチリの関係]] == 外部リンク == {{osm box|r|167454}} {{Sisterlinks | q = no | v = no }} '''政府''' * [https://www.gob.cl/ チリ共和国政府] {{es icon}}{{en icon}} * [https://chile.gob.cl/japon/ 在日チリ大使館] {{es icon}}{{en icon}} '''日本政府''' * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/chile/index.html 日本外務省 - チリ] {{ja icon}} * [https://www.cl.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在チリ日本国大使館] {{ja icon}} '''観光''' * [https://www.sernatur.cl/ チリ政府観光局] {{es icon}} * {{ウィキトラベル インライン|チリ|チリ}} {{ja icon}} * {{Wikivoyage-inline|es:Chile|チリ{{es icon}}}} * {{Wikivoyage-inline|Chile|チリ{{en icon}}}} '''その他''' * [https://www.jetro.go.jp/world/cs_america/cl/ JETRO - チリ] {{ja icon}} * {{Curlie|Regional/South_America/Chile}} {{en icon}} * {{CIA World Factbook link|ci|Chile}} {{en icon}} * {{Wikiatlas|Chile}} {{en icon}} * {{Googlemap|チリ}} * {{Kotobank}} {{南米共同体}} {{アメリカ}} {{オセアニア}} {{OECD}} {{TPP}} {{CPLP}} {{Normdaten}} {{Coord|33|26|S|70|40|W|type:country_region:CL|display=title}} {{デフォルトソート:ちり}} [[Category:チリ|*]] [[Category:南アメリカの国]] [[Category:共和国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:経済協力開発機構加盟国]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%AA
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ボリビア
ボリビア多民族国(ボリビアたみんぞくこく、西: Estado Plurinacional de Bolivia、ケチュア語族: Buliwiya Mama Llaqta、アイマラ語: Bulibiya Suyu)、通称ボリビアは、南アメリカ大陸西部にある立憲共和制国家。憲法上の首都はスクレだが、ラパスが実質的な首都機能を担っており、議会をはじめとした政府主要機関が所在する。ラパスは標高3600メートルで、世界で最も高所にある首都となっている。 太平洋戦争 (1879年-1884年)で敗れてチリに太平洋海岸部の領土を奪われて以降は内陸国となっており、南西はチリ、北西はペルー、北東はブラジル、南東はパラグアイ、南はアルゼンチンと国境を接する。 国土面積は約110万平方キロメートルで、日本の約3.3倍。アメリカ大陸では8番目に、ラテンアメリカでは6番目に、世界的には27番目に大きい国であるが、上記のように領土を隣国に奪われる前はさらに広かった。ボリビアは太平洋岸領土の奪還を諦めておらず、チチカカ湖や河川で活動するボリビア海軍(兵力4800人)を保持しているほか、3月23日を海の日 (ボリビア)と定め、国際司法裁判所に提訴(2018年に「チリは交渉に応じる義務はないが、善隣の精神に基づいた対話継続を妨げない」との判断が示された)するなどしている。 南半球にあり、晴れていれば南十字星が見える。 かつて「黄金の玉座に座る乞食」と形容されたように、豊かな天然資源を持つにもかかわらず実際には貧しい状態が続いており、現在もラテンアメリカ貧国の一つである。推定1万4000人の日系ボリビア人がおり、日本人町もある。 公用語による正式名称は、スペイン語で Estado Plurinacional de Bolivia。公式のケチュア語表記は Bulibiya Suyu, 公式のアイマラ語表記は Buliwya である。通称は Bolivia [boˈliβia] ( 音声ファイル)。 2009年3月18日に、それまでのRepública de Bolivia(ボリビア共和国)から現国名へ変更した。 公式の英語表記は Plurinational State of Bolivia。通称は Bolivia [bəˈliviə] ( 音声ファイル) となっている。 日本語の表記は、ボリビア多民族国。通称は、ボリビア。また、ボリヴィアとも表記される。また公式ではないが、漢字表記としては、「暮利比亜」「保里備屋」「玻里非」「波力斐」などが使われる。漢字一文字の略称では「暮国」が使われることが多い。 国家の独立前はアルト・ペルー(上ペルー、高地ペルー)と呼ばれていたが、独立に際してラテンアメリカの解放者として知られるシモン・ボリバル将軍と、アントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍に解放されたことを称えて、国名をボリビア、首都名をスクレ(旧チャルカス)と定めた。 ボリビアの大統領を元首とする共和制国家であり、国家元首である大統領は行政府の長として実権を有する。任期5年。選挙は、大統領候補と副大統領候補がそれぞれペアとなり立候補し、国民は直接選挙により数組の中から1組を選出する。大統領が死亡や辞任により欠ける場合は、副大統領が大統領に昇格し、残りの任期を務める。首相職はなく、副大統領が閣議を主宰する。 建国以来政治的に非常に不安定なため、クーデターが起こりやすい政治文化があり、過去100回以上のクーデターが起きている。 国会にあたる多民族立法議会は両院制。上院は全36議席で、各県から4名ずつ比例代表制選挙により選出される。代議院(下院)は、全130議席で、そのうち77議席は小選挙区から選出、53議席は比例代表制で選出されるが、全体の議席配分は比例代表制によって決まる(小選挙区比例代表併用制。ただし 超過議席が出ないようになっているため、連用制に近い)。両院とも議員の任期は5年で、同日選挙である。 直近の国政選挙は、2014年10月12日に行われた。政党別の獲得議席数は、以下の通り。 2006年7月2日、制憲議会選挙が行われた。定数は255議席。与党・社会主義運動(MAS)が137議席を確保した。第2党は、野党中道右派・民主社会勢力(PODEMOS)で60議席を占めた。同時に実施された地方自治権の拡充の賛否を問う国民投票では、与党の主張が半数を占める。新憲法草案は、1年以内に3分の2以上の賛成で提案され、国民投票に付される。 ボリビアの181周年独立記念日の2006年8月6日に、制憲議会の開会式が行われた。同議会発足を祝って、36の先住民による約3万人のパレードも実施された。 就任2年目になるエボ・モラレス大統領は、2007年1月22日、国会で年次報告を行い、新憲法を制定する重要性を改めて強調した。新憲法には、水を含む資源主権や先住民の権利確立、教育行政に対する国の責任などが盛り込まれる予定である。制憲議会は2006年8月、発足したが、議事運営方法、地方自治、首都制定などを巡って与野党や地方間の対立が続いている。与党・社会主義運動党が定数255のうち142議席を占めている。 2009年1月25日、先住民の権利拡大や大統領の再選を可能とする新憲法案が60%あまりの賛成を得て承認された。2009年12月6日、大統領選挙が行われ、現職のモラレスが6割を超える得票で勝利した。 2014年10月29日、モラレスが大統領選で3度目の当選を果たし、翌2015年1月に第3期モラレス政権が発足した。 2019年10月20日、モラレスは大統領選で4度目の当選を果たしたものの、開票結果の不正操作疑惑が浮上し、これに反発した対立候補の支持者による抗議活動が発生し、国内は混乱。国軍・国家警察などから辞職勧告を突き付けられたモラレスは11月10日に大統領辞任を表明し、11月12日にメキシコへ亡命。これは事実上のクーデターとされる。 モラレスの辞任表明を受け、憲法裁判所はヘアニネ・アニェス上院副議長を暫定大統領に選出し、アニェスは就任宣誓を行った。これに対し、モラレス政権を独裁として批判してきたアメリカ合衆国やアメリカ寄りの右派政権が統治するブラジル、コロンビア、エクアドルはアニェスを暫定大統領として承認した。大統領選挙の仕切り直しは、2020年5月に予定されていたが、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、同年10月18日に延期して実施され、モラレス派のルイス・アルセ・カタコラが当選した。2021年3月13日、前暫定大統領のアニェスが、2019年の「クーデター」に関与した疑いなどで逮捕された。 陸軍、空軍、海軍を保有しており、12ヶ月の徴兵制度が敷かれている。 現在のボリビアは内陸国であるが、現在でも海軍と呼称されている。大西洋やチチカカ湖で演習を行う他、河川が国境となっている北部・東部のブラジルやパラグアイでの国境付近で国境警備の任務に就いている。 ボリビアには、9つの県(departomentos)が設けられている。カッコ内は、県庁所在地。 主要な都市はスクレ(憲法上の首都)、ラパス(事実上の首都)、サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ、エル・アルト、コチャバンバがある。 太平洋戦争 (1879年-1884年)に敗れて内陸国となったボリビアの地理は大きく3つに分けられる。 一つは、ペルーとの国境であるチチカカ湖周辺から国土を南に貫くアンデス山脈地域で国土面積の約29%に及び、その面積は32万平方キロ余りで、標高3000m以上の年中寒冷な気候を持つ。ラパス市やオルロ市にかけて標高4000mくらいの広大な平らな土地が広がり、この地域はアルティプラーノと呼ばれる。アンデス地域にはオクシデンタル山脈(スペイン語版、英語版)とオリエンタル山脈(スペイン語版、英語版)の二つの山脈がある。 さらにコルディリェラ・オクシデンタル(西アンデス山脈)、コルディリェラ・オリエンタル(コルディリェラ・レアル、東アンデス山脈)、アルティプラノと呼ばれる高原よりなる。 国土の北東側から東側は国土の約62%を占めるアマゾンの熱帯地域であり、リャノ(llano)またはオリエンテ(oriente)と呼ばれる。リャノはさらに、熱帯雨林(いわゆるジャングル)が広がる北側と、乾燥しているグランチャコ地方(パラグアイ国境近く)とに分かれる。サンタクルス県の東部にはチキタノ山塊が存在する。 国土の約9%を占めるコチャバンバ県やラパス県ユンガス地方などの、アンデス地帯とアマゾン地帯の中間に位置する場所はバジェ (valle) 地域と呼ばれ、温暖で果樹栽培などに適した気候である。この地域ではインディヘナ農民によるコカの栽培も盛んである。 ユンガスは標高3300mから2500mの高地ユンガス、2500mから1500mの中央ユンガス、1500mから600mの低地ユンガスに分類される。 このユンガスにある保養地コロイコ(英語版)とラパス市を結ぶ道路は、毎年多くの死者を出し、「死の道路」と呼ばれていた。 ボリビアはかつて太平洋に面する海岸線も領土に保有していたが、1884年に太平洋戦争_(1879年-1884年)で敗れ、 バルパライソ条約と、1904年の正式な講和によりそれを全て失った。ボリビアでは3月23日を「海の日(día del mar)」として、当時ボリビア領だったカラマでチリ軍への降伏を拒否して戦死した英雄エドゥアルド・アバロアの像があるラパスで式典を開き「海を取り戻そうキャンペーン」を展開している。 ボリビアの海運での輸出入貨物はチリの港で陸揚げされている。チリの港にはボリビアが管理する保税上屋(TRANSIT SHED)と呼ばれるタックス・ヘイヴンがあり、ここからチリの通関を行わないままボリビア国境へ運ばれ、ここで初めてボリビアの税関が通関を行う。 アンデス共同体、南米諸国連合に加盟し、メルコスールの準加盟国でもある。 国家統計局の発表によるボリビアの経済指標は以下の通り(いずれも2003年の値)。 植民地時代から19世紀末までは金と銀が、20世紀以降は錫がボリビア経済の主軸であった。ホッホシルトが錫開発の主役であった。 石油の輸出も盛んであり、1930年代に東部で油田が発見されたことがチャコ戦争の一因ともなった。2001年に世界最大規模の天然ガス田が発見され、ボリビア経済再生の頼み綱となっている。 南部のウユニ塩原には推定540万トンのリチウム(世界埋蔵量の半分以上)が埋蔵されていると見積もられているが、ボリビア政府にはそれを抽出する技術も資本も持ち合わせていない、という事情がある。 1952年のボリビア革命以来、サンタクルスを中心とした東部の低地地帯で開墾、農業開発が進み、近年大豆、サトウキビ、綿花、コーヒー、バナナなどの大規模な輸出用農業が盛んになっており、北部の熱帯地域ではカカオなどが産出する。一方で、西部のアルティプラーノではインカ帝国以来の零細小農業やコカ栽培などが行われている。 1958年、第一次農地改革が行われたが、2006年現在では、分配された土地の95%に当たる約3200万ヘクタールが企業の手に渡っている。 2006年5月16日、ガルシア副大統領より「第二次農地改革」計画案が発表された。「生産的でない」土地及び国有地を農民や先住民に分配するというものである。 主な観光地としてはティワナクの遺跡や、チチカカ湖、ウユニ塩原、ポトシの鉱山、チェ・ゲバラの戦死したイゲラなどがあり、南米諸国の中でも特に物価が低いため、ヨーロッパや、カナダ、アメリカ合衆国、日本、韓国、イスラエルといった先進国に加えて、南米諸国のアルゼンチン、ブラジル、チリなどからも多くの観光客がボリビアを訪れている。アンデス山脈の高山が各国から登山家を引き寄せている。また、アマゾンのツアーを提供する多くのツアー会社もある。 国家統計局(INE : Instituto Nacional de Estadistica)が発表している2001年の国勢調査(Censo Nacional)の結果によると、人口は8,274,325人、うち女性4,150,475 人、男性4,123,850人。都市部の人口は5,165,230人、地方の人口は3,109,095人。人口密度は7.56人/km。 国際連合児童基金(ユニセフ)の発表によると、5歳以下で死亡する子供の比率は77/1,000。1歳以下で死亡する子供の比率は60/1,000。平均寿命は女性64歳、男性61歳、合計63歳。 ケチュア人が約30%、メスティーソ(混血)が約30%、アイマラ人が約25%、ヨーロッパ系が約15%、アフリカ系が約0.5%であると見られるが、正式な統計は取られていない。 先住民人口比率が85%と南米最多である。 先住民としては南東部のチャコ地方にはグアラニー族も若干居住しており、数を示すとケチュア人が250万人、アイマラ人が200万人、チキタノ人が18万人、グアラニー人が12万5000人程になる。 メスティーソのうち、伝統的な衣装を身に付けている女性はチョリータと呼ばれる。彼女らの格好はボリビアを特徴づける習俗となっている。 クリオーリョ(スペイン系)の出身地としては植民地時代からのスペイン人が最も多いが、ドイツ、アメリカ合衆国、イタリア、クロアチア、ロシア、ポーランドなどにルーツを持つ者やバスク民族系なども存在している。 全人口の0.5%程であるアフリカ系は、元々ブラジルに奴隷としてやってきた人々が移住してきたのが始まりであり、ラパス県の南北ユンガスに最も多い。日系ボリビア人は推定1万4000人ほど存在する。ペルーへの日系移民がボリビアへ来たのが始まりといわれている。1900年代に日本人移住者が当時起きていたアマゾンのゴム景気に引き寄せられ、ゴム労働者として北部アマゾン地域のリベラルタやトリニダに移住した。1954年からは主に沖縄県や九州からの移住者がサンタ・クルス県に移住し、オキナワ移住区やサンフアン・デ・ヤパカニ移住区を開拓した。 言語はスペイン語、ケチュア語、アイマラ語、グアラニー語が公用語である。田舎ではケチュア語、アイマラ語、グアラニー語が用いられているが、スペイン語を全く解さない人は近年少なくなってきている。都市部ではスペイン語以外の言葉を話せない人の方が多い。 信仰の自由を認めたうえでローマ・カトリックを国教に定めている。国民の95%がローマ・カトリックを信仰しているが、近年は同じキリスト教のプロテスタントや福音派が勢力を増している。東部にはメノニータも入植している。 2020年時点でGDPに占める比率は9.8%であり、2011年から徐々に上昇している。 2020 年時点で94%であり、ラテンアメリカ並びにカリブ諸国の識字率94%と比較すると概ね平均的な識字率である。ボリビアでの非識字率は2001年の13.28%から2014年に3.8%に下がっている。これは2006年に発足したモラレス政権が非識字克服を最優先課題の一つに掲げ、キューバの教育者が開発した識字メソッド(Yo, sí puedo)の活用とベネズエラからの資金援助によって、読み書きできない国民へ無償の教育を提供した影響が大きい。 4〜5歳を対象とした2年間の就学前教育から始まり、6年間の初等教育、6年間の中等教育、高等教育が行われる。義務教育は初等教育から中等教育までの14年間であり、学年暦は2月から始まり、11月に終わる。高等教育は大学やその他の高等教育機関で行われる。大学では,学士課程(4〜6年),修士課程(2年),博士課程(4年)が置かれる。その他の高等教育機関では,上級技術者ディプロマを取得する 3〜4年の課程などが置かれる。高等教育までは全ての公教育が無償となっている。 一般的に同じ校舎内で午前に小学校の授業,午後は中学・高校その他の学校の授業,夜は夜間学校と技術専門学校などの授業が行われている。また、学校施設不足などの理由から1つの校舎を別の複数の学校が共有することもある。 義務教育後の教育としては私立高校からは大学へ進学する者が多い。大学は入学が簡単である一方、卒業は困難である。公立高校からは経済的理由により働くか公立大学へ進学する者が多い。 私立校は小・中・高までの一貫教育を行っており、公立校よりも教師、設備に優れ、教育水準も高い。公立校は授業料が無料であるが、ほとんどの学校で教科書をコピーして使っており、教職員のストライキが多く教育課程に支障が出る場合がある。 独立機関である教育の質研究所(OPCE)の2010年の調査によると、初等教育では国語よりも算数の能力が低い児童が多いことが確認された。また、中等教育では初等教育と同様に算数の能力の低さが確認された。特に開発が遅れているとされている県において能力が低い生徒の割合が多く、県ごとに能力のばらつきが大きいことが確認されている。算数能力が低い理由として、授業が教師主導型で練習問題を解かせるだけであり生徒の自主性を重要視していないことが指摘されている。 2020年時点で男性69歳、女性75歳、合計72歳である。 2019年時点で第1に虚血性心疾患、第2に下気道感染症、第3に脳卒中である。 寿命に大きな影響を与えている要因として栄養失調、肥満がある。 2019年時点でGDPに占める比率は6.92%であり、2000年から徐々に上昇している。 公共の保健医療施設はサービスレベルに応じて3段階に分けられている。第1次レベルは初期治療などを提供する診療所、保健センターが該当する。第2次レベルは基本的専門医療を提供する県病院が該当する。第3次レベルは最も高度な医療を提供する総合・専門病院が該当する。 妊産婦死亡率や5歳未満の乳幼児の死亡率が高く、母子保健が劣悪な状況であることから、1996年7月に「国家母子保健政策」が政府によって策定され、妊産婦および5歳未満の乳幼児が無料で診療を受けられるようになった。2003年には国家母子保険はユニバーサル母子保険と名称が変更され、社会保険や民間の施設でも適用されるようになった。妊産婦死亡率や幼児死亡率は近年(2019)の経済成長によって減少しつつあるが、依然として人口1万人あたりの医師数は中南米域内の平均を大きく下回っており、病院の数・人材・機材・薬品も不足している状態が長く続き、栄養失調などの問題が残っていた。こうした状況を踏まえ、政府は2019年3月に全国統一医療システムを導入し、ユニバーサル・ヘルス・カバレッジの拡大に取り組んでいる。具体的には全国民の保健サービスへのアクセスを目標とし、妊産婦死亡率を現状より50%削減し、幼児死亡率については現状より30%削減するとしている。 ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ拡大の政策によって医療設備の数は増加しており、新しく導入された国民皆保険により、国民の51%が無料診療を受けられるようになった一方で、患者数の急増に病院のインフラが追いつかず、十分な医療サービスを提供できない病院もある。そのため、より多くの機材や医師を病院に配置することが求められている。 2008年2月1日、前年の11月に成立した新年金法が施行され、無年金者への「尊厳ある年金」の支給が始まった。この政策は、資源主権の確立を通じて様々な社会政策を実施しているベネズエラや、無年金救済制度をつくったアルゼンチンなどの経験に学んだものである。財政的裏付けは、天然ガス国有化による国家収入の増大である。60歳以上の無年金者は年2,400ボリビアーノス(約35,500円、最低賃金の4.6か月分)、何らかの国の年金を既に受けている人は1,800ボリビアーノスが支給される。約70万人が受給する見通しである。 プレ・インカ期やインカ帝国の文明圏ではケチュアがアイマラを支配する形で一体化は進み、スペイン統治下のペルー副王領やリオ・デ・ラ・プラタ副王領の勢力圏などでもアルト・ペルーと呼ばれ、ペルーとボリビアはほぼひとまとまりの地域として扱われてきたため、現在でも両国は文化的に近い関係にある。 例えば、アンデス地方を特徴づける文化として世界的に有名なのはフォルクローレであるが、その曲調、使用する楽器などはボリビアとペルーでほぼ同じであり、これはアルゼンチン北西部とも共通する。スペイン統治時代に広まった伝統的な衣装を着続けるチョリータと呼ばれる女性たちも、両国に共通する特徴的な習俗である。 アンデス地域とアマゾン地域はその気候の大きな違いや町の起こりの経緯の違いにより、互いに文化的な差異を感じているようである。アンデス地方の町の多くはインカ帝国時代の集落がペルー副王領時代に町として興されたものであるのに対し、アマゾン地域の町は植民地時代にはパラグアイ方面から開拓されていったものが多いが、スペイン当局にはほとんど手をつけられず、グランチャコ地方の領有問題なども放置されていた。東部の主要都市サンタクルスが開発されたのも第二次世界大戦前後からである。 俗語では、アンデス地域またはそこに住む人々はコージャと呼ばれ、アマゾン地域またはそこに住む人々はカンバと呼ばれる。 1998年以降、アメリカの指導により、政府はコカ撲滅作戦に取り組んでいるが、国民の6割がコカ常用者とされ、アメリカなどへの密輸も盛んに行われている。 食文化としては、パン、ジャガイモ、トウモロコシを主食とし、副食として主に牛肉と鶏肉を食べる。豚肉は高級な食材とされる。クイと呼ばれる天竺鼠の一種も食用としている。暖かい地方ではユカイモ(キャッサバ)やパパイア・マンゴーなども食べる。内陸国のため、魚介類ではチチカカ湖のトゥルーチャ(鱒の一種)やペヘレイといった川魚が食べられる。海産物は主にチリなどから輸入される。朝には道ばたでパンを売る姿がよく見られ、高地ではサルテーニャが、低地ではクニャペがよく売られている。 第二次世界大戦前後にドイツなどから逃れてきた人たち(戦前はユダヤ人、戦後はナチスの残党)がビールを広めた結果、ラパスでは「パセーニャ (Paceña)」、オルロでは「ウァリ (Huari)」、コチャバンバでは「タキーニャ (Taquiña)」、サンタクルスでは「ドゥカル (Ducal)」など、それぞれの都市を代表するビールの銘柄がある。 ビール以外の酒類としては、スペイン侵略以前から飲まれているチチャという発酵酒や、ブドウの蒸留酒シンガニや、中米から輸入したラム酒のロン(Ron)などが飲まれる。 ボリビア人のチチャにかける情熱は強く、チチャを侮辱したイギリスの公使が、暴君メルガレホによりロバの背中に裸にしてくくりつけられ、スクレの市中を引き回しにされた事件がある。また、アルゼンチンに近いタリハはボリビア屈指のワイン産地であり、ワインも好まれている。 ボリビア文学はインカ帝国時代の先住民の口承文学に根を持ち、植民地期にもバルトロメ・アルサンス、パソス・カンキ、フアン・ワルパリマチなどの作家がいた。19世紀の独立後、ロマン主義の時代にはマリア・ホセファ・ムヒア、リカルド・ホセ・ブスタマンテ、アデラ・サムディオなどがいる。 20世紀初めになるとアルシデス・アルゲダスの『ワタ・ワラ』や『青銅の種族』により、インディオの困窮やキリスト教会の腐敗を告発したインディヘニスモ文学が始められた。このころの作家にはオスカル・セムートやガブリエル・レネ・モレーノなどがいる。現在において活躍する作家としては、エドムンド・パス・ソルダンや日系ボリビア人のペドロ・シモセが特に有名である。 ボリビアの音楽は土着の音楽が発達したアウトクトナ音楽と、ヨーロッパから持ち込まれた音楽を基盤に都市で発達したクリオージャ音楽に大きく分けられるが、どちらもフォルクローレと呼ばれる。ボリビア全体がフォルクローレの里と呼ばれるが、特にオルロとポトシが有名である。オルロでは年に一度、ユネスコの無形文化遺産にも登録されているカルナバル(カーニバル)が行われるが、これはクスコ、リオデジャネイロと並んで南米三大祭りの一つといわれる。主なリズムとしてはワイニョ、クエッカ(クエッカ・ボリビアーナ)、バイレシートなど。 『我が祖国ボリビア』というクエッカの曲は第2国歌と呼ばれている。ペルーやチリなど周辺国のフォルクローレにも使われるチャランゴはボリビア起源の楽器である。ポトシやその近くのチュキサカの田舎町などには、スペイン侵略以前の習俗を色濃く残しているものと思われる、特異な歌や踊りをいまでも見ることができる。ノルテ・ポトシのプトゥクンという歌や、タラブコの祭りなどがその例である。 ポピュラー音楽の世界ではクリオージャ音楽とアウトクナ音楽は相互に影響し合い、従来のフォルクローレとロックやジャズのクロスオーバーも盛んである。コロンビア生まれのクンビアも広く聴かれている。 ボリビアにおいて初めて長編映画『ワラ・ワラ』を撮影したのはホセ・マリア・ベラスコ・マイダーナ(英語版)であり、1930年のことだった。その後1953年にボリビア映画協会が設立され、ホルヘ・ルイスらが活躍した。1966年にはホルヘ・サンヒネスを中心にウカマウ集団(スペイン語版)が結成され、日本でも現代企画室と太田昌国の協力により『地下の民』(1986年)などが公開された。 ボリビア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件ある。 ボリビア国内でも他のラテンアメリカ諸国と同様、サッカーが圧倒的に一番人気のスポーツとなっており、1950年にサッカーリーグのプリメーラ・ディビシオンが創設された。ボリビアサッカー連盟(FBF)によって構成されるサッカーボリビア代表は、これまでFIFAワールドカップには3度出場しているが、全大会でグループリーグ敗退となっている。しかしコパ・アメリカでは1963年大会で初優勝を果たしており、1997年大会では準優勝に輝いている。 代表チームはホームゲームで驚異的な強さを誇っており、ラパスにあるスタジアム「エスタディオ・エルナンド・シレス」は標高が約3,600mもあり、酸素濃度が低いためアウェーチームは度々苦戦を強いられている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ボリビア多民族国(ボリビアたみんぞくこく、西: Estado Plurinacional de Bolivia、ケチュア語族: Buliwiya Mama Llaqta、アイマラ語: Bulibiya Suyu)、通称ボリビアは、南アメリカ大陸西部にある立憲共和制国家。憲法上の首都はスクレだが、ラパスが実質的な首都機能を担っており、議会をはじめとした政府主要機関が所在する。ラパスは標高3600メートルで、世界で最も高所にある首都となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "太平洋戦争 (1879年-1884年)で敗れてチリに太平洋海岸部の領土を奪われて以降は内陸国となっており、南西はチリ、北西はペルー、北東はブラジル、南東はパラグアイ、南はアルゼンチンと国境を接する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "国土面積は約110万平方キロメートルで、日本の約3.3倍。アメリカ大陸では8番目に、ラテンアメリカでは6番目に、世界的には27番目に大きい国であるが、上記のように領土を隣国に奪われる前はさらに広かった。ボリビアは太平洋岸領土の奪還を諦めておらず、チチカカ湖や河川で活動するボリビア海軍(兵力4800人)を保持しているほか、3月23日を海の日 (ボリビア)と定め、国際司法裁判所に提訴(2018年に「チリは交渉に応じる義務はないが、善隣の精神に基づいた対話継続を妨げない」との判断が示された)するなどしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "南半球にあり、晴れていれば南十字星が見える。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "かつて「黄金の玉座に座る乞食」と形容されたように、豊かな天然資源を持つにもかかわらず実際には貧しい状態が続いており、現在もラテンアメリカ貧国の一つである。推定1万4000人の日系ボリビア人がおり、日本人町もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "公用語による正式名称は、スペイン語で Estado Plurinacional de Bolivia。公式のケチュア語表記は Bulibiya Suyu, 公式のアイマラ語表記は Buliwya である。通称は Bolivia [boˈliβia] ( 音声ファイル)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2009年3月18日に、それまでのRepública de Bolivia(ボリビア共和国)から現国名へ変更した。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "公式の英語表記は Plurinational State of Bolivia。通称は Bolivia [bəˈliviə] ( 音声ファイル) となっている。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本語の表記は、ボリビア多民族国。通称は、ボリビア。また、ボリヴィアとも表記される。また公式ではないが、漢字表記としては、「暮利比亜」「保里備屋」「玻里非」「波力斐」などが使われる。漢字一文字の略称では「暮国」が使われることが多い。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "国家の独立前はアルト・ペルー(上ペルー、高地ペルー)と呼ばれていたが、独立に際してラテンアメリカの解放者として知られるシモン・ボリバル将軍と、アントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍に解放されたことを称えて、国名をボリビア、首都名をスクレ(旧チャルカス)と定めた。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ボリビアの大統領を元首とする共和制国家であり、国家元首である大統領は行政府の長として実権を有する。任期5年。選挙は、大統領候補と副大統領候補がそれぞれペアとなり立候補し、国民は直接選挙により数組の中から1組を選出する。大統領が死亡や辞任により欠ける場合は、副大統領が大統領に昇格し、残りの任期を務める。首相職はなく、副大統領が閣議を主宰する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "建国以来政治的に非常に不安定なため、クーデターが起こりやすい政治文化があり、過去100回以上のクーデターが起きている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "国会にあたる多民族立法議会は両院制。上院は全36議席で、各県から4名ずつ比例代表制選挙により選出される。代議院(下院)は、全130議席で、そのうち77議席は小選挙区から選出、53議席は比例代表制で選出されるが、全体の議席配分は比例代表制によって決まる(小選挙区比例代表併用制。ただし 超過議席が出ないようになっているため、連用制に近い)。両院とも議員の任期は5年で、同日選挙である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "直近の国政選挙は、2014年10月12日に行われた。政党別の獲得議席数は、以下の通り。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2006年7月2日、制憲議会選挙が行われた。定数は255議席。与党・社会主義運動(MAS)が137議席を確保した。第2党は、野党中道右派・民主社会勢力(PODEMOS)で60議席を占めた。同時に実施された地方自治権の拡充の賛否を問う国民投票では、与党の主張が半数を占める。新憲法草案は、1年以内に3分の2以上の賛成で提案され、国民投票に付される。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ボリビアの181周年独立記念日の2006年8月6日に、制憲議会の開会式が行われた。同議会発足を祝って、36の先住民による約3万人のパレードも実施された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "就任2年目になるエボ・モラレス大統領は、2007年1月22日、国会で年次報告を行い、新憲法を制定する重要性を改めて強調した。新憲法には、水を含む資源主権や先住民の権利確立、教育行政に対する国の責任などが盛り込まれる予定である。制憲議会は2006年8月、発足したが、議事運営方法、地方自治、首都制定などを巡って与野党や地方間の対立が続いている。与党・社会主義運動党が定数255のうち142議席を占めている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2009年1月25日、先住民の権利拡大や大統領の再選を可能とする新憲法案が60%あまりの賛成を得て承認された。2009年12月6日、大統領選挙が行われ、現職のモラレスが6割を超える得票で勝利した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2014年10月29日、モラレスが大統領選で3度目の当選を果たし、翌2015年1月に第3期モラレス政権が発足した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2019年10月20日、モラレスは大統領選で4度目の当選を果たしたものの、開票結果の不正操作疑惑が浮上し、これに反発した対立候補の支持者による抗議活動が発生し、国内は混乱。国軍・国家警察などから辞職勧告を突き付けられたモラレスは11月10日に大統領辞任を表明し、11月12日にメキシコへ亡命。これは事実上のクーデターとされる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "モラレスの辞任表明を受け、憲法裁判所はヘアニネ・アニェス上院副議長を暫定大統領に選出し、アニェスは就任宣誓を行った。これに対し、モラレス政権を独裁として批判してきたアメリカ合衆国やアメリカ寄りの右派政権が統治するブラジル、コロンビア、エクアドルはアニェスを暫定大統領として承認した。大統領選挙の仕切り直しは、2020年5月に予定されていたが、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、同年10月18日に延期して実施され、モラレス派のルイス・アルセ・カタコラが当選した。2021年3月13日、前暫定大統領のアニェスが、2019年の「クーデター」に関与した疑いなどで逮捕された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "陸軍、空軍、海軍を保有しており、12ヶ月の徴兵制度が敷かれている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "現在のボリビアは内陸国であるが、現在でも海軍と呼称されている。大西洋やチチカカ湖で演習を行う他、河川が国境となっている北部・東部のブラジルやパラグアイでの国境付近で国境警備の任務に就いている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ボリビアには、9つの県(departomentos)が設けられている。カッコ内は、県庁所在地。", "title": "地方行政区画" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "主要な都市はスクレ(憲法上の首都)、ラパス(事実上の首都)、サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ、エル・アルト、コチャバンバがある。", "title": "地方行政区画" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "太平洋戦争 (1879年-1884年)に敗れて内陸国となったボリビアの地理は大きく3つに分けられる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "一つは、ペルーとの国境であるチチカカ湖周辺から国土を南に貫くアンデス山脈地域で国土面積の約29%に及び、その面積は32万平方キロ余りで、標高3000m以上の年中寒冷な気候を持つ。ラパス市やオルロ市にかけて標高4000mくらいの広大な平らな土地が広がり、この地域はアルティプラーノと呼ばれる。アンデス地域にはオクシデンタル山脈(スペイン語版、英語版)とオリエンタル山脈(スペイン語版、英語版)の二つの山脈がある。 さらにコルディリェラ・オクシデンタル(西アンデス山脈)、コルディリェラ・オリエンタル(コルディリェラ・レアル、東アンデス山脈)、アルティプラノと呼ばれる高原よりなる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "国土の北東側から東側は国土の約62%を占めるアマゾンの熱帯地域であり、リャノ(llano)またはオリエンテ(oriente)と呼ばれる。リャノはさらに、熱帯雨林(いわゆるジャングル)が広がる北側と、乾燥しているグランチャコ地方(パラグアイ国境近く)とに分かれる。サンタクルス県の東部にはチキタノ山塊が存在する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "国土の約9%を占めるコチャバンバ県やラパス県ユンガス地方などの、アンデス地帯とアマゾン地帯の中間に位置する場所はバジェ (valle) 地域と呼ばれ、温暖で果樹栽培などに適した気候である。この地域ではインディヘナ農民によるコカの栽培も盛んである。 ユンガスは標高3300mから2500mの高地ユンガス、2500mから1500mの中央ユンガス、1500mから600mの低地ユンガスに分類される。 このユンガスにある保養地コロイコ(英語版)とラパス市を結ぶ道路は、毎年多くの死者を出し、「死の道路」と呼ばれていた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ボリビアはかつて太平洋に面する海岸線も領土に保有していたが、1884年に太平洋戦争_(1879年-1884年)で敗れ、 バルパライソ条約と、1904年の正式な講和によりそれを全て失った。ボリビアでは3月23日を「海の日(día del mar)」として、当時ボリビア領だったカラマでチリ軍への降伏を拒否して戦死した英雄エドゥアルド・アバロアの像があるラパスで式典を開き「海を取り戻そうキャンペーン」を展開している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ボリビアの海運での輸出入貨物はチリの港で陸揚げされている。チリの港にはボリビアが管理する保税上屋(TRANSIT SHED)と呼ばれるタックス・ヘイヴンがあり、ここからチリの通関を行わないままボリビア国境へ運ばれ、ここで初めてボリビアの税関が通関を行う。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "アンデス共同体、南米諸国連合に加盟し、メルコスールの準加盟国でもある。 国家統計局の発表によるボリビアの経済指標は以下の通り(いずれも2003年の値)。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "植民地時代から19世紀末までは金と銀が、20世紀以降は錫がボリビア経済の主軸であった。ホッホシルトが錫開発の主役であった。 石油の輸出も盛んであり、1930年代に東部で油田が発見されたことがチャコ戦争の一因ともなった。2001年に世界最大規模の天然ガス田が発見され、ボリビア経済再生の頼み綱となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "南部のウユニ塩原には推定540万トンのリチウム(世界埋蔵量の半分以上)が埋蔵されていると見積もられているが、ボリビア政府にはそれを抽出する技術も資本も持ち合わせていない、という事情がある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1952年のボリビア革命以来、サンタクルスを中心とした東部の低地地帯で開墾、農業開発が進み、近年大豆、サトウキビ、綿花、コーヒー、バナナなどの大規模な輸出用農業が盛んになっており、北部の熱帯地域ではカカオなどが産出する。一方で、西部のアルティプラーノではインカ帝国以来の零細小農業やコカ栽培などが行われている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1958年、第一次農地改革が行われたが、2006年現在では、分配された土地の95%に当たる約3200万ヘクタールが企業の手に渡っている。 2006年5月16日、ガルシア副大統領より「第二次農地改革」計画案が発表された。「生産的でない」土地及び国有地を農民や先住民に分配するというものである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "主な観光地としてはティワナクの遺跡や、チチカカ湖、ウユニ塩原、ポトシの鉱山、チェ・ゲバラの戦死したイゲラなどがあり、南米諸国の中でも特に物価が低いため、ヨーロッパや、カナダ、アメリカ合衆国、日本、韓国、イスラエルといった先進国に加えて、南米諸国のアルゼンチン、ブラジル、チリなどからも多くの観光客がボリビアを訪れている。アンデス山脈の高山が各国から登山家を引き寄せている。また、アマゾンのツアーを提供する多くのツアー会社もある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "国家統計局(INE : Instituto Nacional de Estadistica)が発表している2001年の国勢調査(Censo Nacional)の結果によると、人口は8,274,325人、うち女性4,150,475 人、男性4,123,850人。都市部の人口は5,165,230人、地方の人口は3,109,095人。人口密度は7.56人/km。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "国際連合児童基金(ユニセフ)の発表によると、5歳以下で死亡する子供の比率は77/1,000。1歳以下で死亡する子供の比率は60/1,000。平均寿命は女性64歳、男性61歳、合計63歳。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ケチュア人が約30%、メスティーソ(混血)が約30%、アイマラ人が約25%、ヨーロッパ系が約15%、アフリカ系が約0.5%であると見られるが、正式な統計は取られていない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "先住民人口比率が85%と南米最多である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "先住民としては南東部のチャコ地方にはグアラニー族も若干居住しており、数を示すとケチュア人が250万人、アイマラ人が200万人、チキタノ人が18万人、グアラニー人が12万5000人程になる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "メスティーソのうち、伝統的な衣装を身に付けている女性はチョリータと呼ばれる。彼女らの格好はボリビアを特徴づける習俗となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "クリオーリョ(スペイン系)の出身地としては植民地時代からのスペイン人が最も多いが、ドイツ、アメリカ合衆国、イタリア、クロアチア、ロシア、ポーランドなどにルーツを持つ者やバスク民族系なども存在している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "全人口の0.5%程であるアフリカ系は、元々ブラジルに奴隷としてやってきた人々が移住してきたのが始まりであり、ラパス県の南北ユンガスに最も多い。日系ボリビア人は推定1万4000人ほど存在する。ペルーへの日系移民がボリビアへ来たのが始まりといわれている。1900年代に日本人移住者が当時起きていたアマゾンのゴム景気に引き寄せられ、ゴム労働者として北部アマゾン地域のリベラルタやトリニダに移住した。1954年からは主に沖縄県や九州からの移住者がサンタ・クルス県に移住し、オキナワ移住区やサンフアン・デ・ヤパカニ移住区を開拓した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "言語はスペイン語、ケチュア語、アイマラ語、グアラニー語が公用語である。田舎ではケチュア語、アイマラ語、グアラニー語が用いられているが、スペイン語を全く解さない人は近年少なくなってきている。都市部ではスペイン語以外の言葉を話せない人の方が多い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "信仰の自由を認めたうえでローマ・カトリックを国教に定めている。国民の95%がローマ・カトリックを信仰しているが、近年は同じキリスト教のプロテスタントや福音派が勢力を増している。東部にはメノニータも入植している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2020年時点でGDPに占める比率は9.8%であり、2011年から徐々に上昇している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2020 年時点で94%であり、ラテンアメリカ並びにカリブ諸国の識字率94%と比較すると概ね平均的な識字率である。ボリビアでの非識字率は2001年の13.28%から2014年に3.8%に下がっている。これは2006年に発足したモラレス政権が非識字克服を最優先課題の一つに掲げ、キューバの教育者が開発した識字メソッド(Yo, sí puedo)の活用とベネズエラからの資金援助によって、読み書きできない国民へ無償の教育を提供した影響が大きい。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "4〜5歳を対象とした2年間の就学前教育から始まり、6年間の初等教育、6年間の中等教育、高等教育が行われる。義務教育は初等教育から中等教育までの14年間であり、学年暦は2月から始まり、11月に終わる。高等教育は大学やその他の高等教育機関で行われる。大学では,学士課程(4〜6年),修士課程(2年),博士課程(4年)が置かれる。その他の高等教育機関では,上級技術者ディプロマを取得する 3〜4年の課程などが置かれる。高等教育までは全ての公教育が無償となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "一般的に同じ校舎内で午前に小学校の授業,午後は中学・高校その他の学校の授業,夜は夜間学校と技術専門学校などの授業が行われている。また、学校施設不足などの理由から1つの校舎を別の複数の学校が共有することもある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "義務教育後の教育としては私立高校からは大学へ進学する者が多い。大学は入学が簡単である一方、卒業は困難である。公立高校からは経済的理由により働くか公立大学へ進学する者が多い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "私立校は小・中・高までの一貫教育を行っており、公立校よりも教師、設備に優れ、教育水準も高い。公立校は授業料が無料であるが、ほとんどの学校で教科書をコピーして使っており、教職員のストライキが多く教育課程に支障が出る場合がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "独立機関である教育の質研究所(OPCE)の2010年の調査によると、初等教育では国語よりも算数の能力が低い児童が多いことが確認された。また、中等教育では初等教育と同様に算数の能力の低さが確認された。特に開発が遅れているとされている県において能力が低い生徒の割合が多く、県ごとに能力のばらつきが大きいことが確認されている。算数能力が低い理由として、授業が教師主導型で練習問題を解かせるだけであり生徒の自主性を重要視していないことが指摘されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2020年時点で男性69歳、女性75歳、合計72歳である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2019年時点で第1に虚血性心疾患、第2に下気道感染症、第3に脳卒中である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "寿命に大きな影響を与えている要因として栄養失調、肥満がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2019年時点でGDPに占める比率は6.92%であり、2000年から徐々に上昇している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "公共の保健医療施設はサービスレベルに応じて3段階に分けられている。第1次レベルは初期治療などを提供する診療所、保健センターが該当する。第2次レベルは基本的専門医療を提供する県病院が該当する。第3次レベルは最も高度な医療を提供する総合・専門病院が該当する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "妊産婦死亡率や5歳未満の乳幼児の死亡率が高く、母子保健が劣悪な状況であることから、1996年7月に「国家母子保健政策」が政府によって策定され、妊産婦および5歳未満の乳幼児が無料で診療を受けられるようになった。2003年には国家母子保険はユニバーサル母子保険と名称が変更され、社会保険や民間の施設でも適用されるようになった。妊産婦死亡率や幼児死亡率は近年(2019)の経済成長によって減少しつつあるが、依然として人口1万人あたりの医師数は中南米域内の平均を大きく下回っており、病院の数・人材・機材・薬品も不足している状態が長く続き、栄養失調などの問題が残っていた。こうした状況を踏まえ、政府は2019年3月に全国統一医療システムを導入し、ユニバーサル・ヘルス・カバレッジの拡大に取り組んでいる。具体的には全国民の保健サービスへのアクセスを目標とし、妊産婦死亡率を現状より50%削減し、幼児死亡率については現状より30%削減するとしている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ拡大の政策によって医療設備の数は増加しており、新しく導入された国民皆保険により、国民の51%が無料診療を受けられるようになった一方で、患者数の急増に病院のインフラが追いつかず、十分な医療サービスを提供できない病院もある。そのため、より多くの機材や医師を病院に配置することが求められている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2008年2月1日、前年の11月に成立した新年金法が施行され、無年金者への「尊厳ある年金」の支給が始まった。この政策は、資源主権の確立を通じて様々な社会政策を実施しているベネズエラや、無年金救済制度をつくったアルゼンチンなどの経験に学んだものである。財政的裏付けは、天然ガス国有化による国家収入の増大である。60歳以上の無年金者は年2,400ボリビアーノス(約35,500円、最低賃金の4.6か月分)、何らかの国の年金を既に受けている人は1,800ボリビアーノスが支給される。約70万人が受給する見通しである。", "title": "社会福祉" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "プレ・インカ期やインカ帝国の文明圏ではケチュアがアイマラを支配する形で一体化は進み、スペイン統治下のペルー副王領やリオ・デ・ラ・プラタ副王領の勢力圏などでもアルト・ペルーと呼ばれ、ペルーとボリビアはほぼひとまとまりの地域として扱われてきたため、現在でも両国は文化的に近い関係にある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "例えば、アンデス地方を特徴づける文化として世界的に有名なのはフォルクローレであるが、その曲調、使用する楽器などはボリビアとペルーでほぼ同じであり、これはアルゼンチン北西部とも共通する。スペイン統治時代に広まった伝統的な衣装を着続けるチョリータと呼ばれる女性たちも、両国に共通する特徴的な習俗である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "アンデス地域とアマゾン地域はその気候の大きな違いや町の起こりの経緯の違いにより、互いに文化的な差異を感じているようである。アンデス地方の町の多くはインカ帝国時代の集落がペルー副王領時代に町として興されたものであるのに対し、アマゾン地域の町は植民地時代にはパラグアイ方面から開拓されていったものが多いが、スペイン当局にはほとんど手をつけられず、グランチャコ地方の領有問題なども放置されていた。東部の主要都市サンタクルスが開発されたのも第二次世界大戦前後からである。 俗語では、アンデス地域またはそこに住む人々はコージャと呼ばれ、アマゾン地域またはそこに住む人々はカンバと呼ばれる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1998年以降、アメリカの指導により、政府はコカ撲滅作戦に取り組んでいるが、国民の6割がコカ常用者とされ、アメリカなどへの密輸も盛んに行われている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "食文化としては、パン、ジャガイモ、トウモロコシを主食とし、副食として主に牛肉と鶏肉を食べる。豚肉は高級な食材とされる。クイと呼ばれる天竺鼠の一種も食用としている。暖かい地方ではユカイモ(キャッサバ)やパパイア・マンゴーなども食べる。内陸国のため、魚介類ではチチカカ湖のトゥルーチャ(鱒の一種)やペヘレイといった川魚が食べられる。海産物は主にチリなどから輸入される。朝には道ばたでパンを売る姿がよく見られ、高地ではサルテーニャが、低地ではクニャペがよく売られている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦前後にドイツなどから逃れてきた人たち(戦前はユダヤ人、戦後はナチスの残党)がビールを広めた結果、ラパスでは「パセーニャ (Paceña)」、オルロでは「ウァリ (Huari)」、コチャバンバでは「タキーニャ (Taquiña)」、サンタクルスでは「ドゥカル (Ducal)」など、それぞれの都市を代表するビールの銘柄がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ビール以外の酒類としては、スペイン侵略以前から飲まれているチチャという発酵酒や、ブドウの蒸留酒シンガニや、中米から輸入したラム酒のロン(Ron)などが飲まれる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ボリビア人のチチャにかける情熱は強く、チチャを侮辱したイギリスの公使が、暴君メルガレホによりロバの背中に裸にしてくくりつけられ、スクレの市中を引き回しにされた事件がある。また、アルゼンチンに近いタリハはボリビア屈指のワイン産地であり、ワインも好まれている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ボリビア文学はインカ帝国時代の先住民の口承文学に根を持ち、植民地期にもバルトロメ・アルサンス、パソス・カンキ、フアン・ワルパリマチなどの作家がいた。19世紀の独立後、ロマン主義の時代にはマリア・ホセファ・ムヒア、リカルド・ホセ・ブスタマンテ、アデラ・サムディオなどがいる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "20世紀初めになるとアルシデス・アルゲダスの『ワタ・ワラ』や『青銅の種族』により、インディオの困窮やキリスト教会の腐敗を告発したインディヘニスモ文学が始められた。このころの作家にはオスカル・セムートやガブリエル・レネ・モレーノなどがいる。現在において活躍する作家としては、エドムンド・パス・ソルダンや日系ボリビア人のペドロ・シモセが特に有名である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "ボリビアの音楽は土着の音楽が発達したアウトクトナ音楽と、ヨーロッパから持ち込まれた音楽を基盤に都市で発達したクリオージャ音楽に大きく分けられるが、どちらもフォルクローレと呼ばれる。ボリビア全体がフォルクローレの里と呼ばれるが、特にオルロとポトシが有名である。オルロでは年に一度、ユネスコの無形文化遺産にも登録されているカルナバル(カーニバル)が行われるが、これはクスコ、リオデジャネイロと並んで南米三大祭りの一つといわれる。主なリズムとしてはワイニョ、クエッカ(クエッカ・ボリビアーナ)、バイレシートなど。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "『我が祖国ボリビア』というクエッカの曲は第2国歌と呼ばれている。ペルーやチリなど周辺国のフォルクローレにも使われるチャランゴはボリビア起源の楽器である。ポトシやその近くのチュキサカの田舎町などには、スペイン侵略以前の習俗を色濃く残しているものと思われる、特異な歌や踊りをいまでも見ることができる。ノルテ・ポトシのプトゥクンという歌や、タラブコの祭りなどがその例である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "ポピュラー音楽の世界ではクリオージャ音楽とアウトクナ音楽は相互に影響し合い、従来のフォルクローレとロックやジャズのクロスオーバーも盛んである。コロンビア生まれのクンビアも広く聴かれている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "ボリビアにおいて初めて長編映画『ワラ・ワラ』を撮影したのはホセ・マリア・ベラスコ・マイダーナ(英語版)であり、1930年のことだった。その後1953年にボリビア映画協会が設立され、ホルヘ・ルイスらが活躍した。1966年にはホルヘ・サンヒネスを中心にウカマウ集団(スペイン語版)が結成され、日本でも現代企画室と太田昌国の協力により『地下の民』(1986年)などが公開された。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ボリビア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件ある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ボリビア国内でも他のラテンアメリカ諸国と同様、サッカーが圧倒的に一番人気のスポーツとなっており、1950年にサッカーリーグのプリメーラ・ディビシオンが創設された。ボリビアサッカー連盟(FBF)によって構成されるサッカーボリビア代表は、これまでFIFAワールドカップには3度出場しているが、全大会でグループリーグ敗退となっている。しかしコパ・アメリカでは1963年大会で初優勝を果たしており、1997年大会では準優勝に輝いている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "代表チームはホームゲームで驚異的な強さを誇っており、ラパスにあるスタジアム「エスタディオ・エルナンド・シレス」は標高が約3,600mもあり、酸素濃度が低いためアウェーチームは度々苦戦を強いられている。", "title": "スポーツ" } ]
ボリビア多民族国、通称ボリビアは、南アメリカ大陸西部にある立憲共和制国家。憲法上の首都はスクレだが、ラパスが実質的な首都機能を担っており、議会をはじめとした政府主要機関が所在する。ラパスは標高3600メートルで、世界で最も高所にある首都となっている。 太平洋戦争 (1879年-1884年)で敗れてチリに太平洋海岸部の領土を奪われて以降は内陸国となっており、南西はチリ、北西はペルー、北東はブラジル、南東はパラグアイ、南はアルゼンチンと国境を接する。
{{基礎情報 国 | 略名 = ボリビア | 日本語国名 = ボリビア多民族国 | 公式国名 = '''{{Lang|es|Estado Plurinacional de Bolivia}}'''<small>(スペイン語)</small><br />'''{{lang|ay|Bulibiya Suyu}}'''<small>(ケチュア語)</small><br />'''{{lang|gv|Tetã Volívia}}'''<small>(グアラニー語)</small><br />'''{{lang|qu|Buliwiya Mama Llaqta}}'''<small>(アイマラ語)</small> | 国旗画像 = Bandera de Bolivia (Estado).svg | 国章画像 = [[ファイル:Escudo de Bolivia.svg|100px|ボリビアの国章]] | 国章リンク =([[ボリビアの国章|国章]]) | 標語 = ''{{Lang|es|La unión es la fuerza!}}''<br />([[スペイン語]]: 統一は力なり) | 位置画像 = Bolivia (orthographic projection).svg | 公用語 = [[スペイン語]]<br />[[ケチュア語族]]<br />[[アイマラ語]]<br />[[グアラニー語]]<br />その他33の先住民言語 | 首都 = [[スクレ (ボリビア)|スクレ]]([[デ・ジュリ|憲法上]])<ref group="注">憲法上の首都であり、司法府(最高裁判所)の所在地。</ref><br>[[ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パス]](ラパス、[[デ・ファクト|事実上]])<ref group="注">事実上の首都で、立法府・行政府の所在地。</ref> | 最大都市 = [[サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ]] | 元首等肩書 = [[ボリビアの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[ルイス・アルセ]] | 首相等肩書 = {{仮リンク|ボリビアの副大統領|label=副大統領|en|Vice President of Bolivia}} | 首相等氏名 = {{ill2|デビッド・チョケファンカ|en|David Choquehuanca}} | 他元首等肩書1 = [[w:President of the Chamber of Senators of Bolivia|上院議長]] | 他元首等氏名1 = {{ill2|アンドロニコ・ロドリゲス|en|Andrónico Rodríguez}} | 他元首等肩書2 = [[w:President of the Chamber of Deputies of Bolivia|下院議長]] | 他元首等氏名2 = ジェルジュ・メルカド | 面積順位 = 27 | 面積大きさ = 1 E12 | 面積値 = 1,098,581 | 水面積率 = 1.3% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 80 | 人口大きさ = 1 E6 | 人口値 = 11,673,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/bo.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-13 }}</ref> | 人口密度値 = 10.8<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 2527億1800万<ref name="imf2021">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=218,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2018&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|accessdate=2021-11-7}}</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 91 | GDP値MER = 368億3900万<ref name="imf2021"/> | GDP MER/人 = 3,167.612(推計)<ref name="imf2021"/> | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 92 | GDP値 = 965億9200万<ref name="imf2021"/> | GDP/人 = 8,305.422(推計)<ref name="imf2021"/> | 建国形態 = [[国家の独立|独立]] | 建国年月日 = [[スペイン]]より<br />[[1825年]][[8月6日]] | 通貨 = [[ボリビアーノ]](Bs) | 通貨コード = BOB | 時間帯 = -4 | 夏時間 = なし | 国歌 = [[ボリビアの国歌|{{lang|es|Himno Nacional de Bolivia}}]]{{es icon}}<br />''ボリビアの国歌''<br />{{center|[[ファイル:Himno Nacional de Bolivia instrumental.ogg]]}} | ISO 3166-1 = BO / BOL | ccTLD = [[.bo]] | 国際電話番号 = 591 | 注記 = <references group="注"/> }} '''ボリビア多民族国'''<ref name="日本国外務省">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/bolivia/data.html ボリビア多民族国(The Plurinational State of Bolivia)基礎データ] 日本国外務省(2022年7月17日閲覧)</ref>(ボリビアたみんぞくこく、{{Lang-es-short|Estado Plurinacional de Bolivia}}、{{Lang-qu|Buliwiya Mama Llaqta}}、{{Lang-ay|Bulibiya Suyu}})、通称'''ボリビア'''は、[[南アメリカ大陸]]西部にある[[立憲]][[共和制国家]]。[[憲法]]上の[[首都]]は[[スクレ (ボリビア)|スクレ]]だが、[[ラパス]]が実質的な首都機能を担っており<ref name="日本国外務省"/>、[[多民族立法議会|議会]]をはじめとした[[政府]]主要機関が所在する。ラパスは[[標高]]3600メートル<ref name="日本国外務省"/>で、世界で最も高所にある首都となっている<ref name="bolib01" />。 [[太平洋戦争 (1879年-1884年)]]で敗れて[[チリ]]に[[太平洋]]海岸部の[[領土]]を奪われて以降は[[内陸国]]となっており<ref name="読売20220615">【世界 in-depth 深層】ボリビア:内陸国 特別な「海の日」 戦争で喪失 経済低迷]『[[読売新聞]]』朝刊2022年6月15日(国際面)</ref>、南西はチリ、北西は[[ペルー]]、北東は[[ブラジル]]、南東は[[パラグアイ]]、南は[[アルゼンチン]]と[[国境]]を接する。 == 概要 == 国土面積は約110万平方キロメートルで、[[日本]]の約3.3倍<ref name="日本国外務省"/>。[[アメリカ大陸]]では8番目に、[[ラテンアメリカ]]では6番目に、世界的には27番目に大きい国であるが、上記のように領土を隣国に奪われる前はさらに広かった。ボリビアは太平洋岸領土の奪還を諦めておらず、[[チチカカ湖]]や河川で活動する[[ボリビア海軍]](兵力4800人)を保持しているほか、3月23日を[[海の日 (ボリビア)]]と定め、[[国際司法裁判所]]に提訴(2018年に「チリは交渉に応じる義務はないが、善隣の精神に基づいた対話継続を妨げない」との判断が示された)するなどしている<ref name="読売20220615"/>。 [[南半球]]にあり、晴れていれば[[南十字星]]が見える<ref name="bolib01">眞鍋周三編著 『ボリビアを知るための73章』第2版(明石書店 <エリア・スタディーズ 54> 2013年)20ページ</ref>。 かつて「黄金の玉座に座る乞食」と形容されたように、豊かな天然資源を持つにもかかわらず実際には貧しい状態が続いており、現在もラテンアメリカ貧国の一つである。推定1万4000人の[[日系ボリビア人]]がおり<ref name="読売20220615"/>、日本人町もある<ref>[https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/area/country/2017/bolivia.html ボリビア(2017年度)][[国際交流基金]]</ref>。 == 国名 == [[File:Bl-map.png|thumb|right]] 公用語による正式名称は、スペイン語で {{Lang|es|Estado Plurinacional de Bolivia}}<ref>{{Cite web|author=国際連合地名標準化会議作業部会|authorlink=国際連合地名標準化会議|date=2009年8月|url=http://unstats.un.org/unsd/geoinfo/UNGEGN-Working-Groups/UNGEGN%20WG%20Country%20Names%20Document%20-%20August%202009.pdf|title=UNGEGN List of Country Names, August 2009|format=PDF|pages=15頁|language=英語|accessdate=2010-05-31}}<!-- http://unstats.un.org/unsd/geoinfo/ungegnwgroups.htm -->{{リンク切れ|date=2012年4月}}</ref>。公式のケチュア語表記は {{Lang|qu|Bulibiya Suyu}}, 公式のアイマラ語表記は {{Lang|ay|Buliwya}} である。通称は {{Lang|es|Bolivia}} {{IPA-es|boˈliβia||ES-pe - Bolivia.ogg}}。 [[2009年]][[3月18日]]に、それまでの{{Lang|es|República de Bolivia}}(<!--レプブリカ・デ・ボリビア。日本語表記は「-->ボリビア共和国<!--」-->)から現国名へ変更した<ref>{{Cite web|url=http://www.derechoteca.com/gacetabolivia/decreto-supremo-0048-del-18-marzo-2009.htm|title=DECRETO SUPREMO No 0048 del 18 Marzo 2009 | Derechoteca Gaceta Bolivia 5|language=スペイン語|accessdate=2010-05-31}}</ref>。 公式の英語表記は {{Lang|en|Plurinational State of Bolivia}}<ref name="日本国外務省"/><!--(プラリネーショナル・ステート・オブ・ボリヴィア)-->。通称は {{Lang|en|Bolivia}} {{IPA-en|bəˈliviə||en-us-Bolivia.ogg}} となっている。 日本語の表記は、'''ボリビア多民族国'''<ref name="日本国外務省"/>。通称は、'''ボリビア'''。また、'''ボリヴィア'''とも表記される。また公式ではないが、[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]としては、「暮利比亜」「保里備屋」「玻里非」「波力斐」などが使われる。漢字一文字の略称では「暮国」が使われることが多い。 [[国家の独立]]前は[[アルト・ペルー]](上ペルー、高地ペルー)と呼ばれていたが、独立に際してラテンアメリカの解放者として知られる[[シモン・ボリバル]]将軍と、[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]将軍に解放されたことを称えて、国名をボリビア、首都名をスクレ(旧チャルカス)と定めた。 == 歴史 == {{main|ボリビアの歴史}} {{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2010年7月}} [[File:Precolumbian_Statue.jpg|thumb|upright|ティワナク文明の遺産]] [[File:Incamachay arte Ruprestre Oropeza Chuquisaca Bolivia.jpg|thumb|upright|2,000年以上昔の[[インカマチャイ]]の壁画]] === 先コロンブス期の発展 === {{Main|先コロンブス期}} * [[紀元前2千年紀|紀元前1500年]]ごろから[[紀元前3世紀|紀元前250年]]ごろ [[チリパ]]文化が栄える。 * [[5世紀]]から[[12世紀]]ごろ [[ティワナク|ティワナク文化]]が栄える。 * [[12世紀]]ごろから[[1470年]]ごろ [[チチカカ湖]]沿岸に[[アイマラ]]諸王国が栄える。 * [[1470年]]ごろから[[1532年]] アイマラ諸王国が[[クスコ]]に拠点を置いていた、[[ケチュア]]人の皇帝[[パチャクテク]]や、[[トゥパック・インカ・ユパンキ]]の征服により[[インカ帝国|タワンティン・スウユ]]({{lang-qu|Tawantin Suyu}}、[[インカ帝国]])の[[インカ帝国#国名|コジャ・スウユ]]({{lang-qu|Colla Suyo}}、「南州」)に編入される。インカ帝国内にてアイマラ諸王国は継続。 === スペイン植民地時代 === {{See also|スペインによるアメリカ大陸の植民地化}} * [[1532年]] インカ皇帝[[アタワルパ]]がスペイン人[[コンキスタドール]]により処刑され、インカ帝国は崩壊。スペインによる植民地化が始まる。 * [[1535年]] [[フランシスコ・ピサロ]]により[[ペルー副王領]]が作られる。[[ディエゴ・デ・アルマグロ]]の遠征軍が[[アルト・ペルー]]を探検する。 * [[1538年]] [[ゴンサロ・ピサロ]]の軍がアルト・ペルーに遠征し、首長[[アヤビリ]]を降してこの地を植民地化する。 * [[1540年]] ラ・プラタ市(後のチュキサカ、チャルカス、スクレ)が建設される。 * [[1545年]] [[ポトシ]]銀山発見。以降、現在のペルーを始めとする諸地域から多くの[[インディオ]]が鉱山のミタにより、ポトシで強制労働させられることになる。 * [[1548年]] アロンソ・デ・メンドーサにより、チチカカ湖の近くに[[ラパス|ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パス]]市が建設される。 * [[1559年]] チャルカス(後の[[スクレ (ボリビア)|スクレ]])に聴問庁(アウディエンシア)が設置される。このころから独立まで現ボリビアの地域は「[[アルト・ペルー]](高地ペルー、上ペルー)」と呼ばれる。 * [[1559年]] 東部のチャコ地方に[[サンタクルス|サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ]]が建設される。 * [[1569年]] ペルー副王フランシスコ・デ・トレドの統治が始まる。銀山採掘のためにポトシは人口十万人を超える都市として発展し(当時の[[ロンドン]]より大きい)、銀採掘のためにミタ制によりかき集められたインディオは、過酷な労働と病気で次々に死んでいった。 * [[18世紀]] ポトシの銀が急速に枯渇する。 * [[1776年]] アルト・ペルーがペルー副王領から[[リオ・デ・ラ・プラタ副王領]]に転入され、以降経済や司法が副王首府の[[ブエノスアイレス]]に従属することになる。スペイン本国生まれ([[ペニンスラール]])の少数支配に反対して現地生まれのスペイン人([[クリオーリョ]])による反抗運動が起こった。 * [[1778年]] ブエノスアイレス港が正式に開港し、以降アルト・ペルーの海外貿易がブエノスアイレスを通じて行われるようになる。 * [[1780年]] ペルーで[[ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ|トゥパク・アマルー2世]]が植民地政府に反乱を起こす。 * [[1781年]] ペルーのトゥパク・アマルー2世と呼応して、レパルティミエントやミタ制の重い負担の廃止を求めた、[[アイマラ|アイマラ人]] の[[トゥパク・カタリ]]による反乱蜂起があったが、これは鎮圧された。鎮圧後、インディオに対する当局の弾圧は強まった。トゥパク・カタリは現在もボリビアの国民的英雄になっている。 === 解放戦争から独立まで === {{See also|近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立|[[ボリビア独立戦争]]}} * [[1809年]] ラパスと[[チュキサカ県|チュキサカ]]でクリオーリョによる独立運動が起こる({{仮リンク|ラパス革命|es|Junta Tuitiva|en|La Paz revolution}}、{{仮リンク|チュキサカ革命|es|Revolución de Chuquisaca|en|Chuquisaca Revolution}})。ボリビア最初の独立運動であり、[[キト]]と共にラテンアメリカで最も早かった。 * [[1810年]] ラパスで起きていた革命運動は、ペルー副王アバスカルの指導によりすぐに王党派に鎮圧され、革命評議会の[[ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョ]]は処刑された。その後[[アルゼンチン|リオ・デ・ラ・プラタ連合州]]が独立派に支援軍を送るがことごとく王党派軍に打ち破られた。 * [[1816年]] {{仮リンク|トゥクマンの議会|en|Congress of Tucumán}}により、リオ・デ・ラ・プラタ連合州が独立を宣言する。アルト・ペルーの代表者も出席した。 * [[1823年]] 再び独立戦争始まる。 * [[1824年]] [[シモン・ボリバル]]と[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]の率いる[[ベネズエラ]]からの[[大コロンビア|コロンビア共和国]]の解放軍により、副王[[ホセ・デ・ラ・セルナ]]([[チェ・ゲバラ]]の先祖)の率いる王党派軍が{{仮リンク|アヤクーチョの戦い|en|Battle of Ayacucho}}で壊滅。インディアス植民地の最終的な独立が確定する。 * [[1825年]][[8月6日]] ボリバルの協力により、スクレ元帥が[[アンドレス・デ・サンタ・クルス]]と共に、アルト・ペルーを[[スペイン]]から解放した。アルト・ペルーの支配層はそれまで同一の行政単位を構成していたペルーや[[アルゼンチン]]との連合を望まなかったため、チュキサカでアルト・ペルー共和国の独立が宣言された。[[8月26日]]ボリビア共和国と改名した。 === 独立から混沌へ === [[File:Jose de scure.jpg|thumb|upright|第2代大統領にして「アヤクーチョ大元帥」<br />[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]]] [[File:Divisiones administrativas de la Confederación Perú-Boliviana.svg|thumb|[[ペルー・ボリビア連合]]の領域]] * [[1826年]][[8月]] アルト・ペルーはボリバルの名にちなんで「ボリビア」という国名になり、正式に独立した。11月19日、ボリバル憲法を公布する。同時に首都も憲法上はチャルカスが改名されてスクレとなった。12月9日、スクレが終身大統領に就任する。自由主義的な改革がなされるが、保守派の恨みを買い、[[ベネズエラ人]]の支配を嫌う声も囁かれた。 * [[1828年]] スクレ大統領が侵攻してきたペルーの{{仮リンク|アグスティン・ガマーラ|en|Agustín Gamarra}}を打ち破るが、すぐにガマーラと結んだ国内保守派の陰謀により大統領を辞任し、キートヘ[[亡命]](実はサンタ・クルスも関わっていたといわれている)。 * [[1829年]] ボリバルの推薦により、5月25日、サンタ・クルスが大統領に就任する。サンタ・クルスはインカ帝国の後継者を自称し、大学、港湾、鉱山など国内の開発を続け、軍備を強化した。[[保護貿易]]を導入して国内の[[綿]]産業を保護した。 * [[1836年]] 大統領のアンドレス・デ・サンタ・クルスがアグスティン・ガマーラを破ってペルーを併合し、[[ペルー・ボリビア連合]]を打ち立てる。連合は三州に分けられ、首都は[[南ペルー共和国]]の[[タクナ]]に置かれた。 * [[1839年]] 連合に脅威を抱いたチリ(既に死去していたディエゴ・ポルターレスの影響が大きい)と[[アルゼンチン]]の[[フアン・マヌエル・デ・ロサス]]軍の攻撃により連合は崩壊。これによりサンタ・クルスが追放されるとボリビアは[[無政府状態]]に陥った。 * [[1841年]] 国内の混乱の中、サンタ・クルス派の[[ホセ・バリビアン]]がペルーから侵攻してきたアグスティン・ガマーラを{{仮リンク|インガビの戦い|en|Battle of Ingavi}}で打ち破り、ガマーラは戦死した。以降、ペルーとボリビアの合邦を望む動きはなくなった。 * [[1847年]] メスティーソの軍人{{仮リンク|マヌエル・イジドロ・ベルス|es|Manuel Isidoro Belzu}}の反乱によりバジビアンが亡命する。 * [[1848年]] ベルスが大統領になる。ベルスは保護政策を採り、[[ポピュリズム|ポプリスモ]]的な政策で大衆の支持を得る。 * [[1857年]] [[ホセ・マリア・リナレス]]によるボリビア初の文民政権成立。自由主義政策を採り、インディオを弾圧した。このころ太平洋沿岸部の[[リトラル|リトラル県]](アントファガスタ)で最初の[[硝石]]鉱山が発見された。 * [[1861年]] [[クーデター]]によりリナレスが追放される。 * [[1864年]] それまで影で権力を握っていたベルスを暗殺したメスティーソの軍人、[[マリアーノ・メルガレホ]]が政権につき、国内の混乱が頂点に達する。「野蛮[[カウディーリョ|カウディージョ]]」と呼ばれたその手法により国内全ての階層が大打撃を受け、特にインディオは大弾圧され、共有地は解体されて奪われた。その後メルガレホはアントファガスタの硝石の採掘権をチリに売却した。 * [[1867年]] {{仮リンク|アヤクーチョ条約|es|Tratado de Ayacucho}}の締結で[[アクレ州|アクレ県]]がボリビアに帰属。 * [[1871年]] メルガレホ大統領が失脚。 * [[1874年]] バジビアン政権の永代所有禁止法によりインディオの共有地は壊滅的な被害を受け、以降インディオは鉱山や[[プランテーション]]の日雇い労働者となっていった。 * [[1879年]] アントファガスタをチリに占領され、さらに[[ペルー]]と硝石問題に関して秘密同盟を組んでいたことが仇となり、[[チリ]]がペルー・ボリビア両国へ宣戦布告して[[太平洋戦争_(1879年-1884年)|硝石戦争(太平洋戦争(1879年-1884年))]]となる。 * [[1883年]] ペルーとチリの間での、硝石戦争(太平洋戦争)の休戦。チリに対する事実上の敗北が決まる。 === 内陸国化と相次ぐ敗戦 === [[File:Map Bolivia territorial loss-en.svg|thumb|ボリビアの領域の変遷。戦争により広大な領土が近隣諸国に併合された。]] * [[1884年]] チリとの[[バルパライソ条約]]で[[銅]]と硝石の鉱山が豊富な太平洋岸の領土(リトラル県)を割譲し、海への出口を持たない内陸国になる。保守党のグレゴリオ・パチェコが大統領になり、以降、鉱山主の支配が1899年まで続く。 * [[1888年]] このころから北部の[[アクレ州|アクレ県]]に[[ブラジル人]]が侵入。 * [[1899年]] アクレ県に入植したブラジル人[[ゴムノキ|ゴム]]農園労働者の反乱によりブラジルと紛争が発生し([[アクレ紛争]])、「[[アクレ共和国]]」([[1899年]] - [[1903年]])として半独立状態となる。同時にこの年初の日本人移民が渡り、[[リベラルタ]]や[[トリニダ (ボリビア)|トリニダ]]のゴム農園に就労した。錫鉱山主を基盤にするラパスの自由党が反乱を起こし、スクレ・ポトシの銀鉱山主を基盤にしていた保守党支配が終わった(連邦革命)。以降、自由党のホセ・パンドが大統領になり、以降、自由党の支配が1920年まで続く。 * [[1900年]] 自由党派がラパスを拠点としていたため、議会、政府がスクレからラパスに移転し、ラパスが事実上の首都になる。 * [[1903年]] アクレ紛争に結果的に敗北し、ゴムの一大生産地だった[[アクレ州|アクレ県]]をブラジルに割譲。 * [[1904年]] チリと正式に和平条約を結び、リトラル県の割譲を承認した。 * [[1910年]] [[スズ|錫]]の生産量が1890年代の20倍に達する(「錫の世紀」)。 * [[1914年]] [[コチャバンバ]]の農園主らが基盤となって共和党が結成された。 * [[1920年]] クーデターにより自由党支配が終わる。 * [[1921年]] 共和党のバウティスタ・サアベドラが大統領になる。在任中に[[スタンダード・オイル]]社により東部低地地帯の油田開発が進む。 * [[1926年]] 共和党のエルナンド・シレスが大統領になる。 * [[1929年]] [[世界恐慌]]により大打撃を受け、社会不安が起こる。 * [[1931年]] 共和党右派のダニエル・サラマンカが大統領になる。7月、パラグアイと国交断絶。 * [[1932年]] 6月にサラマンカ政権、植民地時代からの領土問題を持ち出し、[[グランチャコ]]地方と[[パラグアイ川]]の通行権を求めてパラグアイに宣戦布告([[チャコ戦争]])。 * [[1935年]] ボリビア領の東部油田地帯に侵攻したパラグアイと休戦。ボリビアの戦死者は6万5000人。ボリビア、パラグアイ共に財政は崩壊状態になった。 === チャコ戦争後の不安定化 === * [[1936年]] チャコ戦争後、白人寡頭支配層への批判が強まり、チャコ戦争の参謀総長だった{{仮リンク|ダビッド・トロ|es|David Toro|label=ダビッド・トロ・ルイロバ}}がクーデターにより大統領に就任。「軍事社会主義」([[国家社会主義]])を掲げた。 * [[1937年]] [[スタンダード・オイル]]社のボリビア国内事業を国有化。これは同時期の、[[メキシコ革命]]の[[ラサロ・カルデナス]]政権による油田国有化に先立って、ラテンアメリカで初の外資国有化政策となる。この社会主義的政策は支配層に嫌われ、同年保守派によりトロは追放され、保守派の支持によりチャコ戦争の英雄だったドイツ系の{{仮リンク|ヘルマン・ブッシュ・ベセラ|es|Germán Busch Becerra}}中佐が大統領になるが、ヘルマン・ブッシュはすぐに保守派との戦いを始め、錫財閥との対決を図った。 * [[1938年]] チャコ戦争が正式に終結。[[チャコ戦争|ブエノスアイレス講和条約]]によりチャコ地方がパラグアイの領土となる。領土が最大時の約半分になる。この時期にヘルマン・ブッシュは[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス・ドイツ]]の躍進する[[ヨーロッパ]]から[[ユダヤ人]]の受け入れを宣言した。 * [[1939年]] ヘルマン・ブッシュが暗殺される。 * [[1941年]] [[ビクトル・パス・エステンソロ]]や{{仮リンク|ゲバラ・アルセ|es|Walter Guevara Arze}}らにより、[[民族革命運動党]](MNR)結成。 * [[1942年]] カタピ鉱山の労働争議で鉱山労働者700人が虐殺される([[カタピの虐殺]])。 * [[1944年]] フアン・レチンにより、鉱山労働者組合連合が結成される。 * [[1951年]] MNRが大統領選に勝利するも、クーデターにより軍部に政権を奪われ、MNRは非合法化され、このことに対する国民の不満が高まる。 === ボリビア革命とその挫折 === * [[1952年]]4月 鉱山労働者らの武装蜂起。MNRによる政権樹立。[[ビクトル・パス・エステンソロ]]が大統領に就任し、[[ボリビア革命]]が成功した(4月[[革命]]とも)。インディオに選挙権や公民権が付与された新憲法が採択された。革命政権の国策として、このころからサンタクルスを中心とする東部の低地地帯の開発が進む。 * [[1956年]] [[エルナン・シレス・スアソ]]政権成立。 * [[1959年]] 農地改革が行われ、大[[プランテーション]]が解体され、インディオの小作人に土地が分与された。 * [[1960年]] 第2次パス・エステンソロ政権成立。軍が再建される。 * [[1964年]] 第3次パス・エステンソロ政権成立するも、軍によるクーデターによりMNRが失権。ボリビア革命が終焉する。大統領となった[[レネ・バリエントス・オルトゥーニョ|レネ・バリエントス]]らの軍部と[[ボリビア共産党]]の対立が進む。 * [[1965年]] 軍事政権、インディオ農民を基盤とすることに成功する。 * [[1966年]] [[キューバ革命]]指導者の一人である[[チェ・ゲバラ]]が[[ウルグアイ人]]ビジネスマンに偽装してボリビアに潜入し、ボリビア民族解放軍(ELN)を設立して[[ゲリラ]]戦を行う。 === ゲバラの戦死から現在まで === [[File:Che Guevara - Guerrillero Heroico by Alberto Korda.jpg|thumb|200px|[[チェ・ゲバラ]]]] * [[1967年]] バリエントス政権、[[アメリカ軍]]の協力の下にゲバラ軍を追い詰め、鉱山労働者がゲバラに同調することを嫌って[[サン・フアンの虐殺]]を行う。そして農民の支持を得られなかったため、[[キューバの軍事|キューバ軍]][[特殊部隊]]と共に潜入していたチェ・ゲバラがゲリラ戦の末、政府軍の[[アルフレド・オバンド・カンディア]]将軍に捕らえられ[[イゲラ]]で戦死。 * [[1969年]] バリエントス大統領が農民に金を配りに行く最中、謎のヘリコプター墜落事故で死亡。9月にかつてゲバラ討伐に当たった[[アルフレド・オバンド・カンディア]]将軍がクーデターを起こして政権を握り、ペルーの[[フアン・ベラスコ・アルバラード|ベラスコ]]将軍に影響を受けた「革命的国民主義」を掲げて国民主義知識人グループに誓った石油国有化政策を発表。[[ソビエト連邦|ソ連]]との国交が樹立される。 * [[1970年]] 軍内左派の[[フアン・ホセ・トーレス]]将軍が政権を掌握。[[アメリカ合衆国]]資本の鉱山の国有化や、国営の錫精錬工場の建設がなされる。 * [[1971年]] 8月に[[サンタクルス]]出身の右派の[[ウゴ・バンセル・スアレス|ウゴ・バンセル]]将軍がアメリカ合衆国と[[ブラジル]]の支援を受けたクーデターでトーレスを追放して政権を握る。外資を導入して経済の回復に努めるが、逆に赤字と債務が増加する。[[ランボルギーニ]]は前政権との間で結ばれた[[トラクター]]の購入に関する契約を破棄されたことで資金難に陥り、[[フィアット]]の傘下に入った。 * [[1978年]] [[アメリカ合衆国大統領]][[ジミー・カーター]]による「[[人権外交]]」の影響を受けて、ボリビアでも民主化へのプログラムが進む。 * [[1980年]] [[ガルシア・メサ]]将軍がクーデター「コカイン・クーデター」<ref name="nenpyou2">ボリビア年表2 2009年11月8日閲覧([http://www10.plala.or.jp/shosuzki/chronology/andes/bolivia2.htm])</ref>で政権を握るが、麻薬マフィアとの癒着、反対派への大弾圧により、国際的な批判を呼んだ。 * [[1982年]] MNRから[[民主人民連合]] (Unidad Democrática y Popular : UDP)に分派したシレス・スアソが政権を執り、民政復帰。18年に及んだ軍政が終わる。このころから中南米全体を襲った中南米債務危機に陥り、約40億ドルにも上る莫大な対外債務に苦しみ、激しい[[ハイパーインフレーション]]が発生。 * [[1985年]] 第4次パス・エステンソロ政権成立するが、もうこの時には8000パーセントにも及ぶハイパーインフレ状態に陥っており、事実上通貨は紙切れ同然となってしまい、ボリビア経済は破綻状態に陥った。 * [[1986年]] ボリビア政府は苦渋の選択の末、ボリビアは100万分の1の[[デノミネーション]]で8,000%超のインフレを抑制。エステンセロは他にも[[新自由主義]]的改革により、経済危機を乗り切る。 * [[1990年]] この年代の中ごろに[[天然ガス田]]が発見された。 * [[1993年]] MNRの[[ゴンサロ・サンチェス・デ・ロサダ]]政権成立。初の先住民出身副大統領と共に新自由主義政策を採用した。 * [[1997年]] 「メガ連立」により、第二次バンセル政権成立。コカの栽培の撲滅に全力を挙げる。 * [[2000年]] [[コチャバンバ水紛争]] * [[2001年]] 大規模な天然ガス田が発見される。コチャバンバ水紛争の影響と病気によりバンセル大統領が辞任。 * [[2002年]] 8月にMNRから第二次サンチェス政権成立。しかし、すぐに指導力不足が露呈する。 * [[2003年]] [[ボリビアガス紛争]]。10月にサンチェス大統領がアメリカ合衆国に亡命。副大統領の[[カルロス・メサ・ヒスベルト|カルロス・メサ]]が昇格。 * [[2006年]] ペルーの[[アレハンドロ・トレド]]に続いて南米大陸二人目の、ボリビアでは初の先住民出身となる大統領、[[エボ・モラレス]]が「[[社会主義運動]]」より就任した。 * [[2007年]] モラレス政権、ブラジルの[[ペトロブラス]]などの外資を国有化し、公約通り天然ガスを国有化(収益は教育の充実や貧困層、高齢者支援に振り向けている)。 * [[2009年]] 3月、大農場主から接収した土地の所有権を先住民に引き渡した。接収対象になった土地は東部平原地方。 * [[2019年]] 10月の{{仮リンク|2019年ボリビア総選挙|label=大統領選|en|2019 Bolivian general election|es|Elecciones generales de Bolivia de 2019}}でモラレス大統領が再選されるも、[[不正選挙]]疑惑から抗議デモが勃発。大統領辞任。 * [[2020年]] 11月、[[ルイス・アルセ]]元経済財政大臣が大統領就任。 == 政治 == {{Main|{{仮リンク|ボリビアの政治|en|Politics of Bolivia}}}} [[ファイル:LaPaz Plaza Pedro Di Murillo 10.2004.jpg|thumb|220px|[[ラパス]]の国民議会宮殿(左)と大統領府[[パラシオ・ケマード]](右)]] [[ファイル:Palacio de Justicia o de Gobierno Sucre (Bolivia).jpg|thumb|220px|[[スクレ (ボリビア)|スクレ]]の最高裁判所]] [[File:Canciller Andrés Allamand participa del saludo protocolar al Presidente de Bolivia, Luis Arce, y al Vicepresidente, David Choquehuanca 02.jpg|thumb|220px|2020年11月に就任した[[ルイス・アルセ]]大統領(写真一番下、中央より左)と{{仮リンク|デビッド・チョケファンカ|en|David Choquehuanca}}副大統領(写真一番下、中央より右)]] === 行政 === [[ボリビアの大統領]]を[[元首]]とする[[共和制]]国家であり、国家元首である大統領は[[政府の長|行政府の長]]として実権を有する。任期5年。選挙は、大統領候補と副大統領候補がそれぞれペアとなり立候補し、国民は直接選挙により数組の中から1組を選出する。大統領が死亡や辞任により欠ける場合は、副大統領が大統領に昇格し、残りの任期を務める。首相職はなく、副大統領が閣議を主宰する。 建国以来政治的に非常に不安定なため、クーデターが起こりやすい政治文化があり、過去100回以上のクーデターが起きている。 === 議会 === 国会にあたる[[多民族立法議会]]は[[両院制]]。上院は全36議席で、各県から4名ずつ[[比例代表制]]選挙により選出される。代議院(下院)は、全130議席で、そのうち77議席は[[小選挙区制|小選挙区]]から選出、53議席は比例代表制で選出されるが、全体の議席配分は比例代表制によって決まる([[小選挙区比例代表併用制]]。ただし {{仮リンク|超過議席|en|Overhang seat}}が出ないようになっている<ref>Matthew Shugart & Martin P. Wattenberg (ed). 2001. Mixed-Member Electoral Systems: The Best of Both Worlds? Oxford, UK: Oxford University Press. P.23. </ref>ため、[[小選挙区比例代表連用制|連用制]]に近い)。両院とも議員の任期は5年で、同日選挙である。 直近の国政選挙は、[[2014年]][[10月12日]]に行われた。政党別の獲得議席数は、以下の通り<ref>[https://www.bo.emb-japan.go.jp/itpr_ja/201410.html ボリビア内政・外交(2014年10月)]在ボリビア日本国大使館(2014年11月28日)2017年1月12日閲覧</ref>。 ;上院(定数36) * [[社会主義運動]] (MAS) 25 * 民族団結戦線 (UD) 9 * キリスト教民主党 (PDC) 2 ; 代議院(下院、定数130) * 社会主義運動 (MAS) 88 * 民族団結戦線 (UD) 32 * キリスト教民主党 (PDC) 10 {{see also|{{仮リンク|ボリビアの政党|en|List of political parties in Bolivia}}}} === 近年の政治情勢 === [[2006年]][[7月2日]]、制憲議会選挙が行われた。定数は255議席。与党・社会主義運動(MAS)が137議席を確保した。第2党は、野党中道右派・民主社会勢力(PODEMOS)で60議席を占めた。同時に実施された地方自治権の拡充の賛否を問う国民投票では、与党の主張が半数を占める。新憲法草案は、1年以内に3分の2以上の賛成で提案され、国民投票に付される。 ボリビアの181周年独立記念日の[[2006年]][[8月6日]]に、制憲議会の開会式が行われた。同議会発足を祝って、36の先住民による約3万人のパレードも実施された。 就任2年目になる[[エボ・モラレス]]大統領は、[[2007年]][[1月22日]]、国会で年次報告を行い、新憲法を制定する重要性を改めて強調した。新憲法には、[[水]]を含む資源主権や先住民の権利確立、教育行政に対する国の責任などが盛り込まれる予定である。制憲議会は2006年8月、発足したが、議事運営方法、地方自治、首都制定などを巡って与野党や地方間の対立が続いている。与党・社会主義運動党が定数255のうち142議席を占めている。 [[2009年]][[1月25日]]、先住民の権利拡大や大統領の再選を可能とする新憲法案が60%あまりの賛成を得て承認された。[[2009年]][[12月6日]]、大統領選挙が行われ、現職のモラレスが6割を超える得票<ref group="†">2005年の初当選の時は51%であった。</ref>で勝利した。 [[2014年]][[10月29日]]、モラレスが大統領選で3度目の当選を果たし、翌[[2015年]]1月に第3期モラレス政権が発足した<ref >同大統領は、元々はコカの栽培組合員であり、反米主義、社会主義を信奉している時代錯誤的なところがあるとともに、政治的な敵対関係者を弾圧するなど、独裁色を強めている。</ref><ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/bolivia/data.html ボリビア基礎データ 5.内政] 外務省 2016年9月15日閲覧</ref>。 [[2019年]][[10月20日]]、モラレスは大統領選で4度目の当選を果たしたものの<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO51439700W9A021C1NNE000/ 「ボリビア大統領に現職4選 選管発表、不正と対抗馬」][[日本経済新聞]](2019年10月26日配信)</ref>、開票結果の不正操作疑惑が浮上し<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO51326960U9A021C1EAF000/ 「ボリビア、大統領選で非常事態宣言 介入疑惑受け」]日本経済新聞(2019年10月24日配信)</ref>、これに反発した対立候補の支持者による抗議活動が発生し、国内は混乱。国軍・国家警察などから辞職勧告を突き付けられたモラレスは11月10日に大統領辞任を表明し、11月12日にメキシコへ亡命。これは事実上のクーデターとされる。 モラレスの辞任表明を受け、憲法裁判所は[[ヘアニネ・アニェス]]上院副議長を暫定大統領に選出し、アニェスは就任宣誓を行った<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASMCD4KFXMCDUHBI01G.html|title=ボリビア上院副議長が暫定大統領宣誓 モラレス氏は亡命|work=朝日新聞デジタル|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2019-11-13|accessdate=2019-11-14}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3254498?cx_amp=all&act=all|title=ボリビアのアニェス上院副議長、暫定大統領就任を宣言 憲法裁も承認|work=AFP通信|newspaper=[[フランス通信社]]|date=2019-11-13|accessdate=2019-11-17}}</ref><ref group="†">議会では過半数を占めるモラレス派のボイコットにより、モラレスの辞任もアニェスの暫定大統領就任も承認を[[デ・ジュリ|受けていない状態]]だが、大統領継承の資格がある副大統領・上院議長・下院議長がモラレスと共に辞任したため、継承順位で4番目にあたる上院副議長のアニェスや一部の法律家は「憲法の規定から上院副議長が自動的に(暫定大統領に)就任できる」と解釈し、憲法裁判所もこの解釈を[[デ・ファクト|支持]]した。</ref>。これに対し、モラレス政権を独裁として批判してきたアメリカ合衆国やアメリカ寄りの右派政権が統治するブラジル、[[コロンビア]]、[[エクアドル]]はアニェスを暫定大統領として承認した<ref>[[日本国政府]]は[[外務省]]の報道官談話を発表し、「ボリビア情勢を注視している」として、中立の立場を示していたが、12月13日付けで更新された[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/bolivia/data.html#section2 ボリビアの基礎データ(政治体制・内政)]ではアニェスの暫定大統領就任を追認したデータが掲載されている。</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/page4_005463.html|title=ボリビア情勢について(外務報道官談話)|work=外務省|newspaper=[[外務省]]|date=2019-11-12|accessdate=2019-11-17}}</ref>。大統領選挙の仕切り直しは、[[2020年]]5月に予定されていたが、[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]の感染拡大に伴い、同年[[10月18日]]に延期して実施され<ref>{{Cite web|和書|date=2020-07-24 |url= https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61895840U0A720C2I00000/ |title=ボリビア、大統領選再延期 コロナ拡大で |publisher=日本経済新聞 |accessdate=2020-08-26}}</ref>、モラレス派の[[ルイス・アルセ|ルイス・アルセ・カタコラ]]が当選した<ref>{{Cite news|url= https://www.jetro.go.jp/biznews/2020/10/7248712e6fe695f1.html |title= 最高選挙裁判所、ルイス・アルセ氏の大統領選当選を公式に発表(中南米、ボリビア) |newspaper= ビジネス短信 |publisher= ジェトロ |date= 2020-10-28 |accessdate= 2021-03-13 }}</ref>。[[2021年]][[3月13日]]、前暫定大統領のアニェスが、2019年の「クーデター」に関与した疑いなどで逮捕された<ref>{{Cite news|url= https://web.archive.org/web/20210313132052/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021031300534&g=int |title= 前暫定大統領を逮捕 「クーデター」関与容疑―ボリビア |newspaper= 時事ドットコム |publisher= [[時事通信社]] |date= 2021-03-13 |accessdate= 2021-3-13 }}</ref>。 == 軍事 == {{main|ボリビア軍}} [[ボリビア陸軍|陸軍]]、[[ボリビア空軍|空軍]]、[[ボリビア海軍|海軍]]を保有しており、12ヶ月の[[徴兵制度]]が敷かれている。 現在のボリビアは内陸国であるが、現在でも海軍と呼称されている。大西洋や[[チチカカ湖]]で演習を行う他、河川が国境となっている北部・東部のブラジルやパラグアイでの国境付近で国境警備の任務に就いている。 == 地方行政区画 == {{Main|ボリビアの地方行政区画}} [[File:Bolivia departments named-ja.png|right|250px|ボリビアの県の一覧]] ボリビアには、9つの県(departomentos)が設けられている。カッコ内は、県庁所在地。 * [[オルロ県]] ([[オルロ]]) * [[コチャバンバ県]] ([[コチャバンバ]]) * [[サンタクルス県|サンタ・クルス県]] ([[サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ]]) * [[タリハ県]] ([[タリハ]]) * [[チュキサカ県]] ([[スクレ (ボリビア)|スクレ]]) * [[パンド県]] ([[コビハ]]) * [[ベニ県]] ([[トリニダ (ボリビア)|トリニダ]]) * [[ポトシ県]] ([[ポトシ]]) * [[ラパス県 (ボリビア)|ラパス県]] ([[ラパス]]) ===主要都市=== {{Main|ボリビアの都市の一覧}} [[File:Santa cruz skyline 48.jpg|thumb|サンタ・クルス]] 主要な都市は[[スクレ (ボリビア)|スクレ]](憲法上の首都)、[[ラパス]](事実上の首都)、[[サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ]]、[[エル・アルト]]、[[コチャバンバ]]がある。 [[File:Edificios_de_la_paz_en_Cotahuma.png|thumb|left|ラパス中心街]] [[File:Cochabamba 1.JPG|thumb|center|ボリビア第三の都市コチャバンバ]] {{-}} == 地理 == {{Main|{{仮リンク|ボリビアの地理|en|Geography of Bolivia|es|Geografía de Bolivia}}}} {| class="wikitable" style="float:right; margin: 0.5em 0.5em 0.5em 1em; padding: 0.5e text-align:left;clear:all; margin-left:10px; font-size:90%" |+ style="background:green; color:white;"|ボリビアの高山 |- |colspan=4 align=center|[[ファイル:Cordillera Central Bolivia.jpg|center|220px|Vista de La Cordillera Central desde la Isla del Sol]] |- ! style="background:#e8e8e8;" | 山名 ! style="background:#e8e8e8;" | 標高([[m]]) |- | style="background:#efefef;" |[[サハマ|ネバダ・サハマ]] | style="background:#efefef;" align=center|6.542 |- |[[イリャンプ]] |align=center|6.485 |- | style="background:#efefef;" |[[イリマニ]] | style="background:#efefef;" align=center|6.462 |- |[[アンコウマ]] |align=center|6.380 |- | style="background:#efefef;" |[[チェアロコ]] | style="background:#efefef;" align=center|6.127 |- |[[ポメラペ]] |align=center|6.240 |- | style="background:#efefef;" |[[チャチャコマニ]] | style="background:#efefef;" align=center|6.074 |- |[[パリナコタ山]] |align=center|6.362 |- | style="background:#efefef;" |[[ワイナ・ポトシ]] | style="background:#efefef;" align=center|6.088 |- |[[アコタンゴ]] |align=center|6.052 |- | style="background:#efefef;" |[[アカマラチ]] | style="background:#efefef;" align=center|6.046 |- |[[チャウピ・オルコ]] |align=center|6.040 |- | style="background:#efefef;" |[[ウトゥルンク]] | style="background:#efefef;" align=center|6.008 |} [[File:Isla del Sol, Bolivia (36142247744).jpg|thumb|200px|left|[[チチカカ湖]]に浮かぶ[[太陽の島]]]] [[File:Salar uyuni 200701.jpg|thumb|200px|left|[[ウユニ]]にある[[ウユニ塩湖]]]] [[太平洋戦争 (1879年-1884年)]]に敗れて内陸国となったボリビアの地理は大きく3つに分けられる<ref group="†">三つに分けるとは、山岳地帯([[アンデス山脈]])と東部低地(リャノス:平原、オリエンテ)との二つに区分し、前者のアンデスを二分してアンデス高地とアンデス低地に分けることである</ref><ref name="boliv">眞鍋周三編著『ボリビアを知るための73章』第2版(明石書店 <エリア・スタディーズ 54> 2013年)21ページ</ref>。 一つは、ペルーとの国境である[[チチカカ湖]]周辺から国土を南に貫くアンデス山脈地域で国土面積の約29%に及び、その面積は32万平方キロ余りで、標高3000m以上の年中寒冷な気候を持つ。[[ラパス]]市や[[オルロ]]市にかけて標高4000mくらいの広大な平らな土地が広がり、この地域は'''[[アルティプラーノ]]'''と呼ばれる。アンデス地域には{{仮リンク|オクシデンタル山脈 (ボリビア)|es|Cordillera Occidental (Bolivia)|en|Cordillera Occidental (Bolivia)|label=オクシデンタル山脈}}と{{仮リンク|オリエンタル山脈 (ボリビア)|es|Cordillera Oriental (Bolivia)|en|Cordillera Oriental (Bolivia)|label=オリエンタル山脈}}の二つの山脈がある。 さらにコルディリェラ・オクシデンタル(西アンデス山脈)、コルディリェラ・オリエンタル(コルディリェラ・レアル、東アンデス山脈)、アルティプラノと呼ばれる高原よりなる<ref name="boliv" />。 ;コルディリェラ・オクシデンタル(西アンデス山脈) :南北の長さはおよそ620キロメートル、中央部の東西の長さ幅は30キロメートル。[[火山]]と[[台地]]が入り交じっている。激しく[[侵食]]され、険しい起伏と狭い谷がある。[[雨季]]には渓谷で氾濫が起き、雨季以外は乾燥している。山麓には[[モレーン]](氷堆石)がある。北端はペルーと南端はアルゼンチンと国境をなす。南部一帯は5000メートルを超す火山が連なる。ボリビア最高峰[[サハマ山]](6542メートルの火山)は北部の[[オルロ県]]にある。 国土の北東側から東側は国土の約62%を占める[[アマゾン川|アマゾン]]の[[熱帯]]地域であり、'''[[リャノ]]'''(''llano'')またはオリエンテ(''oriente'')と呼ばれる。リャノはさらに、[[熱帯雨林]](いわゆるジャングル)が広がる北側と、乾燥している[[グランチャコ]]地方([[パラグアイ]]国境近く)とに分かれる。サンタクルス県の東部にはチキタノ山塊が存在する<ref>眞鍋周三編著『ボリビアを知るための73章』第2版(明石書店 <エリア・スタディーズ 54> 2013年)23ページ</ref>。 国土の約9%を占める[[コチャバンバ県]]や[[ラパス県 (ボリビア)|ラパス県]][[ユンガス地方]]などの、アンデス地帯とアマゾン地帯の中間に位置する場所は'''バジェ''' (''[[:es:Valles de Bolivia|valle]]'') 地域と呼ばれ、温暖で果樹栽培などに適した気候である。この地域では[[インディオ|インディヘナ]]農民による[[コカ]]の栽培も盛んである。 ユンガスは標高3300mから2500mの高地ユンガス、2500mから1500mの中央ユンガス、1500mから600mの低地ユンガスに分類される。 このユンガスにある保養地{{仮リンク|コロイコ|en|Coroico}}とラパス市を結ぶ道路は、毎年多くの死者を出し、「[[ユンガスの道|死の道路]]」と呼ばれていた。 ボリビアはかつて太平洋に面する海岸線も領土に保有していたが、1884年に[[太平洋戦争_(1879年-1884年)]]で敗れ、 [[バルパライソ条約]]と、1904年の正式な講和によりそれを全て失った。ボリビアでは[[3月23日]]を「[[海の日 (ボリビア)|海の日]]<ref name="読売20220615"/>(día del mar)」として、当時ボリビア領だった[[カラマ]]でチリ軍への降伏を拒否して戦死した英雄エドゥアルド・アバロアの像があるラパスで式典を開き<ref name="読売20220615"/>「海を取り戻そうキャンペーン」を展開している。 ボリビアの海運での輸出入貨物はチリの港で陸揚げされている。チリの港にはボリビアが管理する[[保税地域|保税上屋]](TRANSIT SHED)と呼ばれる[[タックス・ヘイヴン]]があり、ここからチリの[[通関]]を行わないままボリビア国境へ運ばれ、ここで初めてボリビアの税関が通関を行う。 [[File:Bolivia_Topography.png|thumb|right|地形図]] == 経済 == {{Main|{{仮リンク|ボリビアの経済|en|Economy of Bolivia}}}} [[ファイル:Laguna Glaciar Bolivia.png|thumb|観光地にもなっているグラシアール湖]] [[ファイル:Camino de los Yungas Bolivia.jpg|thumb|[[ユンガス]]地方の山道]] [[ファイル:Isla_del_Pescado,_Salar_de_Uyuni.jpg|450px|thumb|[[ウユニ塩原]]]] [[アンデス共同体]]、[[南米諸国連合]]に加盟し、[[メルコスール]]の準加盟国でもある。 国家統計局の発表によるボリビアの経済指標は以下の通り(いずれも[[2003年]]の値)。 {| class="wikitable" |[[国内総生産]](GDP)||7,856 百万[[ドル]] |- |同国民一人当たり||870 ドル |- |[[経済成長|経済成長率]](前年比)||2.45% |- |公的[[為替レート]](対ドル)||7.67 Bs/$us |- |輸出額||1,650.7 百万ドル |- |輸入額||1,684.6 百万ドル |- |[[国内所得]]||8,085.4 百万[[ボリビアーノ|ボリビアーノス]] |} * スズ、[[鉛]]などの鉱山物資を産出する。 * 2006年1月、天然ガス事業を国有化する発表があった。 * 2020年代、人口1100万人のうち50万人以上が公務員である<ref>{{Cite web|和書|date=2020-12-25 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3323373 |title=コロナ禍の観光業救済へ奇策、公務員に臨時休暇 ボリビア |publisher=フランス通信社 |accessdate=2020-12-24}}</ref>。 === 鉱業 === {{see|{{仮リンク|ボリビアの鉱業|en|Mining in Bolivia}}}} 植民地時代から19世紀末までは金と銀が、20世紀以降は[[スズ|錫]]がボリビア経済の主軸であった。[[:en:Moritz Hochschild|ホッホシルト]]が錫開発の主役であった。 [[石油]]の輸出も盛んであり、1930年代に東部で油田が発見されたことがチャコ戦争の一因ともなった。2001年に世界最大規模の[[天然ガス]]田が発見され、ボリビア経済再生の頼み綱となっている。 南部の[[ウユニ|ウユニ塩原]]には推定540万トンの[[リチウム]](世界埋蔵量の半分以上)が埋蔵されていると見積もられているが、ボリビア政府にはそれを抽出する技術も資本も持ち合わせていない、という事情がある。 === 農業 === {{see|{{仮リンク|ボリビアの農業|en|Agriculture in Bolivi}}|ボリビアにおけるコーヒー生産}} 1952年のボリビア革命以来、サンタクルスを中心とした東部の低地地帯で開墾、農業開発が進み、近年[[ダイズ|大豆]]、[[サトウキビ]]、[[木綿|綿花]]、[[コーヒー]]、[[バナナ]]などの大規模な輸出用農業が盛んになっており、北部の熱帯地域では[[カカオ]]などが産出する。一方で、西部のアルティプラーノではインカ帝国以来の零細小農業や[[コカ]]栽培などが行われている。 ==== 農地改革 ==== 1958年、第一次農地改革が行われたが、2006年現在では、分配された土地の95%に当たる約3200万ヘクタールが企業の手に渡っている。 2006年5月16日、ガルシア副大統領より「第二次農地改革」計画案が発表された。「生産的でない」土地及び国有地を農民や先住民に分配するというものである。 === 観光 === {{see|{{仮リンク|ボリビアの観光地|en|Tourism in Bolivia}}}} 主な観光地としてはティワナクの遺跡や、[[チチカカ湖]]、[[ウユニ|ウユニ塩原]]、[[ポトシ]]の鉱山、チェ・ゲバラの戦死した[[イゲラ]]などがあり、南米諸国の中でも特に物価が低いため、ヨーロッパや、[[カナダ]]、アメリカ合衆国、[[日本]]、[[大韓民国|韓国]]、[[イスラエル]]といった先進国に加えて、南米諸国のアルゼンチン、ブラジル、チリなどからも多くの観光客がボリビアを訪れている。アンデス山脈の高山が各国から[[登山家]]を引き寄せている。また、アマゾンのツアーを提供する多くのツアー会社もある。 == 国民 == {{main|ボリビア人|{{仮リンク|ボリビアの人口統計|en|Demographics of Bolivia}}}} [[ファイル:Colegio Franco Boliviano La Paz.jpg|left|thumb|民族衣装を着るラパスの少女]] [[ファイル:Boliviapop.svg|lang=ja|thumbnail|ボリビア人の年齢ピラミッド]] [[ファイル:Bolivia-demography.png|thumbnail|1961年から 2003年までのボリビアの人口増のグラフ]] [[ファイル:Cristo de la Concordia 02.jpg|thumb|upright|{{仮リンク|クリスト・デ・ラ・コンコルディア|en|Cristo de la Concordia}}、[[コチャバンバ]]市にある南米最大の[[イエス・キリスト|救世主]]像]] 国家統計局(INE : Instituto Nacional de Estadistica)が発表している[[2001年]]の[[国勢調査]](Censo Nacional)の結果によると、[[人口]]は8,274,325人、うち[[女性]]4,150,475 人、[[男性]]4,123,850人。都市部の人口は5,165,230人、地方の人口は3,109,095人。人口密度は7.56人/km<sup>2</sup>。 [[国際連合児童基金]](ユニセフ)の発表によると、5歳以下で死亡する[[子供]]の比率は77/1,000。1歳以下で死亡する子供の比率は60/1,000。[[平均寿命]]は女性64歳、男性61歳、合計63歳。 === 民族・出自 === [[ケチュア]]人が約30%、[[メスティーソ]](混血)が約30%、[[アイマラ]]人が約25%、[[コーカソイド|ヨーロッパ系]]が約15%、[[ネグロイド|アフリカ系]]が約0.5%であると見られるが、正式な統計は取られていない。 [[先住民]]人口比率が85%と南米最多である<ref>{{Cite news | url =https://www.47news.jp/589570.html | title =【伝える 訴える】第41回 「抵抗の民」|newspaper=[[47NEWS]] | publisher= | date= 2017-01-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210716012142/https://www.47news.jp/589570.html |archivedate=2021-07-16}}</ref>。 先住民としては南東部のチャコ地方には[[グアラニー族]]も若干居住しており、数を示すとケチュア人が250万人、アイマラ人が200万人、[[チキタノ]]人が18万人、グアラニー人が12万5000人程になる。 メスティーソのうち、伝統的な衣装を身に付けている女性は[[チョリータ]]と呼ばれる。彼女らの格好はボリビアを特徴づける習俗となっている。 [[クリオーリョ]]([[スペイン]]系)の出身地としては[[スペイン帝国|植民地時代]]からのスペイン人が最も多いが、[[ドイツ]]、アメリカ合衆国、[[イタリア]]、[[クロアチア]]、[[ロシア]]、[[ポーランド]]などにルーツを持つ者や[[バスク民族]]系なども存在している。 全人口の0.5%程である[[アフリカ]]系は、元々ブラジルに[[奴隷]]としてやってきた人々が移住してきたのが始まりであり、ラパス県の南北ユンガスに最も多い。[[日系ボリビア人]]は推定1万4000人ほど存在する<ref name="読売20220615"/>。ペルーへの[[日系人|日系移民]]がボリビアへ来たのが始まりといわれている。[[1900年代]]に[[日本人]]移住者が当時起きていたアマゾンのゴム景気に引き寄せられ、ゴム労働者として北部アマゾン地域の[[リベラルタ]]や[[トリニダ (ボリビア)|トリニダ]]に移住した。[[1954年]]からは主に[[沖縄県]]や[[九州]]からの移住者が[[サンタクルス県|サンタ・クルス県]]に移住し、[[オキナワ移住区]]や[[サンフアン・デ・ヤパカニ移住区]]を開拓した。 === 言語 === {{see|{{仮リンク|ボリビアの言語|en|Languages of Bolivia}}}} 言語は[[スペイン語]]、[[ケチュア語]]、[[アイマラ語]]、[[グアラニー語]]が[[公用語]]である。田舎ではケチュア語、アイマラ語、グアラニー語が用いられているが、スペイン語を全く解さない人は近年少なくなってきている。都市部ではスペイン語以外の言葉を話せない人の方が多い。 === 宗教 === {{see|{{仮リンク|ボリビアの宗教|en|Religion in Bolivia}}}} [[信教の自由|信仰の自由]]を認めたうえで[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]を[[国教]]に定めている。国民の95%がローマ・カトリックを信仰しているが、近年は同じ[[キリスト教]]の[[プロテスタント]]や[[福音派]]が勢力を増している。東部には[[メノナイト|メノニータ]]も入植している。 === 教育 === {{see|{{仮リンク|ボリビアの教育|en|Education in Bolivia}}}} ==== 教育への支出 ==== 2020年時点でGDPに占める比率は9.8%であり、2011年から徐々に上昇している<ref name=":0">{{Cite web |url=http://uis.unesco.org/en/country/bo |title=Education and Literacy.Bolivia (Plurinational State of) |access-date=2022年12月8日 |publisher=UNESCO UIS |date=2020}}</ref>。 ==== 15歳以上の識字率 ==== 2020 年時点で94%であり<ref>{{Cite web |url=https://data.worldbank.org/indicator/SE.ADT.LITR.ZS?locations=BO |title=Literacy rate, adult total (% of people ages 15 and above) - Bolivia |access-date=2022年12月8日 |publisher=The World Bank |date=2020}}</ref>、ラテンアメリカ並びにカリブ諸国の識字率94%と比較すると概ね平均的な識字率である<ref>{{Cite web |url=https://data.worldbank.org/indicator/SE.ADT.LITR.ZS?locations=ZJ |title=Literacy rate, adult total (% of people ages 15 and above) - Latin America & Caribbean |access-date=2022年12月8日 |publisher=The World Bank |date=2020}}</ref>。ボリビアでの非識字率は2001年の13.28%から2014年に3.8%に下がっている。これは2006年に発足したモラレス政権が非識字克服を最優先課題の一つに掲げ、キューバの教育者が開発した識字メソッド(''Yo, sí puedo'')の活用とベネズエラからの資金援助によって、読み書きできない国民へ無償の教育を提供した影響が大きい<ref>{{Cite web |url=https://www.bbc.com/news/world-latin-america-37117243#:~:text=Officials%20say%20that%20it%20is,the%20last%20census%20was%20conducted. |title=The three Rs: How Bolivia combats illiteracy |access-date=2022年12月8日 |publisher=BBC News |author=Fellipe Abreu/Luiz Felipe Silva |date=21 August 2016}}</ref>。 ==== 教育段階 ==== 4〜5歳を対象とした2年間の就学前教育から始まり、6年間の初等教育、6年間の中等教育、高等教育が行われる。義務教育は初等教育から中等教育までの14年間であり、学年暦は2月から始まり、11月に終わる<ref name=":0" />。高等教育は大学やその他の高等教育機関で行われる。大学では,学士課程(4〜6年),修士課程(2年),博士課程(4年)が置かれる。その他の高等教育機関では,上級技術者ディプロマを取得する 3〜4年の課程などが置かれる。高等教育までは全ての公教育が無償となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mext.go.jp/component/b_menu/other/__icsFiles/afieldfile/2017/10/02/1396858_012.pdf |title=ボリビア多民族国 |access-date=2022年12月8日 |publisher=文部科学省 |date=2017年10月2日}}</ref>。 ==== 学校の実態 ==== 一般的に同じ校舎内で午前に小学校の授業,午後は中学・高校その他の学校の授業,夜は夜間学校と技術専門学校などの授業が行われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/kuni/bolivia.html |title=世界の学校を見てみよう! ボリビア多民族国 |access-date=2022年12月8日 |publisher=外務省 |date=2013年11月}}</ref>。また、学校施設不足などの理由から1つの校舎を別の複数の学校が共有することもある。 義務教育後の教育としては私立高校からは大学へ進学する者が多い。大学は入学が簡単である一方、卒業は困難である。公立高校からは経済的理由により働くか公立大学へ進学する者が多い。 私立校は小・中・高までの一貫教育を行っており、公立校よりも教師、設備に優れ、教育水準も高い。公立校は授業料が無料であるが、ほとんどの学校で教科書をコピーして使っており、教職員のストライキが多く教育課程に支障が出る場合がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/shidou/gaikokujin/gakkou-sensei/documents/40.pdf |title=ボリビア共和国 |access-date=2022年12月8日 |publisher=千葉県}}</ref>。 ==== 教育の効果 ==== 独立機関である教育の質研究所(OPCE)の2010年の調査によると、初等教育では国語よりも算数の能力が低い児童が多いことが確認された。また、中等教育では初等教育と同様に算数の能力の低さが確認された。特に開発が遅れているとされている県において能力が低い生徒の割合が多く、県ごとに能力のばらつきが大きいことが確認されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://openjicareport.jica.go.jp/pdf/12128930.pdf |title=「第2章 教育セクターの課題と現状」.『ボリビア多民族国 教師教育教材改訂プロジェクト 詳細計画策定調査報告書』 |access-date=2022年12月8日 |publisher=独立行政法人国際協力機構 人間開発部 |date=2013年7月}}</ref>。算数能力が低い理由として、授業が教師主導型で練習問題を解かせるだけであり生徒の自主性を重要視していないことが指摘されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.criced.tsukuba.ac.jp/jocv/report/sympo_h17/nomoto.pdf |title=ボリビアにおける算数教育 |access-date=2022年12月8日 |publisher=国際教育協力シンポジウム(帰国隊員報告会) |date=2005年 |author=野本 純一}}</ref>。 === 保健 === {{see|{{仮リンク|ボリビアの保健|en|Health in Bolivia}}}} ==== 平均寿命 ==== 2020年時点で男性69歳、女性75歳、合計72歳である<ref>{{Cite web |url=https://data.worldbank.org/indicator/SP.DYN.LE00.IN?locations=BO |title=Life expectancy at birth, total(years)-Bolivia |access-date=2022年12月8日 |publisher=The World Bank |date=2020}}</ref>。 ==== 主な死因 ==== 2019年時点で第1に虚血性心疾患、第2に下気道感染症、第3に脳卒中である<ref>{{Cite web |url=https://www.who.int/data/gho/data/themes/mortality-and-global-health-estimates/ghe-leading-causes-of-death |title=Global health estimates: Leading causes of death.2019 |access-date=2022年12月8日 |publisher=WHO |date=2019}}</ref>。 寿命に大きな影響を与えている要因として栄養失調、肥満がある<ref>{{Cite web |url=https://www.healthdata.org/bolivia |title=What causes the most deaths?.Bolivia |access-date=2022年12月8日 |publisher=Institute for Health Metrics and Evaluation |date=2019}}</ref>。 ==== 健康への支出 ==== 2019年時点でGDPに占める比率は6.92%であり<ref>{{Cite web |url=https://data.worldbank.org/indicator/SH.XPD.CHEX.GD.ZS?locations=BO |title=The World Bank.Current health expenditure (% of GDP)-Bolivia |access-date=2022年12月8日 |publisher=The World Bank |date=2019}}</ref>、2000年から徐々に上昇している。 === 医療 === ==== 医療施設 ==== 公共の保健医療施設はサービスレベルに応じて3段階に分けられている。第1次レベルは初期治療などを提供する診療所、保健センターが該当する。第2次レベルは基本的専門医療を提供する県病院が該当する。第3次レベルは最も高度な医療を提供する総合・専門病院が該当する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jica.go.jp/jica-ri/IFIC_and_JBICI-Studies/jica-ri/publication/archives/jica/country/2003/pdf/bol_01_04.pdf |title=「第一章 保険医療」.「第3部 セクター概要」.『ボリビア国別援助研究会報告書 : 人間の安全保障と生産力向上をめざして. - 』 |access-date=2022年12月8日 |publisher=国際協力機構国際協力総合研修所 |author=建野 正毅/坪井 創 |date=2004年2月}}</ref>。 ==== 保健政策 ==== 妊産婦死亡率や5歳未満の乳幼児の死亡率が高く、母子保健が劣悪な状況であることから、1996年7月に「国家母子保健政策」が政府によって策定され、妊産婦および5歳未満の乳幼児が無料で診療を受けられるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/data/zyoukyou/h_14/020629_1.html |title=ボリビアの「コチャバンバ母子医療システム強化計画」に対する無償資金協力について. [ODA]国別地域別政策・情報 |access-date=2022年12月8日 |publisher=外務省 |date=2002年6月29日}}</ref>。2003年には国家母子保険はユニバーサル母子保険と名称が変更され、社会保険や民間の施設でも適用されるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://openjicareport.jica.go.jp/pdf/12085379.pdf |title=「第4章 保険サービス提供の状況」.『保健セクター情報収集・確認調査 ボリビア多民族国 保健セクター分析報告書』 |access-date=2022年12月8日 |publisher=独立行政法人国際協力機構 |date=2012年10月}}</ref>。妊産婦死亡率や幼児死亡率は近年(2019)の経済成長によって減少しつつあるが、依然として人口1万人あたりの医師数は中南米域内の平均を大きく下回っており、病院の数・人材・機材・薬品も不足している状態が長く続き、栄養失調などの問題が残っていた。こうした状況を踏まえ、政府は2019年3月に全国統一医療システムを導入し、ユニバーサル・ヘルス・カバレッジの拡大に取り組んでいる。具体的には全国民の保健サービスへのアクセスを目標とし、妊産婦死亡率を現状より50%削減し、幼児死亡率については現状より30%削減するとしている<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_008310.html |title=ボリビアに対する保健サービス向上支援(無償資金協力) |access-date=2022年12月8日 |publisher=外務省 |date=2020年3月9日}}</ref>。 ==== 医療体制の課題 ==== ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ拡大の政策によって医療設備の数は増加しており、新しく導入された国民皆保険により、国民の51%が無料診療を受けられるようになった一方で、患者数の急増に病院のインフラが追いつかず、十分な医療サービスを提供できない病院もある。そのため、より多くの機材や医師を病院に配置することが求められている<ref name=":1" />。 == 社会福祉 == === 年金 === [[2008年]][[2月1日]]、前年の11月に成立した新年金法が施行され、無年金者への「尊厳ある[[年金]]」の支給が始まった。この政策は、資源主権の確立を通じて様々な社会政策を実施している[[ベネズエラ]]や、無年金救済制度をつくった[[アルゼンチン]]などの経験に学んだものである。財政的裏付けは、天然ガス国有化による国家収入の増大である。60歳以上の無年金者は年2,400[[ボリビアーノ|ボリビアーノス]](約35,500円、最低賃金の4.6か月分)、何らかの国の年金を既に受けている人は1,800ボリビアーノスが支給される。約70万人が受給する見通しである。 == 文化 == {{Main|{{仮リンク|ボリビアの文化|en|Culture of Bolivia}}}} [[ファイル:Mate de coca Peru.jpg|thumb|伝統的な[[コカ|コカ茶]]。高地で生きるボリビア人にとって[[コカ]]は必需品である。]] [[ファイル:Padilla, Bolivia local.jpg|サムネイル|チリを手にしたボリビア人]] [[プレ・インカ]]期や[[インカ帝国]]の文明圏ではケチュアがアイマラを支配する形で一体化は進み、スペイン統治下の[[ペルー副王領]]や[[リオ・デ・ラ・プラタ副王領]]の勢力圏などでもアルト・ペルーと呼ばれ、[[ペルー]]とボリビアはほぼひとまとまりの地域として扱われてきたため、現在でも両国は文化的に近い関係にある。 例えば、[[アンデス山脈|アンデス地方]]を特徴づける文化として世界的に有名なのは[[フォルクローレ]]であるが、その曲調、使用する[[楽器]]などはボリビアとペルーでほぼ同じであり、これは[[アルゼンチン]]北西部とも共通する。スペイン統治時代に広まった伝統的な衣装を着続ける[[チョリータ]]と呼ばれる女性たちも、両国に共通する特徴的な習俗である。 アンデス地域とアマゾン地域はその気候の大きな違いや町の起こりの経緯の違いにより、互いに文化的な差異を感じているようである。アンデス地方の町の多くはインカ帝国時代の集落がペルー副王領時代に町として興されたものであるのに対し、アマゾン地域の町は植民地時代にはパラグアイ方面から開拓されていったものが多いが、スペイン当局にはほとんど手をつけられず、グランチャコ地方の領有問題なども放置されていた。東部の主要都市サンタクルスが開発されたのも第二次世界大戦前後からである。 俗語では、アンデス地域またはそこに住む人々は[[コージャ]]と呼ばれ、アマゾン地域またはそこに住む人々は[[カンバ]]と呼ばれる。 1998年以降、アメリカの指導により、政府はコカ撲滅作戦に取り組んでいるが、国民の6割がコカ常用者とされ、アメリカなどへの密輸も盛んに行われている<ref>ボリビア「コカなしでは食えぬ」-新大統領の地元・コチャバンバ『[[毎日新聞]]』東京長官2006年1月26日7頁</ref>。 === 食文化 === {{see|ボリビア料理}} 食文化としては、[[パン]]、[[ジャガイモ]]、[[トウモロコシ]]を[[主食]]とし、[[副食]]として主に[[牛肉]]と[[鶏肉]]を食べる。[[豚肉]]は高級な食材とされる。クイと呼ばれる[[テンジクネズミ|天竺鼠]]の一種も食用としている。暖かい地方ではユカイモ([[キャッサバ]])や[[パパイア]]・[[マンゴー]]なども食べる。内陸国のため、魚介類ではチチカカ湖のトゥルーチャ([[マス|鱒]]の一種)や[[ペヘレイ]]といった川魚が食べられる。海産物は主にチリなどから輸入される。朝には道ばたでパンを売る姿がよく見られ、高地では[[サルテーニャ]]が、低地では[[クニャペ]]がよく売られている。 [[第二次世界大戦]]前後にドイツなどから逃れてきた人たち(戦前は[[ユダヤ人]]、戦後は[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の残党)が[[ビール]]を広めた結果、[[ラパス]]では「パセーニャ ({{lang|es|Paceña}})」、オルロでは「ウァリ (Huari)」、[[コチャバンバ]]では「タキーニャ ({{lang|es|Taquiña}})」、[[サンタクルス]]では「ドゥカル (Ducal)」など、それぞれの都市を代表するビールの銘柄がある。 ビール以外の酒類としては、スペイン侵略以前から飲まれている[[チチャ]]という発酵酒や、[[ブドウ]]の[[蒸留酒]][[シンガニ]]や、[[中央アメリカ|中米]]から輸入した[[ラム酒]]のロン(Ron)などが飲まれる。 [[ボリビア人]]のチチャにかける情熱は強く、チチャを侮辱したイギリスの公使が、暴君メルガレホにより[[ロバ]]の背中に裸にしてくくりつけられ、スクレの市中を引き回しにされた事件がある。また、アルゼンチンに近い[[タリハ]]はボリビア屈指の[[ワイン]]産地であり、ワインも好まれている。 === 文学 === {{see|ボリビア文学|ラテンアメリカ文学}} [[File:Diablada oruro fraternidad.jpg|thumb|right|[[カーニバル]]]] ボリビア文学はインカ帝国時代の先住民の口承文学に根を持ち、植民地期にもバルトロメ・アルサンス、パソス・カンキ、フアン・ワルパリマチなどの作家がいた。19世紀の独立後、[[ロマン主義]]の時代にはマリア・ホセファ・ムヒア、リカルド・ホセ・ブスタマンテ、アデラ・サムディオなどがいる。 20世紀初めになると[[アルシデス・アルゲダス]]の『ワタ・ワラ』や『青銅の種族』により、インディオの困窮やキリスト教会の腐敗を告発したインディヘニスモ文学が始められた。このころの作家にはオスカル・セムートやガブリエル・レネ・モレーノなどがいる。現在において活躍する作家としては、[[エドムンド・パス・ソルダン]]や[[日系ボリビア人]]の[[ペドロ・シモセ]]が特に有名である。 === 音楽 === {{see|{{仮リンク|ボリビアの音楽|en|Music of Bolivia}}|ラテン音楽}} [[ファイル:Dance in La Paz Bolivia.jpg|サムネイル|[[ダンス]]をするボリビアの女性たち]] ボリビアの音楽は土着の音楽が発達したアウトクトナ音楽と、ヨーロッパから持ち込まれた音楽を基盤に[[都市]]で発達したクリオージャ音楽に大きく分けられるが、どちらも[[フォルクローレ]]と呼ばれる。ボリビア全体がフォルクローレの里と呼ばれるが、特に[[オルロ]]と[[ポトシ]]が有名である。オルロでは年に一度、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[無形文化遺産]]にも登録されている[[謝肉祭|カルナバル]](カーニバル)が行われるが、これは[[クスコ]]、[[リオデジャネイロ]]と並んで南米三大祭りの一つといわれる。主なリズムとしては[[ワイニョ]]、[[クエッカ]](クエッカ・ボリビアーナ)、[[バイレシート]]など。 『我が祖国ボリビア』というクエッカの曲は第2国歌と呼ばれている。ペルーやチリなど周辺国のフォルクローレにも使われるチャランゴはボリビア起源の楽器である。ポトシやその近くの[[チュキサカ県|チュキサカ]]の田舎町などには、スペイン侵略以前の習俗を色濃く残しているものと思われる、特異な歌や踊りをいまでも見ることができる。ノルテ・ポトシのプトゥクンという歌や、[[タラブコ]]の祭りなどがその例である。 [[ポピュラー音楽]]の世界ではクリオージャ音楽とアウトクナ音楽は相互に影響し合い、従来のフォルクローレと[[ロック (音楽)|ロック]]や[[ジャズ]]のクロスオーバーも盛んである。[[コロンビア]]生まれの[[クンビア]]も広く聴かれている。 === 映画 === {{see|{{仮リンク|ボリビアの映画|en|Cinema of Bolivia}}}} ボリビアにおいて初めて[[フィーチャー映画|長編映画]]『ワラ・ワラ』を撮影したのは{{仮リンク|ホセ・マリア・ベラスコ・マイダーナ|en|José María Velasco Maidana}}であり、1930年のことだった。その後1953年に[[ボリビア映画協会]]が設立され、[[ホルヘ・ルイス]]らが活躍した。1966年には[[ホルヘ・サンヒネス]]を中心に{{仮リンク|ウカマウ集団|es|Ukamau}}が結成され、日本でも[[現代企画室]]と[[太田昌国]]の協力により『地下の民』(1986年)などが公開された。 === 世界遺産 === {{see|ボリビアの世界遺産}} ボリビア国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が6件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が1件ある。 <gallery style="text-align:center"> Potosi_air.jpg|[[ポトシ]]市街<br>(1987年) Kerk_Conception_Exterieur.jpg|[[ボリビアのイエズス会伝道所#世界遺産|チキトスのイエズス会伝道所群]]<br>(1990年) Bolivia-sucre2.jpg|古都[[スクレ (ボリビア)|スクレ]]<br>(1991年) El_Fuerte_Vista_de_arriba.jpg|[[サマイパタの砦]]<br>(1998年) Zonnepoort_tiwanaku.jpg|[[ティワナク]]:ティワナク文化の宗教的・政治的中心地<br>(2000年) Cataratas_Arcoiris_Bolivia.png|[[ノエル・ケンプ・メルカード国立公園]]<br>(2000年) </gallery> ; ボリビアの[[無形文化遺産]] * [[オルロ]]のカーニバル(2001年) * [[カリャワヤ]]の[[アンデス山脈|アンデス]]に関する宇宙観(2003年) === 祝祭日 === {{see|{{仮リンク|ボリビアの祝日|en|Public holidays in Bolivia}}}} {| class="wikitable" |- ! 日付 ! 日本語表記 ! 現地語表記 ! 備考 |- |[[1月1日]]||[[元日]]||Año Nuevo||- |- |移動祝日||[[謝肉祭]](カーニバル)||Carnaval||2005年は[[2月7日]]-[[2月8日|8日]] |- |移動祝日||[[聖金曜日]]||Viernes Santo||2005年は[[3月25日]] |- |[[5月1日]]||労働者の日([[メーデー]])||Día del Trabajo||- |- |移動祝日||[[聖体の祝日]]||Corpus Cristi||2005年は[[6月9日]]。<br />聖霊降臨節の10日後の木曜日。 |- |[[8月6日]]||独立記念日||Aniversario Patrio||- |- |[[11月1日]]||[[諸聖人の日]]||Todos Los Santos||- |- |[[12月25日]]||[[クリスマス]]||Navidad||- |- |[[2月10日]]||[[オルロ県]]の日||Aniversarios Cívicos de Oruro||オルロ県のみ |- |[[4月15日]]||[[タリハ県]]の日||Aniversarios Cívicos de Tarija||タリハ県のみ |- |[[5月25日]]||[[チュキサカ県]]の日||Aniversarios Cívicos de Chuquisaca||チュキサカ県のみ |- |[[7月16日]]||[[ラパス県 (ボリビア)|ラパス県]]の日||Aniversarios Cívicos de La Paz||ラパス県のみ |- |[[9月14日]]||[[コチャバンバ県]]の日||Aniversarios Cívicos de Cochabamba||コチャバンバ県のみ |- |[[9月24日]]||[[サンタクルス県|サンタ・クルス県]]の日||Aniversarios Cívicos de Santa Cruz||サンタ・クルス県のみ |- |[[10月1日]]||[[パンド県]]の日||Aniversarios Cívicos de Pando||パンド県のみ |- |[[11月10日]]||[[ポトシ県]]の日||Aniversarios Cívicos de Potosi||ポトシ県のみ |- |[[11月18日]]||[[ベニ県]]の日||Aniversarios Cívicos de Beni||ベニ県のみ |} == スポーツ == {{Main|ボリビアのスポーツ}} {{See also|オリンピックのボリビア選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|ボリビアのサッカー|en|Football in Bolivia}}}} ボリビア国内でも他の[[ラテンアメリカ]]諸国と同様、[[サッカー]]が圧倒的に一番人気の[[スポーツ]]となっており、[[1950年]]にサッカーリーグの[[プリメーラ・ディビシオン・デ・ボリビア|プリメーラ・ディビシオン]]が創設された。[[ボリビアサッカー連盟]](FBF)によって構成される[[サッカーボリビア代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には3度出場しているが、全大会でグループリーグ敗退となっている。しかし[[コパ・アメリカ]]では[[1963年]]大会で初優勝を果たしており、[[コパ・アメリカ1997|1997年大会]]では準優勝に輝いている。 代表チームはホームゲームで驚異的な強さを誇っており、ラパスにあるスタジアム「[[エスタディオ・エルナンド・シレス]]」は'''標高が約3,600m'''もあり、[[酸素]]濃度が低いためアウェーチームは度々苦戦を強いられている<ref>[https://megalodon.jp/2011-1112-1602-24/jp.reuters.com/article/sportsNews/idJPJAPAN-26415920070613 「サッカー=ボリビア大統領、国内最高峰でFIFAに抗議」][[ロイター]]記事(2007年6月13日)の[[インターネットアーカイブ]]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20070718112730/http://www.nikkansports.com/soccer/world/f-sc-tp3-20070715-227474.html 「FIFAがラパスでの国際試合承認」][[日刊スポーツ]]記事(2007年7月15日)のインターネットアーカイブ</ref>。 == 著名な出身者 == {{Main|ボリビア人の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="†"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == ; 総合 * {{Cite book|和書|author=眞鍋周三編著|authorlink=眞鍋周三|date=2006年4月|title=ボリビアを知るための68章|series=エリア・スタディーズ|publisher=[[明石書店]]|location=[[東京]]|isbn=4-7503-2300-4|ref=眞鍋編著(2006)}} * 眞鍋周三編著『ボリビアを知るための73章』第2版 明石書店 <エリア・スタディーズ 54> 2013年 ISBN 978-4-7503-3763-0 ; 歴史 * {{Cite book|和書|author=エドゥアルド・ガレアーノ|authorlink=エドゥアルド・ガレアーノ|translator=大久保光夫|date=1986年9月|title=[[収奪された大地 ラテンアメリカ五百年|収奪された大地──ラテンアメリカ五百年]]|series=|publisher=[[新評論]]|location=東京|isbn=|ref=ガレアーノ/大久保訳(1986)}} * {{Cite book|和書|author1=中川文雄|authorlink1=中川文雄|author2=松下洋|authorlink2=松下洋|author3=遅野井茂雄|authorlink3=遅野井茂雄|date=1985年1月|title=ラテン・アメリカ現代史III|series=世界現代史34|publisher=[[山川出版社]]|location=東京|isbn=4-634-42280-8|ref=中川、松下、遅野井(1985)}} * {{Cite book|和書|editor=増田義郎|editor-link=増田義郎|date=2000年7月|title=ラテンアメリカ史II|series=新版世界各国史26|publisher=山川出版社|location=東京|isbn=4-634-41560-7|ref=増田編(2000)}} ; 地理 * {{Cite book|和書|editor=下中彌三郎|editor-link=下中彌三郎|year=1954|title=ラテンアメリカ|series=世界文化地理体系24|publisher=[[平凡社]]|location=東京|isbn=|ref=下中(1954)}} * {{Cite book|和書|author1=P.E.ジェームズ|authorlink1=P.E.ジェームズ|translator=[[山本正三]]、[[菅野峰明]]|year=1979|title=ラテンアメリカII|publisher=[[二宮書店]]|isbn=|ref=ジェームズ/山本、菅野訳(1979)}} * {{Cite book|和書|editor=野沢敬|editor-link=野沢敬|year=1986|title=ラテンアメリカ|series=朝日百科世界の地理12|publisher=[[朝日新聞社]]|location=東京|isbn=4-02-380006-6|ref=野沢(1986)}} * {{Cite book|和書|editor=福井英一郎|editor-link=福井英一郎|year=1978|title=ラテンアメリカII|series=世界地理15|publisher=[[朝倉書店]]|location=東京|isbn=|ref=福井(1978)}} ; 社会 * {{Cite book|和書|editor1=中川文雄|editor1-link=中川文雄|editor2=三田千代子|editor2-link=三田千代子|date=1995年10月|title=ラテン・アメリカ人と社会|series=ラテンアメリカ・シリーズ4|publisher=[[新評論]]|location=東京|isbn=4-7948-0272-2|ref=中川、三田編(1995)}} == 関連項目 == * [[ボリビア関係記事の一覧]] * [[アンデス・スペイン語]] == 外部リンク == {{Wiktionary}} {{Commons&cat|Bolivia}} {{osm box|r|252645}} {{Wikivoyage|es:Bolivia|ボリビア{{es icon}}}} {{Wikivoyage|Bolivia|ボリビア{{en icon}}}} * 政府 ** [http://www.bolivia.gob.bo ボリビア多民族国政府] {{es icon}} ** [http://www.ebja.jp/ 在日本ボリビア多民族国大使館] {{es icon}}{{ja icon}} * 日本政府 ** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/bolivia/ 日本外務省 - ボリビア] ** [https://www.bo.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在ボリビア日本国大使館] * 観光 ** [http://www.minculturas.gob.bo/ ボリビア文化観光省] {{es icon}} ** {{ウィキトラベル インライン|ボリビア|ボリビア}} {{ja icon}} * NGO ** [http://www.jadesas.or.jp/fenaboja/ ボリビア日系協会連合会] ** [https://nipponbolivia.org/ 一般社団法人日本ボリビア協会] * その他 ** {{CIA World Factbook link|bl|Bolivia}} {{en icon}} ** {{Curlie|Regional/South_America/Bolivia}} {{en icon}} ** {{Wikiatlas|Bolivia}} {{en icon}} ** {{Googlemap|ボリビア}} ** {{Kotobank}} {{南米共同体}} {{アメリカ}} {{Normdaten}} {{Coord|17|48|S|63|10|W|type:country_region:BO|display=title}} {{デフォルトソート:ほりひあ}} [[Category:ボリビア|*]] [[Category:南アメリカの国]] [[Category:内陸国]] [[Category:共和国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:南米諸国連合加盟国]]
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ファミリーベーシック
ファミリーベーシック(FAMILY BASIC)は、任天堂が1984年6月21日に発売したファミリーコンピュータ用の「プログラミング環境」である。BASIC言語を組み込んだロムカセットと、ファミコン本体のエキスパンドコネクタに接続する周辺機器としてのキーボード、プログラミング教本の3点がセットになっている。 ロムカセットとキーボードの2点をファミコン本体に接続することにより、BASICの文法に基づいた簡単なゲームプログラムを自作することができるようになる。組み込まれているプログラミング言語の固有称は、ハドソン開発のHu-BASICを元に、任天堂、シャープとの3社共同開発だったことから頭文字を付け、「NS-Hu BASIC」とした。ただし、最終的にはファミコンに大幅に特化したため、パソコン用のHu-BASICとは大きく異なる。 プログラム実行のために使えるメモリ容量は1,982バイト、バージョンアップ版の「ファミリーベーシックV3」では4,086バイトであり、カートリッジ内にSRAMで実装され、乾電池によってバックアップすることが可能になっている。 キーボードの配列は、アルファベットに関しては現在のパソコンやタイプライターと同様のいわゆる「QWERTY配列」だったが、カナ配列に関しては現在のパソコンで主流のJISキーボードと異なり、五十音順に並んでいる。 「ゲーム制作体験のためのBASIC」という方向性とそのハードウェア仕様によって、一般的なBASICとは異なる部分を多く含む。 メインモードであるGAME BASICモードでゲームプログラミングを行う。それ以外にも計算式入力による電卓機能の“カリキュレータボード”、音階入力による音楽制作機能の“ミュージックボード”、ワードプロセッサのような機能を持つ“メッセージボード”、バイオリズムに基づいた簡単な占いと生誕からの総経過日数の算出をする“占い”の4つの機能が内蔵された。 また、各モードに移行するイントロダクション画面もまるでコンピュータが話しかけてくれるような親しみやすい画面に作られている。 GAME BASICモードでは整数演算のみで小数点以下切り捨て、扱うことのできる整数の範囲も-32768から+32767まで、文字列の長さは31文字まで、ドット描画機能なしといった機能制限がある。その一方で、あらかじめ定義されているキャラクター群を自由に組み合わせることにより非常に簡単にスプライトキャラクターや背景画を作ることができ、煩雑で面倒になりがちな作業を一手に引き受ける簡易性がファミリーベーシックの大きな特徴となっている。ステートメントや関数など、必要となる標準的なBASIC言語命令も大方備わっている他、直線的な動きであれば簡単にスプライトキャラクターを定義し動かせる MOVE 命令など、独自の命令が多数備わっている。 プログラム自体はROMカートリッジに一時的に記録できる他、データの保存(SAVE)および保存したデータの読み込み(LOAD)にはカセットテープを使用する。テープへの読み書きには別売りの専用データレコーダもしくはモノラル録音再生のテープレコーダが必要となる。この機能は市販ゲームプレイ時にキーボードとデータレコーダを接続することで、自作ステージデータ、セーブデータの保存用ツールとして応用された。 4つのバージョンが存在することが確認されている。V1.0 のバージョンアップ版である V2.0A および V2.1A は出荷時期の違いによる差異であり、単体発売されていない。また、ROMカセットの色は黒が基本だが、V3.0 のみワインレッド色の外装で成型されている。 最初に発売されたバージョン。 SCR$ 関数が追加。 V2.0Aのバグが除かれたものとされる。 『ファミリーベーシックV3』として、1985年2月21日にカセットが単体発売された。メモリ容量拡張のためGAME BASICモードに完全に特化しており、イントロダクション画面なども省略され、直接BASICの画面が起動する。CRASH、AUTO、ON ERROR GOTO など多数の新規命令が追加。サンプルプログラムも4つのゲームが収録されており、BASICの命令によりRAMに呼び出すことができる。 サンプルプログラムとして収録されたのは、以下の4つである。GAME 1とGAME 2は、BGグラフィックをエディタで編集することで、簡単にステージを改造できる。
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ファミリーベーシックは、任天堂が1984年6月21日に発売したファミリーコンピュータ用の「プログラミング環境」である。BASIC言語を組み込んだロムカセットと、ファミコン本体のエキスパンドコネクタに接続する周辺機器としてのキーボード、プログラミング教本の3点がセットになっている。
{{Pathnav|ファミリーコンピュータ|frame=1}} {{Infobox_コンシューマーゲーム機 |名称 = ファミリーベーシック |ロゴ = [[File:Family BASIC logo.svg|250px]] |画像 = [[File:Nintendo-Famicom-Family-Basic-Keyboard-wCart.jpg|350px]] |画像コメント = |メーカー = [[任天堂]] |種別 = [[ゲーム機|ゲーム機周辺機器]] |世代 = |発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1984年]][[6月21日]] |CPU = |GPU = |メディア = [[ロムカセット]] |ストレージ = [[コンパクトカセット]]<br />[[バッテリーバックアップ]] |コントローラ = [[キーボード (コンピュータ)|キーボード]](本製品に付属)、ファミリーコンピュータ本体に取り付けられた2つのコントローラ |外部接続端子 = [[データレコーダ]]<br />[[入出力]]端子 |オンラインサービス = |売上台数 = {{Flagicon|JPN}} 約40万台<ref>{{Cite book|和書|author=小島郁夫 |title=風雲ゲーム業界戦国時代-任天堂、セガの2強時代は続くのか? 切り崩しを図る第3勢力とハイテク・メーカーの陣地争い |publisher=オーエス出版 |date=1994-03-01 |page=74 |isbn=9784871903912 |oclc=673579244 }}</ref> |最高売上ソフト = |互換ハード = |前世代ハード = |次世代ハード = }} '''ファミリーベーシック'''(FAMILY BASIC)は、[[任天堂]]が[[1984年]][[6月21日]]に発売した[[ファミリーコンピュータ]]用の「プログラミング環境」である。[[BASIC]]言語を組み込んだ[[ロムカセット]]と、ファミコン本体のエキスパンドコネクタに接続する[[周辺機器]]としてのキーボード、プログラミング教本の3点がセットになっている<ref>{{Cite news|和書|title=任天堂の家庭用TV機に BASIC追加 キャラクターつきで6月発売に|date=1984-06-15|newspaper=ゲームマシン|agency=[[アミューズメント通信社]]|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19840615p.pdf|issue=238|page=4}}</ref>。 == 概要 == ロムカセットとキーボードの2点をファミコン本体に接続することにより、[[BASIC]]の文法に基づいた簡単な[[コンピュータゲーム|ゲーム]][[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]を自作することができるようになる<ref name="natsukashi">{{Cite book|和書|editor=QBQ |title=懐かしファミコン パーフェクトガイド いまでもあそべる!せいしゅんの8ビットゲーム |publisher=マガジンボックス |series=M.B.ムック |date=2016-04-21 |page=102 |isbn=9784906735891 |oclc=961800615 }}</ref>。組み込まれている[[プログラミング言語]]の固有称は、[[ハドソン]]開発の[[Hu-BASIC]]を元に、任天堂、[[シャープ]]との3社共同開発だったことから頭文字を付け、「'''NS-Hu BASIC'''」とした。ただし、最終的にはファミコンに大幅に特化したため、パソコン用のHu-BASICとは大きく異なる<ref>[https://web.archive.org/web/20131019123659/http://www.nicovideo.jp/watch/1294310308 ニコニコ動画内「ゲッチャ」] 高橋名人世代、[[2011年]][[1月5日]]放送分の8分40秒頃から</ref>。 プログラム実行のために使える[[主記憶装置|メモリ]]容量は1,982[[バイト (情報)|バイト]]、バージョンアップ版の「'''ファミリーベーシックV3'''」では4,086バイトであり、カートリッジ内に[[Static Random Access Memory|SRAM]]で実装され、乾電池によってバックアップすることが可能になっている。 [[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]の配列は、[[アルファベット]]に関しては現在のパソコンや[[タイプライター]]と同様のいわゆる「'''[[QWERTY配列]]'''」だったが、カナ配列に関しては現在のパソコンで主流の[[JISキーボード]]と異なり、五十音順に並んでいる{{Efn|この配列は入門機、低価格帯で見られ、'''[[MSX]]'''ではワークエリアの設定により選択、'''[[MZ-700]]'''や、'''[[MZ-1500]]'''等もこの配列となっている。}}。 == ハードウェア == {{節スタブ|date=2022年1月}} === 機能 === [[File:NintendoDataRecorderContents.png|thumb|right|250px|専用データレコーダ([[松下電器産業]](後の[[パナソニック]])の[[OEM]]製品)]] 「'''ゲーム制作体験のためのBASIC'''」という方向性とそのハードウェア仕様によって、一般的なBASICとは異なる部分を多く含む。 メインモードである'''GAME BASICモード'''でゲームプログラミングを行う。それ以外にも計算式入力による[[電卓]]機能の“カリキュレータボード”、音階入力による音楽制作機能の“ミュージックボード”、[[ワードプロセッサ]]のような機能を持つ“メッセージボード”、[[バイオリズム]]に基づいた簡単な占いと生誕からの総経過日数の算出をする“[[占い]]”の4つの機能が内蔵された。 また、各モードに移行するイントロダクション画面もまるでコンピュータが話しかけてくれるような親しみやすい画面に作られている。 GAME BASICモードでは[[整数]][[演算]]のみで[[小数点]]以下切り捨て、扱うことのできる整数の範囲も-32768から+32767まで、文字列の長さは31文字まで、ドット描画機能なしといった機能制限がある。その一方で、あらかじめ定義されているキャラクター群を自由に組み合わせることにより非常に簡単に[[スプライト (映像技術)|スプライト]]キャラクターや背景画を作ることができ、煩雑で面倒になりがちな作業を一手に引き受ける簡易性がファミリーベーシックの大きな特徴となっている。[[ステートメント]]や[[サブルーチン|関数]]など、必要となる標準的なBASIC言語命令も大方備わっている他、直線的な動きであれば簡単にスプライトキャラクターを定義し動かせる <code>MOVE</code> 命令など、独自の命令が多数備わっている。 プログラム自体はROMカートリッジに一時的に記録できる他、データの保存(<code>SAVE</code>)および保存したデータの読み込み(<code>LOAD</code>)には[[コンパクトカセット|カセットテープ]]を使用する。テープへの読み書きには別売りの専用データレコーダもしくは[[モノラル]]録音再生のテープレコーダが必要となる。この機能は市販ゲームプレイ時にキーボードとデータレコーダを接続することで、自作ステージデータ、セーブデータの保存用ツールとして応用された。 ; データレコーダ対応ソフト * [[ロードランナー]] * [[ナッツ&ミルク]] * [[エキサイトバイク]] * [[レッキングクルー]] * [[マッハライダー]] * [[キャッスルエクセレント]] * [[アルカノイド#アルカノイド リベンジ オブ Doh|アルカノイドII]] == バージョン == 4つのバージョンが存在することが確認されている。V1.0 のバージョンアップ版である V2.0A および V2.1A は出荷時期の違いによる差異であり、単体発売されていない。また、[[ROMカセット]]の色は[[黒]]が基本だが、V3.0 のみ[[ワインレッド]][[色]]の外装で成型されている。 === V1.0 === 最初に発売されたバージョン。 === V2.0A === <code>SCR$</code> 関数が追加。 === V2.1A === V2.0Aの[[バグ]]が除かれたものとされる。 === V3.0 === 『'''ファミリーベーシックV3'''』として、[[1985年]][[2月21日]]にカセットが単体発売された。メモリ容量拡張のためGAME BASICモードに完全に特化しており、イントロダクション画面なども省略され、直接BASICの画面が起動する。<code>CRASH</code>、<code>AUTO</code>、<code>ON ERROR GOTO</code> など多数の新規命令が追加。サンプルプログラムも4つの[[ゲーム]]が収録されており、BASICの命令によりRAMに呼び出すことができる。 サンプルプログラムとして収録されたのは、以下の4つである。'''GAME 1'''と'''GAME 2'''は、BGグラフィックをエディタで編集することで、簡単にステージを改造できる。 ; GAME 0 : '''ハート'''(コントローラIIのマイクに息または声を入力し、画面上のハートマークを塗りつぶして完成させるゲーム) ; GAME 1 : '''ペンペン迷路'''(ペンギンを操作し、カニさんを避けながら、格子状の道に配置された数字を順番に拾っていく) ; GAME 2 : '''マリオワールド'''(マリオを左右移動・ジャンプ・はしごの昇降で操作して、ニタニタに触れないように落ちているリンゴと数字を拾う。数字は順番に拾わないと得点にならない) ; GAME 3 : '''スターキラー'''(自機を8方向に移動させて操作するシューティングゲーム。2人同時プレイも可能。スクロールはしないが、画面の上下左右がつながっている) == 問題点 == [[File:Family Basic input, output, and batterery cover.JPG|thumb|right|230px|背の高い専用カセットに電池をセットしなければならず、非常に不安定である。]] * 頻繁な抜き差しによってファミコン本体のROMカセット接続部が緩んでいる場合、ベーシック用[[ROMカセット]]に[[指]]が触れた途端に[[フリーズ]]し[[データ]]が失なわれる事態が頻発した。ベーシック用ROMカセットは一般的なゲームカセットに比べ約2倍の高さがあり、加えて[[バックアップ]]用の[[電池]]ケース部位がカセット上方にあり[[乾電池]]を入れている場合[[重心]]が非常に高くなることや、バックアップ用の[[開閉器|スイッチ]]が手動であり、これを操作するためには[[カセット]]に触れる必要があることなどもデータ損失の誘引と考えられる。当時はロムカセット用の[[接点復活剤]]が普及していなかった。 * キャラクタセットはROMにあらかじめ定義され変更できず、用意されたキャラクタの分割、反転などによってパーツ単位で再生成するなどの工夫を迫られ、ピクセル単位での描画機能はグラフィックスプレーンを持たずBGプレーンしかないファミコンの仕様と、そのパターンが前述のとおりROMに定義されている仕様から不可能であった。元々多くをROM上に置く設計であったため、本体側の主記憶も少なくカートリッジ上の物を足しても実際にプログラムを書き込める容量が少ないため、簡素なゲームプログラミングしかできなかった<ref name="natsukashi"/>。4つのその他機能を排してゲームプログラミング用にメモリ容量を確保したV3に至っても機能的には十分ではなかった。そのためスタックエリアの一部、BASIC自身が使うワークエリアの一部、VRAMの一部まで活用された。さらにハードウェア的に改造を行い、メインメモリであるSRAMを大きな容量のものと交換する試みもユーザによって行われた<ref>[http://blog.goo.ne.jp/purupoo/e/7735d56c3672cefd2f1d946666e83455 ファミリーベーシック改造(その4)]</ref>。ワークエリアの書き換えによりBASICからも純正品と同じように4KiB弱まで利用でき、残りのエリアもバスに接続されていればCPUからは認識することが可能で、電池によってバックアップもされる。 * 素直に記述したBASICのプログラムでは遊べるゲームを作ることは困難であった<ref name="denshi">{{Cite book|和書|title=電子ゲーム なつかしブック |publisher=[[コアマガジン]] |series=コアムックシリーズ |volume=682 |date=2016-04-21 |page=117 |isbn=978-4864369619 |oclc=980861782 }}</ref>が、コンシューマ機用のツールで削除されがちな<code>PEEK</code>、<code>POKE</code>、<code>CALL</code> などメモリに直接アクセス可能にする命令もあり、機械語を駆使してファミコンの機能を引き出したゲームも存在している。これに関しての詳細や応用の仕方はセット添付の取扱説明書や公式の解説書には書かれていないが、当時のファミコン雑誌やゲームプログラミング雑誌では、ファミリーベーシック自作ゲーム投稿コーナーなどでこれを用いた様々な応用法が紹介された。それら媒体や活用例の流布がコアなユーザーへ情報として伝わった。前述の通り公式に利用可能なメモリは少なく、プログラム自体も可読性よりも密度を重視したものが多く作られ、省略可能なセパレータ、スペース、命令、コメント、同一変数の使いまわしなど、削れるものは削りバイナリデータのベタ書きなど、処理を押し込む工夫が見られた。 == その他 == * 一部の企業からは非ライセンス商品として、[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ディスクシステム]]から起動するBASICが発売されていた。 * 北米向けにはキーボード内蔵の『'''[[Advanced Video System]]'''』が試作されたが結局発売されず、代わりに『'''[[Nintendo Entertainment System]]'''』が発売された。 * [[ファミコンテレビC1]]用に、『'''PLAYBOX BASIC'''』というほぼ同機能のカートリッジソフトと、専用のキーボードがある。これにはメッセージボードがなく、代わりにバイオリズムが追加されている。 * 雑誌「'''[[マイコンBASICマガジン]]'''」ではプログラムリストが掲載されていたが、ファミリーベーシック用の[[プリンター]]は存在しないため、最初の頃は画面写真を繋いだものが掲載されていた(同誌OFコーナーより)。その後、パソコンにテープを読み込ませてデコードしプリントアウトするシステムを利用するようになり、掲載プログラムの可読性が向上した。 * 2021年12月開催の「[[RTA in Japan]] Winter 2021」では、ファミコン版の『[[ドラゴンクエストIII そして伝説へ…]]』のロムカセットに任意コードを入力するために使用された<ref>[https://futaman.futabanet.jp/articles/-/121402?page=2 ファミコン版『ドラゴンクエスト3』を50秒クリア!「RTA in JAPAN」で炸裂したファミリーベーシックを用いた“奇策”とは?(2/3ページ)] ふたまん+ 2021.12.31 (2022年4月4日閲覧)</ref>。これは、「Any% 任意コード実行」と銘打たれた、バグ技、ショック技、チートツールを除いた外部ツールによる物理的・情報的干渉、それら全てが認められるレギュレーションで許される手段である<ref>[https://futaman.futabanet.jp/articles/-/121402?page=1 ファミコン版『ドラゴンクエスト3』を50秒クリア!「RTA in JAPAN」で炸裂したファミリーベーシックを用いた“奇策”とは?(1/3ページ)] ふたまん+ 2021.12.31</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[データレコーダ]] * [[マイコンBASICマガジン]] * [[ファミリーコンピュータMagazine]] * [[ナビつき! つくってわかる はじめてゲームプログラミング]] {{家庭用ゲーム機/任天堂}} {{任天堂}} {{BASIC}} {{DEFAULTSORT:ふあみりいへえしつく}} [[Category:コンピュータゲームの周辺機器]] [[Category:BASIC]] [[Category:コンピュータゲーム制作ソフト]] [[Category:ファミリーコンピュータ]] [[Category:シャープの製品]] [[Category:ハドソン]]
2003-02-25T05:27:33Z
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ラパス
ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パス(西: Nuestra Señora de La Paz)、通称ラパスは、ボリビア多民族国の首都。憲法上の首都はスクレであるが、ラパスは行政・立法府のある事実上の首都である。これは、1825年の独立以来首都であったスクレを基盤にしていた保守党(英語版)政権を、1899年の「連邦革命(英語版)」によってラパスを拠点とした自由党(英語版)が打倒し、議会と政府をスクレからラパスに遷したからである。なお、現在も最高裁判所はスクレに存在する。 かつてのインカ帝国支配地は、スペイン国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)によって、 ペドロ・デ・ラ・ガスカに委任された。 ガスカは、アロンソ・デ・メンドーサに、 ペルーの征服終結を記念した新しい都市を建設するように命令を出した。1548年10月20日にアロンソ・デ・メンドーサにより、アルト・ペルー南部の鉱山と太平洋岸のペルー副王領の主都リマとの中継地点として、ラパス市が建設された。建設当時の名称はヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パス市(La Ciudad de Nuestra Señora de La Paz、「我らが平和の母の街」の意)であり、現在のラパス市の西隣にある高地のラハ (Laja) という場所が中心であった。しかし、ラハは谷の上にあり風の影響を強く受け、また、ラパス近郊には金があったこともあって風の影響の弱い現在の谷底に中心が移された。1549年、ホアン・グティエレス・パニアグアは、公共区域、公共広場、官庁街、大聖堂の場所を選定する都市計画を設計するように命じられた。現在はムリーリョ広場として知られているスペイン広場が、メトロポリタン聖堂や、政府系の建物を建てる場所に選定された。1549年に建設が開始されたサンフランシスコ教会は1610年に積雪によって倒壊したが、1744年より再建が始められ、1784年にアンデス・バロック様式の教会堂として落成した。植民地時代を通じてスペインは、ラパスを確固として支配し、スペイン国王がすべての政治的事項に関し、最終的な決定権を有した。 1781年にトゥパク・カタリの指導の下、計6ヶ月の間、アイマラ人がラパスを包囲し、教会や政府の所有物を破壊した。30年後、インディオがラパスを2ヶ月包囲した。この時、この場所でエケコの伝説が生まれた。 1809年にスペイン支配からの独立を求め、ラパス革命(スペイン語版、英語版)が始まった(ボリビア独立戦争の中心地のひとつ)。1809年7月16日、ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョは、「ボリビア革命は、誰も消すことのできない独立の火を灯すことである(Bolivian revolution was igniting a lamp that nobody would be able to turn-off)」と述べた。これは南アメリカ諸国のスペイン支配からの解放が始まったことを意味した。ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョはその晩スペイン広場で絞首刑となったが、ムリーリョの名前は広場の名前として永遠に残り、南米において「革命の声」として記憶された。1825年12月9日のイスパノアメリカ独立戦争におけるアヤクーチョの戦い(英語版)でのスペイン軍に対する、アントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍率いる大コロンビア共和国軍の決定的勝利の後、街の名前は、ラ・パス・デ・アヤクーチョ (「アヤクーチョの平和」の意味)に変更された。スクレはこの戦いの後、ベネズエラ人でありながらも、新たに独立したボリビア共和国の実質的な初代大統領になった。 1898年、ラパス市は事実上の首都となったが、スクレ市は名目上の歴史的な首都、および憲法上の首都として残った。これは19世紀末から20世紀初頭にかけてほとんど枯渇していたポトシ銀山とスクレ市を背景とする保守党勢力から、オルロ近郊の錫とラパスを基盤とする自由党勢力に、政治、経済がシフトしたことを反映するものであり、それまでの保守支配層に替わって新たに自由党系の「ロスカ」と呼ばれる寡頭支配層が、1929年の世界恐慌で打撃を受けるまでエリートとして君臨した。 1950年の国勢調査では、ラパス市の人口は290,731人であった。 中心街の標高は3600m強で、すり鉢状の地形を持つ。その高さから雲の上の町と呼ばれる。おおざっぱに言うと、すり鉢の底の部分に高所得者が、縁の部分に低所得者が住んでいる。現在に至るまで人口は増え続けており、すり鉢の内側はほぼ飽和したために隣のエル・アルト(El Alto)に市街地が拡大している。そのため、市街地の上と下で、700mほどの標高差があると言われる。 山岳地域からの雪解け水や地下に水脈があるため、水に不自由することはほとんど無いが、インフラ整備が遅れているため、断水することがしばしばある。近年急速に人口が増加してきている地域では上下水道などのインフラ整備が追いつかず、衛生的な水は不足することがある。下水道が貧弱なため、ちょっとした大雨でも道路が冠水しやすい。そのため、2002年2月には、50人以上の犠牲者を出す水害も発生している。 標高が高く、気候は高山気候に属する。 大統領官邸カサ・グランデ・デル・プエブロ、国会議事堂、中央省庁、各国の大使館などが集中し、最高裁判所以外の首都機能はほぼすべてがこの市に集まっている。旧市街にあるムリリョ広場 (Plaza Murillo)の周辺はラパス大聖堂などの歴史的建築が立地し、伝統的に市の中心であるが、近年は谷の一番底にあたるプラド通り (El Prado) が商業的中心になってきており、その周囲には近代的な高層ビルが建ち並んでいる。 市の中心部のやや北側にある聖フランシスコ教会 (Iglesia de San Francisco) とそこから坂を上ってゆくサガルナガ通り (Calle Sagárnaga) が観光の中心になっており、アルパカや羊の毛で作ったセーター、タペストリーのような民芸品、銀製品、ケーナやチャランゴなどの民族楽器などを売る店が多く集まっている。 サガルナガ通りの近くには「魔女の市場 (Mercado de Brujas)」と呼ばれる通りがあり、キリスト教が浸透する以前からアイマラ族などで行なわれていた儀式に用いられる道具などが売られている。ここでは、各種ハーブやセラミックの人形、リャマの胎児のミイラなどが売られている(リャマの胎児のミイラは、家を新築する際に地面の下に埋めて家内安全を祈願するのに用いられる)。 黄金博物館 (Museo de Oro) などの4つの博物館があるハエン通り (Calle Jaen) は、スペイン統治時代の雰囲気を残す古い町並みで情緒がある。この通りにはマルカタンボ (Marca Tambo) というペーニャ(フォルクローレの生演奏を聴くことができるレストラン)がある。 市内北東部のミラフローレス地区にはエルナンド・シレス競技場がある。この競技場は2007年に国際サッカー連盟がその標高を理由に公認競技場からはずしたことで話題となった。現在は再びFIFAワールドカップ予選会場として認められている。 カーニバル(カルナバル、carnaval)の時(2月頃)とグラン・ポデール祭(El Gran PoderまたはLa Entrada Universitaria)の時(8月頃)には、中心のプラド通りとそれに続くマリスカル・サンタクルス通り (Av. Mariscal Santa Cruz) とモンテス通り (Av. Montes) で、パレードが行なわれる。吹奏楽団の演奏に合わせて民族衣装をまとった十数人から百数十人のグループが踊り歩く。踊りの内容はオルロのカーニバルとほぼ同じであるのでそちらも参照されたい。毎年1月24日にアラシタの祭が開かれる。詳細はエケコの記事を参照。 空気が希薄であることと、ほとんどの家が「アドベ」とよばれる日干しレンガで造られていることから、火事はめったに発生しない。このため、ラパス市には消防署が存在しないということがしばしば言われるが、実際には消防署も消防車も存在する。空気が希薄なために、吸っていないタバコの火が消える、ビールやコーラが激しく泡立つ、袋菓子、シャンプーなどが膨れあがったり破裂する、輸入品の粉クリームのふたを初めてあけるときに粉が吹き出るなど、高地特有の様々な現象が起きる。 酸素が不足するため、旅行者は高山病にかかりやすく、ひどい場合、嘔吐する。急な坂だらけの街であるので、長く住んでいる人でも息が切れて苦痛を感じることが多い。空港には酸素マスクが常備されている。高山病にかかったときにはコカ茶を飲むと症状が緩和される。 すり鉢状の盆地に都市が形成されており、周辺部の急峻な場所には先住民アイマラや貧困層が居住する日干し煉瓦でできた低層住宅が広がる。 ラパスの空港であるエル・アルト国際空港は、正確に言うと隣接市であるエル・アルト市(標高4071mに位置し、世界で最も高い都市といわれる)の高原台地にあり標高差は約500mもある。峡谷盆地のラパス市内からは、すり鉢状の地形を螺旋状に上ってゆく高速道路を使って30分ほどで行くことができる。 サンタ・クルス・デ・ラ・シエラやコチャバンバなどの国内主要都市や、リマ、ボゴタ、サンパウロ、リオデジャネイロ、アスンシオンなどの近隣国の主要都市、またアメリカ合衆国のマイアミと結ぶ航空便が開設されている。 2014年には道路渋滞の緩和を目的として、ラパス中心部と近郊のエル・アルトなどとを結ぶロープウェイ「ミ・テレフェリコ」が開業した。
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ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パス、通称ラパスは、ボリビア多民族国の首都。憲法上の首都はスクレであるが、ラパスは行政・立法府のある事実上の首都である。これは、1825年の独立以来首都であったスクレを基盤にしていた保守党政権を、1899年の「連邦革命」によってラパスを拠点とした自由党が打倒し、議会と政府をスクレからラパスに遷したからである。なお、現在も最高裁判所はスクレに存在する。
{{Otheruses|ボリビアの都市|その他の地名|ラパス (曖昧さ回避)}} {{世界の市 |正式名称=ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パス |公用語名称={{lang|es|Nuestra Señora de La Paz}}<br/>{{flagicon|Bolivia}} |愛称= |画像= La Paz Photomontage V1.jpg |画像サイズ指定= |画像の見出し=ラパス |市旗= Flag of La paz.svg |市章= Escudo de La Paz.svg |位置図= Bolivia - Location Map (2011) - BOL - UNOCHA.svg |位置図サイズ指定= |位置図の見出し=ボリビア内のラパス(La Paz)の位置 |位置図B = {{Location map|Bolivia#South America|float=center|label=ラパス}} |緯度度=16 |緯度分=30 |緯度秒=8 |N(北緯)及びS(南緯)=S |経度度=68 |経度分=9 |経度秒=56 |E(東経)及びW(西経)=W |成立区分=設立 |成立日=[[1548年]][[10月20日]] |下位区分名={{BOL}} |下位区分種類1=[[ボリビアの地方行政区画|県]] |下位区分名1=[[ラパス県 (ボリビア)|ラパス県]] |下位区分種類2= 郡 |下位区分名2= {{仮リンク|ペドロ・ドミンゴ・ムリリョ郡|en|Pedro Domingo Murillo Province}} |規模=市 |最高行政執行者称号=市長 |最高行政執行者名=Luis Revilla Herrero<ref>{{Cite web|url=http://www.lapaz.bo/index.php?option=com_content&view=article&id=30&Itemid=290|title=El Alcalde|publisher=GOBIERNO AUTÓNOMO MUNICIPAL DE LA PAZ|language=スペイン語|accessdate=2015-07-07}}</ref> |総面積(平方キロ)= 472 |陸上面積(平方キロ)= |水面面積(平方キロ)= |水面面積比率= 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[[ペドロ・デ・ラ・ガスカ]]に委任された。 ガスカは、[[アロンソ・デ・メンドーサ]]に、 [[ペルー]]の征服終結を記念した新しい都市を建設するように命令を出した。[[1548年]]10月20日にアロンソ・デ・メンドーサにより、[[アルト・ペルー]]南部の鉱山と太平洋岸の[[ペルー副王領]]の主都[[リマ]]との中継地点として、ラパス市が建設された<ref>[[#樺山編(1981)|樺山編(1981:50)]]</ref>。建設当時の名称は'''ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パス市'''(''{{lang|es|La Ciudad de Nuestra Señora de La Paz}}''、「我らが平和の母の街」の意)であり、現在のラパス市の西隣にある高地のラハ (''Laja'') という場所が中心であった。しかし、ラハは谷の上にあり風の影響を強く受け、また、ラパス近郊には[[金]]があったこともあって風の影響の弱い現在の谷底に中心が移された<ref>[[#樺山編(1981)|樺山編(1981:50-51)]]</ref>。[[1549年]]、[[ホアン・グティエレス・パニアグア]]は、公共区域、公共広場、官庁街、大聖堂の場所を選定する都市計画を設計するように命じられた。現在はムリーリョ広場として知られているスペイン広場が、メトロポリタン聖堂や、政府系の建物を建てる場所に選定された。[[1549年]]に建設が開始された[[サンフランシスコ教会]]は[[1610年]]に積雪によって倒壊したが、[[1744年]]より再建が始められ、[[1784年]]に[[アンデス・バロック]]様式の教会堂として落成した<ref>[[#樺山編(1981)|樺山編(1981:52-53)]]</ref>。植民地時代を通じてスペインは、ラパスを確固として支配し、スペイン国王がすべての政治的事項に関し、最終的な決定権を有した。 [[1781年]]に[[トゥパク・カタリ]]の指導の下、計6ヶ月の間、[[アイマラ]]人がラパスを包囲し、教会や政府の所有物を破壊した。30年後、インディオがラパスを2ヶ月包囲した。この時、この場所で[[エケコ]]の伝説が生まれた。 1809年にスペイン支配からの独立を求め、{{仮リンク|ラパス革命|es|Junta Tuitiva|en|La Paz revolution}}が始まった([[ボリビア独立戦争]]の中心地のひとつ)。[[1809年]]7月16日、[[ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョ]]は、「ボリビア革命は、誰も消すことのできない独立の火を灯すことである(Bolivian revolution was igniting a lamp that nobody would be able to turn-off)」と述べた。これは南アメリカ諸国のスペイン支配からの解放が始まったことを意味した。ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョはその晩スペイン広場で絞首刑となったが、ムリーリョの名前は広場の名前として永遠に残り、南米において「革命の声」として記憶された。[[1825年]][[12月9日]]の[[イスパノアメリカ独立戦争]]における{{仮リンク|アヤクーチョの戦い|en|Battle of Ayacucho}}での[[スペイン軍]]に対する、[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]将軍率いる[[大コロンビア]]共和国軍の決定的勝利の後、街の名前は、ラ・パス・デ・アヤクーチョ (「[[アヤクーチョ]]の平和」の意味)に変更された。スクレはこの戦いの後、[[ベネズエラ人]]でありながらも、新たに独立したボリビア共和国の実質的な初代大統領になった。 [[1898年]]、ラパス市は事実上の首都となったが、[[スクレ (ボリビア)|スクレ]]市は名目上の歴史的な首都、および憲法上の首都として残った。これは19世紀末から20世紀初頭にかけてほとんど枯渇していた[[ポトシ銀山]]とスクレ市を背景とする保守党勢力から、[[オルロ]]近郊の[[錫]]とラパスを基盤とする自由党勢力に、[[ボリビアの政治|政治]]、[[ボリビアの経済|経済]]がシフトしたことを反映するものであり、それまでの保守支配層に替わって新たに自由党系の「ロスカ」と呼ばれる寡頭支配層が、[[1929年]]の世界恐慌で打撃を受けるまでエリートとして君臨した<ref name="遅野井2006:132"/>。 1950年の国勢調査では、ラパス市の人口は290,731人であった<ref>[[#樺山編(1981)|樺山編(1981:58)]]</ref>。 == 地理 == [[ファイル:La paz bolivia 20180404.jpg|サムネイル|La ciudad de La Paz]] [[ファイル:La_Paz_Bolivia_directed_to_El_Alto.jpg|thumb|left|240px|ラパス市からエルアルト市方向を望む]] [[File:Bl-map.png|thumb|right|ボリビア]] [[ファイル:LaPazBolivia.JPG|thumb|240px|ラパス市・ライカコタ公園からの風景]] 中心街の標高は3600m強で、すり鉢状の地形を持つ。その高さから雲の上の町と呼ばれる。おおざっぱに言うと、すり鉢の底の部分に高所得者が、縁の部分に低所得者が住んでいる。現在に至るまで人口は増え続けており、すり鉢の内側はほぼ飽和したために隣の[[エル・アルト]](''El Alto'')に市街地が拡大している。そのため、市街地の上と下で、700mほどの標高差があると言われる。 山岳地域からの雪解け水や地下に水脈があるため、水に不自由することはほとんど無いが、インフラ整備が遅れているため、断水することがしばしばある。近年急速に人口が増加してきている地域では上下水道などの[[インフラストラクチャー|インフラ]]整備が追いつかず、衛生的な水は不足することがある。下水道が貧弱なため、ちょっとした大雨でも道路が冠水しやすい。そのため、2002年2月には、50人以上の犠牲者を出す水害も発生している。 {{Clearleft}} == 気候 == 標高が高く、気候は[[高山気候]]に属する。 {{Weather box |location=ラパス (標高4,012 m) |collapsed=yes |metric first=yes |single line=yes |Jan record high C = 27 |Feb record high C = 20 |Mar record high C = 26 |Apr record high C = 30 |May record high C = 30 |Jun record high C = 23 |Jul record high C = 22 |Aug record high C = 21 |Sep record high C = 23 |Oct record high C = 22 |Nov record high C = 22 |Dec record high C = 22 |year record high C = 30 |Jan high C = 12 |Feb high C = 13 |Mar high C = 13 |Apr high C = 13 |May high C = 13 |Jun high C = 12 |Jul high C = 12 |Aug high C = 13 |Sep high C = 13 |Oct high C = 14 |Nov high C = 15 |Dec high C = 14 |year high C = 13 |Jan mean C=8.2 |Feb mean C=8.2 |Mar mean C=8.1 |Apr mean C=7.7 |May mean C=6.6 |Jun mean C=5.4 |Jul mean C=5.1 |Aug mean C=6.1 |Sep mean C=6.9 |Oct mean C=8.2 |Nov mean C=8.9 |Dec mean C=8.8 |Year mean C=7.3 |Jan low C = 3 |Feb low C = 3 |Mar low C = 3 |Apr low C = 2 |May low C = 0 |Jun low C = −2 |Jul low C = −2 |Aug low C = −1 |Sep low C = 0 |Oct low C = 2 |Nov low C = 3 |Dec low C = 3 |year low C = 1 |Jan record low C = 0 |Feb record low C = 0 |Mar record low C = −2 |Apr record low C = −2 |May record low C = −11 |Jun record low C = −11 |Jul record low C = −10 |Aug record low C = −10 |Sep record low C = −7 |Oct record low C = −3 |Nov record low C = −3 |Dec record low C = −5 |year record low C = −11 |precipitation colour = green |Jan average precipitation mm = 120 |Feb average precipitation mm = 100 |Mar average precipitation mm = 70 |Apr average precipitation mm = 30 |May average precipitation mm = 10 |Jun average precipitation mm = 0 |Jul average precipitation mm = 0 |Aug average precipitation mm = 10 |Sep average precipitation mm = 30 |Oct average precipitation mm = 40 |Nov average precipitation mm = 50 |Dec average precipitation mm = 90 |Jan humidity=78 |Feb humidity=78.4 |Mar humidity=77.3 |Apr humidity=70.1 |May humidity=54.9 |Jun humidity=51.2 |Jul humidity=52.6 |Aug humidity=53.8 |Sep humidity=59.9 |Oct humidity=62.5 |Nov humidity=62 |Dec humidity=71.2 |year humidity=64.3 |source 1 = Weatherbase<ref name="weather1">{{cite web |url=http://www.weatherbase.com/weather/weather.php3?s=10258&refer=&units=metric |title=Historical weather for La Paz, Bolivia |accessdate=January 2011 |publisher=Weatherbase}}</ref> |date = January 2011 |source 2 = Climatebase.ru (mean temperatures, humidity)<ref>{{Cite web |url=http://climatebase.ru/station/85201/?lang=en |title=La Paz, Bolivia |publisher=Climatebase.ru |accessdate=2014-07-18 }}</ref> }} {{Weather box |location=ラパス (標高 3,250 m) |metric first=yes |single line=yes |collapsed=yes |Jan record high C = 25 |Feb record high C = 24 |Mar record high C = 24 |Apr record high C = 24 |May record high C = 22 |Jun record high C = 21 |Jul record high C = 22 |Aug record high C = 22 |Sep record high C = 27 |Oct record high C = 24 |Nov record high C = 25 |Dec record high C = 24 |year record high C = 27 |Jan high C = 17 |Feb high C = 17 |Mar high C = 18 |Apr high C = 18 |May high C = 18 |Jun high C = 17 |Jul high C = 17 |Aug high C = 17 |Sep high C = 18 |Oct high C = 19 |Nov high C = 19 |Dec high C = 18 |year high C = 17.8 |Jan low C = 6 |Feb low C = 6 |Mar low C = 6 |Apr low C = 4 |May low C = 3 |Jun low C = 1 |Jul low C = 1 |Aug low C = 2 |Sep low C = 3 |Oct low C = 4 |Nov low C = 6 |Dec low C = 6 |year low C = 4.0 |Jan record low C = 1 |Feb record low C 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days = 124 |Jan sun = 186 |Feb sun = 141 |Mar sun = 155 |Apr sun = 180 |May sun = 248 |Jun sun = 270 |Jul sun = 279 |Aug sun = 248 |Sep sun = 210 |Oct sun = 186 |Nov sun = 180 |Dec sun = 186 |year sun = 2469 |source 1 = BBC Weather<ref name="weatherBBC">{{cite web |url=http://www.bbc.co.uk/weather/3911925 |title=BBC Weather - La Paz |accessdate=July 2013 |publisher=BBC Weather}}</ref> |date = July 2013 }} == 施設 == [[ファイル:Calle_Jaen_La_Paz_Bolivia.jpg|thumb|200px|ハエン通り]] 大統領官邸[[カサ・グランデ・デル・プエブロ]]、国会議事堂、中央省庁、各国の大使館などが集中し、最高裁判所以外の首都機能はほぼすべてがこの市に集まっている。旧市街にあるムリリョ広場 (''Plaza Murillo'')の周辺は[[ラパス大聖堂]]などの歴史的建築が立地し、伝統的に市の中心であるが、近年は谷の一番底にあたるプラド通り (''El Prado'') が商業的中心になってきており、その周囲には近代的な高層ビルが建ち並んでいる。 市の中心部のやや北側にある聖フランシスコ教会 (''Iglesia de San Francisco'') とそこから坂を上ってゆくサガルナガ通り (''{{lang|es|Calle Sagárnaga}}'') が観光の中心になっており、[[アルパカ]]や[[ヒツジ|羊]]の毛で作った[[セーター]]、[[タペストリー]]のような[[民芸品]]、[[銀]]製品、[[ケーナ]]や[[チャランゴ]]などの民族[[楽器]]などを売る店が多く集まっている。 サガルナガ通りの近くには「魔女の市場 (''Mercado de Brujas'')」と呼ばれる通りがあり、[[キリスト教]]が浸透する以前から[[アイマラ族]]などで行なわれていた儀式に用いられる道具などが売られている。ここでは、各種[[ハーブ]]や[[セラミック]]の人形、[[リャマ]]の[[胎児]]の[[ミイラ]]などが売られている(リャマの胎児のミイラは、家を新築する際に地面の下に埋めて家内安全を祈願するのに用いられる)。 黄金博物館 (''Museo de Oro'') などの4つの博物館があるハエン通り (''Calle Jaen'') は、スペイン統治時代の雰囲気を残す古い町並みで情緒がある。この通りにはマルカタンボ (''Marca Tambo'') という[[ペーニャ]]([[フォルクローレ]]の生演奏を聴くことができるレストラン)がある。 市内北東部のミラフローレス地区には[[エルナンド・シレス競技場]]がある。この競技場は[[2007年]]に[[国際サッカー連盟]]がその標高を理由に公認競技場からはずしたことで話題となった。現在は再び[[FIFAワールドカップ]]予選会場として認められている。 == 祭典 == [[謝肉祭|カーニバル]](カルナバル、''carnaval'')の時(2月頃)とグラン・ポデール祭(''El Gran Poder''または''La Entrada Universitaria'')の時(8月頃)には、中心のプラド通りとそれに続くマリスカル・サンタクルス通り (''Av. Mariscal Santa Cruz'') とモンテス通り (''Av. Montes'') で、[[パレード]]が行なわれる。[[吹奏楽]]団の演奏に合わせて民族衣装をまとった十数人から百数十人のグループが踊り歩く。踊りの内容は[[オルロ]]のカーニバルとほぼ同じであるのでそちらも参照されたい。毎年[[1月24日]]にアラシタの祭が開かれる。詳細は[[エケコ]]の記事を参照。 == 特色 == 空気が希薄であることと、ほとんどの家が「[[アドベ]]」とよばれる日干しレンガで造られていることから、火事はめったに発生しない。このため、ラパス市には消防署が存在しないということがしばしば言われるが、実際には消防署も消防車も存在する。空気が希薄なために、吸っていない[[タバコ]]の火が消える、[[ビール]]や[[コーラ (飲料)|コーラ]]が激しく泡立つ、袋菓子、シャンプーなどが膨れあがったり破裂する、輸入品の粉クリームのふたを初めてあけるときに粉が吹き出るなど、高地特有の様々な現象が起きる。 [[酸素]]が不足するため、旅行者は[[高山病]]にかかりやすく、ひどい場合、嘔吐する。急な坂だらけの街であるので、長く住んでいる人でも息が切れて苦痛を感じることが多い。空港には酸素マスクが常備されている。高山病にかかったときには[[コカ|コカ茶]]を飲むと症状が緩和される。 すり鉢状の盆地に都市が形成されており、周辺部の急峻な場所には先住民アイマラや貧困層が居住する[[煉瓦#無焼成レンガ|日干し煉瓦]]でできた低層住宅が広がる<ref>{{Cite web|和書|date=2019-10-26 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3247595?cx_part=related_yahoo |title=「明るい」街に生まれ変わる? ボリビアの貧困地区で景観改善プロジェクト |publisher=AFP |accessdate=2020-04-04}}</ref>。 == 交通 == ラパスの空港である[[エル・アルト国際空港]]は、正確に言うと隣接市である[[エル・アルト]]市(標高4071mに位置し、世界で最も高い都市といわれる)の高原台地にあり標高差は約500mもある<ref>[[#樺山編(1981)|樺山編(1981:40)]]</ref>。峡谷盆地のラパス市内からは、すり鉢状の地形を螺旋状に上ってゆく[[高速道路]]を使って30分ほどで行くことができる。 [[サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ]]や[[コチャバンバ]]などの国内主要都市や、[[リマ]]、[[ボゴタ]]、[[サンパウロ]]、[[リオデジャネイロ]]、[[アスンシオン]]などの近隣国の主要都市、また[[アメリカ合衆国]]の[[マイアミ]]と結ぶ航空便が開設されている。 2014年には道路渋滞の緩和を目的として、ラパス中心部と近郊のエル・アルトなどとを結ぶ[[索道|ロープウェイ]]「[[ミ・テレフェリコ]]」が開業した。 ==国際関係== ===姉妹都市・提携都市=== ;姉妹都市 {{columns-list|colwidth=22em|1=<nowiki/> *{{flagicon|AND}} '''[[アンドラ・ラ・ベリャ]]'''([[アンドラ|アンドラ公国]]) *{{flagicon|CHI}} '''[[アリカ (チリ)|アリカ]]'''([[チリ|チリ共和国]]) *{{flagicon|PAR}} '''[[アスンシオン]]'''([[パラグアイ|パラグアイ共和国]]) *{{flagicon|COL}} '''[[ボゴタ]]'''([[コロンビア|コロンビア共和国]]) *{{flagicon|ARG}} '''[[ブエノスアイレス]]'''([[アルゼンチン|アルゼンチン共和国]]) *{{flagicon|CHI}} '''[[カラマ]]'''([[チリ|チリ共和国]]) *{{flagicon|VEN}} '''[[カラカス]]'''([[ベネズエラ|ベネズエラ共和国]]) *{{flagicon|PER}} '''[[クスコ]]'''([[ペルー|ペルー共和国]]) *{{flagicon|MEX}} '''[[エンセナーダ]]'''([[メキシコ|メキシコ合衆国]]) *{{flagicon|GUA}} '''[[グアテマラシティ]]'''([[グアテマラ|グアテマラ共和国]]) *{{flagicon|CUB}} '''[[ハバナ]]'''([[キューバ|キューバ共和国]]) *{{flagicon|POR}} '''[[リスボン]]'''([[ポルトガル|ポルトガル共和国]]) *{{flagicon|ESP}} '''[[マドリード]]'''([[スペイン|スペイン王国]])<ref name="hermanadas">{{cite web |title=Mapa Mundi de las ciudades hermanadas |publisher=Ayuntamiento de Madrid |url=http://www.munimadrid.es/portal/site/munimadrid/menuitem.dbd5147a4ba1b0aa7d245f019fc08a0c/?vgnextoid=4e84399a03003110VgnVCM2000000c205a0aRCRD&vgnextchannel=4e98823d3a37a010VgnVCM100000d90ca8c0RCRD&vgnextfmt=especial1&idContenido=1da69a4192b5b010VgnVCM100000d90ca8c0RCRD |access-date=2009-07-25 |archive-url=https://web.archive.org/web/20081004144752/http://www.munimadrid.es/portal/site/munimadrid/menuitem.dbd5147a4ba1b0aa7d245f019fc08a0c/?vgnextoid=4e84399a03003110VgnVCM2000000c205a0aRCRD&vgnextchannel=4e98823d3a37a010VgnVCM100000d90ca8c0RCRD&vgnextfmt=especial1&idContenido=1da69a4192b5b010VgnVCM100000d90ca8c0RCRD |archive-date=2008-10-04 |dead-url=yes |df= }}</ref> *{{flagicon|NCA}} '''[[マナグア]]'''([[ニカラグア|ニカラグア共和国]]) *{{flagicon|VEN}} '''[[メリダ (ベネズエラ)|メリダ]]'''([[ベネズエラ|ベネズエラ共和国]]) *{{flagicon|MEX}} '''[[メキシコシティ]]'''([[メキシコ|メキシコ合衆国]]) *{{flagicon|URU}} '''[[モンテビデオ]]'''([[ウルグアイ|ウルグアイ東方共和国]]) *{{flagicon|PAN}} '''[[パナマ市|パナマシティ]]'''([[パナマ|パナマ共和国]]) *{{flagicon|ECU}} '''[[キト]]'''([[エクアドル|エクアドル共和国]]) *{{flagicon|BRA}} '''[[リオデジャネイロ]]'''([[ブラジル|ブラジル連邦共和国]]) *{{flagicon|CRC}} '''[[サンホセ (コスタリカ)|サンホセ]]'''([[コスタリカ|コスタリカ共和国]]) *{{flagicon|PUR}} '''[[サンフアン (プエルトリコ)|サンフアン]]'''([[プエルトリコ|プエルトリコ自治連邦区]]) *{{flagicon|SLV}} '''[[サンサルバドル]]'''([[エルサルバドル|エルサルバドル共和国]]) *{{flagicon|CHI}} '''[[サンティアゴ]]'''([[チリ|チリ共和国]]) *{{flagicon|DOM}} '''[[サントドミンゴ]]'''([[ドミニカ共和国]]) *{{flagicon|BRA}} '''[[サンパウロ]]'''([[ブラジル|ブラジル連邦共和国]])(1999)<ref name="São Paulo twinnings">{{cite web|url=http://www3.prefeitura.sp.gov.br/cadlem/secretarias/negocios_juridicos/cadlem/integra.asp?alt=11072007L%20144710000|title = Pesquisa de Legislação Municipal - 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ケチュア
ケチュア(Quechua、またはQuichua)は、かつてインカ帝国(タワンティンスーユ)を興したことで知られる民族である。ペルー、エクアドル、ボリビア、チリ、コロンビア、アルゼンチンに居住する。
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ケチュア(Quechua、またはQuichua)は、かつてインカ帝国(タワンティンスーユ)を興したことで知られる民族である。ペルー、エクアドル、ボリビア、チリ、コロンビア、アルゼンチンに居住する。
{{otheruses|南米の民族|この民族が用いている言語|ケチュア語族}} {{出典の明記|date=2017年1月1日 (日) 12:23 (UTC)}} [[ファイル:Qichwa conchucos 01.jpg|thumb|260px|ケチュア人]] [[ファイル:QuechuaWoman.jpg|thumb|260px|ケチュアの女性とリャマ]] '''ケチュア'''('''Quechua'''、または'''Quichua''')は、かつて[[インカ帝国]](タワンティンスーユ)を興したことで知られる民族である。[[ペルー]]、[[エクアドル]]、[[ボリビア]]、[[チリ]]、[[コロンビア]]、[[アルゼンチン]]に居住する。 == 著名なケチュア人 == * [[アタワルパ]] - インカ帝国被征服時の皇帝(『幸福な鶏』の意) * [[トゥパク・アマル (初代)]] - インカ帝国最後の皇帝(『高貴なる大蛇』の意) * [[ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ]](子孫) - 18世紀のペルーの抵抗者 * [[アタウアルパ・ユパンキ]](子孫) - アルゼンチンのフォルクローレ歌手・作曲家 == 画像 == <center><gallery widths="140px" heights="140px"> ファイル:Gwalpaca.jpg|[[アルパカ]]と少女 ファイル:Wool spinning family Peru..jpg|女性と娘たち ファイル:Kichwa Ecua 06.jpg|女性([[エクアドル]]) ファイル:Peru - Cusco 105 - school traditional dance festival (8149453127).jpg|祭りの風景 ファイル:Little Dancer, Cuzco (7195543156).jpg|少女ダンサー </gallery></center> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|南アメリカ|[[画像:P South America.png|42px|Portal:南アメリカ]]}} * [[アイマラ]] * [[アイリュ]] * [[アンデス文明]] * [[プレ・インカ]] * [[ケチュア語]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Qhichwa|Quechua}} * {{YouTube|2Wj6yez66ws|Race and Racism in S America: Quechua Indians - 26 Jul 08}}(製作・投稿: [[アルジャジーラ]]) {{Authority control}} {{South-america-stub}} {{デフォルトソート:けちゆあ}} [[Category:インカ帝国]] [[Category:コロンビアの民族]] [[Category:ペルーの民族]] [[Category:ボリビアの民族]] [[Category:エクアドルの民族]] [[Category:南アメリカ州の先住民族]]
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データ圧縮
データ圧縮(データあっしゅく、英: data compression)とは、あるデータを、そのデータの実質的な内容(情報、あるいはその情報量)を可能な限り保ったまま、データ量を減らした別のデータに変換すること。高効率符号化ともいう。 データ圧縮は、データ転送におけるトラフィックやデータ蓄積に必要な記憶容量の削減といった面で有効である。しかし圧縮されたデータは、利用する前に伸長(解凍)するという追加の処理を必要とする。つまりデータ圧縮は、空間計算量を時間計算量に変換することに他ならない。例えば映像の圧縮においては、それをスムーズに再生するために高速に伸長(解凍)する高価なハードウェアが必要となるかもしれないが、圧縮しなければ大容量の記憶装置を必要とするかもしれない。データ圧縮方式の設計には様々な要因のトレードオフがからんでおり、圧縮率をどうするか、(非可逆圧縮の場合)歪みをどの程度許容するか、データの圧縮伸長に必要とされる計算リソースの量などを考慮する。 データ圧縮には、可逆圧縮と非可逆圧縮の2種類がある。可逆圧縮は、統計的冗長性を特定・除去することでビット数を削減する。可逆圧縮では情報が失われない。可逆圧縮は、数値データや文書、プログラムなど、1ビットの変化で情報の価値が大きく毀損されるようなデータに対して用いられる。一方で、非可逆圧縮は不必要な情報を特定・除去することでビット数を削減する。非可逆圧縮ではいくらかの情報が失われる。非可逆圧縮は、音声や画像、動画など、細部が変化しても情報の意味が変わりにくいデータに対して用いられる。 アナログ技術を用いた通信技術においては通信路の帯域幅を削減する効果を得るための圧縮ということで帯域圧縮ともいわれた。デジタル技術では、情報を元の表現よりも少ないビット数で符号化することを意味する。 新たな代替技法として、圧縮センシングの原理を使ったリソース効率のよい技法が登場している。圧縮センシング技法は注意深くサンプリングすることでデータ圧縮の必要性を避けることができる。 可逆圧縮(かぎゃくあっしゅく)とは、圧縮データを復元した時に、圧縮前の入力データが完全に復元されるような圧縮方法である。基本的には、入力データの統計的冗長性(出現する符号の偏り、規則性)を利用して、情報を失うことなくより稠密なデータに変換する。例えば、画像には数ピクセル同じ色が並んだ領域がよくみられる。そこでピクセル単位に色情報を並べて表現する代わりに、「n個の赤のピクセル」という形で符号化できる。このような種類の方法は連長圧縮(RLE)と呼ばれる。また、多くの可逆圧縮で使われている方法として、出現頻度(確率)の高いものに短い符号を、出現頻度の低いものに長い符号を割り当てることで、データ全体でみたときの平均符号長を短くする方法がある。これをエントロピー符号化と呼び、具体的な方法としてハフマン符号化や算術符号化などがある。また、データを区間に区切って、それぞれで対応する符号を変えたり、n 個の連続した符号の列に対して符号を割り当てる方法(拡大情報源)など、冗長性を除去することでデータ量を低減させる様々な方法が存在する。これらの方法は、圧縮率や圧縮・展開にかかる計算コスト(時間やメモリ)が異なっており、状況に応じて使い分けたり、互いに組み合わせて使うことができる。 LZ77 (Lempel–Ziv) およびそれを改良したLempel–Ziv–Storer–Szymanski (LZSS) という圧縮法は、可逆記録方法としては最もよく使われているアルゴリズムである。DeflateはLZSSを伸長速度と圧縮率の面で最適化した派生技法だが、圧縮は時間がかかることがある。Deflateは、PKZIP(英語版)、gzip、PNGで採用されている。Lempel–Ziv–Welch (LZW) はGIFで採用されている。また、LZR (Lempel-Ziv–Renau) アルゴリズムはZIPの基盤として採用されている。LZでは、データに繰り返し出現する記号列をテーブルを使って置換する方式を採用している。多くのLZ系の技法では、このテーブルを動的に生成しつつ入力を先頭から順次処理していく。テーブル自体はハフマン符号で符号化されることが多い(例えば、SHRI、LZX)。LZXはDeflateよりも効率が良く、マイクロソフトのCAB形式などで使われている。また、ハフマン符号に代わりRange Coderを採用したLZMAやLZMA2はさらに圧縮率が良い。 圧縮効率が最も高い可逆圧縮法は乱択アルゴリズムを導入したもので Prediction by Partial Matching などがある。ブロックソートはデータの統計的モデリング技法であり、圧縮の前処理に使われる。 文法圧縮を使った技法は、繰り返しが非常に多い場合に高い圧縮率を達成でき、同一あるいは関連する種の生物学的データ群、頻繁に改版される文書群、インターネットアーカイブなどの用途がある。文法圧縮では、入力文字列から文脈自由文法を構築する。コードが公開されているアルゴリズムとしては、Sequitur(英語版)、Re-Pair、MPMがある。 これらの技法をさらに洗練させるため、統計的予測と算術符号と呼ばれるアルゴリズムを組み合わせる。算術符号は Jorma Rissanen が考案し、Witten、Neal、Cleary がそれを実用的な技法に発展させ、ハフマン符号より優れた圧縮率を達成するようになった。統計的予測が文脈に強く依存する場合のデータ圧縮によく採用されている。二値画像圧縮の標準であるJBIG、文書(スキャン画像)圧縮の標準であるDjVuなどで使われている。テキスト入力システム Dasher は、いわば逆算術符号化器である。 非可逆圧縮(ひかぎゃくあっしゅく)は可逆圧縮とは逆で、データを復元したときに完全には元にもどらない圧縮方法をいう。多くの非可逆圧縮では人間があまり強く認識しない成分を削除することでデータを圧縮する方法がとられている。たとえば人間は大きな音と小さな音を同時に聞いた場合、小さな音をあまり認識できないし(マスキング効果)、画像に対しても小さな色の変化は輝度の変化ほど認識されない。このためデータをフーリエ変換(あるいはその一種である離散コサイン変換など)し、高周波成分や低振幅成分を削除してしまっても、受け手に与える印象の変化に大きな差は現れない。当然削除する範囲が多ければ、元データとの差異は大きくなり、違いに気づく人間も増える。画像のサイズを小さくする、動画のフレームレートを下げるなども一種の非可逆圧縮と言える。画像圧縮技法であるJPEGは、データの本質的でない部分を丸めることで圧縮を達成している部分もある。情報の喪失と圧縮率はトレードオフの関係にある。このような人間の知覚の特性を利用した非可逆圧縮は、音声、画像、映像などのデータによく使われている。 デジタルカメラでは、画質の低下を抑えつつ撮影枚数を増やすのに非可逆圧縮を使うことがある。また、DVDで使用しているMPEG-2も映像(動画)の非可逆圧縮法の一つである。 音響データの非可逆圧縮では音響心理学が応用されており、音響信号のうちヒトの耳に聞こえない(聞こえにくい)成分を捨てている。ヒトの声のデータ圧縮にはさらに専用の技法が使われることが多く、音声符号化は音響圧縮とは別の領域とされることがある。音声圧縮はVoIP、音響圧縮はCDのリッピングなどで使われている。 圧縮の理論的背景としては、可逆圧縮については情報理論(とそれに密接に関連するアルゴリズム情報理論)、非可逆圧縮についてはレート歪み理論(英語版)がある。これらの分野の基盤を作り上げたのはクロード・シャノンで、1940年代後半から1950年代前半にかけて基盤となる論文をいくつか発表している。符号理論も関係している。データ圧縮の考え方は推計統計学とも密接に関連している。 機械学習と圧縮の間には密接な関係がある。ある系列の完全な履歴を入力として事後確率を予測するシステムは(出力分布に対して算術符号を使用することで)最適なデータ圧縮に利用でき、一方最適な圧縮器は(履歴から最もうまく圧縮するシンボルを見つけることで)予測に利用できる。この等価性を利用して、データ圧縮は「一般知能」(general intelligence) を評価するベンチマークとして使われてきた。 データ圧縮はデータの差分抽出 (data differencing) の特殊ケースとみることもできる。データの差分抽出は「ソース」と「ターゲット」の「差分」を抽出し、「ソース」と「差分」から「ターゲット」を再現できるようにするものだが、データ圧縮は「ターゲット」から圧縮したデータを作り、「ターゲット」をその圧縮したデータのみから再現する。したがって、データ圧縮は「ソース」が空の場合の差分抽出とみなすことができ、圧縮データは「無からの差分」に対応する。これは、情報量(データ圧縮に相当)がカルバック・ライブラー情報量(差分抽出に相当)の初期データがない特殊ケースと対応しているのと同じである。 このような関係を強調したい場合、データの差分抽出を「差分圧縮」(differential compression) と呼ぶことがある。 代表的なものとして、TV放送に用いられるNTSC、PALなどのコンポジット映像信号がある。コンポジット映像信号では、映像信号を輝度成分と色成分に分離した後、輝度成分に対しては十分な帯域幅を与えているのに対し、色成分についてはそれと比べ帯域幅を狭くしている。結果として元の画質と比較すると、色彩の細かい変化が失われた、例を上げるなら黒白写真に着色したものに近いような画質になっているはずだが、人間の視覚の特性上、通常のいわゆる「自然画」や、いわゆるアニメ絵でも縁の黒い線の輝度成分に助けられ、あまり気にならない(また画質が気になるような、静止している映像に対しては三次元Y/C分離によって高画質な再生が可能である)。しかしゲーム画面やCGのような、隣接する場所の色彩が極端に変化する動画ではいわゆる「色滲み」が避けられない。 中波~短波のAMラジオ放送では、占有帯域をあまり広くしないように、4kHz程度から上を切っている。電話においても効率よく多重化するため、電話は300 Hz - 3600 Hz程度が伝われば良いので、その範囲以外を切っている。 他に、以前は電話の交換機と交換機の間をPAM(パルス振幅変調)方式を使い0.125μsに分割することで、信号を多重化して送っていた。後にPAM方式からPCM(パルス符号変調)方式へ変わり、事実上デジタル方式に変わっている。 デジタル符号化されたデータの圧縮の歴史は意外と古く、1830年代に発明されたモールス信号に用いられるモールス符号も圧縮符号の一種である。これは、文字通信の中で比較的出現頻度の高いアルファベットに短い符号を割り当て、出現頻度の低いものには長い符号を割り当てることで、通信に要する手間を省いている。(しかし日本語のモールス符号はそうなっていない。モールス信号の項目を参照) 1967年、音響心理学的マスキング効果が発表されている。 その後、コンピュータの発達とともに、デジタル通信やファイルの保存でデータ圧縮の重要性が高まったことで研究が進み、1970年代後半頃からはデータ圧縮の要素技術に関する重要な特許も出願されるようになった。特許については、近年でも、オーディオ圧縮で用いられるMP3のライセンスの問題や、ウェブサイトの画像で広く用いられている GIF画像のライセンス問題など多くの紛争を発生させており、それだけデジタル時代の重要な基幹技術であることを示している。 1980年代に入ると音声通信分野のデジタル化の動きが始まり、音声圧縮の分野ではADPCMなど初期の比較的単純な圧縮方式が実用化された。また、パーソナルコンピュータやパソコン通信(ただし、日本では通信自由化以降)が普及するようになり、オンラインソフトウェアの分野からもZIPやLHAといった現在も幅広く使用されているファイル圧縮方式も誕生した。1988年、ブエノスアイレス大学の Oscar Bonello が IBM PC を使ったラジオ放送局用自動音声圧縮システムを開発した。 1990年代前半に入ると、音声圧縮や画像圧縮の分野で2005年現在でも広く知られている多くのデータ圧縮方式が発表された。音声(オーディオ)の分野では、1992年に登場したミニディスク (MD) に搭載されているATRACなどがある。また、画像の分野ではJPEG圧縮方式が国際標準規格として勧告され、広く普及した。これらの背景には、集積回路 (IC) の生産技術や設計技術の発達で大規模で高度な処理が行えるICが比較的安価な製品でも搭載可能になった点や、パーソナルコンピュータの急速な性能向上でソフトウェア的な画像処理が容易に行えるようになった点も大きい。 また、動画圧縮の分野でも、この頃、TV会議システム用の動画圧縮方式 (H.261) やビデオCDの圧縮方式 (MPEG-1) も標準化されている。また、パーソナルコンピュータ向けに企業独自の圧縮方式を採用したコーデックも登場するようになった。しかし、動画圧縮の分野では音声圧縮や画像圧縮に比べてさらに高度な技術が要求されるため、まだしばらくの間、業務用や限定的な用途に限られていた。これとは別に、デジタル時代の重要な基幹技術である動画圧縮技術には特許の権益に絡む思惑もあり、この方面でも標準化までに長い時間を要した。 1990年代後半になると、動画圧縮の分野でも国際的な標準規格であるMPEG-2が標準化され、業務用分野から幅広く利用されるようになり、1996年に登場したDVDプレーヤーや、2000年に開始されたBSデジタル放送など、家電製品にも採用されるようになった。 代表的なものとしては、インターネットのウェブサイトで広く用いられるJPEG、GIFがある。非可逆圧縮による高能率圧縮を行うものと、劣化を生じさせない可逆圧縮を用いるものがある。 例えば、非可逆圧縮形式のJPEGの場合、一定の画素数のブロックに分割したデータを離散コサイン変換 (Discrete Cosine Transform, DCT) と呼ばれる演算で処理して符号化を行う。 画像圧縮アルゴリズムの評価には、レナなどの画像サンプルが広く使われている。 音声圧縮では、人の聴覚の特性を利用して高能率の非可逆圧縮を行うものが広く用いられている。非可逆圧縮の代表的な方式としてMP3がある。CDの音声データ (1411.2kbps: 44.1kHz, 16bit, 2ch) を128kbpsのMP3形式に圧縮した場合、圧縮率は約1/11となる。最近では高音質の320kbpsの圧縮率が一般的になりつつある。 一方で、まったく劣化を生じさせない可逆圧縮方式を用いたものも増えてきている。 ALAC、FLAC、Monkey's Audio(APE)などがその代表である。 動画圧縮では、各フレームの静止画の圧縮と時系列の圧縮技法(動きベクトル、フレーム間予測、動き補償など)を組み合わせて行う。通常動画データには同期した音声も付属しているため、動画圧縮のコーデックは音声圧縮用コーデックを統合してパッケージ化されていることが多い。 動画圧縮アルゴリズムのほとんどが非可逆圧縮である。圧縮前の動画はあまりにも多大なデータとなり、ストリーミングに際しても巨大な帯域幅を必要とする。可逆な動画用コーデックの圧縮性能は平均で3倍程度だが、非可逆なMPEG-4の圧縮性能は20倍から200倍である。非可逆圧縮では、画質、圧縮・伸長のコスト、要求されるシステム性能といったトレードオフが考慮される。圧縮率が高すぎるとブロックノイズなどの圧縮アーティファクトが生じることがある。 動画圧縮では一般に四角い範囲の隣接するピクセル群をグループとして扱い、これをマクロブロックと呼ぶ。このブロックを次のフレームの同じ位置のブロックと比較し、差分のみをデータとして送る。そのため、動きが激しい動画では差分が大きくなり、より多くのデータを符号化しなければならなくなる。したがって固定ビットレートでは、爆発シーン、炎のシーン、動物の群れ、視点(カメラ)の平行移動などで画質が低下することがあり、可変ビットレートではデータ転送量が増加する。 動画データは、一連の静止画フレームからなっている。このフレーム列には空間的にも時間的にも冗長性があり、動画圧縮アルゴリズムはそれを除去することで全体のサイズを小さくしようとする。隣接するフレームは相互によく似ていることが多く、フレーム間の差分だけを格納することでこれを利用する。また、ヒトの目は色の変化には鈍感で輝度の変化には敏感である。そこで、静止画圧縮のJPEGのようにフレーム内の似たような色が並んでいる領域を平均化するような圧縮を行う。これらの技法には本質的に非可逆なものと原本の情報を保持する可逆なものがある。 フレーム間圧縮では、フレーム列を前後で比較したとき、全く変化しない領域があれば、前のフレームの同じ領域をそのままコピーせよというコマンドを生成する。領域が単純に変化している場合、シフト、回転、明るくする、暗くするなどのコマンドを生成する。このようにコマンド列を生成した方が各フレームを静止画として圧縮するよりサイズが小さくなる。このようなフレームをまたいだ圧縮は単純に再生する用途では問題ないが、圧縮された動画を編集したい場合には問題となることがある。 フレーム間圧縮を行うと、フレームからフレームにデータをコピーしていくことになるため、大本となるフレームが消されると(転送に失敗すると)その後のフレーム列を正しく再生できなくなる。DVのようなデジタルビデオ規格では、フレーム毎の圧縮しか行わない。その場合は編集で一部をカットするのが容易である。フレーム毎の圧縮しか行わない場合、各フレームのデータ量はほぼ同じになる。フレーム間圧縮システムでは、あるフレーム(MPEG-2では「Iフレーム」と呼ぶ)は他のフレームからデータをコピーせずに再現できるフレームでフレーム間圧縮の起点となっているため、前後の他のフレームより多くのデータを含んでいる。 フレーム間圧縮を施した動画データの編集はフレーム毎の圧縮のみの場合よりはるかにコンピュータの性能を要求するが、例えばHDVなどの規格ではMPEG-2データのノンリニア編集が可能である。 2013年現在、主に使われている動画圧縮技法(例えば、ITU-TまたはISOが規格として承認したもの)は、空間的冗長性の削減に離散コサイン変換 (DCT) を採用しているものが多い。この技法は1974年、N. Ahmed、T. Natarajan、K. R. Rao が導入した。他の技法としてはフラクタル圧縮や matching pursuit がある。研究段階では離散ウェーブレット変換 (DWT) も使われているが、製品としては実用化されていない(静止画圧縮では使用している例がある)。フラクタル圧縮は最近の研究の進展で比較的有効性が低いとされ、人気が衰えている。 塩基配列データの圧縮は可逆圧縮の新たな用途であり、データの特性に適応させた一般的な圧縮アルゴリズムと遺伝学的なアルゴリズムが使われている。2012年、ジョンズ・ホプキンス大学のチームは特定の外部の配列データベースに依存しない世界初の遺伝子圧縮アルゴリズムを発表した。HAPZIPPERは HapMap 向けに作られており、20分の1に圧縮(ファイルサイズを95%削減)できる。これは、一般的圧縮ユーティリティの2倍から4倍の圧縮率であり、しかも高速である。彼らはSNP(一塩基多型)をマイナー対立遺伝子でソートすることでデータセットを均質化するMAF(マイナー対立遺伝子頻度)ベースの符号化 (MAFE) を導入した。
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の特殊ケースとみることもできる。データの差分抽出は「ソース」と「ターゲット」の「差分」を抽出し、「ソース」と「差分」から「ターゲット」を再現できるようにするものだが、データ圧縮は「ターゲット」から圧縮したデータを作り、「ターゲット」をその圧縮したデータのみから再現する。したがって、データ圧縮は「ソース」が空の場合の差分抽出とみなすことができ、圧縮データは「無からの差分」に対応する。これは、情報量(データ圧縮に相当)がカルバック・ライブラー情報量(差分抽出に相当)の初期データがない特殊ケースと対応しているのと同じである。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "このような関係を強調したい場合、データの差分抽出を「差分圧縮」(differential compression) と呼ぶことがある。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "代表的なものとして、TV放送に用いられるNTSC、PALなどのコンポジット映像信号がある。コンポジット映像信号では、映像信号を輝度成分と色成分に分離した後、輝度成分に対しては十分な帯域幅を与えているのに対し、色成分についてはそれと比べ帯域幅を狭くしている。結果として元の画質と比較すると、色彩の細かい変化が失われた、例を上げるなら黒白写真に着色したものに近いような画質になっているはずだが、人間の視覚の特性上、通常のいわゆる「自然画」や、いわゆるアニメ絵でも縁の黒い線の輝度成分に助けられ、あまり気にならない(また画質が気になるような、静止している映像に対しては三次元Y/C分離によって高画質な再生が可能である)。しかしゲーム画面やCGのような、隣接する場所の色彩が極端に変化する動画ではいわゆる「色滲み」が避けられない。", "title": "アナログ帯域圧縮" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "中波~短波のAMラジオ放送では、占有帯域をあまり広くしないように、4kHz程度から上を切っている。電話においても効率よく多重化するため、電話は300 Hz - 3600 Hz程度が伝われば良いので、その範囲以外を切っている。", "title": "アナログ帯域圧縮" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "他に、以前は電話の交換機と交換機の間をPAM(パルス振幅変調)方式を使い0.125μsに分割することで、信号を多重化して送っていた。後にPAM方式からPCM(パルス符号変調)方式へ変わり、事実上デジタル方式に変わっている。", "title": "アナログ帯域圧縮" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "デジタル符号化されたデータの圧縮の歴史は意外と古く、1830年代に発明されたモールス信号に用いられるモールス符号も圧縮符号の一種である。これは、文字通信の中で比較的出現頻度の高いアルファベットに短い符号を割り当て、出現頻度の低いものには長い符号を割り当てることで、通信に要する手間を省いている。(しかし日本語のモールス符号はそうなっていない。モールス信号の項目を参照)", "title": "デジタル圧縮" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1967年、音響心理学的マスキング効果が発表されている。", "title": "デジタル圧縮" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "その後、コンピュータの発達とともに、デジタル通信やファイルの保存でデータ圧縮の重要性が高まったことで研究が進み、1970年代後半頃からはデータ圧縮の要素技術に関する重要な特許も出願されるようになった。特許については、近年でも、オーディオ圧縮で用いられるMP3のライセンスの問題や、ウェブサイトの画像で広く用いられている GIF画像のライセンス問題など多くの紛争を発生させており、それだけデジタル時代の重要な基幹技術であることを示している。", "title": "デジタル圧縮" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1980年代に入ると音声通信分野のデジタル化の動きが始まり、音声圧縮の分野ではADPCMなど初期の比較的単純な圧縮方式が実用化された。また、パーソナルコンピュータやパソコン通信(ただし、日本では通信自由化以降)が普及するようになり、オンラインソフトウェアの分野からもZIPやLHAといった現在も幅広く使用されているファイル圧縮方式も誕生した。1988年、ブエノスアイレス大学の Oscar Bonello が IBM PC を使ったラジオ放送局用自動音声圧縮システムを開発した。", "title": "デジタル圧縮" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1990年代前半に入ると、音声圧縮や画像圧縮の分野で2005年現在でも広く知られている多くのデータ圧縮方式が発表された。音声(オーディオ)の分野では、1992年に登場したミニディスク (MD) に搭載されているATRACなどがある。また、画像の分野ではJPEG圧縮方式が国際標準規格として勧告され、広く普及した。これらの背景には、集積回路 (IC) の生産技術や設計技術の発達で大規模で高度な処理が行えるICが比較的安価な製品でも搭載可能になった点や、パーソナルコンピュータの急速な性能向上でソフトウェア的な画像処理が容易に行えるようになった点も大きい。", "title": "デジタル圧縮" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また、動画圧縮の分野でも、この頃、TV会議システム用の動画圧縮方式 (H.261) やビデオCDの圧縮方式 (MPEG-1) も標準化されている。また、パーソナルコンピュータ向けに企業独自の圧縮方式を採用したコーデックも登場するようになった。しかし、動画圧縮の分野では音声圧縮や画像圧縮に比べてさらに高度な技術が要求されるため、まだしばらくの間、業務用や限定的な用途に限られていた。これとは別に、デジタル時代の重要な基幹技術である動画圧縮技術には特許の権益に絡む思惑もあり、この方面でも標準化までに長い時間を要した。", "title": "デジタル圧縮" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1990年代後半になると、動画圧縮の分野でも国際的な標準規格であるMPEG-2が標準化され、業務用分野から幅広く利用されるようになり、1996年に登場したDVDプレーヤーや、2000年に開始されたBSデジタル放送など、家電製品にも採用されるようになった。", "title": "デジタル圧縮" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "代表的なものとしては、インターネットのウェブサイトで広く用いられるJPEG、GIFがある。非可逆圧縮による高能率圧縮を行うものと、劣化を生じさせない可逆圧縮を用いるものがある。", "title": "デジタル圧縮" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "例えば、非可逆圧縮形式のJPEGの場合、一定の画素数のブロックに分割したデータを離散コサイン変換 (Discrete Cosine Transform, DCT) と呼ばれる演算で処理して符号化を行う。", "title": "デジタル圧縮" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "画像圧縮アルゴリズムの評価には、レナなどの画像サンプルが広く使われている。", "title": "デジタル圧縮" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "音声圧縮では、人の聴覚の特性を利用して高能率の非可逆圧縮を行うものが広く用いられている。非可逆圧縮の代表的な方式としてMP3がある。CDの音声データ (1411.2kbps: 44.1kHz, 16bit, 2ch) を128kbpsのMP3形式に圧縮した場合、圧縮率は約1/11となる。最近では高音質の320kbpsの圧縮率が一般的になりつつある。", "title": "デジタル圧縮" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "一方で、まったく劣化を生じさせない可逆圧縮方式を用いたものも増えてきている。 ALAC、FLAC、Monkey's Audio(APE)などがその代表である。", "title": "デジタル圧縮" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "動画圧縮では、各フレームの静止画の圧縮と時系列の圧縮技法(動きベクトル、フレーム間予測、動き補償など)を組み合わせて行う。通常動画データには同期した音声も付属しているため、動画圧縮のコーデックは音声圧縮用コーデックを統合してパッケージ化されていることが多い。", "title": "デジタル圧縮" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "動画圧縮アルゴリズムのほとんどが非可逆圧縮である。圧縮前の動画はあまりにも多大なデータとなり、ストリーミングに際しても巨大な帯域幅を必要とする。可逆な動画用コーデックの圧縮性能は平均で3倍程度だが、非可逆なMPEG-4の圧縮性能は20倍から200倍である。非可逆圧縮では、画質、圧縮・伸長のコスト、要求されるシステム性能といったトレードオフが考慮される。圧縮率が高すぎるとブロックノイズなどの圧縮アーティファクトが生じることがある。", "title": "デジタル圧縮" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "動画圧縮では一般に四角い範囲の隣接するピクセル群をグループとして扱い、これをマクロブロックと呼ぶ。このブロックを次のフレームの同じ位置のブロックと比較し、差分のみをデータとして送る。そのため、動きが激しい動画では差分が大きくなり、より多くのデータを符号化しなければならなくなる。したがって固定ビットレートでは、爆発シーン、炎のシーン、動物の群れ、視点(カメラ)の平行移動などで画質が低下することがあり、可変ビットレートではデータ転送量が増加する。", "title": "デジタル圧縮" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "動画データは、一連の静止画フレームからなっている。このフレーム列には空間的にも時間的にも冗長性があり、動画圧縮アルゴリズムはそれを除去することで全体のサイズを小さくしようとする。隣接するフレームは相互によく似ていることが多く、フレーム間の差分だけを格納することでこれを利用する。また、ヒトの目は色の変化には鈍感で輝度の変化には敏感である。そこで、静止画圧縮のJPEGのようにフレーム内の似たような色が並んでいる領域を平均化するような圧縮を行う。これらの技法には本質的に非可逆なものと原本の情報を保持する可逆なものがある。", "title": "デジタル圧縮" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "フレーム間圧縮では、フレーム列を前後で比較したとき、全く変化しない領域があれば、前のフレームの同じ領域をそのままコピーせよというコマンドを生成する。領域が単純に変化している場合、シフト、回転、明るくする、暗くするなどのコマンドを生成する。このようにコマンド列を生成した方が各フレームを静止画として圧縮するよりサイズが小さくなる。このようなフレームをまたいだ圧縮は単純に再生する用途では問題ないが、圧縮された動画を編集したい場合には問題となることがある。", "title": "デジタル圧縮" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "フレーム間圧縮を行うと、フレームからフレームにデータをコピーしていくことになるため、大本となるフレームが消されると(転送に失敗すると)その後のフレーム列を正しく再生できなくなる。DVのようなデジタルビデオ規格では、フレーム毎の圧縮しか行わない。その場合は編集で一部をカットするのが容易である。フレーム毎の圧縮しか行わない場合、各フレームのデータ量はほぼ同じになる。フレーム間圧縮システムでは、あるフレーム(MPEG-2では「Iフレーム」と呼ぶ)は他のフレームからデータをコピーせずに再現できるフレームでフレーム間圧縮の起点となっているため、前後の他のフレームより多くのデータを含んでいる。", "title": "デジタル圧縮" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "フレーム間圧縮を施した動画データの編集はフレーム毎の圧縮のみの場合よりはるかにコンピュータの性能を要求するが、例えばHDVなどの規格ではMPEG-2データのノンリニア編集が可能である。", "title": "デジタル圧縮" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2013年現在、主に使われている動画圧縮技法(例えば、ITU-TまたはISOが規格として承認したもの)は、空間的冗長性の削減に離散コサイン変換 (DCT) を採用しているものが多い。この技法は1974年、N. Ahmed、T. Natarajan、K. R. Rao が導入した。他の技法としてはフラクタル圧縮や matching pursuit がある。研究段階では離散ウェーブレット変換 (DWT) も使われているが、製品としては実用化されていない(静止画圧縮では使用している例がある)。フラクタル圧縮は最近の研究の進展で比較的有効性が低いとされ、人気が衰えている。", "title": "デジタル圧縮" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "塩基配列データの圧縮は可逆圧縮の新たな用途であり、データの特性に適応させた一般的な圧縮アルゴリズムと遺伝学的なアルゴリズムが使われている。2012年、ジョンズ・ホプキンス大学のチームは特定の外部の配列データベースに依存しない世界初の遺伝子圧縮アルゴリズムを発表した。HAPZIPPERは HapMap 向けに作られており、20分の1に圧縮(ファイルサイズを95%削減)できる。これは、一般的圧縮ユーティリティの2倍から4倍の圧縮率であり、しかも高速である。彼らはSNP(一塩基多型)をマイナー対立遺伝子でソートすることでデータセットを均質化するMAF(マイナー対立遺伝子頻度)ベースの符号化 (MAFE) を導入した。", "title": "デジタル圧縮" } ]
データ圧縮とは、あるデータを、そのデータの実質的な内容(情報、あるいはその情報量)を可能な限り保ったまま、データ量を減らした別のデータに変換すること。高効率符号化ともいう。 データ圧縮は、データ転送におけるトラフィックやデータ蓄積に必要な記憶容量の削減といった面で有効である。しかし圧縮されたデータは、利用する前に伸長(解凍)するという追加の処理を必要とする。つまりデータ圧縮は、空間計算量を時間計算量に変換することに他ならない。例えば映像の圧縮においては、それをスムーズに再生するために高速に伸長(解凍)する高価なハードウェアが必要となるかもしれないが、圧縮しなければ大容量の記憶装置を必要とするかもしれない。データ圧縮方式の設計には様々な要因のトレードオフがからんでおり、圧縮率をどうするか、(非可逆圧縮の場合)歪みをどの程度許容するか、データの圧縮伸長に必要とされる計算リソースの量などを考慮する。 データ圧縮には、可逆圧縮と非可逆圧縮の2種類がある。可逆圧縮は、統計的冗長性を特定・除去することでビット数を削減する。可逆圧縮では情報が失われない。可逆圧縮は、数値データや文書、プログラムなど、1ビットの変化で情報の価値が大きく毀損されるようなデータに対して用いられる。一方で、非可逆圧縮は不必要な情報を特定・除去することでビット数を削減する。非可逆圧縮ではいくらかの情報が失われる。非可逆圧縮は、音声や画像、動画など、細部が変化しても情報の意味が変わりにくいデータに対して用いられる。 アナログ技術を用いた通信技術においては通信路の帯域幅を削減する効果を得るための圧縮ということで帯域圧縮ともいわれた。デジタル技術では、情報を元の表現よりも少ないビット数で符号化することを意味する。 新たな代替技法として、圧縮センシングの原理を使ったリソース効率のよい技法が登場している。圧縮センシング技法は注意深くサンプリングすることでデータ圧縮の必要性を避けることができる。
{{Redirect|圧縮ファイル|複数のファイルを一つのファイルにまとめること|アーカイブ (コンピュータ)}} '''データ圧縮'''(データあっしゅく、{{Lang-en-short|data compression}})とは、ある[[データ]]を、そのデータの実質的な内容([[情報]]、あるいはその[[情報量]])を可能な限り保ったまま、データ量を減らした別のデータに変換すること。高効率[[符号化方式|符号化]]ともいう<!--い、[[情報理論]]においては[[情報源]]符号化と呼ばれている<ref>{{Cite book| last= Wade | first= Graham | title= Signal coding and processing | url= https://books.google.co.jp/books?id=CJswCy7_W8YC&redir_esc=y&hl=ja | accessdate = 2011-12-22 | yea= 1994 | edition= 2 | publisher= Cambridge University Press | isbn= 978-0-521-42336-6 | page= 34 | pages= 436 | quote= 情報源符号化 (source coding) の目的は、[[パルス符号変調|PCM]]情報源における「非効率な」冗長性を利用または除去することで、全体として情報源の[[情報理論#レート|レート]]の縮減を図ることである。}}</ref>--><!--この出典は信号処理に関する文脈であって「情報理論においては」とするのは虚偽出典では?-->。 データ圧縮は、データ転送における[[トラヒック理論|トラフィック]]やデータ蓄積に必要な記憶容量の削減といった面で有効である。しかし圧縮されたデータは、利用する前に伸長(解凍)するという追加の処理を必要とする。つまりデータ圧縮は、空間計算量を時間計算量に変換することに他ならない。例えば映像の圧縮においては、それをスムーズに再生するために高速に伸長(解凍)する高価なハードウェアが必要となるかもしれないが、圧縮しなければ大容量の記憶装置を必要とするかもしれない。データ圧縮方式の設計には様々な要因のトレードオフがからんでおり、圧縮率をどうするか、(非可逆圧縮の場合)歪みをどの程度許容するか、データの圧縮伸長に必要とされる計算リソースの量などを考慮する<ref>{{Citation |author=Tank, Minaldevi K. |editor=Pise, S. J. |year=2011 |url=https://doi.org/10.1007/978-81-8489-989-4_51 |title=Implementation of Lempel-ZIV algorithm for lossless compression using VHDL |journal=Thinkquest-2010 |publisher=Springer India |pages=275-278 |isbn=978-81-8489-989-4 |doi=10.1007/978-81-8489-989-4_51}}</ref>。 データ圧縮には、[[可逆圧縮]]と[[非可逆圧縮]]の2種類がある。可逆圧縮は、[[冗長性 (情報理論)|統計的冗長性]]を特定・除去することでビット数を削減する。可逆圧縮では情報が失われない。可逆圧縮は、数値データや文書、プログラムなど、1ビットの変化で情報の価値が大きく毀損されるようなデータに対して用いられる。一方で、非可逆圧縮は不必要な情報を特定・除去することでビット数を削減する<ref>{{Cite journal|last=Pujar|first=J.H.|month=May|year=2010|title=A New Lossless Method of Image Compression and Decompression Using Huffman Coding Techniques|url=http://www.jatit.org/volumes/research-papers/Vol15No1/3Vol15No1.pdf|journal=Journal of Theoretical and Applied Information Technology|volume=15|issue=1|pages=18-23|coauthors=Kadlaskar, L.M.}}</ref>。非可逆圧縮ではいくらかの情報が失われる。非可逆圧縮は、音声や画像、動画など、細部が変化しても情報の意味が変わりにくいデータに対して用いられる。 [[アナログ]]技術を用いた[[通信|通信技術]]においては通信路の[[帯域幅]]を削減する効果を得るための圧縮ということで'''帯域圧縮'''ともいわれた。[[デジタル]]技術では、[[情報]]を元の表現よりも少ない[[ビット]]数で[[符号]]化することを意味する<ref>{{Cite journal|last=Mahdi|first=O.A.|month=November|year=2012|title=Implementing a Novel Approach an Convert Audio Compression to Text Coding via Hybrid Technique|url=http://ijcsi.org/papers/IJCSI-9-6-3-53-59.pdf|journal=International Journal of Computer Science Issues|volume=9|issue=6, No. 3|pages=53-59|accessdate=2013-03-06|coauthors=Mohammed, M.A.; Mohamed, A.J.}}</ref>。 新たな代替技法として、[[圧縮センシング]]の原理を使ったリソース効率のよい技法が登場している。圧縮センシング技法は注意深くサンプリングすることでデータ圧縮の必要性を避けることができる。 <!-- 放送業界などで「圧縮」という場合は、上記の「不可逆圧縮」のみを示し、情報が劣化しない「可逆圧縮」は圧縮とは呼ばれない。 --><!--可逆圧縮でも圧縮と呼ぶのでは。でなければどう呼ぶのか--> == 可逆圧縮 == '''[[可逆圧縮]]'''(かぎゃくあっしゅく)とは、圧縮データを復元した時に、圧縮前の入力データが完全に復元されるような圧縮方法である。基本的には、入力データの[[冗長性 (情報理論)|統計的冗長性]](出現する符号の偏り、規則性)を利用して、情報を失うことなくより稠密なデータに変換する。例えば、画像には数ピクセル同じ色が並んだ領域がよくみられる。そこでピクセル単位に色情報を並べて表現する代わりに、「n個の赤のピクセル」という形で符号化できる。このような種類の方法は[[連長圧縮]](RLE)と呼ばれる。また、多くの可逆圧縮で使われている方法として、出現頻度(確率)の高いものに短い符号を、出現頻度の低いものに長い符号を割り当てることで、データ全体でみたときの平均符号長を短くする方法がある。これを[[エントロピー符号化]]と呼び、具体的な方法として[[ハフマン符号]]化や[[算術符号]]化などがある。また、データを区間に区切って、それぞれで対応する符号を変えたり、''n'' 個の連続した符号の列に対して符号を割り当てる方法([[拡大情報源]])など、冗長性を除去することで[[データ量]]を低減させる様々な方法が存在する。これらの方法は、圧縮率や圧縮・展開にかかる計算コスト(時間やメモリ)が異なっており、状況に応じて使い分けたり、互いに組み合わせて使うことができる。 [[LZ77]] (Lempel–Ziv) およびそれを改良した[[Lempel–Ziv–Storer–Szymanski]] (LZSS) という圧縮法は、可逆記録方法としては最もよく使われているアルゴリズムである<ref>{{Cite journal |last=Navqi |first=Saud |coauthors=Naqvi, R.; Riaz, R.A.; Siddiqui, F. |title=Optimized RTL design and implementation of LZW algorithm for high bandwidth applications |journal=Electrical Review |year=2011 |month=April |volume=2011 |issue=4 |pages=279-285 |url= http://pe.org.pl/articles/2011/4/68.pdf}}</ref>。[[Deflate]]はLZSSを伸長速度と圧縮率の面で最適化した派生技法だが、圧縮は時間がかかることがある。Deflateは、{{仮リンク|PKZIP|en|PKZIP}}、[[gzip]]、[[Portable Network Graphics|PNG]]で採用されている。[[Lempel–Ziv–Welch]] (LZW) は[[Graphics Interchange Format|GIF]]で採用されている。また、LZR (Lempel-Ziv–Renau) アルゴリズムは[[ZIP (ファイルフォーマット)|ZIP]]の基盤として採用されている。LZでは、データに繰り返し出現する記号列をテーブルを使って置換する方式を採用している。多くのLZ系の技法では、このテーブルを動的に生成しつつ入力を先頭から順次処理していく。テーブル自体は[[ハフマン符号]]で符号化されることが多い(例えば、SHRI、[[LZX]])。LZXはDeflateよりも効率が良く、マイクロソフトの[[CAB]]形式などで使われている。また、ハフマン符号に代わり[[Range Coder]]を採用した[[Lempel-Ziv-Markov chain-Algorithm|LZMA]]やLZMA2はさらに圧縮率が良い。 圧縮効率が最も高い可逆圧縮法は[[乱択アルゴリズム]]を導入したもので [[Prediction by Partial Matching]] などがある。[[ブロックソート]]はデータの統計的モデリング技法であり、圧縮の前処理に使われる<ref>{{Cite journal |last=Mahmud |first=Salauddin |title=An Improved Data Compression Method for General Data |journal=International Journal of Scientific & Engineering Research |year=2012 |month=March |volume=3 |issue=3 |page=2 |url= http://www.ijser.org/researchpaper%5CAn-Improved-Data-Compression-Method-for-General-Data.pdf |accessdate= 2013-03-06}}</ref>。 [[文法圧縮]]を使った技法は、繰り返しが非常に多い場合に高い圧縮率を達成でき、同一あるいは関連する種の生物学的データ群、頻繁に改版される文書群、インターネットアーカイブなどの用途がある。文法圧縮では、入力文字列から[[文脈自由文法]]を構築する。コードが公開されているアルゴリズムとしては、{{仮リンク|Sequitur|en|Sequitur algorithm}}、Re-Pair、[[マルチレベル・パターン・マッチング|MPM]]がある。 これらの技法をさらに洗練させるため、統計的予測と[[算術符号]]と呼ばれるアルゴリズムを組み合わせる。算術符号は [[:en:Jorma Rissanen|Jorma Rissanen]] が考案し、Witten、Neal、Cleary がそれを実用的な技法に発展させ、ハフマン符号より優れた圧縮率を達成するようになった。統計的予測が文脈に強く依存する場合のデータ圧縮によく採用されている。[[二値画像]]圧縮の標準である[[JBIG]]、文書(スキャン画像)圧縮の標準である[[DjVu]]などで使われている。テキスト入力システム [[Dasher]] は、いわば逆算術符号化器である<ref>{{Cite journal |last=Mahmud |first=Salauddin |title=An Improved Data Compression Method for General Data |journal=International Journal of Scientific & Engineering Research |year=2012 |month=March |volume=3 |issue=3 |page=2 |url= http://www.ijser.org/researchpaper%5CAn-Improved-Data-Compression-Method-for-General-Data.pdf |accessdate=6 March 2013-03-06}}</ref>。 == 非可逆圧縮 == '''[[非可逆圧縮]]'''(ひかぎゃくあっしゅく)は可逆圧縮とは逆で、データを復元したときに完全には元にもどらない圧縮方法をいう。多くの非可逆圧縮では人間があまり強く認識しない成分を削除することでデータを圧縮する方法がとられている。たとえば人間は大きな音と小さな音を同時に聞いた場合、小さな音をあまり認識できないし([[音響心理学#マスキング効果|マスキング効果]])、画像に対しても小さな色の変化は[[輝度 (光学)|輝度]]の変化ほど認識されない。このためデータを[[フーリエ変換]](あるいはその一種である[[離散コサイン変換]]など)し、高周波成分や低振幅成分を削除してしまっても、受け手に与える印象の変化に大きな差は現れない。当然削除する範囲が多ければ、元データとの差異は大きくなり、違いに気づく人間も増える。画像のサイズを小さくする、動画のフレームレートを下げるなども一種の非可逆圧縮と言える。画像圧縮技法である[[JPEG]]は、データの本質的でない部分を丸めることで圧縮を達成している部分もある<ref>{{Cite web |last=Arcangel |first=Cory |title=On Compression |url= http://www.coryarcangel.com/downloads/Cory-Arcangel-OnC.pdf |accessdate= 2013-03-06}}</ref>。情報の喪失と圧縮率は[[トレードオフ]]の関係にある。このような人間の知覚の特性を利用した非可逆圧縮は、音声、画像、映像などのデータによく使われている。 [[デジタルカメラ]]では、画質の低下を抑えつつ撮影枚数を増やすのに非可逆圧縮を使うことがある。また、[[DVD]]で使用している[[MPEG-2]]も映像(動画)の非可逆圧縮法の一つである。 音響データの非可逆圧縮では[[音響心理学]]が応用されており、音響信号のうちヒトの耳に聞こえない(聞こえにくい)成分を捨てている。ヒトの声のデータ圧縮にはさらに専用の技法が使われることが多く、[[音声符号化]]は音響圧縮とは別の領域とされることがある。音声圧縮は[[VoIP]]、音響圧縮は[[コンパクトディスク|CD]]の[[リッピング]]などで使われている<ref>{{Cite journal |last=Mahmud |first=Salauddin |title=An Improved Data Compression Method for General Data |journal=International Journal of Scientific & Engineering Research |year=2012 |month=March |volume=3 |issue=3 |page=2 |url= http://www.ijser.org/researchpaper%5CAn-Improved-Data-Compression-Method-for-General-Data.pdf |accessdate= 2013-03-06}}</ref>。 == 理論 == 圧縮の理論的背景としては、可逆圧縮については[[情報理論]](とそれに密接に関連する[[アルゴリズム情報理論]])、非可逆圧縮については{{仮リンク|レート歪み理論|en|rate–distortion theory}}がある。これらの分野の基盤を作り上げたのは[[クロード・シャノン]]で、1940年代後半から1950年代前半にかけて基盤となる論文をいくつか発表している。[[符号理論]]も関係している。データ圧縮の考え方は[[推計統計学]]とも密接に関連している<ref>{{Cite web |last=Marak |first=Laszlo |title=On image compression |url= http://www.ujoimro.com/resources/Laszlo_Marak_image_compression.pdf |publisher=University of Marne la Vallee |accessdate=6 March 2013}}</ref>。 === 機械学習 === {{See also|機械学習}} [[機械学習]]と圧縮の間には密接な関係がある。ある系列の完全な履歴を入力として[[事後確率]]を予測するシステムは(出力分布に対して算術符号を使用することで)最適なデータ圧縮に利用でき、一方最適な圧縮器は(履歴から最もうまく圧縮するシンボルを見つけることで)予測に利用できる。この等価性を利用して、データ圧縮は「一般知能」(general intelligence) を評価するベンチマークとして使われてきた<ref>{{Cite web |last=Mahoney |first=Matt |title=Rationale for a Large Text Compression Benchmark |url= http://cs.fit.edu/~mmahoney/compression/rationale.html |work= http://cs.fit.edu/~mmahoney/ |publisher=Florida Institute of Technology |accessdate=5 March 2013}}</ref>。 === データの差分抽出 === データ圧縮はデータの差分抽出{{enlink|data differencing}}の特殊ケースとみることもできる<ref>{{Cite web |last=Korn, et. al. |first=D. |title=RFC 3284: The VCDIFF Generic Differencing and Compression Data Format |url= https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc3284 |publisher=Internet Engineering Task Force |accessdate=5 March 2013}}</ref><ref>{{Citation | first1=D.G. | last1 = Korn | first2 = K.P. |last2=Vo |title=Vdelta: Differencing and Compression | series=Practical Reusable Unix Software | editor = B. Krishnamurthy | publisher=New York: John Wiley & Sons, Inc.| year = 1995}}</ref>。データの差分抽出は「ソース」と「ターゲット」の「差分」を抽出し、「ソース」と「差分」から「ターゲット」を再現できるようにするものだが、データ圧縮は「ターゲット」から圧縮したデータを作り、「ターゲット」をその圧縮したデータのみから再現する。したがって、データ圧縮は「ソース」が空の場合の差分抽出とみなすことができ、圧縮データは「無からの差分」に対応する。これは、[[情報量]](データ圧縮に相当)が[[カルバック・ライブラー情報量]](差分抽出に相当)の初期データがない特殊ケースと対応しているのと同じである。 このような関係を強調したい場合、データの差分抽出を「差分圧縮」(differential compression) と呼ぶことがある。 {{See also|差分符号化}} == アナログ帯域圧縮 == 代表的なものとして、[[テレビ|TV]]放送に用いられる[[NTSC]]、[[PAL]]などの[[コンポジット映像信号]]がある。コンポジット映像信号では、映像信号を輝度成分と色成分に分離した後、輝度成分に対しては十分な帯域幅を与えているのに対し、色成分についてはそれと比べ帯域幅を狭くしている。結果として元の画質と比較すると、色彩の細かい変化が失われた、例を上げるなら黒白写真に着色したものに近いような画質になっているはずだが、人間の視覚の特性上、通常のいわゆる「自然画」や、いわゆるアニメ絵でも縁の黒い線の輝度成分に助けられ、あまり気にならない(また画質が気になるような、静止している映像に対しては三次元Y/C分離によって高画質な再生が可能である)。しかしゲーム画面やCGのような、隣接する場所の色彩が極端に変化する動画ではいわゆる「色滲み」が避けられない。 中波~短波のAMラジオ放送では、占有帯域をあまり広くしないように、4kHz程度から上を切っている。電話においても効率よく多重化するため、電話は300 [[ヘルツ (単位)|Hz]] - 3600 Hz程度が伝われば良いので、その範囲以外を切っている。 他に、以前は電話の交換機と交換機の間を[[パルス変調#パルス振幅変調|PAM]](パルス振幅変調)方式を使い0.125μsに分割することで、信号を[[多重化]]して送っていた。後にPAM方式から[[PCM]](パルス符号変調)方式へ変わり、事実上[[デジタル]]方式に変わっている。 == デジタル圧縮 == === デジタル圧縮の歴史 === デジタル符号化されたデータの圧縮の歴史は意外と古く、[[1830年代]]に発明された[[モールス信号]]に用いられるモールス符号も圧縮符号の一種である。これは、文字通信の中で比較的出現頻度の高いアルファベットに短い符号を割り当て、出現頻度の低いものには長い符号を割り当てることで、[[通信]]に要する手間を省いている。(しかし日本語のモールス符号はそうなっていない。モールス信号の項目を参照) 1967年、[[音響心理学]]的マスキング効果が発表されている<ref>{{Cite book|last=Zwicker, et. al.|first=Eberhard|title=The Ear As A Communication Receiver|year=Originally published in 1967; Translation published in 1999|publisher=Acoustical Society of America|location=Melville, NY|url= http://asa.aip.org/books/ear.html}}</ref>。 その後、[[コンピュータ]]の発達とともに、デジタル通信やファイルの保存でデータ圧縮の重要性が高まったことで研究が進み、[[1970年代]]後半頃からはデータ圧縮の要素技術に関する重要な[[特許]]も出願されるようになった。特許については、近年でも、オーディオ圧縮で用いられる[[MP3]]のライセンスの問題や、[[ウェブサイト]]の画像で広く用いられている [[Graphics Interchange Format|GIF]]画像のライセンス問題など多くの紛争を発生させており、それだけデジタル時代の重要な基幹技術であることを示している。 [[1980年代]]に入ると音声通信分野のデジタル化の動きが始まり、音声圧縮の分野では[[ADPCM]]など初期の比較的単純な圧縮方式が実用化された<ref>{{Cite journal |journal=IEEE Journal on Selected Areas in Communications |year=1988 |month=February |volume=6 |series=Voice Coding For Communications |issue=2 |url= http://www.jsac.ucsd.edu/TOC/1988/feb88.html |accessdate=6 March 2013}}</ref>。また、[[パーソナルコンピュータ]]や[[パソコン通信]](ただし、日本では[[通信自由化]]以降)が普及するようになり、[[オンラインソフトウェア]]の分野からも[[ZIP (ファイルフォーマット)|ZIP]]や[[LHA]]といった現在も幅広く使用されているファイル圧縮方式も誕生した。1988年、[[ブエノスアイレス大学]]の Oscar Bonello が [[IBM PC]] を使ったラジオ放送局用自動音声圧縮システムを開発した<ref>{{Cite web|title=Summary of some of Solidyne's contributions to Broadcast Engineering|url= http://www.solidynepro.com/indexahtmlp_Hist-ENG,t.htm|work=Brief History of Solidyne|publisher=Buenos Aires: Solidyne|accessdate=6 March 2013}}</ref>。 [[1990年代]]前半に入ると、音声圧縮や画像圧縮の分野で[[2005年]]現在でも広く知られている多くのデータ圧縮方式が発表された。音声([[オーディオ]])の分野では、[[1992年]]に登場した[[ミニディスク]] (MD) に搭載されている[[ATRAC]]などがある。また、画像の分野ではJPEG圧縮方式が国際標準規格として勧告され、広く普及した。これらの背景には、[[集積回路]] (IC) の生産技術や設計技術の発達で大規模で高度な処理が行えるICが比較的安価な製品でも搭載可能になった点や、[[パーソナルコンピュータ]]の急速な性能向上でソフトウェア的な画像処理が容易に行えるようになった点も大きい。 また、動画圧縮の分野でも、この頃、[[TV会議システム]]用の動画圧縮方式 ([[H.261]]) や[[ビデオCD]]の圧縮方式 ([[MPEG-1]]) も標準化されている。また、[[パーソナルコンピュータ]]向けに企業独自の圧縮方式を採用した[[コーデック]]も登場するようになった。しかし、動画圧縮の分野では音声圧縮や画像圧縮に比べてさらに高度な技術が要求されるため、まだしばらくの間、業務用や限定的な用途に限られていた。これとは別に、デジタル時代の重要な基幹技術である動画圧縮技術には特許の権益に絡む思惑もあり、この方面でも標準化までに長い時間を要した。 [[1990年代]]後半になると、動画圧縮の分野でも国際的な標準規格である[[MPEG-2]]が標準化され、業務用分野から幅広く利用されるようになり、[[1996年]]に登場した[[DVD]]プレーヤーや、[[2000年]]に開始された[[BSデジタル放送]]など、家電製品にも採用されるようになった。 === ファイル圧縮 === {{Main|アーカイブ (コンピュータ)#ファイル圧縮}} ===静止画像圧縮=== {{Main2|画像圧縮の各方式については[[コーデック#画像圧縮のコーデック|画像圧縮のコーデック]]を}} 代表的なものとしては、[[インターネット]]の[[ウェブサイト]]で広く用いられるJPEG、GIFがある。非可逆圧縮による高能率圧縮を行うものと、劣化を生じさせない可逆圧縮を用いるものがある。 例えば、非可逆圧縮形式のJPEGの場合、一定の画素数のブロックに分割したデータを[[離散コサイン変換]] (Discrete Cosine Transform, DCT) と呼ばれる演算で処理して符号化を行う。 画像圧縮アルゴリズムの評価には、[[レナ (画像データ)|レナ]]などの画像サンプルが広く使われている。 ===音声圧縮=== {{Main|音声圧縮}} {{Main2|音声圧縮の各方式については[[コーデック#音声圧縮のコーデック|音声圧縮のコーデック]]を}} 音声圧縮では、人の[[聴覚]]の特性を利用して高能率の非可逆圧縮を行うものが広く用いられている。非可逆圧縮の代表的な方式として[[MP3]]がある。[[コンパクトディスク|CD]]の音声データ (1411.2k[[ビット毎秒|bps]]: 44.1kHz, 16bit, 2ch) を128kbpsのMP3形式に圧縮した場合、圧縮率は約1/11となる。最近では高音質の320kbpsの圧縮率が一般的になりつつある。 一方で、まったく劣化を生じさせない可逆圧縮方式を用いたものも増えてきている。 [[ALAC]]、[[FLAC]]、[[Monkey's Audio]](APE)などがその代表である。 === 動画圧縮 === {{Main2|動画圧縮の各方式については、[[コーデック#動画圧縮のコーデック|動画圧縮のコーデック]]を}} 動画圧縮では、各フレームの静止画の圧縮と時系列の圧縮技法([[動きベクトル]]、[[フレーム間予測]]、動き補償など)を組み合わせて行う<ref name="Faxin Yu, Hao Luo, Zheming Lu 2010 47">{{Cite book |last=Faxin Yu, Hao Luo, Zheming Lu |title=Three-Dimensional Model Analysis and Processing |year=2010 |publisher=Springer |location=Berlin |isbn=9783642126512 |page=47}}</ref>。通常動画データには同期した音声も付属しているため、動画圧縮のコーデックは音声圧縮用コーデックを統合してパッケージ化されていることが多い<ref>{{Cite web |title=Video Coding |url= http://csip.ece.gatech.edu/drupal7/?q=technical-area/video-coding |work=Center for Signal and Information Processing Research |publisher=Georgia Institute of Technology |accessdate=6 March 2013}}</ref>。 動画圧縮アルゴリズムのほとんどが[[非可逆圧縮]]である。圧縮前の動画はあまりにも多大なデータとなり、ストリーミングに際しても巨大な[[帯域幅]]を必要とする。可逆な動画用コーデックの圧縮性能は平均で3倍程度だが、非可逆な[[MPEG-4]]の圧縮性能は20倍から200倍である<ref>{{Cite book |last=Graphics & Media Lab Video Group |title=Lossless Video Codecs Comparison |year=2007 |publisher=Moscow State University |url= http://compression.ru/video/codec_comparison/pdf/msu_lossless_codecs_comparison_2007_eng.pdf}}</ref>。非可逆圧縮では、画質、圧縮・伸長のコスト、要求されるシステム性能といった[[トレードオフ]]が考慮される。圧縮率が高すぎると[[ブロックノイズ]]などの[[圧縮アーティファクト]]が生じることがある。 動画圧縮では一般に四角い範囲の隣接する[[ピクセル]]群をグループとして扱い、これを[[マクロブロック]]と呼ぶ。このブロックを次のフレームの同じ位置のブロックと比較し、差分のみをデータとして送る。そのため、動きが激しい動画では差分が大きくなり、より多くのデータを符号化しなければならなくなる。したがって[[固定ビットレート]]では、爆発シーン、炎のシーン、動物の群れ、視点(カメラ)の平行移動などで画質が低下することがあり、[[可変ビットレート]]ではデータ転送量が増加する。 ==== 符号化理論 ==== 動画データは、一連の静止画フレームからなっている。このフレーム列には空間的にも時間的にも[[冗長性 (情報理論)|冗長性]]があり、動画圧縮アルゴリズムはそれを除去することで全体のサイズを小さくしようとする。隣接するフレームは相互によく似ていることが多く、フレーム間の差分だけを格納することでこれを利用する。また、ヒトの目は色の変化には鈍感で輝度の変化には敏感である。そこで、静止画圧縮の[[JPEG]]のようにフレーム内の似たような色が並んでいる領域を平均化するような圧縮を行う<ref>{{Cite web |last=Lane |first=Tom |title=JPEG Image Compression FAQ, Part 1 |url= http://www.faqs.org/faqs/jpeg-faq/part1/ |work=Internet FAQ Archives |publisher=Independent JPEG Group |accessdate=2023-10-11}}</ref>。これらの技法には本質的に非可逆なものと原本の情報を保持する可逆なものがある。 フレーム間圧縮では、フレーム列を前後で比較したとき、全く変化しない領域があれば、前のフレームの同じ領域をそのままコピーせよというコマンドを生成する。領域が単純に変化している場合、シフト、回転、明るくする、暗くするなどのコマンドを生成する。このようにコマンド列を生成した方が各フレームを静止画として圧縮するよりサイズが小さくなる。このようなフレームをまたいだ圧縮は単純に再生する用途では問題ないが、圧縮された動画を編集したい場合には問題となることがある<ref>{{Cite web |last=Bhojani |first=D.R. |title=4.1 Video Compression |url= http://shodh.inflibnet.ac.in/bitstream/123456789/821/5/05_hypothesis.pdf |work=Hypothesis |accessdate=6 March 2013}}{{404|date=2023-10}}</ref>。 フレーム間圧縮を行うと、フレームからフレームにデータをコピーしていくことになるため、大本となるフレームが消されると(転送に失敗すると)その後のフレーム列を正しく再生できなくなる。[[DV (ビデオ規格)|DV]]のようなデジタルビデオ規格では、フレーム毎の圧縮しか行わない。その場合は編集で一部をカットするのが容易である。フレーム毎の圧縮しか行わない場合、各フレームのデータ量はほぼ同じになる。フレーム間圧縮システムでは、あるフレーム([[MPEG-2]]では「Iフレーム」と呼ぶ)は他のフレームからデータをコピーせずに再現できるフレームでフレーム間圧縮の起点となっているため、前後の他のフレームより多くのデータを含んでいる<ref>{{Cite book |last=Jaiswal |first=R.C. |title=Audio-Video Engineering |year=2009 |publisher=Nirali Prakashan |location=Pune, Maharashtra |isbn=9788190639675 |page=3.55}}</ref>。 フレーム間圧縮を施した動画データの編集はフレーム毎の圧縮のみの場合よりはるかにコンピュータの性能を要求するが、例えば[[HDV]]などの規格ではMPEG-2データの[[ノンリニア編集]]が可能である。 2013年現在、主に使われている動画圧縮技法(例えば、[[ITU-T]]または[[国際標準化機構|ISO]]が規格として承認したもの)は、空間的冗長性の削減に[[離散コサイン変換]] (DCT) を採用しているものが多い。この技法は1974年、[[:en:N. Ahmed|N. Ahmed]]、T. Natarajan、[[:en:K. R. Rao|K. R. Rao]] が導入した<ref>{{Cite journal |last=Ahmed |first=N.U. |coauthors=Natarajan, T.; Rao, K.R. |title=Discrete Cosine Transform |journal=IEEE Transactions on Computers |year=1974 |month=January |volume=C-23 |issue=1 |pages=90-93 |doi=10.1109/T-C.1974.223784 |url= http://ieeexplore.ieee.org/xpl/login.jsp?tp=&arnumber=1672377&url=http%3A%2F%2Fieeexplore.ieee.org%2Fxpls%2Fabs_all.jsp%3Farnumber%3D1672377 |accessdate=6 March 2013}}</ref>。他の技法としては[[フラクタル圧縮]]や [[:en:matching pursuit|matching pursuit]] がある。研究段階では[[離散ウェーブレット変換]] (DWT) も使われているが、製品としては実用化されていない(静止画圧縮では使用している例がある)。フラクタル圧縮は最近の研究の進展で比較的有効性が低いとされ、人気が衰えている<ref name="Faxin Yu, Hao Luo, Zheming Lu 2010 47"/>。 ==== 動画圧縮規格の年表 ==== {| class="wikitable" |+動画(映像)圧縮規格の年表 |- align="center" ! 年 !! 規格 !! 策定者 !! 主な実装・用途 |- align="center" | align="left" | '''1984''' || {{仮リンク|H.120|en|H.120}} || [[ITU-T]] || |- align="center" | align="left" | '''1990''' || [[H.261]] || [[ITU-T]] || テレビ会議、テレビ電話 |- align="center" | align="left" | '''1993''' || [[MPEG-1|MPEG-1 Part 2]] || [[国際標準化機構|ISO]]、[[国際電気標準会議|IEC]] || [[ビデオCD]] |- align="center" | align="left" | '''1995''' || [[MPEG-2|MPEG-2 Part 2]] || [[国際標準化機構|ISO]]、[[国際電気標準会議|IEC]]、[[ITU-T]] || [[DVD-Video]]、[[Blu-ray Disc|Blu-ray]]、[[デジタルビデオブロードキャスティング|DVB]]、[[スーパービデオCD|SVCD]] |- align="center" | align="left" | '''1996''' || [[H.263]] || [[ITU-T]] || テレビ会議、テレビ電話、携帯電話での動画再生 ([[3GPP#3GPPファイルフォーマット|3GP]]) |- align="center" | align="left" | '''1999''' || [[MPEG-4|MPEG-4 Part 2]] || [[国際標準化機構|ISO]]、[[国際電気標準会議|IEC]] || [[第3世代移動通信システム|第3世代携帯電話]]、インターネット上の動画 ([[DivX]], [[Xvid]] ...) |- align="center" | align="left" | '''2003''' || [[H.264|H.264/MPEG-4 AVC]] || [[ソニー]]、[[パナソニック]]、[[サムスングループ|サムスン]]、[[国際標準化機構|ISO]]、[[国際電気標準会議|IEC]]、[[ITU-T]] || [[Blu-ray Disc|Blu-ray]]、[[HD DVD]] [[デジタルビデオブロードキャスティング|DVB]]、[[IPod classic|iPod Video]]、[[Apple TV]]、[[ワンセグ]] |- align="center" | align="left" | '''2008''' || [[Dirac|VC-2 (Dirac)]] || [[国際標準化機構|ISO]] || インターネット上の動画、HDTV放送、UHDTV |- align="center" | align="left" | '''2013''' || [[H.265|H.265/HEVC]] || [[国際標準化機構|ISO]]、[[国際電気標準会議|IEC]]、[[ITU-T]] || [[UHDTV|UHD]]([[スーパーハイビジョン]]) |} === 遺伝学 === [[塩基配列]]データの圧縮は可逆圧縮の新たな用途であり、データの特性に適応させた一般的な圧縮アルゴリズムと遺伝学的なアルゴリズム<!-- 英語版原文は"genetic algorithms"となっているが、[[en:Compression of Genomic Re-Sequencing Data]]などを見ても[[遺伝的アルゴリズム]](GA)が使われているわけではなさそうなので、表現を変更。 -->が使われている。2012年、[[ジョンズ・ホプキンス大学]]のチームは特定の外部の[[配列データベース]]に依存しない世界初の遺伝子圧縮アルゴリズムを発表した。HAPZIPPERは [[:en:International HapMap Project|HapMap]] 向けに作られており、20分の1に圧縮(ファイルサイズを95%削減)できる。これは、一般的圧縮ユーティリティの2倍から4倍の圧縮率であり、しかも高速である。彼らはSNP([[一塩基多型]])をマイナー対立遺伝子で[[ソート]]することでデータセットを均質化するMAF(マイナー対立遺伝子頻度)ベースの符号化 (MAFE) を導入した<ref>{{Cite journal |first=Chanda |coauthors=Bader, J.S.; Elhaik, E. |title=HapZipper: sharing HapMap populations just got easier |journal=Nucleic Acids Research |date=2012年7月27日|volume=40 |issue=20 |page=e159 |doi=10.1093/nar/gks709 |url= http://nar.oxfordjournals.org/content/40/20/e159.full-text-lowres.pdf}}</ref>。 == 出典 == {{Reflist|30em}} == 関連項目 == {{Div col|colwidth=20em}} * [[アルゴリズム情報理論]] * [[暗号]] * [[ウェーブレット変換]] * [[エントロピー符号]] * [[音響信号処理]] * [[可逆圧縮]] * [[ガンマ符号]] * [[コルモゴロフ複雑性]] * [[ゴロム符号]] * [[最小記述長]] * [[実行ファイル圧縮]] * [[情報量]] * [[データ]] * [[トランスコード]] * [[ハフマン符号]] * [[ファイルフォーマット]] * [[符号化方式]] * [[ベクトル量子化]] * [[Range Coder]] {{Div col end}} == 外部リンク == * [https://dvd-hq.info/data_compression_3.php Data Compression Basics (Video)] * [https://media.wiley.com/product_data/excerpt/99/04705184/0470518499.pdf Wiley - Introduction to Compression Theory] * [https://tech.ebu.ch/docs/tech/tech3296.pdf EBU subjective listening tests on low-bitrate audio codecs] * [https://techgage.com/article/audio_archiving_guide_part_1_-_music_formats/ Audio Archiving Guide: Music Formats] - 正しいコーデックの選び方 * [https://web.archive.org/web/20070928023157/http://mia.ece.uic.edu/~papers/WWW/MultimediaStandards/chapter7.pdf MPEG 1&2 video compression intro (pdf format)] * [https://wiki.hydrogenaud.io/index.php?title=Lossless_comparison hydrogenaudio.org wiki comparison] * [https://www.cs.cmu.edu/afs/cs/project/pscico-guyb/realworld/www/compression.pdf Introduction to Data Compression] by Guy E Blelloch from [[カーネギーメロン大学|CMU]] * [https://www.monkeysaudio.com/theory.html Digital Audio] - 多くのコーデックで使われている可逆圧縮技法の解説 * [http://soundexpert.org/home SoundExpert] - 各種音声コーデックの評価サイト * [https://web.archive.org/web/20111201183842/http://www.testvid.com/index.html TestVid] - 圧縮の評価・研究用に圧縮されていない動画データが公開されている。 * [https://www.eetimes.com/document.asp?doc_id=1273618# Videsignline - Intro to Video Compression] {{データ圧縮}} {{圧縮フォーマット}} {{データ圧縮ソフトウェア}} {{Data}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てえたあつしゆく}} [[Category:データ圧縮|*]] [[Category:補助記憶装置]] [[Category:動画圧縮]]
2003-02-25T05:45:23Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E5%9C%A7%E7%B8%AE
2,869
グアラニー族
グアラニー族 (グアラニーぞく、グアラニー語: Guarani、スペイン語: Guaraní, (複数形)Guaraníes) とは、アメリカ州の先住民族の一つで、主にパラナ川からパラグアイ川にかけてのラ・プラタ地域(現在の地域でアルゼンチン、ボリビア東部、パラグアイ、ウルグアイ)と、ブラジルに住んでいたが、純粋な民族としては非常に人口が少なくなっており、グアラニー語を話せる者の多くはメスティーソになっている。 植民地時代のブラジルの農業は、元々ポルトガル人が農耕に向いた民族ではなかったこともあり、征服したグアラニー族の農業を通婚したポルトガル人の子孫がそのまま受け継ぐという形になった。ブラジルではポルトガル人と結婚したグアラニー人の母を通して息子にグアラニー文化が伝承された。南米南部一帯に広がるマテ茶を飲む習慣もグアラニー族由来のものであるなど、グアラニー文化はいまだ影響を残している。 南米南部の地名にはウルグアイ川やパラグアイ川などグアラニー語起源の言葉が多い。ガウチョも元はグアラニー語で孤児や放浪者を意味する言葉だったという説がある。 元々が農耕民だったため、ラ・プラタ地域のチャルーア族のような攻撃的なインディオとは違って、スペイン人、ポルトガル人が来寇した直後から同盟が進み、それに伴ってスペイン植民地では主にパラグアイで、ポルトガル植民地ではブラジルで通婚、混血が進んだ。こうしてヨーロッパ人と同盟したグアラニー族は敵対部族を共同で攻撃した。 グアラニー族の特徴の1つとして、トゥピ族の一部のようにこの世に楽園が存在すると信じ、宗教的指導者として有力な存在であるシャーマンの導きにより楽園を目指すための旅に出る場合があるという点が挙げられる。グアラニー族は呪術師による世界の終末が迫りつつあるという予言を信じ、白人たちの手を逃れると共に病気も死も存在しない「災厄なき国」、「不死の国」または「悪しきことなき国」を目指して1000キロメートル以上もの移住の旅を行うこともあったが、その証拠は古いものでは16世紀中頃にまで遡る。行き先である楽園のありかは時にはブラジル奥地、またある時には遥か海の彼方にすら求められたりした。1912年に人類学者クルト・ニムエンダジュ(英語版)はアパポクバー・グアラニー族(Apapocuva-Guarani)の移住に同行したが、これは1800年頃から行われていた移住の旅のうちの最後のものであり、まもなくアパポクバー・グアラニー族が保護地域の1つに留め置かれることとなったために頓挫してしまったものの、それまでの間に彼らはマト・グロッソからブラジル大西洋岸までの大移動を果たしている。 Cipolletti (1991) はこうした終末感情についてイエズス会の影響により引き起こされたものとする見方を取り上げてはいるものの、彼女自身やミルチャ・エリアーデはこうした見解には否定的で、エリアーデはむしろグアラニー族にとって根源的なものであったと見ている。 かつてのグアラニー族の直系の子孫はカヨバ(英語版)(Kayová)、ムブヤ(スペイン語版)(Mbyá)、ニヤンデーバ(Ñandeva)の3部族であるが、2013年以前の段階でパラグアイ、ブラジル、アルゼンチン3ヶ国の国境地帯に2万-2万2000人が暮らすのみである。 ブラジルのサンパウロを根拠地とするバンデイランテスと呼ばれた奴隷商人が、グアラニー族を捕らえて奴隷にし、ブラジルで奴隷労働をさせるということがしばしば起きた。そこでスペインは辺境の地パラグアイを防衛するため、イエズス会のミッションを送り込んだ。 伝道団はグアラニー族にカトリックを伝え、さらには自警団を組織してバンデイランチへの抵抗に当たらせた。グアラニー族はしばしばバンデイランチを打ち破った。キリスト教化が進むにつれて、悪習とされた酷い飲酒の習慣や食人文化もなくなってゆき、このイエズス会の派遣は上手くいったが、スペインでのイエズス会の追放により、パラグアイからもイエズス会は撤退して行った。 パラグアイでは建国時移民を禁止しており、さらに初代独裁者ホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシアはクリオージョが団結して反乱を起こすことを恐れたため、政策的に通婚を強要し、クリオージョとの混血(メスティーソ)がさらに多くなった。現在ではこのようなメスティーソはパラグアイ人の90%を占めるまでに至り、彼らの言葉(グアラニー語)はパラグアイの公用語の一つである。グアラニー語でグアラニー魂を表現したものがパラグアイ文学であるとされる。 チャルーア族と共に主要なインディオであった。ブラジルに国境を接しているためパラグアイと同じ問題でイエズス会伝道所が作られた。18世紀に入るとバンダ・オリエンタルを巡るスペインとポルトガルの戦争は激しさを増した。1750年1月13日にマドリード条約(英語版)が結ばれると、スペインはコロニア・デル・サクラメントをポルトガルから手に入れ、代わりにそれ以外のウルグアイ川東岸地帯がポルトガル(ブラジル)領となった。しかし、イエズス会と、教化されたグアラニー族はこれに抵抗し、1756年からスペイン軍とポルトガル軍が共同でかれらを攻撃した(グアラニー戦争(英語版))。戦争は主に現ブラジルのウルグアイ川北部とパラグアイで行われたが、結果としてウルグアイにいたグアラニー族は、一部を除いてパラグアイに撤退することになった。現在は地名と国名にその影響を残す。 上述のように、ポルトガル人との通婚を通してグアラニー文化の伝承が進み、現在では先住民性=グアラニー性は、ポルトガル性、アフリカ性と並ぶブラジル国民の三本柱のうちの一つとなっている。 南部のリオ・グランデ・ド・スル州やサンタ・カタリナ州やパラナ州につくられたイエズス会伝道所が世界遺産になっている。 この国もコリエンテス州やミシオネス州にイエズス会伝道所がある。
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グアラニー族 とは、アメリカ州の先住民族の一つで、主にパラナ川からパラグアイ川にかけてのラ・プラタ地域(現在の地域でアルゼンチン、ボリビア東部、パラグアイ、ウルグアイ)と、ブラジルに住んでいたが、純粋な民族としては非常に人口が少なくなっており、グアラニー語を話せる者の多くはメスティーソになっている。
{{出典の明記|date=2010年2月}} [[Image:Guaranies-brazil.JPG|thumb|250px|グアラニー人]] '''グアラニー族''' (グアラニーぞく、{{lang-gn|'''Guarani'''}}、{{lang-es|'''Guaraní''', (複数形)'''Guaraníes'''}}) とは、[[アメリカ州の先住民族]]の一つで、主に[[パラナ川]]から[[パラグアイ川]]にかけての[[ラ・プラタ]]地域(現在の地域で[[アルゼンチン]]、[[ボリビア]]東部、[[パラグアイ]]、[[ウルグアイ]])と、[[ブラジル]]に住んでいたが、純粋な民族としては非常に人口が少なくなっており、[[グアラニー語]]を話せる者の多くは[[メスティーソ]]になっている。 == 文化 == [[Image:Guaranies-artesanias.JPG|thumb|350px|民芸品を売るグアラニーの女性]] 植民地時代のブラジルの農業は、元々ポルトガル人が農耕に向いた民族ではなかったこともあり、征服したグアラニー族の農業を通婚したポルトガル人の子孫がそのまま受け継ぐという形になった。ブラジルではポルトガル人と結婚したグアラニー人の母を通して息子にグアラニー文化が伝承された。南米南部一帯に広がる[[マテ茶]]を飲む習慣もグアラニー族由来のものであるなど、グアラニー文化はいまだ影響を残している。 南米南部の地名には[[ウルグアイ川]]や[[パラグアイ川]]などグアラニー語起源の言葉が多い。[[ガウチョ]]も元はグアラニー語で孤児や放浪者を意味する言葉だったという説がある。 == 歴史 == 元々が農耕民だったため、[[ラ・プラタ]]地域の[[チャルーア族]]のような攻撃的なインディオとは違って、[[スペイン|スペイン人]]、[[ポルトガル人]]が来寇した直後から同盟が進み、それに伴ってスペイン植民地では主に[[パラグアイ]]で、ポルトガル植民地では[[ブラジル]]で通婚、混血が進んだ。こうしてヨーロッパ人と同盟したグアラニー族は敵対部族を共同で攻撃した。 グアラニー族の特徴の1つとして、[[トゥピ族]]の一部のようにこの世に楽園が存在すると信じ、宗教的指導者として有力な存在である[[シャーマン]]の導きにより楽園を目指すための旅に出る場合があるという点が挙げられる<ref name="hk2013">木村(2013)。</ref>。グアラニー族は呪術師による世界の終末が迫りつつあるという予言を信じ、白人たちの手を逃れると共に病気も死も存在しない「災厄なき国」、「不死の国」または「悪しきことなき国」を目指して1000キロメートル以上もの移住の旅を行うこともあったが、その証拠は古いものでは16世紀中頃にまで遡る<ref>チポレッティ(1998:364-365)。</ref>。行き先である楽園のありかは時にはブラジル奥地、またある時には遥か海の彼方にすら求められたりした<ref>チポレッティ(1998:365f)。</ref>。1912年に人類学者{{仮リンク|クルト・ニムエンダジュ|en|Curt Nimuendajú}}はアパポクバー・グアラニー族(Apapocuva-Guarani)の移住に同行したが、これは1800年頃から行われていた移住の旅のうちの最後のものであり、まもなくアパポクバー・グアラニー族が保護地域の1つに留め置かれることとなったために頓挫してしまったものの、それまでの間に彼らは[[マット・グロッソ州|マト・グロッソ]]からブラジル大西洋岸までの大移動を果たしている<ref>チポレッティ(1998:365)。</ref>。 Cipolletti (1991) はこうした終末感情について[[イエズス会]]の影響により引き起こされたものとする見方を取り上げてはいる<ref>チポレッティ(1998:366)。</ref>ものの、彼女自身や[[ミルチャ・エリアーデ]]はこうした見解には否定的で、エリアーデはむしろグアラニー族にとって根源的なものであったと見ている<ref>エリアーデ 原案(1998:554)。</ref>。 かつてのグアラニー族の直系の子孫は{{仮リンク|カヨバ族|label=カヨバ|en|Guarani-Kaiowá}}(Kayová)、{{仮リンク|ムブヤ族|label=ムブヤ|es|Mbyás}}(Mbyá)、ニヤンデーバ(Ñandeva){{Refnest|group="注"|この名を持つ集団は2つ存在し、一方はブラジルやボリビアの{{仮リンク|チリパ族|es|Pueblo chiripá}}(Chiripá)<ref>Lewis ''et al.'' (2015a).</ref>、もう一方はパラグアイの{{仮リンク|タピエテ族|es|Tapietes}}(Tapiete)である<ref>Lewis ''et al.'' 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In ''Geschichte der religiösen Ideen'', III/2, 1991. Freiburg im Breisgau: Verlag Herder.) * [[木村秀雄|木村, 秀雄]] (2013).「グアラニー」 [[大貫良夫]]、落合一泰、[[国本伊代]]、[[恒川惠市]]、[[松下洋]]、福嶋正徳 監修『[新版]ラテンアメリカを知る事典』平凡社、145頁。ISBN 978-4-582-12646-4 * "[http://www.ethnologue.com/18/language/nhd Guaraní, Ava]." In {{Ethnologue18|n=a}} * "[http://www.ethnologue.com/18/language/tpj Ñandeva]." In {{Ethnologue18|n=b}} == 関連文献 == * Clastres, Hélène (1975). ''La Terre sans mal. Le prophétisme tupi-guarani''. Paris. {{NCID|BA10040446}} * Eliade, Mircea (1976). ''Die Sehnsucht nach dem Ursprung. Von den Quellen der Humanität''. Baden-Baden (first published<!--{{Lang|de|Erste Ausgabe}}--> 1969). {{NCID|BA07652386}} * Lindig, Wolfgang H. (1961). "Wanderungen der Tupí-Guaraní und Eschatologie der Apapocuvá-Guaraní." In W. Mühlmann (ed.) ''Chiliasmus und Nativismus. Studien zur Psychologie, Soziologie und historischen Kasuistik der Umsturzbewegungen'', pp. 19&ndash;40. Berlin. {{NCID|BA07996487}} * Métraux, Alfred (1927). "Migrations historiques des Tupí-Guaraní." In ''Journal de la Société des Américanistes'' (XIX) 1&ndash;45. Paris. {{NCID|AA00245240}} * Nimuendajú, Curt (1914). "Die Sagen von der Erschaffung und Vernichtung der Welt als Grundlagen der Religion der Apapocuva-Guarani." In ''Zeitschrift für Ethnologie'' (47) 284&ndash;403. Berlin. {{NCID|AA00894833}} * Schaden, Egon (1952). "Der Paradiesmythos im Leben der Guarani-Indianer." In: Proceedings 30{{Sup|th}} Intern. Congress of Americanists 179&ndash;186. London. == 関連項目 == {{commons|Category:Guaraní}} * {{仮リンク|トゥピ人|en|Tupí people|label=トゥピ族}} * {{仮リンク|アチェ族 (パラグアイ)|label=アチェ族|en|Aché}}(Aché; 別名: グアヤキ (Guayakí)) * [[:en:Eastern Bolivian Guaraní]](蔑称に「チリグアノ」(Chiriguano)) * [[マテ茶]] * [[インディオ]] * [[メスティーソ]] * [[イエズス会]] * [[グアラニーのイエズス会伝道所群]] ** [[サン・ミゲル・ダス・ミソンイス]](ブラジル、リオ・グランデ・ド・スル州) ** [[サン・イグナシオ・ミニ]](アルゼンチン、ミシオネス州) ** [[ヌエストラ・セニョーラ・デ・サンタ・アナ]](アルゼンチン、ミシオネス州) ** [[ヌエストラ・セニョーラ・デ・ロレート]](アルゼンチン、ミシオネス州) ** [[サンタ・マリア・ラ・マジョール]](アルゼンチン、ミシオネス州) * {{仮リンク|CEグアラニー|pt|Clube Esportivo Guarani}} - [[ブラジル]]のサッカークラブ([[サンタカタリーナ州]]) * [[クルブ・グアラニー]] - パラグアイのサッカークラブ([[アスンシオン]]) * [[テジュ・ジャグア]] - グアラニー族の民話に登場する架空の生物 {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:くあらにいそく}} [[Category:ラテンアメリカ]] [[Category:アルゼンチンの民族]] [[Category:ウルグアイの民族]] [[Category:パラグアイの民族]] [[Category:ブラジルの民族]] [[Category:ボリビアの民族]] [[Category:南アメリカ州の先住民族]]
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2022-10-19T03:17:34Z
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ブラジリア
ブラジリア(ポルトガル語: Brasília [bɾaˈziljɐ])は、ブラジルの首都。連邦区を構成する地区のひとつ。人口は309万4325人(2021年)で同国3位である。ブラジル中部の標高約1,100mの高原地帯に建設された計画都市。 ブラジル高原の荒涼とした未開の大地(セラード)に建設された計画都市。ブラジル人建築家ルシオ・コスタの設計により建設された計画都市地域は、人造湖であるパラノア湖のほとりに飛行機が翼を広げた形をしており、飛行機の機首の部分に国会議事堂や連邦最高裁判所などの政府機関が並び、翼の部分には高層住宅や各国の大使館がある。 国会議事堂や大聖堂などの主要建造物は、いずれもモダニズムの流れを受けた未来的なデザインで作られている。これらの公共建築の主任建築家は、ニューヨーク市の国際連合本部ビルの設計も担当したブラジル人建築家オスカー・ニーマイヤーである。 1987年には、世界遺産に登録された。歴史的で伝統的な街並みを持つ都市が世界遺産に登録されることは多いが、建設から40年未満という近代的な都市が登録されたのは、当時としては異例のことであった。のちに世界遺産委員会の「世界遺産条約履行のための作業指針」において、20世紀建築の登録は推進されるべき分野のひとつと位置づけられた。 赤道と南回帰線の内側にあるため緯度による定義では熱帯に該当し、ケッペンの気候区分ではサバナ気候(Aw)とされるが、標高1000m台とやや高地にあるため温帯夏雨気候(Cwa,Cwb)にも近い。 ブラジルは、ポルトガルの植民地から独立した頃から(ブラジリア建設以降、現代に至るまでも含め)旧首都であるリオデジャネイロやブラジル最大の都市であるサンパウロといった大都市が存在する大西洋沿岸部に人口や産業が集中している。そのため、内陸の高原部との間で所得などの面で大幅な格差があり、既に19世紀頃からその解消と、その方策としての内陸部遷都が叫ばれていた。 20世紀に入ってからも、何度か内陸遷都が検討されながらも度重なる政変や第二次世界大戦の勃発などで具体的な形にならないままでいたが、1956年に大統領に当選したジュセリーノ・クビチェック(ジュセリーノ・クビシェッキ)は、新首都建設で内陸部の開発とそれによる国土の均衡的発展を企図し、正式に新都市の建設とリオデジャネイロからの遷都を発表した。 インドのチャンディーガルと並び、モダニズムの理念に基づいて計画的に建設された都市で、工事はクビチェックの任期である5年以内に間に合うよう、急ピッチで進められわずか41か月間(約3.5年)で完成。1960年4月21日に供用を開始した。 この新首都の建設によって内陸部の開発が進んだが、その一方で、莫大な建設費はブラジルの国家財政に大きな負担となって残り、1970年代から1980年代にかけてブラジルを襲った経済不振と高インフレの大きな原因の一つとなったとの評価もある。 新首都を国土の中央に建設した結果、開発の進行によって内陸部の経済振興は進み、ブラジル全体としてみれば、ブラジルの国土の中央部にブラジリア国際空港(ジュセリーノ・クビシェッキ国際空港)を建設したことにより、航空路線の航路は東西南北の各地域を結ぶハブを得ており、商業運輸の面でもこの地域の国道が整備されたことで、中西部のマットグロッソ州方面から北東部のバイーア州など大西洋側の地域へ、あるいはサンパウロ州から中西部、北東部へと抜ける物流や長距離バス路線が再整備されており、連邦直轄区の建設自体には今日、一定の意義が認められる。 しかしながら、道路は整備されているものの、河川が無い内陸部に建設されたため水運手段がなく、航空路線も国内線は充実しているが、大きな産業もないため国際線定期便の就航は少ない。また、サンパウロやリオデジャネイロ、マナウスなどの他の大都市とは距離がかなり離れている。このような状況から大企業の本社機能の移転などが行われるには至っていない。 さらに、ブラジリアは整然とした計画都市だが、市内の移動は自動車による移動を前提にしているために、実際の市民生活を送るには不便である。 しかも、国家プロジェクトとして緻密な計画が練られて開発されたブラジリア市とは対照的に、周囲の衛星都市は無秩序に発展し、ブラジリアが位置する連邦直轄区内は州境の幹線脇を中心に土地の不法占拠など半ばスラム化しているところもあり、そうした衛星都市を都市圏とすることで成り立つブラジリア市もその影響を免れておらず、一口に成功したとは言い難い状況である。 莫大な建設費を一挙に投じて、巨大建築が立ち並ぶ理想都市を建設したブラジリアのアンチテーゼとして、低コスト、ヒューマンスケール、小さなプロジェクトの積み上げという街づくりを掲げ、成功したのがパラナ州のクリティーバ市であった。 2023年1月8日、前年の大統領選挙で敗れたジャイル・ボルソナロ前大統領の支持者らが、連邦議会や最高裁判所、大統領府の建物にも侵入して破壊活動を行った。 地方政治は連邦区単位で管轄されている。ブラジリアには市長や市議会は無く、連邦区知事と連邦区議会がブラジリアを含む連邦区を統治する。 白人(49.15%)、混血(44.77%)、黒人(4.80%)、アジア人(0.39%)、先住民(0.35%) 市内は自動車道と歩道が完全に区別されており、自動車道も極力立体交差になるよう設計されている。住宅区画と商業区画、官庁街など各区画は厳然と分かたれており、市民生活においても移動が不便であるため、人口約300万人に対して自家用車の総数は100万台弱と、ブラジルの都市としては自動車の保有率が高い。 市内の主な公共交通手段はバスとタクシーである。近年になって公共交通機関の整備が始まり、一部で地下鉄が開業し、またトラムの建設工事が進行中である。 サンパウロやリオ・デ・ジャネイロ、マナウスなどの他の大都市とは距離が離れており、旅客機と長距離バスが都市間の主な交通手段である。鉄道駅も存在するものの、こちらは貨物が主であり、一般に旅客には用いていない。 空港はブラジリア国際空港があり、国際便と国内便が就航している。国内便については、全てのブラジルの大都市との間に定期便が就航しており、特に南部の大都市であるサンパウロのコンゴーニャス空港との間には15分-30分に1本程度、リオ・デ・ジャネイロのサントス・デュモン空港やアントニオ・カルロス・ジョビン国際空港との間には30分―1時間に1本程度の定期便が就航している。 またブラジル国内の旅客便は南部の都市、中部の都市、北部の都市にまたがって移動する場合、中小都市同士との間には必ずしも直行便があるわけではないので、ブラジルの中心に位置するブラジリア国際空港が各都市を結ぶ乗り換えのハブ的役割を果たしている。 国際便については、ブラジリア自体に大きな産業がないため、首都の空港であるにもかかわらずTAPポルトガル航空によるリスボンへの直行便のみにとどまっていたが、昨今のブラジルの経済成長と、ブラジル中西部そしてブラジリア発着客の増加を受けて、北米便の就航が2009年より相次いでいる(アトランタ、マイアミ)。なお、TAM航空がニューヨークとの直行便を就航させる予定である。 この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。 ブラジリエンセFCやSEガマ、レギオンFCなどのサッカークラブがあるが、ブラジルの1部リーグに所属するクラブは2014年の時点では存在しない。なおブラジリアの州リーグ(ブラジリアは連邦直轄区なので厳密に言うと「州リーグ」ではない)が存在しているが小規模である。市内にあるエスタジオ・ナシオナル・デ・ブラジリアはFIFAコンフェデレーションズカップ2013と2014 FIFAワールドカップ、リオデジャネイロオリンピックのサッカーの会場として使用された。 2019年には夏季ユニバーシアードを開催予定だったが、2015年1月に財政難を理由に開催を返上したため、2016年5月にナポリ( イタリア)で代わって開催することが決定した。
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ブラジリアは、ブラジルの首都。連邦区を構成する地区のひとつ。人口は309万4325人(2021年)で同国3位である。ブラジル中部の標高約1,100mの高原地帯に建設された計画都市。
{{世界の市 |正式名称 = ブラジリア |公用語名称 = {{lang|pt|Brasília}}<br/>{{flagicon|Brazil}} |愛称 = Capital Federal, Capital da Esperança |標語 = |画像 = Brasília_Collage.png |画像サイズ指定 = |画像の見出し = 左上から、[[w:Monumental Axis|モニュメンタル アクシス]]、[[ブラジリア大聖堂]]、[[国会議事堂 (ブラジル)|国会議事堂]]、[[アルボラーダ宮殿]]、市街地、[[w:Juscelino Kubitschek bridge|ジュセリーノ・クビチェック橋]] |市旗 = |市章 = |位置図 = Distrito Federal RA Brasília.svg |位置図サイズ指定 = 300px |位置図の見出し = 連邦区内のブラジリアの位置 |位置図B = {{Location map|Brazil|relief=1|float=center|label=ブラジリア}} |位置図2B = |成立区分 = 建設 |成立日 = [[1960年]] |旧名 = |創設者 = [[ジュセリーノ・クビシェッキ]]、[[ルシオ・コスタ]]、[[オスカー・ニーマイヤー]] |下位区分名 = [[ファイル:Flag of Brazil.svg|25px]] [[ブラジル|ブラジル連邦共和国]] |下位区分種類1 = 地域 |下位区分名1 = [[中西部地域 (ブラジル)|中西部]] |下位区分種類2 = [[ブラジルの行政区画|行政区画]] |下位区分名2 = [[ブラジリア連邦直轄区|連邦区]] |下位区分種類3 = |下位区分名3 = |下位区分種類4 = |下位区分名4 = |規模 = 地区 |最高行政執行者称号 = |最高行政執行者名 = |最高行政執行者所属党派 = |総面積(平方キロ) = 5,760 |総面積(平方マイル) = |陸上面積(平方キロ) = |陸上面積(平方マイル) = |水面面積(平方キロ) = |水面面積(平方マイル) = |水面面積比率 = |市街地面積(平方キロ) = |市街地面積(平方マイル) = |都市圏面積(平方キロ) = |都市圏面積(平方マイル) = |標高(メートル) = 1,000~1,200 |標高(フィート) = |人口の時点 = 2021年 |人口に関する備考 = 統計<ref>{{Cite web |url=https://www.ibge.gov.br/cidades-e-estados/df/brasilia.html |title=IBGE divulga as estimativas populacionais dos municípios em 2021 |data=2021-08-27 |accessdate=2022-06-21 |language=pt-BR}}</ref> |総人口 = 3,094,325 |人口密度(平方キロ当たり) = |人口密度(平方マイル当たり) = |市街地人口 = |市街地人口密度(平方キロ) = |市街地人口密度(平方マイル) = |都市圏人口 = |都市圏人口密度(平方キロ) = |都市圏人口密度(平方マイル) = |等時帯 = |協定世界時との時差 = -3 |夏時間の等時帯 = |夏時間の協定世界時との時差 = |郵便番号の区分 = |郵便番号 = |市外局番 = |ナンバープレート = |ISOコード = |公式ウェブサイト = |備考 = }} '''ブラジリア'''({{lang-pt|Brasília}} {{IPA-pt|bɾaˈziljɐ|}})は、[[ブラジル]]の[[首都]]。[[ブラジリア連邦直轄区]]の中核となる地区である。人口は309万4325人(2021年)で同国3位である。ブラジル中部の標高約1,100mの高原地帯にある[[計画都市]]であり、1950年代・60年代に建設された。 == 概要 == === 計画都市 === [[ブラジル高原]]の荒涼とした未開の大地([[カンポ・セハード|セラード]])に建設された計画都市。[[ブラジル人]][[建築家]][[ルシオ・コスタ]]の設計により建設された計画都市地域は、人造湖であるパラノア湖のほとりに[[飛行機]]が翼を広げた形をしており、飛行機の機首の部分に[[国会議事堂 (ブラジル)|国会議事堂]]や[[連邦最高裁判所 (ブラジル)|連邦最高裁判所]]などの政府機関が並び、翼の部分には高層住宅や各国の[[大使館]]がある。 国会議事堂や大聖堂などの主要建造物は、いずれも[[モダニズム]]の流れを受けた未来的なデザインで作られている。これらの公共建築の主任建築家は、[[ニューヨーク]]市の[[国際連合]]本部ビルの設計も担当したブラジル人建築家[[オスカー・ニーマイヤー]]である。 === 世界遺産登録 === [[1987年]]には、[[世界遺産]]に登録された。歴史的で伝統的な街並みを持つ都市が世界遺産に登録されることは多いが、建設から40年未満という近代的な都市が登録されたのは、当時としては異例のことであった。のちに[[世界遺産委員会]]の「[[世界遺産条約]]履行のための作業指針」において、20世紀建築の登録は推進されるべき分野のひとつと位置づけられた。 === 気候 === [[赤道]]と[[南回帰線]]の内側にあるため緯度による定義では[[熱帯]]に該当し、[[ケッペンの気候区分]]では[[サバナ気候]](Aw)とされるが、標高1000m台とやや高地にあるため[[温帯夏雨気候]](Cwa,Cwb)にも近い。 {{Weather box |location = ブラジリア(1991–2020年, 極値1961年- ) |metric first = yes |single line = yes |width = |collapsed = |Jan record high C = 32.6 |Feb record high C = 32.0 |Mar record high C = 32.1 |Apr record high C = 31.6 |May record high C = 31.6 |Jun record high C = 31.6 |Jul record high C = 30.8 |Aug record high C = 33.0 |Sep record high C = 35.7 |Oct record high C = 36.4 |Nov record high C = 34.5 |Dec record high C = 33.7 |year record high C = 36.4 |Jan high C = 26.9 |Feb high C = 27.2 |Mar high C = 27.0 |Apr high C = 26.8 |May high C = 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|Nov humidity = 74.5 |Dec humidity = 76.0 |year humidity = 64.3 |Jan sun = 159.6 |Feb sun = 158.9 |Mar sun = 168.7 |Apr sun = 200.8 |May sun = 237.9 |Jun sun = 247.6 |Jul sun = 268.3 |Aug sun = 273.5 |Sep sun = 225.7 |Oct sun = 191.3 |Nov sun = 138.3 |Dec sun = 145.0 |year sun = 2415.6 |source 1 = [[Instituto Nacional de Meteorologia]]<ref name=INMETtmax> {{cite web | archive-url = https://web.archive.org/web/20220324043914/https://portal.inmet.gov.br/uploads/normais/Normal-Climatologica-TMAX.xlsx | archive-date = 24 March 2022 | url = https://portal.inmet.gov.br/uploads/normais/Normal-Climatologica-TMAX.xlsx | title = Temperatura Máxima Mensal e Anual (°C) | work = Normais Climatológicas do Brasil 1991-2020 | publisher = Instituto Nacional de Meteorologia | language = pt | access-date = 24 March 2022}}</ref><ref name=INMETtmed> {{cite web | archive-url = https://web.archive.org/web/20220324043931/https://portal.inmet.gov.br/uploads/normais/Normal-Climatologica-TMEDSECA.xlsx | 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March 2022 | url = https://portal.inmet.gov.br/uploads/normais/Normal-Climatologica-PREC.xlsx | title = Precipitação Acumulada Mensal e Anual (mm) | work = Normais Climatológicas do Brasil 1991-2020 | publisher = Instituto Nacional de Meteorologia | language = pt | access-date = 24 March 2022}}</ref><ref name=INMETprecipdays> {{cite web | archive-url = https://web.archive.org/web/20220324044003/https://portal.inmet.gov.br/uploads/normais/Normal-Climatologica-PRENDIAS1.xlsx | archive-date = 24 March 2022 | url = https://portal.inmet.gov.br/uploads/normais/Normal-Climatologica-PRENDIAS1.xlsx | title = Número de dias no mês ou no ano com precipitação maior ou igual a (1 mm) (dias) | work = Normais Climatológicas do Brasil 1991-2020 | publisher = Instituto Nacional de Meteorologia | language = pt | access-date = 24 March 2022}}</ref><ref name=INMEThumidity> {{cite web | archive-url = 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web | url = http://meteo-climat-bzh.dyndns.org/station-1229-Brasilia.php | title = Station Brasília | publisher = Meteo Climat |language = fr | access-date = 24 March 2022}}</ref> }} == 歴史 == === 遷都 === ブラジルは、[[ポルトガル]]の[[植民地]]から独立した頃から(ブラジリア建設以降、現代に至るまでも含め)旧首都である[[リオデジャネイロ]]やブラジル最大の都市である[[サンパウロ]]といった大都市が存在する[[大西洋]]沿岸部に人口や産業が集中している。そのため、内陸の高原部との間で所得などの面で大幅な格差があり、既に[[19世紀]]頃からその解消と、その方策としての内陸部遷都が叫ばれていた。 === 建設開始 === [[File:Brasilia - Plan.JPG|thumb|飛行機の主翼の形状を模したブラジリアの都市計画であるパイロットプラン]] [[File:Partial view of the Federal District, Brazil seen from space in 2015 (2).jpg|thumb|ブラジリアの衛星写真]] [[20世紀]]に入ってからも、何度か内陸遷都が検討されながらも度重なる政変や[[第二次世界大戦]]の勃発などで具体的な形にならないままでいたが、[[1956年]]に大統領に当選した[[ジュセリーノ・クビチェック]](ジュセリーノ・クビシェッキ)は、新首都建設で内陸部の開発とそれによる国土の均衡的発展を企図し、正式に新都市の建設とリオデジャネイロからの遷都を発表した。 [[インド]]の[[チャンディーガル]]と並び、[[モダニズム建築|モダニズム]]の理念に基づいて計画的に建設された都市で、工事はクビチェックの任期である5年以内に間に合うよう、急ピッチで進められわずか41か月間(約3.5年)で完成。[[1960年]][[4月21日]]に供用を開始した。 === 功罪 === この新首都の建設によって内陸部の開発が進んだが、その一方で、莫大な建設費はブラジルの国家財政に大きな負担となって残り、[[1970年代]]から[[1980年代]]にかけてブラジルを襲った経済不振と高インフレの大きな原因の一つとなったとの評価もある。 新首都を国土の中央に建設した結果、開発の進行によって内陸部の経済振興は進み、ブラジル全体としてみれば、ブラジルの国土の中央部に[[プレジデンテ・ジュセリーノ・クビシェッキ国際空港|ブラジリア国際空港]](ジュセリーノ・クビシェッキ国際空港)を建設したことにより、航空路線の航路は東西南北の各地域を結ぶ[[ハブ空港|ハブ]]を得ており、商業運輸の面でもこの地域の国道が整備されたことで、中西部の[[マットグロッソ州]]方面から北東部の[[バイーア州]]など大西洋側の地域へ、あるいは[[サンパウロ州]]から中西部、北東部へと抜ける物流や長距離バス路線が再整備されており、[[ブラジリア連邦直轄区|連邦直轄区]]の建設自体には今日、一定の意義が認められる。 しかしながら、道路は整備されているものの、河川が無い内陸部に建設されたため水運手段がなく、航空路線も国内線は充実しているが、大きな産業もないため国際線定期便の就航は少ない。また、サンパウロやリオデジャネイロ、[[マナウス]]などの他の大都市とは距離がかなり離れている。このような状況から大企業の本社機能の移転などが行われるには至っていない。 さらに、ブラジリアは整然とした計画都市だが、市内の移動は自動車による移動を前提にしているために、実際の市民生活を送るには不便である。 しかも、国家プロジェクトとして緻密な計画が練られて開発されたブラジリア市とは対照的に、周囲の[[衛星都市]]は無秩序に発展し、ブラジリアが位置する[[ブラジリア連邦直轄区|連邦直轄区]]内は州境の幹線脇を中心に土地の不法占拠など半ばスラム化しているところもあり、そうした衛星都市を都市圏とすることで成り立つブラジリア市もその影響を免れておらず、一口に成功したとは言い難い状況である<ref group="注釈">「計画とは無縁」となっているとの指摘もある([[不動産協会]]広報誌FORE 2012年1月号[http://www.fdk.or.jp/t_fore/index.html])。</ref>。 莫大な建設費を一挙に投じて、巨大建築が立ち並ぶ理想都市を建設したブラジリアのアンチテーゼとして、低コスト、ヒューマンスケール、小さなプロジェクトの積み上げという街づくりを掲げ、成功したのが[[パラナ州]]の[[クリティーバ]]市であった。 {{wide image|BSB 02 2013 Eixo Monumental 5884.JPG|800px|ブラジリア・都市の景観}} {{wide image|Brasilia_Panorama.jpg|1500px|モニュメンタル・アクシス通りのパノラマ写真}} === 21世紀 === [[2023年]][[1月8日]]、前年の大統領選挙で敗れた[[ジャイル・ボルソナロ]]前大統領の支持者らが、連邦議会や最高裁判所、大統領府の建物にも侵入して破壊活動を行った<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.yomiuri.co.jp/world/20230109-OYT1T50064/|title=ブラジル前大統領の支持者らが連邦議会や大統領府に侵入…家具や美術品破壊、書類破る |publisher=読売新聞オンライン |date=2023-01-09 |accessdate=2023-01-09}}</ref>。 == 政治 == {{maplink2|frame=yes|frame-width=250|zoom=10|type=point|text=ブラジリアの地図|coord={{coord|15|48|0|S|47|51|50|W}}}} 地方政治は連邦区単位で管轄されている。ブラジリアには市長や市議会は無く、連邦区知事と連邦区議会がブラジリアを含む連邦区を統治する。 == 人口動態 == [[白人]](49.15%)、[[混血]](44.77%)、[[黒人]](4.80%)、[[アジア人]](0.39%)、[[ブラジルの先住民|先住民]](0.35%) == 交通 == === 市内 === [[File:Trem Leve Brasilia (VLT) Panorama 1.jpg|thumb|導入予定のトラム]] 市内は自動車道と歩道が完全に区別されており、自動車道も極力立体交差になるよう設計されている。住宅区画と商業区画、官庁街など各区画は厳然と分かたれており、市民生活においても移動が不便であるため、人口約300万人に対して自家用車の総数は100万台弱と、ブラジルの都市としては自動車の保有率が高い。 市内の主な公共交通手段は[[バス (交通機関)|バス]]と[[タクシー]]である。近年になって公共交通機関の整備が始まり、一部で[[ブラジリア地下鉄|地下鉄]]が開業し、また[[路面電車|トラム]]の建設工事が進行中である。 === 市外 === [[サンパウロ]]や[[リオ・デ・ジャネイロ]]、[[マナウス]]などの他の大都市とは距離が離れており、旅客機と長距離バスが都市間の主な交通手段である。鉄道駅も存在するものの、こちらは貨物が主であり、一般に旅客には用いていない。 === 航空便 === [[File:Brasilia aeroportojk inauguracaoalasul.jpg|thumb|[[プレジデント・ジュセリノ・クビシェッキ国際空港|ブラジリア国際空港]]]] [[空港]]は[[プレジデント・ジュセリノ・クビシェッキ国際空港|ブラジリア国際空港]]があり、国際便と国内便が就航している。国内便については、全てのブラジルの大都市との間に定期便が就航しており、特に南部の大都市である[[サンパウロ]]の[[コンゴーニャス空港]]との間には15分-30分に1本程度、リオ・デ・ジャネイロの[[サントス・デュモン空港]]や[[アントニオ・カルロス・ジョビン国際空港]]との間には30分―1時間に1本程度の定期便が就航している。 またブラジル国内の旅客便は南部の都市、中部の都市、北部の都市にまたがって移動する場合、中小都市同士との間には必ずしも直行便があるわけではないので、ブラジルの中心に位置するブラジリア国際空港が各都市を結ぶ乗り換えのハブ的役割を果たしている。 国際便については、ブラジリア自体に大きな[[産業]]がないため、首都の空港であるにもかかわらず[[TAPポルトガル航空]]による[[リスボン]]への直行便のみにとどまっていたが、昨今のブラジルの[[経済]]成長と、ブラジル中西部そしてブラジリア発着客の増加を受けて、北米便の就航が2009年より相次いでいる([[アトランタ]]、[[マイアミ]])。なお、[[TAM航空]]が[[ニューヨーク]]との直行便を就航させる予定である。 ==主な建造物== *[[プラナルト宮殿]](大統領府) *[[アルボラーダ宮殿]](大統領官邸) *[[国会議事堂 (ブラジル)|国会議事堂]] *[[連邦最高裁判所 (ブラジル)|連邦最高裁判所]] *{{仮リンク|三権広場|en|Praça dos Três Poderes|pt|Praça dos Três Poderes}} *[[ブラジリア大聖堂]] *{{仮リンク|ドンボスコ聖堂|pt|Santuário Dom Bosco}} *{{仮リンク|クビチェック大統領記念館|en|JK Memorial|pt|Memorial JK}} *{{仮リンク|ブラジル国立美術館|label=国立美術館|en|Cultural Complex of the Republic|pt|Museu Nacional Honestino Guimarães}} *{{仮リンク|ジュセリーノ・クビチェック橋|en|Juscelino Kubitschek bridge|pt|Ponte Juscelino Kubitschek}} *{{仮リンク|クラウディオ・サントロ国立劇場|en|Cláudio Santoro National Theater|pt|Teatro Nacional Cláudio Santoro}} *{{仮リンク|ブラジリアテレビ塔|label=テレビ塔|en|Brasilia TV Tower|pt|Torre de TV de Brasília}} <center><gallery perrow="5"> File:Palacio do Planalto.jpeg|[[プラナルト宮殿]] File:Congresso brasilia.jpg|[[国会議事堂 (ブラジル)|国会議事堂]] File:Supremo Brasil.jpg|[[連邦最高裁判所 (ブラジル)|連邦最高裁判所]] File:Os Candangos.jpg|三権広場 File:Catedral1 Rodrigo Marfan.jpg|[[ブラジリア大聖堂]] File:Dom Bosco Brasilia.jpg|ドンボスコ聖堂の内部 File:Complexo Cultural da Republica 01.jpg|国立美術館 File:Teatro Nacional Claudio Santoro 02.jpg|クラウディオ・サントロ国立劇場 File:JK bridge Brasilia lights.jpg|ジュセリーノ・クビチェック橋 File:Torre de TV de Brasília - DSC00092.JPG|テレビ塔 </gallery></center> == 世界遺産 == {{世界遺産概要表 |site_img = Image:Palacio Alvorada commons.jpg |site_img_capt = 大統領官邸(アルボラーダ宮) |site_img_width = 275px |ja_name = ブラジリア |en_name = Brasilia |fr_name = Brasilia |country = ブラジル |criterion_c = (1), (4) |rg_year = 1987年 |ex_rg_year = |remarks = |url_no = 445 |map_img = ファイル:LocMap of WH Brasilia ja.png |map_img_width = 275px }} === 登録基準 === {{世界遺産基準|1|4}} == スポーツ == [[ブラジリエンセFC]]や[[SEガマ]]、レギオンFCなどの[[サッカー]]クラブがあるが、ブラジルの1部リーグに所属するクラブは[[2014年]]の時点では存在しない。なおブラジリアの州リーグ(ブラジリアは連邦直轄区なので厳密に言うと「州リーグ」ではない)が存在しているが小規模である。市内にある[[エスタジオ・ナシオナル・デ・ブラジリア]]は[[FIFAコンフェデレーションズカップ2013]]と[[2014 FIFAワールドカップ]]、[[2016年リオデジャネイロオリンピックのサッカー競技|リオデジャネイロオリンピックのサッカー]]の会場として使用された。 [[2019年]]には夏季[[ユニバーシアード]]を開催予定だったが、[[2015年]][[1月]]に財政難を理由に開催を返上したため、[[2016年]][[5月]]に[[ナポリ]]({{ITA}})で代わって開催することが決定した。 == 姉妹都市 == ;国内 *{{flagicon|BRA}}[[ディアマンティーナ]]([[ミナスジェライス州]]) ;外国 {{colbegin|2}} *{{flagicon|MEX}}[[グアダラハラ (メキシコ)|グアダラハラ]]、[[メキシコ合衆国]] *{{flagicon|ARG}}[[ブエノスアイレス]]、[[アルゼンチン共和国]] *{{flagicon|COL}}[[ボゴタ]]、[[コロンビア共和国]] *{{flagicon|PER}}[[リマ]]、[[ペルー共和国]] *{{flagicon|URU}}[[モンテビデオ]]、[[ウルグアイ東方共和国]] *{{flagicon|CHI}}[[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]]、[[チリ共和国]] *{{flagicon|POR}}[[リスボン]]、[[ポルトガル共和国]] *{{flagicon|ITA}}[[ローマ]]、[[イタリア共和国]] *{{flagicon|FRA}}[[パリ]]、[[フランス共和国]] *{{flagicon|NED}}[[アムステルダム]]、[[オランダ|オランダ王国]] *{{flagicon|USA}}[[ワシントンD.C.]]、[[アメリカ合衆国]] *{{flagicon|USA}}[[ボストン]]、[[アメリカ合衆国]] *{{flagicon|NGR}}[[アブジャ]]、[[ナイジェリア共和国]] *{{flagicon|AUS}}[[キャンベラ]]、[[オーストラリア連邦]] *{{flagicon|QAT}}[[ドーハ]]、[[カタール国]] *{{flagicon|EGY}}[[ルクソール]]、[[エジプト・アラブ共和国]] *{{flagicon|AUT}}[[ウィーン]]、[[オーストリア共和国]] *{{flagicon|CHN}}[[西安市]]、[[中華人民共和国]] {{colend}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == *[[ブラジリア連邦直轄区]] *[[フォルクスワーゲン・ブラジリア]] *[[エンブラエル EMB 120|エンブラエル EMB 120 ブラジリア]] *[[テルアビブの白い都市]] - 現代建築の世界遺産の例 *[[シドニー・オペラハウス]] - 現代建築の世界遺産の例 *[[輝く都市]] - 都市計画の理論 **[[チャンディーガル]] - インドの近代都市計画 *[[ラストサマー2]] - 1998年の映画。作中で「ブラジルの首都」という知名度の低さを利用したひっかけ問題がある。 == 外部リンク == {{Commons&cat|Brasília|Brasília}} {{osm box|r|2758138}} {{Wikivoyage|pt:Brasília|ブラジリア{{pt icon}}}} {{Wikivoyage|en:Brasília|ブラジリア{{en icon}}}} ; 公式 * [http://www.distritofederal.df.gov.br/ ブラジリア市公式サイト] {{pt icon}} ; 日本政府 * [https://www.br.emb-japan.go.jp/nihongo/index.html 在ブラジル日本国大使館] {{ja icon}} * [http://www.br.emb-japan.go.jp/nihongo/guiabrasilia.htm 在ブラジル日本国大使館による「ブラジリアの概要」] {{ja icon}} ; 観光 * [http://www.brasiliaconvention.com.br/index.htm ブラジリア観光局] {{pt icon}}{{en icon}} * [http://www.icmbio.gov.br/portal/o-que-fazemos/visitacao/ucs-abertas-a-visitacao/213-parque-nacional-de-brasilia.html Parque Nacional de Brasília - ICMBio] * {{ウィキトラベル インライン|ブラジリア|ブラジリア}} {{ja icon}} ; 地図 * {{WikiMapia|-15.791408|-47.890293|14|ブラジリアの地図}} * {{Googlemap|Brasília}} {{ブラジルの世界遺産}} {{アメリカの首都}} {{首都特別地域}} {{Authority control}} {{Coord|15|48|00|S|47|51|50|W|region:BR-DF_scale:100000_type:city|display=title|name=ブラジリア}} {{DEFAULTSORT:ふらしりあ}} [[Category:ブラジリア|*]] [[Category:ブラジルの都市]] [[Category:南アメリカの首都]] [[Category:ブラジルの州都]] [[Category:ブラジルの国立公園]] [[Category:ブラジルの世界遺産]] [[Category:世界遺産 は行]] [[Category:1987年登録の世界遺産]] [[Category:モダニズム建築の世界遺産]] [[Category:南アメリカの市街地の世界遺産]]
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アマゾン
アマゾン(Amazon)
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アマゾン(Amazon)
'''アマゾン'''({{La|Amazon}}) == 下記以外のアマゾン == * [[アマゾン熱帯雨林]] - 南アメリカに広がる熱帯雨林 * [[アマゾン川]] - 南アメリカの[[川|大河]] * [[アマゾン盆地]] - アマゾン川流域に広がる盆地 * [[Amazon.com]] - アメリカ合衆国のネット通販サイト ** [[Amazon.co.jp]] - 上記Amazon.comの日本法人 == 人物あるいは組織 == * [[アマゾーン]] - ギリシア神話に登場する女性だけの部族 * [[仮面ライダーアマゾン]] - 日本の特撮ドラマ、およびその主役ヒーロー * [[アマゾン (プロレスラー)]] - イギリスの女子プロレスラー * [[アマゾン (映像製作)]] - 日本のテレビ番組制作プロダクション == 軍事あるいは乗り物 == * [[アマゾン軍]] - [[ブラジル陸軍]]における地域作戦軍の一つ * イギリス海軍の軍艦([[:en:HMS Amazon|HMS Amazon]] ** [[アマゾン (駆逐艦・2代)]] - [[第一次世界大戦]]後に建造された、イギリス海軍の駆逐艦。同型艦は無し。 ** [[アマゾン (フリゲート)]] - [[21型フリゲート]]の1艦。F169 Amazon。 * [[ボルボ・120]]の愛称 ==関連項目== *{{Prefix}} *{{intitle}} {{Aimai}} {{デフォルトソート:あまそん}} [[Category:イギリス海軍の同名艦]]
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ペルー
ペルー共和国(ペルーきょうわこく、ケチュア語族: Piruw Republika、アイマラ語: Piruw Suyu)、通称ペルーは、南アメリカ西部に位置する共和制国家。首都はリマ。 北にコロンビア、北西にエクアドル、東にブラジル、南東にボリビア、南にチリと国境を接し、西は太平洋に面する。 紀元前から多くの古代文明が栄えており、16世紀までは当時の世界で最大級の帝国だったインカ帝国(タワンティン・スウユ)の中心地だった。その後スペインに征服された植民地時代にペルー副王領の中心地となり、独立後は大統領制の共和国となっている。 公用語による正式名称は、スペイン語表記では「República del Perú()」。ケチュア語、アイマラ語表記は共に「Piruw」である。通称は Perú。公式の英語表記は「Republic of Peru()」で、国民・形容詞はPeruvianで表される。日本語表記による正式名称の訳はペルー共和国。通称はペルー。漢字表記では秘露, 平柳と記される。 ペルーという言葉の語源には諸説あるが、16世紀始めにパナマ地峡のサン・ミゲル湾付近を支配していたビルーという首長に由来し、パナマの南にビルーという豊かな国が存在するとの話を当地の先住民から伝え聞いたスペイン人が転訛してピルーと呼ぶ様になり、それがペルーになったというものが最も有力な説である。その後、スペイン人のコンキスタドールによってインカ帝国はペルーと呼ばれ、そこからペルーという言葉がこの地域を指す名称となった。植民地時代にはペルー副王領が成立し、19世紀に独立した後もペルーの名が用いられている。 紀元前3000年から紀元前2500年ごろにスーペ谷に、カラル(Caral)という石造建築を主体とするカラル遺跡(ノルテ・チコ文明(英語版))が現れる。 1000B.C.ごろ - 200B.C.ごろ、アンデス山脈全域にネコ科動物や蛇、コンドルなどを神格化したチャビン文化が繁栄する。その後、コスタ(スペイン語版)北部にモチェ文化がA.D.100ごろ - A.D.700ごろ、現トルヒーリョ市郊外に「太陽のワカ」「月のワカ」を築き、コスタ南部では、A.D.1ごろ - A.D.600ごろに、信仰や農耕のための地上絵を描いたナスカ文化が繁栄した。 紀元800年ごろ、シエラ(スペイン語版)南部のアヤクーチョ盆地にワリ文化が興隆した。ティワナクの宗教の影響を強く受けた文化であったと考えられ、土器や織物に地域色は見られるものの統一されたテーマが描かれること、いわゆるインカ道の先駆となる道路が整備されたこと、四辺形を組み合わせた幾何学的な都市の建設などからワリ帝国説が唱えられるほどアンデス全域にひろがりをみせ、1000年ごろまで続いたと考えられる。コスタ北部のランバイエケ地方には、金やトゥンバガ製の豪華な仮面で知られるシカン文化がワリ文化の終わりごろに重なって興隆した。 その後、コスタ北部にはチムー王国が建国され、勢力を拡大した。首都チャン・チャンの人口は25,000人を越え、王の代替わりごとに王宮が建設されたと思われる。 15世紀になりクスコ周辺の南部の山岳地帯が、1438年に即位したケチュア人の王パチャクテクによって軍事的に統一されると、以降は征服戦争を繰り広げて急速に勢力を拡大してきた、ケチュア人によるタワンティン・スウユ(ケチュア語族: Tawantin Suyu、インカ帝国)によってペルー、および周辺のアンデス地域は統合される。 続くトゥパク・インカ・ユパンキの代になると、チムー王国も1476年ごろに征服されて、その支配体制に組み込まれた。続くワイナ・カパックの征服によりアンデス北部にも進出し、アンデス北部最大の都市だったキトを征服することになる。またワイナ・カパックはマプーチェ人と戦ってチリの現サンティアゴ・デ・チレ周辺までと、アルゼンチン北西部を征服し、ユパンキの代から続いていた征服事業を完成させ、コジャ・スウユ(ケチュア語族: Colla Suyo、「南州」)の領域を拡大させると共にインカ帝国の最大版図を築いた。 インカ帝国はクスコを首都とし、現ボリビアのアイマラ人の諸王国や、チリ北部から中部まで、キトをはじめとする現エクアドルの全域、現アルゼンチン北西部を征服し、その威勢は現コロンビア南部にまで轟いていた。インカ帝国は幾つかの点で非常に古代エジプトの諸王国に似ており、クスコのサパ・インカを中心にして1200万人を越える人間が自活できるシステムが整えられていた。帝国は16世紀初めごろまで栄えていたが、いつのころからか疫病が流行し(パナマ地峡から南にもたらされたヨーロッパの疫病である)、帝位継承などの重大な問題を巡ってキト派のアタワルパと、クスコ派のワスカルの間で激しい内戦(スペイン語版、英語版)(1529年 – 1532年)が繰り広げられた。 内戦はアタワルパの勝利に終わったが、内戦の疲弊の隙にパナマからコスタ北部に上陸したフランシスコ・ピサロ率いるスペインの征服者たちがインカ帝国を侵略することになった。征服者達は手早くクスコを征服すると、1533年に第13代皇帝アタワルパを絞首刑にして、アンデスを支配していた帝国としてのインカ帝国は崩壊した。ピサロは1534年にリマ市を建設すると、以降このコスタの都市が、それまで繁栄していたクスコに代わってペルーの中心となる。その後、1572年にスペイン人の支配からビルカバンバに逃れていた最後の皇帝トゥパク・アマルーが捕らえられて処刑され、インカ帝国はその歴史の幕を閉じた。 植民地下のペルーでは、最初期は南アメリカ全体を統括していたペルー副王領の首都が高山のクスコから太平洋沿岸のリマに移され、金銀などの鉱物の搾取が宗主国スペインによって行われた。ミタ制によってポトシ鉱山開発に酷使された先住民の多くは苦役の末に死亡し、その数は100万人とも言われる。どれだけの人口減があったかは定かではないが、少なくとも全盛期にインカ帝国の人口が1600万人が最高だといわれたのが、18世紀末のペルーでは108万人になったといえば、その凄まじさが理解できるであろう。 このような状況の中で1780年、インディヘナやメスティーソは、クリオージョに対する反抗とスペイン王への忠誠を唱え、トゥパク・アマルー2世を首謀者にした反乱(スペイン語版、英語版)(1780年 - 1782年)を起こした。この反乱は、当初は白人も含んだ大衆反乱だったが、次第にインカ帝国の復興という目標を掲げて、白人に対する暴行、殺害が相次ぐようになると、当初協力的だった白人の支持も次第に失って行き、トゥパク・アマルー2世は遂に部下の裏切りにより捕らえられ、先祖と同様にクスコの広場で処刑された。 18世紀末から19世紀初めにかけてのフランス革命以来のヨーロッパでの混乱を背景に、ナポレオン戦争によるヨーロッパでの政変により、スペイン本国にナポレオンのフランス軍が侵入し、兄のジョゼフ・ボナパルトを国王ホセ1世として即位させると、それに反発する民衆の蜂起が起きスペイン独立戦争が始まった。インディアス植民地は偽王ホセ1世への忠誠を拒否した。そのような情勢の中で、シエラからマテオ・ガルシア・プマカワ(英語版)が蜂起し、しばらくシエラの主要部を占領したが(クスコの反乱(スペイン語版、英語版))、結局プマカワも破れた。1821年7月28日にはるばるラ・プラタ連合州から遠征軍を率いてリマを解放した、ホセ・デ・サン・マルティンの指導の下に独立を宣言したが、副王政府は支配に固執し、シエラに逃れて抵抗を続けた。しかし、1824年に北のベネスエラからコロンビア共和国の解放軍を率いた解放者シモン・ボリーバルの武将、アントニオ・ホセ・デ・スクレがワマンガに攻め込んだアヤクーチョの戦い(英語版)でペルー副王ホセ・デ・ラ・セルナ(英語版) (エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナの母方の先祖)を撃破し、ペルーは外来勢力の二人の英雄に解放される形で事実上の独立を果たすことになった。しかし、それがただちにインカ帝国や、インディヘナ、メスティーソ、奴隷として連れて来られた黒人といった人々の復権に繋がったわけではなかった。独立時の戦いにより農業も鉱業も荒廃しきっており、インカ帝国の最盛期に全土で1600万人を越えたと推測される人口は、1826年にはペルーだけで150万人になっており、うち14万8000人、人口の一割にすぎない白人が以降百数十年間以上ペルーの国政を動かしていくことになる。1828年、ペルーの事実上の支配者だったカウディーリョ、アグスティン・ガマーラ(英語版)は、ペルーをインカ帝国の後継国家だと考えて、旧インカ帝国の領土を回復するために、またペルーとボリビアの指導層が共に抱いていたお互いを統合しようとする動きから、ボリビア共和国(ボリーバルの共和国)として独立を果たしたアルト・ペルーを併合しようと軍を送ったが、スクレ大統領に打ち破られてしまった。しかし、ガマーラのこの試みはその後も続き、今度はグアヤキル(現エクアドル最大の港湾都市)を要求してコロンビア共和国に宣戦布告するが、これもコロンビアに帰国したスクレに打ち破られた。 1836年にボリビアのアンドレス・デ・サンタ・クルス大統領によってペルーは完全征服され、南ペルー共和国と北ペルー共和国に分けられて、1836年10月にペルー・ボリビア連合の成立が宣言された。ガマーラをはじめとする亡命ペルー人はチリに亡命して、チリ政府とアルゼンチンのフアン・マヌエル・デ・ロサスの力を得て軍を動かし、サンタ・クルスを破ると1839年にこの連合は崩壊した(連合戦争(スペイン語版、英語版)、ペルー・ボリビア戦争とも)。再び独立したペルーはガマーラが大統領となった。1841年、再びボリビア併合を望んだガマーラは侵攻軍を率いてボリビアに向かうが、ボリビア軍によって撃退され、インガビの戦い(英語版)でガマーラ自身も戦死すると、翌1842年にプーノで講和条約が結ばれ、以後両国の統一を望む運動はなくなった。 1845年にラモン・カスティーリャ(英語版)が政権に就くと、この時代に強権によって政治は安定し、肥料に適していた海岸部のグアノ(海鳥の糞からなる硝石資源)や、コスタでの綿花やサトウキビが主要輸出品となってペルー経済を支え、グアノから生み出された富によって鉄道や電信などが敷設され、この時期にリマでペルー独自の文化としてのクリオーヨ文化が育った。また、軍隊の整備も進んだ。 1854年に奴隷制が廃止され、黒人奴隷が解放されると、ペルーの指導層はコスタでのプランテーションで働く労働力を移民に求め、中国人が導入された。苦力(クーリー)として導入された中国人の数は1850年から1880年の間に10万人を越えた。1858年、エクアドル・ペルー戦争(スペイン語版、英語版)(1858年 - 1860年)。1866年にスペイン軍が南米再征服を図って侵攻したが、ペルーはこれをカヤオでの戦いで撃退した(チンチャ諸島戦争(英語版))。 1879年4月3日にはそれまで問題になっていたアントファガスタのチリ硝石鉱山を巡って、同盟国ボリビアと共に チリ に宣戦布告され、三国で太平洋戦争を争った。ペルー兵は勇敢に戦ったが、制海権を握ったチリ軍にリマを占領されて敗北し、アリカとタクナをチリに割譲することとなった。同時にこのころには貴重な資源であったグアノの鉱山も荒廃してしまった。 太平洋戦争後、ペルーは債務不履行に近い状態に付け込まれ、19世紀には豊富な地下資源に着目したアメリカ合衆国や英国の経済支配が進むが、同時にそれまで全く省みられることのなかったシエラのインディヘナの文化に、ペルー性を求める言説が生まれるようになった。 太平洋戦争が終わった後もペルーの政治は原則としては軍人統治だったが、1895年に文民のニコラス・デ・ピエロラ(英語版)が政権を握り、ペルーは「貴族共和国」時代を迎えた。これ以降ペルーでも文民が政治を握るようになったのである。1908年には寡頭支配層の分裂の間隙をぬってアウグスト・レギーア(英語版)政権が誕生。20年にわたる独裁を敷いた。1919年から11年間続く第二次レギーア時代に交通が充実し、結果的にシエラがペルー国家に統合されることになる。その一方で帝国主義や白人支配に反発してビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレ(英語版)によって、1924年に亡命先のメキシコで「アメリカ人民革命同盟」(アプラ党)が設立された。また、ホセ・マリアテギらのインディヘナ知識人層によってインディヘニスモ運動が盛んになるのもこのころである。1920年代にはアヤ・デ・ラ・トーレ(英語版)がアメリカ人民革命同盟による政権奪取を狙ったが軍部に阻まれ失敗。それ以降アプラ党は国民主義路線を放棄し、支配体制に組み込まれた。1929年にはタクナがチリから返還されたが、アリカの返還は行われず、これはペルー国民に強い不満を与えた。 世界恐慌後、経済を輸出依存していたペルーは急激に不安定になった。政治面ではレギーアが失脚して軍部とアプラの対立が続き、1931年の選挙でアプラ党のアヤを破った軍人のサンチェス・セロ大統領は、ポプリスモ的な政治を始めた。セロは1932年にペルー人の過激派から始まったレティシア占領運動に乗じて、コロンビアからレティシアを奪おうとしコロンビア・ペルー戦争を引き起こすが、この企ては失敗した。サンチェス・セロの暗殺後、ペルー議会はオスカル・ベナビデス(英語版)将軍を臨時大統領に選んだ。ベナビデスはコロンビアとの戦争を収め、アプラ党との協調を計ったが、アプラ党によるテロが激化した。任期が終わる1936年の選挙でアプラを含む左翼が勝利すると、ベナビデスは選挙を無効化して任期を3年間延長し、経済の好転も手伝って1939年までの任期を無事に終えた。 1939年にマヌエル・プラド・イ・ウガルテチェが大統領になると、ペルーは連合国側で第二次世界大戦に参戦し、敵性国民となった日系ペルー人は弾圧された。既に1940年5月13日にはリマで排日暴動が起きていたが、太平洋戦争が始まるとアメリカ合衆国に連行されるものも出た。ペルーは直接第二次世界大戦には兵を送らなかったが、1941年7月5日にエクアドルと国境紛争(エクアドル・ペルー戦争)を行い、エクアドル軍に勝利した後、アメリカ合衆国やラテンアメリカ諸国の支持の下に、係争地のうちの25万km2を翌1942年のリオデジャネイロ議定書で獲得した。このことはその後のエクアドルとの関係に強い緊張を生むことになった。 1945年のブスタマンテ政権はアプラ党に対処する力を持たず、1948年のアプラ党と海軍によるクーデターによって崩壊し、マヌエル・オドリーア(英語版)将軍が政権に就いた。オドリーア将軍はアルゼンチンのフアン・ペロンのような貧困層の支持により、寡頭支配層と戦うという政治スタイルをとったが、これも挫折し、1956年の選挙で第二次マヌエル・プラード政権が誕生した。この選挙でアプラ党は合法化を条件にプラードを支持し、以降アプラはペルーの支配層の側に回った。 このような保守支配層との協調を嫌ったアプラ党の左派が、当時起きていたキューバ革命の影響を受けて国内左派過激派と合流し、クスコ周辺で革命的武装蜂起を行うが、まもなく軍の掃討作戦によって殲滅された。 1962年、アプラ党による選挙不正に抗議するために決起した軍事クーデターは、ペレス・ゴドイ(英語版)将軍を首班にして、農地改革法などを施行した。現在、ペルーではこのクーデターがペルー史の一大転換点であったとされている。選挙監視内閣だったゴドイ政権は1963年の選挙が終わり、人民行動党のベラウンデ・テリー(英語版)政権(First Presidency of Fernando Belaúnde (1963-1968))が軍部の支援で誕生すると解散した。穏健的改良主義者だったベラウンデは軍部の意向を反映して農地改革などを行ったが、ベラウンデはすぐに改革を放棄すると、農村問題とIPC(International Petroleum Corporation, インターナショナル石油会社)問題でつまずき、IPCとの間にタララで結ばれたタララ協定(El Acta de Talara)で発覚したスキャンダルが国民の強い不満を引き起こした。 こうした状況の中で1968年10月3日、フアン・ベラスコ・アルバラード将軍による軍事クーデター(Gobierno Revolucionario de las Fuerzas Armadas)によりベラウンデは失脚した。クーデターを起こしたベラスコ将軍は、これまでの軍事政権とは打って変わって反米と自主独立を旗印に「ペルー革命」を推進することを約束し、独自の「軍事革命路線」によって外国資本の国有化や第三世界外交が展開された。貧しい生まれだったベラスコ将軍はかつてトゥパク・アマルー2世が掲げた標語を再び掲げ、革命後すぐに司法改革がなされた。農地改革が推進されてコスタの大農園は次々に解体されて多くの土地が小作人に分与され、「40家族支配」体制と呼ばれていたペルーの伝統的な地主寡頭支配層の解体が行われた。それまでアメリカ合衆国一辺倒だった外交が、第三世界を中心に多角化され、キューバやチリ(同時期にチリで似たような改革を進めていたチリ人民連合のサルバドール・アジェンデ大統領は、ベラスコを「同志」と呼んだ)といった域内の左派政権との関係改善が行われ、兵器輸入を中心にソ連との関係も深まった。日本との交流が深まるのもこのころである。 また、将軍は先住民をカンペシーノ(農民)と呼ぶようにし、以後政府の文書で侮蔑的な響きのあったインディオという言葉が使われることはなくなった。任期の最後の年にはケチュア語が公用語となったが、軍部主導で国民の広範な支持を得られなかった革命は、ポプリスモ的な分配による対外債務の増加、軍部とアプラ系の労組との衝突や、人民の組織化の失敗などもある中で、将軍は自身の体調の悪化と経済政策の失敗により、将軍の失脚をもって1975年に終焉した。 1975年、軍部内右派と左派の妥協により、軍内中道派のモラレス・ベルムデス(英語版)が大統領となった(Gobierno de Francisco Morales Bermúdez)。モラレスは「革命の第二段階」を称していたが、1976年5月には事実上のIMF管理下に置かれるなど革命からの後退が続き、国民の反軍感情の高まりの中、軍は名誉ある撤退を掲げて1978年6月には制憲議会が開かれ、軍部とアプラ党の歴史的な和解の中で、非識字層に投票権を認めた1979年憲法が制定された。 1980年には選挙によって民政に移り、再び人民行動党のベラウンデ・テリー(英語版)政権(Second Presidency of Fernando Belaúnde (1980-1985))が誕生した。1981年、en:Paquisha War。しかし、災害や不況で政権運営は多難を極め、ベラスコ時代に地主層が解体された後の、農村部における権力の真空状態を背景に、センデロ・ルミノソ(PCP-SL)などのゲリラ勢力が力をつけてきた。また、1984年にはキューバ派のトゥパク・アマルー革命運動(MRTA)が都市を中心に武装闘争を始める。 1985年、当時32歳だったアラン・ガルシア大統領を首班とする「アメリカ人民革命同盟」の政権が発足し、アプラ党が結成以来ようやく61年目にしてはじめての政権を握った。アラン・ガルシアは反米、反帝国主義を叫び、当初は国民の支持を背景に国民主義を掲げ、IMFへの債務の繰り延べなどの強硬な路線をとる一方で、内政では貧困層の救済に尽力したが、経済政策の大失敗により、深刻な経済後退を引き起こし、国民総生産(GNP)は20年前の水準に逆戻りし、失業率は実に66%を記録した。さらには対外債務の累積は150億ドルにも達しており、これはメキシコ、ブラジル、アルゼンチンなど1000億ドル以上の債務を抱えていたその他の中南米諸国に比べると、かなり小さい額であったが、当時南米の貧しい小農業国に過ぎなかったペルーにとっては莫大な金額で、ペルーの輸出収入30億ドルの5倍、外貨準備高15億ドルの10倍に匹敵した。そのため債務と利払いの返済の停滞による国際金融社会との関係の悪化よる深刻な経済危機を招き、国家破綻寸前に陥った。苦境に立たされたガルシア政権は「国民を飢えさせてまで、支払うつもりはない」として、債務の支払いを輸出収入の10%以内に限定するという「10%原則」と呼ばれる一方的な措置を取った。これは事実上の徳政令であったことから、これが決定打となり、更に国際金融機関との関係を極度に悪化。そのためにIMF、世銀のような国際金融機関や主要先進諸国からの資金の流入が停止し、国内の経済困難に一層拍車をかけ、国際的信用が失墜したペルーの通貨は暴落。インフレ率8000%というハイパーインフレを記録し、通貨は紙切れ同然となり、1990年には完全な国家破産状態に陥る。また当時はセンデロ・ルミノソはアヤクーチョを中心にシエラの大部分を占領し、パンアメリカンハイウェイや主要幹線道路までがセンデロ・ルミノソに押さえられてリマは包囲され、センデロ・ルミノソによる革命が間近に迫っているかのように思われた。 このような危機的状況下にて行われた大統領選挙では、ノーベル文学賞作家のマリオ・バルガス・リョサを破って「変革90」(Cambio 90)を率いた日系二世のアルベルト・フジモリが勝利し、フジモリは南米初の日系大統領となる。「フジ・ショック」と呼ばれたショック政策によるインフレ抑制と、財政赤字の解消による経済政策を図って、新自由主義的な改革により悪化したペルー経済の改善を図り、農村部の農民を武装させたゲリラ対策により治安の安定に一部成功するなど素人とは思えない業績を残した。しかし、このようなやり方に一部反発もおきた。議会を自らの行った改革の障害と見做すと、1992年4月5日にはフジモリは議会を解散し、憲法を停止して非常国家再建政府を樹立した。このようにして確立した権力を最大限に活用して、国内の治安問題においてセンデロ・ルミノソの首謀者グスマンを逮捕し、組織を壊滅状態に追いやるなど治安回復に大きな成果を挙げた。この自主クーデターは、アメリカ合衆国や、ヨーロッパ諸国から「非民主的」と非難された。1994年からは軍部よりの政策になると首相辞任などの政治混乱を招いたが、自らの再選を認める1993年憲法を公布した後に、1995年の民主的な選挙で再任された。1995年にアマゾンの係争地(石油埋蔵地)を巡ってエクアドルのシスト・デュラン・バジェン(英語版)政権とのセネパ紛争(英語版)に勝利し、両国の間で長年の問題となっていた国境線を画定するなどの功績を残している。フジモリ政権は日本との友好関係を強化し、日本はこの時期にペルーへの最大の援助国となったが、これを原因として1996年12月にトゥパク・アマルー革命運動による日本大使公邸占拠事件が発生した。2000年にはフジモリは再選を果すが、徐々に独裁的になっていった政権に対する国民の反対運動の高まりや 、汚職への批判を受け、11月21日に訪問先の日本から大統領職を辞職した。顧問のモンテシノスに行わせていた買収工作や諜報機関ペルー国家情報局(スペイン語版、英語版)の存在が明らかになり、フジモリ政権は幕を閉じた。しかし、汚職での失敗支持を失ってなお、経済・治安で大きな役割を果たし、21世紀においても地方を中心に大きな支持を受けている。 2001年の選挙により、「可能なペルー(スペイン語版、英語版)」(Perú Posible)から先住民初(チョロ)の大統領、アレハンドロ・トレドが就任した。貧困の一掃と雇用創出、政治腐敗の追及を公約とした政権は、しかし経済政策は成果を上げることはできず、国民の支持は下り坂。左翼ゲリラによるテロ活動も復活し治安は悪化している。 2006年の選挙により、アメリカ人民革命同盟(アプラ)から、16年ぶりにアラン・ガルシアが再び大統領に就任した。2007年8月15日に発生したペルー地震によって、死者540人、負傷者1,500人以上、被災者数85,000人が報告されている。2009年4月7日、ペルーの最高裁特別刑事法廷は、元大統領アルベルト・フジモリ被告に対し、在任中の市民虐殺事件や殺人罪などで禁固25年(求刑30年)と被害者や遺族への賠償金支払いを命じる有罪判決を言い渡した。 2006年の選挙でアラン・ガルシアに敗北したオジャンタ・ウマラが2011年大統領選挙で勝利し左派政権が誕生した。格差の縮小や富の再分配に重点を置いた政策を表明したが、実際には市場寄りの中道左派政策を取った。2012年2月13日にセンデロ・ルミノソの残党リーダーのフロリンド・フロレスを銃撃戦の末、身柄を拘束した。拘束を受けてオジャンタ・ウマラ大統領は、テレビ放送にて「センデロ・ルミノソはもはやペルーにとって脅威ではない。」と演説を行った。 2017年、オジャンタ・ウマラ大統領は、ブラジルの建設会社をめぐる汚職(オペレーション・カー・ウォッシュ)を理由に罷免されるとペドロ・パブロ・クチンスキが大統領に就任。しかし2018年3月21日、ペドロ・パブロ・クチンスキにも、同じ汚職事件に関与していた疑いが高まり、罷免決議案が採決される直前に辞職、副大統領職にあったマルティン・ビスカラが大統領に就任した。この建設会社をめぐる汚職事件は、ペルー政界を揺るがし続け、2019年4月17日には、2011年まで大統領を務めていたアラン・ガルシアが自殺。これも同じ汚職事件に関与した疑いで逮捕される直前の出来事であった。 2020年11月9日、マルティン・ビスカラ大統領がモケグア県知事時代の汚職を理由に罷免され、10日、マヌエル・メリノ国会議長が大統領に就任した。しかしこれに抗議するデモが相次ぎ、15日、メリノも辞任を発表。16日、元世界銀行職員のフランシスコ・サガスティが新大統領に選出された。わずか1週間に3人の大統領が存在したこととなった。2021年7月28日、急進左派のペドロ・カスティジョが大統領に就任。グイド・ベジド(ベリド)が首相に指名されたが、過激な発言で野党と対立して国会運営に行き詰まり、10月6日辞職した。 2022年12月7日、議会で弾劾が審議される数時間前にカスティジョは、議会を解散して大統領令による統治を開始し、2023年9月までに議会選挙を行うと表明。議会は大統領決定を認めずカスティジョを解任し、ディナ・ボルアルテ副大統領を新大統領とすることを賛成101、反対6、棄権10票で決定。ベッツィー・チャベス(英語版)首相をはじめ閣僚は辞任し、カスティジョは失職した直後に亡命のためメキシコ大使館へ向かったが途中で国家警察に反逆容疑で拘束され、首都リマ近郊の警察施設に収監された。 ペルー国内ではデモ活動が活発化し、一部は新大統領の辞任や新憲法の制定、議会の解散を要求し始めた。12月16日にはコレア教育相とペレス文化相が辞任を表明した。 大統領を元首とする共和制国家であり、行政権は大統領が行使する。大統領、副大統領共に普通選挙によって選出され、任期は5年。現行の憲法は1993年憲法であり、同憲法の規定では大統領の権限が強力であるが、大統領の再選は2000年の憲法改正により禁止されている。また、大統領によって首相に当たる閣僚評議会議長が任命される。 立法権は一院制の共和国議会によって担われ、議会の定数は120人となっている。 司法権は最高裁判所によって担われる。 1980年ごろから反政府左翼ゲリラの活動が活発になった。センデロ・ルミノソとトゥパク・アマルー革命運動(MRTA)が反政府活動の主流である。これら左翼ゲリラの活動と軍との衝突によって、農村部の人口を中心に3万人を超える犠牲者が出たと言われている。 1990年に誕生したフジモリ政権は治安回復に取り組んだが、少数与党であった為議会運営に問題を抱えていた。そのため議会と憲法を停止するという強引な方法で全権を掌握し、対ゲリラの治安対策と経済対策を行った。この手法は民主主義に反すると諸外国から抗議があったが、センデロ・ルミノソのグスマンをはじめとする左翼ゲリラの最高責任者を逮捕するなど治安回復に効果をあげた。経済政策にもインフレ抑制など特筆すべき成果を挙げており、貧困層からは未だに人気が高い(要出典)。 2006年まで死刑の適用は国家反逆罪のみ、一般の刑法犯は終身禁固を最高刑とする一般犯罪における死刑廃止国だったが、アラン・ガルシア大統領は、選挙公約の一つに掲げていた、7歳未満の子供に、性的暴行を加え殺害した被告への死刑適用を認める法案を、この年の9月21日に議会へ提出した。現在、その審議が行なわれている。背景には、日本の広島県で2005年に発生した広島小1女児殺害事件の容疑者が母国ペルーで同様の犯行を行っていたことや、年少者に対する性犯罪の厳罰化を求める世論が同国で高まり殺害した場合の死刑適用に8割が賛成するなどの世論調査の結果が挙げられる(2006年9月22日付時事通信「子供への性的暴行殺人に死刑適用:ペルー大統領が法案提出」より)。 ラテンアメリカ諸国全体の傾向としては、現在ほぼ全ての国が一般犯罪に対する死刑を廃止し、死刑制度を存続している国も10年以上死刑を執行していない。 かつて徴兵制が敷かれており、成人男子は2年間の兵役の義務を有していたが、1999年に廃止されて志願兵制を採用している。 1960年代後半からベラスコ将軍の革命政権時代にソ連との友好が図られたため、1980年の民政化後もペルー軍は基本的には東側の装備である。ペルーにおいて軍隊、特に陸軍はメスティーソやチョロといった貧しい階層の出世が可能な唯一の組織であったといっても過言ではなく、サンチェス・セロやベラスコ・アルバラードなど、過去にクーデターで政権を握った軍人にもそういった階層の出身者は多かった。こうしたある意味で民主的な陸軍の伝統がある一方、対照的に海軍はイギリス海軍の影響を受けて貴族的であり、多くの機会において有色人種や身分の低い階層よりも白人が優先されていた。 軍隊は憲法の番人を自認しており、文民政権が違憲的な政策を行った場合にそれをたしなめ、憲法に沿った形で公正な政治を文民に行わせるのが、長らく軍隊の役割であるとされてきた。 ペルー陸軍は兵員約76,000人(2001年)を擁している。 ペルー海軍は兵員約26,000人(2001年)を擁している。 ペルー空軍は兵員約18,000人(2001年)を擁している。 24の県(departamentos)とカヤオ特別区(Provincia Constitucional del Callao)によって編成されている。 主要な都市はリマ(首都)、アレキパ、トルヒーリョ、チクラーヨがある。 ペルーの国土は三つの地形に分けられ、砂漠が広がる沿岸部のコスタ(es、国土の約12%)、アンデス山脈が連なる高地のシエラ(es、国土の約28%)、アマゾン川流域のセルバ(es、国土の約60%)である。このように3つに分けられる地形に加え、さらにコスタとシエラでは北部、中部、南部の違いがあり、それも大きなペルーの地域性の違いとなっている。気候としてはペルーは基本的には熱帯であるものの、標高の差や南北の差により各地域で大きな違いがある。 コスタは太平洋から東に向けて標高500mまでの地点を指し、この幅50kmから150km程の狭い地域にペルー国民の半数以上が居住している。砂漠であるものの、フンボルト海流の影響で緯度の割には気温は一年を通して過ごしやすく、最も暑い2月の平均気温が22°C、最も寒い8月の平均気温も14°Cであり、灌漑を行えば通年で農耕が可能な土地である。ただし、後述するように海流の関係で霧が発生し、湿度は非常に高い。冬の日はどんよりとした天気が続く。人が住めるのは古代からずっと砂漠の間を通る川の流域や、湧き水で出来たオアシスの周囲のみであり、前インカ期からこうした地域に古代文明が栄えていた。なお、こうした河川はコスタに50以上ある。 シエラはコスタの終わるアンデス山脈の西斜面の標高500m以上の地域から、東斜面の標高1,500m程までの地域を指し、その標高によってシエラ内でも幾つもの地域に細分化されている。標高2,000m以下の暑い地域をユンガといい、この地域ではコーヒー、果物などの亜熱帯作物が育つ。標高2,500mから3,500mまでの温暖な地域をケチュア(キチュア)といい、タワンティンスーユの中心だったクスコもこの範囲内にあった。この地域ではジャガイモが育つ。標高3,500mから4,100mの冷たく涼しい地域をスニといい、リャマやアルパカの放牧に適している。4,100m以上の人間の居住には適さないぐらい寒冷な地域をプーナと呼ぶ。 シエラの農村部では、インディヘナ(ペルーでは公式にはカンペシーノ=農民と呼ばれる)の農民が、インカ帝国時代とあまり変わらない形態の農業を続けており、アイユと呼ばれる村落共同体の伝統が未だに重要な経済単位となっている。 セルバ(モンターニャ)はアンデス山脈東斜面の標高2,000m以下の地域を指す。標高2,000mから500mがセルバ・アルタとなり、豆やバナナなどの熱帯作物が育つのはこの地域である。標高500m以下はセルバ・バハとなり、かつてゴムや砂金のブームが起きたのはアマゾンのこの地域である。 ペルーの太平洋沿岸には寒流のペルー海流(フンボルト海流)と暖流が流れており、2つの海流がぶつかることによってペルー沖は好漁場となっている。 ペルーの国土を南北にアンデス山脈が貫いており、アンデス山脈は西部のオクシデンタル山脈(スペイン語版)、中央部のセントラル山脈(スペイン語版)、東部のオリエンタル山脈(スペイン語版、英語版)に分かれる。国内最高峰はオクシデンタル山脈のウアスカラン山(6,778m)である。 アンデス山脈から多くの川が東西に流れており、西に流れる川はコスタの砂漠を潤す役割を果す。アマゾン川の源流もアンデス山脈のミスミ山(スペイン語版、英語版)にあり、アマゾン川はペルー最大の河川となっている。また、北部を流れるプトゥマヨ川はペルーとコロンビアの国境線を形成している。 ペルーとボリビアの国境地帯のティティカカ湖は両国最大の湖となっている。 2021年のペルーのGDPは2,259億ドル、1人当たりのGDPは6,680ドルである。 アンデス共同体の加盟国、メルコスールの準加盟国であり、アジア太平洋経済協力と南米共同体の加盟国でもある。 現行の通貨はs/. ヌエボ・ソル Nuevo Sol(訳 : 新しいソル。ソルは太陽を表す。かつての通貨ソルに代わって導入された)その下に補助通貨単位としてセンティモ(Centimo)、s/.1=100Centimosが存在する。 産業の中心は、銅・鉛・亜鉛・銀・金などの鉱業である。特に銀は世界第2位の産出量である(2003年)。石油やガスなどの天然資源も産出する。ただし、鉱山の近くでは、適切な環境保全対策や、住民の保護が全く行われておらず、周辺住民は住まいを追われ、鉱毒に侵されている。 また、漁業は古くから盛んであり、1960年代には漁獲高で世界一を記録していた。2003年においても中華人民共和国に次いで世界第2位の漁獲高を記録。水産業もペルーの主要な産業であると言える。 2021年の輸出額は573億3,700万ドル、輸入額は510億8,300万ドルとなった。 輸出相手国上位5カ国は中国、アメリカ、韓国、日本、カナダであり、中国とアメリカの2カ国で輸出額の約45%を占めている。主要輸出品は銅、金、亜鉛などの鉱物資源や、ブドウ、ブルーベリー、アボカドなどの農産物である。ペルーは2020年にブルーベリーで世界2位、アボカドで世界4位の生産国となった。輸入相手国上位5カ国は中国、アメリカ、ブラジル、アルゼンチン、メキシコであり、中国とアメリカの2カ国で輸入額の約47%を占めている。主要輸入品は燃料や輸送機器、電気製品などである。 2021年の日本の輸出額は10億2,500万ドル、日本の輸入額は29億3,300万ドルとなり、日本がペルーから輸入する金額の方が多くなっている。ペルーへの輸出品は自動車、電気製品、タイヤなどである。ペルーからの輸入品は銅、亜鉛、鉄などの鉱物資源、原油、天然ガスなどである。 植民地時代にリマがペルー副王領の首都であり、そのため独立前からクリオージョ支配層がグアテマラ、メキシコと並んでラテンアメリカで最も貴族的な階層を築き上げていた。独立後もその傾向が是正されず国民意識が白人層にしか共有されなかったという問題は現在も続く。しかし2001年7月28日 - 2006年7月28日までチョロ(インディオ系ペルー人)の愛称で有名になったアレハンドロ・トレドが大統領に上ったことから現在国民意識が変わりつつある。 現在のペルー人に共通し、これがペルー人であるという答えは多様な人種から生まれた文化であることだ。 ペルーの民族構成はメスティーソ45%、インディヘナ(先住民、公式にはカンペシーノなどと呼ばれる)37%、ヨーロッパ系ペルー人15%、アフリカ系ペルー人、中国系ペルー人(華人)と日系をはじめとするアジア系ペルー人などその他3%とされており、非常に複雑で多様な人種から構成されている。長らく日系ペルー人は8万人といわれてきたが、この調査は数十年前に行なわれたものであり、しかも当時、ペルー国外に住む日系ペルー人は調査対象とはならなかったうえ、日本人の血の割合が低い混血の人たちをカウントしなかった。これらの事実と、その後の自然増を勘案すれば、現在の日系ペルー人は数十万に達している可能性がある。 インディヘナに関してはケチュア人とアイマラ人が圧倒的に多いが、セルバのアマゾン低地にも多数の民族集団があり、近年彼らの文化の独自性がどれだけ保たれるかが懸念されている。 アフリカ系ペルー人は植民地時代にコスタの大農園での労働力として導入された黒人奴隷の子孫である。アフリカ系ペルー人の文化はコスタの音楽や舞踊、宗教、食文化など広範な分野に大きな影響を与えている。 ヨーロッパ系ペルー人としては、植民地時代からのスペイン人の他に、イタリア人、フランス人、ドイツ人、バスク人などが1850年から1880年の間に2万人ほど流入した。 アジア系ペルー人としては、やはり1850年から1880年の間に10万人ほどの中国人(クーリー)が流入し、コスタの現地文化に同化した。中国人の導入が廃止された後は日本人が導入され、1899年から1923年までの間に2万1000人の日本人が契約移民として流入した。ヨーロッパ系もアジア系も移民は1854年の黒人奴隷解放後に、黒人奴隷に代わってのコスタのプランテーションでの労働力として導入された。 その他のマイノリティとしてはアラブ人、ユダヤ人、アメリカ人など。他のラテンアメリカ諸国からやってきた人間も少なからずいる。 インカ帝国時代に1,000万人を越えていたと推測されている人口は、植民地時代に急激に減少し、独立直後の1826年に約150万人となっていた。その後1961年の国勢調査で10,420,357人、1972年では13,538,208人、1983年年央推計では約1,871万人となった。 1940年代から始まったシエラからコスタ(特にリマ)への国内移民のため、現在のリマは人口800万人の大都市圏を形成しており、これはペルーの総人口の約30%程である。 人口増加率 : 1.39% 公用語はスペイン語(ペルー・スペイン語)、ケチュア語(1975年から)、アイマラ語(1980年から)であり、人口の大部分はスペイン語を話す。セルバのアマゾン低地では、先住民によって独自の言語が話されている。 シエラのインディヘナの多くはケチュア語を話す。アイマラ語話者はティティカカ湖沿岸のプーノ県に特に集中しており、ボリビアのアイマラ語文化圏と文化的に連続している。 国立統計情報機構(INEI)による2007年実施の第11回国勢調査結果では、当時12歳以上の国民の81.3%がローマ・カトリック、12.5%はプロテスタント、3.3%はユダヤ教・モルモン教・エホバの証人などの他宗教、2.9%は特定宗教なしとなっている。カトリックの数は減少傾向が観察され、同機構による調査数値の推移では、1993年から2007年にかけてのカトリックが89%から81%に減少している。 スペイン人による征服以来ペルーに住む人々はキリスト教を受容していったが、それでもペルー土着の宗教的要素が完全に消え去ったわけではなく、先住民の伝統宗教と独自の融合、背反を重ねて現在に至っている。 伝統的には、スペイン語圏であるため、婚姻後の女性の姓は、自己の姓に相手の姓をdeを挟んで後置したものであるが、女性の権利を守る立場から近年法律が改定され自己の名前のみを名乗る夫婦別姓や、相手の姓を名乗ることも選択できるようになった。 6年間の初等教育と5年間の中等教育、6歳から16歳までの計11年間が義務教育期間である。その後に、大学(10学期=5年間)、専門学校などに進学することができ、またそれらに進学するための予備校などもある。 国立情報統計機構(INEI)が2017年9月に発表した2016年全国世帯アンケート(ENAHO)のデータによれば、識字人口は2147万4000人、15歳以上識字率は94.1%である。2006年から2016年の10年間で男性が1.7%(95.4%→97.1%)、女性が4.8%(86.2%→91.0%)向上している。 主な高等教育機関はサン・マルコス大学(1551)、ペルー・カトリカ大学、太平洋大学(1962)など。 ペルーで提供されている医療保険は、公的保険と民間保険に分けられる。公的保険には学生や妊婦、定職のない貧困者を対象とした統合健康保険(Seguro Integral de Salud : SIS )と、正規雇用者を対象とした社会保険がある。民間保険には民間保険会社が独自で運営するものと民間保険会社と政府が協力して運営するものとがあり、より良い医療サービスを求める富裕層を対象にしている。その他、国軍や国家警察を対象とした医療サービスなどがある。受診できる医療機関は保険の種類に応じて異なる。 SISの課題は4点あると考えられる。1点目は、SISへの加入者が増加しているにもかかわらず、医療施設の数が増えていないことである。2点目は、老朽化した施設が多いことである。施設、設備が共に老朽化しているため、衛生上の問題に不安が残る。3点目は、都市と地方の格差である。医療従事者全体の約3割、医師では約4割がリマ州に集中しているため、地方では正規の資格を持った医師が不足している。また、医療器具などの不足もあり、地方では十分な医療サービスを提供できていない場合が多い。4点目は、SISと社会保険のどちらにも加入できない人がいることである。SISに加入するためには収入などの審査を受ける必要がある。その審査基準に当てはまらない非正規雇用者や、社会保険費用を負担できない中小企業の雇用者はSISへも社会保険へも加入することができない。そのため、このような雇用者に対して新たな保険制度の導入を検討している。 ペルーの文化はインカ帝国や、それ以前から続く前インカ期からのインディヘナの文化と、16世紀にペルーを征服したスペイン人の文化に根を持ち、その上にアフリカ系住民や近代になって移住してきたアジア系、ヨーロッパ系の諸民族の影響も受けている。 費が多く、その後入ってきた米、パスタ、パンも多く消費されている。また高地の特産物で高栄養価のキヌアの消費も少なくない。 ペルーの食文化は高地、海岸地帯、アマゾンの密林地帯で食材の違いもあり大きく異なる。海岸地帯(コスタ)で育ったクリオーヨ料理はペルー料理を代表するひとつであり、黒人、インディヘナ、スペイン人、中国人、日本人、イタリア人などの多様な国民の影響を受けて独特のペルー料理を形成している。海岸地帯の料理にはセビッチェのように魚介類を豊富に使った料理が多い。シエラ(山岳地帯)では旧文明の食文化が多く残っており パチャマンカ料理やエクアドルやボリビアのように、クイと呼ばれる天竺鼠や、アルパカの肉も貴重な蛋白源として食べられている。アマゾンの密林地帯では料理用のバナナ(プランテイン)を含め多くのフルーツやアマゾンで獲れる淡水魚(ピラニアも含め)や陸生の動物も食べられている。 トウモロコシを発酵させて作る独特なアルコール飲料のチチャは古代よりアンデス地方で飲み続けられている。 独自のビールのブランドは、クリスタル、クスケーニャ、アレキペーニャなどの銘柄があり、清涼飲料水ではブランドにインカ・コーラがある。また、いろいろなハーブティーが薬用としても飲まれており、ボリビアやアルゼンチン北西部と同様にコカ茶も供されている。 ペルー文学は先コロンビア期の文明に根を持ち、植民地時代はスペイン人が年代記や宗教文学を書いた。特にインカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガが著した『インカ皇統記(スペイン語版、英語版)』はその後のインカ帝国のイメージ形成に大きな影響力を持った。 ペルーの小説は独立後の1848年にナルシソ・アレステギにより、ペルーで初めての小説『オラン神父』が書かれてから始まった。コストゥンブリスモやロマン主義が最も主流のジャンルとなり、リカルド・パルマの『ペルー伝説集』やクロリンダ・マットの『巣のない鳥たち』などがその例である。また当時ラテンアメリカで流行していた、ニカラグアのルベン・ダリオ、ウルグアイのホセ・エンリケ・ロドーから始まったモデルニスモの流れを引いた詩人としてホセ・サントス・チョカーノ、ホセ・マリア・エグーレンなどの名が挙げられる。 20世紀初頭にはインディヘニスモ運動が起こり、文学にも影響を与えた。既に19世紀末の太平洋戦争敗北後、マヌエル・ゴンサレス・プラダはインディオを重視する論陣を張っていたが、これは1920年代から1930年代のホセ・カルロス・マリアテギのインディヘニスモ思想に結びつき、さらにその流れは20世紀半ばから後半にはシロ・アレグリア、マヌエル・スコルサ、ホセ・マリア・アルゲダスらによってシエラのインディオの生活を写実的に描いた文学となって完成された。 その一方で同じく20世紀後半にはコロンビアのガルシア・マルケスと共に、ラテンアメリカ文学ブームを牽引したマリオ・バルガス・リョサや、フリオ・ラモン・リベイロ、アルフレド・ブライス・エチェニケらの活躍により、ペルー文学はより身近なものになった。 ペルーの音楽としてはヨーロッパ由来のバルス・ペルアーノ(ペルー・ワルツ)や、ヨーロッパとアフリカの要素の入り混じったマリネラや、アフロ・ペルー音楽に代表される、コスタのクリオーリャ音楽(クレオール音楽)や、あるいはシエラで生まれたワイニョなどのフォルクローレなど有名である。 特にマリネラ(マリネラ・ノルテーニャ)は舞踊として有名で、Baile Nacional(国の踊り)と称される。ブラジルのサンバや、アルゼンチンのタンゴと並ぶ南米3大舞踊の一つに挙げられ、ペルーの無形文化遺産に登録されている。 また、競技ペアダンスとして毎年1月にペルーで世界大会が開催されている。ヨーロッパや南北アメリカ大陸に競技者が多く、アジアでは唯一、日本でも毎年各地でコンクールが開催されている。 また、現在はコスタ、シエラ、セルバと地方を問わず、国内の全域において、キューバ生まれのサルサが愛好されている。しかし、特に世界的に知られているのはやはり、『コンドルは飛んで行く』をはじめとするケーナやチャランゴを使ったアンデスのフォルクローレである。 クリオーリャ音楽は、ペルーに土着したアフリカやヨーロッパの音楽を総称する言葉であり、特にコスタで発達した音楽を表す。クリオーリャ音楽は長らくコスタ唯一の大都市だったリマで育ち、19世紀末ごろに現在の形となった。このころの音楽家としては特にフェリペ・ピィングロ・アルバの名が挙げられる。クリオーリャ音楽は基本的に貧困層や大衆の音楽であったが、ラジオやレコードの普及に伴い、1950年代からブームを迎えた。チャブカ、スサーナ・バカ、ルーチャ・レジェス、タニア・リベルタ、エバ・アジョンなどの音楽家や作曲家が活躍した。カホンやギロ、クラベスなどの使用で特徴的なアフロ・ペルー音楽はペルー国外での関心も高く、著名な音楽家としてビクトリア・サンタ・クルスとニコメンデス・サンタ・クルス姉弟の名が挙げられる。 ポピュラー音楽の世界では、中産階級によってロックが愛好されているが、ペルー・ロックはラテンアメリカ市場でもあまり成功しているとはいえない。代表的なミュージシャンとしてはロス・サイコス、ウチュパ、ミキ・ゴンサレスなど。ワイニョとクンビアのクロスオーバー音楽であるチチャ(テクノ・クンビア)などもリマで愛好されている。 ペルー国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が8件、自然遺産が2件、複合遺産が2件存在する。 ペルー国内でも他のラテンアメリカ諸国と同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1928年にプロサッカーリーグのプリメーラ・ディビシオンが創設された。主なクラブとしてはウニベルシタリオ・デポルテス、アリアンサ・リマ、スポルティング・クリスタルなどが挙げられる。ペルー人を代表する著名なサッカー選手としては、クラウディオ・ピサーロ、パオロ・ゲレーロ、ジェフェルソン・ファルファンなどがいる。 ペルーサッカー連盟(FPF)によって構成されるサッカーペルー代表は、FIFAワールドカップには5度の出場歴をもつ。これまで1982年大会で出場したのを最後に予選敗退が続いていたが、2018年大会で36年ぶりに出場を果たした。コパ・アメリカでは自国開催となった1939年大会と、南米選手権からコパ・アメリカに名称が変更された最初の大会である1975年大会で、優勝を果たしている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ペルー共和国(ペルーきょうわこく、ケチュア語族: Piruw Republika、アイマラ語: Piruw Suyu)、通称ペルーは、南アメリカ西部に位置する共和制国家。首都はリマ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "北にコロンビア、北西にエクアドル、東にブラジル、南東にボリビア、南にチリと国境を接し、西は太平洋に面する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "紀元前から多くの古代文明が栄えており、16世紀までは当時の世界で最大級の帝国だったインカ帝国(タワンティン・スウユ)の中心地だった。その後スペインに征服された植民地時代にペルー副王領の中心地となり、独立後は大統領制の共和国となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "公用語による正式名称は、スペイン語表記では「República del Perú()」。ケチュア語、アイマラ語表記は共に「Piruw」である。通称は Perú。公式の英語表記は「Republic of Peru()」で、国民・形容詞はPeruvianで表される。日本語表記による正式名称の訳はペルー共和国。通称はペルー。漢字表記では秘露, 平柳と記される。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ペルーという言葉の語源には諸説あるが、16世紀始めにパナマ地峡のサン・ミゲル湾付近を支配していたビルーという首長に由来し、パナマの南にビルーという豊かな国が存在するとの話を当地の先住民から伝え聞いたスペイン人が転訛してピルーと呼ぶ様になり、それがペルーになったというものが最も有力な説である。その後、スペイン人のコンキスタドールによってインカ帝国はペルーと呼ばれ、そこからペルーという言葉がこの地域を指す名称となった。植民地時代にはペルー副王領が成立し、19世紀に独立した後もペルーの名が用いられている。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "紀元前3000年から紀元前2500年ごろにスーペ谷に、カラル(Caral)という石造建築を主体とするカラル遺跡(ノルテ・チコ文明(英語版))が現れる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1000B.C.ごろ - 200B.C.ごろ、アンデス山脈全域にネコ科動物や蛇、コンドルなどを神格化したチャビン文化が繁栄する。その後、コスタ(スペイン語版)北部にモチェ文化がA.D.100ごろ - A.D.700ごろ、現トルヒーリョ市郊外に「太陽のワカ」「月のワカ」を築き、コスタ南部では、A.D.1ごろ - A.D.600ごろに、信仰や農耕のための地上絵を描いたナスカ文化が繁栄した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "紀元800年ごろ、シエラ(スペイン語版)南部のアヤクーチョ盆地にワリ文化が興隆した。ティワナクの宗教の影響を強く受けた文化であったと考えられ、土器や織物に地域色は見られるものの統一されたテーマが描かれること、いわゆるインカ道の先駆となる道路が整備されたこと、四辺形を組み合わせた幾何学的な都市の建設などからワリ帝国説が唱えられるほどアンデス全域にひろがりをみせ、1000年ごろまで続いたと考えられる。コスタ北部のランバイエケ地方には、金やトゥンバガ製の豪華な仮面で知られるシカン文化がワリ文化の終わりごろに重なって興隆した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "その後、コスタ北部にはチムー王国が建国され、勢力を拡大した。首都チャン・チャンの人口は25,000人を越え、王の代替わりごとに王宮が建設されたと思われる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "15世紀になりクスコ周辺の南部の山岳地帯が、1438年に即位したケチュア人の王パチャクテクによって軍事的に統一されると、以降は征服戦争を繰り広げて急速に勢力を拡大してきた、ケチュア人によるタワンティン・スウユ(ケチュア語族: Tawantin Suyu、インカ帝国)によってペルー、および周辺のアンデス地域は統合される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "続くトゥパク・インカ・ユパンキの代になると、チムー王国も1476年ごろに征服されて、その支配体制に組み込まれた。続くワイナ・カパックの征服によりアンデス北部にも進出し、アンデス北部最大の都市だったキトを征服することになる。またワイナ・カパックはマプーチェ人と戦ってチリの現サンティアゴ・デ・チレ周辺までと、アルゼンチン北西部を征服し、ユパンキの代から続いていた征服事業を完成させ、コジャ・スウユ(ケチュア語族: Colla Suyo、「南州」)の領域を拡大させると共にインカ帝国の最大版図を築いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "インカ帝国はクスコを首都とし、現ボリビアのアイマラ人の諸王国や、チリ北部から中部まで、キトをはじめとする現エクアドルの全域、現アルゼンチン北西部を征服し、その威勢は現コロンビア南部にまで轟いていた。インカ帝国は幾つかの点で非常に古代エジプトの諸王国に似ており、クスコのサパ・インカを中心にして1200万人を越える人間が自活できるシステムが整えられていた。帝国は16世紀初めごろまで栄えていたが、いつのころからか疫病が流行し(パナマ地峡から南にもたらされたヨーロッパの疫病である)、帝位継承などの重大な問題を巡ってキト派のアタワルパと、クスコ派のワスカルの間で激しい内戦(スペイン語版、英語版)(1529年 – 1532年)が繰り広げられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "内戦はアタワルパの勝利に終わったが、内戦の疲弊の隙にパナマからコスタ北部に上陸したフランシスコ・ピサロ率いるスペインの征服者たちがインカ帝国を侵略することになった。征服者達は手早くクスコを征服すると、1533年に第13代皇帝アタワルパを絞首刑にして、アンデスを支配していた帝国としてのインカ帝国は崩壊した。ピサロは1534年にリマ市を建設すると、以降このコスタの都市が、それまで繁栄していたクスコに代わってペルーの中心となる。その後、1572年にスペイン人の支配からビルカバンバに逃れていた最後の皇帝トゥパク・アマルーが捕らえられて処刑され、インカ帝国はその歴史の幕を閉じた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "植民地下のペルーでは、最初期は南アメリカ全体を統括していたペルー副王領の首都が高山のクスコから太平洋沿岸のリマに移され、金銀などの鉱物の搾取が宗主国スペインによって行われた。ミタ制によってポトシ鉱山開発に酷使された先住民の多くは苦役の末に死亡し、その数は100万人とも言われる。どれだけの人口減があったかは定かではないが、少なくとも全盛期にインカ帝国の人口が1600万人が最高だといわれたのが、18世紀末のペルーでは108万人になったといえば、その凄まじさが理解できるであろう。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "このような状況の中で1780年、インディヘナやメスティーソは、クリオージョに対する反抗とスペイン王への忠誠を唱え、トゥパク・アマルー2世を首謀者にした反乱(スペイン語版、英語版)(1780年 - 1782年)を起こした。この反乱は、当初は白人も含んだ大衆反乱だったが、次第にインカ帝国の復興という目標を掲げて、白人に対する暴行、殺害が相次ぐようになると、当初協力的だった白人の支持も次第に失って行き、トゥパク・アマルー2世は遂に部下の裏切りにより捕らえられ、先祖と同様にクスコの広場で処刑された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "18世紀末から19世紀初めにかけてのフランス革命以来のヨーロッパでの混乱を背景に、ナポレオン戦争によるヨーロッパでの政変により、スペイン本国にナポレオンのフランス軍が侵入し、兄のジョゼフ・ボナパルトを国王ホセ1世として即位させると、それに反発する民衆の蜂起が起きスペイン独立戦争が始まった。インディアス植民地は偽王ホセ1世への忠誠を拒否した。そのような情勢の中で、シエラからマテオ・ガルシア・プマカワ(英語版)が蜂起し、しばらくシエラの主要部を占領したが(クスコの反乱(スペイン語版、英語版))、結局プマカワも破れた。1821年7月28日にはるばるラ・プラタ連合州から遠征軍を率いてリマを解放した、ホセ・デ・サン・マルティンの指導の下に独立を宣言したが、副王政府は支配に固執し、シエラに逃れて抵抗を続けた。しかし、1824年に北のベネスエラからコロンビア共和国の解放軍を率いた解放者シモン・ボリーバルの武将、アントニオ・ホセ・デ・スクレがワマンガに攻め込んだアヤクーチョの戦い(英語版)でペルー副王ホセ・デ・ラ・セルナ(英語版) (エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナの母方の先祖)を撃破し、ペルーは外来勢力の二人の英雄に解放される形で事実上の独立を果たすことになった。しかし、それがただちにインカ帝国や、インディヘナ、メスティーソ、奴隷として連れて来られた黒人といった人々の復権に繋がったわけではなかった。独立時の戦いにより農業も鉱業も荒廃しきっており、インカ帝国の最盛期に全土で1600万人を越えたと推測される人口は、1826年にはペルーだけで150万人になっており、うち14万8000人、人口の一割にすぎない白人が以降百数十年間以上ペルーの国政を動かしていくことになる。1828年、ペルーの事実上の支配者だったカウディーリョ、アグスティン・ガマーラ(英語版)は、ペルーをインカ帝国の後継国家だと考えて、旧インカ帝国の領土を回復するために、またペルーとボリビアの指導層が共に抱いていたお互いを統合しようとする動きから、ボリビア共和国(ボリーバルの共和国)として独立を果たしたアルト・ペルーを併合しようと軍を送ったが、スクレ大統領に打ち破られてしまった。しかし、ガマーラのこの試みはその後も続き、今度はグアヤキル(現エクアドル最大の港湾都市)を要求してコロンビア共和国に宣戦布告するが、これもコロンビアに帰国したスクレに打ち破られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1836年にボリビアのアンドレス・デ・サンタ・クルス大統領によってペルーは完全征服され、南ペルー共和国と北ペルー共和国に分けられて、1836年10月にペルー・ボリビア連合の成立が宣言された。ガマーラをはじめとする亡命ペルー人はチリに亡命して、チリ政府とアルゼンチンのフアン・マヌエル・デ・ロサスの力を得て軍を動かし、サンタ・クルスを破ると1839年にこの連合は崩壊した(連合戦争(スペイン語版、英語版)、ペルー・ボリビア戦争とも)。再び独立したペルーはガマーラが大統領となった。1841年、再びボリビア併合を望んだガマーラは侵攻軍を率いてボリビアに向かうが、ボリビア軍によって撃退され、インガビの戦い(英語版)でガマーラ自身も戦死すると、翌1842年にプーノで講和条約が結ばれ、以後両国の統一を望む運動はなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1845年にラモン・カスティーリャ(英語版)が政権に就くと、この時代に強権によって政治は安定し、肥料に適していた海岸部のグアノ(海鳥の糞からなる硝石資源)や、コスタでの綿花やサトウキビが主要輸出品となってペルー経済を支え、グアノから生み出された富によって鉄道や電信などが敷設され、この時期にリマでペルー独自の文化としてのクリオーヨ文化が育った。また、軍隊の整備も進んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1854年に奴隷制が廃止され、黒人奴隷が解放されると、ペルーの指導層はコスタでのプランテーションで働く労働力を移民に求め、中国人が導入された。苦力(クーリー)として導入された中国人の数は1850年から1880年の間に10万人を越えた。1858年、エクアドル・ペルー戦争(スペイン語版、英語版)(1858年 - 1860年)。1866年にスペイン軍が南米再征服を図って侵攻したが、ペルーはこれをカヤオでの戦いで撃退した(チンチャ諸島戦争(英語版))。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1879年4月3日にはそれまで問題になっていたアントファガスタのチリ硝石鉱山を巡って、同盟国ボリビアと共に チリ に宣戦布告され、三国で太平洋戦争を争った。ペルー兵は勇敢に戦ったが、制海権を握ったチリ軍にリマを占領されて敗北し、アリカとタクナをチリに割譲することとなった。同時にこのころには貴重な資源であったグアノの鉱山も荒廃してしまった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "太平洋戦争後、ペルーは債務不履行に近い状態に付け込まれ、19世紀には豊富な地下資源に着目したアメリカ合衆国や英国の経済支配が進むが、同時にそれまで全く省みられることのなかったシエラのインディヘナの文化に、ペルー性を求める言説が生まれるようになった。 太平洋戦争が終わった後もペルーの政治は原則としては軍人統治だったが、1895年に文民のニコラス・デ・ピエロラ(英語版)が政権を握り、ペルーは「貴族共和国」時代を迎えた。これ以降ペルーでも文民が政治を握るようになったのである。1908年には寡頭支配層の分裂の間隙をぬってアウグスト・レギーア(英語版)政権が誕生。20年にわたる独裁を敷いた。1919年から11年間続く第二次レギーア時代に交通が充実し、結果的にシエラがペルー国家に統合されることになる。その一方で帝国主義や白人支配に反発してビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレ(英語版)によって、1924年に亡命先のメキシコで「アメリカ人民革命同盟」(アプラ党)が設立された。また、ホセ・マリアテギらのインディヘナ知識人層によってインディヘニスモ運動が盛んになるのもこのころである。1920年代にはアヤ・デ・ラ・トーレ(英語版)がアメリカ人民革命同盟による政権奪取を狙ったが軍部に阻まれ失敗。それ以降アプラ党は国民主義路線を放棄し、支配体制に組み込まれた。1929年にはタクナがチリから返還されたが、アリカの返還は行われず、これはペルー国民に強い不満を与えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "世界恐慌後、経済を輸出依存していたペルーは急激に不安定になった。政治面ではレギーアが失脚して軍部とアプラの対立が続き、1931年の選挙でアプラ党のアヤを破った軍人のサンチェス・セロ大統領は、ポプリスモ的な政治を始めた。セロは1932年にペルー人の過激派から始まったレティシア占領運動に乗じて、コロンビアからレティシアを奪おうとしコロンビア・ペルー戦争を引き起こすが、この企ては失敗した。サンチェス・セロの暗殺後、ペルー議会はオスカル・ベナビデス(英語版)将軍を臨時大統領に選んだ。ベナビデスはコロンビアとの戦争を収め、アプラ党との協調を計ったが、アプラ党によるテロが激化した。任期が終わる1936年の選挙でアプラを含む左翼が勝利すると、ベナビデスは選挙を無効化して任期を3年間延長し、経済の好転も手伝って1939年までの任期を無事に終えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1939年にマヌエル・プラド・イ・ウガルテチェが大統領になると、ペルーは連合国側で第二次世界大戦に参戦し、敵性国民となった日系ペルー人は弾圧された。既に1940年5月13日にはリマで排日暴動が起きていたが、太平洋戦争が始まるとアメリカ合衆国に連行されるものも出た。ペルーは直接第二次世界大戦には兵を送らなかったが、1941年7月5日にエクアドルと国境紛争(エクアドル・ペルー戦争)を行い、エクアドル軍に勝利した後、アメリカ合衆国やラテンアメリカ諸国の支持の下に、係争地のうちの25万km2を翌1942年のリオデジャネイロ議定書で獲得した。このことはその後のエクアドルとの関係に強い緊張を生むことになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1945年のブスタマンテ政権はアプラ党に対処する力を持たず、1948年のアプラ党と海軍によるクーデターによって崩壊し、マヌエル・オドリーア(英語版)将軍が政権に就いた。オドリーア将軍はアルゼンチンのフアン・ペロンのような貧困層の支持により、寡頭支配層と戦うという政治スタイルをとったが、これも挫折し、1956年の選挙で第二次マヌエル・プラード政権が誕生した。この選挙でアプラ党は合法化を条件にプラードを支持し、以降アプラはペルーの支配層の側に回った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "このような保守支配層との協調を嫌ったアプラ党の左派が、当時起きていたキューバ革命の影響を受けて国内左派過激派と合流し、クスコ周辺で革命的武装蜂起を行うが、まもなく軍の掃討作戦によって殲滅された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1962年、アプラ党による選挙不正に抗議するために決起した軍事クーデターは、ペレス・ゴドイ(英語版)将軍を首班にして、農地改革法などを施行した。現在、ペルーではこのクーデターがペルー史の一大転換点であったとされている。選挙監視内閣だったゴドイ政権は1963年の選挙が終わり、人民行動党のベラウンデ・テリー(英語版)政権(First Presidency of Fernando Belaúnde (1963-1968))が軍部の支援で誕生すると解散した。穏健的改良主義者だったベラウンデは軍部の意向を反映して農地改革などを行ったが、ベラウンデはすぐに改革を放棄すると、農村問題とIPC(International Petroleum Corporation, インターナショナル石油会社)問題でつまずき、IPCとの間にタララで結ばれたタララ協定(El Acta de Talara)で発覚したスキャンダルが国民の強い不満を引き起こした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "こうした状況の中で1968年10月3日、フアン・ベラスコ・アルバラード将軍による軍事クーデター(Gobierno Revolucionario de las Fuerzas Armadas)によりベラウンデは失脚した。クーデターを起こしたベラスコ将軍は、これまでの軍事政権とは打って変わって反米と自主独立を旗印に「ペルー革命」を推進することを約束し、独自の「軍事革命路線」によって外国資本の国有化や第三世界外交が展開された。貧しい生まれだったベラスコ将軍はかつてトゥパク・アマルー2世が掲げた標語を再び掲げ、革命後すぐに司法改革がなされた。農地改革が推進されてコスタの大農園は次々に解体されて多くの土地が小作人に分与され、「40家族支配」体制と呼ばれていたペルーの伝統的な地主寡頭支配層の解体が行われた。それまでアメリカ合衆国一辺倒だった外交が、第三世界を中心に多角化され、キューバやチリ(同時期にチリで似たような改革を進めていたチリ人民連合のサルバドール・アジェンデ大統領は、ベラスコを「同志」と呼んだ)といった域内の左派政権との関係改善が行われ、兵器輸入を中心にソ連との関係も深まった。日本との交流が深まるのもこのころである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "また、将軍は先住民をカンペシーノ(農民)と呼ぶようにし、以後政府の文書で侮蔑的な響きのあったインディオという言葉が使われることはなくなった。任期の最後の年にはケチュア語が公用語となったが、軍部主導で国民の広範な支持を得られなかった革命は、ポプリスモ的な分配による対外債務の増加、軍部とアプラ系の労組との衝突や、人民の組織化の失敗などもある中で、将軍は自身の体調の悪化と経済政策の失敗により、将軍の失脚をもって1975年に終焉した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1975年、軍部内右派と左派の妥協により、軍内中道派のモラレス・ベルムデス(英語版)が大統領となった(Gobierno de Francisco Morales Bermúdez)。モラレスは「革命の第二段階」を称していたが、1976年5月には事実上のIMF管理下に置かれるなど革命からの後退が続き、国民の反軍感情の高まりの中、軍は名誉ある撤退を掲げて1978年6月には制憲議会が開かれ、軍部とアプラ党の歴史的な和解の中で、非識字層に投票権を認めた1979年憲法が制定された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1980年には選挙によって民政に移り、再び人民行動党のベラウンデ・テリー(英語版)政権(Second Presidency of Fernando Belaúnde (1980-1985))が誕生した。1981年、en:Paquisha War。しかし、災害や不況で政権運営は多難を極め、ベラスコ時代に地主層が解体された後の、農村部における権力の真空状態を背景に、センデロ・ルミノソ(PCP-SL)などのゲリラ勢力が力をつけてきた。また、1984年にはキューバ派のトゥパク・アマルー革命運動(MRTA)が都市を中心に武装闘争を始める。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1985年、当時32歳だったアラン・ガルシア大統領を首班とする「アメリカ人民革命同盟」の政権が発足し、アプラ党が結成以来ようやく61年目にしてはじめての政権を握った。アラン・ガルシアは反米、反帝国主義を叫び、当初は国民の支持を背景に国民主義を掲げ、IMFへの債務の繰り延べなどの強硬な路線をとる一方で、内政では貧困層の救済に尽力したが、経済政策の大失敗により、深刻な経済後退を引き起こし、国民総生産(GNP)は20年前の水準に逆戻りし、失業率は実に66%を記録した。さらには対外債務の累積は150億ドルにも達しており、これはメキシコ、ブラジル、アルゼンチンなど1000億ドル以上の債務を抱えていたその他の中南米諸国に比べると、かなり小さい額であったが、当時南米の貧しい小農業国に過ぎなかったペルーにとっては莫大な金額で、ペルーの輸出収入30億ドルの5倍、外貨準備高15億ドルの10倍に匹敵した。そのため債務と利払いの返済の停滞による国際金融社会との関係の悪化よる深刻な経済危機を招き、国家破綻寸前に陥った。苦境に立たされたガルシア政権は「国民を飢えさせてまで、支払うつもりはない」として、債務の支払いを輸出収入の10%以内に限定するという「10%原則」と呼ばれる一方的な措置を取った。これは事実上の徳政令であったことから、これが決定打となり、更に国際金融機関との関係を極度に悪化。そのためにIMF、世銀のような国際金融機関や主要先進諸国からの資金の流入が停止し、国内の経済困難に一層拍車をかけ、国際的信用が失墜したペルーの通貨は暴落。インフレ率8000%というハイパーインフレを記録し、通貨は紙切れ同然となり、1990年には完全な国家破産状態に陥る。また当時はセンデロ・ルミノソはアヤクーチョを中心にシエラの大部分を占領し、パンアメリカンハイウェイや主要幹線道路までがセンデロ・ルミノソに押さえられてリマは包囲され、センデロ・ルミノソによる革命が間近に迫っているかのように思われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "このような危機的状況下にて行われた大統領選挙では、ノーベル文学賞作家のマリオ・バルガス・リョサを破って「変革90」(Cambio 90)を率いた日系二世のアルベルト・フジモリが勝利し、フジモリは南米初の日系大統領となる。「フジ・ショック」と呼ばれたショック政策によるインフレ抑制と、財政赤字の解消による経済政策を図って、新自由主義的な改革により悪化したペルー経済の改善を図り、農村部の農民を武装させたゲリラ対策により治安の安定に一部成功するなど素人とは思えない業績を残した。しかし、このようなやり方に一部反発もおきた。議会を自らの行った改革の障害と見做すと、1992年4月5日にはフジモリは議会を解散し、憲法を停止して非常国家再建政府を樹立した。このようにして確立した権力を最大限に活用して、国内の治安問題においてセンデロ・ルミノソの首謀者グスマンを逮捕し、組織を壊滅状態に追いやるなど治安回復に大きな成果を挙げた。この自主クーデターは、アメリカ合衆国や、ヨーロッパ諸国から「非民主的」と非難された。1994年からは軍部よりの政策になると首相辞任などの政治混乱を招いたが、自らの再選を認める1993年憲法を公布した後に、1995年の民主的な選挙で再任された。1995年にアマゾンの係争地(石油埋蔵地)を巡ってエクアドルのシスト・デュラン・バジェン(英語版)政権とのセネパ紛争(英語版)に勝利し、両国の間で長年の問題となっていた国境線を画定するなどの功績を残している。フジモリ政権は日本との友好関係を強化し、日本はこの時期にペルーへの最大の援助国となったが、これを原因として1996年12月にトゥパク・アマルー革命運動による日本大使公邸占拠事件が発生した。2000年にはフジモリは再選を果すが、徐々に独裁的になっていった政権に対する国民の反対運動の高まりや 、汚職への批判を受け、11月21日に訪問先の日本から大統領職を辞職した。顧問のモンテシノスに行わせていた買収工作や諜報機関ペルー国家情報局(スペイン語版、英語版)の存在が明らかになり、フジモリ政権は幕を閉じた。しかし、汚職での失敗支持を失ってなお、経済・治安で大きな役割を果たし、21世紀においても地方を中心に大きな支持を受けている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2001年の選挙により、「可能なペルー(スペイン語版、英語版)」(Perú Posible)から先住民初(チョロ)の大統領、アレハンドロ・トレドが就任した。貧困の一掃と雇用創出、政治腐敗の追及を公約とした政権は、しかし経済政策は成果を上げることはできず、国民の支持は下り坂。左翼ゲリラによるテロ活動も復活し治安は悪化している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2006年の選挙により、アメリカ人民革命同盟(アプラ)から、16年ぶりにアラン・ガルシアが再び大統領に就任した。2007年8月15日に発生したペルー地震によって、死者540人、負傷者1,500人以上、被災者数85,000人が報告されている。2009年4月7日、ペルーの最高裁特別刑事法廷は、元大統領アルベルト・フジモリ被告に対し、在任中の市民虐殺事件や殺人罪などで禁固25年(求刑30年)と被害者や遺族への賠償金支払いを命じる有罪判決を言い渡した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2006年の選挙でアラン・ガルシアに敗北したオジャンタ・ウマラが2011年大統領選挙で勝利し左派政権が誕生した。格差の縮小や富の再分配に重点を置いた政策を表明したが、実際には市場寄りの中道左派政策を取った。2012年2月13日にセンデロ・ルミノソの残党リーダーのフロリンド・フロレスを銃撃戦の末、身柄を拘束した。拘束を受けてオジャンタ・ウマラ大統領は、テレビ放送にて「センデロ・ルミノソはもはやペルーにとって脅威ではない。」と演説を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2017年、オジャンタ・ウマラ大統領は、ブラジルの建設会社をめぐる汚職(オペレーション・カー・ウォッシュ)を理由に罷免されるとペドロ・パブロ・クチンスキが大統領に就任。しかし2018年3月21日、ペドロ・パブロ・クチンスキにも、同じ汚職事件に関与していた疑いが高まり、罷免決議案が採決される直前に辞職、副大統領職にあったマルティン・ビスカラが大統領に就任した。この建設会社をめぐる汚職事件は、ペルー政界を揺るがし続け、2019年4月17日には、2011年まで大統領を務めていたアラン・ガルシアが自殺。これも同じ汚職事件に関与した疑いで逮捕される直前の出来事であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2020年11月9日、マルティン・ビスカラ大統領がモケグア県知事時代の汚職を理由に罷免され、10日、マヌエル・メリノ国会議長が大統領に就任した。しかしこれに抗議するデモが相次ぎ、15日、メリノも辞任を発表。16日、元世界銀行職員のフランシスコ・サガスティが新大統領に選出された。わずか1週間に3人の大統領が存在したこととなった。2021年7月28日、急進左派のペドロ・カスティジョが大統領に就任。グイド・ベジド(ベリド)が首相に指名されたが、過激な発言で野党と対立して国会運営に行き詰まり、10月6日辞職した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2022年12月7日、議会で弾劾が審議される数時間前にカスティジョは、議会を解散して大統領令による統治を開始し、2023年9月までに議会選挙を行うと表明。議会は大統領決定を認めずカスティジョを解任し、ディナ・ボルアルテ副大統領を新大統領とすることを賛成101、反対6、棄権10票で決定。ベッツィー・チャベス(英語版)首相をはじめ閣僚は辞任し、カスティジョは失職した直後に亡命のためメキシコ大使館へ向かったが途中で国家警察に反逆容疑で拘束され、首都リマ近郊の警察施設に収監された。 ペルー国内ではデモ活動が活発化し、一部は新大統領の辞任や新憲法の制定、議会の解散を要求し始めた。12月16日にはコレア教育相とペレス文化相が辞任を表明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "大統領を元首とする共和制国家であり、行政権は大統領が行使する。大統領、副大統領共に普通選挙によって選出され、任期は5年。現行の憲法は1993年憲法であり、同憲法の規定では大統領の権限が強力であるが、大統領の再選は2000年の憲法改正により禁止されている。また、大統領によって首相に当たる閣僚評議会議長が任命される。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "立法権は一院制の共和国議会によって担われ、議会の定数は120人となっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "司法権は最高裁判所によって担われる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1980年ごろから反政府左翼ゲリラの活動が活発になった。センデロ・ルミノソとトゥパク・アマルー革命運動(MRTA)が反政府活動の主流である。これら左翼ゲリラの活動と軍との衝突によって、農村部の人口を中心に3万人を超える犠牲者が出たと言われている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1990年に誕生したフジモリ政権は治安回復に取り組んだが、少数与党であった為議会運営に問題を抱えていた。そのため議会と憲法を停止するという強引な方法で全権を掌握し、対ゲリラの治安対策と経済対策を行った。この手法は民主主義に反すると諸外国から抗議があったが、センデロ・ルミノソのグスマンをはじめとする左翼ゲリラの最高責任者を逮捕するなど治安回復に効果をあげた。経済政策にもインフレ抑制など特筆すべき成果を挙げており、貧困層からは未だに人気が高い(要出典)。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2006年まで死刑の適用は国家反逆罪のみ、一般の刑法犯は終身禁固を最高刑とする一般犯罪における死刑廃止国だったが、アラン・ガルシア大統領は、選挙公約の一つに掲げていた、7歳未満の子供に、性的暴行を加え殺害した被告への死刑適用を認める法案を、この年の9月21日に議会へ提出した。現在、その審議が行なわれている。背景には、日本の広島県で2005年に発生した広島小1女児殺害事件の容疑者が母国ペルーで同様の犯行を行っていたことや、年少者に対する性犯罪の厳罰化を求める世論が同国で高まり殺害した場合の死刑適用に8割が賛成するなどの世論調査の結果が挙げられる(2006年9月22日付時事通信「子供への性的暴行殺人に死刑適用:ペルー大統領が法案提出」より)。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ラテンアメリカ諸国全体の傾向としては、現在ほぼ全ての国が一般犯罪に対する死刑を廃止し、死刑制度を存続している国も10年以上死刑を執行していない。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "かつて徴兵制が敷かれており、成人男子は2年間の兵役の義務を有していたが、1999年に廃止されて志願兵制を採用している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1960年代後半からベラスコ将軍の革命政権時代にソ連との友好が図られたため、1980年の民政化後もペルー軍は基本的には東側の装備である。ペルーにおいて軍隊、特に陸軍はメスティーソやチョロといった貧しい階層の出世が可能な唯一の組織であったといっても過言ではなく、サンチェス・セロやベラスコ・アルバラードなど、過去にクーデターで政権を握った軍人にもそういった階層の出身者は多かった。こうしたある意味で民主的な陸軍の伝統がある一方、対照的に海軍はイギリス海軍の影響を受けて貴族的であり、多くの機会において有色人種や身分の低い階層よりも白人が優先されていた。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "軍隊は憲法の番人を自認しており、文民政権が違憲的な政策を行った場合にそれをたしなめ、憲法に沿った形で公正な政治を文民に行わせるのが、長らく軍隊の役割であるとされてきた。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ペルー陸軍は兵員約76,000人(2001年)を擁している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ペルー海軍は兵員約26,000人(2001年)を擁している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ペルー空軍は兵員約18,000人(2001年)を擁している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "24の県(departamentos)とカヤオ特別区(Provincia Constitucional del Callao)によって編成されている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "主要な都市はリマ(首都)、アレキパ、トルヒーリョ、チクラーヨがある。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ペルーの国土は三つの地形に分けられ、砂漠が広がる沿岸部のコスタ(es、国土の約12%)、アンデス山脈が連なる高地のシエラ(es、国土の約28%)、アマゾン川流域のセルバ(es、国土の約60%)である。このように3つに分けられる地形に加え、さらにコスタとシエラでは北部、中部、南部の違いがあり、それも大きなペルーの地域性の違いとなっている。気候としてはペルーは基本的には熱帯であるものの、標高の差や南北の差により各地域で大きな違いがある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "コスタは太平洋から東に向けて標高500mまでの地点を指し、この幅50kmから150km程の狭い地域にペルー国民の半数以上が居住している。砂漠であるものの、フンボルト海流の影響で緯度の割には気温は一年を通して過ごしやすく、最も暑い2月の平均気温が22°C、最も寒い8月の平均気温も14°Cであり、灌漑を行えば通年で農耕が可能な土地である。ただし、後述するように海流の関係で霧が発生し、湿度は非常に高い。冬の日はどんよりとした天気が続く。人が住めるのは古代からずっと砂漠の間を通る川の流域や、湧き水で出来たオアシスの周囲のみであり、前インカ期からこうした地域に古代文明が栄えていた。なお、こうした河川はコスタに50以上ある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "シエラはコスタの終わるアンデス山脈の西斜面の標高500m以上の地域から、東斜面の標高1,500m程までの地域を指し、その標高によってシエラ内でも幾つもの地域に細分化されている。標高2,000m以下の暑い地域をユンガといい、この地域ではコーヒー、果物などの亜熱帯作物が育つ。標高2,500mから3,500mまでの温暖な地域をケチュア(キチュア)といい、タワンティンスーユの中心だったクスコもこの範囲内にあった。この地域ではジャガイモが育つ。標高3,500mから4,100mの冷たく涼しい地域をスニといい、リャマやアルパカの放牧に適している。4,100m以上の人間の居住には適さないぐらい寒冷な地域をプーナと呼ぶ。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "シエラの農村部では、インディヘナ(ペルーでは公式にはカンペシーノ=農民と呼ばれる)の農民が、インカ帝国時代とあまり変わらない形態の農業を続けており、アイユと呼ばれる村落共同体の伝統が未だに重要な経済単位となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "セルバ(モンターニャ)はアンデス山脈東斜面の標高2,000m以下の地域を指す。標高2,000mから500mがセルバ・アルタとなり、豆やバナナなどの熱帯作物が育つのはこの地域である。標高500m以下はセルバ・バハとなり、かつてゴムや砂金のブームが起きたのはアマゾンのこの地域である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ペルーの太平洋沿岸には寒流のペルー海流(フンボルト海流)と暖流が流れており、2つの海流がぶつかることによってペルー沖は好漁場となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ペルーの国土を南北にアンデス山脈が貫いており、アンデス山脈は西部のオクシデンタル山脈(スペイン語版)、中央部のセントラル山脈(スペイン語版)、東部のオリエンタル山脈(スペイン語版、英語版)に分かれる。国内最高峰はオクシデンタル山脈のウアスカラン山(6,778m)である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "アンデス山脈から多くの川が東西に流れており、西に流れる川はコスタの砂漠を潤す役割を果す。アマゾン川の源流もアンデス山脈のミスミ山(スペイン語版、英語版)にあり、アマゾン川はペルー最大の河川となっている。また、北部を流れるプトゥマヨ川はペルーとコロンビアの国境線を形成している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ペルーとボリビアの国境地帯のティティカカ湖は両国最大の湖となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2021年のペルーのGDPは2,259億ドル、1人当たりのGDPは6,680ドルである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "アンデス共同体の加盟国、メルコスールの準加盟国であり、アジア太平洋経済協力と南米共同体の加盟国でもある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "現行の通貨はs/. ヌエボ・ソル Nuevo Sol(訳 : 新しいソル。ソルは太陽を表す。かつての通貨ソルに代わって導入された)その下に補助通貨単位としてセンティモ(Centimo)、s/.1=100Centimosが存在する。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "産業の中心は、銅・鉛・亜鉛・銀・金などの鉱業である。特に銀は世界第2位の産出量である(2003年)。石油やガスなどの天然資源も産出する。ただし、鉱山の近くでは、適切な環境保全対策や、住民の保護が全く行われておらず、周辺住民は住まいを追われ、鉱毒に侵されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "また、漁業は古くから盛んであり、1960年代には漁獲高で世界一を記録していた。2003年においても中華人民共和国に次いで世界第2位の漁獲高を記録。水産業もペルーの主要な産業であると言える。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2021年の輸出額は573億3,700万ドル、輸入額は510億8,300万ドルとなった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "輸出相手国上位5カ国は中国、アメリカ、韓国、日本、カナダであり、中国とアメリカの2カ国で輸出額の約45%を占めている。主要輸出品は銅、金、亜鉛などの鉱物資源や、ブドウ、ブルーベリー、アボカドなどの農産物である。ペルーは2020年にブルーベリーで世界2位、アボカドで世界4位の生産国となった。輸入相手国上位5カ国は中国、アメリカ、ブラジル、アルゼンチン、メキシコであり、中国とアメリカの2カ国で輸入額の約47%を占めている。主要輸入品は燃料や輸送機器、電気製品などである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2021年の日本の輸出額は10億2,500万ドル、日本の輸入額は29億3,300万ドルとなり、日本がペルーから輸入する金額の方が多くなっている。ペルーへの輸出品は自動車、電気製品、タイヤなどである。ペルーからの輸入品は銅、亜鉛、鉄などの鉱物資源、原油、天然ガスなどである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "植民地時代にリマがペルー副王領の首都であり、そのため独立前からクリオージョ支配層がグアテマラ、メキシコと並んでラテンアメリカで最も貴族的な階層を築き上げていた。独立後もその傾向が是正されず国民意識が白人層にしか共有されなかったという問題は現在も続く。しかし2001年7月28日 - 2006年7月28日までチョロ(インディオ系ペルー人)の愛称で有名になったアレハンドロ・トレドが大統領に上ったことから現在国民意識が変わりつつある。 現在のペルー人に共通し、これがペルー人であるという答えは多様な人種から生まれた文化であることだ。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ペルーの民族構成はメスティーソ45%、インディヘナ(先住民、公式にはカンペシーノなどと呼ばれる)37%、ヨーロッパ系ペルー人15%、アフリカ系ペルー人、中国系ペルー人(華人)と日系をはじめとするアジア系ペルー人などその他3%とされており、非常に複雑で多様な人種から構成されている。長らく日系ペルー人は8万人といわれてきたが、この調査は数十年前に行なわれたものであり、しかも当時、ペルー国外に住む日系ペルー人は調査対象とはならなかったうえ、日本人の血の割合が低い混血の人たちをカウントしなかった。これらの事実と、その後の自然増を勘案すれば、現在の日系ペルー人は数十万に達している可能性がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "インディヘナに関してはケチュア人とアイマラ人が圧倒的に多いが、セルバのアマゾン低地にも多数の民族集団があり、近年彼らの文化の独自性がどれだけ保たれるかが懸念されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "アフリカ系ペルー人は植民地時代にコスタの大農園での労働力として導入された黒人奴隷の子孫である。アフリカ系ペルー人の文化はコスタの音楽や舞踊、宗教、食文化など広範な分野に大きな影響を与えている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ系ペルー人としては、植民地時代からのスペイン人の他に、イタリア人、フランス人、ドイツ人、バスク人などが1850年から1880年の間に2万人ほど流入した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "アジア系ペルー人としては、やはり1850年から1880年の間に10万人ほどの中国人(クーリー)が流入し、コスタの現地文化に同化した。中国人の導入が廃止された後は日本人が導入され、1899年から1923年までの間に2万1000人の日本人が契約移民として流入した。ヨーロッパ系もアジア系も移民は1854年の黒人奴隷解放後に、黒人奴隷に代わってのコスタのプランテーションでの労働力として導入された。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "その他のマイノリティとしてはアラブ人、ユダヤ人、アメリカ人など。他のラテンアメリカ諸国からやってきた人間も少なからずいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "インカ帝国時代に1,000万人を越えていたと推測されている人口は、植民地時代に急激に減少し、独立直後の1826年に約150万人となっていた。その後1961年の国勢調査で10,420,357人、1972年では13,538,208人、1983年年央推計では約1,871万人となった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "1940年代から始まったシエラからコスタ(特にリマ)への国内移民のため、現在のリマは人口800万人の大都市圏を形成しており、これはペルーの総人口の約30%程である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "人口増加率 : 1.39%", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "公用語はスペイン語(ペルー・スペイン語)、ケチュア語(1975年から)、アイマラ語(1980年から)であり、人口の大部分はスペイン語を話す。セルバのアマゾン低地では、先住民によって独自の言語が話されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "シエラのインディヘナの多くはケチュア語を話す。アイマラ語話者はティティカカ湖沿岸のプーノ県に特に集中しており、ボリビアのアイマラ語文化圏と文化的に連続している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "国立統計情報機構(INEI)による2007年実施の第11回国勢調査結果では、当時12歳以上の国民の81.3%がローマ・カトリック、12.5%はプロテスタント、3.3%はユダヤ教・モルモン教・エホバの証人などの他宗教、2.9%は特定宗教なしとなっている。カトリックの数は減少傾向が観察され、同機構による調査数値の推移では、1993年から2007年にかけてのカトリックが89%から81%に減少している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "スペイン人による征服以来ペルーに住む人々はキリスト教を受容していったが、それでもペルー土着の宗教的要素が完全に消え去ったわけではなく、先住民の伝統宗教と独自の融合、背反を重ねて現在に至っている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "伝統的には、スペイン語圏であるため、婚姻後の女性の姓は、自己の姓に相手の姓をdeを挟んで後置したものであるが、女性の権利を守る立場から近年法律が改定され自己の名前のみを名乗る夫婦別姓や、相手の姓を名乗ることも選択できるようになった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "6年間の初等教育と5年間の中等教育、6歳から16歳までの計11年間が義務教育期間である。その後に、大学(10学期=5年間)、専門学校などに進学することができ、またそれらに進学するための予備校などもある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "国立情報統計機構(INEI)が2017年9月に発表した2016年全国世帯アンケート(ENAHO)のデータによれば、識字人口は2147万4000人、15歳以上識字率は94.1%である。2006年から2016年の10年間で男性が1.7%(95.4%→97.1%)、女性が4.8%(86.2%→91.0%)向上している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "主な高等教育機関はサン・マルコス大学(1551)、ペルー・カトリカ大学、太平洋大学(1962)など。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "ペルーで提供されている医療保険は、公的保険と民間保険に分けられる。公的保険には学生や妊婦、定職のない貧困者を対象とした統合健康保険(Seguro Integral de Salud : SIS )と、正規雇用者を対象とした社会保険がある。民間保険には民間保険会社が独自で運営するものと民間保険会社と政府が協力して運営するものとがあり、より良い医療サービスを求める富裕層を対象にしている。その他、国軍や国家警察を対象とした医療サービスなどがある。受診できる医療機関は保険の種類に応じて異なる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "SISの課題は4点あると考えられる。1点目は、SISへの加入者が増加しているにもかかわらず、医療施設の数が増えていないことである。2点目は、老朽化した施設が多いことである。施設、設備が共に老朽化しているため、衛生上の問題に不安が残る。3点目は、都市と地方の格差である。医療従事者全体の約3割、医師では約4割がリマ州に集中しているため、地方では正規の資格を持った医師が不足している。また、医療器具などの不足もあり、地方では十分な医療サービスを提供できていない場合が多い。4点目は、SISと社会保険のどちらにも加入できない人がいることである。SISに加入するためには収入などの審査を受ける必要がある。その審査基準に当てはまらない非正規雇用者や、社会保険費用を負担できない中小企業の雇用者はSISへも社会保険へも加入することができない。そのため、このような雇用者に対して新たな保険制度の導入を検討している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "ペルーの文化はインカ帝国や、それ以前から続く前インカ期からのインディヘナの文化と、16世紀にペルーを征服したスペイン人の文化に根を持ち、その上にアフリカ系住民や近代になって移住してきたアジア系、ヨーロッパ系の諸民族の影響も受けている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "費が多く、その後入ってきた米、パスタ、パンも多く消費されている。また高地の特産物で高栄養価のキヌアの消費も少なくない。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "ペルーの食文化は高地、海岸地帯、アマゾンの密林地帯で食材の違いもあり大きく異なる。海岸地帯(コスタ)で育ったクリオーヨ料理はペルー料理を代表するひとつであり、黒人、インディヘナ、スペイン人、中国人、日本人、イタリア人などの多様な国民の影響を受けて独特のペルー料理を形成している。海岸地帯の料理にはセビッチェのように魚介類を豊富に使った料理が多い。シエラ(山岳地帯)では旧文明の食文化が多く残っており パチャマンカ料理やエクアドルやボリビアのように、クイと呼ばれる天竺鼠や、アルパカの肉も貴重な蛋白源として食べられている。アマゾンの密林地帯では料理用のバナナ(プランテイン)を含め多くのフルーツやアマゾンで獲れる淡水魚(ピラニアも含め)や陸生の動物も食べられている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "トウモロコシを発酵させて作る独特なアルコール飲料のチチャは古代よりアンデス地方で飲み続けられている。 独自のビールのブランドは、クリスタル、クスケーニャ、アレキペーニャなどの銘柄があり、清涼飲料水ではブランドにインカ・コーラがある。また、いろいろなハーブティーが薬用としても飲まれており、ボリビアやアルゼンチン北西部と同様にコカ茶も供されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "ペルー文学は先コロンビア期の文明に根を持ち、植民地時代はスペイン人が年代記や宗教文学を書いた。特にインカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガが著した『インカ皇統記(スペイン語版、英語版)』はその後のインカ帝国のイメージ形成に大きな影響力を持った。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "ペルーの小説は独立後の1848年にナルシソ・アレステギにより、ペルーで初めての小説『オラン神父』が書かれてから始まった。コストゥンブリスモやロマン主義が最も主流のジャンルとなり、リカルド・パルマの『ペルー伝説集』やクロリンダ・マットの『巣のない鳥たち』などがその例である。また当時ラテンアメリカで流行していた、ニカラグアのルベン・ダリオ、ウルグアイのホセ・エンリケ・ロドーから始まったモデルニスモの流れを引いた詩人としてホセ・サントス・チョカーノ、ホセ・マリア・エグーレンなどの名が挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "20世紀初頭にはインディヘニスモ運動が起こり、文学にも影響を与えた。既に19世紀末の太平洋戦争敗北後、マヌエル・ゴンサレス・プラダはインディオを重視する論陣を張っていたが、これは1920年代から1930年代のホセ・カルロス・マリアテギのインディヘニスモ思想に結びつき、さらにその流れは20世紀半ばから後半にはシロ・アレグリア、マヌエル・スコルサ、ホセ・マリア・アルゲダスらによってシエラのインディオの生活を写実的に描いた文学となって完成された。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "その一方で同じく20世紀後半にはコロンビアのガルシア・マルケスと共に、ラテンアメリカ文学ブームを牽引したマリオ・バルガス・リョサや、フリオ・ラモン・リベイロ、アルフレド・ブライス・エチェニケらの活躍により、ペルー文学はより身近なものになった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "ペルーの音楽としてはヨーロッパ由来のバルス・ペルアーノ(ペルー・ワルツ)や、ヨーロッパとアフリカの要素の入り混じったマリネラや、アフロ・ペルー音楽に代表される、コスタのクリオーリャ音楽(クレオール音楽)や、あるいはシエラで生まれたワイニョなどのフォルクローレなど有名である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "特にマリネラ(マリネラ・ノルテーニャ)は舞踊として有名で、Baile Nacional(国の踊り)と称される。ブラジルのサンバや、アルゼンチンのタンゴと並ぶ南米3大舞踊の一つに挙げられ、ペルーの無形文化遺産に登録されている。 また、競技ペアダンスとして毎年1月にペルーで世界大会が開催されている。ヨーロッパや南北アメリカ大陸に競技者が多く、アジアでは唯一、日本でも毎年各地でコンクールが開催されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "また、現在はコスタ、シエラ、セルバと地方を問わず、国内の全域において、キューバ生まれのサルサが愛好されている。しかし、特に世界的に知られているのはやはり、『コンドルは飛んで行く』をはじめとするケーナやチャランゴを使ったアンデスのフォルクローレである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "クリオーリャ音楽は、ペルーに土着したアフリカやヨーロッパの音楽を総称する言葉であり、特にコスタで発達した音楽を表す。クリオーリャ音楽は長らくコスタ唯一の大都市だったリマで育ち、19世紀末ごろに現在の形となった。このころの音楽家としては特にフェリペ・ピィングロ・アルバの名が挙げられる。クリオーリャ音楽は基本的に貧困層や大衆の音楽であったが、ラジオやレコードの普及に伴い、1950年代からブームを迎えた。チャブカ、スサーナ・バカ、ルーチャ・レジェス、タニア・リベルタ、エバ・アジョンなどの音楽家や作曲家が活躍した。カホンやギロ、クラベスなどの使用で特徴的なアフロ・ペルー音楽はペルー国外での関心も高く、著名な音楽家としてビクトリア・サンタ・クルスとニコメンデス・サンタ・クルス姉弟の名が挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "ポピュラー音楽の世界では、中産階級によってロックが愛好されているが、ペルー・ロックはラテンアメリカ市場でもあまり成功しているとはいえない。代表的なミュージシャンとしてはロス・サイコス、ウチュパ、ミキ・ゴンサレスなど。ワイニョとクンビアのクロスオーバー音楽であるチチャ(テクノ・クンビア)などもリマで愛好されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "ペルー国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が8件、自然遺産が2件、複合遺産が2件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "ペルー国内でも他のラテンアメリカ諸国と同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1928年にプロサッカーリーグのプリメーラ・ディビシオンが創設された。主なクラブとしてはウニベルシタリオ・デポルテス、アリアンサ・リマ、スポルティング・クリスタルなどが挙げられる。ペルー人を代表する著名なサッカー選手としては、クラウディオ・ピサーロ、パオロ・ゲレーロ、ジェフェルソン・ファルファンなどがいる。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "ペルーサッカー連盟(FPF)によって構成されるサッカーペルー代表は、FIFAワールドカップには5度の出場歴をもつ。これまで1982年大会で出場したのを最後に予選敗退が続いていたが、2018年大会で36年ぶりに出場を果たした。コパ・アメリカでは自国開催となった1939年大会と、南米選手権からコパ・アメリカに名称が変更された最初の大会である1975年大会で、優勝を果たしている。", "title": "スポーツ" } ]
ペルー共和国、通称ペルーは、南アメリカ西部に位置する共和制国家。首都はリマ。 北にコロンビア、北西にエクアドル、東にブラジル、南東にボリビア、南にチリと国境を接し、西は太平洋に面する。 紀元前から多くの古代文明が栄えており、16世紀までは当時の世界で最大級の帝国だったインカ帝国(タワンティン・スウユ)の中心地だった。その後スペインに征服された植民地時代にペルー副王領の中心地となり、独立後は大統領制の共和国となっている。
{{Otheruses}} {{基礎情報 国| | 略名 = ペルー | 日本語国名 = ペルー共和国 | 公式国名 = {{Lang|es|'''República del Perú'''}}<small>(スペイン語)</small><br/>{{Lang|qu|'''Piruw Republika'''}}<small>(ケチュア語)</small><br/>{{Lang|ay|'''Piruw Suyu'''}}<small>(アイマラ語)</small> | 国旗画像 = Flag of Peru.svg | 国章画像 = [[ファイル:Escudo nacional del Perú.svg|120px|ペルーの国章]] | 国章リンク= [[ペルーの国章|国章]] | 標語 = ''{{lang|es|Firme y feliz por la unión}}''<br/>(スペイン語: ''団結による安定と幸せ'') | 位置画像 = Peru (orthographic projection).svg | 公用語 = [[スペイン語]]、[[ケチュア語]]、[[アイマラ語]] | 首都 = [[リマ]] | 最大都市 = リマ | 元首等肩書 = [[ペルーの大統領の一覧|大統領]] | 元首等氏名 = [[ディナ・ボルアルテ]] | 首相等肩書 = {{仮リンク|ペルーの副大統領|en|Vice President of Peru|label=副大統領}} | 首相等氏名 = (空席) | 他元首等肩書1 = [[ペルーの首相|閣僚評議会議長]] | 他元首等氏名1 = {{ill2|アルベルト・オタロラ|en|Alberto Otárola}} | 他元首等肩書2 = [[ペルー共和国議会|共和国議会議長]] | 他元首等氏名2 = {{ill2|アレハンドロ・ソト・レイズ|en|Alejandro Soto Reyes}} | 面積順位 = 19 | 面積大きさ = 1 E12 | 面積値 = 1,285,220 | 水面積率 = 8.80% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 39 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 3297万2000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/pe.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-11-7}}</ref> | 人口密度値 = 25.8<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2018 | GDP値元 = 7408億1700万<ref name="imf2018">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=293,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2016&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|accessdate=2021-10-16}}</ref> | GDP統計年MER = 2018 | GDP順位MER = 49 | GDP値MER = 2253億6900万<ref name="imf2018" /> | GDP MER/人 = 7007.275<ref name="imf2018" /> | GDP統計年 = 2018 | GDP順位 = 46 | GDP値 = 4249億700万<ref name="imf2018" /> | GDP/人 = 1万3211.39<ref name="imf2018" /> | 建国形態 = 独立 | 建国年月日 = [[スペイン]]より<br />[[1821年]]7月28日 | 通貨 = [[ヌエボ・ソル]] | 通貨コード = PEN | 時間帯 = -5 | 夏時間 = なし | 国歌 = [[ペルーの国歌|{{lang|es|Himno Nacional del Perú}}{{es icon}}]]<br />ペルーの国歌<br />別名︰¡Somos libres!, seámoslo siempre...{{es icon}}<br />我等は自由に、常にそうあらんことを<br />{{center|[[ファイル:United States Navy Band - Marcha Nacional del Perú.ogg]]}} | ISO 3166-1 = PE / PER | ccTLD = [[.pe]] | 国際電話番号 = 51 | 注記 = }} '''ペルー共和国'''(ペルーきょうわこく、{{Lang-qu|Piruw Republika}}、{{Lang-ay|Piruw Suyu}})、通称'''ペルー'''は、[[南アメリカ]]西部に位置する[[共和制]][[国家]]。[[首都]]は[[リマ]]。 北に[[コロンビア]]、北西に[[エクアドル]]、東に[[ブラジル]]、南東に[[ボリビア]]、南に[[チリ]]と国境を接し、西は[[太平洋]]に面する。 [[紀元前]]から多くの古代文明が栄えており、[[16世紀]]までは当時の世界で最大級の帝国だった[[インカ帝国]](タワンティン・スウユ)の中心地だった。その後[[スペイン]]に征服された[[植民地]]時代に[[ペルー副王領]]の中心地となり、独立後は[[大統領制]]の共和国となっている。 == 国名 == [[ファイル:MapaPerú.Sanson2.JPG|thumb|250px|ペルーの古地図(1652年)]] 公用語による正式名称は、[[スペイン語]]表記では「{{読み仮名|{{lang|es|República del Perú}}|レプブリカ・デル・ペルー}}」。[[ケチュア語]]、[[アイマラ語]]表記は共に「{{lang|und-Latn|Piruw}}」である。通称は {{Lang|es|Perú}}。公式の英語表記は「{{読み仮名|{{lang|en|Republic of Peru}}|リパブリック・ オヴ ・ペルー}}」で、国民・形容詞はPeruvianで表される。日本語表記による正式名称の訳は'''ペルー共和国'''。通称は'''ペルー'''。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]では'''秘露, 平柳'''と記される。 ペルー<ref group="注釈">{{lang-es-short|Perú}}</ref>という言葉の語源には諸説あるが、16世紀始めに[[パナマ地峡]]の[[サン・ミゲル湾]]付近を支配していたビルー<ref group="注釈">{{lang|und-Latn|Birú}}</ref>という首長に由来し、[[パナマ]]の南にビルーという豊かな国が存在するとの話を当地の先住民から伝え聞いたスペイン人が転訛してピルーと呼ぶ様になり、それがペルーになったというものが最も有力な説である。その後、スペイン人の[[コンキスタドール]]によってインカ帝国はペルーと呼ばれ、そこからペルーという言葉がこの地域を指す名称となった。植民地時代にはペルー副王領が成立し、19世紀に独立した後もペルーの名が用いられている。 == 歴史 == {{main|ペルーの歴史}} === 先コロンブス期 === {{Seealso|先コロンブス期|[[アンデス文明#歴史|アンデス文明の歴史]]}} [[ファイル:Huari pottery 01.png|thumb|upright|ウアコ・ワリ。]] [[紀元前3000年]]から[[紀元前2500年]]ごろにスーペ谷に、カラル(''Caral'')という石造建築を主体とする[[カラル遺跡]]({{仮リンク|ノルテ・チコ文明|en|Norte Chico civilization}})が現れる。 1000B.C.ごろ - 200B.C.ごろ、[[アンデス山脈]]全域に[[ネコ科]]動物や蛇、[[コンドル]]などを神格化した[[チャビン文化]]が繁栄する。その後、{{仮リンク|コスタ (ペルー)|es|Costa (Perú)|label=コスタ}}北部に[[モチェ文化]]がA.D.100ごろ - A.D.700ごろ、現[[トルヒーリョ (ペルー)|トルヒーリョ]]市郊外に「[[太陽のワカ]]」「月のワカ」を築き、コスタ南部では、A.D.1ごろ - A.D.600ごろに、信仰や農耕のための[[ナスカの地上絵|地上絵]]を描いた[[ナスカ文化]]が繁栄した。 紀元800年ごろ、{{仮リンク|シエラ (ペルー)|es|Andes peruanos|label=シエラ}}南部の[[アヤクーチョ盆地]]に[[ワリ文化]]が興隆した。[[ティワナク]]の宗教の影響を強く受けた文化であったと考えられ、[[土器]]や[[織物]]に地域色は見られるものの統一されたテーマが描かれること、いわゆるインカ道の先駆となる道路が整備されたこと、四辺形を組み合わせた幾何学的な都市の建設などからワリ帝国説が唱えられるほどアンデス全域にひろがりをみせ、1000年ごろまで続いたと考えられる。コスタ北部のランバイエケ地方には、金やトゥンバガ製の豪華な仮面で知られる[[シカン文化]]がワリ文化の終わりごろに重なって興隆した。 その後、コスタ北部には[[チムー王国]]が建国され、勢力を拡大した。首都[[チャン・チャン]]の人口は25,000人を越え、王の代替わりごとに王宮が建設されたと思われる。 === タワンティン・スウユの繁栄と滅亡 === [[ファイル:80 - Machu Picchu - Juin 2009 - edit.jpg|thumb|left|upright|「インカ帝国の失われた都市」[[マチュ・ピチュ]]。]] [[ファイル:Pachacutec siglo XVI.jpg|thumb|upright|第九代インカ [[パチャクティ]]。]] [[ファイル:IncaTupacAmaru.gif|thumb|upright|最後のインカ [[トゥパク・アマル (初代)|トゥパク・アマルー]]。]] 15世紀になり[[クスコ]]周辺の南部の山岳地帯が、[[1438年]]に即位した[[ケチュア]]人の王[[パチャクテク]]によって軍事的に統一されると、以降は征服戦争を繰り広げて急速に勢力を拡大してきた、ケチュア人による[[インカ帝国|タワンティン・スウユ]]({{lang-qu|Tawantin Suyu}}、[[インカ帝国]])によってペルー、および周辺のアンデス地域は統合される。 続く[[トゥパク・インカ・ユパンキ]]の代になると、[[チムー王国]]も1476年ごろに征服されて、その支配体制に組み込まれた。続く[[ワイナ・カパック]]の征服によりアンデス北部にも進出し、アンデス北部最大の都市だった[[キト]]を征服することになる。またワイナ・カパックは[[マプチェ族|マプーチェ人]]と戦って[[チリ]]の現[[サンティアゴ・デ・チレ]]周辺までと、[[アルゼンチン]]北西部を征服し、ユパンキの代から続いていた征服事業を完成させ、[[インカ帝国#国名|コジャ・スウユ]]({{lang-qu|Colla Suyo}}、「南州」)の領域を拡大させると共にインカ帝国の最大版図を築いた。 インカ帝国はクスコを首都とし、現ボリビアの[[アイマラ人]]の諸王国や、チリ北部から中部まで、[[キト]]をはじめとする現エクアドルの全域、現アルゼンチン北西部を征服し、その威勢は現[[コロンビア]]南部にまで轟いていた。インカ帝国は幾つかの点で非常に[[古代エジプト]]の諸王国に似ており、クスコの[[サパ・インカ]]を中心にして1200万人を越える人間が自活できるシステムが整えられていた。帝国は16世紀初めごろまで栄えていたが、いつのころからか疫病が流行し([[パナマ地峡]]から南にもたらされたヨーロッパの疫病である)、帝位継承などの重大な問題を巡ってキト派の[[アタワルパ]]と、クスコ派の[[ワスカル]]の間で激しい{{仮リンク|インカ帝国内戦|es|Guerra civil incaica|en|Inca Civil War|label=内戦}}(1529年 – 1532年)が繰り広げられた。 内戦は[[アタワルパ]]の勝利に終わったが、内戦の疲弊の隙にパナマからコスタ北部に上陸した[[フランシスコ・ピサロ]]率いる[[スペイン]]の[[コンキスタドール|征服者]]たちがインカ帝国を侵略することになった。征服者達は手早くクスコを征服すると、[[1533年]]に第13代皇帝アタワルパを絞首刑にして、アンデスを支配していた帝国としての[[インカ帝国]]は崩壊した。ピサロは1534年に[[リマ]]市を建設すると、以降このコスタの都市が、それまで繁栄していたクスコに代わってペルーの中心となる。その後、1572年にスペイン人の支配から[[ビルカバンバ]]に逃れていた最後の皇帝[[トゥパク・アマル (初代)|トゥパク・アマルー]]が捕らえられて処刑され、インカ帝国はその歴史の幕を閉じた。 === スペイン植民地時代 === {{See also|スペインによるアメリカ大陸の植民地化}} 植民地下のペルーでは、最初期は南アメリカ全体を統括していた[[ペルー副王領]]の首都が高山のクスコから太平洋沿岸の[[リマ]]に移され、金銀などの鉱物の搾取が宗主国[[スペイン]]によって行われた。[[ミタ制]]によって[[ポトシ]]鉱山開発に酷使された先住民の多くは苦役の末に死亡し、その数は100万人とも言われる。どれだけの人口減があったかは定かではないが、少なくとも全盛期にインカ帝国の人口が1600万人が最高だといわれたのが、18世紀末のペルーでは108万人になったといえば、その凄まじさが理解できるであろう。 このような状況の中で1780年、[[インディヘナ]]や[[メスティーソ]]は、[[クリオージョ]]に対する反抗と[[スペイン王]]への忠誠を唱え、[[ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ|トゥパク・アマルー2世]]を首謀者にした{{仮リンク|トゥパク・アマルー2世の反乱|es|Rebelión de Túpac Amaru II|en|Rebellion of Túpac Amaru II|label=反乱}}([[1780年]] - [[1782年]])を起こした。この反乱は、当初は白人も含んだ大衆反乱だったが、次第にインカ帝国の復興という目標を掲げて、白人に対する暴行、殺害が相次ぐようになると、当初協力的だった白人の支持も次第に失って行き、トゥパク・アマルー2世は遂に部下の裏切りにより捕らえられ、先祖と同様にクスコの広場で処刑された。 === ペルー共和国 === ==== ペルー独立戦争 ==== {{main|[[ペルー独立戦争]]}} {{See also|近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立}} [[ファイル:Smartin.JPG|thumb|upright|アルゼンチン、チリ、ペルーの[[解放者]] [[ホセ・デ・サン・マルティン]]。]] [[ファイル:La Independencia del Perú.jpg|thumb|[[ホセ・デ・サン・マルティン]]の独立宣言。1821年。]] [[ファイル:Portrait of Simón Bolívar by Arturo Michelena.jpg|thumb|upright|アメリカ大陸の[[解放者]][[シモン・ボリーバル]]。]] [[ファイル:Angamos.jpg|thumb|[[太平洋戦争 (1879年-1884年)|太平洋戦争]]における[[アンガモスの海戦]]。]] [[ファイル:Batalla de Arica.jpg|thumb|「([[太平洋戦争 (1879年-1884年)|太平洋戦争]]における){{仮リンク|アリカの戦い|en|Battle of Arica}}」フアン・レピアニ画。]] 18世紀末から19世紀初めにかけての[[フランス革命]]以来の[[ヨーロッパ]]での混乱を背景に、[[ナポレオン戦争]]による[[ヨーロッパ]]での政変により、スペイン本国に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の[[フランス軍]]が侵入し、兄の[[ジョゼフ・ボナパルト]]を国王ホセ1世として即位させると、それに反発する民衆の蜂起が起き[[スペイン独立戦争]]が始まった。インディアス植民地は偽王ホセ1世への忠誠を拒否した。そのような情勢の中で、シエラから{{仮リンク|マテオ・ガルシア・プマカワ|en|Mateo Pumacahua}}が蜂起し、しばらくシエラの主要部を占領したが({{仮リンク|クスコの反乱 (1814年)|es|Rebelión del Cuzco|en|Cuzco Rebellion of 1814|label=クスコの反乱}})、結局プマカワも破れた。[[1821年]]7月28日にはるばる[[リオ・デ・ラ・プラタ諸州連合|ラ・プラタ連合州]]から遠征軍を率いてリマを解放した、[[ホセ・デ・サン・マルティン]]の指導の下に独立を宣言したが、副王政府は支配に固執し、シエラに逃れて抵抗を続けた。しかし、[[1824年]]に北の[[ベネスエラ]]から[[大コロンビア|コロンビア共和国]]の解放軍を率いた解放者[[シモン・ボリーバル]]の武将、[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]が[[アヤクーチョ|ワマンガ]]に攻め込んだ{{仮リンク|アヤクーチョの戦い|en|Battle of Ayacucho}}でペルー副王{{仮リンク|ホセ・デ・ラ・セルナ|en|José de la Serna e Hinojosa}} ([[チェ・ゲバラ|エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ]]の母方の先祖)を撃破し、ペルーは外来勢力の二人の英雄に解放される形で事実上の独立を果たすことになった。しかし、それがただちにインカ帝国や、インディヘナ、メスティーソ、奴隷として連れて来られた黒人といった人々の復権に繋がったわけではなかった。独立時の戦いにより農業も鉱業も荒廃しきっており、インカ帝国の最盛期に全土で1600万人を越えたと推測される人口は、1826年にはペルーだけで150万人になっており、うち14万8000人、人口の一割にすぎない白人が以降百数十年間以上ペルーの国政を動かしていくことになる。1828年、ペルーの事実上の支配者だったカウディーリョ、{{仮リンク|アグスティン・ガマーラ|en|Agustín Gamarra}}は、ペルーをインカ帝国の後継国家だと考えて、旧インカ帝国の領土を回復するために、またペルーとボリビアの指導層が共に抱いていたお互いを統合しようとする動きから、[[ボリビア共和国]](ボリーバルの共和国)として独立を果たした[[アルト・ペルー]]を併合しようと軍を送ったが、[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ|スクレ]]大統領に打ち破られてしまった。しかし、ガマーラのこの試みはその後も続き、今度は[[グアヤキル]](現[[エクアドル]]最大の港湾都市)を要求してコロンビア共和国に宣戦布告するが、これもコロンビアに帰国したスクレに打ち破られた。 1836年にボリビアの[[アンドレス・デ・サンタ・クルス]]大統領によってペルーは完全征服され、[[南ペルー共和国]]と[[北ペルー共和国]]に分けられて、1836年10月に[[ペルー・ボリビア連合]]の成立が宣言された。ガマーラをはじめとする亡命ペルー人は[[チリ]]に亡命して、チリ政府と[[アルゼンチン]]の[[フアン・マヌエル・デ・ロサス]]の力を得て軍を動かし、サンタ・クルスを破ると1839年にこの連合は崩壊した({{仮リンク|連合戦争|es|Guerra contra la Confederación Perú-Boliviana|en|War of the Confederation}}、ペルー・ボリビア戦争とも)。再び独立したペルーはガマーラが大統領となった。1841年、再びボリビア併合を望んだガマーラは侵攻軍を率いてボリビアに向かうが、[[ボリビア軍]]によって撃退され、{{仮リンク|インガビの戦い|en|Battle of Ingavi}}でガマーラ自身も戦死すると、翌1842年に[[プーノ]]で講和条約が結ばれ、以後両国の統一を望む運動はなくなった。 1845年に{{仮リンク|ラモン・カスティーリャ|en|Ramón Castilla}}が政権に就くと、この時代に強権によって政治は安定し、肥料に適していた海岸部の[[グアノ]](海鳥の糞からなる[[硝石]]資源)や、コスタでの綿花やサトウキビが主要輸出品となってペルー経済を支え、グアノから生み出された富によって鉄道や電信などが敷設され、この時期にリマでペルー独自の文化としてのクリオーヨ文化が育った。また、軍隊の整備も進んだ。 1854年に[[奴隷制度廃止運動|奴隷制が廃止]]され、黒人奴隷が解放されると、ペルーの指導層はコスタでの[[プランテーション]]で働く労働力を移民に求め、中国人が導入された。[[苦力]](クーリー)として導入された中国人の数は1850年から1880年の間に10万人を越えた。[[1858年]]、{{仮リンク|エクアドル・ペルー戦争 (1858年 - 1860年)|es|Guerra peruano-ecuatoriana (1858-1860)|en|Ecuadorian–Peruvian war of 1858|label=エクアドル・ペルー戦争}}([[1858年]] - [[1860年]])。1866年にスペイン軍が南米再征服を図って侵攻したが、ペルーはこれを[[カヤオ]]での戦いで撃退した({{仮リンク|チンチャ諸島戦争|en|Chincha Islands War}})。 ==== 太平洋戦争 ==== [[ファイル:Nicolás de Piérola Presidente.jpg|thumb|left|upright|{{仮リンク|ニコラス・デ・ピエロラ|en|Nicolás de Piérola}}]] [[1879年]]4月3日にはそれまで問題になっていた[[アントファガスタ]]の[[チリ硝石]]鉱山を巡って、同盟国[[ボリビア]]と共に [[チリ]] に宣戦布告され、三国で[[太平洋戦争 (1879年-1884年)|太平洋戦争]]を争った。ペルー兵は勇敢に戦ったが、制海権を握った[[チリ軍]]にリマを占領されて敗北し、[[アリカ (チリ)|アリカ]]と[[タクナ]]をチリに割譲することとなった。同時にこのころには貴重な資源であった[[グアノ]]の鉱山も荒廃してしまった。 太平洋戦争後、ペルーは債務不履行に近い状態に付け込まれ、19世紀には豊富な地下資源に着目した[[アメリカ合衆国]]や[[イギリス|英国]]の経済支配が進むが、同時にそれまで全く省みられることのなかったシエラのインディヘナの文化に、ペルー性を求める言説が生まれるようになった。 太平洋戦争が終わった後もペルーの政治は原則としては軍人統治だったが、1895年に文民の{{仮リンク|ニコラス・デ・ピエロラ|en|Nicolás de Piérola}}が政権を握り、ペルーは「貴族共和国」時代を迎えた。これ以降ペルーでも文民が政治を握るようになったのである。[[1908年]]には寡頭支配層の分裂の間隙をぬって{{仮リンク|アウグスト・レギーア|en|Augusto B. Leguía}}政権が誕生。20年にわたる独裁を敷いた。1919年から11年間続く第二次レギーア時代に交通が充実し、結果的にシエラがペルー国家に統合されることになる。その一方で帝国主義や白人支配に反発して{{仮リンク|ビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレ|en|Víctor Raúl Haya de la Torre}}によって、1924年に亡命先の[[メキシコ]]で「[[アメリカ人民革命同盟]]」(アプラ党)が設立された。また、[[ホセ・マリアテギ]]らのインディヘナ知識人層によってインディヘニスモ運動が盛んになるのもこのころである。1920年代には{{仮リンク|ビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレ|en|Víctor Raúl Haya de la Torre|label=アヤ・デ・ラ・トーレ}}がアメリカ人民革命同盟による政権奪取を狙ったが軍部に阻まれ失敗。それ以降アプラ党は国民主義路線を放棄し、支配体制に組み込まれた。1929年には[[タクナ]]がチリから返還されたが、[[アリカ (チリ)|アリカ]]の返還は行われず、これはペルー国民に強い不満を与えた。 [[世界恐慌]]後、経済を輸出依存していたペルーは急激に不安定になった。政治面ではレギーアが失脚して軍部とアプラの対立が続き、1931年の選挙でアプラ党のアヤを破った軍人の[[ルイス・ミゲル・サンチェス・セロ|サンチェス・セロ]]大統領は、[[ポプリスモ]]的な政治を始めた。セロは1932年にペルー人の過激派から始まった[[レティシア]]占領運動に乗じて、[[コロンビア]]からレティシアを奪おうとし[[コロンビア・ペルー戦争]]を引き起こすが、この企ては失敗した。サンチェス・セロの暗殺後、ペルー議会は{{仮リンク|オスカル・ベナビデス|en|Óscar R. Benavides}}将軍を臨時大統領に選んだ。ベナビデスはコロンビアとの戦争を収め、アプラ党との協調を計ったが、アプラ党による[[テロ]]が激化した。任期が終わる1936年の選挙でアプラを含む左翼が勝利すると、ベナビデスは選挙を無効化して任期を3年間延長し、経済の好転も手伝って1939年までの任期を無事に終えた。 1939年に[[マヌエル・プラド・イ・ウガルテチェ]]が大統領になると、ペルーは[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側で[[第二次世界大戦]]に参戦し、敵性国民となった[[日系ペルー人]]は弾圧された。既に1940年5月13日にはリマで排日暴動が起きていたが、[[太平洋戦争]]が始まると[[アメリカ合衆国]]に連行されるものも出た。ペルーは直接第二次世界大戦には兵を送らなかったが、1941年7月5日に[[エクアドル]]と国境紛争([[エクアドル・ペルー戦争 (1941年-1942年)|エクアドル・ペルー戦争]])を行い、[[エクアドル軍]]に勝利した後、アメリカ合衆国やラテンアメリカ諸国の支持の下に、係争地のうちの25万km²を翌1942年の[[リオデジャネイロ議定書]]で獲得した。このことはその後のエクアドルとの関係に強い緊張を生むことになった。 1945年のブスタマンテ政権はアプラ党に対処する力を持たず、1948年のアプラ党と海軍によるクーデターによって崩壊し、{{仮リンク|マヌエル・オドリーア|en|Manuel A. Odría}}将軍が政権に就いた。オドリーア将軍はアルゼンチンの[[フアン・ペロン]]のような貧困層の支持により、寡頭支配層と戦うという政治スタイルをとったが、これも挫折し、1956年の選挙で第二次マヌエル・プラード政権が誕生した。この選挙でアプラ党は合法化を条件にプラードを支持し、以降アプラはペルーの支配層の側に回った。 このような保守支配層との協調を嫌ったアプラ党の左派が、当時起きていた[[キューバ革命]]の影響を受けて国内左派過激派と合流し、クスコ周辺で革命的武装蜂起を行うが、まもなく軍の掃討作戦によって殲滅された。 ==== 第一次ベラウンデ政権 ==== 1962年、アプラ党による選挙不正に抗議するために決起した軍事クーデターは、{{仮リンク|リカルド・ペレス・ゴドイ|en|Ricardo Pérez Godoy|label=ペレス・ゴドイ}}将軍を首班にして、農地改革法などを施行した。現在、ペルーではこのクーデターがペルー史の一大転換点であったとされている。選挙監視内閣だったゴドイ政権は1963年の選挙が終わり、人民行動党の{{仮リンク|フェルナンド・ベラウンデ・テリー|en|Fernando Belaúnde Terry|label=ベラウンデ・テリー}}政権([[:en:First Presidency of Fernando Belaúnde|First Presidency of Fernando Belaúnde (1963-1968)]])が軍部の支援で誕生すると解散した。穏健的改良主義者だったベラウンデは軍部の意向を反映して農地改革などを行ったが、ベラウンデはすぐに改革を放棄すると、農村問題とIPC(International Petroleum Corporation, インターナショナル石油会社)問題でつまずき、IPCとの間に[[タララ]]で結ばれた[[タララ協定]]({{lang|es|[[:es:Fernando Belaúnde Terry#El Acta de Talara y el escándalo de la página 11|El Acta de Talara]]}})で発覚したスキャンダルが国民の強い不満を引き起こした。 ==== ペルー革命 ==== {{Main|コンドル作戦}} こうした状況の中で[[1968年]]10月3日、[[フアン・ベラスコ・アルバラード]]将軍による軍事クーデター([[:es:Gobierno Revolucionario de las Fuerzas Armadas|Gobierno Revolucionario de las Fuerzas Armadas]])によりベラウンデは失脚した。クーデターを起こしたベラスコ将軍は、これまでの軍事政権とは打って変わって反米と自主独立を旗印に「[[ペルー革命]]」を推進することを約束し、独自の「軍事革命路線」によって外国資本の国有化や[[第三世界]]外交が展開された。貧しい生まれだったベラスコ将軍はかつてトゥパク・アマルー2世が掲げた標語を再び掲げ、革命後すぐに司法改革がなされた。農地改革が推進されてコスタの大農園は次々に解体されて多くの土地が[[小作人]]に分与され、「40家族支配」体制と呼ばれていたペルーの伝統的な地主寡頭支配層の解体が行われた。それまでアメリカ合衆国一辺倒だった外交が、第三世界を中心に多角化され、[[キューバ]]やチリ(同時期にチリで似たような改革を進めていたチリ[[人民連合 (チリ)|人民連合]]の[[サルバドール・アジェンデ]]大統領は、ベラスコを「同志」と呼んだ)といった域内の左派政権との関係改善が行われ、兵器輸入を中心にソ連との関係も深まった。日本との交流が深まるのもこのころである。 また、将軍は先住民をカンペシーノ(農民)と呼ぶようにし、以後政府の文書で侮蔑的な響きのあったインディオという言葉が使われることはなくなった。任期の最後の年には[[ケチュア語]]が[[公用語]]となったが、軍部主導で国民の広範な支持を得られなかった革命は、ポプリスモ的な分配による対外債務の増加、軍部とアプラ系の労組との衝突や、人民の組織化の失敗などもある中で、将軍は自身の体調の悪化と経済政策の失敗により、将軍の失脚をもって[[1975年]]に終焉した。 1975年、軍部内右派と左派の妥協により、軍内中道派の{{仮リンク|フランシスコ・モラレス・ベルムデス|en|Francisco Morales Bermúdez|label=モラレス・ベルムデス}}が大統領となった([[:es:Gobierno de Francisco Morales Bermúdez|Gobierno de Francisco Morales Bermúdez]])。モラレスは「革命の第二段階」を称していたが、1976年5月には事実上のIMF管理下に置かれるなど革命からの後退が続き、国民の反軍感情の高まりの中、軍は名誉ある撤退を掲げて1978年6月には制憲議会が開かれ、軍部とアプラ党の歴史的な和解の中で、非識字層に投票権を認めた1979年憲法が制定された。 === ゲリラ戦争と現代のペルー === {{Main|{{仮リンク|ペルー内戦|es|Terrorismo en el Perú|en|Internal conflict in Peru}}}} ==== 第二次ベラウンデ政権 ==== [[1980年]]には選挙によって民政に移り、再び人民行動党の{{仮リンク|フェルナンド・ベラウンデ・テリー|en|Fernando Belaúnde Terry|label=ベラウンデ・テリー}}政権([[:en:Fernando Belaúnde Terry#Second presidency (1980-1985)|Second Presidency of Fernando Belaúnde (1980-1985)]])が誕生した。[[1981年]]、[[:en:Paquisha War]]。しかし、災害や不況で政権運営は多難を極め、ベラスコ時代に地主層が解体された後の、農村部における権力の真空状態を背景に、[[センデロ・ルミノソ]]({{lang|es|PCP-SL}})などの[[ゲリラ]]勢力が力をつけてきた。また、1984年にはキューバ派の[[トゥパク・アマルー革命運動]]({{lang|es|MRTA}})が都市を中心に武装闘争を始める。 ==== 第一次ガルシア政権 ==== [[ファイル:Alan García Pérez.JPG|thumb|2006年に再選したアラン・ガルシア]] [[1985年]]、当時32歳だった[[アラン・ガルシア]]大統領を首班とする「アメリカ人民革命同盟」の政権が発足し、アプラ党が結成以来ようやく61年目にしてはじめての政権を握った。アラン・ガルシアは反米、反帝国主義を叫び、当初は国民の支持を背景に国民主義を掲げ、IMFへの債務の繰り延べなどの強硬な路線をとる一方で、内政では貧困層の救済に尽力したが、経済政策の大失敗により、深刻な経済後退を引き起こし、[[国民総生産]](GNP)は20年前の水準に逆戻りし、[[失業率]]は実に66%を記録した。さらには対外債務の累積は150億ドルにも達しており、これは[[メキシコ]]、[[ブラジル]]、[[アルゼンチン]]など1000億ドル以上の債務を抱えていたその他の中南米諸国に比べると、かなり小さい額であったが、当時南米の貧しい小農業国に過ぎなかったペルーにとっては莫大な金額で、ペルーの輸出収入30億ドルの5倍、外貨準備高15億ドルの10倍に匹敵した。そのため債務と利払いの返済の停滞による国際金融社会との関係の悪化よる深刻な経済危機を招き、国家破綻寸前に陥った。苦境に立たされたガルシア政権は「国民を飢えさせてまで、支払うつもりはない」として、債務の支払いを輸出収入の10%以内に限定するという「10%原則」と呼ばれる一方的な措置を取った。これは事実上の[[徳政令]]であったことから、これが決定打となり、更に国際金融機関との関係を極度に悪化。そのためにIMF、世銀のような国際金融機関や主要先進諸国からの資金の流入が停止し、国内の経済困難に一層拍車をかけ、国際的信用が失墜したペルーの通貨は暴落。インフレ率8000%という[[ハイパーインフレ]]を記録し、通貨は紙切れ同然となり、1990年には完全な国家破産状態に陥る。また当時はセンデロ・ルミノソは[[アヤクーチョ]]を中心にシエラの大部分を占領し、[[パンアメリカンハイウェイ]]や主要幹線道路までがセンデロ・ルミノソに押さえられてリマは包囲され、センデロ・ルミノソによる革命が間近に迫っているかのように思われた。 ==== フジモリ政権 ==== [[ファイル:Al Fujimori.jpg|thumb|left|170px|第91代大統領[[アルベルト・フジモリ]]]] {{See also|{{仮リンク|アルベルト・フジモリ政権|es|Gobiernos de Alberto Fujimori|label=フジモリ政権}}}} このような危機的状況下にて行われた大統領選挙では、[[ノーベル文学賞]]作家の[[マリオ・バルガス・リョサ]]を破って「[[変革90]]」({{lang|es|Cambio 90}})を率いた日系二世の[[アルベルト・フジモリ]]が勝利し、フジモリは南米初の日系大統領となる。「フジ・ショック」と呼ばれたショック政策によるインフレ抑制と、財政赤字の解消による経済政策を図って、新自由主義的な改革により悪化したペルー経済の改善を図り、農村部の農民を武装させたゲリラ対策により治安の安定に一部成功するなど素人とは思えない業績を残した。しかし、このようなやり方に一部反発もおきた。議会を自らの行った改革の障害と見做すと、[[1992年]]4月5日にはフジモリは議会を解散し、憲法を停止して非常国家再建政府を樹立した。このようにして確立した権力を最大限に活用して、国内の治安問題においてセンデロ・ルミノソの首謀者[[アビマエル・グスマン|グスマン]]を逮捕し、組織を壊滅状態に追いやるなど治安回復に大きな成果を挙げた。この自主クーデターは、[[アメリカ合衆国]]や、ヨーロッパ諸国から「非民主的」と非難された。[[1994年]]からは軍部よりの政策になると首相辞任などの政治混乱を招いたが、自らの再選を認める1993年憲法を公布した後に、1995年の民主的な選挙で再任された。1995年にアマゾンの係争地(石油埋蔵地)を巡って[[エクアドル]]の{{仮リンク|シスト・デュラン・バジェン|en|Sixto Durán Ballén}}政権との{{仮リンク|セネパ戦争|en|Cenepa War|label=セネパ紛争}}に勝利し、両国の間で長年の問題となっていた国境線を画定するなどの功績を残している。フジモリ政権は日本との友好関係を強化し、日本はこの時期にペルーへの最大の援助国となったが、これを原因として[[1996年]]12月に[[トゥパク・アマルー革命運動]]による[[ペルー日本大使公邸占拠事件|日本大使公邸占拠事件]]が発生した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/peru/97/p_suii.html|title=ペルー大使公邸占拠事件の推進|publisher=外務省|accessdate=2020-8-29}}</ref>。2000年にはフジモリは再選を果すが、徐々に独裁的になっていった政権に対する国民の反対運動の高まりや 、汚職への批判を受け、11月21日に訪問先の日本から大統領職を辞職した。顧問の[[ブラディミロ・モンテシノス|モンテシノス]]に行わせていた買収工作や諜報機関{{仮リンク|ペルー国家情報局|es|Servicio de Inteligencia Nacional del Perú|en|National Intelligence Service (Peru)}}の存在が明らかになり、フジモリ政権は幕を閉じた。しかし、汚職での失敗支持を失ってなお、経済・治安で大きな役割を果たし、21世紀においても地方を中心に大きな支持を受けている{{要出典|date=2020-8}}。 2001年の選挙により、「{{仮リンク|ペルー・ポシブレ|es|Perú Posible|en|Possible Peru|label=可能なペルー}}」({{lang|es|Perú Posible}})から先住民初([[チョロ]])の大統領、[[アレハンドロ・トレド]]が就任した。貧困の一掃と雇用創出、政治腐敗の追及を公約とした政権は、しかし経済政策は成果を上げることはできず、国民の支持は下り坂。左翼ゲリラによるテロ活動も復活し治安は悪化している{{要出典|date=2020-8}}。 ==== 第二次ガルシア政権 ==== 2006年の選挙により、[[アメリカ人民革命同盟]](アプラ)から、16年ぶりに[[アラン・ガルシア]]が再び大統領に就任した。[[2007年]][[8月15日]]に発生した[[ペルー地震 (2007年)|ペルー地震]]によって、死者540人、負傷者1,500人以上、被災者数85,000人が報告されている。[[2009年]][[4月7日]]、ペルーの最高裁特別刑事法廷は、元大統領[[アルベルト・フジモリ]]被告に対し、在任中の市民虐殺事件や殺人罪などで禁固25年(求刑30年)と被害者や遺族への賠償金支払いを命じる有罪判決を言い渡した。 {{Clearleft}} ==== ウマラ政権 ==== 2006年の選挙で[[アラン・ガルシア]]に敗北した[[オジャンタ・ウマラ]]が2011年大統領選挙で勝利し左派政権が誕生した。格差の縮小や富の再分配に重点を置いた政策を表明したが、実際には市場寄りの中道左派政策を取った。2012年2月13日にセンデロ・ルミノソの残党リーダーの[[フロリンド・フロレス]]を銃撃戦の末、身柄を拘束した。拘束を受けてオジャンタ・ウマラ大統領は、テレビ放送にて「センデロ・ルミノソはもはやペルーにとって脅威ではない。」と演説を行った。 ====汚職を原因とした政治的混乱==== 2017年、オジャンタ・ウマラ大統領は、ブラジルの建設会社をめぐる汚職([[オペレーション・カー・ウォッシュ]])を理由に罷免されると[[ペドロ・パブロ・クチンスキ]]が大統領に就任。しかし2018年3月21日、ペドロ・パブロ・クチンスキにも、同じ汚職事件に関与していた疑いが高まり、罷免決議案が採決される直前に辞職<ref>{{Cite web|和書|date=2018-03-22 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3168270?cx_part=search |title=ペルー大統領が辞任表明 汚職疑惑、罷免採決前日に |publisher=AFP |accessdate=2020-11-16}}</ref>、副大統領職にあった[[マルティン・ビスカラ]]が大統領に就任した。この建設会社をめぐる汚職事件は、ペルー政界を揺るがし続け、[[2019年]][[4月17日]]には、2011年まで大統領を務めていたアラン・ガルシアが自殺。これも同じ汚職事件に関与した疑いで逮捕される直前の出来事であった<ref>{{Cite web|和書|date=2019-04-18 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3221289?cx_part=search |title=ペルーのガルシア元大統領が自殺 逮捕直前に銃で頭撃つ |publisher=AFP |accessdate=2020-11-16}}</ref>。 [[2020年]][[11月9日]]、マルティン・ビスカラ大統領が[[モケグア県]]知事時代の[[汚職]]を理由に罷免され<ref>{{Cite web|和書|date=2020-11-10 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3315060?cx_part=search |title=ペルー大統領、州知事時代の汚職疑惑で罷免 |publisher=AFP |accessdate=2020-11-16}}</ref>、10日、マヌエル・メリノ国会議長が大統領に就任した<ref>{{Cite news|url= https://www.nikkei.com/article/DGXMZO66073080R11C20A1000000/ |title= ペルー、国会議長が新大統領に就任 前任者罷免で |newspaper= 日本経済新聞 |publisher= 日本経済新聞社 |date= 2020-11-11 |accessdate= 2020-11-17 }}</ref>。しかしこれに抗議するデモが相次ぎ、15日、メリノも辞任を発表<ref>{{Cite news|url= https://www.afpbb.com/articles/-/3316033 |title= ペルー新大統領が辞任 就任から5日、デモ激化 |newspaper= AFPBB News |date= 2020-11-16 |accessdate= 2020-11-17 }}</ref>。16日、元[[世界銀行]]職員の[[フランシスコ・サガスティ]]が新大統領に選出された<ref name="afpbb20201117">{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3316246 |title=ペルー議会、新大統領を選出 中道サガスティ氏 |publisher=AFP |date=2020-11-17|accessdate=2020-11-17}}</ref>。わずか1週間に3人の大統領が存在したこととなった<ref name="afpbb20201117"/>。[[2021年]][[7月28日]]、急進左派の[[ペドロ・カスティジョ]]が大統領に就任<ref>{{Cite news|url= https://web.archive.org/web/20210719231342/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021072000254&g=int |title= 急進左派カスティジョ氏が当選 ケイコ氏敗北受け入れ―ペルー大統領選 |newspaper= 時事ドットコム |publisher= 時事通信社 |date= 2021-07-20 |accessdate= 2021-10-08 }}</ref>。[[グイド・ベジド]](ベリド)が首相に指名されたが<ref>{{Cite news|url= https://jp.reuters.com/article/peru-politics-pm-idJPKBN2EZ2YE |title= ペルー新大統領、マルクス主義与党所属のベリド氏を首相に指名 |newspaper= ロイター |date= 2021-07-30 |accessdate= 2021-10-08 }}</ref>、過激な発言で野党と対立して国会運営に行き詰まり、[[10月6日]]辞職した<ref>{{Cite news|url= https://www.asahi.com/articles/ASPB75473PB7UHBI007.html |title= ペルーで内閣総辞職 政権発足2カ月半、首相の過激発言で野党と対立 |newspaper= 朝日新聞デジタル |publisher= 朝日新聞社 |date= 2021-10-07 |accessdate= 2021-10-08 }}</ref>。 [[2022年]][[12月7日]]、議会で弾劾が審議される数時間前にカスティジョは、議会を解散して大統領令による統治を開始し、2023年9月までに議会選挙を行うと表明。議会は大統領決定を認めずカスティジョを解任し、[[ディナ・ボルアルテ]]副大統領を新大統領とすることを賛成101、反対6、棄権10票で決定。{{ill2|ベッツィー・チャベス|en|Betssy Chávez}}首相をはじめ閣僚は辞任し、カスティジョは失職した直後に亡命のためメキシコ大使館へ向かったが途中で国家警察に反逆容疑で拘束され、首都[[リマ]]近郊の警察施設に収監された<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/peru-politics-castillo-idJPKBN2SR1ZK|title=ペルー議会、カスティジョ氏罷免 副大統領が初の女性大統領に就任|agency=[[ロイター]]|date=2022-12-08|accessdate=2022-12-09}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.aljazeera.com/news/2022/12/7/peru-president-pedro-castillo-calls-to-dissolve-congress|title=Peru’s Congress swears in new president after Castillo removed|work=Al Jazeera English|agency=[[アルジャジーラ]]|date=2022-12-08|accessdate=2022-12-09}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://gestion.pe/peru/politica/betssy-chavez-renuncia-como-presidenta-del-consejo-de-ministros-ante-pedro-castillo-golpe-de-estado-disolucion-del-congreso-rmmn-noticia/|title=Betssy Chávez renuncia como presidenta del Consejo de Ministros tras golpe de Estado|newspaper=[[:en:Gestión (diario)|Gestión]]|date=2022-12-08|accessdate=2022-12-09}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/218743|title=フジモリ氏服役の警察施設に移送 反逆容疑のペルー前大統領|work=TOKYO Web|newspaper=[[東京新聞]]|date=2022-12-08|accessdate=2022-12-09}}</ref>。 ペルー国内ではデモ活動が活発化し、一部は新大統領の辞任や新憲法の制定、議会の解散を要求し始めた。12月16日にはコレア教育相とペレス文化相が辞任を表明した<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/peru-politics-idJPKBN2T101J |title=混乱続くペルー、抗議デモ死亡受け閣僚2人が辞任 新政権に圧力 |publisher=ロイター |date=2022-12-17 |accessdate=2022-12-17}}</ref>。 == 政治 == {{main|{{仮リンク|ペルーの政治|en|Politics of Peru}}}} [[ファイル:Palacio de Gobierno.JPG|thumb|ペルーの大統領宮殿。]] [[ファイル:Congreso peru.jpg|thumb|ペルー共和国議会。]] [[ファイル:Palaciojusticiaperu.jpg|thumb|ペル―最高裁判所。]] [[大統領]]を[[元首]]とする[[共和制]][[国家]]であり、[[行政]]権は大統領が行使する。大統領、副大統領共に普通選挙によって選出され、任期は5年。現行の憲法は1993年憲法であり、同憲法の規定では大統領の権限が強力であるが、大統領の再選は2000年の憲法改正により禁止されている。また、大統領によって首相に当たる[[ペルーの首相|閣僚評議会議長]]が任命される。 [[立法]]権は[[一院制]]の[[ペルー共和国議会|共和国議会]]によって担われ、議会の定数は120人となっている。 [[司法]]権は[[最高裁判所]]によって担われる。 1980年ごろから反政府[[左翼]][[ゲリラ]]の活動が活発になった。[[センデロ・ルミノソ]]と[[トゥパク・アマルー革命運動]](MRTA)が反政府活動の主流である。これら左翼ゲリラの活動と軍との衝突によって、農村部の人口を中心に3万人を超える犠牲者が出たと言われている。 1990年に誕生したフジモリ政権は治安回復に取り組んだが、少数与党であった為議会運営に問題を抱えていた。そのため議会と憲法を停止するという強引な方法で全権を掌握し、対ゲリラの治安対策と経済対策を行った。この手法は民主主義に反すると諸外国から抗議があったが、センデロ・ルミノソのグスマンをはじめとする左翼ゲリラの最高責任者を逮捕するなど治安回復に効果をあげた。経済政策にもインフレ抑制など特筆すべき成果を挙げており、貧困層からは未だ{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->に人気が高い(要出典)。 === 法律 === {{Main|{{仮リンク|ペルーの法律|en|Law of Peru}}}} 2006年まで死刑の適用は国家反逆罪のみ、一般の刑法犯は終身禁固を最高刑とする一般犯罪における[[死刑廃止]]国だったが、アラン・ガルシア大統領は、選挙公約の一つに掲げていた、7歳未満の子供に、[[性的暴行]]を加え殺害した被告への死刑適用を認める法案を、この年の9月21日に議会へ提出した。現在{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->、その審議が行なわれている。背景には、日本の[[広島県]]で[[2005年]]に発生した[[広島小1女児殺害事件]]の容疑者が母国ペルーで同様の犯行を行っていたことや、年少者に対する性犯罪の厳罰化を求める世論が同国で高まり殺害した場合の死刑適用に8割が賛成するなどの世論調査の結果が挙げられる(2006年9月22日付時事通信「子供への性的暴行殺人に死刑適用:ペルー大統領が法案提出」より)。 ラテンアメリカ諸国全体の傾向としては、現在{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->ほぼ全ての国が一般犯罪に対する死刑を廃止し、死刑制度を存続している国も10年以上死刑を執行していない。 == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|ペルーの国際関係|en|Foreign relations of Peru}}}} === 日本との関係 === {{main|日本とペルーの関係}} ==== 在ペルー日本国大使館 ==== {{Main|在ペルー日本国大使館}} ==== 駐日ペルー大使館 ==== {{Main|駐日ペルー大使館}} ===外交=== ===ペルーが参画する主な国際間組織など=== *[[アンデス共同体]] *[[南米諸国連合]] *[[ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体]] *[[ラテンアメリカ統合連合]] *[[ラテンアメリカの前進と発展のためのフォーラム]] *[[アジア太平洋経済協力]] *[[イベロアメリカ首脳会議]] *[[環太平洋パートナーシップ協定]] == 軍事 == {{main|ペルーの軍事}} かつて[[徴兵制]]が敷かれており、成人男子は2年間の兵役の義務を有していたが、1999年に廃止されて志願兵制を採用している。 1960年代後半からベラスコ将軍の革命政権時代に[[ソビエト連邦|ソ連]]との友好が図られたため、1980年の民政化後も[[ペルー軍]]は基本的には東側の装備である。ペルーにおいて軍隊、特に陸軍は[[メスティーソ]]や[[チョロ]]といった貧しい階層の出世が可能な唯一の組織であったといっても過言ではなく、[[サンチェス・セロ]]や[[ベラスコ・アルバラード]]など、過去にクーデターで政権を握った軍人にもそういった階層の出身者は多かった。こうしたある意味で民主的な陸軍の伝統がある一方、対照的に海軍は[[イギリス海軍]]の影響を受けて貴族的であり、多くの機会において有色人種や身分の低い階層よりも白人が優先されていた。 軍隊は憲法の番人を自認しており、文民政権が違憲的な政策を行った場合にそれをたしなめ、憲法に沿った形で公正な政治を文民に行わせるのが、長らく軍隊の役割であるとされてきた。 === 陸軍 === [[ペルー陸軍]]は兵員約76,000人(2001年)を擁している。 === 海軍 === [[ペルー海軍]]は兵員約26,000人(2001年)を擁している。 === 空軍 === [[ペルー空軍]]は兵員約18,000人(2001年)を擁している。 == 地方行政区分 == {{Main|ペルーの行政区画|ペルーの郡}} [[ファイル:Peru pol91.jpg|250px|thumb|ペルーの地図。]] [[ファイル:Peru Blue Administrative Map.png|thumb|250px|ペルーの県。]] 24の県(departamentos)と[[カヤオ特別区]](Provincia Constitucional del Callao)によって編成されている。 * 北部 ** [[トゥンベス県]] (Tumbes) ** [[ピウラ県]] (Piura) *** ワンカバンバ郡 ** [[カハマルカ県]] (Cajamarca) *** ハエン郡 ** [[アマソナス県 (ペルー)|アマソナス県]] (Amazonas) ** [[ロレート県]] (Loreto Region) *** アルト・アマソナス郡、マイナス郡、マリスカル・ラモン・カスティージャ郡 ** [[ランバイエケ県]] (Lambayeque Region) ** [[ラ・リベルタ県 (ペルー)|ラ・リベルタ県]] (La Libertad) *** パタス郡、ボリーバル郡、フルカン郡、サンチェス・カリオン郡、サンティアゴ・デ・チュコ郡、オトゥスコ郡 ** [[サン・マルティン県]] (San Martín) *** トカチェ郡、[[モヨバンバ郡]]、ベジャビスタ郡、エル・ドラード郡、{{仮リンク|ワジャガ郡|es|Provincia del Huallaga|en|Huallaga Province}}、ラマス郡、マリスカル・カセレス郡、ピコタ郡、サン=マルティン郡 * 中部 ** [[アンカシュ県]] (Ancash) *** パリャスカ郡、コロンゴ郡、シワス郡 ** [[ワヌコ県]] (Huánuco) *** ワカイバンバ郡、ワマリエス郡、レオンシオ・プラード郡、マラニョン郡、ワヌコ郡、アンボ郡、ドス・デ・マヨ郡、パチテア郡、プエルト・インカ郡 ** [[ウカヤリ県]] (Ucayali) *** パドレ・アバッド郡、コロネル・ポルティージョ郡 ** [[リマ県]] (Lima) *** カハタンボ郡([[:en:Cajatambo Province|en]])、バランカ郡([[:en:Barranca Province|en]])、オヨン郡([[:en:Oyon Province|en]])、ワウラ郡([[:en:Huaura Province|en]])、ワラル郡([[:en:Huaral Province|en]])、カンタ郡([[:en:Canta Province|en]])、[[ワロチリ郡]]、ヤウヨス郡([[:en:Yauyos Province|en]])、カニエテ郡([[:en:Cañete Province|en]]) ** [[パスコ県]] (Pasco) *** オクサパンパ郡ビジャ・リカ町、パスコ郡、オクサパンパ郡 ** [[フニン県]] (Junín Region) *** ワンカヨ郡サント・ドミンゴ・デ・アコバンバ町、コンセプシオン郡アンダマルカ町、サティポ郡、チャンチャマヨ郡、ハウハ郡、フニン郡、タルマ郡、チュパカ郡 ** [[カヤオ特別区]] (Callao) * 南部 ** [[イカ県]] (Ica) ** [[ワンカベリカ県]] (Huancavelica) *** タヤカハ郡、アンガラエス郡、カストロビレイナ郡 ** [[アヤクーチョ県]] (Ayacucho) *** ワンタ郡、ラ・マル郡、ルカナス郡、ワマンガ郡 ** [[アプリマク県]] (Apurímac) *** チンチェロス郡、アンダワイラス郡、アバンカイ郡 ** [[クスコ県]] (Cuzco) *** ラ・コンベンシオン郡 ** [[マードレ・デ・ディオス県]] (Madre de Dios) ** [[アレキパ県]] (Arequipa) ** [[プーノ県]] (Puno) ** [[モケグア県]] (Moquegua) ** [[タクナ県]] (Tacna) ===主要都市=== {{Main|ペルーの都市の一覧}} 主要な都市は[[リマ]](首都)、[[アレキパ]]、[[トルヒーリョ (ペルー)|トルヒーリョ]]、[[チクラーヨ]]がある。 == 地理 == {{Main|{{仮リンク|ペルーの地理|es|Geografía del Perú|en|Geography of Peru}}}} [[ファイル:Peru veg 1970.png|260px|thumb|left|ペルーの三地域が色分けされている。]] [[ファイル:Alpamayo.jpg|thumb|アンデス山脈の頂から流れる水が多くの川となる。]] [[ファイル:Amazon origin at Mismi.jpg|thumb|[[アマゾン川]]の源流地点。]] [[ファイル:Mapa topográfico del Perú.png|thumb|ペルーの地形図]] ペルーの国土は三つの地形に分けられ、砂漠が広がる沿岸部の'''コスタ'''([[:es:Costa (Perú)|es]]、国土の約12%)、[[アンデス山脈]]が連なる高地の'''シエラ'''([[:es:Andes peruanos|es]]、国土の約28%)、[[アマゾン川]]流域の'''セルバ'''([[:es:Amazonía del Perú|es]]、国土の約60%)である。このように3つに分けられる地形に加え、さらにコスタとシエラでは北部、中部、南部の違いがあり、それも大きなペルーの地域性の違いとなっている。気候としてはペルーは基本的には[[熱帯]]であるものの、標高の差や南北の差により各地域で大きな違いがある。 コスタは[[太平洋]]から東に向けて標高500mまでの地点を指し、この幅50kmから150km程の狭い地域にペルー国民の半数以上が居住している。[[砂漠]]であるものの、フンボルト海流の影響で緯度の割には気温は一年を通して過ごしやすく、最も暑い2月の平均気温が22℃、最も寒い8月の平均気温も14℃であり、灌漑を行えば通年で農耕が可能な土地である。ただし、後述するように海流の関係で霧が発生し、湿度は非常に高い。冬の日はどんよりとした天気が続く。人が住めるのは古代からずっと砂漠の間を通る川の流域や、湧き水で出来た[[オアシス]]の周囲のみであり、[[前インカ期]]からこうした地域に古代文明が栄えていた。なお、こうした河川はコスタに50以上ある。 シエラはコスタの終わるアンデス山脈の西斜面の標高500m以上の地域から、東斜面の標高1,500m程までの地域を指し、その標高によってシエラ内でも幾つもの地域に細分化されている。標高2,000m以下の暑い地域をユンガといい、この地域では[[コーヒー]]、果物などの亜熱帯作物が育つ。標高2,500mから3,500mまでの温暖な地域をケチュア(キチュア)といい、[[タワンティンスーユ]]の中心だったクスコもこの範囲内にあった。この地域では[[ジャガイモ]]が育つ。標高3,500mから4,100mの冷たく涼しい地域をスニといい、[[リャマ]]や[[アルパカ]]の放牧に適している。4,100m以上の人間の居住には適さないぐらい寒冷な地域をプーナと呼ぶ。 シエラの農村部では、インディヘナ(ペルーでは公式にはカンペシーノ=農民と呼ばれる)の農民が、インカ帝国時代とあまり変わらない形態の農業を続けており、[[アイユ]]と呼ばれる[[村落共同体]]の伝統が未だ{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->に重要な経済単位となっている。 セルバ(モンターニャ)はアンデス山脈東斜面の標高2,000m以下の地域を指す。標高2,000mから500mがセルバ・アルタとなり、豆や[[バナナ]]などの熱帯作物が育つのはこの地域である。標高500m以下はセルバ・バハとなり、かつて[[ゴム]]や[[砂金]]のブームが起きたのはアマゾンのこの地域である。 ペルーの太平洋沿岸には[[寒流]]の[[ペルー海流]](フンボルト海流)と暖流が流れており、2つの海流がぶつかることによってペルー沖は好漁場となっている。 === 山 === {{Main|{{仮リンク|ペルーの山の一覧|en|List of mountains in Peru}}}} ペルーの国土を南北に[[アンデス山脈]]が貫いており、アンデス山脈は西部の{{仮リンク|オクシデンタル山脈 (ペルー)|es|Cordillera Occidental (Perú)|label=オクシデンタル山脈}}、中央部の{{仮リンク|セントラル山脈 (ペルー)|es|Cordillera Central (Perú)|label=セントラル山脈}}、東部の{{仮リンク|オリエンタル山脈 (ペルー)|es|Cordillera Oriental (Perú)|en|Cordillera Oriental (Peru)|label=オリエンタル山脈}}に分かれる。国内最高峰はオクシデンタル山脈の[[ワスカラン|ウアスカラン山]](6,778m)である。 === 河川と湖 === {{Main|ペルーの河川の一覧|{{仮リンク|ペルーの湖の一覧|en|List of lakes of Peru}}}} アンデス山脈から多くの川が東西に流れており、西に流れる川はコスタの砂漠を潤す役割を果す。[[アマゾン川]]の源流もアンデス山脈の{{仮リンク|ミスミ山|es|Mismi|en|Nevado Mismi}}にあり、アマゾン川はペルー最大の河川となっている。また、北部を流れる[[プトゥマヨ川]]はペルーとコロンビアの国境線を形成している。 ペルーとボリビアの国境地帯の[[ティティカカ湖]]は両国最大の湖となっている。 == 経済 == {{main|{{仮リンク|ペルーの経済|en|Economy of Peru}}}} [[ファイル:Peru econ 1970.jpg|left|thumb|ペルーの特産品(1970年)。]] 2021年のペルーのGDPは2,259億ドル、1人当たりのGDPは6,680ドルである<ref>{{Cite web |url=https://www.imf.org/external/datamapper/profile/PER |title=GDP, current prices. GDP per capital, current prices. 2021 |access-date=15 December 2022 |publisher=International Monetary Fund}}</ref>。 [[アンデス共同体]]の加盟国、[[メルコスール]]の準加盟国であり、[[アジア太平洋経済協力]]と[[南米共同体]]の加盟国でもある。 現行の通貨は'''s/.''' '''[[ヌエボ・ソル]] Nuevo Sol'''(訳 : 新しいソル。ソルは太陽を表す。かつての通貨ソルに代わって導入された)その下に補助通貨単位としてセンティモ(Centimo)、s/.1=100Centimosが存在する。 産業の中心は、[[銅]]・[[鉛]]・[[亜鉛]]・[[銀]]・[[金]]などの[[鉱業]]である。特に銀は世界第2位の産出量である(2003年)。[[石油]]や[[ガス燃料|ガス]]などの天然資源も産出する。ただし、鉱山の近くでは、適切な環境保全対策や、住民の保護が全く行われておらず、周辺住民は住まいを追われ、[[鉱毒]]に侵されている<ref>{{cite news |url =http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/120400348/ |title =巨大な穴にのみ込まれる町、ペルーの鉱山 |publisher = [[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]] |date = 2015-12-7 |accessdate = 2015-12-7 }}</ref>。 また、[[漁業]]は古くから盛んであり、[[1960年代]]には漁獲高で世界一を記録していた<ref>日本の漁獲高世界一に迫る『朝日新聞』1969年(昭和49年)12月8日朝刊 12版 15面</ref>。2003年においても[[中華人民共和国]]に次いで世界第2位の漁獲高を記録。[[水産業]]もペルーの主要な産業であると言える。 === 貿易 === 2021年の輸出額は573億3,700万ドル、輸入額は510億8,300万ドルとなった。 輸出相手国上位5カ国は中国、アメリカ、韓国、日本、カナダであり、中国とアメリカの2カ国で輸出額の約45%を占めている。主要輸出品は銅、金、亜鉛などの鉱物資源や、ブドウ、ブルーベリー、アボカドなどの農産物である<ref name=":0">{{Cite journal|author=設楽隆裕|year=2022年9月16日|title=銅輸出が黒字幅拡大に寄与、対日自動車輸入も拡大(ペルー)|url=https://www.jetro.go.jp/biz/areareports/special/2022/0803/1e5f4473feb21a88.html|journal=JETRO 地域・分析レポート}}</ref>。ペルーは2020年にブルーベリーで世界2位、アボカドで世界4位の生産国となった<ref>{{Cite web |url=https://www.fao.org/faostat/en/#rankings/countries_by_commodity |title=Production Countries by commodity |access-date=15 December 2022 |publisher=Food and Agriculture Organization of the United Nations}}</ref>。輸入相手国上位5カ国は中国、アメリカ、ブラジル、アルゼンチン、メキシコであり、中国とアメリカの2カ国で輸入額の約47%を占めている。主要輸入品は燃料や輸送機器、電気製品などである<ref name=":0" />。 === 日本との貿易 === 2021年の日本の輸出額は10億2,500万ドル、日本の輸入額は29億3,300万ドルとなり、日本がペルーから輸入する金額の方が多くなっている。ペルーへの輸出品は自動車、電気製品、タイヤなどである。ペルーからの輸入品は銅、亜鉛、鉄などの鉱物資源、原油、天然ガスなどである<ref name=":0" />。{{Clearleft}} === 観光 === {{Main|{{仮リンク|ペルーの観光地|en|Tourism in Peru}}}} == 国民 == {{Main|ペルー人}} [[ファイル:Peru-demography.png|thumb|[[1961年]]から[[2003年]]までのペルーの人口動態グラフ。]] [[ファイル:Quechuawomanandchild.jpg|thumb|シエラのケチュア系ペルー人の親子。]] [[ファイル:Oxapampa peru.jpg|thumb|シエラのヨーロッパ系ペルー人。]] [[ファイル:Catedral-Cusco.jpg|thumb|クスコ大聖堂。]] 植民地時代にリマが[[ペルー副王領]]の首都であり、そのため独立前から[[クリオージョ]]支配層が[[グアテマラ]]、[[メキシコ]]と並んでラテンアメリカで最も貴族的な階層を築き上げていた。独立後もその傾向が是正されず国民意識が白人層にしか共有されなかったという問題は現在{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->も続く。しかし2001年7月28日 - 2006年7月28日までチョロ(インディオ系ペルー人)の愛称で有名になったアレハンドロ・トレドが大統領に上ったことから現在{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->国民意識が変わりつつある。 現在{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->のペルー人に共通し、これがペルー人であるという答えは多様な人種から生まれた文化であることだ。 ペルーの民族構成は[[メスティーソ]]45%、[[インディヘナ]](先住民、公式にはカンペシーノなどと呼ばれる)37%、[[ヨーロッパ系ペルー人]]15%、[[アフリカ系ペルー人]]、[[中国系ペルー人]]([[華人]])と日系をはじめとする[[アジア系ペルー人]]などその他3%とされており、非常に複雑で多様な人種から構成されている。長らく[[日系ペルー人]]は8万人といわれてきたが、この調査は数十年前に行なわれたものであり、しかも当時、ペルー国外に住む日系ペルー人は調査対象とはならなかったうえ、日本人の血の割合が低い混血の人たちをカウントしなかった。これらの事実と、その後の自然増を勘案すれば、現在{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->の日系ペルー人は数十万に達している可能性がある。 インディヘナに関しては[[ケチュア人]]と[[アイマラ人]]が圧倒的に多いが、セルバのアマゾン低地にも多数の民族集団があり、近年{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->彼らの文化の独自性がどれだけ保たれるかが懸念されている。 アフリカ系ペルー人は植民地時代にコスタの大農園での労働力として導入された黒人奴隷の子孫である。アフリカ系ペルー人の文化はコスタの音楽や舞踊、宗教、食文化など広範な分野に大きな影響を与えている。 ヨーロッパ系ペルー人としては、植民地時代からの[[スペイン人]]の他に、[[イタリア人]]、[[フランス人]]、[[ドイツ人]]、[[バスク人]]などが1850年から1880年の間に2万人ほど流入した。 アジア系ペルー人としては、やはり1850年から1880年の間に10万人ほどの中国人([[苦力|クーリー]])が流入し、コスタの現地文化に同化した。中国人の導入が廃止された後は日本人が導入され、1899年から1923年までの間に2万1000人の日本人が契約移民として流入した。ヨーロッパ系もアジア系も移民は1854年の黒人奴隷解放後に、黒人奴隷に代わってのコスタの[[プランテーション]]での労働力として導入された。 その他のマイノリティとしては[[アラブ人]]、[[ユダヤ人]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]人など。他のラテンアメリカ諸国からやってきた人間も少なからずいる。 === 人口 === {{Main|{{仮リンク|ペルーの人口統計|en|Demographics of Peru}}}} インカ帝国時代に1,000万人を越えていたと推測されている人口は、植民地時代に急激に減少し、独立直後の1826年に約150万人となっていた。その後1961年の国勢調査で10,420,357人、1972年では13,538,208人、1983年年央推計では約1,871万人となった。 1940年代から始まったシエラからコスタ(特にリマ)への国内移民のため、現在のリマは人口800万人の大都市圏を形成しており、これはペルーの総人口の約30%程である。 人口増加率 : 1.39% === 言語 === {{main|{{仮リンク|ペルーの言語|en|Languages of Peru}}}} 公用語は[[スペイン語]]([[ペルー・スペイン語]])、[[ケチュア語]](1975年から)、[[アイマラ語]](1980年から)であり、人口の大部分はスペイン語を話す。セルバのアマゾン低地では、先住民によって独自の言語が話されている。 シエラのインディヘナの多くはケチュア語を話す。アイマラ語話者はティティカカ湖沿岸のプーノ県に特に集中しており、ボリビアのアイマラ語文化圏と文化的に連続している。 === 宗教 === {{main|{{仮リンク|ペルーの宗教|en|Religion in Peru}}}} 国立統計情報機構(INEI)による2007年実施の第11回国勢調査結果では、当時12歳以上の国民の81.3%が[[カトリック|ローマ・カトリック]]、12.5%は[[プロテスタント]]、3.3%はユダヤ教・モルモン教・エホバの証人などの他宗教、2.9%は特定宗教なしとなっている。カトリックの数は減少傾向が観察され、同機構による調査数値の推移では、1993年から2007年にかけてのカトリックが89%から81%に減少している。 スペイン人による征服以来ペルーに住む人々は[[キリスト教]]を受容していったが、それでもペルー土着の宗教的要素が完全に消え去ったわけではなく、先住民の伝統宗教と独自の融合、背反を重ねて現在{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->に至っている。 === 婚姻 === 伝統的には、スペイン語圏であるため、婚姻後の女性の姓は、自己の姓に相手の姓をdeを挟んで後置したものであるが、女性の権利を守る立場から近年{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->法律が改定され自己の名前のみを名乗る[[夫婦別姓]]や、相手の姓を名乗ることも選択できるようになった。 === 教育 === {{main|{{仮リンク|ペルーの教育|en|Education in Peru}}}} 6年間の初等教育と5年間の中等教育、6歳から16歳までの計11年間が[[義務教育]]期間である。その後に、大学(10学期=5年間)、専門学校などに進学することができ、またそれらに進学するための予備校などもある。 国立情報統計機構(INEI)が2017年9月に発表した2016年全国世帯アンケート(ENAHO)のデータによれば、識字人口は2147万4000人、15歳以上識字率は94.1%である。2006年から2016年の10年間で男性が1.7%(95.4%→97.1%)、女性が4.8%(86.2%→91.0%)向上している。 主な高等教育機関は[[サン・マルコス大学]](1551)、[[ペルー・カトリカ大学]]、[[太平洋大学]](1962)など。 === 医療 === ==== 保険制度 ==== ペルーで提供されている医療保険は、公的保険と民間保険に分けられる。公的保険には学生や妊婦、定職のない貧困者を対象とした統合健康保険(Seguro Integral de Salud : SIS )と、正規雇用者を対象とした社会保険がある。民間保険には民間保険会社が独自で運営するものと民間保険会社と政府が協力して運営するものとがあり、より良い医療サービスを求める富裕層を対象にしている。その他、国軍や国家警察を対象とした医療サービスなどがある。受診できる医療機関は保険の種類に応じて異なる<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://openjicareport.jica.go.jp/pdf/12251849.pdf |title=ペルー国 災害時における救急医療に係る情報収集・確認調査 ファイナルレポート |access-date=2022年12月15日 |publisher=JICA}}</ref>。 ==== 統合健康保険(SIS)の課題 ==== SISの課題は4点あると考えられる。1点目は、SISへの加入者が増加しているにもかかわらず、医療施設の数が増えていないことである<ref name=":1" />。2点目は、老朽化した施設が多いことである。施設、設備が共に老朽化しているため、衛生上の問題に不安が残る<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/medi/cs_ame/peru.html |title=世界の医療事情 ペルー |access-date=2022年12月15日 |publisher=外務省}}</ref>。3点目は、都市と地方の格差である。医療従事者全体の約3割、医師では約4割がリマ州に集中しているため<ref name=":1" />、地方では正規の資格を持った医師が不足している<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/ext_images/theme/bop/precedents/pdf/pe/lifestyle_medical_pe_201606rv.pdf |title=ペルー BOP/ボリュームゾーンビジネス実態調査レポート |access-date=2022年12月15日 |publisher=JETRO}}</ref>。また、医療器具などの不足もあり、地方では十分な医療サービスを提供できていない場合が多い<ref name=":2" />。4点目は、SISと社会保険のどちらにも加入できない人がいることである。SISに加入するためには収入などの審査を受ける必要がある。その審査基準に当てはまらない非正規雇用者や、社会保険費用を負担できない中小企業の雇用者はSISへも社会保険へも加入することができない。そのため、このような雇用者に対して新たな保険制度の導入を検討している<ref name=":1" />。 == 文化 == {{main|{{仮リンク|ペルーの文化|en|Culture of Peru}}}} <!--[[ファイル:inca kola.jpg|thumb|upright|[[インカ・コーラ]]]]--> [[ファイル:Salineras de Maras, Maras, Perú, 2015-07-30, DD 12.JPG|thumb|マナウスの塩田]] [[ファイル:Mario Vargas Llosa.jpg|thumb|[[ノーベル文学賞]]作家『[[マリオ・バルガス・リョサ]]』]] [[ファイル:Cajoneros en El Carmen Chincha.jpg|thumb|[[カホン]]]] [[ファイル:Marinera Norteña.jpg|thumb|[[マリネラ (舞踊)|マリネラ・ノルテーニャ]]]] ペルーの文化はインカ帝国や、それ以前から続く前インカ期からのインディヘナの文化と、16世紀にペルーを征服したスペイン人の文化に根を持ち、その上にアフリカ系住民や近代になって移住してきたアジア系、ヨーロッパ系の諸民族の影響も受けている。 === 食文化 === {{main|ペルー料理}}費が多く、その後入ってきた米、パスタ、パンも多く消費されている。また高地の特産物で高栄養価の[[キヌア]]の消費も少なくない。 ペルーの食文化は高地、海岸地帯、アマゾンの密林地帯で食材の違いもあり大きく異なる。海岸地帯(コスタ)で育ったクリオーヨ料理は[[ペルー料理]]を代表するひとつであり、黒人、インディヘナ、スペイン人、中国人、日本人、イタリア人などの多様な国民の影響を受けて独特のペルー料理を形成している。海岸地帯の料理には[[セビッチェ]]のように魚介類を豊富に使った料理が多い。シエラ(山岳地帯)では旧文明の食文化が多く残っており [[パチャマンカ]]料理やエクアドルやボリビアのように、クイと呼ばれる[[テンジクネズミ|天竺鼠]]や、[[アルパカ]]の肉も貴重な蛋白源として食べられている。アマゾンの密林地帯では料理用のバナナ(プランテイン)を含め多くのフルーツやアマゾンで獲れる淡水魚(ピラニアも含め)や陸生の動物も食べられている。 トウモロコシを発酵させて作る独特なアルコール飲料の[[チチャ]]は古代よりアンデス地方で飲み続けられている。 独自の[[ビール]]のブランドは、クリスタル、クスケーニャ、アレキペーニャなどの銘柄があり、清涼飲料水ではブランドに[[インカ・コーラ]]がある。また、いろいろな[[ハーブティー]]が薬用としても飲まれており、ボリビアや[[アルゼンチン北西部]]と同様に[[コカ茶]]も供されている。 === 文学 === {{main|ペルー文学|ラテンアメリカ文学}} [[ペルー文学]]は先コロンビア期の文明に根を持ち、植民地時代はスペイン人が年代記や宗教文学を書いた。特に[[インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ]]が著した『{{仮リンク|インカ皇統記|es|Comentarios reales de los incas|en|Comentarios Reales de los Incas}}』はその後のインカ帝国のイメージ形成に大きな影響力を持った。 ペルーの[[小説]]は独立後の1848年に[[ナルシソ・アレステギ]]により、ペルーで初めての小説『オラン神父』が書かれてから始まった。[[コストゥンブリスモ]]や[[ロマン主義]]が最も主流のジャンルとなり、[[リカルド・パルマ]]の『ペルー伝説集』や[[クロリンダ・マット]]の『巣のない鳥たち』などがその例である。また当時ラテンアメリカで流行していた、[[ニカラグア]]の[[ルベン・ダリオ]]、[[ウルグアイ]]の[[ホセ・エンリケ・ロドー]]から始まった[[モデルニスモ]]の流れを引いた詩人として[[ホセ・サントス・チョカーノ]]、[[ホセ・マリア・エグーレン]]などの名が挙げられる。 20世紀初頭には[[インディヘニスモ]]運動が起こり、文学にも影響を与えた。既に19世紀末の太平洋戦争敗北後、[[マヌエル・ゴンサレス・プラダ]]はインディオを重視する論陣を張っていたが、これは1920年代から1930年代の[[ホセ・カルロス・マリアテギ]]のインディヘニスモ思想に結びつき、さらにその流れは20世紀半ばから後半には[[シロ・アレグリア]]、[[マヌエル・スコルサ]]、[[ホセ・マリア・アルゲダス]]らによってシエラのインディオの生活を写実的に描いた文学となって完成された。 その一方で同じく20世紀後半には[[コロンビア]]の[[ガルシア・マルケス]]と共に、[[ラテンアメリカ文学]]ブームを牽引した[[マリオ・バルガス・リョサ]]や、[[フリオ・ラモン・リベイロ]]、[[アルフレド・ブライス・エチェニケ]]らの活躍により、ペルー文学はより身近なものになった。 === 音楽 === {{main|{{仮リンク|ペルーの音楽|en|Music of Peru}}|ラテン音楽}} ペルーの音楽としてはヨーロッパ由来の[[バルス・ペルアーノ]](ペルー・[[ワルツ]])や、ヨーロッパとアフリカの要素の入り混じった[[マリネラ (舞踊)|マリネラ]]や、[[アフロ・ペルー音楽]]に代表される、コスタのクリオーリャ音楽(クレオール音楽)や、あるいはシエラで生まれた[[ワイニョ]]などの[[フォルクローレ]]など有名である。 特に[[マリネラ (舞踊)|マリネラ]](マリネラ・ノルテーニャ)は舞踊として有名で、Baile Nacional(国の踊り)と称される。ブラジルの[[サンバ (ブラジル)|サンバ]]や、アルゼンチンの[[タンゴ]]と並ぶ南米3大舞踊の一つに挙げられ、ペルーの無形文化遺産に登録されている。 また、競技ペアダンスとして毎年1月にペルーで世界大会が開催されている。ヨーロッパや南北アメリカ大陸に競技者が多く、アジアでは唯一、日本でも毎年各地でコンクールが開催されている。 また、現在{{いつ|date=2013年10月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->はコスタ、シエラ、セルバと地方を問わず、国内の全域において、[[キューバ]]生まれの[[サルサ (音楽)|サルサ]]が愛好されている。しかし、特に世界的に知られているのはやはり、『[[コンドルは飛んで行く]]』をはじめとする[[ケーナ]]や[[チャランゴ]]を使ったアンデスのフォルクローレである。 クリオーリャ音楽は、ペルーに土着した[[アフリカ]]や[[ヨーロッパ]]の音楽を総称する言葉であり、特にコスタで発達した音楽を表す。クリオーリャ音楽は長らくコスタ唯一の大都市だったリマで育ち、19世紀末ごろに現在の形となった。このころの音楽家としては特に[[フェリペ・ピィングロ・アルバ]]の名が挙げられる。クリオーリャ音楽は基本的に貧困層や大衆の音楽であったが、ラジオやレコードの普及に伴い、1950年代からブームを迎えた。[[チャブカ]]、[[スサーナ・バカ]]、[[ルーチャ・レジェス]]、[[タニア・リベルタ]]、[[エバ・アジョン]]などの音楽家や作曲家が活躍した。[[カホン]]や[[ギロ]]、[[クラベス]]などの使用で特徴的なアフロ・ペルー音楽はペルー国外での関心も高く、著名な音楽家として[[ビクトリア・サンタ・クルス]]と[[ニコメンデス・サンタ・クルス]]姉弟の名が挙げられる。 [[ポピュラー音楽]]の世界では、中産階級によって[[ロック (音楽)|ロック]]が愛好されているが、[[ペルー・ロック]]はラテンアメリカ市場でもあまり成功しているとはいえない。代表的なミュージシャンとしては[[ロス・サイコス]]、[[ウチュパ]]、[[ミキ・ゴンサレス]]など。ワイニョと[[クンビア]]のクロスオーバー音楽である[[チチャ (音楽)|チチャ]]([[テクノ・クンビア]])などもリマで愛好されている。 === 世界遺産 === {{Main|ペルーの世界遺産}} ペルー国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が8件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が2件、[[複合遺産 (世界遺産)|複合遺産]]が2件存在する。 <gallery> ファイル:Hatunrumiyoc St.jpg|[[クスコ|クスコ市街]] - (1983年、文化遺産) ファイル:Peru_Machu_Picchu_Sunrise_2.jpg|[[マチュ・ピチュの歴史保護区]] - (1983年、複合遺産) ファイル:Chavín de Huántar.JPG|[[チャビン・デ・ワンタル|チャビンの考古遺跡]] - (1985年、文化遺産) ファイル:Taulliraju.JPG|[[ウアスカラン国立公園]] - (1985年、自然遺産) ファイル:Chan_chan_view1.jpg|[[チャン・チャン]]遺跡地帯 - (1986年、文化遺産) ファイル:Manu_riverbank.jpg| [[マヌー国立公園]] - (1987年、自然遺産) ファイル:San_Francisco_Lima.jpg| [[リマ]]歴史地区 - (1988年、1991年、文化遺産) ファイル:brillenbär.jpg| [[リオ・アビセオ国立公園]] - (1990年、複合遺産) ファイル:Nazca monkey.jpg| [[ナスカの地上絵|ナスカとフマナ平原の地上絵]] - (1994年、文化遺産) ファイル:El Misti from Rodriguez Ballon International Airport, Arequipa, Peru.jpg|[[アレキパ]]歴史地区(2000年) </gallery> === 祝祭日 === {{Main|{{仮リンク|ペルーの祝日|en|Public holidays in Peru}}}} {| class="wikitable" style= |+ style="font-weight: bold; font-size: 120%" | |- ! 日付 ! 日本語表記 ! スペイン語表記 ! 備考 |- | [[1月1日]] | [[元日]] | Año Nuevo | |- | 3月 - 4月 | [[聖週間]] | [[:es:Semana Santa|Semana Santa]] | 移動祝日 |- | [[5月1日]] | [[メーデー]] | Día de los Trabajadores | |- | [[6月29日]] | [[ペトロ|聖ペドロ]]と[[パウロ|聖パブロ]]の祝日 | San Pedro y San Pablo | |- | [[7月28日]]-[[7月29日]] | [[独立記念日]] | Día de la Independencia del Perú | |- | [[8月30日]] | [[リマの聖ローサ]]の記念日 | [[:es:Santa Rosa de Lima|Santa Rosa de Lima]] | |- | [[10月8日]] | [[アンガモスの海戦|アンガモス海戦]]記念日 | Día del Combate de Angamos | |- | [[11月1日]] | [[諸聖人の日]] | Día de Todos Los Santos | |- | [[12月8日]] | [[無原罪の聖母]]の祭日 | Día de la Inmaculada Concepción | |- | [[12月25日]] | [[クリスマス]] | [[:es:Navidad|Navidad]] | |} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|ペルーのスポーツ|en|Sport in Peru}}}} {{See also|オリンピックのペルー選手団}} === サッカー === {{main|{{仮リンク|ペルーのサッカー|en|Football in Peru}}}} [[File:Peru tren (7).jpg|thumb|right|[[2018 FIFAワールドカップ|2018年ロシアW杯]]での[[ジェフェルソン・ファルファン|ファルファン]]と[[パオロ・ゲレーロ|ゲレーロ]]]] ペルー国内でも他の[[ラテンアメリカ]]諸国と同様に、[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっている。[[1928年]]にプロサッカーリーグの[[プリメーラ・ディビシオン (ペルー)|プリメーラ・ディビシオン]]が創設された。主なクラブとしては[[ウニベルシタリオ・デポルテス]]、[[アリアンサ・リマ]]、[[スポルティング・クリスタル]]などが挙げられる。[[ペルー人]]を代表する著名な[[プロサッカー選手|サッカー選手]]としては、[[クラウディオ・ピサーロ]]、[[パオロ・ゲレーロ]]、[[ジェフェルソン・ファルファン]]などがいる。 [[ペルーサッカー連盟]](FPF)によって構成される[[サッカーペルー代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]には5度の出場歴をもつ。これまで[[1982 FIFAワールドカップ|1982年大会]]で出場したのを最後に予選敗退が続いていたが、[[2018 FIFAワールドカップ|2018年大会]]で36年ぶりに出場を果たした。[[コパ・アメリカ]]では自国開催となった[[1939年]]大会と、南米選手権からコパ・アメリカに名称が変更された最初の大会である[[コパ・アメリカ1975|1975年大会]]で、優勝を果たしている。 == 著名な出身者 == {{main|ペルー人の一覧}} * [[アルベルト・フジモリ]] - [[ペルーの大統領の一覧|第91代ペルー大統領]] * [[ケイコ・フジモリ]] - [[人民勢力党]][[党首]] * [[マリオ・バルガス・リョサ]] - [[小説家]]([[ノーベル文学賞]]受賞) * [[クラウディオ・ピサーロ]] - 元[[サッカー選手]]([[UEFAヨーロッパリーグ|UEFA EL]]得点王) * [[パオロ・ゲレーロ]] - [[サッカー選手]]([[コパ・アメリカ]]得点王) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == ; 総合 * {{Cite book|和書|author=細谷広美編著|authorlink=細谷広美|date=2004年1月|title=ペルーを知るための62章|series=エリア・スタディーズ|publisher=[[明石書店]]|location=[[東京]]|isbn=4-7503-1840-X|ref=細谷編著(2004)}} ; 歴史 * {{Cite book|和書|author=エドゥアルド・ガレアーノ|authorlink=エドゥアルド・ガレアーノ|translator=大久保光夫|date=1986年9月|title=[[収奪された大地 ラテンアメリカ五百年|収奪された大地──ラテンアメリカ五百年]]|series=|publisher=[[新評論]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=ガレアーノ/大久保訳(1986)}} * {{Cite book|和書|author1=中川文雄|authorlink1=中川文雄|author2=松下洋|authorlink2=松下洋|author3=遅野井茂雄|authorlink3=遅野井茂雄|date=1985年1月|title=ラテン・アメリカ現代史III|series=世界現代史34|publisher=[[山川出版社]]|location=[[東京]]|isbn=4-634-42280-8|ref=中川、松下、遅野井(1985)}} * {{Cite book|和書|author=柳田利夫増田義郎、|authorlink=柳田利夫|date=1999年12月|title=ペルー──太平洋とアンデスの国──近代史と日系社会|series=|publisher=[[中央公論新社]]|location=[[東京]]|isbn=4-12-002964-6|ref=増田、柳田(1999)}} * {{Cite book|和書|editor=増田義郎|editor-link=増田義郎|date=2000年7月|title=ラテンアメリカ史II|series=新版世界各国史26|publisher=[[山川出版社]]|location=[[東京]]|isbn=4-634-41560-7|ref=増田編(2000)}} ; 政治 * {{Cite book|和書|author=後藤政子|authorlink=後藤政子|date=1993年4月|title=新現代のラテンアメリカ|series=|publisher=[[時事通信社]]|location=[[東京]]|isbn=4-7887-9308-3|ref=後藤(1993)}} ; 地理 * {{Cite book|和書|editor=下中彌三郎|editor-link=下中彌三郎|date=1954年|title=ラテンアメリカ|series=世界文化地理体系24|publisher=[[平凡社]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=下中(1954)}} * {{Cite book|和書|author1=P.E.ジェームズ|authorlink1=P.E.ジェームズ|translator=[[山本正三]]、[[菅野峰明]]|date=1979年|title=ラテンアメリカII|publisher=[[二宮書店]]|isbn=|ref=ジェームズ/山本、菅野訳(1979)}} * {{Cite book|和書|editor=野沢敬|editor-link=野沢敬|date=1986年|title=ラテンアメリカ|series=朝日百科世界の地理12|publisher=[[朝日新聞社]]|location=[[東京]]|isbn=4-02-380006-6|ref=野沢(1986)}} * {{Cite book|和書|editor=福井英一郎|editor-link=福井英一郎|date=1978年|title=ラテンアメリカII|series=世界地理15|publisher=[[朝倉書店]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=福井(1978)}} ; 社会 * {{Cite book|和書|editor1=国本伊代|editor1-link=国本伊代|editor2=乗浩子|editor2-link=乗浩子|date=1991年9月|title=ラテンアメリカ都市と社会|series=|publisher=[[新評論]]|location=[[東京]]|isbn=4-7948-0105-X|ref=国本、乗編(1991)}} **[[浅香幸枝]]「リマ──副王たちの都から混沌の都へ」『ラテンアメリカ都市と社会』 [[国本伊代]]、[[乗浩子]]編、[[新評論]]、1991年9月。ISBN 4-7948-0105-X。 * {{Cite book|和書|editor1=中川文雄|editor1-link=中川文雄|editor2=三田千代子|editor2-link=三田千代子|date=1995年10月|title=ラテン・アメリカ人と社会|series=ラテンアメリカ・シリーズ4|publisher=[[新評論]]|location=[[東京]]|isbn=4-7948-0272-2|ref=中川、三田編(1995)}} **[[フアン・ハルオ・イナミネ]]、[[山脇千賀子]]「ペルー人とは何か その起源・アイデンティティ・国民性」『ラテン・アメリカ人と社会』[[中川文雄]]、[[三田千代子]]編、[[新評論]]、1995年10月。ISBN 4-7948-0272-2。 == 関連項目 == * [[ペルー関係記事の一覧]] * [[ペルーの在外公館の一覧]] * [[アンデス・スペイン語]] * [[ペルーの歴史]] * [[ペルーの競馬]] * [[在日ペルー人]] == 外部リンク == {{Wiktionary}} {{Commons&cat|Peru|Peru}} {{osm box|r|288247}} {{Wikivoyage|es:Perú|ペルー{{es icon}}}} {{Wikivoyage|Peru|ペルー{{en icon}}}} * 政府 ** [https://www.peru.gob.pe/ ペルー共和国政府] {{es icon}} ** {{Twitter|PeruInJapan|Peru in Japan-ペルー大使館}}{{Ja icon}}{{Es icon}} * 日本政府 ** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/peru/index.html 日本外務省 - ペルー] {{ja icon}} ** [https://www.pe.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在ペルー日本国大使館] {{ja icon}} * 観光 ** [http://www.peru-japan.org/ ペルー観光公式サイト] {{ja icon}} ** {{ウィキトラベル インライン|ペルー|ペルー}} {{ja icon}} ** {{Googlemap|ペルー}} * その他 ** [https://www.jetro.go.jp/world/cs_america/pe/ JETRO - ペルー] {{ja icon}} ** {{CIA World Factbook link|pe|Peru}} {{en icon}} ** {{Wikiatlas|Peru}} {{en icon}} {{南米共同体}} {{アメリカ}} {{TPP}} {{Normdaten}} {{Coord|12|2.6|S|77|1.7|W|type:country_region:PE|display=title}} {{デフォルトソート:へるう}} [[Category:ペルー|*]] [[Category:南アメリカの国]] [[Category:共和国]] [[Category:国際連合加盟国]]
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22世紀
22世紀(にじゅうにせいき)とは、西暦2101年から西暦2200年までの100年間を指す世紀。
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22世紀(にじゅうにせいき)とは、西暦2101年から西暦2200年までの100年間を指す世紀。
{{centurybox}} '''22世紀'''(にじゅうにせいき)とは、[[西暦]][[2101年]]から西暦2200年までの100年間を指す[[世紀]]。 == 予定・予測される主なできごと == === 2100年代 === {{seealso|2100年代}} * 2102年 - [[北極星]]([[ポラリス (恒星)|ポラリス]])が[[天の北極]]に最も接近する<ref>天文年鑑2010年版 978-4-416-20935-6</ref>。 * 2109年 - 日本の[[旧暦]]で[[閏月|閏9月]]が出現する(前回は[[2014年]])。 === 2110年代 === * 2113年 - [[冥王星]]が遠日点を通過する。 * 2114年[[6月3日]] - 最大6分32秒にわたる[[日食]]がおこる。 * 2117年[[12月11日]] - [[2012年]]以来105年ぶりに[[金星の太陽面通過]]が起こる。 === 2120年代 === * 2123年[[9月14日]] - [[金星]]が[[木星]]と[[掩蔽#月による掩蔽|星食]]を起こす。 * 2125年[[12月8日]] - 地球上からの[[金星の太陽面通過]]が起こる<ref>{{Cite web |url=http://astro.ukho.gov.uk/nao/transit/V_2125/index.html |title=2125 December 8th Transit of Venus |publisher=HM Nautical Almanac Office |accessdate=2017-09-16}}</ref>。 * 2128年 - 日本の旧暦で閏9月が出現する。 === 2130年代 === * 2132年[[6月13日]] - 最大6分55秒にわたる[[日食]]がおこる。これほど長い日食は、[[2009年7月22日の日食|2009年7月22日]]以来123年ぶり。 * 2132年[[8月31日]] - 5ケタで表される[[ユリウス通日#修正ユリウス日(MJD)|修正ユリウス日]]がこの日に9万9999日目を迎える。 * 2134年[[3月27日]] - [[ハレー彗星]]が[[近日点]]を通過。 * 2138年 - ハレー彗星が接近。 === 2140年代 === * [[神武天皇即位紀元]](皇紀)2800年。 * 2147年秋-2148年春 - 日本の旧暦で月名がうまく決まらない問題が発生する(冬至を含む暦月と春分を含む暦月の間に、中気を含まない暦月が2つある。[[旧暦2033年問題]]参照)。日本カレンダー暦文化振興協会の見解によれば推奨案は2147年閏11月。 === 2150年代 === * 2150年[[6月25日]] - 最大7分14秒にわたる[[日食]]がおこる。7分間以上継続する日食は、[[1973年]][[6月30日]]以来177年ぶり。 === 2160年代 === * 2161年[[5月1日]]より - 34日間にわたる[[惑星直列]]がおこる。(前回は[[1817年]][[6月5日]]から) * 2166年 - 日本の旧暦で閏10月が出現する(前回は[[1984年]])。 * 2168年[[7月5日]] - 最大7分26秒にわたる[[日食]]がおこる。 === 2170年代 === * 2177年 - 冥王星が[[1930年]]の発見以来太陽系を一周する。 === 2180年代 === * 2182年[[9月24日]] - 直径560mの小惑星[[ベンヌ (小惑星)|ベンヌ]]が地球に接近。衝突確率0.28%。 * 2185年[[3月29日]] - 直径130mの小惑星2009 FDが地球に接近。衝突確率0.18%。 * 2186年[[7月16日]] - 7分29秒にわたる日食。これは理論上の最長時間に非常に近い。[[紀元前4千年紀|紀元前4000年]]から紀元後6000年の間の1万年間で最も長い日食となる。 === 2200年代 === * 2200年 - [[グレゴリオ暦]]に改暦して以来2回目となる[[平年]]の[[子 (十二支)|子年]]。 == 参考文献 == <references /> == 関連項目 == * [[年表]] <!--{{10年紀と各年| 世紀 = 22 | 年代 = 2100 }}--> {{世紀}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:22せいき}} [[Category:22世紀|*]]
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メキシコ
メキシコ合衆国(メキシコがっしゅうこく、スペイン語: Estados Unidos Mexicanos)、通称メキシコは、北アメリカ南部に位置する連邦共和制国家。北にアメリカ合衆国と南東にグアテマラ、ベリーズと国境を接し、西は太平洋、東はメキシコ湾とカリブ海に面する。首都はメキシコシティ。 メキシコの人口は2020年時点で1億2,893万人であり、スペイン語圏においてはもっとも人口の多い国である。国内総生産(GDP)は、中南米地域においてはブラジルに次いで第2位に位置する。人口は増加傾向であり、2019年統計で日本を抜いて世界10位となった。 正式名称は、Estados Unidos Mexicanos( 発音、エスタドス・ウニドス・メヒカーノス)、略称は、México([ˈme̞.xi.ko̞] ( 音声ファイル)、 メヒコ)。 公式の英語表記は、United Mexican States(ユナイテッド・メクスィカン・ステイツ)、略称は、Mexico([ˈmɛksɨˌkoʊ] ( 音声ファイル)、メクスィコゥ)。 日本語訳はメキシコ合衆国で、通称はメキシコである。当て字は日本語・中国語ともに墨西哥で、墨と略される。「合衆国」という表記の由来や意味については、同項目を参照のこと。 国名は独立戦争の最中の1821年に決定したものであり、アステカの一言語であるナワトル語で「メヒクトリの地」を意味する「Mēxihco」に由来する。メヒクトリはアステカ族の守護神であり、太陽と戦いと狩猟の神であるウィツィロポチトリの別名で、「神に選ばれし者」の意味がある。アステカでもっとも信仰されたこの神の名に、場所を表す接尾辞「コ」をつけて、この地における国家の独立と繁栄に対する願いを込めた。 「合衆国」という政体名について、同じものを名乗る隣国、アメリカ合衆国が経済と軍事の両面で影響力が強大であり、単に「合衆国」だけでも同国を指すため、自国が米国の弟分のように見られてしまうとの不満が国民の一部に存在し、国名を「メキシコ共和国」に変更しようという動きがある。その一方で、伝統と歴史的背景を尊重する意見も多く、国名を変更することに対する賛否は分かれている。この意識は、19世紀末の米墨戦争敗戦直後から特に見られるようになり、以来長年にわたり議論が繰り返されているが、変更には至っていない。 この地域は、紀元前2万年ごろの人間が居住した形跡があるといわれ、先古典期中期の紀元前1300年ごろ、メキシコ湾岸を中心にオルメカ文明が興った。オルメカ文明は、彼らの支配者の容貌を刻んだとされているネグロイド的風貌の巨石人頭像で知られている。 先古典期の終わりごろ、メキシコ中央高原のテスココ湖の南方に、円形の大ピラミッドで知られるクィクィルコ、東方にテオティワカンの巨大都市が築かれた。その後もユカタン半島のマヤ文明、メキシコ中央高原のアステカのような複数の高度な先住民文明の拠点として繁栄を極めた。その高度な文明はスペインによる植民地化によって大きな打撃を受けたが、それでもなお、その文化や技術は現代のメキシコ社会に影響を与えている。 14世紀後半、テスココ湖の西岸にあったテパネカ族の国家アスカポツァルコにテソソモクという英傑が現れ、その傭兵部隊だったアステカ族は、テソソモクが没したあとの15世紀前半、テスココ、トラコパンとともにアステカ三国同盟(英語版)を築いた。テスココの名君ネサワルコヨトルの死後は、完全にリーダーシップを握って周辺諸国を征服し、アステカの湖上の都テノチティトランを中心にアステカ帝国を形成した。アステカの守護神にして太陽と戦いの神ウィツィロポチトリと、雨の神トラロックを祀る高さ45メートルの大神殿「テンプロ・マヨール」がメキシコシティ歴史地区の憲法広場の北東にたっている。この大神殿は、アステカ帝国の中心であるテノチティトランの中心部に位置していたとされている。アステカ帝国は比類なき軍事国家であり、現在のコスタ・リカにまで隆盛を轟かせていた。 1492年のクリストファー・コロンブスのアメリカ大陸到達後、16世紀初頭の1519年にスペイン人エルナン・コルテスが上陸。コルテスら征服者達は、アステカの内紛や、神話の伝承を有利に利用して執拗な大虐殺を繰り返し行った末に、テノチティトランを破壊し、1521年に皇帝クアウテモックを惨殺してアステカ帝国を滅ぼした。そののちスペイン人たちは、この地にヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)副王領を創設。ペルー副王領と並ぶインディアス植民地の中心として、破壊されたテノチティトランの上にメキシコシティが築かれた。 スペインによる支配は300年続いたが、19世紀を迎えるとアメリカ独立戦争やフランス革命、ナポレオン戦争に影響され、土着のクリオーリョたちの間に独立の気運が高まった。 1808年、ナポレオン・ボナパルトが兄のジョゼフをスペイン王ホセ1世として即位させた。それに反発するスペイン民衆の蜂起を契機としてスペイン独立戦争が始まると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否。1809年から1810年にかけて、キト、ラパス、サンティアゴ、カラカス、ボゴタ、ブエノスアイレスとインディアス各地でクリオーリョたちの蜂起が始まる中、 1810年9月15日にミゲル・イダルゴ神父らにより、スペイン打倒を叫ぶメキシコ独立革命が始まり、長い戦いの火蓋が切られた。 ペルーのクリオーリョと同様に当国のクリオーリョも先住民大衆の反乱を恐れたため、独立運動には消極的であり、イダルゴも、反乱を継いだメスティーソのホセ・マリア・モレーロス神父もアグスティン・デ・イトゥルビデ率いる王党派軍に敗れたが、モレーロスの乱が鎮圧されたあとの1820年ごろには南部のシモン・ボリーバルとホセ・デ・サン=マルティンらに率いられた解放軍が各地を解放し、インディアスに残る植民地は島嶼部とブラジルを除けば当国とペルー、中米のみとなっていた。 スペイン本国で自由派が政権を握ると(リエゴ革命)、1821年9月15日に保守派クリオーリョを代表した独立の指導者アグスティン・デ・イトゥルビデがメキシコシティに入城し、反自由主義の立場から独立を宣言した。しかし、イトゥルビデがメキシコ王に推戴したかった反動派の元スペイン王フェルナンド7世は入国を断ったため、イトゥルビデ自身が皇帝に即位する形で第一次メキシコ帝国が建国され、中央アメリカを併合した。 独立後は混乱が続き、1823年には帝政が崩壊して連邦共和国のメキシコ合衆国 (19世紀)となり、このときに中米連邦が独立した。独立後は内戦による農業生産力の低下、鉱山の生産力低下、カウディーリョの群雄割拠、流通の混乱など問題が多発し、政治的には不安定な時代が続き、1835年10月23日から1846年8月22日まで中央集権国家であるメキシコ共和国となっていた。 また、コアウイラ・イ・テハス州にアメリカ合衆国人の入植を認めると、1835年にはアングロサクソン系入植者が反乱を起こし、1836年にメキシコ領テハスはテキサス共和国として独立した 。その後、アメリカ合衆国が1845年にテキサスを併合すると、1846年にはテキサスをめぐりアメリカ合衆国と米墨戦争を争ったものの、メキシコシティを占領されて1848年に敗北すると、テキサスのみならずカリフォルニアなどリオ・ブラーボ川以北の領土(いわゆるメキシコ割譲地)を喪失した。 領土喪失の経緯からアメリカとの対立は深まっていたが、1861年にアメリカの南北戦争勃発とともにフランス第二帝国のナポレオン3世がメキシコ出兵を開始。1863年にはメキシコシティが失陥、フランスの傀儡政権である第二次メキシコ帝国が建国される状況となった。 インディオ出身のベニート・フアレス大統領は、アメリカの支援を得てフランス軍に対して対抗し、1866年に主権を取り戻すものの、このことは後々までアメリカ合衆国の影響力が高まるきっかけとなった。フアレスは自由主義者としてレフォルマ(改革)を推進するも、1872年に心臓発作で死去した。フアレスの後を継いだテハーダ(英語版)大統領は自由主義政策を進めたが、この時代になると指導力が揺らぐことになった。 この隙を突いて1876年に、フランス干渉戦争の英雄ポルフィリオ・ディアスがクーデター(Revolución de Tuxtepec)を起こし、大統領に就任した。ディアスは30年以上に亘る強権的な独裁体制を敷き、外資が導入されて経済は拡大したものの、非民主的な政体は国内各地に不満を引き起こした。 1907年恐慌の影響が及び始め、労働争議が頻発する中で1910年の大統領選が行われ、ポルフィリオ・ディアスが対立候補フランシスコ・マデロを逮捕監禁したことがきっかけとなり、メキシコ革命が始まった。パンチョ・ビリャ、エミリアーノ・サパタ、ベヌスティアーノ・カランサ、アルバロ・オブレゴンらの率いた革命軍は、路線の違いもありながらも最終的に政府軍を敗北させ、1917年に革命憲法が発布されたことで革命は終息した。革命は終わったものの、指導者間の路線の対立からしばらく政情不安定な状態が続いた。 1928年に次期大統領が暗殺された事件を契機として、現職の大統領だったプルタルコ・エリアス・カリェスは国内のさまざまな革命勢力をひとつにまとめ、1929年に制度的革命党(PRI)の前身となる国民革命党(PNR)が結成された。国民革命党はヨーロッパで躍進していた全体主義イデオロギーの影響を受けていたと言われ、1932年に議員や首長など公職の連続再任が禁止され、地方政党の解体が進められた。この制度改革以降、党の公認指名を得ることが公職に就く絶対条件となり、同時に公認指名の条件が極度に厳格化された。候補者指名は大統領の権力とともに、その後の制度的革命党の権力の源泉となった。公職ポストが制度的革命党によって独占されるとエリート階級は党上層部への服従を余儀なくされ、71年間続く事実上の一党独裁体制が完成した。 1934年に成立したラサロ・カルデナス政権は油田国有化事業や土地改革を行い、国内の経済構造は安定した。その後、与党の制度的革命党(PRI)が第二次世界大戦を挟み、一党独裁のもとに国家の開発を進めた。アメリカ合衆国や西側の資本により経済を拡大したが、その一方で外交面ではキューバなどのラテンアメリカ内の左翼政権との結びつきも強く、政策が矛盾した体制ながらも冷戦が終結した20世紀の終わりまで与党として政治を支配した。 1950年代ごろから一党支配の弊害が指摘されるようになり、1960年代には選挙競争性の向上を目的とした制度改革が試みられるようになった。1976年に就任したポルティーヨ大統領が起用したレジェス・エロレス(スペイン語版)は、拘束式小選挙区比例代表並立制の導入など多くの項目からなる「レフォルマ・ポリティカ」と呼ばれる政治改革を策定し、現在に続くメキシコ政治の基礎を築いた。 また、20世紀の前半から中盤にかけては石油や銀の産出とその輸出が大きな富をもたらしたものの、それと同時に進んだ近代工業化の過程で莫大な対外負債を抱え、20世紀中盤に工業化には成功したものの、慢性的なインフレと富の一部富裕層への集中、さらには資源価格の暴落による経済危機など、現代に至るまで国民を苦しめる結果となった。 1980年代以降は麻薬カルテルの抗争により治安が悪化してしまう。カルロス・サリナス・デ・ゴルタリ大統領の実兄のラウル・サリナスが麻薬取引に関与して逮捕されたことを受け、アメリカに出国し事実上亡命するなど、政権中央部まで汚染され尽くした。 冷戦が終わりアメリカからの支援が止まり、さらに麻薬カルテルとの癒着が明らかになり与党のPRIの支持率は落ち、2000年に長年続いた長期独裁政権は終わりを告げた。 カルデロン政権は、麻薬カルテルと癒着した警察幹部や州知事すらも逮捕するという強硬姿勢で臨み、軍を導入して麻薬犯罪組織を取り締まっている。これに伴い、カルテルの暴力による死者が激増、2010年には毎年1万5,000人以上の死者を出す事態になっている(メキシコ麻薬戦争)。 一方、原油価格の高騰やNAFTA締結後の輸出量の増加、さらに内需拡大傾向を受けて中流層が増加し、「ネクスト11」の一国に挙げられている。経済政策では原油価格高騰に伴いガソリン価格を連続して値上げして、国民から不満の声が上がっている。 2009年に入ってからはカナダやアメリカ合衆国とともに、新型インフルエンザ(H1N1)の発祥地とされている。2010年7月4日、全国32州のうち14州で地方選挙が実施された。2000年まで政権党だった野党の制度的革命党(PRI)が前進(知事選が実施された12州のうち10州でほぼ当選)した。 2012年7月、大統領選挙が実施され、当日投開票された。保守系制度的革命党(PRI)のエンリケ・ペーニャ・ニエト(任期:2012年12月1日 - 2018年11月30日)が選出され、同年12月から大統領に就任した。 2013年、MIKTAに加盟している。 政体は連邦共和制である。 2018年メキシコ総選挙では、アンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドールが大統領に当選した。 国家元首は大統領である。大統領は国民の直接選挙によって選出され、任期は6年で再選は禁止されている。 大統領の権限は大きく、行政府の長も兼ねており、憲法では三権分立が規定されているものの、事実上司法府も統制下にあり、イギリスの新聞『エコノミスト』傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットからは「混合政治体制」と評されている(民主主義指数の項目も参照)。また、軍部も大統領下でのシビリアンコントロールが制度的に確立している。 大統領は、行政各省の大臣を指名する。ただし、司法相のみは上院の承認が必要である。各大臣は大統領直属の地位にあり、大統領に対し責任を負うのみで、議会や国民に対して責任は負わない。副大統領や首相などの次席の役職はなく、大統領が死亡などで欠ける場合は、議会が暫定大統領を選出する。2019年より大統領を国民投票によって解任できる制度が導入され、大統領への反対票が過半数かつ投票率が有権者の40%を超えた場合は解任できる。 連邦議会は両院制(二院制)。上院(元老院)は全128議席で、そのうち4分の3にあたる96議席が連邦区と州の代表(各3議席)、残りが全国区の代表である。それぞれ比例代表制で選出され、任期は6年。下院(代議院)は全500議席で、300議席は小選挙区制、200議席は比例代表制。任期は3年。両院とも連続再選は禁止されている。 現在、連邦政府には15の省が設けられ、各種行政を担っている。 世界最多の憲法改正国で、建国以来2007年までに175回改正している。 2003年、隣国・アメリカにおいて著作権の保護期間を死後70年・公表後95年に延長した法律が最高裁判所において合憲となったことを受けて、それまで「死後または公表後75年」であった規定を「100年」に延長した。この規定は、コートジボワールの99年を抜いて世界でもっとも長い保護期間である。 主要政党には、中道右派の国民行動党(PAN)、20世紀前半から長らく支配政党だった制度的革命党(PRI)、国民再生運動(Morena)の3つが挙げられる。ほかにも、左派の民主革命党, サパティスタ民族解放戦線や、労働党、メキシコ緑の環境党などの小政党が存在する。 司法権は最高裁判所に属している。 19世紀においては隣国のアメリカ合衆国によってテキサス、カリフォルニアを奪われる戦争を行ったものの、その後は同盟関係を結んだアメリカの強い影響下にありながら、歴史と文化を生かした多元外交を行っている。その一例として、第二次世界大戦後の冷戦当時から、隣国のアメリカとの深い関係を保ちつつも、ソビエト連邦やキューバなどの東側諸国との関係を維持してきた。特に隣国であるキューバとは、1959年のキューバ革命以降近隣のラテンアメリカ・カリブ海諸国が国交断絶した中、汎米主義に基づいて国交を継続していた。 スペインからの独立以降も元の宗主国であるスペインとの関係は、文化や経済面を中心に非常に強い。しかし、1975年9月にカレロ・ブランコ前首相の暗殺に関わったとされる活動家5人がフランシスコ・フランコ政権によって処刑された際に、抗議して一時国交を断絶したことがある。 2020年において、輸出入ともに最大の貿易相手国はアメリカ合衆国である。特に輸出ではメキシコの輸出額の83.3%と大きな割合を占めており、経済面ではメキシコの最大のパートナーである。 しかし、政治面では友好的であると言い難い状況にある。特に近年においては、アメリカのトランプ政権における「国境の壁建設問題」などで両国の関係が悪化した。これはメキシコでのアメリカに対する意識調査で明らかであり、トランプ大統領在任時の2017年に実施された調査では、65%のメキシコ人がアメリカに対して否定的な見方を示し、肯定的な見方をしているのはわずか30%であった。 バイデン政権においては、メキシコはアメリカにとって民主主義国家としてのパートナーという見方が強く、2021年に開催された民主主義サミットにおいてもメキシコは招待を受け、参加した。しかし、2022年にロサンゼルスで開催された米州首脳会議では、メキシコは参加を見送った。理由としてバイデン政権が民主主義の欠如などを理由にキューバなど3カ国の招待を行わなかったことから、「米州機構加盟国の全ての国が招待されなければ、出席を見送る」という考えをロペスオブラドール大統領が示したためである。 江戸時代の初めの1609年(慶長14年)、フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がマニラからの帰途に、大暴風のため房総の御宿海岸に座礁難破した。地元の漁民達に助けられ、時の大多喜藩主本多忠朝がこれら一行を歓待し、徳川家康が用意した帆船で送還したことから、日本との交流が始まった。 1613年(慶長18年)に仙台藩主伊達政宗の命を受けた支倉常長は、ローマ教皇に謁見すべく当国とスペインを経由しイタリアのローマに向かった。支倉常長ら慶長遣欧使節団の乗ったサン・ファン・バウティスタ号は太平洋を横断しアカプルコへ、その後、陸路メキシコシティを経由し大西洋岸のベラクルスからスペインへ至った。メキシコでは大変手厚いもてなしを受け、現在、記念碑や教会のフレスコ画などに当時を偲ぶことができる。 また、日本が開国して諸外国と通商条約を結んだ中で、1888年(明治21年)締結した日墨修好通商条約は日本にとって事実上初めての平等条約であり、諸外国の駐日大使館のうちでメキシコ大使館のみ東京都千代田区永田町にあるのは、これに対する謝意の表れとされる。 19世紀末には榎本移民団による移住が始まり、第二次世界大戦後まで続いた。移民者の数は総計1万人あまりに達し、その子孫が現在でも日系メキシコ人として各地に住んでいる。 メキシコシティへの進出は減っているが、メキシコ中央高原都市では日系企業が増えている。日系の自動車3社(日産第二工場、ホンダ、マツダ)が進出を決めたほか、200社以上が自動車部品工場や大規模倉庫などを建設中である。日本からの投資の90パーセント近くがこの地域に集中しており、一大進出ラッシュとなっている。なかでもアグアスカリエンテスは、1982年から日産の工場が進出したこともあり、大規模な新工場ができつつある。アメリカの平均よりも犯罪発生件数が少なく、真夜中にも多くの飲食店が開いており、日本人の家庭には人気の移動先になってきた。日系企業進出の遠因は、賃金も安く未開発な部分の多い魅力的なフロンティアであること、複雑な外交関係にない親日国であることなどである。犯罪の多いところではあるが、地方都市や州では軍隊や警察組織を駆使して独自の治安維持をしているところもあるので、進出には州単位、町単位での安全チェックが必須である。 2021年10月現在、メキシコへ進出している日系企業は1,272社となっている。これは前年(2020年)の1,300社から減少しているものの、中南米地域では最多の進出数となっている。また同年の在留邦人は11,390人であり、中南米地域ではブラジルに次いで2番目であり、国別邦人数においても21位につけている。日本からの輸出額は138億9700万米ドル、メキシコからの輸出額は36億52万米ドルであり、メキシコからアジア地域の貿易相手国としては中国、韓国に次ぐ規模となっている。日本からの主要な輸出品として輸送機械(鉄道以外)や電気・電子機器などが挙げられる。要因としてメキシコの地理的要因(例として米国・メキシコ・カナダ協定が挙げられる)、人件費の安さ、メキシコ国内におけるサプライヤーの不足がある。メキシコ国外から輸入した部品をメキシコの現地工場で製品を組み立て、国内及び北米向けに販売を行うことで、低コストで生産できる利点から進出する日系企業が多い。 特に、日本企業(現在はフランスのルノー傘下)としては最初期の1966年7月に現地工場での自動車生産を開始した日産自動車は、同国日系自動車生産工場としても初ということもあり、関わりも深く、サッカー中継番組でもスポンサーになるほどの深さでもある。日産AD(現地名ツバメ)を生産していた時代は、日本への輸出(いわば逆輸入)も行っていた。ルノー傘下に入ったあとの2009年時点で、販売台数ベースで同国市場最大手である。同社は現在、アメリカとの国境地帯とメキシコシティとの中間点に位置するアグアスカリエンテスや、メキシコシティ郊外のクエルナバカに工場を構えているが、NAFTA発効後は当国のみならずアメリカおよびカナダ向け車種の主要な生産拠点となっており、近隣のチリやアルゼンチン、さらにヨーロッパなどにも輸出が行われている。おもな生産車種は「ティーダ(北米ではヴァーサ)」「ツル」「セントラ」「NP300フロンティア」で、日産自動車メキシコシティ事業所(日産メキシカーナS.A de C.V.)が取り扱う車種でもこのほかに「マキシマ」「アルティマ」「370Z(フェアレディZ)」「エクストレイル」「パスファインダー」「アーバン(キャラバン)」「キャブスター(アトラス)」と新たに「リーフ」も販売を開始した。また、ニューヨークのイエローキャブ向け仕様NV200もこの国で生産されている。以前は「サクラ(シルビア)」「サムライ(バイオレット)」「280C(後のセドリック)」も販売していた。さらには、メキシコ連邦警察専用向けとしてY30セドリックセダン(グレード的にはブロアム)をベースとしたセドリックパトロールも納めたほどである。 MIKTA(ミクタ)は、メキシコ(Mexico)、インドネシア(Indonesia)、大韓民国(Korea, Republic of)、トルコ(Turkey)、オーストラリア(Australia)の5か国によるパートナーシップである。 成人男子には1年間の選抜徴兵制が採用されている。現在、大きな対外脅威はなく、おもな敵は国内の麻薬カルテル(メキシコ麻薬戦争)、次いでサパティスタ民族解放軍である。 北米大陸の南部に位置し、約197万平方キロの面積(日本の約5倍)を持つ。海岸線の総延長距離は1万3,868キロに達する。海外領土は持たないが、領土に含まれる島の面積は5,073平方キロに及ぶ。 地質構造は、北に接するアメリカ合衆国とは異なり、クラトンが存在しない。アラスカから太平洋岸に沿って伸びるコルディレラ造山帯とアメリカ合衆国東岸に沿う古いアパラチア山脈に続くワシタ造山帯(メキシコ湾岸)が国内でひとつにまとまる。地向斜による膨大な堆積物がプレート運動により褶曲山脈を形成しているほか、第三紀以降の新しい火山が連なる。このため、高原の国であり、北部は平均1,000メートル前後、中央部では2,000メートル前後である。標高5,000メートルを超える火山も珍しくなく、国内最高峰のピコ・デ・オリサバ山(シトラルテペトル山)の5,689メートル(もしくは5,610メートル)をはじめ、ポポカテペトル山(5,465メートル、もしくは5,452メートル)、イスタシュワトル山(5,230メートル)などが連なる。もっとも頻繁に噴火を起こすのはコリマ山(4,100メートル)である。 最長の河川はアメリカ合衆国との国境を流れるリオ・ブラボ・デル・ノルテ川(リオ・グランデ川)であり、3,057キロのうち2,100キロが両国の国境を流れる。最大の湖はチャパラ湖(1,680平方キロ)である。 カリフォルニア半島の大部分とメキシコ高原中央は、ケッペンの気候区分でいうBWであり、回帰線より北のほとんどの地域はステップ気候BSに分類される。いずれも乾燥気候である。北部の高原地帯には大きなサボテンやリュウゼツランなどしか生育しない広大な不毛の土地が広がっている。リュウゼツランの一種であるマゲイはテキーラの原料であり、輸出産品のひとつである。中西部に広がっているリュウゼツラン生産地帯は、世界遺産に登録された「テキーラ地帯」となっている。北回帰線よりも南では、海岸線に沿って熱帯気候に分類されるサバナ気候(Aw)が伸びる。ユカタン半島南部にのみ、弱い乾期の存在する熱帯雨林気候(Am)が見られる。熱帯雨林気候(Af)はテワンテペク地峡北部にのみ存在する。メキシコ湾岸沿いの一部の地域には温帯気候である温暖湿潤気候(Cfa)が、山岳部は温帯気候である温帯夏雨気候(Cw)と高山気候(H)が卓越する。首都メキシコシティの平均気温は、13.7°C(1月)、16.5°C(7月)。年平均降水量は1,266ミリである。メキシコシティの標高は2,268メートルであり、典型的な高山気候である。亜寒帯気候にも似ている。 平均的には非常に温暖な気候で、沿岸部には世界的に有名なビーチリゾートがたくさんある。東部・カリブ海沿岸ではカンクンなど、太平洋沿岸の西南部ではアカプルコやイスタパなど、西端にあり太平洋に面する細長いバハカリフォルニア半島のカボ・サンルーカスやラパスなどがこれに該当し、世界中から観光客を引きつけるとともに、貴重な外貨の収入源となって多くの雇用をもたらしている。 地下資源に恵まれた世界でも有数の国である。まず、銀の埋蔵量については現在でも世界第2位であり、16 - 19世紀初期までの銀の埋蔵量は世界の生産量の半分を占めた。ほかには銅の埋蔵量世界第3位、鉛と亜鉛は第6位、モリブデンは第8位、金が第11位であり、世界有数の生産量を誇っている。さらに鉄鉱石、石炭のほか、マンガン、ストロンチウムなどの希少金属も産出する。そして、地下資源のなかでも石油が国内経済を支えている。ただし、2017年の原油生産量は222万バレルで2004年の最大383万バレルから漸減している。 第一級行政区画は32の州に分かれる。首都メキシコシティの全域は、どの州にも属さない連邦区(Distrito Federal)とされていたが、2016年に憲法が改正されて32番目の州になった。 各州には、知事(メキシコシティは政府長官)と一院制の議会があり、それぞれ住民の直接選挙によって選出される。任期は6年。 2013年の時点のGDPは1兆2,609億ドルであり、世界15位である。韓国とほぼ同じ経済規模であり、ラテンアメリカではブラジルに次いで2位である。1人あたりのGDPでは1万650ドルとなり、世界平均を若干上回る。メルコスールと南米共同体のオブザーバーであり、経済協力開発機構(OECD)、アジア太平洋経済協力(APEC)、北米自由貿易協定(NAFTA)の加盟国でもある。 カリブ海沿岸地域を中心にして油田が多く、第二次世界大戦ごろより国営石油会社のペメックスを中心とした石油が大きな外貨獲得源になっている。鉱物では銀やオパールの産地としても中世から世界的に有名である。電線に使える銅はグルポ・メヒコが採掘している。ほかにも水産業や観光業、製塩やビールなどが大きな外貨獲得源になっている。また、20世紀前半より工業化が進んでおり、自動車や製鉄、家電製品の生産などが盛んである。おもな貿易相手国はアメリカ、カナダ、日本、スペインなど。 特に1994年1月1日に北米自由貿易協定(NAFTA)が発効したあとは、その安価な労働力を生かしてアメリカやカナダ向けの自動車や家電製品の生産が増加している。しかし、その反面経済の対米依存度が以前にもまして増えたため、NAFTA加盟国以外との経済連携を進めており、2004年9月17日には日本との間で、関税・非関税障壁の除去・低減や最恵国待遇の付与を含む包括的経済連携「日本・メキシコ経済連携協定」について正式に合意した。 2008年1月から北米自由貿易協定のもとで全農作物が完全輸入自由化、つまり、最後まで残っていたトウモロコシなど農作物の関税がすべて撤廃された。これに対する農民らの抗議デモが2008年1月30日にメキシコシティ中心部の憲法広場で13万人が参加して行われた。デモの要求は、「NAFTAの農業条項についてアメリカ、カナダと再交渉すべきだ」というものである。 1970年代、石油価格高騰を受け、石油投資ブームが発生した。また、賃金がアメリカよりも安いことから、製造業の工場移転による投資も増えていた。国際金融市場を行き交うマネーが急増し、利益を得るために発展途上国への融資をどんどん行っていた。ちょうど1995年前後、1ドル100円水準の円高を受け、日本から東南アジアへ工場が移転し、東南アジア諸国に投資が急増したのに似ている。投資は、アメリカの金融機関にとって、比較的安全なものと判断されていた。ドルとメキシコ・ペソは固定相場であり、当時、当国の石油公社や電力会社は国営であったため、メキシコ政府による債務保証がつけられていた。国家が破産するはずがないと信じられていた時代である。アメリカより金利が高いため、アメリカで資金を調達し、当国に投資をすれば、濡れ手に粟のように儲けることができた。そういう事情により、メキシコの対外債務は急増していった。債務の利払いは石油や輸出による代金で賄われていた。ところが、1980年代になるとアメリカの金利が上昇したため、対外債務の利払いが増大し、さらなる融資が必要となったが、財政負担能力を超えていた。1982年8月、利払いの一時停止(モラトリアム)を宣言する羽目になり、国民は急激なインフレーションと失業の増大によって苦しんだ。 当時の対外債務は870億ドルであった。メキシコ危機が特にアメリカのメガバンクに与える影響が大きいため、IMFとアメリカ合衆国財務省、メガバンク・シンジケートにより救済措置がとられた。「大きすぎて潰せない」有名な事件となった。ネルソン・バンカー・ハントを破産させたばかりの出来事であった。1982年の利払い分に相当する80億ドルを緊急融資が実行され、翌年には70億ドルの追加融資が行われた。さらに、債務を返済するため、厳しい措置がなされた。石油公社や電力会社の民営化はもちろん、貿易自由化などを強要する条件で、IMFをはじめとする国際金融機関との合意がなされた。このメキシコ債務危機以降に同様の措置が、発展途上国で債務危機の発生した場合に適用されることとなる。 危機脱出後は再び資金が戻ってきたが、新規投資の資金ではなく、カルロス・スリムのようなメキシコ人富裕層がアメリカに流出させたマネーであった。このマネーが民営化された国営企業や銀行の購入資金となった。売却された国営企業の資産価値は売却額よりもはるかに高かったため、メキシコ債務危機が終わって見ると、一部の富裕層がさらに裕福となり、大半の国民がより貧乏になるという結果をもたらした。ここで大もうけした人たちが、経済改革を徹底的に行い、再びアメリカや日本などの外国から資金を集めることに成功し、再び対外債務は増加していった。 1986年関税および貿易に関する一般協定(GATT)に参加した。外国から資金を呼ぶため、金利は高く設定され、ペソは過大評価されていた(この点はアジア通貨危機直前の状況と似ている)。その結果、輸入が急増し輸出は不振となり、貿易赤字が増大していった。1990年の貿易赤字は1,000億ドルに達し、さらに1992年12月、北米自由貿易協定が調印され、アメリカからの投資ブームが起こった。1982年の債務危機のことは忘れ去られ、安い労働力を求めて、アメリカの製造業が大挙して工場を建設し、空前の好景気に沸いていた。 しかし、バブルの崩壊は突然であった。1994年2月、南部で先住民による武装反乱が発生。3月には大統領選挙の候補が暗殺された。この事件をきっかけにして信頼が一時失墜し、カントリーリスクの懸念が表面化した。その結果、メキシコ・ペソが暴落し、ペソ売りドル買い圧力の増加に対抗するためにメキシコ政府はドル売りペソ買いで為替介入したが、力尽きて国家は財政破綻。その結果、12月に固定相場から変動相場への移行を余儀なくされた。 その一方で、メキシコ通貨危機を防衛するために、政府は額面がペソで元利金の支払いがドルで行う政府短期証券「テソボンド」を大量に発行した。この債権がメキシコ通貨危機が治まったあとに事実上のドル建てで取り戻せたため、皮肉にもこれを購入した富裕層はたいへん儲かったという。1982年のメキシコ債務危機に続いて、1994年のメキシコ通貨危機でも、経済破綻を通して富裕層がさらに富を増やしたが、投資した投資家たちは巨額の損失を被り、国民は急激なインフレと貧困に大量失業という苦しみを味わうことになった。 企業への法人税は、毎年といっていいほど制度が変わる。また、ミニマムタックス制度を導入しているため、非常に煩雑なものとなっている。企業は税金を回避するために「新しい税制は憲法により保障された権利を侵している」として訴訟を起こすのが毎年恒例となっている。この訴訟では、行政が敗訴となることがしばしばある。ただし、訴訟期間中は税金を払うことが望ましい。 国民の7割が肥満となっていることから、対策として菓子などの高カロリー食品に特別税を設定している。 メキシコは米投資銀行のゴールドマン・サックスおよびエコノミストのジム・オニールが研究論文において、BRICs諸国に次いで21世紀有数の経済大国に成長する高い潜在能力があるとしたNEXT11に含まれている。メキシコは1994年の通貨危機以降、アメリカの景気拡大や国際石油価格の高騰、新興国への資金流入の活発化に支えられ、2022年現在、順調な回復軌道を辿っている。特に製造業が好調であるが、最大の輸出相手であるアメリカの経済に左右されやすい特徴を持っている。 南北アメリカ間、太平洋とカリブ海を結ぶラテンアメリカの交通の要所として、メキシコシティが航空の要所として、ベラクルス港やアカプルコ港が海運の要所として、また、国土を縦断するパンアメリカン・ハイウェイや国土を網羅する鉄道網が陸運の要として機能している。沿岸部の主要港には多くのクルーズ船が寄港する。 また、国内最大の航空会社であるアエロメヒコのほかに、国内には格安航空会社を含む航空網と、高速バスが走る高速道路網が整備されているほか、貨物を含む鉄道も整備されている。 メキシコシティやグアダラハラなどの大都市には充実した地下鉄網が整備されているほか、ベラクルスやアグスカリエンテス、アカプルコなどの中規模の都市には市バス網が完備されている。 民族構成はメスティーソ(白人と先住民族の混血)が60%、先住民族が30%、白人が9%とされており、そのほかにも日系メキシコ人やフィリピン系メキシコ人などといったアジア系移民の子孫、さらにはアフリカ系メキシコ人も総人口の1%ほど存在する。 白人(ヨーロッパ系メキシコ人)は、おもに植民地時代に移住したスペイン人であり、ほかにも独立後移民したイタリア人やフランス人、ドイツ人、ポルトガル人、バスク人、アイルランド人、イギリス人、アメリカ人などの子孫もいる。また、1930年代のスペイン内戦の際にカルデナス政権は共和派を支持したため、戦後共和派のスペイン人が1万人単位で流入した。 公用語は定められていないが、事実上の公用語はスペイン語(メキシコ・スペイン語)であり、先住民族の65言語(ナワトル語、サポテカ語、マヤ語など)も政府が認めている。世界最大のスペイン語人口を擁する国家である。 一般的に夫婦別姓であり、婚姻時に女性が改姓することはない。2012年より、同性同士の結婚(同性婚)を認める州が出てくるようになった。 宗教はローマ・カトリックが82.7パーセント、プロテスタントが9パーセント、その他(ユダヤ教、仏教、イスラム教など)が5パーセントである。 ブラジルに次いで世界で2番目にカトリック人口が多い国である。また、当国のカトリックは、もともと存在していた先住民の土着信仰と融合したカトリックとしても知られる。 当国で活動するプロテスタントの宗派にはペンテコステ派、セブンスデー・アドベンチスト教会などが挙げられる。 新宗教としては、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)の信者が存在する。 1993年から2013年の間は、6歳から15歳までの9年間の初等教育と前期中等教育が義務教育の期間であったが、2013年の法改正からは3歳から18歳(幼稚園~高校)までの15年間が義務教育となっている。 おもな高等教育機関としては、メキシコ国立自治大学(1551年)、グアダラハラ大学(1792年)、モンテレイ工科大学(1943年)などが挙げられる。政府は国公立大学へは手厚い財政補助を行っており、貧困層出身者を対象としたさまざまな支援制度を充実させている。当国においては高等教育機関が機会の平等をもたらす機能を担い、社会上昇の手段として重要視されている。 2018年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は95.4%である。 国の所得格差を表すジニ指数によると、米国や中国、マレーシアとほぼ同程度の47.0の値で、ラテンアメリカの中では比較的に貧富の差の激しくない国である(参照:国の所得格差順リスト)。また、カルロス・スリムという世界一の億万長者を産んだ国ではあるが、一方メキシコシティにおける世帯平均月収(手取り)は約4万円となっている。 教育による社会階層移動の可能性(エリート優遇策)については、自助努力による成功のチャンスも存在する。政府は出身階級に基づく格差の継承を解消するため、教育を通しての機会の平等を実現させようと試みている。政府は国公立大学へは潤沢な財政援助を行っており、授業料もほとんどかからない。特に貧困層出身者に対する手厚い支援制度があり、奨学金制度、夜間授業、食堂の補助金制度などを充実させている。したがって、たとえ貧困層出身者であっても努力してこれらの難関大学に進学できた場合にはさまざまな機会に恵まれ、社会階層を上昇移動することは可能である。 メキシコの治安は非常に危険な状況に陥っている。特にアメリカとの北部国境地帯の治安悪化はマフィアなどの抗争も相まって顕著だが、首都として人の集まるメキシコシティや、それ以外の地域においても失業者の増加と社会的・経済的不安定要因が治安情勢の一層の悪化を招いており、強盗、窃盗、誘拐、レイプ、薬物などの犯罪は昼夜を問わず発生している。 カルテルの麻薬絡みの殺人、暴力事件が後を絶たない。麻薬組織の抗争などにより毎月約1,000人が死亡しており、2007年から2013年10月現在までに約8万人が命を落としているという。また警官や軍人、官僚、政治家がこれらの麻薬がらみの犯罪の当事者、肩代わり、後見人となっているケースが多く、大統領さえ例外ではない。 また、拳銃の携帯は国防省の許可が必要だが、実際は許可を得ずに拳銃を所持している国民が多く、同国の犯罪のほとんどには拳銃が使用されている。 治安・市民保護省などの統計に基づく国立統計地理情報院の2023年5月24日付発表によれば、ロペス・オブラドール大統領政権下(2018年12月~2023年5月24日)の累計故意殺人件数は、過去最高値を記録したペニャ・ニエト政権の殺人件数を上回り、156,136件に上った。 先スペイン期のアステカ族やマヤ族の文化に根を持ち、16世紀のスペイン人による征服後はスペイン文化と融合して築き上げられている。独立後しばらくはヨーロッパの文化の模倣に終始したが、革命後の1920年代から1930年代にかけてインディヘナに国民文化の根源を求めて先住民文化の再評価が始まり、インディヘニスモという一大文化運動を確立した。古くから音楽や絵画、彫刻、建築など芸術面で世界的に有名な人物を輩出している。 一般的に辛いことで知られているメキシコ料理は世界的に人気があり、特に隣国のアメリカではアメリカ風に独自にアレンジされたタコスやブリートがファストフードとして広く普及しているが、それらはテックス・メックス(Tex-Mex)と呼ばれ、国内ではそれほど普及していない。主食はマサと呼ばれる粉を練ってのばして焼いた薄いパンのようなもので、トルティーヤと呼ばれる。北部では小麦粉、中部・南部ではトウモロコシの粉を使ったものが主流である。基本的には豆やトウモロコシ、鳥肉を原材料に使ったメニューが主体になっており、ほかにも米や魚類、牛肉なども使われることが多く、一見単純に見えて繊細な味がその人気の理由とされている。 伝統料理は、修道女たちが収穫される農作物で王宮料理を作る目的で研究されたもので、プエブラという古都が有名である。代表的なものに、モーレがある。 海に囲まれているため魚介類も豊富で、魚やエビなどを使った料理も多い。特に日本にとってはエビの大きな供給元として知られている。 近年はカップラーメンが広く普及しており、中でも東洋水産の「マルちゃん」ブランドが市場シェアの約85パーセントを占めるまでに成長している。 蒸留酒であるテキーラの一大産地として有名であるが、それはハリスコ州グアダラハラ市近郊のテキーラという地域に1700年代から作られている地酒であり、国民にもっとも愛される酒となっており、近年は海外にも愛好家を増やしている。また、ビールの特産地としても知られており、コロナビールやXX(ドス・エキス)などの著名なブランドが世界中に輸出されている。 作家としては、フアン・ルルフォ、アマード・ネルボ、カルロス・フエンテス、ホセ・エミリオ・パチェコ、オクタビオ・パス、アルフォンソ・レイエスなどが挙げられる。オクタビオ・パスは1990年にノーベル文学賞を受賞した。アルフォンソ・レイエスはアルゼンチンのホルヘ・ルイス・ボルヘスに大きな影響を与えた作家としても知られる。革命以降のインディヘニスモ小説としては、ロサリオ・カスティリャーノスの『バルン・カナン』などが挙げられる。 当国で生まれた伝統的な音楽様式としては、マリアッチやランチェーロ、ノリード、ノルテーニョ、バンダなどが挙げられ、メキシコのフォルクローレではパラグアイやベネズエラのようにアルパが多用される。南部のグアテマラ国境付近では、マヤ系住人によってアフリカ伝来のマリンバが用いられる音楽が盛んである。 また、1960年代以降はアメリカ合衆国に渡ったメキシコ人移民(チカーノ)によってアメリカ合衆国のポピュラー音楽が行われ、ロックはラテン・ロックになり、ヒップ・ホップはチカーノ・ラップとなって在米メキシコ人市場で消費されたものが当国にも逆流入している。メキシコ・ロック(ロック・メヒカーノ)はラテンアメリカ市場でも成功しており、特に有名な音楽家としてはカフェ・タクーバなどが挙げられる。 クラシック音楽の分野ではカルロス・チャベスの名が特筆され、メキシコ国立交響楽団はチャベスによって設立された。 絵画に特化している面を持つ。メキシコ革命以前では、19世紀後期から20世紀初頭にて活躍した、政治漫画家のホセ・グアダルーペ・ポサダの版画が有名である。 革命後、インディヘニスモ運動の文脈の中で1930年代から始まったディエゴ・リベラ、ダビッド・アルファロ・シケイロス、ホセ・クレメンテ・オロスコなどの壁画家たちによるメキシコ壁画運動(メキシコ・ルネサンス)は世界の美術史の中でも特出している。ディエゴ・リベラの妻のフリーダ・カーロも女流画家として世界中で紹介されている。 ブラジル、アルゼンチンとともにラテンアメリカの3大映画制作国であり、多くの映画が製作されている。 現在、一般的に認知されている古代メキシコ人の服装や衣服は、メキシコの先住民族であるナワ族の服飾の一例である。メキシコにおける女性の伝統的な服装にはラ・チャイナ(英語版)と呼ばれるものが挙げられることがあるが、実際にはメキシコ中南部地域の一部の都市圏にのみ存在しており、19世紀後半には消滅したものと見られている。 最も賞賛されている地方衣装としてはテワナ(スペイン語版)が挙げられる。 国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が27件、自然遺産が6件、複合遺産が2件、暫定リストに22件存在する。 労働法第74条で定められた祝日は以下の8日(ただし大統領就任日は6年に1度なので、普通は7日)である。これ以外に慣習的な祝日がある。 メキシコで開催された著名な国際大会としては、夏季オリンピックの1968年メキシコシティオリンピックや、FIFAワールドカップ(サッカー)の1970年大会と1986年大会が行われている。なお、2026年にはアメリカやカナダとともに2026 FIFAワールドカップの共同開催国となっている。またメキシコでは伝統的に闘牛が盛んに行われており、大都市には必ず闘牛場がある。 メキシコ国内でも他のラテンアメリカ諸国と同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっており、1943年にプロサッカーリーグのリーガMXが創設された。北中米カリブ海地域では最もレベルの高いリーグであり、歴代のCONCACAFチャンピオンズリーグではメキシコのクラブが優勝を独占している。 メキシコサッカー連盟(FMF)によって構成されるサッカーメキシコ代表は、これまでFIFAワールドカップには17度出場を果たしており、北中米カリブ屈指の強豪国として知られている。CONCACAFゴールドカップでは大会最多11度の優勝を達成しており、FIFAコンフェデレーションズカップでは1999年大会で優勝するなどメキシコはサッカー大国としても名高い。著名な選手としては、元バルセロナのラファエル・マルケスや、元マンチェスター・ユナイテッドのハビエル・エルナンデス(チチャリート)などが存在する。 野球もアメリカ合衆国の強い影響を受け、人気スポーツのひとつに数えられる。とりわけ、メキシコにおける野球は国境に近い北部でも盛んである。しかし主要都市の多くは乾燥した高原にあるため、打球が飛びやすくプレーに適した地域は限られる。またMLB選手を多く輩出しており、2019年までに129人のメキシコ人選手がプレーしている。国内には夏季リーグ(リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボル、LMB)と冬季リーグ(リーガ・メヒカーナ・デル・パシフィコ、LMP)の2つのプロリーグが存在する。LMBは1925年にスタートし、現在は2リーグ16チームからなる。MLBから3A相当の認定を受けており、事実上マイナーリーグに取り込まれていたが、2021年のマイナーリーグ再編に伴いMLB機構から切り離され、現在では独立したプロ野球組織となっている。ウィンターリーグであるLMPは8チームからなり、優勝チームはLMP代表としてカリビアンシリーズに出場する。 ルチャリブレはメキシコを代表するスポーツのひとつ(厳密にはショー)で、派手なマスクと華麗な空中戦が見もののメキシカン・プロレスであり、メキシコの象徴でもある。古くは「エル・サント、ウラカンラミレス、エル・ソリタリオ、ミル・マスカラス・ドス・カラス兄弟、エル・カネック、チャボ・ゲレロ・ジュニア、ドクトルワグナーJr、レイ・ミステリオJr、アルベルト・デル・リオ、ミスティコ」まで多くの世界的に有名な選手を生んでいる。CBLLおよびルチャリブレ選手組合によりプロレスラーライセンスを発行しており、ナショナル王座も存在する。 日本にも熱狂的なファンが多く、日本からの観戦ツアーが多数企画されるのみならず初代タイガーマスク、獣神サンダーライガー、ザ・グレート・サスケ、タイガーマスク、ウルティモ・ドラゴン、エル・サムライ、スペル・デルフィン、グラン浜田、百田光雄、CIMA、TARU、後藤洋央紀、オカダ・カズチカなど日本のレスラーが空中戦をはじめとするさまざまな技術を学ぶために、留学や遠征をするケースも多数見られる。なお、日本の全日本プロレスやアメリカのWWEなどの団体にも多くの選手を送り込んでいる。 メキシコシティ市内にある競技場、アレナ・メヒコとアレナ・コリセオは『ルチャリブレの2大聖地』と言われ、二大のルチャ団体『CMLL・トリプレ・ア』の看板スターや、フリーランスのドス・カラス・ジュニア、エル・イホ・デル・サントが繰り広げる華麗な空中戦を見るために世界中から観客がやって来る。 ボクシングもまた、メキシコで人気スポーツのひとつでもある。世界最大の団体であるWBCの本部が置かれており、3階級制覇を達成したフリオ・セサール・チャベスを筆頭にアメリカで活躍するマルケス兄弟やイスラエル・バスケス、日本でもなじみの深いルーベン・オリバレスやリカルド・ロペスら世界王者も数多く輩出している。なお、チャベスがエスタディオ・アステカに、グレグ・ホーゲンを迎えたWBC世界ジュニアウェルター級タイトルマッチは、世界最多の有料入場者となる13万人を記録した。 コミッションは「CBLL」であり、タイ同様にプロボクサーライセンスは存在しない。プロモーターとの契約が成立した時点でプロ活動が可能になる。ナショナル王座も管理・監督している。2000年代後半に、本部があるWBCが創設した同国内王座「FECOMBOX」と並存している。 さらに女子プロボクシングもあり、2階級制覇を達成したジャッキー・ナバを筆頭に、多くの女子世界王者も輩出している。アマチュアボクシングも盛んで、2007年のグアンテス・デ・オロには亀田和毅が出場している。オリンピックでは2021年東京大会まで13個のメダルを獲得し、競技別では飛込競技に次いで2番目に多い数字でもあるが、金メダルは自国開催の1968年メキシコシティー大会で獲得した2個のみで、女子に至ってはメダル未獲得のままである。 ブラジルやアルゼンチンなど他の中南米の主要国同様、富裕層を中心にモータースポーツもメキシコでは人気スポーツのひとつである。1950年代に行われた国内を縦断する公道レースのカレラ・パナメリカーナ・メヒコや、カリフォルニア半島を縦断するオフロード・レースのバハ1000は世界的に有名で、F1・メキシコグランプリがメキシコシティ国際空港の近くにあるエルマノス・ロドリゲス・サーキットにて開催されている。さらに2004年からはWRCがメキシコ北部を舞台に毎年開催され、人気を博している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "メキシコ合衆国(メキシコがっしゅうこく、スペイン語: Estados Unidos Mexicanos)、通称メキシコは、北アメリカ南部に位置する連邦共和制国家。北にアメリカ合衆国と南東にグアテマラ、ベリーズと国境を接し、西は太平洋、東はメキシコ湾とカリブ海に面する。首都はメキシコシティ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "メキシコの人口は2020年時点で1億2,893万人であり、スペイン語圏においてはもっとも人口の多い国である。国内総生産(GDP)は、中南米地域においてはブラジルに次いで第2位に位置する。人口は増加傾向であり、2019年統計で日本を抜いて世界10位となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "正式名称は、Estados Unidos Mexicanos( 発音、エスタドス・ウニドス・メヒカーノス)、略称は、México([ˈme̞.xi.ko̞] ( 音声ファイル)、 メヒコ)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "公式の英語表記は、United Mexican States(ユナイテッド・メクスィカン・ステイツ)、略称は、Mexico([ˈmɛksɨˌkoʊ] ( 音声ファイル)、メクスィコゥ)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本語訳はメキシコ合衆国で、通称はメキシコである。当て字は日本語・中国語ともに墨西哥で、墨と略される。「合衆国」という表記の由来や意味については、同項目を参照のこと。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "国名は独立戦争の最中の1821年に決定したものであり、アステカの一言語であるナワトル語で「メヒクトリの地」を意味する「Mēxihco」に由来する。メヒクトリはアステカ族の守護神であり、太陽と戦いと狩猟の神であるウィツィロポチトリの別名で、「神に選ばれし者」の意味がある。アステカでもっとも信仰されたこの神の名に、場所を表す接尾辞「コ」をつけて、この地における国家の独立と繁栄に対する願いを込めた。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "「合衆国」という政体名について、同じものを名乗る隣国、アメリカ合衆国が経済と軍事の両面で影響力が強大であり、単に「合衆国」だけでも同国を指すため、自国が米国の弟分のように見られてしまうとの不満が国民の一部に存在し、国名を「メキシコ共和国」に変更しようという動きがある。その一方で、伝統と歴史的背景を尊重する意見も多く、国名を変更することに対する賛否は分かれている。この意識は、19世紀末の米墨戦争敗戦直後から特に見られるようになり、以来長年にわたり議論が繰り返されているが、変更には至っていない。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "この地域は、紀元前2万年ごろの人間が居住した形跡があるといわれ、先古典期中期の紀元前1300年ごろ、メキシコ湾岸を中心にオルメカ文明が興った。オルメカ文明は、彼らの支配者の容貌を刻んだとされているネグロイド的風貌の巨石人頭像で知られている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "先古典期の終わりごろ、メキシコ中央高原のテスココ湖の南方に、円形の大ピラミッドで知られるクィクィルコ、東方にテオティワカンの巨大都市が築かれた。その後もユカタン半島のマヤ文明、メキシコ中央高原のアステカのような複数の高度な先住民文明の拠点として繁栄を極めた。その高度な文明はスペインによる植民地化によって大きな打撃を受けたが、それでもなお、その文化や技術は現代のメキシコ社会に影響を与えている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "14世紀後半、テスココ湖の西岸にあったテパネカ族の国家アスカポツァルコにテソソモクという英傑が現れ、その傭兵部隊だったアステカ族は、テソソモクが没したあとの15世紀前半、テスココ、トラコパンとともにアステカ三国同盟(英語版)を築いた。テスココの名君ネサワルコヨトルの死後は、完全にリーダーシップを握って周辺諸国を征服し、アステカの湖上の都テノチティトランを中心にアステカ帝国を形成した。アステカの守護神にして太陽と戦いの神ウィツィロポチトリと、雨の神トラロックを祀る高さ45メートルの大神殿「テンプロ・マヨール」がメキシコシティ歴史地区の憲法広場の北東にたっている。この大神殿は、アステカ帝国の中心であるテノチティトランの中心部に位置していたとされている。アステカ帝国は比類なき軍事国家であり、現在のコスタ・リカにまで隆盛を轟かせていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1492年のクリストファー・コロンブスのアメリカ大陸到達後、16世紀初頭の1519年にスペイン人エルナン・コルテスが上陸。コルテスら征服者達は、アステカの内紛や、神話の伝承を有利に利用して執拗な大虐殺を繰り返し行った末に、テノチティトランを破壊し、1521年に皇帝クアウテモックを惨殺してアステカ帝国を滅ぼした。そののちスペイン人たちは、この地にヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)副王領を創設。ペルー副王領と並ぶインディアス植民地の中心として、破壊されたテノチティトランの上にメキシコシティが築かれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "スペインによる支配は300年続いたが、19世紀を迎えるとアメリカ独立戦争やフランス革命、ナポレオン戦争に影響され、土着のクリオーリョたちの間に独立の気運が高まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1808年、ナポレオン・ボナパルトが兄のジョゼフをスペイン王ホセ1世として即位させた。それに反発するスペイン民衆の蜂起を契機としてスペイン独立戦争が始まると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否。1809年から1810年にかけて、キト、ラパス、サンティアゴ、カラカス、ボゴタ、ブエノスアイレスとインディアス各地でクリオーリョたちの蜂起が始まる中、 1810年9月15日にミゲル・イダルゴ神父らにより、スペイン打倒を叫ぶメキシコ独立革命が始まり、長い戦いの火蓋が切られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ペルーのクリオーリョと同様に当国のクリオーリョも先住民大衆の反乱を恐れたため、独立運動には消極的であり、イダルゴも、反乱を継いだメスティーソのホセ・マリア・モレーロス神父もアグスティン・デ・イトゥルビデ率いる王党派軍に敗れたが、モレーロスの乱が鎮圧されたあとの1820年ごろには南部のシモン・ボリーバルとホセ・デ・サン=マルティンらに率いられた解放軍が各地を解放し、インディアスに残る植民地は島嶼部とブラジルを除けば当国とペルー、中米のみとなっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "スペイン本国で自由派が政権を握ると(リエゴ革命)、1821年9月15日に保守派クリオーリョを代表した独立の指導者アグスティン・デ・イトゥルビデがメキシコシティに入城し、反自由主義の立場から独立を宣言した。しかし、イトゥルビデがメキシコ王に推戴したかった反動派の元スペイン王フェルナンド7世は入国を断ったため、イトゥルビデ自身が皇帝に即位する形で第一次メキシコ帝国が建国され、中央アメリカを併合した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "独立後は混乱が続き、1823年には帝政が崩壊して連邦共和国のメキシコ合衆国 (19世紀)となり、このときに中米連邦が独立した。独立後は内戦による農業生産力の低下、鉱山の生産力低下、カウディーリョの群雄割拠、流通の混乱など問題が多発し、政治的には不安定な時代が続き、1835年10月23日から1846年8月22日まで中央集権国家であるメキシコ共和国となっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "また、コアウイラ・イ・テハス州にアメリカ合衆国人の入植を認めると、1835年にはアングロサクソン系入植者が反乱を起こし、1836年にメキシコ領テハスはテキサス共和国として独立した 。その後、アメリカ合衆国が1845年にテキサスを併合すると、1846年にはテキサスをめぐりアメリカ合衆国と米墨戦争を争ったものの、メキシコシティを占領されて1848年に敗北すると、テキサスのみならずカリフォルニアなどリオ・ブラーボ川以北の領土(いわゆるメキシコ割譲地)を喪失した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "領土喪失の経緯からアメリカとの対立は深まっていたが、1861年にアメリカの南北戦争勃発とともにフランス第二帝国のナポレオン3世がメキシコ出兵を開始。1863年にはメキシコシティが失陥、フランスの傀儡政権である第二次メキシコ帝国が建国される状況となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "インディオ出身のベニート・フアレス大統領は、アメリカの支援を得てフランス軍に対して対抗し、1866年に主権を取り戻すものの、このことは後々までアメリカ合衆国の影響力が高まるきっかけとなった。フアレスは自由主義者としてレフォルマ(改革)を推進するも、1872年に心臓発作で死去した。フアレスの後を継いだテハーダ(英語版)大統領は自由主義政策を進めたが、この時代になると指導力が揺らぐことになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "この隙を突いて1876年に、フランス干渉戦争の英雄ポルフィリオ・ディアスがクーデター(Revolución de Tuxtepec)を起こし、大統領に就任した。ディアスは30年以上に亘る強権的な独裁体制を敷き、外資が導入されて経済は拡大したものの、非民主的な政体は国内各地に不満を引き起こした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1907年恐慌の影響が及び始め、労働争議が頻発する中で1910年の大統領選が行われ、ポルフィリオ・ディアスが対立候補フランシスコ・マデロを逮捕監禁したことがきっかけとなり、メキシコ革命が始まった。パンチョ・ビリャ、エミリアーノ・サパタ、ベヌスティアーノ・カランサ、アルバロ・オブレゴンらの率いた革命軍は、路線の違いもありながらも最終的に政府軍を敗北させ、1917年に革命憲法が発布されたことで革命は終息した。革命は終わったものの、指導者間の路線の対立からしばらく政情不安定な状態が続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1928年に次期大統領が暗殺された事件を契機として、現職の大統領だったプルタルコ・エリアス・カリェスは国内のさまざまな革命勢力をひとつにまとめ、1929年に制度的革命党(PRI)の前身となる国民革命党(PNR)が結成された。国民革命党はヨーロッパで躍進していた全体主義イデオロギーの影響を受けていたと言われ、1932年に議員や首長など公職の連続再任が禁止され、地方政党の解体が進められた。この制度改革以降、党の公認指名を得ることが公職に就く絶対条件となり、同時に公認指名の条件が極度に厳格化された。候補者指名は大統領の権力とともに、その後の制度的革命党の権力の源泉となった。公職ポストが制度的革命党によって独占されるとエリート階級は党上層部への服従を余儀なくされ、71年間続く事実上の一党独裁体制が完成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1934年に成立したラサロ・カルデナス政権は油田国有化事業や土地改革を行い、国内の経済構造は安定した。その後、与党の制度的革命党(PRI)が第二次世界大戦を挟み、一党独裁のもとに国家の開発を進めた。アメリカ合衆国や西側の資本により経済を拡大したが、その一方で外交面ではキューバなどのラテンアメリカ内の左翼政権との結びつきも強く、政策が矛盾した体制ながらも冷戦が終結した20世紀の終わりまで与党として政治を支配した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1950年代ごろから一党支配の弊害が指摘されるようになり、1960年代には選挙競争性の向上を目的とした制度改革が試みられるようになった。1976年に就任したポルティーヨ大統領が起用したレジェス・エロレス(スペイン語版)は、拘束式小選挙区比例代表並立制の導入など多くの項目からなる「レフォルマ・ポリティカ」と呼ばれる政治改革を策定し、現在に続くメキシコ政治の基礎を築いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "また、20世紀の前半から中盤にかけては石油や銀の産出とその輸出が大きな富をもたらしたものの、それと同時に進んだ近代工業化の過程で莫大な対外負債を抱え、20世紀中盤に工業化には成功したものの、慢性的なインフレと富の一部富裕層への集中、さらには資源価格の暴落による経済危機など、現代に至るまで国民を苦しめる結果となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1980年代以降は麻薬カルテルの抗争により治安が悪化してしまう。カルロス・サリナス・デ・ゴルタリ大統領の実兄のラウル・サリナスが麻薬取引に関与して逮捕されたことを受け、アメリカに出国し事実上亡命するなど、政権中央部まで汚染され尽くした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "冷戦が終わりアメリカからの支援が止まり、さらに麻薬カルテルとの癒着が明らかになり与党のPRIの支持率は落ち、2000年に長年続いた長期独裁政権は終わりを告げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "カルデロン政権は、麻薬カルテルと癒着した警察幹部や州知事すらも逮捕するという強硬姿勢で臨み、軍を導入して麻薬犯罪組織を取り締まっている。これに伴い、カルテルの暴力による死者が激増、2010年には毎年1万5,000人以上の死者を出す事態になっている(メキシコ麻薬戦争)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "一方、原油価格の高騰やNAFTA締結後の輸出量の増加、さらに内需拡大傾向を受けて中流層が増加し、「ネクスト11」の一国に挙げられている。経済政策では原油価格高騰に伴いガソリン価格を連続して値上げして、国民から不満の声が上がっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2009年に入ってからはカナダやアメリカ合衆国とともに、新型インフルエンザ(H1N1)の発祥地とされている。2010年7月4日、全国32州のうち14州で地方選挙が実施された。2000年まで政権党だった野党の制度的革命党(PRI)が前進(知事選が実施された12州のうち10州でほぼ当選)した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2012年7月、大統領選挙が実施され、当日投開票された。保守系制度的革命党(PRI)のエンリケ・ペーニャ・ニエト(任期:2012年12月1日 - 2018年11月30日)が選出され、同年12月から大統領に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2013年、MIKTAに加盟している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "政体は連邦共和制である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2018年メキシコ総選挙では、アンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドールが大統領に当選した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "国家元首は大統領である。大統領は国民の直接選挙によって選出され、任期は6年で再選は禁止されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "大統領の権限は大きく、行政府の長も兼ねており、憲法では三権分立が規定されているものの、事実上司法府も統制下にあり、イギリスの新聞『エコノミスト』傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットからは「混合政治体制」と評されている(民主主義指数の項目も参照)。また、軍部も大統領下でのシビリアンコントロールが制度的に確立している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "大統領は、行政各省の大臣を指名する。ただし、司法相のみは上院の承認が必要である。各大臣は大統領直属の地位にあり、大統領に対し責任を負うのみで、議会や国民に対して責任は負わない。副大統領や首相などの次席の役職はなく、大統領が死亡などで欠ける場合は、議会が暫定大統領を選出する。2019年より大統領を国民投票によって解任できる制度が導入され、大統領への反対票が過半数かつ投票率が有権者の40%を超えた場合は解任できる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "連邦議会は両院制(二院制)。上院(元老院)は全128議席で、そのうち4分の3にあたる96議席が連邦区と州の代表(各3議席)、残りが全国区の代表である。それぞれ比例代表制で選出され、任期は6年。下院(代議院)は全500議席で、300議席は小選挙区制、200議席は比例代表制。任期は3年。両院とも連続再選は禁止されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "現在、連邦政府には15の省が設けられ、各種行政を担っている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "世界最多の憲法改正国で、建国以来2007年までに175回改正している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2003年、隣国・アメリカにおいて著作権の保護期間を死後70年・公表後95年に延長した法律が最高裁判所において合憲となったことを受けて、それまで「死後または公表後75年」であった規定を「100年」に延長した。この規定は、コートジボワールの99年を抜いて世界でもっとも長い保護期間である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "主要政党には、中道右派の国民行動党(PAN)、20世紀前半から長らく支配政党だった制度的革命党(PRI)、国民再生運動(Morena)の3つが挙げられる。ほかにも、左派の民主革命党, サパティスタ民族解放戦線や、労働党、メキシコ緑の環境党などの小政党が存在する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "司法権は最高裁判所に属している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "19世紀においては隣国のアメリカ合衆国によってテキサス、カリフォルニアを奪われる戦争を行ったものの、その後は同盟関係を結んだアメリカの強い影響下にありながら、歴史と文化を生かした多元外交を行っている。その一例として、第二次世界大戦後の冷戦当時から、隣国のアメリカとの深い関係を保ちつつも、ソビエト連邦やキューバなどの東側諸国との関係を維持してきた。特に隣国であるキューバとは、1959年のキューバ革命以降近隣のラテンアメリカ・カリブ海諸国が国交断絶した中、汎米主義に基づいて国交を継続していた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "スペインからの独立以降も元の宗主国であるスペインとの関係は、文化や経済面を中心に非常に強い。しかし、1975年9月にカレロ・ブランコ前首相の暗殺に関わったとされる活動家5人がフランシスコ・フランコ政権によって処刑された際に、抗議して一時国交を断絶したことがある。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2020年において、輸出入ともに最大の貿易相手国はアメリカ合衆国である。特に輸出ではメキシコの輸出額の83.3%と大きな割合を占めており、経済面ではメキシコの最大のパートナーである。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "しかし、政治面では友好的であると言い難い状況にある。特に近年においては、アメリカのトランプ政権における「国境の壁建設問題」などで両国の関係が悪化した。これはメキシコでのアメリカに対する意識調査で明らかであり、トランプ大統領在任時の2017年に実施された調査では、65%のメキシコ人がアメリカに対して否定的な見方を示し、肯定的な見方をしているのはわずか30%であった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "バイデン政権においては、メキシコはアメリカにとって民主主義国家としてのパートナーという見方が強く、2021年に開催された民主主義サミットにおいてもメキシコは招待を受け、参加した。しかし、2022年にロサンゼルスで開催された米州首脳会議では、メキシコは参加を見送った。理由としてバイデン政権が民主主義の欠如などを理由にキューバなど3カ国の招待を行わなかったことから、「米州機構加盟国の全ての国が招待されなければ、出席を見送る」という考えをロペスオブラドール大統領が示したためである。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "江戸時代の初めの1609年(慶長14年)、フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がマニラからの帰途に、大暴風のため房総の御宿海岸に座礁難破した。地元の漁民達に助けられ、時の大多喜藩主本多忠朝がこれら一行を歓待し、徳川家康が用意した帆船で送還したことから、日本との交流が始まった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1613年(慶長18年)に仙台藩主伊達政宗の命を受けた支倉常長は、ローマ教皇に謁見すべく当国とスペインを経由しイタリアのローマに向かった。支倉常長ら慶長遣欧使節団の乗ったサン・ファン・バウティスタ号は太平洋を横断しアカプルコへ、その後、陸路メキシコシティを経由し大西洋岸のベラクルスからスペインへ至った。メキシコでは大変手厚いもてなしを受け、現在、記念碑や教会のフレスコ画などに当時を偲ぶことができる。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "また、日本が開国して諸外国と通商条約を結んだ中で、1888年(明治21年)締結した日墨修好通商条約は日本にとって事実上初めての平等条約であり、諸外国の駐日大使館のうちでメキシコ大使館のみ東京都千代田区永田町にあるのは、これに対する謝意の表れとされる。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "19世紀末には榎本移民団による移住が始まり、第二次世界大戦後まで続いた。移民者の数は総計1万人あまりに達し、その子孫が現在でも日系メキシコ人として各地に住んでいる。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "メキシコシティへの進出は減っているが、メキシコ中央高原都市では日系企業が増えている。日系の自動車3社(日産第二工場、ホンダ、マツダ)が進出を決めたほか、200社以上が自動車部品工場や大規模倉庫などを建設中である。日本からの投資の90パーセント近くがこの地域に集中しており、一大進出ラッシュとなっている。なかでもアグアスカリエンテスは、1982年から日産の工場が進出したこともあり、大規模な新工場ができつつある。アメリカの平均よりも犯罪発生件数が少なく、真夜中にも多くの飲食店が開いており、日本人の家庭には人気の移動先になってきた。日系企業進出の遠因は、賃金も安く未開発な部分の多い魅力的なフロンティアであること、複雑な外交関係にない親日国であることなどである。犯罪の多いところではあるが、地方都市や州では軍隊や警察組織を駆使して独自の治安維持をしているところもあるので、進出には州単位、町単位での安全チェックが必須である。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2021年10月現在、メキシコへ進出している日系企業は1,272社となっている。これは前年(2020年)の1,300社から減少しているものの、中南米地域では最多の進出数となっている。また同年の在留邦人は11,390人であり、中南米地域ではブラジルに次いで2番目であり、国別邦人数においても21位につけている。日本からの輸出額は138億9700万米ドル、メキシコからの輸出額は36億52万米ドルであり、メキシコからアジア地域の貿易相手国としては中国、韓国に次ぐ規模となっている。日本からの主要な輸出品として輸送機械(鉄道以外)や電気・電子機器などが挙げられる。要因としてメキシコの地理的要因(例として米国・メキシコ・カナダ協定が挙げられる)、人件費の安さ、メキシコ国内におけるサプライヤーの不足がある。メキシコ国外から輸入した部品をメキシコの現地工場で製品を組み立て、国内及び北米向けに販売を行うことで、低コストで生産できる利点から進出する日系企業が多い。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "特に、日本企業(現在はフランスのルノー傘下)としては最初期の1966年7月に現地工場での自動車生産を開始した日産自動車は、同国日系自動車生産工場としても初ということもあり、関わりも深く、サッカー中継番組でもスポンサーになるほどの深さでもある。日産AD(現地名ツバメ)を生産していた時代は、日本への輸出(いわば逆輸入)も行っていた。ルノー傘下に入ったあとの2009年時点で、販売台数ベースで同国市場最大手である。同社は現在、アメリカとの国境地帯とメキシコシティとの中間点に位置するアグアスカリエンテスや、メキシコシティ郊外のクエルナバカに工場を構えているが、NAFTA発効後は当国のみならずアメリカおよびカナダ向け車種の主要な生産拠点となっており、近隣のチリやアルゼンチン、さらにヨーロッパなどにも輸出が行われている。おもな生産車種は「ティーダ(北米ではヴァーサ)」「ツル」「セントラ」「NP300フロンティア」で、日産自動車メキシコシティ事業所(日産メキシカーナS.A de C.V.)が取り扱う車種でもこのほかに「マキシマ」「アルティマ」「370Z(フェアレディZ)」「エクストレイル」「パスファインダー」「アーバン(キャラバン)」「キャブスター(アトラス)」と新たに「リーフ」も販売を開始した。また、ニューヨークのイエローキャブ向け仕様NV200もこの国で生産されている。以前は「サクラ(シルビア)」「サムライ(バイオレット)」「280C(後のセドリック)」も販売していた。さらには、メキシコ連邦警察専用向けとしてY30セドリックセダン(グレード的にはブロアム)をベースとしたセドリックパトロールも納めたほどである。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "MIKTA(ミクタ)は、メキシコ(Mexico)、インドネシア(Indonesia)、大韓民国(Korea, Republic of)、トルコ(Turkey)、オーストラリア(Australia)の5か国によるパートナーシップである。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "成人男子には1年間の選抜徴兵制が採用されている。現在、大きな対外脅威はなく、おもな敵は国内の麻薬カルテル(メキシコ麻薬戦争)、次いでサパティスタ民族解放軍である。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "北米大陸の南部に位置し、約197万平方キロの面積(日本の約5倍)を持つ。海岸線の総延長距離は1万3,868キロに達する。海外領土は持たないが、領土に含まれる島の面積は5,073平方キロに及ぶ。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "地質構造は、北に接するアメリカ合衆国とは異なり、クラトンが存在しない。アラスカから太平洋岸に沿って伸びるコルディレラ造山帯とアメリカ合衆国東岸に沿う古いアパラチア山脈に続くワシタ造山帯(メキシコ湾岸)が国内でひとつにまとまる。地向斜による膨大な堆積物がプレート運動により褶曲山脈を形成しているほか、第三紀以降の新しい火山が連なる。このため、高原の国であり、北部は平均1,000メートル前後、中央部では2,000メートル前後である。標高5,000メートルを超える火山も珍しくなく、国内最高峰のピコ・デ・オリサバ山(シトラルテペトル山)の5,689メートル(もしくは5,610メートル)をはじめ、ポポカテペトル山(5,465メートル、もしくは5,452メートル)、イスタシュワトル山(5,230メートル)などが連なる。もっとも頻繁に噴火を起こすのはコリマ山(4,100メートル)である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "最長の河川はアメリカ合衆国との国境を流れるリオ・ブラボ・デル・ノルテ川(リオ・グランデ川)であり、3,057キロのうち2,100キロが両国の国境を流れる。最大の湖はチャパラ湖(1,680平方キロ)である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "カリフォルニア半島の大部分とメキシコ高原中央は、ケッペンの気候区分でいうBWであり、回帰線より北のほとんどの地域はステップ気候BSに分類される。いずれも乾燥気候である。北部の高原地帯には大きなサボテンやリュウゼツランなどしか生育しない広大な不毛の土地が広がっている。リュウゼツランの一種であるマゲイはテキーラの原料であり、輸出産品のひとつである。中西部に広がっているリュウゼツラン生産地帯は、世界遺産に登録された「テキーラ地帯」となっている。北回帰線よりも南では、海岸線に沿って熱帯気候に分類されるサバナ気候(Aw)が伸びる。ユカタン半島南部にのみ、弱い乾期の存在する熱帯雨林気候(Am)が見られる。熱帯雨林気候(Af)はテワンテペク地峡北部にのみ存在する。メキシコ湾岸沿いの一部の地域には温帯気候である温暖湿潤気候(Cfa)が、山岳部は温帯気候である温帯夏雨気候(Cw)と高山気候(H)が卓越する。首都メキシコシティの平均気温は、13.7°C(1月)、16.5°C(7月)。年平均降水量は1,266ミリである。メキシコシティの標高は2,268メートルであり、典型的な高山気候である。亜寒帯気候にも似ている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "平均的には非常に温暖な気候で、沿岸部には世界的に有名なビーチリゾートがたくさんある。東部・カリブ海沿岸ではカンクンなど、太平洋沿岸の西南部ではアカプルコやイスタパなど、西端にあり太平洋に面する細長いバハカリフォルニア半島のカボ・サンルーカスやラパスなどがこれに該当し、世界中から観光客を引きつけるとともに、貴重な外貨の収入源となって多くの雇用をもたらしている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "地下資源に恵まれた世界でも有数の国である。まず、銀の埋蔵量については現在でも世界第2位であり、16 - 19世紀初期までの銀の埋蔵量は世界の生産量の半分を占めた。ほかには銅の埋蔵量世界第3位、鉛と亜鉛は第6位、モリブデンは第8位、金が第11位であり、世界有数の生産量を誇っている。さらに鉄鉱石、石炭のほか、マンガン、ストロンチウムなどの希少金属も産出する。そして、地下資源のなかでも石油が国内経済を支えている。ただし、2017年の原油生産量は222万バレルで2004年の最大383万バレルから漸減している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "第一級行政区画は32の州に分かれる。首都メキシコシティの全域は、どの州にも属さない連邦区(Distrito Federal)とされていたが、2016年に憲法が改正されて32番目の州になった。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "各州には、知事(メキシコシティは政府長官)と一院制の議会があり、それぞれ住民の直接選挙によって選出される。任期は6年。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2013年の時点のGDPは1兆2,609億ドルであり、世界15位である。韓国とほぼ同じ経済規模であり、ラテンアメリカではブラジルに次いで2位である。1人あたりのGDPでは1万650ドルとなり、世界平均を若干上回る。メルコスールと南米共同体のオブザーバーであり、経済協力開発機構(OECD)、アジア太平洋経済協力(APEC)、北米自由貿易協定(NAFTA)の加盟国でもある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "カリブ海沿岸地域を中心にして油田が多く、第二次世界大戦ごろより国営石油会社のペメックスを中心とした石油が大きな外貨獲得源になっている。鉱物では銀やオパールの産地としても中世から世界的に有名である。電線に使える銅はグルポ・メヒコが採掘している。ほかにも水産業や観光業、製塩やビールなどが大きな外貨獲得源になっている。また、20世紀前半より工業化が進んでおり、自動車や製鉄、家電製品の生産などが盛んである。おもな貿易相手国はアメリカ、カナダ、日本、スペインなど。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "特に1994年1月1日に北米自由貿易協定(NAFTA)が発効したあとは、その安価な労働力を生かしてアメリカやカナダ向けの自動車や家電製品の生産が増加している。しかし、その反面経済の対米依存度が以前にもまして増えたため、NAFTA加盟国以外との経済連携を進めており、2004年9月17日には日本との間で、関税・非関税障壁の除去・低減や最恵国待遇の付与を含む包括的経済連携「日本・メキシコ経済連携協定」について正式に合意した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "2008年1月から北米自由貿易協定のもとで全農作物が完全輸入自由化、つまり、最後まで残っていたトウモロコシなど農作物の関税がすべて撤廃された。これに対する農民らの抗議デモが2008年1月30日にメキシコシティ中心部の憲法広場で13万人が参加して行われた。デモの要求は、「NAFTAの農業条項についてアメリカ、カナダと再交渉すべきだ」というものである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1970年代、石油価格高騰を受け、石油投資ブームが発生した。また、賃金がアメリカよりも安いことから、製造業の工場移転による投資も増えていた。国際金融市場を行き交うマネーが急増し、利益を得るために発展途上国への融資をどんどん行っていた。ちょうど1995年前後、1ドル100円水準の円高を受け、日本から東南アジアへ工場が移転し、東南アジア諸国に投資が急増したのに似ている。投資は、アメリカの金融機関にとって、比較的安全なものと判断されていた。ドルとメキシコ・ペソは固定相場であり、当時、当国の石油公社や電力会社は国営であったため、メキシコ政府による債務保証がつけられていた。国家が破産するはずがないと信じられていた時代である。アメリカより金利が高いため、アメリカで資金を調達し、当国に投資をすれば、濡れ手に粟のように儲けることができた。そういう事情により、メキシコの対外債務は急増していった。債務の利払いは石油や輸出による代金で賄われていた。ところが、1980年代になるとアメリカの金利が上昇したため、対外債務の利払いが増大し、さらなる融資が必要となったが、財政負担能力を超えていた。1982年8月、利払いの一時停止(モラトリアム)を宣言する羽目になり、国民は急激なインフレーションと失業の増大によって苦しんだ。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "当時の対外債務は870億ドルであった。メキシコ危機が特にアメリカのメガバンクに与える影響が大きいため、IMFとアメリカ合衆国財務省、メガバンク・シンジケートにより救済措置がとられた。「大きすぎて潰せない」有名な事件となった。ネルソン・バンカー・ハントを破産させたばかりの出来事であった。1982年の利払い分に相当する80億ドルを緊急融資が実行され、翌年には70億ドルの追加融資が行われた。さらに、債務を返済するため、厳しい措置がなされた。石油公社や電力会社の民営化はもちろん、貿易自由化などを強要する条件で、IMFをはじめとする国際金融機関との合意がなされた。このメキシコ債務危機以降に同様の措置が、発展途上国で債務危機の発生した場合に適用されることとなる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "危機脱出後は再び資金が戻ってきたが、新規投資の資金ではなく、カルロス・スリムのようなメキシコ人富裕層がアメリカに流出させたマネーであった。このマネーが民営化された国営企業や銀行の購入資金となった。売却された国営企業の資産価値は売却額よりもはるかに高かったため、メキシコ債務危機が終わって見ると、一部の富裕層がさらに裕福となり、大半の国民がより貧乏になるという結果をもたらした。ここで大もうけした人たちが、経済改革を徹底的に行い、再びアメリカや日本などの外国から資金を集めることに成功し、再び対外債務は増加していった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1986年関税および貿易に関する一般協定(GATT)に参加した。外国から資金を呼ぶため、金利は高く設定され、ペソは過大評価されていた(この点はアジア通貨危機直前の状況と似ている)。その結果、輸入が急増し輸出は不振となり、貿易赤字が増大していった。1990年の貿易赤字は1,000億ドルに達し、さらに1992年12月、北米自由貿易協定が調印され、アメリカからの投資ブームが起こった。1982年の債務危機のことは忘れ去られ、安い労働力を求めて、アメリカの製造業が大挙して工場を建設し、空前の好景気に沸いていた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "しかし、バブルの崩壊は突然であった。1994年2月、南部で先住民による武装反乱が発生。3月には大統領選挙の候補が暗殺された。この事件をきっかけにして信頼が一時失墜し、カントリーリスクの懸念が表面化した。その結果、メキシコ・ペソが暴落し、ペソ売りドル買い圧力の増加に対抗するためにメキシコ政府はドル売りペソ買いで為替介入したが、力尽きて国家は財政破綻。その結果、12月に固定相場から変動相場への移行を余儀なくされた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "その一方で、メキシコ通貨危機を防衛するために、政府は額面がペソで元利金の支払いがドルで行う政府短期証券「テソボンド」を大量に発行した。この債権がメキシコ通貨危機が治まったあとに事実上のドル建てで取り戻せたため、皮肉にもこれを購入した富裕層はたいへん儲かったという。1982年のメキシコ債務危機に続いて、1994年のメキシコ通貨危機でも、経済破綻を通して富裕層がさらに富を増やしたが、投資した投資家たちは巨額の損失を被り、国民は急激なインフレと貧困に大量失業という苦しみを味わうことになった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "企業への法人税は、毎年といっていいほど制度が変わる。また、ミニマムタックス制度を導入しているため、非常に煩雑なものとなっている。企業は税金を回避するために「新しい税制は憲法により保障された権利を侵している」として訴訟を起こすのが毎年恒例となっている。この訴訟では、行政が敗訴となることがしばしばある。ただし、訴訟期間中は税金を払うことが望ましい。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "国民の7割が肥満となっていることから、対策として菓子などの高カロリー食品に特別税を設定している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "メキシコは米投資銀行のゴールドマン・サックスおよびエコノミストのジム・オニールが研究論文において、BRICs諸国に次いで21世紀有数の経済大国に成長する高い潜在能力があるとしたNEXT11に含まれている。メキシコは1994年の通貨危機以降、アメリカの景気拡大や国際石油価格の高騰、新興国への資金流入の活発化に支えられ、2022年現在、順調な回復軌道を辿っている。特に製造業が好調であるが、最大の輸出相手であるアメリカの経済に左右されやすい特徴を持っている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "南北アメリカ間、太平洋とカリブ海を結ぶラテンアメリカの交通の要所として、メキシコシティが航空の要所として、ベラクルス港やアカプルコ港が海運の要所として、また、国土を縦断するパンアメリカン・ハイウェイや国土を網羅する鉄道網が陸運の要として機能している。沿岸部の主要港には多くのクルーズ船が寄港する。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "また、国内最大の航空会社であるアエロメヒコのほかに、国内には格安航空会社を含む航空網と、高速バスが走る高速道路網が整備されているほか、貨物を含む鉄道も整備されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "メキシコシティやグアダラハラなどの大都市には充実した地下鉄網が整備されているほか、ベラクルスやアグスカリエンテス、アカプルコなどの中規模の都市には市バス網が完備されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "民族構成はメスティーソ(白人と先住民族の混血)が60%、先住民族が30%、白人が9%とされており、そのほかにも日系メキシコ人やフィリピン系メキシコ人などといったアジア系移民の子孫、さらにはアフリカ系メキシコ人も総人口の1%ほど存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "白人(ヨーロッパ系メキシコ人)は、おもに植民地時代に移住したスペイン人であり、ほかにも独立後移民したイタリア人やフランス人、ドイツ人、ポルトガル人、バスク人、アイルランド人、イギリス人、アメリカ人などの子孫もいる。また、1930年代のスペイン内戦の際にカルデナス政権は共和派を支持したため、戦後共和派のスペイン人が1万人単位で流入した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "公用語は定められていないが、事実上の公用語はスペイン語(メキシコ・スペイン語)であり、先住民族の65言語(ナワトル語、サポテカ語、マヤ語など)も政府が認めている。世界最大のスペイン語人口を擁する国家である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "一般的に夫婦別姓であり、婚姻時に女性が改姓することはない。2012年より、同性同士の結婚(同性婚)を認める州が出てくるようになった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "宗教はローマ・カトリックが82.7パーセント、プロテスタントが9パーセント、その他(ユダヤ教、仏教、イスラム教など)が5パーセントである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "ブラジルに次いで世界で2番目にカトリック人口が多い国である。また、当国のカトリックは、もともと存在していた先住民の土着信仰と融合したカトリックとしても知られる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "当国で活動するプロテスタントの宗派にはペンテコステ派、セブンスデー・アドベンチスト教会などが挙げられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "新宗教としては、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)の信者が存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "1993年から2013年の間は、6歳から15歳までの9年間の初等教育と前期中等教育が義務教育の期間であったが、2013年の法改正からは3歳から18歳(幼稚園~高校)までの15年間が義務教育となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "おもな高等教育機関としては、メキシコ国立自治大学(1551年)、グアダラハラ大学(1792年)、モンテレイ工科大学(1943年)などが挙げられる。政府は国公立大学へは手厚い財政補助を行っており、貧困層出身者を対象としたさまざまな支援制度を充実させている。当国においては高等教育機関が機会の平等をもたらす機能を担い、社会上昇の手段として重要視されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "2018年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は95.4%である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "国の所得格差を表すジニ指数によると、米国や中国、マレーシアとほぼ同程度の47.0の値で、ラテンアメリカの中では比較的に貧富の差の激しくない国である(参照:国の所得格差順リスト)。また、カルロス・スリムという世界一の億万長者を産んだ国ではあるが、一方メキシコシティにおける世帯平均月収(手取り)は約4万円となっている。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "教育による社会階層移動の可能性(エリート優遇策)については、自助努力による成功のチャンスも存在する。政府は出身階級に基づく格差の継承を解消するため、教育を通しての機会の平等を実現させようと試みている。政府は国公立大学へは潤沢な財政援助を行っており、授業料もほとんどかからない。特に貧困層出身者に対する手厚い支援制度があり、奨学金制度、夜間授業、食堂の補助金制度などを充実させている。したがって、たとえ貧困層出身者であっても努力してこれらの難関大学に進学できた場合にはさまざまな機会に恵まれ、社会階層を上昇移動することは可能である。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "メキシコの治安は非常に危険な状況に陥っている。特にアメリカとの北部国境地帯の治安悪化はマフィアなどの抗争も相まって顕著だが、首都として人の集まるメキシコシティや、それ以外の地域においても失業者の増加と社会的・経済的不安定要因が治安情勢の一層の悪化を招いており、強盗、窃盗、誘拐、レイプ、薬物などの犯罪は昼夜を問わず発生している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "カルテルの麻薬絡みの殺人、暴力事件が後を絶たない。麻薬組織の抗争などにより毎月約1,000人が死亡しており、2007年から2013年10月現在までに約8万人が命を落としているという。また警官や軍人、官僚、政治家がこれらの麻薬がらみの犯罪の当事者、肩代わり、後見人となっているケースが多く、大統領さえ例外ではない。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "また、拳銃の携帯は国防省の許可が必要だが、実際は許可を得ずに拳銃を所持している国民が多く、同国の犯罪のほとんどには拳銃が使用されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "治安・市民保護省などの統計に基づく国立統計地理情報院の2023年5月24日付発表によれば、ロペス・オブラドール大統領政権下(2018年12月~2023年5月24日)の累計故意殺人件数は、過去最高値を記録したペニャ・ニエト政権の殺人件数を上回り、156,136件に上った。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "先スペイン期のアステカ族やマヤ族の文化に根を持ち、16世紀のスペイン人による征服後はスペイン文化と融合して築き上げられている。独立後しばらくはヨーロッパの文化の模倣に終始したが、革命後の1920年代から1930年代にかけてインディヘナに国民文化の根源を求めて先住民文化の再評価が始まり、インディヘニスモという一大文化運動を確立した。古くから音楽や絵画、彫刻、建築など芸術面で世界的に有名な人物を輩出している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "一般的に辛いことで知られているメキシコ料理は世界的に人気があり、特に隣国のアメリカではアメリカ風に独自にアレンジされたタコスやブリートがファストフードとして広く普及しているが、それらはテックス・メックス(Tex-Mex)と呼ばれ、国内ではそれほど普及していない。主食はマサと呼ばれる粉を練ってのばして焼いた薄いパンのようなもので、トルティーヤと呼ばれる。北部では小麦粉、中部・南部ではトウモロコシの粉を使ったものが主流である。基本的には豆やトウモロコシ、鳥肉を原材料に使ったメニューが主体になっており、ほかにも米や魚類、牛肉なども使われることが多く、一見単純に見えて繊細な味がその人気の理由とされている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "伝統料理は、修道女たちが収穫される農作物で王宮料理を作る目的で研究されたもので、プエブラという古都が有名である。代表的なものに、モーレがある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "海に囲まれているため魚介類も豊富で、魚やエビなどを使った料理も多い。特に日本にとってはエビの大きな供給元として知られている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "近年はカップラーメンが広く普及しており、中でも東洋水産の「マルちゃん」ブランドが市場シェアの約85パーセントを占めるまでに成長している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "蒸留酒であるテキーラの一大産地として有名であるが、それはハリスコ州グアダラハラ市近郊のテキーラという地域に1700年代から作られている地酒であり、国民にもっとも愛される酒となっており、近年は海外にも愛好家を増やしている。また、ビールの特産地としても知られており、コロナビールやXX(ドス・エキス)などの著名なブランドが世界中に輸出されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "作家としては、フアン・ルルフォ、アマード・ネルボ、カルロス・フエンテス、ホセ・エミリオ・パチェコ、オクタビオ・パス、アルフォンソ・レイエスなどが挙げられる。オクタビオ・パスは1990年にノーベル文学賞を受賞した。アルフォンソ・レイエスはアルゼンチンのホルヘ・ルイス・ボルヘスに大きな影響を与えた作家としても知られる。革命以降のインディヘニスモ小説としては、ロサリオ・カスティリャーノスの『バルン・カナン』などが挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "当国で生まれた伝統的な音楽様式としては、マリアッチやランチェーロ、ノリード、ノルテーニョ、バンダなどが挙げられ、メキシコのフォルクローレではパラグアイやベネズエラのようにアルパが多用される。南部のグアテマラ国境付近では、マヤ系住人によってアフリカ伝来のマリンバが用いられる音楽が盛んである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "また、1960年代以降はアメリカ合衆国に渡ったメキシコ人移民(チカーノ)によってアメリカ合衆国のポピュラー音楽が行われ、ロックはラテン・ロックになり、ヒップ・ホップはチカーノ・ラップとなって在米メキシコ人市場で消費されたものが当国にも逆流入している。メキシコ・ロック(ロック・メヒカーノ)はラテンアメリカ市場でも成功しており、特に有名な音楽家としてはカフェ・タクーバなどが挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "クラシック音楽の分野ではカルロス・チャベスの名が特筆され、メキシコ国立交響楽団はチャベスによって設立された。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "絵画に特化している面を持つ。メキシコ革命以前では、19世紀後期から20世紀初頭にて活躍した、政治漫画家のホセ・グアダルーペ・ポサダの版画が有名である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "革命後、インディヘニスモ運動の文脈の中で1930年代から始まったディエゴ・リベラ、ダビッド・アルファロ・シケイロス、ホセ・クレメンテ・オロスコなどの壁画家たちによるメキシコ壁画運動(メキシコ・ルネサンス)は世界の美術史の中でも特出している。ディエゴ・リベラの妻のフリーダ・カーロも女流画家として世界中で紹介されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "ブラジル、アルゼンチンとともにラテンアメリカの3大映画制作国であり、多くの映画が製作されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "現在、一般的に認知されている古代メキシコ人の服装や衣服は、メキシコの先住民族であるナワ族の服飾の一例である。メキシコにおける女性の伝統的な服装にはラ・チャイナ(英語版)と呼ばれるものが挙げられることがあるが、実際にはメキシコ中南部地域の一部の都市圏にのみ存在しており、19世紀後半には消滅したものと見られている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "最も賞賛されている地方衣装としてはテワナ(スペイン語版)が挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が27件、自然遺産が6件、複合遺産が2件、暫定リストに22件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "労働法第74条で定められた祝日は以下の8日(ただし大統領就任日は6年に1度なので、普通は7日)である。これ以外に慣習的な祝日がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "メキシコで開催された著名な国際大会としては、夏季オリンピックの1968年メキシコシティオリンピックや、FIFAワールドカップ(サッカー)の1970年大会と1986年大会が行われている。なお、2026年にはアメリカやカナダとともに2026 FIFAワールドカップの共同開催国となっている。またメキシコでは伝統的に闘牛が盛んに行われており、大都市には必ず闘牛場がある。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "メキシコ国内でも他のラテンアメリカ諸国と同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっており、1943年にプロサッカーリーグのリーガMXが創設された。北中米カリブ海地域では最もレベルの高いリーグであり、歴代のCONCACAFチャンピオンズリーグではメキシコのクラブが優勝を独占している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "メキシコサッカー連盟(FMF)によって構成されるサッカーメキシコ代表は、これまでFIFAワールドカップには17度出場を果たしており、北中米カリブ屈指の強豪国として知られている。CONCACAFゴールドカップでは大会最多11度の優勝を達成しており、FIFAコンフェデレーションズカップでは1999年大会で優勝するなどメキシコはサッカー大国としても名高い。著名な選手としては、元バルセロナのラファエル・マルケスや、元マンチェスター・ユナイテッドのハビエル・エルナンデス(チチャリート)などが存在する。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "野球もアメリカ合衆国の強い影響を受け、人気スポーツのひとつに数えられる。とりわけ、メキシコにおける野球は国境に近い北部でも盛んである。しかし主要都市の多くは乾燥した高原にあるため、打球が飛びやすくプレーに適した地域は限られる。またMLB選手を多く輩出しており、2019年までに129人のメキシコ人選手がプレーしている。国内には夏季リーグ(リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボル、LMB)と冬季リーグ(リーガ・メヒカーナ・デル・パシフィコ、LMP)の2つのプロリーグが存在する。LMBは1925年にスタートし、現在は2リーグ16チームからなる。MLBから3A相当の認定を受けており、事実上マイナーリーグに取り込まれていたが、2021年のマイナーリーグ再編に伴いMLB機構から切り離され、現在では独立したプロ野球組織となっている。ウィンターリーグであるLMPは8チームからなり、優勝チームはLMP代表としてカリビアンシリーズに出場する。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "ルチャリブレはメキシコを代表するスポーツのひとつ(厳密にはショー)で、派手なマスクと華麗な空中戦が見もののメキシカン・プロレスであり、メキシコの象徴でもある。古くは「エル・サント、ウラカンラミレス、エル・ソリタリオ、ミル・マスカラス・ドス・カラス兄弟、エル・カネック、チャボ・ゲレロ・ジュニア、ドクトルワグナーJr、レイ・ミステリオJr、アルベルト・デル・リオ、ミスティコ」まで多くの世界的に有名な選手を生んでいる。CBLLおよびルチャリブレ選手組合によりプロレスラーライセンスを発行しており、ナショナル王座も存在する。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "日本にも熱狂的なファンが多く、日本からの観戦ツアーが多数企画されるのみならず初代タイガーマスク、獣神サンダーライガー、ザ・グレート・サスケ、タイガーマスク、ウルティモ・ドラゴン、エル・サムライ、スペル・デルフィン、グラン浜田、百田光雄、CIMA、TARU、後藤洋央紀、オカダ・カズチカなど日本のレスラーが空中戦をはじめとするさまざまな技術を学ぶために、留学や遠征をするケースも多数見られる。なお、日本の全日本プロレスやアメリカのWWEなどの団体にも多くの選手を送り込んでいる。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "メキシコシティ市内にある競技場、アレナ・メヒコとアレナ・コリセオは『ルチャリブレの2大聖地』と言われ、二大のルチャ団体『CMLL・トリプレ・ア』の看板スターや、フリーランスのドス・カラス・ジュニア、エル・イホ・デル・サントが繰り広げる華麗な空中戦を見るために世界中から観客がやって来る。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "ボクシングもまた、メキシコで人気スポーツのひとつでもある。世界最大の団体であるWBCの本部が置かれており、3階級制覇を達成したフリオ・セサール・チャベスを筆頭にアメリカで活躍するマルケス兄弟やイスラエル・バスケス、日本でもなじみの深いルーベン・オリバレスやリカルド・ロペスら世界王者も数多く輩出している。なお、チャベスがエスタディオ・アステカに、グレグ・ホーゲンを迎えたWBC世界ジュニアウェルター級タイトルマッチは、世界最多の有料入場者となる13万人を記録した。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "コミッションは「CBLL」であり、タイ同様にプロボクサーライセンスは存在しない。プロモーターとの契約が成立した時点でプロ活動が可能になる。ナショナル王座も管理・監督している。2000年代後半に、本部があるWBCが創設した同国内王座「FECOMBOX」と並存している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "さらに女子プロボクシングもあり、2階級制覇を達成したジャッキー・ナバを筆頭に、多くの女子世界王者も輩出している。アマチュアボクシングも盛んで、2007年のグアンテス・デ・オロには亀田和毅が出場している。オリンピックでは2021年東京大会まで13個のメダルを獲得し、競技別では飛込競技に次いで2番目に多い数字でもあるが、金メダルは自国開催の1968年メキシコシティー大会で獲得した2個のみで、女子に至ってはメダル未獲得のままである。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "ブラジルやアルゼンチンなど他の中南米の主要国同様、富裕層を中心にモータースポーツもメキシコでは人気スポーツのひとつである。1950年代に行われた国内を縦断する公道レースのカレラ・パナメリカーナ・メヒコや、カリフォルニア半島を縦断するオフロード・レースのバハ1000は世界的に有名で、F1・メキシコグランプリがメキシコシティ国際空港の近くにあるエルマノス・ロドリゲス・サーキットにて開催されている。さらに2004年からはWRCがメキシコ北部を舞台に毎年開催され、人気を博している。", "title": "スポーツ" } ]
メキシコ合衆国、通称メキシコは、北アメリカ南部に位置する連邦共和制国家。北にアメリカ合衆国と南東にグアテマラ、ベリーズと国境を接し、西は太平洋、東はメキシコ湾とカリブ海に面する。首都はメキシコシティ。 メキシコの人口は2020年時点で1億2,893万人であり、スペイン語圏においてはもっとも人口の多い国である。国内総生産(GDP)は、中南米地域においてはブラジルに次いで第2位に位置する。人口は増加傾向であり、2019年統計で日本を抜いて世界10位となった。
{{Otheruses}} {{脚注の不足|date=2018年10月}} {{基礎情報 国 | 略名 = メキシコ合衆国 | 日本語国名 = メキシコ合衆国 | 公式国名 = '''{{Lang|es|Estados Unidos Mexicanos}}''' | 国旗画像 = Flag of Mexico.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of Mexico.svg|120px|メキシコ合衆国の国章]] | 国章リンク = ([[メキシコ合衆国の国章|国章]]) | 標語 = なし | 位置画像 = Mexico (orthographic projection).svg | 公用語 = [[スペイン語]]({{仮リンク|メキシコスペイン語|en|Mexican Spanish}})(事実上)<br />{{仮リンク|メキシコの言語|label=68の先住民諸言語|en|Languages of Mexico}}<ref>[http://www.inali.gob.mx/clin-inali/ CATÁLOGO DE LAS LENGUAS INDÍGENAS NACIONALES] Inali.gob.mx. Retrieved July 18, 2014.</ref> | 首都 = [[メキシコシティ]] | 最大都市 = メキシコシティ | 元首等肩書 = [[メキシコの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[アンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール]] | 首相等肩書 = [[:es:Presidente del Senado de México|元老院議長]] | 首相等氏名 = {{ill2|アナ・リリア・リベラ・リベラ|es|Ana Lilia Rivera Rivera}} | 他元首等肩書1 = [[:es:Presidente de la Cámara de Diputados (México)|代議院議長]] | 他元首等氏名1 = {{ill2|マルセラ・ゲラ・カスティージョ|en|Marcela Guerra Castillo}} | 面積順位 = 13 | 面積大きさ = 1 E12 | 面積値 = 1,972,550 | 水面積率 = 2.5% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 10 | 人口大きさ = 1 E8 | 人口値 = 1億2893万3000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/mx.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-11-7}}</ref> | 人口密度値 = 66.3<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 23兆737億2700万<ref name="imf2020">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=273,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|accessdate=2021-10-16}}</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 16 | GDP値MER = 1兆739億1500万<ref name="imf2020" /> | GDP MER/人 = 8403.602<ref name="imf2020" /> | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 11 | GDP値 = 2兆4394億7000万<ref name="imf2020" /> | GDP/人 = 1万9089.335<ref name="imf2020" /> | 建国形態 = [[独立]]<br/>&nbsp;-&nbsp;宣言<br/>&nbsp;-&nbsp;承認 | 建国年月日 = [[スペイン]]より<br/>[[1810年]][[9月16日]]<br/>[[1821年]][[9月27日]] | 通貨 = [[メキシコ・ペソ]] (ヌエボ・ペソ) | 通貨コード = MXN | 時間帯 = -5 から -8 | 夏時間 = -5 から -7 | 国歌 =[[メキシコの国歌|{{lang|es|Himno Nacional Mexicano}}]]{{es icon}}<br/>''メキシコ国歌''<br/>{{center|[[ファイル:Himno Nacional Mexicano instrumental.ogg]]}} | ISO 3166-1 = MX / MEX | ccTLD = [[.mx]] | 国際電話番号 = 52 | 注記 = }} '''メキシコ合衆国'''(メキシコがっしゅうこく、{{Lang-es|'''Estados Unidos Mexicanos'''}})、通称'''メキシコ'''は、[[北アメリカ]]南部に位置する[[連邦共和国|連邦共和制]][[国家]]。北に[[アメリカ合衆国]]と南東に[[グアテマラ]]、[[ベリーズ]]と国境を接し、西は[[太平洋]]、東は[[メキシコ湾]]と[[カリブ海]]に面する。[[首都]]は[[メキシコシティ]]。 メキシコの人口は[[2020年]]時点で1億2,893万人であり、[[スペイン語]]圏においてはもっとも人口の多い国である。[[国内総生産]](GDP)は、[[ラテンアメリカ|中南米]]地域においては[[ブラジル]]に'''次いで第2位'''に位置する。人口は増加傾向であり、2019年統計で日本を抜いて世界10位となった。 == 国名 == 正式名称は、{{lang|es|Estados Unidos Mexicanos}}({{Audio|Es-mx-Estados Unidos Mexicanos.ogg|発音|help=no}}、エスタドス・ウニドス・メヒカーノス)、略称は、{{lang|es|México}}({{IPA-es|ˈme̞.xi.ko̞||es-mx-México.ogg}}、 '''メヒコ''')。 公式の英語表記は、{{lang|en|United Mexican States}}(ユナイテッド・メクスィカン・ステイツ)、略称は、{{lang|en|Mexico}}({{IPA-en|ˈmɛksɨˌkoʊ||en-us-Mexico.ogg}}、メクスィコゥ)。 日本語訳は'''メキシコ合衆国'''で、通称は'''メキシコ'''である。[[当て字]]は日本語・[[中国語]]ともに'''墨西哥'''で、'''墨'''と略される。「[[合衆国]]」という表記の由来や意味については、同項目を参照のこと。 国名は独立戦争の最中の[[1821年]]に決定したものであり、[[アステカ]]の一言語である[[ナワトル語]]で「メヒクトリの地」を意味する「{{lang|nah|Mēxihco}}」に由来する。メヒクトリはアステカ族の守護神であり、太陽と戦いと狩猟の神である[[ウィツィロポチトリ]]の別名で、「神に選ばれし者」の意味がある。アステカでもっとも信仰されたこの神の名に、場所を表す[[接尾辞]]「コ」をつけて、この地における国家の独立と繁栄に対する願いを込めた。 「'''合衆国'''」という政体名について、同じものを名乗る隣国、アメリカ合衆国が経済と軍事の両面で影響力が強大であり、単に「合衆国」だけでも同国を指すため、自国が米国の弟分のように見られてしまうとの不満が国民の一部に存在し、国名を「'''メキシコ共和国'''」に変更しようという動きがある。その一方で、伝統と歴史的背景を尊重する意見も多く、国名を変更することに対する賛否は分かれている。この意識は、19世紀末の[[米墨戦争]]敗戦直後から特に見られるようになり、以来長年にわたり議論が繰り返されているが、変更には至っていない<ref>{{Cite news | url = http://jp.wsj.com/layout/set/article/content/view/full/553077 | title = メキシコ大統領、国名変更を提案-「米国の弟分ではない」 | newspaper = WSJ日本版 | date = 2012-11-23 | accessdate= 2019-07-11 | author = Juan Montes | archiveurl = https://web.archive.org/web/20190711075225/http://jp.wsj.com/layout/set/article/content/view/full/553077 | archivedate = 2019-07-11 }}</ref>。 == 歴史 == {{main|メキシコの歴史}} === 先コロンブス期 === [[ファイル:Palenque Overview.jpg|thumb|220px|right|[[パレンケ]]の[[マヤ]]時代のピラミッド。]] [[ファイル:Quetzalcoatl and Tezcatlipoca.jpg|thumb|220px|left|アステカの神[[ケツァルコアトル]]と[[テスカトリポカ]]]] [[ファイル:Jaguar warrior.jpg|thumb|220px|right|アステカのジャガーの戦士]] この地域は、[[紀元前]]2万年ごろの人間が居住した形跡があるといわれ、先古典期中期の紀元前1300年ごろ、メキシコ湾岸を中心に[[オルメカ文明]]が興った。オルメカ文明は、彼らの支配者の容貌を刻んだとされている[[ネグロイド]]的風貌の巨石人頭像で知られている。 先古典期の終わりごろ、[[メキシコ中央高原]]の[[テスココ湖]]の南方に、円形の大[[ピラミッド]]で知られる[[クィクィルコ]]、東方に[[テオティワカン]]の巨大都市が築かれた。その後もユカタン半島の[[マヤ|マヤ文明]]、メキシコ中央高原の[[アステカ]]のような複数の高度な先住民文明の拠点として繁栄を極めた。その高度な文明はスペインによる植民地化によって大きな打撃を受けたが、それでもなお、その文化や技術は現代のメキシコ社会に影響を与えている。 === アステカ帝国 === {{main|アステカ}} [[14世紀]]後半、[[テスココ湖]]の西岸にあった[[テパネカ|テパネカ族]]の国家[[アスカポツァルコ]]に[[テソソモク]]という英傑が現れ、その傭兵部隊だったアステカ族は、テソソモクが没したあとの[[15世紀]]前半、[[テスココ]]、[[トラコパン]]とともに{{仮リンク|アステカ三国同盟|en|Aztec Triple Alliance}}を築いた。テスココの名君[[ネサワルコヨトル]]の死後は、完全にリーダーシップを握って周辺諸国を征服し、アステカの湖上の都[[テノチティトラン]]を中心に[[アステカ帝国]]を形成した。アステカの守護神にして太陽と戦いの神[[ウィツィロポチトリ]]と、雨の神[[トラロック]]を祀る高さ45メートルの大神殿「[[テンプロ・マヨール]]」が[[メキシコシティ歴史地区]]の憲法広場の北東にたっている<ref>国本伊代編著 『現代メキシコを知るための60章』 明石書店 <エリア・スタディーズ 91> 2011年 238ページ</ref>。この大神殿は、アステカ帝国の中心であるテノチティトランの中心部に位置していたとされている。アステカ帝国は比類なき軍事国家であり、現在の[[コスタ・リカ]]にまで隆盛を轟かせていた。 === スペイン植民地時代 === {{main|ヌエバ・エスパーニャ}} {{See also|スペインによるアメリカ大陸の植民地化}} [[ファイル:Cortez & La Malinche.jpg|thumb|220px|left|[[モクテスマ2世]](中央)と[[エルナン・コルテス]](右)の会見の様子。コルテスの隣の女性は通訳の[[マリンチェ]]]] [[1492年]]の[[クリストファー・コロンブス]]の[[アメリカ大陸]]到達後、[[16世紀]]初頭の[[1519年]]にスペイン人[[エルナン・コルテス]]が上陸。コルテスら[[コンキスタドール|征服者]]達は、アステカの内紛や、神話の伝承を有利に利用して執拗な大虐殺を繰り返し行った末に、テノチティトランを破壊し、[[1521年]]に皇帝[[クアウテモック]]を惨殺してアステカ帝国を滅ぼした。そののちスペイン人たちは、この地に[[ヌエバ・エスパーニャ副王領|ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)副王領]]を創設。[[ペルー副王領]]と並ぶインディアス植民地の中心として、破壊されたテノチティトランの上に[[メキシコシティ]]が築かれた。 === メキシコ独立革命 === {{main|メキシコ独立革命}} [[ファイル:Miguel Hidalgo y Costilla.jpg|thumb|220px|left|独立の父 [[ミゲル・イダルゴ]]。イダルゴは破れたが、志は[[ホセ・マリア・モレーロス]]に引き継がれた]] スペインによる支配は300年続いたが、[[19世紀]]を迎えると[[アメリカ独立戦争]]や[[フランス革命]]、[[ナポレオン戦争]]に影響され、土着の[[クリオーリョ]]たちの間に独立の気運が高まった。 1808年、[[ナポレオン・ボナパルト]]が兄の[[ジョゼフ・ボナパルト|ジョゼフ]]を[[スペイン王]]ホセ1世として即位させた。それに反発するスペイン民衆の蜂起を契機として[[半島戦争|スペイン独立戦争]]が始まると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否。1809年から1810年にかけて、[[キト]]、[[ラパス]]、[[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]]、[[カラカス]]、[[ボゴタ]]、[[ブエノスアイレス]]とインディアス各地で[[クリオーリョ]]たちの蜂起が始まる中、 [[1810年]][[9月15日]]に[[ミゲル・イダルゴ]]神父らにより、スペイン打倒を叫ぶ[[メキシコ独立革命]]が始まり、長い戦いの火蓋が切られた。 [[ペルー]]のクリオーリョと同様に当国のクリオーリョも先住民大衆の反乱を恐れたため、独立運動には消極的であり、イダルゴも、反乱を継いだメスティーソの[[ホセ・マリア・モレーロス]]神父も[[アグスティン・デ・イトゥルビデ]]率いる王党派軍に敗れたが、モレーロスの乱が鎮圧されたあとの1820年ごろには南部の[[シモン・ボリーバル]]と[[ホセ・デ・サン=マルティン]]らに率いられた解放軍が各地を解放し、インディアスに残る植民地は島嶼部と[[ブラジル]]を除けば当国とペルー、中米のみとなっていた。 スペイン本国で自由派が政権を握ると([[スペイン立憲革命|リエゴ革命]])、[[1821年]][[9月15日]]に保守派クリオーリョを代表した独立の指導者[[アグスティン・デ・イトゥルビデ]]がメキシコシティに入城し、反自由主義の立場から独立を宣言した。しかし、イトゥルビデがメキシコ王に推戴したかった反動派の元スペイン王[[フェルナンド7世]]は入国を断ったため、イトゥルビデ自身が皇帝に即位する形で[[メキシコ第一帝政|第一次メキシコ帝国]]が建国され、[[中央アメリカ]]を併合した。 === 相次ぐ対外戦争 === [[ファイル:Battle of Veracruz.jpg|thumb|220px|left|[[メキシコ・アメリカ戦争]]により、国土の半分近い[[カリフォルニア]]をアメリカ合衆国に奪われた]] {{main|テキサス独立戦争|米墨戦争}} {{See also|近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立}} 独立後は混乱が続き、1823年には帝政が崩壊して連邦共和国の[[メキシコ合衆国 (19世紀)]]となり、このときに[[中米連邦]]が独立した。独立後は内戦による農業生産力の低下、鉱山の生産力低下、[[カウディーリョ]]の群雄割拠、流通の混乱など問題が多発し、政治的には不安定な時代が続き、1835年10月23日から1846年8月22日まで中央集権国家である[[メキシコ共和国]]となっていた。 また、[[コアウイラ・イ・テハス州]]に[[アメリカ合衆国]]人の入植を認めると、1835年には[[アングロサクソン]]系入植者が[[テキサス革命|反乱を起こし]]、1836年に[[メキシコ領テキサス|メキシコ領テハス]]は[[テキサス共和国]]として独立した<ref>{{Cite web|url=https://www.worldatlas.com/articles/when-did-mexico-gain-independence.html|title=When Did Mexico Gain Independence?|work=WorldAtlas|accessdate=2020-10-20}}</ref> 。その後、アメリカ合衆国が1845年にテキサスを併合すると、[[1846年]]には[[テキサス州|テキサス]]をめぐり[[アメリカ合衆国]]と[[米墨戦争]]を争ったものの、メキシコシティを占領されて[[1848年]]に敗北すると、テキサスのみならず[[カリフォルニア州|カリフォルニア]]など[[リオ・グランデ川|リオ・ブラーボ川]]以北の領土(いわゆる[[メキシコ割譲地]])を喪失した。 領土喪失の経緯からアメリカとの対立は深まっていたが、[[1861年]]にアメリカの[[南北戦争]]勃発とともに[[フランス第二帝政|フランス第二帝国]]の[[ナポレオン3世]]が[[メキシコ出兵]]を開始。[[1863年]]にはメキシコシティが失陥、フランスの[[傀儡政権]]である[[メキシコ第二帝政|第二次メキシコ帝国]]が建国される状況となった。 インディオ出身の[[ベニート・フアレス]]大統領は、アメリカの支援を得てフランス軍に対して対抗し、[[1866年]]に主権を取り戻すものの、このことは後々までアメリカ合衆国の影響力が高まるきっかけとなった。フアレスは自由主義者としてレフォルマ(改革)を推進するも、1872年に心臓発作で死去した。フアレスの後を継いだ{{仮リンク|セバスティアン・レルド・デ・テハーダ|en|Sebastián Lerdo de Tejada|label=テハーダ}}大統領は自由主義政策を進めたが、この時代になると指導力が揺らぐことになった。 === ディアスの独裁とメキシコ革命 === [[ファイル:Emiliano Zapata en la ciudad de Cuernavaca.jpg|thumb|right|220px|農地改革の先導者であり、サパティスタの由来ともなっている[[エミリアーノ・サパタ]](クエルナバカ市にて 、1911年4月)]] {{main|メキシコ革命}} {{See also|米西戦争|米比戦争}} この隙を突いて[[1876年]]に、フランス干渉戦争の英雄[[ポルフィリオ・ディアス]]がクーデター([[:es:Revolución de Tuxtepec|Revolución de Tuxtepec]])を起こし、大統領に就任した。ディアスは30年以上に亘る強権的な独裁体制を敷き、外資が導入されて経済は拡大したものの、非民主的な政体は国内各地に不満を引き起こした。 {{Main|棍棒外交|en:Border War (1910–19)}} {{See also|{{仮リンク|アメリカ合衆国のベラクルス占領 (1914年)|es|Ocupación estadounidense de Veracruz de 1914|en|United States occupation of Veracruz|label=アメリカ合衆国のベラクルス占領}}|{{仮リンク|パンチョ・ビリャ遠征|en|Pancho Villa Expedition}}}} [[1907年恐慌]]の影響が及び始め、労働争議が頻発する中で[[1910年]]の大統領選が行われ、ポルフィリオ・ディアスが対立候補[[フランシスコ・マデロ]]を逮捕監禁したことがきっかけとなり、[[メキシコ革命]]が始まった。[[パンチョ・ビリャ]]、[[エミリアーノ・サパタ]]、[[ベヌスティアーノ・カランサ]]、[[アルバロ・オブレゴン]]らの率いた革命軍は、路線の違いもありながらも最終的に政府軍を敗北させ、[[1917年]]に{{仮リンク|1917年メキシコ合衆国憲法|es|Constitución Política de los Estados Unidos Mexicanos de 1917|en|Constitution of Mexico|label=革命憲法}}が発布されたことで、革命は終息した。革命は終わったものの、指導者間の路線の対立からしばらく政情不安定な状態が続いた。 {{Main|ツィンメルマン電報|第一次世界大戦|en:Battle of Ambos Nogales|バナナ戦争}} === PRIの一党独裁 === [[ファイル:Lazaro cardenas2.jpg|thumb|180px|left|[[ラサロ・カルデナス]]大統領。メキシコ革命の精神を尊重し、農地改革や石油国有化を推進したが、彼の辞任後の[[制度的革命党]]は自ら革命の理念を裏切る腐敗政党と化していった]] [[1928年]]に次期大統領が暗殺された事件を契機として、現職の大統領だった[[プルタルコ・エリアス・カリェス]]は国内のさまざまな革命勢力をひとつにまとめ、[[1929年]]に[[制度的革命党]](PRI)の前身となる国民革命党(PNR)が結成された<ref name="Toyoda">豊田紳 [[日本比較政治学会]](編) 「組織化された野党不在の下の競争選挙実施による支配政党の崩壊」 『競争的権威主義の安定性と不安定性』 ミネルヴァ書房 日本比較政治学会年報 第19号 2017年、ISBN 9784623080465 pp.157-160.</ref>。国民革命党はヨーロッパで躍進していた[[全体主義]]イデオロギーの影響を受けていたと言われ<ref name="Toyoda"/>、[[1932年]]に議員や首長など公職の連続再任が禁止され、地方政党の解体が進められた。この制度改革以降、党の公認指名を得ることが公職に就く絶対条件となり、同時に公認指名の条件が極度に厳格化された。候補者指名は大統領の権力とともに、その後の制度的革命党の権力の源泉となった。公職ポストが制度的革命党によって独占されるとエリート階級は党上層部への服従を余儀なくされ、71年間続く事実上の一党独裁体制が完成した<ref name="Toyoda"/>。 [[1934年]]に成立した[[ラサロ・カルデナス]]政権は[[油田]]国有化事業や土地改革を行い、国内の経済構造は安定した。その後、与党の制度的革命党(PRI)が[[第二次世界大戦]]を挟み、一党独裁のもとに国家の開発を進めた。アメリカ合衆国や[[西側諸国|西側]]の資本により経済を拡大したが、その一方で外交面では[[キューバ]]などのラテンアメリカ内の左翼政権との結びつきも強く、政策が矛盾した体制ながらも[[冷戦]]が終結した[[20世紀]]の終わりまで与党として政治を支配した。 1950年代ごろから一党支配の弊害が指摘されるようになり、1960年代には選挙競争性の向上を目的とした制度改革が試みられるようになった。[[1976年]]に就任した[[ホセ・ロペス・ポルティーヨ|ポルティーヨ]]大統領が起用した{{仮リンク|レジェス・エロレス|es|Jesús Reyes Heroles}}は、拘束式[[小選挙区比例代表並立制]]の導入など多くの項目からなる「レフォルマ・ポリティカ」と呼ばれる政治改革を策定し、現在に続くメキシコ政治の基礎を築いた<ref name="Toyoda"/>。 また、20世紀の前半から中盤にかけては[[石油]]や[[銀]]の産出とその輸出が大きな富をもたらしたものの、それと同時に進んだ近代工業化の過程で莫大な対外負債を抱え、20世紀中盤に工業化には成功したものの、慢性的な[[インフレ]]と富の一部富裕層への集中、さらには資源価格の暴落による経済危機など、現代に至るまで国民を苦しめる結果となった。 === メキシコ麻薬戦争 === [[ファイル:Fox Lopez Obrador Montiel.jpg|thumb|240px|right|代大統領[[ビセンテ・フォックス・ケサーダ]](左)と代大統領[[アンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール]](中央)]] 1980年代以降は[[麻薬カルテル]]の抗争により[[治安]]が悪化してしまう。[[カルロス・サリナス・デ・ゴルタリ]]大統領の実兄のラウル・サリナスが麻薬取引に関与して逮捕されたことを受け、アメリカに出国し事実上亡命するなど、政権中央部まで汚染され尽くした。 [[冷戦]]が終わりアメリカからの支援が止まり、さらに麻薬カルテルとの癒着が明らかになり与党のPRIの支持率は落ち、[[2000年]]に長年続いた長期独裁政権は終わりを告げた。 [[フェリペ・カルデロン|カルデロン]]政権は、麻薬カルテルと癒着した警察幹部や州知事すらも逮捕するという強硬姿勢で臨み、[[メキシコ軍|軍]]を導入して麻薬犯罪組織を取り締まっている。これに伴い、カルテルの暴力による死者が激増、2010年には毎年1万5,000人以上の死者を出す事態になっている([[メキシコ麻薬戦争]])。 === 中流層の増加 === 一方、[[原油価格]]の高騰や[[北米自由貿易協定|NAFTA]]締結後の輸出量の増加、さらに内需拡大傾向を受けて中流層が増加し、「[[ネクスト11]]」の一国に挙げられている。経済政策では[[原油価格]]高騰に伴いガソリン価格を連続して値上げして、国民から不満の声が上がっている。 2009年に入ってからはカナダやアメリカ合衆国とともに、[[新型インフルエンザ]]([[H1N1亜型|H1N1]])の発祥地とされている。[[2010年]][[7月4日]]、全国32州のうち14州で地方選挙が実施された。2000年まで政権党だった野党の[[制度的革命党]](PRI)が前進(知事選が実施された12州のうち10州でほぼ当選)した。 === PRI政権 === {{Main|{{仮リンク|メキシコ総選挙 (2012年)|es|Elecciones federales en México de 2012|en|Mexican general election, 2012}}|{{仮リンク|ジョ・ソイ・132|en|Yo Soy 132|es|Movimiento YoSoy132}}|エンリケ・ペーニャ・ニエト}} [[2012年]][[7月]]、大統領選挙が実施され、当日投開票された。保守系[[制度的革命党]](PRI)の[[エンリケ・ペーニャ・ニエト]](任期:[[2012年]][[12月1日]] - [[2018年]][[11月30日]])が選出され、同年12月から大統領に就任した。 [[2013年]]、[[MIKTA]]に加盟している。 == 政治 == {{main|{{仮リンク|メキシコの政治|en|Politics of Mexico}}}} 政体は[[連邦共和制]]である。 [[2018年メキシコ総選挙]]では、[[アンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール]]が大統領に当選した<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2018/07/98a21051ba81221d.html |title=大統領選挙、ロペス・オブラドール氏の当選が確実(メキシコ)ビジネス短信―ジェトロの海外ニュース |accessdate=2022-10-19}}</ref>。 === 大統領 === [[国家元首]]は[[メキシコの大統領|大統領]]である。大統領は国民の直接選挙によって選出され、任期は6年で再選は禁止されている。 大統領の権限は大きく、[[行政]]府の長も兼ねており、憲法では[[三権分立]]が規定されているものの、事実上司法府も統制下にあり、[[イギリス]]の新聞『[[エコノミスト]]』傘下の研究所[[エコノミスト・インテリジェンス・ユニット]]からは「'''混合政治体制'''」と評されている([[民主主義指数]]の項目も参照)。また、軍部も大統領下での[[文民統制|シビリアンコントロール]]が制度的に確立している。 大統領は、行政各省の大臣を指名する。ただし、司法相のみは上院の承認が必要である。各大臣は大統領直属の地位にあり、大統領に対し責任を負うのみで、議会や国民に対して責任は負わない。副大統領や[[首相]]などの次席の役職はなく、大統領が死亡などで欠ける場合は、議会が暫定大統領を選出する。2019年より大統領を国民投票によって解任できる制度が導入され、大統領への反対票が過半数かつ投票率が有権者の40%を超えた場合は解任できる<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN103QI0Q2A410C2000000/|title=メキシコ大統領、「信任」選挙で投票率18% 9割支持も|work=日経電子版|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2022-04-12|accessdate=2022-04-13}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2022/04/14133de30dab0efc.html|title=大統領罷免に向けた国民審査を実施、投票率は18%弱にとどまる|agency=[[日本貿易振興機構]]|date=2022-04-12|accessdate=2022-04-13}}</ref>。 {{See also|メキシコの大統領}} === 立法 === [[連邦議会 (メキシコ)|連邦議会]]は[[両院制]](二院制)。'''上院(元老院)'''は全128議席で、そのうち4分の3にあたる96議席が連邦区と州の代表(各3議席)、残りが全国区の代表である。それぞれ比例代表制で選出され、任期は6年。'''下院(代議院)'''は全500議席で、300議席は[[小選挙区制]]、200議席は[[比例代表制]]。任期は3年。両院とも連続再選は禁止されている。 === 行政 === {{main|メキシコの行政機関}} 現在、連邦政府には15の省が設けられ、各種行政を担っている。 === 法律 === {{See also|{{仮リンク|メキシコの法律|en|Law of Mexico}}}} 世界最多の[[憲法改正]]国で、建国以来[[2007年]]までに175回改正している。 [[2003年]]、隣国・アメリカにおいて[[著作権の保護期間]]を死後70年・公表後95年に延長した[[著作権延長法|法律]]が[[アメリカ合衆国最高裁判所|最高裁判所]]において合憲となったことを受けて、それまで「死後または公表後75年」であった規定を「100年」に延長した。この規定は、[[コートジボワール]]の99年を抜いて世界でもっとも長い保護期間である。 === 政党 === {{Main|メキシコの政党}} 主要政党には、[[中道右派]]の[[国民行動党]](PAN)、20世紀前半から長らく支配政党だった[[制度的革命党]](PRI)、[[国民再生運動]](Morena)の3つが挙げられる。ほかにも、[[左派]]の[[民主革命党 (メキシコ)|民主革命党]], [[サパティスタ民族解放軍|サパティスタ民族解放戦線]]や、[[労働党 (メキシコ)|労働党]]、[[緑の党 (メキシコ)|メキシコ緑の環境党]]などの小政党が存在する。 === 司法 === {{Main|{{仮リンク|メキシコの司法|en|Judiciary of Mexico}}}} [[司法権]]は最高裁判所に属している。 == 国際関係 == {{main|Category:メキシコの国際関係|{{仮リンク|メキシコの国際関係|en|Foreign relations of Mexico}}}} === 多元外交 === 19世紀において、隣国のアメリカ合衆国によってテキサス、カリフォルニアを奪われる戦争を行ったものの、その後は同盟関係を結んだアメリカの強い影響下にありながら、歴史と文化を生かした多元外交を行っている。その一例として、[[第二次世界大戦]]後の[[冷戦]]当時から、隣国のアメリカとの深い関係を保ちつつも、[[ソビエト連邦]]や[[キューバ]]などの[[東側諸国]]との関係を維持してきた。特に隣国であるキューバとは、[[1959年]]の[[キューバ革命]]以降近隣のラテンアメリカ・カリブ海諸国が国交断絶した中、[[汎米主義]]に基づいて国交を継続していた。 === スペインとの関係 === {{main|{{仮リンク|メキシコとスペインの関係|en|Mexico–Spain relations}}}} スペインからの独立以降も元の宗主国であるスペインとの関係は、文化や経済面を中心に非常に強い。しかし、[[1975年]]9月に[[ルイス・カレーロ・ブランコ|カレロ・ブランコ]]前首相の暗殺に関わったとされる活動家5人が[[フランシスコ・フランコ]]政権によって処刑された際に、抗議して一時国交を断絶したことがある。 === アメリカとの関係 === {{main|{{仮リンク|メキシコとアメリカの関係|en|Mexico–United States relations}}}}2020年において、輸出入ともに最大の貿易相手国はアメリカ合衆国である。特に輸出ではメキシコの輸出額の83.3%<ref>{{Cite web |url=https://www.banxico.org.mx/publicaciones-y-prensa/informes-anuales/%7B4BE24ECE-CA65-25A0-91AE-6129E55D73A5%7D.pdf |title=Compilación de Informe Trimestrales Correspondientes al año 2021 |access-date=2022-12-8 |publisher=Banco de México |page=521}}</ref>と大きな割合を占めており、経済面ではメキシコの最大のパートナーである。 しかし、政治面では友好的であると言い難い状況にある。特に近年においては、アメリカのトランプ政権における「[[トランプの壁|国境の壁建設問題]]」などで両国の関係が悪化した。これはメキシコでのアメリカに対する意識調査で明らかであり、トランプ大統領在任時の2017年に実施された調査では、65%のメキシコ人がアメリカに対して否定的な見方を示し、肯定的な見方をしているのはわずか30%であった<ref>{{Cite web |url=https://www.pewresearch.org/global/2017/06/26/tarnished-american-brand/ |title=Trump Unpopular Worldwide, American Image Suffers |access-date=2022-12-08 |publisher=Pew Research Center}}</ref>。 バイデン政権においては、メキシコはアメリカにとって民主主義国家としてのパートナーという見方が強く、2021年に開催された[[民主主義サミット]]においてもメキシコは招待を受け、参加した。しかし、2022年にロサンゼルスで開催された[[米州首脳会議]]では、メキシコは参加を見送った。理由としてバイデン政権が民主主義の欠如などを理由にキューバなど3カ国の招待を行わなかったことから、「[[米州機構]]加盟国の全ての国が招待されなければ、出席を見送る」という考えをロペスオブラドール大統領が示したためである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/469487.html |title=米州サミット 揺らぐアメリカの威信 |access-date=2022-12-08 |publisher=NHK 解説委員室}}</ref>。 === 日本との関係 === {{main|日墨関係}} [[江戸時代]]の初めの[[1609年]]([[慶長]]14年)、[[スペイン領フィリピンの総督|フィリピン総督]][[ドン・ロドリゴ]]の一行が[[マニラ]]からの帰途に、大暴風のため[[房総半島|房総]]の[[御宿町|御宿]]海岸に座礁難破した。地元の漁民達に助けられ、時の[[大多喜藩]]主[[本多忠朝]]がこれら一行を歓待し、[[徳川家康]]が用意した[[ガレオン船|帆船]]で送還したことから、日本との交流が始まった。 [[1613年]](慶長18年)に[[仙台藩]]主[[伊達政宗]]の命を受けた[[支倉常長]]は、[[ローマ教皇]]に謁見すべく当国とスペインを経由し[[イタリア]]の[[ローマ]]に向かった。支倉常長ら[[慶長遣欧使節]]団の乗った[[サン・ファン・バウティスタ号]]は太平洋を横断しアカプルコへ、その後、陸路メキシコシティを経由し大西洋岸のベラクルスからスペインへ至った。メキシコでは大変手厚いもてなしを受け、現在、記念碑や[[教会 (キリスト教)|教会]]の[[フレスコ]]画などに当時を偲ぶことができる。 また、日本が[[開国#日本の開国|開国]]して諸外国と通商条約を結んだ中で、[[1888年]]([[明治]]21年)締結した[[日墨修好通商条約]]は日本にとって事実上初めての平等条約であり{{efn|これより早い1871年に締結された[[日清修好条規]]は平等条約ではあったが、その内容は両国がともに欧米から押し付けられていた不平等条約の内容を相互に認め合うという極めて特異な内容であった}}、諸外国の[[駐日大使館]]のうちでメキシコ[[大使館]]のみ[[東京都]][[千代田区]][[永田町]]にあるのは、これに対する謝意の表れとされる。 [[19世紀]]末には[[榎本武揚|榎本]][[移民]]団による移住が始まり、[[第二次世界大戦]]後まで続いた。移民者の数は総計1万人あまりに達し、その子孫が現在でも[[日系メキシコ人]]として各地に住んでいる。 ==== 現在 ==== メキシコシティへの進出は減っているが、メキシコ中央高原都市では日系企業が増えている。日系の自動車3社([[日産自動車|日産]]第二工場、[[本田技研工業|ホンダ]]、[[マツダ]])が進出を決めたほか、200社以上が自動車部品工場や大規模倉庫などを建設中である。日本からの投資の90パーセント近くがこの地域に集中しており、一大進出ラッシュとなっている。なかでも[[アグアスカリエンテス]]は、[[1982年]]から日産の工場が進出したこともあり、大規模な新工場ができつつある。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の平均よりも犯罪発生件数が少なく、真夜中にも多くの飲食店が開いており、日本人の家庭には人気の移動先になってきた。日系企業進出の遠因は、賃金も安く未開発な部分の多い魅力的なフロンティアであること、複雑な外交関係にない[[親日]]国であることなどである。犯罪の多いところではあるが、地方都市や州では軍隊や警察組織を駆使して独自の治安維持をしているところもあるので、進出には州単位、町単位での安全チェックが必須である。 2021年10月現在、メキシコへ進出している日系企業は1,272社となっている。これは前年(2020年)の1,300社から減少しているものの、中南米地域では最多の進出数となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/ecm/ec/page22_003410.html |title=海外進出日系企業拠点調査 |access-date=2022-12-08 |publisher=外務省}}</ref>。また同年の在留邦人は11,390人であり、中南米地域ではブラジルに次いで2番目であり、国別邦人数においても21位につけている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/tokei/hojin/index.html |title=海外在留邦人数調査統計 |access-date=2022-12-08 |publisher=外務省}}</ref>。日本からの輸出額は138億9700万米ドル、メキシコからの輸出額は36億52万米ドルであり、メキシコからアジア地域の貿易相手国としては中国、韓国に次ぐ規模となっている<ref>{{Cite web |url=https://www.banxico.org.mx/publicaciones-y-prensa/informes-anuales/%7B4BE24ECE-CA65-25A0-91AE-6129E55D73A5%7D.pdf |title=Compilación de Informe Trimestrales Correspondientes al año 2021 |access-date=2022-12-08 |publisher=Banco de México |page=521}}</ref>。日本からの主要な輸出品として輸送機械(鉄道以外)や電気・電子機器などが挙げられる。要因としてメキシコの地理的要因(例として[[米国・メキシコ・カナダ協定]]が挙げられる)、人件費の安さ、メキシコ国内におけるサプライヤーの不足がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/world/reports/2022/01/d6e2d55ef69c95f7.html |title=2021年度 海外進出日系企業実態調査(中南米編) (2022年1月) |access-date=2022-12-08 |publisher=JETRO}}</ref>。メキシコ国外から輸入した部品をメキシコの現地工場で製品を組み立て、国内及び北米向けに販売を行うことで、低コストで生産できる利点から進出する日系企業が多い。 ==== 日産自動車の関係 ==== 特に、日本企業(現在は[[フランス]]の[[ルノー]]傘下)としては最初期の[[1966年]]7月に現地工場での自動車生産を開始した[[日産自動車]]は、同国日系自動車生産工場としても初ということもあり、関わりも深く、サッカー中継番組でもスポンサーになるほどの深さでもある。[[日産・AD|日産AD(現地名ツバメ)]]を生産していた時代は、日本への輸出(いわば逆輸入)も行っていた。ルノー傘下に入ったあとの2009年時点で、販売台数ベースで同国市場最大手である<ref>{{cite |title=Ventas 2009: México |url=http://es.autoblog.com/2010/02/01/ventas-2009-mexico/ |publisher=Autoblog Español |date=2010-02-01 |accessdate=2010-12-05 }}</ref>。同社は現在、アメリカとの国境地帯とメキシコシティとの中間点に位置する[[アグアスカリエンテス]]や、メキシコシティ郊外の[[クエルナバカ]]に工場を構えているが、NAFTA発効後は当国のみならずアメリカおよび[[カナダ]]向け車種の主要な生産拠点となっており、近隣の[[チリ]]や[[アルゼンチン]]、さらにヨーロッパなどにも輸出が行われている。おもな生産車種は「[[日産・ティーダ|ティーダ(北米ではヴァーサ)]]」「[[日産・セントラ#3代目 B13型(1991年 - 1995年)|ツル]]」「[[日産・セントラ|セントラ]]」「[[日産・フロンティア|NP300フロンティア]]」で、日産自動車メキシコシティ事業所(日産メキシカーナS.A de C.V.)が取り扱う車種でもこのほかに「[[日産・マキシマ|マキシマ]]」「[[日産・アルティマ|アルティマ]]」「[[日産・フェアレディZ|370Z(フェアレディZ)]]」「[[日産・エクストレイル|エクストレイル]]」「[[日産・パスファインダー|パスファインダー]]」「[[日産・キャラバン|アーバン(キャラバン)]]」「[[日産・アトラス|キャブスター(アトラス)]]」と新たに「[[日産・リーフ|リーフ]]」も販売を開始した。また、ニューヨークのイエローキャブ向け仕様NV200もこの国で生産されている。以前は「[[日産・シルビア|サクラ(シルビア]])」「[[日産・バイオレット|サムライ(バイオレット)]]」「[[日産・セドリック|280C(後のセドリック)]]」も販売していた。さらには、メキシコ連邦警察専用向けとしてY30セドリックセダン(グレード的にはブロアム)をベースとしたセドリックパトロールも納めたほどである。 ; フィエスタ・メヒカナ : [[独立記念日]]の前日の[[9月15日]]に、[[大阪市]]のメキシコ総領事館の主催で、[[フィエスタ・メヒカナ]]という祭を[[領事館]]の入居している[[梅田スカイビル]]のワンダースクエアで開催する。メキシコ政府が国外で行う文化交流としての祭事としての規模は最大のものである。 === MIKTA === [[MIKTA]](ミクタ)は、メキシコ('''M'''exico)、[[インドネシア]]('''I'''ndonesia)、大韓民国('''K'''orea, Republic of)、[[トルコ]]('''T'''urkey)、[[オーストラリア]]('''A'''ustralia)の5か国によるパートナーシップである。 == 軍事 == [[ファイル:TankMadero2.JPG|thumb|left|メキシコ軍の[[装甲兵員輸送車]]([[ERC 90装甲車|VCR-TT]])]] {{main|メキシコ軍}} 成人男子には1年間の選抜[[徴兵制]]が採用されている。現在、大きな対外脅威はなく、おもな敵は国内の麻薬カルテル([[メキシコ麻薬戦争]])、次いで[[サパティスタ民族解放軍]]である。 == 地理 == [[ファイル:Mexico topo.jpg|thumb|280px|メキシコの地形図]] {{main|{{仮リンク|メキシコの地理|en|Geography of Mexico}}}} [[ファイル:Pico from Fortin 2 enhanced2.jpg|thumb|200px|オリサバ山]] [[ファイル:Cañon del usumacinta.jpg|thumb|250px|right|[[ウスマシンタ川]]]] [[北米]]大陸の南部<!-- 北米大陸は中米も含むため -->に位置し、約197万平方キロの面積([[日本]]の約5倍)を持つ。海岸線の総延長距離は1万3,868キロに達する。海外領土は持たないが、領土に含まれる島の面積は5,073平方キロに及ぶ。 地質構造は、北に接するアメリカ合衆国とは異なり、[[クラトン]]が存在しない。アラスカから太平洋岸に沿って伸びるコルディレラ造山帯とアメリカ合衆国東岸に沿う古い[[アパラチア山脈]]に続くワシタ造山帯(メキシコ湾岸)が国内でひとつにまとまる。地向斜による膨大な堆積物がプレート運動により褶曲山脈を形成しているほか、[[第三紀]]以降の新しい火山が連なる。このため、高原の国であり、北部は平均1,000メートル前後、中央部では2,000メートル前後である。標高5,000メートルを超える火山も珍しくなく、国内最高峰の[[オリサバ山|ピコ・デ・オリサバ山]](シトラルテペトル山)の5,689メートル(もしくは5,610メートル)をはじめ、[[ポポカテペトル山]](5,465メートル、もしくは5,452メートル)、[[イスタシュワトル山]](5,230メートル)などが連なる。もっとも頻繁に噴火を起こすのはコリマ山(4,100メートル)である。<!-- 山岳の標高はすべて理科年表2006による。数値を複数掲載したものは、理科年表にも複数(異なるページに)掲載されている。--> 最長の河川はアメリカ合衆国との国境を流れるリオ・ブラボ・デル・ノルテ川([[リオ・グランデ川]])であり、3,057キロのうち2,100キロが両国の国境を流れる。最大の湖は[[チャパラ湖]](1,680平方キロ)である。 {{see also|メキシコの河川の一覧}} === 気候 === {{main|{{仮リンク|メキシコの気候|en|Climate of Mexico}}}} [[カリフォルニア半島]]の大部分と[[メキシコ高原]]中央は、[[ケッペンの気候区分]]でいうBWであり、回帰線より北のほとんどの地域は[[ステップ気候]]BSに分類される。いずれも乾燥気候である。北部の高原地帯には大きなサボテンや[[リュウゼツラン]]などしか生育しない広大な不毛の土地が広がっている。リュウゼツランの一種であるマゲイはテキーラの原料であり、輸出産品のひとつである。中西部に広がっているリュウゼツラン生産地帯は、世界遺産に登録された「テキーラ地帯」となっている<ref>国本伊代編著 『現代メキシコを知るための60章』 明石書店 <エリア・スタディーズ 91> 2011年 76ページ</ref>。北回帰線よりも南では、海岸線に沿って熱帯気候に分類される[[サバナ気候]](Aw)が伸びる。[[ユカタン半島]]南部にのみ、弱い乾期の存在する[[熱帯雨林気候]](Am)が見られる。[[熱帯雨林気候]](Af)は[[テワンテペク地峡]]北部にのみ存在する。メキシコ湾岸沿いの一部の地域には温帯気候である[[温暖湿潤気候]](Cfa)が、山岳部は温帯気候である[[温帯夏雨気候]](Cw)と[[高山気候]](H)が卓越する。首都[[メキシコシティ]]の平均気温は、13.7℃(1月)、16.5℃(7月)。年平均降水量は1,266ミリである。メキシコシティの標高は2,268メートルであり、典型的な高山気候である。亜寒帯気候にも似ている。 平均的には非常に温暖な気候で、沿岸部には世界的に有名なビーチ[[リゾート]]がたくさんある。東部・[[カリブ海]]沿岸では[[カンクン]]など、[[太平洋]]沿岸の西南部では[[アカプルコ]]やイスタパなど、西端にあり[[太平洋]]に面する細長い[[バハカリフォルニア半島]]のカボ・サンルーカスや[[ラパス]]などがこれに該当し、世界中から[[観光]]客を引きつけるとともに、貴重な外貨の収入源となって多くの[[雇用]]をもたらしている。 === 地下資源 === 地下資源に恵まれた世界でも有数の国である。まず、銀の埋蔵量については現在でも世界第2位であり、16 - 19世紀初期までの銀の埋蔵量は世界の生産量の半分を占めた。ほかには銅の埋蔵量世界第3位、鉛と亜鉛は第6位、モリブデンは第8位、金が第11位であり、世界有数の生産量を誇っている。さらに鉄鉱石、石炭のほか、マンガン、ストロンチウム{{efn|ブラウン管ガラス、フェライト磁石などの材料となる}}<ref name="tikasigen79">国本伊代編著 『現代メキシコを知るための60章』 明石書店 <エリア・スタディーズ 91> 2011年 74ページ</ref>などの希少金属も産出する。そして、地下資源のなかでも石油が国内経済を支えている<ref name="tikasigen79" />。ただし、2017年の原油生産量は222万バレルで2004年の最大383万バレルから漸減している。 == 地方行政区分 == {{main|メキシコの行政区画}} 第一級行政区画は32の[[メキシコの州|州]]に分かれる。首都[[メキシコシティ]]の全域は、どの州にも属さない[[メキシコ連邦区|連邦区]](''Distrito Federal'')とされていたが、2016年に憲法が改正されて32番目の州になった。 各州には、知事(メキシコシティは政府長官)と一院制の議会があり、それぞれ住民の直接選挙によって選出される。任期は6年。 {| align="center" |- | * [[アグアスカリエンテス州]] {{lang|es|Aguascalientes}} * [[バハ・カリフォルニア州]] {{lang|es|Baja California}} * [[バハ・カリフォルニア・スル州]] {{lang|es|Baja California Sur}} * [[カンペチェ州]] {{lang|es|Campeche}} * [[チアパス州]] {{lang|es|Chiapas}} * [[チワワ州]] {{lang|es|Chihuahua}} * [[コアウィラ州]] {{lang|es|Coahuila}} * [[コリマ州]] {{lang|es|Colima}} * [[ドゥランゴ州]] {{lang|es|Durango}} * [[メキシコシティ]] {{lang|es|Ciudad de México}} * [[グアナファト州]] {{lang|es|Guanajuato}} | * [[ゲレーロ州]] {{lang|es|Guerrero}} * [[イダルゴ州]] {{lang|es|Hidalgo}} * [[ハリスコ州]] {{lang|es|Jalisco}} * [[メヒコ州]] {{lang|es|México}} * [[ミチョアカン州]] {{lang|es|Michoacán}} * [[モレーロス州]] {{lang|es|Morelos}} * [[ナヤリット州]] {{lang|es|Nayarít}} * [[ヌエボ・レオン州]] {{lang|es|Nuevo León}} * [[オアハカ州]] {{lang|es|Oaxaca}} * [[プエブラ州]] {{lang|es|Puebla}} * [[ケレタロ州]] {{lang|es|Querétaro}} | * [[キンタナ・ロー州]] {{lang|es|Quintana Roo}} * [[サン・ルイス・ポトシ州]] {{lang|es|San Luis Potosí}} * [[シナロア州]] {{lang|es|Sinaloa}} * [[ソノラ州]] {{lang|es|Sonora}} * [[タバスコ州]] {{lang|es|Tabasco}} * [[タマウリパス州]] {{lang|es|Tamaulipas}} * [[トラスカラ州]] {{lang|es|Tlaxcala}} * [[ベラクルス州]] {{lang|es|Veracruz}} * [[ユカタン州]] {{lang|es|Yucatán}} * [[サカテカス州]] {{lang|es|Zacatecas}} |} [[ファイル:Political divisions of Mexico-jp.svg|center|600px|border|メキシコの地図]] === 主要都市 === [[ファイル:Ciudad.de.Mexico.City.Distrito.Federal.DF.Paseo.Reforma.Skyline.jpg|thumb|240px|メキシコシティはビジネス、文化、政治などを総合評価した[[世界都市#グローバル都市指標|グローバル都市指標]]で35位の都市と評価された<ref>[http://www.atkearney.com/documents/10192/4461492/Global+Cities+Present+and+Future-GCI+2014.pdf/3628fd7d-70be-41bf-99d6-4c8eaf984cd5 2014 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook] (2014年4月公表)</ref>]] {{Main|メキシコの大都市圏||メキシコの都市の一覧}} {{colbegin|2}} * [[メキシコシティ]] ({{lang|es|México}}) * [[グアダラハラ (メキシコ)|グアダラハラ]] ({{lang|es|Guadalajara}}) * [[モンテレイ (メキシコ)|モンテレイ]] ({{lang|es|Monterrey}}) * [[プエブラ]] ({{lang|es|Puebla}}) * [[トルーカ]] ({{lang|es|Toluca}}) * [[ティフアナ]] ({{lang|es|Tijuana}}) * [[トレオン]] ({{lang|es|Torreón}}) * [[ケレタロ]] ({{lang|es|Querétaro}}) * [[シウダー・フアレス]] ({{lang|es|Ciudad Juárez}}) * [[メリダ (ユカタン州)|メリダ]] ({{lang|es|Mérida}}) * [[サン・ルイス・ポトシ]] ({{lang|es|San Luis Potosí}}) * [[アグアスカリエンテス]] ({{lang|es|Aguascalientes}}) * [[メヒカリ (バハ・カリフォルニア州)|メヒカリ]] ({{lang|es|Mexicali}}) * [[クエルナバカ]] ({{lang|es|Cuernavaca}}) * [[チワワ (チワワ州)|チワワ]]({{lang|es|Chihuahua}}) * [[カンクン]]({{lang|es|Cancún}}) * [[アカプルコ]] ({{lang|es|Acapulco}}) {{colend}} <gallery mode="packed"> ファイル:Ciudad.de.México.Distrito.Federal.Centro.jpg|[[メキシコシティ]] ファイル:Puerta de Hierro ZM Guadalajara México.jpg|[[グアダラハラ (メキシコ)|グアダラハラ]] ファイル:DelValleCity.jpg|[[モンテレイ (メキシコ)|モンテレイ]] ファイル:Catedral de Puebla en paisaje..jpg|[[プエブラ]] ファイル:Toluca a los pies del nevado.jpg|[[トルーカ]] ファイル:Downtown Tijuana.jpg|[[ティフアナ]] </gallery> == 経済 == {{main|{{仮リンク|メキシコの経済|en|Economy of Mexico}}}} [[ファイル:Pemexgasstation.jpg|thumb|240px|right|[[ペメックス]]のガソリンスタンド]] [[ファイル:SSA41434.JPG|thumb|240px|right|[[テオティワカン]]。考古学遺跡はメキシコの観光収入の大部分を占める]] [[2013年]]の時点の[[国内総生産|GDP]]は1兆2,609億ドルであり、世界15位である。[[大韓民国|韓国]]とほぼ同じ経済規模であり、[[ラテンアメリカ]]では[[ブラジル]]に次いで2位である。1人あたりのGDPでは1万650ドルとなり、世界平均を若干上回る。[[メルコスール]]と[[南米諸国連合|南米共同体]]のオブザーバーであり、[[経済協力開発機構]](OECD)、[[アジア太平洋経済協力]](APEC)、[[北米自由貿易協定]](NAFTA)の加盟国でもある。 [[カリブ海]]沿岸地域を中心にして[[油田]]が多く、[[第二次世界大戦]]ごろより国営石油会社のペメックスを中心とした[[石油]]が大きな外貨獲得源になっている。鉱物では[[銀]]や[[オパール]]の産地としても中世から世界的に有名である。電線に使える[[銅]]は[[グルポ・メヒコ]]が採掘している。ほかにも水産業や観光業、製塩や[[ビール]]などが大きな外貨獲得源になっている。また、[[20世紀]]前半より工業化が進んでおり、[[自動車]]や製鉄、家電製品の生産などが盛んである。おもな貿易相手国はアメリカ、カナダ、日本、スペインなど。 特に[[1994年]][[1月1日]]に[[北米自由貿易協定]](NAFTA)が発効したあとは、その安価な労働力を生かしてアメリカや[[カナダ]]向けの[[自動車]]や家電製品の生産が増加している。しかし、その反面経済の対米依存度が以前にもまして増えたため、NAFTA加盟国以外との経済連携を進めており、[[2004年]][[9月17日]]には[[日本]]との間で、関税・非関税障壁の除去・低減や最恵国待遇の付与を含む包括的経済連携「日本・メキシコ経済連携協定」について正式に合意した。 [[2008年]]1月から北米自由貿易協定のもとで全農作物が完全輸入自由化、つまり、最後まで残っていた[[トウモロコシ]]など農作物の関税がすべて撤廃された。これに対する農民らの抗議デモが2008年[[1月30日]]にメキシコシティ中心部の憲法広場で13万人が参加して行われた。デモの要求は、「NAFTAの農業条項についてアメリカ、カナダと再交渉すべきだ」というものである。 === 二度の通貨危機 === ==== 1982年メキシコ債務危機 ==== 1970年代、石油価格高騰を受け、[[石油]]投資ブームが発生した。また、賃金が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]よりも安いことから、製造業の工場移転による投資も増えていた。[[国際金融市場]]を行き交うマネーが急増し、利益を得るために発展途上国への融資をどんどん行っていた。ちょうど[[1995年]]前後、1ドル100円水準の円高を受け、日本から[[東南アジア]]へ工場が移転し、東南アジア諸国に投資が急増したのに似ている。投資は、アメリカの金融機関にとって、比較的安全なものと判断されていた。ドルとメキシコ・ペソは[[固定相場]]であり、当時、当国の石油公社や電力会社は国営であったため、メキシコ政府による[[債務保証]]がつけられていた。国家が破産するはずがないと信じられていた時代である。アメリカより金利が高いため、アメリカで資金を調達し、当国に投資をすれば、濡れ手に粟のように儲けることができた。そういう事情により、メキシコの[[対外債務]]は急増していった。債務の利払いは石油や輸出による代金で賄われていた。ところが、[[1980年代]]になるとアメリカの金利が上昇したため、対外債務の利払いが増大し、さらなる融資が必要となったが、財政負担能力を超えていた。[[1982年]]8月、利払いの一時停止([[モラトリアム]])を宣言する羽目になり、国民は急激な[[インフレーション]]と[[失業]]の増大によって苦しんだ。 当時の対外債務は870億ドルであった。メキシコ危機が特にアメリカの[[メガバンク]]に与える影響が大きいため、[[国際通貨基金|IMF]]と[[アメリカ合衆国財務省]]、メガバンク・シンジケートにより救済措置がとられた。「[[大きすぎて潰せない]]」有名な事件となった。[[ネルソン・バンカー・ハント]]を破産させたばかりの出来事であった。1982年の利払い分に相当する80億ドルを緊急融資が実行され、翌年には70億ドルの追加融資が行われた。さらに、債務を返済するため、厳しい措置がなされた。石油公社や電力会社の[[民営化]]はもちろん、貿易自由化などを強要する条件で、IMFをはじめとする国際金融機関との合意がなされた。このメキシコ債務危機以降に同様の措置が、発展途上国で債務危機の発生した場合に適用されることとなる。 危機脱出後は再び資金が戻ってきたが、新規投資の資金ではなく、[[カルロス・スリム]]のようなメキシコ人富裕層がアメリカに流出させたマネーであった。このマネーが民営化された国営企業や銀行の購入資金となった。売却された国営企業の資産価値は売却額よりもはるかに高かったため、メキシコ債務危機が終わって見ると、一部の富裕層がさらに裕福となり、大半の国民がより貧乏になるという結果をもたらした。ここで大もうけした人たちが、経済改革を徹底的に行い、再びアメリカや日本などの外国から資金を集めることに成功し、再び対外債務は増加していった。 ==== 1994年メキシコ通貨危機 ==== [[1986年]][[関税および貿易に関する一般協定]](GATT)に参加した。外国から資金を呼ぶため、金利は高く設定され、ペソは過大評価されていた(この点は[[アジア通貨危機]]直前の状況と似ている)。その結果、[[輸入]]が急増し[[輸出]]は不振となり、[[貿易赤字]]が増大していった。1990年の貿易赤字は1,000億ドルに達し、さらに1992年12月、[[北米自由貿易協定]]が調印され、アメリカからの投資ブームが起こった。1982年の債務危機のことは忘れ去られ、安い[[労働力]]を求めて、アメリカの製造業が大挙して工場を建設し、空前の好景気に沸いていた。 しかし、バブルの崩壊は突然であった。1994年2月、南部で[[先住民]]による武装反乱が発生。3月には[[大統領選挙]]の候補が[[暗殺]]された。この事件をきっかけにして信頼が一時失墜し、[[カントリーリスク]]の懸念が表面化した。その結果、メキシコ・ペソが暴落し、ペソ売りドル買い圧力の増加に対抗するためにメキシコ政府はドル売りペソ買いで為替介入したが、力尽きて国家は財政破綻。その結果、12月に固定相場から変動相場への移行を余儀なくされた。 その一方で、メキシコ通貨危機を防衛するために、政府は額面がペソで元利金の支払いがドルで行う政府短期証券「テソボンド」を大量に発行した。この債権がメキシコ通貨危機が治まったあとに事実上のドル建てで取り戻せたため、皮肉にもこれを購入した富裕層はたいへん儲かったという。1982年のメキシコ債務危機に続いて、1994年のメキシコ通貨危機でも、経済破綻を通して富裕層がさらに富を増やしたが、投資した投資家たちは巨額の損失を被り、国民は急激なインフレと貧困に大量失業という苦しみを味わうことになった。 === 税制 === [[企業]]への[[法人税]]は、毎年といっていいほど制度が変わる。また、[[ミニマムタックス]]制度を導入しているため、非常に煩雑なものとなっている<ref name="20080331nikkeibo">「メキシコ発:毎年恒例の税無効訴訟が起きるワケ」『日経ビジネスオンライン』2008年3月31日付配信、日経BP社</ref>。企業は税金を回避するために「新しい[[税制]]は[[憲法]]により保障された権利を侵している」として[[訴訟]]を起こすのが毎年恒例となっている<ref name="20080331nikkeibo"/>。この訴訟では、行政が敗訴となることがしばしばある<ref name="20080331nikkeibo"/>。ただし、訴訟期間中は[[税金]]を払うことが望ましい<ref name="20080331nikkeibo"/>。 国民の7割が[[肥満]]となっていることから、対策として菓子などの高カロリー食品に特別税を設定している<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191210/k10012209211000.html?utm_int=all_side_business-ranking_003 ビジネス特集 “肥満大国”解消なるか 希少糖が世界を救う!?] - [[日本放送協会|NHK]]</ref>。 === NEXT11 === メキシコは米投資銀行の[[ゴールドマン・サックス]]およびエコノミストの[[ジム・オニール]]が研究論文において、[[BRICs]]諸国に次いで21世紀有数の経済大国に成長する高い潜在能力があるとした[[NEXT11]]に含まれている。メキシコは1994年の通貨危機以降、アメリカの景気拡大や国際石油価格の高騰、新興国への資金流入の活発化に支えられ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2022/09/f6d67b9b75508801.html |title=中銀が2023年GDP予測を1.6%に引き下げ、米国経済の減速を織り込む |access-date=2022-12-08 |publisher=JETRO}}</ref>、2022年現在、順調な回復軌道を辿っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbic.go.jp/ja/information/investment/images/inv_mexico03.pdf |title=経済状況 |access-date=2022-12-08 |publisher=JETRO}}</ref>。特に製造業が好調であるが、最大の輸出相手であるアメリカの経済に左右されやすい特徴を持っている。 == 交通 == [[File:N183AM 17062018LHR (28047067847).jpg|thumb|240px|right|[[アエロメヒコ航空]]の[[ボーイング787]]型機]] {{main|Category:メキシコの交通|{{仮リンク|メキシコの交通|en|Transportation in Mexico}}}} {{See also|メキシコの鉄道|メキシコの空港の一覧}} 南北アメリカ間、太平洋とカリブ海を結ぶラテンアメリカの交通の要所として、メキシコシティが航空の要所として、ベラクルス港やアカプルコ港が海運の要所として、また、国土を縦断するパンアメリカン・ハイウェイや国土を網羅する鉄道網が陸運の要として機能している。沿岸部の主要港には多くのクルーズ船が寄港する。 また、国内最大の航空会社である[[アエロメヒコ]]のほかに、国内には[[格安航空会社]]を含む航空網と、高速バスが走る高速道路網が整備されているほか、貨物を含む鉄道も整備されている。 メキシコシティやグアダラハラなどの大都市には充実した[[地下鉄]]網が整備されているほか、ベラクルスやアグスカリエンテス、アカプルコなどの中規模の都市には市バス網が完備されている。 == 国民 == {{main|{{仮リンク|メキシコの人口統計|en|Demographics of Mexico}}}} {{wide image|Plaza Juan Pablo ii.jpg|1365px|Plaza Juan Pablo ii panorama |alt=Panorama of city with mixture of five to ten story buildings}} * 人口:1億2,920万人(2017) * 人口増加率: 1.18%(年率) === 民族 === 民族構成は[[メスティーソ]]([[白人]]と[[アメリカ先住民|先住民族]]の混血)が60%、[[アメリカ先住民|先住民族]]が30%、[[白人]]が9%とされており、そのほかにも[[日系メキシコ人]]や[[フィリピン系メキシコ人]]などといったアジア系移民の子孫、さらには[[アフリカ系メキシコ人]]も総人口の1%ほど存在する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/mexico/data.html|title=メキシコ基礎データ|access date=2019年3月10日|publisher=}}</ref>。 [[白人]](ヨーロッパ系メキシコ人)は、おもに植民地時代に移住した[[スペイン人]]であり、ほかにも独立後移民した[[イタリア人]]や[[フランス人]]、[[ドイツ人]]、[[ポルトガル人]]、[[バスク人]]、[[アイルランド人]]、[[イギリス人]]、[[アメリカ人]]などの子孫もいる。また、1930年代のスペイン内戦の際にカルデナス政権は[[スペイン第二共和政|共和派]]を支持したため、戦後共和派のスペイン人が1万人単位で流入した。 === 言語 === {{main|{{仮リンク|メキシコの言語|en|Languages of Mexico}}}} [[公用語]]は定められていないが、事実上の公用語は[[スペイン語]]([[メキシコ・スペイン語]])であり、先住民族の65言語([[ナワトル語]]、[[サポテカ語]]、[[マヤ語]]など)も政府が認めている。世界最大のスペイン語人口を擁する国家である。 === 結婚 === 一般的に[[夫婦別姓]]であり、婚姻時に女性が改姓することはない<ref>[https://culturalatlas.sbs.com.au/mexican-culture/naming-67d601f1-4e11-438a-9d4a-cab422f1d747#naming-67d601f1-4e11-438a-9d4a-cab422f1d747 Mexican Culture], Cultural Atlas.</ref>。2012年より、同性同士の結婚([[同性婚]])を認める州が出てくるようになった。 === 宗教 === [[ファイル:Festival de la Toltekidad.jpg|thumb|[[アメリカ先住民|インディヘナ]]の一つであるChichimeca Jonaz族の人間による儀式の踊りのパフォーマンス([[グアナフアト州]][[ミネラル・デ・ポソス]])]] [[ファイル:Virgen de Guadalupe.jpg|thumb|222x222px|right|[[グアダルーペの聖母 (メキシコ)|グアダルーペの聖母]]]] {{main|{{仮リンク|メキシコの宗教|en|Religion in Mexico}}}} 宗教は[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]が82.7パーセント、[[プロテスタント]]が9パーセント、その他([[ユダヤ教]]、[[仏教]]、[[イスラム教]]など)が5パーセントである。 ブラジルに次いで世界で2番目にカトリック人口が多い国である。また、当国のカトリックは、もともと存在していた先住民の土着信仰と融合したカトリックとしても知られる。 当国で活動するプロテスタントの宗派には[[ペンテコステ派]]、[[セブンスデー・アドベンチスト教会]]などが挙げられる。 [[新宗教]]としては、[[末日聖徒イエス・キリスト教会]]([[モルモン教]])の信者が存在する。 === 教育 === {{main|{{仮リンク|メキシコの教育|en|Education in Mexico|es|Sistema educativo de México}}}} 1993年から2013年の間は、6歳から15歳までの9年間の[[初等教育]]と[[前期中等教育]]が[[義務教育]]の期間であった<ref>{{Cite journal |和書|author=サンティジャン・フランコ・ヘスス, 畑克明 |date=2004 |url=http://ir.lib.shimane-u.ac.jp/5706 |title=メキシコの教育制度 |journal=島根大学教育学部紀要. 教育科学 |volume=38 |page=1-9 |issn=0287251X |publisher=島根大学 |accessdate=2020-04-13 }}</ref>が、2013年の法改正からは3歳から18歳(幼稚園~高校)までの15年間が義務教育となっている<ref>{{Cite web|和書|author=外務省 |date=2017-11 |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/04latinamerica/infoC43300.html |title=諸外国・地域の学校情報 |publisher=外務省 |accessdate=2019-12-06 }}</ref>。 おもな[[高等教育]]機関としては、[[メキシコ国立自治大学]](1551年)、[[グアダラハラ大学]](1792年)、[[モンテレイ工科大学]](1943年)などが挙げられる。政府は国公立大学へは手厚い財政補助を行っており、貧困層出身者を対象としたさまざまな支援制度を充実させている。当国においては高等教育機関が機会の平等をもたらす機能を担い、社会上昇の手段として重要視されている。 2018年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は95.4%である<ref>{{cite web |url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/mx.html|title=world fact book|publisher=CIA|accessdate=2020年7月15日}}</ref>。 === 保健 === {{main|{{仮リンク|メキシコの医療|en|Healthcare in Mexico}}}} {{節スタブ}} == 社会 == {{節スタブ}} === 貧困問題 === {{Main|{{仮リンク|メキシコにおける貧困|en|Poverty in Mexico}}}} [[国の所得格差順リスト|国の所得格差]]を表す[[ジニ指数]]によると、米国や中国、マレーシアとほぼ同程度の47.0の値で、ラテンアメリカの中では比較的に貧富の差の激しくない国である(参照:[[国の所得格差順リスト]])。また、'''[[カルロス・スリム]]'''という世界一の億万長者<ref>[http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE82701120120308 ロイター『メキシコの富豪スリム氏、世界長者番付で3年連続1位』]</ref>を産んだ国ではあるが、一方メキシコシティにおける世帯平均月収([[手取り給与|手取り]])は約4万円となっている<ref>[http://www.777money.com/torivia/torivia4_4.htm 世界各国の平均年収(月収)]</ref>。 教育による社会階層移動の可能性(エリート優遇策)については、自助努力による成功のチャンスも存在する。政府は出身階級に基づく格差の継承を解消するため、教育を通しての機会の平等を実現させようと試みている。政府は国公立大学へは潤沢な財政援助を行っており、授業料もほとんどかからない。特に貧困層出身者に対する手厚い支援制度があり、[[奨学金]]制度、夜間授業、食堂の補助金制度などを充実させている。したがって、たとえ貧困層出身者であっても努力してこれらの難関大学に進学できた場合にはさまざまな機会に恵まれ、社会階層を上昇移動することは可能である<ref>[http://www.jasso.go.jp/study_a/oversea_info_mex_a.html#h3_7 独立行政法人日本学生支援機構]{{リンク切れ|date=2020-7}}</ref>。 == 治安 == メキシコの治安は非常に危険な状況に陥っている。特にアメリカとの北部国境地帯の治安悪化はマフィアなどの抗争も相まって顕著だが、首都として人の集まる[[メキシコシティ]]や、それ以外の地域においても失業者の増加と社会的・経済的不安定要因が治安情勢の一層の悪化を招いており、[[強盗]]、[[窃盗]]、[[誘拐]]、[[レイプ]]、薬物などの犯罪は昼夜を問わず発生している。 カルテルの麻薬絡みの[[殺人]]、暴力事件が後を絶たない。麻薬組織の抗争などにより毎月約1,000人が死亡しており、2007年から2013年10月現在までに約8万人が命を落としているという。また警官や軍人、官僚、政治家がこれらの麻薬がらみの犯罪の当事者、肩代わり、後見人となっているケースが多く、大統領さえ例外ではない。 {{see also|メキシコ麻薬戦争}} また、[[拳銃]]の携帯は国防省の許可が必要だが、実際は許可を得ずに拳銃を所持している国民が多く、同国の犯罪のほとんどには拳銃が使用されている<ref name="外務省">{{Cite web|和書| publisher = [[外務省]]| title = 安全対策基礎データ | url =http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure.asp?id=264|date = 2012-11-27 | accessdate = 2014-7-5}}</ref>。 {{See also|{{仮リンク|メキシコにおける犯罪|en|Crime in Mexico}}}} 治安・市民保護省などの統計に基づく国立統計地理情報院の2023年5月24日付発表によれば、ロペス・オブラドール大統領政権下(2018年12月~2023年5月24日)の累計故意殺人件数は、過去最高値を記録したペニャ・ニエト政権の殺人件数を上回り、156,136件に上った<ref name="外務省2">{{Cite report| author =日本国外務省在メキシコ大使館| authorlink =在メキシコ大使館 | title =メキシコ政治情勢 2023年5月| date =2023-06-15| accessdate =2023-07-26| url =https://www.mx.emb-japan.go.jp/files/100517625.pdf}}</ref>。 === 治安維持 === {{main|{{仮リンク|メキシコの法執行機関|en|Law enforcement in Mexico}}}} {{節スタブ}} ==== 警察 ==== {{main|連邦警察 (メキシコ)}} {{See also|{{仮リンク|メキシコにおける警察の汚職|en|Police corruption in Mexico}}}} {{節スタブ}} === 人権 === {{main|{{仮リンク|メキシコにおける人権|en|Human rights in Mexico}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|メキシコにおける人身売買|en|Human trafficking in Mexico}}|{{仮リンク| メキシコにおける国際的な子供の誘拐|en|International child abduction in Mexico}}}} == マスコミ == {{main|{{仮リンク|メキシコのメディア|en|Mass media in Mexico}}}} {{節スタブ}} == 文化 == {{main|メキシコの文化}} 先スペイン期のアステカ族やマヤ族の文化に根を持ち、16世紀のスペイン人による征服後はスペイン文化と融合して築き上げられている。独立後しばらくはヨーロッパの文化の模倣に終始したが、革命後の1920年代から1930年代にかけてインディヘナに国民文化の根源を求めて先住民文化の再評価が始まり、[[インディヘニスモ]]という一大文化運動を確立した。古くから[[音楽]]や[[絵画]]、[[彫刻]]、[[建築]]など[[芸術]]面で世界的に有名な人物を輩出している。 === 食文化 === [[ファイル:Carnitas.jpg|thumb|200px|right|[[タコス]]]] {{main|メキシコ料理|{{仮リンク|メキシコのビール|en|Beer in Mexico}}}} 一般的に辛いことで知られている[[メキシコ料理]]は世界的に人気があり、特に隣国のアメリカではアメリカ風に独自にアレンジされた[[タコス]]や[[ブリート]]が[[ファストフード]]として広く普及しているが、それらは[[テックス・メックス]](Tex-Mex)と呼ばれ、国内ではそれほど普及していない。主食は[[マサ]]と呼ばれる粉を練ってのばして焼いた薄いパンのようなもので、[[トルティーヤ]]と呼ばれる。北部では小麦粉、中部・南部ではトウモロコシの粉を使ったものが主流である。基本的には豆や[[トウモロコシ]]、鳥肉を原材料に使ったメニューが主体になっており、ほかにも[[米]]や魚類、牛肉なども使われることが多く、一見単純に見えて繊細な味がその人気の理由とされている。 伝統料理は、修道女たちが収穫される農作物で王宮料理を作る目的で研究されたもので、プエブラという古都が有名である。代表的なものに、[[モーレ]]がある。 海に囲まれているため魚介類も豊富で、魚やエビなどを使った料理も多い。特に日本にとってはエビの大きな供給元として知られている。 近年は[[カップラーメン]]が広く普及しており、中でも[[東洋水産]]の「マルちゃん」ブランドが市場シェアの約85パーセントを占めるまでに成長している。 蒸留酒である[[テキーラ]]の一大産地として有名であるが、それは[[ハリスコ]]州グアダラハラ市近郊のテキーラという地域に1700年代から作られている地酒であり、国民にもっとも愛される酒となっており、近年は海外にも愛好家を増やしている。また、[[ビール]]の特産地としても知られており、[[コロナビール]]やXX([[ドス・エキス]])などの著名な[[ブランド]]が世界中に輸出されている。 === 文学 === {{main|メキシコ文学|ラテンアメリカ文学}} 作家としては、[[フアン・ルルフォ]]、[[アマード・ネルボ]]、[[カルロス・フエンテス]]、[[ホセ・エミリオ・パチェコ]]、[[オクタビオ・パス]]、[[アルフォンソ・レイエス]]などが挙げられる。オクタビオ・パスは1990年に[[ノーベル文学賞]]を受賞した。[[アルフォンソ・レイエス]]はアルゼンチンの[[ホルヘ・ルイス・ボルヘス]]に大きな影響を与えた作家としても知られる。革命以降のインディヘニスモ小説としては、[[ロサリオ・カスティリャーノス]]の『[[バルン・カナン]]』などが挙げられる。 === 音楽 === [[ファイル:MariachiFestivalSanJuanLagos.jpg|thumb|200px|left|[[マリアッチ]]]] {{main|{{仮リンク|メキシコの音楽|en|Music of Mexico}}|ラテン音楽}} 当国で生まれた伝統的な音楽様式としては、[[マリアッチ]]や[[ランチェーロ]]、[[ノリード]]、[[ノルテーニョ (音楽)|ノルテーニョ]]、[[バンダ (音楽)|バンダ]]などが挙げられ、メキシコの[[フォルクローレ]]では[[パラグアイ]]や[[ベネズエラ]]のように[[アルパ]]が多用される。南部のグアテマラ国境付近では、マヤ系住人によって[[アフリカ]]伝来の[[マリンバ]]が用いられる音楽が盛んである。 また、1960年代以降はアメリカ合衆国に渡ったメキシコ人移民([[チカーノ]])によってアメリカ合衆国の[[ポピュラー音楽]]が行われ、[[ロック (音楽)|ロック]]は[[ラテン・ロック]]になり、[[ヒップ・ホップ]]は[[チカーノ・ラップ]]となって在米メキシコ人市場で消費されたものが当国にも逆流入している。[[メキシコ・ロック]](ロック・メヒカーノ)はラテンアメリカ市場でも成功しており、特に有名な音楽家としては[[カフェ・タクーバ]]などが挙げられる。 [[クラシック音楽]]の分野では[[カルロス・チャベス]]の名が特筆され、[[メキシコ国立交響楽団]]はチャベスによって設立された。 {{See also|{{仮リンク|チネロ|en|Chinelos}}|{{仮リンク|チャロの衣装|en|Charro outfit}}}} === 美術 === [[ファイル:Frida Kahlo Diego Rivera 1932.jpg|thumb|200px|right|[[フリーダ・カーロ]]と[[ディエゴ・リベラ]](1932年)]] {{main|{{仮リンク|メキシコの美術|en|Mexican art}}|{{仮リンク|メキシコの仮面民族美術|en|Mexican mask-folk art}}}} [[絵画]]に特化している面を持つ。メキシコ革命以前では、19世紀後期から20世紀初頭にて活躍した、政治漫画家の[[ホセ・グアダルーペ・ポサダ]]の版画が有名である。 革命後、インディヘニスモ運動の文脈の中で[[1930年代]]から始まった[[ディエゴ・リベラ]]、[[ダビッド・アルファロ・シケイロス]]、[[ホセ・クレメンテ・オロスコ]]などの壁画家たちによる[[メキシコ壁画運動]](メキシコ・ルネサンス)は世界の美術史の中でも特出している。ディエゴ・リベラの妻の[[フリーダ・カーロ]]も女流画家として世界中で紹介されている。 === 映画 === {{main|メキシコの映画}} [[ブラジル]]、[[アルゼンチン]]とともにラテンアメリカの3大映画制作国であり、多くの映画が製作されている。 === 被服・ファッション === [[ファイル:Vestido tehuana.jpg|thumb|200px|right|オアハカ州の伝統的なテワナのドレス <br> ベルベットに刺繍が施されている点が特徴的となっている]] {{Main|{{仮リンク|メキシコ人の服装|es|Indumentaria del pueblo mexica}}}} 現在、一般的に認知されている古代メキシコ人の服装や衣服は、メキシコの先住民族であるナワ族の服飾の一例である。メキシコにおける女性の伝統的な服装には{{仮リンク|ラ・チャイナ|en|China poblana}}と呼ばれるものが挙げられることがあるが、実際にはメキシコ中南部地域の一部の都市圏にのみ存在しており、19世紀後半には消滅したものと見られている。 最も賞賛されている地方衣装としては{{仮リンク|テワナ(衣装)|label=テワナ|es|Tehuana (traje)}}が挙げられる。 {{See also|{{仮リンク|メキシコの織物|en|Textiles of Mexico}}}} === 建築 === {{Main|{{仮リンク|メキシコの建築|en|Architecture of Mexico}}}} {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{Main|メキシコの世界遺産}} 国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が27件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が6件、[[複合遺産 (世界遺産)|複合遺産]]が2件、暫定リストに22件存在する。<ref>[https://whc.unesco.org/en/statesparties/mx ユネスコ世界遺産センター メキシコの世界遺産]</ref> <gallery mode="packed"> ファイル:Palenque Ruins.jpg|古代都市[[パレンケ]]と国立公園(1987年) ファイル:Catedral fachada.jpg|[[メキシコシティ歴史地区]]と[[ソチミルコ]](1987年) ファイル:Piramide Teotihuacan 1998 000.jpg|古代都市[[テオティワカン]](1987年) ファイル:12-05oaxaca098.jpg|[[オアハカ]]歴史地区と[[モンテ・アルバン]]の古代遺跡(1987年) ファイル:Catedral de Puebla (vista de esquina) JFCF.JPG|[[プエブラ]]歴史地区(1987年) ファイル:Sian Ka'an Biosphere Reserve.jpg|[[シアン・カアン]](1987年) ファイル:Universidad y Catedral de Guanajuato.jpg|古都[[グアナフアト]]とその銀鉱群(1988年) ファイル:ChichenItzaElCastilloEastSide.jpg|古代都市[[チチェン・イッツァ]](1988年) ファイル:Tajin1913.jpg|古代都市[[エル・タヒン]](1992年) ファイル:Baja California Sur.jpg|[[シエラ・デ・サン・フランシスコの岩絵群|サンフランシスコ山地の岩絵]](1993年) ファイル:Ballena gris adulta con su ballenato.jpg|[[エル・ビスカイノ生物圏保護区]](1993年) ファイル:Panoramica Uxmal.jpg|古代都市[[ウシュマル]](1996年) ファイル:Catedral de Querétaro.jpg|[[ケレタロ]]の歴史史跡地区(1996年) ファイル:Hospicio Cabañas.JPG|[[グアダラハラ (メキシコ)|グアダラハラ]]の[[オスピシオ・カバーニャス]](1997年) ファイル:Paquime0002.jpg|[[パキメ]]の遺跡、[[カサス・グランデス]](1998年) ファイル:Tlacotalpan Papaloapan.JPG|[[トラコタルパン]]の歴史遺跡地帯(1998年) ファイル:Xochicalco Serpiente Emplumada GR.jpg|[[ショチカルコ]]の古代遺跡地帯(1999年) ファイル:San Francisco Portales.JPG|カンペチェ歴史的要塞都市(1999年) ファイル:Sierra gorda.jpg|[[ケレタロ州シエラ・ゴルダのフランシスコ会伝道所群]](2003年) ファイル:Barragan 001.JPG|[[ルイス・バラガン邸と仕事場]](2004年) ファイル:Giant pacific manta.jpg|[[カリフォルニア湾|カリフォルニア湾の島嶼および保護地区群]](2005年) ファイル:Culdap.png|[[大学都市 (メキシコ国立自治大学)|メキシコ国立自治大学の大学都市の中央キャンパス]](2007年) </gallery> === 祝祭日 === [[ファイル:DiaDeMuertosXochimilcoDFMexico 011.jpg|thumb|200px|right|[[死者の日 (メキシコ)]]の奉納品]] {{main|{{仮リンク|メキシコの祝日|en|Public holidays in Mexico}}}} 労働法第74条で定められた祝日は以下の8日(ただし大統領就任日は6年に1度なので、普通は7日)である<ref>{{citation|url=https://www.juridicas.unam.mx/legislacion/ordenamiento/ley-federal-del-trabajo#31767|title=Artículo 74, Ley Federal del Trabajo|publisher=UNAM}}</ref>。これ以外に慣習的な祝日がある。 {| style="text-align:left;" class="wikitable" |+連邦の祝日 | style="background:#efefef;" | 日付 | style="background:#efefef;" | 日本語表記 | style="background:#efefef;" | 現地語表記 | style="background:#efefef;" | 備考 |- |[[1月1日]]||[[元日]]||Año Nuevo|| |- |2月5日||[[憲法記念日]]||Aniversario de la Constitución Mexicana||1857年と1917年の憲法がともに[[2月5日]]に批准された |- |3月21日||[[ベニート・フアレス]]生誕記念日||Natalicio de Benito Juárez||もとは[[3月21日]] |- |[[5月1日]]||[[メーデー]]||Día del Trabajo|| |- |[[5月5日]]||[[プエブラの戦い|プエブラ戦勝記念日]]||Batalla de Puebla||[[シンコ・デ・マヨ]]の名で知られる |- |[[9月16日]]||[[独立記念日]]||Día de la Independencia||[[ドロレスの叫び]] |- |[[11月2日]]||[[死者の日 (メキシコ)]]||Día de Muertos||[[死者の日 (メキシコ)]] |- |11月の第20日||革命記念日||Aniversario de la Revolución Mexicana||1910年の[[メキシコ革命]]開始を記念する。もとは[[11月20日]] |- |[[12月1日]]||大統領就任日||Transmisión del Poder Ejecutivo Federal||6年に1回祝日になる |- |[[12月25日]]||[[クリスマス]]||Navidad|| |} {| style="text-align:left;" class="wikitable" |+その他の祝日(一部) | style="background:#efefef;" | 日付 | style="background:#efefef;" | 日本語表記 | style="background:#efefef;" | 現地語表記 | style="background:#efefef;" | 備考 |- |[[5月10日]]||[[母の日]]||Dia de las Madres|| |} {{節スタブ}} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|メキシコのスポーツ|en|Sport in Mexico}}}} [[ファイル:EntrancePlazaTorosDF.JPG|240px|thumb|right|世界最大の[[闘牛場]]である{{仮リンク|プラザ・デ・トロス・メキシコ|en|Plaza de Toros México}}]] メキシコで開催された著名な国際大会としては、[[夏季オリンピック]]の[[1968年メキシコシティオリンピック]]や、[[FIFAワールドカップ]]([[サッカー]])の[[1970 FIFAワールドカップ|1970年大会]]と[[1986 FIFAワールドカップ|1986年大会]]が行われている。なお、[[2026年]]には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[カナダ]]とともに'''[[2026 FIFAワールドカップ]]'''の共同開催国となっている<ref name="United">[https://www.fifa.com/about-fifa/news/y=2018/m=6/news=canada-mexico-and-usa-selected-as-hosts-of-the-2026-fifa-world-cuptm.html Canada, Mexico and USA selected as hosts of the 2026 FIFA World Cup™-国際サッカー連盟公式HP、2018年6月13日]</ref>。またメキシコでは伝統的に[[闘牛]]が盛んに行われており、大都市には必ず[[闘牛場]]がある。 === サッカー === {{Main|{{仮リンク|メキシコのサッカー|en|Football in Mexico}}}} [[ファイル:Azteca entrance.jpg|240px|thumb|right|[[1970 FIFAワールドカップ|1970年]]と[[1986 FIFAワールドカップ|1986年]]のW杯決勝が開催された[[エスタディオ・アステカ]]。]] メキシコ国内でも他の[[ラテンアメリカ]]諸国と同様に、[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっており、[[1943年]]にプロサッカーリーグの[[リーガMX]]が創設された。[[北中米カリブ海サッカー連盟|北中米カリブ海地域]]では最もレベルの高いリーグであり、歴代の[[CONCACAFチャンピオンズリーグ]]ではメキシコのクラブが優勝を独占している。 [[メキシコサッカー連盟]](FMF)によって構成される[[サッカーメキシコ代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には17度出場を果たしており、北中米カリブ屈指の強豪国として知られている。[[CONCACAFゴールドカップ]]では大会最多11度の優勝を達成しており、[[FIFAコンフェデレーションズカップ]]では[[FIFAコンフェデレーションズカップ1999|1999年大会]]で優勝するなどメキシコは'''サッカー大国'''としても名高い。著名な選手としては、元[[FCバルセロナ|バルセロナ]]の[[ラファエル・マルケス (サッカー選手)|ラファエル・マルケス]]や、元[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]の[[ハビエル・エルナンデス]](チチャリート)などが存在する。 === 野球 === {{Main|{{仮リンク|メキシコの野球|en|Baseball in Mexico}}}} 野球もアメリカ合衆国の強い影響を受け、人気スポーツのひとつに数えられる。とりわけ、メキシコにおける野球は国境に近い北部でも盛んである。しかし主要都市の多くは乾燥した高原にあるため、打球が飛びやすくプレーに適した地域は限られる。また[[メジャーリーグベースボール|MLB]]選手を多く輩出しており、{{by|2019年}}までに129人のメキシコ人選手がプレーしている<ref>[http://www.baseball-reference.com/bio/Mexico_born.shtml Players Born in Mexico - Baseball-Reference.com] 2020年3月27日閲覧。</ref>。国内には夏季リーグ([[リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボル]]、LMB)と[[ウィンターリーグ|冬季リーグ]]([[リーガ・メヒカーナ・デル・パシフィコ]]、LMP)の2つのプロリーグが存在する。[[リーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボル|LMB]]は{{by|1925年}}にスタートし、現在は2リーグ16チームからなる。MLBから[[マイナーリーグベースボール|3A]]相当の認定を受けており、事実上マイナーリーグに取り込まれていたが、2021年のマイナーリーグ再編に伴いMLB機構から切り離され、現在では独立したプロ野球組織となっている。[[ウィンターリーグ]]である[[リーガ・メヒカーナ・デル・パシフィコ|LMP]]は8チームからなり、優勝チームはLMP代表として[[カリビアンシリーズ]]に出場する。 === ルチャリブレ === {{Main|ルチャリブレ}} [[ファイル:Psicosis-Chessman.JPG|240px|right|thumb|メキシコで人気の[[ルチャリブレ]]。]] [[ルチャリブレ]]はメキシコを代表するスポーツのひとつ(厳密にはショー)で、派手なマスクと華麗な空中戦が見もののメキシカン・[[プロレス]]であり、メキシコの象徴でもある。古くは「エル・サント、ウラカンラミレス、エル・ソリタリオ、[[ミル・マスカラス]]・[[ドス・カラス]]兄弟、エル・カネック、[[チャボ・ゲレロ・ジュニア]]、ドクトルワグナーJr、レイ・ミステリオJr、アルベルト・デル・リオ、ミスティコ」まで多くの世界的に有名な選手を生んでいる。[[メキシコ連邦区ボクシング・レスリング協会|CBLL]]およびルチャリブレ選手組合によりプロレスラーライセンスを発行しており、ナショナル王座も存在する。 日本にも熱狂的なファンが多く、日本からの観戦ツアーが多数企画されるのみならず初代[[佐山聡|タイガーマスク]]、[[獣神サンダーライガー]]、[[ザ・グレート・サスケ]]、[[タイガーマスク (プロレスラー)|タイガーマスク]]、[[ウルティモ・ドラゴン]]、[[エル・サムライ]]、[[スペル・デルフィン]]、[[グラン浜田]]、[[百田光雄]]、[[CIMA (プロレスラー)|CIMA]]、[[TARU]]、[[後藤洋央紀]]、[[オカダ・カズチカ]]など日本のレスラーが空中戦をはじめとするさまざまな技術を学ぶために、留学や遠征をするケースも多数見られる。なお、日本の[[全日本プロレス]]やアメリカの[[WWE]]などの団体にも多くの選手を送り込んでいる。 メキシコシティ市内にある競技場、[[アレナ・メヒコ]]とアレナ・コリセオは『ルチャリブレの2大聖地』と言われ、二大のルチャ団体『CMLL・[[AAA (プロレス)|トリプレ・ア]]』の看板スターや、フリーランスの[[アルベルト・ロドリゲス|ドス・カラス・ジュニア]]、[[エル・イホ・デル・サント]]が繰り広げる華麗な空中戦を見るために世界中から観客がやって来る。 === ボクシング === [[ボクシング]]もまた、メキシコで人気スポーツのひとつでもある。世界最大の団体である[[世界ボクシング評議会|WBC]]の本部が置かれており、3階級制覇を達成した[[フリオ・セサール・チャベス]]を筆頭にアメリカで活躍するマルケス兄弟や[[イスラエル・バスケス]]、日本でもなじみの深い[[ルーベン・オリバレス]]や[[リカルド・ロペス]]ら世界王者も数多く輩出している。なお、チャベスが[[エスタディオ・アステカ]]に、[[グレグ・ホーゲン]]を迎えたWBC世界[[スーパーライト級|ジュニアウェルター級]]タイトルマッチは、世界最多の有料入場者となる13万人を記録した。 コミッションは「CBLL」であり、[[タイ王国|タイ]]同様に[[プロボクサー]]ライセンスは存在しない。プロモーターとの契約が成立した時点でプロ活動が可能になる。ナショナル王座も管理・監督している。[[2000年代]]後半に、本部があるWBCが創設した同国内王座「FECOMBOX」と並存している。 さらに[[女子ボクシング|女子プロボクシング]]もあり、2階級制覇を達成した[[ジャッキー・ナバ]]を筆頭に、多くの女子世界王者も輩出している。アマチュアボクシングも盛んで、[[2007年]]の[[グアンテス・デ・オロ]]には[[亀田和毅]]が出場している。[[近代オリンピック|オリンピック]]では[[2020年東京オリンピック|2021年東京大会]]まで13個のメダルを獲得し、競技別では[[飛込競技]]に次いで2番目に多い数字でもあるが、金メダルは自国開催の[[1968年メキシコシティーオリンピック|1968年メキシコシティー大会]]で獲得した2個のみで、女子に至ってはメダル未獲得のままである。 === その他の競技 === {{See also|オリンピックのメキシコ選手団}} [[ブラジル]]や[[アルゼンチン]]など他の中南米の主要国同様、[[富裕層]]を中心に[[モータースポーツ]]もメキシコでは人気スポーツのひとつである。[[1950年代]]に行われた国内を縦断する公道レースの[[カレラ・パナメリカーナ・メヒコ]]や、[[カリフォルニア半島]]を縦断するオフロード・レースの[[バハ1000]]は世界的に有名で、[[フォーミュラ1|F1]]・[[メキシコグランプリ]]が[[メキシコシティ国際空港]]の近くにある[[エルマノス・ロドリゲス・サーキット]]にて開催されている。さらに[[2004年]]からは[[世界ラリー選手権|WRC]]がメキシコ北部を舞台に毎年開催され、人気を博している。 == 著名な出身者 == {{main|メキシコ人の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2018年10月|section=1}} === 学術 === ; 歴史 :*[[ラス・カサス]]/[[染田秀藤]]訳『[[インディアスの破壊についての簡潔な報告]]』[[岩波書店]]〈岩波文庫〉、1976年1月。{{全国書誌番号|73014864}}、{{NCID|BN00931907}}。 :* {{Cite book|和書|author=エドゥアルド・ガレアーノ|authorlink=エドゥアルド・ガレアーノ|translator=大久保光夫|date=1986年9月|title=[[収奪された大地 ラテンアメリカ五百年|収奪された大地──ラテンアメリカ五百年]]|series=|publisher=[[新評論]]|location=[[東京]]|id={{全国書誌番号|86057830}}、{{NCID|BN00626572}}|ref=ガレアーノ/大久保訳(1986)}} :* [[モーリス・コリス]]/[[金森誠也]]訳『コルテス征略誌──「アステカ王国」の滅亡 』[[講談社]]〈講談社学術文庫〉、2003年1月。ISBN 4061595814 :* {{Cite book|和書|author=大垣貴志郎|authorlink=大垣貴志郎|date=2008年2月|title=物語メキシコの歴史──太陽の国の英傑たち|series=中公新書1935|publisher=[[中央公論社]]|location=[[東京]]|isbn=978-4-12-101935-6|ref=大垣(2008)}} :* {{Cite book|和書|author1=二村久則|authorlink1=二村久則|author2=野田隆|authorlink2=野田隆|author3=牛田千鶴|authorlink3=牛田千鶴|author4=志柿光浩|authorlink4=志柿光浩|date=2006年4月|title=ラテンアメリカ現代史III|series=世界現代史35|publisher=[[山川出版社]]|location=東京|isbn=4-634-42350-2|ref=二村、野田、牛田、志柿(2006)}} :* {{Cite book|和書|author=増田義郎|authorlink=増田義郎|date=1968年6月|title=メキシコ革命──近代化のたたかい|series=中公新書164|publisher=中央公論社|location=東京|id={{全国書誌番号|68005730}}、{{NCID|BN01860214}}|ref=増田(1968)}} :* {{Cite book|和書|author=増田義郎|date=1998年9月|title=物語ラテン・アメリカの歴史──未来の大陸|series=中公新書1437|publisher=中央公論社|location=[[東京]]|isbn=4-12-101437-5|ref=増田(1998)}} ; ラテンアメリカ全体に関するもの :*[[井沢実]]『ラテン・アメリカの日本人』[[日本国際問題研究所]]〈国際問題新書〉、1972年。{{全国書誌番号|70014270}}、{{NCID|BN09193452}}。 :* {{Cite book|和書|editor1=国本伊代|editor1-link=国本伊代|editor2=乗浩子|editor2-link=乗浩子|date=1991年9月|title=ラテンアメリカ都市と社会|series=|publisher=[[新評論]]|location=[[東京]]|isbn=4-7948-0105-X|ref=国本、乗編(1991)}} :**[[国本伊代]]「王宮の都市メキシコ市の五〇〇年」『ラテンアメリカ都市と社会』 国本伊代、[[乗浩子]]編、新評論、1991年9月。ISBN 4-7948-0105-X。 :* {{Cite book|和書|editor1=中川文雄|editor1-link=中川文雄|editor2=三田千代子|editor2-link=三田千代子|date=1995年10月|title=ラテン・アメリカ人と社会|series=ラテンアメリカ・シリーズ4|publisher=[[新評論]]|location=東京|isbn=4-7948-0272-2|ref=中川、三田編(1995)}} :** [[角川雅樹]]「メキシコにおける人と文化」『ラテンアメリカ人と社会』中川文雄、三田千代子編、新評論、1995年10月。 :* {{Cite book|和書|editor1=三田千代子|editor2=奥山恭子|editor2-link=奥山恭子|date=1992年12月|title=ラテンアメリカ家族と社会|series=|publisher=新評論|location=[[東京]]|isbn=479480153X|ref=三田、奥山編(1992)}} ; 日墨関係 :* 青山正文『彼等は斯の如くメキシコに奮闘せり』1938年。 :* 石田雄『メヒコと日本人──第三世界で考える』 東京大学出版、1973年。{{全国書誌番号|73010102}}、{{NCID|BN00494788}}。 :* 入江寅次『邦人海外発展史』[[井田書店]]、1942年。{{全国書誌番号|60012829}}、{{NCID|BA36809288}}。 :* 上野久『メキシコ榎本殖民──榎本武揚の理想と現実』中央公論社〈中公新書〉、1994年4月。ISBN 4121011805 :* 外務省領事移住部編 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descent|メキシコ系フィリピン人(英語版)]] * [[:en:Mexicans of Filipino descent|フィリピン系メキシコ人(英語版)]] * [[マニラ・ガレオン]] == 外部リンク == {{Wiktionary}} {{Commons&cat|México|Mexico}} {{Wikivoyage|es:México|メキシコ{{es icon}}}} {{Wikivoyage|Mexico|メキシコ{{en icon}}}} ; 政府 :* [https://www.gob.mx/ メキシコ合衆国政府] {{es icon}}{{en icon}} :* [https://www.gob.mx/presidencia/ メキシコ大統領府] {{es icon}} :* [https://embamex2.sre.gob.mx/japon/index.php/ja/ 在日メキシコ大使館] {{ja icon}}{{es icon}}{{en icon}} : ; 日本政府 :* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/mexico/ 日本外務省 - メキシコ] {{ja icon}} :* [https://www.mx.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在メキシコ日本国大使館] {{ja icon}}{{es icon}} : ; 観光 :* [https://www.visitmexico.com/ja メキシコ政府観光局] {{ja icon}} :* {{ウィキトラベル インライン|メキシコ|メキシコ}} {{ja icon}} ; その他 :* [https://www.jetro.go.jp/world/cs_america/mx/ JETRO - メキシコ] {{ja icon}} :* {{CIA World Factbook link|mx|Mexico}} {{en icon}} :* {{Curlie|Regional/North_America/Mexico}} {{en icon}} :* {{osmrelation|114686}} :* {{Wikiatlas|Mexico}} {{en icon}} :* {{Googlemap|メキシコ}} :* [https://www.kufs.ac.jp/toshokan/mexico/main.htm 黒潮が結んだメキシコとの絆 日墨交流400周年記念稀覯書展示会 ][[京都外国語大学]]付属図書館、2009年(平成21年) :* [https://emig.tokyo/index.html 移民史講座 Historia de la emigración del Japón a México y Cuba.] :* {{Kotobank}} {{アメリカ}} {{OECD}} {{G8}} {{G20}} {{TPP}} {{OIF}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:めきしこ}} [[Category:メキシコ|*]] [[Category:北アメリカの国]] [[Category:共和国]] [[Category:連邦制国家]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:G20加盟国]] [[Category:経済協力開発機構加盟国]]
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アンディ・ウォーホル
アンディ・ウォーホル(Andy Warhol、1928年8月6日 - 1987年2月22日)は、アメリカの画家・版画家・芸術家でポップアートの旗手。本名はアンドリュー・ウォーホラ(Andrew Warhola)。 銀髪のカツラをトレードマークとし、ロックバンドのプロデュースや映画制作なども手掛けたマルチ・アーティスト。 チェコスロバキア共和国ゼムプリーン県(現・スロバキア共和国プレショウ県)ストロプコウ郡ミコー村(現・ミコヴァー村)から移民したルシン人の父オンドレイ(アンドレイ)と母ユーリア(ジュリア)の三男として、米ペンシルベニア州ピッツバーグで生まれる。移民前の元の姓はヴァルホラ(スロバキア語:Varchola,ルシン語:Вархола)。2人の兄(ポール、ジョン)がいた。ルシン人の両親は敬虔なルテニア東方典礼カトリック教徒で、彼自身も同様に育ち生涯を通じ教会へ通った。 体は虚弱で、肌は白く日光アレルギーであり、赤い鼻をしていた。早い時期から芸術の才能を現した。肉体労働者だった父アンドレイは1942年、アンディが14歳のときに死去、その後は母のジュリア一に育てられた。アルバイトをし地元の高校に通う。カーネギー工科大学(現在のカーネギーメロン大学)に進学し広告芸術を学び1949年に卒業。 1950年代、大学卒業後はニューヨークへ移り『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』など雑誌の広告やイラストで知られた。1952年には新聞広告美術の部門で「アート・ディレクターズ・クラブ賞」を受賞し、商業デザイナー・イラストレーターとして成功するが、同時に注文主の要望に応えイラストの修正に追われ、私生活では対人関係の痛手を受けるなど苦悩の時期でもあった。彼は後に、ただ正確に映すテレビ映像のように内面を捨て表層を追うことに徹する道を選ぶこととなる。この間に、線画にのせたインクを紙に転写する「ブロッテド・ライン (blotted line)」という大量印刷に向いた手法を発明する。 1960年 (32歳)、彼はイラストレーションの世界を捨て、ファインアートの世界へ移る。『バットマン』、『ディック・トレイシー』、『スーパーマン』など、コミックをモチーフに一連の作品を制作するが、契約していたレオ・キャステリ・ギャラリーで、同様にアメリカン・コミックをモチーフに一世を風靡したロイ・リキテンスタインのポップイラストレーション作品に触れて以降、この主題からは手を引いてしまった。当時アメリカは目覚ましい経済発展のさなかにあった。 1961年 (33歳)、身近にあったキャンベル・スープの缶やドル紙幣をモチーフにした作品を描く。ポップアートの誕生である。 1962年 (34歳)、はシルクスクリーンプリントを用いて作品を量産するようになる。モチーフにも大衆的で話題に富んだものを選んでいた。マリリン・モンローの突然の死にあたって、彼はすぐさま映画『ナイアガラ』のスチル写真からモンローの胸から上の肖像を切り出し、「マリリンのディスパッチ(英語版)」等、以後これを色違いにして大量生産しつづけた。ジェット機事故、自動車事故、災害、惨事などの新聞を騒がせる報道写真も使用した。 1964年(36歳)からはニューヨークにファクトリー (The Factory、工場の意) と呼ばれるスタジオを構える。ファクトリーはアルミフォイルと銀色の絵具で覆われた空間であり、あたかも工場で大量生産するかのように作品を制作することをイメージして造られた。彼はここでアート・ワーカー(art worker; 芸術労働者の意)を雇い、シルクスクリーンプリント、靴、映画などの作品を制作する。ファクトリーはミック・ジャガー(ローリング・ストーンズ)、ルー・リード(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)、トルーマン・カポーティ(作家)、イーディー・セジウィック(モデル)などアーティストの集まる場となる。 1965年(37歳)、「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」(The Velvet Underground; 以下 V.U. と略) のデビューアルバムのプロデュースを行う(バンドの詳細は同項目を参照のこと)。 ウォーホルは V.U. の演奏を聴き共作を申し込み、女優兼モデルのニコを引き合わせ加入させる。1967年3月発売の彼らのデビュー作『The Velvet Underground & Nico』(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ)では、プロデュースとジャケットデザインを手掛けた。シルクスクリーンによる「バナナ」を描いたレコードジャケットは有名となった。前衛的音楽のためアルバムはあまり売れなかったが、後に再評価された。ウォーホルは V.U. の楽曲を映画のサウンドトラックとしても用いた。セカンドアルバム制作の頃にはウォーホルとの関係も終わる。彼らとの関係は、映画『ルー・リード: ロックン・ロール・ハート / Lou Reed: Rock and Roll Heart』に描かれている。またウォーホルの死後、メンバーのリードとケイルは再結成し『Songs For Drella』(1990年)という追悼アルバムを作成した(Drella はドラキュラとシンデレラを足した造語であり、彼らによるウォーホルの印象を表したという)。 芸術の世界の外では、アンディ・ウォーホルはこの時期に名声や有名人について語った言葉 ("15 minutes of fame") で有名になった。1968年にウォーホルは「未来には、誰でも15分間は世界的な有名人になれるだろう」と述べた。1970年代末に彼は「60年代の予言はついに現実になった」と話したが、マスコミからこの言葉について毎回尋ねられることにうんざりし、このフレーズを「15分で誰でも有名人になれるだろう (In 15 minutes everybody will be famous.)」と言い換え、以後回答を断るようになった。 1968年6月3日 (40歳)、ウォーホルはラディカル・フェミニズム団体「全男性抹殺団(S.C.U.M. /Society for Cutting Up Men)」のメンバーだったヴァレリー・ソラナス(Valerie Solanas)に銃撃される。ソラナスはファクトリーの常連であり、ウォーホルに自作の映画脚本を渡したり、彼の映画に出演したことがあった。 三発発射された弾丸のうち、最初の二発は外れ、三発目が左肺、脾臓、胃、肝臓を貫通した。彼は重体となるが、一命をとりとめた。ソラナスは逮捕の上裁判にかけられたが、事件時に統合失調症を患っていたと診断され、「危害を加える明確な意図はなかった」として3年間精神病院に入院した。ソラナスは退院後もフェミニズムの活動を続けたが、1988年に肺炎により52歳で死去した。この事件は『アンディ・ウォーホルを撃った女 / I Shot Andy Warhol』として1995年に映画化された。 1970年代から1980年代は社交界から依頼を受け、ポートレイトのシルクスクリーンプリントを多数制作する。1970年には「ライフ」誌によってビートルズとともに「1960年代にもっとも影響力のあった人物」として選ばれる。1972年、ニクソンの訪中にあわせて毛沢東のポートレイトを制作した。同年、母がピッツバーグで死去。世界中で個展を開催するようになる。1974年 (46歳)、初来日。 1982年から1986年にかけては災害や神話をモチーフとした一連の作品を作成する。最後の作品は1986年のレーニンのポートレイトなど。このレーニンのポートレイトは後にロシアの政商で有名なボリス・ベレゾフスキーに渡ることになる。 1983年から1984年にかけて、日本のTDKビデオカセットテープのCMに出演。『イマ人を刺激する』と題して、ブラウン管にカラーバー映像が映されたテレビを右肩に持ちながら「アカ、ミドォリィ、アオゥ、グンジョウイロゥ...キデイィ(キレイ)」とたどたどしい日本語を発するだけであったが、視聴者に強烈なインパクトを与えた。拡大したカラーバー映像を背景に、トライアングルを持ち、猫の格好をした女性が寄り添うバージョンや、シンバルを鳴らし「オト、オト、オト、オトーサァン!」と言うバージョンもあった。 1984年にはカーズのアルバム「ハートビート・シティ」からのシングル「Hello Again(ハロー・アゲイン)」のミュージック・ビデオを手掛けたが、内容が過激なため放送禁止になってしまった。 1987年2月17日、ニューヨーク・マンハッタンのクラブ「トンネル」で行われた、佐藤孝信の「アーストン・ボラージュ」のショーにモデルとしてマイルス・デイヴィスとともに参加。しかし直前に体調を悪くしイタリアから帰国したばかりで、これが最後の人前に出た姿となった。 2月21日、ニューヨークのコーネル医療センターで胆嚢手術を受けるも翌22日、容態が急変し心臓発作で死去。58歳。生涯独身だった。ピッツバーグの洗礼者聖ヨハネ・カトリック共同墓地に埋葬されている。 派手な色彩で同じ図版を大量に生産できるシルクスクリーンの技法を用い、スターのイメージや商品、ドル記号など、アメリカ社会に流布する軽薄なシンボルを作品化した。古典芸術やモダニズムなどとは異なり、その絵柄は豊かなアメリカ社会を体現する明快なポップアート、商業絵画としても人気を博した。しかし、そこにはアメリカの資本主義や大衆文化のもつ大量消費、非人間性、陳腐さ、空虚さが表現されていると見ることもできる。普遍性を求めた彼の作品は、彼自身や大衆が日々接している資本主義やマス・メディアとも関連しており、また事故や死のイメージも描かれた。 彼は自身について聞かれた際、「僕を知りたければ作品の表面だけを見てください。裏側には何もありません」と、徹底し「芸術家の内面」をなくし表面的であろうと努めた。彼は有名なものへの愛情を隠さず、スターや政治家や事故、流行品をしばしば画題に取り上げ、それが有名で皆も自分も大好きだからだと理由を述べた。また彼自身がアメリカの有名人物になってからも、ペースを乱すことなく有名人を演じ、作品を制作し続けることを理想とした。 初期にはアクリル絵具などでキャンバスに描いていたが、1960年代以降は版画のシルクスクリーンを多用している。孔版印刷であるシルクスクリーンの原理は平たくいえば「プリントゴッコ」のようなもので、作家が直接印刷に携わらなくとも制作できる量産に適した手法である。彼は機械で生産するようにシルクスクリーン作品を刷るアトリエ「ファクトリー」を設け多くの若者を雇い制作にあたらせた。一方、同じ版を利用し意図的にプリントをずらしたり、インクをはみ出させた。 シルクスクリーンのモチーフに以下のようなものを選んだ(一例)。 シルクスクリーンプリント制作の傍ら1963年から1968年にかけ、60を超える映画も手掛けた。ただし実験映画的な作風から、一般公開されたものは少ない。初めて一般に公開された作品は1966年の『チェルシー・ガールズ(英語版)』。最も有名な一本は、眠る男を6時間映し続けた『スリープ( Sleep)(英語版)』(1963年)。彼はアクション映画を好まず(本質的には同じであるにもかかわらず、ささいな差異にこだわっているから)、自らの映画では「本質的に同じのみならず細部まで全く正確に同じであること」を望んだ。延々と変化のない映像は普遍的なものをテーマとしたウォーホルの視点から見ると、理想だったのかもしれない。 その後も映画制作をし、劇映画も制作。 ニューヨークの有名ホテル「チェルシー」を舞台に、その各部屋で繰り広げられる人間の喜怒哀楽を、任意の2部屋分だけ適宜の時間セレクトし、2つのスクリーンを使いランダムに映し続ける(途中どちらか片方のスクリーンにはニコの貌がランダムに挿入される)、『チェルシー・ガールズ』(1966年)は全米で公開され大ヒットとなった。他にも『エンパイア (1964年の映画)』、『フォースターズ(1967年映画)(英語版)』がある。1970年代に入ってからはそれまでの作品とは一転し、ジョー・ダレッサンドロやウド・キアを主演とする『悪魔のはらわた』(1974年)や『処女の生血』(1974年)、『アンディ・ウォーホルのBAD』(1977年)といったホラー映画の総監修も行なった。ポルノ映画『ブルー・ムービー』の監督も行った。 『Interview』は、ウォーホルが企画し立ち上げた、インタビューのみで構成される月刊グラフ誌である。1969年秋創刊。縦16インチ・横10.5インチの大きな表紙写真に様々な分野の話題の人物を載せた。 ウォーホルは死後の財産について、家族に残すいくばくかのものを除いた遺産の大半によって「視覚芸術の進歩」を目的とした財団の設立を希望しており、その意思に基づいて1987年にアンディ・ウォーホル視覚芸術財団(The Andy Warhol Foundation for the Visual Arts)が設立された。設立時に、財団はウォーホル作品の著作権および商標を取得した。財団はウォーホル作品の著作権を元にさまざまな企業とコラボを行って財源を確保し、視覚芸術研究や芸術家などへの支援と助成を行っている。 1991年9月、スロバキア共和国文化省とアンディ・ウォーホル美術財団は、両親の出身地である東部スロバキアのプレショウ県ストロプコウ郡ミコヴァー村から南東4キロの同郡メジラボルツェ市に「アンディ・ウォーホル現代美術館」(Múzeum moderného umenia Andyho Warhola)を開館した。社会主義時代の1970年代からアンディ・ウォーホルの作品に強い関心を持っていたメジラボルツェ市の民族工芸学校教師の調べにより、両親がミコヴァー村出身で、村には親戚もいることが判明。これを受けてアンディが没した1987年に2番目の兄、ジョン・ウォーホラ(2010年没)がミコヴァー村を訪れたことが発端となり、民主化後に実現した。旧郵便局施設を改装した建物には作品160点を常設展示。一家の由来に関する史料も展示されている。2001年以降はプレショウ県政府が運営している。 また人口わずか約150人の小村であるミコヴァー村では、ルシン人文化行事として1992年から民間主催の民族音楽・ロック音楽イベント「アンディ・ウォーホル記念ミコウスキー・フェスティバル」が毎年夏に開催されている。村域の出入口標識近くには、表にアンディ・ウォーホルの肖像画をあしらった「ようこそアンディ・ウォーホルの両親の一族ミコヴァー村へ」(Víta vás obec Miková, rodisko rodičov Andy Worhola)、裏にキャンベルスープ缶の絵をあしらった「さようなら、アンディ・ウォーホルの両親の一族より」(Dovidenia v rodisku rodičov Andy Worhola)という手描きの看板が設けられている。 アンディ・ウォーホル本人の出身地である米ペンシルベニア州ピッツバーグ市には1994年5月、「アンディ・ウォーホル美術館」(The Andy Warhol Museum)が開館した。カーネギー財団とアンディ・ウォーホル美術財団などが、産業用倉庫として使われていたノース・ショア地区の7階建てのビルを改装して開いたもので、ピッツバーグ市内の「カーネギー美術4館」の1つ。絵画や印刷作品のほか、映像作品なども合わせ1万点以上の作品を所蔵していて、1人の芸術家に特化した美術館としてはアメリカ最大である。美術館は2013年、分館を2017年にニューヨークに開設すると発表したが、計画は2015年になって中止された。 アンディ・ウォーホルの作品は死後も高く評価され続けており、オークションなどでは1億ドル以上の高値で取引されることさえある。 2013年11月には彼のシルクスクリーン作品である「銀色の車の事故(二重の災禍)(英語版)」がサザビーズで競売にかけられ1億544万ドルで落札され、彼の作品では落札最高値、美術品競売全体でも当時で4位の高値となった。 2022年5月9日には、シルクスクリーン作品「ショット・セージブルー・マリリン」がクリスティーズで競売にかけられ1億9500万ドルで落札され、最高価格を更新した。美術品オークション全体では史上2位の高値であった。この作品は、ウォーホルがマリリン・モンローのシルクスクリーン作品4枚を壁に立てかけておいたところを、知人がいたずらで銃弾で撃ち抜いて穴をあけたことで「ショット・マリリン」と呼ばれることになったものの1枚である。 それにさかのぼる2011年1月11日には、デニス・ホッパーが銃弾を2発を撃ち込んで穴を開けた毛沢東の肖像画がクリスティーズで競売にかけられ30万2500ドルで落札されている。壁に掛かっていた肖像画が、毛沢東によく似ていることをデニス・ホッパーが気味悪がり、銃で撃ってしまったといわれている。後日、デニス・ホッパーが製作者のアンディ・ウォーホルにこの絵を見せ、2人の共同制作となったことで知られる。 晩年にはコンピュータアートにも興味を持ち、2014年にフロッピーディスクに残されていた未発表のデジタル作品28点が発見された。また、自分自身のロボットをも制作させていた。シャイで人前に出るのを好まなかったため、ロボットに代わりを務めさせたかったと言われている。1960年代には、大学でのウォーホルの映画上映会に出向いて質疑応答に応えるのを嫌がり、友人をウォーホルに変装させて代わりに送っていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アンディ・ウォーホル(Andy Warhol、1928年8月6日 - 1987年2月22日)は、アメリカの画家・版画家・芸術家でポップアートの旗手。本名はアンドリュー・ウォーホラ(Andrew Warhola)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "銀髪のカツラをトレードマークとし、ロックバンドのプロデュースや映画制作なども手掛けたマルチ・アーティスト。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "チェコスロバキア共和国ゼムプリーン県(現・スロバキア共和国プレショウ県)ストロプコウ郡ミコー村(現・ミコヴァー村)から移民したルシン人の父オンドレイ(アンドレイ)と母ユーリア(ジュリア)の三男として、米ペンシルベニア州ピッツバーグで生まれる。移民前の元の姓はヴァルホラ(スロバキア語:Varchola,ルシン語:Вархола)。2人の兄(ポール、ジョン)がいた。ルシン人の両親は敬虔なルテニア東方典礼カトリック教徒で、彼自身も同様に育ち生涯を通じ教会へ通った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "体は虚弱で、肌は白く日光アレルギーであり、赤い鼻をしていた。早い時期から芸術の才能を現した。肉体労働者だった父アンドレイは1942年、アンディが14歳のときに死去、その後は母のジュリア一に育てられた。アルバイトをし地元の高校に通う。カーネギー工科大学(現在のカーネギーメロン大学)に進学し広告芸術を学び1949年に卒業。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1950年代、大学卒業後はニューヨークへ移り『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』など雑誌の広告やイラストで知られた。1952年には新聞広告美術の部門で「アート・ディレクターズ・クラブ賞」を受賞し、商業デザイナー・イラストレーターとして成功するが、同時に注文主の要望に応えイラストの修正に追われ、私生活では対人関係の痛手を受けるなど苦悩の時期でもあった。彼は後に、ただ正確に映すテレビ映像のように内面を捨て表層を追うことに徹する道を選ぶこととなる。この間に、線画にのせたインクを紙に転写する「ブロッテド・ライン (blotted line)」という大量印刷に向いた手法を発明する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1960年 (32歳)、彼はイラストレーションの世界を捨て、ファインアートの世界へ移る。『バットマン』、『ディック・トレイシー』、『スーパーマン』など、コミックをモチーフに一連の作品を制作するが、契約していたレオ・キャステリ・ギャラリーで、同様にアメリカン・コミックをモチーフに一世を風靡したロイ・リキテンスタインのポップイラストレーション作品に触れて以降、この主題からは手を引いてしまった。当時アメリカは目覚ましい経済発展のさなかにあった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1961年 (33歳)、身近にあったキャンベル・スープの缶やドル紙幣をモチーフにした作品を描く。ポップアートの誕生である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1962年 (34歳)、はシルクスクリーンプリントを用いて作品を量産するようになる。モチーフにも大衆的で話題に富んだものを選んでいた。マリリン・モンローの突然の死にあたって、彼はすぐさま映画『ナイアガラ』のスチル写真からモンローの胸から上の肖像を切り出し、「マリリンのディスパッチ(英語版)」等、以後これを色違いにして大量生産しつづけた。ジェット機事故、自動車事故、災害、惨事などの新聞を騒がせる報道写真も使用した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1964年(36歳)からはニューヨークにファクトリー (The Factory、工場の意) と呼ばれるスタジオを構える。ファクトリーはアルミフォイルと銀色の絵具で覆われた空間であり、あたかも工場で大量生産するかのように作品を制作することをイメージして造られた。彼はここでアート・ワーカー(art worker; 芸術労働者の意)を雇い、シルクスクリーンプリント、靴、映画などの作品を制作する。ファクトリーはミック・ジャガー(ローリング・ストーンズ)、ルー・リード(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)、トルーマン・カポーティ(作家)、イーディー・セジウィック(モデル)などアーティストの集まる場となる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1965年(37歳)、「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」(The Velvet Underground; 以下 V.U. と略) のデビューアルバムのプロデュースを行う(バンドの詳細は同項目を参照のこと)。 ウォーホルは V.U. の演奏を聴き共作を申し込み、女優兼モデルのニコを引き合わせ加入させる。1967年3月発売の彼らのデビュー作『The Velvet Underground & Nico』(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ)では、プロデュースとジャケットデザインを手掛けた。シルクスクリーンによる「バナナ」を描いたレコードジャケットは有名となった。前衛的音楽のためアルバムはあまり売れなかったが、後に再評価された。ウォーホルは V.U. の楽曲を映画のサウンドトラックとしても用いた。セカンドアルバム制作の頃にはウォーホルとの関係も終わる。彼らとの関係は、映画『ルー・リード: ロックン・ロール・ハート / Lou Reed: Rock and Roll Heart』に描かれている。またウォーホルの死後、メンバーのリードとケイルは再結成し『Songs For Drella』(1990年)という追悼アルバムを作成した(Drella はドラキュラとシンデレラを足した造語であり、彼らによるウォーホルの印象を表したという)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "芸術の世界の外では、アンディ・ウォーホルはこの時期に名声や有名人について語った言葉 (\"15 minutes of fame\") で有名になった。1968年にウォーホルは「未来には、誰でも15分間は世界的な有名人になれるだろう」と述べた。1970年代末に彼は「60年代の予言はついに現実になった」と話したが、マスコミからこの言葉について毎回尋ねられることにうんざりし、このフレーズを「15分で誰でも有名人になれるだろう (In 15 minutes everybody will be famous.)」と言い換え、以後回答を断るようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1968年6月3日 (40歳)、ウォーホルはラディカル・フェミニズム団体「全男性抹殺団(S.C.U.M. /Society for Cutting Up Men)」のメンバーだったヴァレリー・ソラナス(Valerie Solanas)に銃撃される。ソラナスはファクトリーの常連であり、ウォーホルに自作の映画脚本を渡したり、彼の映画に出演したことがあった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "三発発射された弾丸のうち、最初の二発は外れ、三発目が左肺、脾臓、胃、肝臓を貫通した。彼は重体となるが、一命をとりとめた。ソラナスは逮捕の上裁判にかけられたが、事件時に統合失調症を患っていたと診断され、「危害を加える明確な意図はなかった」として3年間精神病院に入院した。ソラナスは退院後もフェミニズムの活動を続けたが、1988年に肺炎により52歳で死去した。この事件は『アンディ・ウォーホルを撃った女 / I Shot Andy Warhol』として1995年に映画化された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1970年代から1980年代は社交界から依頼を受け、ポートレイトのシルクスクリーンプリントを多数制作する。1970年には「ライフ」誌によってビートルズとともに「1960年代にもっとも影響力のあった人物」として選ばれる。1972年、ニクソンの訪中にあわせて毛沢東のポートレイトを制作した。同年、母がピッツバーグで死去。世界中で個展を開催するようになる。1974年 (46歳)、初来日。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1982年から1986年にかけては災害や神話をモチーフとした一連の作品を作成する。最後の作品は1986年のレーニンのポートレイトなど。このレーニンのポートレイトは後にロシアの政商で有名なボリス・ベレゾフスキーに渡ることになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1983年から1984年にかけて、日本のTDKビデオカセットテープのCMに出演。『イマ人を刺激する』と題して、ブラウン管にカラーバー映像が映されたテレビを右肩に持ちながら「アカ、ミドォリィ、アオゥ、グンジョウイロゥ...キデイィ(キレイ)」とたどたどしい日本語を発するだけであったが、視聴者に強烈なインパクトを与えた。拡大したカラーバー映像を背景に、トライアングルを持ち、猫の格好をした女性が寄り添うバージョンや、シンバルを鳴らし「オト、オト、オト、オトーサァン!」と言うバージョンもあった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1984年にはカーズのアルバム「ハートビート・シティ」からのシングル「Hello Again(ハロー・アゲイン)」のミュージック・ビデオを手掛けたが、内容が過激なため放送禁止になってしまった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1987年2月17日、ニューヨーク・マンハッタンのクラブ「トンネル」で行われた、佐藤孝信の「アーストン・ボラージュ」のショーにモデルとしてマイルス・デイヴィスとともに参加。しかし直前に体調を悪くしイタリアから帰国したばかりで、これが最後の人前に出た姿となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2月21日、ニューヨークのコーネル医療センターで胆嚢手術を受けるも翌22日、容態が急変し心臓発作で死去。58歳。生涯独身だった。ピッツバーグの洗礼者聖ヨハネ・カトリック共同墓地に埋葬されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "派手な色彩で同じ図版を大量に生産できるシルクスクリーンの技法を用い、スターのイメージや商品、ドル記号など、アメリカ社会に流布する軽薄なシンボルを作品化した。古典芸術やモダニズムなどとは異なり、その絵柄は豊かなアメリカ社会を体現する明快なポップアート、商業絵画としても人気を博した。しかし、そこにはアメリカの資本主義や大衆文化のもつ大量消費、非人間性、陳腐さ、空虚さが表現されていると見ることもできる。普遍性を求めた彼の作品は、彼自身や大衆が日々接している資本主義やマス・メディアとも関連しており、また事故や死のイメージも描かれた。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "彼は自身について聞かれた際、「僕を知りたければ作品の表面だけを見てください。裏側には何もありません」と、徹底し「芸術家の内面」をなくし表面的であろうと努めた。彼は有名なものへの愛情を隠さず、スターや政治家や事故、流行品をしばしば画題に取り上げ、それが有名で皆も自分も大好きだからだと理由を述べた。また彼自身がアメリカの有名人物になってからも、ペースを乱すことなく有名人を演じ、作品を制作し続けることを理想とした。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "初期にはアクリル絵具などでキャンバスに描いていたが、1960年代以降は版画のシルクスクリーンを多用している。孔版印刷であるシルクスクリーンの原理は平たくいえば「プリントゴッコ」のようなもので、作家が直接印刷に携わらなくとも制作できる量産に適した手法である。彼は機械で生産するようにシルクスクリーン作品を刷るアトリエ「ファクトリー」を設け多くの若者を雇い制作にあたらせた。一方、同じ版を利用し意図的にプリントをずらしたり、インクをはみ出させた。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "シルクスクリーンのモチーフに以下のようなものを選んだ(一例)。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "シルクスクリーンプリント制作の傍ら1963年から1968年にかけ、60を超える映画も手掛けた。ただし実験映画的な作風から、一般公開されたものは少ない。初めて一般に公開された作品は1966年の『チェルシー・ガールズ(英語版)』。最も有名な一本は、眠る男を6時間映し続けた『スリープ( Sleep)(英語版)』(1963年)。彼はアクション映画を好まず(本質的には同じであるにもかかわらず、ささいな差異にこだわっているから)、自らの映画では「本質的に同じのみならず細部まで全く正確に同じであること」を望んだ。延々と変化のない映像は普遍的なものをテーマとしたウォーホルの視点から見ると、理想だったのかもしれない。 その後も映画制作をし、劇映画も制作。 ニューヨークの有名ホテル「チェルシー」を舞台に、その各部屋で繰り広げられる人間の喜怒哀楽を、任意の2部屋分だけ適宜の時間セレクトし、2つのスクリーンを使いランダムに映し続ける(途中どちらか片方のスクリーンにはニコの貌がランダムに挿入される)、『チェルシー・ガールズ』(1966年)は全米で公開され大ヒットとなった。他にも『エンパイア (1964年の映画)』、『フォースターズ(1967年映画)(英語版)』がある。1970年代に入ってからはそれまでの作品とは一転し、ジョー・ダレッサンドロやウド・キアを主演とする『悪魔のはらわた』(1974年)や『処女の生血』(1974年)、『アンディ・ウォーホルのBAD』(1977年)といったホラー映画の総監修も行なった。ポルノ映画『ブルー・ムービー』の監督も行った。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "『Interview』は、ウォーホルが企画し立ち上げた、インタビューのみで構成される月刊グラフ誌である。1969年秋創刊。縦16インチ・横10.5インチの大きな表紙写真に様々な分野の話題の人物を載せた。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ウォーホルは死後の財産について、家族に残すいくばくかのものを除いた遺産の大半によって「視覚芸術の進歩」を目的とした財団の設立を希望しており、その意思に基づいて1987年にアンディ・ウォーホル視覚芸術財団(The Andy Warhol Foundation for the Visual Arts)が設立された。設立時に、財団はウォーホル作品の著作権および商標を取得した。財団はウォーホル作品の著作権を元にさまざまな企業とコラボを行って財源を確保し、視覚芸術研究や芸術家などへの支援と助成を行っている。", "title": "記念" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1991年9月、スロバキア共和国文化省とアンディ・ウォーホル美術財団は、両親の出身地である東部スロバキアのプレショウ県ストロプコウ郡ミコヴァー村から南東4キロの同郡メジラボルツェ市に「アンディ・ウォーホル現代美術館」(Múzeum moderného umenia Andyho Warhola)を開館した。社会主義時代の1970年代からアンディ・ウォーホルの作品に強い関心を持っていたメジラボルツェ市の民族工芸学校教師の調べにより、両親がミコヴァー村出身で、村には親戚もいることが判明。これを受けてアンディが没した1987年に2番目の兄、ジョン・ウォーホラ(2010年没)がミコヴァー村を訪れたことが発端となり、民主化後に実現した。旧郵便局施設を改装した建物には作品160点を常設展示。一家の由来に関する史料も展示されている。2001年以降はプレショウ県政府が運営している。", "title": "記念" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "また人口わずか約150人の小村であるミコヴァー村では、ルシン人文化行事として1992年から民間主催の民族音楽・ロック音楽イベント「アンディ・ウォーホル記念ミコウスキー・フェスティバル」が毎年夏に開催されている。村域の出入口標識近くには、表にアンディ・ウォーホルの肖像画をあしらった「ようこそアンディ・ウォーホルの両親の一族ミコヴァー村へ」(Víta vás obec Miková, rodisko rodičov Andy Worhola)、裏にキャンベルスープ缶の絵をあしらった「さようなら、アンディ・ウォーホルの両親の一族より」(Dovidenia v rodisku rodičov Andy Worhola)という手描きの看板が設けられている。", "title": "記念" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "アンディ・ウォーホル本人の出身地である米ペンシルベニア州ピッツバーグ市には1994年5月、「アンディ・ウォーホル美術館」(The Andy Warhol 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アンディ・ウォーホルは、アメリカの画家・版画家・芸術家でポップアートの旗手。本名はアンドリュー・ウォーホラ。 銀髪のカツラをトレードマークとし、ロックバンドのプロデュースや映画制作なども手掛けたマルチ・アーティスト。
{{Infobox 芸術家 | name = アンディ・ウォーホール<br />Andy Warhol | image = Andy Warhol 1975.jpg | imagesize = | caption = | birthname = アンドリュー・ウォーホラ<br />Andrew Warhola | birthdate = {{生年月日と年齢|1928|8|6|死去}} | birth_place = {{USA1912}}、[[ペンシルベニア州]][[ピッツバーグ]] | deathdate = {{死亡年月日と没年齢|1928|8|6|1987|2|22}} | deathplace = {{USA}}、[[ニューヨーク州]][[ニューヨーク]] | nationality = {{USA}} | field = [[絵画]]、[[映画]] | training = [[カーネギーメロン大学]] | movement = [[ポップアート]] | works = ''[[:en:Chelsea Girls|チェルシー・ガールズ]]''(1966年映画)<br />''[[:en:Exploding Plastic Inevitable|プラスチック爆発は不可避]]''(1966年イベント)<br />''[[キャンベルのスープ缶]]''(1962年[[絵画]]) | influenced_by = | influenced = }} [[画像:Andy Warhol's childhood home in Pittsburgh, Pennsylvania.jpg|thumb|150px|[[ピッツバーグ]]にあるウォーホルの子供時代の家]] '''アンディ・ウォーホル'''<ref group="注釈">'''ウォーホール'''とも表記。</ref>('''Andy Warhol'''、[[1928年]][[8月6日]] - [[1987年]][[2月22日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[画家]]・[[版画家]]・[[芸術家]]で[[ポップアート]]の旗手。本名は'''アンドリュー・ウォーホラ'''('''Andrew Warhola''')。 銀髪のカツラをトレードマークとし、[[ロック (音楽)|ロック]]バンドのプロデュースや[[映画]]制作なども手掛けたマルチ・アーティスト。 == 生涯 == === 生い立ち: 誕生 - 大学卒業 === [[チェコスロバキア|チェコスロバキア共和国]]ゼムプリーン県(現・[[スロバキア|スロバキア共和国]][[プレショウ県]])ストロプコウ郡ミコー村(現・ミコヴァー村)から移民した[[ルシン人]]の父オンドレイ(アンドレイ)と母ユーリア(ジュリア)の三男として、米[[ペンシルベニア州]][[ピッツバーグ]]で生まれる<ref group="注釈">出生日や出生地には諸説ある</ref>。移民前の元の姓はヴァルホラ([[スロバキア語]]:{{lang|sk|Varchola}},[[ルシン語]]:{{lang|sla|Вархола}})。2人の兄(ポール、ジョン)がいた。ルシン人の両親は敬虔な[[東方典礼カトリック教会|ルテニア東方典礼カトリック教徒]]で、彼自身も同様に育ち生涯を通じ[[教会 (キリスト教)|教会]]へ通った。 体は虚弱で、肌は白く日光[[アレルギー]]であり、赤い鼻をしていた。早い時期から芸術の才能を現した。肉体労働者だった父アンドレイは[[1942年]]、アンディが14歳のときに死去、その後は母のジュリア一に育てられた。アルバイトをし地元の高校に通う。カーネギー工科大学(現在の[[カーネギーメロン大学]])に進学し広告芸術を学び[[1949年]]に卒業<ref>{{Cite book|和書 |author= 布施英利|authorlink=布施英利 |year = 2015 |title = パリの美術館で美を学ぶ ルーブルから南仏まで |publisher = [[光文社]] |page = 98 |isbn = 978-4-334-03837-3}}</ref>。 === ポップアートの誕生: 20代 - 30代前半 === [[1950年代]]、大学卒業後は[[ニューヨーク]]へ移り『[[ヴォーグ (雑誌)|ヴォーグ]]』や『[[ハーパース・バザー]]』など雑誌の広告やイラストで知られた。[[1952年]]には新聞広告美術の部門で「アート・ディレクターズ・クラブ賞」を受賞し、商業デザイナー・イラストレーターとして成功するが、同時に注文主の要望に応えイラストの修正に追われ、私生活では対人関係の痛手を受けるなど苦悩の時期でもあった。彼は後に、ただ正確に映すテレビ映像のように内面を捨て表層を追うことに徹する道を選ぶこととなる。この間に、線画にのせたインクを紙に転写する「ブロッテド・ライン (blotted line)」という大量印刷に向いた手法を発明する。 [[1960年]] (32歳)、彼は[[イラストレーション]]の世界を捨て、[[ファインアート]]の世界へ移る。『[[バットマン]]』、『[[ディック・トレイシー_(アニメ)|ディック・トレイシー]]』、『[[スーパーマン]]』など、[[漫画|コミック]]をモチーフに一連の作品を制作するが、契約していたレオ・キャステリ・ギャラリーで、同様に[[アメリカン・コミック]]をモチーフに一世を風靡した[[ロイ・リキテンスタイン]]のポップイラストレーション作品に触れて以降、この主題からは手を引いてしまった。当時アメリカは目覚ましい経済発展のさなかにあった。 [[1961年]] (33歳)、身近にあったキャンベル・スープの缶やドル紙幣をモチーフにした作品を描く。[[ポップアート]]の誕生である。 [[1962年]] (34歳)、は[[シルクスクリーン]]プリントを用いて作品を量産するようになる。モチーフにも大衆的で話題に富んだものを選んでいた。[[マリリン・モンロー]]の突然の死にあたって、彼はすぐさま映画『[[ナイアガラ (映画)|ナイアガラ]]』のスチル写真からモンローの胸から上の肖像を切り出し、「{{ill2|マリリンのディスパッチ|en|Marilyn Diptych}}」等、以後これを色違いにして大量生産しつづけた。ジェット機事故、自動車事故、災害、惨事などの新聞を騒がせる報道写真も使用した。 === ファクトリーでの制作活動: 30代後半 - 40代 === [[1964年]](36歳)からはニューヨークに'''ファクトリー''' ('''The Factory'''、工場の意) と呼ばれるスタジオを構える。ファクトリーはアルミフォイルと銀色の絵具で覆われた空間であり、あたかも工場で大量生産するかのように作品を制作することをイメージして造られた。彼はここでアート・ワーカー(art worker; 芸術労働者の意)を雇い、シルクスクリーンプリント、靴、映画などの作品を制作する。ファクトリーは[[ミック・ジャガー]]([[ローリング・ストーンズ]])、[[ルー・リード]](ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)、[[トルーマン・カポーティ]](作家)、[[イーディー・セジウィック]](モデル)などアーティストの集まる場<ref group="注釈">この時期のカルヴィン・トムキンズによる『[[ザ・ニューヨーカー|ニューヨーカー]]』誌での記事が「第1章 ぼろ着のアンディ・ウォーホールとその仲間たち」-『ザ・シーン ポストモダン・アート』(高島平吾訳、パルコ出版、1989年)に収録。</ref>となる。 [[1965年]](37歳)、「[[ヴェルヴェット・アンダーグラウンド]]」(The Velvet Underground; 以下 '''V.U.''' と略) のデビューアルバムのプロデュースを行う(バンドの詳細は同項目を参照のこと)。<br /> ウォーホルは V.U. の演奏を聴き共作を申し込み、女優兼モデルの[[ニコ]]を引き合わせ加入させる。1967年3月発売の彼らのデビュー作『The Velvet Underground & Nico』([[ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ]])では、プロデュースとジャケットデザインを手掛けた。シルクスクリーンによる「バナナ」を描いたレコードジャケットは有名となった。前衛的音楽のためアルバムはあまり売れなかったが、後に再評価された。ウォーホルは V.U. の楽曲を映画のサウンドトラックとしても用いた。セカンドアルバム制作の頃にはウォーホルとの関係も終わる。彼らとの関係は、映画『ルー・リード: ロックン・ロール・ハート / Lou Reed: Rock and Roll Heart』に描かれている。またウォーホルの死後、メンバーのリードとケイルは再結成し『[[ソングス・フォー・ドレラ|Songs For Drella]]』(1990年)という追悼アルバムを作成した(Drella はドラキュラとシンデレラを足した造語であり、彼らによるウォーホルの印象を表したという)。 芸術の世界の外では、アンディ・ウォーホルはこの時期に名声や有名人について語った言葉 ("15 minutes of fame") で有名になった。[[1968年]]にウォーホルは「未来には、誰でも15分間は世界的な有名人になれるだろう」と述べた<ref>Warhol photo exhibition, Stockholm, 1968: Kaplan, Justin, ed., Bartlett's Familiar Quotations, 16th Ed., 1992 (Little, Brown & Co.), p. 758:17)</ref>。1970年代末に彼は「60年代の予言はついに現実になった」と話したが、マスコミからこの言葉について毎回尋ねられることにうんざりし、このフレーズを「'''15分で誰でも有名人になれるだろう''' (In 15 minutes everybody will be famous.)」と言い換え、以後回答を断るようになった<ref>[http://www.findarticles.com/p/articles/mi_qn4176/is_20060825/ai_n16700346 Looking For Fame In All the Wrong Places], by Candace Murphy in the Chicago Tribune, Aug 25, 2006</ref>。 === 狙撃事件とそれ以降: 40代 - === [[Image:Jimmy Carter Andy Warhol 1977.jpg|thumb|right|250px|アンディ・ウォーホル(右)と[[ジミー・カーター|カーター]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]](左)(1977年)]] [[Image:Andy Warhol Medzilaborce 16Slovakia10.jpg|thumb|right|250px|[[TDK]]ビデオカセットテープCM出演時のアンディ・ウォーホルの写真と着用のジャケット(アンディ・ウォーホル現代美術館展示、[[2016年]]、スロバキア)]] [[1968年]][[6月3日]] (40歳)、ウォーホルは[[ラディカル・フェミニズム]]団体「全男性抹殺団([[:en:SCUM Manifesto|S.C.U.M. /Society for Cutting Up Men]])」のメンバーだった[[ヴァレリー・ソラナス]]([[:en:Valerie Solanas|Valerie Solanas]])に銃撃される。ソラナスはファクトリーの常連であり、ウォーホルに自作の映画脚本を渡したり、彼の映画に出演したことがあった。 三発発射された弾丸のうち、最初の二発は外れ、三発目が左肺、脾臓、胃、肝臓を貫通した。彼は重体となるが、一命をとりとめた。ソラナスは逮捕の上裁判にかけられたが、事件時に[[統合失調症]]を患っていたと診断され、「危害を加える明確な意図はなかった」として3年間精神病院に入院した。ソラナスは退院後もフェミニズムの活動を続けたが、[[1988年]]に肺炎により52歳で死去した。この事件は『[[I SHOT ANDY WARHOL|アンディ・ウォーホルを撃った女 / I Shot Andy Warhol]]』として1995年に映画化された。 1970年代から1980年代は社交界から依頼を受け、ポートレイトの[[シルクスクリーン]]プリントを多数制作する。[[1970年]]には「[[ライフ (雑誌)|ライフ]]」誌によって[[ビートルズ]]とともに「1960年代にもっとも影響力のあった人物」として選ばれる。[[1972年]]、[[ニクソン大統領の中国訪問|ニクソンの訪中]]にあわせて[[毛沢東]]のポートレイトを制作した。同年、母がピッツバーグで死去。世界中で個展を開催するようになる。[[1974年]] (46歳)、初来日。 === 多彩な活動: 50代 - 没 === [[1982年]]から[[1986年]]にかけては災害や神話をモチーフとした一連の作品を作成する。最後の作品は1986年の[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]のポートレイトなど。このレーニンのポートレイトは後に[[ロシア]]の[[政商]]で有名な[[ボリス・ベレゾフスキー]]に渡ることになる。 [[1983年]]から[[1984年]]にかけて、日本の[[TDK]][[磁気テープ|ビデオカセットテープ]]のCMに出演。『イマ人を刺激する』<ref group="注釈">「想像 (imagine)」と「現代人」をかけたこのコピーは、[[眞木準]]によるもの。</ref>と題して、[[ブラウン管]]に[[カラーバー]]映像が映されたテレビを右肩に持ちながら「[[赤|アカ]]、[[緑|ミドォリィ]]、[[青|アオゥ]]、[[群青色|グンジョウイロゥ]]…キデイィ(キレイ)」とたどたどしい日本語を発するだけであったが、視聴者に強烈なインパクトを与えた。拡大したカラーバー映像を背景に、[[トライアングル]]を持ち、猫の格好をした女性が寄り添うバージョンや、[[シンバル]]を鳴らし「オト、オト、オト、オトーサァン!」と言うバージョンもあった。 [[1984年]]には[[カーズ (バンド)|カーズ]]のアルバム「[[ハートビート・シティ]]」からのシングル「Hello Again([[ハロー・アゲイン (カーズの曲)|ハロー・アゲイン]])」の[[ミュージック・ビデオ]]を手掛けたが、内容が過激なため放送禁止になってしまった。 [[1987年]][[2月17日]]、ニューヨーク・マンハッタンのクラブ「トンネル」で行われた、[[佐藤孝信]]の「アーストン・ボラージュ」のショーにモデルとして[[マイルス・デイヴィス]]とともに参加。しかし直前に体調を悪くし[[イタリア]]から帰国したばかりで、これが最後の人前に出た姿となった。 2月21日、ニューヨークのコーネル医療センターで[[胆嚢]]手術を受けるも翌22日、容態が急変し心臓発作で死去。58歳。生涯独身だった。ピッツバーグの洗礼者聖ヨハネ・カトリック共同墓地に埋葬されている。 == 作品 == [[画像:Bratislava Venturska ulica1.jpg|thumb|150px|[[スロバキア]]の首都、[[ブラチスラヴァ]]にあるウォーホルの像]] 派手な色彩で同じ図版を大量に生産できる[[シルクスクリーン]]の技法を用い、スターのイメージや商品、ドル記号など、アメリカ社会に流布する軽薄なシンボルを作品化した。古典芸術やモダニズムなどとは異なり、その絵柄は豊かなアメリカ社会を体現する明快な[[ポップアート]]、商業絵画としても人気を博した。しかし、そこにはアメリカの[[資本主義]]や[[大衆文化]]のもつ大量消費、非人間性、陳腐さ、空虚さが表現されていると見ることもできる。普遍性を求めた彼の作品は、彼自身や大衆が日々接している資本主義やマス・[[メディア (媒体)|メディア]]とも関連しており、また[[事故]]や[[死]]のイメージも描かれた。 彼は自身について聞かれた際、「僕を知りたければ作品の'''表面だけ'''を見てください。裏側には何もありません」と、徹底し「芸術家の内面」をなくし表面的であろうと努めた。彼は有名なものへの愛情を隠さず、スターや政治家や事故、流行品をしばしば画題に取り上げ、それが有名で皆も自分も大好きだからだと理由を述べた。また彼自身がアメリカの有名人物になってからも、ペースを乱すことなく有名人を演じ、作品を制作し続けることを理想とした。 === シルクスクリーンによる作品 === 初期にはアクリル絵具などで[[キャンバス]]に描いていたが、1960年代以降は版画の[[シルクスクリーン]]を多用している。孔版印刷であるシルクスクリーンの原理は平たくいえば「[[プリントゴッコ]]」のようなもので、作家が直接印刷に携わらなくとも制作できる量産に適した手法である。彼は機械で生産するようにシルクスクリーン作品を刷るアトリエ「ファクトリー」を設け多くの若者を雇い制作にあたらせた。一方、同じ版を利用し意図的にプリントをずらしたり、インクをはみ出させた。 シルクスクリーンのモチーフに以下のようなものを選んだ(一例)。 * 商品: [[キャンベル・スープ・カンパニー|キャンベル・スープ]]缶「[[キャンベルのスープ缶]]」、[[シャネル|シャネル N°5]]や[[コカ・コーラ]]、[[アブソルート (ウォッカ)|アブソルート・ウォッカ]]の瓶、[[ブリロ]]・ボックスなどの有名普及品 * 有名人: [[エルヴィス・プレスリー]]、[[エリザベス・テイラー]]、[[イングリッド・バーグマン]]、[[クリストファー・リーブ]]、[[カロリーヌ・ド・モナコ|公女カロリーヌ]]、[[ジミー・カーター]]、[[ジョン・F・ケネディ]]、[[ジャクリーン・ケネディ・オナシス|ジャクリーン・ケネディ]]、[[トルーマン・カポーティ]]、[[マイケル・ジャクソン]]、[[マリリン・モンロー]]、[[マーロン・ブランド]]、[[ミック・ジャガー]]、[[プリンス (ミュージシャン)|プリンス]]「{{ill2|オレンジプリンス(1984)|en|Orange Prince (1984)}}」、[[チェ・ゲバラ]]、[[毛沢東]]、[[モハメド・アリ]]、[[ウラジーミル・レーニン]]、[[坂本龍一]]、[[山口小夜子]] *キャラクター:[[ミッキーマウス]]、[[ミニーマウス]]、[[鉄腕アトム]] (これらもシルクスクリーンを用いて制作された。) ** 彼による[[肖像画]]は高額なギャランティーから当時の[[セレブリティ|有名人]]らのステイタスとされ、多くの有名人が自分の姿のプリントを希望した。 * その他:ドル紙幣、[[原子爆弾]]、[[ピストル]]、[[自由の女神像|自由の女神]]、[[電気椅子]]、夕日、花、[[最後の晩餐]] === 映画制作 === シルクスクリーンプリント制作の傍ら[[1963年]]から[[1968年]]にかけ、60を超える[[映画]]も手掛けた。ただし実験映画的な作風から、一般公開されたものは少ない。初めて一般に公開された作品は1966年の『{{ill2|チェルシー・ガールズ|en|Chelsea Girls}}』。最も有名な一本は、眠る男を6時間映し続けた『{{ill2|スリープ( Sleep)|en|Sleep (1964 film)}}』([[1963年]])。彼はアクション映画を好まず(本質的には同じであるにもかかわらず、ささいな差異にこだわっているから)、自らの映画では「本質的に同じのみならず細部まで全く正確に同じであること」を望んだ。延々と変化のない映像は普遍的なものをテーマとしたウォーホルの視点から見ると、理想だったのかもしれない。 その後も映画制作をし、劇映画も制作。 ニューヨークの有名ホテル「チェルシー」を舞台に、その各部屋で繰り広げられる人間の喜怒哀楽を、任意の2部屋分だけ適宜の時間セレクトし、2つのスクリーンを使いランダムに映し続ける(途中どちらか片方のスクリーンには[[ニコ]]の貌がランダムに挿入される)、『チェルシー・ガールズ』([[1966年]])は全米で公開され大ヒットとなった。他にも『[[エンパイア (1964年の映画)]]』、『{{ill2|フォースターズ(1967年映画)|en|Four Stars (1967 film)}}』がある。1970年代に入ってからはそれまでの作品とは一転し、[[ジョー・ダレッサンドロ]]や[[ウド・キア]]を主演とする『[[悪魔のはらわた]]』([[1974年]])や『[[処女の生血]]』([[1974年]])、『[[アンディ・ウォーホルのBAD]]』([[1977年]])といったホラー映画の総監修も行なった。[[ポルノ映画]]『[[ブルー・ムービー]]』の監督も行った。 === 『Interview』誌 === 『[[Interview (雑誌)|Interview]]』は、ウォーホルが企画し立ち上げた、インタビューのみで構成される月刊グラフ誌である。1969年秋創刊。縦16インチ・横10.5インチの大きな表紙写真に様々な分野の話題の人物を載せた。 ==記念== [[画像:Medzilaborce - Andy Warhol 02.jpg|thumb|right|230px|アンディ・ウォーホル現代美術館(スロバキア・プレショウ県メジラボルツェ市)]] [[画像:Villages14Slovakia565.JPG|thumb|right|230px|両親の出身地ミコヴァー村の入口に設けられている看板]] [[画像:Andy Warhol Museum.jpg|thumb|right|180px|アンディ・ウォーホル美術館(アメリカ・ペンシルベニア州ピッツバーグ市)]] ウォーホルは死後の財産について、家族に残すいくばくかのものを除いた遺産の大半によって「視覚芸術の進歩」を目的とした財団の設立を希望しており<ref>https://warholfoundation.org/foundation/index.html 「FOUNDATION PAST AND PRESENT」The Andy Warhol Foundation for the Visual Arts 2021年6月15日閲覧</ref>、その意思に基づいて1987年にアンディ・ウォーホル視覚芸術財団(The Andy Warhol Foundation for the Visual Arts)が設立された<ref>https://warholfoundation.org/ 「The Andy Warhol Foundation for the Visual Arts」The Andy Warhol Foundation for the Visual Arts 2021年6月15日閲覧</ref>。設立時に、財団はウォーホル作品の著作権および商標を取得した<ref name ="LISESING">https://warholfoundation.org/licensing/index.html 「LISESING」The Andy Warhol Foundation for the Visual Arts 2021年6月15日閲覧</ref>。財団はウォーホル作品の著作権を元にさまざまな企業とコラボを行って財源を確保し<ref name ="LISESING"></ref>、視覚芸術研究や芸術家などへの支援と助成を行っている<ref>https://warholfoundation.org/grant/overview.html 「OVERVIEW AND GUIDELINES」The Andy Warhol Foundation for the Visual Arts 2021年6月15日閲覧</ref>。 [[1991年]][[9月]]、スロバキア共和国文化省とアンディ・ウォーホル美術財団は、両親の出身地である東部スロバキアのプレショウ県ストロプコウ郡ミコヴァー村から南東4キロの同郡メジラボルツェ市に「アンディ・ウォーホル現代美術館」(Múzeum moderného umenia Andyho Warhola)を開館した<ref name="kokyo">「アンディ・ウォーホルの「どこでもない」故郷を訪ねて」クーリエ・ジャポン 2018.11.5 2021年3月5日閲覧</ref>。社会主義時代の[[1970年代]]からアンディ・ウォーホルの作品に強い関心を持っていたメジラボルツェ市の民族工芸学校教師の調べにより、両親がミコヴァー村出身で、村には親戚もいることが判明。これを受けてアンディが没した[[1987年]]に2番目の兄、ジョン・ウォーホラ([[2010年]]没)がミコヴァー村を訪れたことが発端となり、[[ビロード革命|民主化]]後に実現した。旧郵便局施設を改装した建物<ref name="kokyo"></ref>には作品160点を常設展示。一家の由来に関する史料も展示されている。[[2001年]]以降はプレショウ県政府が運営している。 また人口わずか約150人の小村であるミコヴァー村では、ルシン人文化行事として[[1992年]]から民間主催の民族音楽・ロック音楽イベント「アンディ・ウォーホル記念ミコウスキー・フェスティバル」が毎年夏に開催されている。村域の出入口標識近くには、表にアンディ・ウォーホルの肖像画をあしらった「ようこそアンディ・ウォーホルの両親の一族ミコヴァー村へ」(Víta vás obec Miková, rodisko rodičov Andy Worhola)、裏にキャンベルスープ缶の絵をあしらった「さようなら、アンディ・ウォーホルの両親の一族より」(Dovidenia v rodisku rodičov Andy Worhola)という手描きの看板が設けられている。 アンディ・ウォーホル本人の出身地である米ペンシルベニア州ピッツバーグ市には[[1994年]][[5月]]、「アンディ・ウォーホル美術館」(The Andy Warhol Museum)が開館した<ref name="museum">https://www.warhol.org/museum/ 「About the Museum」The Andy Warhol Museum 2021年6月15日閲覧</ref>。カーネギー財団とアンディ・ウォーホル美術財団などが、産業用倉庫として使われていたノース・ショア地区の7階建てのビルを改装して開いたもので、ピッツバーグ市内の「[[カーネギー博物館|カーネギー美術4館]]」の1つ。絵画や印刷作品のほか、映像作品なども合わせ1万点以上の作品を所蔵していて、1人の芸術家に特化した美術館としてはアメリカ最大である<ref name="museum"></ref>。美術館は[[2013年]]、分館を[[2017年]]にニューヨークに開設すると発表したが、計画は[[2015年]]になって中止された。 ==その他== アンディ・ウォーホルの作品は死後も高く評価され続けており、オークションなどでは1億ドル以上の高値で取引されることさえある<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/3144730?page=2 「アート市場が好景気、バスキア、バンクシーらストリートアーティストけん引」AFPBB 2017年9月28日 2021年6月23日閲覧</ref>。 2013年11月には彼のシルクスクリーン作品である「{{ill2|銀色の車の事故(二重の災禍)|en|Silver Car Crash (Double Disaster)}}」が[[サザビーズ]]で競売にかけられ1億544万ドルで落札され、彼の作品では落札最高値、美術品競売全体でも当時で4位の高値となった<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/3048212?cx_part=search 「美術品オークション、過去の高値上位10作品」AFPBB 2015年5月12日 2021年6月23日閲覧</ref>。 2022年5月9日には、シルクスクリーン作品「[[ショット・セージブルー・マリリン]]」が[[クリスティーズ]]で競売にかけられ1億9500万ドルで落札され、最高価格を更新した。美術品オークション全体では史上2位の高値であった。この作品は、ウォーホルが[[マリリン・モンロー]]のシルクスクリーン作品4枚を壁に立てかけておいたところを、知人がいたずらで銃弾で撃ち抜いて穴をあけたことで「ショット・マリリン」と呼ばれることになったものの1枚である<ref>https://www.suiha.co.jp/column/warholgapicassowokoetahi/ 「ウォーホルがピカソを超えた日」翠波画廊 2022年5月16日閲覧</ref>。 それにさかのぼる2011年1月11日には、[[デニス・ホッパー]]が銃弾を2発を撃ち込んで穴を開けた[[毛沢東]]の肖像画が[[クリスティーズ]]で競売にかけられ30万2500ドルで落札されている。壁に掛かっていた肖像画が、毛沢東によく似ていることをデニス・ホッパーが気味悪がり、銃で撃ってしまったといわれている。後日、デニス・ホッパーが製作者のアンディ・ウォーホルにこの絵を見せ、2人の共同制作となったことで知られる<ref>[https://www.asahi.com/showbiz/enews/RTR201101120046.html asahi.com(朝日新聞社):D・ホッパーが撃った毛沢東の肖像画、2500万円で落札 - ロイター芸能ニュース - 映画・音楽・芸能] </ref>。 晩年には[[コンピュータアート]]にも興味を持ち、[[2014年]]に[[フロッピーディスク]]に残されていた未発表のデジタル作品28点が発見された<ref> https://gigazine.net/news/20140425-unknown-warhol-works-discovered/ </ref>。また、自分自身のロボットをも制作させていた。シャイで人前に出るのを好まなかったため、ロボットに代わりを務めさせたかったと言われている。1960年代には、大学でのウォーホルの映画上映会に出向いて質疑応答に応えるのを嫌がり、友人をウォーホルに変装させて代わりに送っていた。 == 日本語書籍 == ;著作、伝記研究 *『ウォーホル日記』 パット・ハケット編、[[中原佑介]]・[[野中邦子]]訳 ::[[文藝春秋]]、1995年/[[文春文庫]](新編・上下)、1997年。口述筆記による晩年の日記 *『アンディ・ウォーホル ぼくの哲学』 落石八月月訳、[[新潮社]]、1998年 *『ポッピズム ウォーホルの60年代』 ウォーホル/パット・ハケット共著、高島平吾訳、[[リブロポート]]、1992年/文遊社、2011年 *『アンディ・ウォーホルのヘビのおはなし』 野中邦子訳、[[河出書房新社]]、2017年、新版2021年。創作絵本 *『アンディ・ウォーホル とらわれない言葉』 アンディ・ウォーホル美術財団編/夏目大訳、青志社、2010年、新版2022年 *『さよなら、アンディ ウォーホルの60年代』 ウルトラ・ヴァイオレット ::入江直之・金子由美訳、[[平凡社]]〈20世紀メモリアル〉、1990年 *『アンディ・ウォーホル 1964-1967』 ナット・フィンケルスタイン、金井詩延訳、[[マガジンハウス]]、1994年 *『伝記ウォーホル パーティのあとの孤独』 フレッド・ローレンス・ガイルズ、[[野中邦子]]訳、文藝春秋、1996年 *『ウォーホル 岩波世界の巨匠』 エリック・シェーンズ、水沢勉訳、[[岩波書店]]、1996年 *『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ 詩と批評]]-特集 アンディ・ウォーホル』1990年9月号、[[青土社]] *『ウォーホルの世界』 美術出版社、1990年1月。[[金坂健二]]・[[篠山紀信]]ほか *『ウォーホルの芸術-20世紀を映した鏡』 [[宮下規久朗]]、[[光文社新書]]、2010年 ;画集、図録 *『アンディ・ウォーホル全版画 カタログ・レゾネ1962-1987』 [[美術出版社]]、増訂版(第4版)2003年。大著 *『ウォーホル画集』 キナストン・マクシャイン編・[[東野芳明]]監修、リブロポート、1990年。大著 *『アンディ・ウォーホル モダン・マスターズ・シリーズ』 カーター・ラトクリフ ::[[古賀林幸]]・[[日向あき子]]訳、美術出版社、1989年。最初の全年代の作品解説 *『アンディ・ウォーホル 50年代イラストブック』 新潮社、2000年。初期の作品集 *『アンディ・ウォーホル』 新潮社〈Shinchosha's super artists〉、1990年。大型本 *『アンディ・ウォーホル』 ジョゼフ・D・ケットナー2世、藤村奈緒美訳、青幻舎、2014年。カラー図版と論考解説 *『ウォーホル 西洋絵画の巨匠 9』 [[林卓行]]編、[[小学館]]、2006年 *『ウォーホル 現代美術 12』 [[米倉守]]編、[[講談社]]、1993年 *『ウォーホル 美の20世紀 16』 エリック・シェインズ、[[山梨俊夫]]監訳・前田希世子訳 [[二玄社]]、2008年。小冊子 *『ウォーホルのアメリカ』 [[求龍堂]]〈美の再発見シリーズ〉、1998年。小冊子 *『アンディ・ウォーホルの基礎知識』 [[マガジンハウス]]・ムック、2022年10月。入門書 *『アンディ・ウォーホル』 ピーター・ジダル/チハーコヴァー・ヴラスタ訳 ::[[パルコ|PARCO出版]]「ピクチャーバックス」、1978年、新版2000年。生前刊行、主に白黒写真で紹介 *『アンディ・ウォーホル遺作展』 [[日向あき子]]監修、読売新聞社、1989年。図録は一部表記 *『アンディ・ウォーホル展』 [[桑原住雄]]監修、朝日新聞社、1991年 *『アンディ・ウォーホル 1956-86 時代の鏡』 塩田純一・矢口國夫・宮下規久朗ほか、朝日新聞社、1996年 *『アンディ・ウォーホル展』 [[木島俊介]]監修、中日新聞社、2000年 *『アンディ・ウォーホル展 永遠の15分』 [[森美術館]]編、美術出版社、2014年 *『アンディ・ウォーホル・キョウト 図録』 [[京都市美術館|京都市京セラ美術館]]、2022年 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[ヴェルヴェット・アンダーグラウンド]] ** [[ルー・リード]] * [[ニコ]] **「{{ill2|プラスチック爆発は不可避|en|Exploding Plastic Inevitable}}」 ニコの歌 * [[ローリング・ストーンズ]] ** [[ミック・ジャガー]] * [[マリリン・モンロー]] * [[マルセル・デュシャン]] * [[現代アート]] * [[パブロ・ピカソ]] * [[ロイ・リキテンスタイン]] * [[キース・ヘリング]] * [[ファクトリー・ガール]] * [[ロバート・インディアナ]](現代アート作家) * [[カーネギー博物館]] * [[ジョン・ケージ]] * [[ジャン=ミシェル・バスキア]] * [[ロバート・ラウシェンバーグ]] * {{仮リンク|張振仕|en|Zhang Zhenshi}}(毛沢東の肖像画を描いた画家) * [[前衛美術]] * [[LGBT]] == 外部リンク == {{commons|Andy_Warhol}} * [http://www.nou-sera.com/designer/andy.html アンディ・ウォーホル/andy warhol] * [https://www.muzeumaw.sk/ Múzeum moderného umenia Andyho Warhola] - アンディ・ウォーホル現代美術館公式サイト(スロバキア・メジラボルツェ市、1991年開館。[[スロバキア語]]・[[英語]]・[[ドイツ語]]・[[ポーランド語]]・[[ハンガリー語]]) * [http://www.warhol.org/ The Andy Warhol Museum] - アンディ・ウォーホル美術館公式サイト(アメリカ・ピッツバーグ市、1994年開館。英語) * [http://www.visite-virtuelle-france.com/perso/andy_warhol/andy_warhol.htm Virtual visit] in Musée d'Art Contemporain de Lyon. * [http://www.warholfoundation.org/ Warhol Foundation] in New York, New York. * [http://www.artquotes.net/masters/warhol-andy.htm Andy Warhol Profile] Includes a biography, selection of images, famous quotes, and links to the artist. * [http://x-traonline.org/vol5_1/warhol_responses.html Two short articles about Warhol's 2002 museum retrospective from the art magazine "X-Tra"] * [http://www.artfacts.net/index.php/pageType/artistInfo/artist/328 Actual exhibitions with Andy Warhol on Artfacts] ''Andy Warhol's works are still widely at present in various shows and permanent collections in museums or galleries throughout the world.'' * {{Wayback|url=http://www.geocities.com/joopbersee/andy3.html |title=Andy Warhol Poetry Tribute |date=*}} * [http://www.the3graces.info/random_warhol.htm http://www.the3graces.info] A warholesque biography of Andy Warhol. * [http://www.accuracyproject.org/cbe-Warhol,Andy.html Internet Accuracy Project - Andy Warhol] * [http://www.doubletakeart.com/cgi-bin/dtg/dtg.psearch?a1=00594 Doubletake Gallery] Online Catalog of Limited Editions * [http://www.malarze.walhalla.pl/galeria.php5?art=70 Art Gallery - Andy Warhol] * [http://www.moreeuw.com/histoire-art/andy-warhol.htm Andy Warhol] * {{Kotobank|ウォーホール}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:うおほる あんてい}} [[Category:20世紀アメリカ合衆国の画家]] [[Category:20世紀アメリカ合衆国の版画家]] [[Category:アメリカ合衆国の現代美術家]] [[Category:アメリカ合衆国のポップアーティスト]] [[Category:ポストモダン芸術家]] [[Category:インスタレーション・アーティスト]] [[Category:アメリカのソーシャライト]] [[Category:スロバキア系アメリカ人]] [[Category:ピッツバーグ出身の人物]] [[Category:アメリカ合衆国出身のLGBTの芸術家]] [[Category:ペンシルベニア州のLGBTの人物]] [[Category:ゲイの芸術家]] [[Category:1928年生]] [[Category:1987年没]] [[Category:アメリカ合衆国出身のLGBTの著作家]]
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日本テレビ放送網
日本テレビ放送網株式会社(にほんテレビほうそうもう、英: Nippon Television Network Corporation)は、日本テレビホールディングスの連結子会社で、関東広域圏を放送対象地域としてテレビジョン放送を行う特定地上基幹放送事業者。日本国内で最初に開局した民放テレビ局で、日本の民放テレビ局においては歴史が最も古い。一般的には日本テレビ(にほんテレビ)又は日テレ(ニッテレ)と呼ばれる。 コールサイン「JOAX-DTV」(東京 25ch)。NNN・日本ニュースネットワーク、NNS・日本テレビネットワーク協議会(日本テレビ系列)のキー局である。リモコンキーIDは「4」。 スカパー!プレミアムサービスをプラットフォームとして日テレジータスの放送を行う衛星一般放送事業者でもある。 なお、認定放送持株会社制移行のために、2012年10月1日に(旧)日本テレビ放送網株式会社(現日本テレビホールディングス株式会社・旧会社)から新設分割され、移管・放送免許を承継した(新)日本テレビ放送網株式会社(現行会社)が現業を行っている。 ※テレビジョン単営局に対する最初の予備免許であったため、「JO*X-TV」シリーズの中で“A”が与えられた。 関東広域圏における地上波放送以外に、以下のチャンネルを放送、供給している。 1966年4月1日にNNN(Nippon News Network)を、また1972年6月14日にNNS(Nippon television Network System)を形成し、各系列局とネットワークを結んでいる。現在NNN加盟局は30局、NNS加盟局は29局。日本テレビの報道取材地域には関東広域圏の他に沖縄県が含まれる(沖縄県にNNN系列局がないため)。 開局以来長年「(第)4チャンネル」、「AX」、「NTV」などを略称として使用してきたが、1995年前後よりキャンペーンコピーに「日テレ」 を使用し始めた。後述の正式な略称・愛称採用以前には1996年8月から4年間放送されたCSチャンネルの名称を「CS★日テレ」、2000年12月には、開局した系列のBS日本のチャンネル名称を「BS日テレ」とした。 2003年の放送開始50周年と汐留移転を契機にコーポレートロゴを「日テレ」とするなど、正式な略称・愛称として「日テレ」が採用された。なお、新聞・テレビ情報誌の番組表での表示は従来通り「日本テレビ」のままだが、デイリースポーツ東京版では「日テレ」(以前は「NTV」)、一部番組の動画配信や関連商品の版権表記では「NTV」として表記されている。 業界ではコールサインを由来とするCX(フジテレビ)、EX(テレビ朝日)、TX(テレビ東京)に合わせ「AX」(エーエックス、アックス)と呼ぶこともある。これにちなんで、かつてはSHIBUYA-AX(シブヤ-アックス、2014年5月31日営業終了)というライブスペースを運営していた時期があり、『AX MUSIC-FACTORY』、『AX MUSIC-TV』という番組も放送していた。また、2010年には日本テレビタワーにミニライブハウス「汐留AX」(SHIODOME-AX)を設立した。グループ内の番組制作会社『日テレアックスオン』(略称:『AXON』)の社名にも「AX」が使われている。 商号の読みは「にほんテレビほうそうもう」ではなく「にっぽんテレビほうそうもう」が正しく、これは日本放送協会(にっぽんほうそうきょうかい、NHK)やテレビ西日本(テレビにしにっぽん、TNC)の場合と同様に、英字表記する場合や局ロゴなどの表記では"NIPPON TV"としている。ただしこの2局とは異なりコールネームの方は逆に「にほんテレビ(デジタルテレビジョン)」が正しいために局名告知でも全て「にほんテレビ」で統一されており、アナウンサーも「にほんテレビ」と読むことが多い。更には国税庁の法人番号公表サイトでも商号の読み仮名が「ニホンテレビホウソウモウ」とされている。 日本テレビでは、以下の2冊を発行している(2020年3月時点)。 日本テレビ放送網は1953年8月に放送を開始した。正式社名が「日本テレビ放送網」 であるように、元々は一社で日本全国にテレビネットワークを形成することを計画して設立された。 1951年9月に正力松太郎によって日本テレビ放送網構想が公表され、日本各地に直営局を持つ放送・通信網(テレビ放送に限らない多重通信網・マイクロ中継網)が想定されていた(正力構想)。1952年7月に電波監理委員会から予備免許を付与されたが、免許方針ではさしあたり東京に2~3局、他の都市では1~2局を置局するとされた。本放送開始後も正力はマイクロ中継網を諦めてはいなかったが、マイクロ回線を専用線として貸し出す方針を示していた電電公社や、テレビ事業への進出を検討していた新聞業界から反発(1953年9月の新聞社69社の反対声明)を受けた。さらに1954年12月に衆参両院の電気通信委員会が民間へのマイクロ回線業務を認可しないとする決議を行ったことで正力構想の実現は困難となった(マイクロ中継網については建設のための巨額の経費や公衆電気通信法による第三者への賃貸禁止などの問題もあった)。こうして関東広域圏の放送局としての方向性が定まった。 開局当初、テレビ受像機のない家庭が殆どであったため、広告媒体としての民放テレビをアピールすべく、首都圏の主要箇所に街頭テレビを設置。テレビ普及に役立てた。また、麹町局舎横のテレビ塔を展望目的に一般へ公開。東京タワーができるまでは観光名所となっていた。 プロ野球やプロレス中継などのスポーツ番組や『なんでもやりまショー』などのバラエティー番組に強みを持ち、ラジオ東京テレビ(現在のTBSテレビ)開局後も営業成績では上回っていた。特に後楽園スタヂアム(現在の東京ドーム)と同社施設の独占中継権を掌握していたのが有利に働いた。 日本民間放送連盟には、当初加盟しなかった。電波の送信もNHKや他の民放とは異なり、東京タワーではなく自社鉄塔からの送信を継続した。「全ては自社こそテレビのパイオニアである」ということを自負していたからである。 東京タワーより低い麹町の自社鉄塔からの送信は、局舎周囲に高い建物が増加するにつれ難視聴地域を拡大させた。このため、正力は新宿区東大久保一丁目(現・新宿六丁目)に用地を確保。東京タワーの333mより高い550mの高さを有する、通称「正力タワー」を1968年に構想する。タワーの下には100階建てと200階建てのビルを数棟建てる予定であった。 ところが、「正力タワー」構想発表後の翌1969年3月5日には、当時内幸町(東京放送会館)に位置していたNHKが渋谷に計画していた現在のNHK放送センター敷地内に、「正力タワー」よりもさらに高く、現在の東京スカイツリーの高さに匹敵する600m級の、当時としては世界最大の電波塔となる予定であった(当時の世界最大の電波塔はオスタンキノ・タワーの537mであった)「NHKタワー」の建設計画を発表した(いわゆる「渋谷案」)が、この構想は「正力タワー」と同様に頓挫した。「渋谷案」は同年7月に建設計画が発表され、「高さ200mまでは鉄骨の四本足で支え、そこから高さ550mまではステンレスで覆った直径15mの円筒形になり、さらにこの上に直径212.5m、長さ50mのアンテナを取り付ける。また、重量はオスタンキノ・タワーの約4分の1の7000~8000tと軽量なタワーとする」という計画であった。なお、これとは別の案として、同じく同年7月にはNHKは代々木公園の敷地内に、「渋谷案」および「正力タワー」よりも低いものの、それでも当時は相当な高さの電波塔計画であった、高さ488m、最大直径40mの電波塔を建設する計画(いわゆる「代々木案」)もほぼ同時に打ち出した(こちらも「NHKタワー」の名称とする計画であった)。この「代々木案」では総工費は65億円で、最上部の展望台は4層構造、300人収容できる回転レストランを併設する計画であった が、こちらも頓挫した。なお「代々木案」が「渋谷案」と大きく異なるのは、「渋谷案」では純然たる電波塔で計画されていたのに対し、「代々木案」では付帯設備としてレストランを併設した施設として計画していた点であった。 この対抗的に出された「NHKタワー」計画に、正力は「同じようなものは2本(「正力タワー」と「NHKタワー」とを合わせた数)も要りません」と言い放ち、さらに「最近になって計画らしいものを出し、まだ建築申請書も出していない「NHKタワー」と(「正力タワー」とを)一緒にされ、競合などとするのは筋違いではないか」とNHKを非難した。これに対してNHK側も「正力さんの「正力タワー」は観光塔じゃないですか?(「NHKタワー」でも「代々木案」が付帯設備を設けているものの、計画では主な利用目的を電波塔としての位置付けとしていた)」と批判。また「NHKが民間放送に対して恒久的に施設を借りた例は今までにない。そんなことをしていては視聴者に対しての責任が持てない」と正力の批判に反論した。 西大久保に建設予定であった「正力タワー」に対抗するかのように、有力候補地を2案出していた「NHKタワー」は、東京タワーを使用していたNHK教育テレビ用のアンテナと当時紀尾井町に位置していたNHK総合テレビ用電波塔(高さ82m)より電波を送っていたNHK総合テレビの電波塔を「NHKタワー」へと移転統合する計画であったが、NHK局舎の内幸町から渋谷への移転までに計画は立ち消えとなった。 正力の没後、「正力タワー」の建設計画の消滅、およびそれに関連しての東京タワーへの送信所移転が行われた。「正力タワー」を予定していた用地は後に日本テレビゴルフガーデンとしてオープンした。 当時読売新聞社主であった正力が社長を務めていたことで、大阪の完全系列局である読売テレビの開局が「大阪読売新聞」の部数増に繋がったことなどの事例もあったが、いくら強いコンテンツを持っていても「読売色」を警戒する地方局が多く、ネットワーク形成ではTBSの後手に回った。このため報道が手薄になり、かつ番組販売も芳しくなかった。これはTBS自身が新聞社の色を薄め、結成当初から特定の新聞との関係を持たないようにしてネットワーク形成を構築したためである。 加えて上記の通り難視聴地域が増加したこと、さらに肝心の自社制作番組そのものが不振となり、1960年代半ばから業績は下降した。 正力の没後、粉飾決算の公表もなされた一方で、名古屋地区の中京テレビへの単独ネット化、読売新聞への完全系列化、ラジオ日本との提携など、正力の娘婿である小林與三次の手で改革が行われ、一連のバラエティー番組が気を吐いて視聴率は持ち直す。その後、朝枠に『ズームイン!!朝!』などの情報番組を投入し、夕方の報道番組も強化した。しかし、ようやく持ち直した視聴率も1980年代当時「軽チャー路線」で成功し視聴率三冠王に輝いていたフジテレビの後塵を拝し、番組制作現場では「どうすればフジテレビに勝てるのか」を常に研究していたという。 日本テレビは、とにかく視聴者が興味を持つ内容を番組制作や内容に盛り込むことで、高い視聴率を確保しようとし、番宣バラエティ番組として平日の『なんだろう!?大情報!』、週末の『TVおじゃマンボウ』、『TVおじゃマンモス』を、それぞれ1993年から開始することで、視聴者へのPRを行った。 1990年代は1980年代末に発足した社内チーム「クイズプロジェクト」によって、バラエティ番組『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』・『マジカル頭脳パワー!!』が登場。早朝5時台に『あさ天5』を立ち上げ、『ジパングあさ6』や『ズームイン!!朝!』などの報道・情報番組が人気コンテンツとなる。1993年夏頃から、バラエティー番組や巨人戦中継などの人気番組を持つ日本テレビはフジテレビを追い抜くと、その勢いも次第に強まっていった。1994年から2003年に10年連続「年間視聴率四冠王」、1994年度から2002年度に9年連続「年度視聴率四冠王」(ゴールデンタイム・プライムタイム・全日に更にノンプライムを加えての表現)を達成した。更に、「月間四冠王」を史上最高となる46か月連続で達成し、2000年には史上初となる機械式視聴率調査を行っている26局の系列局すべてが年間・年度視聴率三冠王を達成するなど一時代を築いた。また、他局に先駆けて時代劇の制作・放送からいち早く撤退し、2004年の正月に放送された『丹下左膳』を最後に、時代劇の制作から一切手を引いている。 しかし2003年度には、視聴率買収事件の発覚や巨人戦中継の視聴率低下によるプライムタイムでの視聴率低迷の結果、プライムタイムが2位になりフジテレビに抜かれ、2004年度(2004年4月 - 2005年3月)の調査では、全部門で2位となり「三冠王」のタイトル全てをフジテレビに奪われた。 2000年代前半には、長寿番組や人気番組が続々と終了した。スポーツ番組『全日本プロレス中継』(2000年夏)を皮切りに、午前の帯番組『ルックルックこんにちは』(2001年春)、『ズームイン!!朝!』(2001年秋)、ドキュメンタリー教養番組『知ってるつもり?!』(2002年春)、情報バラエティ番組『特命リサーチ200X』(2004年春)、サスペンスドラマ枠『火曜サスペンス劇場』(2005年秋)、夕方の報道番組『NNNニュースプラス1』(2006年春)、昼の生活情報番組『午後は○○おもいッきりテレビ』(2007年秋)、民放テレビ局最長寿の報道番組『NNNきょうの出来事』(2006年秋)といった番組が次々と打ち切られた結果、2000年代前中盤の数年で日本テレビのタイムテーブルはほとんど塗り替えられた。 また、一部のバラエティ番組も視聴率が低下傾向にあったため、2009年春改編で19時台に帯番組『SUPER SURPRISE』を新設し、(改編時点で)開始10年以上経過していた番組は全て20時台に移行・集約させた。移行後も番組の人気は安定しており、月~木曜の20時台番組は全て開始20年を越す長寿番組となっている。 2000年代終盤以降はスポンサーニーズの高いコアターゲット層(T層・F1層・F2層)を意識した番組編成が功を奏し、全時間帯での視聴率向上に成功している。2008年・2009年には2年連続でノンプライム帯での年間・年度視聴率首位を獲得した。 2011年には8年ぶりに「年間視聴率三冠王」、2011年度には9年ぶりに「年度視聴率三冠王」をそれぞれフジテレビから奪還した。 2013年12月第2週(12月9日 - 15日)から2017年11月第1週(10月30日 - 11月5日)には歴代新記録となる204週連続「週間全日トップ」を記録した。 2013年7月から2018年9月には在京局歴代最高記録となる63ヶ月連続「月間全日帯視聴率トップ」を獲得した。また、2013年12月から2018年9月には在京局歴代最高記録となる58ヶ月連続「月間視聴率三冠王」を獲得した。 2014年には3年ぶりに「年間視聴率三冠王」、2014年度には3年ぶりに「年度視聴率三冠王」を奪還。また、放送収入(地上波放送におけるタイムCMとスポットCMの年度売上高の合計)でもフジテレビを追い抜き、民放トップに躍り出た。 2015年1月第5週から6月第2週には歴代最高記録となる20週連続三冠王を達成した。 2015年には年間売上高でも3000億円の大台を突破して前年まで31年間首位だったフジテレビを追い抜き、民放トップに躍り出た。 2016年には「週間視聴率三冠王」を年間で49回獲得し、1991年にフジテレビが記録した年間46回の記録を抜いて民放新記録となった。 2016年6月第4週(6月20日 - 26日)から2017年3月第1週(2月27日 - 3月5日)には民放歴代新記録となる35週連続「週間視聴率三冠王」を獲得した。 2019年には6年連続となる「年間視聴率三冠王」、2019年度には6年連続となる「年度視聴率三冠王」を獲得した。また、それまでKPI(重要業績評価指標)としていた「世帯視聴率」を、より正確に誰にどれくらい視聴されているかが分かる「個人視聴率」に全面的に移行させた。 2021年には11年連続となる「年間個人視聴率三冠王」、7年連続となる「年間個人視聴率五冠王」、9年連続となる「年間コア視聴率三冠王」、8年連続となる「年間コア視聴率五冠王」をそれぞれ獲得した。2021年度には歴代最長の9年連続となる「年度視聴率三冠王」(個人)を獲得した。 2022年には12年連続となる「年間個人視聴率三冠王」を獲得した。 日本テレビは日本のテレビ業界において、新しい放送媒体・放送形式を積極的に早く導入し、導入するや否やその媒体を用いた放送を定着させてきた事で有名である。放送免許取得や民間資本による開局・本放送開始はもちろんのこと、コマーシャルの放送、カラー放送、音声多重放送(世界初)、ワイドクリアビジョン放送、洋画の日本語吹き替え放送、L字型画面、データ放送、ワンセグ放送独自番組放送(非サイマル放送)、3D立体映像での生放送、ネット動画配信サービス、放送中のドラマ全話無料配信も日本の民間放送では日本テレビが初めてであった。 スポーツ中継についても、プロ野球中継におけるバックスクリーン横「センターカメラ」の導入、王貞治のための「ホームランカメラ」の導入、「審判カメラ」の導入、完全3D映像による中継の実現、サッカー中継におけるゴール内部への小型カメラの設置など、他局に先駆けて新たな中継技術を開発した。また、第3回世界陸上では世界で初めて写真判定を中継に取り入れた。 選挙特番における出口調査を全国規模で導入したのも日本テレビ報道局が最初である。 2000年代頃から環境問題に関して積極的に取り組んでいる。2003年3月に「日テレ・エコ委員会」を発足させ、在京民放キー局として初めてISOの環境マネジメントシステム規格ISO 14001の認証を取得したほか、2004年から毎年6月5日の世界環境デーを含む1週間を「日テレ系ecoウィーク」と題し、期間中は番組やイベントを通して環境問題を提起している。 テレビ放送の開始年が日本テレビと同じ1953年で共通している日本放送協会(NHK)と連携する機会も多く、2010年には「つなげよう、ecoハート。」、2021年には「国際ガールズ・デー」などをテーマに同局とコラボレーションして啓発キャンペーンを繰り広げた。また、2013年(テレビ放送開始60周年)と2018年(テレビ放送開始65周年)、2023年(テレビ放送開始70周年)には共同で特別番組も制作し、両局にて放映している。 宮崎駿率いるスタジオジブリとの関係が深く、同社の作品をほぼ独占的にテレビ放映する権利を持っている。また、日本テレビのマスコット「なんだろう」も宮崎駿が手掛けたものである。2023年10月に同社の株式4割超を取得し、子会社化することを同年9月に発表した。 2021年現在、民放キー局の中では唯一時代劇や2時間ドラマの制作を行わず、再放送枠も設けていない。そのためドラマ番組は自社系の衛星放送(BS日テレ・日テレプラス)での再放送がメインとなる。バラエティ番組については土曜・日曜の14~16時台に当該番組の宣伝も兼ねて再放送されることが多く、ドラマ番組も同枠で集中方式で再放送を実施することもある。 かつては、他の民放キー局に比べて収入全体に占める放送収入の割合が著しく高い状態であったが、現在は映画事業、通販事業、イベント・文化事業などによる放送外収入も広げている。『全日本仮装大賞』や『そっくりスイーツ』といった自社制作番組のフォーマット販売も積極的に行っており、海外事業による収入も増加しつつある。なお、海外販売で最も大きな売上を占めているのは2000年代前半に制作・放送された『¥マネーの虎』でこれまでに番組フォーマット輸出された国は2022年6月の時点で45か国以上に上る。 映画事業に関しては、スタジオジブリ作品や『名探偵コナン』シリーズ、細田守監督作品などのアニメ映画のほか、『デスノート』・『20世紀少年』シリーズ・『カイジ』シリーズ・『GANTZ』など少年漫画・青年漫画の実写化がある。 データ放送では鉄道運行情報を表示しており、JR東日本線の運行情報をJR東日本公式で表示しているテレビ局である。また『歌スタ!!』は在京キー局の中で深夜番組としては最初にデータ放送を導入した番組である。 インターネット事業に関しては積極的に展開している。一例として、ウェブサイトの充実にも取り組み、公式ウェブサイトアクセス数も在京民放テレビ局の中で首位を獲得している。 ビデオ・オン・デマンド(VOD)事業にもテレビ局としては早く参入し、日本初のテレビ局主導のインターネット動画配信サービス「第2日本テレビ」を運営していた(2012年10月から「日テレオンデマンド ゼロ」に改称)。完全無料化も功を奏し、テレビ局が運営するVODサービスの中で再生回数トップを誇り、2009年1月には単月黒字化に成功した。2010年12月からは有料動画配信サービス「日テレオンデマンド」の運営も開始した。2014年には一部の番組を放送後7日間パソコンやスマートフォンで無料視聴できる「日テレいつでもどこでもキャンペーン」を開始した。 2014年には「Hulu」から日本市場向けの事業を継承し、定額制動画配信サービスにも参入しており、最終的にはVOD事業はHuluに統一が採られている。 なお、Hulu以外の定額制動画配信サービスとの提携や自社制作番組の供給も行っており、2021年10月にNetflixと提携し、日本テレビが制作したドラマやバラエティー番組など、30作品を日本と中国を除くアジア各国への配信を開始したほか、2022年3月にはバラエティー番組『はじめてのおつかい』を世界190以上の国と地域に配信した。2023年3月には初の同サービスとの共同制作番組となる『名アシスト有吉』も世界配信した。また、2022年3月にウォルト・ディズニー・ジャパンとの間でも戦略的協業に関する合意書を締結し、同年4月から放送された『金田一少年の事件簿』をウォルト・ディズニー・カンパニー傘下の定額制動画配信サービスであるDisney+でも日本とほぼ同時期に世界配信を行った。 2020年10月からは日本の民放テレビ局で初となるテレビ番組のインターネット同時配信サービスである「日テレ系ライブ配信」(現・日テレ系リアルタイム配信)を試験的に開始し(同年12月30日でいったん終了)、2021年10月2日より本格運用を開始した。 汐留の日本テレビタワーの本社スタジオ機能は2004年2月29日に稼働し、生放送の報道・情報番組と一部のバラエティ番組が制作されている。 以前は19階は日テレグループ各社や韓国SBSなど海外テレビ局の東京支局、20階から24階には一般企業が入居していたが、現在はすべて日本テレビグループの企業が入居している。20階には準キー局である読売テレビと系列局の南海放送の東京支社も入居している。 旧本社・南本館にあったマイスタジオの名称は汐留移転後も使用されている。 汐留・日本テレビタワーに本社が移転された後も、旧社屋は麹町分室「日テレ麹町ビル」として北本館にある2つのスタジオと南本館にある貸しスタジオに限り、引き続き使用していた。日本テレビで最大面積のGスタジオがあることから、主に観客入れや出演者が多い番組が収録されている。また制作部門の一部デスクは分室に留まった。 また、日本テレビグループ企業の本社が入居し、CS日本(以前はBS日テレも)の本社と送出マスターもここにあった。周辺には、バップなど日本テレビの子会社・関連会社が入居する別館群がある。旧西本館は一般テナントビルとして使用されていた。 麹町社屋は「西本館」、「南本館」、「北本館」、「カラーセンター」の4棟から成り立っており、カラーテレビ放送開始に伴い建設された「カラーセンター」が後に新築された南本館と合体化された。しかし旧「カラーセンター」棟は老朽化が激しく、棟内にあったHスタジオとJスタジオは本社移転を契機として使用を中止した。 2019年1月、北本館隣接地に新築された番町スタジオの運用開始に伴い使用を完全に終了。旧社屋は順次取り壊されている。 旧社屋である麹町ビルの老朽化が進んでいるため、4K放送などの新しい機能を備えたスタジオとして、麹町ビルの隣に建設された。地上11階、地下5階、高さ59.9m(鉄塔含む高さ99.9m)、延べ面積33,600m2のテレビスタジオ。2016年2月着工、2018年8月竣工(全体の竣工は2020年12月)、2019年1月29日運用開始。名称は公募で選ばれた(住所の「二番町」が由来になっている)。 2004年に日本テレビの本社機能はデジタル放送に対応するため、開局以来本社を置いていた千代田区二番町(通称:麹町)から港区東新橋(通称:汐留)に移転した。 しかし、移転後に本社機能・番組収録を全て旧社屋から新社屋にシフトしたTBSやフジテレビとは違い、日本テレビは麹町社屋がさほど老朽化していなかった事や、新社屋の敷地面積が他の在京民放の社屋より狭いことなどから、本社機能と報道・情報番組制作、一部のバラエティ番組制作が『日本テレビタワー』にシフトし、バラエティ番組の多くが汐留に本社を移した後も2019年1月まで『麹町分室』で制作されており、BS・CS放送の番組送出は麹町で行っていた。こうした機能分散の例はテレビ朝日六本木ヒルズ完成前の時代(アークヒルズのスタジオ建設や本社機能移転)などがある。 2019年1月に麹町分室北本館隣接地に新築された番町スタジオへとその機能が引き継がれたが、今後も麹町の地での番組制作を継続する。 『麹町分室』『番町スタジオ』ともに、番組収録については各副調整室でVTRなどに収録した上で編集作業などを行い放送されていたが、生番組について、『麹町分室』では『日本テレビタワー(以後「本社」と表記)』の主調整室と映像・音声や各種制御系回線が直接接続されていなかったため、本社内の副調整室(所謂「受けサブ」)を開き、そこで一旦回線を受けCM出しなど制御系の調整を行ってから主調整室へ送る必要があった。 それに対し『番町スタジオ』では館内に「回線室」を設け、各副調整室と本社主調整室の映像・音声や各種制御系回線を接続できるようにした。これにより本社側に副調整室(所謂「受けサブ」)を開かず、『番町スタジオ』内の設備のみで直接生放送ができるように改められた。 『麹町分室』時代は、BS・CSの主調整室(送出マスター)が分室に置かれていたため、本社で制作された番組を光回線で送り、分室から放送されていたが、その後本社内にBS・CSも統合した主調整設備が完成し運用開始したことにより、2021年時点では番町スタジオで制作された番組は地上波・BS・CSすべてが光回線で本社へ送られている。本社主調整室から地上波は東京スカイツリー(東京タワーは予備送信所)で関東一円へ、ネット向け回線で全国のネット局へ、さらにBS・CSはそれぞれの衛星へのアップリンク施設を通じ送られ、放送に至っている。 汐留・麹町間はスタッフ専用のシャトルバスで結ばれている(六本木再開発時代のテレビ朝日も同様)。 スタジオ技術は子会社のNiTRo(旧NTV映像センター)が請け負っている。災害時の送出機能も備えている。 ワイドショー・情報番組が多く制作されており、ノンプライム帯に占める生放送の割合が高い。現在、月曜日 - 木曜日は午前4時30分から午後7時まで一部のミニ番組を除き生放送番組が連なっている(読売テレビ制作の『情報ライブ ミヤネ屋』を含む)。この分野を得意としている日本テレビはゴールデンタイム・プライムタイム・全日に加え、ノンプライムも視聴率の1つの区分として重要視している。 巨人戦のプロ野球中継は開局当時から「ドル箱番組」として日本テレビの番組編成の中心となっていたが、2002年を境に視聴率低迷が続き、2006年には年間平均視聴率が1桁を記録。これにより視聴率とスポンサーの点で特に大きく依存してきた日本テレビは大きなダメージを受けた。その後はゴールデンタイムのレギュラー番組を優先する編成方針から、東京ドームの巨人主催試合の放映権をNHKや他局に譲渡、あるいはBS日テレへ移行させるなどした結果、2009年以降の巨人戦の地上波中継は年間20試合前後にまで削減された。中継は週末デーゲームが中心で、ナイター中継は年間5試合程度となっている。 メジャーリーグベースボール(MLB)については放映権料の高騰を理由として、代理店との間で放映権の契約を交わしていないため、原則として、2009年から同リーグの中継を行っていない。また、同年から2022年シーズンまで、同リーグの試合映像の配信も受けていなかったため、日本テレビ系列のニュース・情報番組でMLB関連の話題を報じる際は現地の新聞社や通信社などから提供を受けた写真(静止画)を使用していた。なお、同年以降もMLBの公式戦を日本の東京ドームにて行う際はMLBとの間で個別に放映権を購入した上で生中継を行っている。 野球以外では1987年から箱根駅伝の中継権を獲得し、『新春スポーツスペシャル箱根駅伝』として完全中継を実施しており、毎年20%以上の高視聴率を記録する正月の人気番組となっている。サッカーは『全国高校サッカー選手権』の幹事局であり、系列局29社およびTOKYO MXを除く全国独立放送協議会12社・宮崎放送(JNN)・沖縄テレビ(FNS)と中継の共同制作を行っている。Jリーグ中継は、2009年まで当時親会社となっていたヴェルディ川崎→東京ヴェルディの主催試合を深夜枠中心に放送した。 過去には開局当初から日本プロレスの試合中継である『三菱ダイヤモンドアワー・日本プロレス中継』を編成して人気を博し、1972年に『全日本プロレス中継』に移行したが2000年で終了。その後は『プロレスリング・ノア中継』に移行したが、視聴率低迷を受けて2009年3月末を以て終了、以降地上波でのプロレス中継は行われていない。 他のキー局に比べて国際試合の中継数は少なく、ジャパンコンソーシアムが放映権を保有している国際大会を除き、2022年現在放映権を保有している大会はFIFAクラブワールドカップ(2005年大会から)、ラグビーワールドカップ(2007年の第6回大会以降)とFIBAバスケットボール・ワールドカップ(2023年開催予定の第19回大会)のみである。かつては世界陸上やワールド・ベースボール・クラシックの中継も実施していたが、いずれも他局に譲る形で撤退している。 1960年代から1970年代に掛けて『光子の窓』『シャボン玉ホリデー』『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』などの名番組を制作。1980年代には『久米宏のTVスクランブル』や『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』といった話題作はあったものの、全体的には視聴率も低迷。1990年代以降は『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』『マジカル頭脳パワー!!』や土屋敏男演出番組(『電波少年シリーズ』『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』)が人気を博し、その勢いを取り戻した。一時期までは『ロンパールーム』や『カリキュラマシーン』などの教育番組にも取り組んでおり、2021年現在は『所さんの目がテン!』が制作・継続されている。1966年から放送されている『笑点』は全国ネットで放送されるバラエティ・お笑い番組ではギネス世界記録を持つ長寿番組であり、日曜夕方の放送ながら現在も視聴率15%前後を叩き出す人気を誇っている。 他局と比較してゴールデンタイム・プライムタイムで放送されているバラエティ番組の本数が非常に多い。2023年現在、月~木曜の20時台で放送されているバラエティ番組は全て放送開始から20年を越す長寿番組となっている。日曜日に至っては15年以上続く長寿番組が集中していており、特に2007年の「イッテQ!」がゴールデンタイムに進出後は「笑点」から「おしゃれ」シリーズの番組編成が15年以上続いている。また、一部のバラエティ番組は情報エンターテインメント局で制作されている。 番組の開始時間を00分の定時ではなく、55分や57分などのいわゆるフライングスタートをキー局でいち早く導入した局である。 開局当初の麹町旧本社屋はドラマ撮影に対応可能な広いセット設備を持たなかったことから、ドラマ製作にあたっては日活や大映など各映画会社の撮影所を使用し、フィルム撮影によるテレビ映画の製作に力を入れていた。この制作方針は、自局製作によるスタジオドラマを得意としていたライバル局のTBSとは対照的なものであった。とりわけ国内の映画産業が斜陽化した1970年代から1990年代初頭にかけては東宝や石原プロモーションなど外部の映画製作プロと提携し、現代劇では『青春とはなんだ』『おひかえあそばせ』『傷だらけの天使』『大都会』『俺たちの旅』、時代劇では『子連れ狼』『新五捕物帳』『桃太郎侍』『長七郎江戸日記』などを放送。特に刑事ドラマは同局の十八番と言われ、1972年に金曜20時枠でスタートした『太陽にほえろ!』は最高視聴率42.5%(ニールセン調べ)を記録、レギュラー放送期間も15年近くに及ぶ人気番組となった。終了後も同時間帯はアクション路線の枠として定着し、廃枠となる1995年まで『もっとあぶない刑事』 『刑事貴族』『静かなるドン』などの人気作を生んだ。生田スタジオの運用開始以降は自局製作による一般ドラマも積極的に手掛け、『前略おふくろ様』『熱中時代』『天まであがれ!』『妻たちの課外授業』などをヒットさせている。この他、『二丁目の未亡人は、やせダンプといわれる凄い子連れママ』に始まる「長いタイトルシリーズ」などのユニークな試みも行っており、『七丁目の街角で、家出娘と下駄バキ野郎の奇妙な恋が芽生えた』は日本のテレビ番組史上最も長いタイトルとされている。 現在、プライムタイムで放送されている全国ネットの連続ドラマ枠は『水曜ドラマ』・『土曜ドラマ』・『日曜ドラマ』 の3本。これは他局並みの数だが、『家なき子』『金田一少年の事件簿』『ごくせん』『家政婦のミタ』『あなたの番です』など人気番組も数多い。『水曜ドラマ』は女性層、『土曜ドラマ』はファミリー層、もしくはティーンエイジ層を意識した作品を放送している。『日曜ドラマ』は「大人の男性も楽しめて、月曜日へ弾みになるドラマ」をコンセプトとして近年では1年に1本必ず学園ドラマ(それも多くが高校が舞台のものである。)が編成されている。2017年度以降は3枠とも開始時間が22時以降となっており、全国ネットでは最も遅い編成を組んでいる。また、キー局では唯一、21世紀以降に20時台にテレビドラマ枠を編成したことがない。 なお、上記に挙げられている現在放送中のプライムタイムの連続ドラマ枠では、すべてステレオ放送、文字多重放送、連動データ放送を実施しているほか、2017年10月期以降に放送される作品にはそれらに加え、解説放送も随時実施している。更に、2019年度以降に放送される作品は原則として初回・最終回などの放送時間拡大を廃止し、通常放送時と同様の放送時間になっている。 また2018年から断続的に『ZIP!』内で連続短編ドラマを展開するなど、放送枠の概念を超えたチャレンジを積極的に行っている。 トムス・エンタテインメント(旧:東京ムービー)との繋がりが強く、自社製作では『ルパン三世』シリーズ、『それいけ!アンパンマン』、読売テレビ製作では『名探偵コナン』などを放送。また、スタジオジブリ制作のアニメーション映画作品にも参加するなど、アニメ史上重要な映画作品を多数製作している。1973年には『ドラえもん』を現在放送中のテレビ朝日版に先駆けてアニメ化した実績も持つ。特撮番組は円谷プロダクションの初期の代表作のひとつである『快獣ブースカ』をはじめとして、『ファイヤーマン』『流星人間ゾーン』『スーパーロボット レッドバロン』『星雲仮面マシンマン』『電脳警察サイバーコップ』などを放送。1978年には開局25周年記念作品として製作された『西遊記』がヒットした。 1980年代~1990年代前半は日曜午前や平日夕方に数多くの自社制作の30分連続テレビアニメ枠が存在していたが、2022年現在は、自社製作の30分連続テレビアニメ枠は金曜午前に『それいけ!アンパンマン』を持つほか、『金曜ロードショー』でも長編アニメを放送する。 この他、いわゆる「深夜アニメ」もキー局としては黎明期から積極的に放送しているが、他キー局と比べて時おり休止したり、放送曜日の変動が激しい傾向がある(詳細は「日本テレビの深夜アニメ枠の項」を参照)。一部の深夜アニメ作品についてはHuluで日テレでの本放送より早く配信を行っている。 子会社としてアニメ制作会社・マッドハウスやタツノコプロを保有しているため、この2社が作った深夜アニメを放送する事も多い。 他系列に比べ、系列局が全国ネットの番組を制作する機会が多い。 現在、読売テレビは土曜日17時台後半のアニメ、『名探偵コナン』(土曜日18時台)、『秘密のケンミンSHOW→秘密のケンミンSHOW極』(木曜日21時台)、『ダウンタウンDX』(木曜日22時台)、『木曜ドラマ→木曜ドラマF→モクドラF→木曜ドラマ』(金曜日0時台〈木曜日深夜〉)、2020年以降の一部の『日曜ドラマ』(日曜日22時台後半~23時台前半)、『情報ライブ ミヤネ屋』(月 - 金曜日14時・15時台)、『ウェークアップ』(土曜日8時台・9時台前半)、『遠くへ行きたい』を制作している。中京テレビは『ヒューマングルメンタリー オモウマい店』(火曜19時台)、『それって!?実際どうなの課』(木曜日0時台〈水曜日深夜〉)、『オードリーさん、ぜひ会ってほしい人がいるんです。』を制作している。 かつては深夜のバラエティー枠『ZZZ』を系列局に開放し、札幌テレビ(『爆笑問題のススメ』など)、山口放送(『三宅裕司のドシロウト』など)、テレビ岩手(『フライデーナイトはお願い!モーニング』)、広島テレビ(『松本紳助』など)、福岡放送(『新型テレビ』など)が制作に参加した。 また、1970年代には基幹局以外でも北日本放送がゴールデンタイムのテレビドラマ『ゲンコツの海』を、山梨放送がプライムタイムのバラエティ番組『田宮二郎ショー プラザ47』を制作した。 夏期・冬期には『土曜パラダイス』などの放送枠で各系列局制作の全国ネット番組が相次いで放送される。年に1・2回のペースで全国ネットの単発番組を制作している系列局も多い。 2011年7月に発足した部署。2006年に従来の編成本部が制作局と名称を変え、その中の部署も一新された。実質、その編成本部の前の編成局が復活したようなもの。新しい部署として、「ドラマ制作部」、「CP班グループ」、「業務部」が作られた。また、新たに「スポーツ・情報局」が発足し、スポーツ番組や情報番組はこのスポーツ・情報局の担当となった。2009年7月の組織改正により制作局が廃止され、バラエティー局とドラマ局に分割されたが、2011年7月の組織改正で再び統合され、制作局の下にバラエティーセンターとドラマセンターが置かれた。さらに2012年6月からはバラエティーセンターとドラマセンターが廃止され制作局に移管した。 具体的に制作されている番組の種類は次の通り。 その他、日本テレビ制作局制作番組の分野別一覧も参照のこと。 制作局と共に2006年に「スポーツ・情報局」として発足した部署。従来の編成本部の制作していたスポーツ番組や情報番組がこの部署の制作担当となった。その後、2007年7月の組織改正により、情報エンターテインメント局とスポーツ局に分割された。スポーツ局には「CP班グループ」と「スポーツ企画推進部」、情報エンターテインメント局には「CP班グループ」がそれぞれ作られた。 2012年12月より情報エンターテインメント局は情報カルチャー局に改称された。 具体的な制作番組は以下の通り。 その他、日本テレビ・スポーツ・情報局制作番組の分野別一覧も参照のこと。 報道局は、政治部・経済部・社会部・国際部・映像取材部・総合ニュースセンター・ライブソリューション部・NNN事務局・解説委員会・業務改革推進部・報道審査委員会の11部署からなり、汐留・日テレタワー5階の報道局を中心に業務を行っている(報道フロア 340坪)。2012年6月1日付の組織改正で、民放では珍しい生活文化部が設置されていた。 海外の放送局を模して、レールカメラを配置した報道フロアをはじめ、パーマネントセットを配置した放送スタジオも完備している。CS放送・日テレNEWS24(旧NNN24)のスタジオもここにある。この報道局内設備もすべてHDに対応している。ニュース映像素材は最近ではHDカメラによる取材や現場からの中継も行っており、民放キー局としては報道取材におけるHDの導入が早く、今では日本テレビの放送エリア内の取材は、ほぼ全面的にHD化されている。 地方局が取材したニュースについては取材した系列局のテロップを「NNN」と併記して表示する(連名で表示する場合もある)。重大な事件・大規模な事故・災害の取材の際、地元局以外の系列局の支援を受け共同取材する場合や、高校野球等系列各局が集結して取材を行う場合は「NNN取材団」と表示する。この表示は地上波放送各種ニュース番組・日テレNEWS24ともにおこなわれている。 報道スタジオは5階報道局に隣接して置かれ、サブは3つある。主にNEWS1サブでは地上波、NEWS2サブは日テレNEWS24で使用される。この他に素材収録用の簡易サブもある。 ニュース映像の収録・編集は4階のCVセンター、テロップ・CGなどの制作は4階のテロップセンターで行われている。 NNN系列各局や海外メディア配信へのニュース配信を行う「ニュースチャンネル」が6階にあり、ニュース配信を行う送出設備のほかVTR編集室・カメラ1台の顔出し設備がある。 具体的に制作されている番組の種類は次の通り。 その他、日本テレビ・報道局制作番組の分野別一覧も参照のこと。 日本テレビでは以下のように、汐留「日テレプラザ」(日テレタワー敷地内)および周辺にて年数回開催される総合イベントをはじめ、『ズームイン!!SUPER』などの番組主体のイベントも開催しているほか、ミュージカルや美術展などにも力を入れている。 また、ラジオ日本で放送している日本テレビ提供の番組『坂上みきのエンタメgo!go!』でもイベント情報を紹介している。 ※は現在でも継続してシリーズ化されている映画 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代前半 2005年 2006年 2007年 2008年 2009年 2010年 2011年 2012年 2013年 2014年 2015年 2016年 2017年 2018年 2019年 2020年 2021年 2022年 2023年 2024年 日本テレビが製作・出資に関わる映画は、「製作委員会方式」による作品が主流である。準キー局の読売テレビ、親会社の読売新聞、基幹系列局の札幌テレビ・ミヤギテレビ・静岡第一テレビ・読売テレビ・中京テレビ・広島テレビ・福岡放送などが制作委員会に名を連ねている作品が多い。 2022年9月22日、郡司恭子アナ発案で、アパレルブランド「Audire」(アウディーレ)を立ち上げた。「Wear the Voice.」をブランドコンセプトに、服を通じて女性の生き方に関する発信を行っていく。 他 他 他 なお、国が許可した債権回収業(サービサー)のニッテレ債権回収株式会社とは全くの無関係。 ※2013年5月30日以前は新宿センタービル(東京都新宿区西新宿1丁目25-1)が予備送信所として使われていた。 全145局の送信所が存在する。 2011年7月24日終了時点 全97局の送信所が存在した。 70・71chは難視聴対策のためのSHF放送。 長野県・静岡県の各一部地域のCATV事業者は各県に系列局はあるものの激変緩和措置として、区域外再放送をアナログ放送終了後3年間(2014年7月24日まで)を限度として実施していた。山梨県郡内地方のCATV事業者でも、アナログ放送時代にはその終了までアナログ放送でのみ実施していた。なお、激変緩和措置の期間満了後は個別協議により次の通り継続実施していたが、2018年9月30日をもって当局を区域外再放送するケーブルテレビ局は無くなった。 静岡県 現在 過去に設置
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "日本テレビ放送網株式会社(にほんテレビほうそうもう、英: Nippon Television Network Corporation)は、日本テレビホールディングスの連結子会社で、関東広域圏を放送対象地域としてテレビジョン放送を行う特定地上基幹放送事業者。日本国内で最初に開局した民放テレビ局で、日本の民放テレビ局においては歴史が最も古い。一般的には日本テレビ(にほんテレビ)又は日テレ(ニッテレ)と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "コールサイン「JOAX-DTV」(東京 25ch)。NNN・日本ニュースネットワーク、NNS・日本テレビネットワーク協議会(日本テレビ系列)のキー局である。リモコンキーIDは「4」。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "スカパー!プレミアムサービスをプラットフォームとして日テレジータスの放送を行う衛星一般放送事業者でもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "なお、認定放送持株会社制移行のために、2012年10月1日に(旧)日本テレビ放送網株式会社(現日本テレビホールディングス株式会社・旧会社)から新設分割され、移管・放送免許を承継した(新)日本テレビ放送網株式会社(現行会社)が現業を行っている。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "※テレビジョン単営局に対する最初の予備免許であったため、「JO*X-TV」シリーズの中で“A”が与えられた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "関東広域圏における地上波放送以外に、以下のチャンネルを放送、供給している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1966年4月1日にNNN(Nippon News Network)を、また1972年6月14日にNNS(Nippon television Network System)を形成し、各系列局とネットワークを結んでいる。現在NNN加盟局は30局、NNS加盟局は29局。日本テレビの報道取材地域には関東広域圏の他に沖縄県が含まれる(沖縄県にNNN系列局がないため)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "開局以来長年「(第)4チャンネル」、「AX」、「NTV」などを略称として使用してきたが、1995年前後よりキャンペーンコピーに「日テレ」 を使用し始めた。後述の正式な略称・愛称採用以前には1996年8月から4年間放送されたCSチャンネルの名称を「CS★日テレ」、2000年12月には、開局した系列のBS日本のチャンネル名称を「BS日テレ」とした。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2003年の放送開始50周年と汐留移転を契機にコーポレートロゴを「日テレ」とするなど、正式な略称・愛称として「日テレ」が採用された。なお、新聞・テレビ情報誌の番組表での表示は従来通り「日本テレビ」のままだが、デイリースポーツ東京版では「日テレ」(以前は「NTV」)、一部番組の動画配信や関連商品の版権表記では「NTV」として表記されている。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "業界ではコールサインを由来とするCX(フジテレビ)、EX(テレビ朝日)、TX(テレビ東京)に合わせ「AX」(エーエックス、アックス)と呼ぶこともある。これにちなんで、かつてはSHIBUYA-AX(シブヤ-アックス、2014年5月31日営業終了)というライブスペースを運営していた時期があり、『AX MUSIC-FACTORY』、『AX MUSIC-TV』という番組も放送していた。また、2010年には日本テレビタワーにミニライブハウス「汐留AX」(SHIODOME-AX)を設立した。グループ内の番組制作会社『日テレアックスオン』(略称:『AXON』)の社名にも「AX」が使われている。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "商号の読みは「にほんテレビほうそうもう」ではなく「にっぽんテレビほうそうもう」が正しく、これは日本放送協会(にっぽんほうそうきょうかい、NHK)やテレビ西日本(テレビにしにっぽん、TNC)の場合と同様に、英字表記する場合や局ロゴなどの表記では\"NIPPON TV\"としている。ただしこの2局とは異なりコールネームの方は逆に「にほんテレビ(デジタルテレビジョン)」が正しいために局名告知でも全て「にほんテレビ」で統一されており、アナウンサーも「にほんテレビ」と読むことが多い。更には国税庁の法人番号公表サイトでも商号の読み仮名が「ニホンテレビホウソウモウ」とされている。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本テレビでは、以下の2冊を発行している(2020年3月時点)。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日本テレビ放送網は1953年8月に放送を開始した。正式社名が「日本テレビ放送網」 であるように、元々は一社で日本全国にテレビネットワークを形成することを計画して設立された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1951年9月に正力松太郎によって日本テレビ放送網構想が公表され、日本各地に直営局を持つ放送・通信網(テレビ放送に限らない多重通信網・マイクロ中継網)が想定されていた(正力構想)。1952年7月に電波監理委員会から予備免許を付与されたが、免許方針ではさしあたり東京に2~3局、他の都市では1~2局を置局するとされた。本放送開始後も正力はマイクロ中継網を諦めてはいなかったが、マイクロ回線を専用線として貸し出す方針を示していた電電公社や、テレビ事業への進出を検討していた新聞業界から反発(1953年9月の新聞社69社の反対声明)を受けた。さらに1954年12月に衆参両院の電気通信委員会が民間へのマイクロ回線業務を認可しないとする決議を行ったことで正力構想の実現は困難となった(マイクロ中継網については建設のための巨額の経費や公衆電気通信法による第三者への賃貸禁止などの問題もあった)。こうして関東広域圏の放送局としての方向性が定まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "開局当初、テレビ受像機のない家庭が殆どであったため、広告媒体としての民放テレビをアピールすべく、首都圏の主要箇所に街頭テレビを設置。テレビ普及に役立てた。また、麹町局舎横のテレビ塔を展望目的に一般へ公開。東京タワーができるまでは観光名所となっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "プロ野球やプロレス中継などのスポーツ番組や『なんでもやりまショー』などのバラエティー番組に強みを持ち、ラジオ東京テレビ(現在のTBSテレビ)開局後も営業成績では上回っていた。特に後楽園スタヂアム(現在の東京ドーム)と同社施設の独占中継権を掌握していたのが有利に働いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "日本民間放送連盟には、当初加盟しなかった。電波の送信もNHKや他の民放とは異なり、東京タワーではなく自社鉄塔からの送信を継続した。「全ては自社こそテレビのパイオニアである」ということを自負していたからである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "東京タワーより低い麹町の自社鉄塔からの送信は、局舎周囲に高い建物が増加するにつれ難視聴地域を拡大させた。このため、正力は新宿区東大久保一丁目(現・新宿六丁目)に用地を確保。東京タワーの333mより高い550mの高さを有する、通称「正力タワー」を1968年に構想する。タワーの下には100階建てと200階建てのビルを数棟建てる予定であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ところが、「正力タワー」構想発表後の翌1969年3月5日には、当時内幸町(東京放送会館)に位置していたNHKが渋谷に計画していた現在のNHK放送センター敷地内に、「正力タワー」よりもさらに高く、現在の東京スカイツリーの高さに匹敵する600m級の、当時としては世界最大の電波塔となる予定であった(当時の世界最大の電波塔はオスタンキノ・タワーの537mであった)「NHKタワー」の建設計画を発表した(いわゆる「渋谷案」)が、この構想は「正力タワー」と同様に頓挫した。「渋谷案」は同年7月に建設計画が発表され、「高さ200mまでは鉄骨の四本足で支え、そこから高さ550mまではステンレスで覆った直径15mの円筒形になり、さらにこの上に直径212.5m、長さ50mのアンテナを取り付ける。また、重量はオスタンキノ・タワーの約4分の1の7000~8000tと軽量なタワーとする」という計画であった。なお、これとは別の案として、同じく同年7月にはNHKは代々木公園の敷地内に、「渋谷案」および「正力タワー」よりも低いものの、それでも当時は相当な高さの電波塔計画であった、高さ488m、最大直径40mの電波塔を建設する計画(いわゆる「代々木案」)もほぼ同時に打ち出した(こちらも「NHKタワー」の名称とする計画であった)。この「代々木案」では総工費は65億円で、最上部の展望台は4層構造、300人収容できる回転レストランを併設する計画であった が、こちらも頓挫した。なお「代々木案」が「渋谷案」と大きく異なるのは、「渋谷案」では純然たる電波塔で計画されていたのに対し、「代々木案」では付帯設備としてレストランを併設した施設として計画していた点であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "この対抗的に出された「NHKタワー」計画に、正力は「同じようなものは2本(「正力タワー」と「NHKタワー」とを合わせた数)も要りません」と言い放ち、さらに「最近になって計画らしいものを出し、まだ建築申請書も出していない「NHKタワー」と(「正力タワー」とを)一緒にされ、競合などとするのは筋違いではないか」とNHKを非難した。これに対してNHK側も「正力さんの「正力タワー」は観光塔じゃないですか?(「NHKタワー」でも「代々木案」が付帯設備を設けているものの、計画では主な利用目的を電波塔としての位置付けとしていた)」と批判。また「NHKが民間放送に対して恒久的に施設を借りた例は今までにない。そんなことをしていては視聴者に対しての責任が持てない」と正力の批判に反論した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "西大久保に建設予定であった「正力タワー」に対抗するかのように、有力候補地を2案出していた「NHKタワー」は、東京タワーを使用していたNHK教育テレビ用のアンテナと当時紀尾井町に位置していたNHK総合テレビ用電波塔(高さ82m)より電波を送っていたNHK総合テレビの電波塔を「NHKタワー」へと移転統合する計画であったが、NHK局舎の内幸町から渋谷への移転までに計画は立ち消えとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "正力の没後、「正力タワー」の建設計画の消滅、およびそれに関連しての東京タワーへの送信所移転が行われた。「正力タワー」を予定していた用地は後に日本テレビゴルフガーデンとしてオープンした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "当時読売新聞社主であった正力が社長を務めていたことで、大阪の完全系列局である読売テレビの開局が「大阪読売新聞」の部数増に繋がったことなどの事例もあったが、いくら強いコンテンツを持っていても「読売色」を警戒する地方局が多く、ネットワーク形成ではTBSの後手に回った。このため報道が手薄になり、かつ番組販売も芳しくなかった。これはTBS自身が新聞社の色を薄め、結成当初から特定の新聞との関係を持たないようにしてネットワーク形成を構築したためである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "加えて上記の通り難視聴地域が増加したこと、さらに肝心の自社制作番組そのものが不振となり、1960年代半ばから業績は下降した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "正力の没後、粉飾決算の公表もなされた一方で、名古屋地区の中京テレビへの単独ネット化、読売新聞への完全系列化、ラジオ日本との提携など、正力の娘婿である小林與三次の手で改革が行われ、一連のバラエティー番組が気を吐いて視聴率は持ち直す。その後、朝枠に『ズームイン!!朝!』などの情報番組を投入し、夕方の報道番組も強化した。しかし、ようやく持ち直した視聴率も1980年代当時「軽チャー路線」で成功し視聴率三冠王に輝いていたフジテレビの後塵を拝し、番組制作現場では「どうすればフジテレビに勝てるのか」を常に研究していたという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "日本テレビは、とにかく視聴者が興味を持つ内容を番組制作や内容に盛り込むことで、高い視聴率を確保しようとし、番宣バラエティ番組として平日の『なんだろう!?大情報!』、週末の『TVおじゃマンボウ』、『TVおじゃマンモス』を、それぞれ1993年から開始することで、視聴者へのPRを行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1990年代は1980年代末に発足した社内チーム「クイズプロジェクト」によって、バラエティ番組『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』・『マジカル頭脳パワー!!』が登場。早朝5時台に『あさ天5』を立ち上げ、『ジパングあさ6』や『ズームイン!!朝!』などの報道・情報番組が人気コンテンツとなる。1993年夏頃から、バラエティー番組や巨人戦中継などの人気番組を持つ日本テレビはフジテレビを追い抜くと、その勢いも次第に強まっていった。1994年から2003年に10年連続「年間視聴率四冠王」、1994年度から2002年度に9年連続「年度視聴率四冠王」(ゴールデンタイム・プライムタイム・全日に更にノンプライムを加えての表現)を達成した。更に、「月間四冠王」を史上最高となる46か月連続で達成し、2000年には史上初となる機械式視聴率調査を行っている26局の系列局すべてが年間・年度視聴率三冠王を達成するなど一時代を築いた。また、他局に先駆けて時代劇の制作・放送からいち早く撤退し、2004年の正月に放送された『丹下左膳』を最後に、時代劇の制作から一切手を引いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "しかし2003年度には、視聴率買収事件の発覚や巨人戦中継の視聴率低下によるプライムタイムでの視聴率低迷の結果、プライムタイムが2位になりフジテレビに抜かれ、2004年度(2004年4月 - 2005年3月)の調査では、全部門で2位となり「三冠王」のタイトル全てをフジテレビに奪われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2000年代前半には、長寿番組や人気番組が続々と終了した。スポーツ番組『全日本プロレス中継』(2000年夏)を皮切りに、午前の帯番組『ルックルックこんにちは』(2001年春)、『ズームイン!!朝!』(2001年秋)、ドキュメンタリー教養番組『知ってるつもり?!』(2002年春)、情報バラエティ番組『特命リサーチ200X』(2004年春)、サスペンスドラマ枠『火曜サスペンス劇場』(2005年秋)、夕方の報道番組『NNNニュースプラス1』(2006年春)、昼の生活情報番組『午後は○○おもいッきりテレビ』(2007年秋)、民放テレビ局最長寿の報道番組『NNNきょうの出来事』(2006年秋)といった番組が次々と打ち切られた結果、2000年代前中盤の数年で日本テレビのタイムテーブルはほとんど塗り替えられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また、一部のバラエティ番組も視聴率が低下傾向にあったため、2009年春改編で19時台に帯番組『SUPER SURPRISE』を新設し、(改編時点で)開始10年以上経過していた番組は全て20時台に移行・集約させた。移行後も番組の人気は安定しており、月~木曜の20時台番組は全て開始20年を越す長寿番組となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2000年代終盤以降はスポンサーニーズの高いコアターゲット層(T層・F1層・F2層)を意識した番組編成が功を奏し、全時間帯での視聴率向上に成功している。2008年・2009年には2年連続でノンプライム帯での年間・年度視聴率首位を獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2011年には8年ぶりに「年間視聴率三冠王」、2011年度には9年ぶりに「年度視聴率三冠王」をそれぞれフジテレビから奪還した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2013年12月第2週(12月9日 - 15日)から2017年11月第1週(10月30日 - 11月5日)には歴代新記録となる204週連続「週間全日トップ」を記録した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2013年7月から2018年9月には在京局歴代最高記録となる63ヶ月連続「月間全日帯視聴率トップ」を獲得した。また、2013年12月から2018年9月には在京局歴代最高記録となる58ヶ月連続「月間視聴率三冠王」を獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2014年には3年ぶりに「年間視聴率三冠王」、2014年度には3年ぶりに「年度視聴率三冠王」を奪還。また、放送収入(地上波放送におけるタイムCMとスポットCMの年度売上高の合計)でもフジテレビを追い抜き、民放トップに躍り出た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2015年1月第5週から6月第2週には歴代最高記録となる20週連続三冠王を達成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2015年には年間売上高でも3000億円の大台を突破して前年まで31年間首位だったフジテレビを追い抜き、民放トップに躍り出た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2016年には「週間視聴率三冠王」を年間で49回獲得し、1991年にフジテレビが記録した年間46回の記録を抜いて民放新記録となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2016年6月第4週(6月20日 - 26日)から2017年3月第1週(2月27日 - 3月5日)には民放歴代新記録となる35週連続「週間視聴率三冠王」を獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2019年には6年連続となる「年間視聴率三冠王」、2019年度には6年連続となる「年度視聴率三冠王」を獲得した。また、それまでKPI(重要業績評価指標)としていた「世帯視聴率」を、より正確に誰にどれくらい視聴されているかが分かる「個人視聴率」に全面的に移行させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2021年には11年連続となる「年間個人視聴率三冠王」、7年連続となる「年間個人視聴率五冠王」、9年連続となる「年間コア視聴率三冠王」、8年連続となる「年間コア視聴率五冠王」をそれぞれ獲得した。2021年度には歴代最長の9年連続となる「年度視聴率三冠王」(個人)を獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2022年には12年連続となる「年間個人視聴率三冠王」を獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "日本テレビは日本のテレビ業界において、新しい放送媒体・放送形式を積極的に早く導入し、導入するや否やその媒体を用いた放送を定着させてきた事で有名である。放送免許取得や民間資本による開局・本放送開始はもちろんのこと、コマーシャルの放送、カラー放送、音声多重放送(世界初)、ワイドクリアビジョン放送、洋画の日本語吹き替え放送、L字型画面、データ放送、ワンセグ放送独自番組放送(非サイマル放送)、3D立体映像での生放送、ネット動画配信サービス、放送中のドラマ全話無料配信も日本の民間放送では日本テレビが初めてであった。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "スポーツ中継についても、プロ野球中継におけるバックスクリーン横「センターカメラ」の導入、王貞治のための「ホームランカメラ」の導入、「審判カメラ」の導入、完全3D映像による中継の実現、サッカー中継におけるゴール内部への小型カメラの設置など、他局に先駆けて新たな中継技術を開発した。また、第3回世界陸上では世界で初めて写真判定を中継に取り入れた。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "選挙特番における出口調査を全国規模で導入したのも日本テレビ報道局が最初である。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2000年代頃から環境問題に関して積極的に取り組んでいる。2003年3月に「日テレ・エコ委員会」を発足させ、在京民放キー局として初めてISOの環境マネジメントシステム規格ISO 14001の認証を取得したほか、2004年から毎年6月5日の世界環境デーを含む1週間を「日テレ系ecoウィーク」と題し、期間中は番組やイベントを通して環境問題を提起している。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "テレビ放送の開始年が日本テレビと同じ1953年で共通している日本放送協会(NHK)と連携する機会も多く、2010年には「つなげよう、ecoハート。」、2021年には「国際ガールズ・デー」などをテーマに同局とコラボレーションして啓発キャンペーンを繰り広げた。また、2013年(テレビ放送開始60周年)と2018年(テレビ放送開始65周年)、2023年(テレビ放送開始70周年)には共同で特別番組も制作し、両局にて放映している。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "宮崎駿率いるスタジオジブリとの関係が深く、同社の作品をほぼ独占的にテレビ放映する権利を持っている。また、日本テレビのマスコット「なんだろう」も宮崎駿が手掛けたものである。2023年10月に同社の株式4割超を取得し、子会社化することを同年9月に発表した。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2021年現在、民放キー局の中では唯一時代劇や2時間ドラマの制作を行わず、再放送枠も設けていない。そのためドラマ番組は自社系の衛星放送(BS日テレ・日テレプラス)での再放送がメインとなる。バラエティ番組については土曜・日曜の14~16時台に当該番組の宣伝も兼ねて再放送されることが多く、ドラマ番組も同枠で集中方式で再放送を実施することもある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "かつては、他の民放キー局に比べて収入全体に占める放送収入の割合が著しく高い状態であったが、現在は映画事業、通販事業、イベント・文化事業などによる放送外収入も広げている。『全日本仮装大賞』や『そっくりスイーツ』といった自社制作番組のフォーマット販売も積極的に行っており、海外事業による収入も増加しつつある。なお、海外販売で最も大きな売上を占めているのは2000年代前半に制作・放送された『¥マネーの虎』でこれまでに番組フォーマット輸出された国は2022年6月の時点で45か国以上に上る。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "映画事業に関しては、スタジオジブリ作品や『名探偵コナン』シリーズ、細田守監督作品などのアニメ映画のほか、『デスノート』・『20世紀少年』シリーズ・『カイジ』シリーズ・『GANTZ』など少年漫画・青年漫画の実写化がある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "データ放送では鉄道運行情報を表示しており、JR東日本線の運行情報をJR東日本公式で表示しているテレビ局である。また『歌スタ!!』は在京キー局の中で深夜番組としては最初にデータ放送を導入した番組である。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "インターネット事業に関しては積極的に展開している。一例として、ウェブサイトの充実にも取り組み、公式ウェブサイトアクセス数も在京民放テレビ局の中で首位を獲得している。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ビデオ・オン・デマンド(VOD)事業にもテレビ局としては早く参入し、日本初のテレビ局主導のインターネット動画配信サービス「第2日本テレビ」を運営していた(2012年10月から「日テレオンデマンド ゼロ」に改称)。完全無料化も功を奏し、テレビ局が運営するVODサービスの中で再生回数トップを誇り、2009年1月には単月黒字化に成功した。2010年12月からは有料動画配信サービス「日テレオンデマンド」の運営も開始した。2014年には一部の番組を放送後7日間パソコンやスマートフォンで無料視聴できる「日テレいつでもどこでもキャンペーン」を開始した。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2014年には「Hulu」から日本市場向けの事業を継承し、定額制動画配信サービスにも参入しており、最終的にはVOD事業はHuluに統一が採られている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "なお、Hulu以外の定額制動画配信サービスとの提携や自社制作番組の供給も行っており、2021年10月にNetflixと提携し、日本テレビが制作したドラマやバラエティー番組など、30作品を日本と中国を除くアジア各国への配信を開始したほか、2022年3月にはバラエティー番組『はじめてのおつかい』を世界190以上の国と地域に配信した。2023年3月には初の同サービスとの共同制作番組となる『名アシスト有吉』も世界配信した。また、2022年3月にウォルト・ディズニー・ジャパンとの間でも戦略的協業に関する合意書を締結し、同年4月から放送された『金田一少年の事件簿』をウォルト・ディズニー・カンパニー傘下の定額制動画配信サービスであるDisney+でも日本とほぼ同時期に世界配信を行った。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2020年10月からは日本の民放テレビ局で初となるテレビ番組のインターネット同時配信サービスである「日テレ系ライブ配信」(現・日テレ系リアルタイム配信)を試験的に開始し(同年12月30日でいったん終了)、2021年10月2日より本格運用を開始した。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "汐留の日本テレビタワーの本社スタジオ機能は2004年2月29日に稼働し、生放送の報道・情報番組と一部のバラエティ番組が制作されている。", "title": "スタジオ" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "以前は19階は日テレグループ各社や韓国SBSなど海外テレビ局の東京支局、20階から24階には一般企業が入居していたが、現在はすべて日本テレビグループの企業が入居している。20階には準キー局である読売テレビと系列局の南海放送の東京支社も入居している。", "title": "スタジオ" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "旧本社・南本館にあったマイスタジオの名称は汐留移転後も使用されている。", "title": "スタジオ" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "汐留・日本テレビタワーに本社が移転された後も、旧社屋は麹町分室「日テレ麹町ビル」として北本館にある2つのスタジオと南本館にある貸しスタジオに限り、引き続き使用していた。日本テレビで最大面積のGスタジオがあることから、主に観客入れや出演者が多い番組が収録されている。また制作部門の一部デスクは分室に留まった。", "title": "スタジオ" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "また、日本テレビグループ企業の本社が入居し、CS日本(以前はBS日テレも)の本社と送出マスターもここにあった。周辺には、バップなど日本テレビの子会社・関連会社が入居する別館群がある。旧西本館は一般テナントビルとして使用されていた。", "title": "スタジオ" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "麹町社屋は「西本館」、「南本館」、「北本館」、「カラーセンター」の4棟から成り立っており、カラーテレビ放送開始に伴い建設された「カラーセンター」が後に新築された南本館と合体化された。しかし旧「カラーセンター」棟は老朽化が激しく、棟内にあったHスタジオとJスタジオは本社移転を契機として使用を中止した。", "title": "スタジオ" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2019年1月、北本館隣接地に新築された番町スタジオの運用開始に伴い使用を完全に終了。旧社屋は順次取り壊されている。", "title": "スタジオ" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "旧社屋である麹町ビルの老朽化が進んでいるため、4K放送などの新しい機能を備えたスタジオとして、麹町ビルの隣に建設された。地上11階、地下5階、高さ59.9m(鉄塔含む高さ99.9m)、延べ面積33,600m2のテレビスタジオ。2016年2月着工、2018年8月竣工(全体の竣工は2020年12月)、2019年1月29日運用開始。名称は公募で選ばれた(住所の「二番町」が由来になっている)。", "title": "スタジオ" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2004年に日本テレビの本社機能はデジタル放送に対応するため、開局以来本社を置いていた千代田区二番町(通称:麹町)から港区東新橋(通称:汐留)に移転した。", "title": "スタジオ" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "しかし、移転後に本社機能・番組収録を全て旧社屋から新社屋にシフトしたTBSやフジテレビとは違い、日本テレビは麹町社屋がさほど老朽化していなかった事や、新社屋の敷地面積が他の在京民放の社屋より狭いことなどから、本社機能と報道・情報番組制作、一部のバラエティ番組制作が『日本テレビタワー』にシフトし、バラエティ番組の多くが汐留に本社を移した後も2019年1月まで『麹町分室』で制作されており、BS・CS放送の番組送出は麹町で行っていた。こうした機能分散の例はテレビ朝日六本木ヒルズ完成前の時代(アークヒルズのスタジオ建設や本社機能移転)などがある。", "title": "スタジオ" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2019年1月に麹町分室北本館隣接地に新築された番町スタジオへとその機能が引き継がれたが、今後も麹町の地での番組制作を継続する。", "title": "スタジオ" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "『麹町分室』『番町スタジオ』ともに、番組収録については各副調整室でVTRなどに収録した上で編集作業などを行い放送されていたが、生番組について、『麹町分室』では『日本テレビタワー(以後「本社」と表記)』の主調整室と映像・音声や各種制御系回線が直接接続されていなかったため、本社内の副調整室(所謂「受けサブ」)を開き、そこで一旦回線を受けCM出しなど制御系の調整を行ってから主調整室へ送る必要があった。 それに対し『番町スタジオ』では館内に「回線室」を設け、各副調整室と本社主調整室の映像・音声や各種制御系回線を接続できるようにした。これにより本社側に副調整室(所謂「受けサブ」)を開かず、『番町スタジオ』内の設備のみで直接生放送ができるように改められた。", "title": "スタジオ" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "『麹町分室』時代は、BS・CSの主調整室(送出マスター)が分室に置かれていたため、本社で制作された番組を光回線で送り、分室から放送されていたが、その後本社内にBS・CSも統合した主調整設備が完成し運用開始したことにより、2021年時点では番町スタジオで制作された番組は地上波・BS・CSすべてが光回線で本社へ送られている。本社主調整室から地上波は東京スカイツリー(東京タワーは予備送信所)で関東一円へ、ネット向け回線で全国のネット局へ、さらにBS・CSはそれぞれの衛星へのアップリンク施設を通じ送られ、放送に至っている。", "title": "スタジオ" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "汐留・麹町間はスタッフ専用のシャトルバスで結ばれている(六本木再開発時代のテレビ朝日も同様)。", "title": "スタジオ" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "スタジオ技術は子会社のNiTRo(旧NTV映像センター)が請け負っている。災害時の送出機能も備えている。", "title": "スタジオ" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "ワイドショー・情報番組が多く制作されており、ノンプライム帯に占める生放送の割合が高い。現在、月曜日 - 木曜日は午前4時30分から午後7時まで一部のミニ番組を除き生放送番組が連なっている(読売テレビ制作の『情報ライブ ミヤネ屋』を含む)。この分野を得意としている日本テレビはゴールデンタイム・プライムタイム・全日に加え、ノンプライムも視聴率の1つの区分として重要視している。", "title": "番組編成" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "巨人戦のプロ野球中継は開局当時から「ドル箱番組」として日本テレビの番組編成の中心となっていたが、2002年を境に視聴率低迷が続き、2006年には年間平均視聴率が1桁を記録。これにより視聴率とスポンサーの点で特に大きく依存してきた日本テレビは大きなダメージを受けた。その後はゴールデンタイムのレギュラー番組を優先する編成方針から、東京ドームの巨人主催試合の放映権をNHKや他局に譲渡、あるいはBS日テレへ移行させるなどした結果、2009年以降の巨人戦の地上波中継は年間20試合前後にまで削減された。中継は週末デーゲームが中心で、ナイター中継は年間5試合程度となっている。", "title": "番組編成" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "メジャーリーグベースボール(MLB)については放映権料の高騰を理由として、代理店との間で放映権の契約を交わしていないため、原則として、2009年から同リーグの中継を行っていない。また、同年から2022年シーズンまで、同リーグの試合映像の配信も受けていなかったため、日本テレビ系列のニュース・情報番組でMLB関連の話題を報じる際は現地の新聞社や通信社などから提供を受けた写真(静止画)を使用していた。なお、同年以降もMLBの公式戦を日本の東京ドームにて行う際はMLBとの間で個別に放映権を購入した上で生中継を行っている。", "title": "番組編成" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "野球以外では1987年から箱根駅伝の中継権を獲得し、『新春スポーツスペシャル箱根駅伝』として完全中継を実施しており、毎年20%以上の高視聴率を記録する正月の人気番組となっている。サッカーは『全国高校サッカー選手権』の幹事局であり、系列局29社およびTOKYO MXを除く全国独立放送協議会12社・宮崎放送(JNN)・沖縄テレビ(FNS)と中継の共同制作を行っている。Jリーグ中継は、2009年まで当時親会社となっていたヴェルディ川崎→東京ヴェルディの主催試合を深夜枠中心に放送した。", "title": "番組編成" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "過去には開局当初から日本プロレスの試合中継である『三菱ダイヤモンドアワー・日本プロレス中継』を編成して人気を博し、1972年に『全日本プロレス中継』に移行したが2000年で終了。その後は『プロレスリング・ノア中継』に移行したが、視聴率低迷を受けて2009年3月末を以て終了、以降地上波でのプロレス中継は行われていない。", "title": "番組編成" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "他のキー局に比べて国際試合の中継数は少なく、ジャパンコンソーシアムが放映権を保有している国際大会を除き、2022年現在放映権を保有している大会はFIFAクラブワールドカップ(2005年大会から)、ラグビーワールドカップ(2007年の第6回大会以降)とFIBAバスケットボール・ワールドカップ(2023年開催予定の第19回大会)のみである。かつては世界陸上やワールド・ベースボール・クラシックの中継も実施していたが、いずれも他局に譲る形で撤退している。", "title": "番組編成" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "1960年代から1970年代に掛けて『光子の窓』『シャボン玉ホリデー』『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』などの名番組を制作。1980年代には『久米宏のTVスクランブル』や『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』といった話題作はあったものの、全体的には視聴率も低迷。1990年代以降は『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』『マジカル頭脳パワー!!』や土屋敏男演出番組(『電波少年シリーズ』『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』)が人気を博し、その勢いを取り戻した。一時期までは『ロンパールーム』や『カリキュラマシーン』などの教育番組にも取り組んでおり、2021年現在は『所さんの目がテン!』が制作・継続されている。1966年から放送されている『笑点』は全国ネットで放送されるバラエティ・お笑い番組ではギネス世界記録を持つ長寿番組であり、日曜夕方の放送ながら現在も視聴率15%前後を叩き出す人気を誇っている。", "title": "番組編成" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "他局と比較してゴールデンタイム・プライムタイムで放送されているバラエティ番組の本数が非常に多い。2023年現在、月~木曜の20時台で放送されているバラエティ番組は全て放送開始から20年を越す長寿番組となっている。日曜日に至っては15年以上続く長寿番組が集中していており、特に2007年の「イッテQ!」がゴールデンタイムに進出後は「笑点」から「おしゃれ」シリーズの番組編成が15年以上続いている。また、一部のバラエティ番組は情報エンターテインメント局で制作されている。", "title": "番組編成" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "番組の開始時間を00分の定時ではなく、55分や57分などのいわゆるフライングスタートをキー局でいち早く導入した局である。", "title": "番組編成" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "開局当初の麹町旧本社屋はドラマ撮影に対応可能な広いセット設備を持たなかったことから、ドラマ製作にあたっては日活や大映など各映画会社の撮影所を使用し、フィルム撮影によるテレビ映画の製作に力を入れていた。この制作方針は、自局製作によるスタジオドラマを得意としていたライバル局のTBSとは対照的なものであった。とりわけ国内の映画産業が斜陽化した1970年代から1990年代初頭にかけては東宝や石原プロモーションなど外部の映画製作プロと提携し、現代劇では『青春とはなんだ』『おひかえあそばせ』『傷だらけの天使』『大都会』『俺たちの旅』、時代劇では『子連れ狼』『新五捕物帳』『桃太郎侍』『長七郎江戸日記』などを放送。特に刑事ドラマは同局の十八番と言われ、1972年に金曜20時枠でスタートした『太陽にほえろ!』は最高視聴率42.5%(ニールセン調べ)を記録、レギュラー放送期間も15年近くに及ぶ人気番組となった。終了後も同時間帯はアクション路線の枠として定着し、廃枠となる1995年まで『もっとあぶない刑事』 『刑事貴族』『静かなるドン』などの人気作を生んだ。生田スタジオの運用開始以降は自局製作による一般ドラマも積極的に手掛け、『前略おふくろ様』『熱中時代』『天まであがれ!』『妻たちの課外授業』などをヒットさせている。この他、『二丁目の未亡人は、やせダンプといわれる凄い子連れママ』に始まる「長いタイトルシリーズ」などのユニークな試みも行っており、『七丁目の街角で、家出娘と下駄バキ野郎の奇妙な恋が芽生えた』は日本のテレビ番組史上最も長いタイトルとされている。", "title": "番組編成" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "現在、プライムタイムで放送されている全国ネットの連続ドラマ枠は『水曜ドラマ』・『土曜ドラマ』・『日曜ドラマ』 の3本。これは他局並みの数だが、『家なき子』『金田一少年の事件簿』『ごくせん』『家政婦のミタ』『あなたの番です』など人気番組も数多い。『水曜ドラマ』は女性層、『土曜ドラマ』はファミリー層、もしくはティーンエイジ層を意識した作品を放送している。『日曜ドラマ』は「大人の男性も楽しめて、月曜日へ弾みになるドラマ」をコンセプトとして近年では1年に1本必ず学園ドラマ(それも多くが高校が舞台のものである。)が編成されている。2017年度以降は3枠とも開始時間が22時以降となっており、全国ネットでは最も遅い編成を組んでいる。また、キー局では唯一、21世紀以降に20時台にテレビドラマ枠を編成したことがない。", "title": "番組編成" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "なお、上記に挙げられている現在放送中のプライムタイムの連続ドラマ枠では、すべてステレオ放送、文字多重放送、連動データ放送を実施しているほか、2017年10月期以降に放送される作品にはそれらに加え、解説放送も随時実施している。更に、2019年度以降に放送される作品は原則として初回・最終回などの放送時間拡大を廃止し、通常放送時と同様の放送時間になっている。", "title": "番組編成" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "また2018年から断続的に『ZIP!』内で連続短編ドラマを展開するなど、放送枠の概念を超えたチャレンジを積極的に行っている。", "title": "番組編成" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "トムス・エンタテインメント(旧:東京ムービー)との繋がりが強く、自社製作では『ルパン三世』シリーズ、『それいけ!アンパンマン』、読売テレビ製作では『名探偵コナン』などを放送。また、スタジオジブリ制作のアニメーション映画作品にも参加するなど、アニメ史上重要な映画作品を多数製作している。1973年には『ドラえもん』を現在放送中のテレビ朝日版に先駆けてアニメ化した実績も持つ。特撮番組は円谷プロダクションの初期の代表作のひとつである『快獣ブースカ』をはじめとして、『ファイヤーマン』『流星人間ゾーン』『スーパーロボット レッドバロン』『星雲仮面マシンマン』『電脳警察サイバーコップ』などを放送。1978年には開局25周年記念作品として製作された『西遊記』がヒットした。", "title": "番組編成" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "1980年代~1990年代前半は日曜午前や平日夕方に数多くの自社制作の30分連続テレビアニメ枠が存在していたが、2022年現在は、自社製作の30分連続テレビアニメ枠は金曜午前に『それいけ!アンパンマン』を持つほか、『金曜ロードショー』でも長編アニメを放送する。", "title": "番組編成" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "この他、いわゆる「深夜アニメ」もキー局としては黎明期から積極的に放送しているが、他キー局と比べて時おり休止したり、放送曜日の変動が激しい傾向がある(詳細は「日本テレビの深夜アニメ枠の項」を参照)。一部の深夜アニメ作品についてはHuluで日テレでの本放送より早く配信を行っている。", "title": "番組編成" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "子会社としてアニメ制作会社・マッドハウスやタツノコプロを保有しているため、この2社が作った深夜アニメを放送する事も多い。", "title": "番組編成" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "他系列に比べ、系列局が全国ネットの番組を制作する機会が多い。", "title": "番組編成" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "現在、読売テレビは土曜日17時台後半のアニメ、『名探偵コナン』(土曜日18時台)、『秘密のケンミンSHOW→秘密のケンミンSHOW極』(木曜日21時台)、『ダウンタウンDX』(木曜日22時台)、『木曜ドラマ→木曜ドラマF→モクドラF→木曜ドラマ』(金曜日0時台〈木曜日深夜〉)、2020年以降の一部の『日曜ドラマ』(日曜日22時台後半~23時台前半)、『情報ライブ ミヤネ屋』(月 - 金曜日14時・15時台)、『ウェークアップ』(土曜日8時台・9時台前半)、『遠くへ行きたい』を制作している。中京テレビは『ヒューマングルメンタリー オモウマい店』(火曜19時台)、『それって!?実際どうなの課』(木曜日0時台〈水曜日深夜〉)、『オードリーさん、ぜひ会ってほしい人がいるんです。』を制作している。", "title": "番組編成" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "かつては深夜のバラエティー枠『ZZZ』を系列局に開放し、札幌テレビ(『爆笑問題のススメ』など)、山口放送(『三宅裕司のドシロウト』など)、テレビ岩手(『フライデーナイトはお願い!モーニング』)、広島テレビ(『松本紳助』など)、福岡放送(『新型テレビ』など)が制作に参加した。", "title": "番組編成" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "また、1970年代には基幹局以外でも北日本放送がゴールデンタイムのテレビドラマ『ゲンコツの海』を、山梨放送がプライムタイムのバラエティ番組『田宮二郎ショー プラザ47』を制作した。", "title": "番組編成" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "夏期・冬期には『土曜パラダイス』などの放送枠で各系列局制作の全国ネット番組が相次いで放送される。年に1・2回のペースで全国ネットの単発番組を制作している系列局も多い。", "title": "番組編成" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "2011年7月に発足した部署。2006年に従来の編成本部が制作局と名称を変え、その中の部署も一新された。実質、その編成本部の前の編成局が復活したようなもの。新しい部署として、「ドラマ制作部」、「CP班グループ」、「業務部」が作られた。また、新たに「スポーツ・情報局」が発足し、スポーツ番組や情報番組はこのスポーツ・情報局の担当となった。2009年7月の組織改正により制作局が廃止され、バラエティー局とドラマ局に分割されたが、2011年7月の組織改正で再び統合され、制作局の下にバラエティーセンターとドラマセンターが置かれた。さらに2012年6月からはバラエティーセンターとドラマセンターが廃止され制作局に移管した。", "title": "制作局" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "具体的に制作されている番組の種類は次の通り。", "title": "制作局" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "その他、日本テレビ制作局制作番組の分野別一覧も参照のこと。", "title": "制作局" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "制作局と共に2006年に「スポーツ・情報局」として発足した部署。従来の編成本部の制作していたスポーツ番組や情報番組がこの部署の制作担当となった。その後、2007年7月の組織改正により、情報エンターテインメント局とスポーツ局に分割された。スポーツ局には「CP班グループ」と「スポーツ企画推進部」、情報エンターテインメント局には「CP班グループ」がそれぞれ作られた。", "title": "情報カルチャー局・スポーツ局" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "2012年12月より情報エンターテインメント局は情報カルチャー局に改称された。", "title": "情報カルチャー局・スポーツ局" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "具体的な制作番組は以下の通り。", "title": "情報カルチャー局・スポーツ局" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "その他、日本テレビ・スポーツ・情報局制作番組の分野別一覧も参照のこと。", "title": "情報カルチャー局・スポーツ局" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "報道局は、政治部・経済部・社会部・国際部・映像取材部・総合ニュースセンター・ライブソリューション部・NNN事務局・解説委員会・業務改革推進部・報道審査委員会の11部署からなり、汐留・日テレタワー5階の報道局を中心に業務を行っている(報道フロア 340坪)。2012年6月1日付の組織改正で、民放では珍しい生活文化部が設置されていた。", "title": "報道局" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "海外の放送局を模して、レールカメラを配置した報道フロアをはじめ、パーマネントセットを配置した放送スタジオも完備している。CS放送・日テレNEWS24(旧NNN24)のスタジオもここにある。この報道局内設備もすべてHDに対応している。ニュース映像素材は最近ではHDカメラによる取材や現場からの中継も行っており、民放キー局としては報道取材におけるHDの導入が早く、今では日本テレビの放送エリア内の取材は、ほぼ全面的にHD化されている。", "title": "報道局" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "地方局が取材したニュースについては取材した系列局のテロップを「NNN」と併記して表示する(連名で表示する場合もある)。重大な事件・大規模な事故・災害の取材の際、地元局以外の系列局の支援を受け共同取材する場合や、高校野球等系列各局が集結して取材を行う場合は「NNN取材団」と表示する。この表示は地上波放送各種ニュース番組・日テレNEWS24ともにおこなわれている。", "title": "報道局" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "報道スタジオは5階報道局に隣接して置かれ、サブは3つある。主にNEWS1サブでは地上波、NEWS2サブは日テレNEWS24で使用される。この他に素材収録用の簡易サブもある。", "title": "報道局" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "ニュース映像の収録・編集は4階のCVセンター、テロップ・CGなどの制作は4階のテロップセンターで行われている。", "title": "報道局" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "NNN系列各局や海外メディア配信へのニュース配信を行う「ニュースチャンネル」が6階にあり、ニュース配信を行う送出設備のほかVTR編集室・カメラ1台の顔出し設備がある。", "title": "報道局" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "具体的に制作されている番組の種類は次の通り。", "title": "報道局" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "その他、日本テレビ・報道局制作番組の分野別一覧も参照のこと。", "title": "報道局" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "日本テレビでは以下のように、汐留「日テレプラザ」(日テレタワー敷地内)および周辺にて年数回開催される総合イベントをはじめ、『ズームイン!!SUPER』などの番組主体のイベントも開催しているほか、ミュージカルや美術展などにも力を入れている。", "title": "イベント" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "また、ラジオ日本で放送している日本テレビ提供の番組『坂上みきのエンタメgo!go!』でもイベント情報を紹介している。", "title": "イベント" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "※は現在でも継続してシリーズ化されている映画", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "1970年代", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "1980年代", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "1990年代", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "2000年代前半", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "2005年", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "2006年", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "2007年", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "2008年", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "2009年", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "2010年", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "2011年", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "2012年", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "2013年", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "2014年", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "2015年", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "2016年", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "2017年", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "2018年", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "2019年", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "2020年", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "2021年", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "2022年", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "2023年", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "2024年", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "日本テレビが製作・出資に関わる映画は、「製作委員会方式」による作品が主流である。準キー局の読売テレビ、親会社の読売新聞、基幹系列局の札幌テレビ・ミヤギテレビ・静岡第一テレビ・読売テレビ・中京テレビ・広島テレビ・福岡放送などが制作委員会に名を連ねている作品が多い。", "title": "映画製作" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "2022年9月22日、郡司恭子アナ発案で、アパレルブランド「Audire」(アウディーレ)を立ち上げた。「Wear the Voice.」をブランドコンセプトに、服を通じて女性の生き方に関する発信を行っていく。", "title": "アパレルブランド" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "他", "title": "主なグループ会社" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "他", "title": "主なグループ会社" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "他", "title": "主なグループ会社" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "なお、国が許可した債権回収業(サービサー)のニッテレ債権回収株式会社とは全くの無関係。", "title": "主なグループ会社" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "※2013年5月30日以前は新宿センタービル(東京都新宿区西新宿1丁目25-1)が予備送信所として使われていた。", "title": "送信所・中継局" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "全145局の送信所が存在する。", "title": "送信所・中継局" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "2011年7月24日終了時点", "title": "アナログ放送概要" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "全97局の送信所が存在した。", "title": "アナログ放送概要" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "70・71chは難視聴対策のためのSHF放送。", "title": "アナログ放送概要" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "長野県・静岡県の各一部地域のCATV事業者は各県に系列局はあるものの激変緩和措置として、区域外再放送をアナログ放送終了後3年間(2014年7月24日まで)を限度として実施していた。山梨県郡内地方のCATV事業者でも、アナログ放送時代にはその終了までアナログ放送でのみ実施していた。なお、激変緩和措置の期間満了後は個別協議により次の通り継続実施していたが、2018年9月30日をもって当局を区域外再放送するケーブルテレビ局は無くなった。", "title": "区域外再放送" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "静岡県", "title": "区域外再放送" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "現在", "title": "情報カメラ設置ポイント" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "過去に設置", "title": "情報カメラ設置ポイント" } ]
日本テレビ放送網株式会社は、日本テレビホールディングスの連結子会社で、関東広域圏を放送対象地域としてテレビジョン放送を行う特定地上基幹放送事業者。日本国内で最初に開局した民放テレビ局で、日本の民放テレビ局においては歴史が最も古い。一般的には日本テレビ(にほんテレビ)又は日テレ(ニッテレ)と呼ばれる。 コールサイン「JOAX-DTV」。NNN・日本ニュースネットワーク、NNS・日本テレビネットワーク協議会(日本テレビ系列)のキー局である。リモコンキーIDは「4」。 スカパー!プレミアムサービスをプラットフォームとして日テレジータスの放送を行う衛星一般放送事業者でもある。 なお、認定放送持株会社制移行のために、2012年10月1日に(旧)日本テレビ放送網株式会社(現日本テレビホールディングス株式会社・旧会社)から新設分割され、移管・放送免許を承継した(新)日本テレビ放送網株式会社(現行会社)が現業を行っている。
{{Redirect|日テレ}} {{Pathnav|日本テレビホールディングス|frame=1}} {{告知|提案|日本国内のバラエティ・情報・報道番組などの記事の放送リスト・ネット局の記述添削(テレビアニメ・ドラマは除く)による改訂案|プロジェクト‐ノート:放送または配信の番組#日本国内のバラエティ・情報・報道番組などの記事の放送リスト・ネット局の記述添削(テレビアニメ・ドラマは除く)による改訂案|date=2023年12月}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 日本テレビ放送網株式会社 | 英文社名 = Nippon Television Network Corporation | ロゴ = [[File:Nippon TV logo 2014.svg|150px]] | 画像 = [[File:NTV Tower 20200801-2.jpg|250px]] | 画像説明 = 日本テレビタワー | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 市場情報 = | 略称 = 日本テレビ<br />日テレ<br />NTV<br />AX | 国籍 = {{JPN}} | 郵便番号 = 105-7444 | 本社所在地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[東新橋]]一丁目6番1号 日本テレビタワー | 設立 = [[2012年]][[4月26日]]<br />(日本テレビ分割準備株式会社) | 業種 = 情報・通信業 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = [[放送法]]による基幹放送事業及び一般放送事業、メディア事業、その他放送に関連する事業 | 代表者 = [[代表取締役]][[会長]][[執行役員]] [[杉山美邦]]<br>代表取締役[[社長]]執行役員 [[石澤顕]] | 資本金 = 60億円 | 売上高 = 2908億3800万円<br>(2023年03月31日時点)<ref name="fy">[https://www.ntvhd.co.jp/pdf_cms/news/20230516.pdf 決算説明資料]</ref> | 営業利益 = 357億8100万円<br>(2023年03月31日時点)<ref name="fy" /> | 経常利益 = 411億3200万円<br>(2023年03月31日時点)<ref name="fy" /> | 純利益 = 298億5500万円<br>(2023年03月31日時点)<ref name="fy" /> | 純資産 = | 総資産 = | 従業員数 = 1,325人<br>(2021年4月1日現在) | 決算期 = 3月末日 | 主要株主 = [[日本テレビホールディングス]](株) 100% | 主要子会社 = | 関係する人物 = [[正力松太郎]](創業者・初代社長)<br>[[氏家齊一郎]](元社長・元会長) | 外部リンク = https://www.ntv.co.jp/ <!-- URL表記は省略しないこと --> | 特記事項 = [[1952年]][[10月28日]]創業 }} '''日本テレビ放送網株式会社'''(にほんテレビほうそうもう、{{lang-en-short|''Nippon Television Network Corporation''}})は、[[日本テレビホールディングス]]の連結子会社で、[[広域放送#テレビジョン放送|関東広域圏]]を[[放送対象地域]]として[[テレビジョン放送]]を行う[[特定地上基幹放送事業者]]。日本国内で最初に開局した[[民間放送|民放]][[テレビジョン放送局|テレビ局]]で、[[日本]]の民放テレビ局においては[[歴史]]が最も古い。一般的には'''日本テレビ'''(にほんテレビ)又は'''日テレ'''(ニッテレ)と呼ばれる。 [[日本の放送局所の呼出符号#JO*X 2|コールサイン「'''JOAX-DTV'''」]](東京 25ch)。'''NNN'''・[[日本ニュースネットワーク]]、'''NNS'''・[[日本テレビネットワーク協議会]]([[日本テレビ系列]])の[[キー局]]である。[[リモコンキーID]]は「'''4'''」。 [[スカパー!プレミアムサービス]]を[[有料放送管理事業者|プラットフォーム]]として[[日テレジータス]]の放送を行う[[一般放送事業者#衛星一般放送事業者|衛星一般放送事業者]]でもある。 なお、[[放送持株会社|認定放送持株会社]]制移行のために、2012年10月1日に(旧)日本テレビ放送網株式会社(現日本テレビホールディングス株式会社・旧会社)から新設分割され、移管・放送免許を承継した(新)日本テレビ放送網株式会社(現行会社)が現業を行っている。 == 概要 == {{日本のテレビ局 |英項名=Nippon Television |英名=Nippon Television<br>Network Corporation |地域=[[広域放送|関東広域圏]] |系列=NNNキー局 |番組=NNS |略=NTV<br />AX<br />日本テレビ |愛称=日テレ |コールサイン=AX |呼出名称=にほんテレビ<br>デジタルテレビジョン |年=1953年 |月日=8月28日 |運営会社=日本テレビ放送網株式会社 |郵便番号=105-7444 |都道府県=東京都 |本社=港区東新橋一丁目6番1号 |緯度度=35|緯度分=39|緯度秒=51.91 |経度度=139|経度分=45|経度秒=35.68 |演奏所=[[#スタジオ]]を参照 |id=4 |dch=25 |都市名=東京 |ch1=4 |ch2=4 |デジ中継局=[[#デジタル放送]]参照 |中継局=[[#アナログ放送概要]]参照 |リンク=[https://www.ntv.co.jp/pc/ 日本テレビ] |特記事項= |キー局=日本テレビ }} {{日本の衛星放送チャンネル |チャンネル名称=日本テレビ |HDチャンネル名称= |キャッチコピー=見たい、が世界を変えていく。<br/>超える。超え続ける。(日本テレビ開局70年) |略称=NTV、日テレ |運営事業者=日本テレビ放送網株式会社 |郵便番号=105-7444 |都道府県=東京都 |本社=港区東新橋一丁目6番1号 |旧チャンネル名= |ジャンル=[[日本における衛星放送#地デジ難視対策衛星放送|地デジ難視対策衛星放送]] |放送内容=[[日本の地上デジタルテレビ放送|地上デジタル放送]]の[[サイマル放送]](マルチ編成の場合は主番組のみ) |視聴可能世帯数=不明 |特別衛星放送=BSデジタル |特別プラットフォーム= |特別事業者=[[社団法人]][[デジタル放送推進協会]] |特別ch=294 |特別データch= |ID= |物理チャンネル=BS-17ch |特別開局年=2010 |特別開局月=3 |特別開局日=11 |特別開局予定= |特別HD開始年= |特別HD開始月= |特別HD開始日= |特別HD開始予定= |特別閉局年=2015 |特別閉局月=3 |特別閉局日=31 |特別閉局予定=終了 |リンク=https://www.ntv.co.jp/pc/ |特記事項=地デジ難視対策衛星放送対象リスト(ホワイトリスト)に掲載された地区のみ視聴可能。 }} === 放送免許 === * [[1952年]]{{0}}7月31日 - [[テレビジョン放送]][[予備免許]]取得(日本での取得第1号)。 * [[1953年]]{{0}}8月27日 - テレビジョン放送[[無線局免許状|本免許取得]](日本での取得第2号)。 * [[1957年]]12月26日 - [[カラーテレビ]][[実験局]]予備免許取得。 * [[1957年]]12月27日 - カラーテレビ実験局[[本免許]]取得。 * [[1960年]]{{0}}9月{{0}}2日 - カラーテレビ放送本免許取得。 * [[1978年]]{{0}}9月28日 - [[音声多重放送]]実用化試験局免許を取得。 * [[1980年]]{{0}}2月{{0}}9日 - [[緊急警報放送]]用実験局免許を取得。 * [[1981年]]12月17日 - 音声多重放送本免許を取得。 * [[1983年]]{{0}}9月{{0}}7日 - [[テレビ|テレビジョン]]同期放送実験局免許を取得。 * [[1985年]]11月29日 - [[文字多重放送]]本免許を取得。 * [[1988年]]{{0}}4月13日 - [[EDTV]]実験局免許を取得。 * [[1994年]]11月25日 - [[ハイビジョン]]実用化実験放送本免許を取得。 * [[1995年]]{{0}}7月13日 - [[ワイドクリアビジョン放送]]本免許を取得。 * [[2003年]]12月{{0}}1日 - [[地上デジタルテレビジョン放送]]本免許を取得。 === 呼出符号(コールサイン) === {{Main|日本の放送局所の呼出符号#JO*X_2}} * 地上デジタルテレビジョン放送:'''JOAX-DTV''' にほんテレビデジタルテレビジョン : UHF25ch、周波数545.142857MHz/10kW * リモコンキーID - '''4''' * 3桁 - 041、042、045(臨時用)、641(ワンセグ用)。 ※テレビジョン単営局に対する最初の予備免許であったため、「JO*X-TV」シリーズの中で“A”が与えられた。 === 保有チャンネル === 関東広域圏における地上波放送以外に、以下のチャンネルを放送、供給している。 ; [[日テレジータス]] : 自ら衛星一般放送事業者としてスカパー!プレミアムサービス(標準画質放送)で放送しているほか、ハイビジョンチャンネル(「日テレジータスHD」)はスカパー!プレミアムサービスの衛星一般放送事業者である[[スカパー・ブロードキャスティング]] → [[スカパー・エンターテイメント]]、[[スカパー! (東経110度BS・CSデジタル放送)|スカパー!]]の[[基幹放送事業者#認定基幹放送事業者|基幹放送事業者]]である[[CS日本]]に供給。一部の[[ケーブルテレビ]]局へのチャンネル供給も行い、各局においてサイマル放送を行っている。 ; [[日テレNEWS24]] :スカパー・ブロードキャスティング → スカパー・エンターテイメント(スカパー!プレミアムサービス)、[[SCサテライト放送]](スカパー!)、一部のケーブルテレビ局へのチャンネル供給を行い、各局においてサイマル放送を行っている。 ; [[日テレプラス ドラマ・アニメ・音楽ライブ|日テレプラス]] :チャンネル運営はCS日本が行う。スカパー!ではCS日本が自ら放送するほか、スカパー!プレミアムサービスにおけるハイビジョン放送ではスカパー・ブロードキャスティング → スカパー・エンターテイメント、スカパー!プレミアムサービス(標準画質放送)の衛星一般放送事業者である[[ジャパンイメージコミュニケーションズ]]、一部のケーブルテレビ局へもそれぞれ供給している。 ; {{仮リンク|GEM (東南アジアのテレビチャンネル)|label=GEM|en|Gem (Southeast Asian TV channel)}} : 2015年10月1日に放送開始。[[ソニー・ピクチャーズ テレビジョン]]との共同運営で[[香港]]や[[東南アジア]]各国の[[ケーブルテレビ局]]などに日本テレビの[[バラエティー番組]]や[[連続ドラマ]]などを供給している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/823.html|title=日テレの人気番組がアジアでも毎日視聴可能に! エンタテインメントチャンネル「GEM」 香港、タイ、インドネシア、カンボジアで10月1日放送開始!|accessdate=2019年6月2日|publisher=日本テレビ放送網株式会社(2015年9月10日作成)}}</ref>。 ; NIPPON TV Channnel : 2019年5月28日(現地時間)に放送開始。主にアメリカ在住の日本人を対象としており、日本テレビの連続ドラマやプロ野球・巨人戦ホームゲーム中継などを衛星放送[[ディレクTV]]やケーブルテレビ局などに供給している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/20190529.html|title=日テレの人気番組がアメリカでも視聴可能に!NIPPON TV Channel 始動!!|accessdate=2019年6月2日|publisher=日本テレビ放送網株式会社(2019年5月29日作成)}}</ref>。 === ネットワーク === [[ファイル:NNNID.png|thumb|right|200px|日本テレビ系列のリモコンキーID地図]] 1966年4月1日に'''[[日本ニュースネットワーク|NNN]]'''(Nippon News Network)を、また1972年6月14日に'''[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]'''(Nippon television Network System)を形成し、各系列局とネットワークを結んでいる。現在NNN加盟局は30局、NNS加盟局は29局。日本テレビの報道取材地域には関東広域圏の他に[[沖縄県]]が含まれる(沖縄県にNNN系列局がないため)。 == 呼称 == 開局以来長年「(第)4チャンネル」、「AX」、「NTV」などを略称として使用してきたが、1995年前後よりキャンペーンコピーに「日テレ」<ref group="注釈">「日テレ」の略称はそれ以前から内部的に使われており、各局の番組で出演者が日本テレビを指す言葉の中に「日テレ」を使うこともあった。しかし、ベテラン社員の中ではキャンペーンコピーに使われるまで「蔑称」という認識があったという。対外向けへ公式に「日テレ」を使うようになったのはこの頃からである。</ref><ref>[[戸部田誠]]『全部やれ。 日本テレビ えげつない勝ち方』p.170</ref>を使用し始めた。後述の正式な略称・愛称採用以前には1996年8月から4年間放送されたCSチャンネルの名称を「[[CS★日テレ]]」、2000年12月には、開局した系列の[[BS日本]]のチャンネル名称を「BS日テレ」とした。 2003年の放送開始50周年と[[汐留]]移転を契機にコーポレートロゴを「日テレ」とするなど、正式な略称・愛称として「'''日テレ'''」が採用された。なお、[[新聞]]・[[テレビ情報誌]]の[[番組表]]での表示は従来通り「日本テレビ」のままだが、[[デイリースポーツ]]東京版では「'''日テレ'''」(以前は「NTV」)、一部番組の動画配信や関連商品の版権表記では「'''NTV'''」として表記されている。 業界ではコールサインを由来とするCX([[フジテレビジョン|フジテレビ]])、EX([[テレビ朝日]])<ref group="注釈">2003年10月1日より。それまでは「ANB」が使用されていた。</ref>、TX([[テレビ東京]])に合わせ「'''AX'''」(エーエックス、アックス)と呼ぶこともある。これにちなんで、かつては[[SHIBUYA-AX]](シブヤ-アックス、2014年5月31日営業終了)というライブスペースを運営していた時期があり、『[[AX MUSIC-FACTORY]]』、『[[AX MUSIC-TV]]』という番組も放送していた。また、2010年には[[日本テレビタワー]]にミニライブハウス「汐留AX」(SHIODOME-AX)を設立した。グループ内の番組制作会社『[[日テレアックスオン]]』(略称:『AXON』)の社名にも「AX」が使われている。 商号の読みは「にほんテレビほうそうもう」ではなく「'''にっぽんテレビ'''ほうそうもう」が正しく、これは[[日本放送協会]]('''にっぽん'''ほうそうきょうかい、NHK)や[[テレビ西日本]](テレビにし'''にっぽん'''、TNC)の場合と同様に、英字表記する場合や局ロゴなどの表記では"''NIPPON TV''"としている。ただしこの2局<ref group="注釈">NHKは「NHK(放送局名)(きょういく)(デジタル)テレビジョン」、TNCは「TNCふくおか(orきたきゅうしゅう)テレビジョン」→「'''テレビにしにっぽん'''デジタルテレビジョン」。</ref>とは異なりコールネームの方は逆に「'''にほんテレビ'''(デジタルテレビジョン)」が正しいために[[局名告知]]でも全て「'''にほんテレビ'''」で統一されており、[[日本のアナウンサー|アナウンサー]]も「にほんテレビ」と読むことが多い<ref group="注釈">約50年前に制作されたPRソング「日本テレビの唄」(モノクロ、カラー版あり)では歌詞に「日本テレビ」が多数出てくるが、全ての読み方が「'''にほんテレビ'''」であった。また、曲名の読み方が'''「にほんテレビのうた」'''であり、昔から使われていたことがわかる。</ref>。更には[[国税庁]]の[[法人番号]]公表サイトでも商号の読み仮名が「'''ニホンテレビ'''ホウソウモウ」とされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.houjin-bangou.nta.go.jp/henkorireki-johoto.html?selHouzinNo=3010401099553|website=www.houjin-bangou.nta.go.jp|accessdate=2021-10-10|title=国税庁法人番号公表サイト 3010401099553}}</ref><ref group="注釈">余談だが、親会社の[[日本テレビホールディングス]]は、初代日本テレビ放送網から社名変更する際、「'''二ホンテレビ'''ホールディングス」と名乗っており、読みは最初から「'''二ホンテレビ'''」となっている。</ref>。 == 沿革 == === 1950年代 === * 1951年 ** {{0}}8月13日、[[カール・ムント]]米[[上院|上院議員]]が「日本全土に総合通信網を民間資本で建設する」と発表<ref group="注釈" name="topic">カール・ムント米上院議員は、「VOA([[ボイス・オブ・アメリカ]])」構想を打ちたて、世界中で広まりつつあった[[共産主義]]の撲滅に乗り出した「[[プロパガンダ]]の雄」である。ムントは[[中央情報局|CIA]]に正力松太郎を推薦した。正力松太郎は、1951年、[[大蔵大臣]]だった[[池田勇人]]を説得、さらに[[朝日新聞]]の[[村山長挙]]、[[毎日新聞]]の[[本田親男]]に働きかけ、3社でテレビ事業を行う約束を取り付ける。正力の仕掛けた3大紙協力体制のもと、「受信機も無い時代に民放テレビは時期尚早」と反対する[[吉田茂]]総理の説得に成功する([[ベンジャミン・フルフォード]]『ステルス・ウォー』 [[講談社]] 2010年 {{ISBN2|978-4-06-216124-4}}, Page238, 241)</ref><ref>[https://www.archives.gov/files/iwg/declassified-records/rg-263-cia-records/second-release-lexicon.pdf Research Aid:Cryptonyms and Terms in Declassified CIA Files Nazi War Crimes and Japanese Imperial Government Records Disclosure Acts]</ref><ref>[http://www.f.waseda.jp/tarima/NTV%20and%20CIA.htm 『日本テレビとCIA』関連年表]</ref><ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=4 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 4ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}9月{{0}}4日、[[正力松太郎]]、日本テレビ放送網設立構想を発表<ref name=shibusawap5>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=5 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 5ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref><ref name="topic" group="注釈"/>。 ** 10月{{0}}2日、日本テレビ放送網、テレビ放送免許を申請<ref name=shibusawap5/>。 * 1952年 ** {{0}}7月31日、NHKに先んじて、日本で最初のテレビ放送予備免許を取得<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=6 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 6ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}8月{{0}}5日、千代田区二番町14番地の社屋建設用地(約2100坪)の購入契約を締結。当地は南満州鉄道の社長であった[[早川千吉郎]]邸があった土地で、1952年当時は[[大谷米太郎]](大谷重工業社長、ホテルニューオータニ創業者)が所有していた<ref name=shibusawap7>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=7 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 7ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}9月10日、テレビ放送に必要な主要機器(送信機、カメラ、アンテナ等)を、米RCA社に発注する<ref name=shibusawap7/>。 ** 10月15日、創立総会を開催し、正力松太郎を社長に選出<ref name=shibusawap7/>。 ** 10月28日、(旧)'''日本テレビ放送網株式会社'''(現[[日本テレビホールディングス]])として会社設立([[資本金]]2億5千万円)。設立資金は正力からの要請を受けた池田勇人大蔵大臣が、財界人に声をかけ資金を調達した<ref name=shibusawap7/><ref>{{Cite book|和書|author=佐野眞一|authorlink=佐野眞一|title=巨怪伝 <small>正力松太郎と影武者たちの一世紀</small>|publisher=[[文藝春秋]]|year=1994|pages=446-447|isbn=4-16-349460-X}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=ベンジャミン・フルフォード|title=ステルス・ウォー <small>日本の闇を侵蝕する5つの戦争</small>|publisher=講談社|year=2010|page=241|isbn=978-4-06-216124-4}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=有馬哲夫|authorlink=有馬哲夫|title=日本テレビとCIA <small>ー発掘された『正力ファイル』</small>|publisher=[[新潮社]]|year=2006|page=248|isbn=4-10-302231-0}}</ref>。 * 1953年 ** {{0}}2月18日、麹町のテレビ塔(アンテナ以外)完成。アンテナを含めた高さは154m。高さ55mと74m地点に展望台を設置した<ref name=shibusawap8>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=8 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 8ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}4月15日、資本金を5億円に増資<ref name=shibusawap8/>。 ** {{0}}4月、社屋本館、大道具室、機械室が完成<ref name=shibusawap8/>。 ** {{0}}7月{{0}}3日、本館スタジオ(第1〜3)完成<ref name=shibusawap9>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=9 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 9ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}8月{{0}}3日、テレビ塔にアンテナ取付完了<ref name=shibusawap9/>。 ** {{0}}8月17日、名古屋と大阪にテレビ局の免許を申請(後に却下)<ref name=shibusawap9/>。 ** {{0}}8月18日、[[街頭テレビ]]受像機を関東一円(都内29か所、周辺部13か所)に設置。 ** {{0}}8月20日、[[試験電波]]を発射<ref name=shibusawap9/>。 ** {{0}}8月22~26日、テレビ放送施設新設の検査を受ける<ref name=shibusawap9/>。 ** {{0}}8月27日、テレビ放送本免許を取得<ref name=shibusawap9/>。 ** {{0}}8月28日、午前10時から「[[テストパターン]]」を流し<ref>「大衆とともに25年沿革史」(日テレ社史)に記載の当日のタイムテーブルから参照。</ref>、午前11時20分、『[[鳩の休日]]』の映像と共に'''民放初のテレビ局(地上アナログ)として本放送を開始'''(この日が開局記念日であり、開局時の出力は、映像10kw、音声5kwだった)。開局第一声担当は、結城雅子アナウンサーが務めた。日本初のテレビ局としての開局を目指していたが、多くの放送機材を[[アメリカ合衆国|米国]]からの輸入に頼っていたため納入が間に合わず、機材をほぼ国産品で揃えた[[日本放送協会|NHK]]に先行された。日本で初めてとなる[[コマーシャルメッセージ|テレビCM]]([[精工舎]]提供)を放送。また、正午のCMが裏返しになるという日本で初めての[[放送事故]] [[コマーシャルメッセージ|テレビCM]]([[精工舎]]提供)が発生した<ref name=shibusawap10>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=10 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 10ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}8月29日、プロ野球[[読売ジャイアンツ|巨人]] - [[阪神タイガース|阪神]]戦([[後楽園球場]])を民放テレビ局として初中継<ref name=shibusawap10/><ref name="40年史1950年代"/>。 ** {{0}}8月31日、民放テレビ局として初の[[テレビドラマ]]『NTV劇場・私は約束を守った』放送。 ** {{0}}9月{{0}}4日、民放テレビ局として初の連続ドラマ『パック町を行く』放送開始。 ** {{0}}9月19日、大相撲秋場所(蔵前)にて、民放テレビ局初の大相撲中継を行う<ref name=shibusawap10/>。 ** 10月27日、プロボクシング世界選手権[[白井義男]] - テリー・アレン戦を中継<ref name=shibusawap10/>。 ** 11月15日、民放テレビ局として初めて[[中央競馬]]のテレビ中継となる[[天皇賞(秋)|秋の天皇賞]]([[東京競馬場]])を放送<ref>{{Cite|和書|author=日本テレビ放送網|title=大衆とともに25年 -沿革史- |date=1978|pages=72}}</ref>。 ** 11月27日、民放テレビ局として初めて[[地方競馬]]のテレビ中継([[船橋競馬場]])を行う<ref group="注釈">その関係で、船橋競馬場では、社盃である「[[日本テレビ盃]]」が、9月下旬から10月上旬に開催されている。[http://www.f-keiba.com/race/dirtgrade/index.html ダートグレード競走特集] - 船橋競馬場ホームページ</ref><ref name=shibusawap11>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=11 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 11ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** 11月30日、民放テレビ局として初めて、国会開会式を中継する<ref name=shibusawap11/>。 ** 12月{{0}}1日、テレビ塔のエレベーター完成。12月10日よりテレビ塔展望台の一般無料公開開始<ref name=shibusawap11/>。 * 1954年 ** {{0}}1月{{0}}2日、民放として初めて、宮中参賀を中継する<ref name=shibusawap11/>。 ** {{0}}2月19日、『[[力道山]]・[[木村政彦]]対[[シャープ兄弟]]プロレス実況』をNHKと同時に3日間にわたって放送。[[新橋駅]]西口の街頭テレビに連日2万人以上が詰めかけたため、日本のテレビ初期の看板番組にまでなる。以後力道山の人気はうなぎのぼりとなり、全国的なプロレス旋風が巻き起こる。 ** {{0}}7月30日、日本で初めての[[テレビカー]]を[[京成電鉄]]の[[京成1600形電車|1600形]]・[[京成1500形電車|1500形]]で実験を行い成功<ref name=shibusawap12>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=12 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 12ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。運転を開始する。京成電鉄のテレビカー車内では日本テレビの番組を放映していた。 ** {{0}}9月{{0}}4日、静岡県宇佐美海岸に於いて、海中のテレビ受信実験に成功<ref name=shibusawap12/>。 ** 10月{{0}}4日、ニュース番組『[[NNNきょうの出来事|きょうの出来事]]』放送開始([[2006年]][[9月29日]]終了)。 * 1955年 ** {{0}}2月27日、[[第27回衆議院議員総選挙]]、日本テレビとして初の選挙開票速報を実施<ref>{{cite news |title= 62年前はほぼ手作業!衆院選“開票速報”|author= |newspaper= [[日テレNEWS24]]|date= 2017-10-13|url= https://news.ntv.co.jp/category/society/375006|accessdate=2018-3-3}}</ref><ref group="注釈">此の時の開票速報の放送時間は投票日当日の午後9時25分から午後11時30分までと、投票日翌日の午前8時から午後6時まで。票数と当確・当選は新聞大手3社からの情報を基にして行われ、スタジオに用意された手書きの候補者名札とハンコで押した候補者得票数が張られたボードをテレビカメラで撮影して行った。</ref><ref name=shibusawap13>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=18 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 13ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}4月{{0}}1日、資本金を7億5000万円に増資<ref name=shibusawap13/>。 ** {{0}}5月30日、プロボクシング世界選手権白井義男 - [[パスカル・ペレス (ボクサー)|パスカル・ペレス]]戦を中継。視聴率96.1パーセントを記録。 ** 11月28日、[[清水与七郎]]が社長に就任<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=15 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 15ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 * 1956年 ** {{0}}7月24日、開局時の局舎の裏側に増築した第4スタジオ(後の旧Gスタジオ、120坪)運用開始<ref name=shibusawap16>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=16 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 16ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}8月19日、午前6時30分、日本初のテレビ早朝放送を開始。画面に初めて時分[[スーパーインポーズ (映像編集)|テロップ]]を入れる<ref name=shibusawap16/>。 ** 12月{{0}}1日、[[中部日本放送]](CBC、現在の[[CBCテレビ]])、[[大阪テレビ放送]](OTV、現在の[[朝日放送テレビ]]〈ABCテレビ〉)が開局し、両社とネットワークを形成<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=17 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 17ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** 12月31日、精工舎(現・[[セイコーホールディングス]])提供、同局をはじめ民放4社による共同制作の『[[ゆく年くる年 (民間放送テレビ)|ゆく年くる年]]』を放送<ref name=shibusawap18>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=18 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 18ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 * 1957年 ** {{0}}2月{{0}}3日、来るカラーテレビ放送に備え、米RCA社から、スリービディコンカラーフィルムカメラを購入する<ref name=shibusawap18/>。 ** {{0}}3月17日、『[[ミユキ野球教室]]』放送開始(1990年3月終了)。 ** {{0}}4月{{0}}1日、カラーテレビ放送開始に備え、5ヵ所の街頭テレビに、RCA社製21インチカラーテレビ受像機を設置する<ref name=shibusawap18/>。 ** {{0}}4月18日、カラーテレビ放送実験局の免許を申請<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=19 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 19ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** 10月24日、- 10月27日、日本初のプロゴルフトーナメント試合テレビ実況生中継を行う。([[ワールドカップ (ゴルフ)|カナダ・カップ]] 於:[[霞ヶ関カンツリー倶楽部]])<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=20 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 20ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref> ** 12月27日、カラーテレビ実験局本免許を取得(コールサイン:'''JOAX-TVX''')<ref>{{Cite book|和書|author=日本テレビ放送網株式会社 社史編纂室|date=1978-8|title=大衆とともに25年 沿革史|publisher=日本テレビ放送網|page=108~9}}</ref>。 ** 12月28日、カラーテレビ実験局開局(民放初)。初のカラーフィルムによる実験放送を開始 <ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=21 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 21ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 * 1958年 ** {{0}}4月{{0}}9日、資本金を10億円に増資<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=22 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 22ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}7月14日、この日のカラーテレビ実験放送枠内にて、日本初のカラーアニメーション映画「[[もぐらのアバンチュール]]」を放送(同年10月15日に同枠内にて再放送)<ref>{{Cite book|和書|author=日本テレビ放送網株式会社 社史編纂室|date=1978-8|title=大衆とともに25年 沿革史|publisher=日本テレビ放送網|page=109}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://tvtopic.goo.ne.jp/program/ntv/116/1082588/|title=ぐるぐるナインティナイン 【大人気TV欄クイズ激レア映像SPピコ太郎14年前の(秘)映像!?に赤面】の番組概要ページ - gooテレビ番組(関東版)|accessdate=2023年10月{{0}}9日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190622152747/https://tvtopic.goo.ne.jp/program/ntv/116/1082588/|archivedate=2019-06-22|deadlinkdate=2021-04-14}}</ref>。 ** {{0}}8月28日、開局5周年。番組編成を日本テレビ主体に置いた系列局として、[[讀賣テレビ放送]](YTV)、[[テレビ西日本]](TNC)が開局。先に開局した[[西日本放送テレビ|西日本放送]](RNC)も含め、日本テレビの全国ネットワーク体制のさきがけとなる<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=23 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 23ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}9月12日、カラー放送の為の実写用のカラースタジオカメラ(米RCA社製 TK-41)を購入<ref name=shibusawap24>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=24 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 24ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** 10月{{0}}1日、(株)レクリエーション・センターを合併し、資本金が12億円に<ref name=shibusawap24/>。 ** 10月14日、テレビ番組のキネスコープを使ったフィルムでの記録を開始する<ref name=shibusawap24/>。 ** 12月12日、初のスタジオカラーカメラによる実験放送番組『手品教室』が始まる<ref name=shibusawap24/>。 ** 12月18日、米アンペックス社製の放送用の[[2インチVTR]](VR-1000 モノクロ仕様)を購入<ref name=shibusawap24/>。 ** 12月25日 *** [[東海テレビ放送]](THK)が開局。中部日本放送から番組ネットワークを引き継ぐ<ref name=shibusawap25>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=25 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 25ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 *** 初のVTR番組ドラマ「雑草の歌」“聞えない葦”放送<ref name=shibusawap25/>。 * 1959年 ** {{0}}1月24日、カラーテレビ中継車が完成する<ref name=shibusawap25/>。 ** {{0}}3月28日、ネットワークニュース番組『[[日本テレニュース]]』スタート。 ** {{0}}4月{{0}}8日、郵政省から、カラー実験放送に於いて、カラーCMの放映が認可される<ref name=shibusawap26>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=26 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 26ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}4月10日、[[皇太子]][[明仁|明仁親王]]結婚(成婚)。この日、39台のカメラを駆使してテレビ史上に語り継がれる大規模生中継を行う。その後、成婚当日の模様を同局でテレビカメラとは別に35mmカラーフィルムで撮影した物を、20時から特番『このよき日』でカラーで放送した<ref>朝日新聞1959年4月10日朝刊5ページテレビ欄 ちなみに、この番組の司会は三国一朗だった。(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)</ref>。この番組の中では、日本初のカラーCMも放送された<ref name=shibusawap26/>。 ** {{0}}4月14日、プロボクシングのカラー初中継を、当時の[[後楽園ホール|後楽園ジム]]から行う<ref name=shibusawap27>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=27 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 27ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}4月15日、スタジオドラマでは日本初のカラー放送による、『ヤシカゴールデン劇場・[[赤い陣羽織#1959年版|赤い陣羽織]]』を、この日の20時より1時間生放送<ref name=shibusawap27/><ref>朝日新聞1959年4月15日朝刊5ページテレビ欄番組表及び同記事「カラーの生ドラマ登場 色彩効果をねらう NTVが「赤い陣羽織」」に記載。(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)</ref>。 ** {{0}}4月17日、プロレスリングのカラー初中継を行う<ref name=shibusawap27/>。 ** {{0}}6月、カラーテレビセンター棟1階の第9スタジオ(後のHスタジオ、130坪)運用開始。 ** {{0}}7月、カラーテレビセンター棟3階の第10スタジオ(後のJスタジオ、130坪)運用開始。 ** {{0}}7月{{0}}2日、プロ野球初のカラー中継がナイターで放送される(巨人対大洋戦)<ref name=shibusawap27/>。 ** {{0}}9月10日、番組「ビクター 歌のパレード」内にて、日本で初めてカラークロマキーを実用化する<ref name=shibusawap28>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=28 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 28ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}9月15日、同局の株式がマスコミ業界としては初めて[[東京証券取引所]]に上場する<ref name=shibusawap28/>。 ** 10月23日、米RCA社から、日本で初めて2インチの放送用カラーVTRが納入される<ref group="注釈">値段は当時で約3千数百万円であった。</ref><ref name=shibusawap28/><ref name=asahi591122>朝日新聞1959年11月22日朝刊5ページテレビ欄記事「カラービデオテープ 日本テレビで購入」に記載。(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)</ref>。 ** 10月24日、[[MBSテレビ|毎日放送]](MBS)<ref group="注釈">なお、毎日放送(MBS)の[[NTSC|アナログ放送]]チャンネルおよびデジタル放送のチャンネルは日本テレビと同じ「'''4'''」だが、この当時のMBSは日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)系列だった。</ref>と[[1959年の日本シリーズ#テレビ中継|日本シリーズ]]中継を共同制作する。 ** 11月21日、戦艦陸奥より海中中継(桂島)を行う<ref name=shibusawap28/>。 ** 12月{{0}}3日、 *** 日本初のカラーVTR放送[[:en:Kraft Music Hall (TV series)|『ペリー・コモ・ショー』(Perry Como's Kraft Music Hall)]](米[[NBC]]からダビングされたカラービデオテープを再生)放映<ref name=shibusawap29>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=29 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 29ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref><ref name=asahi591122/>。 *** 局内のスタジオにて、日本初のカラーVTRを使った収録を開始。 ** 12月{{0}}5日、2日前に、日本国内のスタジオにおける初の[[カラーテレビ|カラー]]VTR収録を行ったドキュメンタリードラマ番組『[[シャープクライマックス 人生はドラマだ]]』第9回「[[ダニエル・イノウエ|ダニエル建・井上]]」放送<ref name=shibusawap29/><ref name=asahi591122/>。 === 1960年代 === * 1960年 ** {{0}}3月12日、出力が映像50kw、音声12.5kwに増強<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=30 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 30ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}6月10日、テレビ視聴率調査に[[エーシーニールセン|ニールセン]]方式を採用<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=31 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 31ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}9月{{0}}2日、カラーテレビ本放送免許取得<ref name=shibusawap32>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=32 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 32ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}9月10日、カラーテレビ本放送開始(NHK、[[TBSテレビ|ラジオ東京]](KRT)と共に東京地区では初)。当日、記念番組が4時間に渡って放送される<ref name=shibusawap32/>。 ** 11月、新事務館完成(後の西本館と南本館の間のビル)<ref name=shibusawap32/>。 * 1961年 ** {{0}}1月{{0}}2日、宮中参賀をカラーで初放送する<ref name=shibusawap33>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=33 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 33ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}1月{{0}}8日、大相撲初場所で初のカラー中継放送を開始<ref name=shibusawap33/>。 ** {{0}}6月{{0}}4日、『[[シャボン玉ホリデー]]』放送開始(1972年10月{{0}}1日終了)<ref name=shibusawap34>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=34 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 34ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}6月10日、読売テレビへのカラーネットが暫定開通する<ref name=shibusawap34/>。 * 1962年 ** 朝6時台から深夜12時まで切れ目のない全日放送体制が完成。 ** {{0}}4月{{0}}1日、名古屋放送(NBN、現在の[[名古屋テレビ放送]])が開局。東海テレビ放送からネットワークを引き継ぐ<ref name=shibusawap36>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=36 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 36ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}6月{{0}}1日、電電公社のマイクロ波使用のテレビ同時ネット回線がカラー化。これにより、読売テレビへの同カラー回線が正式開通する<ref name=shibusawap36/>。 ** {{0}}7月{{0}}3日、[[読売日本交響楽団]]を結成する<ref name=shibusawap37>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=37 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 37ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}7月18日、[[音声多重放送]]の実験を開始<ref name=shibusawap37/>。 ** 12月14日、[[ORTF|フランス国営放送]](RTF)と、ニュース、ドキュメンタリー、及びドラマ番組交換協定を締結<ref name=shibusawap38>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=38 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 38ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 * 1963年 ** {{0}}1月21日、日本テレビ系列の最長寿[[ミニ番組]]『[[キユーピー3分クッキング#日本テレビ版|キユーピー3分クッキング]]』放送開始。 ** {{0}}3月{{0}}5日、ハワイのKONAテレビとネットワーク協定調印<ref name=shibusawap38/>。 ** {{0}}6月23日、- 7月7日、大相撲名古屋場所にて、初の[[TBSテレビ]]と同一画面(アナは別)にて大相撲中継を実施、民放テレビ全局へネットする<ref name=shibusawap39>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=39 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 39ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}8月{{0}}5日、スタジオ契約を結んでいる[[後楽園ホール]]のカラー化が完成<ref name=shibusawap39/>。これに伴い、同ホールで収録している「[[私のクイズ]]」、「[[歌のグランプリショー]]」、「[[底ぬけ脱線ゲーム]]」等がカラー化される<ref group="注釈">これを受け、「私のクイズ」は同月{{0}}9日放送分から、「歌のグランプリショー」と「底ぬけ脱線ゲーム」は同月11日放送分からカラー化されている。</ref><ref>朝日新聞 1963年8月{{0}}9日朝刊 P.7 テレビ欄(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)</ref><ref>朝日新聞 1963年8月11日朝刊 P.7 テレビ欄(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)</ref>。 ** {{0}}8月28日、開局10周年<ref name=shibusawap39/>。 ** 10月、全日放送開始<ref name=shibusawap40>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=40 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 40ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** 10月{{0}}7日、子ども向け番組『[[ロンパールーム]]』放送開始<ref name=shibusawap40/>。 ** 11月22日、通信衛星リレー1号を利用して、日米間で初の白黒テレビの電送実験。放送中に[[ケネディ大統領暗殺事件]]が発生し急遽別番組を編成<ref name=shibusawap40/>。 * 1964年 ** {{0}}7月29日、世界初の深海作業船からの中継に成功<ref name=shibusawap42>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=42 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 42ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}7月、[[多摩丘陵]]・[[よみうりランド]]内にカラー公開スタジオ「NTVスタジオ」が完成<ref name=shibusawap42/>。 ** {{0}}9月30日、テレビ西日本がネットワークから離脱。これにより福岡地区の日本テレビ系番組の大半が[[RKB毎日放送]]<ref group="注釈">RKB毎日放送もアナログ放送および地上デジタル放送のチャンネルは日本テレビ同様「'''4'''」だが、RKBは[[TBS系列]]である。</ref>に移動する(1969年3月31日まで)。 ** 10月10日、[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]開催。これに関する自社制作におけるカラー放送を強化する。 ** 11月{{0}}2日、音声多重放送の予備実験を実施<ref name=shibusawap43>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=43 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 43ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 * 1965年 ** {{0}}1月12日、[[パキスタン]]にテレビ受像機200台を寄贈<ref name=shibusawap43/>。 ** {{0}}2月14日、民放テレビ全局46社ネットの小児マヒ救済テレビチャリティーショー「いまぼくは空を見ることができる」放送<ref name=shibusawap43/>。 ** 11月{{0}}8日、平日に、早朝の子ども向け番組『[[おはよう!こどもショー]]』<ref>{{Cite book|和書|author=日本テレビ放送網株式会社 社史編纂室|date=1978-8|title=大衆とともに25年 沿革史|publisher=日本テレビ放送網|page=159}}</ref>、及び夜遅くのワイド番組『[[11PM]]』<ref name=shibusawap45>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=45 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 45ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>が共に放送開始。 * 1966年 ** {{0}}3月{{0}}6日、世界初、カラーのスポットコマーシャル([[日立製作所]]提供)の放送が開始される<ref name=shibusawap45/>。 ** {{0}}4月{{0}}1日、NNN(日本ニュースネットワーク)発足<ref name=shibusawap46>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=46 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 46ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}5月15日、『[[笑点]]』放送開始<ref name=shibusawap46/>。 ** {{0}}7月{{0}}1日、[[ビートルズ|ザ・ビートルズ]]の日本武道館来日公演番組『[[ザ・ビートルズ日本公演 (テレビ番組)|ザ・ビートルズ日本公演]]』をカラーで独占中継(VTR録画)し、視聴率は56パーセントに達した<ref name=shibusawap46/><ref group="注釈">日本テレビは同年6月30日と7月{{0}}1日の2公演分をカラーVTRにて収録している。その経緯については、「[[ビートルズ#日本公演]]」を参照のこと。</ref>。 ** 10月10日、プロゴルフトーナメント試合[[ワールドカップ (ゴルフ)|カナダ・カップ]]の中継をカラーで行う<ref name=shibusawap47>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=47 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 47ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 * 1967年 ** {{0}}2月{{0}}7日、米テキサス州ヒューストンのアストロドームで行われた、世界ヘビー級タイトルマッチを同時中継<ref name=shibusawap47/>。 ** {{0}}4月、ニューヨーク支局を開設。アメリカ・NBC内に特設スタジオを設置し、衛星中継による海外ニュースを放送<ref name=shibusawap48>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=48 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 48ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}7月21日、福井近夫が社長に就任<ref name=shibusawap48/>。 * 1968年 ** {{0}}3月31日、西本館竣工<ref name=shibusawap50>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=50 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 50ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}5月10日、[[新宿区]]に独自の送信所を兼ねた日本最大のテレビ塔建設を発表(後に計画は中止)<ref name=shibusawap50/>。 ** {{0}}8月28日、開局15周年<ref name=shibusawap51>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=51 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 51ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}9月30日、『[[お昼のワイドショー]]』放送開始<ref name=shibusawap51/>。 * 1969年 ** {{0}}4月{{0}}1日、[[中京テレビ放送]](CTV)、[[福岡放送]](FBS)他全国各地に開局した[[UHF局|アナログUHF局]]とネットワークを組む。福岡放送はRKB毎日放送からネットワークを引き継ぎ、4年半ぶりに福岡地区での日本テレビ系フルネット局が復活した<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=52 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 52ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** 10月{{0}}1日、日本テレビ音楽(株)設立<ref name=shibusawap54>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=54 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 54ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** 10月{{0}}9日、午前3時50分<ref>『大衆とともに25年 沿革史』(日テレ社史)「第3章 激動期の日本テレビ放送網」195頁「9.正力会長の急逝」より。</ref>、当時の会長、正力松太郎が死去<ref name=shibusawap54/>。 ** 10月11日、[[大蔵省]]の指摘により粉飾決算が発覚。過去数年分の[[有価証券報告書]]を訂正。 ** 11月10日、コンピュータ導入(第1世代[[Advanced Power Management|APM]])で本格的な番組運行自動化を開始<ref name=shibusawap54/>。 ** 12月{{0}}1日、資本金を24億円に増資<ref name=shibusawap54/>。 === 1970年代 === * 1970年 ** {{0}}1月{{0}}4日、『[[NNNドキュメント]]』放送開始<ref name=shibusawap55>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=55 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 55ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}2月10日、[[ユニオン映画|ユニオン映画(株)]]設立<ref name=shibusawap55/>。 ** {{0}}4月、夜のゴールデンアワーが全面カラー化。全時間帯でのカラー化率が64%となる<ref name=shibusawap56>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=56 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 56ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}5月20日、[[小林與三次]]が社長に就任し、読売色が一層強まる<ref name=shibusawap56/>。 ** この頃より対外的に使用する社旗を、青地に社章(「NTV」ロゴを丸で囲った物。[[File:NTV Emblem 1953.png|60px]])を白く抜いた物より、読売新聞の社旗を模した上から緑・赤・青色の模様の旗に変更。 ** {{0}}5月、[[那覇市|那覇]]、[[ワシントンD.C.|ワシントン]]、[[モスクワ]]、[[ソウル特別市|ソウル]]に各支局を開設。世界ネットを強化<ref name=shibusawap56/>。 ** 10月{{0}}4日、[[紀行番組]]『[[遠くへ行きたい (テレビ番組)|遠くへ行きたい]]』の放送開始。 ** 11月10日、同局の送信所を、[[麹町]]の本社社屋に隣接したテレビ塔から[[東京タワー]]に移行<ref name=shibusawap58>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=58 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 58ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 * 1971年 ** {{0}}1月{{0}}3日、[[全国高等学校サッカー選手権大会#テレビ中継|全国高校サッカー選手権大会]]を[[毎日新聞社]]に代わって主催し、独占中継権を得る<ref name=shibusawap58/>。 ** 10月、自社制作の番組のカラー化率がほぼ100パーセントに達する。全放送時間の100%カラー化達成(いずれも日本の民放初)<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=61 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 61ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** 10月23日、アニメ『[[ルパン三世]]』シリーズ(『[[ルパン三世 (TV第1シリーズ)]]』)放送開始。 * 1972年 ** {{0}}4月{{0}}5日、[[日本テレビサービス|(株)日本テレビサービス]]設立<ref name=shibusawap63>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=63 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 63ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}5月21日、[[朝鮮中央放送|朝鮮中央放送委員会]]とテレビフィルムを定期交換する協定に調印<ref name=shibusawap63/><ref>テレビ夢50年 データ編 148ページ 日本テレビ放送網 2004年発行</ref>。 ** {{0}}6月14日、系列18社によるNNS(日本テレビネットワーク協議会)発足。当時のネット局である名古屋放送(名古屋テレビ、NBN)と番組編成を巡って係争。この結果、12月に東海地区のテレビネットを中京テレビ放送(CTV)へ翌年4月{{0}}1日付で一本化することに決定(CTV開局後もNBNと2局並列で[[クロスネット局|クロスネット加盟]]=当時CTVはNET中心の編成=であった)。 ** {{0}}7月21日、刑事ドラマ『[[太陽にほえろ!]]』放送開始。 * 1973年 ** {{0}}1月14日、ハワイで行われたエルビス・プレスリー・ショーを独占衛星生中継<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=65 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 65ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}3月19日、アメリカの[[ABCニュース (アメリカ)|ABCニュース社]]と、ニュース提供と衛星中継に関する契約を締結<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=66 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 66ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}8月28日、開局20周年。 ** 10月31日、日本テレビ系列愛の小鳩事業団設立。 ** 12月20日、読売新聞社、[[朝日新聞社]]、毎日新聞社の3社首脳間で日本テレビと[[東京放送ホールディングス|東京放送]](TBS)の新聞資本を統一する合意が成立。 * 1974年 ** {{0}}1月{{0}}7日、[[オイルショック|石油危機]]による電力節減のため、郵政省が民放各社に深夜の放送自粛を要請したのを受け、在京5社の申し合わせで、この日から深夜0時30分で放送終了となる<ref name=shibusawap69>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=69 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 69ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}1月、小林社長、バチカンで[[教皇|ローマ教皇]][[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]から勲章を授与される<ref name=shibusawap69/>。 ** {{0}}3月31日、開局以来の[[読売・朝日・毎日3社ニュース|3社ニュース]]の放送が『[[読売新聞ニュース]]』に一本化される。 ** {{0}}5月、読売新聞社は朝日新聞社と毎日新聞社が持つ全ての日本テレビ株式を購入。これで日本テレビは完全に読売グループの傘下に入る。 ** 12月{{0}}1日、資本金を37億2500万円に増資<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=72 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 72ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 * 1975年 ** {{0}}4月{{0}}2日、[[松田優作]]、[[中村雅俊]]主演の[[テレビドラマ]]『[[俺たちの勲章]]』放送開始。 ** {{0}}6月29日、『NNNドキュメント 明日をつかめ!貴くん〜4745日の記録』放送。翌年、日本のテレビ番組で初めて[[エミー賞|国際エミー賞]]を受賞。 ** {{0}}7月13日、UHF局([[テレビ神奈川]])への[[プロ野球トップ&リレー中継|プロ野球リレーナイター]]供給を開始<ref name=shibusawap74>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=74 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 74ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}8月13日、ブルガリア人民共和国テレビ・ラジオ委員会と協力協定締結<ref name=shibusawap74/>。 ** {{0}}8月、バンコク支局開設<ref name=shibusawap74/>。 ** {{0}}9月{{0}}6日、同局の「愛の小鳩事業団」が日本で初めての「手話スクール」を開講する<ref name=shibusawap75>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=75 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 75ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}9月13日、ハンガリーテレビと協力協定締結<ref name=shibusawap75/>。 ** 10月{{0}}8日・[[10月15日|15日]]『[[水曜ロードショー (日本テレビ)|水曜ロードショー]]』にて、名作映画『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』がテレビで世界初放映される(8日が前編、15日が後編)<ref name=shibusawap75/><ref group="注釈">日本テレビは当時、この映画をテレビにて放映するために、放送権を6億円で購入したとされる(引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争-そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、130頁に記載されている。{{ISBN2|4-06-212222-7}})。</ref>。 ** 11月16日、日曜「朝のニュース」と広報番組に「手話通訳」を編成<ref name=shibusawap75/>。 ** 12月20日、[[日テレイベンツ|株式会社日本テレビエンタープライズ]]設立<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=76 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 76ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 * 1976年 ** 11月25日、日本テレビ放送網文化事業団設立。「フランス美術賞展」などの美術展を開催<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=79 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 79ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 * 1977年 ** {{0}}2月{{0}}3日、郵政省に「テレビジョン音声多重放送実用化試験局」の免許を申請<ref name=shibusawap80>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=80 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 80ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}3月20日、資本金を41億円に増資<ref name=shibusawap80/>。 ** {{0}}6月20日、オーストラリアのナイン・ネットワークと協力協定締結<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=81 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 81ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}8月31日、「日本テレビ第一別館」完成<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=82 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 82ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}9月、パリ支局開設<ref name=shibusawap83>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=83 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 83ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** 10月20日、視聴者参加型大型クイズ番組『[[アメリカ横断ウルトラクイズ]]』スタート(以後1992年まで毎年1回行われた)。 [[File:NTV Symbol 1978 (改訂版).png|thumb|日本テレビ放送網のシンボルマーク•社章<br />(1978年1月の制定から使用されている。)]] [[ファイル:Ntv kojimachi kaitai 20190504 side.jpg|200px|thumb|旧麹町分室解体工事時に露出したシンボルマークの巨大レリーフ]] [[ファイル:Nippon TV logo (NTV).svg|200px|thumb|NTVロゴ]] * 1978年 ** {{0}}1月{{0}}1日、開局25周年に伴い、[[統一]][[シンボルマーク]]・[[社章]]を制定<ref name=shibusawap83/>。[[民間放送局]]が[[シンボルマーク]]を制定するのは初めてである。1977年以前にこれまで使用された、「NTV」ロゴを丸で囲った物から、日本テレビの『日』と地球を[[メルカトル図法]]的にデザイン化した物へと変更された。従来の「日本テレビ」のロゴの前にも、このシンボルマークが付けられていた(放送では1992年いっぱいまで<ref group="注釈">製作著作クレジットでは背景の格子模様が無いことも多かった。これと併用して関東ローカルなどではブラウン管を象った枠の中にチャンネルナンバーの「4」をモチーフにしたものが入ったロゴマークと社名ロゴタイプの組み合わせもシンボルマーク登場以前から使われていた。こちらも「[[なんだろう]]」の登場を機に廃止している。</ref>、社の封筒では2003年夏頃まで使用されていた〈1992年以降は「[[なんだろう]]」のマスコットと一緒に〉。電子化以前の[[株券]]に使用されていたが、現在は社債のみに使用されている)。 ** {{0}}1月30日、CMバンク稼働開始<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=84 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 84ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}4月{{0}}1日、無償新株式(1:0.1)発行。資本金が45億1000万円となる<ref>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=13240&query=&class=&d=all&page=85 日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08) 85ページ (渋沢社史データベース)(2023年10月4日閲覧)]</ref>。 ** {{0}}8月26日、『[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」]]』スタート(以後、毎年8月に行われる)。南本館竣工。 ** {{0}}8月28日、開局25周年。 ** {{0}}9月22日、テレビジョンの[[音声多重放送]]の実用化試験局の予備免許を取得<ref name="読売新聞">{{Citation |和書 |title=[[読売新聞]] |publisher=[[読売新聞社]] |date=1978年9月23日付朝刊・1978年9月28日付夕刊}}</ref>。 ** {{0}}9月28日、テレビジョンの音声多重放送の実用化試験局の本免許を、放送局として初めて取得。取得直後の午前10時01分、『[[ミセス&ミセス]]』の番組内で、世界初の音声多重放送実用化試験放送を開始<ref name="読売新聞"/><ref>{{Citation |和書 |title=[[毎日新聞]] |publisher=[[毎日新聞社]] |date=1978年9月28日付朝刊・夕刊}}</ref><ref>{{Citation |和書 |title=[[中日新聞]] |publisher=[[中日新聞社]] |date=1978年9月28日付夕刊}}</ref>。この日から、後楽園球場の巨人戦も[[ステレオ放送]]になる(この日は対[[広島東洋カープ|広島]]戦であった)。 ** 10月{{0}}6日、水谷豊主演の[[テレビドラマ]]『[[熱中時代]]』(第1シリーズ)放送開始。 * 1979年 ** {{0}}2月、四番町別館竣工。 ** {{0}}3月{{0}}5日、ニュース・情報番組『[[ズームイン!!]]』シリーズ(『[[ズームイン!!朝!]]』)放送開始。 ** {{0}}9月{{0}}3日『[[ルパン三世 (TV第2シリーズ)]]』第99話にて、テレビアニメ初のステレオ放送開始。 ** 12月31日『[[欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞|欽ちゃんの仮装大賞]]』スタート。 === 1980年代 === * 1980年 ** {{0}}2月{{0}}9日、緊急警報放送の実験放送を開始。 ** VTRカメラが初めて[[エベレスト]]に登る。この登山のドキュメンタリー番組『生と死に賭けた36時間・これがチョモランマだ!』が高い評価を呼び、[[芸術祭 (文化庁)|文化庁芸術祭]]テレビドキュメンタリー部門で優秀賞を獲得。 ** {{0}}6月29日、[[高木盛久]]が社長に就任。 ** 10月、北本館竣工。麹町Gスタジオ、Kスタジオなどが完成。 * 1982年 **12月、テレビ[[音声多重放送]]の本放送を開始。 * 1983年 ** {{0}}8月28日、開局30周年。正力松太郎会長の遺訓の中から社訓・信条を制定。 ** {{0}}9月{{0}}7日、テレビジョン同期放送の実験放送を開始。 ** 12月31日、『[[全国高等学校クイズ選手権]]』スタート(以後1985年まで毎年2回、1986年より毎年1回行われる)。 * 1984年 民放業界最大の規模のコンピュータグラフィックスシステムを完成。参議院選挙、衆議院総選挙などの報道で稼動。 * 1985年 ** {{0}}1月24日、資本金を70億8560万円に増資。 ** {{0}}5月20日、無償新株式(1:0.1)発行。 ** 11月29日、文字多重放送の本放送を開始。 ** 日本テレビニューヨークスタジオ開設、生放送スタート。 * 1986年 ** 日本テレビ初のミュージカル「[[アニー#日本版|アニー]]」スタート。 * 1987年 ** {{0}}1月{{0}}2日・[[1月{{0}}3日|3日]] [[東京箱根間往復大学駅伝競走]](箱根駅伝)中継放送開始。 ** 10月{{0}}1日、[[ケーブルテレビ]]局に向けて日本初となる[[ニュース専門放送局|ニュース専門チャンネル]]「NCN(日本テレビケーブルニュース)」の配信を開始<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.catv-jcta.jp/jcta/files/pdf/history3.pdf|title=年表 ― 昭和61年~平成15年|accessdate=2019年12月16日|author=社団法人日本ケーブルテレビ連盟|date=2005年6月|page=205|work=日本のケーブルテレビ発展史|publisher=}}</ref>。 ** 10月{{0}}2日、『お昼のワイドショー』放送終了(後番組は『[[午後は○○おもいッきりテレビ]]』)。 ** 10月{{0}}5日、『ズームイン!!朝!』にて、SNG(日本テレビサテライトネットワーク)の実験運用を開始する。 ** 10月、[[マイケル・ジャクソン]]の[[横浜スタジアム]]での来日公演を録画放送。 * 1988年 ** [[クリアビジョン]]放送実験局免許取得。 ** {{0}}5月{{0}}5日、[[エベレスト]](チョモランマ)山頂から世界初の生中継を実施し、成功。日本中にこの模様が中継された(開局35周年記念企画『チョモランマがそこにある!』)。 ** {{0}}5月20日、無償新株式(1:0.04)発行。 ** {{0}}8月28日、開局35周年。 ** 10月{{0}}3日、『[[それいけ!アンパンマン]]』放送開始。 * 1989年 ** [[バチカン]]にある[[システィーナ礼拝堂]]の壁画修復に着手。そのために支援を行う。修復は1994年まで続いた。 ** [[生田スタジオ]]竣工。 ** {{0}}6月29日、[[佐々木芳雄]]が社長に就任。 ** {{0}}7月{{0}}7日、SNGの本格運営開始。 ** {{0}}8月24日、クリアビジョン放送の本放送を開始。 ** 10月{{0}}4日、『[[ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!]]』放送開始。 === 1990年代 === * 1990年 ** {{0}}5月21日、無償新株式(1:0.05)発行。 ** {{0}}8月{{0}}1日、1単位の株式数を100株から10株に変更。 ** {{0}}8月『[[1991年世界陸上競技選手権大会|第3回世界陸上競技選手権東京大会]]』のホストブロードキャスターを担当。 * 1992年 ** {{0}}8月、開局40周年を機に[[宮崎駿]]デザイン・[[スタジオジブリ]]制作によるマスコットキャラクター「なんだろう」が誕生<ref name=":4">{{Cite web|和書|url=http://www.ntv.co.jp/over/nanndarou.html |title=なんだろう物語 |access-date=2023-09-23 |website=日本テレビ放送網 |archive-date=2006-01-16 |archive-url=https://web.archive.org/web/20060116200213/http://www.ntv.co.jp/over/nanndarou.html}}</ref>。「なんだろう」の使用期間は当初は1年間の予定だったが、日本テレビのシンボルマークとして、企業[[ロゴタイプ|ロゴ]]が変わった現在でも使用されている<ref group="注釈">{{色}}当初は'''緑色{{Color|green|●}}'''の体に黒色'''{{Color|black|●}}'''の線で縁取りしたものが使われていたが、2003年{{0}}7月に新ブランドマークが導入され、現在は体を塗りつぶさず、線を金色'''{{Color|gold|●}}'''で縁取りしたものとなっている。現在このブランドマークは日本テレビのほか、グループ会社のBS日テレ、CS日本、RFラジオ日本、日テレ・グループ・ホールディングス、日テレイベンツ、日本テレビアートなどでも使用されている。</ref>。 ** 11月{{0}}6日、SNGデジタル伝送実験局免許取得。氏家齊一郎が社長に就任。 * 1993年 ** {{0}}8月28日、開局40周年。 * 1994年 ** [[アール・エフ・ラジオ日本]]の株式を取得し、持分法適用関連会社とする。 ** 11月24日、アナログハイビジョン実用化試験局免許取得(BS9チャンネル、アナログハイビジョン実験専用のNHKと民放の合同チャンネル)。第1回『流転の海』ほかを放送。 ** 12月21日、[[日本テレビ郵便爆弾事件]]発生。 * 1995年 ** {{0}}1月{{0}}2日、視聴率年間三冠王獲得(1994年)。 ** {{0}}7月13日、ワイドクリアビジョン本放送開始。 ** インターネットに日本テレビ公式webページ([https://www.ntv.co.jp/ https://www.ntv.co.jp/])を開設。 * 1996年 ** {{0}}4月{{0}}3日、CSデジタル放送「[[CS★日テレ]]」の委託放送業務認定取得、同年8月28日に放送開始。 ** 報道局にNNNニュースチャンネルを設置。「情報番組倫理ガイドライン」完成。 * 1997年 ** {{0}}2月24日、CSデジタル放送(トライアルサービス)委託放送業務認定取得。 ** {{0}}3月{{0}}2日、民放初全日視聴率100週連続トップ獲得。 ** NCN(日本テレビケーブルニュース)の24時間化に際し、チャンネル名を「NNN24」(NTV NONSTOP NEWS24)と改称(2005年12月1日に日テレNEWS24と名称変更)。 * 1998年 ** 照明業務と電源・空調の運用業務を関連会社2社に業務移管。NNN24が本放送を開始。技術展「NAB’98」で国際優秀賞を受賞。BS準備室の新設、ビーエス日本創立総会が開かれる。 ** {{0}}6月、29か月連続月間四冠王民放新記録達成。 ** {{0}}8月28日、開局45周年。 * 1999年 キャンペーン「日テレ営業中」が[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]ポスターグランプリ’99・駅サインボード部門《金賞》受賞。視聴者と直接意見の交流、「日テレ式フォーラム」開催(民放初の試み)。小林與三次本社取締役会長が死去。 === 2000年代 === * 2000年 ** [[汐留]]新社屋建設工事地鎮祭。インターネット事業会社「フォアキャスト・コミュニケーションズ」設立。日本データ放送株式会社(略称NDB・BSの940ch)設立。視聴者と直接意見の交流、日テレ「フォーラム2」開催、視聴者とテレビの信頼回復を目指す。CS準備室開設。NTT-ME、[[東日本電信電話|NTT東日本]]とともに、[[テレビ番組]]、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]などの映像コンテンツをインターネット上で流通させるための市場、B-Bat構想を発表<ref>[https://www.ntt-east.co.jp/release/0007/000703.html ブロードバンド時代にふさわしいコンテンツ流通市場 「B-BAT(ビーバット)」の創設について] NTT東日本2000年7月{{0}}3日</ref>。高木盛久本社最高顧問・元社長が死去。 ** 12月{{0}}1日、午前11時、系列のBSデジタル放送「BS日テレ」(デジタルBS4ch)放送開始。 ** 12月16日、ライブハウス・SHIBUYA-AXオープン。 * 2001年 株式会社[[シーエス日本]]創立総会開催、21世紀型高機能放送発進。創業以来の大機構改革構想発表、CEO・COO制の導入、取締役会、執行役員会の二本柱で新しい経営体制の下、新世紀の活動をスタート。氏家齊一郎代表取締役社長が代表取締役会長兼グループ[[最高経営責任者|CEO]]、間部耕苹専務取締役が代表取締役副会長兼グループEO、[[萩原敏雄]]専務取締役が代表取締役社長兼[[最高執行責任者|COO]]にそれぞれ昇格。BS日テレ新聞広告が読売広告大賞で金賞受賞。「NNNニュースダッシュ」の[[リアルタイム字幕放送]]を開始(BS日テレは2004年10月から)。 * 2001年 ** {{0}}9月28日『ズームイン!!朝!』終了 (後番組は 『[[ズームイン!!SUPER]]』)。 ** {{0}}9月30日、開局以来、同局の放送開始・終了または1日の起点時間に放送していた『鳩の休日』を休止<ref group="注釈">理由は不明。</ref>。 * 2002年 ** {{0}}3月、シーエス日本が東経110度CSデジタル放送を開始。 [[ファイル:NTV-logotype.svg|thumb|200px|right|日テレロゴ(2003年から2012年)<ref group="注釈">青森放送で当時放送されていた「[[ZIP!FRIDAY]]」の最後に流れる翌週月曜日の「[[ZIP!]]」の予告でのロゴは、※2019年時点でもこのロゴが使われた。また、ジャイアンツ球場のレフトポール際のフェンスに描かれているロゴも、※2021年9月時点で、このロゴである。</ref>]] * 2003年 ** {{0}}4月、新本社ビル「日本テレビタワー」竣工。 ** {{0}}7月、[[コーポレートアイデンティティ|CI]]を導入。通称名を「'''日本テレビ'''」「'''NTV'''」から「'''日テレ'''」「'''NIPPON TELEVISION'''」へと変更。ロゴマークも「なんだろう」を継承しながら、デザインを一新した。略称「NTV」の国内での使用も停止し<ref group="注釈">ただし、海外向けには「NTV」の使用を継続、{{要出典範囲|date=2022年1月|ロゴも「日テレ」の部分に「日テレ」と同様の書体で「NTV」と表記}}。また、番組キャラクター・グッズ商品の承認済シールに貼られている「NTV」は従来から使用している開局当時のロゴ([[:File:Nippon TV logo (NTV).svg]])を表記している。</ref>、国内での対外愛称は「日テレ」に統一した<ref group="注釈">CI導入当初はクレジットに「製作著作 日本テレビ『日テレ(ロゴ)』」と混乱防止の為に表記していたが、2005年10月より「製作著作『日テレ(ロゴ)』」という表記になり、新ロゴへの移行をほぼ完了した。『[[ぐるぐるナインティナイン]]』、『[[あなたと日テレ]]』などごく一部の番組は「製作著作 日本テレビ『日テレ(ロゴ)』」の表記が残っていたが、後述の「日テレ<sup>55</sup>」表記化に伴って現在は完全消滅した。また、番組表など業務目的の略称としての「NTV」は引き続き使用されている。なお、2008年1月{{0}}1日から「なんだろう」が消滅し「'''日テレ<sup>55</sup>'''」のクレジット表記(ロゴの色は「日テレ」部分は[[青]]、「55」部分は[[黒]])に変更された。これは、2008年8月28日に開局満55周年を迎えるためで、2009年3月までの限定使用となった。ただし、[[東京ドーム]]にある第2放送席の背後に書かれているロゴは、前代のロゴのままである。※2008年8月26日の野球中継放送で確認済み。また、[[読売ジャイアンツ球場]]のレフトフェンスに書かれているロゴも、前代のままである。※日テレG+で中継された、2014年の巨人イースタン中継から</ref>。 ** {{0}}8月、汐留に本社移転。 ** {{0}}8月28日、開局50周年。 ** 10月25日、'''同局プロデューサーによる[[日本テレビ視聴率買収事件|視聴率不正操作]]が発覚'''。翌月18日、取締役会において代表取締役3名の自主的降格および自主的役員報酬返上が承認される。これにより氏家齊一郎会長がグループCEO辞任、間部耕苹副会長がグループEO辞任・代表取締役社長へ降格、萩原敏雄社長が代表取締役副社長へ降格。 ** 12月{{0}}1日、午前11時、地上デジタルテレビジョン放送を開始。 ** 12月、10年連続視聴率四冠王達成。 * 2004年 ** {{0}}2月29日、開局50年を機に放送センター・本社スタジオ機能が[[汐留]]に移転。地上デジタルテレビジョン放送・BSデジタル・CSデジタルを問わず全ての放送メディアにおいて、[[生放送]]のほとんど全ての番組が[[ハイビジョン制作]]になる(当初は東名阪エリアのみ、アナログ放送はサイドカット放送)。同時にCS放送「NNN24」についてもハイビジョン制作率を大幅に拡大<ref group="注釈">汐留移転前はスタジオ内映像のみ[[ハイビジョン]]であったが、移転後はスタジオ内映像の他、社屋屋上の[[お天気カメラ]](麹町旧社屋など既存の設置地点でも一部HD化)、お天気情報などのCG画像、一部のニュース素材、月1回放送の「ディリープラネット金曜発言中」もハイビジョン化された。</ref>。NNN24のハイビジョン制作の映像は、地上デジタル放送とBS日テレで見る事ができる。同時にアナログ・デジタル統合マスター([[日本電気|NEC]]製)の運用を開始。なお、汐留新社屋移転後も麹町の旧社屋は麹町分室として継続運用される。これにより、番組の送出マスターは地上波が汐留新社屋、BS・CSの衛星放送は麹町分室からの送出体制となった。汐留からの最初の番組は、午前5時25分の「24時間テレビリポート」<ref group="注釈">最初の生放送番組は、午前6時45分の「NNNニュースサンデー」。</ref>。提供クレジットもキヤノン角ゴCa-Bに変更した。なお当初はデジタル放送開始直前の2003年10月12日<ref>[https://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/097.html 新社屋名称"日本テレビタワー"に決定!(2002年当時のプレスリリース)] 2002年05月16日</ref>に汐留からの放送開始を予定していたが、大幅に遅れて当初の予定日から4か月遅れでの放送開始となった。 ** 11月{{0}}5日、[[読売新聞グループ本社]]が[[マスメディア集中排除原則|マスコミ集中排除原則]]により、歴史的に第三者名義で実質保有してきた日本テレビ株につき、有価証券報告書を同グループ名義へと訂正、同社株は一時「監理ポスト」に割り当てられた(同年11月22日まで)。 * 2005年 ** {{0}}6月29日、間部耕苹代表取締役社長が代表取締役相談役に、[[久保伸太郎]]が代表取締役社長に就任。 ** 10月27日深夜 インターネットを利用した[[ビデオ・オン・デマンド]]サイト「[[第2日本テレビ]]」がオープン。 ** 12月{{0}}1日、「NNN24」を「日テレNEWS24」に名称変更。 * 2006年 ** {{0}}3月{{0}}1日「G+ SPORTS&NEWS」を「日テレG+」に名称変更(ロゴマークは変更なし)。 ** {{0}}4月{{0}}1日、地上デジタル[[ワンセグ]]の本放送を開始。 ** {{0}}4月{{0}}3日、サービスエリアである関東地区内の報道取材がほとんどハイビジョン化される。 ** {{0}}4月12日、[[ポッドキャスト|ポッドキャスティング]]での動画配信に参入。 ** {{0}}9月29日、全民放中の最長寿番組『NNNきょうの出来事』が終了し、52年の歴史に幕。(後番組は『[[news zero|NEWS ZERO]]』) * 2007年 ** {{0}}4月{{0}}2日、日本テレビの制作子会社4社の事業再編を実施、統括[[持株会社]]「[[日テレ・グループ・ホールディングス]]」と技術・制作・イベント・美術の4事業会社によるグループ体制を開始。 * 2008年 ** {{0}}4月{{0}}1日、2001年9月30日まで、同局の放送開始、終了又は1日の起点時間に放送していた『鳩の休日』が、CG使用の15秒ショートバージョンで新たに復活する(地上波デジタル用はハイビジョン制作として初登場する)<ref group="注釈">なお、このバージョンも2013年12月31日をもって使用を終了している。</ref>。 ** {{0}}5月19日、地上デジタル放送に於いて、海賊版防止・著作権保護の観点による画面上にCIを使用した画面右上に[[ウォーターマーク]]のを行うようになった。 ** {{0}}8月28日、開局55周年。 * 2009年 ** {{0}}3月16日、[[細川知正]]が社長に就任。 ** {{0}}4月{{0}}6日、開局以来初めて[[ゴールデンタイム]]に生放送の帯番組『[[SUPER SURPRISE|サプライズ]]』を編成(2010年3月12日に終了)。 * 2009年 ** 11月{{0}}1日、『[[驚きの嵐!世紀の実験 学者も予測不可能SP|祝10周年!!今夜嵐巻き起こせ…驚きの嵐世紀の大実験!!学者も予測不可能SP&奇跡呼ぶ実験的生ライブ!!]]』にて、[[嵐 (グループ)|嵐]]が行ったライブの一部をアナグリフ方式による[[3次元映像|3D立体映像]]として生放送。地上波における3D立体映像の生放送に日本で初めて成功した。 === 2010年代 === * 2010年 ** {{0}}3月11日、放送衛星(BS)によるセーフティーネットに基づく、地上デジタル放送難視聴地域向けの補完サイマル放送(BS294)を5年間の期間限定で開局 ** {{0}}4月{{0}}1日、[[台湾]]の旺旺集団(大手メディアグループ)、[[中国電視公司|中国電視]](CTV、地上波テレビ局)、[[中天電視]](CTI、ケーブルテレビ局)と包括的な協力協定を締結。 ** {{0}}4月{{0}}5日、地上デジタル放送の完全移行を前提に、生放送の情報・報道番組を除く全ての番組がアナログ放送において[[レターボックス (映像技術)|レターボックス化]]される。 ** {{0}}7月{{0}}5日、生放送の情報・報道番組を含めた全ての番組がアナログ放送においてレターボックス化される(完全レターボックス化)。 ** {{0}}8月21日、巨人戦中継史上初となる3Dハイビジョン放送をCS放送「[[スカチャン#スカチャン3D 169|スカチャン3D 169]]」にてノースクランブルで行う<ref group="注釈">この試合は、地上波の日本テレビ及びネット局、BSデジタルのBS日テレ、CS放送の日テレG+でも放送されたが、それらでは通常の2Dでの放送であった。なお、この3D中継に於いては、3D中継専用の中継車・専用カメラを5台手配し、実況・解説等のコメンタリーおよび画面表示もそれ専用とする等の特別体制で実施した。</ref>。 ** 10月19日、[[中華人民共和国|中国]]国営[[新華社|新華通信社]]と放送分野での相互協力を目的とした協力協定を締結。 ** 12月{{0}}1日、ビデオ・オン・デマンド事業「[[日テレオンデマンド]]」配信開始。 * 2011年 ** {{0}}2月18日、アニメーション制作会社[[マッドハウス]]による[[第三者割当増資]]の全額約10億円を引き受け、連結子会社化した。 ** {{0}}3月10日、中天電視との台湾での合弁会社「黒剣電視節目製作(黒剣テレビ番組制作)」設立について合意し、合弁基本契約書に調印した(6月に営業開始)。 ** {{0}}3月11日、[[東日本大震災]]の発災に伴い、11日14:57から[[3月14日|14日]]4:00まで一切CMを放送しなかった。 ** {{0}}3月28日、当時の会長、氏家齊一郎が死去。 ** {{0}}3月31日、『ズームイン!!SUPER』が終了(直接の後継番組は 『ZIP!』)。『ズームイン!!朝!』から数えて32年の歴史に幕を閉じた(土曜版の姉妹番組『[[ズームイン!!サタデー]]』のみ継続)。 ** {{0}}6月29日、大久保好男が社長に就任。 ** {{0}}7月24日、正午にアナログ放送を終了。[[平成23年]][[7月24日]]AM11:45から特別番組『[[シューイチ]]PRESENTSテレビ60年「これまで」「これから」カウントダウン』を放送した。そして12:00になるとアナログ放送終了のお知らせ画面が表示され、PM23:58からは『鳩の休日』の特別版を放送し、23:59にアナログ放送停波、デジタル放送に完全移行した。 ** {{0}}8月15日、創業家一族の[[正力亨]]元取締役が死去。 ** 10月{{0}}3日、デジタル放送化に伴い、地上波放送と日テレNEWS24(同日4:00以降)における編成上全ての番組をステレオ放送(一部はモノステレオ放送)に変更した<ref group="注釈">なお、BS日テレとCS放送の日テレG+、日テレプラスではすでに開局当初から一部のモノラル二重音声番組を除き編成上全ての番組でステレオ放送(一部はモノステレオ放送)を実施している。しかし『24時間テレビ』内のドラマ企画はモノラル二重音声放送のままであったが、2017年よりステレオ二重音声放送に変わった。</ref>。 * 2012年 ** {{0}}1月{{0}}2日、2003年以来8年ぶりとなる視聴率年間三冠王獲得(2011年)。 ** {{0}}3月29日、認定放送持株会社体制に移行すると発表<ref>[http://sankei.jp.msn.com/economy/news/120329/biz12032917130032-n1.htm 日テレが10月に持ち株会社に移行 グループ経営を強化]、産経新聞、2012年{{0}}3月29日</ref><ref>[https://www.ntv.co.jp/info/news/657.pdf 日本テレビ放送網株式会社、株式会社BS日本及び株式会社シーエス日本などの認定放送持株会社への移行(会社分割、簡易株式交換及び商号変更)による経営統合に関する基本合意書の締結並びに日本テレビ放送網株式会社の子会社(分割準備会社)の設立についてのお知らせ]</ref>。 ** {{0}}4月26日、「'''日本テレビ分割準備株式会社'''」設立<ref>[https://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/docs/20120510-4.pdf 日本テレビ放送網株式会社、株式会社BS日本及び株式会社シーエス日本の 認定放送持株会社体制への移行に関する統合契約、吸収分割契約及び株式交換契約の締結 についてのお知らせ 7ページ]</ref>。 ** {{0}}9月18日、[[総務大臣]]による放送持株会社設立の認定を受ける。 ** 10月{{0}}1日、(旧)日本テレビ放送網株式会社の商号を「'''日本テレビホールディングス株式会社'''」に変更。同時に日本テレビ分割準備株式会社が、日本テレビホールディングスより放送免許を含む事業部門を継承し、商号を「(新)'''日本テレビ放送網株式会社'''」へ変更。 * 2013年 ** {{0}}1月{{0}}1日、開局60周年キャンペーンがスタート。ロゴマークを「0テレ」に変更。 ** {{0}}1月13日、上記に伴い、画面右上のロゴの透かし(ウォーターマーク)並びに地上デジタル放送の放送局アイコンを変更。 ** {{0}}2月{{0}}1日・2月{{0}}2日、テレビ放送開始60年を記念して、NHKとのコラボレーション番組[[60番勝負|『TV60 NHK×日テレ 60番勝負』『TV60 日テレ×NHK 60番勝負』]]が放送された。2月1日深夜は[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]、2月2日深夜は日本テレビ系列30局で放送され、[[中居正広]]([[SMAP]])が共同MCを務めた。 ** {{0}}5月{{0}}5日、[[松井秀喜]]の引退セレモニー、[[長嶋茂雄]]と松井秀喜の[[国民栄誉賞]]授与式、[[始球式]]の模様を東京ドームから独占生中継した。 ** {{0}}5月31日、午前9時から[[東京スカイツリー]]からの送信を開始。 ** {{0}}8月28日、開局60周年。 ** 12月{{0}}9日、放送局アイコン(白抜きに黒文字)とウォーターマーク(「0テレ」の下に「NIPP0N TV」)の一部表記を変更。 * 2014年 ** {{0}}1月11日、日本テレビで放送された番組を[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]や[[スマートフォン]]で放送後7日間無料で視聴できる「日テレいつでもどこでもキャンペーン」を開始。 ** {{0}}1月29日、株式会社[[タツノコプロ]]の発行済み株式54.3パーセントを株式会社[[タカラトミー]]から取得し、子会社化すると発表した<ref>[https://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/755.html 株式会社タツノコプロの子会社化]</ref>。 ** {{0}}2月28日、[[Hulu]]の日本市場向け事業を継承し、[[定額制動画配信サービス|定額制動画配信事業]]に参入すると発表した<ref name=":1">[https://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/757.html Huluの日本市場向け事業を継承し定額制動画配信に参入]</ref>。 ** 11月21日、[[サントリー|サントリーホールディングス]]子会社の[[スポーツクラブ|フィットネスクラブ]]運営会社[[ティップネス]]の全株式を取得した。 ** 12月29日、2011年以来3年ぶりとなる視聴率年間三冠王獲得(2014年)。 * 2015年 ** {{0}}3月31日、正午をもってBSセーフティーネットによる難視聴地域向け補完サイマル放送終了。 ** {{0}}4月27日、過去最高となる13週連続三冠王を達成(1月26日、- 4月26日)。 ** {{0}}6月15日、20週連続三冠王を達成(1月26日、- 6月14日)。 * 2016年 ** {{0}}9月{{0}}5日、民放歴代1位となる全日帯143週連続トップを記録した。 ** 11月28日、同局最高記録となる21週連続三冠王を達成した。 ** 12月{{0}}1日、[[インターネットイニシアティブ]]と合弁で動画配信プラットフォーム提供会社[[JOCDN]]を設立<ref>[https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1032711.html 日テレとIIJ、動画配信プラットフォームの合弁会社設立。民放各局にも出資募る],AV Watch,2016年12月{{0}}1日</ref>。 ** 12月19日、年間47回目となる週間視聴率三冠王を獲得し、民放新記録を達成した。 * 2017年 ** {{0}}1月{{0}}2日、2016年において年間49回目となる週間視聴率三冠王を記録した。 ** {{0}}3月{{0}}6日、民放歴代新記録となる35週連続週間視聴率三冠王を獲得した。 ** 11月{{0}}6日、全日帯視聴率において204週連続視聴率トップを記録した。 * 2018年 ** {{0}}1月{{0}}1日、制作著作クレジットの表記を開局65周年仕様(共に「0テレ」の下に「65th Anniversary」)に変更。 ** {{0}}7月30日、在京民放歴代新記録となる56ヶ月連続月間視聴率三冠王を達成した。 ** {{0}}8月15日、[[YouTube]]内チャンネル「テレビバ」開設。 ** {{0}}8月28日、開局65周年。 ** {{0}}9月22日、テレビ放送開始65年を記念した「[[テレビ放送開始65周年 NHK×日テレ コラボデー|NHK×日テレコラボデー]]」を実施した。  ** 10月{{0}}1日、在京民放歴代新記録となる58か月連続月間視聴率三冠王、63か月連続月間全日視聴率三冠王を達成した。同日より、前述のYouTubeチャンネルを発展させて、無料短編動画中心配信サービス「テレビバ」を開始<ref>[https://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/20181001-2.html 日テレ 新ショート動画配信サービス「テレビバ」日テレTADA、チルテレの他、YouTube、Yahoo! JAPAN、GYAO!など、様々なプラットフォームで視聴可能に!]</ref>。配信先は「日テレTADA」「チルテレ」他計8箇所(YouTubeを含む残る三箇所では、アニメ専用チャンネルと分割している為、計6箇所になる)。 * 2019年 ** {{0}}1月29日、麹町分室隣接地に建設された新スタジオ棟「'''日本テレビ番町スタジオ'''」が稼働開始。これに伴い旧来の麹町分室のスタジオは完全に運用を終了し、順次解体される。 === 2020年代 === * 2020年 ** 10月{{0}}1日、全番組の提供クレジットから黒い縁+白テロップ表記を撤廃<ref group="注釈">※一部企業を除く</ref>し、各社提供・ネットセールス・ローカルセールスを含めてカラー表記に統一。系列局もカラー表記に統一させた<ref group="注釈">読売テレビは翌2021年4月1日から</ref>。 ** 12月21日、「'''日本テレビ番町スタジオ'''」完成。 * 2021年 ** {{0}}4月{{0}}1日、「[[日テレNEWS24]]」「[[日テレジータス]]」の運営を、従前から「[[日テレプラス]]」を運営してきた[[CS日本]]に移管・一本化。 ** 10月{{0}}2日、同日19時から「日テレ系ライブ配信」の正式サービスを開始した。民放5系列局の中で同時配信を常時実施するのは初めてとなった<ref>{{Cite web|和書|title=日テレ、ネットに「同時配信」…10月2日午後7時から|url=https://www.yomiuri.co.jp/culture/20210917-OYT1T50002/|website=読売新聞|date=2021-09-17|accessdate=2021-09-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日テレが10月から同時配信開始へ|url=https://www.sankei.com/article/20210917-AZALIFCQXNNN3G25VLW22IIDYM/|website=産経新聞|date=2021-09-17|accessdate=2021-09-17}}</ref>。 ** 11月12日、[[電子書籍]]の配信を行っている[[ビーグリー]]との間で資本・業務提携契約を締結<ref>{{Cite news|title=日本テレビが電子書籍配信のビーグリーにTOB、1株1900円|url=https://jp.reuters.com/article/ntv-beaglee-idJPKBN2HX0PV|work=ロイター通信|date=2021-11-12|accessdate=2021-11-14}}</ref>。 ** 12月29日、[[株式公開買付け]]により、ビーグリーの株式を議決権所有割合ベースで25.43%取得<ref>[https://contents.xj-storage.jp/xcontents/AS08121/a9604a0a/0bf8/44f4/99f4/5240b07d3d13/140120211222558666.pdf 日本テレビ放送網株式会社による当社株券に対する公開買付けの結果、第三者割当による新株式発行の中止、並びに主要株主、主要株主である筆頭株主及びその他の関係会社の異動に関するお知らせ] ビーグリー 2021年12月24日</ref>。ビーグリーは日本テレビホールディングスの持分法適用関連会社となる<ref>[https://www.ntvhd.co.jp/ir/library/toshokaiji/pdf/20211224.pdf 当社子会社による株式会社ビーグリー株式に対する公開買付けの結果及び持分法適用関連会社の異動に関するお知らせ]日本テレビホールディングス 2021年12月24日</ref>。 * 2022年 ** {{0}}4月{{0}}1日、「日テレ系ライブ配信」のサービス名を「日テレ系リアルタイム配信」に変更<ref>{{Cite web|和書|title=『秘密のケンミンSHOW極』『ダウンタウンDX』4月14日(木)よる9時よりTVerで新たにリアルタイム配信スタート |url=https://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/20220331.html |website=日本テレビ放送網株式会社 |accessdate=2022-03-31 |date=2022-03-31}}</ref>。 * 2023年 ** {{0}}1月{{0}}1日、製作著作クレジットの表記を開局70周年仕様(共に「0テレ(0を貫通する形で7が串刺しになっている)」の下に「NIPPON TV 70th Anniversary」)に変更<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ntv.co.jp/topics/articles/19wk0b98xnz28xmcg7.html |archive-url=https://web.archive.org/web/20230106072337/https://www.ntv.co.jp/topics/articles/19wk0b98xnz28xmcg7.html |title=日本テレビ 開局70年記念のロゴ・コピーを発表|日テレTOPICS|日本テレビ |date=2023.01.05 |accessdate=2023.01.05 |archive-date=2023.01.06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ntv.co.jp/ntv70/ |archive-url=https://web.archive.org/web/20230107063322/https://www.ntv.co.jp/ntv70/ |title=日本テレビ開局70年|日本テレビ |date=2023.01.05 |accessdate=2023.01.05 |archive-date=2023.01.07}}</ref>。ウォーターマークも変更されたが、クレジットの表記とは少し異なり、ロゴの下に「NIPPON TV」のみの表記となっている。[[電子番組ガイド|EPG]]([[Gガイド]])で表示されるロゴも開局70周年仕様(紫色を基調としたもの)に同年1月中に変更された。 ** {{0}}3月12日、同日から同月19日まで「テレビ放送70年『[[NHK×日テレ コラボウィーク]]』」を実施<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=NHKと日テレが3月に人気番組同士でコラボ ともに今年放送70年 |url=https://www.daily.co.jp/gossip/2023/01/18/0015975270.shtml |website=デイリースポーツ |access-date=2023-01-28 |date=2023-01-18}}</ref>。 ** {{0}}5月19日、ファッションECサイトを運営しているla belle vieの全株式を取得し、完全子会社化した<ref>{{Cite web|和書|title=日テレがファッションECサイト大手の全株式を取得「当社グループ全体の企業価値向上に資する」 |url=https://www.daily.co.jp/gossip/2023/04/21/0016267763.shtml |website=デイリースポーツ |access-date=2023-04-21 |date=2023-04-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日テレ傘下の「GILT」「GLADD」のラベルヴィ、新経営体制に |url=https://www.wwdjapan.com/articles/1561950 |website=WWDJAPAN |date=2023-05-22 |access-date=2023-05-23 |author=横山泰明}}</ref>。 ** {{0}}8月28日、開局70周年。 ** {{0}}9月{{0}}5日、eスポーツイベント制作会社のJCGの株式を取得し、子会社化した<ref>{{Cite web|和書|title=日本テレビホールディングス[9404]:日本テレビ放送網によるJCGの株式取得(子会社化)について 2023年9月5日(適時開示) :日経会社情報DIGITAL:日本経済新聞 |url=https://www.nikkei.com/nkd/disclosure/tdnr/20230905550667/ |website=日本経済新聞 電子版 |access-date=2023-09-22 |language=ja}}</ref>。 ** 10月{{0}}6日、[[アニメ制作会社]]のスタジオジブリの株式42.3%を取得し、子会社化した<ref name=":5">{{Cite web|和書|title=宮崎の名の下にジブリを支配せず 名誉会長に駿監督 日テレ子会社に |url=https://mainichi.jp/articles/20230921/k00/00m/020/196000c |website=毎日新聞 |access-date=2023-09-21 |date=2023-09-21}}</ref><ref name=":6">{{Cite web|和書|title=日本テレビ 「スタジオジブリ」子会社化へ |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230921/k10014202511000.html |website=NHKニュース |date=2023-09-21 |access-date=2023-09-22 |author=日本放送協会}}</ref>。 ** 10月10日、ニュースサイトを「日テレNEWS NNN」に改題・リニューアル<ref>{{Cite web|和書|title=日テレ・NNNの新しいニュースサイト 「日テレNEWS NNN」がサービス開始! |url=https://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/20231011.html |website=企業・IR情報 |access-date=2023-10-11 |publisher=日本テレビ放送網株式会社 |date=2023-10-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日テレ・NNNのニュースサイト「日テレ NEWS NNN」サービス開始 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2298043/full/ |website=ORICON NEWS |access-date=2023-10-11 |date=2023-10-11}}</ref>。 === 社史・記念誌 === 日本テレビでは、以下の2冊を発行している(2020年3月時点)。 * '''大衆とともに25年'''(日本テレビ放送網株式会社・編)1978年8月発行、全2冊、沿革史<ref>{{国立国会図書館のデジタル化資料|11954641|大衆とともに25年 沿革史}}</ref><ref>{{渋沢社史データベース|13240|日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 沿革史』(1978.08)}}</ref>、写真集<ref>{{国立国会図書館のデジタル化資料|11953800|大衆とともに25年 写真集}}</ref><ref>{{渋沢社史データベース|13250|日本テレビ放送網(株)『大衆とともに25年. 写真集』(1978.08)}}</ref>。 * '''テレビ夢50年'''(日本テレビ50年史編集室・編)2004年3月発行、全9冊、経営編、データ編、番組編1 - 6、DVD-ROM編。 == 歴史 == === 開局前後の経緯 === 日本テレビ放送網は1953年8月に放送を開始した<ref name="murakami" />。正式社名が「日本テレビ'''放送網'''」<ref group="注釈">日本テレビ以外に「放送網」の字が入る放送事業者は、系列局の[[テレビ新潟放送網]]とケーブルテレビ局の[[香川テレビ放送網]]程度。</ref>であるように、元々は一社で日本全国にテレビネットワークを形成することを計画して設立された。 1951年9月に正力松太郎によって日本テレビ放送網構想が公表され、日本各地に直営局を持つ放送・通信網(テレビ放送に限らない多重通信網・マイクロ中継網)が想定されていた(正力構想)<ref name="murakami">[https://www.nhk.or.jp/bunken/research/title/year/2010/pdf/001.pdf 村上聖一「民放ネットワークをめぐる議論の変遷」] NHK放送文化研究所、2023年5月2日閲覧</ref><ref>{{cite |url=https://diamond.jp/articles/-/225182|title=正力松太郎が自ら語った全国テレビ放送網構想、その“対米従属的”内容 |publisher=ダイヤモンド・オンライン|date=2020-01-08 }}</ref>。1952年7月に電波監理委員会から予備免許を付与されたが、免許方針ではさしあたり東京に2~3局、他の都市では1~2局を置局するとされた<ref name="murakami" />。本放送開始後も正力はマイクロ中継網を諦めてはいなかったが、マイクロ回線を専用線として貸し出す方針を示していた電電公社や、テレビ事業への進出を検討していた新聞業界から反発(1953年9月の新聞社69社の反対声明)を受けた<ref name="murakami" />。さらに1954年12月に衆参両院の電気通信委員会が民間へのマイクロ回線業務を認可しないとする決議を行ったことで正力構想の実現は困難となった(マイクロ中継網については建設のための巨額の経費や公衆電気通信法による第三者への賃貸禁止などの問題もあった)<ref name="murakami" />。こうして関東広域圏の放送局としての方向性が定まった<ref name="murakami" />。 === 開局当日の番組編成(1953年8月28日) === * 11:20 放送開始。第一声は「JOAX-TV、こちら日本テレビでございます」<ref name="40年史1950年代">{{cite|和書|url=http://www.ntv.co.jp/over/history/table50.html|archive-url=https://web.archive.org/web/19980208052531/http://www.ntv.co.jp/over/history/table50.html|title=日本テレビ40年史 1950年代|archive-date=1998-02-08}}</ref>。 * 11:20 「記念式典」の実況中継(当時の[[内閣総理大臣]]・吉田茂が開局の祝辞を述べた) * 11:50 祝賀舞踊「寿式三番叟」 * 12:00 精工舎(現:[[セイコーホールディングス]])提供の[[正午]]の[[時報]]CMが放映される予定だったが、人為的ミスで映像が裏返しに映り、無音の状態で放送された。テレビCMの第1号であり、[[放送事故]]の第1号となった。 * 12:00 歌の祭典 * 12:30 記録映画「上代の彫刻」 * 13:00 [[NTVニュース]]、[[天気予報]](ここで一旦、放送休止。[[テストパターン (放送)|テストパターン画像]]が放送された) * 17:30 (放送再開)日本南方民謡集 * 17:40 テレビ浮世絵 * 17:55 リサイタル * 18:10 国際ニュース * 18:20 週間テレニュース * 18:40 記録映画「天竜川」 * 19:00 精工舎(現:[[セイコー]])のCMが放送された。12:00とは異なり、今度は無事に放送された。これが実質的なコマーシャルの第1号。 * 19:00 花競祝写絵 * 19:45 劇場中継「ニューヨーク幻想曲」(会場:[[帝国劇場]]) * 21:00 「記念式典」の録画中継 * 21:15 テレニュース(放送終了) === 開局から1980年代まで === 開局当初、テレビ受像機のない家庭が殆どであったため、広告媒体としての民放テレビをアピールすべく、首都圏の主要箇所に街頭テレビを設置<ref name="40年史1950年代"/>。テレビ普及に役立てた。また、麹町局舎横のテレビ塔を展望目的に一般へ公開。東京タワーができるまでは観光名所となっていた。 開局2日目にして「巨人・阪神戦」の中継を行なったプロ野球<ref name="40年史1950年代"/>やプロレス、プロボクシングの試合中継などのスポーツ番組や『[[ほろにがショー 何でもやりまショー|なんでもやりまショー]]』などのバラエティー番組に強みを持ち、ラジオ東京テレビ(現在のTBSテレビ)開局後も営業成績では上回っていた。特に後楽園スタヂアム(現在の東京ドーム)と同社施設の独占中継権を掌握していたのが有利に働いた。 1956年、午前6時台からの早朝放送開始。1957年には放送時間を23時まで延長。一日約10時間のレギュラー放送となる<ref name="40年史1950年代"/>。 [[日本民間放送連盟]]には当初加盟しておらず、日本テレビの加盟は開局から5年後の1958年3月であった<ref>「民放連放送基準」の初制定は1951年10月12日。「民放連テレビ放送基準」の制定は1958年1月21日。</ref><ref>{{cite|和書|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/mscom/95/0/95_107/_pdf|title=民放連放送基準の改訂の歴史をたどる 民放連放送基準は時代の変化にどう対応してきたか |author=佐藤研([[BS朝日]])}}</ref>。 電波の送信もNHKや他の民放とは異なり、[[東京タワー]]ではなく自社鉄塔からの送信を継続した。{{要出典|「全ては自社こそテレビのパイオニアである」ということを自負していたからである|date=2023年12月}}。 ==== 「正力タワー」構想と対抗して計画された2案の「NHKタワー」 ==== 東京タワーより低い麹町の自社鉄塔からの送信は、局舎周囲に高い建物が増加するにつれ難視聴地域を拡大させた。このため、正力は新宿区東大久保一丁目(現・新宿六丁目)に用地を確保。東京タワーの333mより高い550mの高さを有する、通称「正力タワー」を1968年に構想する<ref>読売新聞1968年11月2日朝刊</ref>。タワーの下には100階建てと200階建てのビルを数棟建てる予定であった<ref>「巨怪伝・下」p366</ref>。 ところが、「正力タワー」構想発表後の翌1969年3月5日には、当時[[内幸町]]([[東京放送会館]])に位置していたNHKが渋谷に計画していた現在の[[NHK放送センター]]敷地内に、「正力タワー」よりもさらに高く、現在の[[東京スカイツリー]]の高さに匹敵する600m級の、当時としては世界最大の電波塔となる予定であった(当時の世界最大の電波塔は[[オスタンキノ・タワー]]の537mであった)「NHKタワー」の建設計画を発表した(いわゆる「渋谷案」)が、この構想は「正力タワー」と同様に頓挫した。「渋谷案」は同年7月に建設計画が発表され、「高さ200mまでは鉄骨の四本足で支え、そこから高さ550mまではステンレスで覆った直径15mの円筒形になり、さらにこの上に直径212.5m、長さ50mのアンテナを取り付ける。また、重量はオスタンキノ・タワーの約4分の1の7000~8000tと軽量なタワーとする」という計画であった<ref>朝日新聞1969年7月3日朝刊</ref>。なお、これとは別の案として、同じく同年7月にはNHKは[[代々木公園]]の敷地内に、「渋谷案」および「正力タワー」よりも低いものの、それでも当時は相当な高さの電波塔計画であった、高さ488m、最大直径40mの電波塔を建設する計画(いわゆる「代々木案」)もほぼ同時に打ち出した(こちらも「NHKタワー」の名称とする計画であった)。この「代々木案」では総工費は65億円で、最上部の展望台は4層構造、300人収容できる回転レストランを併設する計画であった<ref>朝日新聞出版「AERA」2012年7月16日号</ref>が、こちらも頓挫した。なお「代々木案」が「渋谷案」と大きく異なるのは、「渋谷案」では純然たる電波塔で計画されていたのに対し、「代々木案」では付帯設備としてレストランを併設した施設として計画していた点であった。 この対抗的に出された「NHKタワー」計画に、正力は「同じようなものは2本(「正力タワー」と「NHKタワー」とを合わせた数)も要りません」と言い放ち、さらに「最近になって計画らしいものを出し、まだ建築申請書も出していない「NHKタワー」と(「正力タワー」とを)一緒にされ、競合などとするのは筋違いではないか」とNHKを非難した。これに対してNHK側も「正力さんの「正力タワー」は観光塔じゃないですか?(「NHKタワー」でも「代々木案」が付帯設備を設けているものの、計画では主な利用目的を電波塔としての位置付けとしていた)」と批判。また「NHKが民間放送に対して恒久的に施設を借りた例は今までにない。そんなことをしていては視聴者に対しての責任が持てない」と正力の批判に反論した<ref>朝日新聞1969年7月12日朝刊</ref><ref>読売新聞1969年7月19日朝刊</ref>。 西大久保に建設予定であった「正力タワー」に対抗するかのように、有力候補地を2案出していた「NHKタワー」は、東京タワーを使用していたNHK教育テレビ用のアンテナと当時[[紀尾井町]]に位置していたNHK総合テレビ用電波塔(高さ82m)より電波を送っていたNHK総合テレビの電波塔を「NHKタワー」へと移転統合する計画であったが、NHK局舎の内幸町から渋谷への移転までに計画は立ち消えとなった。 正力は1969年10月9日死去。正力の没後、「正力タワー」の建設計画の消滅、およびそれに関連しての東京タワーへの送信所移転が行われた。「正力タワー」を予定していた用地は後に[[新宿イーストサイドスクエア|日本テレビゴルフガーデン]]としてオープンした。 ==== 正力没後の改革 ==== 当時読売新聞社主であった正力が社長を務めていたことで、大阪の完全系列局である読売テレビの開局が「[[読売新聞大阪本社|大阪読売新聞]]」の部数増に繋がったことなどの事例もあったが、いくら強いコンテンツを持っていても「読売色」を警戒する地方局が多く、ネットワーク形成ではTBSの後手に回った。このため報道が手薄になり、かつ番組販売も芳しくなかった。これはTBS自身が新聞社の色を薄め、結成当初から特定の新聞との関係を持たないようにしてネットワーク形成を構築したためである。 加えて上記の通り難視聴地域が増加したこと、さらに肝心の自社制作番組そのものが不振となり、1960年代半ばから業績は下降した。 正力の没後、粉飾決算の公表もなされた一方で、名古屋地区の中京テレビへの単独ネット化、読売新聞への完全系列化、ラジオ日本との提携など、正力の娘婿である小林與三次の手で改革が行われ、一連のバラエティー番組が気を吐いて視聴率は持ち直す。その後、朝枠に『ズームイン!!朝!』などの情報番組を投入し、夕方の報道番組も強化した。しかし、ようやく持ち直した視聴率も1980年代当時「軽チャー路線」で成功し視聴率三冠王に輝いていたフジテレビの後塵を拝し、番組制作現場では「どうすればフジテレビに勝てるのか」を常に研究していたという。 === 1990年代以降 === 日本テレビは、とにかく視聴者が興味を持つ内容を番組制作や内容に盛り込むことで、高い視聴率を確保しようとし、番宣バラエティ番組として平日の『[[なんだろう!?大情報!]]』、週末の『[[TVおじゃマンボウ]]』、『[[TVおじゃマンモス]]』を、それぞれ[[1993年]]から開始することで、視聴者へのPRを行った。 1990年代は1980年代末に発足した社内チーム「クイズプロジェクト」によって、バラエティ番組『[[クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!]]』・『[[マジカル頭脳パワー!!]]』が登場。早朝5時台に『[[あさ天5]]』を立ち上げ、『[[ジパングあさ6]]』や『ズームイン!!朝!』などの報道・情報番組が人気コンテンツとなる。1993年夏頃から、バラエティー番組や巨人戦中継などの人気番組を持つ日本テレビはフジテレビを追い抜くと、その勢いも次第に強まっていった。1994年から2003年に10年連続「年間視聴率四冠王」、1994年度から2002年度に9年連続「年度視聴率四冠王」(ゴールデンタイム・[[プライムタイム]]・[[全日]]に更に[[ノンプライム]]を加えての表現)を達成した。更に、「月間四冠王」を史上最高となる46か月連続で達成し、2000年には史上初となる機械式視聴率調査を行っている26局の系列局すべてが年間・年度視聴率三冠王を達成<ref>[https://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/038.html 日本テレビ系列のネットワーク26社すべてが、「2000年の年間+年度視聴率三冠王」達成の快挙!!!!](日本テレビ公式サイト)2019年12月21日閲覧</ref>するなど一時代を築いた。また、他局に先駆けて[[時代劇]]の制作・放送からいち早く撤退し、2004年の正月に放送された『[[丹下左膳]]』を最後に、時代劇の制作から一切手を引いている。 しかし2003年度には、視聴率買収事件の発覚や巨人戦中継の視聴率低下によるプライムタイムでの視聴率低迷の結果、プライムタイムが2位になりフジテレビに抜かれ、2004年度(2004年4月 - 2005年3月)の調査では、全部門で2位となり「三冠王」のタイトル全てをフジテレビに奪われた。 2000年代前半には、長寿番組や人気番組が続々と終了した。スポーツ番組『[[全日本プロレス中継]]』(2000年夏)を皮切りに、午前の[[帯番組]]『[[ルックルックこんにちは]]』(2001年春)、『ズームイン!!朝!』(2001年秋)、ドキュメンタリー教養番組『[[知ってるつもり?!]]』(2002年春)、情報バラエティ番組『[[特命リサーチ200X]]』(2004年春)、サスペンスドラマ枠『[[火曜サスペンス劇場]]』(2005年秋)、夕方の報道番組『[[NNNニュースプラス1]]』(2006年春)、昼の生活情報番組『午後は○○おもいッきりテレビ』(2007年秋)、民放テレビ局最長寿の報道番組『NNNきょうの出来事』(2006年秋)といった番組が次々と打ち切られた結果、2000年代前中盤の数年で日本テレビのタイムテーブルはほとんど塗り替えられた。 また、一部のバラエティ番組も視聴率が低下傾向にあったため、2009年春改編で19時台に帯番組『[[SUPER SURPRISE]]』を新設し、(改編時点で)開始10年以上経過していた番組は全て20時台に移行・集約させた。移行後も番組の人気は安定しており、月~木曜の20時台番組は全て開始20年を越す長寿番組となっている。 2000年代終盤以降はスポンサーニーズの高いコアターゲット層([[視聴者#視聴者構成割合|T層・F1層・F2層]])を意識した番組編成が功を奏し、全時間帯での視聴率向上に成功している。2008年・2009年には2年連続でノンプライム帯での年間・年度視聴率首位を獲得した。 2011年には8年ぶりに「年間視聴率三冠王」、2011年度には9年ぶりに「年度視聴率三冠王」をそれぞれフジテレビから奪還した。 2013年12月第2週(12月9日 - 15日)から2017年11月第1週(10月30日 - 11月5日)には歴代新記録となる204週連続「週間全日トップ」を記録した。 2013年7月から2018年9月には在京局歴代最高記録となる63ヶ月連続「月間全日帯視聴率トップ」を獲得した。また、2013年12月から2018年9月には在京局歴代最高記録となる58ヶ月連続「月間視聴率三冠王」を獲得した。 2014年には3年ぶりに「年間視聴率三冠王」、2014年度には3年ぶりに「年度視聴率三冠王」を奪還。また、放送収入([[地上波]]放送における[[タイムCM]]と[[スポットCM]]の年度売上高の合計)でもフジテレビを追い抜き、民放トップに躍り出た<ref group="注釈">放送収入がフジテレビの2013年度:233,316百万円→2014年度:231,121百万円に対し、日本テレビは2013年度:228,014百万円→2014年度:238,511百万円となり逆転した。</ref>。 2015年1月第5週から6月第2週には歴代最高記録となる20週連続三冠王を達成した。 2015年には[[売上高|年間売上高]]でも3000億円の大台を突破して前年まで31年間首位だったフジテレビを追い抜き、民放トップに躍り出た<ref group="注釈">年間売上高がフジテレビの2014年度:310,012百万円→2015年度:289,708百万円に対し、日本テレビは2014年度:290,460百万円→2015年度:307,077百万円となり逆転した。</ref><ref>[https://news.mynavi.jp/article/20160513-a295/ 日テレがフジを抜いて民放テレビ局売上トップ - 2015年度キー局決算発表]([[マイナビニュース]])2015年5月13日閲覧</ref>。 2016年には「週間視聴率三冠王」を年間で49回獲得し、1991年にフジテレビが記録した年間46回の記録を抜いて民放新記録となった。 2016年6月第4週(6月20日 - 26日)から2017年3月第1週(2月27日 - 3月5日)には民放歴代新記録となる35週連続「週間視聴率三冠王」を獲得した。 2019年には6年連続となる「年間視聴率三冠王」、2019年度には6年連続となる「年度視聴率三冠王」を獲得した。また、それまでKPI(重要業績評価指標)としていた「世帯視聴率」を、より正確に誰にどれくらい視聴されているかが分かる「個人視聴率」に全面的に移行させた。 2021年には11年連続となる「年間個人視聴率三冠王」、7年連続となる「年間個人視聴率五冠王」、9年連続となる「年間コア視聴率三冠王」、8年連続となる「年間コア視聴率五冠王」をそれぞれ獲得した。2021年度には歴代最長の9年連続となる「年度視聴率三冠王」(個人)を獲得した。 2022年には12年連続となる「年間個人視聴率三冠王」を獲得した。 == 特徴 == [[ファイル:NTV chukeisha 206+105.jpg|thumb|日本テレビの中継車]] [[ファイル:Tokyo-Hakone collegiate ekiden movie car.JPG|thumb|日本テレビの中継車([[新春スポーツスペシャル箱根駅伝]]中継の場合)]] [[ファイル:Hakone Ekiden NTV107 20040103.jpg|thumb|箱根駅伝の先頭を走る日本テレビの中継車]] 日本テレビは日本のテレビ業界において、新しい放送媒体・放送形式を積極的に早く導入し、導入するや否やその媒体を用いた放送を定着させてきた事で有名である。放送免許取得や民間資本による開局・本放送開始はもちろんのこと、[[コマーシャル]]の放送、[[カラーテレビ|カラー放送]]、音声多重放送(世界初)、[[ワイドクリアビジョン]]放送、[[映画|洋画]]の日本語[[吹き替え]]放送、[[L字型画面]]、[[データ放送]]、ワンセグ放送独自番組放送(非サイマル放送)、3D立体映像での生放送、ネット動画配信サービス、放送中のドラマ全話無料配信も日本の民間放送では日本テレビが初めてであった。 スポーツ中継についても、[[日本プロ野球|プロ野球]]中継におけるバックスクリーン横「センターカメラ」の導入、[[王貞治]]のための「ホームランカメラ」の導入、「審判カメラ」の導入、完全3D映像による中継の実現、[[サッカー]]中継におけるゴール内部への小型カメラの設置など、他局に先駆けて新たな中継技術を開発した。また、[[1991年世界陸上競技選手権大会|第3回世界陸上]]では世界で初めて[[写真判定]]を中継に取り入れた。 選挙特番における[[出口調査]]を全国規模で導入したのも日本テレビ報道局が最初である。 2000年代頃から[[環境問題]]に関して積極的に取り組んでいる。2003年3月に「日テレ・エコ委員会」を発足させ、在京[[民放]][[キー局]]として初めて[[国際標準化機構|ISO]]の[[環境マネジメントシステム]]規格[[ISO 14000|ISO 14001]]の認証を取得したほか、2004年から毎年6月5日の[[環境の日|世界環境デー]]を含む1週間を「[[日テレ系ecoウィーク]]」と題し、期間中は番組やイベントを通して環境問題を提起している。 テレビ放送の開始年が日本テレビと同じ1953年で共通している[[日本放送協会]](NHK)と連携する機会も多く、2010年には「つなげよう、ecoハート。」、2021年には「[[国際ガールズ・デー]]」<ref group="注釈">このキャンペーンは後に毎年3月8日の「[[国際女性デー]]」前後に「[[ハッシュタグ|#]]自分のカラダだから」として、日本テレビ以外の在京民放キー局4局並びに[[東京メトロポリタンテレビジョン]](TOKYO MX)も参加している。</ref>などをテーマに同局と[[コラボレーション]]して啓発キャンペーンを繰り広げた<ref>{{Cite web|和書|title=NHK×日テレ 本音トーク「これからの、テレビとジェンダー」<前編> Vol.34 |url=https://www.nhk.or.jp/gendai/comment/0029/topic036.html |website=NHK みんなでプラス |access-date=2023-03-29 |author=日本放送協会 |date=2021-10-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=在京テレビ局とNHK 「国際女性デー」連携キャンペーンを今年も実施 |url=https://minpo.online/article/nhk-9.html |website=民放online |access-date=2023-03-29 |date=2023-03-28}}</ref>。また、2013年(テレビ放送開始60周年)と2018年(テレビ放送開始65周年)、2023年(テレビ放送開始70周年)には共同で[[特別番組]]も制作し、両局<ref group="注釈">日本テレビ担当分は、<!---青森放送など--->NNS系列局にもネットした。</ref>にて放映している<ref name=":3" />。 [[宮崎駿]]率いる[[スタジオジブリ]]との関係が深く、同社の作品をほぼ独占的にテレビ放映する権利を持っている{{Efn|例外として、『[[アーヤと魔女]]』は日本放送協会(NHK)にて放映した。これはNHKとその子会社である[[NHKエンタープライズ]](NEP)が同作品の製作に携わっているため<ref>{{Cite web|和書|title=作品の著作権表示 |url=https://www.ghibli.jp/copyright/ |website=株式会社スタジオジブリ |access-date=2023-09-22}}</ref>。}}。また、日本テレビのマスコット「なんだろう」も宮崎駿が手掛けたものである<ref name=":4" />。2023年10月に同社の株式4割超を取得し、子会社化することを同年9月に発表した<ref name=":5" /><ref name=":6" />。 2021年現在、民放キー局の中では唯一時代劇や[[2時間ドラマ]]の制作を行わず、再放送枠も設けていない<ref group="注釈">かつては土曜12時台や平日16時台に再放送枠を設けていた。</ref>。そのためドラマ番組は自社系の衛星放送(BS日テレ・日テレプラス)での再放送がメインとなる。バラエティ番組については土曜・日曜の14~16時台に当該番組の宣伝も兼ねて再放送されることが多く、ドラマ番組も同枠で集中方式で再放送を実施することもある。 かつては、他の民放キー局に比べて収入全体に占める放送収入の割合が著しく高い状態であったが、現在は[[映画|映画事業]]、[[通信販売|通販事業]]、イベント・文化事業などによる放送外収入も広げている。『[[欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞|全日本仮装大賞]]』や『そっくりスイーツ』<ref group="注釈">『[[ザ!鉄腕!DASH!!]]』の正月特別番組である『ウルトラマンDASH』の1コーナー。</ref>といった自社制作番組のフォーマット販売も積極的に行っており、海外事業による収入も増加しつつある。なお、海外販売で最も大きな売上を占めているのは2000年代前半に制作・放送された『[[¥マネーの虎]]』でこれまでに[[番組フォーマット]]輸出された国は2022年6月の時点で45か国以上に上る<ref>{{Cite web|和書|title=伝説の番組「¥マネーの虎」が、いまも世界40カ国以上で評価される理由 |url=https://forbesjapan.com/articles/detail/42656 |website=Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン) |date=2021-08-12 |access-date=2022-06-10 |author=長谷川朋子}}</ref><ref name=":2">{{Cite web|和書|title=「はじめてのおつかい」ネトフリ版が世界旋風…「恐怖覚える人も」 |url=https://www.yomiuri.co.jp/culture/tv/20220531-OYT1T50127/ |website=読売新聞 |date=2022-06-04 |access-date=2022-06-10}}</ref>。 映画事業に関しては、スタジオジブリ作品や『[[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]』シリーズ、[[細田守]]監督作品などのアニメ映画のほか、『[[デスノート (映画)|デスノート]]』・『[[20世紀少年 (映画)|20世紀少年]]』シリーズ・『[[賭博黙示録カイジ#映画|カイジ]]』シリーズ・『[[GANTZ (映画)|GANTZ]]』など[[少年漫画]]・[[青年漫画]]の実写化がある。 データ放送では鉄道運行情報を表示しており、JR東日本線の運行情報をJR東日本公式で表示しているテレビ局である<ref group="注釈">後にフジテレビでも実施しているが日本テレビが業界初。他にも[[東京都交通局]]運営の[[都営地下鉄]]、[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]の時刻表、[[都営バス]]の時刻表や接近情報も表示している。情報提供元は[[ジェイアール東日本企画]]である。私鉄・地下鉄は[[レスキューナウ]]が担当。</ref>。また『[[歌スタ!!]]』は在京キー局の中で深夜番組としては最初にデータ放送を導入した番組である。 === インターネット === インターネット事業に関しては積極的に展開している。一例として、ウェブサイトの充実にも取り組み、公式ウェブサイトアクセス数も在京民放テレビ局の中で首位を獲得している。 ビデオ・オン・デマンド(VOD)事業にもテレビ局としては早く参入し、日本初のテレビ局主導のインターネット動画配信サービス「第2日本テレビ」を運営していた(2012年10月から「日テレオンデマンド ゼロ」に改称)。完全無料化も功を奏し、テレビ局が運営するVODサービスの中で再生回数トップを誇り、2009年1月には単月黒字化に成功した。2010年12月からは有料動画配信サービス「日テレオンデマンド」の運営も開始した。2014年には一部の番組を放送後7日間パソコンやスマートフォンで無料視聴できる「日テレいつでもどこでもキャンペーン」を開始した。 2014年には「Hulu」から日本市場向けの事業を継承し、[[定額制動画配信サービス]]にも参入しており<ref name=":1" />、最終的にはVOD事業はHuluに統一が採られている。 なお、Hulu以外の定額制動画配信サービスとの提携や自社制作番組の供給も行っており、2021年10月に[[Netflix]]と提携し、日本テレビが制作したドラマやバラエティー番組など、30作品を日本と中国を除くアジア各国への配信を開始したほか<ref>{{Cite web|title=TIFFCOM: Netflix Picks Up 30 Japanese Titles From Nippon TV|url=https://www.hollywoodreporter.com/business/business-news/netflix-nippon-tv-deal-1235039972/|website=The Hollywood Reporter|date=2021-11-01|accessdate=2021-12-03|first=Patrick|last=Brzeski}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「日本沈没」から篠原涼子の不倫劇まで…ネトフリ・アマプラと連携するキー局、一致した思惑|url=https://www.yomiuri.co.jp/culture/20211203-OYT1T50099/|website=読売新聞|date=2021-12-03|accessdate=2021-12-03}}</ref>、2022年3月にはバラエティー番組『[[はじめてのおつかい (テレビ番組)|はじめてのおつかい]]』を世界190以上の国と地域に配信した<ref name=":2" /><ref>{{Cite web |title=Nippon TV finalizes deal with Netflix to globally stream its entertainment show “Old Enough!” |url=https://www.ntv.co.jp/english/pressrelease/20220331.html |website=NIPPON TV |access-date=2022-06-11 |date=2022-03-31}}</ref>。2023年3月には初の同サービスとの共同制作番組となる『[[名アシスト有吉]]』も世界配信した<ref>{{Cite web|和書|title=日本テレビ、初のNetflix作品「名アシスト有吉」を制作 |url=https://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/20230219.html |website=日本テレビ放送網株式会社 |access-date=2023-02-20 |author=社長室広報部 |date=2023-02-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日本テレビ初のNetflix作品『名アシスト有吉』世界独占配信決定 総勢52人の芸人が出演へ |url=https://encount.press/archives/419724/ |website=ENCOUNT |access-date=2023-02-20 |date=2023-02-19}}</ref>。また、2022年3月に[[ウォルト・ディズニー・ジャパン]]との間でも戦略的協業に関する合意書を締結し、同年4月から放送された『[[金田一少年の事件簿 (道枝駿佑のテレビドラマ)|金田一少年の事件簿]]』を[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]傘下の定額制動画配信サービスである[[Disney+]]でも日本とほぼ同時期に世界配信<ref group="注釈">中国本土を除く。</ref>を行った<ref>{{Cite web|和書|title=ディズニーが日本テレビと戦略的協業に関する合意書を締結 |url=https://www.disney.co.jp/corporate/news/2022/20220310.html |website=ディズニー公式 |accessdate=2022-03-10 |date=2022-03-10 |author=ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=なにわ男子・道枝駿佑主演『金田一少年』が世界配信決定 日テレ&ディズニーが“戦略的協業” |url=https://www.oricon.co.jp/news/2227321/full/ |website=ORICON NEWS |accessdate=2022-03-10 |date=2022-03-10}}</ref>。 2020年10月からは日本の民放テレビ局で初となるテレビ番組のインターネット同時配信サービスである「日テレ系ライブ配信」(現・[[日テレ系リアルタイム配信]])を試験的に開始し(同年12月30日でいったん終了)、2021年10月2日より本格運用を開始した<ref>{{Cite web|和書|title=日本テレビ系がネット同時配信試行 10月3日からTVerで |url=https://www.sankei.com/article/20200917-EXIH5FBF4JI3LDTMHURZWNCBQY/ |website=産経新聞 |date=2020-09-17 |access-date=2023-03-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日テレ、10月から放送と同時にネット配信 TBSなども年度内検討 |url=https://www.asahi.com/articles/ASP9J671WP9JUCVL00Q.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞 |date=2021-09-17 |access-date=2023-03-19}}</ref>。 == 本社・支社・支局 == [[ファイル:ShiodomeB.JPG|thumb|240px|[[東京]]・汐留にある日本テレビタワー]] [[ファイル:Nittele tower Shiodome 2007-3.jpg|thumb|240px|日本テレビタワー(新橋駅方向より)]] ; 本社 * 東京都[[港区 (東京都)|港区]][[東新橋]]1丁目6-1 日本テレビタワー(通称:[[汐留]]) ; [[日本テレビ放送網麹町分室|麹町分室→番町スタジオ]](旧本社) * 東京都[[千代田区]][[二番町 (千代田区)|二番町]]14-5(通称:麹町) ; 生田スタジオ * [[神奈川県]][[川崎市]][[多摩区]][[菅仙谷]]3丁目20-1 ; 八王子支局(既に閉局、別地域に移転) * 東京都[[八王子市]]本町24-8 読売八王子ビル ; 横浜支局 * [[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]][[長者町 (横浜市)|長者町]]5丁目85 三共横浜ビル(旧[[明治安田生命保険|明治安田生命]]ラジオ日本ビル)4階 ; 前橋支局 * [[群馬県]][[前橋市]][[大手町 (前橋市)|大手町]]3丁目7-1 読売新聞前橋支局 ; 関西支社 * [[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]][[堂島]]2丁目2-2 近鉄堂島ビル14階<ref group="注釈">設置当初は、読売テレビ本社(当時は大阪市北区岩井町)内に支社(当時は'''大阪支社''')が置かれていた。(出典:『民間放送十年史』第2部の各社史録378頁「日本テレビ放送網」)</ref> ; 名古屋支局 * [[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[栄 (名古屋市)|栄]]3丁目14-7 RICCO栄6階 ; [[日本テレビ那覇支局|那覇支局]] * [[沖縄県]][[那覇市]][[久茂地]]1丁目3-1 久茂地セントラルビル5階 == 設備 == === 組織図 === * 監査役協議会 * 取締役会 * ICT戦略本部 * グループ推進本部 * 社長室 * 総務局 * メディア戦略局 * 海外ビジネス推進室 * コンプライアンス推進室 * 人事局 * 経理局 * 営業局 * 事業局 * 編成局 * 情報・制作局 * スポーツ局 * 報道局 * 技術統活局 == スタジオ == === 汐留・日本テレビタワー === {{Main|日本テレビタワー}} [[ファイル:Zero studio 2.jpg|thumb|240px|ゼロスタジオ]] [[ファイル:日本テレビ麹町分室.JPG|thumb|250px|right|日本テレビ麹町分室(旧本社)]] [[ファイル:Ntv bancho 20181123.JPG|thumb|250px|right|日本テレビ番町スタジオ]] [[汐留]]の日本テレビタワーの本社スタジオ機能は2004年2月29日に稼働し、生放送の報道・情報番組と一部のバラエティ番組が制作されている。 以前は19階は日テレグループ各社や[[大韓民国|韓国]][[SBS (韓国)|SBS]]など海外テレビ局の東京支局、20階から24階には一般企業が入居していたが、現在はすべて日本テレビグループの企業が入居している。20階には準キー局である読売テレビと系列局の[[南海放送]]の東京支社も入居している。 旧本社・南本館にあった[[マイスタジオ]]の名称は汐留移転後も使用されている。 ; S1スタジオ(13階、211坪) ; S2スタジオ(13階、138坪) : 上記2スタジオはバラエティ・報道・情報番組番組向けの収録・生放送対応スタジオ。 ; S3スタジオ(9階、148坪) ; S4スタジオ(9階、148坪) : 上記2スタジオは報道・情報番組向けの生放送対応スタジオ。 ; NEWSスタジオ(5階、130坪) : 隣接する報道フロアからも放送できる。 ; SVスタジオ(13階、71坪) : バーチャルスタジオとして使用される。 ; SKY1スタジオ(15階、31坪) ; SKY2スタジオ(15階、31坪) ; タワートップスタジオ(32階) : 上記3スタジオは共に都心の眺望が特徴。 ; マイスタジオ(2階、92坪) ; ゼロスタジオ(1階、22坪) ; 汐留AX(1階、旧・テレビバ) : 上記3スタジオはオープンスタジオ。ゼロスタジオはサテライトスタジオでもある。 === 麹町分室 === {{Main|日本テレビ放送網麹町分室}} 汐留・日本テレビタワーに本社が移転された後も、旧社屋は麹町分室「日テレ麹町ビル」として北本館にある2つのスタジオと南本館にある貸しスタジオに限り、引き続き使用していた。日本テレビで最大面積のGスタジオがあることから、主に観客入れや出演者が多い番組が収録されている。また制作部門の一部デスクは分室に留まった。 また、日本テレビグループ企業の本社が入居し、CS日本(以前はBS日テレも)の本社と送出マスターもここにあった。周辺には、[[バップ]]など日本テレビの子会社・関連会社が入居する別館群がある。旧西本館は一般テナントビルとして使用されていた。 麹町社屋は「西本館」、「南本館」、「北本館」、「カラーセンター」の4棟から成り立っており、カラーテレビ放送開始に伴い建設された「カラーセンター」が後に新築された南本館と合体化された。しかし旧「カラーセンター」棟は老朽化が激しく、棟内にあったHスタジオとJスタジオは本社移転を契機として使用を中止した。 2019年1月、北本館隣接地に新築された番町スタジオの運用開始に伴い使用を完全に終了。旧社屋は順次取り壊されている。 ; Kスタジオ(北本館5階、167坪) : バラエティ・音楽番組向けの収録スタジオ。 ; Gスタジオ(北本館1階、250坪) : バラエティ・音楽番組向けの収録・生放送対応スタジオ。 ; Vスタジオ(北本館5階、70坪) : 当初はバーチャル専用スタジオとしてKスタジオの美術倉庫の一部を改装して作られた。本社機能が汐留に移転した後も主に小中規模の番組の収録で利用されていた。 ; STUDIO NiTRo CUBE(南本館4階、65坪) : [[日テレ・テクニカル・リソーシズ|NiTRo]]が運営する貸しスタジオ。バラエティ・通販番組向けの収録スタジオ。旧本社時代はEスタジオと呼ばれていた。 === 番町スタジオ === 旧社屋である麹町ビルの老朽化が進んでいるため、[[4K 8Kテレビ放送|4K放送]]などの新しい機能を備えたスタジオとして、麹町ビルの隣に建設された。地上11階、地下5階、高さ59.9m(鉄塔含む高さ99.9m)、延べ面積33,600㎡のテレビスタジオ。2016年2月着工、2018年8月竣工(全体の竣工は2020年12月)、2019年1月29日運用開始<!--「稼動」と「開始」は同じ意味なので、編集しました-->。名称は公募で選ばれた(住所の「二番町」が由来になっている)。 ; C1スタジオ(265坪) ; C2スタジオ(265坪) : 上記2スタジオは日本テレビでフロア面積最大のスタジオとなる。収録・生放送・4K放送対応。 ; C3スタジオ(124坪) ; C4スタジオ(38坪) === 新社屋・旧社屋の扱いについて === 2004年に日本テレビの本社機能はデジタル放送に対応するため、開局以来本社を置いていた[[千代田区]][[二番町 (千代田区)|二番町]](通称:[[麹町]])から[[港区 (東京都)|港区]][[東新橋]](通称:[[汐留]])に移転した。 しかし、移転後に本社機能・番組収録を全て旧社屋から新社屋にシフトしたTBSやフジテレビとは違い、日本テレビは麹町社屋がさほど老朽化していなかった事や、新社屋の敷地面積が他の在京民放の社屋より狭いことなどから、本社機能と報道・情報番組制作、一部のバラエティ番組制作が『日本テレビタワー』にシフトし、バラエティ番組の多くが汐留に本社を移した後も2019年1月まで『麹町分室』で制作されており、BS・CS放送の番組送出は麹町で行っていた。こうした機能分散の例はテレビ朝日六本木ヒルズ完成前の時代(アークヒルズのスタジオ建設や本社機能移転)などがある。 2019年1月に麹町分室北本館隣接地に新築された番町スタジオへとその機能が引き継がれたが、今後も麹町の地での番組制作を継続する。 『麹町分室』『番町スタジオ』ともに、番組収録については各副調整室でVTRなどに収録した上で編集作業などを行い放送されていたが、生番組について、『麹町分室』では『日本テレビタワー(以後「本社」と表記)』の主調整室と映像・音声や各種制御系回線が直接接続されていなかったため、本社内の副調整室(所謂「受けサブ」)を開き、そこで一旦回線を受けCM出しなど制御系の調整を行ってから主調整室へ送る必要があった。 それに対し『番町スタジオ』では館内に「回線室」を設け、各副調整室と本社主調整室の映像・音声や各種制御系回線を接続できるようにした。これにより本社側に副調整室(所謂「受けサブ」)を開かず、『番町スタジオ』内の設備のみで直接生放送ができるように改められた。 『麹町分室』時代は、BS・CSの主調整室(送出マスター)が分室に置かれていたため、本社で制作された番組を光回線で送り、分室から放送されていたが、その後本社内にBS・CSも統合した主調整設備が完成し運用開始したことにより、2021年時点では番町スタジオで制作された番組は地上波・BS・CSすべてが光回線で本社へ送られている。本社主調整室から地上波は東京スカイツリー(東京タワーは予備送信所)で関東一円へ、ネット向け回線で全国のネット局へ、さらにBS・CSはそれぞれの衛星へのアップリンク施設を通じ送られ、放送に至っている。 汐留・麹町間はスタッフ専用の[[シャトルバス]]で結ばれている(六本木再開発時代のテレビ朝日も同様)。 === 生田スタジオ === {{Main|生田スタジオ}} スタジオ技術は子会社のNiTRo(旧NTV映像センター)が請け負っている。災害時の送出機能も備えている。 ; 第1スタジオ(260坪) ; 第2スタジオ(200坪) : 上記2スタジオはドラマ制作用スタジオ。 ; 第3スタジオ(200坪) : バラエティ番組制作用スタジオ。 == 番組編成 == {{main2|ニュース・報道番組|日本テレビ・報道局制作番組の分野別一覧|スポーツ・情報番組の具体的な番組|日本テレビ・スポーツ・情報局制作番組の分野別一覧|上記以外の番組|日本テレビ制作局制作番組の分野別一覧|報道特別番組|日本ニュースネットワーク#報道特別番組}} [[ワイドショー]]・情報番組が多く制作されており、ノンプライム帯に占める生放送の割合が高い。現在、月曜日 - 木曜日は午前4時30分から午後7時まで一部のミニ番組を除き生放送番組が連なっている(読売テレビ制作の『[[情報ライブ ミヤネ屋]]』を含む)。この分野を得意としている日本テレビはゴールデンタイム・プライムタイム・全日に加え、ノンプライムも視聴率の1つの区分として重要視している。 === スポーツ中継 === 巨人戦の[[プロ野球中継]]は開局当時から「ドル箱番組」として日本テレビの番組編成の中心となっていたが、2002年を境に視聴率低迷が続き、2006年には年間平均視聴率が1桁を記録。これにより視聴率とスポンサーの点で特に大きく依存してきた日本テレビは大きなダメージを受けた。その後はゴールデンタイムのレギュラー番組を優先する編成方針から、東京ドームの巨人主催試合の放映権をNHKや他局に譲渡、あるいはBS日テレへ移行させるなどした結果、2009年以降の巨人戦の地上波中継は年間20試合前後にまで削減された。中継は週末デーゲームが中心で、ナイター中継は年間5試合程度となっている。{{main|[[DRAMATIC BASEBALL]]}} [[メジャーリーグベースボール]](MLB)については放映権料の高騰を理由として、代理店との間で放映権の契約を交わしていないため、原則として、2009年から同リーグの中継を行っていない。また、同年から2022年シーズンまで、同リーグの試合映像の配信も受けていなかったため、日本テレビ系列のニュース・情報番組でMLB関連の話題を報じる際は現地の新聞社や通信社などから提供を受けた写真(静止画)を使用していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.zakzak.co.jp/gei/200904/g2009040717_all.html |title=日テレ、メジャーリーガー切り捨て…映像配信受けず |access-date=2022-08-13 |date=2009-04-07 |website=夕刊フジ |archive-date=2009-04-10 |archive-url=https://web.archive.org/web/20090410000701/https://www.zakzak.co.jp/gei/200904/g2009040717_all.html}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=各社「大谷翔平」で特需も… 「日テレ」が動画を放送できない事情 |url=https://www.dailyshincho.jp/article/2018/06060559/?all=1 |website=週刊新潮 |access-date=2022-08-13 |date=2018-06-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日テレ「DayDay.」好スタート 武田真一アナにタイミングよく強力な“援軍” |url=https://www.dailyshincho.jp/article/2023/04051142/?all=1 |website=週刊新潮 |access-date=2023-04-06 |date=2023-04-05 |page=1}}</ref>。なお、同年以降もMLBの公式戦を日本の[[東京ドーム]]にて行う際はMLBとの間で個別に放映権を購入した上で生中継を行っている<ref>{{Cite web|和書|title=イチローを、見ないのか ~MLB、今年は日本で開幕! イチロー7年ぶり日本凱旋!!~ |url=https://www.ntv.co.jp/baseball/articles/34cptstyvorlptd0q0.html |website=日本テレビ |access-date=2022-08-13 |date=2019-01-31}}</ref>。 野球以外では1987年から[[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]の中継権を獲得し、『[[新春スポーツスペシャル箱根駅伝]]』として完全中継を実施しており、毎年20%以上の高視聴率を記録する正月の人気番組となっている。サッカーは『[[全国高等学校サッカー選手権大会|全国高校サッカー選手権]]』の幹事局であり、系列局29社および[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]を除く[[全国独立放送協議会]]12社・[[宮崎放送]]([[ジャパン・ニュース・ネットワーク|JNN]])・[[沖縄テレビ放送|沖縄テレビ]]([[フジネットワーク|FNS]])と中継の共同制作を行っている。[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]中継は、2009年まで当時親会社となっていた[[東京ヴェルディ|ヴェルディ川崎→東京ヴェルディ]]の主催試合を深夜枠中心に放送した<ref group="注釈">1995年まではゴールデンタイムでの全国中継も実施していた。</ref>。 過去には開局当初から[[日本プロレス]]の試合中継である『[[三菱電機|三菱]][[三菱ダイヤモンド・アワー|ダイヤモンドアワー]]・[[日本プロレス中継]]』を編成して人気を博し、1972年に『[[全日本プロレス中継]]』に移行したが2000年で終了。その後は『[[プロレスリング・ノア中継]]』に移行したが、視聴率低迷を受けて2009年3月末を以て終了、以降地上波でのプロレス中継は行われていない。 他のキー局に比べて国際試合の中継数は少なく、[[ジャパンコンソーシアム]]が放映権を保有している国際大会を除き、2022年現在放映権を保有している大会は[[FIFAクラブワールドカップ]]([[FIFAクラブ世界選手権2005|2005年大会]]から)<ref group="注釈">同大会の事実上の前身で1981年から2004年まで日本で開催していた[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタ ヨーロッパ/サウスアメリカ カップ]]([[トヨタカップ]])から放映権を保持している。</ref><ref>{{Cite web|和書|title=FIFAクラブワールドカップ・決勝 |url=https://www.videor.co.jp/tvrating/past_tvrating/sport/football/05/toyotafifa.html |website=過去の視聴率 |access-date=2022-11-19 |publisher=株式会社ビデオリサーチ}}</ref>、[[ラグビーワールドカップ]](2007年の[[ラグビーワールドカップ2007|第6回大会]]以降)<ref group="注釈">NHK・[[J SPORTS]]と共同で放映権を獲得。</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日本テレビ、NHK、J SPORTSがRWC2019の日本での放映権を取得 |url=https://www.rugbyworldcup.com/news/365925?lang=ja |website=ラグビーワールドカップ |access-date=2022-08-12 |date=2018-09-20}}</ref>と[[FIBAバスケットボール・ワールドカップ]](2023年開催予定の[[2023年FIBAバスケットボール・ワールドカップ|第19回大会]])<ref group="注釈">テレビ朝日と共同で放映権を獲得。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.ntv.co.jp/category/sports/026691558ed04ab7a442381ee6f8029e |title=バスケW杯2023 日テレ&テレ朝で放送決定 ホーバスHC「日本はもっともっと強くなる」 |accessdate=2022-08-12 |date=2022-05-28 |publisher=日テレNEWS |author=日本テレビ}}</ref>のみである。かつては[[世界陸上競技選手権大会|世界陸上]]や[[ワールド・ベースボール・クラシック]]の中継も実施していたが、いずれも他局に譲る形で撤退している。 === バラエティ番組 === 1960年代から1970年代に掛けて『[[光子の窓]]』『シャボン玉ホリデー』『[[巨泉・前武ゲバゲバ90分!]]』などの名番組を制作。1980年代には『[[久米宏のTVスクランブル]]』や『[[天才・たけしの元気が出るテレビ!!]]』といった話題作はあったものの、全体的には視聴率も低迷。1990年代以降は『[[クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!]]』『[[マジカル頭脳パワー!!]]』や[[土屋敏男]]演出番組(『[[電波少年シリーズ]]』『[[ウッチャンナンチャンのウリナリ!!]]』)が人気を博し、その勢いを取り戻した。一時期までは『[[ロンパールーム]]』や『[[カリキュラマシーン]]』などの教育番組にも取り組んでおり、2021年現在は『[[所さんの目がテン!]]』が制作・継続されている。1966年から放送されている『[[笑点]]』は全国ネットで放送されるバラエティ・お笑い番組では[[ギネス世界記録]]を持つ長寿番組であり、日曜夕方の放送ながら現在も視聴率15%前後を叩き出す人気を誇っている。 他局と比較してゴールデンタイム・プライムタイムで放送されているバラエティ番組の本数が非常に多い。2023年現在、月~木曜の20時台で放送されているバラエティ番組は全て'''放送開始から20年を越す長寿番組'''となっている。日曜日に至っては15年以上続く長寿番組が集中していており、特に2007年の「イッテQ!」がゴールデンタイムに進出後は「笑点」から「おしゃれ」シリーズの番組編成が15年以上続いている。また、一部のバラエティ番組は情報エンターテインメント局で制作されている。 番組の開始時間を00分の定時ではなく、55分や57分などのいわゆる[[フライングスタート (放送)|フライングスタート]]をキー局でいち早く導入した局である<ref group="注釈">1993年開始の『[[ザ・ワイド]]』(日本テレビ・よみうりテレビ共同制作、2004年度よりよみうりテレビ(→読売テレビ)・日本テレビ共同制作)が最初となる。</ref>。 === ドラマ === 開局当初の麹町旧本社屋はドラマ撮影に対応可能な広いセット設備を持たなかったことから、ドラマ製作にあたっては[[日活]]や[[大映]]など各映画会社の撮影所を使用し、[[映画フィルム|フィルム]]撮影による[[テレビ映画]]の製作に力を入れていた。この制作方針は、自局製作によるスタジオドラマを得意としていたライバル局のTBSとは対照的なものであった<ref name="kayo9ji">『NTV火曜9時 アクションドラマの世界 「大都会」から「プロハンター」まで』(2015年、[[DU BOOKS]])20頁</ref>。とりわけ国内の[[映画産業]]が斜陽化した1970年代から1990年代初頭にかけては[[東宝]]や[[石原プロモーション]]など外部の映画製作プロと提携し、現代劇では『[[青春とはなんだ]]』『[[おひかえあそばせ]]』『[[傷だらけの天使]]』『[[大都会 (テレビドラマ)|大都会]]』『[[俺たちの旅]]』、時代劇では『[[子連れ狼]]』『[[新五捕物帳]]』『[[桃太郎侍]]』『[[長七郎江戸日記]]』などを放送。特に[[刑事ドラマ]]は同局の十八番と言われ<ref>TVぴあ 1992年2月26日号 今号のドキドキ(1992年、[[ぴあ]])10頁</ref>、1972年に金曜20時枠でスタートした『[[太陽にほえろ!]]』は最高視聴率42.5%(ニールセン調べ)を記録、レギュラー放送期間も15年近くに及ぶ人気番組となった。終了後も同時間帯はアクション路線の枠として定着し、廃枠となる1995年まで『[[もっとあぶない刑事]]<ref group="注釈">第1シリーズである『[[あぶない刑事]]』は日曜21時枠で放送。</ref>』 『[[刑事貴族]]』『[[静かなるドン]]』などの人気作を生んだ。[[生田スタジオ]]の運用開始以降は自局製作による一般ドラマも積極的に手掛け、『[[前略おふくろ様]]』『[[熱中時代]]』『[[天まであがれ!]]』『[[妻たちの課外授業]]』などをヒットさせている。この他、『[[二丁目の未亡人は、やせダンプといわれる凄い子連れママ]]』に始まる「長いタイトルシリーズ」などのユニークな試みも行っており、『[[七丁目の街角で、家出娘と下駄バキ野郎の奇妙な恋が芽生えた]]』は日本のテレビ番組史上最も長いタイトルとされている<ref name="poster">『日本テレビポスターコレクション』(1992年、日本テレビ放送網)52頁</ref>。 現在、プライムタイムで放送されている全国ネットの連続ドラマ枠は『[[水曜ドラマ (日本テレビ)|水曜ドラマ]]』・『[[土曜ドラマ (日本テレビ)|土曜ドラマ]]』・『[[日曜ドラマ]]』<ref group="注釈">2020年1月期及び10月期、2021年以降は毎年7月期に[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]が制作を担当している。</ref>の3本。これは他局並みの数だが、『[[家なき子 (1994年のテレビドラマ)|家なき子]]』『[[金田一少年の事件簿 (堂本剛のテレビドラマ)|金田一少年の事件簿]]』『[[ごくせん (テレビドラマ)|ごくせん]]』『[[家政婦のミタ]]』『[[あなたの番です]]』など人気番組も数多い。『水曜ドラマ』は女性層、『土曜ドラマ』はファミリー層、もしくは[[ティーンエイジャー|ティーンエイジ層]]を意識した作品を放送している。『日曜ドラマ』は「大人の男性も楽しめて、月曜日へ弾みになるドラマ」をコンセプトとして近年では1年に1本必ず[[学園ドラマ]](それも多くが高校が舞台のものである。)が編成されている。2017年度以降は3枠とも開始時間が22時以降となっており、全国ネットでは最も遅い編成を組んでいる。また、キー局では唯一、21世紀以降に20時台にテレビドラマ枠を編成したことがない。 なお、上記に挙げられている現在放送中のプライムタイムの連続ドラマ枠では、すべて[[ステレオ放送]]、[[文字多重放送]]、[[連動データ放送]]を実施しているほか、2017年10月期以降に放送される作品にはそれらに加え、[[解説放送]]も随時実施している。更に、2019年度以降に放送される作品は原則として初回・最終回などの放送時間拡大を廃止し、通常放送時と同様の放送時間になっている。 また2018年から断続的に『[[ZIP!]]』内で連続短編ドラマを展開するなど、放送枠の概念を超えたチャレンジを積極的に行っている。 === アニメ・特撮 === [[トムス・エンタテインメント|トムス・エンタテインメント(旧:東京ムービー)]]との繋がりが強く、自社製作では『[[ルパン三世#テレビシリーズ|ルパン三世]]』シリーズ<ref group="注釈">過去には大阪の読売テレビ製作のシリーズ(第1・3シリーズ)も存在したが、一般的には日本テレビの製作番組として扱われており、後のスペシャル版は一部を除きすべて日本テレビが製作を担当する。 日本テレビ開局55周年・読売テレビ開局50周年記念番組として両局の共同製作で放送された『[[ルパン三世VS名探偵コナン]]』では、『ルパン三世』は日本テレビ側の、『名探偵コナン』は読売テレビ側の番組として扱われていた。</ref>、『[[それいけ!アンパンマン]]』、読売テレビ製作では『[[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]』などを放送。また、スタジオジブリ制作の[[アニメーション映画]]作品にも参加するなど、[[アニメの歴史|アニメ史上]]重要な映画作品を多数製作している。1973年には『[[ドラえもん (1973年のテレビアニメ)|ドラえもん]]』を現在放送中の[[ドラえもん (2005年のテレビアニメ)|テレビ朝日版]]に先駆けてアニメ化した実績も持つ。[[特撮]]番組は[[円谷プロダクション]]の初期の代表作のひとつである『[[快獣ブースカ]]』をはじめとして、『[[ファイヤーマン]]』『[[流星人間ゾーン]]』『[[スーパーロボット レッドバロン]]』『[[星雲仮面マシンマン]]』『[[電脳警察サイバーコップ]]』などを放送。1978年には開局25周年記念作品として製作された『[[西遊記 (1978年のテレビドラマ)|西遊記]]』がヒットした。 1980年代~1990年代前半は日曜午前や平日夕方に数多くの自社制作の30分連続テレビアニメ枠が存在していたが、2022年現在は、自社製作の30分連続テレビアニメ枠は金曜午前に『それいけ!アンパンマン』を持つほか、『[[金曜ロードショー]]』でも長編アニメを放送する。 この他、いわゆる「[[深夜アニメ]]」もキー局としては黎明期から積極的に放送しているが、他キー局と比べて時おり休止したり、放送曜日の変動が激しい傾向がある(詳細は「[[日本テレビの深夜アニメ枠]]の項」を参照)。一部の深夜アニメ作品についてはHuluで日テレでの本放送より早く配信を行っている。 子会社としてアニメ制作会社・[[マッドハウス]]や[[タツノコプロ]]を保有しているため、この2社が作った深夜アニメを放送する事も多い。 === 系列局の制作番組 === 他系列に比べ、系列局が全国ネットの番組を制作する機会が多い。 現在、[[読売テレビ]]は土曜日17時台後半のアニメ、『名探偵コナン』(土曜日18時台)、『[[秘密のケンミンSHOW|秘密のケンミンSHOW→秘密のケンミンSHOW極]]』(木曜日21時台)、『[[ダウンタウンDX]]』(木曜日22時台)、『[[木曜ドラマ (読売テレビ)|木曜ドラマ→木曜ドラマF→モクドラF→木曜ドラマ]]』(金曜日0時台〈木曜日深夜〉)、2020年以降の一部の『[[日曜ドラマ]]』(日曜日22時台後半~23時台前半)、『情報ライブ ミヤネ屋』(月 - 金曜日14時・15時台)、『[[ウェークアップ!|ウェークアップ]]』(土曜日8時台・9時台前半)、『[[遠くへ行きたい (テレビ番組)|遠くへ行きたい]]』を制作している。[[中京テレビ]]は『[[ヒューマングルメンタリー オモウマい店]]』(火曜19時台)、『[[それって!?実際どうなの課]]』(木曜日0時台〈水曜日深夜〉)、『[[オードリーさん、ぜひ会ってほしい人がいるんです。]]』を制作している。 かつては深夜のバラエティー枠『[[ZZZ (テレビ放送枠)|ZZZ]]』を系列局に開放し、[[札幌テレビ放送|札幌テレビ]](『[[爆笑問題のススメ]]』など)、[[山口放送]](『[[三宅裕司のドシロウト]]』など)、[[テレビ岩手]](『[[フライデーナイトはお願い!モーニング]]』)、[[広島テレビ放送|広島テレビ]](『[[松紳|松本紳助]]』など)、[[福岡放送]](『[[新型テレビ]]』など)が制作に参加した。 また、1970年代には基幹局以外でも[[北日本放送]]がゴールデンタイムのテレビドラマ『[[ゲンコツの海]]』を、[[山梨放送]]がプライムタイムのバラエティ番組『田宮二郎ショー プラザ47』を制作した。 夏期・冬期には『[[土曜パラダイス]]』などの放送枠で各系列局制作の全国ネット番組が相次いで放送される。年に1・2回のペースで全国ネットの単発番組を制作している系列局も多い。 == 制作局 == 2011年7月に発足した部署。2006年に従来の編成本部が制作局と名称を変え、その中の部署も一新された。実質、その編成本部の前の編成局が復活したようなもの。新しい部署として、「ドラマ制作部」、「CP班グループ」、「業務部」が作られた。また、新たに「スポーツ・情報局」が発足し、スポーツ番組や情報番組はこのスポーツ・情報局の担当となった。2009年7月の組織改正により制作局が廃止され、バラエティー局とドラマ局に分割されたが、2011年7月の組織改正で再び統合され、制作局の下にバラエティーセンターとドラマセンターが置かれた。さらに2012年6月からはバラエティーセンターとドラマセンターが廃止され制作局に移管した。 具体的に制作されている番組の種類は次の通り。 * バラエティ番組 - 『[[ヒルナンデス!]]』、『[[世界まる見え!テレビ特捜部]]』、『[[踊る!さんま御殿!!]]』、『[[ぐるぐるナインティナイン|ぐるナイ]]』、『[[笑点]]』、『[[世界の果てまでイッテQ!]]』、『[[ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!]]』、『[[ザ!鉄腕!DASH!!]]』など * [[クイズ番組]] - 『[[THE突破ファイル]]』など * [[教養番組]] - 『[[世界一受けたい授業]]』 * [[音楽番組]] - 『[[バズリズム]]』、『[[日テレ系音楽の祭典 ベストアーティスト]]』、『[[THE MUSIC DAY]]』など * ドラマ - 『[[水曜ドラマ (日本テレビ)|水曜ドラマ]]』、『[[土曜ドラマ (日本テレビ)|土曜ドラマ]]』、『[[日曜ドラマ]]』など * [[テレビアニメ|アニメ]] - 『[[ルパン三世]]シリーズ』、『[[それいけ!アンパンマン]]』など * ミニ番組 * [[読売新聞]]制作番組 * [[特別番組|スペシャル番組]] - 『[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」]]』、『[[欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞]]』など その他、[[日本テレビ制作局制作番組の分野別一覧]]も参照のこと。 == 情報カルチャー局・スポーツ局 == 制作局と共に2006年に「スポーツ・情報局」として発足した部署。従来の編成本部の制作していたスポーツ番組や情報番組がこの部署の制作担当となった。その後、2007年7月の組織改正により、情報エンターテインメント局とスポーツ局に分割された。スポーツ局には「CP班グループ」と「スポーツ企画推進部」、情報エンターテインメント局には「CP班グループ」がそれぞれ作られた。 2012年12月より情報エンターテインメント局は情報カルチャー局に改称された。 具体的な制作番組は以下の通り。 * 情報番組 - 『[[ZIP!]]』、『[[ズームイン!!サタデー]]』、『[[DayDay.]]』、『[[シューイチ]]』など * バラエティ番組 - 『[[ザ!世界仰天ニュース]]』など * [[クイズ番組]] - 『[[全国高等学校クイズ選手権]]』など * [[料理番組]] - 『[[キユーピー3分クッキング]]』など * 教養番組 - 『[[所さんの目がテン!]]』 * 紀行番組 - 『[[ぶらり途中下車の旅]]』 * スペシャル番組 - 『[[はじめてのおつかい (テレビ番組)|はじめてのおつかい]]』、『[[大家族スペシャル|7男2女11人の大家族石田さんチが大騒ぎ!]]』など * [[スポーツ番組]] - 『[[Going!Sports&News]]』、『[[DRAMATIC BASEBALL]]』、『[[新春スポーツスペシャル箱根駅伝|箱根駅伝]]』、『[[日本プロゴルフ選手権大会|日本プロゴルフ選手権]]』、『[[全国高等学校サッカー選手権大会|全国高校サッカー選手権]]』、『[[東京マラソン]]』(隔年)、『[[ワールドプレミアムボクシング]]』など * その他スポーツ、情報番組のスペシャル番組。 その他、[[日本テレビ・スポーツ・情報局制作番組の分野別一覧]]も参照のこと。 == 報道局 == 報道局は、政治部・経済部・社会部・国際部・映像取材部・総合ニュースセンター・ライブソリューション部・NNN事務局・解説委員会・業務改革推進部・報道審査委員会の11部署からなり、汐留・日テレタワー5階の報道局を中心に業務を行っている(報道フロア 340坪)。2012年6月1日付の組織改正で、民放では珍しい'''生活文化部'''が設置されていた。 海外の放送局を模して、レールカメラを配置した報道フロアをはじめ、パーマネントセットを配置した放送スタジオも完備している。CS放送・日テレNEWS24(旧NNN24)のスタジオもここにある。この報道局内設備もすべてHDに対応している。ニュース映像素材は最近ではHDカメラによる取材や現場からの中継も行っており、民放キー局としては報道取材における[[高精細度テレビジョン放送|HD]]の導入が早く、今では日本テレビの放送エリア内の取材は、ほぼ全面的にHD化されている。 地方局が取材したニュースについては取材した系列局のテロップを「NNN」と併記して表示する(連名で表示する場合もある)。重大な事件・大規模な事故・災害の取材の際、地元局以外の系列局の支援を受け共同取材する場合や、高校野球等系列各局が集結して取材を行う場合は「NNN取材団」と表示する。この表示は地上波放送各種ニュース番組・日テレNEWS24ともにおこなわれている。 報道スタジオは5階報道局に隣接して置かれ、[[副調整室|サブ]]は3つある。主にNEWS1サブでは地上波、NEWS2サブは日テレNEWS24で使用される。この他に素材収録用の簡易サブもある。 ニュース映像の[[収録]]・[[編集]]は4階の[[CVセンター (日本テレビ)|CVセンター]]、テロップ・[[コンピュータグラフィックス|CG]]などの制作は4階のテロップセンターで行われている。 NNN系列各局や海外メディア配信へのニュース配信を行う「ニュースチャンネル」が6階にあり、ニュース配信を行う送出設備のほかVTR編集室・カメラ1台の顔出し設備がある。 具体的に制作されている番組の種類は次の通り。 * [[報道番組]] - 『[[Oha!4 NEWS LIVE]]』<ref group="注釈">日テレNEWS24(CS)制作の番組。</ref>、『[[NNNストレイトニュース]]』<ref group="注釈">月 - 金曜版は日テレNEWS24制作(CS)の番組。</ref>、『[[news every.]]』、『[[news zero]]』、『[[真相報道 バンキシャ!]]』、『[[皇室日記]]』、『[[ZERO×選挙]]』など * [[ドキュメンタリー|ドキュメント番組]] - 『[[NNNドキュメント]]』など その他、[[日本テレビ・報道局制作番組の分野別一覧]]も参照のこと。 == 役員・社員 == {{See also|Category:日本テレビの人物}} ; 現在 * [[清水潔 (ジャーナリスト)|清水潔]] - [[新潮社]][[記者]]を経て入社。写真週刊誌『[[FOCUS]]』記者時代の1999年、「[[桶川ストーカー殺人事件]]」における一連の警察不祥事をスクープ。 * [[成田真由美]] - [[パラリンピック]][[競泳]]選手。1996年に嘱託社員として入社。 ; 過去 * [[青山和弘]] - 政治部記者、NNNワシントン支局長、解説委員等を歴任。退社後は政治ジャーナリスト。 * [[石原伸晃]] - 報道局記者として大蔵省や[[外務省]]、[[総理大臣官邸|首相官邸]]等を担当。1990年から2021年まで[[自由民主党 (日本)|自民党]][[国会議員|衆議院議員]](10期)。 * [[片岡英彦]] - 報道記者、報道番組ディレクター、広報局番組事業宣伝部。退社後は民間企業勤務を経て、企画家、コミュニケーション・戦略PRプロデューサー、コラムニスト等として活動。 * [[川端裕人]] - 記者として南極海[[調査捕鯨|調査捕鯨船]]に同乗取材した記録を出版したことがきっかけで作家に転身した。 * [[岸田雪子]] - 報道デスクニュースキャスター、記者(社会部・政治部)、解説委員等を歴任。退社後はジャーナリスト。 * [[國弘正雄]] - 解説委員待遇で報道番組、討論番組の司会を担当。[[翻訳|翻訳者]]、[[通訳|同時通訳者]]、[[日本社会党]]→[[新党護憲リベラル]]参議院議員(1期)。 * [[菅賢治]] - 『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』のプロデューサー(通称「'''ガースー'''」)。退社後もテレビプロデューサーとして活動。 * [[真山勇一]] - 報道記者、[[ニュースキャスター]]、報道局解説委員長を歴任。退社後は[[調布市]]議会議員(1期)、参議院議員(2期)を務めた<ref group="注釈">調布市議時代は自民党に所属。参議院議員当選時は[[みんなの党]]に所属し、2022年に[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]で任期を終えた。</ref>。 * [[丸岡いずみ]] - [[北海道文化放送]]アナウンサーを経て、入社後は報道記者、ニュースキャスターを務めた。退社後は[[フリーアナウンサー]]、[[タレント]]として活動。 * [[水島宏明]] - 札幌テレビ放送社員時代、NNN海外特派員に。入社後は『NNNドキュメント』チーフディレクター、[[解説委員]]を務めた。用語「[[ネットカフェ難民]]」の考案者。[[上智大学]][[文学部]]新聞学科教授に就任。 * [[森川亮 (会社経営者)|森川亮]] - [[LINE (企業)|LINE]]代表取締役社長、[[C Channel]]株式会社代表取締役社長らを歴任。 * [[森澤恭子]] - 報道記者として[[2004年アメリカ合衆国大統領選挙]]などを取材。退職後に[[森ビル]]社員などを経て[[東京都議会|東京都議会議員]]を務めた後、2022年に[[東京都]][[品川区|品川区長]]に当選し、就任。 * [[矢追純一]] - [[超常現象]]・[[オカルト]]番組ディレクター。退社後は[[疑似科学]]・[[未確認飛行物体|UFO]][[評論家]]として活動。 === アナウンサー === {{see|日本テレビのアナウンサー一覧}} == イベント == 日本テレビでは以下のように、[[汐留]]「日テレプラザ」(日テレタワー敷地内)および周辺にて年数回開催される総合イベントをはじめ、『ズームイン!!SUPER』などの番組主体のイベントも開催しているほか、[[ミュージカル]]や美術展などにも力を入れている。 また、ラジオ日本で放送している日本テレビ提供の番組『[[坂上みきのエンタメgo!go!]]』でもイベント情報を紹介している。 === 総合イベント === ; 毎年開催されているイベント * '''[[超☆汐留パラダイス!]]''' *: 毎年7月に日テレプラザで開催するイベント。2015年 - 。 ; 過去に開催されたイベント * '''GO!SHIODOME X'mas''' *: 「冬の汐博」の前身。2004年 - 2009年。 * '''GO!SHIODOME お正月''' *: 2004年 - 2006年の12月末 - 1月初めに日テレプラザで開催されたイベント。 * '''世界縁起のいいもの博覧会'''(2004年12月26日 - 2005年1月6日) *: ごくせん神社、移動屋台が展示された。 * '''春の日テレ祭 おフランスざ〜んす!'''(2005年3月19日 - 4月3日) *: スピードガンチャレンジや[[瑠璃の島|瑠璃のいえ]]、『[[歌スタ!!]]』の公開オーディションなどのイベントが開催された。 * '''[[日テレ系ecoウィーク]]'''(2004年 - 2012年) *: 毎年6月5日の[[世界環境デー]]を含む1週間に開催されたイベント。2004年 - 2009年、2012年は日テレプラザおよび周辺、2010年・2011年はSHIBUYA-AXで開催。 * '''[[7daysチャレンジTV]]''' *: 6月上旬に日テレプラザで1週間開催されたイベント。2013年 - 2014年。 * '''[[日テレ黄金週間]]''' *: 毎年[[ゴールデンウイーク]](4月下旬 - 5月上旬)に日テレプラザおよび周辺で開催されたイベント。2005年 - 2014年。 * '''[[GO!SHIODOMEジャンボリー]]''' *: 毎年夏(7月中旬 - 8月)に日テレプラザおよび周辺で開催されたイベント。2004年 - 2009年。 * '''[[汐博]]''' *: 毎年夏(7月中旬 - 8月)に日テレプラザおよび周辺で開催されたイベント。2010年 - 2014年。 * '''冬の汐博''' *: 毎年12月に日テレプラザで開催されたイベント。2010年 - 2014年。 * '''聖☆汐留パラダイス!''' *: 2015年12月に日テレプラザで開催されたイベント。 === その他の主催イベント === * ズームイン!!サタデー全国うまいもの博(不定期、日本各地の[[百貨店]]で開催) * [[丸美屋食品工業|丸美屋食品]]ミュージカル『[[アニー]]』(1986年 - ) * [[ディズニー・オン・アイス]](毎年夏から秋にかけて全国で開催) * [[日テレRESORT@seazoo]] : 毎年7月 - 8月に逗子海岸にオープンする[[海の家]]。期間中は日本テレビの各番組内でロケや中継が行われる。 * 汐留AXライブイベント * その他、[[東京都現代美術館]]や[[横浜美術館]]などで、日本テレビ主催の美術展が多数開催されている。過去には関東地区で開催される『[[トミカ博]]』の主催も担当したことがある。 == 映画製作 == ※は現在でも継続してシリーズ化されている映画 '''1970年代''' * [[ベルサイユのばら#実写版映画|ベルサイユのばら]] * [[ルパン三世#アニメ|ルパン三世シリーズ]] '''1980年代''' {{columns-list|3| * [[象物語]] * [[転校生 (映画)|転校生]] * [[誘拐報道]] * [[テラ戦士ΨBOY]] * [[アイドルを探せ (漫画)|アイドルを探せ]] * [[BU・SU]] * [[あぶない刑事#劇場映画|あぶない刑事シリーズ]] * [[敦煌 (映画)|敦煌]] * [[それいけ!アンパンマンのエピソード一覧#映画|それいけ!アンパンマンシリーズ]]※ * [[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]] }} '''1990年代''' {{columns-list|3| * [[天と地と#映画|天と地と]] * [[流転の海]] * [[おもひでぽろぽろ]] * [[遊びの時間は終らない]] * [[エンジェル 僕の歌は君の歌]] * [[紅の豚]] * [[学校 (映画)|学校シリーズ]] * [[スーパーマリオ 魔界帝国の女神]] * [[免許がない!]] * [[平成狸合戦ぽんぽこ]] * [[四十七人の刺客#映画|四十七人の刺客]] * [[家なき子 (1994年のテレビドラマ)#劇場版|家なき子]] * [[夜逃げ屋本舗#第3作『大夜逃 夜逃げ屋本舗3』|大夜逃 夜逃げ屋本舗3]] * [[耳をすませば]] * [[ガメラ#映画作品|ガメラ平成シリーズ3部作]] * [[Shall we ダンス?]] * [[名探偵コナン (アニメ)#劇場版シリーズ|劇場版名探偵コナンシリーズ]]※<ref group="注釈">開始当初はテレビシリーズの制作局である大阪の読売テレビのみが制作に参加していたが、2002年から日本テレビも制作に参加するようになった。</ref> * [[金田一少年の事件簿 (アニメ)#アニメ映画|金田一少年の事件簿シリーズ]] * [[香港大夜総会 タッチ&マギー]] * [[もののけ姫]] * [[金田一少年の事件簿 (堂本剛のテレビドラマ)#劇場版 金田一少年の事件簿 上海魚人伝説|金田一少年の事件簿 上海魚人伝説]] * [[卓球温泉]] * [[ホーホケキョ となりの山田くん]] * [[あぶない刑事フォーエヴァー]] }} '''2000年代前半''' {{columns-list|3| * [[回路 (映画)|回路]] * [[ナトゥ 踊る!ニンジャ伝説]] * [[サトラレ#映画|サトラレ]] * [[千と千尋の神隠し]] * [[犬夜叉 (アニメ)|犬夜叉シリーズ]] * [[明日があるさ (テレビドラマ)#劇場版|明日があるさ THE MOVIE]] * [[仄暗い水の底から#映画『仄暗い水の底から』(2002)|仄暗い水の底から]] * [[模倣犯 (小説)#映画|模倣犯]] * [[たそがれ清兵衛#映画|たそがれ清兵衛]] * [[猫の恩返し]] * [[魔界転生#2003年|魔界転生]] * [[茄子 アンダルシアの夏]] * [[天使の牙B.T.A.]] * [[赤い月#映画|赤い月]] * [[キューティーハニー (映画)|キューティーハニー]] * [[着信アリ#着信アリ|着信アリシリーズ]] * [[イノセンス]] * [[SURVIVE STYLE5+]] * [[ロード88 出会い路、四国へ]] * [[約三十の嘘]] * [[隠し剣 鬼の爪]] * [[ハウルの動く城]] }} '''2005年''' {{columns-list|3| * [[東京タワー (小説)#映画|Tokyo Tower]] * [[MAKOTO (映画)|MAKOTO]] * [[阿修羅城の瞳#映画|阿修羅城の瞳]] * [[戦国自衛隊1549]] * [[いらっしゃいませ、患者さま。]] * [[妖怪大戦争 (2005年の映画)|妖怪大戦争]] * [[逆境ナイン#映画|逆境ナイン]] * [[フライ,ダディ,フライ#映画|フライ,ダディ,フライ]] * [[メゾン・ド・ヒミコ]] * [[タッチ (漫画)#実写映画|タッチ]] * [[甲賀忍法帖#映画|SHINOBI -HEART UNDER BLADE-]] * [[まだまだあぶない刑事]] * [[ALWAYS 三丁目の夕日]] * [[ブラック・ジャック (テレビアニメ)#アニメ映画|ブラック・ジャック ふたりの黒い医者]] }} '''2006年''' {{columns-list|3| * [[小さき勇者たち〜ガメラ〜]] * [[かもめ食堂]] * [[デスノート (映画)|DEATH NOTE前後編]] * [[花田少年史 幽霊と秘密のトンネル]] * [[ラフ (漫画)#映画|ラフ ROUGH]] * [[LOFT ロフト]] * [[劇場版 どうぶつの森]] * [[ゲド戦記 (映画)|ゲド戦記]] }} '''2007年''' {{columns-list|3| * [[僕は妹に恋をする#映画|僕は妹に恋をする]] * [[愛の流刑地#映画|愛の流刑地]] * [[東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜 (映画)|東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜]] * [[俺は、君のためにこそ死ににいく]] * [[パッチギ! LOVE&PEACE]] * [[しゃべれども しゃべれども#映画|しゃべれども しゃべれども]] * [[舞妓Haaaan!!!]] * [[ピアノの森#劇場版映画|ピアノの森]] * [[めがね (映画)|めがね]] * [[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序]] * [[ALWAYS 続・三丁目の夕日]] * [[マリと子犬の物語]] }} '''2008年''' {{columns-list|3| * [[陰日向に咲く#映画|陰日向に咲く]] * [[L change the WorLd]] * [[死神の精度#映画|Sweet Rain 死神の精度]] * [[隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS]] * [[崖の上のポニョ]] * [[スカイ・クロラシリーズ#映画|スカイ・クロラ The Sky Crawlers]] * [[20世紀少年 (映画)|20世紀少年]]3部作 * [[252 生存者あり]] * [[K-20 怪人二十面相・伝]] }} '''2009年''' {{columns-list|3| * [[ヤッターマン (映画)|ヤッターマン]] * [[おっぱいバレー#映画|おっぱいバレー]] * [[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破]] * [[MW (漫画)#映画|MW-ムウ-]] * [[ごくせん THE MOVIE]] * [[サマーウォーズ]] * [[ヤッターマン (2008年のテレビアニメ)#派生映像作品|劇場版 ヤッターマン 新ヤッターメカ大集合!オモチャの国で大決戦だコロン!]] * [[賭博黙示録カイジ#カイジ 人生逆転ゲーム(第1作)|カイジ 人生逆転ゲーム]] * [[僕の初恋をキミに捧ぐ#映画|僕の初恋をキミに捧ぐ]] * [[なくもんか]] * [[ウルルの森の物語]] }} '''2010年''' {{columns-list|3| * [[グッドドリームズ#映画 (2010年)|BANDAGE]] * [[猿ロック#映画|猿ロック THE MOVIE]] * [[書道ガールズ!!わたしたちの甲子園]] * [[FLOWERS -フラワーズ-]] * [[借りぐらしのアリエッティ]] * [[明日やること ゴミ出し 愛想笑い 恋愛。]] * [[BECK (映画)|BECK]] * [[君に届け#映画|君に届け]] * [[インシテミル#映画|インシテミル 7日間のデス・ゲーム]] * [[ゴースト もういちど抱きしめたい]] }} '''2011年''' {{columns-list|3| * [[GANTZ (映画)|GANTZ]]前後編 * [[太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-]] * [[コクリコ坂から#アニメ映画|コクリコ坂から]] * [[DOG×POLICE 純白の絆]] * [[賭博黙示録カイジ#カイジ2 人生奪回ゲーム(第2作)|カイジ2 人生奪回ゲーム]] * [[怪物くん (テレビドラマ)#映画|映画 怪物くん]] }} '''2012年''' {{columns-list|3| * [[ALWAYS 三丁目の夕日'64]] * [[逆転裁判#映画|逆転裁判]] * [[ホタルノヒカリ (漫画)#映画|ホタルノヒカリ]] * [[おおかみこどもの雨と雪]] * [[桐島、部活やめるってよ#映画|桐島、部活やめるってよ]] * [[ひみつのアッコちゃん#実写映画|ひみつのアッコちゃん]] * [[ミューズの鏡|劇場版 ミューズの鏡 〜マイプリティドール〜]] * [[ツナグ#映画|ツナグ]] * [[009 RE:CYBORG]] * [[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q]] * [[私立バカレア高校|劇場版 私立バカレア高校]] * [[綱引いちゃった!]] * [[妖怪人間ベム (テレビドラマ)#映画|映画 妖怪人間ベム]] }} '''2013年''' {{columns-list|3| * [[HUNTER×HUNTER (2011年のアニメ)#劇場版|劇場版 HUNTER×HUNTERシリーズ]] * [[脳男#映画|脳男]] * [[藁の楯#映画版|藁の楯]] * [[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]] * [[NMB48 げいにん!#劇場版|NMB48 げいにん!THE MOVIEシリーズ]] * [[ガッチャマン (映画)|ガッチャマン]] * [[謝罪の王様]] * [[豪華3本立て!トミカ・プラレール映画まつり]] * [[潔く柔く#映画|潔く柔く]] * [[BADBOYS|劇場版 BAD BOYS J -最後に守るもの-]] * [[かぐや姫の物語]] * [[ルパン三世VS名探偵コナン THE MOVIE]] }} '''2014年''' {{columns-list|3| * [[仮面ティーチャー#映画|劇場版 仮面ティーチャー]] * [[魔女の宅急便#実写映画|魔女の宅急便]] * [[悪夢ちゃん#映画|悪夢ちゃん The 夢ovie]] * [[MONSTERZ モンスターズ]] * [[思い出のマーニー#アニメ映画|思い出のマーニー]] * [[宇宙兄弟#アニメ映画|宇宙兄弟#0]] * [[ホットロード#映画|ホットロード]] * [[近キョリ恋愛#映画|近キョリ恋愛]] * [[ささら さや#映画|トワイライト ささらさや]] * [[寄生獣 (映画)|寄生獣]] }} '''2015年''' {{columns-list|3| * [[ST 警視庁科学特捜班|映画 ST 赤と白の捜査ファイル]] * [[ジョーカー・ゲーム#映画|ジョーカー・ゲーム]] * [[花とアリス#花とアリス殺人事件|花とアリス殺人事件]] * [[風に立つライオン#映画|風に立つライオン]] * [[寄生獣 (映画)|寄生獣 完結編]] * [[イニシエーション・ラブ#映画|イニシエーション・ラブ]] * [[ストレイヤーズ・クロニクル#映画|ストレイヤーズ・クロニクル]] * [[バケモノの子]] * [[ヒロイン失格#映画|ヒロイン失格]] * [[俺物語!!#映画|俺物語!!]] * [[杉原千畝 スギハラチウネ]] }} '''2016年''' {{columns-list|3| * [[人生の約束]] * [[さらば あぶない刑事]] * [[黒崎くんの言いなりになんてならない#映画|黒崎くんの言いなりになんてならない]] * [[ちはやふる#映画|ちはやふる 上の句・下の句・結び]] * [[怪しい彼女#日本版|あやしい彼女]] * [[オオカミ少女と黒王子#実写映画|オオカミ少女と黒王子]] * [[MARS (漫画)#映画(日本版ドラマ)|MARS ~ただ、君を愛してる~]] * [[任侠野郎]] * [[雨女 (映画)|雨女]] * DOCUMENT OF KYOSUKE HIMURO“POSTSCRIPT” * [[HiGH&LOW〜THE STORY OF S.W.O.R.D.〜#映画|HiGH&LOWシリーズ]] * [[ルドルフとイッパイアッテナ#劇場アニメ|ルドルフとイッパイアッテナ]] * [[レッドタートル ある島の物語]] * [[真田十勇士 (マキノノゾミ)|真田十勇士]] * [[金メダル男]] * [[デスノート (映画)|デスノート Light up the NEW world]] * [[海賊とよばれた男#映画|海賊とよばれた男]] }} '''2017年''' {{columns-list|3| * [[一週間フレンズ。#映画|一週間フレンズ。]] * [[ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜]] * [[PとJK#映画|PとJK]] * [[THE LAST COP/ラストコップ#映画|LAST COP THE MOVIE]] * [[22年目の告白 -私が殺人犯です-]] * [[こどもつかい]] * [[兄に愛されすぎて困ってます#映画|兄に愛されすぎて困ってます]] * [[メアリと魔女の花]] * [[お前はまだグンマを知らない#映画|お前はまだグンマを知らない]] * [[トリガール!#映画|トリガール!]] * [[散歩する侵略者]] * [[斉木楠雄のΨ難#実写映画|斉木楠雄のΨ難]] * We Love Television? * [[鎌倉ものがたり#映画|DESTINY 鎌倉ものがたり]] }} '''2018年''' {{columns-list|3| * [[Infini-T Force#劇場版|劇場版Infini-T Force/ガッチャマン さらば友よ]] * [[ママレード・ボーイ#実写映画|ママレード・ボーイ]] * [[50回目のファースト・キス#リメイク作品|50回目のファーストキス]] * [[羊と鋼の森#映画|羊と鋼の森]] * [[未来のミライ]] * [[僕のヒーローアカデミア (アニメ)#劇場版|僕のヒーローアカデミア THE MOVIEシリーズ]]※ * [[ちいさな英雄-カニとタマゴと透明人間-]] * [[3D彼女#実写映画|3D彼女 リアルガール]] * [[億男#映画|億男]] * [[旅猫リポート#映画|旅猫リポート]] * [[かぞくいろ RAILWAYS わたしたちの出発]] * [[こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち#映画|こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話]] }} '''2019年''' {{columns-list|3| * [[十二人の死にたい子どもたち]] * [[シティーハンター (アニメ)#映画版|劇場版シティーハンターシリーズ]]※ * [[九月の恋と出会うまで#映画|九月の恋と出会うまで]] * [[PRINCE OF LEGEND]] * [[キングダム (漫画)#実写映画|キングダムシリーズ]]※ * [[居眠り磐音#映画|居眠り磐音]] * [[パラレルワールド・ラブストーリー#映画|パラレルワールド・ラブストーリー]] * [[町田くんの世界#映画|町田くんの世界]] * 女の機嫌の直し方 * [[ザ・ファブル#映画|ザ・ファブルシリーズ]]※ * [[Diner ダイナー (映画)|Diner ダイナー]] * [[アルキメデスの大戦#実写映画|アルキメデスの大戦]] * [[ドラゴンクエスト ユア・ストーリー]] * [[ブラック校則 (映画)|ブラック校則]] * [[ルパン三世 THE FIRST]] }} '''2020年''' {{columns-list|3| * [[賭博黙示録カイジ#映画|カイジ ファイナルゲーム]] * [[AI崩壊]] * [[貴族誕生 -PRINCE OF LEGEND-#映画|貴族誕生 -PRINCE OF LEGEND-]] * [[水曜日が消えた]] * [[今日から俺は!! (テレビドラマ)|今日から俺は!!劇場版]] * [[青くて痛くて脆い#映画|青くて痛くて脆い]] * [[小説の神様#映画|小説の神様 君としかかけない物語]] * [[ドクター・デスの遺産#映画|ドクター・デスの遺産-BLACK FILE-]] * [[新解釈・三國志]] }} '''2021年''' {{columns-list|3| * [[シン・エヴァンゲリオン劇場版]] * [[奥様は、取り扱い注意#映画|劇場版 奥様は、取り扱い注意]] * [[竜とそばかすの姫]] * [[そして、バトンは渡された#映画|そして、バトンは渡された]] * [[あなたの番です|あなたの番です 劇場版]] }} '''2022年''' {{columns-list|3| * [[ノイズ (2022年の映画)|ノイズ]] * [[鹿の王 ユナと約束の旅]] * [[極主夫道#実写映画|極主夫道 ザ・シネマ]] * [[メタモルフォーゼの縁側#映画|メタモルフォーゼの縁側]] * [[線は、僕を描く#映画|線は、僕を描く]] * [[転生したらスライムだった件 (アニメ)#劇場アニメ|劇場版 転生したらスライムだった件 紅蓮の絆編]] * [[かがみの孤城#劇場アニメ|かがみの孤城]] }} '''2023年''' {{columns-list|3| * [[金の国 水の国#劇場アニメ|金の国 水の国]] * [[ネメシス (テレビドラマ)#映画|映画ネメシス 黄金螺旋の謎]] * [[ゆとりですがなにか#映画|ゆとりですがなにか インターナショナル]] * [[愛にイナズマ]] * [[すみっコぐらし#映画|映画 すみっコぐらし ツギハギ工場のふしぎなコ]] * [[屋根裏のラジャー]] }} '''2024年''' {{columns-list|3| * [[君と世界が終わる日に#映画|劇場版 君と世界が終わる日に FINAL]] }} 日本テレビが製作・出資に関わる映画は、「[[製作委員会方式]]」による作品が主流である。準キー局の読売テレビ、親会社の読売新聞、基幹系列局の札幌テレビ・[[宮城テレビ放送|ミヤギテレビ]]・[[静岡第一テレビ]]・読売テレビ・中京テレビ・広島テレビ・福岡放送などが制作委員会に名を連ねている作品が多い。 == 歴代のキャッチコピー == * お茶の間のスター 日本テレビ(1970年代) * 1.2.3(ワン・ツー・スリー)!4(ヨン)チャンネルで楽しさ満開(1982年4月) * 読んでみる。4でみる。(1982年10月) * おもしろまじめに4チャンネル(1983年2月 - 1985年6月、[[小林完吾]]・[[徳光和夫]]) * [[活火山]]です。4チャンネル(1985年7月 - 1986年2月、[[三宅裕司]]) * 元気が大好き4チャンネル(1986年2月 - 4月) * わたしの好奇心4チャンネル(1987年4月 - 9月) * この春、プラス1(1988年4月) * ロマンリッチ4チャンネル(1988年10月 - 1989年9月) * 土、迫力。4チャンネル(1989年10月) * [[円周率|3.14]]倍(当社比)の春です。(1990年3月、[[中畑清]]) * 一秒ごとに、新製品です。(1990年4月) * ハートフルコミュニケーション。(1990年10月 - 1992年8月) * みんなのなかに、私はいます。(1992年8月 - 1993年12月、開局40周年)<ref group="注釈">青森放送など一部系列局でも使われた。</ref> * Virginから始めよう。(1994年1月 - 1995年3月) * それって、日テレ。(1995年4月 - 1996年7月)、この頃から日テレのキャッチフレーズを使うようになり、2003年6月末からCIロゴして正式に使うようになった<ref group="注釈">この代からCMの最後3秒に番組出演者や映画キャストがフレーズを言うようになった(途中で廃止され、2020年現在はその前の12秒とは別の番宣を3秒入れている)。</ref>。 * そんなあなたも、日テレちゃん。(1996年8月 - 1997年7月) * 日テレちゃんパワー(1997年8月 - 12月) * 日テレ営業中(1998年1月 - 1999年8月)<ref group="注釈">CMの最後5秒に番組出演者や映画キャストが「〇〇も日テレ営業中!」とフレーズを言っていた。これを生かして『[[ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!]]』で[[浜田雅功]]が罰ゲームを行ったことがある。</ref> * 日テレ式(1999年9月 - 2001年3月) * 日テレブランド?(2001年4月 - 2003年6月) * 日テレ(2003年7月 - 2004年1月) * &日テレ(2004年2月 - 2006年3月) * 放送の情報だけ、番組のカタチがある「日テレ」(2006年4月 - 2006年9月) * 日テレちん(2006年10月 - 2009年3月) * 日テレ<sup>55</sup>(GoGo)(2008年1月 - 2009年3月、開局55周年) * NITTELE SPRING(2009年4月1日 - 2009年4月30日) * 日テレ[[ダベア]](NITTELE DA BEAR)(2009年5月 - 2012年12月) * 0テレ Go!Next 60(2013年1月 - 2013年12月、開局60周年) * 見たい、が世界を変えていく。(2014年1月 - ) * 4月は0テレ系変〜わるよん!(2022年4月) * 超える。超え続ける。(2023年1月 - 、開局70周年) == ロゴマーク == === シンボルマーク・社章 === <gallery> Nippon_Televishon_Logo(1953-1977).png|「NTV」ロゴを丸い線で囲った物に日本テレビの初代ロゴ。 File:NTV Symbol 1978 (改訂版).png|1978年制定・使用開始の統一シンボルマーク。 </gallery> *かつては、「'''NTV'''」ロゴを、真丸な線で囲ったものが使われていた。 *1978年1月の制定時から使用されている[[シンボルマーク]]は、現在も単体で、社債のみに使われている。 === 社名ロゴ === === 製作著作クレジット === *1953年 **8月28日 - '''「日本テレビ」'''ロゴのみの表記。 *1978年 **1月 - 統一シンボルマーク・社章制定を機に、'''「[[File:NTV Symbol 1978 (改訂版).png|39px]]日本テレビ」'''に変更。1992年12月31日まで使われていた。単独制作クレジット表記にあたっては、1985年頃からこれまでの「製作」クレジット表記から「製作著作」クレジット表記に変更。 *1993年 **1月 - 開局40周年を機に、'''「(なんだろう) 日本テレビ」'''に変更。 *2003年 **7月 - [[コーポレートアイデンティティ|CI]]導入に伴い、ロゴマークを「[[File:NTV-logotype.svg|39px]]」に一新。 *2008年 **1月1日 - 開局55周年を機に、「'''日テレ<sup>55</sup>'''」に変更。2009年3月まで使われた。 *2013年 **1月1日 - 開局60周年を機に「'''0テレ'''」の下側に「Go! Next 60」に変更。12月8日まで使われており、12月9日以降は「'''0テレ'''」のみが残る。 *2018年 **1月1日 - 開局65周年を機に、「'''0テレ'''」下側に「'''65th Anniversary'''」に変更。2018年12月31日まで使われていた。 *2023年 **1月1日 - 開局70周年を機に、「'''0テレ'''(0を貫通する形で7が串刺しになる)」の下側に「'''NIPPON TV'''」、その下側に「'''70th Anniversary'''」に変更。2023年12月31日迄に使われていた。 == アパレルブランド == [[2022年]][[9月22日]]、[[郡司恭子]]アナ発案で、アパレルブランド「'''Audire'''」(アウディーレ)を立ち上げた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2022/10231100/?all=1|title=「郡司恭子アナ」の発案で日テレがアパレルブランド立ち上げ “ボーダーを超えろ”の社内事情とは|accessdate=2022-11-27|publisher=デイリー新潮}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://forbesjapan.com/articles/detail/53206/1/1/1|title=日テレ・郡司恭子 アパレルブランドの発案のきっかけは「キャリアの再認識」|accessdate=2023-01-05|publisher=Forbes}}</ref>。「Wear the Voice.」をブランドコンセプトに、服を通じて女性の生き方に関する発信を行っていく<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fashionsnap.com/article/2022-09-22/audire-wear-the-voice/|title=CEORYとパートナーシップ締結、日本テレビアナウンサーチームがアパレルブランド立ち上げ|accessdate=2023-01-12|publisher=Fashion Snap}}</ref>。 == 主なグループ会社 == * 日本テレビホールディングス株式会社 - 認定放送持株会社 * 株式会社BS日本 - BSデジタル放送局 * 株式会社シーエス日本 - 110度CSデジタル放送局 * 株式会社日テレ・テクニカル・リソーシズ(旧NTV映像センター・日本テレビビデオ) - 技術会社 * 株式会社日テレアックスオン(旧日本テレビビデオ・NTV映像センター・日本テレビエンタープライズ) - 制作会社 * 株式会社[[日テレイベンツ]](旧日本テレビエンタープライズ) - [[日テレ学院]]運営、イベント会社 * 株式会社[[日本テレビアート]] - 美術会社 * 株式会社[[日本テレビ音楽]] - [[音楽出版|音楽出版社]] * 株式会社バップ - [[レコード会社]] * 株式会社ティップネス - [[フィットネスクラブ]]運営会社 === 子会社 === * 株式会社日テレITプロデュース - 日本テレビグループ内におけるITインフラ・インテグレーション事業、業務アプリケーション開発事業、パッケージアプリケーション開発事業、ASPサービス/運用アウトソーシング事業 * 株式会社日本テレビサービス - 番組販売、グッズ販売([[日テレ屋]]、[[横浜アンパンマンこどもミュージアム]])、保険代理業、住宅展示場を運営 * 株式会社日本テレビワーク24 - 警備業、ビルメンテナンス、人材派遣業 * 株式会社フォアキャスト・コミュニケーションズ - webサイト・携帯サイト制作 * 株式会社[[日テレ7]]([[セブン&アイ・ホールディングス]]との合弁) - 通信販売業 * 株式会社[[日テレグループ企画]] - 地方制作プロダクションの経営指導業 * NTV America Company * NTV International Corporation * NTV Europe * 株式会社[[スタジオジブリ]] - アニメーション制作会社 * 株式会社[[マッドハウス]] - アニメーション制作会社 * 株式会社[[タツノコプロ]] - アニメーション制作会社 * 株式会社ムラヤマ * HJホールディングス合同会社 - コンテンツ配信事業 * 株式会社アール・エフ・ラジオ日本 - ラジオ中波放送局(非連結) * [[株式会社JCG]] - eスポーツイベント制作会社 * 株式会社ClaN Entertainment - VTuber事業<ref>{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000004.000100939.html |title=日本テレビのVTuber新会社「news every.」との連動企画、VTuberイベントの開催など4つの新プロジェクトを発表!|accessdate=2022-05-10|date=2022-05-09 |work=株式会社ClaN Entertainmentのプレスリリース |publisher=PR TIMES}}</ref> 他 === 関連会社 === * [[日活]]株式会社 - 映画企画・制作・配給 * 黒剣電視節目製作股份有限公司(黒剣テレビ番組制作株式会社) - 台湾・中国・東南アジア向けテレビ番組制作・販売 * JOCDN株式会社 - インターネットイニシアティブとの合弁、動画配信プラットフォームの提供 * 株式会社[[ビーグリー]] 他 === 出資会社 === * 株式会社[[読売文化センターユニオン|読売・日本テレビ文化センター]] * 株式会社[[テレビ埼玉]]([[埼玉県]]に次ぐ第2位株主) 他 === 財団法人 === * 財団法人[[読売日本交響楽団]] - 公演事業 * 財団法人[[日本テレビ小鳩文化事業団]] - 視聴覚障害者のための福祉事業、文化活動に関する各種展示・講演・出版 * 財団法人徳間記念アニメーション文化財団 - [[三鷹の森ジブリ美術館]]における展覧会事業の企画運営 なお、国が許可した[[債権回収業]](サービサー)の[[ニッテレ債権回収]]株式会社とは全くの無関係<ref>[http://nts-servicer.co.jp/faq.html ニッテレ・サービサー よくあるご質問]</ref>。 == スタジオ技術系協力会社 == * 株式会社[[ヌーベルバーグ (テレビ技術会社)|ヌーベルバーグ]] * 株式会社[[日放]] * 株式会社[[ジャパンテレビ]](通称:ジャパンさん) * ミジェット == 送信所・中継局 == === 本送信所 === [[ファイル:Tokyo Sky Tree & Ryomo (train).JPG|thumb|200px|現在の送信所である[[東京スカイツリー]]]] * 東京スカイツリー(東京都[[墨田区]][[押上]]1丁目1-13) === 予備送信所 === * 東京タワー(東京都港区[[芝公園]]1丁目2-8) ※2013年5月30日以前は[[新宿センタービル]](東京都新宿区[[西新宿]]1丁目25-1)が予備送信所として使われていた。 === 主な中継局 === 全145局の送信所が存在する。 <div style="float:left;vertical-align:top;white-space:nowrap;margin-right:1em;"> ; 東京都 * 新島 - 25ch * 伊豆大島 - 41ch * 八丈 - 30ch * 青梅沢井 - 25ch * 八王子 - 25ch * 新島本村 - 25ch * 八王子上恩方 - 35ch * 鶴川 - 36ch * 小仏城山 - 37ch ; [[茨城県]] * 水戸 - 14ch * 日立 - 14ch * 十王 - 38ch * 山方 - 34ch * 常陸鹿島 - 25ch * 日立神峰 - 25ch * 竜神平 - 41ch * 北茨城 - 14ch * 奥久慈男体 - 25ch * 大子 - 14ch * 里美 - 14ch * 御前山 - 25ch * 水府 - 14ch * 笠間 - 34ch * 岩瀬 - 25ch * 那珂湊 - 25ch </div> <div style="float:left;vertical-align:top;white-space:nowrap;margin-right:1em;"> ; [[栃木県]] * 宇都宮 - 34ch * 矢板 - 19ch * 足利 - 25ch * 今市 - 25ch * 馬頭 - 25ch * 日光清滝 - 36ch * 鹿沼 - 14ch * 足尾 - 37ch * 那須伊王野 - 25ch * 日光広久保 - 14ch * 黒羽中野内 - 25ch * 烏山神長 - 25ch * 南那須志鳥 - 25ch * 黒羽川上 - 33ch </div> <div style="float:left;vertical-align:top;white-space:nowrap;margin-right:1em;"> ; 群馬県 * 前橋 - 33ch * 沼田 - 25ch * 利根 - 25ch * 吾妻 - 14ch * 下仁田 - 25ch * 桐生 - 25ch * 草津 - 38ch * 片品 - 34ch * 川場 - 25ch * 沼田発知 - 14ch * 桐生梅田 - 33ch * 嬬恋田代 - 33ch * 沼田沼須 - 14ch * 倉渕 - 14ch * 妙義 - 14ch * 横川 - 25ch * 嬬恋干俣 - 25ch * 片品東小川 - 25ch * 子持小川原 - 14ch * 利根大原 - 25ch * 白沢 - 14ch * 松井田上増田 - 14ch </div> <div style="float:left;vertical-align:top;white-space:nowrap;margin-right:1em;"> ; [[埼玉県]] * 秩父 - 25ch * 小鹿野 - 55ch * 児玉 - 25ch * 鬼石 - 18ch * 秩父定峰 - 30ch * 秩父栃谷 - 30ch * 風布- 25ch * 飯能上赤工 - 33ch * 横瀬根古谷 - 30ch * 飯能原市場 - 33ch ; [[千葉県]] * 銚子 - 25ch * 東金 - 25ch * 大多喜 - 25ch * 君津 - 25ch * 長南 - 33ch * 市原加茂 - 33ch * 勝浦 - 25ch * 館山 - 25ch * 小見川 - 25ch * 佐原 - 25ch * 下総光 - 25ch * 丸山 - 33ch * 勝浦総野 - 33ch * 鴨川 - 44ch </div> <div style="float:left;vertical-align:top;white-space:nowrap;margin-right:1em;"> ; 神奈川県 * 平塚 - 25ch * 小田原 - 52ch * 南足柄 - 32ch * 湯河原 - 32ch * 愛川 - 32ch * 箱根湯本 - 32ch * 横須賀武 - 32ch * 相模湖 - 25ch * 仙石原 - 29ch * 山北 - 25ch * 津久井 - 29ch * 久里浜 - 32ch * 逗子 - 32ch * 秦野 - 32ch * 横須賀鴨居 - 29ch * 湯の沢 - 29ch * 笹下 - 25ch * 釜利谷 - 33ch * 秦野菩提 - 41ch * 中井 - 32ch * 戸塚 - 25ch * 鎌倉 - 32ch * 衣笠 - 32ch * 大船 - 32ch * 箱根強羅 - 29ch * 小田原東 - 52ch * みなとみらい - 52ch * 藤野 - 32ch </div> {{clear}} == アナログ放送概要 == 2011年7月24日終了時点 * 標準テレビジョン放送(地上アナログ放送):JOAX-TV(VHF4ch、映像171.25MHz/50kW、音声175.75MHz/12.5kW) * 標準テレビジョン音声多重放送:JOAX-TAM * 標準テレビジョン[[文字多重放送]]:JOAX-TCM 全97局の送信所が存在した。 <div style="float:left;vertical-align:top;white-space:nowrap;margin-right:1em;"> ; 東京都 * 大井町 - 70ch * 八王子 - 35ch * 多摩 - 51ch * 新島 - 54ch(垂直偏波) * 八丈島 - 4ch * 三宅島 - 4ch * 小笠原父島 - 53ch ; 茨城県 * 水戸 - 42ch(垂直偏波) * 鹿嶋 - 33ch * 日立 - 54ch * 高萩 - 53ch </div> <div style="float:left;vertical-align:top;white-space:nowrap;margin-right:1em;"> ; 栃木県 * 宇都宮 - 53ch<ref name="アナアナ変更実施前は25ch">アナアナ変更実施前は25ch</ref> * 日光 - 54ch * 矢板 - 36ch<ref name="アナアナ変更実施前は53ch">アナアナ変更実施前は53ch</ref> ; 群馬県 * 前橋 - 54ch * 富岡 - 53ch(垂直偏波) * 桐生 - 53ch * 沼田 - 53ch ; 埼玉県 * 児玉(熊谷・本庄) - 53ch<ref name="アナアナ変更実施前は25ch"/>(垂直偏波) * 秩父 - 16ch<ref name="アナアナ変更実施前は53ch"/> </div> <div style="float:left;vertical-align:top;white-space:nowrap;margin-right:1em;"> ; 千葉県 * 成田 - 53ch<ref name="アナアナ変更実施前は25ch"/> * 銚子 - 53ch * 香取佐原 - 54ch<ref>アナアナ変更実施前は26ch</ref> * 勝浦 - 53ch * 館山 - 54ch(垂直偏波) ; 神奈川県 * 山下町 - 71ch * [[横浜みなとみらい21|横浜みなと]] - 54ch * 久里浜 - 41ch(北方向は水平偏波・西方向は垂直偏波) * 平塚 - 35ch(垂直偏波) * 小田原 - 54ch * 湯河原 - 53ch </div> {{clear}} 70・71chは難視聴対策のための[[センチメートル波|SHF]]放送。 == 区域外再放送 == 長野県・静岡県の各一部地域のCATV事業者は各県に系列局はあるものの激変緩和措置として、[[区域外再放送]]をアナログ放送終了後3年間(2014年7月24日まで)を限度として実施していた。山梨県郡内地方のCATV事業者でも、アナログ放送時代にはその終了までアナログ放送でのみ実施していた。なお、激変緩和措置の期間満了後は個別協議により次の通り継続実施していたが、2018年9月30日をもって当局を区域外再放送するケーブルテレビ局は無くなった。 静岡県 * 2014年9月30日まで ** [[東伊豆有線テレビ放送]] ** [[下田有線テレビ放送]] ** [[小林テレビ設備]] * 2015年2月25日まで ** [[伊豆急ケーブルネットワーク]](東伊豆地区) * 2018年9月30日まで ** 伊豆急ケーブルネットワーク(熱海、伊東地区) ** [[東豆有線]] ** [[伊東テレビクラブ]] == 情報カメラ設置ポイント == '''現在''' * '''東京都 ''' ** 汐留(本社屋上鉄塔) ** [[東京国際空港|羽田空港]] *** 第1ターミナル([[日本航空|JAL]]機などが駐機) - 2010年以降、第3ターミナルを撮影する際もこちらが用いられる。 *** 第2ターミナル([[全日本空輸|ANA]]機などが駐機)<ref name="名前なし-1">日テレNEWSのYouTubeにて、当所からの映像が配信されている。</ref> ** [[丸の内]](丸の内三井ビルディング) ** [[東京駅]]([[東京国際フォーラム]]) - 以前はその隣にある[[東京ビルディング (丸の内)|東京ビル]]旧建物(現:[[TOKIA|東京ビルTOKIA]])などに設置<ref>日テレNEWSのYouTubeにて、2021年7月ごろより当所からの映像が配信されている。</ref>。 ** [[渋谷]]([[渋谷スクランブル交差点]])<ref name="名前なし-1"/> ** [[浅草]]([[浅草ビューホテル]]屋上) ** 東京スカイツリー(第一展望台付近・地上375m地点) ** [[中央自動車道]][[八王子インターチェンジ|八王子IC]]付近<ref>不定期に、日テレNEWSのYouTubeにて、当所からの映像が配信されることがある。</ref> ** [[上野恩賜公園]]・[[不忍池]](春季限定) ** [[東京サマーランド]](夏季限定) ** [[八丈島]](台風接近時) ** [[三宅島]] * '''神奈川県''' ** [[藤沢市]][[江の島]]・[[片瀬海岸]](江の島ビュータワー) ** [[小田原市]] ** [[鎌倉市]] ** [[三浦海岸]] * '''千葉県 ''' ** [[成田国際空港|成田空港]] ** [[館山市]] ** [[鴨川シーワールド]] ** [[銚子市]] * '''群馬県''' ** [[館林市]]・[[つつじが岡公園]](春季限定) ** [[草津町]]・[[草津温泉スキー場]](冬季限定) ** [[みなかみ町]](水上高原ホテル200屋上、秋季限定)<ref>[https://www.minakamikogen200.jp/blog/%e3%83%9b%e3%83%86%e3%83%ab%e3%81%8b%e3%82%89%e3%81%ae%e3%81%8a%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%81%9b/2914 今年も設置完了!屋上からの紅葉がテレビでも見れちゃう! | 水上高原のゆかいな仲間たち]</ref> * '''茨城県 ''' ** [[東海村]] * '''沖縄県''' ** [[那覇空港]](国内線旅客ターミナルビル、台風接近時) '''過去に設置''' * 麹町(旧本社・旧麹町分室屋上鉄塔)、[[東京湾アクアライン]]([[海ほたるパーキングエリア]])、[[大磯ロングビーチ]]([[プリンスホテル|大磯プリンスホテル]]屋上、夏季限定)、[[築地]]([[聖路加ガーデン]])、[[代々木]]([[NTTドコモ代々木ビル]]、2016年 - 2021年<ref group="注釈">現・[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場|国立競技場]]着工時から[[2020年東京オリンピック|2020東京オリンピック]]・[[2020年東京パラリンピック|パラリンピック]]終了まで</ref>)、横浜市(ホテルモントレ横浜<ref group="注釈">旧ザ・ホテルヨコハマ→ザ・ヨコハマノボテル</ref>)など == 不祥事・事件・トラブル == * [[日本テレビ郵便爆弾事件|郵便爆弾事件]] * [[日本テレビ視聴率買収事件|視聴率買収事件]] * [[真相報道 バンキシャ!#岐阜県庁裏金誤報事件|岐阜県庁裏金誤報事件]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[日本テレビ系列]] ** [[日本ニュースネットワーク]](NNN) ** [[日本テレビネットワーク協議会]](NNS) * [[NBC]] * [[帝京大学]] - かつての株主であった大学。 == 外部リンク == {{Commonscat}} * [https://www.ntv.co.jp/ 日本テレビ 公式サイト] * [https://www.ntv.co.jp/ntvlive/ 日テレ系リアルタイム配信|日本テレビ] * [https://tver.jp/live/ntv 日テレ リアルタイム配信 | TVer] * [https://web.archive.org/web/19970418233349/http://www.ntv.co.jp/over/history/ 日本テレビ40年史] ** [https://web.archive.org/web/19980208052531/http://www.ntv.co.jp/over/history/table50.html 1950年代] / [https://web.archive.org/web/19980208052547/http://www.ntv.co.jp/over/history/table60.html 1960年代] / [https://web.archive.org/web/19980208052600/http://www.ntv.co.jp/over/history/table70.html 1970年代] / [https://web.archive.org/web/19980208052613/http://www.ntv.co.jp/over/history/table80.html 1980年代] / [https://web.archive.org/web/19980208052627/http://www.ntv.co.jp/over/history/table90.html 1990年代] {{日本テレビ放送網}} {{NNN・NNS}} {{キー局}} {{Tv-kanto}} {{読売新聞グループ本社}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:にほんてれひほうそうもう}} [[Category:日本テレビ放送網|!]] [[Category:衛星一般放送事業者|終 にほんてれひほうそうもう]] [[Category:日本テレビ系列|*0]] [[Category:日本民間放送連盟会員|13にほんてれひほうそうもう]] [[Category:読売グループ]] [[Category:箱根駅伝]] [[Category:汐留]] [[Category:麹町]] [[Category:菊池寛賞受賞者]] [[Category:関東地方のテレビ局]] [[Category:アニメに関係する企業]] [[Category:東京都のマスメディア]]
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茄子 (漫画)
茄子(なす)とは黒田硫黄の漫画作品である。講談社『月刊アフタヌーン』2000年11月号から2002年10月号にかけて連載された。単行本全3巻。 茄子を共通の話題とするオムニバス短編集。田舎や都会を舞台とする現代劇から、ヨーロッパの自転車レース(ロードレース)、近未来SF、時代劇と幅広いジャンルを扱う。第1巻に収録されている「アンダルシアの夏」は高坂希太郎監督によってアニメ映画化され、2003年夏に『茄子 アンダルシアの夏』として発表、カンヌ映画祭監督週間にも出品された。また続編として第3巻に収録されている「スーツケースの渡り鳥」が『茄子 スーツケースの渡り鳥』として同監督によって2007年秋にOVA化されている。2009年には、「新装版 上下巻」が発売された。 多数の人物が登場するが、ここでは複数の話に登場する人物を解説する。 カッコ内はその回の主要登場人物、ないし作品の舞台設定。
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茄子(なす)とは黒田硫黄の漫画作品である。講談社『月刊アフタヌーン』2000年11月号から2002年10月号にかけて連載された。単行本全3巻。 茄子を共通の話題とするオムニバス短編集。田舎や都会を舞台とする現代劇から、ヨーロッパの自転車レース(ロードレース)、近未来SF、時代劇と幅広いジャンルを扱う。第1巻に収録されている「アンダルシアの夏」は高坂希太郎監督によってアニメ映画化され、2003年夏に『茄子 アンダルシアの夏』として発表、カンヌ映画祭監督週間にも出品された。また続編として第3巻に収録されている「スーツケースの渡り鳥」が『茄子 スーツケースの渡り鳥』として同監督によって2007年秋にOVA化されている。2009年には、「新装版 上下巻」が発売された。
'''茄子'''(なす)とは[[黒田硫黄]]の[[漫画]]作品である。[[講談社]]『[[月刊アフタヌーン]]』[[2000年]]11月号から[[2002年]]10月号にかけて連載された。単行本全3巻。 [[ナス|茄子]]を共通の話題とする[[オムニバス]]短編集。田舎や都会を舞台とする現代劇から、ヨーロッパの自転車レース([[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]])、近未来[[サイエンス・フィクション|SF]]、[[時代劇]]と幅広いジャンルを扱う。第1巻に収録されている「アンダルシアの夏」は[[高坂希太郎]]監督によってアニメ映画化され、[[2003年]]夏に『[[茄子 アンダルシアの夏]]』として発表、[[カンヌ映画祭]]監督週間にも出品された。また続編として第3巻に収録されている「スーツケースの渡り鳥」が『[[茄子 スーツケースの渡り鳥]]』として同監督によって[[2007年]]秋に[[OVA]]化されている。[[2009年]]には、「新装版 上下巻」が発売された。 == 登場人物 == 多数の人物が登場するが、ここでは複数の話に登場する人物を解説する。 ;高間(たかま) :田舎(おそらくは[[岩手県]][[八幡平市]]周辺)に隠遁し農家を営む一人暮らしの中年男性。英語の原書を読むなどかなりのインテリで周囲の農家から「センセー」と呼ばれている。 ;大西(おおにし) :若い頃から高間と付き合いのある中年女性。一日3時間ほどしか眠ることが出来ず、「ここに来るとよく眠れる」と言って時折高間の家にやってくる。会計事務所社長。 ;高橋 綾(たかはし あや) :女子高生。親の会社が倒産し生活苦に見舞われる。借金取りから逃れるため高間の近所にある親戚の家に引っ越してくる。 ;松浦(まつうら) :高間の高校時代の同級生。久しぶりに会った高間に「宝探しをしている」と語る。高間同様友人達を馬鹿だと思っている。 ;桑原(くわはら) :高橋の同級生。ことわざをロックに応用できないかなどと考える。自分のことを「カッコイイ」と言うなど自己中心的な性格。 ;国重(くにしげ) :高校卒業後、進学も就職もせず過ごしている女性。偶然出会った有野と意気投合し、川原でキャッチボールをするようになる。 ;有野(ありの) :国重の同級生で、国重から「肌のきれいな男の子」と言われる。朝が起きられなくて仕事を辞めてしまった。若隠居がしたいと口癖のように言っている。 ;ペペ・ベネンヘリ :スペインの自転車レーサー。兵役に就いている間に兄・アンヘルに恋人を取られてしまった。 == 各話サブタイトル == カッコ内はその回の主要登場人物、ないし作品の舞台設定。 === 第1巻 === *3人(高間) *2人(高間、大西) *空中菜園(高橋) *アンダルシアの夏(ぺぺ) *4人(高間、松浦) *ランチボックス(国重、有野) === 第2巻 === *39人(高橋、高間) *東都早もの喰(江戸時代) *残暑見舞い(高橋) *お引越し(国重、有野) *焼き茄子にビール(現代日本、新婚家庭) *電光石火(高橋、桑原) === 第3巻 === *富士山の戦い(近未来SF、富士山山頂) *いい日(高間、大西、松浦) *茄子の旅(現代日本、トラック運転手) *一人(高間) *考える人(有野、国重) *スーツケースの渡り鳥(ぺぺ) *夏が来る(高間、大西、高橋、桑原) === 新装版 上巻 === *3人(高間) *2人(高間、大西) *空中菜園(高橋) *アンダルシアの夏(ぺぺ) *4人(高間、松浦) *ランチボックス(国重、有野) *39人(高橋、高間) *東都早もの喰(江戸時代) === 新装版 下巻 === *富士山の戦い(近未来SF、富士山山頂) *残暑見舞い(高橋) *お引っ越し(国重、有野) *焼き茄子にビール(現代日本、新婚家庭) *電光石火(高橋、桑原) *いい日(高間、大西、松浦) *茄子の旅(現代日本、トラック運転手) *一人(高間) *考える人(有野、国重) *スーツケースの渡り鳥(ぺぺ) *夏が来る(高間、大西、高橋、桑原) *As time goes by(追加された新作) [[Category:漫画作品 な|す]] [[Category:月刊アフタヌーン|なす]]
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哺乳類
哺乳類(ほにゅうるい、英語: mammal, [ˈmæm(ə)l]、 学名:Mammalia)は、哺乳形類に属する脊椎動物の一群である。分類階級は普通綱に置かれ、哺乳綱(ほにゅうこう)とされる。 ほ乳類と表記されることもある。 基本的に有性生殖を行い、現存する多くの種が胎生で、乳で子を育てるのが特徴である。ヒト Homo sapiens を含む分類群で、ヒトは哺乳綱の中の霊長目ヒト科ヒト属に分類される。 哺乳類に属する動物の種の数は、研究者によって変動するが、現生種は5,416種~6,495種(最近絶滅した96種を含む)とされ、脊索動物門の約10%、広義の動物界の約0.4%にあたる。 日本およびその近海には、外来種も含め、約170種が生息する(日本の哺乳類一覧を参照)。 Mammalia(哺乳類)という言葉は、1758年、カール・フォン・リンネによる『自然の体系』第10版においてはじめて用いられた。リンネは1735年の『自然の体系』初版では哺乳類を「四足綱 Quadrupedia」としていたが、ヒトを四足動物に入れたことで自然主義者たちから批判を受けた。リンネはこれを受けて「ヒトがもともと四つん這いで歩いていなかったとしても、女性から生まれるヒトは母乳で成長することは認めざるを得ないだろう」と、第10版では雌の乳房 (female mammae) をその象徴として、ラテン語の「乳房の mammae」に由来する「哺乳類 Mammalia」とした。今日では、哺乳類の定義を乳腺(mammary gland)を持つこととし、これは乳汁を分泌しない雄や乳頭を持たない単孔類にもうまく当てはまる。 「哺乳類」は、ドイツ語の Säugetiere の訳である。saugen(母乳を飲む)と Tier(動物)に由来している。「哺」は、口でとる(捕)、あるいは口でささえる(輔)という字の成り立ちから、口にふくむ、食らうことを表すが、食物を与える意味ともなる。よって、「哺乳」とは乳を飲ませて育てることを意味する。 哺乳類の起源は古く、既に三畳紀後期の2億2500万年前には、最初の哺乳類といわれるアデロバシレウスが生息していた。そのルーツは、古生代に繁栄した単弓類のうち、キノドン類である。単弓類は両生類から派生した有羊膜類の子孫の一つである。有羊膜類は単弓類と竜弓類(後に爬虫類が出現した系統を包括する)とに石炭紀後期に分岐し、以降、単弓類は独自の進化をしていた。単弓類は、ペルム紀末の大量絶滅において壊滅的なダメージを受け、キノドン類などごくわずかな系統のみが三畳紀まで生き延びている。一時期再び勢力を挽回するものの、既に主竜類などの勢力も伸長し単弓類は地上の覇者ではなくなっていた。そして、三畳紀後期初頭の大絶滅を哺乳類とともに生き延びたのは、トリティロドン科のみであった。しかし彼らも白亜紀前期には姿を消している。また、同じく三畳紀には、すでに哺乳類の他のものから分岐する形で単孔目が出現している。単孔目は現存するが、これは卵生であることや総排出腔をもつことなどほかの哺乳類とは大きく異なる構造を持ち、もっとも原始的な哺乳類の形をとどめているとされる。 酸素濃度35%のペルム紀以降は、リグニンの分解能を獲得した菌類による木材の分解により酸素濃度が徐々に低下し、ジュラ紀後期の2億年前には酸素濃度は12%まで低下した。気嚢は、横隔膜方式よりも効率的に酸素を摂取できる機能がある。低酸素下でもその機能を維持できる気嚢を有した一部の双弓類(爬虫類)は繁栄することができた。一方で哺乳類の祖先である単弓類は低酸素環境下でその種の大部分が絶滅することとなった。哺乳類の肺機能は、酸素分圧0.1気圧以下で呼吸困難になり、酸素分圧0.8気圧以上で肺の組織が酸化される。 恐竜の全盛時代であるジュラ紀、白亜紀の哺乳類はネズミほどの大きさのものが多かった。しかし進化が停滞していたわけではない。白亜紀前期には、それまでの有袋類から分岐してすでに有胎盤類が登場している。また、中国から発見された大型の哺乳類の化石から未消化の恐竜の子供が見つかっている。これは、レペノマムスやデルタデリジウムのように哺乳類が恐竜を捕食していた例もあったことを意味している。 恐竜を含む主竜類が繁栄を極めた時代には、哺乳類は、夜の世界など主竜類の活動が及ばない時間・場所などのニッチに生活していた。魚類、両生類、爬虫類、鳥類には4タイプの錐体細胞を持つものが多い。現在、鳥類などに比して哺乳類の視覚が全般的に劣っているのも、この長い夜行生活を経て大部分の哺乳類の視覚が2色型色覚に退化したためと考えられている。約6400万年前、鳥類とワニ類を除く主竜類が絶滅し、次の新生代では、その空白を埋めるように哺乳類は爆発的に放散進化し、多種多様な種が現れて地上でもっとも繁栄した種となった。 現在では地中や水中などを含め、地球上のほとんどの環境に、哺乳類が生息している。 ┌────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────┘ ※単弓類の系統は哺乳類以外は全て絶滅した。 ※哺乳類は、従来は後述する顎関節の特徴で定義されてきた。しかし近年、中間的な化石が出現するなどこの定義が適用できない場合が増えたため、現生種を含む最も小さい単系統となるよう、系統学的に厳密に再定義することが多くなった。これにより、梁歯目、モルガヌコドン目などの原始的なものが哺乳類から外れることになる。それらを含めた従来の広い意味での哺乳類を、哺乳形類という。 これらは化石では確認しにくいが、近年では少しずつ研究が進められている。 次の特徴は「哺乳類の特徴」と言われることがあるが、正しくは、あくまで一部の系統の特徴である。 哺乳類の歯は一般的に、それぞれ別の機能を持つ形状を取っており、切歯(門歯)・犬歯・前臼歯(小臼歯)・臼歯(大臼歯)の4種類に分化している。真獣類の基本数はイノシシに見られる片顎あたり切歯3・犬歯1・前臼歯4・臼歯3だが、これが揃っている種は少なく食性により歯の退化したものや、ハクジラ類のように同形歯をもつものもある。両生類や爬虫類は同形歯であり、鳥類は歯をもたない。 頬歯(前臼歯と臼歯)は、歯冠に咬頭と呼ばれるふくらみを複数もち、複雑な形をしている。また、頬歯の歯根は2本以上に分岐している。 脊椎動物の色覚は、網膜の中にどのタイプの錐体細胞を持つかによって決まる。魚類、両生類、爬虫類、鳥類には4タイプの錐体細胞(4色型色覚)を持つものが多い。よってこれらの生物は、長波長域から短波長域である近紫外線までを認識できるものと考えられている。一方ほとんどの哺乳類は錐体細胞を2タイプ(2色型色覚)しか持たない。哺乳類の祖先である爬虫類は4タイプ全ての錐体細胞を持っていたが、2億2500万年前には、最初の哺乳類と言われるアデロバシレウスが生息し始め、初期の哺乳類は主に夜行性であったため、色覚は生存に必須ではなかった。結果、4タイプのうち2タイプの錐体細胞を失い、青を中心に感知するS錐体と赤を中心に感知するL錐体の2錐体のみを保有するに至った。これは赤と緑を十分に区別できないいわゆる「赤緑色盲」の状態である。この色覚が哺乳類の子孫に遺伝的に受け継がれることとなった。 霊長類直鼻猿亜目は、メガネザル下目と真猿下目に分岐する。この分岐の際に真猿下目のX染色体に位置する錐体視物質に関連した色覚の多型が顕著になり、ヘテロ接合体の2本のX染色体を持つメスに限定した3色型色覚の再獲得につながり、さらに狭鼻下目のオスを含めた種全体の3色型色覚の再獲得へとつながることとなる。真猿下目の狭鼻下目(旧世界ザル)と広鼻下目(新世界ザル)とが分岐したのは3000-4000万年前と言われている。ヒトを含む旧世界の霊長類狭鼻下目の祖先は、約3000万年前、性染色体であるX染色体に位置している赤を中心に感知するL錐体から変異した緑を中心に感知する新たなタイプの錐体(M錐体)視物質の遺伝子が出現し、ヘテロ接合体の2本のX染色体を持つメスのみが3色型色覚を有するようになり、さらにヘテロ接合体のメスにおいて相同組換えによる遺伝子重複の変異を起こして同一のX染色体上に2タイプの錐体視物質の遺伝子が保持されることとなりX染色体を1本しか持たないオスも3色型色覚を有するようになった。これによって、第3の錐体細胞が「再生」された。3色型色覚はビタミンCを多く含む色鮮やかな果実等の発見と生存の維持に有利だったと考えられる。 なお、時代を下ってヒトの色覚に鑑みるに、ヒトが属する狭鼻下目のマカクザルに色盲がヒトよりも非常に少ないことを考慮すると、ヒトの祖先が狩猟生活をするようになり3色型色覚の優位性が低くなり、2色型色覚の淘汰圧が下がったと考えられる。広鼻下目のヨザルは1色型色覚でありホエザルは狭鼻下目と同様に3色型色覚を再獲得しているが、これらを除き残りの新世界ザル(広鼻下目)はヘテロ接合体のX染色体を2本持つメスのみが3色型色覚を有し、オスは全て色盲である。これは狭鼻下目のようなX染色体上での相同組換えによる遺伝子重複の変異を起こさなかったためである。ヒトは上記のような霊長目狭鼻下目の祖先のX染色体の遺伝子変異を受け継いでいるため、M錐体を欠損したX染色体に関連する赤緑色盲が伴性劣性遺伝をする。男性ではX染色体の赤緑色盲の遺伝子を受け継いでいると色盲が発現し、女性では2本のX染色体とも赤緑色盲の遺伝子を受け継いでいる場合に色盲が発現する。なお、日本人では男性の4.50%、女性の0.165%が先天赤緑色覚異常で、白人男性では約8%が先天赤緑色覚異常であるとされる。 その他の哺乳類の2色型色覚の例外として、最近の研究では、有袋類には3色型色覚が広がっている可能性がある。有袋類のうちフクロネコ、ポッサムで3色覚が認められている。 鰭脚類とクジラ類は1色型色覚である。 従来の分類体系では現生哺乳類を原獣亜綱(Ptorotheria)と獣亜綱(Theria)の2亜綱とする分類が用いられており、以下の解説も伝統的な体系に基づいている。一方で現生群を南楔歯亜綱(アウストラロトリボスフェニック亜綱 Australosphenida)と北楔歯亜綱(ボレオトリボスフェニック亜綱 Boreosphenida)の2亜綱に分ける説も提唱されている。南楔歯類には単孔類と、絶滅したアウスクトリボスフェノス目Ausktribosphenidaが含まれる。北楔歯類は摩楔歯類(トリボスフェニダ類 Tribosphenida)と同義とされることがあり、獣類(有胎盤類と有袋類)は北楔歯類または摩楔歯類に含められる。摩楔歯類を絶滅群である異獣類などとともに獣型亜綱(Theriiformes)としてまとめる分類が提唱されたこともある。 現生の哺乳類は以下のように分岐したと考えられている。なお、獣亜綱と単孔類が分岐したのは約1億8000万年前、有袋類と有胎盤類が分岐したのは約1億4000万年前である。 赤で表記した近蹄類の分岐のみ白亜紀と古第3紀の境界にあたる6600万年前より後である。 上記の系統樹の凡例: 上記の系統樹に対して生物学者の間でどの程度合意が取れているかは、系統樹の分岐箇所により異なるが、最初の の部分に関しては、多くの化石の証拠と分子系統解析の結果から合意が取れている。 哺乳類 - 獣亜綱の下にあたる有胎盤類内の系統が という3つに分かれる事は概ね合意されている。 なお、この3つの系統はパンゲア大陸の分裂と密接に関係している事が強く示唆されており、実際パンゲア大陸の分裂により誕生したアフリカ大陸、南アメリカ大陸、ローラシア大陸に対応する地域にアフリカ獣類、異節類、北方獣類がそれぞれ分布する。 しかしこれらの大陸の分裂の順番と年代は、分子系統解析が明らかにするアフリカ獣類、異節類、北方獣類の分岐の順番と年代とは異なっている。まず順番に関して言えば分子系統解析はこれら3つの系統がほぼ同時期に分岐した事を示唆する。 また時期に関しても、アフリカ大陸と南アメリカ大陸の分岐の時期がおよそ1億500万年前だとされているのに対し、これら3系統の分岐はおよそ8800〜9000万年前と推定されており、両者の年代は大きく異なっている。もちろん分子系統解析は(分岐が何世代前に起こったかはある程度推測できるものの)分岐が起こった年代を直接推定できるわけではなく、年代の推定には仮定をいくつも重ねなければならないという事情はあるが、2010年以降の研究は大陸の分裂よりも3系統の分岐のほうがはっきりと後に起こったとする傾向がある。 こうした差がある原因は、大陸は分裂後も距離的に近くにあった為、しばらくは動物相の交流が可能であった為と考えられる。実際、陸地が分裂状態にあっても海を渡った漂流が居住地域を拡大したと考えられる例は(パンゲア大陸の分裂以外で)いくつか存在し、このような推定を傍証する。 なお上記3系統はほぼ同時期に分岐したので、これらのうちどれが最初に分岐したのかに関する合意は2017年現在存在しない。すなわち、下記の3つのいずれの分類が正しいのか決着がついていない: 形態学的な研究はかなりの部分3.を支持するものの、ほとんどの分子系統解析は1.か2.を支持する。 決着がつかない原因は、(おそらくはパンゲア大陸やゴンドワナ大陸の分裂に伴う連続的で急速な発散によって)上記3系統の遺伝子があまりに大きくかけ離れているため分子系統解析で3系統の関係を探るのが容易ではないからである。 アフリカ獣類に属する系統群は、海へ進出した海獣類を除き、2000万年前まで遡るとアフリカ大陸、マダガスカル、アラビア半島といったアフリカ周辺に限られるため、その名がつけられた。アフリカ獣類は大きく2つの系統に分かれており、それぞれアフリカ食虫類、近蹄類と呼ばれる。 北方真獣類は のように分岐するが、真主齧類内部の分岐、およびローラシア獣類内部の分岐は2017年現在未確定な部分が多い。 真主齧類はグリレス類(Glires、ネズミ目、ウサギ目)と真主獣類(Euarchonta、霊長目、齧歯目、ヒヨケザル目、ツパイ目)に系統分類できるとされるものの、真主齧類内の目の系統関係は2013年現在曖昧なままである。特にツパイ目の位置づけの決定は2017年現在でも難しい。ツパイ目が霊長目やヒヨケザル目の姉妹群となる研究成果がある一方、グリレス類の姉妹群とする成果や、真主齧類で最も祖先的だとする成果もあり、後者2つのいずれかが正しいとすれば、真主獣類という系統は否定されることになる。 なお歴史的には真主齧類に翼手目を加えたものを「主齧類」と呼んでいたが、分子系統解析により翼手目は別系統であることが分かったので、主齧類から翼手目を除いたものを「真主齧類」と名付けた。 ローラシア獣類内の目の系統関係の確立は難しく、2017年現在確立されているのは、真無盲腸目が最も早期に分岐したことと、食肉目と鱗甲目が姉妹群であることだけである。ローラシア獣類内における奇蹄目の位置づけの決定は特に難しい。 なお、翼手目、奇蹄目、鱗甲目、食肉目の4つを総称してペガサス野獣類と呼ぶ事がレトロトランスポゾンの解析から提案されたが、その後の分子系統解析の研究で否定されている。 有袋類は系統樹に挙げた7つの目からなっており、20世紀にはこれら7つを の2つに分類していたが、21世紀における分子系統解析の研究はこの2つの分類を否定している。 日本では明治維新以来、目名には「齧歯目」「霊長目」等、原名のラテン語をおおむね忠実に漢訳した漢名が用いられてきた(一般にはしばしば、「齧歯類」「霊長類」のように「類」が慣用されてきた)。だが、1988年文部省の『学術用語集 動物学編』において、目以下の名称をすべてカナ書きにし、目名は「ネズミ目」「サル目」のように、それぞれの動物群を代表する動物名(カナ書き)に変えるという改定がなされた。 しかし、たとえば「ネコ目」(食肉目)のネコ亜目とアシカ亜目、イヌ上科とネコ上科のように、亜目、上科のような比較的高い階層の分類階級による動物群は、それぞれ他のグループとは明らかに異なる特有の性質をもつものであり、1つの下位分類群の名前(「ネコ」)によって、目という大きなグループの全体(ネコ・イヌ・イタチ・クマ・アライグマ・パンダ・アシカ・アザラシ・セイウチなどからなる食肉目)を代表させることは、必ずしも直観的な分かりやすさには繋がらない。 さらに、近年の研究により、偶蹄目とクジラ目の詳細な系統が明らかにされ、「鯨偶蹄目」が創設された。これをカナ書きの原則に当てはめると「クジラウシ目」となる。また、「サル目ヒト科」は教科書にも全く採用されていない。 また、以前からの慣用として、どの分類階級であるかにかかわらず、「○○の仲間」を「○○類」と書くことがあるが、かつての漢名ならば、例えば「齧歯類」と言えば、それが「目」の階層の「齧歯目」を指すことは明らかであり、他の階層との混同のおそれは無かった。それが、「齧歯目」が「ネズミ目」となることによって、「ネズミ類」という言葉が示す可能性のある階層の範囲が目のレベルにまで広がり、混乱が拡大されたという側面もある。つまり、旧来の用例ならば、例えば「齧歯類」にネズミの類とリスの類、ヤマアラシの類が含まれることは容易に認識できるが、新しい用例で「ネズミ類」とした場合、これが狭義のネズミ類なのか、リスやヤマアラシの類をも含んだ概念なのかが把握しにくくなってしまっている。 この分類名の改定は、分類学の根本理念に対して充分に配慮した上でのものではなく、また平易化にむしろ逆行する部分もあることから、学界内でも現在なお議論が多い。現状では、旧来の漢名をそのまま用いたり、新しいカナ名と併記したりする例も多い。 日本哺乳類学会・目名問題検討作業部会では、基本的に従来の漢字名で統一すべきという論文を発表している。
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"頬歯(前臼歯と臼歯)は、歯冠に咬頭と呼ばれるふくらみを複数もち、複雑な形をしている。また、頬歯の歯根は2本以上に分岐している。", "title": "形態的・生態的な特徴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "脊椎動物の色覚は、網膜の中にどのタイプの錐体細胞を持つかによって決まる。魚類、両生類、爬虫類、鳥類には4タイプの錐体細胞(4色型色覚)を持つものが多い。よってこれらの生物は、長波長域から短波長域である近紫外線までを認識できるものと考えられている。一方ほとんどの哺乳類は錐体細胞を2タイプ(2色型色覚)しか持たない。哺乳類の祖先である爬虫類は4タイプ全ての錐体細胞を持っていたが、2億2500万年前には、最初の哺乳類と言われるアデロバシレウスが生息し始め、初期の哺乳類は主に夜行性であったため、色覚は生存に必須ではなかった。結果、4タイプのうち2タイプの錐体細胞を失い、青を中心に感知するS錐体と赤を中心に感知するL錐体の2錐体のみを保有するに至った。これは赤と緑を十分に区別できないいわゆる「赤緑色盲」の状態である。この色覚が哺乳類の子孫に遺伝的に受け継がれることとなった。", "title": "形態的・生態的な特徴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "霊長類直鼻猿亜目は、メガネザル下目と真猿下目に分岐する。この分岐の際に真猿下目のX染色体に位置する錐体視物質に関連した色覚の多型が顕著になり、ヘテロ接合体の2本のX染色体を持つメスに限定した3色型色覚の再獲得につながり、さらに狭鼻下目のオスを含めた種全体の3色型色覚の再獲得へとつながることとなる。真猿下目の狭鼻下目(旧世界ザル)と広鼻下目(新世界ザル)とが分岐したのは3000-4000万年前と言われている。ヒトを含む旧世界の霊長類狭鼻下目の祖先は、約3000万年前、性染色体であるX染色体に位置している赤を中心に感知するL錐体から変異した緑を中心に感知する新たなタイプの錐体(M錐体)視物質の遺伝子が出現し、ヘテロ接合体の2本のX染色体を持つメスのみが3色型色覚を有するようになり、さらにヘテロ接合体のメスにおいて相同組換えによる遺伝子重複の変異を起こして同一のX染色体上に2タイプの錐体視物質の遺伝子が保持されることとなりX染色体を1本しか持たないオスも3色型色覚を有するようになった。これによって、第3の錐体細胞が「再生」された。3色型色覚はビタミンCを多く含む色鮮やかな果実等の発見と生存の維持に有利だったと考えられる。", "title": "形態的・生態的な特徴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "なお、時代を下ってヒトの色覚に鑑みるに、ヒトが属する狭鼻下目のマカクザルに色盲がヒトよりも非常に少ないことを考慮すると、ヒトの祖先が狩猟生活をするようになり3色型色覚の優位性が低くなり、2色型色覚の淘汰圧が下がったと考えられる。広鼻下目のヨザルは1色型色覚でありホエザルは狭鼻下目と同様に3色型色覚を再獲得しているが、これらを除き残りの新世界ザル(広鼻下目)はヘテロ接合体のX染色体を2本持つメスのみが3色型色覚を有し、オスは全て色盲である。これは狭鼻下目のようなX染色体上での相同組換えによる遺伝子重複の変異を起こさなかったためである。ヒトは上記のような霊長目狭鼻下目の祖先のX染色体の遺伝子変異を受け継いでいるため、M錐体を欠損したX染色体に関連する赤緑色盲が伴性劣性遺伝をする。男性ではX染色体の赤緑色盲の遺伝子を受け継いでいると色盲が発現し、女性では2本のX染色体とも赤緑色盲の遺伝子を受け継いでいる場合に色盲が発現する。なお、日本人では男性の4.50%、女性の0.165%が先天赤緑色覚異常で、白人男性では約8%が先天赤緑色覚異常であるとされる。", "title": "形態的・生態的な特徴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "その他の哺乳類の2色型色覚の例外として、最近の研究では、有袋類には3色型色覚が広がっている可能性がある。有袋類のうちフクロネコ、ポッサムで3色覚が認められている。 鰭脚類とクジラ類は1色型色覚である。", "title": "形態的・生態的な特徴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "従来の分類体系では現生哺乳類を原獣亜綱(Ptorotheria)と獣亜綱(Theria)の2亜綱とする分類が用いられており、以下の解説も伝統的な体系に基づいている。一方で現生群を南楔歯亜綱(アウストラロトリボスフェニック亜綱 Australosphenida)と北楔歯亜綱(ボレオトリボスフェニック亜綱 Boreosphenida)の2亜綱に分ける説も提唱されている。南楔歯類には単孔類と、絶滅したアウスクトリボスフェノス目Ausktribosphenidaが含まれる。北楔歯類は摩楔歯類(トリボスフェニダ類 Tribosphenida)と同義とされることがあり、獣類(有胎盤類と有袋類)は北楔歯類または摩楔歯類に含められる。摩楔歯類を絶滅群である異獣類などとともに獣型亜綱(Theriiformes)としてまとめる分類が提唱されたこともある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "現生の哺乳類は以下のように分岐したと考えられている。なお、獣亜綱と単孔類が分岐したのは約1億8000万年前、有袋類と有胎盤類が分岐したのは約1億4000万年前である。 赤で表記した近蹄類の分岐のみ白亜紀と古第3紀の境界にあたる6600万年前より後である。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "上記の系統樹の凡例:", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "上記の系統樹に対して生物学者の間でどの程度合意が取れているかは、系統樹の分岐箇所により異なるが、最初の", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "の部分に関しては、多くの化石の証拠と分子系統解析の結果から合意が取れている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "哺乳類 - 獣亜綱の下にあたる有胎盤類内の系統が", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "という3つに分かれる事は概ね合意されている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "なお、この3つの系統はパンゲア大陸の分裂と密接に関係している事が強く示唆されており、実際パンゲア大陸の分裂により誕生したアフリカ大陸、南アメリカ大陸、ローラシア大陸に対応する地域にアフリカ獣類、異節類、北方獣類がそれぞれ分布する。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "しかしこれらの大陸の分裂の順番と年代は、分子系統解析が明らかにするアフリカ獣類、異節類、北方獣類の分岐の順番と年代とは異なっている。まず順番に関して言えば分子系統解析はこれら3つの系統がほぼ同時期に分岐した事を示唆する。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "また時期に関しても、アフリカ大陸と南アメリカ大陸の分岐の時期がおよそ1億500万年前だとされているのに対し、これら3系統の分岐はおよそ8800〜9000万年前と推定されており、両者の年代は大きく異なっている。もちろん分子系統解析は(分岐が何世代前に起こったかはある程度推測できるものの)分岐が起こった年代を直接推定できるわけではなく、年代の推定には仮定をいくつも重ねなければならないという事情はあるが、2010年以降の研究は大陸の分裂よりも3系統の分岐のほうがはっきりと後に起こったとする傾向がある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "こうした差がある原因は、大陸は分裂後も距離的に近くにあった為、しばらくは動物相の交流が可能であった為と考えられる。実際、陸地が分裂状態にあっても海を渡った漂流が居住地域を拡大したと考えられる例は(パンゲア大陸の分裂以外で)いくつか存在し、このような推定を傍証する。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "なお上記3系統はほぼ同時期に分岐したので、これらのうちどれが最初に分岐したのかに関する合意は2017年現在存在しない。すなわち、下記の3つのいずれの分類が正しいのか決着がついていない:", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "形態学的な研究はかなりの部分3.を支持するものの、ほとんどの分子系統解析は1.か2.を支持する。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "決着がつかない原因は、(おそらくはパンゲア大陸やゴンドワナ大陸の分裂に伴う連続的で急速な発散によって)上記3系統の遺伝子があまりに大きくかけ離れているため分子系統解析で3系統の関係を探るのが容易ではないからである。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "アフリカ獣類に属する系統群は、海へ進出した海獣類を除き、2000万年前まで遡るとアフリカ大陸、マダガスカル、アラビア半島といったアフリカ周辺に限られるため、その名がつけられた。アフリカ獣類は大きく2つの系統に分かれており、それぞれアフリカ食虫類、近蹄類と呼ばれる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "北方真獣類は", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "のように分岐するが、真主齧類内部の分岐、およびローラシア獣類内部の分岐は2017年現在未確定な部分が多い。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "真主齧類はグリレス類(Glires、ネズミ目、ウサギ目)と真主獣類(Euarchonta、霊長目、齧歯目、ヒヨケザル目、ツパイ目)に系統分類できるとされるものの、真主齧類内の目の系統関係は2013年現在曖昧なままである。特にツパイ目の位置づけの決定は2017年現在でも難しい。ツパイ目が霊長目やヒヨケザル目の姉妹群となる研究成果がある一方、グリレス類の姉妹群とする成果や、真主齧類で最も祖先的だとする成果もあり、後者2つのいずれかが正しいとすれば、真主獣類という系統は否定されることになる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "なお歴史的には真主齧類に翼手目を加えたものを「主齧類」と呼んでいたが、分子系統解析により翼手目は別系統であることが分かったので、主齧類から翼手目を除いたものを「真主齧類」と名付けた。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ローラシア獣類内の目の系統関係の確立は難しく、2017年現在確立されているのは、真無盲腸目が最も早期に分岐したことと、食肉目と鱗甲目が姉妹群であることだけである。ローラシア獣類内における奇蹄目の位置づけの決定は特に難しい。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "なお、翼手目、奇蹄目、鱗甲目、食肉目の4つを総称してペガサス野獣類と呼ぶ事がレトロトランスポゾンの解析から提案されたが、その後の分子系統解析の研究で否定されている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "有袋類は系統樹に挙げた7つの目からなっており、20世紀にはこれら7つを", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "の2つに分類していたが、21世紀における分子系統解析の研究はこの2つの分類を否定している。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "日本では明治維新以来、目名には「齧歯目」「霊長目」等、原名のラテン語をおおむね忠実に漢訳した漢名が用いられてきた(一般にはしばしば、「齧歯類」「霊長類」のように「類」が慣用されてきた)。だが、1988年文部省の『学術用語集 動物学編』において、目以下の名称をすべてカナ書きにし、目名は「ネズミ目」「サル目」のように、それぞれの動物群を代表する動物名(カナ書き)に変えるという改定がなされた。", "title": "日本における目名の表記法に関する議論" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "しかし、たとえば「ネコ目」(食肉目)のネコ亜目とアシカ亜目、イヌ上科とネコ上科のように、亜目、上科のような比較的高い階層の分類階級による動物群は、それぞれ他のグループとは明らかに異なる特有の性質をもつものであり、1つの下位分類群の名前(「ネコ」)によって、目という大きなグループの全体(ネコ・イヌ・イタチ・クマ・アライグマ・パンダ・アシカ・アザラシ・セイウチなどからなる食肉目)を代表させることは、必ずしも直観的な分かりやすさには繋がらない。", "title": "日本における目名の表記法に関する議論" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "さらに、近年の研究により、偶蹄目とクジラ目の詳細な系統が明らかにされ、「鯨偶蹄目」が創設された。これをカナ書きの原則に当てはめると「クジラウシ目」となる。また、「サル目ヒト科」は教科書にも全く採用されていない。", "title": "日本における目名の表記法に関する議論" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "また、以前からの慣用として、どの分類階級であるかにかかわらず、「○○の仲間」を「○○類」と書くことがあるが、かつての漢名ならば、例えば「齧歯類」と言えば、それが「目」の階層の「齧歯目」を指すことは明らかであり、他の階層との混同のおそれは無かった。それが、「齧歯目」が「ネズミ目」となることによって、「ネズミ類」という言葉が示す可能性のある階層の範囲が目のレベルにまで広がり、混乱が拡大されたという側面もある。つまり、旧来の用例ならば、例えば「齧歯類」にネズミの類とリスの類、ヤマアラシの類が含まれることは容易に認識できるが、新しい用例で「ネズミ類」とした場合、これが狭義のネズミ類なのか、リスやヤマアラシの類をも含んだ概念なのかが把握しにくくなってしまっている。", "title": "日本における目名の表記法に関する議論" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "この分類名の改定は、分類学の根本理念に対して充分に配慮した上でのものではなく、また平易化にむしろ逆行する部分もあることから、学界内でも現在なお議論が多い。現状では、旧来の漢名をそのまま用いたり、新しいカナ名と併記したりする例も多い。", "title": "日本における目名の表記法に関する議論" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "日本哺乳類学会・目名問題検討作業部会では、基本的に従来の漢字名で統一すべきという論文を発表している。", "title": "日本における目名の表記法に関する議論" } ]
哺乳類は、哺乳形類に属する脊椎動物の一群である。分類階級は普通綱に置かれ、哺乳綱(ほにゅうこう)とされる。 ほ乳類と表記されることもある。 基本的に有性生殖を行い、現存する多くの種が胎生で、乳で子を育てるのが特徴である。ヒト Homo sapiens を含む分類群で、ヒトは哺乳綱の中の霊長目ヒト科ヒト属に分類される。 哺乳類に属する動物の種の数は、研究者によって変動するが、現生種は5,416種~6,495種(最近絶滅した96種を含む)とされ、脊索動物門の約10%、広義の動物界の約0.4%にあたる。 日本およびその近海には、外来種も含め、約170種が生息する(日本の哺乳類一覧を参照)。
{{生物分類表 |色 = 動物界 |fossil_range = 後期[[三畳紀]] – 現世、{{fossil range|220|0}} |名称 = 哺乳類<br>Mammalia |画像 = [[File:Mammal Diversity 2011.png|300px]] |画像キャプション = |界 = [[動物|動物界]] {{sname||Animalia}} |門 = [[脊索動物|脊索動物門]] {{sname||Chordata}} |亜門 = [[脊椎動物|脊椎動物亜門]] {{sname||Vertebrata}} |亜門階級なし = [[四足類]] [[w:Tetrapod|Tetrapoda]] |下門階級なし= [[有羊膜類]] {{Sname||Amniota}} |上綱階級なし= [[単弓類]] {{Sname||Synapsida}} |綱 = '''哺乳綱''' {{sname||Mammalia}} |学名 = '''{{sname|Mammalia}}'''<br>{{AUY|Linnaeus|1758}} |和名 = 哺乳類 |下位分類名 = 亜綱<!-- 絶滅分類群を含めたクレードや階級は安定していないため、伝統的な分類群を示す。 --> |下位分類 = * [[原獣亜綱]] {{sname||Prototheria}} * [[獣亜綱]] {{sname||Theria}} * [[絶滅|†]][[異獣亜綱]] {{sname||Allotheria}} }} '''哺乳類'''(ほにゅうるい、{{lang-en|mammal}}, {{IPAc-en|ˈ|m|æ|m|(|ə|)|l}}、 学名:{{sname|Mammalia}})は、[[哺乳形類]]に属する[[脊椎動物]]の一群である。[[分類階級]]は普通[[綱 (分類学)|綱]]に置かれ、'''哺乳綱'''(ほにゅうこう)とされる。 '''ほ乳類'''と表記されることもある<ref>{{Cite web|和書|title=ほ乳類 |url=https://www.cgr.mlit.go.jp/ootagawa/Bio/mamma/index00.htm |website=国土交通省公式サイト |access-date=2023-09-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.himeji.lg.jp/dobutuen/0000007346.html |title=「ほ乳類」の仲間たち |access-date=2023年9月27日 |publisher=姫路市立動物園公式サイト}}</ref>。 基本的に[[有性生殖]]を行い、現存する多くの[[種 (分類学)|種]]が[[胎生]]で、[[乳]]で子を育てるのが特徴である。[[ヒト]] {{snamei|Homo sapiens}} を含む分類群で、ヒトは哺乳綱の中の[[霊長目]][[ヒト科]][[ヒト属]]に分類される。 哺乳類に属する動物の[[種 (分類学)|種]]の数は、研究者によって変動するが、現生種は5,416種<ref>Wilson D, Reeder D, eds. (2005). "Preface and introductory material". Mammal Species of the World: A Taxonomic and Geographic Reference (3rd ed.). Johns Hopkins University Press. p. xxvi. ISBN 978-0-8018-8221-0. OCLC 62265494. </ref>~6,495種(最近絶滅した96種を含む)<ref>{{cite journal | vauthors = Burgin CJ, Colella JP, Kahn PL, Upham NS |date=1 February 2018 |title=How many species of mammals are there? |journal=[[Journal of Mammalogy]] |volume=99 |issue=1 |pages=1–14 |doi=10.1093/jmammal/gyx147 |doi-access=free}}</ref>とされ、脊索動物門の約10%、広義の動物界の約0.4%にあたる{{要出典|date=2022年8月}}。 [[日本]]およびその近海には、[[外来種]]も含め、約170種が生息する([[日本の哺乳類一覧]]<ref>{{Cite book|和書|author=大舘智志, 石橋靖幸, 岩佐真宏, 斉藤隆 |title=The wild mammals of Japan |publisher=SHOUKADOH Book Sellers,The Mammalogical Society of Japan |date=2009 |NCID=BA90658916 |ISBN=9784879746269 |url=https://shokado.nacos.com/mammal/index_j.php}} |2015年版 2nd. Edition, {{ISBN2|978-4-87974-691-7}}</ref><ref name="yato_et_al">谷戸崇・岡部晋也・池田悠吾・[[本川雅治]]「[https://doi.org/10.19004/taxa.53.0_31 Illustrated Checklist of the Mammals of the Worldにおける日本産哺乳類の種分類の検討]」『タクサ:日本動物分類学会誌』第53巻(号)、日本動物分類学会、2022年、31-47頁。</ref>を参照)。 == 語源 == {{sname|Mammalia}}(哺乳類)という言葉は、[[1758年]]、[[カール・フォン・リンネ]]による『[[自然の体系]]』第10版{{Efn|これはのちに『[[国際動物命名規約]]』において、1758年1月1日に出版されたとみなし、動物命名法の起点の日付として用いる{{Sfn|ICZN 日本語版追補|2005|p=3|loc=条3}}}}においてはじめて用いられた<ref name="Linne">{{cite journal|first=Londa |last=Schiebinger |title=Why Mammals are Called Mammals: Gender Politics in Eighteenth-Century Natural History|journal=The American Historical Review|volume= 98|issue=2|date=1993|pages=382-411|doi=10.2307/2166840}}</ref>。リンネは[[1735年]]の『自然の体系』初版では哺乳類を「四足綱 {{sname||Quadrupedia}}」としていたが、[[ヒト]]を四足動物に入れたことで[[自然主義]]者たちから批判を受けた<ref name="Linne"/>。リンネはこれを受けて「ヒトがもともと四つん這いで歩いていなかったとしても、女性から生まれるヒトは母乳で成長することは認めざるを得ないだろう」と、第10版では雌の[[乳房]] ({{lang|en|female mammae}}) をその象徴として、[[ラテン語]]の「乳房の {{lang|la|mammae}}」に由来する「哺乳類 {{sname|Mammalia}}」とした<ref name="Linne"/>。今日では、哺乳類の定義を[[乳腺]]({{lang|en|mammary gland}})を持つこととし、これは[[乳汁]]を分泌しない雄や[[乳頭]]を持たない[[単孔類]]にもうまく当てはまる<ref name="Linne"/>。 「哺乳類」は、ドイツ語の {{lang|de|Säugetiere}} の訳である。{{lang|de|''saugen''}}(母乳を飲む)と {{lang|de|''Tier''}}(動物)に由来している。「哺」は、[[口]]でとる(捕)、あるいは口でささえる(輔)という字の成り立ちから、口にふくむ、食らうことを表すが、食物を与える意味ともなる。よって、「哺乳」とは乳を飲ませて育てることを意味する。 == 進化 == [[File:Platypus.jpg|thumb|right|250px|[[カモノハシ]]の属する[[単孔目]]は三畳紀に他の哺乳類から分岐したとされ、現生哺乳類の中で最も原始的な形質を保持している。]] 哺乳類の起源は古く、既に[[三畳紀]]後期の2億2500万年前には、最初の哺乳類といわれる[[アデロバシレウス]]が生息していた。そのルーツは、[[古生代]]に繁栄した[[単弓類]]のうち、[[キノドン類]]である。単弓類は[[両生類]]から派生した[[有羊膜類]]の子孫の一つである。有羊膜類は単弓類と[[竜弓類]](後に[[爬虫類]]が出現した系統を包括する)とに[[石炭紀]]後期に分岐し、以降、単弓類は独自の進化をしていた。単弓類は、[[ペルム紀]]末の[[大量絶滅#ペルム紀末|大量絶滅]]において壊滅的なダメージを受け、キノドン類などごくわずかな系統のみが三畳紀まで生き延びている。一時期再び勢力を挽回するものの、既に主竜類などの勢力も伸長し単弓類は地上の覇者ではなくなっていた。そして、三畳紀後期初頭の大絶滅を哺乳類とともに生き延びたのは、[[トリティロドン科]]のみであった。しかし彼らも[[白亜紀]]前期には姿を消している。また、同じく三畳紀には、すでに哺乳類の他のものから分岐する形で[[単孔目]]が出現している。単孔目は現存するが、これは[[卵生]]であることや[[総排出腔]]をもつことなどほかの哺乳類とは大きく異なる構造を持ち、もっとも原始的な哺乳類の形をとどめているとされる。 酸素濃度35%の[[ペルム紀]]以降は、[[リグニン]]の分解能を獲得した菌類による木材の分解により酸素濃度が徐々に低下し、[[ジュラ紀]]後期の2億年前には酸素濃度は12%まで低下した。[[気嚢]]は、[[横隔膜]]方式よりも効率的に酸素を摂取できる機能がある。低酸素下でもその機能を維持できる気嚢を有した一部の[[双弓類]](爬虫類)は繁栄することができた。一方で哺乳類の祖先である[[単弓類]]は低酸素環境下でその種の大部分が絶滅することとなった<ref name="ha">{{Cite book|和書|author=長谷川政美 |title=系統樹をさかのぼって見えてくる進化の歴史 : 僕たちの祖先を探す15億年の旅 |publisher=ベレ出版 |date=2014 |series=Beret science |NCID=BB16998006 |ISBN=9784860644109 |id={{全国書誌番号|22488571}} |page=102|url=https://www.beret.co.jp/books/detail/544}}</ref>。哺乳類の肺機能は、酸素分圧0.1気圧以下で呼吸困難になり、酸素分圧0.8気圧以上で肺の組織が酸化される<ref>松尾禎士 「[https://doi.org/10.5575/geosoc.78.455 地球進化の考え方:大気の進化を例として]」『地質学雑誌』 78巻 8号 1972年 p.455-462, 日本地質学会, {{doi|10.5575/geosoc.78.455}}。</ref>。 [[恐竜]]の全盛時代である[[ジュラ紀]]、白亜紀の哺乳類は[[ネズミ]]ほどの大きさのものが多かった。しかし進化が停滞していたわけではない。白亜紀前期には、それまでの[[有袋類]]から分岐してすでに[[有胎盤類]]が登場している。また、中国から発見された大型の哺乳類の化石から未消化の恐竜の子供が見つかっている。これは、[[レペノマムス]]や[[デルタデリジウム]]のように哺乳類が恐竜を捕食していた例もあったことを意味している。 恐竜を含む[[主竜類]]が繁栄を極めた時代には、哺乳類は、夜の世界など主竜類の活動が及ばない時間・場所などの[[ニッチ]]に生活していた。[[魚類]]、[[両生類]]、[[爬虫類]]、[[鳥類]]には4タイプの錐体細胞を持つものが多い。現在、[[鳥類]]などに比して哺乳類の視覚が全般的に劣っているのも、この長い夜行生活を経て大部分の哺乳類の[[視覚]]が2色型色覚に[[退化]]したためと考えられている<ref>The nocturnal bottleneck and the evolution of activity patterns in mammals (Menno P. Gerkema:2013)</ref>。約6400万年前、鳥類と[[ワニ]]類を除く主竜類が絶滅し、次の[[新生代]]では、その空白を埋めるように哺乳類は爆発的に放散進化し、多種多様な種が現れて地上でもっとも繁栄した種となった。 現在では地中や[[海獣|水中]]などを含め、地球上のほとんどの環境に、哺乳類が生息している。 === 分類体系 === * [[有羊膜類]] {{sname|Amniota}} ** [[竜弓類]] {{sname|Sauropsida}} *** [[爬虫類]] {{sname|Reptilia}} **** [[双弓類]] {{sname|Diapsida}} → 恐竜・翼竜等、及び現生の爬虫類・鳥類へ ** [[単弓類]] {{sname|Synapsida}} *** †[[盤竜類]] {{sname|Pelycosauria}} **** †[[真盤竜亜目]] {{sname|Eupelycosauria}} **** †[[カセア亜目]] {{sname|Caseasauria}} *** [[獣弓類]] {{sname|Therapsida}} **** [[異歯亜目|異歯類]] {{sname|Anomodontia}} **** [[獣歯類]] {{sname|Theriodontia}} ***** [[キノドン類]] {{sname|Cynodontia}} ****** [[哺乳形類]] {{sname|Mammaliaformes}} ******* †[[モルガヌコドン目]] {{sname|Morganucodonta}} ******* †[[梁歯目]] {{sname|Docodonta}} ******* '''哺乳類''' '''{{sname|Mammalia}}''' {{Outdent|7}} * '''哺乳類''' '''{{sname|Mammalia}}''' ** [[原獣亜綱]] {{sname||Prototheria}} / {{sname||Australosphenida}} *** [[単孔目]] {{Sname||Monotremata}}(現生:[[カモノハシ]]、[[ハリモグラ]]) ** [[獣形類]] {{sname||Theriiformes}} *** [[絶滅|†]][[異獣亜綱]] {{sname||Allotheria}} **** †[[多丘歯目]] {{Sname||Multituberculata}} *** †[[三錐歯目]](正三錐歯目 / 三丘歯目) {{sname||Triconodonta}} (Eutriconodonta) *** [[全獣類]] {{sname||Holotheria}} **** †[[相称歯目]] {{sname||Symmetrodonta}} **** [[ザテリア類]] {{sname||Zatheria}} ***** †[[ペラムス科]] {{sname||Peramuridae}} ***** [[獣亜綱]](真獣亜綱) {{sname||Theria}} ****** †[[パッポーテリウム科]] {{sname||Pappotheriidae}} ****** [[後獣類]] {{sname||Metatheria}} ******* [[有袋類]] {{Sname||Marsupialia}}(現生:[[カンガルー]]、[[コアラ]]など) ****** [[真獣類]] {{sname||Eutheria}} ******* [[有胎盤類]] {{Sname||Placentalia}}(現生:大部分の現生哺乳類) ※単弓類の系統は哺乳類以外は全て絶滅した。 ※哺乳類は、従来は後述する顎関節の特徴で定義されてきた。しかし近年、中間的な化石が出現するなどこの定義が適用できない場合が増えたため、現生種を含む最も小さい単系統となるよう、系統学的に厳密に再定義することが多くなった。これにより、[[梁歯目]]、[[モルガヌコドン目]]などの原始的なものが哺乳類から外れることになる。それらを含めた従来の広い意味での哺乳類を、[[哺乳形類]]という。 == 形態的・生態的な特徴 == [[ファイル:Cow and calf.jpg|thumb|right|250px|子供に乳を与える[[ウシ]]。授乳は哺乳類の特徴の一つであり、名前の由来である。]] === 軟組織の特徴 === これらは化石では確認しにくいが、近年では少しずつ研究が進められている<ref>The origins of lactation and the evolution of milk: a review with new hypotheses(Daniel G Blackburn:1989)</ref>。 ;乳房:保育行動([[授乳]])に用いる器官。[[汗腺]]が分化した[[乳腺]]が集合し発達したもの。[[乳房]]と[[乳頭]]内部にある[[乳腺]]と[[乳管]]で成り立つ。イノシシやネズミなど多産種では多対を、[[ヒト]]や[[ゾウ]]のような少産種では1対のみを発達させる。[[単孔類]]は持たない。通常[[出産]]すると[[乳]]の分泌が開始されるが、他の個体が産んだ子を相手に[[母性本能]]が刺激されて乳を分泌する場合もある<ref name=Ohaishi2-30>[[#大泰司②(1998)|大泰司②(1998)、p.30-32、第2章.体の表面 2.1皮膚・毛・皮膚腺 (4)乳房]]</ref>。[[単孔類]]では乳房・[[乳頭]]はなく[[乳腺]]からにじみ出た乳を子が舐め取る。 ;[[口唇]](口輪筋)[[頬]](頬筋):上記の乳頭に吸い付くため口の周りにある柔らかい器官。[[単孔類]]は持たない。[[鯨]]類では二次的に退化したと思われている。 ;体毛:体表を覆う[[体毛]]を持つ動物のうち、[[皮膚]]の[[角質]]層に由来するものを持つのは哺乳類のみである<ref name=Ohaishi2-22>[[#大泰司②(1998)|大泰司②(1998)、p.22-27、第2章.体の表面 2.1皮膚・毛・皮膚腺 (2)毛とトゲ]]</ref>。さらにこれが発達して厚くなると、[[角]]や[[爪]]、または[[ヤマアラシ]]・[[センザンコウ]]のトゲやウロコとなる<ref name=Ohaishi2-22 />。体毛は体温の発散を防ぐ他に、保護色や触覚の役割を持ったり、ディスプレイにも使われたりする<ref name=Ohaishi2-22 />。[[クジラ]]類では、ハクジラ類が、胎児期にのみ、頭部の一部にわずかな毛をもつ。参考までに、[[爬虫類]]は体毛をもたず、[[鳥類]]では[[羽毛]]が体表を覆う。 ;横隔膜:[[肋骨]]と共同して[[肺呼吸]]を可能にする[[横隔膜]]をもち、これが[[胸腔]]と[[腹腔]]とを分けている(他の動物群にない特徴)。 ;心臓:[[心臓]]に2心房2心室をもつ。また、血液の[[体循環]]は[[左大動脈弓]]のみによる。 ;血液:[[赤血球]]は循環系では'''無核'''で、その形は円盤状である([[ラクダ]]類では楕円状)。 ;共通の特徴であるかのように誤解されていること 次の特徴は「哺乳類の特徴」と言われることがあるが、正しくは、あくまで一部の系統の特徴である。 <!-- 哺乳類の3つの系統のひとつである後獣目(≒有袋目)で現にオーストラリアで大繁殖しているグループを「例外」として扱うのはあまりに乱暴な話だな。せめて「真獣下綱の特徴だ」としている出典は無いのか? --> ;「胎生」: 獣亜綱は、[[胎生]]であるが、[[原獣亜綱]]など(現生種は[[カモノハシ目]]の3属5種のみ)は例外的に[[卵生]]である。 ;「胎盤」: [[有胎盤類]]は体内の[[胎盤]]で子を育てて出産するが、(哺乳類の3つの系統のひとつの後獣目は)[[有袋類]]で体外部の[[育児嚢]]で子を育てる。 {| class="wikitable floatright" style="text-align:center" |+ 哺乳類の平均体温<ref>[http://www.maff.go.jp/hokuriku/kids/question/stock01.html 畜産の不思議 動物の体温は人と比べて高いのですか] (ほくりくのうせいきょくキッズページ)</ref> ! 動物名 !! 平均体温<br>([[℃]]) |- | [[ブタ]] | 39.0 |- | [[ヤギ]] | 39.0 |- | [[ヒツジ]] | 39.0 |- | [[ウサギ]] | 39.5 |- | [[ウシ]] | 38.5 |- | [[イヌ]] | 38.5 |- | [[ネコ]] | 38.5 |- | [[ウマ]] | 37.5 |- | [[ヒト]] | 36.0 |- |(参考)[[ニワトリ]] | 42.0 |} ;体温:鳥類と同じく、体温をほぼ一定に保つ[[恒温動物]]であるものがほとんどを占める。ただし、[[ナマケモノ]]、[[ハダカデバネズミ]]のように例外的に変温動物とされる[[種 (分類学)|種]]もある。 ;[[肛門]]と[[泌尿生殖門]](尿と胎児が出てくる孔)の分離: 例外として[[カモノハシ目|カモノハシ類]]は、共通の[[総排出口]]をもつ(爬虫類や鳥類も1穴)。 === 歯の特徴 === 哺乳類の歯は一般的に、それぞれ別の機能を持つ形状を取っており、[[切歯]](門歯)・[[犬歯]]・前臼歯([[小臼歯]])・臼歯([[大臼歯]])の4種類に分化している<ref name=Ohaishi2-89>[[#大泰司②(1998)|大泰司②(1998)、p.89-92、第4章.歯 4.1歯学概論 (3)歯の種類と構造]]</ref>。真獣類の基本数は[[イノシシ]]に見られる片顎あたり切歯3・犬歯1・前臼歯4・臼歯3だが、これが揃っている種は少なく<ref name=Ohaishi2-89 />[[食性]]により歯の退化したものや、[[ハクジラ類]]のように同形歯をもつものもある。[[両生類]]や爬虫類は同形歯であり、[[鳥類]]は歯をもたない。 頬歯(前臼歯と臼歯)は、[[歯冠]]に[[咬頭]]と呼ばれるふくらみを複数もち、複雑な形をしている。また、[[頬歯]]の[[歯根]]は2本以上に分岐している。 <!-- *歯の生え変わりは、[[乳歯]]から[[永久歯]]への1回のみか、または一度も生え変わらない。#何度か生え変わる種もある。(ゾウは4 - 6回など)この場合の交換は[[水平交換]]と呼ばれ、[[乳歯]]から[[永久歯]]への交換([[垂直交換]]とは意味が異なる)[http://www.8020zaidan.or.jp/chishiki/dobutsu.html]#--> === 骨格の特徴 === ;[[成長点]]:長骨は中心部分ではなく両端の[[骨端軟骨]]部分で成長し、成長中の若い個体では、それらが[[軟骨]]でつながっている(爬虫類では、骨は中心部分からしか成長しない)。 ;[[下顎]]:1つの[[歯骨]]だけでできている(爬虫類は下顎が複数の骨からなる)。 ;[[鱗状骨]]:[[頭骨]]と下顎は、[[側頭鱗]]([[鱗状骨]])と[[歯骨]]によって関節している(爬虫類の[[顎関節]]は、[[方形骨]]と[[関節骨]]からなる)。 ;[[耳小骨]]:[[鐙骨]]・[[砧骨]]・[[槌骨]]という3個の連続した耳小骨が、[[鼓膜]]の振動を[[内耳]]に伝える(爬虫類や鳥類の耳小骨は、鐙骨のみ。哺乳類のみがもつ砧骨と槌骨は、爬虫類の[[方形骨]]・[[関節骨]]がそれぞれ変化したものである)。こうした変化は[[獣弓類]](とりわけ[[キノドン類]])において段階的に進化が進んでいた<ref>Evolution of the mammalian middle ear: a historical review(Wolfgang Maier:2016)</ref>。 ;[[二次口蓋]]:[[口蓋]]と鼻道の間に二次口蓋と呼ばれる板状の骨があり、口と[[鼻道]]の間が完全に仕切られている(爬虫類ではこの分離が不完全)。 ;頭骨の鼻穴:1つ(爬虫類では1対)。 ;[[後頭顆]]:[[頭蓋]]の[[後頭部]]にある[[大後頭孔]]の左右に、[[頭骨]]と第一[[頸椎]]を関節させる後頭顆を1対もつ(爬虫類や鳥類は、大後頭孔の下に1個の後頭顆をもつ)。 ;[[頸椎|頚椎]]:7個。ただし、[[クジラ目]]では癒合・分離によって数が変異し、[[ジュゴン目]]では6個、[[アリクイ目]]では6・9・10個となる。 ;[[肋骨]]:首の部分の肋骨は、すべて頚椎に癒合している。[[胸椎]]にはゆるく関節し、体を前後左右に曲げるだけでなく、ねじることもできる。また、[[腹部|腹]]の部分には肋骨がない(体をねじれることと、腹部の肋骨を欠くことにより、メスは寝そべって子どもに[[授乳]]することができる)。 ;[[肩甲骨]]:[[脊柱]]とは関節しておらず(このために[[前肢]]の自由な動作が可能となる)、外側の面に[[肩甲棘]]とよばれるはっきりした隆起線が前後に走る(爬虫類の肩甲骨には肩甲棘がない)。 ;指:骨の数は[[親指]]が2個、その他の指は3個が基本(爬虫類はこれより多い)。 ;[[骨盤|寛骨]]:[[腸骨]]・[[坐骨]]・[[恥骨]]の3つが癒合し、1つの寛骨になっている。ただし[[クジラ類]]は寛骨が消失(爬虫類は3つの骨が分離している)。 === 色覚の特徴 === [[脊椎動物]]の[[色覚]]は、[[網膜]]の中にどのタイプの[[錐体細胞]]を持つかによって決まる。[[魚類]]、[[両生類]]、[[爬虫類]]、[[鳥類]]には4タイプの錐体細胞([[4色型色覚]])を持つものが多い。よってこれらの生物は、長波長域から短波長域である近紫外線までを認識できるものと考えられている。一方ほとんどの哺乳類は錐体細胞を2タイプ([[2色型色覚]])しか持たない。哺乳類の祖先である爬虫類は4タイプ全ての錐体細胞を持っていたが、2億2500万年前には、最初の哺乳類と言われる[[アデロバシレウス]]が生息し始め、初期の哺乳類は主に[[夜行性]]であったため、[[色覚]]は生存に必須ではなかった。結果、4タイプのうち2タイプの錐体細胞を失い、青を中心に感知するS錐体と赤を中心に感知するL錐体の2錐体のみを保有するに至った。これは赤と緑を十分に区別できないいわゆる「赤緑色盲」の状態である。この色覚が哺乳類の子孫に遺伝的に受け継がれることとなった。 霊長類[[直鼻猿亜目]]は、[[メガネザル下目]]と[[真猿下目]]に分岐する。この分岐の際に真猿下目のX染色体に位置する錐体視物質に関連した[[色覚]]の[[多型]]が顕著になり、ヘテロ接合体の2本のX染色体を持つメスに限定した3色型色覚の再獲得につながり、さらに[[狭鼻下目]]のオスを含めた種全体の3色型色覚の再獲得へとつながることとなる<ref name=tokyo/>。[[真猿下目]]の[[狭鼻下目]]([[旧世界]]ザル)と[[広鼻下目]]([[新世界]]ザル)とが分岐したのは3000-4000万年前と言われている<ref name=kyoto>三上章允、[http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/official/tokyo2004/mikami.pdf 霊長類の色覚と進化]2004年9月18日。[http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/official/tokyo2004/ 京都大学霊長類研究所 東京公開講座「遺伝子から社会まで」]のレジュメ</ref><ref>Surridge et al. Trends Ecol. Evol. 18, 198-205, 2003</ref>{{信頼性要検証|date=2012年11月}}。[[ヒト]]を含む[[旧世界]]の[[霊長類]][[狭鼻下目]]の祖先は、約3000万年前、[[性染色体]]である[[X染色体]]に位置している赤を中心に感知するL錐体から変異した緑を中心に感知する新たなタイプの錐体(M錐体)視物質の遺伝子が出現し、[[ヘテロ接合体]]の2本のX染色体を持つメスのみが3色型色覚を有するようになり、さらにヘテロ接合体のメスにおいて[[相同組換え]]による[[遺伝子重複]]の変異を起こして同一のX染色体上に2タイプの錐体視物質の遺伝子が保持されることとなりX染色体を1本しか持たないオスも3色型色覚を有するようになった。これによって、第3の錐体細胞が「再生」された。3色型色覚は[[ビタミンC]]を多く含む色鮮やかな[[果実]]等の発見と生存の維持に有利だったと考えられる<ref name=nig>岡部正隆、伊藤啓 「[https://www.nig.ac.jp/color/barrierfree/barrierfree1-4.html 1.4 なぜ赤オプシン遺伝子と緑オプシン遺伝子が並んで配置しているのか]「第1回色覚の原理と色盲のメカニズム」 『細胞工学』2002年7月号をWEBに掲載。</ref><ref name=kyoto/>。 なお、時代を下ってヒトの[[色覚]]に鑑みるに、ヒトが属する狭鼻下目の[[マカクザル]]に[[色盲]]がヒトよりも非常に少ないことを考慮すると、[[ヒト]]の祖先が狩猟生活をするようになり3色型色覚の優位性が低くなり、2色型色覚の淘汰圧が下がったと考えられる<ref name=nig/>。広鼻下目の[[ヨザル]]は1色型色覚であり[[ホエザル]]は狭鼻下目と同様に3色型色覚を再獲得している<ref name=tokyo>{{Cite web|和書|url=http://www.jinrui.ib.k.u-tokyo.ac.jp/kawamura/study.html|title=感覚系遺伝子の進化生態遺伝学|accessdate=2013-06-14}}</ref>{{信頼性要検証|date=2012年11月}}が、これらを除き残りの新世界ザル(広鼻下目)はヘテロ接合体のX染色体を2本持つメスのみが3色型色覚を有し、オスは全て色盲である。これは狭鼻下目のようなX染色体上での相同組換えによる遺伝子重複の変異を起こさなかったためである<ref name=kyoto/>。ヒトは上記のような[[霊長目]][[狭鼻下目]]の祖先のX染色体の遺伝子変異を受け継いでいるため、M錐体を欠損したX染色体に関連する赤緑色盲が伴性[[劣性遺伝]]をする。男性ではX染色体の赤緑色盲の遺伝子を受け継いでいると[[色盲]]が発現し、女性では2本のX染色体とも赤緑色盲の遺伝子を受け継いでいる場合に色盲が発現する<ref>岡部正隆、伊藤啓 「[https://www.nig.ac.jp/color/barrierfree/barrierfree1-6.html 1.6 女性で赤緑色盲が少ない理由]「第1回色覚の原理と色盲のメカニズム」 『細胞工学』2002年7月号をWEBに掲載。</ref>。なお、日本人では男性の4.50%、女性の0.165%が先天赤緑色覚異常で、白人男性では約8%が先天赤緑色覚異常であるとされる。 その他の哺乳類の2色型色覚の例外として、最近の研究では、[[有袋類]]には3色型色覚が広がっている可能性がある<ref>Arrese, C. A., Oddy, A. Y., Runham, P. B., Hart, N. S., Shand, J., Hunt, D. M., * Beazley, L. D. (2005). Cone topography and spectral sensitivity in two potentially trichromatic marsupials, the quokka (''Setonix brachyurus'') and quenda (''Isoodon obesulus''). Proceedings of the Royal Society of London Series B, 272, 791-796</ref>。有袋類のうち[[フクロネコ]]、[[ポッサム]]で3色覚が認められている<ref>平松千尋, 「[https://doi.org/10.2354/psj.26.004 霊長類における色覚の適応的意義を探る]」『霊長類研究』 26巻 2号 2010年 p.85-98, 日本霊長類学会, {{doi|10.2354/psj.26.004}}。</ref>。 [[鰭脚類]]と[[クジラ類]]は1色型色覚である<ref>Sternberg, Robert J. (2006): Cognitive Psychology. 4th Ed. Thomson Wadsworth.</ref>。 == 分類 == 従来の分類体系では現生哺乳類を'''[[原獣亜綱]]'''({{Sname|Ptorotheria}})と'''[[獣亜綱]]'''({{Sname|Theria}})の2亜綱とする分類が用いられており<ref name="motokawa2012" />、以下の解説も伝統的な体系に基づいている。一方で現生群を'''[[南楔歯類|南楔歯亜綱]]'''(アウストラロトリボスフェニック亜綱 {{Sname||Australosphenida}})と'''北楔歯亜綱'''(ボレオトリボスフェニック亜綱 {{Sname|Boreosphenida}})の2亜綱に分ける説も提唱されている<ref name="motokawa2012">[[本川雅治]]「哺乳類」、日本進化学会 編『進化学辞典』共立出版、2012年、408-411頁。</ref><ref name="nao2021">国立天文台 編「動物分類表」『理科年表 2022』丸善出版、2021年、908-918頁。</ref>。南楔歯類には単孔類と、絶滅したアウスクトリボスフェノス目{{Sname||Ausktribosphenida}}が含まれる<ref name="motokawa2012" />。北楔歯類は[[摩楔歯類]](トリボスフェニダ類 {{Sname||Tribosphenida}})と同義とされることがあり、獣類(有胎盤類と有袋類)は北楔歯類または摩楔歯類に含められる<ref name="motokawa2012" /><ref name="nishioka_et_al">西岡佑一郎・楠橋直・高井正成「[https://doi.org/10.11238/mammalianscience.60.251 哺乳類の化石記録と白亜紀/古第三紀境界前後における初期進化]」『哺乳類科学』第60巻 2号、日本哺乳類学会、2020年、251-267頁。</ref><ref name="yokohata">日本哺乳類学会 種名・標本検討委員会 目名問題検討作業部会「[https://doi.org/10.11238/mammalianscience.43.127 哺乳類の高次分類群および分類階級の日本語名称の提案について]」『哺乳類科学』第43巻 2号、日本哺乳類学会、2003年、127-134頁。</ref>。摩楔歯類を絶滅群である[[異獣亜綱|異獣類]]などとともに獣型亜綱({{Sname|Theriiformes}})としてまとめる分類が提唱されたこともある<ref name="yokohata" />。 ===現生分類群の系統=== 現生の哺乳類は以下のように分岐したと考えられている。なお、獣亜綱と単孔類が分岐したのは約1億8000万年前、有袋類と有胎盤類が分岐したのは約1億4000万年前である<ref name=":1">[[哺乳類#キャンベル11版|キャンベル11版]] pp.852-853.</ref>。 赤で表記した近蹄類の分岐のみ白亜紀と古第3紀の境界にあたる6600万年前より後である<ref name="長谷川">[[#長谷川(2020)|長谷川(2020)]] p.270.</ref>。 {{Clade|style=font-size:80%;line-height:100% |label1='''哺乳類'''<ref>[[#キャンベル11版|キャンベル11版]] pp.852-853</ref>|sublabel1={{Sname||Mammalia}} |1={{Clade |1=[[単孔目|単孔類]] {{sname||Monotremata}} [[File:Genera mammalium Ornithorhynchus anatinus.jpg|60 px|''Ornithorhynchus anatinus'']] |label2=[[獣亜綱]]<ref>[[#キャンベル11版|キャンベル11版]] pp.852-853。なおキャンベル11版では「有胎盤類」ではなく「真獣類」と書いてあるが、現生生物に限定した場合は両者は一致するので、両者を区別しなかった。</ref> |sublabel2={{sname||Theria}} |2={{Clade |label1=[[有袋類]] |sublabel1={{sname||Marsupialia}}<ref>[[#MKQ(2015)|MKQ(2015)]]の「Introduction」節</ref><ref>{{Cite journal|author=Maria A. Nilsson et al.|title=Tracking Marsupial Evolution Using Archaic Genomic Retroposon Insertions|year=2010|journal=PLoS biology|doi=10.1371/journal.pbio.1000436}}</ref> |1={{Clade |1=[[オポッサム形目]] {{sname||Didelphimorphia}} [[File:A hand-book to the marsupialia and monotremata (Plate XXXII) (white background).jpg|60 px]] |2={{Clade |1=[[少丘歯目]] {{sname||Paucituberculata}} [[File:Phylogenetic tree of marsupials derived from retroposon data (Paucituberculata).png|60 px]] |label2=[[オーストラリア有袋類]]|sublabel2={{Sname||Australidelphia}} |2={{Clade |1=[[ミクロビオテリウム目]] {{sname||Microbiotheria}} |label2={{Sname||Euaustralidelphia}} |2={{Clade |1={{Clade |1=[[フクロモグラ形目]] {{sname||Notoryctemorphia}} [[File:Phylogenetic tree of marsupials derived from retroposon data (Notoryctemorphia).png|60 px]] |2=[[バンディクート形目]] {{sname||Peramelemorphia}} [[File:Phylogenetic tree of marsupials derived from retroposon data (Paramelemorphia).png|60 px]] |3=[[フクロネコ形目]] {{sname||Dasyuromorphia}} [[File:Phylogenetic tree of marsupials derived from retroposon data (Dasyuromorphia).png|70 px]] }} |2=[[双前歯目]] {{Sname||Diprotodontia}} [[File:A monograph of the Macropodidæ, or family of kangaroos (9398404841) white background.jpg|60px|Macropodidæ]] }} }} }} }} |label2=[[有胎盤類]]<ref>[[#TRM et al.(2016)|TRM et al.(2016)]]の「Abstruct」節、「Introduction」節</ref><ref name="名前なし-1">[[#EOSF(2017)|EOSF(2017)]]の「Introduction」の節</ref> |sublabel2={{sname||Placentalia}} |2={{Clade |label1=[[アフリカ獣類]] |sublabel1={{sname||Afrotheria}}<ref>[[#SS(2012)|SS(2012)]]の「Abstract」節</ref> |1={{Clade |label1=[[アフリカ食虫類]] |sublabel1={{sname||Afroinsectiphilia}}<ref name="長谷川" /> |1={{Clade |sublabel1=<ref name="長谷川" /> |1=[[管歯目]] {{sname||Tubulidentata}} [[File:Aardvark2 (PSF) colourised.png|60 px]] |sublabel2=<ref name="長谷川" /> |2=[[長脚目]] {{sname||Macroscelidea}} [[File:Rhynchocyon chrysopygus-J Smit white background.jpg|50 px]] |sublabel3=<ref name="長谷川" /> |3=[[アフリカトガリネズミ目]] {{sname||Afrosoricida}} [[File:Brehms Thierleben - Allgemeine Kunde des Thierreichs (1876) (Tenrec ecaudatus).jpg|50 px]][[File:The animal kingdom, arranged according to its organization, serving as a foundation for the natural history of animals (Pl. 18) (Chrysochloris asiatica).jpg|50 px]] }} |label2=[[近蹄類]] |sublabel2={{sname||Paenungulata}}<ref name="長谷川" /> |2={{Clade|color=red |sublabel1=<ref name="長谷川" /> |1=[[長鼻目]] {{sname||Proboscidea}} [[File:Elephas africanus - 1700-1880 - Print - Iconographia Zoologica - (white background).jpg|70 px]] |sublabel2=<ref name="長谷川" /> |2=[[海牛目]] {{sname||Sirenia}} [[File:Manatee white background.jpg|70 px|''Trichechus'']] |sublabel3=<ref name="長谷川" /> |3=[[イワダヌキ目]] {{sname||Hyracoidea}} [[File:DendrohyraxEminiSmit white background.jpg|50 px]] }} }} |label2=[[異節類]] |sublabel2={{sname||Xenarthra}}<ref name="Xenarthra">[[#SCF+(2016)|SCF+(2016)]]の「Introduction」節。なお原文には「Pilosa」という名称は登場せず、FolivoraとVermilinguaを束ねるクレードである旨が述べられているだけだが、これらを束ねるクレードは通常「Pilosa」と呼ばれるのでこれを補った。</ref> |2={{Clade |1=[[有毛目]] {{sname||Pilosa}} <ref name="Xenarthra" />[[File:Natural history of the animal kingdom for the use of young people (Plate XV) (Myrmecophaga tridactyla).jpg|50 px|''Myrmecophaga tridactyla'']] |2=[[被甲目]] {{sname||Cingulata}} [[File:Nine-banded-Armadillo white background.jpg|50 px|''Dasypus novemcinctus'']] }} |label3=[[北方真獣類]] |sublabel3={{sname||Boreoeutheria}}<ref>[[#DCK+(2017)|DCK+(2017)]]の「Introduction」の節</ref><ref name="名前なし-1"/> |3={{Clade |label1=[[真主齧上目|真主齧類]] |sublabel1={{sname||Euarchontoglires}}<ref>[[#KHJ(2013)|KHJ(2013)]]の「Introduction」の節</ref> |1={{Clade |label1=[[グリレス類]] |sublabel1={{Sname||Glires}} |1={{Clade |1=[[齧歯目]] {{sname||Rodents}} [[File:Ruskea rotta.png|50 px]][[File:Chipmunk (white background).png|50px]] |2=[[兎形目]] {{sname||Lagomorphs}} [[File:Lepus timidus - 1700-1880 - Print - Iconographia Zoologica -(white background).jpg|50 px]]}} |label2=[[真主獣類]] |sublabel2={{Sname||Euarchonta}} |2={{Clade |1=[[霊長目]] {{sname||Primates}} [[File:Cynocephalus doguera - 1700-1880 - Print - Iconographia Zoologica - Special Collections University of Amsterdam - (white background).tiff|60 px]][[File:FMIB 46849 Primates Maki Moccoe Lemur catta (white background).jpeg|40px]] |2=[[皮翼目]] {{sname||Dermoptera}} [[File:Cynocephalus volans Brehm1883 (white background).jpg|50 px]] |3=[[登木目]] {{sname||Scandentians}} [[File:Die Säugthiere in Abbildungen nach der Natur, mit Beschreibungen (Plate 34) (white background).jpg|60 px]] }}}} |label2=[[ローラシア獣上目|ローラシア獣類]] |sublabel2={{sname||Laurasiatheria}}<ref name="Laurasiatheria-1">[[#DCK+(2017)|DCK+(2017)]]の「Introduction」の節</ref><ref name="Laurasiatheria-2">[[#EOSF(2017)|EOSF(2017)]]の「Introduction」の節</ref> |2={{Clade |1=[[真無盲腸目]] {{sname||Eulipotyphla}}(かつての[[食虫目]]の一部。詳細は同項参照)[[File:Mole white background.jpg|50 px|Talpidae]] |2={{Clade |1=[[翼手目]] {{sname||Chiroptera}} [[File:Vampire bat white background.jpg|50 px|Desmodontinae]] |2=[[奇蹄目]] {{sname||Perissodactyla}} [[File:Equus quagga (white background).jpg|50 px|''Equus quagga'']] [[File:Rhino white background.jpg|60 px|''Diceros bicornis'']][[File:Tapir white background.jpg|50px]] |3=[[鯨偶蹄目]] {{sname||Cetartiodactyla}} [[File:Cladogram of Cetacea within Artiodactyla (Camelus bactrianus).png|50 px]][[File:Recherches pour servir à l'histoire naturelle des mammifères (Pl. 80) (white background).jpg|50 px]][[File:The deer of all lands (1898) Hangul white background.png|50px]][[File:Giraffa camelopardalis Brockhaus white background.jpg|50px]][[File:Walia ibex illustration white background.png|50 px|''Capra walie'']][[File:Voyage en Abyssinie Plate 2 (white background).jpg|50px]][[File:Eubalaena glacialis NOAA.jpg|70 px|''Eubalaena glacialis'']][[File:Lipotes vexillifer.png|50px]] |label4=[[広獣類]]<ref name="Laurasiatheria-1" /><ref name="Laurasiatheria-2" /><ref name="長谷川" />|sublabel4={{Sname||Ferae}} |4={{Clade |1=[[食肉目]] {{sname||Carnivora}} [[File:Stamp-russia2014-save-russian-cats-(tiger).png|70 px]][[File:Dogs, jackals, wolves, and foxes (Plate XI).jpg|50px]][[File:Ursus thibetanus - 1700-1880 - Print - Iconographia Zoologica - Special Collections University of Amsterdam -(white background).jpg|50px]][[File:Zalophus californianus J. Smit (white background).jpg|40 px|''Zalophus californianus'']][[File:Fitch white background.png|50px]] |2=[[鱗甲目]] {{sname||Pholidota}} [[File:FMIB 46859 Pangolin a grosse queue white background.jpeg|50 px|Manidae]] }} }} }} }} }} }} }} }} 上記の系統樹の凡例: * 系統樹は2012年から2017年までの複数の引用文献(系統樹内を参照)、および2020年のサーベイ論文<ref name="長谷川サーベイ">[[哺乳類#長谷川(2020)|長谷川(2020)]]</ref>を用いて作成した。 * 系統樹中に登場する引用は、その分岐を明示してある参考文献を記したものである。例えば「獣亜綱」のところについている引用([[哺乳類#キャンベル11版|キャンベル11版]] pp.852-853)は「獣亜綱」が「有袋類」と「有胎盤類」に分岐する事を記してある文献である * 論文から引用した場合は、論文本体ではなく「Abstract」や「Introduction」の節からのみ引用した。これは論文本体の記述は(論文発表時点では)定説になっていない新説であるのに対し、これらの節は既存研究を客観的かつ網羅的に記載するためのものだからである。ただしサーベイ論文<ref name="長谷川サーベイ" />や書籍<ref>[[哺乳類#キャンベル11版|キャンベル11版]]</ref>に関してはその限りではない。 上記の系統樹に対して生物学者の間でどの程度合意が取れているかは、系統樹の分岐箇所により異なるが、最初の {{clade|{{clade |label1= |1= [[単孔目|単孔類]] |label2= [[獣亜綱]] |2={{clade |1=[[有袋類]] |label1= |label2= |2=[[有胎盤類]] }} }}|label1=哺乳類}} の部分に関しては、多くの化石の証拠と分子系統解析の結果から合意が取れている<ref name=":1" />。 === 有胎盤類 === 哺乳類 - 獣亜綱の下にあたる有胎盤類内の系統が {{Clade|{{Clade |1=[[アフリカ獣類]] |2=[[異節類]] |3=[[北方真獣類]] }}|label1=[[有胎盤類]]}} という3つに分かれる事は概ね合意されている<ref>[[哺乳類#TRM et al.(2016)|TRM et al.(2016)]]の「Abstract」の節。なおカッコ内に例示した動物の例は同文献のFig.2から。</ref><ref name=":2">[[哺乳類#EOSF(2017)|EOSF(2017)]]の「Introduction」の節</ref>。 なお、この3つの系統は[[パンゲア大陸]]の分裂と密接に関係している事が強く示唆されており<ref name=":10">[[哺乳類#長谷川(2020)|長谷川(2020)]] pp.271-272.</ref><ref name="hyakka-102-103">[[哺乳類#日本動物学会2018|日本動物学会2018]] pp.102-103.</ref>、実際パンゲア大陸の分裂により誕生した[[アフリカ大陸]]、[[南アメリカ大陸]]、[[ローラシア大陸]]に対応する地域にアフリカ獣類、異節類、北方獣類がそれぞれ分布する<ref name=":10" />。 しかしこれらの大陸の分裂の順番と年代は、分子系統解析が明らかにするアフリカ獣類、異節類、北方獣類の分岐の順番と年代とは異なっている<ref name=":10" />。まず順番に関して言えば分子系統解析はこれら3つの系統がほぼ同時期に分岐した事を示唆する<ref name=":10" />。 また時期に関しても、アフリカ大陸と南アメリカ大陸の分岐の時期がおよそ1億500万年前だとされているのに対し<ref name=":10" />、これら3系統の分岐はおよそ8800〜9000万年前と推定されており<ref name="長谷川" />、両者の年代は大きく異なっている。もちろん分子系統解析は(分岐が何世代前に起こったかはある程度推測できるものの)分岐が起こった年代を直接推定できるわけではなく、年代の推定には仮定をいくつも重ねなければならないという事情はあるが、2010年以降の研究は大陸の分裂よりも3系統の分岐のほうがはっきりと後に起こったとする傾向がある<ref name=":10" />。 こうした差がある原因は、大陸は分裂後も距離的に近くにあった為、しばらくは動物相の交流が可能であった為と考えられる<ref name=":10" />。実際、陸地が分裂状態にあっても海を渡った漂流が居住地域を拡大したと考えられる例は(パンゲア大陸の分裂以外で)いくつか存在し<ref name=":10" />、このような推定を傍証する<ref name=":10" />。 なお上記3系統はほぼ同時期に分岐したので<ref name="長谷川" />、これらのうちどれが最初に分岐したのかに関する合意は2017年現在存在しない<ref name=":0">[[哺乳類#TRM et al.(2016)|TRM et al.(2016)]]の「Abstract」の節と「Introduction」の節。</ref><ref name=":2" />。すなわち、下記の3つのいずれの分類が正しいのか決着がついていない<ref name=":0" /><ref name=":2" />: # 北方真獣類 + [[アトラントゲナータ]](「大西洋で生じた分化」<ref>Peter J. Waddell, Ying Cao, Masami Hasegawa, David P. Mindell, “[https://doi.org/10.1080/106351599260481 Assessing the Cretaceous Superordinal Divergence Times within Birds and Placental Mammals by Using Whole Mitochondrial Protein Sequences and an Extended Statistical Framework],” ''Systematic Biology'', Volume 48, Issue 1, March 1999, Pages 119–137.</ref>あるいは「大西洋類」の意<ref name="parker">スティーヴ・パーカー編、日暮雅通・中川泉 訳「第7章 哺乳類」『生物の進化大事典』養老孟司 総監修・犬塚則久 4-7章監修、三省堂、2020年、416-417頁。</ref>:異節類+アフリカ獣類) # アフリカ獣類 + {{仮リンク|エクサフロプラセンタリア|en|Exafroplacentalia}}(「アフリカ獣類以外の有胎盤類」の意<ref>Peter J. Waddell, Hirohisa Kishino, Rissa Ota, “[https://doi.org/10.11234/gi1990.12.141 A Phylogenetic Foundation for Comparative Mammalian Genomics],” ''Genome Informatics'', Volume 12, Japanese Society for Bioinformatics, 2001, Pages 141-154.</ref>:異節類+北方真獣類) # 異節類 + [[エピテリア]](「上獣類」の意<ref>日本哺乳類学会 種名・標本検討委員会 目名問題検討作業部会 (2003) では「上獣巨目」とされた。</ref>:アフリカ獣類+北方真獣類) 形態学的な研究はかなりの部分3.を支持するものの<ref name=":2" />、ほとんどの分子系統解析は1.か2.を支持する<ref name=":2" />。 決着がつかない原因は、(おそらくは[[パンゲア大陸]]や[[ゴンドワナ大陸]]の分裂に伴う連続的で急速な発散によって)上記3系統の遺伝子があまりに大きくかけ離れているため分子系統解析で3系統の関係を探るのが容易ではないからである<ref name=":0" />。 ==== アフリカ獣類 ==== アフリカ獣類に属する系統群は、海へ進出した海獣類を除き、2000万年前まで遡るとアフリカ大陸、マダガスカル、アラビア半島といったアフリカ周辺に限られるため<ref name="長谷川" />、その名がつけられた<ref name="長谷川" />。アフリカ獣類は大きく2つの系統に分かれており<ref name="長谷川" />、それぞれアフリカ食虫類、近蹄類と呼ばれる。 ==== 北方真獣類 ==== 北方真獣類は{{Clade|{{Clade |label1= |1=[[真主齧上目|真主齧類]] |label2= |2=[[ローラシア獣上目|ローラシア獣類]] }}|label1=[[北方真獣類]]}} のように分岐するが<ref name=":3">[[哺乳類#DCK+(2017)|DCK+(2017)]]の「Introduction」の節</ref><ref name=":2" />、真主齧類内部の分岐、およびローラシア獣類内部の分岐は2017年現在未確定な部分が多い<ref name=":3" /><ref name=":2" />。 ==== 真主齧類 ==== 真主齧類は[[グリレス大目|'''グリレス類''']]({{sname||Glires}}、ネズミ目、ウサギ目)と[[真主獣大目|'''真主獣類''']]({{sname||Euarchonta}}、霊長目、齧歯目、ヒヨケザル目、ツパイ目)に系統分類できるとされるものの、真主齧類内の目の系統関係は2013年現在曖昧なままである<ref name=":4">[[哺乳類#KHJ(2013)|KHJ(2013)]]の「Introduction」の節</ref>。特にツパイ目の位置づけの決定は2017年現在でも難しい<ref name=":2" />。ツパイ目が霊長目やヒヨケザル目の姉妹群となる研究成果がある一方<ref>{{Cite journal|last=Foley|first=Nicole M.|last2=Springer|first2=Mark S.|last3=Teeling|first3=Emma C.|date=2016-07-19|title=Mammal madness: Is the mammal tree of life not yet resolved?|url=http://rstb.royalsocietypublishing.org/content/371/1699/20150140|journal=Philosophical Transactions of the Royal Society B|volume=371|issue=1699|page=20150140|doi=10.1098/rstb.2015.0140|issn=0962-8436|pmid=27325836|pmc=4920340}}</ref><ref name=":8">{{Cite journal|last=Zhou|first=Xuming|last2=Sun|first2=Fengming|last3=Xu|first3=Shixia|last4=Yang|first4=Guang|last5=Li|first5=Ming|date=2015-03-01|title=The position of tree shrews in the mammalian tree: Comparing multi-gene analyses with phylogenomic results leaves monophyly of Euarchonta doubtful|journal=Integrative Zoology|volume=10|issue=2|pages=186–198|doi=10.1111/1749-4877.12116|issn=1749-4877|pmid=25311886}}</ref>、グリレス類の姉妹群とする成果<ref name=":9">{{Cite journal|last=Kumar|first=Vikas|last2=Hallström|first2=Björn M.|last3=Janke|first3=Axel|date=2013-04-01|title=Coalescent-Based Genome Analyses Resolve the Early Branches of the Euarchontoglires|journal=PLOS ONE|volume=8|issue=4|pages=e60019|doi=10.1371/journal.pone.0060019|issn=1932-6203|pmid=23560065|pmc=3613385}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Meredith|first=Robert W.|last2=Janečka|first2=Jan E.|last3=Gatesy|first3=John|last4=Ryder|first4=Oliver A.|last5=Fisher|first5=Colleen A.|last6=Teeling|first6=Emma C.|last7=Goodbla|first7=Alisha|last8=Eizirik|first8=Eduardo|last9=Simão|first9=Taiz L. L.|date=2011-10-28|title=Impacts of the Cretaceous terrestrial revolution and KPg extinction on mammal diversification|url=http://science.sciencemag.org/content/334/6055/521|journal=Science|volume=334|issue=6055|pages=521–524|doi=10.1126/science.1211028|issn=0036-8075|pmid=21940861}}</ref>や、真主齧類で最も祖先的だとする成果<ref name=":8" /><ref name=":9" />もあり、後者2つのいずれかが正しいとすれば、真主獣類という系統は否定されることになる。 なお歴史的には真主齧類に翼手目を加えたものを「主齧類」と呼んでいたが<ref name="長谷川" />、分子系統解析により翼手目は別系統であることが分かったので、主齧類から翼手目を除いたものを「真主齧類」と名付けた<ref name="長谷川" />。 ==== ローラシア獣類 ==== ローラシア獣類内の目の系統関係の確立は難しく<ref name=":3" />、2017年現在確立されているのは、真無盲腸目が最も早期に分岐したことと、食肉目と[[センザンコウ目|鱗甲目]]が姉妹群であることだけである<ref name=":3" /><ref name=":2" />。ローラシア獣類内における奇蹄目の位置づけの決定は特に難しい<ref name=":2" />。 なお、翼手目、奇蹄目、鱗甲目、食肉目の4つを総称して[[ペガサス野獣類]]と呼ぶ事が[[レトロトランスポゾン]]の解析から提案されたが、その後の分子系統解析の研究<ref>{{Cite journal|last1=Matthee|first1=Conrad A.|last2=Eick|first2=Geeta|last3=Willows-Munro|first3=Sandi|last4=Montgelard|first4=Claudine|last5=Pardini|first5=Amanda T.|last6=Robinson|first6=Terence J.|year=2007|title=Indel evolution of mammalian introns and the utility of non-coding nuclear markers in eutherian phylogenetics|journal=[[:en:Molecular Phylogenetics and Evolution|Molecular Phylogenetics and Evolution]]|volume=42|issue=3|pages=827–837|doi=10.1016/j.ympev.2006.10.002|pmid=17101283|pmc=}}</ref><ref>{{cite journal|last1=Springer|first1=M.S.|last2=Burk-Herrick|first2=A.|last3=Meredith|first3=R.|last4=Eizirik|first4=E.|last5=Teeling|first5=E.|last6=O'Brien|first6=S.J.|last7=Murphy|first7=W.J.|year=2007|title=The adequacy of morphology for reconstructing the early history of placental mammals|url=|journal=Systematic Biology|volume=56|issue=4|pages=673–684|doi=10.1080/10635150701491149|pmid=17661234}}</ref><ref>{{Cite journal|last1=Kitazoe|first1=Yasuhiro|last2=Kishino|first2=Hirohisa|last3=Waddell|first3=Peter J.|last4=Nakajima|first4=Noriaki|last5=Okabayashi|first5=Takahisa|last6=Watabe|first6=Teruaki|last7=Okuhara|first7=Yoshiyasu|year=2007|title=Robust Time Estimation Reconciles Views of the Antiquity of Placental Mammals|journal=[[PLOS ONE|PLoS ONE]]|volume=2|issue=4|pages=e384|doi=10.1371/journal.pone.0000384|pmid=17440620|pmc=1849890|editor1-last=Hahn|editor1-first=Matthew}}</ref><ref>{{Cite journal|last1=Zhou|first1=Xuming|last2=Xu|first2=Shixia|last3=Xu|first3=Junxiao|last4=Chen|first4=Bingyao|last5=Zhou|first5=Kaiya|last6=Yang|first6=Guang|year=2011|title=Phylogenomic Analysis Resolves the Interordinal Relationships and Rapid Diversification of the Laurasiatherian Mammals|journal=[[:en:Systematic Biology|Systematic Biology]]|volume=61|issue=1|pages=150–164|doi=10.1093/sysbio/syr089|pmid=21900649|pmc=3243735}}</ref><ref>{{cite journal|last1=Tsagkogeorga|first1=G|last2=Parker|first2=J|last3=Stupka|first3=E|last4=Cotton|first4=JA|last5=Rossiter|first5=SJ|year=2013|title=Phylogenomic analyses elucidate the evolutionary relationships of bats (Chiroptera)|journal=Current Biology|volume=23|issue=22|pages=2262–2267|doi=10.1016/j.cub.2013.09.014|pmid=24184098}}</ref>で否定されている。 === 有袋類 === 有袋類は系統樹に挙げた7つの目からなっており<ref name=":5">[[哺乳類#MKQ(2015)|MKQ(2015)]]の「Introduction」の節</ref>、20世紀にはこれら7つを * [[オーストラリア有袋大目|オーストラリア有袋類]]({{sname||Australidelphia}}。[[ミクロビオテリウム目]]、[[フクロネコ目]]、[[バンディクート目]]、[[双前歯目]]、[[フクロモグラ目]]の5つ) * [[アメリカ有袋大目|アメリカ有袋類]] ({{sname||Ameridelphia}}。[[オポッサム目]]、[[ケノレステス目]]の2つ) の2つに分類していたが<ref name=":5" />、21世紀における分子系統解析の研究はこの2つの分類を否定している<ref name=":5" />。 * なお上では南米に住むはずの[[ミクロビオテリウム目]]を形態学的特徴の類似性によりオーストラリア有袋類に分類しているが<ref name=":5" /><ref name=":6">[[哺乳類#GJKN(2015)|GJKN(2015)]]の「Introduction」の節</ref>、この事自身は分子系統解析においても支持されており<ref name=":6" />、[[ミクロビオテリウム目]]はオーストラリア有袋類の他の4つの目の姉妹群である<ref name=":6" />。 * 一方、[[ミクロビオテリウム目]]以外の4つのオーストラリア有袋類の関係性は2015年現在未確定である<ref name=":6" />。 * [[化石]]の形態学的な解析によると[[オポッサム目]]は他の有袋類全ての姉妹群であるが<ref name=":7">[[哺乳類#GJKN(2015)|GJKN(2015)]]の「Introduction」の節の直後</ref>、一方で分子系統解析によれば[[ケノレステス目]]が他の有袋類全ての姉妹群であるという研究成果が複数ある<ref name=":7" />。これら2つの成果は明らかに矛盾しているが、どちらが正しいのかは2015年現在定まっていない<ref name=":7" />。 == 日本における目名の表記法に関する議論 == [[日本]]では[[明治維新]]以来、[[目 (分類学)|目]]名には「齧歯目」「霊長目」等、原名のラテン語をおおむね忠実に漢訳した漢名が用いられてきた(一般にはしばしば、「齧歯類」「霊長類」のように「類」が慣用されてきた)。だが、1988年[[文部省]]の『'''[[学術用語集]] 動物学編'''』において、目以下の名称をすべてカナ書きにし、目名は「ネズミ目」「サル目」のように、それぞれの動物群を代表する動物名(カナ書き)に変えるという改定がなされた。 しかし、たとえば「ネコ目」(食肉目)のネコ亜目とアシカ亜目、イヌ上科とネコ上科のように、亜目、上科のような比較的高い階層の分類階級による動物群は、それぞれ他のグループとは明らかに異なる特有の性質をもつものであり、1つの下位分類群の名前(「ネコ」)によって、目という大きなグループの全体(ネコ・イヌ・イタチ・クマ・アライグマ・パンダ・アシカ・アザラシ・セイウチなどからなる食肉目)を代表させることは、必ずしも直観的な分かりやすさには繋がらない。 さらに、近年の研究により、[[偶蹄目]]とクジラ目の詳細な系統が明らかにされ、「[[鯨偶蹄目]]」が創設された。これをカナ書きの原則に当てはめると「クジラウシ目」となる。また、「[[サル目]][[ヒト科]]」は教科書にも全く採用されていない。 また、以前からの慣用として、どの分類階級であるかにかかわらず、「○○の仲間」を「○○類」と書くことがあるが、かつての漢名ならば、例えば「齧歯類」と言えば、それが「目」の階層の「齧歯目」を指すことは明らかであり、他の階層との混同のおそれは無かった。それが、「齧歯目」が「ネズミ目」となることによって、「ネズミ類」という言葉が示す可能性のある階層の範囲が目のレベルにまで広がり、混乱が拡大されたという側面もある。つまり、旧来の用例ならば、例えば「齧歯類」にネズミの類とリスの類、ヤマアラシの類が含まれることは容易に認識できるが、新しい用例で「ネズミ類」とした場合、これが狭義のネズミ類なのか、リスやヤマアラシの類をも含んだ概念なのかが把握しにくくなってしまっている。 この分類名の改定は、分類学の根本理念に対して充分に配慮した上でのものではなく、また平易化にむしろ逆行する部分もあることから、学界内でも現在なお議論が多い。現状では、旧来の漢名をそのまま用いたり、新しいカナ名と併記したりする例も多い。 日本哺乳類学会・目名問題検討作業部会では、基本的に従来の漢字名で統一すべきという論文を発表している<!-- 「事実上、用語集の再改定を求めている」は独自研究と思われるので除去 --><ref name="yokohata" />。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * [大泰司②(1998)] {{Cite book|和書|author=大泰司紀之|authorlink=大泰司紀之|others =|title = 哺乳類の生物学②形態|origyear = |edition = |year = 1998|publisher = 東京大学出版会|isbn = 4-13-064232-4|page = |ref = 大泰司②(1998)}} * [キャンベル11版] {{Cite book|title=キャンベル生物学 原書11版|date=2018/3/20|publisher=[[丸善出版]]|ref=キャンベル11版|isbn=978-4621302767}} **原著:{{Cite book|title=Campbell Biology (11th Edition)|date=2016/10/29|publisher=Pearson|author2=Michael L. Cain|author=Lisa A. Urry|author3=Steven A. Wasserman|author4=Peter V. Minorsky|author5=Jane B. Reece|author6=Neil A. Campbell|isbn=978-0134093413}} * {{Cite book|和書|title=動物学の百科事典|date=2018/9/28|year=|publisher=丸善出版|author=公益社団法人日本動物学会|isbn=978-4621303092|ref=日本動物学会2018}} * [長谷川(2020)] {{Citation|和書|title=分子情報にもとづいた真獣類の系統と進化 |year=2020 |publisher=日本哺乳類学会 |url=https://doi.org/10.11238/mammalianscience.60.269 |journal=哺乳類科学 |volume=60 |issue=2 |series=哺乳類科学60巻記念特集1 哺乳類高次分類群の拡散―分子系統学と古生物学の最近の進展―|pages=269-278|access-date=2022-01-31|ref=長谷川(2020)|author=[[長谷川政美]] |ISSN=0385-437X |naid=130007884430}} *[DCK+(2017)]{{cite journal|last=Doronina|author=|first=Liliya|last2=Churakov|first2=Gennady|last3=Kuritzin|first3=Andrej|last4=Shi|first4=Jingjing|last5=Baertsch|first5=Robert|last6=Clawson|first6=Hiram|last7=Schmitz|first7=Jürgen|year=2017|title=Speciation network in Laurasiatheria: retrophylogenomic signals|journal=Genome Research|volume=27|issue=6|page=|pages=997–1003|ref=DCK+(2017)|doi=10.1101/gr.210948.116|pmid=28298429|pmc=5453332}} *[EOSF(2017)] {{Cite journal|last=Esselstyn|author=|first=Jacob A.|last2=Oliveros|first2=Carl H.|last3=Swanson|first3=Mark T.|last4=Faircloth|first4=Brant C.|year=|date=2017-08-26|title=Investigating Difficult Nodes in the Placental Mammal Tree with Expanded Taxon Sampling and Thousands of Ultraconserved Elements|journal=Genome Biology and Evolution|volume=9|issue=9|page=|pages=2308–2321|ref=EOSF(2017)|doi=10.1093/gbe/evx168|pmid=28934378|pmc=5604124}} *[GJKN(2015)] {{cite journal|last1=Gallus|author=|first1=A. Kumar|last2=Janke|first2=S.|last3=Kumar|first3=Vikas|last4=Nilsson|first4=M.A.|year=2015|title=Disentangling the relationship of the Australian marsupial orders using retrotransposon and evolutionary network analyses|journal=Genome Biol Evol|volume=7|issue=4|page=|pages=985–92|ref=GJKN(2015)|doi=10.1093/gbe/evv052|pmid=25786431|pmc=4419798}} *[KHJ(2013)] {{Cite journal|last=Kumar|author=|first=Vikas|last2=Hallström|first2=Bj&ouml;rn M.|last3=Janke|first3=Axel|year=|date=2017-04-1|title=Coalescent-based genome analyses resolve the early branches of the euarchontoglires|journal=[[PLOS ONE|PLoS One]]|volume=8|issue=(4)|page=|pages=|ref=KHJ(2013)|doi=10.1371/journal.pone.0060019|pmid=23560065|pmc=3613385}} *[MKQ(2015)] {{cite journal|last=May-Collado|author=|first=Laura J.|last2=Kilpatrick|first2=C. William|last3=Agnarsson|first3=Ingi|year=|date=2015-2-26|title=Mammals from ‘down under’: a multi-gene species-level phylogeny of marsupial mammals (Mammalia, Metatheria)|journal=PeerJ|volume=3|issue=e805|page=|ref=MKQ(2015)|doi=10.7717/peerj.805|pmid=25755933|pmc=4349131}} *[SCF+(2016)] {{Cite journal|last=Slater|first=Graham J.|last2=Cui|first2=Pin|last3=Forasiepi|first3=Analía M.|date=2016-02-24|title=Evolutionary Relationships among Extinct and Extant Sloths: The Evidence of Mitogenomes and Retroviruses|journal=Genome Biology and Evolution|volume=8|issue=(3)|pages=607-621|ref=SCF+(2016)|doi=10.1093/gbe/evw023|pmid=26878870|pmc=4824031|last4=Lenz|first4=Dorina|last5=Tsangaras|first5=Kyriakos|last6=Voirin|first6=Bryson|last7=Moraes-Barros|first7=Nadia de|last8=MacPhee|first8=Ross D. E.|last9=Greenwood|first9=Alex D.}} *[SS(2012)] {{cite journal|last=Svartman|author=|first=M.|year=2012|title=The Chromosomes of Afrotheria and Their Bearing on Mammalian Genome Evolution|journal=Cytogenetic and Genome Research|volume=137|issue=2–4|page=|pages=144–153|ref=SS(2012)|doi=10.1159/000341387|pmid=22868637|author2=Stanyon, R.}} *[TRM et al.(2016)] {{cite journal|last=Tarver|author=|first=James E.|last2=dos Reis|first2=Mario|last3=Mirarab|first3=Siavash|last4=Moran|first4=Raymond J.|last5=Parker|first5=Sean|last6=O’Reilly|first6=Joseph E.|last7=King|first7=Benjamin L.|last8=O’Connell|first8=Mary J.|last9=Asher|first9=Robert J.|year=2016|title=The Interrelationships of Placental Mammals and the Limits of Phylogenetic Inference|journal=Genome Biology and Evolution|volume=8|issue=2|page=|pages=330–344|ref=TRM et al.(2016)|doi=10.1093/gbe/evv261|pmid=26733575|pmc=4779606|first10=Tandy|last10=Warnow|first11=Kevin J.|last11=Peterson|first12=Philip C. J.|last12=Donoghue|first13=Davide|last13=Pisani|hdl=1983/64d6e437-3320-480d-a16c-2e5b2e6b61d4}} * {{Cite book|和書|author=動物命名法国際審議会|editor=野田泰一・西川輝昭|title=国際動物命名規約 第4版 日本語版 [追補]|publisher=日本分類学会連合|place=東京|date=2005-10|isbn=4-9980895-1-X|url=http://ujssb.org/iczn/index.html|ref={{SfnRef|ICZN 日本語版追補|2005}}}} == 外部リンク == * {{Cite web|和書|url=https://www.mammalogy.jp/list/index.html|title=世界哺乳類標準和名リスト|accessdate=2021/08/06|publisher=[[日本哺乳類学会]]|format=pdf}} * [http://tolweb.org/tree?group=Mammalia Tree of Life Web PJ] * {{Kotobank}} {{Commonscat|Animalia}} {{Wikispecies|Mammalia|哺乳類}} {{Wiktionary|哺乳類}} {{哺乳類}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほにゆうるい}} [[Category:哺乳類|*]]
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食材
食材(しょくざい、英: food ingredients)とは、料理の材料のこと。 多くの食材が、もとをたどれば植物か動物である。 食材は基本的には鮮度が高いうちに使うほうがよいとされている。 多くは常温で保管すると、腐敗が進行してしまう。このため、塩蔵、乾燥、燻煙、発酵、など様々な方法で食材の貯蔵性を高める工夫が古くから行われてきた。近年は冷蔵庫の登場で、これらの食材は新鮮な状態のまま長く貯蔵できるようになった。 主材料に対して、それに混ぜる副材料となる場合にはその食材を「具(ぐ)」または「具材(ぐざい)」と呼ぶ。近年では、むしろ「主材料」のように扱う場合が、例えば「具のないカレー」といったいった用法で示されることもあり、意味の拡張がある。
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食材とは、料理の材料のこと。
{{出典の明記|date=2013年5月}} '''食材'''(しょくざい、{{lang-en-short|food ingredients}})とは、[[料理]]の[[原材料|材料]]のこと<ref>広辞苑「食材」</ref>。 == 概要 == 多くの食材が、もとをたどれば[[植物]]か[[動物]]である。 食材は基本的には鮮度が高いうちに使うほうがよいとされている。 多くは常温で保管すると、腐敗が進行してしまう。このため、[[塩蔵]]、[[乾物|乾燥]]、[[燻製|燻煙]]、[[発酵]]、など様々な方法で食材の貯蔵性を高める工夫が古くから行われてきた。近年は[[冷蔵庫]]の登場で、これらの食材は新鮮な状態のまま長く貯蔵できるようになった。 主材料に対して、それに混ぜる副材料となる場合にはその食材を「[[wikt:具#名詞|具]]」(ぐ)または「[[wikt:具材|具材]]」(ぐざい)と呼ぶ<ref group="注釈">日本国語大辞典(小学館)、大辞泉(小学館)、大辞林(三省堂)、新明解国語辞典において、「具」は全ての辞書にあるが、「具材」を見出し語としているのは大辞泉、大辞林のみである。</ref>。近年では、むしろ「主材料」のように扱う場合が、例えば「具のないカレー」といったいった用法で示されることもあり、意味の拡張がある。 == 基本食材 == {{Div col}} ;植物系 *[[穀物]] - [[穀物|粉]] *[[野菜]] / [[山菜]] *[[果物]] *[[ハーブ]] *[[植物油]] *[[海藻]] *[[薬味]] ;動物系 *[[魚介類]] *[[食肉|肉]] *[[卵]] *[[乳#乳製品|乳]] *[[骨]]、[[軟骨]] *動物油([[ラード]]、牛脂 等) ;その他 *[[調味料]] *[[香料]] *[[加薬]] *[[乾物]] *[[食品添加物]] {{Div col end}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <references/> == 関連項目 == {{Div col}} * [[食材宅配サービス]] * [[食]] - [[食事]] - [[食品]] - [[食文化]] {{Div col end}} == 外部リンク == {{wiktionary}} {{commons&cat}} *{{kotobank}} {{料理}} {{Food-stub}} {{DEFAULTSORT:しよくさい}} [[Category:食材|*]] [[Category:食品]] [[Category:材料]]
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ブリュアンゾーン
ブリユアンゾーン(Brillouin Zone、略称BZ)とは、逆格子におけるウィグナーザイツ胞のことである。ブリルアンゾーン、ブリユアン域とも言われる。 ある逆格子点の周りの逆格子点の垂直二等分面によって作られる領域は、無数にできるが、その中で最小の領域のことを第一ブリユアンゾーンという。それ以外は、第二ブリユアンゾーン、第三、、と称していく。 ブリュアンゾーンは固体物理学において、波の散乱による回折条件を表現するために広く用いられている。これは、電子のエネルギーバンド理論などの説明に便利である。たとえば波数ベクトルがブリュアンゾーン上にあるとき、電子波のブラッグ反射が起きる。 量子力学では、波動関数をψとし、Rを実空間での結晶内の適当な実格子ベクトルとすると、 が成り立つようなkが存在する。このkは波数ベクトルである(参照:ブロッホの定理)。 波数ベクトルkの集合を波数空間(k空間)と呼ぶ。また、任意の逆格子ベクトルGとRとは、 という関係があるため、kとk+Gは等価であり、これは第一ブリュアンゾーンのみを考えればよいことを意味する。 ブリュアンゾーン内においてメッシュによって区分された各点(Sampling points)のことをk点(k-point)と呼ぶ。ブリュアンゾーン上のk点のうち、対称性の良い点に特に名称が付いており、X、L、Δ、Λ、Σなどの記号を付ける。ブリュアンゾーン内部はギリシャ文字で、表面はアルファベットで記す。 なお大文字のK点は、k点とは意味が異なり、対称性を表す記号Kのことを意味する。
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ブリユアンゾーンとは、逆格子におけるウィグナーザイツ胞のことである。ブリルアンゾーン、ブリユアン域とも言われる。 ある逆格子点の周りの逆格子点の垂直二等分面によって作られる領域は、無数にできるが、その中で最小の領域のことを第一ブリユアンゾーンという。それ以外は、第二ブリユアンゾーン、第三、、と称していく。 ブリュアンゾーンは固体物理学において、波の散乱による回折条件を表現するために広く用いられている。これは、電子のエネルギーバンド理論などの説明に便利である。たとえば波数ベクトルがブリュアンゾーン上にあるとき、電子波のブラッグ反射が起きる。
{{出典の明記|date=2015年9月}} [[ファイル:Brillouin zone.svg|thumb|逆格子とその第一ブリユアンゾーン。(a) 正方格子 の場合、(b) 六方格子の場合。]] '''ブリユアンゾーン'''(Brillouin Zone、略称'''BZ''')とは、[[逆格子]]における[[ウィグナーザイツ胞]]のことである。'''ブリルアンゾーン'''、'''ブリユアン域'''とも言われる。 ある逆格子点の周りの逆格子点の垂直二等分面によって作られる領域は、無数にできるが、その中で最小の領域のことを第一ブリユアンゾーンという。それ以外は、第二ブリユアンゾーン、第三、、と称していく。 ブリュアンゾーンは[[固体物理学]]において、波の散乱による回折条件を表現するために広く用いられている。これは、電子のエネルギーバンド理論などの説明に便利である。たとえば[[波数ベクトル]]がブリュアンゾーン上にあるとき、電子波の[[ブラッグ反射]]が起きる。 == 結晶内の電子とブリュアンゾーン == [[量子力学]]では、[[波動関数]]をψとし、'''R'''を実空間での結晶内の適当な実格子ベクトルとすると、 :<math> \psi_{\mathbf{k}} (\mathbf{r} + \mathbf{R}) = e^{i \mathbf{k} \cdot \mathbf{R} } \psi_{\mathbf{k}} (\mathbf{r}) </math> が成り立つような'''k'''が存在する。この'''k'''は[[波数ベクトル]]である(参照:[[ブロッホの定理]])。 波数ベクトル'''k'''の集合を'''[[波数空間]]'''(k空間)と呼ぶ。また、任意の逆格子ベクトル'''G'''と'''R'''とは、 :<math> e^{i \mathbf{G} \cdot \mathbf{R} } = 1 </math> という関係があるため、'''k'''と'''k+G'''は等価であり、これは第一ブリュアンゾーンのみを考えればよいことを意味する。 == k点 == [[ファイル:Brillouin_Zone_(1st,_FCC).svg|thumb|350px|対称性ラベルを付した[[面心立方格子構造]]の第一ブリュアンゾーン]] ブリュアンゾーン内においてメッシュによって区分された各点(Sampling points)のことを'''k点'''('''k-point''')と呼ぶ。ブリュアンゾーン上のk点のうち、[[対称性]]の良い点に特に名称が付いており、'''X'''、'''L'''、'''Δ'''、'''Λ'''、'''Σ'''などの記号を付ける。ブリュアンゾーン内部は[[ギリシア文字|ギリシャ文字]]で、表面はアルファベットで記す。 なお大文字のK点は、k点とは意味が異なり、対称性を表す記号'''K'''のことを意味する。 {| class="wikitable" !記号!!説明 |- |Γ||ブリュアンゾーンの中心(原点) |- !colspan="2"|単純な立方体 |- |M||辺の中心 |- |R||端点 |- |X||面の中心 |- !colspan="2"|面心立方 |- |K||2つの六角形面をつなぐ辺の中心 |- |L||六角形面の中心 |- |U||六角形面と正方形面をつなぐ辺の中心 |- |W||端点 |- |X||正方形面の中心 |- !colspan="2"|体心立方 |- |H||4つの辺をつなぐ端点 |- |N||面の中心 |- |P||3つの辺をつなぐ端点 |- !colspan="2"|六方晶 |- |A||六角形面の中心 |- |H||端点 |- |K||2つの長方形面をつなぐ辺の中心 |- |L||六角形面と長方形面をつなぐ辺の中心 |- |M||長方形面の中心 |} == 関連項目 == * [[逆格子空間]] * [[バンド理論]] * [[バンド構造]] * [[第一原理バンド計算]] * [[レオン・ブリルアン]] * [[波数]] * [[特殊点法]] {{DEFAULTSORT:ふりゆあんそおん}} [[Category:固体物理学]] [[Category:レオン・ブリルアン]] [[Category:物理学のエポニム]]
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線形化 (第一原理バンド計算)
第一原理バンド計算において線形化(せんけいか)とは、固有値問題を解くための手法の一つである。 全電子を扱うバンド計算手法であるAPW法において、その解くべき行列要素に求めるべきエネルギー固有値が含まれている問題を解決するために、線形化が行われた。 線形化は、基底関数に対して行われる。1 Ry程度の狭いエネルギー領域では基底関数が含む解くべきエネルギー固有値を排除した形(線形な表式)にすることが出来る。但し、この線形化に伴いゴーストバンドの問題が生ずる場合がある。
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ワールドトレードセンター (ニューヨーク)
ワールドトレードセンター、世界貿易センター(英語: World Trade Center, WTC)は、かつてアメリカ合衆国のニューヨーク市マンハッタン区のローワー・マンハッタンに位置していた高層ビルの集合体である。 ツインタワーと呼ばれる2棟の110階建てオフィスビルを中核に、計7棟のビルで構成されていた。1973年4月4日にオープンし、2001年9月11日に破壊されるまで存在していた。ツインタワー(1 WTCおよび2 WTC)は完成時に世界一の高さを誇り、2棟の巨大な直方体が並び立つ姿はニューヨーク市やマンハッタンのシンボルとなっていた。建設および経営にはニューヨーク・ニュージャージー港湾公社があたっていた。 2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件(9.11テロ事件)の標的の一つとなり、最終的にツインタワーが崩壊し、それに巻き込まれる形で残る5つのビルも半壊または全壊したことで壊滅状態に陥った。現在は跡地に1 ワールドトレードセンターをはじめとした6つの超高層ビルと9.11テロ事件の追悼施設などからなる新WTCが開業している。 ワールドトレードセンターの敷地には、1921年から1966年まで「ラジオ・ロウ(英語版)」と呼ばれる電気部品街が存在していた。1921年にハリー・シュネック (Harry Schneck) がコートランド・ストリートに「シティ・ラジオ」という店をオープンしたのを皮切りに、最終的にこの地には数ブロックにわたって広がる電気部品店の街が形成された。とあるビジネス記者によると、ラジオ・ロウは電子部品流通事業の起源であった。 1939年、ニューヨーク万国博覧会の中で、「World Peace through Trade(貿易を通じての世界平和)」をテーマに「ワールドトレードセンター」と名付けられたパビリオンが設置された。第二次世界大戦終結後の1946年、ローワー・マンハッタンに世界的な貿易センターを建設する提案がニューヨーク州議会によって承認され、当時のニューヨーク州知事トマス・E・デューイが建設計画の立案に乗り出したが、1949年になるとこのプロジェクトは頓挫した。 1959年、ミッドタウンの繁栄の影で経済的に停滞していたロウアー・マンハッタン地区の再興を望んでいたデイヴィッド・ロックフェラーは、「ダウンタウン・ロウアー・マンハッタン協会 (Downtown Lower Manhattan Association)」を設立し、いったんは頓挫した世界的な貿易センターの建設プロジェクトを復活させた。この計画を実現するため、ロックフェラーはニューヨーク港湾公社に協力を要請した。 ニューヨーク港湾公社のエグゼクティブ・ディレクターであるオースティン・トービン(英語版)はロックフェラーの計画を支持し、貿易センターの建設プロジェクトを強力に推進した。トービンは、このプロジェクトで建設されるものは単なる「世界的な貿易センター (world trade center)」ではなく、「ザ・ワールドトレードセンター (the World Trade Center)」という唯一無二の存在であるべきだと述べた。1962年1月までに、トービンはニューヨーク州・ニュージャージー州の両州政府から計画への支持を取りつけることに成功し、一帯を再開発して巨大なオフィスビルを複数作り、貿易関係の企業や公的機関を集積させるという「ワールドトレードセンター・コンプレックス」の建設が正式に認可された。 1961年に公開された当初の案では、ワールドトレードセンターはイースト川沿いの敷地に建設されることとなっていたが、最終的にハドソン&マンハッタン鉄道のターミナルがあり、ニュージャージー州との交通が便利なハドソン川沿いのラジオ・ロウ地区が建設用地として選ばれた。ラジオ・ロウに存在する事業者への移転費用の補償として、港湾公社は各事業の存続期間や売り上げの程度にかかわらず、すべての事業者に一律に3,000ドルを支払った。1965年3月、敷地がWTCの建設用地として買収され、翌1966年3月からラジオ・ロウの解体工事が開始された。1966年8月、起工式が執り行われ、WTCの建設工事が始まった。 1962年9月20日、港湾公社はワールドトレードセンターの主任建築士として日系アメリカ人のミノル・ヤマサキを選出したことを発表した。WTCの中心施設をツインタワーとするのはヤマサキのアイディアであり、彼のオリジナル案では2つのタワーはそれぞれ80階建のビルとなっていた。しかし、80階建のタワーでは港湾公社が設定した10,000,000平方フィート(930,000m2)以上のオフィススペース確保という条件をクリアできなかったため、最終的にツインタワーはそれぞれ110階建のビルとして建設されることになった。 1964年1月18日、ヤマサキによる建設計画案が一般公開され、ツインタワーが一辺208フィート(63.4m)の正方形底面をもつ直方体となることが明らかになった。オフィスフロアの外窓はひとつにつき幅18インチ(46cm)と細長いものになっていたが、これはヤマサキ自身の高所恐怖症の反映であり、フロアにいる人間が高度による恐怖を感じることがないよう配慮した結果だった。ヤマサキによる設計はさらに、ツインタワーの外壁をアルミニウム合金で被覆することを求めていた。WTCのデザインはヤマサキによるゴシック・モダニズム建築の独創的な表現であったほか、ル・コルビュジエの建築哲学が顕著に反映されていた。さらにヤマサキは、ツインタワーのデザインにイスラーム建築の特徴を取り入れていた。 各タワーの44階と78階にはエレベーターの乗り換え階「スカイロビー(英語版)」が設けられ、急行エレベーターをスカイロビーに直行させ、ここからさらに各階行の普通エレベーターに乗り換えさせるという方式になっていた。このシステムにより、効率的なエレベーターの運行が実現されるのと同時に、エレベーターシャフト数の削減により、フロアの使用可能面積が62%から75%に引き上げられた。WTCのツインタワーはシカゴのジョン・ハンコック・センターに続き、スカイロビーを採用した2例目の超高層ビルだった。ツインタワーにはそれぞれ99基のエレベーターが設けられ、両タワーの合計では198基のエレベーターが存在した。 ヤマサキによるデザインを実現しつつ十分な強度を得るため、構造エンジニア班はファズラー・ラーマン・カーンが開発したチューブ構造(英語版)を採用した。ツインタワーのチューブ構造は「フレームド・チューブ (framed-tube)」と呼ばれる設計であり、チューブ状に並べた外壁支柱とビル中心のコア支柱との間に床の梁を渡すことにより、柱や耐力壁のない広大なスペースを得ることができた。ツインタワーの外壁は、各面59本、合計236本の鉄骨支柱をチューブ状に密に配置したもので、外壁の一辺の長さは約63mだった。外壁支柱は事実上すべての水平荷重(風荷重など)を負担し、さらに鉛直荷重をコア支柱と分担するよう設計されていた。地上階には出入り口を設ける必要があり、支柱と支柱の間隔を広く取る必要があったため、外壁支柱は7階付近から1本のものがフォークのように3本に分かれ、そのまま最上階まで達する設計となっていた。各タワーの中心部(コア)には47本のコア支柱があり、すべてのエレベーター(各99基)および非常階段(各3本)もコアに集中的に設置されていた。 耐火被覆材を吹きつけた外壁支柱・コア支柱でつくられるチューブ構造は、エンパイアステートビルのような(耐火被覆に石材を使用する)建築物よりも軽量かつ柔軟であるため、風に対しても横揺れしやすい性質をもっていた。ニューヨーク港に面したローワー・マンハッタンは風が強く、横揺れは深刻な問題として懸念された。ツインタワーの設計には風洞実験が用いられており、タワー内部の人間が耐えられる横揺れのレベルも実験により評価された。多くの被験者はネガティブな反応を示し、めまいなどの体の不調を訴えた。横揺れを低減するため、主任技術者レスリー・ロバートソン(英語版)は、アラン・ダヴェンポートとともに粘弾性ダンパー (viscoelastic damper) を開発した。約1万個の粘弾性ダンパーが、各タワーの外壁支柱と床の間に設置され、(いくつかの他の改良点とともに)横揺れを許容できるレベルに抑えることに成功した。 ツインタワーの107階から110階にかけては、「ハットトラス (hat trusses)」と呼ばれる構造が設けられていた。ハットトラスは、タワー屋上に設けられる予定の通信アンテナの荷重を支持するためのものだった。1978年、1 WTC(北タワー)の屋上に実際にアンテナが設置されたが、2 WTCにアンテナが設置されることはなかった。 1965年3月、港湾公社はワールドトレードセンター建設用地にあたる土地(ラジオ・ロウ)の買収を開始した。翌1966年3月21日には、13ブロックにわたって広がるラジオ・ロウの低層ビル群を取り壊すための解体工事が始まった。ラジオ・ロウの解体が完了したあとの1966年8月5日、起工式が執り行われ、WTCの建設工事が始まった。 WTCの敷地は埋め立て地であり、岩盤は地下20mに位置していた。基礎工事を行うには、まず掘削時にハドソン川から水が侵入するのを防ぐ必要があり、建設用地一帯に、バスタブ状の地下壁(通称ザ・バスタブ(英語版))を築かねばならなかった。この地下壁を施工するにあたり、港湾公社のチーフエンジニアはスラリー壁(英語版)工法を選択した。この工法は、掘削と同時にスラリーと呼ばれるベントナイト混合物を溝に注ぎこみ、溝をスラリーで満たすことで地下水の流入を封じ、掘削の完了後に鋼鉄のケージを溝に沈め、続いてコンクリートを注入すると、スラリーは溝から押し出され、コンクリートの地下壁が完成するというものだった。地下壁の完成までには14か月を要したが、バスタブの建設は敷地内部で掘削を始めるために必須だった。 バスタブに囲われた敷地からは92万立方メートルもの大量の土砂が掘り出され、敷地西側に隣接するハドソン川の埋め立てに利用された。形成された埋立地は「バッテリー・パーク・シティ」と呼ばれ、1985年にはこの地に「ワールドフィナンシャルセンター」と呼ばれる高層オフィスビル群がオープンした。 建設用地の地下を通るパストレインの鉄道トンネルは、地下鉄の新駅が1971年にオープンするまでの間、建設工事中も運行を続けた。トンネルは支柱で宙に浮かされ、バスタブ内を渡されており、その中をパストレインが走った。敷地の地下には約2,000台の車を収容できる大駐車場や、ショッピングモールなども建設された。 基礎工事が完了したあとの1968年8月、1 WTC(北タワー)の建設工事が開始された。翌1969年1月には2 WTC(南タワー)の建設も始まった。ツインタワーの建設ではプレハブ工法が大々的に用いられ、建設プロセスの高速化が果たされた。1970年12月23日、北タワーの上棟式(トッピング・アウト)が行われた。翌1971年の7月19日には南タワーの上棟式が行われた。北タワーの最初のテナントは1970年12月15日に入居し、1972年1月には南タワーにも最初のテナントが入った。 1 WTCは1972年に、2 WTCは1973年に完成した。ツインタワーが完成した時点で、港湾公社はワールドトレードセンターの建設に約9億ドルを費やしていた。1973年4月4日、WTCのオープニング式典が挙行され、ツインタワーは正式に開業した。 ワールドトレードセンターの建設計画は多くの論争を呼んだ。WTCの建設予定地である「ラジオ・ロウ(英語版)」地区には、何百もの商工業者と約100人の住民が存在しており、その多くは立ち退きを求められることに対して猛烈に反発した。1962年6月、立ち退きの対象となった事業者らは結束して港湾公社の土地収用権に異議を申し立て、その差し止めを請求した。港湾公社との法的な争いは最終的に合衆国最高裁判所まで持ち込まれたが、最高裁判所は1963年に事業者側の訴えを棄却し、立ち退きの実施が確定した。 民間の不動産デベロッパーやエンパイアステートビルの所有者ローレンス・ウィーン(英語版)らは、公的に助成されたWTCのオフィス物件が、(すでにオフィス物件の供給過剰状態にある)一般の市場に解き放たれ、民間セクターと競合することに対しての懸念を表明した。計画の妥当性自体を疑問視する声もあり、WTCプロジェクトを「誤った社会的優先事項」と表現する見方もあった。 アメリカ建築家協会ほかの団体は、ツインタワーのデザインを美的観点から批判した。都市計画についての著作を多く持つルイス・マンフォードは1967年、WTCのような最新の超高層ビル群について、「金属とガラスでできた書類用キャビネットに過ぎない」と評した。ツインタワーのオフィスの窓は1つあたりの幅が46cmと狭く、眺望は常に窓枠(支柱)で遮られていたため非常に不評だった。社会学者・活動家のジェイン・ジェイコブズは、ニューヨークのウォーターフロントは住民の憩いの場として保存されるべきだと主張した。 ワールドトレードセンターは、ツインタワーと呼ばれる2棟の110階建オフィスビル(1 WTC・2 WTC)、22階建の高級ホテル(3 WTC)、2棟の9階建オフィスビル(4 WTC・5 WTC)、8階建の合衆国税関ビル(6 WTC)、47階建オフィスビル(7 WTC)の7棟からなるビルの集合体だった。ワールドトレードセンターのビル群には28か国から430のテナントが入居しており、銀行・金融会社・保険会社・貿易会社・政府機関など多種多様だった。ワールドトレードセンターでは5万人が働いており、それ以外に1日14万人の観光客らが訪れていた。ビル群全体では13,400,000平方フィート(1,240,000 m2)のオフィススペースがあり、あまりの広大さから独自の郵便番号(10048)が与えられていた。 ツインタワーと呼ばれた1 WTC(北タワー)と2 WTC(南タワー)は、建築家ミノル・ヤマサキがデザインしたチューブ構造(英語版)の超高層ビルであり、ワールドトレードセンター・コンプレックスの中心的建築物であった。1972年の完成時、北タワーは40年以上記録を維持していたエンパイアステートビルを追い抜き世界一高いビルとなった。北タワーは高さ417mで完成したが、1978年には高さ110mの通信アンテナが屋上に設けられ、最頂部は527mとなった。南タワーは1973年に高さ415mで完成し、北タワーに次いで当時世界で2番目に高いビルとなった。 世界一高いビルの座は1974年に完成したシカゴのシアーズ・タワー(現・ウィリス・タワー)にすぐに奪われたものの、1975年以降に展望デッキや展望レストランが完成し、多くの観光客が訪れるようになった。ワールドトレードセンターのツインタワーは新たなニューヨークの象徴となり、数多くの映画やテレビドラマにも登場するようになった。 ツインタワーは両棟ともに110階建てであり、北タワーの110階はテレビスタジオ、南タワーの108〜110階は機械設備階となっていた。北タワーの屋上には通信用アンテナの尖塔が設置されており、南タワーの屋上は展望デッキとして使用されていた。完成から崩壊するまでの間、ツインタワーは世界でもっともフロア数の多いビルであり続けた。110階というフロア数の記録は2010年にブルジュ・ハリファが完成するまで追い抜かれることはなかった。各タワーの総重量は約50万トンだった。 ツインタワーには一般の観光客に開放されたフロアがあり、南タワーの107階は「トップ・オブ・ザ・ワールド (Top of the World)」という名の屋内展望デッキとなっていた。来場者は入場料を払ったあと(1993年のテロ事件以降はセキュリティ・チェックが追加された)、専用エレベーターで地上から107階の展望デッキ(地上400m)まで直行することができた。107階には双眼鏡が多数設置されていたほか、さまざまな売店やニューヨークをヘリで飛行する映像を上映するシアターなどがあった。天候が許す日には、107階から2本のエスカレーターを乗り継いで屋上の展望デッキ(地上420m)に出ることもできた。晴れた日には、屋上のデッキから50マイル(80km)先まで見渡すことができた。屋上のデッキは自殺防止用フェンスよりも高い位置に高台のように設置されており、エンパイアステートビル屋上の展望デッキとは異なり、何にも遮られない眺望を得ることができた。 北タワーの106〜107階には「ウィンドウズ・オン・ザ・ワールド (Windows on the World)」と呼ばれる展望レストランが存在しており、観光客も入店することができた。1976年4月に営業開始したこのレストランは、飲食店経営者ジョー・バウム(英語版)が1,700万ドル以上を投じて開業したものだった。106〜107階では「ウィンドウズ・オン・ザ・ワールド」のほかにも、スモーブローと寿司を提供する「Hors d'Oeuvrerie」と、ワイン専用のバー「Cellar in the Sky」という2つの系列店が営業していた。展望レストランは1993年の爆破事件のあとに一時閉店した。レストランは1996年に再オープンしたが、それに合わせ従来の系列店「Hors d'Oeuvrerie」と「Cellar in the Sky」は、それぞれ「Wild Blue」というレストランと「The Greatest Bar on Earth」という名のバーに置き換えられた。2000年度の「ウィンドウズ・オン・ザ・ワールド」の売上高は3,700万ドルであり、アメリカでもっとも収入の多いレストランとなっていた。北タワーの44階(スカイロビー階)でも系列店の「スカイ・ダイブ・レストラン (The Sky Dive Restaurant)」が営業していた。批評家による展望レストランへの評価は賛否両論があった。1996年12月、ニューヨークタイムズのレストラン批評家ルース・ライル(英語版)は、「ウィンドウズ・オン・ザ・ワールドに純粋に食事をしにいく人は皆無だろうが、今ならばもっとも食事にうるさい部類の人でも満足させることができるだろう」と書き、このレストランの品質に "very good" という評価を与えた。別のレストラン批評家ウィリアム・グライムズ(英語版)は、2009年出版の著書 Appetite の中で、「ウィンドウズ・オン・ザ・ワールドでは、メインの料理はニューヨークの景色だった」と評した。 ワールドトレードセンターの16エーカー(65,000m2)の敷地には、ツインタワーのほかに5棟のビルが存在していた。敷地の南西に建設された3 WTCは22階建のホテルであり、1981年に「ビスタ・ホテル (Vista Hotel) 」として開業し、1995年には「マリオット・ワールドトレードセンター(英語版)」と改称された。4 WTC、5 WTC、6 WTCはいずれもオフィスビルであり、トービン・プラザを囲むように建設されていた。プラザの南東に位置する4 WTCビルと北東の5 WTCビルは9階建であり、4 WTCには合衆国商品取引所 (U.S. Commodities Exchange) が入居していた。北西に位置する6 WTCビルは8階建であり、アメリカ合衆国税関が入居していた。1987年には、WTCの敷地から道路を挟んだ北側に47階建オフィスビルの7 WTCが完成した。WTCコンプレックスの地下には大型ショッピングモール(英語版)が広がっており、ニューヨーク市地下鉄やPATHトレインなどの公共交通機関とも接続されていた。 ワールドトレードセンターの敷地中央には、ヴェネツィアのサン・マルコ広場を意識した広場である「プラザ」が設けられていた。プラザのデザインには、地面に描かれた巨大な四角形・泉(噴水)・中心から放射状に広がる模様など、メッカの大モスクのモチーフも使われていた。ヤマサキによれば、このプラザは「ウォール街の通りや歩道の窮屈さから解放してくれる、メッカのような場所」であった。プラザの中心にはフリッツ・ケーニッヒ(英語版)の作品「ザ・スフィア」が置かれていた。1982年、プラザは1978年に亡くなったオースティン・トービン(英語版)にちなみ、「オースティン・J・トービン・プラザ」と命名された。夏の間、プラザには仮設の野外ステージが設置され、さまざまなパフォーマンスや演奏が行われていた。長年にわたり、プラザは2棟のタワーの間で発生するベンチュリ効果による突風の被害を受けており、歩行者は時にはロープにつかまって移動する必要があるほどだった。約1,200万ドルが費やされた改修工事を経て1999年にトービン・プラザは再オープンした。改修により従来の大理石舗装がグレーとピンクの花崗岩による舗装に変更されたほか、新しいレストランやキオスク、ベンチやプランターなどが追加された。 港湾公社はワールドトレードセンターの建設にあたり、総建設費用の1%をパブリック・アートに使っていた。エントランスのロビーにはルイーズ・ネーベルソン、ジョアン・ミロ、ル・コルビュジエらの大きな作品が、トービン・プラザの中心にはフリッツ・ケーニッヒの「ザ・スフィア」が、またその周辺には流政之の「雲の砦」、ジェームズ・ロザッティ (James Rosati) の「Ideogram」などが置かれていた。またWTC7建設後にはアレクサンダー・カルダーの「スタビル」などが設置された。ビルの各テナントもおのおの美術コレクションを所有しており、1 WTCの上層階にあった証券会社キャンター・フィッツジェラルド(9.11テロで大多数の社員が死亡した)はロダンの彫刻のコレクションで知られていたほか、バンク・オブ・アメリカのオフィスには100点以上の現代美術作品があった。美術品の多くは同時多発テロ事件によって失われたが、プラザに置かれていた「ザ・スフィア」は原型を保った状態で発見され、再度組み立てられたのち、テロの記念碑としてバッテリー・パークに移設された。テロで失われた美術品の当時の総額は、各テナントのプライベート・コレクションが1億ドル、パブリックアートが1,000万ドル、合計で1.1億ドルとされる。 1975年2月13日の夜、北タワーの11階で大規模な火災が発生した。火は電話線の絶縁体を伝わって9階と14階にも燃え広がった。火元から遠いエリアはすぐさま鎮火され、11階の火元も数時間以内に鎮火された。駆けつけた消防隊員が軽傷を負った以外に人的被害はなかった。大きなダメージを被った11階では、書類用キャビネットとオフィス機械用のオイルが火の燃料となっていた。耐火被覆が機能し、タワーに構造的ダメージは見られなかった。火が広がった9階と14階以外に、消火活動に使われた水によってダメージを受けたフロアもあった。当時のワールドトレードセンターにはスプリンクラー設備が存在していなかった。 1993年2月26日午後0時17分、テロリスト(ラムジ・ユセフ)によって設置された、1,500ポンド(680kg)の爆発物を満載したトラックが、北タワーの地下駐車場で爆発した。爆発によって地下駐車場のB1およびB2フロアが甚大な被害を受け、B3フロアも深刻な構造的ダメージを被った。このテロ攻撃の結果、6人が死亡し、1,042人が負傷した(煙の吸引による負傷を含む)。駐車場の火災により発生した煙が両タワーのエレベーターシャフトを伝わって全階に広がり、WTCは全館全員緊急退去という騒然とした状況に包まれた。のちに、ラムジ・ヨセフとイヤード・イスマイール(英語版)がテロの実行犯として有罪判決を受けたほか、オマル・アブドッラフマーンら5人の人物がテロに関与したとして有罪となった。裁判では、テロの計画者らの狙いは北タワーの安定性を損なうことで南タワーに向かって倒れこむように仕向け、ツインタワー両棟を破壊することであったとされた。 爆発で吹き飛ばされた地下駐車場の床は北タワーを構造的に支持していたため、修復を行ってその機能を回復する必要があった。地下駐車場のB5フロアにはWTCコンプレックス全体の空調を担う冷却設備が存在していたが、この設備も爆発で大きなダメージを受けた。爆発は火災報知システムの配線や信号装置も破壊しており、コンプレックス全体で装置を交換する必要が生じた。 このテロ事件のあと、港湾公社は非常階段に避難誘導用のフォトルミネセンス表示を追加したほか、犠牲者の名を刻んだ追悼のメモリアルをトービン・プラザに設置した。このメモリアルは2001年の同時多発テロによって破壊され失われた。1993年の事件による犠牲者の名前は、2001年のテロによる犠牲者の名前とともにナショナル・セプテンバー11メモリアル&ミュージアムに記載されている。 1998年1月14日、マフィアの構成員であるラルフ・グアリーノ (Ralph Guarino) は、3人の共犯者とともにBrink's(英語版)の北タワー11階の銀行への現金輸送を待ち伏せして襲い、200万ドルを越える額の現金(ドル以外の通貨を含む)を奪った(w:1998 Bank of America robbery)。しかしその後、4人とも逮捕され、主犯のグアリーノはFBIの証人となった。彼の情報提供により、ニュージャージー州のデカヴァルカンテ一家(英語版)の幹部が多数逮捕・起訴され、組織に大打撃を与えた。 2001年9月11日午前8時46分、イスラム過激派テロリストにハイジャックされたアメリカン航空11便が1 WTC(北タワー)の北側外壁、93〜99階に突入した。その17分後の午前9時3分、同じくハイジャックされたユナイテッド航空175便が2 WTC(南タワー)の南側外壁、77〜85階に突入した。北タワーでは11便の衝突によってすべての非常階段が破壊されたが、南タワーでは175便が中心から逸れて衝突したため、1本の非常階段が使用可能な状態で残されていた。 午前9時59分、南タワーは約56分間炎上したあとに崩壊した。航空機の衝突による構造的ダメージに加え、ジェット燃料が引き起こした火災の熱が構造部材の強度を著しく低下させたことが崩壊につながった。10時28分、南タワーに続き、北タワーが約102分間炎上したあとに崩壊した。17時21分、7 WTCビルが火災による構造ダメージによって崩壊した。3 WTCビル(マリオット・ワールドトレードセンター)はツインタワーの崩落に巻き込まれ崩壊した。プラザ周辺の3つのビル(4-6 WTC)はツインタワーからのデブリによって甚大な被害を受け、事件後に解体された。ワールドトレードセンター跡地での救出作業や回収作業、がれきの除去が完了するまでには8か月を要した。 アメリカ国立標準技術研究所(NIST)の推定によれば、テロ発生時のツインタワーには約17,400人が存在していた。ワールドトレードセンターとその周辺での民間人死者は2,192人(突入した旅客機の乗員乗客を除く)であり、中でもキャンター・フィッツジェラルド(英語版)(北タワーの101〜105階に入居)とマーシュ・アンド・マクレナン(北タワーの93〜101階に入居)、エーオンなどの企業は多数の死者を出した。南タワーに旅客機が衝突したポイントは北タワーに比べて低層であり、より多くフロアが影響を受けたにもかかわらず、南タワーにおける民間人死者は624人と(1,466人の民間人死者を出した北タワーに比べて)少なかった。民間人死者のほかにも、現場に駆けつけたニューヨーク市消防局の消防士343人と、ニューヨーク市警察・港湾公社警察などの警察官71人がワールドトレードセンターで死亡した。各タワーの崩壊時、内部には多数の民間人や消防士が存在していたが、生存してがれきから救出されたのは20人のみだった。 ワールドトレードセンターの再建についての議論はテロによる破壊の直後から始まった。2001年11月には再建プロセスの監督を目的とする「ロウアー・マンハッタン開発公社(英語版)(LMDC)」が設立された。LMDCは用地計画や建築デザインを選定するのためのコンペを実施し、その結果ダニエル・リベスキンドによる「メモリー・ファウンデーション(英語版)」と題する設計案がマスタープラン(基本計画)として採用された。リベスキンドはベルリン・ユダヤ博物館に代表される祈念モニュメントの設計に実績があり、今回も尖塔までの高さ1,776フィート(541m、アメリカ独立の1776年にちなむ、ただし建物部分は70階建)の自由の女神を模したフリーダム・タワーがそのデザインの中核を占めていた。またツインタワーのあった場所は慰霊の場とし、その周囲をストーンヘンジのように囲む5つの高層ビル群は、毎年9月11日の朝の旅客機衝突時刻からビル崩壊時刻までの間、タワー跡地には影を落とさないように配置されていた。しかし最終的に、リベスキンドの案には大幅な変更が加えられることとなった。 港湾公社は9.11テロ直前の2001年7月、ニューヨークの不動産開発業者ラリー・シルバースタインにWTCを長期リースする契約を交わしており、その結果シルバースタインが事実上の再建施工主となったため、事態は複雑な様相を呈するに至った。商業価値を優先するシルバースタインはモニュメントとしての性格が強いリベスキンド案を嫌い、SOMのデイヴィッド・チャイルズを参加させて設計に大幅な変更を加えたため、リベスキンドとの間で訴訟沙汰となった。 両者は和解し、新たにリベスキンド・チャイルズ折衷案が公表されたものの、今度は警察当局や米国本土安全保障省などから保安上の設計変更が求められ、さらに港湾公社やこれを管轄するニューヨーク・ニュージャージー両州議会などの意向も加わり、設計変更が繰り返され、フリーダム・タワーも自由の女神のデザインは特に取り入れないこととなった。 2002年5月いっぱいで残骸はすべて撤去され、遺体の捜索も合わせて打ち切られた。以後、新ワールドトレードセンターや地下鉄の再建が始まり、その第一歩として、新7WTCが2006年に竣工、WTC全体の再建事業完成は当初は2010年代前半となる予定であったが、リーマンショックなどの経済的な諸事情により大幅に遅れている。なお再建後の名称は従来どおり「ワールドトレードセンター」とされた。 新ワールドトレードセンターの構成は以下のとおり。6 ワールドトレードセンター(英語版)にあたる建物は計画されておらず、欠番となっている。 2001年の9.11テロの発生以前、ワールドトレードセンターのツインタワーはニューヨーク市のシンボルであり、映画やテレビドラマの中ではニューヨーク自体を示す「エスタブリッシング・ショット」として使われていた。2006年の推定では、ワールドトレードセンターが何らかの形で登場する映画は472本にのぼるとされた。映画以外にも、数多くのテレビ番組、テレビゲーム、ミュージックビデオなどにワールドトレードセンターが登場していた。とある記者は1999年、「ニューヨークのガイドブックはほぼ間違いなく、ツインタワーを観光名所のトップ10に挙げている」と述べた。 ワールドトレードセンターは世間の耳目を集める出来事の舞台ともなった。特にフランスの大道芸人フィリップ・プティが1974年にツインタワーの屋上に登り、2つのタワーの間で綱渡りを行ったことは有名となり、この出来事を題材にしたドキュメンタリー映画『マン・オン・ワイヤー』が2008年に、伝記映画『ザ・ウォーク』が2015年に公開された。プティは2つのタワーの間に張られた鋼鉄製ケーブルの上を、8度にわたって横断することに成功した。1975年7月、オーウェン・クインが警備をかいくぐって北タワーの屋上にたどり着き、飛び降りて600フィート(180m)自由落下したあと、パラシュートを開いてプラザに無事着地した。1977年5月、アマチュア登山家のジョージ・ウィリッグ(英語版)が突如として南タワーの外壁を登り始め、登頂を成功させた。1995年には、南タワーの107階でPCA世界チェス選手権が開催され、ガルリ・カスパロフとヴィスワナータン・アーナンドが対戦した。 9.11テロの発生を受けて、一部の映画やテレビ番組はワールドトレードセンターを舞台とするシーンやエピソードを作品から削除した。9.11テロの満1年を迎えた時点で、60本以上の「追悼映画 (memorial films) 」が制作されていた。オリバー・ストーンの監督による、テロ攻撃にさらされたワールドトレードセンターを舞台にした初の映画『ワールド・トレード・センター』は2006年に公開された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ワールドトレードセンター、世界貿易センター(英語: World Trade Center, WTC)は、かつてアメリカ合衆国のニューヨーク市マンハッタン区のローワー・マンハッタンに位置していた高層ビルの集合体である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ツインタワーと呼ばれる2棟の110階建てオフィスビルを中核に、計7棟のビルで構成されていた。1973年4月4日にオープンし、2001年9月11日に破壊されるまで存在していた。ツインタワー(1 WTCおよび2 WTC)は完成時に世界一の高さを誇り、2棟の巨大な直方体が並び立つ姿はニューヨーク市やマンハッタンのシンボルとなっていた。建設および経営にはニューヨーク・ニュージャージー港湾公社があたっていた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件(9.11テロ事件)の標的の一つとなり、最終的にツインタワーが崩壊し、それに巻き込まれる形で残る5つのビルも半壊または全壊したことで壊滅状態に陥った。現在は跡地に1 ワールドトレードセンターをはじめとした6つの超高層ビルと9.11テロ事件の追悼施設などからなる新WTCが開業している。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ワールドトレードセンターの敷地には、1921年から1966年まで「ラジオ・ロウ(英語版)」と呼ばれる電気部品街が存在していた。1921年にハリー・シュネック (Harry Schneck) がコートランド・ストリートに「シティ・ラジオ」という店をオープンしたのを皮切りに、最終的にこの地には数ブロックにわたって広がる電気部品店の街が形成された。とあるビジネス記者によると、ラジオ・ロウは電子部品流通事業の起源であった。", "title": "起源" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1939年、ニューヨーク万国博覧会の中で、「World Peace through Trade(貿易を通じての世界平和)」をテーマに「ワールドトレードセンター」と名付けられたパビリオンが設置された。第二次世界大戦終結後の1946年、ローワー・マンハッタンに世界的な貿易センターを建設する提案がニューヨーク州議会によって承認され、当時のニューヨーク州知事トマス・E・デューイが建設計画の立案に乗り出したが、1949年になるとこのプロジェクトは頓挫した。", "title": "起源" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1959年、ミッドタウンの繁栄の影で経済的に停滞していたロウアー・マンハッタン地区の再興を望んでいたデイヴィッド・ロックフェラーは、「ダウンタウン・ロウアー・マンハッタン協会 (Downtown Lower Manhattan Association)」を設立し、いったんは頓挫した世界的な貿易センターの建設プロジェクトを復活させた。この計画を実現するため、ロックフェラーはニューヨーク港湾公社に協力を要請した。", "title": "起源" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ニューヨーク港湾公社のエグゼクティブ・ディレクターであるオースティン・トービン(英語版)はロックフェラーの計画を支持し、貿易センターの建設プロジェクトを強力に推進した。トービンは、このプロジェクトで建設されるものは単なる「世界的な貿易センター (world trade center)」ではなく、「ザ・ワールドトレードセンター (the World Trade Center)」という唯一無二の存在であるべきだと述べた。1962年1月までに、トービンはニューヨーク州・ニュージャージー州の両州政府から計画への支持を取りつけることに成功し、一帯を再開発して巨大なオフィスビルを複数作り、貿易関係の企業や公的機関を集積させるという「ワールドトレードセンター・コンプレックス」の建設が正式に認可された。", "title": "起源" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1961年に公開された当初の案では、ワールドトレードセンターはイースト川沿いの敷地に建設されることとなっていたが、最終的にハドソン&マンハッタン鉄道のターミナルがあり、ニュージャージー州との交通が便利なハドソン川沿いのラジオ・ロウ地区が建設用地として選ばれた。ラジオ・ロウに存在する事業者への移転費用の補償として、港湾公社は各事業の存続期間や売り上げの程度にかかわらず、すべての事業者に一律に3,000ドルを支払った。1965年3月、敷地がWTCの建設用地として買収され、翌1966年3月からラジオ・ロウの解体工事が開始された。1966年8月、起工式が執り行われ、WTCの建設工事が始まった。", "title": "起源" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1962年9月20日、港湾公社はワールドトレードセンターの主任建築士として日系アメリカ人のミノル・ヤマサキを選出したことを発表した。WTCの中心施設をツインタワーとするのはヤマサキのアイディアであり、彼のオリジナル案では2つのタワーはそれぞれ80階建のビルとなっていた。しかし、80階建のタワーでは港湾公社が設定した10,000,000平方フィート(930,000m2)以上のオフィススペース確保という条件をクリアできなかったため、最終的にツインタワーはそれぞれ110階建のビルとして建設されることになった。", "title": "ツインタワーの設計と建設" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1964年1月18日、ヤマサキによる建設計画案が一般公開され、ツインタワーが一辺208フィート(63.4m)の正方形底面をもつ直方体となることが明らかになった。オフィスフロアの外窓はひとつにつき幅18インチ(46cm)と細長いものになっていたが、これはヤマサキ自身の高所恐怖症の反映であり、フロアにいる人間が高度による恐怖を感じることがないよう配慮した結果だった。ヤマサキによる設計はさらに、ツインタワーの外壁をアルミニウム合金で被覆することを求めていた。WTCのデザインはヤマサキによるゴシック・モダニズム建築の独創的な表現であったほか、ル・コルビュジエの建築哲学が顕著に反映されていた。さらにヤマサキは、ツインタワーのデザインにイスラーム建築の特徴を取り入れていた。", "title": "ツインタワーの設計と建設" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "各タワーの44階と78階にはエレベーターの乗り換え階「スカイロビー(英語版)」が設けられ、急行エレベーターをスカイロビーに直行させ、ここからさらに各階行の普通エレベーターに乗り換えさせるという方式になっていた。このシステムにより、効率的なエレベーターの運行が実現されるのと同時に、エレベーターシャフト数の削減により、フロアの使用可能面積が62%から75%に引き上げられた。WTCのツインタワーはシカゴのジョン・ハンコック・センターに続き、スカイロビーを採用した2例目の超高層ビルだった。ツインタワーにはそれぞれ99基のエレベーターが設けられ、両タワーの合計では198基のエレベーターが存在した。", "title": "ツインタワーの設計と建設" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ヤマサキによるデザインを実現しつつ十分な強度を得るため、構造エンジニア班はファズラー・ラーマン・カーンが開発したチューブ構造(英語版)を採用した。ツインタワーのチューブ構造は「フレームド・チューブ (framed-tube)」と呼ばれる設計であり、チューブ状に並べた外壁支柱とビル中心のコア支柱との間に床の梁を渡すことにより、柱や耐力壁のない広大なスペースを得ることができた。ツインタワーの外壁は、各面59本、合計236本の鉄骨支柱をチューブ状に密に配置したもので、外壁の一辺の長さは約63mだった。外壁支柱は事実上すべての水平荷重(風荷重など)を負担し、さらに鉛直荷重をコア支柱と分担するよう設計されていた。地上階には出入り口を設ける必要があり、支柱と支柱の間隔を広く取る必要があったため、外壁支柱は7階付近から1本のものがフォークのように3本に分かれ、そのまま最上階まで達する設計となっていた。各タワーの中心部(コア)には47本のコア支柱があり、すべてのエレベーター(各99基)および非常階段(各3本)もコアに集中的に設置されていた。", "title": "ツインタワーの設計と建設" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "耐火被覆材を吹きつけた外壁支柱・コア支柱でつくられるチューブ構造は、エンパイアステートビルのような(耐火被覆に石材を使用する)建築物よりも軽量かつ柔軟であるため、風に対しても横揺れしやすい性質をもっていた。ニューヨーク港に面したローワー・マンハッタンは風が強く、横揺れは深刻な問題として懸念された。ツインタワーの設計には風洞実験が用いられており、タワー内部の人間が耐えられる横揺れのレベルも実験により評価された。多くの被験者はネガティブな反応を示し、めまいなどの体の不調を訴えた。横揺れを低減するため、主任技術者レスリー・ロバートソン(英語版)は、アラン・ダヴェンポートとともに粘弾性ダンパー (viscoelastic damper) を開発した。約1万個の粘弾性ダンパーが、各タワーの外壁支柱と床の間に設置され、(いくつかの他の改良点とともに)横揺れを許容できるレベルに抑えることに成功した。", "title": "ツインタワーの設計と建設" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ツインタワーの107階から110階にかけては、「ハットトラス (hat trusses)」と呼ばれる構造が設けられていた。ハットトラスは、タワー屋上に設けられる予定の通信アンテナの荷重を支持するためのものだった。1978年、1 WTC(北タワー)の屋上に実際にアンテナが設置されたが、2 WTCにアンテナが設置されることはなかった。", "title": "ツインタワーの設計と建設" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1965年3月、港湾公社はワールドトレードセンター建設用地にあたる土地(ラジオ・ロウ)の買収を開始した。翌1966年3月21日には、13ブロックにわたって広がるラジオ・ロウの低層ビル群を取り壊すための解体工事が始まった。ラジオ・ロウの解体が完了したあとの1966年8月5日、起工式が執り行われ、WTCの建設工事が始まった。", "title": "ツインタワーの設計と建設" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "WTCの敷地は埋め立て地であり、岩盤は地下20mに位置していた。基礎工事を行うには、まず掘削時にハドソン川から水が侵入するのを防ぐ必要があり、建設用地一帯に、バスタブ状の地下壁(通称ザ・バスタブ(英語版))を築かねばならなかった。この地下壁を施工するにあたり、港湾公社のチーフエンジニアはスラリー壁(英語版)工法を選択した。この工法は、掘削と同時にスラリーと呼ばれるベントナイト混合物を溝に注ぎこみ、溝をスラリーで満たすことで地下水の流入を封じ、掘削の完了後に鋼鉄のケージを溝に沈め、続いてコンクリートを注入すると、スラリーは溝から押し出され、コンクリートの地下壁が完成するというものだった。地下壁の完成までには14か月を要したが、バスタブの建設は敷地内部で掘削を始めるために必須だった。", "title": "ツインタワーの設計と建設" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "バスタブに囲われた敷地からは92万立方メートルもの大量の土砂が掘り出され、敷地西側に隣接するハドソン川の埋め立てに利用された。形成された埋立地は「バッテリー・パーク・シティ」と呼ばれ、1985年にはこの地に「ワールドフィナンシャルセンター」と呼ばれる高層オフィスビル群がオープンした。", "title": "ツインタワーの設計と建設" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "建設用地の地下を通るパストレインの鉄道トンネルは、地下鉄の新駅が1971年にオープンするまでの間、建設工事中も運行を続けた。トンネルは支柱で宙に浮かされ、バスタブ内を渡されており、その中をパストレインが走った。敷地の地下には約2,000台の車を収容できる大駐車場や、ショッピングモールなども建設された。", "title": "ツインタワーの設計と建設" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "基礎工事が完了したあとの1968年8月、1 WTC(北タワー)の建設工事が開始された。翌1969年1月には2 WTC(南タワー)の建設も始まった。ツインタワーの建設ではプレハブ工法が大々的に用いられ、建設プロセスの高速化が果たされた。1970年12月23日、北タワーの上棟式(トッピング・アウト)が行われた。翌1971年の7月19日には南タワーの上棟式が行われた。北タワーの最初のテナントは1970年12月15日に入居し、1972年1月には南タワーにも最初のテナントが入った。", "title": "ツインタワーの設計と建設" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1 WTCは1972年に、2 WTCは1973年に完成した。ツインタワーが完成した時点で、港湾公社はワールドトレードセンターの建設に約9億ドルを費やしていた。1973年4月4日、WTCのオープニング式典が挙行され、ツインタワーは正式に開業した。", "title": "ツインタワーの設計と建設" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ワールドトレードセンターの建設計画は多くの論争を呼んだ。WTCの建設予定地である「ラジオ・ロウ(英語版)」地区には、何百もの商工業者と約100人の住民が存在しており、その多くは立ち退きを求められることに対して猛烈に反発した。1962年6月、立ち退きの対象となった事業者らは結束して港湾公社の土地収用権に異議を申し立て、その差し止めを請求した。港湾公社との法的な争いは最終的に合衆国最高裁判所まで持ち込まれたが、最高裁判所は1963年に事業者側の訴えを棄却し、立ち退きの実施が確定した。", "title": "ツインタワーの設計と建設" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "民間の不動産デベロッパーやエンパイアステートビルの所有者ローレンス・ウィーン(英語版)らは、公的に助成されたWTCのオフィス物件が、(すでにオフィス物件の供給過剰状態にある)一般の市場に解き放たれ、民間セクターと競合することに対しての懸念を表明した。計画の妥当性自体を疑問視する声もあり、WTCプロジェクトを「誤った社会的優先事項」と表現する見方もあった。", "title": "ツインタワーの設計と建設" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "アメリカ建築家協会ほかの団体は、ツインタワーのデザインを美的観点から批判した。都市計画についての著作を多く持つルイス・マンフォードは1967年、WTCのような最新の超高層ビル群について、「金属とガラスでできた書類用キャビネットに過ぎない」と評した。ツインタワーのオフィスの窓は1つあたりの幅が46cmと狭く、眺望は常に窓枠(支柱)で遮られていたため非常に不評だった。社会学者・活動家のジェイン・ジェイコブズは、ニューヨークのウォーターフロントは住民の憩いの場として保存されるべきだと主張した。", "title": "ツインタワーの設計と建設" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ワールドトレードセンターは、ツインタワーと呼ばれる2棟の110階建オフィスビル(1 WTC・2 WTC)、22階建の高級ホテル(3 WTC)、2棟の9階建オフィスビル(4 WTC・5 WTC)、8階建の合衆国税関ビル(6 WTC)、47階建オフィスビル(7 WTC)の7棟からなるビルの集合体だった。ワールドトレードセンターのビル群には28か国から430のテナントが入居しており、銀行・金融会社・保険会社・貿易会社・政府機関など多種多様だった。ワールドトレードセンターでは5万人が働いており、それ以外に1日14万人の観光客らが訪れていた。ビル群全体では13,400,000平方フィート(1,240,000 m2)のオフィススペースがあり、あまりの広大さから独自の郵便番号(10048)が与えられていた。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ツインタワーと呼ばれた1 WTC(北タワー)と2 WTC(南タワー)は、建築家ミノル・ヤマサキがデザインしたチューブ構造(英語版)の超高層ビルであり、ワールドトレードセンター・コンプレックスの中心的建築物であった。1972年の完成時、北タワーは40年以上記録を維持していたエンパイアステートビルを追い抜き世界一高いビルとなった。北タワーは高さ417mで完成したが、1978年には高さ110mの通信アンテナが屋上に設けられ、最頂部は527mとなった。南タワーは1973年に高さ415mで完成し、北タワーに次いで当時世界で2番目に高いビルとなった。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "世界一高いビルの座は1974年に完成したシカゴのシアーズ・タワー(現・ウィリス・タワー)にすぐに奪われたものの、1975年以降に展望デッキや展望レストランが完成し、多くの観光客が訪れるようになった。ワールドトレードセンターのツインタワーは新たなニューヨークの象徴となり、数多くの映画やテレビドラマにも登場するようになった。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ツインタワーは両棟ともに110階建てであり、北タワーの110階はテレビスタジオ、南タワーの108〜110階は機械設備階となっていた。北タワーの屋上には通信用アンテナの尖塔が設置されており、南タワーの屋上は展望デッキとして使用されていた。完成から崩壊するまでの間、ツインタワーは世界でもっともフロア数の多いビルであり続けた。110階というフロア数の記録は2010年にブルジュ・ハリファが完成するまで追い抜かれることはなかった。各タワーの総重量は約50万トンだった。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ツインタワーには一般の観光客に開放されたフロアがあり、南タワーの107階は「トップ・オブ・ザ・ワールド (Top of the World)」という名の屋内展望デッキとなっていた。来場者は入場料を払ったあと(1993年のテロ事件以降はセキュリティ・チェックが追加された)、専用エレベーターで地上から107階の展望デッキ(地上400m)まで直行することができた。107階には双眼鏡が多数設置されていたほか、さまざまな売店やニューヨークをヘリで飛行する映像を上映するシアターなどがあった。天候が許す日には、107階から2本のエスカレーターを乗り継いで屋上の展望デッキ(地上420m)に出ることもできた。晴れた日には、屋上のデッキから50マイル(80km)先まで見渡すことができた。屋上のデッキは自殺防止用フェンスよりも高い位置に高台のように設置されており、エンパイアステートビル屋上の展望デッキとは異なり、何にも遮られない眺望を得ることができた。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "北タワーの106〜107階には「ウィンドウズ・オン・ザ・ワールド (Windows on the World)」と呼ばれる展望レストランが存在しており、観光客も入店することができた。1976年4月に営業開始したこのレストランは、飲食店経営者ジョー・バウム(英語版)が1,700万ドル以上を投じて開業したものだった。106〜107階では「ウィンドウズ・オン・ザ・ワールド」のほかにも、スモーブローと寿司を提供する「Hors d'Oeuvrerie」と、ワイン専用のバー「Cellar in the Sky」という2つの系列店が営業していた。展望レストランは1993年の爆破事件のあとに一時閉店した。レストランは1996年に再オープンしたが、それに合わせ従来の系列店「Hors d'Oeuvrerie」と「Cellar in the Sky」は、それぞれ「Wild Blue」というレストランと「The Greatest Bar on Earth」という名のバーに置き換えられた。2000年度の「ウィンドウズ・オン・ザ・ワールド」の売上高は3,700万ドルであり、アメリカでもっとも収入の多いレストランとなっていた。北タワーの44階(スカイロビー階)でも系列店の「スカイ・ダイブ・レストラン (The Sky Dive Restaurant)」が営業していた。批評家による展望レストランへの評価は賛否両論があった。1996年12月、ニューヨークタイムズのレストラン批評家ルース・ライル(英語版)は、「ウィンドウズ・オン・ザ・ワールドに純粋に食事をしにいく人は皆無だろうが、今ならばもっとも食事にうるさい部類の人でも満足させることができるだろう」と書き、このレストランの品質に \"very good\" という評価を与えた。別のレストラン批評家ウィリアム・グライムズ(英語版)は、2009年出版の著書 Appetite の中で、「ウィンドウズ・オン・ザ・ワールドでは、メインの料理はニューヨークの景色だった」と評した。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ワールドトレードセンターの16エーカー(65,000m2)の敷地には、ツインタワーのほかに5棟のビルが存在していた。敷地の南西に建設された3 WTCは22階建のホテルであり、1981年に「ビスタ・ホテル (Vista Hotel) 」として開業し、1995年には「マリオット・ワールドトレードセンター(英語版)」と改称された。4 WTC、5 WTC、6 WTCはいずれもオフィスビルであり、トービン・プラザを囲むように建設されていた。プラザの南東に位置する4 WTCビルと北東の5 WTCビルは9階建であり、4 WTCには合衆国商品取引所 (U.S. Commodities Exchange) が入居していた。北西に位置する6 WTCビルは8階建であり、アメリカ合衆国税関が入居していた。1987年には、WTCの敷地から道路を挟んだ北側に47階建オフィスビルの7 WTCが完成した。WTCコンプレックスの地下には大型ショッピングモール(英語版)が広がっており、ニューヨーク市地下鉄やPATHトレインなどの公共交通機関とも接続されていた。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ワールドトレードセンターの敷地中央には、ヴェネツィアのサン・マルコ広場を意識した広場である「プラザ」が設けられていた。プラザのデザインには、地面に描かれた巨大な四角形・泉(噴水)・中心から放射状に広がる模様など、メッカの大モスクのモチーフも使われていた。ヤマサキによれば、このプラザは「ウォール街の通りや歩道の窮屈さから解放してくれる、メッカのような場所」であった。プラザの中心にはフリッツ・ケーニッヒ(英語版)の作品「ザ・スフィア」が置かれていた。1982年、プラザは1978年に亡くなったオースティン・トービン(英語版)にちなみ、「オースティン・J・トービン・プラザ」と命名された。夏の間、プラザには仮設の野外ステージが設置され、さまざまなパフォーマンスや演奏が行われていた。長年にわたり、プラザは2棟のタワーの間で発生するベンチュリ効果による突風の被害を受けており、歩行者は時にはロープにつかまって移動する必要があるほどだった。約1,200万ドルが費やされた改修工事を経て1999年にトービン・プラザは再オープンした。改修により従来の大理石舗装がグレーとピンクの花崗岩による舗装に変更されたほか、新しいレストランやキオスク、ベンチやプランターなどが追加された。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "港湾公社はワールドトレードセンターの建設にあたり、総建設費用の1%をパブリック・アートに使っていた。エントランスのロビーにはルイーズ・ネーベルソン、ジョアン・ミロ、ル・コルビュジエらの大きな作品が、トービン・プラザの中心にはフリッツ・ケーニッヒの「ザ・スフィア」が、またその周辺には流政之の「雲の砦」、ジェームズ・ロザッティ (James Rosati) の「Ideogram」などが置かれていた。またWTC7建設後にはアレクサンダー・カルダーの「スタビル」などが設置された。ビルの各テナントもおのおの美術コレクションを所有しており、1 WTCの上層階にあった証券会社キャンター・フィッツジェラルド(9.11テロで大多数の社員が死亡した)はロダンの彫刻のコレクションで知られていたほか、バンク・オブ・アメリカのオフィスには100点以上の現代美術作品があった。美術品の多くは同時多発テロ事件によって失われたが、プラザに置かれていた「ザ・スフィア」は原型を保った状態で発見され、再度組み立てられたのち、テロの記念碑としてバッテリー・パークに移設された。テロで失われた美術品の当時の総額は、各テナントのプライベート・コレクションが1億ドル、パブリックアートが1,000万ドル、合計で1.1億ドルとされる。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1975年2月13日の夜、北タワーの11階で大規模な火災が発生した。火は電話線の絶縁体を伝わって9階と14階にも燃え広がった。火元から遠いエリアはすぐさま鎮火され、11階の火元も数時間以内に鎮火された。駆けつけた消防隊員が軽傷を負った以外に人的被害はなかった。大きなダメージを被った11階では、書類用キャビネットとオフィス機械用のオイルが火の燃料となっていた。耐火被覆が機能し、タワーに構造的ダメージは見られなかった。火が広がった9階と14階以外に、消火活動に使われた水によってダメージを受けたフロアもあった。当時のワールドトレードセンターにはスプリンクラー設備が存在していなかった。", "title": "911テロ以前の事件" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1993年2月26日午後0時17分、テロリスト(ラムジ・ユセフ)によって設置された、1,500ポンド(680kg)の爆発物を満載したトラックが、北タワーの地下駐車場で爆発した。爆発によって地下駐車場のB1およびB2フロアが甚大な被害を受け、B3フロアも深刻な構造的ダメージを被った。このテロ攻撃の結果、6人が死亡し、1,042人が負傷した(煙の吸引による負傷を含む)。駐車場の火災により発生した煙が両タワーのエレベーターシャフトを伝わって全階に広がり、WTCは全館全員緊急退去という騒然とした状況に包まれた。のちに、ラムジ・ヨセフとイヤード・イスマイール(英語版)がテロの実行犯として有罪判決を受けたほか、オマル・アブドッラフマーンら5人の人物がテロに関与したとして有罪となった。裁判では、テロの計画者らの狙いは北タワーの安定性を損なうことで南タワーに向かって倒れこむように仕向け、ツインタワー両棟を破壊することであったとされた。", "title": "911テロ以前の事件" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "爆発で吹き飛ばされた地下駐車場の床は北タワーを構造的に支持していたため、修復を行ってその機能を回復する必要があった。地下駐車場のB5フロアにはWTCコンプレックス全体の空調を担う冷却設備が存在していたが、この設備も爆発で大きなダメージを受けた。爆発は火災報知システムの配線や信号装置も破壊しており、コンプレックス全体で装置を交換する必要が生じた。", "title": "911テロ以前の事件" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "このテロ事件のあと、港湾公社は非常階段に避難誘導用のフォトルミネセンス表示を追加したほか、犠牲者の名を刻んだ追悼のメモリアルをトービン・プラザに設置した。このメモリアルは2001年の同時多発テロによって破壊され失われた。1993年の事件による犠牲者の名前は、2001年のテロによる犠牲者の名前とともにナショナル・セプテンバー11メモリアル&ミュージアムに記載されている。", "title": "911テロ以前の事件" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1998年1月14日、マフィアの構成員であるラルフ・グアリーノ (Ralph Guarino) は、3人の共犯者とともにBrink's(英語版)の北タワー11階の銀行への現金輸送を待ち伏せして襲い、200万ドルを越える額の現金(ドル以外の通貨を含む)を奪った(w:1998 Bank of America robbery)。しかしその後、4人とも逮捕され、主犯のグアリーノはFBIの証人となった。彼の情報提供により、ニュージャージー州のデカヴァルカンテ一家(英語版)の幹部が多数逮捕・起訴され、組織に大打撃を与えた。", "title": "911テロ以前の事件" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2001年9月11日午前8時46分、イスラム過激派テロリストにハイジャックされたアメリカン航空11便が1 WTC(北タワー)の北側外壁、93〜99階に突入した。その17分後の午前9時3分、同じくハイジャックされたユナイテッド航空175便が2 WTC(南タワー)の南側外壁、77〜85階に突入した。北タワーでは11便の衝突によってすべての非常階段が破壊されたが、南タワーでは175便が中心から逸れて衝突したため、1本の非常階段が使用可能な状態で残されていた。", "title": "911テロ事件による破壊" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "午前9時59分、南タワーは約56分間炎上したあとに崩壊した。航空機の衝突による構造的ダメージに加え、ジェット燃料が引き起こした火災の熱が構造部材の強度を著しく低下させたことが崩壊につながった。10時28分、南タワーに続き、北タワーが約102分間炎上したあとに崩壊した。17時21分、7 WTCビルが火災による構造ダメージによって崩壊した。3 WTCビル(マリオット・ワールドトレードセンター)はツインタワーの崩落に巻き込まれ崩壊した。プラザ周辺の3つのビル(4-6 WTC)はツインタワーからのデブリによって甚大な被害を受け、事件後に解体された。ワールドトレードセンター跡地での救出作業や回収作業、がれきの除去が完了するまでには8か月を要した。", "title": "911テロ事件による破壊" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "アメリカ国立標準技術研究所(NIST)の推定によれば、テロ発生時のツインタワーには約17,400人が存在していた。ワールドトレードセンターとその周辺での民間人死者は2,192人(突入した旅客機の乗員乗客を除く)であり、中でもキャンター・フィッツジェラルド(英語版)(北タワーの101〜105階に入居)とマーシュ・アンド・マクレナン(北タワーの93〜101階に入居)、エーオンなどの企業は多数の死者を出した。南タワーに旅客機が衝突したポイントは北タワーに比べて低層であり、より多くフロアが影響を受けたにもかかわらず、南タワーにおける民間人死者は624人と(1,466人の民間人死者を出した北タワーに比べて)少なかった。民間人死者のほかにも、現場に駆けつけたニューヨーク市消防局の消防士343人と、ニューヨーク市警察・港湾公社警察などの警察官71人がワールドトレードセンターで死亡した。各タワーの崩壊時、内部には多数の民間人や消防士が存在していたが、生存してがれきから救出されたのは20人のみだった。", "title": "911テロ事件による破壊" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ワールドトレードセンターの再建についての議論はテロによる破壊の直後から始まった。2001年11月には再建プロセスの監督を目的とする「ロウアー・マンハッタン開発公社(英語版)(LMDC)」が設立された。LMDCは用地計画や建築デザインを選定するのためのコンペを実施し、その結果ダニエル・リベスキンドによる「メモリー・ファウンデーション(英語版)」と題する設計案がマスタープラン(基本計画)として採用された。リベスキンドはベルリン・ユダヤ博物館に代表される祈念モニュメントの設計に実績があり、今回も尖塔までの高さ1,776フィート(541m、アメリカ独立の1776年にちなむ、ただし建物部分は70階建)の自由の女神を模したフリーダム・タワーがそのデザインの中核を占めていた。またツインタワーのあった場所は慰霊の場とし、その周囲をストーンヘンジのように囲む5つの高層ビル群は、毎年9月11日の朝の旅客機衝突時刻からビル崩壊時刻までの間、タワー跡地には影を落とさないように配置されていた。しかし最終的に、リベスキンドの案には大幅な変更が加えられることとなった。", "title": "新ワールドトレードセンターの建設" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "港湾公社は9.11テロ直前の2001年7月、ニューヨークの不動産開発業者ラリー・シルバースタインにWTCを長期リースする契約を交わしており、その結果シルバースタインが事実上の再建施工主となったため、事態は複雑な様相を呈するに至った。商業価値を優先するシルバースタインはモニュメントとしての性格が強いリベスキンド案を嫌い、SOMのデイヴィッド・チャイルズを参加させて設計に大幅な変更を加えたため、リベスキンドとの間で訴訟沙汰となった。 両者は和解し、新たにリベスキンド・チャイルズ折衷案が公表されたものの、今度は警察当局や米国本土安全保障省などから保安上の設計変更が求められ、さらに港湾公社やこれを管轄するニューヨーク・ニュージャージー両州議会などの意向も加わり、設計変更が繰り返され、フリーダム・タワーも自由の女神のデザインは特に取り入れないこととなった。", "title": "新ワールドトレードセンターの建設" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2002年5月いっぱいで残骸はすべて撤去され、遺体の捜索も合わせて打ち切られた。以後、新ワールドトレードセンターや地下鉄の再建が始まり、その第一歩として、新7WTCが2006年に竣工、WTC全体の再建事業完成は当初は2010年代前半となる予定であったが、リーマンショックなどの経済的な諸事情により大幅に遅れている。なお再建後の名称は従来どおり「ワールドトレードセンター」とされた。", "title": "新ワールドトレードセンターの建設" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "新ワールドトレードセンターの構成は以下のとおり。6 ワールドトレードセンター(英語版)にあたる建物は計画されておらず、欠番となっている。", "title": "新ワールドトレードセンターの建設" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2001年の9.11テロの発生以前、ワールドトレードセンターのツインタワーはニューヨーク市のシンボルであり、映画やテレビドラマの中ではニューヨーク自体を示す「エスタブリッシング・ショット」として使われていた。2006年の推定では、ワールドトレードセンターが何らかの形で登場する映画は472本にのぼるとされた。映画以外にも、数多くのテレビ番組、テレビゲーム、ミュージックビデオなどにワールドトレードセンターが登場していた。とある記者は1999年、「ニューヨークのガイドブックはほぼ間違いなく、ツインタワーを観光名所のトップ10に挙げている」と述べた。", "title": "文化的影響" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ワールドトレードセンターは世間の耳目を集める出来事の舞台ともなった。特にフランスの大道芸人フィリップ・プティが1974年にツインタワーの屋上に登り、2つのタワーの間で綱渡りを行ったことは有名となり、この出来事を題材にしたドキュメンタリー映画『マン・オン・ワイヤー』が2008年に、伝記映画『ザ・ウォーク』が2015年に公開された。プティは2つのタワーの間に張られた鋼鉄製ケーブルの上を、8度にわたって横断することに成功した。1975年7月、オーウェン・クインが警備をかいくぐって北タワーの屋上にたどり着き、飛び降りて600フィート(180m)自由落下したあと、パラシュートを開いてプラザに無事着地した。1977年5月、アマチュア登山家のジョージ・ウィリッグ(英語版)が突如として南タワーの外壁を登り始め、登頂を成功させた。1995年には、南タワーの107階でPCA世界チェス選手権が開催され、ガルリ・カスパロフとヴィスワナータン・アーナンドが対戦した。", "title": "文化的影響" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "9.11テロの発生を受けて、一部の映画やテレビ番組はワールドトレードセンターを舞台とするシーンやエピソードを作品から削除した。9.11テロの満1年を迎えた時点で、60本以上の「追悼映画 (memorial films) 」が制作されていた。オリバー・ストーンの監督による、テロ攻撃にさらされたワールドトレードセンターを舞台にした初の映画『ワールド・トレード・センター』は2006年に公開された。", "title": "文化的影響" } ]
ワールドトレードセンター、世界貿易センターは、かつてアメリカ合衆国のニューヨーク市マンハッタン区のローワー・マンハッタンに位置していた高層ビルの集合体である。 ツインタワーと呼ばれる2棟の110階建てオフィスビルを中核に、計7棟のビルで構成されていた。1973年4月4日にオープンし、2001年9月11日に破壊されるまで存在していた。ツインタワー(1 WTCおよび2 WTC)は完成時に世界一の高さを誇り、2棟の巨大な直方体が並び立つ姿はニューヨーク市やマンハッタンのシンボルとなっていた。建設および経営にはニューヨーク・ニュージャージー港湾公社があたっていた。 2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件(9.11テロ事件)の標的の一つとなり、最終的にツインタワーが崩壊し、それに巻き込まれる形で残る5つのビルも半壊または全壊したことで壊滅状態に陥った。現在は跡地に1 ワールドトレードセンターをはじめとした6つの超高層ビルと9.11テロ事件の追悼施設などからなる新WTCが開業している。
{{基礎情報 超高層ビル |ビルディング名称 = ワールドトレードセンター<br/>ツインタワー<ref group="注">正式名称は「One World Trade Center (1&nbsp;WTC)」と「Two World Trade Center (2&nbsp;WTC)」。なお非公式な通称として、1&nbsp;WTCは北タワー (North Tower)、2&nbsp;WTCは南タワー (South Tower) と呼ばれることもあった。</ref><br />[[英語|英]]: {{lang|en|World Trade Center}} |画像 = [[File:World_Trade_Center_(WTC)_aerial_view_from_helicopter_(2000-08-18)_(cropped).jpg|200px|「ワールドトレードセンター]] |着工 = {{unbulleted list |[[1966年]]8月5日(基礎工事の開始) |[[1968年]]8月(1&nbsp;WTC) |[[1969年]]1月(2&nbsp;WTC) }} |竣工 = {{unbulleted list |[[1972年]](1&nbsp;WTC) |[[1973年]](2&nbsp;WTC) }} |開業 = 1973年4月4日 |建設期間 = 1966年 - [[1973年]] |状態 = 崩壊 |崩落 = [[2001年]][[9月11日]]([[アメリカ同時多発テロ事件|テロ事件]]での旅客機突入による崩壊) |使用目的 = オフィス<ref group="注">ただし、1&nbsp;WTCの106-107階はレストランとバー、2&nbsp;WTCの107階と屋上は展望デッキとして使用されていた。</ref> |設計 = [[ミノル・ヤマサキ]] |所在地 = {{USA}} [[ニューヨーク州]][[ニューヨーク|ニューヨーク市]] |座標 = {{coord|40|42|42|N|74|0|49|W|region:US|display=inline,title}} |位置図種類 = United States#United States Lower Manhattan |アンテナ_尖塔 = 527m(1&nbsp;WTC屋上のアンテナ){{sfn|NIST NCSTAR 1-1|2005|page=xxxvi}} |屋上 = 1&nbsp;WTC - 417m<br/>2&nbsp;WTC - 415m{{sfn|NIST NCSTAR 1-1|2005|page=xxxvi}} |最上階 = 411m(110階) |階数 = 110階 |床面積ref = 約800,000 [[平方メートル|m<sup>2</sup>]]<br/>(両タワーのオフィススペースの合計) |エレベーター数 = 198基<br/>(両タワーの合計数。貨物用エレベーターを含む)<ref name=MacKay>{{cite book |author=Donald A MacKay |year=2010 |title=The Building of Manhattan |publisher=Courier Corporation |page=61 |isbn=9780486473178}}</ref>{{sfn|NIST NCSTAR 1-1|2005|pages=8–9}} |skyscraperpage_id = |世界一 = 1970年 |世界一明け渡し = 1973年 |先代世界一 = [[エンパイア・ステート・ビルディング]] |次代世界一 = [[シアーズ・タワー]] |地域一 = 1970年 |地域一明け渡し = 1973年 |地域一地域 = アメリカ合衆国 |先代地域一 = エンパイア・ステート・ビルディング |次代地域一 = シアーズ・タワー }} '''ワールドトレードセンター'''、'''世界貿易センター'''({{lang-en|World Trade Center}}, '''WTC''')は、かつて[[アメリカ合衆国]]の[[ニューヨーク]]市[[マンハッタン区]]の[[ローワー・マンハッタン]]に位置していた[[高層ビル]]の集合体である。 [[ツインタワー]]と呼ばれる2棟の110階建て[[オフィスビル]]を中核に、計7棟のビルで構成されていた。1973年4月4日にオープンし、2001年9月11日に破壊されるまで存在していた。ツインタワー(1&nbsp;WTCおよび2&nbsp;WTC)は完成時に[[世界一]]の高さを誇り、2棟の巨大な直方体が並び立つ姿はニューヨーク市や[[マンハッタン]]のシンボルとなっていた。建設および経営には[[ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社]]があたっていた。 [[2001年]][[9月11日]]に発生した[[アメリカ同時多発テロ事件]](9.11テロ事件)の標的の一つとなり、最終的にツインタワーが崩壊し、それに巻き込まれる形で残る5つのビルも半壊または全壊したことで壊滅状態に陥った。現在は跡地に[[1 ワールドトレードセンター]]をはじめとした6つの超高層ビルと9.11テロ事件の追悼施設などからなる新WTCが開業している。 == 起源 == [[ファイル:WTC-looking_north-orthogonal.jpg|thumb|280px|南側から見たWTCのツインタワー(2001年7月撮影)]] ワールドトレードセンターの敷地には、1921年から1966年まで「{{仮リンク|ラジオ・ロウ|en|Radio Row}}」と呼ばれる電気部品街が存在していた。1921年にハリー・シュネック (Harry Schneck) が[[コートランド・ストリート]]に「シティ・ラジオ」という店をオープンしたのを皮切りに、最終的にこの地には数[[街区|ブロック]]にわたって広がる電気部品店の街が形成された。とあるビジネス記者によると、ラジオ・ロウは[[電子部品]]流通事業の起源であった<ref>{{cite book |title=Ruthless Execution: What Business Leaders Do When Their Companies Hit the Wall |first=Amir |last=Hartman |publisher=Financial Times Prentice Hall | publication-place=Upper Saddle River, NJ | year=2004 | isbn=978-0-13-101884-6 |page=167}}</ref>。 [[1939年]]、[[ニューヨーク万国博覧会 (1939年)|ニューヨーク万国博覧会]]の中で、「World Peace through Trade(貿易を通じての世界平和)」をテーマに「ワールドトレードセンター」と名付けられた[[パビリオン]]が設置された<ref name="PAoNYaNJ"/><ref name=TobinNYT>{{cite web|url=https://www.nytimes.com/2003/11/16/books/higher-and-higher.html |publisher=The New York Times |title=Higher and Higher|date=2003-11-16 |accessdate=2019-08-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150527233345/https://www.nytimes.com/2003/11/16/books/higher-and-higher.html |archivedate=2015-05-27 |deadurl=no |df= }}</ref>。第二次世界大戦終結後の[[1946年]]、[[ローワー・マンハッタン]]に世界的な貿易センターを建設する提案が[[ニューヨーク州議会]]によって承認され、当時のニューヨーク州知事[[トマス・E・デューイ]]が建設計画の立案に乗り出したが<ref>{{cite news |url=https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1946/07/07/93133680.pdf |title=Dewey Picks Board for Trade Center |work=The New York Times |date=1946-07-06}}</ref>、1949年になるとこのプロジェクトは頓挫した<ref>{{cite news |url=https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1949/03/11/84200275.pdf |title=Lets Port Group Disband, State Senate for Dissolution of World Trade Corporation |work=The New York Times |date=1949-03-11}}</ref>。 1959年、[[ミッドタウン]]の繁栄の影で経済的に停滞していた[[ロウアー・マンハッタン]]地区の再興を望んでいた[[デイヴィッド・ロックフェラー]]は、「ダウンタウン・ロウアー・マンハッタン協会 (Downtown Lower Manhattan Association)」を設立し、いったんは頓挫した世界的な貿易センターの建設プロジェクトを復活させた<ref name="PAoNYaNJ"/><ref name=Osawa>{{cite book|和書|author=大澤 昭彦|title=高層建築物の世界史 |year=2015|publisher=講談社|series=講談社現代新書|isbn=978-4062883016|pages=256–265}}</ref>。この計画を実現するため、ロックフェラーは[[ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社|ニューヨーク港湾公社]]{{#tag:ref|1930年に設立されたニューヨーク・ニュージャージー両州にまたがる港湾地域の開発を目的とした公団、1972年に[[ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社]]と改称|group="注"}}に協力を要請した<ref name="PAoNYaNJ"/><ref name=Osawa/>。 ニューヨーク港湾公社の[[最高経営責任者|エグゼクティブ・ディレクター]]である{{仮リンク|オースティン・トービン|en|Austin J. Tobin}}はロックフェラーの計画を支持し、貿易センターの建設プロジェクトを強力に推進した<ref name=TobinNYT/>。トービンは、このプロジェクトで建設されるものは単なる「世界的な貿易センター (world trade center)」ではなく、「ザ・ワールドトレードセンター (the World Trade Center)」という唯一無二の存在であるべきだと述べた<ref>{{cite news |url=https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1960/05/05/119101623.pdf |title=Tobin Says Proposed Center Should Be World's Best |work=The New York Times |date=1960-05-05}}</ref>。1962年1月までに、トービンは[[ニューヨーク州]]・[[ニュージャージー州]]の両州政府から計画への支持を取りつけることに成功し、一帯を再開発して巨大なオフィスビルを複数作り、貿易関係の企業や公的機関を集積させるという「ワールドトレードセンター・コンプレックス」の建設が正式に認可された{{#tag:ref|ニュージャージー州政府からの支持を得ることと引き換えに、港湾公社はニュージャージー州が運営していた経営不振のハドソン&マンハッタン鉄道を買収し、港湾公社運営による新鉄道([[パストレイン]])とすることに合意した。|group="注"}}。 1961年に公開された当初の案では、ワールドトレードセンターは[[イースト川]]沿いの敷地に建設されることとなっていたが{{sfn|Gillespie|1999|pages=34–35}}、最終的に[[パストレイン#歴史|ハドソン&マンハッタン鉄道]]のターミナルがあり、ニュージャージー州との交通が便利なハドソン川沿いのラジオ・ロウ地区が建設用地として選ばれた{{sfn|Glanz|Lipton|2003|p=56}}<ref name="nyt-1961dec29">{{cite news |url=https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1961/12/29/119434880.pdf |title=Port Unit Backs Linking of H&M and Other Lines |last=Grutzner |first=Charles |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 |date=1961-12-29}}</ref>。ラジオ・ロウに存在する事業者への移転費用の[[補償]]として、港湾公社は各事業の存続期間や売り上げの程度にかかわらず、すべての事業者に一律に3,000ドルを支払った<ref>{{Cite book2 |last1=Glanz |first=James |first2=Eric |last2=Lipton |name-list-style=amp |title=City in the Sky |publisher=Times Books |year=2003 |isbn=978-0-8050-7691-2|page=68}}</ref>。1965年3月、敷地がWTCの建設用地として買収され<ref name=nyt19650329>{{Cite news |title=Port Agency Buys Downtown Tract |author=Ingraham, Joseph C. |date=1965-03-29 |work=The New York Times}}</ref>、翌1966年3月からラジオ・ロウの解体工事が開始された{{sfn|Gillespie|1999|page=61}}。1966年8月、起工式が執り行われ、WTCの建設工事が始まった<ref name=FEMA>{{Cite book|publisher=[[アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁]] |date=2002-09-01|title=World Trade Center Building Performance Study |chapter=Chapter 1 |url=https://www.fema.gov/media-library/assets/documents/3544}}</ref>。 == ツインタワーの設計と建設 == {{main|ワールドトレードセンターの建設}} === デザイン === [[ファイル:WTCnihongo.jpg|thumb|300px|ツインタワーの典型的なオフィスフロアの平面図と、エレベーター運行概念図。チューブ構造が採用されており、外壁と中央のコア(水色の領域)の間のフロア(黄色の領域)には柱などの障害物が存在しないことがわかる。コアには99基のエレベーターと3本の非常階段が集中的に配置されていた{{sfn|FEMA-Ch2|2002|page=1}}。]] 1962年9月20日、港湾公社はワールドトレードセンターの主任建築士として[[日系アメリカ人]]の[[ミノル・ヤマサキ]]を選出したことを発表した<ref>{{Cite news |title=Architect Named for Trade Center |author=Esterow, Milton |date=1962-09-21 |work=The New York Times}}</ref>。WTCの中心施設を[[ツインタワー]]とするのはヤマサキのアイディアであり、彼のオリジナル案では2つのタワーはそれぞれ80階建のビルとなっていた<ref name="nyt-1964jan19a"/>{{#tag:ref|200階建てのビル1棟にしたり、複数の高層ビルで敷地を埋めず、二棟の超高層ビルとしたのは、ビルをヒューマンスケールを超える高さにしたり、大容積のビルが密集した公営住宅のようにはしたくなかったためだと言われる。|group="注"}}。しかし、80階建のタワーでは港湾公社が設定した10,000,000平方フィート(930,000m²)以上のオフィススペース確保という条件をクリアできなかったため、最終的にツインタワーはそれぞれ110階建のビルとして建設されることになった<ref name="huxtable">{{Cite news |title=Biggest Buildings Herald New Era |author=Huxtable, Ada Louise |date=1964-01-26 |work=The New York Times}}</ref>。 1964年1月18日、ヤマサキによる建設計画案が一般公開され、ツインタワーが一辺208フィート(63.4m)の正方形底面をもつ直方体となることが明らかになった<ref name="nyt-1964jan19a">{{Cite news |url=https://www.nytimes.com/1964/01/19/archives/news-analysis-a-new-era-heralded-architectural-virtue-of-trade.html?searchResultPosition=1 |title=A New Era Heralded |last=Huxtable |first=Ada Louise |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 |date=1964-01-19 |author-link=Ada Louise Huxtable}}</ref>{{sfn|NIST NCSTAR 1-1|2005|page=7}}。オフィスフロアの外窓はひとつにつき幅18インチ(46cm)と細長いものになっていたが、これはヤマサキ自身の[[高所恐怖症]]の反映であり、フロアにいる人間が高度による恐怖を感じることがないよう配慮した結果だった<ref name="pekala">{{Cite news |title=Profile of a lost landmark; World Trade Center |publisher=[[Journal of Property Management]] |date=2001-11-01 |last=Pekala |first=Nancy}}</ref>。ヤマサキによる設計はさらに、ツインタワーの外壁をアルミニウム合金で被覆することを求めていた<ref name="nyt-1966may29">{{Cite news |title=Who's Afraid of the Big Bad Buildings |last=Huxtable |first=Ada Louise |date=1966-05-29 |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331|url=https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1966/05/29/140000432.pdf }}</ref>。WTCのデザインはヤマサキによるゴシック・モダニズム建築の独創的な表現であったほか、[[ル・コルビュジエ]]の建築哲学が顕著に反映されていた{{sfn|Darton|1999|pp=32–34}}。さらにヤマサキは、ツインタワーのデザインに[[イスラーム建築]]の特徴を取り入れていた<ref name="Grudin2010">{{cite book |first=Robert |last=Grudin |title=Design And Truth |url=https://books.google.com/books?id=KHFoCxkdiUIC&pg=PA39 |date=2010-04-20 |publisher=[[Yale University Press]] |isbn=978-0-300-16203-5 |pages=39|accessdate=2019-04-18|archive-url=https://web.archive.org/web/20160527162624/https://books.google.com/books?id=KHFoCxkdiUIC&pg=PA39|archive-date=2016-05-27|url-status=live}}</ref><ref name="Kerr 2001">{{cite web |last=Kerr |first=Laurie |title=Bin Laden's special complaint with the World Trade Center. |website=[[Slate (magazine)|Slate Magazine]] |date=2001-12-28 |url=http://www.slate.com/articles/arts/culturebox/2001/12/the_mosque_to_commerce.html |accessdate=October 12, 2015 | archive-url=https://web.archive.org/web/20150919030203/http://www.slate.com/articles/arts/culturebox/2001/12/the_mosque_to_commerce.html | archive-date=2015-09-19 | url-status=live}}</ref>。 各タワーの44階と78階にはエレベーターの乗り換え階「{{仮リンク|スカイロビー|en|sky lobby}}」が設けられ、急行エレベーターをスカイロビーに直行させ、ここからさらに各階行の普通エレベーターに乗り換えさせるという方式になっていた。このシステムにより、効率的なエレベーターの運行が実現されるのと同時に、エレベーターシャフト数の削減により、フロアの使用可能面積が62%から75%に引き上げられた{{sfn|NIST NCSTAR 1-1|2005|pages=8–9}}。WTCのツインタワーは[[シカゴ]]の[[ジョン・ハンコック・センター]]に続き、スカイロビーを採用した2例目の[[超高層建築物|超高層ビル]]だった<ref>{{cite web|url=http://www.otis.com/otis150/section/1,2344,ARC3066_CLI1_RES1_SEC5,00.html |publisher=[[Otis Elevator Company]] |title=Otis History: The World Trade Center |accessdate=2006-12-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061115072321/http://www.otis.com/otis150/section/1%2C2344%2CARC3066_CLI1_RES1_SEC5%2C00.html |archivedate=2006-11-15 |deadurl=yes |df= }}</ref>{{#tag:ref|スカイロビーのシステムは、各駅停車駅と急行停車駅が存在する[[ニューヨーク市地下鉄]]の運転系統に触発されたものだった{{sfn|Gillespie|1999|page=76}}。|group="注"}}。ツインタワーにはそれぞれ99基のエレベーターが設けられ、両タワーの合計では198基のエレベーターが存在した{{sfn|NIST NCSTAR 1-1|2005|pages=8–9}}<ref name=MacKay/>{{#tag:ref|1&nbsp;WTCの106-107階のレストランに直行する専用エレベーター、2&nbsp;WTC最上階の展望台に直行する専用エレベーター、および7基の貨物用エレベーターを含む{{sfn|NIST NCSTAR 1-1|2005|pages=8–9}}。41-42階、75-76階、108-109階は2棟とも機械設備の専用階になっており、一般人が立ち入ることは不可能であった。|group="注"}}。 === 構造設計 === [[ファイル:WTC-Perspektive.jpg|thumb|200px|ツインタワーの外壁支柱。ヤマサキのデザインに従い、[[アルミニウム]]板で鋼鉄の支柱が被覆されている{{sfn|NIST NCSTAR 1-1|2005|pages=8–9}}。]] ヤマサキによるデザインを実現しつつ十分な強度を得るため、[[構造エンジニア]]班は[[ファズラー・ラーマン・カーン]]が開発した{{仮リンク|チューブ構造|en|Tube (structure)}}を採用した{{sfn|NIST NCSTAR 1|2005|pages=5–6}}<ref>{{cite web|author=Alfred Swenson & Pao-Chi Chang|title=Building construction: High-rise construction since 1945|publisher=[[ブリタニカ百科事典]]|year=2008|url=https://www.britannica.com/technology/building-construction/High-rise-construction-since-1945|accessdate=2019-01-19|quote= The framed tube, which Khan developed for concrete structures, was applied to other tall steel buildings. }}</ref>。ツインタワーのチューブ構造は「フレームド・チューブ (framed-tube)」と呼ばれる設計であり、チューブ状に並べた外壁支柱とビル中心のコア支柱との間に床の梁を渡すことにより、柱や耐力壁のない広大なスペースを得ることができた{{sfn|NIST NCSTAR 1|2005|pages=5–6}}。ツインタワーの外壁は、各面59本、合計236本の鉄骨支柱をチューブ状に密に配置したもので、外壁の一辺の長さは約63mだった{{sfn|NIST NCSTAR 1-1|2005|pages=8–9}}{{sfn|NIST NCSTAR 1|2005|pages=5–6}}。外壁支柱は事実上すべての水平荷重(風荷重など)を負担し、さらに鉛直荷重をコア支柱と分担するよう設計されていた{{sfn|NIST NCSTAR 1-1|2005|page=9}}{{sfn|NIST NCSTAR 1|2005|pages=5–6}}。地上階には出入り口を設ける必要があり、支柱と支柱の間隔を広く取る必要があったため、外壁支柱は7階付近から1本のものがフォークのように3本に分かれ、そのまま最上階まで達する設計となっていた{{sfn|NIST NCSTAR 1-1|2005|page=10}}{{sfn|NIST NCSTAR 1|2005|page=6}}。各タワーの中心部(コア)には47本のコア支柱があり、すべてのエレベーター(各99基)および非常階段(各3本)もコアに集中的に設置されていた{{sfn|FEMA-Ch2|2002|page=1}}。 耐火被覆材を吹きつけた外壁支柱・コア支柱でつくられるチューブ構造は、[[エンパイア・ステート・ビルディング|エンパイアステートビル]]のような(耐火被覆に石材を使用する)建築物よりも軽量かつ柔軟であるため、風に対しても横揺れしやすい性質をもっていた{{sfn|Glanz|Lipton|2003|p=138}}。[[ニューヨーク港]]に面したローワー・マンハッタンは風が強く、横揺れは深刻な問題として懸念された。ツインタワーの設計には[[風洞実験]]が用いられており{{sfn|NIST NCSTAR 1-1A|2005|page=65}}、タワー内部の人間が耐えられる横揺れのレベルも実験により評価された{{sfn|Glanz|Lipton|2003|pp=139–144}}。多くの被験者はネガティブな反応を示し、[[めまい]]などの体の不調を訴えた{{sfn|Glanz|Lipton|2003|pp=139–144}}。横揺れを低減するため、主任技術者{{仮リンク|レスリー・ロバートソン|en|Leslie Robertson}}は、[[アラン・ダヴェンポート]]とともに粘弾性[[ダンパー]] (viscoelastic damper) を開発した。約1万個の粘弾性ダンパーが、各タワーの外壁支柱と床の間に設置され、(いくつかの他の改良点とともに)横揺れを許容できるレベルに抑えることに成功した{{sfn|NIST NCSTAR 1-1|2005|page=10}}<ref>{{cite book |title=City in the Sky |author1=Glanz, James |author2=Eric Lipton |pages=160–167 |publisher=Times Books |year=2003 |isbn=0-8050-7428-7}}</ref>{{#tag:ref|チューブ構造の柔軟性はタワーの中心部(55階付近)を最大振幅させるため、暴風時でも最上階付近ではほとんど揺れを感じなかった。揺れを感じた中心部にはWTCを管理運営する[[ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社|港湾公社]]やニューヨーク・ニュージャージー両州の知事オフィスなど、非テナント機関が入居していた。最大振幅は各タワーとも55階付近で、風の強い日には実際に窓の外のもう一つのタワーが揺れるのを目視することができた。このためこの階で過ごす一人当たりの時間を極力少なくするよう、1&nbsp;WTCの55階はWTCA (世界貿易センター連合) が運営するビジネススクールの講義室、2&nbsp;WTCの55階は港湾公社の会議室などが入っていた。それでも荒天の日には「乗り物酔い」を訴えるスクール受講生が少なくなく、稀に授業をキャンセルする日もあった。|group="注"}}。 ツインタワーの107階から110階にかけては、「ハットトラス (hat trusses)」と呼ばれる構造が設けられていた。ハットトラスは、タワー屋上に設けられる予定の通信アンテナの荷重を支持するためのものだった{{sfn|NIST NCSTAR 1-1|2005|page=10}}。1978年、1&nbsp;WTC(北タワー)の屋上に実際にアンテナが設置されたが、2&nbsp;WTCにアンテナが設置されることはなかった<ref>{{cite web |url=https://www.pbs.org/wgbh/amex/newyork/sfeature/sf_building_pop_01_qt.html |title=New York: A Documentary Film – The Center of the World (Construction Footage) |publisher=Port Authority / PBS |accessdate=2007-05-16}}</ref>。 === 建設 === [[File:Twin_Towers_under_construction.jpg|thumb|left|建設工事中のツインタワー(1969年撮影)]] 1965年3月、港湾公社はワールドトレードセンター建設用地にあたる土地(ラジオ・ロウ)の買収を開始した<ref name=nyt19650329/>。翌1966年3月21日には、13[[街区|ブロック]]にわたって広がるラジオ・ロウの低層ビル群を取り壊すための解体工事が始まった{{sfn|Gillespie|1999|page=61}}。ラジオ・ロウの解体が完了したあとの1966年8月5日、起工式が執り行われ、WTCの建設工事が始まった<ref name=FEMA/>。 WTCの敷地は[[埋立地|埋め立て地]]であり、岩盤は地下20mに位置していた<ref>{{Cite news |url=http://www.newyorker.com/archive/1972/11/04/1972_11_04_130_TNY_CARDS_000308769 |title=The Biggest Foundation |author=Iglauer, Edith |date=1972-11-04 |work=The New Yorker |archiveurl=https://web.archive.org/web/20011218095545/http://www.newyorker.com/FROM_THE_ARCHIVE/ARCHIVES/?010917fr_archive06 |archivedate=2001-12-18}}</ref>。[[基礎工事]]を行うには、まず掘削時に[[ハドソン川]]から水が侵入するのを防ぐ必要があり、建設用地一帯に、[[バスタブ]]状の地下壁(通称{{仮リンク|ザ・バスタブ|en|The Bathtub}})を築かねばならなかった<ref>{{Cite news |title=Tall Towers will Sit on Deep Foundations |last=Kapp |first=Martin S |publisher=Engineering News Record |date=1964-07-09}}</ref>。この地下壁を施工するにあたり、港湾公社のチーフエンジニアは{{仮リンク|スラリー壁|en|Slurry wall}}工法を選択した。この工法は、掘削と同時に[[スラリー]]と呼ばれる[[ベントナイト]]混合物を溝に注ぎこみ、溝をスラリーで満たすことで地下水の流入を封じ、掘削の完了後に鋼鉄のケージを溝に沈め、続いてコンクリートを注入すると、スラリーは溝から押し出され、コンクリートの地下壁が完成するというものだった。地下壁の完成までには14か月を要したが、バスタブの建設は敷地内部で掘削を始めるために必須だった{{sfn|Gillespie|1999|page=68}}。 バスタブに囲われた敷地からは92万立方メートルもの大量の土砂が掘り出され、敷地西側に隣接するハドソン川の埋め立てに利用された。形成された埋立地は「[[バッテリー・パーク・シティ]]」と呼ばれ、[[1985年]]にはこの地に「[[ワールドフィナンシャルセンター]]」と呼ばれる高層オフィスビル群がオープンした{{sfn|Gillespie|1999|page=71}}<ref>{{Cite news |title=New York Gets $90&nbsp;Million Worth of Land for Nothing |publisher=Engineering News Record |date=1968-04-18}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.nytimes.com/1985/10/18/nyregion/battery-project-reflects-changing-city-priorities.html|title=BATTERY PROJECT REFLECTS CHANGING CITY PRIORITIES|last=Gottlieb|first=Martin|date=1985-10-18|work=The New York Times|accessdate=2019-01-21|issn=0362-4331}}</ref>。 [[File:WTC_bathtub_east.JPG|thumb|240px|建設工事の様子。右手に見えるコンクリートの壁が{{仮リンク|ザ・バスタブ|en|The Bathtub}}。[[パストレイン]]の鉄道トンネルが宙に浮かされ、建設中のタワーの内部を通っている(1969年撮影)]] 建設用地の地下を通る[[パストレイン]]の[[ダウンタウン・ハドソン・チューブ|鉄道トンネル]]は、[[ワールド・トレード・センター駅 (パストレイン)|地下鉄の新駅]]が1971年にオープンするまでの間、建設工事中も運行を続けた<ref>{{Cite news |author=Carroll, Maurice |title=A Section of the Hudson Tubes is Turned into Elevated Tunnel |date=1968-12-30 |work=The New York Times}}</ref>。トンネルは支柱で宙に浮かされ、バスタブ内を渡されており、その中をパストレインが走った。敷地の地下には約2,000台の車を収容できる大駐車場や、[[ショッピングモール]]なども建設された。 基礎工事が完了したあとの1968年8月、1&nbsp;WTC(北タワー)の建設工事が開始された<ref name="pbstimeline">{{cite web |url=https://www.pbs.org/wgbh/amex/newyork/timeline/index.html |title=Timeline: World Trade Center chronology |publisher=PBS – [[American Experience]] |accessdate=2007-05-15 |archive-url=https://web.archive.org/web/20070502225357/http://www.pbs.org/wgbh/amex/newyork/timeline/index.html |archive-date=2007-05-02 |url-status=dead}}</ref>。翌1969年1月には2&nbsp;WTC(南タワー)の建設も始まった<ref name="pbstimeline" />。ツインタワーの建設では[[プレハブ工法]]が大々的に用いられ、建設プロセスの高速化が果たされた{{sfn|NIST NCSTAR 1-1|2005|p=xxxvi}}<ref name="PAoNYaNJ">{{cite web |title=History of the Twin Towers |url=http://www.panynj.gov/wtcprogress/history-twin-towers.html |publisher=[[Port Authority of New York and New Jersey]] |date=2014-06-01 |accessdate=2015-08-17 |deadurl=no |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131228040848/http://www.panynj.gov/wtcprogress/history-twin-towers.html |archivedate=2013-12-28 |df=ja}}</ref>。1970年12月23日、北タワーの[[トッピング・アウト|上棟式(トッピング・アウト)]]が行われた<ref name="pbstimeline" />。翌1971年の7月19日には南タワーの上棟式が行われた<ref name="pbstimeline" />。北タワーの最初のテナントは1970年12月15日に入居し、1972年1月には南タワーにも最初のテナントが入った{{sfn|NIST NCSTAR 1-1|2005|p=xxxvi}}。 1&nbsp;WTCは[[1972年]]に、2&nbsp;WTCは[[1973年]]に完成した<ref>{{cite web |title=BUILDING BIG: Databank: World Trade Center |publisher= [[PBS]] |url=www.pbs.org/wgbh/buildingbig/wonder/structure/world_trade.html |accessdate=2019-08-25 |deadurl=no |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111223064849/https://www.pbs.org/wgbh/buildingbig/wonder/structure/world_trade.html |archivedate=2011-12-23 |df=ja}}</ref>。ツインタワーが完成した時点で、港湾公社はワールドトレードセンターの建設に約9億ドルを費やしていた{{sfnp|Cudahy|2002|p=58}}。1973年4月4日、WTCのオープニング式典が挙行され、ツインタワーは正式に開業した{{sfn|Gillespie|1999|p=134}}。 === 批判 === ワールドトレードセンターの建設計画は多くの論争を呼んだ。WTCの建設予定地である「{{仮リンク|ラジオ・ロウ|en|Radio Row}}」地区には、何百もの商工業者と約100人の住民が存在しており、その多くは立ち退きを求められることに対して猛烈に反発した{{sfn|Gillespie|1999|pp=42–44}}。1962年6月、立ち退きの対象となった事業者らは結束して港湾公社の[[土地収用]]権に異議を申し立て、その[[差止請求権|差し止めを請求]]した<ref>{{Cite news |title=Injunction Asked on Trade Center |date=1962-06-27 |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 |last=Clark |first=Alfred E.|url=https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1962/06/27/82049659.pdf }}</ref>。港湾公社との法的な争いは最終的に[[合衆国最高裁判所]]まで持ち込まれたが、最高裁判所は1963年に事業者側の訴えを棄却し、立ち退きの実施が確定した<ref name="nyt-1963nov13">{{Cite news |url=https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1963/11/13/89971855.pdf |title=High Court Plea is Lost by Foes of Trade Center |last=Arnold |first=Martin |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 |date=1963-11-13}}</ref>。 民間の[[デベロッパー (開発業者)|不動産デベロッパー]]や[[エンパイア・ステート・ビルディング|エンパイアステートビル]]の所有者{{仮リンク|ローレンス・ウィーン|en|Lawrence Wien}}らは、公的に助成されたWTCのオフィス物件が、(すでにオフィス物件の供給過剰状態にある)一般の市場に解き放たれ、民間セクターと競合することに対しての懸念を表明した{{sfn|Gillespie|1999|pp=49–50}}<ref>{{Cite news |url=https://www.nytimes.com/1964/02/14/new-fight-begun-on-trade-center.html |title=New Fight Begun on Trade Center |last=Knowles |first=Clayton |date=1964-02-14 |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331}}</ref>。計画の妥当性自体を疑問視する声もあり、WTCプロジェクトを「誤った社会的優先事項」と表現する見方もあった<ref>{{Cite news |url=https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1969/11/12/79436401.pdf |title=Kheel Urges Port Authority to Sell Trade Center |date=1969-11-12 |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331}}</ref>。 [[アメリカ建築家協会]]ほかの団体は、ツインタワーのデザインを美的観点から批判した<ref name="nyt-1966may29" /><ref>{{Cite news |url=https://www.nytimes.com/1964/03/12/archives/letters-to-the-times-marring-citys-skyline-trade-center-buildings.html?searchResultPosition=1 |title=Marring City's Skyline |last=Steese |first=Edward |date=1964-03-10 |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331}}</ref>。[[都市計画]]についての著作を多く持つ[[ルイス・マンフォード]]は1967年、WTCのような最新の超高層ビル群について、「金属とガラスでできた書類用キャビネットに過ぎない」と評した<ref>{{Cite news |url=https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1967/03/22/90299847.pdf |title=Mumford Finds City Strangled By Excess of Cars and People |last=Whitman |first=Alden |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 |date=1967-03-22}}</ref>。ツインタワーのオフィスの窓は1つあたりの幅が46cmと狭く、眺望は常に窓枠(支柱)で遮られていたため非常に不評だった<ref name="pekala" />。社会学者・活動家の[[ジェイン・ジェイコブズ]]は、ニューヨークの[[ウォーターフロント]]は住民の憩いの場として保存されるべきだと主張した<ref>{{cite book |last=Alexiou |first=Alice |title=Jane Jacobs: Urban Visionary |publisher=[[Rutgers University Press]] | publication-place=New Brunswick, N.J |year=2006 |isbn=978-0-8135-3792-4 |page=78}}</ref>。 ==施設== [[ファイル:WTC Building Arrangement and Site Plan.svg|thumb|WTCコンプレックスの建物配置図]] [[ファイル:World Trade Center lobby, 08-19-2000.png|thumb|right|1&nbsp;WTC(北タワー)のロビー。左手にトービン・プラザがある(2000年8月撮影)]] ワールドトレードセンターは、ツインタワーと呼ばれる2棟の110階建オフィスビル(1 WTC・2 WTC)、22階建の高級ホテル(3 WTC)、2棟の9階建オフィスビル(4 WTC・5 WTC)、8階建の合衆国税関ビル(6 WTC)、47階建オフィスビル(7 WTC)の7棟からなるビルの集合体だった<ref name=FEMA1993>{{cite web |url=https://www.usfa.fema.gov/downloads/pdf/publications/tr-076.pdf |author=FEMA |title=The World Trade Center Bombing: Report and Analysis; New York City, New York |publisher=[[アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁]] |year=1993 |page=17| format=PDF |accessdate=2019-08-30}}</ref>。ワールドトレードセンターのビル群には28か国から430のテナントが入居しており、銀行・金融会社・保険会社・貿易会社・政府機関など多種多様だった<ref name=edcnn>{{cite web|url=http://edition.cnn.com/SPECIALS/2001/trade.center/tenants1.html|title=List of World Trade Center tenants|website=cnn.com|publisher=CNN|access-date=2019-09-01|quote=|archive-url=https://web.archive.org/web/20171002025826/http://edition.cnn.com/SPECIALS/2001/trade.center/tenants1.html|archive-date=2017-10-02|url-status=dead|df=ja}}</ref>。ワールドトレードセンターでは5万人が働いており、それ以外に1日14万人の観光客らが訪れていた<ref name=edcnn/>。ビル群全体では13,400,000平方フィート(1,240,000 m²)のオフィススペースがあり<ref>{{Cite news |url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9F01E4D81030F935A35752C0A9649C8B63 |title=Commercial Property; In Office Market, a Time of Uncertainty |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 |last=Holusha |first=John |date=2022-01-06 |accessdate=2008-11-21}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://findarticles.com/p/articles/mi_m3601/is_30_48/ai_83762552 |archive-url=https://archive.is/20120526191512/http://findarticles.com/p/articles/mi_m3601/is_30_48/ai_83762552 |url-status=dead |archive-date=2012-05-26 |title=Ford recounts details of Sept. 11 |work=[[Real Estate Weekly]] |date=2002-02-27 |publisher=BNET |accessdate=2009-01-03}}</ref>、あまりの広大さから独自の[[ZIP (郵便番号)|郵便番号]](10048)が与えられていた<ref>{{Cite news |title='Not Deliverable';Mail still says 'One World Trade Center' |publisher=[[Newsday (New York)]] |date=2003-02-04 |last=Olshan |first=Jeremy}}</ref>。 === ツインタワー(1&nbsp;WTC・2&nbsp;WTC) === [[File:World_Trade_Center,_New_York_City_-_aerial_view_(March_2001).jpg|thumb|left|WTCのツインタワー。屋上に尖塔がある左側のタワーが1&nbsp;WTC、展望デッキがある右側のタワーが2&nbsp;WTC(2001年3月撮影)]] ツインタワーと呼ばれた1&nbsp;WTC(北タワー)と2&nbsp;WTC(南タワー)は、建築家[[ミノル・ヤマサキ]]がデザインした{{仮リンク|チューブ構造|en|Tube (structure)}}の超高層ビルであり<ref>{{cite book |last=National Construction Safety Team |url=http://wtc.nist.gov/NISTNCSTAR1CollapseofTowers.pdf |title=Final Report on the Collapse of the World Trade Center Towers |publisher=NIST |format=PDF |date=2005-09 |chapter=Chapter 1 |pages=5–6 |accessdate=2015-03-110 |archive-url=https://web.archive.org/web/20080527193541/http://wtc.nist.gov/NISTNCSTAR1CollapseofTowers.pdf |archive-date=2008-05-27 |url-status=live |df=ja}}</ref><ref>{{cite journal |last=Taylor |first=R. E. |date=1966-12 |title=Computers and the Design of the World Trade Center |journal=[[American Society of Civil Engineers|ASCE]], Structural Division |volume=92 |issue=ST–6 |pages=75–91}}</ref>、ワールドトレードセンター・コンプレックスの中心的建築物であった<ref name="pbstimeline" />。1972年の完成時、北タワーは40年以上記録を維持していたエンパイアステートビルを追い抜き世界一高いビルとなった。北タワーは高さ417mで完成したが<ref name=WSO>{{cite web |url=http://w.skyscraper.org/TALLEST_TOWERS/t_wtc.htm |title=The World Trade Center: Statistics and History |publisher=|accessdate=2015-08-13|archive-url=https://web.archive.org/web/20150916031526/http://w.skyscraper.org/TALLEST_TOWERS/t_wtc.htm|archive-date=2015-09-16|url-status=dead |df=ja}}</ref>、1978年には高さ110mの通信アンテナが屋上に設けられ、最頂部は527mとなった<ref name="mcdowell">{{Cite news |url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9802EED7133CF932A25757C0A961958260 |title=At Trade Center Deck, Views Are Lofty, as Are the Prices |last=McDowell |first=Edwin |date=1997-04-11 |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 |accessdate=2008-11-21 |archive-url=https://web.archive.org/web/20080410152849/http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9802EED7133CF932A25757C0A961958260 |archive-date=2008-04-10 |url-status=live}}</ref>。南タワーは1973年に高さ415mで完成し、北タワーに次いで当時世界で2番目に高いビルとなった。 世界一高いビルの座は[[1974年]]に完成した[[シカゴ]]のシアーズ・タワー(現・[[ウィリス・タワー]])にすぐに奪われたものの、[[1975年]]以降に展望デッキや展望レストランが完成し、多くの観光客が訪れるようになった。ワールドトレードセンターのツインタワーは新たなニューヨークの象徴となり、数多くの映画やテレビドラマにも登場するようになった<ref name=BI>{{cite web |first=Aria| last=Bendix |title=Aerial images of the World Trade Center show the site's evolution from 1966 to now |url=https://www.businessinsider.com/world-trade-center-evolution-in-aerial-images-2018-8 |publisher=[[ビジネスインサイダー|Business Insider]] |date=2018-09-11|accessdate=2019-08-28}}</ref>。 ツインタワーは両棟ともに110階建てであり、北タワーの110階はテレビスタジオ、南タワーの108〜110階は機械設備階となっていた{{sfn|NIST NCSTAR 1|2005|pages=5–6}}。北タワーの屋上には通信用アンテナの尖塔が設置されており、南タワーの屋上は展望デッキとして使用されていた{{sfn|NIST NCSTAR 1|2005|pages=5–6}}。完成から崩壊するまでの間、ツインタワーは世界でもっともフロア数の多いビルであり続けた<ref name="mcdowell"/>。110階というフロア数の記録は2010年に[[ブルジュ・ハリファ]]が完成するまで追い抜かれることはなかった<ref name="burjdubai">{{cite news |url=http://gulfnews.com/business/property/uae/official-opening-of-iconic-burj-dubai-announced-1.523471 |title=Official Opening of Iconic Burj Dubai Announced |publisher=[[Gulf News]] |date=2009-11-04 |accessdate=2009-11-04 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091106052129/http://gulfnews.com/business/property/uae/official-opening-of-iconic-burj-dubai-announced-1.523471 |archivedate=2009-11-06}}</ref><ref>{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/8439618.stm |title=World's tallest building opens in Dubai |date=2010-01-04 |publisher=[[BBC News]] |accessdate=2010-01-04 |archive-url=https://web.archive.org/web/20100105054239/http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/8439618.stm |archive-date=2021-01-05 |url-status=live}}</ref>。各タワーの総重量は約50万トンだった<ref>{{cite journal |last=Eagar |first=Thomas W. |last2=Musso |first2=Christopher |title=Why did the world trade center collapse? Science, engineering, and speculation |journal=JOM |publisher=[[Springer Nature]] |volume=53 |issue=12 |year=2001 |issn=1047-4838 |doi=10.1007/s11837-001-0003-1 |pages=8–11}}</ref>。 ====トップ・オブ・ザ・ワールド==== [[File:Two World Trade Center Observation Deck.jpg|thumb|2 WTC(南タワー)屋上の展望デッキから[[ミッドタウン・マンハッタン]]の景色を眺める観光客(1984年撮影)]] ツインタワーには一般の観光客に開放されたフロアがあり、南タワーの107階は「トップ・オブ・ザ・ワールド (Top of the World)」という名の屋内展望デッキとなっていた{{sfn|NIST NCSTAR 1-1|2005|page=158 <!--Similar to the Windows on the World facilities on the 106th and 107th floors of WTC 1, there was a public observation deck on the 107th floor of WTC 2 called Top of the World-->}}{{sfn|NIST NCSTAR 1|2005|page=58}}。来場者は入場料を払ったあと([[世界貿易センター爆破事件|1993年のテロ事件]]以降は[[セキュリティ・チェック]]が追加された<ref>{{Cite news |url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9804E1DE1E3EF937A15751C0A961958260 |title=Metal Detectors, Common at Other City Landmarks, Are Not Used |last=Onishi |first=Norimitsu |date=1997-02-24 |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 |accessdate=2008-11-21}}</ref>)、専用エレベーターで地上から107階の展望デッキ(地上400m)まで直行することができた{{sfn|NIST NCSTAR 1-1|2005|page=158}}。107階には双眼鏡が多数設置されていたほか、さまざまな売店やニューヨークをヘリで飛行する映像を上映するシアターなどがあった{{sfn|NIST NCSTAR 1-1|2005|page=158}}。天候が許す日には、107階から2本のエスカレーターを乗り継いで屋上の展望デッキ(地上420m)に出ることもできた{{sfn|NIST NCSTAR 1-1|2005|page=158}}<ref>{{cite book |last=Adams |first=Arthur |title=The Hudson River Guidebook |publisher=[[Fordham University Press]] | publication-place=New York |year=1996 |isbn=978-0-8232-1680-2 |page=87}}</ref>。晴れた日には、屋上のデッキから50マイル(80km)先まで見渡すことができた<ref name="mcdowell" />。屋上のデッキは自殺防止用フェンスよりも高い位置に高台のように設置されており、エンパイアステートビル屋上の展望デッキとは異なり、何にも遮られない眺望を得ることができた{{sfnp|Darton|1999|p=152}}。 ====ウィンドウズ・オン・ザ・ワールド==== [[File:Windows on the world restaurant interior, 2000.jpg|thumb|1 WTCの展望レストラン「ウィンドウズ・オン・ザ・ワールド」の店内の様子(1999年撮影)]] 北タワーの106〜107階には「ウィンドウズ・オン・ザ・ワールド (Windows on the World)」と呼ばれる展望レストランが存在しており、観光客も入店することができた。1976年4月に営業開始したこのレストランは、飲食店経営者{{仮リンク|ジョー・バウム|en|Joe Baum}}が1,700万ドル以上を投じて開業したものだった<ref name="zraly">{{cite book |last=Zraly |first=Kevin |title=Windows on the world complete wine course |publisher=[[Sterling Epicure]] | publication-place=New York |year=2006 |isbn=978-1-4549-2106-6 |page=260}}</ref>。106〜107階では「ウィンドウズ・オン・ザ・ワールド」のほかにも、[[スモーブロー]]と寿司を提供する「Hors d'Oeuvrerie」と、ワイン専用のバー「Cellar in the Sky」という2つの系列店が営業していた<ref name="grimes">{{Cite news |url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9C06E0D9153BF93AA2575AC0A9679C8B63&sec=travel&spon=&pagewanted=all |title=Windows That Rose So Close To the Sun |date=2001-09-19 |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 |last=Grimes |first=William |accessdate=2017-09-18 |archive-url=https://web.archive.org/web/20081017071647/http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9C06E0D9153BF93AA2575AC0A9679C8B63&sec=travel&spon=&pagewanted=all |archive-date=2008-10-17 |url-status=live}}</ref>。展望レストランは1993年の爆破事件のあとに一時閉店した<ref name="zraly" />。レストランは1996年に再オープンしたが、それに合わせ従来の系列店「Hors d'Oeuvrerie」と「Cellar in the Sky」は、それぞれ「Wild Blue」というレストランと「The Greatest Bar on Earth」という名のバーに置き換えられた<ref name="grimes" />。2000年度の「ウィンドウズ・オン・ザ・ワールド」の売上高は3,700万ドルであり、アメリカでもっとも収入の多いレストランとなっていた<ref>{{Cite news |url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9D07E2DA103AF937A35755C0A9649C8B63 |title=Windows on the World Workers Say Their Boss Didn't Do Enough |last=Greenhouse |first=Steven |date=2002-06-04 |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331}}</ref>。北タワーの44階(スカイロビー階)でも系列店の「スカイ・ダイブ・レストラン (The Sky Dive Restaurant)」が営業していた<ref name="grimes" />。批評家による展望レストランへの評価は賛否両論があった。1996年12月、[[ニューヨークタイムズ]]のレストラン批評家{{仮リンク|ルース・ライル|en|Ruth Reichl}}は、「ウィンドウズ・オン・ザ・ワールドに純粋に食事をしにいく人は皆無だろうが、今ならばもっとも食事にうるさい部類の人でも満足させることができるだろう」と書き、このレストランの品質に "very good" という評価を与えた<ref>{{Cite news |url=https://www.nytimes.com/1997/12/31/dining/restaurants-food-that-s-nearly-worthy-of-the-view.html |title=Restaurants; Food That's Nearly Worthy of the View |last=Reichl |first=Ruth |date=1997-12-31 |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331|accessdate=2018-02-22|archive-url=https://web.archive.org/web/20180222165429/http://www.nytimes.com/1997/12/31/dining/restaurants-food-that-s-nearly-worthy-of-the-view.html|archive-date=2018-02-22|url-status=live |df=ja}}</ref>。別のレストラン批評家{{仮リンク|ウィリアム・グライムズ|en|William Grimes (journalist)}}は、2009年出版の著書 ''Appetite'' の中で、「ウィンドウズ・オン・ザ・ワールドでは、メインの料理はニューヨークの景色だった」と評した<ref>{{Cite book |url=https://books.google.com/books?id=w9pLESNSYb8C&pg=PA281 |title=Appetite City: A Culinary History of New York |last=Grimes |first=William |date=2009-10-13 |publisher=Farrar, Straus and Giroux |year= |isbn=978-1-42999-027-1 |pages=281 |language=en}}</ref>。 ===その他のビル(3–7 WTC)=== ワールドトレードセンターの16エーカー(65,000m²)の敷地には、ツインタワーのほかに5棟のビルが存在していた{{sfn|Gillespie|1999|p=226}}。敷地の南西に建設された3 WTCは22階建のホテルであり、1981年に「ビスタ・ホテル (Vista Hotel) 」として開業し<ref>{{Cite news |url=https://www.nytimes.com/1981/04/02/nyregion/hotel-in-the-trade-center-greets-its-first-100-guests.html |title=Hotel In The Trade Center Greets Its First 100 Guests |date=1981-04-02 |accessdate=2018-05-23 |newspaper=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 }}</ref>、1995年には「{{仮リンク|マリオット・ワールドトレードセンター|en|Marriott World Trade Center}}」と改称された{{sfn|Gillespie|1999|p=226}}。4 WTC、5 WTC、6 WTCはいずれもオフィスビルであり、トービン・プラザを囲むように建設されていた{{sfn|World Trade Center Building Performance Study|2002|page=4.1}}。プラザの南東に位置する4&nbsp;WTCビルと北東の5&nbsp;WTCビルは9階建であり、4&nbsp;WTCには合衆国商品取引所 (U.S. Commodities Exchange) が入居していた<ref name=Landesman/>{{sfn|NIST NCSTAR 1-1|2005|page=xxxvi}}。北西に位置する6 WTCビルは8階建であり、[[アメリカ合衆国税関・国境警備局|アメリカ合衆国税関]]が入居していた<ref name=Landesman>{{cite book |last1=Landesman |first1=Linda Y |first2=Isaac B. |last2=Weisfuse |title=Case Studies in Public Health Preparedness and Response to Disasters |publisher=Jones & Bartlett Publishers |year=2013 |isbn=9781449645205 |page=210}}</ref>{{sfn|NIST NCSTAR 1-1|2005|page=xxxvi}}。1987年には、WTCの敷地から道路を挟んだ北側に47階建オフィスビルの[[7 ワールドトレードセンター|7 WTC]]が完成した<ref>{{cite web |url=https://www.panynj.gov/wtcprogress/history-wtc.html |title=History of the World Trade Center |work=Port Authority of New York and New Jersey |accessdate=2015-05-26 |archive-url=https://web.archive.org/web/20150607110234/https://www.panynj.gov/wtcprogress/history-wtc.html |archive-date=2015-06-07 |url-status=dead}}</ref>。WTCコンプレックスの地下には{{仮リンク|ウェストフィールド・ワールドトレードセンター|en|Westfield World Trade Center|label=大型ショッピングモール}}が広がっており、[[ニューヨーク市地下鉄]]や[[パストレイン|PATHトレイン]]などの公共交通機関とも接続されていた{{sfnp|Glanz|Lipton|2003|p=114}}{{sfn|Gillespie|1999|p=217}}。 ===プラザ=== [[File:Austin_Tobin_Plaza_Marriott_World_Trade_Center_-_1995.jpg|thumb|1995年時点のトービン・プラザ。ツインタワーの間に見えるビルが3 WTC(マリオット・ワールドトレードセンター)]] ワールドトレードセンターの敷地中央には、[[ヴェネツィア]]の[[サン・マルコ広場]]を意識した広場である「プラザ」が設けられていた<ref name=Osawa/>。プラザのデザインには、地面に描かれた巨大な四角形・泉(噴水)・中心から放射状に広がる模様など、[[マスジド・ハラーム|メッカの大モスク]]のモチーフも使われていた<ref>{{cite news |last=Laurie Kerr |title=The Mosque to Commerce: Bin Laden's special complaint with the World Trade Center |url=http://www.slate.com/id/2060207/ |work={{仮リンク|Slate|en|Slate (magazine)}} |date=2001-12-28 |accessdate=2019-01-18 |quote=}}</ref>。ヤマサキによれば、このプラザは「[[ウォール街]]の通りや歩道の窮屈さから解放してくれる、[[メッカ]]のような場所」であった<ref>{{cite book|author=Robert Grudin|title=Design And Truth|url=https://books.google.com/books?id=KHFoCxkdiUIC&pg=PA39|date=2010-04-20|publisher=Yale University Press|isbn=978-0-300-16203-5|page=39}}</ref>。プラザの中心には{{ill2|フリッツ・ケーニッヒ|en|Fritz Koenig}}の作品「[[ザ・スフィア]]」が置かれていた。1982年、プラザは1978年に亡くなった{{ill2|オースティン・トービン|en|Austin J. Tobin}}にちなみ、「オースティン・J・トービン・プラザ」と命名された{{sfn|Gillespie|1999|p=123}}。夏の間、プラザには仮設の野外ステージが設置され、さまざまなパフォーマンスや演奏が行われていた{{sfn|Gillespie|1999|p=214}}。長年にわたり、プラザは2棟のタワーの間で発生する[[ベンチュリ効果]]による突風の被害を受けており<ref>{{Cite news |title=At New Trade Center, Seeking Lively (but Secure) Streets |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 |url=https://www.nytimes.com/2006/12/07/nyregion/07blocks.html?fta=y |date=2006-12-07 |last=Dunlap |first=David W. |accessdate=2017-02-23 |archive-url=https://web.archive.org/web/20160415180330/http://www.nytimes.com/2006/12/07/nyregion/07blocks.html?fta=y |archive-date=2016-04-15 |url-status=live}}</ref>、歩行者は時にはロープにつかまって移動する必要があるほどだった<ref>{{Cite news |title=Girding Against Return of the Windy City in Manhattan |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 |url=https://www.nytimes.com/2004/03/25/nyregion/25blocks.html |date=2004-03-25 |last=Dunlap |first=David W. |accessdate=2017-02-23 |archive-url=https://web.archive.org/web/20150828144027/http://www.nytimes.com/2004/03/25/nyregion/25blocks.html |archive-date=2015-08-28 |url-status=live}}</ref>。約1,200万ドルが費やされた改修工事を経て1999年にトービン・プラザは再オープンした。改修により従来の[[大理石]]舗装がグレーとピンクの[[花崗岩]]による舗装に変更されたほか、新しいレストランやキオスク、ベンチやプランターなどが追加された<ref>{{cite web |url=http://www.panynj.gov/pr/71-99.html |title=World Trade Center Plaza Reopens with Summer-long Performing Arts Festival |accessdate=2019-08-29 |publisher=[[Port Authority of New York and New Jersey]] |date=1999-06-09 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081228084900/http://www.panynj.gov/pr/71-99.html |archivedate=2008-12-28}}</ref>。 === 美術品 === 港湾公社はワールドトレードセンターの建設にあたり、総建設費用の1%を[[パブリック・アート]]に使っていた<ref name="Economist">{{cite news |date=2001-10-11 |title=A museum in the sky |url=http://www.economist.com/node/814452 |work=The Economist |accessdate=2019-09-01 |archive-url=https://web.archive.org/web/20171113010618/http://www.economist.com/node/814452 |archive-date=2017-11-13 |url-status=live |df=ja}}</ref>。エントランスのロビーには[[ルイーズ・ネーベルソン]]、[[ジョアン・ミロ]]、[[ル・コルビュジエ]]らの大きな作品が、トービン・プラザの中心にはフリッツ・ケーニッヒの「[[ザ・スフィア]]」が、またその周辺には[[流政之]]の「雲の砦」、ジェームズ・ロザッティ (James Rosati) の「Ideogram」などが置かれていた。またWTC7建設後には[[アレクサンダー・カルダー]]の「スタビル」などが設置された。ビルの各[[テナント]]もおのおの美術[[コレクション]]を所有しており、1&nbsp;WTCの上層階にあった証券会社キャンター・フィッツジェラルド(9.11テロで大多数の社員が死亡した)は[[オーギュスト・ロダン|ロダン]]の彫刻のコレクションで知られていたほか、[[バンク・オブ・アメリカ]]のオフィスには100点以上の現代美術作品があった<ref name="Economist"/>。美術品の多くは同時多発テロ事件によって失われたが、プラザに置かれていた「ザ・スフィア」は原型を保った状態で発見され、再度組み立てられたのち、テロの記念碑として[[バッテリー・パーク]]に移設された<ref>{{cite web |title=Fritz Koenig, sculptor whose art withstood 9/11 attack, dies |work=[[Associated Press]] |date=2017-02-24 |url=https://www.apnews.com/64f6ee0c1a454adf8062e79c213e9adb |accessdate=2019-09-09}}</ref><ref>{{cite web |title=Battered and Scarred, 'Sphere' Returns to 9/11 Site |work=[[New York Times]] |first=Sharon |last=Otterman |date=2017-11-29 |url=https://www.nytimes.com/2017/11/29/nyregion/911-memorial-sphere-sculpture.html|accessdate=2019-09-09}}</ref>。テロで失われた美術品の当時の総額は、各テナントのプライベート・コレクションが1億ドル、パブリックアートが1,000万ドル、合計で1.1億ドルとされる<ref name="Economist"/>。 ==911テロ以前の事件== === 1975年2月の火災 === 1975年2月13日の夜、北タワーの11階で大規模な火災が発生した。火は電話線の絶縁体を伝わって9階と14階にも燃え広がった。火元から遠いエリアはすぐさま鎮火され、11階の火元も数時間以内に鎮火された。駆けつけた消防隊員が軽傷を負った以外に人的被害はなかった<ref name="nyt 19750214"/>。大きなダメージを被った11階では、書類用キャビネットとオフィス機械用のオイルが火の燃料となっていた。耐火被覆が機能し、タワーに構造的ダメージは見られなかった。火が広がった9階と14階以外に、消火活動に使われた水によってダメージを受けたフロアもあった。当時のワールドトレードセンターには[[スプリンクラー設備]]が存在していなかった<ref name="nyt 19750214">{{Cite news |url=https://www.nytimes.com/1975/02/14/nyregion/14WTC.html |title=Trade Center Hit by 6-Floor Fire |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 |date=1975-02-14 |accessdate=2008-09-11 |archive-url=https://web.archive.org/web/20080512074050/http://www.nytimes.com/1975/02/14/nyregion/14WTC.html |archive-date=2008-05-12 |url-status=dead}}</ref>。 === 1993年2月のテロ事件 === {{main|世界貿易センター爆破事件}} [[ファイル:WTC 1993 ATF Commons.jpg|thumb|right|1993年の[[世界貿易センター爆破事件|爆破事件]]が起こった1 WTCの地下駐車場]] 1993年2月26日午後0時17分、テロリスト([[ラムジ・ユセフ]])によって設置された、1,500ポンド(680kg)の爆発物を満載したトラックが、北タワーの地下駐車場で爆発した<ref name="reeve p10">{{cite book |last=Reeve |first=Simon |title=The new jackals : Ramzi Yousef, Osama Bin Laden and the future of terrorism |publisher=[[Northeastern University Press]] | publication-place=Boston |year=2002 |isbn=978-1-55553-509-4 |page=10}}</ref>。爆発によって地下駐車場のB1およびB2フロアが甚大な被害を受け、B3フロアも深刻な構造的ダメージを被った<ref>{{Cite book |title=Design, Construction, and Maintenance of Structural and Life Safety Systems (NCSTAR 1-1) |publisher=[[National Institute of Standards and Technology]] |pages=xlv |last=Lew |first=H.S. |author2=Richard W. Bukowski |author3=Nicholas J. Carino |date=2005-09}}</ref>。このテロ攻撃の結果、6人が死亡し、1,042人が負傷した(煙の吸引による負傷を含む)<ref>{{Cite news |url=http://www.newsweek.com/id/111113 |title=A Shaken City's Towering Inferno |last=Mathews |first=Tom |date=1993-03-08 |work=[[Newsweek]] |accessdate=2008-10-26 |archive-url=https://web.archive.org/web/20081030073528/http://www.newsweek.com/id/111113 |archive-date=2008-10-30 |url-status=live}}</ref><ref name="barbanel">{{Cite news |url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9F0CE5DC103DF934A15751C0A965958260&sec=&spon=&pagewanted=all |title=Tougher Code May Not Have Helped |last=Barbanel |first=Josh |date=1993-02-27 |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 |accessdate=2008-11-20}}</ref>。駐車場の火災により発生した煙が両タワーのエレベーターシャフトを伝わって全階に広がり、WTCは全館全員緊急退去という騒然とした状況に包まれた。のちに、ラムジ・ヨセフと{{仮リンク|イヤード・イスマイール|en|Eyad Ismoil}}がテロの実行犯として有罪判決を受けたほか<ref>{{Cite news |url=http://articles.cnn.com/1997-11-12/us/9711_12_world.trade.center_1_yousef-and-ismoil-bombing-plot-worst-terrorist-attack?_s=PM:US |title=Jury convicts 2 in Trade Center blast |publisher=CNN |date=1997-11-12 |accessdate=2008-11-20 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100916042827/http://articles.cnn.com/1997-11-12/us/9711_12_world.trade.center_1_yousef-and-ismoil-bombing-plot-worst-terrorist-attack?_s=PM:US |archivedate=2010-09-16 |df=ja}}</ref>、[[オマル・アブドッラフマーン]]ら5人の人物がテロに関与したとして有罪となった<ref name=":1">{{Cite news2 |url=http://community.seattletimes.nwsource.com/archive/?date=19940525&slug=1912247 |title=In Sentencing Bombers, Judge Takes Hard Line |author1=Hays, Tom |date=1994-05-25 |work=[[Seattle Times]] / AP |accessdate=2008-11-20 |author2=Larry Neumeister |name-list-style=amp|archive-url=https://web.archive.org/web/20110626031815/http://community.seattletimes.nwsource.com/archive/?date=19940525&slug=1912247|archive-date=2011-06-26|url-status=live}}</ref><ref name=":0">{{Cite news |url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9D0DE4DF1E39F93BA25752C0A960958260 |archive-url=https://archive.is/20120526191515/http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9D0DE4DF1E39F93BA25752C0A960958260 |url-status=dead |archive-date=2012-05-26 |title=Sheik Sentenced to Life in Prison in Bombing Plot |date=1996-01-18 |last=Fried |first=Joseph P. |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 |accessdate=2008-11-20}}</ref>。裁判では、テロの計画者らの狙いは北タワーの安定性を損なうことで南タワーに向かって倒れこむように仕向け、ツインタワー両棟を破壊することであったとされた<ref>{{Cite news |url=http://www.cnn.com/US/9708/05/wtc.trial/index.html |title=Prosecutor: Yousef aimed to topple Trade Center towers |date=1997-08-05 |publisher=CNN |accessdate=2008-11-20 |archive-url=https://web.archive.org/web/20081012085254/http://www.cnn.com/US/9708/05/wtc.trial/index.html |archive-date=2008-10-12 |url-status=live}}</ref>。 爆発で吹き飛ばされた地下駐車場の床は北タワーを構造的に支持していたため、修復を行ってその機能を回復する必要があった<ref>{{cite web |url=http://www.interfire.org/res_file/pdf/Tr-076.pdf |format=PDF |title=The World Trade Center Complex |last=Port Authority Risk Management Staff |publisher=[[United States Fire Administration]] |accessdate=2007-05-15 |archive-url=https://web.archive.org/web/20070928113151/http://www.interfire.org/res_file/pdf/Tr-076.pdf |archive-date=2007-09-28 |url-status=live}}</ref>。地下駐車場のB5フロアにはWTCコンプレックス全体の空調を担う冷却設備が存在していたが、この設備も爆発で大きなダメージを受けた<ref name="ennala">{{Cite journal2 |df=ja|doi=10.1061/(ASCE)0887-3828(1994)8:4(229) |author1=Ramabhushanam, Ennala |author2=Marjorie Lynch |name-list-style=amp |title=Structural Assessment of Bomb Damage for World Trade Center |journal=Journal of Performance of Constructed Facilities |volume=8 |pages=229–242 |issue=4 |year=1994}}</ref>。爆発は[[自動火災報知設備|火災報知システム]]の配線や信号装置も破壊しており、コンプレックス全体で装置を交換する必要が生じた<ref>{{Cite book |url=http://wtc.nist.gov/pubs/NISTNCSTAR1-4.pdf |format=PDF |title=Active Fire Protection Systems (NCSTAR 1–4) |publisher=National Institute of Standards and Technology |page=44 |last=Evans |first=David D. |author2=Richard D. Peacock |author3=Erica D. Kuligowski |author4=W. Stuart Dols |author5=William L. Grosshandler |date=2005-09 |accessdate=2015-03-11 |archive-url=https://web.archive.org/web/20110728081730/http://wtc.nist.gov/pubs/NISTNCSTAR1-4.pdf |archive-date=July 28, 2011 |url-status=dead |df=ja}}</ref>。 このテロ事件のあと、港湾公社は非常階段に避難誘導用の[[フォトルミネセンス]]表示を追加したほか<ref>{{Cite journal |url=http://www.fpemag.com/archives/enewsletter.asp?i=16 |title=Escape from New York – The Use of Photoluminescent Pathway-marking Systems in High-Rise |last=Amy |first=James D., Jr. |publisher=[[Society of Fire Protection Engineers]] |journal=Emerging trends |date=2006-12 |volume=Issue 8 |accessdate=2008-11-20 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080117010033/http://www.fpemag.com/archives/enewsletter.asp?i=16 |archivedate=2008-01-17}}</ref>、犠牲者の名を刻んだ追悼のメモリアルをトービン・プラザに設置した<ref>{{Cite news |url=http://www.nytimes.com/2002/02/26/nyregion/their-monument-now-destroyed-1993-victims-are-remembered.html |archive-url=https://web.archive.org/web/20120914025508/http://www.nytimes.com/2002/02/26/nyregion/their-monument-now-destroyed-1993-victims-are-remembered.html |url-status=live |archive-date=2012-09-14 |title=Their Monument Now Destroyed, 1993 Victims Are Remembered |last=Dwyer |first=Jim |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 |date=2002-02-26 |accessdate=2008-11-20}}</ref>。このメモリアルは2001年の同時多発テロによって破壊され失われた。1993年の事件による犠牲者の名前は、2001年のテロによる犠牲者の名前とともに[[ナショナル・セプテンバー11メモリアル&ミュージアム]]に記載されている<ref>{{cite web |title=Family members of 1993 World Trade Center terror attack victims gather on anniversary of bombing |website=[[New York Daily News]] |date=2018-02-13 |url=http://www.nydailynews.com/new-york/manhattan/remembering-victims-1993-world-trade-center-bombing-article-1.2983339 | accessdate=2018-02-25 | archive-url=https://web.archive.org/web/20180226211614/http://www.nydailynews.com/new-york/manhattan/remembering-victims-1993-world-trade-center-bombing-article-1.2983339 | archive-date=2018-02-26 | url-status=live |df=ja}}</ref>。 === 1998年1月の強盗事件 === 1998年1月14日、[[マフィア]]の構成員であるラルフ・グアリーノ (Ralph Guarino) は、3人の共犯者とともに{{仮リンク|Brink's|en|Brink's}}の北タワー11階の銀行への現金輸送を待ち伏せして襲い、200万ドルを越える額の現金(ドル以外の通貨を含む)を奪った([[:w:1998 Bank of America robbery]])<ref name="mafia 2007">{{cite book |last=Reppetto |first=Thomas |title=Bringing down the mob : the war against the American Mafia |publisher=Henry Holt Melia distributor | publication-place=New York Godalming |year=2007 |isbn=978-0-8050-8659-1 |page=279}}</ref>。しかしその後、4人とも逮捕され、主犯のグアリーノはFBIの証人となった。彼の情報提供により、ニュージャージー州の{{仮リンク|デカヴァルカンテ一家|en|DeCavalcante crime family}}の幹部が多数逮捕・起訴され、組織に大打撃を与えた<ref>[http://www.organized-crime.de/revsmi03DeCavalcanteFamily.htm Made Men: The True Rise-and-Fall-Story of a New Jersey Mob Family]</ref>。 ==911テロ事件による破壊== {{Main|アメリカ同時多発テロ事件}} [[File:UA Flight 175 hits WTC south tower 9-11 edit.jpeg|thumb|200px|[[アメリカ同時多発テロ事件]]でユナイテッド航空175便が2 WTCの南1側外壁に突入した瞬間]] 2001年9月11日午前8時46分、イスラム過激派テロリストにハイジャックされた[[アメリカン航空11便テロ事件|アメリカン航空11便]]が1 WTC(北タワー)の北側外壁、93〜99階に突入した<ref name="Moghadam">{{cite book|title=The Globalization of Martyrdom: Al Qaeda, Salafi Jihad, and the Diffusion of Suicide Attacks|last=Moghadam|first=Assaf|publisher=Johns Hopkins University|year=2008|isbn=978-0-8018-9055-0|page=48}}</ref>。その17分後の午前9時3分、同じくハイジャックされた[[ユナイテッド航空175便テロ事件|ユナイテッド航空175便]]が2 WTC(南タワー)の南側外壁、77〜85階に突入した<ref name="911commission">{{cite web |title=The 9/11 Commission Report |url=http://govinfo.library.unt.edu/911/report/911Report.pdf#page=302 |publisher=[[9/11 Commission|National Commission on Terrorist Attacks Upon the United States]] |date=2004-07-27 |accessdate=2015-09-29 |archive-url=https://web.archive.org/web/20110208154444/http://govinfo.library.unt.edu/911/report/911Report.pdf#page=302 |archive-date=2011-02-08 |page=302|url-status=live}}</ref>。北タワーでは11便の衝突によってすべての非常階段が破壊されたが、南タワーでは175便が中心から逸れて衝突したため、1本の非常階段が使用可能な状態で残されていた<ref name="102Mins">{{cite news |archiveurl=https://webcitation.org/5bTftBx4s?url=http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9F00E6DC153BF935A15756C0A9649C8B63&sec=&spon=&pagewanted=4 |archivedate=2008-10-11 |last=Dwyer |first=Jim |author2=Lipton, Eric |title=102 Minutes: Last Words at the Trade Center; Fighting to Live as the Towers Die |url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9F00E6DC153BF935A15756C0A9649C8B63&sec=&spon=&pagewanted=4 |date=2002-05-26 |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 |accessdate=2008-05-23 |display-authors=etal |deadurl=no |df=}}</ref><ref>{{cite book |last=National Commission on Terrorist Attacks |title=The 9/11 Commission Report (first edition) |publisher=W. W. Norton & Company |date=2004-07-22J |url=http://govinfo.library.unt.edu/911/report/911Report_Ch9.pdf |page=294 |isbn=978-0-393-32671-0 |accessdate=2014-01-24}}</ref>。 [[File:World Trade Center 3 After 9-11 Attacks With Original Building Locations.jpg|thumb|200px|2001年9月17日撮影のWTC跡地]] 午前9時59分、南タワーは約56分間炎上したあとに崩壊した{{sfnp|NIST NCSTAR 1|2005|pp=34, 45–46}}。航空機の衝突による構造的ダメージに加え、ジェット燃料が引き起こした火災の熱が構造部材の強度を著しく低下させたことが崩壊につながった{{sfnp|NIST NCSTAR 1|2005|pp=34, 45–46}}。10時28分、南タワーに続き、北タワーが約102分間炎上したあとに崩壊した{{sfnp|NIST NCSTAR 1|2005|pp=34, 45–46}}。17時21分、7 WTCビルが火災による構造ダメージによって崩壊した<ref name="ch5">{{cite web |url=http://www.fema.gov/pdf/library/fema403_ch5.pdf |title=FEMA 403 -World Trade Center Building Performance Study, Chapter. 5, section 5.5.4 |format=PDF |accessdate=2011-01-30 |archive-url=https://web.archive.org/web/20080305201707/http://www.fema.gov/pdf/library/fema403_ch5.pdf |archive-date=2008-03-05 |url-status=live}}</ref><ref>{{cite web |url=http://wtc.nist.gov/media/NIST_NCSTAR_1A_for_public_comment.pdf |title=Final Report on the Collapse of World Trade Center Building 7 – Draft for Public Comment |publisher=NIST |pages=xxxii |date=2008-08 |accessdate=2019-08-29 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080928013317/http://wtc.nist.gov/media/NIST_NCSTAR_1A_for_public_comment.pdf |archivedate=2008-09-28 |df=ja}}</ref>。3 WTCビル(マリオット・ワールドトレードセンター)はツインタワーの崩落に巻き込まれ崩壊した。プラザ周辺の3つのビル(4-6 WTC)はツインタワーからのデブリによって甚大な被害を受け、事件後に解体された<ref name="wtcstudy">{{cite web |url=http://www.fema.gov/rebuild/mat/wtcstudy.shtm |title=World Trade Center Building Performance Study |date=2002-05 |publisher=[[Federal Emergency Management Agency|FEMA]] |accessdate=2001-06-09 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110430200952/http://www.fema.gov/rebuild/mat/wtcstudy.shtm |archivedate=2011-04-30}}</ref>。ワールドトレードセンター跡地での救出作業や回収作業、がれきの除去が完了するまでには8か月を要した<ref>{{cite news |title=The Last Steel Column |url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9F02E4D71E3BF933A05756C0A9649C8B63 |archive-url=https://archive.is/20130130073734/http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9F02E4D71E3BF933A05756C0A9649C8B63 |url-status=dead |archive-date=2013-01-30 |newspaper=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 |date=2022-05-30 |accessdate=2010-07-31}}</ref>。 [[アメリカ国立標準技術研究所]](NIST)の推定によれば、テロ発生時のツインタワーには約17,400人が存在していた<ref>{{Cite book |last=Averill |first=Jason D. |url=http://wtc.nist.gov/NISTNCSTAR1-7.pdf |chapter=Occupant Behavior, Egress, and Emergency Communications |title=Final Reports of the Federal Building and Fire Investigation of the World Trade Center Disaster |publisher=National Institute of Standards and Technology (NIST) |year=2005|display-authors=etal|accessdate=2016-01-07|archive-url=https://web.archive.org/web/20090714130213/http://wtc.nist.gov/NISTNCSTAR1-7.pdf|archive-date=2009-07-14|url-status=dead |df=ja}}</ref>。ワールドトレードセンターとその周辺での民間人死者は2,192人(突入した旅客機の乗員乗客を除く)であり、中でも{{仮リンク|キャンター・フィッツジェラルド|en|Cantor Fitzgerald}}(北タワーの101〜105階に入居)と[[マーシュ・アンド・マクレナン]](北タワーの93〜101階に入居)、[[エーオン]]などの企業は多数の死者を出した<ref>{{Cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/5282060.stm |title=Cantor rebuilds after 9/11 losses |work=BBC News |location=London |date=2006-09-04 |accessdate=2008-05-20 |archive-url=https://web.archive.org/web/20080407091157/http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/5282060.stm |archive-date=2008-04-07 |url-status=live}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.investmentnews.com/apps/pbcs.dll/article?AID=/20070911/REG/70911011 |title=Industry honors fallen on 9/11 anniversary |work=InvestmentNews |last=Siegel |first=Aaron |date=2007-09-11 |accessdate=2008-05-20 |archive-url=https://web.archive.org/web/20070915130042/http://www.investmentnews.com/apps/pbcs.dll/article?AID=%2F20070911%2FREG%2F70911011 |archive-date=2007-09-15 |url-status=dead}}</ref>。南タワーに旅客機が衝突したポイントは北タワーに比べて低層であり、より多くフロアが影響を受けたにもかかわらず、南タワーにおける民間人死者は624人と(1,466人の民間人死者を出した北タワーに比べて)少なかった<ref name="NYTFatal">{{Cite news |last=Lipton |first=Eric |url=https://www.nytimes.com/2004/07/22/nyregion/study-maps-the-location-of-deaths-in-the-twin-towers.html |title=Study Maps the Location of Deaths in the Twin Towers |date=2004-07-22 |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 |accessdate=2015-08-12 |archive-url=https://web.archive.org/web/20150528044535/http://www.nytimes.com/2004/07/22/nyregion/study-maps-the-location-of-deaths-in-the-twin-towers.html |archive-date=2015-05-28 |url-status=live}}</ref>。民間人死者のほかにも、現場に駆けつけたニューヨーク市消防局の消防士343人と、ニューヨーク市警察・港湾公社警察などの警察官71人がワールドトレードセンターで死亡した<ref>{{Cite news |first1=Denise |last1=Grady |first2=Andrew C. |last2=Revkin |title=Lung Ailments May Force 500 Firefighters Off Job |url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9C05E1DC1631F933A2575AC0A9649C8B63 |date=2002-09-10 |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 |accessdate=2008-05-23}}</ref><ref>{{Cite news |title=Post-9/11 report recommends police, fire response changes |url=https://www.usatoday.com/news/nation/2002-08-19-nypd-nyfd-report_x.htm |date=2002-08-19 |agency=Associated Press |newspaper=[[USA Today]] |location=Washington DC |accessdate=2008-05-23 |archive-url=https://web.archive.org/web/20110820043759/http://www.usatoday.com/news/nation/2002-08-19-nypd-nyfd-report_x.htm |archive-date=2011-08-20 |url-status=live}}</ref><ref>{{Cite news |title=Police back on day-to-day beat after 9/11 nightmare |url=http://archives.cnn.com/2002/US/07/20/wtc.police/index.html |date=2002-07-21 |publisher=CNN |accessdate=2008-05-23 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080517155430/http://archives.cnn.com/2002/US/07/20/wtc.police/index.html |archivedate=2008-05-17}}</ref>。各タワーの崩壊時、内部には多数の民間人や消防士が存在していたが、生存してがれきから救出されたのは20人のみだった<ref>{{Cite news |url=http://m.rockymountainnews.com/news/2006/aug/04/terror-in-close-up/ |title=Terror in close-up |last=Denerstein |first=Robert |location=Denver, CO |date=2006-08-04 |newspaper=[[Rocky Mountain News]] |accessdate=2008-11-19 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130730120308/http://m.rockymountainnews.com/news/2006/aug/04/terror-in-close-up/ |archivedate=2013-07-30 |df=ja}}</ref>。 == 新ワールドトレードセンターの建設 == [[ファイル:One_World_Trade_Center_May_2015.jpg|thumb|right|200px|新WTCの中心的施設である[[ワン・ワールド・トレード・センター]](2015年5月)]] [[ファイル:WTC Building Arrangement in preliminary site plan.svg|thumb|right|200px|新WTCのビル配置図]] ワールドトレードセンターの再建についての議論はテロによる破壊の直後から始まった。2001年11月には再建プロセスの監督を目的とする「{{ill2|ロウアー・マンハッタン開発公社|en|Lower Manhattan Development Corporation}}(LMDC)」が設立された<ref>{{cite news |last=Pérez-Peña |first=Richard |title=A Nation Challenged; Downtown; State Plans Rebuilding Agency, Perhaps Led by Giuliani |url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=950DEFD81639F930A35752C1A9679C8B63 |newspaper=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 |date=2001-11-03 |accessdate=2010-07-31}}</ref>。LMDCは[[敷地計画|用地計画]]や建築デザインを選定するのための[[コンペティション|コンペ]]を実施し<ref>{{cite news |title=Up From The Ashes |publisher=Newsweek |date=2001-11-12 |last=McGuigan |first=Cathleen}}</ref>、その結果[[ダニエル・リベスキンド]]による「{{ill2|メモリー・ファウンデーション|en|Memory Foundations}}」と題する設計案がマスタープラン(基本計画)として採用された<ref>{{cite web |url=http://www.renewnyc.com/plan_des_dev/wtc_site/new_design_plans/Sept_2003_refined_design.asp |title=Refined Master Site Plan for the World Trade Center Site |work=[[Lower Manhattan Development Corporation]] |accessdate=2014-05-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140416100733/http://www.renewnyc.com/plan_des_dev/wtc_site/new_design_plans/Sept_2003_refined_design.asp |archivedate=2014-04-16 |url-status=dead}}</ref>。リベスキンドは[[ベルリン・ユダヤ博物館]]に代表される祈念モニュメントの設計に実績があり、今回も尖塔までの高さ1,776フィート(541m、アメリカ独立の[[1776年]]にちなむ、ただし建物部分は70階建)の自由の女神を模した[[1 ワールドトレードセンター|フリーダム・タワー]]がそのデザインの中核を占めていた。またツインタワーのあった場所は慰霊の場とし、その周囲を[[ストーンヘンジ]]のように囲む5つの高層ビル群は、毎年9月11日の朝の旅客機衝突時刻からビル崩壊時刻までの間、タワー跡地には影を落とさないように配置されていた。しかし最終的に、リベスキンドの案には大幅な変更が加えられることとなった<ref>{{cite news |url=http://cityroom.blogs.nytimes.com/2012/06/12/1-world-trade-center-is-a-growing-presence-and-a-changed-one/ |title=1 World Trade Center Is a Growing Presence, and a Changed One |first=David W. |last=Dunlap |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 |date=2012-06-12 |accessdate=2012-12-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151027062933/http://cityroom.blogs.nytimes.com/2012/06/12/1-world-trade-center-is-a-growing-presence-and-a-changed-one/ |archivedate=2015-10-27 |url-status=dead}}</ref>。 港湾公社は9.11テロ直前の[[2001年]]7月、ニューヨークの不動産開発業者[[ラリー・シルバースタイン]]にWTCを長期リースする契約を交わしており、その結果シルバースタインが事実上の再建施工主となったため、事態は複雑な様相を呈するに至った。商業価値を優先するシルバースタインはモニュメントとしての性格が強いリベスキンド案を嫌い、[[スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル|SOM]]のデイヴィッド・チャイルズを参加させて設計に大幅な変更を加えたため、リベスキンドとの間で訴訟沙汰となった<ref>シルバースタインはテロ被害による[[保険]]金支払額をめぐっても、テロを1回と数えるか、飛行機の衝突回数から2回と数えるかで訴訟を起こし勝訴している。</ref>。 両者は和解し、新たにリベスキンド・チャイルズ折衷案が公表されたものの、今度は警察当局や米国本土安全保障省などから保安上の設計変更が求められ、さらに港湾公社やこれを管轄するニューヨーク・ニュージャージー両州議会などの意向も加わり、設計変更が繰り返され、フリーダム・タワーも自由の女神のデザインは特に取り入れないこととなった。 [[2002年]]5月いっぱいで残骸はすべて撤去され、遺体の捜索も合わせて打ち切られた。以後、新ワールドトレードセンターや地下鉄の再建が始まり、その第一歩として、新7WTCが[[2006年]]に竣工、WTC全体の再建事業完成は当初は[[2010年代]]前半となる予定であったが、[[リーマンショック]]などの経済的な諸事情により大幅に遅れている。なお再建後の名称は従来どおり「ワールドトレードセンター」とされた。 新ワールドトレードセンターの構成は以下のとおり。{{仮リンク|6 ワールドトレードセンター|label=6 ワールドトレードセンター|en|Six_World_Trade_Center}}にあたる建物は計画されておらず、欠番となっている。 *[[ワン・ワールド・トレード・センター]](WTCタワー1): 高さ541.3m、[[スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル|SOM]]の{{仮リンク|デイヴィッド・チャイルズ (建築家)|en|David Childs|label=デイヴィッド・チャイルズ}}設計([[2014年]][[11月3日]]竣工) *[[2 ワールドトレードセンター]](WTCタワー2): 高さ411m、[[ノーマン・フォスター]]設計(未定) *[[3 ワールドトレードセンター]](WTCタワー3): 高さ378m、[[リチャード・ロジャース (建築家)|リチャード・ロジャース]]設計([[2018年]][[6月11日]]竣工) *[[4 ワールドトレードセンター]](WTCタワー4): 高さ297m、[[槇文彦]]設計([[2013年]][[11月13日]]竣工) *[[5 ワールドトレードセンター]](WTCタワー5): 高さ226m、[[コーン・ペダーセン・フォックス]]設計(2029年完成予定) *[[7 ワールドトレードセンター]](WTCタワー7): 高さ226m、[[スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル|SOM]]の{{仮リンク|デイヴィッド・チャイルズ (建築家)|en|David Childs|label=デイヴィッド・チャイルズ}}設計([[2006年]][[5月23日]]竣工) *[[ワールド・トレード・センター駅 (パストレイン)#ワールド・トレード・センター・トランスポーテーション・ハブ|トランスポーテーション・ハブ]]([[パストレイン|PATH]]新ターミナル): [[サンティアゴ・カラトラヴァ]]設計([[2016年]]オープン) *{{仮リンク|ウエストフィールド・ワールド・トレード・センター|label=ウエストフィールド・ワールド・トレード・センター|en|Westfield World Trade Center}}:([[2016年]][[8月16日]]オープン) *[[国立9.11記念碑・博物館]] :[[2011年]][[9月11日]]博物館オープン(第1期)、[[9月12日]]記念碑オープン。博物館は[[2014年]][[5月21日]]オープン(第2期) *{{仮リンク|リバティ・パーク|label=リバティ・パーク|en|Liberty Park (Manhattan)}}:[[2016年]][[6月29日]]開園 *{{仮リンク|パフォーミング・アーツ・センター|label=芸術交流センター|en|Performing Arts Center (Manhattan)}}:[[2023年]][[9月13日]]オープン) *[[聖ニコラス聖堂 (マンハッタン)|聖ニコラス聖堂]]([[2022年]][[12月6日]]オープン) <!-- *[[インターナショナル・フリーダム・センター]] ([[:en:International freedom center|en]]) :文化施設。9/11テロの記録のほか、[[インディアン]]を始めとする[[アメリカ先住民]]への圧迫やアフリカ[[黒人]]に対する[[奴隷貿易]]などの歴史を併せて展示する計画となっていたが、この施設を9/11テロ犠牲者への祈念モニュメントとしたい遺族などからは根強い批判の声が上がり計画は事実上頓挫した。 --> == 文化的影響 == [[2001年]]の9.11テロの発生以前、ワールドトレードセンターのツインタワーはニューヨーク市のシンボルであり<ref name=BI/>、映画やテレビドラマの中ではニューヨーク自体を示す「[[エスタブリッシング・ショット]]」として使われていた{{sfnp|Langmead|2009|p=353}}。2006年の推定では、ワールドトレードセンターが何らかの形で登場する映画は472本にのぼるとされた{{sfnp|Langmead|2009|p=353}}。映画以外にも、数多くのテレビ番組、テレビゲーム、ミュージックビデオなどにワールドトレードセンターが登場していた{{sfnp|Langmead|2009|p=354}}。とある記者は1999年、「ニューヨークのガイドブックはほぼ間違いなく、ツインタワーを観光名所のトップ10に挙げている」と述べた{{sfn|Gillespie|1999|p=162}}。 [[File:Kasparov-10.jpg|thumb|2 WTCの107階で開催された1995年[[プロチェス協会|PCA]]世界チェス選手権で対戦する[[ガルリ・カスパロフ|カスパロフ]]と[[ヴィスワナータン・アーナンド|アーナンド]]]] ワールドトレードセンターは世間の耳目を集める出来事の舞台ともなった。特にフランスの大道芸人[[フィリップ・プティ]]が1974年にツインタワーの屋上に登り、2つのタワーの間で綱渡りを行ったことは有名となり{{sfnp|Glanz|Lipton|2003|p=219}}、この出来事を題材にしたドキュメンタリー映画『[[マン・オン・ワイヤー]]』が2008年に<ref>{{cite news |title=Wire-walk film omits 9/11 tragedy |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/7498364.stm |publisher=BBC News |date=2008-08-02|accessdate=2018-02-28|archive-url=https://web.archive.org/web/20180721193041/http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/7498364.stm|archive-date=2018-07-21|url-status=live}}</ref>、伝記映画『[[ザ・ウォーク]]』が2015年に公開された<ref>{{cite news |last=McNarry |first=Dave |title=Joseph Gordon-Levitt's 'The Walk' Running Early at Imax Locations |url=https://variety.com/2015/film/news/joseph-gordon-levitt-the-walk-imax-1201528806/ |magazine=[[Variety (magazine)|Variety]] |publisher=([[Penske Media Corporation]]) |date=2015-06-25 |accessdate=2015-06-26|archive-url=https://web.archive.org/web/20150626193820/http://variety.com/2015/film/news/joseph-gordon-levitt-the-walk-imax-1201528806/|archive-date=2015-06-26|url-status=live}}</ref>。プティは2つのタワーの間に張られた鋼鉄製ケーブルの上を、8度にわたって横断することに成功した<ref>{{cite news |url=http://www.thedailybeast.com/newsweek/2008/07/18/he-had-new-york-at-his-feet.html |title=He Had New York At His Feet |accessdate=2015-03-11 |url-status=dead |work=The Daily Beast |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130901032007/http://www.thedailybeast.com/newsweek/2008/07/18/he-had-new-york-at-his-feet.html |archivedate=2013-09-01}}</ref>{{sfnp|Glanz|Lipton|2003|p=219}}。1975年7月、[[オーウェン・クイン]]が警備をかいくぐって北タワーの屋上にたどり着き、飛び降りて600フィート(180m)自由落下したあと、パラシュートを開いてプラザに無事着地した{{sfn|Gillespie|1999|pages=142–143}}。1977年5月、アマチュア登山家の{{仮リンク|ジョージ・ウィリッグ|en|George Willig}}が突如として南タワーの外壁を登り始め、登頂を成功させた{{sfn|Gillespie|1999|p=149}}{{sfnp|Glanz|Lipton|2003|p=218}}。1995年には、南タワーの107階で[[プロチェス協会|PCA]]世界チェス選手権が開催され、[[ガルリ・カスパロフ]]と[[ヴィスワナータン・アーナンド]]が対戦した<ref>{{Cite news |url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=990CE3DA1230F93AA2575AC0A963958260 |last=Byrne |first=Robert |title=Kasparov Gets Pressure, but No Victory |work=The New York Times |language=en-US |issn=0362-4331 |accessdate=2008-11-21 |date=1995-09-19}}</ref>。 9.11テロの発生を受けて、一部の映画やテレビ番組はワールドトレードセンターを舞台とするシーンやエピソードを作品から削除した<ref name="EW.com 2013">{{cite news |last=Bahr |first=Lindsay |title=Television's uneasy relationship with the World Trade Center |url=http://ew.com/article/2013/01/21/televisions-uneasy-relationship-with-the-world-trade-center/ |magazine=[[Entertainment Weekly]] |date=2013-01-21|accessdate=2018-02-23|archive-url=https://web.archive.org/web/20180226153248/http://ew.com/article/2013/01/21/televisions-uneasy-relationship-with-the-world-trade-center/|archive-date=2018-02-26|url-status=live}}</ref><ref>{{cite news |last=Lemire |first=Christy |title=Twin towers erased from some films after 9/11 |url=http://www.today.com/id/44206574/ns/today-today_entertainment/t/twin-towers-erased-some-films-after/ |publisher=[[NBC News]] |website=Today.com |date=2011-09-13|accessdate=2018-11-09 |language=en|archive-url=https://web.archive.org/web/20181109133908/http://www.today.com/id/44206574/ns/today-today_entertainment/t/twin-towers-erased-some-films-after/|archive-date=2018-11-09|url-status=dead}}</ref>{{sfnp|Dixon|2004|p=4}}。9.11テロの満1年を迎えた時点で、60本以上の「追悼映画 (memorial films) 」が制作されていた{{sfnp|Dixon|2004|p=5}}。[[オリバー・ストーン]]の監督による、テロ攻撃にさらされたワールドトレードセンターを舞台にした初の映画『[[ワールド・トレード・センター (映画)|ワールド・トレード・センター]]』は2006年に公開された{{sfnp|Langmead|2009|p=355}}。 == ギャラリー == <gallery> ファイル:WTC antes9-11.jpg|ワールドトレードセンター・ツインタワー ファイル:World Trade Center - 1970s.jpg|完成直後のツインタワー ファイル:USS McFaul (DDG-74) New York Harbor.jpg|[[ニューヨーク港|NY港]]から見たツインタワー ファイル:NYC Skyline.jpg|ハドソン川から見たツインタワー ファイル:2WTC South Tower entrance.jpg|サウスタワーのエントランス ファイル:WorldTradeCenter January1-01 e.jpg|サウスタワーから見たノースタワー屋上 ファイル:WorldTradeCenter January1-01 b.jpg|サウスタワー107階の展望台 ファイル:Twin Towers from Empire State Building.jpg|ツインタワーのある夜景 ファイル:WTC Twin Towers Night July 2001.jpg|夜のツインタワー(2001年7月) ファイル:Brooklyn Bridge and World Trade Center, HAER NY-18-77.jpg|[[ブルックリン橋]]とツインタワー ファイル:September 14 2001.jpg|ツインタワー両棟崩壊後の残骸 ファイル:Wtc-2004-memorial.jpg|光のツインタワー </gallery> == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == {{refbegin|colwidth=30em}} * {{Citation2 |language=en |last=Cudahy |first=Brian J. |date=2002 |edition=2nd |title=Rails Under the Mighty Hudson |location=New York |publisher={{仮リンク|フォーダム大学出版局|en|Fordham University Press|label=Fordham University Press}} |isbn=978-0-82890-257-1 |oclc=911046235}} * {{Cite book |last=Darton |first=Eric |title=Divided we stand : a biography of New York's World Trade Center |publisher=[[Basic Books]] |publication-place=New York |year=1999 |isbn=978-0-465-01727-0 |ref=harv|和書}} * {{cite book |last=Dixon |first=W.W. |title=Film and Television After 9/11 |publisher=[[Southern Illinois University Press]] |year=2004 |isbn=978-0-8093-2556-6 |url=https://books.google.com/books?id=fglL9l5knt8C |ref=harv|和書}} * {{Cite book |last=Gillespie |first=Angus K. |title=Twin Towers: The Life of New York City's World Trade Center |publisher=[[Rutgers University Press]] |year=1999 |isbn=978-0-8135-2742-0 |url=https://books.google.com/books?id=6iJUAAAAMAAJ |ref=harv|和書}} * {{Cite book2 |last1=Glanz |first=James |first2=Eric |last2=Lipton |name-list-style=amp |title=City in the Sky |publisher=[[Times Books]] |year=2003 |isbn=978-0-8050-7691-2 }} * {{cite book |last=Goldberger |first=Paul |title=Up from Zero: Politics, Architecture, and the Rebuilding of New York |publisher=Random House Publishing Group |year=2004 |isbn=978-1-58836-422-7 |url=https://books.google.com/books?id=neNnbSyo76UC |ref=harv|和書}} * {{cite book |last=Langmead |first=Donald |title=Icons of American Architecture: From the Alamo to the World Trade Center |publisher=[[Greenwood Publishing Group|Greenwood]] |series=Greenwood icons |year=2009 |isbn=978-0-313-34207-3 |url=https://books.google.com/books?id=OTh8b2cyGBcC&pg=PA553 |accessdate=2018-03-01 |ref=harv|和書}} * {{cite book |author1=William Baker |author2=Johnathan Barnett |author3=Christopher Marrion |author4=Ronald Hamburger |author5=James Milke |author6=Harold Nelson |chapter=Chapter 2. WTC 1 and WTC 2 |publisher=[[アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁]] |format=PDF |date=2002-03 |title=World Trade Center Building Performance Study |url=https://www.fema.gov/media-library-data/20130726-1512-20490-9168/403_ch2.pdf |ref={{harvid|FEMA-Ch2|2002}}|和書}} * {{Cite book |last=Fanella |first=David A. |first2=Arnaldo T. |last2=Derecho |first3=S.K. |last3=Ghosh |url=http://wtc.nist.gov/pubs/NISTNCSTAR1-1A.pdf |title=Design and Construction of Structural Systems (NIST NCSTAR 1-1A) |publisher=[[アメリカ国立標準技術研究所]] (NIST) |series=Federal Building and Fire Safety Investigation of the World Trade Center |date=2005-09 |format=PDF |ref={{harvid|NIST NCSTAR 1-1A|2005}}|和書}} * {{Cite book |last=Lew |first=Hai S. |first2=Richard W. |last2=Bukowski |first3=Nicholas J. |last3=Carino |url=http://wtc.nist.gov/pubs/NISTNCSTAR1-1.pdf |title=Design, Construction, and Maintenance of Structural and Life Safety Systems (NIST NCSTAR 1-1) |series=Federal Building and Fire Safety Investigation of the World Trade Center Disaster |publisher=アメリカ国立標準技術研究所 (NIST) |format=PDF |date=2005-09 |ref={{harvid|NIST NCSTAR 1-1|2005}}|和書}} * {{Cite book |last1=Gross |first1=John L. |last2=McAllister |first2=Therese P. |url=http://wtc.nist.gov/NCSTAR1/PDF/NCSTAR%201-6.pdf |format=PDF |title=Structural Fire Response and Probable Collapse Sequence of the World Trade Center Towers (NIST NCSTAR 1–6) |series=Federal Building and Fire Safety Investigation of the World Trade Center Disaster |publisher=アメリカ国立標準技術研究所 (NIST) |date=2005-09 |ref={{harvid|NIST NCSTAR 1-6|2005}}|和書}} * {{Cite book |author1=Sivaraj Shyam-Sunder |author2=Richard G. Gann |author3=William L. Grosshandler |author4=Hai S. Lew |author5=Richard W. Bukowski |author6=Fahim Sadek |author7=Frank W. Gayle |author8=John L. Gross |author9=Therese P. McAllister |author10=Jason D. Averill |author11=James R. Lawson |author12=Harold E. Nelson |author13=Stephen A. Cauffman |title=Final Report of the National Construction Safety Team on the Collapses of the World Trade Center Tower (NIST NCSTAR 1) |url=http://ws680.nist.gov/publication/get_pdf.cfm?pub_id=909017 |series=Federal Building and Fire Safety Investigation of the World Trade Center Disaster |publisher=アメリカ国立標準技術研究所 (NIST) |format=PDF |date=2005-09 |ref={{harvid|NIST NCSTAR 1|2005}}|和書}} {{refend}} == 関連項目 == {{Commons|World Trade Center|ワールドトレードセンター}} * [[ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社]] * [[ワールド・トレード・センター (映画)]] == 外部リンク == *[https://web.archive.org/web/20010413023920/http://www.panynj.gov/wtc/wtcfram.HTM 公式ウェブサイト(2001年4月)] *[https://web.archive.org/web/20010616154948/http://www.wtc-top.com/experience.html WTCホームページ(2001年6月)] *[http://www.greatbuildings.com/cgi-bin/gbi.cgi/World_Trade_Center_Images.html/cid_wtc_mya_WTC_groundbrea.gbi 基礎工事中のバスタブの中で宙に浮いたパストレインのトンネル] *[http://www.greatbuildings.com/cgi-bin/gbi.cgi/World_Trade_Center_Images.html/cid_wtc_mya_WTC_const.1.gbi センターコラムの四隅に取りつけられた「カンガルー・クレーン」] *[http://www.greatbuildings.com/cgi-bin/gbi.cgi/World_Trade_Center_Images.html/cid_wtc_mya_WTC_const.2.gbi 外壁支柱に囲まれたセンターコラム。チューブ構造がよく分かる。] *[http://www.pbs.org/wgbh/amex/newyork/sfeature/sf_gallery_01.html 建設中のツインタワー]{{リンク切れ|date=2022年3月}} *[https://web.archive.org/web/20060901084026/http://www.coolcinematrash.com/movies/kingKong.htm ツインタワーのお披露目ともなったパラマウント映画『キングコング (1976)』] {{en icon}} *[https://web.archive.org/web/20161129184500/http://www.pbs.org/wgbh/amex/newyork/index.html WTCについてのドキュメンタリー] {{en icon}} *yahoo - http://www.wmasr.com/{{リンク切れ|date=2022年3月}} *[http://www.panynj.gov ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社] {{en icon}} *[http://www.renewnyc.com ローワー・マンハッタン開発公社] {{en icon}} *[http://www.projectrebirth.org WTC再建プロジェクトの最新情報、跡地のリアルタイム映像など] {{en icon}} * [https://web.archive.org/web/20070203103233/http://urbanity.blogsome.com/2006/09/09/nuevo-diseno-para-la-zona-cero-de-nueva-york/ 復元の限定的なプロジェクト / Definitive project of reconstruction] *[http://www.earthcam.com/cams/newyork/groundzero/index.php WTC跡地からのライブ映像] {{en icon}} {{S-start}} {{S-ach|rec}} {{S-bef|rows=3|before=[[エンパイア・ステート・ビルディング]]}} {{S-ttl|title=[[超高層建築物#世界一高いビルの変遷|世界一高いビル]]|years=1972年 - 1974年}} {{S-aft|rows=3|after=[[ウィリス・タワー]]}} {{S-break}} {{S-ttl|title=[[アメリカ合衆国の超高層建築物|アメリカ一高いビル]]|years=1972年 - 1974年}} {{S-break}} {{S-ttl|title=世界一階数が多いビル|years=1972年 - 2001年}} {{S-break}} {{S-before|before= - }} {{S-ttl|title=世界一高いツインタワー|years=1972年 - 1998年}} {{S-aft|after=[[ペトロナスツインタワー]]}} {{S-break}} {{S-end}} {{高さ300m以上の超高層ビル}} {{ニューヨーク市で最も高い建築物の変遷}} {{アメリカ同時多発テロ事件}} {{ワールドトレードセンター}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:わあるととれえとせんたあにゆうよおく}} [[Category:交易の歴史]] [[Category:アメリカ同時多発テロ事件で破壊された建築物]] [[Category:マンハッタンの超高層ビル]] [[Category:現存しないニューヨーク市の建築物]] [[Category:現存しない超高層ビル]] [[Category:ツインタワー]] [[Category:ワールドトレードセンター|*]] [[Category:1972年竣工の建築物]] [[Category:1973年竣工の建築物]] [[Category:ミノル・ヤマサキ]]
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MaxDB
MaxDBはデータベース管理システムのひとつである。 簡単な管理、無制限のユーザー数、無制限のデータサイズなどを特徴とする。無料のフリーソフトウェアであり、ライセンスはGPL/LGPLを採用する。 以前はSAP DBという名前でSAP AGにより開発されていたが、後にMySQLの開発を行っているMySQL ABに開発が委託されて「MaxDB」という製品になった。このデータベースシステムには、MySQLの機能を移植するなどしている。
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MaxDBはデータベース管理システムのひとつである。 簡単な管理、無制限のユーザー数、無制限のデータサイズなどを特徴とする。無料のフリーソフトウェアであり、ライセンスはGPL/LGPLを採用する。 以前はSAP DBという名前でSAP AGにより開発されていたが、後にMySQLの開発を行っているMySQL ABに開発が委託されて「MaxDB」という製品になった。このデータベースシステムには、MySQLの機能を移植するなどしている。
{{Infobox Software | name = MaxDB | logo = | developer = | latest_release_version = 7.6.0.0 | latest_release_date = [[2005年]][[11月1日]] | operating_system = [[クロスプラットフォーム]] | genre = [[関係データベース管理システム|RDBMS]] | license = SAP freeware license agreement for MaxDB([[クローズドソース]]) }} '''MaxDB'''は[[データベース管理システム]]のひとつである。 簡単な管理、無制限のユーザー数、無制限のデータサイズなどを特徴とする。無料の[[フリーソフトウェア]]であり、ライセンスは[[GNU General Public License|GPL]]/[[LGPL]]を採用する。 以前は'''SAP DB'''という名前で[[SAP AG]]により開発されていたが、後に[[MySQL]]の開発を行っている[[MySQL AB]]に開発が委託されて「MaxDB」という製品になった。このデータベースシステムには、MySQLの機能を移植するなどしている。 == 外部リンク == * {{Official website}} {{Software-stub}} [[Category:データベース管理システム]] [[Category:オープンソースソフトウェア]]
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鉄拳シリーズ
鉄拳シリーズ(てっけんシリーズ)は、バンダイナムコグループ(コンシューマ版はバンダイナムコエンターテインメント、アーケード版はバンダイナムコアミューズメント)が開発・販売を手掛ける3Dタイプ対戦型格闘ゲームの1シリーズ。 『鉄拳』を第1作とする本シリーズは、三島一族の確執とそれにまつわる個性的なキャラクターたちの戦いを描いた内容となっている。 アーケード版のうち、『鉄拳』から『鉄拳6 BLOODLINE REBELLION』までの筐体の修理サポートは部品調達難に伴い2017年10月に終了した他、『鉄拳タッグトーナメント2』の筐体の修理サポートも、部品調達難に伴い2018年6月に終了することが発表された。 第1作の時点からキャラクターの四肢に対応させた4つの打撃ボタンや10連コンボといった独自の要素が取り入れられている。『鉄拳3』では横移動・受け身・投げ抜けといった要素が追加され、後続作でも取り入れられるようになった。また、『鉄拳5』からインターネットに接続され、専用のカードを使ったプレイヤーデータの記録、キャラクターのカスタマイズ、あるいはゲームシステムのオンラインアップデートができるようになった。『鉄拳6』では、バウンドシステムによってコンボのバリエーション、威力が大きく上がった。さらに、『鉄拳7』では初めてリアルタイムオンライン対戦が実現した。 シリーズに長年携わってきた原田勝弘は、バンダイナムコエンターテインメントの社長宮河恭夫らを交えた対談の中で、技術的に実現できることを取り入れ続けた結果、シリーズ内においてステージの形状や広さ、駆け引きの要素やルールまでもが変遷していったと話している。 第1作の時点ではオンライン機能は無かったが、アーケード版、家庭用版どちらも機器環境の変遷に伴って実装してきた。まずはアーケード版が先行し、『鉄拳5』から導入された。ICカードをネットワークにつながった筐体に認識させるとサーバーに記録されているプレイヤー名や戦績を呼び出すことができ、段位制が始まった。戦績によってキャラクターごとに級、段が昇降し、プレイヤーの強さが可視化されたのである。また、服装や肌、髪の色を変化させたり装飾品をカスタマイズすることで差別化も可能になり、やりこみ要素として導入された。また、CPU戦での相手にはサーバーからランダムでカスタマイズデータのみが反映されて登場するようになった。家庭用ゲーム機ではオンライン対応は遅れており、先行していたアーケード版から抽選で選ばれたプレイヤーがゴーストデータとして収録された。リアルタイムオンライン対戦が可能になったのは家庭用版が先行し、『鉄拳6』から実装された。アーケード版は『鉄拳7』から実装。 | 1994 = 鉄拳 | 1995 = 鉄拳2 | 1997 = 鉄拳3 | 1999 = 鉄拳タッグトーナメント | 2001 = 鉄拳4 | 2004 = 鉄拳5 | 2007 = 鉄拳6 | 2011 = 鉄拳タッグトーナメント2 | 2015 = 鉄拳7 | 2024年 = TEKKEN 8 『鉄拳4』までは山佐から発売。2020年12月の山佐の企業再編に伴い『鉄拳4デビルVer.』からは山佐ネクストから発売されている。 『鉄拳 -TEKKEN-』のタイトルで1998年1月21日から2月21日にかけて発売された。全2巻。内容は『鉄拳2』のサイドストーリーをベースに、アニメオリジナルの展開を加えたものとなっている。主人公は三島一八。 『鉄拳 ブラッド・ベンジェンス』のタイトルで2011年9月3日より3D公開。シリーズ初のフルCG長編アニメーション作品。 『Tekken: Bloodline』(てっけん ブラッドライン)のタイトルで2022年8月18日よりNetflixにて全世界独占配信。日本語吹き替えでは『7』まで鉄拳シリーズに出演している声優はこれまで通り続投のほか、以前出演経験のある声優が同役および別役で復帰したキャストも出演している。 2011年8月30日に『鉄拳 the dark history of mishima』のタイトルで小説化された。著者は矢野隆で、集英社より刊行。物語の時系列は『鉄拳5』と『鉄拳6』の間に位置する。ゲーム版の中心キャラクター三島一族の因縁を戦国時代まで遡り、デビル因子の真実が語られる。 本シリーズは国内外で人気を博しており、2023年には全世界シリーズ累計販売本数が5500万本を突破した。これはバンダイナムコエンターテインメントのゲームシリーズにおいて最高の販売本数となる。北米だけでなく韓国市場などでも存在感を発揮したのも特徴的で、日本の格闘ゲーム大会「闘劇」において『鉄拳5』の最初の優勝者が韓国人プレイヤーであり、その後も韓国人と日本人の強力なプレイヤー同士で日韓の対戦大会が行われ、両者互角の勝負が繰り広げられるなど、『鉄拳5』『5DR』などで韓国人の活躍が目立った。 アーケード版リリース当時は、日本各地のゲームセンターでセガ(後のセガ・インタラクティブ)の『バーチャファイター2』が人気であったこともあり注目度は低かった。一方で家庭用ゲームソフトとしては、バーチャファイターシリーズが当初セガ系ハードにしか移植されなかったのに対し、『鉄拳』はPlayStationに移植されたことにより徐々に注目を集めるようになっていった。そして『鉄拳2』で100万本セールスのメガヒットを達成。さらに『鉄拳3』からは本格的な対戦型格闘ゲームとしても注目され始め、『鉄拳3』および続編の『鉄拳タッグトーナメント』は3D格闘ゲームの分野においてアーケードにおいてもバーチャファイターシリーズと人気を二分する存在へと成長していった。『鉄拳4』は意欲的な作品となり大きな人気は得られなかったが、『鉄拳5』からはインターネットが利用できる携帯電話の普及に伴い、対戦成績の記録やキャラクターのカスタマイズなどのサービスが受けられるゲーム連動型オンラインネットワークシステム『TEKKEN-NET』の運用を開始した。またPlayStation 2への忠実な移植も普及に大きく寄与し、アーケード業界が低迷していた海外ではEvo2kなどの大きな大会が家庭用機種で行われることも多くなり(Evoは2005年)、他方時期的に競合した『バーチャファイター5』は海外での大会が行われにくくなるなど、海外市場で有利な展開が進んだ。 2017年8月31日、本シリーズが「最も長く続く3D対戦型格闘ビデオゲームシリーズ(21年179日)」および「最も長く続くビデオゲームの物語(20年99日)」として、ギネス世界記録に認定された。
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鉄拳シリーズ(てっけんシリーズ)は、バンダイナムコグループ(コンシューマ版はバンダイナムコエンターテインメント、アーケード版はバンダイナムコアミューズメント)が開発・販売を手掛ける3Dタイプ対戦型格闘ゲームの1シリーズ。 『鉄拳』を第1作とする本シリーズは、三島一族の確執とそれにまつわる個性的なキャラクターたちの戦いを描いた内容となっている。 アーケード版のうち、『鉄拳』から『鉄拳6 BLOODLINE REBELLION』までの筐体の修理サポートは部品調達難に伴い2017年10月に終了した他、『鉄拳タッグトーナメント2』の筐体の修理サポートも、部品調達難に伴い2018年6月に終了することが発表された。
{{Infobox animanga/Header | タイトル = 鉄拳シリーズ | ジャンル = [[対戦型格闘ゲーム]] }} {{Infobox animanga/Other | タイトル = 作品一覧 | コンテンツ = * [[鉄拳 (ゲーム)|鉄拳]](以降『1』) * [[鉄拳2]](以降『2』) * [[鉄拳3]](以降『3』) * [[鉄拳タッグトーナメント]](以降『TT』) * [[鉄拳4]](以降『4』) * [[鉄拳5]](以降『5』) * [[鉄拳 DARK RESURRECTION]](以降『DR』) * [[鉄拳6]](以降、『6』) * [[鉄拳タッグトーナメント2]](以降『TT2』) * [[ストリートファイター X 鉄拳]](以降『ストクロ』) * [[鉄拳7]](以降『7』) * [[鉄拳8]](以降『8』) }} {{Infobox animanga/OVA | タイトル = 鉄拳 -TEKKEN- | 監督 = [[杉島邦久]] | 脚本 = [[山口亮太]] | キャラクターデザイン = 河南正昭 | 音楽 = 外山和彦 | アニメーション制作 = [[フォーサム]] | 製作 = [[アスキー (企業)|アスキー]]<br />[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタ<br />テインメント]] | 開始 = 1998年1月21日 | 終了 = 2月21日 | 話数 = 全2話 }} {{Infobox animanga/Novel | タイトル = 鉄拳 the dark history of mishima | 著者 = [[矢野隆 (小説家)|矢野隆]] | 出版社 = [[集英社]] | 他出版社 = | 発売日 = 2011年8月30日 | 巻数 = 全1巻 | 話数 = }} {{Infobox animanga/TVAnime | タイトル = Tekken: Bloodline | 原作 = [[バンダイナムコエンターテインメント]] | 監督 = [[宮尾佳和]] | 脚本 = Gavin Hignight | キャラクターデザイン = はあと(原案)<br />由利聡 | 音楽 = [[近藤嶺]] | アニメーション制作 = [[スタジオ雲雀]]<br />[[ラークスエンタテインメント|LARX ENTERTAINMENT]] | 製作 = | 放送局 = [[Netflix]] | 放送開始 = 2022年8月18日 | 放送終了 = | 話数 = 全6話 | インターネット = 1 }} {{Infobox animanga/Footer | ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:コンピュータゲーム|ゲーム]]・[[プロジェクト:アニメ|アニメ]] | ウィキポータル = [[Portal:コンピュータゲーム|ゲーム]]・[[Portal:文学|文学]]・[[Portal:アニメ|アニメ]] }} '''鉄拳シリーズ'''(てっけんシリーズ)は、[[バンダイナムコグループ]](コンシューマ版は[[バンダイナムコエンターテインメント]]、アーケード版は[[バンダイナムコアミューズメント]])が開発・販売を手掛ける3Dタイプ[[対戦型格闘ゲーム]]の1シリーズ。 『[[鉄拳 (ゲーム)|鉄拳]]』を第1作とする本シリーズは、三島一族の確執とそれにまつわる個性的なキャラクターたちの戦いを描いた内容となっている。 アーケード版のうち、『鉄拳』から『[[鉄拳6|鉄拳6 BLOODLINE REBELLION]]』までの筐体の修理サポートは部品調達難に伴い2017年10月に終了した他<ref>[https://www.banasupport.net/cms-files/E3818AE79FA5E38289E3819B20150722-E4BF9DE5AE88E5AFB.pdf 『弊社商品の保守対応終了について』]バンダイナムコエンターテインメント 2015年7月</ref><ref>[https://www.banasupport.net/cms-files/E4BF9DE5AE88E7B582E4BA86E383AAE382B9E38388_2017100.pdf 保守終了一覧]バンダイナムコテクニカ 2017年10月1日</ref>、『[[鉄拳タッグトーナメント2]]』の筐体の修理サポートも、部品調達難に伴い2018年6月に終了することが発表された<ref>[https://www.banasupport.net/cms-files/E38090BNTCE38091E3808EE38390E383B3E38380E382A4E383.pdf 『㈱バンダイナムコアミューズメント商品の保守対応終了について』 ]バンダイナムコテクニカ 2018年6月7日</ref><ref>[https://www.banasupport.net/cms-files/E4BF9DE5AE88E7B582E4BA86E4B880E8A6A7EFBC88E38393E3.pdf 保守終了一覧]バンダイナムコテクニカ 2018年6月7日</ref>。 == ゲームシステム == {{Main|鉄拳のゲームシステム}} 第1作の時点からキャラクターの四肢に対応させた4つの打撃ボタンや10連コンボといった独自の要素が取り入れられている。『鉄拳3』では横移動・受け身・投げ抜けといった要素が追加され、後続作でも取り入れられるようになった。また、『[[鉄拳5]]』からインターネットに接続され、専用のカードを使ったプレイヤーデータの記録、キャラクターのカスタマイズ、あるいはゲームシステムのオンラインアップデートができるようになった。『[[鉄拳6]]』では、バウンドシステムによってコンボのバリエーション、威力が大きく上がった。さらに、『[[鉄拳7]]』では初めてリアルタイムオンライン対戦が実現した。 シリーズに長年携わってきた[[原田勝弘 (ゲームクリエイター)|原田勝弘]]は、バンダイナムコエンターテインメントの社長[[宮河恭夫]]らを交えた対談の中で、技術的に実現できることを取り入れ続けた結果、シリーズ内においてステージの形状や広さ、駆け引きの要素やルールまでもが変遷していったと話している<ref name="asobimotto20201006">{{Cite web|和書|title=【宮河社長対談連載】第一回 後編 『アイマス』坂上P&『鉄拳』原田Pと考える「テクノロジーが変えるエンターテインメントの形」|url=https://asobimotto.bandainamcoent.co.jp/5625/|website=アソビモット|date=2020-10-06|accessdate=2020-10-09|publisher=バンダイナムコエンターテインメント}}</ref>。 === オンライン機能 === 第1作の時点ではオンライン機能は無かったが、アーケード版、家庭用版どちらも機器環境の変遷に伴って実装してきた。まずはアーケード版が先行し、『[[鉄拳5]]』から導入された。ICカードをネットワークにつながった筐体に認識させるとサーバーに記録されているプレイヤー名や戦績を呼び出すことができ、'''段位'''制が始まった。戦績によってキャラクターごとに級、段が昇降し、プレイヤーの強さが可視化されたのである。また、服装や肌、髪の色を変化させたり装飾品をカスタマイズすることで差別化も可能になり、やりこみ要素として導入された。また、CPU戦での相手にはサーバーからランダムでカスタマイズデータのみが反映されて登場するようになった<ref group="注">行動パターンは通常のCPUから変わることはない。ネットワークから切断されると、筐体内に保存されているデータの使いまわしとなる。</ref>。家庭用ゲーム機ではオンライン対応は遅れており、先行していたアーケード版から抽選で選ばれたプレイヤーがゴーストデータとして収録された。リアルタイムオンライン対戦が可能になったのは家庭用版が先行し、『鉄拳6』から実装された。アーケード版は『鉄拳7』から実装。 == プレイヤーキャラクター == {{see|鉄拳の登場人物}} == 作中設定・用語 == === デビル関連 === ; {{Anchors|エンジェル}}エンジェル : {{main|鉄拳の登場人物#エンジェル[Angel]}} : 輪廻転生を繰り返し、歴史を築いてきた神秘的な意志で、[[鉄拳の登場人物#三島 一八(みしま かずや)[Kazuya Mishima]|三島一八]]の中に宿っているが、そのことに彼は気付いていない{{Sfn|鉄拳クロニクル|p=105}}。見る者によっては、悪魔に見えることもある{{Sfn|鉄拳クロニクル|p=105}}。 ; {{Anchors|デビル}}デビル : {{main|鉄拳の登場人物#デビル[Devil]}} : 輪廻転生を繰り返し、歴史を築いてきた神秘的な意志で、一八の中に宿っているが、そのことに彼は気付いていない{{Sfn|鉄拳クロニクル|p=105}}。見る者によっては、天使に見えることもある{{Sfn|鉄拳クロニクル|p=105}}。 ; {{Anchors|デビル因子}}デビル因子 : 体内細胞を一瞬で活性化し、常人の数十倍のエネルギーを発生させる因子<ref name="famitsu20110819">[https://web.archive.org/web/20130915023458/http://www.famitsu.com/news/201108/19048796.html 『鉄拳 ブラッド・ベンジェンス』デビル仁のビジュアルが公開]</ref><ref name="livedoor20110824">[https://web.archive.org/web/20200311193849/https://news.livedoor.com/article/detail/5808082/ 「鉄拳 ブラッド・ベンジェンス」“デビル仁”のビジュアルが公開!]</ref>。三島一八、[[鉄拳の登場人物#風間 仁(かざま じん)[Jin Kazama]|風間仁]]は、この因子により、肉体を[[#デビル|デビル]]に変化させる<ref name="famitsu20110819"/><ref name="livedoor20110824"/>。 : このデビル化を促す因子は、[[鉄拳の登場人物#オーガ[Ogre]|闘神]]の遺伝子を、[[鉄拳の登場人物#三島 平八(みしま へいはち)[Heihachi Mishima]|三島平八]]の塩基配列に組み入れた新たな生命筐体を作り出す過程で、存在が予見された<ref name="tekken4 story">[https://web.archive.org/web/20200311193503/https://bandainamco-am.co.jp/am/vg/tekken4/special/story/ 鉄拳4 ストーリー]</ref>。 ; {{Anchors|アザゼルの核}}アザゼルの核 : [[鉄拳の登場人物#アザゼル[Azazel]|アザゼル]]の胸部に埋め込まれた紫色に輝く核。アザゼルの急所で、『6』の[[鉄拳の登場人物#白頭山(ペク・トー・サン)[Baek Doo San, 백두산]|白頭山]]のエンディングでは、彼にこの箇所を破壊されると同時に、肉体が霧散した<ref name="tekken6 baek ed">鉄拳6 白頭山 エンディング</ref>。[[鉄拳の登場人物#王 椋雷(ワン・ジンレイ)[Wang Jinrei/Wang Jinglei]|王椋雷]]のエンディングでは、アザゼルの肉体が破壊された後は、輝きを失ったこの核のみが残った<ref name="tekken6 wang ed">鉄拳6 王椋雷 エンディング</ref>。 : 手にした者をデビルに変化させる力があり、『6』の[[鉄拳の登場人物#巌竜(がんりゅう)[Ganryu]|巌竜]]のエンディングでは、これを手に取った彼はデビルとなってしまう<ref name="tekken6 ganryu ed">鉄拳6 巌竜 エンディング</ref>。[[鉄拳の登場人物#花郎(ファラン)[Hwoarang, 화랑]|花郎]]のエンディングでは、彼もまたデビルになりかけるが、精神力でデビル化を跳ね除け、核を破壊した<ref name="tekken6 hwoarang ed">鉄拳6 花郎 エンディング</ref>。 : デビルの力を吸い取ることもあり、『6』の[[鉄拳の登場人物#デビル仁(デビル じん)[Devil Jin]|デビル仁]]のエンディングでは、彼から力を吸収し、風間仁の姿に戻している<ref name="tekken6 devil jin ed">鉄拳6 デビル仁 エンディング</ref>。 : [[鉄拳の登場人物#レイヴン[Raven]|レイヴン]]に狙われており、『6』の彼や[[鉄拳の登場人物#セルゲイ・ドラグノフ[Sergei Dragunov, Сергей Драгунов]|セルゲイ・ドラグノフ]]のエンディングでは、争奪戦が繰り広げられた<ref name="tekken6 raven ed">鉄拳6 レイヴン エンディング</ref><ref name="tekken6 dragunov ed">鉄拳6 セルゲイ・ドラグノフ エンディング</ref>。 ; {{Anchors|デビル細胞}}デビル細胞 : デビルを構成する細胞。悪性が強く、人間の細胞を侵食し崩壊させてしまう<ref name="tekken4 julia ed">鉄拳4 ジュリア・チャン エンディング</ref>。 ; {{Anchors|GENOCELL}}GENOCELL : 森林再生プログラム<ref name="tekken4 julia ed"/>。元々はG社が保有していたものだったが、三島財閥により奪われる<ref name="tekken4 julia">[https://web.archive.org/web/20200110124550/https://bandainamco-am.co.jp/am/vg/tekken4/special/characters/julia.php 鉄拳4 ジュリア・チャン]</ref>。 : その正体は、(デビル―人間)統合プログラム<ref name="tekken4 julia ed"/>。[[#デビル細胞|デビル細胞]]を抑制する効果があり、[[鉄拳の登場人物#Dr.アベル[Dr. Abel]|Dr.アベル]]はこれを使って人間とデビル細胞を統合しようとしていた<ref name="tekken4 julia ed"/>。『4』の[[ジュリア・チャン]]のエンディングでは、このプログラムを危険視した彼女の手により全てのファイルが消去される<ref name="tekken4 julia ed"/>。 : 『5』では、前回大会でジュリアが優勝していないため消去されておらず、三島財閥に奪われたままとなっている<ref name="official tekken5 julia">[https://web.archive.org/web/20180922234432/http://www.tekken-official.jp:80/tk5ps2/characters/julia.html オフィシャル 鉄拳5 ジュリア・チャン]</ref><ref name="bandai tekken5 julia">[https://megalodon.jp/2020-0310-1015-06/https://www.bandainamcoent.co.jp:443/cs/list/tekken5/character/julia.php バンダイナムコ 鉄拳5 ジュリア・チャン]</ref>。ジュリアのエンディングでは、彼女が[[鉄拳の登場人物#三島 仁八(みしま じんぱち)[Jinpachi Mishima]|三島仁八]]を倒したことで研究データが収められたディスクを奪還し、森林再生研究を進める<ref name="tekken5 julia ed">鉄拳5 ジュリア・チャン エンディング</ref>。巌竜のエンディングでは、彼がディスクを奪還し、ジュリアに譲渡された<ref name="tekken5 ganryu ed">鉄拳5 巌竜 エンディング</ref>。 : 『6』ではまたしてもジュリアは前回大会で優勝できず、研究データが収められたディスクを奪還できていなかったのだが<ref name="tekken6 julia">[https://web.archive.org/web/20171218035219/http://www.tekken-official.jp:80/tk6ac/characters/julia.html 鉄拳6 ジュリア・チャン]</ref><ref name="tekken6br julia">[https://web.archive.org/web/20180611095212/http://www.tekken-official.jp:80/tk6br/characters/julia.html 鉄拳6BR ジュリア・チャン]</ref>、たまたま三島財閥の研究所に入り込んだ巌竜の手により奪還され、ジュリアの手に渡る<ref name="tekken6 ganryu">[https://web.archive.org/web/20160308212042/http://www.tekken-official.jp/tk6ac/characters/ganryu.html 鉄拳6 巌竜]</ref><ref name="tekken6br ganryu">[https://web.archive.org/web/20180611095046/http://www.tekken-official.jp:80/tk6br/characters/ganryu.html 鉄拳6BR 巌竜]</ref>。この時期G社は、ジュリアを抹殺し、研究成果だけを手に入れようと企んでいた<ref name="tekken6 scenario campaign g security service operations headquarters julia">鉄拳6 シナリオキャンペーンモード Gセキュリティサービス 作戦司令本部 ジュリア・チャン</ref>。 :『7』では、ジュリアの手により持ち出されており、彼女はこれを世界に広げるためにクラウドファンディングを立ち上げる<ref name="tekken7 julia">[https://web.archive.org/web/20200110150547/https://www.tk7.tekken-official.jp/special/?tab=8 鉄拳7 | バンダイナムコエンターテインメント公式サイト スペシャル]</ref>。 ; {{Anchors|森林再生計画}}森林再生計画 : [[#GENOCELL|GENOCELL]]を用いた、森林を再生させる計画<ref name="tekken6 julia"/><ref name="tekken6br julia"/>。『6』で、アリゾナの大地主である老婆の手助けを得たジュリアの手により、彼女の故郷[[#アリゾナ|アリゾナ]]で実施される<ref name="tekken6 julia"/><ref name="tekken6br julia"/>。 === 組織・集団・企業 === ; {{Anchors|G社}}G社 : [[遺伝子工学|遺伝子学]]研究の分野で急成長を遂げた[[企業]]。登場するのは『4』からだが、活動はその約20年前、『2』の頃までさかのぼる。 : 第2回鉄拳大会後、[[火口]]から脱出した瀕死の一八を[[治療]]するとともに、デビル化のメカニズムを研究していた。 :『3』にも登場はしないが、鉄拳衆の襲撃から逃れた[[物理学|物理]]学者のジェーンを保護。彼女はその後、G社ロボット工学研究所に身を寄せ、JACK-4などの量産型戦闘[[兵器]]を開発する(以降JACKシリーズは、ストーリー上G社の所有物ということになる)。 : 第3回鉄拳大会終了後、闘神関連の研究をしていた三島財閥からデビルの研究について目を付けられ、鉄拳衆の急襲を受ける。一八が迎撃するも、研究施設・研究データを三島財閥に奪われ、さらにデビル因子の最も重要な研究材料である一八の生存を知った当時の財閥頭首、三島平八が、彼をおびき出すために第4回鉄拳大会を開催する。 : 第4回鉄拳大会終了直後、G社は決戦の舞台だった本丸に大量のJACK-4を送り込み自爆させる。大爆発で本丸は火の海となったが、一八はすでに本丸から脱出していた。平八も当初は死亡が報じられたが、後に生存していたことが判明する。さらに、地下に幽閉されていた三島仁八が爆発によって解放。第5回鉄拳大会開催の引き金となる。 : その後、生還した一八に幹部を殺され、G社の主導権は一八が握ることになる。 : 一八の息子である風間仁が、第5回鉄拳大会を制し三島財閥頭首となると、世界に対し[[独立]]と[[宣戦布告|宣戦を布告]]する。そこでG社は反三島財閥を掲げて各地で応戦。株を上げて行く。 : 第6回鉄拳大会で敵勢力頭首の仁が突如、行方不明になり、戦況はG社が優勢になりつつあったが、不在だった頭首の座に平八が返り咲くと、[[戦争]]は再び拮抗状態となる。 ; {{Anchors|ヴァイオレット・システムズ}}ヴァイオレット・システムズ : 李超狼が経営する[[ヒューマノイド]]メーカー。李は三島一八の[[ライバル]]として、三島平八の養子になった格闘家であったが、三島財閥の[[お家騒動]]に巻き込まれて財閥を追放された人物である。彼は追放後の約20年間で、このヒューマノイドメーカーを成長させ、第4回鉄拳大会に人間型[[ロボット]]「コンボット」を、[[宣伝|プロモーション]]も兼ねて出場させた(李自身も[[変装]]して出場。社名にもある「ヴァイオレット」と名乗る)。 : 第6回鉄拳大会中、李は反乱軍を率いるラース・アレクサンダーソンとコンタクトを取る。三島財閥とG社という共通した敵を持つこと、加えてラースが三島家と何らかの事情があると感じていた李は、反乱軍と協力関係を結ぶことを期待していた。当初ラースは申し出を断るが、後にラースと行動を共にしていた[[人造人間|アンドロイド]]、アリサ・ボスコノビッチの修復を引き受けたことで第三の勢力として動き出す。 ; {{Anchors|卍党}}卍党(まんじとう) : 吉光が率いる[[義賊]]集団。頭領が代替わりをする際に次代頭領が前代頭領を[[妖刀]]「吉光」で斬るという慣わしがある。 :「義賊」ではあるが、風体は[[忍者]]に近いものが多い。 : 第1回鉄拳大会では、三島財閥から大金を盗み出し、札束を[[スラム|スラム街]]にばら撒いた。 : 第4回鉄拳大会に参加した頭領の吉光は、卍党と三島財閥の統合を目論んでいた。そんな中、倒れていたブライアン・フューリーを発見し救助する。ブライアンは天才科学者のDr.ボスコノビッチの手により一命を取り留めるが、体内に埋め込まれた「永久機関」の話に狂喜して暴走。その場にいた卍党員数名を殺害し逃亡する。 : 『5』の吉光、ブライアンのプロフィールによれば、Dr.ボスコノビッチは三島財閥から救出(『2』)後、卍党の保護下にあり、隠れ里で研究をおこなっている。 ; {{Anchors|三島財閥}}三島財閥 : 鉄拳シリーズにおける物語の中心となる存在。巨大な富と権力の下、常に黒い噂が流れ、格闘家達の情念が渦巻いている。 : 元々は三島仁八が築き上げた[[財閥]]。仁八は「最強の拳士」と謳われる高名な格闘家であったが、ある日、息子である三島平八との闘いに敗れたことで、頭首の座を平八に乗っ取られてしまう。この頃から財閥は軍事化が進んでいく。 : 数十年後、平八率いる三島財閥は「武の競演」として“The King of Iron Fist Tournament”(鉄拳大会)を開催。 : 頭首の座は、基本的に鉄拳大会の優勝者が貰い受けるのが決まりとなっており、[[鉄拳の登場人物|各キャラクター]]のエンディングでは、頭首となった際の展開というものがしばしば描かれる。しかし実際のストーリー上では、『3』終了後のように殺害を図って防衛したり、『5』や『7』のプロローグのように自ら頭首に乗り出すケースもある。 === 国・地域 === ; {{Anchors|アリゾナ}}アリゾナ : {{main|アリゾナ州}} : ジュリア・チャンの故郷<ref name="tekken6 julia" /><ref name="tekken6br julia" /><ref name="tekken3 julia ed">鉄拳3 ジュリア・チャン エンディング</ref>。『4』で激変する地球環境の影響により、数年後に砂漠に飲み込まれる状態となる<ref name="tekken4 julia" />。 : 『5』のジュリアのエンディングでは、森林再生の研究施設が立てられるが、土地の砂漠化が進行しており、この地で育つ植物の開発が困難なほどであった<ref name="tekken5 julia ed" />。 : 『6』では、前回大会でジュリアが優勝していないため、研究施設も立てられず依然砂漠化が進んだ状態だった<ref name="tekken6 julia" /><ref name="tekken6br julia" />。しかし、[[#GENOCELL|森林再生プログラム]]を取り戻したジュリアにより[[#森林再生計画|森林再生計画]]が実施され<ref name="tekken6 julia" /><ref name="tekken6br julia" />、彼女のエンディングでは、森林が復活した光景が映される<ref name="tekken6 julia ed">鉄拳6 ジュリア・チャン エンディング</ref>。 :; {{Anchors|アリゾナ州刑務所}}アリゾナ州刑務所 :: 『4』で[[鉄拳の登場人物#クレイグ・マードック[Craig Marduk]|クレイグ・マードック]]が収監されていたが、[[鉄拳の登場人物#キング(2代目)[King (2nd)]|キング]]の手により釈放される{{Sfn|鉄拳クロニクル|p=24}}。 == シリーズ作品 == {{Timeline of release years}} | 1994 = [[鉄拳 (ゲーム)|鉄拳]] | 1995 = [[鉄拳2]] | 1997 = [[鉄拳3]] | 1999 = [[鉄拳タッグトーナメント]] | 2001 = [[鉄拳4]] | 2004 = [[鉄拳5]] | 2007 = [[鉄拳6]] | 2011 = [[鉄拳タッグトーナメント2]] | 2015 = [[鉄拳7]] | 2024年 = [[鉄拳8]] ; メインシリーズ * [[鉄拳 (ゲーム)|鉄拳]] ** 鉄拳(アーケード、[[SYSTEM11]]、1994年12月稼働開始) ** 鉄拳([[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]、1995年3月31日発売) ** 鉄拳([[PlayStation 2]]、[[ナムコレクション]]に収録、2005年7月21日発売) ** 鉄拳([[PlayStation Portable]]/[[PlayStation 3]]、[[ゲームアーカイブス]]で配信、2011年7月6日配信開始) * [[鉄拳2]] ** 鉄拳2 (アーケード、SYSTEM11、1995年8月稼働開始) ** 鉄拳2 Ver.B (アーケード、SYSTEM11、1995年10月稼働開始) ** 鉄拳2(PlayStation、1996年3月29日発売) ** 鉄拳2([[FOMA|FOMA903i]]用メガアプリ、2006年11月2日配信開始) ** 鉄拳2([[PlayStation Portable]]、[[ゲームアーカイブス]]で配信、2006年11月22日配信開始) * [[鉄拳3]] ** 鉄拳3(アーケード、[[SYSTEM12]]、1997年3月稼働開始) ** 鉄拳3(PlayStation、1998年3月26日発売) * [[鉄拳タッグトーナメント]] ** 鉄拳タッグトーナメント(アーケード、SYSTEM12、1999年7月稼働開始) ** 鉄拳タッグトーナメント(PlayStation 2、2000年3月30日発売) * [[鉄拳4]] ** 鉄拳4(アーケード、[[SYSTEM246]]、2001年8月稼働開始) ** 鉄拳4(PlayStation 2、2002年3月28日発売) * [[鉄拳5]] ** 鉄拳5 Version 5.0(アーケード、[[SYSTEM256]]、2004年11月稼働開始) ** 鉄拳5 Version 5.1(アーケード、SYSTEM256、2005年7月稼働開始) ** 鉄拳5 DARK RESURRECTION(アーケード、SYSTEM256、2005年12月稼働開始) ** 鉄拳5(PlayStation 2、2005年3月31日発売) ** [[鉄拳 DARK RESURRECTION]](PlayStation Portable、2006年7月6日発売) - PSP版のみがナンバリングの無いタイトルで発売された。 ** 鉄拳5 DARK RESURRECTION(PlayStation 3、2006年12月27日ダウンロード販売開始) ** 鉄拳5 DARK RESURRECTION ONLINE(PlayStation 3、2007年8月1日ダウンロード販売開始) * [[鉄拳6]] ** 鉄拳6(アーケード、[[SYSTEM357]]、2007年11月26日稼働開始) ** 鉄拳6 BLOODLINE REBELLION(アーケード、SYSTEM357、2008年12月18日稼働開始) ** 鉄拳6(PlayStation 3 / [[Xbox 360]]、2009年10月29日発売) ** 鉄拳6(PlayStation Portable、2010年1月14日発売) * [[鉄拳タッグトーナメント2]] ** 鉄拳タッグトーナメント2(アーケード、[[SYSTEM 369]]、2011年9月14日稼働開始) ** 鉄拳タッグトーナメント2 アンリミテッド(アーケード、SYSTEM 369、2012年3月27日稼働開始) ** 鉄拳タッグトーナメント2(Playstation 3 / Xbox 360、2012年9月13日発売) ** 鉄拳タッグトーナメント2 Wii U EDITION([[Wii U]]、2012年12月8日発売) * [[鉄拳7]] ** 鉄拳7(アーケード、[[SYSTEM ES1|SYSTEM ES3]]、2015年2月18日一部店舗で先行稼働開始、2015年3月18日正式稼働開始) ** 鉄拳7 FATED RETRIBUTION(アーケード、SYSTEM ES3、2016年7月5日稼働開始) ** 鉄拳7([[PlayStation 4]] / [[Xbox One]]、2017年6月1日発売・PC ([[Steam]])、2017年6月2日発売) ** 鉄拳7 FATED RETRIBUTION ROUND2(アーケード、2019年2月13日稼働開始) * [[鉄拳8]] ** 鉄拳8([[PlayStation 5]] / [[Xbox Series X/S]] / PC (Steam)、2024年1月26日発売) ; 外伝的作品 * 鉄拳 ハイブリッド(PlayStation 3、2011年12月1日発売) *: 後述のCGアニメ映画『鉄拳 BLOOD VENGEANCE』、前述の鉄拳TTをHDリメイクした『鉄拳タッグトーナメントHD』、同じく『鉄拳TT2』をベースに映画に登場するキャラクターに焦点を当てた『鉄拳タッグトーナメント2プロローグ』の3作品を収録。映画と『鉄拳TT2』プロローグは[[3次元映像|三次元立体視]](3D)に対応。映画はPS3以外のブルーレイプレーヤー・レコーダーでも再生可能。 * [[鉄拳 3D プライム エディション]]([[ニンテンドー3DS]]、2012年2月16日発売) *: シリーズ初のグラスレス三次元立体視プレイ可能作品。なお、このソフトにも『鉄拳 BLOOD VENGEANCE』が(別途ディスク同梱などでは無く、3DSカードに)収録されており、グラスレスで3D映像視聴が可能。 * 鉄拳 レボリューション(PlayStation 3、2013年6月12日サービス開始) *: 鉄拳シリーズ初の[[Free-to-play|F2P]]を採用した作品。 ; 連動コンテンツ * TEKKEN-NET - 『鉄拳5』以降のアーケード版の全シリーズが対応するオンラインネットワークシステムの名称で、ゲームセンター各店が販売する『TEKKEN-NET IDカード』(『鉄拳タッグトーナメント2』以降は『[[ALL.Net#バナパスポート|バナパスポートカード]]』)を介して稼動中の筐体と連動する。[[携帯電話]]向けサイト『TEKKEN-NET』に登録することで対戦成績や全国ランキングなどの閲覧が可能になる他、同サイト連動のアプリケーションを用いることでキャラクターのカスタマイズも可能になる。なお、従来型携帯電話向けのTEKKEN-NETは『鉄拳タッグトーナメント2アンリミテッド』までの対応となり、『鉄拳7』版TEKKEN-NETはPC・スマートフォン向けのみに展開する。 ** [[iモード|i-mode]](2004年11月15日サービス開始) ** [[Yahoo!ケータイ|Vodafone live! → Yahoo!ケータイ]](2004年12月1日サービス開始) ** [[EZweb]](2004年12月2日サービス開始) ** [[パーソナルコンピュータ|PC]]・[[スマートフォン]](2011年9月14日サービス開始) - 『鉄拳タッグトーナメント2』稼働日と同日にサービス開始 == パチスロ・パチンコ == ; パチスロ 『鉄拳4』までは[[山佐]]から発売。2020年12月の山佐の企業再編に伴い『鉄拳4デビルVer.』からは山佐ネクストから発売されている。 * [[鉄拳R]](2004年5月) - ナムコと[[山佐]]が共同開発したパチスロ機で、販売は山佐が担当。登場人物のグラフィックは、PlayStation 2版の『鉄拳タッグトーナメント』が基になっている。 * [[鉄拳R|鉄拳X]](2006年10月) - 上記『鉄拳R』のスペック違い。液晶画面などは全く同じだが、筐体デザインなどが一部異なる。 * パチスロ鉄拳2nd(2012年1月) - 2世代目となるパチスロで、ART機となった。 * パチスロ鉄拳 DEVIL Ver.(2012年5月) - 2ndのスペック違い。ARTが1ゲーム当り3.0枚の獲得になるなど、爆発力を大幅にアップ。 * [[パチスロ鉄拳3rd]](2014年6月) * パチスロ鉄拳3rdエンジェルVer.(2016年3月) * パチスロ鉄拳4(2019年7月) - 3面液晶の「バトルスクリーン阿修羅」初搭載機。本機からはコピーライトにバンダイナムコセブンズが追加されている。 * パチスロ鉄拳4 デビルVer.(2021年6月) - 上記『鉄拳4』のスペック違い。セブンリーグ製造。 * パチスロ鉄拳5(2022年7月) - 『パチスロ鉄拳2nd』の血を受け継ぐA+AT機。 * パチスロ鉄拳4アルティメットデビルVer.(2022年11月)<ref>{{Cite web|和書|url=https://p-gabu.jp/guideworks/machinecontents/detail/6200|title=パチスロ鉄拳4アルティメットデビルVer. 機種情報|publisher=777パチガブ|date=2022-11-07|accessdate=2022-12-06}}</ref> ; パチンコ * CR鉄拳(2013年10月、[[ビスティ]]) * CR鉄拳2 -闘神ver-(2016年8月、ビスティ) == 派生作品 == * 鉄拳カードワールド([[メダルゲーム]]、1997年9月稼働開始) * 鉄拳バトルスクラッチ(メダルゲーム、1998年3月稼働開始) * 鉄拳カードチャレンジ([[ワンダースワン]]、1999年6月17日発売) * 鉄拳コマンドバトル([[EZアプリ (Java)|ezplus]]、2001年7月4日配信開始) * 鉄拳アドバンス([[ゲームボーイアドバンス]]、2001年12月21日発売) - 原作のCGを取り込んで操作感を再現した2D格闘になっている。 * 鉄拳コマンドバトル2(ezplus、2002年1月31日配信開始) * [[デス バイ ディグリーズ]](PlayStation 2、2005年1月27日発売) - ニーナ・ウィリアムズが主人公のアクションアドベンチャーゲーム。派生作品ではあるが、シリーズ唯一の15歳以上対象作品となっている。 * [[ストリートファイター X 鉄拳]](PlayStation 3 / Xbox 360、2012年3月8日発売) - カプコンの2D格闘ゲーム「[[ストリートファイターシリーズ]]」とのクロスオーバー作品。 * [[ポッ拳 POKKÉN TOURNAMENT]](アーケード、2015年7月16日稼動) - 「[[ポケットモンスター|ポケモン]]」とのコラボレーション。 == その他の関連作品 == * [[ゼビウス3D/G|ゼビウス3D/G+]](PlayStation、1997年3月28日発売) - 三島平八、ポール・フェニックスが隠しキャラクターとして登場する。 * [[ソウルシリーズ]] - いずれも吉光の祖先(『IV』までは初代、『V』は2代目)がプレイヤーキャラクターとして登場する。 ** [[ソウルキャリバー]]([[ドリームキャスト]]、1999年8月5日発売) ** [[ソウルキャリバーII]](PlayStation 2 / [[ニンテンドーゲームキューブ]] / [[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]、2003年3月27日発売) - PlayStation 2版で三島平八がゲストキャラクターとして登場する。 ** [[ソウルキャリバーIII]](PlayStation 2、2005年11月23日発売) ** [[ソウルキャリバーIV]](PlayStation 3 / Xbox 360、2008年7月31日発売) ** [[ソウルキャリバーV]](PlayStation 3 / Xbox 360、2012年2月2日発売) - キャラクタークリエイションモードの戦闘スタイル選択に「デビル仁スタイル」もある。 * [[スマッシュコート|スマッシュコートシリーズ]] ** スマッシュコート2 (PlayStation、1998年11月12日発売) - 吉光、三島平八がゲストキャラクターとして登場する。 ** スマッシュコート3 (PlayStation、2000年11月9日発売) - ポール、木人がゲストキャラクターとして登場する。 * [[スマッシュコート プロトーナメント|スマッシュコート プロトーナメント2]](PlayStation 2、2004年7月1日発売) - リン・シャオユウ、三島平八が隠しキャラクターとして登場する。 * [[NAMCO x CAPCOM]](PlayStation 2、2005年5月26日発売) - 三島平八、デビル一八、風間仁、キング、アーマーキング、P.ジャック、木人が登場する。 * [[アーバンレイン]](PlayStation 2、2005年9月29日発売) - ポール・フェニックス、マーシャル・ロウがゲストキャラクターとして登場する。 * [[リッジレーサー6]](Xbox 360、2005年12月10日発売) - 三島平八がゲストDJとして登場する。 * [[アブノーマルチェック]] - デモ画面に三島一八、三島平八が登場する。 ** アブノーマルチェック(アーケード、1997年5月8日発売<ref>[http://www.bandainamcogames.co.jp/corporate/press/namco/1997/1997_may/news_may03.html PRESS ROOM ナムコ、業務用ビデオゲーム「アブノーマルチェック」を発売]</ref>) ** アブノーマルチェック(i-mode、[http://www.bandainamcogames.co.jp/mobile/k/imode/iland/ ナムコ i ランド]で配信、2002年4月27日配信開始) * [[NARUTO -ナルト- ナルティメットヒーロー|NARUTO -ナルト-ナルティメットストーム2]](PlayStation 3 / Xbox 360、2010年秋発売) - ラース・アレクサンダーソンがゲストキャラクターとして登場する。 * [[PROJECT X ZONE]](ニンテンドー3DS、2012年10月11日発売) - 風間仁、リン・シャオユウ、アリサ・ボスコノビッチ 、三島平八が登場する。 * [[PROJECT X ZONE 2:BRAVE NEW WORLD]](ニンテンドー3DS、2015年11月12日発売) - 風間仁、三島一八、リン・シャオユウ、三島平八、アンノウン、木人、鉄人が登場する。 * [[大乱闘スマッシュブラザーズ for Nintendo 3DS / Wii U]](ニンテンドー3DS、2014年9月13日発売 / Wii U、2014年12月6日発売) - 2015年6月15日のアップデートで、[[Mii|Miiファイター]]向けのコスチュームとして三島平八の衣装が有料配信開始。 * [[大乱闘スマッシュブラザーズ SPECIAL]](Nintendo Switch、2018年12月7日発売) - 2021年6月30日のアップデートで、追加ファイターとして三島一八(カズヤ)が有料配信開始。 == アニメ == === OVA === 『'''鉄拳 -TEKKEN-'''』のタイトルで1998年1月21日から2月21日にかけて発売された。全2巻。内容は『鉄拳2』のサイドストーリーをベースに、アニメオリジナルの展開を加えたものとなっている。主人公は三島一八。 ==== キャスト(OVA) ==== * 三島一八([[声優|声]] - [[山路和弘]]) * 風間準(声 - [[冬馬由美]]) * 三島平八(声 - [[郷里大輔]]) * 李超狼(声 - [[三木眞一郎]]) * ニーナ・ウィリアムズ / 少年時代の一八 / 風間仁(声 - [[高山みなみ]]) * アンナ・ウィリアムズ(声 - [[山像かおり]]) * 雷武龍(声 - [[中村彰男]]) * ブルース・アービン(声 - [[佐々木誠二]]) * ミシェール・チャン(声 - [[日高奈留美]]) * 少女時代の準 / ジェーン(声 - [[仙台エリ]]) * W.W.W.C局長(声 - [[長克巳]]) * ボスコノビッチ博士(声 - [[大木民夫]]) * ジャック2 / ナレーション(声 - [[大塚明夫]]) ==== スタッフ(OVA) ==== * 監督・脚色・絵コンテ - [[杉島邦久]] * 脚本 - [[山口亮太]] * キャラクター原案 - [[柳澤一明]] * アニメーションキャラクター・作画監督 - 河南正昭 * 美術監督 - [[中村光毅]] * 色彩設計 - 松本真司 * 音楽 - 外山和彦 * 録音演出 - [[若林和弘]] * プロデューサー - 増島由美子、森好正、西園寛 * アニメーション制作プロデューサー - 豊住政弘 * 制作協力 - [[スタジオディーン]] * 制作 - [[フォーサム]] * 製作 - [[アスキー (企業)|アスキー]]、[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]] ==== 主題歌(OVA) ==== * 「Hero」(作詞 - [[つなみ]]、作曲 - つなみ、Fumie 編曲 - [[明石昌夫]]、歌 - TSUNAMI) ==== 収録メディア・関連商品(OVA) ==== * ビデオ ** 鉄拳 -TEKKEN- vol.1 (1998年1月21日発売) ** 鉄拳 -TEKKEN- vol.2 (1998年2月21日発売) ** TEKKEN THE MOTION PICTURE /(Dub Edit)(1998年11月11日発売) * LD ** 鉄拳 -TEKKEN- vol.1 (1998年1月21日発売) ** 鉄拳 -TEKKEN- vol.2 (1998年2月21日発売) * DVD ** 鉄拳 -TEKKEN- (2000年11月22日発売) * 主題歌CDシングル ** 鉄拳テーマ曲 Hero (1997年12月10日発売) * サウンドトラックCD ** 鉄拳 サウンドトラック(1998年1月21日発売) * ドラマCD ** 鉄拳 アナザーストーリー(1998年2月21日発売) === 劇場アニメ === {{main|鉄拳 ブラッド・ベンジェンス}} 『'''鉄拳 ブラッド・ベンジェンス'''』のタイトルで2011年9月3日より3D公開。シリーズ初のフルCG長編アニメーション作品。 === Webアニメ === 『'''Tekken: Bloodline'''』(てっけん ブラッドライン)のタイトルで2022年8月18日より[[Netflix]]にて全世界独占配信<ref>{{cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=mxFeqkr3kJo|title=Tekken: Bloodline {{!}} Official Trailer {{!}} Netflix|website=YouTube|accessdate=2022-07-18}}</ref>。日本語吹き替えでは『7』まで鉄拳シリーズに出演している声優はこれまで通り続投のほか、以前出演経験のある声優が同役および別役で復帰したキャストも出演している。 ==== キャスト(Webアニメ) ==== * 風間仁 - [[千葉一伸]]<ref name="Netflix">{{Cite tweet|author=|user=NetflixJP|number=1549182229758111744|title=Netflixシリーズ『Tekken: Bloodline』8/18配信開始!予告編解禁&日本語吹き替えキャストも発表✊風間仁役に #千葉一伸 風間準役には #能登麻美子 が決定。さらに#楠大典#篠原まさのり#森川智之#坂本真綾#大塚芳忠#吉田聖子#冬馬由美#宇垣秀成も参戦!#TekkenBloodlinet.co/oCwQnQeuT6|date=2022-07-19|accessdate=2022-07-19}}</ref> * 風間準 - [[能登麻美子]]<ref name="Netflix"/> * 三島平八 - [[楠大典]]<ref name="Netflix2">{{Cite tweet|author=|user=NetflixJP_Anime|number=1549182230299381760|title=『Tekken: Bloodline』 8月18日より全世界独占配信決定🎉 更に、本予告映像と日本語吹替キャストも解禁! 豪華キャストは… ◆風間 仁/#千葉一伸 さん ◆風間 準/#能登麻美子 さん ◆三島 平八/#楠大典 さん ◆三島 一八/#篠原まさのり さん ◆ファラン/#森川智之 さん #ネトフリアニメ (続)☟|date=2022-07-19|accessdate=2022-07-20}}<br/>{{Cite tweet|author=|user=NetflixJP_Anime|number=1549182489985290240|title=◆シャオユウ/#坂本真綾 さん ◆ポール・フェニックス/#大塚芳忠 さん ◆ジュリア・チャン/#吉田聖子 さん ◆ニーナ・ウィリアムズ/#冬馬由美 さん ◆巌竜/#宇垣秀成 さん 8月18日より全世界独占配信スタート! お楽しみに。 #ネトフリアニメ|date=2022-07-19|accessdate=2022-07-20}}</ref> * 三島一八 - [[篠原まさのり]]<ref name="Netflix2"/> * ファラン - [[森川智之]]<ref name="Netflix2"/> * リン・シャオユウ - [[坂本真綾]]<ref name="Netflix2"/> * ポール・フェニックス - [[大塚芳忠]]<ref name="Netflix2"/> * ジュリア・チャン - [[吉田聖子]]<ref name="Netflix2"/> * ニーナ・ウィリアムズ - [[冬馬由美]]<ref name="Netflix2"/> * リロイ・スミス - [[菊池康弘]]<ref>{{cite tweet|author=菊池康弘@アトミックモンキー所属声優|user=kituneishi|number=1560267153445916674|title=『#Tekken: Bloodline』にて リロイ・スミスの声で参加させていただきました。 ゲームのイメージを壊さないよう 試合は全力で挑んでおります‼ Netflixでご覧ください。|date=2022-08-18|accessdate=2022-08-26}}</ref> * キング - [[平居正行]]<ref>{{cite tweet|author=平居 正行|user=SOREHIMA|number=1560188533713039360|title=Netflixにて配信開始されました 鉄拳アニメ『Tekken: Bloodline』に 平居正行も、日本語吹き替えで参戦しております! そして、キング(2代目)の声を担当しました! この熱い闘いの物語を、是非とも見届けてください…ッ!👊✨✨ #鉄拳 #TEKKEN #TekkenBloodline #King|date=2022-08-18|accessdate=2022-08-26}}</ref> * 巌竜 - [[宇垣秀成]]<ref name="Netflix2"/> * 三浦アキコ - [[伊瀬茉莉也]]<ref>{{cite tweet|author=伊瀬茉莉也🌼Mariya Ise|user=Ma_ri_ya_i|number=1562328106488438784|title=Netflixにて 『TEKKEN -BLOOD LINE-』配信中です! 三浦アキコ役で出演しております。 よろしくお願い致します🔥 #鉄拳 #ネトフリアニメ|date=2022-08-24|accessdate=2022-08-26}}</ref> ==== スタッフ(Webアニメ) ==== * 原作 - [[バンダイナムコエンターテインメント]] * 監督 - [[宮尾佳和]]<ref name="tweet">{{Cite tweet|user=heatinazuma|number=1560410621048680449|title=キャラクターデザイン原案を務める、はあとによるツイート|accessdate=2022-08-20}}</ref> * 鉄拳ディレクター - [[原田勝弘 (ゲームクリエイター)|原田勝弘]]{{R|tweet}} * 脚本 - Gavin Hignight * キャラクターデザイン原案 - はあと{{R|tweet}} * キャラクターデザイン - 由利聡{{R|tweet}} * 美術設定 - 大山裕之{{R|tweet}} * 音楽 - [[近藤嶺]]{{R|tweet}} * 制作 - [[スタジオ雲雀]]{{R|tweet}}、[[ラークスエンタテインメント|LARX ENTERTAINMENT]]{{R|tweet}} == 実写映画 == ; 『[[TEKKEN -鉄拳-]]』 : 2010年3月20日から公開。本作を元にした実写映画。 ; 『[[鉄拳 Kazuya's Revenge]]』 : 2016年1月から公開。本作を元にした二度目の実写映画<ref>[https://www.crank-in.net/news/40611 人気格闘ゲーム『鉄拳』 ケイン・コスギ主演で実写映画化]</ref>。 == 小説 == 2011年8月30日に『'''鉄拳 the dark history of mishima'''』のタイトルで小説化された。著者は[[矢野隆 (小説家)|矢野隆]]で、[[集英社]]より刊行。物語の時系列は『鉄拳5』と『鉄拳6』の間に位置する。ゲーム版の中心キャラクター三島一族の因縁を戦国時代まで遡り、デビル因子の真実が語られる。 == 反響 == 本シリーズは国内外で人気を博しており、2023年には全世界シリーズ累計販売本数が5500万本を突破した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/657/G065722/20230824055/|title=三島一八に挑む風間 仁の姿などを収めた「鉄拳8」のCM映像公開。公開を記念したキャンペーン開始|publisher=[[4Gamer.net]]|date=2023-08-24|accessdate=2023-10-04}}</ref>。これはバンダイナムコエンターテインメントのゲームシリーズにおいて最高の販売本数となる。北米だけでなく韓国市場などでも存在感を発揮したのも特徴的で、日本の格闘ゲーム大会「[[闘劇]]」において『鉄拳5』の最初の優勝者が韓国人プレイヤーであり、その後も韓国人と日本人の強力なプレイヤー同士で日韓の対戦大会が行われ、両者互角の勝負が繰り広げられるなど、『鉄拳5』『5DR』などで韓国人の活躍が目立った。 アーケード版リリース当時は、日本各地のゲームセンターでセガ(後の[[セガ・インタラクティブ]])の『[[バーチャファイター2]]』が人気であったこともあり注目度は低かった。一方で家庭用ゲームソフトとしては、バーチャファイターシリーズが当初セガ系ハードにしか移植されなかったのに対し、『鉄拳』はPlayStationに移植されたことにより徐々に注目を集めるようになっていった。そして『[[鉄拳2]]』で100万本セールスのメガヒットを達成。さらに『[[鉄拳3]]』からは本格的な対戦型格闘ゲームとしても注目され始め、『鉄拳3』および続編の『[[鉄拳タッグトーナメント]]』は3D格闘ゲームの分野においてアーケードにおいてもバーチャファイターシリーズと人気を二分する存在へと成長していった。『[[鉄拳4]]』は意欲的な作品となり大きな人気は得られなかったが、『[[鉄拳5]]』からはインターネットが利用できる携帯電話の普及に伴い、対戦成績の記録やキャラクターのカスタマイズなどのサービスが受けられるゲーム連動型[[オンライン]]ネットワークシステム『TEKKEN-NET』の運用を開始した。また[[PlayStation 2]]への忠実な移植も普及に大きく寄与し、アーケード業界が低迷していた海外ではEvo2kなどの大きな大会が家庭用機種で行われることも多くなり(Evoは2005年)、他方時期的に競合した『バーチャファイター5』は海外での大会が行われにくくなるなど、海外市場で有利な展開が進んだ<ref group="注">PlayStation 3は高価なことから海外で普及が遅れ、そのため新興国を中心に安価なPlayStation 2が据え置きゲーム機として屈指の発売台数を記録したことも関係している。</ref>。 2017年8月31日、本シリーズが「最も長く続く3D対戦型格闘ビデオゲームシリーズ(21年179日)」および「最も長く続くビデオゲームの物語(20年99日)」として、[[ギネス世界記録]]に認定された<ref>{{Cite press release |和書 |title=卓球・伊藤 美誠選手、ビデオゲーム「鉄拳」、ギネス世界記録に認定! |publisher=Guinness World Records Japan株式会社 |date=2017-08-31 |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000022.000006802.html |accessdate=2017-09-25}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |date=2003-10-7 |title=鉄拳クロニクル |publisher=ソフトバンク パブリッシング株式会社 |edition=初版 |isbn=978-4-79-732403-7 |ref={{SfnRef|鉄拳クロニクル}} }} * {{Cite book|和書 |date=2005-6-7 |title=鉄拳5 パーフェクトガイド |publisher=株式会社ナムコ |edition=初版 |isbn=978-4-79-733109-7 |ref={{SfnRef|鉄拳5 パーフェクトガイド}} }} * {{Cite book|和書 |date=2010-9-22 |title=鉄漫 -TEKKEN COMIC-2 |publisher=株式会社[[集英社]] |edition=初版 |isbn=978-4-08-879019-0 |ref={{SfnRef|鉄漫2}} }} * {{Cite video |people= |date=2011-09-12 |title=PS3/PS Vita/Xbox 360『STREET FIGHTER X 鉄拳』EPISODE3 |url=https://www.youtube.com/watch?v=HK-kPBskxO8 |format= |medium=[[予告編|トレーラー]] |work=Official [[カプコン|Capcom]]Channel |publisher=[[YouTube]] |accessdate=2020-01-15 |ref={{SfnRef|ストクロトレーラーEP3}} }} * {{Cite book|和書 |date=2011-12-21 |title=『鉄拳 BLOOD VENGEANCE』✕『鉄拳 TAG TOURNAMENT 2』 設定資料集 The King of Iron Fist Archives |publisher=株式会社[[集英社]] |edition=初版 |isbn=978-4-08-779618-6 |ref={{SfnRef|The King of Iron Fist Archives}} }} * {{Cite book|和書 |date=2012-3-12 |title=ストリートファイター X 鉄拳 マスターガイド |publisher=ソフトバンク クリエイティブ株式会社 |edition=初版 |isbn=978-4-79-736879-6 |ref={{SfnRef|ストクロ マスターガイド}} }} * {{Cite book|和書 |date=2012-4-5 |title=ストリートファイターX(クロス)鉄拳 アートワークス |publisher=株式会社[[カプコン]] |edition=初版 |isbn=978-4-86-233344-5 |ref={{SfnRef|ストクロ アートワークス}} }} * {{Cite book|和書 |date=2012-5-11 |title=ストリートファイター X 鉄拳 Defeat at the Crossroad |publisher=株式会社[[エンターブレイン]] |edition=初版 |isbn=978-4-04-728100-4 |ref={{SfnRef|Defeat at the Crossroad}} }} * {{Cite video |people= |date=2019-02-16 |title=「TEKKEN7」DLC8「ジュリア」&DLC9「ニーガン」 プロモーションPV |url=https://www.youtube.com/watch?v=5uUVSZiiKKo |format= |medium=[[予告編|トレーラー]] |work=tekkenchannel |publisher=[[YouTube]] |accessdate=2020-01-17 |ref={{SfnRef|「TEKKEN7」「ジュリア」 PV}} }} * {{Cite video |people= |date=2019-12-09 |title=「TEKKEN7」DLC11「巌竜」 プロモーションPV |url=https://www.youtube.com/watch?v=8Lb4C5eT64M |format= |medium=[[予告編|トレーラー]] |work=tekkenchannel |publisher=[[YouTube]] |accessdate=2020-01-17 |ref={{SfnRef|「TEKKEN7」「巌竜」 PV}} }} * {{Cite book|和書 |date=2019-7-23 |title=The Art of Tekken: A Complete Visual History |publisher=[[Dynamite Entertainment]] |edition=初版 |isbn=978-1-52-410773-4 |ref={{SfnRef|The Art of Tekken}} }} == 関連項目 == * [[阿部将道]] - 『鉄拳2』までの開発コーディネーター。『鉄拳3』ではディレクターを担当。 * [[闘劇]] - [[エンターブレイン]]主催の格闘ゲーム大会。鉄拳シリーズは2004年開催の第2回大会以来、全ての回で種目に選ばれている。 == 外部リンク == * ゲーム公式サイト ** [http://www.tekken-official.jp/ TEKKEN OFFICIAL] ** {{Twitter|TEKKEN_Project|鉄拳プロジェクト}} ** {{YouTube|u=tekkenchannel|tekkenchannel}} * 劇場版公式サイト ** [http://wwws.warnerbros.co.jp/tekken/ 映画『TEKKEN』オフィシャルサイト] {{鉄拳シリーズ}} {{ソウルシリーズ}} {{スタジオ雲雀}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1= 鉄拳 -TEKKEN- |1-1= 1998年のOVA |1-2= アニメ作品 て |1-3= 格闘技アニメ |1-4= バンダイナムコエンターテインメント原作のアニメ作品 |1-5= SMEJのアニメ作品 |redirect2= Tekken: Bloodline |2-1= アニメ作品 て |2-2= 2022年のWebアニメ |2-3= Netflixオリジナルアニメ |2-4= スタジオ雲雀 |2-5= バンダイナムコエンターテインメント原作のアニメ作品 |2-6= コンピュータゲームを原作とするアニメ作品 |2-7= 格闘技アニメ }} {{デフォルトソート:てつけん}} [[Category:鉄拳シリーズ|*]] [[Category:コンピュータゲームのシリーズ]]
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バーチャファイターシリーズ
バーチャファイターシリーズ(Virtua Fighter series)は、セガの3D対戦型格闘ゲームのシリーズ。略称は「VF」。また、一時期セガの3D系アーケードゲームの多くに「バーチャ」の名を冠した作品がリリースされており、それらは本作を含めて「バーチャシリーズ」と総称されることがあるが、単にセガのゲームを語る文脈で単に「バーチャ」と述べた場合は「バーチャファイターシリーズ」(VFシリーズ)あるいは第1作目『バーチャファイター』を指すことが多い。 1993年に稼働を開始した『バーチャファイター』を第1作とし、以降シリーズ作品が不定期にリリースされているほか、家庭用ゲーム機などに移植されている。開発元はセガ・AM2研(後のセガ第二研究開発本部)が開発し、『VF5 Final Showdown』(VF5FS)までは単独でオリジナルを造り続けた(『eスポーツ』はセガ・龍が如くスタジオとの共同開発)。 なお発売元は基本的にセガだが、セガグループの業務再編成などによる理由で、アーケードゲーム版については2015年4月1日から2020年3月31日までセガ・インタラクティブが担当していた。2020年4月1日以降はセガのアミューズメント事業部門が担当。 1993年に『バーチャファイター』(VF1)が当時AM2研の代表であった鈴木裕のもとで開発、アーケードゲームとしてリリースされた。『VF1』は世界初の3D格闘ゲームであるとされる。以降、「バーチャファイター」の名を冠した後続作品が不定期にリリースされシリーズ化していった。 『VF1』はセガ社の家庭用ゲーム機・セガサターン用ソフトとして1994年にリリースされ、本体の売上向上に大きく貢献した。 初心者でも熟練者と戦える、操作の上手さではなくセンスで勝負する、をコンセプトにこれまでの格闘ゲームでは難解になっていた操作系に大きくメスを入れた。8方向レバーとパンチ、キック、ガードの3つ(『VF3』ではエスケープを加えた4つ)のボタンによる操作系はシンプルながら自由度が高く、キャラクターごとに多彩な連係技を持つ。 また中国拳法など実在する格闘技を使うキャラクターやリングアウト制などにおいても2D格闘ゲームとの差異を強調させた。八極拳、ジークンドー、プロレス、パンクラチオン、虎燕拳、燕青拳、蟷螂拳、酔拳などが再現されている。 2015年3月に稼働を開始した『バーチャファイター5 Final Showdown VERSION B』(VF5FSB)以降は長らくリリースが休止しており、家庭用ゲーム機への移植版も旧作がいくつか単発的に出るにとどまっていたが、2021年6月より『VF5FSB』をベースに様々な点をリメイクし、いわゆる「eスポーツ」に最適化されたバージョン『バーチャファイター eスポーツ』が家庭用ゲーム機(PlayStation 4の定額サブスクリプションサービス・PlayStation Plusおよびクラウド型ゲームサービス・PlayStation Now)とアーケードゲーム(ALL.Net P-ras MULTI Ver.3)にて同時稼働を開始。今後は本格的なeスポーツ競技として『バーチャファイター』を発展させていくことを目指す。 シリーズ第2作『バーチャファイター2』は爆発的なヒットを記録し、マスコミにも全国ネットで取り上げられた。 『VF2』の稼働全盛期には地方・全国を含め様々な大会が企画・開催された。特に大都市での大会の常連上位者に対しては、その町と使用キャラクター名を冠した独自の名称で呼ばれている。中でも「鉄人」と呼ばれた有名プレイヤーたちは一部の雑誌・TV媒体などにも取り上げられた。 ゲームシステムや個々の技を記述した解説書『バーチャファイターマニアックス(アスペクト 1994年8月出版 ISBN 4893662643)』は武術研究家の松田隆智より拳法のリアルさの解説を受けるなどそれまでのアーケードゲーム関連書籍とは一線を画す詳細な解説書であった。さらに、続編『バーチャファイター2』の解説書『バーチャファイター2マニアックス(アスペクト 1995年10月出版 ISBN 4893664174)』には解剖学者の養老孟司へのインタビューを収録するなど、単に人気ゲームとしての枠を越えた広がりを見せた。 バーチャファイターに関心を持っていた有名人も多く、中でも漫画家の加瀬あつし、イラストレーターやアニメ作画や漫画などを手掛けていたいのまたむつみの両者は、「自宅に筐体とアーケード版のロムを持ち、『VF2』の全盛期には一日中ゲーセンに入り浸って対戦することも珍しくなかった」と述べている。また、JUDY AND MARYが発表した楽曲『The Great Escape』の中には、「あたしのボディはまるでバーチャファイターのZone2」という歌詞がある。 1998年にはシリーズ全体(当時は『VF3』が最新)がデジタルゲーム史におけるエポックメイキングな製品として文化的価値をスミソニアン博物館に認められ、「1998 コンピュータワールド・スミソニアン・アウォード」を受賞、各種資料が保管されることになった。 この他、龍が如くシリーズや『JUDGE EYES:死神の遺言』のミニゲームとして、バーチャファイターシリーズが収録されている場合がある。 太字 - アーケード版、SS - セガサターン版、32X - スーパー32X版、DC - ドリームキャスト版、PS2 - PlayStation 2版、PS3 - PlayStation 3版、PS4 - PlayStation 4版 さまざまな格闘ゲーム・RPGなどに本作のキャラクターがゲスト出演している。 8方向レバーとパンチ、キック、ガードの3つのボタンでキャラクターを操作。相手に攻撃を加えて体力ゲージを0にするか、リングアウトさせると1ラウンド取得となり、規定のラウンド数を先取した側が勝利となる。なお時間切れの際は、体力ゲージで勝っていた側のプレイヤーが1ラウンド取得となる。 いわゆる飛び道具攻撃はなく、遠距離攻撃も僅かな突進系打撃に限られる。ガード・ヒットにかかわらず近接距離が保持されやすいことから、他の格闘ゲームに比べ展開のテンポが非常に早い対戦システムとなっている。 技は「上段」「中段」「下段(しゃがみ)」いずれかの属性を持つ。この3つは「上段>中段>下段>上段」という三すくみの関係になっている。 ガードは、ガードボタンを押しながら上下でガード方向を変化させることができる。「立ちガード」は上段と中段をガードし、「しゃがみガード」は上段を避け下段をガードすることができる。技には防御されたときに隙があり、中段や下段は隙が総じて大きい傾向にある。ガードすると確実に特定の技で反撃できる技も多い(確定反撃と呼ばれる)。 下段攻撃が中段攻撃に比べると弱めの技が多いため、立ちガードが崩しにくい。これの裏の選択肢として上段ガードを崩す「投げ」が用意されている。 「打撃>投げ>ガード>打撃」と「上段>中段>下段>上段」、近距離戦でこの2つの三すくみを基に相手がどう来るかをお互い読んでいくことで対戦は展開していく。基本的には隙の少ない上段攻撃をガードさせ、中段か投げの2択を迫る、防御側はどちらかを読み反撃するのが基本戦術となる。 この他、ガードの派生として、特定の攻撃を受けると直接反撃できる「返し技」や、数多い直線的な打撃を回避する軸移動「避け」、それを攻撃する「回転技」など、さらに深い読み合いを提供するためのアクションがある。 キャラクターはレバーとボタンの組み合わせによって多彩な固有技を持っている。その数は1作目では多くて30個ほどだったが、5作目では技表に書いてあるもの全てを計算すれば、1キャラクターが70-100個ほどの技を持っている。 レバー入力の方向はキーボードのテンキーを用いて表記する。5を中心とし、他の数字がそれぞれの方向に対応する(6なら→、2なら↓である)。 ステージは基本的に正方形で、リングの端から足を踏み外すとリングアウトとなり負けとなる。 『VF3』では「アンジュレーション」という高低差の要素が追加された。低い場所へ飛ばすと滞空時間が長くなりコンボが決まりやすくなったり、登り坂によって技の押し能力が弱くなるなどの不確定要素が追加され、位置取りの要素が強くなっている。ステージに壁が追加されたのも3からで、相手を壁に叩き付けた状態でのみ決められる連続技など、壁を巡る攻防の要素も加えられた。また、砂漠ステージというリングアウトが無いステージがあった(無限大に広いステージ風であるが実際には見えない壁が存在する)。 『VF4』ではアンジュレーションがオミットされ、全てのステージが平坦な正方形のリングへと回帰した。また、ステージの種類が破壊不可能な高い壁で囲われたフルフェンス、破壊可能な腰ほどの高さの壁で囲われたハーフフェンス、壁で囲われていないノーフェンスの3種類に大別されるようになった。ハーフフェンスのステージでは、キャラクターが壁より高く浮いた状態で押し出されるか、壁が破壊された箇所からリング外に落ちた場合にリングアウトとなる。フルフェンスのステージでは、キャラクターによっては壁際専用の特殊技が使用できる。 『VF5』では全ての壁が壊れなくなり、またステージ選択時にリングの広さと壁の有無・高さが表示されるようになった。 『VF5R』では八角形フルフェンスのリングも登場するとともに、ハーフフェンスよりさらに低いローフェンス、破壊可能なフルフェンス、リングの広さやフルフェンスとノーフェンスがラウンド毎に切り替わる、壁が一部の辺にしか存在しない長方形リングなど、ステージ毎に様々な仕掛けが追加された。 史上初の3D格闘ゲームの『バーチャファイター』だが、『3』以前ではシステムそのものはルールの違う2D格闘ゲームと言えるもので、手前や奥へ回避するなどの概念は希薄だった。『2』では一部のキャラクターが自発的に横へ移動する技を持っていたものの、根本的な二次元からの脱却はなされていなかった。開発側も攻防が二次元的になっているのは快く思っておらず、しゃがみパンチが強力なのは「三次元的な攻防ができないための苦肉の策」だとしていた。 『VF3』ではパンチ、キック、ガードに加えて第4のボタン「エスケープ」を追加した。ボタンを押すことで画面奥方向へ移動し、直線的な攻撃を回避することができる。レバーとエスケープボタンを組み合わせることにより、各方向への移動を1ステップの入力で可能にした。 『VF4』ではエスケープボタンを廃し、手前・奥への避けも全てレバーのみで行うARMが導入された。このARMによりレバー入力のみで、キャラクターをリング上で8方向に移動させることができるようになった。相手の直線的もしくは半回転の攻撃に合わせて上(画面奥方向)か下(画面手前方向)へレバーを一瞬だけ倒しニュートラルに戻すことで、相手の攻撃を軸をずらして避けることができる。またこのためジャンプ操作は、レバー上と同時に何らかのボタンを入力するコマンド動作に変更された。 『VF4』から『VF5FS VERSION A REVISION 1』まで実装。ランキングやアイテム装備やチーム加入など対戦機器と連動しており、より対戦ゲームを楽しめるコンテンツ(別途月額料金が必要)であった。2016年2月29日の16時を以ってサービス自体が終了し、PC版並びにSoftBank版に関しては2016年2月一杯は無料開放されていた(PC版における自動継続権利用者は2016年2月分の料金は発生しない。SoftBank版は月額料金利用者が対象)。 対応機種は携帯電話(iモード、EZweb、Yahoo!ケータイ)、PC、およびスマートフォン(PC版を流用)。『VF4』(無印)版はドリームキャストにも対応していた(シェンムーII初回生産分に同梱していた専用ソフトが必要だった。『VF4EVO』以降は非対応)。 後にセガネットワーク対戦麻雀MJシリーズや、Quest of D、STARHORSE2など、幾つものアーケードゲームに採用された連動コンテンツサービスを、最初に始めたのが『VF4』だった。これらのアーケードゲームにおけるオンラインサービス「ALL.Net」のサービスの1つとしてVF.NETも展開されていた。 『VF5FS VERSION B』はVF.NET非連動となった。 『VF esports』稼働時より、『VF esports.NET』として新たなサービスが開始された。 各シリーズ作品の項目を参照。なお、基本的に『VF2』以降の「世界格闘トーナメント」の優勝者は前作の最強キャラクター、あるいは印象に残っているキャラクターになっている。 1995年から1996年にかけて、テレビ東京系で放送された。 本作を基にしたコミカライズが複数描かれた。
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バーチャファイターシリーズは、セガの3D対戦型格闘ゲームのシリーズ。略称は「VF」。また、一時期セガの3D系アーケードゲームの多くに「バーチャ」の名を冠した作品がリリースされており、それらは本作を含めて「バーチャシリーズ」と総称されることがあるが、単にセガのゲームを語る文脈で単に「バーチャ」と述べた場合は「バーチャファイターシリーズ」(VFシリーズ)あるいは第1作目『バーチャファイター』を指すことが多い。
{{出典の明記|date=2015年6月}} {{コンピュータゲームシリーズ | タイトル = バーチャファイターシリーズ | 画像 = | 画像説明 = | 開発元 = セガ・[[SEGA-AM2|AM2研]]<br />(後の[[セガ]]第二研究開発本部)<br />セガ[[龍が如くスタジオ]](eスポ) | 発売元 = セガ・エンタープライゼス → セガ・インタラクティブ → セガ | ジャンル = [[対戦型格闘ゲーム]] | 製作者 = [[鈴木裕]]<br />[[名越稔洋]] | 1作目 = [[バーチャファイター]] | 1作目発売日 = [[1993年]][[12月]]【AC】 | 最新作 = [[バーチャファイター5|バーチャファイター eスポーツ]] | 最新作発売日 = [[2021年]][[6月1日]]【PS4/AC] | スピンオフ作品 = | 公式サイトURL = https://www.virtuafighter.jp/ | 公式サイトタイトル = バーチャファイターポータル }} '''バーチャファイターシリーズ'''(''Virtua Fighter series'')は、[[セガ]]の3D[[対戦型格闘ゲーム]]のシリーズ。略称は「'''VF'''」。また、一時期セガの3D系アーケードゲームの多くに「バーチャ」の名を冠した作品がリリースされており、それらは本作を含めて「バーチャシリーズ」と総称されることがあるが、単にセガのゲームを語る文脈で単に「'''バーチャ'''」と述べた場合は「バーチャファイターシリーズ」(VFシリーズ)あるいは第1作目『バーチャファイター』を指すことが多い。 == 概要 == 1993年に稼働を開始した『バーチャファイター』を第1作とし、以降シリーズ作品が不定期にリリースされているほか、家庭用ゲーム機などに移植されている。開発元は[[SEGA-AM2|セガ・AM2研]](後の[[セガ]]第二研究開発本部)が開発し、『VF5 Final Showdown』(VF5FS)までは単独でオリジナルを造り続けた(『eスポーツ』はセガ・[[龍が如くスタジオ]]との共同開発)。 なお発売元は基本的にセガだが、セガグループの業務再編成などによる理由で、アーケードゲーム版については2015年4月1日から2020年3月31日まで[[セガ・インタラクティブ]]が担当していた。2020年4月1日以降はセガのアミューズメント事業部門が担当。 === シリーズ概要 === [[1993年]]に『バーチャファイター』(VF1)が当時AM2研の代表であった[[鈴木裕]]のもとで開発、[[アーケードゲーム]]としてリリースされた。『VF1』は世界初の3D格闘ゲームであるとされる。以降、「バーチャファイター」の名を冠した後続作品が不定期にリリースされシリーズ化していった。 『VF1』はセガ社の家庭用ゲーム機・[[セガサターン]]用ソフトとして[[1994年]]にリリースされ、本体の売上向上に大きく貢献した。 初心者でも熟練者と戦える、操作の上手さではなくセンスで勝負する、をコンセプトにこれまでの格闘ゲームでは難解になっていた操作系に大きくメスを入れた。8方向レバーとパンチ、キック、ガードの3つ(『VF3』ではエスケープを加えた4つ)のボタンによる操作系はシンプルながら自由度が高く、キャラクターごとに多彩な連係技を持つ。 また中国拳法など実在する格闘技を使うキャラクターやリングアウト制などにおいても2D格闘ゲームとの差異を強調させた。[[八極拳]]、[[截拳道|ジークンドー]]、[[プロレス]]、[[パンクラチオン]]、虎燕拳、[[燕青拳]]、[[蟷螂拳]]、[[酔拳]]などが再現されている。 2015年3月に稼働を開始した『バーチャファイター5 Final Showdown VERSION B』(VF5FSB)以降は長らくリリースが休止しており、家庭用ゲーム機への移植版も旧作がいくつか単発的に出るにとどまっていたが、2021年6月より『VF5FSB』をベースに様々な点をリメイクし、いわゆる「[[eスポーツ]]」に最適化されたバージョン『バーチャファイター eスポーツ』が家庭用ゲーム機([[PlayStation 4]]の定額サブスクリプションサービス・[[PlayStation Plus]]およびクラウド型ゲームサービス・[[PlayStation Now]])とアーケードゲーム([[ALL.Net#ALL.Net P-ras MULTI Ver.3|ALL.Net P-ras MULTI Ver.3]])にて同時稼働を開始。今後は本格的なeスポーツ競技として『バーチャファイター』を発展させていくことを目指す。 == 周辺事情 == シリーズ第2作『バーチャファイター2』は爆発的なヒットを記録し、マスコミにも全国ネットで取り上げられた。 『VF2』の稼働全盛期には地方・全国を含め様々な大会が企画・開催された。特に大都市での大会の常連上位者に対しては、その町と使用キャラクター名を冠した独自の名称で呼ばれている。中でも「鉄人」と呼ばれた有名プレイヤーたちは一部の雑誌・TV媒体などにも取り上げられた。 ゲームシステムや個々の技を記述した解説書『バーチャファイターマニアックス([[アスペクト (企業)|アスペクト]] [[1994年]]8月出版 ISBN 4893662643)』は武術研究家の[[松田隆智]]より拳法のリアルさの解説を受けるなどそれまでのアーケードゲーム関連書籍とは一線を画す詳細な解説書であった。さらに、続編『バーチャファイター2』の解説書『バーチャファイター2マニアックス([[アスペクト (企業)|アスペクト]] [[1995年]]10月出版 ISBN 4893664174)』には解剖学者の[[養老孟司]]へのインタビューを収録するなど、単に人気ゲームとしての枠を越えた広がりを見せた。 バーチャファイターに関心を持っていた有名人も多く、中でも漫画家の[[加瀬あつし]]、イラストレーターやアニメ作画や漫画などを手掛けていた[[いのまたむつみ]]の両者は、「自宅に筐体とアーケード版のロムを持ち、『VF2』の全盛期には一日中ゲーセンに入り浸って対戦することも珍しくなかった」と述べている。また、[[JUDY AND MARY]]が発表した楽曲『The Great Escape』の中には、「あたしのボディはまるでバーチャファイターのZone2」という歌詞がある。 [[1998年]]にはシリーズ全体(当時は『VF3』が最新)がデジタルゲーム史におけるエポックメイキングな製品として文化的価値を[[スミソニアン博物館]]に認められ、「1998 コンピュータワールド・スミソニアン・アウォード」を受賞、各種資料が保管されることになった<ref>書籍『VIRTUA FIGHTER 10th ANNIVERSARY 〜Memory of Decade〜』(2003年、[[エンターブレイン]]刊 ISBN 4-7577-1660-5) P24 - 33 「VIRTUA FIGHTER3」より。</ref>。 == 歴史 == === 年表 === * [[1993年]] ** 12月 - 『'''[[バーチャファイター]]'''』リリース * [[1994年]] ** [[11月22日]] - 『バーチャファイター (SS)』リリース ** 11月 - 『'''[[バーチャファイター2]]'''』リリース * [[1995年]] ** 4月 - 『'''バーチャファイターリミックス'''』リリース ** [[7月14日]] - 『バーチャファイターリミックス (SS)』リリース ** [[10月20日]] - 『バーチャファイター (32X)』リリース ** [[12月1日]] - 『バーチャファイター2 (SS)』リリース * [[1996年]] ** [[3月29日]] - 『バーチャファイターMini (GG)』リリース ** 4月 - 『'''バーチャファイターキッズ'''』リリース ** [[6月26日]] - 『バーチャファイター ([[Microsoft Windows|Windows]])』リリース ** [[7月26日]] - 『バーチャファイターキッズ (SS)』リリース ** 9月 - 『'''[[バーチャファイター3]]'''』リリース ** [[12月21日]] - 『[[ファイターズメガミックス]] (SS)』リリース * [[1997年]] ** 9月 - 『'''バーチャファイター3 tb'''』リリース ** [[9月5日]] - 『バーチャファイター2 (Windows)』リリース * [[1998年]] ** [[4月6日]] - 『バーチャファイターシリーズ』が「1998コンピュータワールド・スミソニアン・アウォード」を受賞。[[スミソニアン博物館]]に永久保存される。 ** [[11月27日]] - 『バーチャファイター3 tb (DC)』リリース * [[2001年]] ** 8月 - 『'''[[バーチャファイター4]]'''』リリース * [[2002年]] ** [[1月31日]] - 『バーチャファイター4 (PS2)』リリース ** 8月 - 『'''バーチャファイター4 エボリューション'''』リリース * [[2003年]] ** [[3月13日]] - 『バーチャファイター4 エボリューション (PS2)』リリース * [[2004年]] ** 7月 - 『'''バーチャファイター4 ファイナルチューンド'''』リリース ** [[8月26日]] - 『バーチャファイター サイバージェネレーション 〜ジャッジメントシックスの野望〜 (PS2・GC)』リリース ** [[10月14日]] - 『バーチャファイター2 (PS2)』リリース * [[2006年]] ** [[7月12日]] - 『'''[[バーチャファイター5]]'''』リリース * [[2007年]] ** [[2月8日]] - 『バーチャファイター5 (PS3)』リリース ** [[12月6日]] - 『バーチャファイター5 ライブアリーナ ([[Xbox 360]])』リリース * [[2008年]] ** [[7月24日]] - 『'''バーチャファイター5 R'''』リリース * [[2010年]] ** [[7月29日]] - 『'''バーチャファイター5 ファイナルショーダウン'''』リリース * [[2012年]] ** [[6月6日]] - 『バーチャファイター5 ファイナルショーダウン (PS3・Xbox 360)』リリース(ダウンロード配信) * [[2017年]] ** [[3月31日]] - 『バーチャファイター5 ファイナルショーダウン VERSION B』を除くアーケード版全シリーズの修理サポートが終了<ref>[https://www2.sls-net.co.jp/cms/sls/pdf/news/201611_p_maintenance.pdf 弊社製品保守対応の終了について]セガ・インタラクティブ、セガ・ロジスティクスサービス 2016年11月</ref> * [[2020年]] ** [[9月25日]] - セガ創立60周年企画の一環として「バーチャファイター×eスポーツプロジェクト」と称し、[[eスポーツ]]を軸とするシリーズ再始動を発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/202009/25206486.html |title=セガ60周年記念企画“バーチャファイター×eスポーツプロジェクト”始動! 国内でesportsタイトルとして再始動【TGS2020】 |publisher=ファミ通.com |date=2020-09-25 |accessdate=2020-09-26}}</ref>。 * [[2021年]] ** [[6月1日]] - 「バーチャファイター×eスポーツプロジェクト」用のゲームとして『'''[[バーチャファイター5|バーチャファイター eスポーツ]]'''』(日本国外での名称は『'''Virtua Fighter 5 Ultimate Showdown'''』)をPS4の[[PlayStation Plus]](同年8月2日までの期間限定)および[[PlayStation Now]]、アーケードゲームとして同時にリリース / 稼働開始。 * [[2023年]] ** [[11月28日]] - 『'''バーチャファイター3 tb オンライン'''』リリース この他、[[龍が如くシリーズ]]や『[[JUDGE EYES:死神の遺言]]』のミニゲームとして、バーチャファイターシリーズが収録されている場合がある。 '''太字''' - [[アーケードゲーム|アーケード]]版、SS - [[セガサターン]]版、32X - [[スーパー32X]]版、DC - [[ドリームキャスト]]版、PS2 - [[PlayStation 2]]版、PS3 - [[PlayStation 3]]版、PS4 - [[PlayStation 4]]版 === 主シリーズ作品 === ; バーチャファイター {{Main|バーチャファイター}} : 1993年12月、[[MODEL1]]基板を使用してリリース。 ; バーチャファイター2 {{Main|バーチャファイター2}} : 1994年11月、[[MODEL2]]基板を使用してリリース。 ; バーチャファイター3 {{Main|バーチャファイター3}} : 1996年9月、[[MODEL3]]基板を使用してリリース。 ; バーチャファイター4 {{Main|バーチャファイター4}} : 2001年8月、[[NAOMI|NAOMI2]]基板を使用してリリース。 ; バーチャファイター5 {{Main|バーチャファイター5}} : 2006年7月、[[LINDBERGH]]基板を使用してリリース。 === 派生製品 === ; [[バーチャファイター#バーチャファイターリミックス|バーチャファイターリミックス]] : 第1作に[[テクスチャマッピング]]を施したリメイク版。 : アーケード版:[[1995年]]5月稼働開始 : [[セガサターン]]版:[[1995年]][[7月14日]]発売 ; バーチャファイターCGポートレートシリーズ / GGポートレートシリーズ : [[1995年]]より[[セガサターン]]向け、[[1996年]]より[[ゲームギア]]向けに発売されたCG集。キャラクター毎に複数のタイトルが発売された。前者は『バーチャファイター2』を原作とし、全てのキャラクター(デュラルのみ非売品)が発売され、後者は『バーチャファイターキッズ』を原作とし、ゆうきあきら([[ママ (表記)|原文ママ]])とパイ・チェンの2人のみが発売された。 ; バーチャファイターMini : [[バーチャファイター (アニメ)|アニメ版]]をストーリーまで逆ゲーム化した2D格闘ゲーム。操作感覚はジェネシス版『VF2』とほぼ同じ。 : [[ゲームギア]]版:[[1996年]][[3月29日]]発売 : 日本国外ではゲームギアと[[セガ・マスターシステム]]で『[[:en:Virtua Fighter Animation|Virtua Fighter Animation]]』として発売。 ; [[バーチャファイター2#バーチャファイターキッズ|バーチャファイターキッズ]] : 2頭身にデフォルメされた格闘家たちが戦う3D対戦格闘ゲーム。システムはあくまで『VF2』準拠だが、キャラクターの手足の短さ、2頭身で頭が大きいことに起因する独特な重心バランスなどから、プレイ感覚は大幅に異なる。 : アーケード版:[[1996年]]4月稼働開始 : [[セガサターン]]版:[[1996年]][[7月26日]]発売 ; [[バーチャファイター2#ジェネシス版|バーチャファイター2(ジェネシス版)]] : ジェネシス(北米版[[メガドライブ]])が大きなシェアを占めていた北米市場では、同機種向けに『バーチャファイター2』が発売されている。16ビットマシンに高度なポリゴンを駆使した本作を移植することは制約上難しいため、ポリゴンではなくドット絵の2D対戦格闘ゲームにアレンジされており、登場キャラクターもリオンと舜帝は登場しないなど、オリジナルとは別物である。 : 日本のメガドライブでは未発売だったが、2007年3月20日から[[Wii]]の[[バーチャルコンソール]]用ソフトとして、2010年10月27日には[[Steam]]で[[Microsoft Windows]]対応ソフトとして、それぞれ配信されている。いずれも英語版。 ; [[ファイターズメガミックス]] : バーチャファイターと[[ファイティングバイパーズ]]のキャラクターが総出演する3D対戦格闘ゲーム。その他のセガ製品(対戦格闘ゲームを含む)からもゲストキャラクターが多数登場し、セガオールスターズ的な様相を呈したお祭り的な製品となった。 : 当時稼働開始したばかりだったバーチャファイター3のセガサターン移植について噂・議論になっていた時期でもあり、移植自体は実現しなかったものの3の新キャラクターだった葵の技を『バーチャコップ2』のジャネットが使う。 : [[セガサターン]]版:[[1996年]][[12月21日]]発売 ; バーチャファイター サイバージェネレーション 〜ジャッジメントシックスの野望〜 : 3D[[アクションRPG]]。舞台となる仮想空間にはVFシリーズに登場する格闘家たちの魂が点在し、それらに触れることで得意技を教わることができる。シリーズ初のダブルプラットフォーム製品でもある。北米では『バーチャクエスト』(''Virtua Quest'')の題名で発売された。 : [[PlayStation 2]]版:[[2004年]][[8月26日]]発売 : [[ニンテンドーゲームキューブ]]版:[[2004年]][[8月26日]]発売 === その他 === さまざまな格闘ゲーム・RPGなどに本作のキャラクターがゲスト出演している。 *『[[デッド オア アライブ5]]』([[PlayStation 3|PS3]]・[[Xbox 360]]、2012年9月27日発売) - 結城晶とサラ・ブライアント、パイ・チェン、ジャッキー・ブライアントが登場。 *『[[PROJECT X ZONE]]』([[ニンテンドー3DS]]、2012年10月11日発売) - 結城晶とパイ・チェンが登場。 *『[[電撃文庫 FIGHTING CLIMAX]]』(アーケード・PS3 PS3版は2014年11月13日発売) - 結城晶とパイ・チェンが登場。 *『[[大乱闘スマッシュブラザーズ for Nintendo 3DS / Wii U]]』(ニンテンドー3DS・[[Wii U]]、3DS版は2014年9月13日発売、Wii U版は2014年12月6日発売) - 結城晶とジャッキー・ブライアントの衣装が登場。 *『[[PROJECT X ZONE 2:BRAVE NEW WORLD]]』(ニンテンドー3DS、2015年11月12日発売) - 結城晶と影丸、パイ・チェンが登場。 *『[[大乱闘スマッシュブラザーズ SPECIAL]]』([[Nintendo Switch]]、2018年12月7日発売) - 結城晶がアシストフィギュア(アシストキャラクター)として登場。 *『[[グーニャファイター]] APM3 Edition』(アーケード、2020年9月17日発売) - 結城晶とパイ・チェン、ラウ・チェン、サラ・ブライアント、ウルフ・ホークフィールドが登場。 == ゲームシステム == 8方向レバーとパンチ、キック、ガードの3つのボタンでキャラクターを操作。相手に攻撃を加えて体力ゲージを0にするか、リングアウトさせると1ラウンド取得となり、規定のラウンド数を先取した側が勝利となる。なお時間切れの際は、体力ゲージで勝っていた側のプレイヤーが1ラウンド取得となる。 いわゆる飛び道具攻撃はなく、遠距離攻撃も僅かな突進系打撃に限られる。ガード・ヒットにかかわらず近接距離が保持されやすいことから、他の格闘ゲームに比べ展開のテンポが非常に早い対戦システムとなっている。 === 基本ルール === 技は「'''上段'''」「'''中段'''」「'''下段'''(しゃがみ)」いずれかの属性を持つ。この3つは「上段>中段>下段>上段」という三すくみの関係になっている。 ガードは、ガードボタンを押しながら上下でガード方向を変化させることができる。「'''立ちガード'''」は上段と中段をガードし、「'''しゃがみガード'''」は上段を避け下段をガードすることができる。技には防御されたときに隙があり、中段や下段は隙が総じて大きい傾向にある。ガードすると確実に特定の技で反撃できる技も多い(確定反撃と呼ばれる)。 下段攻撃が中段攻撃に比べると弱めの技が多いため、立ちガードが崩しにくい。これの裏の選択肢として上段ガードを崩す「'''投げ'''」が用意されている。 「打撃>投げ>ガード>打撃」と「上段>中段>下段>上段」、近距離戦でこの2つの三すくみを基に相手がどう来るかをお互い読んでいくことで対戦は展開していく。基本的には隙の少ない上段攻撃をガードさせ、中段か投げの2択を迫る、防御側はどちらかを読み反撃するのが基本戦術となる。 この他、ガードの派生として、特定の攻撃を受けると直接反撃できる「返し技」<ref group="注釈">本ゲームでは一部キャラクターの技に「返し技」(相手の攻撃を受け止め、反撃するタイプの技)が使用可能になっているが、これらの技の俗称として「当て身(当身)」が使用されることがある。これは「当て身投げ」の略称であるが、本来の「当て身」とは打突技(砕き技)の総称であり、本ゲームを含めて1990年代以降に数多製作された「[[対戦格闘ゲーム]]」全般で共通する誤用であることから誤認の注意を要する。現在、公式の技表などには「返し」または「返し技」という記載が用いられている。詳細は[[当身]]参照。</ref>や、数多い直線的な打撃を回避する軸移動「避け」、それを攻撃する「回転技」など、さらに深い読み合いを提供するためのアクションがある。 ==== 基本技・基本操作 ==== キャラクターはレバーとボタンの組み合わせによって多彩な固有技を持っている。その数は1作目では多くて30個ほどだったが、5作目では技表に書いてあるもの全てを計算すれば、1キャラクターが70-100個ほどの技を持っている。 レバー入力の方向はキーボードのテンキーを用いて表記する。5を中心とし、他の数字がそれぞれの方向に対応する(6なら→、2なら↓である)<!--ケータイだと上下逆に解釈されるし、そろそろテンキー表記はやめた方がよくないですか?-->。 ; PP : ワンツーパンチ。発生が早く、隙が少ない。 ; K : 頭をめがけてのハイキック。威力が高い。 ; PK : パンチ→キックと攻撃する最も基礎的なコンビネーション。 ; 6P(中段パンチ) : 発生が比較的早い中段の手技。肘打ちで攻撃するものが多い。しゃがんだ相手にヒットすると相手はよろける。 ; 6K(中段キック) : 発生は遅めだが威力の高い中段の蹴り技。膝蹴りで攻撃するものが多い。 ; 3K(ミドルキック) : リーチの長い中段の蹴り技。牽制に役立つがガードされたときの隙は大きめ。しゃがんだ相手にヒットすると相手はよろける。 ; 2P(しゃがみパンチ) : しゃがんでジャブを放つ技。上段攻撃をかわしながら相手の動きを止めるのに役立つ。 ; 2K(しゃがみキック) : しゃがんで相手の足元を狙う蹴り技。 ; ダウン攻撃 : ダウン中の敵に攻撃を加える。ダウンしている相手の方向(斜め下)にレバーを入れながらパンチかキックでその場から直接攻撃する小ダウン攻撃と、相手ダウン中に上方向にレバーを入れながらパンチで飛び上がって攻撃する大ダウン攻撃の2種類がある。 ; ダウン投げ :一部のキャラクターは下方向か斜め下にレバーを入れながらP+Gを入力することで、ダウン中の相手に関節技をかけたり、起き上がらせてコンボを継続できる。 ; 起き上がり攻撃 : ダウンから起き上がったときにキックを押していると、起き上がり様に攻撃をすることができる。入れているレバー方向によって中段と下段の2種類がある。 ; P+G : 投げ技。ボタンを押すまでにキャラクターごとに決められたレバー方向に入力することで別の投げ技になる。コマンドが難しいほど威力などが高い傾向にある。 : 投げ技の発生・成立までのフレームが短く、攻防の中で投げの占める割合が高いという特徴がある。シリーズ毎に調整を重ねているものの単発のパンチから投げる「ワンパン投げ」は伝統的基本戦術として浸透している。多くのキャラクターが高威力の投げ技を装備している点も特徴で、対応する知識や防御テクニックが必要不可欠となっている。 ; P+K : 腕を使った強力な打撃。返し技を持つキャラクターは、レバーを後ろ方向に入れつつこのボタン入力で行う。 ; K+G : 脚を使った強力な打撃。見た目が回し蹴りの全回転攻撃(射程内なら攻撃避けでも回避不可)であることが多い。 ; P+K+G : 全ボタン同時押しによる技は、特殊な打撃技やキャラクター固有の構え(構えから通常状態とは別の技を出せる)など、特徴的な動作が多い。 : 共通してダウン着地時に押すと、受け身になる。 ; バックステップ : 後ろに2回レバーを入れると素早く後ろに下がる。バックステップは相手の攻撃をかわしたり、距離を取るのに役立つ。同様に、踏み込む場合には前2回に入れて'''ステップ'''、斜め下に2回レバーを入力すると'''しゃがみ'''('''バック''')'''ステップ'''となりしゃがみながら同様の動作を行う。 ; カウンター : 相手の攻撃動作中にこちらの攻撃をヒットさせると、ダメージが増えるほか、浮いたり硬直が長くなるなどの恩恵が得られる。 : 『VF4』以降で発生するとキャラクターが一瞬発光するエフェクトがかかるようになった。 === ステージ === ステージは基本的に正方形で、'''リングの端から足を踏み外すとリングアウト'''となり負けとなる。 『VF3』では「'''アンジュレーション'''」という高低差の要素が追加された。低い場所へ飛ばすと滞空時間が長くなりコンボが決まりやすくなったり、登り坂によって技の押し能力が弱くなるなどの不確定要素が追加され、位置取りの要素が強くなっている。ステージに壁が追加されたのも3からで、相手を壁に叩き付けた状態でのみ決められる連続技など、壁を巡る攻防の要素も加えられた。また、砂漠ステージというリングアウトが無いステージがあった(無限大に広いステージ風であるが実際には見えない壁が存在する)。 『VF4』ではアンジュレーションがオミットされ、全てのステージが平坦な正方形のリングへと回帰した。また、ステージの種類が破壊不可能な高い壁で囲われた'''フルフェンス'''、破壊可能な腰ほどの高さの壁で囲われた'''ハーフフェンス'''、壁で囲われていない'''ノーフェンス'''の3種類に大別されるようになった。ハーフフェンスのステージでは、キャラクターが壁より高く浮いた状態で押し出されるか、壁が破壊された箇所からリング外に落ちた場合にリングアウトとなる。フルフェンスのステージでは、キャラクターによっては壁際専用の特殊技が使用できる。 『VF5』では全ての壁が壊れなくなり、またステージ選択時にリングの広さと壁の有無・高さが表示されるようになった。 『VF5R』では八角形フルフェンスのリングも登場するとともに、ハーフフェンスよりさらに低い'''ローフェンス'''、破壊可能な'''フルフェンス'''、リングの広さやフルフェンスとノーフェンスがラウンド毎に切り替わる、壁が一部の辺にしか存在しない長方形リングなど、ステージ毎に様々な仕掛けが追加された。 === 三次元的な攻防 === ==== 『バーチャファイター3』以前 ==== 史上初の3D格闘ゲームの『バーチャファイター』だが、『3』以前ではシステムそのものはルールの違う2D格闘ゲームと言えるもので、手前や奥へ回避するなどの概念は希薄だった。『2』では一部のキャラクターが自発的に横へ移動する技を持っていたものの、根本的な二次元からの脱却はなされていなかった。開発側も攻防が二次元的になっているのは快く思っておらず、しゃがみパンチが強力なのは「三次元的な攻防ができないための苦肉の策」だとしていた{{要出典|date=2023年8月}}。 ==== エスケープボタン ==== 『VF3』ではパンチ、キック、ガードに加えて第4のボタン「エスケープ」を追加した。ボタンを押すことで画面奥方向へ移動し、直線的な攻撃を回避することができる。レバーとエスケープボタンを組み合わせることにより、各方向への移動を1ステップの入力で可能にした。 ==== ARM・レバーによる避け ==== 『VF4』ではエスケープボタンを廃し、手前・奥への避けも全てレバーのみで行うARMが導入された。このARMによりレバー入力のみで、キャラクターをリング上で8方向に移動させることができるようになった。相手の直線的もしくは半回転の攻撃に合わせて上(画面奥方向)か下(画面手前方向)へレバーを一瞬だけ倒しニュートラルに戻すことで、相手の攻撃を軸をずらして避けることができる。またこのためジャンプ操作は、レバー上と同時に何らかのボタンを入力するコマンド動作に変更された。 === VF.NET === 『VF4』から『VF5FS VERSION A REVISION 1』まで実装。ランキングやアイテム装備やチーム加入など対戦機器と連動しており、より対戦ゲームを楽しめるコンテンツ(別途月額料金が必要)であった。[[2016年]]2月29日の16時を以ってサービス自体が終了し、PC版並びに[[SoftBank (携帯電話)|SoftBank]]版に関しては2016年2月一杯は無料開放されていた(PC版における自動継続権利用者は2016年2月分の料金は発生しない。SoftBank版は月額料金利用者が対象)<ref>[http://www.virtuafighter.jp/news.shtml 【重要なお知らせ】VF.NETサービス終了について]バーチャファイター5公式サイト 2015年12月21日</ref>。 対応機種は携帯電話([[iモード]]、[[EZweb]]、[[Yahoo!ケータイ]])、PC、およびスマートフォン(PC版を流用)。『VF4』(無印)版は[[ドリームキャスト]]にも対応していた([[シェンムー|シェンムーII]]初回生産分に同梱していた専用ソフトが必要だった。『VF4EVO』以降は非対応)。 後に[[セガネットワーク対戦麻雀MJ]]シリーズや、[[Quest of D]]、[[STARHORSE2]]など、幾つものアーケードゲームに採用された連動コンテンツサービスを、最初に始めたのが『VF4』だった。これらのアーケードゲームにおけるオンラインサービス「[[ALL.Net]]」のサービスの1つとしてVF.NETも展開されていた。 『VF5FS VERSION B』はVF.NET非連動となった。 『VF esports』稼働時より、『VF esports.NET』として新たなサービスが開始された。 === テクニック === ; 空中コンボ : 攻撃を当てられて浮いた相手や、仰け反って崩れながら倒れ込もうとしている相手に攻撃を続けて当て、連続技にすることができる。 ; 投げ抜け : 投げ技はしゃがんで避ける他に、投げ抜けというアクションで回避することができる。投げ抜けは相手の投げコマンドの最後のレバーとボタン部分のみを入力(例:16P+Gならば6P+Gが抜けコマンド)。相手の向きによって抜けコマンドが決まるため、キャラクターが右向きか左向きかでコマンドは異なる。ニュートラル、6(前)、3(前斜め下)、2(下)、1(後ろ斜め下)、4(後ろ)、と6方向もの抜けコマンドがある(キャラクターが持つのは基本的には3-5方向)が、基本的には抜け方向は1方向しか選べない。2-3方向を同時に入力する「飛車角抜け」などのテクニックが存在する。 : 『VF2』で初めて導入されたが、最初はコマンドがP+Gの投げしか抜けることができなかった。 : 投げ抜けのさらなる応用技として、避けを入力した直後に投げ抜けを先行入力することにより「直線打撃&投げ抜けを入力した方向の投げ」の両方を回避する「避け投げ抜け」や、同様に返し技を入力した直後に投げ抜けを先行入力することにより「投げ抜けを入力した方向の投げ」を抜けつつ、入力した返し技に対応する打撃に対しては即反撃できる「当て身投げ抜け」(これは未だに「当て身」と呼ばれている※前述)などがある。 ; 屈伸 : ガードしながらしゃがみから立ちを切り替えると、しゃがみ状態で投げをスカして立ちガードすることができる防御テクニック。回転系の打撃もガードできるため避けよりもリスクが低く、その分相手の攻撃を凌いだ際のリターンも少ないが、汎用性の高さから多用されている。「フレーム単位の攻防」「投げ技に重点が置かれる」という本製品を象徴する防御行動である。 == ストーリー == 各シリーズ作品の項目を参照。なお、基本的に『VF2』以降の「世界格闘トーナメント」の優勝者は前作の最強キャラクター、あるいは印象に残っているキャラクターになっている。 == 登場キャラクター == {{Main|バーチャファイターの登場人物}} == アニメ版 == {{Main|バーチャファイター (アニメ)}} 1995年から1996年にかけて、[[テレビ東京]]系で放送された。 == コミック版 == 本作を基にした[[漫画化|コミカライズ]]が複数描かれた。 * バーチャファイター(原作:[[七月鏡一]] / 作画:[[藤原芳秀]]) ** [[小学館]]の[[小学館の学年別学習雑誌|小学五年生、六年生]]と『[[週刊少年サンデー超|週刊少年サンデー増刊号]]』にて連載。晶が主人公の少年誌風のものや影丸が主人公の暗めのストーリーのもの、ギャグタッチの話など、掲載誌によって対象年齢が若干違いがあるが、同じシリーズのコミックスにまとめられている。 * バーチャファイター(ビリータチバナ) ** 小学館の『[[コロコロコミック]]』にて連載。上述のアニメ版が原作となっており、晶を中心に拉致されたサラの奪還が話の軸になっている。全1巻。 * バーチャファイター([[やましたたかひろ]]) ** 小学館の『小学三年生』に連載、1話完結のギャグ漫画となっている。 * バーチャファイター晶の拳(作画:たしろたくや) ** [[徳間書店]]『[[月刊マンガボーイズ]]』にて連載。晶中心の内容。 * バーチャファイター レジェント・オブ・サラ(作画:[[松本嵩春]]) ** 徳間書店『コミック鉄人』に連載。ジャッキーとサラに焦点を当てた物語。 * バーチャファイター影(作画:[[来留間慎一|秋恭摩]]) ** 徳間書店『[[月刊少年キャプテン]]』に連載。影丸の物語。 * バーチャファイター美闘伝サラ(原作:伊津木敏弘 / 作画:[[鬼窪浩久]]) ** [[集英社]]『[[週刊プレイボーイ]]』連載。単行本はホーム社より刊行。 *バーチャファイター サイバージェネレーション([[松本久志]]) ** 講談社の『[[コミックボンボン]]』にて連載。未単行本化。 == パチンコ・パチスロ == ;パチンコ *CRバーチャファイター(2008年、[[サミー]]) *ぱちんこCRバーチャファイターレボリューション(2012年、サミー) ;パチスロ *バーチャファイターF / バーチャファイターT(2007年、[[ロデオ (企業)|ロデオ]]) *パチスロバーチャファイター(2014年、[[タイヨーエレック]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.virtuafighter.jp/ バーチャファイターポータル] : 現在は『バーチャファイター eスポーツ』の情報サイトにアクセスすることを主目的としたTOPページとなっている。 * [https://sega.jp/astrocitymini/soft/virtua-fighter.html セガ60周年特設サイト・アストロシティミニ商品ページ > 収録ソフト情報] : 『VF1』アストロシテイミニ版(ほぼアーケード版と同様)のスクリーンショットが参照できる。このサイトではアストロシティミニ全体のPVも視聴でき、その中で数秒ほど本作のプレイ映像も見られる。 ※ 下記のサイトはセガ公式webサイトに現存しているがアーカイブ状態にある。 * [https://vf20th.sega.jp/ バーチャファイター20周年記念特設サイト] * [https://www.virtuafighter.jp/vf5fs/ バーチャファイター5 ファイナルショーダウン(AC版) 公式サイト] * [https://vc.sega.jp/vc_vf2/ バーチャルコンソール バーチャファイター2<ジェネシス版>] ※ 以下はすべてセガオフィシャルwebサイトに現存していない、当時の作品情報ページ。 *Internet Archiveで確認できる最も古いキャッシュリンクを使用(PS3版『VF5』 / Xbox 360版『VF5LA』除く)。画像や文章の閲覧に難がある場合あり。 ; アーケード版 *[https://web.archive.org/web/20041111042442/http://www.virtuafighter.jp/vf4/ バーチャファイター4](2004年10月28日時点) *[https://web.archive.org/web/20041028170825/http://www.virtuafighter.jp/vf4evo/ バーチャファイター4 エボリューション](2004年10月28日時点) *[https://web.archive.org/web/20041028171415/http://www.virtuafighter.jp/vf4ft/ バーチャファイター4 ファイナルチューンド](2004年10月28日時点) *[https://web.archive.org/web/20090908161743/http://www.virtuafighter.jp/vf5/ バーチャファイター5](2009年9月8日時点) *[https://web.archive.org/web/20100909153129/http://www.virtuafighter.jp/vf5r/ バーチャファイター5 R](2010年9月9日時点) ; 家庭用版 *[https://web.archive.org/web/20011102155447/http://sega.jp/pc/vf2/ Windows95/98版バーチャファイター2](2001年11月2日時点) : ※ Windows95/98版『バーチャファイター2 スペシャルパック』も上記リンク先から閲覧可能。 *[https://web.archive.org/web/20050211095517/http://sega.jp/ps2/ages16/ プレイステーション2版バーチャファイター2](2005年2月11日時点) *[https://web.archive.org/web/20070926213233/http://sega.jp/dc/981004/ ドリームキャスト版バーチャファイター3tb](2007年9月26日時点) *[https://web.archive.org/web/20041130021547/http://www.virtuafighter.jp/vf4ps2/index2.html プレイステーション2版バーチャファイター4](2004年11月30日時点) *[https://web.archive.org/web/20041028171101/http://www.virtuafighter.jp/vf4evo-ps2/ プレイステーション版3バーチャファイター4 エボリューション](2004年11月30日時点) *[https://web.archive.org/web/20041128113807/http://vfcg.sega.jp/ バーチャファイター サイバージェネレーション 〜ジャッジメントシックスの野望〜](2004年11月28日時点) *[https://web.archive.org/web/20130217025231/http://sega.jp/ps3/vf5/ プレイステーション3版バーチャファイター5](2013年2月17日時点) *[https://web.archive.org/web/20090807040241/http://sega.jp/x/vf5/ Xbox 360版バーチャファイター5ライブアリーナ](2009年8月7日時点) <!--以下のサイトはFLASHを使用しており殆ど閲覧出来ないため、コメントアウトしました。データとしては残しておきます) * [http://virtuafighter5.jp/ プレイステーション3版バーチャファイター5] * [http://virtuafighter5.jp/xbox360/ Xbox360版バーチャファイター5ライブアリーナ]--> {{バーチャファイターシリーズ}} {{DEFAULTSORT:はあちやふあいたあしりいす}} [[Category:バーチャファイター|*]] [[Category:コンピュータゲームのシリーズ]] [[Category:ゲームギア用ソフト]] [[Category:セガサターン用ソフト]] [[Category:ドリームキャスト用ソフト]] [[Category:PlayStation 2用ソフト]] [[Category:ゲームキューブ用ソフト]] [[Category:ALL.Net]] [[Category:PlayStation 4用ソフト]] [[Category:小学館の学年誌の漫画作品]] [[Category:週刊少年サンデー超]] [[Category:月刊コロコロコミックの漫画作品]] [[Category:月刊少年キャプテン]] [[Category:週刊プレイボーイの漫画作品]]
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光磁気ディスク
光磁気ディスク(ひかりじきディスク、magneto-optical disk 〈discとも表記される〉)とは、赤色レーザー光と磁場を用いて磁気記録および再生を行う電子記録媒体の1つである。1980年代から1990年代前半に磁気テープに代わる映像記録媒体として研究開発が行われ、アナログあるいはデジタル記録媒体として実用化された。 1985年に最初の光磁気ディスクメディアおよび対応製品として5.25インチドライブが発売され、1988年にはNeXT社から光磁気ディスクドライブを搭載したワークステーション「The Cube」が発表された。1991年には3.5インチドライブがIBMから発売された。 MO(エムオー)あるいはMOディスクと略した場合、一般には後述のISO規格準拠のMOディスク(3.5インチ、5.25インチ)のことを指すが、本項目では他規格の光磁気ディスクについても記述する。 規格は2000年代で消滅したとされ、ハードディスクドライブ (HDD) やフラッシュメモリーなどの大容量化によって、ほぼ代替されている。 光磁気ディスクには磁性を持った記録層が形成されており、外部から電磁石による記録用の磁界を加えて媒体を磁化する点では磁気ディスクと似ているが、記録層が常温ではほとんど磁化されず、これを熱して磁化する点に特徴がある。記録の際に光の強度を変化させて磁界を一定とする光変調方式と、光の強度を一定として磁界を変化させる磁気変調方式がある。 磁気変調方式(MFM方式)では、以下の手順でデータが記録される。 この繰り返しにより磁性体にN極とS極の磁性が記録されていく。読み出し時には書き込み時よりも出力の弱いレーザを照射し、N極とS極の向きの違いによってレーザの偏光面が回転する現象(磁気光学カー効果)を検出しそれを0と1のデータとして読みとっている。 また光変調方式ではまず一定磁界・高出力レーザ光で記録層の磁力を一方向にそろえることで初期化(消去)し、続いて加える磁界を反転したうえで、記録したい部分を光で加熱し磁気を反転させて記録を行う。 光磁気ディスクメディアの論理フォーマットとしては、ハードディスク形式とスーパーフロッピー形式の2種類がある。 音声録音用とデータ記録用の光磁気ディスクがある。 Hi-MDはMDの上位互換のメディアで、MDと同じサイズで1 GBの容量を実現している。磁壁移動検出方式 (DWDD: Domain Wall Displacement Detection) を採用している。 ISO規格のMOやMDと並び、実用化・普及した数少ない規格のひとつである。 HS (Hyper Storage)は、1995年にソニーが開発した光磁気ディスクである。3.5インチフロッピーディスクとほぼ同じサイズのカートリッジに納められており、容量は約650 MB。 HSの開発にあたっては日立製作所と3Mが協力している。 将来的には2002年頃までに約2.5 GBに容量を段階的に拡大する予定だった。しかし、当時普及していたMOとの互換性がない上にMOと比べてドライブやメディアが高額だったため普及しなかった。ドライブ、メディアとも製造・販売は終了しており、開発も停止されたままである。 AS-MOはAdvanced Storage Magneto Opticalの略で5インチの光磁気ディスク。シャープを含む16社で開発され、直径120 mmの片面ディスクで6 GBの大容量記録を実現した。ASTC(advanced storage technical conference)が1998年4月に規格を策定したが、製品化はされなかった。 AS-MOの技術を応用し、三洋電機、オリンパス光学工業、日立マクセルの3社で1999年に開発された。記録方式にMFM方式、再生技術にMSR技術を採用し2インチ (5 cm) 径で730 MBの容量を持つ。 シャープとソニーによって2000年3月に発表された。 1990年代後半から将来迎えるであろうハードディスクの記録密度の限界が問題視され、各メーカーでは高速リードライト、高記録密度の光磁気ディスクを研究している。 磁区拡大再生技術 (MAMMOS: Magnetic AMplifying Magneto-Optical System) といった記録再生技術や、青紫色レーザを利用することで5.25インチサイズで最大200 GBの容量が見込まれている。このうちMAMMOSは従来のレーザ波長で20 GB/12 cm、現時点でのDWDDは従来のレーザー波長で3 GB/5 cmの容量とされる。なおDWDDの技術目標は100 GB/12 cm、青紫色レーザで200 GB/12 cmを見込んでいる。 2013年11月25日に発表されたこれまでとは全く違った技術である光スイッチング磁石を用いた記録方式もある。ディスクとしての媒体で供給できるのかまだ不透明であるが、平方インチあたり30 GB記録可能でありブルーレイディスクを大きく超える容量になる。 MOの普及率は世界的に見た場合には決して高いものではなく、むしろ日本での普及の高さはかなり珍しい部類に入る。 1990年代にはドライブ単価の安いZipドライブが世界中で普及を見せ、MOは他のリムーバブルメディア共々その余波をまともに浴び普及は微々たるものだった。その後、1990年代後半からはCD-Rが安価に出回るようになり、さらにはフラッシュメモリの大容量・低価格化による普及も進んでいるためMOは地味な(あるいはそれ以下の)存在のままである。 一方、日本国内では当初から企業や官公庁を中心に登場時からデータの保存・運搬用として広く普及しており、デスクトップパブリッシングやデザイン・印刷・出版の分野では、そのメディア信頼性の高さと容量に対するコストパフォーマンスの良さから広く使われている。特にPC-9800シリーズではデバイスドライバを必要とせずSCSI接続のMOからのブートも可能だったため、Windowsの普及初期に広く出回った(PC/AT互換機ではデバイスドライバが必要)。Windows 95まではHDDレスのシステムも構築可能だった。1990年代にはZipドライブの普及に押され気味だった時期もあったが、Zipドライブが衰退し始めてからは一時期勢いを取り戻したこともあった。しかし代わってCD-RWやDVDドライブがパソコンに標準搭載されることが急増し、さらに高速なフラッシュメモリー(主にUSBメモリー)が安価に出回るようになり始めてからはすぐに衰退の一途を辿った。富士通よりCD-ROM・MOの両方が使えるコンボドライブが開発・試作されたが、市場販売には至らなかった。MOはドライブの小型化やインターフェースにUSBバスパワータイプを採用した製品が登場し、信頼性・長期保管性に長けたメディアとして見直す動きもあったが、大容量化でDVDやBD、DDS、フラッシュメモリーに遅れを取ったこともあり、需要は伸びることはなかった。関連企業により1999年結成された「MOフォーラム」も2009年から休眠、2010年に解散した。 MOディスクドライブの生産・販売はすべて終了している。オリンパスは2005年(平成17年)後半に生産を中止して2006年(平成18年)3月にMO事業から完全撤退した。コニカミノルタは2010年(平成22年)9月に販売を終了、富士通は2012年(平成24年)3月30日をもって全てのサポートを終了し、バッファローも生産を終了、最後まで販売していたロジテックも2013年(平成25年)6月下旬に発売した「LMO-FC654U2」が最終モデルとなった。 記録メディアについても、日立マクセルは2009年(平成21年)9月末に、三菱化学メディアは2009年(平成21年)12月末にMOディスクの販売を終了した。アイ・オー・データ機器も販売を終了、ソニーは3.5インチMOに関しては2017年(平成29年)6月を最後に現行品のリストから外れ、5.25インチMOに関しては2018年(平成30年)2月を最後に現行品のリストから外れた。 ラジオ放送業務用としては、信頼性・耐久性・使い勝手の面(ラジオ放送局内のデジタル化進展や業務用6 mmテープの在庫希少化)から、2000年代中盤以降MOを積極的に採用していた。 規格は番組制作・CM制作・番組搬入用の録音メディアとしてソニーによる3.5インチ規格準拠の業務用MO「Pro-MO(プロモ)」が広く採用されていたが、2015年(平成27年)7月以降、2020年(令和2年)までに生産終了したことで、各局では使用を取りやめる傾向にある。 代表的なレコーダーとしては、DENON ProfessionalのDN-H5600N・DN-H4600N(3.5インチ用)、CD制作時のマスターレコーダーとして、専用の5インチMO (5.2 GB) を用いて、24bit/44.1 kHzの音源を記録する、ソニーのPCM-9000などがあるが、いずれも生産終了した。 各業務では、MOの代わりにHDDやフラッシュメモリーを媒体とした機材に代替している。
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"p", "text": "記録メディアについても、日立マクセルは2009年(平成21年)9月末に、三菱化学メディアは2009年(平成21年)12月末にMOディスクの販売を終了した。アイ・オー・データ機器も販売を終了、ソニーは3.5インチMOに関しては2017年(平成29年)6月を最後に現行品のリストから外れ、5.25インチMOに関しては2018年(平成30年)2月を最後に現行品のリストから外れた。", "title": "生産・販売の停止" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ラジオ放送業務用としては、信頼性・耐久性・使い勝手の面(ラジオ放送局内のデジタル化進展や業務用6 mmテープの在庫希少化)から、2000年代中盤以降MOを積極的に採用していた。", "title": "生産・販売の停止" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "規格は番組制作・CM制作・番組搬入用の録音メディアとしてソニーによる3.5インチ規格準拠の業務用MO「Pro-MO(プロモ)」が広く採用されていたが、2015年(平成27年)7月以降、2020年(令和2年)までに生産終了したことで、各局では使用を取りやめる傾向にある。", "title": "生産・販売の停止" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "代表的なレコーダーとしては、DENON ProfessionalのDN-H5600N・DN-H4600N(3.5インチ用)、CD制作時のマスターレコーダーとして、専用の5インチMO (5.2 GB) を用いて、24bit/44.1 kHzの音源を記録する、ソニーのPCM-9000などがあるが、いずれも生産終了した。", "title": "生産・販売の停止" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "各業務では、MOの代わりにHDDやフラッシュメモリーを媒体とした機材に代替している。", "title": "生産・販売の停止" } ]
光磁気ディスクとは、赤色レーザー光と磁場を用いて磁気記録および再生を行う電子記録媒体の1つである。1980年代から1990年代前半に磁気テープに代わる映像記録媒体として研究開発が行われ、アナログあるいはデジタル記録媒体として実用化された。 1985年に最初の光磁気ディスクメディアおよび対応製品として5.25インチドライブが発売され、1988年にはNeXT社から光磁気ディスクドライブを搭載したワークステーション「The Cube」が発表された。1991年には3.5インチドライブがIBMから発売された。 MO(エムオー)あるいはMOディスクと略した場合、一般には後述のISO規格準拠のMOディスク(3.5インチ、5.25インチ)のことを指すが、本項目では他規格の光磁気ディスクについても記述する。 規格は2000年代で消滅したとされ、ハードディスクドライブ (HDD) やフラッシュメモリーなどの大容量化によって、ほぼ代替されている。
{{pathnavbox| {{pathnav|メディア (媒体)|記録媒体}} {{pathnav|磁気|{{C|磁気デバイス}}|磁気記録|磁気媒体}} }} '''光磁気ディスク'''(ひかりじきディスク、{{Lang|en|''magneto-optical disk''}} 〈''disc''とも表記される〉)とは、赤色[[レーザー]]光と[[磁場]]を用いて[[磁気記録]]および再生を行う[[電子媒体|電子記録媒体]]の1つである。[[1980年代]]から1990年代前半に[[磁気テープ]]に代わる映像記録媒体として研究開発が行われ、アナログあるいはデジタル記録媒体として実用化された。 1985年に最初の光磁気ディスクメディアおよび対応製品として5.25インチドライブが発売され<ref>{{Cite web|title=3.5-inch magneto-optical disc (1991 – 2000s)|url=https://obsoletemedia.org/3-5-inch-magneto-optical-disc/|website=Museum of Obsolete Media|date=2014-04-04|accessdate=2019-02-20|language=en-GB}}</ref>、1988年には[[NeXT]]社から光磁気ディスクドライブを搭載したワークステーション「[[NeXTcube|The Cube]]」が発表された<ref>[https://www.jipdec.or.jp/archives/publications/J0000664.pdf CD-ROM調査研究報告書]、データベース振興センター、1989年、55頁。</ref>。1991年には3.5インチドライブがIBMから発売された<ref>{{Cite web|title=IBM100 - The Invention of the Rewritable Magneto-Optical Disk|url=http://www-03.ibm.com/ibm/history/ibm100/us/en/icons/rewritablecd/|website=www-03.ibm.com|date=2012-03-07|accessdate=2019-02-20|language=en-US}}</ref>。 '''MO'''(エムオー)あるいは'''MOディスク'''と略した場合、一般には後述のISO規格準拠のMOディスク(3.5インチ、5.25インチ)のことを指すが、本項目では他規格の光磁気ディスクについても記述する。 規格は[[2000年代]]で消滅したとされ、[[ハードディスクドライブ]] (HDD) や[[フラッシュメモリー]]などの大容量化によって、ほぼ代替されている。 == 概要 == 光磁気ディスクには磁性を持った記録層が形成されており、外部から電磁石による記録用の磁界を加えて媒体を磁化する点では[[磁気ディスク]]と似ているが、記録層が常温ではほとんど磁化されず、これを熱して磁化する点に特徴がある。記録の際に光の強度を変化させて磁界を一定とする光変調方式と、光の強度を一定として磁界を変化させる磁気変調方式がある。 === 記録方法 === 磁気変調方式(MFM方式)では、以下の手順でデータが記録される。 # メディアの磁性層に高出力のレーザ光を照射して、磁性が失われる温度([[キュリー温度]]:ISO規格のMOでは[[摂氏]]150 - 180度)以上にまで瞬時に加熱する # レーザで照射された部分が、レーザ光から離れて磁性を記録保持できる温度まで冷え始めた所で、電磁石により記録層と垂直方向の磁界を与える # 磁性体が十分に冷えて、磁性が完全に保持される この繰り返しにより磁性体にN極とS極の磁性が記録されていく。読み出し時には書き込み時よりも出力の弱いレーザを照射し、[[N極]]と[[S極]]の向きの違いによってレーザの[[偏光]]面が回転する現象([[磁気光学カー効果]])を検出しそれを0と1のデータとして読みとっている。 また光変調方式ではまず一定磁界・高出力レーザ光で記録層の磁力を一方向にそろえることで初期化(消去)し、続いて加える磁界を反転したうえで、記録したい部分を光で加熱し磁気を反転させて記録を行う。 === メディアの論理フォーマット === 光磁気ディスクメディアの論理フォーマットとしては、'''ハードディスク形式'''と'''スーパーフロッピー形式'''の2種類がある。 ; ハードディスク形式 : MOをハードディスクのようにフォーマットした形式で、パーティション分割可能。PC/AT互換機においては「[[FDISK]]形式」、[[FMRシリーズ]]・[[FM TOWNS]]においては「[[富士通]]形式」と呼ばれるものが用いられる。その他、PC-9800シリーズ、[[Macintosh]]、[[UNIX]]等にも独自のフォーマットがある。 : なお、後述のスーパーフロッピー形式に比べメディアの[[マウント]]・アンマウント(取り出し)に制限を受けることがある。 ; スーパーフロッピー形式 : MOを大容量のフロッピーディスクのようにフォーマットした形式で、主にWindowsで利用される。「MS-DOSフォーマット済み」として市販されているMOはこのスーパーフロッピー形式である。パーティション分割ができない。 : スーパーフロッピー形式をさらに分類すると、'''IBM形式'''と'''セミIBM形式'''の2種類に細分できる。ちなみに、MOにおけるIBM形式は[[IBM形式フロッピーディスク|フロッピーディスクにおけるIBM形式]]とは無関係である。 == 各種の光磁気ディスク == === ISO規格のMOディスク === <!-- {{メディア規格 |名称=3.5インチMO |画像=[[画像:GIGAMO13.jpg|250px|3.5インチMOディスク(1.3 GB GIGAMO Media ID対応)]] |記録=光磁気 |回転制御=CAV/ZCAV |マーク=マークポジション/マークエッジ |位置=ランド&グルーブ/グルーブ |トラック=螺旋 |サイズ=3.5インチ|D=94|W=90|H=6|重量=40 |転送=最大5.12 MByte/sec |rpm=最大6,750|シークタイム= |容量=128/230/540/640/1300/2300 MB |セクタ=512/2048 |サイクル=1000万/10万}} --> [[Image:MO OLYMPUS OL-D640.jpg|thumb|3.5インチ光磁気ディスク [[オリンパス]]製]] [[Image:2GB-MO-disk.jpg|thumb|5.25インチ光磁気ディスク ソニー製]] [[Image:Buffalo MO-PL640U2.jpg|thumb|外付け型3.5インチMOディスクドライブ<br />([[バッファロー (パソコン周辺機器)|バッファロー]]製MO-PL640U2)]] [[Image:MO-Drive-Front.jpg|thumb|3.5インチMOディスクドライブ(内蔵型)]] ; 特徴 : ISO規格のMOディスクは着脱可能な[[メディア (媒体)|記憶媒体]]([[リムーバブルメディア]])である。3.5インチメディアと、より寸法の大きい5.25および8インチメディアが存在する。 : [[フロッピーディスク]]2枚分の厚さを持つ[[プラスチック]]の[[カートリッジ]]に収められている。このため記録面は指紋や傷などから保護され、むき出しのメディアより指紋や傷がつきにくい。 : またドライブの利用に際しても特に[[デバイスドライバ]]は不要で<ref group="注釈">一部の[[オペレーティングシステム]] (OS) で[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]接続タイプのMOドライブを使う場合、また540MB迄の容量と640MB以上のメディアを一セッションで混用する場合にトラブルが生じて再起動が必要となる事例など、ドライバの導入が必要とされる場合もある。それでもドライバ不要の場面が多いことは、トラブル時の障害切り分けやデータを外部に書き出せる媒体として有用である。</ref>、データの読み書きもフロッピーディスクと同様の感覚、つまり[[ライティングソフト]]なしで行うことができる。 : 下位互換性があるために旧来のメディア(例:128 MBメディア)を最新のドライブ(例:2.3 GB対応ドライブ)で利用することも可能である(この逆は容量の問題で不可)。ただし、初期規格のメディアを最新規格のドライブで書き込むことができない等の制限はある。 : 3.5インチメディアにおいては、2000年以降'''Media ID'''と呼ばれる[[著作権保護機能]]が備わったメディア / ドライブの搭載が推進され<ref>{{Cite press release|和書|url=https://pr.fujitsu.com/jp/news/2000/09/13.html |title=デジタルコンテンツの著作権保護を行う 3.5型MOの「メディアID」機能を推進することで合意 |publisher=富士通 |date=2000-09-13 |accessdate=2021-09-18}}</ref>、順次発売された。 : DVD-RAMと違ってMS-DOSのデフォルトでデフラグが可能で頻繁な同期化、バックアップ用のメディアとして適している<ref group="注釈">フラグメントを解消できないDVD-RAMの場合、読み書き速度は時間を経るにつれて多大な時間を要すようになる。</ref>。 ; 容量 : 一般的に[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]で用いられる3.5[[インチ]]タイプのメディアでは、128 MB (ISO/IEC 10090)・230 MB (ISO/IEC 13963)・540 MB (ISO/IEC 15041)・640 MB (ISO/IEC 15041)・1.3 GB (ISO/IEC 17346)・2.3 GB (ISO/IEC 22533)の容量がある。 : GBクラスの容量を持つものは「GIGAMO(ギガモ)」と呼ばれる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press_Archive/199811/98-1105/ |title=富士通とソニーが、1.3GBの3.5型光磁気ディスクシステムを共同開発 |publisher=ソニー |date=1998-11-05 |accessdate=2021-09-18}}</ref>。なおGIGAMOにはオーバーライトメディアはない。 : 5.25インチメディアは3.5インチメディアが普及する以前に発売され、円盤の大きさはコンパクトディスクとほぼ同じで通常は[[DVD-RAM]]カートリッジとほぼ同形状のカートリッジケースに収められているが使われる機器によりケースに収めていない場合もある。また5.25インチメディアには[[Write Once Read Many]]タイプや医療専用メディアも存在する。パソコン及び[[ワークステーション]]や[[サーバ]]で用いられ最大で9.1 GB(両面)の容量がある。 ; アクセス方法 : [[シーク]]ができない[[クイックディスク]]に対し、MOは[[ランダムアクセス]]が可能である。 : 3.5インチの640 MBまでのMOは内周からアクセスを開始するが、GIGAMOでは外周からアクセスする。また、5.25インチメディアではディスク両面に記録する。 ; 記録方式 : 光磁気変調方式を採用している。トラックは[[フロッピーディスク]]やHDD([[ハードディスクドライブ]])の同心円状とは違い、螺旋状になっている。 : また3.5インチMOはこれまでに幾多の技術を盛り込んで大容量化してきた。その技術のすべてを以下に挙げ、解説する。 :* 128 MB:マークポジション記録、[[CAV]]、512バイト/セクタ、グルーブ記録 :* 230 MB:ZCAV :* 640 MB:マークエッジ記録、2048バイト/セクタ :* 1.3 GB:MSR :* 2.3 GB:MSRとランド&グルーブ記録 : MSRは磁気超解像 ({{Lang|en|Magnetically induced Super Resolution}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10463437_po_ART0003173612.pdf?contentNo=1&alternativeNo=/ |title=外部磁界不要の磁気超解像 (<特集>磁気光学・光磁気記録) |publisher=日本応用磁気学会 |date=1997-04-15 |accessdate=2022-02-06}}</ref>) のことで、フロントマスクとリアマスクによってレーザのビームスポット(照射面積)を狭めることで[[記録密度]]、読み取り精度を向上することができる。また素材が摂氏150度になったときだけ記録層の磁気を再生層に転写する中間層を設け、読み取り精度を高めている。しかしこの読み取り方式の特性上、従来よりも読み取り用レーザの出力が約7倍に高まることになり、結果として書き換え回数を激減させてしまった。 ; データ転送方法 : 当初のMOディスクへの書き込みはディスクの1回転毎に以下の3工程を行っていたため、ヘッド - MO間の物理的なデータ転送速度が遅かった。 :* 磁性層のデータ消去([[フォーマット (ストレージ)|フォーマット]]) :* 磁性層へのデータ記録(書き込み) :* 磁性層に書かれたデータの検証(ベリファイ) : 寸法の大きい5.25インチタイプでは複数のレーザーを照射し、複数の工程を同時に行い物理的なデータ転送速度を速くしたドライブもある。 : 現在では以下のような方法で物理的な書き込み速度を向上させると共に、MOドライブに搭載される[[キャッシュメモリ]]の大容量化とキャッシュコントローラの改良によるデータ転送の改善も図られている。 :* 「消去」と「記録」を1回転中の工程で行う技術([[ダイレクトオーバーライト]]。対応するドライブとメディアを組み合わせて使用した場合のみ有効) :* ディスクの[[回転速度]]向上([[1996年]]末で最大3,600 [[rpm (単位)|rpm]] → [[2005年]]末で最大6,750 rpm) :* ディスクのデータ密度向上 ; 耐久性 : MOの耐久性は次のような要因による。 :* カートリッジに収められていることで、傷や埃によるダメージが少ない :* ディスクの両面を覆う分厚い[[ポリカーボネート]]製の保護層により傷へのさらなる耐久性が高まる :* 記録時のレーザーの出力がCDやDVDと比較するとはるかに弱いため、ディスクへのダメージが少ない :* 加熱しないと磁気の影響を受けないため、磁石を近づけただけではダメージを受けることはない :* [[CD-R]]や[[DVD-R]]とは違い、[[紫外線]]でほとんど劣化しない :* [[フロッピーディスク|フロッピー]]とは違ってヘッドが接触することがないため、ディスクやヘッドが摩耗することはない : その他のメディアが抱える弱点に悩まされることが少ない点が、MOに対する根強い支持に繋がっている。 : ただしドライブの構造上、[[レーザー]]岐路に[[プリズム]]を使っているため、喫煙場所やほこりの多い室内で使うと書き込み読み取りエラーが出て、耐久時間内にもかかわらず故障となることが多い。分解して清掃すると回復するが、かなりの熟練を要する。また高温下で使うとディスクの冷却が遅くなるため、書き込み速度の低下が起こる{{Efn|[[電子投票]]に使われたMOで不具合が発生し記事になった<ref>{{Wayback|url=http://www.nikkeibp.co.jp/archives/258/258139.html |title=可児市の投票システム障害、原因はMOドライブの異常発熱 - ニュース - nikkei BPnet |date=20140707133435}}</ref>。}}。 : ドライブ自体は10万時間の耐久性がある。 : 各メディア製造メーカーの[[加速劣化試験]]によるとデータ保持寿命は推定50年から100年とされ、現在もMOの耐久性に匹敵するメディアは存在しない事からプロユースを中心とした需要は根強い(使用環境にもよるが、メディアよりもドライブの寿命の方が早いことすらある)。なお、MOの書き換え回数は[[ハードディスクドライブ]]をも上回る1000万回とされる(GIGAMOは100万回以上)。対するハードディスクドライブは100万回以上とされる。 === MD === {{Main|ミニディスク}} 音声録音用とデータ記録用の光磁気ディスクがある。 [[ミニディスク#Hi-MD|Hi-MD]]はMDの上位互換のメディアで、MDと同じサイズで1 GBの容量を実現している。磁壁移動検出方式 ({{Lang|en|DWDD: Domain Wall Displacement Detection}}) を採用している。 === その他 === ==== 放送業務用 ==== ISO規格のMOやMDと並び、実用化・普及した数少ない規格のひとつである。 * 30 cm両面アナログ記録媒体([[1992年]]):[[NTSC]]または[[PAL]]の[[アナログ]][[映像信号]]を記録 * 20 cm片面デジタル記録媒体([[1989年]]):1.8 GB/96 Mbps。[[D2-VTR|D2]]互換のNTSC[[コンポジット映像信号]]を記録 * 30 cm両面デジタル記録媒体([[1995年]]):23 GB/96 Mbps。同上 ==== HS ==== '''HS''' (Hyper Storage)は、[[1995年]]に[[ソニー]]が開発した光磁気ディスクである。3.5インチ[[フロッピーディスク]]とほぼ同じサイズのカートリッジに納められており、容量は約650 MB。 HSの開発にあたっては[[日立製作所]]と[[3M]]が協力している<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press_Archive/199601/96Co-010/index.html |title=3.5インチで容量650メガバイト 大容量光磁気ディスク“HS”ディスクユニット 発売 ---個人のコンピューター環境を可搬メディアで実現する高性能--- |publisher=ソニー |date=1996-01-25 |accessdate=2021-09-18}}</ref>。 将来的には[[2002年]]頃までに約2.5 GBに容量を段階的に拡大する予定だった。しかし、当時普及していたMOとの互換性がない上にMOと比べてドライブやメディアが高額だったため普及しなかった。ドライブ、メディアとも製造・販売は終了しており、開発も停止されたままである。 ==== AS-MO ==== '''AS-MO'''は{{Lang|en|Advanced Storage Magneto Optical}}の略で5インチの光磁気ディスク。[[シャープ]]を含む16社で開発され、直径120 mmの片面ディスクで6 GBの大容量記録を実現した<ref>{{Cite journal |和書|author1=前田茂己 |author2=藤寛 |author3=奥村哲也 |author4=佐藤秀朗 |author5=村上善照 |author6=高橋明 |title=AS-MOフォーマット |date=1998-12 |publisher=シャープ |journal=シャープ技報 |volume=72 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3515050 |pages=46-50 }}</ref>。ASTC(advanced storage technical conference)が1998年4月に規格を策定した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sophia-it.com/content/ASTC |title=ASTCとは |publisher=IT用語辞典バイナリ |accessdate=2021-01-26}}</ref>が、製品化はされなかった<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://kotobank.jp/word/ASMO-365 |title=ASMOとは |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2021-01-26}}</ref>。 ==== iD PHOTO ==== {{Main|iD PHOTO}} AS-MOの技術を応用し<ref>{{Cite journal |和書|author=樋口重光 |title=画像情報記録 |date=2000 |publisher=映像情報メディア学会 |journal=映像情報メディア学会誌 |volume=54 |issue=7 |naid=110003692827 |doi=10.3169/itej.54.929 |issn=1342-6907 |page=934 }}</ref>、[[三洋電機]]、[[オリンパス光学工業]]、[[日立マクセル]]の3社で1999年に開発された。記録方式にMFM方式、再生技術にMSR技術を採用し2インチ (5 cm) 径で730 MBの容量を持つ。 ==== 2インチMO ==== シャープとソニーによって2000年3月に発表された<ref>{{Cite web|和書|date=2000-03-23 |url=https://www.sony.co.jp/SonyInfo/News/Press_Archive/200003/00-0323/ |title=Sony Japan プレスリリース シャープとソニー、小型高密度光磁気ディスクを共同開発 |publisher=ソニー |accessdate=2020-09-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2000-03-23 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20000323/ssmo.htm |title=シャープとソニー、2インチMOの新規格を共同開発 |publisher=PC Watch |accessdate=2020-09-16}}</ref>。 ==== 次世代光磁気記録 ==== 1990年代後半から将来迎えるであろうハードディスクの[[記録密度]]の限界が問題視され、各メーカーでは高速リードライト、高記録密度の光磁気ディスクを研究している。 磁区拡大再生技術 (MAMMOS: Magnetic AMplifying Magneto-Optical System) といった記録再生技術や、青紫色レーザを利用することで5.25インチサイズで最大200 GBの容量が見込まれている。このうちMAMMOSは従来のレーザ波長で20 GB/12 cm、現時点でのDWDDは従来のレーザー波長で3 GB/5 cmの容量とされる。なおDWDDの技術目標は100 GB/12 cm、青紫色レーザで200 GB/12 cmを見込んでいる。 2013年11月25日に発表されたこれまでとは全く違った技術である光スイッチング磁石を用いた記録方式もある。ディスクとしての媒体で供給できるのかまだ不透明であるが、平方インチあたり30 GB記録可能でありブルーレイディスクを大きく超える容量になる。 == 普及と衰退 == MOの普及率は世界的に見た場合には決して高いものではなく、むしろ日本での普及の高さはかなり珍しい部類に入る。 === 海外 === [[1990年代]]にはドライブ単価の安い[[ZIP (記憶媒体)|Zipドライブ]]が世界中で普及を見せ、MOは他のリムーバブルメディア共々その余波をまともに浴び普及は微々たるものだった。その後、1990年代後半からは[[CD-R]]が安価に出回るようになり、さらには[[フラッシュメモリ]]の大容量・低価格化による普及も進んでいるためMOは地味な(あるいはそれ以下の)存在のままである。 === 日本 === 一方、日本国内では当初から企業や官公庁を中心に登場時からデータの保存・運搬用として広く普及しており、[[DTP|デスクトップパブリッシング]]やデザイン・印刷・出版の分野では、そのメディア信頼性の高さと容量に対するコストパフォーマンスの良さから広く使われている。特に[[PC-9800シリーズ]]では[[デバイスドライバ]]を必要とせずSCSI接続のMOからのブートも可能だったため、[[Microsoft Windows|Windows]]の普及初期に広く出回った([[PC/AT互換機]]ではデバイスドライバが必要)。[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]まではHDDレスのシステムも構築可能だった。[[1990年代]]にはZipドライブの普及に押され気味だった時期もあったが、Zipドライブが衰退し始めてからは一時期勢いを取り戻したこともあった。しかし代わって[[CD-RW]]や[[DVD]]ドライブがパソコンに標準搭載されることが急増し、さらに高速な[[フラッシュメモリー]](主にUSBメモリー)が安価に出回るようになり始めてからはすぐに衰退の一途を辿った。[[富士通]]より[[CD-ROM]]・MOの両方が使えるコンボドライブが開発・試作されたが、市場販売には至らなかった。MOはドライブの小型化やインターフェースに[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]バスパワータイプを採用した製品が登場し、信頼性・長期保管性に長けたメディアとして見直す動きもあったが、大容量化でDVDやBD、[[デジタル・データ・ストレージ|DDS]]、フラッシュメモリーに遅れを取ったこともあり、需要は伸びることはなかった。関連企業により1999年結成された「MOフォーラム」<ref>{{Cite web|和書|date=1999-6-21 |url=https://pr.fujitsu.com/jp/news/1999/Jun/21.html |title=MOフォーラム設立 |publisher=富士通 |accessdate=2021-02-13}}</ref>も2009年から休眠、2010年に解散<ref>{{Wayback|url=http://www.mo-forum.gr.jp|title=MOフォーラム|date=20100406052730}}</ref>した。 == 生産・販売の停止 == === 民生品 === MO[[ディスクドライブ]]の生産・販売はすべて終了している。[[オリンパス]]は[[2005年]](平成17年)後半に生産を中止して[[2006年]](平成18年)3月にMO事業から完全撤退した。[[コニカミノルタ]]は[[2010年]](平成22年)[[9月]]に販売を終了、[[富士通]]は[[2012年]](平成24年)[[3月30日]]をもって全てのサポートを終了し<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://www.fmworld.net/biz/fmv/product/hard/magnetic/dynamo.html |title=MO(光磁気ディスク) |publisher=富士通 |accessdate=2021-02-13}}</ref>、[[バッファロー (パソコン周辺機器)|バッファロー]]も生産を終了、最後まで販売していた[[ロジテック]]も[[2013年]](平成25年)6月下旬に発売した「LMO-FC654U2」<ref>{{Cite web|和書|date=2013-06-13 |url=https://logitec.co.jp/press/2013/0613_03.html |title=プレスリリース - MOを利用中の方に。Windows8、Mac OS Xでも使えるMOドライブ「LMO-FC654U2」新発売! |publisher=ロジテック |accessdate=2021-02-13}}</ref>が最終モデルとなった。 記録メディアについても、[[日立マクセル]]は[[2009年]](平成21年)9月末に、[[三菱化学メディア]]は2009年(平成21年)12月末にMOディスクの販売を終了した<ref>{{Cite web|和書|date=2009-08-04 |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0908/04/news064.html |title=MOディスク販売、三菱化学メディアと日立マクセルが終了へ ソニーは継続 |publisher=ITmedia NEWS |accessdate=2021-02-13}}</ref>。[[アイ・オー・データ機器]]も販売を終了、[[ソニー]]は3.5インチMOに関しては[[2017年]](平成29年)6月を最後に現行品のリストから外れ<ref>{{Wayback|url=http://www.sony.jp/rec-media/lineup/other.html|title=商品一覧 記録メディア|date=20170611143118}}{{Wayback|url=http://www.sony.jp/rec-media/lineup/other.html|title=商品一覧 記録メディア|date=20170710011900}}</ref>、5.25インチMOに関しては[[2018年]](平成30年)2月を最後に現行品のリストから外れた<ref>{{Wayback|url=http://www.sony.jp/rec-media/lineup/other.html|title=商品一覧 記録メディア|date=20180215221032}}{{Wayback|url=http://www.sony.jp/rec-media/lineup/other.html|title=商品一覧 記録メディア|date=20190928020319}}</ref>。 === 業務用 === [[ラジオ|ラジオ放送]][[業務用]]としては、信頼性・耐久性・使い勝手の面([[ラジオ放送局]]内のデジタル化進展や[[オープンリール#音声用|業務用6 mmテープ]]の在庫希少化)から、[[2000年代]]中盤以降MOを積極的に採用していた。 規格は番組制作・CM制作・番組搬入用の録音メディアとしてソニーによる3.5インチ規格準拠の業務用MO「'''Pro-MO'''(プロモ)」が広く採用されていた<ref>{{Cite web |url=http://www.sony.jp/products/Professional/ProMedia/int/int_promo.html |title=Sony ProMedia |publisher=ソニー |accessdate=2021-02-13}}</ref>が、2015年(平成27年)7月以降、2020年(令和2年)までに生産終了した<ref>{{Wayback|url=https://www.sony.jp/products/Professional/ProMedia/goo/promo.html|title=Sony Promedia|date=20150704200941}}{{Wayback|url=https://www.sony.jp/products/Professional/ProMedia/goo/promo.html|title=Sony Promedia|date=20200727154842}}</ref>ことで、各局では使用を取りやめる傾向にある。 代表的なレコーダーとしては、[[デノン|DENON]] ProfessionalのDN-H5600N・DN-H4600N(3.5インチ用)、[[コンパクトディスク|CD]]制作時のマスターレコーダーとして、専用の5インチMO (5.2 GB) を用いて、24bit/44.1 kHzの音源を記録する、ソニーのPCM-9000などがあるが、いずれも生産終了した。 各業務では、MOの代わりにHDDやフラッシュメモリーを媒体とした機材に代替している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|40em}} == 関連項目 == * [[eUSCSI Bridge]] - [[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]-[[Small Computer System Interface|SCSI]]変換コンバータ用ドライバ。[[オリンパス]]製MOドライブ等で使用されていた。 == 外部リンク == {{Commonscat-inline|Magneto-optical discs}} {{光ディスク}} {{補助記憶装置}} {{DEFAULTSORT:ひかりしきていすく}} [[Category:光磁気ディスク|*]]
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未知との遭遇
『未知との遭遇』(みちとのそうぐう、Close Encounters of the Third Kind)は、1977年に公開されたアメリカ映画。世界各地で発生するUFO遭遇事件と、最後に果たされる人類と宇宙人のコンタクトを描いた。 原題の「Close Encounters of the Third Kind(「第三種接近遭遇」の意)」は、ジョーゼフ・アレン・ハイネックの著書で提唱された用語であり、人間が空飛ぶ円盤に接近する体験のうち、搭乗員とのコンタクトにまで至るものを指す。 1977年11月16日公開。日本での公開は1978年2月25日。言語は英語。製作費2,000万ドル。コロムビア映画提供。 オリジナル版の他に、マザーシップ内を公開した1980年の『特別編』、さらに再編集や修正がされた2002年の『ファイナル・カット版』がある。また、アメリカABCテレビで143分の版が放映されたことがある。 アカデミー賞を撮影賞、特別業績賞(音響効果編集)の2部門で受賞したほか、英国アカデミー賞のプロダクションデザイン賞も受賞した。 バミューダトライアングルで行方不明になった戦闘機群や巨大な貨物船が、砂漠に失踪当時の姿のまま忽然と姿を現した。謎の発光体が米国内外で目撃され、原因不明の大規模停電が発生。発電所に勤めるロイ・ニアリーも停電の復旧作業に向かう途中、不可思議な機械の誤作動を起こす飛行物体と遭遇。それが放つ閃光を浴びて以後理由も判らないまま、憑かれたようにUFOの目撃情報を集め出し、枕やシェービング・クリームに漠然と山のような形を見出すようになる。インディアナ州に住む少年バリー・ガイラーは家の台所に入り込み冷蔵庫を漁っていた「何者か」と鉢合わせするが、恐れる様子も無く後を追い掛け、その母のジリアンも深夜外に出て行った息子を連れ帰ろうとする途中で飛行物体の編隊と遭遇し閃光を浴び、ロイ同様に山の姿を描くようになる。 飛行物体の群れにバリー少年が連れ去られるなど謎の現象が続く中、フランス人UFO学者のクロード・ラコームは異星人からの接触を確信し、「彼ら」と直接面会する地球側の「第三種接近遭遇」プロジェクトをスタートさせる。「彼ら」からのデータ送信をキャッチしそれが地上の座標を示す信号で、ワイオミング州にあるデビルスタワー(悪魔の塔)という山を指し示していた。軍も出動し有毒ガス漏洩を偽装して住民が退避させられるがニュースで報じられた事によってロイとジリアンは探し求めていた奇妙な形の山がデビルスタワーである事を確信。州境を越えデビルスタワーを目指す。 デビルスタワーに陣取ったラコームらプロジェクトチームの目前に飛行物体の編隊が現れ、チームが送った信号に反応を示して飛び去った。関係者達は歓声を上げるが、直後山の背後から「彼ら」の母船とみられる巨大な円盤が重低音を響かせながら出現する。 スーパーバイザーを務めたのは、元アメリカ空軍UFO研究部顧問のジョーゼフ・アレン・ハイネックで、劇中でもエキストラで登場している。 本作のストーリーは『十戒』を基にしている。劇中でも「山」に向かうことになる主人公の家族が家のテレビで『十戒』を観ている。「宇宙船が現れる前ぶれとしての雲の動きは、まさに紅海が割れる場面の雲の動きとそっくりなのである。そして、宇宙船が地球に到着する感動は、モーゼが紅海を割る奇蹟と、意識の中でつながってくるのだ」。 撮影はまずは人間ドラマを収録し、UFOのシーンは後回しにされた。UFOデザインはなかなか決まらず、当初はあのようなきらびやかなものではなかった。「宇宙人が地球人を安心させるため、地球上の様々なものに似たデザインにするのではないか」という観点で、ネオンっぽいものなども日常で見かける物に似せたアイデアが出た。中にはハンバーガーの看板「M」にそっくりのデザインもあり、却下されたものの赤い光球状のUFOが道端に立てられたハンバーガーの看板の前で小休止する「特別編」以降の追加シーンにその名残を見ることができる。 フランスの映画監督フランソワ・トリュフォーが出演しているが、トリュフォーは自作の映画にしか出演せず、またSF嫌いで「宇宙だのロボットだのは生理的に嫌悪感がする」とまで公言していたため、本作への出演は驚かれた。『野性の少年』や『アメリカの夜』を見ていたスピルバーグとはアメリカに行くたびにパーティ等で会い、出演を打診された。コロンビア ピクチャーズはリノ・ヴァンチュラかジャン=ルイ・トランティニャンを起用する予定だったが、スピルバーグがトリュフォーに出演を懇願し続けて実現した。 コレクター向けのソフト化はスタッフのインタビューを含む大量の資料/特典とともに'77年版と「特別編」の両方をプログラム再生という形で選択、鑑賞可能にしたレーザーディスクがあり、製作30周年を記念して発売された「アルティメット・エディション」のセット(ブルーレイは2枚組、DVDは3枚組)では、'77年版+「特別編」+「ファイナル・カット」の3種類が同梱されている。
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『未知との遭遇』は、1977年に公開されたアメリカ映画。世界各地で発生するUFO遭遇事件と、最後に果たされる人類と宇宙人のコンタクトを描いた。 原題の「Close Encounters of the Third Kind(「第三種接近遭遇」の意)」は、ジョーゼフ・アレン・ハイネックの著書で提唱された用語であり、人間が空飛ぶ円盤に接近する体験のうち、搭乗員とのコンタクトにまで至るものを指す。
{{Infobox Film | 作品名 = 未知との遭遇 | 原題 = Close Encounters of the Third Kind | 画像 = Close Encounters of the Third Kind logo.png | 画像サイズ = 240px | 画像解説 = | 監督 = [[スティーヴン・スピルバーグ]] | 脚本 = スティーヴン・スピルバーグ | 製作 = ジュリア・フィリップス<br />[[マイケル・フィリップス]] | 製作総指揮 = | 出演者 = [[リチャード・ドレイファス]]<br />[[テリー・ガー]]<br />[[メリンダ・ディロン]]<br />[[フランソワ・トリュフォー]] | 音楽 = [[ジョン・ウィリアムズ (作曲家)|ジョン・ウィリアムズ]] | 主題歌 = | 撮影 = [[ヴィルモス・ジグモンド]]<br />[[ラズロ・コヴァックス]] | 編集 = [[マイケル・カーン]] | 配給 = [[コロンビア ピクチャーズ]] | 公開 = {{Flagicon|USA}} [[1977年]][[11月16日]]<br />{{Flagicon|JPN}} [[1978年]][[2月25日]] | 上映時間 = 135分(オリジナル劇場版)<br />詳細は[[#バージョン]]参照 | 製作国 = {{USA}} | 言語 = [[英語]] | 製作費 = $20,000,000<ref name="boxofficemojo">{{Cite web|url=https://www.boxofficemojo.com/release/rl340428289/|title=Close Encounters of the Third Kind (1978)|publisher=[[Amazon.com]]|work=[[Box Office Mojo]]|language=英語 |accessdate=2010年4月10日 }}</ref> | 興行収入 = {{Flagicon|World}}$306,889,114<br />{{Flagicon|USA}}{{Flagicon| CAN}}$135,189,114<ref name="boxofficemojo"/><br />{{Flagicon|JPN}} 55億円<ref>[https://web.archive.org/web/20140209095417/http://www.kogyotsushin.com/archives/alltime/ 歴代ランキング「歴代興収ベスト100」 2014年2月9日時点におけるアーカイブ。]</ref> | 配給収入 = {{flagicon|JPN}} 32億9000万円<ref>『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)370頁</ref> | 前作 = | 次作 = }} 『'''未知との遭遇'''』(みちとのそうぐう、''Close Encounters of the Third Kind'')は、[[1977年の映画|1977年]]に公開された[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]。世界各地で発生する[[未確認飛行物体|UFO]]遭遇事件と、最後に果たされる人類と[[宇宙人]]のコンタクトを描いた。 原題の「Close Encounters of the Third Kind(「第三種[[接近遭遇]]」の意)」は、[[ジョーゼフ・アレン・ハイネック]]の著書で提唱された用語であり、人間が空飛ぶ円盤に接近する体験のうち、搭乗員との[[コンタクト]]にまで至るものを指す。 == 概要 == [[1977年]][[11月16日]]公開。[[日本]]での公開は[[1978年]][[2月25日]]。言語は英語。製作費2,000万ドル。[[コロムビア映画]]提供。 オリジナル版の他に、[[マザーシップ]]内を公開した1980年の『特別編』、さらに再編集や修正がされた2002年の『ファイナル・カット版』がある。また、アメリカ[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABCテレビ]]で143分の版が放映されたことがある。 [[アカデミー賞]]を[[アカデミー撮影賞|撮影賞]]、[[アカデミー特別業績賞|特別業績賞]](音響効果編集)の2部門で受賞したほか、[[英国アカデミー賞]]のプロダクションデザイン賞も受賞した。 == あらすじ == {{不十分なあらすじ|date=2014年4月}} [[バミューダトライアングル]]で行方不明になった戦闘機群や巨大な貨物船が、砂漠に失踪当時の姿のまま忽然と姿を現した。さらに、「謎の発光体」がアメリカの各地で目撃されるようになり、原因不明の大規模停電が発生していた。 発電所に勤める'''ロイ・ニアリー'''も停電の復旧作業に向かう途中、不可思議な機械の誤作動を起こす飛行物体と遭遇する。それが放つ閃光を浴びて以後、理由も判らないまま、憑かれたようにUFOの目撃情報を集め出し、枕やシェービング・クリームに漠然と山のような形を見出すようになる。 インディアナ州に住む少年'''バリー・ガイラー'''は、家の台所に入り込み冷蔵庫を漁っていた「何者か」と鉢合わせするが、恐れる様子も無く後を追い掛け、その母の'''ジリアン'''も深夜に外に出て行った息子を連れ帰ろうとする途中で飛行物体の編隊と遭遇し閃光を浴び、ロイ同様に山の姿を描くようになる。 飛行物体の群れにバリー少年が連れ去られるなど謎の現象が続く中、フランス人UFO学者の'''クロード・ラコーム'''は異星人からの接触を確信し、「彼ら」と直接面会する地球側の「[[第三種接近遭遇]]」プロジェクトをスタートさせる。「彼ら」からのデータ送信をキャッチし、それが地上の座標を示す信号で、ワイオミング州にある[[デビルスタワー]](悪魔の塔)という山を指し示していた。 軍も出動して「有毒ガス漏洩」を偽装して住民が退避させられる。だが、ニュースで報じられた事によって、ロイとジリアンは探し求めていた奇妙な形の山が「デビルスタワー」である事を確信し、州境を越えデビルスタワーを目指す。 デビルスタワーに陣取ったラコームらプロジェクトチームの目前に「飛行物体の編隊」が現れ、チームが送った信号に反応を示して飛び去った。関係者達は歓声を上げるが、直後山の背後から「彼ら」の母船とみられる巨大な円盤が重低音を響かせながら出現する。 == キャスト == {| class="wikitable" style="text-align: center;" |- ! rowspan="2"|役名 ! rowspan="2"|俳優 ! colspan="3"|日本語吹替 |- ! [[テレビ朝日]]旧版 || テレビ朝日新版 || ソフト版 |- | ロイ・ニアリー || [[リチャード・ドレイファス]] || [[樋浦勉]] || [[山寺宏一]] || [[入江崇史]] |- | クロード・ラコーム || [[フランソワ・トリュフォー]] || [[金内吉男]] || [[松橋登]] || [[井上倫宏]] |- | ロニー・ニアリー || [[テリー・ガー]] || [[藤田淑子]] || 出演シーンカット || [[百々麻子]] |- | ジリアン・ガイラー || [[メリンダ・ディロン]] || [[小原乃梨子]] || [[弘中くみ子]] || [[八十川真由野]] |- | デヴィッド・ロフリン || [[ボブ・バラバン]] || [[仲村秀生]] || [[仲野裕]] || [[星野充昭]] |- | バリー・ガイラー || ケイリー・ガフィー || [[亀坂英]] || [[川田妙子]] || [[金田朋子]] |- | ロバート || [[ランス・ヘンリクセン]] || || || [[宗矢樹頼]] |- | ブラッド・ニアリー || ショーン・ビショップ || [[池田真]] || rowspan="2" | 出演シーンカット || [[高森奈緒]] |- | トビー・ニアリー || ジャスティン・ドレイファス || [[鈴木一輝]] || [[後藤邑子]] |- | チームリーダー || メリル・コナリー || [[宮川洋一]] || [[山野史人]] || [[有本欽隆]] |- | プロジェクトリーダー || J・パトリック・マクナマラ || [[嶋俊介]] || [[秋元羊介]] || [[横堀悦夫]] |- | ワイルドビル || ウォーレン・J・ケマーリング || [[大平透]] || [[銀河万丈]] ||[[廣田行生]] |- | ベンチリー || [[ジョージ・ディセンゾ]] || [[納谷六朗]] || || [[加藤亮夫]] |- | ハリス夫人 || メアリー・ギャフリー || || || [[中澤やよい]] |- | 農夫 || [[ロバーツ・ブロッサム]] || [[千葉耕市]] || || [[清川元夢]] |- | その他 || || [[寺島幹夫]]<br>[[阪脩]]<br>[[高村章子]]<br>[[村松康雄]]<br>[[藤本譲]]<br>[[岡部政明]]<br>[[加藤正之]]<br>[[原田一夫]]<br>山野史人<br>[[伊井篤史]]<br>[[小島敏彦]]<br>[[平林尚三]]<br>[[広瀬正志]]<br>佐藤隆治<br>[[市丸和代]]<br>[[尼崎桂子]]<br>[[横尾まり]] || 廣田行生<br>[[諸角憲一]]<br>有本欽隆<br>[[金尾哲夫]]<br>[[塚田正昭]]<br>[[安井邦彦]]<br>[[坂口哲夫]]<br>[[伊藤栄次]]<br>[[檀臣幸]]<br>[[成田剣]]<br>宗矢樹頼<br>[[緒方文興]]<br>[[幸田夏穂]]<br>[[鈴木紀子]]<br>[[西宏子]] || [[松井範雄]]<br>[[脇田茂]]<br>[[堀井真吾]]<br>[[御友公喜]]<br>[[佐々木誠二]]<br>[[松本大 (声優)|松本大]]<br>[[斉藤次郎]]<br>[[石丸純]]<br>[[奥田啓人]]<br>[[丸山純路]] |- | colspan="5" bgcolor="#efefef" | |- | 演出 || || [[佐藤敏夫 (音響監督)|佐藤敏夫]] || colspan="2"|[[福永莞爾]] |- | 翻訳 || || [[木原たけし]] || colspan="2"|[[平田勝茂]] |- | 調整 || || 前田仁信 || 飯塚秀保 || |- | 効果 || || PAG || リレーション || |- | 選曲 || || [[赤塚不二夫 (音響技術者)|赤塚不二夫]] || || |- | 制作 || || colspan="3"|[[東北新社]] |- | 解説 || || [[淀川長治]] || || |- | 初回放送 || || [[1982年]][[10月10日]]<br>21:00-23:39<br>『[[日曜洋画劇場]]』 || [[1999年]][[11月14日]]<br>『日曜洋画劇場』<br>※FC特別編集版 || [[2002年]][[4月26日]]<br>発売のDVDに初収録 |} * 「特別編」以降破棄され初公開版だけに含まれていたシーンには、ロイを問い詰めるMP役で[[カール・ウェザース]]が、電力局のシーンではジーン・ディナルスキー(Eugene Dynarski, 『激突!』でダイナーで主人公に絡まれるトラック運転手を演じた)が出演している。 == スタッフ == * 監督・脚本:[[スティーヴン・スピルバーグ]] * 撮影:[[ヴィルモス・ジグモンド]] * 音楽:[[ジョン・ウィリアムズ (作曲家)|ジョン・ウィリアムズ]] * 特撮:[[ダグラス・トランブル]] == 製作 == スーパーバイザーを務めたのは、元[[アメリカ空軍]][[未確認飛行物体|UFO]]研究部顧問の[[ジョーゼフ・アレン・ハイネック]]で、劇中でもエキストラで登場している。 === 背景 === 本作のストーリーは『[[十戒 (映画)|十戒]]』を基にしている。劇中でも「山」に向かうことになる主人公の家族が家のテレビで『十戒』を観ている。「宇宙船が現れる前ぶれとしての雲の動きは、まさに紅海が割れる場面の雲の動きとそっくりなのである。そして、宇宙船が地球に到着する感動は、[[モーゼ]]が紅海を割る奇蹟と、意識の中でつながってくるのだ」<ref>[[和田誠]](『ぼくが映画ファンだった頃』[[七つ森書館]] 2015年p.146)。</ref>。 === 撮影 === 撮影はまずは[[人間ドラマ]]を収録し、UFOのシーンは後回しにされた。UFOデザインはなかなか決まらず、当初はあのようなきらびやかなものではなかった。「宇宙人が地球人を安心させるため、地球上の様々なものに似たデザインにするのではないか」という観点で、ネオンっぽいものなども日常で見かける物に似せたアイデアが出た。中にはハンバーガーの看板「M」にそっくりのデザインもあり、却下されたものの赤い光球状のUFOが道端に立てられたハンバーガーの[[野立て看板|看板]]の前で小休止する「特別編」以降の追加シーンにその名残を見ることができる。 === 配役 === フランスの映画監督[[フランソワ・トリュフォー]]が出演しているが、トリュフォーは自作の映画にしか出演せず、またSF嫌いで「宇宙だのロボットだのは生理的に嫌悪感がする」とまで公言していたため、本作への出演は驚かれた<ref>[[山田宏一]]・[[蓮實重彦]]『トリュフォー 最後のインタビュー』p484-486、[[平凡社]]、[[2014年]]</ref>。『[[野性の少年]]』や『[[アメリカの夜]]』を見ていたスピルバーグとはアメリカに行くたびにパーティ等で会い、出演を打診された。[[コロンビア ピクチャーズ]]は[[リノ・ヴァンチュラ]]か[[ジャン=ルイ・トランティニャン]]を起用する予定だったが、スピルバーグがトリュフォーに出演を懇願し続けて実現した。 == バージョン == ; オリジナル劇場版 : 本作が初めて世に公開されたもの。このバージョンにのみ、ロイが発電所で働いているシーンが存在し、彼の本職が明確に描かれている。また、細かい部分では宇宙船が初めて現れたシーンで一般人が「月ロケットよりハイウェイの方が進んでいる」と皮肉を言うシーンや、封鎖された街の兵士にロイが「スミス」と名乗って適当な言い訳をするシーンがあったりするのもこのバージョンだけである。また、中盤の山場でもあるヘリコプターからの逃避行はこのバージョンが一番長い。135分。AUEにて初ソフト化。 ; 「特別編」 : 1977年の公開後、スピルバーグは初公開版で映像化しきれなかったシーンを盛り込むリニューアルをコロムビア映画側に申し出た。「マザーシップ内を見せること」を条件に追加撮影の予算が計上され、実写/視覚効果の追加撮影と再編集、台詞の再録音を経て[[1980年]]に発表された「特別編」は実質「[[ディレクターズ・カット]]」であるが、スピルバーグ自身のマザーシップ内部は見せたくないという、オリジナル制作時の意向(特別編公開以降の発言)は損なわれた(このため、同シーンはこのバージョンのみに見られる)。最も大きな追加シーンとしては、このバージョン以降に盛り込まれることになる砂漠で幽霊船が発見されるシーンのほか、前述の通りマザーシップの内部が新たなシークエンスとして追加された。マザーシップが星空に消えてゆくエンド・クレジット(後に[[インダストリアル・ライト&マジック|ILM]]の視覚効果監督となる[[デニス・ミューレン]]が撮影)の後半部分に、スピルバーグはディズニーアニメ『[[ピノキオ (1940年の映画)|ピノキオ]]』(ロイが家族と観に行きたかった映画)の主題歌「[[星に願いを]]」を流すことを考えていたが、試写の批評が芳しくなくカットされた。これが「特別編」で復活された。旋律だけでなく歌も流そうとスピルバーグは考えたが、リアリティを損なうと他のスタッフから反対された。小型の円盤のアイディアを練る段階で、ファストフード・チェーン[[マクドナルド]]のm字シンボルそっくりの円盤が考案され、小型円盤がマクドナルドの看板の前で自分の仲間を眺めるかの如く小停止し、ハンバーガーの画が映る(バリーが「アイスクリーム!」と叫んだ後)。また、全体的なシーンの推敲もやり直され、冒頭のロイ一家の導入シーンが新たに撮影され、細かい部分が多くカットされたことで全体的な長さはすべてのバージョンで最も短い132分となっている。AUEにて初のデジタルソフト化となった。 ; 初期ソフト版 : [[VHS]]、[[レーザーディスク|LD]]で発売された際にメディア上の制約で編集されたバージョン。劇場公開版を元にロイのファーストコンタクトが差し替えられ、ロイたちが[[デビルスタワー]]麓へ連行後のヘリから脱出するシーンがカットされているほか、ロイが家族とマッシュポテトを食べるシーンの前半部分がカットされている。 ; 「ファイナル・カット」版 : 製作20年を記念して発表された再々編集版。特別篇をベースにロイが狂ったようにデビルズタワーの模型を作るシーンをはじめとしたカットされたいくつかのシーンを復活させたほか、マザーシップ内部描写の削除、フイルムのデジタルリマスター等を行った。この結果、137分と一般上映されたものとしては最も長いバージョンとなった。AUEにはさらにリマスター収録されている。この映画では唯一DVDが単品販売されており、レンタル用もこのバージョンが提供されている。「星に願いを」のメロディーは再び削除されている。 ; アメリカABCテレビ放映版 : 現在確認されているものの中で最長のバージョン。劇場公開版に特別篇の追加シーンを盛り込んだもので、143分ある。 コレクター向けのソフト化はスタッフのインタビューを含む大量の資料/特典とともに'77年版と「特別編」の両方をプログラム再生という形で選択、鑑賞可能にした[[レーザーディスク]]があり、製作30周年を記念して発売された「アルティメット・エディション」のセット(ブルーレイは2枚組、DVDは3枚組)では、'77年版+「特別編」+「ファイナル・カット」の3種類が同梱されている。 == 第50回アカデミー賞受賞/ノミネート == {| border="1" cellpadding="2" cellspacing="0" bgcolor="#000000" | bgcolor="#75b5f6" | '''受賞''' | bgcolor="#75b5f6" | '''人物''' |- | bgcolor="#ffffff" | [[アカデミー撮影賞|撮影賞]] | bgcolor="#ffffff" | [[ヴィルモス・ジグモンド]] |- | bgcolor="#ffffff" | [[アカデミー特別業績賞|特別業績賞]] | bgcolor="#ffffff" | フランク・F・ワーナー |- | colspan="2" bgcolor="#f2d5a6" | '''ノミネート''' |- | bgcolor="#ffffff" | [[アカデミー監督賞|監督賞]] | bgcolor="#ffffff" | [[スティーヴン・スピルバーグ]] |- | bgcolor="#ffffff" | [[アカデミー助演女優賞|助演女優賞]] | bgcolor="#ffffff" | メリンダ・ディロン |- | bgcolor="#ffffff" | [[アカデミー編集賞|編集賞]] | bgcolor="#ffffff" | [[マイケル・カーン]] |- | bgcolor="#ffffff" | [[アカデミー美術賞|美術賞]] | bgcolor="#ffffff" | ジョー・アルヴス<br />ダン・ロミノ<br />フィル・アブラムソン |- | bgcolor="#ffffff" | [[アカデミー作曲賞|作曲賞]] | bgcolor="#ffffff" | [[ジョン・ウィリアムズ (作曲家)|ジョン・ウィリアムズ]] |- | bgcolor="#ffffff" | [[アカデミー録音賞|録音賞]] | bgcolor="#ffffff" | ロバート・J・グラス<br />ドン・マクドゥーガル<br />[[ジーン・キャンタメッサ]]<br />[[ロバート・ニュードソン]] |- | bgcolor="#ffffff" | [[アカデミー視覚効果賞|視覚効果賞]] | bgcolor="#ffffff" | ロイ・アーボギャスト<br />ダグラス・トランブル<br />マシュー・ユリチック<br />リチャード・ユリチック<br>グレゴリー・ジェイン |- |} * 音響効果編集に対して、フランク・F・ワーナーに特別業績賞が授与された。 * ジョン・ウィリアムズは本作と同年に公開された『[[スター・ウォーズ]]』でも作曲賞にノミネートされており、同作で受賞している。 == 補足 == * [[ワイオミング州]]に実在する[[デビルスタワー]]は、アメリカ最初の[[アメリカ合衆国のナショナル・モニュメント|ナショナル・モニュメント]]である。SFXや演出効果のため、ミニチュアのデビルズタワーは実際より短く造られた。 * 宇宙人との音声によるコンタクトを試みるシーンで、制御用の[[コンソール]]に設置されていたのは、[[アープ (電子楽器メーカー)|アープ]]の[[シンセサイザー]]であるアープ・2500である。 * 『[[スタートレック]]』に登場する宇宙船[[エンタープライズ (スタートレック)|エンタープライズ]]の模型が一瞬登場する。[[ダグラス・トランブル]]率いる視覚効果スタッフは、本作の後、『[[スタートレック (映画)|劇場版スタートレック]]』に参加する。また「特別編」で描写されたマザーシップの内部のシーンで花の[[めしべ]]や[[おしべ]]のような閉じていく構築物は、同じくトランブルのスタジオで製作された『[[ブレードランナー]]』に警察庁舎の外観として再利用された。 * クライマックスのマザーシップがデビルズタワーの背後から現れるシーンに(ごく小さな逆光の影ではあるが)『[[スター・ウォーズ]]』の[[R2-D2]]が登場している(上部壁面に逆さに貼り付けられている)。 * 予告編初期のキャッチフレーズにも使われた「空に注目"Watch the skies"」という台詞は1951年の映画『[[遊星よりの物体X]]』最後の台詞から取られたもの。ロイが朝目覚めると娘のシルヴィアが観ているテレビアニメ『[[ダフィー・ウォーズ]]』(1953年, 「物体X」ならぬ「惑星X」が登場)では[[ポーキー・ピッグ]]が[[マービン・ザ・マーシャン]]を『遊星より~』の原題そのままに''"Thing from Another World"''と呼んでいる。 * テレビ朝日新版およびソフト版スタッフの福永莞爾と平田勝茂は『未知との遭遇』からの影響が色濃い『[[Xファイル]]』、『[[インデペンデンス・デイ]]』(どちらもテレビ朝日放送版)も手掛けている。 == 参考文献 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[UFO研究#プロジェクト・ブルーブック|プロジェクト・ブルー・ブック]] * [[プロジェクト・セルポ]] * [[デビルスタワー]] * [[ソルレソル]] * [[TBF (航空機)]] - 冒頭砂漠で発見された雷撃機。失踪した「フライト19」編隊については、後年の調査により急な天候変化と誤った指揮が原因で不時着した事が判明している。 == 外部リンク == * [https://www.sonypictures.jp/he/34348 未知との遭遇   | ソニー・ピクチャーズ公式]{{ja icon}} * {{Allcinema title|22811|未知との遭遇}} * {{Kinejun title|8750|未知との遭遇}} * {{映画.com title|49880|未知との遭遇}} * {{Amg movie|10031|Close Encounters of the Third Kind}} * {{IMDb title|0075860|Close Encounters of the Third Kind}} {{スティーヴン・スピルバーグ監督作品}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:みちとのそうくう}} [[Category:1977年の映画]] [[Category:1970年代の特撮作品]] [[Category:アメリカ合衆国のSF映画作品]] [[Category:アメリカ合衆国のファンタジー映画]] [[Category:地球外生命体を題材とした映画作品]] [[Category:未確認飛行物体を題材とした映画作品]] [[Category:インディアナ州を舞台とした映画作品]] [[Category:カリフォルニア州で製作された映画作品]] [[Category:ワイオミング州で製作された映画作品]] [[Category:モービルで製作された映画作品]] [[Category:インドで製作された映画作品]] [[Category:コロンビア映画の作品]] [[Category:スティーヴン・スピルバーグの監督映画]] [[Category:ジョン・ウィリアムズの作曲映画]] [[Category:アメリカ国立フィルム登録簿に登録された作品]] [[Category:アカデミー賞受賞作]]
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FSF
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フリーソフトウェア財団
フリーソフトウェア財団(フリーソフトウェアざいだん、英語: Free Software Foundation, Inc., 略称FSF)とは、1985年10月4日、リチャード・ストールマンにより創設された非営利団体である。当団体は、フリーソフトウェア運動、すなわち、コンピュータ・ソフトウェアを作成、頒布、改変する自由をユーザーに広く遍く推し進めることを狙い、コピーレフトを基本とする社会運動の支援を目標に掲げている。 FSFはアメリカ合衆国、マサチューセッツ州の団体である。元々は、マサチューセッツ工科大学の地下室と呼ばれたコンピュータルーム内の計算機を活用して、数多くのソフトウェアを製作したストールマンの活動が起源となっている。創立から1990年代中頃まで、FSFの資金は、GNUプロジェクトのために自由ソフトウェアを作成するソフトウェア開発者を雇用する為、概ね拠出されていた。1990年代中頃からは、FSFの従業員とその奉仕活動者(ヴォランティア)は、フリーソフトウェア運動と自由ソフトウェアコミュニティに対する法的かつ構造的な問題に対処するため概ね活動している。 FSFの目標は首尾一貫しており、コンピュータ上で利用できる唯一のソフトウェアが自由ソフトウェアとなることを目指している。 FSFの理事会(board of directors)は以下の人物が務める。 以前理事を務めたものは以下の人物を含む。 FSFの理事会は、議決権を持つ委員によって選出される。委員の持つ権利のうち、少なくとも投票権に関しては、次に述べる財団の定款(規約)に略記されている。 参考訳 FSFの議決権を持つ委員が誰なのか、その構成を示す有効な文書は現時点では不明である。 FSFの執行役員(Executive director、代表取締役)は、ウィリアム・ジョン・サリバンが2021年3月まで務めた。以前この地位に就いていたものは、ブラッドリー・M・クーン(在任: 2001年-2005年)、ピーター・T・ブラウン(英語版)(在任: 2005年-2010年)であった。 設立から現在にかけて、FSFには大抵約十数名の従業員がいる。全てではないが、FSFの本部機能の大部分はマサチューセッツ州ボストンに設置されている。 エベン・モグレンとダン・ラヴィチャー(英語版)は以前、プロボノの法務顧問(legal counsel)として個人でFSFに従事していた。Software Freedom Law Center(SFLC)の立ち上げにより、FSFに対する法的サービスはSFLCにより行われることになった。 2002年11月25日、FSFは個人向けのFSF賛助会員プログラム(FSF Associate Membership program)を立ち上げた。ブラッドリー・M・クーン(2001年から2005年までFSFの執行役員,Executive Directorを務めた)はそのプログラムの立ち上げを行っており、最初の賛助会員に登録を申し込んでいる。賛助会員は純粋に名誉を得るだけであり、FSFの資金援助という役目を担っている。 自由ソフトウェアの理想を推し進めることを目的に様々な活動をしている。 フリーソフトウェア財団は自由ソフトウェアの理想を社会に共有するため、フリーソフトウェア運動という形で社会運動をしている。 フリーソフトウェア運動を定義付ける「自由ソフトウェアの定義」を含む多くの文書を維持管理している。 Defective by Design(DbD)は、DRM(Digital Rights Management、デジタル著作権管理)は「権利を奪い、制限するよう設計されている」という見解から、この用語をDRM(Digital Restrictions Management、デジタル制約(制限)管理)と再定義し、DRMおよびソフトウェア特許に対抗する先駆けとなる運動である。 BadVistaは、Microsoft Windows Vistaへの移行に反対し、Defective by Designの問題を社会に広めて自由ソフトウェアへの置き換えを促進する運動である。 ルック・アンド・フィールなどをはじめとするユーザインタフェースの著作権などを含むソフトウェア特許は「ソフトウェア利用者の自由」を阻害するものであるとして、ソフトウェア特許に対抗する多くの社会運動を支援している。 Ogg+Vorbisを推進する運動を提起して、MP3やAACなどのプロプライエタリファイルフォーマットに取って代わるべき自由なデジタル音声ファイルフォーマットであるとしている。 GNUプロジェクトは、GNUオペレーティングシステム (The GNU Operating System) を開発している。これと直接関連するソフトウェアであるGNUツールチェーン、GNU Hurd、glibcが現在までの主要な成果である。2013年5月現在、当プロジェクトのウェブ・サイトでは、「フリーソフトウェア財団」でなく、カタカナでひらいた「フリーソフトウェアファウンデーション」の表記が見える。 GNUライセンスはフリーソフトウェア財団 (FSF) およびGNUプロジェクトが提供するライセンスである。GNU General Public License(GNU GPL、単にGPL)はフリーソフトウェアプロジェクトに幅広く採用されているライセンスである。現行バージョン(バージョン3)は2007年6月にリリースされた。FSFはまた、GNU Lesser General Public License(GNU LGPL、単にLGPL)、GNU Free Documentation License(GNU FDL、GFDL)、そしてGNU Affero General Public Licenseバージョン3 (GNU AGPLv3) も公開している。 GNU Pressは、FSFの出版部門であり、「自由に頒布可能なライセンスを採用した計算機科学の書籍を手ごろな値段で発刊すること」を責務としている。 GNU Savannahは、ウェブサイト上にソフトウェア開発プロジェクトをホストしている。 1991年から2001年まで、GPLの違反は、非公式に、通常ストールマン自身により、しばしばFSFの弁護士エベン・モグレンからの助言を受けて是正されていた。典型的なことに、この期間のGPL違反はストールマンと違反者とが電子メール数通を交換することで解決されていた。 2001年後半、当時のFSFの執行役員(Executive Director)であったブラッドリー・M・クーンは、モグレン、デイヴィッド・ターナー(David Turner)そしてピーター・T・ブラウン(英語版)らの助言を受けて、これらの成果を生かし、FSF GPL コンプライアンス・ラボ(GPL Compliance Labs)という組織として正式に発足させた。 この間、GPL遵守と関連する、GPL違反是正ならびにライセンスの啓蒙活動は、FSFの活動における主要な焦点だった。 2003年から2005年にかけて、GPL自体の条文説明並びにその法的側面を解説する法律セミナーを開催していた。大抵は、ブラッドリー・M・クーンとダニエル・ラヴィチャー(英語版)が教鞭を振るっていたが、このセミナーは生涯法曹教育(英語版)(Continuing legal education, CLE)認定を受け、GPLの法的な教育活動として正式な認定を受けた最初の成果であった。 FSFはGNUコンパイラコレクションなど、GNUシステムにとって非常に重要となるさまざまなソフトウェア群の著作権を保持している。FSFは(あくまで保持しているこれらソフトウェアのみの)著作権者として、とりわけGNU General Public License (GPL)で許諾されているソフトウェアに対し、そのライセンス違反に起因する著作権侵害が発生すれば、GPLの強制(エンフォースメント)を行使できる唯一の存在である。その他のソフトウェア・システムの著作権者がGPLを彼らのライセンスとして採用した場合、FSFはそのライセンスを受けているソフトウェアの著作権的利益を保護すべしと力説し、通常割り込んで来る唯一の組織だったのだが、2004年にハラルト・ヴェルテが同様の組織gpl-violations.orgを立ち上げている。 Free Software Directoryは、フリーソフトウェアであることが検証されたソフトウェアパッケージのリストである。各パッケージのエントリにはプロジェクトホームページ、開発者、プログラミング言語など47の情報を含む。フリーソフトウェアの検索エンジンを提供すること、そして、パッケージがフリーソフトウェアであるかの調査を行うためユーザーに相互参照を与えることを目標としている。FSFはこのプロジェクトのため、UNESCOより若干の資金援助を受けていた。将来的にはディレクトリが多くの言語に翻訳され得ることを望まれている。 「自由ソフトウェアコミュニティの注目を集めるのに極めて重要」と主張する「最優先度プロジェクト」のリストをFSFは維持管理している。FSFはこれらのプロジェクトを「コンピュータユーザは頻繁に非フリーソフトウェアの利用の誘惑に駆られており、フリーな置き換えが不十分である理由により、重要である」とし、「高い優先度」を持つとされる各種フリーソフトウェアプロジェクトを支援している。 以前、作業が必要とされるとして注目されていたプロジェクトには、OpenOffice.orgやGNOMEデスクトップ環境のJava依存部の互換性を保証するため、フリーなJava実装(英語版)、GNU Interpreter for Java、GNU ClasspathそしてGNU Compiler for Javaが含まれていた(本項の詳細は、英語版ウィキペディアの記事"License of Java"を参照せよ)。 しかし、後日あるプロジェクトが最優先度リストに加えられたものの、活発な開発につながっておらず、また、プロジェクトがのんびりと進められている状況を見て、本活動が本当に効果を発揮しているのか批判する者もいる。 FSFは毎年フリーソフトウェア界に大きな貢献を与えた人物・組織にそれぞれつぎの賞を授与している。 1999年、Linus Torvalds Award for Open Source Computingという賞を授与した。 2005年、アルス・エレクトロニカは当団体の長年にわたるフリーソフトウェア運動を顕彰し、プリ・アルス・エレクトロニカ デジタル・コミュニティ部門 栄誉賞(Prix Ars Electronica Award of Distinction in the category of "Digital Communities")を授与した。 2002年から2004年にかけて、LinksysそしてOpenTV(英語版)によるものといった明確なGPL違反事例が続出するようになった。 2003年3月、SCOはIBMを提訴した(英語版)。提訴事由は、IBMが、FSFのGNUソフトウェアを含む、様々なフリーソフトウェアに貢献を行っていたが、それがSCOの権益を侵害するものであるとの主張である。FSFは訴訟の当事者ではなかったが、FSFは2003年11月5日、召喚令状を受け取った。2003年から2004年にかけて、FSFは当訴訟に対抗し、フリーソフトウェアの採用と移行に対する負の影響を押さえ込むためかなりの擁護活動を行った。 2008年12月、FSFは、シスコがGPLで保護された(FSFが著作権を持つ)コンポーネントを利用し同社Linksys製品と共に出荷したことに対し、(ライセンス違反による著作権侵害で)提訴した。シスコは2003年にライセンスの問題について通知されていたが、シスコはGPLの条項による義務を繰り返し無視した。2009年5月、シスコは、FSFへの金銭的支払い、シスコがライセンス遵守を実践しているかの継続的調査を指揮するフリーソフトウェア監査役(Free Software Director)の任命という和解案に合意し、FSFは訴状を取り下げた。 2004年10月にLinux kernel mailing list(英語版)に投稿したメールからも分かるとおり、リーナス・トーバルズは以前からストールマンとGPLの違反是正活動を批判している。また彼は2011年5月、Linuxfr(フランス語版、英語版)のインタビューにおいて、FSFが制定したGPLv3の反DRM的姿勢を批判しており、(リーナス自身もDRMが嫌いであることは自認しているが)いくらDRMを嫌悪しているとはいえ、ライセンスをDRM攻撃の武器にするべきではない、コンテンツの自由な利用やハードウェアに関連するDRMの問題点とソフトウェアのみに関係するライセンスの問題点をない交ぜにすべきではない、と述べている。 2009年7月22日、Linux Magazine誌のクリストファー・スマート(Christopher Smart)が、マイクロソフトがLinuxカーネルにコードを提供したことに関連して、リーナスにインタビューしたところ、彼は自由ソフトウェアと関連付けられるのを毛嫌いしており、それは「過激な」思想の運動だと批判した、と伝えられた。 2010年5月2日、ZDNetのエド・ボット(Ed Bott)は、FSFはPlayOgg運動の最初の時点でいくつか事実誤認しており、彼らは誤った情報を故意に得ようとしていた上でプロプライエタリフォーマットの作成元を非難した、というFSFを批判する記事を同サイトで公開した。FSFは運動の一環として、MP3に関する特許権侵害訴訟であるアルカテル・ルーセント対マイクロソフト事件(英語版)の結果、裁判所が被告のマイクロソフトに原告のアルカテル・ルーセントへの15億ドルの支払いを命じた件について言及したが、エドはこれが「真っ赤な嘘」であると主張した。なぜなら、マイクロソフトの特許権侵害が裁判で認定され、侵害に対する損害賠償を命じられたのは事実だが、のちにこの裁判が覆されたことをFSFは述べていなかったからである。またエドは、FSFがRealPlayer、Windows Media PlayerそしてiTunesといったメディアプレーヤーをターゲットに「フォーマット批判」を根拠なく主張したこと(FSFはこれらプレーヤーが専用のプロプライエタリなフォーマット、例えばWMPならばWMA、をユーザに強制しようとしているという誤った主張をした)について、FUDであると非難した。加えて、RealPlayer、iTunesそしてWMPのプライバシー侵害に関する問題が広く報告されているにもかかわらず、彼はこのようなソフトウェアがユーザを覗き見しているというFSFの主張については「純然たるFUD」であると述べ、「根拠無き相当酷い言い掛かり」であると述べた。 2010年6月16日、Linux Magazine誌のジャーナリスト、ジョー・ブロックマイアー(Joe Brockmeier)は、Defective by DesignなどFSFが運動と呼ぶ彼らの行為について、「ネガティヴ」であり「幼稚」であるとし、ユーザーに提供するプロプライエタリソフトウェアを「説得力を持って取り替える」ものは十分にはない、と批判した。 協力関係にある団体を世界中に有する。 日本では、GNU関連書籍を出版していたビレッジセンターの招請により、ストールマンは訪日している。ここより、GNUソフトウェアの普及、フリーソフトウェア運動の推進などが図られ、フリーソフトウェアイニシアティブやインターネットブラウザであるMozillaなどの日本語化などを行う、もじら組が結成されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "フリーソフトウェア財団(フリーソフトウェアざいだん、英語: Free Software Foundation, Inc., 略称FSF)とは、1985年10月4日、リチャード・ストールマンにより創設された非営利団体である。当団体は、フリーソフトウェア運動、すなわち、コンピュータ・ソフトウェアを作成、頒布、改変する自由をユーザーに広く遍く推し進めることを狙い、コピーレフトを基本とする社会運動の支援を目標に掲げている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "FSFはアメリカ合衆国、マサチューセッツ州の団体である。元々は、マサチューセッツ工科大学の地下室と呼ばれたコンピュータルーム内の計算機を活用して、数多くのソフトウェアを製作したストールマンの活動が起源となっている。創立から1990年代中頃まで、FSFの資金は、GNUプロジェクトのために自由ソフトウェアを作成するソフトウェア開発者を雇用する為、概ね拠出されていた。1990年代中頃からは、FSFの従業員とその奉仕活動者(ヴォランティア)は、フリーソフトウェア運動と自由ソフトウェアコミュニティに対する法的かつ構造的な問題に対処するため概ね活動している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "FSFの目標は首尾一貫しており、コンピュータ上で利用できる唯一のソフトウェアが自由ソフトウェアとなることを目指している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "FSFの理事会(board of directors)は以下の人物が務める。", "title": "構成員" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "以前理事を務めたものは以下の人物を含む。", "title": "構成員" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "FSFの理事会は、議決権を持つ委員によって選出される。委員の持つ権利のうち、少なくとも投票権に関しては、次に述べる財団の定款(規約)に略記されている。", "title": "構成員" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "参考訳", "title": "構成員" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "FSFの議決権を持つ委員が誰なのか、その構成を示す有効な文書は現時点では不明である。", "title": "構成員" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "FSFの執行役員(Executive director、代表取締役)は、ウィリアム・ジョン・サリバンが2021年3月まで務めた。以前この地位に就いていたものは、ブラッドリー・M・クーン(在任: 2001年-2005年)、ピーター・T・ブラウン(英語版)(在任: 2005年-2010年)であった。", "title": "構成員" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "設立から現在にかけて、FSFには大抵約十数名の従業員がいる。全てではないが、FSFの本部機能の大部分はマサチューセッツ州ボストンに設置されている。", "title": "構成員" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "エベン・モグレンとダン・ラヴィチャー(英語版)は以前、プロボノの法務顧問(legal counsel)として個人でFSFに従事していた。Software Freedom Law Center(SFLC)の立ち上げにより、FSFに対する法的サービスはSFLCにより行われることになった。", "title": "構成員" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2002年11月25日、FSFは個人向けのFSF賛助会員プログラム(FSF Associate Membership program)を立ち上げた。ブラッドリー・M・クーン(2001年から2005年までFSFの執行役員,Executive Directorを務めた)はそのプログラムの立ち上げを行っており、最初の賛助会員に登録を申し込んでいる。賛助会員は純粋に名誉を得るだけであり、FSFの資金援助という役目を担っている。", "title": "構成員" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "自由ソフトウェアの理想を推し進めることを目的に様々な活動をしている。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "フリーソフトウェア財団は自由ソフトウェアの理想を社会に共有するため、フリーソフトウェア運動という形で社会運動をしている。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "フリーソフトウェア運動を定義付ける「自由ソフトウェアの定義」を含む多くの文書を維持管理している。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "Defective by Design(DbD)は、DRM(Digital Rights Management、デジタル著作権管理)は「権利を奪い、制限するよう設計されている」という見解から、この用語をDRM(Digital Restrictions Management、デジタル制約(制限)管理)と再定義し、DRMおよびソフトウェア特許に対抗する先駆けとなる運動である。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "BadVistaは、Microsoft Windows Vistaへの移行に反対し、Defective by Designの問題を社会に広めて自由ソフトウェアへの置き換えを促進する運動である。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ルック・アンド・フィールなどをはじめとするユーザインタフェースの著作権などを含むソフトウェア特許は「ソフトウェア利用者の自由」を阻害するものであるとして、ソフトウェア特許に対抗する多くの社会運動を支援している。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "Ogg+Vorbisを推進する運動を提起して、MP3やAACなどのプロプライエタリファイルフォーマットに取って代わるべき自由なデジタル音声ファイルフォーマットであるとしている。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "GNUプロジェクトは、GNUオペレーティングシステム (The GNU Operating System) を開発している。これと直接関連するソフトウェアであるGNUツールチェーン、GNU Hurd、glibcが現在までの主要な成果である。2013年5月現在、当プロジェクトのウェブ・サイトでは、「フリーソフトウェア財団」でなく、カタカナでひらいた「フリーソフトウェアファウンデーション」の表記が見える。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "GNUライセンスはフリーソフトウェア財団 (FSF) およびGNUプロジェクトが提供するライセンスである。GNU General Public License(GNU GPL、単にGPL)はフリーソフトウェアプロジェクトに幅広く採用されているライセンスである。現行バージョン(バージョン3)は2007年6月にリリースされた。FSFはまた、GNU Lesser General Public License(GNU LGPL、単にLGPL)、GNU Free Documentation License(GNU FDL、GFDL)、そしてGNU Affero General Public Licenseバージョン3 (GNU AGPLv3) も公開している。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "GNU Pressは、FSFの出版部門であり、「自由に頒布可能なライセンスを採用した計算機科学の書籍を手ごろな値段で発刊すること」を責務としている。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "GNU Savannahは、ウェブサイト上にソフトウェア開発プロジェクトをホストしている。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1991年から2001年まで、GPLの違反は、非公式に、通常ストールマン自身により、しばしばFSFの弁護士エベン・モグレンからの助言を受けて是正されていた。典型的なことに、この期間のGPL違反はストールマンと違反者とが電子メール数通を交換することで解決されていた。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2001年後半、当時のFSFの執行役員(Executive Director)であったブラッドリー・M・クーンは、モグレン、デイヴィッド・ターナー(David Turner)そしてピーター・T・ブラウン(英語版)らの助言を受けて、これらの成果を生かし、FSF GPL コンプライアンス・ラボ(GPL Compliance Labs)という組織として正式に発足させた。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "この間、GPL遵守と関連する、GPL違反是正ならびにライセンスの啓蒙活動は、FSFの活動における主要な焦点だった。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2003年から2005年にかけて、GPL自体の条文説明並びにその法的側面を解説する法律セミナーを開催していた。大抵は、ブラッドリー・M・クーンとダニエル・ラヴィチャー(英語版)が教鞭を振るっていたが、このセミナーは生涯法曹教育(英語版)(Continuing legal education, CLE)認定を受け、GPLの法的な教育活動として正式な認定を受けた最初の成果であった。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "FSFはGNUコンパイラコレクションなど、GNUシステムにとって非常に重要となるさまざまなソフトウェア群の著作権を保持している。FSFは(あくまで保持しているこれらソフトウェアのみの)著作権者として、とりわけGNU General Public License (GPL)で許諾されているソフトウェアに対し、そのライセンス違反に起因する著作権侵害が発生すれば、GPLの強制(エンフォースメント)を行使できる唯一の存在である。その他のソフトウェア・システムの著作権者がGPLを彼らのライセンスとして採用した場合、FSFはそのライセンスを受けているソフトウェアの著作権的利益を保護すべしと力説し、通常割り込んで来る唯一の組織だったのだが、2004年にハラルト・ヴェルテが同様の組織gpl-violations.orgを立ち上げている。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "Free Software Directoryは、フリーソフトウェアであることが検証されたソフトウェアパッケージのリストである。各パッケージのエントリにはプロジェクトホームページ、開発者、プログラミング言語など47の情報を含む。フリーソフトウェアの検索エンジンを提供すること、そして、パッケージがフリーソフトウェアであるかの調査を行うためユーザーに相互参照を与えることを目標としている。FSFはこのプロジェクトのため、UNESCOより若干の資金援助を受けていた。将来的にはディレクトリが多くの言語に翻訳され得ることを望まれている。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "「自由ソフトウェアコミュニティの注目を集めるのに極めて重要」と主張する「最優先度プロジェクト」のリストをFSFは維持管理している。FSFはこれらのプロジェクトを「コンピュータユーザは頻繁に非フリーソフトウェアの利用の誘惑に駆られており、フリーな置き換えが不十分である理由により、重要である」とし、「高い優先度」を持つとされる各種フリーソフトウェアプロジェクトを支援している。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "以前、作業が必要とされるとして注目されていたプロジェクトには、OpenOffice.orgやGNOMEデスクトップ環境のJava依存部の互換性を保証するため、フリーなJava実装(英語版)、GNU Interpreter for Java、GNU ClasspathそしてGNU Compiler for Javaが含まれていた(本項の詳細は、英語版ウィキペディアの記事\"License of Java\"を参照せよ)。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "しかし、後日あるプロジェクトが最優先度リストに加えられたものの、活発な開発につながっておらず、また、プロジェクトがのんびりと進められている状況を見て、本活動が本当に効果を発揮しているのか批判する者もいる。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "FSFは毎年フリーソフトウェア界に大きな貢献を与えた人物・組織にそれぞれつぎの賞を授与している。", "title": "活動" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1999年、Linus Torvalds Award for Open Source Computingという賞を授与した。", "title": "批評と論争" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2005年、アルス・エレクトロニカは当団体の長年にわたるフリーソフトウェア運動を顕彰し、プリ・アルス・エレクトロニカ デジタル・コミュニティ部門 栄誉賞(Prix Ars Electronica Award of Distinction in the category of \"Digital Communities\")を授与した。", "title": "批評と論争" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2002年から2004年にかけて、LinksysそしてOpenTV(英語版)によるものといった明確なGPL違反事例が続出するようになった。", "title": "批評と論争" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2003年3月、SCOはIBMを提訴した(英語版)。提訴事由は、IBMが、FSFのGNUソフトウェアを含む、様々なフリーソフトウェアに貢献を行っていたが、それがSCOの権益を侵害するものであるとの主張である。FSFは訴訟の当事者ではなかったが、FSFは2003年11月5日、召喚令状を受け取った。2003年から2004年にかけて、FSFは当訴訟に対抗し、フリーソフトウェアの採用と移行に対する負の影響を押さえ込むためかなりの擁護活動を行った。", "title": "批評と論争" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2008年12月、FSFは、シスコがGPLで保護された(FSFが著作権を持つ)コンポーネントを利用し同社Linksys製品と共に出荷したことに対し、(ライセンス違反による著作権侵害で)提訴した。シスコは2003年にライセンスの問題について通知されていたが、シスコはGPLの条項による義務を繰り返し無視した。2009年5月、シスコは、FSFへの金銭的支払い、シスコがライセンス遵守を実践しているかの継続的調査を指揮するフリーソフトウェア監査役(Free Software Director)の任命という和解案に合意し、FSFは訴状を取り下げた。", "title": "批評と論争" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2004年10月にLinux kernel mailing list(英語版)に投稿したメールからも分かるとおり、リーナス・トーバルズは以前からストールマンとGPLの違反是正活動を批判している。また彼は2011年5月、Linuxfr(フランス語版、英語版)のインタビューにおいて、FSFが制定したGPLv3の反DRM的姿勢を批判しており、(リーナス自身もDRMが嫌いであることは自認しているが)いくらDRMを嫌悪しているとはいえ、ライセンスをDRM攻撃の武器にするべきではない、コンテンツの自由な利用やハードウェアに関連するDRMの問題点とソフトウェアのみに関係するライセンスの問題点をない交ぜにすべきではない、と述べている。", "title": "批評と論争" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2009年7月22日、Linux Magazine誌のクリストファー・スマート(Christopher Smart)が、マイクロソフトがLinuxカーネルにコードを提供したことに関連して、リーナスにインタビューしたところ、彼は自由ソフトウェアと関連付けられるのを毛嫌いしており、それは「過激な」思想の運動だと批判した、と伝えられた。", "title": "批評と論争" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2010年5月2日、ZDNetのエド・ボット(Ed Bott)は、FSFはPlayOgg運動の最初の時点でいくつか事実誤認しており、彼らは誤った情報を故意に得ようとしていた上でプロプライエタリフォーマットの作成元を非難した、というFSFを批判する記事を同サイトで公開した。FSFは運動の一環として、MP3に関する特許権侵害訴訟であるアルカテル・ルーセント対マイクロソフト事件(英語版)の結果、裁判所が被告のマイクロソフトに原告のアルカテル・ルーセントへの15億ドルの支払いを命じた件について言及したが、エドはこれが「真っ赤な嘘」であると主張した。なぜなら、マイクロソフトの特許権侵害が裁判で認定され、侵害に対する損害賠償を命じられたのは事実だが、のちにこの裁判が覆されたことをFSFは述べていなかったからである。またエドは、FSFがRealPlayer、Windows Media PlayerそしてiTunesといったメディアプレーヤーをターゲットに「フォーマット批判」を根拠なく主張したこと(FSFはこれらプレーヤーが専用のプロプライエタリなフォーマット、例えばWMPならばWMA、をユーザに強制しようとしているという誤った主張をした)について、FUDであると非難した。加えて、RealPlayer、iTunesそしてWMPのプライバシー侵害に関する問題が広く報告されているにもかかわらず、彼はこのようなソフトウェアがユーザを覗き見しているというFSFの主張については「純然たるFUD」であると述べ、「根拠無き相当酷い言い掛かり」であると述べた。", "title": "批評と論争" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2010年6月16日、Linux Magazine誌のジャーナリスト、ジョー・ブロックマイアー(Joe Brockmeier)は、Defective by DesignなどFSFが運動と呼ぶ彼らの行為について、「ネガティヴ」であり「幼稚」であるとし、ユーザーに提供するプロプライエタリソフトウェアを「説得力を持って取り替える」ものは十分にはない、と批判した。", "title": "批評と論争" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "協力関係にある団体を世界中に有する。", "title": "関連団体" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "日本では、GNU関連書籍を出版していたビレッジセンターの招請により、ストールマンは訪日している。ここより、GNUソフトウェアの普及、フリーソフトウェア運動の推進などが図られ、フリーソフトウェアイニシアティブやインターネットブラウザであるMozillaなどの日本語化などを行う、もじら組が結成されている。", "title": "関連団体" } ]
フリーソフトウェア財団とは、1985年10月4日、リチャード・ストールマンにより創設された非営利団体である。当団体は、フリーソフトウェア運動、すなわち、コンピュータ・ソフトウェアを作成、頒布、改変する自由をユーザーに広く遍く推し進めることを狙い、コピーレフトを基本とする社会運動の支援を目標に掲げている。
{{Infobox 組織 | image = Free Software Foundation logo and wordmark.svg | image_border = | size = 250px | caption = | map = | msize = | mcaption = | abbreviation = FSF | motto = Free Software, Free Society<br /> (自由なソフトウェア、自由な社会) | formation = [[1985年]][[10月4日]] | extinction = | type = [https://www.charitynavigator.org/index.cfm?bay=search.irs&ein=042888848 米国内国歳入法第501条C項3号認定を受けた非営利団体] | status = [[財団]] | purpose = [[啓蒙思想|啓蒙]]組織 | headquarters = [[アメリカ合衆国]] [[マサチューセッツ州]]・[[ボストン]] | location = | region_served = 世界規模 | membership = 私人ならびに後援企業 | language = | leader_title = 代表 | leader_name = [[ジェフリー・クノース]] | main_organ = | parent organization = | affiliations = [[Software Freedom Law Center]] (SFLC) | num_staff = 13人<ref name="staff"> {{cite web | url = https://www.fsf.org/about/staff-and-board | title = Staff and Board | date = 2019-09-17 | publisher = Free Software Foundation | accessdate = 2019-09-17 }}</ref> | num_volunteers = 不明(世界各国に存在) | budget = | website = [https://www.fsf.org/ The Free Software Foundation] | remarks = }} '''フリーソフトウェア財団'''(フリーソフトウェアざいだん、{{lang-en|Free Software Foundation, Inc.}}, 略称'''FSF''')とは、[[1985年]][[10月4日]]、[[リチャード・ストールマン]]により創設された[[非営利団体]]である。当団体は、[[フリーソフトウェア運動]]、すなわち、[[ソフトウェア|コンピュータ・ソフトウェア]]を作成、頒布、改変する[[自由]]をユーザーに広く遍く推し進めることを狙い、[[コピーレフト]]を基本とする[[社会運動]]の支援を目標に掲げている。 == 概要 == FSFは[[アメリカ合衆国]]、[[マサチューセッツ州]]の団体である<ref name="FSF MACorpRegistry"> {{cite web | url = http://corp.sec.state.ma.us/corp/corpsearch/CorpSearchSummary.asp?ReadFromDB=True&UpdateAllowed=&FEIN=042888848 | title = FREE SOFTWARE FOUNDATION, INC. Summary Screen | publisher = [[マサチューセッツ州|The Commonwealth of Massachusetts]], Secretary of the Commonwealth, Corporations Division | accessdate = 2009-04-06 }}</ref>。元々は、[[マサチューセッツ工科大学]]の地下室と呼ばれたコンピュータルーム内の計算機を活用して、数多くの[[ソフトウェア]]を製作したストールマンの活動が起源となっている。創立から1990年代中頃まで、FSFの資金は、[[GNUプロジェクト]]のために[[自由ソフトウェア]]を作成する[[ソフトウェア開発者]]を雇用する為、概ね拠出されていた。1990年代中頃からは、FSFの従業員とその奉仕活動者([[ボランティア|ヴォランティア]])は、[[フリーソフトウェア運動]]と自由ソフトウェア[[インターネットコミュニティ|コミュニティ]]に対する法的かつ構造的な問題に対処するため概ね活動している。 FSFの目標は首尾一貫しており、[[コンピュータ]]上で利用できる唯一のソフトウェアが自由ソフトウェアとなることを目指している<ref> {{cite web | url = http://www.gnu.org/philosophy/linux-gnu-freedom.html | title = Linux, GNU, and freedom | accessdate = 2006-12-10 | author = Stallman, Richard M. | authorlink = リチャード・ストールマン | year = 2002 | work = Philosophy of the GNU Project | publisher = [[GNU|GNU Project]] }}</ref>。 == 構成員 == FSFの''理事会''(''board of directors'')は以下の人物が務める<ref>[[マサチューセッツ州]]へ提出した財団の年次報告書より把握できる。</ref>。 * {{仮リンク|ジェフリー・クノース|en|Geoffrey Knauth}}: 代表兼財務担当、SFA, Inc.のシニア・ソフトウェア・エンジニア([[1997年]][[10月23日]]より理事を務め、2020年8月に代表に選出<ref>{{Cite web|title=Geoffrey Knauth elected Free Software Foundation president; Odile Bénassy joins the board — Free Software Foundation — Working together for free software|url=https://www.fsf.org/news/geoffrey-knauth-elected-free-software-foundation-president-odile-benassy-joins-the-board|website=www.fsf.org|accessdate=2021-04-04}}</ref>)。 * [[ジェラルド・ジェイ・サスマン]]: MIT教授(計算機科学専攻)(創設当初より理事を務める)。 * [[ヘンリー・プール (技術者)|ヘンリー・プール]]: 技術諮問会社(テクノロジー・コンサルティング・ファーム)の草の根的運動である、CivicActionsの創設者<ref> {{cite web | url = http://civicactions.com/team/henry_poole | title = Henry Poole <nowiki>|</nowiki> CivicActions | publisher = civicactions.com | accessdate = 2011-05-09 }}</ref>([[2002年]][[12月12日]]より理事を務める)。 *イアン・ケリング: FSF上級システム管理者。2021年3月28日選出<ref name=":1">{{Cite web|title=Welcoming Ian Kelling to staff seat on FSF's board of directors — Free Software Foundation — Working together for free software|url=https://www.fsf.org/news/welcoming-ian-kelling-to-staff-seat-on-fsfs-board-of-directors|website=www.fsf.org|accessdate=2021-04-04}}</ref>。 * オディール・ベナッシ: GNU Eduプロジェクトのリーダー。初のヨーロッパ出身のFSF理事<ref name=":1" />。 * [[リチャード・ストールマン]]: 創設者、 元代表。[[GNU]]プロジェクト立ち上げ、[[GNU General Public License]]の[[著作者]](創設当初より2019年9月まで代表を務める)<ref>{{Cite web|title=Computer scientist Richard Stallman resigns from MIT after defending Jeffrey Epstein|url=https://www.cnet.com/news/computer-scientist-richard-stallman-resigns-from-mit-after-defending-jeffrey-epstein/|website=CNET|accessdate=2019-09-17|language=en|first=Steven|last=Musil}}</ref>。2021年3月理事復帰<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=リチャード・ストールマンのFSF理事会復帰にRedHatやSUSEが反発。内部からも離反相次ぐ - Engadget 日本版|url=http://japanese.engadget.com/red-hat-suse-react-to-stallmans-return-090041570.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220221041717/https://japanese.engadget.com/red-hat-suse-react-to-stallmans-return-090041570.html|archivedate=2022-02-21|deadlinkdate=2022-05-01|website=Engadget JP|accessdate=2021-03-30}}</ref>。 以前理事を務めたものは以下の人物を含む。 * [[ハル・アベルソン]]: 創設メンバー<ref name="founders"> GNU's Bulletin創刊号({{cite web|authorlink=Free Software Foundation|title=GNU'S Bulletin, Volume 1, No.1|publisher=Free Software Foundation|date=1986-02|url=http://www.gnu.org/bulletins/bull1.txt|accessdate=2007-08-11}})には''決まりつつある全てのFSFの理事会''の人々が記されている。</ref> 、[[マサチューセッツ工科大学|MIT]]教授([[計算機科学]]専攻)(創設時から[[1998年]][[3月5日]]まで理事を務め、のち[[2005年]]頃に再度就任)。 *{{仮リンク|ベンジャミン・マコ・ヒル|en|Benjamin Mako Hill}}: [[MITメディアラボ]]研究生([[2007年]][[7月25日]]より理事を務める)。 * [[ブラッドリー・M・クーン|ブラッドリー・クーン]]: [[Software Freedom Conservancy]]''執行役員''(''Executive Director'')並びにFSF元執行役員([[2010年]][[3月25日]]より理事を務める<ref> {{cite web|title=Bradley Kuhn Joins the FSF Board|date=2010-03-25|url=http://www.fsf.org/blogs/community/bradley-kuhn-joins-the-fsf-board|accessdate=2010-03-26}}</ref>)。 * [[ローレンス・レッシグ]]: [[スタンフォード大学]][[法学部]]教授([[2004年]][[3月28日]]から[[2008年]]まで理事を務めた)。 * {{仮リンク|ロバート・J・シャッセル|en|Robert J. Chassell}}: 創設時の会計<ref name="founders" />兼取締役(創設時より[[1997年]][[6月3日]]まで理事を務めた)。 * {{仮リンク|レオナルド・H・タワー・ジュニア|label=レン・タワー・ジュニア|en|Leonard H. Tower, Jr.}}(Len Tower Jr.): 創設メンバー<ref name="founders" />([[1997年]][[9月2日]]まで理事を務めた)。 * [[ミゲル・デ・イカザ]]: ([[1999年]]8月から<ref> FSFが[[1998年]]、[[1999年]]それぞれ[[マサチューセッツ州]]に提出した年次報告書によると、 デ・イカザは[[1998年]][[11月1日]]時点では理事に名を連ねてはいないが、[[1999年]][[11月1日]]時点でその名がある。 よって彼がこの間に就任したのは明らかである。 これら文書には更なる指摘があり、[[1999年]]の年次報告会は8月に開催されたと読める。 通常、新理事は年次報告会で選出される。 </ref>[[2002年]][[2月25日]]まで<ref> FSFが[[2002年]]にマサチューセッツ州に提出した年次報告書( {{cite web | authorlink = http://www.sec.state.ma.us/cor/coridx.htm | title = 2002 Annual Report for Free Software Foundation, Inc. | publisher = [[マサチューセッツ州|The Commonwealth of Massachusetts]] | date = 2002-12-17 | url = http://corp.sec.state.ma.us/corp/corpsearch/display_pdf.asp?CORP_DRIVE1/2002/1217/000000000/9152/200228079130_1.pdf | format = [[Portable Document Format|PDF]] | accessdate = 2007-08-11 }})によると、デ・イカザは理事を退任している。 理事会の構成員変更も通常、年次報告会(この年は[[2002年]][[2月25日]]に開いたとなっている)で行われる。 </ref>理事を務めた)。 * [[エベン・モグレン]]: ([[2000年]][[7月28日]]から<ref> FSFが[[1999年]]、[[2000年]]それぞれ[[マサチューセッツ州]]に提出した年次報告書によると、 モグレンは[[1999年]][[11月1日]]時点では理事に名を連ねてはいないが、[[2000年]][[11月1日]]時点でその名がある。 よって彼がこの間に就任したのは明らかである。 これら文書には更なる指摘があり、[[2000年]]の年次報告会は[[7月28日]]に開催されたと読める。 通常、新理事は年次報告会で選出される。 </ref>、[[2007年]]まで<ref> モグレンは彼のブログで辞職する意向を公表した( {{cite web | last = Moglen | first = Eben | authorlink = エベン・モグレン | title = And Now ... Life After GPLv3 | date = 2007-04-23 | url = http://moglen.law.columbia.edu/blog/organizations/SFLC/Transition.html | accessdate = 2007-08-11 }})。辞任は、もっともらしいところでは[[2007年]]に開かれた年次理事会で承認されたと思われる。しかしその会合の正確な日付は不明である。 </ref>理事を務めた)。 * [[ウィリアム・ジョン・サリバン]] *カット・ウォルシュ: (2003年3月から<ref>{{Cite web|title=Kat Walsh joins FSF board of directors — Free Software Foundation — Working together for free software|url=https://www.fsf.org/news/kat-walsh-joins-fsf-board-of-directors|website=www.fsf.org|accessdate=2021-04-04}}</ref>2021年3月まで<ref>{{Cite web|title=Welcoming Ian Kelling to staff seat on FSF's board of directors — Free Software Foundation — Working together for free software|url=https://www.fsf.org/news/welcoming-ian-kelling-to-staff-seat-on-fsfs-board-of-directors|website=www.fsf.org|accessdate=2021-04-04}}</ref>理事を務めた)<!-- 次の内容は英語版ウィキペディアに記載されていたコメントである。 I know he announced on [[April 23]], but when did his term actually end? Bkuhn responds: There are no third-party sources for that yet, but I've added a link to what we know. 「私は彼がそれを発表したのは[[4月23日]]だというのは分かるんですが、実際に彼の任期が終わったのはいつなんですか?」 Bkuhn([[ブラッドリー・M・クーン]])からの返答です。「それについての第三者によるソースは未だありません。しかしながら、私は、我々が把握することに対するリンクを加えました。」--> FSFの理事会は、議決権を持つ委員によって選出される。委員の持つ権利のうち、少なくとも投票権に関しては、次に述べる財団の[[定款]](規約)に略記されている<ref name="amend"> {{cite web | authorlink = http://www.sec.state.ma.us/cor/coridx.htm | title = Articles of Amendment | publisher = [[マサチューセッツ州|The Commonwealth of Massachusetts]] | date = 2002-12-18 | url = http://corp.sec.state.ma.us/corp/corpsearch/display_pdf.asp?CORP_DRIVE1/2002/1218/000000000/9228/200228190510_1.pdf | format = [[Portable Document Format|PDF]] | accessdate = 2008-07-04 }}</ref><ref name="maaa"> {{cite web | authorlink = http://www.sec.state.ma.us/cor/coridx.htm | title = Articles of Amendment | publisher = [[マサチューセッツ州|The Commonwealth of Massachusetts]] | date = | url = http://www.malegislature.gov/Laws/Constitution#cart000.htm | format = | accessdate = 2011-06-19 }}</ref>。 {{quote|In addition to the right to elect Directors as provided in the by-laws and such other powers and rights as may be vested in them by law, these Articles of Organization or the by-laws, the Voting Members shall have such other powers and rights as the Directors may designate.|Articles of Amendment|Free Software Foundation, Inc.}} 参考訳 {{quote|定款により付与されるその他の権限や権利と同様に、定款の定めるところによる理事選出権に加えて、これら''組織条項''または定款により、議決権を持つ委員は理事を指名する権限そのほかの権利を有するものとする。|変更条項|Free Software Foundation, Inc.}} FSFの議決権を持つ委員が誰なのか、その構成を示す有効な文書は現時点では不明である。{{Citation needed|date=September 2009}} FSFの''執行役員''(''Executive director''、[[代表取締役]])は、[[ウィリアム・ジョン・サリバン]]が2021年3月まで務めた<ref name=":0" /><ref name="director-2011"> {{cite web | url = http://www.fsf.org/news/fsf-announces-new-executive-director | title = FSF announces new executive director | date = 2011-03-07 | accessdate = 2011-04-30 }}</ref>。以前この地位に就いていたものは、[[ブラッドリー・M・クーン]](在任: [[2001年]]-[[2005年]])、{{仮リンク|ピーター・T・ブラウン|en|Peter T. Brown}}(在任: [[2005年]]-[[2010年]])<ref name="director-2011" />であった。 設立から現在にかけて、FSFには大抵約十数名の従業員がいる<ref name="staff" />。全てではないが、FSFの本部機能の大部分は[[マサチューセッツ州]][[ボストン]]に設置されている<ref> {{cite web | authorlink = http://www.sec.state.ma.us/cor/coridx.htm | title = Certificate of Change of Principal Office | publisher = [[マサチューセッツ州|The Commonwealth of Massachusetts]] | date = 2005-05-26 | url = http://corp.sec.state.ma.us/corp/corpsearch/display_pdf.asp?CORP_DRIVE1/2005/0526/000000000/4122/200516698270_1.pdf | format = [[Portable Document Format|PDF]] | accessdate = 2008-07-04 }}</ref>。 [[エベン・モグレン]]と{{仮リンク|ダニエル・ラヴィチャー|label=ダン・ラヴィチャー|en|Daniel Ravicher}}は以前、[[プロボノ]]の''法務顧問''(''legal counsel'')として個人でFSFに従事していた。[[Software Freedom Law Center]](SFLC)の立ち上げにより、FSFに対する法的サービスはSFLCにより行われることになった。 [[2002年]][[11月25日]]、FSFは個人向けのFSF''賛助会員プログラム''(FSF ''Associate Membership program'')を立ち上げた<ref> そのサイト、member.fsf.orgは、[[2002年]]12月には、[[インターネットアーカイブ]]にはじめて登場しており、 そのサイトページには、立ち上げ日を2002年11月25日と記している。 {{cite web |title = FSF Membership Page, as of 2002-12-20 |publisher = The Internet Archive |date = 2002-12-20 |url = http://member.fsf.org/ |accessdate = 2007-08-11 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20021220112452/http://member.fsf.org/ |archivedate = 2002年12月20日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。[[ブラッドリー・M・クーン]]([[2001年]]から[[2005年]]までFSFの''執行役員'',''Executive Director''を務めた)はそのプログラムの立ち上げを行っており、最初の賛助会員に登録を申し込んでいる<ref> クーンは、彼のウェブページ上で彼が最初の会員であることが分かる、FSFの作成された会員ウェブページのリンクを提示している。 {{cite web | title = Homepage of Bradley M. Kuhn | publisher = Bradley M. Kuhn | date = 2008-01-05 | url = http://www.ebb.org/bkuhn/ | quote = <nowiki>[</nowiki>...<nowiki>]</nowiki> and I was the first to join the first Associate Membership program I hope you'll join and support the Foundation, too.<nowiki>[</nowiki>...<nowiki>]</nowiki> | accessdate = 2008-01-05 }}</ref>。賛助会員は純粋に名誉を得るだけであり、FSFの資金援助という役目を担っている<ref name="amend" /><ref name="maaa" />。 == 活動 == 自由ソフトウェアの理想を推し進めることを目的に様々な活動をしている。 === フリーソフトウェア運動 === {{main|フリーソフトウェア運動}} {{see also|Defective by Design|BadVista}} フリーソフトウェア財団は自由ソフトウェアの理想を社会に共有するため、[[フリーソフトウェア運動]]という形で[[社会運動]]をしている。 フリーソフトウェア運動を定義付ける「[[自由ソフトウェアの定義]]」を含む多くの文書を維持管理している。 [[Defective by Design]](DbD)は、DRM(Digital Rights Management、[[デジタル著作権管理]])は「権利を奪い、制限するよう設計されている」という見解から、この用語をDRM(Digital '''Restrictions''' Management、デジタル'''制約(制限)'''管理)と再定義し<ref> {{cite web | url = http://www.fsf.org/campaigns/drm.html | title = Digital Restrictions Management and Treacherous Computing | date = September 18, 2006 | accessdate = 2007-12-17 | publisher = Free Software Foundation }}</ref>、DRMおよび[[ソフトウェア特許]]に対抗する先駆けとなる運動である<ref> {{cite web | url = http://www.linux.com/archive/articles/54587 | title = FSF launches anti-DRM campaign outside WinHEC 2006 | author = Bruce Byfield | date = 2006-05-23 | publisher = NewsForge, Linux.com | accessdate = 2011-02-23 }}</ref><ref> {{Cite web|和書 | url = http://sourceforge.jp/magazine/06/05/30/1341219 | title = FSF、WinHEC 2006会場外で反DRMキャンペーンを開始 | author = Bruce Byfield | date = 2006-05-29 | publisher = NewsForge, Linux.com, [[SourceForge.JP]] Magazine | accessdate = 2011-02-23 }}</ref>。 [[BadVista]]は、[[Microsoft Windows Vista]]への移行に反対し、[[Defective by Design]]の問題を社会に広めて自由ソフトウェアへの置き換えを促進する運動である<ref name="Linux Journal"> {{cite news | title = Looking into the FSF's BadVista campaign | url = http://www.linuxjournal.com/node/1000148 | author = Bruce Byfield | date = 2006-12-21 | publisher = linuxjournal.com | accessdate = 2011-02-23 }}</ref>。 [[ルック・アンド・フィール]]などをはじめとする[[ユーザインタフェース]]の著作権などを含む[[ソフトウェア特許]]は「ソフトウェア利用者の自由」を阻害するものであるとして、[[ソフトウェア特許]]に対抗する多くの[[社会運動]]を支援している。 [[Ogg]]+[[Vorbis]]を推進する運動を提起して、[[MP3]]や[[AAC]]などの[[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]][[ファイルフォーマット]]に取って代わるべき自由なデジタル音声ファイルフォーマットであるとしている。 === GNUプロジェクト === {{main|GNUプロジェクト}} '''[[GNUプロジェクト]]'''は、[[GNU]][[オペレーティングシステム]] (The GNU Operating System) を開発している。これと直接関連するソフトウェアである[[GNUツールチェーン]]、[[GNU Hurd]]、[[GNU Cライブラリ|glibc]]が現在までの主要な成果である。2013年5月現在、当プロジェクトのウェブ・サイトでは、「フリーソフトウェア財団」でなく、カタカナでひらいた「フリーソフトウェアファウンデーション」の表記が見える<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.gnu.org/ |title=GNUオペレーティング・システム |accessdate=2013-05-17}}</ref>。 '''GNUライセンス'''はフリーソフトウェア財団 (FSF) および[[GNUプロジェクト]]が提供する[[ライセンス]]である。[[GNU General Public License]](GNU GPL、単にGPL)はフリーソフトウェアプロジェクトに幅広く採用されている[[ライセンス]]である。現行バージョン(バージョン3)は[[2007年]]6月にリリースされた。FSFはまた、[[GNU Lesser General Public License]](GNU LGPL、単にLGPL)、[[GNU Free Documentation License]](GNU FDL、GFDL)、そして[[GNU Affero General Public License]]バージョン3 (GNU AGPLv3) も公開している。 '''GNU Press'''は、FSFの出版部門であり、「自由に頒布可能なライセンスを採用した[[計算機科学]]の書籍を手ごろな値段で発刊すること」を責務としている<ref>GNU Pressウェブサイトにある発刊済み書籍一覧。 {{cite web | url = http://shop.fsf.org/category/books/ | title = GNU Press | publisher = Free Software Foundation | accessdate = 2011-03-31 }}</ref>。 '''[[GNU Savannah]]'''は、ウェブサイト上にソフトウェア開発プロジェクトをホストしている。 === GNUライセンス違反是正 === [[1991年]]から[[2001年]]まで、GPLの違反は、非公式に、通常ストールマン自身により、しばしばFSFの弁護士[[エベン・モグレン]]からの助言を受けて是正されていた。{{Citation needed|date=September 2009}}典型的なことに、この期間のGPL違反はストールマンと違反者とが[[電子メール]]数通を交換することで解決されていた。{{Citation needed|date=September 2009}} [[2001年]]後半、当時のFSFの''執行役員''(''Executive Director'')であった[[ブラッドリー・M・クーン]]は、モグレン、デイヴィッド・ターナー(David Turner)そして{{仮リンク|ピーター・T・ブラウン|en|Peter T. Brown}}らの助言を受けて、これらの成果を生かし、FSF ''GPL コンプライアンス・ラボ''(''GPL Compliance Labs'')<ref> {{cite web | url = http://www.fsf.org/licensing/team | title = FSF Compliance Lab Team | date = 2009-07-16 | publisher = Free Software Foundation | accessdate = 2011-03-31 }}</ref>という組織として正式に発足させた。 この間、GPL遵守と関連する、GPL違反是正ならびにライセンスの啓蒙活動は、FSFの活動における主要な焦点だった<ref> {{cite web |last = Kennedy |first = Dennis |date = 2004-01-11 |title = A Great Learning Opportunity for Software Lawyers&nbsp;— Upcoming GPL Seminar |url = http://www.denniskennedy.com/blog/2004/01/a_great_learning_opportunity_f.html |accessdate = 2007-08-11 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20070928125310/http://www.denniskennedy.com/blog/2004/01/a_great_learning_opportunity_f.html |archivedate = 2007年9月28日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref><ref name="yro-slashdot"> {{cite web | url = http://yro.slashdot.org/story/03/07/18/1835252/Seminar-On-Details-Of-The-GPL-And-Related-Licenses | publisher = [[スラッシュドット|Slashdot]] | last = Lord | first = Timothy | date = 2003-07-18 | accessdate = 2007-08-11 | title = Seminar On Details Of The GPL And Related Licenses }}</ref>。 [[2003年]]から[[2005年]]にかけて、GPL自体の条文説明並びにその法的側面を解説する法律セミナーを開催していた<ref name="yro-slashdot" />。大抵は、[[ブラッドリー・M・クーン]]と{{仮リンク|ダニエル・ラヴィチャー|en|Daniel Ravicher}}が教鞭を振るっていたが、このセミナーは{{仮リンク|生涯法曹教育|en|Continuing legal education}}(Continuing legal education, CLE)認定を受け、GPLの法的な教育活動として正式な認定を受けた最初の成果であった<ref> FSF Bulletin 3でクーンとラヴィチャーによるセミナーは[[2003年]][[8月8日]]に実施すると記載されていた。 {{cite web | author = Free Software Foundation | authorlink = フリーソフトウェア財団 | title = FSF Bulletin&nbsp;— Issue No.2 - June 2003 | publisher = Free Software Foundation | date = 2003-06 | url = http://www.gnu.org/bulletins/bulletin-002.html | accessdate = 2008-07-04 }}</ref><ref> FSFは[[2004年]]1月にもクーンとラヴィチャーがセミナーで教鞭を振るう旨[[プレスリリース]]を出した。 {{cite web | author = Free Software Foundation | authorlink = フリーソフトウェア財団 | title = FSF To Host Free Software Licensing Seminars and Discussions on SCO v. IBM in New York | publisher = Free Software Foundation | date = 2004-01-02 | url = http://www.gnu.org/press/2004-01-02-nyc-seminars.html | accessdate = 2008-07-04 }}</ref><ref> {{cite web | author = John Sullivan | authorlink = ウィリアム・ジョン・サリバン | title = FSF Seminar in NYC on September 28 | publisher = Free Software Foundation | date = 2005-08-25 | url = http://lists.fsf.org/archive/html/info-fsf/2005-08/msg00001.html | accessdate = 2008-07-04 }}</ref>。 FSFは[[GNUコンパイラコレクション]]など、[[GNU]]システムにとって非常に重要となるさまざまなソフトウェア群の[[著作権]]を保持している。FSFは(あくまで保持しているこれらソフトウェアのみの)著作権者として、とりわけ[[GNU General Public License]] (GPL)で許諾されているソフトウェアに対し、そのライセンス違反に起因する[[著作権侵害]]が発生すれば、GPLの強制(エンフォースメント)を行使できる唯一の存在である。その他のソフトウェア・システムの著作権者がGPLを彼らのライセンスとして採用した場合、FSFはそのライセンスを受けているソフトウェアの著作権的利益を保護すべしと力説し、通常割り込んで来る唯一の組織だったのだが、[[2004年]]に[[ハラルト・ヴェルテ]]が同様の組織[[gpl-violations.org]]を立ち上げている。 === Free Software Directory === {{main|Free Software Directory}} '''[[Free Software Directory]]'''は、フリーソフトウェアであることが検証されたソフトウェアパッケージのリストである。各パッケージのエントリにはプロジェクトホームページ、開発者、プログラミング言語など47の情報を含む。フリーソフトウェアの[[検索エンジン]]を提供すること、そして、パッケージがフリーソフトウェアであるかの調査を行うためユーザーに相互参照を与えることを目標としている。FSFはこのプロジェクトのため、[[国際連合教育科学文化機関|UNESCO]]より若干の資金援助を受けていた。将来的にはディレクトリが多くの言語に翻訳され得ることを望まれている。{{By whom|date=May 2010}} === 最優先度プロジェクト === [[File:GNewSense screenshot.png|thumb|200px|[[gNewSense]]は'''FSF'''に公式に支援されている[[Linuxディストリビューション]]である。]] 「''自由ソフトウェアコミュニティの注目を集めるのに極めて重要''」<ref name="highpriority" />と主張する「最優先度プロジェクト」のリスト<ref name="highpriority"> {{cite web | url = http://www.fsf.org/campaigns/priority-projects/ | title = High Priority Free Software Projects | first = Sullivan | last = John | authorlink = ウィリアム・ジョン・サリバン | publisher = Free Software Foundation | date = 2011-01-31 | accessdate = 2011-03-31 }}</ref>をFSFは維持管理している<ref name="highpriority" />。FSFはこれらのプロジェクトを「''コンピュータユーザは頻繁に[[プロプライエタリソフトウェア|非フリーソフトウェア]]の利用の誘惑に駆られており、フリーな置き換えが不十分である理由により、重要である''」<ref name="highpriority" />とし、「高い優先度」を持つとされる各種フリーソフトウェアプロジェクトを支援している。 以前、作業が必要とされるとして注目されていたプロジェクトには、[[OpenOffice.org]]や[[GNOME]][[デスクトップ環境]]の[[Java]]依存部の互換性を保証するため、{{仮リンク|フリーなJava実装|en|Free Java implementations}}、[[GNU Interpreter for Java]]、[[GNU Classpath]]そして[[GNU Compiler for Java]]が含まれていた(本項の詳細は、[[英語版ウィキペディア]]の記事"[[:en:Java (software_platform)#Licensing|License of Java]]"を参照せよ)。{{Citation needed|date=August 2009}} しかし、後日あるプロジェクトが最優先度リストに加えられたものの、活発な開発につながっておらず、また、プロジェクトがのんびりと進められている状況を見て、本活動が本当に効果を発揮しているのか批判する者もいる<ref> {{cite web | url = http://www.phoronix.com/scan.php?page=news_item&px=OTM1OQ | title = FSF's High-Priority Driver Project Doesn't Move | date = 2011-04-20 | author = {{仮リンク|マイケル・ララベル|label=Michael Larabel|en|Michael Larabel}} | publisher = {{仮リンク|Phoronix|en|Phoronix}} | accessdate = 2011-04-30 }}</ref>。 === 表彰 === {{Main|FSFフリーソフトウェア賞}} FSFは毎年フリーソフトウェア界に大きな貢献を与えた人物・組織にそれぞれつぎの賞を授与している。 :* "[[FSFフリーソフトウェア賞#フリーソフトウェアの進歩に対する賞|Award for the Advancement of Free Software]]" :* "[[FSFフリーソフトウェア賞#公益事業賞|Free Software Award for Projects of Social Benefit]]" == 批評と論争 == === 受賞 === [[1999年]]、[[リーナス・トーバルズ|Linus Torvalds]] Award for Open Source Computing<ref> {{cite web | url = http://www.stanfordalumni.org/news/magazine/2002/janfeb/showcase/motionpictures.html | title = What I Saw at the Revolution | accessdate = 2006-12-10 | author = Marsh, Ann | date = Jan/Feb 2002 | work = Stanford Magazine | publisher = Stanford Alumni Association | quote = <nowiki>[</nowiki>...<nowiki>]</nowiki> Torvalds presented Stallman with the Linus Torvalds Award for Open Source Computing. The award, Stallman tells the convention audience, “is kind of like giving the [[ハン・ソロ|Han Solo]] award to the [[反乱同盟軍|rebel]] fleet . . . I ask people, please tell people this is the GNU system. <nowiki>[</nowiki>...<nowiki>]</nowiki>” }}</ref>という賞を授与した。 [[2005年]]、[[アルス・エレクトロニカ]]は当団体の長年にわたる[[フリーソフトウェア運動]]を顕彰し、''[[プリ・アルス・エレクトロニカ]] デジタル・コミュニティ部門 栄誉賞''([[:en:Prix Ars Electronica|Prix Ars Electronica]] Award of Distinction in the category of "Digital Communities")を授与した<ref> {{cite web | url = http://www.aec.at/archiv_project_en.php?id=13406 | title = Digital Communities, Distinction, Free Software Foundation | accessdate = 2011-03-31 | author = Ars Electronica Center | authorlink = アルス・エレクトロニカ・センター | year = 2005 | work = Prix Ars Electronica | format= HTML | publisher = Ars Electronica Center }}</ref><ref> {{cite web | url = http://www.fsf.org/news/digital-communities.html | title = FSF honored with Prix Ars Electronica award | accessdate = 2006-12-10 | author = Free Software Foundation | date = 2005-07-06 | work = News Releases | publisher = Free Software Foundation }}</ref>。 === GPLライセンス違反 === [[2002年]]から[[2004年]]にかけて、[[リンクシス|Linksys]]そして{{仮リンク|OpenTV|en|OpenTV}}によるものといった明確なGPL違反事例が続出するようになった<ref> {{cite web | last = Meeker | first = Heather J. | url = http://www.linuxinsider.com/story/43996.html | title = Open Source and the Legend of Linksys | date = 2005-06-28 | publisher = www.linuxinsider.com | accessdate = 2011-03-30 }}</ref><ref> {{cite web |last = Gillmor |first = Dan |title = GPL Legal Battle Coming? |publisher = SiliconValley.com ({{仮リンク|サンノゼ・マーキュリー・ニュース|en|San Jose Mercury News}}の一部門) |date = 2003-05-21 |url = http://weblog.siliconvalley.com/column/dangillmor/archives/001029.shtml |accessdate = 2007-08-11 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20030524174013/http://weblog.siliconvalley.com/column/dangillmor/archives/001029.shtml |archivedate = 2003年5月24日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref><ref> {{cite web | last = Turner | first = David | coauthors = [[ブラッドリー・M・クーン|Bradley M. Kuhn]] | title = Linksys/Cisco GPL Violations | date = 2003-09-29 | publisher = {{仮リンク|LWN.net|en|LWN.net}} | url = http://lwn.net/Articles/51570/ | accessdate = 2007-08-11 }}</ref>。 === SCOの訴訟 === {{Main|[[SCO・Linux論争]]}} [[2003年]]3月、{{仮リンク|SCO対IBM事件|label=SCOはIBMを提訴した|en|SCO v. IBM}}。提訴事由は、[[IBM]]が、FSFの[[GNU]]ソフトウェアを含む、様々な[[フリーソフトウェア]]に貢献を行っていたが、それがSCOの権益を侵害するものであるとの主張である。FSFは訴訟の当事者ではなかったが、FSFは[[2003年]][[11月5日]]、[[召喚令状]]を受け取った<ref> {{cite web | last = Heise | first = Mark | title = SCO Subpoena of FSF | publisher = Free Software Foundation | date = 2003-11-05 | url = http://www.gnu.org/philosophy/sco/sco-subpoena.pdf | format = [[Portable Document Format|PDF]] | accessdate = 2007-08-11 }}</ref>。[[2003年]]から[[2004年]]にかけて、FSFは当訴訟に対抗し、フリーソフトウェアの採用と移行に対する負の影響を押さえ込むためかなりの擁護活動を行った<ref> {{cite web | last = Kuhn | first = Bradley | authorlink = ブラッドリー・M・クーン | title = The SCO Subpoena of FSF | publisher = Free Software Foundation | date = 2004-05-18 | url = http://www.gnu.org/philosophy/sco/subpoena.html | accessdate = 2007-08-11 }}</ref><ref> {{cite web | author = Free Software Foundation | authorlink = フリーソフトウェア財団 | title = FSF To Host Free Software Licensing Seminars and Discussions on SCO v. IBM in New York | publisher = Free Software Foundation | date = 2004-01-02 | url = http://www.gnu.org/press/2004-01-02-nyc-seminars.html | accessdate = 2008-07-04 }}</ref>。 === シスコの訴訟 === {{Main|フリーソフトウェア財団対シスコシステムズ事件}} [[2008年]]12月、FSFは、[[シスコシステムズ|シスコ]]がGPLで保護された(FSFが著作権を持つ)コンポーネントを利用し同社[[リンクシス|Linksys]]製品と共に出荷したことに対し、(ライセンス違反による[[著作権侵害]]で)[[訴訟|提訴]]した。シスコは[[2003年]]にライセンスの問題について通知されていたが、シスコはGPLの条項による義務を繰り返し無視した<ref> {{cite web | last = Paul | first = Ryan | title = Free Software Foundation lawsuit against Cisco a first | date = 2007-12-13 | publisher = {{仮リンク|アルズ・テクニカ|label=Ars Technica|en|Ars Technica}} | url = http://arstechnica.com/open-source/news/2008/12/free-software-foundation-lawsuit-against-cisco-a-first.ars | accessdate = 2008-12-11 }}</ref>。[[2009年]]5月、シスコは、FSFへの金銭的支払い、シスコがライセンス遵守を実践しているかの継続的調査を指揮する''フリーソフトウェア監査役''(''Free Software Director'')の任命という[[和解]]案に合意し、FSFは訴状を取り下げた<ref> {{cite web | last = Paul | first = Ryan | title = Cisco settles FSF GPL lawsuit, appoints compliance officer | date = 2009-05-21 | publisher = {{仮リンク|アルズ・テクニカ|label=Ars Technica|en|Ars Technica}} | url = http://arstechnica.com/open-source/news/2009/05/cisco-settles-fsf-gpl-lawsuit-appoints-compliance-officer.ars | accessdate = 2009-10-06 }}</ref>。 === 批判 === [[2004年]]10月に{{仮リンク|Linux kernel mailing list|en|Linux kernel mailing list}}に投稿したメールからも分かるとおり、[[リーナス・トーバルズ]]は以前からストールマンとGPLの違反是正活動を批判している<ref> {{cite web | first = Linus | last = Torvalds | authorlink = リーナス・トーバルズ | title = Linux-Kernel Archive:Re: BK kernel workflow | accessdate = 2010-06-26 | url = http://lkml.indiana.edu/hypermail/linux/kernel/0410.3/1101.html }}</ref>。また彼は[[2011年]]5月、{{仮リンク|Linuxfr|fr|Linuxfr|en|Linuxfr}}のインタビューにおいて、FSFが制定した[[GNU General Public License#バージョン3|GPLv3]]の反[[デジタル著作権管理|DRM]]的姿勢を批判しており、(リーナス自身もDRMが嫌いであることは自認しているが)いくらDRMを嫌悪しているとはいえ、ライセンスをDRM攻撃の武器にするべきではない、コンテンツの自由な利用やハードウェアに関連するDRMの問題点とソフトウェアのみに関係するライセンスの問題点をない交ぜにすべきではない、と述べている<ref name="linuxfr-linus-interview-fr"> {{cite web | url = http://linuxfr.org/news/linus-torvalds-l%E2%80%99interview-anniversaire-des-20%C2%A0ans-du-noyau | title = Kernel Linus Torvalds : l’interview anniversaire des 20 ans du noyau | author = Patrick Guignot(パトリック・ギニョー) | language = [[フランス語]] | work = {{仮リンク|Linuxfr|fr|Linuxfr|en|Linuxfr}} | publisher = linuxfr.org | date = 2011-05-03 | accessdate = 2011-08-30 | quote = Ceci dit, je pense qu’il existe de sérieux problèmes au sein de l’industrie du contenu, quand les fournisseurs de contenu utilisent la loi ou des mesures techniques de protection (MTP / DRM) pour essayer en réalité d’entraver les gens et de se créer des situations de monopole. Je n’aime pas les MTP. Mais je pense que c’est un problème différent de celui des licences de logiciels, et je pense aussi que c’était une faute grave de la part de la FSF d’essayer d’utiliser la GPLv3 comme une manière de transformer les projets des autres en armes dans leur lutte contre les MTP. Je suis très content d’avoir rendu clair le fait que Linux est un projet uniquement GPLv2, et cela des années avant que tout ceci n’arrive. }}</ref><ref name="linuxfr-linus-interview-en-original"> {{cite web | url = http://linuxfr.org/nodes/85904/comments/1230981 | title = Kernel : Linus Torvalds : Interview about 20-year anniversary of the kernel (Original version of the interview) | author = Patrick Guignot(パトリック・ギニョー) | language = [[英語]] | work = {{仮リンク|Linuxfr|fr|Linuxfr|en|Linuxfr}} | publisher = linuxfr.org | date = 2011-05-03 | accessdate = 2011-08-30 | quote = Now, that said, I do think that there are serious problems in the content industry, where content providers are using laws and technical measures to basically try to lock people in and create more of a monopoly situation. I don't like DRM. But I think that's a different issue from the software license, and I also think that it was seriously wrong of the FSF to try to use the GPLv3 as a way to make other peoples software projects into weapons in their fight against DRM. And I'm very happy that I had made it clear that Linux was a GPLv2-only project many years before that all happened. }}</ref>。 [[2009年]][[7月22日]]、[[Linux Magazine]]誌のクリストファー・スマート(Christopher Smart)が、[[マイクロソフト]]が[[Linuxカーネル]]にコードを提供したことに関連して、リーナスにインタビューしたところ、彼は自由ソフトウェアと関連付けられるのを毛嫌いしており、それは「過激な」思想の運動だと批判した、と伝えられた<ref> {{cite web | authorlink = http://www.linux-mag.com/id/7439/ | title = Microsoft Patches Linux; Linus Responds | accessdate = 2010-06-26 | url = http://www.linux-mag.com/id/7439/ }}</ref>。 [[2010年]][[5月2日]]、[[ZDNet]]のエド・ボット(Ed Bott)<ref group="注釈"> 彼は[[Microsoft Windows]], [[Microsoft Office|Office]]関連の25の書籍を執筆している。[http://www.zdnet.com/blog/bott Bio(経歴)]より。 </ref>は、FSFはPlayOgg運動の最初の時点でいくつか事実誤認しており、彼らは誤った情報を故意に得ようとしていた上でプロプライエタリフォーマットの作成元を非難した、というFSFを批判する記事を同サイトで公開した<ref> {{cite web | authorlink = http://www.zdnet.com/blog/bott/ogg-versus-the-world-dont-fall-for-open-source-fud/2086 | title = Ogg versus the world: Don't fall for open-source FUD. | accessdate = 2010-06-22 | url = http://www.zdnet.com/blog/bott/ogg-versus-the-world-dont-fall-for-open-source-fud/2086 }}</ref>。FSFは運動の一環として、MP3に関する{{仮リンク|特許権侵害|en|Patent infringement}}訴訟である{{仮リンク|アルカテル・ルーセント対マイクロソフト事件|en|Alcatel-Lucent v. Microsoft}}の結果、裁判所が被告のマイクロソフトに原告の[[アルカテル・ルーセント]]への15億ドルの支払いを命じた件<ref> {{cite news | url = http://arstechnica.com/old/content/2007/02/8910.ars | title = Microsoft ordered to pay $1.5 billion in MP3 patent lawsuit | publisher = {{仮リンク|アルズ・テクニカ|label=Ars Technica|en|Ars Technica}} | date = 2007-02-22 | accessdate = 2011-11-03 }}</ref>について言及したが、エドはこれが「真っ赤な嘘」であると主張した。なぜなら、マイクロソフトの特許権侵害が裁判で認定され、侵害に対する[[損害賠償]]を命じられたのは事実だが、のちにこの[[裁判]]が覆されたことをFSFは述べていなかったからである。またエドは、FSFが[[RealPlayer]]、[[Windows Media Player]]そして[[iTunes]]といったメディアプレーヤーをターゲットに「フォーマット批判」を根拠なく主張したこと(FSFはこれらプレーヤーが専用のプロプライエタリなフォーマット、例えばWMPならば[[Windows Media Audio|WMA]]、をユーザに強制しようとしているという誤った主張をした)について、[[FUD]]であると非難した。加えて、RealPlayer<ref> {{cite web |url = http://www.computerbytesman.com/privacy/realjb.htm |publisher = computerbytesman.com |title = The RealJukeBox monitoring system |date = 1999-10-31 |accessdate = 2011-11-03 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20070203105348/http://www.computerbytesman.com/privacy/realjb.htm |archivedate = 2007年2月3日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref><ref> {{cite web | url = http://www.businessweek.com/2000/00_07/b3668067.htm | title = The Privacy War of Richard Smith | publisher = Business Week | accessdate = 2011-11-05 }}</ref><ref> {{cite web | url = http://www.pcworld.com/article/125772-2/the_25_worst_tech_products_of_all_time.html | title = The 25 Worst Tech Products of All Time | accessdate = 2011-11-03 | publisher = {{仮リンク|PC World (雑誌)|label=PC World|en|PC World (magazine)}} }}</ref>、iTunes<ref> {{cite web | url = http://www.macworld.com/article/48880/2006/01/ministore.html | publisher = [[Macworld]] | title = Eyeing the iTunes MiniStore | date = 2006-11-01 | accessdate = 2011-11-03 }}</ref><ref> {{cite web | url = http://boingboing.net/2006/01/11/itunes-update-spies.html | title = iTunes update spies on your listening and sends it to Apple? | publisher = Boingboing | accessdate = 2011-11-05 }}</ref>そしてWMP<ref> {{cite web | url = http://www.extremetech.com/computing/73158-is-media-player-spyware | title = Is Media Player Spyware? | publisher = ExtremeTech | date = 2002-04-06 | accessdate = 2011-11-03 }}</ref><ref> {{cite web | url = http://www.computerbytesman.com/privacy/wmp8dvd.htm | title = Serious privacy problems in Windows Media Player for Windows XP | date = 2002-02-20 | accessdate = 2011-11-03 }}</ref>のプライバシー侵害に関する問題が広く報告されているにもかかわらず、彼はこのようなソフトウェアがユーザを覗き見しているというFSFの主張については「純然たるFUD」であると述べ、「根拠無き相当酷い言い掛かり」であると述べた。 [[2010年]][[6月16日]]、Linux Magazine誌のジャーナリスト、ジョー・ブロックマイアー(Joe Brockmeier)は、[[Defective by Design]]などFSFが運動と呼ぶ彼らの行為について、「ネガティヴ」であり「幼稚」であるとし、ユーザーに提供するプロプライエタリソフトウェアを「説得力を持って取り替える」ものは十分にはない、と批判した<ref> {{cite web | authorlink = http://www.linux-mag.com/id/7806/ | title = The Party of Gno. | accessdate = 2010-06-22 | url = http://www.linux-mag.com/id/7806/ }}</ref>。 == 関連団体 == 協力関係にある団体を世界中に有する。 * [[Free Software Foundation Europe]] * [[Free Software Foundation of India]] * [[Free Software Foundation Latin America]] 日本では、GNU関連書籍を出版していた[[ビレッジセンター]]の招請により、ストールマンは訪日している。ここより、GNUソフトウェアの普及、フリーソフトウェア運動の推進などが図られ、[[フリーソフトウェアイニシアティブ]]や[[インターネットブラウザ]]である[[Mozilla]]などの日本語化などを行う、[[もじら組]]が結成されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 関連項目 == {{Portal|FLOSS|[[ファイル:FLOSS logo.svg|41px]]}} * [[自由ソフトウェア]] * [[フリーソフトウェア運動]] == 外部リンク == {{Commons|Free Software Foundation}} * {{Official website|https://www.fsf.org/}} {{en icon}} * [https://www.fsf.org/patrons FSFの賛助企業・団体・組織] * [https://mag.osdn.jp/08/09/02/0125233 フリーソフトウェア財団の組織構造を探る] - [[SourceForge.JP]] Magazine提供。 {{FLOSS-stub}} {{フリーソフトウェア財団}} {{GNU}} {{FOSS}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ふりそふとうえあさいたん}} [[Category:フリーソフトウェア財団|*]] [[Category:知的財産権関連の組織]] [[Category:国際NGO]] [[Category:アメリカ合衆国の非営利組織]] [[Category:ボストンの組織]] [[Category:アメリカ合衆国のシンクタンク]] [[Category:UNIXに関連する組織]] [[Category:1985年設立の組織]] [[Category:フリーソフトウェア文化・運動]]
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GNUプロジェクト
GNUプロジェクト(グヌープロジェクト、[ɡnuː] ( 音声ファイル))とは、フリーソフトウェアのマス・コラボレーションなプロジェクトである。 プロジェクトは1983年9月27日にMITのリチャード・ストールマンにより発表された。このプロジェクトの狙いは、ユーザーが自由にソフトウェアを実行し、(コピーや配布により)共有し、研究し、そして修正するための権利に基づいたソフトウェアを開発し提供することにより、ユーザーにそのような自由な権利を与えた上でコンピュータやコンピューティングデバイスの制御をユーザーに与えることにある。GNUのソフトウェアはこれらの自由な権利を(そのライセンスによって)法的に保障しているため、フリーソフトウェアである。なおフリーソフトウェアの「フリー」という言葉は常に自由な権利を指し示すために必要なため使われている。 コンピュータの全てのソフトウェアが、(使用、共有、研究、修正を行うための)自由な権利を全てユーザーに付与することを確保するためには、ソフトウェアの中で最も基本的かつ重要な部分である(ユーティリティプログラムを数多く含む)オペレーティングシステムをフリーソフトウェアとすることが必要となった。GNU宣言によると、GNUプロジェクトの創立目標はフリーオペレーティングシステムを設立し、さらに可能であれば、「フリーでないソフトウェアを全く使わないでも済むようUNIXシステムに通常付属する有益なもの全て」も構築することであった。ストールマンはこのオペレーティングシステムをGNU("GNU's not Unix"を意味する再帰的頭字語)と呼ぶことに決め、その設計をプロプライエタリオペレーティングシステムであるUNIXの設計に基づくようにした。GNUの開発は1984年1月に開始された。1991年、リーナス・トーバルズによりGNUプロジェクトとは関係のないプロジェクトで開発されたLinuxカーネルが発表され、1992年12月にGNU General Public Licenseのバージョン2に基づき利用できるようにした。LinuxカーネルはGNUプロジェクトによって既に開発されていた、オペレーティングシステムのユーティリティと組み合わされ最初のフリーソフトウェアオペレーティングシステムとして認められた。このフリーソフトウェアオペレーティングシステムはLinuxやGNU/Linuxとして知られている。 GNUプロジェクトは現在、ソフトウェア開発、意識改革、政治的キャンペーンや、新しい題材の共有などを行っている。 1983年9月、リチャード・ストールマンはUsenetのメッセージにGNUプロジェクトのコーディングを開始する意図を発表した。 GNUプロジェクトが最初に開始したとき、このプロジェクトにはライティングエディタコマンド用のLISPが付属したEmacsテキストエディタ、ソースレベルデバッガ、Yacc互換のパーサジェネレータ、そしてリンカが存在していた。GNUのシステムではそのCコンパイラとツールがフリーソフトウェアであることが要求されたため、これらも開発する必要があった。1987年6月、GNUプロジェクトはアセンブラ、ほぼ完成されていた移植可能な最適化Cコンパイラ (GCC)、エディタ (GNU Emacs)、そして(ls、grep、awk、makeおよびldといった)様々なUNIXユーティリティ用のフリーソフトウェア(GNU Core Utilities など)を開発し蓄積していった。GNUプロジェクトにはさらに多くの更新が必要な初期カーネルが存在していた。 カーネルとコンパイラが完成すれば、GNUはプログラム開発用として利用可能であった。GNUの主な目標は他の多くのUNIXシステムのようにアプリケーションを作成することであった。GNUはUNIXプログラムを起動することが可能であったが、UNIXとは異なっていた。GNUはUNIXより長いファイル名とファイルバージョン番号、そして耐衝撃性ファイルシステムを組み込まれた。GNUプロジェクトへ他者からのサポートと参加を得るためにGNU宣言が書かれた。人々はGNUプロジェクトに資金、コンピュータの部品、さらにはコードやプログラムを書くための時間を寄付することができた。 GNUプロジェクトのあらゆる面における起源と開発については、Emacsヘルプシステム内にある詳細な物語で共有されている(これは C-h g でEmacsエディタコマンドdescribe-gnu-projectを起動することで表示される)。この物語はGNUプロジェクトのウェブサイトにある詳細な歴史と同じものである。 リチャード・ストールマンはGNUプロジェクトへのサポートと参加を増やすためにGNU宣言を書いた。GNU宣言で、ストールマンはソフトウェアユーザーに対する4つの本質的な自由を列挙した。それらの自由とは、目的のためにプログラムを実行する自由、プログラムのメカニックを研究して修正する自由、コピーを再配布する自由、そして公共利用のために修正したバージョンを改善し変更する自由である。これらの自由を実現するためにはユーザーが全てのコードにアクセスできるようにする必要があった。コードを自由なままで公開することを保障するため、ストールマンはソフトウェアとそのコードから派生した将来世代のソフトウェアを公共利用のために自由なままにできるための、GNU General Public Licenseを作成した。 GNUフリーシステム・ディストリビューション・ガイドライン(GNU Free System Distribution Guidelines、GNU FSDG)は、自由とみなされることは(GNU/Linuxディストリビューションのような)インストール可能なシステムディストリビューションにとって何を意味するのかを説明したり、ディストリビューションの開発者がそのディストリビューションを自由とみなされる資格を与えることを補助するために使われるシステムディストリビューションコミットメントである。 自由なディストリビューションとしては、主にGNUパッケージとLinux-libreカーネル(Linuxカーネルからバイナリ・ブロブ、難読化コード、そしてプロプライエタリなライセンスに基づくコードの部分を取り除いて修正したもの)とを組み合わせ、さらに(プロプライエタリソフトウェアを完全に避けて)フリーソフトウェアのみから構成されたディストリビューションが挙げられる。GNU FSDGを採用したディストリビューションには、gNewSense、Parabola GNU/Linux-libre、Trisquel GNU/Linux、Ututo(英語版)などがある。 FedoraプロジェクトのディストリビューションライセンスガイドラインがFSDGの基礎として使われた。 GNUプロジェクトはユーザーが複製し、編集し、そして配布する自由があるソフトウェアを使用する。ユーザーが個人のニーズに合うようソフトウェアを変更することが可能であるという意味で自由である。プログラマーがフリーソフトウェアを獲得する手段は、それを得る場所に依存する。フリーソフトウェアはプログラマーに友人やインターネットを通じて提供されるかもしれないし、あるいはソフトウェアを購入するためにプログラマーが働いている会社から提供されるかもしれない。 GNUプロジェクトの生産活動のほとんどは本質的に技術的なものであるが、それらは社会的、倫理的、および政治的な取り組みとして送り出された。GNUプロジェクトはソフトウェアとライセンスを生み出すのと同様に多数の文書を公開している。それらの文書のほとんどはリチャード・ストールマンにより作成された。 コピーレフトとは、プログラマー達の間でソフトウェアを自由に使用し続けることを補助するものである。コピーレフトにより、プログラムやそのコードを使用し、編集し、そして再配布するための法的権利が、配布条件を変更しない限り誰にでも与えられる。結果として、ソフトウェアを獲得した誰もがユーザー以外の人間ができる自由と同じ自由を法的に獲得する。 GNUプロジェクトとFSFは、「強い」コピーレフトと「弱い」コピーレフトとを区別することがある。「弱い」コピーレフトプログラムは通常、そのプログラムを配布する人間によりフリーではないプログラムとリンクすることを許可される。一方、「強い」コピーレフトプログラムはこのようなリンクを厳しく禁止する。GNUプロジェクトが生産するものはほとんど強いコピーレフトに基づきリリースされるが、LGPLのような、弱いコピーレフトやパーミッシブ・ライセンスに基づきリリースされるものもある。 GNUプロジェクトの最初の目標は、完全にフリーソフトウェアで構成されるオペレーティングシステムを作成することであった。1992年にGNUプロジェクトは、カーネルであるGNU Hurdを除く全ての主要なオペレーティングシステムコンポーネントを完成した。1991年にはリーナス・トーバルズが独自にLinuxカーネルの開発を始めており、1992年にはLinuxカーネルのバージョン0.12がGNU General Public Licenseに基づきリリースされ、この最後の空白を埋めた。LinuxとGNUを組み合わせることで、世界初の完全にフリーソフトウェアで構成されたオペレーティングシステムとなった。LinuxカーネルはGNUプロジェクトの一部ではないが、GCCや他のGNUプログラミングツールを使用して開発され、GNU General Public Licenseに基づきフリーソフトウェアとしてリリースされた。 今日、GNUの安定版(およびGNUの派生)はGNUパッケージとUnix系Linuxカーネルとを組み合わせることで実行できる。GNUプロジェクトはこれをGNU/Linuxと呼び、決定的な特徴は以下の組み合わせである: GNUウェブサイト内にはプロジェクトの一覧が記載され、プロジェクトごとにある部分に必要なタスクを実行できるのはどのようなタイプの開発者であるかが詳細に述べられている。技術レベルの範囲はプロジェクトからプロジェクトへと投影されるが、プログラミングのバックグラウンド知識を持つ者誰もがプロジェクトを支援することが推奨されている。 Linuxカーネルとその他のプログラムとを組み合わせたGNUツールのパッケージングは通常Linuxディストリビューションと呼ばれる。GNUプロジェクトはGNUとLinuxカーネルとを組み合わせたものを "GNU/Linux" と呼び、さらに他の人々へもそのように呼ぶよう要請している。これがGNU/Linux名称論争の原因である。 今日、ほとんどのLinuxディストリビューションはGNUパッケージと、バイナリ・ブロブおよびプロプライエタリなプログラムを多数含んでいるLinuxカーネルとを組み合わせている。 GNUプロジェクトはソフトウェアがフリーであり、フリーであることを普及させるソフトウェアライセンスを開発・公開している。 GNUプロジェクトは、GPL・LGPL・AFGLもしくはApacheライセンスをフリーソフトウェアに適用するライセンスとして推奨している。GNUプロジェクトのライセンス文書自体は、フリーソフトウェアの理念とは反するが、フリーではないライセンスを課している。 サードパーティーによるGNU General Public Licenseから派生した特定条件下でコピーレフト特性を適用しないライセンスが存在する。 1990年代中期以降、多くの企業がフリーソフトウェア開発に資金援助しており、フリーソフトウェア財団はその資金をフリーソフトウェア開発に関連する法的・政治的サポートに回した。ソフトウェア開発はそのころから既存プロジェクトの保守が主になり、新規プロジェクトはフリーソフトウェアのコミュニティへの重大な脅威が存在する場合だけ立ち上げた。GNUプロジェクトの最も注目すべきプロジェクトの1つはGNUコンパイラコレクションであり、そのコンポーネントは多くのUnix系システムの標準コンパイラシステムとして採用されている。 GNOMEデスクトップの企画はGNUプロジェクトによって開始された。これはもう1つのデスクトップシステムであるKDEが人気となったものの、その利用にはプロプライエタリソフトウェアであったQtのインストールが必須だったためである。KDEとQtを人々がインストールしなくて済むようにするため、GNUプロジェクトは同時に2つのプロジェクトを開始した。1つはHarmonyツールキットである。これはQtのフリーソフトウェアによる代替品を作るプロジェクトである。このプロジェクトが成功していたら、KDEに関する問題は解決していただろう。もう1つのプロジェクトがGNOMEで、同じ問題を別の角度から解決しようとした。すなわち、KDE全体を代替し、しかもプロプライエタリソフトウェアに依存しないものを作るという試みである。Harmonyプロジェクトは進歩しなかったが、GNOMEは非常にうまく開発された。なお、KDEが依存していたプロプライエタリ・コンポーネント (Qt) は後にフリーソフトウェアとしてリリースされた。 GNU Enterprise (GNUe) は1996年に開始されたメタプロジェクトであり、GNUプロジェクトのサブプロジェクトとみなすことができる。GNUeの目標はフリーな「エンタープライズクラスのデータ対応アプリケーション」(企業資源計画など)を作成することである。GNUeは(GNOMEプロジェクトが複数のデスクトップソフトウェアの集合であるのと同様に)GNUシステム用のエンタープライズソフトウェアを1つのコレクションとして集めるよう設計されている。 GnashはAdobe Flash 形式で配布されるコンテンツを再生する。GNUはGnash開発時、これを重要プロジェクトに位置付けていた。OSやブラウザがフリーソフトウェアのものを使っていても、アドビ製のプロプライエタリなプラグインをインストールして使っているユーザーが多かったためである。 2001年、GNUプロジェクトは「研究と商業開発の生成を可能にした、その自由に利用できる再配布可能と変更可能なソフトウェアの偏在性、広さ、品質」によりUSENIXの貢献賞(Lifetime achievement award)を受賞した。
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General Public Licenseを作成した。", "title": "理念・活動" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "GNUフリーシステム・ディストリビューション・ガイドライン(GNU Free System Distribution Guidelines、GNU FSDG)は、自由とみなされることは(GNU/Linuxディストリビューションのような)インストール可能なシステムディストリビューションにとって何を意味するのかを説明したり、ディストリビューションの開発者がそのディストリビューションを自由とみなされる資格を与えることを補助するために使われるシステムディストリビューションコミットメントである。", "title": "理念・活動" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "自由なディストリビューションとしては、主にGNUパッケージとLinux-libreカーネル(Linuxカーネルからバイナリ・ブロブ、難読化コード、そしてプロプライエタリなライセンスに基づくコードの部分を取り除いて修正したもの)とを組み合わせ、さらに(プロプライエタリソフトウェアを完全に避けて)フリーソフトウェアのみから構成されたディストリビューションが挙げられる。GNU FSDGを採用したディストリビューションには、gNewSense、Parabola GNU/Linux-libre、Trisquel GNU/Linux、Ututo(英語版)などがある。", "title": "理念・活動" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "FedoraプロジェクトのディストリビューションライセンスガイドラインがFSDGの基礎として使われた。", "title": "理念・活動" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "GNUプロジェクトはユーザーが複製し、編集し、そして配布する自由があるソフトウェアを使用する。ユーザーが個人のニーズに合うようソフトウェアを変更することが可能であるという意味で自由である。プログラマーがフリーソフトウェアを獲得する手段は、それを得る場所に依存する。フリーソフトウェアはプログラマーに友人やインターネットを通じて提供されるかもしれないし、あるいはソフトウェアを購入するためにプログラマーが働いている会社から提供されるかもしれない。", "title": "理念・活動" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "GNUプロジェクトの生産活動のほとんどは本質的に技術的なものであるが、それらは社会的、倫理的、および政治的な取り組みとして送り出された。GNUプロジェクトはソフトウェアとライセンスを生み出すのと同様に多数の文書を公開している。それらの文書のほとんどはリチャード・ストールマンにより作成された。", "title": "理念・活動" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "コピーレフトとは、プログラマー達の間でソフトウェアを自由に使用し続けることを補助するものである。コピーレフトにより、プログラムやそのコードを使用し、編集し、そして再配布するための法的権利が、配布条件を変更しない限り誰にでも与えられる。結果として、ソフトウェアを獲得した誰もがユーザー以外の人間ができる自由と同じ自由を法的に獲得する。", "title": "理念・活動" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "GNUプロジェクトとFSFは、「強い」コピーレフトと「弱い」コピーレフトとを区別することがある。「弱い」コピーレフトプログラムは通常、そのプログラムを配布する人間によりフリーではないプログラムとリンクすることを許可される。一方、「強い」コピーレフトプログラムはこのようなリンクを厳しく禁止する。GNUプロジェクトが生産するものはほとんど強いコピーレフトに基づきリリースされるが、LGPLのような、弱いコピーレフトやパーミッシブ・ライセンスに基づきリリースされるものもある。", "title": "理念・活動" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "GNUプロジェクトの最初の目標は、完全にフリーソフトウェアで構成されるオペレーティングシステムを作成することであった。1992年にGNUプロジェクトは、カーネルであるGNU Hurdを除く全ての主要なオペレーティングシステムコンポーネントを完成した。1991年にはリーナス・トーバルズが独自にLinuxカーネルの開発を始めており、1992年にはLinuxカーネルのバージョン0.12がGNU General Public Licenseに基づきリリースされ、この最後の空白を埋めた。LinuxとGNUを組み合わせることで、世界初の完全にフリーソフトウェアで構成されたオペレーティングシステムとなった。LinuxカーネルはGNUプロジェクトの一部ではないが、GCCや他のGNUプログラミングツールを使用して開発され、GNU General Public Licenseに基づきフリーソフトウェアとしてリリースされた。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "今日、GNUの安定版(およびGNUの派生)はGNUパッケージとUnix系Linuxカーネルとを組み合わせることで実行できる。GNUプロジェクトはこれをGNU/Linuxと呼び、決定的な特徴は以下の組み合わせである:", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "GNUウェブサイト内にはプロジェクトの一覧が記載され、プロジェクトごとにある部分に必要なタスクを実行できるのはどのようなタイプの開発者であるかが詳細に述べられている。技術レベルの範囲はプロジェクトからプロジェクトへと投影されるが、プログラミングのバックグラウンド知識を持つ者誰もがプロジェクトを支援することが推奨されている。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "Linuxカーネルとその他のプログラムとを組み合わせたGNUツールのパッケージングは通常Linuxディストリビューションと呼ばれる。GNUプロジェクトはGNUとLinuxカーネルとを組み合わせたものを \"GNU/Linux\" と呼び、さらに他の人々へもそのように呼ぶよう要請している。これがGNU/Linux名称論争の原因である。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "今日、ほとんどのLinuxディストリビューションはGNUパッケージと、バイナリ・ブロブおよびプロプライエタリなプログラムを多数含んでいるLinuxカーネルとを組み合わせている。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "GNUプロジェクトはソフトウェアがフリーであり、フリーであることを普及させるソフトウェアライセンスを開発・公開している。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "GNUプロジェクトは、GPL・LGPL・AFGLもしくはApacheライセンスをフリーソフトウェアに適用するライセンスとして推奨している。GNUプロジェクトのライセンス文書自体は、フリーソフトウェアの理念とは反するが、フリーではないライセンスを課している。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "サードパーティーによるGNU General Public Licenseから派生した特定条件下でコピーレフト特性を適用しないライセンスが存在する。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1990年代中期以降、多くの企業がフリーソフトウェア開発に資金援助しており、フリーソフトウェア財団はその資金をフリーソフトウェア開発に関連する法的・政治的サポートに回した。ソフトウェア開発はそのころから既存プロジェクトの保守が主になり、新規プロジェクトはフリーソフトウェアのコミュニティへの重大な脅威が存在する場合だけ立ち上げた。GNUプロジェクトの最も注目すべきプロジェクトの1つはGNUコンパイラコレクションであり、そのコンポーネントは多くのUnix系システムの標準コンパイラシステムとして採用されている。", "title": "戦略的プロジェクト" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "GNOMEデスクトップの企画はGNUプロジェクトによって開始された。これはもう1つのデスクトップシステムであるKDEが人気となったものの、その利用にはプロプライエタリソフトウェアであったQtのインストールが必須だったためである。KDEとQtを人々がインストールしなくて済むようにするため、GNUプロジェクトは同時に2つのプロジェクトを開始した。1つはHarmonyツールキットである。これはQtのフリーソフトウェアによる代替品を作るプロジェクトである。このプロジェクトが成功していたら、KDEに関する問題は解決していただろう。もう1つのプロジェクトがGNOMEで、同じ問題を別の角度から解決しようとした。すなわち、KDE全体を代替し、しかもプロプライエタリソフトウェアに依存しないものを作るという試みである。Harmonyプロジェクトは進歩しなかったが、GNOMEは非常にうまく開発された。なお、KDEが依存していたプロプライエタリ・コンポーネント (Qt) は後にフリーソフトウェアとしてリリースされた。", "title": "戦略的プロジェクト" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "GNU Enterprise (GNUe) は1996年に開始されたメタプロジェクトであり、GNUプロジェクトのサブプロジェクトとみなすことができる。GNUeの目標はフリーな「エンタープライズクラスのデータ対応アプリケーション」(企業資源計画など)を作成することである。GNUeは(GNOMEプロジェクトが複数のデスクトップソフトウェアの集合であるのと同様に)GNUシステム用のエンタープライズソフトウェアを1つのコレクションとして集めるよう設計されている。", "title": "戦略的プロジェクト" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "GnashはAdobe Flash 形式で配布されるコンテンツを再生する。GNUはGnash開発時、これを重要プロジェクトに位置付けていた。OSやブラウザがフリーソフトウェアのものを使っていても、アドビ製のプロプライエタリなプラグインをインストールして使っているユーザーが多かったためである。", "title": "戦略的プロジェクト" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2001年、GNUプロジェクトは「研究と商業開発の生成を可能にした、その自由に利用できる再配布可能と変更可能なソフトウェアの偏在性、広さ、品質」によりUSENIXの貢献賞(Lifetime achievement award)を受賞した。", "title": "評価" } ]
GNUプロジェクト(グヌープロジェクト、)とは、フリーソフトウェアのマス・コラボレーションなプロジェクトである。 プロジェクトは1983年9月27日にMITのリチャード・ストールマンにより発表された。このプロジェクトの狙いは、ユーザーが自由にソフトウェアを実行し、(コピーや配布により)共有し、研究し、そして修正するための権利に基づいたソフトウェアを開発し提供することにより、ユーザーにそのような自由な権利を与えた上でコンピュータやコンピューティングデバイスの制御をユーザーに与えることにある。GNUのソフトウェアはこれらの自由な権利を(そのライセンスによって)法的に保障しているため、フリーソフトウェアである。なおフリーソフトウェアの「フリー」という言葉は常に自由な権利を指し示すために必要なため使われている。 コンピュータの全てのソフトウェアが、(使用、共有、研究、修正を行うための)自由な権利を全てユーザーに付与することを確保するためには、ソフトウェアの中で最も基本的かつ重要な部分である(ユーティリティプログラムを数多く含む)オペレーティングシステムをフリーソフトウェアとすることが必要となった。GNU宣言によると、GNUプロジェクトの創立目標はフリーオペレーティングシステムを設立し、さらに可能であれば、「フリーでないソフトウェアを全く使わないでも済むようUNIXシステムに通常付属する有益なもの全て」も構築することであった。ストールマンはこのオペレーティングシステムをGNUと呼ぶことに決め、その設計をプロプライエタリオペレーティングシステムであるUNIXの設計に基づくようにした。GNUの開発は1984年1月に開始された。1991年、リーナス・トーバルズによりGNUプロジェクトとは関係のないプロジェクトで開発されたLinuxカーネルが発表され、1992年12月にGNU General Public Licenseのバージョン2に基づき利用できるようにした。LinuxカーネルはGNUプロジェクトによって既に開発されていた、オペレーティングシステムのユーティリティと組み合わされ最初のフリーソフトウェアオペレーティングシステムとして認められた。このフリーソフトウェアオペレーティングシステムはLinuxやGNU/Linuxとして知られている。 GNUプロジェクトは現在、ソフトウェア開発、意識改革、政治的キャンペーンや、新しい題材の共有などを行っている。
{{混同|GNU|x1=GNUプロジェクトで開発されているオペレーティングシステムである}} {{出典の明記|date=2016年1月}} {{Infobox 組織 |name = |image = Heckert GNU white.svg |image_border = |size = |alt = |caption = GNUのマスコット<ref>{{cite web | url=https://www.gnu.org/graphics/heckert_gnu.html | title=A Bold GNU Head | accessdate=November 30, 2014 | quote=We thank Aurelio A. Heckert...for donating this graphic to us.}}</ref> |map = |msize = |malt = |mcaption = |map2 = |abbreviation = <!-- 略称 --> |motto = <!-- 標語 --> |predecessor = <!-- 前身 --> |successor = <!-- 後継 --> |formation = [[1983年]][[9月]] |extinction = <!-- 廃止年 --> |type = <!-- 種類 --> |status = <!-- 地位 --> |purpose = [[フリーソフトウェア]][[オペレーティングシステム|OS]]の開発 |headquarters = <!-- 本部 --> |location = <!-- 位置 --> |coords = <!-- 座標 --> |region_served = [[ソフトウェア]] |membership = <!-- メンバー --> |language = [[英語]] |general = [[リチャード・ストールマン]] |leader_title = |leader_name = |leader_title2 = |leader_name2 = |leader_title3 = |leader_name3 = |leader_title4 = |leader_name4 = |key_people = [[リチャード・ストールマン]] |main_organ = <!-- 主要機関 --> |affiliations = <!-- 提携 --> |parent_organization = [[フリーソフトウェア財団]] |num_staff = <!-- スタッフ --> |num_volunteers = <!-- ボランティア --> |budget = ボランティアの購入・寄付金<ref>[https://www.gnu.org/help/help.html#funds Helping the GNU Project and the Free Software Movement – GNU Project – Free Software Foundation]. gnu.org. Retrieved on 2013-07-17.</ref> |website = {{URL|https://www.gnu.org}} |former name = <!-- 過去名 --> |remarks = }} '''GNUプロジェクト'''(グヌープロジェクト、{{IPAc-en|audio=En-gnu.ogg|ɡ|n|uː}}<ref>{{cite web|url=https://www.gnu.org/ |title= What is GNU?| work = The GNU Operating System |date=4 September 2009 |publisher=[[フリーソフトウェア財団]] |accessdate=2009-10-09 |quote=The name "GNU" is a recursive acronym for "GNU's Not Unix!"; it is pronounced ''g-noo'', as one syllable with no vowel sound between the ''g'' and the ''n''.}}</ref>)とは、[[フリーソフトウェア]]の[[マス・コラボレーション]]なプロジェクトである。 プロジェクトは[[1983年]][[9月27日]]に[[マサチューセッツ工科大学|MIT]]の[[リチャード・ストールマン]]により発表された。このプロジェクトの狙いは、ユーザーが自由にソフトウェアを実行し、(コピーや配布により)共有し、研究し、そして修正するための権利に基づいたソフトウェアを開発し提供することにより、ユーザーにそのような自由な権利を与えた上でコンピュータやコンピューティングデバイスの制御をユーザーに与えることにある。GNUのソフトウェアはこれらの自由な権利を(そのライセンスによって)法的に保障しているため、フリーソフトウェアである。なおフリーソフトウェアの「フリー」という言葉は常に自由な権利を指し示すために必要なため使われている。 コンピュータの'''全てのソフトウェア'''が、(使用、共有、研究、修正を行うための)自由な権利を全てユーザーに付与することを確保するためには、ソフトウェアの中で最も基本的かつ重要な部分である(ユーティリティプログラムを数多く含む)[[オペレーティングシステム]]をフリーソフトウェアとすることが必要となった。[[GNU宣言]]によると、GNUプロジェクトの創立目標はフリーオペレーティングシステムを設立し、さらに可能であれば、「フリーでないソフトウェアを全く使わないでも済むよう[[UNIX]]システムに通常付属する有益なもの全て」も構築することであった。ストールマンはこのオペレーティングシステムを''[[GNU]]''("''GNU's not Unix''"を意味する[[再帰的頭字語]])と呼ぶことに決め、その設計を[[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリオペレーティングシステム]]であるUNIXの設計に基づくようにした<ref name="manifesto">{{cite web |url=https://www.gnu.org/gnu/manifesto.html |title=The GNU Manifesto |date=21 July 2007 |publisher=[[Free Software Foundation]] |accessdate=2015-10-08}}</ref>。GNUの開発は[[1984年]][[1月]]に開始された。[[1991年]]、[[リーナス・トーバルズ]]によりGNUプロジェクトとは関係のないプロジェクトで開発された[[Linuxカーネル]]が発表され<ref name="groups.google.com">{{cite web|url = https://groups.google.com/g/comp.os.minix/c/dlNtH7RRrGA/m/SwRavCzVE7gJ|title = comp.os.minix|accessdate = 2009-09-06|last = Torvalds|first = Linus Benedict|authorlink = |date=August 1991}}</ref>、[[1992年]][[12月]]に[[GNU General Public License]]のバージョン2に基づき利用できるようにした<ref name="gpl_version">''[ftp://ftp.kernel.org/pub/linux/kernel/Historic/v0.99/linux-0.99.tar.Z z-archive of Linux version 0.99]'', kernel.org, December 1992</ref>。LinuxカーネルはGNUプロジェクトによって既に開発されていた、オペレーティングシステムのユーティリティと組み合わされ最初のフリーソフトウェアオペレーティングシステムとして認められた。このフリーソフトウェアオペレーティングシステムは[[Linux]]や[[GNU/Linux]]として知られている。 GNUプロジェクトは現在、ソフトウェア開発、意識改革、政治的キャンペーンや、新しい題材の共有などを行っている。 == 歴史 == 1983年[[9月]]、リチャード・ストールマンは[[ネットニュース|Usenet]]のメッセージにGNUプロジェクトのコーディングを開始する意図を発表した<ref>{{cite web|url=https://groups.google.com/forum/#!msg/net.unix-wizards/8twfRPM79u0/1xlglzrWrU0J|title=new Unix implementation|author=Richard Stallman|accessdate=2016-01-14}}</ref>。 GNUプロジェクトが最初に開始したとき、このプロジェクトにはライティングエディタコマンド用の[[LISP]]が付属した[[Emacs]][[テキストエディタ]]、ソースレベル[[デバッガ]]、[[Yacc]]互換の[[パーサジェネレータ]]、そして[[リンケージエディタ|リンカ]]が存在していた<ref>Wardrip-Fruin, Noah; and Nick Montfort. "The GNU Manifesto." ''The NewMediaReader''. Cambridge, Massachusetts: MIT, 2003. pp.545-550.</ref>。GNUのシステムではその[[C言語|C]][[コンパイラ]]とツールがフリーソフトウェアであることが要求されたため、これらも開発する必要があった。[[1987年]][[6月]]、GNUプロジェクトは[[アセンブリ言語|アセンブラ]]、ほぼ完成されていた[[移植 (ソフトウェア)|移植]]可能な[[コンパイラ最適化|最適化]]Cコンパイラ ([[GNUコンパイラコレクション|GCC]])、エディタ ([[GNU Emacs]])、そして(<code>ls</code>、<code>grep</code>、<code>awk</code>、<code>make</code>および<code>ld</code>といった)様々なUNIXユーティリティ用のフリーソフトウェア([[GNU Core Utilities]] など)を開発し蓄積していった<ref>{{cite web |url=https://www.gnu.org/bulletins/bull3.html#SEC11 |title=GNU's Bulletin, vol. 1 no. 3 |date=June 1987 |work=gnu.org|accessdate=2016-01-14}}</ref>。GNUプロジェクトにはさらに多くの更新が必要な初期[[カーネル]]が存在していた。 カーネルとコンパイラが完成すれば、GNUはプログラム開発用として利用可能であった。GNUの主な目標は他の多くのUNIXシステムのように[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]を作成することであった。GNUはUNIXプログラムを起動することが可能であったが、UNIXとは異なっていた。GNUはUNIXより長い[[ファイル名]]とファイルバージョン番号、そして耐衝撃性ファイルシステムを組み込まれた。GNUプロジェクトへ他者からのサポートと参加を得るためにGNU宣言が書かれた。人々はGNUプロジェクトに資金、コンピュータの部品、さらにはコードやプログラムを書くための時間を寄付することができた<ref name="manifesto"/>。 GNUプロジェクトのあらゆる面における起源と開発については、Emacsヘルプシステム内にある詳細な物語で共有されている(これは C-h g でEmacsエディタコマンド<kbd>describe-gnu-project</kbd>を起動することで表示される)。この物語はGNUプロジェクトのウェブサイトにある詳細な歴史と同じものである。 == 理念・活動 == === GNU宣言 === {{Main|GNU宣言}} リチャード・ストールマンはGNUプロジェクトへのサポートと参加を増やすためにGNU宣言を書いた。GNU宣言で、ストールマンはソフトウェアユーザーに対する4つの本質的な自由を列挙した。それらの自由とは、目的のためにプログラムを実行する自由、プログラムのメカニックを研究して修正する自由、コピーを再配布する自由、そして公共利用のために修正したバージョンを改善し変更する自由である<ref name="GNU Manifesto">{{cite web|url=http://www.gnu.org/gnu/manifesto.html |title=The GNU Manifesto - GNU Project - Free Software Foundation (FSF) |first=Richard |last=Stallman |authorlink = Richard Stallman |work=gnu.org |publisher=GNU Project |date=March 1985 |accessdate=2011-10-18}}</ref><ref name="weber">Weber, S. (2004). ''The Success of Open Source''. Cambridge: Harvard University Press.</ref>。これらの自由を実現するためにはユーザーが全てのコードにアクセスできるようにする必要があった。コードを自由なままで公開することを保障するため、ストールマンはソフトウェアとそのコードから派生した将来世代のソフトウェアを公共利用のために自由なままにできるための、[[GNU General Public License]]を作成した。 === GNU FSDG === GNUフリーシステム・ディストリビューション・ガイドライン(GNU Free System Distribution Guidelines、GNU FSDG)は、自由とみなされることは(GNU/Linuxディストリビューションのような)インストール可能なシステムディストリビューションにとって何を意味するのかを説明したり、ディストリビューションの開発者がそのディストリビューションを自由とみなされる資格を与えることを補助するために使われるシステムディストリビューションコミットメントである。 自由なディストリビューションとしては、主にGNUパッケージと[[Linux-libre]]カーネル(Linuxカーネルからバイナリ・ブロブ、[[難読化コード]]、そしてプロプライエタリなライセンスに基づくコードの部分を取り除いて修正したもの)とを組み合わせ、さらに([[プロプライエタリソフトウェア]]を完全に避けて)フリーソフトウェアのみから構成されたディストリビューションが挙げられる<ref>{{cite web |url=http://www.gnu.org/distros/free-system-distribution-guidelines.html |title=Guidelines for Free System Distributions |work=gnu.org|accessdate=2016-01-14}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.gnu.org/philosophy/compromise.html |title=Avoiding Ruinous Compromises |work=gnu.org|accessdate=2016-01-14}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.gnu.org/distros/common-distros.html#Debian |title=Explaining Why We Don't Endorse Other Systems |work=gnu.org|accessdate=2016-01-14}}</ref>。GNU FSDGを採用したディストリビューションには、[[gNewSense]]、[[Parabola GNU/Linux-libre]]、[[Trisquel GNU/Linux]]、{{仮リンク|Ututo|en|Ututo}}などがある<ref name="gnu">{{cite web|url=http://www.gnu.org/distros/free-distros.html|title=List of Free GNU/Linux Distributions – GNU Project – Free Software Foundation |work=gnu.org|accessdate=2014-08-18}}</ref>。 [[Fedora]]プロジェクトのディストリビューションライセンスガイドラインがFSDGの基礎として使われた<ref>{{cite web|url=https://www.gnu.org/distros/free-system-distribution-guidelines.html |title=Free System Distribution Guidelines (GNU FSDG) - GNU Project |publisher=publisher |work=gnu.org |date= |accessdate=2014-06-07 |quote=We would like to thank the Fedora Project for their help in focusing these policies, and allowing us to use their own distribution license guidelines as a basis for this document.}}</ref>。 === フリーソフトウェア === {{Main|フリーソフトウェア}} GNUプロジェクトはユーザーが複製し、編集し、そして配布する自由があるソフトウェアを使用する。ユーザーが個人のニーズに合うようソフトウェアを変更することが可能であるという意味で自由である。プログラマーがフリーソフトウェアを獲得する手段は、それを得る場所に依存する。フリーソフトウェアはプログラマーに友人やインターネットを通じて提供されるかもしれないし、あるいはソフトウェアを購入するためにプログラマーが働いている会社から提供されるかもしれない。 === フリーソフトウェア運動 === {{Main|フリーソフトウェア運動}} GNUプロジェクトの生産活動のほとんどは本質的に技術的なものであるが、それらは社会的、倫理的、および政治的な取り組みとして送り出された。GNUプロジェクトはソフトウェアとライセンスを生み出すのと同様に多数の文書を公開している。それらの文書のほとんどはリチャード・ストールマンにより作成された。 === コピーレフト === {{main|コピーレフト}} コピーレフトとは、プログラマー達の間でソフトウェアを自由に使用し続けることを補助するものである。コピーレフトにより、プログラムやそのコードを使用し、編集し、そして再配布するための法的権利が、配布条件を変更しない限り誰にでも与えられる。結果として、ソフトウェアを獲得した誰もがユーザー以外の人間ができる自由と同じ自由を法的に獲得する。 GNUプロジェクトとFSFは、「強い」コピーレフトと「弱い」コピーレフトとを区別することがある。「弱い」コピーレフトプログラムは通常、そのプログラムを配布する人間によりフリーではないプログラムとリンクすることを許可される。一方、「強い」コピーレフトプログラムはこのようなリンクを厳しく禁止する。GNUプロジェクトが生産するものはほとんど強いコピーレフトに基づきリリースされるが、[[GNU Lesser General Public License|LGPL]]のような、弱いコピーレフト<ref>{{Cite web|title=gnu.org|url=https://www.gnu.org/licenses/why-not-lgpl.ja.html|website=www.gnu.org|accessdate=2020-05-10|language=ja}}</ref>や[[パーミッシブ・ライセンス]]に基づきリリースされるものもある<ref>{{Cite web|title=gnu.org|url=https://www.gnu.org/licenses/license-recommendations.ja.html|website=www.gnu.org|accessdate=2020-05-10|language=ja}}</ref>。 == 開発 == === GNU === [[File:HURD Live CD.png|thumb|GNU Hurd live CD]] {{main|GNU}} {{see also|GNUパッケージ一覧}} GNUプロジェクトの最初の目標は、完全にフリーソフトウェアで構成されるオペレーティングシステムを作成することであった。1992年にGNUプロジェクトは、カーネルである[[GNU Hurd]]を除く全ての主要なオペレーティングシステムコンポーネントを完成した。[[1991年]]には[[リーナス・トーバルズ]]が独自にLinuxカーネルの開発を始めており、1992年にはLinuxカーネルのバージョン0.12がGNU General Public Licenseに基づきリリースされ<ref>{{cite web |url=https://groups.google.com/g/comp.os.minix/c/dlNtH7RRrGA |title=What would you like to see most in minix? |author=Linus Benedict Torvalds |publisher=comp.os.minix |date=26 August 1991|accessdate=2016-01-14}}</ref>、この最後の空白を埋めた。LinuxとGNUを組み合わせることで、世界初の完全にフリーソフトウェアで構成されたオペレーティングシステムとなった。LinuxカーネルはGNUプロジェクトの一部ではないが、[[GNUコンパイラコレクション|GCC]]や他のGNUプログラミングツールを使用して開発され、GNU General Public Licenseに基づきフリーソフトウェアとしてリリースされた<ref>{{cite web |url=https://groups.google.com/g/comp.os.minix/c/dlNtH7RRrGA |title=What would you like to see most in minix? |author=Linus Benedict Torvalds |publisher=comp.os.minix |date=26 August 1991|accessdate=2016-01-14}}</ref>。 === GNU/Linux === {{main|GNU/Linux}} 今日、GNUの安定版(およびGNUの派生)はGNUパッケージと[[Unix系]]Linuxカーネルとを組み合わせることで実行できる。GNUプロジェクトはこれを[[GNU/Linux]]と呼び、決定的な特徴は以下の組み合わせである: * GNUパッケージ<ref name=gnu_packages>{{cite web |url=https://www.gnu.org/software/software.html#allgnupkgs |title=All GNU packages |work=gnu.org|accessdate=2016-01-14}}</ref><ref name=gnu_packages_fsf>[http://directory.fsf.org/wiki/GNU GNU @ Free Software Directory] (fsf.org)</ref>(GNU Hurdを除く)<br />GNUパッケージは多数のオペレーティングシステムツールとユーティリティ([[Bash]]、[[GNU Core Utilities|Coreutils]]、コンパイラ、ライブラリなど)から構成され<ref name=gnu_packages /><ref name=gnu_packages_fsf />、[[POSIX]] System Application Program Interface (POSIX.1) で指定された関数を全て実装したライブラリも含んでいる<ref>[https://www.gnu.org/software/libc/manual/html_node/POSIX.html POSIX - The GNU C Library]</ref><ref>[[GNU Cライブラリ#一時的フォーク]]</ref>。GCCコンパイラは非常に多くのコンピュータアーキテクチャ用の[[機械語]]を生成できる<ref>[[GNUコンパイラコレクション#概説|GCC Architectures]]</ref>。 * [[Linuxカーネル]] - このカーネルはプログラムスケジューリング、マルチタスキング、デバイスドライバ、メモリ管理などを実装し、システムを多数の[[:en:List of Linux-supported computer architectures|コンピュータアーキテクチャ]]で起動できる<ref>[http://www.kernel.org/#whatislinux The Linux Kernel Archives]</ref>。リーナス・トーバルズはGNU General Public Licenseに基づき1992年にLinuxカーネルをリリースした<ref name=linux_free>[http://ftp.funet.fi/pub/linux/historical/kernel/old-versions/RELNOTES-0.12 Release Notes for Linux v0.12]</ref>が、このカーネルはGNUプロジェクトの一部ではない<ref>[https://www.gnu.org/gnu/gnu-linux-faq.html#allgpled Should the GNU/name convention be applied to all programs that are GPL'ed?] GNU/Linux FAQ by Richard Stallman</ref><ref>[https://www.gnu.org/gnu/gnu-linux-faq.html#whyslash Why do you write “GNU/Linux” instead of “GNU Linux”?] GNU/Linux FAQ by Richard Stallman</ref><ref>[https://www.gnu.org/gnu/gnu-linux-faq.html#claimlinux Isn't it wrong for us to label Linus Torvalds' work as GNU?] GNU/Linux FAQ by Richard Stallman</ref><ref>[https://www.gnu.org/gnu/gnu-linux-faq.html#linusagreed Does Linus Torvalds agree that Linux is just the kernel?] GNU/Linux FAQ by Richard Stallman</ref>。 *GNUプロジェクト製ではないプログラム - GNUプロジェクトの一部ではないがGNU General Public Licenseやその他の[[フリーソフトウェアライセンス]]に基づきリリースされた多数のフリーソフトウェアパッケージ。 GNUウェブサイト内にはプロジェクトの一覧が記載され、プロジェクトごとにある部分に必要なタスクを実行できるのはどのようなタイプの開発者であるかが詳細に述べられている。技術レベルの範囲はプロジェクトからプロジェクトへと投影されるが、プログラミングのバックグラウンド知識を持つ者誰もがプロジェクトを支援することが推奨されている。 Linuxカーネルとその他のプログラムとを組み合わせたGNUツールのパッケージングは通常[[Linuxディストリビューション]]と呼ばれる。GNUプロジェクトはGNUとLinuxカーネルとを組み合わせたものを "GNU/Linux" と呼び、さらに他の人々へもそのように呼ぶよう要請している<ref>[https://www.gnu.org/gnu/gnu-linux-faq.html#why Why do you call it GNU/Linux and not Linux?]</ref>。これが[[GNU/Linux名称論争]]の原因である。 今日、ほとんどのLinuxディストリビューションはGNUパッケージと、[[バイナリ・ブロブ]]および[[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]なプログラムを多数含んでいるLinuxカーネルとを組み合わせている。 === ライセンス === GNUプロジェクトはソフトウェアがフリーであり、フリーであることを普及させるソフトウェアライセンスを開発・公開している。 GNUプロジェクトは、GPL・LGPL・AFGLもしくはApacheライセンスをフリーソフトウェアに適用するライセンスとして推奨している。GNUプロジェクトのライセンス文書自体は、フリーソフトウェアの理念とは反するが、フリーではないライセンスを課している。 ; [[GNU General Public License]] : 強いコピーレフト特性を持つフリーソフトウェアライセンスである。 ; [[GNU Lesser General Public License]] : 弱いコピーレフト特性を持つフリーソフトウェアライセンスである。 ; [[GNU Affero General Public License]] : サーバサイドソフトウェアで用いるために開発された強いコピーレフト特性を持つフリーソフトウェアライセンスである。 ; [[GNU Free Documentation License]] : ドキュメントのためのコピーレフト特性を持つライセンスである。 サードパーティーによるGNU General Public Licenseから派生した特定条件下でコピーレフト特性を適用しないライセンスが存在する。 ; [[GNAT Modified General Public License]] : [[Ada]]言語のジェネリック機能を使用した際に、生成されるソースコードにコピーレフト特性を適用しないソフトウェアライセンスである。 ; [[GPLリンク例外]] : GPLソフトウェアをライブラリリンクした際に、リンクしたソフトウェアにコピーレフト特性を適用しないソフトウェアライセンスの総称である。 ; [[GPLフォント例外]] : GPLソフトウェアにフォントを内包した際に、フォントに対してコピーレフト特性を適用しないソフトウェアライセンスの総称である。 == 戦略的プロジェクト == {{see also|フリーソフトウェア財団#最優先度プロジェクト}} [[1990年代]]中期以降、多くの企業がフリーソフトウェア開発に資金援助しており、フリーソフトウェア財団はその資金をフリーソフトウェア開発に関連する法的・政治的サポートに回した。ソフトウェア開発はそのころから既存プロジェクトの保守が主になり、新規プロジェクトはフリーソフトウェアのコミュニティへの重大な脅威が存在する場合だけ立ち上げた。GNUプロジェクトの最も注目すべきプロジェクトの1つは[[GNUコンパイラコレクション]]であり、そのコンポーネントは多くの[[Unix系]]システムの標準コンパイラシステムとして採用されている。 === GNOME === [[GNOME]]デスクトップの企画はGNUプロジェクトによって開始された。これはもう1つのデスクトップシステムである[[KDE]]が人気となったものの、その利用にはプロプライエタリソフトウェアであった[[Qt]]のインストールが必須だったためである。KDEとQtを人々がインストールしなくて済むようにするため、GNUプロジェクトは同時に2つのプロジェクトを開始した。1つはHarmonyツールキットである。これはQtのフリーソフトウェアによる代替品を作るプロジェクトである。このプロジェクトが成功していたら、KDEに関する問題は解決していただろう。もう1つのプロジェクトがGNOMEで、同じ問題を別の角度から解決しようとした。すなわち、KDE全体を代替し、しかもプロプライエタリソフトウェアに依存しないものを作るという試みである。Harmonyプロジェクトは進歩しなかったが、GNOMEは非常にうまく開発された。なお、KDEが依存していたプロプライエタリ・コンポーネント (Qt) は後にフリーソフトウェアとしてリリースされた<ref>{{cite web | url = http://linuxtoday.com/news_story.php3?ltsn=2000-09-05-001-21-OP-LF-KE | author = Richard Stallman | title = Stallman on Qt, the GPL, KDE, and GNOME | publisher = Linux Today | date = 5 September 2000 | accessdate = 2005-09-09 }}</ref>。 === GNU Enterprise === '''GNU Enterprise''' ('''GNUe''') は[[1996年]]に開始されたメタプロジェクトであり<ref>[http://www.gnuenterprise.org/community/history.php Community History]</ref>、GNUプロジェクトのサブプロジェクトとみなすことができる。GNUeの目標はフリーな「エンタープライズクラスのデータ対応アプリケーション」([[企業資源計画]]など)を作成することである。GNUeは(GNOMEプロジェクトが複数のデスクトップソフトウェアの集合であるのと同様に)GNUシステム用のエンタープライズソフトウェアを1つのコレクションとして集めるよう設計されている。 === Gnash === [[Gnash]]は[[Adobe Flash]] 形式で配布されるコンテンツを再生する。GNUはGnash開発時、これを重要プロジェクトに位置付けていた。OSやブラウザがフリーソフトウェアのものを使っていても、アドビ製のプロプライエタリなプラグインをインストールして使っているユーザーが多かったためである。 == 評価 == [[2001年]]、GNUプロジェクトは「研究と商業開発の生成を可能にした、その自由に利用できる再配布可能と変更可能なソフトウェアの偏在性、広さ、品質」により[[USENIX]]の貢献賞(Lifetime achievement award)を受賞した<ref>{{cite web|url=http://www.usenix.org/directory/flame.html |title=USENIX Lifetime Achievement Award ("The Flame") |publisher=USENIX |accessdate=2007-12-05}}</ref>。 == 出典 == {{Reflist|30em}} == 関連項目 == {{Portal|FLOSS|[[ファイル:FLOSS_logo.svg|41px|ウィキポータル FLOSS]]}} * [[フリーソフトウェア財団]] * [[9965 GNU]] == 関連作品 == * 『シンク グヌー』、引地 信之、1993年、[[ビレッジセンター]]、ISBN 978-4938704100、[http://19290.net/think-gnu-distribution/html/tga00.html HTML版] == 外部リンク == * {{official website|https://www.gnu.org/index.ja.html}} * [https://directory.fsf.org/wiki/GNU The GNU Free Software Directory] * [https://savannah.gnu.org/ Savannah:GNUソフトウェアの開発サイト] - [[GNU Savannah|Savane]]ソフトウェアを使って独自のサーバで運営されている。 {{GNU}} {{フリーソフトウェア財団}} {{FOSS}} {{デフォルトソート:GNUふろしえくと}} [[Category:GNUプロジェクト|*]] [[Category:UNIXに関連する組織]] [[Category:フリーソフトウェア財団]] [[Category:フリーソフトウェアのプロジェクト]] [[Category:フリーソフトウェア文化・運動]]
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岡本太郎
岡本 太郎(おかもと たろう、1911年〈明治44年〉2月26日 - 1996年〈平成8年〉1月7日)は、日本の芸術家。血液型はO型。 1930年(昭和5年)から1940年(昭和15年)までフランスで過ごす。抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも接触した。 岡本太郎(以下岡本と表記)は神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現在の川崎市高津区二子)で、漫画家の岡本一平、歌人で小説家・かの子との間に長男として生まれる。父方の祖父は町書家の岡本可亭であり、当時可亭に師事していた北大路魯山人とは、家族ぐるみの付き合いがあった。 父・一平は朝日新聞で"漫画漫文"という独自のスタイルで人気を博し、「宰相の名は知らぬが、一平なら知っている」と言われるほど有名になるが、付き合いのため収入のほとんどを酒代に使ってしまうほどの放蕩ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあった。 母・かの子は、大地主の長女として乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中。 お嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だった。岡本が3〜4歳の頃、かまって欲しさにかの子の邪魔をすると、彼女は太郎を兵児帯で箪笥にくくりつけたというエピソードがある。また、かの子の敬慕者で愛人でもある堀切茂雄を一平の公認で自宅に住まわせていた。そのことについて、かの子は創作の為のプラトニックな友人であると弁明していたが、実際にはそうではなく、自身も放蕩経験がある一平は容認せざるを得なかった。後に岡本は「母親としては最低の人だった。」と語っているが、生涯、敬愛し続けた。 家庭環境の為か、岡本は 1917年(大正6年)4月、東京青山にある青南小学校に入学するもなじめず一学期で退学。その後も日本橋通旅籠町の私塾・日新学校、十思小学校へと入転校を繰り返したが、慶應義塾幼稚舎で自身の理解者となる教師、位上清に出会う。岡本はクラスの人気者となるも、成績は52人中の52番だった。ちなみにひとつ上の51番は後に国民栄誉賞を受賞した歌手の藤山一郎で、後年岡本は藤山に「増永(藤山の本名)はよく学校に出ていたくせにビリから二番、オレはほとんど出ないでビリ、実際はお前がビリだ」と語ったという。 絵が好きで幼少時より盛んに描いていたが、中学に入った頃から「何のために描くのか」という疑問に苛まれた。慶應義塾普通部を卒業後、画家になる事に迷いながらも、東京美術学校へ進学した。 一平が朝日新聞の特派員として、ロンドン海軍軍縮会議の取材に行くことになり、岡本も東京美術学校を休学後、親子三人にかの子の愛人の青年二人を加えた一行で渡欧。一行を乗せた箱根丸は1929年(昭和4年)神戸港を出港、1930年(昭和5年)1月にパリに到着。以後約10年間をここで過ごすことになる。 フランス語を勉強するため、パリ郊外のリセ(日本の旧制中学に相当)の寄宿舎で生活。語学の習得の傍ら、1932年頃、パリ大学(ソルボンヌ大学)においてヴィクトール・バッシュ教授に美学を学んでいる。「何のために絵を描くのか」という疑問に対する答えを得るため、1938年頃からマルセル・モースの下で絵とは関係のない民族学を学んだといわれている。 1932年(昭和7年)、両親が先に帰国することになり、パリで見送る。かの子は1939年(昭和14年)に岡本の帰国を待たずに死去したため、これが今生の別れとなった。 同年、芸術への迷いが続いていたある日、たまたま立ち寄ったポール=ローザンベール画廊でパブロ・ピカソの作品《水差しと果物鉢》を見て強い衝撃を受ける。そして「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになる。岡本は、この時の感動を著書『青春ピカソ』(1953年)において「私は抽象画から絵の道を求めた。(中略)この様式こそ伝統や民族、国境の障壁を突破できる真に世界的な二十世紀の芸術様式だったのだ」と述べている。 1932年、ジャン・アルプらの勧誘を受け、美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会のメンバーとなる。そのメンバーにはピート・モンドリアン、ワシリー・カンディンスキーら錚々たる大家がいた。岡本はその協会の年鑑で、「『形』でない形、『色』でない色をうち出すべきだ」とのメッセージを投げかけていた。 親交のあった戦場カメラマンのロバート・キャパの公私にわたる相方であった報道写真家ゲルタ・ポホリレに岡本の名前が1936年よりビジネスネーム、ゲルダ・タローとして引用された。しかしゲルダの活動期間はとても短く1937年にスペイン内戦のブルネテの戦いの取材に向かったが、戦場の混乱で発生した自動車事故で受けた傷がもとで死去した。 1938年シュールリアリズムの創始者アンドレ・ブルトン制作の「シュール・レアリスム簡易辞典」に「傷ましき腕」が掲載された。 この絵画を契機に、岡本は美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会を脱退し、パリ大学ソルボンヌ校の哲学科に聴講生として通うようになる。さらに民族学科に移り、そこで文化人類学者マルセル・モース教授と出会い、彼の講義から多大な影響を受ける。やがて岡本は思想家ジョルジュ・バタイユとも出会い、盟友として親交を深めた。 1940年(昭和15年)、ドイツのパリ侵攻をきっかけに日本へ帰国する。帰国後、滞欧作《傷ましき腕》などを二科展に出品して受賞、個展も開く。 1942年(昭和17年)、大東亜戦争下の軍備増強の為、補充兵役召集され大日本帝国陸軍兵として中国戦線へ出征。岡本は最下級の陸軍二等兵扱いだったが、高年齢である30代という事もあり、厳しい兵役生活を送ったと著書で回想している。また、この頃上官の命令で師団長の肖像画を描いている。 1945年(昭和20年)、日本の降伏により太平洋戦争が終結。岡本は長安で半年ほど俘虜生活を経たのち帰国、佐世保から東京に到着するが、自宅と作品は焼失していた。東京都世田谷区上野毛にアトリエを構え、ふたたび制作に励む。1947年(昭和22年)、岡本は新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。 1948年(昭和23年)、 花田清輝らとともに「夜の会」を結成。会の名は岡本の油彩画『夜』から取られた。前衛芸術について論じ合う会で、ほかに埴谷雄高、安部公房らが参加した。またこの頃、平野敏子と出会った。敏子は後に秘書・養女となり、岡本が死去するまで支え続けた。 1950年(昭和25年)には植村鷹千代と江川和彦、瀧口修造、阿部展也、古沢岩美、小松義雄、村井正誠、北脇昇、福沢一郎らと日本アヴァンギャルド美術家クラブ創立に参加 1951年(昭和26年)11月7日、東京国立博物館で縄文火焔土器を見て衝撃を受ける。翌年、美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話―縄文土器論」を発表。この反響によって、日本美術史は縄文時代から語られるようになったともいわれている。また琉球諸島や東北地方の古い習俗を紹介した。 1954年(昭和29年)、東京都港区青山に自宅兼アトリエを建て、生活と制作の拠点とする。同年、当時光文社社長だった神吉晴夫から、「中学2年生でも理解できる芸術の啓蒙書を書いてくれ」と依頼され、『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』を執筆・出版。芸術は小手先の問題ではなく、生きることそのものであると説くとともに、従来の芸術観を批判し、ベストセラーになった。 1960年代後半、メキシコを訪れた岡本は、ダビッド・アルファロ・シケイロスなどによる壁画運動から大きな影響を受け、同地に滞在中、現地のホテル経営者から壁画の制作依頼を受ける。これがのちに岡本の代表作のひとつとされる『明日の神話』となる。 1970年(昭和45年)に大阪で万国博覧会が開催されることが決まり、通産官僚の堺屋太一ら主催者(国)は紆余曲折の末、テーマ展示のプロデューサー就任を要請した。岡本は承諾すると、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」と構想を練り、出来上がったのが『太陽の塔』であった。 この日本万国博覧会は各方面に影響を与えた。1975年(昭和50年)、『太陽の塔』の永久保存が決定。現在も大阪万博のシンボルとして愛されている。 同時期に制作されたのが、前述の『明日の神話』であり、制作依頼者である実業家の破産の影響で長らく行方不明となっていたが、21世紀に入り発見される。 岡本は、テレビ放送草創期の1950年代から当時のバラエティ番組であったクイズ番組などに多数出演している。 1970年代以降には、日本テレビバラエティ番組『鶴太郎のテレもんじゃ』にレギュラー出演。冒頭でリヒャルト・シュトラウス『ツァラトストラはかく語りき』を鳴り響かせ、ドライアイスの煙が立ちこめる中から、「芸術は爆発だ」「何だ、これは!」などと叫びながら現れる演出が人気を博すと、これらのフレーズは流行語にもなった。また番組内で出演した子供たちの絵を批評、眼鏡に適う作品を見出した際には、目を輝かせた。さらに、この番組内で共演した片岡鶴太郎の芸術家としての才能を見出している。 1987年(昭和62年)にはテレビドラマにも出演。NHK『ばら色の人生』に俳優(学校校長役)としてレギュラー出演した。 老いを重ねても岡本の創作意欲は衰えず、展覧会出品などの活動を続けていたが、80歳のときに自身が所蔵するほとんどの作品を川崎市に寄贈。市は美術館建設を計画する。 1996年(平成8年)1月7日、以前から患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全により慶應義塾大学病院にて死去した(満84歳没)。生前「死は祭りだ」と語り、葬式が大嫌いだった岡本に配慮し、葬儀は行われず、翌月2月26日にお別れ会として「岡本太郎と語る広場」が草月会館で開かれる。会場には作品が展示され、参加者たちは別れを惜しんだ。墓所は多磨霊園にあり、同地の父・一平、母・かの子の墓碑の対面に太郎の墓が建てられ、墓石として1967年に太郎が制作した像・『午後の日』の複製が据えられている。 1998年(平成10年)、青山の岡本の住居兼アトリエが岡本太郎記念館として一般公開された。 1999年(平成11年)10月30日、川崎市岡本太郎美術館が開館(川崎市多摩区桝形の生田緑地内に所在)。 2003年(平成15年)、メキシコで行方不明になっていた『明日の神話』が発見された。愛媛県東温市で修復されたのち、2006年(平成18年)、汐留日テレプラザで期間限定で公開、再評価の機運が高まる。現在は京王井の頭線渋谷駅連絡通路に設置され、パブリックアートとして新たな名所となった。 2011年(平成23年)、「生誕100年 岡本太郎」展が東京国立近代美術館で開催。 2013年(平成25年)、「岡本太郎のシャーマニズム」展が川崎市岡本太郎美術館で開催された。これに併せて学術団体協力による学術シンポジウムが開催され、1950年頃以降の創作活動に宗教学者ミルチャ・エリアーデの思想が影響を及ぼしていたことが確認された。 2014年(平成26年)、「岡本太郎と潜在的イメージ」展が川崎市岡本太郎美術館で開催された。これは、スイス・ジュネーヴ大学教授のダリオ・ガンボーニ博士の著書『潜在的イメージ』に基づいて構成されたものであり、岡本の芸術を西洋近現代美術史の観点から検証した初の展覧会であった(佐々木秀憲「岡本太郎と潜在的イメージ」)。 2022年(令和4年)、「展覧会 岡本太郎」が大阪中之島美術館・東京都美術館・愛知県美術館の順で開催。新しく発見された岡本太郎の作品。「作品A」「作品B」「作品C」が展示された。 ジョルジュ・バタイユとの出会いが岡本の一生を変えたと述懐している。1936年、コントル・アタックの集会に参加、アンドレ・ブルトンやモーリス・エイヌに続き、バタイユが、人間の自由を抑圧する全体主義批判の演説をすると「素手で魂をひっかかれたように感動した」。岡本はその後、バタイユを中心に組織された秘密結社に参加したが、思想上の相違から1939年頃に訣別したと岡本太郎は繰り返し述べている。 スキー・テニス・水泳など瞬発力を要するスポーツを好み、野球なども巨人の千葉茂や中西太らと共に興じた。 スキーは、親交があった三浦雄一郎から賞賛されるほどの腕前だった。太郎はスキーの魅力について「どんな急斜面でも直滑降で滑るのがスキーの醍醐味だ」と語っている。スキーを始めた頃、急斜面コースで上級者が滑っているのを見た太郎は、どんな絶壁なのかと思い登ってみると、実際目もくらむほどの高さであった。後に引くことが許せない性格の太郎はその急斜面に挑戦した。結果は大転倒したが、太郎自身その経験をこう語っている。 また、岡本は当時流行していた白いスキー板と白いウェアに対抗して、カラフルなデザインの板とウェアを作ったり、自らのスキー体験を綴った「岡本太郎の挑戦するスキー」(講談社、絶版)という本も出版している。 岡本は1930年代の滞欧時代からピアノに親しみ、芸術家仲間の集まりでもよく弾いたという。とくにモーツァルトの作品を好み、帰国後もアトリエにピアノを置き、制作の合間にクラシックやジャズなどを弾いた。その腕前はプロ級と言われており、演奏はほとんどが暗譜であったという。岡本がピアノを弾いた映像はいくつか残されており、1978年(昭和53年)にはドキュメンタリー番組『もうひとつの旅』(毎日放送)の撮影のため、ショパンゆかりの地マヨルカ島を訪れ、作曲家の使用したピアノを弾く映像がテレビ放映された。 ※所蔵先記載無は、川崎市岡本太郎美術館蔵 『綜合文化』(1948年7月) *『原色の呪文』収録 後年は民放テレビ局のバラエティ番組等にも積極的に出演していた。
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"text": "家庭環境の為か、岡本は 1917年(大正6年)4月、東京青山にある青南小学校に入学するもなじめず一学期で退学。その後も日本橋通旅籠町の私塾・日新学校、十思小学校へと入転校を繰り返したが、慶應義塾幼稚舎で自身の理解者となる教師、位上清に出会う。岡本はクラスの人気者となるも、成績は52人中の52番だった。ちなみにひとつ上の51番は後に国民栄誉賞を受賞した歌手の藤山一郎で、後年岡本は藤山に「増永(藤山の本名)はよく学校に出ていたくせにビリから二番、オレはほとんど出ないでビリ、実際はお前がビリだ」と語ったという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "絵が好きで幼少時より盛んに描いていたが、中学に入った頃から「何のために描くのか」という疑問に苛まれた。慶應義塾普通部を卒業後、画家になる事に迷いながらも、東京美術学校へ進学した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "一平が朝日新聞の特派員として、ロンドン海軍軍縮会議の取材に行くことになり、岡本も東京美術学校を休学後、親子三人にかの子の愛人の青年二人を加えた一行で渡欧。一行を乗せた箱根丸は1929年(昭和4年)神戸港を出港、1930年(昭和5年)1月にパリに到着。以後約10年間をここで過ごすことになる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "フランス語を勉強するため、パリ郊外のリセ(日本の旧制中学に相当)の寄宿舎で生活。語学の習得の傍ら、1932年頃、パリ大学(ソルボンヌ大学)においてヴィクトール・バッシュ教授に美学を学んでいる。「何のために絵を描くのか」という疑問に対する答えを得るため、1938年頃からマルセル・モースの下で絵とは関係のない民族学を学んだといわれている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1932年(昭和7年)、両親が先に帰国することになり、パリで見送る。かの子は1939年(昭和14年)に岡本の帰国を待たずに死去したため、これが今生の別れとなった。", 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"1940年(昭和15年)、ドイツのパリ侵攻をきっかけに日本へ帰国する。帰国後、滞欧作《傷ましき腕》などを二科展に出品して受賞、個展も開く。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1942年(昭和17年)、大東亜戦争下の軍備増強の為、補充兵役召集され大日本帝国陸軍兵として中国戦線へ出征。岡本は最下級の陸軍二等兵扱いだったが、高年齢である30代という事もあり、厳しい兵役生活を送ったと著書で回想している。また、この頃上官の命令で師団長の肖像画を描いている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1945年(昭和20年)、日本の降伏により太平洋戦争が終結。岡本は長安で半年ほど俘虜生活を経たのち帰国、佐世保から東京に到着するが、自宅と作品は焼失していた。東京都世田谷区上野毛にアトリエを構え、ふたたび制作に励む。1947年(昭和22年)、岡本は新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1948年(昭和23年)、 花田清輝らとともに「夜の会」を結成。会の名は岡本の油彩画『夜』から取られた。前衛芸術について論じ合う会で、ほかに埴谷雄高、安部公房らが参加した。またこの頃、平野敏子と出会った。敏子は後に秘書・養女となり、岡本が死去するまで支え続けた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1950年(昭和25年)には植村鷹千代と江川和彦、瀧口修造、阿部展也、古沢岩美、小松義雄、村井正誠、北脇昇、福沢一郎らと日本アヴァンギャルド美術家クラブ創立に参加 1951年(昭和26年)11月7日、東京国立博物館で縄文火焔土器を見て衝撃を受ける。翌年、美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話―縄文土器論」を発表。この反響によって、日本美術史は縄文時代から語られるようになったともいわれている。また琉球諸島や東北地方の古い習俗を紹介した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1954年(昭和29年)、東京都港区青山に自宅兼アトリエを建て、生活と制作の拠点とする。同年、当時光文社社長だった神吉晴夫から、「中学2年生でも理解できる芸術の啓蒙書を書いてくれ」と依頼され、『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』を執筆・出版。芸術は小手先の問題ではなく、生きることそのものであると説くとともに、従来の芸術観を批判し、ベストセラーになった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1960年代後半、メキシコを訪れた岡本は、ダビッド・アルファロ・シケイロスなどによる壁画運動から大きな影響を受け、同地に滞在中、現地のホテル経営者から壁画の制作依頼を受ける。これがのちに岡本の代表作のひとつとされる『明日の神話』となる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1970年(昭和45年)に大阪で万国博覧会が開催されることが決まり、通産官僚の堺屋太一ら主催者(国)は紆余曲折の末、テーマ展示のプロデューサー就任を要請した。岡本は承諾すると、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」と構想を練り、出来上がったのが『太陽の塔』であった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "この日本万国博覧会は各方面に影響を与えた。1975年(昭和50年)、『太陽の塔』の永久保存が決定。現在も大阪万博のシンボルとして愛されている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "同時期に制作されたのが、前述の『明日の神話』であり、制作依頼者である実業家の破産の影響で長らく行方不明となっていたが、21世紀に入り発見される。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "岡本は、テレビ放送草創期の1950年代から当時のバラエティ番組であったクイズ番組などに多数出演している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1970年代以降には、日本テレビバラエティ番組『鶴太郎のテレもんじゃ』にレギュラー出演。冒頭でリヒャルト・シュトラウス『ツァラトストラはかく語りき』を鳴り響かせ、ドライアイスの煙が立ちこめる中から、「芸術は爆発だ」「何だ、これは!」などと叫びながら現れる演出が人気を博すと、これらのフレーズは流行語にもなった。また番組内で出演した子供たちの絵を批評、眼鏡に適う作品を見出した際には、目を輝かせた。さらに、この番組内で共演した片岡鶴太郎の芸術家としての才能を見出している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1987年(昭和62年)にはテレビドラマにも出演。NHK『ばら色の人生』に俳優(学校校長役)としてレギュラー出演した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "老いを重ねても岡本の創作意欲は衰えず、展覧会出品などの活動を続けていたが、80歳のときに自身が所蔵するほとんどの作品を川崎市に寄贈。市は美術館建設を計画する。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1996年(平成8年)1月7日、以前から患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全により慶應義塾大学病院にて死去した(満84歳没)。生前「死は祭りだ」と語り、葬式が大嫌いだった岡本に配慮し、葬儀は行われず、翌月2月26日にお別れ会として「岡本太郎と語る広場」が草月会館で開かれる。会場には作品が展示され、参加者たちは別れを惜しんだ。墓所は多磨霊園にあり、同地の父・一平、母・かの子の墓碑の対面に太郎の墓が建てられ、墓石として1967年に太郎が制作した像・『午後の日』の複製が据えられている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1998年(平成10年)、青山の岡本の住居兼アトリエが岡本太郎記念館として一般公開された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1999年(平成11年)10月30日、川崎市岡本太郎美術館が開館(川崎市多摩区桝形の生田緑地内に所在)。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2003年(平成15年)、メキシコで行方不明になっていた『明日の神話』が発見された。愛媛県東温市で修復されたのち、2006年(平成18年)、汐留日テレプラザで期間限定で公開、再評価の機運が高まる。現在は京王井の頭線渋谷駅連絡通路に設置され、パブリックアートとして新たな名所となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2011年(平成23年)、「生誕100年 岡本太郎」展が東京国立近代美術館で開催。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2013年(平成25年)、「岡本太郎のシャーマニズム」展が川崎市岡本太郎美術館で開催された。これに併せて学術団体協力による学術シンポジウムが開催され、1950年頃以降の創作活動に宗教学者ミルチャ・エリアーデの思想が影響を及ぼしていたことが確認された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2014年(平成26年)、「岡本太郎と潜在的イメージ」展が川崎市岡本太郎美術館で開催された。これは、スイス・ジュネーヴ大学教授のダリオ・ガンボーニ博士の著書『潜在的イメージ』に基づいて構成されたものであり、岡本の芸術を西洋近現代美術史の観点から検証した初の展覧会であった(佐々木秀憲「岡本太郎と潜在的イメージ」)。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)、「展覧会 岡本太郎」が大阪中之島美術館・東京都美術館・愛知県美術館の順で開催。新しく発見された岡本太郎の作品。「作品A」「作品B」「作品C」が展示された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ジョルジュ・バタイユとの出会いが岡本の一生を変えたと述懐している。1936年、コントル・アタックの集会に参加、アンドレ・ブルトンやモーリス・エイヌに続き、バタイユが、人間の自由を抑圧する全体主義批判の演説をすると「素手で魂をひっかかれたように感動した」。岡本はその後、バタイユを中心に組織された秘密結社に参加したが、思想上の相違から1939年頃に訣別したと岡本太郎は繰り返し述べている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "スキー・テニス・水泳など瞬発力を要するスポーツを好み、野球なども巨人の千葉茂や中西太らと共に興じた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "スキーは、親交があった三浦雄一郎から賞賛されるほどの腕前だった。太郎はスキーの魅力について「どんな急斜面でも直滑降で滑るのがスキーの醍醐味だ」と語っている。スキーを始めた頃、急斜面コースで上級者が滑っているのを見た太郎は、どんな絶壁なのかと思い登ってみると、実際目もくらむほどの高さであった。後に引くことが許せない性格の太郎はその急斜面に挑戦した。結果は大転倒したが、太郎自身その経験をこう語っている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "また、岡本は当時流行していた白いスキー板と白いウェアに対抗して、カラフルなデザインの板とウェアを作ったり、自らのスキー体験を綴った「岡本太郎の挑戦するスキー」(講談社、絶版)という本も出版している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "岡本は1930年代の滞欧時代からピアノに親しみ、芸術家仲間の集まりでもよく弾いたという。とくにモーツァルトの作品を好み、帰国後もアトリエにピアノを置き、制作の合間にクラシックやジャズなどを弾いた。その腕前はプロ級と言われており、演奏はほとんどが暗譜であったという。岡本がピアノを弾いた映像はいくつか残されており、1978年(昭和53年)にはドキュメンタリー番組『もうひとつの旅』(毎日放送)の撮影のため、ショパンゆかりの地マヨルカ島を訪れ、作曲家の使用したピアノを弾く映像がテレビ放映された。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "※所蔵先記載無は、川崎市岡本太郎美術館蔵", "title": "主な作品" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "『綜合文化』(1948年7月) *『原色の呪文』収録", "title": "主な作品" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "後年は民放テレビ局のバラエティ番組等にも積極的に出演していた。", "title": "出演" } ]
岡本 太郎は、日本の芸術家。血液型はO型。 1930年(昭和5年)から1940年(昭和15年)までフランスで過ごす。抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも接触した。
{{Infobox 芸術家 | bgcolour = #FF0000 | name = {{ruby|岡本|おかもと}} {{ruby|太郎|たろう}} | image = Tarō Okamoto.jpg | imagesize = 200px | caption = [[1953年]]([[昭和]]28年、42歳)<br/>自宅アトリエにて撮影 | birthdate = [[1911年]](明治44年)[[2月26日]] | location = {{JPN}}・[[神奈川県]][[橘樹郡]][[高津町 (神奈川県)|高津村]][[大字]]二子(現在の[[川崎市]][[高津区]][[二子]]) | deathdate = [[1996年]](平成8年)[[1月7日]](満84歳没)<!--{{死亡年月日と没年齢|1911|2|26|1996|1|7}}--> | deathplace = {{JPN}}・[[東京都]][[新宿区]][[信濃町 (新宿区)|信濃町]]35([[慶應義塾大学病院]])<ref name="ismedia">{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/mwimgs/0/f/-/img_0fd9f8ab813393dc05d2af0945e6b79e847910.jpg|title=史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか|publisher=現代ビジネス|date=2011-08-17|accessdate=2019-12-23}}</ref> | nationality = {{JPN}} | field = [[絵画]]、[[彫刻]]、[[陶芸]]、[[書道]]、[[写真]] | training = [[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]](現在の[[東京芸術大学]])中退<br/>[[パリ大学]][[哲学]]科履修 | movement = [[抽象絵画|抽象美術]]、[[シュールレアリズム]]、[[旧石器時代|原始]]美術 | works = 『[[傷ましき腕]]』<br/>『重工業』<br/>『[[明日の神話]]』<br/>『マミ会館』<br/>『[[太陽の塔]]』ほか | patrons = | influenced by = 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お嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だった。岡本が3〜4歳の頃、かまって欲しさにかの子の邪魔をすると、彼女は太郎を[[兵児帯]]で箪笥にくくりつけたというエピソードがある。また、かの子の敬慕者で愛人でもある堀切茂雄を一平の公認で自宅に住まわせていた。そのことについて、かの子は創作の為のプラトニックな友人であると弁明していたが、実際にはそうではなく、自身も放蕩経験がある一平は容認せざるを得なかった。後に岡本は「母親としては最低の人だった。」と語っているが、生涯、敬愛し続けた。 === 少年時代 === 家庭環境の為か、岡本は [[1917年]]([[大正]]6年)4月、東京[[青山 (東京都港区)|青山]]にある[[港区立青南小学校|青南小学校]]に入学するもなじめず一学期で退学。その後も[[日本橋大伝馬町|日本橋通旅籠町]]の私塾・日新学校、[[中央区立日本橋小学校|十思小学校]]へと入転校を繰り返したが、[[慶應義塾幼稚舎]]で自身の理解者となる教師、位上清に出会う。岡本はクラスの人気者となるも、成績は52人中の52番だった。ちなみにひとつ上の51番は後に[[国民栄誉賞]]を受賞した歌手の[[藤山一郎]]で、後年岡本は藤山に「増永(藤山の本名)はよく学校に出ていたくせにビリから二番、オレはほとんど出ないでビリ、実際はお前がビリだ」と語ったという。 絵が好きで幼少時より盛んに描いていたが、中学に入った頃から「何のために描くのか」という疑問に苛まれた。[[慶應義塾普通部]]を卒業後、画家になる事に迷いながらも、[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]]へ進学した。 === 滞仏生活とピカソの衝撃 === 一平が[[朝日新聞]]の[[特派員]]として、[[ロンドン海軍軍縮会議]]の取材に行くことになり、岡本も東京美術学校を休学後、親子三人にかの子の愛人の青年二人を加えた一行で渡欧。一行を乗せた箱根丸は[[1929年]]([[昭和]]4年)神戸港を出港、[[1930年]](昭和5年)1月にパリに到着。以後約10年間をここで過ごすことになる<ref group="注">1932年から1940年までの住所が確認され、川崎市岡本太郎美術館『岡本太郎と潜在的イメージ』展図録において[[佐々木秀憲]]によって論文「岡本太郎と潜在的イメージ」の中で発表された。1932‐33年がサン=アマン通り31番地(31 rue Saint-Amand)、1934‐35年がイボリット・マンドロン通り29番地(29 rue Hippolyte Maindron)、そして1936‐40年がエルネスト・クレッソン通り18番地(18 rue Ernest Cresson)であった。</ref>。 フランス語を勉強するため、パリ郊外の[[リセ]](日本の旧制中学に相当)の寄宿舎で生活。語学の習得の傍ら、1932年頃、[[パリ大学]](ソルボンヌ大学)において[[ヴィクトール・バッシュ]]教授に美学を学んでいる。「何のために絵を描くのか」という疑問に対する答えを得るため、1938年頃から[[マルセル・モース]]の下で絵とは関係のない[[民族学]]を学んだといわれている。 [[1932年]](昭和7年)、両親が先に帰国することになり、パリで見送る。かの子は[[1939年]](昭和14年)に岡本の帰国を待たずに死去したため、これが今生の別れとなった。 同年、芸術への迷いが続いていたある日、たまたま立ち寄った[[ポール=ローザンベール画廊]]で[[パブロ・ピカソ]]の作品《水差しと果物鉢》<ref group="注">《水差しと果物鉢》(Pichet et coupe de fruits)。油彩画で[[1931年]]制作。現在は[[ソロモン・R・グッゲンハイム美術館]]に収蔵されている。</ref>を見て強い衝撃を受ける。そして「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになる。岡本は、この時の感動を著書『青春ピカソ』(1953年)において「私は抽象画から絵の道を求めた。(中略)この様式こそ伝統や民族、国境の障壁を突破できる真に世界的な二十世紀の芸術様式だったのだ」と述べている。 1932年、[[ジャン・アルプ]]らの勧誘を受け、美術団体[[アプストラクシオン・クレアシオン]]協会のメンバーとなる。そのメンバーには[[ピート・モンドリアン]]、[[ワシリー・カンディンスキー]]ら錚々たる大家がいた。岡本はその協会の年鑑で、「『形』でない形、『色』でない色をうち出すべきだ」とのメッセージを投げかけていた<ref name="『画文集 挑む』岡本太郎著、1977年、講談社文庫">『画文集 挑む』岡本太郎著、1977年、[[講談社]]文庫</ref>。 親交のあった[[戦場カメラマン]]の[[ロバート・キャパ]]の公私にわたる相方であった報道写真家[[ゲルダ・タロー|ゲルタ・ポホリレ]]に岡本の名前が1936年よりビジネスネーム、ゲルダ・タローとして引用された。しかしゲルダの活動期間はとても短く[[1937年]]に[[スペイン内戦]]の[[ブルネテの戦い]]の取材に向かったが、戦場の混乱で発生した自動車事故で受けた傷がもとで死去した。 1938年シュールリアリズムの創始者[[アンドレ・ブルトン]]制作の「シュール・レアリスム簡易辞典」<ref>『シュルレアリスム簡約辞典』アンドレ・ブルトン、[[ポール・エリュアール]]著、日本語版1971年江原順 訳 [[現代思潮新社]]{{ISBN2|978-4329001504}}</ref>に「傷ましき腕」が掲載された。 この絵画を契機に、岡本は美術団体[[アプストラクシオン・クレアシオン]]協会を脱退し、パリ大学ソルボンヌ校の哲学科に聴講生として通うようになる。さらに民族学科に移り、そこで文化人類学者[[マルセル・モース]]教授と出会い、彼の講義から多大な影響を受ける。やがて岡本は思想家[[ジョルジュ・バタイユ]]とも出会い、盟友として親交を深めた<ref name="『画文集 挑む』岡本太郎著、1977年、講談社文庫"/>。 === 兵役と戦後 === [[1940年]](昭和15年)、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|ドイツのパリ侵攻]]をきっかけに日本へ帰国する。帰国後、滞欧作《[[傷ましき腕]]》などを二科展に出品して受賞、個展も開く。 [[1942年]](昭和17年)、[[大東亜戦争]]下の軍備増強の為、[[役種#日本陸軍|補充兵役]][[召集]]され[[大日本帝国陸軍]]兵として[[日中戦争|中国戦線]]へ出征。岡本は最下級の[[二等兵|陸軍二等兵]]扱いだったが、高年齢である30代という事もあり、厳しい兵役生活を送ったと著書で回想している。また、この頃上官の命令で師団長の肖像画を描いている。 [[1945年]](昭和20年)、[[日本の降伏]]により太平洋戦争が終結。岡本は[[長安]]で半年ほど[[俘虜]]生活<ref>{{Wayback|url=http://www.taro-okamoto.or.jp/chorology.html|title=岡本太郎記念館-岡本太郎年表|date=20150717093618}}</ref>を経たのち帰国、佐世保から東京に到着するが、自宅と作品は焼失していた。東京都[[世田谷区]][[上野毛]]にアトリエを構え、ふたたび制作に励む。[[1947年]](昭和22年)、岡本は新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。 [[1948年]](昭和23年)、 [[花田清輝]]らとともに「[[夜の会]]」を結成。会の名は岡本の油彩画『夜』から取られた。前衛芸術について論じ合う会で、ほかに[[埴谷雄高]]、[[安部公房]]らが参加した。またこの頃、[[岡本敏子|平野敏子]]と出会った。敏子は後に秘書・養女となり、岡本が死去するまで支え続けた。 [[1950年]](昭和25年)には[[植村鷹千代]]と江川和彦、[[瀧口修造]]、阿部展也、[[古沢岩美]]、[[小松義雄]]、[[村井正誠]]、[[北脇昇]]、[[福沢一郎]]らと日本アヴァンギャルド美術家クラブ創立に参加 [[1951年]](昭和26年)11月7日、[[東京国立博物館]]で[[火焔土器|縄文火焔土器]]を見て衝撃を受ける。翌年、美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話―縄文土器論」を発表。この反響によって、日本美術史は縄文時代から語られるようになったともいわれている<ref>春原史寛「「縄文」は「芸術」か-岡本太郎の「縄文土器論」『縄文土器名宝展〜縄文芸術の到達展〜』山梨県立考古博物館、2011年</ref>。また[[琉球諸島]]や[[東北地方]]の古い習俗を紹介した。 [[1954年]](昭和29年)、東京都[[港区 (東京都)|港区]][[青山 (東京都港区)|青山]]に自宅兼アトリエを建て<ref group="注">友人の建築家・[[坂倉準三]]の設計による。ここで『燃える人』等の作品を生み出した。</ref>、生活と制作の拠点とする。同年、当時[[光文社]]社長だった[[神吉晴夫]]から、「中学2年生でも理解できる芸術の啓蒙書を書いてくれ」と依頼され、『[[今日の芸術]] 時代を創造するものは誰か』を執筆・出版。芸術は小手先の問題ではなく、生きることそのものであると説くとともに、従来の芸術観を批判し、ベストセラーになった。 === メキシコ滞在 === 1960年代後半、メキシコを訪れた岡本は、[[ダビッド・アルファロ・シケイロス]]<ref group="注">[[ラテンアメリカ]]を代表するメキシコの芸術家、活動家で、[[ディエゴ・リベラ]]、[[ホセ・クレメンテ・オロスコ]]と並ぶ、メキシコ3大壁画家とも呼ばれ、1910年の[[メキシコ革命]]後、1920 - 40年代に起こった[[メキシコ壁画運動]]の中心人物。壁画運動は、従来のヨーロッパ主義的な芸術ではなく、メキシコの[[先住民|先住民族]]や民衆に向けて、ルーツ回帰や歴史、人びとの結束を訴えるものであり、言葉が読めない人にも、壁画を見ただけでメッセージが伝わるように、公共の場に描かれることを基本としているのが特徴である。</ref>などによる壁画運動から大きな影響を受け、同地に滞在中、現地のホテル経営者から壁画の制作依頼を受ける。これがのちに岡本の代表作のひとつとされる『[[明日の神話]]』となる<ref>[http://tabizine.jp/2014/04/01/8083/]</ref>。 === 太陽の塔 === [[File:131116 Tower of the Sun Expo Commemoration Park Suita Osaka pref Japan01s3.jpg|thumb|240px|太陽の塔]] {{main|太陽の塔|明日の神話}} [[1970年]](昭和45年)に大阪で[[日本万国博覧会|万国博覧会]]が開催されることが決まり、[[経済産業省|通産官僚]]の[[堺屋太一]]ら主催者(国)は紆余曲折の末、テーマ展示のプロデューサー就任を要請した。岡本は承諾すると、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」と構想を練り、出来上がったのが『[[太陽の塔]]』であった。 この日本万国博覧会は各方面に影響を与えた。[[1975年]](昭和50年)、『太陽の塔』の永久保存が決定。現在も大阪万博のシンボルとして愛されている。 同時期に制作されたのが、前述の『明日の神話』であり、制作依頼者である実業家の破産の影響で長らく行方不明となっていたが、21世紀に入り発見される<ref name="壁画発見">{{cite news |author=中川史 |title=岡本太郎の「幻」壁画発見 「明日の神話」核テーマ、35年ぶり メキシコ |date=2003-09-12 |newspaper=朝日新聞 |page=夕刊1面}}</ref>。 === テレビの人気者として === 岡本は、テレビ放送草創期の1950年代から当時のバラエティ番組であったクイズ番組などに多数出演している。 1970年代以降には、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[バラエティ番組]]『[[鶴太郎のテレもんじゃ]]』にレギュラー出演。冒頭で[[リヒャルト・シュトラウス]]『[[ツァラトゥストラはこう語った|ツァラトストラはかく語りき]]』を鳴り響かせ、[[ドライアイス]]の煙が立ちこめる中から、'''「芸術は爆発だ」「何だ、これは!」'''などと叫びながら現れる演出が人気を博すと、これらのフレーズは流行語にもなった<ref group="注">そのインパクトの強さからお笑いタレントにモノマネされるなど、当時の岡本は世間からは「エキセントリックなおじさん」と認識されることにもなったが、本人はそれを喜んでいた。</ref>。また番組内で出演した子供たちの絵を批評、眼鏡に適う作品を見出した際には、目を輝かせた。さらに、この番組内で共演した[[片岡鶴太郎]]の芸術家としての才能を見出している。 1987年(昭和62年)にはテレビドラマにも出演。[[日本放送協会|NHK]]『[[ばら色の人生 (テレビドラマ)|ばら色の人生]]』に俳優(学校校長役)としてレギュラー出演した。 === 晩年、没後 === [[File:TaroOkamoto-Memorial-Museum.jpg|thumb|240px|南青山にある岡本太郎記念館]] [[File:Taro Okamoto Museum3a.jpg|thumb|240px|川崎市多摩区桝形にある川崎市岡本太郎美術館]] 老いを重ねても岡本の創作意欲は衰えず、展覧会出品などの活動を続けていたが、80歳のときに自身が所蔵するほとんどの作品を[[川崎市]]に寄贈。市は[[美術館]]建設を計画する。 [[1996年]](平成8年)[[1月7日]]、以前から患っていた[[パーキンソン病]]による[[呼吸不全|急性呼吸不全]]により[[慶應義塾大学病院]]にて死去した(満84歳没)<ref name="ismedia" />。生前「死は祭りだ」と語り、葬式が大嫌いだった岡本に配慮し、葬儀は行われず、翌月2月26日にお別れ会として「岡本太郎と語る広場」が[[草月会館]]で開かれる。会場には作品が展示され、参加者たちは別れを惜しんだ。墓所は[[多磨霊園]]にあり、同地の父・一平、母・かの子の墓碑の対面に太郎の墓が建てられ、墓石として1967年に太郎が制作した像・『'''午後の日'''』の複製が据えられている。 [[1998年]](平成10年)、青山の岡本の住居兼[[アトリエ]]が[[岡本太郎記念館]]として一般公開された。 [[1999年]](平成11年)10月30日、[[川崎市岡本太郎美術館]]が開館(川崎市多摩区桝形の生田緑地内に所在)。 [[2003年]](平成15年)、メキシコで行方不明になっていた『[[明日の神話]]』が発見された。[[愛媛県]][[東温市]]で修復されたのち、[[2006年]](平成18年)、[[汐留]]日テレプラザで期間限定で公開、再評価の機運が高まる。現在は[[京王井の頭線]][[渋谷駅]]連絡通路に設置され、[[パブリックアート]]として新たな名所となった。 [[2011年]](平成23年)、「生誕100年 岡本太郎」展が東京国立近代美術館で開催。 [[2013年]](平成25年)、「岡本太郎のシャーマニズム」展が川崎市岡本太郎美術館で開催された。これに併せて学術団体協力による学術シンポジウムが開催され、1950年頃以降の創作活動に宗教学者[[ミルチャ・エリアーデ]]の思想が影響を及ぼしていたことが確認された。 [[2014年]](平成26年)、「岡本太郎と潜在的イメージ」展が川崎市岡本太郎美術館で開催された。これは、スイス・ジュネーヴ大学教授の[[ダリオ・ガンボーニ]]博士の著書『[[潜在的イメージ]]』に基づいて構成されたものであり、岡本の芸術を西洋近現代美術史の観点から検証した初の展覧会であった(佐々木秀憲「岡本太郎と潜在的イメージ」)。 [[2022年]](令和4年)、<!-- 生誕110周年を兼ねて、 -->「展覧会 岡本太郎」が[[大阪中之島美術館]]・[[東京都美術館]]・[[愛知県美術館]]の順で開催<ref>[https://taro2022.jp 展覧会 岡本太郎]</ref>。新しく発見された岡本太郎の作品。「作品A」「作品B」「作品C」が展示された。 == 人物 == === 人生の転機 === [[ジョルジュ・バタイユ]]との出会いが岡本の一生を変えたと述懐している<ref>「自分の中に毒を持て」(岡本太郎著 青春出版)</ref>。1936年、コントル・アタックの集会に参加、アンドレ・ブルトンやモーリス・エイヌに続き、バタイユが、人間の自由を抑圧する全体主義批判の演説をすると「素手で魂をひっかかれたように感動した」。岡本はその後、バタイユを中心に組織された秘密結社に参加したが、思想上の相違から1939年頃に訣別したと岡本太郎は繰り返し述べている。 === 芸術観 === {{出典の明記|date=2011年2月|section=1}} * 芸術一家に生まれ、既存概念にとらわれる事がなく育つ。人間としての自由や権利を阻害する者、権威を振りかざす者、かさにかかって押さえつけようとする者には徹底的に反抗した。この反逆児ぶりは生涯貫いており、またそれが創作への情熱にもなった。 * 東京美術学校(現在の東京藝術大学)油絵科の入試対策として、[[川端画学校]]に通いアカデミックな絵画技法を修得した。また、パリ滞在のごく初期である1930年頃にも、パリの画学校である[[アカデミー・ランソン]]や、[[グランド・ショーミエール]]に通い、技術の修得に努めている。 * 著書『[[今日の芸術]]』<ref>'''岡本太郎'''『今日の芸術』光文社、2012年10月15日。</ref>の中で、芸術は「うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」<ref>'''岡本太郎'''[2012年]『今日の芸術』、p.98。</ref>と宣言している。これは手先の巧さ、美しさ、心地よさは、芸術の本質とは全く関係がなく、むしろいやったらしさや不快感を含め、見る者を激しく引きつけ圧倒することこそが真の芸術と説いている。 *「'''職業は人間'''」「'''芸術は爆発だ'''」「'''芸術は呪術だ'''」「'''グラスの底に顔があっても良いじゃないか'''」などと発言した事でも知られる<ref group="注">最晩年には、「爆発は今も続いている」という言葉も残している。</ref>。 * 自らの作品をガラス越しで展示されるのを嫌った。国立近代美術館で展示中だった《コントルポアン》を傷つけられたことがあり、それ以降関係者がガラス越しでの展示を提案すると太郎は激怒して、「傷がつけば、俺が自ら直してやる」と言ったという。露出した状態で作品を展示するというスタンスは岡本の死後も継承されており、駅ビルのような位置づけである[[渋谷マークシティ]]の連絡通路に設置された《[[明日の神話]]》も、電車の微振動や往き来する多数の乗降者、気温・湿度の変化にも晒される劣悪な環境でありながら、何の防護措置も施されずに展示されることになった。2023年2月23日には、愛知県美術館で展示中だった太陽の塔の雛型が、観覧者に壊され一部が損傷した<ref>{{cite news|url=https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/26827 |title=愛知県美術館で作品損壊行為。岡本太郎の《太陽の塔(1/50)》に傷|author= 編集部|date=2023-2-25|publisher=[[美術手帖]]|accessdate=2023-5-21}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20230224-OYT1T50174/ |title=「太陽の塔」50分の1サイズを手で殴り壊す、会社員の男逮捕…岡本太郎さんの作品|author= |date=2023-2-24|publisher=[[読売新聞]]|accessdate=2023-5-21}}</ref>。 === 恋愛観 === * [[プレイボーイ]]としても名を馳せ、封建かつ閉塞的な男女関係をことに嫌い、徹底した[[フェミニスト]]・ロマンティストであった<ref group=" " name="岡本太郎が、いる" >新潮社「岡本太郎が、いる」"フェミニスト・自由人"より</ref>。女性を見下したりすれば、たとえ相手が誰であろうと激しく叱責した<ref group=" " name="岡本太郎が、いる" >新潮社「岡本太郎が、いる」"フェミニスト・自由人"より</ref>。 * 生涯独身を通した一方で多くの女性との恋愛を志向した。男女の関係であった秘書の[[岡本敏子]]を妻ではなく養女として縁組したことについては、例えば評論家の[[浅田彰]]はパリ帰りの岡本なりのダンディズムと評している。 === スポーツ === スキー・テニス・水泳など瞬発力を要するスポーツを好み、野球なども巨人の[[千葉茂 (野球)|千葉茂]]や[[中西太]]らと共に興じた。 [[スキー]]は、親交があった[[三浦雄一郎]]から賞賛されるほどの腕前だった。太郎はスキーの魅力について「どんな急斜面でも[[直滑降]]で滑るのがスキーの醍醐味だ」と語っている。スキーを始めた頃、急斜面コースで上級者が滑っているのを見た太郎は、どんな絶壁なのかと思い登ってみると、実際目もくらむほどの高さであった。後に引くことが許せない性格の太郎はその急斜面に挑戦した。結果は大転倒したが、太郎自身その経験をこう語っている。 {{cquote2|「決意して、滑りはじめ、歯を食いしばって突っ込んで行った。とたんに、ステーンと、凄い勢いで転倒した。頭から新雪の中にもぐってしまい、何も見えない。だが嬉しかった。何か自分が転んだというよりも、僕の目の前で地球がひっくりかえった、というような感じ。地球にとても親しみを覚えた」}} また、岡本は当時流行していた白いスキー板と白いウェアに対抗して、カラフルなデザインの板とウェアを作ったり、自らのスキー体験を綴った「岡本太郎の挑戦するスキー」([[講談社]]、絶版)という本も出版している。 === ピアノ === 岡本は1930年代の滞欧時代からピアノに親しみ、芸術家仲間の集まりでもよく弾いたという。とくにモーツァルトの作品を好み、帰国後もアトリエにピアノを置き、制作の合間にクラシックやジャズなどを弾いた。その腕前はプロ級と言われており、演奏はほとんどが暗譜であったという。岡本がピアノを弾いた映像はいくつか残されており、[[1978年]](昭和53年)にはドキュメンタリー番組『[[もうひとつの旅]]』([[毎日放送]])の撮影のため、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]ゆかりの地[[マヨルカ島]]を訪れ、作曲家の使用したピアノを弾く映像がテレビ放映された。 === その他 === [[File:Okamoto Taro cooks stakes.JPG|thumb|180px|ビーフステーキを調理中(1954年)]] * 身長156&nbsp;cmとかなりの小柄であった。(1940年頃の日本人男性の平均身長は、約160&nbsp;cmであった) * それまで全く面識がなかった[[千葉茂 (野球)|千葉茂]]に偶然出会った際、お互い「やあやあ」という感じで話し始め、それをきっかけに交友がはじまったという。これが縁となり後日千葉が[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファロー]](後のバファローズ)の監督に就任した際、太郎に球団マークの制作を依頼し「猛牛マーク」が生まれる。シーズンは103敗と散々な結果に終わるが、球団帽の売り上げは巨人に次いで2位だったという。 * [[1964年]](昭和39年)に開かれた[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]で、デザインの仕事を依頼される。当初「選手として参加するのか」と勘違いした <ref>[[岡本敏子]]の談話による。</ref>。そして参加メダルの表側を手がけた(裏側のデザインは[[田中一光]])<ref>[http://www.jpnsport.go.jp/muse/annai/tabid/65/Default.aspx 所蔵品の紹介] - 秩父宮記念スポーツ博物館・図書館</ref>。 * 著書『日本の伝統』のための取材以来、岡本にとっての関西方面のコーディネーターとなった人物に淡交社の[[臼井史朗]]がいた。 * [[司馬遼太郎]]は、岡本から大阪万博プロデューサーを引き受けるべきか否かの相談を受け、就任するよう強く薦めた。 *岡本は東京・[[日本堤]]にある老舗[[馬肉]]料理店「中江」の常連であり、店主に「僕がフランスで食べた馬肉の[[タルタルステーキ]]をこの店でも食べられるようにしてくれ」と提案・依頼し、馬肉のタルタルステーキがメニューに加えられるようになった。このタルタルステーキは岡本の名をとって「'''タロタロユッケ'''」と名付けられている。 * じっとしていられない性質で、[[TBSラジオ]]「[[久米宏]]の[[土曜ワイドラジオTOKYO]]」のインタビュー・コーナー「有名人のお宅訪問」に出演した際には、コマーシャルなどの待ち時間に耐えられず、いきなり、裸足で庭へ飛び出して「まだかあ」と叫んだり、2階へ駆けあがってピアノを弾いたり、また1階に戻ってソファに腰かけたあと庭に飛び出し、大きなオブジェをがんがん叩いたり、削ったりしていて、インタビュワーの[[吉川美代子]]はその[[オーラ]]を感じると共に、笑いを堪えるのに必死だったという<ref>[[吉川美代子]]著『アナウンサーが教える 愛される話し方』、[[朝日新書]]、[[2013年]] 31〜32頁</ref>。 * 写真家の[[荒木経惟]]は、尊敬する人物に岡本の名前を挙げている。好きで好きで堪らなかったが遂にはレンズを向ける機会に恵まれなかった。[[1999年]](平成11年)に『アラーキーのTARO愛 岡本太郎への旅』を上梓。[[2006年]](平成18年)より、太郎の正体をつかむ為にその作品をカメラに収めることを決意した。 * [[鳥取県]][[米子市]]の[[野坂寛治]]元市長と親交があった。同市の教育長であった[[安田光昭]]の回想録『「あの人この人」私の交友録』に、二人の交流についての記述がある。 *《犬の植木鉢》は1954年11月19日に常滑の伊奈製陶にて3体制作され、そのうち2体は岡本太郎記念館蔵、残る1体は川崎市岡本太郎美術館蔵となっている。なお、1955年1月7日付けの同社からの製品の発送通知が確認されており、制作時の岡本を写したスナップショットも残されている。 *没後の再評価とブームは、岡本太郎の秘書であり養女であった岡本(旧姓平野)敏子の尽力に負うところが大きかったが、敏子の歿後2011年以降の研究においては、美術[[様式]]論および[[図像解釈学]]などを用いた美術史学的な研究と展覧会が展開されている。 == 年譜 == * [[1911年]]([[明治]]44年)[[2月26日]]、母の実家である[[神奈川県]][[橘樹郡]]高津村[[二子]]/現在の[[川崎市]][[高津区]][[二子]]に生まれる。 * [[1917年]]([[大正]]6年) 東京・青山の[[港区立青南小学校|青南小学校]]に入学 * [[1918年]](大正7年) 2回の転校ののち、東京・渋谷の[[慶應義塾幼稚舎|慶應幼稚舎]]に入学。 * [[1929年]]([[昭和]]4年) ** [[慶應義塾普通部]]を卒業、東京美術学校(現在の[[東京芸術大学美術学部]])洋画科入学、半年後中退。 ** 父の[[ロンドン軍縮会議]]取材に伴い、渡欧。その後、[[パリ大学ソルボンヌ校]]で[[哲学]]・[[美学]]・[[心理学]]・[[民族学]]を学ぶ。 * [[1936年]](昭和11年) 油彩『傷ましき腕』を制作。 * [[1940年]](昭和15年) パリ陥落の直前に帰国。 * [[1942年]](昭和17年) 海外に在住していたために延期されていた[[徴兵検査]]を31歳にして受け、甲種合格。召集され、中国にて自動車隊の輜重兵として軍隊生活を送る。 * [[1945年]](昭和20年)5月、東京・南青山高樹町一帯を襲ったアメリカ軍の焼夷弾による空襲により、岡本太郎のパリ時代の全作品が焼失。 * [[1946年]](昭和21年) 復員、[[東京都]][[世田谷区]]上野毛にアトリエを構える。 * [[1947年]](昭和22年) 後に養女となる平野(旧姓)敏子と出会う。 * [[1948年]](昭和23年) [[花田清輝]]、[[埴谷雄高]]らと「[[夜の会]]」結成。 * [[1949年]](昭和24年) 翌年の現代美術自選代表作十五人展のために、読売新聞美術記者・海藤日出男のたっての希望により、戦災で焼失した油彩画『傷ましき腕』『露天』を再制作。 * [[1950年]](昭和25年) [[読売新聞]]主催の[[現代美術自選代表作十五人展]]に11作品を出品。 * [[1951年]](昭和26年) [[東京国立博物館]]で縄文土器を見る(11月7日)。 * [[1952年]](昭和27年) 「四次元との対話-縄文土器論」を美術雑誌『みずゑ』に発表する。11月に渡欧。翌年にかけてパリとニューヨークで個展を開く。 * [[1954年]](昭和29年) アトリエを青山に移し「現代芸術研究所」を設立。『今日の芸術』を[[光文社]]からはじめて刊行。 * [[1955年]](昭和30年) ヘリコプターで銀座の夜空に光で絵を描く。 * [[1956年]](昭和31年) 旧東京都庁舎([[丹下健三]]設計)に『日の壁』『月の壁』など11の陶板レリーフを制作。 * [[1957年]](昭和32年) 46歳にして[[スキー]]を始める。 * [[1959年]](昭和34年) 初めて沖縄に旅行する。またこの年から彫刻を始める。 * [[1961年]](昭和36年) [[草津白根山]]でスキー中に骨折入院(同じ病院には[[石原裕次郎]]が入院していた)。療養中に油彩『遊ぶ』、彫刻『あし』を制作。『忘れられた日本――沖縄文化論』が[[毎日出版文化賞]]受賞 * [[1964年]](昭和39年) [[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]の参加メダルの表側をデザイン。 * [[1965年]](昭和40年) [[名古屋市|名古屋]]・[[久国寺]]の梵鐘『歓喜』制作。 * [[1967年]](昭和42年) 大阪万国博覧会のテーマ展示プロデューサーに就任。 * [[1968年]](昭和43年) 初めての建築作品《マミ会館》が竣工。 * [[1969年]](昭和44年) 1968年から制作が開始されていた『[[明日の神話]]』完成。 * [[1970年]](昭和45年) 大阪の[[日本万国博覧会]]のテーマ展示館『[[太陽の塔]]』完成。 * [[1973年]](昭和48年) 岡本太郎デザインの飛行船レインボー号が空を飛んだ。スポンサーは[[積水ハウス]]。 * [[1974年]](昭和49年) [[NHK放送センター]]・ロビーにレリーフ壁画『天に舞う』制作。 * [[1976年]](昭和51年) キリン・シーグラムから発売されたブランデーの記念品として《顔のグラス》を制作。「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」が流行語になる。 * [[1977年]](昭和52年) スペイン国立版画院に、日本人作家として初めて銅版画が収蔵される。 * [[1978年]](昭和53年) [[MBSテレビ|毎日放送]]のテレビ番組『[[もうひとつの旅]]』撮影のために訪れた[[マヨルカ島]]で、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]が使用したピアノを弾く。 * [[1979年]](昭和54年) [[慶應義塾大学]]の卒業記念品として[[ペーパーナイフ]]を制作。はじめての著作集が[[講談社]]から翌年にかけて刊行される。 * [[1981年]](昭和56年) 初めてコンピューターで絵を描く。[[日立マクセル]]のCMに出演。ピアノを叩き叫んだ言葉「芸術は爆発だ!」が同年の[[流行語大賞]]の語録賞を受ける。 * [[1982年]](昭和57年) 慶和幼稚園(名古屋市港区)の新園舎の竣工にあたり、遊戯室にモザイク壁画『あそび』を制作。 * [[1984年]](昭和59年) フランス政府より[[芸術文化勲章]]オフィシエを受章。 * [[1985年]](昭和60年) [[国際科学技術博覧会|つくば万博]]のシンボルモニュメント《未来を視る》を制作。あわせて万博記念発売の洋酒ボトルをデザインする。[[こどもの城]]のシンボルモニュメント、《こどもの樹》を制作。 * [[1986年]](昭和61年) [[福井県]][[三方町]]で復元された縄文前期の丸木舟の進水式で舟長として舟を漕ぐ。 * [[1988年]](昭和63年) [[ダスキン]]のCMに出演。翌年アメリカの第29回国際放送広告賞を受賞。 * [[1989年]]([[平成]]元年) フランス政府より芸術文化勲章コマンドゥールを受章。 * [[1991年]](平成3年) 東京都庁舎移転のため、旧庁舎に設置されていた1956年作の陶板レリーフが取り壊される。 * [[1992年]](平成4年) 油彩『疾走する眼』制作。 * [[1994年]](平成6年) [[三重県]]で開催される世界祝祭博覧会のシンボルモニュメント『であい』制作。 * [[1996年]](平成8年)1月7日 急性呼吸不全のため[[慶應義塾大学病院]]で、死去(満84歳没)。 === 没後 === * [[1998年]](平成10年) 青山の住居兼アトリエ跡に[[岡本太郎記念館]]が開館。 * [[1999年]](平成11年) 神奈川県川崎市[[多摩区]]の[[生田緑地]]内に[[川崎市岡本太郎美術館]]開館。 * [[2005年]](平成17年) 養女・[[岡本敏子]]死去(79歳)。 * [[2006年]](平成18年) ** [[7月7日]] 壁画《[[明日の神話]]》が[[汐留]][[日本テレビ放送網|日テレ]]プラザにて初公開される。これを機に岡本太郎ブームが再燃する(Be TAROと呼んでいる)。 ** [[11月28日]] 約60年間行方不明になったものと思われていた1947年(昭和22年)制作の油彩画『電撃』と、敏子をモデルとしたと見られる未発表の女性のデッサン画が発見される。 ** [[11月29日]]『電撃』を修復前に一般公開。 * [[2007年]](平成19年)[[2月15日]] 『明日の神話』の下絵(縦29センチ、横181.5センチ)が、岡本太郎記念館(東京都港区)で発見される。 * [[2008年]](平成20年)3月 『明日の神話』の恒久設置場所が東京都[[渋谷区]]の[[京王井の頭線]][[渋谷駅]]連絡通路に決まる。同年11月17日より一般公開開始。 * [[2011年]](平成23年)1月 太郎の生誕100年を記念し出身地の川崎市を本拠地とする[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]所属の[[川崎フロンターレ]]がユニホームデザインの一部として、生前に製作したデザイン文字「挑」を採用することを発表。 == 主な作品 == === 平面作品 === ※所蔵先記載無は、川崎市岡本太郎美術館蔵 * 敗惨の歎き([[1924年]])- 現存する太郎の最古の作品。 * 空間(油彩、[[1933年]])- 戦災により焼失し、1954年に再制作された。 * コントルポアン(油彩、[[1935年]]、[[東京国立近代美術館]]蔵) - 戦災により焼失し、1954年に再制作された。 * 傷ましき腕(油彩、[[1936年]])- 戦災により焼失し、1949年に再制作された。 * 露店(油彩、[[1937年]]、[[グッゲンハイム美術館]]蔵) - 戦災により焼失し、1949年に再制作された。 * 憂愁(油彩、[[1947年]]、草月美術館蔵) * 重工業(油彩、[[1949年]]) * 赤い兎(油彩、1949年、[[富山県立近代美術館]]蔵) * 森の掟(油彩、[[1950年]]) * 燃える人(油彩、[[1955年]]、東京国立近代美術館蔵) * 裂けた顔(油彩、[[1960年]]) * 遊ぶ(油彩、[[1961年]]、東京国立近代美術館蔵) * 装える戦士(油彩、[[1963年]]) * 愛撫(油彩、[[1964年]]) * 千手(油彩、[[1965年]]) * [[明日の神話]](油彩、[[1968年]])- 渋谷マークシティの連絡通路に設置 * 哄笑(油彩、[[1972年]]) * 記念撮影(油彩、[[1975年]]) * 黒い太陽(リトグラフ、[[1979年]]) * 遭遇(油彩、[[1981年]]) * 森の家族(油彩、[[1983年]]) * 疾走する眼(油彩、[[1992年]]、岡本太郎記念館蔵) === 立体作品 === * 顔(陶、[[1952年]])- 全部で3点制作され、うち1点が一平の墓碑となっている。 * 日の壁・月の壁(陶、[[1956年]])- 旧[[東京都庁]]陶板レリーフ<ref group="注">これらのレリーフ計11点は、1957年に都庁舎が建てられた際、1階正面ロビーや中二階などに設置された。特に、1階正面ロビーの「日の壁」は縦横7×6メートルの壁面を覆い、来庁者がまず目にする「都庁の顔」ともいうべき作品だった。1991年に都庁舎を解体する際、作品の材質や傷みを理由にいったんは廃棄が決まり、太郎も了承したが、[[瀬木慎一]]らが反対。最終的に太郎が個人的に引き取ることとなった。(朝日新聞 1991年3月10日 朝刊31面より)</ref> * 無籍動物([[1959年]]) - 長野県戸倉町の温泉施設「白鳥園」の敷地内に展示されている。 * 坐ることを拒否する椅子([[陶器]]、[[1963年]]) * 梵鐘・歓喜(ブロンズ、[[1965年]]) - 名古屋の久国寺境内に梵鐘として吊るされている。 * [[若い時計台]](コンクリート、アルミニウム、[[1966年]])- 銀座数寄屋橋公園内に設置。 * [[太陽の鐘]](ブロンズ、1966年) - [[静岡県]][[田方郡]][[韮山町]](現在の[[伊豆の国市]])の日通[[伊豆富士見ランド]]に設置されていた。1999年の閉園後、[[日本通運]]が保管していたが、2017年に[[群馬県]][[前橋市]]への寄贈が決まり、2018年に広瀬川河畔緑地に設置された。 * 午後の日(ブロンズ、[[1967年]])- [[東京都立多磨霊園]]にある岡本太郎の墓碑にもなっている。 * 生誕 - [[黒川紀章]]が設計し1967年竣工した[[山形県]][[寒河江市|寒河江]]市役所のシャンデリアとして寄贈した。市役所5階部吹き抜け天井から鎖で吊るされ2階ホールに常設。 * マミフラワー会館(鉄筋コンクリート建築、[[1968年]])- フラワーデザイナー・マミ川崎の依頼で大田区山王に竣工されたが、建替えのため現存していない。 * [[若い太陽の塔]]([[1969年]])- 愛知県[[犬山市]]の[[日本モンキーパーク]]内に現存する。 * 緑の太陽(陶板、1969年)- 大分県別府市田の湯町サンドラッグビルの陶板壁画。信楽焼のタイルを使用しており、現在でも色褪せずに残っている。JR[[別府駅 (大分県)|別府駅]]ホームからも見ることができる。<ref>{{Cite web|和書|title=緑の太陽|url=https://www.visit-oita.jp/spots/detail/5881|website=ツーリズムおおいた|accessdate=2023-05-04|language=ja}}</ref> * [[太陽の塔]](鉄筋コンクリート、強化プラスチック、ガラス、陶板、[[1970年]]) - [[日本万国博覧会]](大阪万博)のお祭り広場に設置され、[[大屋根 (大阪万博)|大屋根]]への階段となっていた。[[万博記念公園]]に現存。 * 母の塔(1970年)太陽の塔の西側にあった。大屋根と共に撤去されたため、現存していない。 * 青春の塔(1970年)太陽の塔の東側にあった。母の塔と同じく、大屋根と共に撤去されたため現存していない。 * ノン(FRP、1970年) * [[オリエンタル中村百貨店|オリエンタル中村(現・名古屋三越 栄店)]]光るレリーフ大壁画([[1971年]])- [[三越]]改称時に撤去されたため現存していない。 * 樹人(FRP、[[1971年]])- パリのフォーブール・サントノレ通りの芸術祭「街の美術館」で、祭りの王様に選ばれた。岡本太郎記念館、川崎市岡本太郎美術館、箱根彫刻の森美術館、山梨県立美術館に常設されている。 * 躍進(陶、[[1972年]])- [[岡山県]]の民放である[[RSKホールディングス|山陽放送]](現在の[[RSK山陽放送]])の依頼で[[山陽新幹線]][[岡山駅]]開業の際に制作された陶板壁画。「山陽放送の広告」という名目で設置され長年待ち合わせ場所として親しまれた。2019年に撤去され、整備の後[[2020年]]に竣工した山陽放送新社屋に移設された。 * 若い泉(アルミニウム、[[1974年]])- バーズタウン(姫路市夢前町)内に現存する噴水。 * 千手(アルミニウム、[[1975年]]) * 歓び(ブロンズ、1978年)- [[持田製薬]]本社ビル玄関前。 * [[足あと広場]](造園、1978年)- [[広島県]][[福山市]]松永町[[日本はきもの博物館]]中庭に造成。 * [[椎名麟三]][[文学碑]](石、1980年) - [[兵庫県]][[姫路市]][[圓教寺 (姫路市)|圓教寺]]東谷 * 河童像(FRP、1981年) * 縄文人(ブロンズ、[[1982年]]) * 神話([[1982年]]) - [[島根県]][[松江市]][[松江総合運動公園]]モニュメント。 * 夢の樹(アルミニウム、1983年) - [[栃木県]][[鹿沼市]]の鹿沼市民文化センターのシンボルモニュメント<ref name="st2206">{{Cite web|和書|url=https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/595868|title=駅前で「強烈な存在感」 8000万円かけた岡本太郎作品が鹿沼にあった|publisher=下野新聞|date=2022-06-03|accessdate=2023-03-01}}</ref><ref name="nhk2301">{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/utsunomiya/lreport/article/000/14/|title=鹿沼の緑に魅せられた 岡本太郎の『夢の樹』|author=川上寛尚|work=[[とちぎ630]]|publisher=[[NHK宇都宮放送局]]|date=2023-01-30|accessdate=2023-03-01}}</ref>。岡本の生誕100周年記念として2012年に[[東武日光線]][[新鹿沼駅]]ロータリーに移設<ref name="st2206"/><ref name="nhk2301"/>。 * 未来を視る(FRP、[[1985年]])- [[国際科学技術博覧会|つくば科学万博]]のシンボルモニュメント。[[2005年]]に[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]][[万博記念公園駅 (茨城県)|万博記念公園駅]]前に移設。 * こどもの樹(FRP、1985年)- [[こどもの城]]のシンボルモニュメント。[[2015年]]のこどもの城閉館後も同地に残っている。土地と建物を購入予定の東京都によると、購入後も敷地で活用予定とのこと<ref>{{Cite web|和書|title=東京)岡本太郎作品の「こどもの樹」、都が残す方針表明:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASM3F5CT5M3FUTIL027.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2020-10-27|language=ja}}</ref>。 * 太陽(1985年)- 9月に[[そごう横浜店]]のオープンに合わせて屋上に建立された、万博の太陽の塔とは直接関係のないオリジナルのモニュメント。 * 平和を呼ぶ像([[1988年]])- 10月に[[船橋市]]の平和都市宣言記念シンボル像として建立。[[アンデルセン公園]]内に存在。 * 未来を拓く塔(1988年)- [[ぎふ中部未来博]]のシンボルとして建立。跡地に作られた[[岐阜メモリアルセンター]]内に現存。 * 母の塔(原作) * 喜び(ブロンズ、1985年) - [[川崎市立藤崎小学校]]創立30周年記念作品。『赤いリボンの少女』などと呼ばれていたこともある。 * 森の神話([[1991年]]) - 青森県奥入瀬渓流ホテルのロビーに展示されている<ref name="リゾートホテル|星野リゾート 奥入瀬渓流ホテル 【公式】">{{Cite web|和書|title=リゾートホテル|星野リゾート 奥入瀬渓流ホテル 【公式】|url=https://www.oirase-keiryuu.jp/|website=リゾートホテル|星野リゾート 奥入瀬渓流ホテル 【公式】|accessdate=2020-10-27|language=ja}}</ref>。 * 躍動の門([[1993年]]) - 浦安市運動公園 * 河神(アルミ合金、[[1995年]])- 青森県奥入瀬渓流ホテル内の暖炉彫刻<ref name="リゾートホテル|星野リゾート 奥入瀬渓流ホテル 【公式】"/>。 * 花炎(陶、1995年)- 1996年7月、佐賀県[[有田町]]において開催されたジャパン・エキスポ「世界炎の博覧会」の記念モニュメント。敏子と太郎の助手を務めていた職人のサポートを得て完成した<ref>『岡本太郎が、いる』</ref>。会期終了後、跡地は「歴史と文化の森公園」となり現在に至る<ref>{{Cite web|和書 |url=https://goldnews.jp/photo/kyusyu/entry-3206.html |title=岡本太郎氏の遺作モニュメント「花炎」 有田・歴史と文化の森公園 |access-date=2023-12-01 |publisher=キャピタル・エフ |website=GOLDNEWS(ゴールドニュース) |archive-date=2023-11-19 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231119101214/https://goldnews.jp/photo/kyusyu/entry-3206.html}}</ref>。 === 詩とデッサン === 『綜合文化』(1948年7月) *『原色の呪文』収録 * 憂愁 * 赤い兎 * 夜明け * 時計 === インダストリアル・デザイン === * [[宇宙人東京に現わる]](映画、[[1956年]])- 色彩指導や宇宙人のデザインを担当。 * [[近畿日本鉄道]] [[ラビットカー]]([[近鉄6800系電車]]など)シンボルマーク「ラビットマーク」([[1957年]])- 日本で初めての高加減速車両のマーク<ref>[[JTBパブリッシング]] JTBキャンブックス「近鉄電車」[[三好好三]]著 P.195掲載の近鉄6800系の記事</ref>。当時は鉄道関連のマークに著名画家を採用する例は極めて少なかった。 * [[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファロー]]球団シンボルマーク([[1959年]])- [[近物レックス|近鉄物流]]のマークとしても使われた。 * 映画タイトル[[ロゴタイプ|ロゴ]]「母」([[1963年]])- [[新藤兼人]]監督作品。[[東宝]]配給。 * 映画タイトルロゴ「鬼婆」([[1964年]])- [[新藤兼人]]監督作品。[[東宝]]配給。 * [[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]参加メダル (1964年) * 卓上ライター《火の接吻》([[1969年]]) * [[オリエンタル中村百貨店|オリエンタル中村(現在の名古屋三越 栄店)]]光るレリーフ大壁画のデザインを用いた包装紙([[1971年]]) * [[1972年札幌オリンピック|札幌オリンピック]]記念メダル(ブロンズ、[[1972年]]) * TAROきもの(和服デザイン、[[1975年]])- 京都じゅらくより発売。 * ウィスキー・グラス《顔》([[1976年]])- [[キリンディスティラリー|キリンシーグラム]]より[[ノベルティ]]として3月と9月に2種類頒布。岡本自身もテレビCMに出演。 * ピッチャー《水差し男爵》(ガラス、1977年)- キリンシーグラムのノベルティ。 * ティーセット《夢の鳥》(磁器、1977年)- [[三郷陶器]]より発売。 * トランプ(1977年)- [[講談社]]より発売。 * 第23回 国際眼科学会シンボルマーク([[1978年]])- 同学会の記念切手のデザインも手がける。 * アイスペール《まつげ》(ガラス、1978年)- キリンシーグラムのノヴェルティ。付属の[[トング]]のデザインも手がける。 * [[ペーパーナイフ]]《いのち》([[ステンレス]]、[[1979年]])- [[慶應義塾大学]]の第121回卒業記念品(非売品)。製造は株式会社青芳製作所。 * 《お好み手皿》(ガラス、1979年) - キリンシーグラムのノベルティ。 * 《TARO鯉》(鯉のぼり、[[1981年]])- 「[[東レ]]」と、[[こいのぼり]]の老舗「太郎鯉」との共同企画。 * ネクタイ([[1982年]])-「菱屋」から発売。 * 芝栄太楼看板書体(1984年)- ビル名看板及び店舗看板の書体デザイン製作。 * [[日本電信電話公社|電電公社]] [[テレホンカード]]([[1982年]]12月)-テレホンカード第1号をデザイン。 * 《人間ボトル》(陶、[[1985年]])- [[キリンシーグラム]]製[[ブランデー]]『シャトラン』と、[[ウィスキー|モルトウィスキー]]『エンブレム』の2種類の洋酒ボトル・デザイン。[[国際科学技術博覧会|つくば万博]]記念発売。 * レコードジャケット・デザイン(1985年)- 8月6日の広島平和コンサート開催記念頒布盤(非売品)<ref group="注">収録曲目は、[[レナード・バーンスタイン]]指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団およびイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団の演奏による、ベートーヴェン:交響曲第3番と、バーンスタイン:交響曲第3番。</ref> * 腕時計デザイン(EXCEED、[[1986年]])- [[シチズン時計]]の製品。岡本は同社のCMにも出演。 * [[JR]]発足記念メダル《出発》([[1987年]])- 銀製、銅製の2種類。 * 映画タイトルロゴ「神々の履歴書」([[1988年]])- [[前田憲二]]監督作品。「神々の履歴書製作委員会」配給。 * [[西日本鉄道]] [[夜行高速バス]]車両 ・車体デザイン(「[[どんたく号]]」・「[[はかた号]]」等、[[1989年]]) - 「どんたく号」と「はかた号」は、車両が変わった現在も同じ塗装を踏襲している。 * [[エキスポランド]]入場券の絵(年不明) * タロー書房ロゴ(1996年)- 書店ロゴデザイン製作。 === ギャラリー === <gallery widths="200px" heights="200px"> Uchujin Tokyo ni arawaru poster.jpg|『[[宇宙人東京に現わる]]』<br />同作ポスターに掲載された宇宙人パイラ人 2016-8-18-Yororailwayー606.jpg|《ラビットマーク》<br />[[養老鉄道]]の復刻ラビットカー600系 Kyukoku-ji 20180917-01.jpg|《歓喜》<br />[[久国寺]]の梵鐘 Okamoto Taro's Taiyou no Kane 01.jpg|《[[太陽の鐘]]》<br />広瀬川河畔緑地 Taro okamoto gogonohi200.jpg|《[[午後の日]]》<br />[[西宮市大谷記念美術館]] Hahanotou okamoto tarou.jpg|《[[母の塔]]》<br />[[川崎市岡本太郎美術館]] |《猛牛マーク》<br />大阪近鉄バファローズの球団シンボルマーク Mochida Pharmaceutical-1.jpg|《歓び》<br />[[持田製薬]]本社前 Engyoji Temple Shiina Rinzo bungakuhi.png|《椎名麟三文学碑》<br />[[圓教寺 (姫路市)|圓教寺]]東谷 Tree of Dream, OKAMOTO Taro.jpg|《夢の樹》<br />[[新鹿沼駅]] Bampaku-kinenkoen sta.JPG|《未来を視る》<br />[[万博記念公園駅 (茨城県)|万博記念公園駅]]東口 Kodomo-no-Ki-Taro-Okamoto.jpg|《こどもの樹》<br />[[こどもの城]](現在の都民の城) Nishitetsu HAKATA U-MS729S NSK SD-II 58MC.jpg|《[[はかた号]]・[[どんたく号]]車体イラスト》<br />画像は初代はかた号 </gallery> == 書籍 == {{節スタブ}} === 作品集 === * 『OKAMOTO』(G.L.M.社、1937年) - 評論家ピエール・クールティオン編著による初の画集。フランスにて出版。特装版30部、普及版多数。 * 『画文集 アヴァンギャルド』([[月曜書房]]、1948年) * 『T.OKAMOTO』([[美術出版社]]、画集、1954年) - 仏語版も同時出版。 * 『画文集 黒い太陽』(美術出版社、1959年) * 『岡本太郎』(美術出版社、画集、1968年) - 海藤日出男の編集。 * 『絶対的、そして無目的に』(セリグラフィー、版画集、1974年) * 『デリシュール』(版画集、1976年) * 『TARO OKAMOTO 対極に遊ぶ男』 (画集、1976年) - フランスにて出版。 * 『画文集 挑む』([[講談社文庫]]、1977年) * 『岡本太郎』([[平凡社]]、網羅的作品集、1979年)、2011年復刊 * 『遊ぶ字』([[日本芸術出版社]]、墨蹟集、1981年) * 朝日美術館 日本編2『岡本太郎』([[朝日新聞社]]、絵画・立体作品集、1995年) * 『歓喜』([[二玄社]]、網羅的画文集、1997年) * 『TARO 川崎市岡本太郎美術館所蔵作品集』(二玄社、網羅的作品集、2005年) * 『ドキドキしちゃう』([[小学館]]、墨蹟集、2010年) - 「遊ぶ字」の再編集版。 * 『岡本太郎 爆発大全』河出書房新社 (2011年) === 評論・エッセイ等 === * 『母の手紙』[[婦女界社]]版(1940年)、月曜書房版(1950年)、[[チクマ秀版社]]版(1979年)、チクマ秀版社新装版(1993年) * 『ピカソ』(アテネびじゅつぶんこ)[[弘文堂]]版(1952年)。編集はアテネ文庫在職時の臼井史朗が担当したとのこと。 * 『夢と誓い』[[宝文館]]版(1952年)*絶版。『夢と誓い』に一部収録 * 『青春ピカソ』[[新潮社]]版(1953年)、[[新潮文庫]]版(2000年) * 『[[今日の芸術]] 時代を創造するものは誰か』[[光文社]]版([[1954年]])、光文社カッパブックス版(1963年)、講談社文庫版(1973年)、知恵の森文庫版(1999年) * 『日本の伝統』光文社版(1956年)、[[角川文庫]]版(1964年)、[[講談社現代新書]]版(1973年)、知恵の森文庫版(ISBN 978-4334783563、2005年) * 『芸術と青春』[[河出書房]]版(1956年)、知恵の森文庫版(ISBN 978-4334781880、2002年) * 『日本再発見 芸術風土記』新潮社(1958年)、角川ソフィア文庫(2015年) ** 秋田/長崎/京都/出雲/岩手/大阪/四国/日本文化の風土 * 『忘れられた日本――沖縄文化論』→『沖縄文化論――忘れられた日本』(1972年改題) **[[中央公論社]]版(1961 - [[毎日出版文化賞]]受賞)、[[中央公論社]]普及版(1964年)、中公叢書版(1972年)、[[中公文庫]]版(1996年)、中公叢書新装版(2002年) * 『私の現代芸術』新潮社 (1963) * 『神秘日本』中央公論社(1964年)、角川ソフィア文庫(2015年) ** オシラの魂―東北文化論― ** 修験の夜―出羽三山ー ** 花田植―農事のエロティスムー ** 火、水、海賊―熊野文化論ー ** 秘密荘厳 ** 曼荼羅頌 * 『[[岡本太郎の眼]]』→『眼 美しく怒れ』(1998年改題)→『美しく怒れ』(2011年改題・新書化) ** 朝日新聞社(1966年)、チクマ秀版社版(1998年)、チクマ秀版社新装版(2004年)、角川oneテーマ21版(2011年) * 『今日をひらく 太陽との対話』講談社版(1967年) * 『原色の呪文』(人と思想シリーズ)、文芸春秋社版(1968年) ** 『原色の呪文 現代の芸術精神』講談社文芸文庫(2016年)、『原色の呪文』から現代美術に関するものを抜粋したもの * 『日本列島文化論 ー日本人は爆発しなければならないー』 - [[泉靖一]]との対談。 **[[大光社]]版(1970年) ** 講談社「岡本太郎著作集」第6巻(1980年) ** [[ミュゼ]]版「日本人は爆発しなければならない 日本列島文化論」(ISBN 978-4944163175、2000年、改題・時代に合わせて脚注追加) * 『美の呪力』新潮社版(1971年)、講談社「岡本太郎著作集」第6巻(1980年)、新潮文庫版 (2004年) * 『にらめっこ』 **[[番町書房]]版(1975年) ** 講談社「岡本太郎著作集」第7巻、第8巻(1980年) ** [[イースト・プレス]]版「人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。」 (ISBN 978-4872577969、2007年)、イースト・プレス文庫版(2009年) * 『岡本太郎の挑戦するスキー 白い世界に燃える歓び』 ** 講談社(ASIN B000J8SPZU、1977年) ** 講談社「岡本太郎著作集」第8巻(1980年)※抄録 * 『[[岡本太郎著作集]]』 全9巻([[講談社]]、1979年、1980年) * 『迷宮幻想』([[遊びの百科全書]]⑩、日本ブリタニカ(1980年)、[[アートン]]版『迷宮の人生』(2004年)・ 『迷宮幻想』より抜粋、再編集 * 『ピカソ講義』 - [[宗左近]]との対談。 **[[朝日出版社]]版(ISBN 9784255800424、1980年) ** [[ちくま学芸文庫]]版(ISBN 9784480092434、2009年) * 『にらめっこ問答』 1979年から1981年にかけて『週刊プレイボーイ』に連載された人生相談の一部を収録 ** [[集英社]]版(1980年) **[[青林工藝舎]]版「太郎に訊け! 岡本太郎流爆発人生相談」(2001年、改題の上、1〜4章を再編集したもの) * 『人生は夢 にらめっこ問答』 人生相談 ** 集英社版(1981年) ** 青林工藝舎版「太郎に訊け!2 岡本太郎流熱血人生相談」(2001年、『にらめっこ問答』5章及び『人生は夢』1〜3章を改題の上再編集したもの) ** 青林工藝舎版「太郎に訊け!3 岡本太郎流激突人生相談」(ISBN 4-88379-081-9、2001年) * 『美の世界旅行』新潮社(1982年)、新潮文庫(2016年) * 「人間の記録」シリーズ (77)『岡本太郎 挑む/夢と誓い(抄) 』[[日本図書センター]]版(ISBN 978-4820543220、1998年) ** 底本:岡本太郎『挑む』(1977)及び『夢と誓い』(『夢と誓い』は抄録=6章「映画について」、7章「女性と周囲」、8章「性について」は収録されていない。) * 『自分の中に毒を持て あなたは"常識人間"を捨てられるか』[[青春出版社]]版(1988年)、[[青春文庫]]版(1993年)、青春出版社新装版(2002年)、青春文庫新装版(2017年、フォント拡大、カラー口絵付き) * 『一平かの子 心に生きる凄い父母』(チクマ秀版社、ISBN 978-4805002698、1995年) - 太郎の生前最後の著作 * 『岡本太郎の本』 全5巻([[みすず書房]])ダイジェスト編集版であることに注意。 *#『呪術誕生』(ISBN 978-4622042563、1999年) *#『日本の伝統』(ISBN 978-4622042570、1999年) *#『神秘日本』(ISBN 978-4622042587、1999年) *#『わが世界美術史 美の呪力』(ISBN 978-4622042594、1999年) *#『宇宙を翔ぶ眼』(ISBN 978-4622042600、2000年) * 『リリカルな自画像』(みすず書房、2001年) * 『疾走する自画像』(みすず書房、2001年) * 言葉シリーズ(イースト・プレス、構成・監修:[[岡本敏子]]) - 名言集 *# 『強く生きる言葉』 (2003) *# 『壁を破る言葉』 (2005) *# 『愛する言葉』 (2006) * 『対談集 岡本太郎発言!』二玄社 (2004) * 『岡本太郎の宇宙』(著作集全6巻、ちくま学芸文庫、2011年)編集:山下裕二、[[椹木野衣]]、[[平野暁臣]]。 *# 対極と爆発 *# 太郎誕生 *# 伝統との対決 *# 日本の最深部へ *# 世界美術への道 *# 別巻 太郎写真曼陀羅(編集:山下裕二、[[椹木野衣]]、[[平野暁臣]]、[[ホンマタカシ]]) * 『自分の運命に楯を突け』青春出版社(2014年)、青春文庫(2016年)監修:平野暁臣 ** 1979年から1981年にかけて『週刊プレイボーイ』に連載された人生相談の一部をベースに加筆構成。過去に類似書『にらめっこ問答』『太郎に訊け!』あり。 * 『孤独がきみを強くする』興陽館 (2016、プロデュース・構成:平野暁臣)名言集もの * 『自分の中に孤独を抱け』青春文庫(2017年、プロデュース・構成:平野暁臣)一部初書籍化の内容を含む === 編集著書 === * 『世界の仮面と神像』(朝日新聞社、1970年)- 泉靖一、梅棹忠夫との共編 * 岡本太郎編『迷宮幻想』(遊びの百科全書⑩、日本ブリタニカ、1980年12月1日、企画制作:株式会社カマル社桑原茂夫) * パブロ・ピカソ [画]、ガエタン・ピコン[文]'''『イカロスの墜落』''' / 新潮社、1974.9 *翻訳 === 監修著書 === * 福田和彦編 『日本名品聚芳』 全3巻([[芳賀書店]]) *#『秘巻浮世絵』(1973年) - [[小林和作]]、[[埴谷雄高]]との共同監修(名義のみ) *#『秘巻浮世絵大錦』(1973年) - 同上 *#『秘巻肉筆浮世絵』(1973年) - 同上 * 福田和彦編 『草紙本浮世絵名品選』 全4巻(芳賀書店) *#『秘版 [[渓斎英泉|英泉]]』(1974年) - 小林和作、埴谷雄高との共同監修(名義のみ) *#『秘版 [[歌川国貞|国貞]]』(1975年) - 埴谷雄高との共同監修(名義のみ) *#『秘版 [[歌川国芳|国芳]]』(1975年) - 同上 *#『秘版 [[葛飾北斎|北斎]]』(1975年) - 同上 === 評伝 === * 『岡本太郎の全貌』(編集・[[山本太郎 (詩人)|山本太郎]]、[[アトリエ社]]、1959年) * 『別冊太陽 日本のこころ94 岡本家の人びと』(平凡社、1996年) * 『芸術新潮 さよなら岡本太郎』(新潮社、1996年) * 『岡本太郎と横尾忠則』([[倉林靖]]、[[白水社]]、1996年) * 『岡本太郎に乾杯』(岡本敏子、新潮社、1997年) * 『芸術は爆発だ 岡本太郎痛快語録』(岡本敏子、[[小学館文庫]]、1999年) * 『岡本太郎の絵本 あいしてる』([[舟崎克彦]]・文、小学館、1999年) * 『アラーキーのTARO愛 岡本太郎への旅』([[荒木経惟]] 光文社、1999年、ISBN 4-334-97239-X) * 『ユリイカ 1999年10月号 特集・岡本太郎』(青土社、1999年、ISBN 4-7917-0050-3) * 『太郎神話』(岡本敏子編、二玄社、1999年) * 『岡本太郎が、いる』(岡本敏子、新潮社、1999年) * 『太陽の人・岡本太郎』([[JTB]]、1999年、ISBN 4-533-03374-1) * 『岡本太郎の世界』(岡本敏子、[[斎藤慎爾]]編、小学館、1999年) * 『岡本太郎宣言』(山下裕二、平凡社、2000年、ISBN 4-582-20633-6) * 『「新」太郎神話』(二玄社、2000年、ISBN 4-544-02029-8) * 『恋愛芸術家』(岡本敏子、マガジンハウス、2001年、ISBN 4-8387-1301-0) * 『岡本太郎の遊ぶ心』(岡本敏子、講談社、2005年、ISBN 4-06-269252-X) * 『Be TARO! 岡本太郎に出会う本』(学習研究社、2006年、ISBN 4-05-403165-X) * 『岡本太郎と太陽の塔』(平野暁臣、小学館、2008年) * 『この人を見よ!歴史をつくった人びと伝〈5〉岡本太郎』([[ポプラ社]]、2009年) * 『岡本太郎「太陽の塔」と最後の闘い』(平野暁臣、[[PHP研究所]]、2009年) * 『岡本太郎という思想』([[赤坂憲雄]]、講談社、2010年) * 『[新版]岡本太郎と横尾忠則』([[倉林靖]]、[[BOOKEND]]、2011年、ISBN 978-4-903295-37-4) * 『もっと知りたい岡本太郎―生涯と作品』([[佐々木秀憲]]、東京美術、2013年、ISBN 978-4808709662) * 『入門!岡本太郎』(平野暁臣、[[興陽館]]、2021年、ISBN 978-4877232832) == 出演 == === 映画 === *『[[誘惑 (1957年の映画)|誘惑]]』 (1957年)- 原作:[[伊藤整]]、監督:[[中平康]]、[[日活]]配給。[[東郷青児]]とともに画家役で出演。 * 『岡本太郎 マルセル・モースの肖像』 (1975年)- パリ大学民族学教授、[[ジャン・ルーシュ]]が手がけたドキュメンタリー映画。[[イタリア]]のアゾロ映画祭で芸術家の伝記大賞受賞。 * 『山形は白い国 岡本太郎のスキー』 (1983年)- 山形県の観光映画。 === テレビ番組 === 後年は民放テレビ局の[[バラエティ番組]]等にも積極的に出演していた。 <!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「プロジェクト:芸能人」参照 --> * 「[[鶴太郎のテレもんじゃ]]」(日本テレビ、レギュラー出演)-「なんだ、これは!」が流行語に。 * 「[[謎のカーテン!?]]」(日本テレビ、レギュラー出演) ==== 死後の特集番組 ==== *「[[知ってるつもり?!]]」 特集・岡本太郎(日本テレビ) *「[[驚きももの木20世紀]]」 ([[朝日放送テレビ|朝日放送]]) === ラジオ番組 === * キャスター(1966年4月 - 、文化放送)- 土曜日パーソナリティ === テレビドラマ === ; 本人出演 *「[[こんばんは21世紀]]」(1964年、[[テレビ東京|東京12チャンネル]]) - 特別弁護人役 *「[[ばら色の人生 (テレビドラマ)|ばら色の人生]]」([[日本放送協会|NHK]]、[[1987年]]) ; 岡本太郎を扱った作品 *「[[TAROの塔]]」([[日本放送協会|NHK]]「[[土曜ドラマ (NHK)|土曜ドラマ]]」<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010464 番組エピソード 事実は小説より奇なり【実話ドラマ特集】-NHKアーカイブス]</ref>、[[2011年]]2月26日 - 4月2日、主演:[[松尾スズキ]]中年-老年時代、[[濱田岳]]-青年時代、[[高澤父母道]]-幼年時代) ==== その他の作品 ==== * 「[[TAROMAN 岡本太郎式特撮活劇|TAROMAN 岡本太郎式特撮番組]]」(NHK、2022年7月19日 - 7月30日) - 同年の「展覧会 岡本太郎」に併せて制作された、その作品をモチーフにした特撮ドラマ。ヒーロー・タローマンの声に岡本太郎の声を使用<ref>{{Cite news|title=岡本太郎×特撮 べらぼうなヒーロー「タローマン」が大人気 「芸術は爆発だ!」|newspaper=産経新聞|date=2022/7/27|url=https://www.sankei.com/article/20220727-NDFBQTLWPBAVJGNOHIARACUECM/}}</ref>。 === CF === * キリン・シーグラム(現在の[[キリンディスティラリー]])「[[ロバートブラウン (ウイスキー)|ロバートブラウン]]」(1976年)- ノベルティグッズ《顔のグラス》制作。川崎市岡本太郎美術館で視聴できる。 * [[日立マクセル]](maxell)「エピタキシャルビデオカセット([[VHS]]/[[ベータマックス]])」(1981年)- [[梵鐘]]篇と[[ピアノ]]篇に出演。「芸術は爆発だ!」が[[新語・流行語大賞|流行語大賞]]の語録賞を受賞<ref>{{Cite web |url=https://www.taromuseum.jp/introduction.html |title=岡本太郎年表 |access-date=2023-12-01 |publisher=川崎市岡本太郎美術館 |archive-date=2023-06-05 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230605043729/https://www.taromuseum.jp/introduction.html}}</ref>。川崎市岡本太郎美術館で視聴できる。 * [[日本電信電話公社]](現在の[[日本電信電話]](NTT))「[[INSネット|INS高度情報通信システム]]」(1983年) - [[スエズ運河]]篇に出演。 * [[明光商会]]「MSシュレッダー」(1985年) - [[シュレッダー]]のコマーシャル。岡本は「消えゆく瞬間に燃ゆる」とナレーションしている<!-- (備考:岡本の姿がCM内に映るが、口は開いていない) -->。 * [[シチズン時計]]「EXCEED」(1986年) - 「名前なんかにこだわるな」の発言が話題になる。一部は川崎市岡本太郎美術館で視聴できる。 * ダスキン「フリーデザインマット」(1988年)- [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の第29回国際放送広告賞受賞。 * [[日本ビクター]](現在の[[JVCケンウッド]])「ビクター HR-S3500 (1989年) - 自身の作品の前で色が良く見えることを宣伝した。 * [[小学館]]「週刊美術館」(2000年) - [[コンピュータグラフィックス|CG]]出演。 * リクルート(現在の[[リクルートホールディングス]])「ゼクシィ(2011年) - [[養子縁組|養女]]・[[岡本敏子|敏子]]と共演(ともにVTR出演)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2000925/full/ |title=「ゼクシィ」新CMに岡本太郎夫妻が出演 |access-date=2023-12-01 |publisher=オリコン |website=ORICON NEWS |date=2011-08-19}}</ref>。 * インテリジェンス(現在の[[パーソルキャリア]])「[[デューダ|DODA]]」(2015年 - 2016年) - 「DODA '''岡本太郎'''×[[綾野剛]] やりたい仕事」篇(声の出演)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.persol-career.co.jp/pressroom/news/service/2015/20151026_01/ |title=転職サービス「DODA(デューダ)」新TV-CM発表 「岡本太郎」氏の名言に着火され、未来に向け歩き出すビジネスマンを 綾野剛さんが熱演!10月26日(月)からオンエア開始 |access-date=2023-12-01 |publisher=インテリジェンス(現在のパーソルキャリア) |archive-url=https://web.archive.org/web/20220528175740/https://www.persol-career.co.jp/pressroom/news/service/2015/20151026_01/ |archive-date=2022-05-28 |date=2015-10-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000006.000016455.html |title=新TV-CM発表「岡本太郎×綾野剛シリーズ」第2弾 1月4日(月)から放送開始 |access-date=2023-12-01 |publisher=PR TIMES |archive-url=https://web.archive.org/web/20190809055315/https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000006.000016455.html |archive-date=2019-08-09 |date=2016-01-04}}</ref>。 == 関連施設・団体・褒賞等 == * [[岡本太郎記念館]] * [[川崎市岡本太郎美術館]] * [[現代芸術研究所]] * [[岡本太郎現代芸術賞]] * [[岡本太郎記念公園]](青森県三沢市) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 世田谷美術館『世田谷時代の岡本太郎 1946-1954―戦後復興期の再出発と同時代人たちとの交流①』、2007年。 * 川崎市岡本太郎美術館『北大路魯山人と岡本家の人びと』展図録、2005年。 * 川崎市岡本太郎美術館『岡本太郎の絵画―衝動から実現まで』展図録、2006年 * 川崎市岡本太郎美術館『開館10周年記念 岡本太郎の絵画』展図録、2009年。 * [[佐々木秀憲]]『もっと知りたい岡本太郎―生涯と作品』東京美術、2013年。 * 『美術評論家著作選集 第8巻 松尾邦之助』ゆまに書房、2011年。 * 佐々木秀憲著「岡本太郎におけるミルチャ・エリアーデの影響」『美学』239号、美学会、2011年 * 佐々木秀憲著「岡本太郎のシャーマニズム―ミルチャ・エリアーデの影響」佐々木秀憲編『岡本太郎のシャーマニズム展図録』川崎市岡本太郎美術館、2013年 * 江川純一・奥山倫明・近藤幸夫著『岡本太郎のシャーマニズム 学術シンポジウム報告書』川崎市岡本太郎美術館、2014年 * 佐々木秀憲著「岡本太郎と潜在的イメージ」佐々木秀憲編『岡本太郎と潜在的イメージ展図録』川崎市岡本太郎美術館、2014年 * 栗本慎一郎著『幻想としての経済』青土社、1980年。 * 藤原聖子著『「聖」概念と近代』立正大学出版会、2006年。 * 明神勲著『戦後史の汚点 レッド・パージ』大月書店、2013年。 * 辻惟雄著『辻惟雄集 第1巻』岩波書店、2013年。 * ミルチャ・エリアーデ著(石井忠厚訳)『エリアーデ日記―旅と思索と人 上』未来社、1984年。 * ミルチャ・エリアーデ著(石井忠厚訳)『エリアーデ日記―旅と思索と人 下』未来社、1986年。 * ミルチャ・エリアーデ著(奥山倫明・木下登・宮下克子訳)『ポルトガル日記1941-1945』作品社、2014年 * 五十殿利治著「岡本太郎とスイス・コネクション―ネオ=コンクレティズムと1930年代の「総合」の芸術」『美術運動史』149号、2015年6月20日 == 関連人物・項目 == * [[岡本可亭]] - 祖父、書家。北大路魯山人の師匠。函館の女学校にて書道を教えた経歴を持つ。 * [[岡本一平]] - 父 * [[岡本かの子]] - 母 * [[岡本敏子]] - 養女 * [[池部良]] - 従兄弟 * [[ジミー大西]] - 「君は画家になりなさい」と手紙を送った。 * [[ジョルジュ・バタイユ]] - 1939年頃に思想上の相違から訣別したことを、岡本自身が繰り返し述べている。 * [[マルセル・モース]] - フランスの社会学者。エミール・デュルケームの甥。聖俗概念の研究を中心課題とし、パリ大学では宗教学、社会学、民族誌学の講座を担当した。 * [[ミルチャ・エリアーデ]] - 1950年代以降の岡本の文筆・造形活動に影響を与えた。術語「[[ヒエロファニー]]」の提唱者であり「[[シャーマニズム]]」や「[[イニシエーション]]」についても先駆的な研究を残している。 * [[丹下健三]] * [[川端康成]] - 戦後、太郎は鎌倉の川端康成宅に1ヶ月ほど居候していた。 * [[北大路魯山人]] - 太郎の祖父・岡本可亭に弟子入りし、そこから岡本家との家族ぐるみの付き合いがあった。 * [[司馬遼太郎]] * [[藤山一郎]] - 慶應義塾幼稚舎の同級生。また2人の交友関係は生涯にわたって続いた。 * [[野口冨士男]] - 慶應義塾幼稚舎の同級生。 * [[勅使河原宏]] * [[荒川修作]] * [[野坂寛治]] * [[ヤノベケンジ]] * [[横尾忠則]] * [[新藤兼人]] * [[坂倉準三]] - アトリエ(現在の[[岡本太郎記念館]])の設計者。 * [[藤田嗣治]] * [[OKAMOTO'S]] * [[岩手県]][[藤沢町]]『[[藤沢町#縄文の炎・藤沢野焼祭の関係者|縄文の炎]]』 * [[TAROMAN 岡本太郎式特撮活劇]] == 外部リンク == {{Commons|Category:Tarō_Okamoto}} {{ウィキポータルリンク|美術|[[画像:Nuvola_apps_kcoloredit.svg|none|34px]]}} * [https://www.taromuseum.jp/ 川崎市岡本太郎美術館] * [https://www.taro-okamoto.or.jp/ 岡本太郎記念館] * [https://www.taro-okamoto.com/ 現代芸術アトリエ] * [https://taro100.jp/ 岡本太郎生誕100年記念事業公式サイト] * [https://www.1101.com/taro/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 - なんだ、これは!] * [https://www.1101.com/asunoshinwa/index.html 「明日の神話」再生プロジェクト] * [https://web.archive.org/web/20071007082441/http://www.dai2ntv.jp/p/z/002z/index.html 第2日本テレビ - BeTARO] * [https://web.archive.org/web/20130510003351/http://www.salf.or.jp/tarotoshibuya/ 『明日の神話』招致プロジェクト実行委員会] * [https://web.archive.org/web/20130927170818/http://www.horror-house.jp/cat3/19911996.html 岡本太郎のお墓] * {{NHK人物録|D0009072044_00000}} * {{CRD|2000016039|岡本太郎に関する資料(著作・伝記など)|[[香川県立図書館]]}} {{Normdaten}} {{Artist-stub}}<!--※出典の表示がほとんど無い(2011年12月時点)という点でスタブです。--> {{デフォルトソート:おかもと たろう}} [[Category:岡本太郎|*]] [[Category:日本の美術家]] [[Category:20世紀日本の彫刻家]] [[Category:日本の陶芸家]] [[Category:20世紀日本の写真家]] [[Category:20世紀日本の著作家]] [[Category:20世紀日本の画家]] [[Category:20世紀日本の芸術家]] [[Category:書家]] [[Category:日本のロゴデザイナー]] [[Category:日中戦争の人物]] [[Category:大阪万博に関係した人物]] [[Category:大阪近鉄バファローズ関連人物]] [[Category:芸術文化勲章受章者]] [[Category:川崎市出身の人物]] [[Category:慶應義塾幼稚舎出身の人物]] [[Category:パーキンソン病の人物]] [[Category:1911年生]] [[Category:1996年没]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] [[Category:多磨霊園に埋葬されている人物]]
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朝永振一郎
朝永 振一郎(ともなが しんいちろう、1906年(明治39年)3月31日 - 1979年(昭和54年)7月8日)は、日本の物理学者。理学博士(東京帝国大学・1939年)。東京教育大学名誉教授。 相対論的に共変でなかった場の量子論を超多時間論で共変な形にして場の演算子を形成し、場の量子論を一新した。超多時間論を基に繰り込み理論の手法を発明、量子電磁力学の発展に寄与した功績によりノーベル物理学賞を受賞した。東京生まれで、少年時代以降は京都育ち。なお、朝永家自体は長崎県の出身。武蔵野市名誉市民。 1906年、東京市小石川区小日向三軒町(現:文京区小日向)に、父・朝永三十郎(長崎県大村藩士の出)と母(埼玉県出身)の第二子(2男2女)で出生。幼少期は病弱であったと伝えられる。 父の三十郎は著名な哲学者(京都学派の一員)で、1913年に京都帝国大学教授就任に伴い、一家は京都市に転居し、錦林小学校に転校する。振一郎は次第に自然に興味を持つようになり、虫眼鏡で実験を行ったり、電信機や顕微鏡のレンズを自作するなどしていた。哲学者の息子だったが、後年に「哲学というものは私にとってはなはだ苦手で、どうしても歯がたたない」と語っている。しかし、しばしば他人から「あなたのいったり書いたりしていることは結構哲学的ですなどといわれる」とも述べている。 京都一中(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第三高等学校、京都帝国大学理学部物理学科を卒業。学生時代は女浄瑠璃や寄席に入り浸って、かなりの趣味人だったと伝えられる。卒業後は京都帝国大学の無給副手に着任する。湯川秀樹(旧姓:小川)とは中学校、高等学校、帝国大学とも同期入学・同期卒業であった。無給副手時代、机も同じ部屋にあった(中学までは1学年上であったが、後に湯川が飛び級のため追いついた)。 この無給副手時代を後年振り返って、「湯川さんのこの勉強の進行ぶりに反して、不健康と無理な試験勉強ですっかり疲労困憊し、はげしい劣等感にとりつかれたものにとっては、そのようなむつかしい分野に進む決心はとても起らない。何かもっとやさしい仕事はないものか、何でもよいからほんのつまらないものたったひとつだけでもよいから仕事をし、あとはどこかの田舎で余生を送れたら、などと本気で考えていた。こんな暗い日が三年間ほどつづいたが、こういう状態からぬけ出させてくれたのは、仁科先生との出会いであった。」と語っている。 1931年、仁科芳雄の誘いを受け、理化学研究所仁科研究室の研究員に着任。ここでマグネトロンの発振機構の研究等を行う。ドイツのライプツィヒに留学し、ヴェルナー・ハイゼンベルクの研究グループで、原子核物理学や場の量子論を学んだ。また第二次世界大戦中にはマグネトロンや立体回路の研究も行った。この研究により、1948年に小谷正雄と共に日本学士院賞を受賞している。 1937年、ニールス・ボーアが来日。 1941年、東京文理科大学(新制東京教育大学の前身校、現・筑波大学)教授。1949年、東京教育大学教授。プリンストン高等研究所に滞在し、量子多体系の研究を行う。教授となってからも東京大学の学園祭(五月祭)で、特技のドイツ語による落語を演じるなどして、洒落っ気が多かった。 1946年、朝日賞を受賞した。「そのうち朝日賞をもらったが、これは大助かりであった。このお金をつぎこんで畳を十枚買い、学校の大久保分室のやけ残り小屋に居をかまえた。」と語った。(江沢洋編『科学者の自由な楽園』ー 十年のひとりごと に掲載) 1947年、量子電磁力学の発散の困難を解消するための繰り込み理論を形成し、繰り込みの手法を用いて、水素原子のエネルギー準位に見られるいわゆるラムシフトの理論的計算を行い、実測値と一致する結果を得た。この業績により、1965年秋にジュリアン・シュウィンガー、リチャード・ファインマンと共同でノーベル物理学賞を受賞した。しかし肋骨を折っており、12月のストックホルムでの授賞式には出席できなかった。朝永は先に受賞した湯川より年上であり、更に年上の川端康成が文学賞を受賞するまで日本人最高齢の受賞者となっていた。なお、朝永は湯川より先に亡くなっている。 1956年から1961年には東京教育大学長、1963年から1969年に日本学術会議会長を務めた。晩年は学校などでも講演を行い、自然科学の啓蒙にも積極的に取り組んだ。1978年喉頭癌により手術を行ったため声を失った、翌79年に再発悪化し亡くなった。墓所は東京西部の多磨霊園にある。 1949年に出版された『量子力学』は、日本語で書かれた量子力学の教科書の定番として長年読み継がれており、1963年には小柴昌俊による英訳版が刊行。更に1998年には『スピンはめぐる』の英訳版が刊行された。物理学・量子力学の一般向けの啓蒙書を多数執筆しており、歿後の1980年には『物理学とは何だろうか』で大佛次郎賞を受賞した。『量子力学』、『物理学とは何だろうか』は共に未完であった。みすず書房で「著作集」が没後出版された。
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朝永 振一郎は、日本の物理学者。理学博士(東京帝国大学・1939年)。東京教育大学名誉教授。 相対論的に共変でなかった場の量子論を超多時間論で共変な形にして場の演算子を形成し、場の量子論を一新した。超多時間論を基に繰り込み理論の手法を発明、量子電磁力学の発展に寄与した功績によりノーベル物理学賞を受賞した。東京生まれで、少年時代以降は京都育ち。なお、朝永家自体は長崎県の出身。武蔵野市名誉市民。
{{Infobox Scientist |name = {{ruby|朝永 振一郎|ともなが しんいちろう}} |image = Tomonaga.jpg|190px |caption = 1965年、ノーベル物理学賞を受賞した当時 |birth_date = [[1906年]][[3月31日]] |birth_place = {{JPN}} [[東京府]][[東京市]][[小石川区]]<br />(現・[[東京都]][[文京区]]) |death_date = {{死亡年月日と没年齢|1906|3|31|1979|7|8}} |death_place = |residence = <!--居住国--> |nationality = <!--国籍--> |field = [[物理学]] |work_institution = [[京都大学|京都帝国大学]]<br />[[理化学研究所]]<br />[[東京教育大学]]<br />[[プリンストン高等研究所]] |alma_mater = 京都帝国大学 |doctoral_advisor = |doctoral_students = |known_for = [[繰り込み]]理論の発明による[[量子電磁力学]]の発展への寄与 |prizes = [[文化勲章]]([[1952年]])<br />[[ノーベル物理学賞]]([[1965年]])<br />[[勲一等旭日大綬章]]([[1976年]]) |religion = <!--信仰--> |footnotes = }} {{thumbnail:begin}} {{thumbnail:ノーベル賞受賞者|1965年|ノーベル物理学賞|量子電気力学分野での基礎的研究}} {{thumbnail:end}} '''朝永 振一郎'''(ともなが しんいちろう、[[1906年]]([[明治]]39年)[[3月31日]] - [[1979年]]([[昭和]]54年)[[7月8日]])は、[[日本]]の[[日本の物理学者の一覧#1900年代生まれの日本の物理学者|物理学者]]。理学博士(東京帝国大学・1939年)。[[東京教育大学]]名誉教授。 [[相対性理論|相対論]]的に共変でなかった[[場の量子論]]を超多時間論で共変な形にして場の演算子を形成し、場の量子論を一新した。超多時間論を基に[[繰り込み]]理論の手法を発明、[[量子電磁力学]]の発展に寄与した功績により[[ノーベル物理学賞]]を受賞した。東京生まれで、少年時代以降は京都育ち。なお、朝永家自体は長崎県の出身。[[武蔵野市]]名誉市民<ref>[http://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/003/296/musashinoshi_meiyosimin_020915.pdf 武蔵野市名誉市民]</ref>。 == 生涯 == 1906年、[[東京市]][[小石川区]]小日向三軒町(現:[[文京区]][[小日向]])に、父・[[朝永三十郎]](長崎県[[大村藩]]士の出)と母(埼玉県出身)の第二子(2男2女)で出生。幼少期は病弱であったと伝えられる。 父の三十郎は著名な哲学者([[京都学派]]の一員)で、1913年に[[京都大学|京都帝国大学]]教授就任に伴い、一家は[[京都市]]に転居し、[[京都市立錦林小学校|錦林小学校]]に転校する。振一郎は次第に自然に興味を持つようになり、[[レンズ#ルーペ|虫眼鏡]]で実験を行ったり、[[電信]]機や[[顕微鏡]]の[[レンズ]]を自作するなどしていた。哲学者の息子だったが、後年に「哲学というものは私にとってはなはだ苦手で、どうしても歯がたたない」と語っている。しかし、しばしば他人から「あなたのいったり書いたりしていることは結構哲学的ですなどといわれる」とも述べている<ref>『毎日情報』第6巻・第1号, p.100。毎日新聞社, 1951年</ref>。 京都一中(現:[[京都府立洛北高等学校・附属中学校]])、[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]、[[京都大学大学院理学研究科・理学部|京都帝国大学理学部]]物理学科を卒業。学生時代は女[[浄瑠璃]]や[[寄席]]に入り浸って、かなりの趣味人だったと伝えられる。卒業後は京都帝国大学の無給副手に着任する。[[湯川秀樹]](旧姓:小川)とは中学校、高等学校、帝国大学とも同期入学・同期卒業であった。無給副手時代、机も同じ部屋にあった(中学までは1学年上であったが、後に湯川が飛び級のため追いついた)。 この無給副手時代を後年振り返って、「湯川さんのこの勉強の進行ぶりに反して、不健康と無理な試験勉強ですっかり疲労困憊し、はげしい劣等感にとりつかれたものにとっては、そのようなむつかしい分野に進む決心はとても起らない。何かもっとやさしい仕事はないものか、何でもよいからほんのつまらないものたったひとつだけでもよいから仕事をし、あとはどこかの田舎で余生を送れたら、などと本気で考えていた。こんな暗い日が三年間ほどつづいたが、こういう状態からぬけ出させてくれたのは、仁科先生との出会いであった。」<ref>『自然』1962年10月号、『鏡のなかの世界』収録</ref>と語っている。 1931年、[[仁科芳雄]]の誘いを受け、[[理化学研究所]]仁科研究室の研究員に着任。ここで[[マグネトロン]]の発振機構の研究等を行う。ドイツの[[ライプツィヒ]]に留学し、[[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]の研究グループで、[[原子核物理学]]や[[場の量子論]]を学んだ。また[[第二次世界大戦]]中には[[マグネトロン]]や立体回路の研究も行った。この研究により、1948年に[[小谷正雄]]と共に[[日本学士院賞]]を受賞している。 1937年、[[ニールス・ボーア]]が来日。 1941年、[[東京文理科大学 (旧制)|東京文理科大学]](新制[[東京教育大学]]の前身校、現・[[筑波大学]])教授。1949年、東京教育大学教授。[[プリンストン高等研究所]]に滞在し、量子多体系の研究を行う。教授となってからも[[東京大学]]の学園祭(五月祭)で、特技のドイツ語による[[落語]]を演じるなどして、洒落っ気が多かった。 1946年、朝日賞を受賞した。「そのうち朝日賞をもらったが、これは大助かりであった。このお金をつぎこんで畳を十枚買い、学校の大久保分室のやけ残り小屋に居をかまえた。」と語った。(江沢洋編『科学者の自由な楽園』ー <small>十年のひとりごと</small> <small>に掲載</small>) 1947年、[[量子電磁力学]]の発散の困難を解消するための[[繰り込み]]理論を形成し、繰り込みの手法を用いて、水素原子の[[エネルギー準位]]に見られるいわゆる[[ラムシフト]]の理論的計算を行い、実測値と一致する結果を得た。この業績により、1965年秋に[[ジュリアン・シュウィンガー]]、[[リチャード・ファインマン]]と共同で[[ノーベル物理学賞]]を受賞した。しかし肋骨を折っており、12月の[[ストックホルム]]での授賞式には出席できなかった<ref>朝永もエッセイに書いているが、祝い酒で酩酊し風呂場で転んで骨折した。[[酒井邦嘉]]『科学者という仕事』([[中公新書]]、2006年)に「ノーベル賞を貰うのは骨が折れる」([[亀淵迪]]「朝永先生とユーモア」TOM(朝永記念室報)1, 15-17 1983年)と言ったことが紹介されている。</ref>。朝永は先に受賞した湯川より年上であり、更に年上の川端康成が文学賞を受賞するまで日本人最高齢の受賞者となっていた。なお、朝永は湯川より先に亡くなっている。 1956年から1961年には東京教育大学長、1963年から1969年に[[日本学術会議]]会長を務めた。晩年は学校などでも講演を行い、自然科学の啓蒙にも積極的に取り組んだ。1978年[[喉頭癌]]により手術を行ったため声を失った、翌79年に再発悪化し亡くなった。墓所は東京西部の[[多磨霊園]]にある。 == 略歴 == *1906年:東京市小石川区小日向三軒町(現:[[東京都]][[文京区]]小日向)に[[朝永三十郎]]の子として生まれる。 *1913年:父三十郎のドイツ留学を経て京都帝国大学教授就任に伴い一家で京都に転居。 *1923年:京都府立京都一中(現在は[[京都府立洛北高等学校・附属中学校]])卒業。 *1926年:[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]卒業。 *1929年:[[京都大学大学院理学研究科・理学部|京都帝国大学理学部]]物理学科卒業。京都帝国大学の無給副手に着任。 *1931年:[[理化学研究所]]仁科研究室の研究員に着任。 *1937年:ドイツの[[ライプツィヒ]]に留学。 *1939年:帰国。留学中に執筆した論文 "Innere Reibung und Wärmeleitfähigkeit der Kernmaterie" によって[[東京大学|東京帝国大学]]から[[博士(理学)|理学博士]]号を取得。 *1940年:結婚。 *1941年:[[東京文理科大学 (旧制)|東京文理科大学]](新制[[東京教育大学]]の前身校、現在は[[筑波大学]])教授。 *1942年:中間子の中間結合論(場の理論) *1943年:超多時間理論を完成。 *1947年:[[繰り込み|くりこみ理論]]を発表。 *1948年:「磁電管の発振機構と立体回路の理論的研究」により[[小谷正雄]]と共に[[日本学士院]]賞受賞。 *1949年:東京教育大学教授。[[プリンストン高等研究所]]に滞在。量子多体系の研究を行う。 *1951年:[[日本学士院]]会員。 *1952年:[[文化勲章]]受章。 *1953年:中間結合の体系理論を発表 *1955年:東京大学原子核研究所を設立。 *1956年:東京教育大学長(〜[[1961年]]) *1963年:[[日本学術会議]]会長(〜[[1969年]]) *1965年:[[ノーベル物理学賞]]受賞(それまでに1951-1952,1955-1957,1960,1963年の計7回候補となっていた。1952年の推薦人は湯川だった<ref>「ノーベル賞候補 日本6人」共同通信2014年8月14日</ref><ref>[http://www.nikkei.com/article/DGKDASDG1400R_U4A810C1CR0000/ ノーベル賞候補日本6人 1951〜63年、物理・化学賞 選考資料、米専門家が確認 :日本経済新聞]</ref>)。 *1969年:東京教育大学を定年退官。[[世界平和アピール七人委員会]]に参加。 *1976年:[[勲一等旭日大綬章]]受章。 *1979年:73歳にて死去。 == 著書 == 1949年に出版された『量子力学』は、日本語で書かれた[[量子力学]]の教科書の定番として長年読み継がれており、1963年には[[小柴昌俊]]による英訳版が刊行。更に1998年には『スピンはめぐる』の英訳版が刊行された。物理学・量子力学の一般向けの啓蒙書を多数執筆しており、歿後の1980年には『物理学とは何だろうか』で[[大佛次郎賞]]を受賞した。『量子力学』、『物理学とは何だろうか』は共に未完であった。[[みすず書房]]で「著作集」が没後出版された。 === 単行本 === * {{Cite book|和書|year=1948|title=量子力学|volume=第1巻|publisher=東西出版社}} * {{Cite book|和書|year=1949|title=量子力学|volume=第1巻|series=現代物理学大系 第25巻|publisher=東西出版社}} * {{Cite book|和書|year=1949|title=量子力学的世界像|series=アテネ新書 第2|publisher=[[弘文堂]]}} ** {{Cite book|和書|year=1965|month=11|title=量子力学的世界像|publisher=弘文堂|isbn=4-335-75001-3}} * {{Cite book|和書|year=1951|title=物理学読本|publisher=学芸社}} * {{Cite book|和書|year=1951|title=量子力学|volume=第1巻|series=物理学大系 基礎物理篇 第8巻 第1冊|publisher=学芸社}} * {{Cite book|和書|year=1952|month=5|title=量子力学|volume=第1巻|publisher=みすず書房}} ** {{Cite book|和書|year=1969|month=12|title=量子力学 Ⅰ 第2版|series=物理学大系 基礎物理篇 第8巻 第1冊|publisher=みすず書房|isbn=4-622-02551-5|url=https://www.msz.co.jp/book/detail/02551/}} * {{Cite book|和書|year=1953|title=量子力学|volume=第2巻|series=物理学大系 基礎物理篇 第8巻 第2冊|publisher=みすず書房}} ** {{Cite book|和書|year=1997|month=3|title=量子力学 Ⅱ 第2版|publisher=みすず書房|isbn=4-622-04105-7|url=https://www.msz.co.jp/book/detail/04105/}} * {{Cite book|和書|author=朝永振一郎(述)|year=1962|title=原子論の発展|publisher=仁科記念財団}}講演冊子 * {{Cite book|和書|author=朝永振一郎(述)|year=1963|title=放射能の話|publisher=仁科記念財団}}講演冊子 * {{Cite book|和書|year=1965|title=鏡のなかの世界|publisher=みすず書房}} ** {{Cite book|和書|year=1995|month=1|title=鏡のなかの世界|publisher=みすず書房|isbn=4-622-00409-7}} * {{Cite book|和書|year=1968|title=科学と科学者|series=みすず科学ライブラリー 8|publisher=みすず書房}} ** {{Cite book|和書|year=1980|month=4|title=科学と科学者|publisher=みすず書房}} * {{Cite book|和書|year=1974|title=スピンはめぐる 成熟期の量子力学|series=自然選書|publisher=中央公論社}} ** {{Cite book|和書|others=[[江沢洋]]注|year=2008|month=6|title=スピンはめぐる 成熟期の量子力学|edition=新版|publisher=みすず書房|isbn=978-4-622-07369-7|url=https://www.msz.co.jp/book/detail/07369}} - 中央公論社版が[[電磁気の単位|CGSガウス単位系]]だったのに対し、新版では[[電磁気の単位|MKSA単位系]]を採用している。 * {{Cite book|和書|year=1975|title=庭にくる鳥 随筆集|publisher=みすず書房}} ** {{Cite book|和書|year=1996|month=9|title=庭にくる鳥|series=みすずライブラリー|publisher=みすず書房|isbn=4-622-05005-6|url=https://www.msz.co.jp/book/detail/05005/}} * {{Cite book|和書|year=1976|month=6|title=鏡の中の物理学|series=講談社学術文庫|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-06-158031-2|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000149649}} * {{Cite book|和書|year=1976|month=8|title=わが師わが友|series=[[講談社学術文庫]]|publisher=講談社}} *『物理学とは何だろうか』 ** {{Cite book|和書|year=1979|month=5|title=物理学とは何だろうか 上|series=[[岩波新書]] 黄版|publisher=岩波書店|isbn=4-00-420085-7|url=https://www.iwanami.co.jp/book/b267536.html}} ** {{Cite book|和書|year=1979|month=11|title=物理学とは何だろうか 下|series=岩波新書 黄版|publisher=岩波書店|isbn=4-00-420086-5|url=https://www.iwanami.co.jp/book/b267537.html}} ** {{Cite book|和書 <!-- display-authors がうまく使えないのでコメントアウト | last = 朝永 | first = 振一郎 --> | author-link = | date = 2001-12 | year = 2001 | orig-date = | orig-year = 1979 | title = 物理学とは何だろうか 朝永振一郎著作集 7 | publisher = [[みすず書房]] | edition = 新装 | series = 著作集7 | series-link = https://www.msz.co.jp/book/writings/47/ | series-number = 7 (物理学とは何だろうか) | volume = | url = https://www.msz.co.jp/book/writings/47/ | access-date = 2022-03-31 | archive-url = https://web.archive.org/web/20210303173628mp_/https://www.msz.co.jp/book/detail/05117/ | archive-date = 2021-03-03 | url-status = live | isbn = 4622051176 | ol = OL31732109M | id = {{JPNO|20244577}} | display-authors = 0 }} * {{Cite book|和書|others=[[亀淵迪]]・[[原康夫]]・小寺武康編|year=1989|month=4|title=角運動量とスピン 『量子力学』補巻|publisher=みすず書房|isbn=4-622-04081-6|url=https://www.msz.co.jp/book/detail/04081/}} * {{Cite book|和書|editor=江沢洋|editor-link=江沢洋|year=1997|month=1|title=量子力学と私|series=岩波文庫|publisher=岩波書店|isbn=4-00-311521-X|url=https://www.iwanami.co.jp/book/b248938.html}} * {{Cite book|和書|editor=江沢洋|year=2000|month=9|title=科学者の自由な楽園|series=[[岩波文庫]]|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4-00-311522-8|url=https://www.iwanami.co.jp/book/b248939.html}} * {{Cite book|和書|editor=江沢洋|year=2012|month=6|title=プロメテウスの火|series=始まりの本|publisher=みすず書房|isbn=4-622-08354-X|url=https://www.msz.co.jp/book/detail/08354}} * {{Cite book|和書|editor=江沢洋|year=2012|month=12|title=物理学への道程|series=始まりの本|publisher=みすず書房|isbn=4-622-08365-5|url=https://www.msz.co.jp/book/detail/08365}} * {{Cite book|和書|editor=|editor-link=|year=2016|month=10|title=朝永振一郎 見える光、見えない光|series=STANDARD BOOKS|publisher=[[平凡社]]|isbn=4-582-53158-X|url=https://www.heibonsha.co.jp/book/b244331.html}} === 著作集 === * {{Cite book|和書|year=1981|month=11|title=朝永振一郎著作集 1|others=[[串田孫一]]解説 |publisher=[[みすず書房]]|edition=箱入り|isbn=4622008017}} * {{Cite book|和書|year=1982|month=1|title=朝永振一郎著作集 2|others=[[小谷正雄]]解説 |publisher=みすず書房|isbn=4622008025}} * {{Cite book|和書|year=1983|month=1|title=朝永振一郎著作集 3|others=[[伏見康治]]解説 |publisher=みすず書房|isbn=4622008033}} * {{Cite book|和書|year=1982|month=3|title=朝永振一郎著作集 4|others=[[桑原武夫]]解説 |publisher=みすず書房|isbn=4622008041}} * {{Cite book|和書|year=1982|month=9|title=朝永振一郎著作集 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開かれた研究所と指導者たち|publisher=みすず書房|isbn=4-622-05116-8|url=https://www.msz.co.jp/book/detail/05116/}} ** {{Cite book|和書|year=|month=|title=朝永振一郎著作集 7 物理学とは何だろうか|publisher=みすず書房|isbn=4-622-05117-6|url=https://www.msz.co.jp/book/detail/05117/}} ** {{Cite book|和書|year=|month=|title=朝永振一郎著作集 8 量子力学的世界像|publisher=みすず書房|isbn=4-622-05118-4|url=https://www.msz.co.jp/book/detail/05118/}} ** {{Cite book|和書|year=|month=|title=朝永振一郎著作集 9 マクロの世界からミクロの世界へ|publisher=みすず書房|isbn=4-622-05119-2|url=https://www.msz.co.jp/book/detail/05119/}} ** {{Cite book|和書|year=|month=|title=朝永振一郎著作集 10 量子電気力学の発展|publisher=みすず書房|isbn=4-622-05120-6|url=https://www.msz.co.jp/book/detail/05120/}}- ISBN 4-622-05127-3(第2期set) ** {{Cite book|和書|year=2002|month=1|title=朝永振一郎著作集 11 量子力学と私|publisher=みすず書房|isbn=4-622-05121-4|url=https://www.msz.co.jp/book/detail/05121/}} ** {{Cite book|和書|year=|month=|title=朝永振一郎著作集 12 紀行と閑談|publisher=みすず書房|isbn=4-622-05122-2|url=https://www.msz.co.jp/book/detail/05122/}} ** {{Cite book|和書|year=|month=|title=朝永振一郎著作集 別巻 1 学問をする姿勢|publisher=みすず書房|isbn=4-622-05123-0|url=https://www.msz.co.jp/book/detail/05123/}} ** {{Cite book|和書|year=|month=|title=朝永振一郎著作集 別巻 2 日記・書簡|publisher=みすず書房|isbn=4-622-05124-9|url=https://www.msz.co.jp/book/detail/05124/}} ** {{Cite book|和書|year=|month=|title=朝永振一郎著作集 別巻 3 人と業績|publisher=みすず書房|isbn=4-622-05125-7|url=https://www.msz.co.jp/book/detail/05125/}}- ISBN 4-622-05128-1(第3期set) === 共著・編著・共編著 === * {{Cite book|和書|author=仁科芳雄|authorlink=仁科芳雄|coauthors=[[富山小太郎]]|year=1938|title=量子力学 概論|series=量子物理学 1|publisher=共立社}} * {{Cite book|和書|author=水間正一郎|coauthors=高尾磐夫|year=1948|title=超短波磁電管|publisher=コロナ社}} * {{Cite book|和書|others=[[藤岡由夫]] 共編|year=1949|title=原子核から素粒子へ|publisher=弘文堂}} * {{Cite book|和書|editor=弘文堂編輯部|year=1949|title=物質とは何か|series=アテネ文庫 第60|publisher=弘文堂}} * {{Cite book|和書|year=1950|author=共著|title=極超短波理論概説|publisher=リスナー社}} * {{Cite book|和書|others=共編|year=1951|title=物理学大系 第1篇 第6巻|publisher=学芸社}} * {{Cite book|和書|editor=伏見康治共|editor-link=伏見康治|year=1951-1952|title=現代自然科学講座|volume=第1巻~第12巻|publisher=弘文堂}} * {{Cite book|和書|author=編|year=1952|title=物理学読本|publisher=みすず書房}} ** {{Cite book|和書|author=編|year=1969|month=5|title=物理学読本|edition=第2版|publisher=みすず書房|isbn=4-622-02503-5|url=https://www.msz.co.jp/book/detail/02503/}} * {{Cite book|和書|editor=小谷正雄 共|editor-link=小谷正雄|year=1952|title=極超短波磁電管の研究|publisher=みすず書房}} * {{Cite book|和書|editor=玉木英彦 共|editor-link=玉木英彦|year=1952|title=仁科芳雄 伝記と回想|publisher=みすず書房}} * {{Cite book|和書|author=編|year=1953|title=物理の歴史|series=毎日ライブラリー|publisher=毎日新聞社}} ** {{Cite book|和書|author=編|others=[[江沢洋]]解説|year=2010|month=4|title=物理の歴史|series=[[ちくま学芸文庫]] Math&Science|publisher=筑摩書房|isbn=978-4-480-09285-4|url=http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480092854/}} * {{Cite book|和書|editor=藤岡由夫 共|editor-link=藤岡由夫|year=1953|title=原子核から素粒子へ|publisher=弘文堂}} * {{Cite book|和書|editor=伏見康治 共|editor-link=伏見康治|year=1953-1954|title=理論物理学新講座|volume=第1巻~第16巻|publisher=弘文堂}} * {{Cite 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***原著『[https://www.msz.co.jp/book/detail/02512/ 量子力学【第4版・リプリント版】 The Principles of QUANTUM MECHANICS]』みすず書房、1963年 ** {{Cite book|和書|author=ポール・ディラック|year=2017|month=11|title=量子力学 第4版|edition=改訂新版|others=共訳|publisher=岩波書店|isbn=978-4000061513|url=https://www.iwanami.co.jp/book/b325090.html}} === 英訳 === * {{Cite book|author=Shinichiro Tomonaga|year=1962|title=Quantum mechanics|edition=Hardcover|publisher=Interscience Publishers}} * {{Cite book|author=Shinichiro Tomonaga|year=1998|month=January|title=The Story of Spin|edition=Hardcover|publisher=Univ of Chicago Pr (Tx)|isbn=0226807932}} * {{Cite book|author=Shinichiro Tomonaga|year=1998|month=October|title=The Story of Spin|edition=Paperbuck|publisher=Univ of Chicago Pr (Tx)|isbn=0226807940}} == 回想・伝記 == *『[https://www.msz.co.jp/book/detail/07222 回想の朝永振一郎]』、松井巻之助編、みすず書房、1980年、新版2006年 *『著作集 別巻3 朝永振一郎・人と業績』、解説[[小沼通二]]、みすず書房、1985年、新版2002年。30名の回想 *『追想 朝永振一郎』、伊藤大介編、[[中央公論新社|中央公論社]]〈自然選書〉、1981年 * 加藤八千代『朝永振一郎博士 人とことば』、[[共立出版]]、1984年 * [[中村誠太郎]]『湯川秀樹と朝永振一郎』、[[読売新聞社]]、1992年 *『素粒子の世界を拓く 湯川秀樹・朝永振一郎の人と時代』、[[佐藤文隆]]監修、[[京都大学学術出版会]]〈学術選書〉、2006年 == 師匠・弟子 == * [[仁科芳雄]] - 理化学研究所時代の師匠。 * [[早川幸男]] - 弟子で[[天体物理学|宇宙物理学者]]<ref>[http://quasar.cc.osaka-kyoiku.ac.jp/~fukue/THESIS/05keizu.htm 日本の天文学者の系図]</ref>。 == 脚注・出典 == ;注記 {{Reflist|group="注記"}} ;注 {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[パグウォッシュ会議]] * [[プリンストン高等研究所]] * [[部分と全体]] - [[ヴェルナー・ハイゼンベルク]] * [[東京原子核クラブ]] - [[マキノノゾミ]]の[[戯曲]]。主人公は若き日の朝永をモデルとしている。 * [[Progress of Theoretical Physics]] - ノーベル物理学賞の受賞論文を発表した学術誌 == 外部リンク == * [http://nobelprize.org/physics/laureates/1965/ The Nobel Prize in Physics 1965] * [http://www.tsukuba.ac.jp/about/nobel/tomonaga.html 筑波大学サイト内の朝永博士の紹介] * [http://tue.news.coocan.jp/memories/tomonagatokaryo.htm 朝永振一郎学長の桐花寮祭での講演] * [http://tue.news.coocan.jp/tomonaga.htm 朝永振一郎教授の「思い出ばなし」] * {{NHK放送史|D0009030069_00000|朝永博士 ノーベル物理学賞}} * {{YouTube|wd2n_GaTljM|昭和のノーベル賞 物理学賞 東京での授賞式 朝永振一郎氏 日本学術会議の会長も務める(1965 年)【映像記録 news archive】}}(ANNnewsCH) * [https://www.yomiuri.co.jp/column/nyancology/20230626-OYT8T50121/ ノーベル物理学賞・朝永博士が愛猫に投影した半生 (読売新聞2023年6月28日)] {{ノーベル物理学賞受賞者 (1951年-1975年)}} {{筑波大学学長|東京教育大学長/東京文理科大学長:1956年 - 1962年}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ともなか しんいちろう}} [[Category:朝永振一郎|*]] [[Category:20世紀日本の物理学者]] [[Category:日本のノーベル賞受賞者]] [[Category:ノーベル物理学賞受賞者]] [[Category:日本の理論物理学者]] [[Category:量子物理学者]] [[Category:日本の素粒子物理学者]] [[Category:ロモノーソフ金メダル受賞者]] [[Category:日本学士院賞受賞者]] [[Category:朝日賞受賞者]] [[Category:勲一等旭日大綬章受章者]] [[Category:文化勲章受章者]] [[Category:理学博士取得者]] [[Category:理学士取得者]] [[Category:日本学士院会員]] [[Category:日本学術会議会長]] [[Category:米国科学アカデミー外国人会員]] [[Category:ソビエト連邦科学アカデミー外国人会員]] [[Category:国立科学アカデミー・レオポルディーナ会員]] [[Category:バイエルン科学アカデミー会員]] [[Category:筑波大学学長]] [[Category:東京教育大学の教員]] [[Category:高エネルギー加速器研究機構の人物]] [[Category:理化学研究所の人物]] [[Category:プリンストン高等研究所の人物]] [[Category:京都大学出身の人物]] [[Category:旧制第三高等学校出身の人物]] [[Category:京都府立洛北高等学校・附属中学校出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:京都市出身の人物]] [[Category:1906年生]] [[Category:1979年没]] [[Category:多磨霊園に埋葬されている人物]]
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データレコーダ
データレコーダとは、音楽用として大量に出回っていたテープレコーダーを利用してカセットテープにデータを書き込むというもの。CMT(Cassette Magnetic Tape:カセット磁気テープ)などとも呼ばれた。これはコンピュータ業界では磁気テープをMTと略すため、それにカセットのCを付けたものである。 本項では1980年代以前のホビーパソコンブームにおける磁気テープによるデータの記録について扱う。2000年代以降現在にかけてのデータ用磁気テープについてはテープドライブを参照のこと。 1970年代、マイクロコンピュータが発展したが、手頃な補助記憶装置がなかった。このため、民生用に大量生産されており非常に安価で便利な記録媒体と録音再生機器である、コンパクトカセットやマイクロカセットなどとカセットテープレコーダーを流用するというアイディアが生まれた。 これは、情報をFSKなどの変調方式でオーディオ周波数帯の信号に変調して記録するもので、代表的な記録方式にKCS(カンサスシティスタンダード)があり1200Hz/2400HzのFSK方式で300bpsの記録ができた。やがて電子工作の延長的なマイクロコンピュータは様々なコンピュータメーカーから発売された初期のパーソナルコンピュータへと置き換えられていったが、フロッピーディスクは当初、読取装置となるドライブもディスクメディア自体も高価なものであり、ディスクドライブ搭載機は高価な機種に限定され、ホビーパソコンのような廉価で一般家庭への普及を目指した機種では採用し難いものであったことから、データレコーダーは依然として利用され続けた。 8ビット時代のパソコンへの具体的な採用例としては、日本においてはNECのPC-8000シリーズなどではキャリア周波数はそのままでシンボル長のみ短縮した600bpsでの記録を標準としていた。シャープのMZシリーズではコンピュータ本体に直接内蔵され、ソフトウェア制御によるパルス幅変調方式で記録を行い、他の機種と比較し、エラーの少ないアクセスと共に、1200bpsの速度を実現していた。この筐体に直接内蔵される専用のデータレコーダはMZ-80B、並びにその系譜にある機種では2000bpsに速度を変更すると共に、後述の通り、制御の多くもソフトウェアから行うことが可能であった。CPUからの直接制御であるため、そのタイミングの書き換えによって、そのレコーダの信頼性も手伝い、更に高速な読み書きも可能であった。別部署から発売されたX1でも、この電磁制御が可能なデータレコーダを採用しており、速度は2700bpsになっている。他に千葉憲昭の提唱したサッポロシティ・スタンダードがある。 また、コンピュータの周辺機器として使い勝手がいいようにモディファイされたカセットテープレコーダーが作られ、データレコーダと呼ばれた(後述)。 以上で述べたような時代には、メーカー純正のドライブはもとより比較して安価なサードパーティ製でも、パソコン本体より高価ということもザラだったため、データレコーダがよく使われた。その後、時代を下ってディスクドライブやディスクメディアが低価格化するようになると、廉価なホビーパソコンでもデータ転送速度の遅さからロード時間が長く、またシーク(データ読み出しのために媒体の該当データ箇所に読み取りヘッドを移動すること)に対応していないか、対応していたとしても時間の掛かるデータレコーダーからランダムアクセス性の優れたフロッピーディスクメディアへと切り替えられていった。過渡期には、クイックディスクのようなディスクメディアとテープメディアの中間のような機器(と媒体)も存在した。 データの保存自体は普通のアナログテープを録音/再生できるテープレコーダー、極端な話ではラジカセのような音響機器としての製品でも行えるが、データレコーダはデータの保存に特化した機能を備えている。例えば、スピーカー用と別にデータ出力専用のボリュームが付いていたり、コントロールができるものもある。パーソナルコンピュータに内蔵された専用のものでは、後述するようにテープの早送り・巻き戻しを行って、記録されたデータの先頭にシークする機能もあった。そこまででなくても、専用の製品としてデータロードに際してパーソナルコンピュータ側から再生を開始するリモート端子ぐらいは付いているものが多い。 データレコーダの仕様ではないが、当時使われた記録方式の仕様について記す。論理フォーマットについても様々なものがあったが、ここでは物理フォーマットについてのみ述べる。 カンサスシティスタンダードは、冗長さにより信頼性が高い半面、その遅さは当時のマイコン用としても遅かった。このため制定後すぐに、より高速な方式の提案が乱立した。サッポロシティ・スタンダードは標準としてのカンサス方式との互換についても考慮しつつ、2値変調の理論限界に迫る速度を実現することで、大幅な改良の余地を残さない「スタンダード」とするべく提案された野心的な仕様であった。 サッポロシティ・スタンダードは、2,400Hzと1,200Hzの2値変調という点はカンサスシティスタンダードと共通としている。その上で、マーク(1)を2,400Hzの半サイクル、スペース(ゼロ)を1,200Hzの半サイクルとする。つまり信号波形を矩形波にモデル化すると、その1個の山あるいは谷の前後のエッジ間隔の長短に情報を乗せる方式である。0と1の割合を半々と仮定して3,200bpsと公称した。 提案者千葉憲昭が札幌の人であり、当時地方組織としては最大級であった、札幌を拠点とするマイコンクラブ「北海道マイクロコンピュータ研究会」(立ち上げ・青木由直)で1977年に発表し同会で研究された方式であることから、サッポロシティの名が付けられた。公刊された文献としては、『トランジスタ技術』1978年12月号の記事「サッポロ シティ スタンダードについて」、電気学会情報処理研究会 IP-78-76「データ処理用ローコスト周辺装置の試作」、特開S54-96908「エッジ間隔を利用したディジタル変調方式」他がある(本項の「サッポロシティ・スタンダード」という表記はトラ技1980年11月号の記事に従った)。 記録と再生について簡単に説明する。記録は、これはサッポロ方式に限らないが、ディジタル回路で生成した矩形波を、レベルとオフセットの調整のみでそのままカセットテープレコーダの録音入力に入れ録音する。 再生は、カセットテープレコーダからの出力をアナログ的に波形を調整した後、シュミットトリガを通して矩形波とする。矩形波の立ち上がり立ち下がりのそれぞれのエッジから、約0.3ミリ秒後までにレベルが反転しなければ(していなければ)1,200Hz、反転すれば2,400Hzとわかる。サッポロ方式の場合ならそこから直接ビット列とすれば良いし、カンサス方式であれば8乃至16個ごとに処理すれば良い。 私設の「さっぽろコンピュータ博物館」に、本方式のインタフェースボード北斗電子製SC-3200が所蔵されている。 N-BASICなど初期のマイクロソフト系BASICなどではデータレコーダへのセーブはCSAVE、ロードはCLOADだった。CLOAD?でベリファイも行なえる。のちのN88-BASICや富士通のF-BASIC系などでは、カセット専用命令を持たず通常のSAVE・LOADコマンドでデバイス名「CASx:」(xは数字)を指定した。 シャープのX1およびMZ-80B/2000、その後継機種のデータレコーダは、デッキのオープン、並びに、メカ部の制御(ヘッドやキャプスタンのローディング)が、ボタンを操作する人力によるものではなく、電気制御によるものであったため、コンピュータ側からレコーダの動作を制御することができた。このためHu-BASICにはカセット制御用のコマンドが用意されている。また自動頭出し(ヘッドを軽く接触させた状態で高速送りし無音部を検出するもの)もできたため、データレコーダでありながらランダムアクセスに近い使い方も可能であった。 ファミリーベーシックのプログラム保存にも使われていた。ファミリーコンピュータ本体にはカセットテープインタフェースがなく、エディットモードのあるゲームで作成した面を保存する場合にもキーボードを介してデータレコーダを接続する必要があった(それ故か重く場所を取るキーボードを接続する煩わしさを解消する為、エディットデータのみ対応のホリ電機(現・ホリ)製S.D.ステーションが使われることがあった)。 データレコーダー実機の入手性が悪化した現代では、レトロコンピューティング(英語版)などで実機のコンピュータ製品本体を使おうとする場合、据置型、ポータブル型を問わず録音の機能を備えたミニディスクレコーダーやDATレコーダー、ICレコーダー、リニアPCMレコーダーなどの各種デジタル録音機で代用を行う。ただし、DATレコーダーやリニアPCMレコーダーの各種無圧縮状態のデジタル記録を除き、位相が保証されない非可逆圧縮などにより、データエラーが発生する可能性も否定できない。
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データレコーダとは、音楽用として大量に出回っていたテープレコーダーを利用してカセットテープにデータを書き込むというもの。CMTなどとも呼ばれた。これはコンピュータ業界では磁気テープをMTと略すため、それにカセットのCを付けたものである。 本項では1980年代以前のホビーパソコンブームにおける磁気テープによるデータの記録について扱う。2000年代以降現在にかけてのデータ用磁気テープについてはテープドライブを参照のこと。
{{出典の明記|date=2013年2月28日 (木) 18:35 (UTC)}} {{otheruses|磁気テープを用いてデータ列を記録する装置|センサから得られた情報を記録する装置|データロガー}} {{see also|テープドライブ}} [[画像:LCR-C-1.jpg|thumb|right|データレコーダ]] [[Image:Mz80k.jpg|300px|right|thumb|データレコーダーを搭載したパソコン[[MZ-80]]]] '''データレコーダ'''とは、音楽用として大量に出回っていた[[テープレコーダー]]を利用して[[カセットテープ]]にデータを書き込むというもの。CMT(Cassette Magnetic Tape:カセット磁気テープ)などとも呼ばれた。これは[[コンピュータ]]業界では[[磁気テープ]]をMTと略すため、それにカセットのCを付けたものである。 本項では[[1980年代]]以前の[[ホビーパソコン]]ブームにおける磁気テープによるデータの記録について扱う。2000年代以降現在にかけてのデータ用磁気テープについては[[テープドライブ]]を参照のこと。 ==歴史== 1970年代、[[マイクロコンピュータ]]が発展したが、手頃な[[補助記憶装置]]がなかった。このため、[[民生用]]に[[大量生産]]されており非常に安価で便利な[[メディア (媒体)|記録媒体]]と[[録音再生機器]]である、[[コンパクトカセット]]や[[マイクロカセット]]などとカセット[[テープレコーダー]]を流用するというアイディアが生まれた。 <!--カセットじゃないテレコを使うこともあったわけだがそういうのは安くもないし便利でもないのでスルーでいいんじゃないかと。MTRで別トラックに同期信号を入れて超高速記録をやったという話は確か安田寿明さんが書いてた--> これは、[[情報]]を[[デジタル変調#周波数偏移変調|FSK]]などの変調方式でオーディオ周波数帯の信号に変調して記録するもので、代表的な記録方式にKCS([[カンサスシティスタンダード]])があり1200Hz/2400HzのFSK方式で300bpsの記録ができた。やがて電子工作の延長的なマイクロコンピュータは様々なコンピュータメーカーから発売された初期の[[パーソナルコンピュータ]]へと置き換えられていったが、[[フロッピーディスク]]は当初、読取装置となるドライブもディスクメディア自体も高価なものであり、ディスクドライブ搭載機は高価な機種に限定され、[[ホビーパソコン]]のような廉価で一般家庭への普及を目指した機種では採用し難いものであったことから、データレコーダーは依然として利用され続けた。 [[8ビットパソコン|8ビット時代のパソコン]]への具体的な採用例としては、日本においては[[日本電気|NEC]]の[[PC-8000シリーズ]]などではキャリア周波数はそのままでシンボル長のみ短縮した600bpsでの記録を標準としていた。[[シャープ]]の[[MZ (コンピュータ)|MZ]]シリーズではコンピュータ本体に直接内蔵され、ソフトウェア制御による[[パルス幅変調]]方式で記録を行い、他の機種と比較し、エラーの少ないアクセスと共に、1200bpsの速度を実現していた。この筐体に直接内蔵される専用のデータレコーダは[[MZ-80#MZ-80B|MZ-80B]]、並びにその系譜にある機種では2000bpsに速度を変更すると共に、後述の通り、制御の多くもソフトウェアから行うことが可能であった。CPUからの直接制御であるため、そのタイミングの書き換えによって、そのレコーダの信頼性も手伝い、更に高速な読み書きも可能であった。別部署から発売された[[X1 (コンピュータ)|X1]]でも、この電磁制御が可能なデータレコーダを採用しており、速度は2700bpsになっている。他に千葉憲昭の提唱したサッポロシティ・スタンダードがある。<!-- あとサッポロシティスタンダードはPSKで3200bps位?? --><!--文献(トラ技1980/11)で確認してないのでコメントにしとくけど、サッポロシティスタンダードはエッジ間隔変調で、2400-4800bps(0と1で長さが違う)平均して3600bps、というスペック、のはず--> また、[[コンピュータ]]の[[周辺機器]]として使い勝手がいいようにモディファイされたカセットテープレコーダーが作られ、データレコーダと呼ばれた(後述)。 以上で述べたような時代には、メーカー純正のドライブはもとより比較して安価なサードパーティ製でも、パソコン本体より高価ということもザラだったため、データレコーダがよく使われた。その後、時代を下ってディスクドライブやディスクメディアが低価格化するようになると、廉価なホビーパソコンでもデータ転送速度の遅さからロード時間が長く、また[[シーク (コンピュータ)|シーク]](データ読み出しのために媒体の該当データ箇所に読み取りヘッドを移動すること)に対応していないか、対応していたとしても時間の掛かるデータレコーダーから[[ランダムアクセス]]性の優れたフロッピーディスクメディアへと切り替えられていった。過渡期には、[[クイックディスク]]のようなディスクメディアとテープメディアの中間のような機器(と媒体)も存在した。 == 機能 == データの保存自体は普通のアナログテープを録音/再生できるテープレコーダー、極端な話では[[ラジオカセットレコーダー|ラジカセ]]のような音響機器としての製品でも行えるが、データレコーダはデータの保存に特化した機能を備えている。例えば、スピーカー用と別にデータ出力専用のボリュームが付いていたり、コントロールができるものもある。パーソナルコンピュータに内蔵された専用のものでは、後述するようにテープの早送り・巻き戻しを行って、記録されたデータの先頭にシークする機能もあった。そこまででなくても、専用の製品としてデータロードに際してパーソナルコンピュータ側から再生を開始するリモート端子ぐらいは付いているものが多い。<!--リモート端子は普通のテレコにもあります 接続でモーター回転、切断で停止--><!-- ← あるものが多いか、ないものが多いか、という話で言ったら、データレコーダにはリモートがあるものが多いし、普通のテレコにはリモートがないものが多い、でしょ?--> == 仕様 == データレコーダの仕様ではないが、当時使われた記録方式の仕様について記す。論理フォーマットについても様々なものがあったが、ここでは物理フォーマットについてのみ述べる。 === カンサスシティスタンダード === {{see|カンサスシティスタンダード}} === サッポロシティ・スタンダード === [[カンサスシティスタンダード]]は、冗長さにより信頼性が高い半面、その遅さは当時のマイコン用としても遅かった。このため制定後すぐに、より高速な方式の提案が乱立した。サッポロシティ・スタンダードは標準としてのカンサス方式との互換についても考慮しつつ、2値変調の理論限界に迫る速度を実現することで、大幅な改良の余地を残さない「スタンダード」とするべく提案された野心的な仕様であった。 サッポロシティ・スタンダードは、2,400Hzと1,200Hzの2値変調という点はカンサスシティスタンダードと共通としている。その上で、マーク(1)を2,400Hzの半サイクル、スペース(ゼロ)を1,200Hzの半サイクルとする。つまり信号波形を[[矩形波]]にモデル化すると、その1個の山あるいは谷の前後のエッジ間隔の長短に情報を乗せる方式である。0と1の割合を半々と仮定して3,200bpsと公称した。 提案者[[千葉憲昭]]が[[札幌市|札幌]]の人であり、当時地方組織としては最大級であった、札幌を拠点とするマイコンクラブ「北海道マイクロコンピュータ研究会」(立ち上げ・[[青木由直]])で1977年に発表し同会で研究された方式であることから、サッポロシティの名が付けられた。公刊された文献としては、『[[トランジスタ技術]]』1978年12月号の記事「サッポロ シティ スタンダードについて」、[[電気学会]]情報処理研究会 IP-78-76「データ処理用ローコスト周辺装置の試作」、特開S54-96908「エッジ間隔を利用したディジタル変調方式」他がある(本項の「サッポロシティ・スタンダード」という表記はトラ技1980年11月号の記事に従った)。 記録と再生について簡単に説明する。記録は、これはサッポロ方式に限らないが、[[デジタル回路|ディジタル回路]]で生成した矩形波を、レベルとオフセットの調整のみでそのままカセットテープレコーダの録音入力に入れ録音する。 再生は、カセットテープレコーダからの出力をアナログ的に波形を調整した後、[[シュミットトリガ]]を通して矩形波とする。矩形波の立ち上がり立ち下がりのそれぞれのエッジから、約0.3ミリ秒後までにレベルが反転しなければ(していなければ)1,200Hz、反転すれば2,400Hzとわかる。サッポロ方式の場合ならそこから直接ビット列とすれば良いし、カンサス方式であれば8乃至16個ごとに処理すれば良い。 私設の「さっぽろコンピュータ博物館」に、本方式のインタフェースボード北斗電子製SC-3200が所蔵されている。<ref>[https://archive.is/20151026054234/http://www13.plala.or.jp/sayamizu/ さっぽろコンピュータ博物館:札幌のITベンチャーとマイコン、パソコンの歴史 Sapporo Computer Museum]</ref> ==== この節の参考文献 ==== * 『[[トランジスタ技術]]』 ** 千葉憲昭「サッポロ シティ スタンダードについて」『トランジスタ技術』第15巻 第12号(通巻171号、1978年12月号)、pp. 266~272 ** 千葉憲昭、亀田一幸「サッポロシティ・スタンダードのすべて」『トランジスタ技術』第17巻 第11号(通巻194号、1980年11月号)特別企画、pp. 342~359 ** 他 1979年3月号、1979年10月号、1980年1月号、1980年3月号、1981年3月号、1981年7月号などに記事あり * 他 ** [[電気学会]]情報処理研究会 IP-78-76「データ処理用ローコスト周辺装置の試作」 ** 特開S54-96908「エッジ間隔を利用したディジタル変調方式」 == 実装 == [[N-BASIC]]など初期の[[マイクロソフト]]系[[BASIC]]などではデータレコーダへのセーブは''CSAVE''、ロードは''CLOAD''だった。''CLOAD?''でベリファイも行なえる。のちの[[N88-BASIC]]や[[富士通]]の[[F-BASIC]]系などでは、カセット専用命令を持たず通常のSAVE・LOADコマンドでデバイス名「CASx:」(xは数字)を指定した。 [[シャープ]]の[[X1 (コンピュータ)|X1]]および[[MZ-80B]]/[[MZ-2000|2000]]、その後継機種のデータレコーダは、デッキのオープン、並びに、メカ部の制御(ヘッドやキャプスタンのローディング)が、ボタンを操作する人力によるものではなく、電気制御によるものであったため、コンピュータ側からレコーダの動作を制御することができた。このため[[Hu-BASIC]]にはカセット制御用のコマンドが用意されている。また自動頭出し(ヘッドを軽く接触させた状態で高速送りし無音部を検出するもの)もできたため、データレコーダでありながらランダムアクセスに近い使い方も可能であった。 [[ファミリーベーシック]]のプログラム保存にも使われていた。[[ファミリーコンピュータ]]本体にはカセットテープインタフェースがなく、エディットモードのあるゲームで作成した面を保存する場合にもキーボードを介してデータレコーダを接続する必要があった(それ故か重く場所を取るキーボードを接続する煩わしさを解消する為、エディットデータのみ対応のホリ電機(現・[[ホリ (ゲーム周辺機器メーカー)|ホリ]])製'''S.D.ステーション'''が使われることがあった)。 <!-- 現在の定義は、データレコーダーの新製品が販売されなくなり、状態の良い中古品が入手困難になった。という意味です。いつを付ける必要性には疑問を感じます。 現代{{いつ|date=2013年2月28日 (木) 18:35 (UTC)}} --> データレコーダー実機の入手性が悪化した現代では、{{仮リンク|レトロコンピューティング|en|Retrocomputing}}などで実機のコンピュータ製品本体を使おうとする場合、据置型、ポータブル型を問わず[[録音]]の機能を備えた[[ミニディスク]]レコーダーや[[DAT]]レコーダー、[[ICレコーダー]]、[[リニアPCMレコーダー]]などの各種デジタル録音機で代用を行う。ただし、DATレコーダーやリニアPCMレコーダーの各種無圧縮状態のデジタル記録を除き、位相が保証されない非可逆圧縮などにより、データエラーが発生する可能性も否定できない。 <!-- == 専用デジタル記録方式のもの == [[1970年代]]後半頃の大型コンピュータに採用され、[[ファームウェア]]や[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]の入出力装置として用いられた。音楽用のコンパクトカセットとは違い、カセットの上部に5mm四方程度の切り込みがあった。[[デジタル信号]]を[[ベースバンド伝送|ベースバンド]]で記録する方式で、テープドライブは制御コマンドにより記録・再生・早送り・巻き戻し・初期化などを行えた。また、ホストとの接続は[[CPUバス]]にバッファを介して直接繋げる方式であった。[[1980年代]]に入り8インチフロッピーディスクドライブが普及し、その役目を終えることとなる。 テープドライブとしては[[ティアック]]社のMT-6やMT-2が知られ、後には当時のパーソナルコンピュータの周辺機器として電源とともに筐体におさめた製品(ティアック・PROLINE-100)が発売された。MT-2は[[PFU|パナファコム]]社のC-15という16ビットCPU(L-16)を用いたパーソナルコンピュータ(1978年発売)の標準外部記録装置であった。 --> == 関連項目 == {{Commons|Category:Elektronik Gera cassette decks}} * [[デジタル・データ・ストレージ]](DDS) * [[ヘッドクリーナー]] == 脚注 == <references/> {{デフォルトソート:てえたれこおた}} [[Category:記憶装置]] [[Category:磁気テープ]] [[Category:補助記憶装置]] [[Category:歴史上の機器]]
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野菜
野菜(やさい、英: vegetable)は、食用の草本植物の総称。水分が多い草本性で食用となる植物を指す。主に葉や根、茎(地下茎を含む)、花・つぼみ・果実を副食として食べるものをいう。 野菜は一般には食用の草本植物をいう。ただし、野菜の明確な定義づけは難しい問題とされている。たとえばイネとトウモロコシは、日本においてはイネは野菜ではなく穀物であり、トウモロコシは野菜であると同時に穀物である。 園芸学上において野菜とは「副食物として利用する草本類の総称」をいう。例えばイチゴ、スイカ、メロンは園芸分野では野菜として扱われ、農林水産省「野菜生産出荷統計」でもイチゴ、スイカ、メロンは「果実的野菜」(果菜)として野菜に分類されている。青果市場ではこれらは果物(果実部)として扱われ、厚生労働省の「国民栄養調査」や日本食品標準成分表でも「果実類」で扱われている。また、日本食品標準成分表において「野菜類」とは別に「いも類」として扱われているもの(食品群としては「いも及びでん粉類」に分類)は一般には野菜として扱われている。また、ゼンマイやツクシといった山菜については野菜に含めて扱われることもあり、木本性の植物であるタラの芽やサンショウの葉も野菜の仲間として扱われることがある。さらに、日本食品標準成分表において種実類に分類されるヒシなども野菜として取り扱われる場合がある。 日本では慣用的に蔬菜(そさい)と同義語となっている。ただし、「蔬菜」は明治時代に入ってから栽培作物を指して用いられるようになった語で、本来は栽培されたものではない野菜や山菜などと厳密な区別があった。しかし、その後、山菜等も栽培されるようになった結果としてこれらの厳密な区別が困難になったといわれ、「野菜」と「蔬菜」は学問的にも全く同義語として扱われるようになっている。そして、「蔬菜」の「蔬」の字が常用漢字外であることもあって一般には「野菜」の語が用いられている。なお、野菜は青物(あおもの)とも呼ばれる。京浜急行には「青物横丁駅」がある。 野菜は食用とする部位(需要部位)の違いから、一般に根を食用部位とする根菜類、地下あるいは地上の茎を食用部位とする茎菜類、葉や葉柄を食用部位とする葉菜類、花序や花弁を食用部位とする花菜類、未熟果や熟果を食用部位とする果菜類に分けられる。 なお、日本ではこのほかの分類法として総務省「日本標準商品分類」では根菜類、葉茎菜類、果菜類の3つに分類され、農林水産省「野菜生産出荷統計」では根菜類、葉茎菜類、果菜類、果実的野菜、香辛野菜の5つに分類されている。 植物学的に属する科に注目すると、その野菜の特徴がみえてくる。同じ科どうしの野菜であれば、見た目や味、栄養価が似ているほか、栽培する上での基本的な育ち方が似通っていている。 同じ野菜名であっても、種類によってはさまざまな品種が作られているものもあり、個々に品種名がつけられている。品種名には、産地の名前が由来となっているもの、地域で特別に名付けたもの、品種改良を行った人物や種苗会社が名付けたものなどさまざまである。品種名がそのまま商品名(商標名)となったり、同じ品種でも産地によって異なる商標名になることもあり、地域の特産品になるとブランド名として独自の名前をつけることもある。 野菜にはF1品種(雑種第一代)とよばれるものがある。F1品種は、異なる品種を人工的に交配して、病気に強い・形が揃いやすい・栽培期間が短いなどの長所となる特性を持たせたもので、流通している野菜の多くはF1品種だといわれている。F1品種の特性は一代限りのため、種を取って翌年栽培しても一代目と同じ特性の野菜には育たない。そのため、F1品種は種苗会社が種を作り、栽培農家が毎年その種を購入する必要がある。 固定種や在来種とよばれる野菜は、長い年月をかけて優良な個体から種を取り、特性を固定していくことでできた品種である。遺伝的にも安定しており、地方によっては多くの固定種が作り継がれていった。現在、地方の伝統野菜とよばれている品種は、こうした受け継がれて栽培されたことによって、その地域の在来種となったものである。 野菜は栄養面で見ると、可食部分のカロテン含有量の違いによって緑黄色野菜と淡色野菜に分けられる。日本の厚生労働省では「原則として可食部100g当たりカロテン含量が600μg以上の野菜」を緑黄色野菜と定義している。緑黄色野菜は色が濃い野菜が多く、ホウレンソウ、ニンジン、カボチャなどがその代表例である。トマトやピーマンなどは、この基準に入らないが、食べる回数や量が多いことから緑黄色野菜とみなされている。また、緑黄色野菜以外の野菜は、淡色野菜である。 日本において明治時代以降に欧米から導入されたブロッコリーなどを西洋野菜(洋菜)という。また、日本において中国から1970年代以降に導入され普及したチンゲンサイやパクチョイなどを中国野菜という。 夏でも涼しい標高1,000メートル前後の高原で栽培される野菜類を高原野菜(こうげんやさい)または高冷地野菜(こうれいちやさい)という。明治以降、長野県の軽井沢において避暑に訪れる外国人客向けとして栽培が始まった。その後各地に広まり、ハクサイやキャベツ、レタスなど、40を超える種類の野菜が高原野菜として栽培されている。 野菜には旬があるが、近年では品種改良・作型の改良(ハウス栽培など)・輸入野菜の増加によって、旬以外の時期でも市場に年間を通して供給されるようになった。またこれらの影響か、近年の野菜の味は昔よりも薄くなったと感じている人もいる。需要形態が変化してきており、カット野菜(切断されて部分的に販売される野菜)や冷凍野菜も利用されるようになっている。ただし、カット野菜は切断面が大きい分、野菜の呼吸量も大きくなるため、品質の落ちるスピードも速くなってしまうという難点がある。 古来食材としては、野菜類はどの文化圏においても副菜としての性格が強く、主食はコメやコムギといった炭水化物を摂取するための穀物であり、またタンパク質に富む肉や魚がごちそうとして扱われるのに比べ、野菜類がメインとなることは少なかった。野菜類がメインとなる場合も、うま味を供給する肉や魚、油や調味料と組み合わせて使用されることが常である。また野菜類の作物としての比重も高くなく、古代にはこうした野菜類は栽培するのではなく、食べられる野草を採集してくることも多かった。これは野菜類にエネルギー源やタンパク質に富むものが少なく、栄養源としてはそこまで必要性が高くなかったことによる。やがて生活が豊かになるにつれて食生活に彩りを添えるために各種栽培野菜の開発が各地で進められていくが、野草採集も食糧供給源としては存続し、現代においても山菜として食卓をにぎわせている。 宗教・文化的理由もしくは主義として肉食を避ける人は、一般に菜食主義者と呼ばれるが、これは「野菜のみを食べる人」という意味ではない。菜食主義者の食事においてもメインとなるものはエネルギー源となる炭水化物を多く含む穀物やイモ類、およびタンパク質に富む豆類であり、野菜は副菜としての位置づけにあることには変わりがない。 なお、主食となる穀物は野菜に含めないことが多いが、それを主食としない文化圏では野菜として扱われることがある。たとえば、穀物であるトウモロコシは日本などでは野菜に含まれ、欧米でも米が野菜に含まれることがある。 野菜は、洗う、切るといった下ごしらえを調理の直前に行うのが基本である。根付き野菜は、水につけて洗うことによって根元付近に付着した泥が落ちやすくなる。灰汁が強い野菜の場合は、下処理として水や酢水、焼きミョウバン水などにつけて灰汁抜きをする。キュウリやオクラ、ニガウリのように、塩をまぶして揉むことで食感が良くなる野菜もある。野菜を切るときは食べやすく味や食感を考えて、輪切り、角切り(さいの目切り)、千切り、千六本、小口切り、拍子切り、短冊切り、半月切り、いちょう切り、かつらむき、みじん切り、くし形切り、細切り、斜め切り、乱切り、ささがきなど、料理に合わせたさまざまな切り方がある。 サラダなどで生で食べる野菜は、加熱で失われやすいビタミンなどを効率よく摂ることができる。生野菜のみずみずしさ、香り、爽やかな歯ごたえは加熱野菜では得られない魅力がある。一方、野菜を加熱調理にも特有のおいしさがあり、加熱によって失われる栄養素もあるが、かさが減ることで食べる量でカバーできるので、結果的に加熱した方が多くの栄養を摂ることができる。 焼く場合は直火・オーブン・フライパンで焼くなど方法があり、野菜表面の水分が抜けて素材の旨味も凝縮されて、かさも減るため生野菜よりも多く摂ることができる。蒸すと野菜が元来持つ旨味や栄養分を損なわずに加熱できる。油炒めは、脂溶性ビタミンのビタミンAやビタミンDの吸収率を上げる調理法で、短時間で炒めるとビタミンCの損失量も少なくなる。煮る場合は、煮汁まで食べたほうが栄養を無駄なく摂取できる。油で揚げると野菜の水分が適度に抜けて甘味が出る。クセの強い野菜は油で揚げると食べやすくなるため、山菜や苦味のある野菜に向いている調理法である。茹でるときは、葉野菜はたっぷりの湯を沸騰させて短時間で茹で上げるようにする。根菜は水から入れてじっくりと加熱し、デンプン質が多い芋類は、加熱に時間をかけることによって糖質がふえて甘くなる。電子レンジは、固めの野菜でも短時間で加熱調理できる方法で、野菜全体をラップに包んで水分が抜けて乾燥するのを防ぐ。電子レンジで加熱すると、ガスレンジで加熱するよりも短時間で火が通り、ビタミンの損失が少なく済むというメリットがある。 野菜に含まれるビタミン・ミネラル類の中でも、調理で最も失われやすい栄養素はビタミンCである。ビタミンCは水溶性ビタミンであり、水にさらす時間が長いほど減少してしまう。例えばニンジンを千切りにして水に5分さらすと、ビタミンCが30%ほど減少する。また、ゆで時間が長くなるほどビタミンCの損失量が多くなる。野菜を煮るときは、野菜を大きめに切ったほうがビタミンCは失われにくくなる。体内で必要に応じてビタミンAに変化するカロテンは、脂溶性ビタミンであっるため、油で調理することでより吸収されやすくなる。緑色が濃い緑黄色野菜を色鮮やかに仕上げるには、加熱時間を短くして、酢などは食べる直前に加えるなどの配慮が必要になる。野菜のえぐみ、渋み、苦味などのアクは、灰分、有機酸、タンニン、アルカノイドなどである。野菜によってアクに違いがあり単純ではないが、大半は水溶性のため、茹でたり、水にさらすことによって減らすことができる。ホウレンソウのようにアクが強いものは、下茹でや電子レンジ加熱後に水にさらしてアク抜きしてから使われる。 漬物は調味料で味をつけるとともに、野菜から水気を引き出し、保存性を増すことができる調理法である。低塩分で手軽につくれる浅漬け、野菜に塩を振って重石して保存性を高める塩漬け、精米の副産物のぬかを微生物で発酵させて野菜を漬け込んだぬか漬け、酢・水・砂糖を煮溶かした甘酢に漬け込んだ甘酢漬け、ハーブやスパイスで香り付けした酢に漬け込んだピクルスなどがある。 野菜料理 とは、野菜を主体とした料理である。調理法は温野菜、生野菜にわけられ、肉料理、魚料理などに対置して使われる。野菜も他の食材と同じく、基本的には火を通すなど何らかの加工をして食用とするものであった。このため、おひたしや和え物、炒め物(野菜炒め)、煮物、蒸し物、揚げ物(天ぷらなど)など様々な調理法が開発された。こうした加熱法のほか、野菜の調理において非常に重要だったものは漬物としての利用である。多くの野菜、特に葉物野菜は日持ちがしないが、塩などで漬け込み漬物とすれば非常に長持ちするため、保存食として価値が高く、世界各国において様々な野菜の漬物が考案された。こうした加工利用に比べ、野菜の生での食用が一般化したのはかなり遅い時代のことだった。とりわけ日本においては、肥料に下肥を用いていたこともあり、加熱等の加工処理が必須だったために野菜の生食は非常に遅れ、一般家庭において野菜の生食であるサラダが一般化したのは1970年代中期を待たねばならなかった。 食物に含まれる栄養素の中でも重要なタンパク質、脂質、炭水化物、ビタミン、ミネラルは五大栄養素とよばれ、中でも野菜はビタミンとミネラルを手軽に摂取しやすい食材である。品種改良が進んだ現代の野菜も、本来の生育時期は決まっており、その野菜の特性と栽培地の環境の中で自然に収穫を迎えたものが旬となる。本来の旬の時期に収穫した野菜は、もっとも味がよくなり、栄養価も高くなる。例えば、冬場に旬の時期を迎えるホウレンソウは、夏に収穫したものではビタミンC量が3分の1程度しかない。 野菜の多くは無機塩類やビタミン類、食物繊維のほかに、抗酸化物質を含むファイトケミカル(フィトケミカル)が豊富で、免疫力を上げて体内を浄化する働きがあり、癌予防を含めた各種健康維持に役立っている。ファイトケミカルとは、植物に含まれる色素や香り、灰汁などに含まれる植物自体が有害な物から防御するための物質で、ポリフェノール類、フラボノール、カテキンなどが相当する。 ヒトの消化管は自力ではデンプンやグリコーゲン以外の多くの多糖類を消化できないが、大腸内の腸内細菌が嫌気発酵することによって、一部が酪酸やプロピオン酸のような短鎖脂肪酸に変換されてエネルギー源として吸収される。野菜に含まれる食物繊維の大半がセルロースであり、人間のセルロース利用能力は意外に高く、粉末にしたセルロースであれば腸内細菌を介してほぼ100%分解利用されるとも言われている。デンプンは約4kcal/g のエネルギーを産生するが、食物繊維は腸内細菌による醗酵分解によってエネルギーを産生し、その値は一定でないが、有効エネルギーは0~2kcal/gであると考えられている。また、食物繊維の望ましい摂取量は、成人男性で19g/日以上、成人女性で17g/日以上である。食物繊維は、大腸内で腸内細菌によりヒトが吸収できる分解物に転換されることから、食後長時間を経てから体内にエネルギーとして吸収される特徴を持ち、エネルギー吸収の平準化に寄与している。 野菜に含まれるファイトケミカル(フィトケミカル)には、ポリフェノール類とカロテノイド類がある。 ポリフェノール類は化学構造上の分類で、フェノール基に水酸基(OH)が2つ以上たくさんついている物質のことをいう。植物の色素やアクとよばれている苦味成分のほとんどはポリフェノールである。光合成によって生成されるといわれ、光の当たる部分には特にたくさん含有されている。含有している野菜としては、赤タマネギ、紅芋、ダイズなどがよく知られる。ポリフェノールの主たる機能は抗酸化作用であり、がん予防や血中コレステロールの酸化を防いで動脈硬化を予防する働きがあるとされる。ポリフェノール類の生理作用は個々の物質によって異なるさまざまな作用があり、その効用は数時間内といわれる。 カロテノイド類は、主として植物に含まれている赤色から黄色の色素成分で、カロテン類とキサントフィル類に分けられる。基本的に植物だけが作り出せる成分である。カロテン類には、αカロテン、βカロテン、γカロテン、リコペン(リコピン)などがあり、人間の体内でレチノールという物質に変換されてビタミンAとして作用する。レチノールに変換されないカロテン類は、抗酸化作用を発揮する。また、キサントフィル類にはアントシアニン、ルテイン、アスタキサンチン、クリプトキサンチン、カプサイシンなどがあり、これらはビタミンAとして働かないが、抗酸化作用を発揮して、がん予防や老化防止に役立つと考えられている。 イオウ化合物は、アメリカ国立癌研究所 (NCI) が中心となって提唱したデザイナーズフーズの上位に、ニンニクやキャベツ、タマネギがランクされたことから注目されるようになった生理機能成分で、特有の臭いを発する。 野菜は、果物とともに癌予防の可能性が大きいものとされている。 デザイナーフーズ計画は、1990年代、アメリカ国立癌研究所 (NCI) によって2000万ドルの予算でがんを予防するために、フィトケミカルを特定して加工食品に加える目的で開始された計画である。デザイナーフーズ計画では、がん予防に有効性のあると考えられる野菜類などが40種類ほど公開された。デザイナーフーズ計画で発表された野菜はつぎのとおり。 香辛料では甘草(リコリス )、ショウガ、ウコン(ターメリック)、バジル、タラゴン、ハッカ、オレガノであり、豆類では大豆である。 野菜などで変異原性物質Trp-P-1(3-amino-1,4-di-methyl-5H-pyrido[4,3-b]indole)に対して抗変異原性を示すものは次のようなものがある。 野菜などで変異原性物質NIHP(2-ヒドロキシ-3-(1-N-ニトロソインドリル)-プロピオン酸)に対して抗変異原性を示すものは次のようなものがある。 キャベツ、ブロッコリー、ゴボウ、ナス、ショウガ等に強い抗変異原性があることが知られている。加えて、エストラゴン、オレガノ、ギョウジャニンニク、シロザ、タイム、ツクシ、フキノトウ、モミジガサ、レモンバームの野菜類9種にもTrp-P-1に対して強い抗変異原性があり、キク科、シソ科、アブラナ科、セリ科の植物に抗変異原性があるものが多い。 2007年11月1日、世界がん研究基金とアメリカがん研究協会によって7000以上の研究を根拠に「食べもの、栄養、運動とがん予防」が報告されている。(詳細は「食生活指針」を参照のこと) 野菜は果物とともにアルカリ性食品に分類されている。(詳細は、酸性食品とアルカリ性食品を参照) 腎臓に障害がなくカリウムを摂取しても問題がなければ、カリウムを豊富に含む野菜や果物の摂取を増やすことにより血圧の降圧が期待できる。 21世紀における国民健康づくり運動(健康日本21)では、望ましい野菜の摂取量は成人1人1日あたり350g以上とされている。日本人の平均ではこの目標に対して8割程度の摂取量にとどまっており、若年層においては7割~6割程度にとどまっている状況にある。平成24年の調査では20歳以上の日本人の平均野菜摂取量は、286.5g/人日であった。所得と生活習慣等に関する状況の調査においては、所得が高いほど野菜摂取量が多く、所得が低いほど野菜摂取量が低い傾向が見られた。 2010年度における野菜の最大生産国は中華人民共和国であり、一国で世界の半分以上の生産量があった。2位はインドで、以下アメリカ合衆国、トルコ、イラン、エジプトの順となっている。中国は世界で最も野菜畑の面積が広いが、野菜の反収が最も高い国はスペインと大韓民国である。 野菜は一般的に貯蔵性が高くないため、農家が自給的に生産して余剰分を市場に供給することが多く、商業的に生産される場合は消費地の近くで生産されることが多かった。しかし都市の急速な拡大によって都市近郊の野菜生産地が都市化していったことや、輸送手段・貯蔵手段の発達によって遠隔地でも野菜栽培が採算に乗るようになったことから、野菜生産は都市から離れた地域でも行われるようになった。また、葉や実を利用し貯蔵性が低い関係上供給はその植物の収穫期に限定され、旬が短く時期によって左右されたものが野菜生産であった。その後、温室やビニールハウスなどの技術革新によって野菜は一年中供給されるようになった。 近年では、巨大なハウスを造りコンピュータ制御でその中の環境をコントロールし高い生産性・採算性で野菜を生産するオランダのような国が出現している。オランダはトマトを、本場であるイタリア向けも含めてヨーロッパ各地に大量に輸出するほどになっている。 また最近では、野菜を植物工場で生産する事例も、まだ生産量は少ないものの徐々に増えてきている。閉じた空間、害虫や雑菌の影響が少ない空間において、LED照明やコンピュータで制御された空調や養液補給などによって、気候・天候の影響をほぼ受けずに安定的に野菜を生産する方式である。雑菌や害虫が少ないため無農薬栽培が可能で、栄養価や規格の統一も容易であるなど利点も多いが、生産コストが高く採算を取るのが難しいなど課題も多く残っている。 現代において世界で栽培される野菜の多くは、中国、インドから東南アジア、中央アジア、近東、地中海岸、アフリカ(サヘル地帯及びエチオピア高原)、中央アメリカ、南米のアンデス山脈の8地域を起源としている。これらの地域は農耕文明の発祥地と重なっている。また、もともとの生息域が広く、栽培化地域が複数にまたがっている野菜も多い。中国においてはハクサイ、ネギ、ゴボウが、インドから東南アジアにおいてはキュウリやナス、サトイモ、中央アジアではダイコン、ニンジン、タマネギ、ホウレンソウ、ソラマメなどが栽培化されている。近東地域ではレタスやニンジンやタマネギが栽培化されている。地中海岸は野菜の一大起源地であり、キャベツやエンドウマメ、アスパラガスやセロリが栽培化されている。アフリカのサヘルからエチオピア高原にかけては、ササゲやオクラなどが栽培化された。中央アメリカにおいてはインゲンマメやサツマイモ、カボチャが栽培化された。南アメリカ・アンデスにおいては、トマトとジャガイモ、それにトウガラシやピーマン、カボチャの栽培化が行われた。こうした中心地のほか、世界各地で野草採集から発展した独自の野菜が栽培されており、各地独特の食文化の重要な要素となっている。 日本においては、フキやウド、ミツバなどのように日本原産の野菜も存在するが、ほとんどの野菜は日本列島の外で栽培化されたものが持ち込まれたものである。 その移入の歴史は古く、すでに縄文時代の遺跡である福井県の鳥浜貝塚においては、ゴボウ、カブ、アブラナ、リョクトウ、エゴマ、シソなどの種子が出土し、栽培されていたと考えられている。この発見は弥生時代の稲作伝来以前からすでに農耕が開始されていたこと、および縄文時代にすでにはるかな遠隔地で栽培化されていた野菜(カブやアブラナは地中海沿岸、エゴマやシソやリョクトウはインド原産)が伝来しており、大陸をはじめとする広範囲な移動がすでに行われていたことを示した。 このほか、1世紀ごろまでにはゴマ、サトイモ、ニンニク、ラッキョウ、ヤマイモ、トウガンなどがすでに伝来しており、古墳時代にはナス、キュウリ、ササゲ、ネギが伝来した。 古事記や日本書紀にはカブやニラの、万葉集では水葱(なぎ、現代のミズアオイやコナギ)やジュンサイ、ヒシ、セリ、瓜(マクワウリ)などの記述が存在する。このほか、現代ではあまり野菜としては使用されない水葱や羊蹄(しのね、現代のギシギシ)なども使用されていた。 その後も日本に伝来した野菜があり、レタスも8世紀には「萵苣」(わきょ/ちしゃ)という名前で日本に伝来している(玉状のものは明治になってからの伝来)。 江戸時代に入り、平和が続き経済が成長すると野菜の需要も高まり、特に一大消費地である江戸の周辺では大量の野菜が栽培され都市へ運び込まれるようになった。小松菜や練馬大根などのように、地名をつけブランド化する野菜が現れ始めたのもこのころのことである。 こうした傾向は江戸に限ったことではなく、京野菜や加賀野菜をはじめ、各地で特色ある野菜が開発され定着したのも江戸時代のことであった。明治時代に入ると文明開化の潮流とともにタマネギやトマト、キャベツをはじめとする西洋野菜が多く流入し、日本の野菜はより多様なものとなった。 スーパーマーケットでは外観を重視し、変形が見られるものは「規格外」として取り扱わず、「訳あり」などとして格安で売られるか、採算が取れないと農家が判断し廃棄されることもあった。消費者の意識が過度に美観を重視する姿勢から変化していることもあり、外観を規格に合わせるための栽培法を止める試みもある。 野菜は人間が長年かけて改良し続けて、長い間食べ続けられてきた植物なので、それなりに安全性は確保できていると考えてもよい。しかし、野菜の安全性に関してまだ結論が出ていないこともたくさんあり、新しく作り出された野菜の品種や遺伝子組み換え作物などは、必ずしも安全性が確かめられているわけではなく、未知のリスクの可能性も指摘されている。なるべく健康的な食生活を送るためにも、なるべく多くの種類の野菜を適量摂ることが、今最も安全な野菜の食べ方といわれている。 野菜を生産するうえで、人間以外の昆虫などの動物から受ける被害を抑止する目的で農薬が使用されるが、農薬の残存化学物質は人間にとっても癌などのリスクがあるので好ましいものではない。農薬を使用しなければ、地球上の人類を養うだけの農作物の生産量は確保できないと言われており、農薬を正しく用いる農法がふつう一般に行われている(これを慣行栽培という)。先進国のように農薬の製造や使用が適正に規制されている国では、癌を含む疾病のリスクについて、農薬を正しく使用している限りは害はないと考えてもよいといわれている。しかし、農薬が適正に使用されていない状況でつくられた野菜については、人体に害はないという前提条件が崩れてしまう。しばしば「野菜には残留農薬の危険があるから、よく洗ってから食べる」という意見も見かけられ、ていねいな水洗いや加熱調理が野菜についている残留農薬を減らすことになるのは間違いではないが、先進諸国において野菜を洗うことによって農薬の害が低減するといった科学的根拠のある研究結果はほとんど発表されていない。 野菜の安全性で注目されるのようになったものに、原則として農薬や化学肥料を使わずに栽培された有機農産物(有機野菜)がある。有機野菜は栽培法による分類で、日本のJAS法では厳密な規定により認定を受けたものだけが有機野菜と表示することができるため、流通量が極めて少ないのが現状である。有機野菜は農薬が残留している可能性は低いが、残留農薬がゼロであることまでは保証していない。有機野菜の特徴は「安心して食べられる」という点において一般に高い評価を得ているが、科学的根拠のある研究結果はほとんどない。 有機野菜に変わって増えてきたものに、農林水産省(農水省)のガイドラインに示されている無農薬野菜と減農薬野菜がある。農水省のガイドラインは、第三者による認定を必要とせず、違反しても罰則規定がないので、本当に無農薬かどうかまではわからないという問題が指摘されている。また農水省とは別に、各自治体や生産者団体が独自にガイドラインを設けて、無農薬・減農薬生産と表示をしているケースもある。農水省のガイドラインは平成16年4月に改定され、無農薬野菜と減農薬野菜という分類が特別栽培野菜という表記に統一されている。 世帯の野菜消費量が少なくなるなかで、外食産業を中心に利便性を考えてあらかじめ下処理された野菜であるカット野菜の生産量が増えてきている。カット野菜は手軽で便利というメリットがある反面、丸のままの野菜よりもカット工程などが増えるので、雑菌に触れやすく傷みやすい性質上、多くは次亜塩素酸ナトリウム溶液で殺菌してある。その後は水洗いしてあるので、食べる人の健康を害するほど残留していないが、とても傷みやすいことには変わりないので、消費期限を厳守して封を開けたら早めに使い切ることが肝要になる。 放射線照射野菜で知られるものに、発芽防止目的で使用されているジャガイモがある。放射線を当てた食品が放射能を持つことはなく、健康に害を与えるようなこともないとされている。ジャガイモの芽に含まれるアルカロイド (PGA) による食中毒リスク、輸入スパイスに付着する病原菌リスク、食品保存に使われる燻蒸の発がん性リスクを軽減するために用いられているのが放射線照射である。また放射線を当てることによって殺菌効果が高められるため、食品が腐りにくくなるという特徴もある。 遺伝子組み換え作物は遺伝子操作によってつくられた野菜であるが、それを食べた人の遺伝子に影響を与えるようなことはない。遺伝子がつくる物質はタンパク質であるため、そのタンパク質が人の健康に害を及ぼすかどうかが、遺伝子組み換え作物の安全性の評価となる。遺伝子組み換え作物のタンパク質が人の健康を害するという研究結果はほとんどなく、スターリンクというトウモロコシのタンパク質がアレルギーを起こす可能性があるという研究があるため、スターリンクについては食品として許可されていないのが現状である。遺伝子組み換え作物については、大企業の利益になっても一般市民の利益は何もないという指摘もあるため、遺伝子組み換え作物の必要性について意見が分かれるところであるが、その安全性について現段階では害は認められていないことから安全であるといわれている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "野菜(やさい、英: vegetable)は、食用の草本植物の総称。水分が多い草本性で食用となる植物を指す。主に葉や根、茎(地下茎を含む)、花・つぼみ・果実を副食として食べるものをいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "野菜は一般には食用の草本植物をいう。ただし、野菜の明確な定義づけは難しい問題とされている。たとえばイネとトウモロコシは、日本においてはイネは野菜ではなく穀物であり、トウモロコシは野菜であると同時に穀物である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "園芸学上において野菜とは「副食物として利用する草本類の総称」をいう。例えばイチゴ、スイカ、メロンは園芸分野では野菜として扱われ、農林水産省「野菜生産出荷統計」でもイチゴ、スイカ、メロンは「果実的野菜」(果菜)として野菜に分類されている。青果市場ではこれらは果物(果実部)として扱われ、厚生労働省の「国民栄養調査」や日本食品標準成分表でも「果実類」で扱われている。また、日本食品標準成分表において「野菜類」とは別に「いも類」として扱われているもの(食品群としては「いも及びでん粉類」に分類)は一般には野菜として扱われている。また、ゼンマイやツクシといった山菜については野菜に含めて扱われることもあり、木本性の植物であるタラの芽やサンショウの葉も野菜の仲間として扱われることがある。さらに、日本食品標準成分表において種実類に分類されるヒシなども野菜として取り扱われる場合がある。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本では慣用的に蔬菜(そさい)と同義語となっている。ただし、「蔬菜」は明治時代に入ってから栽培作物を指して用いられるようになった語で、本来は栽培されたものではない野菜や山菜などと厳密な区別があった。しかし、その後、山菜等も栽培されるようになった結果としてこれらの厳密な区別が困難になったといわれ、「野菜」と「蔬菜」は学問的にも全く同義語として扱われるようになっている。そして、「蔬菜」の「蔬」の字が常用漢字外であることもあって一般には「野菜」の語が用いられている。なお、野菜は青物(あおもの)とも呼ばれる。京浜急行には「青物横丁駅」がある。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "野菜は食用とする部位(需要部位)の違いから、一般に根を食用部位とする根菜類、地下あるいは地上の茎を食用部位とする茎菜類、葉や葉柄を食用部位とする葉菜類、花序や花弁を食用部位とする花菜類、未熟果や熟果を食用部位とする果菜類に分けられる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "なお、日本ではこのほかの分類法として総務省「日本標準商品分類」では根菜類、葉茎菜類、果菜類の3つに分類され、農林水産省「野菜生産出荷統計」では根菜類、葉茎菜類、果菜類、果実的野菜、香辛野菜の5つに分類されている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "植物学的に属する科に注目すると、その野菜の特徴がみえてくる。同じ科どうしの野菜であれば、見た目や味、栄養価が似ているほか、栽培する上での基本的な育ち方が似通っていている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "同じ野菜名であっても、種類によってはさまざまな品種が作られているものもあり、個々に品種名がつけられている。品種名には、産地の名前が由来となっているもの、地域で特別に名付けたもの、品種改良を行った人物や種苗会社が名付けたものなどさまざまである。品種名がそのまま商品名(商標名)となったり、同じ品種でも産地によって異なる商標名になることもあり、地域の特産品になるとブランド名として独自の名前をつけることもある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "野菜にはF1品種(雑種第一代)とよばれるものがある。F1品種は、異なる品種を人工的に交配して、病気に強い・形が揃いやすい・栽培期間が短いなどの長所となる特性を持たせたもので、流通している野菜の多くはF1品種だといわれている。F1品種の特性は一代限りのため、種を取って翌年栽培しても一代目と同じ特性の野菜には育たない。そのため、F1品種は種苗会社が種を作り、栽培農家が毎年その種を購入する必要がある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "固定種や在来種とよばれる野菜は、長い年月をかけて優良な個体から種を取り、特性を固定していくことでできた品種である。遺伝的にも安定しており、地方によっては多くの固定種が作り継がれていった。現在、地方の伝統野菜とよばれている品種は、こうした受け継がれて栽培されたことによって、その地域の在来種となったものである。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "野菜は栄養面で見ると、可食部分のカロテン含有量の違いによって緑黄色野菜と淡色野菜に分けられる。日本の厚生労働省では「原則として可食部100g当たりカロテン含量が600μg以上の野菜」を緑黄色野菜と定義している。緑黄色野菜は色が濃い野菜が多く、ホウレンソウ、ニンジン、カボチャなどがその代表例である。トマトやピーマンなどは、この基準に入らないが、食べる回数や量が多いことから緑黄色野菜とみなされている。また、緑黄色野菜以外の野菜は、淡色野菜である。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本において明治時代以降に欧米から導入されたブロッコリーなどを西洋野菜(洋菜)という。また、日本において中国から1970年代以降に導入され普及したチンゲンサイやパクチョイなどを中国野菜という。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "夏でも涼しい標高1,000メートル前後の高原で栽培される野菜類を高原野菜(こうげんやさい)または高冷地野菜(こうれいちやさい)という。明治以降、長野県の軽井沢において避暑に訪れる外国人客向けとして栽培が始まった。その後各地に広まり、ハクサイやキャベツ、レタスなど、40を超える種類の野菜が高原野菜として栽培されている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "野菜には旬があるが、近年では品種改良・作型の改良(ハウス栽培など)・輸入野菜の増加によって、旬以外の時期でも市場に年間を通して供給されるようになった。またこれらの影響か、近年の野菜の味は昔よりも薄くなったと感じている人もいる。需要形態が変化してきており、カット野菜(切断されて部分的に販売される野菜)や冷凍野菜も利用されるようになっている。ただし、カット野菜は切断面が大きい分、野菜の呼吸量も大きくなるため、品質の落ちるスピードも速くなってしまうという難点がある。", "title": "食材" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "古来食材としては、野菜類はどの文化圏においても副菜としての性格が強く、主食はコメやコムギといった炭水化物を摂取するための穀物であり、またタンパク質に富む肉や魚がごちそうとして扱われるのに比べ、野菜類がメインとなることは少なかった。野菜類がメインとなる場合も、うま味を供給する肉や魚、油や調味料と組み合わせて使用されることが常である。また野菜類の作物としての比重も高くなく、古代にはこうした野菜類は栽培するのではなく、食べられる野草を採集してくることも多かった。これは野菜類にエネルギー源やタンパク質に富むものが少なく、栄養源としてはそこまで必要性が高くなかったことによる。やがて生活が豊かになるにつれて食生活に彩りを添えるために各種栽培野菜の開発が各地で進められていくが、野草採集も食糧供給源としては存続し、現代においても山菜として食卓をにぎわせている。", "title": "食材" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "宗教・文化的理由もしくは主義として肉食を避ける人は、一般に菜食主義者と呼ばれるが、これは「野菜のみを食べる人」という意味ではない。菜食主義者の食事においてもメインとなるものはエネルギー源となる炭水化物を多く含む穀物やイモ類、およびタンパク質に富む豆類であり、野菜は副菜としての位置づけにあることには変わりがない。", "title": "食材" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "なお、主食となる穀物は野菜に含めないことが多いが、それを主食としない文化圏では野菜として扱われることがある。たとえば、穀物であるトウモロコシは日本などでは野菜に含まれ、欧米でも米が野菜に含まれることがある。", "title": "食材" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "野菜は、洗う、切るといった下ごしらえを調理の直前に行うのが基本である。根付き野菜は、水につけて洗うことによって根元付近に付着した泥が落ちやすくなる。灰汁が強い野菜の場合は、下処理として水や酢水、焼きミョウバン水などにつけて灰汁抜きをする。キュウリやオクラ、ニガウリのように、塩をまぶして揉むことで食感が良くなる野菜もある。野菜を切るときは食べやすく味や食感を考えて、輪切り、角切り(さいの目切り)、千切り、千六本、小口切り、拍子切り、短冊切り、半月切り、いちょう切り、かつらむき、みじん切り、くし形切り、細切り、斜め切り、乱切り、ささがきなど、料理に合わせたさまざまな切り方がある。", "title": "食材" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "サラダなどで生で食べる野菜は、加熱で失われやすいビタミンなどを効率よく摂ることができる。生野菜のみずみずしさ、香り、爽やかな歯ごたえは加熱野菜では得られない魅力がある。一方、野菜を加熱調理にも特有のおいしさがあり、加熱によって失われる栄養素もあるが、かさが減ることで食べる量でカバーできるので、結果的に加熱した方が多くの栄養を摂ることができる。", "title": "食材" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "焼く場合は直火・オーブン・フライパンで焼くなど方法があり、野菜表面の水分が抜けて素材の旨味も凝縮されて、かさも減るため生野菜よりも多く摂ることができる。蒸すと野菜が元来持つ旨味や栄養分を損なわずに加熱できる。油炒めは、脂溶性ビタミンのビタミンAやビタミンDの吸収率を上げる調理法で、短時間で炒めるとビタミンCの損失量も少なくなる。煮る場合は、煮汁まで食べたほうが栄養を無駄なく摂取できる。油で揚げると野菜の水分が適度に抜けて甘味が出る。クセの強い野菜は油で揚げると食べやすくなるため、山菜や苦味のある野菜に向いている調理法である。茹でるときは、葉野菜はたっぷりの湯を沸騰させて短時間で茹で上げるようにする。根菜は水から入れてじっくりと加熱し、デンプン質が多い芋類は、加熱に時間をかけることによって糖質がふえて甘くなる。電子レンジは、固めの野菜でも短時間で加熱調理できる方法で、野菜全体をラップに包んで水分が抜けて乾燥するのを防ぐ。電子レンジで加熱すると、ガスレンジで加熱するよりも短時間で火が通り、ビタミンの損失が少なく済むというメリットがある。", "title": "食材" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "野菜に含まれるビタミン・ミネラル類の中でも、調理で最も失われやすい栄養素はビタミンCである。ビタミンCは水溶性ビタミンであり、水にさらす時間が長いほど減少してしまう。例えばニンジンを千切りにして水に5分さらすと、ビタミンCが30%ほど減少する。また、ゆで時間が長くなるほどビタミンCの損失量が多くなる。野菜を煮るときは、野菜を大きめに切ったほうがビタミンCは失われにくくなる。体内で必要に応じてビタミンAに変化するカロテンは、脂溶性ビタミンであっるため、油で調理することでより吸収されやすくなる。緑色が濃い緑黄色野菜を色鮮やかに仕上げるには、加熱時間を短くして、酢などは食べる直前に加えるなどの配慮が必要になる。野菜のえぐみ、渋み、苦味などのアクは、灰分、有機酸、タンニン、アルカノイドなどである。野菜によってアクに違いがあり単純ではないが、大半は水溶性のため、茹でたり、水にさらすことによって減らすことができる。ホウレンソウのようにアクが強いものは、下茹でや電子レンジ加熱後に水にさらしてアク抜きしてから使われる。", "title": "食材" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "漬物は調味料で味をつけるとともに、野菜から水気を引き出し、保存性を増すことができる調理法である。低塩分で手軽につくれる浅漬け、野菜に塩を振って重石して保存性を高める塩漬け、精米の副産物のぬかを微生物で発酵させて野菜を漬け込んだぬか漬け、酢・水・砂糖を煮溶かした甘酢に漬け込んだ甘酢漬け、ハーブやスパイスで香り付けした酢に漬け込んだピクルスなどがある。", "title": "食材" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "野菜料理 とは、野菜を主体とした料理である。調理法は温野菜、生野菜にわけられ、肉料理、魚料理などに対置して使われる。野菜も他の食材と同じく、基本的には火を通すなど何らかの加工をして食用とするものであった。このため、おひたしや和え物、炒め物(野菜炒め)、煮物、蒸し物、揚げ物(天ぷらなど)など様々な調理法が開発された。こうした加熱法のほか、野菜の調理において非常に重要だったものは漬物としての利用である。多くの野菜、特に葉物野菜は日持ちがしないが、塩などで漬け込み漬物とすれば非常に長持ちするため、保存食として価値が高く、世界各国において様々な野菜の漬物が考案された。こうした加工利用に比べ、野菜の生での食用が一般化したのはかなり遅い時代のことだった。とりわけ日本においては、肥料に下肥を用いていたこともあり、加熱等の加工処理が必須だったために野菜の生食は非常に遅れ、一般家庭において野菜の生食であるサラダが一般化したのは1970年代中期を待たねばならなかった。", "title": "食材" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "食物に含まれる栄養素の中でも重要なタンパク質、脂質、炭水化物、ビタミン、ミネラルは五大栄養素とよばれ、中でも野菜はビタミンとミネラルを手軽に摂取しやすい食材である。品種改良が進んだ現代の野菜も、本来の生育時期は決まっており、その野菜の特性と栽培地の環境の中で自然に収穫を迎えたものが旬となる。本来の旬の時期に収穫した野菜は、もっとも味がよくなり、栄養価も高くなる。例えば、冬場に旬の時期を迎えるホウレンソウは、夏に収穫したものではビタミンC量が3分の1程度しかない。", "title": "栄養価および機能性成分の効果" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "野菜の多くは無機塩類やビタミン類、食物繊維のほかに、抗酸化物質を含むファイトケミカル(フィトケミカル)が豊富で、免疫力を上げて体内を浄化する働きがあり、癌予防を含めた各種健康維持に役立っている。ファイトケミカルとは、植物に含まれる色素や香り、灰汁などに含まれる植物自体が有害な物から防御するための物質で、ポリフェノール類、フラボノール、カテキンなどが相当する。", "title": "栄養価および機能性成分の効果" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ヒトの消化管は自力ではデンプンやグリコーゲン以外の多くの多糖類を消化できないが、大腸内の腸内細菌が嫌気発酵することによって、一部が酪酸やプロピオン酸のような短鎖脂肪酸に変換されてエネルギー源として吸収される。野菜に含まれる食物繊維の大半がセルロースであり、人間のセルロース利用能力は意外に高く、粉末にしたセルロースであれば腸内細菌を介してほぼ100%分解利用されるとも言われている。デンプンは約4kcal/g のエネルギーを産生するが、食物繊維は腸内細菌による醗酵分解によってエネルギーを産生し、その値は一定でないが、有効エネルギーは0~2kcal/gであると考えられている。また、食物繊維の望ましい摂取量は、成人男性で19g/日以上、成人女性で17g/日以上である。食物繊維は、大腸内で腸内細菌によりヒトが吸収できる分解物に転換されることから、食後長時間を経てから体内にエネルギーとして吸収される特徴を持ち、エネルギー吸収の平準化に寄与している。", "title": "栄養価および機能性成分の効果" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "野菜に含まれるファイトケミカル(フィトケミカル)には、ポリフェノール類とカロテノイド類がある。", "title": "栄養価および機能性成分の効果" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ポリフェノール類は化学構造上の分類で、フェノール基に水酸基(OH)が2つ以上たくさんついている物質のことをいう。植物の色素やアクとよばれている苦味成分のほとんどはポリフェノールである。光合成によって生成されるといわれ、光の当たる部分には特にたくさん含有されている。含有している野菜としては、赤タマネギ、紅芋、ダイズなどがよく知られる。ポリフェノールの主たる機能は抗酸化作用であり、がん予防や血中コレステロールの酸化を防いで動脈硬化を予防する働きがあるとされる。ポリフェノール類の生理作用は個々の物質によって異なるさまざまな作用があり、その効用は数時間内といわれる。", "title": "栄養価および機能性成分の効果" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "カロテノイド類は、主として植物に含まれている赤色から黄色の色素成分で、カロテン類とキサントフィル類に分けられる。基本的に植物だけが作り出せる成分である。カロテン類には、αカロテン、βカロテン、γカロテン、リコペン(リコピン)などがあり、人間の体内でレチノールという物質に変換されてビタミンAとして作用する。レチノールに変換されないカロテン類は、抗酸化作用を発揮する。また、キサントフィル類にはアントシアニン、ルテイン、アスタキサンチン、クリプトキサンチン、カプサイシンなどがあり、これらはビタミンAとして働かないが、抗酸化作用を発揮して、がん予防や老化防止に役立つと考えられている。", "title": "栄養価および機能性成分の効果" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "イオウ化合物は、アメリカ国立癌研究所 (NCI) が中心となって提唱したデザイナーズフーズの上位に、ニンニクやキャベツ、タマネギがランクされたことから注目されるようになった生理機能成分で、特有の臭いを発する。", "title": "栄養価および機能性成分の効果" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "野菜は、果物とともに癌予防の可能性が大きいものとされている。", "title": "栄養価および機能性成分の効果" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "デザイナーフーズ計画は、1990年代、アメリカ国立癌研究所 (NCI) によって2000万ドルの予算でがんを予防するために、フィトケミカルを特定して加工食品に加える目的で開始された計画である。デザイナーフーズ計画では、がん予防に有効性のあると考えられる野菜類などが40種類ほど公開された。デザイナーフーズ計画で発表された野菜はつぎのとおり。", "title": "栄養価および機能性成分の効果" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "香辛料では甘草(リコリス )、ショウガ、ウコン(ターメリック)、バジル、タラゴン、ハッカ、オレガノであり、豆類では大豆である。", "title": "栄養価および機能性成分の効果" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "野菜などで変異原性物質Trp-P-1(3-amino-1,4-di-methyl-5H-pyrido[4,3-b]indole)に対して抗変異原性を示すものは次のようなものがある。", "title": "栄養価および機能性成分の効果" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "野菜などで変異原性物質NIHP(2-ヒドロキシ-3-(1-N-ニトロソインドリル)-プロピオン酸)に対して抗変異原性を示すものは次のようなものがある。", "title": "栄養価および機能性成分の効果" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "キャベツ、ブロッコリー、ゴボウ、ナス、ショウガ等に強い抗変異原性があることが知られている。加えて、エストラゴン、オレガノ、ギョウジャニンニク、シロザ、タイム、ツクシ、フキノトウ、モミジガサ、レモンバームの野菜類9種にもTrp-P-1に対して強い抗変異原性があり、キク科、シソ科、アブラナ科、セリ科の植物に抗変異原性があるものが多い。", "title": "栄養価および機能性成分の効果" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2007年11月1日、世界がん研究基金とアメリカがん研究協会によって7000以上の研究を根拠に「食べもの、栄養、運動とがん予防」が報告されている。(詳細は「食生活指針」を参照のこと)", "title": "栄養価および機能性成分の効果" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "野菜は果物とともにアルカリ性食品に分類されている。(詳細は、酸性食品とアルカリ性食品を参照)", "title": "栄養価および機能性成分の効果" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "腎臓に障害がなくカリウムを摂取しても問題がなければ、カリウムを豊富に含む野菜や果物の摂取を増やすことにより血圧の降圧が期待できる。", "title": "栄養価および機能性成分の効果" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "21世紀における国民健康づくり運動(健康日本21)では、望ましい野菜の摂取量は成人1人1日あたり350g以上とされている。日本人の平均ではこの目標に対して8割程度の摂取量にとどまっており、若年層においては7割~6割程度にとどまっている状況にある。平成24年の調査では20歳以上の日本人の平均野菜摂取量は、286.5g/人日であった。所得と生活習慣等に関する状況の調査においては、所得が高いほど野菜摂取量が多く、所得が低いほど野菜摂取量が低い傾向が見られた。", "title": "栄養価および機能性成分の効果" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2010年度における野菜の最大生産国は中華人民共和国であり、一国で世界の半分以上の生産量があった。2位はインドで、以下アメリカ合衆国、トルコ、イラン、エジプトの順となっている。中国は世界で最も野菜畑の面積が広いが、野菜の反収が最も高い国はスペインと大韓民国である。", "title": "生産" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "野菜は一般的に貯蔵性が高くないため、農家が自給的に生産して余剰分を市場に供給することが多く、商業的に生産される場合は消費地の近くで生産されることが多かった。しかし都市の急速な拡大によって都市近郊の野菜生産地が都市化していったことや、輸送手段・貯蔵手段の発達によって遠隔地でも野菜栽培が採算に乗るようになったことから、野菜生産は都市から離れた地域でも行われるようになった。また、葉や実を利用し貯蔵性が低い関係上供給はその植物の収穫期に限定され、旬が短く時期によって左右されたものが野菜生産であった。その後、温室やビニールハウスなどの技術革新によって野菜は一年中供給されるようになった。", "title": "生産" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "近年では、巨大なハウスを造りコンピュータ制御でその中の環境をコントロールし高い生産性・採算性で野菜を生産するオランダのような国が出現している。オランダはトマトを、本場であるイタリア向けも含めてヨーロッパ各地に大量に輸出するほどになっている。", "title": "生産" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "また最近では、野菜を植物工場で生産する事例も、まだ生産量は少ないものの徐々に増えてきている。閉じた空間、害虫や雑菌の影響が少ない空間において、LED照明やコンピュータで制御された空調や養液補給などによって、気候・天候の影響をほぼ受けずに安定的に野菜を生産する方式である。雑菌や害虫が少ないため無農薬栽培が可能で、栄養価や規格の統一も容易であるなど利点も多いが、生産コストが高く採算を取るのが難しいなど課題も多く残っている。", "title": "生産" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "現代において世界で栽培される野菜の多くは、中国、インドから東南アジア、中央アジア、近東、地中海岸、アフリカ(サヘル地帯及びエチオピア高原)、中央アメリカ、南米のアンデス山脈の8地域を起源としている。これらの地域は農耕文明の発祥地と重なっている。また、もともとの生息域が広く、栽培化地域が複数にまたがっている野菜も多い。中国においてはハクサイ、ネギ、ゴボウが、インドから東南アジアにおいてはキュウリやナス、サトイモ、中央アジアではダイコン、ニンジン、タマネギ、ホウレンソウ、ソラマメなどが栽培化されている。近東地域ではレタスやニンジンやタマネギが栽培化されている。地中海岸は野菜の一大起源地であり、キャベツやエンドウマメ、アスパラガスやセロリが栽培化されている。アフリカのサヘルからエチオピア高原にかけては、ササゲやオクラなどが栽培化された。中央アメリカにおいてはインゲンマメやサツマイモ、カボチャが栽培化された。南アメリカ・アンデスにおいては、トマトとジャガイモ、それにトウガラシやピーマン、カボチャの栽培化が行われた。こうした中心地のほか、世界各地で野草採集から発展した独自の野菜が栽培されており、各地独特の食文化の重要な要素となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "日本においては、フキやウド、ミツバなどのように日本原産の野菜も存在するが、ほとんどの野菜は日本列島の外で栽培化されたものが持ち込まれたものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "その移入の歴史は古く、すでに縄文時代の遺跡である福井県の鳥浜貝塚においては、ゴボウ、カブ、アブラナ、リョクトウ、エゴマ、シソなどの種子が出土し、栽培されていたと考えられている。この発見は弥生時代の稲作伝来以前からすでに農耕が開始されていたこと、および縄文時代にすでにはるかな遠隔地で栽培化されていた野菜(カブやアブラナは地中海沿岸、エゴマやシソやリョクトウはインド原産)が伝来しており、大陸をはじめとする広範囲な移動がすでに行われていたことを示した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "このほか、1世紀ごろまでにはゴマ、サトイモ、ニンニク、ラッキョウ、ヤマイモ、トウガンなどがすでに伝来しており、古墳時代にはナス、キュウリ、ササゲ、ネギが伝来した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "古事記や日本書紀にはカブやニラの、万葉集では水葱(なぎ、現代のミズアオイやコナギ)やジュンサイ、ヒシ、セリ、瓜(マクワウリ)などの記述が存在する。このほか、現代ではあまり野菜としては使用されない水葱や羊蹄(しのね、現代のギシギシ)なども使用されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "その後も日本に伝来した野菜があり、レタスも8世紀には「萵苣」(わきょ/ちしゃ)という名前で日本に伝来している(玉状のものは明治になってからの伝来)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "江戸時代に入り、平和が続き経済が成長すると野菜の需要も高まり、特に一大消費地である江戸の周辺では大量の野菜が栽培され都市へ運び込まれるようになった。小松菜や練馬大根などのように、地名をつけブランド化する野菜が現れ始めたのもこのころのことである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "こうした傾向は江戸に限ったことではなく、京野菜や加賀野菜をはじめ、各地で特色ある野菜が開発され定着したのも江戸時代のことであった。明治時代に入ると文明開化の潮流とともにタマネギやトマト、キャベツをはじめとする西洋野菜が多く流入し、日本の野菜はより多様なものとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "スーパーマーケットでは外観を重視し、変形が見られるものは「規格外」として取り扱わず、「訳あり」などとして格安で売られるか、採算が取れないと農家が判断し廃棄されることもあった。消費者の意識が過度に美観を重視する姿勢から変化していることもあり、外観を規格に合わせるための栽培法を止める試みもある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "野菜は人間が長年かけて改良し続けて、長い間食べ続けられてきた植物なので、それなりに安全性は確保できていると考えてもよい。しかし、野菜の安全性に関してまだ結論が出ていないこともたくさんあり、新しく作り出された野菜の品種や遺伝子組み換え作物などは、必ずしも安全性が確かめられているわけではなく、未知のリスクの可能性も指摘されている。なるべく健康的な食生活を送るためにも、なるべく多くの種類の野菜を適量摂ることが、今最も安全な野菜の食べ方といわれている。", "title": "野菜の安全性" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "野菜を生産するうえで、人間以外の昆虫などの動物から受ける被害を抑止する目的で農薬が使用されるが、農薬の残存化学物質は人間にとっても癌などのリスクがあるので好ましいものではない。農薬を使用しなければ、地球上の人類を養うだけの農作物の生産量は確保できないと言われており、農薬を正しく用いる農法がふつう一般に行われている(これを慣行栽培という)。先進国のように農薬の製造や使用が適正に規制されている国では、癌を含む疾病のリスクについて、農薬を正しく使用している限りは害はないと考えてもよいといわれている。しかし、農薬が適正に使用されていない状況でつくられた野菜については、人体に害はないという前提条件が崩れてしまう。しばしば「野菜には残留農薬の危険があるから、よく洗ってから食べる」という意見も見かけられ、ていねいな水洗いや加熱調理が野菜についている残留農薬を減らすことになるのは間違いではないが、先進諸国において野菜を洗うことによって農薬の害が低減するといった科学的根拠のある研究結果はほとんど発表されていない。", "title": "野菜の安全性" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "野菜の安全性で注目されるのようになったものに、原則として農薬や化学肥料を使わずに栽培された有機農産物(有機野菜)がある。有機野菜は栽培法による分類で、日本のJAS法では厳密な規定により認定を受けたものだけが有機野菜と表示することができるため、流通量が極めて少ないのが現状である。有機野菜は農薬が残留している可能性は低いが、残留農薬がゼロであることまでは保証していない。有機野菜の特徴は「安心して食べられる」という点において一般に高い評価を得ているが、科学的根拠のある研究結果はほとんどない。", "title": "野菜の安全性" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "有機野菜に変わって増えてきたものに、農林水産省(農水省)のガイドラインに示されている無農薬野菜と減農薬野菜がある。農水省のガイドラインは、第三者による認定を必要とせず、違反しても罰則規定がないので、本当に無農薬かどうかまではわからないという問題が指摘されている。また農水省とは別に、各自治体や生産者団体が独自にガイドラインを設けて、無農薬・減農薬生産と表示をしているケースもある。農水省のガイドラインは平成16年4月に改定され、無農薬野菜と減農薬野菜という分類が特別栽培野菜という表記に統一されている。", "title": "野菜の安全性" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "世帯の野菜消費量が少なくなるなかで、外食産業を中心に利便性を考えてあらかじめ下処理された野菜であるカット野菜の生産量が増えてきている。カット野菜は手軽で便利というメリットがある反面、丸のままの野菜よりもカット工程などが増えるので、雑菌に触れやすく傷みやすい性質上、多くは次亜塩素酸ナトリウム溶液で殺菌してある。その後は水洗いしてあるので、食べる人の健康を害するほど残留していないが、とても傷みやすいことには変わりないので、消費期限を厳守して封を開けたら早めに使い切ることが肝要になる。", "title": "野菜の安全性" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "放射線照射野菜で知られるものに、発芽防止目的で使用されているジャガイモがある。放射線を当てた食品が放射能を持つことはなく、健康に害を与えるようなこともないとされている。ジャガイモの芽に含まれるアルカロイド (PGA) による食中毒リスク、輸入スパイスに付着する病原菌リスク、食品保存に使われる燻蒸の発がん性リスクを軽減するために用いられているのが放射線照射である。また放射線を当てることによって殺菌効果が高められるため、食品が腐りにくくなるという特徴もある。", "title": "野菜の安全性" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "遺伝子組み換え作物は遺伝子操作によってつくられた野菜であるが、それを食べた人の遺伝子に影響を与えるようなことはない。遺伝子がつくる物質はタンパク質であるため、そのタンパク質が人の健康に害を及ぼすかどうかが、遺伝子組み換え作物の安全性の評価となる。遺伝子組み換え作物のタンパク質が人の健康を害するという研究結果はほとんどなく、スターリンクというトウモロコシのタンパク質がアレルギーを起こす可能性があるという研究があるため、スターリンクについては食品として許可されていないのが現状である。遺伝子組み換え作物については、大企業の利益になっても一般市民の利益は何もないという指摘もあるため、遺伝子組み換え作物の必要性について意見が分かれるところであるが、その安全性について現段階では害は認められていないことから安全であるといわれている。", "title": "野菜の安全性" } ]
野菜は、食用の草本植物の総称。水分が多い草本性で食用となる植物を指す。主に葉や根、茎(地下茎を含む)、花・つぼみ・果実を副食として食べるものをいう。
{{Redirect|青物|食用魚の概念|青魚}} {{redirect|ベジタブル|大貫妙子の曲|ベジタブル (大貫妙子の曲)}} [[ファイル:Colours of Health (4877352097).jpg|thumb|様々な野菜。]] '''野菜'''(やさい、{{lang-en-short|vegetable}})は、食用の[[草本|草本植物]]の総称<ref name="kenkoueiyougakuyougojiten_p636">『健康・栄養学用語辞典』中央法規出版 p.636 2012年</ref>。水分が多い草本性で食用となる[[植物]]を指す<ref>バーバラ・サンティッチ、ジェフ・ブライアン編『世界の食用植物文化図鑑』(柊風舎) 140ページ</ref>。主に[[葉]]や[[根]]、[[茎]]([[地下茎]]を含む)、[[花]]・[[蕾|つぼみ]]・[[果実]]を副食として食べるものをいう。 == 定義 == [[ファイル:Gronsaker (1).jpg|thumb|left|並べられた野菜。]] 野菜は一般には食用の[[草本|草本植物]]をいう<ref name="kenkoueiyougakuyougojiten_p636"/>。ただし、野菜の明確な[[定義]]づけは難しい問題とされている<ref name="syokuryounohyakkajiten_p30">『食料の百科事典』丸善 p.30 2001年</ref><ref name="saishinnougyougijutsujiten_p1542">農業・生物系特定産業技術研究機構編『最新農業技術事典』農山漁村文化協会 p.1542 2006年</ref>。たとえばイネとトウモロコシは、日本においてはイネは野菜ではなく穀物であり、トウモロコシは野菜であると同時に穀物である。 [[園芸学]]上において野菜とは「副食物として利用する草本類の総称」をいう<ref name="alic-yasaibook1">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20160305071029/https://vegetable.alic.go.jp/yasaibook/pdf/c01.pdf|title=野菜ブック chapter1 野菜と私たちの生活・健康|publisher=農畜産業振興機構|accessdate=2013-04-16}}</ref>。例えば[[イチゴ]]、[[スイカ]]、[[メロン]]は[[園芸|園芸分野]]では野菜として扱われ<ref name="syokuryounohyakkajiten_p30"/><ref name="hokuriku">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20170513213559/https://www.maff.go.jp/hokuriku/kids/question/green03.html|title=すいか、メロン、いちごは野菜か果実か|publisher=北陸農政局|accessdate=2013-04-05}}</ref>、[[農林水産省]]「野菜生産出荷統計」でもイチゴ、スイカ、メロンは「果実的野菜」([[果菜]])として野菜に分類されている<ref name="alic-yasaibook1"/>。青果市場ではこれらは[[果物]](果実部)として扱われ<ref name="hokuriku"/><ref name="yasaiengeidaijiten_p1">野菜園芸大事典編集委員会編『野菜園芸大事典』養賢堂 p.1</ref>、[[厚生労働省]]の「国民栄養調査」<ref name="alic-yasaibook1"/>や[[日本食品標準成分表]]でも「果実類」で扱われている<ref name="syokuryounohyakkajiten_p30"/><ref name="kenkoueiyougakuyougojiten_p636"/>。また、日本食品標準成分表において「野菜類」とは別に「いも類」として扱われているもの(食品群としては「いも及びでん粉類」に分類)は一般には野菜として扱われている<ref name="kenkoueiyougakuyougojiten_p636"/><ref name="alic-yasaibook1"/>。また、[[ゼンマイ]]や[[ツクシ]]といった[[山菜]]については野菜に含めて扱われることもあり<ref name="saishinnougyougijutsujiten_p1542"/><ref name="yasaiengeidaijiten_p1"/>、[[木|木本性]]の植物である[[タラノキ|タラの芽]]や[[サンショウ]]の葉も野菜の仲間として扱われることがある<ref name="saishinnougyougijutsujiten_p1542"/>。さらに、日本食品標準成分表において[[種実類]]に分類される[[ヒシ]]なども野菜として取り扱われる場合がある<ref name="kenkoueiyougakuyougojiten_p636"/>。 日本では慣用的に'''[[蔬菜]]'''(そさい)と同義語となっている<ref name="syokuryounohyakkajiten_p18">『食料の百科事典』丸善 p.18 2001年</ref><ref name="saishinnougyougijutsujiten_p874">農業・生物系特定産業技術研究機構編『最新農業技術事典』農山漁村文化協会 p.1542 2006年</ref><ref name="sosai_p1">斎藤隆『蔬菜園芸の事典』朝倉書店 p.1 1991年</ref>。ただし、「蔬菜」は[[明治|明治時代]]に入ってから栽培作物を指して用いられるようになった語で<ref name="yasaiengeidaijiten_p1"/><ref name="sosai_p1"/>、本来は栽培されたものではない野菜や山菜などと厳密な区別があった<ref name="sosai_p2">斎藤隆『蔬菜園芸の事典』朝倉書店 p.2 1991年</ref>。しかし、その後、山菜等も[[栽培]]されるようになった結果としてこれらの厳密な区別が困難になったといわれ<ref name="sosai_p2"/>、「野菜」と「蔬菜」は学問的にも全く同義語として扱われるようになっている<ref name="sosai_p2"/>。そして、「蔬菜」の「蔬」の字が[[常用漢字]]外であることもあって一般には「野菜」の語が用いられている<ref>野菜園芸大事典編集委員会編『野菜園芸大事典』養賢堂 p.1参照</ref>。なお、野菜は'''青物'''(あおもの)とも呼ばれる<ref name="kenkoueiyougakuyougojiten_p636"/>。京浜急行には「[[青物横丁駅]]」がある。 == 代表的な野菜 == {|style="width:98%;" class="wikitable" ! style="text-align:center; " colspan="6"|代表的な野菜 |- ! style="" |画像 ! style="" |名前(学名) ! style="" |食用部位 ! style="" |原産地 ! style="" |類縁種 ! style="" |世界生産量<br>(100万トン;2012)<ref>{{cite web|url=http://faostat.fao.org/site/567/DesktopDefault.aspx?PageID=567#ancor |title=FAOSTAT Query page |accessdate=2015-09-16}} Aggregate data: may include official, semi-official or estimated data</ref> |- | [[File:CabbageBG.JPG|125px]] || [[キャベツ]]<br>''Brassica oleracea'' || 葉、腋芽、茎、花 || ヨーロッパ || キャベツ、[[赤キャベツ]]、[[コールラビ]]、[[ケール]]、[[メキャベツ]]、[[カリフラワー]]、[[ブロッコリー]]、[[カイラン]] |style="text-align:right"|70.1 |- | [[File:Turnip 2622027.jpg|125px]] || [[カブ]]<br>''Brassica rapa'' || 塊茎、葉 || アジア ||カブ、[[ルタバガ]]、[[ハクサイ]]、[[チンゲンサイ]]、[[ノザワナ]]、[[コマツナ]]、[[アブラナ]]([[菜の花]])、[[ミズナ]]、[[タアサイ]] |style="text-align:right"| |- | [[File:Daikon.Japan.jpg|125px]] || [[ダイコン]]<br>''Raphanus sativus'' || 根、葉、種子鞘、種子油、芽 || 東南アジア || ダイコン、[[ハツカダイコン]](ラディッシュ) |style="text-align:right"| |- | [[File:7carrots.jpg|125px]] || [[ニンジン]]<br>''Daucus carota'' || 塊根 || イラン || ニンジン |style="text-align:right"|36.9<ref group=n name=carrot>ニンジンとカブの合算</ref> |- | [[File:Arctium lappa 2006.10.14 11.01.25-pa140017.jpg|75px]] || [[ゴボウ]]<br>''Arctium lappa'' || 塊根 || ユーラシア ||ゴボウ |style="text-align:right"| |- | [[File:Kropsla herfst.jpg|125px]] || [[レタス]]<br>''Lactuca sativa'' || 葉、茎、種子油 || エジプト || レタス、[[ステムレタス]] |style="text-align:right"|24.9 |- | [[File:Bohne z01.JPG|125px]] || [[インゲンマメ]]<br>''Phaseolus vulgaris''<br>''Phaseolus coccineus''<br>''Phaseolus lunatus'' || 種子、鞘 || 中央アメリカおよび南アメリカ || インゲンマメ、[[ベニバナインゲン]]、[[リママメ]] |style="text-align:right"|44.6<ref group=n name=dry>乾物及び生野菜の合算</ref> |- | [[File:Tuinboon zaden in peul.jpg|125px]] || [[ソラマメ]]<br>''Vicia faba'' || 種子、鞘 || 北アフリカ<br>西南アジアから南アジア || ソラマメ |style="text-align:right"| |- | [[File:NCI peas in pod.jpg|125px]] || [[エンドウマメ]]<br>''Pisum sativum'' || 種子、鞘、芽 || 地中海から中東 || エンドウマメ、[[スナップエンドウ]] |style="text-align:right"|28.9<ref group=n name=dry/> |- | [[File:Various types of potatoes for sale.jpg|125px]] || [[ジャガイモ]]<br>''Solanum tuberosum'' || 塊根 || 南アメリカ || ジャガイモ |style="text-align:right"|365.4 |- | [[File:Aubergine.jpg|125px]] || [[ナス]]<br>''Solanum melongena'' || 果実 || 南アジアおよび東アジア || ナス |style="text-align:right"|48.4 |- | [[File:Tomato je.jpg|125px]] || [[トマト]]<br>''Solanum lycopersicum'' || 果実 || 南アメリカ || トマト |style="text-align:right"|161.8 |- | [[File:Ogórki...jpg|125px]] || [[キュウリ]]<br>''Cucumis sativus'' || 果実 || 南アジア || キュウリ |style="text-align:right"|65.1 |- | [[File:Pumpkins Hancock Shaker village 2418.jpg|125px]] || [[カボチャ]]<br>''Cucurbita spp.'' || 果実、花 || メソアメリカ || カボチャ、[[ズッキーニ]]|| style="text-align:right"|24.6 |- | [[File:Onions.jpg|125px]] || [[タマネギ]]<br>''Allium cepa'' || 球根, 葉 || アジア || タマネギ、[[ネギ]]、[[ワケギ]]、[[エシャロット]] |style="text-align:right"|87.2<ref group=n name=dry/> |- | [[File:Garlic.jpg|125px]] || [[ニンニク]]<br>''Allium sativum'' || 球根 || アジア || ニンニク |style="text-align:right"|24.8 |- | [[File:Red capsicum and cross section.jpg|125px]] || [[トウガラシ]]<br>''Capsicum annuum'' || 果実 || 南北アメリカ || トウガラシ、[[ピーマン]]、[[パプリカ]]、[[シシトウ]] |style="text-align:right"|34.5<ref group=n name=dry/> |- | [[File:Espinac 5nov.JPG|125px]]||[[ホウレンソウ]]<br>''Spinacia oleracea''||葉||中央アジアから西南アジア||ホウレンソウ |style="text-align:right"|21.7 |- | [[File:Taro corms 2.jpg|125px]] || [[サトイモ]]<br>''Colocasia esculenta'' || 塊茎、葉柄 || 東南アジア ||サトイモ、[[タロイモ]]、[[タイモ]] |style="text-align:right"| |- | [[File:Dioscorea polystachya (batatas).jpg|125px]] || [[ヤムイモ]]<br>''Dioscorea spp.'' || 塊茎 || アフリカ熱帯地域 ||ヤムイモ、[[ヤマノイモ]] |style="text-align:right"|59.5 |- | [[File:Ipomoea batatas 006.JPG|125px]] || [[サツマイモ]]<br>''Ipomoea batatas'' || 塊茎, 葉, 苗条 || 中央アメリカおよび南アメリカ ||サツマイモ |style="text-align:right"|108.0 |- | [[File:Manihot esculenta dsc07325.jpg|125px]]||[[キャッサバ]]<br>''Manihot esculenta''|| 塊茎 || 南アメリカ || キャッサバ |style="text-align:right"|269.1 |} {{reflist|group=n}} == 分類 == [[ファイル:Vegetables.jpg|right|thumb|200px|多種多様な野菜。]] === 需要部位による分類 === 野菜は食用とする部位(需要部位)の違いから、一般に根を食用部位とする'''[[根菜|根菜類]]'''、地下あるいは地上の茎を食用部位とする'''茎菜類'''、葉や[[葉柄]]を食用部位とする'''[[葉菜類]]'''、[[花序]]や[[花弁]]を食用部位とする'''花菜類'''、未熟果や熟果を食用部位とする'''果菜類'''に分けられる<ref name="nihonsyokuhindaijiten_p104">杉田浩一編『日本食品大事典』医歯薬出版 p.104 2008年</ref><ref name="sosai_p30">斎藤隆『蔬菜園芸の事典』朝倉書店 p.30 1991年</ref><ref name="heya sodan 1205">{{Cite web|和書|url=https://www.maff.go.jp/j/heya/sodan/1205/05a.html|title=消費者相談 ジャガイモは根菜類と区分されているようですが、そのほかの野菜類の区分はどのようになっているのか教えてください。|publisher=農林水産省|accessdate=2013-04-16}}</ref>。 * 根菜類(根もの野菜{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=218}}) ** [[ダイコン]]、[[カブ]]、[[ニンジン]]、[[ゴボウ]]、[[レンコン]]、[[サトイモ]]、[[サツマイモ]]、[[ヤマイモ]]、[[百合根]]、[[クワイ]]、[[ビーツ]]、[[ヤーコン]]など。 * 茎菜類(茎もの野菜{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=218}}) ** [[タマネギ]]、[[アスパラガス]]、[[ウド]]など。 * 葉菜類(葉もの野菜{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=218}}) ** [[キャベツ]]、[[コマツナ]]、[[ミズナ]]、[[ハクサイ]]、[[チンゲンサイ]]、[[タアサイ]]、[[レタス]]、[[シュンギク]]、[[チコリ]]、[[トレビス]]、[[エンダイブ]]、[[ホウレンソウ]]、[[ハクサイ]]、[[ニラ]]、[[ネギ]]、[[ミツバ]]、[[モロヘイヤ]]など。 * 果菜類(実もの野菜{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=218}}、成り物野菜ともいう) ** [[トマト]]、[[ナス]]、[[カボチャ]]、[[ニガウリ]]、[[トウガン]]、[[シロウリ]]、[[ピーマン]]、[[パプリカ]]、[[シシトウガラシ]]、[[キュウリ]]、[[ズッキーニ]]、[[オクラ]]など。 * 花菜類 ** [[ミョウガ]]、[[カリフラワー]]、[[ブロッコリー]]、[[食用菊]]、[[アーティチョーク]]など。 なお、日本ではこのほかの分類法として総務省「日本標準商品分類」では根菜類、葉茎菜類、果菜類の3つに分類され<ref name="heya sodan 1205"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000294475.pdf |title=日本標準商品分類(平成2年6月改定) |access-date=2023/02/13 |publisher=総務省}}</ref>、農林水産省「野菜生産出荷統計」では根菜類、葉茎菜類、果菜類、果実的野菜、香辛野菜の5つに分類されている<ref name="alic-yasaibook1"/>。 === 科による分類 === 植物学的に属する科に注目すると、その野菜の特徴がみえてくる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=218}}。同じ科どうしの野菜であれば、見た目や味、栄養価が似ているほか、栽培する上での基本的な育ち方が似通っていている{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=218}}。 * [[アブラナ科]] ** [[キャベツ]]、[[コマツナ]]、[[ハクサイ]]、[[タアサイ]]、[[チンゲンサイ]]、[[ブロッコリー]]、[[カリフラワー]]、[[ダイコン]]、[[カブ]]、[[ミズナ]]、[[菜花]]など。 * [[セリ科]] ** [[ニンジン]]、[[セロリ]]、[[パセリ]]、[[ミツバ]]、[[アシタバ]]、[[フェンネル|フローレンスフェンネル]]など。 * [[ウリ科]] ** [[キュウリ]]、[[カボチャ]]、[[スイカ]]、[[ニガウリ]]、[[ズッキーニ]]、[[トウガン]]、[[シロウリ]]など。 * [[ヒガンバナ科]][[ネギ亜科]] ** [[タマネギ]]、[[ネギ]]、[[ワケギ]]、[[ニラ]]、[[ニンニク]]、[[ラッキョウ]]、[[リーキ]]など。 * [[ナス科]] ** [[ナス]]、[[トマト]]、[[ピーマン]]、[[パプリカ]]、[[トウガラシ]]、[[シシトウガラシ]]、[[ジャガイモ]]など。 * [[マメ科]] ** [[インゲン]]、[[エンドウ]]、[[枝豆]]([[ダイズ]])、[[ラッカセイ]]など。 * [[アオイ科]] ** [[オクラ]]、[[モロヘイヤ]]など。 * [[キク科]] ** [[レタス]]、[[シュンギク]]、[[ゴボウ]]、[[食用菊]]、[[アーティチョーク]]、[[チコリ]]、[[トレビス]]、[[エンダイブ]]、[[金時草]]、[[ヤーコン]]など。 * [[ショウガ科]] ** [[ショウガ]]、[[ミョウガ]]など。 * [[ヒルガオ科]] ** [[サツマイモ]]、[[クウシンサイ]]など。 * [[シソ科]] ** [[シソ]](大葉)、[[エゴマ]]など。 * [[イネ科]] ** [[トウモロコシ]]、[[タケノコ]]など。 * [[キジカクシ科]] ** [[アスパラガス]] * [[サトイモ科]] ** [[サトイモ]]、[[ハスイモ]]など。 * [[ヒユ科]] ** [[ホウレンソウ]]、[[オカヒジキ]]、[[ビート (植物)|ビート]]、[[スイスチャード]]など * [[ゴマ科]] ** [[ゴマ]] === 品種 === 同じ野菜名であっても、種類によってはさまざまな[[品種 (分類学)|品種]]が作られているものもあり、個々に品種名がつけられている。品種名には、産地の名前が由来となっているもの、地域で特別に名付けたもの、品種改良を行った人物や種苗会社が名付けたものなどさまざまである{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=219}}。品種名がそのまま商品名(商標名)となったり、同じ品種でも産地によって異なる商標名になることもあり、地域の特産品になるとブランド名として独自の名前をつけることもある{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=219}}。 野菜には[[雑種第一代|'''F<sub>1</sub>品種'''(雑種第一代)]]とよばれるものがある。F<sub>1</sub>品種は、異なる品種を人工的に交配して、病気に強い・形が揃いやすい・栽培期間が短いなどの長所となる特性を持たせたもので、流通している野菜の多くはF<sub>1</sub>品種だといわれている{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=219}}。F<sub>1</sub>品種の特性は一代限りのため、種を取って翌年栽培しても一代目と同じ特性の野菜には育たない。そのため、F<sub>1</sub>品種は種苗会社が種を作り、栽培[[農家]]が毎年その種を購入する必要がある{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=219}}。 '''固定種'''や'''在来種'''とよばれる野菜は、長い年月をかけて優良な個体から種を取り、特性を固定していくことでできた品種である。遺伝的にも安定しており、地方によっては多くの固定種が作り継がれていった{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=219}}。現在、地方の[[伝統野菜]]とよばれている品種は、こうした受け継がれて栽培されたことによって、その地域の在来種となったものである{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=219}}。 === 緑黄色野菜と淡色野菜 === 野菜は栄養面で見ると、可食部分の[[カロテン]]含有量の違いによって[[緑黄色野菜]]と[[淡色野菜]]に分けられる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=220}}{{sfn|講談社編|2013|p=236}}。日本の[[厚生労働省]]では「原則として可食部100g当たり[[カロテン]]含量が600μg以上の野菜」<ref name="kenkouyougo">{{Cite web|和書|url=https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/dictionary/food/ye-037.html|title=健康用語辞典 緑黄色野菜|publisher=厚生労働省|accessdate=2013-04-05}}</ref><ref name="alic-yasaibook1"/>を[[緑黄色野菜]]と定義している。緑黄色野菜は色が濃い野菜が多く、[[ホウレンソウ]]、[[ニンジン]]、[[カボチャ]]などがその代表例である{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=220}}。[[トマト]]や[[ピーマン]]などは、この基準に入らないが、食べる回数や量が多いことから緑黄色野菜とみなされている{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=220}}{{sfn|講談社編|2013|p=236}}。また、緑黄色野菜以外の野菜は、淡色野菜である{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=220}}。 === 西洋野菜と中国野菜 === 日本において[[明治時代]]以降に[[欧米]]から導入された[[ブロッコリー]]などを西洋野菜(洋菜)という<ref name="nihonsyokuhindaijiten_p104">杉田浩一編『日本食品大事典』医歯薬出版 p.104 2008年</ref>。また、日本において中国から[[1970年代]]以降に導入され普及した[[チンゲンサイ]]や[[パクチョイ]]などを[[中国野菜]]という<ref name="nihonsyokuhindaijiten_p104"/>。 === 高原野菜 === 夏でも涼しい標高1,000メートル前後の[[高原]]で栽培される野菜類を'''高原野菜'''(こうげんやさい)または'''高冷地野菜'''(こうれいちやさい)という。明治以降、長野県の[[軽井沢]]において[[避暑]]に訪れる外国人客向けとして栽培が始まった。その後各地に広まり、ハクサイやキャベツ、レタスなど、40を超える種類の野菜が高原野菜として栽培されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/高原野菜 |title=コトバンク 高原野菜(デジタル大辞泉、世界大百科事典 第2版、大辞林 第三版) |accessdate=2017-03-13 }}</ref>。 == 食材 == [[ファイル:Paris - Monop' de Bercy Village.jpg|thumb|[[スーパーマーケット]]に並んだ野菜。]] 野菜には[[旬]]があるが、近年では[[品種]]改良・[[作型]]の改良([[ビニールハウス|ハウス]]栽培など)・[[輸入]]野菜の増加によって、旬以外の時期でも[[市場]]に年間を通して[[供給]]されるようになった{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=220}}。またこれらの影響か、近年の野菜の[[味]]は昔よりも薄くなったと感じている人もいる。需要形態が変化してきており、カット野菜(切断されて部分的に販売される野菜)や冷凍野菜も利用されるようになっている<ref name="alic-yasaibook1"/>。ただし、カット野菜は切断面が大きい分、野菜の呼吸量も大きくなるため、品質の落ちるスピードも速くなってしまうという難点がある<ref name="tabemonotokenkouomoshirozatsugaku_p195"> 落合敏監修 『食べ物と健康おもしろ雑学』 p.195 梧桐書院 1991年</ref>。 古来食材としては、野菜類はどの文化圏においても副菜としての性格が強く、[[主食]]は[[コメ]]や[[コムギ]]といった炭水化物を摂取するための穀物であり、またタンパク質に富む[[食肉|肉]]や[[魚]]が[[ごちそう]]として扱われるのに比べ、野菜類がメインとなることは少なかった。野菜類がメインとなる場合も、[[うま味]]を供給する肉や魚、[[油]]や[[調味料]]と組み合わせて使用されることが常である<ref name="名前なし-1">『世界の食べもの 食の文化地理』p238 石毛直道 講談社学術文庫 2013年5月9日第1刷</ref>。また野菜類の作物としての比重も高くなく、古代にはこうした野菜類は栽培するのではなく、食べられる[[野草]]を採集してくることも多かった。これは野菜類にエネルギー源やタンパク質に富むものが少なく、栄養源としてはそこまで必要性が高くなかったことによる<ref>『世界の食べもの 食の文化地理』p237 石毛直道 講談社学術文庫 2013年5月9日第1刷</ref>。やがて生活が豊かになるにつれて食生活に彩りを添えるために各種栽培野菜の開発が各地で進められていくが、野草採集も食糧供給源としては存続し、現代においても[[山菜]]として食卓をにぎわせている。 [[宗教]]・[[文化的]]理由もしくは[[主義]]として[[肉食]]を避ける人は、一般に[[菜食主義|菜食主義者]]と呼ばれるが、これは「野菜のみを食べる人」という意味ではない。菜食主義者の食事においてもメインとなるものは[[エネルギー]]源となる[[炭水化物]]を多く含む穀物や[[イモ]]類、および[[タンパク質]]に富む[[豆]]類であり、野菜は副菜としての位置づけにあることには変わりがない<ref name="名前なし-1"/>。 なお、[[主食]]となる[[穀物]]は野菜に含めないことが多いが、それを主食としない[[文化圏]]では野菜として扱われることがある。たとえば、穀物である[[トウモロコシ]]は日本などでは野菜に含まれ、欧米でも[[米]]が野菜に含まれることがある。 === 調理法 === 野菜は、洗う、切るといった下ごしらえを調理の直前に行うのが基本である{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=222}}。根付き野菜は、水につけて洗うことによって根元付近に付着した泥が落ちやすくなる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=222}}。[[灰汁]]が強い野菜の場合は、下処理として水や酢水、焼き[[ミョウバン]]水などにつけて[[灰汁抜き]]をする{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=222}}。キュウリやオクラ、ニガウリのように、塩をまぶして揉むことで食感が良くなる野菜もある{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=222}}。野菜を切るときは食べやすく味や食感を考えて、[[輪切り]]、[[角切り]](さいの目切り)、[[千切り]]、[[千六本]]、[[小口切り]]、[[拍子切り]]、[[短冊切り]]、[[半月切り]]、[[いちょう切り]]、[[かつらむき]]、[[みじん切り]]、[[くし形切り]]、[[細切り]]、[[斜め切り]]、[[乱切り]]、[[ささがき]]など、料理に合わせたさまざまな切り方がある<ref>{{Cite web |title=Harvard Health |url=https://www.health.harvard.edu/promotions/harvard-health-publications/the-harvard-medical-school-6-week-plan-for-healthy-eating |website=www.health.harvard.edu |access-date=2023-02-14 |language=en}}</ref>{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=223}}{{sfn|講談社編|2013|pp=245&ndash;247}}。 [[サラダ]]などで生で食べる野菜は、加熱で失われやすい[[ビタミン]]などを効率よく摂ることができる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=224}}。生野菜のみずみずしさ、香り、爽やかな歯ごたえは加熱野菜では得られない魅力がある{{sfn|講談社編|2013|pp=238, 239}}。一方、野菜を加熱調理にも特有のおいしさがあり、加熱によって失われる栄養素もあるが、かさが減ることで食べる量でカバーできるので、結果的に加熱した方が多くの栄養を摂ることができる{{sfn|講談社編|2013|pp=238, 239}}。 焼く場合は直火・[[オーブン]]・[[フライパン]]で焼くなど方法があり、野菜表面の水分が抜けて素材の旨味も凝縮されて、かさも減るため生野菜よりも多く摂ることができる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=224}}。蒸すと野菜が元来持つ旨味や栄養分を損なわずに加熱できる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=224}}。[[油炒め]]は、[[脂溶性ビタミン]]の[[ビタミンA]]や[[ビタミンD]]の吸収率を上げる調理法で、短時間で炒めると[[ビタミンC]]の損失量も少なくなる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=224}}。煮る場合は、煮汁まで食べたほうが栄養を無駄なく摂取できる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=224}}。油で揚げると野菜の水分が適度に抜けて甘味が出る{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=224}}。クセの強い野菜は油で揚げると食べやすくなるため、[[山菜]]や苦味のある野菜に向いている調理法である{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=224}}。茹でるときは、[[葉野菜]]はたっぷりの湯を沸騰させて短時間で茹で上げるようにする{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=225}}。[[根菜]]は水から入れてじっくりと加熱し、[[デンプン]]質が多い[[芋類]]は、加熱に時間をかけることによって[[糖質]]がふえて甘くなる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=225}}。[[電子レンジ]]は、固めの野菜でも短時間で加熱調理できる方法で、野菜全体をラップに包んで水分が抜けて乾燥するのを防ぐ{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=224}}。電子レンジで加熱すると、ガスレンジで加熱するよりも短時間で火が通り、ビタミンの損失が少なく済むというメリットがある{{sfn|講談社編|2013|p=241}}。 野菜に含まれるビタミン・ミネラル類の中でも、調理で最も失われやすい栄養素は[[ビタミンC]]である{{sfn|講談社編|2013|pp=238, 239}}。ビタミンCは水溶性ビタミンであり、水にさらす時間が長いほど減少してしまう{{sfn|講談社編|2013|pp=238, 239}}。例えばニンジンを千切りにして水に5分さらすと、ビタミンCが30%ほど減少する{{sfn|講談社編|2013|pp=238, 239}}。また、ゆで時間が長くなるほどビタミンCの損失量が多くなる{{sfn|講談社編|2013|pp=238, 239}}。野菜を煮るときは、野菜を大きめに切ったほうがビタミンCは失われにくくなる{{sfn|講談社編|2013|p=240}}。体内で必要に応じてビタミンAに変化するカロテンは、脂溶性ビタミンであっるため、油で調理することでより吸収されやすくなる{{sfn|講談社編|2013|p=240}}。緑色が濃い緑黄色野菜を色鮮やかに仕上げるには、加熱時間を短くして、酢などは食べる直前に加えるなどの配慮が必要になる{{sfn|講談社編|2013|p=240}}。野菜のえぐみ、渋み、苦味などのアクは、灰分、有機酸、タンニン、アルカノイドなどである{{sfn|講談社編|2013|p=241}}。野菜によってアクに違いがあり単純ではないが、大半は水溶性のため、茹でたり、水にさらすことによって減らすことができる{{sfn|講談社編|2013|p=241}}。ホウレンソウのようにアクが強いものは、下茹でや電子レンジ加熱後に水にさらしてアク抜きしてから使われる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=224}}。 [[漬物]]は調味料で味をつけるとともに、野菜から水気を引き出し、保存性を増すことができる調理法である{{sfn|講談社編|2013|pp=248&ndash;250}}。低塩分で手軽につくれる[[浅漬け]]、野菜に塩を振って重石して保存性を高める[[塩漬け]]、精米の副産物のぬかを微生物で発酵させて野菜を漬け込んだ[[ぬか漬け]]、酢・水・砂糖を煮溶かした甘酢に漬け込んだ[[甘酢漬け]]、ハーブやスパイスで香り付けした酢に漬け込んだ[[ピクルス]]などがある{{sfn|講談社編|2013|pp=248&ndash;250}}。 === 野菜料理 === '''野菜料理''' とは、'''野菜'''を主体とした料理である。調理法は[[温野菜]]、[[生野菜]]にわけられ、'''肉料理'''、'''魚料理'''などに対置して使われる。野菜も他の食材と同じく、基本的には火を通すなど何らかの加工をして食用とするものであった。このため、[[おひたし]]や[[和え物]]、[[炒め物]]([[野菜炒め]])、[[煮物]]、[[蒸す|蒸し物]]、[[揚げる|揚げ物]]([[天ぷら]]など)など様々な調理法が開発された。こうした加熱法のほか、野菜の調理において非常に重要だったものは[[漬物]]としての利用である。多くの野菜、特に葉物野菜は日持ちがしないが、[[塩]]などで漬け込み漬物とすれば非常に長持ちするため、[[保存食]]として価値が高く、世界各国において様々な野菜の漬物が考案された<ref>『世界の食べもの 食の文化地理』p239-241 石毛直道 講談社学術文庫 2013年5月9日第1刷</ref>。こうした加工利用に比べ、野菜の生での食用が一般化したのはかなり遅い時代のことだった。とりわけ日本においては、肥料に下肥を用いていたこともあり、加熱等の加工処理が必須だったために野菜の生食は非常に遅れ、一般家庭において野菜の生食である[[サラダ]]が一般化したのは[[1970年代]]中期を待たねばならなかった。 == 栄養価および機能性成分の効果 == 食物に含まれる栄養素の中でも重要な[[タンパク質]]、[[脂質]]、[[炭水化物]]、[[ビタミン]]、[[ミネラル]]は五大栄養素とよばれ、中でも野菜はビタミンとミネラルを手軽に摂取しやすい食材である{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=220}}。品種改良が進んだ現代の野菜も、本来の生育時期は決まっており、その野菜の特性と栽培地の環境の中で自然に収穫を迎えたものが旬となる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=220}}。本来の旬の時期に収穫した野菜は、もっとも味がよくなり、栄養価も高くなる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=220}}。例えば、冬場に旬の時期を迎えるホウレンソウは、夏に収穫したものではビタミンC量が3分の1程度しかない{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=220}}。 野菜の多くは[[無機塩類]]やビタミン類、[[食物繊維]]のほかに、[[抗酸化物質]]を含む[[ファイトケミカル]](フィトケミカル)が豊富で、免疫力を上げて体内を浄化する働きがあり、癌予防を含めた各種[[健康]]維持に役立っている{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=220}}。ファイトケミカルとは、植物に含まれる色素や香り、灰汁などに含まれる植物自体が有害な物から防御するための物質で、[[ポリフェノール]]類、[[フラボノール]]、[[カテキン]]などが相当する{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=220}}。 {| class="wikitable" |+野菜の代表的な栄養素 !style="width:6em;" |栄養素 !特徴 !多く含まれる主な野菜 !style="width:3em;" |備考 |- |[[ビタミンA]] |カロテン類として含まれている脂溶性ビタミンで、体内でビタミンAに変換される。食用油と一緒に摂ると吸収力が上がる。抗酸化作用があり、皮膚や粘膜を健康に保つ働きがある。 |ニンジン、ホウレンソウ、アシタバ、ニラ、タアサイ、シュンギク、モロヘイヤ、西洋カボチャ、タカナ、ダイコン・カブの葉などの緑黄色野菜。 |{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=221}} |- |[[ビタミンB1]] |炭水化物(糖質)をエネルギーに変えるのを助ける水溶性ビタミンの1種。不足すると糖質代謝が低下して、疲労の原因になる。神経のはたらきを正常に保つ。 |枝豆、ニンニク、モロヘイヤ、ラッカセイ、グリーンピース、ソラマメなど。 |{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=221}} |- |[[ビタミンB2]] |糖質、脂質、タンパク質の代謝を助けて、エネルギーに変えるのを助ける。タンパク質の合成を助けて細胞の成長を促す働きがあり、皮膚や粘膜の健康維持を助ける。 |ブロッコリー、シソ、ホウレンソウ、モロヘイヤ、トウガラシ、アシタバ、パセリ、クレソン、バジル、メキャベツなど。 |{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=221}} |- |[[ビタミンB6]] |タンパク質をアミノ酸に分解や合成する働きを助け、筋肉や血液を作るために不可欠なビタミン。女性ホルモンのエストロゲンの代謝にも必要とされる。 |赤ピーマン、モロヘイヤ、ニンニク、トウガラシ、バジル、パセリ、カブの葉など。 |{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=221}} |- |[[ビタミンC]] |抗酸化作用があるほか、タンパク質やコラーゲンの生成を助けて、風邪予防や肌を健康に保つ働きがある。 |ブロッコリー、ジャガイモ、赤ピーマン、黄ピーマン、パセリ、ケール、メキャベツ、菜花、カブの葉、カリフラワーなど。 |{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=221}} |- |[[ビタミンK]] |血液凝固促進作用があるタンパク質を作るのを助ける脂溶性ビタミンの1種。またカルシウムを取り込む働きがあり、丈夫な骨を作るのを助ける。ビタミンK1(フィロキノン)とビタミンK2(メナキノン類)の2種類がある。 |カブ・ダイコンの葉、モロヘイヤ、アシタバ、ツルムラサキ、ケール、パセリ、シソ、ホウレンソウ、ヨメナ、バジルなど。 |{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=221}} |- |[[カリウム]] |細胞内の水分量を調節して、腎臓でナトリウムの排出作用がある。高血圧予防やむくみ予防、筋肉の働きを調整する。 |ミツバ、サトイモ、パセリ、ホウレンソウ、枝豆、ケールなど。 |{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=221}} |- |[[カルシウム]] |骨や歯の主成分で、発育や骨粗鬆症予防に重要なミネラル。脳内神経伝達物質を放出するため、不足するとイライラするといわれている。 |コマツナ、モロヘイヤ、パセリ、シソ、ツルムラサキ、エンドウ、ゴマ、ダイズなど。 |{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=221}} |- |[[鉄分]] |血液中のヘモグロビンを構成し、全身の酸素を送る働きがある。不足すると、疲れやすくなり、動悸、息切れ、食欲不振の症状が出る。 |コマツナ、レタス、枝豆、ホウレンソウ、シソ、パセリ、コンニャク、ソラマメなど。 |{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=221}} |- |[[食物繊維]] |体内で消化されない炭水化物で、腸の働きを活発にさせる働きがある。便秘予防、血糖値の急上昇の抑制、コレステロールの吸収を抑える働きがある。 |ゴボウ、グリーンピース、モロヘイヤ、コンニャク、ダイズ、ケール、ラッキョウ、エンドウ、インゲンなど。 |{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=221}} |} === 食物繊維 === [[ヒト]]の[[消化管]]は自力では[[デンプン]]や[[グリコーゲン]]以外の多くの[[多糖類]]を消化できないが、[[大腸]]内の[[腸内細菌]]が[[嫌気的|嫌気]][[発酵]]することによって、一部が[[酪酸]]や[[プロピオン酸]]のような[[短鎖脂肪酸|短鎖]][[脂肪酸]]に変換されてエネルギー源として吸収される。野菜に含まれる食物繊維の大半が[[セルロース]]であり、人間のセルロース利用能力は意外に高く、粉末にしたセルロースであれば腸内細菌を介してほぼ100%分解利用されるとも言われている。デンプンは約4kcal/g のエネルギーを産生するが、食物繊維は腸内細菌による醗酵分解によってエネルギーを産生し、その値は一定でないが、有効エネルギーは0~2kcal/gであると考えられている。また、食物繊維の望ましい摂取量は、成人男性で19g/日以上、成人女性で17g/日以上である<ref name="摂取基準">{{PDFlink|[https://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/05/dl/s0529-4h.pdf 「日本人の食事摂取基準」(2010年版)厚生労働省]}}</ref>。食物繊維は、大腸内で腸内細菌によりヒトが吸収できる分解物に転換されることから、食後長時間を経てから体内にエネルギーとして吸収される特徴を持ち、エネルギー吸収の平準化に寄与している。 === ファイトケミカル === 野菜に含まれるファイトケミカル(フィトケミカル)には、ポリフェノール類と[[カロテノイド]]類がある{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=220}}。 '''ポリフェノール類'''は化学構造上の分類で、[[フェノール基]]に[[水酸基]](OH)が2つ以上たくさんついている物質のことをいう。植物の色素やアクとよばれている苦味成分のほとんどはポリフェノールである{{sfn|講談社編|2013|p=230}}。光合成によって生成されるといわれ、光の当たる部分には特にたくさん含有されている{{sfn|講談社編|2013|p=230}}。含有している野菜としては、赤タマネギ、紅芋、ダイズなどがよく知られる{{sfn|講談社編|2013|p=230}}。ポリフェノールの主たる機能は抗酸化作用であり、がん予防や血中コレステロールの酸化を防いで動脈硬化を予防する働きがあるとされる{{sfn|講談社編|2013|p=231}}。ポリフェノール類の生理作用は個々の物質によって異なるさまざまな作用があり、その効用は数時間内といわれる{{sfn|講談社編|2013|p=231}}。 * [[アントシアニン]] - [[紫キャベツ]]、[[紫芋]]、[[赤ジソ]]、[[インゲンマメ]]などに含まれる野菜の赤紫色や青紫色の色素成分で、抗酸化作用や目の働きによいといわれる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=220}}。 * [[イソフラボン]] - ダイズなどに含まれる。女性ホルモンに似た働きをし、骨粗鬆症予防、更年期障害によいといわれる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=220}}。 * [[セサミン]] - ゴマなどに含まれる。血中コレステロールを下げる働きがあるとされる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=220}}。 * [[ショウガオール]] - ショウガに含まれる辛味成分で、抗菌作用、食欲増進作用がある{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=220}}。 * [[カテキン]] - 殺菌作用がある{{sfn|講談社編|2013|p=231}}。 * [[ルテイン]] - 毛細血管を強化する{{sfn|講談社編|2013|p=231}}。 '''カロテノイド類'''は、主として植物に含まれている赤色から黄色の色素成分で、[[カロテン]]類と[[キサントフィル]]類に分けられる。基本的に植物だけが作り出せる成分である{{sfn|講談社編|2013|p=230}}。カロテン類には、[[αカロテン]]、[[βカロテン]]、[[γカロテン]]、[[リコペン]](リコピン)などがあり、人間の体内で[[レチノール]]という物質に変換されて[[ビタミンA]]として作用する{{sfn|講談社編|2013|p=230}}。レチノールに変換されないカロテン類は、[[抗酸化作用]]を発揮する{{sfn|講談社編|2013|p=230}}。また、キサントフィル類には[[アントシアニン]]、[[ルテイン]]、[[アスタキサンチン]]、[[クリプトキサンチン]]、[[カプサイシン]]などがあり、これらはビタミンAとして働かないが、抗酸化作用を発揮して、がん予防や老化防止に役立つと考えられている{{sfn|講談社編|2013|p=230}}。 * [[リコペン]] - トマト、[[スイカ]]、[[金時人参]]などに含まれる赤色色素成分でカロテンの1種。抗酸化作用がある{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=220}}。 * [[カプサイシン]] - 赤トウガラシ、赤ピーマンなどに含まれ、抗酸化作用がある{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=220}}。 * [[ルテイン]] - ホウレンソウ、コマツナ、[[ケール]]などの緑黄色野菜に含まれる黄色の色素成分。抗酸化作用が高く、眼病予防にも良いといわれる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=220}}。 * [[クリプトキサンチン]] - 赤ピーマンに含まれるオレンジ色の色素成分。[[柑橘類]]、[[カキノキ|カキ]]、[[パパイヤ]]、[[アンズ]]などの果物にも含まれる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=220}}。 '''イオウ化合物'''は、[[アメリカ国立癌研究所]] (NCI) が中心となって提唱したデザイナーズフーズの上位に、ニンニクやキャベツ、タマネギがランクされたことから注目されるようになった生理機能成分で、特有の臭いを発する{{sfn|講談社編|2013|p=231}}。 * [[硫化アリル]] - [[ネギ]]、[[タマネギ]]、[[ニラ]]、[[ラッキョウ]]などに共通して含まれる刺激臭のある成分で、ビタミンB1の吸収を助け、炭水化物の代謝を活発にする働きがある。また、血液の粘度を下げる働きがあるといわれ、血栓を予防するともいわれている{{sfn|講談社編|2013|p=231}}。 ** [[アリシン]] - 硫化アリルの一種でニンニクやネギ臭の素になる成分{{sfn|講談社編|2013|p=231}}。生ニンニクには[[アイリン]]という無臭成分が含まれているが、空気に触れるとアリシンに変化する{{sfn|講談社編|2013|p=231}}。ビタミンB1の吸収を助け、血栓予防、貧血予防、血中コレステロール値の上昇の抑制のほか、強力な抗酸化作用が知られている{{sfn|講談社編|2013|p=231}}。 * [[イソチオシアネート]] - キャベツ、ブロッコリーなどアブラナ科野菜に特異的に含まれる臭い成分{{sfn|講談社編|2013|p=231}}。遺伝子が傷ついた細胞増殖の抑制、発がん性物質の活性化の抑制、抗菌作用のほか、女性ホルモンと似たような働きをすると言われている{{sfn|講談社編|2013|p=231}}。 === がん予防の可能性 === 野菜は、[[果物]]とともに癌予防の可能性が大きいものとされている<ref name="ganjohosci">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20100504132612/http://ganjoho.ncc.go.jp/public/pre_scr/prevention/evidence_based.html|title=日本人のためのがん予防法:現状において推奨できる科学的根拠に基づくがん予防法|author=国立がんセンターがん対策情報センター|date=2009-02-25|accessdate=2009年12月1日}}</ref><ref>WHO technical report series 916. ''Diet, nutrition and the prevention of chronic diseases'', 2003 & IARC monograph on the Evaluation of Carcinogenic Risks to Humans, Volume83, ''Tobacco Smoke and Involuntary Smoking'', 2004</ref>。 [[デザイナーフーズ計画]]は、1990年代、[[アメリカ国立癌研究所]] (NCI) によって2000万ドルの予算でがんを予防するために、[[フィトケミカル]]を特定して加工食品に加える目的で開始された計画である。デザイナーフーズ計画では、[[がん]]予防に有効性のあると考えられる野菜類などが40種類ほど公開された<ref>矢野友啓、「[https://doi.org/10.11288/mibyou1998.12.56 食品成分による癌予防]」『日本未病システム学会雑誌』 2006年 12巻 1号 p.56-58, {{doi|10.11288/mibyou1998.12.56}}</ref><ref>Caragay, A. B.: Cancer preventive foods and ngredients. Food Technol. 4 : 65-68, 1992.</ref><ref>大澤俊彦、「[https://doi.org/10.2740/jisdh.20.11 がん予防と食品 —デザイナーフーズからファンクショナルフーズへ— ]」『日本食生活学会誌』 2009年 20巻 1号 p.11-16, {{doi|10.2740/jisdh.20.11}}</ref>。デザイナーフーズ計画で発表された野菜はつぎのとおり。 * [[にんにく]]、[[タマネギ]]([[ユリ科]]) * [[ニンジン]]、[[セロリ]]、[[パースニップ]] ([[セリ科]]) * [[トマト]]、[[ナス]]、[[ ピーマン]]、[[ジャガイモ]]([[ナス科]]) * [[キャベツ]]、[[ブロッコリー]]、[[カリフラワー]]、[[芽キャベツ]]([[アブラナ科]]) * [[キュウリ]]([[ウリ科]]) [[香辛料]]では[[甘草]]([[リコリス]] )、[[ショウガ]]、[[ウコン]]([[ターメリック]])、[[バジル]]、[[タラゴン]]、[[ハッカ]]、[[オレガノ]]であり、豆類では[[大豆]]である<ref>大澤俊彦、「[https://doi.org/10.3136/nskkk.42.728 「デザイナーフーズ」開発の現状と動向]」『日本食品科学工学会誌』 1995年 42巻 9号 p.728-735, {{doi|10.3136/nskkk.42.728}}</ref>。 野菜などで変異原性物質Trp-P-1(3-amino-1,4-di-methyl-5H-pyrido[4,3-b]indole)に対して抗[[変異原性]]を示すものは次のようなものがある<ref>[https://doi.org/10.11428/jhej1987.48.637 植物性食品抽出成分の抗変異原活性]、小原 章裕ほか、日本家政学会誌、Vol.48 (1997) No.7</ref>。 * 抗変異原性++++:[[ダイコン]](葉)、[[キクナ]]、[[アスパラガス]]、[[ピーマン]]、[[キュウリ]] * 抗変異原性+++:[[ニラ]]、[[ハクサイ]]、[[ゴボウ]] * 抗変異原性++:[[ネギ]]、[[ホウレンソウ]]、[[パセリ]]、[[レタス]]、[[ズイキ]]、[[ニンジン]]、[[ショウガ]]、[[サツマイモ]]、[[ハツカダイコン|ラディッシュ]]、[[ナス]]、[[キャベツ]]、[[ブロッコリー]]、[[シイタケ]] * 抗変異原性+:[[チンゲンサイ]]、[[コマツナ]]、[[セロリ]]、[[レンコン]]、[[カブ]]、[[ダイコン]](根)、[[オクラ]]、[[ウリ]] 野菜などで変異原性物質NIHP(2-ヒドロキシ-3-(1-N-ニトロソインドリル)-プロピオン酸)に対して抗[[変異原性]]を示すものは次のようなものがある。 * 抗変異原性++++:[[トマト]]、[[タマネギ]] * 抗変異原性+++:[[ナス]]、[[キャベツ]]、[[ブロッコリー]]、[[ニンジン]]、[[ダイコン]](根)、[[エノキ]]、[[シメジ]] * 抗変異原性++:[[アスパラガス]]、[[シイタケ]] * 抗変異原性+:[[コマツナ]]、[[トウガラシ]] [[キャベツ]]、[[ブロッコリー]]、[[ゴボウ]]、[[ナス]]、[[ショウガ]]等に強い抗[[変異原性]]があることが知られている。加えて、[[エストラゴン]]、[[オレガノ]]、[[ギョウジャニンニク]]、[[シロザ]]、[[タイム (植物)|タイム]]、[[ツクシ]]、[[フキノトウ]]、[[モミジガサ]]、[[レモンバーム]]の野菜類9種にもTrp-P-1に対して強い抗変異原性があり、[[キク科]]、[[シソ科]]、[[アブラナ科]]、[[セリ科]]の植物に抗変異原性があるものが多い<ref>上田成子, 桑原祥浩, 平位信子 ほか、「[https://doi.org/10.3136/nskkk1962.38.507 野菜類およびキノコ類の抗変異原性について]」 『日本食品工業学会誌』 1991年 38巻 6号 p.507-514, {{doi|10.3136/nskkk1962.38.507}}</ref>。 2007年11月1日、[[世界がん研究基金]]と[[アメリカがん研究協会]]によって7000以上の研究を根拠に「食べもの、栄養、運動とがん予防<ref>{{cite book|author=World Cancer Research Fund and American Institute for Cancer Research|url=https://web.archive.org/web/20150503204125/http://wcrf.org/int/research-we-fund/continuous-update-project-cup/second-expert-report |title=Food, Nutrition, Physical Activity, and the Prevention of Cancer: A Global Perspective|year= 2007|publisher=Amer. Inst. for Cancer Research|isbn= 978-0972252225}} 日本語要旨:[https://web.archive.org/web/20160402133013/https://www.wcrf.org/sites/default/files/SER-SUMMARY-(Japanese).pdf 食べもの、栄養、運動とがん予防]、[[世界がん研究基金]]と[[米国がん研究機構]]</ref>」が報告されている。(詳細は「[[食生活指針]]」を参照のこと) === 成人病予防 === 野菜は果物とともに[[アルカリ性食品]]に分類されている<ref>小池五郎、「[https://doi.org/10.6013/jbrewsocjapan1915.71.410 食品の酸性・アルカリ性について]」『日本釀造協會雜誌』 1976年 71巻 6号 p.410-413, {{doi|10.6013/jbrewsocjapan1915.71.410}}</ref>。(詳細は、[[酸性食品とアルカリ性食品]]を参照) [[腎臓]]に障害がなく[[カリウム]]を摂取しても問題がなければ、カリウムを豊富に含む野菜や[[果物]]の摂取を増やすことにより[[血圧]]の降圧が期待できる<ref>久代登志男、「[https://doi.org/10.3143/geriatrics.47.123 高齢者高血圧治療のこつ]」『日本老年医学会雑誌』 2010年 47巻 2号 P.123-126, {{doi|10.3143/geriatrics.47.123}}</ref>。 [[21世紀における国民健康づくり運動]](健康日本21)では、望ましい野菜の摂取量は成人1人1日あたり350g以上とされている<ref>[https://www.kenkounippon21.gr.jp/ 健康日本21]</ref><ref>[https://www.mhlw.go.jp/www1/topics/kenko21_11/pdf/all.pdf 21世紀における国民健康づくり運動(健康日本21)について 報告書-厚生労働省]</ref><ref name="alic-yasaibook1"/>。日本人の平均ではこの目標に対して8割程度の摂取量にとどまっており、若年層においては7割~6割程度にとどまっている状況にある<ref name="alic-yasaibook1"/><ref name=kokumin>[https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r98520000020qbb.html 平成22年国民健康・栄養調査結果の概要]</ref>。平成24年の調査では20歳以上の日本人の平均野菜摂取量は、286.5g/人日であった<ref>[https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/eiyou/h24-houkoku.html 平成24年度『国民健康・栄養調査』]、厚生労働省</ref>。所得と生活習慣等に関する状況の調査においては、所得が高いほど野菜摂取量が多く、所得が低いほど野菜摂取量が低い傾向が見られた<ref name=kokumin/>。 == 生産 == [[File:Vegetable Shop in Meppadi.jpg|thumb|インドの八百屋]] [[File:Veggies.jpg|thumb|アメリカのスーパーに並ぶ野菜]] [[File:VegetablesSupermarket.jpg|thumb|カナダのスーパーに並ぶ野菜]] 2010年度における野菜の最大生産国は[[中華人民共和国]]であり、一国で世界の半分以上の生産量があった。2位は[[インド]]で、以下[[アメリカ合衆国]]、[[トルコ]]、[[イラン]]、[[エジプト]]の順となっている。中国は世界で最も野菜畑の面積が広いが、野菜の反収が最も高い国は[[スペイン]]と[[大韓民国]]である。<ref>{{cite web |url=http://www.fao.org/docrep/018/i3107e/i3107e.PDF |title=Table 27 Top vegetable producers and their productivity |work=FAO Statistical Yearbook 2013 |publisher=Food and Agriculture Organization of the United Nations |page=165 |accessdate=2015-09-14}}</ref> {| class="sortable wikitable" style="text-align:right" |- ! 国 !! 栽培面積 <br>(1,000ヘクタール) !! 反収 <br>(1,000kg/ha) !! 生産量 <br>(1,000トン) |- | style="text-align:left"|[[中華人民共和国]] || 23,458 || 230 || 539,993 |- | style="text-align:left"|[[インド]] || 7,256 || 138 || 100,045 |- | style="text-align:left"|[[アメリカ合衆国]] || 1,120 || 318 || 35,609 |- | style="text-align:left"|[[トルコ]] || 1,090 || 238 || 25,901 |- | style="text-align:left"|[[イラン]] || 767 || 261 || 19,995 |- | style="text-align:left"|[[エジプト]] || 755 || 251 || 19,487 |- | style="text-align:left"|[[イタリア]] || 537 || 265 || 14,201 |- | style="text-align:left"|[[ロシア]] || 759 || 175 || 13,283 |- | style="text-align:left"|[[スペイン]] || 348 || 364 || 12,679 |- | style="text-align:left"|[[メキシコ]] || 681 || 184 || 12,515 |- | style="text-align:left"|[[ナイジェリア]] || 1,844 || 64 || 11,830 |- | style="text-align:left"|[[ブラジル]] || 500 || 225 || 11,233 |- | style="text-align:left"|[[日本]] || 407 || 264 || 10,746 |- | style="text-align:left"|[[インドネシア]] || 1,082 || 90 || 9,780 |- | style="text-align:left"|[[大韓民国]] || 268 || 364 || 9,757 |- | style="text-align:left"|[[ベトナム]] || 818 || 110 || 8,976 |- | style="text-align:left"|[[ウクライナ]] || 551 || 162 || 8,911 |- | style="text-align:left"|[[ウズベキスタン]] || 220 || 342 || 7,529 |- | style="text-align:left"|[[フィリピン]] || 718 || 88 || 6,299 |- | style="text-align:left"|[[フランス]] || 245 || 227 || 5,572 |-class="sortbottom" | style="text-align:left"|'''世界総計''' || '''55,598''' || '''188''' || '''1,044,380''' |} 野菜は一般的に貯蔵性が高くないため、[[農家]]が自給的に生産して余剰分を市場に供給することが多く、商業的に生産される場合は消費地の近くで生産されることが多かった。しかし都市の急速な拡大によって都市近郊の野菜生産地が都市化していったことや、輸送手段・貯蔵手段の発達によって遠隔地でも野菜栽培が採算に乗るようになったことから、野菜生産は都市から離れた地域でも行われるようになった。また、葉や実を利用し貯蔵性が低い関係上供給はその植物の収穫期に限定され、旬が短く時期によって左右されたものが野菜生産であった。その後、[[温室]]や[[ビニールハウス]]などの技術革新によって野菜は一年中供給されるようになった。 近年では、巨大なハウスを造りコンピュータ制御でその中の環境をコントロールし高い生産性・採算性で野菜を生産するオランダのような国が出現している<ref>[https://web.archive.org/web/20160715104217/http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/249071.html NHK「野菜はもっと安くなる?オランダに学ぶ農業」]</ref>。オランダはトマトを、本場であるイタリア向けも含めてヨーロッパ各地に大量に輸出するほどになっている。 また最近では、野菜を[[植物工場]]で生産する事例も、まだ生産量は少ないものの徐々に増えてきている。閉じた空間、害虫や雑菌の影響が少ない空間において、LED照明やコンピュータで制御された空調や養液補給などによって、気候・天候の影響をほぼ受けずに安定的に野菜を生産する方式である。雑菌や害虫が少ないため[[無農薬栽培]]が可能で、栄養価や規格の統一も容易であるなど利点も多いが、生産コストが高く採算を取るのが難しいなど課題も多く残っている<ref>「2020-2021 日経キーワード」p160-161 日経HR編集部編著 日経HR社 2019年12月4日第1刷</ref>。 == 歴史 == 現代において世界で栽培される野菜の多くは、[[中国]]、[[インド]]から[[東南アジア]]、[[中央アジア]]、[[近東]]、[[地中海]]岸、[[アフリカ]]([[サヘル]]地帯及び[[エチオピア高原]])、[[中央アメリカ]]、南米の[[アンデス]]山脈の8地域を起源としている。これらの地域は農耕文明の発祥地と重なっている。また、もともとの生息域が広く、栽培化地域が複数にまたがっている野菜も多い。中国においてはハクサイ、ネギ、ゴボウが、インドから東南アジアにおいてはキュウリやナス、サトイモ、中央アジアではダイコン、ニンジン、タマネギ、ホウレンソウ、ソラマメなどが栽培化されている。近東地域ではレタスやニンジンやタマネギが栽培化されている。地中海岸は野菜の一大起源地であり、キャベツやエンドウマメ、アスパラガスや[[セロリ]]が栽培化されている。アフリカのサヘルからエチオピア高原にかけては、[[ササゲ]]や[[オクラ]]などが栽培化された。中央アメリカにおいてはインゲンマメやサツマイモ、カボチャが栽培化された。南アメリカ・アンデスにおいては、トマトとジャガイモ、それにトウガラシやピーマン、カボチャの栽培化が行われた<ref>「蔬菜園芸の事典(普及版)」p10-12 斎藤隆 朝倉書店 2010年10月30日普及版第1刷</ref>。こうした中心地のほか、世界各地で野草採集から発展した独自の野菜が栽培されており、各地独特の食文化の重要な要素となっている。 === 日本における歴史 === 日本においては、[[フキ]]や[[ウド]]、[[ミツバ]]などのように日本原産の野菜も存在するが、ほとんどの野菜は[[日本列島]]の外で栽培化されたものが持ち込まれたものである。 その移入の歴史は古く、すでに[[縄文時代]]の遺跡である[[福井県]]の[[鳥浜貝塚]]においては、ゴボウ、カブ、アブラナ、[[リョクトウ]]、[[エゴマ]]、[[シソ]]などの種子が出土し、栽培されていたと考えられている。この発見は[[弥生時代]]の稲作伝来以前からすでに農耕が開始されていたこと、および縄文時代にすでにはるかな遠隔地で栽培化されていた野菜(カブやアブラナは地中海沿岸、エゴマやシソやリョクトウはインド原産)が伝来しており、大陸をはじめとする広範囲な移動がすでに行われていたことを示した<ref>[http://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/2a3-02-02-03-02.htm 「福井県史 通史編」第三章 コシ・ワカサと日本海文化] - [[福井県文書館]] 2016年8月24日閲覧</ref>。 このほか、1世紀ごろまでにはゴマ、サトイモ、ニンニク、[[ラッキョウ]]、ヤマイモ、[[トウガン]]などがすでに伝来しており、[[古墳時代]]にはナス、キュウリ、ササゲ、ネギが伝来した<ref>「蔬菜園芸の事典(普及版)」p13 斎藤隆 朝倉書店 2010年10月30日普及版第1刷</ref>。 [[古事記]]や[[日本書紀]]にはカブや[[ニラ]]の、万葉集では水葱(なぎ、現代の[[ミズアオイ]]や[[コナギ]])や[[ジュンサイ]]、[[ヒシ]]、[[セリ]]、瓜([[マクワウリ]])などの記述が存在する。このほか、現代ではあまり野菜としては使用されない水葱や羊蹄(しのね、現代の[[ギシギシ]])なども使用されていた<ref>『FOOD'S FOOD 新版 食材図典 生鮮食材編』p204-205 2003年3月20日初版第1刷 小学館</ref>。 その後も日本に伝来した野菜があり、[[レタス]]も[[8世紀]]には「萵苣」(わきょ/ちしゃ)という名前で日本に伝来している(玉状のものは明治になってからの伝来)<ref>主婦の友社編 『野菜まるごと大図鑑』主婦の友社、2011年2月20日、148頁。ISBN 978-4-07-273608-1</ref>。 [[江戸時代]]に入り、平和が続き経済が成長すると野菜の需要も高まり、特に一大消費地である[[江戸]]の周辺では大量の野菜が栽培され都市へ運び込まれるようになった。小松菜や練馬大根などのように、地名をつけブランド化する野菜が現れ始めたのもこのころのことである<ref>「ヴィジュアル日本生活史 江戸の料理と食生活」p68-69 原田信男編著 小学館 2004年6月20日第1版第1刷</ref>。 こうした傾向は江戸に限ったことではなく、[[京野菜]]や[[加賀野菜]]をはじめ、各地で特色ある野菜が開発され定着したのも江戸時代のことであった。[[明治時代]]に入ると[[文明開化]]の潮流とともにタマネギやトマト、キャベツをはじめとする西洋野菜が多く流入し、日本の野菜はより多様なものとなった。 [[スーパーマーケット]]では外観を重視し、変形が見られるものは「規格外」として取り扱わず、「訳あり」などとして格安で売られるか、採算が取れないと農家が判断し廃棄されることもあった。消費者の意識が過度に美観を重視する姿勢から変化していることもあり、外観を規格に合わせるための栽培法を止める試みもある<ref>{{Cite web|和書|title=規格外の野菜・果物=安い、は古い?|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210709/k10013129011000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-07-10|last=日本放送協会}}</ref>。 == 野菜の安全性 == 野菜は人間が長年かけて改良し続けて、長い間食べ続けられてきた植物なので、それなりに安全性は確保できていると考えてもよい{{sfn|講談社編|2013|p=232}}。しかし、野菜の安全性に関してまだ結論が出ていないこともたくさんあり{{sfn|講談社編|2013|p=235}}、新しく作り出された野菜の品種や[[遺伝子組み換え作物]]などは、必ずしも安全性が確かめられているわけではなく、未知のリスクの可能性も指摘されている{{sfn|講談社編|2013|p=232}}。なるべく健康的な食生活を送るためにも、なるべく多くの種類の野菜を適量摂ることが、今最も安全な野菜の食べ方といわれている{{sfn|講談社編|2013|p=235}}。 野菜を生産するうえで、人間以外の昆虫などの動物から受ける被害を抑止する目的で[[農薬]]が使用されるが、農薬の残存化学物質は人間にとっても癌などのリスクがあるので好ましいものではない{{sfn|講談社編|2013|p=232}}。農薬を使用しなければ、地球上の人類を養うだけの農作物の生産量は確保できないと言われており、農薬を正しく用いる農法がふつう一般に行われている(これを慣行栽培という){{sfn|講談社編|2013|p=233}}。先進国のように農薬の製造や使用が適正に規制されている国では、[[癌]]を含む疾病のリスクについて、農薬を正しく使用している限りは害はないと考えてもよいといわれている{{sfn|講談社編|2013|p=233}}。しかし、農薬が適正に使用されていない状況でつくられた野菜については、人体に害はないという前提条件が崩れてしまう{{sfn|講談社編|2013|p=233}}。しばしば「野菜には[[残留農薬]]の危険があるから、よく洗ってから食べる」という意見も見かけられ、ていねいな水洗いや加熱調理が野菜についている残留農薬を減らすことになるのは間違いではないが、先進諸国において野菜を洗うことによって農薬の害が低減するといった科学的根拠のある研究結果はほとんど発表されていない{{sfn|講談社編|2013|p=233}}。 野菜の安全性で注目されるのようになったものに、原則として農薬や化学肥料を使わずに栽培された[[有機農産物]]('''[[有機野菜]]''')がある{{sfn|講談社編|2013|p=233}}。有機野菜は栽培法による分類で、日本のJAS法では厳密な規定により認定を受けたものだけが有機野菜と表示することができるため、流通量が極めて少ないのが現状である{{sfn|講談社編|2013|p=233}}。有機野菜は農薬が残留している可能性は低いが、残留農薬がゼロであることまでは保証していない{{sfn|講談社編|2013|p=233}}。有機野菜の特徴は「安心して食べられる」という点において一般に高い評価を得ているが、科学的根拠のある研究結果はほとんどない{{sfn|講談社編|2013|p=234}}。 有機野菜に変わって増えてきたものに、農林水産省(農水省)のガイドラインに示されている'''無農薬野菜'''と'''減農薬野菜'''がある{{sfn|講談社編|2013|p=234}}。農水省のガイドラインは、第三者による認定を必要とせず、違反しても罰則規定がないので、本当に無農薬かどうかまではわからないという問題が指摘されている{{sfn|講談社編|2013|p=234}}。また農水省とは別に、各自治体や生産者団体が独自にガイドラインを設けて、無農薬・減農薬生産と表示をしているケースもある{{sfn|講談社編|2013|p=234}}。農水省のガイドラインは平成16年4月に改定され、無農薬野菜と減農薬野菜という分類が'''特別栽培野菜'''という表記に統一されている{{sfn|講談社編|2013|p=234}}。 世帯の野菜消費量が少なくなるなかで、外食産業を中心に利便性を考えてあらかじめ下処理された野菜である'''[[カット野菜]]'''の生産量が増えてきている{{sfn|講談社編|2013|p=234}}。カット野菜は手軽で便利というメリットがある反面、丸のままの野菜よりもカット工程などが増えるので、雑菌に触れやすく傷みやすい性質上、多くは[[次亜塩素酸ナトリウム]]溶液で殺菌してある{{sfn|講談社編|2013|p=234}}。その後は水洗いしてあるので、食べる人の健康を害するほど残留していないが、とても傷みやすいことには変わりないので、消費期限を厳守して封を開けたら早めに使い切ることが肝要になる{{sfn|講談社編|2013|p=234}}。 '''放射線照射野菜'''で知られるものに、発芽防止目的で使用されている[[ジャガイモ]]がある。放射線を当てた食品が放射能を持つことはなく、健康に害を与えるようなこともないとされている{{sfn|講談社編|2013|p=235}}。ジャガイモの芽に含まれるアルカロイド (PGA) による食中毒リスク、輸入スパイスに付着する病原菌リスク、食品保存に使われる燻蒸の発がん性リスクを軽減するために用いられているのが放射線照射である{{sfn|講談社編|2013|p=235}}。また放射線を当てることによって殺菌効果が高められるため、食品が腐りにくくなるという特徴もある{{sfn|講談社編|2013|p=235}}。 '''[[遺伝子組み換え作物]]'''は[[遺伝子]]操作によってつくられた野菜であるが、それを食べた人の遺伝子に影響を与えるようなことはない{{sfn|講談社編|2013|p=235}}。遺伝子がつくる物質はタンパク質であるため、そのタンパク質が人の健康に害を及ぼすかどうかが、遺伝子組み換え作物の安全性の評価となる{{sfn|講談社編|2013|p=235}}。遺伝子組み換え作物のタンパク質が人の健康を害するという研究結果はほとんどなく、[[スターリンク]]というトウモロコシのタンパク質が[[アレルギー]]を起こす可能性があるという研究があるため、スターリンクについては食品として許可されていないのが現状である{{sfn|講談社編|2013|p=235}}。遺伝子組み換え作物については、大企業の利益になっても一般市民の利益は何もないという指摘もあるため、遺伝子組み換え作物の必要性について意見が分かれるところであるが、その安全性について現段階では害は認められていないことから安全であるといわれている{{sfn|講談社編|2013|p=235}}。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author =猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|title = かしこく選ぶ・おいしく食べる 野菜まるごと事典|date=2012-07-10|publisher = [[成美堂出版]]|isbn=978-4-415-30997-2|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author =講談社編|title = からだにやさしい旬の食材 野菜の本|date=2013-05-13|publisher = [[講談社]]|isbn=978-4-06-218342-0|ref=harv}} == 関連項目 == {{Commonscat|Vegetables}} * [[野菜の一覧]] * [[農産物]] * [[果物]] * [[:Category:野菜料理|野菜料理]] * [[遺伝子組み換え作物]] * 生産・流通 ** [[有機農家]] ** [[農業協同組合]] - [[農産物直売所]] ** [[中央卸売市場]] ** [[八百屋]] ** [[有機農業]] - [[有機農産物]] - [[残留農薬]] * 野菜に関連するトピック ** [[家庭菜園]] ** [[ベジタブル&フルーツマイスター]] ** [[ど根性野菜]] ** [[野菜嫌い]] ** [[農林水産省]] ** (独)[[農畜産業振興機構]] ** [[8月31日]] - 野菜の日 * 品種改良前の野菜もしくは陸上の未栽培の植物食品 ** [[救荒植物]] ** [[がん予防研究]] == 外部リンク == * [http://www.alic.go.jp/vegetable/index.html 野菜に関する紹介]([[独立行政法人]][[農畜産業振興機構]]) * [https://web.archive.org/web/20041215012128/http://www.vegefund.com/ 野菜の情報](独立行政法人農畜産業振興機構) * {{PaulingInstitute|jp/mic/food-beverages/fruit-vegetables|果実及び野菜}} * {{Kotobank}} *[https://www.maff.go.jp/j/seisan/ryutu/yasai/index.html 野菜のページ] - 農林水産省 *[http://www.hinshu2.maff.go.jp/vips/cmm/apCMM110.aspx?MOSS=1 品種登録データ検索] - 農林水産省 *[https://web.archive.org/web/20051231220701/http://mogu.pupu.jp/ 野菜もぐもぐ] {{料理}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:やさい}} [[Category:野菜|*]] [[Category:園芸]]
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2023-12-05T09:45:28Z
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高橋幸宏
高橋 幸宏(たかはし ゆきひろ、1952年〈昭和27年〉6月6日 - 2023年〈令和5年〉1月11日)は日本のシンガーソングライター、ドラマー、音楽プロデューサー、ファッション・デザイナー、文筆家。 ソロ・デビューした1978年(昭和53年)から1980年(昭和55年)前半までは、「高橋ユキヒロ」とカタカナ表記の名前を名乗っていた。 立教中学校(現:立教池袋中学校)・立教高等学校(現:立教新座高等学校)卒業(高校の3年後輩に佐野元春がいる)。武蔵野美術大学短期大学部生活デザイン科中退。 高校在学中からスタジオ・ミュージシャンとして活動。「サディスティック・ミカ・バンド」や「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO) のメンバーとしての活動が有名。その他、鈴木慶一と共に結成した「ビートニクス」、細野晴臣とのユニット「スケッチ・ショウ」としての活動を始め、様々なミュージシャンとのコラボレーションやプロデュースも手掛けている。山本耀司のパリ・コレ出展の際の音楽を担当したり、椎名誠が監督を務めた映画の音楽を担当したこともある。ドラマーとして、その厳格なまでに正確なリズムと少ない音数で多彩な表現を可能とする独特のタイトな演奏は、特にYMO世代のミュージシャン達から高くリスペクトされている。 音楽活動の他に、これまでに「Brother」(BUZZ SHOP CO.)、「Buzz Brother」(BUZZ SHOP CO.)、「Bricks」(BUZZ SHOP CO.)、「Bricks Mono」(PLAN・NET-WERK CO.)、「YUKIHIRO TAKAHASHI COLLECTION」(WAG Inc.) といった自身のファッション・ブランドのデザイナーも務めている。1983年(昭和58年)には、『オールナイトニッポン』のパーソナリティを務めた。その他、映画やCMへの出演、エッセイの発表など、その活動は多岐に渡っている。映画『四月の魚』では主演を務めた。俳優の竹中直人と交流が深く、『竹中直人の恋のバカンス』、『デカメロン』などに出演した際には、シュールなコントに挑戦している。 趣味は釣り。神経症の治療のために始めたものだが、以来すっかり夢中になってしまい、ラジオ番組で中継を行ったこともある。釣り同好会「東京鶴亀フィッシングクラブ」(旧:東京鶴亀磯釣り会)の会長である。 最晩年まで長野県軽井沢町に在住していた。軽井沢には親族が別荘を所有していたこともあり幼少期から頻繁に足を運んでいた。細野晴臣との出会いも軽井沢の「三笠ホテル」であった。 1952年(昭和27年)、東京に生まれる。小学校5年生頃にはすでにドラムを叩いていたという。立教中学校(現立教池袋中学校)時代、同級生の東郷昌和と「ブッダズ・ナルシィーシィー」というバンドを結成。主にパーティー等で活動していた(後に東郷は高橋の兄・信之のプロデュースでフォークグループ「バズ」としてデビューする)。荒井由実も立教中学校当時からの友達である。高校在学中からスタジオミュージシャンとして活動を開始。1969年にフォークバンド「ガロ」のサポートメンバーとして加わる。しかし、『学生街の喫茶店』ヒット以後の歌謡曲路線に合わず、小原礼と共に脱退。 武蔵野美術大学短期大学部生活デザイン学科 在学中の1972年(昭和47年)、加藤和彦の誘いを受け、脱退した角田ひろ(現:つのだ☆ひろ)の後任として「サディスティック・ミカ・バンド」に加入。ミカ・バンドは海外(とりわけイギリス)において評価されている。1974年にはロキシー・ミュージックの全英ツアーにおいてオープニング・アクトを務めた。帰国後、解散。 ミカ・バンド解散後、「サディスティックス」を経て、1978年(昭和53年)からはソロ活動を開始。そして同年「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO) を結成。1979年(昭和54年)から1980年(昭和55年)にかけて2度にわたるワールドツアーを敢行した。YMOは世界的な大成功を収め、日本のみならず世界の音楽シーンに多大な影響を与えた。高橋の作曲としては「ライディーン」が有名。結成当初、細野は「YMOのメンバーはヴォーカルを取らない(ゲスト・ミュージシャンに任せる)」という意向を持っていたが、坂本の推挽で高橋が「中国女」のボーカルを手がけたことにより、ボーカリストとしての才能も発揮。またファッション・デザインの才も発揮して衣装のデザインも手掛けていた。高橋は当時、自身のブランド「Bricks」や「Bricks-MONO」のデザイナーだった。YMO結成前、当時の坂本龍一のぞんざいな服装を見た高橋は「かっこいいのにもったいない」と初対面の時に思ったそうである。1980年(昭和55年)には「POP THE HERO '80s」(ラジオ関東)のパーソナリティを(準レギュラーに当時のマネージャー伊藤洋一と共に)担当。ソロやYMOの活動の一方で、1981年(昭和56年)には鈴木慶一と供に「The Beatniks(ビートニクス)」を結成し、活動を開始する。1982年(昭和57年)、個人事務所「オフィス・インテンツィオ」を設立。1983年(昭和58年)4月より、「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)のパーソナリティを担当。同年12月、YMO「散開」(解散)とともに放送終了。 YMO散開以降、ソロ活動を本格化させ、また「ビートニクス」としてもマイペースに活動。1989年(平成元年)には「サディスティック・ミカ・バンド」が桐島かれんを迎えて一時再結成。1992年(平成4年)3月には山本耀司、高橋信之、田中信一と共に、「AGENT CON-SIPIO」を設立。翌1993年(平成5年)には録音スタジオ「CONSIPIO STUDIO」とレコードレーベル「CONSIPIO RECORDS」を発足。同年2月、YMO「再生」(再結成)を発表し、東京ドームにてコンサートを行う。1997年(平成9年)には自らも「CONSIPIO RECORDS」に移籍したが、現在は休眠状態である。 2002年(平成14年)からは細野晴臣と共にYMO以来のユニット「スケッチ・ショウ」を結成、活動を開始する。2004年(平成16年)にはスケッチ・ショウ+坂本龍一のユニット「ヒューマン・オーディオ・スポンジ (HAS)」として、エレクトロニカイベント「sonar」に出演。 2005年(平成17年)には再び東芝EMI(現:EMIミュージック・ジャパン)と契約。翌2006年(平成18年)3月に7年ぶりのソロアルバム「BLUE MOON BLUE」をリリース。スケッチ・ショウで実践したエレクトロニカの手法を通過させた新機軸のポップ路線を展開した。アルバム発表後は高野寛、高田漣、権藤知彦を主要メンバーに迎え、ライブハウスからロックフェスまで、各地でライブを精力的にこなした。10月には恵比寿ガーデンホールで開催された「SONAR」への出演を交えながら、新宿ICC、仙台メディアテーク、東京都現代美術館の3箇所で「ミュージアムツアー」と称したライブを行い、インプロヴィゼーション中心のクオリティの高い演奏を披露、新たなる次への展開を窺わせた。 また同年、キリンラガービールのテレビCMとの連動企画で「サディスティック・ミカ・バンド」が木村カエラをボーカルに迎えて2度目の再結成。10月にはアルバムをリリースした。同じく2007年には同CMの企画でYMOがこれも二度目の再結成。CMでは「ライディーン」のセルフカバー版「RYDEEN 79/07」を披露し、同時にネット配信を開始。5月にはチャリティ団体「Smile Together Project」主催のライブに(HASとして)出演、また7月には「ライヴ・アース」に出演。ワールドハピネスの主催。 2008年(平成20年)、新バンドpupaを、原田知世、高野寛、高田漣、権藤知彦、堀江博久と共に結成。同年7月2日にアルバム「floating pupa」リリースした。 2009年(平成21年)3月11日にはオリジナル・アルバムとしては22作目となるニュー・アルバム「Page By Page」がリリース。小山田圭吾をサポートに迎え、同年6月6日には3年ぶりのソロ・ライブ、7月には自ら「念願だった」というフジロック・フェスティバルに出演、10月にはフェス形式のライブハウス公演に登壇するなど単発的ながら充実のライブ活動を展開した。 2009年(平成21年)11月24日より、Twitterを利用。 2010年(平成22年)、pupaの2ndアルバムをリリース。 2012年(平成24年)12月22日、東京・渋谷のBunkamuraオーチャードホールにて高橋幸宏の還暦を記念するライブ「高橋幸宏 60th Anniversary Live」が開催された。 2013年(平成25年)9月12日、ユリイカ2013年10月臨時増刊号として「総特集◎高橋幸宏」が発売された。 2014年(平成26年)、新ユニット高橋幸宏&METAFIVEを、小山田圭吾、砂原良徳、TOWA TEI、ゴンドウトモヒコ、LEO今井と共に結成。同年7月27日にLIVEアルバム「TECHNO RECITAL」リリースした。 2015年(平成27年)LOVE PSYCHEDELICOのツアーに帯同。高橋幸宏&METAFIVEをMETAFIVEに改める。 2020年(令和2年)8月31日、脳腫瘍の摘出手術を行ったことを公表。手術は無事に成功し、後遺症も見られないという。 2021年(令和3年)、METAFIVEの「METAATEM」が発売中止。 2022年(令和4年)6月6日、古希(70歳)を迎え、また、プロ活動50周年という節目の年であることを祝い、それを記念するライブ「高橋幸宏 50周年記念ライヴ LOVE TOGETHER 愛こそすべて」を、2022年9月18日にNHKホールにて行う予定であることを発表、しかし体調面から高橋は出演を見合わせることになった。 2023年(令和5年)1月11日午前5時59分、脳腫瘍により併発した誤嚥性肺炎のため死去。70歳没。 後日、お別れ会を行う予定。 2月5日、第65回グラミー賞(英語版)の逝去した音楽関係者に哀悼を捧げる、イン・メモリアム(英語版)のコーナーで追悼された。 同年、第65回日本レコード大賞特別功労賞を受賞した。 兄は、元ザ・フィンガーズで音楽プロデューサーの高橋信之。姉は日本のファッション界における広報の第一人者である伊藤美恵。ファッション・ブランド「soe」のデザイナー伊藤壮一郎は美恵の息子であり、高橋の甥に当たる。デザイナー兼ボイスアクターの大岩Larry正志は高橋家の次女の息子であり、壮一郎の従弟に当たる。また、近代文学研究者の高橋世織は従兄弟。また、現在の妻は「non-no」モデルであった高橋喜代美(当時の芸名は「しもいきよみ」)。 竹中直人、安田成美、高野寛、山下久美子、中原理恵、シーナ&ザ・ロケッツ、立花ハジメ、ピンク・レディー、門あさ美、SMOOTH ACE、NOKKO、桐島かれん、TOKIO、EBI、SUSAN、Urban dance、山野ミナなど。 桜田淳子、竹内まりや、田原俊彦、高岡早紀、浅香唯、小坂一也、藤真利子、堀ちえみ、ピエール・バルー、高井麻巳子、杉本彩、サンディー&サンセッツ、宮本典子(現mimi)、伊藤つかさ、ザ・ベンチャーズ、冨田ラボ、安田成美 、山野ミナなど提供作品多数。 BUZZ、山下達郎、荒井由実、矢沢永吉、太田裕美、キャンディーズ、浅野ゆう子、山口百恵、桑名正博、草刈正雄、岩崎宏美、オフコース、泉谷しげる、加藤和彦、矢野顕子、大貫妙子、八神純子、ビル・ネルソン、アグネス・チャン、堀ちえみ、海援隊、来生たかお、浜田省吾、南佳孝、鈴木茂、ブレッド&バター、Zaine Griff、郷ひろみ、松井常松、テイ・トウワ、東京スカパラダイスオーケストラ、EPO、山本達彦、渡辺香津美、高中正義、やくしまるえつこ、小林武史、小椋佳、渡辺美里、ムーンライダーズ、LOVE PSYCHEDELICO、セニョール・ココナッツなど多数の作品に参加(ドラムをはじめ、キーボード、コーラスなど)。 山本耀司のパリ・コレクション出展用の音楽を制作、椎名誠監督映画『ガクの冒険』では音楽監督を務めた。 カシオのリズムマシン「RZ-1」に内蔵されたドラム音の監修を行った。
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高橋 幸宏は日本のシンガーソングライター、ドラマー、音楽プロデューサー、ファッション・デザイナー、文筆家。 ソロ・デビューした1978年(昭和53年)から1980年(昭和55年)前半までは、「高橋ユキヒロ」とカタカナ表記の名前を名乗っていた。
{{Infobox Musician<!-- プロジェクト:音楽家を参照 --> | 名前 = 高橋 幸宏 | 画像 = YMOTakahashi2008(cropped).jpg | 画像説明 = 2008年 | 画像サイズ = 250 | 画像補正 = | 背景色 = maker | 出生名 = | 別名 = 高橋ユキヒロ | 出生 = {{生年月日|1952|6|6}}<br />{{JPN}}・[[東京都]][[目黒区]] | 死没 = {{死亡年月日と没年齢|1952|6|6|2023|1|11}}<br />{{JPN}}・[[東京都]] | 学歴 = [[武蔵野美術大学]][[中退]] | ジャンル = {{Hlist-comma|[[J-POP]]|[[ロック (音楽)|ロック]]|[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]|[[テクノポップ|テクノ]]|[[エレクトロニカ]]}} | 職業 = {{Hlist-comma|[[ドラマー]]|[[シンガーソングライター]]|[[作曲家]]|[[音楽プロデューサー]]|[[ファッションデザイナー]]|[[俳優]]}} | 担当楽器 = {{Hlist-comma|[[ドラムセット|ドラムス]]|[[ボーカル]]|[[ギター]]|[[キーボード (楽器)|キーボード]]}} | 活動期間 = [[1969年]] - [[2023年]] | レーベル = {{Hlist-comma|[[キングレコード|SEVEN SEAS]]|[[YENレーベル|¥・E・N RECORDS]]|[[ポニーキャニオン|T・E・N・T]]|[[EMIミュージック・ジャパン|EAST WORLD]]|CONSIPIO RECORDS|[[日本コロムビア#サブレーベル|BETTER DAYS]]}} | 事務所 = ヒンツ・ミュージック | 共同作業者 = {{Plainlist| * [[ガロ (フォークグループ)|ガロ]] * [[サディスティック・ミカ・バンド]] * [[サディスティックス]] * [[イエロー・マジック・オーケストラ]] * [[THE BEATNIKS]] * [[スケッチ・ショウ]] * [[pupa (バンド)|pupa]] * [[in Phase]] * [[METAFIVE]] }} | 公式サイト = | 著名使用楽器 = }} '''高橋 幸宏'''(たかはし ゆきひろ、[[1952年]]〈[[昭和]]27年〉[[6月6日]]<ref name="djmeikan">{{Cite book|和書|title=DJ名鑑 1987|publisher=[[三才ブックス]]|date=1987-02-15|pages=97|id={{NDLJP|12276264/49}}}}</ref> - [[2023年]]〈[[令和]]5年〉[[1月11日]]<ref name="nhk20230115" /><ref name="tw20230115" />)は[[日本]]の[[シンガーソングライター]]、[[ドラマー]]、[[音楽プロデューサー]]、[[ファッション・デザイナー]]、[[著作家|文筆家]]。 ソロ・デビューした[[1978年]](昭和53年)から[[1980年]](昭和55年)前半までは、「'''高橋ユキヒロ'''」とカタカナ表記の名前を名乗っていた。 == 人物 == 立教中学校(現:[[立教池袋中学校・高等学校|立教池袋中学校]])・立教高等学校(現:[[立教新座中学校・高等学校|立教新座高等学校]])卒業(高校の3年後輩に[[佐野元春]]がいる)。[[武蔵野美術大学|武蔵野美術大学短期大学部生活デザイン科]]中退。 高校在学中から[[スタジオ・ミュージシャン]]として活動。「[[サディスティック・ミカ・バンド]]」や「[[イエロー・マジック・オーケストラ]]」(YMO) のメンバーとしての活動が有名。その他、[[鈴木慶一]]と共に結成した「[[THE BEATNIKS|ビートニクス]]」、[[細野晴臣]]とのユニット「[[スケッチ・ショウ]]」としての活動を始め、様々なミュージシャンとのコラボレーションやプロデュースも手掛けている。[[山本耀司]]の[[パリ・コレ]]出展の際の音楽を担当したり、[[椎名誠]]が監督を務めた映画の音楽を担当したこともある。ドラマーとして、その厳格なまでに正確なリズムと少ない音数で多彩な表現を可能とする独特のタイトな演奏は、特にYMO世代のミュージシャン達から高くリスペクトされている。 音楽活動の他に、これまでに「Brother」(BUZZ SHOP CO.)、「Buzz Brother」(BUZZ SHOP CO.)、「Bricks」(BUZZ SHOP CO.)、「Bricks Mono」(PLAN・NET-WERK CO.)、「YUKIHIRO TAKAHASHI COLLECTION」(WAG Inc.) といった自身のファッション・ブランドのデザイナーも務めている。[[1983年]](昭和58年)には、『[[オールナイトニッポン]]』の[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]を務めた。その他、[[映画]]や[[コマーシャルメッセージ|CM]]への出演、[[エッセイ]]の発表など、その活動は多岐に渡っている。映画『[[四月の魚]]』では主演を務めた。俳優の[[竹中直人]]と交流が深く、『[[竹中直人の恋のバカンス]]』、『[[デカメロン (テレビ番組)|デカメロン]]』などに出演した際には、シュールなコントに挑戦している。 趣味は[[釣り]]。[[神経症]]の治療のために始めたものだが、以来すっかり夢中になってしまい、ラジオ番組で中継を行ったこともある。釣り同好会「東京鶴亀フィッシングクラブ」(旧:東京鶴亀磯釣り会)の会長である。 最晩年まで[[長野県]][[軽井沢町]]に在住していた。軽井沢には親族が別荘を所有していたこともあり幼少期から頻繁に足を運んでいた。[[細野晴臣]]との出会いも軽井沢の「[[三笠ホテル]]」であった。 == 略歴 == [[1952年]](昭和27年)、東京に生まれる。小学校5年生頃にはすでにドラムを叩いていたという。立教中学校(現[[立教池袋中学校・高等学校|立教池袋中学校]])時代、同級生の[[バズ (バンド)|東郷昌和]]と「ブッダズ・ナルシィーシィー」というバンドを結成。主にパーティー等で活動していた(後に東郷は高橋の兄・信之のプロデュースでフォークグループ「[[バズ (バンド)|バズ]]」としてデビューする)。[[荒井由実]]も立教中学校当時からの友達である。高校在学中から[[スタジオミュージシャン]]として活動を開始。[[1969年]]にフォークバンド「[[ガロ (フォークグループ)|ガロ]]」のサポートメンバーとして加わる。しかし、『[[学生街の喫茶店]]』ヒット以後の歌謡曲路線に合わず、[[小原礼]]と共に脱退。 [[武蔵野美術大学短期大学部]]生活デザイン学科<ref>[https://web.archive.org/web/20070525091540/http://www.msb-net.jp/info_grad/i04.html 会報掲載インタビュー 高橋幸宏氏] - msb 武蔵野美術大学 校友会</ref><ref>[https://weekly.ascii.jp/elem/000/002/623/2623336/?r=1 高橋幸宏とユザーンの学ラントーク!「パンツのシルエットにとにかく気を使ってた」|Mac] 週刊アスキー、2014年6月1日</ref> 在学中の[[1972年]](昭和47年)、[[加藤和彦]]の誘いを受け、脱退した角田ひろ(現:[[つのだ☆ひろ]])の後任として「[[サディスティック・ミカ・バンド]]」に加入。ミカ・バンドは海外(とりわけ[[イギリス]])において評価されている。[[1974年]]には[[ロキシー・ミュージック]]の全英ツアーにおいて[[オープニングアクト|オープニング・アクト]]を務めた。帰国後、解散。 ミカ・バンド解散後、「[[サディスティックス]]」を経て、[[1978年]](昭和53年)からはソロ活動を開始。そして同年「[[イエロー・マジック・オーケストラ]]」(YMO) を結成。[[1979年]](昭和54年)から[[1980年]](昭和55年)にかけて2度にわたるワールドツアーを敢行した。YMOは世界的な大成功を収め、日本のみならず世界の音楽シーンに多大な影響を与えた。高橋の作曲としては「[[ライディーン (YMOの曲)|ライディーン]]」が有名。結成当初、細野は「YMOのメンバーはヴォーカルを取らない(ゲスト・ミュージシャンに任せる)」という意向を持っていたが、坂本の推挽で高橋が「中国女」のボーカルを手がけたことにより、ボーカリストとしての才能も発揮。またファッション・デザインの才も発揮して衣装のデザインも手掛けていた。高橋は当時、自身のブランド「Bricks」や「Bricks-MONO」のデザイナーだった。YMO結成前、当時の[[坂本龍一]]のぞんざいな服装を見た高橋は「かっこいいのにもったいない」と初対面の時に思ったそうである。1980年(昭和55年)には「POP THE HERO '80s」([[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ関東]])のパーソナリティを(準レギュラーに当時のマネージャー伊藤洋一と共に)担当。ソロやYMOの活動の一方で、[[1981年]](昭和56年)には鈴木慶一と供に「[[ビートニクス|The Beatniks]](ビートニクス)」を結成し、活動を開始する。[[1982年]](昭和57年)、個人事務所「[[オフィス・インテンツィオ]]」を設立。[[1983年]](昭和58年)4月より、「[[高橋幸宏のオールナイトニッポン|オールナイトニッポン]]」([[ニッポン放送]])のパーソナリティを担当。同年12月、YMO「散開」(解散)とともに放送終了。 YMO散開以降、ソロ活動を本格化させ、また「[[ビートニクス]]」としてもマイペースに活動。[[1989年]](平成元年)には「[[サディスティック・ミカ・バンド]]」が[[桐島かれん]]を迎えて一時再結成。[[1992年]](平成4年)3月には[[山本耀司]]、高橋信之、田中信一と共に、「AGENT CON-SIPIO」を設立。翌[[1993年]](平成5年)には録音スタジオ「CONSIPIO STUDIO」とレコードレーベル「CONSIPIO RECORDS」を発足。同年2月、YMO「再生」(再結成)を発表し、東京ドームにてコンサートを行う。[[1997年]](平成9年)には自らも「CONSIPIO RECORDS」に移籍したが、現在は休眠状態である。 [[2002年]](平成14年)からは細野晴臣と共にYMO以来のユニット「[[スケッチ・ショウ]]」を結成、活動を開始する。[[2004年]](平成16年)にはスケッチ・ショウ+坂本龍一のユニット「[[ヒューマン・オーディオ・スポンジ]] (HAS)」として、エレクトロニカイベント「sonar」に出演。 [[2005年]](平成17年)には再び東芝EMI(現:[[EMIミュージック・ジャパン]])と契約。翌[[2006年]](平成18年)3月に7年ぶりのソロアルバム「BLUE MOON BLUE」をリリース。スケッチ・ショウで実践したエレクトロニカの手法を通過させた新機軸のポップ路線を展開した。アルバム発表後は[[高野寛]]、[[高田漣]]、[[権藤知彦]]を主要メンバーに迎え、ライブハウスからロックフェスまで、各地でライブを精力的にこなした。10月には恵比寿ガーデンホールで開催された「SONAR」への出演を交えながら、新宿ICC、仙台メディアテーク、東京都現代美術館の3箇所で「ミュージアムツアー」と称したライブを行い、インプロヴィゼーション中心のクオリティの高い演奏を披露、新たなる次への展開を窺わせた。 また同年、[[麒麟麦酒|キリン]]ラガービールのテレビCMとの連動企画で「サディスティック・ミカ・バンド」が[[木村カエラ]]をボーカルに迎えて2度目の再結成。10月にはアルバムをリリースした。同じく[[2007年]]には同CMの企画でYMOがこれも二度目の再結成。CMでは「ライディーン」のセルフカバー版「[[RYDEEN 79/07]]」を披露し、同時にネット配信を開始。5月にはチャリティ団体「Smile Together Project」主催のライブに(HASとして)出演、また7月には「[[ライヴ・アース]]」に出演。[[ワールドハピネス]]の主催。 [[2008年]](平成20年)、新バンド[[pupa (バンド)|pupa]]を、[[原田知世]]、高野寛、高田漣、権藤知彦、[[堀江博久]]と共に結成。同年7月2日にアルバム「floating pupa」リリースした。 [[2009年]](平成21年)3月11日にはオリジナル・アルバムとしては22作目となるニュー・アルバム「Page By Page」がリリース。[[小山田圭吾]]をサポートに迎え、同年6月6日には3年ぶりのソロ・ライブ、7月には自ら「念願だった」という[[フジロック・フェスティバル]]に出演、10月にはフェス形式のライブハウス公演に登壇するなど単発的ながら充実のライブ活動を展開した。 2009年(平成21年)[[11月24日]]より、[[Twitter]]を利用。 [[2010年]](平成22年)、[[pupa (バンド)|pupa]]の2ndアルバムをリリース。 [[2012年]](平成24年)12月22日、東京・渋谷の[[Bunkamuraオーチャードホール]]にて高橋幸宏の還暦を記念するライブ「高橋幸宏 60th Anniversary Live」が開催された。 [[2013年]](平成25年)9月12日、[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]]2013年10月臨時増刊号として「総特集◎高橋幸宏」が発売された。 [[2014年]](平成26年)、新ユニット[[METAFIVE|高橋幸宏&METAFIVE]]を、小山田圭吾、[[砂原良徳]]、[[TOWA TEI]]、[[anonymass|ゴンドウトモヒコ]]、[[LEO今井]]と共に結成。同年7月27日にLIVEアルバム「TECHNO RECITAL」リリースした。 [[2015年]](平成27年)LOVE PSYCHEDELICOのツアーに帯同。高橋幸宏&METAFIVEをMETAFIVEに改める。 [[2020年]](令和2年)8月31日、[[脳腫瘍]]の摘出手術を行ったことを公表<ref>[https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20230115/1000088578.html YMOなどで活躍 ミュージシャンの高橋幸宏さん死去 70歳]</ref>。手術は無事に成功し、後遺症も見られないという<ref>{{Cite web|和書|title=YMO高橋さんが脳腫瘍 患部摘出手術で入院(写真=共同)|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO63239620R30C20A8000000/ |website=日本経済新聞 |date=2020-08-31 |accessdate=2021-05-24}}</ref>。 [[2021年]](令和3年)、METAFIVEの「METAATEM」が発売中止。 [[2022年]](令和4年)6月6日、[[古希]](70歳)を迎え、また、プロ活動50周年という節目の年であることを祝い、それを記念するライブ「高橋幸宏 50周年記念ライヴ<!--「ライブ」ではなく「ライヴ」と表記されてあるため、本項表記も「ヴ」に則る--> LOVE TOGETHER 愛こそすべて」を、2022年9月18日にNHKホールにて行う予定であることを発表<ref>{{Cite web|和書|date=2022-06-06 |url=https://natalie.mu/music/news/480525 |title=高橋幸宏70歳&音楽活動50周年!各界著名人によるコメントとプレイリスト公開、豪華出演者のライブも |work=音楽ナタリー |publisher=ナターシャ |accessdate=2022-06-08}}</ref>、しかし体調面から高橋は出演を見合わせることになった<ref>{{Cite web|和書|date=2023-01-15 |url=https://mainichi.jp/articles/20230115/k00/00m/040/038000c |title=YMO高橋幸宏さん死去 70歳 ドラマー、20年に脳腫瘍手術 |publisher=毎日新聞 |accessdate=2022-01-15}}</ref>。 [[2023年]](令和5年)[[1月11日]]午前5時59分、[[脳腫瘍]]により併発した[[誤嚥性肺炎]]のため死去<ref name="nhk20230115">{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230115/k10013950081000.html |title=YMO 高橋幸宏さん死去 70歳 「ライディーン」の作曲手がける |website=NHKニュースウェブ |publisher=[[日本放送協会|NHK]] |date=2023-01-15 |accessdate=2023-01-15}}</ref><ref name="tw20230115">{{Cite tweet |user=yukihiro_info |author=高橋幸宏 information |number=1614539719588859906 |title=長きにわたり、高橋幸宏に大きな愛を贈っていただいた皆さまに。 |date=2023-01-15 |accessdate=2023-01-15}}</ref>。{{没年齢|1952|6|6|2023|1|11}}。 後日、お別れ会を行う予定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2264116/full/ |title=高橋幸宏さん死去、71歳 死因は誤嚥性肺炎 後日「お別れの会」を実施へ |website=オリコンニュース|publisher=オリコン |date=2023-01-15 |accessdate=2023-01-15}}</ref><ref name="tw20230115"/>。 [[2月5日]]、{{仮リンク|第65回グラミー賞|en|65th Annual Grammy Awards}}の逝去した音楽関係者に哀悼を捧げる、{{仮リンク|イン・メモリアム|en|In memoriam segment}}のコーナーで追悼された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2266858/full/|title=【グラミー賞】YMO高橋幸宏さん、“追悼コーナー”に姿 兄・信之氏も感慨「誇りに思うよ」|website=[[ORICON NEWS]]|publisher=株式会社oricon ME|date=2023-02-07|accessdate=2023-02-07}}</ref>。 同年、[[第65回日本レコード大賞]]特別功労賞を受賞した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2305410/full/|title=伊集院静さん、『日本レコード大賞』特別功労賞受賞 訃報を受け…記者会見で追加発表|website=ORICON NEWS|publisher=株式会社oricon ME|date=2023-12-06|accessdate=2023-12-06}}</ref>。 == 家族・親族 == 兄は、元[[ザ・フィンガーズ]]で音楽プロデューサーの[[高橋信之 (音楽プロデューサー)|高橋信之]]。姉は日本のファッション界における[[広報]]の第一人者である[[伊藤美恵]]。ファッション・ブランド「soe」のデザイナー[[伊藤壮一郎]]は美恵の息子であり、高橋の甥に当たる。[[デザイナー]]兼[[ボイスアクター]]の[[大岩Larry正志]]は高橋家の次女の息子であり、壮一郎の従弟に当たる。また、近代文学研究者の[[高橋世織]]は従兄弟。また、現在の妻は「[[non-no]]」モデルであった高橋喜代美(当時の芸名は「しもいきよみ」)。 == 活動実績 == === 音楽プロデュース === [[竹中直人]]、[[安田成美]]、[[高野寛]]、[[山下久美子]]、[[中原理恵]]、[[シーナ&ザ・ロケッツ]]、[[立花ハジメ]]、[[ピンク・レディー]]、[[門あさ美]]、[[SMOOTH ACE]]、[[NOKKO]]、[[桐島かれん]]、[[TOKIO]]、[[堀内一史|EBI]]、[[SUSAN]]、[[成田忍|Urban dance]]、[[山野ミナ]]など。 === 作詞・作曲 === [[桜田淳子]]、[[竹内まりや]]、[[田原俊彦]]、[[高岡早紀]]、[[浅香唯]]、[[小坂一也]]、[[藤真利子]]、[[堀ちえみ]]、[[ピエール・バルー]]、[[高井麻巳子]]、[[杉本彩]]、[[サンディー]]&サンセッツ、宮本典子(現[[Mimi (歌手)|mimi]])、[[伊藤つかさ]]、[[ザ・ベンチャーズ]]、[[冨田ラボ]]、[[安田成美]] 、[[山野ミナ]]など提供作品多数。 === 演奏参加 === [[バズ (バンド)|BUZZ]]、[[山下達郎]]、[[荒井由実]]、[[矢沢永吉]]、[[太田裕美]]、[[キャンディーズ]]、[[浅野ゆう子]]、[[山口百恵]]、[[桑名正博]]、[[草刈正雄]]、[[岩崎宏美]]、[[オフコース]]、[[泉谷しげる]]、[[加藤和彦]]、[[矢野顕子]]、[[大貫妙子]]、[[八神純子]]、[[ビル・ネルソン (ミュージシャン)|ビル・ネルソン]]、[[アグネス・チャン]]、[[堀ちえみ]]、[[海援隊 (フォークグループ)|海援隊]]、[[来生たかお]]、[[浜田省吾]]、[[南佳孝]]、[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]、[[ブレッド&バター]]、[[Zaine Griff]]、[[郷ひろみ]]、[[松井常松]]、[[テイ・トウワ]]、[[東京スカパラダイスオーケストラ]]、[[EPO]]、[[山本達彦]]、[[渡辺香津美]]、[[高中正義]]、[[やくしまるえつこ]]、[[小林武史]]、[[小椋佳]]、[[渡辺美里]]、[[ムーンライダーズ]]、[[LOVE PSYCHEDELICO]]、[[ウーヴェ・シュミット|セニョール・ココナッツ]]など多数の作品に参加(ドラムをはじめ、キーボード、コーラスなど)。 === その他 === [[山本耀司]]の[[パリ・コレクション]]出展用の音楽を制作、[[椎名誠]]監督映画『ガクの冒険』では音楽監督を務めた。 [[カシオ]]の[[リズムマシン]]「RZ-1」に内蔵されたドラム音の監修を行った。 == ディスコグラフィ == {{main2|サディスティック・ミカ・バンド|サディスティック・ミカ・バンド#ディスコグラフィ}} {{main2|サディスティックス|サディスティックス#ディスコグラフィー}} {{main2|イエロー・マジック・オーケストラ (YMO)|イエロー・マジック・オーケストラ#作品}} {{main2|THE BEATNIKS|THE BEATNIKS#ディスコグラフィ}} {{main2|スケッチ・ショウ|スケッチ・ショウ#ディスコグラフィー}} {{main2|pupa|pupa (バンド)#ディスコグラフィ}} {{main2|METAFIVE|METAFIVE#作品}} === シングル === {|class="wikitable" style="font-size:small" ! ! 発売日 ! タイトル ! c/w ! 規格 ! [[規格品番]] ! オリコン最高位 |- ! colspan="7" | [[キングレコード|KING RECORDS]] / SEVEN SEAS |- ! 1st | 1978年6月21日 | '''セ・シ・ボン''' ''(C'Est Si Bon)'' | ミッドナイト・クイーン (Back Street Midnight Queen) | [[レコード#EP盤|EP]] | GK(S)-8052 | |- ! 2nd | 1980年6月21日 | '''音楽殺人''' ''(MURDERED BY THE MUSIC)'' | スイミングスクールの美人教師 (BIJIN - KYOSHI AT THE SWIMMING SCHOOL) | EP | GK-8106 | |- ! 3rd | 1980年12月5日 | '''悲しきブルーカラーワーカー''' ''(BLUE COLOUR WORKER)'' | ミラーマニック (MIRRORMANIC) | EP | K07S-125 | |- ! colspan="7" |[[アルファレコード|ALFA RECORDS]] / [[YENレーベル|¥・E・N RECORDS]] |- ! 4th | 1983年1月1日 | '''ARE YOU RECEIVING ME?''' | AND I BELIEVE IN YOU | EP | YLR-703 | 91位 |- ! 5th | 1983年6月25日 | '''{{ruby|前兆|まえぶれ}}''' | ANOTHER DOOR | EP | YLR-706 | 50位 |- ! 6th | 1985年4月25日 | '''四月の魚 (POISSON D'AVRIL)''' | 君にサープライズ! | EP | YLR-714 | |- ! colspan="7" |[[ポニーキャニオン|CANYON RECORDS]] / T・E・N・T |- ! - | <s>1985年12月5日</s>{{Color|red|(発売中止)}} | '''今日の空''' | 昆虫記 | EP | 7A-0542 | |- ! 7th | 1986年8月21日 | '''悲しいウイークエンド''' | CAMP | EP | 7A-0618 | |- ! colspan="7" |[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]] / EAST WORLD |- ! rowspan="2"|8th | rowspan="2"|1988年11月9日 | rowspan="2"|'''Look of Love''' | rowspan="2"|Dance Of Life | EP | RT07-2231 | rowspan="2"| |- | [[8センチCD|8cmCD]] | XT10-2231 |- ! 9th | 1990年2月15日 | '''1%の関係''' | FAIT ACCOMPLI | 8cmCD | TODT-2475 | 50位 |- ! 10th | 1990年11月14日 | '''X'MAS DAY IN THE NEXT LIFE''' | {{Unbulleted list|神を忘れて、祝えよX'mas Time|The Night After X'mas}} | 8cmCD | TODT-2595 | 55位 |- ! 11th | 1991年2月20日 | '''愛はつよい stronger than iron''' | {{Unbulleted list|空気吸うだけ|Stronger Than Iron (english version)}} | 8cmCD | TODT-2623 | 52位 |- ! 12th | 1991年11月27日 | '''元気ならうれしいね''' | 空気吸うだけ (Live 29 April 1991 At On Air, Tokyo) | 8cmCD | TODT-2756 | 82位 |- ! 13th | 1992年3月18日 | '''素敵な人''' | Good Days, Bad Days | 8cmCD | TODT-2809 | 74位 |- ! 14th | 1994年10月19日 | '''青空''' | 永遠の夏 | 8cmCD | TODT-3318 | |- ! 15th | 1995年4月8日 | '''精一杯の微笑み''' | 二人でくらしてみたいね | 8cmCD | TODT-3484 | 79位 |- ! 16th | 1995年9月27日 | '''さえない気持ち''' | 海辺の荘 | 8cmCD | TODT-3560 | |- ! 17th | 1996年10月16日 | '''名もない恋愛''' | 足ながおじさんになれずに | 8cmCD | TOCT-3823 | |- ! colspan="7" |AGENT CON-SIPIO / CONSIPIO RECORDS |- ! 18th | 1997年6月18日 | '''手をのばせば〜A touch of Love〜''' | {{ruby|地球|ほし}}の声〜Voice Of The Earth〜 | [[シングル|Maxi]] | AGCA-50001 | |- ! colspan="7" |AGENT CON-SIPIO / DIGITAL CONSIPIO |- ! 19th | 2000年6月16日 | '''A DOG SMILED''' | | [[音楽配信]] | | |- ! colspan="7" |TOYOKASEI / HINTS MUSIC |- ! - | 2019年4月13日 | '''C'Est Si Bon''' | Back Street Midnight Queen | EP | TYO7S-1015 | |} ==== 配信限定シングル ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" ! ! 発売日 ! タイトル ! 収録曲 |- ! colspan="4" |[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]] / RESERVOIR RECORDS / D'TF RECORDS |- ! 1st | 2006年3月1日 | '''BMBPRM/EP''' | # SOMETHING NEW (GND remix) # I LIKE THE WRIGHT BROTHERS, BUT NO AIRPLANES (GND remix) # STILL WALKING TO THE BEAT (GND remix) |- ! 2nd | 2006年6月7日 | '''BMBATASG/EP''' | # IN COLD QUEUE (ASG Live) # STILL WALKING TO THE BEAT (ASG Live) |} ==== ビデオシングル ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" ! ! 発売日 ! タイトル ! 規格 |- ! colspan="5" |[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]] / RESERVOIR RECORDS / D'TF RECORDS |- ! 1st | 2006年3月15日 | '''Blue Moon Blue''' | 配信 |- ! 2nd | 2006年7月1日 | '''Something New - ASG Live''' | 配信 |- ! colspan="5" |[[EMIミュージック・ジャパン|EMI MUSIC JAPAN]] / [[ヴァージン・レコード|Virgin Records]] |- ! 3rd | 2009年3月11日 | '''The Words''' | 配信 |- ! 4th | 2009年3月11日 | '''Out There''' | 配信 |- ! colspan="5" |[[ユニバーサルミュージック (日本)|UNIVERSAL MUSIC]] / [[EMIミュージック・ジャパン|EMI RECORDS JAPAN]] |- ! 5th | 2013年7月17日 | '''All That We Know''' | 配信 |} ==== コラボレート・シングル ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" ! 名義 ! 発売日 ! タイトル ! c/w ! 規格 ! [[規格品番]] ! オリコン最高位 |- ! colspan="7" | [[ポニーキャニオン|CANYON RECORDS]] / T・E・N・T |- ! 高橋幸宏 & [[スティーヴ・ジャンセン]] | 1986年2月21日 | '''STAY CLOSE''' | {{Unbulleted list|BETSU-NI|STAY CLOSE (Weirder World)}} | [[レコード#12インチシングル盤|12inch]] | C12A-0473 | 68位 |- ! colspan="7" | [[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]] / EAST WORLD |- ! 高橋幸宏 featuring [[東京スカパラダイスオーケストラ]] | 1995年4月28日 | '''WATERMELON''' | こみあげる涙と君のために | [[8センチCD|8cmCD]] | TODT-3462 | |- ! colspan="7" | [[エピックレコードジャパン|Epic/Sony Records]] |- ! [[東京スカパラダイスオーケストラ]] featuring 高橋幸宏 | 1995年4月28日 | '''WATERMELON''' | 花ふぶき | 8cmCD | ESDB-3568 | 85位 |- ! colspan="7" | [[cutting edge]] |- ! [[川上つよし]]と彼のムードメイカーズ meets 高橋幸宏 | 2003年7月9日 | '''Something''' | {{Unbulleted list|あの夏の日|きっと言える (Version)}} | [[コピーコントロールCD|CCCD]] | CTC1-40173 | |- ! colspan="7" | MACH |- ! [[テイ・トウワ]] with 高橋幸宏 & [[水原希子]] | 2011年4月11日 | '''The Burning Plain (Radio Edit)''' | The Burning Plain (Stripped out) | [[音楽配信]] | MBDL-009 | |- ! colspan="7" | [[ワーナーミュージック・ジャパン|WARNER MUSIC JAPAN]] |- ! テイ・トウワ with 高橋幸宏 & [[玉城ティナ]] | 2013年6月19日 | '''RADIO (Edit)''' | | 音楽配信 | | |- ! colspan="7" | [[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|JVCKENWOOD Victor Entertainment]] / [[フライングドッグ|Flying DOG]] |- ! 高橋幸宏 & [[METAFIVE]] | 2014年9月3日 | '''Split Spirit''' | | 音楽配信 | VE3WA-17211 | |} === アルバム === ==== オリジナル・アルバム ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" ! ! 発売日 ! タイトル ! 規格 ! [[規格品番]] ! オリコン最高位 |- ! colspan="6" | [[キングレコード|KING RECORDS]] / SEVEN SEAS |- ! rowspan="2"|1st | rowspan="2"|1978年6月21日 | rowspan="2"|'''[[サラヴァ!]]''' | [[レコード#LP盤|LP]] | SKS(S)-1011 | rowspan="2"| |- | [[コンパクトカセット|CT]] | AO-212 |- ! rowspan="2"|2nd | rowspan="2"|1980年6月21日 | rowspan="2"|'''[[音楽殺人]]''' | LP | SKS-1050 | rowspan="2"|12位 |- | CT | AO-211 |- ! colspan="6" |[[アルファレコード|ALFA RECORDS]] |- ! rowspan="2"|3rd | rowspan="2"|1981年5月24日 | rowspan="2"|'''[[NEUROMANTIC|NEUROMANTIC ロマン神経症]]''' | LP | ALR-28018 | rowspan="2"|21位 |- | CT | ALC-28017 |- ! colspan="6" |ALFA RECORDS / [[YENレーベル|¥・E・N RECORDS]] |- ! rowspan="2"|4th | rowspan="2"|1982年6月21日 | rowspan="2"|'''[[WHAT, ME WORRY?|WHAT, ME WORRY? ボク、大丈夫!!]]''' | LP | YLR-28003 | rowspan="2"|35位 |- | CT | YLC-28003 |- ! rowspan="2"|5th | rowspan="2"|1983年8月25日 | rowspan="2"|'''[[薔薇色の明日]]''' | LP | YLR-28009 | rowspan="2"|11位 |- | CT | YLC-28009 |- ! rowspan="2"|6th | rowspan="2"|1984年11月10日 | rowspan="2"|'''[[WILD&MOODY]]''' | LP | YLR-22005 | rowspan="2"|13位 |- | CT | YLC-22003 |- ! colspan="6" |[[ポニーキャニオン|CANYON RECORDS]] / T・E・N・T |- ! rowspan="3"|7th | rowspan="3"|1985年11月1日 | rowspan="3"|'''[[Once A Fool,...|Once A Fool, … ―遥かなる想い―]]''' | LP | C28A-0446 | rowspan="3"|11位 |- | CT | 28P-6485 |- | [[コンパクトディスク|CD]] | D32A-0127 |- ! rowspan="3"|8th | rowspan="3"|1986年8月21日 | rowspan="3"|'''[[...Only When I Laugh|...Only When I Laugh ...笑っている時だけ]]''' | LP | C28A-0507 | rowspan="3"|24位 |- | CT | 28P-6569 |- | CD | D32A-0213 |- ! colspan="6" |[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]] / EAST WORLD |- ! rowspan="3"|9th | rowspan="3"|1988年11月16日 | rowspan="3"|'''EGO''' | LP | RT28-5327 | rowspan="3"|16位 |- | CT | ZT28-5327 |- | CD | CT32-5327 |- ! rowspan="2"|10th | rowspan="2"|1990年4月4日 | rowspan="2"|'''BROADCAST FROM HEAVEN''' | LP | TOCT-5647 | rowspan="2"|11位 |- | CD | TOTT-5647 |- ! 11th | 1991年3月20日 | '''A Day In The Next Life''' | CD | TOCT-6032 | 37位 |- ! 12th | 1992年3月18日 | '''Life Time, Happy Time''' | CD | TOCT-6431 | 22位 |- ! 13th | 1994年11月16日 | '''MR.YT''' | CD | TOCT-8601 | 33位 |- ! 14th | 1995年10月25日 | '''Fate Of Gold''' | CD | TOCT-9229 | rowspan="2" |49位 |- ! 15th | 1996年11月13日 | '''Portrait With No Name''' | CD | TOCT-9695 |- ! colspan="6" |AGENT CON-SIPIO / CONSIPIO RECORDS |- ! 16th | 1997年9月19日 | '''A Sigh of Ghost''' | CD | AGCA-10007 | 99位 |- ! 17th | 1998年3月18日 | '''A Ray Of Hope''' | CD | AGCA-10009 | |- ! 18th | 1999年10月20日 | '''The Dearest Fool''' | CD | AGCA-10019 | 88位 |- ! colspan="6" |[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]] / RESERVOIR RECORDS / D'TF RECORDS |- ! 19th | 2006年3月15日 | '''BLUE MOON BLUE''' | CD ([[CD-EXTRA]]) | TOCT-25939 | 93位 |- ! colspan="6" |[[EMIミュージック・ジャパン|EMI MUSIC JAPAN]] / [[ヴァージン・レコード|Virgin Records]] |- ! 20th | 2009年3月11日 | '''Page By Page''' | CD | TOCT-26798 | 56位 |- ! colspan="6" |[[ユニバーサルミュージック (日本)|UNIVERSAL MUSIC]] / [[EMIミュージック・ジャパン|EMI RECORDS JAPAN]] |- ! 21st | 2013年7月17日 | '''Life Anew''' | CD | TOCT-29167 | 40位 |} ==== セルフカバー・アルバム ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" ! ! 発売日 ! タイトル ! 規格 ! [[規格品番]] ! オリコン最高位 |- ! colspan="6" |[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]] / EAST WORLD |- ! 1st | 1993年1月27日 | '''Heart of Hurt''' | CD | TOCT-6896 | 28位 |- ! colspan="6" |[[日本コロムビア|NIPPON COLUMBIA]] / BETTER DAYS |- ! rowspan="2"|2nd | rowspan="2"|2018年10月24日 | rowspan="2"|'''Saravah Saravah!''' | [[コンパクトディスク|CD]] | COCB-54275 | rowspan="2"|29位 |- | [[レコード#LP盤|LP]] | COJA-9341 |} ==== ミニ・アルバム ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" ! ! 発売日 ! タイトル ! 規格 ! [[規格品番]] ! オリコン最高位 |- ! colspan="6" | [[アルファレコード|ALFA RECORDS]] / [[YENレーベル|¥・E・N RECORDS]] |- ! 1st | 1982年7月21日 | '''[[WHAT, ME WORRY?]]''' | [[レコード#LP盤|LP]] | YLR-19001 | |} ==== ライブ・アルバム ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" ! ! 発売日 ! タイトル ! 規格 ! [[規格品番]] ! オリコン最高位 |- ! colspan="6" | [[アルファレコード|ALFA RECORDS]] / [[YENレーベル|¥・E・N RECORDS]] |- ! rowspan="2"|1st | rowspan="2"|1984年1月25日 | rowspan="2"|'''[[tIME aND pLACE]]''' | [[レコード#LP盤|LP]] | YLR-28015 | rowspan="2"|13位 |- | [[コンパクトカセット|CT]] | YLC-28012 |- ! colspan="6" | [[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]] / EAST WORLD |- ! 2nd | 1991年8月23日 | '''[[a night in the next LIFE]]''' | [[コンパクトディスク|CD]] | TOCT-6246 | 74位 |- ! colspan="6" |AGENT CON-SIPIO / CONSIPIO RECORDS |- ! 3rd | 1998年9月18日 | '''Run After You Yukihiro Takahashi Live 1998''' | CD | AGCA-10011 | |- ! colspan="6" |[[EMIミュージック・ジャパン|EMI MUSIC JAPAN]] / [[ヴァージン・レコード|Virgin Records]] |- ! 4th | 2009年3月11日 | '''A Night in The Next Life-Perfect Premium Discs-''' | [[スーパー・ハイ・マテリアルCD|SHM-CD]] | TOCT-95083 | 300位 |- ! colspan="6" |HINTS MUSIC / D'TF RECORDS |- ! - | 2012年12月22日 | '''Live 1988 Absolute Ego Dance''' | CD | DTF-12601 | |- ! colspan="6" |Nishi Azabu Records |- ! rowspan="2"|5th | 2015年8月23日 | rowspan="2"|'''HEART OF HURT LIVE 2014 Seas of Seeds''' | CD(10インチジャケット限定盤) | WAZB-6300 | rowspan="2"| |- | 2015年12月22日 | CD(紙ジャケット通常盤) | WAZB-6301 |- ! colspan="6" |[[日本コロムビア|NIPPON COLUMBIA]] / BETTER DAYS |- ! rowspan="2"|6th | rowspan="2"|2019年8月21日 | rowspan="2"|'''YUKIHIRO TAKAHASHI LIVE 2018 SARAVAH SARAVAH!''' | CD+[[DVD]] | COZB-1533 | rowspan="2"|46位 |- | LP | COJA-9361 |- ! colspan="6" |[[ソニー・ミュージックダイレクト|Sony Music Direct]] / ALDELIGHT |- ! 7th | 2022年9月14日 | '''IT'S GONNA WORK OUT 〜LIVE 82-84〜''' | CD+[[Blu-ray Disc|Blu-ray]] | MHCL-30731/4 | 18位 |} ==== サウンドトラック ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" ! ! 発売日 ! タイトル ! 規格 ! [[規格品番]] ! オリコン最高位 |- ! colspan="6" | [[アルファレコード|ALFA RECORDS]] / [[YENレーベル|¥・E・N RECORDS]] |- ! rowspan="2"|1st | rowspan="2"|1985年4月25日 | rowspan="2"|'''[[四月の魚 (サウンドトラック)|四月の魚 POISSON D'AVRIL]]''' | [[レコード#LP盤|LP]] | YLR-28022 | rowspan="2"|28位 |- | [[コンパクトカセット|CT]] | YLC-28021 |- ! colspan="6" |[[ポニーキャニオン|CANYON RECORDS]] / T・E・N・T |- ! rowspan="3"|- | rowspan="3"|1987年5月21日 | rowspan="3"|'''[[La Pensée]]''' | LP | C28A-0570 | rowspan="3"|60位 |- | CT | 28P-6674 |- | [[コンパクトディスク|CD]] | D32A-0289 |- ! colspan="6" |[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]] / EAST WORLD |- ! 2nd | 1991年8月23日 | '''ガクの冒険''' | CD | TOCT-6134 | |- ! colspan="6" |AGENT CON-SIPIO / CONSIPIO RECORDS |- ! 3rd | 1992年1月25日 | '''うみ・そら・さんごのいいつたえ''' | CD | COCD-9201 | |- ! 4th | 1993年8月30日 | '''あひるのうたがきこえてくるよ''' | CD | COCD-9203 | |- ! 5th | 1996年11月10日 | '''しずかなあやしい午後に''' | CD | COCD-9218 | |- ! 6th | 1996年12月10日 | '''The Show vol.6 Yohji Yamamoto Collection Music''' | CD | COCD-9219 | |} ==== ベスト・アルバム ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" ! ! 発売日 ! タイトル ! 規格 ! [[規格品番]] ! オリコン最高位 |- ! colspan="6" | [[アルファレコード|ALFA RECORDS]]/ [[YENレーベル|¥・E・N RECORDS]] |- ! rowspan="3"|1st | rowspan="2"|1985年11月28日 | rowspan="3"|'''THE BRAND NEW DAY''' | [[レコード#LP盤|LP]] | YLR-28024 | rowspan="3"| |- | [[コンパクトカセット|CT]] | YLC-28022 |- | 1985年12月21日 | [[コンパクトディスク|CD]] | 32XA-44 |- ! colspan="6" | [[ポニーキャニオン|PONY CANYON]] / T・E・N・T |- ! 2nd | 1993年5月21日 | '''THE BEST WAY''' | CD | PCCA-00453 | |- ! colspan="6" | [[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]] / EAST WORLD |- ! 3rd | 1995年6月7日 | '''I'm Not In Love. THE BEST OF YUKIHIRO TAKAHASHI 1988-1995''' | CD | TOCT-8968 | 36位 |- ! 4th | 1998年2月25日 | '''Collection SINGLES & MORE 1988-1996''' | CD | TOCT-10189 | |- ! colspan="6" | AGENT CON-SIPIO / CONSIPIO RECORDS |- ! 5th | 1999年6月17日 | '''[[colors best of yt cover tracks vol.1]]''' | CD | AGCA-10016 | |- ! 6th | 1999年7月7日 | '''[[colors best of yt cover tracks vol.2]]''' | CD | AGCA-10017 | |- ! 7th | 2002年11月20日 | '''A Dog Smiled yukihiro takahashi Best Selection '97-'99''' | CD | AGCA-1007 | |- ! colspan="6" | [[ソニー・ミュージックダイレクト|Sony Music Direct]] / GTmusic |- ! 8th | 2009年3月11日 | '''Turning The Pages Of Life ALFA Years 1981-1985''' | [[ブルースペックCD|Blu-spec CD]] | MHCL-20001 | 113位 |- ! colspan="6" | [[EMIミュージック・ジャパン|EMI MUSIC JAPAN]] / [[ヴァージン・レコード|Virgin Records]] |- ! 9th | 2009年3月11日 | '''Turning The Pages Of Life EMI Years 1988-1996''' | [[スーパー・ハイ・マテリアルCD|SHM-CD]] | TOCT-95093 | 211位 |- ! colspan="6" | Sony Music Direct / ALDELIGHT |- ! rowspan="2"|10th | rowspan="2"|2021年10月27日 | rowspan="2"|'''GRAND ESPOIR''' | [[ブルースペックCD|Blu-spec CD2]] | MHCL-30701 | rowspan="2"|65位 |- | LP | MHJL-201 |- ! colspan="6" |Universal Music / EMI MUSIC JAPAN |- !11th |2023年11月15日 |'''THE BEST OF YUKIHIRO TAKAHASHI [EMI YEARS 1988-2013]''' |CD |UICZ-4644/5 | |} ==== トリビュート・アルバム ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" ! ! 発売日 ! タイトル ! 規格 ! [[規格品番]] ! オリコン最高位 |- ! colspan="6" | [[EMIミュージック・ジャパン|EMI MUSIC JAPAN]] |- ! 1st | 2012年8月8日 | '''[[RED DIAMOND 〜Tribute to Yukihiro Takahashi〜]]''' | [[コンパクトディスク|CD]] | TOCT-29027 | 51位 |} ==== コラボレーション・アルバム ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" ! 名義 ! 発売日 ! タイトル ! 規格 ! [[規格品番]] ! オリコン最高位 |- ! colspan="6" | [[ユニバーサルミュージック (日本)|UNIVERSAL MUSIC]] / [[EMIミュージック・ジャパン|Virgin Records]] |- ! rowspan="2"|高橋幸宏 & [[METAFIVE]] | rowspan="2"|2014年7月23日 | rowspan="2"|'''TECHNO RECITAL''' | [[コンパクトディスク|CD]] (デジパック限定盤) | TYCT-69022 | rowspan="2"|43位 |- | CD (通常盤) | TYCT-60043 |- ! 高橋幸宏 with In Phase | 2014年7月23日 | '''PHASE''' | CD+[[Blu-ray Disc|Blu-ray]]+[[DVD]] | TYXT-19004 | 45位 |} === 映像作品 === {| class="wikitable" style="font-size:small" ! ! 発売日 ! タイトル ! 規格 ! [[規格品番]] ! オリコン最高位 |- ! colspan="6" | [[バンダイ・ミュージックエンタテインメント#アポロン音楽工業株式会社|APOLLON MUSIC INDUSTRIAL]] |- ! rowspan="2"|1st | rowspan="2"|1983年11月18日 | rowspan="2"|'''[[BOYS WILL BE BOYS]]''' | [[VHS]] | 12H-1102 | rowspan="2"| |- | [[ベータマックス|βマックス]] | 12B-1101 |- ! colspan="6" | [[アルファレコード|ALFA RECORDS]] / [[YENレーベル|¥・E・N RECORDS]] |- ! rowspan="2"|2nd | rowspan="2"|1984年12月21日 | rowspan="2"|'''A Fragment''' | VHS | 10AV-2 | rowspan="2"| |- | βマックス | 10AT-2 |- ! rowspan="2"|3rd | rowspan="2"|1985年3月21日 | rowspan="2"|'''新青年''' | VHS | 98H-1126 | rowspan="2"| |- | βマックス | 98B-1126 |- ! colspan="6" | [[ポニーキャニオン|PONY]] |- ! rowspan="3"|4th | rowspan="3"|1986年11月24日 | rowspan="3"|'''JAPAN TOUR '86''' | VHS | V98M-1443 | rowspan="3"| |- | βマックス | X98-1443 |- | [[レーザーディスク|LD]] | G88M-0157 |- ! colspan="6" | [[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]] / EAST WORLD |- ! rowspan="2"|5th | rowspan="2"|1990年12月5日 | rowspan="2"|'''A La Vie Prochaine''' | VHS | TOVF-7017 | rowspan="2"| |- | LD | TOMF-7017 |- ! colspan="6" | [[ユニバーサルミュージック (日本)|UNIVERSAL MUSIC]] / [[EMIミュージック・ジャパン|EMI RECORDS JAPAN]] |- ! rowspan="2"|6th | rowspan="2"|2013年6月26日 | rowspan="2"|'''One Fine Night 〜60th Anniversary Live〜''' | [[Blu-ray Disc|Blu-ray]]+[[コンパクトディスク|CD]] | TOXF-5776 | 47位 |- | [[DVD]]+CD | TOBF-5776 | 80位 |} === BOX === {| class="wikitable" style="font-size:small" ! ! 発売日 ! タイトル ! 規格 ! [[規格品番]] ! オリコン最高位 |- ! colspan="6" | [[ポニーキャニオン|CANYON RECORDS]] / T・E・N・T |- ! 1st | 2016年3月16日 | '''YUKIHIRO TAKAHASHI IN T.E.N.T YEARS 19851987''' | [[コンパクトディスク|CD]]+[[DVD]] | PCBP-62200 | 39位 |} === NHK『みんなのうた』 === {|class="wikitable" style="font-size:small" ! 曲名 ! 作詞 ! 作曲 ! 編曲 ! 使用期間 |- | 子供だけの夏 | [[森雪之丞]] | 高橋幸宏 | 高橋幸宏 | [[1990年]][[6月]] - [[7月]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/minna/songs/MIN199006_01/ |title=子供だけの夏 |work=NHK みんなのうた |publisher=[[日本放送協会|NHK]] |accessdate=2021-11-27}}</ref> |} === 参加楽曲 === {| class="wikitable" style="font-size:small" ! 発売日 !! 商品名 !! 歌 !! 楽曲 !! 備考 |- | rowspan="2"|1982年12月16日 | rowspan="2"|音版ビックリハウス - ウルトラサイケ・ビックリパーティー | [[細野晴臣]]・'''高橋幸宏''' | 「オープニング〜ビックリパーティーのテーマ」 | |- | '''高橋幸宏''' | 「GOOD TIME」 |- | 1983年11月28日 | [[WE WISH YOU A MERRY CHRISTMAS]] | '''高橋幸宏''' | 「ドアを開ければ…」 | |- | 1985年5月25日 | [[YEN卒業記念アルバム]] | '''高橋幸宏''' | 「It's Gonna Work Out (Remix Version)」 | |- | rowspan="4"|1990年4月25日 | rowspan="4"|ALL WE NEED IS LOVE 愛こそはすべて | '''高橋幸宏'''、[[高野寛]]、延原達治([[THE PRIVATES]])、[[桐島かれん]]、[[佐木伸誘]]、稲葉智([[PaPa]])、笠原敏幸(PaPa)、[[和田加奈子]]、[[田中一郎 (ミュージシャン)|田中一郎]]、[[村田和人]]、[[日野皓正]] | 「[[愛こそはすべて|All You Need Is Love]]」 | rowspan="2"|[[ビートルズ]]のカバー・アルバム |- | '''高橋幸宏''' | 「[[恋を抱きしめよう|We Can Work It Out]]」 |- | [[桐島かれん]] | 「[[フール・オン・ザ・ヒル|The Fool On The Hill]]」 | rowspan="2"|{{Unbulleted list|ビートルズのカバー・アルバム|編曲のみの参加。}} |- | '''高橋幸宏''' | 「All You Need Is Love (Reprise)」 |- | rowspan="3"|1992年9月30日 | rowspan="3"|LOVE ME DO | '''高橋幸宏''' | 「We Can Work It Out」 | ビートルズのカバー・アルバム |- | 桐島かれん | 「The Fool On The Hill」 | {{Unbulleted list|ビートルズのカバー・アルバム|編曲のみの参加。}} |- | '''高橋幸宏'''、高野寛、延原達治 (THE PRIVATES)、桐島かれん、佐木伸誘、稲葉智 (PaPa)、笠原敏幸 (PaPa)、和田加奈子、田中一郎、村田和人、日野皓正 | 「All You Need Is Love」 | ビートルズのカバー・アルバム |- | rowspan="2"|1997年4月18日 | cinetechno -love- | '''高橋幸宏''' | 「Aujourd'hui C'est Toi」 | |- | cinetechno -yukihiro selection- | '''高橋幸宏''' | 「One Flew Over The Cukoo's Nest」 | |- | 1997年4月23日 | [[60 CANDLES]] | '''高橋幸宏''' | 「白い浜 (On The Beach)」 | [[加山雄三]]のトリビュート・アルバム |- | 2006年2月22日 | [[Shiplaunching]] | '''高橋幸宏'''+[[大貫妙子]] | 「プラシーボ・セシボン」 | [[冨田恵一|冨田ラボ]]のアルバム |- | 2007年4月25日 | Tribute To Haruomi Hosono | '''高橋幸宏''' | 「Sports Men」 | [[細野晴臣]]のトリビュート・アルバム |- | 2008年7月23日 | にほんのうた 第二集 | '''高橋幸宏'''+[[権藤知彦]] | 「シャボン玉」 | |- | 2007年8月8日 | PENGUIN CAFE ORCHESTRA -tribute- | '''高橋幸宏''' | 「Pythagoras’s Trousers」 | [[ペンギン・カフェ・オーケストラ]]のトリビュート・アルバム |- | 2009年10月14日<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000039.000000664.html ザ・ビートルズ、史上最強のカヴァー・アルバム『LOVE LOVE LOVE』発売!] - ユニバーサル ミュージック合同会社のプレスリリース</ref> | Love Love Love | '''高橋幸宏''' | 「You've Got To Hide Your Love Away」<br>「All You Need Is Love」 | ビートルズのカバー・アルバム |- | 2010年2月3日 | Try Little Love 〜チギレグモノ、ソラノシタ〜 | '''高橋幸宏''' | 「Try Little Love」 | |- | 2010年11月17日 | Christmas Songs | '''高橋幸宏''' | 「White Christmas」 | |- | 2014年8月6日 | 高野寛 ソングブック TRIBUTE TO HIROSHI TAKANO | '''高橋幸宏''' | 「やがてふる」 | 高野寛のトリビュート・アルバム |- | 2016年7月20日 | [[縁盤]] | [[ORANGE RANGE]] | 「ウトゥルサヌ」 | ORANGE RANGEのコラボ・ベスト・アルバム |- | 2016年9月21日 | [[再建設的]] | '''高橋幸宏''' | 「なれた手つきでちゃんづけで」 | [[いとうせいこう]]のトリビュート・アルバム |- | 2016年12月21日 | BRIGHT YOUNG MOONLIT KNIGHTS -We Can't Live Without a Rose- MOONRIDERS TRIBUTE ALBUM | [[権藤知彦|ゴンドウトモヒコ]] featuring '''高橋幸宏''' | 「くれない埠頭」 | [[ムーンライダーズ]]のトリビュート・アルバム |- | 2018年2月13日 | 大人÷6×子供×6 (TVサイズ おそ松ver.) | rowspan="2"|おそ松さんズ with 松野家6兄弟 | 「大人÷6×子供×6 (TVサイズ おそ松ver.)」 | rowspan="2"|[[テレビ東京]]系『[[おそ松さん]]』第2クールエンディングテーマ |- | 2018年2月28日 | 大人÷6×子供×6 | 「大人÷6×子供×6」 |} === タイアップ === <!-- 音源化されている作品(CDやDVD/Blu-rayなど)のみ記述してください --> {| class="wikitable sortable" style="font-size:small;font-size:small" !年!!楽曲!!タイアップ内容 |- | rowspan="4" |[[1983年]] |ARE YOU RECEIVING ME? | rowspan="4" |[[ニッカウヰスキー]]『[[スーパーニッカ]]』[[コマーシャルソング|CMソング]] |- |{{ruby|前兆|まえぶれ}} |- |蜉蝣 |- |AND I BELIEVE IN YOU |- | rowspan="2" |[[1985年]] |POISSON D'AVRIL -四月の魚- |ジョイパックフィルム映画『[[四月の魚]]』主題歌 |- |今日の空 |[[All-nippon News Network|テレビ朝日系]]『[[極楽テレビ]]』エンディングテーマ |- | rowspan="3" |[[1985年]] |悲しいウイークエンド |[[ダイハツ工業|ダイハツ]]『[[ダイハツ・ミラ#2代目 L70/71型(1985年 - 1990年)|ミラTR-XX]]』CMソング |- |今の僕から… | rowspan="2" |[[わかもと製薬]]『強力わかもと』CMソング |- |SAILOR |- |[[1986年]] |Providence |[[カシオ計算機|カシオ]]『[[カシオ・CZシリーズ|CZ-1]]』CMソング |- | rowspan="2" |[[1989年]] |- |FAIT ACCOMPLI |[[トヨタ自動車|トヨタ]]『[[トヨタ・MR2#2代目 SW20型(1989年-1999年)|MR2]]』CMソング |- |rowspan=2|[[1991年]] |愛はつよい stronger than iron |[[三貴]]『ブティックJOY』CMソング |- |元気ならうれしいね |[[味の素|AJINOMOTO]]『ちゃんと、ちゃんと。キャンペーン』CMソング |- | rowspan="2" |[[1992年]] |素敵な人 |[[丸井|MARUI]]企業キャンペーン CMソング |- |Good Days, Bad Days |TBS系『風に吹かれて』エンディングテーマ |- |[[1994年]] |青空 |[[日本中央競馬会|JRA]]『'94秋キャンペーン』CMソング |- |rowspan=2|[[1995年]] |精一杯の微笑み |[[資生堂]]『オプチューン』CMソング |- |二人でくらしてみたいね |AJINOMOTO『ちゃんと、ちゃんと。キャンペーン』CMソング |- |[[1997年]] |{{ruby|地球|ほし}}の声〜Voice Of The Earth〜 | rowspan="2" |[[DDIセルラーグループ|関西セルラー]]CMソング |- |[[1998年]] |大切な人 〜Voice Of The Earth II〜 |- |[[2008年]] |Emerger |テレビ朝日系『[[easy sports]]』テーマソング |- |[[2014年]] |Split Spirit |東宝映画『[[攻殻機動隊 ARISE]]』エンディングテーマ |- |} == ゲーム音楽 == * [[地球戦士ライーザ#銀河の三人(ファミコン版)|銀河の三人]]([[1987年]]、[[任天堂]]) * 三国志 英傑天下に臨む([[1991年]]、[[加賀電子|ナグザット]]) * ノイギーア 〜海と風の鼓動〜([[1993年]]、[[日本テレネット (ゲーム会社)|日本テレネット]]) * [[ファンタステップ]]([[1997年]]、[[ジャレコ]]) * [[Tから始まる物語]]([[1998年]]、ジャレコ) - メインテーマを担当 == 著書 == * 偉人の血(1985年、パルコ出版) - 鈴木慶一と共著 * 犬の生活(1989年、JICC出版局) * ヒトデの休日(1992年、JICC出版局) * キャッチ&リリース(写真:[[津留崎健]]、1997年、大栄出版) * 心に訊く音楽、心に効く音楽 私的名曲ガイドブック(2012年、PHP研究所) === 関連書籍 === * [[高野寛]]『対談集 夢の中で会えるでしょう』(2018年10月10日発売、mille books)ISBN 978-4-902744-93-4 C0073 - 対談相手の1人。 == 出演 == === 映画 === * [[だいじょうぶマイ・フレンド]](1983年) - 看守A 役 * [[A Y.M.O. FILM PROPAGANDA]](1984年) - 高橋幸宏(本人) 役 * [[天国にいちばん近い島]](1984年) - 桂木次郎 役 * [[四月の魚]](1986年) - 根本昌平 役(主演) * [[異人たちとの夏]](1988年) * [[男はソレを我慢できない]](2006年) - 眞龍寺の住職 役 * [[Sadistic Mica Band (映画)|Sadistic Mica Band]](2007年) - 高橋幸宏(本人) 役 * [[20世紀少年 (映画)#1作限りの出演|20世紀少年 <最終章> ぼくらの旗]](2009年) - ビリー 役 * [[ノルウェイの森 (映画)|ノルウェイの森]](2010年) - 阿美寮門番 役 * [[海辺の映画館―キネマの玉手箱]](2020年) - 爺・ファンタ 役 === テレビアニメ === * [[The World of GOLDEN EGGS|The World of GOLDEN EGGS SEASON2]] Episode26(2007年) - ノーマン 役 === テレビ番組 === * [[極楽テレビ]]([[テレビ朝日]]系列) * アルファベット2/3([[フジテレビ]]系列) * [[AXEL]](テレビ朝日系列) * [[竹中直人の恋のバカンス]](テレビ朝日系列) * [[デカメロン (テレビ番組)|デカメロン]]([[TBSテレビ|TBS]]系列) * [[アトムの気持ち]]([[WOWOW]]、日曜午後5時ノンスクランブル放送枠) * [[細野晴臣イエローマジックショー2]](2019年1月1日、[[NHK BS4K]] / 1月2日、[[NHK BSプレミアム]])<ref>{{Cite news |url=https://news.mynavi.jp/article/20181030-716132/ |title=『細野晴臣イエローマジックショー2』に星野源・水原希子・宮沢りえら出演 |newspaper=マイナビニュース エンタメ |publisher=マイナビ |date=2018-10-30 |accessdate=2019-01-13}}</ref> === ラジオ番組 === * まいあさラジオ「私のお気に入り」(2017年4月30日 - 2021年2月28日、NHK第一) * [[マイあさ!]]「サタデーエッセー「音楽の聴き方」」(2021年5月8日 - 2021年12月4日、NHK第一) * 坂本龍一の[[サウンドストリート]](1981年 - [[1986年]]、NHK-FM) - ゲストとして。不定期 * 午後のサウンド(1987年4月 - 9月、NHK-FM) * [[高橋幸宏のオールナイトニッポン]]([[1983年]]4月12日 - 12月27日、ニッポン放送)<ref name="djmeikan"/> ** 高橋幸宏の[[オールナイトニッポンDX]]([[1998年]]1月30日) * POP THE HERO ‘80s([[1980年]] - [[1981年]]、ラジオ関東) * Stand up please(1986年4月 - 1988年5月、FM東京)<ref name="djmeikan"/> * Four Roses Sound Bar(1989年) * 東芝プレミア3(1992年3月、TOKYO FM) - 3月のみの出演。坂本龍一の代役 * Every Day Music([[2013年]][[4月17日]] - [[2015年]][[9月27日]]、[[Inter FM]]<!--毎週日曜日 20:00〜21:00-->) * LIPTON YELLOW LABEL TEA FOR YOU(1997年 - 1998年、FM YOKOHAMA) * [https://web.archive.org/web/20000816045100/http://www.nifty.ne.jp/yukihiro/ @nifty presents「yukihiro takahashi@MUSIC WEB」](1999年11月6日 - 2000年、KISS-FM) === CM === * [[カシオ計算機]]デジタルシンセサイザー[[カシオ・CZシリーズ]](1985年) * [[学生援護会]](現・[[パーソルキャリア]])「サリダ」([[1990年]]) * [[アサヒ飲料]]「KAFEO」([[1996年]])- [[ウェイター]]役で出演。 * [[トヨタ自動車]]「[[トヨタ・クレスタ]]」(1996年) * [[リプトン]]「イエローラベル」([[1997年]]) * [[麒麟麦酒]]「クラシックラガー」([[2007年]])※YMOとして出演。 * [[サッポロビール]]・[[ヱビスビール]]([[2009年]]) * [[江崎グリコ]]「[[ポッキー]]」([[2010年]]) ※YMOとして出演。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{参照方法|section=1|date=2015-07}} *「特集 高橋幸宏」『MUSIC MAGAZINE』 2013年8月号、[[ミュージック・マガジン]] *「総特集 高橋幸宏」『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 詩と批評』 2013年10月臨時増刊号、[[青土社]] *『シン・YMO』発売日:2022年8月19日 著者:田中雄二 出版社:[[DU BOOKS]] ISBN 978-4-86647-177-8 == 関連項目 == * [[イエロー・マジック・オーケストラ]] * [[伊藤美恵]] - 姉 * [[伊藤壮一郎]] - 甥 * [[大林宣彦]] * [[奥村靫正]] * [[ガロ (フォークグループ)|ガロ]] * [[サディスティックス]] * [[サディスティック・ミカ・バンド]] * [[スケッチ・ショウ]] * [[スティーヴ・ジャンセン]] * [[高野寛]] * [[高橋世織]] * [[高橋信之 (音楽プロデューサー)|高橋信之]] - 兄 * [[デヴィッド・パーマー]] * [[ニューロマンサー]] * [[ビートニクス]] * [[ヒューマン・オーディオ・スポンジ]] == 外部リンク == {{ウィキポータルリンク|音楽|[[ファイル:Xmms.png|45px|ウィキポータル 音楽]]}} {{ウィキプロジェクトリンク|音楽家|[[File:Band Silhouette 04.jpg|35px|ウィキプロジェクト 音楽家]]}} * [http://www.intenzio.co.jp/ 「オフィスインテンツィオ」公式サイト] : 高橋のマネジメントが関連会社「株式会社ヒンツ・ミュージック」に移った旨の記述有 * {{Twitter|room66plus}} * {{Instagram|room66_yukihiro}} * {{MySpace|yukihirotakahashi}} * [https://www.universal-music.co.jp/takahashi-yukihiro/ 高橋幸宏] - [[ユニバーサルミュージック (日本)]] * [https://columbia.jp/artist-info/takahashiyukihiro/ 高橋幸宏(ユキヒロ)] - [[日本コロムビア]] * [https://avex.jp/sketchshow/ SKETCH SHOW公式サイト] * [http://www.ymo.org/ YMO公式メッセージサイト] * [https://columbia.jp/smb/ SADISTIC MIKAELA BAND公式サイト] * {{NHK人物録|D0009071981_00000}} {{Authority control}} {{高橋幸宏}} {{サディスティック・ミカ・バンド}} {{イエロー・マジック・オーケストラ}} {{東京スカパラダイスオーケストラ}} {{DEFAULTSORT:たかはし ゆきひろ}} [[Category:日本の男性シンガーソングライター]] [[Category:日本の男性ポップ歌手]] [[Category:日本の男性ロック歌手]] [[Category:日本のドラマー]] [[Category:日本の男性作曲家]] [[Category:日本の音楽プロデューサー]] [[Category:日本のファッションデザイナー]] [[Category:日本のラジオパーソナリティ]] [[Category:キングレコードのアーティスト]] [[Category:ソニー・ミュージックダイレクトのアーティスト]] [[Category:ポニーキャニオンのアーティスト]] [[Category:EMIミュージック・ジャパンのアーティスト]] [[Category:日本コロムビアのアーティスト]] [[Category:テクノポップ]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] [[Category:日本の司会者]] [[Category:フジロック・フェスティバル出演者]] [[Category:武蔵野美術大学出身の人物]] [[Category:立教新座中学校・高等学校出身の人物]] [[Category:立教池袋中学校・高等学校出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:脳腫瘍で亡くなった人物]] [[Category:1952年生]] [[Category:2023年没]]
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FPU
FPU(Floating Point Unit、浮動小数点(演算処理)装置)とは、浮動小数点演算を専門に行う処理装置のこと。コンピュータの周辺機器のようなアーキテクチャのものもあれば、主プロセッサと一体化したコプロセッサのようなアーキテクチャのものもある。 AMDではAm9511をAPU (Arithmetic Processing Unit) と呼んでおり(2011年以降はAPUをAccelerated Processing Unitの略称として使用)、インテルではx87をNDP(Numeric data processor, 数値演算コプロセッサ)、またその命令についてNPX(Numeric Processor eXtension)とも呼んでいる。 マイクロプロセッサにおいては、Apple IIの頃は完全に周辺機器のようなアーキテクチャだったが、8087の頃には命令の一体化など、CPUの拡張装置のようなアーキテクチャになった。 1990年代中盤以降の高性能プロセッサではFPUはプロセッサ内部のサブユニットとなっている。インテルのx86系CPUでは独立ユニットのFPUは387(386用)が最後となり、486からは同一のチップ内に内蔵された(486の初期には、FPUを内蔵しない廉価版と、事実上はオーバードライブプロセッサであった487もあった)。同様に、モトローラの68000系でもMC68040以降はチップ内に内蔵している。プロセッサに内蔵されたFPUはスーパースカラーで他ユニットと並列動作させることができるなど様々なメリットがあるため、現在ではFPUを単体で用いることは珍しくなっている。 FPUをI/Oポートに接続して、通常の周辺機器と同様にI/Oポートを介してデータのやり取りを行なう形式。たとえばAm9511はこの形式で設計されている。FPUは周辺機器として扱われるので、CPUと同じメーカのFPUを使わなくてもよく、8ビットCPUの時代には、コストのかかるAm9511などの代わりに別メーカの電卓用CPUをI/Oポートに接続して使うことがホビイストの間で実験的に行なわれた。 また、対応機種として設計されていない組み合わせ、たとえばモトローラのMC68881(MC68020/MC68030用FPU)や、インテルの287(286用FPU)を、MC68000やMC68010に接続する場合は、データの入出力をプログラム上で明示的に行わなくてはならない。そのマシンに対応した数値演算ライブラリを使用すれば、アプリケーションソフトウェアのプログラミングにおいては、FPUを使用することを意識する必要は無いが、I/Oポートを介してデータをやり取りするため直接接続されている場合に比べて、大きなオーバヘッドが生ずる。逆に利点としては、主プロセッサと、副プロセッサの動作速度を個別に設定できるなど、自由度が高い点がある。 2018年現在では、Graphics Processing Unit及びそれをベースにしたプロセッサを用い、暗号通貨や各種演算処理に用いられる事が増え、グラフィックボードが品薄になる程の需要が生じている。 CPUとFPUがアドレスバスとデータバスを共有し、協調して動作する方式。ユーザから見るとCPUの命令が拡張されたように見える。 8087ではデコーダを独立して内蔵しており、真の意味でコプロセッサだったが、287以降はCPUのデコード結果を専用I/Oポートを介し引き渡す方式を採った。8086/87では次の浮動小数点命令を実行する前に、直前の(8087の)命令が終わるまで待つための(8086の) wait 命令が必要だったが、286/287からは必要なくなっている。 モトローラのMC68881やMC68882を同社MC68020またはMC68030と組み合わせる場合、専用に用意された制御線を使用して接続すれば、ソフトウェアの変更は必要なく、プログラマからは単純にCPUの機能が拡張されたように扱える。MC68020の場合、厳密にはコプロセッサの存在を示すフラグが立つ。 コプロセッサ方式の発展形。コプロセッサが実際にはCPUとしての全機能を持っており、制御は完全にコプロセッサ側に渡してしまい、既存のCPUは停止させてしまう。 487がこれで、要するにFPUというのは名前だけで、実態はオーバードライブプロセッサである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "FPU(Floating Point Unit、浮動小数点(演算処理)装置)とは、浮動小数点演算を専門に行う処理装置のこと。コンピュータの周辺機器のようなアーキテクチャのものもあれば、主プロセッサと一体化したコプロセッサのようなアーキテクチャのものもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "AMDではAm9511をAPU (Arithmetic Processing Unit) と呼んでおり(2011年以降はAPUをAccelerated Processing Unitの略称として使用)、インテルではx87をNDP(Numeric data processor, 数値演算コプロセッサ)、またその命令についてNPX(Numeric Processor eXtension)とも呼んでいる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "マイクロプロセッサにおいては、Apple IIの頃は完全に周辺機器のようなアーキテクチャだったが、8087の頃には命令の一体化など、CPUの拡張装置のようなアーキテクチャになった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1990年代中盤以降の高性能プロセッサではFPUはプロセッサ内部のサブユニットとなっている。インテルのx86系CPUでは独立ユニットのFPUは387(386用)が最後となり、486からは同一のチップ内に内蔵された(486の初期には、FPUを内蔵しない廉価版と、事実上はオーバードライブプロセッサであった487もあった)。同様に、モトローラの68000系でもMC68040以降はチップ内に内蔵している。プロセッサに内蔵されたFPUはスーパースカラーで他ユニットと並列動作させることができるなど様々なメリットがあるため、現在ではFPUを単体で用いることは珍しくなっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "FPUをI/Oポートに接続して、通常の周辺機器と同様にI/Oポートを介してデータのやり取りを行なう形式。たとえばAm9511はこの形式で設計されている。FPUは周辺機器として扱われるので、CPUと同じメーカのFPUを使わなくてもよく、8ビットCPUの時代には、コストのかかるAm9511などの代わりに別メーカの電卓用CPUをI/Oポートに接続して使うことがホビイストの間で実験的に行なわれた。", "title": "接続の形式" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、対応機種として設計されていない組み合わせ、たとえばモトローラのMC68881(MC68020/MC68030用FPU)や、インテルの287(286用FPU)を、MC68000やMC68010に接続する場合は、データの入出力をプログラム上で明示的に行わなくてはならない。そのマシンに対応した数値演算ライブラリを使用すれば、アプリケーションソフトウェアのプログラミングにおいては、FPUを使用することを意識する必要は無いが、I/Oポートを介してデータをやり取りするため直接接続されている場合に比べて、大きなオーバヘッドが生ずる。逆に利点としては、主プロセッサと、副プロセッサの動作速度を個別に設定できるなど、自由度が高い点がある。", "title": "接続の形式" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2018年現在では、Graphics Processing Unit及びそれをベースにしたプロセッサを用い、暗号通貨や各種演算処理に用いられる事が増え、グラフィックボードが品薄になる程の需要が生じている。", "title": "接続の形式" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "CPUとFPUがアドレスバスとデータバスを共有し、協調して動作する方式。ユーザから見るとCPUの命令が拡張されたように見える。 8087ではデコーダを独立して内蔵しており、真の意味でコプロセッサだったが、287以降はCPUのデコード結果を専用I/Oポートを介し引き渡す方式を採った。8086/87では次の浮動小数点命令を実行する前に、直前の(8087の)命令が終わるまで待つための(8086の) wait 命令が必要だったが、286/287からは必要なくなっている。", "title": "接続の形式" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "モトローラのMC68881やMC68882を同社MC68020またはMC68030と組み合わせる場合、専用に用意された制御線を使用して接続すれば、ソフトウェアの変更は必要なく、プログラマからは単純にCPUの機能が拡張されたように扱える。MC68020の場合、厳密にはコプロセッサの存在を示すフラグが立つ。", "title": "接続の形式" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "コプロセッサ方式の発展形。コプロセッサが実際にはCPUとしての全機能を持っており、制御は完全にコプロセッサ側に渡してしまい、既存のCPUは停止させてしまう。", "title": "接続の形式" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "487がこれで、要するにFPUというのは名前だけで、実態はオーバードライブプロセッサである。", "title": "接続の形式" } ]
FPUとは、浮動小数点演算を専門に行う処理装置のこと。コンピュータの周辺機器のようなアーキテクチャのものもあれば、主プロセッサと一体化したコプロセッサのようなアーキテクチャのものもある。 AMDではAm9511をAPU と呼んでおり、インテルではx87をNDP、またその命令についてNPXとも呼んでいる。 マイクロプロセッサにおいては、Apple IIの頃は完全に周辺機器のようなアーキテクチャだったが、8087の頃には命令の一体化など、CPUの拡張装置のようなアーキテクチャになった。 1990年代中盤以降の高性能プロセッサではFPUはプロセッサ内部のサブユニットとなっている。インテルのx86系CPUでは独立ユニットのFPUは387(386用)が最後となり、486からは同一のチップ内に内蔵された(486の初期には、FPUを内蔵しない廉価版と、事実上はオーバードライブプロセッサであった487もあった)。同様に、モトローラの68000系でもMC68040以降はチップ内に内蔵している。プロセッサに内蔵されたFPUはスーパースカラーで他ユニットと並列動作させることができるなど様々なメリットがあるため、現在ではFPUを単体で用いることは珍しくなっている。
{{Otheruses|コンピュータ用語|その他のFPU}} {{出典の明記|date=2011年12月}} '''FPU'''('''Floating Point Unit'''、'''浮動小数点(演算処理)装置''')とは、[[浮動小数点]]演算を専門に行う処理装置のこと。コンピュータの周辺機器のような[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]のものもあれば、主[[プロセッサ]]と一体化した[[コプロセッサ]]のようなアーキテクチャのものもある。 [[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]ではAm9511をAPU (Arithmetic Processing Unit) と呼んでおり(2011年以降はAPUを[[AMD Accelerated Processing Unit|Accelerated Processing Unit]]の略称として使用)、[[インテル]]では[[x87]]を'''NDP'''('''Numeric data processor''', '''数値演算コプロセッサ''')、またその命令について'''NPX'''('''Numeric Processor eXtension''')とも呼んでいる。 [[マイクロプロセッサ]]においては、[[Apple II]]の頃は完全に周辺機器のようなアーキテクチャだったが、[[Intel 8087|8087]]の頃には命令の一体化など、CPUの拡張装置のようなアーキテクチャになった。 1990年代中盤以降の高性能プロセッサではFPUはプロセッサ内部のサブユニットとなっている。インテルの[[x86]]系CPUでは独立ユニットのFPUは[[Intel 80387|387]]([[Intel 80386|386]]用)が最後となり、[[Intel486|486]]からは同一のチップ内に内蔵された(486の初期には、FPUを内蔵しない廉価版と、事実上は[[オーバードライブプロセッサ]]であった[[Intel487|487]]もあった)。同様に、モトローラの[[MC68000|68000]]系でも[[MC68040]]以降はチップ内に内蔵している。プロセッサに内蔵されたFPUは[[スーパースカラー]]で他ユニットと並列動作させることができるなど様々なメリットがあるため、現在ではFPUを単体で用いることは珍しくなっている。 == 接続の形式 == === I/Oプロセッサ形式 === FPUを[[Input/Outputポート|I/Oポート]]に接続して、通常の周辺機器と同様にI/Oポートを介してデータのやり取りを行なう形式。たとえばAm9511はこの形式で設計されている。FPUは周辺機器として扱われるので、CPUと同じメーカのFPUを使わなくてもよく、8ビットCPUの時代には、コストのかかるAm9511などの代わりに別メーカの電卓用CPUをI/Oポートに接続して使うことがホビイストの間で実験的に行なわれた。 また、対応機種として設計されていない組み合わせ、たとえば[[モトローラ]]の[[MC68881]]([[MC68020]]/[[MC68030]]用FPU)や、[[インテル]]の[[Intel 80287|287]]([[Intel 80286|286]]用FPU)を、[[MC68000]]や[[MC68010]]に接続する場合は、データの入出力をプログラム上で明示的に行わなくてはならない。そのマシンに対応した数値演算ライブラリを使用すれば、アプリケーションソフトウェアのプログラミングにおいては、FPUを使用することを意識する必要は無いが、[[Input/Outputポート|I/Oポート]]を介してデータをやり取りするため直接接続されている場合に比べて、大きなオーバヘッドが生ずる。逆に利点としては、主プロセッサと、副プロセッサの動作速度を個別に設定できるなど、自由度が高い点がある。 2018年現在では、[[Graphics Processing Unit]]及びそれをベースにしたプロセッサを用い、[[暗号通貨]]や各種演算処理に用いられる事が増え、グラフィックボードが品薄になる程の需要が生じている。 === コプロセッサ方式 === CPUとFPUがアドレスバスとデータバスを共有し、協調して動作する方式。ユーザから見るとCPUの命令が拡張されたように見える。 <!--CPUは浮動小数演算命令を検知するとFPUに制御をわたし、自身は動作を停めてFPUからの指示に従ってアドレスバスとデータバスの制御のみを行なうようになる。制御を渡されたFPUはCPUに指示して後続する命令の一部とデータを読み書きし、浮動小数演算を行なう。演算後CPUに制御を戻し、CPUは浮動小数演算命令の後ろにある次の命令から実行を再開する。--><!-- ← 少なくとも 8087 の説明としては間違ってる。8087 は CPU と並列に動作する(ので、次の浮動小数点命令を実行する前に、前の命令が終わるまで待つための wait が必要--> [[Intel 8087|8087]]ではデコーダを独立して内蔵しており、真の意味でコプロセッサだったが、[[Intel 80287|287]]以降はCPUのデコード結果を専用I/Oポートを介し引き渡す方式を採った。<!--原理からして、パイプライン動作するCPUではこの方式は実現しにくい。--><!-- ← なんで? 同期化とパイプラインは別問題-->8086/87では次の浮動小数点命令を実行する前に、直前の(8087の)命令が終わるまで待つための(8086の) wait 命令が必要<ref name="pc98-sys-analy-01">{{Cite book |和書 |author=浅野泰之、壁谷正洋、金磯善博、桑野雅彦 |title=PC-9801システム解析(下) |chapter=第5章 8087(数値演算プロセッサ) |date=1983年12月1日 |pages=156 |publisher=[[アスキー (企業)|アスキー]] |isbn = 4-87148-715-6}}</ref>だったが、286/287からは必要なくなっている。 [[モトローラ]]の[[MC68881]]や[[MC68881#MC68882|MC68882]]を同社[[MC68020]]または[[MC68030]]と組み合わせる場合、専用に用意された制御線を使用して接続すれば、ソフトウェアの変更は必要なく、[[プログラマ]]からは単純にCPUの機能が拡張されたように扱える。MC68020の場合、厳密にはコプロセッサの存在を示す[[フラグ (コンピュータ)|フラグ]]が立つ。 === 乗っ取り形 === コプロセッサ方式の発展形。コプロセッサが実際にはCPUとしての全機能を持っており、制御は完全にコプロセッサ側に渡してしまい、既存のCPUは停止させてしまう。 [[Intel487|487]]がこれで、要するにFPUというのは名前だけで、実態は[[オーバードライブプロセッサ]]である。 == 脚注・出典 == {{reflist}} == 関連項目 == {{ウィキプロジェクトリンク|コンピュータ}} *[[CPU]] *[[マイクロプロセッサ]] *[[オーバードライブプロセッサ]] *[[ハードウェアアクセラレーション]] [[Category:CPU|FPU]] [[Category:コンピュータの算術]] {{Computer-stub}}
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ライブラリ
ライブラリ(英: library)は、汎用性の高い複数のプログラムを再利用可能な形でひとまとまりにしたものである。ライブラリと呼ぶときは、それ単体ではプログラムとして動作させることはできない、つまり実行ファイルではない場合がある。ライブラリは他のプログラムに何らかの機能を提供するコードの集まりと言える。ソースコードの場合と、オブジェクトコード、あるいは専用の形式を用いる場合とがある。たとえば、UNIXのライブラリはオブジェクトコードをarと呼ばれるアーカイブツール(アーカイバ)でひとまとめにして利用する。図書館(英: library)と同様にプログラム(算譜)の書庫であるので、索引方法が重要である。 また、ソフトウェア以外の再利用可能なものの集合について使われることもある(音声データなど)。 動的リンク (英: dynamic linking) は、あるライブラリ内のデータ(コードを含む)を新たな実行ファイルのビルド時にコピーすることはなく、ディスク上に別のファイルとして存在している。ビルド時にリンカが行うのは、その実行ファイルが必要とするのがどのライブラリのどの部分であるか(関数名やインデックス)を記録するだけである。リンク作業の大部分はそのアプリケーションがメモリ上にロードされたときか、実行時である。リンクを行うプログラムコードはローダ(英: loader)と呼ばれ、実際にはオペレーティングシステム (OS) の一部と見なされる。適当な時点でローダは必要なライブラリをディスク上で見つけてプロセスのメモリ空間に(追加のデータ空間と共に)マッピングする。OSによってはプロセスが実行開始する前でないとライブラリをリンクできないものもあるが、多くのOSではプロセス実行時に実際にライブラリを参照したときにリンクできる。後者は「遅延読み込み」などと呼ばれる。どちらの場合もライブラリは動的リンクライブラリ(ダイナミックリンクライブラリ)と呼ばれる。Windows環境では動的リンクライブラリの略称でもある「DLL」という呼び方が一般的であり、動的ライブラリのファイル拡張子は通例 .dll である。動的リンクライブラリの中でも、システム上の複数の実行プログラムによって共有・再利用されうるものを、共有ライブラリ(シェアードライブラリ)と呼ぶ。 ローダの処理は、メモリ上の各ライブラリの位置が実際にロードされるまで確定しないため、ちょっとしたトリックを必要とする。ディスク上のファイル内に絶対アドレスを書きこんでおくことはDLL内であっても不可能である。理論的にはメモリにロードされたときにライブラリを参照している部分を全て書き換えて正しいメモリ上の位置を参照するようにすることはできるが、それによって消費される時間とメモリは無視できない。その代わりに多くの動的リンクシステムではアドレス欄が空欄となったシンボルテーブルをコンパイル時に用意する。ライブラリへの参照は全てこのシンボルテーブルを経由して行われる(コンパイラはシンボルテーブルからアドレスを取り出して使うコードを生成する)。メモリにロードされたとき、ローダがこのテーブルを書き換える。 ライブラリも全メソッド(関数、サブルーチン)のテーブルを持っている。ライブラリに入ってくるときは、このテーブルを経由して各ルーチンにジャンプする。これによってライブラリのルーチンコールにオーバーヘッドが発生するが、通例それは無視できるほど小さい。 動的リンカ・ローダは機能面で様々なものがある。いくつかの場合、実行ファイルに格納された明示的なライブラリパスに依存し、ライブラリ名やディスク上の配置を変更するとシステムが作動できなくなる。より一般的な手法としてはライブラリ名だけを実行ファイルに格納し、OSが何らかのアルゴリズムでディスク上のライブラリを検索する。Unix系システムでは、ライブラリを探す場所(ディレクトリ)を構成ファイルにリストアップしておく。ライブラリ開発者はそこに書かれたディレクトリにライブラリを配置することを推奨される。しかし、この方法では新しいライブラリをインストールする際に問題が発生しやすく、共通のディレクトリにあまりにも多くのライブラリが置かれることとなって管理を難しくする。Windowsではレジストリを使ってCOMコンポーネントやActiveX DLLの場所を決めているが、標準DLLでは、 で示されるディレクトリを探す(古いバージョンではカレントディレクトリが2番目だった)。OPENSTEPはもっと柔軟なシステムを使用していて、ライブラリの探索リストを保持している。しかし不正なDLLが探索の上位に置かれていると実行ファイルは不正動作する可能性がある。Windowsではこれが「DLL地獄」(英: DLL hell)と呼ばれ、よく知られている問題である。 Windows XPからはSide-by-Sideアセンブリ(DLL署名、WinSxS)というメカニズムが追加された。これは動的リンク時にライブラリのファイル名ではなく、ライブラリにつけられた署名によってリンクすべきライブラリを決定するものである。これにより、同じファイル名を持つが異なる実装を持つライブラリを同時に使い分ける事ができる。よくあるパターンとして、ソースコードから改変・ビルドされたランタイムライブラリをシステムにインストールする場合にこのメカニズムが有効に働く。システムにインストールされたライブラリはライブラリ探索リスト上比較的上位に存在するが、署名が一致するプログラムにのみロードされるのでDLL地獄は今後解消されるであろうと考えられる。しかし、この機構には一つの弱点がある。それはシステムライブラリをオーバーライドして独自機能を実装する時、この機構は役に立たない方向へ働く。その様な実装をする時には、故意にマニフェスト機能を無効にしてライブラリを作らなくてはならない。もっとも、そのようなアプローチは、システムファイル保護機能が搭載されたWindows 2000のリリース時点で時代遅れであり、Windows Vistaに至っては管理者と言えどもシステムライブラリを書き換える事は出来なくなっている。 動的ライブラリの起源は定かではないが、少なくとも1960年代後半のMTS (Michigan Terminal System) まで遡ることができる ("A History of MTS", Information Technology Digest, Vol. 5, No. 5)。 動的読み込み (英: dynamic loading) は動的リンクの下位カテゴリであり、ビルド時にリンク(暗黙的リンク、英: implicit linking)されたもの以外のダイナミックリンクライブラリを、実行中のプログラムが明示的にロードすることである。明示的リンク (英: explicit linking) と呼ばれることもある。この場合、ライブラリはプラグインモジュールとして使われるのが一般的で、表計算プログラムのadd-inや特定機能を実現するインタプリタなどが典型的である。 動的ライブラリをサポートしているシステムは、モジュールの動的読み込みAPIもサポートしているのが一般的である。例えばWindowsではLoadLibrary()とGetProcAddress()が用意されていて、Unix系システムではdlopen()とdlsym()が用意されている。いくつかの開発環境ではこの処理を自動化している。逆に、不要になったモジュールを解放(アンロード)するAPI(FreeLibrary()やdlclose())も用意されている。これらのAPIは、特にユーザーによる機能拡張を可能とするプラグインシステムをアプリケーション内に実装することにも役立つ。 .NET Frameworkでは、ライブラリのアセンブリは必要となったタイミングで動的かつ自動的にロードされる遅延読み込みが基本であるが、アセンブリの明示的なアンロードはできない。P/Invokeも同様である。.NET 4以降ではプラグインシステムの実装を容易にするManaged Extensibility Framework(英語版)がサポートされるようになった。 もうひとつのライブラリの形態として完全に分離された実行ファイルを遠隔手続き呼出し (RPC) と呼ばれる方法で接続するものがある。このアプローチではOSの再利用が最大に生かされる。つまり、ライブラリサポートのためのコードはアプリケーションサポートのコードやセキュリティサポートのコードと共通化できる。さらに、このライブラリはネットワークを経由した別のマシン上に存在しても構わない。 欠点はライブラリコールの度に無視できないオーバーヘッドが発生することである。RPCは非常にコストがかかり、可能な限り排除されてきた。しかし、このアプローチは特定分野で一般化しつつある。特にクライアントサーバシステムやEnterprise JavaBeansのようなアプリケーションサーバで一般的である。 動的か静的かとは別に、ライブラリはプログラム間で共有される方式でも分類される。動的ライブラリは何らかの共有をサポートしており、複数のプログラムが同時に同じライブラリを使用することができる。静的ライブラリは各プログラムにリンクされるため、共有することはできない。 共有ライブラリ(英: shared library)はやや曖昧な用語であり、ふたつの概念を含む。第一はディスク上のコードを複数の無関係なプログラムが共有することを意味する。第二の概念はメモリ上のコードの共有であり、ライブラリのロードされた物理メモリページが複数のプロセスのアドレス空間にマップされ、同時にアクセスされることを意味する。一般に後者を共有ライブラリと称するのが推奨され、この方式には様々な利点がある。例えばOPENSTEPでは、アプリケーションの多くは数百Kバイトで即座にロード可能であり、その機能の大部分はライブラリ上に実装されていて、共有可能であるためにOSが別のプログラム用にメモリにロードしたコードイメージがそのまま使用できる。しかし、マルチタスク環境で共有されるコードは特別な配慮が必要であり、そのために性能が若干低下する。 メモリ上の共有ライブラリはUNIXでは位置独立コード (PIC) を使って実現される。これは柔軟なアーキテクチャだが複雑であり、Windowsなどでは使われていない。Windowsなどは、DLL毎にマップすべきアドレスを事前に決めておくなどしてメモリ上で共有可能にしている。WindowsのDLLはUNIXから見れば共有ライブラリではない。(訳注:UNIXでもライブラリのマップすべきアドレスを決めている場合がある。ただしそれは性能向上目的であり、基本的にはPIC化されている。) 最近のOSでは共有ライブラリは通常の実行ファイルと同じ形式になっている。これにはふたつの利点がある。第一はひとつのローダで両方をロードできる。それによってローダが若干複雑化するが、十分コストに見合う程度である。第二はシンボルテーブルさえあれば実行ファイルを共有ライブラリとして使うことができる点である。このようなファイル形式として、ELF (UNIX) と PE (Windows) がある。また、Windowsではフォントなどのリソースも同じファイル形式になっている。OPENSTEPでもほとんど全てのシステムリソースが同じファイル形式になっている。 DLLという用語はWindowsやOS/2で主に使われる。UNIXでは「共有ライブラリ」が一般的である。 マルチスレッド環境下でライブラリを使用するにあたっては、別の共有問題が発生する。ライブラリルーチンがデータ領域としてスタックのみを使う場合は問題ないが、ライブラリ内のデータ領域を使う場合、そのデータ領域がスレッド毎に用意されていないことが多い。したがって、そのようなライブラリルーチンを使う場合、実行ファイル側で同時に複数のスレッドが同じライブラリルーチンを使わないように注意しなければならないことがある。 1980年代終盤に開発された動的リンクは1990年代初期にはほとんどのOSで使用可能となった。ほぼ同時期にオブジェクト指向プログラミング (OOP) が市場に出回り始めた。OOPは従来のライブラリが提供していなかった情報を必要とした。それは、あるオブジェクトが依存しているオブジェクトのリストである。これはOOPの継承という機能の副作用であり、あるメソッドの完全な定義は複数の場所に分散して配置される可能性がある。これは単純化すればライブラリ間の依存関係ということになるが、真のOOPシステムではコンパイル時には依存関係が明らかでなく、そのために様々な解決方法が登場した。 同じころ、多層構造のシステムの考え方も出てきた。デスクトップコンピュータ上の表示プログラムが汎用コンピュータ(汎用機)やミニコンピュータの記憶装置や演算機能を利用するものである。例えばGUIベースのコンピュータがミニコンピュータにメッセージを送り、表示すべき膨大なデータの一部を得るというものが考えられた。RPCは既に使われていたが、それは標準化されていなかった。 主要な汎用機およびミニコンメーカーがこれら二つの問題に関してプロジェクトを結成し、どこでも使えるOOPライブラリ形式を開発した。このようなシステムをオブジェクト・ライブラリ(英: object library)と呼んだり、リモートアクセスが可能ならば分散オブジェクト(英: distributed objects)と呼ぶ。マイクロソフトのCOMは分散機能のないオブジェクトライブラリであり、DCOMはリモートアクセスを可能としたバージョンである。 一時期、オブジェクトライブラリはプログラミングの世界の「次の大きな出来事」とされた。様々なシステムが開発され競争も激化した。例をあげると、IBMのSOM/DSOM、サン・マイクロシステムズのDOE、NeXTのPDO、DECの ObjectBroker、マイクロソフトのComponent Object Model (COM/DCOM)、そして様々なCORBAベースのシステムがある。 結局、OOPライブラリは次の大きな出来事ではなかった。マイクロソフトのCOMとNeXT(現在はApple)のPDO以外は、ほとんど使われることも無くなったのである。 Javaではオブジェクトライブラリとして主にJARが使われている。その中には(圧縮された)クラスのバイトコード形式が格納されていて、Java仮想マシンや特殊なクラスローダーがそれをロードする。 ライブラリのファイル名は常に接頭辞libで始まり、拡張子として.a(静的ライブラリ)あるいは.so(ダイナミックリンクライブラリ)が使用される。オプションとして多重拡張子によるインタフェース番号が付与される場合がある。例えば、libfoo.so.2はlibfooライブラリの二番目のメジャーなインタフェース番号の付いたダイナミックリンクライブラリである。古いUNIXではマイナー番号も使っている場合がある (libfoo.so.1.2) が、最近のUNIXではメジャー番号しか使っていない。ライブラリのうち、共有ライブラリは/lib、/usr/lib、/usr/local/libなどのディレクトリに置かれる。動的にロードされたライブラリは/usr/libexecなどのディレクトリに置かれる。ライブラリのディレクトリにある .la ファイルは libtool(英語版) アーカイブである。 ライブラリの命名規則はBSDを踏襲していて、動的ライブラリの拡張子には.dylibが使われるが、代わりに.soを使うこともできる。しかし、多くの動的ライブラリは「バンドル(英: bundles)」と呼ばれる特別な場所(パッケージ)に置かれ、ライブラリに関連するファイルやメタデータもそこに置かれる。例えば、"My Neat Library" というライブラリは "My Neat Library.framework" というバンドルに実装される。 Windowsではライブラリのファイル名に対する厳格な命名規則はないが、いくつかの拡張子が用意されている。C言語/C++では.libという拡張子を持つファイルがビルド時にリンカによって使用されるが、これには2つの種類がある。ひとつは静的ライブラリで、もうひとつはDLLのインポートライブラリである。ダイナミックリンクライブラリには通例.dllという拡張子が付けられる。インタフェースのリビジョンはファイル内にリソースとして書きこまれるか、COMインタフェースを使って抽象化される。また、.NET Frameworkのアセンブリについては、内部のマニフェストに記述される。
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の一部と見なされる。適当な時点でローダは必要なライブラリをディスク上で見つけてプロセスのメモリ空間に(追加のデータ空間と共に)マッピングする。OSによってはプロセスが実行開始する前でないとライブラリをリンクできないものもあるが、多くのOSではプロセス実行時に実際にライブラリを参照したときにリンクできる。後者は「遅延読み込み」などと呼ばれる。どちらの場合もライブラリは動的リンクライブラリ(ダイナミックリンクライブラリ)と呼ばれる。Windows環境では動的リンクライブラリの略称でもある「DLL」という呼び方が一般的であり、動的ライブラリのファイル拡張子は通例 .dll である。動的リンクライブラリの中でも、システム上の複数の実行プログラムによって共有・再利用されうるものを、共有ライブラリ(シェアードライブラリ)と呼ぶ。", "title": "動的リンク" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ローダの処理は、メモリ上の各ライブラリの位置が実際にロードされるまで確定しないため、ちょっとしたトリックを必要とする。ディスク上のファイル内に絶対アドレスを書きこんでおくことはDLL内であっても不可能である。理論的にはメモリにロードされたときにライブラリを参照している部分を全て書き換えて正しいメモリ上の位置を参照するようにすることはできるが、それによって消費される時間とメモリは無視できない。その代わりに多くの動的リンクシステムではアドレス欄が空欄となったシンボルテーブルをコンパイル時に用意する。ライブラリへの参照は全てこのシンボルテーブルを経由して行われる(コンパイラはシンボルテーブルからアドレスを取り出して使うコードを生成する)。メモリにロードされたとき、ローダがこのテーブルを書き換える。", "title": "動的リンク" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ライブラリも全メソッド(関数、サブルーチン)のテーブルを持っている。ライブラリに入ってくるときは、このテーブルを経由して各ルーチンにジャンプする。これによってライブラリのルーチンコールにオーバーヘッドが発生するが、通例それは無視できるほど小さい。", "title": "動的リンク" }, { 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XPからはSide-by-Sideアセンブリ(DLL署名、WinSxS)というメカニズムが追加された。これは動的リンク時にライブラリのファイル名ではなく、ライブラリにつけられた署名によってリンクすべきライブラリを決定するものである。これにより、同じファイル名を持つが異なる実装を持つライブラリを同時に使い分ける事ができる。よくあるパターンとして、ソースコードから改変・ビルドされたランタイムライブラリをシステムにインストールする場合にこのメカニズムが有効に働く。システムにインストールされたライブラリはライブラリ探索リスト上比較的上位に存在するが、署名が一致するプログラムにのみロードされるのでDLL地獄は今後解消されるであろうと考えられる。しかし、この機構には一つの弱点がある。それはシステムライブラリをオーバーライドして独自機能を実装する時、この機構は役に立たない方向へ働く。その様な実装をする時には、故意にマニフェスト機能を無効にしてライブラリを作らなくてはならない。もっとも、そのようなアプローチは、システムファイル保護機能が搭載されたWindows 2000のリリース時点で時代遅れであり、Windows Vistaに至っては管理者と言えどもシステムライブラリを書き換える事は出来なくなっている。", "title": "動的リンク" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "動的ライブラリの起源は定かではないが、少なくとも1960年代後半のMTS (Michigan Terminal System) まで遡ることができる (\"A History of MTS\", Information Technology Digest, Vol. 5, No. 5)。", "title": "動的リンク" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "動的読み込み (英: dynamic loading) は動的リンクの下位カテゴリであり、ビルド時にリンク(暗黙的リンク、英: implicit linking)されたもの以外のダイナミックリンクライブラリを、実行中のプログラムが明示的にロードすることである。明示的リンク (英: explicit linking) と呼ばれることもある。この場合、ライブラリはプラグインモジュールとして使われるのが一般的で、表計算プログラムのadd-inや特定機能を実現するインタプリタなどが典型的である。", "title": "動的読み込み" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "動的ライブラリをサポートしているシステムは、モジュールの動的読み込みAPIもサポートしているのが一般的である。例えばWindowsではLoadLibrary()とGetProcAddress()が用意されていて、Unix系システムではdlopen()とdlsym()が用意されている。いくつかの開発環境ではこの処理を自動化している。逆に、不要になったモジュールを解放(アンロード)するAPI(FreeLibrary()やdlclose())も用意されている。これらのAPIは、特にユーザーによる機能拡張を可能とするプラグインシステムをアプリケーション内に実装することにも役立つ。", "title": "動的読み込み" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": ".NET Frameworkでは、ライブラリのアセンブリは必要となったタイミングで動的かつ自動的にロードされる遅延読み込みが基本であるが、アセンブリの明示的なアンロードはできない。P/Invokeも同様である。.NET 4以降ではプラグインシステムの実装を容易にするManaged Extensibility Framework(英語版)がサポートされるようになった。", "title": "動的読み込み" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "もうひとつのライブラリの形態として完全に分離された実行ファイルを遠隔手続き呼出し (RPC) と呼ばれる方法で接続するものがある。このアプローチではOSの再利用が最大に生かされる。つまり、ライブラリサポートのためのコードはアプリケーションサポートのコードやセキュリティサポートのコードと共通化できる。さらに、このライブラリはネットワークを経由した別のマシン上に存在しても構わない。", "title": "リモートライブラリ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "欠点はライブラリコールの度に無視できないオーバーヘッドが発生することである。RPCは非常にコストがかかり、可能な限り排除されてきた。しかし、このアプローチは特定分野で一般化しつつある。特にクライアントサーバシステムやEnterprise JavaBeansのようなアプリケーションサーバで一般的である。", "title": "リモートライブラリ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "動的か静的かとは別に、ライブラリはプログラム間で共有される方式でも分類される。動的ライブラリは何らかの共有をサポートしており、複数のプログラムが同時に同じライブラリを使用することができる。静的ライブラリは各プログラムにリンクされるため、共有することはできない。", "title": "共有ライブラリ" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "共有ライブラリ(英: shared library)はやや曖昧な用語であり、ふたつの概念を含む。第一はディスク上のコードを複数の無関係なプログラムが共有することを意味する。第二の概念はメモリ上のコードの共有であり、ライブラリのロードされた物理メモリページが複数のプロセスのアドレス空間にマップされ、同時にアクセスされることを意味する。一般に後者を共有ライブラリと称するのが推奨され、この方式には様々な利点がある。例えばOPENSTEPでは、アプリケーションの多くは数百Kバイトで即座にロード可能であり、その機能の大部分はライブラリ上に実装されていて、共有可能であるためにOSが別のプログラム用にメモリにロードしたコードイメージがそのまま使用できる。しかし、マルチタスク環境で共有されるコードは特別な配慮が必要であり、そのために性能が若干低下する。", "title": "共有ライブラリ" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "メモリ上の共有ライブラリはUNIXでは位置独立コード (PIC) を使って実現される。これは柔軟なアーキテクチャだが複雑であり、Windowsなどでは使われていない。Windowsなどは、DLL毎にマップすべきアドレスを事前に決めておくなどしてメモリ上で共有可能にしている。WindowsのDLLはUNIXから見れば共有ライブラリではない。(訳注:UNIXでもライブラリのマップすべきアドレスを決めている場合がある。ただしそれは性能向上目的であり、基本的にはPIC化されている。)", "title": "共有ライブラリ" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "最近のOSでは共有ライブラリは通常の実行ファイルと同じ形式になっている。これにはふたつの利点がある。第一はひとつのローダで両方をロードできる。それによってローダが若干複雑化するが、十分コストに見合う程度である。第二はシンボルテーブルさえあれば実行ファイルを共有ライブラリとして使うことができる点である。このようなファイル形式として、ELF (UNIX) と PE (Windows) がある。また、Windowsではフォントなどのリソースも同じファイル形式になっている。OPENSTEPでもほとんど全てのシステムリソースが同じファイル形式になっている。", "title": "共有ライブラリ" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "DLLという用語はWindowsやOS/2で主に使われる。UNIXでは「共有ライブラリ」が一般的である。", "title": "共有ライブラリ" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "マルチスレッド環境下でライブラリを使用するにあたっては、別の共有問題が発生する。ライブラリルーチンがデータ領域としてスタックのみを使う場合は問題ないが、ライブラリ内のデータ領域を使う場合、そのデータ領域がスレッド毎に用意されていないことが多い。したがって、そのようなライブラリルーチンを使う場合、実行ファイル側で同時に複数のスレッドが同じライブラリルーチンを使わないように注意しなければならないことがある。", "title": "共有ライブラリ" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1980年代終盤に開発された動的リンクは1990年代初期にはほとんどのOSで使用可能となった。ほぼ同時期にオブジェクト指向プログラミング (OOP) が市場に出回り始めた。OOPは従来のライブラリが提供していなかった情報を必要とした。それは、あるオブジェクトが依存しているオブジェクトのリストである。これはOOPの継承という機能の副作用であり、あるメソッドの完全な定義は複数の場所に分散して配置される可能性がある。これは単純化すればライブラリ間の依存関係ということになるが、真のOOPシステムではコンパイル時には依存関係が明らかでなく、そのために様々な解決方法が登場した。", "title": "オブジェクトライブラリ" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "同じころ、多層構造のシステムの考え方も出てきた。デスクトップコンピュータ上の表示プログラムが汎用コンピュータ(汎用機)やミニコンピュータの記憶装置や演算機能を利用するものである。例えばGUIベースのコンピュータがミニコンピュータにメッセージを送り、表示すべき膨大なデータの一部を得るというものが考えられた。RPCは既に使われていたが、それは標準化されていなかった。", "title": "オブジェクトライブラリ" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "主要な汎用機およびミニコンメーカーがこれら二つの問題に関してプロジェクトを結成し、どこでも使えるOOPライブラリ形式を開発した。このようなシステムをオブジェクト・ライブラリ(英: object library)と呼んだり、リモートアクセスが可能ならば分散オブジェクト(英: distributed objects)と呼ぶ。マイクロソフトのCOMは分散機能のないオブジェクトライブラリであり、DCOMはリモートアクセスを可能としたバージョンである。", "title": "オブジェクトライブラリ" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "一時期、オブジェクトライブラリはプログラミングの世界の「次の大きな出来事」とされた。様々なシステムが開発され競争も激化した。例をあげると、IBMのSOM/DSOM、サン・マイクロシステムズのDOE、NeXTのPDO、DECの ObjectBroker、マイクロソフトのComponent Object Model (COM/DCOM)、そして様々なCORBAベースのシステムがある。", "title": "オブジェクトライブラリ" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "結局、OOPライブラリは次の大きな出来事ではなかった。マイクロソフトのCOMとNeXT(現在はApple)のPDO以外は、ほとんど使われることも無くなったのである。", "title": "オブジェクトライブラリ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "Javaではオブジェクトライブラリとして主にJARが使われている。その中には(圧縮された)クラスのバイトコード形式が格納されていて、Java仮想マシンや特殊なクラスローダーがそれをロードする。", "title": "オブジェクトライブラリ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ライブラリのファイル名は常に接頭辞libで始まり、拡張子として.a(静的ライブラリ)あるいは.so(ダイナミックリンクライブラリ)が使用される。オプションとして多重拡張子によるインタフェース番号が付与される場合がある。例えば、libfoo.so.2はlibfooライブラリの二番目のメジャーなインタフェース番号の付いたダイナミックリンクライブラリである。古いUNIXではマイナー番号も使っている場合がある (libfoo.so.1.2) が、最近のUNIXではメジャー番号しか使っていない。ライブラリのうち、共有ライブラリは/lib、/usr/lib、/usr/local/libなどのディレクトリに置かれる。動的にロードされたライブラリは/usr/libexecなどのディレクトリに置かれる。ライブラリのディレクトリにある .la ファイルは libtool(英語版) アーカイブである。", "title": "命名規則" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ライブラリの命名規則はBSDを踏襲していて、動的ライブラリの拡張子には.dylibが使われるが、代わりに.soを使うこともできる。しかし、多くの動的ライブラリは「バンドル(英: bundles)」と呼ばれる特別な場所(パッケージ)に置かれ、ライブラリに関連するファイルやメタデータもそこに置かれる。例えば、\"My Neat Library\" というライブラリは \"My Neat Library.framework\" というバンドルに実装される。", "title": "命名規則" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "Windowsではライブラリのファイル名に対する厳格な命名規則はないが、いくつかの拡張子が用意されている。C言語/C++では.libという拡張子を持つファイルがビルド時にリンカによって使用されるが、これには2つの種類がある。ひとつは静的ライブラリで、もうひとつはDLLのインポートライブラリである。ダイナミックリンクライブラリには通例.dllという拡張子が付けられる。インタフェースのリビジョンはファイル内にリソースとして書きこまれるか、COMインタフェースを使って抽象化される。また、.NET Frameworkのアセンブリについては、内部のマニフェストに記述される。", "title": "命名規則" } ]
ライブラリは、汎用性の高い複数のプログラムを再利用可能な形でひとまとまりにしたものである。ライブラリと呼ぶときは、それ単体ではプログラムとして動作させることはできない、つまり実行ファイルではない場合がある。ライブラリは他のプログラムに何らかの機能を提供するコードの集まりと言える。ソースコードの場合と、オブジェクトコード、あるいは専用の形式を用いる場合とがある。たとえば、UNIXのライブラリはオブジェクトコードをarと呼ばれるアーカイブツール(アーカイバ)でひとまとめにして利用する。図書館と同様にプログラム(算譜)の書庫であるので、索引方法が重要である。 また、ソフトウェア以外の再利用可能なものの集合について使われることもある(音声データなど)。
{{出典の明記|date=2019-10}} {{Otheruses|[[コンピュータ]]の[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]|書籍や資料などの閲覧・貸出などを行う施設|図書館|その他|ライブラリー (曖昧さ回避)}} '''ライブラリ'''({{Lang-en-short|library}})は、汎用性の高い複数の[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]を再利用可能な形でひとまとまりにしたものである。ライブラリと呼ぶときは、それ単体では[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]として動作させることはできない、つまり[[実行ファイル]]ではない場合がある。ライブラリは他のプログラムに何らかの機能を提供するコードの集まりと言える。[[ソースコード]]の場合と、[[オブジェクトファイル|オブジェクトコード]]、あるいは専用の形式を用いる場合とがある。たとえば、[[UNIX]]のライブラリはオブジェクトコードを[[ar (UNIX)|ar]]と呼ばれるアーカイブツール([[アーカイバ]])でひとまとめにして利用する。図書館({{Lang-en-short|library}})と同様にプログラム(算譜)の書庫であるので、索引方法が重要である。 また、[[ソフトウェア]]以外の再利用可能なものの集合について使われることもある(音声データなど)。 == 動的リンク == '''[[動的リンク]]''' ({{Lang-en-short|dynamic linking}}) は、あるライブラリ内のデータ(コードを含む)を新たな実行ファイルの[[ビルド (ソフトウェア)|ビルド]]時にコピーすることはなく、ディスク上に別のファイルとして存在している。ビルド時に[[リンケージエディタ|リンカ]]が行うのは、その実行ファイルが必要とするのがどのライブラリのどの部分であるか(関数名やインデックス)を記録するだけである。リンク作業の大部分はその[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]がメモリ上にロードされたときか、実行時である。リンクを行うプログラムコードは[[ローダ]]({{Lang-en-short|loader}})と呼ばれ、実際には[[オペレーティングシステム]] (OS) の一部と見なされる。適当な時点でローダは必要なライブラリをディスク上で見つけて[[プロセス]]の[[記憶装置|メモリ]]空間に(追加のデータ空間と共に)マッピングする。OSによってはプロセスが実行開始する前でないとライブラリをリンクできないものもあるが、多くのOSではプロセス実行時に実際にライブラリを参照したときにリンクできる。後者は「遅延読み込み」などと呼ばれる。どちらの場合もライブラリは'''動的リンクライブラリ'''('''[[ダイナミックリンクライブラリ]]''')と呼ばれる。[[Microsoft Windows|Windows]]環境では動的リンクライブラリの略称でもある「DLL」という呼び方が一般的であり、動的ライブラリの[[ファイル拡張子]]は通例 ''.dll'' である<ref>[[LightWave]]プラグインの ''.p'' や[[ActiveX]]の ''.ocx'' など、アプリケーションやフレームワークによっては別の拡張子が使われることもある。</ref>。動的リンクライブラリの中でも、システム上の複数の実行プログラムによって共有・再利用されうるものを、'''共有ライブラリ'''(シェアードライブラリ)と呼ぶ。 ローダの処理は、メモリ上の各ライブラリの位置が実際にロードされるまで確定しないため、ちょっとしたトリックを必要とする。ディスク上のファイル内に絶対[[メモリアドレス|アドレス]]を書きこんでおくことはDLL内であっても不可能である。理論的にはメモリにロードされたときにライブラリを参照している部分を全て書き換えて正しいメモリ上の位置を参照するようにすることはできるが、それによって消費される時間とメモリは無視できない。その代わりに多くの動的リンクシステムではアドレス欄が空欄となった[[シンボルテーブル]]をコンパイル時に用意する。ライブラリへの参照は全てこのシンボルテーブルを経由して行われる(コンパイラはシンボルテーブルからアドレスを取り出して使うコードを生成する)。メモリにロードされたとき、ローダがこのテーブルを書き換える。 ライブラリも全[[メソッド (計算機科学)|メソッド]](関数、[[サブルーチン]])のテーブルを持っている。ライブラリに入ってくるときは、このテーブルを経由して各ルーチンにジャンプする。これによってライブラリのルーチンコールに[[オーバーヘッド]]が発生するが、通例それは無視できるほど小さい。 動的リンカ・ローダは機能面で様々なものがある。いくつかの場合、実行ファイルに格納された明示的なライブラリパスに依存し、ライブラリ名やディスク上の配置を変更するとシステムが作動できなくなる。より一般的な手法としてはライブラリ名だけを実行ファイルに格納し、OSが何らかの[[アルゴリズム]]でディスク上のライブラリを検索する。[[Unix系]]システムでは、ライブラリを探す場所(ディレクトリ)を構成ファイルにリストアップしておく。ライブラリ開発者はそこに書かれた[[ディレクトリ]]にライブラリを配置することを推奨される。しかし、この方法では新しいライブラリをインストールする際に問題が発生しやすく、共通のディレクトリにあまりにも多くのライブラリが置かれることとなって管理を難しくする。Windowsでは[[レジストリ]]を使って[[Component Object Model|COM]]コンポーネントや[[ActiveX]] DLLの場所を決めているが、標準DLLでは、 #アプリケーションの実行ファイルの存在するディレクトリ #<code>SetDllDirectory()</code>で指定されるディレクトリ([[Windows XP]] SP1以降でサポート) #システムディレクトリ (NT系ではSystem32) #16ビットシステムディレクトリ (System) #Windowsディレクトリ #カレントディレクトリ #PATH環境変数 で示されるディレクトリを探す(古いバージョンではカレントディレクトリが2番目だった)<ref>{{Cite web |date=2008-11-06 |url=http://msdn.microsoft.com/en-us/library/ms682586.aspx |title=Dynamic-Link Library Search Order |work=[[MSDNライブラリ]] |language=英語 |accessdate=2008-11-11 }} </ref>。[[OPENSTEP]]はもっと柔軟なシステムを使用していて、ライブラリの探索リストを保持している。しかし不正なDLLが探索の上位に置かれていると実行ファイルは不正動作する可能性がある。Windowsではこれが「[[DLL地獄]]」({{Lang-en-short|DLL hell}})と呼ばれ、よく知られている問題である。 [[Microsoft Windows XP|Windows XP]]からは[[分離アプリケーションとSide-by-Sideアセンブリ|Side-by-Sideアセンブリ]](DLL署名、WinSxS)というメカニズムが追加された。これは動的リンク時にライブラリのファイル名ではなく、ライブラリにつけられた署名によってリンクすべきライブラリを決定するものである。これにより、同じファイル名を持つが異なる実装を持つライブラリを同時に使い分ける事ができる。よくあるパターンとして、ソースコードから改変・ビルドされたランタイムライブラリをシステムにインストールする場合にこのメカニズムが有効に働く。システムにインストールされたライブラリはライブラリ探索リスト上比較的上位に存在するが、署名が一致するプログラムにのみロードされるのでDLL地獄は今後解消されるであろうと考えられる。しかし、この機構には一つの弱点がある。それはシステムライブラリを[[オーバーライド]]して独自機能を実装する時、この機構は役に立たない方向へ働く。その様な実装をする時には、故意にマニフェスト機能を無効にしてライブラリを作らなくてはならない。もっとも、そのようなアプローチは、システムファイル保護機能が搭載された[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]のリリース時点で時代遅れであり、[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]に至っては管理者と言えどもシステムライブラリを書き換える事は出来なくなっている。 動的ライブラリの起源は定かではないが、少なくとも1960年代後半のMTS (Michigan Terminal System) まで遡ることができる ("A History of MTS", ''Information Technology Digest'', Vol. 5, No. 5)。 ==動的読み込み== 動的読み込み ({{lang-en-short|dynamic loading}}) は動的リンクの下位カテゴリであり、ビルド時にリンク(暗黙的リンク、{{lang-en-short|implicit linking}})されたもの以外のダイナミックリンクライブラリを、実行中のプログラムが明示的にロードすることである。明示的リンク ({{lang-en-short|explicit linking}}) と呼ばれることもある<ref>[https://docs.microsoft.com/en-us/cpp/build/linking-an-executable-to-a-dll Link an executable to a DLL | Microsoft Docs]</ref>。この場合、ライブラリは[[プラグイン]]モジュールとして使われるのが一般的で、[[表計算ソフト|表計算]]プログラムのadd-inや特定機能を実現する[[インタプリタ]]などが典型的である。 動的ライブラリをサポートしているシステムは、モジュールの動的読み込み[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]もサポートしているのが一般的である。例えばWindowsでは<code>LoadLibrary()</code>と<code>GetProcAddress()</code>が用意されていて、Unix系システムでは<code>dlopen()</code>と<code>dlsym()</code>が用意されている。いくつかの開発環境ではこの処理を自動化している。逆に、不要になったモジュールを解放(アンロード)するAPI(<code>FreeLibrary()</code>や<code>dlclose()</code>)も用意されている。これらのAPIは、特にユーザーによる機能拡張を可能とする[[プラグイン]]システムをアプリケーション内に実装することにも役立つ。 [[.NET Framework]]では、ライブラリの[[アセンブリ (共通言語基盤)|アセンブリ]]は必要となったタイミングで動的かつ自動的にロードされる遅延読み込みが基本であるが、アセンブリの明示的なアンロードはできない。[[P/Invoke]]も同様である。.NET 4以降ではプラグインシステムの実装を容易にする{{仮リンク|Managed Extensibility Framework|en|Managed Extensibility Framework}}がサポートされるようになった。 ==リモートライブラリ== もうひとつのライブラリの形態として完全に分離された実行ファイルを[[遠隔手続き呼出し]] (RPC) と呼ばれる方法で接続するものがある。このアプローチではOSの再利用が最大に生かされる。つまり、ライブラリサポートのためのコードはアプリケーションサポートのコードやセキュリティサポートのコードと共通化できる。さらに、このライブラリはネットワークを経由した別のマシン上に存在しても構わない。 欠点はライブラリコールの度に無視できないオーバーヘッドが発生することである。RPCは非常にコストがかかり、可能な限り排除されてきた。しかし、このアプローチは特定分野で一般化しつつある。特にクライアントサーバシステムや[[Enterprise JavaBeans]]のような[[アプリケーションサーバ]]で一般的である。 == 共有ライブラリ == 動的か静的かとは別に、ライブラリはプログラム間で共有される方式でも分類される。動的ライブラリは何らかの共有をサポートしており、複数のプログラムが同時に同じライブラリを使用することができる。静的ライブラリは各プログラムにリンクされるため、共有することはできない。 '''共有ライブラリ'''({{Lang-en-short|shared library}})はやや曖昧な用語であり、ふたつの概念を含む。第一はディスク上のコードを複数の無関係なプログラムが共有することを意味する。第二の概念はメモリ上のコードの共有であり、ライブラリのロードされた物理メモリページが複数のプロセスのアドレス空間にマップされ、同時にアクセスされることを意味する。{{要出典範囲|一般に後者を共有ライブラリと称するのが推奨され|date=2022年7月}}、この方式には様々な利点がある。例えばOPENSTEPでは、アプリケーションの多くは数百Kバイトで即座にロード可能であり、その機能の大部分はライブラリ上に実装されていて、共有可能であるためにOSが別のプログラム用にメモリにロードしたコードイメージがそのまま使用できる。しかし、[[マルチタスク]]環境で共有されるコードは特別な配慮が必要であり、そのために性能が若干低下する。 メモリ上の共有ライブラリは[[UNIX]]では[[位置独立コード]] (PIC) を使って実現される。これは柔軟なアーキテクチャだが複雑であり、Windowsなどでは使われていない。Windowsなどは、DLL毎にマップすべきアドレスを事前に決めておくなどしてメモリ上で共有可能にしている。WindowsのDLLはUNIXから見れば共有ライブラリではない。(訳注:UNIXでもライブラリのマップすべきアドレスを決めている場合がある。ただしそれは性能向上目的であり、基本的にはPIC化されている。) {{いつ範囲|date=2019-10|最近}}のOSでは共有ライブラリは通常の実行ファイルと同じ形式になっている。これにはふたつの利点がある。第一はひとつのローダで両方をロードできる。それによってローダが若干複雑化するが、十分コストに見合う程度である。第二はシンボルテーブルさえあれば実行ファイルを共有ライブラリとして使うことができる点である。このようなファイル形式として、[[Executable and Linkable Format|ELF]] (UNIX) と [[Portable Executable|PE]] (Windows) がある。また、Windowsではフォントなどの[[計算資源|リソース]]も同じファイル形式になっている。OPENSTEPでもほとんど全てのシステムリソースが同じファイル形式になっている。 DLLという用語はWindowsや[[OS/2]]で主に使われる。UNIXでは「共有ライブラリ」が一般的である。 <!-- More explanations are available in the [[position independent code]] article. --> [[スレッド (コンピュータ)|マルチスレッド]]環境下でライブラリを使用するにあたっては、別の共有問題が発生する。ライブラリルーチンがデータ領域としてスタックのみを使う場合は問題ないが、ライブラリ内のデータ領域を使う場合、そのデータ領域がスレッド毎に用意されていないことが多い。したがって、そのようなライブラリルーチンを使う場合、実行ファイル側で同時に複数のスレッドが同じライブラリルーチンを使わないように注意しなければならないことがある。 ==オブジェクトライブラリ== [[1980年代]]終盤に開発された動的リンクは[[1990年代]]初期にはほとんどのOSで使用可能となった。ほぼ同時期に[[オブジェクト指向プログラミング]] (OOP) が市場に出回り始めた。OOPは従来のライブラリが提供していなかった情報を必要とした。それは、あるオブジェクトが依存しているオブジェクトのリストである。これはOOPの継承という機能の副作用であり、あるメソッドの完全な定義は複数の場所に分散して配置される可能性がある。これは単純化すればライブラリ間の依存関係ということになるが、真のOOPシステムではコンパイル時には依存関係が明らかでなく、そのために様々な解決方法が登場した。 同じころ、多層構造のシステムの考え方も出てきた。デスクトップコンピュータ上の表示プログラムが[[メインフレーム|汎用コンピュータ]](汎用機)や[[ミニコンピュータ]]の記憶装置や演算機能を利用するものである。例えば[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]ベースのコンピュータがミニコンピュータにメッセージを送り、表示すべき膨大なデータの一部を得るというものが考えられた。RPCは既に使われていたが、それは標準化されていなかった。 主要な汎用機およびミニコンメーカーがこれら二つの問題に関してプロジェクトを結成し、どこでも使えるOOPライブラリ形式を開発した。このようなシステムを'''オブジェクト・ライブラリ'''({{Lang-en-short|object library}})と呼んだり、リモートアクセスが可能ならば'''分散オブジェクト'''({{Lang-en-short|distributed objects}})と呼ぶ。[[マイクロソフト]]の[[Component Object Model|COM]]は分散機能のないオブジェクトライブラリであり、[[Distributed Component Object Model|DCOM]]はリモートアクセスを可能としたバージョンである。 一時期、オブジェクトライブラリはプログラミングの世界の「次の大きな出来事」とされた。様々なシステムが開発され競争も激化した。例をあげると、[[IBM]]のSOM/DSOM、[[サン・マイクロシステムズ]]のDOE、[[NeXT]]のPDO、[[デジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]の ObjectBroker、マイクロソフトの[[Component Object Model]] (COM/DCOM)、そして様々な[[Common Object Request Broker Architecture|CORBA]]ベースのシステムがある。 結局、OOPライブラリは次の大きな出来事ではなかった。マイクロソフトのCOMとNeXT(現在は[[Apple]])のPDO以外は、ほとんど使われることも無くなったのである。 [[Java]]ではオブジェクトライブラリとして主に[[JAR (ファイルフォーマット)|JAR]]が使われている。その中には(圧縮された)[[クラス (コンピュータ)|クラス]]の[[Javaバイトコード|バイトコード]]形式が格納されていて、[[Java仮想マシン]]や特殊な[[Javaクラスローダー|クラスローダー]]がそれをロードする。 == 命名規則 == ; [[GNU/Linux]]、[[Solaris]]、[[Berkeley Software Distribution|BSD]]の派生OS ライブラリのファイル名は常に接頭辞<code>lib</code>で始まり、[[拡張子]]として<code>.a</code>(静的ライブラリ)あるいは<code>.so</code>(ダイナミックリンクライブラリ)が使用される。オプションとして多重拡張子による[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]番号が付与される場合がある。例えば、<code>libfoo.so.2</code>は<code>libfoo</code>ライブラリの二番目のメジャーなインタフェース番号の付いたダイナミックリンクライブラリである。古い[[UNIX]]ではマイナー番号も使っている場合がある (<code>libfoo.so.1.2</code>) が、{{いつ範囲|date=2019-10|最近}}のUNIXではメジャー番号しか使っていない。ライブラリのうち、共有ライブラリは<code>/lib</code>、<code>/usr/lib</code>、<code>/usr/local/lib</code>などのディレクトリに置かれる。動的にロードされたライブラリは<code>/usr/libexec</code>などのディレクトリに置かれる。ライブラリのディレクトリにある <code>.la</code> ファイルは {{仮リンク|GNU Libtool|en|GNU Libtool|label=libtool}} アーカイブである。 ; [[macOS]] ライブラリの命名規則はBSDを踏襲していて、動的ライブラリの拡張子には<code>.dylib</code>が使われるが、代わりに<code>.so</code>を使うこともできる。しかし、多くの動的ライブラリは「バンドル({{Lang-en-short|bundles}})」と呼ばれる特別な場所(パッケージ)に置かれ、ライブラリに関連するファイルやメタデータもそこに置かれる。例えば、"My Neat Library" というライブラリは "My Neat Library.framework" というバンドルに実装される。 ; [[Microsoft Windows]] Windowsではライブラリのファイル名に対する厳格な命名規則はないが、いくつかの拡張子が用意されている。[[C言語]]/[[C++]]では<code>.lib</code>という拡張子を持つファイルがビルド時にリンカによって使用されるが、これには2つの種類がある。ひとつは静的ライブラリで、もうひとつはDLLのインポートライブラリである。ダイナミックリンクライブラリには通例<code>.dll</code>という拡張子が付けられる。インタフェースのリビジョンはファイル内にリソースとして書きこまれるか、[[Component Object Model|COM]]インタフェースを使って抽象化される。また、[[.NET Framework]]の[[アセンブリ (共通言語基盤)|アセンブリ]]については、内部のマニフェストに記述される。 ==脚注== {{reflist}} ==関連項目== * [[IMSL|数値計算・統計解析ライブラリ]] * [[ソフトウェア工学]] * [[動的リンク]] * [[静的リンク]] * [[アプリケーションフレームワーク]] * [[アプリケーションプログラミングインタフェース]] * [[ダイナミックリンクライブラリ]](DLL)- Windowsの動的ライブラリ * [[アセンブリ (共通言語基盤)|アセンブリ]] * [[グローバル アセンブリ キャッシュ]] * {{仮リンク|GNU Libtool|en|GNU Libtool}} <!--* GUI構築ライブラリ[http://www.roguewave.jp/products-services/visualization Visualization]--> * [[標準Cライブラリ]] * [[標準C++ライブラリ]] * [[ランタイムライブラリ]] * [[基本クラスライブラリ]] * [[Javaクラスライブラリ]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:らいふらり}} [[Category:オペレーティングシステムの仕組み]] [[Category:ファイルフォーマット]] <!-- 単独記事が出来たとき用に。 [[Category:分子生物学]] --> [[Category:ライブラリ (プログラミング)|*]]
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エミュレータ (コンピュータ)
エミュレータ(英: Emulator)とは、コンピューターを含む機械装置の動作・機能を模倣する事をエミュレート(動詞)またはエミュレーション(名詞)といい、エミュレート/エミュレーションする装置、あるいはソフトウェアのことをエミュレーターという。本項では、コンピュータに関連したエミュレータについて解説する。 エミュレータとは、所定のコンピュータや機械装置の全機能を模倣する機構のことである。特に実機が存在するもの、ないし実機の内部ロジックそのものを再現するもの、を指すことが多く、仮想化技術(仮想機械#システム仮想機械)のひとつでもある。一方、Java仮想マシンなどの仮想機械(仮想機械#プロセス仮想機械)は、原理的にはエミュレータと同様のものだが、模倣対象の実機が存在しないため、エミュレータとしないこともある。 エミュレータの需要の背景には、既に摩滅して、市場で入手困難になったハードウェアの代用品として、あるいはまだ存在していない製品の代用や、クロス開発の実行環境として、開発段階で汎用性のある現用のパソコンを流用しようというものがある。これらは、所定の環境で動作するソフトウェアを、ハードウェアやオペレーティングシステムが異なる環境でも動作させることを目的とする。 コンピュータ上で動作するエミュレータの多くは、ソフトウェアによる実装が多い。ハードウェアでエミュレートするものもあり、産業用に広く使われている。 ICE (In-Circuit Emulator) やROMエミュレータ等はハードウェアによって実装されたエミュレータである。プログラマブルロジックデバイスに他の集積回路と同等のものを実装したものも一種のハードウェアによるエミュレータである。 エミュレータは、対象となるハードウェア仕様を模倣して動作する。それを利用するソフトウェアやハードウェアに対しては、適切なインターフェースを提供する。提供されるインターフェイスは、製品として存在しない仕様のものであったり、エミュレーションを念頭において製造された仕様であったりする。 主な用途としては、 などがある。 商用で最初のコンピュータのエミュレータは、1958年のIBM 709に搭載された。またマイクロプログラム方式のCPUは複数の命令セットのサポートを容易とした。 一般にエミュレータは、タイミングの制約は考慮しないものが多い。例えば、Z80のエミュレータの動作速度は、実物のZ80の実行速度で動くとは限らない。1命令を実行するために必要なクロック数を考慮しないことも多い。ただし、リアルタイムの処理系を正確に再現する場合は、当然ながら配慮される。 ほとんどのエミュレータは、環境の違いを吸収するための、なんらかのトランスレーションを行いつつ実行される。従って、実行時のオーバーヘッドは避けられない。そのため実行環境は、エミュレーション対象よりも高速な処理能力が必要である。しかし、古いスペックのハードウェアを、十分に高速なハードウェアでエミュレーションした場合は、実機よりも高速に稼働してしまう場合もある。 メインフレーム・汎用機において、PCやUnixサーバ向けCPUを使ったエミュレータによって構成されているモデルがある。特別なハードウェアを搭載する必要がなく、ダウンサイジングを目的としたタイプに多い。これは、激化したPCやUnixサーバ向けCPUの性能競争の結果、メインフレーム/汎用機などに使われるCPUを、ソフトウェアでエミュレーションした方が速くなってしまったためである。 現代のPC向けCPUもまた、RISCプロセッサで作ったCISCプロセッサエミュレータである場合が多い。 原理的にはコンピュータのエミュレータの一種だが、家庭用ゲーム機や業務用ゲーム機をエミュレーションするソフトウェアで、ほとんどはゲーム機メーカーとは関係のない個人や団体が作成した非公認のものである。 さまざまなゲーム機のエミュレーターが存在し、実行環境の多くはパソコン用だが、家庭用ゲーム機上に実装されたもの(バーチャルコンソール等)も存在する。市販ソフトウェアを対象とする場合、著作権と絡んで難しい問題を含む。 原則として、ゲームエミュレータ本体に関しては、実物の動作をリバースエンジニアリングして開発する限りは違法性はないとされる。ただし、ハードウェアベンダから提供される、ハードウェア情報やソフトウェア開発キットなど、ベンダとの守秘義務契約に該当する情報を流用した場合は、守秘義務契約を違反した開発者に対して違法性を問われることになる。 パソコン上で実行する場合、ゲームソフトの実行に特化したハードウェアであるゲーム機の動作を汎用ハードウェアのパソコン上で再現するには多くの問題があるため、実機と同等の速度で動作させるためには元のゲーム機より遙かに高い処理能力が必要である。特に、複数のCPUを搭載しているセガサターンや特殊フォーマットのCDであるGD-ROMを採用したドリームキャストや現行のゲーム機よりCPU性能が劣っていてもロムカートリッジ内にCPUが搭載されているカセットビジョンなど、特殊な仕様になっているゲーム機のエミュレータは開発が困難である。実用レベルで動作させることができる性能を持つパソコンであっても、エミュレータの再現度によって、挙動が異なる場合がままある。これは、エミュレータ自身の実装の問題のように改善が可能なものもあれば、音声など、実機のアナログ(アンプ)回路の設計・実装や個体差に依存する問題のように、対応が困難なものもある。 家庭用ゲーム機などパソコン以外のハードウェア用のエミュレータも存在し、セガのドリームキャスト上でソニー・コンピュータエンタテインメントのPlayStationのソフトを動作させるものや、ソニー・コンピュータエンタテインメントのPSPで任天堂のファミコンを動作させるものなどがある。こういった家庭用ゲーム機を実行環境とする非公認エミュレータはゲーム機やソフトのメーカーが本来意図した使用方法とは異なるので、メーカー側がハードウェアやソフトウェアに対策を施すことでエミュレータ環境の実行を阻止する対策をとることがある。 一方、メーカーの公認・許諾を得てエミュレータおよびROMイメージを販売・提供する例もある。任天堂のWiiには、過去に発売されたゲームをダウンロードして遊べる「バーチャルコンソール」というサービスがある(この場合は、Wii本体がゲームエミュレータとなる)。 また、PlayStation 3やPCでPlayStationとPCエンジンのゲームをダウンロードしてPS3およびPSP上で動かす「ゲームアーカイブス」や、かつて販売されたテレビゲームやパソコンゲームをWindows上でエミュレートさせて動作可能な状態に復刻しダウンロード販売を行う「プロジェクトEGG」などのサービスも提供されている。 ゲームエミュレータは、いわばゲーム機本体であるといえる。従ってゲームソフトを別に用意する必要がある。ゲームソフトといっても、デジタルデータであり、これが俗称でROMイメージなどと呼ばれる。エミュレータは、このROMイメージの内容をロードして再生することで、初めて動作する。CD-ROMやDVD-ROMといった汎用メディアを採用したソフトウェアである場合は、直接ロード可能な場合もあるが、それ以外の場合は実物のゲームソフトからコピーしてパソコン上にROMイメージを作り出す必要がある。 業務用ゲーム機などの場合、基板から外したROMのIC単体でROMリーダ/ライタを使って読み出す。家庭用ゲーム機と供給方式が似ている場合も、同様の手段でデータを読み出す。 一般的なパソコンで利用できないメディアを採用したソフトウェアのROMイメージを作り出す場合には、作り出したいROMイメージのソフトと、パソコンがROMイメージを読み込めるようにする機器が必要である。メディアをパソコン上で読み込めるようにする手法と、パソコンへ転送する機器を用いて実機上でメディアを読み出す手法がある。この2つは違法性がないとされている手法だが、さすがに必要な機器は堂々とは売られておらず、インターネット通販や、アンダーグラウンドな製品を扱っている店舗(秋葉原や日本橋に多く、機器は全て輸入品)で販売されるのが一般的である。 このような吸い出し行為は昔はOKだったが、2012年の著作権法の改正により、私的複製に於ても技術的保護手段(いわゆるコピープロテクト)を解除することは違法になった。ただしこの改正自体は主にDVDやブルーレイディスクの映像ソフトのコピーを念頭に置いたものであり、ゲームソフトに関しては明確な見解は出されていない。コピープロテクトのかかっていないソフトの私的複製は依然として合法である。 詳しくは後述するが、こうしてコピーされたゲームデータのイメージがインターネット上で違法に配布されているという事例は後を絶たず、著作権者や管理団体の頭痛のタネとなっている。 ゲームエミュレータの種類によっては、ハードウェア環境固有の基本プログラムのデータである「BIOS」、が必要な場合がある。これはROMとして実装されているのが普通で、前述のROMイメージと同様にゲーム機の本体から抽出してコピーするため、公衆に頒布することは著作権法違反となる。しかし、ウェブサイトやファイル共有ソフトを用いて違法に頒布する例は、ROMイメージ同様に後を絶たない。 自力でゲーム機の本体からBIOSをコピーする場合には、ROMイメージと同様に専用の機器と専用のソフトウェアが必要になる。これらもROMイメージコピー用の機器と同じく、アンダーグラウンドな製品を扱う店舗やインターネットでの通販という販売形態がほとんどである。 ただし、オリジナルの挙動から、互換性のあるコードを生成、再実装した互換BIOSや、シャープのX68000については、メーカーが公式にBIOSの配布を許諾しており、これを用いる場合にはその限りではない。 ゲームエミュレータにおけるこうした問題で一番重要とされているものは、ROMやBIOSイメージの入手方法である。現存しているROMやBIOSデータは「ほとんどがインターネット上へのアップロードやCD-R等の記憶媒体経由で第三者に譲渡・頒布されたものであって明らかに違法なものである」と考えられているため、著作権者および関連団体はこれを問題視している。 ゲームエミュレータが持つ役割は、入手が困難な古いゲームソフトをプレーするという面が強かったが、最新のゲーム機のエミュレータも多い。コピーしたソフトが実機を必要としない為、最新のゲームソフトが発売日前に流出するという事態も珍しいことではなくなった。これは、コンピュータの高性能化やインターネットの高速化、改造をゲーム機本体に直接加える事などにより引き起こされた問題である。 日本においては、譲渡・頒布など、提供する側を罰する法律はあり、時折検挙者も見られる。しかし、受け取る側に関しては、著作権法は親告罪であることから、ダウンロードの利用に関しては、拡大解釈してグレーゾーンあるいは合法と吹聴する者もいるが、あまりに悪質な場合は警察が独自に捜査を行う場合もあるため、明らかに誤った認識である。また、違法ダウンロードの刑事罰化が施行済みである。 自分の持っているソフトウェアならば、ダウンロードは法律で認められている、などと記述するサイトもあるが、理論上はアップロードされているデータは他人が複製したものであり、自身が複製した物ではない。このため、たとえ電子的には同じ情報であっても、著作権法の私的複製には該当せず、法的には全く根拠はない。 また、家庭内での私的利用の範疇における複製は著作権法で認められているので、これに基づいた考え方の「自分が所有しているソフトウエアやハードウエアから直接の複製を行う場合は合法である」という考えは一般的である。ただしコピープロテクトを破って複製するなど、著作権法(99年改正など)の「技術的保護手段(の回避)」に関する項に触れる場合は違法である。現在不正競争防止法の見直しが検討中である。 加えて、契約でコピーを禁止していれば、そのソフトをコピーすることは原則禁止となる。これに違反してソフトウェアを無理やりコピーすれば、契約不履行である。それでも、本来ならば利用することができなくなったそのソフトを無理に使用したら、前述のように、契約の問題で販売元は法的手段に訴えることが可能であり、訴えられる可能性がある。 また「ゲームソフトのデータを配布するサイトを具体的に紹介するサイト」というのも、法的には極めて黒に近いグレーゾーンである。ゲームソフトを配布しているサイトを不特定多数に紹介することで違法行為を教唆していると解釈することも可能である。 こうした情報を目の当たりにして違法性を認識しつつ使用した場合、著作権侵害となり刑事罰などが科せられるというのが著作権法上の解釈である。 各社から公開されているオンラインゲームに関して、そのゲームサーバをエミュレートするソフトが存在している。サービスのエミュレータではあっても、厳密に言えばオリジナルの実装を完全に再現しない限り、サーバーサービスとプロトコルのシミュレータである。しかし便宜上エミュレータと呼ばれることがほとんどである。また、そのようなソフトウェアで公開されているサーバを、元の開発元の「公式サーバ」と区別して「エミュレータサーバ」「エミュサーバ」などと呼ぶ。 エミュレータと名乗る中には、正当でない手段で入手した、正規のサーバソフトウェアを全部あるいは一部使用している場合もある。実際に、ラグナロクオンラインは、サーバプログラムが台湾で流出している。この場合は単なるデッドコピーであり、異なるものの、エミュレータと呼ぶこともある。エミュレータと詐称することには、違法性の認識を矮小化する意図が含まれる。 グラフィックなどのデータの大半は、クライアントソフトに依存しているため、外観については、エミュレータサーバであっても、ほぼ同一である。しかし、エミュレーションの実装度合いや再現度によって 公式サーバでは公開されているマップに進入できなかったり、アイテムの入手確率や敵の強さが違うなどといった相違点も多い。 有名なものでは、外国産のウルティマオンラインを始め、ラグナロクオンラインやリネージュ2など、さまざまなゲームのエミュレーターサーバがある。非公認であるため、サーバを公開しているのは、個人がほとんどである。また、ほとんどが公式サーバとは違い、無料で接続できるのがひとつの特徴である。無料で開放されている一つの理由としては、存在そのものが著作権や商標に抵触している可能性が濃厚で、その上に料金を取れば営業妨害で訴えられる可能性が高く、そこからサーバ開設者の特定(そして逮捕など)が容易になるからである。事実、海外では料金こそ取っていなかったが、「エミュレーターサーバの運営者が、公式サイトのクライアントソフトに直接リンクしてダウンロードさせていたため、クライアントソフトの提供に多額のコスト被害が発生した」として逮捕されたケースもある。 一方でエミュレーターサーバに接続するユーザーは、逮捕されたり起訴されたといった話はまずないが、サーバに接続するためにクライアントソフトの改造を必要とする場合がある。それを直接罰する法律はないが、ほとんどの場合、クライアントソフトの改変やサーバエミュレータの利用は、クライアントソフトウェアの利用規約に対して違反している。 ※ゲームエミュレータ 注意:基本的には合法であるこちらの非公認エミュレータも、使用法によっては著作権法を侵害する可能性がある。 ファミリーコンピュータ スーパーファミコン NINTENDO64 ニンテンドーゲームキューブ Wii Wii U Nintendo Switch ゲームボーイ ゲームボーイアドバンス ニンテンドーDS ニンテンドー3DS PlayStation PlayStation 2 PlayStation 3 PocketStation PlayStation Portable PlayStation Vita マスターシステム PCエンジン メガドライブ セガサターン ドリームキャスト ビジュアルメモリ ゲームギア ネオジオ アタリ2600 PC-FX
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"日本においては、譲渡・頒布など、提供する側を罰する法律はあり、時折検挙者も見られる。しかし、受け取る側に関しては、著作権法は親告罪であることから、ダウンロードの利用に関しては、拡大解釈してグレーゾーンあるいは合法と吹聴する者もいるが、あまりに悪質な場合は警察が独自に捜査を行う場合もあるため、明らかに誤った認識である。また、違法ダウンロードの刑事罰化が施行済みである。", "title": "ゲームエミュレータ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "自分の持っているソフトウェアならば、ダウンロードは法律で認められている、などと記述するサイトもあるが、理論上はアップロードされているデータは他人が複製したものであり、自身が複製した物ではない。このため、たとえ電子的には同じ情報であっても、著作権法の私的複製には該当せず、法的には全く根拠はない。", "title": "ゲームエミュレータ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "また、家庭内での私的利用の範疇における複製は著作権法で認められているので、これに基づいた考え方の「自分が所有しているソフトウエアやハードウエアから直接の複製を行う場合は合法である」という考えは一般的である。ただしコピープロテクトを破って複製するなど、著作権法(99年改正など)の「技術的保護手段(の回避)」に関する項に触れる場合は違法である。現在不正競争防止法の見直しが検討中である。", "title": "ゲームエミュレータ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "加えて、契約でコピーを禁止していれば、そのソフトをコピーすることは原則禁止となる。これに違反してソフトウェアを無理やりコピーすれば、契約不履行である。それでも、本来ならば利用することができなくなったそのソフトを無理に使用したら、前述のように、契約の問題で販売元は法的手段に訴えることが可能であり、訴えられる可能性がある。", "title": "ゲームエミュレータ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "また「ゲームソフトのデータを配布するサイトを具体的に紹介するサイト」というのも、法的には極めて黒に近いグレーゾーンである。ゲームソフトを配布しているサイトを不特定多数に紹介することで違法行為を教唆していると解釈することも可能である。", "title": "ゲームエミュレータ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "こうした情報を目の当たりにして違法性を認識しつつ使用した場合、著作権侵害となり刑事罰などが科せられるというのが著作権法上の解釈である。", "title": "ゲームエミュレータ" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "各社から公開されているオンラインゲームに関して、そのゲームサーバをエミュレートするソフトが存在している。サービスのエミュレータではあっても、厳密に言えばオリジナルの実装を完全に再現しない限り、サーバーサービスとプロトコルのシミュレータである。しかし便宜上エミュレータと呼ばれることがほとんどである。また、そのようなソフトウェアで公開されているサーバを、元の開発元の「公式サーバ」と区別して「エミュレータサーバ」「エミュサーバ」などと呼ぶ。", "title": "ゲームサーバエミュレータ" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "エミュレータと名乗る中には、正当でない手段で入手した、正規のサーバソフトウェアを全部あるいは一部使用している場合もある。実際に、ラグナロクオンラインは、サーバプログラムが台湾で流出している。この場合は単なるデッドコピーであり、異なるものの、エミュレータと呼ぶこともある。エミュレータと詐称することには、違法性の認識を矮小化する意図が含まれる。", "title": "ゲームサーバエミュレータ" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "グラフィックなどのデータの大半は、クライアントソフトに依存しているため、外観については、エミュレータサーバであっても、ほぼ同一である。しかし、エミュレーションの実装度合いや再現度によって 公式サーバでは公開されているマップに進入できなかったり、アイテムの入手確率や敵の強さが違うなどといった相違点も多い。", "title": "ゲームサーバエミュレータ" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "有名なものでは、外国産のウルティマオンラインを始め、ラグナロクオンラインやリネージュ2など、さまざまなゲームのエミュレーターサーバがある。非公認であるため、サーバを公開しているのは、個人がほとんどである。また、ほとんどが公式サーバとは違い、無料で接続できるのがひとつの特徴である。無料で開放されている一つの理由としては、存在そのものが著作権や商標に抵触している可能性が濃厚で、その上に料金を取れば営業妨害で訴えられる可能性が高く、そこからサーバ開設者の特定(そして逮捕など)が容易になるからである。事実、海外では料金こそ取っていなかったが、「エミュレーターサーバの運営者が、公式サイトのクライアントソフトに直接リンクしてダウンロードさせていたため、クライアントソフトの提供に多額のコスト被害が発生した」として逮捕されたケースもある。", "title": "ゲームサーバエミュレータ" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "一方でエミュレーターサーバに接続するユーザーは、逮捕されたり起訴されたといった話はまずないが、サーバに接続するためにクライアントソフトの改造を必要とする場合がある。それを直接罰する法律はないが、ほとんどの場合、クライアントソフトの改変やサーバエミュレータの利用は、クライアントソフトウェアの利用規約に対して違反している。", "title": "ゲームサーバエミュレータ" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "※ゲームエミュレータ", "title": "各種エミュレータ" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "注意:基本的には合法であるこちらの非公認エミュレータも、使用法によっては著作権法を侵害する可能性がある。", "title": "各種エミュレータ" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ファミリーコンピュータ", "title": "各種エミュレータ" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "スーパーファミコン", "title": "各種エミュレータ" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "NINTENDO64", "title": "各種エミュレータ" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ニンテンドーゲームキューブ", "title": "各種エミュレータ" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "Wii", "title": "各種エミュレータ" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "Wii U", "title": "各種エミュレータ" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "Nintendo Switch", "title": "各種エミュレータ" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ゲームボーイ", "title": "各種エミュレータ" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ゲームボーイアドバンス", "title": "各種エミュレータ" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ニンテンドーDS", "title": "各種エミュレータ" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ニンテンドー3DS", "title": "各種エミュレータ" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "PlayStation", "title": "各種エミュレータ" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "PlayStation 2", "title": "各種エミュレータ" }, { 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"各種エミュレータ" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "PC-FX", "title": "各種エミュレータ" } ]
エミュレータとは、コンピューターを含む機械装置の動作・機能を模倣する事をエミュレート(動詞)またはエミュレーション(名詞)といい、エミュレート/エミュレーションする装置、あるいはソフトウェアのことをエミュレーターという。本項では、コンピュータに関連したエミュレータについて解説する。
{{出典の明記|date=2012年12月}} '''エミュレータ'''({{lang-en-short|Emulator}})とは、[[コンピューター]]を含む機械装置の動作・機能を模倣する事をエミュレート(動詞)またはエミュレーション(名詞)といい、エミュレート/エミュレーションする装置、あるいはソフトウェアのことをエミュレーターという。本項では、コンピュータに関連した[[エミュレータ]]について解説する。 ==概要== エミュレータとは、所定のコンピュータや機械装置の全機能を模倣する機構のことである。特に実機が存在するもの、ないし実機の内部ロジックそのものを再現するもの、を指すことが多く、[[仮想化]]技術([[仮想機械#システム仮想機械]])のひとつでもある。一方、[[Java仮想マシン]]などの仮想機械([[仮想機械#プロセス仮想機械]])は、原理的にはエミュレータと同様のものだが、模倣対象の実機が存在しないため、エミュレータとしないこともある。 <!-- 良く混同されるが、シミュレータは対象の一部のみしか模倣しない機構のことであり、対象の細部を省略して近似的に再現することしかできない。内部ロジックを再現するのではなく[[命令セット]]アーキテクチャレベルで再現するものを指す[[命令セットシミュレータ]]という語もある。しかし、細部の省略により、対象の模倣に掛かる計算量を大幅に軽減することができる。 --><!-- 「一部」というのが結局なんのことかわからないので意味不明な気がする。論理ゲートまで模倣すればいいのか、トランジスタをスイッチとみなすレベルまでか、プロセッサを丸ごと電気回路シミュレータにかければいいのか、どこまですれば「一部ではなく全部」なのか、論者の勝手な設定がそのどこかにあるだけのように見える。 --> エミュレータの需要の背景には、既に摩滅して、市場で入手困難になったハードウェアの代用品として、あるいはまだ存在していない製品の代用や、クロス開発の実行環境として、開発段階で汎用性のある現用のパソコンを流用しようというものがある。これらは、所定の環境で動作するソフトウェアを、ハードウェアや[[オペレーティングシステム]]が異なる環境でも動作させることを目的とする。 コンピュータ上で動作するエミュレータの多くは、ソフトウェアによる実装が多い。ハードウェアでエミュレートするものもあり、産業用に広く使われている。 [[インサーキット・エミュレータ|ICE]] (In-Circuit Emulator) やROMエミュレータ等はハードウェアによって実装されたエミュレータである。[[プログラマブルロジックデバイス]]に他の[[集積回路]]と同等のものを実装したものも一種のハードウェアによるエミュレータである。 ==コンピュータのエミュレータ== エミュレータは、対象となるハードウェア仕様を模倣して動作する。それを利用するソフトウェアやハードウェアに対しては、適切な[[インタフェース (情報技術)|インターフェース]]を提供する。提供されるインターフェイスは、製品として存在しない仕様のものであったり、エミュレーションを念頭において製造された仕様であったりする。 主な用途としては、 *新しいシステムでも、古いソフトウェアを実行するため。([[後方互換]]) *あるコンピュータ上で、異なるオペレーティングシステムを同時に実行させる環境を構築する。 *[[携帯電話]]、[[携帯情報端末|PDA]]、[[組み込みシステム]]などのソフトウェアをクロス開発する際の実行環境として。 *[[端末]]をエミュレートする[[端末エミュレータ]]。 *[[ゲーム機]]や[[パーソナルコンピュータ]]向けのソフトウェアを、別の環境で実行する。 などがある。 商用で最初のコンピュータのエミュレータは、1958年の[[IBM 709]]に搭載された。また[[マイクロプログラム方式]]の[[CPU]]は複数の[[命令セット]]のサポートを容易とした。 一般にエミュレータは、タイミングの制約は考慮しないものが多い。例えば、[[Z80]]のエミュレータの動作速度は、実物のZ80の実行速度で動くとは限らない。1命令を実行するために必要な[[クロック|クロック数]]を考慮しないことも多い。ただし、リアルタイムの処理系を正確に再現する場合は、当然ながら配慮される。 ほとんどのエミュレータは、環境の違いを吸収するための、なんらかのトランスレーションを行いつつ実行される。従って、実行時のオーバーヘッドは避けられない。そのため実行環境は、エミュレーション対象よりも高速な処理能力が必要である。しかし、古いスペックのハードウェアを、十分に高速なハードウェアでエミュレーションした場合は、実機よりも高速に稼働してしまう場合もある。 [[メインフレーム]]・汎用機において、PCやUnixサーバ向けCPUを使ったエミュレータによって構成されているモデルがある。特別なハードウェアを搭載する必要がなく、ダウンサイジングを目的としたタイプに多い。これは、激化したPCやUnixサーバ向けCPUの性能競争の結果、メインフレーム/汎用機などに使われるCPUを、ソフトウェアでエミュレーションした方が速くなってしまったためである。 現代のPC向けCPUもまた、[[RISC]]プロセッサで作った[[CISC]]プロセッサエミュレータである場合が多い。 ==ゲームエミュレータ== {{Main|ゲームエミュレータ}} 原理的にはコンピュータのエミュレータの一種だが、[[コンシューマーゲーム|家庭用ゲーム機]]や[[アーケードゲーム|業務用ゲーム機]]をエミュレーションするソフトウェアで、ほとんどはゲーム機メーカーとは関係のない個人や団体が作成した非公認のものである。 さまざまなゲーム機のエミュレーターが存在し、実行環境の多くはパソコン用だが、家庭用ゲーム機上に実装されたもの([[バーチャルコンソール]]等)も存在する。市販ソフトウェアを対象とする場合、[[著作権]]と絡んで難しい問題を含む。 原則として、'''ゲームエミュレータ本体に関しては、実物の動作を[[リバースエンジニアリング]]して開発する限りは違法性はないとされる'''。ただし、ハードウェアベンダから提供される、ハードウェア情報やソフトウェア開発キットなど、ベンダとの[[守秘義務契約]]に該当する情報を流用した場合は、守秘義務契約を違反した開発者に対して違法性を問われることになる。 パソコン上で実行する場合、ゲームソフトの実行に特化したハードウェアであるゲーム機の動作を汎用ハードウェアのパソコン上で再現するには多くの問題があるため、実機と同等の速度で動作させるためには元のゲーム機より遙かに高い処理能力が必要である。特に、複数のCPUを搭載している[[セガサターン]]や特殊フォーマットのCDである[[GD-ROM]]を採用した[[ドリームキャスト]]や現行のゲーム機よりCPU性能が劣っていてもロムカートリッジ内にCPUが搭載されている[[カセットビジョン]]など、特殊な仕様になっているゲーム機のエミュレータは開発が困難である。実用レベルで動作させることができる性能を持つパソコンであっても、エミュレータの再現度によって、挙動が異なる場合がままある。これは、エミュレータ自身の実装の問題のように改善が可能なものもあれば、音声など、実機のアナログ(アンプ)回路の設計・実装や個体差に依存する問題のように、対応が困難なものもある。 家庭用ゲーム機などパソコン以外のハードウェア用のエミュレータも存在し、セガのドリームキャスト上でソニー・コンピュータエンタテインメントの[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]のソフトを動作させるものや、ソニー・コンピュータエンタテインメントの[[PlayStation Portable|PSP]]で任天堂の[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]を動作させるものなどがある。こういった家庭用ゲーム機を実行環境とする非公認エミュレータはゲーム機やソフトのメーカーが本来意図した使用方法とは異なるので、メーカー側がハードウェアやソフトウェアに対策を施すことでエミュレータ環境の実行を阻止する対策をとることがある。 一方、メーカーの公認・許諾を得てエミュレータおよびROMイメージを販売・提供する例もある。任天堂の[[Wii]]には、過去に発売されたゲームをダウンロードして遊べる「[[バーチャルコンソール]]」というサービスがある(この場合は、Wii本体がゲームエミュレータとなる)。 また、[[PlayStation 3]]や[[パーソナルコンピュータ|PC]]でPlayStationと[[PCエンジン]]のゲームをダウンロードしてPS3およびPSP上で動かす「[[ゲームアーカイブス]]」や、かつて販売されたテレビゲームやパソコンゲームをWindows上でエミュレートさせて動作可能な状態に復刻しダウンロード販売を行う「[[プロジェクトEGG]]」などのサービスも提供されている<ref>この様にメーカーの公認・許諾を得て販売・提供されるものには暗号化などの対策が施されており、ネットに不正流出された場合は購入時のイメージに書き込まれる暗号化情報を基に不正配布者を特定するシステムや、指定のゲーム機かPCでしか動作をしない仕様になっている。</ref>。 ===ROMイメージ=== ゲームエミュレータは、いわばゲーム機本体であるといえる。従ってゲームソフトを別に用意する必要がある。ゲームソフトといっても、デジタルデータであり、これが俗称でROMイメージなどと呼ばれる。エミュレータは、このROMイメージの内容をロードして再生することで、初めて動作する。[[CD-ROM]]や[[DVD-ROM]]といった汎用メディアを採用したソフトウェアである場合は、直接ロード可能な場合もあるが、それ以外の場合は実物のゲームソフトから[[コピー]]してパソコン上にROMイメージを作り出す必要がある。 業務用ゲーム機などの場合、基板から外したROMのIC単体でROMリーダ/ライタを使って読み出す。家庭用ゲーム機と供給方式が似ている場合も、同様の手段でデータを読み出す。 一般的なパソコンで利用できないメディアを採用したソフトウェア<ref>[[ファミリーコンピュータ]]などの[[ROMカセット]]、[[PlayStation Portable|PSP]]の[[ユニバーサル・メディア・ディスク|UMD]]、[[ドリームキャスト]]の[[GD-ROM]]などを示す。</ref>のROMイメージを作り出す場合には、作り出したいROMイメージのソフトと、パソコンがROMイメージを読み込めるようにする機器が必要である。メディアをパソコン上で読み込めるようにする手法<ref>パソコンと接続するための変換インターフェイスか、あるいは汎用メディアにコンバート可能なコピー用機器を用いる。</ref>と、パソコンへ転送する機器を用いて実機上でメディアを読み出す手法がある。この2つは違法性がないとされている手法だが、さすがに必要な機器は堂々とは売られておらず、インターネット通販や、[[アンダーグラウンド (文化)|アンダーグラウンド]]な製品を扱っている店舗(秋葉原や日本橋に多く、機器は全て輸入品)で販売されるのが一般的である。 このような吸い出し行為は昔はOKだったが、2012年の著作権法の改正により、私的複製に於ても技術的保護手段(いわゆるコピープロテクト)を解除することは違法になった。ただしこの改正自体は主にDVDやブルーレイディスクの映像ソフトのコピーを念頭に置いたものであり、ゲームソフトに関しては明確な見解は出されていない。コピープロテクトのかかっていないソフトの私的複製は依然として合法である。 詳しくは後述するが、こうしてコピーされたゲームデータのイメージがインターネット上で違法に配布されているという事例は後を絶たず、[[著作権者]]や管理団体の頭痛のタネとなっている。 ===BIOS=== ゲームエミュレータの種類によっては、ハードウェア環境固有の基本プログラムのデータである「[[Basic Input/Output System|BIOS]]」、が必要な場合がある。これはROMとして実装されているのが普通で、前述のROMイメージと同様にゲーム機の本体から抽出してコピーするため、公衆に頒布することは[[著作権法]]違反となる。しかし、[[ウェブサイト]]や[[ファイル共有ソフト]]を用いて違法に頒布する例は、ROMイメージ同様に後を絶たない。 自力でゲーム機の本体からBIOSをコピーする場合には、ROMイメージと同様に専用の機器と専用のソフトウェアが必要になる。これらもROMイメージコピー用の機器と同じく、アンダーグラウンドな製品を扱う店舗やインターネットでの通販という販売形態がほとんどである。 ただし、オリジナルの挙動から、互換性のあるコードを生成、再実装した互換BIOSや、シャープのX68000については、メーカーが公式にBIOSの配布を許諾しており、これを用いる場合にはその限りではない。 ===ゲームエミュレータの問題点と逮捕者=== ゲームエミュレータにおけるこうした問題で一番重要とされているものは、ROMやBIOSイメージの入手方法である。現存しているROMやBIOSデータは「ほとんどが[[インターネット]]上への[[アップロード]]や[[CD-R]]等の記憶媒体経由で第三者に譲渡・頒布されたものであって明らかに違法なものである」と考えられているため、著作権者および関連団体はこれを問題視している。 ゲームエミュレータが持つ役割は、入手が困難な古いゲームソフトをプレーするという面が強かったが、最新のゲーム機のエミュレータも多い。コピーしたソフトが実機を必要としない為、最新のゲームソフトが発売日前に流出するという事態も珍しいことではなくなった。これは、コンピュータの高性能化やインターネットの高速化、改造をゲーム機本体に直接加える事などにより引き起こされた問題である。 [[日本]]においては、譲渡・頒布など、提供する側を罰する法律はあり、時折検挙者も見られる。しかし、受け取る側に関しては、著作権法は親告罪であることから、ダウンロードの利用に関しては、拡大解釈してグレーゾーンあるいは合法と吹聴する者もいるが、あまりに悪質な場合は警察が独自に捜査を行う場合もあるため、明らかに誤った認識である。また、[[違法ダウンロードの刑事罰化]]が施行済みである。 自分の持っているソフトウェアならば、ダウンロードは法律で認められている、などと記述するサイトもあるが、理論上はアップロードされているデータは他人が複製したものであり、自身が複製した物ではない。このため、たとえ電子的には同じ情報であっても、著作権法の私的複製には該当せず、法的には全く根拠はない。 また、家庭内での私的利用の範疇における複製は著作権法で認められているので、これに基づいた考え方の「自分が所有しているソフトウエアやハードウエアから直接の複製を行う場合は合法である」という考えは一般的である。ただし[[コピープロテクト]]を破って複製するなど、著作権法(99年改正など)の「技術的保護手段(の回避)」に関する項に触れる場合は違法である。現在不正競争防止法の見直しが検討中である[http://www.meti.go.jp/press/20110221003/20110221003.html]。 加えて、[[契約]]でコピーを禁止していれば、そのソフトをコピーすることは原則禁止となる。これに違反してソフトウェアを無理やりコピーすれば、'''契約不履行'''である。それでも、本来ならば利用することができなくなったそのソフトを無理に使用したら、前述のように、契約の問題で販売元は法的手段に訴えることが可能であり、訴えられる可能性がある。 また「ゲームソフトのデータを配布するサイトを具体的に紹介するサイト」というのも、法的には極めて黒に近いグレーゾーンである。ゲームソフトを配布しているサイトを不特定多数に紹介することで[[共犯|違法行為を教唆]]していると解釈することも可能である。 こうした情報を目の当たりにして違法性を認識しつつ使用した場合、[[著作権侵害]]となり[[刑事罰]]などが科せられるというのが著作権法上の解釈である。 ==ゲームサーバエミュレータ== 各社から公開されている[[オンラインゲーム]]に関して、そのゲームサーバをエミュレートするソフトが存在している。サービスのエミュレータではあっても、厳密に言えばオリジナルの実装を完全に再現しない限り、サーバーサービスとプロトコルのシミュレータである。しかし便宜上エミュレータと呼ばれることがほとんどである。また、そのようなソフトウェアで公開されているサーバを、元の開発元の「公式サーバ」と区別して「エミュレータサーバ」「エミュサーバ」などと呼ぶ。 エミュレータと名乗る中には、正当でない手段で入手した、正規のサーバソフトウェアを全部あるいは一部使用している場合もある。実際に、[[ラグナロクオンライン]]は、サーバプログラムが台湾で流出している。この場合は単なるデッドコピーであり、異なるものの、エミュレータと呼ぶこともある。エミュレータと詐称することには、違法性の認識を矮小化する意図が含まれる。 グラフィックなどのデータの大半は、[[クライアント (コンピュータ)|クライアント]]ソフトに依存しているため、外観については、エミュレータサーバであっても、ほぼ同一である。しかし、エミュレーションの実装度合いや再現度によって 公式サーバでは公開されているマップに進入できなかったり、アイテムの入手確率や敵の強さが違うなどといった相違点も多い。 有名なものでは、外国産の[[ウルティマオンライン]]を始め、[[ラグナロクオンライン]]や[[リネージュ2]]など、さまざまなゲームのエミュレーターサーバがある。非公認であるため、サーバを公開しているのは、個人がほとんどである。また、ほとんどが公式サーバとは違い、無料で接続できるのがひとつの特徴である。無料で開放されている一つの理由としては、存在そのものが著作権や商標に抵触している可能性が濃厚で、その上に料金を取れば[[営業妨害]]で訴えられる可能性が高く、そこからサーバ開設者の特定(そして逮捕など)が容易になるからである。事実、海外では料金こそ取っていなかったが、「エミュレーターサーバの運営者が、公式サイトのクライアントソフトに直接リンクしてダウンロードさせていたため、クライアントソフトの提供に多額のコスト被害が発生した」として逮捕されたケースもある。 一方でエミュレーターサーバに接続するユーザーは、逮捕されたり起訴されたといった話はまずないが、サーバに接続するためにクライアントソフトの改造を必要とする場合がある。それを直接罰する法律はないが、ほとんどの場合、クライアントソフトの改変やサーバエミュレータの利用は、クライアントソフトウェアの利用規約に対して違反している。 ==各種エミュレータ== ===PC系列=== *680x0シリーズ **[[Macintosh]] ***FusionPC (DOS上で動作) ***BasiliskII (Windows、BeOSなどで動作) ***vMac ***ShapeShifter ***[[SoftMac]] (MacOS 8.1まで動作) **[[X68000]] 製造中止後、[[シャープ]]が仕様、ROM内容、OSを公開している ***EX68 ***X68EM ***XM6 ***WinX68k ***AX68K **[[Amiga]] ***UAE (Ubiquitous Amiga Emulator) *PowerPC **[[Power Mac]] ***[[SheepShaver]] ***[[PearPC]] *6502系 **[[Apple2]] ***[[appilwin]] ***[[applepc]] ***[[appler]] ***[[AppleWin]] (Windowsで動作するApple II / IIe エミュレータ) *6800系 **富士通FMシリーズ(8ビット機のみ。[[FM-8]]、[[FM-7]]、FM-77、[[FM-7#FM77AV|FM77AV]]〜FM77AV40SX) ***[[EM-7]] ***[[XM7]] ***[[FEMU7]] **日立[[ベーシックマスター]]シリーズ ***[[BRSMS21R]] ***[[Dega]] ***[[M80F]] ***[[MEKA030]] ***[[Past-O-Rama]] ***[[SPCAD225]] **日立S1 ***[[MB-S1(試作版)]] **パナソニック [[JR-200]] ***[[Virtual Panasonic JR-200U]] *[[x86]] **[[PC/AT互換機]] 仕様が元々オープンのため多種多彩なエミュレータが存在している ***[[Virtual PC]] ***[[VMware]] ***[[Bochs]] ***[[Parallels Workstation]] ***[[Parallels Desktop]] ***[[Q (エミュレータ)|Q]] ***[[VirtualBox]] ***[[SoftWindows]] ***[[DOSBox]] **[[PC-6000シリーズ]] ***[[iP6 Pius]] ***[[PC-6001V]] **[[PC-8800シリーズ]] ***M88 ***P88SR ***QUASI88 ***X88000 ***PC88EM ***PC88Emulator ***P88SR **[[PC-9800シリーズ]] ***PC-98E ***T98 ***PC-X86 **[[PC-9821シリーズ]] ***T98-Next ***Neko Project 21/W **98互換機 ***ANEX86 ***Neko Project II **[[FM TOWNS]] ***うんづ ***津軽 **[[X1シリーズ]] ***[[WinX1 ika風味]] ***[[X millennium]] **[[MZシリーズ]] ***MZ-80K系統([[MZ-80C]]、[[MZ-80K]]、[[MZ-700]]、[[MZ-1200]]、[[MZ-1500]]) ****[[mz7_052]] ****[[MZ700WIN]] ****[[mz700y2k02]] ***[[MZ-80B]]系統(MZ-80B、MZ-80B2、[[MZ-2000]]、[[MZ-2000#MZ-2200|MZ-2200]]) ****[[emuz2000]] ***[[MZ-2500]] ****[[EmuZ-2500]] **SONY [[SMC-777]] ***[[WinSMC]] *[[MSX]] **blueMSX **[[fMSX]] **NLMSX **openMSX **paraMSX **RuMSX **Zodiac **MSXPLAYer (MSXアソシエーションによる公式エミュレータ) **バーチャルコンソール (任天堂による公式エミュレータ) *ぴゅう太 **[[InfoPyuta]] **[[TutorEm]] *マルチプラットフォーム **[[QEMU]] **MESS (主にゲーム機) *大型汎用機端末 **[[IBM]]3270 **[[日立製作所|日立]]T560 **[[富士通]]F6680 *[[端末エミュレータ]] **[[Tera Term]] *X端末 **[http://www.macnica.net/hummingbird/exceed.html Exceed] **[http://www.macnica.net/hummingbird/eod.html Exceed onDemand] **[http://www.macnica.net/hummingbird/exfr.html Exceed Freedom] ===ゲーム機系列=== ※[[ゲームエミュレータ]] 注意:基本的には合法であるこちらの非公認エミュレータも、'''使用法によっては[[著作権]]法を侵害する可能性'''がある。 ==== 任天堂 ==== ===== 据置機 ===== [[ファミリーコンピュータ]] *Famtasia *BioNES *Nesticle *NNNesterJ *iNES *fwNES *RockNES *[[バーチャルコンソール]] (任天堂による公式エミュレータ) *パソファミ *MacFC *VirtuaNES *Nestopia *SMYNES *BeNES [[スーパーファミコン]] *Snes9x *SNEShout *ZSNES *SNESGT *bsnes *uosnes *バーチャルコンソール (任天堂による公式エミュレータ) [[NINTENDO64]] *Project64 *1964 *Nemu64 *バーチャルコンソール (任天堂による公式エミュレータ) [[ニンテンドーゲームキューブ]] *[[Dolphin (エミュレータ)|Dolphin]] [[Wii]] *[[Dolphin (エミュレータ)|Dolphin]] [[Wii U]] *[[Cemu]] *Decaf [[Nintendo Switch]] *[[yuzu]] ===== 携帯機 ===== [[ゲームボーイ]] *KiGB *Virtual Gameboy *TGB Dual *[[VisualBoyAdvance]] *GEM *バーチャルコンソール (任天堂による公式エミュレータ) [[ゲームボーイアドバンス]] *Boycott Advance *[[VisualBoyAdvance]] *VBA-M *バーチャルコンソール (任天堂による公式エミュレータ) [[ニンテンドーDS]] *DeSmuMe *melonDS *iDeaS *NO$GBA *バーチャルコンソール (任天堂による公式エミュレータ) [[ニンテンドー3DS]] *[[Citra]] *Corgi3DS ==== SONY ==== ===== 据置機 ===== 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ノイマン型
ノイマン型(ノイマンがた、英: von Neumann architecture)、またはフォンノイマン型アーキテクチャは、コンピュータの基本的な構成法のひとつである。今では基本的なコンピュータ・アーキテクチャのひとつとされるが、そもそもコンピュータの要件とされることもあり、このあたりの定義は循環的である。名前の由来はジョン・フォン・ノイマン。 プログラム内蔵方式のディジタルコンピュータで、CPUとアドレス付けされた記憶装置とそれらをつなぐバスを要素に構成され、命令(プログラム)とデータを区別せず記憶装置に記憶する。 中心となるプロセッサは、今では一つの部品としてまとめて考えることが多いが、オリジナルの報告書では制御装置となっている。ノイマンの草稿がその保護に入らず、多くの人がノイマンを発明者だとみなしたことは不公平な結果だったとし、ノイマンの参加以前に本質的な先進があったとしながらも、「数値データと命令を同じ記憶装置の中に置くのは不自然である」「そのために必要な遅延記憶装置は信頼性に欠ける」といった新規技術への疑念に対し「物理学者として、また数学者(計算理論)として、ノイマンが計算機の潜在能力を見抜き、信望と影響力を行使したことはマタイ効果として重要だった」とも述べている。 チューリングマシンを、可能な範囲で実現・具体化(実装)するもので、記憶装置を仮に、必要であれば必要なだけ無制限に追加できるものとすれば、計算模型として(「ノイマンマシン」と呼ばれることがある)見た場合チューリング完全とみなせることになる。また、二進法の採用も、要件に含めることがある(二進法と、二進法の基本的な演算(論理演算)の組み合わせで、あらゆるディジタル処理が可能である)。ノイマン型コンピュータを計算模型として定義したものとしてRAMマシン(ランダムアクセスマシン)がある。 また、ノイマンの思考はチューリングマシンを通してのものではなく、ゲーデル数からの直接のものではないだろうか、とする論者もいる(ノイマンは不完全性定理とも深くかかわっている)。 プログラムのチューリング完全性は、命令の書き換えをしなくても、インタプリタの原理により可能とわかったり、また一般に自己書き換えコードは特殊な技法とされるため、システムソフトウェアを除いて、特に一般ユーザの通常のプログラミングでは、命令とデータは区別するのが一般的である。特に近年ではマルウェア対策として、命令を置いたメモリは書き換え禁止に設定されることがある。また、組み込みシステムなどの専用コンピュータなどで、プログラムを入れ替える必要がないなど、命令とデータを区別するハーバード・アーキテクチャもある。しかし、汎用コンピュータにおけるプログラムの入れ換えなどは、ノイマン型に依っており、システムソフトウェアや性能のため(インタプリタは遅い)などで、依然として重要な原理であることに変わりない。 また性能の点では、バスが細いとそれがボトルネックになってコンピュータ全体の性能がそれで決まってしまう。これをフォン・ノイマン・ボトルネックと言う。 EDVACの開発は遅れ、世界初のプログラム内蔵方式の全電子式コンピュータはSSEM、同じく実用的な実現はEDSACとなった。これらのマシンは「報告書」に影響されたものとされる。EDVACの遅れは、エッカートとモークリーの離脱が大きな理由とされており、離脱の理由は諸説ある。ともあれ、「ノイマンの法則『いつ聞かれても完成は半年後』」などと言われながら、1949年8月に大学から軍の施設に運ばれ、1951年に稼動をはじめた。 ノイマンの草稿の構成に近いマシンとして、EDVACの他に、IASマシンがある。 池田敏雄が1965年にコンピュータについてまとめた報告では、電子計算機の最も基本的な概念はフォン・ノイマンによって確立されたプログラム内蔵方式で、(主)記憶装置にアドレスを付け命令をそれに記憶しシーケンシャルに取り出して実行すること、としている。またノイマンは「コンピュータはすべからく2進法たるべきである」と言っている、としている(この点については十進演算を併用すべき場合とのバランス感覚が必要と、少々辛い見解を池田敏雄は示している)。 21世紀初頭におけるコンピュータのほとんどはノイマン型である。これに対しデータフローマシンなどは非ノイマン型と呼ばれる。この場合の「ノイマン型」とは、次に実行すべき命令が記憶装置に順番に並んでおり(ジャンプ命令等の直後の命令など例外以外は)それをバスを通して記憶装置から順番に次々と取り出してくる、というモデルのことを指している。データフローマシンには、何らかの方法で「必要なデータが揃っているので、今から実行できる命令」を決定できる仕掛けがある(そういった意味ではアウト・オブ・オーダー実行などは部分的に非ノイマン的であるといえる)。普通のハーバード・アーキテクチャなどを非ノイマン型とすることはまずない。さらに、再構成可能コンピューティング、光コンピューティング、量子コンピュータ、ニューロコンピュータ、DNAコンピュータ等のより先進的な、新しい型の計算の実現法を意図して使われていると思われることもあり、「非ノイマン」という語だけでは具体的に何を意図しているかを推し量ることは不可能である。 データフロープロセッサの一例としては、NECのμPD7281(1984年、ImPP:Image Pipelined Processor)がある。画像処理などへの応用を意図されており、非ノイマン型として言及がある。後に、μPD7281を通常のメモリに接続するためのLSIとしてμPD9305が製品化されている。 また、次のような要素なども、ノイマン型には含まないが、ノイマン型のモディファイの範囲内とみなし、ふつうノイマン型でないとはしない。
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ノイマン型、またはフォンノイマン型アーキテクチャは、コンピュータの基本的な構成法のひとつである。今では基本的なコンピュータ・アーキテクチャのひとつとされるが、そもそもコンピュータの要件とされることもあり、このあたりの定義は循環的である。名前の由来はジョン・フォン・ノイマン。
[[File:Von Neumann Architecture.svg|thumb|upright=1.35|フォンノイマン型アーキテクチャーの図]] '''ノイマン型'''(ノイマンがた、{{lang-en-short|von Neumann architecture}})、またはフォンノイマン型アーキテクチャ{{Sfn|岸|野田|2016|p=43}}は、[[コンピュータ]]の基本的な構成法のひとつである。今では基本的な[[コンピュータ・アーキテクチャ]]のひとつとされるが、そもそも[[コンピュータ]]の要件とされることもあり、このあたりの定義は循環的である。<!--[[コンピュータ]]の基本構造であり、論理的には[[チューリングマシン]]をRAM(ランダムアクセスマシン)にして、更に実用性のために工学的な入出力装置を付加した構造になっている。-->名前の由来は[[ジョン・フォン・ノイマン]]。 == 構成 == [[プログラム内蔵方式]]の[[ディジタル]]コンピュータで、[[CPU]]と[[メモリアドレス|アドレス付け]]された[[記憶装置]]とそれらをつなぐ[[バス (コンピュータ)|バス]]を要素に構成され、[[命令 (コンピュータ)|命令]]([[プログラム (コンピュータ)|プログラム]])と[[データ]]を区別せず記憶装置に記憶する。 中心となる[[プロセッサ]]は、今では一つの部品としてまとめて考えることが多いが、オリジナルの報告書では[[制御装置]]となっている。ノイマンの草稿がその保護に入らず、多くの人がノイマンを発明者だとみなしたことは不公平な結果だったとし、ノイマンの参加以前に本質的な先進があった<ref>『ウィルクス自伝』 p. 141</ref>としながらも、「数値データと命令を同じ記憶装置の中に置くのは不自然である」「そのために必要な[[遅延記憶装置]]は信頼性に欠ける」といった新規技術への疑念<ref group="注">『ウィルクス自伝』では、そういった主張をした人物として[[ハワード・エイケン]]を挙げている。</ref>に対し「物理学者として、また数学者([[計算理論]])として、ノイマンが計算機の潜在能力を見抜き、信望と影響力を行使したことは[[マタイ効果]]として重要だった」とも述べている<ref>『ACMチューリング賞講演集』 p. 234</ref>。 == 概要 == === 理論 === <!-- チューリングマシンからの本来の[[プログラム内蔵方式]]に入出力装置を付加してストアドプログラムを実現する[[コンピュータ・アーキテクチャ]]の一つである。[[主記憶装置]](メモリ)上に[[命令 (コンピュータ)|命令]]と[[データ]]を区別することなく格納し、データを命令として解釈実行する方式である。もともとのノイマンの提案では命令を書き換えながら実行する構想であったが、後にデータだけを書き換えてデータ値によって分岐する命令で等価なプログラムになることが証明され、命令とデータは区別されるようになった。(命令とデータを区別して配置するアーキテクチャについては[[ハーバード・アーキテクチャ]]を参照)。 -->[[チューリングマシン]]を、可能な範囲で実現・具体化([[実装]])するもので、記憶装置を仮に、必要であれば必要なだけ無制限に追加できるものとすれば、[[計算模型]]として(「ノイマンマシン」と呼ばれることがある)見た場合[[チューリング完全]]とみなせることになる。また、[[二進法]]の採用も、要件に含めることがある(二進法と、二進法の基本的な演算([[論理演算]])の組み合わせで、あらゆるディジタル処理が可能である)。ノイマン型コンピュータを計算模型として定義したものとして[[レジスタマシン|RAMマシン]](ランダムアクセスマシン)がある。 また、ノイマンの思考はチューリングマシンを通してのものではなく、[[ゲーデル数]]からの直接のものではないだろうか、とする論者もいる(ノイマンは不完全性定理とも深くかかわっている)<ref>ノーマン・マクレイ 『フォン・ノイマンの生涯』、紀華彦『計算機科学の発想』16章「ゲーデル数とプログラム内蔵方式」</ref>。 プログラムのチューリング完全性は、命令の書き換えをしなくても、[[インタプリタ]]の原理により可能とわかったり、また一般に[[自己書き換えコード]]は特殊な技法とされるため、[[システムソフトウェア]]を除いて、特に一般ユーザの通常の[[プログラミング]]では、命令とデータは区別するのが一般的である。特に近年ではマルウェア対策として、命令を置いたメモリは書き換え禁止に設定されることがある。また、[[組み込みシステム]]などの専用コンピュータなどで、プログラムを入れ替える必要がないなど、命令とデータを区別する[[ハーバード・アーキテクチャ]]もある。しかし、汎用コンピュータにおけるプログラムの入れ換えなどは、ノイマン型に依っており、システムソフトウェアや性能のため(インタプリタは遅い)などで、依然として重要な原理であることに変わりない。 また性能の点では、バスが細いとそれが[[ボトルネック]]になってコンピュータ全体の性能がそれで決まってしまう。これを[[フォン・ノイマン・ボトルネック]]と言う。 <!-- メモリに命令を格納するので、命令を実行するにはアクセス速度の遅いメモリに必ず触れなければならず、これがコンピュータのパフォーマンスを低下させている最大の原因であるとする、[[ノイマンズ・ボトルネック]]という考えも生まれた。 --> <!-- EDVAC開発に加わっていた著名な数学者の[[ジョン・フォン・ノイマン]]が数学的な論理付けを行い、自分の名義で発表したため、今日では、ノイマンの功績として広く知られている。 しかし、この方式は、[[ジョン・モークリー]]や[[ジョン・エッカート]]が[[EDVAC]]設計時に発想したもので、フォン・ノイマンは数学的基礎を与えた。考案者も高名な数学者の名前を利用してこのアーキテクチャーを広めようとしたと言われている。 --> === 経緯と現状 === ==== 過去 ==== [[EDVAC]]の開発は遅れ、世界初のプログラム内蔵方式の全電子式コンピュータは[[Manchester Small-Scale Experimental Machine|SSEM]]、同じく実用的な実現は[[EDSAC]]となった。これらのマシンは「報告書」に影響されたものとされる。EDVACの遅れは、エッカートとモークリーの離脱が大きな理由とされており、離脱の理由は諸説ある。ともあれ、「ノイマンの法則『いつ聞かれても完成は半年後』」などと言われながら、1949年8月に大学から軍の施設に運ばれ、1951年に稼動をはじめた。 <!-- また、このアーキテクチャの最初のコンピュータは、EDVACではなく[[EDSAC]]である。これは、EDVACの開発が非常に遅れたため、EDSACに先を越されたからである。 --> ノイマンの草稿の構成に近いマシンとして、EDVACの他に、[[IASマシン]]がある。 [[池田敏雄]]が1965年にコンピュータについてまとめた報告<ref>『電子計算機の発展過程』FUJITSU Vol. 16, No. 1, pp. 95〜105(1965), 『池田記念論文集』pp. 170〜182に再録</ref>では、電子計算機の最も基本的な概念はフォン・ノイマンによって確立された[[プログラム内蔵方式]]で、(主)記憶装置にアドレスを付け命令をそれに記憶しシーケンシャルに取り出して実行すること、としている。またノイマンは「コンピュータはすべからく2進法たるべきである」と言っている、としている(この点については十進演算を併用すべき場合とのバランス感覚が必要と、少々辛い見解を池田敏雄は示している)。 ==== 現状 ==== 21世紀初頭におけるコンピュータのほとんどはノイマン型である。これに対し[[データフロー]]マシンなどは[[非ノイマン型]]と呼ばれる。この場合の「ノイマン型」とは、次に実行すべき命令が記憶装置に順番に並んでおり(ジャンプ命令等の直後の命令など例外以外は)それをバスを通して記憶装置から順番に次々と取り出してくる、というモデルのことを指している。データフローマシンには、何らかの方法で「必要なデータが揃っているので、今から実行できる命令」を決定できる仕掛けがある(そういった意味では[[アウト・オブ・オーダー実行]]などは部分的に非ノイマン的であるといえる)。普通のハーバード・アーキテクチャなどを非ノイマン型とすることはまずない。さらに、[[再構成可能コンピューティング]]、[[光コンピューティング]]、[[量子コンピュータ]]、[[ニューロコンピュータ]]、[[DNAコンピュータ]]等のより先進的な、新しい型の計算の実現法を意図して使われていると思われることもあり、「非ノイマン」という語だけでは具体的に何を意図しているかを推し量ることは不可能である。<!--ここで言われている内容は信憑性に欠けるため保留としたい。 <ref group="注">ただしここで言う非ノイマン型は、「非プログラム内蔵方式」を指す。ゆえに「ノイマン型」にはあたらないが、「プログラム内蔵方式」には該当する[[ハーバード・アーキテクチャ]]は含まない。</ref>。 これらは画像処理に優れているため、ランドサットなどの画像処理などに使用されている。NECなどのNEDIPSがこれに当たる。その --> データフロープロセッサの一例としては、NECのμPD7281(1984年、ImPP:Image Pipelined Processor)<ref name=ImPP-MAGIC>{{Citenews |url=http://www.st.rim.or.jp/~nkomatsu/nec/uPD7281.html |title=ImPP |publisher=st.rim.or.jp |accessdate=2020-10-04 }}</ref><ref>{{cite web |url = https://ieeexplore.ieee.org/document/1169141 |title = Data flow chip ImPP and its system for image processing | publisher = IEEE (ICASSP '86. IEEE International Conference on Acoustics, Speech, and Signal Processing) | accessdate = 2021-05-24}}</ref>がある。画像処理などへの応用を意図されており、非ノイマン型として言及がある<ref>{{Citenews |url=http://www.shmj.or.jp/museum2010/exhibi704.htm |title=非ノイマン型データ駆動プロセッサImPPの開発 (NEC) |publisher=shmj.or.jp |date=2010-10-16 |accessdate=2020-09-26 }}</ref>。後に、μPD7281を通常のメモリに接続するためのLSIとしてμPD9305<ref name=ImPP-MAGIC/>が製品化されている。 また、次のような要素なども、ノイマン型には含まないが、ノイマン型のモディファイの範囲内とみなし、ふつうノイマン型でないとはしない。 * [[キャッシュ (コンピュータシステム)|キャッシュ]]、[[主記憶装置|主記憶]]と[[補助記憶装置|補助記憶]]のような、[[キャッシュ (コンピュータシステム)#記憶階層 (Memory Hierarchy)|記憶階層]] * 外部から直接、命令の実行順を変える[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]] * [[チャネル・コントローラ]]・[[Direct Memory Access|DMA]]・[[バスマスタリング]]などによる、CPUを介さない、周辺機器や記憶装置の間の直接入出力 <!--以下、1年過ぎましたが出典等ないので一旦コメントアウトします--><!-- == 各構成要素と実行(参考) == {{出典の明記|section=1|date=2011年4月}} [[ファイル:Von Neumann architecture.svg|right|thumb|280px|ノイマン型の構成(参考)]] ノイマン型アーキテクチャの計算機は5つの部分からなる。[[演算論理装置]](ALU)、[[制御装置]]、[[メモリ]]、[[入出力]]と、これらを接続する[[バス (コンピュータ)|情報経路]]である。 # コンピュータの計算能力とはチューリングマシンの計算可能性として算術演算を含むあらゆる計算が可能であるが、多用する算術演算はプログラミングで実現するのではなく専用演算器を用いて高速化する目的でALUは設けられた。ALUも当初は加算器だけだったが論理素子の集積度の向上に伴って四則演算すべてを実行するものになり、整数型から浮動小数点演算器(FPU)を含むものに発展し、更にベクトル演算装置に発展している。 # 制御装置はチューリングマシンのヘッドと有限状態制御部に当たるコンピュータの心臓部である。一般的なCPUに相当する。 # メモリはチューリングマシンの無限長のテープ記憶域に相当するが、アドレス付きのランダムアクセス可能な有限長の記憶域にされた点が異なる。無矛盾なプログラムとは有限ステップで作られ、有限時間内に停止するので、実用上、十分な長さがあれば、メモリが有限長であることは問題でない。チューリングマシンの1つずつシーケンシャルアクセルするテープ記憶に対して、ランダムアクセスによって実効性能を向上させる目的で実装された。 # 入出力装置は計算を開始する準備のためにプログラムとデータを外部からメモリに入力し、計算結果を利用するためにメモリから外部にデータを出力する。チューリングマシンは数理論理学上の証明のためだけのモデルなので、プログラムとデータの初期状態が用意されたところから始まり、計算が終了するまでに必要な最小限の要素を含むだけである。実用上のコンピュータは計算の準備と結果の利用まで含めなければならないためノイマン型では入出力装置を追加している。入出力装置からプログラムをメモリに配置して実行する形態をストアードプログラムと呼ぶ。チューリングマシンのあらゆる計算可能性を実現するには「あらゆる計算プログラム」を用意しておく必要がある。用途別のコンピュータプログラムを次々にメモリに入れ替えて実行させ、汎用コンピュータを実現する。 # 情報経路はコンピュータの各部分の間でデータの受け渡しを行うための通信線である。上図では個々の[[ハードウェア|デバイス]]を専用の情報経路で接続しているが、このような構造は高価になるため、多くのコンピュータでは複数のデバイスが情報経路を共有する形で接続されており、そのように共有される情報経路は[[バス (コンピュータ)|バス]]と呼ばれる。入出力装置とメモリとの情報交換は制御装置(CPU)で行うこともできるが、それではCPUの利用効率が悪くなるため、CPUを介さずにデータの移動を直接行う機能をバスに持たせ、計算効率を上げる方式([[Direct Memory Access|DMA]])も一般的である。 === 実行 === ノイマン型アーキテクチャの計算機は以下のようなステップを繰り返すことで計算を行う。 # プログラムカウンタのさすアドレスから次の命令を読み込む # 命令長さの分だけプログラムカウンタを増やす # 制御装置で命令を[[デコード]]する。制御装置は計算機の他の部分に対して命令を出したり、繰り返しを行うためにプログラムカウンタの値を替えたり、条件分岐のためにALUの状態によってプログラムカウンタの値を替えたりすることができる。 # ステップ1へ戻る --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * ノイマンによる原稿は(列車の中で書かれたと伝えられる)手書きであり、タイプライタにより清書されたものはノイマンによるチェックを経ていない。スタンフォード大の Michael D. Godfrey によりプルーフリーディングされたバージョンがメンテナンスされており https://sites.google.com/site/michaeldgodfrey/other から参照できる。このページからタイプライタ版をスキャンしたものも取得できる <!--* [[城憲三]]・牧之内三郎『計算機械』([[共立出版]]、1953年)日本で最初のコンピュータの本である。ノイマンの報告書の一部を紹介、と『計算機屋かく戦えり』にあるが、Goldstineらと共著のPlanning and Coding of the Problems for an Electronic Computing Instrumentのほうである可能性もある--><!--実際に読んでみたところ、確認できなかったのでコメントアウトとする--> * {{Cite book|和書|author1=岸 知二 |author2=野田 夏子 |title=ソフトウェア工学 |year=2016 |publisher=近代科学社 |isbn=978-4-7649-0509-2 |ref={{Sfnref|岸|野田|2016}} }} == 関連項目 == * [[プログラム内蔵方式]] * [[フォン・ノイマン・ボトルネック]] {{Computer-stub}} {{CPU technologies}} {{デフォルトソート:のいまんかた}} [[Category:フリンの分類]] [[Category:コンピュータの仕組み]] [[Category:コンピュータアーキテクチャ]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:ジョン・フォン・ノイマン]] [[Category:エポニム]]
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集積回路
集積回路(しゅうせきかいろ、英: integrated circuit, IC)は、半導体の表面に、微細かつ複雑な電子回路を形成した上で封入した電子部品である。 製造においては、フォトリソグラフィという光学技術を利用することにより、微細な素子や配線をひとつずつ組み立てることなく大量に生産できるため、現在のコンピュータやデジタル機器を支える主要な技術の一つとなっている。 20世紀中頃に、トランジスタの発明に次いで考案されて以降、製造技術の進歩により急速に微細化し、性能が向上してきた。 集積回路とは、シリコン単結晶などに代表される「半導体チップ」の表面に、不純物を拡散させることによって、トランジスタ・コンデンサ・抵抗器として動作する構造を形成したり、アルミ蒸着とエッチングによって配線を形成したりすることにより、複雑な機能を果たす電子回路が作り込まれている電子部品である。 多くの場合、複数の端子を持つ比較的小型のパッケージに封入され、内部で端子からチップに配線されモールドされた状態で、部品・製品となっている。 実際に集積回路を考案したのは、レーダー科学者ジェフリー・ダマー(1909年生まれ)であった。彼はイギリス国防省の王立レーダー施設で働き、1952年5月7日ワシントンD.C.でそのアイデアを公表した。しかし、ダマーは1956年、そのような回路を作ることに失敗した。各企業は集積回路の実現を目指して、RCAのマイクロモジュール、ウェスティングハウス・エレクトリックのモレキュラーエレクトロニクス、テキサス・インスツルメンツのソリッドステートサーキットが開発された。 初期の集積回路の概念は、モノリシックICというより後のハイブリッドICに近いもので、この概念にしたがって、基板に真空蒸着で抵抗素子やコンデンサを形成してトランジスタと組み合わせる薄膜集積回路や、現在のプリンテッドエレクトロニクスに相当する印刷技術により抵抗や配線、コンデンサなどを1枚のセラミック基板上に集積した厚膜集積回路が開発されていった。 また、1958年にはウェスティングハウスから「Molectronics」という名称の集積回路の概念が発表され、1960年2月にSemiconductor Product誌に掲載された記事に触発されて、電気試験所でも同年12月に、見方次第ではマルチチップ構造のハイブリッドICともいえる、ゲルマニウムのペレット3個を約1cm角の樹脂容器に平行に配列した集積回路の試作に成功した。 1961年2月には、ウェスティングハウスと技術提携した三菱電機から、11種類のモレクトロンが発表された。日本で最初のモノリシック集積回路は、東京大学と日本電気 (NEC) の共同開発とされる。 著名な集積回路の特許は、アメリカ合衆国の別々の2つの企業の、2人の研究者による異なった発明にそれぞれ発行された。テキサス・インスツルメンツのジャック・キルビーの特許「Miniaturized electronic circuits」は1959年2月に出願され、1964年6月に特許となった (アメリカ合衆国特許第 3,138,743号)。フェアチャイルドセミコンダクターのロバート・ノイスの特許「Semiconductor device-and-lead structure」は1959年7月に出願され、1961年4月に特許となった(アメリカ合衆国特許第 2,981,877号)。しかし、「キルビー特許紛争」などと呼ばれるように(ちなみに「キルビー特許」に対し、ノイスの特許は「プレーナー特許」と呼ばれることがある)多くの議論を発生させることとなった。 技術的な内容とはほぼ無関係に、業界の権益争いとして、特許優先権委員会においてどちらの特許が「集積回路の特許として有効であるか」を、法的に認定させる争いが勃発した(技術的な判断が目的なのではなく、あくまで「法的にどちらが有効か」を認めさせることが目的である)。キルビーの特許出願から10年10か月を経て決着し、ノイスの勝利が確定した。しかし、そのような法的勝利は、実際にはほとんど意味がなかった。 ライセンスビジネス的には、1966年にテキサス・インスツルメンツとフェアチャイルドセミコンダクターを含む十数社のエレクトロニクス企業が、集積回路のライセンス供与について合意に達していたからであり、技術と法律とビジネスというものについて、教訓的な事例となっている。またさらに日本では、20年の紆余曲折を経て1989年に特許となったことで、莫大な額の請求等を伴う紛争となり「サブマリン特許制度」のタチの悪さを際立たせるという役割を担う結果となった。 キルビーとノイスは後に、ともにアメリカ国家技術賞を受け、全米発明家殿堂入りをした。 SSI, MSI, LSI というのは、集積する素子の数によってICを分類定義したものである。「MSI IC」のようにも言うものであるが、今日ではほぼ使われない。比較的小規模のものを単にIC、比較的大規模のものを単にLSIとしているが、現在ではICとLSIを同義語として使うことも多い。 初期の集積回路はごくわずかなトランジスタを集積したものであった。これをSSI (Small Scale Integration) とするのであるが、後にMSI (Middle Scale Integration) やLSI (Large Scale Integration) という語と同時に作られたと思われる、おそらくレトロニムであろう。航空宇宙分野のプロジェクトで珍重され、それによって発展した。ミニットマンミサイルとアポロ計画は慣性航法用計算機として軽量のデジタルコンピュータを必要としていた。アポロ誘導コンピュータは集積回路技術を進化させるのに寄与し、ミニットマンミサイルは量産化技術の向上に寄与した。これらの計画が1960年から1963年まで生産されたICをほぼ全て買い取った。これにより製造技術が向上したために製品価格が40分の1になり、それ以外の需要が生まれてくることになった。 民生品として大量のICの需要を発生させたのは電卓だった。コンピュータ(メインフレーム)でのICの採用は、System/360では単体のトランジスタをモジュールに集積したハイブリッド集積回路(IBMはSLTと呼んだ)にとどまり、モノリシック集積回路の採用はSystem/370からであった。 1960年代に最初の製品があらわれた汎用ロジックICは、やがて多品種が大量に作られるようになり、コンピュータのようにそれらを大量に使用する製品や、あるいは家電など大量生産される機器にも使われるようになっていった。1970年代にはマイクロプロセッサが現れた。 集積度の高いMSIやLSIが普通に生産されるようになると、そのうちそのような分類も曖昧になって、マイクロプロセッサなど比較的複雑なものをLSI、汎用ロジックICなど比較的単純なものをIC、と大雑把に呼び分ける程度の分類となった。 もとの分類ではLSIに全て入るわけだが、1980年代に開発され始めたより大規模な集積回路をVLSI (Very Large Scale Integration) とするようになった。これにより、これまでの多数のICで作られていたコンピュータに匹敵する規模のマイクロプロセッサが製作されるようになった。1986年、最初の1MbitRAMが登場した。これは100万トランジスタを集積したものである。1993年の最初のPentiumには約310万個のトランジスタが集積されている。また、設計のルール化はそれ以前と比較して設計を容易にした。 また、カーバー・ミードとリン・コンウェイの『超LSIシステム入門』によりVLSIにマッチした設計手法が提案された。これはMead & Conway revolution(en:Mead & Conway revolution)と呼ばれることもあるなどの影響をもたらした。たとえば、1950年代には、大学で最先端のコンピュータを実際に建造するなどといったこともさかんだったわけであるが、1970年頃以降にはコストの点で現実的ではなくなっていた。それが、CAD等の助けによりパターンを設計してチップ化する、という手法で、大学などでも最先端の実際の研究がまた可能になった、といった変化を齎したのが一例である。たとえば初期のRISCとして、IBM 801、バークレイRISC(SPARCへの影響が大きい)、スタンフォード系のMIPSがまず挙がるが、後者2つにはその影響がある。 VLSIに続いて、新たに ULSI (Ultra-Large Scale Integration) という語も作られ、集積される素子数が100万以上とも1000万以上ともされているが、そのような集積度の集積回路も、今日普通はVLSIとしている。 WSI (Wafer-Scale Integration) は、複数のコンピュータ・システム等の全体をウェハー上に作り込み、個別のダイに切り離さずにウェハーの大きさのままで使用するという構想である。現状では、1品もので、コストが非常に高額であっても良いというような特殊な用途・特殊な要求に基づき生産するような装置で採用されている。たとえば、人工衛星や天体観測望遠鏡の光学受像素子では、つなぎ合わせて作ると歪みや隙間が生ずるので、1枚のウェハーの全面を使用した物が作られている。 System-on-a-chip (SoC) は、従来別々のダイで構成されていたものを統合することで、独立して動作するシステム全体をひとつの集積回路上に実現するものである。例えば、マイクロプロセッサとメモリ、周辺機器インターフェースなどを1つのチップに集積するものである。 集積回路技術の進歩の一例であるが、以前は撮像管などと呼ばれる真空管だった、映像を撮影する撮像素子も、電荷結合素子 (CCD) の技術開発が進み、固体撮像素子としてCCDイメージセンサが作られ、家庭用ビデオカメラの大幅な小型化などにまず貢献した。続いてCMOSイメージセンサも作られた。やがて静止写真用にも十分な解像度を持つようになり、デジタルカメラが銀塩カメラを一掃した。 このシステムは、単結晶硅素の無機の整列アレイを含む無機電子材料と、極薄のプラスチックやエラストマー基板を統合している。 半導体製造は、ウェハー上に回路を形成する前工程と、そこで作られたウェハーをダイに切断し、パッケージに搭載した後に最終検査を行う後工程に大きく二分される。なお、これらの工程は一般に複数の工程専門企業がそれぞれの工場で順次行っていくものである。1社ですべての工程を行うケースはほぼなく、あったとしても非常に稀である。 一般的には、設計・ウェハー製造・表面処理・回路形成・ダイシング・基材製造・ボンディングの各工程に専業企業が存在し、デザイン・ウェハー切り出し・アンダーフィリング・検査が前記から分かれて専業化している場合、加えて各工程で使用される材料・加工にも専業メーカーが存在する。一つの集積回路パッケージが出来上がるまでに関わるメーカーの数は少なくとも5、多いときには30社とも言われる。 集積回路の母材となるウェハーの原材料は、半導体の性質を持つ物質である。一般的な集積回路ではそのほとんどがシリコンであるが、高周波回路では超高速スイッチングが可能なヒ化ガリウム、低電圧で高速な回路を作りやすいゲルマニウムも利用される。 集積回路の歩留まりとコストは、ウェハーの原材料である単結晶インゴットの純度の高さと結晶欠陥の数、そして直径に大きく左右される。2007年末現在のウェハーの直径は300 mmに達する。インゴットのサイズを引き上げるには、従来の技術だけでは欠陥を低くすることが難しく、多くのメーカーが揃って壁に突き当たった時期があった。シリコン単結晶引き上げ装置のるつぼを超伝導磁石で囲みこみ、溶融したシリコンの対流を強力な磁場で止めることで欠陥の少ない単結晶が製造可能になった。 前工程は、設計者によって作られた回路のレイアウトに従ってウェハー上に集積回路を作り込む工程である。光学技術、精密加工技術、真空技術、統計工学、プラズマ工学、無人化技術、微細繊維工学、高分子化学、コンピュータ・プログラミング、環境工学など多岐にわたる技術によって構成される。 集積回路は半導体表面に各種表面処理を複数実施して製造される。まずウェハーにはイオン注入によってドープ物質を打ち込み、不純物濃度を高める措置が行われる(最初に作られるこの層がゲートなどの集積回路の中枢となる)。さらにSOIではウェハーに絶縁層を焼きこむか張り合わせることで漏れ電流を押さえ込む処置が行われる。そしてレジスト膜の塗布、ステッパーによる露光、現像処理によるレジスト処理を複数行い、その間に回路構造物の母体となるシリコンの堆積、イオン注入によるドープ物質の注入、ゲートや配線の土台となる絶縁膜の生成、金属スパッタリングによる配線、エッチングによる不要部分の除去などが行われる(フォトリソグラフィ)。集積回路の立体的な複雑さを配線層の枚数で数えることから4層メタル・6層メタル等と表現する。この表面処理技術は現在進行形であり、2014年現在ではHigh-K絶縁膜、添加物打ち込み、メタルゲート、窒化物半導体素子など新たな技術が導入されている。さらに新しい技術は、より微細化したプロセス・ルールと共に世に出ると言われている。 半導体工場の生産ラインは、それ自体が巨大なクリーンルームとなっている。生物学的クリーンルームよりも、半導体製造現場のほうが遥かに清浄度が高い。ウェハー上の1つの細菌細胞は、トランジスタ100個近くを覆い隠す。2008年の先端プロセス・ルールである45nmは、ウイルス以下の大きさである。製造中の半導体は、人間がいる環境ではどこにでもあるナトリウムに大変弱く、それが絶縁膜に浸透するため、特にCMOSトランジスタには致命的欠陥になる。 半導体工場のクリーンルーム内に導入される空気は、部屋や場所ごとに設定されたクリーン度に応じて、何度もHEPAフィルターやULPAフィルターで、空中微粒子を濾しとられたものが使われる。また水はイオン交換樹脂とフィルターによって、空気同様に水中微粒子を徹底的に除去された超純水を使用している。 大量のナトリウムを含み、皮膚から大量の角質細胞の破片を落下させ、振動をもたらすヒトは、半導体プロセスにとって害をなす以外の何物でもなく、クリーンスーツ、いわゆる“宇宙服”を着て、製造ラインを汚染しないようにしている。もっとも工場は高度に自動化されており、人間が製造ラインに出向くのは、機械の故障といったトラブルがあった時だけである。 ウェハー上への回路形成が完了したら、半導体試験装置を用いて回路が正常に機能するかを確認するウェハーテストを行う。半導体の動作特性は温度にも左右されるため、常温に加え高温や低温下での試験も行われる。 ウェハーテストの結果はダイにマーキングされ、後述する後工程では良品とマークされたダイのみが組み立て対象となる。 ダイ面積の大きい超大規模集積回路では、チップ上に一つも欠陥がない完璧な製品を作ることは非常に難しい。そこで、設計段階で予備の回路を前もって追加し、ウェハーテストで不良が検出されたときにそこを予備回路で補うことで歩留まりを上げる救済が行われる。回路の切り替えは、回路上に形成されたヒューズを、レーザーまたはウェハーテスト中に電流を流して切断することで実現している。 DRAMやフラッシュメモリでは、製品で決められた容量に加え予備のメモリ領域を用意しておき、不良箇所をテストで見つけた時点で配線のヒューズを切り予備領域に切り替えることが一般的に行われる。また、CPUでオンダイのコプロセッサや、マルチコアプロセッサの各コアなど、その内部に不良があった場合にはそれを切り離して、ラインナップ中の低グレードの製品とする、あるいは最初から全てが機能することは期待しない、といった手法もある。例えば、CellプロセッサはSynergistic Processor Element()をマスクパターンとしては8個用意しているが、ゲーム機PlayStation 3では、使用可能なSynergistic Processor Elementを7個に設定し、不良コアが一つ発生しているダイでも利用可能とした。 前工程で良品としてマーキングされた回路をウェハーから切り出し、シートに貼り付けてパッケージに搭載する。端子との配線や樹脂で封止し、最終製品の形になる。その後、初期不良をあぶり出すバーンイン試験や製品の機能を確認するファイナルテストを経て出荷される。 ダイシング工程では、前工程で製造されたウェハーをチップの形に切り離す。ダイシングには、薄い砥石を用いて切断する方法と、レーザーを用いる方法が主流である。 チップをパッケージ基板に搭載し、チップ側の端子とパッケージの端子を接続する工程はボンディングと呼ばれる。主なボンディング手法を下に示す。 ボンディングによる配線が完了したら、外部からの衝撃や水分から集積回路を保護する封止を行う。一般的な集積回路では、モールド剤でチップやボンディングワイヤーを保護するための注入成形を行う。集積回路の黒い外見はこの樹脂によるものである。樹脂が固まった後、チップ毎に切り離せば集積回路は完成する。近年のCPUやGPU、液晶ドライバICなどの超精密集積回路にはモールド剤を用いず、アンダーフィルと呼ばれる一液硬化の樹脂を用いる。ボンディングの後、基材とIC間に注入を行いキュア炉と呼ばれる装置でリフローし、硬化させる。 集積回路の故障率は一般的にバスタブカーブと呼ばれる確率分布に従う。バスタブカーブでは、使用開始直後に高い不良率を示す初期不良期間を経て、低い不良率を維持する偶発故障期間に移行する。劣化を加速する条件下で短時間集積回路を動作させることでこの初期不良をあぶり出す工程がバーンイン(burn-in、焼入れ。エイジングとも)である。バーンインであぶり出された初期不良は次の品質検査によって取り除かれる。 具体的には、高温下で一定時間集積回路に電流を流すことで劣化を加速している。これは、劣化を化学反応として捉えた場合、劣化速度と温度はアレニウスの式の関係に従うとの考え方によるものである。 最後に、集積回路が製品として正常に機能するかを確認する検査を行う。封止樹脂に欠けやひび、リードフレームやBGAパッケージのボール端子に異常が無いかを確認する外観検査、ボンディングによる電気接続が確実に行われ、チップが完全に動作するかを半導体検査装置で確認する電気検査が行われる。 EEPROMやフラッシュメモリなどの記憶素子を混載した製品では、プログラムをそれらに書き込む作業も行われる。プログラムの内容を切り替えることで、同一のマスクから異なるグレードや入出端子の異なる集積回路を作り出すことができる。またCPU等の製品で、実際に動作可能な最高速度に応じたクロック倍率を後処理で設定することで、グレードの異なる製品を同一生産ラインから製造している。 プロセス・ルールとは、集積回路をウェハーに製造するプロセス条件をいい、最小加工寸法を用いて表す。プロセス・ルールによって、回路設計での素子や配線の寸法を規定するデザイン・ルールが決まる。 通常、最小加工寸法はゲート配線の幅または間隔である。ゲート配線幅が狭くできれば、金属酸化物電界効果トランジスタ (MOSFET) のゲート長が短くなるから、ソースとドレインの間隔が短くなり、チャネル抵抗が小さくなる。したがって、トランジスタの駆動電流が大きくなり、高速動作が期待できる。このため、プロセス・ルールは、高速化を期待して、ゲート長のことを指す場合もある。特にDRAMプロセスでは、ゲート長はゲート配線の最小寸法を使わない場合があるし、拡散層とメタル層を導通させるコンタクトの径が最小加工寸法の場合もある。つまり、プロセス・ルールは、製造上の技術的な高度さや困難さを示す指標と言える。 プロセス・ルールが半分になれば、ダイの外部配線部を除けば、同じ面積に4倍のトランジスタや配線が配置できるため、同じトランジスタ数では4倍 (4分の1) の面積になる。ダイ面積が4分の1に縮小できれば1枚のウェハーから取れるダイが4倍になるだけでなく、歩留まりが改善されるためさらに多くのダイが取れる。トランジスタ素子が小さくなればMOSFETのチャネル長が短くなり、ON/OFFの閾値の電圧 (Vth) を下げられ、低電圧で高速のスイッチング動作が可能となるため、リーク電流の問題を考えなければ、消費電力を下げながら性能が向上する。 伝播遅延 τ {\displaystyle \tau } は次の式に表される関係に従う。 プロセス・ルールは、フォトマスクからウェハーに回路を転写する半導体露光装置の光学分解能や、エッチング工程の寸法変換差の改善などで更新されてきた。プロセス・ルールの将来予測は、ムーアの法則を引用されることが多い。 半導体露光装置は非常に高い工作精度が要求され、製造の大部分が人間の手作業で行われる。ウェハーを載せるスライドテーブルは、高い水平度を実現するために非常にキメの細かい砥石で職人が磨いたレールの上に乗せられる。微細パターンをウェハー上に転写する光学系には、原子単位で表面の曲率が修正されている超高精度なレンズが用いられている。 半導体露光装置メーカーは1社か2社の最先端半導体メーカーと共同で次の世代や次々世代の半導体露光装置を開発し、まずその半導体メーカーに向けて製造する。その開発によって生み出された装置を、2 - 3年程度後に最先端に続く半導体メーカーが量産のために購入する頃には最先端半導体メーカーはその先の世代の試験運用をはじめる。この循環があるために演算プロセッサのプロセスルールは、350 nm/250 nm/180 nm/130 nm/90 nm/65 nm/45 nm/32 nm/22 nm/14 nm/10 nm といった飛びとびの値になるのが普通である。最先端のプロセス・ルールは2020年時点で5nmに達していて、3 nm, 2 nmと微細化が進んで行くと予想されている。一方DRAMやフラッシュメモリのような記憶用半導体では小刻みにプロセスルールを縮小している。DRAMにおける一般的なプロセス・ルールは2007年には65nm、2008年には57 nmと縮小を行い、2013年には32 nmを想定している。これは、製品の急激な低価格化によって各メーカーが新規投資を控え、既存設備の改善によって生産性を向上させることが狙いである。ただし最先端の微細化が要求される携帯端末向けなどには、2010年時点で25nmの製品が、2020年時点で10 nmの製品が投入されている。 微細化によってプロセスルールが使われる光源の波長よりも短くなると、光の回折や干渉によってマスクの形とウェハー上に作られる像の食い違いが大きくなり、設計通りの回路が形成できなくなる。この問題を解決するため、回路設計にあらかじめこれらの光学効果を織り込んでおく光学近接効果補正が130 nm以下のルールで行われるようになった。光学近接効果補正は、EDAによる自動化が普及している。 2020年頃には、5nmに到達し、CMOSを使った微細化の限界が訪れるとの推測されており、新しい素材・構造の研究や微細化に頼らない手段による集積度の向上も模索されている。 また携帯電話の小型カメラ撮像素子ではフットプリントの都合上、非常に微細化したイメージセンサーを使う。しかし、このセンサーの画素密度は可視光波長では従来のカラーフィルタ方式がまったく役に立たなくなる。このため、メタル層で光を回折させて分光を行ったり、窒化物半導体素子を使って分光することにより、プロセスルールよりも遥かに長い可視光をフォトダイオードに導く。APS-Cサイズで2000万画素を超えるものも同様である。 歩留まりとは、ウェハーから取れる全てのダイに対する良品ダイの割合を指し、イールド・レート (yield rate) とも呼ばれる。PC用のCPUのように、同じ生産ラインで同じ製造工程を経た製品を、完成製品に後からテストによってグレード(動作周波数)を割り振ることがあるので、グレードを下げれば(低クロックでしか動作させられないCPUでも良品と見なせるため)歩留まりが上がるという結果になる。 半導体故障解析とは、極めて多くの素子の集合体である集積回路に於いて、何処が、どの様に、壊れているのかを解析する技術である。LSIテスタ(半導体試験装置)では、不良品であることは分かっても、その回路の何処に異常があるのかまでは分からない。数千万ものトランジスタが集積された回路に於いて、その一つ一つを試験していくのは現実的ではなく、また、それ以上に配線の不良などもあり得る。従って、集積回路の登場当初から、集積度の向上に伴って、故障解析技術も進歩している。 モノリシック集積回路は1片のチップに、トランジスタ、ダイオード、抵抗器などの回路素子を形成し、素子間をアルミニウムなどの蒸着によって配線した後、数mm - 十数mm角の小片に切り出したものである。組み立て工数が少ないため安価である。 シリコン(Si、珪素)単結晶基板上に平面状に構成するトランジスタ(プレーナ型トランジスタ)を発展させたものである。アナログICとデジタルICのどちらも1960年代から発展が始まっているが、1990年代には製造プロセスの進歩により高度なアナログ・デジタル混在回路も見られるようになった。 比較的小さいプリント基板に、多数の個別部品や複数のチップ(マルチチップモジュール)などを直接、高密度さらには立体的に実装・配線し、さらにモールドするなどして一体の部品としたものである。 制御回路が一体化された大電力の増幅回路やスイッチング回路(インテリジェントパワーモジュール)や、高密度実装が要求される携帯機器・自動車・航空機・軍事用、集積回路同士の距離が演算速度に影響を与えるスーパー・コンピュータやメインフレーム・コンピュータなどに用いられる。メインフレームコンピュータやスーパーコンピュータで使われるマルチチップモジュールは100層を超えるセラミック基板を焼結生成した非常に高度な立体回路を構成している。プリント基板においてもビルドアップと呼ばれる、複数の多層基板を貼り合わせて回路を構成する技術が開発されているため、ハイブリッド集積回路の多層化製品とプリント基板の多層化製品の境目は無くなっている。 コンピューターに耐タンパー性能を与えるためのSystem-on-a-chipモジュール。I/Oポートと電源端子のみを備え、マイクロコントローラーとして全てのロジックをワンチップに収納してある。鍵管理・鍵ブロックの登録と払い出し・Worm機能などが盛り込まれ、中間者攻撃やサイドチャネル攻撃からコンピューターシステムを防御する。世界で最も多く使われているセキュリティチップがICカードである。システム防衛の要として使われるが、通常スタンドアロンで動作する物は無い。バックエンドシステムにデータベースを備え、そのデータベースにアクセスする鍵が格納される(過去に実データを格納するICカードもあったが耐タンパー性の悪さから、B-CASカード等限定受信システム以外は撤退している。日本、EUではカードが解析・改ざんされ限定受信システムが崩壊した)。おサイフケータイ・Suicaなどで知られるワイヤレス電子マネー・電子発券システムもセキュリティチップである。このシェアはソニーが開発したFelicaが主流であり、NFCとしてISOで標準化された。携帯電話のSIMカードもセキュリティチップである。Microsoft WindowsはWindows Vistaから、セキュリティチップの本格採用を始めた。セキュリティチップに電子証明書を格納し、ハードディスクを暗号化する。それ以前は電子署名ベースのEFSを搭載していたが、ユーザープロファイルの消滅がユーザー証明書の喪失につながりデータを損失する事故があった。またシステム全体を暗号化することができなかった。インテルはvProとしてWindows NTにセキュリティチップをオプションで採用した暗号化システムを提供していた。しかし一般ユーザーには利用されず、主にITプロフェッショナルが運用する大規模システムでつかわれた。 耐タンパー性技術は日々進歩しており、長い鍵を処理できる高性能プロセッサの搭載、光消去EPROMによるチップ取り出しの困難化(チップに光を当てるとフローティングゲートから電荷が流出してデータが消滅する)など改良が重ねられている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "集積回路(しゅうせきかいろ、英: integrated circuit, IC)は、半導体の表面に、微細かつ複雑な電子回路を形成した上で封入した電子部品である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "製造においては、フォトリソグラフィという光学技術を利用することにより、微細な素子や配線をひとつずつ組み立てることなく大量に生産できるため、現在のコンピュータやデジタル機器を支える主要な技術の一つとなっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "20世紀中頃に、トランジスタの発明に次いで考案されて以降、製造技術の進歩により急速に微細化し、性能が向上してきた。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "集積回路とは、シリコン単結晶などに代表される「半導体チップ」の表面に、不純物を拡散させることによって、トランジスタ・コンデンサ・抵抗器として動作する構造を形成したり、アルミ蒸着とエッチングによって配線を形成したりすることにより、複雑な機能を果たす電子回路が作り込まれている電子部品である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "多くの場合、複数の端子を持つ比較的小型のパッケージに封入され、内部で端子からチップに配線されモールドされた状態で、部品・製品となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "実際に集積回路を考案したのは、レーダー科学者ジェフリー・ダマー(1909年生まれ)であった。彼はイギリス国防省の王立レーダー施設で働き、1952年5月7日ワシントンD.C.でそのアイデアを公表した。しかし、ダマーは1956年、そのような回路を作ることに失敗した。各企業は集積回路の実現を目指して、RCAのマイクロモジュール、ウェスティングハウス・エレクトリックのモレキュラーエレクトロニクス、テキサス・インスツルメンツのソリッドステートサーキットが開発された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "初期の集積回路の概念は、モノリシックICというより後のハイブリッドICに近いもので、この概念にしたがって、基板に真空蒸着で抵抗素子やコンデンサを形成してトランジスタと組み合わせる薄膜集積回路や、現在のプリンテッドエレクトロニクスに相当する印刷技術により抵抗や配線、コンデンサなどを1枚のセラミック基板上に集積した厚膜集積回路が開発されていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また、1958年にはウェスティングハウスから「Molectronics」という名称の集積回路の概念が発表され、1960年2月にSemiconductor Product誌に掲載された記事に触発されて、電気試験所でも同年12月に、見方次第ではマルチチップ構造のハイブリッドICともいえる、ゲルマニウムのペレット3個を約1cm角の樹脂容器に平行に配列した集積回路の試作に成功した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1961年2月には、ウェスティングハウスと技術提携した三菱電機から、11種類のモレクトロンが発表された。日本で最初のモノリシック集積回路は、東京大学と日本電気 (NEC) の共同開発とされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "著名な集積回路の特許は、アメリカ合衆国の別々の2つの企業の、2人の研究者による異なった発明にそれぞれ発行された。テキサス・インスツルメンツのジャック・キルビーの特許「Miniaturized electronic circuits」は1959年2月に出願され、1964年6月に特許となった (アメリカ合衆国特許第 3,138,743号)。フェアチャイルドセミコンダクターのロバート・ノイスの特許「Semiconductor device-and-lead structure」は1959年7月に出願され、1961年4月に特許となった(アメリカ合衆国特許第 2,981,877号)。しかし、「キルビー特許紛争」などと呼ばれるように(ちなみに「キルビー特許」に対し、ノイスの特許は「プレーナー特許」と呼ばれることがある)多くの議論を発生させることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "技術的な内容とはほぼ無関係に、業界の権益争いとして、特許優先権委員会においてどちらの特許が「集積回路の特許として有効であるか」を、法的に認定させる争いが勃発した(技術的な判断が目的なのではなく、あくまで「法的にどちらが有効か」を認めさせることが目的である)。キルビーの特許出願から10年10か月を経て決着し、ノイスの勝利が確定した。しかし、そのような法的勝利は、実際にはほとんど意味がなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ライセンスビジネス的には、1966年にテキサス・インスツルメンツとフェアチャイルドセミコンダクターを含む十数社のエレクトロニクス企業が、集積回路のライセンス供与について合意に達していたからであり、技術と法律とビジネスというものについて、教訓的な事例となっている。またさらに日本では、20年の紆余曲折を経て1989年に特許となったことで、莫大な額の請求等を伴う紛争となり「サブマリン特許制度」のタチの悪さを際立たせるという役割を担う結果となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "キルビーとノイスは後に、ともにアメリカ国家技術賞を受け、全米発明家殿堂入りをした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "SSI, MSI, LSI というのは、集積する素子の数によってICを分類定義したものである。「MSI IC」のようにも言うものであるが、今日ではほぼ使われない。比較的小規模のものを単にIC、比較的大規模のものを単にLSIとしているが、現在ではICとLSIを同義語として使うことも多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "初期の集積回路はごくわずかなトランジスタを集積したものであった。これをSSI (Small Scale Integration) とするのであるが、後にMSI (Middle Scale Integration) やLSI (Large Scale Integration) という語と同時に作られたと思われる、おそらくレトロニムであろう。航空宇宙分野のプロジェクトで珍重され、それによって発展した。ミニットマンミサイルとアポロ計画は慣性航法用計算機として軽量のデジタルコンピュータを必要としていた。アポロ誘導コンピュータは集積回路技術を進化させるのに寄与し、ミニットマンミサイルは量産化技術の向上に寄与した。これらの計画が1960年から1963年まで生産されたICをほぼ全て買い取った。これにより製造技術が向上したために製品価格が40分の1になり、それ以外の需要が生まれてくることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "民生品として大量のICの需要を発生させたのは電卓だった。コンピュータ(メインフレーム)でのICの採用は、System/360では単体のトランジスタをモジュールに集積したハイブリッド集積回路(IBMはSLTと呼んだ)にとどまり、モノリシック集積回路の採用はSystem/370からであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1960年代に最初の製品があらわれた汎用ロジックICは、やがて多品種が大量に作られるようになり、コンピュータのようにそれらを大量に使用する製品や、あるいは家電など大量生産される機器にも使われるようになっていった。1970年代にはマイクロプロセッサが現れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "集積度の高いMSIやLSIが普通に生産されるようになると、そのうちそのような分類も曖昧になって、マイクロプロセッサなど比較的複雑なものをLSI、汎用ロジックICなど比較的単純なものをIC、と大雑把に呼び分ける程度の分類となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "もとの分類ではLSIに全て入るわけだが、1980年代に開発され始めたより大規模な集積回路をVLSI (Very Large Scale Integration) とするようになった。これにより、これまでの多数のICで作られていたコンピュータに匹敵する規模のマイクロプロセッサが製作されるようになった。1986年、最初の1MbitRAMが登場した。これは100万トランジスタを集積したものである。1993年の最初のPentiumには約310万個のトランジスタが集積されている。また、設計のルール化はそれ以前と比較して設計を容易にした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また、カーバー・ミードとリン・コンウェイの『超LSIシステム入門』によりVLSIにマッチした設計手法が提案された。これはMead & Conway revolution(en:Mead & Conway revolution)と呼ばれることもあるなどの影響をもたらした。たとえば、1950年代には、大学で最先端のコンピュータを実際に建造するなどといったこともさかんだったわけであるが、1970年頃以降にはコストの点で現実的ではなくなっていた。それが、CAD等の助けによりパターンを設計してチップ化する、という手法で、大学などでも最先端の実際の研究がまた可能になった、といった変化を齎したのが一例である。たとえば初期のRISCとして、IBM 801、バークレイRISC(SPARCへの影響が大きい)、スタンフォード系のMIPSがまず挙がるが、後者2つにはその影響がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "VLSIに続いて、新たに ULSI (Ultra-Large Scale Integration) という語も作られ、集積される素子数が100万以上とも1000万以上ともされているが、そのような集積度の集積回路も、今日普通はVLSIとしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "WSI (Wafer-Scale Integration) は、複数のコンピュータ・システム等の全体をウェハー上に作り込み、個別のダイに切り離さずにウェハーの大きさのままで使用するという構想である。現状では、1品もので、コストが非常に高額であっても良いというような特殊な用途・特殊な要求に基づき生産するような装置で採用されている。たとえば、人工衛星や天体観測望遠鏡の光学受像素子では、つなぎ合わせて作ると歪みや隙間が生ずるので、1枚のウェハーの全面を使用した物が作られている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "System-on-a-chip (SoC) は、従来別々のダイで構成されていたものを統合することで、独立して動作するシステム全体をひとつの集積回路上に実現するものである。例えば、マイクロプロセッサとメモリ、周辺機器インターフェースなどを1つのチップに集積するものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "集積回路技術の進歩の一例であるが、以前は撮像管などと呼ばれる真空管だった、映像を撮影する撮像素子も、電荷結合素子 (CCD) の技術開発が進み、固体撮像素子としてCCDイメージセンサが作られ、家庭用ビデオカメラの大幅な小型化などにまず貢献した。続いてCMOSイメージセンサも作られた。やがて静止写真用にも十分な解像度を持つようになり、デジタルカメラが銀塩カメラを一掃した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "このシステムは、単結晶硅素の無機の整列アレイを含む無機電子材料と、極薄のプラスチックやエラストマー基板を統合している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "半導体製造は、ウェハー上に回路を形成する前工程と、そこで作られたウェハーをダイに切断し、パッケージに搭載した後に最終検査を行う後工程に大きく二分される。なお、これらの工程は一般に複数の工程専門企業がそれぞれの工場で順次行っていくものである。1社ですべての工程を行うケースはほぼなく、あったとしても非常に稀である。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "一般的には、設計・ウェハー製造・表面処理・回路形成・ダイシング・基材製造・ボンディングの各工程に専業企業が存在し、デザイン・ウェハー切り出し・アンダーフィリング・検査が前記から分かれて専業化している場合、加えて各工程で使用される材料・加工にも専業メーカーが存在する。一つの集積回路パッケージが出来上がるまでに関わるメーカーの数は少なくとも5、多いときには30社とも言われる。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "集積回路の母材となるウェハーの原材料は、半導体の性質を持つ物質である。一般的な集積回路ではそのほとんどがシリコンであるが、高周波回路では超高速スイッチングが可能なヒ化ガリウム、低電圧で高速な回路を作りやすいゲルマニウムも利用される。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "集積回路の歩留まりとコストは、ウェハーの原材料である単結晶インゴットの純度の高さと結晶欠陥の数、そして直径に大きく左右される。2007年末現在のウェハーの直径は300 mmに達する。インゴットのサイズを引き上げるには、従来の技術だけでは欠陥を低くすることが難しく、多くのメーカーが揃って壁に突き当たった時期があった。シリコン単結晶引き上げ装置のるつぼを超伝導磁石で囲みこみ、溶融したシリコンの対流を強力な磁場で止めることで欠陥の少ない単結晶が製造可能になった。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "前工程は、設計者によって作られた回路のレイアウトに従ってウェハー上に集積回路を作り込む工程である。光学技術、精密加工技術、真空技術、統計工学、プラズマ工学、無人化技術、微細繊維工学、高分子化学、コンピュータ・プログラミング、環境工学など多岐にわたる技術によって構成される。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "集積回路は半導体表面に各種表面処理を複数実施して製造される。まずウェハーにはイオン注入によってドープ物質を打ち込み、不純物濃度を高める措置が行われる(最初に作られるこの層がゲートなどの集積回路の中枢となる)。さらにSOIではウェハーに絶縁層を焼きこむか張り合わせることで漏れ電流を押さえ込む処置が行われる。そしてレジスト膜の塗布、ステッパーによる露光、現像処理によるレジスト処理を複数行い、その間に回路構造物の母体となるシリコンの堆積、イオン注入によるドープ物質の注入、ゲートや配線の土台となる絶縁膜の生成、金属スパッタリングによる配線、エッチングによる不要部分の除去などが行われる(フォトリソグラフィ)。集積回路の立体的な複雑さを配線層の枚数で数えることから4層メタル・6層メタル等と表現する。この表面処理技術は現在進行形であり、2014年現在ではHigh-K絶縁膜、添加物打ち込み、メタルゲート、窒化物半導体素子など新たな技術が導入されている。さらに新しい技術は、より微細化したプロセス・ルールと共に世に出ると言われている。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "半導体工場の生産ラインは、それ自体が巨大なクリーンルームとなっている。生物学的クリーンルームよりも、半導体製造現場のほうが遥かに清浄度が高い。ウェハー上の1つの細菌細胞は、トランジスタ100個近くを覆い隠す。2008年の先端プロセス・ルールである45nmは、ウイルス以下の大きさである。製造中の半導体は、人間がいる環境ではどこにでもあるナトリウムに大変弱く、それが絶縁膜に浸透するため、特にCMOSトランジスタには致命的欠陥になる。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "半導体工場のクリーンルーム内に導入される空気は、部屋や場所ごとに設定されたクリーン度に応じて、何度もHEPAフィルターやULPAフィルターで、空中微粒子を濾しとられたものが使われる。また水はイオン交換樹脂とフィルターによって、空気同様に水中微粒子を徹底的に除去された超純水を使用している。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "大量のナトリウムを含み、皮膚から大量の角質細胞の破片を落下させ、振動をもたらすヒトは、半導体プロセスにとって害をなす以外の何物でもなく、クリーンスーツ、いわゆる“宇宙服”を着て、製造ラインを汚染しないようにしている。もっとも工場は高度に自動化されており、人間が製造ラインに出向くのは、機械の故障といったトラブルがあった時だけである。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ウェハー上への回路形成が完了したら、半導体試験装置を用いて回路が正常に機能するかを確認するウェハーテストを行う。半導体の動作特性は温度にも左右されるため、常温に加え高温や低温下での試験も行われる。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ウェハーテストの結果はダイにマーキングされ、後述する後工程では良品とマークされたダイのみが組み立て対象となる。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ダイ面積の大きい超大規模集積回路では、チップ上に一つも欠陥がない完璧な製品を作ることは非常に難しい。そこで、設計段階で予備の回路を前もって追加し、ウェハーテストで不良が検出されたときにそこを予備回路で補うことで歩留まりを上げる救済が行われる。回路の切り替えは、回路上に形成されたヒューズを、レーザーまたはウェハーテスト中に電流を流して切断することで実現している。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "DRAMやフラッシュメモリでは、製品で決められた容量に加え予備のメモリ領域を用意しておき、不良箇所をテストで見つけた時点で配線のヒューズを切り予備領域に切り替えることが一般的に行われる。また、CPUでオンダイのコプロセッサや、マルチコアプロセッサの各コアなど、その内部に不良があった場合にはそれを切り離して、ラインナップ中の低グレードの製品とする、あるいは最初から全てが機能することは期待しない、といった手法もある。例えば、CellプロセッサはSynergistic Processor Element()をマスクパターンとしては8個用意しているが、ゲーム機PlayStation 3では、使用可能なSynergistic Processor Elementを7個に設定し、不良コアが一つ発生しているダイでも利用可能とした。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "前工程で良品としてマーキングされた回路をウェハーから切り出し、シートに貼り付けてパッケージに搭載する。端子との配線や樹脂で封止し、最終製品の形になる。その後、初期不良をあぶり出すバーンイン試験や製品の機能を確認するファイナルテストを経て出荷される。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ダイシング工程では、前工程で製造されたウェハーをチップの形に切り離す。ダイシングには、薄い砥石を用いて切断する方法と、レーザーを用いる方法が主流である。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "チップをパッケージ基板に搭載し、チップ側の端子とパッケージの端子を接続する工程はボンディングと呼ばれる。主なボンディング手法を下に示す。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ボンディングによる配線が完了したら、外部からの衝撃や水分から集積回路を保護する封止を行う。一般的な集積回路では、モールド剤でチップやボンディングワイヤーを保護するための注入成形を行う。集積回路の黒い外見はこの樹脂によるものである。樹脂が固まった後、チップ毎に切り離せば集積回路は完成する。近年のCPUやGPU、液晶ドライバICなどの超精密集積回路にはモールド剤を用いず、アンダーフィルと呼ばれる一液硬化の樹脂を用いる。ボンディングの後、基材とIC間に注入を行いキュア炉と呼ばれる装置でリフローし、硬化させる。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "集積回路の故障率は一般的にバスタブカーブと呼ばれる確率分布に従う。バスタブカーブでは、使用開始直後に高い不良率を示す初期不良期間を経て、低い不良率を維持する偶発故障期間に移行する。劣化を加速する条件下で短時間集積回路を動作させることでこの初期不良をあぶり出す工程がバーンイン(burn-in、焼入れ。エイジングとも)である。バーンインであぶり出された初期不良は次の品質検査によって取り除かれる。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "具体的には、高温下で一定時間集積回路に電流を流すことで劣化を加速している。これは、劣化を化学反応として捉えた場合、劣化速度と温度はアレニウスの式の関係に従うとの考え方によるものである。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "最後に、集積回路が製品として正常に機能するかを確認する検査を行う。封止樹脂に欠けやひび、リードフレームやBGAパッケージのボール端子に異常が無いかを確認する外観検査、ボンディングによる電気接続が確実に行われ、チップが完全に動作するかを半導体検査装置で確認する電気検査が行われる。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "EEPROMやフラッシュメモリなどの記憶素子を混載した製品では、プログラムをそれらに書き込む作業も行われる。プログラムの内容を切り替えることで、同一のマスクから異なるグレードや入出端子の異なる集積回路を作り出すことができる。またCPU等の製品で、実際に動作可能な最高速度に応じたクロック倍率を後処理で設定することで、グレードの異なる製品を同一生産ラインから製造している。", "title": "製造工程" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "プロセス・ルールとは、集積回路をウェハーに製造するプロセス条件をいい、最小加工寸法を用いて表す。プロセス・ルールによって、回路設計での素子や配線の寸法を規定するデザイン・ルールが決まる。", "title": "プロセス・ルール" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "通常、最小加工寸法はゲート配線の幅または間隔である。ゲート配線幅が狭くできれば、金属酸化物電界効果トランジスタ (MOSFET) のゲート長が短くなるから、ソースとドレインの間隔が短くなり、チャネル抵抗が小さくなる。したがって、トランジスタの駆動電流が大きくなり、高速動作が期待できる。このため、プロセス・ルールは、高速化を期待して、ゲート長のことを指す場合もある。特にDRAMプロセスでは、ゲート長はゲート配線の最小寸法を使わない場合があるし、拡散層とメタル層を導通させるコンタクトの径が最小加工寸法の場合もある。つまり、プロセス・ルールは、製造上の技術的な高度さや困難さを示す指標と言える。", "title": "プロセス・ルール" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "プロセス・ルールが半分になれば、ダイの外部配線部を除けば、同じ面積に4倍のトランジスタや配線が配置できるため、同じトランジスタ数では4倍 (4分の1) の面積になる。ダイ面積が4分の1に縮小できれば1枚のウェハーから取れるダイが4倍になるだけでなく、歩留まりが改善されるためさらに多くのダイが取れる。トランジスタ素子が小さくなればMOSFETのチャネル長が短くなり、ON/OFFの閾値の電圧 (Vth) を下げられ、低電圧で高速のスイッチング動作が可能となるため、リーク電流の問題を考えなければ、消費電力を下げながら性能が向上する。", "title": "プロセス・ルール" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "伝播遅延 τ {\\displaystyle \\tau } は次の式に表される関係に従う。", "title": "プロセス・ルール" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "プロセス・ルールは、フォトマスクからウェハーに回路を転写する半導体露光装置の光学分解能や、エッチング工程の寸法変換差の改善などで更新されてきた。プロセス・ルールの将来予測は、ムーアの法則を引用されることが多い。", "title": "プロセス・ルール" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "半導体露光装置は非常に高い工作精度が要求され、製造の大部分が人間の手作業で行われる。ウェハーを載せるスライドテーブルは、高い水平度を実現するために非常にキメの細かい砥石で職人が磨いたレールの上に乗せられる。微細パターンをウェハー上に転写する光学系には、原子単位で表面の曲率が修正されている超高精度なレンズが用いられている。", "title": "プロセス・ルール" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "半導体露光装置メーカーは1社か2社の最先端半導体メーカーと共同で次の世代や次々世代の半導体露光装置を開発し、まずその半導体メーカーに向けて製造する。その開発によって生み出された装置を、2 - 3年程度後に最先端に続く半導体メーカーが量産のために購入する頃には最先端半導体メーカーはその先の世代の試験運用をはじめる。この循環があるために演算プロセッサのプロセスルールは、350 nm/250 nm/180 nm/130 nm/90 nm/65 nm/45 nm/32 nm/22 nm/14 nm/10 nm といった飛びとびの値になるのが普通である。最先端のプロセス・ルールは2020年時点で5nmに達していて、3 nm, 2 nmと微細化が進んで行くと予想されている。一方DRAMやフラッシュメモリのような記憶用半導体では小刻みにプロセスルールを縮小している。DRAMにおける一般的なプロセス・ルールは2007年には65nm、2008年には57 nmと縮小を行い、2013年には32 nmを想定している。これは、製品の急激な低価格化によって各メーカーが新規投資を控え、既存設備の改善によって生産性を向上させることが狙いである。ただし最先端の微細化が要求される携帯端末向けなどには、2010年時点で25nmの製品が、2020年時点で10 nmの製品が投入されている。", "title": "プロセス・ルール" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "微細化によってプロセスルールが使われる光源の波長よりも短くなると、光の回折や干渉によってマスクの形とウェハー上に作られる像の食い違いが大きくなり、設計通りの回路が形成できなくなる。この問題を解決するため、回路設計にあらかじめこれらの光学効果を織り込んでおく光学近接効果補正が130 nm以下のルールで行われるようになった。光学近接効果補正は、EDAによる自動化が普及している。", "title": "プロセス・ルール" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2020年頃には、5nmに到達し、CMOSを使った微細化の限界が訪れるとの推測されており、新しい素材・構造の研究や微細化に頼らない手段による集積度の向上も模索されている。", "title": "プロセス・ルール" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "また携帯電話の小型カメラ撮像素子ではフットプリントの都合上、非常に微細化したイメージセンサーを使う。しかし、このセンサーの画素密度は可視光波長では従来のカラーフィルタ方式がまったく役に立たなくなる。このため、メタル層で光を回折させて分光を行ったり、窒化物半導体素子を使って分光することにより、プロセスルールよりも遥かに長い可視光をフォトダイオードに導く。APS-Cサイズで2000万画素を超えるものも同様である。", "title": "プロセス・ルール" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "歩留まりとは、ウェハーから取れる全てのダイに対する良品ダイの割合を指し、イールド・レート (yield rate) とも呼ばれる。PC用のCPUのように、同じ生産ラインで同じ製造工程を経た製品を、完成製品に後からテストによってグレード(動作周波数)を割り振ることがあるので、グレードを下げれば(低クロックでしか動作させられないCPUでも良品と見なせるため)歩留まりが上がるという結果になる。", "title": "歩留まり" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "半導体故障解析とは、極めて多くの素子の集合体である集積回路に於いて、何処が、どの様に、壊れているのかを解析する技術である。LSIテスタ(半導体試験装置)では、不良品であることは分かっても、その回路の何処に異常があるのかまでは分からない。数千万ものトランジスタが集積された回路に於いて、その一つ一つを試験していくのは現実的ではなく、また、それ以上に配線の不良などもあり得る。従って、集積回路の登場当初から、集積度の向上に伴って、故障解析技術も進歩している。", "title": "半導体故障解析" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "モノリシック集積回路は1片のチップに、トランジスタ、ダイオード、抵抗器などの回路素子を形成し、素子間をアルミニウムなどの蒸着によって配線した後、数mm - 十数mm角の小片に切り出したものである。組み立て工数が少ないため安価である。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "シリコン(Si、珪素)単結晶基板上に平面状に構成するトランジスタ(プレーナ型トランジスタ)を発展させたものである。アナログICとデジタルICのどちらも1960年代から発展が始まっているが、1990年代には製造プロセスの進歩により高度なアナログ・デジタル混在回路も見られるようになった。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "比較的小さいプリント基板に、多数の個別部品や複数のチップ(マルチチップモジュール)などを直接、高密度さらには立体的に実装・配線し、さらにモールドするなどして一体の部品としたものである。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "制御回路が一体化された大電力の増幅回路やスイッチング回路(インテリジェントパワーモジュール)や、高密度実装が要求される携帯機器・自動車・航空機・軍事用、集積回路同士の距離が演算速度に影響を与えるスーパー・コンピュータやメインフレーム・コンピュータなどに用いられる。メインフレームコンピュータやスーパーコンピュータで使われるマルチチップモジュールは100層を超えるセラミック基板を焼結生成した非常に高度な立体回路を構成している。プリント基板においてもビルドアップと呼ばれる、複数の多層基板を貼り合わせて回路を構成する技術が開発されているため、ハイブリッド集積回路の多層化製品とプリント基板の多層化製品の境目は無くなっている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "コンピューターに耐タンパー性能を与えるためのSystem-on-a-chipモジュール。I/Oポートと電源端子のみを備え、マイクロコントローラーとして全てのロジックをワンチップに収納してある。鍵管理・鍵ブロックの登録と払い出し・Worm機能などが盛り込まれ、中間者攻撃やサイドチャネル攻撃からコンピューターシステムを防御する。世界で最も多く使われているセキュリティチップがICカードである。システム防衛の要として使われるが、通常スタンドアロンで動作する物は無い。バックエンドシステムにデータベースを備え、そのデータベースにアクセスする鍵が格納される(過去に実データを格納するICカードもあったが耐タンパー性の悪さから、B-CASカード等限定受信システム以外は撤退している。日本、EUではカードが解析・改ざんされ限定受信システムが崩壊した)。おサイフケータイ・Suicaなどで知られるワイヤレス電子マネー・電子発券システムもセキュリティチップである。このシェアはソニーが開発したFelicaが主流であり、NFCとしてISOで標準化された。携帯電話のSIMカードもセキュリティチップである。Microsoft WindowsはWindows Vistaから、セキュリティチップの本格採用を始めた。セキュリティチップに電子証明書を格納し、ハードディスクを暗号化する。それ以前は電子署名ベースのEFSを搭載していたが、ユーザープロファイルの消滅がユーザー証明書の喪失につながりデータを損失する事故があった。またシステム全体を暗号化することができなかった。インテルはvProとしてWindows NTにセキュリティチップをオプションで採用した暗号化システムを提供していた。しかし一般ユーザーには利用されず、主にITプロフェッショナルが運用する大規模システムでつかわれた。", "title": "セキュリティチップ" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "耐タンパー性技術は日々進歩しており、長い鍵を処理できる高性能プロセッサの搭載、光消去EPROMによるチップ取り出しの困難化(チップに光を当てるとフローティングゲートから電荷が流出してデータが消滅する)など改良が重ねられている。", "title": "セキュリティチップ" } ]
集積回路は、半導体の表面に、微細かつ複雑な電子回路を形成した上で封入した電子部品である。 製造においては、フォトリソグラフィという光学技術を利用することにより、微細な素子や配線をひとつずつ組み立てることなく大量に生産できるため、現在のコンピュータやデジタル機器を支える主要な技術の一つとなっている。 20世紀中頃に、トランジスタの発明に次いで考案されて以降、製造技術の進歩により急速に微細化し、性能が向上してきた。
{{Redirect|LSI}} {{redirect|マイクロチップ|動物のマイクロチップ|マイクロチップ (動物用)}} {{出典の明記|date=2018年9月}} [[ファイル:Raspberry Pi 3 (24986543980).png|代替文=|サムネイル|288x288ピクセル|[[基板]]に実装されたICの例(写真中央の正方形)]] '''集積回路'''(しゅうせきかいろ、{{lang-en-short|integrated circuit, '''IC'''}})は、[[半導体]]の表面に、微細かつ複雑な[[電子回路]]を形成した上で封入した[[電子部品]]である。 製造においては、[[フォトリソグラフィ]]という光学技術を利用することにより、微細な素子や配線をひとつずつ組み立てることなく大量に生産できるため、現在の[[コンピュータ]]やデジタル機器を支える主要な技術の一つとなっている。 [[20世紀]]中頃に、[[トランジスタ]]の発明に次いで考案されて以降、製造技術の進歩により急速に微細化し、性能が向上してきた。 == 概要 == 集積回路とは、[[ケイ素|シリコン]][[単結晶]]などに代表される「[[半導体]]チップ」{{efn|専門的には「ダイ」とも呼ぶ。}}の表面に、不純物を拡散させることによって、[[トランジスタ]]・[[コンデンサ]]・[[抵抗器]]として動作する構造を形成したり、アルミ[[蒸着]]と[[エッチング (微細加工)|エッチング]]によって配線を形成したりすることにより、複雑な機能を果たす[[電子回路]]が作り込まれている[[電子部品]]である{{efn|個別の部品を集積した「ハイブリッド集積回路」なども含める場合もあるが、ここではそちらへの言及は割愛する。}}。 多くの場合、複数の端子を持つ比較的小型の{{efn|多くの場合、端子とその間隔のために必要な大きさが、パッケージサイズの要因となっている。}}[[パッケージ (電子部品)|パッケージ]]に封入され、内部で端子からチップに配線されモールドされた状態で、部品・製品となっている。 <!--以下の解説は概要で必要ですか? 「製造工程」節に統合した方が良いのでは? ウェハーと呼ばれる薄い半導体基板の上に光学写真技術によって微細な素子や配線などの像を数十から数百個写し込み、その像を保護マスクとして半導体基板を溶かしたり上塗りしたりを十から数十回繰り返し、多数の同一回路を同時にひとつのウェハー上に作る。ウェハー上の回路はテスト前、または後にひとつずつ切り離されてダイ<ref>{{lang-en-short|die}}</ref>となる。良品だけがサブストレートやリード・フレームに載せられ、ボンディング・ワイヤやフリップ・チップの直接接続によって外部端子との配線が行われた後、プラスチックやセラミック、金属缶で出来たパッケージに封入され、動作テスト後に梱包・出荷される。--> == 歴史 == === 集積回路の誕生 === 実際に集積回路を考案したのは、[[レーダー]]科学者[[ジェフリー・ダマー]](1909年生まれ)であった。彼は[[イギリス国防省]]の王立レーダー施設で働き、1952年5月7日ワシントンD.C.でそのアイデアを公表した。しかし、ダマーは1956年、そのような回路を作ることに失敗した。各企業は集積回路の実現を目指して、[[RCA]]のマイクロモジュール、[[ウェスティングハウス・エレクトリック]]のモレキュラーエレクトロニクス、[[テキサス・インスツルメンツ]]のソリッドステートサーキットが開発された<ref name="exhibi719"/>。 初期の集積回路の概念は、モノリシックICというより後のハイブリッドICに近いもので、この概念にしたがって、基板に[[真空蒸着]]で[[抵抗素子]]や[[コンデンサ]]を形成して[[トランジスタ]]と組み合わせる[[薄膜集積回路]]や、現在の[[プリンテッドエレクトロニクス]]に相当する印刷技術により抵抗や配線、コンデンサなどを1枚のセラミック基板上に集積した厚膜集積回路が開発されていった<ref name="exhibi719"/>。 また、1958年には[[ウェスティングハウス・エレクトリック|ウェスティングハウス]]から「Molectronics」という名称の集積回路の概念が発表され<ref>城阪俊吉、[https://doi.org/10.5104/jiep1985.4.2 私とハイブリッドマイクロエレクトロニクスの出会い -戦後40年のやきもの] 『HYBRIDS.』 1988年 4巻 1号 p.2-20, {{doi|10.5104/jiep1985.4.2}}</ref>、1960年2月にSemiconductor Product誌に掲載された記事に触発されて、[[電気試験所]]でも同年12月に、見方次第ではマルチチップ構造のハイブリッドICともいえる、ゲルマニウムのペレット3個を約1'''cm'''角の樹脂容器に平行に配列した集積回路の試作に成功した<ref>{{citation|url=http://www.shmj.or.jp/shimura/ssis_shimura2_06.htm |title=米誌に触発された電試グループ }}</ref><ref>{{citation|url=http://www.shmj.or.jp/shimura/shimura_J_L/shimura2_06_3L.jpg |title=固体回路の一試作 昭和36(1961)年4月8日 電気四学会連合大会}}</ref>。 1961年2月には、ウェスティングハウスと技術提携した[[三菱電機]]から、11種類のモレクトロンが発表された<ref name="exhibi719">{{citation|url=http://www.shmj.or.jp/museum2010/exhibi719.htm |title=1960年代初 国産ICのスタート }}</ref>。日本で最初のモノリシック集積回路は、[[東京大学]]と[[日本電気]] (NEC) の共同開発とされる<ref>{{citation|url=http://www.shmj.or.jp:80/shimura/ssis_shimura2_07.htm |title= 東大グループは「固態型論理回路」}} 半導体産業人協会 日本半導体歴史館 志村資料室 第II部</ref>。 著名な集積回路の特許は、[[アメリカ合衆国]]の別々の2つの企業の、2人の研究者による異なった発明にそれぞれ発行された。[[テキサス・インスツルメンツ]]の[[ジャック・キルビー]]の特許「Miniaturized electronic circuits」は1959年2月に出願され、1964年6月に特許となった ({{US patent|3138743}})。[[フェアチャイルドセミコンダクター]]の[[ロバート・ノイス]]の特許「Semiconductor device-and-lead structure」は1959年7月に出願され、1961年4月に特許となった({{US patent|2981877}})。しかし、「[[キルビー特許]]紛争」などと呼ばれるように(ちなみに「キルビー特許」に対し、ノイスの特許は「プレーナー特許」と呼ばれることがある)多くの議論を発生させることとなった。 技術的な内容とはほぼ無関係に、業界の権益争いとして、特許優先権委員会においてどちらの特許が「集積回路の特許として有効であるか」を、法的に認定させる争いが勃発した(技術的な判断が目的なのではなく、あくまで「法的にどちらが有効か」を認めさせることが目的である)。キルビーの特許出願から10年10か月を経て決着し、ノイスの勝利が確定した。しかし、そのような法的勝利は、実際にはほとんど意味がなかった。 ライセンスビジネス的には、1966年に[[テキサス・インスツルメンツ]]と[[フェアチャイルドセミコンダクター]]を含む十数社のエレクトロニクス企業が、集積回路のライセンス供与について合意に達していたからであり、技術と法律とビジネスというものについて、教訓的な事例となっている。またさらに日本では、20年の紆余曲折を経て1989年に特許となったことで、莫大な額の請求等を伴う紛争となり「[[サブマリン特許|サブマリン特許制度]]」のタチの悪さを際立たせるという役割を担う結果となった。 キルビーとノイスは後に、ともに[[アメリカ国家技術賞]]を受け、[[全米発明家殿堂]]入りをした。 === SSI・MSI・LSI === SSI, MSI, LSI というのは、集積する素子の数によってICを分類定義<ref>{{Citation | title =The Bipolar Digital Integrated Circuits Data Book | publisher =日本テキサスインスツルメンツ}}<!--そこらへんを調べればいくらでも見つかるのは分かっています。求めているのは「初出」です--><!-- 初出かどうかはわかりませんが、このデータブックが日本の技術者達にこの分類法を広めました。TTL IC の SN7400 シリーズのデータブックです。 --></ref>したものである。「MSI IC」のようにも言うものであるが、今日ではほぼ使われない。比較的小規模のものを単にIC、比較的大規模のものを単にLSIとしているが、現在ではICとLSIを同義語として使うことも多い。 初期の集積回路はごくわずかなトランジスタを集積したものであった。これをSSI (Small Scale Integration) とするのであるが、後にMSI (Middle Scale Integration) やLSI (Large Scale Integration) という語と同時に作られたと思われる、おそらく[[レトロニム]]であろう。航空宇宙分野のプロジェクトで珍重され、それによって発展した。[[ミニットマンミサイル]]と[[アポロ計画]]は慣性航法用計算機として軽量のデジタルコンピュータを必要としていた。[[アポロ誘導コンピュータ]]は集積回路技術を進化させるのに寄与し、ミニットマンミサイルは量産化技術の向上に寄与した。これらの計画が1960年から1963年まで生産されたICをほぼ全て買い取った。これにより製造技術が向上したために製品価格が40分の1になり、それ以外の需要が生まれてくることになった。 民生品として大量のICの需要を発生させたのは[[電卓]]だった。コンピュータ([[メインフレーム]])でのICの採用は、[[System/360]]では単体のトランジスタをモジュールに集積したハイブリッド集積回路(IBMはSLTと呼んだ)にとどまり、モノリシック集積回路の採用は[[System/370]]からであった。 1960年代に最初の製品があらわれた[[汎用ロジックIC]]は、やがて多品種が大量に作られるようになり、コンピュータのようにそれらを大量に使用する製品や、あるいは家電など大量生産される機器にも使われるようになっていった。1970年代には[[マイクロプロセッサ]]が現れた。 集積度の高いMSIやLSIが普通に生産されるようになると、そのうちそのような分類も曖昧になって、マイクロプロセッサなど比較的複雑なものをLSI、汎用ロジックICなど比較的単純なものをIC、と大雑把に呼び分ける程度の分類となった。 === VLSI === もとの分類ではLSIに全て入るわけだが、1980年代に開発され始めたより大規模な集積回路をVLSI (Very Large Scale Integration) とするようになった。これにより、これまでの多数のICで作られていたコンピュータに匹敵する規模の[[マイクロプロセッサ]]が製作されるようになった。1986年、最初の1[[メガビット|Mbit]][[Random Access Memory|RAM]]が登場した。これは100万トランジスタを集積したものである。1993年の最初の[[Intel Pentium (1993年)|Pentium]]には約310万個のトランジスタが集積されている。また、設計のルール化はそれ以前と比較して設計を容易にした。 また、[[カーバー・ミード]]と[[リン・コンウェイ]]の『超LSIシステム入門』<ref>原題: {{lang|en|Introduction to VLSI Systems}}</ref>によりVLSIにマッチした設計手法が提案された。これはMead & Conway revolution([[:en:Mead & Conway revolution]])と呼ばれることもあるなどの影響をもたらした。たとえば、1950年代には、大学で最先端のコンピュータを実際に建造するなどといったこともさかんだったわけであるが、1970年頃以降にはコストの点で現実的ではなくなっていた。それが、CAD等の助けによりパターンを設計してチップ化する、という手法で、大学などでも最先端の実際の研究がまた可能になった、といった変化を齎したのが一例である。たとえば初期の[[RISC]]として、[[IBM 801]]、バークレイRISC([[SPARC]]への影響が大きい)、スタンフォード系の[[MIPSアーキテクチャ|MIPS]]がまず挙がるが、後者2つにはその影響がある。 === ULSI === VLSIに続いて、新たに ULSI (Ultra-Large Scale Integration) という語も作られ、集積される素子数が100万以上とも1000万以上ともされているが、そのような集積度の集積回路も、今日普通はVLSIとしている。<!--が、VLSIとULSIは集積度が向上した以外に本質的な違いはない。--><!-- ← 本質って何?--> === WSI === WSI (Wafer-Scale Integration) は、複数のコンピュータ・システム等の全体をウェハー上に作り込み、個別のダイに切り離さずにウェハーの大きさのままで使用するという構想である{{efn|1980年代に商用化しようとした例もあったが、歩留の制約を越えられずに失敗している。WSIの実用化の優先度は高くない。({{仮リンク|トリロジー・システムズ|en|Trilogy Systems}}の記事などで見られる)}}。現状では、1品もので、コストが非常に高額であっても良いというような特殊な用途・特殊な要求に基づき生産するような装置で採用されている。たとえば、[[人工衛星]]や天体観測[[望遠鏡]]の光学受像素子では、つなぎ合わせて作ると歪みや隙間が生ずるので、1枚のウェハーの全面を使用した物が作られている。 === SoC === [[System-on-a-chip]] (SoC) は、従来別々のダイで構成されていたものを統合することで、独立して動作するシステム全体をひとつの集積回路上に実現するものである。<!--常に電源回路は対象外になっているが-->例えば、マイクロプロセッサとメモリ、周辺機器インターフェースなどを1つのチップに集積するものである。 === 固体撮像素子 === 集積回路技術の進歩の一例であるが、以前は[[撮像管]]などと呼ばれる[[真空管]]だった、映像を撮影する[[撮像素子]]も、電荷結合素子 (CCD) の技術開発が進み、[[固体撮像素子]]として[[CCDイメージセンサ]]が作られ、家庭用ビデオカメラの大幅な小型化などにまず貢献した。続いて[[CMOSイメージセンサ]]も作られた。やがて静止写真用にも十分な解像度を持つようになり、[[デジタルカメラ]]が銀塩カメラを一掃した。 === 伸縮・折り畳み可能なシリコン集積回路 === このシステムは、単結晶[[硅素]]の[[無機化合物|無機]]の整列アレイを含む無機電子材料と、極薄のプラスチックやエラストマー基板を統合している。<ref>{{Cite journal|last=Kim|first=Dae-Hyeong|last2=Ahn|first2=Jong-Hyun|last3=Choi|first3=Won Mook|last4=Kim|first4=Hoon-Sik|last5=Kim|first5=Tae-Ho|last6=Song|first6=Jizhou|last7=Huang|first7=Yonggang Y.|last8=Liu|first8=Zhuangjian|last9=Lu|first9=Chun|date=2008-04-25|title=Stretchable and Foldable Silicon Integrated Circuits|url=https://www.science.org/doi/10.1126/science.1154367|journal=Science|volume=320|issue=5875|pages=507–511|language=en|doi=10.1126/science.1154367|issn=0036-8075}}</ref> == 回路設計 == {{see|集積回路設計}} == 製造工程 == 半導体製造は、ウェハー上に回路を形成する前工程と、そこで作られたウェハーをダイに切断し、パッケージに搭載した後に最終検査を行う後工程に大きく二分される。なお、これらの工程は一般に複数の工程専門企業がそれぞれの工場で順次行っていくものである。1社ですべての工程を行うケースはほぼなく、あったとしても非常に稀である。 一般的には、設計・ウェハー製造・表面処理・回路形成・ダイシング・基材製造・ボンディングの各工程に専業企業が存在し、デザイン・ウェハー切り出し・アンダーフィリング・検査が前記から分かれて専業化している場合、加えて各工程で使用される材料・加工にも専業メーカーが存在する。一つの集積回路パッケージが出来上がるまでに関わるメーカーの数は少なくとも5、多いときには30社とも言われる。 === ウェハー製造 === 集積回路の母材となるウェハーの原材料は、半導体の性質を持つ物質である。一般的な集積回路ではそのほとんどが[[ケイ素|シリコン]]であるが、高周波回路では超高速スイッチングが可能な[[ヒ化ガリウム]]、低電圧で高速な回路を作りやすい[[ゲルマニウム]]も利用される。 集積回路の歩留まりとコストは、ウェハーの原材料である単結晶インゴットの純度の高さと[[結晶欠陥]]の数、そして直径に大きく左右される。2007年末現在のウェハーの直径は300 mmに達する。インゴットのサイズを引き上げるには、従来の技術だけでは欠陥を低くすることが難しく、多くのメーカーが揃って壁に突き当たった時期があった。シリコン単結晶引き上げ装置のるつぼを超伝導磁石で囲みこみ、溶融したシリコンの対流を強力な磁場で止めることで欠陥の少ない単結晶が製造可能になった。 === 前工程 === [[ファイル:12-inch silicon wafer.jpg|代替文=|サムネイル|前工程によって回路が出来上がったウェハー。]] 前工程は、設計者によって作られた回路のレイアウトに従ってウェハー上に集積回路を作り込む工程である。光学技術、精密加工技術、真空技術、統計工学、プラズマ工学、無人化技術、微細繊維工学、高分子化学、コンピュータ・プログラミング、環境工学など多岐にわたる技術によって構成される。 <!-- 出典を示したい 1990年台の[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]製造では500種類の技術により1000を超える工程によって作られている。この半導体プロセスの進化が、現在の集積回路における進化をほぼ支配している。 --> ==== 表面処理 ==== 集積回路は半導体表面に各種表面処理を複数実施して製造される。まずウェハーにはイオン注入によってドープ物質を打ち込み、不純物濃度を高める措置が行われる(最初に作られるこの層がゲートなどの集積回路の中枢となる)。さらに[[SOI]]ではウェハーに絶縁層を焼きこむか張り合わせることで漏れ電流を押さえ込む処置が行われる。そしてレジスト膜の塗布、ステッパーによる露光、現像処理によるレジスト処理を複数行い、その間に回路構造物の母体となるシリコンの堆積、[[イオン注入]]によるドープ物質の注入、ゲートや配線の土台となる絶縁膜の生成、金属スパッタリングによる配線、エッチングによる不要部分の除去などが行われる([[フォトリソグラフィ]])。集積回路の立体的な複雑さを配線層の枚数で数えることから4層メタル・6層メタル等と表現する。この表面処理技術は現在進行形であり、2014年現在では[[High-K絶縁膜]]、添加物打ち込み、メタルゲート、[[窒化物半導体]]素子など新たな技術が導入されている。さらに新しい技術は、より微細化したプロセス・ルールと共に世に出ると言われている。 ==== クリーンルーム ==== 半導体工場の生産ラインは、それ自体が巨大な[[クリーンルーム]]となっている。生物学的クリーンルームよりも、半導体製造現場のほうが遥かに清浄度が高い。ウェハー上の1つの細菌細胞は、トランジスタ100個近くを覆い隠す。2008年の先端プロセス・ルールである45[[ナノメートル|nm]]は、[[ウイルス]]以下の大きさである。製造中の半導体は、人間がいる環境ではどこにでもある[[ナトリウム]]に大変弱く、それが絶縁膜に浸透するため、特に[[CMOS]]トランジスタには致命的欠陥になる。 半導体工場のクリーンルーム内に導入される空気は、部屋や場所ごとに設定されたクリーン度に応じて、何度も[[HEPA|HEPAフィルター]]や[[ULPA|ULPAフィルター]]で、空中微粒子を濾しとられたものが使われる。また水は[[イオン交換樹脂]]とフィルターによって、空気同様に水中微粒子を徹底的に除去された[[超純水]]を使用している。 大量のナトリウムを含み、[[皮膚]]から大量の[[角質]]細胞の破片を落下させ、振動をもたらす[[ヒト]]は、半導体プロセスにとって害をなす以外の何物でもなく、クリーンスーツ、いわゆる“[[宇宙服]]”を着て、製造ラインを汚染しないようにしている。もっとも工場は高度に自動化されており、人間が製造ラインに出向くのは、機械の故障といったトラブルがあった時だけである。 ==== ウェハーテスト ==== ウェハー上への回路形成が完了したら、[[半導体試験装置]]を用いて回路が正常に機能するかを確認するウェハーテストを行う。半導体の動作特性は温度にも左右されるため、常温に加え高温や低温下での試験も行われる。 ウェハーテストの結果はダイにマーキングされ、後述する後工程では良品とマークされたダイのみが組み立て対象となる。 ===== 欠陥救済 ===== ダイ面積の大きい超大規模集積回路では、チップ上に一つも欠陥がない完璧な製品を作ることは非常に難しい。そこで、設計段階で予備の回路を前もって追加し、ウェハーテストで不良が検出されたときにそこを予備回路で補うことで歩留まりを上げる救済が行われる。回路の切り替えは、回路上に形成されたヒューズを、レーザーまたはウェハーテスト中に電流を流して切断することで実現している。 [[DRAM]]や[[フラッシュメモリ]]では、製品で決められた容量に加え予備のメモリ領域を用意しておき、不良箇所をテストで見つけた時点で配線のヒューズを切り予備領域に切り替えることが一般的に行われる。また、CPUでオンダイのコプロセッサや、マルチコアプロセッサの各コアなど、その内部に不良があった場合にはそれを切り離して、ラインナップ中の低グレードの製品とする、あるいは最初から全てが機能することは期待しない、といった手法もある。例えば、[[Cell Broadband Engine|Cell]]プロセッサは{{読み仮名|[[Cell Broadband Engine#Synergistic Processor Element|Synergistic Processor Element]]|シナジスティック・プロセッサー・エレメント}}をマスクパターンとしては8個用意しているが、ゲーム機[[PlayStation 3]]では、使用可能なSynergistic Processor Elementを7個に設定し、不良コアが一つ発生しているダイでも利用可能とした。 === 後工程 === [[ファイル:AMD@7nm(12nmIOD)@Zen2@Matisse@Ryzen 5 3600@100-000000031 BF 1923SUT 9HM6935R90062 DSC04677 - DSC04677 (48319338822).jpg|代替文=|サムネイル|ダイシング工程によりウェハーから切り出したチップ]] 前工程で良品としてマーキングされた回路をウェハーから切り出し、シートに貼り付けてパッケージに搭載する。端子との配線や樹脂で封止し、最終製品の形になる。その後、初期不良をあぶり出すバーンイン試験や製品の機能を確認するファイナルテストを経て出荷される。 ==== ダイシング ==== {{Main|ダイシング}} ダイシング工程では、前工程で製造されたウェハーをチップの形に切り離す。ダイシングには、薄い[[砥石]]を用いて切断する方法と、レーザーを用いる方法が主流である。 ==== ボンディング ==== [[ファイル:DIP package sideview.PNG|thumb|ワイヤーボンディングの図。パッケージ端子であるリードフレームとチップの端子がボンディングワイヤーで接続されている。]] [[ファイル:Flip chip mount 1.svg|thumb|フリップチップボンディングの図。上に浮いているのがチップで、それにくっついている丸い突起がバンプである。下がチップを取り付けるパッケージ基板で、並んでいる四角の部分がバンプとの接合面になる。]] チップをパッケージ基板に搭載し、チップ側の端子とパッケージの端子を接続する工程はボンディングと呼ばれる。主なボンディング手法を下に示す。 ===== ワイヤ・ボンディング ===== : チップ上の接続端子であるボンディングパッドとパッケージ端子を細い金属の線で接続する方法。加工の容易さと電気抵抗の低さから、材質には[[金]]や[[アルミニウム]]がよく用いられる。 ===== フリップチップボンディング ===== : チップ上にバンプと呼ばれる接続用の突起を載せ、その面をパッケージ基板に合わせて接続する方法。チップ全面を接続に使えるため、端子数が多くかつチップ面積が小さい集積回路でよく利用される。 ==== 封止 ==== ボンディングによる配線が完了したら、外部からの衝撃や水分から集積回路を保護する封止を行う。一般的な集積回路では、[[モールド剤]]でチップやボンディングワイヤーを保護するための[[注入成形]]を行う。集積回路の黒い外見はこの樹脂によるものである。樹脂が固まった後、チップ毎に切り離せば集積回路は完成する。近年の[[CPU]]や[[Graphics Processing Unit|GPU]]、液晶ドライバICなどの超精密集積回路にはモールド剤を用いず、[[アンダーフィル]]と呼ばれる一液硬化の樹脂を用いる。ボンディングの後、基材とIC間に注入を行いキュア炉と呼ばれる装置でリフローし、硬化させる。 ==== バーンイン ==== [[ファイル:Bathtub curve.jpg|thumb|バスタブカーブのグラフ。不良発生を示す青いグラフは、初期不良期間の高故障率を経て、偶発故障期間に移行する様子を示している。]] 集積回路の[[故障率]]は一般的に[[故障率曲線|バスタブカーブ]]と呼ばれる確率分布に従う。バスタブカーブでは、使用開始直後に高い不良率を示す初期不良期間を経て、低い不良率を維持する偶発故障期間に移行する。劣化を加速する条件下で短時間集積回路を動作させることでこの初期不良をあぶり出す工程がバーンイン(burn-in、焼入れ。[[エイジング]]とも)である。バーンインであぶり出された初期不良は次の品質検査によって取り除かれる。 具体的には、高温下で一定時間集積回路に電流を流すことで劣化を加速している。これは、劣化を化学反応として捉えた場合、劣化速度と温度は[[アレニウスの式]]の関係に従うとの考え方によるものである。 ==== 品質検査 ==== 最後に、集積回路が製品として正常に機能するかを確認する検査を行う。封止樹脂に欠けやひび、リードフレームや[[パッケージ (電子部品)#BGA|BGAパッケージ]]のボール端子に異常が無いかを確認する外観検査、ボンディングによる電気接続が確実に行われ、チップが完全に動作するかを半導体検査装置で確認する電気検査が行われる。 ==== プログラム書き込み ==== [[EEPROM]]や[[フラッシュメモリ]]などの記憶素子を混載した製品では、プログラムをそれらに書き込む作業も行われる。プログラムの内容を切り替えることで、同一のマスクから異なるグレードや入出端子の異なる集積回路を作り出すことができる。またCPU等の製品で、実際に動作可能な最高速度に応じたクロック倍率を後処理で設定することで、グレードの異なる製品を同一生産ラインから製造している。 == プロセス・ルール == プロセス・ルールとは、集積回路をウェハーに製造するプロセス条件をいい、最小加工寸法を用いて表す。プロセス・ルールによって、回路設計での素子や配線の寸法を規定するデザイン・ルールが決まる。 通常、最小加工寸法はゲート配線の幅または間隔である。ゲート配線幅が狭くできれば、[[MOSFET|金属酸化物電界効果トランジスタ (MOSFET)]] のゲート長が短くなるから、ソースとドレインの間隔が短くなり、チャネル抵抗が小さくなる。したがって、トランジスタの駆動電流が大きくなり、高速動作が期待できる。このため、プロセス・ルールは、高速化を期待して、'''ゲート長'''のことを指す場合もある。特にDRAMプロセスでは、ゲート長はゲート配線の最小寸法を使わない場合があるし、拡散層とメタル層を導通させるコンタクトの径が最小加工寸法の場合もある。つまり、プロセス・ルールは、製造上の技術的な高度さや困難さを示す指標と言える。 プロセス・ルールが半分になれば、ダイの外部配線部を除けば、同じ面積に4倍のトランジスタや配線が配置できるため、同じトランジスタ数では4<sup>-1</sup>倍 (4分の1) の面積になる。ダイ面積が4分の1に縮小できれば1枚のウェハーから取れるダイが4倍になるだけでなく、歩留まりが改善されるためさらに多くのダイが取れる。トランジスタ素子が小さくなればMOSFETのチャネル長が短くなり、ON/OFFの閾値の電圧 (Vth) を下げられ、低電圧で高速のスイッチング動作が可能となるため、[[リーク電流]]の問題を考えなければ、消費電力を下げながら性能が向上する。 伝播遅延<math>\tau</math>は次の式に表される関係に従う。 * <math>\tau = \frac{C_{load}V_{dd}T_{ox}L}{W\mu\epsilon(V_{dd}-V_t)^2}</math> **<math>\tau</math> : 伝播遅延 ** <math>C_{load}</math> : 負荷容量 ** <math>V_{dd}</math> : 電源電圧 ** <math>T_{ox}</math> : ゲート酸化膜厚 ** L : ゲート長 ** W : ゲート幅 ** <math>\mu</math> : キャリア移動度 ** <math>\epsilon</math> : ゲート酸化膜誘電率 ** <math>V_t</math> : しきい値電圧<ref>福田哲生著 『はじめての半導体シリコン』工業調査会 2006年9月15日初版第1刷発行 ISBN 4769312547</ref> プロセス・ルールは、[[フォトマスク]]からウェハーに回路を転写する[[ステッパー|半導体露光装置]]の光学分解能や、エッチング工程の寸法変換差の改善などで更新されてきた。プロセス・ルールの将来予測は、[[ムーアの法則]]を引用されることが多い。 [[ステッパー|半導体露光装置]]は非常に高い工作精度が要求され、製造の大部分が人間の手作業で行われる。ウェハーを載せるスライドテーブルは、高い水平度を実現するために非常にキメの細かい砥石で職人が磨いたレールの上に乗せられる。微細パターンをウェハー上に転写する光学系には、原子単位で表面の曲率が修正されている超高精度なレンズが用いられている。 === 微細化 === 半導体露光装置メーカーは1社か2社の最先端半導体メーカーと共同で次の世代や次々世代の半導体露光装置を開発し、まずその半導体メーカーに向けて製造する。その開発によって生み出された装置を、2 - 3年程度後に最先端に続く半導体メーカーが量産のために購入する頃には最先端半導体メーカーはその先の世代の試験運用をはじめる。この循環があるために演算プロセッサのプロセスルールは、350&nbsp;nm/250&nbsp;nm/180&nbsp;nm/130&nbsp;nm/90&nbsp;nm/65&nbsp;nm/45&nbsp;nm/32&nbsp;nm/22&nbsp;nm/14&nbsp;nm/10&nbsp;nm といった飛びとびの値になるのが普通である。最先端のプロセス・ルールは2020年時点で5nmに達していて<ref>{{Cite web|和書|title=TSMC、5nmプロセス「N5」を2020年上半期に立ち上げ {{~}}6 nmは予定通り年内量産開始の見込み|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1230985.html|website=PC Watch|date=2020-01-23|accessdate=2021-04-08|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref>、3&nbsp;nm, 2 nmと[[微細化]]が進んで行くと予想されている<ref>{{Cite web|和書|title=TSMC、3 nmプロセスのリスク生産を2021年内にも開始|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1300715.html|website=PC Watch|date=2021-01-18|accessdate=2021-04-08|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=Samsung、3 nmプロセスで独自のGAAFET構造「MBCFET」採用へ ~6nmは年内、5nmを2020年より量産開始|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1184855.html|website=PC Watch|date=2019-05-16|accessdate=2021-04-08|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【福田昭のセミコン業界最前線】 2020年も半導体はおもしろい(前編)|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/semicon/1232236.html|website=PC Watch|date=2020-01-30|accessdate=2021-04-08|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref>。一方DRAMや[[フラッシュメモリ]]のような記憶用半導体では小刻みにプロセスルールを縮小している。DRAMにおける一般的なプロセス・ルールは2007年には65nm、2008年には57 nmと縮小を行い、2013年には32 nmを想定している。これは、製品の急激な低価格化によって各メーカーが新規投資を控え、既存設備の改善によって生産性を向上させることが狙いである<ref>[[日本経済新聞社|日経エレクトロニクス]] 2007年11月5日号「激安DRAMを活かす」 p.63</ref>。ただし最先端の微細化が要求される携帯端末向けなどには、2010年時点で25nmの製品が、2020年時点で10 nmの製品が投入されている<ref>{{Cite web|和書|title=Samsung、業界初のEUV採用DRAMモジュールの出荷開始|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1243210.html|website=PC Watch|date=2020-03-26|accessdate=2021-04-08|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref>。 * 2015年、2016年第5世代と第6世代のIntel Coreを14 nmで製造している。2016年中に10 nmを実用化(実際には2019年<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/ubiq/1186859.html|title=笠原一輝のユビキタス情報局ː Intel、第10世代Core発表。10nmプロセスで、L1が1.5倍、L2は倍増に|accessdate=2021/04/26|quote=初期の計画では2017年末の出荷だったが、Kaby Lakeの微細化製品として計画されてきた同じ10nm採用のCannon Lakeがうまく立ち上がらず、結果的に事実上のスキップ(実際にはGPUなし版が細々と出荷されている)になり、2019年にずれ込んでしまうというかたちになってしまった。}}</ref>)、2017年には7 nm(実際には2023年予定<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/ubiq/1301849.html|title=笠原一輝のユビキタス情報局ː Intel、2023年の製品計画プランを延期。ゲルシンガー氏の新体制で強いIntelへの回帰なるか|accessdate=2021/04.26|quote=Intelの次の製造技術であり、TSMCの5 nmと同程度の性能を持っているとされる7 nmの製造計画は2022年に開始され、量産は2023年になると見られている。}}</ref>)へ<ref>[https://ascii.jp/elem/000/001/151/1151550/2/ インテルCPUロードマップ 2016年中に10nmプロセスを量産、7nmは2019年] ASCIIデジタル2016年04月18日</ref>。 * 2015年7月、IBMは7 nmプロセスの試作品を発表<ref>[http://eetimes.jp/ee/articles/1507/13/news061.html ついに“ひと桁”、7 nmプロセス開発へ加速] EE Times Japan Weekly 2016年03月28日</ref>、一桁ナノプロセスの時代を迎える。 * 2016年3月、インテルはXeon E5-2600 v4 CPU、14&nbsp;nm、22コア/44スレッドを発売<ref>[http://ascii.jp/elem/000/001/144/1144119/ “Broadwell-EP”こと「Xeon E5-2600 v4」が販売開始] ASCII 2016年04月01日</ref>。 * 2016年3月、サムスンは18 nmといわれるDRAMを出荷。 * 2020年9月、[[TSMC]]の5 nmプロセスによる[[Apple A14]]が出荷される<ref>{{Cite web|和書|title=アップル異例の「順番入れ替わり」、それでも「プロセッサー自前開発」で強みを見せる (1/2)|url=https://ascii.jp/elem/000/004/027/4027114/|website=ASCII.jp|accessdate=2021-04-08|language=ja|last=ASCII}}</ref>。 微細化によってプロセスルールが使われる光源の波長よりも短くなると、光の[[回折]]や[[干渉 (物理学)|干渉]]によってマスクの形とウェハー上に作られる像の食い違いが大きくなり、設計通りの回路が形成できなくなる。この問題を解決するため、回路設計にあらかじめこれらの光学効果を織り込んでおく光学近接効果補正が130 nm以下のルールで行われるようになった。光学近接効果補正は、[[EDA (半導体)|EDA]]による自動化が普及している。 2020年頃には、5nmに到達し、CMOSを使った微細化の限界が訪れるとの推測されており、新しい素材・構造の研究や微細化に頼らない手段による集積度の向上も模索されている<ref>[http://download.intel.com/technology/silicon/nano-open-house-george-bourianoff.pdf New nano logic devices for the 2020 time frames]</ref>。 また携帯電話の小型カメラ撮像素子ではフットプリントの都合上、非常に微細化したイメージセンサーを使う。しかし、このセンサーの画素密度は可視光波長では従来のカラーフィルタ方式がまったく役に立たなくなる。このため、メタル層で光を回折させて分光を行ったり、窒化物半導体素子を使って分光することにより、プロセスルールよりも遥かに長い可視光をフォトダイオードに導く。APS-Cサイズで2000万画素を超えるものも同様である<ref>[http://news.panasonic.com/press/news/official.data/data.dir/2013/02/jn130204-4/jn130204-4.html マイクロ分光素子を用いたイメージセンサの高感度化技術を開発] Panasonic Newsroom プレスリリース 2013年2月4日</ref>。 == 歩留まり == [[歩留まり]]とは、ウェハーから取れる全てのダイに対する良品ダイの割合を指し、イールド・レート (yield rate) とも呼ばれる。PC用のCPUのように、同じ生産ラインで同じ製造工程を経た製品を、完成製品に後からテストによってグレード(動作周波数)を割り振ることがあるので、グレードを下げれば(低クロックでしか動作させられないCPUでも良品と見なせるため)歩留まりが上がるという結果になる。 == 半導体故障解析 == [[半導体故障解析]]とは、極めて多くの素子の集合体である集積回路に於いて、何処が、どの様に、壊れているのかを解析する技術である。LSIテスタ(半導体試験装置)では、不良品であることは分かっても、その回路の何処に異常があるのかまでは分からない。数千万ものトランジスタが集積された回路に於いて、その一つ一つを試験していくのは現実的ではなく、また、それ以上に配線の不良などもあり得る。従って、集積回路の登場当初から、集積度の向上に伴って、故障解析技術も進歩している。 == 分類 == === 構成 === ==== モノリシック集積回路 ==== [[ファイル:Integrated-circuit-open.jpg|thumb|CAN形ICの内部]] モノリシック集積回路は1片のチップに、トランジスタ、ダイオード、抵抗器などの回路素子を形成し、素子間を[[アルミニウム]]などの蒸着によって[[配線]]した後、数mm - 十数mm角の小片に切り出したものである。組み立て工数が少ないため安価である。 [[ケイ素|シリコン]](Si、珪素)[[結晶|単結晶]]基板上に平面状に構成するトランジスタ(プレーナ型トランジスタ)を発展させたものである。アナログICとデジタルICのどちらも1960年代から発展が始まっているが、1990年代には製造プロセスの進歩により高度なアナログ・デジタル混在回路も見られるようになった。 ==== ハイブリッド集積回路 ==== {{Main|ハイブリッドIC}}[[File:Hybridcircuit.jpg|thumb|ハイブリッド集積回路]] [[File:Dec alpha small.JPG|thumb|マルチチップモジュール]] 比較的小さいプリント基板に、多数の個別部品や複数のチップ([[マルチチップモジュール]])などを直接、高密度さらには立体的に実装・配線し、さらにモールドするなどして一体の部品としたものである。 制御回路が一体化された大電力の増幅回路やスイッチング回路(インテリジェントパワーモジュール)や、高密度実装が要求される携帯機器・自動車・航空機・軍事用、集積回路同士の距離が演算速度に影響を与える[[スーパーコンピュータ|スーパー・コンピュータ]]やメインフレーム・コンピュータなどに用いられる。メインフレームコンピュータやスーパーコンピュータで使われるマルチチップモジュールは100層を超えるセラミック基板を焼結生成した非常に高度な立体回路を構成している。プリント基板においてもビルドアップと呼ばれる、複数の多層基板を貼り合わせて回路を構成する技術が開発されているため、ハイブリッド集積回路の多層化製品とプリント基板の多層化製品の境目は無くなっている。 [[File:IBM SLT wafers.agr.JPG|thumb|800px|none|IBMの[[System/360]]で使われた「SLT」と称されたハイブリッド集積回路]] <!-- === 集積度 === {|class=wikitable !略称!!English!!日本語!!素子数 |- |SSI||{{lang|en|small scale integration}}||小規模集積回路||2 - 100 |- |MSI||{{lang|en|medium scale integration}}||中規模集積回路||100 - 1000 |- |LSI||{{lang|en|large scale integration}}||大規模集積回路||1000 - 100k |- |VLSI||{{lang|en|very large scale integration}}||超大規模集積回路||100k - 10M |- |ULSI||{{lang|en|ultra-large scale integration}}||極超大規模集積回路||10Mを超える |- |GSI||{{lang|en|giga scale integration}}||ギガ・スケール集積回路||1Gを超える |} 製造技術の進化に伴う高集積化の進展に合わせて、新たな名称が付けられたが、規模の違いが使用方法に差異をもたらすものではないので、次第に廃れて行った。現在では「LSI」以外はほとんど使われなくなっている。 --> === パッケージ === {{main2|集積回路のパッケージについては、[[パッケージ (電子部品)]]を}} === 機能別分類 === * [[汎用LSI]] * [[汎用ロジックIC]] * [[ASIC]]、[[システムLSI]](特定用途向け IC・LSI) * [[ASSP]](特定用途向け標準製品) * [[プログラマブルロジックデバイス]] - [[FPGA]] ==== ASIC、システムLSI(特定用途向け IC・LSI) ==== * [[音声合成LSI]] * LCDドライバ ==== ASSP ==== * [[デジタル信号処理プロセッサ]] (DSP) * 画像処理コントローラ・[[Graphics Processing Unit|GPU]] * [[Local Area Network|LAN]][[制御]] * [[Small Computer System Interface|SCSI]][[制御]] * [[モデム]]用 * ビデオ・オーディオ[[符号化方式|符号化・復号]]用 ==== デジタル制御用LSI ==== * [[マイクロプロセッサ]] * [[マイクロコントローラ]] ==== 汎用メモリ ==== * [[Dynamic Random Access Memory|DRAM]] * [[Static Random Access Memory|SRAM]] - [[疑似SRAM]] * [[Read Only Memory|ROM]] - [[EPROM]] - [[EEPROM]] * [[フラッシュメモリ]] * [[FeRAM]] ==== 専用メモリ ==== * [[FIFO]]メモリ * デュアルポートメモリ - [[VRAM]] * [[キャッシュメモリ]] ==== アナログ集積回路 ==== * [[オペアンプ]](演算増幅器) * [[アナログ-デジタル変換回路]] * [[デジタル-アナログ変換回路]] * [[電源回路]] * パワーアンプ - ドライバ ** 音響用アンプ回路 ** [[液晶ディスプレイ]]ドライバ ** モータドライバ * [[RF回路]] * [[映像信号]]処理 - [[NTSC]]信号処理 * タイミング回路 - [[PLL]] - [[電圧制御発振器|VCO]] * 半導体センサ ** [[CMOSイメージセンサ]] ** [[CCDイメージセンサ]] ** 温度センサ ** [[圧力センサ]] ** [[加速度センサ]] * [[半導体リレー]] ==== 複合製品 ==== * [[SiP]] * [[SoC]] ** [[ICカード]] == セキュリティチップ == {{節スタブ}} コンピューターに[[耐タンパー性能]]を与えるためのSystem-on-a-chipモジュール。[[I/Oポート]]と[[電源]]端子のみを備え、マイクロコントローラーとして全てのロジックをワンチップに収納してある。鍵管理・鍵ブロックの登録と払い出し・[[Worm]]機能などが盛り込まれ、[[中間者攻撃]]や[[サイドチャネル攻撃]]からコンピューターシステムを防御する。世界で最も多く使われているセキュリティチップが[[ICカード]]である。システム防衛の要として使われるが、通常スタンドアロンで動作する物は無い。[[バックエンド]]システムに[[データベース]]を備え、そのデータベースにアクセスする鍵が格納される(過去に実データを格納するICカードもあったが耐タンパー性の悪さから、[[B-CAS]]カード等[[限定受信システム]]以外は撤退している。日本、EUではカードが解析・改ざんされ限定受信システムが崩壊した)。[[おサイフケータイ]]・[[Suica]]などで知られるワイヤレス電子マネー・電子発券システムもセキュリティチップである。このシェアは[[ソニー]]が開発した[[Felica]]が主流であり、[[近距離無線通信|NFC]]として[[国際標準化機構|ISO]]で標準化された。携帯電話のSIMカードもセキュリティチップである。[[Microsoft Windows]]は[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]から、セキュリティチップの本格採用を始めた。セキュリティチップに[[電子証明書]]を格納し、ハードディスクを暗号化する。それ以前は電子署名ベースの[[EFS]]を搭載していたが、ユーザープロファイルの消滅がユーザー証明書の喪失につながりデータを損失する事故があった。またシステム全体を暗号化することができなかった。[[インテル]]は[[vPro]]として[[Microsoft Windows NT|Windows NT]]にセキュリティチップをオプションで採用した暗号化システムを提供していた。しかし一般ユーザーには利用されず、主にITプロフェッショナルが運用する大規模システムでつかわれた。 耐タンパー性技術は日々進歩しており、長い鍵を処理できる高性能プロセッサの搭載、光消去EPROMによるチップ取り出しの困難化(チップに光を当てると[[フローティングゲート]]から電荷が流出してデータが消滅する)など改良が重ねられている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[電子立国日本の自叙伝]] - ビデオ、[[レーザーディスク]]、[[DVD]]、および単行本がある。 * [[カーバー・ミード]]、[[リン・コンウェイ]] 『超LSIシステム入門』[[菅野卓雄]], [[榊裕之]]監訳。[[培風館]]。 1981年。ISBN 4-563-03179-8 * {{Cite book|和書|title=ICガイドブック —2006年版— 生活を豊かに、社会を支える半導体|editor=[[電子情報技術産業協会]] 電子デバイス部 半導体技術グループ|id=ISBN 4-86130-156-4|year=2006|publisher=[[日経BP]]}} * 泰司増樹 『CMOSアナログ/デジタルIC設計の基礎』 == 関連項目 == * [[EDA (半導体)|EDA]] * [[テープアウト]] * [[ASIC]] * [[半導体メモリ]] * [[フォトニック集積回路]](光IC) * [[量子コンピュータ]] == 外部リンク == * {{コトバンク}} {{半導体}} {{Electronic components|state=collapsed}} {{コンピュータ科学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しゆうせきかいろ}} [[Category:集積回路|*]] [[Category:電子工学]] [[Category:電子部品]]
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フィルター
フィルター(フィルタ、filter)とは、与えられた物の特定成分を取り除く(あるいは弱める)作用をする機能をもつものである。またその作用をフィルタリングと呼ぶ。
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フィルター(フィルタ、filter)とは、与えられた物の特定成分を取り除く(あるいは弱める)作用をする機能をもつものである。またその作用をフィルタリングと呼ぶ。 濾過(ろか)器。流体中に混ざり込んだ固形物や異物を取り除く装置や部品。 濾紙、ガスマスク、タバコの吸口、機械のオイルフィルター、燃料フィルター、エアフィルタ、アクアリウム用フィルターなど 波形・画像等のフィルタ(フィルタリング) レンズフィルター(光学フィルタ) - 透過する光を波長や偏光で制限したり、さまざまな光学効果を生む装置 電気フィルタ(濾波器) - 電気信号を周波数帯域ごとに強めたり弱めたりする電子回路 アナログフィルタ、ノイズフィルター シンセサイザーに搭載された音の周波数を削る機能。現在ではディジタルフィルタをもちいた同機能がシュミレートしたシンセサイザーに搭載されることも多い ディジタルフィルタ - 光学フィルタや電気フィルタと同等の効果をデジタル信号処理で実現した装置やソフトウェア 画像処理フィルタ - デジタル画像処理における各種操作。行列(カーネル)を用いた畳み込み演算が使われることが多い。 模型のフィルタリング - 薄めた塗料を上から塗り重ねて色調に変化を与えるウェザリング(実感を高める塗装法)。写真の色フィルターに近い効果を与える。 フィルタ (ソフトウェア) - テキストストリーム等を指示された構文に従い加工(たとえば大文字→小文字変換)するソフトウェア 検索フィルタ - 様々な情報検索システムにおけるフィルタ。検索オプション。 インターネット接続のフィルタ(フィルタリング) コンテンツフィルタリング - 不適切な内容のウェブサイト等への接続を遮断する フィルタリング (有害サイトアクセス制限) - コンテンツフィルタリングの中でも特に、青少年に有害なサイトを遮断する パケットフィルタリング(ファイアウォール) - 不正アクセス防止のため、不審なパケットを拒否する 電子メールフィルタリング(スパムフィルタ) - ウィルスメールやスパムメール等を判別し隔離する Proxomitron等、広告やブラウザクラッシャーを無効化するソフトウェア Personal Blocklist - Google Chromeの検索結果から、不適切な検索結果をドメイン単位で排除できる拡張機能。検索エンジンスパムを参照。 フィルター (数学) - ある順序集合Xの部分集合Fが特別な条件を満たすとき、Fをフィルターという。 フィルター (バンド) - アメリカ合衆国のロックバンド
{{wikipediaPage|ウィキペディアの編集におけるフィルタリングについては、[[Wikipedia:編集フィルター]]をご覧ください。}} '''フィルター'''('''フィルタ'''、{{lang|en|filter}})とは、与えられた物の特定成分を取り除く(あるいは弱める)作用をする機能をもつものである。またその作用を'''フィルタリング'''と呼ぶ。 <!-- WP:DABDIC 過剰 ある成分以外の全成分を弱めることにより、その成分だけを強調する効果を得る場合もある。さらに、各成分に対し何らかの処理を施す場合もある。 --> *[[ろ過|濾過]](ろか)器。[[流体]]中に混ざり込んだ固形物や異物を取り除く装置や部品。 ** [[濾紙]]、[[ガスマスク]]、[[タバコ]]の吸口、[[機械]]の[[オイルフィルター]]、[[燃料フィルター]]、[[エアフィルタ]]、[[フィルター (アクアリウム)|アクアリウム用フィルター]]など *波形・画像等のフィルタ(フィルタリング) **[[レンズフィルター]](光学フィルタ) - 透過する[[光]]を[[波長]]や[[偏光]]で制限したり、さまざまな光学効果を生む装置 **[[フィルタ回路|電気フィルタ]](濾波器) - 電気信号を周波数帯域ごとに強めたり弱めたりする[[電子回路]] ***[[アナログフィルタ]]、[[ノイズフィルター]] ****[[シンセサイザー]]に搭載された音の周波数を削る機能。現在ではディジタルフィルタをもちいた同機能がシュミレートしたシンセサイザーに搭載されることも多い ***[[ディジタルフィルタ]] - 光学フィルタや電気フィルタと同等の効果を[[デジタル信号処理]]で実現した装置やソフトウェア ****[[画像処理]]フィルタ - [[デジタル画像処理]]における各種操作。[[行列]](カーネル)を用いた[[畳み込み]]演算が使われることが多い。 **[[模型]]のフィルタリング - 薄めた塗料を上から塗り重ねて色調に変化を与える[[ウェザリング]](実感を高める塗装法)。写真の色フィルターに近い効果を与える。 *[[フィルタ (ソフトウェア)]] - テキストストリーム等を指示された構文に従い加工(たとえば大文字→小文字変換)するソフトウェア *検索フィルタ - 様々な[[情報検索]]システムにおけるフィルタ。検索オプション。 *インターネット接続のフィルタ(フィルタリング) **[[コンテンツフィルタリング]] - 不適切な内容のウェブサイト等への接続を遮断する **[[フィルタリング (有害サイトアクセス制限)]] - コンテンツフィルタリングの中でも特に、青少年に有害なサイトを遮断する **[[パケットフィルタリング]]([[ファイアウォール]]) - [[不正アクセス]]防止のため、不審なパケットを拒否する **[[電子メールフィルタリング]](スパムフィルタ) - ウィルスメールやスパムメール等を判別し隔離する **[[Proxomitron]]等、広告や[[ブラウザクラッシャー]]を無効化するソフトウェア **Personal Blocklist - [[Google Chrome]]の検索結果から、不適切な検索結果をドメイン単位で排除できる拡張機能。[[検索エンジンスパム]]を参照。 *[[フィルター (数学)]] - ある順序集合Xの部分集合Fが特別な条件を満たすとき、Fをフィルターという。 *[[フィルター (バンド)]] - アメリカ合衆国のロックバンド == 関連項目 == *[[フィルターバブル]] * [[学歴フィルター]] {{aimai}} {{DEFAULTSORT:ふいるたあ}} [[Category:フィルター|*]]
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製本
製本(せいほん、英: Bookbinding, PostPress)とは、筆記または印刷した本文の料紙に表紙などを付け本の形に整えること。 洋式の場合、上製本(本製本)と仮製本(並製本)があり、仮製本は耐久性が低い。 製本の際に印刷された紙を折り込んだものを「折り丁」という。また、ページの余白部分のうち綴じられる側を「のど」と呼び、これが見開き状態で中央にくる部分となる。製本の方式によってこの「のど」の余白部分として必要な量(「のどの開き」という)が異なってくるため、どのような綴じ方とするかはページレイアウトの点でも基本的な情報であり、綴じ方を決定したのちに最終的にページレイアウトが決定される。 製本が完全になされていない段階のものを入手し独自の製本を行い書庫を充実させていくといったことがヨーロッパでは行われている。 西洋には製本を手作業で工芸的に行なう伝統があり、一般にルリユール(フランス語: reliure)と呼ばれる。羊や山羊、仔牛の革を貼り、さまざまな装飾を加えて美しく飾り立てる工芸的な製本で、昔は職人が行なっていたが、現在は趣味のひとつとしても楽しまれている。ルリユール作家も世界中にいる。 こうした西洋における手製本の伝統は、キリスト教の出現により、神の言葉である聖書を大切に保存するために始まった。堅牢性から革で製本するだけでなく、信仰の重要性を印象付けるためにそれらを豪華に装飾することも始められた。イスラムでもコーランを美しく飾り立てる習慣があり、それがイベリア半島経由でフランス、イタリアに伝わった。グーテンベルクの印刷術の発明で書物が大衆化すると、たくさんある中の「自分が所有する一冊」を際立たせるために、装飾に紋章が取り入れられ、所有者の個性を強調する装丁が生まれた。その後、贅沢を嫌うプロテスタントの諸国ではこうした豪華な製本が廃れたが、宮廷文化が華やかだったフランスではその伝統が生き残った。 なお、こうした美しい私家版が高値で取引される古書の世界においては、(当時の所有者を表す)紋章のあるなしが重要で、紋章のないものは一気に価値が落ちるという。 アメリカでは1868年、アイルランド出身の発明家デヴィッド・マコーネル・スミスが、史上初の製本機の発明で特許を取得した。1879年にスミス製造社(the Smyth Manufacturing Company)が設立されたのち、製本機はさらに飛躍的に進化し、本の出版冊数の増加を齎した。 東洋における本の体裁は、本文料紙を横につないだ巻子装本及び折本装本と、本文料紙を重ね合わせて糊や糸で留めた草子本及び冊子装本の4種に大別される。なお、紙が出現する以前の時代には竹簡や木簡を閉じたものや貝多羅樹の葉を利用した貝葉経のような形態のものもあった。和式の場合は綴じ方が外部に見えるので装飾的な綴じが施されている。 フランスでは以下の国家資格が存在する。 日本では製本技能士が存在する。
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製本とは、筆記または印刷した本文の料紙に表紙などを付け本の形に整えること。
'''製本'''(せいほん、{{Lang-en-short|''Bookbinding, PostPress''}})とは、[[筆記]]または[[印刷]]した本文の料紙に[[表紙]]などを付け[[本]]の形に整えること。 == 西洋における製本 == 洋式の場合、上製本(本製本)と仮製本(並製本)があり、仮製本は耐久性が低い。 製本の際に印刷された紙を折り込んだものを「'''折り丁'''」という。また、ページの余白部分のうち綴じられる側を「'''のど'''」と呼び、これが見開き状態で中央にくる部分となる。製本の方式によってこの「のど」の余白部分として必要な量(「のどの開き」という)が異なってくるため、どのような綴じ方とするかは[[ページレイアウト]]の点でも基本的な情報であり、綴じ方を決定したのちに最終的にページレイアウトが決定される。 製本が完全になされていない段階のものを入手し独自の製本を行い書庫を充実させていくといったことがヨーロッパでは行われている。 [[File:Relieur JPG01.jpg|thumb|right|300px|伝統的な製本作業]] === 綴じ方 === * 綴じ方 ** [[中綴じ]] ** [[平綴じ]] ** [[無線綴じ]] *** [[切断無線綴じ]] *** [[網代綴じ]] ** [[糸かがり]] ** [[天糊製本]] ** [[セット糊製本]] ** [[リング綴じ]] * [[ソフトカバー]] * [[ハードカバー]] * [[スピン (本)|スピン]] * [[員数]] * [[紙揃え]] * [[断裁]] * [[丁合]] * [[糊づけ]] * [[分冊]] * [[帯び掛け]] * [[梱包]] * 折り加工 ** 2折り ** 3折り *** 巻き3ツ折り *** 外3ツ折り *** 片袖折り ** 4折り *** 巻き4折り *** 巻き巻き4折り *** 観音折り ** アコーディオン折り[[File:Jefferson nutshell.jpg|thumb|right|150px|アコーディオン折り。英語では「コンサーティーナ・ブック」「アコーディオン・ブック」とも呼ぶ]] ** 直角折り ** DM折り * 穴あけ加工 ** 2穴 ** 4穴 ** ドンコ穴 * ミシン目加工 * 筋加工 * 角丸加工 * 抜き加工 === 西洋式手製本 === [[ファイル:Grolier MilanoBNB.jpg|サムネイル|革に金箔の幾何学模様と花をあしらったグロリア式装丁の手製本。16世紀の政治家で愛書家の[[:en:Jean Grolier de Servières|ジャン・グロリエ]]が好んだことからそう呼ばれる<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%82%A8%E5%BC%8F%E8%A3%85%E4%B8%81-1308026 グロリエ式装丁(読み)ぐろりえしきそうてい]</ref>]] 西洋には製本を手作業で工芸的に行なう伝統があり、一般に[[ルリユール]]({{lang-fr|reliure}})と呼ばれる<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%AB-680557 ルリユールとは]kotobank</ref>。[[羊]]や[[山羊]]、[[仔牛]]の革を貼り、さまざまな装飾を加えて美しく飾り立てる工芸的な製本で、昔は職人が行なっていたが、現在は趣味のひとつとしても楽しまれている。ルリユール作家も世界中にいる。 こうした西洋における手製本の伝統は、[[キリスト教]]の出現により、神の言葉である[[聖書]]を大切に保存するために始まった。堅牢性から革で製本するだけでなく、信仰の重要性を印象付けるためにそれらを豪華に装飾することも始められた。[[イスラム]]でも[[コーラン]]を美しく飾り立てる習慣があり、それが[[イベリア半島]]経由で[[フランス]]、[[イタリア]]に伝わった。[[グーテンベルク]]の印刷術の発明で書物が大衆化すると、たくさんある中の「自分が所有する一冊」を際立たせるために、装飾に[[紋章]]が取り入れられ、所有者の個性を強調する装丁が生まれた。その後、贅沢を嫌う[[プロテスタント]]の諸国ではこうした豪華な製本が廃れたが、宮廷文化が華やかだったフランスではその伝統が生き残った<ref>[http://www.yushodo.co.jp/pinus/73/kashima/ 『西洋製本図鑑』書評]鹿島茂、雄松堂広報誌2009/01/30</ref>。 なお、こうした美しい私家版が高値で取引される古書の世界においては、(当時の所有者を表す)紋章のあるなしが重要で、紋章のないものは一気に価値が落ちるという<ref>[http://www.bbc.co.uk/news/magazine-22249700 The curious tale of the stolen books]BBC World Service, 24 April 2013</ref>。 === 製本機の発達 === アメリカでは1868年、アイルランド出身の発明家[[デヴィッド・マコーネル・スミス]]が、史上初の製本機の発明で特許を取得した<ref>[https://americanhistory.si.edu/blog/book-boom-early-bookbinding-inventions The book boom: Early bookbinding inventions].</ref>。1879年にスミス製造社(the Smyth Manufacturing Company)が設立されたのち、製本機はさらに飛躍的に進化し<ref>[https://smythusa.com/ BOOK SEWING MACHINES - Significant Progress in Bookbinding Technology]. ([https://archive.is/wip/JTXFe Archive].)</ref>、本の出版冊数の増加を齎した。 == 東洋における製本 == 東洋における本の体裁は、本文料紙を横につないだ'''巻子装本'''及び'''折本装本'''と、本文料紙を重ね合わせて糊や糸で留めた'''草子本'''及び'''冊子装本'''の4種に大別される<ref name="yamamoto51">{{Cite book |和書 |author=山本信吉 |year=2004 |title=古典籍が語る - 書物の文化史 |page=51 |publisher=八木書店 }}</ref>。なお、紙が出現する以前の時代には[[竹簡]]や[[木簡]]を閉じたものや[[貝葉|貝多羅樹の葉]]を利用した貝葉経のような形態のものもあった<ref name="yamamoto51" />。和式の場合は綴じ方が外部に見えるので装飾的な綴じが施されている。 {{Main|和装本}} == 教育・資格 == [[フランス]]では以下の国家資格が存在する<ref>{{cite web |url = http://candidat.pole-emploi.fr/marche-du-travail/fichemetierrome?codeRome=B1302|title = Décoration d'objets d'art et artisanaux|trans-title = 書籍ならびに文書の製本技術|language = fr| publisher = Pole Emploi|accessdate=2017-10-14}} 資格名は通称Code ROME: B1302。公共職業安定所 Pôle emploi による資格の解説。</ref>。 * 資格レベルV - [[職業適性証]](CAP) Arte de la reliure * 資格レベルIV - [[BMA]] Arts de la reliure et de la dorure<ref>{{cite web|url = http://www.orientation-pour-tous.fr/metier/reliure-et-restauration-de-livres-et-archives,12136.html|title = Décoration d'objets d'art et artisanaux (ROME : B1302)|trans-title = 美術工芸品の装飾|publisher = Orientation pour tous |language = fr|accessdate = 2017-10-14 }}公共職業訓練機関 Conseil en évolution professionnelle (CEP) による職業訓練の解説。</ref> * 資格レベルIII - [[上級技術者免状|DMA]] Arts graphiques option reliure<ref>{{cite web|url = http://www.orientation-pour-tous.fr/metier/reliure-et-restauration-de-livres-et-archives,12136.html |title = Reliure et restauration de livres et archives|trans-title = 書籍ならびに文書の製本技術|language = fr |publisher = Orientation pour tous |accessdate = 2017-10-14}}公共職業訓練機関 Conseil en évolution professionnelle (CEP) による職業訓練の解説。</ref> 日本では[[製本技能士]]が存在する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 参考文献 == * {{cite book|和書|title =西洋製本図鑑 |author1 = ジュゼップ・カンブラス (Cambras Riu, Josep)|editor = 岡本幸治 (日本語版監修)|translator = 市川恵里 |publisher = [[雄松堂出版]]|ncid = BA88395304 |isbn = 9784841904994|url = http://www.yushodo.co.jp/press/reliure/index.html |date = 2008-12 |accessdate = 2017-10-14}} == 関連項目 == * [[装幀]] * [[表紙]] * [[標題紙]](扉・タイトルページ) * [[出版]] * [[印刷]] * [[コデックス]] * [[判型]] == 外部リンク == *[http://www.tokyo-seihon.or.jp/index.php 東京都製本工業組合] *[http://www.osakaseihon.or.jp/index.html 大阪府製本工業組合] *[http://sei-hon.jp/ 製本のひきだし] *{{Kotobank|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せいほん}} [[Category:製本|*]] [[Category:職業訓練の分野]]
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PL/I
■カテゴリ / ■テンプレート PL/I(ピーエルワン)は、汎用プログラミング言語の一つ。名前は英語の「programming language one」に由来する。 PL/Iは科学技術用、工業用、商業用などにデザインされた命令型プログラミング言語である。1964年に生まれ、教育機関、商用、工業で使用されてきた。 PL/Iの主要な用途はデータ処理で、再帰および構造化プログラミングに対応する。言語の構文は英語に似ており、検証や操作が可能な幅広い機能のセットを持ち、複合的なデータ型を記述することに適している。 提案当時は「NPL」と呼ばれていた。初期には「PL/1」と表記していたが、その後「PL/I」が正式名称となった(I はローマ数字)。同時期の「DL/I」(ディー・エル・ワン、IBMの階層型データベース照会言語)と同じネーミングと考えられる。 を同時に持っている。 予約語が無いのも特徴。 1963年 IBMとそのユーザー団体(SHARE)が提案 1965年 IBMが完成させた 1979年 ISOで標準化 科学技術計算向けのFORTRAN、ビジネス処理向けのCOBOLと言われていた時代に、ALGOL並のアルゴリズム記述能力も加え、ひとつの言語であらゆるニーズを満たすために開発されたプログラミング言語。 言語仕様が複雑なため、大型計算機以外では余り使われなかったが、デジタルリサーチ社のゲイリー・キルドールが、インテルのi8080のために、サブセット版のPL/Mおよび、一部をPL/Mで記述し、オペレーティングシステムCP/Mを作った。また、CP/M上で動作するPL/I(PL/I-80)も作成している。 UNIX開発のきっかけとなったMultics(のちにMulticsは「成功しなかったプロジェクト」と見なされることとなる)は、PL/Iで書かれていた。Multicsの失敗はPL/Iが原因ではなかったものの、記述言語においても簡潔極まるC言語を生んだ事は皮肉である。 2016年時点でも、メインフレームで稼働する銀行の勘定系システムの多くはCOBOLまたはPL/Iで記述されている。 IBMのPL/Iコンパイラでは、メッセージIDが「IBM」で始まる。IBMが当時PL/Iに力を入れていたためと言われている。
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PL/I(ピーエルワン)は、汎用プログラミング言語の一つ。名前は英語の「programming language one」に由来する。 PL/Iは科学技術用、工業用、商業用などにデザインされた命令型プログラミング言語である。1964年に生まれ、教育機関、商用、工業で使用されてきた。 PL/Iの主要な用途はデータ処理で、再帰および構造化プログラミングに対応する。言語の構文は英語に似ており、検証や操作が可能な幅広い機能のセットを持ち、複合的なデータ型を記述することに適している。
{{Infobox プログラミング言語 |名前 = PL/I |パラダイム = [[構造化プログラミング|構造化]]・[[命令型プログラミング|命令型]] |開発者 = [[IBM]] ([[:en:Hursley House|Hursley]]) <!--|登場時期 = 1964--> | released = {{start date and age|1964}} |最新リリース = |型付け = [[型システム|強い]][[静的型付け]] |プラットフォーム = [[z/OS]], [[z/VM]], [[z/VSE]], [[AIX]], [[Microsoft Windows|Windows]] ほか |処理系 = [[コンパイラ]] |方言 = PL/M, XPL, PL/P, PL/C, IBM PL/S, PL/AS, PL/X, PL/8, Early PL/I |影響を受けた言語 = [[COBOL]]、[[FORTRAN]]、[[ALGOL]] |影響を与えた言語 = [[:en:SP/k|SP/k]], [[B言語|B]], [[REXX]], [[AS/400 Control Language]] |ライセンス = [[プロプライエタリ]](IPLA) |ウェブサイト = [https://www.ibm.com/us-en/marketplace/ibm-pli-compiler-family IBM PL/I Compiler Family] }} {{プログラミング言語}} '''PL/I'''(ピーエルワン)は、汎用[[プログラミング言語]]の一つ。名前は英語の「{{lang|en|programming language one}}」に由来する。 PL/Iは科学技術用、工業用、商業用などにデザインされた[[命令型プログラミング]]言語である。[[1964年]]に生まれ、教育機関、商用、工業で使用されてきた。 PL/Iの主要な用途は[[データ処理]]で、[[再帰]]および[[構造化プログラミング]]に対応する。言語の構文は[[英語]]に似ており、検証や操作が可能な幅広い機能のセットを持ち、複合的な[[データ型]]を記述することに適している。 == 呼称 == 提案当時は「NPL」<ref group="注釈">英語「{{lang|en|new programming language}}」に由来する名前。</ref>と呼ばれていた。初期には「'''PL/1'''」と表記していたが、その後「'''PL/I'''」が正式名称となった(I はローマ数字)。同時期の「DL/I」(ディー・エル・ワン、IBMの階層型データベース照会言語)と同じネーミングと考えられる。 == 特徴 == === 言語としての特徴 === *[[FORTRAN]]の記述形式 *[[COBOL]]のレコード構造や入出力機能 *[[ALGOL]]のアルゴリズム記述能力 を同時に持っている。 [[予約語]]が無いのも特徴。 === 長所 === *商用計算と科学技術計算を、1つの言語で記述できる *最初から構造化されている *積み木構造(初歩的機能から入門し、徐々に高度な機能を学習できる) *IBMメインフレーム([[OS/390]]、[[z/OS]]、[[IMS]]、[[CICS]]など)で広く使われている === 短所 === *言語仕様が複雑で大規模なため、当時の小型機では性能的に厳しく、大型機以外に広まらなかった == 歴史 == [[1963年]] [[IBM]]とそのユーザー団体(SHARE)が提案 [[1965年]] IBMが完成させた [[1979年]] [[国際標準化機構|ISO]]で標準化 科学技術計算向けの[[FORTRAN]]、ビジネス処理向けの[[COBOL]]と言われていた時代に、[[ALGOL]]並のアルゴリズム記述能力も加え、ひとつの言語であらゆるニーズを満たすために開発されたプログラミング言語。 言語仕様が複雑なため、大型計算機以外では余り使われなかったが、[[デジタルリサーチ]]社の[[ゲイリー・キルドール]]が、[[インテル]]のi8080のために、サブセット版の[[PL/M]]<ref group="注釈">英語「{{lang|en|programming language for microcomputers}}」に由来する名前。</ref>および、一部をPL/Mで記述し、オペレーティングシステム[[CP/M]]を作った。また、CP/M上で動作するPL/I(PL/I-80)も作成している。 [[UNIX]]開発のきっかけとなった[[Multics]](のちにMulticsは「成功しなかったプロジェクト」と見なされることとなる)は、PL/Iで書かれていた。Multicsの失敗はPL/Iが原因ではなかったものの、記述言語においても簡潔極まる[[C言語]]を生んだ事は皮肉である。 2016年時点でも、メインフレームで稼働する銀行の[[勘定系]]システムの多くはCOBOLまたはPL/Iで記述されている<ref>[https://atmarkit.itmedia.co.jp/ait/articles/1610/20/news010.html FinTech時代の今、COBOLやPL/I、メインフレームが勘定系システムで必要な理由 - atmarkIT]</ref>。 == エピソード == IBMのPL/Iコンパイラでは、メッセージIDが「IBM」で始まる。IBMが当時PL/Iに力を入れていたためと言われている。 == コードの実例 == <syntaxhighlight lang="rexx"> HELLO:PROC OPTIONS(MAIN); DCL HELLO1 CHAR(12) INIT('HELLO WORLD!'); DCL 1 HELLO2, 2 HELLO2_1 CHAR(12) INIT('HELLO WORLD!'); DISPLAY('HELLO WORLD!'); DISPLAY(HELLO1); DISPLAY(HELLO2); END HELLO; </syntaxhighlight> == 関連項目 == * [[COBOL]] * [[FORTRAN]] * [[ALGOL]] == 脚注 == ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== <references /> == 外部リンク == *[http://www-06.ibm.com/jp/domino02/NewAIS/aisextr.nsf/ByLetterNo/RTL09093?OpenDocument&ExpandSection=1&highlight=0,PL/I IBM Enterprise PL/I for z/OS V3.9の発表(2009年10月21日) - 日本IBM] *[http://teampli.net/mirrors/robinv/resource.htm PL/I RESOURCES] *[https://www.microfocus.com/documentation/server-enterprise-edition/serveree60sp2ws2/Server%20EE%2060%20SP2%20WS2%20UNIX=1=Web%20Help%202016%20(MF)=en/GUID-937E8FFA-425A-418D-97ED-DC5B05E32354.html Micro Focus Open PL/I] *[http://pl1gcc.sourceforge.net/ PL/I for GCC]([[GNUコンパイラコレクション|GCC]]にPL/Iの[[フロントエンド]]を開発するプロジェクト) {{プログラミング言語一覧}} {{authority control}} [[Category:プログラミング言語]]
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可逆圧縮
可逆圧縮(かぎゃくあっしゅく)とは、圧縮前のデータと、圧縮・展開の処理を経たデータが完全に等しくなるデータ圧縮方法のこと。ロスレス圧縮(ロスレスあっしゅく)、無歪み圧縮(むゆがみあっしゅく)とも呼ばれる。 アルゴリズムとしては連長圧縮、ハフマン符号、LZWなどが有名。 コンピュータ上でよく扱われるLZH、ZIP、CABや、画像圧縮形式のPNG、GIFなどが可逆圧縮である。 すべてのデータを効果的に圧縮できる可逆圧縮アルゴリズムは存在しない(可逆圧縮の限界の節を参照)。そのため、データの種類によって多くのアルゴリズムが存在する。下記に主要な可逆圧縮方式を列挙する。 可逆圧縮アルゴリズムはすべての入力データに対して圧縮後のデータサイズが圧縮前より小さいことを保証できない。すなわち、どのような可逆圧縮アルゴリズムでも圧縮処理後にデータサイズが小さくならない入力データが存在し、また圧縮処理後にデータサイズが小さくなる入力データが存在する場合、圧縮処理後にデータサイズが大きくなる入力データも必ず存在する。前者の証明は下記の通り。 後者の証明は鳩の巣原理を用いたものであり、下記の通りとなっている。 このようにすべてのデータを圧縮できるアルゴリズムは数学上存在しえないが、インターネット・バブル期にはAdam's Platform(1998年)、NearZero(2001年)などそのようなアルゴリズムを発明したと主張するベンチャーが複数存在した。実際の処理では圧縮を行わず、入力データを別のフォルダにコピーし、「圧縮」された偽ファイルに置き換えただけであり、「解凍」のときは別のフォルダにコピーした入力データを元に戻しただけである。 可逆圧縮アルゴリズムのベンチマークにはカルガリーコーパス(英語版)が広く使われている。サイズ、速度、メモリ使用量がトレードオフの関係にあり、たとえばデータ圧縮比が高いアルゴリズムはメモリ使用量が多い場合が多い。
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可逆圧縮(かぎゃくあっしゅく)とは、圧縮前のデータと、圧縮・展開の処理を経たデータが完全に等しくなるデータ圧縮方法のこと。ロスレス圧縮(ロスレスあっしゅく)、無歪み圧縮(むゆがみあっしゅく)とも呼ばれる。 アルゴリズムとしては連長圧縮、ハフマン符号、LZWなどが有名。 コンピュータ上でよく扱われるLZH、ZIP、CABや、画像圧縮形式のPNG、GIFなどが可逆圧縮である。
'''可逆圧縮'''(かぎゃくあっしゅく)とは、圧縮前のデータと、圧縮・展開の処理を経たデータが完全に等しくなる[[データ圧縮]]方法のこと<ref name="Kotobank">{{Cite Kotobank|word=可逆圧縮|encyclopedia=ASCII.jpデジタル用語辞典|access-date=2023年9月5日}}</ref>。'''ロスレス圧縮'''<ref name="Kotobank" />(ロスレスあっしゅく)、'''無歪み圧縮'''(むゆがみあっしゅく)<ref>{{Cite Kotobank|word=無歪み圧縮|encyclopedia=世界大百科事典|access-date=2023年9月5日}}</ref>とも呼ばれる。 [[アルゴリズム]]としては[[連長圧縮]]、[[ハフマン符号]]、[[Lempel–Ziv–Welch|LZW]]などが有名。 コンピュータ上でよく扱われる[[LHA|LZH]]、[[ZIP (ファイルフォーマット)|ZIP]]、[[CAB]]や、[[画像]]圧縮形式の[[Portable Network Graphics|PNG]]、[[GIF]]などが可逆圧縮である<ref name="Kotobank" />。 == アルゴリズム == {{See also|Category:可逆圧縮アルゴリズム}} すべてのデータを効果的に圧縮できる可逆圧縮アルゴリズムは存在しない([[#可逆圧縮の限界|可逆圧縮の限界]]の節を参照)。そのため、データの種類によって多くのアルゴリズムが存在する。下記に主要な可逆圧縮方式を列挙する。 === データ全般 === *[[算術符号]] - [[エントロピー符号]]の一種 *[[ハフマン符号]] - エントロピー符号の一種 *[[LZ77]]、[[LZ78]] - {{仮リンク|辞書式圧縮|en|Dictionary coder}}の一種 **[[Lempel-Ziv-Markov chain-Algorithm]] (LZMA) - [[7z]]、[[xz (ファイルフォーマット)|xz]]で使用される **[[Lempel–Ziv–Storer–Szymanski]] (LZSS) - [[WinRAR]]でハフマン符号とともに使用される ***[[Deflate]] - [[ZIP (ファイルフォーマット)|ZIP]]、[[gzip]]、[[Portable Network Graphics|PNG]]で使用される **[[Lempel–Ziv–Welch]] (LZW) - [[Graphics Interchange Format|GIF]]、[[UNIX Compress]]で使用される *[[ブロックソート]] - 圧縮の前処理で使用される可逆変換 *[[Prediction by Partial Matching]] (PPM) - プレーンテキストの圧縮で使用される *[[連長圧縮]] === 音声 === *[[ATRAC|ATRAC Advanced Lossless]] (AAL) *[[Apple Lossless]] (ALAC) *[[FLAC]] *[[Monkey's Audio]] (APE) *[[MPEG-4 ALS]] *[[MPEG-4 SLS]] *[[Shorten]] (SHN) *[[TTA]] *[[WavPack]] *[[Windows Media Audio|Windows Media Audio Lossless]] === ラスターイメージ === *[[AV1 Image File Format]] (AVIF) *[[JPEG XL]] - ロスレスモードあり *[[JPEG XR]] - ロスレスモードあり *[[Lossless JPEG]] *[[Portable Network Graphics]] (PNG) *[[QOI]] *[[Tagged Image File Format]] (TIFF) *[[WebP]] == 可逆圧縮の限界 == 可逆圧縮アルゴリズムはすべての入力データに対して圧縮後のデータサイズが圧縮前より小さいことを保証できない。すなわち、どのような可逆圧縮アルゴリズムでも圧縮処理後にデータサイズが小さくならない入力データが存在し、また圧縮処理後にデータサイズが小さくなる入力データが存在する場合、圧縮処理後にデータサイズが大きくなる入力データも必ず存在する。前者の証明は下記の通り<ref name="Bell8">{{Cite conference2|language=en|url=https://books.google.com/books?id=exicCgAAQBAJ&pg=PA9|editor-last=Brodnik|editor-first=Andrej|editor2-last=Vahrenhold|editor2-first=Jan|last=Bell|first=Tim|author-link=ティム・ベル|book-title=Informatics in Schools. Curricula, Competences, and Competitions|conference=8th International Conference on Informatics in Schools: Situation, Evolution, and Perspectives|title=Surprising Computer Science|publisher=Springer|date=28 September 2015|volume=9378|pages=8–9|doi=10.1007/978-3-319-25396-1|isbn=978-3-319-25396-1|s2cid=26313283}}</ref>。 #すべての入力データを小さくできるアルゴリズムの場合、アルゴリズムを繰り返して適用することでデータサイズを1[[ビット]]にできる。 #しかし、1ビットでは記録できる情報が2種類しかなく、解凍が明らかに不可能である。 #したがって、前提である「すべての入力データを小さくできるアルゴリズムが存在する」が成立しない。 後者の証明は[[鳩の巣原理]]を用いたものであり、下記の通りとなっている<ref name="Bell8" /><ref>{{Cite book2|language=en|title=Lossless Compression Handbook (Communications, Networking and Multimedia)|page=41|date=18 December 2002|editor-first=Khalid|editor-last=Sayood|edition=1|publisher=Academic Press|isbn=978-0-12390754-7}}</ref>。 #「圧縮処理後にデータサイズが小さくなる入力データが存在し、圧縮処理後にデータサイズが大きくなる入力データが存在しない」と仮定する。 #圧縮処理後にデータサイズが小さくなる入力データのうち、最も小さい入力データをFとし、そのデータサイズをMとする。Fの圧縮処理後のデータサイズをNとする(MとNの単位は[[ビット]])。 #圧縮処理後にデータサイズが小さくなるため、N < Mである。さらに圧縮処理後にデータサイズが大きくなる入力データが存在しないため、Nビットのデータは圧縮処理後もNビットとなる。 #Nビットのデータは2<sup>N</sup>種類ある。前述のNと合わせ、圧縮処理後にNビットとなるデータは少なくとも2<sup>N</sup>+1種類存在する。 #しかしNビットのデータが2<sup>N</sup>種類しかないので、[[鳩の巣原理]]により少なくとも2種類のデータが圧縮後同じデータになり、解凍が不可能(どちらに戻すべきか判別できない)である。 #したがって最初の仮定は誤りであり、「圧縮処理後にデータサイズが小さくなる入力データが存在しない」(可逆圧縮アルゴリズムではない)か「圧縮処理後にデータサイズが大きくなる入力データが存在する」となる。 このようにすべてのデータを圧縮できるアルゴリズムは数学上存在しえないが、[[インターネット・バブル]]期には{{lang|en|Adam's Platform}}(1998年)、{{lang|en|NearZero}}(2001年)などそのようなアルゴリズムを発明したと主張する[[ベンチャー]]が複数存在した<ref name="Bell8" />。実際の処理では圧縮を行わず、入力データを別のフォルダにコピーし、「圧縮」された偽ファイルに置き換えただけであり、「解凍」のときは別のフォルダにコピーした入力データを元に戻しただけである<ref name="Bell8" />。 可逆圧縮アルゴリズムのベンチマークには{{仮リンク|カルガリーコーパス|en|カルガリーコーパス}}が広く使われている<ref>{{Cite conference|language=ja|url=https://www.ieice.org/publications/conferences/summary.php?id=FIT0000008322&expandable=2&ConfCd=F&session_num=2A&lecture_number=A-009&year=2011&conf_type=F|author=岩間大輝|author2=石田崇|author3=後藤正幸|title=アルファベットサイズが未知の情報源に対する効率的なベイズ符号化法の一考察|page=153|conference=第10回情報科学技術フォーラム|date=2011年8月22日}}</ref><ref name="Mahoney3">{{Cite web2|language=en|last=Mahoney|first=Matt|title=Data Compression Explained|page=3|date=2010|url=https://nishi.dreamhosters.com/u/dce2010-02-26.pdf|access-date=5 September 2023}}</ref>。サイズ、速度、メモリ使用量が[[トレードオフ]]の関係にあり、たとえば[[データ圧縮比]]が高いアルゴリズムはメモリ使用量が多い場合が多い<ref name="Mahoney3" />。 == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == *[[非可逆圧縮]] *[[エントロピー符号]] *[[コルモゴロフ複雑性]] *[[差分符号化]] *[[最適化 (情報工学)]] {{データ圧縮}} [[category:データ圧縮|かきやくあつしゆく]]
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非可逆圧縮
非可逆圧縮(ひかぎゃくあっしゅく)は、圧縮前のデータと、圧縮・展開を経たデータとが完全には一致しないデータ圧縮方式。不可逆圧縮(ふかぎゃくあっしゅく)とも呼ばれる。画像や音声、映像(動画)データに対して用いられる。静止画像ではJPEG、動画像ではMPEG-1、MPEG-2、MPEG-4(DivX、Xvid、3ivX)、MPEG-4 AVC/H.264、HEVC/H.265、WMV9、VP8、音声ではVorbis、WMA、AAC、MP3、ATRAC、Dolby Digital、DTS Digital Surround、Dolby Digital Plus、DTS-HD High Resolutionなどが代表的な非可逆圧縮方法にあたる。 一般的に「データ圧縮」というときには、広い意味で非可逆圧縮も含めることが多いが、狭義のデータ圧縮では非可逆圧縮は入らない。「データ圧縮」の正確な定義は、「情報量を保ったまま」データ量を減らした別のデータに変換することすなわち可逆圧縮をいうからであり、非可逆圧縮の場合は「情報量を保ったまま」という定義から外れる。 非可逆圧縮では、圧縮により一部のデータは欠落するが、人間の感覚に伝わりにくい部分は情報を大幅に減らし、伝わりやすい部分の情報を多く残すことで、劣化を目立たなくする。この結果、すべてのデータを均一に扱う可逆圧縮と比較して圧倒的な圧縮率が得られる。また、圧縮率と品質を両天秤にかけることができ、目的や環境に応じて適切なバランスを選ぶことができる。例えば、低速なナローバンドを使う場合や、データが高い品質を必要としない場合は、圧縮率を高めてデータ量を小さくする。逆に、高速なブロードバンドインターネット接続を使う場合や、より鮮明なコンテンツを表示する場合などは、圧縮率を低くして品質を高くする。
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非可逆圧縮(ひかぎゃくあっしゅく)は、圧縮前のデータと、圧縮・展開を経たデータとが完全には一致しないデータ圧縮方式。不可逆圧縮(ふかぎゃくあっしゅく)とも呼ばれる。画像や音声、映像(動画)データに対して用いられる。静止画像ではJPEG、動画像ではMPEG-1、MPEG-2、MPEG-4(DivX、Xvid、3ivX)、MPEG-4 AVC/H.264、HEVC/H.265、WMV9、VP8、音声ではVorbis、WMA、AAC、MP3、ATRAC、Dolby Digital、DTS Digital Surround、Dolby Digital Plus、DTS-HD High Resolutionなどが代表的な非可逆圧縮方法にあたる。 一般的に「データ圧縮」というときには、広い意味で非可逆圧縮も含めることが多いが、狭義のデータ圧縮では非可逆圧縮は入らない。「データ圧縮」の正確な定義は、「情報量を保ったまま」データ量を減らした別のデータに変換することすなわち可逆圧縮をいうからであり、非可逆圧縮の場合は「情報量を保ったまま」という定義から外れる。 非可逆圧縮では、圧縮により一部のデータは欠落するが、人間の感覚に伝わりにくい部分は情報を大幅に減らし、伝わりやすい部分の情報を多く残すことで、劣化を目立たなくする。この結果、すべてのデータを均一に扱う可逆圧縮と比較して圧倒的な圧縮率が得られる。また、圧縮率と品質を両天秤にかけることができ、目的や環境に応じて適切なバランスを選ぶことができる。例えば、低速なナローバンドを使う場合や、データが高い品質を必要としない場合は、圧縮率を高めてデータ量を小さくする。逆に、高速なブロードバンドインターネット接続を使う場合や、より鮮明なコンテンツを表示する場合などは、圧縮率を低くして品質を高くする。
{{出典の明記|date=2018年11月}} '''非可逆圧縮'''(ひかぎゃくあっしゅく)は、圧縮前のデータと、圧縮・展開を経たデータとが完全には一致しない[[データ圧縮]]方式。'''不可逆圧縮'''(ふかぎゃくあっしゅく)とも呼ばれる。[[画像]]や[[音声]]、映像([[動画]])データに対して用いられる。静止画像では[[JPEG]]、動画像では[[MPEG-1]]、[[MPEG-2]]、[[MPEG-4]]([[DivX]]、[[Xvid]]、[[3ivX]])、[[MPEG-4 AVC|MPEG-4 AVC/H.264]]、[[H.265|HEVC/H.265]]、[[Windows Media Video|WMV9]]、[[VP8]]、音声では[[Ogg Vorbis|Vorbis]]、[[Windows Media Audio|WMA]]、[[AAC]]、[[MP3]]、[[ATRAC]]、[[ドルビーデジタル|Dolby Digital]]、[[デジタル・シアター・システムズ|DTS Digital Surround]]、[[ドルビーデジタル|Dolby Digital Plus]]、[[デジタル・シアター・システムズ|DTS-HD High Resolution]]などが代表的な非可逆圧縮方法にあたる。 一般的に「データ圧縮」というときには、広い意味で非可逆圧縮も含めることが多いが、狭義のデータ圧縮では非可逆圧縮は入らない。「データ圧縮」の正確な定義は、「情報量を保ったまま」データ量を減らした別のデータに変換することすなわち[[可逆圧縮]]をいうからであり、非可逆圧縮の場合は「情報量を保ったまま」という定義から外れる。 非可逆圧縮では、圧縮により一部のデータは欠落するが、人間の感覚に伝わりにくい部分は情報を大幅に減らし、伝わりやすい部分の情報を多く残すことで、劣化を目立たなくする。この結果、すべてのデータを均一に扱う[[可逆圧縮]]と比較して圧倒的な圧縮率が得られる。また、圧縮率と品質を両天秤にかけることができ、目的や環境に応じて適切なバランスを選ぶことができる。例えば、低速な[[ナローバンド]]を使う場合や、データが高い品質を必要としない場合は、圧縮率を高めてデータ量を小さくする。逆に、高速な[[ブロードバンドインターネット接続]]を使う場合や、より鮮明なコンテンツを表示する場合などは、圧縮率を低くして品質を高くする。 == 関連項目 == *[[可逆圧縮]] *[[量子化]] *[[エンコード]] *[[離散コサイン変換]] *[[フラクタル圧縮]] *[[圧縮アーティファクト]] {{データ圧縮}} [[Category:データ圧縮|ひかきやくあつしゆく]] [[fr:Compression de données#Compression avec pertes]]
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Plan 9 from Bell Labs
Plan 9 from Bell Labs(通称 Plan 9)は、主に研究用に使われている分散オペレーティングシステム。ベル研究所の Computing Sciences Research Center で1980年代中ごろから2002年まで、UNIXの研究上の後継として開発された。Plan 9 は、ネットワークやユーザインタフェースまで含めたあらゆるシステムインタフェースを、個別のインタフェースではなくファイルシステムを通して統一的に表現することを特徴とする。Plan 9 は9Pプロトコルを使い、ユーザーにワークステーション毎に独立した作業環境を提供することを目指している。 Plan 9 は、UNIXの流れを汲むオペレーティングシステム (OS) の一種であり、開発に当たってUNIXの設計の問題点を改善することを念頭に置かれている。 Plan 9の"9"には、UNIX version 8の次の版という意味もあると言われている(UNIX version 9と10も作られているが)。 また、フルネームをPlan9 from Bell Labsだとしているが、これはエド・ウッドの史上最低の映画と評されたSF映画 Plan 9 from Outer Space から来ている。また、プロジェクトのマスコットキャラクターGlendaの名も、同じくエド・ウッド作品グレンとグレンダにちなむ。初期の(つまり間に合わせの)ウインドウシステムの81⁄2は(9に足りてない、という意味もあるが)フェデリコ・フェリーニの名画「8 1/2」に掛けており、ハッカー流ジョークの側面でもUNIXの後継であることをうかがわせる。 Plan 9はベル研究所内の主な研究用プラットフォームとしてUNIXを代替し、システムの使用とプログラミングについての本来のUNIXのモデル、特に分散マルチユーザー環境にいくつかの変更を加えることの研究対象ともなった。1980年代中ごろに始まった当初、Plan 9はベル研究所内部のプロジェクトだった。 Plan 9はベル研究所の Computing Science Research Center のメンバーが開発した。そのグループはUNIXやC言語を開発したグループと同一である。当初チームはロブ・パイクやケン・トンプソンらが率い、Computing Techniques Research Department のリーダーとしてデニス・リッチーが支援した。開発には、ブライアン・カーニハン、ビャーネ・ストロヴストルップらも貢献している。 1992年、大学向けに初めてリリースした。1995年、一般向けの商用OSとしてリリースした。1990年代末、ベル研究所を引き継いだルーセント・テクノロジーは、このプロジェクトの商業化を断念。2000年、オープンソースライセンスで非商用リリースを行った。2002年、新たにフリーソフトウェアライセンスで非商用リリースを行った。 ベル研究所の研究員やマサチューセッツ工科大学などの Plan 9ユーザーコミュニティが、ISOイメージの形で頻繁なマイナーリリースを継続している。その開発はいまだにベル研究所がホスティングしている。開発ソースツリーは9PプロトコルかHTTPプロトコルでアクセスでき、インストールしたものを最新に保つのに使われている。OS本体をISOイメージとしている以外に、アプリケーションやツールのリポジトリもベル研究所がホスティングしている。 UNIXの問題点とは、1つのコンピュータを多くの利用者が共有することを前提に作られており、多くのコンピュータを多くの利用者が共有することは考えられていないことである。その結果、利用者が特定のコンピュータを占有することになり、それらのコンピュータは雑然と管理運営されることになる。 UNIXの当初の環境では、どの端末からコンピュータを使っても同じ環境を再現できた。Plan 9では、それをネットワーク上に繋がった分散処理環境上で実現する。 また、UNIXの開発がローカルなファイルシステムをどう表現するかということをテーマとして始まったのに対して、Plan 9は、ローカルであれリモートであれ、リソースというものにどうアクセスするかということを課題とする研究として始まった。 したがって、UNIXの設計当初になかったネットワークの利用を前提とし、端末、CPUサーバ、ファイルサーバ、認証サーバを分けることでセキュリティの向上を狙う。また、ファイルサーバは毎日のスナップショットを保存し、ユーザーレベルでのバックアップ作業をほぼ不要なものとした。 当初はMOジュークボックスなどの利用を考えており、ハードディスクはMOジュークボックスのキャッシュという考え方だった。最近ではハードディスクの大容量化と低廉化が進んでいるため、MOジュークボックスの代わりにハードディスクを使えるようになりつつある。 UNIX以前、多くのオペレーティングシステムはそれぞれのデバイスにアクセスするのに、それぞれ異なる機構を用意していた。例えば、ディスクドライブにアクセスするAPIは、シリアルポートでデータ送受信をするためのAPIとは全く異なるし、プリンターにデータを送信するAPIとも全く異なっていた。 UNIXはそのような差異をなくそうとし、全ての入出力をファイル操作でモデル化しようとした。そのため、全デバイスドライバが制御手段として read および write 操作に対応する必要に迫られた。こうすることで、mvやcpなどのユーティリティで、実装の詳細を気にすることなくデバイスからデバイスにデータを転送することができるようになった。しかし、UNIXでは多くの重要な概念(例えば、プロセス状態の制御など)はファイルにきれいにマッピングされなかった。ソケットや X Window System といった新たな機能が追加されたとき、それらはファイルシステムの外に存在するようになった。新たなハードウェア機能(ソフトウェアがCDのイジェクトを制御するなど)も、ioctlシステムコールなどのハードウェア固有制御機構を使うようになった。 Plan 9研究プロジェクトは、ファイル中心の見方への回帰を目標とし、それ以外の手法を排除した(その一部は、外のUnixへ与えた影響が限定的であった、ベル研版UNIXのバージョン8, 9, 10から引き継がれたものである)。Plan 9のプログラムから見れば、ネットワークやユーザインタフェースのリソース(ウィンドウなど)も含めたあらゆるリソースが階層型ファイルシステムの一部となっており、それ以外の特別なインタフェースは使わない。 Plan 9は単一のマシンにインストールして、自立したシステムとして使うこともできる。しかし、OSの個々の機能コンポーネントをそれぞれ別のハードウェアプラットフォームに配置することもできる。模範的な配置では、RioというGUIを動作させた軽量な端末をユーザーが使い、ネットワーク経由でCPUサーバに接続して、そちらで計算量の多いプロセスを実行し、さらに別のマシンに用意した永続的データストレージをファイルサーバとして使う。最近のデスクトップコンピュータでは、複数の仮想機械を動作させて、この環境を1台のマシン上に再現することができる。 Plan 9設計者はマイクロカーネルと似たような目標を掲げていたが、実際のアーキテクチャや実現方法は異なる。Plan 9の設計目標は次の項目を含む。 Plan 9では、ファイルも画面もユーザーもコンピュータも、それぞれに固有のパス名が対応している。それらは全て既存のUNIXの手法で操作されるが、それに加えて任意のオブジェクトにパス名としての名前をつけることができる(World Wide WebのURIシステムに似ている)。UNIXでは、例えばプリンターなどの機器は /dev 配下の名前で表されるが、ネットワーク経由のプリンターはそのように表されることはなく、直接接続しているプリンターだけである。Plan 9ではプリンターはファイルとして仮想化され、ネットワーク上のあらゆるプリンターに任意のワークステーションから同じ方法でアクセスできる。 また Plan 9では、実世界では同一のオブジェクトにユーザーごとに異なる名前を付けることができる。各ユーザーは各種オブジェクトを自分の名前空間に集め、個人的環境を生成できる。UNIXでは類似の概念として、別のユーザーからコピーされることでユーザーが特権を得るというコンセプトがあるが、Plan 9 ではそれを全てのオブジェクトに拡張している。ユーザーは容易に自分自身の「クローン」を生成することができ、それに変更を加え、それらが作成されたリソースに影響を与えることなく削除できる。 UNIXでは、「リンク」やファイルシステムの「マウント」といった考え方で各種リソース群からファイルシステムを構築できる。それらを利用すると、元々のディレクトリは見えなくなる。例えば、"net" というディレクトリに新たなファイルシステムをマウントすると、元々の "net" ディレクトリ配下の内容にはアクセスできなくなる。 Plan 9は「unionディレクトリ」という考え方を導入した。これは、異なる媒体やネットワークにまたがるリソース群をまとめたディレクトリであり、他のディレクトリと透過的に連結することができる。例えば、他のコンピュータの /bin ディレクトリを手元のコンピュータの同名のディレクトリと連結し、ローカルとリモートのアプリケーションに透過的にアクセスできるようにすることができる。同様に、/dev に外部のデバイスやリソースをまとめると、全くコードを追加することなくネットワーク経由でデバイスを共有できる。 LinuxディストリビューションのLive CDの多くは、この機能の限定版である union mount という機能を実装しているものが増えている。 /proc ディレクトリには動作中プロセスの一覧があり、それぞれの状態を示している。いわゆる「プロセスファイルシステム(procfs)」と呼ばれるもので、標準化はされておらず詳細は異なるが、Linuxその他多くのUnixでも採用されている。プロセスは名前付きのオブジェクト(infoファイルやcontrolファイルのあるサブディレクトリ)として /proc 配下にあり、他のカーネルリソースと共に動的I/Oチャネルもあり、ユーザーはそれにコマンドを送ったり、データを読み取ったりできる。ユーザーは一部のシステムコールを使ったプログラムをコンパイルしてカーネルとやり取りする必要はなく、ls や cat といったコマンドでプロセスを検索し、操作することができる。 他のマシンの /proc ディレクトリは他の特殊なファイルシステムと同様、ユーザーの名前空間にマウントでき、ローカルにあるかのようにそれを使うことができる。これにより、複数のマシンから成る分散コンピューティング環境ができる。ユーザーの机上にある端末、データを格納してあるファイルサーバ、高速CPUや認証やゲートウェイなどのその他サーバ群などがあり、それら全てがユーザーが見慣れたディレクトリ階層を使っている。ユーザーはファイルサーバやサーバで動作中のアプリケーションやネットワーク上のプリンターなどを集め、端末上の個人的名前空間にそれらをまとめることができる。 Plan 9は多数の通信プロトコルやデバイスドライバのインタフェースとしてのシステムコールを持たない。例えば、/net はTCP/IP全体のAPIの役割を担っており、スクリプトやコマンドで操作可能で、制御ファイルに書き込むことでコネクションを読み書きできる。/net/tcp や /net/udp といったサブディレクトリはそれぞれのプロトコルへのインタフェースとして使うことができる。例えば、NATを実装する場合、公開IPアドレスを持つ境界線上のマシンの /net をマウントし、内部ネットワークで Plan 9 の9Pプロトコルを使い、プライベートIPアドレスの内部ネットワークから当該マシンへと接続する。VPNを実装する場合は、インターネット上でセキュアな9Pプロトコルを使い、リモートのゲートウェイの /net ディレクトリをマウントすればよい。 /net で union ディレクトリを使う例を示す。オブジェクト指向プログラミングにおける継承のように、(リモートの) /special に対して、別のローカルなディレクトリを連結(重ね合わせ)する。すると同じ名前の制御ファイルはあとから重ねた方で隠され、新たな制御ファイルは追加された状態になる。言ってみれば union ディレクトリは、元の2つの親を継承した子オブジェクトのようなものである。オリジナルの機能は部分的に変更されることがある。これを /net ファイルシステムで考えると、/net/udp サブディレクトリを更新または隠蔽すると、UDPインタフェースにローカルなフィルタープロセスをかませて制御または拡張でき、/net/tcp は元のまま、おそらくリモートマシン上で動作させておくといったことができる。名前空間はプロセス単位に設定可能なので、信頼できないアプリケーションに対して制限を加えた /net union ディレクトリを見せることで、ネットワークアクセスを制限することができる。 このような機構は、異なるシステム上で異なる言語で書かれたファイルシステムや「オブジェクト」を容易に連結でき、プログラマからはファイルシステムの名前付けやアクセス制御やセキュリティの大部分が透過的となる。 類似の機構として4.4BSDの portalがある。UDPは実装されていない、(慣習であって本質的な違いではないが)マウントポイントが /net ではなく /p である、といった点が違う。 Plan 9はUNIXをベースとしているが、通信を中核機能としたシステムを構築できることを示すために開発された。全てのシステムリソースには名前があり、ファイルのようにアクセスでき、動作中の各プログラムに対応して動的に分散システムのビューを定義できる。この手法は、ユーザーやアプリケーションに提示するデータを保持するサーバ群を通常ファイルの集まりのように見せることで、アプリケーション設計の汎用性とモジュール性を改善する。 Plan 9のネットワーク透過性サポートの鍵となる部分は、9Pというプロトコルである。9Pプロトコルとその実装は、名前付きのネットワークオブジェクト同士を結びつけ、ファイルのようなシステムインタフェースとして提示する。9Pは高速なバイト指向分散ファイルシステムであり(ブロック指向ではない)、リモートマシン上のNFSサーバが提示するオブジェクトだけでなく、任意のオブジェクトを仮想化できる。このプロトコルはプロセスやプログラムやデータと通信するのに使われ、ユーザインタフェースとネットワークの両方を含んでいる。第4版では 9P2000 に改称された。 Plan 9の内部コードはUTF-8となっている。このため、多言語の問題は基本的には発生しない。また、そもそもUTF-8自体、Plan 9の研究の過程でケン・トンプソンが考案したもので、1992年に全コードがUTF-8対応になった。なお、Plan 9 がサポートしているのは、Unicodeの基本多言語面だけである。 インストール可能な実行環境がx86向けに用意されている。また、MIPS、DEC Alpha、SPARC、PowerPC、ARMなどのアーキテクチャにも移植されている。システムは ISO/ANSI C の方言の一種で書かれている。いくつかのアプリケーションはAlefという独自の言語で元々は書かれていたが、後でシステムと同じC言語の方言で書き直されたものもある。POSIX対応アプリケーションを移植可能であり、ソケットは ANSI/POSIX Environment APE 経由でエミュレートできる。最近では、Plan 9上でLinux用バイナリを実行できる linuxemu というアプリケーションも開発中である。 IBMのスーパーコンピュータ Blue Gene にも移植されている。 Plan 9はUNIXの中核的概念——すなわち全てのシステムインタフェースをファイル群で表現するということ——が現代的分散システムとして実装でき、機能することを示した。Plan 9 の一部機能、例えばUTF-8は他のオペレーティングシステムにも実装された。LinuxなどのUnix系オペレーティングシステムは9P、Plan 9 のファイルシステムやシステムコール体系も部分的に実装した。また、Plan 9 のアプリケーションやツールを集めた Plan 9 from User Space はUnix系システムに移植され、ある程度の人気を得ている。Glendix は、Linuxカーネルの周囲のGNUのシステムプログラムを Plan 9 内のプログラムで置き換えようとするプロジェクト(あるいは、逆に Plan 9 のカーネルを Linux に置き換えるプロジェクト)である。 しかし、Plan 9はUNIXほどの人気を得ることはなく、研究用ツールという位置づけに終始した。Plan 9に対しては、「オペレーティングシステム研究での興味深い論文を生成するためのデバイスとして主に機能している」という批判もある。エリック・レイモンドは著書 The Art of Unix Programming で、Plan 9が広まらない背景について、次のように考察している。 Plan 9の支持者や開発者は、採用を妨げていた問題は既に解決され、当初の目標としていた分散システム、開発環境、研究用プラットフォームには十分な完成度であり、今後徐々に広まっていくだろうと主張している。Infernoは仮想機械上で動作するため、混在グリッド環境の一部として Plan 9 の技術をもたらす原動力になるとしている。 GNUプロジェクトはPlan 9のライセンスをフリーソフトウェアライセンスだとは認めていなかったが、2003年6月にそのライセンスに変更が加えられ、GPLとは整合性を持たないながらも、フリーソフトウェアと認められるようになった。OSIもオープンソースライセンスと認めており、Debianフリーソフトウェアガイドラインには合格している。全ソースコードがそのライセンスでフリーで入手可能である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Plan 9 from Bell Labs(通称 Plan 9)は、主に研究用に使われている分散オペレーティングシステム。ベル研究所の Computing Sciences Research Center で1980年代中ごろから2002年まで、UNIXの研究上の後継として開発された。Plan 9 は、ネットワークやユーザインタフェースまで含めたあらゆるシステムインタフェースを、個別のインタフェースではなくファイルシステムを通して統一的に表現することを特徴とする。Plan 9 は9Pプロトコルを使い、ユーザーにワークステーション毎に独立した作業環境を提供することを目指している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "Plan 9 は、UNIXの流れを汲むオペレーティングシステム (OS) の一種であり、開発に当たってUNIXの設計の問題点を改善することを念頭に置かれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "Plan 9の\"9\"には、UNIX version 8の次の版という意味もあると言われている(UNIX version 9と10も作られているが)。", "title": "名称の由来" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "また、フルネームをPlan9 from Bell Labsだとしているが、これはエド・ウッドの史上最低の映画と評されたSF映画 Plan 9 from Outer Space から来ている。また、プロジェクトのマスコットキャラクターGlendaの名も、同じくエド・ウッド作品グレンとグレンダにちなむ。初期の(つまり間に合わせの)ウインドウシステムの81⁄2は(9に足りてない、という意味もあるが)フェデリコ・フェリーニの名画「8 1/2」に掛けており、ハッカー流ジョークの側面でもUNIXの後継であることをうかがわせる。", "title": "名称の由来" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "Plan 9はベル研究所内の主な研究用プラットフォームとしてUNIXを代替し、システムの使用とプログラミングについての本来のUNIXのモデル、特に分散マルチユーザー環境にいくつかの変更を加えることの研究対象ともなった。1980年代中ごろに始まった当初、Plan 9はベル研究所内部のプロジェクトだった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "Plan 9はベル研究所の Computing Science Research Center のメンバーが開発した。そのグループはUNIXやC言語を開発したグループと同一である。当初チームはロブ・パイクやケン・トンプソンらが率い、Computing Techniques Research Department のリーダーとしてデニス・リッチーが支援した。開発には、ブライアン・カーニハン、ビャーネ・ストロヴストルップらも貢献している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1992年、大学向けに初めてリリースした。1995年、一般向けの商用OSとしてリリースした。1990年代末、ベル研究所を引き継いだルーセント・テクノロジーは、このプロジェクトの商業化を断念。2000年、オープンソースライセンスで非商用リリースを行った。2002年、新たにフリーソフトウェアライセンスで非商用リリースを行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ベル研究所の研究員やマサチューセッツ工科大学などの Plan 9ユーザーコミュニティが、ISOイメージの形で頻繁なマイナーリリースを継続している。その開発はいまだにベル研究所がホスティングしている。開発ソースツリーは9PプロトコルかHTTPプロトコルでアクセスでき、インストールしたものを最新に保つのに使われている。OS本体をISOイメージとしている以外に、アプリケーションやツールのリポジトリもベル研究所がホスティングしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "UNIXの問題点とは、1つのコンピュータを多くの利用者が共有することを前提に作られており、多くのコンピュータを多くの利用者が共有することは考えられていないことである。その結果、利用者が特定のコンピュータを占有することになり、それらのコンピュータは雑然と管理運営されることになる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "UNIXの当初の環境では、どの端末からコンピュータを使っても同じ環境を再現できた。Plan 9では、それをネットワーク上に繋がった分散処理環境上で実現する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また、UNIXの開発がローカルなファイルシステムをどう表現するかということをテーマとして始まったのに対して、Plan 9は、ローカルであれリモートであれ、リソースというものにどうアクセスするかということを課題とする研究として始まった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "したがって、UNIXの設計当初になかったネットワークの利用を前提とし、端末、CPUサーバ、ファイルサーバ、認証サーバを分けることでセキュリティの向上を狙う。また、ファイルサーバは毎日のスナップショットを保存し、ユーザーレベルでのバックアップ作業をほぼ不要なものとした。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "当初はMOジュークボックスなどの利用を考えており、ハードディスクはMOジュークボックスのキャッシュという考え方だった。最近ではハードディスクの大容量化と低廉化が進んでいるため、MOジュークボックスの代わりにハードディスクを使えるようになりつつある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "UNIX以前、多くのオペレーティングシステムはそれぞれのデバイスにアクセスするのに、それぞれ異なる機構を用意していた。例えば、ディスクドライブにアクセスするAPIは、シリアルポートでデータ送受信をするためのAPIとは全く異なるし、プリンターにデータを送信するAPIとも全く異なっていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "UNIXはそのような差異をなくそうとし、全ての入出力をファイル操作でモデル化しようとした。そのため、全デバイスドライバが制御手段として read および write 操作に対応する必要に迫られた。こうすることで、mvやcpなどのユーティリティで、実装の詳細を気にすることなくデバイスからデバイスにデータを転送することができるようになった。しかし、UNIXでは多くの重要な概念(例えば、プロセス状態の制御など)はファイルにきれいにマッピングされなかった。ソケットや X Window System といった新たな機能が追加されたとき、それらはファイルシステムの外に存在するようになった。新たなハードウェア機能(ソフトウェアがCDのイジェクトを制御するなど)も、ioctlシステムコールなどのハードウェア固有制御機構を使うようになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "Plan 9研究プロジェクトは、ファイル中心の見方への回帰を目標とし、それ以外の手法を排除した(その一部は、外のUnixへ与えた影響が限定的であった、ベル研版UNIXのバージョン8, 9, 10から引き継がれたものである)。Plan 9のプログラムから見れば、ネットワークやユーザインタフェースのリソース(ウィンドウなど)も含めたあらゆるリソースが階層型ファイルシステムの一部となっており、それ以外の特別なインタフェースは使わない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "Plan 9は単一のマシンにインストールして、自立したシステムとして使うこともできる。しかし、OSの個々の機能コンポーネントをそれぞれ別のハードウェアプラットフォームに配置することもできる。模範的な配置では、RioというGUIを動作させた軽量な端末をユーザーが使い、ネットワーク経由でCPUサーバに接続して、そちらで計算量の多いプロセスを実行し、さらに別のマシンに用意した永続的データストレージをファイルサーバとして使う。最近のデスクトップコンピュータでは、複数の仮想機械を動作させて、この環境を1台のマシン上に再現することができる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "Plan 9設計者はマイクロカーネルと似たような目標を掲げていたが、実際のアーキテクチャや実現方法は異なる。Plan 9の設計目標は次の項目を含む。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "Plan 9では、ファイルも画面もユーザーもコンピュータも、それぞれに固有のパス名が対応している。それらは全て既存のUNIXの手法で操作されるが、それに加えて任意のオブジェクトにパス名としての名前をつけることができる(World Wide WebのURIシステムに似ている)。UNIXでは、例えばプリンターなどの機器は /dev 配下の名前で表されるが、ネットワーク経由のプリンターはそのように表されることはなく、直接接続しているプリンターだけである。Plan 9ではプリンターはファイルとして仮想化され、ネットワーク上のあらゆるプリンターに任意のワークステーションから同じ方法でアクセスできる。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また Plan 9では、実世界では同一のオブジェクトにユーザーごとに異なる名前を付けることができる。各ユーザーは各種オブジェクトを自分の名前空間に集め、個人的環境を生成できる。UNIXでは類似の概念として、別のユーザーからコピーされることでユーザーが特権を得るというコンセプトがあるが、Plan 9 ではそれを全てのオブジェクトに拡張している。ユーザーは容易に自分自身の「クローン」を生成することができ、それに変更を加え、それらが作成されたリソースに影響を与えることなく削除できる。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "UNIXでは、「リンク」やファイルシステムの「マウント」といった考え方で各種リソース群からファイルシステムを構築できる。それらを利用すると、元々のディレクトリは見えなくなる。例えば、\"net\" というディレクトリに新たなファイルシステムをマウントすると、元々の \"net\" ディレクトリ配下の内容にはアクセスできなくなる。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "Plan 9は「unionディレクトリ」という考え方を導入した。これは、異なる媒体やネットワークにまたがるリソース群をまとめたディレクトリであり、他のディレクトリと透過的に連結することができる。例えば、他のコンピュータの /bin ディレクトリを手元のコンピュータの同名のディレクトリと連結し、ローカルとリモートのアプリケーションに透過的にアクセスできるようにすることができる。同様に、/dev に外部のデバイスやリソースをまとめると、全くコードを追加することなくネットワーク経由でデバイスを共有できる。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "LinuxディストリビューションのLive CDの多くは、この機能の限定版である union mount という機能を実装しているものが増えている。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "/proc ディレクトリには動作中プロセスの一覧があり、それぞれの状態を示している。いわゆる「プロセスファイルシステム(procfs)」と呼ばれるもので、標準化はされておらず詳細は異なるが、Linuxその他多くのUnixでも採用されている。プロセスは名前付きのオブジェクト(infoファイルやcontrolファイルのあるサブディレクトリ)として /proc 配下にあり、他のカーネルリソースと共に動的I/Oチャネルもあり、ユーザーはそれにコマンドを送ったり、データを読み取ったりできる。ユーザーは一部のシステムコールを使ったプログラムをコンパイルしてカーネルとやり取りする必要はなく、ls や cat といったコマンドでプロセスを検索し、操作することができる。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "他のマシンの /proc ディレクトリは他の特殊なファイルシステムと同様、ユーザーの名前空間にマウントでき、ローカルにあるかのようにそれを使うことができる。これにより、複数のマシンから成る分散コンピューティング環境ができる。ユーザーの机上にある端末、データを格納してあるファイルサーバ、高速CPUや認証やゲートウェイなどのその他サーバ群などがあり、それら全てがユーザーが見慣れたディレクトリ階層を使っている。ユーザーはファイルサーバやサーバで動作中のアプリケーションやネットワーク上のプリンターなどを集め、端末上の個人的名前空間にそれらをまとめることができる。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "Plan 9は多数の通信プロトコルやデバイスドライバのインタフェースとしてのシステムコールを持たない。例えば、/net はTCP/IP全体のAPIの役割を担っており、スクリプトやコマンドで操作可能で、制御ファイルに書き込むことでコネクションを読み書きできる。/net/tcp や /net/udp といったサブディレクトリはそれぞれのプロトコルへのインタフェースとして使うことができる。例えば、NATを実装する場合、公開IPアドレスを持つ境界線上のマシンの /net をマウントし、内部ネットワークで Plan 9 の9Pプロトコルを使い、プライベートIPアドレスの内部ネットワークから当該マシンへと接続する。VPNを実装する場合は、インターネット上でセキュアな9Pプロトコルを使い、リモートのゲートウェイの /net ディレクトリをマウントすればよい。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "/net で union ディレクトリを使う例を示す。オブジェクト指向プログラミングにおける継承のように、(リモートの) /special に対して、別のローカルなディレクトリを連結(重ね合わせ)する。すると同じ名前の制御ファイルはあとから重ねた方で隠され、新たな制御ファイルは追加された状態になる。言ってみれば union ディレクトリは、元の2つの親を継承した子オブジェクトのようなものである。オリジナルの機能は部分的に変更されることがある。これを /net ファイルシステムで考えると、/net/udp サブディレクトリを更新または隠蔽すると、UDPインタフェースにローカルなフィルタープロセスをかませて制御または拡張でき、/net/tcp は元のまま、おそらくリモートマシン上で動作させておくといったことができる。名前空間はプロセス単位に設定可能なので、信頼できないアプリケーションに対して制限を加えた /net union ディレクトリを見せることで、ネットワークアクセスを制限することができる。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "このような機構は、異なるシステム上で異なる言語で書かれたファイルシステムや「オブジェクト」を容易に連結でき、プログラマからはファイルシステムの名前付けやアクセス制御やセキュリティの大部分が透過的となる。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "類似の機構として4.4BSDの portalがある。UDPは実装されていない、(慣習であって本質的な違いではないが)マウントポイントが /net ではなく /p である、といった点が違う。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 29, 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Plan 9 from Bell Labsは、主に研究用に使われている分散オペレーティングシステム。ベル研究所の Computing Sciences Research Center で1980年代中ごろから2002年まで、UNIXの研究上の後継として開発された。Plan 9 は、ネットワークやユーザインタフェースまで含めたあらゆるシステムインタフェースを、個別のインタフェースではなくファイルシステムを通して統一的に表現することを特徴とする。Plan 9 は9Pプロトコルを使い、ユーザーにワークステーション毎に独立した作業環境を提供することを目指している。 Plan 9 は、UNIXの流れを汲むオペレーティングシステム (OS) の一種であり、開発に当たってUNIXの設計の問題点を改善することを念頭に置かれている。
{{Infobox OS| |name = Plan 9 from Bell Labs |screenshot = [[ファイル:Plan 9 Fourth Edition rio interaction screenshot.png|220px|rioをGUIとして使ったPlan 9画面]] |caption = rioをGUIとして使ったPlan 9画面 |developer = [[ベル研究所]] |family = Unixの後継 |source_model = [[フリーソフトウェア]]/[[オープンソース]] |latest_release_version = Fourth Edition |latest_release_date = {{Start date and age|2015|01|10}}<ref>{{cite web |url = http://plan9.bell-labs.com/plan9checksums.txt |archive-url = https://web.archive.org/web/20170601074943/http://plan9.bell-labs.com/plan9checksums.txt |archive-date = 2017-06-01 |title = plan9checksums |access-date = 2019-07-25 |publisher = Bell Labs |quote = Sat Jan 10 04:04:55 EST 2015 ... plan9.iso.bz2 }}</ref> |kernel_type = [[ハイブリッドカーネル|ハイブリッド]] |ui = [[Rio (program)|rio]] / [[rc]] |license = {{仮リンク|Lucent Public License|en|Lucent Public License}} 2021: [[MIT License|MIT]]<ref>{{cite web |title=Plan 9 License |url=http://p9f.org/license.html |website=p9f.org |access-date=14 June 2021 |archive-date=14 June 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|archive-url=https://web.archive.org/web/20031003143445/http://plan9.bell-labs.com/plan9dist/license.html}}</ref><br />2000: Plan 9 OSL<ref>{{cite web |title=Plan 9 Open Source License - Version 1.4 - 09/10/02 |url=http://plan9.bell-labs.com/plan9dist/license.html |website=plan9.bell-labs.com |access-date=14 June 2021 |archive-date=18 December 2002 |archive-url=https://web.archive.org/web/20021218022657/http://plan9.bell-labs.com/plan9dist/license.html}}</ref><ref>{{cite web |title=Plan 9 Open Source License - Version 1.2 - 10/29/00 |url=http://plan9.bell-labs.com/plan9dist/license.html |website=plan9.bell-labs.com |access-date=14 June 2021 |archive-date=6 December 2000 |archive-url=https://web.archive.org/web/20001206083100/http://plan9.bell-labs.com/plan9dist/license.html}}</ref><ref>{{cite web |title=Plan 9 Open Source License - Version 1.1 - 09/20/00 |url=http://plan9.bell-labs.com/plan9dist/license.html |website=plan9.bell-labs.com |access-date=14 June 2021 |archive-date=26 October 2000 |archive-url=https://web.archive.org/web/20001026141512/http://plan9.bell-labs.com/plan9dist/license.html}}</ref><ref>{{cite web |title=Plan 9 Open Source License Agreement |url=http://plan9.bell-labs.com/plan9dist/license.html |website=plan9.bell-labs.com |access-date=14 June 2021 |archive-date=16 August 2000 |archive-url=https://web.archive.org/web/20000816164219/http://plan9.bell-labs.com/plan9dist/license.html}}</ref> |working_state = Current |website = [https://9p.io/plan9/ https://9p.io/plan9/] | supported_platforms = [[x86]], [[MIPSアーキテクチャ|MIPS]], [[DEC Alpha]], [[SPARC]], [[PowerPC]], [[ARMアーキテクチャ|ARM]] }} {{Lang|en|'''Plan 9 from Bell Labs'''}}(通称 {{Lang|en|'''Plan 9'''}})は、主に研究用に使われている[[分散オペレーティングシステム]]。[[ベル研究所]]の {{Lang|en|Computing Sciences Research Center}} で1980年代中ごろから2002年まで、[[UNIX]]の研究上の後継として開発された。Plan 9 は、ネットワークやユーザインタフェースまで含めたあらゆるシステムインタフェースを、個別のインタフェースではなくファイルシステムを通して統一的に表現することを特徴とする。Plan 9 は[[9P]]プロトコルを使い、ユーザーにワークステーション毎に独立した作業環境を提供することを目指している。 Plan 9 は、[[UNIX]]の流れを汲む[[オペレーティングシステム]] (OS) の一種であり、開発に当たってUNIXの設計の問題点を改善することを念頭に置かれている<ref>[http://plan9.aichi-u.ac.jp/unix.html UNIX との違い]</ref>。 == 名称の由来 == Plan 9の"9"には、UNIX version 8の次の版という意味もあると言われている(UNIX version 9と10も作られているが)。 また、フルネームを''Plan9 from Bell Labs''だとしているが、これは[[エド・ウッド]]の[[B級映画|史上最低の映画と評された]][[サイエンス・フィクション|SF]]映画 [[プラン9・フロム・アウタースペース|Plan 9 from Outer Space]] から来ている<ref>{{cite web | last = Raymond | first = Eric | title = The Art of UNIX Programming | url= http://www.faqs.org/docs/artu/plan9.html#ftn.id3015199 | accessdate = 2007-05-07 }}</ref>。また、プロジェクトのマスコットキャラクターGlendaの名も、同じくエド・ウッド作品[[グレンとグレンダ]]にちなむ。初期の(つまり間に合わせの)ウインドウシステムの[[:en:8½ (Plan 9)|8½]]は(9に足りてない、という意味もあるが)[[フェデリコ・フェリーニ]]の名画「[[8 1/2]]」に掛けており、[[ハッカー]]流ジョークの側面でもUNIXの後継であることをうかがわせる。 == 歴史 == Plan 9はベル研究所内の主な研究用プラットフォームとしてUNIXを代替し、システムの使用とプログラミングについての本来のUNIXのモデル、特に分散[[マルチユーザー]]環境にいくつかの変更を加えることの研究対象ともなった。[[1980年代]]中ごろに始まった当初、Plan 9はベル研究所内部のプロジェクトだった。 Plan 9は[[ベル研究所]]の Computing Science Research Center のメンバーが開発した。そのグループは[[UNIX]]や[[C言語]]を開発したグループと同一である。当初チームは[[ロブ・パイク]]や[[ケン・トンプソン]]らが率い、Computing Techniques Research Department のリーダーとして[[デニス・リッチー]]が支援した。開発には、[[ブライアン・カーニハン]]、[[ビャーネ・ストロヴストルップ]]らも貢献している<ref name="Developers">{{cite web | last=McIlroy | first=Doug | year=1995 | url= http://cm.bell-labs.com/sys/man/preface.html | title=Preface to the Second (1995) Edition | publisher=Lucent Technologies | accessdate=2006-04-02}}</ref>。 [[1992年]]、大学向けに初めてリリースした。[[1995年]]、一般向けの商用OSとしてリリースした。[[1990年代]]末、ベル研究所を引き継いだ[[ルーセント・テクノロジー]]は、このプロジェクトの商業化を断念。[[2000年]]、[[オープンソース]]ライセンスで非商用リリースを行った。[[2002年]]、新たに[[フリーソフトウェア]]ライセンスで非商用リリースを行った。 [[ベル研究所]]の研究員や[[マサチューセッツ工科大学]]などの Plan 9ユーザーコミュニティが、[[ISOイメージ]]の形で頻繁なマイナーリリースを継続している<ref name = "Availability">{{cite web | year=2006 | url= http://cm.bell-labs.com/plan9/ | title=Plan 9 from Bell Labs | publisher= Lucent Technologies | accessdate=2006-04-27}}</ref>。その開発はいまだにベル研究所がホスティングしている。開発ソースツリーは[[9P]]プロトコルか[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]プロトコルでアクセスでき、インストールしたものを最新に保つのに使われている<ref name= "Staying up to date">{{cite web | year=2006 | url= http://cm.bell-labs.com/wiki/plan9/Staying_up_to_date/index.html | title=Staying up to date | publisher=Plan 9 community | accessdate= 2006-04-27}}</ref>。OS本体をISOイメージとしている以外に、アプリケーションやツールのリポジトリもベル研究所がホスティングしている。 == 概要 == === UNIXとの違い === UNIXの問題点とは、1つのコンピュータを多くの利用者が共有することを前提に作られており、多くのコンピュータを多くの利用者が共有することは考えられていないことである。その結果、利用者が特定のコンピュータを占有することになり、それらのコンピュータは雑然と管理運営されることになる。 UNIXの当初の環境では、どの端末からコンピュータを使っても同じ環境を再現できた。Plan 9では、それをネットワーク上に繋がった[[分散コンピューティング|分散処理]]環境上で実現する。 また、UNIXの開発がローカルな[[ファイルシステム]]をどう表現するかということをテーマとして始まったのに対して、Plan 9は、ローカルであれリモートであれ、[[計算資源|リソース]]というものにどうアクセスするかということを課題とする研究として始まった。 したがって、UNIXの設計当初になかった[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]の利用を前提とし、[[端末]]、[[CPU]][[サーバ]]、[[ファイルサーバ]]、[[認証]]サーバを分けることで[[コンピュータセキュリティ|セキュリティ]]の向上を狙う。また、ファイルサーバは毎日のスナップショットを保存し、ユーザーレベルでのバックアップ作業をほぼ不要なものとした。 当初はMOジュークボックスなどの利用を考えており、[[ハードディスク]]はMOジュークボックスの[[キャッシュ (コンピュータシステム)|キャッシュ]]という考え方だった。最近ではハードディスクの大容量化と低廉化が進んでいるため、MOジュークボックスの代わりにハードディスクを使えるようになりつつある。 === 全てのリソースはファイルである === UNIX以前、多くのオペレーティングシステムはそれぞれのデバイスにアクセスするのに、それぞれ異なる機構を用意していた。例えば、[[ディスクドライブ]]にアクセスする[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]は、シリアルポートでデータ送受信をするためのAPIとは全く異なるし、[[プリンター]]にデータを送信するAPIとも全く異なっていた。 UNIXはそのような差異をなくそうとし、全ての[[入出力]]をファイル操作でモデル化しようとした。そのため、全デバイスドライバが制御手段として ''read'' および ''write'' 操作に対応する必要に迫られた。こうすることで、[[Mv (UNIX)|mv]]や[[Cp (UNIX)|cp]]などのユーティリティで、実装の詳細を気にすることなくデバイスからデバイスにデータを転送することができるようになった。しかし、UNIXでは多くの重要な概念(例えば、プロセス状態の制御など)はファイルにきれいにマッピングされなかった。[[ソケット (BSD)|ソケット]]や [[X Window System]] といった新たな機能が追加されたとき、それらはファイルシステムの外に存在するようになった。新たなハードウェア機能(ソフトウェアがCDのイジェクトを制御するなど)も、[[ioctl]][[システムコール]]などのハードウェア固有制御機構を使うようになった。 Plan 9研究プロジェクトは、ファイル中心の見方への回帰を目標とし、それ以外の手法を排除した(その一部は、外のUnixへ与えた影響が限定的であった、ベル研版UNIXのバージョン8, 9, 10から引き継がれたものである)。Plan 9のプログラムから見れば、ネットワークやユーザインタフェースのリソース(ウィンドウなど)も含めたあらゆるリソースが階層型ファイルシステムの一部となっており、それ以外の特別なインタフェースは使わない<ref name="Availability"/>。 === 分散アーキテクチャ === Plan 9は単一のマシンにインストールして、自立したシステムとして使うこともできる。しかし、OSの個々の機能コンポーネントをそれぞれ別のハードウェアプラットフォームに配置することもできる。模範的な配置では、Rioという[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]を動作させた軽量な端末をユーザーが使い、ネットワーク経由でCPUサーバに接続して、そちらで計算量の多いプロセスを実行し、さらに別のマシンに用意した永続的データストレージをファイルサーバとして使う。最近のデスクトップコンピュータでは、複数の[[仮想機械]]を動作させて、この環境を1台のマシン上に再現することができる。 == 設計 == Plan 9設計者は[[マイクロカーネル]]と似たような目標を掲げていたが、実際のアーキテクチャや実現方法は異なる。Plan 9の設計目標は次の項目を含む。 ; ファイルとしてのリソース : 全ての[[計算資源|リソース]]を階層型[[ファイルシステム]]内のファイルとして表現する。 ; 名前空間 : アプリケーションから見て、ネットワークは単一で一貫した[[名前空間]]であり、それも階層型ファイルシステムとして表現される。しかし、実体はローカルまたはリモートに分離されたリソース群である。各プロセスの名前空間はそれぞれ独立に構築でき、ユーザーは異なる複数の名前空間のアプリケーション群を同時に扱える。 ; 標準通信プロトコル : [[9P]]という標準プロトコルを使い、ローカルやリモートの区別なく、あらゆるリソースにアクセスする。 === ファイルシステム、ファイル、名前 === Plan 9では、[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]も[[画面]]{{要曖昧さ回避|date=2023年6月}}も[[ユーザー (コンピュータ)|ユーザー]]も[[コンピュータ]]も、それぞれに固有のパス名が対応している。それらは全て既存のUNIXの手法で操作されるが、それに加えて任意のオブジェクトにパス名としての名前をつけることができる([[World Wide Web]]の[[Uniform Resource Identifier|URI]]システムに似ている)。UNIXでは、例えば[[プリンター]]などの機器は <code>/dev</code> 配下の名前で表されるが、ネットワーク経由のプリンターはそのように表されることはなく、直接接続しているプリンターだけである。Plan 9ではプリンターはファイルとして仮想化され、ネットワーク上のあらゆるプリンターに任意のワークステーションから同じ方法でアクセスできる。 また Plan 9では、実世界では同一のオブジェクトにユーザーごとに異なる名前を付けることができる。各ユーザーは各種オブジェクトを自分の名前空間に集め、個人的環境を生成できる。UNIXでは類似の概念として、別のユーザーからコピーされることでユーザーが特権を得るというコンセプトがあるが、Plan 9 ではそれを全てのオブジェクトに拡張している。ユーザーは容易に自分自身の「クローン」を生成することができ、それに変更を加え、それらが作成されたリソースに影響を与えることなく削除できる。 === Union ディレクトリ === UNIXでは、「リンク」やファイルシステムの「マウント」といった考え方で各種リソース群からファイルシステムを構築できる。それらを利用すると、元々のディレクトリは見えなくなる。例えば、"net" というディレクトリに新たなファイルシステムをマウントすると、元々の "net" ディレクトリ配下の内容にはアクセスできなくなる。 Plan 9は「unionディレクトリ」という考え方を導入した。これは、異なる媒体やネットワークにまたがるリソース群をまとめたディレクトリであり、他のディレクトリと透過的に連結することができる。例えば、他のコンピュータの <code>/bin</code> ディレクトリを手元のコンピュータの同名のディレクトリと連結し、ローカルとリモートのアプリケーションに透過的にアクセスできるようにすることができる。同様に、<code>/dev</code> に外部のデバイスやリソースをまとめると、全くコードを追加することなくネットワーク経由でデバイスを共有できる。 [[Linuxディストリビューション]]の[[Live CD]]の多くは、この機能の限定版である union mount という機能を実装しているものが増えている。 === /proc === <code>/proc</code> ディレクトリには動作中プロセスの一覧があり、それぞれの状態を示している。いわゆる「プロセスファイルシステム([[procfs]])」と呼ばれるもので、標準化はされておらず詳細は異なるが、[[Linux]]その他多くのUnixでも採用されている。プロセスは名前付きのオブジェクト(infoファイルやcontrolファイルのあるサブディレクトリ)として <code>/proc</code> 配下にあり、他のカーネルリソースと共に動的I/Oチャネルもあり、ユーザーはそれにコマンドを送ったり、データを読み取ったりできる。ユーザーは一部のシステムコールを使ったプログラムをコンパイルしてカーネルとやり取りする必要はなく、<code>[[Ls (UNIX)|ls]]</code> や <code>[[Cat (UNIX)|cat]]</code> といったコマンドでプロセスを検索し、操作することができる。 他のマシンの <code>/proc</code> ディレクトリは他の特殊なファイルシステムと同様、ユーザーの名前空間にマウントでき、ローカルにあるかのようにそれを使うことができる。これにより、複数のマシンから成る分散コンピューティング環境ができる。ユーザーの机上にある端末、データを格納してあるファイルサーバ、高速CPUや認証や[[ゲートウェイ]]などのその他サーバ群などがあり、それら全てがユーザーが見慣れたディレクトリ階層を使っている。ユーザーは[[ファイルサーバ]]やサーバで動作中のアプリケーションやネットワーク上のプリンターなどを集め、端末上の個人的名前空間にそれらをまとめることができる。 === /net === Plan 9は多数の通信プロトコルやデバイスドライバのインタフェースとしてのシステムコールを持たない。例えば、<code>/net</code> はTCP/IP全体のAPIの役割を担っており、スクリプトやコマンドで操作可能で、制御ファイルに書き込むことでコネクションを読み書きできる。<code>/net/tcp</code> や <code>/net/udp</code> といったサブディレクトリはそれぞれのプロトコルへのインタフェースとして使うことができる。例えば、[[ネットワークアドレス変換|NAT]]を実装する場合、公開IPアドレスを持つ境界線上のマシンの <code>/net</code> をマウントし、内部ネットワークで Plan 9 の[[9P]]プロトコルを使い、プライベートIPアドレスの内部ネットワークから当該マシンへと接続する。[[Virtual Private Network|VPN]]を実装する場合は、インターネット上でセキュアな9Pプロトコルを使い、リモートのゲートウェイの <code>/net</code> ディレクトリをマウントすればよい。 <code>/net</code> で union ディレクトリを使う例を示す。[[オブジェクト指向プログラミング]]における継承のように、(リモートの) <code>/special</code> に対して、別のローカルなディレクトリを連結(重ね合わせ)する。すると同じ名前の制御ファイルはあとから重ねた方で隠され、新たな制御ファイルは追加された状態になる。言ってみれば union ディレクトリは、元の2つの親を継承した子オブジェクトのようなものである。オリジナルの機能は部分的に変更されることがある。これを <code>/net</code> ファイルシステムで考えると、<code>/net/udp</code> サブディレクトリを更新または隠蔽すると、UDPインタフェースにローカルなフィルタープロセスをかませて制御または拡張でき、<code>/net/tcp</code> は元のまま、おそらくリモートマシン上で動作させておくといったことができる。名前空間はプロセス単位に設定可能なので、信頼できないアプリケーションに対して制限を加えた <code>/net</code> union ディレクトリを見せることで、ネットワークアクセスを制限することができる。 このような機構は、異なるシステム上で異なる言語で書かれたファイルシステムや「オブジェクト」を容易に連結でき、プログラマからはファイルシステムの名前付けやアクセス制御やセキュリティの大部分が透過的となる。 類似の機構として4.4BSDの portal<ref>[http://static.usenix.org/publications/library/proceedings/neworl/full_papers/stevens.a Portals in 4.4BSD]</ref>がある。UDPは実装されていない、(慣習であって本質的な違いではないが)マウントポイントが <code>/net</code> ではなく <code>/p</code> である、といった点が違う。 === ネットワークと分散コンピューティング === Plan 9はUNIXをベースとしているが、通信を中核機能としたシステムを構築できることを示すために開発された。全てのシステムリソースには名前があり、ファイルのようにアクセスでき、動作中の各プログラムに対応して動的に分散システムのビューを定義できる。この手法は、ユーザーやアプリケーションに提示するデータを保持するサーバ群を通常ファイルの集まりのように見せることで、アプリケーション設計の汎用性とモジュール性を改善する。 Plan 9の[[透過性 (情報工学)|ネットワーク透過性]]サポートの鍵となる部分は、[[9P]]というプロトコルである。9Pプロトコルとその実装は、名前付きのネットワークオブジェクト同士を結びつけ、ファイルのようなシステムインタフェースとして提示する。9Pは高速なバイト指向[[分散ファイルシステム]]であり(ブロック指向ではない)、リモートマシン上のNFSサーバが提示するオブジェクトだけでなく、任意のオブジェクトを仮想化できる。このプロトコルはプロセスやプログラムやデータと通信するのに使われ、ユーザインタフェースとネットワークの両方を含んでいる。第4版では 9P2000 に改称された。 === Unicode === Plan 9の内部コードは[[UTF-8]]となっている。このため、多言語の問題は基本的には発生しない。また、そもそもUTF-8自体、Plan 9の研究の過程で[[ケン・トンプソン]]が考案したもので、1992年に全コードがUTF-8対応になった<ref name= "UTF8">{{cite web | last=Pike | first=Rob | year=2003 | url= http://www.cl.cam.ac.uk/~mgk25/ucs/utf-8-history.txt | title= UTF-8 History | accessdate=2006-04-27 }}</ref>。なお、Plan 9 がサポートしているのは、Unicodeの[[基本多言語面]]だけである。 == 実装 == [[ファイル:Plan 9 Fourth Edition installing file system screenshot.png|thumb|rioをGUIとして使ったインストール画面]] インストール可能な実行環境が[[x86]]向けに用意されている。また、[[MIPSアーキテクチャ|MIPS]]、[[DEC Alpha]]、[[SPARC]]、[[PowerPC]]、[[ARMアーキテクチャ|ARM]]などのアーキテクチャにも移植されている。システムは [[国際標準化機構|ISO]]/[[ANSI]] [[C言語|C]] の方言の一種で書かれている。いくつかのアプリケーションは[[:en:Alef (programming language)|Alef]]という独自の言語で元々は書かれていたが、後でシステムと同じC言語の方言で書き直されたものもある。[[POSIX]]対応アプリケーションを移植可能であり、[[ソケット (BSD)|ソケット]]は ANSI/POSIX Environment APE 経由でエミュレートできる。最近では、Plan 9上で[[Linux]]用バイナリを実行できる ''linuxemu'' というアプリケーションも開発中である。 [[IBM]]の[[スーパーコンピュータ]] [[Blue Gene]] にも移植されている<ref name="BGPlan9">[http://go.cs.bell-labs.com/fastos/doc/lanl.bglport.pdf Plan9 BG Presentation]</ref>。 == 影響 == Plan 9はUNIXの中核的概念——すなわち全てのシステムインタフェースをファイル群で表現するということ——が現代的分散システムとして実装でき、機能することを示した。Plan 9 の一部機能、例えば[[UTF-8]]は他のオペレーティングシステムにも実装された。[[Linux]]などのUnix系オペレーティングシステムは[[9P]]、Plan 9 のファイルシステムやシステムコール体系も部分的に実装した。また、Plan 9 のアプリケーションやツールを集めた Plan 9 from User Space はUnix系システムに移植され、ある程度の人気を得ている。Glendix は、Linuxカーネルの周囲の[[GNU]]のシステムプログラムを Plan 9 内のプログラムで置き換えようとするプロジェクト(あるいは、逆に Plan 9 のカーネルを Linux に置き換えるプロジェクト)である。 しかし、Plan 9はUNIXほどの人気を得ることはなく、研究用ツールという位置づけに終始した。Plan 9に対しては、「オペレーティングシステム研究での興味深い論文を生成するためのデバイスとして主に機能している」という批判もある<ref name="ESRPlan9" />。[[エリック・レイモンド]]は著書 ''The Art of Unix Programming'' で、Plan 9が広まらない背景について、次のように考察している。 : Plan 9が失敗したのは単に、Unix がそれ以前のシステムを凌駕したほどPlan 9は注目に値する改良ではなかったからである。Plan 9に比べると Unix はガタピシ言って錆付いたところもあるが、与えられた仕事はちゃんとやっており、現在の位置に留まるだけの資格がある。野心的なシステムアーキテクトへの教訓がここにある。よりよいソリューションにとって最も危険な敵は、すでに存在する十分うまく動作するコードベースである。<ref name="ESRPlan9">{{cite web | last=Raymond | first=Eric S. | authorlink=エリック・レイモンド| url= http://www.faqs.org/docs/artu/plan9.html | title=Plan 9: The Way the Future Was | accessdate= 2006-03-28 }}</ref> Plan 9の支持者や開発者は、採用を妨げていた問題は既に解決され、当初の目標としていた分散システム、開発環境、研究用プラットフォームには十分な完成度であり、今後徐々に広まっていくだろうと主張している。[[Inferno (オペレーティングシステム)|Inferno]]は仮想機械上で動作するため、混在グリッド環境の一部として Plan 9 の技術をもたらす原動力になるとしている<ref name="9grid">{{cite web | year=2006 | url= http://cm.bell-labs.com/wiki/plan9/9grid/ | title=9grid (Plan 9 wiki) | work=Plan 9 wiki | accessdate=2006-03-28}}</ref><ref name="VitaNuova">{{cite web | year=2004 | url= http://www.vitanuova.com/solutions/grid/news/evotecoai.pdf | title="Press Release: Vita Nuova Supplies Inferno Grid to Evotec OAI | format=PDF | publisher=Vita Nuova Holdings Limted | accessdate=2006-03-28}}</ref><ref name="Rutgers">{{cite web | year=2004 | url= http://www.vitanuova.com/solutions/grid/news/rutgers.pdf | title="Press Release: Rutgers University Libraries Install Inferno Data Grid" | format=PDF | publisher=Vita Nuova Holdings Limited | accessdate=2006-03-28}}</ref><ref name="YorkBio">{{cite web | year=2004 | url= http://www.vitanuova.com/solutions/grid/news/Yorkbiology.pdf | title="Press Release: The University of York Department of Biology install Vita Nuova's Inferno Data Grid" | format=PDF | publisher=Vita Nuova Holdings Limited | accessdate=2006-03-28}}</ref>。 == ライセンス == [[GNUプロジェクト]]はPlan 9のライセンス<ref>[http://plan9.bell-labs.com/plan9/license.html Lucent Public License]</ref>を[[フリーソフトウェア]]ライセンスだとは認めていなかったが、2003年6月にそのライセンスに変更が加えられ、[[GNU General Public License|GPL]]とは整合性を持たないながらも、[[フリーソフトウェア]]と認められるようになった<ref>[http://www.gnu.org/licenses/license-list.html Various Licenses and Comments about Them - GNU Project - Free Software Foundation (FSF)]</ref>。[[Open Source Initiative|OSI]]も[[オープンソース]]ライセンスと認めており、[[Debianフリーソフトウェアガイドライン]]には合格している。[http://plan9.bell-labs.com/plan9/download.html 全ソースコード]がそのライセンスでフリーで入手可能である。 == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 関連項目 == * [[Acme (テキストエディタ)]] - プログラマ用ユーザインタフェース * [[9P]] - ファイルシステム・プロトコル * [[Inferno (オペレーティングシステム)]] - Plan 9 から派生した分散OS == 外部リンク == {{Commonscat|Plan 9 from Bell Labs}} === ベル研究所 === * [https://web.archive.org/web/20150831234945/http://plan9.bell-labs.com/plan9/ Plan 9 from Bell Labs](公式サイト、[[英語]]) ** [https://9p.io/plan9/img/plan9bunnywhite.jpg イメージキャラクター「Glenda」]([[JPEG]]画像) * [http://doc.cat-v.org/plan_9/ その他の関連文書など(英語)] * [http://doc.cat-v.org/plan_9/2nd_edition/README README for 2nd Edition] by [[ブライアン・カーニハン|Brian W. Kernighan]] * [http://gsoc.cat-v.org Plan 9 projects in the GSoC] * [http://plan9.bell-labs.com/wiki/plan9/organizations_using_plan_9_and_inferno/ Organizations using Plan 9 and Inferno] Plan 9 や Inferno を使っている組織の不完全な一覧 === レクチャー === * [http://cm.bell-labs.com/sources/contrib/uriel/slides/fosdem06/slides.pdf Slides] - [http://ftp.belnet.be/mirror/FOSDEM/2006/FOSDEM2006-plan9.avi Video] from [[FOSDEM|FOSDEM 2006]] * [http://www.cs.unm.edu/~fastos/05meeting/PLAN9NOTDEADYET.pdf Plan 9 is not dead] at [http://www.cs.unm.edu/~fastos/ FAST-OS 2005] === 他のネイティブ版と仮想版 === ; ネイティブ * [http://www.vitanuova.com/plan9/index.html Plan 9] - Vita Nuova Holdings による製品版 ; 仮想 * [http://www.oszoo.org/wiki/index.php/Category:Plan9_images Plan 9] - [[QEMU]]用イメージ * [http://www.planb-security.net.nyud.net:8080/plan9 Plan 9] - [[VMware]] Player 用 * [http://swtch.com/9vx/ Plan 9] - [[:en:Vx32|Vx32]]拡張環境用 === その他 === * [https://sites.google.com/site/plan9jp/ Plan9翻訳プロジェクト] * http://plan9.aichi-u.ac.jp/ * [http://www.ascii24.com/24/columns/10102/article/2000/12/27/621511-000.html ベル研究所 Plan9の概要]([http://ascii24.com/ ASCII24]のニュース) * http://p9c.cc.titech.ac.jp/plan9/ * [http://mail.9fans.net/listinfo/9fans 9fans], メーリングリスト * [http://ninetimes.cat-v.org Ninetimes] Plan 9、Inferno、Unix といったベル研究所製OSに関するニュースサイト * [http://www.faqs.org/docs/artu/plan9.html "Plan 9: The Way the Future Was"] from ''The Art of Unix Programming'' by [[エリック・レイモンド|Eric S. Raymond]] * [https://doi.org/10.1108/07378830310509772 Reinventing UNIX: An introduction to the Plan 9 operating system], by Hancock, B., Giarlo, M.J., & Triggs, J. A., published in ''Library Hi Tech'', 21(4), 471-476. * [http://plan9.escet.urjc.es/who/nemo/9.intro.pdf Introduction to OS abstractions using Plan 9 from Bell Labs], by Francisco J Ballesteros * [http://lsub.org/ls/planb.html Plan B] - Plan 9 を基盤とした研究用OS ** [http://lsub.org/ls/octopus.html Octopus] - Plan B からの派生 * [http://www.glendix.org/ Glendix] - Plan 9 のユーザー空間ツールをLinuxに移植したもの {{Unix-like}} {{ロブ・パイク}} {{Normdaten}} [[Category:Plan 9 from Bell Labs|*]] [[Category:分散オペレーティングシステム]] [[Category:フリーソフトウェアOS]] [[Category:Unix系オペレーティングシステム]] [[Category:1992年のソフトウェア]] [[Category:ケン・トンプソン]]
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2,931
内燃機関
内燃機関(ないねんきかん)とは、シリンダーなど機関内においてガソリンなどの燃料を燃焼させ、それによって発生した燃焼ガスを用いて直接に機械仕事を得る原動機をいう。内燃機関では燃焼ガスを直接作動流体として用いて、その熱エネルギーによって仕事をする。これに対して、蒸気タービンのように燃焼ガスと作動流体がまったく異なる原動機を外燃機関という。 内燃機関はインターナル・コンバスチョン・エンジン(internal combustion engine, ICE)の訳語であり、内部(インターナル)で燃料を燃焼(コンバスチョン)させて動力を取り出す機関(エンジン)である。「機関」も「エンジン」も、複雑な機構を持つ装置という意味を持つが、ここでは発動機という意味である。 なお、動力を取り出すことが目的の内燃機関ではあるが、特殊な用途としてパルスジェットによるフロンガスの分解や4サイクル機関による天然ガスの改質などが研究された。 内燃機関は熱エネルギーを機械エネルギーに変換する熱機関の一種であり、レシプロエンジン(ピストンエンジン)やロータリーエンジン(ヴァンケルエンジン)といった容積型内燃機関とガスタービンエンジンやジェットエンジンなどの速度型内燃機関に分けられる。 容積型内燃機関とは、燃焼ガスの容積変化(膨張)を利用するもので、クランク機構などにより回転軸出力として機械仕事に転換する内燃機関をいう。レシプロエンジンの場合、シリンダー(気筒)の内部で燃料を燃焼させ、燃焼ガスがピストンを押す力を利用する。このピストンの往復運動をクランクにより回転運動に変換し軸動力を得る。また、ロータリーエンジンの場合は、作動室内での燃焼後のガスの膨張によるローターの公転が、エキセントリックシャフトを回転させて軸動力を得る。 これに対して速度型内燃機関は燃焼ガスの高速の流れを利用するもので、タービン翼車の回転運動等を通じて機械仕事に転換する内燃機関をいう。ガスタービンエンジンの場合、燃焼器で燃料を燃焼させ、燃焼ガスが出力タービンを回転させることで軸動力を得る。軸動力ではなく推力を直接得るために、出力タービンを省き燃焼ガスを一方向に噴出させるとジェットエンジンとなる。 容積型機関は「間欠燃焼」、速度型機関は「連続燃焼」という燃焼形態の違いはあるが(パルスジェットエンジンは間欠燃焼式速度型機関という例外)、ともに燃焼熱により高圧となった燃焼ガスそのものを作動流体とすることは共通する。これに対し蒸気機関などの外燃機関では、機関外部の熱源(燃料の燃焼など)により、燃焼ガスとは別の作動流体(水など)に熱エネルギーを与え、機関により動力を得る。 現代の内燃機関では主に熱効率を高めるために、燃焼には出力の一部を利用して圧縮した空気を使用する。ディーゼルエンジン(レシプロエンジンの一種)のように、原理的に圧縮なしでは動作しない内燃機関もある。 積極的にデトネーションを利用する事で高効率化が期待され、パルス・デトネーション・エンジンの開発が各国で進められている。 内燃機関に限らず、燃焼プロセスを経る装置では、熱効率においてカルノー効率を超えるものは、理論上ありえず、また効率を最大限向上させると出力が殆ど無になる。 19世紀より前から様々な内燃機関が発明されてきたが、19世紀に入り都市ガスが普及し始めるとこれを燃料とする内燃レシプロエンジンの開発が活発となった。1860年代には様々な形式のガスエンジンが定置式の産業用原動機として普及し始め、ニコラウス・オットーらの4ストローク機関により完成の域に達した。同じ頃石油の採掘と精製が産業として確立し、ガスエンジンをガソリンで運転する試みが始められたが、ガソリンを継続的に気化する仕組みの開発がネックとなり、ガソリンエンジンの実用化はガスエンジンに多少遅れている。さらに少し遅れて、これら予混合燃焼の機関とは別のアプローチからディーゼルエンジンが発明された。 貯蔵と運搬が容易な液体燃料を使用する内燃機関の登場は、自動車の商業実用化や飛行機の発明を可能にし、特に輸送の分野に大きな発展をもたらした。 容積型 ※オートバイ用エンジンも参照。 速度型 ※航空用エンジンも参照
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "内燃機関(ないねんきかん)とは、シリンダーなど機関内においてガソリンなどの燃料を燃焼させ、それによって発生した燃焼ガスを用いて直接に機械仕事を得る原動機をいう。内燃機関では燃焼ガスを直接作動流体として用いて、その熱エネルギーによって仕事をする。これに対して、蒸気タービンのように燃焼ガスと作動流体がまったく異なる原動機を外燃機関という。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "内燃機関はインターナル・コンバスチョン・エンジン(internal combustion engine, ICE)の訳語であり、内部(インターナル)で燃料を燃焼(コンバスチョン)させて動力を取り出す機関(エンジン)である。「機関」も「エンジン」も、複雑な機構を持つ装置という意味を持つが、ここでは発動機という意味である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "なお、動力を取り出すことが目的の内燃機関ではあるが、特殊な用途としてパルスジェットによるフロンガスの分解や4サイクル機関による天然ガスの改質などが研究された。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "内燃機関は熱エネルギーを機械エネルギーに変換する熱機関の一種であり、レシプロエンジン(ピストンエンジン)やロータリーエンジン(ヴァンケルエンジン)といった容積型内燃機関とガスタービンエンジンやジェットエンジンなどの速度型内燃機関に分けられる。", "title": "動作概要と原理" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "容積型内燃機関とは、燃焼ガスの容積変化(膨張)を利用するもので、クランク機構などにより回転軸出力として機械仕事に転換する内燃機関をいう。レシプロエンジンの場合、シリンダー(気筒)の内部で燃料を燃焼させ、燃焼ガスがピストンを押す力を利用する。このピストンの往復運動をクランクにより回転運動に変換し軸動力を得る。また、ロータリーエンジンの場合は、作動室内での燃焼後のガスの膨張によるローターの公転が、エキセントリックシャフトを回転させて軸動力を得る。", "title": "動作概要と原理" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "これに対して速度型内燃機関は燃焼ガスの高速の流れを利用するもので、タービン翼車の回転運動等を通じて機械仕事に転換する内燃機関をいう。ガスタービンエンジンの場合、燃焼器で燃料を燃焼させ、燃焼ガスが出力タービンを回転させることで軸動力を得る。軸動力ではなく推力を直接得るために、出力タービンを省き燃焼ガスを一方向に噴出させるとジェットエンジンとなる。", "title": "動作概要と原理" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "容積型機関は「間欠燃焼」、速度型機関は「連続燃焼」という燃焼形態の違いはあるが(パルスジェットエンジンは間欠燃焼式速度型機関という例外)、ともに燃焼熱により高圧となった燃焼ガスそのものを作動流体とすることは共通する。これに対し蒸気機関などの外燃機関では、機関外部の熱源(燃料の燃焼など)により、燃焼ガスとは別の作動流体(水など)に熱エネルギーを与え、機関により動力を得る。", "title": "動作概要と原理" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "現代の内燃機関では主に熱効率を高めるために、燃焼には出力の一部を利用して圧縮した空気を使用する。ディーゼルエンジン(レシプロエンジンの一種)のように、原理的に圧縮なしでは動作しない内燃機関もある。", "title": "動作概要と原理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "積極的にデトネーションを利用する事で高効率化が期待され、パルス・デトネーション・エンジンの開発が各国で進められている。", "title": "動作概要と原理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "内燃機関に限らず、燃焼プロセスを経る装置では、熱効率においてカルノー効率を超えるものは、理論上ありえず、また効率を最大限向上させると出力が殆ど無になる。", "title": "動作概要と原理" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "19世紀より前から様々な内燃機関が発明されてきたが、19世紀に入り都市ガスが普及し始めるとこれを燃料とする内燃レシプロエンジンの開発が活発となった。1860年代には様々な形式のガスエンジンが定置式の産業用原動機として普及し始め、ニコラウス・オットーらの4ストローク機関により完成の域に達した。同じ頃石油の採掘と精製が産業として確立し、ガスエンジンをガソリンで運転する試みが始められたが、ガソリンを継続的に気化する仕組みの開発がネックとなり、ガソリンエンジンの実用化はガスエンジンに多少遅れている。さらに少し遅れて、これら予混合燃焼の機関とは別のアプローチからディーゼルエンジンが発明された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "貯蔵と運搬が容易な液体燃料を使用する内燃機関の登場は、自動車の商業実用化や飛行機の発明を可能にし、特に輸送の分野に大きな発展をもたらした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "容積型", "title": "内燃機関の種類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "※オートバイ用エンジンも参照。", "title": "内燃機関の種類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "速度型", "title": "内燃機関の種類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "※航空用エンジンも参照", "title": "内燃機関の種類" } ]
内燃機関(ないねんきかん)とは、シリンダーなど機関内においてガソリンなどの燃料を燃焼させ、それによって発生した燃焼ガスを用いて直接に機械仕事を得る原動機をいう。内燃機関では燃焼ガスを直接作動流体として用いて、その熱エネルギーによって仕事をする。これに対して、蒸気タービンのように燃焼ガスと作動流体がまったく異なる原動機を外燃機関という。 内燃機関はインターナル・コンバスチョン・エンジンの訳語であり、内部(インターナル)で燃料を燃焼(コンバスチョン)させて動力を取り出す機関(エンジン)である。「機関」も「エンジン」も、複雑な機構を持つ装置という意味を持つが、ここでは発動機という意味である。 なお、動力を取り出すことが目的の内燃機関ではあるが、特殊な用途としてパルスジェットによるフロンガスの分解や4サイクル機関による天然ガスの改質などが研究された。
[[画像:4-Stroke-Engine.gif|200 px|thumb|内燃機関の例([[4ストローク機関|4ストロークエンジン]])<br/> (1)吸入<br/> (2)圧縮<br/> (3)燃焼・膨張<br/> (4)排気]] '''内燃機関'''(ないねんきかん)とは、[[シリンダー]]など機関内において[[ガソリン]]などの[[燃料]]を[[燃焼]]させ、それによって発生した[[燃焼ガス]]を用いて直接に機械仕事を得る[[原動機]]をいう<ref name = "netsukikan">『熱機関工学』西脇仁一編著、朝倉書店、1970年、p. 42</ref>。内燃機関では燃焼ガスを直接[[作動流体]]として用いて、その[[熱エネルギー]]によって[[仕事 (熱力学)|仕事]]をする<ref name = "netsukikan" /><ref name="jpo-card-K8">[https://www.jpo.go.jp/shiryou/s_sonota/pdf/card/K8.pdf 意匠分類定義カード(K8)] 特許庁</ref>。これに対して、[[蒸気タービン]]のように燃焼ガスと作動流体がまったく異なる原動機を[[外燃機関]]という<ref name = "netsukikan" />。 内燃機関はインターナル・コンバスチョン・エンジン({{en|'''i'''nternal '''c'''ombustion '''e'''ngine, '''ICE'''}})の訳語であり、内部(インターナル)で燃料を燃焼(コンバスチョン)させて[[動力]]を取り出す[[機関 (機械)|機関]](エンジン)である。「機関」も「エンジン」も、複雑な機構を持つ装置という意味を持つが、ここでは[[発動機]]という意味である。 なお、動力を取り出すことが目的の内燃機関ではあるが、特殊な用途として[[パルスジェット]]による[[フロンガス]]の[[化学分解|分解]]や4サイクル機関による[[天然ガス]]の[[水蒸気改質|改質]]などが研究された<ref>山崎毅六、三井光. [https://doi.org/10.3775/jie.37.417 内燃機関による天然ガスの変成] 燃料協会誌 37.7 (1958): 417-422, {{doi|10.3775/jie.37.417}}</ref>。 == 動作概要と原理 == [[File:Turboprop T-53.jpg|thumb|240px|航空機用ガスタービンエンジンのカットモデル。右側のタービンの上下に見える空洞部が燃焼器。中央は圧縮機。]] 内燃機関は[[熱エネルギー]]を[[機械エネルギー]]に変換する[[熱機関]]の一種であり、[[レシプロエンジン]](ピストンエンジン)や[[ロータリーエンジン]](ヴァンケルエンジン)といった'''容積型内燃機関'''と[[ガスタービンエンジン]]や[[ジェットエンジン]]などの'''速度型内燃機関'''に分けられる<ref name = "netsukikan" />。 容積型内燃機関とは、燃焼ガスの容積変化(膨張)を利用するもので、クランク機構などにより回転軸出力として機械仕事に転換する内燃機関をいう<ref name = "netsukikan" />。<!--ロータリーエンジンも容積型内燃機関に分類される<ref name = "netsukikan" />。-->レシプロエンジンの場合、[[シリンダー]](気筒)の内部で燃料を燃焼させ、燃焼ガスがピストンを押す力を利用する。このピストンの往復運動をクランクにより回転運動に変換し軸動力を得る。また、ロータリーエンジンの場合は、作動室内での燃焼後のガスの膨張によるローターの[[公転]]が、エキセントリックシャフトを回転させて軸動力を得る。 これに対して速度型内燃機関は燃焼ガスの高速の流れを利用するもので、タービン翼車の回転運動等を通じて機械仕事に転換する内燃機関をいう<ref name = "netsukikan" />。[[ガスタービンエンジン]]の場合、[[燃焼器]]で燃料を燃焼させ、燃焼ガスが出力タービンを回転させることで軸動力を得る。軸動力ではなく推力を直接得るために、出力タービンを省き燃焼ガスを一方向に噴出させると[[ジェットエンジン]]となる。 容積型機関は「間欠燃焼」、速度型機関は「連続燃焼」という燃焼形態の違いはあるが([[パルスジェットエンジン]]は間欠燃焼式速度型機関という例外)、ともに燃焼熱により高圧となった燃焼ガスそのものを作動流体とすることは共通する。これに対し蒸気機関などの外燃機関では、機関外部の熱源(燃料の燃焼など)により、燃焼ガスとは別の作動流体(水など)に熱エネルギーを与え、機関により動力を得る。 現代の内燃機関では主に[[熱効率]]を高めるために、燃焼には[[機関出力|出力]]の一部を利用して圧縮した空気を使用する。[[ディーゼルエンジン]](レシプロエンジンの一種)のように、原理的に圧縮なしでは動作しない内燃機関もある。 積極的に[[デトネーション]]を利用する事で高効率化が期待され<ref>[http://www.waseda.jp/jp/news13/data/130709_engine.pdf 究極効率のエンジンを生む新圧縮燃焼原理を発見!]</ref><ref name="tendo">[http://home.hiroshima-u.ac.jp/fges/theme/tendo.pdf デトネーションを利用した新しい内燃機関]</ref><ref>{{PDFlink|[http://home.hiroshima-u.ac.jp/rgdlab/rgdl_html/conferences/conferences-pdf/2005_seibushibu_ochi.pdf プロパン−空気混合気を用いたパルスデトネーションタービンエンジンの作動実験]}}</ref>、[[パルス・デトネーション・エンジン]]の開発が各国で進められている。 内燃機関に限らず、燃焼プロセスを経る装置では、熱効率において[[カルノーサイクル|カルノー効率]]を超えるものは、理論上ありえず、また効率を最大限向上させると出力が殆ど無になる<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1027753.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210517020940/https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1027753.html|title=慶應大ら、熱エンジンの効率を最大限に上げると出力がほぼゼロになることを証明|publisher=PC Watch|year=2016-11-01|accessdate=2022-05-17|archivedate=2021-05-17}}</ref>。 == 歴史 == [[File:Rivaz Engine.jpg|thumb|right|250px|1807年に[[:en:François Isaac de Rivaz|François Isaac de Rivaz]]によって製造されたcharette of de Rivaz. A:シリンダー, B:点火栓, C:ピストン, D:水素を充填した風船, E:ワンウェイクラッチ, F:給排気弁, G:給排気弁を作動するための取っ手]] [[ファイル:Otto Engines - WMSTR Montage 2.ogv|thumb|250px|[[ミネソタ州]]の Western Minnesota Steam Threshers Reunion にある[[オットーサイクル]]の内燃機関の動画(2分16秒、320×240、340kbit/s)]] [[ファイル:Early-gasoline-engine-models.jpg|thumb|250px|これらの初期の内燃機関は、農業用機械の動力源として使われた。]] 19世紀より前から様々な内燃機関が発明されてきたが、19世紀に入り[[都市ガス]]が普及し始めるとこれを燃料とする内燃[[レシプロエンジン]]の開発が活発となった。1860年代には様々な形式の[[ガスエンジン]]が定置式の産業用[[原動機]]として普及し始め、[[ニコラウス・オットー]]らの[[4ストローク機関]]により完成の域に達した。同じ頃[[石油]]の採掘と精製が産業として確立し、ガスエンジンを[[ガソリン]]で運転する試みが始められたが、ガソリンを継続的に気化する仕組みの開発がネックとなり、[[ガソリンエンジン]]の実用化はガスエンジンに多少遅れている。さらに少し遅れて、これら[[予混合燃焼]]の機関とは別のアプローチから[[ディーゼルエンジン]]が発明された。 貯蔵と運搬が容易な液体燃料を使用する内燃機関の登場は、[[自動車]]の商業実用化や[[飛行機]]の発明を可能にし、特に輸送の分野に大きな発展をもたらした。 * 13世紀: 内燃機関の一種である[[ロケットエンジン]]が中国、モンゴル、アラブなどで使われていた<ref>chapters 1–2, ''Blazing the trail: the early history of spacecraft and rocketry'', Mike Gruntman, AIAA, 2004, ISBN 156347705X.</ref>。 * 1509年: [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]が無圧縮式内燃機関についての記述を残している。 * 1673年: [[クリスティアーン・ホイヘンス]]が無圧縮式内燃機関についての記述を残している。 * 17世紀: [[イングランド]]の発明家[[サミュエル・モーランド]]が、[[火薬]]の燃焼力で動作する[[ポンプ]]を発明。世界初の原始的なピストンエンジン。 * 1780年代: [[アレッサンドロ・ボルタ]]が電気銃という玩具を製作<ref>[http://ppp.unipv.it/Volta/Pages/eF5struF.html Electric Pistol]</ref>。電気火花で[[地球の大気|空気]]と[[水素]]の混合気体を燃焼させ、銃の先端に詰めたコルクを発射するもの。 * 1791年: [[ジョン・バーバー]]がイギリスで特許(第1833号、''A Method for Rising Inflammable Air for the Purposes of Producing Motion and Facilitating Metallurgical Operations'')を取得。その中でタービンを解説している。 * 1794年: Robert Streetが非圧縮機関を製造。同様に最初の液体燃料を使用する内燃機関も製造した。同年、Thomas Meadがガス機関の特許を取得。 * 1798年: [[ティープー・スルタン]]([[インド]]の[[マイソール]]国王)が、[[鉄]]製のロケットを使いイギリス軍を攻撃。同年、[[ジョン・スティーブンス (発明家)|ジョン・スティーブンス]]が[[複動式機関|複動式]]内燃機関を製造。 * 1801年: [[フィリップ・ルボン]]が2ストロークガスエンジンの特許を取得。 * 1807年: スイス人技師 [[:en:François Isaac de Rivaz|François Isaac de Rivaz]] が[[水素]]と[[酸素]]の混合気体を燃料とした内燃機関を製作<ref>{{cite web|url= http://inventors.about.com/library/weekly/aacarsgasa.htm?rd=1 |title=The History of the Automobile - Gas Engines |publisher=About.com |date=2009-09-11 |accessdate=2009-10-19}}</ref>。 * 1823年: [[:en:Samuel Brown (engineer)|Samuel Brown]] が産業の動力源として使える世界初の内燃機関の特許を取得。無圧縮式で当時既に古臭くなっていた[[熱力学サイクル|サイクル]] "Leonardo cycle" を使っていた。 * 1824年: [[フランス]]の物理学者[[ニコラ・レオナール・サディ・カルノー|サディ・カルノー]]が理想的熱機関の[[熱力学]]理論を確立。この理論から、温度差を大きくするには圧縮が必要であることが科学的に裏付けられた。 * 1826年4月1日: アメリカの[[サミュエル・モーリー]]がガス作動の内燃機関で特許を取得。 * 1833年: イギリスのLemuel Wellman Wrightが[[水冷式エンジン|水冷式]][[複動式機関|複動式]]ガスエンジンの特許を取得。 * 1838年: イギリス人のウィリアム・バーネットが特許を取得。その中で初めてシリンダー内での圧縮が示唆された。 * 1854年: イタリア人 [[:en:Eugenio Barsanti|Eugenio Barsanti]] と [[:en:Felice Matteucci|Felice Matteucci]] が、高効率で実動する世界初のフリーピストン機関の特許(特許番号1072)を取得したが、生産には至らなかった。 * 1856年: [[フィレンツェ]]の企業 ''Fonderia del Pignone''(現在は[[ゼネラル・エレクトリック]]の子会社 Nuovo Pignone となっている)で、Pietro Benini が Barsanti-Matteucci 式の内燃機関の実動プロトタイプを製作(5[[馬力]])。その後も単気筒や2気筒のエンジンを製造し、蒸気機関の代替として販売した。 * 1860年: [[ベルギー]]の[[ジャン=ジョゼフ・エティエンヌ・ルノアール]] (1822–1900) が[[2ストローク機関#ルノアール・エンジン|ルノアール・エンジン]]を開発。外見や構造は[[蒸気機関]]とよく似ていて、蒸気の代わりに[[燃焼ガス]]を使ったものと言える。大量生産された世界初の内燃機関となった。ルノアールは、表面気化器を用いてガソリンを燃料とする試みもしている。 * 1862年: 1月16日にフランスの技術者[[アルフォンス・ボー・ドゥ・ロシャス]]が[[4ストロークエンジン]]の特許を取得(フランス特許 #52,593)概念のみで実物は製造されていない。同年、[[ドイツ]]の発明家[[ニコラウス・オットー]]が照明用ガスを燃料とする内燃機関を設計し、[[オイゲン・ランゲン]]から資金援助を得ることに成功。 * 1864年: オットーはエンジンの製造に成功。 * 1867年: オットーとランゲンのフリーピストン機関が、[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万博]]で金賞を受賞。 * 1870年: ウィーンの[[ジークフリート・マルクス]]が、初めて荷車にガソリンエンジンを搭載。 * 1876年: [[ニコラウス・オットー]]は[[ゴットリープ・ダイムラー]]および[[ヴィルヘルム・マイバッハ]]と共に実用的な[[4ストローク機関]]を開発。しかし[[ドイツ]]の法廷は、シリンダー内で圧縮する内燃機関全般だけでなく4ストローク機関についても特許を与えなかった。これ以降、シリンダー内での圧縮が一般化する。 * 1877年: Matteucciは、オットーのエンジンは自分とBarsantiの発案したものであると主張している。 * 1878年: [[スコットランド]]生まれの{{仮リンク|デュガルド・クラーク|en|Dugald Clark}}が[[2ストローク機関#クラーク式2ストロークエンジン|クラーク式2ストロークエンジン]]を製作。1881年に英国特許を取得。オットー型4ストローク機関と競合する売れ行きを見せた。 * [[ファイル:Benz Patent Motorwagen Engine.jpg|thumb|カール・ベンツが1886年1月29日に取得した自動車の特許の中核部をなす内燃機関のレプリカ]][[ファイル:CarlBenz.jpg|thumb|220x220px|[[カール・ベンツ]]]] 1879年: [[カール・ベンツ]]は、高信頼の[[2ストローク機関|2ストローク]]ガスエンジンの特許を取得。これはオットーの4ストローク機関の設計に着想を得たものである。 * 1882年: ジェームズ・アトキンソンが[[アトキンソンサイクル]]の内燃機関を発明。 * 1883年: [[ゴットリープ・ダイムラー]]が[[霧吹き]]型の[[キャブレター]]を備えた4ストローク[[ガソリンエンジン]]を発明。1885年に特許取得。 * 1885年: [[ゴットリープ・ダイムラー]]が二輪車にガソリンエンジンを取り付けた車[[:de:Daimler-Reitwagen|Reitwagen]]を製作。一方、[[カール・ベンツ]]は独自の4ストロークガソリンエンジンを搭載した三輪自動車を製作。翌1886年に特許取得し[[ベンツ・パテント・モトールヴァーゲン]]([[:en:Benz Patent Motorwagen]])と名付けた。 * 1887年: [[グスタフ・ド・ラバル]]が[[ドラバル・ノズル]]を考案。 * 1889年: ロンドン生まれの[[ジョゼフ・デイ]] (Joseph Day) が現在よく知られている形の[[2ストローク機関#デイ式2ストロークエンジン|シンプルな2ストローク・ガソリンエンジン]]を発明した。 * 1891年: [[:en:Herbert Akroyd Stuart|Herbert Akroyd Stuart]] は独自の内燃機関である[[グローエンジン|グローエンジン(焼玉エンジン)]]を開発し、その製造権をイギリスのHornsbyにリースした。世界初の低温で点火可能な圧縮点火内燃機関である。翌年、ポンプ場に最初の装置を設置した。また同年、試験的に高圧版を作り、圧縮だけで発火する状態を作ることに成功。 * 1892年: [[ルドルフ・ディーゼル]]が[[カルノーサイクル]]式エンジンの特許を取得<ref> DE patent 67207 Rudolf Diesel: „Arbeitsverfahren und Ausführungsart für Verbrennungskraftmaschinen“ pg 4. </ref>。 * 1893年 2月23日: [[ルドルフ・ディーゼル]]が[[ディーゼルエンジン]]の特許を取得。 * 1896年: [[カール・ベンツ]]が[[水平対向エンジン]]を発明。[[ピストン]]の動きによる振動を抑える効果がある。 * 1900年: ディーゼルが[[ラッカセイ|ピーナッツ]]油を燃料としたディーゼルエンジンを[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万博]]に出展。 * 1903年: [[コンスタンチン・ツィオルコフスキー]]が宇宙に到達可能な[[ロケット]]についての一連の論文を発表し始めた。[[エギディアス・エリング]] が[[遠心式圧縮機]]を使った世界初の実動するガスタービンを製作。 * 1908年: [[:en:René Lorin|René Lorin]] が[[ラムジェットエンジン]]の特許を取得。 * 1910年: [[アンリ・コアンダ]]が世界初のジェット推進の航空機[[コアンダ=1910]]を製作。ただし、実際にジェットエンジンで飛行することはなかった。 * 1921年: [[:en:Maxime Guillaume|Maxime Guillaume]] が[[軸流式圧縮機|軸流式]]ガスタービンエンジンの特許を取得。圧縮機とタービンを多段式にし、1つだけ大きな[[燃焼室]]があるという構成だった。 * 1923年: [[アメリカ国立標準技術研究所|アメリカ国立標準局]]の [[:en:Edgar Buckingham|Edgar Buckingham]] が[[ジェットエンジン]]は効率が低く現実的でないという報告を発表。特にピストンエンジンに比べて5倍の燃料を消費するとしていた<ref>[http://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19930091225_1993091225.pdf JET PROPULSION FOR AIRPLANES]</ref>。 * 1924年: ベンツ社が初のトラック用ディーゼルエンジンの特許を取得。 * 1925年: [[スウェーデン]]の技術者 [[:en:Jonas Hesselman|Jonas Hesselman]] が世界初の[[ガソリン直噴エンジン]]を開発<ref>{{Cite book | title = Scania fordonshistoria 1891-1991 |year=1992 |language=Swedish |isbn=91-7886-074-1}} (Translated title: ''Vehicle history of [[スカニア|Scania]] 1891-1991'')</ref><ref>{{Cite book | title = Volvo – Lastbilarna igår och idag |year=1987 |language=Swedish |isbn=91-86442-76-7}} (Translated title: ''[[ボルボ・グループ|Volvo]] trucks yesterday and today''))</ref>。 * 1926年: [[:en:Alan Arnold Griffith|Alan Arnold Griffith]] は重要な論文 ''Aerodynamic Theory of Turbine Design'' を発表。これによってそれまで実現が疑問視されていたジェットエンジンが注目されるようになった。その中で、これまでの圧縮機は飛行には不向きで、ブレードを[[翼型]]に設計変更すべきだとし、実用的エンジンが製造可能であることを数学的に示すと共に[[ターボプロップエンジン]]の構築法を解説した。同年、[[ロバート・ゴダード]]が世界初の液体燃料ロケットを打ち上げた。 * 1929年: [[フランク・ホイットル]]がジェットエンジンに関する論文を発表。 * 1930年: ホイットルが遠心圧縮式のジェットエンジンの特許を取得。 * 1936年: [[フランス]]の技術者 [[:en:René Leduc (1898–1968)|René Leduc]] が René Lorin の[[ラムジェットエンジン]]を独自に再発明し、実験に世界で初めて成功。 * 1937年3月: [[遠心式圧縮機|遠心式]][[ターボジェットエンジン]] [[ハインケル HeS 1]] の試験が行われた。 * 1939年8月27日: [[ハインケル HeS 3|HeS 3b]]ターボジェットエンジンを搭載した[[ハインケル]][[He_178_(航空機)|He178]]が、世界初のジェットエンジンによる飛行に成功。 * 1957年: [[フェリクス・ヴァンケル]]が製作した[[ロータリーエンジン]]試作機 DKM 54 が世界で初めて動作。 ==内燃機関の種類== {{col| '''容積型''' *[[レシプロエンジン]] **[[ガソリンエンジン]] ***[[6ストローク機関]] ***[[4ストローク機関]] ***[[2ストローク機関#2ストロークガソリンエンジン|2ストローク機関]] **[[ガソリン直噴エンジン]] **[[ディーゼルエンジン]] ***[[4ストローク機関]] ***[[2ストローク機関#2ストロークディーゼル機関|2ストローク機関]] **[[水素燃料エンジン]] *[[ロータリーエンジン]] **[[水素ロータリーエンジン]] ※[[オートバイ用エンジン]]も参照。 | '''速度型''' *[[ガスタービンエンジン]] **[[ターボシャフトエンジン]] *[[ジェットエンジン]] **[[ターボジェットエンジン]] **[[ターボファンエンジン]] ***[[プロップファン|プロップファンエンジン]] ***[[ギヤードターボファンエンジン]] **[[ターボプロップエンジン]] **[[ラムジェットエンジン]] ***[[ジェットエンジン#ターボ・ラムジェットエンジン|ターボ・ラムジェットエンジン]]<br/> (高バイパス比ターボジェット) ***[[スクラムジェットエンジン]] **[[パルスジェット|パルスジェットエンジン]] **[[モータージェット|モータージェットエンジン]] *[[ロケットエンジン]]<br/> (化学ロケットエンジンが該当) **[[固体燃料ロケット|固体燃料ロケットエンジン]] **[[液体燃料ロケット|液体燃料ロケットエンジン]] ※[[航空用エンジン]]も参照 }} == 出典 == {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commons|Internal combustion engine}} * [[熱力学サイクル]] * [[空冷エンジン]] * [[水冷エンジン]] * [[油冷エンジン]] * [[液冷エンジン]] * [[可変圧縮比エンジン]] * [[自動車エンジン]] * [[機関出力]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{自動車部品}} {{自動車の構成}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ないねんきかん}} 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レシプロエンジン
レシプロエンジン(英語: reciprocating engine)は、往復動機関あるいはピストンエンジン・ピストン機関とも呼ばれる熱機関の一形式である。燃焼熱を取り出す方法によって、外燃式と内燃式に大別される。 燃料の燃焼による熱エネルギーを作動流体の圧力(膨張力)として利用し、まず往復直線運動に変換し、ついでクランクを用いて回転運動の力学的エネルギーとして取り出す原動機である。初期の蒸気機関においてポンプに使われたそれのように、往復運動を直接利用する場合もある。燃焼エネルギーをそのまま回転運動として取り出すタービンエンジンやヴァンケル型ロータリーエンジンと対置される概念でもある。 船舶、自動車、非電化区間向けの鉄道車両、航空機といった乗り物の他、発電機やポンプなどの定置動力にも用いられ、一般的な動力源として広く普及した。20世紀中盤以降、航空機では大排気量・高出力のものからガスタービンエンジンに置き換わり、21世紀に入ると、分野によっては、再生可能エネルギーを利用したカーボンニュートラル化が容易な電動機に置き換わりつつある。 往復動型機関の最初の記録はオランダのホイヘンスで、1680年に火薬を使って動力を発生させる考えを発表したと伝えられる。ベルサイユ宮殿の水役人だったホイヘンスはピストンと真空を熱機関として利用しようとする祖と認められている。ホイヘンスの案はシリンダー(筒)の最下部に燃焼部、最上部にピストンがおかれていた。燃焼部で火薬を燃焼させ、この燃焼により発生した高温の空気が上部の弁から抜けていくだけのものだった。弁は一方通行の不還弁であり、空気が抜けたのちシリンダーが冷えれば内部の圧力が低くなり、当時発見されたばかりの真空の力により最上部のピストンが下降する際に力を及ぼすというものである。当時は火薬の爆発は危険なものとされており、ホイヘンスの考えも真空利用の静粛性が特徴である。当時は内燃と外燃の区別はされず「熱から動力が生み出される」という考えであった。 その後、フランスのアッベ・フォートフュイユやイギリスのモアランドらの創案があるが、これらも試作はされていない。 ピストンエンジンはピストン型蒸気機関の祖といわれるドニ・パパンの蒸気機関で実現した。ドニ・パパンはホイヘンスとも親交があり、ホイヘンスの案を試作し、検証したものの、当時の技術では火薬の燃焼、ピストンや不還弁の製作は難しかった。そのためパパンは直接火薬を燃やすことではなく、外部で発生させた蒸気によって圧力を高める蒸気機関とした。火薬の燃焼の代わりに蒸気を使う点を除けば、ホイヘンスのものと変わらない。 その後、セイヴァリが英国で特許を取得し、1705年になってトーマス・ニューコメンの改良により実用的な蒸気機関となった。ニューコメン蒸気機関は、英国では炭鉱から水を抜き取るための排水ポンプ用途に使用された。 ニューコメンが最初に機関を発明した時代は、その動作は非常に緩慢なものであり、バルブの開閉は人手で行われていた。このバルブ開閉の進歩が蒸気機関の普及を促した。ニューコメンの「大気圧機関 (Atmospheric engine)」のバルブの改良は、バルブの開閉操作員だったハンフリー・ポッター (Humphrey Potter) という少年により1713年にロープや滑車を利用した最初の自動化の工夫がなされ、1718年にヘンリー・バイトン (Henry Beighton) がさらに改良を重ねた。ジョン・スミートンがさらにさまざまな改良を施した。 50年以上もの間改良されながら1770年頃まで広く使われていたニューコメン式の蒸気機関であったが、ここまでの蒸気機関は、往復運動をそのまま直線的動力として利用するものであり、しかもその力は往復以前に往だけの片道通行の利用だった。 ジェームズ・ワットは根本的に改良を加えた往復動蒸気機関を考案し、1769年に英国で特許を取得した。これは本格的な回転動力の実用化に至る道でもあった。 ピストンの往復の動きを回転運動として利用した最初のエンジンは、ワットの特許と同年の1769年、フランスで考案された蒸気動力の牽引車、キュニョーの砲車である。これはピストンロッドの先のクランクにラチェットを用いて回転運動に変換するものだった。 次いで英国でワットの元で働いていたウィリアム・マードックが遊星ギアを利用して回転運動を得ることを着想し、蒸気自動車を作成した。この往復運動を回転運動にする特許はマードックではなくワットが取得している。ワットらはクランクシャフトを利用したかったが、同時期に特許がすでに取得されており、その使用にはワットの蒸気機関の特許との交換条件を持ち出されたために使用しなかった。遊星ギアはクランクシャフトに比べて往復運動から回転運動への変換効率が低く、ワットは後年、特許使用可能になったクランクシャフト方式に乗り換えている。 1801年にトレビシックが蒸気自動車を製作し運転した。トレビシックはさらに1804年に世界最初の蒸気機関車を制作し、試運転を行っている。 1820年、イギリスのW・セシルが水素ガスを燃料とした真空利用の大気圧機関を製作し、60rpm(回転/分)の動きを実現した。爆発時の騒音が問題となったがこれが世界最古のガス機関として認められている。しかし当時は蒸気機関の実用化が盛んな時期であり、ガスエンジンはその後の研究があまり進まなかった。 イギリスでは続いて発明家のサミュエル・ブラウンが、1823年にガス真空機関(真空エンジン、用気エンジン)の開発に成功。内燃機関だったが、爆発の後に生じる真空によりピストンを引き戻すことにより往復運動をおこなうものであり、大気圧利用という点ではトーマス・ニューコメンの蒸気機関そのままの原理であった。1825年には車両に載せられ、この真空機関付き自動車は1826年の試運転で10.5分の1の勾配(約5 °26 ′)をたやすく登った。1827年にはテムズ川で船に真空エンジンを載せて公式試運転を行い、11 - 13 kmを記録している。これらの実績によりブラウンは内燃機関の歴史において功績が認められており、また、ブラウンのエンジンは実用になった最初のガス機関と認められている。もっとも、当時は蒸気機関全盛の時代であり、普及には至っていない。 1833年には、イギリスのW.L.ライトがガス爆発機関の特許を取得している。実際に製作されたかどうかは確認されていないが、後年、ガス爆発機関としてはこの設計は完璧であり、製作されていればブラウン以上の能力が出せたと評価されている。 ウィリアム・バーネットは1838年に2サイクル圧縮型エンジンと独自の点火プラグを開発した。 イタリアのバルサンチとマテゥチは1855年に世界初のフリー・ピストン・エンジンを創案する。爆発により上方に上がったピストンが重力により落下することを利用したもので、動力はピストンのコネクティングロッドからラチェット付きで一方向回転するギアを使って取り出した。極めて騒々しく、振動も激しかったが、内燃機関の点火自体が不安定だった時代にはこれでも比較的効率が良かった。 フランスでルノアールが1860年にガスエンジンを商用化し、大型化が必然的で大規模工場でなければ使えなかった当時の蒸気機関に比べてコンパクトで軽便であったため、中規模工場などでも一般に使用されるようになった。当時の先進国の都市で普及しつつあったガス燈用の石炭乾留ガス配管を利用して、燃料供給インフラストラクチャーの面も解決したことが優れており、1860年は内燃機関の本格的な実用化の年とされる。 ルノアール・エンジンは往復動の2ストローク内燃機関であるが、圧縮行程が事故の危険を伴うと危惧したルノアールの意図によって無圧縮の設計であった。このためエンジンとしての効率は低く、実用内燃機関の先駆ではあったが本格的な内燃機関の祖とは言い難い面もある。日本の内燃機関研究者の富塚清は「内燃機関の歴史」で「多少気の毒」と評している。ルノアールは自動車も製作し、走行試験を行い、またセーヌ川でのモーターボート動力にも使用されたが、無圧縮型のガス燃料機関という効率の低さと燃料供給の制約から、工場等の定置動力以外では成功しなかった。 ルノアールのエンジン以前にはさまざまな案が試されていたが、ルノアールの商業的成功により明確な指標ができたため、内燃機関の研究が急速にすすむことになった。 1862年、フランスのボー・ド・ロシャが、内燃機関としての4ストロークエンジンを提唱した。1867年、ドイツでニコラス・オットーとオイゲン・ランゲンがフリー・ピストン機関(de:Flugkolbenmotor)を製作する。1873年、アメリカでブレートンが新型を開発。ブレートン機関とよばれる。 1876年、オットーは後年のレシプロ式ガソリンエンジンの直接の祖型となる4ストローク式ガスエンジンを完成させた。 20世紀になって実用化がなされた航空機の発達はレシプロエンジンと共にあり、1950年代の後半までは飛行機のエンジンといえば、レシプロエンジンといわれていた。航空機の性能(最大速度や上昇力)はエンジンによってほぼ決定されるため、各国はより高性能の航空機を作りあげるために高性能なエンジンを必要とした。そのためにエンジンの性能をあげるためのさまざまな研究は第一次世界大戦から第二次世界大戦においてその多くがなされている。戦後になると大出力の航空機用エンジンは、高出力プロペラ機用ターボプロップエンジンを含むジェットエンジンに切り替わり、現代では「レシプロ」は小型プロペラ機の代名詞ともなっている。 船舶においては、20世紀初頭までは蒸気機関のレシプロエンジンが主流であったが、外燃機関の蒸気タービンエンジンや内燃機関のレシプロエンジンの実用化とともに、徐々にそれらに置き換えられていった。現在では民間用途としてはディーゼルの内燃レシプロエンジンが主流となっている。軍艦ではガスタービンエンジンと蒸気タービンエンジン(原子力動力の場合)の採用率が高いが、内燃レシプロエンジン(ガスタービンとの併用を含む)も一定数採用されている。 鉄道車輛においては、20世紀の前半期を通じて蒸気機関のレシプロエンジンを搭載する蒸気機関車が主流であったが、電化区間では電気機関車や電車に、非電化区間および両区間の直通用では内燃レシプロエンジンを搭載するディーゼル機関車や気動車に、それぞれ置き換えられた。ガスタービンエンジンはターボ・エレクトリック方式では実用例があるが、その最盛期はオイルショック以前で、また、日本の国鉄のようにガスタービンを直接動力源とする車両は実用化されておらず、電気式、液体式、機械式のいずれでもディーゼルエンジンが大勢を占めている。熱効率の低い蒸気機関車も、僅かながら保存鉄道(産業遺産)としての運行は続いている。 自動車においては、最初期に電気自動車や蒸気自動車が検討・試作されたものの、その歴史を通じて内燃レシプロエンジンが主流である。一時期ロータリーエンジンの採用が各社で検討されたが、結局は主流とならなかった。またガスタービンエンジンの自動車も実用化には至っていない。電気自動車は特殊用途に限られていたが、近年は再び一般向として市販される例が増えている。しかしこれが主流となりレシプロエンジン車を置き換えていくかどうかは未知数である。 発電機やポンプなどの定置動力としては、20世紀初頭は蒸気レシプロエンジンが主流であり、他に選択肢が無い状況であった。その後、それ以外の動力機関が普及していき、蒸気レシプロエンジンは完全に廃れている。発電など大規模用途としては蒸気タービンが主流であるが、それ以外では内燃レシプロエンジンが主流となっている。ただ、20世紀末よりマイクロガスタービンを含むガスタービンエンジンが伸長しており、内燃レシプロエンジンを置き換えつつある。 なお、上述の通り最初期のレシプロ蒸気機関は、直線的動力として利用するもの、かつ往だけの片道通行の利用だった。航空母艦用の蒸気カタパルトは、現代においてはこれに相当するものであるが、将来的にはリニアモーター式の開発も進められている。 またディーゼルハンマ式杭打ち機は、21世紀初頭現在でも生産され続けている現役の、2ストローク単気筒フリーピストンディーゼルエンジン製品である。 シリンダー内の動作流体(水蒸気や燃焼ガスなど)の加熱方法により外燃機関のレシプロエンジンと、内燃機関のレシプロエンジンの二つに大きく分類される。それぞれの仕組みの概略は以下のようになる。 外燃機関のレシプロエンジンには蒸気機関やスターリングエンジンがある(詳細はそれぞれの項目を参照)。 蒸気機関では高温の蒸気を駆動に使う。初期はトーマス・ニューコメンが作った大気圧の負圧を利用する方法がある。当時から高い蒸気圧を利用することは考えられていたが、まだ工作技術が十分でなかった頃はそれに耐えうるボイラーを作ることができなかったため負圧を利用していた。 ニューコメンの蒸気機関は効率が悪かったため、それをジェームズ・ワットが復水器を組み合わせて使うことで効率を上げ、産業革命の原動力となり、石炭を当時の主要なエネルギー源にした。 ワットが老いた頃は工作技術も上がり、高い圧力に耐えられるボイラーやシリンダーが作られる。するとその効率の良さから、負圧を使った蒸気機関ではなく、そちらを用いて蒸気自動車や蒸気機関車が広まった。 また、蒸気圧を高めて使う蒸気機関が現れて間もない頃は、シリンダーが蒸気圧に耐えられず爆発する事故が相次いだ。これを見たスコットランドの牧師ロバート・スターリングはより安全な熱機関を作ろうと、外燃レシプロ機関のスターリングエンジンを考案した。高出力には向かないが、理論上は非常に高い熱効率を持つ。ただし一般動力機関としては扱いにくい面もあってほとんど普及しておらず、むしろ空調等を目的に熱を移動させるヒートポンプシステムの分野でその原理が広く応用されている。 動作の仕組みはおよそ以下のようになり、これを繰り返す、すなわちピストンが往復動することで、エンジンは連続的に回転動力を出力する。 外部からは、ガソリンやプロパンガス、軽油、アルコール等の燃料と、それに対し適当な量の空気とをエンジン内部へ供給する。液体の燃料は、気化しやすいように微粒化(霧化)しながら使用される。まず、シリンダー内に吸入した空気を、ピストンにより圧縮する。その圧縮空気中で燃料に何らかの方法で着火し、シリンダー内で急速に(時には爆発的に)燃焼させる。充分な強度を持つシリンダー内で、高温高圧の燃焼ガスが膨張してピストンを押し出す力となる。この力を受けたピストンの直線的な運動を、コネクティングロッド(コンロッド)とクランクシャフトとにより回転運動に変える。燃焼ガスは充分に膨張したのち、外部に排気される。 内燃機関のレシプロエンジンは様々に分類されるが、主な分類法を列記すると以下のようなものがある。
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"20世紀になって実用化がなされた航空機の発達はレシプロエンジンと共にあり、1950年代の後半までは飛行機のエンジンといえば、レシプロエンジンといわれていた。航空機の性能(最大速度や上昇力)はエンジンによってほぼ決定されるため、各国はより高性能の航空機を作りあげるために高性能なエンジンを必要とした。そのためにエンジンの性能をあげるためのさまざまな研究は第一次世界大戦から第二次世界大戦においてその多くがなされている。戦後になると大出力の航空機用エンジンは、高出力プロペラ機用ターボプロップエンジンを含むジェットエンジンに切り替わり、現代では「レシプロ」は小型プロペラ機の代名詞ともなっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "船舶においては、20世紀初頭までは蒸気機関のレシプロエンジンが主流であったが、外燃機関の蒸気タービンエンジンや内燃機関のレシプロエンジンの実用化とともに、徐々にそれらに置き換えられていった。現在では民間用途としてはディーゼルの内燃レシプロエンジンが主流となっている。軍艦ではガスタービンエンジンと蒸気タービンエンジン(原子力動力の場合)の採用率が高いが、内燃レシプロエンジン(ガスタービンとの併用を含む)も一定数採用されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "鉄道車輛においては、20世紀の前半期を通じて蒸気機関のレシプロエンジンを搭載する蒸気機関車が主流であったが、電化区間では電気機関車や電車に、非電化区間および両区間の直通用では内燃レシプロエンジンを搭載するディーゼル機関車や気動車に、それぞれ置き換えられた。ガスタービンエンジンはターボ・エレクトリック方式では実用例があるが、その最盛期はオイルショック以前で、また、日本の国鉄のようにガスタービンを直接動力源とする車両は実用化されておらず、電気式、液体式、機械式のいずれでもディーゼルエンジンが大勢を占めている。熱効率の低い蒸気機関車も、僅かながら保存鉄道(産業遺産)としての運行は続いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "自動車においては、最初期に電気自動車や蒸気自動車が検討・試作されたものの、その歴史を通じて内燃レシプロエンジンが主流である。一時期ロータリーエンジンの採用が各社で検討されたが、結局は主流とならなかった。またガスタービンエンジンの自動車も実用化には至っていない。電気自動車は特殊用途に限られていたが、近年は再び一般向として市販される例が増えている。しかしこれが主流となりレシプロエンジン車を置き換えていくかどうかは未知数である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "発電機やポンプなどの定置動力としては、20世紀初頭は蒸気レシプロエンジンが主流であり、他に選択肢が無い状況であった。その後、それ以外の動力機関が普及していき、蒸気レシプロエンジンは完全に廃れている。発電など大規模用途としては蒸気タービンが主流であるが、それ以外では内燃レシプロエンジンが主流となっている。ただ、20世紀末よりマイクロガスタービンを含むガスタービンエンジンが伸長しており、内燃レシプロエンジンを置き換えつつある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "なお、上述の通り最初期のレシプロ蒸気機関は、直線的動力として利用するもの、かつ往だけの片道通行の利用だった。航空母艦用の蒸気カタパルトは、現代においてはこれに相当するものであるが、将来的にはリニアモーター式の開発も進められている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "またディーゼルハンマ式杭打ち機は、21世紀初頭現在でも生産され続けている現役の、2ストローク単気筒フリーピストンディーゼルエンジン製品である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "シリンダー内の動作流体(水蒸気や燃焼ガスなど)の加熱方法により外燃機関のレシプロエンジンと、内燃機関のレシプロエンジンの二つに大きく分類される。それぞれの仕組みの概略は以下のようになる。", "title": "レシプロエンジンの仕組み" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "外燃機関のレシプロエンジンには蒸気機関やスターリングエンジンがある(詳細はそれぞれの項目を参照)。", "title": "レシプロエンジンの仕組み" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "蒸気機関では高温の蒸気を駆動に使う。初期はトーマス・ニューコメンが作った大気圧の負圧を利用する方法がある。当時から高い蒸気圧を利用することは考えられていたが、まだ工作技術が十分でなかった頃はそれに耐えうるボイラーを作ることができなかったため負圧を利用していた。", "title": "レシプロエンジンの仕組み" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ニューコメンの蒸気機関は効率が悪かったため、それをジェームズ・ワットが復水器を組み合わせて使うことで効率を上げ、産業革命の原動力となり、石炭を当時の主要なエネルギー源にした。", "title": "レシプロエンジンの仕組み" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ワットが老いた頃は工作技術も上がり、高い圧力に耐えられるボイラーやシリンダーが作られる。するとその効率の良さから、負圧を使った蒸気機関ではなく、そちらを用いて蒸気自動車や蒸気機関車が広まった。", "title": "レシプロエンジンの仕組み" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また、蒸気圧を高めて使う蒸気機関が現れて間もない頃は、シリンダーが蒸気圧に耐えられず爆発する事故が相次いだ。これを見たスコットランドの牧師ロバート・スターリングはより安全な熱機関を作ろうと、外燃レシプロ機関のスターリングエンジンを考案した。高出力には向かないが、理論上は非常に高い熱効率を持つ。ただし一般動力機関としては扱いにくい面もあってほとんど普及しておらず、むしろ空調等を目的に熱を移動させるヒートポンプシステムの分野でその原理が広く応用されている。", "title": "レシプロエンジンの仕組み" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "動作の仕組みはおよそ以下のようになり、これを繰り返す、すなわちピストンが往復動することで、エンジンは連続的に回転動力を出力する。", "title": "レシプロエンジンの仕組み" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "外部からは、ガソリンやプロパンガス、軽油、アルコール等の燃料と、それに対し適当な量の空気とをエンジン内部へ供給する。液体の燃料は、気化しやすいように微粒化(霧化)しながら使用される。まず、シリンダー内に吸入した空気を、ピストンにより圧縮する。その圧縮空気中で燃料に何らかの方法で着火し、シリンダー内で急速に(時には爆発的に)燃焼させる。充分な強度を持つシリンダー内で、高温高圧の燃焼ガスが膨張してピストンを押し出す力となる。この力を受けたピストンの直線的な運動を、コネクティングロッド(コンロッド)とクランクシャフトとにより回転運動に変える。燃焼ガスは充分に膨張したのち、外部に排気される。", "title": "レシプロエンジンの仕組み" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "内燃機関のレシプロエンジンは様々に分類されるが、主な分類法を列記すると以下のようなものがある。", "title": "レシプロエンジンの仕組み" } ]
レシプロエンジンは、往復動機関あるいはピストンエンジン・ピストン機関とも呼ばれる熱機関の一形式である。燃焼熱を取り出す方法によって、外燃式と内燃式に大別される。 燃料の燃焼による熱エネルギーを作動流体の圧力(膨張力)として利用し、まず往復直線運動に変換し、ついでクランクを用いて回転運動の力学的エネルギーとして取り出す原動機である。初期の蒸気機関においてポンプに使われたそれのように、往復運動を直接利用する場合もある。燃焼エネルギーをそのまま回転運動として取り出すタービンエンジンやヴァンケル型ロータリーエンジンと対置される概念でもある。 船舶、自動車、非電化区間向けの鉄道車両、航空機といった乗り物の他、発電機やポンプなどの定置動力にも用いられ、一般的な動力源として広く普及した。20世紀中盤以降、航空機では大排気量・高出力のものからガスタービンエンジンに置き換わり、21世紀に入ると、分野によっては、再生可能エネルギーを利用したカーボンニュートラル化が容易な電動機に置き換わりつつある。
{{Pathnav|熱機関|内燃機関|frame=1}} {{出典の明記|date=2011年4月}} '''レシプロエンジン'''({{lang-en|reciprocating engine}})は、'''往復動機関'''あるいは'''ピストンエンジン'''・'''ピストン機関'''とも呼ばれる[[熱機関]]の一形式である。[[燃焼熱]]を取り出す方法によって、[[外燃機関|外燃式]]と[[内燃機関|内燃式]]に大別される。 [[燃料]]の[[燃焼]]による[[熱エネルギー]]を作動[[流体]]の[[圧力]]([[膨張]]力)として利用し、まず往復直線運動に変換し、ついで[[クランク (機械要素)|クランク]]を用いて[[回転運動]]の[[力学的エネルギー]]として取り出す[[原動機]]である。初期の蒸気機関において[[ポンプ]]に使われたそれのように、往復運動を直接利用する場合もある。[[燃焼熱|燃焼エネルギー]]をそのまま回転運動として取り出す[[タービンエンジン]]や[[ロータリーエンジン|ヴァンケル型ロータリーエンジン]]と対置される概念でもある。 [[船舶]]、[[自動車]]、[[非電化]]区間向けの[[鉄道車両]]、[[航空機]]といった[[乗り物]]の他、[[内燃力発電|発電機]]やポンプなどの定置動力にも用いられ、一般的な[[動力]]源として広く普及した。[[20世紀]]中盤以降、航空機では大[[排気量]]・高出力のものから[[ガスタービンエンジン]]に置き換わり、[[21世紀]]に入ると、分野によっては、[[再生可能エネルギー]]を利用した[[カーボンニュートラル]]化が容易な[[電動機]]に置き換わりつつある。 == 歴史 == === 往復の作用 === {{Main|蒸気機関}} 往復動型機関の最初の記録は[[オランダ]]の[[クリスティアーン・ホイヘンス|ホイヘンス]]で、[[1680年]]に[[火薬]]を使って動力を発生させる考えを発表したと伝えられる。[[ベルサイユ宮殿]]の水役人だったホイヘンスは[[ピストン]]と[[真空]]を[[熱機関]]として利用しようとする祖と認められている。ホイヘンスの案は[[シリンダー]](筒)の最下部に[[燃焼室|燃焼部]]、最上部にピストンがおかれていた。燃焼部で火薬を燃焼させ、この燃焼により発生した[[熱|高温]]の[[空気]]が上部の[[バルブ|弁]]から抜けていくだけのものだった。弁は一方通行の[[不還弁]]であり、空気が抜けたのちシリンダーが冷えれば内部の圧力が低くなり、当時発見されたばかりの真空の力により最上部のピストンが下降する際に力を及ぼすというものである。当時は火薬の[[爆発]]は危険なものとされており、ホイヘンスの考えも真空利用の静粛性が特徴である。当時は[[内燃機関|内燃]]と[[外燃機関|外燃]]の区別はされず「熱から動力が生み出される」という考えであった。 その後、フランスのアッベ・フォートフュイユやイギリスのモアランドらの創案があるが、これらも[[試作]]はされていない。 ピストンエンジンはピストン型蒸気機関の祖といわれる[[ドニ・パパン]]の[[蒸気機関]]で実現した。ドニ・パパンはホイヘンスとも親交があり、ホイヘンスの案を試作し、検証したものの、当時の技術では火薬の燃焼、ピストンや不還弁の製作は難しかった。そのためパパンは直接火薬を燃やすことではなく、外部で発生させた[[蒸気]]によって圧力を高める蒸気機関とした。火薬の燃焼の代わりに蒸気を使う点を除けば、ホイヘンスのものと変わらない。 その後、セイヴァリが[[イギリス|英国]]で[[特許]]を取得し、[[1705年]]になって[[トーマス・ニューコメン]]の改良により[[実用]]的な蒸気機関となった。ニューコメン蒸気機関は、英国では[[炭鉱]]から水を抜き取るための[[排水設備|排水ポンプ]]用途に使用された。 ニューコメンが最初に機関を発明した時代は、その動作は非常に緩慢なものであり、バルブの開閉は人手で行われていた。このバルブ開閉の進歩が蒸気機関の普及を促した。ニューコメンの「大気圧機関 (Atmospheric engine)」のバルブの改良は、バルブの開閉操作員だったハンフリー・ポッター (Humphrey Potter) という少年により[[1713年]]に[[ロープ]]や[[滑車]]を利用した最初の[[自動化]]の工夫がなされ、[[1718年]]にヘンリー・バイトン (Henry Beighton) がさらに改良を重ねた。[[ジョン・スミートン]]がさらにさまざまな改良を施した。 50年以上もの間改良されながら[[1770年]]頃まで広く使われていたニューコメン式の蒸気機関であったが、ここまでの蒸気機関は、往復運動をそのまま直線的動力として利用するものであり、しかもその力は往復以前に往だけの片道通行の利用だった。 === 回転の作用 === [[ジェームズ・ワット]]は根本的に改良を加えた往復動蒸気機関を考案し、[[1769年]]に英国で特許を取得した。これは本格的な回転動力の実用化に至る道でもあった。 ピストンの往復の動きを回転運動として利用した最初のエンジンは、ワットの[[特許]]と同年の1769年、[[フランス]]で考案された蒸気動力の[[トラクター|牽引車]]、[[キュニョーの砲車]]である。これは[[ピストンロッド]]の先の[[クランク (機械要素)|クランク]]に[[ラチェット]]を用いて回転運動に変換するものだった。 次いで英国で[[ジェームズ・ワット|ワット]]の元で働いていた[[ウィリアム・マードック]]が[[遊星歯車機構|遊星ギア]]を利用して回転運動を得ることを着想し、[[蒸気自動車]]を作成した。この往復運動を回転運動にする特許はマードックではなくワットが取得している。ワットらは[[クランクシャフト]]を利用したかったが、同時期に特許がすでに取得されており、その使用にはワットの蒸気機関の特許との交換条件を持ち出されたために使用しなかった。遊星ギアはクランクシャフトに比べて往復運動から回転運動への変換効率が低く、ワットは後年、特許使用可能になったクランクシャフト方式に乗り換えている。 [[1801年]]に[[リチャード・トレビシック|トレビシック]]が蒸気自動車を製作し運転した。トレビシックはさらに[[1804年]]に世界最初の[[蒸気機関車]]を制作し、[[試運転]]を行っている。 [[1820年]]、イギリスのW・セシルが[[水素ガス]]を[[燃料]]とした真空利用の大気圧機関を製作し、60[[rpm (単位)|rpm(回転/分)]]の動きを実現した。爆発時の[[騒音]]が問題となったがこれが世界最古のガス機関として認められている。しかし当時は蒸気機関の実用化が盛んな時期であり、ガスエンジンはその後の研究があまり進まなかった。 イギリスでは続いて[[発明家]]のサミュエル・ブラウンが、[[1823年]]に[[ガス真空機関]](真空エンジン、用気エンジン)の開発に成功。内燃機関だったが、爆発の後に生じる真空によりピストンを引き戻すことにより往復運動をおこなうものであり、大気圧利用という点では[[トーマス・ニューコメン]]の蒸気機関そのままの原理であった。[[1825年]]には車両に載せられ、この真空機関付き[[自動車]]は[[1826年]]の試運転で10.5分の1の[[線形 (路線)|勾配]](約5 °26 ′)をたやすく登った。[[1827年]]には[[テムズ川]]で船に真空エンジンを載せて公式試運転を行い、11 - 13 [[キロメートル|km]]を記録している。これらの実績によりブラウンは[[内燃機関]]の歴史において功績が認められており、また、ブラウンのエンジンは実用になった最初のガス機関と認められている。もっとも、当時は蒸気機関全盛の時代であり、普及には至っていない。 [[1833年]]には、イギリスのW.L.ライトがガス爆発機関の特許を取得している。実際に製作されたかどうかは確認されていないが、後年、ガス爆発機関としてはこの[[設計]]は完璧であり、製作されていればブラウン以上の能力が出せたと評価されている。 ウィリアム・バーネットは[[1838年]]に[[2サイクル機関|2サイクル圧縮型エンジン]]と独自の[[点火プラグ]]を開発した。 [[イタリア]]のバルサンチとマテゥチは[[1855年]]に世界初のフリー・ピストン・エンジンを創案する。爆発により上方に上がったピストンが[[重力]]により落下することを利用したもので、動力はピストンの[[コネクティングロッド]]からラチェット付きで一方向回転するギアを使って取り出した。極めて騒々しく、[[振動]]も激しかったが、内燃機関の点火自体が不安定だった時代にはこれでも比較的効率が良かった。 === 往復動型内燃機関の実用化 === フランスで[[ジャン=ジョゼフ・エティエンヌ・ルノアール|ルノアール]]が[[1860年]]に[[ガスエンジン]]を商用化し、大型化が必然的で大規模工場でなければ使えなかった当時の蒸気機関に比べてコンパクトで軽便であったため、中規模工場などでも一般に使用されるようになった。当時の[[先進国]]の[[都市]]で普及しつつあった[[ガス燈]]用の[[石炭]][[乾留]]ガス配管を利用して、燃料供給[[インフラストラクチャー]]の面も解決したことが優れており、1860年は内燃機関の本格的な実用化の年とされる。 ルノアール・エンジンは往復動の[[2ストローク機関|2ストローク内燃機関]]であるが、圧縮行程が事故の危険を伴うと危惧したルノアールの意図によって無圧縮の設計であった。このためエンジンとしての効率は低く、実用内燃機関の先駆ではあったが本格的な内燃機関の祖とは言い難い面もある。日本の内燃機関研究者の[[富塚清]]は「内燃機関の歴史」で「多少気の毒」と評している。ルノアールは自動車も製作し、走行試験を行い、また[[セーヌ川]]での[[モーターボート]]動力にも使用されたが、無圧縮型のガス燃料機関という効率の低さと燃料供給の制約から、工場等の定置動力以外では成功しなかった。 ルノアールのエンジン以前にはさまざまな案が試されていたが、ルノアールの商業的成功により明確な指標ができたため、内燃機関の研究が急速にすすむことになった。 [[1862年]]、フランスのボー・ド・ロシャが、内燃機関としての[[4ストローク機関|4ストロークエンジン]]を提唱した。[[1867年]]、[[ドイツ]]で[[ニコラス・オットー]]と[[オイゲン・ランゲン]]が[[フリー・ピストン機関]]([[:de:Flugkolbenmotor]])<ref group="注釈">日本語訳でフリーピストン機関とされている事が多いが、英語の[[:en:Free-piston engine|Free-piston engine]](ドイツ語では[[:de:Freikolbenmaschine|Freikolbenmaschine]])とは別物なので注意が必要。</ref>を製作する。[[1873年]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]でブレートンが新型を開発。[[ブレートン機関]]とよばれる。 [[1876年]]、オットーは後年のレシプロ式[[ガソリンエンジン]]の直接の祖型となる4ストローク式ガスエンジンを完成させた。 === 20世紀以降 === [[File:6.25전쟁관련자료16.jpg|thumb|right|200px|[[T-6 (航空機・初代)|T-6]]に搭載された星型レシプロエンジン([[1950年]]撮影)]] [[20世紀]]になって実用化がなされた[[航空機]]の発達はレシプロエンジンと共にあり、[[1950年代]]の後半までは[[航空用エンジン|飛行機のエンジン]]といえば、レシプロエンジンといわれていた<ref>『学習漫画早わかり航空会社のしくみ』128頁。</ref>。航空機の性能(最大速度や上昇力)はエンジンによってほぼ決定されるため、各国はより高性能の航空機を作りあげるために高性能なエンジンを必要とした。そのためにエンジンの性能をあげるためのさまざまな研究は[[第一次世界大戦]]から[[第二次世界大戦]]においてその多くがなされている。戦後になると大出力の航空機用エンジンは、高出力[[プロペラ機]]用[[ターボプロップエンジン]]を含む[[ジェットエンジン]]に切り替わり、現代では「レシプロ」は小型プロペラ機の代名詞ともなっている。 [[船|船舶]]においては、20世紀初頭までは蒸気機関のレシプロエンジンが主流であったが、外燃機関の[[蒸気タービン]]エンジンや内燃機関のレシプロエンジンの実用化とともに、徐々にそれらに置き換えられていった。現在では民間用途としては[[ディーゼルエンジン|ディーゼル]]の内燃レシプロエンジンが主流となっている。[[軍艦]]では[[ガスタービンエンジン]]と蒸気タービンエンジン([[原子力]]動力の場合)の採用率が高いが、内燃レシプロエンジン(ガスタービンとの併用を含む)も一定数採用されている。 [[鉄道車輛]]においては、20世紀の前半期を通じて蒸気機関のレシプロエンジンを搭載する[[蒸気機関車]]が主流であったが、[[鉄道の電化|電化]]区間では[[電気機関車]]や[[電車]]に、[[非電化]]区間および両区間の直通用では内燃レシプロエンジンを搭載する[[ディーゼル機関車]]や[[気動車]]に、それぞれ置き換えられた。[[ガスタービンエンジン#鉄道車両|ガスタービンエンジン]]は[[ターボ・エレクトリック方式]]では実用例があるが、その最盛期は[[オイルショック]]以前で、また、[[日本国有鉄道|日本の国鉄]]のようにガスタービンを直接動力源とする車両は実用化されておらず、電気式、液体式、機械式のいずれでも[[ディーゼルエンジン]]が大勢を占めている。熱効率の低い蒸気機関車も、僅かながら[[保存鉄道]]([[産業遺産]])としての運行は続いている。 [[自動車]]においては、最初期に[[電気自動車]]や蒸気自動車が検討・試作されたものの、その歴史を通じて内燃レシプロエンジンが主流である。一時期[[ロータリーエンジン]]の採用が各社で検討されたが、結局は主流とならなかった。またガスタービンエンジンの自動車も実用化には至っていない。[[電気自動車]]は特殊用途に限られていたが、近年は再び一般向として市販される例が増えている。しかしこれが主流となりレシプロエンジン車を置き換えていくかどうかは未知数である。 [[発電機]]や[[ポンプ]]などの定置動力としては、20世紀初頭は蒸気レシプロエンジンが主流であり、他に選択肢が無い状況であった。その後、それ以外の動力機関が普及していき、蒸気レシプロエンジンは完全に廃れている。発電など大規模用途としては[[蒸気タービン]]が主流であるが、それ以外では内燃レシプロエンジンが主流となっている。ただ、20世紀末よりマイクロガスタービンを含むガスタービンエンジンが伸長しており、内燃レシプロエンジンを置き換えつつある。 なお、上述の通り最初期のレシプロ蒸気機関は、直線的動力として利用するもの、かつ往だけの片道通行の利用だった。[[航空母艦]]用の蒸気[[カタパルト]]は、現代においてはこれに相当するものであるが、将来的には[[リニアモーター]]式の開発も進められている。 またディーゼルハンマ式[[杭打ち機]]は、21世紀初頭現在でも生産され続けている現役の、2ストローク[[単気筒]]フリーピストン[[ディーゼルエンジン]]製品である。 == レシプロエンジンの仕組み == シリンダー内の動作流体(水蒸気や燃焼ガスなど)の加熱方法により'''外燃機関'''のレシプロエンジンと、'''内燃機関'''のレシプロエンジンの二つに大きく分類される。それぞれの仕組みの概略は以下のようになる。 === 外燃機関のレシプロエンジン === {{main|外燃機関}} 外燃機関のレシプロエンジンには[[蒸気機関]]や[[スターリングエンジン]]がある(詳細はそれぞれの項目を参照)。 蒸気機関では高温の蒸気を駆動に使う。初期は[[トーマス・ニューコメン]]が作った[[気圧|大気圧]]の負圧を利用する方法がある。当時から高い蒸気圧を利用することは考えられていたが、まだ工作技術が十分でなかった頃はそれに耐えうる[[ボイラー]]を作ることができなかったため[[真空|負圧]]を利用していた。 ニューコメンの蒸気機関は効率が悪かったため、それを[[ジェームズ・ワット]]が[[復水器]]を組み合わせて使うことで効率を上げ、[[産業革命]]の原動力となり、[[石炭]]を当時の主要な[[エネルギー]]源にした。 ワットが老いた頃は工作技術も上がり、高い圧力に耐えられるボイラーや[[シリンダー]]が作られる。するとその効率の良さから、負圧を使った蒸気機関ではなく、そちらを用いて[[蒸気自動車]]や[[蒸気機関車]]が広まった。 また、蒸気圧を高めて使う蒸気機関が現れて間もない頃は、[[シリンダー]]が蒸気圧に耐えられず爆発する事故が相次いだ。これを見た[[スコットランド]]の牧師[[ロバート・スターリング]]はより安全な熱機関を作ろうと、外燃レシプロ機関の[[スターリングエンジン]]を考案した。高出力には向かないが、理論上は非常に高い熱効率を持つ。ただし一般動力機関としては扱いにくい面もあってほとんど普及しておらず、むしろ[[空調]]等を目的に熱を移動させる[[ヒートポンプ]]システムの分野でその原理が広く応用されている。 === 内燃機関のレシプロエンジン === {{main|内燃機関}} [[File:4-Stroke-Engine.gif|154px|thumb|内燃機関の例<br />(DOHC4ストロークエンジン)<br />&nbsp;&nbsp;(1)吸入<br />&nbsp;&nbsp;(2)圧縮<br />&nbsp;&nbsp;(3)燃焼・膨張<br />&nbsp;&nbsp;(4)排気 {{clear}}]] 動作の仕組みはおよそ以下のようになり、これを繰り返す、すなわちピストンが往復動することで、エンジンは連続的に回転動力を出力する。 外部からは、[[ガソリン]]や[[プロパンガス]]、[[軽油]]、[[アルコール]]等の燃料と、それに対し適当な量の空気とをエンジン内部へ供給する。液体の燃料は、気化しやすいように微粒化(霧化)しながら使用される。まず、[[シリンダー]]内に[[吸気|'''吸入'''した空気]]を、[[ピストン]]により'''圧縮'''する。その圧縮空気中で燃料<!--燃料供給方法は意図的に省きました。もし追記される場合でも、「いろいろな内燃機関がある」ことを前提に、簡略な表記を心がけましょう-->に何らかの方法で着火し、シリンダー内で急速に(時には爆発的に)'''燃焼'''させる。充分な強度を持つシリンダー内で、高温高圧の[[燃焼ガス]]が'''膨張'''してピストンを押し出す力となる。この力を受けたピストンの直線的な運動を、[[コネクティングロッド]](コンロッド)と[[クランクシャフト]]とにより回転運動に変える。燃焼ガスは充分に膨張したのち、外部に'''[[排気]]'''される。 内燃機関のレシプロエンジンは様々に分類されるが、主な分類法を列記すると以下のようなものがある。 ==== 点火・着火方法による分類 ==== * [[火花点火内燃機関|火花点火機関]] * [[ピストン式圧縮点火内燃機関|圧縮着火機関]] * 熱面着火機関 ** [[焼玉エンジン|焼玉機関]] ** [[グローエンジン]] ==== 作動方式(行程数)による分類 ==== * [[2ストローク機関]] * [[4ストローク機関]] * [[6ストローク機関]]<!-- TOHCよりは意味のある記載と考えます --> ==== 気筒配置・気筒数による分類 ==== : 一般に気筒の配置と数とを組み合わせて呼称される。例えば直列配置の4気筒は「直列4気筒」、星型配置の14気筒であれば「星型14気筒」などと呼ばれる。 {| class="wikitable" style="text-align:right" <!--caption>気筒配置・気筒数による分類</caption--> |- ! ![[直列型エンジン|直列]] ![[V型エンジン|V型]] ([[狭角V型エンジン|狭角V]]、[[倒立V型エンジン|倒立V]]) ![[水平対向エンジン|水平対向]] ![[星型エンジン|星型]] ![[W型エンジン|W型]] ![[X型エンジン|X型]] ![[U型エンジン|U型]] ![[H型エンジン|H型]] !その他 |- ![[単気筒エンジン|単気筒]] | || || || || || || || || |- !2気筒 | [[直列2気筒|直列]] || [[V型2気筒|V型]] || [[水平対向2気筒|水平対向]] || || || || [[U型エンジン#タンデム2気筒|タンデム2]] || ||2気筒[[斜盤機関]] |- !3気筒 | [[直列3気筒|直列]] || [[V型3気筒|V型]] || || || [[W型3気筒|W型]] || || || || |- !4気筒 | [[直列4気筒|直列]] || [[V型4気筒|V型]]、狭角V型 || [[水平対向4気筒|水平対向]] || || || || [[U型エンジン#スクエア4気筒|スクエア4]] || H型 || |- !5気筒 | [[直列5気筒|直列]] || [[V型5気筒|V型]]、狭角V型 || || 星型 || || || || || |- !6気筒 | [[直列6気筒|直列]]、[[ユンカース ユモ 205|対向ピストン]] || [[V型6気筒|V型]]、[[VR6エンジン|狭角V型]] || [[水平対向6気筒|水平対向]] || || || || U型 || || |- !7気筒 | || || || 星型 || || || || || |- !8気筒 | [[直列8気筒|直列]] || [[V型8気筒|V型]] || [[水平対向8気筒|水平対向]] || || [[W型8気筒|WR型]] || X型 || U型 || H型 || |- !9気筒 | [[直列9気筒|直列]] || || || 星型 || || || || ||[[対向ピストン機関|対向ピストン]][[ネイピア デルティック|デルティック]] |- !10気筒 | [[直列10気筒|直列]] || [[V型10気筒|V型]] || [[水平対向10気筒|水平対向]] || || || || || || |- !12気筒 | [[直列12気筒|直列]] || [[V型12気筒|V型]]、倒立V型 || [[水平対向12気筒|水平対向]] || || [[W型12気筒|W型、WR型]] || 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ロングストローク・ショートストローク・スクエアストローク * [[エンジンの振動]] * [[バランスシャフト]] * [[アルミニウムエンジン]] * [[アトキンソンサイクル]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{レシプロエンジンの気筒配置による分類}} {{自動車部品}} {{オートバイ部品と関連技術}} {{自動車の構成}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:れしふろえんしん}} [[Category:往復動機関|*]] [[Category:航空用エンジン]] [[Category:クリスティアーン・ホイヘンス]]
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正規表現
正規表現(せいきひょうげん、英: regular expression)は、文字列の集合を一つの文字列で表現する方法の一つである。正則表現()とも呼ばれ、形式言語理論の分野では比較的こちらの訳語の方が使われる。まれに正則式()あるいは正規式()と呼ばれることもある。 もともと正規表現は形式言語理論において正規言語を表すための手段として導入された。形式言語理論では、形式言語が正規言語であることと正規表現によって表せることは同値である。 その後正規表現は単機能の文字列探索ツールやテキストエディタ、ワードプロセッサなどのアプリケーションで、マッチさせるべき対象を表すために使用されるようになり、表せるパターンの種類を増やすために本来の正規表現にはないさまざまな記法が新たに付け加えられた。このような拡張された正規表現には正規言語ではない文字列も表せるものも多く、ゆえに正規表現という名前は実態に即していない面もあるが、伝統的に正規表現と呼ばれ続けている。 この記事では主にこのような正規表現を用いたパターンマッチングについて説明している。以下、誤解のない限り、アプリケーションやプログラミングにおいて正規表現を用いた文字列のパターンマッチングを行う機能のことを、単に正規表現という。 ほとんどのプログラミング言語では、ライブラリによって正規表現を使うことができる他、一部の言語では正規表現のリテラルもある。「正規表現によるマッチ」を意味する(専用の)演算子がある言語なども一部ある。具体例として、grep, AWK, sed, Perl, Tcl, lex などがある。 それぞれの言語やアプリケーションで細部の仕様が異なっている、といったように思われることも多いが(古い実装では実際にそのようなことも多い)、近年は同じライブラリを使っていれば同じということも多い。またPOSIXなど標準もある。 理論的に明解であり扱いも容易であるため、形式的な説明を先に述べる。 記号(アルファベット) A = { a 1 , ... , a n } {\displaystyle A=\{a_{1},\dots ,a_{n}\}} 上の正規表現は次のようなものから成る。正規表現があらわす記号列(アルファベット列)の集合によって形式言語が定義される。 正規表現の定義に、次の項目を含めることもある: 正規表現 ε {\displaystyle \varepsilon } の表す集合は正規表現 ∅ ∗ {\displaystyle \varnothing *} の表す集合に等しいので、 ε {\displaystyle \varepsilon } を正規表現の定義に含めなくても ∅ ∗ {\displaystyle \varnothing *} で代用できる。 X ∣ Y {\displaystyle X\mid Y} の代わりに X + Y {\displaystyle X+Y} と書くことや、 X Y {\displaystyle XY} の代わりに X ⋅ Y {\displaystyle X\cdot Y} と書くこともある。また、「 ∣ {\displaystyle \mid } 」や「 ∗ {\displaystyle *} 」の優先順位を明確にするために、補助的なカッコも(上述の定義には含めていないが)必要である。 以下ではもっぱらよく使われているライブラリやツールなどの実用的な観点から説明する。 例えば、「Handel」「Hendel」「Haendel」という3つの文字列を含む集合は「H(e|ae?)ndel」というパターンで表現できる(あるいは、パターンは個々の3つの文字列にマッチすると言われる)。ほとんどの形式では、もし特定の集合にマッチする何らかの正規表現が存在すれば、無限の数のそのような表現がある。ほとんどの形式では正規表現を構築するために次の演算子を提供している。 これらの構文は任意の複雑な表現を形成するために組み合わされて使用される。 正規表現の起源は、言語学と、理論計算機科学の一分野であるオートマトン理論や形式言語理論にみることができる。20世紀の言語学では数理的に言語を扱う数理言語学が発展しその過程の一部として、また後者は計算のモデル化(オートマトン)や形式言語の分類方法などを扱う学術分野である。数学者のスティーヴン・クリーネは1950年代に正規集合と呼ばれる独自の数学的表記法を用い、これらの分野のモデルを記述した。 Unix系のツールに広まったのは、ケン・トンプソンがテキストファイル中のパターンにマッチさせる手段として、この表記法をエディタQEDに導入したことなどに始まる。彼はこの機能をUNIXのエディタedにも追加し、後に一般的な検索ツールであるgrepの正規表現へと受け継がれていった。これ以降、トンプソンの正規表現の適用にならい、多くのUnix系のツールがこの方法を採用した(例えば expr, awk, Emacs, vi, lex, Perl など)。 PerlとTclの正規表現はヘンリー・スペンサーによって書かれたものから派生している(Perlは後にスペンサーの正規表現を拡張し、多くの機能を追加した)。フィリップ・ヘーゼルはPerlの正規表現とほぼ互換のものを実装する試みとしてPerl Compatible Regular Expressions (PCRE) を開発した。これはPHPやApacheなどといった新しいツールで使用されている。 Rakuでは、正規表現の機能を改善してその適用範囲や能力を高め、Parsing Expression Grammarを定義できるようにする努力がなされた。この結果として、Raku文法の定義だけでなくプログラマのツールとしても使用できる、Perl 6 rulesと呼ばれる小言語が生み出された。 (本来の)正規表現からの拡張は各種あり便利であるがその多くは、(本来の)正規言語から逸脱するものであり、キャプチャなどが代表例である。なお、正規言語から逸脱しないことによって理論的な扱いが可能になるという利点があるため、例えば「非包含オペレータ」の提案ではそういった観点からの理由も挙げられている。 Rakuに限らずいくつかの実装では、(Perlではsubpatternと呼んでいる)部分パターンの定義とその再帰的な呼出しにより、例えばカッコの対応などといった(本来の)正規表現では不可能なパターンも表現できる。これは、対象部分にマッチした文字列が捕獲され、後から利用できるキャプチャとは異なり、パターンそのものの定義と利用である。PHP, Perl, Python(regexライブラリ), Ruby などで利用できる。 UNIXの標準であるPOSIXでは、単純正規表現、基本正規表現、拡張正規表現の3種類の記法が示されている。このうち、単純正規表現は「歴史的」また「レガシー」と書かれており、後方互換性を提供するものとされ、標準の将来の版では廃止され得ると注意されている。 単純正規表現はSREとも呼ばれる。その仕様は「regexp.h」のマニュアルページとして示されている。 基本正規表現はBREとも呼ばれる。ほとんどの正規表現を利用する UNIXのユーティリティ(grepやsed)のデフォルトはこれである。 この文法では、ほとんどの文字はリテラル(機能を意味せず書かれたそのまま)に扱われる。つまり、ある文字はその文字にのみマッチする。例えば、正規表現「a」は文字「a」にマッチし、正規表現「(bc」は文字列「(bc」にマッチするなど。例外はメタ文字と呼ばれる。 古いバージョンのgrepは選言演算子「\|」をサポートしていない。 例 符号点の範囲によってたとえば「アルファベット大文字」などを表現しようとすることは、時に問題をひきおこす。たとえばロケールに依存する例として、エストニア語のアルファベット順では、文字「s」の後に「z」があり、その後は「t」「u」「v」「w」「x」「y」と続くので、正規表現「[a-z]」ではすべての言語のすべてのアルファベット小文字にマッチするわけではない。そのため、POSIX 標準では次の表に示されているクラス、つまり文字の区分を定義している。 例:正規表現「[[:upper:]ab]」は英語の大文字「A」〜「Z」と「a」と「b」のうち1文字のみにマッチする。 いくつかのツールで使用できる、POSIX にないクラスとして「[:word:]」がある。「[:word:]」は通常「[:alnum:]」とアンダースコアからなる。これらが多くのプログラミング言語で識別子として使用できる文字であることを反映している。 拡張正規表現はEREとも呼ばれる。より現代的な拡張正規表現は多くの場合、現在の UNIXのユーティリティでコマンドラインオプションに「-E」を含めることで使用できる。 POSIXの拡張正規表現は伝統的な UNIX の正規表現に似ているが、いくつかの点で異なっている。 例えば、拡張正規表現「a\.(\(|\))」は文字列「a.)」や文字列「a.(」にマッチする。 GNU findコマンドにおけるデフォルトの正規表現文法としても用いられる。(findutils-4.2.28) GNU Emacs Manual - Regexps PerlはPOSIXの拡張正規表現さえも上回る豊富な文法を持っている。その例として、POSIXとは異なり、Perlの正規表現には「非欲張り量指定子」がある。標準の「*」は、例えば、正規表現「a.*b」の「.*」はできるだけ長い文字列にマッチしようとする。このふるまいを「貪欲」という。たとえば文字列「a bad dab」にマッチさせると、全体にマッチする。これに対し、Perlでは使うことができる正規表現「a.*?b」の「.*?」は、マッチするのであれば、できるだけ短い文字列にマッチする。たとえば文字列「a bad dab」に対して「a b」にだけマッチする。これを「非欲張り量指定子」と言う。 また、Perlには以下の定義済み文字クラスがある。 すぐれた機能をもつPerlの拡張正規表現は、多くのプログラミング言語やソフトウェアで採りいれられている。例えば、JavaのPatternクラス、Python、Rubyなどがそうである。しかし、これらがPerlの正規表現と完全に互換である訳ではない。また、Perl Compatible Regular Expressions (PCRE) と呼ばれる汎用の正規表現ライブラリはアプリケーションに組み込まれ、Perlの正規表現とほぼ互換の機能を提供する。 言語処理系やアプリケーションが正規表現をサポートしていない場合であっても、正規表現に必要な処理を提供する外部ライブラリを導入することで正規表現を使うことができる。以下にその一例を挙げておく。
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正規表現は、文字列の集合を一つの文字列で表現する方法の一つである。正則表現とも呼ばれ、形式言語理論の分野では比較的こちらの訳語の方が使われる。まれに正則式あるいは正規式と呼ばれることもある。 もともと正規表現は形式言語理論において正規言語を表すための手段として導入された。形式言語理論では、形式言語が正規言語であることと正規表現によって表せることは同値である。 その後正規表現は単機能の文字列探索ツールやテキストエディタ、ワードプロセッサなどのアプリケーションで、マッチさせるべき対象を表すために使用されるようになり、表せるパターンの種類を増やすために本来の正規表現にはないさまざまな記法が新たに付け加えられた。このような拡張された正規表現には正規言語ではない文字列も表せるものも多く、ゆえに正規表現という名前は実態に即していない面もあるが、伝統的に正規表現と呼ばれ続けている。 この記事では主にこのような正規表現を用いたパターンマッチングについて説明している。以下、誤解のない限り、アプリケーションやプログラミングにおいて正規表現を用いた文字列のパターンマッチングを行う機能のことを、単に正規表現という。 ほとんどのプログラミング言語では、ライブラリによって正規表現を使うことができる他、一部の言語では正規表現のリテラルもある。「正規表現によるマッチ」を意味する(専用の)演算子がある言語なども一部ある。具体例として、grep, AWK, sed, Perl, Tcl, lex などがある。 それぞれの言語やアプリケーションで細部の仕様が異なっている、といったように思われることも多いが(古い実装では実際にそのようなことも多い)、近年は同じライブラリを使っていれば同じということも多い。またPOSIXなど標準もある。
{{WikipediaPage|正規表現の解説|Help:Pywikipediabot/正規表現}} {{参照方法|date=2023年11月}} '''正規表現'''(せいきひょうげん、{{lang-en-short|regular expression}})は、[[文字列]]の集合を一つの文字列で表現する方法の一つである。{{読み仮名|'''正則表現'''|せいそくひょうげん}}とも呼ばれ、[[形式言語]]理論の分野では比較的こちらの訳語の方が使われる<ref>{{cite book|和書|author=J. ホップクロフト|coauthors=R. モトワニ、J. ウルマン|translators=野崎昭弘他|title=オートマトン言語理論 計算論 I 第2版|publisher=サイエンス社|year=2003|isbn=9784781910260}}</ref>。まれに{{読み仮名|'''正則式'''|せいそくしき}}<ref>{{cite book|和書|author=中村克彦|title=コンピュータとは何か?|publisher=東京電機大学出版局|year=2018|isbn=|quote=多くの文献では正則表現または正規表現と呼んでいるが、数学では“regular”の訳語として「正則」を当てるのが一般的であり、“expression”は算術式や論理式と同様に「式」と呼ぶべきである|page=156}}</ref>あるいは{{読み仮名|'''正規式'''|せいきしき}}と呼ばれることもある。 もともと正規表現は形式言語理論において[[正規言語]]を表すための手段として導入された。形式言語理論では、形式言語が「正規言語であること」と「正規表現によって表せること」は[[同値]]である。 その後正規表現は単機能の文字列探索ツールや[[テキストエディタ]]、[[ワードプロセッサ]]などの[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]で、マッチさせるべき対象を表すために使用されるようになり、表せるパターンの種類を増やすために本来の正規表現にはないさまざまな記法が新たに付け加えられた。このような拡張された正規表現には正規言語ではない文字列も表せるものも多く、ゆえに正規表現という名前は実態に即していない面もあるが、伝統的に正規表現と呼ばれ続けている。 この記事では主にこのような正規表現を用いた[[パターンマッチング]]について説明している。以下、誤解のない限り、アプリケーションや[[プログラミング]]において正規表現を用いた文字列のパターンマッチングを行う機能のことを、単に正規表現という。 ほとんどの[[プログラミング言語]]では、[[ライブラリ]]によって正規表現を使うことができる他、一部の言語では正規表現の[[リテラル]]もある。「正規表現によるマッチ」を意味する(専用の)演算子がある言語なども一部ある。具体例として、[[grep]], [[AWK]], [[Sed (コンピュータ)|sed]], [[Perl]], [[Tcl]], [[lex]] などがある。 それぞれの言語やアプリケーションで細部の仕様が異なっている、といったように思われることも多いが(古い実装では実際にそのようなことも多い)、近年は同じライブラリを使っていれば同じということも多い。また[[POSIX]]など標準もある。 ==基本的な概念== 理論的に明解であり扱いも容易であるため、形式的な説明を先に述べる。 ===形式的な説明=== {{main|正規言語}} 記号(アルファベット)<math>A = \{a_1, \dots, a_n\}</math> 上の正規表現は次のようなものから成る。正規表現があらわす記号列(アルファベット列)の集合によって[[形式言語]]が定義される。 *<math>\varnothing</math> は正規表現である。これは記号列を何も含まない[[空集合]] <math>\varnothing</math> を表す。 *<math>a_i</math>(<math>A</math> の任意の要素)は正規表現である。これは <math>a_i</math> という記号列のみからなる集合 <math>\{a_i\}</math> を表す。 *<math>X</math> と <math>Y</math> が正規表現ならば、 ** <math>X\mid Y</math> も正規表現である。これは <math>X</math> に含まれる記号列の集合と <math>Y</math> に含まれる記号列の集合の[[合併 (集合論)|和集合]]を表す。 ** <math>XY</math> も正規表現である。これは <math>X</math> に含まれる記号列に <math>Y</math> に含まれる記号列をつなげてできる記号列の集合 <math>\{ab\mid a \in X, b \in Y\}</math> を表す。 **<math>X*</math> も正規表現である。これは <math>X</math> に含まれる記号列を 0 個以上つなげてできる文字列の集合 <math>\bigcup_n \{X^n\mid n \ge 0\}</math> を表す([[クリーネ閉包]])。 * 上記の帰納的導出によって構成される記号列のみが正規表現である。 正規表現の定義に、次の項目を含めることもある: *<math>\varepsilon</math> は正規表現である。これは空記号列 <math>\varepsilon</math> のみからなる集合 <math>\{\varepsilon\}</math> を表す。 正規表現 <math>\varepsilon</math> の表す集合は正規表現 <math>\varnothing*</math> の表す集合に等しいので、<math>\varepsilon</math> を正規表現の定義に含めなくても <math>\varnothing*</math> で代用できる。 <math>X\mid Y</math> の代わりに <math>X+Y</math> と書くことや、<math>XY</math> の代わりに <math>X\cdot Y</math> と書くこともある。また、「<math>\mid</math>」や「<math>*</math>」の優先順位を明確にするために、補助的なカッコも(上述の定義には含めていないが)必要である。 ===実用的説明=== 以下ではもっぱらよく使われているライブラリやツールなどの実用的な観点から説明する。 例えば、「<code>Handel</code>」「<code>H'''e'''ndel</code>」「<code>Ha'''e'''ndel</code>」という3つの文字列を含む集合は「<code>H(e|ae?)ndel</code>」というパターンで表現できる(あるいは、パターンは個々の3つの文字列に'''マッチする'''と言われる)。ほとんどの形式では、もし特定の集合にマッチする何らかの正規表現が存在すれば、無限の数のそのような表現がある。ほとんどの形式では正規表現を構築するために次の[[演算子]]を提供している。 ;選言 :縦棒は選択肢を区切る。例えば「<code>gray|grey</code>」は「<code>gray</code>」または「<code>grey</code>」にマッチし、これは通常「<code>gr(a|e)y</code>」に短縮される。 ;グループ分け :丸括弧はスコープと[[演算子]]の優先順位を定義するために用いられる。例えば、「<code>gr(a|e)y</code>」では「<code>(a|e)</code>」の部分で「<code>a</code>」または「<code>e</code>」を示し、全体で「<code>gray</code>」または「<code>grey</code>」にマッチする。 ;量化 :文字やグループの後ろの量化子は、直前の表現が何回現れることが許されるかを指定する。非常によく使われる量化子として「<code>?</code>」「<code>*</code>」「<code>+</code>」がある。 :;<code>?</code> ::[[疑問符]]は直前の表現が'''0個か1個ある'''ことを示す。例えば、「<code>colou?r</code>」は「<code>color</code>」と「<code>colour</code>」にマッチする。 :;<code>*</code> ::[[アスタリスク]]は直前の表現が'''0個以上ある'''ことを示す。例えば、「<code>go*gle</code>」は「<code>google</code>」「<code>gogle</code>」「<code>ggle</code>」などにマッチする。 :;<code>+</code> ::[[プラス符号]]は直前の表現が'''1個以上ある'''ことを示す。例えば、「<code>go+gle</code>」は「<code>google</code>」「<code>gogle</code>」などにマッチするが、「<code>ggle</code>」にはマッチしない。 これらの構文は任意の複雑な表現を形成するために組み合わされて使用される。 ==歴史== 正規表現の起源は、[[言語学]]と、[[理論計算機科学]]の一分野である[[オートマトン]]理論や[[形式言語]]理論にみることができる。20世紀の言語学では数理的に言語を扱う数理言語学が発展しその過程の一部として、また後者は計算のモデル化(オートマトン)や形式言語の分類方法などを扱う学術分野である。数学者の[[スティーヴン・コール・クリーネ|スティーヴン・クリーネ]]は[[1950年代]]に[[正規集合]]と呼ばれる独自の数学的表記法を用い、これらの分野のモデルを記述した。 Unix系のツールに広まったのは、[[ケン・トンプソン]]がテキストファイル中のパターンにマッチさせる手段として、この表記法をエディタ[[QED (テキストエディタ)|QED]]に導入したことなどに始まる。彼はこの機能を{{lang|en|[[UNIX]]}}のエディタ{{lang|en|[[ed (テキストエディタ)|ed]]}}にも追加し、後に一般的な検索ツールである[[grep]]の正規表現へと受け継がれていった。これ以降、トンプソンの正規表現の適用にならい、多くのUnix系のツールがこの方法を採用した(例えば {{lang|en|[[expr]]}}, {{lang|en|awk}}, {{lang|en|[[Emacs]]}}, {{lang|en|[[vi]]}}, {{lang|en|lex}}, {{lang|en|Perl}} など)。 {{lang|en|Perl}}と{{lang|en|Tcl}}の正規表現は[[ヘンリー・スペンサー (ソフトウェア技術者)|ヘンリー・スペンサー]]<sup>([[:en:Henry Spencer|英]])</sup>によって書かれたものから派生している(Perlは後にスペンサーの正規表現を拡張し、多くの機能を追加した)。フィリップ・ヘーゼルは{{lang|en|Perl}}の正規表現とほぼ互換のものを実装する試みとして{{lang|en|[[Perl Compatible Regular Expressions]]}} (PCRE) を開発した。これは[[PHP (プログラミング言語)|PHP]]や[[Apache HTTP Server|{{lang|en|Apache}}]]などといった新しいツールで使用されている。 [[Raku]]では、正規表現の機能を改善してその適用範囲や能力を高め、{{lang|en|[[Parsing Expression Grammar]]}}を定義できるようにする努力がなされた。この結果として、{{lang|en|Raku}}文法の定義だけでなくプログラマのツールとしても使用できる、{{lang|en|[[Perl 6 rules]]}}と呼ばれる小言語が生み出された。 (本来の)正規表現からの拡張は各種あり便利であるがその多くは、(本来の)正規言語から逸脱するものであり、キャプチャなどが代表例である。なお、正規言語から逸脱しないことによって理論的な扱いが可能になるという利点があるため、例えば「非包含オペレータ」の提案ではそういった観点からの理由も挙げられている。 Rakuに限らずいくつかの実装では、(Perlではsubpatternと呼んでいる)部分パターンの定義とその再帰的な呼出しにより、例えばカッコの対応などといった(本来の)正規表現では不可能なパターンも表現できる。これは、対象部分にマッチした文字列が捕獲され、後から利用できるキャプチャとは異なり、パターンそのものの定義と利用である。PHP, Perl, Python(regexライブラリ), Ruby などで利用できる。 ==構文== ===標準=== [[UNIX]]の標準である[[POSIX]]では、'''単純正規表現'''、'''基本正規表現'''、'''拡張正規表現'''の3種類の記法が示されている。このうち、単純正規表現は「歴史的<ref group="注">{{lang-en-short|historical}}</ref>」また「[[レガシーシステム|レガシー]]<ref group="注">{{lang-en-short|legacy}}</ref>」と書かれており、後方互換性を提供するものとされ、標準の将来の版では廃止され得る<ref group="注">{{lang-en-short|may be withdrawn}}</ref>と注意されている。 ====単純正規表現==== 単純正規表現は'''SRE'''<ref group="注">{{lang-en-short|simple regular expressions}}</ref>とも呼ばれる。その仕様は「<code>regexp.h</code>」のマニュアルページとして示されている<ref>[http://pubs.opengroup.org/onlinepubs/7908799/xsh/regexp.html POSIX > XSH > regexp(3)]</ref>。 ====基本正規表現==== 基本正規表現は'''BRE'''<ref group="注">{{lang-en-short|basic regular expression}}</ref>とも呼ばれる。ほとんどの正規表現を利用する UNIXのユーティリティ(grepやsed)のデフォルトはこれである<ref>[http://pubs.opengroup.org/onlinepubs/7908799/xbd/re.html#tag_007_003 POSIX > Base Definitions > Regular Expressions > Basic Regular Expressions]</ref>。 この文法では、ほとんどの文字はリテラル(機能を意味せず書かれたそのまま)に扱われる。つまり、ある文字はその文字にのみマッチする。例えば、正規表現「<code>a</code>」は文字「<code>a</code>」にマッチし、正規表現「<code>(bc</code>」は文字列「<code>(bc</code>」にマッチするなど。例外は[[メタ文字]]と呼ばれる。 {| class="wikitable" valign="top" !正規表現!!マッチする対象 |- |<code>.</code> |任意の1文字にマッチする。 |- valign="top" |<code><nowiki>[</nowiki>&hellip;<nowiki>]</nowiki></code> |括弧内に含まれる1文字にマッチする。例えば、正規表現「<code><nowiki>[abc]</nowiki></code>」は1文字「<code>a</code>」「<code>b</code>」「<code>c</code>」にマッチする。正規表現「<code><nowiki>[a-z]</nowiki></code>」は全ての英小文字の1文字にマッチする。これらは混ぜることができる。「<code><nowiki>[abcq-z]</nowiki></code>」は1文字「<code>a</code>」「<code>b</code>」「<code>c</code>」「<code>q</code>」「<code>r</code>」「<code>s</code>」「<code>t</code>」「<code>u</code>」「<code>v</code>」「<code>w</code>」「<code>x</code>」「<code>y</code>」「<code>z</code>」にマッチし、正規表現「<code>[a-cq-z]</code>」も同様である。正規表現中の「<code>-</code>」は括弧内の最初か最後にあるときのみ、リテラルとして扱われる。例えば正規表現「<code><nowiki>[abc-]</nowiki></code>」や正規表現「<code><nowiki>[-abc]</nowiki></code>」は1文字「<code>a</code>」「<code>b</code>」「<code>c</code>」「<code>-</code>」にマッチする。1文字「<code><nowiki>]</nowiki></code>」自身にマッチさせる最も手っ取り早い方法は、囲んでいる括弧内で、括弧が最初になるようにすることである。例えば正規表現「<code><nowiki>[][ab]</nowiki></code>」は1文字「<code><nowiki>]</nowiki></code>」「<code><nowiki>[</nowiki></code>」「<code>a</code>」「<code>b</code>」にマッチする。 |- valign="top" |<code><nowiki>[</nowiki>^&hellip;<nowiki>]</nowiki></code> |括弧内に含まれない1文字にマッチする。例えば正規表現「<code><nowiki>[^abc]</nowiki></code>」は「<code>a</code>」「<code>b</code>」「<code>c</code>」以外の任意の文字にマッチする。正規表現「<code><nowiki>[^a-z]</nowiki></code>」は英小文字以外の任意の1文字にマッチする。上と同様にこれらは混ぜることができる。 |- valign="top" |<code>^</code> |行の最初にマッチする。 |- valign="top" |<code>$</code> |行の最後にマッチする。 |- valign="top" |<code>\(&hellip;\)</code> |これに囲まれた表現は、後方で呼び出すことができる。次の <code>\1</code>, &hellip;, <code>\9</code> の項を参照のこと。 |- valign="top" | *<code>\1</code> *<code>\2</code> *<code>\3</code> *<code>\4</code> *<code>\5</code> *<code>\6</code> *<code>\7</code> *<code>\8</code> *<code>\9</code> |それぞれ「<code>\(</code>」と「<code>\)</code>」で囲まれた部分に先行してマッチした1 - 9 番目の文字列と同じ文字列パターンにマッチする。この機能は理論的には、言うならば'''非正規'''で([[正規言語]]の記述力を超える)、{{lang|en|POSIX}}拡張正規表現では採用されていない。 |- valign="top" |<code>*</code> | *1文字に続く「<code>*</code>」は0回以上の表現の繰り返しにマッチする。例えば「<code>[xyz]*</code>」は空文字列や文字列「<code>x</code>」「<code>y</code>」「<code>zx</code>」「<code>zyx</code>」などにマッチする。 *<code><var>n</var></code> を1から9までの数字としたとき、基本正規表現「<code>\<var>n</var>*</code>」は「<code>\(</code>」と「<code>\)</code>」で囲まれた部分の0回以上の繰り返しにマッチする。例えば、基本正規表現「<code>\(a.\)c\1*</code>」 は文字列「<code>abcab</code>」 「<code>abcabab</code>」「<code>abcababab</code>」などにマッチするが、文字列「<code>abcac</code>」にはマッチしない。 *「<code>\(</code>」と「<code>\)</code>」で囲まれた表現に続く「<code>*</code>」は無効とされる。しかし、一部の環境ではそうならない。 |- valign="top" | style="white-space:nowrap" |<code><nowiki>\{</nowiki><var>m</var>,<var>n</var><nowiki>\}</nowiki></code> |直前のブロックの <var>m</var> 回以上 <var>n</var> 回以下の繰り返しにマッチする。例えば、正規表現「<code>a\{3,5\}</code>」は文字列「<code>aaa</code>」「<code>aaaa</code>」「<code>aaaaa</code>」にマッチする。 |} 古いバージョンのgrepは選言[[演算子]]「<code><nowiki>\|</nowiki></code>」をサポートしていない。 例 :正規表現「<code>.at</code>」は文字列「<code>hat</code>」「<code>cat</code>」「<code>5at</code>」のような3文字の文字列にマッチする :正規表現「<code><nowiki>[hc]at</nowiki></code>」は文字列「<code>hat</code>」と「<code>cat</code>」にマッチする :正規表現「<code><nowiki>[^b]at</nowiki></code>」は文字列「<code>bat</code>」以外の「<code>.at</code>」でマッチする全ての文字列にマッチする :正規表現「<code><nowiki>^[hc]at</nowiki></code>」は行の最初にあるときだけ、文字列「<code>hat</code>」と「<code>cat</code>」にマッチする :正規表現「<code><nowiki>[hc]at$</nowiki></code>」は行の最後にあるときだけ、文字列「<code>hat</code>」と「<code>cat</code>」にマッチする [[符号点]]の範囲によってたとえば「アルファベット大文字」などを表現しようとすることは、時に問題をひきおこす。たとえばロケールに依存する例として、[[エストニア語]]のアルファベット順では、文字「s」の後に「z」があり、その後は「t」「u」「v」「w」「x」「y」と続くので、正規表現「<code><nowiki>[a-z]</nowiki></code>」ではすべての言語のすべてのアルファベット小文字にマッチするわけではない<ref group="注">これは正規表現として「<code>[a-z]</code>」を使用していたことが原因である。 *http://lists.freebsd.org/pipermail/freebsd-bugs/2005-September/014529.html *http://lists.freebsd.org/pipermail/freebsd-bugs/2005-September/014531.html </ref>。そのため、{{lang|en|POSIX}} 標準では次の表に示されているクラス、つまり文字の区分を定義している。 {| class="wikitable" |- align="left" ! POSIX クラスを用いた正規表現<ref group="注">所定の文字列を内側の括弧およびコロンで囲って「POSIX クラスを表現」し、外側の括弧は「その1字のみからなる正規表現を記述」している。</ref> !! 対応する表現 !! 意味 |- |<code><nowiki>[[:upper:]]</nowiki></code> |<code><nowiki>[A-Z]</nowiki></code> |英語の[[大文字]] |- |<code><nowiki>[[:lower:]]</nowiki></code> |<code><nowiki>[a-z]</nowiki></code> |英語の[[小文字]] |- |<code><nowiki>[[:alpha:]]</nowiki></code> |<code><nowiki>[A-Za-z]</nowiki></code> |[[ISO基本ラテンアルファベット|英語のアルファベット]] |- |<code><nowiki>[[:alnum:]]</nowiki></code> |<code><nowiki>[A-Za-z0-9]</nowiki></code> |[[アラビア数字]]と英語のアルファベット |- |<code><nowiki>[[:digit:]]</nowiki></code> |<code><nowiki>[0-9]</nowiki></code> |アラビア数字 |- |<code><nowiki>[[:xdigit:]]</nowiki></code> |<code><nowiki>[0-9A-Fa-f]</nowiki></code> |[[十六進法|16進]]数字 |- |<code><nowiki>[[:punct:]]</nowiki></code> |<code><nowiki>[.,!?:...]</nowiki></code> |英語の句読点 |- |<code><nowiki>[[:blank:]]</nowiki></code> |<code><nowiki>[ \t]</nowiki></code> |(半角の)[[スペース]]と[[タブキー|タブ]] |- |<code><nowiki>[[:space:]]</nowiki></code> |<code><nowiki>[ \t\n\r\f\v]</nowiki></code> |(半角の)空白 |- |<code><nowiki>[[:cntrl:]]</nowiki></code> | |[[制御文字]] |- |<code><nowiki>[[:graph:]]</nowiki></code> |<code><nowiki>[^ \t\n\r\f\v[:cntrl:]]</nowiki></code> |印字文字 |- |<code><nowiki>[[:print:]]</nowiki></code> |<code><nowiki>[^\t\n\r\f\v[:cntrl:]]</nowiki></code> |印字文字とスペース |} 例:正規表現「<code><nowiki>[[:upper:]ab]</nowiki></code>」は英語の大文字「<code>A</code>」〜「<code>Z</code>」と「<code>a</code>」と「<code>b</code>」のうち1文字のみにマッチする。 いくつかのツールで使用できる、{{lang|en|POSIX}} にないクラスとして「<code><nowiki>[:word:]</nowiki></code>」がある。「<code><nowiki>[:word:]</nowiki></code>」は通常「<code><nowiki>[:alnum:]</nowiki></code>」と[[アンダースコア]]からなる。これらが多くの[[プログラミング言語]]で[[識別子]]として使用できる文字であることを反映している。 ====拡張正規表現==== 拡張正規表現は'''ERE'''<ref group="注">{{lang-en-short|extended regular expression}}</ref>とも呼ばれる。より現代的な拡張正規表現は多くの場合、現在の {{lang|en|UNIX}}のユーティリティで[[コマンドライン]]オプションに「<code>-E</code>」を含めることで使用できる<ref>[http://pubs.opengroup.org/onlinepubs/7908799/xbd/re.html#tag_007_004 {{lang|en|POSIX &gt; Base Definitions > Regular Expressions > Extended Regular Expressions}}]</ref>。 {{lang|en|POSIX}}の拡張正規表現は伝統的な {{lang|en|UNIX}} の正規表現に似ているが、いくつかの点で異なっている。 {|class=wikitable !基本正規表現!!拡張正規表現 |- |(対応なし)||<code>+</code> |- |(対応なし)||<code>?</code> |- |(対応なし)||<code><nowiki>|</nowiki></code> |- |<code>\{&hellip;\}</code>||<code>{&hellip;}</code> |- |<code>\(&hellip;\)</code>||<code>(&hellip;)</code> |- |<code>(</code>||<code>\(</code> |- |<code>)</code>||<code>\)</code> |- |<code>[</code>||<code>\[</code> |- |<code>]</code>||<code>\]</code> |- |<code>.</code>||<code>\.</code> |- |<code>*</code>||<code>\*</code> |- |<code>?</code>||<code>\?</code> |- |<code>+</code>||<code>\+</code> |- |<code>^</code>||<code>\^</code> |- |<code>$</code>||<code>\$</code> |} 例えば、拡張正規表現「<code>a\.(\(|\))</code>」は文字列「<code>a.)</code>」や文字列「<code>a.(</code>」にマッチする。 ==={{lang|en|GNU Emacs}}の正規表現=== {{lang|en|GNU}} <code>find</code>コマンドにおけるデフォルトの正規表現文法としても用いられる。(findutils-4.2.28) [http://flex.ee.uec.ac.jp/texi/emacs-jp/emacs-jp_53.html GNU Emacs Manual - Regexps] ===Perlの正規表現=== {{lang|en|Perl}}は{{lang|en|POSIX}}の拡張正規表現さえも上回る豊富な文法を持っている。その例として、POSIXとは異なり、Perlの正規表現には「非欲張り量指定子」がある。標準の「<code>*</code>」は、例えば、正規表現「<code>a.*b</code>」の「<code>.*</code>」はできるだけ長い文字列にマッチしようとする。このふるまいを「貪欲」という。たとえば文字列「<code>a bad dab</code>」にマッチさせると、全体にマッチする。これに対し、{{lang|en|Perl}}では使うことができる正規表現「<code>a.*?b</code>」の「<code>.*?</code>」は、マッチするのであれば、できるだけ短い文字列にマッチする。たとえば文字列「<code>a bad dab</code>」に対して「<code>a b</code>」にだけマッチする。これを「非欲張り量指定子」と言う。 また、Perlには以下の定義済み文字クラスがある。 {| class=wikitable !メタ文字!!マッチする対象 |- align="left" |<code>\d</code> |アラビア数字、つまり「<code>[0-9]</code>」 |- |<code>\D</code> |アラビア数字以外の文字、つまり「<code>[^\d]</code>」 |- |<code>\w</code> |アルファベット、アラビア数字またはアンダーバー、つまり「<code>[a-zA-Z_0-9]</code>」(ロケールに依存し、例えばウムラウト付き文字などの扱いが変わる) |- |<code>\W</code> |アルファベット、数字やアンダーバー以外の文字、つまり「<code>[^\w]</code>」 |- |<code>\s</code> |空白文字、つまり「<code>[ \t\n\r\f]</code>」({{lang|en|ASCII}}文字集合の場合) |- |<code>\S</code> |空白文字以外の文字、つまり、<code>[^\s]</code> |} すぐれた機能をもつPerlの拡張正規表現は、多くの[[プログラミング言語]]やソフトウェアで採りいれられている。例えば、[[Java]]のPattern[[クラス (コンピュータ)|クラス]]、[[Python]]、[[Ruby]]などがそうである。しかし、これらがPerlの正規表現と完全に互換である訳ではない。また、[[Perl Compatible Regular Expressions]] (PCRE) と呼ばれる汎用の正規表現ライブラリはアプリケーションに組み込まれ、Perlの正規表現とほぼ互換の機能を提供する。 == 正規表現ライブラリ == 言語処理系やアプリケーションが正規表現をサポートしていない場合であっても、正規表現に必要な処理を提供する外部ライブラリを導入することで正規表現を使うことができる。以下にその一例を挙げておく。 ; [[PCRE]] : Perl互換のライブラリ。[[Exim]]のために開発され、[[Apache HTTP Server|Apache]]や[[Postfix]]をはじめ、さまざまなソフトウェアに組み込まれている<ref>[http://www.pcre.org/ PCRE - Perl Compatible Regular Expressions]</ref>。 ; [[鬼車 (ライブラリ)|鬼車]] : 正規表現オブジェクトごとに異なる文字エンコーディングを指定できる特徴をもつ。Rubyの1.9系列や[[PHP (プログラミング言語)|PHP]]の5系列に採用されている。[[macOS]]用に検索ウィンドウを追加して移植したOgreKit(Oniguruma Regular Expression Framework for Cocoa)が存在する<ref>[https://github.com/kkos/oniguruma https://github.com/kkos/oniguruma]</ref>。 ; [[鬼雲]] : 鬼車から派生した正規表現ライブラリで、Perl 5.10以降で導入された機能をサポートする。Ruby 2.0以降の標準ライブラリとして利用されている<ref>[https://github.com/k-takata/Onigmo https://github.com/k-takata/Onigmo]</ref>。 ; {{仮リンク|re2 (ライブラリ)|label=re2|en|RE2_(software)}} : PCREなどのバックトラック式ではなく[[オートマトン]]を用いることで、省メモリでマッチングを行うことができる。[[Google]]が内部で利用している。 ; GNU Regex : [[GNU Cライブラリ]]に含まれているため、[[Unix系]]では標準で利用できる。 ; Boost.Regex : [[Boost C++ライブラリ]]による実装。デフォルトでPerl互換の文法が使われる<ref>[https://www.boost.org/doc/libs/1_81_0/libs/regex/doc/html/boost_regex/syntax/perl_syntax.html Perl Regular Expression Syntax - 1.81.0]</ref>が、POSIXや[[ECMAScript]]などの文法プロファイルを任意に選択することもできる<ref>[https://www.boost.org/doc/libs/1_81_0/libs/regex/doc/html/boost_regex/ref/syntax_option_type/syntax_option_type_synopsis.html syntax_option_type Synopsis - 1.81.0]</ref>。[[C++11]]規格にてBoost.Regexのサブセットが標準化された<ref>[https://cplusplus.com/reference/regex/ &lt;regex&gt; - cplusplus.com]</ref><ref>[https://en.cppreference.com/w/cpp/regex Regular expressions library (since C++11) - cppreference.com]</ref><ref>[https://ja.cppreference.com/w/cpp/regex 正規表現ライブラリ - cppreference.com]</ref><ref>[https://cpprefjp.github.io/reference/regex.html regex - cpprefjp C++日本語リファレンス]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === <references /> == 参考文献 == {{参照方法|date=2023年11月|section=1}} *{{Cite book|和書|author=Jeffrey E.F. Friedl|others=[[歌代和正]]監訳、[[春遍雀來]]・[[鈴木武生]]共訳|year=1999|month=4|title=詳説正規表現|edition=第1版|publisher=オライリー・ジャパン|isbn=4-900900-45-1 |ref={{SfnRef|Friedl|1999}} }} **{{Cite book|和書|author=Jeffrey E.F. Friedl|others=[[田和勝]]訳|year=2003|month=5|title=詳説正規表現|edition=第2版|publisher=オライリー・ジャパン|isbn=4-87311-130-7 |ref={{SfnRef|Friedl|2003}} }} **{{Cite book|和書|author=Jeffrey E.F. Friedl|others=[[ロングテール (企業)|株式会社ロングテール]]・[[長尾高弘]]訳|year=2008|month=4|title=詳説正規表現|edition=第3版|publisher=オライリー・ジャパン|isbn=978-4-87311-359-3|url=https://www.oreilly.co.jp/books/9784873113593/ |ref={{SfnRef|Friedl|2008}} }} *{{Cite book|和書|author=Jan Goyvaerts|author2=Steven Levithan|others=[[長尾高弘]]訳|year=2010|month=4|title=正規表現クックブック|publisher=オライリー・ジャパン|isbn=978-4-87311-450-7|url=https://www.oreilly.co.jp/books/9784873114507/ |ref={{SfnRef|Goyvaerts|Levithan|2010}} }} == 外部リンク == {{Wikibooks}} * [http://www.kt.rim.or.jp/~kbk/regex/regex.html 正規表現メモ] - sed, grep, perl など様々なソフトの正規表現がまとめられている。 {{Normdaten}} {{プログラミング言語の関連項目}} {{DEFAULTSORT:せいきひようけん}} [[Category:プログラミング]] [[Category:構文解析 (プログラミング)]] [[Category:コンピュータ言語]] [[Category:表現]] [[Category:ケン・トンプソン]]
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マハーラーシュトラ州
マハーラーシュトラ州(マハーラーシュトラしゅう、Maharashtra、महाराष्ट्र、「偉大な国」の意)は、西インドに位置するインドの州のひとつ。人口は約1億1,237万人。州の公用語はマラーティー語。州都はムンバイ(Mumbai、ボンベイ)。 ムンバイはインドの経済と芸能の中心で、政治の中心であるデリーと国としての機能をわけている。 南にゴア州とカルナータカ州、東南にアーンドラ・プラデーシュ州、北にグジャラート州とマディヤ・プラデーシュ州、東にチャッティースガル州、西にアラビア海がある。 ヒンドゥー教徒の英雄チャトラパティ・シヴァージーやバージー・ラーオ、独立運動家のマハーデーヴ・ゴーヴィンド・ラーナデーやロークマンニャ・ティラクなどの人物を輩出した。 2008年11月、州都のムンバイでムンバイ同時多発テロが発生した。 2021年7月、州内で集中豪雨が発生。ムンバイの南方の地域では地すべり性崩壊も発生した。州内の死者・行方不明者が200人を超え、約23万人が避難を余儀なくされた。2023年7月にも州内で集中豪雨があり、地すべりにより死者・行方不明者100人以上の被害が出ている。 35県からなり、6つの郡(アムラバティ郡、アウランガーバード郡、コンカン郡、ナーグプル郡、ナーシク郡、プネー郡)に大別される。 マラーティー人など。 言語はマラーティー語である。マラーティー語はヒンディ語とよく似ており、多少の疎通が可能である。 また、英語も広く通じる。 ヒンドゥー教徒、スンナ派、ジャイナ教(en:Jainism in Maharashtra)、キリスト教(en:East Indians、en:Marathi Christians)、シク教、仏教(新仏教運動)、ゾロアスター教(パールシー、en:Irani (India))、ユダヤ教(ベネ・イスラエル)。 マハーラーシュトラ州はインドで最も経済発展が進んだ州のひとつである。強力に工業化された経済、国内最大の電力生産・消費高を誇る。 世界最大の規模にあるインド映画産業のうち、北インドを中心に各地で上映されているヒンディー語の娯楽映画の業界は一般的にボリウッドと呼ばれ、その中心がマハーラーシュトラ州の州都ムンバイーにある巨大な映画撮影所(フィルム・シティ)だとされている。 2021-22年のGDPは31兆ルピー(4306億ドル)であり、インドで1位である。ムンバイは金融都市として、プネは教育都市として発展している。 政府の統計によれば、2019年10月から2022年6月までの間の外国直接投資(FDI)の額は444億ドルであり、インド全体のFDIの28%を占める。 ムンバイの160km沖合でインド最大のボンベイハイ油田(英語版)(マラーティー語: बॉम्बे हाय - 英語: Bombay High、ムンバイハイ油田)が1974年から生産している。 ムンバイのトロンベイ(英語版)(Trombay)地区にあるバーバ原子核研究センター(カンナダ語版、英語版)(Bhabha Atomic Research Center, BARC)はインドの核開発の中枢を担う(インドの核実験 (1974年)、インドの核実験 (1998年))。 農業は、州内の基幹産業の一つであるが、干ばつや不十分なインフラ、農作物の価格低迷により農民は苦しい経営を強いられている。2018年には、不作による収入減を苦にして数か月に600人以上の農民が自殺する事態となり、国の人監視機関は州と中央政府に調査と対応を勧告する事態となっている。
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マハーラーシュトラ州(マハーラーシュトラしゅう、Maharashtra、महाराष्ट्र、「偉大な国」の意)は、西インドに位置するインドの州のひとつ。人口は約1億1,237万人。州の公用語はマラーティー語。州都はムンバイ(Mumbai、ボンベイ)。 ムンバイはインドの経済と芸能の中心で、政治の中心であるデリーと国としての機能をわけている。
{{複数の問題| 出典の明記 = 2011年9月}} {| class="infobox geography" width="275" |+ ! colspan="2" bgcolor="#e3e3e3" | マハーラーシュトラ州<br/>Maharashtra<br/>महाराष्ट्र |- | align=center colspan="2" style="background:#fff;"| {| style="background:#fff;" border="0" cellpadding="2" cellspacing="0" |- align=center | [[File:Maharashtra in India (claimed and disputed hatched).svg|250px|インド国内の位置]]<br/><small>(インド国内の位置)</small> |} |- ! colspan="2" bgcolor="#e3e3e3" | 基礎情報 |- valign="top" | '''[[国家|国]]''' | [[File:Flag of India.svg|25px]]&nbsp;[[インド]] |- valign="top" | '''[[インドの地方行政区画|行政区]]''' | <span style="line-height:1.1em;">'''マハーラーシュトラ州'''<br/><span style="font-size:0.8em;">(Maharashtra、महाराष्ट्र)</span></span> |- valign="top" | style="border-bottom: solid 1px #ccd2d9;" | '''州都''' | style="border-bottom: solid 1px #ccd2d9;" | <span style="line-height:1.1em;">[[ムンバイ]]<br/><span style="font-size:0.8em;">(Mumbai、मुम्बई)</span></span> |- valign="top" | '''[[面積]]''' | 307,713 [[km²]] |- valign="top" | '''[[人口]]''' | <small>(2011年)</small> |- | <span style="font-size:95%">&nbsp;- 合計</span> | 112,374,333 人 |- | style="white-space:nowrap; width:80px;" | <span style="font-size:95%">&nbsp;- [[人口密度]]</span> | 314.42 人/km<sup>2</sup> |- | style="border-top: solid 1px #ccd2d9;" | '''[[標準時|時間帯]]''' | style="border-top: solid 1px #ccd2d9;" | <span style="font-size:80%">[[インド標準時]](IST)[[UTC+5:30]]</span> |- | style="border-top: solid 1px #ccd2d9;" | '''[[公用語]]''' | style="border-top: solid 1px #ccd2d9;" | [[マラーティー語]] |- | style="border-top: solid 1px #ccd2d9;" | 創立 | style="border-top: solid 1px #ccd2d9;" | [[1960年]][[5月1日]] |- valign="top" | style="border-top: solid 1px #ccd2d9;" | '''[[州知事]]''' | style="border-top: solid 1px #ccd2d9;" | {{仮リンク|ラメシュ・バイス|en|Ramesh Bais}} (Ramesh Bais) |- valign="top" | style="border-top: solid 1px #ccd2d9;" | '''[[インドの州首相一覧|州首相]]''' | style="border-top: solid 1px #ccd2d9;" | {{仮リンク|エクナット・シンド|en|Eknath Shinde}} (Eknath Shinde) |- valign="top" | style="border-top: solid 1px #ccd2d9;" | [[立法機関]]<span style="font-size:80%">(議席数)</span> | style="border-top: solid 1px #ccd2d9;" | [[二院制]]<span style="font-size:80%">(289+78)</span> |- | style="border-top: solid 1px #ccd2d9;" | '''略称'''([[ISO 3166-2|ISO]]) | style="border-top: solid 1px #ccd2d9;" | IN-MH |- | style="border-top: solid 1px #ccd2d9;" | <span style="font-size:80%">州政府公式ウェブサイト</span> | style="border-top: solid 1px #ccd2d9;" | <span style="font-size:80%"> [http://www.maharashtra.gov.in http://www.maharashtra.gov.in]</span> |} '''マハーラーシュトラ州'''(マハーラーシュトラしゅう、'''Maharashtra'''、'''महाराष्ट्र'''、「偉大な国」の意)は、西[[インド]]に位置するインドの州のひとつ。人口は約1億1,237万人。州の[[公用語]]は[[マラーティー語]]。州都は[[ムンバイ]](Mumbai、ボンベイ)。 ムンバイはインドの経済と芸能の中心で、政治の中心である[[デリー]]と国としての機能をわけている。 == 地理 == {{main|{{仮リンク|マハーラーシュトラの地理|en|Geography of Maharashtra}}}} 南に[[ゴア州]]と[[カルナータカ州]]、東南に[[アーンドラ・プラデーシュ州]]、北に[[グジャラート州]]と[[マディヤ・プラデーシュ州]]、東に[[チャッティースガル州]]、西に[[アラビア海]]がある。 == 歴史 == {{main|{{仮リンク|マハーラーシュトラの歴史|en|History of Maharashtra}}}} [[ヒンドゥー]]教徒の英雄[[シヴァージー|チャトラパティ・シヴァージー]]や[[バージー・ラーオ]]、独立運動家の[[マハーデーヴ・ゴーヴィンド・ラーナデー]]や[[バール・ガンガーダル・ティラク|ロークマンニャ・ティラク]]などの人物を輩出した。 [[2008年]]11月、州都のムンバイで[[ムンバイ同時多発テロ]]が発生した。 [[2021年]]7月、州内で[[集中豪雨]]が発生。ムンバイの南方の地域では[[地すべり]]性崩壊も発生した。州内の死者・行方不明者が200人を超え、約23万人が避難を余儀なくされた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20210727-OYT1T50379/ |title=インド西部で地滑りや洪水多発、164人死亡…100人行方不明 |publisher=読売新聞DIGITAL |date=2021-07-27 |accessdate=2023-09-17}}</ref>。[[2023年]]7月にも州内で集中豪雨があり、地すべりにより死者・行方不明者100人以上の被害が出ている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/66281325 |title=インドやカナダで大雨被害 インド地滑りで22人死亡、100人超不明 |publisher=BBC |date=2023-07-23 |accessdate=2023-09-17}}</ref>。 == 行政区分 == [[File:Maharashtra Divisions Eng.svg|thumb|400px|{{color|#E9A0A0|■}}アムラーワティー郡、{{color|#A2A5EE|■}}アウランガーバード郡、{{color|#A69D98|■}}コンカン郡、{{color|#E2B584|■}}ナーグプル郡、{{color|#E7DE69|■}}ナーシク郡、{{color|#95C279|■}}プネー郡]] [[File:Kailasha temple at ellora.JPG|thumb|right|世界遺産[[エローラ石窟群]]]] {{main|{{仮リンク|マハーラーシュトラの県名一覧|en|List of districts of Maharashtra}}}} 35県からなり、6つの郡(アムラバティ郡、アウランガーバード郡、コンカン郡、ナーグプル郡、ナーシク郡、プネー郡)に大別される。 # {{仮リンク|アフマドナガル県|en|Ahmednagar district}} (Ahmednagar District) # {{仮リンク|アコーラー県|en|Akola district}} (Akola District) # {{仮リンク|アムラーワティー県|en|Amravati district}} (Amravati District) # {{仮リンク|アウランガーバード県 (マハーラーシュトラ州)|en|Aurangabad district, Maharashtra|label=アウランガーバード県}} (Aurangabad District) # {{仮リンク|バンダーラー県|en|Bhandara district}} (Bhandara District) # {{仮リンク|ビード県|en|Beed district}} (Beed District) # {{仮リンク|ブルダーナー県|en|Buldhana district}} (Buldhana District) # {{仮リンク|チャンドラプル県|en|Chandrapur district}} (Chandrapur District) # {{仮リンク|ドゥレー県|en|Dhule district}} (Dhule District) # {{仮リンク|ガドチローリー県|en|Gadchiroli district}} (Gadchiroli District) # {{仮リンク|ゴーンディヤー県|en|Gondia district}} (Gondia District) # {{仮リンク|ヒンゴーリー県|en|Hingoli district}} (Hingoli District) # {{仮リンク|ジャルガーオン県|en|Jalgaon district}} (Jalgaon District) # {{仮リンク|ジャールナー県|en|Jalna district}} (Jalna District) # {{仮リンク|コールハープル県|en|Kolhapur district}} (Kolhapur District) # {{仮リンク|ラートゥール県|en|Latur district}} (Latur District) # {{仮リンク|ムンバイ市街県|en|Mumbai City district}} (Mumbai City District) # {{仮リンク|ムンバイ郊外県|en|Mumbai Suburban district}} (Mumbai Suburban District) # {{仮リンク|ナーグプル県|en|Nagpur district}} (Nagpur District) # {{仮リンク|ナーンデード県|en|Nanded district}} (Nanded District) # {{仮リンク|ナンドゥルバール県|en|Nandurbar district}} (Nandurbar District) # {{仮リンク|ナーシク県|en|Nashik district}} (Nashik District) # [[ウスマーナーバード県]] (Osmanabad District) # {{仮リンク|パルバニー県|en|Parbhani district}} (Parbhani District) # {{仮リンク|プネー県|en|Pune district}} (Pune District) # {{仮リンク|ラーイガル県|en|Raigarh district}} (Raigarh District) # {{仮リンク|ラトナーギリー県|en|Ratnagiri district}} (Ratnagiri District) # {{仮リンク|サーングリー県|en|Sangli district}} (Sangli District) # {{仮リンク|サーターラー県|en|Satara district}} (Satara District) # {{仮リンク|スィンドゥドゥルグ県|en|Sindhudurg district}} (Sindhudurg District) # {{仮リンク|ソーラープル県|en|Solapur district}} (Solapur District) # {{仮リンク|ターネー県|en|Thane district}} (Thane District) # {{仮リンク|ワルダー県|en|Wardha district}} (Wardha District) # {{仮リンク|ワーシム県|en|Washim district}} (Washim District) # {{仮リンク|ヤヴァトマール県|en|Yavatmal district}} (Yavatmal District) === 主要都市 === [[File:Mumbaiskyline.jpg|thumb|500px|right|ムンバイ]] * [[ムンバイ]](Mumbai) - 旧名ボンベイ * [[プネー]](Pune) * [[アウランガーバード]](Aurangabad) * [[ナーグプル]](Nagpur) * [[コールハープル]](Kolhapur) * [[ナーラーヤンガーオン]](Narayangaon)など。 == 住民 == === 民族 === [[マラーティー人]]など。 === 言語 === [[言語]]は[[マラーティー語]]である。マラーティー語は[[ヒンディ語]]とよく似ており、多少の疎通が可能である。 また、[[英語]]も広く通じる。 === 宗教 === [[ヒンドゥー教徒]]、[[スンナ派]]、[[ジャイナ教]]([[:en:Jainism in Maharashtra]])、[[キリスト教]]([[:en:East Indians]]、[[:en:Marathi Christians]])、[[シク教]]、[[仏教]]([[新仏教運動]])、[[ゾロアスター教]]([[パールシー]]、[[:en:Irani (India)]])、[[ユダヤ教]]([[ベネ・イスラエル]])。 == 経済 == {{main|{{仮リンク|マハーラーシュトラの経済|en|Economy of Maharashtra}}|[[:en:List of conglomerates in Maharashtra|List of conglomerates in Maharashtra]]}} マハーラーシュトラ州はインドで最も経済発展が進んだ州のひとつである。強力に工業化された経済、国内最大の電力生産・消費高を誇る。 世界最大の規模にある[[インド映画]]産業のうち、[[北インド]]を中心に各地で上映されている[[ヒンディー語]]の娯楽映画の業界は一般的に[[ボリウッド]]と呼ばれ、その中心がマハーラーシュトラ州の州都ムンバイーにある巨大な映画撮影所(フィルム・シティ)だとされている。 2021-22年のGDPは31兆ルピー(4306億ドル)であり、インドで1位である。[[ムンバイ]]は金融都市として、[[プネ]]は教育都市として発展している。 政府の統計によれば、2019年10月から2022年6月までの間の外国直接投資(FDI)の額は444億ドルであり、インド全体のFDIの28%を占める<ref>{{Cite web|url=https://www.ibef.org/states/maharashtra-infographic|title= Maharashtra|publisher= India Brand Equity Foundation|accessdate=2023-07-10}}</ref>。 === 石油 === ムンバイの160km沖合でインド最大の{{仮リンク|ボンベイハイ|en|Bombay High|label=ボンベイハイ油田}}({{lang-mr|बॉम्बे हाय}} - {{lang-en|Bombay High}}、ムンバイハイ油田)が1974年から生産している。 === 核開発 === [[ムンバイ]]の{{仮リンク|トロンベイ|en|Trombay}}(Trombay)地区にある{{仮リンク|バーバ原子核研究センター|kn|ಭಾಭಾ ಅಣು ಸಂಶೋಧನಾ ಕೇಂದ್ರ|en|Bhabha Atomic Research Centre}}(Bhabha Atomic Research Center, BARC)はインドの核開発の中枢を担う([[インドの核実験 (1974年)]]、[[インドの核実験 (1998年)]])。 ===農業=== [[農業]]は、州内の基幹産業の一つであるが、[[干ばつ]]や不十分なインフラ、農作物の価格低迷により農民は苦しい経営を強いられている。[[2018年]]には、[[不作]]による収入減を苦にして数か月に600人以上の農民が[[自殺]]する事態となり、国の人監視機関は州と中央政府に調査と対応を勧告する事態となっている<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-07-18|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3182810|title= インド西部の州、3か月で農民600人以上自殺 不作で経済的に困窮か|publisher= AFP|accessdate=2018-07-18}}</ref>。 == 交通 == * ムンバイ:[[チャトラパティ・シヴァージー国際空港]](Chhatrapati Shivaji International Airport) <!-- == 教育 == === 大学 === === スポーツチーム === --> == 出身著名人 == * [[サチン・テンドルカール]](クリケット選手) * [[ラタ・マンゲシュカル]](歌手) * [[アシャ・ボスレ]](歌手) * マードゥリー・ディークシト(映画女優) * イーシャー・コーピカル(映画女優) * ウルミラー・マートーンドカル(映画女優) * [[プラニク・ヨゲンドラ]]([[在日インド人|インド系日本人]]の政治家。[[江戸川区議会|江戸川区議会議員]]) * [[アジェイ・バンガ]](インド系アメリカ人の実業家) ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[シヴ・セーナー]] * {{仮リンク|マラーティー・ナショナリズム|en|Marathi nationalism|label=マラーティー至上主義}} == 外部リンク == {{Commons&cat|Maharashtra}} * [https://maharashtra.gov.in/1125/Home マハーラーシュトラ州政府の公式サイト] {{en icon}} * {{Osmrelation|1950884}} * {{Wikivoyage-inline|en:Maharashtra|マハーラーシュトラ州{{en icon}}}} {{インドの地方行政区画}} {{coord|18.97|72.820|region:IN-MH_type:adm1st|display=title}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:まはあらあしゆとらしゆう}} [[Category:マハーラーシュトラ|*]] [[Category:インドの州]]
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ノルディック
ノルディック (Nordic)
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ノルディック (Nordic) ノルディック諸国 ノルディック言語 ノルディック人種 ノルディック海 ノルディック・カウンシル ノルディック・ゴールド ノルディックスキー - スキー競技の一種。 ノルディックウォーキング ノルディックバランス ノルディクス - フィギュアスケートの国際競技会。
'''ノルディック''' ({{lang|en|Nordic}}) * [[北欧諸国|ノルディック諸国]] * [[北ゲルマン語群|ノルディック言語]] * [[北方人種|ノルディック人種]] * [[ノルウェー海|ノルディック海]] * [[北欧理事会|ノルディック・カウンシル]] * [[ノルディック・ゴールド]] * [[ノルディックスキー]] - スキー競技の一種。 * [[ノルディックウォーキング]] * [[ノルディックバランス]] * [[ノルディクス]] - フィギュアスケートの国際競技会。 {{Aimai}} {{デフォルトソート:のるていつく}} [[Category:北欧]]
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パターンマッチング
パターンマッチング(英: Pattern matching、パターン照合)とは、データを検索する場合に、特定のパターンが出現するかどうか、またどこに出現するかを特定する手法のことである。 文字列のパターンマッチングには、固定されたパターンの検索ではKMP法やBM法など各種の文字列探索アルゴリズムがある。また正規表現を利用する手法も多数提案されている。 画像や動画に対するパターンマッチングの研究も行われている。だが、パターンマッチングはあらかじめ人が打っておかなくてはいけないため人工知能とは別で機械が自分で考えているわけではない(そもそも「考える」ということを形式的に定義することは不可能なので、この段落の後半の「だが、」以降は、単にどこかの誰かの考える「人工知能」という語に関する主観の表明に過ぎず、意味があることを何も述べてはいない)。 いくつかの高水準プログラミング言語には、多分岐の一種で、場合分けと同時に構成要素の取り出しのできる言語機能があり、パターンマッチと呼ばれている。Haskellでの例を示す。 なお、この例の listSumCase は expression style、listSumPtn は declaration style である。 パターンマッチング構造を備えた初期のプログラミング言語には、COMIT (1957)、SNOBOL (1962)、Refal (1968)、ツリーベースのパターンマッチング、Prolog (1972)、 SASL (1976)、NPL (1977)、およびKRC (1981)がある。 多くのテキストエディタはさまざまな種類のパターンマッチングをサポートしている。QEDエディタは正規表現検索をサポートし、一部のバージョンのTECOでは、検索でOR演算子をサポートしている。 数式処理システムは通常、代数式のパターンマッチングをサポートしている。
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パターンマッチングとは、データを検索する場合に、特定のパターンが出現するかどうか、またどこに出現するかを特定する手法のことである。 文字列のパターンマッチングには、固定されたパターンの検索ではKMP法やBM法など各種の文字列探索アルゴリズムがある。また正規表現を利用する手法も多数提案されている。 画像や動画に対するパターンマッチングの研究も行われている。だが、パターンマッチングはあらかじめ人が打っておかなくてはいけないため人工知能とは別で機械が自分で考えているわけではない(そもそも「考える」ということを形式的に定義することは不可能なので、この段落の後半の「だが、」以降は、単にどこかの誰かの考える「人工知能」という語に関する主観の表明に過ぎず、意味があることを何も述べてはいない)。 いくつかの高水準プログラミング言語には、多分岐の一種で、場合分けと同時に構成要素の取り出しのできる言語機能があり、パターンマッチと呼ばれている。Haskellでの例を示す。 なお、この例の listSumCase は expression style、listSumPtn は declaration style である。
{{出典の明記|date=2021年9月}} '''パターンマッチング'''({{lang-en-short|Pattern matching}}、パターン照合)とは、データを[[検索]]する場合に特定のパターンが出現するかどうか、またどこに出現するかを特定する手法のことである。 文字列のパターンマッチングには、固定されたパターンの検索では[[クヌース–モリス–プラット法|KMP法]]や[[ボイヤー-ムーア文字列検索アルゴリズム|BM法]]など各種の[[文字列探索]]アルゴリズムがある。また[[正規表現]]を利用する手法も多数提案されている。 画像や動画に対するパターンマッチングの研究も行われている。だが、パターンマッチングはあらかじめ人が打っておかなくてはいけないため人工知能とは別で機械が自分で考えているわけではない(そもそも「考える」ということを形式的に定義することは不可能なので、この段落の後半の「だが、」以降は、単にどこかの誰かの考える「人工知能」という語に関する主観の表明に過ぎず、意味があることを何も述べてはいない)。 いくつかの[[高水準言語|高水準プログラミング言語]]には、多分岐の一種で、場合分けと同時に構成要素の取り出しのできる言語機能があり、パターンマッチと呼ばれている。[[Haskell]]での例を示す。 <syntaxhighlight lang="haskell"> listSumCase lst = case lst of [] -> 0 (x : xs) -> x + listSumCase xs listSumPtn [] = 0 listSumPtn (x : xs) = x + listSumPtn xs </syntaxhighlight> なお、この例の <code>listSumCase</code> は expression style、<code>listSumPtn</code> は declaration style である<ref>https://wiki.haskell.org/Declaration_vs._expression_style</ref>。 ==歴史== パターンマッチング構造を備えた初期のプログラミング言語には、[[COMIT]] (1957)、[[SNOBOL]] (1962)、[[Refal]] (1968)、ツリーベースのパターンマッチング、[[Prolog]] (1972)、 [[SASLプログラミング言語|SASL]] (1976)、[[NPLプログラミング言語|NPL]] (1977)、および[[Kent Recursive Calculator|KRC]] (1981)がある。 多くの[[テキストエディタ]]はさまざまな種類のパターンマッチングをサポートしている。[[QED(テキストエディタ)|QEDエディタ]]は[[正規表現]]検索をサポートし、一部のバージョンの[[TECO(テキストエディタ)|TECO]]では、検索でOR演算子をサポートしている。 [[数式処理システム]]は通常、代数式のパターンマッチングをサポートしている。<ref>Joel Moses, "Symbolic Integration", MIT Project MAC MAC-TR-47, December 1967</ref> {{See also|正規表現#歴史}} ==注== <references/> == 参考文献 == *『Analytic Pattern Matching: From DNA to Twitter』 Philippe Jacquet・Wojciech Szpankowski、Cambridge University Press、2015年、ISBN 9780521876087 ==関連項目== *[[索引]] *[[検索]] *[[検索エンジン]] *[[データベース]] *[[ワイルドカード (情報処理)]] *[[画像処理]] {{comp-substub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:はたんまつちんぐ}} [[Category:パターンマッチング|*]] [[Category:検索]] [[Category:構文解析 (プログラミング)]] [[Category:パターン]]
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プネー
プネー(マラーティー語: पुणे, 英語: Pune)は、デカン高原に位置するインド・マハーラーシュトラ州、プネー県(英語版)の都市。同州で二番目に大きな都市。 植民地時代に付けられた英語名称「プーナ(Poona)」も以前は公的な名称として併用されていたが、1999年に現地マラーティー語での名称「プネー」が公式名称として採用された。現在でもプーナの名称は非公式ながら広く使われている。(なお、前述の両名称を混同した「プーネ」という表記は誤りである。) 2010年の都市的地域の人口は493万人であり、世界第60位、同国では第8位である。海抜600メートルの高原にあるため、大都市の富裕層の避暑地として発達した。金融と経済の中心であるムンバイの南170kmに位置し、インド国内の各主要都市と空路・鉄道・陸路で結ばれている。 町の40% が緑に覆われ、インドでもっとも緑の多い街の一つであり、インドで最も安全な都市とも言われている。 18世紀には、ムガル帝国に代わってインドの覇権を握ったマラーター王国の宰相府があった。 英領時代から「東のオックスフォード」「インドのオックスフォード」として知られる教育・研究の中心地で、インドで最も多くの研究機関が存在する。多くの有名な研究施設や高等教育機関があり、インド国内のみならず、世界中から学生が集まる。プネー市内にはインド最大の科学コミュニティが存在している。 また、工業やビジネスの中心でもあり、IT産業を中心にインドでもっとも目覚しい発展を遂げており、多くのIT産業やソフトウエア開発会社の本部がある。市内に国際レベルの教育施設が立地することから、インド政府は、プネーをIT開発の中心的都市と位置付けた。ハイテク機器のベンガルールとならんで示され、近年は「東のシリコンバレー」といわれている。PCの家庭普及率はインド全国1位で、インド国内での生活水準の高さを示している。 20世紀前半にヨーロッパに影響を与えた神秘家のメヘル・バーバーが過ごした。また、マハトマ・ガンディーが一時期監禁された場所でもある。 詳細はプネーの歴史((英語版))を参照。 大都市地域における自治都市(Municipal Corporation)として、Pune Municipal Corporationがある。日本では単にプネー市と表記される。 「東のオックスフォード」「インドのオックスフォード」として知られる学術都市。2008年には、オックスフォード大学のJohn Hood学長が、プネー地区のラバサ(Lavasa)に、同大学のビジネスコースに所属するOxford University India Business Centre (OUIBC)を設置すると発表した。オックスフォード大学が海外に施設を置くのは、800年の歴史の中ではじめてのことである。OUIBCでは企業経営のマネージメントプログラムを開設し、教授陣もイギリスから招くとのこと。 国立レベルの研究開発センターはじめ NCL, Tropical Meteorology, DRDO, TCS, IUCAA, などの研究機関がある。インドで最も権威があるIT研究開発機関であるC-DAC (Center for Development of Advanced Computing)の本部もプネー市内にある。プネーは、「熱心な者たちが崇高な目的のために集まる巣箱」として、マハトマ・ガンディーに評された。1857年には、気象庁がシムラーからプネーに移転した。 大学は、名門のプネー大学(英語版)以外にも17校の工科大学があり、毎年数多くのITエンジニアを世に送り出している。 1000年もの歴史を持つプネーは「マハーラーシュトラ州の文化的首都」とも呼ばれており、要塞跡や宮殿、庭園など、多数の名所がある。シンハガド要塞、ケールカル博物館、アーガー・ハーン宮殿、パールヴァティー寺院、シャニワール・ワーダー宮殿跡などが有名である。 祭典では、8月末または9月始めに行われるガネーシュ・フェスティバルが有名。満月を最終日として10日間行われる。もともとは大きなフェスティバルではなかったが、独立運動に際して人々が集まるための方便としてインド国民会議派初代議長のティラクにより計画的に大きくされた。インド独立後も大きなフェスティバルとして続いている。 20世紀の神秘家として知られるオショウが多くの期間をここで過ごし、肉体を離れたオショウ・コミューンがあり、現在観光ルートの一つになっている。 インドのパールシーのほとんどがムンバイまたはプネーに暮らしている。3つ程のゾロアスター教の寺院があり、ゾロアスターが点火したといわれる炎がイランから持ち運ばれて燃え続けている。異教徒は寺院に入ることは出来ない。ゾロアスター教徒はビジネスで成功している裕福な階級が多く、ムンバイとプネーの両方に家を持っている人も多い。 バドミントンは植民地時代にプネーで行なわれていた、皮の球をラケットでネット越しに打ち合う遊びをイギリス人が本国に紹介したのが起源とされる。 プネーはKoynaダム(英語版)の周りの地震活動が活発な地帯に非常に近く位置している。プネーは、その歴史の中でいくつかの中程度の震度と、多くの低強度の地震を経験した。 プネーで発生したマグニチュード3.0以上の地震を以下に示す。 インドの他の都市同様、夏季・涼季・雨季(モンスーン)の3つの季節に分かれている。
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プネーは、デカン高原に位置するインド・マハーラーシュトラ州、プネー県(英語版)の都市。同州で二番目に大きな都市。 植民地時代に付けられた英語名称「プーナ(Poona)」も以前は公的な名称として併用されていたが、1999年に現地マラーティー語での名称「プネー」が公式名称として採用された。現在でもプーナの名称は非公式ながら広く使われている。(なお、前述の両名称を混同した「プーネ」という表記は誤りである。)
{{出典の明記|date=2015年7月19日 (日) 17:37 (UTC)}} {{世界の市 |正式名称 = プネー |公用語名称 = पुणे |愛称 = Oxford of the East, Queen of Deccan<ref>{{cite book|last1=Choudhuri|first1=Debjani Pal|title=Community Planning for Intervention for Victims of Domestic Violence|publisher=Kassel University Press|isbn=978-3-89958-346-5|pages=35|url=https://books.google.com/?id=G29VhoiOjmsC&pg=PA35&dq=pune+queen+of+deccan#v=onepage&q&f=false|year=2007}}</ref><ref>{{cite book|last1=Diddee|first1=Jaymala|title=Pune: Queen of the Deccan|publisher=Elephant Design Pvt. Limited|isbn=978-8187693000|url=https://books.google.com/?id=kmfVAAAACAAJ&dq=pune+queen+of+deccan|year=2000}}</ref> |標語 = |画像 = Pune Montage.JPG |画像サイズ指定 = |画像の見出し = |市旗 = |市章 = |位置図 = |位置図サイズ指定 = |位置図の見出し = |位置図B = {{Location map|India Maharashtra#India|relief=1|float=center|label=プネー}} |位置図2 = |位置図サイズ指定2 = |位置図の見出し2 = |位置図2B = {{Maplink2|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=270|frame-height=240|zoom=13|type=point}} |緯度度 =18 |緯度分 =31 |緯度秒 =13 |N(北緯)及びS(南緯) = N |経度度 =73 |経度分 =51 |経度秒 =24 |E(東経)及びW(西経) = E |成立区分 = 設立 |成立日 = [[17世紀]]<ref>{{Cite web |url=https://www.maharashtratourism.net/cities/pune/history.html |title=Pune History - History of Pune City, Origin and History of Poona India |access-date=25 February 2019 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190225223610/https://www.maharashtratourism.net/cities/pune/history.html |archive-date=25 February 2019 |url-status=live }}</ref> |成立区分1 = |成立日1 = |成立区分2 = |成立日2 = |旧名 = |創設者 = |下位区分名 = {{IND}} |下位区分種類1 = [[インドの地方行政区画|州]] |下位区分名1 = [[マハーラーシュトラ州]] |下位区分種類2 = [[インドの県の一覧|県]] |下位区分名2 = {{仮リンク|プネー県|en|Pune district}} |下位区分種類3 = |下位区分名3 = |下位区分種類4 = |下位区分名4 = |規模 = 市 |最高行政執行者称号 = 市長 |最高行政執行者名 = Murlidhar Mohol<ref>{{cite web|title= Mukta Tilak, MBA, is Pune’s first BJP mayor |url=http://www.thehindu.com/news/national/other-states/mukta-tilak-mba-is-punes-first-bjp-mayor/article17468677.ece|publisher=[[The Hindu]]|accessdate=16 March 2017}}</ref><ref>{{cite web|title=Bal Gangadhar Tilak descendant, Mukta Tilak files nomination for Mayor post|url=http://www.financialexpress.com/india-news/bal-gangadhar-tilak-descendant-mukta-tilak-files-nomination-for-mayor-post/579983/|publisher=[[The Financial Express (India)]]|accessdate=8 March 2017}}</ref> |最高行政執行者所属党派 = [[インド人民党|BJP]] |総面積(平方キロ) = 331.26 |総面積(平方マイル) = |陸上面積(平方キロ) = |陸上面積(平方マイル) = |水面面積(平方キロ) = |水面面積(平方マイル) = |水面面積比率 = |市街地面積(平方キロ) = |市街地面積(平方マイル) = |都市圏面積(平方キロ) = 7,256.46 |都市圏面積(平方マイル) = |標高(メートル) = 560 |標高(フィート) = |人口の時点 = 2011年 |人口に関する備考 = |総人口 = 3,124,458 |人口密度(平方キロ当たり) = 9,400 |人口密度(平方マイル当たり) = |市街地人口 = |市街地人口密度(平方キロ) = |市街地人口密度(平方マイル) = |都市圏人口 = 7,276,000 |都市圏人口密度(平方キロ) = |都市圏人口密度(平方マイル) = |等時帯 = [[インド標準時|IST]] |協定世界時との時差 = +5:30 |夏時間の等時帯 = |夏時間の協定世界時との時差 = |郵便番号の区分 = |郵便番号 = |市外局番 = |ナンバープレート = MH-12 |ISOコード = |公式ウェブサイト = https://pmc.gov.in/en |備考 = }} '''プネー'''({{lang-mr|पुणे}}, {{lang-en|Pune}})は、[[デカン高原]]に位置する[[インド]]・[[マハーラーシュトラ州]]、プネー県[[:en:Pune district|(英語版)]]の都市。同州で二番目に大きな都市。 植民地時代に付けられた英語名称「'''プーナ'''(Poona)」も以前は公的な名称として併用されていたが、[[1999年]]に現地[[マラーティー語]]での名称「プネー」が公式名称として採用された。現在でもプーナの名称は非公式ながら広く使われている。(なお、前述の両名称を混同した「プーネ」という表記は誤りである。) == 都市の概説 == [[File:An_aerial_view_of_Pune_Maharashtra_2.jpg|left|thumb|300px|プネーの街並み一望]][[File:2_Pune_Maharashtra_India_January_2014.jpg|right|thumb|250px|プネー]] [[2010年]]の[[世界の都市的地域の人口順位|都市的地域]]の人口は493万人であり、世界第60位、同国では第8位である[http://www.demographia.com/db-worldua.pdf]。海抜600メートルの高原にあるため、大都市の富裕層の避暑地として発達した。金融と経済の中心である[[ムンバイ]]の南170kmに位置し、インド国内の各主要都市と空路・鉄道・陸路で結ばれている。 町の40% が緑に覆われ、インドでもっとも緑の多い街の一つであり、インドで最も安全な都市とも言われている。 18世紀には、[[ムガル帝国]]に代わってインドの覇権を握った[[マラーター王国]]の宰相府があった。 英領時代から「東の[[オックスフォード]]」「インドのオックスフォード」として知られる教育・研究の中心地で、インドで最も多くの研究機関が存在する。多くの有名な研究施設や高等教育機関があり、インド国内のみならず、世界中から学生が集まる。プネー市内にはインド最大の科学コミュニティが存在している。 また、工業やビジネスの中心でもあり、IT産業を中心にインドでもっとも目覚しい発展を遂げており、多くのIT産業やソフトウエア開発会社の本部がある。市内に国際レベルの教育施設が立地することから、インド政府は、プネーをIT開発の中心的都市と位置付けた。ハイテク機器の[[ベンガルール]]とならんで示され、近年は「東の[[シリコンバレー]]」といわれている。PCの家庭普及率はインド全国1位で、インド国内での生活水準の高さを示している。 20世紀前半にヨーロッパに影響を与えた神秘家の[[メヘル・バーバー]]が過ごした。また、[[マハトマ・ガンディー]]が一時期監禁された場所でもある。 == 歴史 == 詳細はプネーの歴史([[:en:History of Pune|(英語版)]])を参照。 == 地方自治体 == 大都市地域における自治都市(''Municipal Corporation'')として、''Pune Municipal Corporation''がある。日本では単に'''プネー市'''と表記される。 == 経済 == === プネーに本社を置く主な企業 === * [[セラム・インスティテュート・オブ・インディア]] - [[医薬品]]メーカー。「インド血清研究所」ともいう。 == 教育 == 「東のオックスフォード」「インドのオックスフォード」として知られる学術都市。2008年には、[[オックスフォード大学]]のJohn Hood学長が、プネー地区のラバサ(Lavasa)に、同大学のビジネスコースに所属するOxford University India Business Centre (OUIBC)を設置すると発表した。オックスフォード大学が海外に施設を置くのは、800年の歴史の中ではじめてのことである。OUIBCでは企業経営のマネージメントプログラムを開設し、教授陣もイギリスから招くとのこと。 国立レベルの研究開発センターはじめ NCL, Tropical Meteorology, DRDO, TCS, IUCAA, などの研究機関がある。インドで最も権威があるIT研究開発機関であるC-DAC (Center for Development of Advanced Computing)の本部もプネー市内にある。プネーは、「熱心な者たちが崇高な目的のために集まる巣箱」として、[[マハトマ・ガンディー]]に評された。1857年には、気象庁が[[シムラー]]からプネーに移転した。 大学は、名門のプネー大学[[:en:Savitribai Phule Pune University|(英語版)]]以外にも17校の工科大学があり、毎年数多くのITエンジニアを世に送り出している。 * 学生や研究者の数が多く、知的レベルは高く、Bandarkar Road, Bapad Roadなど有名な学者の名を冠した街路がたくさんある。 * 5つの巨大ITパークがある。(Hinjewadi, Talwade, Kharade, Pune IT Park, and Magarpatta City) * インドへの留学生全体の 35%がプネー大学で学んでいる。 * インドで最も[[日本語教育]]が盛んな都市で、1971年、プネー印日協会によって日本語教育が始まって以来、約1万人の学生が[[日本語]]を勉強しており、毎年約2000人が[[日本語能力試験|日本語能力試験(JLPT)]]を受けている。このためインドではJLPT受験者数の最も多い都市でもある。 * プネー大学の外国語学部ではインドで最も多くの言語を扱っている。日本の[[名古屋大学]]と[[静岡大学]]と姉妹校提携を結んでいる。 == 文化 == [[Image:Tukaram Maharaj Palkhi.jpg|thumb|宗教行事]] 1000年もの歴史を持つプネーは「マハーラーシュトラ州の文化的首都」とも呼ばれており、要塞跡や宮殿、庭園など、多数の名所がある。シンハガド要塞、ケールカル博物館、アーガー・ハーン宮殿、パールヴァティー寺院、[[シャニワール・ワーダー]]宮殿跡などが有名である。 祭典では、8月末または9月始めに行われる[[ガネーシュ・フェスティバル]]が有名。満月を最終日として10日間行われる。もともとは大きなフェスティバルではなかったが、独立運動に際して人々が集まるための方便としてインド国民会議派初代議長のティラクにより計画的に大きくされた。インド独立後も大きなフェスティバルとして続いている。 20世紀の[[神秘家]]として知られる[[バグワン・シュリ・ラジニーシ|オショウ]]が多くの期間をここで過ごし、肉体を離れた[[オショウ・コミューン]]があり、現在観光ルートの一つになっている。 インドの[[パールシー]]のほとんどがムンバイまたはプネーに暮らしている。3つ程の[[ゾロアスター教]]の寺院があり、[[ゾロアスター]]が点火したといわれる炎が[[イラン]]から持ち運ばれて燃え続けている。異教徒は寺院に入ることは出来ない。ゾロアスター教徒はビジネスで成功している裕福な階級が多く、ムンバイとプネーの両方に家を持っている人も多い。 [[バドミントン]]は植民地時代にプネーで行なわれていた、皮の球をラケットでネット越しに打ち合う遊びをイギリス人が本国に紹介したのが起源とされる。 == 地理 == * コーレーガーオン・パーク - 以前は[[マハーラージャ]]達の避暑用の別荘地として知られていた。現在も森の中に大邸宅がならんでいる。以前マハーラージャ達は乾期、ここに集まり近くにある競馬場で競馬を楽しんだ。 * エンペレス・ガーデン - 競馬場の向かいにある森林公園。 * MGロード - 小売の商店が並ぶ。 * ラクシュミー(Laxmi)・ロード - 卸売の商店が数キロメートル四方の範囲に多く並ぶ。同じタイプの商品を売る商店は同じ地域に集まっている。 ===地震学=== プネーはKoynaダム[[:en:Koyna Dam|(英語版)]]の周りの地震活動が活発な地帯に非常に近く位置している。プネーは、その歴史の中でいくつかの中程度の震度と、多くの低強度の地震を経験した。 プネーで発生した[[マグニチュード]]3.0以上の地震を以下に示す。 {| class="wikitable" |- ! 発生時期 !! M !! 震源地 |- | 17 May 2004 || 3.2 || [[:en:Katraj|Katraj]] Region, Pune, Maharashtra<ref>{{cite web | url = http://asc-india.org/lib/20040517-pune.htm | archiveurl = https://web.archive.org/web/20071218095409/http://asc-india.org/lib/20040517-pune.htm | archivedate = 2007年12月18日 | title = M3.2 Katraj-Pune Earthquake, 2004 | accessdate = 15 April 2008 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref> |- | 30 July 2008 || 4.2 || [[:en:Koyna Dam|Koyna Dam]], [[:en:Koynanagar|Koynanagar]], Maharashtra<ref>{{cite web | url = http://asc-india.org/lib/20080729-koyna.htm | title = M4.3 Gokul-Waghini Earthquake, 2008 | accessdate = 28 November 2009 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20100210195724/http://asc-india.org/lib/20080729-koyna.htm | archivedate = 2010年2月10日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref> |- | 14 April 2012 || 4.9|| [[:en:Satara district|Satara district]], Maharashtra<ref>{{cite web | url = http://www.imd.gov.in/section/seismo/dynamic/PRLMNEW.HTM | title = M4.9 Satara District, 2012 | accessdate = 14 April 2012 | archiveurl = https://webcitation.org/66uazNBSe?url=http://www.imd.gov.in/section/seismo/dynamic/PRLMNEW.HTM | archivedate = 2012年4月14日 }}</ref> |} == 気候 == インドの他の都市同様、夏季・涼季・雨季(モンスーン)の3つの季節に分かれている。 * 冬:11月から3月までは、冬と呼ばれるが過ごしやすい気候で、観光的にはシーズンになる。 * 夏:4月から6月中頃までは、夏と呼ばれ灼熱の日々が続く。ただし空気は乾燥しているため木陰は比較的涼しい。 * 雨期:6月中頃から9月中頃までは雨期と呼ばれ、一年のほとんどの雨が降る。7月中頃から8月中頃までが雨期のピークで雨の日が多く一週間雨が降り続いたりする。その前後は、数時間雨が降った後は快晴になり夏に比べて過ごしやすい。 * 秋:9月中頃から10月は、比較的過ごしやすい気候である。年によっては10月まで雨が降る異常な天候が近年起きている。 {{Weather box |location = Pune |metric first = yes |single line = yes |Jan high C = 29.9 |Feb high C = 31.9 |Mar high C = 35.4 |Apr high C = 37.7 |May high C = 36.9 |Jun high C = 31.7 |Jul high C = 28.4 |Aug high C = 27.4 |Sep high C = 29.4 |Oct high C = 31.4 |Nov high C = 30.1 |Dec high C = 28.9 |year high C = |Jan low C = 11.0 |Feb low C = 12.1 |Mar low C = 15.8 |Apr low C = 19.9 |May low C = 22.4 |Jun low C = 22.9 |Jul low C = 22.2 |Aug low C = 21.6 |Sep low C = 20.8 |Oct low C = 18.5 |Nov low C = 14.4 |Dec low C = 11.5 |year low C = |Jan precipitation mm = 0 |Feb precipitation mm = 3 |Mar precipitation mm = 2 |Apr precipitation mm = 11 |May precipitation mm = 40 |Jun precipitation mm = 138 |Jul precipitation mm = 163 |Aug precipitation mm = 129 |Sep precipitation mm = 155 |Oct precipitation mm = 68 |Nov precipitation mm = 28 |Dec precipitation mm = 4 |year precipitation mm = |Jan precipitation days = 0.1 |Feb precipitation days = 0.3 |Mar precipitation days = 0.3 |Apr precipitation days = 1.1 |May precipitation days = 3.3 |Jun precipitation days = 10.9 |Jul precipitation days = 17.0 |Aug precipitation days = 16.2 |Sep precipitation days = 10.9 |Oct precipitation days = 5.0 |Nov precipitation days = 2.4 |Dec precipitation days = 0.3 |Jan sun = 291.4 |Feb sun = 282.8 |Mar sun = 300.7 |Apr sun = 303.0 |May sun = 316.2 |Jun sun = 186.0 |Jul sun = 120.9 |Aug sun = 111.6 |Sep sun = 177.0 |Oct sun = 248.0 |Nov sun = 270.0 |Dec sun = 288.3 |year sun = |source 1 = [http://www.hko.gov.hk/wxinfo/climat/world/eng/asia/india/pune_e.htm HKO]||2011年8月 }} == 事件 == * [[2010年]][[2月13日]] - 市内で外国人、富裕層の集まるコーレーガーオン・パーク地区のレストランでバッグに仕掛けられた[[爆弾]]が爆発し、外国人2人(イタリア人女性、イラン人男子学生)を含む、10名が死亡。負傷者は60名以上にのぼる。 * [[2018年]][[1月1日]] - [[コーレーガーオンの戦い]]の200周年記念式典にて、[[ダリット]]とヒンズー至上主義者が対立。[[暴動]]となり1人が死亡した。また同月4日には、暴動に抗議するダリット側の[[デモ]]が行われた<ref>{{Cite web|和書|date= 2018年1月4日|url= https://www.afpbb.com/articles/-/3157406|title= 印カースト最下層出身者ら、ヒンズー至上主義に抗議デモ|publisher= AFP|accessdate=2018-04-20}}</ref>。 == 交通 == [[File:Lakshmi_road5.JPG|right|thumb|繁華街]] [[File:Pune Local Transport.JPG|thumb|right|市内を走るバスとリキシャ]] [[File:Titagarh Wagon Pune Metro.jpg|thumb|right|2022年開通のプネー地下鉄]] * [[リキシャ]] - 市内の移動は簡易タクシーである三輪のオート・リキシャを使うのが一般的。町のどこでもつかまえることができる。プネーでリキシャと呼んだ場合、オート・リキシャを指すのが通常で、人力のリキシャや、サイクル・リキシャ(自転車のリキシャ)はほとんど存在しない。 * [[タクシー]] - タクシーは一般的ではなく、長距離の移動に使われる。ムンバイとの間を往復するタクシーがある。 * [[飛行機]] - 郊外に飛行場があり国内便が飛んでいる。 * [[高速道路]] - [[2002年]]にムンバイとプネーを結ぶ高速道路が開通した。ムンバイの中心地や[[ムンバイ国際空港]]まで3時間ほどで連絡する。 * [[鉄道]] - プネー駅が中心の駅で各種の長距離路線が走っている。プネーを始発にする長距離路線も多い。ムンバイまでの連絡は、3時間で連絡する特急と、5時間半程で連絡する普通列車などがある。詳細は[[インドの鉄道]]を参照。 * {{仮リンク|プネー地下鉄|en|Pune Metro}} - 2022年開通。2路線が開通。 * [[長距離バス]] - 都市を結ぶ長距離バスがある。ムンバイまでのバスの本数は多い。外国人旅行者が多く、[[ゴア州|ゴア]]へ12時間程で行く寝台式の長距離バスも多く走っている。 * [[交通事故]] - 2014年のプネー市の交通事故発生件数は1453件。死者は378人。その内二輪車の事故件数は108件で死者は214人。<ref>{{"Maharashtr Times", 22,September,2014}}</ref> == 近くの観光地 == * [[アジャンター]]、[[エローラ]] - [[仏教遺跡]] * ローナーヴァラー[[:en:Lonavla|(英語版)]] * [[マハーバレーシュワル]]、パーンチガーニー(Panchgani[[:en:Panchgani|(英語版)]]) - 避暑地、リゾート地。 * アーガー・ハーン宮殿[[:en:Aga Khan Palace|(英語版)]] - [[マハトマ・ガンディー|ガンディー]]が幽閉されていたかつての宮殿跡。 <gallery widths="200px" heights="150px"> File:Pune_Palace.jpg|アガカーン宮殿 File:Pune_ShaniwarWada_DelhiGate.jpg|[[シャニワール・ワーダー]] File:Pataleshwar_Caves_Internal_Temple_Corridors_2.jpg|パタルシュワー・ケイブス File:Raja_Dinkar_Kelkar_Museum.jpg|ラージャ・ディンカル・ケールカル・ミュージアム File:Ganpati Celebration Pune Preeti-Parashar 08.jpg|ダグダッシェス・ハルワイ・ガンパッティ寺院 File:Sinhagad_Fort_in_maharastra.jpeg|シンハガド・フォート File:Parvati.JPG |パールヴァティー寺院パールヴァティーの丘 File:University_of_Pune,_Pune.jpg|プネー大学 File:Architecture_of_Shinde_Chatree_By_Anis_Shaikh_36.jpg|[[シンデー・チャトリー]] </gallery> == 出身人物 == {{see also|Category:プネー出身の人物}} * アルデシール・イラニ[[:en:Ardeshir Irani|(英語版)]] (映画監督) * [[ビノッド・コースラ]] ([[サン・マイクロシステムズ]]社の共同設立者の一人) * [[チャンドラカント・サラデシュムク]] ([[シタール]]奏者) * [[メヘル・バーバー]] (神秘思想家) * スミタ・パティル[[:en:Smita Patil|(英語版)]] (女優) * ジョン・フロスト[[:en:John Frost (British Army officer)|(英語版)]] (軍人、[[マーケット・ガーデン作戦]]に参加) == 姉妹都市 == * {{Flagicon|JPN}} [[岡山県]]、[[日本]] *:岡山県との交流から、[[プネー岡山友好公園]]が造園されている。 * {{Flagicon|NOR}} [[トロムソ]]、[[ノルウェー]] *{{Flagicon|USA}} [[サンノゼ]]、[[アメリカ合衆国]] *{{Flagicon|USA}} [[フェアバンクス]]、アメリカ合衆国 == 注・出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commons&cat|पुणे|Pune}} * [http://www.puneline.com/ Pune City Guide] * [[:en:History_of_Pune|プネーの歴史]](英語) * {{wikivoyage-inline|hi:पुणे|プネー{{hi icon}}}} {{インドの100万都市}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふねえ}} [[Category:プネー|*]] [[Category:マハーラーシュトラ州の都市]]
2003-02-26T09:47:28Z
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ブレードランナー
『ブレードランナー』(原題:Blade Runner)は、1982年のアメリカ合衆国のSF映画。監督はリドリー・スコット、出演はハリソン・フォード、ルトガー・ハウアー、ショーン・ヤングなど。フィリップ・K・ディックのSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を原作としている。 21世紀初頭、遺伝子工学技術の進歩により、タイレル社はロボットに代わるレプリカントと呼ばれる人造人間を発明した。彼らは優れた体力に、創造した科学者と同等の高い知性を持っていた。 環境破壊により人類の大半は宇宙の植民地(オフワールド)に移住し、レプリカントは宇宙開拓の前線で過酷な奴隷労働や戦闘に従事していた。しかし、彼らには製造から数年経つと感情が芽生え、主人たる人間に反旗を翻す事件が発生する。そのため、最新の「ネクサス6型」には、安全装置として4年の寿命年限が与えられたが、脱走し人間社会に紛れ込もうとするレプリカントが後を絶たず、地球へ脱走した彼らは違法な存在と宣告された。そんな脱走レプリカント達を判別し見つけ出した上で「解任(抹殺)」する任務を負うのが、警察の専任捜査官「ブレードランナー」であった。 2019年11月のロサンゼルス。地球に残った人々は酸性雨の降りしきる、高層ビル群が立ち並んだ人口過密の大都市での生活を強いられていた。ネクサス6型レプリカントの一団がオフワールドで反乱を起こし、人間を殺害して逃走、シャトルを奪い密かに地球に帰還した。タイレル社に入り込んで身分を書き換え、潜伏したレプリカントの男女4名(ロイ・バッティ、リオン、ゾーラ、プリス)を見つけ出すため、ロサンゼルス市警のブレードランナーであるホールデンが捜査にあたっていたが、リオンの反撃にあい負傷する。上司であるブライアントはガフを使いに出し、既にブレードランナーを退職していたリック・デッカードを呼び戻す。彼は情報を得るためレプリカントの開発者であるタイレル博士と面会し、彼の秘書であるレイチェルもまたレプリカントであることを見抜く。レイチェルはデッカードの自宅アパートに押しかけ問いただした結果、人間だと思っていた自分の記憶が作られたものだと知り、自己認識が揺さぶられ涙を流して飛び出してしまう。そんな彼女にデッカードは惹かれていく。 デッカードは、リオンが潜んでいたアパートの証拠物から足跡をたどり、歓楽街のバーで踊り子に扮していたゾーラを発見、追跡の末に射殺する。現場にブライアントとガフが訪れ、レイチェルがタイレル博士のもとを脱走したことを告げ、彼女も「解任」するよう命令される。その直後リオンに襲われて銃を落とすが、駆けつけたレイチェルが銃を拾ってリオンを射殺した事でデッカードは命拾いする。彼はレイチェルを自宅へ招き、彼女が自分のことも「解任」するのか問うと「自分はやらないが、他の誰かがやる」と告げる。そして未経験の感情に脅えるレイチェルにキスし、熱く抱擁する。一方反逆レプリカントのリーダーであるバッティは眼球技師のチュウを脅して掴んだ情報をもとに、プリスを通じてタイレル社の技師J・F・セバスチャンに近づき、さらに彼を仲介役にして、本社ビル最上階に住むタイレル博士と対面する。バッティは地球潜入の目的である、自分たちの残り少ない寿命を伸ばすよう依頼するが、博士は技術的に不可能であり、限られた命を全うしろと告げる。絶望したバッティは博士の眼を潰して殺し、セバスチャンをも殺して姿を消す。 タイレル博士とセバスチャン殺害の報を聞いたデッカードは、セバスチャンの高層アパートへ踏み込み、部屋に潜んでいたプリスを格闘の末に射殺。そこへ戻ってきたバッティと最後の対決に臨む。優れた戦闘能力を持つバッティに追い立てられ、デッカードはアパートの屋上へ逃れ、隣のビルへ飛び移ろうとして転落寸前となる。しかし、寿命の到来を悟ったバッティは突如デッカードを救い上げ、最期の言葉を述べた後、穏やかな笑みを浮かべながら事切れた。現場に現れたガフが不穏な言葉を告げ、デッカードはレイチェルにも同じ運命が待っているのではないかと慌てて自宅へ戻るが、彼女は生きていた。デッカードはレイチェルを連れ出し、逃避行へと旅立った。 ネオ・ノワールを基調とした暗く退廃的な近未来のビジュアルは、公開当初こそ人気を得なかったものの、後発のSF作品に大きな影響を与え、所謂「サイバーパンク」の代表作の一つと見なされている。シド・ミードの美術デザイン、ダグラス・トランブルのVFX、メビウスの衣装デザイン、ヴァンゲリスのシンセサイザーを効果的に使用した音楽も独自の世界観の確立に貢献した。 リドリー・スコットが「彼女は完璧だった」と評したレイチェル役のショーン・ヤング、そしてプリス役のダリル・ハンナも本作をきっかけに注目されるようになった。 作中の風景に日本語が多く描かれている理由は、スコットが来日した際に訪れた新宿歌舞伎町の様子をヒントにしたとされている。このことが日本人観客の興味をひくことになり、これらのシーンへのオマージュ・議論が生まれることになった。また、スコットは都市の外観は香港をモデルにしていることを述べている。なお、香港のショウ・ブラザーズが制作費の大半を出資したために本作は事実上アメリカ・香港合作であり、ショウ・ブラザーズの創設者である邵逸夫は本作で製作総指揮にクレジットされている。 1993年にアメリカ国立フィルム登録簿に永久保存登録された。2007年、視覚効果協会が発表した「視覚効果面で最も影響力がある50本の映画」で第2位にランクインした。2014年、イギリスの情報誌『タイム・アウト(英語版)』ロンドン版にてアルフォンソ・キュアロン、ジョン・カーペンター、ギレルモ・デル・トロ、エドガー・ライトら映画監督、作家のスティーヴン・キング、ほか科学者や評論家150名が選定した「SF映画ベスト100」にて、第2位にランクインした。 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』とは設定や登場人物、物語の展開、結末などが翻案により大きく異なっており、原作というよりは原案に近い扱いである。 1968年の原作発表後から程なくして、いくつかの映画化交渉が持ち上がったが、いずれも不成立に終わっていた。1975年、ハンプトン・ファンチャーは作者のフィリップ・K・ディックとの交渉を行ったものの成立せず、友人のブライアン・ケリーが交渉にあたり、1977年に承諾を取り付けた。ディック自身は制作会社に映画化権を売った後は関与していないが、ファンチャーが書き上げた草稿に彼は良い返事を出さず、何度も改稿が行われた。撮影開始後も映画の出来を不安視し、ノベライズ版の執筆も断っていたが、2019年のロサンゼルスを描いたVFXシーンのラッシュ試写を観て「まさに私が想像したとおりものだ!」と喜んだという。監督のスコットは、就任にあたって全く原作を読んでいなかったが、作品の世界観についてディックと何度も議論を交わしたことで、彼は映画の出来に確信を持つようになり、制作会社に「我々の"SFとは何であるか"という概念にとって革命的な作品となるだろう」と期待の手紙を送っている。本作は『トータル・リコール』や『マイノリティ・リポート』に先立つ、ディック作品の初映画化となったが、本人は完成を待たず1982年3月2日に死去した。 本作に登場する「ブレードランナー」と「レプリカント(英語版)」は、原作には登場しない映画オリジナル用語である。 「ブレードランナー」という名称は、SF作家アラン・E・ナースの小説『The Bladerunner』(1974年)において「非合法医療器具(blade)の運び屋(runner)」という意味で登場する。この小説を元にウィリアム・S・バロウズは映画化用の翻案として『Blade Runner (a movie)』(1979年、訳題『映画:ブレードランナー』)を執筆した。関連書籍『メイキング・オブ・ブレードランナー ファイナル・カット』記載のスコットのインタビューによれば、本作の制作陣はデッカードにふさわしい職業名を探すうちにバロウズの小説を見つけ、本のタイトルのみを借り受けることに決めたという。いずれの小説も物語自体は、ディックの原作および映画とも全く関連はないが、作品タイトルとするにあたり、ナースとバロウズに使用権料を払い、エンドクレジットに謝辞を記している。なお初期タイトルは『デンジャラス・デイズ(Dangerous Days)』であった(このタイトルは後にメイキング・ドキュメンタリーのタイトルに使用されている)。 「レプリカント(replicant)」という名称については、原作の「アンドロイド」が機械を連想させることと、観客に先入観を持たれたくないと考えたスコットが、ファンチャーに代わって起用した脚本のデヴィッド・ピープルズに別の名前を考えるように依頼。生化学を学んでいた娘からクローン技術の「レプリケーション(細胞複製)」という用語を教わり、そこから「レプリカント」という言葉を創造した。以降、(創作における)人造人間を指す用語として辞書にも掲載されるなど、定着している。 「フォークト=カンプフ(Voight-Kampff)」検査は人間とレプリカントを区別するための架空の検査法で、そのための唯一の方法である。この時代に生きる人間の感情を大きく揺さぶるような質問を繰り返し、それに対して起きる肉体的反応を計測することで、対象が人間かレプリカントであるかを判別することができる、とされている。 検査は専用の分析装置を用いることによって行われ、装置は本体に黒い大きな蛇腹状のパーツと数種類のモニタを備え、本体から伸びる伸縮式のアームの先には反射鏡式光学照準装置のようなものが取り付けられている。アーム先端の装置には虹彩を計測するビデオカメラを内蔵しており、収縮する蛇腹状のパーツは「対象者の身体表面より発散される粒子を収集するための装置」である。 劇中では、リオンとレイチェルがこれによりテストを受けているシーンがあり、デッカードとタイレルの会話において、レプリカントであるか否かを判定するためには通常2~30項目の質問が必要になる、と述べられているが、レイチェルがレプリカントであることを判定するには100項目以上の質問が必要であった。この描写から、質問項目に対する反応は「自分がレプリカントという自覚があるかどうか」に大きく左右されること、「記憶」の内容(レプリカントの場合は記憶として「移植」されたものの内容)によっては、レプリカントであるか否かの判定が容易には行えなくなり、テストの正確性が大きく揺らぐことがわかる。 撮影中の脚本やスケジュールの変更、単純なミスなどにより、劇中では整合性のとれない箇所がいくつかみられる。当初、本作の年代設定は2020年だった。しかし、英語において「Twenty-Twenty」が視力検査で少数視力でいうところの1.0を表す言葉でもあるため、混同を避けるため、2019年に舞台が変更された。そのため登場するレプリカントの寿命に1年のズレがあるという矛盾が生じたが、気付かれずにそのまま撮影されてしまった。 ミスの中で生まれたものとして有名なのが「6人目のレプリカントはどこに行ったのか?」という問題である。警察署のシーンでブライアントは、地球に侵入したレプリカントは「男3人、女3人の計6名」であり、「うち1名は既に死亡している」と説明している。残りは5名となるはずだが、彼は「4名が潜伏中」と言い、劇中でもそれしか登場しない。 ファンチャーの脚本では5人目のレプリカント「ホッジ」と6人目の「メアリー」が設定されており、後者については配役も決まっていたが(ステーシー・ネルキン(英語版)が演じる予定だった)、予算の都合で撮影されなかった。しかし、ポストプロダクションで台詞の差し替えをしなかったため、ブライアントの説明に矛盾が生じる結果となった。その後、彼の台詞は『ファイナル・カット』において「2名が既に死亡」に修整された。 続編として発表された小説『ブレードランナー2 レプリカントの墓標』は、この6人目のレプリカントに関する物語になっている。また、当初はタイレル博士もレプリカントだという設定だった(後述)。 上述の6人目のレプリカント問題に関して、「6人目とはデッカード自身ではないのか?」という考察が生まれたが、これは実際は制作上のミスによるもので、意図的な表現では無い。スコット自身は「デッカード=レプリカント」というアイデアを撮影中に気に入り、それを示唆する表現である「デッカードが見るユニコーンの夢」のシーンを撮影作業終盤に撮影し、劇場公開版に入れようとした。しかし当時のプロデューサー達は「芸術的すぎる」と拒否した。 このシーンは『ディレクターズ・カット』において初めて追加され、ラストシーンのガフが作ったユニコーンの折り紙と結びつくことによって、「デッカードの夢の内容が知られている=彼の記憶は作られたものである=デッカードもレプリカントである」という可能性を示唆した。スコット自身は、2000年にイギリスのChannel 4 Televisionが制作したドキュメンタリー『ON THE EDGE OF BLADE RUNNER』のインタビューにおいて「デッカードはレプリカントだ」と明言している。また、『メイキング・オブ・ブレードランナー ファイナル・カット』掲載のインタビューでは他のヒント(家族写真やデッカードの赤目現象シーン)も挙げた上で、より人間に近いネクサス7型レプリカントというアイデアを示唆している。またオーディオコメンタリーにおいては、「続編は無い」とした上で「もし続編があれば、デッカードをレプリカントにしようと思った」とも語っていた。しかし2017年の4K ULTRA HD版収録の、オーディオコメンタリーにおいては「続編を作りたい」と語り、またラストシーンについては「デッカードとレイチェルがネクサス7型や8型なら生き延びたろうね」とも述べている。 ただしスコットの見解に対する関係者の意見は様々である。ガフを演じたエドワード・ジェームズ・オルモスはスコットと同じ意見で、ユニコーンの夢を根拠にデッカードがレプリカントなのは明らかだと明言する一方、脚本のファンチャーは人間説を唱え、スコットと論争を続けるフォードもまた、観客はデッカードを応援したいはずだという理由で、レプリカントであるということを否定している。しかし後にフォードは私は、ずっと彼がレプリカントだと知っていましたとも証言しており、レプリカントは自分自身を人間だと信じたいものであり、デッカードを演じて抗いたい思いもあったと述べている。またデッカードがレプリカントというアイデアは撮影途中でスコットが思いついたことで、当初はそのように考えて撮影されていなかったとされ、フォードもレプリカントだとは指示を受けておらず、撮影時には人間として演じたという。 以上のように諸々の経緯はあるが、「デッカード=レプリカント説」を断定出来るような描写はどの版の劇中にも存在しない。 フォードは、この映画については長年否定的であった。これは、興行的に失敗したことの他に、撮影が一旦終了したにも拘らず、何度も追加撮影のために呼ばれたのに我慢ができなくなったことによるという。 また、レイチェル役のショーン・ヤングが、撮影中にフォードから乱暴に扱われたという理由で、不仲のまま撮影が行われたという経緯がある。ディレクターズ・カットが公開された1992年には、「デッカード=レプリカント説」をめぐってスコットと揉めたこともあった。こうした経緯があり、長い間作品の事を語りたがらなかった。しかしある時期からは「本作以降出演作を自由に選べるようになった」と述べるなど、態度を軟化させるようになり、積極的ではないがインタビュー等にも答えている。その後、続編となる『ブレードランナー 2049』への出演も快諾した。 映画『エイリアン』のSEや、救命艇ナルキッソス号が母船ノストロモ号から切り離される際のシークエンスで表示されるモニター画像をさりげなく挿入するなど、スコットのお遊びが散見される。ディックの小説『高い城の男』の世界観(枢軸国が勝利した世界)が想定されている可能性がある。 レプリカントのリーダー、バッティ役のルトガー・ハウアーは人造人間の狂気と悲哀を好演した。ラストの独白シーンの台詞や演出は、本来の台本が長すぎると感じた彼が撮影時に提案したアドリブで、要約したピープルズの脚本に独自の台詞を加えて完成した。モノローグ「雨の中の涙」(Tears in rain monologue)として知られる。このシーンを撮り終えると拍手が起こりスタッフも涙していたという。また白い鳩が飛び立つ描写もハウアーのアイデアだった。 ガフがデッカードに呼び掛ける「彼女も生きられずに残念ですな。だが、誰もがそうかもしれない」という台詞も、演じたオルモスによって付け足され、脚本にあった「お見事ですな」に続けて去り際に言った言葉が、思いもかけず完成した映画に残されたという。 ロサンゼルスの街にさまざまな人種が入り乱れて生活する様子を描写するため、日本語をはじめとする多国語の看板、日本語を話す店主が切り盛りする露店、日本語による話し声が多用されている。また、「ふたつで十分ですよ」とハリソン・フォードとやりとりしている寿司屋の主人ハウイー・リーは、ロバート・オカザキという日系アメリカ人俳優である。以下に代表的なものを挙げる。 またミニチュア・クルーによる演出外の趣向として、『未知との遭遇』のマザーシップや、『スター・ウォーズ』のミレニアム・ファルコン号、そして『ダーク・スター』の模型が画面に登場する。 監督のリドリー・スコットはSFホラー『エイリアン』(1979年)に次ぐSF作品となる本作でも、卓越した映像センスを発揮した。従来のSF映画にありがちだったクリーンでハイテクな未来都市のイメージを打ち破り、環境汚染にまみれた酸性雨の降りしきる、退廃的な近未来の大都市を描いた。これは、シナリオ初稿を書いた、ハンプトン・ファンチャーが、フランスの漫画家メビウスが描いたバンド・デシネ短編作品『ロング・トゥモロー』(原作は『エイリアン』の脚本家ダン・オバノン)での、「混沌とした未来社会でのフィリップ・マーロウ的な探偵の物語」をイメージしていたためだった。 劇中の無国籍で混沌としたロサンゼルスのイメージは、メビウスの作品そのものである。スコットは映画のスタッフにメビウスの参加を熱望したが、アニメーション『時の支配者(フランス語版)』の作業に携わっていた彼は、衣装デザインのみの参加となった。また、インタビューでは度々エンキ・ビラルの作品の世界観を参考にしたとの発言が出ている。 本作を特徴づけているものの一つが、「ビジュアル・フューチャリスト」ことシド・ミードによる一連のデザインである。 ミードは最初は作品に登場する車両のデザイナーとして着目され、起用された。1979年に出版された個人画集の中の1枚である「雨の降る未来の高速道路の情景」に目を留めたリドリー・スコットが、作中に登場する未来の自動車のデザインを依頼したことがきっかけであった。 当初はミードは車両のみを担当する予定であったが、ミードは自身のデザインに対する姿勢として「工業製品は、それが使用される状況や環境とセットでデザインされなければならない」というポリシーを持っており、「未来の乗用車」のカラーイラストの背景に描かれた未来都市のイメージに魅了されたスコットは、車両以外にも室内インテリア、未来の銃、パーキングメーター、ショーウィンドー等のセットや小道具のデザインを依頼し、さらに建築、都市の外観、列車や駅、コンピュータ等のインターフェースに至る、作中に登場するありとあらゆる工業製品のデザインを依頼した。 ただし、ミードが本作のためにデザインしたものが全て劇中で使われたわけではなく、幾つかのものはスコットにより「未来的にすぎる」という理由で却下されている。未来の銃(後述「#デッカードブラスター」参照)や、医療用のカプセル型ベッド(後述「#没シーン」参照)等である。 ミードはこれまでも美術やメカデザイン等で映画に参加していたが、本作で初めて以降の肩書きである「ビジュアル・フューチャリスト」を名乗り、またエンドロールにおける単独クレジットがなされた。 フォークト=カンプフ・マシンは、対象がレプリカントであるかどうかを判断するためにブレードランナーが使用する一種のポリグラフ(嘘発見器)で、呼吸などの身体機能を測定し、毛細血管の膨張による血流の増大や、質問に対しての心拍数および眼球運動を測定して判定する装置である。 1982年、初公開時のプレスキットの説明には とある。 スコットはこの検査装置をデザインするにあたり、「ハイテク機器のようには見えない」「対象者を威嚇するような感じに」「デリケートな装置に見えるように」という要望を出した。ミードは彼の出した要望に対して、「自室の机の上のライトに大きなタランチュラが取り付いている」というビジュアルイメージを思い浮かび、そのイメージに従って、見た者に「生きているような感じ」を与えられるものをデザインした。デザインの意図としては「視線を合わせられ続けることの威圧感」「機械が呼吸しているように見えることへの気持ち悪さ」を感じさせることを念頭に置いている。 なお、プロップとして製作された装置にはカメラ機能はなく、モニターには実際にそのシーンで「検査」されている俳優の瞳が映っているわけではない。俳優たちの瞳のクローズアップも撮影されたが、モニタに当たる部分に投影されているのは、科学教育用フィルムの素材提供会社より調達された別人の瞳の映像である(そのため、レイチェル役のヤングは瞳がブラウンであるにもかかわらず、モニターではグリーンに映っている)。 前述のように、ミードは当初「カーデザイナー」として起用された。彼の描いたコンセプトデザインは、カスタムカーデザイナーのジーン・ウィンフィールド(英語版)によって、デッカードの乗るセダンやセバスチャンの乗るバンなど、セダンタイプのものからコンパクトカータイプのものなど、25種類に及ぶ各種の車両にリファインされた。当初は57台が製作される予定で、予算と製作期間の問題から台数は半分の25台に減らされたが、納入前に工房で火災が発生して2台が焼失し、最終的には23台が納品された。 この他、撮影所の倉庫の隅に保管されていた1960年代の中古車があり、それらは他の映画の撮影に際して様々な装飾が施されていたものだが、これらも「エキストラ」として渋滞の列に並ぶ車として用いられている。 「スピナー(Spinner)」は、劇中に登場する架空の飛行車の総称である。 通常の自動車と同じく、地上を走行することができるだけではなく、垂直に離着陸することができ、垂直離着陸機と同様のジェット推進装置を使用して浮上し、そのまま空中を飛行することができる。作中では主に警察がパトカーとして使用しているが、裕福な人々はスピナーのライセンスを取得することができる、と設定されており、警察用以外にも複数種類のスピナーが登場する。 この架空の車両は、ミードによって「揚力を得るために空気を直接下方に噴射することによって飛行する」機構を持つ、という「エアロダイン(Aerodyne)」という名称のメカニクスとして考案され、デザインされた(ただし、映画公開時の広報用資料では、スピナーは「従来の内燃機関、ジェットエンジンに加え、反重力エンジンという3つのエンジンによって推進されている」と記述されている)。 作中に登場したスピナーのうち、パトカーとして登場したものは“ポリススピナー”と通称されており、「映画『ブレードランナー』に登場した架空のメカニクス」としての“スピナー”といった場合、まずこれを指すことが多い。 ポリススピナーは各種サイズの複数のミニチュアと実物大のプロップ(劇用車)が4台製作された。なお、スピナーには左側面にレーザーガンとの設定がある武装が装備されたタイプがあるが(シド・ミードによるコンセプトデザインにも描かれている)、この通称“レーザースピナー”はミニチュアモデルしか製作されていない。 4台の実物大プロップの製作は「空を飛ばない」自動車と同じくジーン・ウィンフィールドと彼のチームが担当した。4台の内訳は、フォルクスワーゲン・ビートルのシャーシとエンジンを流用して作られた、実際に自走できる劇用車が2台、車内とコクピット周辺のみが製作された、車内シーンの撮影用モデルが1台、軽量アルミニウムで製作され、ジェット噴射のギミックが内蔵されているが自走能力はなく、クレーンで吊り下げて低空飛行および離着陸シーンを撮影するために用いられた、通称“フライングスピナー”が1台である。なお、車内シーン用のモデルはスピナーの他“デッカードセダン”の車内としても使用された。 映画の撮影が終了した後、これらのプロップは映画の宣伝に使用され、その後は他のSF映画に使用された後に処分・売却された。 自走可能なプロップのうち1台はパトロールカー・セダンと共にフロリダ州オーランドのMGMスタジオで屋外展示品とされ、劣化が進んだこともあり、1990年代の末に処分された。自走可能なプロップのもう1台は、映画撮影用車両会社の間を転々とした後、1990年代初頭にオークションへの出品を経て日本のコレクターに売却された。この車両は『ブレードランナー』撮影後に他の映画の撮影に用いられた際に塗装や細部に変更が加えられているが、オリジナルの状態を比較的保った形で現存している。個人蔵ということもあり、時折『ブレードランナー』関連のイベント等に展示される(一部のパーツのみが展示された例もある)他には一般公開はされておらず、「ポリススピナーの実物大プロップのうち1台が日本に現存している」とマニアの間で語られるのみの存在となっていたが、2017年よりは後述の“フライング・スピナー”同様にプロップを製作したウィンフィールドを交えたレストアの計画が進められ、2019年に入りメディアに現存が公表され、その詳細が紹介されている。 飛行シーン撮影用の“フライング・スピナー”は1990年代初頭に「デッカード・セダン」と共にフロリダ州のアメリカ警察殿堂博物館(英語版)(American Police Hall of Fame & Museum)に売却されたが、1992年、輸送中に大破し、部品状態で売却された。その後は不完全な修理が施されたまま宣伝用の展示品とされ、1999年には再び売却された。 21世紀に入り、2003年12月12日に開催されたオークションに出展され、マイクロソフトの創設者の一人、ポール・アレンが落札した。落札時にはオリジナルの状態を大きく損っていたが、ウィンフィールドの工房にレストアが依頼され、2004年6月に完了、アレンが開設したシアトルのSF博物館(英語版)(Science Fiction Museum & Hall of Fame)に搬入され、同博物館の目玉展示品の一つとして常設展示されている。 また、ロサンゼルスにあるピーターセン自動車博物館(英語版)(Petersen Automotive Museum)にはレプリカが展示されている。 スピナーと並んで本作品を語る上で重要な小道具として、デッカード他が使用した架空の拳銃がある。劇中に登場したものは2種類あり、冒頭でリオンがホールデンを撃つシーンで使われた「ブラックホール・ガン」の仮称で考案された、COP社の4連装小型拳銃COP .357をそのまま使用したものと、後に「デッカード・ブラスター」と通称されるようになった、ライフルとリボルバーを合わせて改造したプロップガンがある。 映画の製作にあたり、スコットは従来のSF映画でよく用いられた「明るい光線を発射するレーザー・ピストル」を避けたいと考えており、それに代わる全く新しい表現を求めていた。これに対し、特殊効果監修のデヴィッド・ドライヤーが考案したものが、「ブラックホール・ガン」であった。 これは「強力な分子破壊ビームを発射し、命中箇所を分子レベルで破壊する」というもので、画面上ではまったく光を発しない「黒いビーム(Black beam)」が銃から目標に発射され、命中すると目標は消滅する、という表現が考案された。これは、派手な血飛沫や出血を描く必要がない、という点でも良案とされた。 しかし、冒頭でリオンがホールデンを銃撃するシーンにおいて、特殊効果を挿入したカットを試験的に制作したところ、「ただの暗い筋にしか見えず、劇的効果が得られない」と判断され、このアイディアは他のシーンでは用いられなかった。 主人公のデッカードらが使っている銃については、公式な命名がなされていない。いつ、どのような経緯でそのように呼ばれるようになったかは判然としていないが、日本では1983年の初公開時の映画パンフレットにおいて「ブラスター」の名称で解説されたため、それ以降、この銃はそのように呼称されるようになった。一介の小道具であるにもかかわらず高い人気を博し、作品の公開後、数多くのプロップレプリカやモデルガンが製作されることになる。 本作品に登場するオリジナルデザインの品々の中で、この「ブラスター」はシド・ミードのデザインではない。当初彼がデザインしたモデルは前衛的に過ぎ、本作品の状況設定にそぐわず採用は見送られ、新たにCOP .357を基にしたデザインがアシスタントアートディレクターであるスティーブン・デーンにより描き起こされたが、これも採用されなかった。 なお、リオンがホールデンを撃つシーンで使われているプロップガンは、本来はデーンによるデザインに基づいて改造するために用意された銃を、ほぼそのまま使用したものである。 改めてプロップを製作するにあたり、まず参考にされたのが、映画『マッドマックス』で主人公の使う、「ソードオフ」と呼ばれる二連銃身の短縮型散弾銃である。しかし、前述の「フィリップ・マーロウ的な探偵の物語(ハードボイルド)」の作風に合わせて、拳銃前提という制約があった。実在の銃器をそのまま、もしくは多少の改造を加えて使うという妥協案も出されたが、実際に使用されたものは美術部が現物合わせでプロップを制作したもので、オーストリア製のライフルの機関部をリボルバーと合体させた上に、電飾加工を施したものである。 作品の象徴でもある、日本語で書かれた看板やネオンサインが並び、多国籍の人々が行き交う未来都市の街頭は、ワーナー・ブラザースのバーバンクスタジオにある「オールド・ニューヨーク・ストリート」と呼ばれるオープンセットを大規模に改装して作られたセットである。「リドリーヴィル(Ridleyville)」のニックネームが付けられていたこのセットには、地上6mの地点に7基の散水装置が設置されており、作品を代表するイメージの一つである「絶え間なく降り続ける酸性雨」を表現するために用いられた。これに撮影後の合成処理で超高層ビルその他を描き加え、2019年の近未来都市が作り上げられた。 その他のシーンは基本的にはロサンゼルスにある著名な建造物、もしくはスタジオセットで撮影し、撮影後に合成等の処理を施したもので、登場した建造物は2016年現在でも存在している。 ロサンゼルス・ユニオン駅で撮影された。 駅舎内を署内として使用し、舎内一角にセットを組み、ブライアントのオフィスとしている。現役で使用されている建物のため、使用できるのは営業外の夜から翌朝にかけての深夜に限定され、急いでセットを組み上げ撮影準備を完了させてから引き払い期限の午前6時までの間、純粋な撮影時間は1日あたりわずか10分程度しかなかったという。 なお、ブライアントがデッカードにレプリカントのプロフィールを説明しているシーンは、スタジオセット内で撮影されている。 劇中で複数回登場した白い内壁のトンネルは、ロサンゼルスのダウンタウンにあるセカンドストリート・トンネル(英語版)である。 内壁を白い陶製のタイルで装飾したことで知られるこのトンネルは、他にも多くの映画に登場している。 デッカードの自宅シーンに使用されたのは、ロサンゼルス郊外にある邸宅、エニス邸(英語版)である。1923年に建設された、フランク・ロイド・ライトの設計による「テキスタイル・ブロック住宅」の一つで、マヤ文明の遺跡をイメージした造形の施されたコンクリートブロック壁が特徴になっており、アメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されている。実際のエニス邸は低層平屋の構造であり、郊外の高台に位置しているが、作品では合成を駆使して街中にある高層ビルに見えるように構成されている。 エニス邸は後のスコットの監督作『ブラック・レイン』においても、ヤクザの親分のスガイ邸として使われている。 J・F・セバスチャンが住むアパートとして使用されたのは、ロサンゼルスのダウンタウンにあるブラッドベリ・ビルディング(英語版)である。1893年に建設され、アメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されている。映画やTVドラマのロケ地としても有名で、他のロケーションと同様、様々な作品に登場している。 作中の設定ではデッカードのアパート等と同じく超高層ビルということになっているため、外観や屋上のシーン等は合成処理で高層建築に見えるように加工されているが、内部は演出上の装飾として荒れた雰囲気に飾り付けられた以外は、玄関として映る部分をビルの北西側エントランスにセットの柱を付け足して作り変えた他は元のまま用いられている。内部が吹き抜けになっていることや、吹き抜け部分の天井がガラス張りになっていること、内廊下の外周にオープンケージタイプのエレベーターがあることも元のままであり、床や壁、手摺の装飾といったものもオリジナルのまま用いられた。 撮影に使用された際もオフィスビルとして現役で使用されており、本作の撮影は営業時間外に行われた。映画製作に使用できるのは午後6時から翌日の午前6時の間に限られ、美術設定に従って各種の装飾とウェザリングを施した後に本編の撮影を行い、使用期限の前に撮影を切り上げて装飾を撤去し施した汚し塗装を清掃、使用前の状態に戻して撤収する、というハードスケジュールが連日繰り返された。 なお、セバスチャンの部屋の内部や、デッカードとバッティの戦いの舞台となる室内部分はスタジオにセットを組んで撮影されており、デッカードが壁沿いを伝って移動するシーンや屋上でのクライマックスシーンは、ブラッドベリ・ビルの上部3階層を再現した屋外セットが作られてそこで撮影され、合成処理が施されている。 セバスチャンのアパートの玄関のシーンで後方に見える派手なネオンサインの看板は、ブラッドベリ・ビルからブロードウェイ・ストリートを挟んで向かいにある劇場、ミリオンダラー・シアター(英語版)の入場口である。ミリオンダラー・シアターではロサンゼルス歴史建造物保存協会主催の「ブレードランナー有料上映会」が2013年3月23日に一度だけ開催された。 リオンが宿泊していた「ユーコンホテル(YUKON HOTEL)」は、外観は美術スタッフの製作したミニチュアだが(このミニチュアは看板の文字を「NUYOK」と組み替えて別のシーンでも使われている)、内部はブラッドベリ・ビルの交差点を挟んで北側の斜め向かいにある、パンアメリカン・ロフトビル(PanAmerican Loft Building)で撮影された。 ハンニバル・チュウの工房は、外観はスタジオセットであるが、内部はカリフォルニア州ヴァーノンにあった食肉会社の冷凍倉庫を借りてセットを組み、実際にマイナス21度の環境として酷寒の中で撮影が行われた。セットを組み終わった後、実物の霜が張り氷柱が垂れている環境を作るために4日間を要し、予算の圧縮のために5日間が予定されていた撮影期間を2日間に短縮して行われた。 1982年6月25日に全米公開され、週末興行収入成績は初登場第2位(同年6月25日-27日付)を記録したが、2週間前に公開され大ヒットしていた『E.T.』などの影響などもあり、興行的にも同作の約7900万ドルに対して約3380万ドルと振るわなかった(皮肉にも『E.T.』の脚本を担当したのは、フォードが当時交際し、本作公開の翌年に結婚したメリッサ・マシスンである)。 当時は明朗なSF映画が主流であり、暗く退廃的な未来観は多くの観客には受けが良くなかったとされる。新聞や雑誌での評価も二分し、『ワシントン・ポスト』は「永遠の命を求める人間の不毛な努力をテーマとした心を打つシナリオから、素晴らしく超モダンなセットに至るまで、あらゆる面で偉大な作品」と賞賛した一方で、『ニューヨーク・タイムズ』は「めちゃくちゃで、ぞっとする、混乱そのものだ」と酷評した。日本でのキャッチコピーも「2020年(原文ママ)、レプリカント軍団、人類に宣戦布告!」と、あたかもアクションSFのような謳い文句であり、フォードが『帝国の逆襲』や『レイダース』で見せたような、アクションを想像した多くの観客にとっては期待外れであったとも言われ、ロードショーは軒並み不入りで、多くの劇場で早々に上映が打ち切られてしまった。 一方、名画座での上映では映画マニアからの好評を博し、渋谷パンテオンでは、3週間限定上映と告知されていたにもかかわらず、結果的に4週間に延び、その後リバイバル上映が行われるようになってからはカルト映画的な人気を得、アメリカ本国からVHSを個人輸入するほどの熱狂的なマニアも現れた。当時から普及し始めていたビデオパッケージにより、内容をより精査して繰り返し観ることが出来るようになると評価は更に高まり、ソフトも記録的なセールスとなった。日本初公開時に映画館では鑑賞特典として、小さいポスターが配られた。これは偶然にも、後年『ディレクターズ・カット』で使用されたポスターと同じである。大学生時代に劇場で鑑賞した小島秀夫は、後に本作に大きな影響を受けた『スナッチャー』、『ポリスノーツ』を制作した。 公開25周年を迎える2007年に、日本で行われたファイナルカット・カウントダウンイベントの際、来場した全ての観客にポスターやネガフィルムやフライヤーなどが配られ、劇中の広告に使用された「強力わかもと」も進呈された。また、抽選により100名限定でオリジナルTシャツ、2名限定で『ブレードランナー製作25周年記念 アルティメット・コレクターズ・エディション』、3名限定で『シド・ミード・ビジュアルフューチャリストDVD』がプレゼントされた。 本作には前述のわかもと等実在企業が数多く登場した一方、史実では業績不振に陥り消滅・破産した企業もある(パンアメリカン航空、RCAなど)。一部ではこれを「ブレードランナーの呪い」と称している。 Rotten Tomatoesによれば、126件の評論のうち高評価は89%にあたる112件で、平均点は10点満点中8.5点、批評家の一致した見解は「劇場初公開当時は誤解されていた、リドリー・スコット監督のミステリアスなネオノワール映画『ブレードランナー』の影響力は時とともに深まってきている。視覚的にも並外れた、痛切なヒューマンSFの傑作。」となっている。Metacriticによれば、15件の評論のうち、高評価は13件、賛否混在は1件、低評価は1件で、平均点は100点満点中84点となっている。 本作には諸般の事情により、他映画作品では類を見ない7つの異なるバージョンが存在する。とくにスコットが再編集した1992年の『ディレクターズ・カット』では、作品の解釈を変えるような意味深長なシーンが追加された(詳細は「デッカードは何者なのか」の節を参照)。 なお、サンディエゴ覆面試写版とUSテレビ放映版を除く5つのバージョンは、日本では2007年12月14日にリリースされたDVDボックス『ブレードランナー 製作25周年記念アルティメット・コレクターズ・エディション(以下『UCE』)』で全て視聴する事ができる。 1982年。113分。『UCE』では「ワークプリント版」と称される。本作公開前の同年3月、ダラスやデンバーで観客の反応を見るためにテスト試写(スニークプレビュー)が行われた際のバージョン。しかし観客の反応は余り芳しいものでは無く、最悪だったとスコットは振り返る。フォードを倒す悪役に同情的なこと。画面は暗く絶えず雨が降り、ハッピーエンドではないこと。ユニコーンの折り紙も不評だったという。 以下は本バージョンのみで見られるシーンである。 1982年。未ソフト化。同年5月にサンディエゴでスニークプレビュー(覆面試写)が行われた際のバージョン。基本的にリサーチ試写版と同じだが、3つの新たなシーンが追加されたと言われる(詳細な箇所は不明)。 1982年。116分。『UCE』では「US劇場公開版」。北米で初めて商業上映された際のバージョン。リサーチ試写版で不評だった点を改善し、一般受けを良くしようとしたが、結果的にはそれでも評判は上がらず、映画評論家に酷評された。エンドロールの空撮映像は、『シャイニング』のオープニングの別テイクを借用したものである。 1982年。ヨーロッパや日本で劇場公開された際のバージョン。なお、日本ではワーナーのレンタルビデオや初期にリリースされたLDソフトに初期劇場公開版が収録されていた為、バージョンの違いが認識されており、ビデオ発売時には「完全版」と称して発売された。日本版『UCE』でも同様に呼称している。 1986年。114分。未ソフト化。CBSでの放映用に編集を行ったバージョン。 1992年。116分。公開10周年を記念し再編集されたバージョン(ビデオソフト、『UCE』では「最終版」の名称も付け加えられている)。最初の劇場公開後、本作は次第に評価を高め、サイバーパンクの原典としての地位を確立した。と同時に、スコットが本来意図した『ブレードランナー』を見たいという要望が高まり、ワーナーは彼に再び本作の編集を依頼。スコットも劇場公開版で自身の望まざる編集が行われた事に加え、機が熟したと考え、これを了承した。内容はリサーチ試写版に近いものになっている。 2007年。117分。公開25周年を記念し、再びスコット自身の総指揮によって編集されたバージョン。本バージョンは第64回ヴェネツィア国際映画祭でワールドプレミア4Kデジタルで上映された後、同年10月5日(現地時間)からニューヨークとロサンゼルスで劇場公開され、アメリカでは12月18日(現地時間)にDVDが発売された。日本では、11月17日 - 30日の2週間限定で東京(新宿バルト9。上映期間は1週間延長)、大阪(梅田ブルク7)の2館4スクリーンにて2KデジタルDLP劇場公開された。 2017年に発売されたUltra HD Blu-ray版の発売にあたっては、4K解像度に変換するにあたりスコットの監修のもとに細かな調整が加えられ、音声が新たにリミックスされたバージョンとなっている。 2019年に行われたIMAX上映にあたってもこのバージョンが使用されている。 視覚効果監修のダグラス・トランブルは、そのキャリアの最初に携わった『2001年宇宙の旅』で、監督のキューブリックから、チリ一つ無いほどの高画質を要求され、当時の光学合成による画質劣化を抑えるため、通常シーンが35mmフィルム撮影の作品でもSFXシーンは65mm幅のフィルムで撮影する方法を採った。『ブレードランナー』では、視覚効果は65mmで撮影、俳優の演技と合成するシーンも35mmスコープ・サイズで撮影し65mmに拡大して合成作業が行われた。 65mmフィルムによる撮影は、一コマあたりの画面が35mmより広く粒状性が目立たないので、再撮影やコピーのプロセスを重ねても画質が荒れない利点がある(左右幅を圧縮して撮影するスコープ・サイズの、光学合成の手間や画質への悪影響は、ジェームズ・キャメロンも指摘するところである)。ところが決して高予算ではないながらも高画質に拘って製作された『ブレードランナー』のSFXも、今日観られるフィルムやソフトで充分なクオリティが発揮されていないとトランブルは語っている。 ファイナル・カット版の特撮シーンは、この70mm(65mm)フィルムからダイレクトにテレシネされたものが使用されており、劇場での上映も他のバージョンと比べて、非常に鮮明なイメージを提供していた。 エンドロール中にはポリドールよりサントラが発売される旨書かれているが、実際には発売されなかった。ヴァンゲリスより正式にリリースされるのはディレクターズ・カット(最終版)の後、1994年のことである。 以上の詳細は「ブレードランナー (アルバム)」の項を参照のこと。 2016年、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、リドリー・スコット製作総指揮のもと、続編『ブレードランナー 2049』の日本公開が2017年11月に決定したことが発表された。アメリカで2017年10月6日、日本では10月27日に公開された。ライアン・ゴズリング、ロビン・ライト、ジャレッド・レトのほか、ハリソン・フォードも再びデッカード役として出演した。 原作者ディックの友人である作家K・W・ジーターが、映画の続編として小説3作を発表している。 当作について、複数のドキュメンタリーが制作されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『ブレードランナー』(原題:Blade Runner)は、1982年のアメリカ合衆国のSF映画。監督はリドリー・スコット、出演はハリソン・フォード、ルトガー・ハウアー、ショーン・ヤングなど。フィリップ・K・ディックのSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を原作としている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "21世紀初頭、遺伝子工学技術の進歩により、タイレル社はロボットに代わるレプリカントと呼ばれる人造人間を発明した。彼らは優れた体力に、創造した科学者と同等の高い知性を持っていた。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "環境破壊により人類の大半は宇宙の植民地(オフワールド)に移住し、レプリカントは宇宙開拓の前線で過酷な奴隷労働や戦闘に従事していた。しかし、彼らには製造から数年経つと感情が芽生え、主人たる人間に反旗を翻す事件が発生する。そのため、最新の「ネクサス6型」には、安全装置として4年の寿命年限が与えられたが、脱走し人間社会に紛れ込もうとするレプリカントが後を絶たず、地球へ脱走した彼らは違法な存在と宣告された。そんな脱走レプリカント達を判別し見つけ出した上で「解任(抹殺)」する任務を負うのが、警察の専任捜査官「ブレードランナー」であった。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2019年11月のロサンゼルス。地球に残った人々は酸性雨の降りしきる、高層ビル群が立ち並んだ人口過密の大都市での生活を強いられていた。ネクサス6型レプリカントの一団がオフワールドで反乱を起こし、人間を殺害して逃走、シャトルを奪い密かに地球に帰還した。タイレル社に入り込んで身分を書き換え、潜伏したレプリカントの男女4名(ロイ・バッティ、リオン、ゾーラ、プリス)を見つけ出すため、ロサンゼルス市警のブレードランナーであるホールデンが捜査にあたっていたが、リオンの反撃にあい負傷する。上司であるブライアントはガフを使いに出し、既にブレードランナーを退職していたリック・デッカードを呼び戻す。彼は情報を得るためレプリカントの開発者であるタイレル博士と面会し、彼の秘書であるレイチェルもまたレプリカントであることを見抜く。レイチェルはデッカードの自宅アパートに押しかけ問いただした結果、人間だと思っていた自分の記憶が作られたものだと知り、自己認識が揺さぶられ涙を流して飛び出してしまう。そんな彼女にデッカードは惹かれていく。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "デッカードは、リオンが潜んでいたアパートの証拠物から足跡をたどり、歓楽街のバーで踊り子に扮していたゾーラを発見、追跡の末に射殺する。現場にブライアントとガフが訪れ、レイチェルがタイレル博士のもとを脱走したことを告げ、彼女も「解任」するよう命令される。その直後リオンに襲われて銃を落とすが、駆けつけたレイチェルが銃を拾ってリオンを射殺した事でデッカードは命拾いする。彼はレイチェルを自宅へ招き、彼女が自分のことも「解任」するのか問うと「自分はやらないが、他の誰かがやる」と告げる。そして未経験の感情に脅えるレイチェルにキスし、熱く抱擁する。一方反逆レプリカントのリーダーであるバッティは眼球技師のチュウを脅して掴んだ情報をもとに、プリスを通じてタイレル社の技師J・F・セバスチャンに近づき、さらに彼を仲介役にして、本社ビル最上階に住むタイレル博士と対面する。バッティは地球潜入の目的である、自分たちの残り少ない寿命を伸ばすよう依頼するが、博士は技術的に不可能であり、限られた命を全うしろと告げる。絶望したバッティは博士の眼を潰して殺し、セバスチャンをも殺して姿を消す。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "タイレル博士とセバスチャン殺害の報を聞いたデッカードは、セバスチャンの高層アパートへ踏み込み、部屋に潜んでいたプリスを格闘の末に射殺。そこへ戻ってきたバッティと最後の対決に臨む。優れた戦闘能力を持つバッティに追い立てられ、デッカードはアパートの屋上へ逃れ、隣のビルへ飛び移ろうとして転落寸前となる。しかし、寿命の到来を悟ったバッティは突如デッカードを救い上げ、最期の言葉を述べた後、穏やかな笑みを浮かべながら事切れた。現場に現れたガフが不穏な言葉を告げ、デッカードはレイチェルにも同じ運命が待っているのではないかと慌てて自宅へ戻るが、彼女は生きていた。デッカードはレイチェルを連れ出し、逃避行へと旅立った。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ネオ・ノワールを基調とした暗く退廃的な近未来のビジュアルは、公開当初こそ人気を得なかったものの、後発のSF作品に大きな影響を与え、所謂「サイバーパンク」の代表作の一つと見なされている。シド・ミードの美術デザイン、ダグラス・トランブルのVFX、メビウスの衣装デザイン、ヴァンゲリスのシンセサイザーを効果的に使用した音楽も独自の世界観の確立に貢献した。", "title": "内容解説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "リドリー・スコットが「彼女は完璧だった」と評したレイチェル役のショーン・ヤング、そしてプリス役のダリル・ハンナも本作をきっかけに注目されるようになった。", "title": "内容解説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "作中の風景に日本語が多く描かれている理由は、スコットが来日した際に訪れた新宿歌舞伎町の様子をヒントにしたとされている。このことが日本人観客の興味をひくことになり、これらのシーンへのオマージュ・議論が生まれることになった。また、スコットは都市の外観は香港をモデルにしていることを述べている。なお、香港のショウ・ブラザーズが制作費の大半を出資したために本作は事実上アメリカ・香港合作であり、ショウ・ブラザーズの創設者である邵逸夫は本作で製作総指揮にクレジットされている。", "title": "内容解説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1993年にアメリカ国立フィルム登録簿に永久保存登録された。2007年、視覚効果協会が発表した「視覚効果面で最も影響力がある50本の映画」で第2位にランクインした。2014年、イギリスの情報誌『タイム・アウト(英語版)』ロンドン版にてアルフォンソ・キュアロン、ジョン・カーペンター、ギレルモ・デル・トロ、エドガー・ライトら映画監督、作家のスティーヴン・キング、ほか科学者や評論家150名が選定した「SF映画ベスト100」にて、第2位にランクインした。", "title": "内容解説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』とは設定や登場人物、物語の展開、結末などが翻案により大きく異なっており、原作というよりは原案に近い扱いである。", "title": "内容解説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1968年の原作発表後から程なくして、いくつかの映画化交渉が持ち上がったが、いずれも不成立に終わっていた。1975年、ハンプトン・ファンチャーは作者のフィリップ・K・ディックとの交渉を行ったものの成立せず、友人のブライアン・ケリーが交渉にあたり、1977年に承諾を取り付けた。ディック自身は制作会社に映画化権を売った後は関与していないが、ファンチャーが書き上げた草稿に彼は良い返事を出さず、何度も改稿が行われた。撮影開始後も映画の出来を不安視し、ノベライズ版の執筆も断っていたが、2019年のロサンゼルスを描いたVFXシーンのラッシュ試写を観て「まさに私が想像したとおりものだ!」と喜んだという。監督のスコットは、就任にあたって全く原作を読んでいなかったが、作品の世界観についてディックと何度も議論を交わしたことで、彼は映画の出来に確信を持つようになり、制作会社に「我々の\"SFとは何であるか\"という概念にとって革命的な作品となるだろう」と期待の手紙を送っている。本作は『トータル・リコール』や『マイノリティ・リポート』に先立つ、ディック作品の初映画化となったが、本人は完成を待たず1982年3月2日に死去した。", "title": "内容解説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "本作に登場する「ブレードランナー」と「レプリカント(英語版)」は、原作には登場しない映画オリジナル用語である。", "title": "内容解説" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "「ブレードランナー」という名称は、SF作家アラン・E・ナースの小説『The Bladerunner』(1974年)において「非合法医療器具(blade)の運び屋(runner)」という意味で登場する。この小説を元にウィリアム・S・バロウズは映画化用の翻案として『Blade Runner (a movie)』(1979年、訳題『映画:ブレードランナー』)を執筆した。関連書籍『メイキング・オブ・ブレードランナー ファイナル・カット』記載のスコットのインタビューによれば、本作の制作陣はデッカードにふさわしい職業名を探すうちにバロウズの小説を見つけ、本のタイトルのみを借り受けることに決めたという。いずれの小説も物語自体は、ディックの原作および映画とも全く関連はないが、作品タイトルとするにあたり、ナースとバロウズに使用権料を払い、エンドクレジットに謝辞を記している。なお初期タイトルは『デンジャラス・デイズ(Dangerous Days)』であった(このタイトルは後にメイキング・ドキュメンタリーのタイトルに使用されている)。", "title": "内容解説" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "「レプリカント(replicant)」という名称については、原作の「アンドロイド」が機械を連想させることと、観客に先入観を持たれたくないと考えたスコットが、ファンチャーに代わって起用した脚本のデヴィッド・ピープルズに別の名前を考えるように依頼。生化学を学んでいた娘からクローン技術の「レプリケーション(細胞複製)」という用語を教わり、そこから「レプリカント」という言葉を創造した。以降、(創作における)人造人間を指す用語として辞書にも掲載されるなど、定着している。", "title": "内容解説" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "「フォークト=カンプフ(Voight-Kampff)」検査は人間とレプリカントを区別するための架空の検査法で、そのための唯一の方法である。この時代に生きる人間の感情を大きく揺さぶるような質問を繰り返し、それに対して起きる肉体的反応を計測することで、対象が人間かレプリカントであるかを判別することができる、とされている。", "title": "内容解説" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "検査は専用の分析装置を用いることによって行われ、装置は本体に黒い大きな蛇腹状のパーツと数種類のモニタを備え、本体から伸びる伸縮式のアームの先には反射鏡式光学照準装置のようなものが取り付けられている。アーム先端の装置には虹彩を計測するビデオカメラを内蔵しており、収縮する蛇腹状のパーツは「対象者の身体表面より発散される粒子を収集するための装置」である。", "title": "内容解説" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "劇中では、リオンとレイチェルがこれによりテストを受けているシーンがあり、デッカードとタイレルの会話において、レプリカントであるか否かを判定するためには通常2~30項目の質問が必要になる、と述べられているが、レイチェルがレプリカントであることを判定するには100項目以上の質問が必要であった。この描写から、質問項目に対する反応は「自分がレプリカントという自覚があるかどうか」に大きく左右されること、「記憶」の内容(レプリカントの場合は記憶として「移植」されたものの内容)によっては、レプリカントであるか否かの判定が容易には行えなくなり、テストの正確性が大きく揺らぐことがわかる。", "title": "内容解説" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "撮影中の脚本やスケジュールの変更、単純なミスなどにより、劇中では整合性のとれない箇所がいくつかみられる。当初、本作の年代設定は2020年だった。しかし、英語において「Twenty-Twenty」が視力検査で少数視力でいうところの1.0を表す言葉でもあるため、混同を避けるため、2019年に舞台が変更された。そのため登場するレプリカントの寿命に1年のズレがあるという矛盾が生じたが、気付かれずにそのまま撮影されてしまった。", "title": "内容解説" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ミスの中で生まれたものとして有名なのが「6人目のレプリカントはどこに行ったのか?」という問題である。警察署のシーンでブライアントは、地球に侵入したレプリカントは「男3人、女3人の計6名」であり、「うち1名は既に死亡している」と説明している。残りは5名となるはずだが、彼は「4名が潜伏中」と言い、劇中でもそれしか登場しない。", "title": "内容解説" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ファンチャーの脚本では5人目のレプリカント「ホッジ」と6人目の「メアリー」が設定されており、後者については配役も決まっていたが(ステーシー・ネルキン(英語版)が演じる予定だった)、予算の都合で撮影されなかった。しかし、ポストプロダクションで台詞の差し替えをしなかったため、ブライアントの説明に矛盾が生じる結果となった。その後、彼の台詞は『ファイナル・カット』において「2名が既に死亡」に修整された。", "title": "内容解説" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "続編として発表された小説『ブレードランナー2 レプリカントの墓標』は、この6人目のレプリカントに関する物語になっている。また、当初はタイレル博士もレプリカントだという設定だった(後述)。", "title": "内容解説" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "上述の6人目のレプリカント問題に関して、「6人目とはデッカード自身ではないのか?」という考察が生まれたが、これは実際は制作上のミスによるもので、意図的な表現では無い。スコット自身は「デッカード=レプリカント」というアイデアを撮影中に気に入り、それを示唆する表現である「デッカードが見るユニコーンの夢」のシーンを撮影作業終盤に撮影し、劇場公開版に入れようとした。しかし当時のプロデューサー達は「芸術的すぎる」と拒否した。", "title": "内容解説" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "このシーンは『ディレクターズ・カット』において初めて追加され、ラストシーンのガフが作ったユニコーンの折り紙と結びつくことによって、「デッカードの夢の内容が知られている=彼の記憶は作られたものである=デッカードもレプリカントである」という可能性を示唆した。スコット自身は、2000年にイギリスのChannel 4 Televisionが制作したドキュメンタリー『ON THE EDGE OF BLADE RUNNER』のインタビューにおいて「デッカードはレプリカントだ」と明言している。また、『メイキング・オブ・ブレードランナー ファイナル・カット』掲載のインタビューでは他のヒント(家族写真やデッカードの赤目現象シーン)も挙げた上で、より人間に近いネクサス7型レプリカントというアイデアを示唆している。またオーディオコメンタリーにおいては、「続編は無い」とした上で「もし続編があれば、デッカードをレプリカントにしようと思った」とも語っていた。しかし2017年の4K ULTRA HD版収録の、オーディオコメンタリーにおいては「続編を作りたい」と語り、またラストシーンについては「デッカードとレイチェルがネクサス7型や8型なら生き延びたろうね」とも述べている。", "title": "内容解説" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ただしスコットの見解に対する関係者の意見は様々である。ガフを演じたエドワード・ジェームズ・オルモスはスコットと同じ意見で、ユニコーンの夢を根拠にデッカードがレプリカントなのは明らかだと明言する一方、脚本のファンチャーは人間説を唱え、スコットと論争を続けるフォードもまた、観客はデッカードを応援したいはずだという理由で、レプリカントであるということを否定している。しかし後にフォードは私は、ずっと彼がレプリカントだと知っていましたとも証言しており、レプリカントは自分自身を人間だと信じたいものであり、デッカードを演じて抗いたい思いもあったと述べている。またデッカードがレプリカントというアイデアは撮影途中でスコットが思いついたことで、当初はそのように考えて撮影されていなかったとされ、フォードもレプリカントだとは指示を受けておらず、撮影時には人間として演じたという。", "title": "内容解説" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "以上のように諸々の経緯はあるが、「デッカード=レプリカント説」を断定出来るような描写はどの版の劇中にも存在しない。", "title": "内容解説" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "フォードは、この映画については長年否定的であった。これは、興行的に失敗したことの他に、撮影が一旦終了したにも拘らず、何度も追加撮影のために呼ばれたのに我慢ができなくなったことによるという。", "title": "内容解説" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "また、レイチェル役のショーン・ヤングが、撮影中にフォードから乱暴に扱われたという理由で、不仲のまま撮影が行われたという経緯がある。ディレクターズ・カットが公開された1992年には、「デッカード=レプリカント説」をめぐってスコットと揉めたこともあった。こうした経緯があり、長い間作品の事を語りたがらなかった。しかしある時期からは「本作以降出演作を自由に選べるようになった」と述べるなど、態度を軟化させるようになり、積極的ではないがインタビュー等にも答えている。その後、続編となる『ブレードランナー 2049』への出演も快諾した。", "title": "内容解説" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "映画『エイリアン』のSEや、救命艇ナルキッソス号が母船ノストロモ号から切り離される際のシークエンスで表示されるモニター画像をさりげなく挿入するなど、スコットのお遊びが散見される。ディックの小説『高い城の男』の世界観(枢軸国が勝利した世界)が想定されている可能性がある。", "title": "演出" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "レプリカントのリーダー、バッティ役のルトガー・ハウアーは人造人間の狂気と悲哀を好演した。ラストの独白シーンの台詞や演出は、本来の台本が長すぎると感じた彼が撮影時に提案したアドリブで、要約したピープルズの脚本に独自の台詞を加えて完成した。モノローグ「雨の中の涙」(Tears in rain monologue)として知られる。このシーンを撮り終えると拍手が起こりスタッフも涙していたという。また白い鳩が飛び立つ描写もハウアーのアイデアだった。", "title": "演出" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ガフがデッカードに呼び掛ける「彼女も生きられずに残念ですな。だが、誰もがそうかもしれない」という台詞も、演じたオルモスによって付け足され、脚本にあった「お見事ですな」に続けて去り際に言った言葉が、思いもかけず完成した映画に残されたという。", "title": "演出" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ロサンゼルスの街にさまざまな人種が入り乱れて生活する様子を描写するため、日本語をはじめとする多国語の看板、日本語を話す店主が切り盛りする露店、日本語による話し声が多用されている。また、「ふたつで十分ですよ」とハリソン・フォードとやりとりしている寿司屋の主人ハウイー・リーは、ロバート・オカザキという日系アメリカ人俳優である。以下に代表的なものを挙げる。", "title": "演出" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "またミニチュア・クルーによる演出外の趣向として、『未知との遭遇』のマザーシップや、『スター・ウォーズ』のミレニアム・ファルコン号、そして『ダーク・スター』の模型が画面に登場する。", "title": "演出" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "監督のリドリー・スコットはSFホラー『エイリアン』(1979年)に次ぐSF作品となる本作でも、卓越した映像センスを発揮した。従来のSF映画にありがちだったクリーンでハイテクな未来都市のイメージを打ち破り、環境汚染にまみれた酸性雨の降りしきる、退廃的な近未来の大都市を描いた。これは、シナリオ初稿を書いた、ハンプトン・ファンチャーが、フランスの漫画家メビウスが描いたバンド・デシネ短編作品『ロング・トゥモロー』(原作は『エイリアン』の脚本家ダン・オバノン)での、「混沌とした未来社会でのフィリップ・マーロウ的な探偵の物語」をイメージしていたためだった。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "劇中の無国籍で混沌としたロサンゼルスのイメージは、メビウスの作品そのものである。スコットは映画のスタッフにメビウスの参加を熱望したが、アニメーション『時の支配者(フランス語版)』の作業に携わっていた彼は、衣装デザインのみの参加となった。また、インタビューでは度々エンキ・ビラルの作品の世界観を参考にしたとの発言が出ている。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "本作を特徴づけているものの一つが、「ビジュアル・フューチャリスト」ことシド・ミードによる一連のデザインである。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ミードは最初は作品に登場する車両のデザイナーとして着目され、起用された。1979年に出版された個人画集の中の1枚である「雨の降る未来の高速道路の情景」に目を留めたリドリー・スコットが、作中に登場する未来の自動車のデザインを依頼したことがきっかけであった。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "当初はミードは車両のみを担当する予定であったが、ミードは自身のデザインに対する姿勢として「工業製品は、それが使用される状況や環境とセットでデザインされなければならない」というポリシーを持っており、「未来の乗用車」のカラーイラストの背景に描かれた未来都市のイメージに魅了されたスコットは、車両以外にも室内インテリア、未来の銃、パーキングメーター、ショーウィンドー等のセットや小道具のデザインを依頼し、さらに建築、都市の外観、列車や駅、コンピュータ等のインターフェースに至る、作中に登場するありとあらゆる工業製品のデザインを依頼した。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ただし、ミードが本作のためにデザインしたものが全て劇中で使われたわけではなく、幾つかのものはスコットにより「未来的にすぎる」という理由で却下されている。未来の銃(後述「#デッカードブラスター」参照)や、医療用のカプセル型ベッド(後述「#没シーン」参照)等である。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ミードはこれまでも美術やメカデザイン等で映画に参加していたが、本作で初めて以降の肩書きである「ビジュアル・フューチャリスト」を名乗り、またエンドロールにおける単独クレジットがなされた。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "フォークト=カンプフ・マシンは、対象がレプリカントであるかどうかを判断するためにブレードランナーが使用する一種のポリグラフ(嘘発見器)で、呼吸などの身体機能を測定し、毛細血管の膨張による血流の増大や、質問に対しての心拍数および眼球運動を測定して判定する装置である。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1982年、初公開時のプレスキットの説明には", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "とある。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "スコットはこの検査装置をデザインするにあたり、「ハイテク機器のようには見えない」「対象者を威嚇するような感じに」「デリケートな装置に見えるように」という要望を出した。ミードは彼の出した要望に対して、「自室の机の上のライトに大きなタランチュラが取り付いている」というビジュアルイメージを思い浮かび、そのイメージに従って、見た者に「生きているような感じ」を与えられるものをデザインした。デザインの意図としては「視線を合わせられ続けることの威圧感」「機械が呼吸しているように見えることへの気持ち悪さ」を感じさせることを念頭に置いている。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "なお、プロップとして製作された装置にはカメラ機能はなく、モニターには実際にそのシーンで「検査」されている俳優の瞳が映っているわけではない。俳優たちの瞳のクローズアップも撮影されたが、モニタに当たる部分に投影されているのは、科学教育用フィルムの素材提供会社より調達された別人の瞳の映像である(そのため、レイチェル役のヤングは瞳がブラウンであるにもかかわらず、モニターではグリーンに映っている)。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "前述のように、ミードは当初「カーデザイナー」として起用された。彼の描いたコンセプトデザインは、カスタムカーデザイナーのジーン・ウィンフィールド(英語版)によって、デッカードの乗るセダンやセバスチャンの乗るバンなど、セダンタイプのものからコンパクトカータイプのものなど、25種類に及ぶ各種の車両にリファインされた。当初は57台が製作される予定で、予算と製作期間の問題から台数は半分の25台に減らされたが、納入前に工房で火災が発生して2台が焼失し、最終的には23台が納品された。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "この他、撮影所の倉庫の隅に保管されていた1960年代の中古車があり、それらは他の映画の撮影に際して様々な装飾が施されていたものだが、これらも「エキストラ」として渋滞の列に並ぶ車として用いられている。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "「スピナー(Spinner)」は、劇中に登場する架空の飛行車の総称である。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "通常の自動車と同じく、地上を走行することができるだけではなく、垂直に離着陸することができ、垂直離着陸機と同様のジェット推進装置を使用して浮上し、そのまま空中を飛行することができる。作中では主に警察がパトカーとして使用しているが、裕福な人々はスピナーのライセンスを取得することができる、と設定されており、警察用以外にも複数種類のスピナーが登場する。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "この架空の車両は、ミードによって「揚力を得るために空気を直接下方に噴射することによって飛行する」機構を持つ、という「エアロダイン(Aerodyne)」という名称のメカニクスとして考案され、デザインされた(ただし、映画公開時の広報用資料では、スピナーは「従来の内燃機関、ジェットエンジンに加え、反重力エンジンという3つのエンジンによって推進されている」と記述されている)。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "作中に登場したスピナーのうち、パトカーとして登場したものは“ポリススピナー”と通称されており、「映画『ブレードランナー』に登場した架空のメカニクス」としての“スピナー”といった場合、まずこれを指すことが多い。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ポリススピナーは各種サイズの複数のミニチュアと実物大のプロップ(劇用車)が4台製作された。なお、スピナーには左側面にレーザーガンとの設定がある武装が装備されたタイプがあるが(シド・ミードによるコンセプトデザインにも描かれている)、この通称“レーザースピナー”はミニチュアモデルしか製作されていない。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "4台の実物大プロップの製作は「空を飛ばない」自動車と同じくジーン・ウィンフィールドと彼のチームが担当した。4台の内訳は、フォルクスワーゲン・ビートルのシャーシとエンジンを流用して作られた、実際に自走できる劇用車が2台、車内とコクピット周辺のみが製作された、車内シーンの撮影用モデルが1台、軽量アルミニウムで製作され、ジェット噴射のギミックが内蔵されているが自走能力はなく、クレーンで吊り下げて低空飛行および離着陸シーンを撮影するために用いられた、通称“フライングスピナー”が1台である。なお、車内シーン用のモデルはスピナーの他“デッカードセダン”の車内としても使用された。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "映画の撮影が終了した後、これらのプロップは映画の宣伝に使用され、その後は他のSF映画に使用された後に処分・売却された。 自走可能なプロップのうち1台はパトロールカー・セダンと共にフロリダ州オーランドのMGMスタジオで屋外展示品とされ、劣化が進んだこともあり、1990年代の末に処分された。自走可能なプロップのもう1台は、映画撮影用車両会社の間を転々とした後、1990年代初頭にオークションへの出品を経て日本のコレクターに売却された。この車両は『ブレードランナー』撮影後に他の映画の撮影に用いられた際に塗装や細部に変更が加えられているが、オリジナルの状態を比較的保った形で現存している。個人蔵ということもあり、時折『ブレードランナー』関連のイベント等に展示される(一部のパーツのみが展示された例もある)他には一般公開はされておらず、「ポリススピナーの実物大プロップのうち1台が日本に現存している」とマニアの間で語られるのみの存在となっていたが、2017年よりは後述の“フライング・スピナー”同様にプロップを製作したウィンフィールドを交えたレストアの計画が進められ、2019年に入りメディアに現存が公表され、その詳細が紹介されている。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "飛行シーン撮影用の“フライング・スピナー”は1990年代初頭に「デッカード・セダン」と共にフロリダ州のアメリカ警察殿堂博物館(英語版)(American Police Hall of Fame & Museum)に売却されたが、1992年、輸送中に大破し、部品状態で売却された。その後は不完全な修理が施されたまま宣伝用の展示品とされ、1999年には再び売却された。 21世紀に入り、2003年12月12日に開催されたオークションに出展され、マイクロソフトの創設者の一人、ポール・アレンが落札した。落札時にはオリジナルの状態を大きく損っていたが、ウィンフィールドの工房にレストアが依頼され、2004年6月に完了、アレンが開設したシアトルのSF博物館(英語版)(Science Fiction Museum & Hall of Fame)に搬入され、同博物館の目玉展示品の一つとして常設展示されている。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "また、ロサンゼルスにあるピーターセン自動車博物館(英語版)(Petersen Automotive Museum)にはレプリカが展示されている。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "スピナーと並んで本作品を語る上で重要な小道具として、デッカード他が使用した架空の拳銃がある。劇中に登場したものは2種類あり、冒頭でリオンがホールデンを撃つシーンで使われた「ブラックホール・ガン」の仮称で考案された、COP社の4連装小型拳銃COP .357をそのまま使用したものと、後に「デッカード・ブラスター」と通称されるようになった、ライフルとリボルバーを合わせて改造したプロップガンがある。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "映画の製作にあたり、スコットは従来のSF映画でよく用いられた「明るい光線を発射するレーザー・ピストル」を避けたいと考えており、それに代わる全く新しい表現を求めていた。これに対し、特殊効果監修のデヴィッド・ドライヤーが考案したものが、「ブラックホール・ガン」であった。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "これは「強力な分子破壊ビームを発射し、命中箇所を分子レベルで破壊する」というもので、画面上ではまったく光を発しない「黒いビーム(Black beam)」が銃から目標に発射され、命中すると目標は消滅する、という表現が考案された。これは、派手な血飛沫や出血を描く必要がない、という点でも良案とされた。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "しかし、冒頭でリオンがホールデンを銃撃するシーンにおいて、特殊効果を挿入したカットを試験的に制作したところ、「ただの暗い筋にしか見えず、劇的効果が得られない」と判断され、このアイディアは他のシーンでは用いられなかった。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "主人公のデッカードらが使っている銃については、公式な命名がなされていない。いつ、どのような経緯でそのように呼ばれるようになったかは判然としていないが、日本では1983年の初公開時の映画パンフレットにおいて「ブラスター」の名称で解説されたため、それ以降、この銃はそのように呼称されるようになった。一介の小道具であるにもかかわらず高い人気を博し、作品の公開後、数多くのプロップレプリカやモデルガンが製作されることになる。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "本作品に登場するオリジナルデザインの品々の中で、この「ブラスター」はシド・ミードのデザインではない。当初彼がデザインしたモデルは前衛的に過ぎ、本作品の状況設定にそぐわず採用は見送られ、新たにCOP .357を基にしたデザインがアシスタントアートディレクターであるスティーブン・デーンにより描き起こされたが、これも採用されなかった。 なお、リオンがホールデンを撃つシーンで使われているプロップガンは、本来はデーンによるデザインに基づいて改造するために用意された銃を、ほぼそのまま使用したものである。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "改めてプロップを製作するにあたり、まず参考にされたのが、映画『マッドマックス』で主人公の使う、「ソードオフ」と呼ばれる二連銃身の短縮型散弾銃である。しかし、前述の「フィリップ・マーロウ的な探偵の物語(ハードボイルド)」の作風に合わせて、拳銃前提という制約があった。実在の銃器をそのまま、もしくは多少の改造を加えて使うという妥協案も出されたが、実際に使用されたものは美術部が現物合わせでプロップを制作したもので、オーストリア製のライフルの機関部をリボルバーと合体させた上に、電飾加工を施したものである。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "作品の象徴でもある、日本語で書かれた看板やネオンサインが並び、多国籍の人々が行き交う未来都市の街頭は、ワーナー・ブラザースのバーバンクスタジオにある「オールド・ニューヨーク・ストリート」と呼ばれるオープンセットを大規模に改装して作られたセットである。「リドリーヴィル(Ridleyville)」のニックネームが付けられていたこのセットには、地上6mの地点に7基の散水装置が設置されており、作品を代表するイメージの一つである「絶え間なく降り続ける酸性雨」を表現するために用いられた。これに撮影後の合成処理で超高層ビルその他を描き加え、2019年の近未来都市が作り上げられた。", "title": "ロケーション" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "その他のシーンは基本的にはロサンゼルスにある著名な建造物、もしくはスタジオセットで撮影し、撮影後に合成等の処理を施したもので、登場した建造物は2016年現在でも存在している。", "title": "ロケーション" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ロサンゼルス・ユニオン駅で撮影された。 駅舎内を署内として使用し、舎内一角にセットを組み、ブライアントのオフィスとしている。現役で使用されている建物のため、使用できるのは営業外の夜から翌朝にかけての深夜に限定され、急いでセットを組み上げ撮影準備を完了させてから引き払い期限の午前6時までの間、純粋な撮影時間は1日あたりわずか10分程度しかなかったという。", "title": "ロケーション" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "なお、ブライアントがデッカードにレプリカントのプロフィールを説明しているシーンは、スタジオセット内で撮影されている。", "title": "ロケーション" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "劇中で複数回登場した白い内壁のトンネルは、ロサンゼルスのダウンタウンにあるセカンドストリート・トンネル(英語版)である。", "title": "ロケーション" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "内壁を白い陶製のタイルで装飾したことで知られるこのトンネルは、他にも多くの映画に登場している。", "title": "ロケーション" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "デッカードの自宅シーンに使用されたのは、ロサンゼルス郊外にある邸宅、エニス邸(英語版)である。1923年に建設された、フランク・ロイド・ライトの設計による「テキスタイル・ブロック住宅」の一つで、マヤ文明の遺跡をイメージした造形の施されたコンクリートブロック壁が特徴になっており、アメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されている。実際のエニス邸は低層平屋の構造であり、郊外の高台に位置しているが、作品では合成を駆使して街中にある高層ビルに見えるように構成されている。", "title": "ロケーション" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "エニス邸は後のスコットの監督作『ブラック・レイン』においても、ヤクザの親分のスガイ邸として使われている。", "title": "ロケーション" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "J・F・セバスチャンが住むアパートとして使用されたのは、ロサンゼルスのダウンタウンにあるブラッドベリ・ビルディング(英語版)である。1893年に建設され、アメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されている。映画やTVドラマのロケ地としても有名で、他のロケーションと同様、様々な作品に登場している。", "title": "ロケーション" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "作中の設定ではデッカードのアパート等と同じく超高層ビルということになっているため、外観や屋上のシーン等は合成処理で高層建築に見えるように加工されているが、内部は演出上の装飾として荒れた雰囲気に飾り付けられた以外は、玄関として映る部分をビルの北西側エントランスにセットの柱を付け足して作り変えた他は元のまま用いられている。内部が吹き抜けになっていることや、吹き抜け部分の天井がガラス張りになっていること、内廊下の外周にオープンケージタイプのエレベーターがあることも元のままであり、床や壁、手摺の装飾といったものもオリジナルのまま用いられた。", "title": "ロケーション" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "撮影に使用された際もオフィスビルとして現役で使用されており、本作の撮影は営業時間外に行われた。映画製作に使用できるのは午後6時から翌日の午前6時の間に限られ、美術設定に従って各種の装飾とウェザリングを施した後に本編の撮影を行い、使用期限の前に撮影を切り上げて装飾を撤去し施した汚し塗装を清掃、使用前の状態に戻して撤収する、というハードスケジュールが連日繰り返された。", "title": "ロケーション" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "なお、セバスチャンの部屋の内部や、デッカードとバッティの戦いの舞台となる室内部分はスタジオにセットを組んで撮影されており、デッカードが壁沿いを伝って移動するシーンや屋上でのクライマックスシーンは、ブラッドベリ・ビルの上部3階層を再現した屋外セットが作られてそこで撮影され、合成処理が施されている。", "title": "ロケーション" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "セバスチャンのアパートの玄関のシーンで後方に見える派手なネオンサインの看板は、ブラッドベリ・ビルからブロードウェイ・ストリートを挟んで向かいにある劇場、ミリオンダラー・シアター(英語版)の入場口である。ミリオンダラー・シアターではロサンゼルス歴史建造物保存協会主催の「ブレードランナー有料上映会」が2013年3月23日に一度だけ開催された。", "title": "ロケーション" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "リオンが宿泊していた「ユーコンホテル(YUKON HOTEL)」は、外観は美術スタッフの製作したミニチュアだが(このミニチュアは看板の文字を「NUYOK」と組み替えて別のシーンでも使われている)、内部はブラッドベリ・ビルの交差点を挟んで北側の斜め向かいにある、パンアメリカン・ロフトビル(PanAmerican Loft Building)で撮影された。", "title": "ロケーション" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ハンニバル・チュウの工房は、外観はスタジオセットであるが、内部はカリフォルニア州ヴァーノンにあった食肉会社の冷凍倉庫を借りてセットを組み、実際にマイナス21度の環境として酷寒の中で撮影が行われた。セットを組み終わった後、実物の霜が張り氷柱が垂れている環境を作るために4日間を要し、予算の圧縮のために5日間が予定されていた撮影期間を2日間に短縮して行われた。", "title": "ロケーション" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "1982年6月25日に全米公開され、週末興行収入成績は初登場第2位(同年6月25日-27日付)を記録したが、2週間前に公開され大ヒットしていた『E.T.』などの影響などもあり、興行的にも同作の約7900万ドルに対して約3380万ドルと振るわなかった(皮肉にも『E.T.』の脚本を担当したのは、フォードが当時交際し、本作公開の翌年に結婚したメリッサ・マシスンである)。", "title": "公開・反響" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "当時は明朗なSF映画が主流であり、暗く退廃的な未来観は多くの観客には受けが良くなかったとされる。新聞や雑誌での評価も二分し、『ワシントン・ポスト』は「永遠の命を求める人間の不毛な努力をテーマとした心を打つシナリオから、素晴らしく超モダンなセットに至るまで、あらゆる面で偉大な作品」と賞賛した一方で、『ニューヨーク・タイムズ』は「めちゃくちゃで、ぞっとする、混乱そのものだ」と酷評した。日本でのキャッチコピーも「2020年(原文ママ)、レプリカント軍団、人類に宣戦布告!」と、あたかもアクションSFのような謳い文句であり、フォードが『帝国の逆襲』や『レイダース』で見せたような、アクションを想像した多くの観客にとっては期待外れであったとも言われ、ロードショーは軒並み不入りで、多くの劇場で早々に上映が打ち切られてしまった。", "title": "公開・反響" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "一方、名画座での上映では映画マニアからの好評を博し、渋谷パンテオンでは、3週間限定上映と告知されていたにもかかわらず、結果的に4週間に延び、その後リバイバル上映が行われるようになってからはカルト映画的な人気を得、アメリカ本国からVHSを個人輸入するほどの熱狂的なマニアも現れた。当時から普及し始めていたビデオパッケージにより、内容をより精査して繰り返し観ることが出来るようになると評価は更に高まり、ソフトも記録的なセールスとなった。日本初公開時に映画館では鑑賞特典として、小さいポスターが配られた。これは偶然にも、後年『ディレクターズ・カット』で使用されたポスターと同じである。大学生時代に劇場で鑑賞した小島秀夫は、後に本作に大きな影響を受けた『スナッチャー』、『ポリスノーツ』を制作した。", "title": "公開・反響" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "公開25周年を迎える2007年に、日本で行われたファイナルカット・カウントダウンイベントの際、来場した全ての観客にポスターやネガフィルムやフライヤーなどが配られ、劇中の広告に使用された「強力わかもと」も進呈された。また、抽選により100名限定でオリジナルTシャツ、2名限定で『ブレードランナー製作25周年記念 アルティメット・コレクターズ・エディション』、3名限定で『シド・ミード・ビジュアルフューチャリストDVD』がプレゼントされた。", "title": "公開・反響" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "本作には前述のわかもと等実在企業が数多く登場した一方、史実では業績不振に陥り消滅・破産した企業もある(パンアメリカン航空、RCAなど)。一部ではこれを「ブレードランナーの呪い」と称している。", "title": "公開・反響" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "Rotten Tomatoesによれば、126件の評論のうち高評価は89%にあたる112件で、平均点は10点満点中8.5点、批評家の一致した見解は「劇場初公開当時は誤解されていた、リドリー・スコット監督のミステリアスなネオノワール映画『ブレードランナー』の影響力は時とともに深まってきている。視覚的にも並外れた、痛切なヒューマンSFの傑作。」となっている。Metacriticによれば、15件の評論のうち、高評価は13件、賛否混在は1件、低評価は1件で、平均点は100点満点中84点となっている。", "title": "公開・反響" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "本作には諸般の事情により、他映画作品では類を見ない7つの異なるバージョンが存在する。とくにスコットが再編集した1992年の『ディレクターズ・カット』では、作品の解釈を変えるような意味深長なシーンが追加された(詳細は「デッカードは何者なのか」の節を参照)。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "なお、サンディエゴ覆面試写版とUSテレビ放映版を除く5つのバージョンは、日本では2007年12月14日にリリースされたDVDボックス『ブレードランナー 製作25周年記念アルティメット・コレクターズ・エディション(以下『UCE』)』で全て視聴する事ができる。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "1982年。113分。『UCE』では「ワークプリント版」と称される。本作公開前の同年3月、ダラスやデンバーで観客の反応を見るためにテスト試写(スニークプレビュー)が行われた際のバージョン。しかし観客の反応は余り芳しいものでは無く、最悪だったとスコットは振り返る。フォードを倒す悪役に同情的なこと。画面は暗く絶えず雨が降り、ハッピーエンドではないこと。ユニコーンの折り紙も不評だったという。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "以下は本バージョンのみで見られるシーンである。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "1982年。未ソフト化。同年5月にサンディエゴでスニークプレビュー(覆面試写)が行われた際のバージョン。基本的にリサーチ試写版と同じだが、3つの新たなシーンが追加されたと言われる(詳細な箇所は不明)。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "1982年。116分。『UCE』では「US劇場公開版」。北米で初めて商業上映された際のバージョン。リサーチ試写版で不評だった点を改善し、一般受けを良くしようとしたが、結果的にはそれでも評判は上がらず、映画評論家に酷評された。エンドロールの空撮映像は、『シャイニング』のオープニングの別テイクを借用したものである。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "1982年。ヨーロッパや日本で劇場公開された際のバージョン。なお、日本ではワーナーのレンタルビデオや初期にリリースされたLDソフトに初期劇場公開版が収録されていた為、バージョンの違いが認識されており、ビデオ発売時には「完全版」と称して発売された。日本版『UCE』でも同様に呼称している。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "1986年。114分。未ソフト化。CBSでの放映用に編集を行ったバージョン。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "1992年。116分。公開10周年を記念し再編集されたバージョン(ビデオソフト、『UCE』では「最終版」の名称も付け加えられている)。最初の劇場公開後、本作は次第に評価を高め、サイバーパンクの原典としての地位を確立した。と同時に、スコットが本来意図した『ブレードランナー』を見たいという要望が高まり、ワーナーは彼に再び本作の編集を依頼。スコットも劇場公開版で自身の望まざる編集が行われた事に加え、機が熟したと考え、これを了承した。内容はリサーチ試写版に近いものになっている。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "2007年。117分。公開25周年を記念し、再びスコット自身の総指揮によって編集されたバージョン。本バージョンは第64回ヴェネツィア国際映画祭でワールドプレミア4Kデジタルで上映された後、同年10月5日(現地時間)からニューヨークとロサンゼルスで劇場公開され、アメリカでは12月18日(現地時間)にDVDが発売された。日本では、11月17日 - 30日の2週間限定で東京(新宿バルト9。上映期間は1週間延長)、大阪(梅田ブルク7)の2館4スクリーンにて2KデジタルDLP劇場公開された。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "2017年に発売されたUltra HD Blu-ray版の発売にあたっては、4K解像度に変換するにあたりスコットの監修のもとに細かな調整が加えられ、音声が新たにリミックスされたバージョンとなっている。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "2019年に行われたIMAX上映にあたってもこのバージョンが使用されている。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "視覚効果監修のダグラス・トランブルは、そのキャリアの最初に携わった『2001年宇宙の旅』で、監督のキューブリックから、チリ一つ無いほどの高画質を要求され、当時の光学合成による画質劣化を抑えるため、通常シーンが35mmフィルム撮影の作品でもSFXシーンは65mm幅のフィルムで撮影する方法を採った。『ブレードランナー』では、視覚効果は65mmで撮影、俳優の演技と合成するシーンも35mmスコープ・サイズで撮影し65mmに拡大して合成作業が行われた。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "65mmフィルムによる撮影は、一コマあたりの画面が35mmより広く粒状性が目立たないので、再撮影やコピーのプロセスを重ねても画質が荒れない利点がある(左右幅を圧縮して撮影するスコープ・サイズの、光学合成の手間や画質への悪影響は、ジェームズ・キャメロンも指摘するところである)。ところが決して高予算ではないながらも高画質に拘って製作された『ブレードランナー』のSFXも、今日観られるフィルムやソフトで充分なクオリティが発揮されていないとトランブルは語っている。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "ファイナル・カット版の特撮シーンは、この70mm(65mm)フィルムからダイレクトにテレシネされたものが使用されており、劇場での上映も他のバージョンと比べて、非常に鮮明なイメージを提供していた。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "エンドロール中にはポリドールよりサントラが発売される旨書かれているが、実際には発売されなかった。ヴァンゲリスより正式にリリースされるのはディレクターズ・カット(最終版)の後、1994年のことである。", "title": "サウンドトラック" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "以上の詳細は「ブレードランナー (アルバム)」の項を参照のこと。", "title": "サウンドトラック" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "2016年、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、リドリー・スコット製作総指揮のもと、続編『ブレードランナー 2049』の日本公開が2017年11月に決定したことが発表された。アメリカで2017年10月6日、日本では10月27日に公開された。ライアン・ゴズリング、ロビン・ライト、ジャレッド・レトのほか、ハリソン・フォードも再びデッカード役として出演した。", "title": "続編" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "原作者ディックの友人である作家K・W・ジーターが、映画の続編として小説3作を発表している。", "title": "続編" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "当作について、複数のドキュメンタリーが制作されている。", "title": "ドキュメンタリー" } ]
『ブレードランナー』は、1982年のアメリカ合衆国のSF映画。監督はリドリー・スコット、出演はハリソン・フォード、ルトガー・ハウアー、ショーン・ヤングなど。フィリップ・K・ディックのSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を原作としている。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Otheruses|1982年公開の映画}} {{Infobox Film | 作品名 = ブレードランナー | 原題 = {{en|Blade Runner}} | 画像 = Blade runner logo red.jpg | 画像サイズ = 240px | 画像解説 = | 監督 = [[リドリー・スコット]] | 脚本 = [[ハンプトン・ファンチャー]]<br />[[デヴィッド・ピープルズ]] | 原作 = [[フィリップ・K・ディック]]<br />『[[アンドロイドは電気羊の夢を見るか?]]』 | 製作 = {{仮リンク|マイケル・ディーリー|en|Michael Deeley}}<br />チャールズ・デ・ロージリカ<small>(ファイナル・カット)</small> | 製作総指揮 = ブライアン・ケリー<br />ハンプトン・ファンチャー<br />{{仮リンク|ジェリー・ペレンチオ|en|Jerry Perenchio}}<br />[[バッド・ヨーキン]]<br />[[邵逸夫]]<small>(クレジットなし)</small> | 出演者 = [[ハリソン・フォード]]<br />[[ルトガー・ハウアー]]<br />[[ショーン・ヤング]]<br />[[エドワード・ジェームズ・オルモス]] | 音楽 = [[ヴァンゲリス]] | 撮影 = [[ジョーダン・クローネンウェス]] | 編集 = [[テリー・ローリングス]]<br />マーシャ・ナカシマ | 製作会社 = {{仮リンク|ラッド・カンパニー|en|The Ladd Company}}<br />[[ショウ・ブラザーズ]]<br />ブレードランナー・パートナーシップ | 配給 = {{flagicon|USA}} [[ワーナー・ブラザース]] | 公開 = {{flagicon|USA}} [[1982年]][[6月25日]]<br />{{flagicon|JPN}} [[1982年]][[7月10日]] | 上映時間 = 116分(劇場公開版、ディレクターズ・カット)<br />117分(ファイナル・カット) | 製作国 = {{USA}}<br />{{HKG1959}} | 言語 = [[英語]] | 製作費 = $28,000,000 | 興行収入 = {{flagicon|USA}}{{flagicon|CAN}} $32,914,489<ref name="boxofficemojo">{{Cite BOM|id=0083658|title=Blade Runner|publisher_hide=1|language=en|accessdate=2023-02-09}}</ref><br />{{flagicon|World}} $41,722,424<ref name="boxofficemojo" /> | 前作 = | 次作 = [[ブレードランナー 2049]] }} 『'''ブレードランナー'''』(原題:''{{en|Blade Runner}}'')は、[[1982年の映画|1982年]]の[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ合衆国]]の[[SF映画]]。監督は[[リドリー・スコット]]、出演は[[ハリソン・フォード]]、[[ルトガー・ハウアー]]、[[ショーン・ヤング]]など。[[フィリップ・K・ディック]]の[[サイエンス・フィクション|SF小説]]『[[アンドロイドは電気羊の夢を見るか?]]』を原作としている<ref>{{Cite web|和書|url=https://ohtabookstand.com/2017/06/5122531/ |title=SF映画の金字塔『ブレードランナー』 監督は原作を読んでいなかった |access-date=2023-02-03 |publisher=[[太田出版]] |date=2017-06-05}}</ref>。 == ストーリー == <!-- あらすじは全体が簡潔に理解できる範囲で、結末まで記述ください。参照:「Wikipedia:あらすじの書き方」「Wikipedia:ネタバレ」 --> [[21世紀]]初頭、[[遺伝子工学]]技術の進歩により、タイレル社はロボットに代わる'''レプリカント'''と呼ばれる[[人造人間]]を発明した。彼らは優れた体力に、創造した科学者と同等の高い知性を持っていた。 [[環境問題|環境破壊]]により人類の大半は宇宙の植民地(オフワールド)に移住し、レプリカントは宇宙開拓の前線で過酷な奴隷労働や戦闘に従事していた。しかし、彼らには製造から数年経つと感情が芽生え、主人たる人間に反旗を翻す事件が発生する。そのため、最新の「ネクサス6型」には、安全装置として4年の寿命年限が与えられたが、脱走し人間社会に紛れ込もうとするレプリカントが後を絶たず、地球へ脱走した彼らは違法な存在と宣告された。そんな脱走レプリカント達を判別し見つけ出した上で「解任(抹殺)」する任務を負うのが、警察の専任捜査官「'''ブレードランナー'''」であった。 [[2019年]][[11月]]の[[ロサンゼルス]]。[[地球]]に残った人々は[[酸性雨]]の降りしきる、高層ビル群が立ち並んだ人口過密の[[メガロポリス|大都市]]での生活を強いられていた。ネクサス6型レプリカントの一団がオフワールドで反乱を起こし、人間を殺害して逃走、シャトルを奪い密かに地球に帰還した。タイレル社に入り込んで身分を書き換え、潜伏したレプリカントの男女4名('''ロイ・バッティ'''、'''リオン'''、'''ゾーラ'''、'''プリス''')を見つけ出すため、[[ロサンゼルス市警察|ロサンゼルス市警]]のブレードランナーである'''ホールデン'''が捜査にあたっていたが、リオンの反撃にあい負傷する。上司である'''ブライアント'''は'''ガフ'''を使いに出し、既にブレードランナーを退職していた'''リック・デッカード'''を呼び戻す。彼は情報を得るためレプリカントの開発者である'''タイレル博士'''と面会し、彼の秘書である'''レイチェル'''もまたレプリカントであることを見抜く。レイチェルはデッカードの自宅アパートに押しかけ問いただした結果、人間だと思っていた自分の記憶が作られたものだと知り、[[自己認識]]が揺さぶられ涙を流して飛び出してしまう。そんな彼女にデッカードは惹かれていく。 デッカードは、リオンが潜んでいたアパートの証拠物から足跡をたどり、歓楽街のバーで踊り子に扮していたゾーラを発見、追跡の末に射殺する。現場にブライアントとガフが訪れ、レイチェルがタイレル博士のもとを脱走したことを告げ、彼女も「解任」するよう命令される。その直後リオンに襲われて銃を落とすが、駆けつけたレイチェルが銃を拾ってリオンを射殺した事でデッカードは命拾いする。彼はレイチェルを自宅へ招き、彼女が自分のことも「解任」するのか問うと「自分はやらないが、他の誰かがやる」と告げる。そして未経験の感情に脅えるレイチェルにキスし、熱く抱擁する。一方反逆レプリカントのリーダーであるバッティは眼球技師のチュウを脅して掴んだ情報をもとに、プリスを通じてタイレル社の技師J・F・セバスチャンに近づき、さらに彼を仲介役にして、本社ビル最上階に住むタイレル博士と対面する。バッティは地球潜入の目的である、自分たちの残り少ない寿命を伸ばすよう依頼するが、博士は技術的に不可能であり、限られた命を全うしろと告げる。絶望したバッティは博士の眼を潰して殺し、セバスチャンをも殺して姿を消す。 タイレル博士とセバスチャン殺害の報を聞いたデッカードは、セバスチャンの高層アパートへ踏み込み、部屋に潜んでいたプリスを格闘の末に射殺。そこへ戻ってきたバッティと最後の対決に臨む。優れた戦闘能力を持つバッティに追い立てられ、デッカードはアパートの屋上へ逃れ、隣のビルへ飛び移ろうとして転落寸前となる。しかし、寿命の到来を悟ったバッティは突如デッカードを救い上げ、最期の言葉を述べた後、穏やかな笑みを浮かべながら事切れた。現場に現れたガフが不穏な言葉を告げ、デッカードはレイチェルにも同じ運命が待っているのではないかと慌てて自宅へ戻るが、彼女は生きていた。デッカードはレイチェルを連れ出し、逃避行へと旅立った。 == 登場人物・キャスト == ; リック・デッカード([[:en:Rick Deckard|Rick Deckard]]) : 演 - [[ハリソン・フォード]] : 本作の主人公。「殺し屋」としての仕事に疲れ果て、ブレードランナーを退職していたが、捜査のため強制的に復職させられる。 ; ロイ・バッティ<ref group="注釈">原作小説の邦訳(浅倉久志訳)では「ベイティー」と表記されている。</ref>(Roy Batty) : 演 - [[ルトガー・ハウアー]] : 反逆レプリカントのリーダー。戦闘用レプリカント。製造番号:N6MMA10816。 ; レイチェル(Rachael) : 演 - [[ショーン・ヤング]] : 本作のヒロイン。タイレル博士の秘書で、彼の姪としての記憶を移植されているレプリカント。 ; ガフ(Gaff) : 演 - [[エドワード・ジェームズ・オルモス]] : ロサンゼルス市警の刑事。「シティスピーク(Cityspeak)」という、[[日本語]]や[[ハンガリー語]]などが混じり合った[[クレオール言語]]を喋る。また[[折り紙]]を折る手癖がある。 ; ハリイ・ブライアント(Harry Bryant) : 演 - [[M・エメット・ウォルシュ]] : ロサンゼルス市警警部。ブレードランナーの統括者で、デッカードを脅すようなかたちで復職させる。レプリカントを「人間もどき(skin-job)」と呼び侮蔑する。 ; プリス・ストラットン(Pris Stratton) : 演 - [[ダリル・ハンナ]] : [[セクサロイド|慰安用]]レプリカント。バッティのパートナーで、彼の計画によりセバスチャンに接触する。製造番号:N6FAB21416。 ; J・F・セバスチャン(J. F. Sebastian) : 演 - [[ウィリアム・サンダーソン]] : タイレル社の[[遺伝子工学]]技師。[[早老症]]に侵されており、実年齢より老いた外見をしている。自宅アパートで自身が造り出した「ペット」と共に暮らしている。 ; リオン・コワルスキー(Leon Kowalski) : 演 - [[ブライオン・ジェームズ]] : 労働用レプリカント。元は[[放射性廃棄物]]の運搬作業に従事しており、怪力の持ち主。製造番号:N6MAC41717。 ; エルドン・タイレル博士(Dr. Eldon Tyrell) : 演 - [[ジョー・ターケル]] : タイレル社社長。レプリカントを生んだ科学者で[[チェス]]の名手。 ; ゾーラ・サロメ(Zhora Salome) : 演 - [[ジョアンナ・キャシディ]] : 女性レプリカント。暗殺用に再プログラミングされている。ルイスのバーにダンサーとして潜伏していた。製造番号:N6FAB61216。 ; ハンニバル・チュウ(Hannibal Chew) : 演 - [[ジェームズ・ホン]] : 遺伝子工学者。タイレル社に雇われ、レプリカントの眼球を製作している。 ; デイヴ・ホールデン(Dave Holden) : 演 - {{仮リンク|モーガン・ポール|en|Morgan Paull}} : ブレードランナー。リオンを取り調べ中に銃撃される<ref group="注釈">ホールデンは映画制作上は死亡していないが、そのことがわかるシーンが削除されてしまったため(「[[#没シーン]]」参照)、作品を紹介する際には「リオンに撃たれて死亡した」という扱いにされていることが多い。劇中には、彼が医療機器に繋がれた重体であることを伝えるブライアントの台詞があるが、彼が死んだかのように訳されている日本語版もある。</ref>。 ; タフィー・ルイス(Taffey Lewis) : 演 - {{仮リンク|ハイ・パイク|en|Hy Pyke}} : ゾーラが潜伏していたバーの経営者。デッカードの尋問を受け流した。 ; カンボジア女性(Canbodian Lady) : 演 - キミコ・ヒロシゲ : ロサンゼルスの路上で商売をしている女。鱗の証拠物を調べ、合成ヘビであることをデッカードに伝えた。 ; スシマスター(Sushi Master) : 演 - [[ロバート・オカザキ]] : ダウンタウンの屋台“ホワイトドラゴン(白龍)”で働く日系人。 ハウイー・リー(Howie Lee)とも書かれているが、これは1997年発売のビデオゲームで付けられた名前。 ; アブドゥル・ベン・ハッサン(Abdul Ben Hassan) : 演 - ベン・アスター(劇場公開版ではクレジットなし) : 合成動物を販売している商人。ゾーラに合成ヘビを販売した。 [[File:Blade_Runner_-_4768124514.jpg|thumb|left|260px|[[シアトル]]の{{仮リンク|SF博物館|en|Museum of Pop Culture#Science Fiction Museum}}(Science Fiction Museum & Hall of Fame)に収蔵・展示されている、作中で使用された衣装<br />セバスチャンの衣装(左)レイチェルのドレス(中)ゾーラのレインコート(後列右)]] {{-}} == 内容解説 == [[ネオ・ノワール]]を基調とした暗く退廃的な近未来のビジュアルは、公開当初こそ人気を得なかったものの、後発のSF作品に大きな影響を与え、所謂「[[サイバーパンク]]」の代表作の一つと見なされている。[[シド・ミード]]の美術デザイン、[[ダグラス・トランブル]]の[[VFX]]、[[ジャン・ジロー|メビウス]]の衣装デザイン、[[ヴァンゲリス]]の[[シンセサイザー]]を効果的に使用した音楽も独自の世界観の確立に貢献した{{R|eiga 53062 i}}。 リドリー・スコットが「彼女は完璧だった」と評したレイチェル役の[[ショーン・ヤング]]<ref>{{Cite news|author=アクトンボーイ|url=https://theriver.jp/rachel/|title=『ブレードランナー』レイチェルは何処へ消えた?悲運の女優ショーン・ヤングの半生と現在【はじめてのブレードランナー3】|work=THE RIVER|publisher=riverch|date=2017-10-27|accessdate=2023-06-11}}</ref>、そしてプリス役の[[ダリル・ハンナ]]も本作をきっかけに注目されるようになった{{R|eiga 53062 i2}}。 作中の風景に日本語が多く描かれている理由は、スコットが来日した際に訪れた[[新宿]][[歌舞伎町]]の様子をヒントにしたとされている<ref>{{Cite news|author=トライワークス|url=https://moviewalker.jp/news/article/125283/|title=『ブレラン』謎の日本語は歌舞伎町がネタ元!?新作に“日本要素”は登場するのか?|work=[[MOVIE WALKER PRESS]]|publisher=[[ムービーウォーカー]]|date=2017-10-25|accessdate=2023-06-13}}</ref>。このことが日本人観客の興味をひくことになり、これらのシーンへのオマージュ・議論が生まれることになった。また、スコットは都市の外観は[[香港]]をモデルにしていることを述べている<ref>Wheale, Nigel (1995), The Postmodern Arts: An Introductory Reader, Routledge, p. 107, ISBN 978-0-415-07776-7, retrieved July 27, 2011</ref>。なお、香港の[[ショウ・ブラザーズ]]が制作費の大半を出資したために本作は事実上アメリカ・香港合作であり<ref>Bukatman, Scott (1997), BFI Modern Classics: Blade Runner, London: British Film Institute, ISBN 978-0-85170-623-8 pp. 18–19</ref><ref>Sammon, Paul M. (1996), Future Noir: the Making of Blade Runner, London: Orion Media, ISBN 978-0-06-105314-6 pp. 64–67</ref><ref>{{cite web|url=https://www.scmp.com/lifestyle/entertainment/article/3039971/blade-runner-2019-what-did-it-get-right-about-hong-kong|title=Blade Runner in 2019 – what did it get right about Hong Kong life today and how great was its influence on science fiction?|publisher=[[サウスチャイナ・モーニング・ポスト]]|date=2019-12-01|accessdate=2019-12-02}}</ref>、ショウ・ブラザーズの創設者である[[邵逸夫]]は本作で製作総指揮にクレジットされている。 [[1993年]]に[[アメリカ国立フィルム登録簿]]に永久保存登録された。[[2007年]]、[[視覚効果協会]]が発表した「[[視覚効果]]面で最も影響力がある50本の映画」で第2位にランクインした<ref>[https://web.archive.org/web/20110106231539/http://www.visualeffectssociety.com/system/files/15/files/ves50revelfin.pdf]</ref>。[[2014年]]、イギリスの情報誌『{{仮リンク|タイム・アウト|en|Time Out (magazine)}}』ロンドン版にて[[アルフォンソ・キュアロン]]、[[ジョン・カーペンター]]、[[ギレルモ・デル・トロ]]、[[エドガー・ライト]]ら映画監督、作家の[[スティーヴン・キング]]、ほか科学者や評論家150名が選定した「SF映画ベスト100」にて、第2位にランクインした<ref>[https://www.timeout.com/london/film/the-100-best-sci-fi-movies#tab_panel_10 The 100 best sci-fi movies - Time Out London]</ref>。 === 原作 === 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』とは設定や登場人物、物語の展開、結末などが翻案により大きく異なっており、原作というよりは原案に近い扱いである。 [[1968年]]の原作発表後から程なくして、いくつかの映画化交渉が持ち上がったが、いずれも不成立に終わっていた。[[1975年]]、[[ハンプトン・ファンチャー]]は作者の[[フィリップ・K・ディック]]との交渉を行ったものの成立せず、友人のブライアン・ケリーが交渉にあたり<ref>{{Cite interview|language=ja|subject=ハンプトン・ファンチャー|subjectlink=ハンプトン・ファンチャー|date=2017-09-29|interviewer=Sonia Shechet Epstein|title=Interview with Writer Hampton Fancher of Blade Runner|url=https://scienceandfilm.org/articles/2979/interview-with-writer-hampton-fancher-of-blade-runner|work=Sloan Science & Film|publisher=[[:en:Museum of the Moving Image|Museum of the Moving Image]](映画博物館)|access-date=2023-08-21}}</ref>、[[1977年]]に承諾を取り付けた。ディック自身は制作会社に映画化権を売った後は関与していないが、ファンチャーが書き上げた草稿に彼は良い返事を出さず、何度も改稿が行われた。撮影開始後も映画の出来を不安視し、ノベライズ版の執筆も断っていたが、2019年のロサンゼルスを描いた[[VFX]]シーンの[[ラッシュプリント|ラッシュ]]試写を観て「まさに私が想像したとおりものだ!」と喜んだという。監督のスコットは、就任にあたって全く原作を読んでいなかったが{{R|eiga 53062 s}}、作品の世界観についてディックと何度も議論を交わしたことで、彼は映画の出来に確信を持つようになり、制作会社に「我々の"SFとは何であるか"という概念にとって革命的な作品となるだろう」と期待の手紙を送っている<ref>[https://archive.is/20120604141632/http://www.philipkdick.com/new_letters-laddcompany.html Philip K. Dick - Letter regarding Blade Runner](archive.isによる2012年6月4日分キャッシュ)</ref>。本作は『[[トータル・リコール]]』や『[[マイノリティ・リポート]]』に先立つ、ディック作品の初映画化となったが、本人は完成を待たず1982年3月2日に死去した{{R|eiga 53062 s}}。 === 「ブレードランナー」と「レプリカント」 === 本作に登場する「ブレードランナー」と「{{仮リンク|レプリカント (ブレードランナー)|en|Replicant|label=レプリカント}}」は、原作には登場しない映画オリジナル用語である。 「ブレードランナー」という名称は、SF作家[[アラン・E・ナース]]の小説『The Bladerunner』(1974年)において「非合法医療器具(blade)の運び屋(runner)」という意味で登場する。この小説を元に[[ウィリアム・S・バロウズ]]は映画化用の翻案として『Blade Runner (a movie)<ref group="注釈">初版時は『Blade Runner (a movie)』であったが、1980年代の再版で『Blade Runner, a movie』と表記されるようになった。</ref>』(1979年、訳題『[[映画:ブレードランナー]]』)を執筆した。関連書籍『メイキング・オブ・ブレードランナー ファイナル・カット』記載のスコットのインタビューによれば、本作の制作陣はデッカードにふさわしい職業名を探すうちにバロウズの小説を見つけ<ref group="注釈">シナリオの初稿を書いた[[ハンプトン・ファンチャー]]はバロウズのファンであった。</ref>、本のタイトルのみを借り受けることに決めたという。いずれの小説も物語自体は、ディックの原作および映画とも全く関連はないが、作品タイトルとするにあたり、ナースとバロウズに使用権料を払い、エンドクレジットに謝辞を記している{{R|eiga 53062 s}}。なお初期タイトルは『デンジャラス・デイズ(Dangerous Days)』であった(このタイトルは後にメイキング・ドキュメンタリーのタイトルに使用されている)。 「レプリカント(replicant)」という名称については、原作の「アンドロイド」が機械を連想させることと、観客に先入観を持たれたくないと考えたスコットが、ファンチャーに代わって起用した脚本の[[デヴィッド・ピープルズ]]に別の名前を考えるように依頼。[[生化学]]を学んでいた娘から[[クローン]]技術の「レプリケーション(細胞複製)」という用語を教わり、そこから「レプリカント」という言葉を創造した<ref>[[町山智浩]]『ブレードランナーの未来世紀』p.232</ref>{{R|eiga 53062 s}}。以降、(創作における)人造人間を指す用語として辞書にも掲載されるなど、定着している<ref>{{Cite book|洋書|author=Angus Stevenson編|title=The Oxford Dictionary of English (3rd Revised)|year=2010|publisher=Oxford University Press|isbn=978-0-19957-11-23|page=}}</ref>。 === フォークト=カンプフ検査 === 「フォークト=カンプフ(Voight-Kampff{{refnest|group="注釈"|name="VK"|原作小説では「Voigt-Kampff」という綴りになっている。<br />なお、原作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の日本語訳(訳:[[浅倉久志]])では「フォークト=カンプフ」、映画の日本語字幕では「VKテスト」と表記されている。<br />日本における他の表記としては「'''フォクト'''=カンプフ」「'''ヴォークト'''=カンプフ」、また劇中での発音に近い「ヴォイト=カンプ」等がある。}})」検査は人間とレプリカントを区別するための架空の検査法で、そのための唯一の方法である。この時代に生きる人間の感情を大きく揺さぶるような質問を繰り返し、それに対して起きる肉体的反応を計測することで、対象が人間かレプリカントであるかを判別することができる、とされている。 検査は専用の分析装置を用いることによって行われ、装置は本体に黒い大きな[[蛇腹]]状のパーツと数種類のモニタを備え、本体から伸びる伸縮式のアームの先には反射鏡式光学照準装置のようなものが取り付けられている。アーム先端の装置には[[虹彩]]を計測するビデオカメラを内蔵しており、収縮する蛇腹状のパーツは「対象者の身体表面より発散される粒子を収集するための装置」である<ref name="MOB_p128129" />。 劇中では、リオンとレイチェルがこれによりテストを受けているシーンがあり、デッカードとタイレルの会話において、レプリカントであるか否かを判定するためには通常2~30項目の質問が必要になる、と述べられているが、レイチェルがレプリカントであることを判定するには100項目以上の質問が必要であった。この描写から、質問項目に対する反応は「自分がレプリカントという自覚があるかどうか」に大きく左右されること、「記憶」の内容(レプリカントの場合は記憶として「移植」されたものの内容)によっては、レプリカントであるか否かの判定が容易には行えなくなり、テストの正確性が大きく揺らぐことがわかる<ref group="注釈">これは原作の重要なテーマである「“人間らしさ”を絶対的に判定する方法など存在するのか?」「人間とレプリカントの決定的な違いとは何なのか?」に関連しているが、このシーンのみでは「レイチェルは特別なレプリカントである」という以上のことを読解することは難しくなっている。</ref>。 === 時代設定 === 撮影中の脚本やスケジュールの変更、単純なミスなどにより、劇中では整合性のとれない箇所がいくつかみられる。当初、本作の年代設定は2020年だった。しかし、英語において「Twenty-Twenty」が[[視力検査]]で少数視力でいうところの1.0を表す言葉でもあるため、混同を避けるため、2019年に舞台が変更された。そのため登場するレプリカントの寿命に1年のズレがあるという矛盾が生じたが、気付かれずにそのまま撮影されてしまった。 === 6人目のレプリカント === ミスの中で生まれたものとして有名なのが「6人目のレプリカントはどこに行ったのか?」という問題である。警察署のシーンでブライアントは、地球に侵入したレプリカントは「男3人、女3人の計6名」であり、「うち1名は既に死亡している」と説明している。残りは5名となるはずだが、彼は「4名が潜伏中」と言い、劇中でもそれしか登場しない。 ファンチャーの脚本では5人目のレプリカント「ホッジ」と6人目の「メアリー」が設定されており、後者については配役も決まっていたが({{仮リンク|ステーシー・ネルキン|en|Stacey_Nelkin}}が演じる予定だった)、予算の都合で撮影されなかった。しかし、[[ポストプロダクション]]で台詞の差し替えをしなかったため、ブライアントの説明に矛盾が生じる結果となった。その後、彼の台詞は『ファイナル・カット』において「2名が既に死亡」に修整された。 続編として発表された小説『ブレードランナー2 レプリカントの墓標』は、この6人目のレプリカントに関する物語になっている。また、当初はタイレル博士もレプリカントだという設定だった(後述)。 === デッカードは何者なのか === 上述の6人目のレプリカント問題に関して、「6人目とはデッカード自身ではないのか?」という考察が生まれたが、これは実際は制作上のミスによるもので、意図的な表現では無い。スコット自身は「デッカード=レプリカント」というアイデアを撮影中に気に入り<ref>"The Blade Cuts" ''[[:en:Starburst (magazine)|Starburst]]'', No.51 (Nov.1982), p.29</ref>、それを示唆する表現である「デッカードが見る[[ユニコーン]]の夢」のシーンを撮影作業終盤に撮影し<ref group="注釈">『[[レジェンド/光と闇の伝説]]』用の映像を流用したとする説があるが、誤りである。ドキュメンタリー『デンジャラス・デイズ:メイキング・オブ・ブレードランナー』内の映りこんだ[[カチンコ]]によって、このシーンは本作用に1981年10月15日に撮影されたことが確認出来る。</ref>、劇場公開版に入れようとした。しかし当時のプロデューサー達は「芸術的すぎる」と拒否した。 このシーンは『ディレクターズ・カット』において初めて追加され、ラストシーンのガフが作ったユニコーンの[[折り紙]]と結びつくことによって、「デッカードの夢の内容が知られている=彼の記憶は作られたものである=デッカードもレプリカントである」という可能性を示唆した{{R|cinematoday 20171017}}。スコット自身は、2000年に[[イギリス]]の[[チャンネル4|Channel 4 Television]]が制作したドキュメンタリー『ON THE EDGE OF BLADE RUNNER』のインタビューにおいて「デッカードはレプリカントだ」と明言している。また、『メイキング・オブ・ブレードランナー ファイナル・カット』掲載のインタビューでは他のヒント(家族写真やデッカードの[[赤目現象]]シーン)も挙げた上で、より人間に近いネクサス7型レプリカントというアイデアを示唆している。また[[オーディオコメンタリー]]においては、「続編は無い」とした上で「もし続編があれば、デッカードをレプリカントにしようと思った」とも語っていた。しかし2017年の[[Ultra HD Blu-ray|4K ULTRA HD]]版収録の、[[オーディオコメンタリー]]においては「続編を作りたい」と語り、またラストシーンについては「デッカードとレイチェルがネクサス7型や8型なら生き延びたろうね」とも述べている。 ただしスコットの見解に対する関係者の意見は様々である。ガフを演じた[[エドワード・ジェームズ・オルモス]]はスコットと同じ意見で、ユニコーンの夢を根拠にデッカードがレプリカントなのは明らかだと明言する一方{{R|theriver 20210413|eiga 53062 i2}}、脚本のファンチャーは人間説を唱え、スコットと論争を続けるフォードもまた<ref>{{Cite news|url=https://www.crank-in.net/news/47322/1|title=『ブレードランナー』デッカードはレプリカント? H・フォードとR・スコットが討論|work=クランクイン!|publisher=[[ブロードメディア]]|date=2016-12-26|accessdate=2023-06-04}}</ref>、観客はデッカードを応援したいはずだという理由で、レプリカントであるということを否定している<ref name="町山・映画秘宝">{{Cite book|和書|author=町山智浩|authorlink=町山智浩|title=〈映画の見方〉がわかる本80年代アメリカ映画カルトムービー篇「ブレードランナーの未来世紀」 (映画秘宝コレクション)|edition=初版|date=2005-12-20|publisher=[[洋泉社]]|isbn=9784896919745|accessdate=2023-06-05}}</ref>。しかし後にフォードは{{行内引用|私は、ずっと彼がレプリカントだと知っていました}}とも証言しており、{{行内引用|レプリカントは自分自身を人間だと信じたいもの}}であり、デッカードを演じて{{行内引用|抗いたい思いもあった}}と述べている<ref>{{Cite news|author=中谷直登|url=https://theriver.jp/blade-runner-ford-decjard-debate/|title=『ブレードランナー』デッカードは人間か、レプリカントか ─ ハリソン・フォードが新証言「私はずっと知っていた」|work=THE RIVER|publisher=riverch|date=2023-06-02|accessdate=2023-06-03}}</ref>。またデッカードがレプリカントというアイデアは撮影途中でスコットが思いついたことで、当初はそのように考えて撮影されていなかったとされ{{Refnest|group="注釈"|デヴィッド・ピープルズが脚本に、デッカードの独白として「バッティと私は兄弟だったのだ」という台詞を挿入したのを見たスコットは、デッカードがレプリカントだとする設定に感銘を受けたが、彼は「あくまでデッカードの独白は比喩的なもので、本当に兄弟であることを示しているわけではなかった」と考えていたとされる{{R|町山・映画秘宝}}。}}、フォードもレプリカントだとは指示を受けておらず、撮影時には人間として演じたという<ref name="cinematoday 20171017">{{Cite news|author=平沢薫|url=https://www.cinematoday.jp/page/A0005708|title=ブレードランナーって何だっけ?~『ブレードランナー』から『ブレードランナー 2049』への道~|work=[[シネマトゥデイ]]|publisher=[[シネマトゥデイ (企業)|株式会社シネマトゥデイ]]|date=2017-10-17|accessdate=2023-06-06}}</ref>。 以上のように諸々の経緯はあるが、「デッカード=レプリカント説」を断定出来るような描写はどの版の劇中にも存在しない。 === ハリソン・フォード === フォードは、この映画については長年否定的であった。これは、興行的に失敗したことの他に、撮影が一旦終了したにも拘らず、何度も追加撮影のために呼ばれたのに我慢ができなくなったことによるという。 また、レイチェル役のショーン・ヤングが、撮影中にフォードから乱暴に扱われたという理由で<ref name="eiga 53062 s2">{{Cite news|url=https://eiga.com/movie/53062/special/2/|title=ブレードランナー ファイナル・カット: 特集 - 「ファイナル・カット」はどこが違う?「ブレードランナー」裏ネタ集(2)|work=[[映画.com]]|publisher=エイガ・ドット・コム|date=2007-11-15|accessdate=2023-06-11}}</ref>、不仲のまま撮影が行われたという経緯がある<ref group="注釈">ドキュメンタリー『デンジャラス・デイズ:メイキング・オブ・ブレードランナー』の中で、ハリソン自身もそのことについて触れている。</ref>。ディレクターズ・カットが公開された[[1992年]]には、「デッカード=レプリカント説」をめぐってスコットと揉めたこともあった。こうした経緯があり、長い間作品の事を語りたがらなかった。しかしある時期からは「本作以降出演作を自由に選べるようになった」と述べるなど、態度を軟化させるようになり、積極的ではないがインタビュー等にも答えている<ref group="注釈">『メイキング・オブ・ブレードランナー ファイナル・カット』に収録されている(付録:10)「デッカードは語る ハリソン・フォード: インタビュー」(p.589-615)</ref>。その後、続編となる『[[ブレードランナー 2049]]』への出演も快諾した。 == 演出 == 映画『[[エイリアン (映画)|エイリアン]]』のSEや、救命艇ナルキッソス号が母船ノストロモ号から切り離される際のシークエンスで表示されるモニター画像をさりげなく挿入するなど、スコットのお遊びが散見される。ディックの小説『高い城の男』の世界観(枢軸国が勝利した世界)が想定されている可能性がある。 レプリカントのリーダー、バッティ<ref group="注釈">原作小説の邦訳(浅倉久志:訳)では、「ベイティー」と表記されている。</ref>役の[[ルトガー・ハウアー]]は人造人間の狂気と悲哀を好演した。ラストの独白シーンの台詞や演出は、本来の台本が長すぎると感じた彼が撮影時に提案したアドリブで、要約したピープルズの脚本に独自の台詞を加えて完成した。モノローグ「雨の中の涙」([[:en:Tears in rain monologue|Tears in rain monologue]])として知られる<ref>{{Cite news|author=アクトンボーイ|url=https://theriver.jp/blade-runner-introduction-2/|title=【特集】『ブレードランナー』伝説の名ゼリフ『雨の中の涙』を徹底解説【はじめてのブレードランナー2】|work=THE RIVER|publisher=riverch|date=2017-07-13|accessdate=2023-06-06}}</ref>。このシーンを撮り終えると拍手が起こりスタッフも涙していたという<ref>{{Cite interview|language=ja|subject=ルトガー・ハウアー|subjectlink=ルトガー・ハウアー|date=2019-07-25|interviewer=ヒュー・フラートン|title=Rutger Hauer dissects his iconic "tears in rain" Blade Runner monologue|url=https://www.radiotimes.com/tv/sci-fi/blade-runner-tears-in-rain-speech/|work=[[ラジオ・タイムズ]]|publisher=[[:en:Immediate Media Company|イミディエイト・メディア]]|access-date=2023-06-07}}</ref>。また白い鳩が飛び立つ描写もハウアーのアイデアだった<ref name="eiga 53062 i2">{{Cite news|author=佐藤睦雄|url=https://eiga.com/movie/53062/interview/2/|title=ブレードランナー ファイナル・カット インタビュー: リドリー・スコット監督&主要キャスト インタビュー(2)|work=[[映画.com]]|publisher=エイガ・ドット・コム|date=2007-11-15|accessdate=2023-06-06}}</ref>。 ガフがデッカードに呼び掛ける「彼女も生きられずに残念ですな。だが、誰もがそうかもしれない」という台詞も、演じたオルモスによって付け足され、脚本にあった「お見事ですな」に続けて去り際に言った言葉が、思いもかけず完成した映画に残されたという<ref name="theriver 20210413">{{Cite news|author=稲垣貴俊|url=https://theriver.jp/blade-runner-gaff-improvised/|title=『ブレードランナー』ラスト、ガフの名ゼリフは俳優の即興だった「本編に残るなんて思いませんでした」|work=THE RIVER|publisher=riverch|date=2021-04-13|accessdate=2023-06-07}}</ref>。 ロサンゼルスの街にさまざまな人種が入り乱れて生活する様子を描写するため、日本語をはじめとする多国語の看板、日本語を話す店主が切り盛りする露店、日本語による話し声が多用されている。また、「ふたつで十分ですよ」{{R|riff 20191025}}とハリソン・フォードとやりとりしている寿司屋の主人ハウイー・リーは、[[ロバート・オカザキ]]という[[日系アメリカ人]]俳優である<ref>[https://www.imdb.com/name/nm0645565/ Bob Okazaki (1902–1985)] IMDb</ref><ref group="注釈">オカザキは[[1969年]]のテレビドラマ『THE F.B.I.』で、当時はまだ有名になる前のハリソン・フォードと共演している。</ref>。以下に代表的なものを挙げる。 * シド・ミードのアイデアとされる{{R|eiga 53062 s}}、「強力わかもと」<ref>{{Cite news|author=オンダユウタ|url=https://ure.pia.co.jp/articles/-/67575?page=2|title=【特集】“強力わかもと”は実在した!正式採用された「デッカード・ブラスター」も並んだ「東京コミコン」ブレードランナー研究会ブースが熱い - 芸者ガールが宣伝する「強力わかもと」ロゴは無断使用!?|work=Medery. Character's|publisher=[[ぴあ]]|page=2|date=2016-12-04|accessdate=2023-06-07}}</ref>。その他にも「゜コ゛ルフ月品{{sic}}」「日本の料理」など日本語の看板、ネオンサイン、壁面の落書き。 * デッカードが屋台で日本語を話す店主にメニューを注文する際のやりとり<ref name="riff 20191025">{{Cite news|author=Mari Takahashi|url=https://riff.opensauce.co/truth-of-blade-runner-famous-scene-two-is-enough/|title=『ブレードランナー』「二つで十分ですよ」の正体|work=RIFF|publisher=OPENSAUCE|date=2019-10-25|accessdate=2023-06-07}}</ref>。 * デッカードを連れ去るパトカー(エアカー)のドアに漢字で『警察995』の正式表示<ref>{{Cite tweet|author=フィルムアート社|user=filmartsha|number=1289045423005421568|title=映画『ブレードランナー』で、ガフが乗る空飛ぶ車「スピナー」の車体にご注目。…「警察995」|date=2020-07-31|accessdate=2023-06-14}}</ref>。 * いくつかのシーンで、シチュエーションに合わない日本語のガヤ(雑踏での台詞)が繰り返し使用。 <!-- 本項の修正に関わりたい方へ。[[ノート:ブレードランナー#ロケーション他の項について]]にご参加ください --> またミニチュア・クルーによる演出外の趣向として、『[[未知との遭遇]]』のマザーシップや、『[[スター・ウォーズ]]』のミレニアム・ファルコン号、そして『[[ダーク・スター]]』の模型が画面に登場する{{R|eiga 53062 s}}。 == デザイン == 監督のリドリー・スコットはSFホラー『[[エイリアン (映画)|エイリアン]]』(1979年)に次ぐSF作品となる本作でも、卓越した映像センスを発揮した。従来のSF映画にありがちだったクリーンでハイテクな未来都市のイメージを打ち破り、環境汚染にまみれた酸性雨の降りしきる、退廃的な近未来の大都市を描いた。これは、シナリオ初稿を書いた、[[ハンプトン・ファンチャー]]が、[[フランス]]の漫画家[[ジャン・ジロー|メビウス]]が描いた[[バンド・デシネ]]短編作品『ロング・トゥモロー』(原作は『エイリアン』の脚本家[[ダン・オバノン]])での、「混沌とした未来社会での[[フィリップ・マーロウ]]的な探偵の物語」をイメージしていたためだった。 劇中の無国籍で混沌としたロサンゼルスのイメージは、メビウスの作品そのものである{{refnest|group="注釈"|町山智浩は「このメビウスの短編こそ、スコットにとっての、この映画の原作である。なぜなら、彼はディックの原作を一度も読んでいないのだから」と主張している<ref>[[町山智浩]]『ブレードランナーの未来世紀』p.229-p.230</ref>。}}。スコットは映画のスタッフにメビウスの参加を熱望したが、アニメーション『{{仮リンク|時の支配者|fr|Les Maîtres du temps}}』の作業に携わっていた彼は、衣装デザインのみの参加となった{{refnest|group="注釈"|ノンクレジットながら、目を引くレイチェルやデッカードの衣装を手掛けた{{R|eiga 53062 s2}}。}}。また、インタビューでは度々[[エンキ・ビラル]]の作品の世界観を参考にしたとの発言が出ている。 <gallery widths="200px" heights="180px"> ファイル:Tyrell_Building.jpg|撮影に使用されたタイレル社本社ビルのミニチュア(前面部分の一部)<br />[[ニューヨーク]]、[[クイーンズ区]]アストリアの動画博物館(Museum of the Moving Image)[[:en:Museum of Science Fiction|(英語版)]]の展示品<br />(2019年4月17日撮影) |作中で用いられた広告[[飛行船]]のミニチュア<br />[[カリフォルニア州]][[バーバンク (カリフォルニア州)|バーバンク]]の[[ワーナー・ブラザース]]・スタジオの展示品<br />(2017年8月18日撮影) </gallery> === シド・ミード === 本作を特徴づけているものの一つが、「ビジュアル・フューチャリスト」こと[[シド・ミード]]による一連のデザインである。 ミードは最初は作品に登場する車両のデザイナーとして着目され、起用された。1979年に出版された個人画集の中の1枚である「雨の降る未来の高速道路の情景」に目を留めたリドリー・スコットが、作中に登場する未来の自動車のデザインを依頼したことがきっかけであった<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.97</ref>。 当初はミードは車両のみを担当する予定であったが、ミードは自身のデザインに対する姿勢として「工業製品は、それが使用される状況や環境とセットでデザインされなければならない」というポリシーを持っており、「未来の乗用車」のカラーイラストの背景に描かれた未来都市のイメージに魅了されたスコットは、車両以外にも室内インテリア、未来の銃、パーキングメーター、ショーウィンドー等のセットや小道具のデザインを依頼し、さらに建築、都市の外観、列車や駅、コンピュータ等のインターフェースに至る、作中に登場するありとあらゆる工業製品のデザインを依頼した<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.98-101</ref><ref group="注釈">これらのデザイン画は『Blade Runner Sketchbook』に収録されている。</ref>。 ただし、ミードが本作のためにデザインしたものが全て劇中で使われたわけではなく、幾つかのものはスコットにより「未来的にすぎる」という理由で却下されている<ref name="MoB_p144">『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.144</ref>。未来の銃(後述「[[#デッカードブラスター]]」参照)や、医療用のカプセル型ベッド(後述「[[#没シーン]]」参照)等である。 ミードはこれまでも美術やメカデザイン等で映画に参加していたが、本作で初めて以降の肩書きである「ビジュアル・フューチャリスト」を名乗り、またエンドロールにおける単独クレジットがなされた。 === フォークト=カンプフ・マシン === フォークト=カンプフ・マシン<ref group="注釈" name="VK" />は、対象がレプリカントであるかどうかを判断するためにブレードランナーが使用する一種の[[ポリグラフ]]([[嘘発見器]])で、呼吸などの身体機能を測定し、毛細血管の膨張による血流の増大や、質問に対しての心拍数および眼球運動を測定して判定する装置である<ref name="MOB_p128129">『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.128-129</ref>。 1982年、初公開時のプレスキットの説明には {{Quotation|非常に高度な形態の嘘発見器の一種で、虹彩の筋肉の収縮と、身体から放出される目に見えない浮遊粒子の存在を測定する。<br />稼働するベローズは後者の機能のために設計され、機械に不吉な昆虫のような印象を与えます。<br />主にブレードランナーによって使用され、慎重に選定された言葉で質問することにより対象の共感反応の程度を測定することで、容疑者が本当に人間であるかどうかを判断します。}} とある。 [[File:Smell_Fear_(3043373242).jpg|thumb|240px|シド・ミードによるフォークト=カンプフ・マシンのデザイン画]] スコットはこの検査装置をデザインするにあたり、「ハイテク機器のようには見えない」「対象者を威嚇するような感じに」「デリケートな装置に見えるように」という要望を出した<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.128</ref>。ミードは彼の出した要望に対して、「自室の机の上のライトに大きな[[タランチュラ]]が取り付いている」というビジュアルイメージを思い浮かび、そのイメージに従って、見た者に「生きているような感じ」を与えられるものをデザインした<ref name="MOB_p129">『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.129</ref>。デザインの意図としては「視線を合わせられ続けることの威圧感」「機械が呼吸しているように見えることへの気持ち悪さ」を感じさせることを念頭に置いている<ref name="MOB_p129" />。 なお、プロップとして製作された装置にはカメラ機能はなく、モニターには実際にそのシーンで「検査」されている俳優の瞳が映っているわけではない。俳優たちの瞳のクローズアップも撮影されたが、モニタに当たる部分に投影されているのは、科学教育用フィルムの素材提供会社より調達された別人の瞳の映像である<ref name="MOB_p129" />(そのため、レイチェル役のヤングは瞳がブラウンであるにもかかわらず、モニターではグリーンに映っている)。 {{-}} === フューチャーカー === [[画像:Blade_Runner_Police_Car_(4957139342).jpg|thumb|220px|[[フロリダ州]]の{{仮リンク|アメリカ警察殿堂博物館|en|American Police Hall of Fame & Museum}}(American Police Hall of Fame&Museum)に展示されている“デッカード・セダン”<br />(2010年9月4日撮影)]] 前述のように、ミードは当初「カーデザイナー」として起用された。彼の描いたコンセプトデザイン<ref>『Blade Runner Sketchbook』p.5-16。</ref>は、カスタムカーデザイナーの{{仮リンク|ジーン・ウィンフィールド|en|Gene_Winfield}}によって、デッカードの乗るセダンやセバスチャンの乗る[[バン (自動車)|バン]]{{refnest|group="注釈"|この左右非対称の奇妙な車には、デザインしたシド・ミードによって“アルマジロ・ヴァン”の名前がつけられていた<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.162。</ref>}}など、[[セダン]]タイプのものから[[コンパクトカー]]タイプのものなど、25種類に及ぶ各種の車両にリファインされた<ref>{{Citation|url=http://media.bladezone.com/contents/film/interviews/gene-winfield/|publisher=Bladezone|title=BladeZone's Gary Willoughby has a One on One chat with Gene Winfield, the builder of the full size cars and spinners from the classic film Blade Runner.|last=Willoughby|first=Gary|accessdate=July 27,2011|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130927020356/http://media.bladezone.com/contents/film/interviews/gene-winfield/|archivedate=September 27, 2013}}</ref>。当初は57台が製作される予定で<ref group="注釈">『メイキング・オブ・ブレードランナー』では「57台」とされているが、後に『メイキング・オブ・ブレードランナー ファイナル・カット』に改めて収録された部分(「甦るフライング・スピナー」p.427-)では、「54台」となっている。</ref>、予算と製作期間の問題から台数は半分の25台に減らされたが、納入前に工房で火災が発生して2台が焼失し、最終的には23台が納品された<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー ファイナル・カット』p.429</ref><ref group="注釈" name="MOB-FC_p121124_427437">これら劇中に登場した車両群については、『メイキング・オブ・ブレードランナー』および『メイキング・オブ・ブレードランナー ファイナル・カット』の「近未来都市リドリーヴィル」(p.121-124)、「甦るフライング・スピナー」(p.427-437)の項に詳しい。</ref>。 この他、撮影所の倉庫の隅に保管されていた1960年代の中古車があり、それらは他の映画の撮影に際して様々な装飾が施されていたものだが、これらも「エキストラ」として渋滞の列に並ぶ車として用いられている<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.122</ref><ref group="注釈">これらのうち車種が明確に判別できるものとしては、[[ゼネラルモータース|GM]]社製の[[:en:GM "old-look" transit bus|バス]]、[[クライスラー]][[インペリアル (自動車)#1960 - 1963年|インペリアル 1960年式]]がある。</ref>。 ==== スピナー ==== 「スピナー([[:en:Spinner (Blade Runner)|Spinner]])」は、劇中に登場する架空の[[空飛ぶクルマ|飛行車]]の総称である。 通常の[[自動車]]と同じく、地上を走行することができるだけではなく、垂直に[[離着陸]]することができ、[[垂直離着陸機]]と同様の[[ジェットエンジン|ジェット推進装置]]を使用して浮上し、そのまま空中を飛行することができる。作中では主に[[警察]]が[[パトロールカー|パトカー]]として使用しているが、裕福な人々はスピナーのライセンスを取得することができる、と設定されており<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.100</ref>、警察用以外にも複数種類のスピナーが登場する<ref group="注釈" name="MOB-FC_p138139_262265_427437">映画『ブレードランナー』を代表するメカニクスでもあるこの「スピナー」については、『メイキング・オブ・ブレードランナー』および『メイキング・オブ・ブレードランナー ファイナル・カット』の「スピナー発進」(p.138-139)、「スピナー、警察本部へ」(p.262-265)、「甦るフライング・スピナー」(p.427-437)の項に詳しい。</ref>。 この架空の車両は、ミードによって「揚力を得るために空気を直接下方に噴射することによって飛行する」機構を持つ、という「エアロダイン(Aerodyne)」という名称のメカニクスとして考案され、デザインされた(ただし、映画公開時の広報用資料では、スピナーは「従来の[[内燃機関]]、[[ジェットエンジン]]に加え、[[反重力]]エンジンという3つのエンジンによって推進されている」と記述されている<ref name="SJPSTop40">{{citation|title=The top 40 cars from feature films: 30. POLICE SPINNER|url=http://www.screenjunkies.com/movies/movie-news/the-top-40-cars-from-feature-films-30-26/|publisher=ScreenJunkies.com|accessdate=July 27, 2011|date=March 30, 2010|quote=though press kits for the film stated that the spinner was propelled by three engines: "conventional internal combustion, jet and anti-gravity".|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140404023133/http://www.screenjunkies.com/movies/movie-news/the-top-40-cars-from-feature-films-30-26/|archivedate=April 4, 2014}}</ref>)。 ===== ポリススピナー ===== 作中に登場したスピナーのうち、パトカーとして登場したものは“ポリススピナー”と通称されており、「映画『ブレードランナー』に登場した架空のメカニクス」としての“スピナー”といった場合、まずこれを指すことが多い。 ポリススピナーは各種サイズの複数のミニチュアと実物大の[[プロップ]]([[劇用車]])が4台製作された<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.138</ref>。なお、スピナーには左側面にレーザーガンとの設定がある武装が装備されたタイプがあるが(シド・ミードによるコンセプトデザインにも描かれている<ref>『Blade Runner Sketchbook』p.14</ref>)、この通称“レーザースピナー”はミニチュアモデルしか製作されていない<ref>[https://macky2019.exblog.jp/19992433/ ブレードランナーとかをボチボチ>レーザースピナーについて|by macky2019] 2017年4月4日閲覧。</ref>。 4台の実物大プロップの製作は「空を飛ばない」自動車と同じくジーン・ウィンフィールドと彼のチームが担当した。4台の内訳は、[[フォルクスワーゲン・ビートル]]のシャーシとエンジンを流用して作られた、実際に自走できる劇用車が2台、車内とコクピット周辺のみが製作された、車内シーンの撮影用モデルが1台、軽量[[アルミニウム]]で製作され、ジェット噴射のギミックが内蔵されているが自走能力はなく、[[クレーン]]で吊り下げて低空飛行および離着陸シーンを撮影するために用いられた、通称“フライングスピナー”が1台である。なお、車内シーン用のモデルはスピナーの他“デッカードセダン”の車内としても使用された<ref>『ブレードランナー』p.430-431</ref>。 映画の撮影が終了した後、これらのプロップは映画の宣伝に使用され<ref group="注釈">[[1992年]]の『ブレードランナー ディレクターズ・カット』の劇場公開に際してもプロモーションの一環として展示公開され、[[1993年]]の日本公開の際には日本でも展示されている。</ref>、その後は他のSF映画に使用された<ref group="注釈">そのうち最も有名なものは、[[1989年]]に公開された『[[バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2]]』である。</ref>後に処分・売却された。<br /> 自走可能なプロップのうち1台はパトロールカー・セダンと共に[[フロリダ州]][[オーランド]]の[[ディズニー・ハリウッド・スタジオ|MGMスタジオ]]で屋外展示品とされ<ref group="注釈">MGMスタジオのバックヤードに展示されていた実物大ポリススピナーの画像[https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Spinner3.jpg]</ref>、劣化が進んだこともあり、1990年代の末に処分された<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー ファイナル・カット』p.431</ref>。自走可能なプロップのもう1台は、映画撮影用車両会社の間を転々とした後、1990年代初頭にオークションへの出品を経て日本のコレクターに売却された<ref name="MOBFC_p432">『メイキング・オブ・ブレードランナー ファイナル・カット』p.432</ref>。この車両は『ブレードランナー』撮影後に他の映画の撮影に用いられた際に塗装や細部に変更が加えられているが、オリジナルの状態を比較的保った形で現存している<ref name="eh_2019_06_spinner">『[[映画秘宝]]』2019年6月号「世界初公開!『ブレードランナー』スピナー、完全復元写真館!!」 p.30-33</ref>。個人蔵ということもあり、時折『ブレードランナー』関連のイベント等に展示される(一部のパーツのみが展示された例もある)他には一般公開はされておらず、「ポリススピナーの実物大プロップのうち1台が日本に現存している」とマニアの間で語られるのみの存在となっていたが、[[2017年]]よりは後述の“フライング・スピナー”同様にプロップを製作したウィンフィールドを交えたレストアの計画が進められ、[[2019年]]に入りメディアに現存が公表され、その詳細が紹介されている<ref name="eh_2019_06_spinner" /><ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0108281 シネマトゥディ|2019年4月20日|『ブレードランナー』撮影使用のポリススピナーが日本に!レストア進行中 - 映画秘宝]</ref>。 飛行シーン撮影用の“フライング・スピナー”は1990年代初頭に「デッカード・セダン」と共に[[フロリダ州]]の{{仮リンク|アメリカ警察殿堂博物館|en|American Police Hall of Fame & Museum}}(American Police Hall of Fame & Museum)に売却されたが、1992年、輸送中に大破し、部品状態で売却された。その後は不完全な修理が施されたまま宣伝用の展示品とされ、1999年には再び売却された<ref name="MOBFC_p432" />。<br /> 21世紀に入り、[[2003年]][[12月12日]]に開催された[[オークション]]に出展され、[[マイクロソフト]]の創設者の一人、[[ポール・アレン]]が落札した。落札時にはオリジナルの状態を大きく損っていたが、ウィンフィールドの工房にレストアが依頼され、[[2004年]][[6月]]に完了、アレンが開設した[[シアトル]]の{{仮リンク|SF博物館|en|Museum of Pop Culture#Science Fiction Museum}}(Science Fiction Museum & Hall of Fame)に搬入され<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー ファイナル・カット』p.433-437</ref>、同博物館の目玉展示品の一つとして常設展示されている<ref>{{citation|url=http://www.empsfm.org/documents/press/EMPSFMBrochure.pdf |publisher=Science Fiction Museum and Hall of Fame |title=EMPSFM Brochure |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110124232804/http://www.empsfm.org/documents/press/EMPSFMBrochure.pdf |archivedate=January 24, 2011|deadurl=yes}}</ref><ref name="SFM_01">[https://blog.goo.ne.jp/derra/e/2e697cc78989019a434f957bb58a490b 一人暮らし男の食生活! 2010年7月8日「サイエンスフィクション・ミュージアム その5」] 2017年3月24日閲覧</ref>。 また、[[ロサンゼルス]]にある{{仮リンク|ピーターセン自動車博物館|en|Petersen_Automotive_Museum}}(Petersen Automotive Museum)にはレプリカが展示されている<ref>[https://www.petersen.org/2019-lapd-police-spinner-replica PETERSEN AUTOMOTIVE MUSEUM>2019 LAPD Police Spinner (Replica)] ※2020年11月18日閲覧</ref>。 <gallery widths="200px" heights="180px"> ファイル:Spinner_Blade_Runner_Essen_Motor_Show_1983_03.jpg|エッセン[[モーターショー]]で展示されたポリススピナー<br />1983年の撮影 ファイル:Blade Runner Spinner Car.jpg|SF博物館に展示されているポリススピナー<br />(2012年7月20日撮影) ファイル:Blade Runner Spinner car at the SFM.jpg|上方より撮影したポリススピナー 並列に配置された座席のある操縦室がわかる<br />SF博物館の展示品、2007年7月22日撮影 ファイル:Blade_Runner_-_47102816054.jpg|ピーターセン自動車博物館に展示されているポリススピナーのレプリカ<br />(2019年5月18日撮影) </gallery> {{commons|Category:Spinner_(Blade_Runner)|スピナー(ブレードランナー)}} {{-}} === ブラスター === スピナーと並んで本作品を語る上で重要な小道具として、デッカード他が使用した架空の[[拳銃]]がある。劇中に登場したものは2種類あり、冒頭でリオンがホールデンを撃つシーンで使われた「ブラックホール・ガン」の仮称で考案された、COP社の4連装小型拳銃[[COP .357]]をそのまま使用したものと、後に「デッカード・ブラスター」と通称されるようになった、[[小銃|ライフル]]と[[回転式拳銃|リボルバー]]を合わせて改造したプロップガンがある。 {{Main|デッカードブラスター}} ==== ブラックホール・ガン ==== 映画の製作にあたり、スコットは従来のSF映画でよく用いられた「明るい光線を発射するレーザー・ピストル」を避けたいと考えており、それに代わる全く新しい表現を求めていた。これに対し、特殊効果監修のデヴィッド・ドライヤーが考案したものが、「ブラックホール・ガン」であった<ref name="MOB_3">『メイキング・オブ・ブレードランナー』 p.258</ref>。 これは「強力な分子破壊ビームを発射し、命中箇所を分子レベルで破壊する」というもので、画面上ではまったく光を発しない「黒いビーム(Black beam)」が銃から目標に発射され、命中すると目標は消滅する、という表現が考案された。これは、派手な血飛沫や出血を描く必要がない、という点でも良案とされた<ref group="注釈">出血を表現する[[特殊メイク|特殊メーキャップ]]の必要がなく、残酷描写を問題として描写の削除や対象年齢の制限を要求される恐れがない。</ref>。 しかし、冒頭でリオンがホールデンを銃撃するシーンにおいて、特殊効果を挿入したカットを試験的に制作したところ、「ただの暗い筋にしか見えず、劇的効果が得られない」と判断され、このアイディアは他のシーンでは用いられなかった<ref group="注釈">劇場公開・ソフト版の両方においても、該当のシーンにのみ一瞬だけエフェクトが入れられたまま残っていることが確認できる。</ref>。 ==== デッカードブラスター ==== 主人公のデッカードらが使っている銃については、公式な命名がなされていない。いつ、どのような経緯でそのように呼ばれるようになったかは判然としていないが、日本では1983年の初公開時の映画パンフレットにおいて「ブラスター」の名称<ref group="注釈">ブラスター(Blaster)という用法自体は「SF映画に登場する(架空の)銃」の意で以前より用いられており、本作オリジナルの用語というわけではない。</ref>で解説されたため、それ以降、この銃はそのように呼称されるようになった<ref group="注釈">ファンの間では「デッカードブラスター」以外の通称もあり、この銃を指すものとしては複数の名称がある。</ref>。一介の小道具であるにもかかわらず高い人気を博し、作品の公開後、数多くのプロップレプリカや[[モデルガン]]が製作されることになる。 本作品に登場するオリジナルデザインの品々の中で、この「ブラスター」はシド・ミードのデザインではない。当初彼がデザインしたモデルは前衛的に過ぎ、本作品の状況設定にそぐわず採用は見送られ<ref group="注釈">本編では用いられなかったが、後に[[プロップメイカー]]により、ミード版のデザインが何度か新たに製作され、彼のパサディアで開催された個展で展示されたことがある。</ref>、新たに[[COP .357]]を基にしたデザインがアシスタントアートディレクターであるスティーブン・デーンにより描き起こされたが<ref>『Blade Runner Sketchbook』p.28-30</ref>、これも採用されなかった<ref name="FWS_1">[https://futurewarstories.blogspot.com/2014/08/the-weapons-of-sci-fi-deckards-blaster.html Future War Stories|17 August 2014|The Weapons of Sci-Fi: Deckard's Blaster from BLADE RUNNER>The Story Behind the 2019 Blaster Prop] ※2017年3月27日閲覧</ref><ref name="WSF_1">[https://props.steinschneider.com/cop_357/cop_357.htm The Weapons of Science Fiction(The Propmaker: A Modern-day Artisan)>Leon's Gun: Mother's Defender The COP .357 Magnums|By Phil Steinschneider] ※2017年3月27日閲覧</ref>。<br /> なお、リオンがホールデンを撃つシーンで使われているプロップガンは、本来はデーンによるデザインに基づいて改造するために用意された銃を、ほぼそのまま使用したものである。 改めてプロップを製作するにあたり、まず参考にされたのが、映画『[[マッドマックス]]』で主人公の使う、「[[ソードオフ・ショットガン|ソードオフ]]」と呼ばれる二連銃身の短縮型[[散弾銃]]である<ref name="HD_01">[https://www.hyperdouraku.com/manga/storytime/part54.html ハイパー道楽>STORY TIME : ブレードランナー「アンドロイドはブラスターの夢を見るか」|イラスト&文章 牟田康二] 2017年3月24日閲覧。</ref>。しかし、前述の「フィリップ・マーロウ的な探偵の物語([[ハードボイルド]])」の作風に合わせて、拳銃前提という制約があった。実在の銃器をそのまま、もしくは多少の改造を加えて使うという妥協案も出されたが、実際に使用されたものは美術部が現物合わせでプロップを制作したもので、[[オーストリア]]製のライフルの機関部をリボルバーと合体させた上に、電飾加工を施したものである<ref name="MOB_01">『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.117</ref><ref name="RoB_0">[https://macky2019.exblog.jp/13801747/ ブレードランナーとかをボチボチ>リサーチ オブ ブラスター #0 ブラスターとは|by macky2019] ※2017年3月24日閲覧</ref>。 {{commons|Category:Blade_Runner_weapons|ブラスター(ブレードランナー)}} <gallery widths="200px" heights="180px"> |撮影に用いられた[[プロップガン]]<br />"Geek Fest 2014([[:en:Geekfest|英語版]])"で展示された際のもの ファイル:Cop 357 Derringer.jpg|リオンの用いた銃として使われた[[COP .357]] File:TOMENOSUKE_02-245C8438.jpg|作中で用いられた“デッカードブラスター”のレプリカモデル<br>(日本製のもの) </gallery> {{-}} == ロケーション == 作品の象徴でもある、日本語で書かれた看板やネオンサインが並び、多国籍の人々が行き交う未来都市の街頭は、[[ワーナー・ブラザース]]の[[バーバンク (カリフォルニア州)|バーバンク]]スタジオにある「オールド・ニューヨーク・ストリート」と呼ばれるオープンセットを大規模に改装して作られたセットである<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.120</ref>。「リドリーヴィル(Ridleyville)」のニックネームが付けられていたこのセットには、地上6mの地点に7基の散水装置が設置されており<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.127</ref>、作品を代表するイメージの一つである「絶え間なく降り続ける酸性雨」を表現するために用いられた。これに撮影後の合成処理で超高層ビルその他を描き加え、2019年の近未来都市が作り上げられた。 その他のシーンは基本的には[[ロサンゼルス]]にある著名な建造物、もしくはスタジオセットで撮影し、撮影後に合成等の処理を施したもので、登場した建造物は2016年現在でも存在している。 ; 警察署 [[File:Union-Station-LA-Waiting-Ro.jpg|thumb|200px|ユニオン駅の駅舎内部]] [[ユニオン駅 (ロサンゼルス)|ロサンゼルス・ユニオン駅]]で撮影された<ref name="MOB_p140">『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.140</ref>。 駅舎内を署内として使用し、舎内一角にセットを組み、ブライアントのオフィスとしている<ref name="MOB_p140" />。現役で使用されている建物のため、使用できるのは営業外の夜から翌朝にかけての深夜に限定され、急いでセットを組み上げ撮影準備を完了させてから引き払い期限の午前6時までの間、純粋な撮影時間は1日あたりわずか10分程度しかなかったという<ref>メイキング・オブ・ブレードランナー』p.231</ref>。 なお、ブライアントがデッカードにレプリカントのプロフィールを説明しているシーンは、スタジオセット内で撮影されている<ref name="MOB_p141">『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.141</ref>。 {{-}} ; トンネル [[ファイル:2nd_Street_Tunnel.jpg|thumb|200px|セカンドストリートトンネル]] 劇中で複数回登場した白い内壁のトンネルは、[[ダウンタウン (ロサンゼルス)|ロサンゼルスのダウンタウン]]にある{{仮リンク|セカンドストリート・トンネル|en|2nd Street Tunnel}}である<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.158</ref>。 内壁を白い陶製の[[タイル]]で装飾したことで知られるこのトンネルは、他にも多くの映画に登場している。 {{-}} : ; デッカードの自宅 [[File:Ennis_House_front_view_2005.jpg|thumb|200px|エニス邸外観]] デッカードの自宅シーンに使用されたのは、ロサンゼルス郊外にある邸宅、{{仮リンク|エニス邸|en|Ennis_House}}である。1923年に建設された、[[フランク・ロイド・ライト]]の設計による「テキスタイル・ブロック住宅」の一つで、[[マヤ文明]]の遺跡をイメージした造形の施された[[コンクリートブロック]]壁が特徴になっており、[[アメリカ合衆国国家歴史登録財]]に指定されている。実際のエニス邸は低層平屋の構造であり、郊外の高台に位置しているが、作品では合成を駆使して街中にある高層ビルに見えるように構成されている<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.158-159</ref>。 エニス邸は後のスコットの監督作『[[ブラック・レイン]]』においても、ヤクザの親分のスガイ邸として使われている。 {{-}} : ; セバスチャンのアパート J・F・セバスチャンが住むアパートとして使用されたのは、ロサンゼルスのダウンタウンにある{{仮リンク|ブラッドベリ・ビルディング|en|Bradbury_Building}}である。[[1893年]]に建設され、[[アメリカ合衆国国定歴史建造物]]に指定されている。映画やTVドラマのロケ地としても有名で、他のロケーションと同様、様々な作品に登場している<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.160-161</ref>。 作中の設定ではデッカードのアパート等と同じく超高層ビルということになっているため、外観や屋上のシーン等は合成処理で高層建築に見えるように加工されているが、内部は演出上の装飾として荒れた雰囲気に飾り付けられた以外は、玄関として映る部分をビルの北西側エントランスにセットの柱を付け足して作り変えた他は元のまま用いられている。内部が吹き抜けになっていることや、吹き抜け部分の天井がガラス張りになっていること、内廊下の外周にオープンケージタイプの[[エレベーター]]があることも元のままであり、床や壁、手摺の装飾といったものもオリジナルのまま用いられた。 撮影に使用された際もオフィスビルとして現役で使用されており、本作の撮影は営業時間外に行われた。映画製作に使用できるのは午後6時から翌日の午前6時の間に限られ、美術設定に従って各種の装飾と[[ウェザリング]]を施した後に本編の撮影を行い、使用期限の前に撮影を切り上げて装飾を撤去し施した汚し塗装を清掃、使用前の状態に戻して撤収する、というハードスケジュールが連日繰り返された。 なお、セバスチャンの部屋の内部や、デッカードとバッティの戦いの舞台となる室内部分はスタジオにセットを組んで撮影されており、デッカードが壁沿いを伝って移動するシーンや屋上でのクライマックスシーンは、ブラッドベリ・ビルの上部3階層を再現した屋外セットが作られてそこで撮影され、合成処理が施されている<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.208</ref>。 <gallery widths="180px" heights="160px"> ファイル:Bradbury building Los Angeles c2005 01383u crop.jpg|ブラッドベリ・ビル外観<br />(2005年の撮影) ファイル:Bradbury building Los Angeles c2005 01403u.jpg|ブラッドベリ・ビル内観 ファイル:Bradbury Building Entrance.jpg|北西側エントランス </gallery> : ; その他 [[File:Broadway_Theater_and_Commercial_District,_300-849_S._Broadway;_8.3.jpg|thumb|200px|ミリオンダラーシアターの入場口<br />画像は2012年5月に撮影されたもので、当時とは異なる]] セバスチャンのアパートの玄関のシーンで後方に見える派手な[[ネオンサイン]]の看板は、ブラッドベリ・ビルからブロードウェイ・ストリートを挟んで向かいにある劇場、{{仮リンク|ミリオンダラー・シアター|en|Million Dollar Theater}}の入場口である{{refnest|group="注釈"|登場するシーン全てが同じ日時に撮影されたものではないため、ネオンサインの文字はカットによって異なっているが、『ファイナル・カット』の制作に際してデジタル処理によって全て同じものになるように修正されている<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー ファイナル・カット』p.493</ref>。}}。ミリオンダラー・シアターでは[[ロサンゼルス歴史建造物保存協会]]主催の「ブレードランナー有料上映会」が2013年3月23日に一度だけ開催された。 リオンが宿泊していた「ユーコンホテル(YUKON HOTEL)」は、外観は美術スタッフの製作したミニチュアだが(このミニチュアは看板の文字を「NUYOK」と組み替えて別のシーンでも使われている<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.265-266</ref>)、内部はブラッドベリ・ビルの交差点を挟んで北側の斜め向かいにある、パンアメリカン・ロフトビル(PanAmerican Loft Building)で撮影された<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.150</ref>。 ハンニバル・チュウの工房は、外観はスタジオセットであるが、内部は[[カリフォルニア州]]ヴァーノンにあった食肉会社の冷凍倉庫を借りてセットを組み、実際にマイナス21度の環境として酷寒の中で撮影が行われた<ref name="MOB_p153154">『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.153-154</ref>。セットを組み終わった後、実物の霜が張り氷柱が垂れている環境を作るために4日間を要し<ref name="MOB_p153154" />、予算の圧縮のために5日間が予定されていた撮影期間を2日間に短縮して行われた<ref name="MOB_p157">『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.157</ref>。 {{-}} == 公開・反響 == [[1982年]][[6月25日]]に全米公開され、週末興行収入成績は初登場第2位(同年6月25日-27日付)を記録したが、2週間前に公開され大ヒットしていた『[[E.T.]]』などの影響などもあり、興行的にも同作の約7900万ドル<ref name="boxofficemojo:E.T (1982)">{{Cite web|url=https://www.boxofficemojo.com/release/rl995132929/|title=E.T. the Extra-Terrestrial|work=[[Box Office Mojo]]|language=en|accessdate=2017-04-26}}</ref>に対して約3380万ドル<ref name="boxofficemojo:Blade Runner (1982)">{{Cite web|url=https://www.boxofficemojo.com/release/rl2219279873/weekend/|title=Blade Runner|work=[[Box Office Mojo]]|language=en|accessdate=2017-04-26}}</ref>と振るわなかった(皮肉にも『E.T.』の脚本を担当したのは、フォードが当時交際し、本作公開の翌年に結婚した[[メリッサ・マシスン]]である)。 当時は明朗なSF映画が主流であり、暗く退廃的な未来観<ref group="注釈">後に雑誌編集者の[[ガードナー・ドゾワ]]が新人SF作家[[ブルース・ベスキ]]の作品名を引用して、[[ウィリアム・ギブスン]]や[[ブルース・スターリング]]らの作品を[[サイバーパンク]]と名づけ、映画・小説などのジャンルの一つとなった。</ref>は多くの観客には受けが良くなかったとされる。新聞や雑誌での評価も二分し、『[[ワシントン・ポスト]]』は「永遠の命を求める人間の不毛な努力をテーマとした心を打つシナリオから、素晴らしく超モダンなセットに至るまで、あらゆる面で偉大な作品」と賞賛した一方で<ref>http://movie.smt.docomo.ne.jp/article/1087549/</ref>、『[[ニューヨーク・タイムズ]]』は「めちゃくちゃで、ぞっとする、混乱そのものだ」と酷評した<ref>{{Cite news|author=小島秀夫|authorlink=小島秀夫 (ゲームデザイナー)|date=2017-10-29|url=https://bunshun.jp/articles/-/4698?page=2|title=小島秀夫が観た『ブレードランナー2049』|newspaper=[[文春オンライン]]|accessdate=2023-02-09}}</ref>。日本でのキャッチコピーも「2020年([[ママ (引用)|原文ママ]])、レプリカント軍団、人類に宣戦布告!」と、あたかもアクションSFのような謳い文句であり、フォードが『[[スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲|帝国の逆襲]]』や『[[レイダース/失われたアーク《聖櫃》|レイダース]]』で見せたような、アクションを想像した多くの観客にとっては期待外れであったとも言われ、ロードショーは軒並み不入りで、多くの劇場で早々に上映が打ち切られてしまった。 一方、[[名画座]]での上映では映画マニアからの好評を博し、[[東急文化会館|渋谷パンテオン]]では、3週間限定上映と告知されていたにもかかわらず、結果的に4週間に延び、その後リバイバル上映が行われるようになってからは[[カルト映画]]的な人気を得、アメリカ本国から[[VHS]]を個人輸入するほどの熱狂的なマニアも現れた。当時から普及し始めていたビデオパッケージにより、内容をより精査して繰り返し観ることが出来るようになると評価は更に高まり、ソフトも記録的なセールスとなった。日本初公開時に映画館では鑑賞特典として、小さいポスターが配られた。これは偶然にも、後年『ディレクターズ・カット』で使用されたポスターと同じである。大学生時代に劇場で鑑賞した[[小島秀夫 (ゲームデザイナー)|小島秀夫]]は、後に本作に大きな影響を受けた『[[スナッチャー]]』、『[[ポリスノーツ]]』を制作した。 公開25周年を迎える2007年に、日本で行われたファイナルカット・カウントダウンイベントの際<ref>{{Cite news|url=https://eiga.com/news/20071101/1/|title=押井守監督も参加!「ブレードランナー」最新版、カウントダウン上映|work=[[映画.com]]|publisher=エイガ・ドット・コム|date=2007-11-01|accessdate=2023-06-07}}</ref>、来場した全ての観客にポスターやネガフィルムやフライヤーなどが配られ、劇中の広告に使用された「[[強力わかもと]]」も進呈された<ref name="cinematopics 071117">{{Cite news|author=Yasuhiro Togawa|url=http://report.cinematopics.com/archives/26438|title=誰もが通らなければならない通過点、『ブレードランナー ファイナル・カット』カウントダウン上映!|work=Cinematopics online|publisher=Forum Office|date=2007-11-17|accessdate=2023-06-07}}</ref>。また、抽選により100名限定でオリジナルTシャツ、2名限定で『ブレードランナー製作25周年記念 アルティメット・コレクターズ・エディション』{{R|cinematopics 071117}}、3名限定で『シド・ミード・ビジュアルフューチャリストDVD』がプレゼントされた。 本作には前述のわかもと等実在企業が数多く登場した一方、史実では業績不振に陥り消滅・破産した企業もある([[パンアメリカン航空]]、[[RCA]]など)。一部ではこれを「ブレードランナーの呪い」と称している<ref>{{Cite news|和書 |title=「ブレードランナー」の呪い? 続編の企業の運命は |newspaper=[[ウォールストリートジャーナル]]日本版 |date=2017-9-28 |last=Steinberg |first=Don |url=https://jp.wsj.com/articles/SB11335175419779923425804583417370841142566/ |access-date=2023-6-18}}</ref>。 [[Rotten Tomatoes]]によれば、126件の評論のうち高評価は89%にあたる112件で、平均点は10点満点中8.5点、批評家の一致した見解は「劇場初公開当時は誤解されていた、リドリー・スコット監督のミステリアスなネオノワール映画『ブレードランナー』の影響力は時とともに深まってきている。視覚的にも並外れた、痛切なヒューマンSFの傑作。」となっている<ref>{{Cite rt|id=blade_runner|type=m|title=Blade Runner|publisher_hide=1|language=en|accessdate=2023-02-09}}</ref>。[[Metacritic]]によれば、15件の評論のうち、高評価は13件、賛否混在は1件、低評価は1件で、平均点は100点満点中84点となっている<ref>{{Cite mc|id=blade-runner|type=movie|title=Blade Runner|publisher_hide=1|language=en|accessdate=2023-02-09}}</ref>。 == 受賞 == * 1983年度[[ヒューゴー賞]] - 最優秀映像作品賞受賞 * 1983年度[[英国アカデミー賞]] - 撮影賞・衣装デザイン賞・美術賞受賞、編集賞・メイク賞・作曲賞・音響賞・特殊視覚効果賞ノミネート * 1983年度[[ロンドン映画批評家協会賞]] - 特別業績賞受賞(ローレンス・G・ポール、ダグラス・トランブル、シド・ミード) * 1983年度[[ロサンゼルス映画批評家協会賞]] - 最優秀撮影賞受賞(ジョーダン・クローネンウェス) * [[第55回アカデミー賞|1983年度アカデミー賞]] - [[アカデミー視覚効果賞|視覚効果賞]]・[[アカデミー美術賞|美術賞]]ノミネート * 1982年度イギリス・撮影者協会賞ノミネート * 1983年度・1993年度[[ファンタスポルト映画祭]] - ファンタジー作品賞ノミネート * 1983年度[[ゴールデングローブ賞]] - 作曲賞ノミネート * 1983年度第14回[[星雲賞]] - 映画演劇部門賞受賞 * 2018年度[[キネマ旬報]]「1980年代外国映画ベスト・テン」第1位<ref>[https://natalie.mu/eiga/news/310628 キネマ旬報が選ぶ1980年代外国映画ベストテン、第1位は「ブレードランナー」]</ref> == バージョン == {{Main|en:Versions of Blade Runner}} 本作には諸般の事情により、他映画作品では類を見ない7つの異なるバージョンが存在する。とくにスコットが再編集した[[1992年]]の『ディレクターズ・カット』では、作品の解釈を変えるような意味深長なシーンが追加された(詳細は「[[#デッカードは何者なのか|デッカードは何者なのか]]」の節を参照)。 なお、サンディエゴ覆面試写版とUSテレビ放映版を除く5つのバージョンは、日本では2007年12月14日にリリースされたDVDボックス『ブレードランナー 製作25周年記念アルティメット・コレクターズ・エディション(以下『UCE』)』<ref group="注釈">北米では[[Blu-ray Disc]]と[[HD DVD]]でも発売されている。どちらも日本のそれぞれの再生機で再生可能。またファイナル・カット版には日本語字幕も収録されている。日本でもファイナル・カット版のみ発売予定であったが諸事情で一度延期となり、その後2008年6月11日にBlu-rayとDVDが発売した。2009年4月29日には日本版UCEのBlu-ray版が発売された。</ref>で全て視聴する事ができる。 === リサーチ試写版(ワークプリント版) === 1982年。113分。『UCE』では「ワークプリント版」と称される。本作公開前の同年3月、[[ダラス]]や[[デンバー]]で観客の反応を見るためにテスト試写([[スニークプレビュー]])が行われた際のバージョン。しかし観客の反応は余り芳しいものでは無く、最悪だったとスコットは振り返る。フォードを倒す悪役に同情的なこと。画面は暗く絶えず雨が降り、ハッピーエンドではないこと。ユニコーンの折り紙も不評だったという<ref name="eiga 53062 i">{{Cite news|author=佐藤睦雄|url=https://eiga.com/movie/53062/interview/|title=ブレードランナー ファイナル・カット インタビュー: リドリー・スコット監督&主要キャスト インタビュー|work=[[映画.com]]|publisher=エイガ・ドット・コム|date=2007-11-15|accessdate=2023-06-12}}</ref>。 以下は本バージョンのみで見られるシーンである。 * 冒頭の制作会社のロゴが白地で映される。 * オープニング・クロールはなく、レプリカントについて辞書の引用風に解説した文章のみが映される。 * 序盤のスシバーでの「二つで十分ですよ」のシーンにおいて、注文した丼の具材が映っている{{R|riff 20191025}}。 * バッティの死を目の当たりにするシーンで、デッカードのナレーションが重ねられる。 * エンドロールはなく、「The End」が表示されるのみ。 <!-- デッカー丼の修正に関わった/関わりたい方へ。[[ノート:ブレードランナー#ロケーション他の項について]]をご一読ください --> === サンディエゴ覆面試写版 === 1982年。未ソフト化。同年5月に[[サンディエゴ]]でスニークプレビュー(覆面試写)が行われた際のバージョン。基本的にリサーチ試写版と同じだが、3つの新たなシーンが追加されたと言われる(詳細な箇所は不明)。 === 初期劇場公開版(オリジナル劇場公開版、US劇場公開版) === 1982年。116分。『UCE』では「US劇場公開版」。北米で初めて商業上映された際のバージョン。リサーチ試写版で不評だった点を改善し、一般受けを良くしようとしたが、結果的にはそれでも評判は上がらず、映画評論家に酷評された{{R|eiga 53062 i}}。エンドロールの空撮映像は、『[[シャイニング (映画)|シャイニング]]』のオープニングの別テイクを借用したものである{{R|eiga 53062 s2}}。 * 冒頭はあらすじを載せたオープニング・クロールに変更。 * ハリソン・フォードによる[[ナレーション]]を追加。 * 暴力シーンの一部映像(タイレル博士が目を潰されるシーンと、バッティが自らの手を釘で貫くシーン)を削除。 * エピローグで、デッカードとレイチェルが逃亡する映像{{R|eiga 53062 s2}}とナレーションを追加。 === インターナショナル版(インターナショナル劇場公開版、完全版) === 1982年。[[ヨーロッパ]]や日本で劇場公開された際のバージョン。なお、日本ではワーナーのレンタルビデオや初期にリリースされた[[レーザーディスク|LD]]ソフトに初期劇場公開版が収録されていた為、バージョンの違いが認識されており、ビデオ発売時には「完全版」と称して発売された。日本版『UCE』でも同様に呼称している。 * 初期劇場公開版で削除された暴力シーンを復活。他、いくつか微細な変更が行われた。 === USテレビ放映版 === 1986年。114分。未ソフト化。[[CBS]]での放映用に編集を行ったバージョン。 * 暴力シーンの削除。 * オープニング・クロールにおけるボイスオーバーの追加(フォードではなく、アナウンサーによるもの)。 === ディレクターズ・カット(最終版) === [[1992年]]。116分。公開10周年を記念し再編集されたバージョン(ビデオソフト、『UCE』では「最終版」の名称も付け加えられている)。最初の劇場公開後、本作は次第に評価を高め、サイバーパンクの原典としての地位を確立した。と同時に、スコットが本来意図した『ブレードランナー』を見たいという要望が高まり、ワーナーは彼に再び本作の編集を依頼{{R|eiga 53062 i}}。スコットも劇場公開版で自身の望まざる編集が行われた事に加え、機が熟したと考え、これを了承した。内容はリサーチ試写版に近いものになっている。 * フォードのナレーションとエピローグ映像の削除。 * デッカードが見る「[[ユニコーン]]の夢」のシーンを追加。 * インターナショナル版で復活した一部暴力シーンを再び削除。 === ファイナル・カット === [[2007年]]。117分。公開25周年を記念し、再びスコット自身の総指揮によって編集されたバージョン{{R|eiga 53062 i}}。本バージョンは第64回[[ヴェネツィア国際映画祭]]でワールドプレミア[[4096×2160|4K]]デジタルで上映された後<ref>{{Cite news|url=https://eiga.com/news/20070904/2/|title=「ブレードランナー ファイナル・カット」、ベネチアでお披露目!|work=[[映画.com]]|publisher=エイガ・ドット・コム|date=2007-09-04|accessdate=2023-06-08}}</ref>、同年10月5日(現地時間)からニューヨークとロサンゼルスで劇場公開され、アメリカでは12月18日(現地時間)にDVDが発売された<ref>{{Cite news|url=https://eiga.com/news/20070808/3/|title=「ブレードランナー ファイナル・カット」ベネチア映画祭でプレミア上映|work=[[映画.com]]|publisher=エイガ・ドット・コム|date=2007-08-08|accessdate=2023-06-08}}</ref>。日本では、11月17日{{R|eiga 20071116}} - 30日の2週間限定で東京([[新宿バルト9]]{{R|eiga 20071116}}。上映期間は1週間延長)、大阪([[梅田ブルク7]]{{R|eiga 20071116}})の2館4スクリーンにて2Kデジタル[[DLP]]劇場公開された。 * デジタル・リマスタリングにより全体の画質や効果音の精度を向上<ref name="thecinema 20171010">{{Cite news|author=尾崎一男|url=https://www.thecinema.jp/article/27|title=【再掲載】3つの『ブレードランナー』、そのどれもが『ブレードランナー』の正しい姿だ!|work=[[ザ・シネマ]]|publisher=[[東北新社]]|date=2017-10-10|accessdate=2023-06-08}}</ref>。 * 所謂「幻の高画質の特撮シーン(後述)」が使用され、VFXシーンがより高精度で鮮明な映像になった。 * 画面全体を緑がかった色調に変更。 * スピナーが浮上するシーンで吊り上げるワイヤーが見えていたのをデジタル処理で消去{{R|thecinema 20171010}}。 * ブライアントの反逆レプリカントに関する説明で、死亡した人数を2名に変更{{R|thecinema 20171010}}。 * 「ミリオンダラー・シアター」のネオンの文字がカットによって異なっていたのを、デジタル処理で同じものに修正。 * 「ユニコーンの夢」の映像は、ディレクターズ・カット版とは異なる、オリジナルの尺のものを使用。 * 逃走するゾーラがショーウィンドウを突き破るシーンで、スタントを起用していた部分を、同役のジョアンナ・キャシディを再起用して部分新撮し、デジタル合成で修正<ref name="eiga 20071116">{{Cite news|url=https://eiga.com/news/20071116/9/|title=最終版「ブレードランナー ファイナル・カット」はどこが変わった?|work=[[映画.com]]|publisher=エイガ・ドット・コム|date=2007-11-16|accessdate=2023-06-08}}</ref>{{R|thecinema 20171010}}。 * ワークプリント版のバーでアイスホッケーのマスクを着けた女達がビキニで踊るシーンや{{R|thecinema 20171010|eiga 53062 s2}}、インターナショナル版の暴力シーンが復活。 * 終盤の鳩が飛び去るシーンの風景が、青空から高層ビルに囲まれた曇りの夜空へとCGで全面的に変更{{R|eiga 20071116|thecinema 20171010}}。 ==== Ultra HD Blu-ray/IMAX版 ==== [[2017年]]に発売された[[Ultra HD Blu-ray]]版の発売にあたっては<ref>{{Cite news|author=中林暁|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1069755.html|title=「ブレードランナー」がUHD BD化。ファイナル・カットに吹替音声追加、2,049セット限定版も|work=[[Impress Watch|AV Watch]]|publisher=[[インプレス]]|date=2017-07-10|accessdate=2023-06-08}}</ref>、[[4K解像度]]に変換するにあたりスコットの監修のもとに細かな調整が加えられ、音声が新たにリミックスされたバージョンとなっている。 [[2019年]]に行われた[[IMAX]]上映にあたってもこのバージョンが使用されている<ref>{{Cite news|author=泉哲也|url=https://online.stereosound.co.jp/_ct/17300940|title=映画ファンはこれを見逃してはいけない! 『ブレードランナー ファイナル・カット』が、全国32館のIMAXシアターで絶賛上映中! 物語の舞台となった今年、最高の絵と音で体験すべし!|work=Stereo Sound ONLINE|publisher=[[ステレオサウンド]]|date=2019-09-07|accessdate=2023-06-11}}</ref><ref>{{Cite news|author=尾崎一男|url=https://cinemore.jp/jp/erudition/131/article_920_p1.html|title=『ブレードランナー ファイナル・カット』IMAXデジタルシアター上映徹底レポート!|work=CINEMORE|publisher=太陽企画|date=2019-09-07|accessdate=2023-06-11}}</ref>。 ==== 幻の高画質の特撮シーン ==== 視覚効果監修の[[ダグラス・トランブル]]は、そのキャリアの最初に携わった『[[2001年宇宙の旅]]』で、監督のキューブリックから、チリ一つ無いほどの高画質を要求され、当時の光学合成による画質劣化を抑えるため、通常シーンが35mmフィルム撮影の作品でもSFXシーンは65mm幅のフィルムで撮影する方法を採った。『ブレードランナー』では、視覚効果は65mmで撮影、俳優の演技と合成するシーンも35mmスコープ・サイズで撮影し65mmに拡大して合成作業が行われた<ref group="注釈">トランブルのプロダクションEEGによる65mmカメラの蒐集は膨大なものであった。映画化に批判的だった原作者のディックを招いたラッシュの試写も優秀なクオリティを誇っていたトランブルの試写室で行い、賞賛を受けている。「ファイナル・カット」DVD音声解説参照。</ref>。 65mmフィルムによる撮影は、一コマあたりの画面が35mmより広く粒状性が目立たないので、再撮影やコピーのプロセスを重ねても画質が荒れない利点がある(左右幅を圧縮して撮影するスコープ・サイズの、光学合成の手間や画質への悪影響は、[[ジェームズ・キャメロン]]も指摘するところである)。ところが決して高予算ではないながらも高画質に拘って製作された『ブレードランナー』のSFXも、今日観られるフィルムやソフトで充分なクオリティが発揮されていないとトランブルは語っている。 {{quotation|僕がBRでいちばん気になっているのは、ハード面のクオリティの問題だ。1982年公開版の仕上げのとき、映画会社側は出来るだけ早く、安く仕上げさせようとして、僕たちがつくった特殊レンズ---特に70(65)mmの特殊効果を35mmのフィルムに合わせるための特別なレンズを使わなかったんだ。最初のプリント(特撮部分の画質)を観た時はゾッとしたよ。彼らの使ったレンズの質が悪すぎると思ったんだ。BRの視覚効果は、今までの誰もが見た事がないほど、すばらしいものなんだよ。本当は。それなのに、オリジナルネガは、いまだにどこかの屋根裏に置かれたまま。決して使われる事がないんだ。そりゃリドリーの『ディレクターズカット版』はすばらしいよ。でも、あの特殊レンズを使ったフィルムを観る事が出来たら…|ダグラス・トランブル「[[ビデオでーた]]」1993年 No.2(『ディレクターズカット』のリリースに関しての質問の答えとして)}} ファイナル・カット版の特撮シーンは、この70mm(65mm)フィルムからダイレクトにテレシネされたものが使用されており<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー ファイナル・カット』p.481</ref>、劇場での上映も他のバージョンと比べて、非常に鮮明なイメージを提供していた<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー ファイナル・カット』p.482</ref>。 == 没シーン == * ホールデンは映画の制作上は死亡しておらず、病院に入院した彼をデッカードが見舞うシーンが脚本に存在し(脚本段階ではデッカードは複数回見舞いに訪れている)、撮影も行われているが<ref name="eiga 53062 s">{{Cite news|url=https://eiga.com/movie/53062/special/|title=ブレードランナー ファイナル・カット 特集: 「ファイナル・カット」はどこが違う?「ブレードランナー」裏ネタ集|work=[[映画.com]]|publisher=エイガ・ドット・コム|date=2007-11-15|accessdate=2023-06-07}}</ref>、スコットの判断で削除され、本編には使われていない{{refnest|group="注釈"|試写会で上映されたフィルムには当該シーンが存在する、という説があるが、実際に存在していたかについての確認はされていない<ref name="MOB_p144145" />。}}<ref name="MOB_p144145">『メイキング・オブ・ブレードランナー』 p.144-145</ref>。このシーンのためにシド・ミードはカプセル型の治療用ベッドをデザインしたが、「未来的にすぎる」として却下され、デッカードの自宅のセットを流用したものが美術スタッフによって製作された<ref name="MOB_p144145" />。 * レプリカント眼球職人のチュウのその後については劇中では触れられていないが、脚本ではバッティとリオンによって防寒コートを破壊され、極低温下の工房内に閉じ込められて放置されたために凍死しているところをデッカードと警官隊に発見される、となっていた。発見された際に倒されてしまい、完全に凍っていた遺体は粉々に砕け散るという場面設定であったが、撮影されなかった<ref name="MOB_p157" />。 * 企画段階では、踊り子として地球に潜伏していたゾーラは作中にてデッカードの捜査が入る前に、舞台で「reptile dance(レプタイル(爬虫類)・ダンス)」を踊る予定で、ステージのセットも製作が進められていたものの、プロデューサー陣の賛同が得られず、撮影が行われる事は無かった<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー』p.173</ref>。2012年12月、ゾーラ役の[[ジョアンナ・キャシディ]]は当時のダンスを再現した動画を[[YouTube]]で公開した<ref>J. Cassidy(ジョアンナ・キャシディ) [https://www.youtube.com/watch?v=mDQV5Bqx4TQ "What Might Have Been: Snake Dance by Joanna Cassidy as Zhora from Bladerunner"(どんなものだったのか:ブレードランナーでジョアンナ演じるゾーラのスネークダンス)](2012年12月12日アップロード)</ref>。 * 脚本段階では、タイレルは死病に侵されたために[[冷凍睡眠]]に入っており、登場するのは本人の記憶を移植されたレプリカントである、という設定であった。脚本ではタイレルを殺害してこの事に気づいたバッティは改めて「本物の」タイレルのところに案内するようにセバスチャンに要求するが、冷凍睡眠に入っていたはずの彼は既に装置の故障によって死亡しており、延命の望みが完全に絶たれたことに動揺したバッティはセバスチャンをも殺害して立ち去る、という流れになっており<ref>『メイキング・オブ・ブレードランナー』 p.196</ref>、タイレルが安置されている部屋と冷凍睡眠装置もミードによりデザイン画が起こされていた<ref>『Blade Runner Sketchbook』p.69-72</ref>。このシーンは撮影準備の段階で断念され、セバスチャンの死も警察無線の音声で触れられているのみである。 == サウンドトラック == エンドロール中には[[ポリドール・レコード|ポリドール]]よりサントラが発売される旨書かれているが、実際には発売されなかった。ヴァンゲリスより正式にリリースされるのはディレクターズ・カット(最終版)の後、1994年のことである。 * 『オリジナルスコア版』と銘打ったアルバムが1982年にリリースされたが、これはニューアメリカンオーケストラの演奏によりアコースティックアレンジされたものである。オリジナルの音源とは別物ながら、違和感のない出来であった。 * エンドタイトルは、1989年に発売されたアルバム『[[ザ・ベリー・ベスト・オブ・ヴァンゲリス]]』に収録された。 * デッカードのアパートにレイチェルが訪れるシーンで使われている曲は、この映画のために制作されたものではなく、アルバム『[[流氷原]]』収録の「メモリーズ・オブ・グリーン」を使用している。 * エンドロール中にクレジットされている「HARPS OF THE ANCIENT TEMPLES」は、バッティとリオンがチュウのもとへ向かうシーンで使用されている曲<ref>ゲイル・ロートンによる「西暦76年 ポンペイ/Pompeii 76 A.D.」。</ref>が収録されたアルバム名であり、ヴァンゲリスの手によるものではない。 * 公式なサントラが発売されない状況が長く続いたことから、いくつかの海賊版が作られ流通することとなった。海賊版の経緯・内容については[[:en:Blade Runner (soundtracks)|こちら(英語版)]]を参照。 * UCEの発売に合わせ、CD3枚組『[[「ブレードランナー」オリジナル・サウンドトラック 25周年記念エディション]]/BLADE RUNNER TRILOGY, 25th ANNIVERSARY』が発売された。 * 2013年4月16日、全米でビニール版サントラLPが発売。A、B面12曲収録。 * 2013年7月16日、同年4月にアナログ盤を発売した米Audio Fidelity社からHybrid SACD盤が発売された。内容は1994年に発売された公式サントラ盤のリマスターで、Kevin Grayの手による。全世界2,000枚限定で、パッケージにはナンバリングが施された。なおこれが初のSACD音源となる。 以上の詳細は「[[ブレードランナー (アルバム)]]」の項を参照のこと。 == 日本語吹替 == {| class="wikitable" style="text-align: center;" |- ! rowspan=2|役名 ! rowspan=2|俳優 ! colspan=2|日本語吹替 |- ! [[TBSテレビ|TBS]]版 || [[ザ・シネマ]]版 |- | リック・デッカード || [[ハリソン・フォード]] || [[堀勝之祐]] || [[磯部勉]] |- | ロイ・バッティ || [[ルトガー・ハウアー]] || [[寺田農]] || [[谷口節]] |- | レイチェル || [[ショーン・ヤング]] || [[戸田恵子]] || [[岡寛恵]] |- | ガフ || [[エドワード・ジェームズ・オルモス]] || [[池田勝]] || [[佳月大人]] |- | H・ブライアント || [[M・エメット・ウォルシュ]] || [[神山卓三]] || [[浦山迅]] |- | プリス || [[ダリル・ハンナ]] || [[高島雅羅]] || [[小島幸子]] |- | J・F・セバスチャン || [[ウィリアム・サンダーソン]] || [[村越伊知郎]] || [[村治学]] |- | リオン || [[ブライオン・ジェームズ]] || [[大宮悌二]] || [[中村浩太郎]] |- | エルドン・タイレル || [[ジョー・ターケル]] || [[大木民夫]] || [[小島敏彦]] |- | ゾーラ || [[ジョアンナ・キャシディ]] || [[横尾まり]] || [[森夏姫]] |- | ハンニバル・チュウ || [[ジェームズ・ホン]] || [[千葉順二]] || 浦山迅 |- | ホールデン || {{仮リンク|モーガン・ポール|en|Morgan Paull}} || [[二瓶秀雄]] || [[高岡瓶々]] |- | スシバーの店主 || ロバート・オカザキ || 千葉順二 || 小島敏彦 |- | その他 || || [[竹口安芸子]] || [[中司ゆう花]]<br />[[小橋知子]]<br />[[佐藤拓也 (声優)|佐藤拓也]]<br />[[片貝薫]] |- |bgcolor=EFEFEF| |- | 演出 || || 河村常平 || [[伊達康将]] |- | 翻訳 || || 岩本令 || 岸田恵子 |- | 録音・調整 || || 切金潤 || [[オムニバス・ジャパン]] |- | 効果 || || 遠藤堯雄<br />桜井俊哉 || |- | プロデューサー || || 上田正人<br />(TBS) || 井伊直子<br />飯森盛良 |- | 制作 || || [[東北新社]]<br />TBS || ザ・シネマ<br />東北新社 |- | 初回放送 || || [[1986年]][[4月14日]]<br />『[[月曜ロードショー]]』<br>正味約93分<br>[[DVD]]・[[Blu-ray Disc|BD]]収録 || [[2011年]][[3月20日]]<br />ノーカット放送 |} * TBS版:劇場公開版を吹き替えたもの。 * ザ・シネマ版:ファイナル・カット版を吹き替えたもの。同局以外では2014年3月9日にBS日テレ、2015年11月10日にムービープラスで放送された。2017年9月20日発売の『[[吹替の力]]』シリーズ『ブレードランナー ファイナル・カット 日本語吹替音声追加収録版 ブルーレイ(3枚組)』及び『ブレードランナー ファイナル・カット4K ULTRA HD&ブルーレイセット(2枚組)』に収録。なお、続編の『[[ブレードランナー 2049]]』の日本語吹き替え版ではデッカードとレイチェル、ガフの声優はザ・シネマ版のキャストを踏襲している。 == 続編 == === 続編映画 === {{Main|ブレードランナー 2049}} 2016年、[[ドゥニ・ヴィルヌーヴ]]監督、リドリー・スコット[[製作総指揮]]のもと、続編『[[ブレードランナー 2049]]』の日本公開が2017年11月に決定したことが発表された<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/196355|title=「ブレードランナー」続編の日本公開が2017年11月に決定、コンセプトアートも解禁|newspaper=映画ナタリー|date=2016-07-29|accessdate=2016-07-29}}</ref>。アメリカで[[2017年]]10月6日、日本では10月27日に公開された。[[ライアン・ゴズリング]]、[[ロビン・ライト]]、[[ジャレッド・レト]]のほか、ハリソン・フォードも再びデッカード役として出演した。 === 続編小説 === 原作者ディックの友人である作家[[K・W・ジーター]]が、映画の続編として小説3作を発表している。 * ''Blade Runner 2: The Edge of Human''([[1995年]]) - 『ブレードランナー2 レプリカントの墓標』([[早川書房]]、のちハヤカワ文庫) * ''Blade Runner 3: Replicant Night''([[1996年]]) - 『ブレードランナー3 レプリカントの夜』(早川書房、のちハヤカワ文庫) * ''Blade Runner 4: Eye and Talon''([[2000年]]) == ドキュメンタリー == 当作について、複数の[[ドキュメンタリー]]が制作されている。 ; Edge of Blade Runner : 2000年、55分 : 監督:アンドリュー・アボット(Andrew Abbott) : 制作・構成:[[マーク・カーモード]](Mark Kermode) : [[リドリー・スコット]]を始めとした製作スタッフへのインタビュー、作品製作の過程の詳細と、構想段階から撮影開始までの過程における様々なトラブルの解説により構成されている。また、原作である[[フィリップ・K・ディック]]の『[[アンドロイドは電気羊の夢を見るか?]]』に関するポール・M・サモンとハンプトン・ファンチャーの解説も収録されている<ref name="edge-doc-review">{{citation|url=https://tyrell-corporation.pp.se/on-the-edge-of-blade-runner-documentury/|title=On The Edge Of Blade Runner (Documentury) |last=Ingels|first=Nicklas|publisher=Los Angeles, 2019|accessdate=July 27, 2011|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140407015534/http://tyrell-corporation.pp.se/on-the-edge-of-blade-runner-documentury/|archivedate=April 7, 2014}}</ref>。 ; Future Shocks : 2003年、27分 : [[カナダ]]の[[TVオンタリオ]]制作のドキュメンタリー<ref name="futureshocks">{{citation|url=https://www.tvo.org/program/131509/future-shocks|title=Future Shocks|publisher=TVO.ORG|accessdate=July 27, 2011|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141224115432/http://tvo.org/program/131509/future-shocks|archivedate=2014年12月24日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。エグゼクティブプロデューサーの{{仮リンク|バド・ヨーキン|en|Bud Yorkin}}(Bud Yorkin)、[[シド・ミード]]へのインタビューと、SF作家の[[ロバート・J・ソウヤー]]、および映画批評家による解説で構成されている。 ; Dangerous Days:Making Blade Runner : 2007年、213分 : 監督・制作:{{仮リンク|チャールズ・デ・ロージリカ|en|Charles de Lauzirika}}(Charles de Lauzirika) : 『ブレードランナー・ファイナル・カット』に併せて制作された。[[ハリソン・フォード]]、[[ショーン・ヤング]]、リドリー・スコットを含む80人以上のインタビューから構成されている<ref>{{citation |url=https://chud.com/11285/interview-charles-de-lauzirika-blade-runner/ |title=Interview: Charles de Lauzirika (Blade Runner)|accessdate=July 27, 2011|work=[[CHUD.com]]| last1 =Fischer | first1 = Russ|date=February 8, 2007|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140202165850/http://www.chud.com/11285/interview-charles-de-lauzirika-blade-runner/|archivedate=February 2, 2014}}</ref>。 : : 8つの章から構成され、時系列に沿って企画の開始からキャスティング、プロダクションデザイン、撮影、特殊効果といった製作過程を解説している。最後の章では、この映画に対する数々の論争とその経緯も収録されている<ref>{{citation|url=http://www.filmedge.net/BladeRunner/BRdvd.htm|title=Blade Runner – The Final Cut: 2-Disc Special Edition DVD Review|accessdate=July 27, 2011|publisher=FilmEdge.net| last1=Weitz | first1 = Scott|date=December 16, 2007|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130517092920/http://www.filmedge.net/BladeRunner/BRdvd.htm|archivedate=May 17, 2013}}</ref>。 ; All Our Variant Futures:From Workprint to Final Cut : 2007年、29分 : 制作:ポール・プリシュマン(Paul Prischman) : 映画の複数のバージョンとその概要を紹介し、『〜ファイナル・カット』の製作に費やされた、7年間に渡るオリジナルフィルムの修復と修正作業、[[マスタリング#リマスタリング|デジタルリマスタリング]]のプロセスについて解説している。「Blade Runner Ultimate Collector's Edition」に収録された。 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 『ブレードランナー』映画パンフレット、1983年 * 『ブレードランナー ディレクターズ・カット』映画パンフレット、1992年 * David Scroggy 編 『Blade Runner Sketchbook』 Blue Dolphin Enterprises、1982年。ISBN 978-0943128023 * ポール・M・サモン 『メイキング・オブ・ブレードランナー』 品川四郎・石川裕人 訳、[[ソニーマガジンズ]]、1997年。ISBN 978-4789711678 ** 増訂版 『メイキング・オブ・ブレードランナー ファイナル・カット』 [[ヴィレッジブックス]]、2007年。ISBN 978-4863325975 ::『ファイナル・カット』増補分は、旧版を連続する形で挿入・編集。旧版でのページ番号は、本文部分では旧版・増訂版共に同一。 * [[加藤幹郎]] 『ブレードランナー」論序説』 リュミエール叢書 34:[[筑摩書房]]、2004年。ISBN 978-4480873156 * [[町山智浩]] 『映画の見方がかわる本 ブレードランナーの未来世紀』 [[洋泉社]]、2005年。ISBN 978-4896919745 ** 『ブレードランナーの未来世紀 〈映画の見方〉がわかる本』 [[新潮文庫]]、2017年11月 * 大野和基 『ブレードランナー証言録』 [[集英社インターナショナル]]新書、2019年6月 * 『ホビージャパン ヴィンテージ』[http://hobbyjapan.co.jp/books/book/b352443.html](ISBN 978-4798616582)[[ホビージャパン]]、2018年 :: 「クラシックSFを追え! 」 ::: p.52「スピナーを追え!」文:Macky ::: p.53「インタビュー スピナーの生みの親! ジーン・ウィンフィールド」 ::: p.54-55「『ブレードランナー』の劇中車」文:Macky ::: p.56-59「劇中車の撮影後の運命」文:Macky * 『[[映画秘宝]]』洋泉社:刊 :: 2019年6月号 p.30-33「世界初公開!『ブレードランナー』スピナー、完全復元写真館!!」構成・文:西修一 2019年 == 関連項目 == {{Commons|Category:Blade Runner}} * [[サイバーパンク]] * [[ニューロマンサー]] * [[ステージガン]] * [[わかもと製薬]] - 作中で滋養強壮剤「強力わかもと」の架空のCMが使われている。 * [[未来派野郎]] - [[坂本龍一]]のアルバム。1曲目の「Broadway Boogie Woogie」にてブレードランナーで使われた台詞がサンプリングされている。 == 外部リンク == * [http://www.bladezone.com/ BLADE ZONE] * {{Allcinema title|20674|ブレードランナー}} * {{Kinejun title|7988|ブレードランナー}} * {{Amg movie|5994|Blade Runner}} * {{IMDb title|0083658|Blade Runner}} {{ブレードランナー}} {{フィリップ・K・ディック}} {{リドリー・スコット監督作品}} {{星雲賞メディア部門}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふれえとらんなあ}} [[Category:ブレードランナー|*1]] [[Category:1982年の映画]] [[Category:1980年代の特撮作品]] [[Category:アメリカ合衆国のSF映画作品]] [[Category:リドリー・スコットの監督映画]] [[Category:ヴァンゲリスの作曲映画]] [[Category:アメリカ国立フィルム登録簿に登録された作品]] [[Category:イングランドで製作された映画作品]] [[Category:ロサンゼルスで製作された映画作品]] [[Category:星雲賞受賞作品]] [[Category:カルト映画]]
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ロータリーエンジン
ロータリーエンジン(英語: rotary engine)は、一般的なレシプロエンジンの様な往復動機構による容積変化ではなく、回転動機構による容積変化を利用して、熱エネルギーを回転動力に変換して出力する原動機である。 ドイツの技術者フェリクス・ヴァンケルの発明による、三角形の回転子(ローター)を用いるオットーサイクルエンジンが実用化されている。ヴァンケル型ロータリーエンジンとレシプロエンジンとでは構造は大きく異なるが、熱機関としては同等に機能する。本項ではこのヴァンケルエンジン(Wankel engine)について述べる。 ロータリーエンジンの研究は原理的には古くから行われてきたが、その中で唯一実用化された所謂ヴァンケルエンジンは、1957年に西ドイツ(当時)のNSU社とWankel社が共同研究により開発に成功した。 レシプロエンジンとは基本的に大きく異なる構造を持っており、エンジン本体にピストンのような往復運動部はなく、回転運動するローターにより回転動力を得ている。またロータリーエンジンの吸気および排気のポートは、ハウジングの内側面に設けられた孔がローター自体により開閉されるため、一般的な4ストロークレシプロエンジンのような、往復動する吸排気バルブやこれを開閉するカムシャフトなどの動弁系は必要ない。 4ストロークレシプロエンジンと同様にオットーサイクルやディーゼルサイクルでの熱力学的動作が可能だが、実用化されたのはオットーサイクルのガソリン燃料火花点火機関であり、ガソリンに代えて水素燃料を使える物も試作されている。なお、ガスタービンエンジンも本項のロータリーエンジンと同様に回転運動により出力を得ているが、これは速度型の内燃機関であり、容積型内燃機関であるロータリーエンジンとは別に分類される。 ロータリーエンジンとして上記の「ヴァンケルエンジン」のみを指す場合も多く、また「回転ピストン型エンジン」、時には「ピストンレスエンジン」と呼ばれることもある。自動車用としては、日本ではヴァンケルエンジンを指して「ロータリーエンジン」(「RE」と略記される)と呼ぶことが一般的であるが、日本以外では「Rotary engine」とも、あるいはより限定的に「Wankel engine」とも呼ばれる。航空機用として「ロータリーエンジン」と呼ぶときは、星型エンジン本体(シリンダー側)がプロペラとともに回転し、クランクシャフトは固定されている構造の回転式レシプロエンジンを意味する場合と、本項のヴァンケルエンジンを意味する場合とがある。 ロータリーエンジンの出力軸回転数とは、ローターではなくエキセントリックシャフトの回転数であり、これが4ストロークレシプロエンジンのクランクシャフト回転数に相当する。ロータリーエンジンは、1ローターあたりエンジン回転1回転に1回単室容積分の空気を吸入するため、1気筒あたりエンジン2回転に1回単気筒容積分の空気を吸入する4ストロークレシプロエンジンの2倍の吸気回数を持つ(詳しくは下記「動作」を参照)。すなわち、ロータリーエンジンの実質吸気量は「単室容積xローター数x2」となる。このため、内燃機関工学分野においては2ストロークレシプロエンジン同様に、当初から現在まで一貫して換算係数2が用いられている。 日本の自動車税課税時の排気量区分では、「単室容積×ローター数×係数1.5」として換算される。これはロータリーエンジンの出力が「単室容積xローター数x1.5」程度の換算吸気量のレシプロエンジンと同等だったためである。 モータースポーツ分野においては、ロータリーエンジンデビュー期には工学的にロータリーエンジンの排気量に係数「2」を掛け、その値をレシプロエンジンの排気量区分に当てはめていた。しかし、レシプロエンジンの約2倍の空気(と燃料)を吸入しながら出力は1.5倍程度しか得られないため「燃料消費率が3割悪い」という性質を持ち、特にモータースポーツにおいては出力差だけでなく燃料タンク容量や燃料消費に伴う車重変化まで考慮するとレシプロエンジンとの平等な排気量換算は極めて困難である。そのため競技の種類(例えばスプリントレースか耐久レースか、など)によって異なる換算係数が用いられたり、またF1などのようにロータリーエンジンの使用を認めない競技もある。 ロータリーエンジン本体の構成部品の概略を下記に示す。燃料供給系・吸排気系・潤滑系・冷却系・電気系などは、一部構造は異なりながらもレシプロエンジンと同様に別途設けられるが、上述のとおりローター自体が弁機能を呈するので動弁系は不要である。なお相当部品名は、レシプロエンジンに対するものである。 エキセントリックシャフトの偏心部がローターの穴に通されていて、エキセントリックシャフトの回転によりその軸心のまわりをローターが公転するが、この両者間では自由に回転できるようになっている。ローターが自転1回転の間に3回公転、すなわちエキセントリックシャフトが3回転するように、サイドハウジングのステーショナリーギヤとローターのインターナルギヤとのかみ合いによって制御されている。なお、エキセントリックシャフトの偏心量やローターの中心からアペックスまでの距離は、上記の動作時にローターの各頂点がローターハウジングのトロコイド面をなぞるように設定されている。 ローターとローターハウジングの間の作動室容積は、ローターの1回の自転の間に拡大と縮小を2回ずつ生じるが、この間に4ストロークエンジンがクランクシャフト2回転で行うのと同様の工程(オットーサイクル)を1サイクル実行する。このサイクルがローターの3辺の上で位相をずらしてそれぞれ進行しているので、ローターの自転1回、すなわち公転3回の間に3回の燃焼・膨張行程がある。ローターの自転運動ではなく公転運動がエキセントリックシャフトを回転させて出力となる。 4ストロークレシプロエンジンと比較すると、 ハウジングに設けられる吸排気ポートは、その位置・形状により以下のように分類される。 4ストロークレシプロエンジンとの比較で、以下のような長所・短所がある。 特に上記長所のうちの「低振動、低騒音」は、往復運動を回転運動に変換するのではなく、もともとが回転運動である本エンジンの構造に由来するものであり、当初は性能でもレシプロエンジンを大きく引き離して未来のエンジンともてはやされ、世界中の自動車メーカーが開発を行う大きな理由となった。 自動車用としてはNSUヴァンケルタイプが唯一実用化されている。その後、NSUに続いて東洋工業(現・マツダ)が量産化した。ほかにもシトロエンなどが生産モデルに搭載しているが、1970年代以降も自動車用として量産を続けたのは、資本主義圏内ではマツダのみである。 20社を超える自動車メーカーがNSUから基本特許を導入して開発を進めたが、実用化に向けた開発はマツダが先行して周辺特許を固めたため、1974年の時点で既にマツダの周辺特許を避けては通れない状況になっていたという。 以下、マツダを除いたロータリーエンジンの概況について記述する(マツダに関する詳細は後述)。 NOx排出量が少ないという時代の要求に合致していたため、1971年にNSU社と技術導入契約を結び開発を始めた。試作機は595 cc × 2ローターで出力120 PS/6000 rpmであり、酸化触媒を用いることで昭和53年排出ガス規制に適合した。2層吸気方式での希薄燃焼(リーンバーン)により熱効率の改善を試みたが、燃費はレシプロエンジンに及ばず、社内基準を満たさなかったために開発は中止された。 1972年の東京モーターショーに、ロータリーエンジンを搭載したサニーを参考出品し、2代目(S10型)シルビアはロータリーエンジンを搭載することを前提に市販間近といわれていた。しかし、1973年に起きた第一次オイルショックに見舞われたことを契機に、省エネルギー志向に切り替わった社会情勢においては燃費の良くないロータリーエンジンは相応しくないとの理由から、既存のレシプロエンジンに変更され、市販には至らなかった。 1960年代からロータリーエンジンの研究を開始し、ミッドシップに4ローターロータリーエンジンを搭載したコンセプトカー「C111」を1970年のジュネーブ・モーターショーで発表したが、耐久性の面で問題が生じ、市販されることはなかった。 ロータリーエンジンの元祖NSUを吸収合併したアウディは、2010年のジュネーブ・モーターショーにおいてコンセプトカー「アウディ・A1 e-tron」を発表した。これは、ロータリーエンジンを発電機専用に使用したシリーズ・ハイブリッド(レンジエクステンダー付きEV)である。 低圧高圧二段構成のロータリーディーゼルエンジン「R6」を試作している。 1970年代に独自のロータリーエンジン開発計画(英語版)が存在し、1973年にミッドシップに2ローター/4ローターを搭載したコルベットを発表したが、第一次オイルショック直後だったため、市販されることはなかった。また、GMからロータリーエンジンの供給を受け、同社初のFFとなる予定であったシボレー・ベガ(英語版)の発表を計画していたが、最終的には既存のレシプロエンジンを使ったFRレイアウトへの変更を余儀なくされた。 農業用トラクターなどで知られる同社は、米軍部のマルチフューエルエンジン化構想に応えたロータリーエンジンを完成させ、海兵隊車両に採用された。 国営時代からソビエト連邦の崩壊後の2000年頃まで、幅広い車種でロータリーエンジン搭載車を量産していた。ソ連は国策の一環として、国営のVAZに命じてロータリーエンジンの製作を行わせていた。ソ連の一般市民には、現在の基準から見れば比較的低性能なレシプロエンジンの車両しか販売されていなかったため、安価に高出力を出せるロータリーエンジンはKGBをはじめとした官公庁向けの車両や、高級官僚や軍人向けに販売される高性能車両にはうってつけであった。ソ連圏のロータリーエンジン開発は、資本主義圏のメーカーとは一切の提携の締結なしに行われ、リバースエンジニアリング元はNSU系の1ローター654ccのエンジンといわれている。コピー元はあるものの、技術やノウハウの提供を正規に得ていないという点では、独立に完成させた物といえる。そのバリエーションは東洋工業に劣らないもので、市販車には1ローターから3ローターまでが存在し、試作エンジンには4ローターも存在した。市販車では合計8車種に搭載され、エンジンの種類は試作も含めると20種類に達するという。最高出力も燃料供給装置の幾多の改良を経て、航空機向けに開発された2ローターの最終型VAZ-416(ロシア語版)は180馬力から206馬力、3ローターの最終型VAZ-426(ロシア語版)は270馬力、試作4ローターのVAZ-526(ロシア語版)は400馬力に達していたという。1974年から製造が開始され、ソ連が崩壊しロシア連邦となった後も2002年頃までロータリーエンジン車の販売が続けられたものとされているが、その総生産台数やエンジン設計の全容などの情報は、現存するメーカー自体も積極的に公表したがらない事情もあり、冷戦終結後の現在でも西側諸国にはあまり伝わっていない。ただし、ロシアのエンスージアストの間ではチューニングカーのベース車両としてある程度の知名度はあるようで、NAチューンやターボチャージャー取り付けなどの改造が施されたVAZ製ロータリー車の走行映像が、YouTubeなどに数多く投稿されている。 小型軽量ながら高出力という利点を活かし航空機用のエンジンとして採用された例がある。また軽量でオクタン価の低い燃料でも稼動するため補助動力装置に採用例がある。 大手グライダー製造メーカーであるドイツのアレキサンダー・シュライハー社は、自力で離陸できる動力格納式のモーターグライダーである、オープンクラスアレキサンダー・シュライハー ASH 25(英語版)、18mクラスアレキサンダー・シュライハー ASH 26(英語版)や、2004年に初飛行したベストセラー練習機アレキサンダー・シュライハー ASK 21を基にしたASK21 Mi に、従来の空冷2ストロークエンジンではなくシングルローターのヴァンケルロータリーエンジンを搭載している。これは、もともとノートンのオートバイ用であったものを、ダイヤモンド・エアクラフト・インダストリーズグループのダイアモンドエンジン社が改良、発展させたものである。 ヘリコプター用としては、シトロエン RE-2やYoungcopter NEOに採用された。 Moller社ではポール・モラー(英語版)がFreedom Motorsのロータリーエンジンを使用したスカイカーとしてMoller M400やMoller M200Gを制作している。 シコルスキーでは、無人実験機・サイファーの動力にヴァンケルロータリーエンジンを用いている。 ホームビルト機では、マツダ車から取り出したロータリーエンジンを搭載できるように設計された機体もある。 模型飛行機用として超小型のロータリーエンジンが市販されている。小川精機は工程容積4.97 ccの49-PIをかつて製造販売していた。実用回転数は2,500 - 18,000 rpmで、出力は1.1馬力/17,000 rpmである。初期はサイドポート吸気であったが、49-PI Type IIではペリフェラルポート吸気に変更されている。現在でも入手可能なものは日東工作所製で、行程容積11.97 ccのNR-12HとNR-12Pである。 分散型の熱電供給システムであるコジェネレーションシステムの動力源として、コンパクトで低騒音、低振動という特徴からロータリーエンジンが注目されている。 2002年に広島ガス、2003年に中国電力がマツダの自動車用ロータリーエンジンを組み込んだシステムを試作、LPガスを燃料として実証試験を行っている。 広島市南区の広島県太田川流域下水道東部浄化センターでは、バクテリアの力で下水汚泥を分解して量を減らす工程で生じるメタンガスを燃料とし、自動車用ロータリーエンジンを組み込んだ発電装置9台を4億7400万円で設置し、2012年3月23日から稼働させている。これは呉市に製造拠点を置く製鋼・産業機械メーカーの寿工業(東京)やマツダなどが共同開発したもので、排熱も浄化槽の加温に使用されている。 元マツダの技術者である室木巧は、層状給気燃焼方式を採用したロータリーエンジン(DISC-RE)でコージェネレーションシステムの研究をしているが、自著で自動車に使うには研究が足りないと記している。 カリフォルニア大学バークレー校のMEMSのロータリーエンジン研究室はローター径1 mm以下、容積0.1 cc未満のヴァンケルロータリー型発電機を開発している。ローターに組み込まれた磁石で発電するが、現在は外部からの圧縮空気で動いている段階。目標は100 mWを供給する内燃機関の開発という。 1959年(昭和34年)、西ドイツ(当時)のNSU(後にアウディへ吸収合併)が、フェリクス・ヴァンケルとともにロータリーエンジンを試験開発したと発表した。日本では1965年(昭和40年)の乗用車輸入自由化に向け、通商産業省(現・経済産業省)主導による自動車業界再編が噂されており、後発メーカーである東洋工業(現・マツダ)はその波に飲み込まれる形で吸収合併の危機が迫っていた。「技術は永遠に革新である」をモットーとする当時の松田恒次社長は事態の打開を目指し、1960年(昭和35年)にNSUと技術提携の仮調印を行った。契約に際してNSUから提示された条件は以下のようなものであった。 以上のようにあまりにも一方的な内容であった。また、NSUから送られてきた試作エンジンは、数々の問題が残されていた。アイドリング時の激しい振動(電気あんま)、エンジンオイルの過大な消費、それによるおびただしい白煙(カチカチ山)、さらにチャターマークの発生(ローターハウジング内壁に波状磨耗が起こる致命的なトラブル)によって40時間程でエンジンが停止。ロータリーエンジンは試験開発には成功したものの、とても実用化できるレベルのものではなかった。 こうして東洋工業は、次世代エンジンと目されたロータリーエンジンの開発・実用化という社運を賭けた挑戦を行うこととなった。山本健一を筆頭とするロータリーエンジン研究部(平均年齢25歳。のちにロータリー四十七士と称される)がその任にあたった。 しかし、日本の自動車業界内ではロータリーエンジンに対する様々な批判・悪評が飛び交い、それは東洋工業社内にも広がった。戦前から日本の内燃機関技術の権威であった富塚清は、1960年代初頭からヴァンケル式ロータリーエンジンの開発に極めて否定的な見解を示し、一般向け自動車雑誌「モーターファン」誌、専門家向けの「日本機械学会誌」双方でロータリー否定論を展開した。この時代、日本の大学研究者や企業のエンジン技術者には東京帝国大学等で富塚に師事した弟子も多かったため、富塚の見解に同調して、ロータリーエンジンを実現性に乏しい技術とする論調が業界に高まった。山本も後年、富塚の実名を挙げて「富塚の弟子らに集団批判の席に招かれた(単なる吊るし上げに陥ると見た山本は断っている)」「批判により部下たちが自信を失いがちになり、モチベーションを維持することに苦心した」と回想している。富塚はその後、マツダのロータリーエンジン車が市販されるようになった晩年の著作に至るまで、ロータリーエンジンに否定的な見解を一貫して続けた。 開発は困難を極めたが、それでも途方もない時間、労力、資金、そして情熱を費やして続行された。大きな問題は3つあった。 1963年(昭和38年)には第10回全日本自動車ショウ(翌年の第11回から東京モーターショーに改称)に400 cc×1ローター・400 cc×2ローターの試作エンジンを展示。翌1964年(昭和39年)にはスポーツカー「コスモスポーツ」のプロトタイプを展示した。この時、松田が自らコスモスポーツを運転して広島から会場に到着し、帰路には各販売会社、メインバンクの住友銀行、当時の池田勇人首相などを訪問したというエピソードも残っている。1965年(昭和40年)、1966年(昭和41年)と続けて展示され、その間、試作車による10万 kmに及ぶ連続耐久テストを含む、総距離300万 kmにも達する走行テストが行われた。テストは各地のディーラーに委託されたコスモスポーツ60台により、1年の期間を費やして実施された。そして1967年(昭和42年)5月30日、コスモスポーツは満を持してついに発売となった。1961年(昭和36年)1月のロータリーエンジン試作1号機から、6年の歳月が流れていた。 1985年までに、ロータリーエンジンの研究に携わっていた各メーカーが開発した特許件数は以下の通りである。 しかし、このエンジンの開発期における最大の問題点であり、かつ解決されたかに思われた部分が、後に短所として再び浮き彫りになる。 1973年(昭和48年)の排出ガス規制導入当初は、窒素酸化物(NOx)を減らすための効果的な手段が見つかっていなかったが、マツダはREの低いNOx濃度を濃い空燃比(燃調)でさらに低減させ、それに伴う不完全燃焼により増加する排気ガス中の炭化水素(HC)および一酸化炭素(CO)をサーマルリアクターにて再燃焼させて浄化しており、濃い燃調により実燃費がさらに悪化するという事態に陥っていた。のちにNOx、HC、COを同時に低減可能な三元触媒が開発・実用化され、サーマルリアクターを触媒に置き換えることで燃調を薄くできたため、燃費を向上させた。 オイルショックによる原油価格高騰の影響で、NSUと提携した各社はロータリーエンジンの将来性を見限って開発から撤退し、本家たるNSUもロータリーエンジン車生産を中止した。そのような中でマツダは唯一市場に踏み止まったが、採用車種は年を追うごとに減少し、ユーノスコスモが生産を終了した1996年以降は、RX-7が唯一の生産車種となった。 2003年にRX-7の後継として発売されたRX-8のロータリーエンジンでは、排気ポートをペリフェラルポートからサイドポートに変更して、従来からの燃費悪化要因のひとつであった吸排気のオーバーラップをなくして燃費向上を図っている。一方で排気ポートの変更により、サイドシールの磨耗やススの付着といった新たな問題も生じた。 2012年6月のRX-8の生産終了をもって、ロータリーエンジンを搭載した市販車はマツダのラインナップから消滅したが、同時にレンジエクステンダーシステム(電気自動車の発電用)や水素ロータリーエンジンとして活用することが発表された。2013年12月には、デミオEVにロータリーエンジンによるレンジエクステンダーシステムを搭載した試作車を報道陣に公開している。 2023年には、MX-30に発電用のロータリーエンジンを搭載したプラグインハイブリッドモデル「MX-30 Rotary-EV」が発表され、同年9月14日に日本国内での予約受付を開始した。ロータリーエンジンを搭載したマツダの市販車は、RX-8の生産終了以来11年ぶりの復活となる。 マツダはコスモスポーツの発売以来、「1970年代、車の主流はロータリーエンジンへ」「車の主流をかえるロータリーのマツダ」というキャッチコピーとともに各車種への展開を図った。13A、16X、8C以外は完全な新開発ではなく、既存の生産設備を使うため10Aをベースにローターやハウジングの厚みを増して排気量を上げたものである。そのためローターの厚さ以外の基本寸法は変えられていない。 1991年のHR-X以来、マツダでは水素を燃料としたロータリーエンジンを開発している。2004年10月にはRX-8をベースにした車両が、2008年にはプレマシーをベースにした車両がナンバーを取得している。 水素燃料は再生可能エネルギーの一種であり、また燃料電池用の燃料としてのインフラ整備が課題に挙がっている。その水素燃料を容易に転用できる内燃機関のひとつとして、ロータリーエンジンは有望である。これはレシプロエンジンとの比較で、吸気室と燃焼室が分離している上に高温となる排気バルブもないため、過早着火やバックファイアーと言った異常着火が発生しないこと、また大径となる水素インジェクターを、燃焼にさらされずにすむ吸気室上部の広大な場所に設置できること、という構造上の利点があり、さらには水素の燃焼速度は速いため、縦長で扁平な燃焼室形状というロータリーエンジンの欠点が問題になりにくいという相性の良さもあるためである。現時点では高純度の水素を必要とする燃料電池車などと比べても、はるかに現実的な解法である。また燃焼時のすすが少ないためLPGやCNGなどのガス燃料であれば、水素以外でもロータリーエンジンの方がレシプロエンジンよりも有利であるとされる(このうちLPGについては前述のコジェネレーションシステムの実証実験もなされている)。 ただし、LPGやCNGはともかく水素においてはインフラの整備があまりにも局所的であり全国展開の目途が立たないこと、水素の場合において、水素吸蔵合金を使用すれば車が重くなり、高圧水素タンクを使用すれば衝突時に爆発の危険があること、そのどちらにおいても航続距離が短距離に留まることなど、ロータリーエンジンに限らず、水素を自動車用エネルギー源として使用する上で解決すべき課題はまだ多い。 ドイツはロータリー発祥の地ではあるが、市販に漕ぎ着けた車種は極僅かである。 ロータリーエンジンは構成部品が圧倒的に少なく、特に組み付けと調整に多くの時間を要する動弁系を持たないことや、ジャーナルとキャップ間などのオイルクリアランスの管理箇所が少ないことで、オーバーホールの時間を大幅に短縮でき、レースユースには非常に適している。ローコストで高性能が得られることから、多くのプライベーターの支持を受け、1970年代以降の日本のモータースポーツ界を支えた。 コスモスポーツでのマラソン・デ・ラ・ルート84時間参戦に始まるロータリーエンジンのモータースポーツ活動は、その後日本国内でも1971年のサバンナによる日産・スカイラインGT-Rの連勝記録ストップとその後の同車との一騎討ち的な闘い、富士グランチャンピオンレースでのマツダRE搭載車の活躍などがあった。世界三大レースの一つであるル・マン24時間レースにも参戦し続け、1991年には787Bが日本車初の総合優勝を果たすなど、日本国内外において幅広く活躍した。 その後、1992年にマツダはレース活動自体から撤退。マツダスピードはロータリーエンジンでの耐久レースを続けていたが、1999年に解散し、ワークスレベルでの支援は望めない状況になってしまった。そのような中でもRE雨宮は、自然吸気仕様の20B型エンジンを搭載したFD型RX-7でSUPER GTに参戦し、プライベーターながらGT300クラスのタイトルを獲得した。 北米では古くから現地のマツダ法人によるモータースポーツ活動が行われ、2000年代末までIMSAの市販車・GTクラスで勝利を重ね続けていた。また同じく北米でマツダが関わっていたミドルフォーミュラのフォーミュラ・マツダとプロ・マツダ チャンピオンシップでロータリーエンジンが使用されていた。 ロータリーエンジンは採用チームの少ない割に性能均衡が難しいことから搭載自体を禁止するカテゴリも多く、規則の自由度が高いことで知られる世界耐久選手権(WEC)でも認可されていなかった。そのため、2010年代以降のトップカテゴリでロータリーエンジンが禁じられていないものは、世界ラリークロス選手権のツーリングカークラスやWRC3のような、アマチュア志向の市販車クラスのみとなっていた。 しかし、2020 - 2021シーズンにLMP1に代わって導入されたWECのハイパーカー規定から、ロータリーエンジン搭載車両が参戦可能となった。マツダが787Bでル・マンを制した1991年以来初のことであり、マツダも参戦への関心を示していることが報じられた。 その簡単な構造により、十分な知識、部品およびツールさえあれば、個人でのエンジンの分解・組み立てさえも可能である。また、2ローター以上のロータリーエンジンは、左右と中央のハウジングに挟まれたローターが直列に配置された構造を採るため、レシプロエンジンのクランクシャフトに相当するエキセントリックシャフトの新造さえできれば、個人でも市販エンジンの部品を組み合わせて1ローターや4ローター以上のエンジンを製作する事も可能である。1ローターは日本のRE雨宮がマツダ・シャンテの改造用に製作したものが著名であり、海外では2013年現在、自動車向けではニュージーランドのエンジンビルダーが試作した6ローターが発表されている。 外部からの動力で働くヴァンケルロータリー構造の空気圧縮機である。レシプロ式に比べ低振動・低騒音で高効率である一方、潤滑油が圧縮空気に混合し易い。 ヴァンケルロータリー構造を内燃機関用スーパーチャージャーに応用したもの。実験は行われたが、十分な過給効果を得るためには、ロータリーエンジンの2倍ほどの大きさのハウジングが必要となるため、実用化はされていない。 油圧モーターの中で、油圧ショベルの駆動輪などに用いられているものはヴァンケルロータリー構造のものが多い。 奇抜なものとしてシートベルトプリテンショナーがある。メルセデスベンツでいくつかの車種に使用されている。これらの自動車では衝撃を感知すると電気的に小型のガス発生器に点火されて作動して減圧されたガスが小型のヴァンケルロータリーモーターに供給されてシートベルトを巻き上げる。 ランキンサイクルによって作動する外燃・外熱ヴァンケルロータリーエンジン。各種プラントの排熱を、機械エネルギーとして、また、発電機との組み合わせで電力として回収するために用いられる。 沸点の低いアンモニアやエタノールを作動流体とすることで、従来利用されることのなかった(捨てられていた)、温度域が40°C - 150°C程度の排熱からでも動力を取り出せる。 1967年英国センチュリー21プロダクション製作のSF特撮人形劇「キャプテン・スカーレット」に登場する追跡戦闘車(S.P.V. Spectrum Pursuit Vehicle)は、前後に8ローターのロータリー・エンジンを搭載という設定になっている。
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"4ストロークレシプロエンジンと同様にオットーサイクルやディーゼルサイクルでの熱力学的動作が可能だが、実用化されたのはオットーサイクルのガソリン燃料火花点火機関であり、ガソリンに代えて水素燃料を使える物も試作されている。なお、ガスタービンエンジンも本項のロータリーエンジンと同様に回転運動により出力を得ているが、これは速度型の内燃機関であり、容積型内燃機関であるロータリーエンジンとは別に分類される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ロータリーエンジンとして上記の「ヴァンケルエンジン」のみを指す場合も多く、また「回転ピストン型エンジン」、時には「ピストンレスエンジン」と呼ばれることもある。自動車用としては、日本ではヴァンケルエンジンを指して「ロータリーエンジン」(「RE」と略記される)と呼ぶことが一般的であるが、日本以外では「Rotary engine」とも、あるいはより限定的に「Wankel engine」とも呼ばれる。航空機用として「ロータリーエンジン」と呼ぶときは、星型エンジン本体(シリンダー側)がプロペラとともに回転し、クランクシャフトは固定されている構造の回転式レシプロエンジンを意味する場合と、本項のヴァンケルエンジンを意味する場合とがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ロータリーエンジンの出力軸回転数とは、ローターではなくエキセントリックシャフトの回転数であり、これが4ストロークレシプロエンジンのクランクシャフト回転数に相当する。ロータリーエンジンは、1ローターあたりエンジン回転1回転に1回単室容積分の空気を吸入するため、1気筒あたりエンジン2回転に1回単気筒容積分の空気を吸入する4ストロークレシプロエンジンの2倍の吸気回数を持つ(詳しくは下記「動作」を参照)。すなわち、ロータリーエンジンの実質吸気量は「単室容積xローター数x2」となる。このため、内燃機関工学分野においては2ストロークレシプロエンジン同様に、当初から現在まで一貫して換算係数2が用いられている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本の自動車税課税時の排気量区分では、「単室容積×ローター数×係数1.5」として換算される。これはロータリーエンジンの出力が「単室容積xローター数x1.5」程度の換算吸気量のレシプロエンジンと同等だったためである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "モータースポーツ分野においては、ロータリーエンジンデビュー期には工学的にロータリーエンジンの排気量に係数「2」を掛け、その値をレシプロエンジンの排気量区分に当てはめていた。しかし、レシプロエンジンの約2倍の空気(と燃料)を吸入しながら出力は1.5倍程度しか得られないため「燃料消費率が3割悪い」という性質を持ち、特にモータースポーツにおいては出力差だけでなく燃料タンク容量や燃料消費に伴う車重変化まで考慮するとレシプロエンジンとの平等な排気量換算は極めて困難である。そのため競技の種類(例えばスプリントレースか耐久レースか、など)によって異なる換算係数が用いられたり、またF1などのようにロータリーエンジンの使用を認めない競技もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ロータリーエンジン本体の構成部品の概略を下記に示す。燃料供給系・吸排気系・潤滑系・冷却系・電気系などは、一部構造は異なりながらもレシプロエンジンと同様に別途設けられるが、上述のとおりローター自体が弁機能を呈するので動弁系は不要である。なお相当部品名は、レシプロエンジンに対するものである。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "エキセントリックシャフトの偏心部がローターの穴に通されていて、エキセントリックシャフトの回転によりその軸心のまわりをローターが公転するが、この両者間では自由に回転できるようになっている。ローターが自転1回転の間に3回公転、すなわちエキセントリックシャフトが3回転するように、サイドハウジングのステーショナリーギヤとローターのインターナルギヤとのかみ合いによって制御されている。なお、エキセントリックシャフトの偏心量やローターの中心からアペックスまでの距離は、上記の動作時にローターの各頂点がローターハウジングのトロコイド面をなぞるように設定されている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ローターとローターハウジングの間の作動室容積は、ローターの1回の自転の間に拡大と縮小を2回ずつ生じるが、この間に4ストロークエンジンがクランクシャフト2回転で行うのと同様の工程(オットーサイクル)を1サイクル実行する。このサイクルがローターの3辺の上で位相をずらしてそれぞれ進行しているので、ローターの自転1回、すなわち公転3回の間に3回の燃焼・膨張行程がある。ローターの自転運動ではなく公転運動がエキセントリックシャフトを回転させて出力となる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "4ストロークレシプロエンジンと比較すると、", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ハウジングに設けられる吸排気ポートは、その位置・形状により以下のように分類される。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "4ストロークレシプロエンジンとの比較で、以下のような長所・短所がある。", "title": "長所・短所" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "特に上記長所のうちの「低振動、低騒音」は、往復運動を回転運動に変換するのではなく、もともとが回転運動である本エンジンの構造に由来するものであり、当初は性能でもレシプロエンジンを大きく引き離して未来のエンジンともてはやされ、世界中の自動車メーカーが開発を行う大きな理由となった。", "title": "長所・短所" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "自動車用としてはNSUヴァンケルタイプが唯一実用化されている。その後、NSUに続いて東洋工業(現・マツダ)が量産化した。ほかにもシトロエンなどが生産モデルに搭載しているが、1970年代以降も自動車用として量産を続けたのは、資本主義圏内ではマツダのみである。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "20社を超える自動車メーカーがNSUから基本特許を導入して開発を進めたが、実用化に向けた開発はマツダが先行して周辺特許を固めたため、1974年の時点で既にマツダの周辺特許を避けては通れない状況になっていたという。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "以下、マツダを除いたロータリーエンジンの概況について記述する(マツダに関する詳細は後述)。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "NOx排出量が少ないという時代の要求に合致していたため、1971年にNSU社と技術導入契約を結び開発を始めた。試作機は595 cc × 2ローターで出力120 PS/6000 rpmであり、酸化触媒を用いることで昭和53年排出ガス規制に適合した。2層吸気方式での希薄燃焼(リーンバーン)により熱効率の改善を試みたが、燃費はレシプロエンジンに及ばず、社内基準を満たさなかったために開発は中止された。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1972年の東京モーターショーに、ロータリーエンジンを搭載したサニーを参考出品し、2代目(S10型)シルビアはロータリーエンジンを搭載することを前提に市販間近といわれていた。しかし、1973年に起きた第一次オイルショックに見舞われたことを契機に、省エネルギー志向に切り替わった社会情勢においては燃費の良くないロータリーエンジンは相応しくないとの理由から、既存のレシプロエンジンに変更され、市販には至らなかった。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1960年代からロータリーエンジンの研究を開始し、ミッドシップに4ローターロータリーエンジンを搭載したコンセプトカー「C111」を1970年のジュネーブ・モーターショーで発表したが、耐久性の面で問題が生じ、市販されることはなかった。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ロータリーエンジンの元祖NSUを吸収合併したアウディは、2010年のジュネーブ・モーターショーにおいてコンセプトカー「アウディ・A1 e-tron」を発表した。これは、ロータリーエンジンを発電機専用に使用したシリーズ・ハイブリッド(レンジエクステンダー付きEV)である。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "低圧高圧二段構成のロータリーディーゼルエンジン「R6」を試作している。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1970年代に独自のロータリーエンジン開発計画(英語版)が存在し、1973年にミッドシップに2ローター/4ローターを搭載したコルベットを発表したが、第一次オイルショック直後だったため、市販されることはなかった。また、GMからロータリーエンジンの供給を受け、同社初のFFとなる予定であったシボレー・ベガ(英語版)の発表を計画していたが、最終的には既存のレシプロエンジンを使ったFRレイアウトへの変更を余儀なくされた。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "農業用トラクターなどで知られる同社は、米軍部のマルチフューエルエンジン化構想に応えたロータリーエンジンを完成させ、海兵隊車両に採用された。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "国営時代からソビエト連邦の崩壊後の2000年頃まで、幅広い車種でロータリーエンジン搭載車を量産していた。ソ連は国策の一環として、国営のVAZに命じてロータリーエンジンの製作を行わせていた。ソ連の一般市民には、現在の基準から見れば比較的低性能なレシプロエンジンの車両しか販売されていなかったため、安価に高出力を出せるロータリーエンジンはKGBをはじめとした官公庁向けの車両や、高級官僚や軍人向けに販売される高性能車両にはうってつけであった。ソ連圏のロータリーエンジン開発は、資本主義圏のメーカーとは一切の提携の締結なしに行われ、リバースエンジニアリング元はNSU系の1ローター654ccのエンジンといわれている。コピー元はあるものの、技術やノウハウの提供を正規に得ていないという点では、独立に完成させた物といえる。そのバリエーションは東洋工業に劣らないもので、市販車には1ローターから3ローターまでが存在し、試作エンジンには4ローターも存在した。市販車では合計8車種に搭載され、エンジンの種類は試作も含めると20種類に達するという。最高出力も燃料供給装置の幾多の改良を経て、航空機向けに開発された2ローターの最終型VAZ-416(ロシア語版)は180馬力から206馬力、3ローターの最終型VAZ-426(ロシア語版)は270馬力、試作4ローターのVAZ-526(ロシア語版)は400馬力に達していたという。1974年から製造が開始され、ソ連が崩壊しロシア連邦となった後も2002年頃までロータリーエンジン車の販売が続けられたものとされているが、その総生産台数やエンジン設計の全容などの情報は、現存するメーカー自体も積極的に公表したがらない事情もあり、冷戦終結後の現在でも西側諸国にはあまり伝わっていない。ただし、ロシアのエンスージアストの間ではチューニングカーのベース車両としてある程度の知名度はあるようで、NAチューンやターボチャージャー取り付けなどの改造が施されたVAZ製ロータリー車の走行映像が、YouTubeなどに数多く投稿されている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "小型軽量ながら高出力という利点を活かし航空機用のエンジンとして採用された例がある。また軽量でオクタン価の低い燃料でも稼動するため補助動力装置に採用例がある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "大手グライダー製造メーカーであるドイツのアレキサンダー・シュライハー社は、自力で離陸できる動力格納式のモーターグライダーである、オープンクラスアレキサンダー・シュライハー ASH 25(英語版)、18mクラスアレキサンダー・シュライハー ASH 26(英語版)や、2004年に初飛行したベストセラー練習機アレキサンダー・シュライハー ASK 21を基にしたASK21 Mi に、従来の空冷2ストロークエンジンではなくシングルローターのヴァンケルロータリーエンジンを搭載している。これは、もともとノートンのオートバイ用であったものを、ダイヤモンド・エアクラフト・インダストリーズグループのダイアモンドエンジン社が改良、発展させたものである。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ヘリコプター用としては、シトロエン RE-2やYoungcopter NEOに採用された。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "Moller社ではポール・モラー(英語版)がFreedom Motorsのロータリーエンジンを使用したスカイカーとしてMoller M400やMoller M200Gを制作している。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "シコルスキーでは、無人実験機・サイファーの動力にヴァンケルロータリーエンジンを用いている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ホームビルト機では、マツダ車から取り出したロータリーエンジンを搭載できるように設計された機体もある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "模型飛行機用として超小型のロータリーエンジンが市販されている。小川精機は工程容積4.97 ccの49-PIをかつて製造販売していた。実用回転数は2,500 - 18,000 rpmで、出力は1.1馬力/17,000 rpmである。初期はサイドポート吸気であったが、49-PI Type IIではペリフェラルポート吸気に変更されている。現在でも入手可能なものは日東工作所製で、行程容積11.97 ccのNR-12HとNR-12Pである。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "分散型の熱電供給システムであるコジェネレーションシステムの動力源として、コンパクトで低騒音、低振動という特徴からロータリーエンジンが注目されている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2002年に広島ガス、2003年に中国電力がマツダの自動車用ロータリーエンジンを組み込んだシステムを試作、LPガスを燃料として実証試験を行っている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "広島市南区の広島県太田川流域下水道東部浄化センターでは、バクテリアの力で下水汚泥を分解して量を減らす工程で生じるメタンガスを燃料とし、自動車用ロータリーエンジンを組み込んだ発電装置9台を4億7400万円で設置し、2012年3月23日から稼働させている。これは呉市に製造拠点を置く製鋼・産業機械メーカーの寿工業(東京)やマツダなどが共同開発したもので、排熱も浄化槽の加温に使用されている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "元マツダの技術者である室木巧は、層状給気燃焼方式を採用したロータリーエンジン(DISC-RE)でコージェネレーションシステムの研究をしているが、自著で自動車に使うには研究が足りないと記している。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "カリフォルニア大学バークレー校のMEMSのロータリーエンジン研究室はローター径1 mm以下、容積0.1 cc未満のヴァンケルロータリー型発電機を開発している。ローターに組み込まれた磁石で発電するが、現在は外部からの圧縮空気で動いている段階。目標は100 mWを供給する内燃機関の開発という。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1959年(昭和34年)、西ドイツ(当時)のNSU(後にアウディへ吸収合併)が、フェリクス・ヴァンケルとともにロータリーエンジンを試験開発したと発表した。日本では1965年(昭和40年)の乗用車輸入自由化に向け、通商産業省(現・経済産業省)主導による自動車業界再編が噂されており、後発メーカーである東洋工業(現・マツダ)はその波に飲み込まれる形で吸収合併の危機が迫っていた。「技術は永遠に革新である」をモットーとする当時の松田恒次社長は事態の打開を目指し、1960年(昭和35年)にNSUと技術提携の仮調印を行った。契約に際してNSUから提示された条件は以下のようなものであった。", "title": "マツダのロータリーエンジン" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "以上のようにあまりにも一方的な内容であった。また、NSUから送られてきた試作エンジンは、数々の問題が残されていた。アイドリング時の激しい振動(電気あんま)、エンジンオイルの過大な消費、それによるおびただしい白煙(カチカチ山)、さらにチャターマークの発生(ローターハウジング内壁に波状磨耗が起こる致命的なトラブル)によって40時間程でエンジンが停止。ロータリーエンジンは試験開発には成功したものの、とても実用化できるレベルのものではなかった。", "title": "マツダのロータリーエンジン" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "こうして東洋工業は、次世代エンジンと目されたロータリーエンジンの開発・実用化という社運を賭けた挑戦を行うこととなった。山本健一を筆頭とするロータリーエンジン研究部(平均年齢25歳。のちにロータリー四十七士と称される)がその任にあたった。", "title": "マツダのロータリーエンジン" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "しかし、日本の自動車業界内ではロータリーエンジンに対する様々な批判・悪評が飛び交い、それは東洋工業社内にも広がった。戦前から日本の内燃機関技術の権威であった富塚清は、1960年代初頭からヴァンケル式ロータリーエンジンの開発に極めて否定的な見解を示し、一般向け自動車雑誌「モーターファン」誌、専門家向けの「日本機械学会誌」双方でロータリー否定論を展開した。この時代、日本の大学研究者や企業のエンジン技術者には東京帝国大学等で富塚に師事した弟子も多かったため、富塚の見解に同調して、ロータリーエンジンを実現性に乏しい技術とする論調が業界に高まった。山本も後年、富塚の実名を挙げて「富塚の弟子らに集団批判の席に招かれた(単なる吊るし上げに陥ると見た山本は断っている)」「批判により部下たちが自信を失いがちになり、モチベーションを維持することに苦心した」と回想している。富塚はその後、マツダのロータリーエンジン車が市販されるようになった晩年の著作に至るまで、ロータリーエンジンに否定的な見解を一貫して続けた。", "title": "マツダのロータリーエンジン" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "開発は困難を極めたが、それでも途方もない時間、労力、資金、そして情熱を費やして続行された。大きな問題は3つあった。", "title": "マツダのロータリーエンジン" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1963年(昭和38年)には第10回全日本自動車ショウ(翌年の第11回から東京モーターショーに改称)に400 cc×1ローター・400 cc×2ローターの試作エンジンを展示。翌1964年(昭和39年)にはスポーツカー「コスモスポーツ」のプロトタイプを展示した。この時、松田が自らコスモスポーツを運転して広島から会場に到着し、帰路には各販売会社、メインバンクの住友銀行、当時の池田勇人首相などを訪問したというエピソードも残っている。1965年(昭和40年)、1966年(昭和41年)と続けて展示され、その間、試作車による10万 kmに及ぶ連続耐久テストを含む、総距離300万 kmにも達する走行テストが行われた。テストは各地のディーラーに委託されたコスモスポーツ60台により、1年の期間を費やして実施された。そして1967年(昭和42年)5月30日、コスモスポーツは満を持してついに発売となった。1961年(昭和36年)1月のロータリーエンジン試作1号機から、6年の歳月が流れていた。", "title": "マツダのロータリーエンジン" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1985年までに、ロータリーエンジンの研究に携わっていた各メーカーが開発した特許件数は以下の通りである。", "title": "マツダのロータリーエンジン" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "しかし、このエンジンの開発期における最大の問題点であり、かつ解決されたかに思われた部分が、後に短所として再び浮き彫りになる。", "title": "マツダのロータリーエンジン" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1973年(昭和48年)の排出ガス規制導入当初は、窒素酸化物(NOx)を減らすための効果的な手段が見つかっていなかったが、マツダはREの低いNOx濃度を濃い空燃比(燃調)でさらに低減させ、それに伴う不完全燃焼により増加する排気ガス中の炭化水素(HC)および一酸化炭素(CO)をサーマルリアクターにて再燃焼させて浄化しており、濃い燃調により実燃費がさらに悪化するという事態に陥っていた。のちにNOx、HC、COを同時に低減可能な三元触媒が開発・実用化され、サーマルリアクターを触媒に置き換えることで燃調を薄くできたため、燃費を向上させた。", "title": "マツダのロータリーエンジン" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "オイルショックによる原油価格高騰の影響で、NSUと提携した各社はロータリーエンジンの将来性を見限って開発から撤退し、本家たるNSUもロータリーエンジン車生産を中止した。そのような中でマツダは唯一市場に踏み止まったが、採用車種は年を追うごとに減少し、ユーノスコスモが生産を終了した1996年以降は、RX-7が唯一の生産車種となった。", "title": "マツダのロータリーエンジン" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2003年にRX-7の後継として発売されたRX-8のロータリーエンジンでは、排気ポートをペリフェラルポートからサイドポートに変更して、従来からの燃費悪化要因のひとつであった吸排気のオーバーラップをなくして燃費向上を図っている。一方で排気ポートの変更により、サイドシールの磨耗やススの付着といった新たな問題も生じた。", "title": "マツダのロータリーエンジン" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2012年6月のRX-8の生産終了をもって、ロータリーエンジンを搭載した市販車はマツダのラインナップから消滅したが、同時にレンジエクステンダーシステム(電気自動車の発電用)や水素ロータリーエンジンとして活用することが発表された。2013年12月には、デミオEVにロータリーエンジンによるレンジエクステンダーシステムを搭載した試作車を報道陣に公開している。", "title": "マツダのロータリーエンジン" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2023年には、MX-30に発電用のロータリーエンジンを搭載したプラグインハイブリッドモデル「MX-30 Rotary-EV」が発表され、同年9月14日に日本国内での予約受付を開始した。ロータリーエンジンを搭載したマツダの市販車は、RX-8の生産終了以来11年ぶりの復活となる。", "title": "マツダのロータリーエンジン" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "マツダはコスモスポーツの発売以来、「1970年代、車の主流はロータリーエンジンへ」「車の主流をかえるロータリーのマツダ」というキャッチコピーとともに各車種への展開を図った。13A、16X、8C以外は完全な新開発ではなく、既存の生産設備を使うため10Aをベースにローターやハウジングの厚みを増して排気量を上げたものである。そのためローターの厚さ以外の基本寸法は変えられていない。", "title": "マツダのロータリーエンジン" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1991年のHR-X以来、マツダでは水素を燃料としたロータリーエンジンを開発している。2004年10月にはRX-8をベースにした車両が、2008年にはプレマシーをベースにした車両がナンバーを取得している。", "title": "マツダのロータリーエンジン" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "水素燃料は再生可能エネルギーの一種であり、また燃料電池用の燃料としてのインフラ整備が課題に挙がっている。その水素燃料を容易に転用できる内燃機関のひとつとして、ロータリーエンジンは有望である。これはレシプロエンジンとの比較で、吸気室と燃焼室が分離している上に高温となる排気バルブもないため、過早着火やバックファイアーと言った異常着火が発生しないこと、また大径となる水素インジェクターを、燃焼にさらされずにすむ吸気室上部の広大な場所に設置できること、という構造上の利点があり、さらには水素の燃焼速度は速いため、縦長で扁平な燃焼室形状というロータリーエンジンの欠点が問題になりにくいという相性の良さもあるためである。現時点では高純度の水素を必要とする燃料電池車などと比べても、はるかに現実的な解法である。また燃焼時のすすが少ないためLPGやCNGなどのガス燃料であれば、水素以外でもロータリーエンジンの方がレシプロエンジンよりも有利であるとされる(このうちLPGについては前述のコジェネレーションシステムの実証実験もなされている)。", "title": "マツダのロータリーエンジン" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ただし、LPGやCNGはともかく水素においてはインフラの整備があまりにも局所的であり全国展開の目途が立たないこと、水素の場合において、水素吸蔵合金を使用すれば車が重くなり、高圧水素タンクを使用すれば衝突時に爆発の危険があること、そのどちらにおいても航続距離が短距離に留まることなど、ロータリーエンジンに限らず、水素を自動車用エネルギー源として使用する上で解決すべき課題はまだ多い。", "title": "マツダのロータリーエンジン" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ドイツはロータリー発祥の地ではあるが、市販に漕ぎ着けた車種は極僅かである。", "title": "ロータリーエンジン搭載車" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ロータリーエンジンは構成部品が圧倒的に少なく、特に組み付けと調整に多くの時間を要する動弁系を持たないことや、ジャーナルとキャップ間などのオイルクリアランスの管理箇所が少ないことで、オーバーホールの時間を大幅に短縮でき、レースユースには非常に適している。ローコストで高性能が得られることから、多くのプライベーターの支持を受け、1970年代以降の日本のモータースポーツ界を支えた。", "title": "モータースポーツ" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "コスモスポーツでのマラソン・デ・ラ・ルート84時間参戦に始まるロータリーエンジンのモータースポーツ活動は、その後日本国内でも1971年のサバンナによる日産・スカイラインGT-Rの連勝記録ストップとその後の同車との一騎討ち的な闘い、富士グランチャンピオンレースでのマツダRE搭載車の活躍などがあった。世界三大レースの一つであるル・マン24時間レースにも参戦し続け、1991年には787Bが日本車初の総合優勝を果たすなど、日本国内外において幅広く活躍した。", "title": "モータースポーツ" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "その後、1992年にマツダはレース活動自体から撤退。マツダスピードはロータリーエンジンでの耐久レースを続けていたが、1999年に解散し、ワークスレベルでの支援は望めない状況になってしまった。そのような中でもRE雨宮は、自然吸気仕様の20B型エンジンを搭載したFD型RX-7でSUPER GTに参戦し、プライベーターながらGT300クラスのタイトルを獲得した。", "title": "モータースポーツ" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "北米では古くから現地のマツダ法人によるモータースポーツ活動が行われ、2000年代末までIMSAの市販車・GTクラスで勝利を重ね続けていた。また同じく北米でマツダが関わっていたミドルフォーミュラのフォーミュラ・マツダとプロ・マツダ チャンピオンシップでロータリーエンジンが使用されていた。", "title": "モータースポーツ" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ロータリーエンジンは採用チームの少ない割に性能均衡が難しいことから搭載自体を禁止するカテゴリも多く、規則の自由度が高いことで知られる世界耐久選手権(WEC)でも認可されていなかった。そのため、2010年代以降のトップカテゴリでロータリーエンジンが禁じられていないものは、世界ラリークロス選手権のツーリングカークラスやWRC3のような、アマチュア志向の市販車クラスのみとなっていた。", "title": "モータースポーツ" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "しかし、2020 - 2021シーズンにLMP1に代わって導入されたWECのハイパーカー規定から、ロータリーエンジン搭載車両が参戦可能となった。マツダが787Bでル・マンを制した1991年以来初のことであり、マツダも参戦への関心を示していることが報じられた。", "title": "モータースポーツ" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "その簡単な構造により、十分な知識、部品およびツールさえあれば、個人でのエンジンの分解・組み立てさえも可能である。また、2ローター以上のロータリーエンジンは、左右と中央のハウジングに挟まれたローターが直列に配置された構造を採るため、レシプロエンジンのクランクシャフトに相当するエキセントリックシャフトの新造さえできれば、個人でも市販エンジンの部品を組み合わせて1ローターや4ローター以上のエンジンを製作する事も可能である。1ローターは日本のRE雨宮がマツダ・シャンテの改造用に製作したものが著名であり、海外では2013年現在、自動車向けではニュージーランドのエンジンビルダーが試作した6ローターが発表されている。", "title": "ワンオフ品" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "外部からの動力で働くヴァンケルロータリー構造の空気圧縮機である。レシプロ式に比べ低振動・低騒音で高効率である一方、潤滑油が圧縮空気に混合し易い。", "title": "同様の構造を持つもの" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ヴァンケルロータリー構造を内燃機関用スーパーチャージャーに応用したもの。実験は行われたが、十分な過給効果を得るためには、ロータリーエンジンの2倍ほどの大きさのハウジングが必要となるため、実用化はされていない。", "title": "同様の構造を持つもの" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "油圧モーターの中で、油圧ショベルの駆動輪などに用いられているものはヴァンケルロータリー構造のものが多い。", "title": "同様の構造を持つもの" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "奇抜なものとしてシートベルトプリテンショナーがある。メルセデスベンツでいくつかの車種に使用されている。これらの自動車では衝撃を感知すると電気的に小型のガス発生器に点火されて作動して減圧されたガスが小型のヴァンケルロータリーモーターに供給されてシートベルトを巻き上げる。", "title": "同様の構造を持つもの" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ランキンサイクルによって作動する外燃・外熱ヴァンケルロータリーエンジン。各種プラントの排熱を、機械エネルギーとして、また、発電機との組み合わせで電力として回収するために用いられる。", "title": "同様の構造を持つもの" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "沸点の低いアンモニアやエタノールを作動流体とすることで、従来利用されることのなかった(捨てられていた)、温度域が40°C - 150°C程度の排熱からでも動力を取り出せる。", "title": "同様の構造を持つもの" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "1967年英国センチュリー21プロダクション製作のSF特撮人形劇「キャプテン・スカーレット」に登場する追跡戦闘車(S.P.V. Spectrum Pursuit Vehicle)は、前後に8ローターのロータリー・エンジンを搭載という設定になっている。", "title": "その他" } ]
ロータリーエンジンは、一般的なレシプロエンジンの様な往復動機構による容積変化ではなく、回転動機構による容積変化を利用して、熱エネルギーを回転動力に変換して出力する原動機である。 ドイツの技術者フェリクス・ヴァンケルの発明による、三角形の回転子(ローター)を用いるオットーサイクルエンジンが実用化されている。ヴァンケル型ロータリーエンジンとレシプロエンジンとでは構造は大きく異なるが、熱機関としては同等に機能する。本項ではこのヴァンケルエンジンについて述べる。
{{Pathnav|熱機関|内燃機関|frame=1}} {{otheruses|ヴァンケルエンジン|その他の設計|ピストンレス・ロータリーエンジン|クランクシャフトの周りをシリンダーが回転する航空機レシプロエンジンの一種|ロータリーエンジン (初期航空機)}} [[ファイル:Rotary engine rotor.jpg|thumb|right|250px|ロータリーエンジンのローター<br/>([[マツダミュージアム]]、2005年2月撮影)]] [[File:OKURA20B 2.JPG|thumb|right|250px|マツダスピード製レース用3ローターエンジン]] '''ロータリーエンジン'''({{lang-en|rotary engine}})は、一般的な[[レシプロエンジン]]の様な往復動機構による容積変化ではなく、回転動機構による容積変化を利用して、[[熱エネルギー]]を回転動力に変換して出力する[[原動機]]である。 [[ドイツ]]の技術者[[フェリクス・ヴァンケル]]の発明による、三角形の[[回転子]](ローター)を用いる[[オットーサイクル]][[機関 (機械)|エンジン]]が実用化されている。ヴァンケル型ロータリーエンジンとレシプロエンジンとでは構造は大きく異なるが、[[熱機関]]としては同等に機能する。本項ではこの'''ヴァンケルエンジン'''(Wankel engine)について述べる。 == 概要 == ロータリーエンジンの研究は原理的には古くから行われてきたが、その中で唯一実用化された所謂ヴァンケルエンジンは、[[1957年]]に[[西ドイツ]](当時)の[[NSU]]社とWankel社が共同研究により開発に成功した<ref name=Shimoda>『自動車工学』P.58-P.64 (下田茂 著、共立出版株式会社、3353-618071-1371)</ref>。 レシプロエンジンとは基本的に大きく異なる構造を持っており、エンジン本体に[[ピストン]]のような往復運動部はなく、回転運動するローター<ref group="注釈">[https://www.weblio.jp/content/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC8 ローター] - [[Weblio]]/[[三栄書房]]・大車林(更新日不明)2018年10月26日閲覧</ref>により回転動力を得ている。またロータリーエンジンの[[吸気]]および[[排気]]のポートは、ハウジングの内側面に設けられた孔がローター自体により開閉されるため、一般的な[[4ストローク機関|4ストローク]][[レシプロエンジン]]のような、往復動する吸排気[[ポペットバルブ|バルブ]]やこれを開閉する[[カムシャフト]]などの[[動弁系]]は必要ない。 4ストロークレシプロエンジンと同様にオットーサイクルや[[ディーゼルサイクル]]での熱力学的動作が可能だが、実用化されたのはオットーサイクルの[[ガソリン]][[燃料]][[火花点火機関]]であり、ガソリンに代えて[[水素燃料]]を使える物も試作されている。なお、[[ガスタービンエンジン]]も本項のロータリーエンジンと同様に回転運動により出力を得ているが、これは速度型の[[内燃機関]]であり、容積型内燃機関であるロータリーエンジンとは別に分類される<ref name="Shimoda"/>。 ロータリーエンジンとして上記の「ヴァンケルエンジン」のみを指す場合も多く、また「回転ピストン型エンジン」、時には「ピストンレスエンジン」と呼ばれることもある。自動車用としては、日本ではヴァンケルエンジンを指して「ロータリーエンジン」(「'''RE'''」と略記される)と呼ぶことが一般的であるが、日本以外では「Rotary engine」とも、あるいはより限定的に「Wankel engine」とも呼ばれる。航空機用として「ロータリーエンジン」と呼ぶときは、[[星型エンジン]]本体([[シリンダー]]側)が[[プロペラ]]とともに回転し、クランクシャフトは固定されている構造の[[ロータリーエンジン (初期航空機)|回転式レシプロエンジン]]を意味する場合と、本項のヴァンケルエンジンを意味する場合とがある。 {{main|ロータリーエンジン (初期航空機)}} === レシプロエンジンとの排気量換算 === ロータリーエンジンの出力軸[[回転速度|回転数]]とは、ローターではなくエキセントリックシャフト<ref group="注釈">[https://www.weblio.jp/content/%E3%82%A8%E3%82%AD%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%95%E3%83%88 エキセントリックシャフト] - Weblio/三栄書房・大車林(更新日不明)2018年10月26日閲覧</ref>の回転数であり、これが4ストロークレシプロエンジンの[[クランクシャフト]]回転数に相当する。ロータリーエンジンは、1ローターあたりエンジン回転1回転に1回単室容積分の空気を吸入するため、1気筒あたりエンジン2回転に1回単気筒容積分の空気を吸入する4ストロークレシプロエンジンの2倍の吸気回数を持つ(詳しくは下記「動作」を参照)。すなわち、ロータリーエンジンの実質吸気量は「単室容積xローター数x2」となる。このため、内燃機関工学分野においては2ストロークレシプロエンジン同様に、当初から現在まで一貫して換算[[係数]]2が用いられている。 日本の自動車税課税時の排気量区分では、「単室容積×ローター数×係数1.5」として換算される<ref>[http://www.pref.kyoto.jp/zeimu/11600026.html 自動車税-京都府ホームページ]</ref><ref group="注釈">例えばマツダ13B型エンジンの単室容積xローター数は654 ccx2=1,308 ccであり、実質吸気量でいえばその2倍の2,616 cc相当となるが、税制区分上は1.5倍の1,962 ccと換算されて、同エンジン搭載車は排気量1.5リットル以上2.0リットル未満の車として課税される。なお、換算式内の「1.5」を俗に「ロータリー係数」と言うが、正式名称ではない。</ref>。これはロータリーエンジンの出力が「単室容積xローター数x1.5」程度の換算吸気量のレシプロエンジンと同等だったためである。 [[モータースポーツ]]分野においては、ロータリーエンジンデビュー期には工学的にロータリーエンジンの[[排気量]]に係数「2」を掛け、その値をレシプロエンジンの排気量区分に当てはめていた。しかし、レシプロエンジンの約2倍の空気(と[[燃料]])を吸入しながら出力は1.5倍程度しか得られないため「[[燃料消費率]]が3割悪い」という性質を持ち、特にモータースポーツにおいては出力差だけでなく[[燃料タンク (自動車)|燃料タンク]]容量や燃料消費に伴う車重変化まで考慮するとレシプロエンジンとの平等な排気量換算は極めて困難である。そのため競技の種類(例えばスプリントレースか[[耐久レース]]か、など)によって異なる換算係数<ref group="注釈">毎年のように見直されたが、その都度ロータリーとレシプロの優劣関係が変動した</ref>が用いられたり、また[[フォーミュラ1|F1]]などのようにロータリーエンジンの使用を認めない競技もある。 == 構造 == [[ファイル:Wankel-1.jpg|thumb|right|180px|マツダ13B型ロータリーエンジン<br/>サイドハウジングは取り外され、まゆ形のローターハウジング、三角形のローター、その中に通されたエキセントリックシャフトなどが見える]] === 構成 === ロータリーエンジン本体の構成部品の概略を下記に示す<ref>『モーターファン・イラストレーテッド Vol.19 ロータリーエンジン ― 基礎知識とその未来 ―』P.030-P.031(三栄書房、ISBN 978-4-7796-0403-4)を参考とした。</ref>。燃料供給系・吸排気系・[[潤滑]]系・[[熱交換器#船舶・車両用|冷却]]系・電気系などは、一部構造は異なりながらもレシプロエンジンと同様に別途設けられるが、上述のとおりローター自体が弁機能を呈するので動弁系は不要である。なお相当部品名は、レシプロエンジンに対するものである。 ; ローター:[[ピストン]]と[[コネクティングロッド]]に相当するもので、ローターハウジングの[[トロコイド]]曲線に内接する3葉の内包絡線で構成された、三角形([[ルーローの三角形]])をしたもの。中心にはローター[[軸受|ベアリング]]を介してエキセントリックシャフトがはめられる丸い穴部があり、その縁にはサイドハウジングのギヤ部とかみ合う内歯の歯型(インターナルギヤ)が設けられている。自動車ファンの間では「[[おにぎり]]」と称される事もある。 ; [[シール_(工学)|シール]]:[[ピストンリング]]に相当し、ローターに取り付けられている。ピストンリングは通常2-3本で円筒面に対し気密を保つが、ロータリーエンジンのシール類は数も多く、平面に対して長い範囲で気密を保ちながら摺動しなければならない。 :; [[アペックスシール]]:ローターの各頂点に取り付けられ、隣接する作動室との気密を保つ。ペリフェラルポートの場合は、吸排気バルブにも相当する。 :; サイドシール:ローターの側面とサイドハウジングとの間の気密を保つ。 :; コーナーシール:アペックスシールとサイドシールとのつなぎ目で気密を保つ。 :; [[オイルシール]]:ピストンリングの内のオイルリングに相当し、作動室への[[潤滑油]]の余分な流入を防ぐ。 ; [[エキセントリック (機械要素)|エキセントリック]]シャフト:[[クランクシャフト]]に相当するもので、それと同様にエンジンからの出力軸となる。ローターの取り付く位置のみ芯がずれて太くなっている偏心軸である。右下の動作図ではローター中央の白い部分がこの偏心部で、サイドハウジングに通される回転軸は図中のBの位置となる。 ; [[ハウジング (機械要素)|ハウジング]]:[[シリンダー]]や[[シリンダーヘッド]]に相当し、[[点火プラグ]]の取り付け部や吸排気ポートが設けられている。 :; ローターハウジング:内側面が2ノードの[[ペリトロコイド]]曲線というまゆ型であり、この内部でローターやエキセントリックシャフトの偏心部が回転する。ローターおよびサイドハウジングとともに[[燃焼室]]を構成する。吸排気ポート側と向かい合うくびれ部分(右下図では右側中央)に点火プラグが取り付けられるが、縦長の燃焼室となるために多くはツインプラグとされ、市販以外では3プラグの採用例もある。 :; サイドハウジング:ローターハウジングの側面(右下図の手前および奥の面)をふさぐものである。エキセントリックシャフトの回転軸が通る部分があり、ローターに接する面のその部分の周囲には、外歯のステーショナリギヤ(右下図の茶色のもの)が突起状に固定され、これがローターの内歯とかみ合う。ローターのギヤとステーショナリギヤとの歯数比は3:2である。 [[ファイル:Wankel_Cycle_anim_ja.gif|thumb|right|180px|ロータリーエンジンの動作<br/>吸気→圧縮→膨張→排気のオットーサイクルが3組同時進行している<br/>(吸排気共にペリフェラルポートの例)]] === 動作 === エキセントリックシャフトの偏心部がローターの穴に通されていて、エキセントリックシャフトの回転によりその軸心のまわりをローターが[[公転]]するが、この両者間では自由に回転できるようになっている。ローターが[[自転]]1回転の間に3回[[公転]]、すなわちエキセントリックシャフトが3回転するように、サイドハウジングのステーショナリーギヤとローターのインターナルギヤとのかみ合いによって制御されている。なお、エキセントリックシャフトの[[偏心]]量やローターの中心からアペックスまでの距離は、上記の動作時にローターの各頂点がローターハウジングのトロコイド面をなぞるように設定されている。 ローターとローターハウジングの間の作動室容積は、ローターの1回の自転の間に拡大と縮小を2回ずつ生じるが、この間に4ストロークエンジンがクランクシャフト2回転で行うのと同様の工程(オットーサイクル)を1サイクル実行する。このサイクルがローターの3辺の上で位相をずらしてそれぞれ進行しているので、ローターの自転1回、すなわち公転3回の間に3回の燃焼・膨張行程がある。ローターの自転運動ではなく公転運動がエキセントリックシャフトを回転させて出力となる。 4ストロークレシプロエンジンと比較すると<ref>『モーターファン・イラストレーテッド Vol.19 ロータリーエンジン ― 基礎知識とその未来 ―』P.027(三栄書房、ISBN 978-4-7796-0403-4)</ref>、 * 1回の燃焼・膨張行程に要する出力軸の回転数は、ロータリーエンジンでは1ローターあたり1回転であり、対して4ストロークレシプロエンジンでは1気筒あたり2回転である。 * 1つのオットーサイクルに要する出力軸の回転数は、ロータリーエンジンでは3回転(1080°)であり、対して4ストロークレシプロエンジンでは2回転(720°)である。 * ロータリーエンジンの「吸気」「圧縮」「膨張」「排気」の各行程は270°(1080÷4=270)あり、対して4ストロークレシプロエンジンでは180°(720÷4=180)である。 === 吸排気ポート === ハウジングに設けられる吸排気ポートは、その位置・形状により以下のように分類される。 ; 基本となるポート :; サイドポート:サイドハウジングに設置されたポート。ローターが回転しガスを吸排気する方向とポート口の方向が90度曲がっているため、抵抗が増えて効率に難があり、また排気ポートに採用した場合は、曲がり角となる排気ポート周辺に熱だまりが起こり[[煤|すす]]も発生しやすい。その一方でポート位置・形状の自由度は高く、[[バルブオーバーラップ|オーバーラップ]](ひとつの作動室に吸気・排気の両ポートが同時に開いている時間)を小さく抑えることが可能なため、低回転での安定回転やトルクを確保しやすい。ただし外周寄りの位置でローター回転方向にポートを拡大(レシプロエンジンでのバルブカム[[ハイカム|作用角の拡大]]に相当)した場合には、ローターの頂点がポート上を通過するようになって隣接する作動室同士がつながってしまうこともある。吸気ポートとしては、マツダの大多数の市販車用エンジンに採用されている。「[[RENESIS]]」13B-MSPエンジンでは排気もサイドポートとして、ゼロオーバーラップを実現している。 :; ペリフェラルポート:ローターハウジングのトロコイド面に設置されたポート(右上図の通りの位置)。高回転での吸排気効率に優れた形式であるが、ローターの頂点がポートを通過するときに隣接する作動室とつながり、また吸排気ポートのオーバーラップを小さくできず、吸排気間の吹き抜けを起こしやすい。結果として排出ガス値や燃費の悪化を招く。上記13B-MSPを除くほとんどのエンジンで排気ポートに採用され、吸気ポートでは主に[[レーシングカー|競技用]]エンジンに採用されるほか、NSUのエンジンなどにも採用例があった。 ; 応用的なポート :; クロスポート/コンビネーションポート:低回転用のプライマリー(サイドポート)と高回転用のセカンダリー(ペリフェラルポートの場合もある)の2つの吸気ポートを組み合わせたもの。高回転時に吸気系内の制御でセカンダリーポートを機能させることで、ポートタイミングの最適化とともにポート面積が拡大される。 :; ブリッジポート:吸気サイドポートの一種であり、競技用エンジンや[[チューニング]]などで出力向上のためにサイドポートをハウジング外側へ拡大(レシプロエンジンでのバルブ径や[[ハイカム|バルブリフトの増加]]に相当)した場合に、アペックスシールやサイドシールの破損や脱落を防ぐ目的でシールの通過位置のみにサイドハウジング内壁を残したものである。残された内壁部分がポートにかかる橋のように見えるので、ブリッジポートと呼ばれる。 :; オギジュアリーポート:Auxiliary port、すなわち補助ポート。13B-MSP(6PI仕様)が採用した3番目の吸気サイドポートや、上記ブリッジポートで分割されたポートの一方などの呼称で、主に高回転域での吸気量増大に寄与し、さらなる出力向上を目的として追加されたポートである。ブリッジポートの一方をローターハウジングのトロコイド面にまで広げ、なかばペリフェラルポートとした競技用エンジンも存在し、このようなポートをオギジュアリーポートとしている場合もある。 == 長所・短所 == {{出典の明記|date=2021-10-17|section=1}} 4ストローク[[レシプロエンジン]]との比較で、以下のような長所・短所がある。 === 長所 === * 同程度の出力で比較すると、冷却装備を考慮しても軽量且つコンパクトである。エンジン搭載位置の自由度が高くなり、[[ミッドシップ]]レイアウトに頼らずとも均等な前後重量配分で低慣性モーメントのスポーツカーを、軽量・コンパクト<!--REは出力軸位置が高いのだけれど:、低重心-->に仕上げることが可能である。また、搭載自由度の高さは[[電気自動車]]の[[レンジエクステンダー]]などにも向く。 * 出力軸1回転あたりの燃焼回数が2倍となるため、同じ総排気量でも出力が高い。 * ローターの公転運動をともなってはいるが偏心量は小さく、低[[エンジンの振動|振動]]・低[[騒音]](機械騒音)である。 * エンジンの回転が滑らかである。各行程が270°(4ストロークレシプロエンジンの1.5倍)と長いので、複数ローター間の膨張行程の重なりが4ストロークレシプロエンジンより多く、ロータリーエンジンのトルク変動(筒内圧によるトルクの波)は4ストロークレシプロエンジンより小さくなる。このために、上記燃焼回数の増加と合わせて、2ローター(4ストロークエンジンの4気筒に相当)でも6気筒並み、3ローター(4ストロークエンジンの6気筒に相当)で8 - 12気筒並みの滑らかさであるとされる。 * 動弁系がないためエンジン本体の部品点数が少なく、またバルブ駆動に伴う摩擦損失がない。 * <!--低圧縮である事から-->燃焼温度が低いため[[ノッキング]]しにくく、燃料の[[オクタン価]]の影響を受けにくく、ある程度粗悪な燃料にも耐える。 * 燃焼温度が低いため、[[排気ガス]]中の[[窒素酸化物]](NO<sub>x</sub>)濃度が低い。 特に上記長所のうちの「低振動、低騒音」は、[[ピストン運動|往復運動]]を[[回転]]運動に変換するのではなく、もともとが回転運動である本エンジンの構造に由来するものであり、当初は性能でもレシプロエンジンを大きく引き離して'''未来のエンジン'''ともてはやされ、世界中の自動車メーカーが開発を行う大きな理由となった。 === 短所 === * [[燃焼室]]が扁平で表面積が大きく、また、ローターの回転に伴って燃焼室が移動するため、冷却損失が大きい。同程度のエンジン外形寸法や出力で比較すると、大掛かりな冷却装置が必要となる。 * 上記により低回転域の燃焼安定性が悪く、[[熱効率]]も低く、その域でのトルクとレスポンスは同出力のレシプロエンジンと比べて劣る傾向にある。街乗りなど主に低回転域で走る際には、燃費および運転性(ドライバビリティ)で不利である。 * 排気バルブがなく排気ポートが急激に開くため、排気騒音が大きく排気温度も高い。<!--ターボチャージャーは廻しやすいのだけれどね。--> * 燃焼室が扁平かつ縦長で、トレーリング側(吸気ポート寄り)の隅部が完全燃焼しづらく、排気ガス中に未燃焼燃料の[[炭化水素]](C<sub>n</sub>H<sub>m</sub>)濃度が高い。 * シールの総延長が長いため、摩擦損失が大きい。 * 各シールにかかる負荷方向・摺動速度が常に変動していること、角になっている部分も摺動シールでの密閉を要求されることからシーリングの確実性・耐久性の確保が困難である。 * ローターハウジングのトロコイド面とローター上のアペックスシールとの間の潤滑のために作動室内へのオイル供給が必要で、オイル消費量が多くなる。 * ローターの製造[[公差]]に合わせて寸法違いのシールを多数用意する必要があり、その選択と組付けにも[[職人|熟練工]]の技を要する(手作りとなる)ため、[[ライン生産方式|ライン生産]]に向かない。 *[[アペックスシール]]など特殊な部品で構成されるため、一般的なレシプロエンジンとは異なる整備の知識が必要になる。 == 用途 == === 自動車用 === [[自動車]]用としては[[NSU]]ヴァンケルタイプが唯一実用化されている。その後、NSUに続いて東洋工業(現・[[マツダ]])が量産化した。ほかにも[[シトロエン]]などが生産モデルに搭載しているが、1970年代以降も自動車用として量産を続けたのは、資本主義圏内ではマツダのみである。 20社を超える自動車メーカーがNSUから基本特許を導入して開発を進めたが、実用化に向けた開発はマツダが先行して周辺特許を固めたため、1974年の時点で既にマツダの周辺特許を避けては通れない状況になっていたという<ref>「RE特許、鈴木に譲渡 東洋工、すでに具体交渉」『朝日新聞』昭和49年(1974年)11月1日朝刊、13版、1面</ref>。 以下、マツダを除いたロータリーエンジンの概況について記述する(マツダに関する詳細は[[#マツダのロータリーエンジン|後述]])。 ==== トヨタ自動車 ==== [[ファイル:Rotary Engine of Toyota in 1970s (rear).jpg|thumb|right|180px|1970年代のトヨタ製試作ロータリーエンジン。[[トヨタ産業技術記念館]]蔵。<br>595cc×2ローター、120[[馬力|PS]]。酸化触媒方式で昭和53年排ガス規制に適合できたという。トヨタ独自の技術として、[[リーンバーン]]実現のため[[キャブレター]]による2層吸気方式を採用した試作機もあったが、2プラグ点火方式、サイドポート吸気、ペリフェラルポート排気等は当時のマツダ製と共通である。]] NOx排出量が少ないという時代の要求に合致していたため、1971年にNSU社と技術導入契約を結び開発を始めた<ref name="“toyota”">{{Cite web|和書|url=https://www.freed.gr.jp/blog/president/?id=97 |title=産業技術記念館へ行きました |date=2009-08-22 |author=株式会社フリード |work=会長ブログ |accessdate=2021-04-04}}</ref>。試作機は595 cc × 2ローターで出力120 PS/6000 rpmであり、酸化触媒を用いることで昭和53年排出ガス規制に適合した<ref name=“toyota”/>。2層吸気方式での[[希薄燃焼]](リーンバーン)により熱効率の改善を試みたが、燃費はレシプロエンジンに及ばず、社内基準を満たさなかったために開発は中止された<ref name=“toyota”/>。 ==== 日産自動車 ==== 1972年の[[東京モーターショー]]に、ロータリーエンジンを搭載した[[日産・サニー|サニー]]を参考出品し、2代目(S10型)[[日産・シルビア|シルビア]]はロータリーエンジンを搭載することを前提に市販間近といわれていた<ref name=“clicccar”>{{Cite web|和書|url= https://clicccar.com/2018/06/04/594591/ |title= トヨタも日産も! マツダ以外のメーカーで開発された日本のロータリーエンジン【RE追っかけ記-11】|date=2018-07-15 |author=山口京一 |publisher=cliccar|accessdate=2021-04-04}}</ref>。しかし、[[1973年]]に起きた第一次[[オイルショック]]に見舞われたことを契機に、省エネルギー志向に切り替わった社会情勢においては燃費の良くないロータリーエンジンは相応しくないとの理由から、既存のレシプロエンジンに変更され、市販には至らなかった<ref name=“clicccar”/>。 ==== メルセデス・ベンツ ==== 1960年代からロータリーエンジンの研究を開始し、ミッドシップに4ローターロータリーエンジンを搭載したコンセプトカー「[[メルセデス・ベンツ・C111|C111]]」を1970年の[[サロン・アンテルナショナル・ド・ロト|ジュネーブ・モーターショー]]で発表したが、耐久性の面で問題が生じ、市販されることはなかった。 ==== アウディ ==== ロータリーエンジンの元祖NSUを吸収合併した[[アウディ]]は、2010年の[[サロン・アンテルナショナル・ド・ロト|ジュネーブ・モーターショー]]においてコンセプトカー「[[アウディ・A1]] e-tron」を発表した<ref>[http://www.audi.co.jp/jp/brand/ja/company/news.detail.2010~03~PR-10-025.html]</ref>。これは、ロータリーエンジンを発電機専用に使用した[[シリーズ・ハイブリッド]](レンジエクステンダー付きEV)である。 ==== ロールス・ロイス ==== 低圧高圧二段構成のロータリー[[ディーゼルエンジン]]「R6」を試作している。 ==== シボレー ==== 1970年代に{{仮リンク|ゼネラルモーターズロータリーエンジン|en|General Motors Rotary Combustion Engine|label = 独自のロータリーエンジン開発計画}}が存在し、1973年にミッドシップに2ローター/4ローターを搭載した[[シボレー・コルベット|コルベット]]を発表したが、第一次オイルショック直後だったため、市販されることはなかった。また、GMからロータリーエンジンの供給を受け、同社初の[[前輪駆動|FF]]となる予定であった{{仮リンク|シボレー・ベガ|en|Chevrolet_Vega}}の発表を計画していたが、最終的には既存のレシプロエンジンを使った[[後輪駆動|FR]]レイアウトへの変更を余儀なくされた。 ==== ジョンディア ==== 農業用[[トラクター]]などで知られる同社は、[[アメリカ軍|米軍]]部の[[バイフューエル|マルチフューエル]]エンジン化構想に応えたロータリーエンジンを完成させ、[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]車両に採用された。 ==== ソビエト連邦 - ロシア ==== 国営時代から[[ソビエト連邦の崩壊]]後の2000年頃まで、幅広い車種でロータリーエンジン搭載車を量産していた。ソ連は[[国策]]の一環として、国営の[[アフトヴァース|VAZ]]に命じてロータリーエンジンの製作を行わせていた。ソ連の一般市民には、現在の基準から見れば比較的低性能なレシプロエンジンの車両しか販売されていなかったため、安価に高出力を出せるロータリーエンジンは[[ソ連国家保安委員会|KGB]]をはじめとした官公庁向けの車両や、高級官僚や軍人向けに販売される高性能車両にはうってつけであった。ソ連圏のロータリーエンジン開発は、資本主義圏のメーカーとは一切の提携の締結なしに行われ、[[リバースエンジニアリング]]元はNSU系の1ローター654ccのエンジンといわれている。コピー元はあるものの、技術やノウハウの提供を正規に得ていないという点では、独立に完成させた物といえる。そのバリエーションは東洋工業に劣らないもので、市販車には1ローターから3ローターまでが存在し、試作エンジンには4ローターも存在した。市販車では合計8車種に搭載され、エンジンの種類は試作も含めると20種類に達するという。最高出力も燃料供給装置の幾多の改良を経て、航空機向けに開発された2ローターの最終型{{仮リンク|VAZ-416|ru|ВАЗ-416}}は180馬力から206馬力、3ローターの最終型{{仮リンク|VAZ-426|ru|ВАЗ-426}}は270馬力、試作4ローターの{{仮リンク|VAZ-526|ru|ВАЗ-526}}は400馬力に達していたという。1974年から製造が開始され、ソ連が崩壊し[[ロシア]]連邦となった後も2002年頃までロータリーエンジン車の販売が続けられたものとされているが、その総生産台数やエンジン設計の全容などの情報は、現存するメーカー自体も積極的に公表したがらない事情もあり、[[冷戦]]終結後の現在でも[[西側諸国]]にはあまり伝わっていない。ただし、ロシアの[[エンスージアスト]]の間では[[チューニングカー]]のベース車両としてある程度の知名度はあるようで、NAチューンやターボチャージャー取り付けなどの改造が施されたVAZ製ロータリー車の走行映像が、YouTubeなどに数多く投稿されている<ref>[http://www.youtube.com/playlist?list=PL8F7CA7D2C05E058C lada wankel - YouTube]</ref>。 <gallery> ファイル:DS619.jpg|NSUが開発していた世界初の3ローターエンジン、Wankel NSU 619型エンジン。 ファイル:Toyota Rotary engine (experimental model).jpg|1970年代のトヨタ製研究用ロータリーエンジン。 ファイル:'74 GM Rotary engine.jpg|1974年、GMがシボレー・ベガ用に開発したRC2-206型エンジン。 ファイル:RR-R-6.jpg|ロールス・ロイス R6型エンジン ファイル:Lada vaz spec rpd1.jpg|VAZ-2105に搭載されたVAZ-411型エンジン。 </gallery> === オートバイ === [[ファイル:DKW Wankel 2000 engine.JPG|thumb|220px|ハーキュレス・W2000のDKW製1ローターエンジン]] [[ファイル:Suzuki RE-5 (type A) in Honda Collection.jpg|thumb|200px|スズキのロータリーエンジン搭載車 RE-5]] * オートバイ用エンジンとしてロータリーエンジンの採用を試みた初の事例は、1960年の[[東ドイツ]]の[[MZモトラッド]]である。MZは当時[[トラバント]]を製造していた{{仮リンク|IFA (自動車)|en|Industrieverband Fahrzeugbau}}と共に自社製2ストロークエンジンを置き換える目的でNSUとライセンス契約を締結。1959年式{{仮リンク|MZ・BK350|de|MZ BK 350}}のフレームに175ccx1ローターの水冷ロータリーエンジンを搭載した試作車両、'''MZ・KKM175W'''を製作。1965年には当時汎用エンジンとして相当数の販売実績があった{{仮リンク|ZFザックス|en|ZF Sachs}}製空冷エンジンを参考に、175ccx1ローター空冷エンジンの'''MZ・KKM175L'''も試作した。両社とも当時のMZ製2ストロークエンジンよりも良好な出力特性を発揮したものの、排気温度の高さに伴うアペックスシールの破損の問題、製造プロセスの複雑さ等から2ストロークエンジンを上回る利点が得られないと判断され、1969年のライセンス契約失効と共に計画は破棄された<ref name="Vintagent">[https://thevintagent.com/2011/11/03/a-short-history-of-wankel-motorcycles/ A Short History of Wankel Motorcycles] - The Vintagent</ref>。 * 1970年にドイツの[[DKW]]傘下の{{仮リンク|ハーキュレス|en|Hercules (motorcycle)}}は、{{仮リンク|ハーキュレス・W2000|en|Hercules W-2000}}をドイツIFMAモーターサイクルショーで発表。1973年に限定生産、1974年に量産を開始し、1,800台程度を販売したとされる。W2000は市販された世界初のロータリーエンジン搭載オートバイだった。エンジンは[[ザックス (オートバイ)|ザックス]]が開発したものがベースとなっており、ザックスはロータリーエンジンの製造を取りやめたあと関連機材を[[ノートン・モーターサイクル|ノートン]]に売却している<ref name="Vintagent"/>。 * 1972年の[[東京モーターショー|第19回東京モーターショー]]に[[ヤマハ発動機|ヤマハ]]がヤンマーディーゼル(現・[[ヤンマーホールディングス]])と共同開発したロータリーエンジンを搭載したプロトタイプである'''ヤマハ・RZ-201'''<ref>[https://www.cyclechaos.com/wiki/Yamaha_RZ201 Yamaha RZ201] - CycleChaos</ref>を出展するが、第一次オイルショックの影響等により市販を断念し試作のみに終わる。排気量は330cc×2ローター。なお、欧米圏ではRZ-201は同年のNSUとのライセンス契約から余りにも短い期間で発表に至っている事や、排気管周りにロータリー特有の排気温度対策が特に何も考慮されていない事から、前年の1971年に発表された2ストローク4気筒のヤマハ・GL750<ref>[https://www.motorcycle.com/features/archive-1971-yamaha-gl-750.html Archive: 1971 Yamaha GL 750] - Motorcycles.com</ref>共々、([[ブラフ・シューペリア]]を手掛けた{{仮リンク|ジョージ・ブラフ|en|George Brough}}がしばしば顧客に対して用いた手法である)単にモーターショーの観衆に技術力を誇示する為だけに製造された、或いは市販候補の本命であった{{仮リンク|ヤマハ・TX750|en|Yamaha TX750}}の発表前に投じられた「見せ球」であったと見なされている<ref name="Vintagent"/>。同様の感想は同時期にRE-5の開発を進めていたスズキの技術陣も感じていたとされており、1972年のRZ201の発表時にも「所詮"走らないもの"には目もくれず眼前のRE-5の開発に集中した」という<ref name="suzuki0">[http://www.iom1960.com/gs-kaihatu/re5-kaihatu-story.html RE5 開発ストーリー] - 「日本モ-タ-サイクルレ-スの夜明け」</ref>。 * 1973年、カワサキは後に[[カワサキ・KX]]シリーズを手掛けた財部統郎をプロジェクトリーダーとする開発チームを立ち上げ、1971年にNSUと締結したライセンス契約に基づき、ロータリーエンジン搭載の試作車両である'''カワサキ・X99'''の開発を開始した。900ccの水冷2ローターを[[カワサキ・Z650]]のフレームに搭載したX99は1974年には完成し<ref name="Vintagent"/>、[[日本自動車研究所|谷田部高速周回路]]にてテストが重ねられたが、排熱問題、弱いエンジンブレーキ、燃費の悪さといった諸問題からロータリーエンジンの大型オートバイへの採用は不適であるという結論に至り、1976年にプロジェクトは凍結され、試作のみで終わっている<ref>[https://kawasaki.co.nz/kawasaki-x99-rotary-prototype/ Kawasaki X99 Rotary Prototype] - Kawasaki NZ</ref>。 * 1974年、[[オランダ]]の{{仮リンク|バンビーン|en|Van Veen (motorcycle)}}は[[シトロエン・M35]]や[[シトロエン・GS|シトロエン・GSビロトール]]のロータリーエンジンを手掛けていた{{仮リンク|コモトール|en|Comotor}}に水冷2ローターエンジンの製造を依頼し、[[モトグッツィ]]製のフレーム、[[ポルシェ]]製のトランスミッションを組み合わせた{{仮リンク|バンビーン・OCR1000|de|Van Veen OCR 1000}}を開発、二代目[[ロータス・エリート]]と同じ価格という高価さから、1976年の市販開始から1978年の生産終了までに僅か38台が製造されたのみであった<ref name="Vintagent"/>。 * 1975年、ホンダは全くの独力で開発した空冷1ローターエンジンを{{仮リンク|ホンダ・CB125|en|Honda CB125}}のフレームに搭載した'''ホンダ・A16/24'''を試作<ref name="Vintagent"/>。市販はされなかった<ref>[https://bike-lineage.org/etc/bike-trivia/rotary.html ロータリーといえばスズキのRE-5...実はホンダもヤマハもカワサキも作ってた] - バイクの系譜</ref>。 * 1975年-76年 [[スズキ (企業)|スズキ]]が単独でハウジングのメッキ技術を含む開発を行い<ref name="suzuki1">[http://www.iom1960.com/gs-kaihatu/re5-1.html RE-5-(1)] - 「日本モ-タ-サイクルレ-スの夜明け」</ref>、497cc×1ローターのロータリーエンジンを搭載した[[スズキ・RE-5|RE-5]]を販売(輸出専用車)。レシプロエンジンに比べ、排気管周りの発熱は数段大きかった為、排気管にも特別な排熱対策が施された<ref name="suzuki2">[http://www.iom1960.com/gs-kaihatu/re5-2.html RE-5-(2)] - 「日本モ-タ-サイクルレ-スの夜明け」</ref>。第一次[[オイルショック]]と重なり、少数の生産のみにとどまったが、約6,000台を生産した。米国からのバックオーダーは2万台であったという。型式はRE-5Mが初期型で最終型はRE-5A。M型は[[ジョルジェット・ジウジアーロ]]のデザインでつとに有名。当時、次期RE-5の計画試作が始まっており、そのほか、[[汎用エンジン|汎用]]小型ロータリーエンジンもすでに試作を終えていた。RE-5の開発にはスズキ本社のエンジン技師である白鷺貞夫や<ref name="suzuki0"/>、東京研究所で汎用エンジンの開発を担当した中野広之らが合流して進められた<ref name="suzuki1"/>。白鷺によると、スズキはRE-5の開発に社運を懸けて臨んでおり、発売後の海外市場のユーザーの反応も非常に好調であった事から、石油危機(とそれに伴うロータリーへの世論感情の悪化)さえなければ販売中止にはならなかっただろうとされている<ref name="suzuki0"/>。RE-5は短命に終わったが、その技術の多くは後のスズキ大型車にも生かされた<ref name="suzuki0"/>。白鷺自身もRE-5製造中止の報を受けて暫くは失意の日々を送ったが<ref name="suzuki0"/>、その後もスズキのエンジン技師として1990年代まで大型自動二輪車の開発に携わり、スズキを退社後は[[ハーレー・ダビッドソン]]のカスタム[[U型エンジン]](タンデム2気筒)のビルダーとして足跡を残している<ref>[https://www.virginharley.com/column/column10/c10-01/ 第1回夢の閃き官能エンジンU-TWIN開発秘話] - バージンハーレー</ref>。 * 1969年、[[イギリス]]の[[バーミンガム・スモール・アームズ]]は気鋭の技術者であった{{仮リンク|デビッド・ガーサイド|en|David Garside}}を雇用し、既に市販されていたザックスの空冷汎用ロータリーエンジンを{{仮リンク|BSA・B25スターファイア|en|BSA B25}}に搭載した試作車両を製作してロータリーエンジンの研究を開始した。ガーサイドは独自の強制空冷システムを開発して熱問題に対処したが、1973年にBSAは経営破綻し[[ノートン・モーターサイクル]]、[[トライアンフ (オートバイ)|トライアンフ]]と三社合併した。ノートンに移籍したガーサイドは{{仮リンク|トライアンフ・バンディッド|en|Triumph Bandit}}のフレームに新開発の空冷2ローターを搭載した試作車両を経て、新型フレームを採用した'''ノートン・P39'''、1978年には水冷2ローターを採用し少量生産ながら市販に至った'''ノートン・P42'''へと発展、1984年に[[警察]]向け車両である[[ノートン・インターポール2|インターポール2]]([[国際刑事警察機構|インターポール]]の名を持つが、用途はいわゆる[[白バイ]]である)を手始めに、1987年に一般向けの{{仮リンク|ノートン・クラシック|en|Norton Classic|label=クラシック}}、その後も[[ノートン・コマンダー (オートバイ)|コマンダー]]、{{仮リンク|ノートン・F1|en|Norton F1|label=F1}}、F1スポーツ、競技用のRC588、{{仮リンク|ノートン・RCW588|en|Norton RCW588|label=RCW588}}、NRS588などの水冷2ローターエンジン搭載のオートバイを[[1992年]]まで生産していた<ref name="Vintagent"/>。うちTT-F1に出場させたものはマツダの技術協力を得ている。2009年、ノートンの経営主体の変更により、ロータリーエンジン搭載マシンの開発も復活し、レース用のNRV-588とその公道版CR700Pの開発が進められている。ノートンのロータリー復活の立役者としては、1990年にノートンのワークスチームから独立してロータリーのロードレーサーでのグランプリ参戦を続けたブライアン・クライトンの存在が挙げられる。クライトン率いるクライトン・レーシングは、1994年にロードレース世界選手権のレギュレーション変更でロータリーが禁止されて以降もロータリーエンジンを搭載したロードレーサーの研究開発を独自に続け、2017年に技術提携という形でノートンに復帰した<ref name="Vintagent"/>。 * [[ソビエト連邦]]の[[セルプホフ]]に拠点を置く{{仮リンク|全連邦国立自動車産業研究所|nl|VNIIMotoprom}}(英:VNII-Motoprom、露:Всесоюзный научно-исследовательский институт Мотопром、略称:ВНИИ Мотопром、モトプロム)は、その歴史上3度に渡りロータリーエンジンを搭載したオートバイを試作している。最初に1974年に{{仮リンク|BMW・R71|de|BMW R 71}}を元にした{{仮リンク|ドニエプル (オートバイ)|en|Dnepr (motorcycle)|label=ドニエプル・MT-9}}のフレームに495ccx1ローターの強制空冷エンジンを搭載した'''モトプロム・RD-501B'''を2台試作。1985年には660ccx2ローター空冷エンジンを搭載した'''モトプロム・RD-660'''、1987年には水冷2ローターの'''モトプロム・RD-515、RD-517、V-500'''の3種を試作したが、いずれも量産には至らなかった<ref name="Vintagent"/>。モトプロムはソ連の持つ技術力で西側のオートバイ技術に対抗できるかを研鑽する為だけに活動した特異な非軍事研究組織であり、1960年代には'''[[ボストーク (オートバイ)|ボストーク]]'''・ロードレーサーで[[ロードレース世界選手権]]に参戦し、[[1965年のロードレース世界選手権|1965年シーズン]]には3位入賞の記録も残していたりもした<ref>[http://www.autosoviet.altervista.org/ENGLISH-automotorusse-vostok.htm VOSTOK] - Autosoviet</ref>。モトプロムのロータリーエンジンは、RD-501Bはザックス、RD-660はノートンと非常に良く似た構造であり、[[リバースエンジニアリング]]や[[産業スパイ]]により技術情報が解析・流出されて製造されたもの。RD-515/RD-517/V-500はザックスを元に2ローター、水冷に独自改良したものと見なされている<ref name="Vintagent"/>。 * 1989年、ソ連のイジェフスク機械製作工場(現・{{仮リンク|ラーダ・イジェフスク|en|Lada Izhevsk}})はロータリーエンジン搭載の[[スーパースポーツ]]である'''Izh・スーパーローター'''を試作、翌1990年にプレス発表が成された。1980年代末、ソ連は[[ペレストロイカ]]により西側諸国への改革開放を進めつつあり、ソ連国営企業も西側諸国への輸出を見込んだ急速な経営改革を求められる事となった。スーパーローターはそうした時代背景の中で計画された車種であったが、1991年末の[[ソビエト連邦の崩壊]]により計画は白紙化された<ref name="Vintagent"/>。 === 航空機 === [[ファイル:WankelPP.jpg|160px|right|thumb|シュライハー ASH 26 用のパワープラント。<br />左上から反時計回りに、[[プロペラ]]ハブ、[[ベルト (機械)|ベルト]]ガイド付きの[[マスト]]、[[ラジエーター]]、ヴァンケルロータリーエンジン、[[消音器|マフラー]]カバー。]] 小型軽量ながら高出力という利点を活かし航空機用のエンジンとして採用された例がある。また軽量でオクタン価の低い燃料でも稼動するため[[補助動力装置]]に採用例がある。 大手[[グライダー]]製造メーカーである[[ドイツ]]の[[アレキサンダー・シュライハー]]社は、自力で離陸できる動力格納式の[[モーターグライダー]]である、オープンクラス{{仮リンク|アレキサンダー・シュライハー ASH 25|en|Schleicher ASH 25}}、18mクラス{{仮リンク|アレキサンダー・シュライハー ASH 26|en|Schleicher ASH 26}}や、2004年に初飛行したベストセラー練習機[[アレキサンダー・シュライハー ASK 21]]を基にしたASK21 Mi に、従来の[[空冷]]2ストロークエンジンではなくシングルローターのヴァンケルロータリーエンジンを搭載している。これは、もともと[[ノートン・モーターサイクル|ノートン]]のオートバイ用であったものを、[[ダイヤモンド・エアクラフト・インダストリーズ]]グループのダイアモンドエンジン社が改良、発展させたものである。 [[ヘリコプター]]用としては、[[シトロエン RE-2]]や[[:en:Youngcopter Neo|Youngcopter NEO]]に採用された。 Moller社では{{仮リンク|ポール・モラー|en|Paul Moller}}がFreedom Motorsのロータリーエンジンを使用した[[スカイカー]]として[[:en:Moller M400 Skycar|Moller M400]]や[[:en:Moller M200G Volantor|Moller M200G]]を制作している。 [[シコルスキー・エアクラフト|シコルスキー]]では、[[無人航空機|無人]]実験機・[[サイファー (航空機)|サイファー]]の動力にヴァンケルロータリーエンジンを用いている。 [[ホームビルト機]]では、マツダ車から取り出したロータリーエンジンを搭載できるように設計された機体もある。 ==== 模型飛行機 ==== 模型飛行機用として超小型のロータリーエンジンが市販されている。[[小川精機]]は工程容積4.97 ccの49-PIをかつて製造販売していた。実用回転数は2,500 - 18,000 [[rpm (単位)|rpm]]で、出力は1.1馬力/17,000 rpmである。初期はサイドポート吸気であったが、49-PI Type IIではペリフェラルポート吸気に変更されている。現在でも入手可能なものは[[日東工作所]]製で、[[排気量|行程容積]]11.97 ccのNR-12HとNR-12Pである。 === 船舶 === ; モーターボート : マツダの自動車用エンジンをベースとしたエンジンがモーターボートで使用されている。2011年にタイソン・ガーヴィンによって、[[パワーボート]]用として4ローターエンジンを3つ並列に配置した総排気量15,724ccの12ローターエンジンが開発されている<ref>[http://mazdafan.com/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%BC/20110929-4296 驚異の12ロータリー・エンジン。2400馬力。ただしボート用。- http://mazdafan.com]</ref>。 ; 船舶用船外機 : ヤンマーは1969年に世界初のロータリーエンジンの船舶用船外機として、22馬力1ローターの'''ヤンマー・R220'''を発売、1972年には28馬力の'''ヤンマー・RM28'''、1974年には2ローター50馬力の'''ヤンマー・RM50'''へと発展していくが、石油危機の直撃を受け1975年に販売を終了<ref name="yanmar159"/>。ヤンマーのロータリーエンジン部門は後述のチェーンソーにその活路を求めていく事となる<ref name="yanmar159">「世界初のロータリー船外機を完成」『ヤンマー100年史 1912-2012』ヤンマー、159頁。</ref>。ロータリー船外機は4ストロークエンジンと比較して振動は少なかったが、燃費が悪い事も販売終了の一因となった<ref>「エンジンの高性能化・軽量化を推進」『ヤンマー100年史 1912-2012』ヤンマー、442頁。</ref>。 === 汎用動力 === ; [[汎用エンジン]] : 様々な機器の動力源として用いられる小型の[[汎用エンジン]]は、ロータリーを手掛けた多くのメーカーで研究段階初期の習作として試作が行われた事例が多いが、実際に販売に至ったケースは少なかった。この分野で最も大きな成功を収めたのは1965年に発売されたZFザックスの'''ザックス・KM48'''エンジンである。KM48は定置機器のみならず、モーターボート、オートバイ、小型農業機械などの乗用機械への搭載も意識した設計が成されており、前述のロータリーエンジン搭載オートバイのいくつかは、技術者がこのエンジンをオートバイに搭載できないかを真剣に検討した末に誕生したという経緯を持つものも存在した程であった。ザックスはKM48を軽量化しモーターグライダー用とした'''ザックス・K8B'''の販売も行ったが、KM48、K8B共に石油危機後の1975年に販売終了に追い込まれた<ref>[http://www.museomotori.unipa.it/scheda.php?id=29&lang=en Motore Wankel Fichtel & Sachs KM 48] - {{仮リンク|エンジン及びメカニズムの歴史博物館|it|Museo storico dei motori e dei meccanismi}}</ref>。 : ヤンマーは1962年4月に4.5馬力エンジンの試作を行っているが、既に空冷ディーゼルの汎用エンジンが1959年に販売開始していた事もあり、ロータリーは飽くまでも研究用のみで市販はしなかった<ref>「空冷ディーゼル、ロータリーエンジンへの挑戦」『[https://www.yanmar.com/media/jp/co/aboutus/pdf/100year.pdf ヤンマー100年史 1912-2012]』[[ヤンマー]]、127-128頁。</ref>。なお、ヤンマーが一般向けにレシプロ方式の小型ガソリンエンジンの市販を開始するのは1971年の事である<ref>「多様な小形エンジンをラインナップ」『ヤンマー100年史 1912-2012』ヤンマー、386頁。</ref>。 : スズキは1971年にロータリーエンジン研究部門である東京研究所を設立し、RE-5の前段階として汎用エンジンの研究開発に取り組んだ。元スズキ社員の中野広之に依ると、1974年時点で強制空冷1ローターの'''スズキ・T0013'''(66.7cc)と、減速機付き仕様の'''スズキ・T0015'''(93.2cc)の二種類が完成していたが、諸事情から実際に発売される事はなかった。中野はT0013を開発中に遭遇した未知の現象として、「エンジン停止後数時間放置した後に再始動すると全開出力が大幅に低下し、エンジンを回し続けてもその回復に数時間を要する」というものを挙げており、出力特性グラフの形状からスズキ技術者の間では'''のこぎり歯現象'''と呼ばれ恐れられていたという。のこぎり歯現象は常時安定した出力特性が求められる汎用エンジンには致命的な事象である為、東京研究所の技師達はその原因究明の為に様々な努力を行い、全開出力低下時間を20分程度まで短縮する事はできたものの、最終的にその原因を突き止める事は出来なかったという<ref>[http://www.iom1960.com/gs-kaihatu/hanyou-re-engine.html 汎用小型 RE] - 「日本モ-タ-サイクルレ-スの夜明け」</ref>。 ; チェーンソー : 1970年代にヤンマーディーゼル(現・[[ヤンマーホールディングス]])が[[チェーンソー]]用として開発した経緯がある。当時の[[林業]]労働者に、チェーンソーによる振動により極度の血行不良が発生したり([[白蝋病]])、騒音による難聴などの[[労働災害]]が頻発した<ref name="rinya">[https://www.rinya.maff.go.jp/chubu/gijyutu/siryousitu/chainsaw.html 展示チェーンソーについて] - 中部森林管理局</ref>。1966年、[[名古屋大学]]医学部の山田信也らの研究グループがチェーンソーと振動障害の関連性を証明した事により、振動障害は正式に[[職業病]]として認定された<ref name="rinya"/>。山田は名古屋営林局(現:[[中部森林管理局]])と共同で振動の少ないチェーンソーの研究開発に当たる事となり、[[林野庁]]も[[富士重工業]](現・[[SUBARU]])や[[共立エコー]](現・[[やまびこ (企業)|やまびこ]])など国産各社に低振動のチェーンソーの開発を指示<ref name="rinya"/>、ヤンマーが行き着いた先がロータリーエンジンであった<ref name="yanmar159"/>。 : ヤンマーは船外機の実績を土台として1975年3月に世界初のロータリーエンジン搭載チェーンソー、'''ヤンマー・RH57'''(57cc)を納入するも、持ち運びが不便なほど大型であったこと、トルクが薄かったことから次第に敬遠され、普及するに至らなかった<ref name="yanmar159"/>。なお、RH57は総重量10.15kg(本体7.9kg)であったが<ref name="gifu">[http://gifuforestac.blogspot.com/2015/11/blog-post_13.html 一見の価値あり、伐採~運材の歴史] - [[岐阜県立森林文化アカデミー]]</ref>、同時期に「黄色のマッカラー」の渾名で日本の林業従事者からも大きな支持を得ていた米国{{仮リンク|マッカラー・モータース|en|McCulloch Motors Corporation}}のマッカラー・2-10(54cc)は<ref name="gifu"/>本体重量7.1kg<ref>[http://acresinternet.com/cscc.nsf/ed1d619968136da688256af40002b8f7/e35f4988a0df72d488256b6100194537?OpenDocument Model Profile: 2-10] - Chain Saw Collectors Corner Home</ref>、大型機のマッカラー・スーパープロ80(80cc)<ref name="rinya"/>でも本体重量は6.86kgであった<ref>[http://www.acresinternet.com/cscc.nsf/ed1d619968136da688256af40002b8f7/094fd3e003a5e0a988256c2e00776bb1 Model Profile: Super Pro 80] - Chain Saw Collectors Corner Home</ref>。 : なお、ヤンマーはRH57の改良と小型化をその後も進め、1978年にはRH57の改良型の'''ヤンマー・RH600A'''(57cc)、1979年には枝打ち作業用の小型機である'''ヤンマー・RH350'''(33cc)の林野庁納入も果たしているが<ref name="rinya"/>、主として燃費の問題が解消できなかった事から同年限りでロータリーの製造を打ち切り、研究開発からも撤退している<ref name="yanmar159"/>。 === コジェネレーションシステム === 分散型の熱電供給システムである[[コジェネレーション|コジェネレーションシステム]]の動力源として、コンパクトで低騒音、低振動という特徴からロータリーエンジンが注目されている。 2002年に[[広島ガス]]、2003年に[[中国電力]]がマツダの自動車用ロータリーエンジンを組み込んだシステムを試作、LPガスを燃料として実証試験を行っている。 広島市南区の広島県太田川流域[[下水道]]東部浄化センターでは、[[バクテリア]]の力で下水[[汚泥]]を分解して量を減らす工程で生じる[[メタン]]ガスを燃料とし、自動車用ロータリーエンジンを組み込んだ発電装置9台を4億7400万円で設置し、2012年3月23日から稼働させている。これは呉市に製造拠点を置く製鋼・産業機械メーカーの寿工業(東京)やマツダなどが共同開発したもので、排熱も浄化槽の加温に使用されている。 元マツダの技術者である室木巧は、[[成層燃焼|層状給気燃焼]]方式を採用したロータリーエンジン(DISC-RE)でコージェネレーションシステムの研究をしているが、自著で自動車に使うには研究が足りないと記している。 === 超小型発電機 === [[カリフォルニア大学バークレー校]]の[[MEMS]]のロータリーエンジン研究室はローター径1 mm以下、容積0.1 cc未満のヴァンケルロータリー型[[発電機]]を開発している。ローターに組み込まれた[[磁石]]で発電するが、現在は外部からの[[圧縮空気]]で動いている段階。目標は100 m[[ワット (単位)|W]]を供給する内燃機関の開発という。 == マツダのロータリーエンジン == === 開発史 === [[ファイル:Mazda rotary engine early.jpg|thumb|right|250px|マツダ初のロータリーエンジン<br />(マツダミュージアム、2005年2月撮影)]] 1959年(昭和34年)、[[西ドイツ]](当時)の[[NSU]](後に[[アウディ]]へ吸収合併)が、[[フェリクス・ヴァンケル]]とともにロータリーエンジンを試験開発したと発表した。日本では1965年(昭和40年)の乗用車輸入自由化に向け、通商産業省(現・[[経済産業省]])主導による自動車業界再編が噂されており、後発メーカーである東洋工業(現・[[マツダ]])はその波に飲み込まれる形で吸収合併の危機が迫っていた。「技術は永遠に革新である」をモットーとする当時の[[松田恒次]]社長は事態の打開を目指し、1960年(昭和35年)にNSUと技術提携の仮調印を行った。契約に際してNSUから提示された条件は以下のようなものであった。 # 10年で契約金は2億8,000万円(当時の従業員8,000人分の給与に相当) # 東洋工業が取得した特許は無条件でNSUに提供 # ロータリーエンジン搭載車販売については、1台ごとにNSUへのロイヤリティが発生 以上のようにあまりにも一方的な内容であった。また、NSUから送られてきた試作エンジンは、数々の問題が残されていた。[[アイドリング]]時の激しい振動(電気あんま)、エンジンオイルの過大な消費、それによるおびただしい白煙(カチカチ山)、さらに'''チャターマーク'''の発生(ローターハウジング内壁に波状磨耗が起こる致命的なトラブル)によって40時間程でエンジンが停止。ロータリーエンジンは試験開発には成功したものの、とても[[実用]]化できるレベルのものではなかった。 こうして東洋工業は、次世代エンジンと目されたロータリーエンジンの開発・実用化という社運を賭けた挑戦を行うこととなった。[[山本健一 (マツダ)|山本健一]]<ref group="注釈">後にマツダの第6代社長を務める。</ref>を筆頭とするロータリーエンジン研究部(平均年齢25歳。のちにロータリー四十七士と称される)がその任にあたった。 しかし、日本の自動車業界内ではロータリーエンジンに対する様々な批判・悪評が飛び交い、それは東洋工業社内にも広がった。[[戦前]]から日本の内燃機関技術の権威であった[[富塚清]]は、1960年代初頭からヴァンケル式ロータリーエンジンの開発に極めて否定的な見解を示し、一般向け自動車雑誌「[[モーターファン]]」誌、専門家向けの「[[日本機械学会|日本機械学会誌]]」双方でロータリー否定論を展開した。この時代、日本の大学研究者や企業のエンジン技術者には[[東京大学|東京帝国大学]]等で富塚に師事した弟子も多かったため、富塚の見解に同調して、ロータリーエンジンを実現性に乏しい技術とする論調が業界に高まった。山本も後年、富塚の実名を挙げて「富塚の弟子らに集団批判の席に招かれた(単なる吊るし上げに陥ると見た山本は断っている)」「批判により部下たちが自信を失いがちになり、モチベーションを維持することに苦心した」と回想している。富塚はその後、マツダのロータリーエンジン車が市販されるようになった晩年の著作に至るまで、ロータリーエンジンに否定的な見解を一貫して続けた。 開発は困難を極めたが、それでも途方もない時間、労力、資金、そして情熱を費やして続行された。大きな問題は3つあった。 [[ファイル:Chater-mark_RE.JPG|thumb|ロータリーエンジンの特徴的な劣化状態である、メインハウジングの'''チャターマーク'''。黎明期には「悪魔の爪痕」と呼ばれ、開発者から恐れられた。]] [[ファイル:Apex Seal and Key 001.jpg|thumb|right|250px|マツダ13Bエンジンのキー(左)とローターアペックス(頂点)[[シール (工学)|シール]]<br />写真は12万キロ走行後のもの]] ; チャターマーク : ローターハウジング内壁が異常磨耗する問題は[[アペックスシール]]の[[共振]]が原因であることが判明した。一方、アペックスシールとローターハウジングは、レシプロエンジンの[[ピストンスピード]]よりも速い速度で接触するため、[[強度]]や耐[[摩耗]]性も求められた。素材として牛骨までがテストされたが、好ましいアペックスシールの開発は困難を極めた。アペックスシールにクロス状に穴を開けて中空構造にした(クロス・ホロー加工)ところ、共振が分散されてチャターマークが発生しないことが判明したが、市販化には適さなかった。[[グラファイト|カーボングラファイト(黒鉛)]]では強度が足りなかった。松田は[[日本カーボン]]のパイロリテックグラファイト(PG)が通常黒鉛の10倍の[[引張試験|引張り強さ]]がある事を知り、日本カーボンに提供を申し込んだが、パイロリテックグラファイトには[[へき開]]性があったために適さなかった。最終的に、日本カーボンと共同開発で[[アルミニウム合金]]のカーボン複合素材を新開発して使用することになった<ref>6回目の未年との遭遇 日本カーボン会長・石川敏功(随想)1991.01.21 化学工業日報 1頁 写有(全1,892字)</ref>。ローターハウジング内面には硬質[[クロームメッキ]]を施して耐磨耗性を向上させた。 ; 白煙 : 燃焼室の気密性が低いため、ローター両側面から燃焼室に[[エンジンオイル]]が入り込んで燃焼し、白煙が発生していた。金属製のシールを2重に施しても白煙は解決できなかった。しかし、耐熱性の点で難しいだろうと考えられたゴム製の[[オイルシール]]を試してみたところ、目的を達成できた。ローター中心側は考えられているほど高温ではなく、ゴム製のシールでも問題なかった<ref name="projext-X-matsuda"> 2000年11月7日放送 NHK[[プロジェクトX〜挑戦者たち〜の放送一覧#2000年|プロジェクトX 第28回]]『ロータリー47士の戦い 夢のエンジン・廃墟からの誕生』、2004年5月25日再放送[https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A200405252115001300100]、 [[2021年]](令和3年)[[6月29日]] プロジェクトX 4Kリストア版として放送。 </ref>。 ; 低速トルク : NSUから送られてきた試作エンジンは吸気・排気ともペリフェラルポートであった。ペリフェラルポートは高回転・高出力には向いているがオーバーラップが非常に大きく、騒音・燃費・低速トルク・エンジン寿命の点では不利であった。サイドハウジングに吸気ポートを設けたサイドポートエンジンとすることで、これらの問題点を若干改善できた。 1963年(昭和38年)には第10回全日本自動車ショウ(翌年の第11回から[[東京モーターショー]]に改称)に400 cc×1ローター・400 cc×2ローターの試作エンジンを展示。翌1964年(昭和39年)には[[スポーツカー]]「コスモスポーツ」の[[プロトタイプ]]を展示した。この時、松田が自らコスモスポーツを運転して広島から[[東京国際見本市会場|会場]]に到着し、帰路には各販売会社、メインバンクの[[住友銀行]]、当時の[[池田勇人]]首相などを訪問したというエピソードも残っている。1965年(昭和40年)、1966年(昭和41年)と続けて展示され、その間、試作車による10万 kmに及ぶ連続耐久テストを含む、総距離300万 kmにも達する走行テストが行われた。テストは各地のディーラーに委託されたコスモスポーツ60台により、1年の期間を費やして実施された。そして1967年(昭和42年)5月30日、コスモスポーツは満を持してついに発売となった。1961年(昭和36年)1月のロータリーエンジン試作1号機から、6年の歳月が流れていた。 1985年までに、ロータリーエンジンの研究に携わっていた各メーカーが開発した特許件数は以下の通りである。 * [[NSU]] - 291件 * [[ダイムラー・ベンツ]] - 299件 * [[フォード・モーター|フォード]] - 22件 * マツダ - 1,302件 しかし、このエンジンの開発期における最大の問題点であり、かつ解決されたかに思われた部分が、後に短所として再び浮き彫りになる。 # [[バルブタイミング]]で吸排気の制御を行うレシプロエンジンに比べ、吸排気をローターによる[[ポート]]開閉と負圧に頼ったロータリーエンジンは、極低速回転時では吸気の[[慣性]]に乏しく吸排気効率が上がらず、結果として燃費悪化とトルク不足を招く。 # アペックス、サイド、コーナーと複数のガスシールの突合せで作動室を仕切っている関係上、シール同士の接触部からの圧縮抜けが発生しやすく、シールおよびシール溝がすすやオイル[[スラッジ]]で汚れると特に悪化するため、レシプロエンジンに比べてこまめなメンテナンスが必要になる。 # エンジン内部や各シール(アペックスシール部、サイドシール部、ローターのサイドとインターミディエイトプレートの接触面)の潤滑のため、[[エンジンオイル]]をハウジング内へ注入している。そのためエンジンオイルは走行条件(主に高負荷領域の使用頻度)によっての差はあるものの、レシプロエンジンと比較すると減りが早い。このため、エンジンオイル量低下時の警告機能がほとんどの車種で標準装備されている。 # レシプロのガソリンエンジンや[[ディーゼルエンジン]]に比べて必要なメンテナンス頻度が高く、メンテナンスなしでの耐久性は非常に劣る。もっとも、必要なメンテナンスを行っていれば、信頼性という点においてレシプロエンジンと比較しても遜色はない。 [[1973年]](昭和48年)の[[排出ガス規制]]導入当初は、[[窒素酸化物]](NO<sub>x</sub>)を減らすための効果的な手段が見つかっていなかったが、マツダはREの低いNO<sub>x</sub>濃度を濃い[[空燃比]](燃調)でさらに低減させ、それに伴う[[不完全燃焼]]により増加する排気ガス中の[[炭化水素]](HC)および[[一酸化炭素]](CO)を[[サーマルリアクター]]にて再燃焼させて浄化しており、濃い燃調により実燃費がさらに悪化するという事態に陥っていた。のちにNO<sub>x</sub>、HC、COを同時に低減可能な[[三元触媒]]が開発・実用化され、サーマルリアクターを触媒に置き換えることで燃調を薄くできたため、燃費を向上させた。<!--マツダREの排気対策は、サーマルリアクター(リッチ)→酸化触媒(リーン)→三元触媒(理論空燃比)だったような気がする。--> === 近年の動向 === オイルショックによる[[原油価格]]高騰の影響で、[[NSU]]と提携した各社はロータリーエンジンの将来性を見限って開発から撤退し、本家たるNSUもロータリーエンジン車生産を中止した。そのような中でマツダは唯一市場に踏み止まったが、採用車種は年を追うごとに減少し、[[マツダ・コスモ|ユーノスコスモ]]が生産を終了した[[1996年]]以降は、[[マツダ・RX-7|RX-7]]が唯一の生産車種となった。 2003年にRX-7の後継として発売された[[マツダ・RX-8|RX-8]]のロータリーエンジンでは、排気ポートをペリフェラルポートからサイドポートに変更して、従来からの燃費悪化要因のひとつであった吸排気の[[オーバーラップ]]をなくして燃費向上を図っている。一方で排気ポートの変更により、サイドシールの磨耗やススの付着といった新たな問題も生じた。 2012年6月のRX-8の生産終了をもって<ref name ="response20120627">[http://response.jp/article/2012/06/27/176819.html マツダ、RX-8の生産を終了…最終モデルがラインオフ] - レスポンス 2012年6月27日</ref>、ロータリーエンジンを搭載した市販車はマツダのラインナップから消滅したが、同時に[[レンジエクステンダー]]システム([[電気自動車]]の発電用)や水素ロータリーエンジンとして活用することが発表された<ref>[http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201206060029.html 電気自動車の発電にRE活用] - 中国新聞 2012年6月6日</ref><ref>[http://www.47news.jp/localnews/hiroshima/2012/06/post_20120606105408.html 電気自動車の発電にRE活用] - 47NEWS 2012年6月6日</ref><ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2012060602000121.html 水素ロータリーエンジン発電 EVリースへ] - 東京新聞 2012年6月6日</ref><ref name ="response20120627"/>。2013年12月には、[[マツダ・デミオ|デミオEV]]にロータリーエンジンによる[[レンジエクステンダー]]システムを搭載した試作車を報道陣に公開している<ref name="nikkei20131220">[http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1903I_Z11C13A2000000/ マツダ、EV航続距離延長にロータリーエンジン活用] - 日本経済新聞 2013年12月20日</ref>。 2023年には、[[マツダ・MX-30|MX-30]]に発電用のロータリーエンジンを搭載した[[プラグインハイブリッドカー|プラグインハイブリッドモデル]]「MX-30 Rotary-EV」が発表され、同年9月14日に日本国内での予約受付を開始した。ロータリーエンジンを搭載したマツダの市販車は、RX-8の生産終了以来11年ぶりの復活となる<ref name="nhk20230914">[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230914/amp/k10014194331000.html 「マツダ」ロータリーエンジンが11年ぶり復活 国内で販売へ] - NHK NEWS WEB 2023年9月14日</ref>。 === 機種 === マツダはコスモスポーツの発売以来、「1970年代、車の主流はロータリーエンジンへ」「車の主流をかえるロータリーのマツダ」というキャッチコピーとともに各車種への展開を図った。[[マツダ・13A型エンジン|13A]]、16X、8C以外は完全な新開発ではなく、既存の生産設備を使うため10Aをベースにローターやハウジングの厚みを増して排気量を上げたものである。そのためローターの厚さ以外の基本寸法は変えられていない。 ==== 市販車 ==== ; 10A 491 cc×2ローター :世界初の2ローターロータリーエンジンとしてコスモスポーツに搭載された。また、[[マツダ・ファミリア|ファミリア]]にもデチューン版が搭載されている。 :* 1967年 コスモスポーツに搭載 :* 1968年 ファミリアに搭載 :* 1971年 [[マツダ・サバンナ|サバンナ]]に搭載 :* 1973年 生産中止(排ガス規制対策のため12Aに集約) ; 12A 573 cc×2ローター :6PI仕様が12A-6PI、ターボ仕様が12A-T。RX-7(SA22C)等、当時のマツダ車に多数採用された。サーマルリアクター方式による再燃焼システムの改善を行い、40%もの燃費改善を果たした。その後、排ガス処理をサーマルリアクターから希薄燃焼と触媒による排ガス処理システムを採用してさらに燃費改善を実施。 :* 1970年 [[マツダ・カペラ|カペラ]]に搭載 :* 1972年 サバンナと[[マツダ・ルーチェ|ルーチェ]]に搭載、ルーチェAPでサーマルリアクターのREAPS2販売開始。 :* 1973年 1975年規制適合のREAPS3販売開始 :* 1974年 燃費20 %改善のREAPS4に切替 :* 1975年 1976年規制適合で燃費40 %改善のREAPS5に切替 :* 1978年 サバンナRX-7に搭載、1978年規制適合 :* 1979年 サーマルリアクター方式から希薄燃焼+触媒の排ガス処理システムへ全面切替 :* 1981年 6PIへの全面切替に伴い生産中止 ; 12A-6PI 573 cc×2ローター :現在の13B-MSPにも採用されている6PIを初めて採用。希薄燃焼と触媒による排ガス処理システムを採用してパワーと燃費の両立を図った。 :* 1981年 ルーチェ/コスモに搭載 :* 1982年 サバンナRX-7に搭載 :* 1985年 生産中止 ; 12A-T 573 cc×2ローター :12A-6PIの後に登場したターボ付。EGIをREで初めて採用ものであるが6PIは採用されていない。排ガス処理システムは、希薄燃焼と触媒を採用。 :* 1982年 ルーチェ/コスモに搭載 :* 1983年 サバンナRX-7に搭載 :* 1984年 ターボをインパクトターボに変更 :* 1985年 生産中止 ; 13A 655 cc×2ローター :ロータ幅は10Aと同じで偏心量を増やしてある。[[縦置きエンジン]]のFFルーチェにのみ搭載された。 :* 1969年 [[マツダ・ルーチェロータリークーペ|ルーチェロータリークーペ]]に搭載 :* 1972年 生産中止 ; 13B 654 cc×2ローター :ルーチェや2代目コスモで採用。自然吸気エンジン。サーマルリアクター方式による再燃焼システムの改善を行い、40 %もの燃費改善を果たした。その後、サーマルリアクターから希薄燃焼と触媒による排ガス処理システムに変更し、さらに燃費改善を実施。 :* 1973年 1975年規制適合のREAPS3でルーチェに搭載 :* 1974年 燃費20 %改善のREAPS4に切替 :* 1975年 1976年規制適合で燃費40 %改善のREAPS5に切替 :* 1978年 コスモに搭載、1978年規制適合 :* 1979年 サーマルリアクター方式から希薄燃焼+触媒の排ガス処理システムへ全面切替 :* 1981年 生産中止 ; 13B-SI 654 cc×2ローター :ルーチェや2代目コスモに搭載されたスーパーインジェクション仕様。希薄燃焼+触媒による排ガス処理システムを採用。 :* 1983年 ルーチェ/コスモに搭載 :* 1985年 日本国内販売中止。日本国外向けは、生産継続 :* 2002年 生産中止 ; 13B-T 654 cc×2ローター :サバンナRX-7(FC3S)などに搭載されたターボ仕様。 :* 1985年 サバンナRX-7に搭載 :* 1985年 ルーチェに搭載 :* 1992年 生産中止 ; 13B-REW 654 cc×2ローター :アンフィニRX-7(FD3S)やユーノスコスモに搭載された、シーケンシャルツインターボを採用。 :* 1990年 ユーノスコスモに搭載 :* 1991年 アンフィニRX-7に搭載 :* 2002年 生産中止 ; 13B-MSP 654 cc×2ローター :吸排気共にサイドポートを採用した自然吸気エンジン。RX-8にのみ搭載されている。 ; 13G 654cc×3ローター :レース用3ローターエンジン。757に搭載された。市販版が20Bとなる。 ; 20B-REW 654 cc×3ローター :20Bはユーノスコスモのみの採用であるため、20B-REWのみ。日本車初となるシーケンシャルツインターボを採用。 :* 1990年 ユーノスコスモに搭載 :* 1995年 生産中止 : また、RX-7(FD3S)でSUPER GTに参戦しているRE雨宮はこの20Bを自然吸気化、ペリフェラルポート化して搭載している。厳密にいえば単純に自然吸気化したものではない。 ;8C 830 cc×1ローター :16Xをベースに開発された1ローターのエンジン。 :* 2023年 MX-30 Rotary-EVに搭載(発電用) ==== その他 ==== ; 13J 654 cc×4ローター :レース用4ローターエンジン。[[マツダ・757|757E]]に搭載された。 ; 13J改 654 cc×4ローター :レース用4ローターエンジン。[[マツダ・767|767]]に搭載された。 ; 13J改改 654 cc×4ローター :レース用4ローターエンジン。2段切替の可変吸気システム搭載。767Bに搭載された。 ;R26B 654 cc×4ローター :[[1991年のル・マン24時間レース]]で総合優勝した[[マツダ・787|787B]]に搭載された。3本の点火プラグや、リアルタイム可変吸気システムを備える。 ;3A 360 cc×1ローター :軽自動車の排気量が360ccだった頃に開発途中だった1ローターのエンジン。マツダミュージアムに展示されている。 ;15A 737 cc×2ローター :開発初期に作られた試作機。 ;16X 800 cc×2ローター :2007年[[東京モーターショー]]で初公開されたエンジン。マツダ自身が次世代RENESISと呼ぶ完全新開発のエンジンで、[[ガソリン直噴エンジン|直噴]]化して燃費を向上させ、排気量を12A、13Bのように厚みを増して上げたものではなく、[[トロコイド]]形状から見直して排気量を上げることで、レシプロエンジンで言う[[ロングストローク]]化を果たしている。また、アルミ製のサイドハウジングを採用している。 ;R20B 654 cc×3ローター :コンセプトモデル[[マツダ・風籟|風籟(ふうらい)]]に搭載された3ローターの自然吸気エンジン。E100(100%[[エタノール]])で450 PSを発揮する。 <gallery> ファイル:3A type rotary engine 01.JPG|シャンテ用として開発されながらも、市販を断念した3A型1ローターエンジン ファイル:Eunos cosmo 3 rotor.jpg|ユーノスコスモ用20B型3ローターエンジン<br />(市販車世界初のシーケンシャルツインターボ搭載、マツダミュージアム、2005年2月撮影) ファイル:MAZDA R26B 01.jpg|787B用のR26B型4ローターエンジン ファイル:Mazda rotary engine.jpg|RENESISロータリーエンジン<br />(マツダミュージアム、2005年2月撮影) </gallery> === 水素ロータリーエンジン === {{main|水素ロータリーエンジン}} 1991年のHR-X以来、マツダでは水素を燃料としたロータリーエンジンを開発している<ref>[http://www.mazda.co.jp/philosophy/rotary/hre/history/index.html 水素とロータリーエンジン] - マツダ</ref>。2004年10月には[[マツダ・RX-8|RX-8]]をベースにした車両が<ref>[http://www.mazda.co.jp/corporate/publicity/release/2004/200410/1027.html マツダ(株)、RX-8水素ロータリーエンジン車の公道走行を開始] - マツダ 2004年10月27日</ref>、2008年には[[マツダ・プレマシー|プレマシー]]<ref>[http://www.mazda.co.jp/corporate/publicity/release/2008/200806/080620.html 『マツダ プレマシー ハイドロジェンREハイブリッド』の国土交通大臣認定を取得] - 2008年6月20日</ref>をベースにした車両がナンバーを取得している。 水素燃料は[[再生可能エネルギー]]の一種であり、また[[燃料電池]]用の燃料としてのインフラ整備が課題に挙がっている。その水素燃料を容易に転用できる内燃機関のひとつとして、ロータリーエンジンは有望である。これはレシプロエンジンとの比較で、吸気室と燃焼室が分離している上に高温となる排気バルブもないため、[[過早着火]]<ref>[https://www.weblio.jp/content/%E9%81%8E%E6%97%A9%E7%9D%80%E7%81%AB 過早着火] - [[Weblio]]/[[三栄書房]]大車林(更新日不明)2018年11月1日閲覧</ref>や[[バックファイアー]]と言った異常着火が発生しないこと、また大径となる水素インジェクターを、燃焼にさらされずにすむ吸気室上部の広大な場所に設置できること、という構造上の利点があり、さらには水素の燃焼速度は速いため、縦長で扁平な燃焼室形状というロータリーエンジンの欠点が問題になりにくいという相性の良さもあるためである<ref>『モーターファン・イラストレーテッド Vol.19 ロータリーエンジン ― 基礎知識とその未来 ―』P.036-P.039(三栄書房、ISBN 978-4-7796-0403-4)</ref><ref group="注釈">出典書籍内では2008年時点の公道走行車両用水素エンジン同士での比較がされている。マツダ・13Bロータリー(2ローター1,308 cc)109 PS/14.3 kgmに対し、[[BMW]]・レシプロ([[V型12気筒]]5,972 ㏄)260 PS/39.8 kgm。排気量比で約1:4.6、出力比で約1:2.4である。</ref>。現時点では高純度の水素を必要とする燃料電池車などと比べても、はるかに現実的な解法である。また燃焼時の[[煤|すす]]が少ないため[[液化石油ガス|LPG]]や[[天然ガス#圧縮天然ガス|CNG]]などの[[ガス燃料]]であれば、水素以外でもロータリーエンジンの方がレシプロエンジンよりも有利であるとされる(このうちLPGについては前述の[[#コジェネレーションシステム|コジェネレーションシステム]]の実証実験もなされている)。 ただし、<!--水素等を燃料として使用した場合は燃料噴射方式などによってはガソリンと比較して大幅に出力が低下すること(例:マツダ・[[13B型エンジン|13B型エンジン]]の場合は僅か110馬力)、← 比較すべきはロータリー対他方式であって、ロータリーでのガソリン対水素ではない -->LPGやCNGはともかく水素においてはインフラの整備が<!--主に燃料電池バスが運行される路線沿線等にしかなく-->あまりにも局所的であり全国展開の目途が立たないこと、水素の場合において、[[水素吸蔵合金]]を使用すれば車が重くなり、高圧水素タンクを使用すれば衝突時に爆発の危険があること、そのどちらにおいても[[航続距離]]が短距離に留まることなど、<!--水素等のガスを燃料としても根本的なシール性の問題や熱効率の悪さというロータリーの欠点は引き続き存在する。-->ロータリーエンジンに限らず、水素を自動車用エネルギー源として使用する上で解決すべき課題はまだ多い。 == ロータリーエンジン搭載車 == [[ファイル:マツダ・コスモスポーツ.jpg|right|thumb|220px|世界初の2ローターロータリーエンジン車・マツダコスモスポーツ]] [[ファイル:Mazda RX8 hydrogen rotary car 1.jpg|right|thumb|220px|RX-8[[水素ロータリーエンジン]]車]] [[ファイル:Ro80wankel.jpg|thumb|220px|Ro80のロータリーエンジン]] [[ファイル:Mercedes-Benz Museum C111 200901241511.jpg|right|thumb|220px|メルセデス・ベンツ C111]] [[ファイル:Birotor_GS.jpg|thumb|220px|GSビロトールとロータリーエンジン]] [[ファイル:SL-Norton-Interpol.jpg|250px|right|thumb|[[ノートン・インターポール2]] 試作車]] [[ファイル:Suzuki_RE5_M2.JPG|250px|right|thumb|[[スズキ・RE-5]]]] [[ファイル:OCR1000.jpg|250px|right|thumb|バンビーン・OCR1000]] === 日本 === * [[マツダ]] ** [[マツダ・コスモ|コスモ]](コスモスポーツ[10A](世界初の2ローターRE搭載車)、コスモAP[13B,12A]、コスモL[13B,12A]、ユーノスコスモ[13B,20B]) ** [[マツダ・ファミリア|ファミリア]](ファミリア ロータリークーペ/E・ロータリーSS/TSS・ファミリアプレスト[すべて10A]) ** [[マツダ・サバンナ|サバンナ]] ([10A,12A]) ** [[マツダ・RX-7|RX-7シリーズ]](初代サバンナRX-7[12A]・2代目サバンナRX-7[13B]・アンフィニRX-7[13B]・RX-7[13B]) ** [[マツダ・RX-8|RX-8]] ** [[マツダ・ルーチェロータリークーペ|ルーチェロータリークーペ]][13A] (マツダ唯一のRE搭載FF車) ** [[マツダ・カペラ|カペラ]][12A] ** [[マツダ・ルーチェ|ルーチェ(2 - 4代目)]][12A,13B] ** [[マツダ・MX-30|MX-30 Rotary-EV]][8C] (発電用エンジン) ** {{仮リンク|マツダ・ロータリー・ピックアップ|en|Mazda Rotary Pickup}}(世界初のRE搭載[[ピックアップトラック]]、[[マツダ・プロシード|プロシード]]をベースにした対米輸出専用車) ** [[マツダ・パークウェイ|パークウェイ]][13B](世界初のRE搭載バス) ** [[マツダ・ロードペーサー|ロードペーサー]][13B] === ドイツ(西ドイツ) === ドイツはロータリー発祥の地ではあるが、市販に漕ぎ着けた車種は極僅かである。 * [[NSU]] ** [[NSU・ヴァンケルスパイダー|ヴァンケルスパイダー]](世界初のロータリーエンジン搭載量産車、1ローターエンジンをリヤに搭載) ** [[NSU・Ro80|Ro80]] (世界初のロータリーエンジン搭載4ドアセダン、2ローターのFF車) * [[メルセデス・ベンツ]] ** [[メルセデス・ベンツ・C111]](初代に3ローター、二代目に4ローターのエンジンをそれぞれ[[ミッドシップ]]搭載したプロトタイプ) * [[アウディ]] ** [[アウディ・A1#A1 e-tron|e-tron]](AVL社製1ローターエンジン搭載のハイブリッド・コンセプトカー) === フランス === * [[シトロエン]] ** [[シトロエン・GS#GSビロトール|GSビロトール]] === ソビエト連邦/ロシア === *[[アフトヴァース]]([[ラーダ (自動車)|ラーダ]]) **[[VAZ-2101 (自動車)|ヴァース・2101]]シリーズ(VAZ 2101) ***21018 (2101にソ連初の70馬力1ローターエンジン「VAZ-311」を搭載) ***21019"アーカン" (2101にソ連初の120馬力2ローターエンジン「VAZ-411」を搭載) **[[:en:Lada_Riva|ラーダ・リーヴァ]]シリーズ(VAZ 2105) ***21059 (2105シリーズはソ連時代は毎年70万から100万台生産され、当時のソ連の自家用車の7割以上を占めていた旧ソ連の大衆車。21059は120馬力2ローターエンジンの「VAZ-411M」を搭載。後期型は140馬力2ローター「VAZ-413」へ換装) ***21079 (2107は2105の上級グレード。21079は120馬力2ローターエンジンの「VAZ-411-01」を搭載。後期型は140馬力2ローター「VAZ-4132」に換装) **[[ラーダ・サマーラ]]シリーズ(VAZ 2108/2109/21099。ともに2002年頃まで生産され、価格は56,300ルーブルであったという) ***2108-91 (3ドアハッチバック。2108に140馬力2ローターの「VAZ-415」を搭載。後期型は180馬力2ローター「VAZ-415i」に換装) ***2109-91 (5ドアハッチバック。2109に140馬力2ローターの「VAZ-415」を搭載。後期型は180馬力2ローター「VAZ-415i」に換装) ***21099-91 (4ドアセダン。2109に140馬力2ローターの「VAZ-415」を搭載。後期型は180馬力2ローター「VAZ-415i」に換装) **[[:en:Lada 110|ラーダ・110]]シリーズ(VAZ 2110) ***2110-91 (4ドアセダン。2110に140馬力2ローターの「VAZ-415」を搭載。後期型は180馬力2ローター「VAZ-415i」に換装) **[[ラーダ・サマーラ|ラーダ・サマーラ2]]シリーズ(VAZ 2115) ***2115-91 (4ドアセダン。2115に140馬力2ローターの「VAZ-415」を搭載。後期型は180馬力2ローター「VAZ-415i」に換装) **[[:en:VAZ 1111|VAZ 1111"オカ"]](VAZ 1111は日本の軽自動車に相当するモデル。ロータリーエンジン車は45馬力1ローターの「VAZ-1182」を搭載) *[[GAZ]] - GAZはVAZよりロータリーエンジンの供給を受けてロータリーエンジン車を製造していた。 **[[:en:GAZ-24|GAZ 24-10"ヴォルガ"]] (2ローター「VAZ-413」エンジン搭載のステーションワゴン) **[[:en:GAZ Volga|GAZ 31028"ヴォルガ"]](GAZ 3102シリーズのKGBおよび警察用車両。'''220馬力3ローター「VAZ-431」エンジン搭載'''。生産期間は不明。一般販売向けには2ローター「VAZ-411-01」を搭載) **[[:ru:ГАЗ-14|GAZ 14"チャイカ"]](高級官僚および共産党幹部専用のリムジン。'''220馬力3ローター「VAZ-431」エンジン搭載'''。生産期間は不明。) ===オートバイ=== *[[ハーキュレス]] **[[ハーキュレス・W2000|W2000]](世界初のRE搭載バイク) *[[スズキ (企業)|スズキ]] **[[スズキ・RE-5|RE-5]](日本初のRE搭載市販バイク、輸出専用車種) *[[ファン・フェーン (オートバイ)|バンビーン]] **[[:de:Van Veen OCR 1000|OCR1000]](米国のロックバンド[[ブロンディ (バンド)|ブロンディ]]のアルバムジャケットにもなった、伝説のロータリーエンジン搭載車) *[[ノートン・モーターサイクル|ノートン]] **[[ノートン・コマンダー_(オートバイ)|コマンダー]](一時期、英国の警察車両としても採用されたバイク。パレードやVIP車両護衛など低速走行時の低振動性を認められたと言う) **[[ノートン・F1|F1]](レース用バイクの公道版として1990年代初頭に販売された) **NRV-588/NRV-700(2006年にプロトタイプが完成したレース用バイク。公道版を市販する予定もあったが結局発売されなかった) *[[クライトン・モーターサイクル]](Crighton Motorcycles) **[[CR700W]](ノートンでロータリーエンジン開発を担当したブライアン・クライトンが新たに起こした会社の市販車。25台限定生産で価格は約1300万円<ref>{{Cite web |url=https://www.crightonmotorcycles.com/ |title=Crighton Motorcycles |publisher=Crighton Motorcycles |accessdate=2023-04-29}}</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=イギリスで新世紀のロータリースポーツが登場! クライトン「CR700W」|ハンドメイド生産の限定25台、価格は約1300万円 |newspaper=webオートバイ |date=2021-11-09|author=小松信夫 |url=https://www.autoby.jp/_ct/17494514 |access-date=2023-04-29}}</ref>) == モータースポーツ == {{main|マツダ#モータースポーツ|マツダスピード|マツダ・12A型エンジン#レース用12Aの開発|マツダ・13B型エンジン#レース用13Bの開発}} ロータリーエンジンは構成部品が圧倒的に少なく、特に組み付けと調整に多くの時間を要する動弁系を持たないことや、ジャーナルとキャップ間などのオイルクリアランスの管理箇所が少ないことで、オーバーホールの時間を大幅に短縮でき、レースユースには非常に適している。ローコストで高性能が得られることから、多くのプライベーターの支持を受け、1970年代以降の日本のモータースポーツ界を支えた。 コスモスポーツでのマラソン・デ・ラ・ルート84時間参戦に始まるロータリーエンジンのモータースポーツ活動は、その後日本国内でも1971年のサバンナによる[[日産・スカイラインGT-R]]の連勝記録ストップとその後の同車との一騎討ち的な闘い、[[富士グランチャンピオンレース]]でのマツダRE搭載車の活躍などがあった。世界三大レースの一つである[[ル・マン24時間レース]]にも参戦し続け、1991年には787Bが日本車初の総合優勝を果たすなど、日本国内外において幅広く活躍した。 その後、1992年にマツダはレース活動自体から撤退。[[マツダスピード]]はロータリーエンジンでの耐久レースを続けていたが、1999年に解散し、ワークスレベルでの支援は望めない状況になってしまった。そのような中でも[[RE雨宮]]は、[[自然吸気]]仕様の[[マツダ・20B型エンジン|20B型エンジン]]を搭載したFD型RX-7で[[SUPER GT]]に参戦し、プライベーターながらGT300クラスのタイトルを獲得した。 北米では古くから現地のマツダ法人によるモータースポーツ活動が行われ、2000年代末までIMSAの市販車・GTクラスで勝利を重ね続けていた。また同じく北米でマツダが関わっていたミドルフォーミュラの[[フォーミュラ・マツダ]]と[[プロ・マツダ チャンピオンシップ]]でロータリーエンジンが使用されていた。 ロータリーエンジンは採用チームの少ない割に性能均衡が難しいことから搭載自体を禁止するカテゴリも多く、規則の自由度が高いことで知られる[[FIA 世界耐久選手権|世界耐久選手権]](WEC)でも認可されていなかった。そのため、2010年代以降のトップカテゴリでロータリーエンジンが禁じられていないものは、[[世界ラリークロス選手権]]のツーリングカークラスや[[世界ラリー選手権#WRC3|WRC3]]のような、アマチュア志向の市販車クラスのみとなっていた。 しかし、2020 - 2021シーズンにLMP1に代わって導入されたWECの[[ハイパーカー]]規定から、ロータリーエンジン搭載車両が参戦可能となった。マツダが787Bでル・マンを制した1991年以来初のことであり、マツダも参戦への関心を示していることが報じられた<ref>https://www.netdenjd.com/articles/-/225078</ref>。 == ワンオフ品 == <!-- 適切な節名への書き換えを希望します。 ただし、以下の内容を「マツダのロータリーエンジン」節に移動しないでいただきたい。 あくまでも「マツダの部品を使ってはいるが、ほかの会社のエンジン」あるいは「マツダ保証外の改造エンジン」であることは意識してください。 --> その簡単な構造により、十分な知識、部品およびツールさえあれば、個人でのエンジンの分解・組み立てさえも可能である。また、2ローター以上のロータリーエンジンは、左右と中央のハウジングに挟まれたローターが直列に配置された構造を採るため、レシプロエンジンのクランクシャフトに相当するエキセントリックシャフトの新造さえできれば、個人でも市販エンジンの部品を組み合わせて1ローターや4ローター以上のエンジンを製作する事も可能である。1ローターは日本の[[RE雨宮]]が[[マツダ・シャンテ]]の改造用に製作したものが著名であり、海外では2013年現在、自動車向けではニュージーランドのエンジンビルダーが試作した'''6ローター'''<ref>[http://jp.autoblog.com/2012/08/01/this-is-what-a-six-rotor-wankel-looks-and-sounds-like/ 【ビデオ】これが世界初の6ローターロータリーエンジン! - autoblog.com]</ref>が発表されている。 == 同様の構造を持つもの == === 空気圧縮機 === 外部からの動力で働くヴァンケルロータリー構造の[[空気圧縮機]]である。レシプロ式に比べ低振動・低騒音で高効率である一方、潤滑油が圧縮空気に混合し易い。 === 過給機 === ヴァンケルロータリー構造を内燃機関用[[スーパーチャージャー]]に応用したもの。実験は行われたが、十分な過給効果を得るためには、ロータリーエンジンの2倍ほどの大きさのハウジングが必要となるため、実用化はされていない。 === 油圧モーター === [[油圧モーター]]の中で、[[油圧ショベル]]の[[駆動輪]]などに用いられているものはヴァンケルロータリー構造のものが多い。 === 乗用車用シートベルト === 奇抜なものとしてシートベルト[[プリテンショナー]]がある<ref>[https://www.google.com/patents?vid=USPAT5485970&id=N6QhAAAAEBAJ&printsec=abstract&zoom=4&dq=5485970#PPA1-IA1,M1 TRW Wankel pre-tensioner system]</ref>。メルセデスベンツでいくつかの車種に使用されている<ref>{{cite web |url=http://www.mercedestechstore.com/pdfs/507%20Systems%20I/507%20HO%20SRS%20(GC%20ICC)%2010-30-02.pdf |title=Occupant Safety Systems |author=Mercedes-Benz |pages=11-12 |accessdate=2007-12-31 }}</ref>。これらの自動車では衝撃を感知すると電気的に小型のガス発生器に点火されて作動して減圧されたガスが小型のヴァンケルロータリーモーターに供給されてシートベルトを巻き上げる<ref>{{cite web |url=https://www.google.com/patents?vid=USPAT5485970&id=N6QhAAAAEBAJ&dq=5485970 |title=Seat belt pretensioner |author=Charles E. Steffens, Jr |pages= |accessdate=2007-04-11 }}</ref>。 === ロータリー熱エンジン(RHE) === [[ランキンサイクル]]によって作動する[[外燃機関|外燃・外熱]]ヴァンケルロータリーエンジン。各種[[プラント]]の[[熱|排熱]]を、[[機械]][[エネルギー]]として、また、[[発電機]]との組み合わせで[[電力]]として回収するために用いられる。 [[沸点]]の低い[[アンモニア]]や[[エタノール]]を作動流体とすることで、従来利用されることのなかった(捨てられていた)、温度域が40℃ - 150℃程度の排熱からでも動力を取り出せる<ref>[http://www.davinci-mode.co.jp/rhe.html#heat ロータリー熱エンジン (RHE)] - [http://www.davinci-mode.co.jp/index.html 株式会社 ダ・ビンチ]</ref>。 == その他 == 1967年英国[[センチュリー21プロダクション]]製作の[[サイエンス・フィクション|SF]][[特撮]][[人形劇]]「[[キャプテン・スカーレット]]」に登場する[[キャプテン・スカーレット#登場する主要なメカ|追跡戦闘車(S.P.V. Spectrum Pursuit Vehicle)]]は、前後に8ローターのロータリー・エンジンを搭載という設定になっている。 == 注釈 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|group="注釈"}} == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commons|Wankel engine}} * {{仮リンク|マツダのロータリーエンジン|en|Mazda Wankel engine}} * [[マツダのエンジン型式一覧]] * [[水素自動車]] * [[エキセントリック (機械要素)]] * [[ピストンレス・ロータリーエンジン]] * [[リキッドピストン]] == 外部リンク == * [http://www.vector.co.jp/soft/win95/edu/se177306.html 3次元ロータリーエンジン(Windows用のシミュレーションソフトウェア)] <!-- 以前のリンク http://www.vector.co.jp/vpack/browse/pickup/pw5/pw005873.html で紹介されていたものと同一のソフトウェアです。参考:https://web.archive.org/web/20040411183659/http://www.vector.co.jp/vpack/browse/pickup/pw5/pw005873.html --> * [http://hp.vector.co.jp/authors/VA004037/ VRML] - VRMLを使用することで動作を再現している。 * {{Wayback|url=http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/6261/wrce_motorcycles.html |title=WANKEL ROTARY COMBUSTION ENGINE MOTORCYCLES |date=20040311194841}} - ロータリーエンジン搭載のバイク研究サイト。{{ja icon}} * [http://car-moby.jp/35726 MOBY]-ロータリーエンジンとは?総まとめ * {{Wayback|url=http://homepage3.nifty.com/junji-ota/rotary/index.html |title=ソ連ロータリーエンジン乗用車 |date=20120121110204}}{{Ja icon}} * [http://www.ladaonline.ru/catalog/index.php?SECTION_ID=355&SHOWALL_1=1 ラーダの歴代ロータリーエンジン車]{{Ru icon}} * [http://www.autosvit.com.ua/testview_321.html ラーダ・サマーラ 21099-91型の試乗レビュー記事]{{Ru icon}} * [http://cp_www.tripod.com/rotary/pg07.htm Craig's Rotary Page: LADA rotary cars from Russia/USSR]{{En icon}} * [https://motor-fan.jp/article/10006630 【最新パーツ情報】マツダ787Bに搭載R26Bエンジンが100基限定で販売開始!?] - [[Option (雑誌)|WEB OPTION]](2018/11/23)2019年1月18日閲覧 {{レシプロエンジンの気筒配置による分類}} {{自動車部品}} {{自動車の構成}} {{オートバイ部品と関連技術}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ろおたりいえんしん}} [[Category:ロータリーエンジン| ]]
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Osho
Osho(本名:チャンドラ・モハン・ジャイン、1931年12月11日 - 1990年1月19日)は、現代インドに生まれた20世紀の瞑想指導者、精神指導者、神秘家。21歳の大学生の時、人間意識の究極の段階に達して光明を得たという。Osho自身は、宗教的ではあるが宗教の創始者ではない、という。宗教的とは信仰を土台としない内面的探究や精神世界の求道であり、個人の次元でしかないから宗教組織からは全くの圏外におかれるという。 真理の探究こそ第一の優先事項である、人間は全実存をかけて、まず第一に自らの生の源泉を探究することにその関心を寄せねばならないという。 死の1年程前に自らの尊称を数回変えており、最終的にはOshoに定めたという。1971年3月から1988年12月までは、Bhagwan Shree Rajneesh(バグワン・シュリ・ラジニーシ)として知られていた。 Oshoは大学で哲学を学び、1960年にはジャバルプール大学教授となった。1966年になると、大学を辞職し、インド各地で講話を始めた。ジャイナ教、ヒンドゥー教、(ユダヤ教の)ハシディズム、タントラ、タオイズム(道教)、スーフィズム、キリスト教、仏教などの主要な伝統宗教、多様な東洋や西洋の神秘家、ウパニシャッドやシーク教等の聖典について語り、すべての組織宗教の形骸化を痛烈に攻撃し、宗教的戒律は人間を鋳型にはめてしまうものだと非難した。西洋の先進的なセラピーと東洋の修行法を並列的に扱って統合し、数多くのセラピーや瞑想法を創始し、精神世界のカリスマ的存在として多くの西洋人・先進資本主義国の人間を引き付けた。仏陀からインドの諸宗教家たち、老子や荘子、達磨から臨済らの禅者、いわゆる宗教家とされる人々のテキストを題材に上げて多くの人々を魅了してきたが、晩年は禅に関する講話を集中的に行なった。。 Oshoは21歳の時に悟りに至ったという。彼は第二次世界大戦後、独立した20世紀インドにおいて、最も論争の的になった人物であるという。スピリチュアリティの本質を統合する哲学を雄弁に語り、世界の諸宗教の神秘主義的伝統を紹介し、広く称賛されたという。世界中からやってきた弟子や求道者たちに対して語られた彼の講話は650冊以上も出版され、翻訳は32カ国語以上にものぼるという。 Oshoによれば、人間の究極的な目的は光明(enlightenment)を得ることであるという。それが人々の真の個性を全面的に開花させ、自己が宇宙全体から分離していない意識状態をもたらすのだという。光明を得るための最大の障害となるのが人間の自我(ego)であり、これが人々を「本来の自分」から分離させてしまう虚偽の実存であるとOshoは捉える。自我は、社会的条件付けによって増進していくという。Oshoは、親の教育や学校教育、また道徳的、宗教的な教えなどすべての社会化を痛烈に批判する。なぜなら、いわゆる教育が特定の信念体系や社会的役割を教え込み、人間を鋳型にはめこんでしまうと考えるからであるという。 Oshoはなかでも、組織宗教やその指導者を痛烈に攻撃したという。というのも、第1に、従来の組織宗教の多くが彼岸での目的達成を掲げるため、人々が世俗的生活をトータルに亭受し、それをスピリチュアルな成長のための機会とすることを妨げてしまうからである。第2に、伝統的な宗教的指導者が、本来なら自己変容の機会となるべき性的エネルギーを否定し、性に関わるタブーを生み出した。そして第3には、組織宗教という権威主義的な制度によって、内的体験のうちで見いだされるはずの宗教的エッセンスを見失わせてしまっていることである。つまり、Oshoは組織宗教を社会的条件づけの最たるものの1つと捉える。 自我を落とすために必要となるのは、いかなる価値判断もせずに自己の信念や思想、感情のパターンを見守り続けていくことであるといい、過去や未来に煩わされることなく「いま、ここ」で完全に覚醒することを強調した。 瞑想とは何か? という問いにOshoは、『瞑想とは無心の状態だ それは、中身のいっさいない純粋な意識の状態だ あなたたちの意識は、たいがい、あまりにもがらくたでいっぱいだ それはちょうど鏡がほこりでおおわれているようなものだ マインドはとだえることのない交通だ 思考が動き、欲望が動き、記憶が動き、野望が動いている それはとぎれなき交通だ! 明けても、暮れても、眠りについているときまでもマインドは動いている、それは夢みている 相も変わらず考え、相も変わらず心配事や心労のなかにいる あしたのために準備し、秘密裡に準備し続けている これは瞑想なき状態だ 瞑想は、これとまるで反対のものだ 従来がとだえ、考えが止み 思考が動かず、欲望がうごめかず、あなたがまったく沈黙しているとき その沈黙こそ瞑想だ その沈黙のなかでこそ、真実は知られる』と答える。 瞑想に入りやすくする為に、セラピーも積極的に取り入れた。多くのセラピストたちが、その新しい可能性を求めてOshoのもとに集まり、セラピーを行うようになった。セラピーの目的は主に2つある。第1は怒りや恐怖、嫉妬など抑圧された感情を見つめ、感情のブロックを取り除いてエネルギーが流れるようにすることである。第2は「ありのままの自分」を受け入いれ、気づきを高めていくことである。 意識変容を促進する手段として、Oshoは様々な瞑想テクニックを開発した。東洋の伝統では、静かに座って思考を観照することが瞑想であったが、Oshoは思考や感情をより観察しやすいように体の動きを瞑想の中に取り入れた。動の瞑想である。代表的な動の瞑想に、OSHO Dynamic Meditation®(ダイナミック・メディテーション)、OSHO Kundalini Meditation®(クンダリーニ・メディテーション) 、OSHO Nadabrahma Meditation®(ナーダブラーマ・メディテーション)、OSHO Nataraj Meditation®(ナタラジ・メディテーション)、OSHO Devavani MeditationTM(デババニ・メディテーション)、などがある。 ”瞑想 meditation”という言葉は、“薬 medicine”、“医学的な medical” などと同じ語源から来ていて、医学というのが医療的なものであるのと同じように瞑想もやはり医療的なものであり、それは瞑想者を<全体>にし、統合し、健康にしてくれる。とOshoは言う。 米国ダラスに在住する精神科医Vyas, A博士は、Oshoが編み出したダイナミック瞑想の臨床効果を調査するために、パイロットスタディを行い論文にまとめた。本研究は治験者が実際に瞑想を行い、ペアワイズ比較を用いて行われた。結論として、攻撃的行動、抑うつ状態、形質的危険性、感情的な疲労、役割の過負荷、心理的な緊張の大幅な減少が見られたと実証した。そして、心理療法として使用することができると示している。 OSHO公式サイトの記事からの抜粋「ドイツのファフクリニーク・ハイリゲンフェルトという、精神療養所を運営しているヨアヒム・ガルスカ博士は、『ダイナミックは、私が知っているうちでももっともパワフルなテクニックのひとつです』と彼は言う。 精神医学者であるライナ・ファルク博士は、OSHO Dynamic Meditation®を、毎月21日間、患者たちに提供している」 2015年3月1日から2015年3月21日までの21日間、OSHO Dynamic Meditation®の実験研究が行なわれた。インド、ラックナウで行われたこの研究は、20~50歳の健康なボランティア20名(男性14名、女性6名)が参加し(4名は健康上や一身上の理由で脱落)血漿コルチゾール値(ストレスに関与し、過度なストレスを受けると分泌量が増加し、抗ストレスホルモンとして恒常性の維持に不可欠な物質)を測定し、このアクティブ瞑想が抗ストレス効果を生み出すと結論づけた。この結果は、National Center for Biotechnology Information, U.S. National Library of Medicineのサイトにアーカイブされている。 Oshoはインドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると説いて議論を巻き起こし、身体を重視するホリスティックな教え、タントラ的な「悟り」とそこに至る方法を教えた。 セックスは石炭であり、一方ブラフマチャリア〈性超越〉はダイヤモンドだと言いたい、性超越はセックスの変容だ、と言い、もし人間がセクシャリティを正しく理解するなら人間はセックスを超える事ができる、人間はセックスを超えるべきだ、と説いた。 セックスにいつまでもとどまっているべきではないが、セックスを踏み台として用いることができる。それがタントラの意図するところだ、と彼は言う。瞑想に入るための準備としての多様なセラピーや、悟りを目指す多様な瞑想を開発して指導した。 「人間には多くのエネルギーがあるのではない、たった一つのエネルギーしかない。最も低いところではそれは「性エネルギー」と呼ばれる。それを瞑想を通じて、瞑想の錬金術を通じてさらに純粋なものにし、さらに変容させ続けていくと、その同じエネルギーが上に向かって動き始める。セックスは粗野な、なまのものであり、鉱床のなかで見つかるダイヤモンドのようなものだ。それはカットされ、磨かなければならない。そうして初めてそれはダイヤモンドと認められるようになる。性はなまのエネルギーだ。それは変容されねばならない、そして変容を通じて超越が起こる。性は自然な現象だが、宗教はそれを変容するどころか抑圧してきた。それを抑圧すれば、自然な結果として倒錯的な人間が生まれてくる。彼はセックスにとりつかれるようになる。性は最も重要な現象のひとつであり、実際には、人間の生でいちばん重要な現象だ。セックスはあなたの最も低い中枢であり、サマーディ―は至高の、第七の中枢だ。それは七段のはしごだ。性エネルギーは一段また一段と第七段階まで昇ってゆかなければならない。そこでそれは一千の花弁を持つハスのように花開く。性が変容されて初めて人はブッダになる」と、Oshoは言う。 Oshoは、師弟関係を肯定し、それが光明を得る手助けになると主張する。Oshoは「光明を得た」存在が人々の意識変容を促すというのだ。彼の弟子たちはサニヤシン(sannyasin)と呼ばれている。「サニヤシン」という語はもともと、宗教的慣例に従って家庭と物質世界を棄て、僧侶になった者を指したが、Oshoは現世肯定的なサニヤシンのあり方を強調した。サニヤシンになるということは、何か新たな信念体系を獲得することでもなければ、個人的な所有物を放棄することでも、また特定の人物に追従することでもないという。サニヤス(探求)とは、運動でもなければ、組織でもない。その逆に、あらゆる組織、あらゆる集団、あらゆる教会からの、独立の宣言だ、と言う。 Oshoは「明け渡し」について語っている。「私に関する限り、マスターのどの古いカテゴリーにも属さない。私は新しい始まりだ。古いマスターたちは明け渡すことを要求したという意味で――。私はあなたがたに何も要求しない。私にとっては、明け渡すことは微妙な精神的隷属だからだ。私は、私の仲間たちが自由に生きる個人であってほしい。愛はどんな明け渡しよりもはるかに大きな現象だ。明け渡しはマインドのもの、明け渡しはひとつの努力だ。愛はハートのもので、努力ではない。私はあなたが個人であることを消すためにここにいるのではない。あなたのエゴを消すためにここにいる。それにはどんな明け渡しも必要ない。必要なのは、あなたの側での深い瞑想的理解だ」。サニヤシンたちはOshoの思想に服従する必要はない。自らが経験したことは自己の現実となるのであり、そこには信じたり従ったりするべきものではないからだ。 「直観力、受容力、献身などの美徳ゆえに、女性はより容易にグルに従い、瞑想の微妙なエネルギーに対して自らを開くことができる」とし、インドでは無知で不浄とされ、社会的にも霊的にも劣位に扱われる傾向のある女性を霊的に評価し、管理者として実務面もすぐれていると考えた。Oshoは講話で、「母親になるということは、この上もなく価値あるものを作り出している。あなたは生命を彫刻し、生命に形を与えている。子育ては深刻にならず陽気に受け止めること。あなたが深刻になってしまったら子どもはあなたの深刻さを感じ、押しつぶされてダメになってしまう、子どもに重荷を負わせてはならない。子どもがあなたを母親として選んでくれたことに感謝し、子どもを通して自分の母性を開花させなさい。母親になることは祝福だ」と語っている。 Oshoは、1931年12月11日に中央インドのマディア・プラデシュ州でジャイナ教の商人の長男として生まれた。ジャバプール大学では哲学を専攻した。大学生だった1953年3月21日に、人間の意識の最終的な段階に達し、光明を得たという。その後、ジャバルプール大学の哲学教授となり、1960年代にはインド各地で講演し、「すべての行為や感情を抑圧することなく、ありのままの自分を受け入れ、瞬間、瞬間をトータルに覚醒することが必要である」と説き、宗教批判とともに、インドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると主張した。66年には大学を辞職し,すべての時間をインド各地での講演に注ぐようになる。 1970年代より講演者からマスターへと移行し、弟子を受け入れるようになった。正式にイニシエーションを授けるようになる。イニシエーションを受けた人たちは、新しいサンスクリット語の名前が授けられ、また弟子の条件として伝統的なオレンジ色のローブ(のちに赤系統の服となる)とマラを絶えず身につけるようになった。また呼吸への働きかけや身体の自由な動き、発声などを伴い、心理的な解放を志向した動的な技法(アクティブ・メディテーション)を編み出し、71年からの4年間は定期的に公共施設で瞑想キャンプを開いている。 ムンバイでの一時期を経て、1972年にバグワン・シュリ・ラジニーシと改名、その直後にプネーにアシュラムを設立し、拠点に定めた。1971年、ムンバイの南東130キロに位置する高原都市プネーの郊外に2万平方メートルの敷地をもつアシュラムが開かれた。この頃から、サニヤシンのなかで欧米人が圧倒的な割合を占めるようになっていく。国外からの25万人ものメンバー(うち3000人ほどが定住)を集め、Oshoの周辺にはコミューン的な状況が生まれた。当時は、インドを旅していた欧米のヒッピーや精神世界の探究者たちが旅の途上でOshoと出会い、惹かれていった。それに続いて、ヒューマン・ポテンシャル運動にかかわっていた相当数のセラピストたちが、スピリチュアリティの新たな発展の可能性を求めてOshoのもとに集まりだした。彼のもとを訪れるセラピストの数が増えるにつれて、今度は新しい心理学の流れに興味を持つ人がたちがアシュラムを訪れるようになった。 1975年に日本でも講話録ニューズレターが発行され、日本でも知られるようになり、1977年に最初の邦訳講話録である『存在の詩(うた)』が精神世界系の出版社めるくまーるより出版された。本書は1997年までの20年間だけでも、4万9千部売れたという。なお翻訳家・著作家の吉福伸逸は、Oshoの思想は当初アメリカなどより日本の方が先行して広まっていたと述べており、それがニューエイジ/トランスパーソナルムーブメントにおけるOshoの引用の少なさを説明している、と考えている。吉福伸逸は、Oshoのグループは、トランスパーソナル心理学、ニューサイエンス、ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメント、ホリステッィク・ヘルス・ムーブメントに関連した宗教のなかで、唯一、もっともニューエイジ的な感性に近いグループであった、あれだけの実験を提供してくれたグループはどこにもなく、初期のエサレンのような活気が、プネーのOshoアシュラムにはあった、と述べている。 Oshoのラディカルな思想や実験的なアシュラムは、多くの人々、とりわけ先進資本主義国からの若者を惹きつけたが、インド社会との摩擦は激化していった。 1981年の春、Oshoは長年患った喘息と糖尿病のため、講話を含む公共の場での発言を一切しなくなった。アシュラムの実権は、Oshoの個人秘書であったインド人女性マ・アナンド・シーラに委ねられることになった。シーラを中心とする運営スタッフは、中央オレゴンに6万4000エーカー(東京23区の面積に相当)の荒涼とした土地を購入し、81年8月にはOshoをそこへ招待した。サニヤシンたちは、その中にラジニーシプーラム市を建設した。 警察活動を含む自治体の様々な行政活動は、コーディネーターによって実質的に管理・運営されていた。ラジニーシプーラム市の市長はコミューン事務長、助役・出納長はコミューンの出納係、市議会議員は5名すべてサニヤシンであった。 ラジニーシプーラム最盛期、弟子たちと接触の機会を持つために、Oshoはロールス・ロイスに乗って、視察の名目でラジニーシプーラム内を一周するようになった。Oshoは、「96台のロールス・ロイスが必要な理由などまったくない。アメリカ全体に、あらゆる超大金持ちのあいだに嫉妬をかきたて、もし彼らに十分な知性があったなら、私の敵になるよりはむしろ、私のところに来て自分の嫉妬を落とす方法を見つけようとしただろう。嫉妬こそが彼らの問題だ」と語った。 約2000人のサニヤシンが、近隣の人々と日常的交流のない孤立した生活を送っていたが、彼らは1)永住者、2)長期滞在者、3)訪問者のカテゴリーに分類された。伊藤雅之は、Osho自身も閉鎖性・統制性が強まる流れを半ば容認する形で、運動が展開していったと述べている。 1982年3月に一部の弟子が隣接するアンテロープ町に移り、シーラたちによる乗っ取りを恐れた町民たちは町を廃止してワスコ郡の直轄地にしようと住民投票を行ったが、すでに弟子たちの数が元々の住民の数を上回ってしまっており、乗っ取りを防ぐことはできなかった。町名は「ラジニーシ市」に変わり、ラジニーシプーラム市の姉妹都市とされ、首長・教育委員長などの要職が次々に弟子たちに変わり、町全体で徹底した「ラジニーシ化」が進められた。コミューンの活動は注目を集めて新聞やテレビで大きく取り上げられ、世論の反発は激しさを増した。ニュースが全米で放送され、オレゴン州政府の対応に注目が集まり、しだいに州政府が対応せざるを得ない状況になっていった。アメリカの憲法では、「宗教団体が自治体の形態をとる」ことは認められず、このような自治体に交付税、贈与税の交付を含む財政上の助成や補助を行うことは、納税者にとって信徒でもないのに献金を強要されるに等しく、違憲である。1984年3月、オレゴン州法務長官デイビット・B・フローンマイヤー(David B. Frohnmayer)は州を代表し、ラジニーシプーラム市及び同市の公務員及び住民等を被告とし、Oshoの宗教的基盤と市の運営の関係がアメリカ合衆国憲法修正第1条の国教樹立の禁止条例、政教分離原則に反しており、ラジニーシプーラム市の設立は無効であるとして訴えた。 1984年10月、3年半の沈黙を終えOsho は再び講話を行うようになった。レーガンやキリスト教原理主義者の権力と威信にとって、Oshoの存在は脅威的だった。なぜなら、Oshoは彼らの権威の基盤を執拗に攻撃したからだ。Oshoは聖職者と政治家たちを「魂のマフィア」と呼び、彼らは一般の人々を搾取するために深い共謀関係にあると言った。 1985年9月になると、シーラと10数人のスタッフが突然コミューンを去り、FBIが介入した捜査の結果、彼女らが行ってきたコミューン内外での不法行為が明らかになる。そのなかには、Oshoとその世話人の部屋の盗聴、資産5500万ドルの横領、Oshoの主治医デバラジへのヒ素による殺人未遂、近隣レストランでの有害物質サルモネラ菌の混入とそれによる住民約750名の食中毒(うち45名が入院)、公共施設の放火などが含まれていた。シーラとその仲間は逃亡先の旧西ドイツで逮捕され、カリフォルニア州の刑務所に服役した。この事件は近年のアメリカ史上最大の生物兵器による攻撃だと言われる。 州軍がコミューンの周囲で待機状態にあり、コミューンに侵攻しようとしてたことをOshoは勘づき、5000人のサニヤシンの流血の惨事を避けるためにシャーロットへ向かった。インド脱出同様、同行する側近以外の弟子たちには何も知らされなかった。燃料補給に立ち寄ったノース・カロライナ州の空港で、1985年10月28日Oshoは逮捕状なしに逮捕された。 逮捕後、最終的に司法取引が行われた。司法取引の結果として、Oshoは告訴されていた34の罪状のうち移民管理局への偽証に関する2つの罪を認めることや、今後5年間アメリカに入国しないことを条件に釈放され、11月14日アメリカを去った。Oshoの弁護士は、窮余の策として、次のように考えたのだった、Osho本人が望んでいるように、偽装結婚教唆の無罪を証明しようとすれば、法的な手続きが長引いて、彼の生命と健康は脅かされるだろう、それより一部の罪状を認めて、国外退去になったほうが、彼の安全のためにはよい、と。チャールズ・ターナ―(ポートランドの連邦検事)、起訴の遂行に対する責任者は、逮捕状なしでOshoを逮捕した後、記者会見を開催した。記者会見でターナーは、「Oshoの告発の目的は、Oshoを米国から追い払うためだった」と述べ、法的手続きは、政治的な目的にかなうように利用されてきたことを認めた。目的は刑罰ではなく、コミュニティの破壊とOshoの追放だった。ターナーたちはすっかり歴史を書き換えようとしていた。彼らは法廷で宣言のもとに意図的に嘘をつき、報道陣に対し事実を歪曲しすり替え、実際には起こらなかったことを巧みに起こったこととして通用させた。彼らの意図はOshoの名前を完全に失墜せしめること、彼の名望を抹消することだった。 後になって、Oshoと彼の主治医はオクラホマ郡拘留所で、アメリカ政府から殺鼠剤として用いられる重金属のタリウムを盛られた可能性を疑った。このあたりの事情は2冊の著作の中で徹底的かつ詳細に検証されている。ジュリエット・フォアマンの『バグワン・世界を揺るがした12日間』“Bhagwan:Twelve Days that Shook the World” と、オーストラリア人弁護士スー・アップルトン著『バグワン・シュリ・ラジニーシはレーガン政府のアメリカに毒を盛られたのか?』“Was Bhagwan Shree Rajneesh Poisoned by Ronald Reagan's America?”だ。いずれの本も具体的な証拠や状況証拠を示して、Oshoがオクラホマシティで毒を盛られたと主張している。 1985年にアメリカから国外追放されたあと、Oshoは新しい拠点を求めたが、世界各国の政府から危険人物と見なされ、20数か国で入国あるいは長期滞在を拒まれ、世界を転々とした。1986年3月19日ウルグアイが思いがけなく招待状を持って現れたが、ウルグアイ大統領サンギネッティは、もしOshoをウルグアイに滞在させるなら、アメリカからの60億ドルの借款は打ち切られ、将来いかなる借款も与えられないであろう、というワシントンDCからの電話を受け取り、Osho一行はウルグアイを去らなければならなかった。 86年7月にはムンバイに、そして87年1月にはプネーに戻る。インド・プネーに運動の本拠地が復帰した。次の3年間、彼はほぼ毎日の講話を行い、年間約1万人の訪問者がアシュラムを訪れた。87年以降、Oshoの講話の題材はすべて禅語録から選ばれるようになる。その影響もあるのであろうか、この時期日本人の訪問者が増加した。 1987年1月19日、Oshoは、政治権力による弾圧から弟子たちを守るために、サニアシンであることが一目で判別できるマーラとオレンジ系統の衣装をはずすようにと語る。 1988年7月、この14年で初めて、それぞれの夕方の講話の終わりに、自ら瞑想を指導し始める。〝ミスティック・ローズ〟と呼ばれる、革命的に新しい瞑想テクニックも導入される。笑い、涙、沈黙の観照の3つのステージからなる瞑想法である。同年5月26日、〝ミスティック・ローズ〟に続き、ジベリッシュと沈黙のステージからなる新しい瞑想法〝ノー・マインド〟を導入する。 1989年2月から再び病気になり、弟子たちは彼をOshoラジニーシと呼ぶようになった。さらに尊称をOshoに変えた。それまでラジニーシの名でブランド化されていた全てをOshoに変えるよう求め、ラジニーシ・インターナショナル・ファウンデーション改めオショー・インターナショナル・ファウンデーション(OSHO International Foundation)が、Oshoやセラピー等を商標登録し直し、管理を行った。 1990年1月2週目に入ると、Oshoの身体は著しく弱まる。1月18日、彼はブッダ・ホールに来れなくなるほど肉体的に弱まる。1月19日彼の脈拍が不規則になる。医師が心臓蘇生術を準備するべきかどうかと尋ねると、Oshoは「いや、ただ私を逝かせてほしい。存在がその時期を決める」と答える。彼は午後五時に肉体を離れる。 1990年1月19日、Oshoは心臓発作のため59歳で死去した。身体は1時間以内にブッダホールに運ばれ、檀上に10分間置かれた後、長い行列を従えて火葬場へと運ばれた。そして、その旅立ちを祝うサニアシンたちに送られながら茶毘にふされた。 Oshoに特定の後継者はなく、すべてのサニヤシンが後継者であるとされ、プネーや世界各地の瞑想センターは弟子達が独自に運営している。OSHO インターナショナル・メディテーション・リゾートは、より油断なく、リラックスして、楽しく生きる方法を、直接、個人的に体験できる場所である。インドのムンバイから南東に百マイルほどのプネーにあり、毎年世界の百カ国以上から訪れる数千の人々に、バラエティーに富んだプログラムを提供している。 Oshoの語った何千もの講話は、個人レベルの問題から今日の社会が直面する最も緊急の社会・政治問題まで様々なジャンルに渡っていて、もはや分類の域を超えている。毎日語られていたOshoの即興の講話はオーディオおよびビデオに録られ、何か国もの言語に訳され、世界中の人々に届けられている。Oshoの死去後も講話の本は売れ続け、多くのファンがいる。書店では現在も、Osho名義の講話の本や、彼の講話をコンセプトにしたタロットカードのデッキ「OSHO 禅タロット」を買うことができる。Oshoの講話や生み出された瞑想のベースに糸のように張り巡らされているのは、時と年代を超えた永遠の知恵が包含された高い可能性を秘めた、今日のまたはこの先の科学技術である。Oshoの生み出した革新的な瞑想の数々は、加速されたペース生きる現代人に対する内なる変容の科学として広く知られている。 Oshoは言う、「次のことを覚えておくように。私はあなたについて話しているだけでなく、次の世代のために話しているのだということを」 幼名はラジニーシ・チャンドラ・モハンというが、これは「闇を照らす満月の王者」を意味する。 1971年、アチャリア(教師)と呼ばれていた時代が終わり、彼はバグワン(祝福されし者)と呼ばれ始める。 1989年、彼は「私を指すには〝シュリ・ラジニーシ〟で充分だ」と語る。 同年2月29日、サニヤシンたちはシュリ・ラジニーシを呼ぶ新しい尊称として〝Osho〟という言葉を選ぶ。Oshoはこれを受け容れ、以後しばらくのあいだ、〝Oshoラジニーシ〟として知られる。 同年9月12日、「新しい人間がみんなの前に姿を現す。彼はもはやラジニーシとして知られることはない。彼はただOshoと呼ばれることになる」という本人の声明が発表され、世界中のコミューンや瞑想センターからラジニーシという名前が落とされる。 加えてその名前は19世紀のアメリカ詩人ウィリアム・ジェームズの言葉「オーシャニック」に由来し、大海に溶け込むことを意味するとも説明した。 1989年末、商標名は”Rajneesh”から”OSHO”に変更され、現在では日本を含め50カ国近い国で商標登録されている。日本では邦訳書や公式サイトなどが、2001年末半ばから”OSHO”、本人を示す場合は、”Osho”と英字表記されている。 1988年4月22日、翌年の4月まで続けられる禅シリーズが始まる。以降、Oshoは〝無門関〟〝碧巌録〟を初め、馬祖、臨済、南泉など歴代の主要な禅者の語録を題材にした一連の講話を展開してゆく。 Oshoは、「無思考に敬意を払うのは禅だけだ。あらゆる場所で、思考は最高位のものとして君臨している。思考を束縛だとするのは、禅の世界だけだ。無思考は自由だ」と、言う。そして、「究極の自由は禅、自分自身からの自由だ。それは信仰として受け取るものではなく、体得するべきものだ。」と言う。「禅とは、非常に単純で、無垢で、楽しい方法だ。苦行的なもの、生ー否定的なものは何もない。世俗を放棄する必要はなく、僧になる必要もなく、修道院に入る必要もない。必要なのは自分自身に入ることだ。それはどこでもできる。」と、仏性を、あくまで普通で、平凡で、単純で、人間的な事柄とすることを伝えた。Oshoの講話は1989年4月10日にされた、「禅宣言」(原題 The Zen Manifesto)であり、その後2度と講話をすることはなかった。 彼のその講話での最後の言葉は、「仏陀の最後の言葉は、サマサティだった... 自分がブッダであることを覚えていなさい... サマサティ(正念)」 「サマサティ」がOshoの最後の言葉となり、「禅」がOshoの最後のメッセージとなった。 同年11月16日Oshoがコミューンのプレス・リリースより、日本に関する以下の声明が発表される。 「私がロナルド・レーガン政権下のアメリカで不当に逮捕され、毒を盛られた時、最初の抗議は日本の禅院から出された。これは私に、日本の生きている禅の真のハートはまだ命脈を保っていて、再び鼓動し、人類の新しい夜明けの先駆けとなることができる、ということを示してくれた」 Osho達の驚異的な成功と破滅を追ったNetflixのドキュメンタリー・シリーズ「ワイルド・ワイルド・カントリー(Wild Wild Country)」(全6話)が、2018年に第70回エミー賞5部門にノミネートされ、米国内で注目を集めた。Oshoの思想や教えには踏み込まず、関係者を追う形をとっている。映画とテレビを評価統計するサイト「Rotten Tomatoes」では、公開半年時点でのスコアは98%と高い。RogerEbert.comの評論家のニック・アレンは、本作を「善と悪の複雑な定義を観客に問いかける、奥深く魅惑的な作品」と絶賛した。 Osho International Foundationは、 ・残念なことに、Netflixドキュメンタリーシリーズは中心的な局面を究明していないために、ストーリーの背後にある真実のストーリーを明確に報告していない ・本質的にはOshoのヴィジョンの妨害を目指す米国政府の謀略であり、どこまで政府が影響を行使していたのかは情報公開法によって初めて明らかになっている。 ・ホワイトハウスの関与には、レーガン政権の司法長官だったエドウィン・ミースが含まれ、連邦議会ではオレゴン州選出のハットフィールドとパックウッド上院議員、そしてカンザス州のドール上院議員が影響を与えた。さらには移民帰化局(INS)の上級職員から地方の捜査官まで。そして州レベルではオレゴン州知事アタイヤー、共和党員ロバート・ミス、オレゴン州法務長官フローンマイヤー、オレゴン州の連邦検事チャールズ・ターナー、数多くの州議会議員やその他大勢が働いた。 などとコメントしている。 ニューヨーク・タイムズは、シーラについてこう評している。「シーラ――5年間、紛争の中心であった彼女は現在スイスで老人ホームを所有、運営している――彼女は当時とほぼ同じように不遜で、せっかちで、軽蔑的で、おそらく妄想(または、おそらく誇大妄想)を持っているようだ。彼女はまた、巧みなパフォーマーであり、人を操るのに長けた人物であることに変わりはない。ウェイズ(兄弟ディレクター)は彼女に最初で最後の言葉を与えている。『オレゴン州の人びとはRajneesheesを隣人としていたことを幸運だと思うべきだ』と彼女は言う。このストーリーは、いっときも目が離せない」。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Osho(本名:チャンドラ・モハン・ジャイン、1931年12月11日 - 1990年1月19日)は、現代インドに生まれた20世紀の瞑想指導者、精神指導者、神秘家。21歳の大学生の時、人間意識の究極の段階に達して光明を得たという。Osho自身は、宗教的ではあるが宗教の創始者ではない、という。宗教的とは信仰を土台としない内面的探究や精神世界の求道であり、個人の次元でしかないから宗教組織からは全くの圏外におかれるという。 真理の探究こそ第一の優先事項である、人間は全実存をかけて、まず第一に自らの生の源泉を探究することにその関心を寄せねばならないという。 死の1年程前に自らの尊称を数回変えており、最終的にはOshoに定めたという。1971年3月から1988年12月までは、Bhagwan Shree Rajneesh(バグワン・シュリ・ラジニーシ)として知られていた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "Oshoは大学で哲学を学び、1960年にはジャバルプール大学教授となった。1966年になると、大学を辞職し、インド各地で講話を始めた。ジャイナ教、ヒンドゥー教、(ユダヤ教の)ハシディズム、タントラ、タオイズム(道教)、スーフィズム、キリスト教、仏教などの主要な伝統宗教、多様な東洋や西洋の神秘家、ウパニシャッドやシーク教等の聖典について語り、すべての組織宗教の形骸化を痛烈に攻撃し、宗教的戒律は人間を鋳型にはめてしまうものだと非難した。西洋の先進的なセラピーと東洋の修行法を並列的に扱って統合し、数多くのセラピーや瞑想法を創始し、精神世界のカリスマ的存在として多くの西洋人・先進資本主義国の人間を引き付けた。仏陀からインドの諸宗教家たち、老子や荘子、達磨から臨済らの禅者、いわゆる宗教家とされる人々のテキストを題材に上げて多くの人々を魅了してきたが、晩年は禅に関する講話を集中的に行なった。。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "Oshoは21歳の時に悟りに至ったという。彼は第二次世界大戦後、独立した20世紀インドにおいて、最も論争の的になった人物であるという。スピリチュアリティの本質を統合する哲学を雄弁に語り、世界の諸宗教の神秘主義的伝統を紹介し、広く称賛されたという。世界中からやってきた弟子や求道者たちに対して語られた彼の講話は650冊以上も出版され、翻訳は32カ国語以上にものぼるという。", "title": "思想と活動" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "Oshoによれば、人間の究極的な目的は光明(enlightenment)を得ることであるという。それが人々の真の個性を全面的に開花させ、自己が宇宙全体から分離していない意識状態をもたらすのだという。光明を得るための最大の障害となるのが人間の自我(ego)であり、これが人々を「本来の自分」から分離させてしまう虚偽の実存であるとOshoは捉える。自我は、社会的条件付けによって増進していくという。Oshoは、親の教育や学校教育、また道徳的、宗教的な教えなどすべての社会化を痛烈に批判する。なぜなら、いわゆる教育が特定の信念体系や社会的役割を教え込み、人間を鋳型にはめこんでしまうと考えるからであるという。", "title": "思想と活動" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "Oshoはなかでも、組織宗教やその指導者を痛烈に攻撃したという。というのも、第1に、従来の組織宗教の多くが彼岸での目的達成を掲げるため、人々が世俗的生活をトータルに亭受し、それをスピリチュアルな成長のための機会とすることを妨げてしまうからである。第2に、伝統的な宗教的指導者が、本来なら自己変容の機会となるべき性的エネルギーを否定し、性に関わるタブーを生み出した。そして第3には、組織宗教という権威主義的な制度によって、内的体験のうちで見いだされるはずの宗教的エッセンスを見失わせてしまっていることである。つまり、Oshoは組織宗教を社会的条件づけの最たるものの1つと捉える。", "title": "思想と活動" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "自我を落とすために必要となるのは、いかなる価値判断もせずに自己の信念や思想、感情のパターンを見守り続けていくことであるといい、過去や未来に煩わされることなく「いま、ここ」で完全に覚醒することを強調した。", "title": "思想と活動" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "瞑想とは何か? という問いにOshoは、『瞑想とは無心の状態だ それは、中身のいっさいない純粋な意識の状態だ あなたたちの意識は、たいがい、あまりにもがらくたでいっぱいだ それはちょうど鏡がほこりでおおわれているようなものだ マインドはとだえることのない交通だ 思考が動き、欲望が動き、記憶が動き、野望が動いている それはとぎれなき交通だ! 明けても、暮れても、眠りについているときまでもマインドは動いている、それは夢みている 相も変わらず考え、相も変わらず心配事や心労のなかにいる あしたのために準備し、秘密裡に準備し続けている これは瞑想なき状態だ 瞑想は、これとまるで反対のものだ 従来がとだえ、考えが止み 思考が動かず、欲望がうごめかず、あなたがまったく沈黙しているとき その沈黙こそ瞑想だ その沈黙のなかでこそ、真実は知られる』と答える。", "title": "思想と活動" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "瞑想に入りやすくする為に、セラピーも積極的に取り入れた。多くのセラピストたちが、その新しい可能性を求めてOshoのもとに集まり、セラピーを行うようになった。セラピーの目的は主に2つある。第1は怒りや恐怖、嫉妬など抑圧された感情を見つめ、感情のブロックを取り除いてエネルギーが流れるようにすることである。第2は「ありのままの自分」を受け入いれ、気づきを高めていくことである。", "title": "思想と活動" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "意識変容を促進する手段として、Oshoは様々な瞑想テクニックを開発した。東洋の伝統では、静かに座って思考を観照することが瞑想であったが、Oshoは思考や感情をより観察しやすいように体の動きを瞑想の中に取り入れた。動の瞑想である。代表的な動の瞑想に、OSHO Dynamic Meditation®(ダイナミック・メディテーション)、OSHO Kundalini Meditation®(クンダリーニ・メディテーション) 、OSHO Nadabrahma Meditation®(ナーダブラーマ・メディテーション)、OSHO Nataraj Meditation®(ナタラジ・メディテーション)、OSHO Devavani MeditationTM(デババニ・メディテーション)、などがある。", "title": "思想と活動" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "”瞑想 meditation”という言葉は、“薬 medicine”、“医学的な medical” などと同じ語源から来ていて、医学というのが医療的なものであるのと同じように瞑想もやはり医療的なものであり、それは瞑想者を<全体>にし、統合し、健康にしてくれる。とOshoは言う。", "title": "思想と活動" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "米国ダラスに在住する精神科医Vyas, A博士は、Oshoが編み出したダイナミック瞑想の臨床効果を調査するために、パイロットスタディを行い論文にまとめた。本研究は治験者が実際に瞑想を行い、ペアワイズ比較を用いて行われた。結論として、攻撃的行動、抑うつ状態、形質的危険性、感情的な疲労、役割の過負荷、心理的な緊張の大幅な減少が見られたと実証した。そして、心理療法として使用することができると示している。", "title": "思想と活動" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "OSHO公式サイトの記事からの抜粋「ドイツのファフクリニーク・ハイリゲンフェルトという、精神療養所を運営しているヨアヒム・ガルスカ博士は、『ダイナミックは、私が知っているうちでももっともパワフルなテクニックのひとつです』と彼は言う。 精神医学者であるライナ・ファルク博士は、OSHO Dynamic Meditation®を、毎月21日間、患者たちに提供している」", "title": "思想と活動" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2015年3月1日から2015年3月21日までの21日間、OSHO Dynamic Meditation®の実験研究が行なわれた。インド、ラックナウで行われたこの研究は、20~50歳の健康なボランティア20名(男性14名、女性6名)が参加し(4名は健康上や一身上の理由で脱落)血漿コルチゾール値(ストレスに関与し、過度なストレスを受けると分泌量が増加し、抗ストレスホルモンとして恒常性の維持に不可欠な物質)を測定し、このアクティブ瞑想が抗ストレス効果を生み出すと結論づけた。この結果は、National Center for Biotechnology Information, U.S. National Library of Medicineのサイトにアーカイブされている。", "title": "思想と活動" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "Oshoはインドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると説いて議論を巻き起こし、身体を重視するホリスティックな教え、タントラ的な「悟り」とそこに至る方法を教えた。 セックスは石炭であり、一方ブラフマチャリア〈性超越〉はダイヤモンドだと言いたい、性超越はセックスの変容だ、と言い、もし人間がセクシャリティを正しく理解するなら人間はセックスを超える事ができる、人間はセックスを超えるべきだ、と説いた。 セックスにいつまでもとどまっているべきではないが、セックスを踏み台として用いることができる。それがタントラの意図するところだ、と彼は言う。瞑想に入るための準備としての多様なセラピーや、悟りを目指す多様な瞑想を開発して指導した。", "title": "思想と活動" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "「人間には多くのエネルギーがあるのではない、たった一つのエネルギーしかない。最も低いところではそれは「性エネルギー」と呼ばれる。それを瞑想を通じて、瞑想の錬金術を通じてさらに純粋なものにし、さらに変容させ続けていくと、その同じエネルギーが上に向かって動き始める。セックスは粗野な、なまのものであり、鉱床のなかで見つかるダイヤモンドのようなものだ。それはカットされ、磨かなければならない。そうして初めてそれはダイヤモンドと認められるようになる。性はなまのエネルギーだ。それは変容されねばならない、そして変容を通じて超越が起こる。性は自然な現象だが、宗教はそれを変容するどころか抑圧してきた。それを抑圧すれば、自然な結果として倒錯的な人間が生まれてくる。彼はセックスにとりつかれるようになる。性は最も重要な現象のひとつであり、実際には、人間の生でいちばん重要な現象だ。セックスはあなたの最も低い中枢であり、サマーディ―は至高の、第七の中枢だ。それは七段のはしごだ。性エネルギーは一段また一段と第七段階まで昇ってゆかなければならない。そこでそれは一千の花弁を持つハスのように花開く。性が変容されて初めて人はブッダになる」と、Oshoは言う。", "title": "思想と活動" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "Oshoは、師弟関係を肯定し、それが光明を得る手助けになると主張する。Oshoは「光明を得た」存在が人々の意識変容を促すというのだ。彼の弟子たちはサニヤシン(sannyasin)と呼ばれている。「サニヤシン」という語はもともと、宗教的慣例に従って家庭と物質世界を棄て、僧侶になった者を指したが、Oshoは現世肯定的なサニヤシンのあり方を強調した。サニヤシンになるということは、何か新たな信念体系を獲得することでもなければ、個人的な所有物を放棄することでも、また特定の人物に追従することでもないという。サニヤス(探求)とは、運動でもなければ、組織でもない。その逆に、あらゆる組織、あらゆる集団、あらゆる教会からの、独立の宣言だ、と言う。", "title": "思想と活動" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "Oshoは「明け渡し」について語っている。「私に関する限り、マスターのどの古いカテゴリーにも属さない。私は新しい始まりだ。古いマスターたちは明け渡すことを要求したという意味で――。私はあなたがたに何も要求しない。私にとっては、明け渡すことは微妙な精神的隷属だからだ。私は、私の仲間たちが自由に生きる個人であってほしい。愛はどんな明け渡しよりもはるかに大きな現象だ。明け渡しはマインドのもの、明け渡しはひとつの努力だ。愛はハートのもので、努力ではない。私はあなたが個人であることを消すためにここにいるのではない。あなたのエゴを消すためにここにいる。それにはどんな明け渡しも必要ない。必要なのは、あなたの側での深い瞑想的理解だ」。サニヤシンたちはOshoの思想に服従する必要はない。自らが経験したことは自己の現実となるのであり、そこには信じたり従ったりするべきものではないからだ。", "title": "思想と活動" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "「直観力、受容力、献身などの美徳ゆえに、女性はより容易にグルに従い、瞑想の微妙なエネルギーに対して自らを開くことができる」とし、インドでは無知で不浄とされ、社会的にも霊的にも劣位に扱われる傾向のある女性を霊的に評価し、管理者として実務面もすぐれていると考えた。Oshoは講話で、「母親になるということは、この上もなく価値あるものを作り出している。あなたは生命を彫刻し、生命に形を与えている。子育ては深刻にならず陽気に受け止めること。あなたが深刻になってしまったら子どもはあなたの深刻さを感じ、押しつぶされてダメになってしまう、子どもに重荷を負わせてはならない。子どもがあなたを母親として選んでくれたことに感謝し、子どもを通して自分の母性を開花させなさい。母親になることは祝福だ」と語っている。", "title": "思想と活動" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "Oshoは、1931年12月11日に中央インドのマディア・プラデシュ州でジャイナ教の商人の長男として生まれた。ジャバプール大学では哲学を専攻した。大学生だった1953年3月21日に、人間の意識の最終的な段階に達し、光明を得たという。その後、ジャバルプール大学の哲学教授となり、1960年代にはインド各地で講演し、「すべての行為や感情を抑圧することなく、ありのままの自分を受け入れ、瞬間、瞬間をトータルに覚醒することが必要である」と説き、宗教批判とともに、インドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると主張した。66年には大学を辞職し,すべての時間をインド各地での講演に注ぐようになる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1970年代より講演者からマスターへと移行し、弟子を受け入れるようになった。正式にイニシエーションを授けるようになる。イニシエーションを受けた人たちは、新しいサンスクリット語の名前が授けられ、また弟子の条件として伝統的なオレンジ色のローブ(のちに赤系統の服となる)とマラを絶えず身につけるようになった。また呼吸への働きかけや身体の自由な動き、発声などを伴い、心理的な解放を志向した動的な技法(アクティブ・メディテーション)を編み出し、71年からの4年間は定期的に公共施設で瞑想キャンプを開いている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ムンバイでの一時期を経て、1972年にバグワン・シュリ・ラジニーシと改名、その直後にプネーにアシュラムを設立し、拠点に定めた。1971年、ムンバイの南東130キロに位置する高原都市プネーの郊外に2万平方メートルの敷地をもつアシュラムが開かれた。この頃から、サニヤシンのなかで欧米人が圧倒的な割合を占めるようになっていく。国外からの25万人ものメンバー(うち3000人ほどが定住)を集め、Oshoの周辺にはコミューン的な状況が生まれた。当時は、インドを旅していた欧米のヒッピーや精神世界の探究者たちが旅の途上でOshoと出会い、惹かれていった。それに続いて、ヒューマン・ポテンシャル運動にかかわっていた相当数のセラピストたちが、スピリチュアリティの新たな発展の可能性を求めてOshoのもとに集まりだした。彼のもとを訪れるセラピストの数が増えるにつれて、今度は新しい心理学の流れに興味を持つ人がたちがアシュラムを訪れるようになった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1975年に日本でも講話録ニューズレターが発行され、日本でも知られるようになり、1977年に最初の邦訳講話録である『存在の詩(うた)』が精神世界系の出版社めるくまーるより出版された。本書は1997年までの20年間だけでも、4万9千部売れたという。なお翻訳家・著作家の吉福伸逸は、Oshoの思想は当初アメリカなどより日本の方が先行して広まっていたと述べており、それがニューエイジ/トランスパーソナルムーブメントにおけるOshoの引用の少なさを説明している、と考えている。吉福伸逸は、Oshoのグループは、トランスパーソナル心理学、ニューサイエンス、ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメント、ホリステッィク・ヘルス・ムーブメントに関連した宗教のなかで、唯一、もっともニューエイジ的な感性に近いグループであった、あれだけの実験を提供してくれたグループはどこにもなく、初期のエサレンのような活気が、プネーのOshoアシュラムにはあった、と述べている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "Oshoのラディカルな思想や実験的なアシュラムは、多くの人々、とりわけ先進資本主義国からの若者を惹きつけたが、インド社会との摩擦は激化していった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1981年の春、Oshoは長年患った喘息と糖尿病のため、講話を含む公共の場での発言を一切しなくなった。アシュラムの実権は、Oshoの個人秘書であったインド人女性マ・アナンド・シーラに委ねられることになった。シーラを中心とする運営スタッフは、中央オレゴンに6万4000エーカー(東京23区の面積に相当)の荒涼とした土地を購入し、81年8月にはOshoをそこへ招待した。サニヤシンたちは、その中にラジニーシプーラム市を建設した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "警察活動を含む自治体の様々な行政活動は、コーディネーターによって実質的に管理・運営されていた。ラジニーシプーラム市の市長はコミューン事務長、助役・出納長はコミューンの出納係、市議会議員は5名すべてサニヤシンであった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ラジニーシプーラム最盛期、弟子たちと接触の機会を持つために、Oshoはロールス・ロイスに乗って、視察の名目でラジニーシプーラム内を一周するようになった。Oshoは、「96台のロールス・ロイスが必要な理由などまったくない。アメリカ全体に、あらゆる超大金持ちのあいだに嫉妬をかきたて、もし彼らに十分な知性があったなら、私の敵になるよりはむしろ、私のところに来て自分の嫉妬を落とす方法を見つけようとしただろう。嫉妬こそが彼らの問題だ」と語った。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "約2000人のサニヤシンが、近隣の人々と日常的交流のない孤立した生活を送っていたが、彼らは1)永住者、2)長期滞在者、3)訪問者のカテゴリーに分類された。伊藤雅之は、Osho自身も閉鎖性・統制性が強まる流れを半ば容認する形で、運動が展開していったと述べている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1982年3月に一部の弟子が隣接するアンテロープ町に移り、シーラたちによる乗っ取りを恐れた町民たちは町を廃止してワスコ郡の直轄地にしようと住民投票を行ったが、すでに弟子たちの数が元々の住民の数を上回ってしまっており、乗っ取りを防ぐことはできなかった。町名は「ラジニーシ市」に変わり、ラジニーシプーラム市の姉妹都市とされ、首長・教育委員長などの要職が次々に弟子たちに変わり、町全体で徹底した「ラジニーシ化」が進められた。コミューンの活動は注目を集めて新聞やテレビで大きく取り上げられ、世論の反発は激しさを増した。ニュースが全米で放送され、オレゴン州政府の対応に注目が集まり、しだいに州政府が対応せざるを得ない状況になっていった。アメリカの憲法では、「宗教団体が自治体の形態をとる」ことは認められず、このような自治体に交付税、贈与税の交付を含む財政上の助成や補助を行うことは、納税者にとって信徒でもないのに献金を強要されるに等しく、違憲である。1984年3月、オレゴン州法務長官デイビット・B・フローンマイヤー(David B. Frohnmayer)は州を代表し、ラジニーシプーラム市及び同市の公務員及び住民等を被告とし、Oshoの宗教的基盤と市の運営の関係がアメリカ合衆国憲法修正第1条の国教樹立の禁止条例、政教分離原則に反しており、ラジニーシプーラム市の設立は無効であるとして訴えた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1984年10月、3年半の沈黙を終えOsho は再び講話を行うようになった。レーガンやキリスト教原理主義者の権力と威信にとって、Oshoの存在は脅威的だった。なぜなら、Oshoは彼らの権威の基盤を執拗に攻撃したからだ。Oshoは聖職者と政治家たちを「魂のマフィア」と呼び、彼らは一般の人々を搾取するために深い共謀関係にあると言った。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1985年9月になると、シーラと10数人のスタッフが突然コミューンを去り、FBIが介入した捜査の結果、彼女らが行ってきたコミューン内外での不法行為が明らかになる。そのなかには、Oshoとその世話人の部屋の盗聴、資産5500万ドルの横領、Oshoの主治医デバラジへのヒ素による殺人未遂、近隣レストランでの有害物質サルモネラ菌の混入とそれによる住民約750名の食中毒(うち45名が入院)、公共施設の放火などが含まれていた。シーラとその仲間は逃亡先の旧西ドイツで逮捕され、カリフォルニア州の刑務所に服役した。この事件は近年のアメリカ史上最大の生物兵器による攻撃だと言われる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "州軍がコミューンの周囲で待機状態にあり、コミューンに侵攻しようとしてたことをOshoは勘づき、5000人のサニヤシンの流血の惨事を避けるためにシャーロットへ向かった。インド脱出同様、同行する側近以外の弟子たちには何も知らされなかった。燃料補給に立ち寄ったノース・カロライナ州の空港で、1985年10月28日Oshoは逮捕状なしに逮捕された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "逮捕後、最終的に司法取引が行われた。司法取引の結果として、Oshoは告訴されていた34の罪状のうち移民管理局への偽証に関する2つの罪を認めることや、今後5年間アメリカに入国しないことを条件に釈放され、11月14日アメリカを去った。Oshoの弁護士は、窮余の策として、次のように考えたのだった、Osho本人が望んでいるように、偽装結婚教唆の無罪を証明しようとすれば、法的な手続きが長引いて、彼の生命と健康は脅かされるだろう、それより一部の罪状を認めて、国外退去になったほうが、彼の安全のためにはよい、と。チャールズ・ターナ―(ポートランドの連邦検事)、起訴の遂行に対する責任者は、逮捕状なしでOshoを逮捕した後、記者会見を開催した。記者会見でターナーは、「Oshoの告発の目的は、Oshoを米国から追い払うためだった」と述べ、法的手続きは、政治的な目的にかなうように利用されてきたことを認めた。目的は刑罰ではなく、コミュニティの破壊とOshoの追放だった。ターナーたちはすっかり歴史を書き換えようとしていた。彼らは法廷で宣言のもとに意図的に嘘をつき、報道陣に対し事実を歪曲しすり替え、実際には起こらなかったことを巧みに起こったこととして通用させた。彼らの意図はOshoの名前を完全に失墜せしめること、彼の名望を抹消することだった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "後になって、Oshoと彼の主治医はオクラホマ郡拘留所で、アメリカ政府から殺鼠剤として用いられる重金属のタリウムを盛られた可能性を疑った。このあたりの事情は2冊の著作の中で徹底的かつ詳細に検証されている。ジュリエット・フォアマンの『バグワン・世界を揺るがした12日間』“Bhagwan:Twelve Days that Shook the World” と、オーストラリア人弁護士スー・アップルトン著『バグワン・シュリ・ラジニーシはレーガン政府のアメリカに毒を盛られたのか?』“Was Bhagwan Shree Rajneesh Poisoned by Ronald Reagan's America?”だ。いずれの本も具体的な証拠や状況証拠を示して、Oshoがオクラホマシティで毒を盛られたと主張している。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1985年にアメリカから国外追放されたあと、Oshoは新しい拠点を求めたが、世界各国の政府から危険人物と見なされ、20数か国で入国あるいは長期滞在を拒まれ、世界を転々とした。1986年3月19日ウルグアイが思いがけなく招待状を持って現れたが、ウルグアイ大統領サンギネッティは、もしOshoをウルグアイに滞在させるなら、アメリカからの60億ドルの借款は打ち切られ、将来いかなる借款も与えられないであろう、というワシントンDCからの電話を受け取り、Osho一行はウルグアイを去らなければならなかった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "86年7月にはムンバイに、そして87年1月にはプネーに戻る。インド・プネーに運動の本拠地が復帰した。次の3年間、彼はほぼ毎日の講話を行い、年間約1万人の訪問者がアシュラムを訪れた。87年以降、Oshoの講話の題材はすべて禅語録から選ばれるようになる。その影響もあるのであろうか、この時期日本人の訪問者が増加した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1987年1月19日、Oshoは、政治権力による弾圧から弟子たちを守るために、サニアシンであることが一目で判別できるマーラとオレンジ系統の衣装をはずすようにと語る。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1988年7月、この14年で初めて、それぞれの夕方の講話の終わりに、自ら瞑想を指導し始める。〝ミスティック・ローズ〟と呼ばれる、革命的に新しい瞑想テクニックも導入される。笑い、涙、沈黙の観照の3つのステージからなる瞑想法である。同年5月26日、〝ミスティック・ローズ〟に続き、ジベリッシュと沈黙のステージからなる新しい瞑想法〝ノー・マインド〟を導入する。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1989年2月から再び病気になり、弟子たちは彼をOshoラジニーシと呼ぶようになった。さらに尊称をOshoに変えた。それまでラジニーシの名でブランド化されていた全てをOshoに変えるよう求め、ラジニーシ・インターナショナル・ファウンデーション改めオショー・インターナショナル・ファウンデーション(OSHO International Foundation)が、Oshoやセラピー等を商標登録し直し、管理を行った。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1990年1月2週目に入ると、Oshoの身体は著しく弱まる。1月18日、彼はブッダ・ホールに来れなくなるほど肉体的に弱まる。1月19日彼の脈拍が不規則になる。医師が心臓蘇生術を準備するべきかどうかと尋ねると、Oshoは「いや、ただ私を逝かせてほしい。存在がその時期を決める」と答える。彼は午後五時に肉体を離れる。 1990年1月19日、Oshoは心臓発作のため59歳で死去した。身体は1時間以内にブッダホールに運ばれ、檀上に10分間置かれた後、長い行列を従えて火葬場へと運ばれた。そして、その旅立ちを祝うサニアシンたちに送られながら茶毘にふされた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "Oshoに特定の後継者はなく、すべてのサニヤシンが後継者であるとされ、プネーや世界各地の瞑想センターは弟子達が独自に運営している。OSHO インターナショナル・メディテーション・リゾートは、より油断なく、リラックスして、楽しく生きる方法を、直接、個人的に体験できる場所である。インドのムンバイから南東に百マイルほどのプネーにあり、毎年世界の百カ国以上から訪れる数千の人々に、バラエティーに富んだプログラムを提供している。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "Oshoの語った何千もの講話は、個人レベルの問題から今日の社会が直面する最も緊急の社会・政治問題まで様々なジャンルに渡っていて、もはや分類の域を超えている。毎日語られていたOshoの即興の講話はオーディオおよびビデオに録られ、何か国もの言語に訳され、世界中の人々に届けられている。Oshoの死去後も講話の本は売れ続け、多くのファンがいる。書店では現在も、Osho名義の講話の本や、彼の講話をコンセプトにしたタロットカードのデッキ「OSHO 禅タロット」を買うことができる。Oshoの講話や生み出された瞑想のベースに糸のように張り巡らされているのは、時と年代を超えた永遠の知恵が包含された高い可能性を秘めた、今日のまたはこの先の科学技術である。Oshoの生み出した革新的な瞑想の数々は、加速されたペース生きる現代人に対する内なる変容の科学として広く知られている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "Oshoは言う、「次のことを覚えておくように。私はあなたについて話しているだけでなく、次の世代のために話しているのだということを」", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "幼名はラジニーシ・チャンドラ・モハンというが、これは「闇を照らす満月の王者」を意味する。", "title": "呼称の変遷" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1971年、アチャリア(教師)と呼ばれていた時代が終わり、彼はバグワン(祝福されし者)と呼ばれ始める。", "title": "呼称の変遷" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1989年、彼は「私を指すには〝シュリ・ラジニーシ〟で充分だ」と語る。", "title": "呼称の変遷" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "同年2月29日、サニヤシンたちはシュリ・ラジニーシを呼ぶ新しい尊称として〝Osho〟という言葉を選ぶ。Oshoはこれを受け容れ、以後しばらくのあいだ、〝Oshoラジニーシ〟として知られる。", "title": "呼称の変遷" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "同年9月12日、「新しい人間がみんなの前に姿を現す。彼はもはやラジニーシとして知られることはない。彼はただOshoと呼ばれることになる」という本人の声明が発表され、世界中のコミューンや瞑想センターからラジニーシという名前が落とされる。", "title": "呼称の変遷" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "加えてその名前は19世紀のアメリカ詩人ウィリアム・ジェームズの言葉「オーシャニック」に由来し、大海に溶け込むことを意味するとも説明した。", "title": "呼称の変遷" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1989年末、商標名は”Rajneesh”から”OSHO”に変更され、現在では日本を含め50カ国近い国で商標登録されている。日本では邦訳書や公式サイトなどが、2001年末半ばから”OSHO”、本人を示す場合は、”Osho”と英字表記されている。", "title": "呼称の変遷" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1988年4月22日、翌年の4月まで続けられる禅シリーズが始まる。以降、Oshoは〝無門関〟〝碧巌録〟を初め、馬祖、臨済、南泉など歴代の主要な禅者の語録を題材にした一連の講話を展開してゆく。", "title": "禅" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "Oshoは、「無思考に敬意を払うのは禅だけだ。あらゆる場所で、思考は最高位のものとして君臨している。思考を束縛だとするのは、禅の世界だけだ。無思考は自由だ」と、言う。そして、「究極の自由は禅、自分自身からの自由だ。それは信仰として受け取るものではなく、体得するべきものだ。」と言う。「禅とは、非常に単純で、無垢で、楽しい方法だ。苦行的なもの、生ー否定的なものは何もない。世俗を放棄する必要はなく、僧になる必要もなく、修道院に入る必要もない。必要なのは自分自身に入ることだ。それはどこでもできる。」と、仏性を、あくまで普通で、平凡で、単純で、人間的な事柄とすることを伝えた。Oshoの講話は1989年4月10日にされた、「禅宣言」(原題 The Zen Manifesto)であり、その後2度と講話をすることはなかった。", "title": "禅" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "彼のその講話での最後の言葉は、「仏陀の最後の言葉は、サマサティだった... 自分がブッダであることを覚えていなさい... サマサティ(正念)」", "title": "禅" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "「サマサティ」がOshoの最後の言葉となり、「禅」がOshoの最後のメッセージとなった。", "title": "禅" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "同年11月16日Oshoがコミューンのプレス・リリースより、日本に関する以下の声明が発表される。", "title": "禅" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "「私がロナルド・レーガン政権下のアメリカで不当に逮捕され、毒を盛られた時、最初の抗議は日本の禅院から出された。これは私に、日本の生きている禅の真のハートはまだ命脈を保っていて、再び鼓動し、人類の新しい夜明けの先駆けとなることができる、ということを示してくれた」", "title": "禅" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "Osho達の驚異的な成功と破滅を追ったNetflixのドキュメンタリー・シリーズ「ワイルド・ワイルド・カントリー(Wild Wild Country)」(全6話)が、2018年に第70回エミー賞5部門にノミネートされ、米国内で注目を集めた。Oshoの思想や教えには踏み込まず、関係者を追う形をとっている。映画とテレビを評価統計するサイト「Rotten Tomatoes」では、公開半年時点でのスコアは98%と高い。RogerEbert.comの評論家のニック・アレンは、本作を「善と悪の複雑な定義を観客に問いかける、奥深く魅惑的な作品」と絶賛した。", "title": "ドキュメンタリー" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "Osho International Foundationは、", "title": "ドキュメンタリー" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "・残念なことに、Netflixドキュメンタリーシリーズは中心的な局面を究明していないために、ストーリーの背後にある真実のストーリーを明確に報告していない", "title": "ドキュメンタリー" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "・本質的にはOshoのヴィジョンの妨害を目指す米国政府の謀略であり、どこまで政府が影響を行使していたのかは情報公開法によって初めて明らかになっている。", "title": "ドキュメンタリー" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "・ホワイトハウスの関与には、レーガン政権の司法長官だったエドウィン・ミースが含まれ、連邦議会ではオレゴン州選出のハットフィールドとパックウッド上院議員、そしてカンザス州のドール上院議員が影響を与えた。さらには移民帰化局(INS)の上級職員から地方の捜査官まで。そして州レベルではオレゴン州知事アタイヤー、共和党員ロバート・ミス、オレゴン州法務長官フローンマイヤー、オレゴン州の連邦検事チャールズ・ターナー、数多くの州議会議員やその他大勢が働いた。", "title": "ドキュメンタリー" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "などとコメントしている。", "title": "ドキュメンタリー" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ニューヨーク・タイムズは、シーラについてこう評している。「シーラ――5年間、紛争の中心であった彼女は現在スイスで老人ホームを所有、運営している――彼女は当時とほぼ同じように不遜で、せっかちで、軽蔑的で、おそらく妄想(または、おそらく誇大妄想)を持っているようだ。彼女はまた、巧みなパフォーマーであり、人を操るのに長けた人物であることに変わりはない。ウェイズ(兄弟ディレクター)は彼女に最初で最後の言葉を与えている。『オレゴン州の人びとはRajneesheesを隣人としていたことを幸運だと思うべきだ』と彼女は言う。このストーリーは、いっときも目が離せない」。", "title": "ドキュメンタリー" } ]
Oshoは、現代インドに生まれた20世紀の瞑想指導者、精神指導者、神秘家。21歳の大学生の時、人間意識の究極の段階に達して光明を得たという。Osho自身は、宗教的ではあるが宗教の創始者ではない、という。宗教的とは信仰を土台としない内面的探究や精神世界の求道であり、個人の次元でしかないから宗教組織からは全くの圏外におかれるという。 真理の探究こそ第一の優先事項である、人間は全実存をかけて、まず第一に自らの生の源泉を探究することにその関心を寄せねばならないという。 死の1年程前に自らの尊称を数回変えており、最終的にはOshoに定めたという。1971年3月から1988年12月までは、Bhagwan Shree Rajneesh(バグワン・シュリ・ラジニーシ)として知られていた。 Oshoは大学で哲学を学び、1960年にはジャバルプール大学教授となった。1966年になると、大学を辞職し、インド各地で講話を始めた。ジャイナ教、ヒンドゥー教、(ユダヤ教の)ハシディズム、タントラ、タオイズム(道教)、スーフィズム、キリスト教、仏教などの主要な伝統宗教、多様な東洋や西洋の神秘家、ウパニシャッドやシーク教等の聖典について語り、すべての組織宗教の形骸化を痛烈に攻撃し、宗教的戒律は人間を鋳型にはめてしまうものだと非難した。西洋の先進的なセラピーと東洋の修行法を並列的に扱って統合し、数多くのセラピーや瞑想法を創始し、精神世界のカリスマ的存在として多くの西洋人・先進資本主義国の人間を引き付けた。仏陀からインドの諸宗教家たち、老子や荘子、達磨から臨済らの禅者、いわゆる宗教家とされる人々のテキストを題材に上げて多くの人々を魅了してきたが、晩年は禅に関する講話を集中的に行なった。。
{{Infobox 人物 |画像=Bhagwan beweging gekwetst door reclame-affiche van het NRC met de tekst profeet , Bestanddeelnr 933-0734-cropped.jpg |出生名=チャンドラ・モハン・ジャイン |生年月日=[[1931年]][[12月11日]] |生誕地={{BIN}}<br>[[File:Drapeau_Bhopal.svg|border|25px]] [[ボーパール藩王国]] |没年月日={{死亡年月日と没年齢|1931|12|11|1990|1|19}} |死没地={{IND}}・プネー |国籍={{IND}} |職業=神秘家・瞑想指導者 |活動期間= 1972年~1990年 |公式サイト=https://www.osho.com/ja |名前=Osho }}'''Osho'''(本名:チャンドラ・モハン・ジャイン、[[1931年]][[12月11日]] - [[1990年]][[1月19日]])は、現代インドに生まれた20世紀の瞑想指導者、精神指導者、[[神秘家]]。21歳の大学生の時、人間意識の究極の段階に達して光明を得たという<ref name=":7" />。Osho自身は、宗教的ではあるが宗教の創始者ではない<ref name=":15">{{Cite book|和書|title=自分という名の迷宮 インナーラビリンス|date=2016年2月25日|publisher=めるくまーる|page=20}}</ref>、という。宗教的とは信仰を土台としない内面的探究や精神世界の求道であり、個人の次元でしかないから宗教組織からは全くの圏外におかれるという<ref name=":15" />。 真理の探究こそ第一の優先事項である、人間は全実存をかけて、まず第一に自らの生の源泉を探究することにその関心を寄せねばならない<ref>{{Cite book|和書|title=空っぽの鏡|date=1992年11月30日|publisher=壮神社}}</ref>という。 死の1年程前に自らの尊称を数回変えており、最終的にはOshoに定めたという。1971年3月から1988年12月までは、Bhagwan Shree Rajneesh(バグワン・シュリ・ラジニーシ)として知られていた。 Oshoは大学で[[哲学]]を学び、1960年にはジャバルプール大学教授となった<ref name=":3" />。1966年になると、大学を辞職し、インド各地で講話を始めた<ref name=":3" />。ジャイナ教、ヒンドゥー教、(ユダヤ教の)ハシディズム、タントラ、[[タオイズム]](道教)、スーフィズム、キリスト教、仏教などの主要な伝統宗教、多様な東洋や西洋の神秘家、ウパニシャッドやシーク教等の聖典について語り{{sfn|Mullan|1983|pp=33}}、すべての組織宗教の形骸化を痛烈に攻撃し、宗教的戒律は人間を鋳型にはめてしまうものだと非難した<ref name=":3" />。西洋の先進的な[[セラピー]]と東洋の修行法を並列的に扱って統合し、数多くのセラピーや[[瞑想]]法を創始し、精神世界のカリスマ的存在として多くの西洋人・先進資本主義国の人間を引き付けた{{sfn|Puttick|2009|p=268}}{{sfn|豊島|1995|pp=46-47}}。仏陀からインドの諸宗教家たち、老子や荘子、達磨から臨済らの禅者、いわゆる宗教家とされる人々のテキストを題材に上げて多くの人々を魅了してきたが、晩年は禅に関する講話を集中的に行なった。<ref>{{Cite news|title=インド人が語る白隠禅師|date=1990年3月9日|publisher=中外日報}}</ref>。 == 思想と活動 == [[ファイル:Osho Drive By.jpg|250px|サムネイル|ロールス・ロイスを運転するOsho]] Oshoは21歳の時に[[悟り]]に至ったという{{sfn|Puttick|2009|p=269}}。彼は第二次世界大戦後、独立した20世紀インドにおいて、最も論争の的になった人物であるという{{sfn|Desai|1993|p=133}}。[[スピリチュアリティ]]の本質を統合する哲学を雄弁に語り、世界の諸宗教の[[神秘主義]]的伝統を紹介し、広く称賛されたという{{sfn|Puttick|2009|p=270}}。世界中からやってきた弟子や求道者たちに対して語られた彼の講話は650冊以上も出版され、翻訳は32カ国語以上にものぼるという。 Oshoによれば、人間の究極的な目的は光明(enlightenment)を得ることであるという<ref name=":5">{{Cite book|title=現代社会とスピリチャリティ|date=|year=|publisher=渓水社|page=65}}</ref>。それが人々の真の個性を全面的に開花させ、自己が宇宙全体から分離していない意識状態をもたらすのだという<ref name=":5" />。光明を得るための最大の障害となるのが人間の自我(ego)であり、これが人々を「本来の自分」から分離させてしまう虚偽の実存であるとOshoは捉える<ref name=":5" />。自我は、社会的条件付けによって増進していくという<ref name=":5" />。Oshoは、親の教育や学校教育、また道徳的、宗教的な教えなどすべての社会化を痛烈に批判する<ref name=":5" />。なぜなら、いわゆる教育が特定の信念体系や社会的役割を教え込み、人間を鋳型にはめこんでしまうと考えるからであるという<ref name=":5" />。 Oshoはなかでも、組織宗教やその指導者を痛烈に攻撃したという<ref name=":5" />。というのも、第1に、従来の組織宗教の多くが彼岸での目的達成を掲げるため、人々が世俗的生活をトータルに亭受し、それをスピリチュアルな成長のための機会とすることを妨げてしまうからである<ref name=":5" />。第2に、伝統的な宗教的指導者が、本来なら自己変容の機会となるべき性的エネルギーを否定し、性に関わるタブーを生み出した<ref name=":5" />。そして第3には、組織宗教という権威主義的な制度によって、内的体験のうちで見いだされるはずの宗教的エッセンスを見失わせてしまっていることである<ref name=":5" />。つまり、Oshoは組織宗教を社会的条件づけの最たるものの1つと捉える<ref name=":5" />。 自我を落とすために必要となるのは、いかなる価値判断もせずに自己の信念や思想、感情のパターンを見守り続けていくことであるといい<ref name=":5" />、過去や未来に煩わされることなく「いま、ここ」で完全に覚醒することを強調した<ref name=":5" />。 === 悟りと瞑想・セラピー === 瞑想とは何か? という問いにOshoは、『瞑想とは無心の状態だ それは、中身のいっさいない純粋な意識の状態だ あなたたちの意識は、たいがい、あまりにもがらくたでいっぱいだ それはちょうど鏡がほこりでおおわれているようなものだ マインドはとだえることのない交通だ 思考が動き、欲望が動き、記憶が動き、野望が動いている それはとぎれなき交通だ! 明けても、暮れても、眠りについているときまでもマインドは動いている、それは夢みている 相も変わらず考え、相も変わらず心配事や心労のなかにいる あしたのために準備し、秘密裡に準備し続けている これは瞑想なき状態だ 瞑想は、これとまるで反対のものだ 従来がとだえ、考えが止み 思考が動かず、欲望がうごめかず、あなたがまったく沈黙しているとき その沈黙こそ瞑想だ その沈黙のなかでこそ、真実は知られる'''<ref>{{Cite book|和書|title=オレンジ・ブック|date=1984年4月24日|publisher=めるくまーる|page=14}}</ref>'''』と答える。 瞑想に入りやすくする為に、セラピーも積極的に取り入れた。多くのセラピストたちが、その新しい可能性を求めてOshoのもとに集まり、セラピーを行うようになった<ref name=":7" />。セラピーの目的は主に2つある。第1は怒りや恐怖、嫉妬など抑圧された感情を見つめ、感情のブロックを取り除いてエネルギーが流れるようにすることである<ref name=":7" />。第2は「ありのままの自分」を受け入いれ、気づきを高めていくことである<ref name=":7" />。 意識変容を促進する手段として、Oshoは様々な瞑想テクニックを開発した<ref name=":7" />。東洋の伝統では、静かに座って思考を観照することが瞑想であったが、Oshoは思考や感情をより観察しやすいように体の動きを瞑想の中に取り入れた<ref name=":7" />。動の瞑想である。代表的な動の瞑想に、OSHO Dynamic Meditation®(ダイナミック・メディテーション)、OSHO Kundalini Meditation®(クンダリーニ・メディテーション) 、OSHO Nadabrahma Meditation®(ナーダブラーマ・メディテーション)、OSHO Nataraj Meditation®(ナタラジ・メディテーション)、OSHO Devavani Meditation™(デババニ・メディテーション)<ref>{{Cite web|url=https://www.osho.com|title=OSHO International Foundation|accessdate=2021年5月9日}}</ref>、などがある。 ”瞑想 meditation”という言葉は、“薬 medicine”、“医学的な medical” などと同じ語源から来ていて、医学というのが医療的なものであるのと同じように瞑想もやはり医療的なものであり、それは瞑想者を<全体>にし、統合し、[[健康]]にしてくれる<ref>{{Cite book|title=TAO 永遠の大河 3|date=|year=|publisher=めるくまーる|page=122}}</ref>。とOshoは言う。 === 精神医療現場で導入されている瞑想法 === 米国ダラスに在住する精神科医Vyas, ''A''博士は、Oshoが編み出したダイナミック瞑想の臨床効果を調査するために、パイロットスタディを行い論文にまとめた。本研究は治験者が実際に瞑想を行い、ペアワイズ比較を用いて行われた。結論として、攻撃的行動、抑うつ状態、形質的危険性、感情的な疲労、役割の過負荷、心理的な緊張の大幅な減少が見られたと実証した。そして、心理療法として使用することができると示している。<ref>Kostas Andrea Fanti--編"Psychological Science: Research, Theory and Future Directions"ATINER[[2007]]</ref> OSHO公式サイトの記事からの抜粋「ドイツのファフクリニーク・ハイリゲンフェルトという、精神療養所を運営しているヨアヒム・ガルスカ博士は、『ダイナミックは、私が知っているうちでももっともパワフルなテクニックのひとつです』と彼は言う。 精神医学者であるライナ・ファルク博士は、OSHO Dynamic Meditation®を、毎月21日間、患者たちに提供している」<ref>https://www.osho.com/ja/read/media/professionals/what-the-doctors-say</ref> 2015年3月1日から2015年3月21日までの21日間、OSHO Dynamic Meditation®の実験研究が行なわれた。インド、ラックナウで行われたこの研究は、20~50歳の健康なボランティア20名(男性14名、女性6名)が参加し(4名は健康上や一身上の理由で脱落)血漿コルチゾール値(ストレスに関与し、過度なストレスを受けると分泌量が増加し、抗ストレスホルモンとして恒常性の維持に不可欠な物質)を測定し、このアクティブ瞑想が抗ストレス効果を生み出すと結論づけた。この結果は、National Center for Biotechnology Information, U.S. National Library of Medicineのサイトにアーカイブされている。<ref>https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5198312/</ref> ===タントラとセクシャリティ=== Oshoはインドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると説いて議論を巻き起こし、身体を重視するホリスティックな教え、[[タントラ]]的な「悟り」とそこに至る方法を教えた{{sfn|Puttick|2009|p=268}}{{sfn|伊藤|1999|P=14}}。 セックスは石炭であり、一方ブラフマチャリア〈性超越〉はダイヤモンドだと言いたい、性超越はセックスの変容だ<ref name=":0" />、と言い、もし人間がセクシャリティを正しく理解するなら人間はセックスを超える事ができる、人間はセックスを超えるべきだ<ref name=":0" />、と説いた。 セックスにいつまでもとどまっているべきではないが、セックスを踏み台として用いることができる。それがタントラの意図するところだ、と彼は言う<ref name=":0">{{Cite book|title=タントラ―セックス、愛、そして瞑想への道|date=|year=1992|publisher=Oshoコーシャ瞑想センター}}</ref>。瞑想に入るための準備としての多様なセラピーや、悟りを目指す多様な瞑想を開発して指導した。 「人間には多くのエネルギーがあるのではない、たった一つのエネルギーしかない<ref name=":1">{{Cite book|和書|title=英知の辞典|date=1996年5月20日|publisher=めるくまーる|pages=341-343}}</ref>。最も低いところではそれは「性エネルギー」と呼ばれる。それを瞑想を通じて、瞑想の錬金術を通じてさらに純粋なものにし、さらに変容させ続けていくと、その同じエネルギーが上に向かって動き始める<ref name=":1" />。セックスは粗野な、なまのものであり、鉱床のなかで見つかるダイヤモンドのようなものだ<ref name=":1" />。それはカットされ、磨かなければならない<ref name=":1" />。そうして初めてそれはダイヤモンドと認められるようになる<ref name=":1" />。性はなまのエネルギーだ。それは変容されねばならない、そして変容を通じて超越が起こる<ref name=":1" />。性は自然な現象だが、宗教はそれを変容するどころか抑圧してきた<ref name=":1" />。それを抑圧すれば、自然な結果として倒錯的な人間が生まれてくる<ref name=":1" />。彼はセックスにとりつかれるようになる<ref name=":1" />。性は最も重要な現象のひとつであり、実際には、人間の生でいちばん重要な現象だ<ref name=":1" />。セックスはあなたの最も低い中枢であり、サマーディ―は至高の、第七の中枢だ<ref name=":14" />。それは七段のはしごだ<ref name=":14" />。性エネルギーは一段また一段と第七段階まで昇ってゆかなければならない<ref name=":14" />。そこでそれは一千の花弁を持つハスのように花開く<ref name=":14" />。性が変容されて初めて人はブッダになる<ref name=":14">{{Cite book|title=英知の辞典 p. 343|date=|year=|publisher=めるくまーる}}</ref>」と、Oshoは言う。 ===師弟関係としてのサニヤス=== Oshoは、師弟関係を肯定し、それが[[光明]]を得る手助けになると主張する<ref name=":6" />。Oshoは「光明を得た」存在が人々の意識変容を促すというのだ<ref name=":6" />。彼の弟子たちはサニヤシン(sannyasin)と呼ばれている<ref name=":6" />。「サニヤシン」という語はもともと、宗教的慣例に従って家庭と物質世界を棄て、僧侶になった者を指したが、Oshoは現世肯定的なサニヤシンのあり方を強調した<ref name=":6" />。サニヤシンになるということは、何か新たな信念体系を獲得することでもなければ、個人的な所有物を放棄することでも、また特定の人物に追従することでもないという<ref name=":6" />。サニヤス(探求)とは、運動でもなければ、組織でもない。その逆に、あらゆる組織、あらゆる集団、あらゆる教会からの、独立の宣言だ<ref name=":18">{{Cite book|和書|title=禅宣言|date=1998年3月21日|publisher=市民出版社}}</ref>、と言う。 Oshoは「明け渡し」について語っている。「私に関する限り、マスターのどの古い[[カテゴリー]]にも属さない。私は新しい始まりだ。古いマスターたちは明け渡すことを要求したという意味で――。私はあなたがたに何も要求しない。私にとっては、明け渡すことは微妙な精神的隷属だからだ。私は、私の仲間たちが自由に生きる個人であってほしい。愛はどんな明け渡しよりもはるかに大きな現象だ。明け渡しはマインドのもの、明け渡しはひとつの努力だ。愛はハートのもので、努力ではない。私はあなたが個人であることを消すためにここにいるのではない。あなたのエゴを消すためにここにいる。それにはどんな明け渡しも必要ない。必要なのは、あなたの側での深い瞑想的理解だ」<ref>{{Citation |author=Bhagwan Shree Rajneesh|year=1988|title=The Invitation|publisher=Rebel Publishing|edition=1}}</ref>。サニヤシンたちはOshoの思想に服従する必要はない<ref name=":6">{{Cite book|title=現代社会とスピリチュアリティ|date=|year=|publisher=渓水社|page=66}}</ref>。自らが経験したことは自己の現実となるのであり、そこには信じたり従ったりするべきものではないからだ<ref name=":6" />。 ===女性の特質=== 「直観力、受容力、献身などの美徳ゆえに、女性はより容易にグルに従い、瞑想の微妙なエネルギーに対して自らを開くことができる」とし、インドでは無知で不浄とされ、社会的にも霊的にも劣位に扱われる傾向のある女性を霊的に評価し、管理者として実務面もすぐれていると考えた{{sfn|Puttick|2009|pp=270-271}}。Oshoは講話で、「母親になるということは、この上もなく価値あるものを作り出している。あなたは生命を彫刻し、生命に形を与えている。[[子育て]]は深刻にならず陽気に受け止めること。あなたが深刻になってしまったら子どもはあなたの深刻さを感じ、押しつぶされてダメになってしまう、子どもに重荷を負わせてはならない。子どもがあなたを母親として選んでくれたことに感謝し、子どもを通して自分の母性を開花させなさい。母親になることは祝福だ」と語っている<ref>{{Cite book|title=英知の辞典|author=和尚|date=|year=1996|publisher=めるくまーる}}---p470-p474「母親になる MOTHERHOOD」</ref>。 == 来歴 == === 初期 === Oshoは、1931年12月11日に中央インドのマディア・プラデシュ州でジャイナ教の商人の長男として生まれた<ref name=":7" />。ジャバプール大学では哲学を専攻した{{sfn|伊藤|1999|P=14}}。大学生だった[[1953年]][[3月21日]]に、人間の[[意識]]の最終的な段階に達し、光明を得たという{{sfn|伊藤|1999|P=14}}。その後、ジャバルプール大学の哲学教授となり、1960年代にはインド各地で講演し、「すべての行為や感情を抑圧することなく、ありのままの自分を受け入れ、瞬間、瞬間をトータルに覚醒することが必要である」と説き、宗教批判とともに、インドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると主張した{{sfn|伊藤|1999|P=14}}。66年には大学を辞職し,すべての時間をインド各地での講演に注ぐようになる<ref name=":7" />。 [[File:Osho 1972 Birthday seek-index 268 0.26.ogv|thumb|250px|alt=Video of man in white, sitting in an armchair|ムンバイ時代の誕生祭を記録した動画]] 1970年代より講演者からマスターへと移行し、弟子を受け入れるようになった{{sfn|伊藤|1999|P=14}}。正式にイニシエーションを授けるようになる<ref name=":7" />。イニシエーションを受けた人たちは、新しいサンスクリット語の名前が授けられ、また弟子の条件として伝統的なオレンジ色のローブ(のちに赤系統の服となる)とマラを絶えず身につけるようになった<ref name=":7" />。また呼吸への働きかけや身体の自由な動き、発声などを伴い、心理的な解放を志向した動的な技法(アクティブ・メディテーション)を編み出し、71年からの4年間は定期的に公共施設で瞑想キャンプを開いている{{sfn|伊藤|1999|P=14}}。 ===インド 第1期プネー=== [[ムンバイ]]での一時期を経て、1972年にバグワン・シュリ・ラジニーシと改名、その直後に[[プネー]]にアシュラムを設立し、拠点に定めた{{sfn|Puttick|2009|p=268}}。1971年、ムンバイの南東130キロに位置する高原都市プネーの郊外に2万平方メートルの敷地をもつアシュラムが開かれた<ref name=":7">{{Cite book|title=現代社会とスピリチュアリティ|date=|year=|publisher=渓水社|page=63~80}}</ref>。この頃から、サニヤシンのなかで欧米人が圧倒的な割合を占めるようになっていく<ref name=":7" />。国外からの25万人ものメンバー(うち3000人ほどが定住)を集め、Oshoの周辺には[[コミューン]]的な状況が生まれた{{sfn|Puttick|2009|p=268}}。当時は、インドを旅していた欧米のヒッピーや精神世界の探究者たちが旅の途上でOshoと出会い、惹かれていった<ref name=":7" />。それに続いて、ヒューマン・ポテンシャル運動にかかわっていた相当数のセラピストたちが、スピリチュアリティの新たな発展の可能性を求めてOshoのもとに集まりだした<ref name=":7" />。彼のもとを訪れるセラピストの数が増えるにつれて、今度は新しい心理学の流れに興味を持つ人がたちがアシュラムを訪れるようになった<ref name=":7" />。 [[File:Rajneesh and disciples at Poona in 1977.jpg|thumb|right|250px|プネーにて、1977年]] 1975年に日本でも講話録ニューズレターが発行され{{sfn|石村|1995|p=343}}、日本でも知られるようになり、[[1977年]]に最初の邦訳講話録である『存在の詩(うた)』が[[精神世界]]系の出版社[[めるくまーる]]より出版された。本書は1997年までの20年間だけでも、4万9千部売れた{{sfn|伊藤|1997}}という。なお翻訳家・著作家の[[吉福伸逸]]は、Oshoの思想は当初アメリカなどより日本の方が先行して広まっていたと述べており{{sfn|吉福|1987}}、それが[[ニューエイジ]]/[[トランスパーソナル心理学|トランスパーソナル]]ムーブメントにおけるOshoの引用の少なさを説明している、と考えている<ref>引用例としては、例えばピーター・ラッセル 『グローバル・ブレイン』工作舎,1994年</ref>。[[吉福伸逸]]は、Oshoのグループは、[[トランスパーソナル心理学]]、ニューサイエンス、ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメント、ホリステッィク・ヘルス・ムーブメントに関連した宗教のなかで、唯一、もっとも[[ニューエイジ]]的な感性に近いグループであった、あれだけの実験を提供してくれたグループはどこにもなく、初期の[[エサレン協会|エサレン]]のような活気が、プネーのOshoアシュラムにはあった、と述べている<ref>{{Cite book ja-jp |author=[[吉福伸逸]]|chapter= |title =トランスパーソナルとは何か |publisher=春秋社|year=1987|ref={{Harvid|吉福|1987}} }}---p58</ref>。 Oshoのラディカルな思想や実験的なアシュラムは、多くの人々、とりわけ先進資本主義国からの若者を惹きつけたが、インド社会との摩擦は激化していった<ref name=":7" />。 ===アメリカ オレゴン州ラジニーシプーラム=== 1981年の春、Oshoは長年患った喘息と糖尿病のため、講話を含む公共の場での発言を一切しなくなった<ref name=":7" />。アシュラムの実権は、Oshoの個人秘書であったインド人女性マ・アナンド・シーラに委ねられることになった<ref name=":7" />。シーラを中心とする運営スタッフは、中央オレゴンに6万4000エーカー(東京23区の面積に相当)の荒涼とした土地を購入し、81年8月にはOshoをそこへ招待した<ref name=":7" />。サニヤシンたちは、その中にラジニーシプーラム市を建設した<ref name=":7" />。 [[File:Flags at entrance to Rajneeshpuram.jpg|thumb|right|200px|ラジニーシプーラムの入り口]] [[File:ReservoirDedicationStone.jpg|thumb|right|200px|Oshoに奉げられた石碑]] 警察活動を含む自治体の様々な行政活動は、コーディネーターによって実質的に管理・運営されていた{{sfn|石村|1995|pp=348-349}}。ラジニーシプーラム市の市長はコミューン事務長、助役・出納長はコミューンの出納係、市議会議員は5名すべてサニヤシンであった{{sfn|石村|1995|pp=348-349}}。 [[File:1982 Osho driving.jpg|thumb|left|220px|Oshoが運転する[[ロールス・ロイス]]]] [[File:Air Rajneesh Big Muddy Ranch Airport Quackenbush.jpg|thumb|left|220px|ラジニーシプーラムに作られた空港。「エア・ラジニーシ」と書かれた自家用ジェット。]] [[File:Rajneesh Buddhafield Transport Buses.jpg|thumb|left|220px|「ラジニーシ・ブッダフィールド・トランスポート」と書かれた黄色いバスの数々]] [[File:Oregon Rajneeshpuram.jpg|thumb|right|220px|ラジニーシプーラム(1982年)]] [[File:1983 festival at Rajneeshpuram.jpg|thumb|right|220px|ラジニーシプーラムでの祭りの様子(1983年)]] [[File:Walt Whitman Grove.jpg|thumb|right|220px|ラジニーシプーラムに建設されたゲストハウス]] ラジニーシプーラム最盛期、弟子たちと接触の機会を持つために、Oshoは[[ロールス・ロイス]]に乗って、視察の名目でラジニーシプーラム内を一周するようになった。Oshoは、「96台の[[ロールス・ロイス]]が必要な理由などまったくない。アメリカ全体に、あらゆる超大金持ちのあいだに嫉妬をかきたて、もし彼らに十分な知性があったなら、私の敵になるよりはむしろ、私のところに来て自分の嫉妬を落とす方法を見つけようとしただろう。嫉妬こそが彼らの問題だ」と語った<ref>{{Cite book|author=マ・プレム・シュンニョ|title=和尚と過ごしたダイアモンドの日々|date=1994年9月21日|year=|publisher=和尚エンタープライスジャパン株式会社}}---p165-p166</ref>。 約2000人のサニヤシンが、近隣の人々と日常的交流のない孤立した生活を送っていたが、彼らは1)永住者、2)長期滞在者、3)訪問者のカテゴリーに分類された<ref name=":7" />。[[伊藤雅之]]は、Osho自身も閉鎖性・統制性が強まる流れを半ば容認する形で、運動が展開していったと述べている{{sfn|伊藤|1999|p=16}}。[[File:Rajneesh City (Antelope).jpg|thumb|left|220px|「ラジニーシ市」の看板(1985年)]] 1982年3月に一部の弟子が隣接するアンテロープ町に移り、シーラたちによる乗っ取りを恐れた町民たちは町を廃止して[[ワスコ郡]]の直轄地にしようと住民投票を行ったが、すでに弟子たちの数が元々の住民の数を上回ってしまっており、乗っ取りを防ぐことはできなかった{{sfn|石村|1995|p=347}}。町名は「ラジニーシ市」に変わり、ラジニーシプーラム市の姉妹都市とされ、首長・教育委員長などの要職が次々に弟子たちに変わり、町全体で徹底した「ラジニーシ化」が進められた{{sfn|石村|1995|p=347}}。コミューンの活動は注目を集めて新聞やテレビで大きく取り上げられ、世論の反発は激しさを増した。ニュースが全米で放送され、[[オレゴン州]]政府の対応に注目が集まり、しだいに州政府が対応せざるを得ない状況になっていった{{sfn|石村|1995|p=352}}。アメリカの憲法では、「宗教団体が自治体の形態をとる」ことは認められず、このような自治体に交付税、贈与税の交付を含む財政上の助成や補助を行うことは、納税者にとって信徒でもないのに献金を強要されるに等しく、違憲である{{sfn|石村|1995|pp=379-380}}。1984年3月、オレゴン州法務長官デイビット・B・フローンマイヤー([[:en:David B. Frohnmayer|David B. Frohnmayer]])は州を代表し、ラジニーシプーラム市及び同市の公務員及び住民等を被告とし、Oshoの宗教的基盤と市の運営の関係が[[アメリカ合衆国憲法修正第1条]]の国教樹立の禁止条例、[[政教分離]]原則に反しており、ラジニーシプーラム市の設立は無効であるとして訴えた{{sfn|Olsen|2018}}{{sfn|奥村|1996}}{{sfn|Manuto|1987}}{{sfn|石村|1995|p=352}}。 1984年10月、3年半の沈黙を終えOsho は再び講話を行うようになった<ref name=":2" />。レーガンやキリスト教原理主義者の権力と威信にとって、Oshoの存在は脅威的だった<ref name=":2" />。なぜなら、Oshoは彼らの権威の基盤を執拗に攻撃したからだ<ref name=":2" />。Oshoは聖職者と政治家たちを「魂のマフィア」と呼び、彼らは一般の人々を搾取するために深い共謀関係にあると言った<ref name=":2" />。 1985年9月になると、シーラと10数人のスタッフが突然コミューンを去り、FBIが介入した捜査の結果、彼女らが行ってきたコミューン内外での不法行為が明らかになる<ref name=":7" />。そのなかには、Oshoとその世話人の部屋の盗聴、資産5500万ドルの横領、Oshoの主治医デバラジへのヒ素による殺人未遂、近隣レストランでの有害物質サルモネラ菌の混入とそれによる住民約750名の食中毒(うち45名が入院)、公共施設の放火などが含まれていた<ref name=":7" />。シーラとその仲間は逃亡先の旧西ドイツで逮捕され、カリフォルニア州の刑務所に服役した<ref name=":7" />。この事件は近年のアメリカ史上最大の生物兵器による攻撃だと言われる{{sfn|アップス|2017}}。 州軍がコミューンの周囲で待機状態にあり、コミューンに侵攻しようとしてたことをOshoは勘づき、5000人のサニヤシンの流血の惨事を避けるためにシャーロットへ向かった<ref name=":2" />。インド脱出同様、同行する側近以外の弟子たちには何も知らされなかった{{sfn|足沢|2000|pp=82-83}}。燃料補給に立ち寄った[[ノース・カロライナ州]]の空港で、1985年10月28日Oshoは逮捕状なしに逮捕された{{sfn|足沢|2000|pp=82-83}}。 逮捕後、最終的に[[司法取引]]が行われた{{sfn|足沢|2000|pp=82-83}}。司法取引の結果として、Oshoは告訴されていた34の罪状のうち移民管理局への偽証に関する2つの罪を認めることや、今後5年間アメリカに入国しないことを条件に釈放され、11月14日アメリカを去った<ref name=":7" />。Oshoの弁護士は、窮余の策として、次のように考えたのだった、Osho本人が望んでいるように、偽装結婚教唆の無罪を証明しようとすれば、法的な手続きが長引いて、彼の生命と健康は脅かされるだろう、それより一部の罪状を認めて、国外退去になったほうが、彼の安全のためにはよい、と<ref name=":13" />。チャールズ・ターナ―(ポートランドの連邦検事)、起訴の遂行に対する責任者は、逮捕状なしでOshoを逮捕した後、記者会見を開催した<ref name=":12">{{Cite book|title=OSHO・反逆の軌跡|date=|year=|publisher=市民出版|page=265}}</ref>。記者会見でターナーは、「Oshoの告発の目的は、Oshoを米国から追い払うためだった」と述べ、法的手続きは、政治的な目的にかなうように利用されてきたことを認めた<ref name=":12" />。目的は刑罰ではなく、コミュニティの破壊とOshoの追放だった<ref name=":12" />。ターナーたちはすっかり歴史を書き換えようとしていた<ref name=":2">{{Cite book|title=OSHO:アメリカへの道 砂漠の実験都市・ラジニーシプーラムの誕生と崩壊の真相|date=2005年10月15日|year=|publisher=めるくまーる}}</ref>。彼らは法廷で宣言のもとに意図的に嘘をつき、報道陣に対し事実を歪曲しすり替え、実際には起こらなかったことを巧みに起こったこととして通用させた<ref name=":2" />。彼らの意図はOshoの名前を完全に失墜せしめること、彼の名望を抹消することだった<ref name=":2" />。 後になって、Oshoと彼の主治医はオクラホマ郡拘留所で、アメリカ政府から殺鼠剤として用いられる重金属の[[タリウム]]を盛られた可能性を疑った<ref name=":2" />。このあたりの事情は2冊の著作の中で徹底的かつ詳細に検証されている<ref name=":2" />。ジュリエット・フォアマンの『バグワン・世界を揺るがした12日間』“Bhagwan:Twelve Days that Shook the World” と、オーストラリア人弁護士スー・アップルトン著『バグワン・シュリ・ラジニーシはレーガン政府のアメリカに毒を盛られたのか?』“Was Bhagwan Shree Rajneesh Poisoned by Ronald Reagan's America?”だ<ref name=":2" />。いずれの本も具体的な証拠や状況証拠を示して、Oshoがオクラホマシティで毒を盛られたと主張している<ref name=":2" />。 1985年にアメリカから国外追放されたあと、Oshoは新しい拠点を求めたが、世界各国の政府から危険人物と見なされ、20数か国で入国あるいは長期滞在を拒まれ、世界を転々とした{{sfn|豊島|1995|pp=46-47}}。1986年3月19日[[ウルグアイ]]が思いがけなく招待状を持って現れたが、ウルグアイ大統領サンギネッティは、もしOshoをウルグアイに滞在させるなら、アメリカからの60億ドルの借款は打ち切られ、将来いかなる借款も与えられないであろう、というワシントンDCからの電話を受け取り、Osho一行はウルグアイを去らなければならなかった<ref name=":8" />。 === インド 第2期プネー === 86年7月にはムンバイに、そして87年1月にはプネーに戻る<ref name=":7" />。インド・プネーに運動の本拠地が復帰した<ref name=":4" />。次の3年間、彼はほぼ毎日の講話を行い、年間約1万人の訪問者がアシュラムを訪れた<ref name=":7" />。87年以降、Oshoの講話の題材はすべて禅語録から選ばれるようになる<ref name=":7" />。その影響もあるのであろうか、この時期日本人の訪問者が増加した<ref name=":7" />。 1987年1月19日、Oshoは、政治権力による弾圧から弟子たちを守るために、サニアシンであることが一目で判別できるマーラとオレンジ系統の衣装をはずすようにと語る<ref name=":8">{{Cite book|title=I AM THE GATE 未知への扉|author =Oshoラジニーシ|date=|year=|publisher=めるくまーる}}</ref>。 1988年7月、この14年で初めて、それぞれの夕方の講話の終わりに、自ら瞑想を指導し始める<ref name=":9">{{Cite book|title=OSHO・反逆の軌跡|date=2018年10月29日|year=|publisher=市民出版|page=385~387}}</ref>。〝ミスティック・ローズ〟と呼ばれる、革命的に新しい瞑想テクニックも導入される<ref name=":9" />。笑い、涙、沈黙の観照の3つのステージからなる瞑想法<ref name=":8" />である。同年5月26日、〝ミスティック・ローズ〟に続き、ジベリッシュと沈黙のステージからなる新しい瞑想法〝ノー・マインド〟を導入する<ref name=":8" />。 1989年2月から再び病気になり、弟子たちは彼をOshoラジニーシと呼ぶようになった{{sfn|Osho World(2)|2020}}。さらに尊称をOshoに変えた。それまでラジニーシの名でブランド化されていた全てをOshoに変えるよう求め、ラジニーシ・インターナショナル・ファウンデーション改めオショー・インターナショナル・ファウンデーション(OSHO International Foundation)が、Oshoやセラピー等を商標登録し直し、管理を行った{{sfn|OSHO International Foundation|2012}}。 1990年1月2週目に入ると、Oshoの身体は著しく弱まる<ref name=":9" />。1月18日、彼はブッダ・ホールに来れなくなるほど肉体的に弱まる<ref name=":9" />。1月19日彼の脈拍が不規則になる<ref name=":9" />。医師が心臓蘇生術を準備するべきかどうかと尋ねると、Oshoは「いや、ただ私を逝かせてほしい。存在がその時期を決める」と答える<ref name=":9" />。彼は午後五時に肉体を離れる<ref name=":9" />。 [[1990年]][[1月19日]]、Oshoは心臓発作のため59歳で死去した<ref name=":7" />。身体は1時間以内にブッダホールに運ばれ、檀上に10分間置かれた後、長い行列を従えて火葬場へと運ばれた<ref name=":8" />。そして、その旅立ちを祝うサニアシンたちに送られながら茶毘にふされた。 ===死後=== [[ファイル:Osho_International_Meditation_Resort.jpg|thumb|right|280px|OSHO インターナショナル・メディテーション・リゾート]] Oshoに特定の後継者はなく、すべてのサニヤシンが後継者であるとされ、[[プネー]]や世界各地の瞑想センターは弟子達が独自に運営している<ref name=":4">{{Cite book|title=現代宗教辞典|date=|year=|publisher=弘文堂|page=530}}</ref>。OSHO インターナショナル・メディテーション・リゾートは、より油断なく、リラックスして、楽しく生きる方法を、直接、個人的に体験できる場所である<ref name=":10">{{Cite book|title=こころで からだの 声を聴く|date=|year=|publisher=市民出版|page=243}}</ref>。インドのムンバイから南東に百マイルほどの[[プネー]]にあり、毎年世界の百カ国以上から訪れる数千の人々に、バラエティーに富んだプログラムを提供している<ref name=":10" />。 Oshoの語った何千もの講話は、個人レベルの問題から今日の社会が直面する最も緊急の社会・政治問題まで様々なジャンルに渡っていて、もはや分類の域を超えている<ref name=":11">{{Cite book|title=自分という名の迷宮 インナーラビリンス|date=|year=|publisher=めるくまーる|page=227}}</ref>。毎日語られていたOshoの即興の講話はオーディオおよびビデオに録られ、何か国もの言語に訳され、世界中の人々に届けられている<ref name=":11" />。Oshoの死去後も講話の本は売れ続け、多くのファンがいる。書店では現在も、Osho名義の講話の本や、彼の講話をコンセプトにした[[タロットカード]]のデッキ「OSHO 禅タロット」を買うことができる{{sfn|Olsen|2018}}。Oshoの講話や生み出された瞑想のベースに糸のように張り巡らされているのは、時と年代を超えた永遠の知恵が包含された高い可能性を秘めた、今日のまたはこの先の科学技術である<ref name=":11" />。Oshoの生み出した革新的な瞑想の数々は、加速されたペース生きる現代人に対する内なる変容の科学として広く知られている<ref name=":11" />。 Oshoは言う、「次のことを覚えておくように。私はあなたについて話しているだけでなく、次の世代のために話しているのだということを<ref name=":11" />」 == 呼称の変遷 == 幼名はラジニーシ・チャンドラ・モハンというが、これは「闇を照らす満月の王者」を意味する<ref name=":8" />。 1971年、アチャリア(教師)と呼ばれていた時代が終わり、彼はバグワン(祝福されし者)と呼ばれ始める<ref name=":8" />。 1989年、彼は「私を指すには〝シュリ・ラジニーシ〟で充分だ」と語る<ref name=":8" />。 同年2月29日、サニヤシンたちはシュリ・ラジニーシを呼ぶ新しい尊称として〝Osho〟という言葉を選ぶ<ref name=":8" />。Oshoはこれを受け容れ、以後しばらくのあいだ、〝Oshoラジニーシ〟として知られる<ref name=":8" />。 同年9月12日、「新しい人間がみんなの前に姿を現す。彼はもはやラジニーシとして知られることはない。彼はただOshoと呼ばれることになる」という本人の声明が発表され、世界中のコミューンや瞑想センターからラジニーシという名前が落とされる<ref name=":8" />。 加えてその名前は19世紀のアメリカ詩人[[ウィリアム・ジェームズ]]の言葉「オーシャニック」に由来し、大海に溶け込むことを意味するとも説明した。 1989年末、商標名は”Rajneesh”から”OSHO”に変更され、現在では日本を含め50カ国近い国で商標登録されている。日本では邦訳書や公式サイトなどが、2001年末半ばから”OSHO”、本人を示す場合は、”Osho”と英字表記されている。<ref>「[https://www.osho.com/pdf/Osho_Name_Change_Information.pdf Osho.com_Author_Name_Change」]</ref> ==禅== 1988年4月22日、翌年の4月まで続けられる禅シリーズが始まる<ref name=":8" />。以降、Oshoは〝[[無門関]]〟〝[[碧巌録]]〟を初め、馬祖、[[臨済義玄|臨済]]、[[南泉普願|南泉]]など歴代の主要な禅者の語録を題材にした一連の講話を展開してゆく<ref name=":8" />。 Oshoは、「無思考に敬意を払うのは[[禅宗|禅]]だけだ。あらゆる場所で、思考は最高位のものとして君臨している。思考を束縛だとするのは、禅の世界だけだ。無思考は自由だ<ref>{{Cite book|和書|title=これ これ 千回もこれ|date=1993年6月3日|publisher=和尚エンタープライズ・ジャパン}}</ref>」と、言う。そして、「究極の自由は禅、自分自身からの自由だ。それは信仰として受け取るものではなく、体得するべきものだ<ref name=":18" />。」と言う。「禅とは、非常に単純で、無垢で、楽しい方法だ。苦行的なもの、生ー否定的なものは何もない。世俗を放棄する必要はなく、僧になる必要もなく、修道院に入る必要もない。必要なのは自分自身に入ることだ。それはどこでもできる<ref name=":18" />。」と、仏性を、あくまで普通で、平凡で、単純で、人間的な事柄とすること<ref name=":18" />を伝えた。Oshoの講話は1989年4月10日にされた、「禅宣言」(原題 The Zen Manifesto)であり、その後2度と講話をすることはなかった<ref name=":17">{{Cite book|和書|title=道元|date=1992年10月27日|publisher=和尚エンタープライズ・ジャパン}}</ref>。 彼のその講話での最後の言葉は、「[[仏陀]]の最後の言葉は、[[サティ (仏教)|サマサティ]]だった… 自分が[[仏陀|ブッダ]]であることを覚えていなさい… サマサティ(正念)」 「サマサティ」がOshoの最後の言葉となり、「禅」がOshoの最後のメッセージとなった<ref name=":17" />。 同年11月16日Oshoがコミューンのプレス・リリースより、日本に関する以下の声明が発表される<ref name=":8" />。 「私がロナルド・レーガン政権下のアメリカで不当に逮捕され、毒を盛られた時、最初の抗議は日本の禅院から出された。これは私に、日本の生きている禅の真のハートはまだ命脈を保っていて、再び鼓動し、人類の新しい夜明けの先駆けとなることができる、ということを示してくれた<ref name=":8" />」 ==ドキュメンタリー== Osho達の驚異的な成功と破滅を追った[[Netflix]]のドキュメンタリー・シリーズ「ワイルド・ワイルド・カントリー([[:en:Wild Wild Country|Wild Wild Country]])」(全6話)が、2018年に第70回[[エミー賞]]5部門にノミネートされ、米国内で注目を集めた{{sfn|小池|2018}}。'''Oshoの思想や教えには踏み込まず、関係者を追う形'''をとっている{{sfn|小池|2018}}。映画とテレビを評価統計するサイト「Rotten Tomatoes」では、公開半年時点でのスコアは98%と高い{{sfn|小池|2018}}。RogerEbert.comの評論家のニック・アレンは、本作を「善と悪の複雑な定義を観客に問いかける、奥深く魅惑的な作品」と絶賛した{{sfn|小池|2018}}。 Osho International Foundationは、 ・残念なことに、Netflixドキュメンタリーシリーズは中心的な局面を究明していないために、ストーリーの背後にある真実のストーリーを明確に報告していない<ref name=":16">{{Cite web|和書|url=https://www.osho.com/ja/read-media-and-publishing/wild-wild-country-story-behind-story |title=ワイルド・ワイルド・カントリーの背後にあるストーリー |accessdate=2021年5月5日 |publisher=Osho International Foundation}}</ref> ・本質的にはOshoのヴィジョンの妨害を目指す米国政府の謀略であり<ref name=":16" />、どこまで政府が影響を行使していたのかは情報公開法によって初めて明らかになっている<ref name=":16" />。 ・ホワイトハウスの関与には、レーガン政権の司法長官だったエドウィン・ミースが含まれ<ref name=":16" />、連邦議会ではオレゴン州選出のハットフィールドとパックウッド上院議員、そしてカンザス州のドール上院議員が影響を与えた<ref name=":16" />。さらには移民帰化局(INS)の上級職員から地方の捜査官まで<ref name=":16" />。そして州レベルではオレゴン州知事アタイヤー、共和党員ロバート・ミス、オレゴン州法務長官フローンマイヤー、オレゴン州の連邦検事チャールズ・ターナー、数多くの州議会議員やその他大勢が働いた<ref name=":16" />。 などとコメントしている。 ニューヨーク・タイムズは、シーラについてこう評している。「シーラ――5年間、紛争の中心であった彼女は現在スイスで老人ホームを所有、運営している――彼女は当時とほぼ同じように不遜で、せっかちで、軽蔑的で、おそらく妄想(または、おそらく誇大妄想)を持っているようだ。彼女はまた、巧みなパフォーマーであり、人を操るのに長けた人物であることに変わりはない。ウェイズ(兄弟ディレクター)は彼女に最初で最後の言葉を与えている。『オレゴン州の人びとはRajneesheesを隣人としていたことを幸運だと思うべきだ』と彼女は言う。このストーリーは、いっときも目が離せない」<ref>「[https://www.nytimes.com/2018/03/16/arts/television/wild-wild-country-netflix-review-guns-sex-and-a-guru.html ニューヨーク・タイムズレビュー」]</ref>。 == 日本語書籍 == === 講話録 === ;バグワン・シュリ・ラジニーシ * 『存在の詩―バグワン・シュリ・ラジニーシ、[[タントラ]]を語る』[[スワミ・プレム・プラブッダ]]訳([[星川淳]])訳 ([[めるくまーる]]、1977年、ISBN 4-8397-0001-X) * 『究極の旅―バグワン・シュリ・ラジネーシ、禅の[[十牛図]]を語る』[[スワミ・プレム・プラブッダ]]訳 ([[めるくまーる]]、1978年、ISBN 4-8397-0002-8) * 『草はひとりでに生える』マ・アナンド・ナルタン(中沢藤胡)訳(ふみくら書房、1978年) * 『Tao 永遠の大河―バグワン・シュリ・ラジニーシ、[[老子]]を語る(1,2,3,4)』 [[スワミ・プレム・プラブッダ]]訳、[[めるくまーる]]、1979-1982年) * 『生命の歓喜―バグワン・シュリ・ラジニーシとの対話 ダルシャン日誌』(ラジニーシ・パブリケーション・ジャパン、1980年) * 『あなたが死ぬまでは』マ・アナンド・ナルタン訳 (ふみくら書房、1980年) * 『[[般若心経]]―バグワン・シュリ・ラジニーシ、[[色即是空]]を語る』[[スワミ・プレム・プラブッダ]]訳 ([[めるくまーる]]、1980年) * 『マイウェイ―流れ行く白雲の道』マ・アナンド・ナルタン訳 (ラジニーシ・パブリケーション・ジャパン、1980年) * 『瞑想―祝祭の芸術』 スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 ([[めるくまーる]]、1981年、ISBN 4-8397-0009-5) * 『愛の[[錬金術]]―隠されてきたキリスト(上・下)』マ・アナンド・ナルタン訳([[めるくまーる]]、1981年) * 『セックスから超意識へ』スワミ・アナンド・ニラーラ訳 (ラジニーシ・パブリケーションズ・ジャパン 1982年) * 『虚空の舟―[[荘子]] (上・下)』マ・アナンド・ナルタン訳 (ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン 1982年) * 『[[バウル (ベンガル)|バウル]]の愛の歌 (上・下)』スワミ・サンギート訳([[めるくまーる]] 1983年・1984年) * 『オレンジ・ブック―バグワン・シュリ・ラジニーシの瞑想テクニック』スワミ・トシ・ヒロ訳 (ホーリスティック・セラピー研究所、1984年) * 『ダイヤモンド・スートラ-バグワン・シュリ・ラジニーシ[[金剛般若経]]を語る』スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳(瞑想社、1986年) * 『新人権宣言―バグワン・シュリ・ラジニーシ[[基本的人権]]を語る』スワミ・ヤスヒデ、スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1986年) * 『英知の辞典』スワミ・アナンド・ソパン([[めるくまーる]]、1996年) * 『魂への犯罪―バグワン・シュリ・ラジニーシ聖職者と政治家を語る』(イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン、1987年) * 『[[一休宗純|一休]]道歌 上』スワミ・アナンド・モンジュ訳 ([[めるくまーる]]、1987年、ISBN 4-8397-0036-2) * 『一休道歌 下』スワミ・アナンド・モンジュ訳 ([[めるくまーる]]、1988年、ISBN 4-8397-0037-0) * 『[[弥勒菩薩|マイトレーヤ]]―バグワン・シュリ・ラジニーシ、ザ・ブッダ・ロード・マイトレーヤ』 スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1988年) * 『大いなる挑戦―黄金の未来』創造的科学と芸術と意識の世界アカデミー日本準備委員会 監修(ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1988年) * 『ニュー・ウーマン誕生 : A new vision of women's liberation』(ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1988年) * 『信心銘』スワミ・パリトーショ訳 (禅文化研究所、1989年、ISBN 4-88182-073-7) * 『ゴールデン・チャイルドフッド―光輝の年代 シュリ・ラジニーシ幼年期を語る』スワミ・パリトーショ訳 (ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1989年) * 『新人類―未来への唯一の希望』 スワミ・パリトーショ、スワミ・キャル訳 (瞑想社、1989年) * 『アイ・アム・ザ・ゲート 秘儀伝授と弟子の意味』 武捨宏昭訳 (パブフル、2020年) ;OSHOラジニーシ * 『ア・カップ・オブ・ティー―オショー・ラジニーシ初期書簡集』[[スワミ・プレム・プラブッダ]]、[[澤西康史|スワミ・アナンド・ソパン]]訳 ([[めるくまーる]]、1989年) * 『死・終わりなき生―オショー・ラジニーシ講話録』(講談社、1989年、ISBN 4-06-203569-3) * 『[[坐禅]]和讃―和尚ラジニーシ、[[白隠禅師]]を語る』スワミ・プレム・ラジャ、スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1990年) * 『[[臨済録]]』スワミ・アナンド・モンジュ訳 ([[めるくまーる]]、1991年、ISBN 4-8397-0061-3) * 『未知への扉―和尚、秘教グループを語る』 スワミ・アナンド・モンジュ訳 (瞑想社、1992年) ;和尚/Osho/和尚 * 『モジュッド 説明できない生を生きた人』マ・アンタール・コマルタ編、スワミ・アナンド・ニラーラ訳(和尚エンタープライズジャパン、1990年) * 『反逆のスピリット』スワミ・デヴァ・マジュヌ、マ・デヴァ・ヨーコ他訳 ([[めるくまーる]]、1990年、ISBN 4-8397-0057-5) * 『狂人ノート』マ・アナンド・ナルタン訳、マ・アナンド・プシュポ編 (Oshoエンタープライズジャパン、1991年、ISBN 4-900612-08-1) * 『私が愛した本〛スワミ・パリトーショ訳 (Oshoエンタープライズジャパン、1992年) * 『空っぽの鏡・[[馬祖道一|馬祖]]』([[壮神社]]、1992年、ISBN 4-915906-01-9) * 『マイウェイ―流れ行く白雲の道』(和尚エンタープライズジャパン、1992年) * 『[[道元]]―その探求と悟りの足跡』スワミ・アンタール・ガータサンサ訳 (Oshoエンタープライズジャパン、1992年) * 『神秘の次元』(日本ヴォーグ社、1992年) * 『タントラ―セックス、愛、そして瞑想への道』 スワミ・アナンド・チダカッシュ訳 (Oshoコーシャ瞑想センター、1992年) * 『新瞑想法入門』スワミ・デヴァ・マジュヌ訳 (瞑想社、1993年、ISBN 4-8397-0070-2) * 『これこれ千回もこれ―[[禅]]のまさに真髄』[[澤西康史|スワミ・アナンド・ソパン]]訳 (Oshoエンタープライズジャパン、1993年) * 『内なる宇宙の発見―呼吸・夢の超越・やすらぎ <タントラ秘宝の書1>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ(田中ぱるば)訳 ([[市民出版社]]、1993年) * 『[[秘教]]の心理学』スワミ・プレム・ヴィシュダ訳 (瞑想社、1994年) * 『生・愛・笑い』([[めるくまーる]]、1994年、ISBN 4-8397-0049-4) * 『ノーマインド―永遠の花々』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳、[[澤西康史|スワミ・アナンド・ソパン]]照校 (壮神社、1994年、ISBN 4-915906-11-6) * 『源泉への道―中心へ向かう・ハートの開発 <タントラ秘宝の書2>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 ([[市民出版社]]、1994年) * 『[[第三の眼]]―見る技法・ブッダの愛 <タントラ秘宝の書3>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 ([[市民出版社]]、1994年) * 『[[ダンマパダ]]』 沢西康史訳(瞑想社、1994年) * 『[[ボーディダルマ]]』([[めるくまーる]]、1994年、ISBN 4-8397-0079-6) * 『沈黙の音―音を対象とした瞑想技法 <タントラ秘宝の書4>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 ([[市民出版社]]、1995年) * 『オレンジ・ブック』([[めるくまーる]]、1995年) * 『愛の円環―宇宙的オーガズム <タントラ秘宝の書5>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 ([[市民出版社]]、1995年) * 『TAO―[[老子]]の道〈上〉』([[めるくまーる]]、1995年、ISBN 4-8397-0081-8) * 『TAO―老子の道〈下〉』([[めるくまーる]]、1995年、ISBN 4-8397-0082-6) * 『覚醒の深みへ―エネルギーの上昇 <タントラ秘宝の書6>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 ([[市民出版社]]、1995年) * 『光と闇の瞑想―存在への回帰 <タントラ秘宝の書7>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 ([[市民出版社]]、1996年) * 『奇跡の探求―覚醒の炎 <和尚初期瞑想キャンプの講話1>』 Oshoサクシン瞑想センター訳([[市民出版社]] 1996年) * 『存在とひとつに―[[ヴィギャン・バイラヴ・タントラ]] <タントラ秘宝の書8>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 ([[市民出版社]]、1997年) * 『生の神秘-ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書9>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 ([[市民出版社]]、1997年) * 『空の哲学-ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書10>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 ([[市民出版社]]、1998年) * 『禅宣言』([[市民出版社]]、1998年) * 『[[イーシャー・ウパニシャッド|イーシャ・ウパニシャッド]]―存在の鼓動』スワミ・ボーディ・マニッシュ訳 ([[市民出版社]]、1998年、ISBN 4-88178-165-0) * 『奇跡の探求―七身体の神秘 <Osho初期瞑想キャンプの講話2>』 Oshoサクシン瞑想センター訳 ([[市民出版社]]、1998年) * 『知恵の種子』([[市民出版社]]、1999年、ISBN 4-88178-171-5) * 『私の愛するインド―輝ける黄金の断章』 スワミ・プレム・グンジャ訳、マ・ジヴァン・アナンディ照校 ([[市民出版社]]、1999年) * 『知恵の種子』([[市民出版社]]、1999年、ISBN 4-88178-171-5) * 『無水無月』([[市民出版社]]、1999年、ISBN 4-88178-167-7) * 『[[:zh:太乙金華宗旨|黄金の華の秘密]]』([[めるくまーる]]、1999年、ISBN 4-8397-0099-0) * 『ユニオ・ミスティカ』 (市民出版社、1999年) * 『夜眠る前に贈る言葉』 (市民出版社、1999年) * 『タントラの変容―[[サラハ]]の王の歌』([[市民出版社]]、2000年、ISBN 4-88178-177-4) * 『隠された神秘』([[市民出版社]]、2000年、ISBN 4-88178-174-X) * 『朝の目覚めに贈る言葉』 ([[市民出版社]]、2000年) * 『和尚禅タロット』アナンド・ニラーラ訳(AGM AGMuller、2001年) ;Osho * 『タントラの変容<タントラ・ヴィジョン2』([[市民出版社]]、2000年、ISBN 4-88178-177-4) * 『朝の目覚めに贈る言葉』 (市民出版社、2000年) * 『タントラの変容 タントラヴィジョン2』 ([[市民出版社]]、2000年) * 『死のアート』 (市民出版社、2001年) * 『エンライトメント―神秘家・[[:en:Ashtavakra|アシュタヴァクラ]] ただひとつの変革』スワミ・アンタール・ソハン訳 ([[市民出版社]]、2003年) * 『シャワリング・ウィズアウト・クラウズ ([[市民出版社]]、2003年) * 『永久の哲学1』 ([[市民出版社]]、2004年) * 『ラスト・モーニング・スター』 ([[市民出版社]]、2004年) * 『インナー・ジャーニー―内なる旅』マ・アナンド・ムグダ訳 ([[市民出版社]]、2005年) * 『そして花々が降りそそぐ』 マ・プレム・プラバヒ、Oshoサクシン瞑想センター訳([[市民出版社]]、2005年) * 『究極の錬金術 1―古代の奥義書[[ウパニシャッド]]を語る』 スワミ・ボーディ・イシュワラ訳 ([[市民出版社]]、2006年) * 『永久の哲学2―ピュタゴラスの黄金詩2』([[市民出版社]]、2006年) * 『サラハの歌<タントラ・ヴィジョン1>』([[市民出版社]]、2006年) * 『究極の錬金術 2―人間―永遠と永遠の架け橋』 スワミ・ボーディ・イシュワラ訳 ([[市民出版社]]、2008年) * 『魂の科学-[[パタンジャリ]]の[[ヨーガ・スートラ]]』 [[澤西康史]]訳 (LAF瞑想社、2007年) * 『こころでからだの声を聴く―ボディ・マインド・バランシング』 マ・アナンド・ムグダ訳 ([[市民出版社]]、2007年) * 『神秘家の道-珠玉の質疑応答録』 スワミ・パリトーショ訳、スワミ・アドヴァイト・パルヴァ, マ・ギャン・シディカ照校 ([[市民出版社]]、2009年) * 『OSHO禅タロット』アナンド・ニラーラ訳(AGM AGMuller、2010年) * 『探求の詩』 ([[市民出版社]]、2011年) * 『魂のヨーガ』 ([[市民出版社]]、2012年) * 『アティーシャの知恵の書 上』 ([[市民出版社]]、2012年) * 『アティーシャの知恵の書 下』 ([[市民出版社]]、2013年) * 『愛の道-神秘家・[[カビール]]を語る』 スワミ・プレム・グンジャ訳、マ・アナンド・ムグダ, マ・ギャン・プーナム照校([[市民出版社]]、2013年) * 『Joy 喜び』 [[山川紘矢]]・[[山川亜希子]]訳 (角川書店、2013年) * 『草はひとりでに生える』(OEJブックス、2013年) * 『究極の旅』(河出書房新社、2013年) * 『死ぬこと生きること』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ(宮川義弘)訳、マ・アナンド・ムグダ、マ・ギャン・シディカ照校([[市民出版社]]、2014年) * 『存在とひとつに―ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書8>』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 ([[市民出版社]]、1014年) * 『TAO 永遠の大河1』(河出書房新社、2014年) * 『TAO 永遠の大河2』(河出書房新社、2014年) * 『TAO 永遠の大河3』(河出書房新社、2014年) * 『TAO 永遠の大河4』(河出書房新社、2014年) * 『炎の伝承1』(市民出版社、2014年) * 『Courage 勇気』 [[山川紘矢]]・[[山川亜希子]]訳 ([[KADOKAWA]]、2014年) * 『死について41の答え』OSHO ([[めるくまーる|OEJブックス]]、2015年) * 『炎の伝承2』([[市民出版社]]、2015年) * 『愛の円環―宇宙的オーガズム <タントラ秘宝の書5>』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 ([[市民出版社]]、2015年) * 『内なる宇宙の発見―ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書1>』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 ([[市民出版社]]、1015年) * 『真理の泉』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳([[市民出版社]]、2016年) * 『奇跡の探求2』([[市民出版社]]、2016年) * 『Intuition 直観』 [[山川紘矢]]・[[山川亜希子]]訳 ([[KADOKAWA]]、2016年) * 『瞑想の道』([[市民出版社]]、2017年) * 『Creativity 創造性』 [[山川紘矢]]・[[山川亜希子]]訳 ([[KADOKAWA]]、2017年) * 『夜眠る前に贈る言葉』 ([[市民出版社]]、2018 年) * 『朝の目覚めに贈る言葉』 ([[市民出版社]]、2018年) * 『ブッダ―最大の奇跡 <超越の道シリーズ1>』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳、マ・ギャン・プーナム照校([[市民出版社]]、2019年) * 『瞑想録―静寂の言葉』 中原邦彦・庄司純訳 (季節社、2019年) * 『あなたの魂を照らす60の物語』 Amy Okudaira訳 ([[大和書房]]、2019年) * 『心理学を超えて1』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳 ([[市民出版社]]、2019年) * 『存在の詩 TANTRA THE SUPREME UNDERSTANDING』新装復刊 OSHO [[星川淳]]訳 2020年 [[めるくまーる]]) * 『心理学を超えて 2 』([[市民出版社]]、2020年) * 『新瞑想法入門』([[市民出版社]]、2021年) === 解説 === * [[玉川信明]]著 『和尚の超宗教的世界 [[トランスパーソナル心理学]]との相対関係』([[社会評論社]]、2001年) * [[玉川信明]]著 『和尚、禅を語る』(社会評論社、2002年) * [[玉川信明]]編著 『和尚、性愛を語る』 ([[社会評論社]]、2003年) * [[玉川信明]]編著 『和尚、聖典を語る』 ([[社会評論社]]、2003年) === 雑誌 === * 『Rajneesh times international(ラジニーシ・タイムズ・インターナショナル)』イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン株式会社 編、イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン、Vol.1(20 Dec. 1987)~15号(1 Oct. 1989) * 『Osho times international(和尚タイムズ・インターナショナル)』 和尚ジャパン 編、イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン (16号-17号) → Oshoイア・ネオ・サニヤス・コミューン (18/19号-88号) → オージェーインスティテュート (89号-95号)、刊行終了 * 月刊「ムー」1983年9月号 No.34、10月号 No.35、学習研究社「OSHO、秘教グループを語る」スワミ・アナンド・モンジュ訳 == 脚注 == {{Reflist|group=†}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name=":13">{{Cite book|title=OSHO・反逆の軌跡|date=|year=|publisher=市民出版社}}</ref> <ref name=":3">{{Cite book|title=現代宗教辞典|date=|year=|publisher=弘文堂|author=|page=529}}</ref> }} == 参考文献 == ;書籍・論文 * {{Cite book|和書 |author=Elizabeth Puttick 執筆|others={{仮リンク|クリストファー・パートリッジ|en|Christopher Partridge}} 編、[[井上順孝]] 監訳、井上順孝・井上まどか・冨澤かな・宮坂清 訳 |title=現代世界宗教事典—現代の新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ|publisher=悠書館|year=2009|ref={{Harvid|Puttick|2009}}}} *[[伊藤雅之]]「現代社会とスピリチュアリティ」、[[渓水社]]、2003年 *中外日報『インド人が語る白隠禅』、1990年3月9日 *現代宗教学辞典、井上順考 編、弘文堂 *マックス・ブレッカー『Osho アメリカへの道-砂漠の実験都市ラジニーシプーラムの誕生と崩壊の真相』「OSHOアメリカへの道」プロジェクト訳、[[めるくまーる]]、2005年 *ヴァサント・ジョシ『反逆のブッダ バグワン・シュリ・ラジニーシの軌跡』[[スワミ・プレム・プラブッダ]]訳、[[めるくまーる]]、1984年 *ヴァサント・ジョシ『異端の神秘家OSHO・反逆の軌跡』宮川義弘 [[市民出版社]] 2018年 *マ・プレム・シュンニョ『Oshoと過ごしたダイアモンドの日々』 マ・プレム・ソナ訳、Oshoエンタープライズ・ジャパン、1994年 * {{Cite journal|和書|author=奥村文男|title=憲法20条1項の「政治上の権力」の意味について|date=1996|publisher=関西法政治学研究会|journal=憲法論叢|url=https://doi.org/10.20691/houseiken.3.0_53|doi=10.20691/houseiken.3.0_53|naid=110002283612|volume=3|pages=53-69|ref={{Harvid|奥村|1996}}}} * {{Cite book ja-jp |author=石村耕治|chapter=宗教集団による自治体支配の法的問題 -ラジニーシプラム市事件を素材として- |title =アメリカ連邦税財政法の構造 |publisher=法律文化社|year=1995|ref={{Harvid|石村|1995}} }} * {{Cite book ja-jp |author=[[吉福伸逸]]|chapter= |title =トランスパーソナルとは何か |publisher=春秋社|year=1987|ref={{Harvid|吉福|1987}} }} * {{Citation | last =Mullan | first =Bob | title =Life as Laughter: Following Bhagwan Shree Rajneesh | publisher =[[Routledge]] & Kegan Paul Books Ltd | location =London, Boston, Melbourne and Henley | isbn =0-7102-0043-9 | year =1983 |postscript=<!--None-->}}. *日家ふじ子『自分という名の迷宮 インナーラビリンス』[[めるくまーる]]、2016年 ;ウェブ * {{Cite web|和書|author=小池かおる |coauthors= |date=2018-08-14 |url=https://moviewalker.jp/news/article/157752/ |title=大反響のNetflixドキュメンタリーと、カート・ラッセルの意外な関係|publisher = Movie Walker|accessdate=2020-04-30|ref={{Harvid|小池|2018}} }} == 関連文献 == ;書籍 * {{Cite book|author=Osho|chapter= |title =Zen: Take it Easy(禅:気軽に) |publisher= Diamond Pocket Books|year=2010 |ref={{Harvid|Osho|2010}} }} * {{Cite book|author=Oliver Klatt|chapter= |title =Reiki Systems of the World: One Heart - many Beats(世界のレイキシステム:たくさんの鼓動を打つひとつのハート) |publisher=Lotus Pr|year=2007|ref={{Harvid|Klatt|2007}} }} * ヒュー・ミルン『ラジニーシ ― 堕ちた神』 鴫沢立也訳、[[第三書館]] 、1991年(再版)☆ラジニーシの側近でのち離反した人物の回想録。ブレッカー『Osho アメリカへの道』によると本書は名誉毀損で訴えられている(p218)。 * {{Cite book|和書 |author=和尚|others=[[スワミ・プレム・プラブッダ]], ス[[澤西康史|ワミ・アナンド・ソパン]] 訳 |title=ア・カップ・オブ・ティー Oshoラジニーシ初期書簡集|publisher=[[めるくまーる]]|year=1995|ref={{Harvid|和尚|1995}}}} ;ウェブ * {{Cite web|和書|author= |coauthors= |date= |url=http://www.oshoworld.com/biography/innercontent.asp|title=Name-change to Osho(Oshoへの改名)|publisher = Osho World|accessdate=2020-05-30|ref={{Harvid|Osho World(2)|2020}} }} * {{Cite web|和書|author= |coauthors= |date= |url=https://www.osho.com/ja/highlights-of-oshos-world/who-osho#|title=Osho とはどんな人ですか?|publisher = OSHO International Foundation|accessdate=2020-05-17|ref={{Harvid|OIF(1)|2020}} }} * {{Cite web|和書|author= |coauthors= |date= |url=https://www.osho.com/ja/read-media-and-publishing/wild-wild-country-story-behind-story|title=ワイルド・ワイルド・カントリー ストーリーの背後にあるストーリー|publisher = OSHO International Foundation|accessdate=2020-06-04|ref={{Harvid|OIF(2)|2020}} }} * {{Cite web|和書|author= |coauthors= |date= |url=https://www.sannyas.wiki/index.php?title=From_Bhagwan_to_Osho:_The_story|title=From Bhagwan to Osho: The story(バグワンからオショーへ:その経緯)|publisher = The Sannyas Wiki|accessdate=2020-05-30|ref={{Harvid|The Sannyas Wiki|2020}} }} * {{Cite web|和書|author=Ma Vivek |coauthors= |date= |url=https://www.medibreath.net/en-GB/links/about-osho-31678355|title=ABOUT OSHO(Oshoについて)|publisher = 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エバルトの方法
エバルトの方法(エバルトのほうほう、英: Ewald method)は、分子動力学法、量子化学的手法、バンド計算手法などで、単位胞(またはスーパーセル)内の原子核(またはイオン芯)同士のクーロン相互作用を効率良く計算する手法である。 実空間と逆格子空間のどちらでも発散してしまうクーロン相互作用を、実空間での計算が都合のよい部分と、逆格子空間での計算が都合のよい部分との2つに分けて別々に計算を行い、これら2つの計算結果の和が求めるべき答となる。 格子点 l {\displaystyle {\boldsymbol {l}}} におかれたイオンの作る静電ポテンシャル φ ( r ) {\displaystyle \phi ({\boldsymbol {r}})} を例にとって説明する。 φ ( r ) {\displaystyle \phi ({\boldsymbol {r}})} は係数を省略すれば次の式で書ける。 静電ポテンシャル φ ( r ) {\displaystyle \phi ({\boldsymbol {r}})} を、関数 f ( r ) {\displaystyle f({\boldsymbol {r}})} を用いて、次のように分割する。 ここで、 f ( r ) {\displaystyle f({\boldsymbol {r}})} として短距離で0に収束する関数をうまく選び、第1項の和が実空間で短距離で0に収束し、第2項の和が逆格子空間で短距離で0に収束すると計算上都合がよい。 実際には、 f ( r ) {\displaystyle f({\boldsymbol {r}})} として相補誤差関数 erfc がよく使われる。Gを任意の定数として f ( r ) = erfc ( G | r − l | ) {\displaystyle f({\boldsymbol {r}})=\operatorname {erfc} (G\left|{\boldsymbol {r}}-{\boldsymbol {l}}\right|)} を、 1 − f ( r ) {\displaystyle 1-f({\boldsymbol {r}})} は誤差関数の定義式を代入すると 第2項で t = | r − l | ρ {\displaystyle t=\left|{\boldsymbol {r}}-{\boldsymbol {l}}\right|\rho } とおいて変数変換する。 第2項の被積分関数は、格子の周期を持つ r {\displaystyle {\boldsymbol {r}}} の関数であるから、フーリエ級数に展開できる。単位格子の体積を v c e l l {\displaystyle v_{\mathrm {cell} }} とおくと、次のように第2項を展開できる。 よって、 erfc ( x ) {\displaystyle \operatorname {erfc} (x)} や e − x {\displaystyle e^{-x}} といった、 x {\displaystyle x} について速やかに0に収束する関数が現れる形に変形することができた。 後は、各項がそれぞれ l {\displaystyle {\boldsymbol {l}}} と g {\displaystyle {\boldsymbol {g}}} に対して速く収束するように適当なGの値を選べば効率よく計算できる。 エバルト法は、計算機の出現よりずっと以前に、理論物理学における手法として開発された。しかしながら、エバルト法は1970年代以降、粒子系のコンピュータシミュレーション、特に重力や静電気学といった逆2乗力を介して相互作用する粒子系において広範に使用されている。最近、PME法は打ち切りによるアーティファクトを除去するためにレナード-ジョーンズ・ポテンシャルの r − 6 {\displaystyle r^{-6}} 部分の計算にも使用されている。PME法はプラズマ、銀河、分子のシミュレーションに応用されている。 粒子・メッシュ法では、標準のエバルト和と同じく、包括的相互作用ポテンシャルが2つの項へと分離される。 粒子・メッシュ・エバルト和の基本的考えは、点粒子間の相互作用エネルギーの直接和 を実空間における短距離ポテンシャルの直接和 E s r {\displaystyle E_{\mathrm {sr} }} (すなわち粒子・メッシュ・エバルトの粒子部分) と長距離部分のフーリエ空間における和 へと置き換えることである。 Φ ~ l r {\displaystyle {\tilde {\Phi }}_{\ell r}} および ρ ~ ( k ) {\displaystyle {\tilde {\rho }}({\boldsymbol {k}})} はポテンシャルおよび電荷密度のフーリエ変換を表す(すなわちエバルト部分)。どちらの和もそれぞれの空間(実空間ならびにフーリエ空間)において素早く収束するため、精度の損失がほとんどなく打ち切ることができ、必要な計算時間を大きく改善することができる。電荷密度場のフーリエ変換 ρ ~ ( k ) {\displaystyle {\tilde {\rho }}({\boldsymbol {k}})} を効率的に評価するため、高速フーリエ変換が用いられる。高速フーリエ変換では、密度場は空間中の離散格子(すなわちメッシュ部分)上で評価される必要がある。 エバルト和はポテンシャルの周期性を仮定する。PME法の物理系への適用にあたり,ポテンシャルの周期的な対称性が必要となる。そのため,この手法は空間的に無限に広がる系(バルク固体など)のシミュレーションに適している。分子動力学シミュレーションでは、これは電荷が中性の単位セルを無限に並べることによって通常達成される。しかしながら、この近似の効果を適切に説明するために、無限に続くセルは元のシミュレーションセルへと再取り込みされる。これは周期的境界条件と呼ばれる。 密度場のメッシュへの制限は、密度の変動が「滑らか」な系(連続ポテンシャル関数を持つ系)についてPME法をより効率的にしている。局在した系、または密度の揺らぎが大きな系については、GreengardとRokhlinの高速多重極法(英語版)を用いてより効率的に扱うことができる。
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エバルトの方法は、分子動力学法、量子化学的手法、バンド計算手法などで、単位胞(またはスーパーセル)内の原子核(またはイオン芯)同士のクーロン相互作用を効率良く計算する手法である。 実空間と逆格子空間のどちらでも発散してしまうクーロン相互作用を、実空間での計算が都合のよい部分と、逆格子空間での計算が都合のよい部分との2つに分けて別々に計算を行い、これら2つの計算結果の和が求めるべき答となる。
{{出典の明記|date=2015年9月}} '''エバルトの方法'''(エバルトのほうほう、{{lang-en-short|Ewald method}})は、[[分子動力学法]]、[[量子化学的手法]]、[[バンド計算]]手法などで、[[単位胞]](または[[スーパーセル法|スーパーセル]])内の[[原子核]](または[[イオン芯]])同士の[[クーロン相互作用]]を効率良く計算する手法である。 [[実空間]]と[[逆格子空間]]のどちらでも発散してしまうクーロン相互作用を、実空間での計算が都合のよい部分と、逆格子空間での計算が都合のよい部分との2つに分けて別々に計算を行い、これら2つの計算結果の和が求めるべき答となる。 ==具体例== 格子点<math>\boldsymbol{l}</math>におかれたイオンの作る静電ポテンシャル<math>\phi(\boldsymbol{r})</math>を例にとって説明する。<math>\phi(\boldsymbol{r})</math>は[[係数]]を省略すれば次の式で書ける。 :<math>\phi(\boldsymbol{r}) = \sum_{\boldsymbol{l}} \frac{1}{\left|\boldsymbol{r}-\boldsymbol{l}\right|}</math> 静電ポテンシャル<math>\phi(\boldsymbol{r})</math>を、関数<math>f(\boldsymbol{r})</math>を用いて、次のように分割する。 :<math>\phi(\boldsymbol{r}) = \sum_{\boldsymbol{l}} \frac{f(\boldsymbol{r})}{\left|\boldsymbol{r}-\boldsymbol{l}\right|} + \sum_{\boldsymbol{l}} \frac{1-f(\boldsymbol{r})}{\left|\boldsymbol{r}-\boldsymbol{l}\right|}</math> ここで、<math>f(\boldsymbol{r})</math>として短距離で0に[[収束]]する関数をうまく選び、第1項の和が実空間で短距離で0に収束し、第2項の和が逆格子空間で短距離で0に収束すると計算上都合がよい。 実際には、<math>f(\boldsymbol{r})</math>として[[相補誤差関数]] erfc がよく使われる。''G''を任意の定数として<math>f(\boldsymbol{r})=\operatorname{erfc}(G\left|\boldsymbol{r}-\boldsymbol{l}\right|)</math>を、<math>1-f(\boldsymbol{r})</math>は[[誤差関数]]の定義式を代入すると :<math>\phi(\boldsymbol{r}) = \sum_{\boldsymbol{l}} \frac{1}{\left|\boldsymbol{r}-\boldsymbol{l}\right|}\operatorname{erfc}(G\left|\boldsymbol{r}-\boldsymbol{l}\right|) + \sum_{\boldsymbol{l}} \frac{1}{\left|\boldsymbol{r}-\boldsymbol{l}\right|}\frac{2}{\sqrt{\pi}}\int_0^{G\left|\boldsymbol{r}-\boldsymbol{l}\right|} e^{-t^2}\,\mathrm dt</math> 第2項で<math>t=\left|\boldsymbol{r}-\boldsymbol{l}\right|\rho</math>とおいて変数変換する。 :<math>\phi(\boldsymbol{r}) = \sum_{\boldsymbol{l}} \frac{1}{\left|\boldsymbol{r}-\boldsymbol{l}\right|}\operatorname{erfc}(G\left|\boldsymbol{r}-\boldsymbol{l}\right|) + \int_0^G \sum_{\boldsymbol{l}} \frac{2}{\sqrt{\pi}} \exp(-|\boldsymbol{r}-\boldsymbol{l}|^2\rho^2) \,\mathrm d\rho </math> 第2項の被積分関数は、格子の周期を持つ<math>\boldsymbol{r}</math>の関数であるから、[[フーリエ級数]]に展開できる。単位格子の体積を<math>v_{\mathrm{cell}}</math>とおくと、次のように第2項を展開できる。 :<math>\begin{align} \phi(\boldsymbol{r}) & = \sum_{\boldsymbol{l}} \frac{1}{\left|\boldsymbol{r}-\boldsymbol{l}\right|}\operatorname{erfc}(G\left|\boldsymbol{r}-\boldsymbol{l}\right|) + \int_0^G \sum_{\boldsymbol{g}} \frac{2\pi}{v_{\mathrm{cell}}} \frac{1}{\rho^3} \exp(-|\boldsymbol{g}|^2/4\rho^2) \exp(i\boldsymbol{g}\cdot\boldsymbol{r}) \,\mathrm d\rho \\ & = \sum_{\boldsymbol{l}} \frac{1}{\left|\boldsymbol{r}-\boldsymbol{l}\right|}\operatorname{erfc}(G\left|\boldsymbol{r}-\boldsymbol{l}\right|) + \frac{4\pi}{v_{\mathrm{cell}}} \sum_{\boldsymbol{g}} \frac{\exp(-\left|\boldsymbol{g}\right|^2/4G^2)}{|\boldsymbol{g}|^2} \exp(i\boldsymbol{g}\cdot\boldsymbol{r}) \end{align} </math> よって、<math>\operatorname{erfc}(x)</math>や<math>e^{-x}</math>といった、<math>x</math>について速やかに0に収束する関数が現れる形に変形することができた。 後は、各項がそれぞれ<math>\boldsymbol{l}</math>と<math>\boldsymbol{g}</math>に対して速く収束するように適当なGの値を選べば効率よく計算できる。 ==粒子・メッシュ・エバルト (PME) 法== エバルト法は、[[計算機]]の出現よりずっと以前に、[[理論物理学]]における手法として開発された。しかしながら、エバルト法は1970年代以降、粒子系の{{仮リンク|コンピュータシミュレーション|en|Computer simulation}}、特に[[重力]]や[[静電気学]]といった[[逆2乗の法則|逆2乗]]力を介して相互作用する粒子系において広範に使用されている。最近、PME法は打ち切りによるアーティファクトを除去するために[[レナード-ジョーンズ・ポテンシャル]]の<math>r^{-6}</math>部分の計算にも使用されている<ref>{{Citation |last=Di Pierro |first=M. |last2=Elber |first2=R. | last3=Leimkuhler |first3=B. | title=A Stochastic Algorithm for the Isobaric-Isothermal Ensemble with Ewald Summations for all Long Range Forces. | journal=[[Journal of Chemical Theory and Computation]] | year=2015| doi=10.1021/acs.jctc.5b00648}}.</ref>。PME法は[[プラズマ]]、[[銀河]]、[[分子]]のシミュレーションに応用されている。 [[粒子・メッシュ法]]では、標準のエバルト和と同じく、包括的相互作用ポテンシャルが2つの項へと分離される。 :<math>\varphi(\boldsymbol{r}) \ \stackrel{\mathrm{def}}{=}\ \varphi_{\mathrm{sr}}(\boldsymbol{r}) + \varphi_{\mathrm{lr}}(\boldsymbol{r})</math>. 粒子・メッシュ・エバルト和の基本的考えは、点粒子間の相互作用エネルギーの直接和 :<math> E_\text{TOT} = \sum_{i,j} \varphi(\boldsymbol{r}_{j} - \boldsymbol{r}_i) = E_{\mathrm{sr}} + E_{\mathrm{lr}} </math> を実空間における短距離ポテンシャルの直接和<math>E_{\mathrm{sr}}</math>(すなわち'''粒子・メッシュ・エバルト'''の'''粒子'''部分) :<math> E_{\mathrm{sr}} = \sum_{i,j} \varphi_{\mathrm{sr}}(\boldsymbol{r}_j - \boldsymbol{r}_i) </math> と長距離部分のフーリエ空間における和 :<math> E_{\mathrm{lr}} = \sum_{\boldsymbol{k}} \tilde{\Phi}_{\mathrm{lr}}(\boldsymbol{k}) \left| \tilde{\rho}(\boldsymbol{k}) \right|^2 </math> へと置き換えることである。<math>\tilde{\Phi}_{\ell r}</math>および<math>\tilde{\rho}(\boldsymbol{k})</math>は[[ポテンシャル]]および[[電荷密度]]のフーリエ変換を表す(すなわち'''エバルト'''部分)。どちらの和もそれぞれの空間(実空間ならびにフーリエ空間)において素早く収束するため、精度の損失がほとんどなく打ち切ることができ、必要な計算時間を大きく改善することができる。電荷密度場のフーリエ変換<math>\tilde{\rho}(\boldsymbol{k})</math>を効率的に評価するため、[[高速フーリエ変換]]が用いられる。高速フーリエ変換では、密度場は空間中の離散格子(すなわち'''メッシュ'''部分)上で評価される必要がある。 エバルト和はポテンシャルの周期性を仮定する。PME法の物理系への適用にあたり,ポテンシャルの周期的な対称性が必要となる。そのため,この手法は空間的に無限に広がる系(バルク固体など)のシミュレーションに適している。[[分子動力学]]シミュレーションでは、これは電荷が中性の単位セルを無限に並べることによって通常達成される。しかしながら、この近似の効果を適切に説明するために、無限に続くセルは元のシミュレーションセルへと再取り込みされる。これは[[周期的境界条件]]と呼ばれる。 密度場のメッシュへの制限は、密度の変動が「滑らか」な系(連続ポテンシャル関数を持つ系)についてPME法をより効率的にしている。局在した系、または密度の揺らぎが大きな系については、GreengardとRokhlinの{{仮リンク|高速多重極法|en|Fast multipole method}}を用いてより効率的に扱うことができる。 == 脚注 == {{reflist}} ==関連項目== *[[エバルト項]] *[[マーデルングエネルギー]] *[[計算物理]] *[[第一原理バンド計算]] {{DEFAULTSORT:えはるとのほうほう}} [[Category:固体物理学]] [[Category:計算物理学]] [[Category:理論化学]]
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直交化
直交化(ちょっこうか)とは、線型空間上にあるベクトルの組から、互いに直交するベクトルの組を生成することである。 通常のバンド計算では、行列要素の対角化を行い、固有値(固有エネルギー)及び固有ベクトルを求める。この時、異なる固有値に属する固有ベクトルは互いに直交していなければならない。通常の対角化手法(対角化ルーチン)を用いた場合、対角化ルーチンの内部で直交性を満たすように計算がされている。しかし、カー・パリネロ法のように通常の対角化手法を用いないバンド計算では、この固有ベクトル同士の直交性を満たすことが必要となり,通常はグラムシュミットの直交化による方法が使われる。他の直交化手法として、Löwdinの直交化(レフディンの直交化)がある(カー・パリネロ法では、あまり使われない)。 一方、扱う系が大きくなると直交化には多くの計算量が必要となるので、直交化の計算を行わないバンド計算手法も提案されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "直交化(ちょっこうか)とは、線型空間上にあるベクトルの組から、互いに直交するベクトルの組を生成することである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "通常のバンド計算では、行列要素の対角化を行い、固有値(固有エネルギー)及び固有ベクトルを求める。この時、異なる固有値に属する固有ベクトルは互いに直交していなければならない。通常の対角化手法(対角化ルーチン)を用いた場合、対角化ルーチンの内部で直交性を満たすように計算がされている。しかし、カー・パリネロ法のように通常の対角化手法を用いないバンド計算では、この固有ベクトル同士の直交性を満たすことが必要となり,通常はグラムシュミットの直交化による方法が使われる。他の直交化手法として、Löwdinの直交化(レフディンの直交化)がある(カー・パリネロ法では、あまり使われない)。", "title": "第一原理バンド計算における直交化" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "一方、扱う系が大きくなると直交化には多くの計算量が必要となるので、直交化の計算を行わないバンド計算手法も提案されている。", "title": "第一原理バンド計算における直交化" } ]
直交化(ちょっこうか)とは、線型空間上にあるベクトルの組から、互いに直交するベクトルの組を生成することである。
'''直交化'''(ちょっこうか)とは、[[線型空間]]上にあるベクトルの組から、互いに[[直交]]するベクトルの組を生成することである。 ==手法== *[[グラム・シュミットの正規直交化法]] ==第一原理バンド計算における直交化== 通常の[[バンド計算]]では、[[行列要素]]の[[対角化]]を行い、[[固有値]](固有エネルギー)及び[[固有ベクトル]]を求める。この時、異なる固有値に属する固有ベクトルは互いに[[直交]]していなければならない。通常の[[対角化]]手法(対角化ルーチン)を用いた場合、対角化ルーチンの内部で直交性を満たすように計算がされている。しかし、[[カー・パリネロ法]]のように通常の対角化手法を用いないバンド計算では、この固有ベクトル同士の直交性を満たすことが必要となり,通常はグラムシュミットの直交化による方法が使われる。他の直交化手法として、Löwdinの直交化([[レフディンの直交化]])がある(カー・パリネロ法では、あまり使われない)。 一方、扱う系が大きくなると直交化には多くの計算量が必要となるので、直交化の計算を行わない[[バンド計算]]手法も提案されている<ref>F. Mauri, G. Galli and R. Car, Phys. Rev. B'''47''' (1993) 9973.</ref><ref>F. Mauri and G. Galli, Phys. Rev. B'''50''' (1994) 4316.</ref>。 == 参考文献 == {{reflist}} == 関連項目 == *[[カー・パリネロ法]] *[[第一原理バンド計算]] {{DEFAULTSORT:ちよつこうか}} [[Category:線型代数学]] [[Category:数値線形代数]] [[Category:バンド計算]] [[Category:数学に関する記事]]
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スレッド
スレッド (Thread,Sled) 本項では複数形になるものも扱う。
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'''スレッド (Thread,Sled)''' 本項では複数形になるものも扱う。 {{wiktionary}} == Thread == * {{Lang-en|thread}} - 原義は縒り糸を構成している[[糸]]のうちの一本や、筋状の物体のうちの一本の筋などを意味する英語[[:en:Thread (yarn)|thread]]である。ここから派生し、同時進行する事象のうちの一つをあらわすようになった。 ** [[スレッド (コンピュータ)]] - [[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]の実行における[[プロセス]]よりも細かい並行処理の実行単位。 **[[スレッデッドコード]] - [[プログラミング言語処理系]]におけるコード生成手法のひとつ。 ** [[ハードウェアマルチスレッディング]]におけるスレッド - [[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]・[[仮想記憶]]等の資源の割当対象であり[[プロセッサ]]内に実装される事が前条と異なる。 ** {{ill2|トピックスレッド|en|Conversation threading}} - [[電子掲示板]](特に[[スレッドフロート型掲示板]])や[[メーリングリスト]]における、ある特定の話題に関する投稿の集まり。ある話題について初めに投稿をすることを「スレッドを立てる」といい、その投稿に関する返信や、その返信に対する返信を行うことでスレッドが形成される。掲示板によっては、トピックとも呼ばれる<ref>[[mixi]]や[[GREE]]などの[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス]]などの、'''コミュニティー'''と呼ばれるものの中の話題が一例。</ref>。 ** [[スレッド (雑誌)]] - [[晋遊舎]]が[[2007年]][[7月30日]]に創刊し同9月で休刊となった[[雑誌]]。 ** [[ザ・スレッド]] - 糸のような細いひも状のものを結んだだけの大胆な型の女性用[[水着]]。アメリカのファッション誌である[[WWD]](Women's Wear Daily/ウィメンズ・ウェア・デイリー)が命名した<ref>{{Cite book|和書|author=文化出版局(編)|date=1999-03-31|title=ファッション辞典|publisher=[[文化出版局]]|editor=大沼淳、荻村昭典、深井晃子(監修)|volume=第1刷|page=60|ref=harv}}</ref>。 ** [[ねじ]]山([[:en:Screw thread|en]])、およびねじ山をもつ部品 - external thread(おねじ)、internal thread(めねじ)など。 ** [[Thread (ネットワークプロトコル)]] - Google傘下のNest Labsが主導する、スマートホームの通信規格。 * Threads(複数形) ** [[Threads]] - [[Meta (企業)|Meta]]が運営する[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス]]の一つ。 ** Threads - [[サラ・ハーディング]]が[[2015年]]に発表した[[コンパクト盤|EP]]及び同EPに収録されている楽曲。 ** [[スレッズ (シェリル・クロウのアルバム)]] - [[シェリル・クロウ]]が2019年に発表した[[スタジオ・アルバム]]。 ** [[SF核戦争後の未来・スレッズ]] - [[英国放送協会]]が[[1984年]]に放送した[[テレビ映画]]。 == sled == * {{Lang-en|sled}} ** 雪上で用いる[[ソリ]]。日本でスレッドと呼ぶのは、特に競技用のものが多い。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> {{Aimai}} {{デフォルトソート:すれつと}} [[Category:英語の語句]]
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三浦知良
三浦 知良(みうら かずよし、1967年〈昭和42年〉2月26日 - )は、静岡県静岡市葵区出身のプロサッカー選手。リーガ・ポルトガル2・UDオリヴェイレンセ所属。ポジションはフォワード。元日本代表。元フットサル日本代表。Jリーグ開幕以来現役を続けている唯一の選手である。ポルトガルリーグ最年長出場記録保持者(56歳)。 Jリーグ史上最高齢の54歳でJ1リーグでプレーした経験を持つ。 日本代表としてもFIFAワールドカップ初出場に貢献。ワールドカップ地区予選では総得点を27点記録するも、ワールドカップ本大会へは未出場。Jリーグ年間最優秀選手賞1回、得点王1回、ベストイレブンを2回受賞、1993年にアジア年間最優秀選手賞を受賞。釜本邦茂と共に、国際Aマッチ1試合で6得点の日本代表1試合最多得点記録、通算得点記録(55得点)を持つ(2011年時点)。 2012年にはフットサル日本代表としてフットサルワールドカップに出場した。 妻はタレント・ファッションモデルの三浦りさ子、長男は俳優の三浦獠太、次男は格闘家の三浦孝太、いとこにサッカー選手の納谷伊織、親戚にビームス社長の設楽洋がいる他、俳優でDISH//のメンバーの北村匠海は24親等にあたる。 1967年(昭和42年)2月26日、父・納谷宣雄、母・由子の次男(長男は三浦泰年)として静岡県静岡市に生まれた。母方の叔父はサッカー指導者の三浦哲治。知良(かずよし)という変わった読み方の名前は、父方の祖父に付けられたものだという。1973年4月、静岡市立城内小学校に入学。小学時代には、父方の伯父・納谷義郎が監督を務める城内FCに入っていた。小学校4年生の時に両親が離婚。三浦姓を名乗るようになった。 1982年12月、私立静岡学園高校を1学年修了を待たずに8カ月で中退。ブラジルに単身で渡航し、CAジュベントスに所属。当時の三浦は身長が低く、テクニックは持っていたものの他に一流と呼べるような強みはなく、指導者達はブラジルでプロのサッカー選手になりたいという三浦の夢は実現不可能だと考えていた。1984年の秋頃、ジュベントスからECキンゼ・デ・ノヴェンブロ(通称:キンゼ・デ・ジャウー)へ移籍した。 1985年頃には夢を諦めた上で日本に帰国することも一時検討したが最終的に翻意し、ブラジルでの下積みを継続した。後に本人が語ったところによれば、ふと寄ったリオの公園で現地の貧しい少年達がサッカーをしている様子を見かけたことが、帰国を思い止まる切っ掛けを作ったという。三浦曰く、その少年達の中には裸足の子や片足がない子もおり、ボールも古く汚いものだったが、皆楽しそうにボールを追っており、その様子を見て、「自分には両足も、スパイクも、いいボールもある。何を俺は贅沢なことを言っているんだ」と思い、帰国を思いとどまったとのことである。同年8月、SBSユースに出場したキンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋し、当時静岡高校選抜に選出されていた中山雅史、武田修宏らと試合を行った。1986年1月には、サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ (U-21) に日本人として初出場した。同大会やキンゼ・デ・ジャウーの育成組織で活躍したことが、後のプロ契約に繋がっていった。 1986年2月、サンパウロ州のクラブであるサントスFCと自身初のプロ契約を結んだ。チームメイトであったドゥンガからは4月9日ジュベントスデビュー戦でのプレーを叱責された。5月にはSEパルメイラスと特別契約を結び日本でのキリンカップでプロサッカー選手として帰国を果たし、ヴェルダー・ブレーメン戦では、後に選手と会長という間柄になる奥寺康彦と数度に渡り激しくマッチアップ、またミランジーニャのゴールをアシストした。 サントスFCで出場できたのは1部リーグ2試合のみに留まり、1986年10月にはパラナ州のSEマツバラへレンタル移籍。翌1987年の2月にはマツバラと正式契約を結ぶと、レギュラーとして南部三州リーグ優勝に貢献し、同年10月にアラゴアス州のクルーベ・ジ・レガタス・ブラジル(通称:CRB)に移籍した。このクラブでも三浦はレギュラーとして活躍し、日本人で初めてブラジル全国選手権への出場を果たした。またこの時「日本のガリンシャ」とも呼ばれ注目された。 1988年、かつてユース時代に所属したサンパウロ州のキンゼ・デ・ジャウーへ移籍。同年3月19日、SCコリンチャンス・パウリスタ戦で日本人としてリーグ戦で初得点を記録し、格上の人気チーム相手に3-2で勝利するという番狂わせ(いわゆるジャイアント・キリング)の立役者の一人。このときの試合はブラジル全土にテレビ中継されていたため、「三浦知良」という日本人の名前がブラジル全土に知られるきっかけとなった。同年にブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の年間ポジション別ランキングで左ウイングの第3位に選ばれた。クラブでの活躍により、三浦はジャウー市から名誉市民賞を贈られている。 1989年2月、エドゥーが監督を務めていた、パラナ州のコリチーバFCへ移籍、チームの中心選手として、パラナ州選手権優勝に貢献した。好調を維持していたこの頃、チーム名は明かされなかったが、40万ドルでイタリアリーグのチームへの移籍の話が出た(三浦は後に記者から、ブラジルの選手を多くイタリアリーグに送り込んでいたスカウトマンが、当時セリエAのコモへの移籍を進めていたという話を聞かされた。)。7月にはブラジルにやってきた日本代表と対戦した。 1990年2月、4年ぶりに古巣・サントスFCへ復帰。サントス在籍時代にマツバラにレンタルされたとき以来、もう一度サントスでプレーして自分の力を証明したいと思っていたこともあり、三浦はサントスへの移籍に際し、他のチームからの移籍の誘いを断り、サントスと交渉した。移籍後にレギュラーの地位を確保すると同年4月29日のパルメイラス戦では1得点1アシストと活躍し、チームも2-1で勝利。翌日のブラジルの新聞はスポーツ紙・一般紙を問わず同試合での三浦の活躍を伝え、この試合の三浦のゴールシーンはブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の表紙を飾った。 1990年7月、Jリーグ発足が現実味を増す中、日本代表のW杯出場権獲得に貢献するためにブラジルに残ることよりも代表選考の対象となりやすい日本でプレーすることを決断し、日本サッカーリーグの読売サッカークラブ(ヴェルディ川崎 = 現:東京ヴェルディの前身)へ移籍。当初、周囲の期待とは裏腹に日本のサッカーになじめずなかなか日本サッカーリーグのリーグ戦では活躍できなかったが、時間の経過とともに徐々に順応を見せた。1990年10月28日のNKK戦でリーグ戦デビューを果たすと、PKで初ゴールを決めただけでなく、3つのアシストを決め、全得点に絡む活躍で4-0で勝利、このシーズンはリーグ優勝に貢献して、リーグのベストイレブンにも選出された。1991年3月10日、ヤマハ発動機戦では、三浦泰年のゴールをアシスト、弟から兄へのアシストは高校時代以来であった。1992年4月12日のゼロックスチャンピオンズカップ決勝のトヨタ自動車戦では1ゴールを決めて優勝に貢献した。1992年のJリーグカップでは9月19日のガンバ大阪戦でリーグカップ史上初めてとなるハットトリックを決めると、準決勝の鹿島アントラーズ戦で決勝ゴールを決め、決勝の清水エスパルス戦でも決勝ゴールを決めるなど、ヴェルディを優勝に導き、大会MVPにも選出された。この活躍が評価され、三浦は1992年の日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞した。この年、地元であるエスパルスからのオファーを受け、移籍に前向きな姿勢を示していたが、ヴェルディに残留した。 Jリーグの開幕年となった1993年シーズンのリーグ戦の第1ステージ、5月26日5節の鹿島アントラーズ戦でJリーグ初ゴールを決めたが、クラブ内の内紛(欧州路線)や日本代表の過密スケジュールの影響を受け18試合5ゴールという成績に終わった。第2ステージからビスマルクが加入。7月17日神戸ユニバー記念競技場で行われたJリーグオールスターサッカーでは2得点を決める活躍を見せ、大会MVPに選出された。その後は調子を取り戻し、自身の結婚式の前日の試合となった7月31日博多の森陸上競技場での第2ステージ第2節ガンバ大阪戦からは6試合連続で得点を記録した。12月8日17節浦和レッズ戦ではJリーグでの初ハットトリックを決め、ニコスシリーズ18試合で15ゴールを挙げ、チャンピオンシップの鹿島アントラーズ戦では第1戦、2戦共にゴールを決め、年間優勝に貢献するなど、シーズンを通して日本人選手ではリーグ内でトップとなる20得点を決める活躍を見せた。この活躍が評価され、第1回のMVPを受賞した他、前年に続き、1993年の日本年間最優秀選手賞に輝き、1993年のアジア年間最優秀選手賞をも受賞した。また1993年12月にはACミラン主催のチャリティーマッチに招待され、世界選抜のメンバーとして先発出場(この様なチャリティーマッチへの日本人選手の出場は、これまで釜本邦茂、奥寺康彦のみであった。)50分間プレー、サイドからのクロスでウーゴ・サンチェスの得点をアシストした。前日には世界選抜に選ばれたメンバーの中で唯一、ACミランの練習に参加した。またこの時、セリエA関係者からの興味が伝えられ、イタリアのマスコミから取材を受けるなど注目を集めた。 1994年には移籍を認めたくなかった渡辺恒雄から、1年間のレンタルということでようやく了承を得て、1994-95シーズン、イタリア・セリエAのジェノアCFCへ期限付移籍し、アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。この移籍にはジェノアの会長アルド・スピネッリがプレーぶりを見て魅力を感じたこと、そして商業的な価値を期待してのもので、ジェノアのユニフォームの広告権をケンウッドが獲得したこともあって、加入会見では「スポンサーを得るために獲得したと言われているが、どう思うか?」などと辛辣な質問も浴びせられた。 プレシーズンマッチの地中海カップでは、パナシナイコスFCとACミラン相手に好プレーを見せ、コパ・イタリア2回戦のチェゼーナ戦で先発出場して公式戦デビュー、サンシーロで行われた、ACミランとのセリエA開幕戦において先発出場し、セリエAデビュー、前半途中にバレージとプレー中に激突し、鼻骨骨折と眼窩系神経を損傷してしまい、一ヶ月の戦線離脱を余儀なくされた。 復帰後、第12節のサンプドリアとのジェノヴァダービーで先発出場、マニコーネの浮き球からスクラビーがヘディングで落としたボールを右足アウトサイドでゴール隅に決め、セリエA4試合目の出場で初ゴールとなる、先制ゴールを奪ったが、これがジェノアでの唯一の得点となった。16節のパドヴァとの対戦では、サイド突破からマニコーネの決勝点のアシストをした。第31節のユベントス戦では65分から途中出場したが、退場者が出て10人での戦いを強いられたこともあり、シュートすら打てずに試合終了、代表戦の為、残りの試合とセリエB降格プレーオフには出場せず帰国、また1994年10月にはアジア大会への出場のために帰国したことや(セリエA3試合、コパ・イタリアを欠場。)、度重なる監督交代も影響して、21試合出場(先発10試合)、第19節のフィオレンティーナ戦でのループシュートはクロスバーに当たり得点ならず、また自身の誕生日に出場したナポリ戦など数回のゴールがオフサイドで取り消されたことなどもあり、シーズン1ゴールのみに終わった。その後、トリノFC、スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガルといったチームからオファーが来ていたが、シーズン終了後にはヴェルディ川崎へ復帰することとなった。ジェノア在籍時にはジェノヴァの名前を日本に広めたことで、市から特別表彰を受けた。3度の監督交代など様々な事情もあり、成功は収められなかったが、これまでイタリア人がもっていた日本のサッカーとサッカー選手に対しての概念を変えさせ、その後の日本人選手たちのセリエA入りの扉を開いた。シーズン終了後、ジェノアCFCの一員として、横浜スタジアムで行われた、ヴェルディ川崎との親善試合に出場、この試合を最後にジェノアを離れ、ヴェルディへ復帰した。また在籍時の1994年12月にはASローマ対世界選抜の試合に先発出場、裏に抜け出し洪明甫のスルーパスからシュートを放つが、シュートはGK正面に飛び得点は奪えなかった。 その後、三浦はJリーグの1995年シーズン第2ステージから古巣・ヴェルディ川崎に復帰。復帰初戦、8月12日ベルマーレ平塚戦で2ゴールを決めると、9月2日、6節鹿島アントラーズ戦、9月13日、9節横浜フリューゲルス戦でハットトリックを決めるなど、26試合で23ゴールを挙げ、第2ステージのみの出場にもかかわらず得点ランキングの上位に名を連ねた。 1996年のJリーグは初の一シーズン制となったシーズンとなったが、ヴェルディ川崎は7位に沈んだものの、11月6日のジェフユナイテッド市原戦でハットトリックを決めるなど、三浦自身はリーグ得点王になる活躍を続け、第76回天皇杯全日本サッカー選手権大会制覇にも貢献した。また1996年にはFIFAの世界選抜に選出され、ブラジル戦に先発出場した。この年、当時ラ・リーガ1部のCDログロニェスからオファーを受け、ミゲル・アンヘル・ロティーナ監督とも移籍に向けた話し合いをしていたが、年俸などの条件が合わず、移籍は実現しなかった。 30歳となった1997年シーズン頃から衰えを見せ始めた。この年あたりから以前のようなキレが徐々になくなり、怪我も多くなっていたが、追い討ちをかけてW杯最終予選の韓国戦での崔英一からのラフプレーで尾てい骨を痛めてコンディションを大きく落とす。その怪我の影響から、同年の試合出場数は全試合数の半数に満たない14試合にとどまり、得点数は4点。ヴェルディ川崎も初の二桁順位と、三浦個人・チームともに振るわぬ成績に終わった。 1998年シーズン、新加入のエウレルと高木琢也のツートップを採用したことからMFとしてプレーした。ファーストステージこそ終盤まで優勝争ったが、セカンドステージではベンチスタートになることも増え、1ゴールを挙げたのみに終わった。チームも18チーム中17位と低迷した。年末にV川崎は親会社である読売新聞の事業撤退で大幅な経営縮小のため、高年俸のベテラン選手達のリストラを敢行し、三浦に対しても年俸ゼロ円提示がなされた。 三浦は、2年契約でクロアチアのクラブチーム、クロアチア・ザグレブ(現GNKディナモ・ザグレブ)へ移籍。これはクロアチア・ザグレブに大きな影響力を持った当時のクロアチア大統領フラニョ・トゥジマンの意向が働いたものとされており、戦力としての評価よりも背後のジャパン・マネーを狙った経済的な期待が大きかった。この時チームメートになったゴラン・ユーリッチのサッカーへの取り組み方や考えに影響を受けた。カズはデビュー戦となったムラードスト127戦ではアシストを決めるも、PKを失敗した。5月23日のオシエク戦では退場処分を受けた。ザグレブはクロアチア・リーグで優勝を果たした。シーズン終了後、新たに就任した日本でも監督経験のあるオズワルド・アルディレス監督に戦力外とされ、本人が熱望していたUEFAチャンピオンズリーグへの日本人初出場はかなわず、1999年6月、契約よりも1年早く日本に帰国。1999年5月にはマルセイユで行われた、ジャン・ピエール・パパンの引退試合に招待され、フランス代表と対戦、得点はなかったが、クロスバー直撃のシュートを放った。 1999年7月、イングランド、スコットランドなどのクラブとの交渉がまとまらず、当時元日本代表監督の加茂周監督からの熱心な誘いを受け、京都パープルサンガへ移籍。中村忠と再び同僚となった。加茂監督は「カズはある時期を境に全く得点を挙げられなくなった。何度も話し合いをして原因を究明しようとしたが、解らず仕舞いであった。サンガではストライカーへの原点回帰をさせ、全盛期のカズ程まではいかなくても、ストライカーとして復活出来る様に何とか手助けしたい。」と話していた。復帰初戦のヴィッセル神戸戦で2ゴールを決めた。その後8試合無得点が続いたが、最終節を前にした磐田戦と最終節のC大阪戦でゴールを決めてシーズンを終えた。 2000年は、5月13日の対神戸戦でJリーグ通算100得点を達成、この試合で101点目となる決勝ゴールも決めた。11月23日の古巣ヴェルディ川崎戦でハットトリックを決めるなど、33歳ながら17得点を記録し得点ランキング3位に入るなど活躍する。しかしこのシーズン、京都はJ2へ降格し、自身2回目であるゼロ円提示を受ける。 2001年からは永島昭浩が現役を引退した直後のヴィッセル神戸に所属し、4年間キャプテンとしてチームの最前線に立った。2節のFC東京戦で移籍後初得点を挙げる。11月24日神戸ウイングスタジアムのこけら落としとなった横浜F・マリノス戦では、巧みなトラップで相手DFをかわし、自身を代表するゴールの一つとなるゴールを決めるなど、セカンドステージのラスト4試合でいずれもゴールを挙げ、シーズン11ゴールと健在ぶりを示した。 2002年は代表でもプレーした城彰二や兵庫県出身でもある播戸竜二が加入。2002年1stステージ第3節ガンバ大阪戦では久々にカズダンスを披露した。しかしこのころからフル出場する試合が徐々に減り始める。2ndステージでは臀部の怪我のため長期離脱し、ほとんど出場機会を得られなかった。 2003年はオゼアス・播戸竜二の2トップのバックアッパー的な役割を担うことが多くなり、ベンチスタートとなる試合が増えた。1stステージ8節でシーズン初得点を挙げ、新本拠地での初勝利に貢献した。2ndステージ終盤の残留争いの最中、オゼアスを出場停止で欠き久々にスタメンがめぐってきた鹿島戦では相手ゴール前で素早いターンからこの試合の先制点を決め、ホームでの3か月ぶりの勝利に大きく貢献した。 2004年、1stステージの第11節のガンバ大阪戦でのゴールで、11年連続ゴールを記録。2ndステージに入りエムボマ、平瀬智行らが加入し、ポジション争いは激化。チームは残留争いに巻き込まれたが、シーズン終盤にスタメンを奪取し12節から14節まで3試合連続ゴールを記録するなど、残留争いを続けるチームにあって重要な役割を果たし播戸竜二に惜しみなくアドバイスを送った。また地域貢献の一環として、小学校での訪問授業をこの時期開始した。その後横浜FCに移籍してからも、同様の活動を続けている。 2005年は、開幕からリーグカップも含めて3試合連続ゴールを決めるなどカズとチーム自体も好調なスタートを切ったが、その後チームは低迷し、監督交代が続いた。エメルソン・レオンが辞任し、パベル・ジェハークが就任すると完全に構想から外れ、主将も三浦淳宏に譲った。7月26日に行なわれたボルトンとの親善試合を最後に神戸を退団。 38歳となった2005年7月、横浜FCへ電撃移籍。7月30日の水戸ホーリホック戦の後半残り僅かの時間から初出場。8月27日のヴァンフォーレ甲府でのゴールは、移籍後初ゴールとなった。 横浜FCに移籍後間もない11月、2005年に設立したばかりのオーストラリアAリーグ初のゲストプレイヤー(Aリーグの公式戦4試合のみ出場が認められる特別枠選手)としてシドニーFCへ期限付き移籍。シドニーFCは元Jリーガーで、カズの全盛期を対戦相手としてよく知るピエール・リトバルスキーが監督を務めており、2005年12月に日本で開かれるFIFAクラブ世界選手権のオセアニア地区からの出場権を既に得ていた。カズはリーグ戦4試合に出場し当時首位を走っていたアデレードとの直接対決において2得点と結果を残した。チームでのポジションを確保し、FIFAクラブ世界選手権では準々決勝たる1回戦と5位決定戦の2試合フルタイム出場、得点には絡まなかったもののシドニーFCは5位決定戦勝利に貢献、全6クラブ中最下位を免れた。シドニーでの背番号は21番、FIFAクラブ世界選手権では11番を着けてピッチに立ち、前身のインターコンチネンタルカップを含め、日本人として初めて同大会に出場した選手となった。 三浦は、2006年2月からは横浜FCの選手兼任の監督補佐に就任するが登録上は選手扱いである(Jリーグの規定では選手が監督・コーチを兼任することが出来ない)。このシーズン、39試合に出場し6得点、横浜FCのJ1初昇格に貢献した。 40歳となった2007年は、2年ぶりのJ1での戦いとなる。シーズン全34試合中24試合に出場。9月15日のサンフレッチェ広島戦で日本人選手史上最年長ゴールを記録するなどシーズンで3得点を挙げた。12月1日の最終戦浦和レッズとの試合では、引き分けか、負ければ浦和の優勝が決まるという大一番で、阿部勇樹を左サイドで抜き去り、その後のセンタリングから根占真伍の決勝点をアシストして浦和の優勝を阻んだ。なお、横浜FCはこの試合の前にJ1最下位でJ2降格が決まっていた。 2008年はJ2での戦いとなる。シーズン全42試合中30試合に出場し、主に攻撃的MFとして活躍。チーム事情から自身初となるボランチを務めた試合もあった。10月25日にホームで行われた第41節愛媛FCとの試合にて、自身のJリーグ通算150ゴールとなる、シーズン初得点を挙げ、Jリーグ開幕後16年連続得点を記録した。尚、2008年シーズンはこの1得点しか結果を残せなかった。 2009年も横浜FCと契約、第2節ロアッソ熊本戦にてPKで得点を挙げたことにより、Jリーグ開幕後17年連続得点と自身の持つJリーグ最年長得点記録を更新したが、この年の得点はこの1得点のみに終わった。 43歳となった2010年にはかつて所属していたキンゼ・デ・ジャウーから移籍のオファーがあったが、横浜FCに残留した。さらに、神戸時代の2005年シーズン以来となるチーム主将を務めることになった。シーズンでは右脚の負傷に苦しんで出場機会を大きく減らし、プロ入り以来最少となる10試合、わずか188分(換算して2試合分)の出場にとどまった。出場した際には好調なプレーを見せ、8月7日のJ2第21節ファジアーノ岡山戦で得点を挙げ、Jリーグ開幕からの18年連続得点を記録した。9月26日のJ2第28節カターレ富山戦では、久々の直接フリーキックを決めた。更に12月4日のJ2最終節大分トリニータ戦でこのシーズンで初めて先発し、フル出場して得点を挙げ、自らの最年長得点記録を43歳9カ月8日に更新した。これらの印象深い活躍から、少ない出場時間ながら横浜FCの「サポーターが選ぶ年間MVP」に選出された。 三浦は、2011年はシーズンでは得点を挙げることができず、「J連続得点記録」は18年でストップする。3月29日に行われた東日本大震災の日本代表のチャリティマッチ「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」においてJリーグ選抜に選出され、後半17分から途中出場。後半37分に田中マルクス闘莉王の落としたボールに反応して得点を挙げ、試合前の宣言通りカズダンスを披露した。このゴールは世界に中継され、英語実況では「national treasure Miura」と評された。 2011年12月、カズは横浜FCに所属しながらFリーグ・エスポラーダ北海道にJリーグ選手枠として登録。2012年1月15日の北海道対府中戦の1試合限定で公式戦に出場した。2012年2月、Fリーグ2011poweredyウイダーinゼリーの表彰式で特別表彰を受賞。2012年10月、2012 FIFAフットサルワールドカップ日本代表に選出され、フットサルでも軽快な動きを見せたり、ゴールを決めたりするなど、年齢を感じさせない活躍をしている。 2012年は、J2出場14試合、うち先発5試合に留まった。第16節ガイナーレ鳥取戦でゴールを決め、Jリーグ最年長得点記録を45歳3カ月に更新した。12月22日、JFLのチームでJリーグ準加盟の承認も受けているSC相模原から2年契約で完全移籍のオファーを受けたことを報道された。 2013年1月15日、横浜FCと2年契約を結んだ。シーズン途中の6月にはかつてプレーした古巣東京ヴェルディが獲得を打診していると報道された。同年7月3日、J2第22節栃木SC戦で開始16秒に今季初得点を記録し、最年長得点記録を46歳4ヶ月7日に更新した。また、11月3日にはJ2第39節松本山雅FC戦でゴールを決め、46歳8ヶ月8日に更新した。 2014年シーズンは、6月5日、JFA国際委員を務める梅田邦夫・駐ブラジル日本大使からの要請を受け、日本サッカー協会が三浦をワールドカップブラジル大会のJFAアンバサダーに任命、同月12日に日本を出発、現地時間同月14日の日本対コートジボワール戦を観戦し、同17日に高円宮妃久子JFA名誉総裁と共にイベントに参加するものの、日本代表への同行や合宿地訪問は行わずに同月20日に帰国する予定となった。ただ、シーズン開幕前に左足の付け根を痛めて出場機会を失い、J2はわずか2試合、計4分のみの出場となった。 2015年シーズンは、3月9日に行われたJ2開幕戦ザスパクサツ群馬戦で、9年ぶりの開幕スタメンとして出場。4月5日に行われたジュビロ磐田戦では、ヘディングで先制ゴールを挙げ、自身の持つ最年長ゴール記録を48歳1か月10日に更新した。現役世界年長となったこのゴールは、海外のメディアも取り上げている。かつて所属したイタリアでも「ミウラが日本で奇跡を起こした」「元ジェノアのカズ・ミウラは48歳にもかかわらず日本の2部リーグであるJ2リーグの横浜FCでプレーしている」と報じられた。6月29日、水戸ホーリーホック戦で最年長ゴール記録をまた更新。同年11月11日、横浜FCとの来季の契約延長を発表。カズの背番号に因んで11月11日の11時11分に契約延長が発表された。この契約延長はイタリアやイギリス、スペインなど海外でも話題になり、イタリアのガゼッタ・デロ・スポルト紙は「時代を超越した存在」と称賛した。前園真聖は「還暦(60歳)までやるって言っていましたけど、本当にやるんじゃないか(笑)」とコメントしている。この年はJ2で3ゴールして健在ぶりをアピールしたが、4月に右足、10月に右太ももを負傷して長期離脱。出場は15試合だった 2016年、6月19日に行われた岐阜戦で得点を挙げ自身の持つJリーグ最年長得点記録を更新。さらに同年8月7日に行われたアウェイでのC大阪戦では、69分にチームが2-0で負けている状態で途中出場し、75分に自身の持つJリーグ最年長ゴール記録を49歳5カ月12日に更新するゴールを決めた。また、カズの得点の後、チームは勢いを取り戻し、逆転勝利を挙げた。 2017年は、自身の50歳の誕生日である2月26日に、開幕戦の松本戦で先発し、Jリーグ史上最年長記録をまたもや更新した。3月12日の群馬戦でもゴールを決め、自身の持つJリーグ最年長得点記録を50歳と14日に塗り替えた。この記録はイングランドのスタンリー・マシューズの50歳5日という記録を上回る世界最年長ゴールであり、イギリス紙『ガーディアン』など世界でも報じられ、後に「リーグ戦でゴールを決めた最年長のプロサッカー選手」としてギネス世界記録に認定された。このゴールは、JFLに移籍した2022年1月現在、三浦のJリーグでの最後の得点である。4月15日の第8節までは7試合に先発したが、左膝痛 や左太もも負傷もあって以降は出場機会を失い、5試合に途中出場するにとどまった。 2018年は、42試合のうち39試合にベンチ入りしたが、出場は9試合で出場時間は計59分。シュートは1本で、ゴールはなかった。 2019年3月23日に行われた第5節のFC岐阜戦にスタメンとしてシーズン初出場を果たし、自身の持つJ最年長出場記録を更新した。第8節も先発出場したが、練習中の左太ももの負傷で、以降は出場機会を失った。11月24日、J2最終節の愛媛FC戦で残り3分で途中出場し、J2最年長出場記録を52歳8カ月29日に更新した。チームは、この試合に勝利してJ1昇格を決めた。J2での出場は、3試合計109分で、シュートもゴールも0本だった。 2020年1月14日にチームと契約を更新した。9月23日の川崎フロンターレ戦で2007年以来のJ1でのリーグ戦に出場、 中山雅史のJ1最年長出場記録を53歳6ヶ月28日に塗り替えた。左臀部の痛みで出遅れたこともあり、13年ぶりのJ1での出場は4試合計68分に留まり、ゴールもシュートもかなわなかった。 2021年3月10日、J1浦和戦(埼玉)でロスタイムに1分間出場。自身が持つJ1最年長出場記録を54歳12日へ伸ばした。以降は出場機会を失い、ベンチ入りすらもできない中、11月20日の第36節神戸戦で、横浜FCのJ2降格が確定する。最終的に、J1での出場は1試合1分のみに留まり、三浦の移籍話がメディアで取りざたされるようになった。 2022年1月11日、兄・三浦泰年が監督兼ゼネラルマネージャーを務めるJFL所属の鈴鹿ポイントゲッターズへの期限付き移籍が発表された。JFL開幕戦から先発出場が続くが、5月15日のホンダFC戦で右太ももを負傷して、ハーフタイムで途中交代する。復帰は9月4日のヴィアティン三重戦で、4ヶ月ぶりに公式戦のピッチに立った。10月9日の国立競技場でのクリアソン新宿戦では、後半31分から途中出場する。国立での公式戦出場は11年ぶりで、JFL歴代最多となる16218人の観衆が集まった。10月23日の奈良クラブ戦もロートフィールド奈良にJFL歴代2位の14202人が集まり、同チームのJ3昇格の集客案件クリアをアシストした。10月30日、枚方との対戦でPKを沈め、2017年3月12日以来となるゴールを決めた。11月12日、リーグ第29節のFC大阪戦ではダイビングヘッドでシーズン2点目となるゴールを挙げた。最終的にJFLには18試合出場した。 2023年1月16日、鈴鹿への期限付き移籍満了が発表され、横浜FCに戻った後、2月1日、プロ38年目(55歳)にしてポルトガル2部のUDオリヴェイレンセへの夏までの期限付き移籍を発表した。オリヴェイレンセは、三浦の保有権を持つ横浜FCの親会社が経営権を取得したチームである。移籍後は、筋肉系の疲労や炎症が起こり、コンディションを上げるのに苦労したが、4月14日のホームのファレンセ戦で、ポルトガルに旅行へ来た妻の三浦りさ子が見守る中、初のベンチ入りを果たしたが、出場機会はなかった 。4月22日のアカデミコ・デ・ヴィセウ戦では、4-1で大差のついた後半45分から出場、56歳1カ月24日での出場はポルトガル国内のサッカー史において最年長出場となった。 5月16日のトレエンセ戦には3-1の場面で、後半45分の終了間際に出場した。 5月28日のリーグ最終戦のレイションイスSC戦に4-2の場面で、後半18分から出場した。 フル代表デビューは1990年9月26日、第11回アジア競技大会、バングラデシュ戦、先発出場すると、前半4分にPKを奪取、前半26分には長谷川健太のゴールをアシスト、後半15分には倒されて獲得したFKからゴールが生まれるなど、全得点に絡む活躍を見せた。1992年、ダイナスティカップの北朝鮮戦で代表初ゴールを決めた。ハンス・オフト監督の体制下、エースFWとしてダイナスティカップや、AFCアジアカップ1992での優勝に貢献、自身も両大会でMVPを獲得した。 AFCアジアカップ1992のグループリーグ最終戦イラン戦では、後半終了間際に決勝ゴールを決め「魂込めました、足に」とコメントした。決勝のサウジアラビア戦では左サイドからのクロスで高木琢也の決勝ゴールをアシスト、優勝に重要な役割を果たした。 1993年のFIFAワールドカップ・アメリカ大会予選では、1次予選でのバングラデシュ戦で代表初のハットトリックとなる4ゴールを決めるなど、予選合計9ゴール、最終予選では合計4ゴールを挙げ、エースとして活躍した。北朝鮮戦で2ゴールを決めて最終予選の初勝利に貢献、続く大韓民国戦での決勝ゴールは、日本サッカーが40年もの間超えられなかった壁であった韓国をワールドカップ地区予選で初めて破ったという意味でも値千金であった。最終予選最終戦のイラク戦でも1ゴールを決めたが、ロスタイムに同点にされ(いわゆる「ドーハの悲劇」)、ほぼ手中にしていた本大会出場をあと一歩のところで逃した。このことについて、カズは「(センタリングを上げられた)瞬間、やばいと思った。スローモーションのように球の軌道が見えた」と著書『おはぎ』で語っている。 その後、ファルカン、加茂周と監督が代わっても、カズはコンスタントにゴールを決め続けた。1997年6月22日、仏W杯アジア1次予選グループ4第4戦マカオ戦で6得点をあげ、釜本邦茂に並ぶ日本代表1試合最多得点記録を樹立した(2011年時点。FIFA認定記録ではカズ単独)。だが、1997年9月7日の仏W杯アジア最終予選B組初戦のウズベキスタン戦でこそ4得点を挙げたものの、その後ゴールを挙げられず、チームも勝ち切れず、自力での予選突破が消滅した国立競技場でのUAE戦の後には、暴徒化した一部サポーターに罵声を浴びせられ、それに向かっていこうとする姿がマスコミに大々的に報じられた。その理由を「6日後に韓国との試合を控える中で、選手の移動バスを止めたことに腹が立った。」からだと後に語った。韓国戦において、崔英一から受けたラフプレーからの骨折が原因により、以降大きく調子を落としていった。 その後、ワールドカップ本大会初出場を決めたアジア第3代表決定戦のイラン戦(「ジョホールバルの歓喜」と称される)では、2トップを組む中山雅史と共に交代を命じられ、この時カズが「オレ?」と自分を指差したことが話題となった。交代板には11番が先に出たので、「ゴン(中山雅史)なのか? 俺なのか? どっちだ?」と岡田武史監督に確認を取るためのジェスチャーだったが(番組インタビューなどで本人及び城、岡田監督の両者が語っている)、一般的には「まさか俺を交代させるのか?」と言うアピールだとマスコミに解釈をされてしまい、誤解を受けることとなった。またイランも交代の準備をしていたため、11番が日本の事なのかイランの交代に対してなのか判りづらかったと後日出演したTBS『見ればなっとく!』内で北澤豪は述べている(イランの11番であるアジジは交代することなくフル出場する)。 1998年、ワールドカップ本大会に臨む代表候補25人に選ばれ、スイスでの直前合宿に参加、ニヨンとの練習試合ではハットトリックを決めたが、監督の岡田は最後の最後まで悩んだ末に本大会出場メンバーから外す決断をした。そしてミラノでの滞在後、帰国となった(ニヨンの屈辱)。この舞台を切望していたカズが落選した発表はマスコミで大きく報じられた。カズは髪を金髪に染め上げて帰国し、帰国直後に成田国際空港で行われた会見では「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」とコメントした。その後、日本代表はアルゼンチン・クロアチア・ジャマイカと同組になったW杯本戦を1次リーグ3戦全敗、僅か1得点という結果で終えたこともあって、岡田の采配や判断は議論を呼んだ。 岡田が日本代表のコーチ時代に、合宿所の風呂で岡田の後頭部をふざけて軽く蹴り、岡田がメガネを落として怒る。。 また、ジョホールバルでのイランとのフランスワールドカップ・アジア第3代表決定戦での予定外の交代は、試合前のミーティングでの「FKは中田もしくは名波が蹴ること」との岡田監督の指示を無視してカズ自らが蹴ったことで「少し感情的になってしまった」と後に岡田監督は述懐している。 フランスW杯終了後、フィリップ・トルシエに監督が交代してからしばらく代表に招集されることはなかったが、京都サンガ時代の2000年から再び代表に招集され5試合でプレーした。2000年2月5日、カールスバーグカップのメキシコ戦で約2年振りにAマッチに出場、2月16日、アジアカップ予選のブルネイ戦でのゴールは、1997年9月7日のワールドカップ予選、ウズベキスタン戦以来と約2年5ヶ月振りのゴールとなった。2000年6月のハッサン2世国王杯でのジャマイカ戦でのゴールは代表で最後のゴールとなった。それ以降韓国戦に招集されたが、出場機会がなく本戦のメンバーからも落選。トルシエは2002 FIFAワールドカップにおいて代表スタッフとしてカズの帯同を望んだが、カズは選手としての参加を望んでいた為に実現しなかった。 2004年、当時代表監督を務めていたジーコは、既にアジア1次予選の突破を決めていたことから、興行的意味合いのみならず、若手選手を刺激するために、最終戦のシンガポール戦へ召集したい意向を示していたが、日本サッカー協会が難色を示したことから召集が見送られ、代わりに新潟県中越地震復興支援チャリティーマッチ、ジーコ・ジャパン・ドリームチームのメンバーとしてプレーした。 2012年にフットサル日本代表に招集され、同年11月にタイで開催されるFIFAフットサルワールドカップ日本代表に選出された。10月24日に国立代々木競技場第一体育館でのフットサルブラジル代表戦に出場。日本代表として国際試合に出場するのは2000年以来となった。 10月27日に北海道旭川市の旭川大雪アリーナでのフットサルウクライナ代表戦に出場、前半14分にフットサル選手として初ゴールを挙げた。 ブラジル時代は左ウイングとして、ブラジルのサッカー専門誌『プラカー』にて年間ポジション別ランキングで左ウィングの第3位に選ばれる 等、活躍した。 ドリブルを得意としており、強烈なサイドステップを踏むフェイント、シザーズ(またぎフェイント)等で相手を打ち破った。『週刊サッカーダイジェスト』のドリブラー特集でも、名前を挙げられている。ブラジル仕込みの卓越したテクニック、ディフェンスを置き去りにする一瞬のスピードを持っていた。パス、トラップ、シュート等基本的なプレーもずば抜けているとは言えないが、平均して高いレベルで安定している。基本的なプレーをおろそかにせず、守備をしっかりこなすなど、献身的なプレーも見せた。 元々身体能力に恵まれた選手ではなく、身体も極めて硬い。年齢の積み重ねとともにスピードは衰えてきているが、それでもボールを扱うテクニックはクラブ内で高いレベルを維持し、巧みな読みで勝負している。また、40歳を超えても高い持久力を維持している。 サッカージャーナリストの大住良之は、カズの特質として「並外れた精神力」を挙げている。カズよりもシュート力・テクニック・スピードのある選手はいるが、精神的な強さでカズをしのぐ選手はいないと評している。岡野雅行は「ココ一番な場面では必ずゴールを決めるし、大舞台にもビクともしない」とコメントしている。プロ野球選手のイチローは「価値観が同じというか、種目は違うけど互いの考え方を理解しあえる人。大きなプレッシャーを背負いながら、あれだけの力を発揮できる集中力・精神力はさすが」とコメントしている。また、横浜FCでのチームメイト・早川知伸は「カズさんがすごいのはメンタル。精神力があるからこそ、技術も体力も衰えない」、小野智吉は「本当にサッカーが好き。43歳でも、中学生のような気持ちを忘れない」と話した。 チーム事情によってはクラブや代表でもフリーキックやコーナーキックを蹴ることもあった(上記のように2010年にもJ2カターレ富山戦で直接フリーキックによるゴールを決めている)。さらにスイッチキッカーとして左右両足でフリーキックやコーナキックを蹴る当時としては稀なプレイヤーであった。都並敏史は「僕も左右で蹴れるけど、カズはその精度が高い」と称えており、カズ自身は「小さい頃から利き足に関係なく、両足で練習していた。それは意識してというよりも、自然な感じで覚えたものだった」と語っている。 通称は「カズ」「キング・カズ」など。ブラジルでは「KAZÚ」と「Ú」にアクセント記号が付き、「カズー」と尻上がりに呼ばれた。彼を指す場合、一部のサッカー専門誌(特に『週刊サッカーマガジン』などベースボール・マガジン社の出版物)や新聞(日刊スポーツ)ではフルネームではなく「カズ」と表記し、「三浦カズ」と呼ばれることもある。 1993年8月1日にタレントの設楽りさ子と結婚。兄は同じく元Jリーグ選手三浦泰年(通称ヤス)。父方の伯父・納谷義郎は城内FC(地元の少年団)の監督、実父の納谷宣雄は、静岡FCのGMとなっている。親戚にビームス社長の設楽洋がいる。 日本国籍の選手で2019年現在、ブラジルで成功、活躍し、有名になった唯一の日本人選手である。また、世界各国のサッカークラブを渡り歩いた日本プロサッカー選手の先駆け的存在である。現在のサッカー人気や日本代表ブーム、自身のセリエA移籍などで、ファンが欧州サッカーへの関心を高めるきっかけをつくるなど、サッカーを日本においてメジャースポーツに押し上げた火付け役であり、功労者でもある。特に若手にとって手本とされるのは、その強烈かつストイックなプロ意識。 朝一番にグラウンドに訪れ、ランニングでは常に先頭に立つなど精力的に動く。年齢を重ね、若手選手とは親子ほどの年齢差になっても練習は別メニューでなく一緒にこなす。一日に何度も体重を量り、フィジカルトレーナー、マッサージトレーナー、栄養士は個人で雇い入れているほど、徹底した体調管理を行っている。シドニーFC在籍時にはピエール・リトバルスキー監督から「カズはサッカー選手のお手本。シドニーFCの選手達はカズからプロ精神を学んだ」と賛辞を贈られている。 前述のようなストイックなイメージで知られるが、孤高の存在というわけではなく、欧州でプレーする長友佑都・長谷部誠・内田篤人・香川真司らと食事会(通称「カズ会」)を行うなど面倒をみている。その際、カズの隣の席の争奪戦が起きるほどに慕われている。 2004年12月、ブラジル・サンパウロ州のクラブチームで同州2部リーグに所属するウニオン・サンジョアンECのクラブ買収に乗り出していた。現役選手の視点から、クラブ運営や自分を育ててもらった人材の宝庫と言われるブラジルで、後進の育成にも携わっていく構想を持っているようで、2010年1月にはサッカークラブのオーナーを目指していると東スポに報じられた。 横浜FCはJ2ながらカズが加入したこともあり、横浜FCの関わった試合の平均観客動員が加入前6,079人から加入後10,293人へと上昇する など、アウェイでも注目を集めてJ2の観客動員に貢献した。FIFAクラブ世界選手権2005に出場するシドニーFCへレンタル移籍した際には、カズの認知度は日本でプレーする選手の中でも群を抜いており、日本人初の出場選手として大会の認知度を格段に上げたとスポーツニッポンのコラム内で言及されている。2010年6月、南アフリカW杯中断期間中に沖縄県宮古島でキャンプを行った際に、カズ人気で多くの市民が練習見学に訪れた。 北澤豪は読売時代からカズとよく一緒に行動しており、北澤がまだ無名だった頃には、カズはファンにサインする際に色紙の半分を空白にし「こいつ、これから絶対伸びてくる奴だから、今のうちにサイン貰っといた方がいいよ」とよく言っていた。1998 FIFAワールドカップの落選に対し、カズは同じく落選した北澤に「俺たちがやってきたことは間違いない。大事なのはこの後だ」とだけ話し、ネガティブなことは一切言わなかった。またメンバー落選翌日には、日本に帰国する前に合宿先のスイスから北澤を伴いイタリア・ミラノへ立ち寄り、ホテルの最高級部屋に2人で滞在、1泊20万円ほどしたという代金は後日、日本サッカー協会に請求したところ払ってくれたという。 元韓国代表の朴智星はカズと親交があり、韓国でもカズを知らないものはいないと評している。京都パープルサンガでプロデビューし、カズと共にプレーする以前からカズを「アジアサッカー界を代表するスーパースター」と認識しており、自分の原点は京都にあると共に、その中で最も規範となり刺激を与えてくれた選手は間違いなくカズであると語っている。 2012年2月、「女性に花を贈る姿が似合う男性」として、初代Mr.フラワーバレンタインに選出された。ヨーロッパなどではバレンタインデーに男性が女性に花を贈ることが通例となっていることから。 2016年に記者から「客寄せパンダ的な利用のされ方をするのは嫌じゃないですか」という質問をされると、「J2でも、横浜FCでもよくそう言われるし、書かれているじゃないですか。でも、パンダでないと人は来ないですから。その役割は自負していますよ。僕は客寄せパンダで十分ですよ。だって普通の熊じゃ客は来ないんだもの。パンダだから見に来るんだもの。熊はパンダになれないんだから」と返答している。 「背番号11」へのこだわりは強い。11番を着けるようになったのはブラジルに渡ってからで、小中学生の頃は14番だった。カズのいた当時のブラジルは背番号固定制ではなく先発選手が1番から11番をつけるシステムになっており、左ウィングの背番号が11番だった。日本に帰国した時にも読売クラブに11番を希望していたがすでに埋まっており、空いていた24番を選択した。翌シーズンには希望通り11番を着けた。94年には日本代表監督に就任したファルカンから代表のキャプテンとして10番を付けるように勧められたが、これを断っているほどであった。京都へシーズン途中に加入した際、Jリーグは固定背番号制に移行していたため、11番はヴェルディ時代も同僚だった藤吉信次が着けておりカズは空き番だった36番を着けたが、藤吉に冗談で「500万円で売ってくれ」と頼んだことがある。ここでもリーグ戦と別に大会独自の背番号の登録が可能な同年の天皇杯は11番で出場し、翌シーズンは正式に11番を着けた。11番はラッキーナンバーとして大事にしており、練習の際のビブスも11番を選んで着用し、車のナンバーを11にしたり、駐車場で11番が空いていたらどんなに狭くてもそこに駐める。 幼少の頃憧れた選手として元ブラジル代表としてワールドカップを制し、清水エスパルスの監督を務めていたこともあるロベルト・リベリーノの名前を挙げた。 ドカベンのファンであることを明かしている。 先にも述べた11へのこだわりは契約更改を「1月11日午前11時11分」しようという考えにも反映されている。 ヴェルディ川崎においてJ1、横浜FCにおいてJ2での優勝を経験し、その他のタイトルでは天皇杯、ナビスコカップも制覇した。J2以外ではMVPも獲得している。 原型となったのは、ブラジルのFWカレッカが得点後にみせたコーナーフラッグ付近でサンバを踊るパフォーマンス。カズが考えた踊りを元に、田原俊彦がアレンジを加えて完成した。「ゴール後のパフォーマンス」を日本に定着させたのはこのダンスであり、Jリーグ開幕直後、小中学生はこぞってゴール後に踊っていた。 日本のテレビで初めてカズダンスが放映されたのは、1989年頃にテレビ朝日系列で放送されていた『ビートたけしのスポーツ大将』内のサッカー対戦で、助っ人として出演しゴールを決めた時であるが、後に披露されたカズダンスに比べてシンプルなものであった。本人は初披露は1992年のゼロックス・チャンピオンズ・カップ(読売対トヨタ)だったと述べている。 近年では2000年のJリーグ通算100得点達成(当時京都在籍)後、神戸在籍時の2002年アウェーのガンバ大阪戦、北澤豪引退試合での得点後などで披露した(ラモス瑠偉引退試合でも、得点はならなかったが試合後のセレモニーで披露)。横浜FCに移籍してからは、2005年シーズン第32節徳島戦で逆転ゴールを挙げた後に吉武剛と共に披露(試合はその後再逆転され2-3で敗戦)。そして2007年シーズン第13節大分戦で日本人選手最年長ゴール記録を更新したときも「リクエストに応えて」(本人談)披露した(試合は2-1で勝利)。2010年シーズン第28節富山戦でJリーグ最年長ゴール記録を更新したときも披露した。 また、Jリーグ開幕時の前園真聖など、様々なJリーガーもこのダンスを披露している。城彰二が一時期カズダンスをしていたが、そのことを知人から聞いたカズは城を呼び出して説教をした。それ以来、城は酒の場以外、カズダンスをしていない。また、須田興輔も2005年(当時水戸ホーリーホック在籍)に「次に点を取ったらカズダンスします」と語っている(が、実現はしていない)。なお、コンサドーレ札幌に所属していた相川進也は、2005年第34節徳島戦にて披露している。京都と神戸でチームメイトだった朴康造は韓国代表の試合や2010年最終節浦和戦、2011年第10節川崎戦で「本家公認」というカズダンスを披露している。李忠成(当時柏所属)も2008年第14節浦和戦で先制ゴールを決めたときに披露した。 2011年3月29日行われた東日本大震災復興支援チャリティーマッチがんばろうニッポン! では、試合前にカズダンスについて「やってもいいんじゃないですかね。いろんな意見があると思うけど、やるのも一つの手だと思う」とゴールを決めた場合にはカズダンスを行うことを示唆。後半37分にゴールを決めた際にはゴール裏でカズダンスを披露した。2015年4月5日に最年長ゴールを決めた試合終了後、カズダンスの全Jリーグ選手への解禁を宣言し「Jリーグなら誰でも公認」となった。 その他の公式戦 2007年にJFAが行った検証により1997年のルーマニア戦 2試合が取り消された。このため出場数が91から89へ、得点数が56から55へと訂正された。 JFAとRec.Sport.Soccer Statistics Foundation (RSSSF) は、釜本邦茂(75得点)に次ぐ日本代表歴代2位の得点者としている。一方、国際サッカー連盟 (FIFA) は、2009年時点では釜本を三浦と同数の55得点としていたが、2014年時点では80得点としている。 これは以下に示す JFA、IFFHS 両者の統計方法の違いによる。 なお、RSSSFは「東ヨーロッパとスカンジナビア諸国のサッカー協会はFIFAの声明を却下し、信頼できる各国の協会によって認められた統計方法を持っている。日本も大部分のオリンピックの試合を2015年に公式に認めている」という見解を示し、JFAの記録を追認している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "三浦 知良(みうら かずよし、1967年〈昭和42年〉2月26日 - )は、静岡県静岡市葵区出身のプロサッカー選手。リーガ・ポルトガル2・UDオリヴェイレンセ所属。ポジションはフォワード。元日本代表。元フットサル日本代表。Jリーグ開幕以来現役を続けている唯一の選手である。ポルトガルリーグ最年長出場記録保持者(56歳)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "Jリーグ史上最高齢の54歳でJ1リーグでプレーした経験を持つ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本代表としてもFIFAワールドカップ初出場に貢献。ワールドカップ地区予選では総得点を27点記録するも、ワールドカップ本大会へは未出場。Jリーグ年間最優秀選手賞1回、得点王1回、ベストイレブンを2回受賞、1993年にアジア年間最優秀選手賞を受賞。釜本邦茂と共に、国際Aマッチ1試合で6得点の日本代表1試合最多得点記録、通算得点記録(55得点)を持つ(2011年時点)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2012年にはフットサル日本代表としてフットサルワールドカップに出場した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "妻はタレント・ファッションモデルの三浦りさ子、長男は俳優の三浦獠太、次男は格闘家の三浦孝太、いとこにサッカー選手の納谷伊織、親戚にビームス社長の設楽洋がいる他、俳優でDISH//のメンバーの北村匠海は24親等にあたる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1967年(昭和42年)2月26日、父・納谷宣雄、母・由子の次男(長男は三浦泰年)として静岡県静岡市に生まれた。母方の叔父はサッカー指導者の三浦哲治。知良(かずよし)という変わった読み方の名前は、父方の祖父に付けられたものだという。1973年4月、静岡市立城内小学校に入学。小学時代には、父方の伯父・納谷義郎が監督を務める城内FCに入っていた。小学校4年生の時に両親が離婚。三浦姓を名乗るようになった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1982年12月、私立静岡学園高校を1学年修了を待たずに8カ月で中退。ブラジルに単身で渡航し、CAジュベントスに所属。当時の三浦は身長が低く、テクニックは持っていたものの他に一流と呼べるような強みはなく、指導者達はブラジルでプロのサッカー選手になりたいという三浦の夢は実現不可能だと考えていた。1984年の秋頃、ジュベントスからECキンゼ・デ・ノヴェンブロ(通称:キンゼ・デ・ジャウー)へ移籍した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1985年頃には夢を諦めた上で日本に帰国することも一時検討したが最終的に翻意し、ブラジルでの下積みを継続した。後に本人が語ったところによれば、ふと寄ったリオの公園で現地の貧しい少年達がサッカーをしている様子を見かけたことが、帰国を思い止まる切っ掛けを作ったという。三浦曰く、その少年達の中には裸足の子や片足がない子もおり、ボールも古く汚いものだったが、皆楽しそうにボールを追っており、その様子を見て、「自分には両足も、スパイクも、いいボールもある。何を俺は贅沢なことを言っているんだ」と思い、帰国を思いとどまったとのことである。同年8月、SBSユースに出場したキンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋し、当時静岡高校選抜に選出されていた中山雅史、武田修宏らと試合を行った。1986年1月には、サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ (U-21) に日本人として初出場した。同大会やキンゼ・デ・ジャウーの育成組織で活躍したことが、後のプロ契約に繋がっていった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1986年2月、サンパウロ州のクラブであるサントスFCと自身初のプロ契約を結んだ。チームメイトであったドゥンガからは4月9日ジュベントスデビュー戦でのプレーを叱責された。5月にはSEパルメイラスと特別契約を結び日本でのキリンカップでプロサッカー選手として帰国を果たし、ヴェルダー・ブレーメン戦では、後に選手と会長という間柄になる奥寺康彦と数度に渡り激しくマッチアップ、またミランジーニャのゴールをアシストした。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "サントスFCで出場できたのは1部リーグ2試合のみに留まり、1986年10月にはパラナ州のSEマツバラへレンタル移籍。翌1987年の2月にはマツバラと正式契約を結ぶと、レギュラーとして南部三州リーグ優勝に貢献し、同年10月にアラゴアス州のクルーベ・ジ・レガタス・ブラジル(通称:CRB)に移籍した。このクラブでも三浦はレギュラーとして活躍し、日本人で初めてブラジル全国選手権への出場を果たした。またこの時「日本のガリンシャ」とも呼ばれ注目された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1988年、かつてユース時代に所属したサンパウロ州のキンゼ・デ・ジャウーへ移籍。同年3月19日、SCコリンチャンス・パウリスタ戦で日本人としてリーグ戦で初得点を記録し、格上の人気チーム相手に3-2で勝利するという番狂わせ(いわゆるジャイアント・キリング)の立役者の一人。このときの試合はブラジル全土にテレビ中継されていたため、「三浦知良」という日本人の名前がブラジル全土に知られるきっかけとなった。同年にブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の年間ポジション別ランキングで左ウイングの第3位に選ばれた。クラブでの活躍により、三浦はジャウー市から名誉市民賞を贈られている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1989年2月、エドゥーが監督を務めていた、パラナ州のコリチーバFCへ移籍、チームの中心選手として、パラナ州選手権優勝に貢献した。好調を維持していたこの頃、チーム名は明かされなかったが、40万ドルでイタリアリーグのチームへの移籍の話が出た(三浦は後に記者から、ブラジルの選手を多くイタリアリーグに送り込んでいたスカウトマンが、当時セリエAのコモへの移籍を進めていたという話を聞かされた。)。7月にはブラジルにやってきた日本代表と対戦した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1990年2月、4年ぶりに古巣・サントスFCへ復帰。サントス在籍時代にマツバラにレンタルされたとき以来、もう一度サントスでプレーして自分の力を証明したいと思っていたこともあり、三浦はサントスへの移籍に際し、他のチームからの移籍の誘いを断り、サントスと交渉した。移籍後にレギュラーの地位を確保すると同年4月29日のパルメイラス戦では1得点1アシストと活躍し、チームも2-1で勝利。翌日のブラジルの新聞はスポーツ紙・一般紙を問わず同試合での三浦の活躍を伝え、この試合の三浦のゴールシーンはブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の表紙を飾った。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1990年7月、Jリーグ発足が現実味を増す中、日本代表のW杯出場権獲得に貢献するためにブラジルに残ることよりも代表選考の対象となりやすい日本でプレーすることを決断し、日本サッカーリーグの読売サッカークラブ(ヴェルディ川崎 = 現:東京ヴェルディの前身)へ移籍。当初、周囲の期待とは裏腹に日本のサッカーになじめずなかなか日本サッカーリーグのリーグ戦では活躍できなかったが、時間の経過とともに徐々に順応を見せた。1990年10月28日のNKK戦でリーグ戦デビューを果たすと、PKで初ゴールを決めただけでなく、3つのアシストを決め、全得点に絡む活躍で4-0で勝利、このシーズンはリーグ優勝に貢献して、リーグのベストイレブンにも選出された。1991年3月10日、ヤマハ発動機戦では、三浦泰年のゴールをアシスト、弟から兄へのアシストは高校時代以来であった。1992年4月12日のゼロックスチャンピオンズカップ決勝のトヨタ自動車戦では1ゴールを決めて優勝に貢献した。1992年のJリーグカップでは9月19日のガンバ大阪戦でリーグカップ史上初めてとなるハットトリックを決めると、準決勝の鹿島アントラーズ戦で決勝ゴールを決め、決勝の清水エスパルス戦でも決勝ゴールを決めるなど、ヴェルディを優勝に導き、大会MVPにも選出された。この活躍が評価され、三浦は1992年の日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞した。この年、地元であるエスパルスからのオファーを受け、移籍に前向きな姿勢を示していたが、ヴェルディに残留した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "Jリーグの開幕年となった1993年シーズンのリーグ戦の第1ステージ、5月26日5節の鹿島アントラーズ戦でJリーグ初ゴールを決めたが、クラブ内の内紛(欧州路線)や日本代表の過密スケジュールの影響を受け18試合5ゴールという成績に終わった。第2ステージからビスマルクが加入。7月17日神戸ユニバー記念競技場で行われたJリーグオールスターサッカーでは2得点を決める活躍を見せ、大会MVPに選出された。その後は調子を取り戻し、自身の結婚式の前日の試合となった7月31日博多の森陸上競技場での第2ステージ第2節ガンバ大阪戦からは6試合連続で得点を記録した。12月8日17節浦和レッズ戦ではJリーグでの初ハットトリックを決め、ニコスシリーズ18試合で15ゴールを挙げ、チャンピオンシップの鹿島アントラーズ戦では第1戦、2戦共にゴールを決め、年間優勝に貢献するなど、シーズンを通して日本人選手ではリーグ内でトップとなる20得点を決める活躍を見せた。この活躍が評価され、第1回のMVPを受賞した他、前年に続き、1993年の日本年間最優秀選手賞に輝き、1993年のアジア年間最優秀選手賞をも受賞した。また1993年12月にはACミラン主催のチャリティーマッチに招待され、世界選抜のメンバーとして先発出場(この様なチャリティーマッチへの日本人選手の出場は、これまで釜本邦茂、奥寺康彦のみであった。)50分間プレー、サイドからのクロスでウーゴ・サンチェスの得点をアシストした。前日には世界選抜に選ばれたメンバーの中で唯一、ACミランの練習に参加した。またこの時、セリエA関係者からの興味が伝えられ、イタリアのマスコミから取材を受けるなど注目を集めた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1994年には移籍を認めたくなかった渡辺恒雄から、1年間のレンタルということでようやく了承を得て、1994-95シーズン、イタリア・セリエAのジェノアCFCへ期限付移籍し、アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。この移籍にはジェノアの会長アルド・スピネッリがプレーぶりを見て魅力を感じたこと、そして商業的な価値を期待してのもので、ジェノアのユニフォームの広告権をケンウッドが獲得したこともあって、加入会見では「スポンサーを得るために獲得したと言われているが、どう思うか?」などと辛辣な質問も浴びせられた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "プレシーズンマッチの地中海カップでは、パナシナイコスFCとACミラン相手に好プレーを見せ、コパ・イタリア2回戦のチェゼーナ戦で先発出場して公式戦デビュー、サンシーロで行われた、ACミランとのセリエA開幕戦において先発出場し、セリエAデビュー、前半途中にバレージとプレー中に激突し、鼻骨骨折と眼窩系神経を損傷してしまい、一ヶ月の戦線離脱を余儀なくされた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "復帰後、第12節のサンプドリアとのジェノヴァダービーで先発出場、マニコーネの浮き球からスクラビーがヘディングで落としたボールを右足アウトサイドでゴール隅に決め、セリエA4試合目の出場で初ゴールとなる、先制ゴールを奪ったが、これがジェノアでの唯一の得点となった。16節のパドヴァとの対戦では、サイド突破からマニコーネの決勝点のアシストをした。第31節のユベントス戦では65分から途中出場したが、退場者が出て10人での戦いを強いられたこともあり、シュートすら打てずに試合終了、代表戦の為、残りの試合とセリエB降格プレーオフには出場せず帰国、また1994年10月にはアジア大会への出場のために帰国したことや(セリエA3試合、コパ・イタリアを欠場。)、度重なる監督交代も影響して、21試合出場(先発10試合)、第19節のフィオレンティーナ戦でのループシュートはクロスバーに当たり得点ならず、また自身の誕生日に出場したナポリ戦など数回のゴールがオフサイドで取り消されたことなどもあり、シーズン1ゴールのみに終わった。その後、トリノFC、スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガルといったチームからオファーが来ていたが、シーズン終了後にはヴェルディ川崎へ復帰することとなった。ジェノア在籍時にはジェノヴァの名前を日本に広めたことで、市から特別表彰を受けた。3度の監督交代など様々な事情もあり、成功は収められなかったが、これまでイタリア人がもっていた日本のサッカーとサッカー選手に対しての概念を変えさせ、その後の日本人選手たちのセリエA入りの扉を開いた。シーズン終了後、ジェノアCFCの一員として、横浜スタジアムで行われた、ヴェルディ川崎との親善試合に出場、この試合を最後にジェノアを離れ、ヴェルディへ復帰した。また在籍時の1994年12月にはASローマ対世界選抜の試合に先発出場、裏に抜け出し洪明甫のスルーパスからシュートを放つが、シュートはGK正面に飛び得点は奪えなかった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "その後、三浦はJリーグの1995年シーズン第2ステージから古巣・ヴェルディ川崎に復帰。復帰初戦、8月12日ベルマーレ平塚戦で2ゴールを決めると、9月2日、6節鹿島アントラーズ戦、9月13日、9節横浜フリューゲルス戦でハットトリックを決めるなど、26試合で23ゴールを挙げ、第2ステージのみの出場にもかかわらず得点ランキングの上位に名を連ねた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1996年のJリーグは初の一シーズン制となったシーズンとなったが、ヴェルディ川崎は7位に沈んだものの、11月6日のジェフユナイテッド市原戦でハットトリックを決めるなど、三浦自身はリーグ得点王になる活躍を続け、第76回天皇杯全日本サッカー選手権大会制覇にも貢献した。また1996年にはFIFAの世界選抜に選出され、ブラジル戦に先発出場した。この年、当時ラ・リーガ1部のCDログロニェスからオファーを受け、ミゲル・アンヘル・ロティーナ監督とも移籍に向けた話し合いをしていたが、年俸などの条件が合わず、移籍は実現しなかった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "30歳となった1997年シーズン頃から衰えを見せ始めた。この年あたりから以前のようなキレが徐々になくなり、怪我も多くなっていたが、追い討ちをかけてW杯最終予選の韓国戦での崔英一からのラフプレーで尾てい骨を痛めてコンディションを大きく落とす。その怪我の影響から、同年の試合出場数は全試合数の半数に満たない14試合にとどまり、得点数は4点。ヴェルディ川崎も初の二桁順位と、三浦個人・チームともに振るわぬ成績に終わった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1998年シーズン、新加入のエウレルと高木琢也のツートップを採用したことからMFとしてプレーした。ファーストステージこそ終盤まで優勝争ったが、セカンドステージではベンチスタートになることも増え、1ゴールを挙げたのみに終わった。チームも18チーム中17位と低迷した。年末にV川崎は親会社である読売新聞の事業撤退で大幅な経営縮小のため、高年俸のベテラン選手達のリストラを敢行し、三浦に対しても年俸ゼロ円提示がなされた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "三浦は、2年契約でクロアチアのクラブチーム、クロアチア・ザグレブ(現GNKディナモ・ザグレブ)へ移籍。これはクロアチア・ザグレブに大きな影響力を持った当時のクロアチア大統領フラニョ・トゥジマンの意向が働いたものとされており、戦力としての評価よりも背後のジャパン・マネーを狙った経済的な期待が大きかった。この時チームメートになったゴラン・ユーリッチのサッカーへの取り組み方や考えに影響を受けた。カズはデビュー戦となったムラードスト127戦ではアシストを決めるも、PKを失敗した。5月23日のオシエク戦では退場処分を受けた。ザグレブはクロアチア・リーグで優勝を果たした。シーズン終了後、新たに就任した日本でも監督経験のあるオズワルド・アルディレス監督に戦力外とされ、本人が熱望していたUEFAチャンピオンズリーグへの日本人初出場はかなわず、1999年6月、契約よりも1年早く日本に帰国。1999年5月にはマルセイユで行われた、ジャン・ピエール・パパンの引退試合に招待され、フランス代表と対戦、得点はなかったが、クロスバー直撃のシュートを放った。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1999年7月、イングランド、スコットランドなどのクラブとの交渉がまとまらず、当時元日本代表監督の加茂周監督からの熱心な誘いを受け、京都パープルサンガへ移籍。中村忠と再び同僚となった。加茂監督は「カズはある時期を境に全く得点を挙げられなくなった。何度も話し合いをして原因を究明しようとしたが、解らず仕舞いであった。サンガではストライカーへの原点回帰をさせ、全盛期のカズ程まではいかなくても、ストライカーとして復活出来る様に何とか手助けしたい。」と話していた。復帰初戦のヴィッセル神戸戦で2ゴールを決めた。その後8試合無得点が続いたが、最終節を前にした磐田戦と最終節のC大阪戦でゴールを決めてシーズンを終えた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2000年は、5月13日の対神戸戦でJリーグ通算100得点を達成、この試合で101点目となる決勝ゴールも決めた。11月23日の古巣ヴェルディ川崎戦でハットトリックを決めるなど、33歳ながら17得点を記録し得点ランキング3位に入るなど活躍する。しかしこのシーズン、京都はJ2へ降格し、自身2回目であるゼロ円提示を受ける。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2001年からは永島昭浩が現役を引退した直後のヴィッセル神戸に所属し、4年間キャプテンとしてチームの最前線に立った。2節のFC東京戦で移籍後初得点を挙げる。11月24日神戸ウイングスタジアムのこけら落としとなった横浜F・マリノス戦では、巧みなトラップで相手DFをかわし、自身を代表するゴールの一つとなるゴールを決めるなど、セカンドステージのラスト4試合でいずれもゴールを挙げ、シーズン11ゴールと健在ぶりを示した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2002年は代表でもプレーした城彰二や兵庫県出身でもある播戸竜二が加入。2002年1stステージ第3節ガンバ大阪戦では久々にカズダンスを披露した。しかしこのころからフル出場する試合が徐々に減り始める。2ndステージでは臀部の怪我のため長期離脱し、ほとんど出場機会を得られなかった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2003年はオゼアス・播戸竜二の2トップのバックアッパー的な役割を担うことが多くなり、ベンチスタートとなる試合が増えた。1stステージ8節でシーズン初得点を挙げ、新本拠地での初勝利に貢献した。2ndステージ終盤の残留争いの最中、オゼアスを出場停止で欠き久々にスタメンがめぐってきた鹿島戦では相手ゴール前で素早いターンからこの試合の先制点を決め、ホームでの3か月ぶりの勝利に大きく貢献した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2004年、1stステージの第11節のガンバ大阪戦でのゴールで、11年連続ゴールを記録。2ndステージに入りエムボマ、平瀬智行らが加入し、ポジション争いは激化。チームは残留争いに巻き込まれたが、シーズン終盤にスタメンを奪取し12節から14節まで3試合連続ゴールを記録するなど、残留争いを続けるチームにあって重要な役割を果たし播戸竜二に惜しみなくアドバイスを送った。また地域貢献の一環として、小学校での訪問授業をこの時期開始した。その後横浜FCに移籍してからも、同様の活動を続けている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2005年は、開幕からリーグカップも含めて3試合連続ゴールを決めるなどカズとチーム自体も好調なスタートを切ったが、その後チームは低迷し、監督交代が続いた。エメルソン・レオンが辞任し、パベル・ジェハークが就任すると完全に構想から外れ、主将も三浦淳宏に譲った。7月26日に行なわれたボルトンとの親善試合を最後に神戸を退団。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "38歳となった2005年7月、横浜FCへ電撃移籍。7月30日の水戸ホーリホック戦の後半残り僅かの時間から初出場。8月27日のヴァンフォーレ甲府でのゴールは、移籍後初ゴールとなった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "横浜FCに移籍後間もない11月、2005年に設立したばかりのオーストラリアAリーグ初のゲストプレイヤー(Aリーグの公式戦4試合のみ出場が認められる特別枠選手)としてシドニーFCへ期限付き移籍。シドニーFCは元Jリーガーで、カズの全盛期を対戦相手としてよく知るピエール・リトバルスキーが監督を務めており、2005年12月に日本で開かれるFIFAクラブ世界選手権のオセアニア地区からの出場権を既に得ていた。カズはリーグ戦4試合に出場し当時首位を走っていたアデレードとの直接対決において2得点と結果を残した。チームでのポジションを確保し、FIFAクラブ世界選手権では準々決勝たる1回戦と5位決定戦の2試合フルタイム出場、得点には絡まなかったもののシドニーFCは5位決定戦勝利に貢献、全6クラブ中最下位を免れた。シドニーでの背番号は21番、FIFAクラブ世界選手権では11番を着けてピッチに立ち、前身のインターコンチネンタルカップを含め、日本人として初めて同大会に出場した選手となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "三浦は、2006年2月からは横浜FCの選手兼任の監督補佐に就任するが登録上は選手扱いである(Jリーグの規定では選手が監督・コーチを兼任することが出来ない)。このシーズン、39試合に出場し6得点、横浜FCのJ1初昇格に貢献した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "40歳となった2007年は、2年ぶりのJ1での戦いとなる。シーズン全34試合中24試合に出場。9月15日のサンフレッチェ広島戦で日本人選手史上最年長ゴールを記録するなどシーズンで3得点を挙げた。12月1日の最終戦浦和レッズとの試合では、引き分けか、負ければ浦和の優勝が決まるという大一番で、阿部勇樹を左サイドで抜き去り、その後のセンタリングから根占真伍の決勝点をアシストして浦和の優勝を阻んだ。なお、横浜FCはこの試合の前にJ1最下位でJ2降格が決まっていた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2008年はJ2での戦いとなる。シーズン全42試合中30試合に出場し、主に攻撃的MFとして活躍。チーム事情から自身初となるボランチを務めた試合もあった。10月25日にホームで行われた第41節愛媛FCとの試合にて、自身のJリーグ通算150ゴールとなる、シーズン初得点を挙げ、Jリーグ開幕後16年連続得点を記録した。尚、2008年シーズンはこの1得点しか結果を残せなかった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2009年も横浜FCと契約、第2節ロアッソ熊本戦にてPKで得点を挙げたことにより、Jリーグ開幕後17年連続得点と自身の持つJリーグ最年長得点記録を更新したが、この年の得点はこの1得点のみに終わった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "43歳となった2010年にはかつて所属していたキンゼ・デ・ジャウーから移籍のオファーがあったが、横浜FCに残留した。さらに、神戸時代の2005年シーズン以来となるチーム主将を務めることになった。シーズンでは右脚の負傷に苦しんで出場機会を大きく減らし、プロ入り以来最少となる10試合、わずか188分(換算して2試合分)の出場にとどまった。出場した際には好調なプレーを見せ、8月7日のJ2第21節ファジアーノ岡山戦で得点を挙げ、Jリーグ開幕からの18年連続得点を記録した。9月26日のJ2第28節カターレ富山戦では、久々の直接フリーキックを決めた。更に12月4日のJ2最終節大分トリニータ戦でこのシーズンで初めて先発し、フル出場して得点を挙げ、自らの最年長得点記録を43歳9カ月8日に更新した。これらの印象深い活躍から、少ない出場時間ながら横浜FCの「サポーターが選ぶ年間MVP」に選出された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "三浦は、2011年はシーズンでは得点を挙げることができず、「J連続得点記録」は18年でストップする。3月29日に行われた東日本大震災の日本代表のチャリティマッチ「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」においてJリーグ選抜に選出され、後半17分から途中出場。後半37分に田中マルクス闘莉王の落としたボールに反応して得点を挙げ、試合前の宣言通りカズダンスを披露した。このゴールは世界に中継され、英語実況では「national treasure Miura」と評された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2011年12月、カズは横浜FCに所属しながらFリーグ・エスポラーダ北海道にJリーグ選手枠として登録。2012年1月15日の北海道対府中戦の1試合限定で公式戦に出場した。2012年2月、Fリーグ2011poweredyウイダーinゼリーの表彰式で特別表彰を受賞。2012年10月、2012 FIFAフットサルワールドカップ日本代表に選出され、フットサルでも軽快な動きを見せたり、ゴールを決めたりするなど、年齢を感じさせない活躍をしている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2012年は、J2出場14試合、うち先発5試合に留まった。第16節ガイナーレ鳥取戦でゴールを決め、Jリーグ最年長得点記録を45歳3カ月に更新した。12月22日、JFLのチームでJリーグ準加盟の承認も受けているSC相模原から2年契約で完全移籍のオファーを受けたことを報道された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2013年1月15日、横浜FCと2年契約を結んだ。シーズン途中の6月にはかつてプレーした古巣東京ヴェルディが獲得を打診していると報道された。同年7月3日、J2第22節栃木SC戦で開始16秒に今季初得点を記録し、最年長得点記録を46歳4ヶ月7日に更新した。また、11月3日にはJ2第39節松本山雅FC戦でゴールを決め、46歳8ヶ月8日に更新した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2014年シーズンは、6月5日、JFA国際委員を務める梅田邦夫・駐ブラジル日本大使からの要請を受け、日本サッカー協会が三浦をワールドカップブラジル大会のJFAアンバサダーに任命、同月12日に日本を出発、現地時間同月14日の日本対コートジボワール戦を観戦し、同17日に高円宮妃久子JFA名誉総裁と共にイベントに参加するものの、日本代表への同行や合宿地訪問は行わずに同月20日に帰国する予定となった。ただ、シーズン開幕前に左足の付け根を痛めて出場機会を失い、J2はわずか2試合、計4分のみの出場となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2015年シーズンは、3月9日に行われたJ2開幕戦ザスパクサツ群馬戦で、9年ぶりの開幕スタメンとして出場。4月5日に行われたジュビロ磐田戦では、ヘディングで先制ゴールを挙げ、自身の持つ最年長ゴール記録を48歳1か月10日に更新した。現役世界年長となったこのゴールは、海外のメディアも取り上げている。かつて所属したイタリアでも「ミウラが日本で奇跡を起こした」「元ジェノアのカズ・ミウラは48歳にもかかわらず日本の2部リーグであるJ2リーグの横浜FCでプレーしている」と報じられた。6月29日、水戸ホーリーホック戦で最年長ゴール記録をまた更新。同年11月11日、横浜FCとの来季の契約延長を発表。カズの背番号に因んで11月11日の11時11分に契約延長が発表された。この契約延長はイタリアやイギリス、スペインなど海外でも話題になり、イタリアのガゼッタ・デロ・スポルト紙は「時代を超越した存在」と称賛した。前園真聖は「還暦(60歳)までやるって言っていましたけど、本当にやるんじゃないか(笑)」とコメントしている。この年はJ2で3ゴールして健在ぶりをアピールしたが、4月に右足、10月に右太ももを負傷して長期離脱。出場は15試合だった", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2016年、6月19日に行われた岐阜戦で得点を挙げ自身の持つJリーグ最年長得点記録を更新。さらに同年8月7日に行われたアウェイでのC大阪戦では、69分にチームが2-0で負けている状態で途中出場し、75分に自身の持つJリーグ最年長ゴール記録を49歳5カ月12日に更新するゴールを決めた。また、カズの得点の後、チームは勢いを取り戻し、逆転勝利を挙げた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2017年は、自身の50歳の誕生日である2月26日に、開幕戦の松本戦で先発し、Jリーグ史上最年長記録をまたもや更新した。3月12日の群馬戦でもゴールを決め、自身の持つJリーグ最年長得点記録を50歳と14日に塗り替えた。この記録はイングランドのスタンリー・マシューズの50歳5日という記録を上回る世界最年長ゴールであり、イギリス紙『ガーディアン』など世界でも報じられ、後に「リーグ戦でゴールを決めた最年長のプロサッカー選手」としてギネス世界記録に認定された。このゴールは、JFLに移籍した2022年1月現在、三浦のJリーグでの最後の得点である。4月15日の第8節までは7試合に先発したが、左膝痛 や左太もも負傷もあって以降は出場機会を失い、5試合に途中出場するにとどまった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2018年は、42試合のうち39試合にベンチ入りしたが、出場は9試合で出場時間は計59分。シュートは1本で、ゴールはなかった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2019年3月23日に行われた第5節のFC岐阜戦にスタメンとしてシーズン初出場を果たし、自身の持つJ最年長出場記録を更新した。第8節も先発出場したが、練習中の左太ももの負傷で、以降は出場機会を失った。11月24日、J2最終節の愛媛FC戦で残り3分で途中出場し、J2最年長出場記録を52歳8カ月29日に更新した。チームは、この試合に勝利してJ1昇格を決めた。J2での出場は、3試合計109分で、シュートもゴールも0本だった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2020年1月14日にチームと契約を更新した。9月23日の川崎フロンターレ戦で2007年以来のJ1でのリーグ戦に出場、 中山雅史のJ1最年長出場記録を53歳6ヶ月28日に塗り替えた。左臀部の痛みで出遅れたこともあり、13年ぶりのJ1での出場は4試合計68分に留まり、ゴールもシュートもかなわなかった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2021年3月10日、J1浦和戦(埼玉)でロスタイムに1分間出場。自身が持つJ1最年長出場記録を54歳12日へ伸ばした。以降は出場機会を失い、ベンチ入りすらもできない中、11月20日の第36節神戸戦で、横浜FCのJ2降格が確定する。最終的に、J1での出場は1試合1分のみに留まり、三浦の移籍話がメディアで取りざたされるようになった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2022年1月11日、兄・三浦泰年が監督兼ゼネラルマネージャーを務めるJFL所属の鈴鹿ポイントゲッターズへの期限付き移籍が発表された。JFL開幕戦から先発出場が続くが、5月15日のホンダFC戦で右太ももを負傷して、ハーフタイムで途中交代する。復帰は9月4日のヴィアティン三重戦で、4ヶ月ぶりに公式戦のピッチに立った。10月9日の国立競技場でのクリアソン新宿戦では、後半31分から途中出場する。国立での公式戦出場は11年ぶりで、JFL歴代最多となる16218人の観衆が集まった。10月23日の奈良クラブ戦もロートフィールド奈良にJFL歴代2位の14202人が集まり、同チームのJ3昇格の集客案件クリアをアシストした。10月30日、枚方との対戦でPKを沈め、2017年3月12日以来となるゴールを決めた。11月12日、リーグ第29節のFC大阪戦ではダイビングヘッドでシーズン2点目となるゴールを挙げた。最終的にJFLには18試合出場した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2023年1月16日、鈴鹿への期限付き移籍満了が発表され、横浜FCに戻った後、2月1日、プロ38年目(55歳)にしてポルトガル2部のUDオリヴェイレンセへの夏までの期限付き移籍を発表した。オリヴェイレンセは、三浦の保有権を持つ横浜FCの親会社が経営権を取得したチームである。移籍後は、筋肉系の疲労や炎症が起こり、コンディションを上げるのに苦労したが、4月14日のホームのファレンセ戦で、ポルトガルに旅行へ来た妻の三浦りさ子が見守る中、初のベンチ入りを果たしたが、出場機会はなかった 。4月22日のアカデミコ・デ・ヴィセウ戦では、4-1で大差のついた後半45分から出場、56歳1カ月24日での出場はポルトガル国内のサッカー史において最年長出場となった。 5月16日のトレエンセ戦には3-1の場面で、後半45分の終了間際に出場した。 5月28日のリーグ最終戦のレイションイスSC戦に4-2の場面で、後半18分から出場した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "フル代表デビューは1990年9月26日、第11回アジア競技大会、バングラデシュ戦、先発出場すると、前半4分にPKを奪取、前半26分には長谷川健太のゴールをアシスト、後半15分には倒されて獲得したFKからゴールが生まれるなど、全得点に絡む活躍を見せた。1992年、ダイナスティカップの北朝鮮戦で代表初ゴールを決めた。ハンス・オフト監督の体制下、エースFWとしてダイナスティカップや、AFCアジアカップ1992での優勝に貢献、自身も両大会でMVPを獲得した。", "title": "日本代表" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "AFCアジアカップ1992のグループリーグ最終戦イラン戦では、後半終了間際に決勝ゴールを決め「魂込めました、足に」とコメントした。決勝のサウジアラビア戦では左サイドからのクロスで高木琢也の決勝ゴールをアシスト、優勝に重要な役割を果たした。", "title": "日本代表" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1993年のFIFAワールドカップ・アメリカ大会予選では、1次予選でのバングラデシュ戦で代表初のハットトリックとなる4ゴールを決めるなど、予選合計9ゴール、最終予選では合計4ゴールを挙げ、エースとして活躍した。北朝鮮戦で2ゴールを決めて最終予選の初勝利に貢献、続く大韓民国戦での決勝ゴールは、日本サッカーが40年もの間超えられなかった壁であった韓国をワールドカップ地区予選で初めて破ったという意味でも値千金であった。最終予選最終戦のイラク戦でも1ゴールを決めたが、ロスタイムに同点にされ(いわゆる「ドーハの悲劇」)、ほぼ手中にしていた本大会出場をあと一歩のところで逃した。このことについて、カズは「(センタリングを上げられた)瞬間、やばいと思った。スローモーションのように球の軌道が見えた」と著書『おはぎ』で語っている。", "title": "日本代表" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "その後、ファルカン、加茂周と監督が代わっても、カズはコンスタントにゴールを決め続けた。1997年6月22日、仏W杯アジア1次予選グループ4第4戦マカオ戦で6得点をあげ、釜本邦茂に並ぶ日本代表1試合最多得点記録を樹立した(2011年時点。FIFA認定記録ではカズ単独)。だが、1997年9月7日の仏W杯アジア最終予選B組初戦のウズベキスタン戦でこそ4得点を挙げたものの、その後ゴールを挙げられず、チームも勝ち切れず、自力での予選突破が消滅した国立競技場でのUAE戦の後には、暴徒化した一部サポーターに罵声を浴びせられ、それに向かっていこうとする姿がマスコミに大々的に報じられた。その理由を「6日後に韓国との試合を控える中で、選手の移動バスを止めたことに腹が立った。」からだと後に語った。韓国戦において、崔英一から受けたラフプレーからの骨折が原因により、以降大きく調子を落としていった。", "title": "日本代表" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "その後、ワールドカップ本大会初出場を決めたアジア第3代表決定戦のイラン戦(「ジョホールバルの歓喜」と称される)では、2トップを組む中山雅史と共に交代を命じられ、この時カズが「オレ?」と自分を指差したことが話題となった。交代板には11番が先に出たので、「ゴン(中山雅史)なのか? 俺なのか? どっちだ?」と岡田武史監督に確認を取るためのジェスチャーだったが(番組インタビューなどで本人及び城、岡田監督の両者が語っている)、一般的には「まさか俺を交代させるのか?」と言うアピールだとマスコミに解釈をされてしまい、誤解を受けることとなった。またイランも交代の準備をしていたため、11番が日本の事なのかイランの交代に対してなのか判りづらかったと後日出演したTBS『見ればなっとく!』内で北澤豪は述べている(イランの11番であるアジジは交代することなくフル出場する)。 1998年、ワールドカップ本大会に臨む代表候補25人に選ばれ、スイスでの直前合宿に参加、ニヨンとの練習試合ではハットトリックを決めたが、監督の岡田は最後の最後まで悩んだ末に本大会出場メンバーから外す決断をした。そしてミラノでの滞在後、帰国となった(ニヨンの屈辱)。この舞台を切望していたカズが落選した発表はマスコミで大きく報じられた。カズは髪を金髪に染め上げて帰国し、帰国直後に成田国際空港で行われた会見では「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」とコメントした。その後、日本代表はアルゼンチン・クロアチア・ジャマイカと同組になったW杯本戦を1次リーグ3戦全敗、僅か1得点という結果で終えたこともあって、岡田の采配や判断は議論を呼んだ。", "title": "日本代表" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "岡田が日本代表のコーチ時代に、合宿所の風呂で岡田の後頭部をふざけて軽く蹴り、岡田がメガネを落として怒る。。", "title": "日本代表" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "また、ジョホールバルでのイランとのフランスワールドカップ・アジア第3代表決定戦での予定外の交代は、試合前のミーティングでの「FKは中田もしくは名波が蹴ること」との岡田監督の指示を無視してカズ自らが蹴ったことで「少し感情的になってしまった」と後に岡田監督は述懐している。", "title": "日本代表" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "フランスW杯終了後、フィリップ・トルシエに監督が交代してからしばらく代表に招集されることはなかったが、京都サンガ時代の2000年から再び代表に招集され5試合でプレーした。2000年2月5日、カールスバーグカップのメキシコ戦で約2年振りにAマッチに出場、2月16日、アジアカップ予選のブルネイ戦でのゴールは、1997年9月7日のワールドカップ予選、ウズベキスタン戦以来と約2年5ヶ月振りのゴールとなった。2000年6月のハッサン2世国王杯でのジャマイカ戦でのゴールは代表で最後のゴールとなった。それ以降韓国戦に招集されたが、出場機会がなく本戦のメンバーからも落選。トルシエは2002 FIFAワールドカップにおいて代表スタッフとしてカズの帯同を望んだが、カズは選手としての参加を望んでいた為に実現しなかった。", "title": "日本代表" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2004年、当時代表監督を務めていたジーコは、既にアジア1次予選の突破を決めていたことから、興行的意味合いのみならず、若手選手を刺激するために、最終戦のシンガポール戦へ召集したい意向を示していたが、日本サッカー協会が難色を示したことから召集が見送られ、代わりに新潟県中越地震復興支援チャリティーマッチ、ジーコ・ジャパン・ドリームチームのメンバーとしてプレーした。", "title": "日本代表" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2012年にフットサル日本代表に招集され、同年11月にタイで開催されるFIFAフットサルワールドカップ日本代表に選出された。10月24日に国立代々木競技場第一体育館でのフットサルブラジル代表戦に出場。日本代表として国際試合に出場するのは2000年以来となった。", "title": "日本代表" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "10月27日に北海道旭川市の旭川大雪アリーナでのフットサルウクライナ代表戦に出場、前半14分にフットサル選手として初ゴールを挙げた。", "title": "日本代表" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ブラジル時代は左ウイングとして、ブラジルのサッカー専門誌『プラカー』にて年間ポジション別ランキングで左ウィングの第3位に選ばれる 等、活躍した。", "title": "プレースタイル" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ドリブルを得意としており、強烈なサイドステップを踏むフェイント、シザーズ(またぎフェイント)等で相手を打ち破った。『週刊サッカーダイジェスト』のドリブラー特集でも、名前を挙げられている。ブラジル仕込みの卓越したテクニック、ディフェンスを置き去りにする一瞬のスピードを持っていた。パス、トラップ、シュート等基本的なプレーもずば抜けているとは言えないが、平均して高いレベルで安定している。基本的なプレーをおろそかにせず、守備をしっかりこなすなど、献身的なプレーも見せた。", "title": "プレースタイル" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "元々身体能力に恵まれた選手ではなく、身体も極めて硬い。年齢の積み重ねとともにスピードは衰えてきているが、それでもボールを扱うテクニックはクラブ内で高いレベルを維持し、巧みな読みで勝負している。また、40歳を超えても高い持久力を維持している。", "title": "プレースタイル" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "サッカージャーナリストの大住良之は、カズの特質として「並外れた精神力」を挙げている。カズよりもシュート力・テクニック・スピードのある選手はいるが、精神的な強さでカズをしのぐ選手はいないと評している。岡野雅行は「ココ一番な場面では必ずゴールを決めるし、大舞台にもビクともしない」とコメントしている。プロ野球選手のイチローは「価値観が同じというか、種目は違うけど互いの考え方を理解しあえる人。大きなプレッシャーを背負いながら、あれだけの力を発揮できる集中力・精神力はさすが」とコメントしている。また、横浜FCでのチームメイト・早川知伸は「カズさんがすごいのはメンタル。精神力があるからこそ、技術も体力も衰えない」、小野智吉は「本当にサッカーが好き。43歳でも、中学生のような気持ちを忘れない」と話した。", "title": "プレースタイル" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "チーム事情によってはクラブや代表でもフリーキックやコーナーキックを蹴ることもあった(上記のように2010年にもJ2カターレ富山戦で直接フリーキックによるゴールを決めている)。さらにスイッチキッカーとして左右両足でフリーキックやコーナキックを蹴る当時としては稀なプレイヤーであった。都並敏史は「僕も左右で蹴れるけど、カズはその精度が高い」と称えており、カズ自身は「小さい頃から利き足に関係なく、両足で練習していた。それは意識してというよりも、自然な感じで覚えたものだった」と語っている。", "title": "プレースタイル" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "通称は「カズ」「キング・カズ」など。ブラジルでは「KAZÚ」と「Ú」にアクセント記号が付き、「カズー」と尻上がりに呼ばれた。彼を指す場合、一部のサッカー専門誌(特に『週刊サッカーマガジン』などベースボール・マガジン社の出版物)や新聞(日刊スポーツ)ではフルネームではなく「カズ」と表記し、「三浦カズ」と呼ばれることもある。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1993年8月1日にタレントの設楽りさ子と結婚。兄は同じく元Jリーグ選手三浦泰年(通称ヤス)。父方の伯父・納谷義郎は城内FC(地元の少年団)の監督、実父の納谷宣雄は、静岡FCのGMとなっている。親戚にビームス社長の設楽洋がいる。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "日本国籍の選手で2019年現在、ブラジルで成功、活躍し、有名になった唯一の日本人選手である。また、世界各国のサッカークラブを渡り歩いた日本プロサッカー選手の先駆け的存在である。現在のサッカー人気や日本代表ブーム、自身のセリエA移籍などで、ファンが欧州サッカーへの関心を高めるきっかけをつくるなど、サッカーを日本においてメジャースポーツに押し上げた火付け役であり、功労者でもある。特に若手にとって手本とされるのは、その強烈かつストイックなプロ意識。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "朝一番にグラウンドに訪れ、ランニングでは常に先頭に立つなど精力的に動く。年齢を重ね、若手選手とは親子ほどの年齢差になっても練習は別メニューでなく一緒にこなす。一日に何度も体重を量り、フィジカルトレーナー、マッサージトレーナー、栄養士は個人で雇い入れているほど、徹底した体調管理を行っている。シドニーFC在籍時にはピエール・リトバルスキー監督から「カズはサッカー選手のお手本。シドニーFCの選手達はカズからプロ精神を学んだ」と賛辞を贈られている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "前述のようなストイックなイメージで知られるが、孤高の存在というわけではなく、欧州でプレーする長友佑都・長谷部誠・内田篤人・香川真司らと食事会(通称「カズ会」)を行うなど面倒をみている。その際、カズの隣の席の争奪戦が起きるほどに慕われている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "2004年12月、ブラジル・サンパウロ州のクラブチームで同州2部リーグに所属するウニオン・サンジョアンECのクラブ買収に乗り出していた。現役選手の視点から、クラブ運営や自分を育ててもらった人材の宝庫と言われるブラジルで、後進の育成にも携わっていく構想を持っているようで、2010年1月にはサッカークラブのオーナーを目指していると東スポに報じられた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "横浜FCはJ2ながらカズが加入したこともあり、横浜FCの関わった試合の平均観客動員が加入前6,079人から加入後10,293人へと上昇する など、アウェイでも注目を集めてJ2の観客動員に貢献した。FIFAクラブ世界選手権2005に出場するシドニーFCへレンタル移籍した際には、カズの認知度は日本でプレーする選手の中でも群を抜いており、日本人初の出場選手として大会の認知度を格段に上げたとスポーツニッポンのコラム内で言及されている。2010年6月、南アフリカW杯中断期間中に沖縄県宮古島でキャンプを行った際に、カズ人気で多くの市民が練習見学に訪れた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "北澤豪は読売時代からカズとよく一緒に行動しており、北澤がまだ無名だった頃には、カズはファンにサインする際に色紙の半分を空白にし「こいつ、これから絶対伸びてくる奴だから、今のうちにサイン貰っといた方がいいよ」とよく言っていた。1998 FIFAワールドカップの落選に対し、カズは同じく落選した北澤に「俺たちがやってきたことは間違いない。大事なのはこの後だ」とだけ話し、ネガティブなことは一切言わなかった。またメンバー落選翌日には、日本に帰国する前に合宿先のスイスから北澤を伴いイタリア・ミラノへ立ち寄り、ホテルの最高級部屋に2人で滞在、1泊20万円ほどしたという代金は後日、日本サッカー協会に請求したところ払ってくれたという。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "元韓国代表の朴智星はカズと親交があり、韓国でもカズを知らないものはいないと評している。京都パープルサンガでプロデビューし、カズと共にプレーする以前からカズを「アジアサッカー界を代表するスーパースター」と認識しており、自分の原点は京都にあると共に、その中で最も規範となり刺激を与えてくれた選手は間違いなくカズであると語っている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2012年2月、「女性に花を贈る姿が似合う男性」として、初代Mr.フラワーバレンタインに選出された。ヨーロッパなどではバレンタインデーに男性が女性に花を贈ることが通例となっていることから。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "2016年に記者から「客寄せパンダ的な利用のされ方をするのは嫌じゃないですか」という質問をされると、「J2でも、横浜FCでもよくそう言われるし、書かれているじゃないですか。でも、パンダでないと人は来ないですから。その役割は自負していますよ。僕は客寄せパンダで十分ですよ。だって普通の熊じゃ客は来ないんだもの。パンダだから見に来るんだもの。熊はパンダになれないんだから」と返答している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "「背番号11」へのこだわりは強い。11番を着けるようになったのはブラジルに渡ってからで、小中学生の頃は14番だった。カズのいた当時のブラジルは背番号固定制ではなく先発選手が1番から11番をつけるシステムになっており、左ウィングの背番号が11番だった。日本に帰国した時にも読売クラブに11番を希望していたがすでに埋まっており、空いていた24番を選択した。翌シーズンには希望通り11番を着けた。94年には日本代表監督に就任したファルカンから代表のキャプテンとして10番を付けるように勧められたが、これを断っているほどであった。京都へシーズン途中に加入した際、Jリーグは固定背番号制に移行していたため、11番はヴェルディ時代も同僚だった藤吉信次が着けておりカズは空き番だった36番を着けたが、藤吉に冗談で「500万円で売ってくれ」と頼んだことがある。ここでもリーグ戦と別に大会独自の背番号の登録が可能な同年の天皇杯は11番で出場し、翌シーズンは正式に11番を着けた。11番はラッキーナンバーとして大事にしており、練習の際のビブスも11番を選んで着用し、車のナンバーを11にしたり、駐車場で11番が空いていたらどんなに狭くてもそこに駐める。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "幼少の頃憧れた選手として元ブラジル代表としてワールドカップを制し、清水エスパルスの監督を務めていたこともあるロベルト・リベリーノの名前を挙げた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ドカベンのファンであることを明かしている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "先にも述べた11へのこだわりは契約更改を「1月11日午前11時11分」しようという考えにも反映されている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "ヴェルディ川崎においてJ1、横浜FCにおいてJ2での優勝を経験し、その他のタイトルでは天皇杯、ナビスコカップも制覇した。J2以外ではMVPも獲得している。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "原型となったのは、ブラジルのFWカレッカが得点後にみせたコーナーフラッグ付近でサンバを踊るパフォーマンス。カズが考えた踊りを元に、田原俊彦がアレンジを加えて完成した。「ゴール後のパフォーマンス」を日本に定着させたのはこのダンスであり、Jリーグ開幕直後、小中学生はこぞってゴール後に踊っていた。", "title": "カズダンス" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "日本のテレビで初めてカズダンスが放映されたのは、1989年頃にテレビ朝日系列で放送されていた『ビートたけしのスポーツ大将』内のサッカー対戦で、助っ人として出演しゴールを決めた時であるが、後に披露されたカズダンスに比べてシンプルなものであった。本人は初披露は1992年のゼロックス・チャンピオンズ・カップ(読売対トヨタ)だったと述べている。", "title": "カズダンス" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "近年では2000年のJリーグ通算100得点達成(当時京都在籍)後、神戸在籍時の2002年アウェーのガンバ大阪戦、北澤豪引退試合での得点後などで披露した(ラモス瑠偉引退試合でも、得点はならなかったが試合後のセレモニーで披露)。横浜FCに移籍してからは、2005年シーズン第32節徳島戦で逆転ゴールを挙げた後に吉武剛と共に披露(試合はその後再逆転され2-3で敗戦)。そして2007年シーズン第13節大分戦で日本人選手最年長ゴール記録を更新したときも「リクエストに応えて」(本人談)披露した(試合は2-1で勝利)。2010年シーズン第28節富山戦でJリーグ最年長ゴール記録を更新したときも披露した。", "title": "カズダンス" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "また、Jリーグ開幕時の前園真聖など、様々なJリーガーもこのダンスを披露している。城彰二が一時期カズダンスをしていたが、そのことを知人から聞いたカズは城を呼び出して説教をした。それ以来、城は酒の場以外、カズダンスをしていない。また、須田興輔も2005年(当時水戸ホーリーホック在籍)に「次に点を取ったらカズダンスします」と語っている(が、実現はしていない)。なお、コンサドーレ札幌に所属していた相川進也は、2005年第34節徳島戦にて披露している。京都と神戸でチームメイトだった朴康造は韓国代表の試合や2010年最終節浦和戦、2011年第10節川崎戦で「本家公認」というカズダンスを披露している。李忠成(当時柏所属)も2008年第14節浦和戦で先制ゴールを決めたときに披露した。", "title": "カズダンス" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "2011年3月29日行われた東日本大震災復興支援チャリティーマッチがんばろうニッポン! では、試合前にカズダンスについて「やってもいいんじゃないですかね。いろんな意見があると思うけど、やるのも一つの手だと思う」とゴールを決めた場合にはカズダンスを行うことを示唆。後半37分にゴールを決めた際にはゴール裏でカズダンスを披露した。2015年4月5日に最年長ゴールを決めた試合終了後、カズダンスの全Jリーグ選手への解禁を宣言し「Jリーグなら誰でも公認」となった。", "title": "カズダンス" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "その他の公式戦", "title": "個人成績" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "2007年にJFAが行った検証により1997年のルーマニア戦 2試合が取り消された。このため出場数が91から89へ、得点数が56から55へと訂正された。", "title": "代表歴" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "JFAとRec.Sport.Soccer Statistics Foundation (RSSSF) は、釜本邦茂(75得点)に次ぐ日本代表歴代2位の得点者としている。一方、国際サッカー連盟 (FIFA) は、2009年時点では釜本を三浦と同数の55得点としていたが、2014年時点では80得点としている。", "title": "代表歴" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "これは以下に示す JFA、IFFHS 両者の統計方法の違いによる。", "title": "代表歴" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "なお、RSSSFは「東ヨーロッパとスカンジナビア諸国のサッカー協会はFIFAの声明を却下し、信頼できる各国の協会によって認められた統計方法を持っている。日本も大部分のオリンピックの試合を2015年に公式に認めている」という見解を示し、JFAの記録を追認している。", "title": "代表歴" } ]
三浦 知良は、静岡県静岡市葵区出身のプロサッカー選手。リーガ・ポルトガル2・UDオリヴェイレンセ所属。ポジションはフォワード。元日本代表。元フットサル日本代表。Jリーグ開幕以来現役を続けている唯一の選手である。ポルトガルリーグ最年長出場記録保持者(56歳)。
{{別人|三浦和義}} {{サッカー選手 | 名前 = {{ruby|三浦|みうら}}{{ruby|知良|かずよし}} | 画像 = Kazu Miura at Matsuda tribute match 20120122.jpg | 画像サイズ = <!-- デフォルトは200px --> | 画像の説明 = 2012年の三浦知良 | 本名 =三浦知良 | 愛称 = カズ | カタカナ表記 = ミウラ カズヨシ | アルファベット表記 = MIURA Kazuyoshi | 原語名 = | 原語表記 = | 国 = {{JPN}} | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1967|02|26}} | 出身地 = [[静岡県]][[静岡市]][[葵区]] | 没年月日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1967|02|26|XXXX|XX|XX}}テンプレートを使用 --> | 身長 = 177[[センチメートル|cm]] | 体重 = 72[[キログラム|kg]] | 所属チーム名 = {{Flagicon|POR}} [[UDオリヴェイレンセ]] | ポジション = [[フォワード (サッカー)|FW]] | 背番号 =11 | 利き足 = 右足 | ユース年1 = 1973-1979 |ユースクラブ1 = {{Flagicon|JPN}} 城内FC | ユース年2 = 1979-1982 |ユースクラブ2 = {{Flagicon|JPN}} [[静岡市立城内中学校|城内中学校]] | ユース年3 = 1982 |ユースクラブ3 = {{Flagicon|JPN}} [[静岡学園中学校・高等学校|静岡学園高等学校]] | ユース年4 =1982-1986 |ユースクラブ4 = {{Flagicon|BRA1968}} [[CAジュベントス|ジュベントス]] | 年1 = 1986 |クラブ1 = {{Flagicon|BRA1968}} [[サントスFC|サントス]] |出場1 = 2 |得点1 = 0 | 年2 = 1986 |クラブ2 = {{Flagicon|BRA1968}} [[SEパルメイラス|パルメイラス]] |出場2 =25 |得点2 =2 | 年3 = 1986 |クラブ3 = {{Flagicon|BRA1968}} 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→{{Flagicon|JPN}} [[鈴鹿ポイントゲッターズ]] (loan) |出場15 =18 |得点15 =2 | 年16 =2023- |クラブ16 = →{{Flagicon|POR}} [[UDオリヴェイレンセ]] (loan) |出場16 =4 |得点16 =0 | 代表年1= 1990-2000 |代表1= {{JPNf}} <ref name="daihyou">]{{Cite web|和書|url=http://www.jfa.or.jp/daihyo/daihyo/news/070615_06.html |title=【日本代表チームデータベース検討委員会】日本代表戦の検証と認定結果(07.06.15) |accessdate=2013年2月12日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070831061032/http://www.jfa.or.jp/daihyo/daihyo/news/070615_06.html |archivedate=2007年8月31日 }}</ref> |代表出場1= 89 |代表得点1 = 55 | 代表年2= 2012 |代表2= {{Flagicon|JPN}} [[フットサル日本代表|日本 フットサル]] |代表出場2= 6 |代表得点2 = 1 | クラブ成績更新日 = 2023年2月1日 | 監督年1 = | 監督チーム1 = }} '''三浦 知良'''(みうら かずよし、[[1967年]]〈[[昭和]]42年〉[[2月26日]] - )は、[[静岡県]][[静岡市]][[葵区]]出身の[[プロサッカー選手]]。[[セグンダ・リーガ|リーガ・ポルトガル2]]・[[UDオリヴェイレンセ]]所属。[[サッカーのポジション|ポジション]]は[[フォワード (サッカー)|フォワード]]。元[[サッカー日本代表|日本代表]]。元フットサル日本代表。Jリーグ開幕以来現役を続けている唯一の選手である。ポルトガルリーグ最年長出場記録保持者(56歳)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230821/k10014168851000.html |title=三浦知良 ポルトガル2部に今季初出場 56歳で最年長出場 |publisher = |accessdate=2023-08-21}}</ref>。 == 概要 == [[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]史上最高齢の54歳で[[J1リーグ]]でプレーした経験を持つ。 [[サッカー日本代表|日本代表]]としても[[FIFAワールドカップ]]初出場に貢献。ワールドカップ地区予選では総得点を27点記録するも、ワールドカップ本大会へは未出場。[[Jリーグアウォーズ|Jリーグ年間最優秀選手賞]]1回、得点王1回、ベストイレブンを2回受賞、[[1993年]]に[[アジア年間最優秀選手賞]]を受賞。[[釜本邦茂]]と共に、[[国際Aマッチ]]1試合で6得点の日本代表1試合最多得点記録、通算得点記録(55得点)を持つ(2011年時点)<ref name="日本代表記録集2011">日本サッカー協会編「日本代表公式記録集The Yearbook of JFA 2011」</ref>。 2012年には[[フットサル日本代表]]として[[2012 FIFAフットサルワールドカップ|フットサルワールドカップ]]に出場した。 妻は[[タレント]]・[[ファッションモデル]]の[[三浦りさ子]]、長男は[[俳優]]の[[三浦獠太]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20191120_1491792.html|title=三浦カズ&りさ子の長男、グランメゾン東京で俳優デビュー|publisher=NEWSポストセブン|date=2019-11-20|accessdate=2020-06-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://hochi.news/articles/20200601-OHT1T50044.html|title=カズ長男が芸能界入り 中村倫也・松坂桃李ら擁する「トップコート」に所属を発表|publisher=スポーツ報知|date=2020-06-01|accessdate=2020-06-01}}</ref>、次男は格闘家の[[三浦孝太 (格闘家)|三浦孝太]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/battle/news/202206040000819.html|title=カズ次男・三浦孝太「天心-武尊」戦地上波放送見送りに「影響力はすごい。放送してほしい」|publisher=日刊スポーツ|date=2022-06-04|accessdate=2022-06-04}}</ref>、いとこにサッカー選手の[[納谷伊織]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkeyshimbun.jp/2005/050219-62colonia.html|title=目指せ第二のカズ・ヤス兄弟=いとこの納谷兄弟もキンゼ・デ・ジャウーへ修行に|publisher=ニッケイ新聞|date=19 February 2005|accessdate=14 June 2023}}</ref>、親戚に[[ビームス]]社長の[[設楽洋]]がいる他、俳優で[[DISH//]]のメンバーの[[北村匠海]]は24親等にあたる<ref name="beams"/>。 == 経歴 == === 幼年期 === [[1967年]](昭和42年)[[2月26日]]、父・[[納谷宣雄]]<ref>『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 162頁。</ref>、母・由子の次男(長男は[[三浦泰年]])として[[静岡県]][[静岡市]]に生まれた<ref name="一志治夫 1993, p13">[[#一志1993|一志1993]]、13頁。</ref>。母方の叔父はサッカー指導者の[[三浦哲治]]。知良(かずよし)という変わった読み方の名前は、父方の祖父に付けられたものだという<ref name="一志治夫 1993, p13"/>。[[1973年]][[4月]]、静岡市立城内小学校に入学<ref name="kerioto_ryakureki">[[#三浦知良2006|三浦知良2006]]、254-255頁。※生誕から2006年1月までの略歴</ref>。小学時代には、父方の伯父・納谷義郎が監督を務める城内FCに入っていた<ref>[[#一志1993|一志1993]]、12頁。</ref>。小学校4年生の時に両親が離婚。三浦姓を名乗るようになった<ref>[[#一志1993|一志1993]]、19頁。</ref>。 === ブラジル時代 === [[1982年]]12月、[[静岡学園中学校・高等学校|私立静岡学園高校]]を1学年修了を待たずに8カ月で中退。ブラジルに単身で渡航し、[[CAジュベントス]]に所属<!-- 留学 --><ref>[[#一志1993|一志1993]]、14頁。</ref>。<!--その後ブラジル中を渡り歩くことになるカズの出発点であった。-->当時の三浦は身長が低く、テクニックは持っていたものの他に一流と呼べるような強みはなく、指導者達はブラジルでプロのサッカー選手になりたいという三浦の夢は実現不可能だと考えていた<ref>[[#一志1993|一志1993]]、29頁。</ref>。[[1984年]]の秋頃、ジュベントスから[[ECキンゼ・デ・ノヴェンブロ (ジャウー)|ECキンゼ・デ・ノヴェンブロ(通称:キンゼ・デ・ジャウー)]]へ移籍した<ref name="一志治夫 1993, p51">[[#一志1993|一志1993]]、51頁。</ref>。 1985年頃には夢を諦めた上で日本に帰国することも一時検討したが最終的に翻意し、ブラジルでの下積みを継続した。後に本人が語ったところによれば、ふと寄った[[リオデジャネイロ|リオ]]の公園で現地の貧しい少年達がサッカーをしている様子を見かけたことが、帰国を思い止まる切っ掛けを作ったという。三浦曰く、その少年達の中には裸足の子や片足がない子もおり、ボールも古く汚いものだったが、皆楽しそうにボールを追っており、その様子を見て、「自分には両足も、[[スパイクシューズ|スパイク]]も、いいボールもある。何を俺は贅沢なことを言っているんだ」と思い、帰国を思いとどまったとのことである<ref>[[#一志1993|一志1993]]、50頁。</ref>。同年8月、[[SBSカップ 国際ユースサッカー|SBSユース]]に出場したキンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋し、当時静岡高校選抜に選出されていた[[中山雅史]]、[[武田修宏]]らと試合を行った<ref>[http://www.at-s.com/youth_soccer/about.html SBSカップについて] - SBSカップ公式サイト</ref>。[[1986年]]1月<ref group="注">書籍『足に魂こめました』『三浦知良物語』では'''1986年'''1月と記載されている。本人公式サイト『[http://www.kazu-miura.com/history/history1.html HISTORY - BOA SORTE KAZU!]』、および書籍『蹴音』『たったひとりのワールドカップ』の略歴では'''1985年'''1月と記載されている。</ref>には、[[カンピオナート・パウリスタ|サンパウロ州選手権]]タッサ・サンパウロ (U-21) に[[日本人]]として初出場した。同大会やキンゼ・デ・ジャウーの育成組織で活躍したことが、後のプロ契約に繋がっていった<ref name="一志治夫 1993, p51"/>。 1986年2月、[[サンパウロ州]]のクラブである[[サントスFC]]と自身初のプロ契約<ref name="kerioto_ryakureki"/>を結んだ。チームメイトであった[[ドゥンガ]]からは[[4月9日]][[CAジュベントス|ジュベントス]]デビュー戦でのプレーを叱責された<ref>{{Cite web|和書| url =https://www.soccer-king.jp/sk_column/article/93792.html| title=三浦知良インタビュー「デビュー戦でドゥンガにこっぴどく叱られた」| publisher=www.soccer-king.jp| accessdate =9 April 2020}}</ref>。5月には[[SEパルメイラス]]と特別契約を結び日本での[[キリンカップサッカー|キリンカップ]]で<!--凱旋帰国-->プロサッカー選手として帰国を果たし<ref name="kerioto_ryakureki"/>、[[ヴェルダー・ブレーメン]]戦では、後に選手と会長という間柄になる[[奥寺康彦]]と数度に渡り激しくマッチアップ、また[[フランシスコ・エルナンディ・リマ・ダ・シルバ|ミランジーニャ]]のゴールをアシストした<ref>[[サッカーマガジン]] 1986年7月 no.322号 p.24-34 [[ベースボールマガジン社]]</ref>。 サントスFCで出場できたのは1部リーグ2試合のみに留まり、[[1986年]][[10月]]には[[パラナ州]]の[[SEマツバラ]]へ[[期限付き移籍|レンタル移籍]]。翌[[1987年]]の[[2月]]にはマツバラと正式契約を結ぶと、レギュラーとして南部三州リーグ優勝に貢献し<ref>[[#一志1993|一志1993]]、52-58頁。</ref>、同年[[10月]]に[[アラゴアス州]]の[[クルーベ・ジ・レガタス・ブラジル]](通称:CRB)に移籍した。このクラブでも三浦はレギュラーとして活躍し、日本人で初めて[[カンピオナート・ブラジレイロ|ブラジル全国選手権]]への出場を果たした<ref>[[#一志1993|一志1993]]、58-61頁。</ref><ref name="ninomiya">[http://www.ninomiyasports.com/sc/modules/bulletin/article.php?storyid=1937 田崎健太「国境なきフットボール」第8回 カズの足跡を辿って(後編)] - スポーツコミュニケーションズ(2008年5月9日)</ref>。またこの時「日本の[[ガリンシャ]]」とも呼ばれ注目された<ref>{{Cite web|和書| url =https://number.bunshun.jp/articles/-/843765?page=3| title=カズ20歳、ブラジルでの洗礼と栄誉 必殺ドリブルと“日本のガリンシャ”| publisher=number.bunshun.jp| accessdate =9 April 2020}}</ref>。 1988年、かつてユース時代に所属したサンパウロ州のキンゼ・デ・ジャウーへ移籍<ref name="kerioto_ryakureki"/>。同年[[3月19日]]、[[SCコリンチャンス・パウリスタ]]戦で日本人としてリーグ戦で初得点を記録し、格上の人気チーム相手に3-2で勝利するという[[番狂わせ|番狂わせ(いわゆるジャイアント・キリング)]]の立役者の一人<ref name="ninomiya"/><ref>[[#綾野1997|綾野1997]]、113-117頁。</ref>。このときの試合はブラジル全土に[[中継放送|テレビ中継]]されていたため、「三浦知良」という日本人の名前がブラジル全土に知られるきっかけとなった<ref>[[#一志1993|一志1993]]、69頁。</ref>。同年にブラジルのサッカー専門誌『[[プラカー]]』の年間ポジション別ランキングで左ウイングの第3位に選ばれた<ref name="wing_3">[[#三浦知良2006|三浦知良( 2006]]、176頁。</ref><ref name="wing_3_2">[[#一志1993|一志1993]]、77頁。</ref>。クラブでの活躍により、三浦は[[ジャウー]]市から[[名誉市民]]賞を贈られている<ref name="jau">[https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2009/12/24/kiji/K20091224Z00002070.html カズ、ブラジル移籍浮上!古巣からラブコール] - スポーツニッポン(2009年12月24日)</ref>。 1989年2月、[[エドゥアルド・アントゥネス・コインブラ|エドゥー]]が監督を務めていた、[[パラナ州]]の[[コリチーバFC]]へ移籍、チームの中心選手として<ref>{{Cite web|和書| url =https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2020/10/07/post_62/index_2.php| title=カズ、ジーコ…鹿島初のブラジル人監督が語る日本の思い出 ページ2|publisher=sportiva| accessdate =2021-02-26}}</ref>、[[カンピオナート・パラナエンセ|パラナ州選手権]]優勝に貢献した<ref name="kerioto_ryakureki"/>。好調を維持していたこの頃、チーム名は明かされなかったが、40万ドルでイタリアリーグのチームへの移籍の話が出た(三浦は後に記者から、ブラジルの選手を多くイタリアリーグに送り込んでいたスカウトマンが、当時セリエAの[[カルチョ・コモ|コモ]]への移籍を進めていたという話を聞かされた。)<ref>サッカーストライカー 1989年7月号 p.46-47 [[小学館]]</ref>。7月にはブラジルにやってきた[[サッカー日本代表|日本代表]]と対戦した<ref>{{Cite web|和書| url =https://number.bunshun.jp/articles/-/843765?page=5| title=カズ20歳、ブラジルでの洗礼と栄誉 必殺ドリブルと“日本のガリンシャ”その5| publisher=number.bunshun.jp| accessdate =9 April 2020}}</ref>。 1990年2月、4年ぶりに古巣・サントスFCへ復帰<ref name="kerioto_ryakureki"/>。サントス在籍時代にマツバラにレンタルされたとき以来、もう一度サントスでプレーして自分の力を証明したいと思っていたこともあり、三浦はサントスへの移籍に際し、他のチームからの移籍の誘いを断り、サントスと交渉した<ref>[[#一志1993|一志1993]]、84頁。</ref>。移籍後にレギュラーの地位を確保すると同年[[4月29日]]のパルメイラス戦では1得点1アシストと活躍し、チームも2-1で勝利。翌日のブラジルの新聞はスポーツ紙・一般紙を問わず同試合での三浦の活躍を伝え<ref>[[#一志1993|一志1993]]、85頁。</ref>、この試合の三浦のゴールシーンはブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の表紙を飾った<ref>[[#綾野1997|綾野1997]]、135頁。</ref>。 === ヴェルディ川崎とJリーグでの活躍。ジェノア移籍へ === [[1990年]]7月、[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]発足が現実味を増す中、[[サッカー日本代表|日本代表]]の[[FIFAワールドカップ|W杯]]出場権獲得に貢献するためにブラジルに残ることよりも代表選考の対象となりやすい日本でプレーすることを決断し、[[日本サッカーリーグ]]の[[読売サッカークラブ]](ヴェルディ川崎 = 現:[[東京ヴェルディ1969|東京ヴェルディ]]の前身)へ移籍。当初、周囲の期待とは裏腹に日本のサッカーになじめずなかなか[[日本サッカーリーグ]]のリーグ戦では活躍できなかった<ref>[[#一志1993|一志1993]]、99-101頁。</ref>が、時間の経過とともに徐々に順応を見せた。1990年10月28日の[[日本鋼管サッカー部|NKK]]戦でリーグ戦デビューを果たすと、PKで初ゴールを決めただけでなく、3つのアシストを決め、全得点に絡む活躍で4-0で勝利<ref>{{Cite web|和書| url =https://www.nikkansports.com/soccer/news/202006290000857.html| title=本場仕込みの実力/記者が選ぶカズの思い出ゴール1| publisher=www.nikkansports.com| accessdate =30 June 2020}}</ref>、このシーズンはリーグ優勝に貢献して、リーグのベストイレブンにも選出された<ref>{{Cite web|和書| url =https://news.yahoo.co.jp/byline/kawabatayasuo/20201028-00190521| title=30年前、カズが日本に帰ってきた!| publisher=news.yahoo| accessdate =28 October 2020}}</ref>。1991年3月10日、[[ヤマハ発動機サッカー部|ヤマハ発動機]]戦では、[[三浦泰年]]のゴールをアシスト、弟から兄へのアシストは高校時代以来であった<ref>[[ストライカー (雑誌)]] 1991年5月3日号 [[Gakken|学研]] p.36-37</ref>。1992年4月12日のゼロックスチャンピオンズカップ決勝の[[トヨタ自動車工業サッカー部|トヨタ自動車]]戦では1ゴールを決めて優勝に貢献した<ref>[[ストライカー (雑誌)]] 1992年6月号 [[Gakken|学研]] p.6-9</ref>。[[1992年のJリーグカップ]]では9月19日の[[ガンバ大阪]]戦でリーグカップ史上初めてとなるハットトリックを決めると<ref>{{Cite web|和書| url =https://data.j-league.or.jp/SFTD09/search?selectFlag=3&competition_frames=11&competition_year_from=&competition_year_to=&player_name=| title=Jリーグカップ ハットトリック一覧| publisher=data.j-league| accessdate =21 April 2020}}</ref>、準決勝の[[鹿島アントラーズ]]戦で決勝ゴールを決め<ref>{{Cite web|和書| url =https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=46| title=92Jリーグ ヤマザキナビスコカップ 準決勝| publisher=data.j-league| accessdate =21 April 2020}}</ref>、決勝の[[清水エスパルス]]戦でも決勝ゴールを決めるなど<ref>{{Cite web|和書| url =https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=48| title=92Jリーグ ヤマザキナビスコカップ 決勝| publisher=data.j-league| accessdate =21 April 2020}}</ref>、ヴェルディを優勝に導き、大会MVPにも選出された。この活躍が評価され、三浦は[[1992年]]の[[日本年間最優秀選手賞]](フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞した。この年、地元であるエスパルスからのオファーを受け<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kazu-miura.com/column/detail/?article=253|title=“サッカー人として”  2017年10月27日(金)掲載|website=SOASORTE KAZU|accessdate=2023-6-3}}</ref>、移籍に前向きな姿勢を示していたが、ヴェルディに残留した<ref>{{Cite web|和書|url=https://wpb.shueisha.co.jp/news/sports/2023/05/26/119538/|title=川淵三郎が明かす「Jリーグ史上最大の危機」。99年フリューゲルス消滅の前後、多くのクラブが資金難に。初代チェアマンはどう乗り越えたのか?|website=週プレニュース|date=2023-5-26|accessdate=2023-6-3}}</ref>。 Jリーグの開幕年となった[[1993年]]シーズンのリーグ戦の第1ステージ、5月26日5節の[[鹿島アントラーズ]]戦でJリーグ初ゴールを決めたが<ref>{{Cite web|和書| url =https://data.j-league.or.jp/SFIX04/?player_id=124| title=三浦 知良| publisher=j-league| accessdate =9 April 2020}}</ref>、クラブ内の内紛(欧州路線)や日本代表の過密スケジュールの影響を受け18試合5ゴールという成績に終わった。第2ステージから[[ビスマルク・バレット・ファリア|ビスマルク]]が加入。[[7月17日]][[神戸総合運動公園ユニバー記念競技場|神戸ユニバー記念競技場]]で行われた[[Jリーグオールスターサッカー]]では2得点を決める活躍を見せ<ref>{{Cite web|和書| url =https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=231| title=93JリーグKodakオールスターサッカー| publisher=j-league| accessdate =9 April 2020}}</ref>、大会MVPに選出された。その後は調子を取り戻し、自身の結婚式の前日の試合となった[[7月31日]][[東平尾公園博多の森陸上競技場|博多の森陸上競技場]]での第2ステージ第2節[[ガンバ大阪]]戦からは6試合連続で得点を記録した<ref group="注">この連続得点試合数6試合という三浦の記録は、[[1997年]]に当時[[横浜マリノス]]所属していた[[フリオ・サリナス|サリナス]]がリーグ戦第2ステージ最終戦で7試合に亘って連続得点を決めるまでJリーグ史上最多記録であった。また、Jリーグ登録の日本人選手による記録としては[[2016年]]12月現在も史上最多記録である</ref>。12月8日17節[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]]戦ではJリーグでの初ハットトリックを決め<ref name="DJ">{{Cite web|和書| url =https://data.j-league.or.jp/SFTD09/search?selectFlag=3&competition_frames=1&competition_year_from=&competition_year_to=&player_name=| title=Jリーグ ハットトリック一覧| publisher=data.j-league| accessdate =21 April 2020}}</ref>、ニコスシリーズ18試合で15ゴールを挙げ、チャンピオンシップの鹿島アントラーズ戦では第1戦、2戦共にゴールを決め、年間優勝に貢献するなど、シーズンを通して日本人選手ではリーグ内でトップとなる20得点を決める活躍を見せた<ref name="EPSON"/>。この活躍が評価され、第1回の[[Jリーグアウォーズ|MVP]]を受賞した他、前年に続き、1993年の日本年間最優秀選手賞に輝き、1993年の[[アジア年間最優秀選手賞]]をも受賞した。また1993年12月には[[ACミラン]]主催のチャリティーマッチに招待され、世界選抜のメンバーとして先発出場(この様なチャリティーマッチへの日本人選手の出場は、これまで[[釜本邦茂]]、[[奥寺康彦]]のみであった<ref name="EPSON"/>。)50分間プレー<ref name="EPSON"/><ref>[http://storiedicalcio.altervista.org/blog/milan-christmas-stars.html Stelle di natale 2016]</ref>、サイドからのクロスで[[ウーゴ・サンチェス]]の得点をアシストした<ref name="EPSON"/><ref>『週刊サッカーマガジン』1994年1月26日号 no.439、107-111頁。</ref>。前日には世界選抜に選ばれたメンバーの中で唯一、ACミランの練習に参加した<ref name="EPSON"/>。またこの時、セリエA関係者からの興味が伝えられ、イタリアのマスコミから取材を受けるなど注目を集めた<ref name="EPSON">エプソンカップ 1994 ヴェルディ川崎 VS ACミラン 公式パンフレット P.42</ref>。 ==== ジェノアCFC ==== [[1994年]]には移籍を認めたくなかった[[渡辺恒雄]]から、1年間のレンタルということでようやく了承を得て<ref name="live"/>、[[1994-95シーズン ジェノアCFC|1994-95シーズン]]、[[イタリア]]・[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の[[ジェノアCFC]]へ期限付移籍し、[[アジア系民族|アジア人]]初のセリエAプレーヤーとなった。この移籍にはジェノアの会長アルド・スピネッリがプレーぶりを見て魅力を感じたこと<ref name="soc">{{Cite web|和書|url=https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=72816| title=カズ、中田、中村、本田…セリエAを彩った歴代日本人選手の「リアル評」は? イタリア人記者に訊く| publisher=www.soccerdigestweb.com| accessdate =9 April 2020}}</ref>、そして商業的な価値を期待してのもので、ジェノアの[[ユニフォーム]]の広告権を[[ケンウッド]]が獲得したこともあって、加入会見では「スポンサーを得るために獲得したと言われているが、どう思うか?」などと辛辣な質問も浴びせられた<ref>Sports Graphic Number 765号 二宮寿朗「越境ワールドマップ 世界を席巻する日本人フットボーラー約120人」、2010年10月28日発売。</ref>。 プレシーズンマッチの地中海カップでは、[[パナシナイコスFC]]と[[ACミラン]]相手に好プレーを見せ<ref> Genoa News Settembre 1994 page36-37</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.footballchannel.jp/2019/04/01/post315989/2/| title=94年、三浦知良。「金を払って選手をねじ込む」“マーケティング主導”の揶揄の中、築いた礎 セリエA日本人選手の記憶(1)| publisher=www.footballchannel| accessdate =28 October 2020}}</ref>、[[コパ・イタリア]]2回戦の[[ACチェゼーナ|チェゼーナ]]戦で先発出場して公式戦デビュー<ref name="soccerm"/>、サンシーロで行われた、[[ACミラン]]とのセリエA開幕戦において先発出場し、セリエAデビュー、前半途中に[[フランコ・バレージ|バレージ]]とプレー中に激突し、[[鼻骨]]骨折と[[眼窩]]系神経を損傷してしまい、一ヶ月の戦線離脱を余儀なくされた<ref>[[#三浦知良2011|三浦知良2011]]、54-56頁。</ref>。 復帰後、第12節の[[UCサンプドリア|サンプドリア]]との[[ジェノヴァ]]ダービーで先発出場、[[アントニオ・マニコーネ|マニコーネ]]の浮き球から[[トマーシュ・スクラビー|スクラビー]]がヘディングで落としたボールを右足アウトサイドでゴール隅に決め、セリエA4試合目の出場で初ゴールとなる<ref name="soccerm"/>、先制ゴールを奪ったが、これがジェノアでの唯一の得点となった<ref>[[#三浦知良2011|三浦知良2011]]、60-62頁。</ref>。16節の[[カルチョ・パドヴァ|パドヴァ]]との対戦では、サイド突破からマニコーネの決勝点のアシストをした<ref>週刊サッカーダイジェスト 1995.2.15 P.13</ref>。第31節の[[ユベントスFC|ユベントス]]戦では65分から途中出場したが、退場者が出て10人での戦いを強いられたこともあり、シュートすら打てずに試合終了<ref name="soccerm">[[週刊サッカーマガジン]] 1995年6月7日 no.507 p.112-115 [[ベースボールマガジン社]]</ref>、代表戦の為、残りの試合とセリエB降格プレーオフには出場せず帰国、また1994年10月にはアジア大会への出場のために帰国したことや(セリエA3試合、コパ・イタリアを欠場<ref name="soccerm"/>。)、度重なる監督交代も影響して、21試合出場(先発10試合)<ref>[[#一志1998|一志1998]]、48頁。</ref>、第19節の[[ACFフィオレンティーナ|フィオレンティーナ]]戦でのループシュートはクロスバーに当たり得点ならず<ref>[[週刊サッカーマガジン]] 1995年3月8日 no.495 p.154-155</ref>、また自身の誕生日に出場した[[SSCナポリ|ナポリ]]戦など<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/soccer/world/news/1784044.html| title=C・ザグレブのカズ32歳バースデー弾ならず/復刻| publisher=www.nikkansports| accessdate =28 October 2020}}</ref>数回のゴールがオフサイドで取り消されたことなどもあり、シーズン1ゴールのみに終わった。その後、[[トリノFC]]、[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル]]といったチームからオファーが来ていたが<ref>『週刊サッカーダイジェスト』NO. 271 1995 7.5 今週のTOP NEWSページ番号記載無ページ</ref>、シーズン終了後にはヴェルディ川崎へ復帰することとなった<ref>[[#一志1998|一志1998]]、53-63頁。</ref>。ジェノア在籍時には[[ジェノヴァ]]の名前を日本に広めたことで、市から特別表彰を受けた<ref>『週刊サッカーダイジェスト』1995.2.22、15頁。</ref>。3度の監督交代など<ref name="soccerm"/>様々な事情もあり<ref name="live">{{Cite web|和書|url=https://news.livedoor.com/article/detail/18188337/| title=カズがわずか1年でイタリア1部・ジェノアを退団した真相| publisher=news.livedoor.com| accessdate =10 May 2020}}</ref>、成功は収められなかったが、これまでイタリア人がもっていた日本のサッカーとサッカー選手に対しての概念を変えさせ、その後の日本人選手たちのセリエA入りの扉を開いた<ref name="soc"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.goal.com/jp/ニュース/三浦知良から吉田麻也までイタリアに上陸した12人の日本人選手が伊で特集/1towp6iqly2mz18s1kgq3k1wbu| title=三浦知良から吉田麻也まで「イタリアに上陸した12人の日本人選手」が伊で特集| publisher=www.soccerdigestweb.com| accessdate =10 May 2020}}</ref>。シーズン終了後、[[ジェノアCFC]]の一員として、[[横浜スタジアム]]で行われた、ヴェルディ川崎との親善試合に出場、この試合を最後にジェノアを離れ、ヴェルディへ復帰した。また在籍時の1994年12月には[[ASローマ]]対世界選抜の試合に先発出場、裏に抜け出し[[洪明甫]]のスルーパスからシュートを放つが、シュートはGK正面に飛び得点は奪えなかった<ref>[[週刊サッカーマガジン]] 1995年」1月25日 no.489号 p.20-21</ref>。 ==== ヴェルディ川崎への復帰 ==== その後、三浦はJリーグの[[1995年]]シーズン第2ステージから古巣・ヴェルディ川崎に復帰。復帰初戦、8月12日[[湘南ベルマーレ|ベルマーレ平塚]]戦で2ゴールを決めると、9月2日、6節[[鹿島アントラーズ]]戦、9月13日、9節[[横浜フリューゲルス]]戦でハットトリックを決めるなど<ref name="DJ"/>、26試合で23ゴールを挙げ、第2ステージのみの出場にもかかわらず得点ランキングの上位に名を連ねた。 [[1996年のJリーグ]]は初の一シーズン制となったシーズンとなったが、ヴェルディ川崎は7位に沈んだものの、11月6日の[[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフユナイテッド市原]]戦でハットトリックを決めるなど<ref name="DJ"/>、三浦自身はリーグ得点王になる活躍を続け、[[第76回天皇杯全日本サッカー選手権大会]]制覇にも貢献した。また1996年にはFIFAの世界選抜に選出され、[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]戦に先発出場した。この年、当時[[プリメーラ・ディビシオン|ラ・リーガ1部]]の[[CDログロニェス]]からオファーを受け、[[ミゲル・アンヘル・ロティーナ]]監督とも移籍に向けた話し合いをしていたが、年俸などの条件が合わず、移籍は実現しなかった<ref>{{Cite web|和書|date=2017-05-05 |url=https://blogola.jp/p/71217 |title=[東京V]ロティーナ監督、リーガで指揮を執っていた96年に三浦知良と「契約する可能性があった」ことを明かす |publisher=BLOGOLA |accessdate=2023-7-3}}</ref>。 ===ケガによる衰えとクロアチア移籍。京都と神戸での再起=== 30歳となった[[1997年]]シーズン頃から衰えを見せ始めた。この年あたりから以前のようなキレが徐々になくなり、怪我も多くなっていたが、追い討ちをかけてW杯最終予選の韓国戦での[[崔英一]]からのラフプレーで尾てい骨を痛めてコンディションを大きく落とす<ref name=stm/>。その怪我の影響から、同年の試合出場数は全試合数の半数に満たない14試合にとどまり、得点数は4点。ヴェルディ川崎も初の二桁順位と、三浦個人・チームともに振るわぬ成績に終わった。 [[1998年]]シーズン、新加入のエウレルと[[高木琢也]]のツートップを採用したことからMFとしてプレーした。ファーストステージこそ終盤まで優勝争ったが、セカンドステージではベンチスタートになることも増え、1ゴールを挙げたのみに終わった。チームも18チーム中17位と低迷した<ref>{{Cite web|和書|url=https://data.j-league.or.jp/SFRT01/?competitionSectionIdLabel=%E7%AC%AC%EF%BC%91%EF%BC%97%E7%AF%80&competitionIdLabel=%EF%BC%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0+%EF%BC%92%EF%BD%8E%EF%BD%84&yearIdLabel=1998%E5%B9%B4&yearId=1998&competitionId=73&competitionSectionId=17&search=search|title=Jリーグ 1998 セカンドステージ順位表|publisher=data.jleague|access-date=June 5 2022}}</ref>。年末にV川崎は親会社である読売新聞の事業撤退で大幅な経営縮小のため、高年俸のベテラン選手達のリストラを敢行し、三浦に対しても年俸ゼロ円提示がなされた<ref>{{Cite web|和書|url=https://spaia.jp/column/soccer/jleague/10178|title=三浦知良がクビになった日…今こそ見習いたいカズの逞しさ|publisher=SPAIA|date=April 18 2020|access-date=June 5 2022}}</ref>。 ==== クロアチア・ザグレブ ==== 三浦は、2年契約で[[クロアチア]]のクラブチーム、[[NKディナモ・ザグレブ|クロアチア・ザグレブ]](現GNKディナモ・ザグレブ)へ移籍。これはクロアチア・ザグレブに大きな影響力を持った当時のクロアチア大統領[[フラニョ・トゥジマン]]の意向が働いたものとされており、戦力としての評価よりも背後のジャパン・マネーを狙った経済的な期待が大きかった<ref>{{Cite book|和書|author=宇都宮徹壱|authorlink=宇都宮徹壱|year=2004|title=ディナモ・フットボール 国家権力とロシア・東欧のサッカー|publisher=みすず書房|isbn=4-622-03389-5|pages=224-239}}</ref>。この時チームメートになった[[ゴラン・ユーリッチ]]のサッカーへの取り組み方や考えに影響を受けた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/professional/2010/0323/index.html|title=第141回スペシャル 三浦知良|publisher=www.nhk|accessdate=2020-4-16}}</ref>。カズはデビュー戦となったムラードスト127戦ではアシストを決めるも、PKを失敗した。5月23日の[[NKオシエク|オシエク]]戦では退場処分を受けた<ref name="sanga"/>。ザグレブは[[プルヴァHNL|クロアチア・リーグ]]で優勝を果たした。シーズン終了後、新たに就任した日本でも監督経験のある[[オズワルド・アルディレス]]監督に戦力外とされ<ref name="sanga"/>、本人が熱望していた[[UEFAチャンピオンズリーグ]]への日本人初出場はかなわず、[[1999年]]6月、契約よりも1年早く日本に帰国。1999年5月にはマルセイユで行われた、[[ジャン・ピエール・パパン]]の引退試合に招待され、フランス代表と対戦<ref>[http://www.kazu-miura.com/column/detail/?article=121 刺激は疲れを超える]-Boa Sorte Kazu 2011年6月17日掲載</ref>、得点はなかったが、クロスバー直撃のシュートを放った。 ==== 京都サンガ ==== [[1999年]][[7月]]、イングランド、スコットランドなどのクラブとの交渉がまとまらず<ref name="sanga"/>、当時元日本代表監督の[[加茂周]]監督からの熱心な誘いを受け<ref name="sanga"/>、[[京都サンガF.C.|京都パープルサンガ]]へ移籍。[[中村忠 (サッカー選手)|中村忠]]と再び同僚となった。加茂監督は「カズはある時期を境に全く得点を挙げられなくなった。何度も話し合いをして原因を究明しようとしたが、解らず仕舞いであった。サンガではストライカーへの原点回帰をさせ、全盛期のカズ程まではいかなくても、ストライカーとして復活出来る様に何とか手助けしたい。」と話していた<ref> サッカーダイジェスト 1999/9/15 p.113 </ref>。復帰初戦の[[ヴィッセル神戸]]戦で2ゴールを決めた<ref name="sanga">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/1692578.html|title=カズ2発 キングが日本に帰って来た!!/復刻|publisher=www.nikkansports|accessdate=2020-10-26}}</ref>。その後8試合無得点が続いたが、最終節を前にした磐田戦と最終節のC大阪戦でゴールを決めてシーズンを終えた。 [[2000年]]は、5月13日の対神戸戦でJリーグ通算100得点を達成<ref>[https://www.nikkansports.com/soccer/kazu/top-kazu.html カズプロフィル-日刊スポーツ]</ref>、この試合で101点目となる決勝ゴールも決めた<ref>{{Cite web|和書| url =https://www.nikkansports.com/soccer/news/202006290000859.html| title=千両役者ぶり披露/記者が選ぶカズの思い出ゴール2| publisher=www.nikkansports.com| accessdate =30 June 2020}}</ref>。11月23日の古巣[[東京ヴェルディ1969|ヴェルディ川崎]]戦でハットトリックを決めるなど<ref name="DJ"/>、33歳ながら17得点を記録し得点ランキング3位に入るなど活躍する。しかしこのシーズン、京都はJ2へ降格し、自身2回目であるゼロ円提示を受ける。 ==== ヴィッセル神戸 ==== [[2001年]]からは[[永島昭浩]]が現役を引退した直後の[[ヴィッセル神戸]]に所属し、4年間キャプテンとしてチームの最前線に立った。2節のFC東京戦で移籍後初得点を挙げる。[[11月24日]][[御崎公園球技場|神戸ウイングスタジアム]]のこけら落としとなった[[横浜F・マリノス]]戦では、巧みなトラップで相手DFをかわし、自身を代表するゴールの一つとなるゴールを決めるなど<ref>{{Cite web|和書| url =https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200416-00257252-soccermzw-socc| title=カズ、DF置き去りのトラップ&ターンに反響 19年前の“伝説”ゴールをJ公式が公開| publisher=headlines.yahoo.co.jp/| accessdate =18 April 2020}}</ref>、セカンドステージのラスト4試合でいずれもゴールを挙げ、シーズン11ゴールと健在ぶりを示した。 2002年は代表でもプレーした[[城彰二]]や兵庫県出身でもある[[播戸竜二]]が加入。2002年1stステージ第3節[[ガンバ大阪]]戦では久々にカズダンスを披露した。しかしこのころからフル出場する試合が徐々に減り始める。2ndステージでは臀部の怪我のため長期離脱し、ほとんど出場機会を得られなかった。 [[2003年]]は[[オゼアス・レイス・ドス・サントス|オゼアス]]・[[播戸竜二]]の2トップのバックアッパー的な役割を担うことが多くなり、ベンチスタートとなる試合が増えた。1stステージ8節でシーズン初得点を挙げ、新本拠地での初勝利に貢献した。2ndステージ終盤の残留争いの最中、オゼアスを出場停止で欠き久々にスタメンがめぐってきた鹿島戦では相手ゴール前で素早いターンからこの試合の先制点を決め、ホームでの3か月ぶりの勝利に大きく貢献した。 [[2004年]]、1stステージの第11節のガンバ大阪戦でのゴールで<ref>{{Cite web|和書| url =https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=7811| title=2004Jリーグ ディビジョン1 1stステージ 第11節| publisher=data.jleague| accessdate =13 April 2021}}</ref>、11年連続ゴールを記録。2ndステージに入り[[パトリック・エムボマ|エムボマ]]、[[平瀬智行]]らが加入し、ポジション争いは激化。チームは残留争いに巻き込まれたが、シーズン終盤にスタメンを奪取し12節から14節まで3試合連続ゴールを記録するなど<ref>{{Cite web|和書| url =https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=7943| title=2004Jリーグ ディビジョン1 2ndステージ 第11節| publisher=data.jleague| accessdate =13 April 2021}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url =https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=7945| title=2004Jリーグ ディビジョン1 2ndステージ 第12節| publisher=data.jleague| accessdate =13 April 2021}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url =https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=7958| title=2004Jリーグ ディビジョン1 2ndステージ 第13節| publisher=data.jleague| accessdate =13 April 2021}}</ref>、残留争いを続けるチームにあって重要な役割を果たし[[播戸竜二]]に惜しみなくアドバイスを送った。また地域貢献の一環として、小学校での訪問授業をこの時期開始した。その後横浜FCに移籍してからも、同様の活動を続けている。 [[2005年]]は、開幕からリーグカップも含めて3試合連続ゴールを決めるなどカズとチーム自体も好調なスタートを切ったが、その後チームは低迷し、監督交代が続いた。エメルソン・レオンが辞任し、パベル・ジェハークが就任すると完全に構想から外れ、主将も[[三浦淳宏]]に譲った。7月26日に行なわれた[[ボルトン・ワンダラーズFC|ボルトン]]との親善試合を最後に神戸を退団。 ==== 横浜FC ==== 38歳となった2005年7月、[[横浜FC]]へ電撃移籍。7月30日の水戸ホーリホック戦の後半残り僅かの時間から初出場。8月27日の[[ヴァンフォーレ甲府]]でのゴールは<ref>{{Cite web|和書| url =https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=8881| title=2005Jリーグ ディビジョン122 2ndステージ 第28節| publisher=data.jleague| accessdate =13 April 2021}}</ref>、移籍後初ゴールとなった。 ==== シドニーFC ==== 横浜FCに移籍後間もない[[11月]]、2005年に設立したばかりの[[オーストラリア]][[Aリーグ]]初のゲストプレイヤー(Aリーグの公式戦4試合のみ出場が認められる特別枠選手)として[[シドニーFC]]へ[[期限付き移籍]]。シドニーFCは元Jリーガーで、カズの全盛期を対戦相手としてよく知る[[ピエール・リトバルスキー]]が監督を務めており、[[FIFAクラブ世界選手権2005|2005年12月に日本で開かれるFIFAクラブ世界選手権]]のオセアニア地区からの出場権を既に得ていた。カズはリーグ戦4試合に出場し当時首位を走っていたアデレードとの直接対決において2得点と結果を残した。チームでのポジションを確保し、FIFAクラブ世界選手権では準々決勝たる1回戦と5位決定戦の2試合フルタイム出場、得点には絡まなかったもののシドニーFCは5位決定戦勝利に貢献、全6クラブ中最下位を免れた。シドニーでの[[サッカーの背番号|背番号]]は21番、FIFAクラブ世界選手権では11番を着けてピッチに立ち、前身の[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]]を含め、日本人として初めて同大会に出場した選手となった<ref>{{Cite web|和書| url =https://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20151112/369137.html| title=三浦知良の契約更新を古巣シドニーFCも紹介| publisher=www.soccer-king.jp| accessdate =9 April 2020}}</ref>。 === 横浜FC復帰とJ1昇格 === 三浦は、[[2006年]][[2月]]からは横浜FCの選手兼任の監督補佐に就任するが登録上は選手扱いである(Jリーグの規定では選手が監督・コーチを兼任することが出来ない)。このシーズン、39試合に出場し6得点、横浜FCのJ1初昇格に貢献した。 40歳となった[[2007年]]は、2年ぶりのJ1での戦いとなる。シーズン全34試合中24試合に出場。[[9月15日]]の[[サンフレッチェ広島F.C|サンフレッチェ広島]]戦で日本人選手史上最年長ゴールを記録するなどシーズンで3得点を挙げた。[[12月1日]]の最終戦[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]]との試合では、引き分けか、負ければ浦和の優勝が決まるという大一番で、[[阿部勇樹]]を左サイドで抜き去り、その後のセンタリングから[[根占真伍]]の決勝点をアシストして浦和の優勝を阻んだ。なお、横浜FCはこの試合の前にJ1最下位でJ2降格が決まっていた<ref>[[#矢内2009|矢内2009]]、261-262頁。</ref>。 [[2008年]]はJ2での戦いとなる。シーズン全42試合中30試合に出場し、主に攻撃的MFとして活躍。チーム事情から自身初となるボランチを務めた試合もあった。[[10月25日]]にホームで行われた第41節[[愛媛FC]]との試合にて、自身のJリーグ通算150ゴールとなる<ref>{{Cite web|和書| url =https://www.yokohamafc.com/club/history/| title=横浜FCヒストリー| publisher=横浜FC| accessdate =13 April 2021}}</ref>、シーズン初得点を挙げ、Jリーグ開幕後16年連続得点を記録した。尚、2008年シーズンはこの1得点しか結果を残せなかった。 [[2009年]]も横浜FCと契約、第2節[[ロアッソ熊本]]戦にてPKで得点を挙げたことにより、Jリーグ開幕後17年連続得点と自身の持つJリーグ最年長得点記録を更新したが、この年の得点はこの1得点のみに終わった。 ===横浜FCでの出場機会の減少と最年長記録=== 43歳となった[[2010年]]にはかつて所属していたキンゼ・デ・ジャウーから移籍のオファーがあったが<ref name="jau"/>、横浜FCに残留した。さらに、神戸時代の2005年シーズン以来となるチーム主将を務めることになった。シーズンでは右脚の負傷<ref>[http://www.jsgoal.jp/official/yokohamafc/00102357.html FW三浦知良選手負傷について 横浜FC (10.06.04)] - J's GOAL(2010年6月4日)</ref>に苦しんで出場機会を大きく減らし、プロ入り以来最少となる10試合、わずか188分(換算して2試合分)の出場にとどまった。出場した際には好調なプレーを見せ、8月7日のJ2第21節[[ファジアーノ岡山FC|ファジアーノ岡山]]戦で得点を挙げ、Jリーグ開幕からの18年連続得点を記録した<ref>[https://web.archive.org/web/20130522105730/http://www.47news.jp/CN/201008/CN2010080701000784.html 三浦知がJ2最年長得点を更新 43歳5カ月、今季初得点] - 47NEWS、共同通信(2010年8月7日)。</ref>。9月26日のJ2第28節[[カターレ富山]]戦では、久々の直接フリーキックを決めた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sanspo.com/soccer/news/100926/sca1009261607009-n1.htm |title=43歳、カズが今季2号!最年長記録を更新 |accessdate=2010年9月26日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100929154137/http://www.sanspo.com/soccer/news/100926/sca1009261607009-n1.htm |archivedate=2010年9月29日 }} - サンケイスポーツ(2010年9月27日)</ref>。更に12月4日のJ2最終節[[大分トリニータ]]戦でこのシーズンで初めて先発し、フル出場して得点を挙げ、自らの最年長得点記録を43歳9カ月8日に更新した<ref>{{Cite news|author=|date=2010-12-04|url=https://web.archive.org/web/20101207105032/http://www.47news.jp/CN/201012/CN2010120401000321.html|title=三浦知が最年長ゴールを更新 43歳9カ月8日|newspaper=47NEWS(共同通信)|accessdate=2010-12-05}}</ref>。これらの印象深い活躍から、少ない出場時間ながら横浜FCの「サポーターが選ぶ年間MVP」に選出された<ref>{{Cite news|author=|date=2010-11-29|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp0-20101129-707900.html|title=カズがサポーター選んだ年間MVP|newspaper=日刊スポーツ|accessdate=2010-12-05}}</ref>。 三浦は、2011年はシーズンでは得点を挙げることができず、「J連続得点記録」は18年でストップする。3月29日に行われた[[東日本大震災]]の日本代表のチャリティマッチ「[[東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!]]」においてJリーグ選抜に選出され、後半17分から途中出場。後半37分に[[田中マルクス闘莉王]]の落としたボールに反応して得点を挙げ、試合前の宣言通りカズダンスを披露した。このゴールは世界に中継され、英語実況では「national treasure Miura」と評された。 2011年12月、カズは横浜FCに所属しながら[[日本フットサルリーグ|Fリーグ]]・[[エスポラーダ北海道]]にJリーグ選手枠として登録。2012年1月15日の北海道対[[府中アスレティックフットボールクラブ|府中]]戦の1試合限定で公式戦に出場した<ref>{{Cite web|和書|url=http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/futsal/news/20120116-OHT1T00020.htm |title=カズ弾捨てて勝ちダンス!「僕のゴールは重要じゃない」…fリーグ |accessdate=2012年1月17日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120115224645/http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/futsal/news/20120116-OHT1T00020.htm |archivedate=2012年1月15日 }} - スポーツ報知(2012年1月16日)</ref>。2012年2月、Fリーグ2011poweredyウイダーinゼリーの表彰式で特別表彰を受賞。[[2012年]]10月、[[2012 FIFAフットサルワールドカップ]][[フットサル日本代表|日本代表]]に選出され<ref>{{Cite news|author=|date=2012-10-19|url=http://www.fleague.jp/news/detail.jsp?id=20121019-00|title=IFAフットサルワールドカップ タイ2012(11/1〜18)フットサル日本代表メンバー|newspaper=Fリーグ公式サイト|accessdate=2012-10-19}}</ref>、フットサルでも軽快な動きを見せたり、ゴールを決めたりするなど、年齢を感じさせない活躍をしている。 2012年は、J2出場14試合、うち先発5試合に留まった。第16節ガイナーレ鳥取戦でゴールを決め、Jリーグ最年長得点記録を45歳3カ月に更新した。[[12月22日]]、[[日本フットボールリーグ|JFL]]のチームで[[Jリーグ準加盟クラブ|Jリーグ準加盟]]の承認も受けている[[SC相模原]]から2年契約で完全移籍のオファーを受けたことを報道された<ref name="sponichi1">{{cite news|title = カズがJFL参戦!?SC相模原「完全移籍」で電撃オファー |url = https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2012/12/22/kiji/K20121222004827550.html|publisher = [[スポーツニッポン]]|date = 2012-12-22| accessdate = 2013-01-13}}</ref><ref name="nikkan1">{{cite news|title = カズ、横浜FC残留「最優先」初めて口に|url = http://www.sanspo.com/soccer/news/20130104/jle13010405030000-n1.html|publisher = [[日刊スポーツ]]|date = 2013-01-04| accessdate = 2013-01-13}}</ref>。 [[2013年]][[1月15日]]、横浜FCと2年契約を結んだ<ref name="sponichi2">{{cite news|title = カズ 横浜FC始動日に契約更新「優勝を意識してやる」 |url = https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2013/01/15/kiji/K20130115004986920.html|publisher = [[スポーツニッポン]]|date = 2013-01-15| accessdate = 2013-01-16}}</ref><ref name="zakzak1">{{cite news|title = 横浜FCカズ、2年契約も50歳現役の野望へ正念場の今季|url = http://www.zakzak.co.jp/sports/soccer/news/20130116/soc1301160710000-n1.htm|publisher = [[夕刊フジ]]|date = 2013-01-16| accessdate = 2013-01-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130119021744/http://www.zakzak.co.jp/sports/soccer/news/20130116/soc1301160710000-n1.htm|archivedate=2013-01-19}}</ref>。シーズン途中の6月にはかつてプレーした古巣[[東京ヴェルディ1969|東京ヴェルディ]]が獲得を打診していると報道された<ref>{{cite news|title = カズ、15年ぶりヴェルディ復帰へ!近日中にも正式オファー |url =https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2013/06/18/kiji/K20130618006037000.html|publisher = [[スポーツニッポン]]|date = 2013-06-18| accessdate = 2013-06-18}}</ref>。同年7月3日、J2第22節[[栃木SC]]戦で開始16秒に今季初得点を記録し、最年長得点記録を46歳4ヶ月7日に更新した。また、11月3日にはJ2第39節[[松本山雅FC]]戦でゴールを決め、46歳8ヶ月8日に更新した。 [[2014年]]シーズンは、[[6月5日]]、JFA国際委員を務める梅田邦夫・駐ブラジル日本大使からの要請を受け、[[日本サッカー協会]]が三浦を[[2014 FIFAワールドカップ|ワールドカップブラジル大会]]のJFAアンバサダーに任命、同月12日に日本を出発、現地時間同月14日の日本対[[サッカーコートジボワール代表|コートジボワール]]戦を観戦し、同17日に[[憲仁親王妃久子|高円宮妃久子]]JFA名誉総裁と共にイベントに参加するものの、日本代表への同行や合宿地訪問は行わずに同月20日に帰国する予定となった<ref>{{Cite news|date=2014-06-05|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNSSXKE0661_V00C14A6000000/|title=カズ選手をブラジル派遣 大使としてW杯へ 日本サッカー協会|newspaper=日本経済新聞|publisher=日本経済新聞社|accessdate=2014-06-06}}</ref>。ただ、シーズン開幕前に左足の付け根を痛めて出場機会を失い、J2はわずか2試合、計4分のみの出場となった。 [[2015年]]シーズンは、[[3月9日]]に行われたJ2開幕戦[[ザスパクサツ群馬]]戦で、9年ぶりの開幕スタメンとして出場<ref>{{Cite news|date=2015-03-09|url=https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2015/03/09/kiji/K20150309009943460.html|title=48歳カズ 9年ぶり開幕先発!魂震えた「ちょっと緊張したね」|newspaper=スポニチ|publisher=スポニチ|accessdate=2015-03-09}}</ref>。[[4月5日]]に行われた[[ジュビロ磐田]]戦では、ヘディングで先制ゴールを挙げ、自身の持つ最年長ゴール記録を48歳1か月10日に更新した<ref>{{Cite news|date=2015-04-06|url=http://web.gekisaka.jp/photonews/detail/?160412-160412-pn|title=キングカズ健在、J最年長弾でカズダンス「みんなが見たいと待っているから」(12枚)|newspaper=ゲキサカ|publisher=ゲキサカ|accessdate=2015-04-06}}</ref>。現役世界年長となったこのゴールは、海外のメディアも取り上げている<ref>{{Cite news|date=2015-04-05|url=http://www.footballchannel.jp/2015/04/05/post81048/|title=キングカズの現役世界年長ゴールを英メディアも注目! 史上最年長ゴールは…|newspaper=フットボールチャンネル|publisher=フットボールチャンネル|accessdate=2015-04-05}}</ref>。かつて所属したイタリアでも「ミウラが日本で奇跡を起こした」「元ジェノアのカズ・ミウラは48歳にもかかわらず日本の2部リーグであるJ2リーグの横浜FCでプレーしている」と報じられた<ref>{{Cite web|和書|title=カズの偉業がイタリアでも話題に「元ジェノアのミウラが奇跡を起こした」|publisher=サッカーキング|date=2015-04-06|accessdate=2015-06-12|url=http://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20150406/299053.html}}</ref>。6月29日、[[水戸ホーリーホック]]戦で最年長ゴール記録をまた更新<ref>[https://www.nikkansports.com/soccer/news/1499195.html カズ決勝弾!J2最年長ゴール更新 J1はジーコ] 日刊スポーツ 2015年6月29日</ref>。同年11月11日、横浜FCとの来季の契約延長を発表。カズの背番号に因んで11月11日の11時11分に契約延長が発表された<ref>[http://mainichi.jp/sports/news/20151111k0000e050240000c.html J2:48歳三浦知良、来季も現役 横浜FCと契約更新] 毎日新聞 2015年11月11日</ref><ref>[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151111-00000085-spnannex-socc カズ、49歳シーズンも現役!横浜FCと契約更新、“11並び”発表] YAHOO!ニュース 2015年11月11日</ref>。この契約延長はイタリアやイギリス、スペインなど海外でも話題になり、イタリアの[[ガゼッタ・デロ・スポルト]]紙は「時代を超越した存在」と称賛した<ref>[http://www.footballchannel.jp/2015/11/12/post119751/ カズの契約延長を各国メディアも称賛「時代を超越した存在」] フットボールチャンネル 2015年11月12日</ref><ref>[http://www.goal.com/jp/news/3861/%E6%97%A5%E6%9C%AC/2015/11/12/17230772/%EF%BC%94%EF%BC%98%E6%AD%B3%E3%82%AB%E3%82%BA%E3%81%AE%E5%A5%91%E7%B4%84%E5%BB%B6%E9%95%B7%E3%81%AB%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%8C%E9%A9%9A%E3%81%8F-%E5%90%84%E5%9B%BD%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%81%8C%E5%A0%B1%E9%81%93 48歳カズの契約延長に世界が驚く 各国メディアが報道] Goal.com 2015年11月12日</ref>。[[前園真聖]]は「[[還暦]](60歳)までやるって言っていましたけど、本当にやるんじゃないか(笑)」とコメントしている<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/11/12/kiji/K20151112011495130.html 前園真聖、カズの現役続行に驚き「還暦まで本当にやるんじゃないか」] スポーツニッポン 2015年11月12日</ref>。この年はJ2で3ゴールして健在ぶりをアピールしたが、4月に右足、10月に右太ももを負傷して長期離脱。出場は15試合だった 2016年、6月19日に行われた[[FC岐阜|岐阜]]戦で得点を挙げ自身の持つJリーグ最年長得点記録を更新<ref>[http://www.asahi.com/sp/articles/ASJ6M6V9GJ6MUTQP025.html 49歳カズ、J最年長ゴール記録更新 岐阜戦で得点] 朝日新聞 2016年6月19日</ref>。さらに同年8月7日に行われたアウェイでの[[セレッソ大阪|C大阪]]戦では、69分にチームが2-0で負けている状態で途中出場し、75分に自身の持つJリーグ最年長ゴール記録を49歳5カ月12日に更新するゴールを決めた。また、カズの得点の後、チームは勢いを取り戻し、逆転勝利を挙げた<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/11860827/ カズが最年長ゴール記録を49歳5カ月12日に更新! 反撃弾で大逆転勝利に導く] livedoorニュース2016年8月7日</ref>。 2017年は、自身の50歳の誕生日である2月26日に、開幕戦の[[松本山雅FC|松本]]戦で先発し、Jリーグ史上最年長記録をまたもや更新した。3月12日の[[ザスパクサツ群馬|群馬]]戦でもゴールを決め、自身の持つJリーグ最年長得点記録を50歳と14日に塗り替えた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20170312/561905.html|title=カズが今季初ゴール!J最年長ゴール記録更新でカズダンスも披露|publisher=サッカーキング|accessdate=2017-03-12|date=2017-03-12|author=}}</ref>。この記録は[[イングランド]]の[[スタンリー・マシューズ]]の50歳5日という記録を上回る世界最年長ゴールであり、イギリス紙『[[ガーディアン]]』など世界でも報じられ<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20170313/sck/00m/050/006000c|title=50歳カズの得点が世界でも話題!「不死身」「歴史的ゴール」「60歳まで現役」|publisher=サッカーキング(毎日新聞)|accessdate=2017-03-13|date=2017-03-13|author=}}</ref>、後に「リーグ戦でゴールを決めた最年長のプロサッカー選手」として[[ギネス世界記録]]に認定された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%9F%A5%E8%89%AF%E6%9C%80%E5%B9%B4%E9%95%B7%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%A7%E3%82%AE%E3%83%8D%E3%82%B9%E8%AA%8D%E5%AE%9A%E5%83%95%E8%87%AA%E8%BA%AB%E3%81%AF%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%BB%E3%81%A9%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%8C%E5%85%89%E6%A0%84/aghqt0javoo71t2fy88wenvci|title=三浦知良、最年長ゴールでギネス認定「僕自身はそれほど意識しなかったが光栄」|publisher=GOAL.com|accessdate=2018-02-16|date=2018-02-15|author=}}</ref>。このゴールは、JFLに移籍した2022年1月現在、三浦のJリーグでの最後の得点である。4月15日の第8節までは7試合に先発したが、左膝痛 や左太もも負傷もあって以降は出場機会を失い、5試合に途中出場するにとどまった。 2018年は、42試合のうち39試合にベンチ入りしたが、出場は9試合で出場時間は計59分。シュートは1本で、ゴールはなかった。 2019年3月23日に行われた第5節の[[FC岐阜]]戦にスタメンとしてシーズン初出場を果たし、自身の持つJ最年長出場記録を更新した<ref>[https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20190323/921012.html 52歳三浦知良が最年長出場記録を更新へ…岐阜戦で今季初のスタメン入り] サッカーキング 2019年3月23日</ref>。第8節も先発出場したが、練習中の左太ももの負傷で、以降は出場機会を失った。11月24日、J2最終節の[[愛媛FC]]戦で残り3分で途中出場し、J2最年長出場記録を52歳8カ月29日に更新した。チームは、この試合に勝利してJ1昇格を決めた<ref>[https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/soccer/news/CK2019112402100078.html キングがJ1に帰ってくる!横浜FC昇格決めた!最年長出場更新の52歳三浦知良「イニエスタの股抜きたい」] 中日スポーツ 2019年11月24日</ref>。J2での出場は、3試合計109分で、シュートもゴールも0本だった。 2020年1月14日にチームと契約を更新した<ref>[https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=68837 「本当のラストサムライ」「信じられないほどの忠節な物語」 伊メディア、三浦知良の契約延長に驚嘆!] サッカーダイジェストWeb 2020年1月15日</ref>。9月23日の[[川崎フロンターレ]]戦で2007年以来のJ1でのリーグ戦に出場、 [[中山雅史]]のJ1最年長出場記録を53歳6ヶ月28日に塗り替えた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200923/k10012631101000.html|title=横浜FC 53歳の三浦知良 J1最年長出場記録 更新|publisher=nhk|accessdate=2020-10-29|date=2020-9-24|author=}}</ref>。左臀部の痛みで出遅れたこともあり、13年ぶりのJ1での出場は4試合計68分に留まり、ゴールもシュートもかなわなかった。 2021年3月10日、J1浦和戦(埼玉)でロスタイムに1分間出場。自身が持つJ1最年長出場記録を54歳12日へ伸ばした<ref>{{Cite web|和書|url=https://hochi.news/articles/20210310-OHT1T50238.html|title=【横浜C】54歳カズ、浦和戦で今季初出場! J1最年長出場記録を更新|publisher=スポーツ報知|date=2021年3月10日|accessdate=2021-10-27}}</ref>。以降は出場機会を失い、ベンチ入りすらもできない中、11月20日の第36節神戸戦で、[[横浜FC]]のJ2降格が確定する。最終的に、J1での出場は1試合1分のみに留まり、三浦の移籍話がメディアで取りざたされるようになった。 ==== 鈴鹿ポイントゲッターズ ==== 2022年1月11日、兄・[[三浦泰年]]が監督兼ゼネラルマネージャーを務める[[日本フットボールリーグ|JFL]]所属の[[鈴鹿ポイントゲッターズ]]への期限付き移籍が発表された<ref>{{Cite press release|和書|date=2022-01-11|url=https://suzuka-un.co.jp/news/45054/|title=三浦 知良選手 横浜FC(J2)より期限付き移籍のお知らせ|publisher=鈴鹿ポイントゲッターズ|accessdate=2022-01-11}}</ref>。JFL開幕戦から先発出場が続くが、5月15日の[[ホンダFC]]戦で右太ももを負傷して、ハーフタイムで途中交代する。復帰は9月4日の[[ヴィアティン三重]]戦で、4ヶ月ぶりに公式戦のピッチに立った。10月9日の[[国立競技場]]での[[クリアソン新宿]]戦では、後半31分から途中出場する。国立での公式戦出場は11年ぶりで、JFL歴代最多となる16218人の観衆が集まった。10月23日の[[奈良クラブ]]戦も[[ロートフィールド奈良]]にJFL歴代2位の14202人が集まり、同チームのJ3昇格の集客案件クリアをアシストした。10月30日、枚方との対戦でPKを沈め、2017年3月12日以来となるゴールを決めた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/soccer/2022/10/30/0015765675.shtml|title=鈴鹿カズ今季初ゴール 途中出場即PK カズダンス披露 JFL最年長得点大幅更新 55歳246日|publisher=デイリースポーツ online|date=2022-10-30|accessdate=2022-10-30}}</ref>。11月12日、リーグ第29節の[[FC大阪]]戦ではダイビングヘッドでシーズン2点目となるゴールを挙げた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/soccer/2022/11/12/0015802254.shtml|title=鈴鹿カズ 22試合ぶり先発でゴール 今季2点目はヘディング弾 最年長記録更新 本拠地初カズダンス|publisher=Daily|access-date=2022-11-12}}</ref>。最終的にJFLには18試合出場した。 === 日本人史上最年長での海外挑戦 === ==== UDオリヴェイレンセ ==== 2023年1月16日、鈴鹿への期限付き移籍満了が発表され、横浜FCに戻った後、2月1日、プロ38年目(55歳)にして[[セグンダ・リーガ|ポルトガル2部]]の[[UDオリヴェイレンセ]]への夏までの[[期限付き移籍]]を発表した。オリヴェイレンセは、三浦の保有権を持つ横浜FCの親会社が経営権を取得したチームである。移籍後は、筋肉系の疲労や炎症が起こり、コンディションを上げるのに苦労したが、4月14日のホームのファレンセ戦で、ポルトガルに旅行へ来た妻の三浦りさ子が見守る中、初のベンチ入りを果たしたが、出場機会はなかった <ref>[https://sp.mainichi.jp/s/news.html?cid=20230415spp000002000000c&inb=so/ カズ ポルトガル初のベンチ入りも新天地デビューは持ち越し]スポーツニッポン 2023年4月15日</ref>。4月22日の[[アカデミコ・デ・ヴィゼウFC|アカデミコ・デ・ヴィセウ]]戦では、4-1で大差のついた後半45分から出場、56歳1カ月24日での出場はポルトガル国内のサッカー史において最年長出場となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://times.abema.tv/articles/-/10076641|title=56歳三浦知良がポルトガル2部デビュー! 途中出場で最年長記録を更新|website=TIMES ABEMA|date=2023-4-23|accessdate=2023-4-27}}</ref>。 5月16日のトレエンセ戦には3-1の場面で、後半45分の終了間際に出場した。 5月28日のリーグ最終戦の[[レイションイスSC]]戦に4-2の場面で、後半18分から出場した。 == 日本代表 == === 日本代表デビューからドーハの悲劇まで === [[サッカー日本代表|フル代表]]デビューは[[1990年]]9月26日、第11回アジア競技大会、[[サッカーバングラデシュ代表|バングラデシュ]]戦<ref>{{cite news | url=http://samuraiblue.jp/timeline/19900926/ | publisher =samuraiblue.jpl | title =日本代表vsバングラデシュ代表 1990年9月26日| accessdate =17 April 2020}}</ref>、先発出場すると、前半4分にPKを奪取、前半26分には[[長谷川健太]]のゴールをアシスト、後半15分には倒されて獲得したFKからゴールが生まれるなど、全得点に絡む活躍を見せた<ref>サッカーストライカー 1990年12月号 p.8-13 [[小学館]]</ref>。1992年、[[ダイナスティカップ]]の[[サッカー朝鮮民主主義人民共和国代表|北朝鮮]]戦で代表初ゴールを決めた。[[ハンス・オフト]]監督の体制下、エースFWとして[[ダイナスティカップ]]や、[[AFCアジアカップ1992]]での優勝に貢献、自身も両大会でMVPを獲得した。 [[AFCアジアカップ1992]]のグループリーグ最終戦[[サッカーイラン代表|イラン]]戦では、後半終了間際に決勝ゴールを決め「魂込めました、足に」とコメントした<ref name="nikkan20170313">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/1791454.html|title=カズ“市販”スパイクで偉業! こだわりないこだわり|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2020-01-08|date=2017-03-13|author=鎌田直秀}}</ref>。決勝の[[サッカーサウジアラビア代表|サウジアラビア]]戦では左サイドからのクロスで[[高木琢也]]の決勝ゴールをアシスト、優勝に重要な役割を果たした<ref>{{Cite web|和書|url=https://qoly.jp/2011/01/17/2547-asiancup-playback-sp-769343588|title=【Play Back!!】 1992 Asian Cup 決勝 日本 vs サウジアラビア|publisher=qoly.jp|accessdate=2020-05-07|date=2011-01-17}}</ref>。 [[1993年]]の[[1994 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・アメリカ大会]][[1994 FIFAワールドカップ・アジア予選|予選]]では、1次予選での[[サッカーバングラデシュ代表|バングラデシュ]]戦で代表初のハットトリックとなる4ゴールを決めるなど<ref>{{cite news | url=http://samuraiblue.jp/timeline/19930411/| publisher =samuraiblue.jpl | title =FIFAワールドカップアメリカ'94 アジア地区1次予選 日本 vs バングラデシュ| accessdate =5 April 2021}}</ref>、予選合計9ゴール、最終予選では合計4ゴールを挙げ、エースとして活躍した。[[サッカー朝鮮民主主義人民共和国代表|北朝鮮]]戦で2ゴールを決めて<ref>{{cite news | url=http://samuraiblue.jp/timeline/19931021/| publisher =samuraiblue.jpl | title =FIFAワールドカップアメリカ'94 アジア地区最終予選 日本 vs 北朝鮮 1993.10.21| accessdate =17 April 2020}}</ref>最終予選の初勝利に貢献、続く[[サッカー大韓民国代表|大韓民国]]戦での決勝ゴールは、日本サッカーが40年もの間超えられなかった壁であった韓国をワールドカップ地区予選で初めて破ったという意味でも値千金であった。最終予選最終戦の[[サッカーイラク代表|イラク]]戦でも1ゴールを決めたが<ref>{{cite news | url=http://samuraiblue.jp/timeline/19931028/| publisher =samuraiblue.jpl | title =FIFAワールドカップアメリカ'94 アジア地区最終予選 日本 vs イラク 1993.10.28| accessdate =17 April 2020}}</ref>、[[アディショナルタイム|ロスタイム]]に同点にされ(いわゆる「[[ドーハの悲劇]]」)、ほぼ手中にしていた本大会出場をあと一歩のところで逃した。このことについて、カズは「(センタリングを上げられた)瞬間、やばいと思った。スローモーションのように球の軌道が見えた」と著書『おはぎ』で語っている<ref>[[#三浦知良2005|三浦知良2005]]、28頁。</ref>。 === フランスW杯に向けて === その後、[[パウロ・ロベルト・ファルカン|ファルカン]]、[[加茂周]]と監督が代わっても、カズはコンスタントにゴールを決め続けた。[[1997年]]6月22日、[[1998 FIFAワールドカップ|仏W杯]][[1998 FIFAワールドカップ・アジア予選|アジア1次予選]]グループ4第4戦[[サッカーマカオ代表|マカオ]]戦で6得点をあげ、[[釜本邦茂]]に並ぶ日本代表1試合最多得点記録を樹立した(2011年時点。FIFA認定記録ではカズ単独)<ref name="日本代表記録集2011"/><ref>{{Cite web|和書|title=やっぱりカズだ、日本代表タイ記録の6発!|publisher=www.nikkansports.com|date=2016-06-23|accessdate=2020-05-03|url=https://www.nikkansports.com/soccer/japan/news/1667447.html}}</ref>。だが、[[1997年]]9月7日の[[1998 FIFAワールドカップ・アジア予選|仏W杯アジア最終予選]]B組初戦の[[サッカーウズベキスタン代表|ウズベキスタン]]戦でこそ4得点を挙げたものの<ref>{{cite news | url=http://samuraiblue.jp/timeline/19970907/| publisher =samuraiblue.jpl | title =日本 vs ウズベキスタン 1997| accessdate =17 April 2020}}</ref>、その後ゴールを挙げられず、チームも勝ち切れず、自力での予選突破が消滅した国立競技場での[[サッカーアラブ首長国連邦代表|UAE]]戦の後には、暴徒化した一部サポーターに罵声を浴びせられ、それに向かっていこうとする姿がマスコミに大々的に報じられた<ref name="Nikkan">{{Cite web|和書|title=30歳カズが激怒した夜/記者が振り返るあの瞬間|publisher=www.nikkansports.com|date=2014-06-05|accessdate=2020-05-12|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/202004050000026.html?utm_source=headlines.yahoo.co.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=%E3%81%AB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%8C}}</ref>。その理由を「6日後に韓国との試合を控える中で、選手の移動バスを止めたことに腹が立った。」からだと後に語った<ref name="Nikkan"/>。韓国戦において、[[崔英一]]から受けたラフプレーからの骨折が原因により、以降大きく調子を落としていった<ref name=stm>{{Cite web|和書|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/829858|title=崔英一の名言|website=SPORTIVA|date=2018-2-13|accessdate=2023-5-5}}</ref>。 その後、[[1998 FIFAワールドカップ|ワールドカップ本大会]]初出場を決めたアジア第3代表決定戦の[[サッカーイラン代表|イラン]]戦(「[[ジョホールバルの歓喜]]」と称される)では、2トップを組む[[中山雅史]]と共に交代を命じられ、この時カズが「オレ?」と自分を指差したことが話題となった。交代板には11番が先に出たので、「ゴン(中山雅史)なのか? 俺なのか? どっちだ?」と[[岡田武史]]監督に確認を取るためのジェスチャーだったが(番組インタビューなどで本人及び城、岡田監督の両者が語っている)、一般的には「まさか俺を交代させるのか?」と言うアピールだとマスコミに解釈をされてしまい、誤解を受けることとなった。またイランも交代の準備をしていたため、11番が日本の事なのかイランの交代に対してなのか判りづらかったと後日出演したTBS『[[見ればなっとく!]]』内で[[北澤豪]]は述べている(イランの11番であるアジジは交代することなくフル出場する)。 [[1998年]]、ワールドカップ本大会に臨む代表候補25人に選ばれ、[[スイス]]での直前合宿に参加、[[FCスタッド・ニヨン|ニヨン]]との練習試合ではハットトリックを決めたが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/1648389.html|title=カズ落選!人生最大ショック岡田監督「帰れ」/復刻|website=日刊スポーツ|date=2016-6-3|accessdate=2023-6-3}}</ref>、監督の岡田は最後の最後まで悩んだ末に本大会出場メンバーから外す決断をした<ref name=NIK>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/soccer/japan/news/202210310000804.html#:~:text=%E3%80%90%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BB%A3%E8%A1%A8%E3%80%911998%E5%B9%B4%E3%80%8C%E5%A4%96%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%82%AB%E3%82%BA%E3%80%81%E4%B8%89%E6%B5%A6%E3%82%AB%E3%82%BA%E3%80%8D%E5%B2%A1%E7%94%B0%E6%AD%A6%E5%8F%B2%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%81%AE%E6%B1%BA%E6%96%AD%EF%BC%8F%E9%81%B8%E8%80%83%E3%81%AE%E8%88%9E%E5%8F%B0%E8%A3%8F,%5B2022%E5%B9%B410%E6%9C%8831%E6%97%A519%E6%99%821%E5%88%86%5D%2098%E5%B9%B46%E6%9C%88%E3%80%81%E5%A0%B1%E9%81%93%E9%99%A3%E3%82%92%E5%89%8D%E3%81%AB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9W%E6%9D%AF%E3%81%AE%E6%9C%80%E7%B5%82%E7%99%BB%E9%8C%B2%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%AB%E3%82%BA%E3%81%A8%E5%8C%97%E6%B2%A2%E8%B1%AA%E3%82%92%E5%A4%96%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%92%E7%99%BA%E8%A1%A8%E3%81%99%E3%82%8B%E5%B2%A1%E7%94%B0%E7%9B%A3%E7%9D%A3|title=【日本代表】1998年「外れるのはカズ、三浦カズ」岡田武史監督の決断/選考の舞台裏|website=日刊スポーツ|date=2022-10-31|accessdate=2023-6-3}}</ref>。そしてミラノでの滞在後<ref name=NIK/>、帰国となった([[ニヨン (スイス)|ニヨン]]の屈辱<ref>{{Cite web|和書|title=カズ、親善大使招集 ロビー活動でアシスト|publisher=ZAKZAK|date=2014-06-05|accessdate=2015-04-03|url=https://www.zakzak.co.jp/sports/soccer/news/20140605/soc1406051534004-n1.htm}}</ref>)。この舞台を切望していたカズが落選した発表は[[マスメディア|マスコミ]]で大きく報じられた。カズは髪を金髪に染め上げて帰国し、帰国直後に[[成田国際空港]]で行われた会見では「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」とコメントした<ref>{{Cite web|和書|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/826604|title=三浦知良の名言|publisher=number.bunshun.jp|accessdate=2020-05-07|date=2016-10-11}}</ref>。その後、日本代表は[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]・[[サッカークロアチア代表|クロアチア]]・[[サッカージャマイカ代表|ジャマイカ]]と同組になったW杯本戦を1次リーグ3戦全敗、僅か1得点という結果で終えたこともあって、岡田の采配や判断は議論を呼んだ。 ==== [[岡田武史]]監督(コーチ)との確執 ==== 岡田が日本代表のコーチ時代に、合宿所の風呂で岡田の後頭部をふざけて軽く蹴り、岡田がメガネを落として怒る。<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=9_TsfSoM65o 「間違いなく飛躍している。しかし...」名波浩が語るサムライブルーの今と昔!!!]</ref>。 また、ジョホールバルでのイランとのフランスワールドカップ・アジア第3代表決定戦での予定外の交代は、試合前の[[会議|ミーティング]]での「FKは中田もしくは名波が蹴ること」との岡田監督の指示を無視してカズ自らが蹴ったことで「少し感情的になってしまった」と後に岡田監督は述懐している<ref>[[#一志1998|一志1998]]、157-159頁。</ref>。 === フランスW杯後 === フランスW杯終了後、[[フィリップ・トルシエ]]に監督が交代してからしばらく代表に招集されることはなかったが、京都サンガ時代の2000年から再び代表に招集され5試合でプレーした。2000年2月5日、カールスバーグカップのメキシコ戦で<ref>{{cite news | url=http://samuraiblue.jp/timeline/20000205/| publisher =samuraiblue.jpl | title =日本 vs メキシコ 2000| accessdate =17 April 2020}}</ref>約2年振りにAマッチに出場、2月16日、[[AFCアジアカップ2000|アジアカップ]]予選の[[サッカーブルネイ代表|ブルネイ]]戦でのゴールは<ref>{{cite news | url=http://samuraiblue.jp/timeline/20000216/| publisher =samuraiblue.jpl | title =日本 vs ブルネイ 2000| accessdate =17 April 2020}}</ref>、1997年9月7日のワールドカップ予選、ウズベキスタン戦以来と約2年5ヶ月振りのゴールとなった。2000年6月の[[ハサン2世トロフィー|ハッサン2世国王杯]]での[[サッカージャマイカ代表|ジャマイカ]]戦でのゴールは<ref>{{cite news | url=http://samuraiblue.jp/timeline/20000606/| publisher =samuraiblue.jpl | title =日本 vs ジャマイカ 2000| accessdate =17 April 2020}}</ref>代表で最後のゴールとなった。それ以降韓国戦に招集されたが、出場機会がなく本戦のメンバーからも落選。トルシエは[[2002 FIFAワールドカップ]]において代表スタッフとしてカズの帯同を望んだが、カズは選手としての参加を望んでいた為に実現しなかった<ref>[[#三浦知良2011|三浦知良2011]]、136-140頁。</ref>。 2004年、当時代表監督を務めていたジーコは、既にアジア1次予選の突破を決めていたことから、興行的意味合いのみならず、若手選手を刺激するために、最終戦のシンガポール戦へ召集したい意向を示していたが<ref name=shikoku>{{Cite web|和書|url=https://www.shikoku-np.co.jp/sports/general/20041204000292|title=4年9カ月ぶりの共演/カズとゴン、観衆沸かす|publisher=四国新聞|date=2004-12-4|access-date=2022-5-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/178343|title=ドイツW杯アジア予選では、カズの招集を考えていた。|publisher=Number|date=2011-11-11|access-date=2022-5-23}}</ref>、日本サッカー協会が難色を示したことから召集が見送られ、代わりに新潟県中越地震復興支援チャリティーマッチ、ジーコ・ジャパン・ドリームチームのメンバーとしてプレーした<ref name=shikoku/>。 === フットサル日本代表 === 2012年に[[フットサル日本代表]]に招集され、同年11月にタイで開催される[[2012 FIFAフットサルワールドカップ|FIFAフットサルワールドカップ]]日本代表に選出された。10月24日に[[国立代々木競技場|国立代々木競技場第一体育館]]での[[フットサルブラジル代表]]戦に出場。日本代表として国際試合に出場するのは2000年以来となった<ref>[http://www.sanspo.com/soccer/news/20121024/jpn12102421160005-n1.html カズ初出場!日本、ブラジルと分ける] - サンケイスポーツ 2012年10月24日閲覧</ref>。 10月27日に[[北海道]][[旭川市]]の[[旭川大雪アリーナ]]での[[フットサルウクライナ代表]]戦に出場、前半14分にフットサル選手として初ゴールを挙げた<ref>[http://www.sanspo.com/soccer/news/20121027/dom12102715150002-n1.html カズ、代表初得点!日本が快勝] - サンケイスポーツ 2012年10月27日閲覧</ref>。 == プレースタイル == ブラジル時代は左ウイングとして、ブラジルのサッカー専門誌『プラカー』にて年間ポジション別ランキングで左ウィングの第3位に選ばれる<ref name="wing_3"/><ref name="wing_3_2"/> 等、活躍した。 [[ドリブル]]を得意としており、強烈なサイドステップを踏むフェイント<ref name="osumi">[[#綾野1997|綾野1997]]、204-205頁。※[[大住良之]]の寄せ書き</ref>、[[シザーズ (サッカー)|シザーズ]](またぎフェイント)等で相手を打ち破った。『[[サッカーダイジェスト|週刊サッカーダイジェスト]]』のドリブラー特集でも、名前を挙げられている<ref>『週刊サッカーダイジェスト』 2010年8月17日号 日本人ドリブラー列伝「名手の系譜」</ref>。ブラジル仕込みの卓越したテクニック、ディフェンスを置き去りにする一瞬のスピードを持っていた<ref name="professional">プロフェッショナル 仕事の流儀「キング・カズ 走り続ける理由がある」 (NHK総合、2010年3月23日放送)</ref>。パス、トラップ、シュート等基本的なプレーもずば抜けているとは言えないが、平均して高いレベルで安定している。基本的なプレーをおろそかにせず、守備をしっかりこなすなど、献身的なプレーも見せた<ref>[http://www.soccertalk.jp/content/1997/01/175.html ワールドカップ予選の年 頼むぞカズ] - サッカーの話をしよう No.175 大住良之オフィシャルアーカイブサイト 1997年1月6日発行</ref>。 元々身体能力に恵まれた選手ではなく、身体も極めて硬い<ref name="professional"/>。年齢の積み重ねとともにスピードは衰えてきているが、それでもボールを扱うテクニックはクラブ内で高いレベルを維持し、巧みな読みで勝負している<ref name="professional"/>。また、40歳を超えても高い持久力を維持している<ref>{{Cite web|和書|url=http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20070120-OHT1T00079.htm |title=カズ驚異の心肺 横浜C奥も久保も40歳にドッキドキ!! |accessdate=2010年8月26日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070127040913/http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20070120-OHT1T00079.htm |archivedate=2007年1月27日 }} - スポーツ報知(2007年1月20日)</ref>。 サッカージャーナリストの[[大住良之]]は、カズの特質として「並外れた精神力」を挙げている。カズよりもシュート力・テクニック・スピードのある選手はいるが、精神的な強さでカズをしのぐ選手はいないと評している<ref name="osumi"/>。[[岡野雅行 (サッカー選手)|岡野雅行]]は「ココ一番な場面では必ずゴールを決めるし、大舞台にもビクともしない」とコメントしている<ref>[[#綾野1997|綾野1997]]、198-199頁。※[[岡野雅行 (サッカー選手)|岡野雅行]]の寄せ書き</ref>。[[プロ野球選手]]の[[イチロー]]は「価値観が同じというか、種目は違うけど互いの考え方を理解しあえる人。大きなプレッシャーを背負いながら、あれだけの力を発揮できる集中力・精神力はさすが」とコメントしている<ref>[[#綾野1997|綾野1997]]、196-197頁。※[[イチロー]]の寄せ書き</ref>。また、横浜FCでのチームメイト・[[早川知伸]]は「カズさんがすごいのはメンタル。精神力があるからこそ、技術も体力も衰えない」、[[小野智吉]]は「本当にサッカーが好き。43歳でも、中学生のような気持ちを忘れない」と話した<ref>{{Cite news|date=2010-12-05|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/f-sc-tp0-20101205-710164.html|title=横浜FC カズ涙…仲間へ惜別弾|newspaper=日刊スポーツ|accessdate=2010-12-05}}</ref>。 チーム事情によってはクラブや代表でも[[フリーキック (サッカー)|フリーキック]]や[[コーナーキック]]を蹴ることもあった(上記のように2010年にもJ2カターレ富山戦で直接フリーキックによるゴールを決めている)。さらにスイッチキッカーとして左右両足でフリーキックやコーナキックを蹴る当時としては稀なプレイヤーであった。[[都並敏史]]は「僕も左右で蹴れるけど、カズはその精度が高い」と称えており、カズ自身は「小さい頃から利き足に関係なく、両足で練習していた。それは意識してというよりも、自然な感じで覚えたものだった」と語っている<ref>[[#一志1993|一志1993]]、179-180頁。</ref>。 == 人物 == === パブリック・イメージ === 通称は「'''カズ'''」「'''キング・カズ'''」など。ブラジルでは「KAZÚ」と「Ú」にアクセント記号が付き、「カズー」と尻上がりに呼ばれた。彼を指す場合、一部のサッカー専門誌(特に『[[サッカーマガジンZONE|週刊サッカーマガジン]]』など[[ベースボール・マガジン社]]の出版物)や新聞([[日刊スポーツ]])ではフルネームではなく「カズ」と表記し、「三浦カズ」と呼ばれることもある。 1993年8月1日に[[タレント]]の[[三浦りさ子|設楽りさ子]]と結婚。兄は同じく元Jリーグ選手[[三浦泰年]](通称ヤス)。父方の伯父・納谷義郎は城内FC(地元の少年団)の監督、実父の納谷宣雄は、[[静岡FC]]の[[ゼネラルマネージャー|GM]]となっている。親戚に[[ビームス]]社長の[[設楽洋]]がいる<ref name="beams">[https://fashion-guide.jp/trivia/shitara-fasmily.html BEAMS設楽洋と設楽りさ子夫の三浦知良(カズ)は親戚]</ref>。 === サッカー選手として === 日本国籍の選手で2019年現在、ブラジルで成功、活躍し、有名になった唯一の日本人選手である。また、世界各国のサッカークラブを渡り歩いた日本プロサッカー選手の先駆け的存在である。現在のサッカー人気や日本代表ブーム、自身のセリエA移籍などで、ファンが欧州サッカーへの関心を高めるきっかけをつくるなど、サッカーを日本においてメジャースポーツに押し上げた火付け役であり、功労者でもある。特に若手にとって手本とされるのは、その強烈かつストイックなプロ意識<ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/21579?page=4 カズの向こうに世界が見える。〜Jリーグ開幕とW杯への夢〜(4/7)] - ナンバーW杯傑作選(2010年5月7日)</ref>。 朝一番にグラウンドに訪れ、ランニングでは常に先頭に立つなど精力的に動く。年齢を重ね、若手選手とは親子ほどの年齢差になっても練習は別メニューでなく一緒にこなす。一日に何度も体重を量り、フィジカルトレーナー、マッサージトレーナー、栄養士は個人で雇い入れているほど、徹底した体調管理を行っている<ref>[http://news.goo.ne.jp/article/gooeditor/sports/gooeditor-20100323-01.html 横浜FC 三浦知良選手を追った2か月間] - goo ニュース(2010年3月23日)</ref>。[[シドニーFC]]在籍時には[[ピエール・リトバルスキー]]監督から「カズはサッカー選手のお手本。シドニーFCの選手達はカズからプロ精神を学んだ」と賛辞を贈られている<ref>[[#矢内2009|矢内(2009)]]、228頁。</ref>。 前述のようなストイックなイメージで知られるが、孤高の存在というわけではなく、欧州でプレーする[[長友佑都]]・[[長谷部誠]]・[[内田篤人]]・[[香川真司]]らと食事会(通称「カズ会」)を行うなど面倒をみている。その際、カズの隣の席の争奪戦が起きるほどに慕われている<ref>{{Cite news|title=カズ会、5時間…激しい“ポジション争い”も|author=|newspaper=デイリースポーツ|date=2011-06-24|url=http://www.daily.co.jp/soccer/2011/06/24/0004202695.shtml|accessdate=2013-02-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110625175812/https://www.daily.co.jp/soccer/2011/06/24/0004202695.shtml|archivedate=2011-06-25}}</ref>。 [[2004年]][[12月]]、[[ブラジル]]・[[サンパウロ州]]のクラブチームで同州2部リーグに所属する[[ウニオン・サンジョアンEC]]のクラブ買収に乗り出していた。現役選手の視点から、クラブ運営や自分を育ててもらった人材の宝庫と言われるブラジルで、後進の育成にも携わっていく構想を持っているようで、[[2010年]][[1月]]にはサッカークラブのオーナーを目指していると[[東京スポーツ|東スポ]]に報じられた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyo-sports.co.jp/touspo.php?tid=32 |title=カズがブラジルでクラブ買収計画 |accessdate=2010年7月29日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100123180809/http://www.tokyo-sports.co.jp/touspo.php?tid=32 |archivedate=2010年1月23日 }} - 東京スポーツ(2010年1月8日)</ref>。 === スター選手として === [[横浜FC]]はJ2ながらカズが加入したこともあり、横浜FCの関わった試合の平均観客動員が加入前6,079人から加入後10,293人へと上昇する<ref name="wsp200511">[http://wsp.sponichi.co.jp/column/archives/2005/11/post_386.html だからカズは移籍した〜シドニーFC移籍の真相〜] {{リンク切れ|date=2013年2月}} - スポニチワールドサッカープラス(2005年11月10日)</ref> など、アウェイでも注目を集めてJ2の観客動員に貢献した。[[FIFAクラブ世界選手権2005]]に出場する[[シドニーFC]]へレンタル移籍した際には、カズの認知度は日本でプレーする選手の中でも群を抜いており、日本人初の出場選手として大会の認知度を格段に上げたと[[スポーツニッポン]]のコラム内で言及されている<ref name="wsp200511"/>。2010年6月、[[2010 FIFAワールドカップ|南アフリカW杯]]中断期間中に[[沖縄県]][[宮古島]]でキャンプを行った際に、カズ人気で多くの市民が練習見学に訪れた<ref>{{Cite web|和書|url=http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-163579-storytopic-2.html|title=横浜FC、宮古島で調整 カズ人気で大勢の市民|publisher=[[琉球新報]]|accessdate=2019-10-22|date=2010-06-15|author=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100618014123/http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-163579-storytopic-2.html|archivedate=2010-06-18}}</ref>。 [[北澤豪]]は読売時代からカズとよく一緒に行動しており、北澤がまだ無名だった頃には、カズはファンにサインする際に色紙の半分を空白にし「こいつ、これから絶対伸びてくる奴だから、今のうちにサイン貰っといた方がいいよ」とよく言っていた。[[1998 FIFAワールドカップ]]の落選に対し、カズは同じく落選した北澤に「俺たちがやってきたことは間違いない。大事なのはこの後だ」とだけ話し、ネガティブなことは一切言わなかった<ref>[[#三浦知良2011|三浦知良2011]]、142-146頁。</ref>。またメンバー落選翌日には、日本に帰国する前に合宿先のスイスから北澤を伴い[[イタリア]]・[[ミラノ]]へ立ち寄り、ホテルの最高級部屋に2人で滞在、1泊20万円ほどしたという代金は後日、日本サッカー協会に請求したところ払ってくれたという<ref>{{Cite web|和書|date=2019-02-11|url=https://hochi.news/articles/20190211-OHT1T50226.html|title=カズ、W杯落選翌日に泊まったミラノのホテルは1泊20万!「協会が払ってくれたね」|work=スポーツ報知|publisher=報知新聞社|accessdate=2019-02-12}}</ref>。 元[[サッカー大韓民国代表|韓国代表]]の[[朴智星]]はカズと親交があり、韓国でもカズを知らないものはいないと評している。[[京都サンガF.C.|京都パープルサンガ]]でプロデビューし、カズと共にプレーする以前からカズを「アジアサッカー界を代表するスーパースター」と認識しており、自分の原点は京都にあると共に、その中で最も規範となり刺激を与えてくれた選手は間違いなくカズであると語っている<ref>[[#三浦知良2011|三浦知良2011]]、222-226頁。</ref>。 2012年2月、「女性に花を贈る姿が似合う男性」として、初代Mr.[[フラワーバレンタイン]]に選出された。ヨーロッパなどでは[[バレンタインデー]]に男性が女性に花を贈ることが通例となっていることから<ref>[https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2012/02/06/kiji/K20120206002580261.html 女性に花を!カズ 初代「Mr.フラワーバレンタイン」に] - [[スポーツニッポン]](2012年2月6日)</ref>。 2016年に記者から「[[客寄せパンダ]]的な利用のされ方をするのは嫌じゃないですか」という質問をされると、「J2でも、横浜FCでもよくそう言われるし、書かれているじゃないですか。でも、パンダでないと人は来ないですから。その役割は自負していますよ。僕は客寄せパンダで十分ですよ。だって普通の熊じゃ客は来ないんだもの。パンダだから見に来るんだもの。熊はパンダになれないんだから」と返答している<ref>[https://dot.asahi.com/articles/-/95288?page=3 「僕は客寄せパンダで十分」三浦知良が現役を続けられる最大の理由] AERA dot. 2016年3月27日</ref>。 === 背番号へのこだわり === 「背番号11」へのこだわりは強い。11番を着けるようになったのはブラジルに渡ってからで、小中学生の頃は14番だった。カズのいた当時のブラジルは背番号固定制ではなく先発選手が1番から11番をつけるシステムになっており、左ウィングの背番号が11番だった。日本に帰国した時にも読売クラブに11番を希望していたがすでに埋まっており、空いていた24番を選択した。翌シーズンには希望通り11番を着けた。94年には日本代表監督に就任した[[パウロ・ロベルト・ファルカン|ファルカン]]から代表のキャプテンとして10番を付けるように勧められたが、これを断っているほどであった。京都へシーズン途中に加入した際、Jリーグは固定背番号制に移行していたため、11番はヴェルディ時代も同僚だった[[藤吉信次]]が着けておりカズは空き番だった36番を着けたが、藤吉に冗談で「500万円で売ってくれ」と頼んだことがある。ここでもリーグ戦と別に大会独自の背番号の登録が可能な同年の[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]は11番で出場し、翌シーズンは正式に11番を着けた。11番はラッキーナンバーとして大事にしており、練習の際のビブスも11番を選んで着用し、車のナンバーを11にしたり、駐車場で11番が空いていたらどんなに狭くてもそこに駐める<ref>[[#三浦知良2005|三浦知良2005]]、147-148頁。</ref>。 === その他 === 幼少の頃憧れた選手として元ブラジル代表としてワールドカップを制し、[[清水エスパルス]]の監督を務めていたこともある[[ロベルト・リベリーノ]]の名前を挙げた<ref>[https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/202002170010-spnavi カズ史上最高のゴールとゲームは? Jリーガー一問一答 三浦知良(横浜FC)]-スポーツナビ 2020.2.24</ref>。 [[ドカベン]]のファンであることを明かしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/soccer/news/202201170000277.html|title=【水島新司さん死去】カズ、実は『ドカベン』大ファン「野球漫画で育った」|publisher=日刊スポーツ|date=2022-01-17|accessdate=2022-01-17}}</ref>。 先にも述べた11へのこだわりは契約更改を「1月11日午前11時11分」しようという考えにも反映されている<ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/soccer/2023/01/11/0015956340.shtml|title=カズ「もう少しで報告できる」11日11時11分間に合わずもポルトガル2部移籍へ「前向き」|newspaper=デイリースポーツ online |publisher= 株式会社デイリースポーツ|date=2023-01-11|accessdate=2023-01-11}}</ref>。 == エピソード == === 選手編 === * 中学3年生の時、進路指導の紙の志望高校を書く欄に「第一希望 ブラジル」と書いて<ref>[[#綾野1997|綾野1997]]、64頁。</ref>、教師から激怒された。この件について「当時既にブラジルに行く以外考えていなかったので、高校名を書くわけにはいかないと思ったから」と『[[ジャンクSPORTS]]』出演時に語っている<ref name="junksports20070107">[http://www.fujitv.co.jp/js/newest/backnumber/070107/digest-sub-3.html ジャンクSPORTS - トークダイジェスト] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20081103160648/http://www.fujitv.co.jp/js/newest/backnumber/070107/digest-sub-3.html |date=2008年11月3日 }} - [[フジテレビジョン|フジテレビ]]公式サイト 2007年1月7日放送分</ref>。 * 契約金の良さにブラジルから帰国したと語っていたが、実は[[ラッシャー板前]]の家に居候という経済的に困窮していたことを[[浅草キッド (お笑いコンビ)|浅草キッド]]に『ジャンクSPORTS』で暴露された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.fujitv.co.jp/js/050814/digest.html |title=ジャンクSPORTS - トークダイジェスト |accessdate=2010年8月2日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20051206024655/http://www.fujitv.co.jp/js/050814/digest.html |archivedate=2005年12月6日 }} - フジテレビ公式サイト 2005年8月14日放送分</ref>。 * [[平成]]末期、2015年4月12日放送の[[TBSテレビ|TBS]]「[[サンデーモーニング]]」でスポーツ解説者の[[張本勲]]が、当時大ベテランの域に達していた三浦(当時48歳)に対し「カズファンには悪いけど、もう辞めたほうが良い」とコメント<ref>{{Cite web|和書|url=https://diamond.jp/articles/-/70437|title=張本氏の「カズ引退勧告」はまだしも「J2は2軍」の認識は問題だ|publisher=ダイヤモンド・オンライン|accessdate=2020-01-09|date=2015-04-21|author=相沢光一}}</ref>。それに対して三浦は、「激励と前向きに受け取っている」と大人の反応を見せた。それに対して張本は4月19日の放送で「カズにあっぱれ!普通なら文句をつける。それを先輩からの助言と受け止める。男らしい、腹が据わっている」と絶賛した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1463833.html|title=張本氏 引退勧告したカズに「あっぱれ!」|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2020-01-09|date=2015-04-19}}</ref>。 * サッカー評論家の[[セルジオ越後]]が2021年12月に横浜FCに対して「(三浦選手が)CMに出て、クラブへお金が落ち、それが財源になって戦力アップするっていう。彼がいなくなったら横浜FCって大変なことになると思いますね」「(所属チームが)お金が入ればいいだけなら、それはちょっと(三浦選手が)利用されているみたい」と発言し、横浜FCは公式サイト上で「事実と著しく異なる内容」「当クラブは三浦選手がCMに出演すること等により収入が得られるような契約は一切しておらず、YouTubeにおけるセルジオ越後氏の発言は事実とは異なり、三浦選手のCM出演等により収入を得たことはなく、当然その収入により戦力をアップさせた事実もありません」「あたかも当クラブが三浦選手のCM収入等の財源として戦力をアップさせようとし、三浦選手を利用しているかの印象を与える内容を強調して配信しており、当クラブとしてはこの指摘については大変遺憾」と厳重に抗議した。セルジオは「それは僕の過ちで謝りたいと思います。ほんとに申し訳ないと思っています」と謝罪した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/2021/12/17427285.html?p=all|title=セルジオ越後氏、再び横浜FC批判 謝罪直後に「なんでカズをあんなにかばうんだって...」|publisher=株式会社ジェイ・キャスト|date=2021-12-17|accessdate=2023-06-12}}</ref>。 * 2017年は、背番号11にちなみ、1月11日11時11分に横浜FCのクラブ公式サイトで契約を延長したと発表された<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/sports/soccer/domestic/20170111-OYT1T50096.html カズ契約更新、開幕日に初の50代Jリーガーへ] 読売新聞 2017年1月11日</ref>。この年の開幕日は誕生日の2月26日であり、開幕と同時に50歳となり初の50代Jリーガーとなる。しかし、本人は冷静に「49歳から1つしか年をとっていない。実際は数字的なもので大した変化はない」「少しずつ全部が衰えていくのが普通。でもサッカーは11人の連動。基礎体力と技術があれば組み合わせ次第で新しい自分が見せられる、ゴール前の動き次第で点が取れる」と述べている<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/12488307/ 三浦知良が前人未到の50歳シーズンへの思い明かす 「選手のまま死にたい」] スポニチアネックス 2017年1月1日</ref>。この契約更新はイタリアの大手スポーツ紙『コリエレ・デッロ・スポルト』など世界でも報じられ、[[イケル・カシージャス]]が「僕は40歳までプレーしたいと思っているよ。でもこれを読んでいたら50歳までプレーしたいと思った。なんて素晴らしいんだミウラ!」とTwitterに投稿した<ref>[http://web.gekisaka.jp/news/detail/?207703-207703-fl カシージャスも50歳まで現役続行!? カズの契約更新に] ゲキサカ 2017年1月12日</ref>。なお、この発言をしたカシージャス自身は40歳を迎える前の2020年に引退している。 * ブラジルでプロ入りした直後に[[プーマ]]とシューズの契約を締結し、以後サッカーの試合では全てプーマのシューズを着用している。ただしフットサル日本代表では全員が[[アディダス]]製シューズを履く契約となっていたため、日本サッカー協会がプーマと直接交渉した結果、カズもアディダス製を履くこととなった<ref>[http://king-gear.com/articles/87 スペシャルインタビュー 三浦知良(横浜FC)第3回「プーマ生活31年のカズが、一度だけアディダスを履いた大会とは?」]- KING GEAR(NDPマーケティング)、2016年7月1日</ref>。ちなみにシューズに「カズモデル」というものは存在せず、刺繍などを除いては市販品と全く同じスペックのものを履いている{{R|nikkan20170313}}。 * [[平成]]元年はブラジルでプロ選手としてプレーし、平成最後となる2019年も横浜FCでプロ選手としてプレーしたため、平成30年間唯一プロとしてプレーし続けた日本人選手となった<ref>[https://news.1242.com/article/169133 横浜FC・三浦知良 平成30年間、プロとして続ける唯一の日本人選手] ニッポン放送 2019年2月28日</ref>。 * Jリーグが30周年を迎えた2023年、初代チェアマンであった川淵三郎氏は30年間のMVPに三浦の名を挙げた。 === プライベート編 === * ブラジルの[[永住権]]を今でも更新しており、そのために2年に1度はブラジルへ渡航している<ref>[http://www.ninomiyasports.com/sc/modules/bulletin/article.php?storyid=1895 田崎健太「国境なきフットボール」第7回 カズの足跡を辿って (前編)] - スポーツコミュニケーションズ(2008年4月11日)</ref>。 * ブラジルの公用語である[[ポルトガル語]]が堪能であり、通訳なしで喋っている映像が残されている他、チームでは[[ブラジル人]]選手の面倒もよく見ており2010年の第28節では[[カイオ・フェリペ・ゴンサウベス|カイオ]]がFKを譲るシーンもあった。このときカイオは「カズさんの今までやってきたことを考えると絶対に譲らないといけないと思うのと、いつもブラジル人たちを手伝ってくれているのもあった」と語っている<ref name="jsgoal_20100926">[http://www.jsgoal.jp/news/jsgoal/00107527.html J2 第28節 横浜FC vs 富山 試合終了後の各選手コメント] - [[J's GOAL]] 2010年9月26日付 2010年10月29日閲覧</ref>。 * カズ本人によれば映画『[[ゴッドファーザー]]』好きで、自身の時に奇抜なファッションはこの作品に影響を受けたことが原因だと証言している。日本サッカー界屈指の「伊達男」だと自認する。特にスーツを愛好する服好きであり、都内に洋服保存用マンションを購入したほどであり、趣味は[[マフィア]]研究である<ref>[http://www.inlifeweb.com/reports/report_472.html INLIFE 男の履歴書 三浦和良]</ref>。 ** 「ゴッドファーザー」好きは、よく行く店でカズが来店するとBGMに必ず「ゴッドファーザーのテーマ」をかけさせるほど徹底している。前園真聖に「(西麻布の行きつけの飲食店で)この曲がかかってたら必ず俺がいるから」と言っていたことを前園自身が語っている<ref>[http://www.fujitv.co.jp/js/newest/backnumber/080309/digest-sub-1.html ジャンクSPORTS - トークダイジェスト] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080502061116/http://www.fujitv.co.jp/js/newest/backnumber/080309/digest-sub-1.html |date=2008年5月2日 }} - フジテレビ公式サイト 2008年3月9日放送分</ref> ほか、[[ミラノ]]の[[フォーシーズンズホテル]]でもカズが行くとゴッドファーザーのテーマが演奏されることを北澤豪が暴露した(いずれも『[[ジャンクSPORTS]]』より)<ref group="注">妻の三浦りさ子も一緒にいる場合は、ゴッドファーザーの演奏を終えると彼女のテーマ曲として映画『[[ゴースト/ニューヨークの幻]]』の主題歌を演奏するようになっている。</ref>。 * 好物は、自著の名前にもなっている[[ぼたもち|おはぎ]]で、「全国おはぎ協会会長」を自負している<ref>[[#三浦知良2005|三浦知良2005]]、207-210頁。</ref>。 * 2007年、当時9歳の長男に「日本代表の伝説的な背番号11番は誰か知ってるか」と聞いたら、冗談混じりに「[[巻誠一郎|巻(誠一郎)]]!」と言われたと『ジャンクSPORTS』出演時に語っている<ref name="junksports20070107"/>。2013年、当時15歳の長男は春休みにカズと同じくブラジルにサッカー留学した<ref>{{Cite web|和書|publisher=|title=三浦りさ子 息子も15歳でブラジルに|url=https://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2013/03/30/0005858442.shtml|date=2013-03-30|accessdate=2015-09-08}}</ref>。この長男は俳優の[[三浦獠太]]である。 * [[浜田省吾]]とはブラジル時代から20年来の付き合いがあり、現在でも一緒に食事に行くことがある。カズは元々浜田のファンで、ブラジル時代にも浜田の曲をよく聴いていたそうだ。2006年8月に発売された『[[The Best of Shogo Hamada vol.1]]』『[[The Best of Shogo Hamada vol.2|同 vol.2]]』のCMにも[[カメオ出演|友情出演]]した<ref>『[[日刊スポーツ]]』2006年7月25日、24頁。</ref>。浜田省吾との縁で、浜田省吾が所属する[[ロード&スカイ]]グループとマネジメント契約を結んでいる。 * 近年(2008年〜)は、[[矢沢永吉]]をよく聴いている<ref>『[[AERA]]』2008年3月3日号、74頁</ref>。 * [[2011年]]には「第24回 [[日本メガネベストドレッサー賞]]」においてスポーツ界部門で受賞している。 * 2012年、日本代表など多くの場面で共にし、同じく長く現役を続けていた[[中山雅史]]の引退についてメディアにコメントを求められた際、最も印象に残ってるエピソードとして、92年のオランダ遠征の際、当時よく二人で日本サッカーを強くしようと話していて、その日の夜もオランダの公園の芝で寝ながら二人で「ワールドカップ行こうな」と語り合っていると、ふと気が付くと周りはゲイのカップルだらけで、すぐ帰ろうとなったと話した。また、「寂しくなるが、中山がいたからここまでやってこれた、中山のやってきたことは日本サッカーの、世界のサッカーの宝だと思う」と途中目に涙を浮かべながら話した<ref>[http://www.sanspo.com/soccer/news/20121205/jle12120505050004-n2.html 生ける伝説”カズ、ゴン魂継ぐ!感極まり涙] - [[サンケイスポーツ]](2012年12月5日)</ref><ref>[http://www.daily.co.jp/newsflash/soccer/2012/12/04/0005575756.shtml カズ、ゴン引退に涙] - [[デイリースポーツ]](2012年12月5日)</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20121205-OHT1T00008.htm |title=カズ、中山引退に涙「ゴンがいたからここまで来られた」…横浜C |accessdate=2012年12月16日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121205074844/http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20121205-OHT1T00008.htm |archivedate=2012年12月5日 }} - [[スポーツ報知]](2012年12月5日)</ref>。 * ストイックなイメージで知られるが、[[テキーラ]]を愛飲しており、カズはテキーラについて「走るためのガソリンのようなもの」と表現している。30代の頃は一晩でボトル1本半から2本空けたことがあるという<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20150405-a170/ 三浦知良、"カズ伝説"語る「スーツ専用マンション」「テキーラはガソリン」] - マイナビニュース(2015年4月5日)</ref>。 === 名前に関するエピソード === * [[ロス疑惑]]の[[被疑者|容疑者]]であった[[三浦和義|三浦'''和義''']]とは同音異字。ロス疑惑・三浦和義に関する報道合戦が過熱していた1980年代中頃は、カズはブラジルでプレーしていた。そのため、帰国した後も日本代表のサッカー選手として知名度を得るまでは勘違いされることが多々あったという。 ** ロス疑惑の報道合戦から約四半世紀を経た2007年頃には、サッカー界では1980年代生まれの選手がJリーガー・日本代表の中核を占めていたが、この世代はもはや年齢的にロス疑惑と三浦和義を知らない選手がごく当たり前にいる状況となっていた。このこともあり、2008年2月、[[サイパン島|サイパン]]で三浦和義が現地の警察により[[逮捕]]された際には、[[平山相太]](1985年生)などが報道を見てカズが逮捕されたと勘違いするという事態が起きた<ref>[http://www.sponichi.co.jp/soccer/special/japan_news/2008_02_u23/KFullNormal20080225060.html 平山衝撃!カズさん逮捕された?] - スポーツニッポン(2008年2月25日)</ref>。 * 愛称の「'''キング・カズ''' ('''KING KAZU''')」は、1993年の[[1994 FIFAワールドカップ・アジア予選|ワールドカップ・アメリカ大会アジア最終予選]][[サッカー朝鮮民主主義人民共和国代表|北朝鮮]]戦にて2ゴール1アシストを決めた翌日、開催地[[カタール]]の英字紙「ガルフ・タイムズ」の見出しに使用されたのが初出である<ref>{{Cite web|和書|author=David James、三浦和良 |date=2011-04-20 |url=http://number.bunshun.jp/articles/-/114789?page=1 |title=Dear KAZU カズへの手紙 from David James (1/3) |work=Number Web |accessdate=2011-05-14 }}</ref>。以後、日本国内のメディアでも使われるようになり、移動バスでカズが座る左最後尾の座席が「キングシート」と呼ばれたりした。カズ自身、「キング」は偉大な[[ペレ]]のニックネームと思っていた。しかしながら、横浜FC時代からは自然に受け止められるようになり、その名に恥じない言動を心がけている<ref>{{Cite web|和書|author=David James、三浦和良 |date=2011-04-20 |url=http://number.bunshun.jp/articles/-/114789?page=3 |title=Dear KAZU カズへの手紙 from David James (3/3) |work=Number Web |accessdate=2011-05-14 }}</ref>。 === 両カテゴリーでの優勝 === ヴェルディ川崎において[[J1リーグ|J1]]、横浜FCにおいて[[J2リーグ|J2]]での優勝を経験し、その他のタイトルでは[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]、[[Jリーグカップ|ナビスコカップ]]も制覇した<ref group="注">これら4タイトルの獲得経験のある選手は、他に[[藤ヶ谷陽介]]、[[栗澤僚一]]がいる。</ref>。J2以外では[[最優秀選手|MVP]]も獲得している。 == カズダンス == 原型となったのは、ブラジルのFW[[アントニオ・デ・オリベイラ・フィーリョ|カレッカ]]が得点後にみせたコーナーフラッグ付近で[[サンバ (ブラジル)|サンバ]]を踊るパフォーマンス<ref name="Number778">{{Cite journal |和書 |author=三浦和良 |year=2011 |month=5 |title=教えて カズ先生 〜44歳のキングに44の質問〜 |journal=Sports Graphic Number |issue=778号 |pages=27頁 |publisher=文藝春秋社 |location= 東京 |accessdate=2011-05-13}}</ref>。カズが考えた踊りを元に、[[田原俊彦]]がアレンジを加えて完成した<ref name="yauchi2009_kazudance">[[#矢内2009|矢内2009]]、26頁。</ref>。「ゴール後のパフォーマンス」を日本に定着させたのはこのダンスであり、Jリーグ開幕直後、小中学生はこぞってゴール後に踊っていた<ref name="yauchi2009_kazudance"/>。 日本のテレビで初めてカズダンスが放映されたのは、1989年頃に[[テレビ朝日]]系列で放送されていた『[[ビートたけしのスポーツ大将]]』内のサッカー対戦で、助っ人として出演しゴールを決めた時であるが、後に披露されたカズダンスに比べてシンプルなものであった。本人は初披露は1992年の[[スーパーカップ (日本サッカー)|ゼロックス・チャンピオンズ・カップ]]([[読売サッカークラブ|読売]]対[[トヨタ自動車工業サッカー部|トヨタ]])だったと述べている<ref name="Number778"/>。 近年では2000年のJリーグ通算100得点達成(当時京都在籍)後、神戸在籍時の2002年アウェーのガンバ大阪戦、[[北澤豪]]引退試合での得点後などで披露した([[ラモス瑠偉]]引退試合でも、得点はならなかったが試合後のセレモニーで披露)。横浜FCに移籍してからは、2005年シーズン第32節徳島戦で逆転ゴールを挙げた後に[[吉武剛]]と共に披露(試合はその後再逆転され2-3で敗戦)。そして2007年シーズン第13節大分戦で日本人選手最年長ゴール記録を更新したときも「リクエストに応えて」(本人談)披露した(試合は2-1で勝利)。2010年シーズン第28節富山戦でJリーグ最年長ゴール記録を更新したときも披露した<ref name="jsgoal_20100926"/>。 また、Jリーグ開幕時の[[前園真聖]]など、様々なJリーガーもこのダンスを披露している。城彰二が一時期カズダンスをしていたが、そのことを知人から聞いたカズは城を呼び出して説教をした<ref group="注">カズ本人が2007年1月7日放送の『[[ジャンクSPORTS]]』にてこの件を問われた際「真似をしてもらうのはうれしい。でも城のダンスを見たら変だったので、やるならちゃんとやってくれ、と言った」と語っている。</ref><ref name="junksports20070107"/>。それ以来、城は酒の場以外、カズダンスをしていない。また、[[須田興輔]]も2005年(当時[[水戸ホーリーホック]]在籍)に「次に点を取ったらカズダンスします」と語っている(が、実現はしていない)。なお、[[北海道コンサドーレ札幌|コンサドーレ札幌]]に所属していた[[相川進也]]は、2005年第34節徳島戦にて披露している。京都と神戸でチームメイトだった[[朴康造]]は韓国代表の試合や2010年最終節浦和戦、2011年第10節川崎戦で「本家公認<ref>{{Cite news|author= |url=http://www.daily.co.jp/soccer/2011/05/08/0004042231.shtml |title=神戸・朴がV弾!出た〜本家公認カズダンス |newspaper=デイリースポーツ |date=2011-05-07 |accessdate=2011-05-14}}</ref>」というカズダンスを披露している。[[李忠成]](当時[[柏レイソル|柏]]所属)も2008年第14節浦和戦で先制ゴールを決めたときに披露した。 2011年3月29日行われた[[東日本大震災]]復興支援チャリティーマッチがんばろうニッポン! では、試合前にカズダンスについて「やってもいいんじゃないですかね。いろんな意見があると思うけど、やるのも一つの手だと思う」とゴールを決めた場合にはカズダンスを行うことを示唆<ref>[http://www.daily.co.jp/soccer/2011/03/29/0003902886.shtml やるぜカズダンス!被災地へ届け勇気の舞] - デイリースポーツ(2011年3月29日)</ref>。後半37分にゴールを決めた際にはゴール裏でカズダンスを披露した。2015年4月5日に最年長ゴールを決めた試合終了後、カズダンスの全Jリーグ選手への解禁を宣言し「Jリーグなら誰でも公認」となった<ref>{{Cite web|和書|title=カズダンス本家がGOサイン「Jリーグなら誰でも公認だよ!」|author=スポーツニッポン|publisher=sponichi.co.jp|date=2015-04-21|accessdate=2015-06-15|url=https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2015/04/21/kiji/K20150421010207710.html}}</ref>。 == 語録 == {{See|q:三浦知良}} == 所属クラブ == * 1986年 [[サントスFC]] * 1986年 - 1987年 [[SEマツバラ]] * 1987年 [[クルーベ・ジ・レガタス・ブラジル]] * 1988年 [[ECキンゼ・デ・ノヴェンブロ (ジャウー)]] * 1989年 [[コリチーバFC]] * 1990年 サントスFC * 1990年 - 1998年 [[読売サッカークラブ]]/[[東京ヴェルディ1969|ヴェルディ川崎]] ** 1994年7月 - 1995年7月 [[ジェノアCFC]] ([[期限付き移籍]]) * 1999年 - 同年7月 [[NKディナモ・ザグレブ|クロアチア・ザグレブ]] * 1999年7月 - 2000年 [[京都サンガF.C.|京都パープルサンガ]] * 2001年 - 2005年7月 [[ヴィッセル神戸]] * 2005年7月 - [[横浜FC]] ** 2005年11月 - 同年12月 [[シドニーFC]] ([[期限付き移籍]]) ** 2022年 [[鈴鹿ポイントゲッターズ]](期限付き移籍) * 2023年 - [[UDオリヴェイレンセ]](期限付き移籍) == 個人成績 == {{サッカー選手国内成績表 top|yy}} {{サッカー選手国内成績表 th|ブラジル|all}} |- |rowspan="2"|1986||[[サントスFC|サントス]]||||[[カンピオナート・パウリスタ|サンパウロ州]]||2||0||||||||||||| |- |rowspan="2"|[[SEマツバラ|マツバラ]]||||||||||||||||||||  |- |rowspan=3|1987||||||||||||||||||||  |- |rowspan="2"|[[クルーベ・ジ・レガタス・ブラジル|CRB]]||||[[カンピオナート・アラゴアーノ|アラゴアス州]]||||||||||||||||| |- ||||[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|全国選手権A]]||4||0|||||||||||| |- |1988||[[ECキンゼ・デ・ノヴェンブロ (ジャウー)|ジャウー]]||||サンパウロ州||25||2|||||||||||| |- |[[1989 カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|1989]]||rowspan="2"|[[コリチーバFC|コリチーバ]]||11||[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|全国選手権A]]||7||1|||||||||||| |- |1989||-||[[カンピオナート・パラナエンセ|パラナ州]]||24||4|||||||||||| |- |[[1990 カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|1990]]||rowspan="2"|サントス||||[[カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA|全国選手権A]]|| || ||||||||||||| |- |1990||7||サンパウロ州||25||2|||||||||||| {{サッカー選手国内成績表 th|日本|all}} |- |[[1990年-1991年のJSL|1990-91]]||rowspan="2"|[[読売サッカークラブ|読売]]||24||rowspan="2"|[[日本サッカーリーグ|JSL1部]]||18||3||1||0||2||1||21||4 |- |[[1991年-1992年のJSL|1991-92]]||11||21||6||5||2||5||3||31||11 |- |1992||rowspan="3"|[[東京ヴェルディ1969|V川崎]]||rowspan="3"|-||rowspan="3"|[[日本プロサッカーリーグ|J]]||colspan="2"|-||10||10||5||1||15||11 |- |[[1993年のJリーグ|1993]]||36||20||1||0||3||3||40||23 |- |[[1994年のJリーグ|1994]]||22||16||0||0||colspan="2"|-||22||16 {{サッカー選手国内成績表 th|イタリア|all}} |- |1994-95||[[ジェノアCFC|ジェノア]]||-||[[セリエA (サッカー)|セリエA]]||21||1||1||0||colspan="2"|-||22||1 {{サッカー選手国内成績表 th|日本|all}} |- |[[1995年のJリーグ|1995]]||rowspan="4"|V川崎||rowspan="2"|-||rowspan="4"|J||26||23||colspan="2"|-||2||0||28||23 |- |[[1996年のJリーグ|1996]]||27||'''23'''||6||2||5||4||38||29 |- |[[1997年のJリーグ|1997]]||rowspan="2"|11||14||4||0||0||2||1||16||5 |- |[[1998年のJリーグ|1998]]||28||5||0||0||3||2||31||7 {{サッカー選手国内成績表 th|クロアチア|all}} |- |1998-99||[[NKディナモ・ザグレブ|ザグレブ]]||13||[[プルヴァHNL|1.HNL]]||12||0||colspan="2"|-||colspan="2"|-||12||0 {{サッカー選手国内成績表 th|日本|all}} |- |[[1999年のJリーグ ディビジョン1|1999]]||rowspan="2"|[[京都サンガF.C.|京都]]||36{{refnest|group="注"|天皇杯のみ11}}||rowspan="7"|[[J1リーグ|J1]]||11||4||0||0||2||1||13||5 |- |[[2000年のJリーグ ディビジョン1|2000]]||rowspan="7"|11||30||17||7||2||1||0||38||19 |- |[[2001年のJリーグ ディビジョン1|2001]]||rowspan="5"|[[ヴィッセル神戸|神戸]]||29||11||3||2||2||0||34||13 |- |[[2002年のJリーグ ディビジョン1|2002]]||17||3||1||0||0||0||18||3 |- |[[2003年のJリーグ 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通算行|イタリア|セリエA}}21||1||1||0||colspan="2"|-||22||1 {{サッカー選手国内成績表 通算行|クロアチア|1.HNL}}12||0||colspan="2"|-||colspan="2"|-||12||0 {{サッカー選手国内成績表 通算行|オーストラリア|Aリーグ}}4||2||colspan="2"|-||colspan="2"|-||4||2 {{サッカー選手国内成績表 通算行|ポルトガル|セグンダ}}4||0||0||0||0||0||4||0 {{サッカー選手国内成績表 通算終}}|||||||||||||| |} その他の公式戦 * 1990年 ** [[コニカカップ]] 7試合3得点 * 1991年 ** コニカカップ 4試合1得点 * 1992年 ** [[スーパーカップ (日本サッカー)#ゼロックス・チャンピオンズ・カップ|ゼロックス・チャンピオンズ・カップ]] 2試合1得点 * 1993年 ** [[Jリーグチャンピオンシップ]] 2試合2得点 * 1994年 ** [[サンワバンクカップ]] 1試合1得点 ** [[スーパーカップ (日本サッカー)|XEROX SUPER CUP]] 1試合0得点 * 1995年 ** Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点 ** [[セリエA (サッカー)|セリエA]] 残留・昇格プレーオフ 1試合0得点 * 1996年 ** [[Jリーグチャンピオンシップ#サントリーカップ(1996年)|サントリーカップ]] 1試合1得点 * 1997年 ** [[スーパーカップ (日本サッカー)|XEROX SUPER CUP]] 1試合0得点 {{サッカー選手国際成績表 top|1|F}} {{サッカー選手国際成績表 th|OFC|1|Y|C}} |2005||[[シドニーFC]]||11||colspan="2"|-||2||0 |- !rowspan="2"|通算!!colspan="2"|OFC |colspan="2"|-||colspan="2"|- |- !colspan="4"|FIFA |2||0 |} == 受賞 == * [[1990年]] - [[1991年]] - コダックオールスター(東西対抗)最優秀選手賞、[[日本サッカーリーグ]]報知・年間優秀11人賞(ベストイレブン) * [[1991年]] - [[1992年]] - 日本サッカーリーグ最優秀選手賞、同ベストイレブン * [[1992年]] - [[Jリーグカップ|ナビスコカップ]]MVP・得点王、[[ダイナスティカップ]]MVP、[[AFCアジアカップ]]大会最優秀選手、アジアベストイレブン賞 * [[1993年]] - [[Jリーグアウォーズ|Jリーグ最優秀選手賞]]、[[Jリーグベストイレブン]]、[[日本プロスポーツ大賞]]、第1回オールスターMVP、W杯アメリカ大会アジア最終予選得点王、[[アジアサッカー連盟]](AFC)年間最優秀選手 * [[1994年]] - アシックスカップサッカー優秀選手賞 * [[1995年]] - Jリーグベストイレブン、[[Jリーグオールスターサッカー#JOMOカップ Jリーグドリームマッチ|JOMOカップ]]MVP * [[1996年]] - Jリーグ得点王、Jリーグベストイレブン * [[2000年]] - Jリーグ優秀選手賞 * [[2012年]] - [[日本フットサルリーグ|Fリーグ]]特別表彰 * [[2013年]] - [[Jクロニクルベスト]] [[Jクロニクルベスト#ベストイレブン|ベストイレブン]] * [[2023年]] - [[J30ベストアウォーズ]] [[J30ベストアウォーズ#ベストイレブン|ベストイレブン]] == タイトル == * 1990年 - 1991年 - [[日本サッカーリーグ]] [[優勝]]([[読売サッカークラブ]]) * 1991年 - 1992年 - 日本サッカーリーグ 優勝(読売サッカークラブ) * [[1992年]] - [[ダイナスティカップ]] 優勝([[サッカー日本代表|日本代表]])、[[AFCアジアカップ]] 優勝(日本代表)、[[Jリーグカップ|ヤマザキナビスコカップ]] 優勝([[東京ヴェルディ1969|V川崎]]) * [[1993年]] - [[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]2ndステージ 優勝 & 年間優勝(V川崎)、ヤマザキナビスコカップ 優勝(V川崎) * [[1995年]] - Jリーグ2ndステージ 優勝(V川崎) * [[1998年]] - [[1999年]] - [[プルヴァHNL]] 優勝([[NKディナモ・ザグレブ|クロアチア・ザグレブ]]) * [[2006年]] - [[J2リーグ|J2]]優勝([[横浜FC]]) == 代表歴 == === 試合数 === * 国際Aマッチ 89試合 55得点([[1990年]] - [[2000年]]) {{サッカー代表個人成績|日本|1}} |- |[[1990年のサッカー日本代表|1990]]||3||0 |- |[[1991年のサッカー日本代表|1991]]||2||0 |- |[[1992年のサッカー日本代表|1992]]||11||2 |- |[[1993年のサッカー日本代表|1993]]||16||16 |- |[[1994年のサッカー日本代表|1994]]||8||5 |- |[[1995年のサッカー日本代表|1995]]||12||6 |- |[[1996年のサッカー日本代表|1996]]||12||6 |- |[[1997年のサッカー日本代表|1997]]||19||18 |- |[[1998年のサッカー日本代表|1998]]||1||0 |- |[[2000年のサッカー日本代表|2000]]||5||2 |- !通算 |89||55 |} [[2007年]]に[[日本サッカー協会|JFA]]が行った検証により1997年の[[サッカールーマニア代表|ルーマニア]]戦 2試合が取り消された<ref name="daihyou"/>。このため出場数が91から89へ、得点数が56から55へと訂正された。 JFAと[[Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation]] (RSSSF) は、[[釜本邦茂]](75得点)に次ぐ日本代表歴代2位の得点者としている<ref name="rsssf">{{Cite web |url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/century.html#goals|title=Players with 100+ Caps and 30+ International Goals|publisher=RSSSF.com|accessdate=2016-09-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.jfa.or.jp/archive/daihyo/daihyo/data/index.html|title=日本代表歴代記録|publisher=財団法人日本サッカー協会|accessdate=2016-09-21}}</ref>。一方、[[国際サッカー連盟]] (FIFA) は、2009年時点では釜本を三浦と同数の55得点としていたが<ref>{{Cite web |url=http://www.fifa.com/live-scores/news/y=2009/m=6/news=more-goals-than-caps-1065779.html|title=More goals than caps|publisher=FIFA.com|date=2009-06-03|accessdate=2016-09-21}}</ref>、2014年時点では80得点としている<ref>{{Cite web |url=http://www.fifa.com/worldcup/news/y=2014/m=3/news=80-days-to-go-2301340.html|title=80 days to go|publisher=FIFA.com|date=2014-03-23|accessdate=2016-09-21}}</ref>。 これは以下に示す JFA、IFFHS 両者の統計方法の違いによる。 * JFA - [[1988年]]以前の[[オリンピックのサッカー競技|オリンピック]]予選および本大会における、プロリーグの存在しない[[国]]・[[地域]]の、[[年齢]]制限のないオリンピック代表チームとの試合は[[国際Aマッチ]]とする。 * FIFA - [[1999年]]に「1960年以降の全てのオリンピック関係の試合が国際Aマッチと認められる訳ではないが、中間部分については更なる分析が行われる」という声明を出し<ref name="Olympic">{{Cite web |url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/century.html#Olympic Matches|title=Players with 100+ Caps and 30+ International Goals|publisher=RSSSF.com|accessdate=2016-09-21}}</ref>、これを元にした基準を採用している。 なお、RSSSFは「[[東ヨーロッパ]]と[[スカンディナヴィア|スカンジナビア諸国]]のサッカー協会はFIFAの声明を却下し、信頼できる各国の協会によって認められた統計方法を持っている。日本も大部分のオリンピックの試合を[[2015年]]に公式に認めている」という見解を示し、JFAの記録を追認している<ref name="Olympic"/>。 === 得点数 === ; [[サッカー]] {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" ! # !! 年!!月日 !! 開催地 !! 対戦国 !! 勝敗 !! 試合概要 |- | 1 ||rowspan="2"|1992年||8月26日 ||{{CHN}}、[[北京市|北京]] || {{PRKf}} || ○ 4-1 || [[ダイナスティカップ1992]] |- | 2 || 11月3日 ||{{JPN}}、[[広島市]] || {{IRNf}} || ○ 1-0 || [[AFCアジアカップ1992]] |- | 3 ||rowspan="16"|1993年||rowspan=2|3月14日 ||rowspan="2"|{{JPN}}、[[東京]] || rowspan=2|{{USAf}} || rowspan=2|○ 3-1 ||rowspan="2"| 親善試合 |- | 4 |- | 5 || 4月8日 ||{{JPN}}、[[神戸市]] || {{THAf}} || ○ 1-0 ||rowspan="9"| [[1994 FIFAワールドカップ・アジア予選]] |- | 6 || rowspan=4|4月11日 ||rowspan="6"|{{JPN}}、東京 || rowspan=4|{{BANf}} || rowspan=4|○ 8-0 |- | 7 |- | 8 |- | 9 |- | 10 || rowspan=2|4月15日 || rowspan=2|{{LKAf}} || rowspan=2|○ 5-0 |- | 11 |- | 12 || 4月30日 ||rowspan="2"|{{UAE}}、[[ドバイ]] || {{BANf}} || ○ 4-1 |- | 13 || 5月5日 || {{LKAf}} || ○ 6-0 |- | 14 || 10月4日 ||{{JPN}}、東京 || {{CIVf}} || ○ 1-0 || [[アフロアジア選手権]] |- | 15 || rowspan=2|10月21日 || rowspan="4"|{{QAT}}、[[ドーハ]] || rowspan=2|{{PRKf}} || rowspan=2|○ 3-0 ||rowspan="4"|1994 FIFAワールドカップ予選 |- | 16 |- | 17 || 10月25日 || {{KORf}} || ○ 1-0 |- | 18 || 10月28日 || {{IRQf1991}} || △ 2-2 |- | 19 || rowspan="5"|1994年||rowspan=2|7月8日 || rowspan="2"|{{JPN}}、[[名古屋市]] || rowspan=2|{{GHAf}} || rowspan=2|○ 3-2 ||rowspan="3"|親善試合 |- | 20 |- | 21 || 7月14日 ||{{JPN}}、神戸市 || {{GHAf}} || ○ 2-1 |- | 22 || 10月3日 ||{{JPN}}、[[尾道市]] || {{UAEf}} || △ 1-1 ||rowspan="2"|[[1994年アジア競技大会におけるサッカー競技|アジア競技大会]] |- | 23 || 10月11日 ||{{JPN}}、広島市 || {{KORf}} || ● 2-3 |- | 24 || rowspan="6"|1995年||1月8日 ||{{SAU}}、[[リヤド]] || {{ARGf}} || ● 1-5 || [[キング・ファハド・カップ1995]] |- | 25 || rowspan=2|5月28日 ||rowspan="3"|{{JPN}}、東京 || rowspan=2|{{ECUf}} || rowspan=2|○ 3-0 ||rowspan="2"|[[キリンカップサッカー1995]] |- | 26 |- | 27 || 9月20日 || {{PARf}} || ● 1-2 ||rowspan="3"|親善試合 |- | 28 || rowspan=2|10月24日 || rowspan=2|{{JPN}}、[[松山市]] || rowspan=2|{{KSAf}} || rowspan=2|○ 2-1 |- | 29 |- | 30 || rowspan="6"|1996年||2月19日 ||{{HKG1959}}|| {{POLf}} || ○ 5-0 || [[ルナー・ニューイヤー・カップ|カールスバーグカップ]] |- | 31 ||5月26日 ||{{JPN}}、東京 || {{YUGfscg}} || ○ 1-0 ||rowspan="2"|[[キリンカップサッカー1996]] |- | 32 || 5月29日 || {{JPN}}、[[福岡市]] || {{MEXf}} || ○ 3-2 |- | 33 || rowspan=2|8月25日 || rowspan="2"|{{JPN}}、[[大阪市]] || rowspan=2|{{URYf}} || rowspan=2|○ 5-3 ||rowspan="2"|親善試合 |- | 34 |- | 35 || 12月9日 ||{{UAE}}、[[アル・アイン]] || {{UZBf}} || ○ 4-0 || [[AFCアジアカップ1996]] |- | 36 ||rowspan="18"|1997年||3月15日 ||{{THA}}、[[バンコク]] || {{THAf}} || ● 1-3 || 親善試合 |- | 37 || rowspan=2|3月25日 ||rowspan="2"|{{OMN}}、[[マスカット]] || rowspan=2|{{MAC1887f}} || rowspan=2|○ 10-0 ||rowspan="2"|[[1998 FIFAワールドカップ・アジア予選]] |- | 38 |- | 39 || 5月21日 ||rowspan="15"|{{JPN}}、東京 || {{KORf}} || △ 1-1 || 親善試合 |- | 40 || rowspan=2|6月8日 || rowspan=2|{{CROf}} || rowspan=2|○ 4-3 ||rowspan="2"|[[キリンカップサッカー1997]] |- | 41 |- | 42 || rowspan=6|6月22日 || rowspan=6|{{MAC1887f}} || rowspan=6|○ 10-0 ||rowspan="12"|1998 FIFAワールドカップ予選 |- | 43 |- | 44 |- | 45 |- | 46 |- | 47 |- | 48 || rowspan=2|6月25日 || rowspan=2|{{NPLf}} || rowspan=2|○ 3-0 |- | 49 |- | 50 || rowspan=4|9月7日 || rowspan=4|{{UZBf}} || rowspan=4|○ 6-3 |- | 51 |- | 52 |- | 53 |- | 54 || rowspan="2"|2000年||2月16日 ||{{MAC}}|| {{BRUf}} || ○ 9-0 ||[[AFCアジアカップ2000]]予選 |- | 55 || 6月6日 ||{{MAR}}、[[カサブランカ]] || {{JAMf}} || ○ 4-0 || [[ハサン2世トロフィー|ハッサン2世カップ]] |} ; フットサル {| class="wikitable" style="text-; font-size:small;" ! # !! 年!!月日 !! 開催地 !! 対戦国 !! 勝敗 !! 試合概要 |- | 1 || 2012年 || 10月27日 ||{{JPN}}、[[旭川市]] || {{futsal|UKR}} || ○ 3-1 || フットサル親善試合 |} == 関連情報 == === 出演 === ==== 劇場アニメ ==== * [[名探偵コナン 11人目のストライカー]](2012年) - 三浦知良 役<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20130402150402/http://www.ntv.co.jp/kinro/lineup/20130419/index.html| title = 名探偵コナン 11人目のストライカー| publisher = 金曜ロードSHOW!| accessdate = 2016-06-11}}</ref> ** [[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]×Jリーグのスペシャルコラボレーション企画を記念して本人役で特別出演した。声優初挑戦のため、アフレコ収録の当日には『名探偵コナン』の主人公・[[江戸川コナン]]役である[[高山みなみ]]が、直接声優指導を担当した。家族もコナンの大ファンだったため、子供たちからも喜ばれていた。また、原作『名探偵コナン』900回記念では歴代ゲスト出演者の一人として、お祝いコメントが掲載された。 * [[ルパン三世VS名探偵コナン THE MOVIE]](2013年) - キング 役 ** ルパン三世×名探偵コナンのスペシャルコラボレーション企画として特別出演した。幼少時から[[ルパン三世 (架空の人物)|ルパン三世]]の大ファンだったこともあり、志願して出演が決定。特別にルパン三世との絡みのシーンが用意された<ref>[https://www.moviecollection.jp/news/14558/ キング・カズが憧れのルパン三世と共演! 赤いジャケットでアフレコ臨む] 2012年11月7日 ''[[ムービーコレクション]]''</ref>。知人でもある[[声優]]の[[戸田恵子]]に演技を教えてもらい、ルパンと同じ赤色のジャケット姿でアフレコした<ref>[https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2013/11/07/kiji/K20131107006961141.html カズ 声優再挑戦!殺し屋「キング」“憧れ”ルパンと共演 ― スポニチ Sponichi Annex 芸能]</ref><ref>[http://lupicona-movie.com/guest/index2.html スペシャル・ゲスト]</ref>。 ==== テレビドラマ ==== * [[仮面ライダーリバイス]] 最終話(2022年) - カズ 役(特別出演)<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.kamen-rider-official.com/revice/51| title = リバイス 「最終話を終えて」|website= 仮面ライダーWEB【公式】|publisher=東映| accessdate = 2022-08-28}}</ref> ==== CM ==== * [[サントリー]] ** 『サントリービア吟生・殻破りビール』(1991年)日本プロサッカー選手として初のCM出演 ** 『[[デカビタC]]』(1992年 - 1998年) **『セサミン』(2021年)<ref>{{Cite web|和書|title=三浦知良さん54歳の誕生日に本格始動!セサミンEX『グッドエイジング』「年齢にも、年齢を気にする社会にも、負けない。」新TV-CM・メッセージ広告・独占インタビューム...|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000075017.html|website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES|accessdate=2022-01-08}}</ref> * [[読売新聞]](1992年) * プーマ ジャパン『[[プーマ|PUMA]]』(1992年 - 1996年) * [[ネスレ日本]]『[[ブイトーニ]]』(1994年) * [[ブリヂストン]]『Gグリッド』(1994年) * [[静岡県]] 静岡県イメージアップCM(1996年) * [[ダンディハウス]] イメージキャラクター(2001年 - 2004年) * [[パイオニア]]『DVDレコーダ』(2001年) * [[マニュライフ生命保険]](2001年) * [[富士フイルム|富士写真フイルム]](2005年) * [[資生堂]]『薬用 アデノゲン』(2005年) * [[浜田省吾]] ** 『[[ベスト・アルバム|ベストアルバム]] [[The Best of Shogo Hamada vol.1]]』TVスポット(2006年) ** 『ベストアルバム [[The Best of Shogo Hamada vol.2]]』TVスポット(2006年) * [[セガ]]『[[プロサッカークラブをつくろう!|J.LEAGUE プロサッカークラブをつくろう!5]]』プロモーション・キャラクター(2007年) * [[富士重工業|SUBARU]]『[[スバル・レガシィ|レガシィ]]』これからの道 篇(2007年5月 - ) * [[興和|Kowa]]『バンテリンコーワ1.0%クリーミィーゲルLT』(2008年 - ) * [[第87回全国高等学校サッカー選手権大会]]『PUMA』(2008年12月30日 - 2009年1月12日) * [[ACジャパン]] (2011年) * [[日本コカ・コーラ]] ** [[ジョージア (缶コーヒー)|ジョージア]] *** 『ジョージア ヨーロピアン コクのブラック (コロッセオ編)』(2011年) *** 『ジョージア ヨーロピアン コクの微糖 (凱旋門編)』(2011年) *** 『ジョージア ヨーロピアン コクのブラック (思い出の一杯編)』(2011年) *** 『ジョージア ヨーロピアン ヴィンテージ (フィレンツェ編)』(2012年) ** 太陽のマテ茶 太陽がくれたお茶(2014年 - )<ref>{{Cite web|和書|title=太陽がくれたお茶「太陽のマテ茶」新TVCM サッカーワールドカップブラジル大会親善大使 三浦知良選手が語る「マテ茶リアルストーリー」|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000059.000003508.html|website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES|accessdate=2022-01-08}}</ref> * [[東海漬物]]『[[きゅうりのキューちゃん]]』(2012年) * [[西川産業]] 東京西川エアー ** 「AiRコンディショニング」篇 (2014年 - )<ref>{{Cite web|和書|title=寝具メーカー「東京西川」 スリーピング・コンディショニング・ギア[エアー]新CM第二弾 ネイマールJr.選手と三浦知良選手の夢の共演が実現!!|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000007.000010201.html|website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES|accessdate=2022-01-08}}</ref> **「AiR 点で眠れ」篇 (2015年 - )<ref>{{Cite web|和書|title=東京西川が三浦知良選手を起用した[エアー]マットレスの新CMを5月31日から放映スタート!!|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000017.000010201.html|website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES|accessdate=2022-01-08}}</ref> * [[ダイハツ工業]][[ダイハツ・タント|タントカスタム]](2015年 - ) * [[エースコック]] [[エースコック#カップ麺|スーパーカップ]] ** 「デビルスタワー篇」(2016年8月 - )<ref>{{cite news|url=http://www.hamakei.com/photoflash/2991/|title=横浜FCの三浦知良さんが「スーパーカップ」のCMに|newspaper=ヨコハマ経済新聞|date=2016-08-30|accessdate=2016-08-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=エースコック スーパーカップ1.5倍シリーズ 三浦知良さん出演新CMが8月29日よりO.A.開始 ~デビルスタワー篇~|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000881.000000304.html|website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES|accessdate=2022-01-08}}</ref> **「イエローストーン篇」(2017年2月 - )<ref>{{Cite web|和書|title=エースコック スーパーカップ1.5倍シリーズ 三浦知良さん出演スーパーカップ新CM 2月6日よりO.A.開始~イエローストーン篇~|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000936.000000304.html|website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES|accessdate=2022-01-08}}</ref> **「KING TASTE篇」(2017年8月 - )<ref>{{Cite web|和書|title=三浦知良さん出演スーパーカップ1.5倍新CM 8月29日よりO.A.開始 ~KING TASTE篇~|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001013.000000304.html|website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES|accessdate=2022-01-08}}</ref> **「KING TASTE実写篇」(2018年2月 - )<ref>{{Cite web|和書|title=スーパーカップ1.5倍シリーズ 三浦知良さん出演スーパーカップ新CM 2月5日よりO.A.開始~KING TASTE実写篇~|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001061.000000304.html|website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES|accessdate=2022-01-08}}</ref> * [[大正製薬]] [[リポビタンD]](2016年)<ref>{{cite news|url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/09/14/kiji/K20160914013350330.html|title=リポD新CMキャラクターのカズ 夢は「サッカー上手くなりたい」|newspaper=スポニチアネックス|date=2016-09-14|accessdate=2016-09-14}}</ref> * [[キリンビバレッジ]] [[FIRE (コーヒー)|ファイア エクストリームブレンド]](2016年)<ref>{{cite news|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000020.000017850.html|title=<新・KIRIN FIRE 誕生。>三浦知良さん 柳楽優弥さん 坂本龍一さんを新たにイメージキャラクターに起用し新CMを展開!|newspaper=PR TIMES|date=2016-10-04|accessdate=2016-10-11}}</ref> *[[メガネトップ]] [[眼鏡市場]] 「i-ATHLETE(アイアスリート) 登場篇」(2019年 - )<ref>{{Cite web|和書|title=プロサッカー選手の三浦知良さんを新CMキャラクターに起用。新TVCM「i-ATHLETE(アイアスリート)登場篇」 が8月30日(金)よりOAスタート。|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000077.000000509.html|website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES|accessdate=2022-01-08}}</ref> *[[IDOM]] ガリバー ** どこまでも、全力少年。「ガリバー 全力少年 三浦知良登場篇」(2021年)<ref>[https://car.watch.impress.co.jp/docs/news/1302269.html ガリバー、日本サッカー界のレジェンド・三浦知良選手をブランドアンバサダーに起用] Car Watch 2021年1月25日</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ガリバーのブランドアンバサダーに三浦知良さんが就任。「どこまでも、全力少年。」を体現する新たなブランドコミュニケーションを開始。|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000093.000020448.html|website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES|accessdate=2021-12-27}}</ref> **ガリバー史上最大の初売り「ガリバー全力少年 スタジアム篇」(2022年)<ref>{{Cite web|和書|title=「ガリバー史上最大の初売り」、ブランドアンバサダー三浦知良さんの新しいTVCMの放送を2022年1月1日より開始。|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000109.000020448.html|website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES|accessdate=2021-12-27}}</ref> == 著書 == * {{Cite book|和書|author=三浦知良|title=おはぎ |publisher=[[講談社]]|year=2005|isbn=978-4063077544|ref=三浦知良2005}} ** 『ラストダンスは終わらない: essay 2001-2005』(『おはぎ』を改題・文庫化、2012年、新潮文庫、{{ISBN2|9784101383910}}) * {{Cite book|和書|author=三浦知良|title=蹴音―三浦知良伝説の言葉|publisher=[[ぴあ]]|year=2006|isbn=978-4835616186|ref=三浦知良2006}} ** 『カズ語録』(『三浦知良 伝説の言葉- 蹴音 -』を改題・文庫化、2012年、PHP文庫、{{ISBN2|9784569677996}}) * 『やめないよ』(2011年、[[新潮社]])ISBN 4106104059 * 『日めくり KAZU 魂のメッセージ 底力』(2011年、PHP研究所){{ISBN2|4569799159}} * {{Cite book|和書|author=三浦知良|title=Dear KAZU 僕を育てた55通の手紙|publisher=文春文庫|year=2011|isbn=978-4167901288|ref=三浦知良2011}} ** 『[[Sports Graphic Number]]』にて掲載された連載「カズへの手紙。」をまとめ、一部加筆されたもの * {{Cite book|和書|author=三浦知良|title=カズのまま死にたい|publisher=新潮新書|year=2020|isbn=978-4106108518|ref=三浦知良2020}} == 関連書籍 == * {{Cite book|和書|author=綾野まさる|authorlink=綾野まさる|title=KAZU-十五の旅立ち 三浦知良物語|publisher=[[小学館]]|year=1997|isbn=978-4092901919|ref=綾野1997}} * {{Cite book|和書|author=一志治夫|authorlink=一志治夫|title=足に魂こめました―カズが語った「三浦知良」|publisher=[[文藝春秋]]|year=1993|isbn=978-4163478807|ref=一志1993}} * {{Cite book|和書|author=一志治夫|title=たったひとりのワールドカップ―三浦知良、1700日の闘い |publisher=[[幻冬舎]]|year=1998|isbn=978-4877286415|ref=一志1998}} * 『ズバリ、一流のストライカーに育てる本 - カズ、ヤスの母親に学ぶ』(三浦由子(三浦兄弟の母)著)[[ベストセラーズ]]、1993年。 * 『三浦知良写真集 KAZU KING THE VISUAL DOCUMENTARY』(山崎敏文 編集)小学館、1994年。 * 『KAZU―ハーブ・リッツ作品集』([[ハーブ・リッツ]] 撮影)パルコ出版、1995年。 * 『三浦知良―素顔の青春』(三浦知良担当記者グループ 著) * 『KAZU(カズ)とJリーグ』(岡 邦行 著) * 『KAZU(カズ)―ザ・スーパーストライカー』(加藤 高尚 著) * 『カズに賭ける夢―セリエAからワールドカップへ』(田中 孝一 著) * 『三浦知良夢のゴールへ』(三浦知良研究会 著) * 『三浦知良のサッカー留学物語―日本人で初のブラジル・プロになった男』(大貫 哲義 著) * {{Cite book|和書|author=矢内由美子|authorlink=矢内由美子|title=Jリーグ15年の物語 カズ&ゴンたちの時代|publisher=講談社|year=2009|isbn=978-4062150446|ref=矢内2009}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|3}} === 注釈 === {{Reflist|group= 注}} == 関連項目 == {{wikiquote|三浦知良}} * [[静岡市出身の人物一覧]] * [[サッカー日本代表出場選手]] * [[ヨーロッパのサッカーリーグに所属する日本人選手一覧]] * [[東京ヴェルディ1969の選手一覧]] * [[京都サンガF.C.の選手一覧]] * [[ヴィッセル神戸の選手一覧]] * [[横浜FCの選手一覧]] * [[鈴鹿ポイントゲッターズの選手一覧]] == 外部リンク == {{Commonscat}} {{ウィキポータルリンク|サッカー|[[ファイル:Soccer.svg|34px|Portal:サッカー]]}} 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AppleScript
AppleScript(アップルスクリプト)は、Appleが開発したClassic Mac OS/macOS用のオブジェクト指向のスクリプト言語。System 7(Mac OS 7にあたる)から採用されている。 標準環境で利用でき、ある程度自然言語(英語)に似た構文を持つ。制御構文、ハンドラや変数、オブジェクトやプロパティの記述といったプログラミングの基本機能を言語に備えており、Mac OSのプロセス間通信機能の一つであるApple eventによって、システムや様々な対応アプリケーションにまたがって制御できる。 AppleScriptはMac OSのスクリプティング機構Open Scripting Architecture (OSA) に対応した言語(OSA言語)のひとつであり、OS X v10.10よりJavaScript for Automation (JXA) も標準搭載されるようになった。 アプリケーション操作の自動化、シェル、コマンドの呼び出し、画面上の部品の強制操作にWebコンテンツの強制コントロール、Cocoaフレームワークの呼び出しにiCloud経由のコンテンツ更新など、マクロ言語としてはカバーできる範囲がとても広い。そのうえ、GUIベースのアプリケーション開発まで行えるため、いったん覚えるとMacを用いた作業の生産性が向上する。ただし、他のアプリケーションを他のコンピュータからも操作できるため、セキュリティを考慮しさまざまな抑止機能がオペレーティングシステム (OS) に用意されつつある(詳細は#制限機能を参照)。 Classic Mac OSからmacOSを通じて継承された唯一のテクノロジーであり、海外を中心に古くから開発者コミュニティが形成され、GUIベースのアプリケーションのコントロールについての知見が蓄積されている。 AppleScriptはOSAに準拠したスクリプト言語の一つであり、アプリケーション等のプロセスにApple eventを送ることにより自動操作を実現する。通常はコンパイル済みのバイトコードが保存され実行される。このため、基本的にはOSのバージョンやCPUの形式 (68000, PowerPC, x86, x64, ARM) 、記述した言語(AppleScript英語、AppleScriptフランス語、AppleScript日本語)などに依存しないコードが生成される。 AppleScriptの言語そのものが定義している予約語(複数の単語による連語から構成される)は数十程度と少なく、標準では絶対値を求める機能や三角関数の機能すら持たないが、Scripting Additions/OSAX(Open Scripting Architecture eXtension)と呼ばれる機能拡張書類、あるいはAppleScriptそのもので記述したAppleScript Librariesによって命令を増やすことが可能となっている(サードパーティのOSAXはmacOS 10.14で廃止になった)。 AppleScriptはMac OS上のアプリケーション間通信を基礎技術として用いているため、アプリケーションがApple eventに対応していればそのアプリケーションに処理を委ね、その処理結果を別のアプリケーションに対して用いることも可能である。また、現在のバージョンではUser Interface ScriptingあるいはGUI ScriptingあるいはUI Element Scriptingと呼ばれる機能を用いて、スクリプトからアプリケーションにメニュー操作やキー入力を伝達することも可能になっている。アプリケーションは、システム経由で送られてきたApple eventメッセージを解釈して対応した処理を行い、処理結果を再びシステムを経由してApple eventメッセージとして返す。 バイトコードインタプリタ型の逐次実行で処理されるため、ネイティブコードに比べると実行速度は劣るものの、アプリケーションの機能呼び出しを行わない場合にはスクリプト言語としては十分な速度で実行される。ただし、アプリケーションの機能呼び出しはコストも高く、前述のGUI Scriptingを用いたメニューなどの強制操作を行うと、さらに処理コストが増加し、時間がかかる。 AppleScriptは、簡素なダイアログ (display dialog、display alert)、ノーティフィケーションセンターへのノーティファイ (display notification)、ポップアップメニューからの項目選択ダイアログ (choose from list)、ファイル選択 (choose file)、フォルダ選択 (choose folder)、新規ファイル保存先パス選択 (choose file name) 、プログレスバー表示(Mac OS X v10.10以降。アプレット動作時のみ)などの、目的に特化した簡単なユーザインタフェースを提供している。 これら以外のユーザインタフェースを利用するために、現在利用できる手段で一番簡単なやり方は、Mac OS X標準搭載の「スイッチコントロール」でパネルを作成し、パネル内のボタンに対してアクション「AppleScript」を割り当てておくというものである。 Adobe InDesignなどの一部のアプリケーションでは、簡易的なユーザーインタフェースをAppleScriptのプログラムから動的に生成する機能を備えている。 本格的な、自由度の高い自作のインタフェースを持たせるには、Xcode上で「AppleScript App」プロジェクトを作成し、その中にAppleScriptコード(AppleScriptObjC)を記述する。Xcode上で一般のアプリケーション開発と同様にユーザインタフェースを作成できる。コントロール(GUIの部品)が操作されると、AppleScriptコード中の対応するイベントハンドラが呼び出される。 macOSにはスクリプトの編集・実行ツールであるスクリプトエディタ(Mac OS X v10.0〜v10.4はスクリプトエディタ、Mac OS X v10.5〜v10.9はAppleScriptエディタ(スクリプトエディタの名称が変更されたもの)、Mac OSでは『スクリプト編集プログラム』)が付属する。 スクリプトエディタにAppleScript対応アプリケーションのアイコンをドラッグ・アンド・ドロップするとAppleScript用語辞書が表示され、これを参照しつつアプリケーションのコントロールを行う処理を記述する。 スクリプトエディタにはブレークポイント設定や変数内容のモニタリングなどの機能はないため、これらの機能を利用したいユーザーはLate Night Software社の「Script Debugger」を用いる必要がある。また、Cocoaオブジェクトのログ表示やAppleScript Librariesに添付するAppleScript用語辞書の編集についても「Script Debugger」で行える。 AppleScriptへのコードサインはApple純正のスクリプトエディタおよびScript Debuggerで行うことができる。Mac App StoreにAppleScriptで作成したアプリケーションを提出するには、Xcode上で記述・コードサインする必要がある。 その他、テキストで書いたスクリプトをコマンドラインからosascriptコマンドでコンパイル・実行することも可能である。 Apple純正の統合開発環境Xcode(旧Project Builder)上でAppleScriptによるアプリケーション開発を行うこともできる。AppleScriptから直接Cocoaの機能を呼び出せる「AppleScriptObjC」が提供されている(Mac OS X v10.1〜v10.5ではAppleScript Studio)。ユーザーインタフェース作成についてInterface Builderを用いる点は以前のAppleScript Studio(Mac OS X v10.6で廃止)とかわりないが、AppleScript用語辞書を用いて各種GUI部品にアクセスするのではなく、Interface Builder上でバインディングによりAppleScriptプログラム中のプロパティ値にひもづけしたり、Cocoaの各種フレームワーク内のメソッドを呼び出す方式に変更された。 AppleScript書類のフォーマットは維持されているため、基本的には互換性が確保されている。これまでMac OS X v10.4のインテルCPUへの移行や、Mac OS X v10.7の64ビットへの移行、macOS 11.0のApple Silicon(ARM)移行などOSの基盤の大変革期があったが、AppleScriptそのものについてはほぼ影響はなかった。AppleScriptの処理系そのものの変更が小刻みであったため、15年前に作られたソートルーチンがそのまま使えたりもする。 ただし、AppleScriptだけでなくOSAXや外部のアプリケーションの機能を利用していた場合には、部品ごとに確認が必要となる。 まず、macOS標準添付のアプリケーションの機能がOSバージョンごとに異なる。これらを呼び出す処理を行っている場合にはチェックが必要である。とくに、AppleScriptにOSの機能を提供するために用意されている補助アプリケーションはOSバージョンによって変更されることがあるため、その存在および代替機能を確認する必要がある。一般的に、古いバージョンから新バージョンへの移行は、それなりに手間はかかるものの確認作業レベルで済む。 逆に、新しいバージョンのOSから古いバージョンのOSにScriptを移植する場合には大幅に作業量が増える。古いOSには固有のバグもあるため(Mac OS X v10.5以前は日本語のパスの扱いに問題があった)、それらを考慮した処理に変更する必要も生じる。古いmacOSが動作する実機と関連アプリケーションを用意し、きちんと動作検証や書き換え作業が必要になる。 GUI Scriptingを利用している場合には、メニュー構成やボタンの文字を変えただけで動かなくなる可能性があるため、そもそも異なるOSバージョン間でそのまま動く可能性は低い(ただし単純な修正で対応できる)。 OS X v10.10以降ではAppleScript側が想定するAppleScript処理系のバージョン(≒ macOSそのもののバージョン)をuseコマンドを使って表記できるようになった。 また、macOS 10.14以降でサードパーティ製のOSAXが使用できなくなったため、それらを使用しているScriptをmacOS 10.14以降で動かす場合には代替機能を探す必要もある(Cocoaの機能を呼び出したり、shellコマンドの機能を呼び出したりするのが一般的)。 HyperCard用のスクリプト言語であるHyperTalkに似た、英語に近い構文が採用されており、基本的には習得しやすい。機能の異なるアプリケーションを操作するためには、それぞれアプリケーションごとに異なる命令やオブジェクト構造を知る必要があり、AppleScript対応アプリケーションのアイコンをスクリプトエディタでオープンすることで表示される「AppleScript用語辞書」を参照しつつ記述することになる。 初期は日本語表現形式を含む英語以外の言語による記述も可能だったが、Mac OS 8.5以降は英語表現形式のみが採用されている。英語表現形式の場合も変数名は | で囲むことで日本語などを使用できる。 Mac OS X v10.10でAppleScriptObjCがXcode上のみならず、スクリプトエディタ上でも利用できるようになったため、Objective-C風の表記も標準採用された。 スクリプトの例(変数「持ち物=myItem」の中身が0だったらダイアログを表示する) 英語 通常は上記のように記述するが、より英文に近い以下のようなコードも記述できる。ただし複数の処理を一行のif文に組み込むことはできないので、先ほどの構文を使用することになる。下記のコードでは比較演算子の“等価”を表す = が is に置き換えられている(is は is equal to と書くこともできる。このような同義語が数多く存在するのもAppleScriptの特徴のひとつ)。 変数名に日本語を用いた例 日本語(現在は利用できない) Mac OS X v10.6で部分的に導入され(Xcode上のみ)、Mac OS X v10.10でスクリプトエディタでもCocoaの機能を利用するAppleScriptObjCが導入された。このため、現行のmacOS上ではどのマシンでも、どのAppleScriptランタイム環境上でもCocoaの機能を利用できる状態になっている。 AppleScriptObjCは従来のAppleScriptと比べて10倍以上の高速処理が可能である。ただし、それはAppleScriptのオブジェクト(string、list、recordなど)をCocoaのオブジェクト(NSString、NSArray、NSDictionaryなど)に変換したうえでCocoaのメソッドを呼び出した場合であり、従来型のAppleScriptをAppleScriptObjC環境で記述しても速度は変わらない。AppleScriptとCocoaの間でのオブジェクト変換は暗黙で行われる場合もあるが、多くの場合は明示的に変換する必要がある。 また、AppleScriptObjCではObjective-CのBlocks構文やprotocolをサポートしていないため、Cocoaのフレームワークすべてが利用できるわけではない。Cocoaのクラス名やメソッド名でAppleScriptの予約語とコンフリクトするものについては「|」で囲う必要がある(例:NSURL、URL、document、count、propertiesなど)。ドットシンタックスもサポートしていないため、現行のObjective-C 2.0にくらべるとやや冗長な表記になる。 Cocoaオブジェクトの結果表示やログ表示については、macOS標準添付のスクリプトエディタではサポートしていない。Cocoaオブジェクトのログ表示などを利用するためにはサードパーティーの開発ツール「Script Debugger」の利用が必要である。 スクリプトの例(変数「aString」のアルファベット大文字を小文字に変換する) Objective-C AppleScriptObjC AppleScript対応アプリケーションへのtellブロック内でAppleScriptObjCの命令を呼び出すとエラーになる。このため、たとえばAdobe InDesignの書類から得られたデータをAppleScriptObjCを用いて高速にソートしたい場合などは、AppleScriptObjCの機能部分をサブルーチンとして分離し、InDesignへの命令ブロックと明示的に分ける必要がある。 なお、AppleScriptObjCで実行されるCocoa機能呼び出しはARC環境下で実行されるため、releaseなどのメソッドを呼び出すと実行環境ごとクラッシュする。 スクリプトエディタ上でのコンパイル(構文確認)時に演算の優先順位を指定するため、AppleScript処理系がソースコード内にカッコ(「(」「)」)を自動的に補う動作を行う。ユーザーはこのカッコが自分の意図に合うかどうかを判断し、適宜カッコを補ったり移動させる必要がある。 カッコが自動で付加されるのは、主に四則演算や文字列の連結演算、Cocoaオブジェクトへのメソッド実行などの記述時である。 英文風に記述するため、「無意味句」を入れることができる。無意味句の代表的なものに「the」がある。theはプログラム内で何もプログラム的な動作を行わない。実行時に無視される。 のような配列変数の末尾に数値を追加する記述を行なった場合、英文風に読みやすくするため、 のように無意味句を補うことができる。 無意味句はプログラム的な動作を何も行わないが、それら自体が存在し、無意味句同士は別物として識別される。そのため、無意味句を補助的に用いてサブルーチン(ハンドラ)の宣言を行うことも可能。 AppleScriptが定義している無意味句には、 などがあり、サブルーチンのパラメータを指定する装飾子としてこれらの無意味句を利用できる。 アプリケーションの操作による作業の自動化や、複数のアプリケーションの操作によるソフトウェア・ロボットの構築が可能であるが、操作対象の種類によって利用する技術や手法が変わる。 Safariやコンタクト、カレンダーなどのmacOS標準添付アプリケーションの多くがAppleScriptからのコントロールに対応しており、主要機能にアクセスできる。 ただし、対応アプリケーションであっても機能のすべてがAppleScriptに解放されているわけではない。AppleScript用語辞書に定義されている範囲のみである。 そのため、前述のGUI Scriptingによるメニューやボタンなどの強制操作が時と場合によって必要になる。この強制操作機能はOSのデフォルト設定ではオフになっているほか、アプリケーション/アプレット/Scriptごとに許可/禁止するようになっている。 do shell scriptコマンドでBSD (UNIX) レイヤー上のコマンドを呼び出すことができる。ただし、Terminal.app上とdo shell scriptコマンドでは設定されている環境変数が異なるため、Terminal.app上で実行できていた処理ができなくなる場合がある。特に、指定したコマンドにパスが通っていないことや、カレントディレクトリが異なること等はエラーの原因となる。これは環境変数の内容を明示的に指定することや、利用コマンドをフルパスで表記することで回避できる(環境変数内容はenvコマンドを実行して確認できる)。 macOS標準装備の「リモートApple events」の機構を用いて、TCP/IPネットワーク(主にLAN)内の他のMac上のアプリケーションをコントロールできるようになっている。ただし、セキュリティ確保のためmacOS標準装備のアプリケーションの多くは、この機能が禁止されているほか、OSのデフォルト設定ではリモートApple eventsはオフになっている。 1台のMacでは処理が追いつかない場合、この機構を用いて複数台のMacに仕事を割り振り分散処理を行うことができる。また、Mac上で稼働する仮想環境上でmacOSを動作させ、仮想環境との間での分散処理も可能である。 SOAP、XML-RPCを呼び出すための命令が標準で装備されている(call soap、call xmlrpc)。Cocoaの機能を用いてRESTful APIを呼び出すことも可能である。 これらのサービスが存在しないサイトに対しても、Safariのdo JavaScriptコマンド経由で操作したり、GUI Scriptingで強制的に操作することで、Webサービスにログインして必要な情報を取得するなどの処理が可能である。 macOS 11.0以降、ARM Mac上ではiOS用のアプリケーションがそのまま動作している。このため、ARM Mac上で動作するiOSアプリケーションをAppleScriptから操作することも可能になった。専用の用語辞書を持たないiOSアプリケーションに対しては、GUI Scripting経由で操作するが、macOSアプリケーションのようにオブジェクト階層をたどれる作りになっていないため、新たなノウハウが必要である。 Apple純正のメモなどのアプリケーションでは、macOS用とiOS用がiCloud経由でデータのシンクロを行うため、macOS上でデータの更新を行うとiOS側にもそれが反映される。これを利用して、iOS側に大量のデータを登録したい場合にMac上でAppleScriptなどによってデータを追加するといった方法が可能である。また、iPhoneとひもづけされたMacからAppleScriptを用いて電話をかけたりSMSメッセージを送信したりもできる。 iOSシミュレータ上で動くiOSアプリケーションもGUI Scriptingにより操作や情報の取得などが可能である。そのため、AppleScriptからシミュレータ上のiOSアプリを操作し、操作テストを実施して段階ごとに画面キャプチャを記録することも行われている。 Mac OS X v10.10以降では、Apple純正およびサードパーティー製CocoaフレームワークをAppleScriptから直接呼び出すことが可能となっている。また、コンタクト(住所録)やカレンダーの情報をフレームワーク経由で検索・操作できるようになった。iTunes Libraryの検索もiTunes.app経由やiTunes Music Library.xmlを検索するよりも高速に行える。 Mac OS X v10.9以降で、AppleScript自体をライブラリ化して再利用できるようになった。さらに、このライブラリにはAppleScript用語辞書を持たせることが可能なため、AppleScriptの命令語をAppleScriptで記述したライブラリによって拡張することが可能である。 macOS 12以降では、iOS系のOSから移植された自動化ツール「ショートカット」(Shortcuts.app)が利用できる。このツール自体がAppleScriptからの操作に対応しており、指定のショートカット(ユーザーが定義した自動化ワークフロー)を実行できるほか、Shortcuts.appが起動していない状態でも、AppleScriptからの実行専用バックグラウンドツール「Shortcuts Events」を指定してショートカットの実行が可能。 AppleScriptから音声エージェント「Siri」を呼び出すAppleScriptライブラリ「AgentCallerLib」がPiyomaru Softwareより提供(電子書籍の付録として提供)されており、指定の文字列をSiriに渡して実行できるようになった。コマンドの冒頭に「Hey Siri」を書く必要はない。同ライブラリは、macOS 12以降をサポートしている。 AppleScriptは中間コードに翻訳されて逐次実行されるが、以下のようなさまざまな保存・実行環境(ランタイム環境)を持つため、実行環境によって動作が微妙に異なり、想定していた通りに動かない場合がある。 また、実行中のログ表示が行えるのはスクリプトエディタでオープンしてスクリプトエディタで実行させた場合、およびXcode上で作成してデバッグビルドを行なっている場合の2つのケースにかぎられる。フォルダアクションで実行中のAppleScript書類をスクリプトエディタでオープンさせたからといって、フォルダアクションで実行中のAppleScriptのログがスクリプトエディタ上にログ表示されることはない。 スクリプトエディタ上に記述して、スクリプトエディタ上で実行する形態である。この際の実行環境はスクリプトエディタであり、途中でAppleScriptの実行を停止させたり、ログ表示させた内容を確認したりできる(ログ表示させると実行速度がいちじるしく低下する)。セキュリティ上の制約がもっとも少ない実行環境でもあり、他の実行環境では動かせないコードもこの環境で動くケースが多い。 スクリプトエディタ上で記述して、アプリケーションとして保存、あるいはアプリケーションとして書き出したものである。この形態のものをアプレットと呼ぶ。アプレット実行時にはアプレット用のランタイム環境が用意されている。この環境で実行すると、on idleによるタイマー割り込み、ファイルやフォルダをドラッグ&ドロップ受信する機能、ハンドラの実行後に終了しない、プログレスバーの表示機能(Mac OS X v10.10より)などの機能が利用できる。ファイル/フォルダのドラッグ&ドロップを受け付けるアプレットをドロップレットと呼んで区別する(アイコンが異なる)が、ランタイム環境は同じである。 アプレット実行時にログ表示などの機能は利用できないため、この実行形態のままではバグの確認や修正が困難である。アプレットとして書き出す前にスクリプトエディタ上で内容に問題がないことを確認する必要がある。 Automatorのワークフロー記述の一部としてAppleScriptを使用することもできる。Automator上のアクション「AppleScriptを実行」がスクリプトエディタに近い機能(ログ表示、結果表示)を持つが、他のAppleScript対応アプリケーションのAppleScript用語辞書をブラウズしたり、途中で実行を停止させるなどの機能はない。 Mac OS X v10.7で導入された。スクリプトエディタ上で「ファイル」>「テンプレートから新規作成」>「Cocoa-AppleScript Applet」を選択することで新規作成できる。AppleScriptObjCによるプログラムをスクリプトエディタ上で記述できるが、Interface Builderによるユーザーインタフェースの作成が行えず、デバッグ機能も乏しい。実行はアプレット形式でのみ行う。 Xcode上で「File」>「Project」>「Other」>「AppleScript App」を呼び出すと作成される。Mac App Store上でのアプリケーション販売が可能な形式である。一般的なCocoaアプリケーションをAppleScriptで開発する環境であり、一般的なCocoaアプリケーションに近いものが作れるが、一般的なCocoaアプリケーションを作成するレベルの知識が必要とされる。Xcode内蔵のエディタ上で編集するAppleScriptは、文法要素に応じた構文色分け機能が利用できず、デバッグも行いにくい。複数のスクリプトファイルにプログラムを分割した場合のハンドラ呼び出し方法にクセがある。 macOSのメニューバーから所定のフォルダ内のAppleScriptを実行できる、macOS標準装備の「スクリプトメニュー」に登録・実行した場合の実行環境も、OSのバージョンに応じてさまざまな変更が加わってきた。Mac OS X v10.10からはosascriptコマンドで実行する実装になった。このため、スクリプトメニューから複数のAppleScriptを同時に実行させることが可能になったが、実行するScript同士で共通のアプリケーションにアクセスした場合のバッティングまでは面倒を見てくれない。スクリプトメニューから実行中のScriptの停止を行えるが、実行中のログ表示はできない。macOS v10.14からは独立したアプリケーションとして提供されるようになった。 指定のフォルダ内容を数秒間隔で監視し、変更が加わるとAppleScriptの実行を行う機構である。ランタイムの差異が問題を生むというよりも、このフォルダアクションの機構そのものがmacOSのバージョンによってはうまく動作していない(Mac OS X v10.10)ことが問題であった。のちに、macOS v10.11でFSEvents経由で変更イベントを受信するよう全面的に書き直され、ファイル変更があったら即時にScriptが実行されるようになった。 OSバージョンによっては、display dialogなどのコマンドが利用できなかったが、Mac OS X v10.10以降はスクリプトエディタ上での実行にきわめて近いランタイム環境が提供されている。全く同一ではないため、スクリプトエディタ上で記述すれば発生しないような問題に直面する場合がある。一例として、AppleScript中からNSWindowを動的に生成し、そのウィンドウ上の各種GUI部品でユーザーからの操作を受け付けたい場合、操作が処理されないといった問題がある。 macOSのアクセシビリティ系の機能に、フローティングパレット上に配置したボタンからキーボードショートカットやAppleScriptの実行を行えるSwitch Controlがある。バンドル形式のScriptを読み込んで実行できない、Scriptのバンドル内に実行ファイルを入れて呼び出すことができない、ユーザーディレクトリ下のAppleScriptライブラリを認識しない、といった運用上の制約がある。 日本語音声認識でAppleScriptを実行できる。実行可能形式は、AppleScriptのフラット形式(.scpt)およびAppleScriptアプレット。Siriとは別の音声認識コマンドであり、あらかじめ指定しておいた固定文字列を日本語音声認識して、合致すればコマンドを実行する。macOS 12でショートカット.appがmacOSに搭載されたことにより、AppleScriptを実行可能な音声認識コマンドの実行系が2つ存在している。 FileMaker Proを外部からAppleScriptでコントロールするよりも、FileMaker Proスクリプトの「AppleScriptを実行」スクリプトステップ中にAppleScriptをコピー&ペーストで入れて実行する方が数倍高速に実行される。画面の再描画などを抑止するほか、高速実行するための仕組みを備えている。 Microsoft OfficeのVBAスクリプト内でも、AppleScriptを呼び出す仕組みが用意されている。Excel v.14.xまでは「MacScript」コマンドにより文字列で与えたAppleScriptが、Excel v.15.xでは「AppleScriptTask」コマンドによりファイル名を指定して外部のAppleScriptを実行できるようになっている。 同様に、Adobe InDesignの「スクリプト」パレット中からAppleScriptを呼び出すことが出来、この際に画面の再描画を抑止できるため高速実行(おおよそ2倍)が可能となっている。ただし、Adobe InDesignについては大量のデータ処理時にクラッシュが発生するため、処理速度より安定稼働を重視すると外部からのコントロールも選択肢に入る。 AppleScript専用のサードパーティー統合開発環境といえるScript Debuggerでは、デバッグ時にAppleScript互換の「AppleScript Debugger」というAppleScriptとは別のOSA言語を実行することになる。厳密にいえばAppleScriptそのものを実行するわけではないため、振る舞いが異なる箇所が出てくることは否定できない。ただし、以前(Classic Mac OS時代)に比べると純正AppleScript環境との互換性は大幅に高まっている。強力で便利な環境であるが、「デバッグ時以外はScript Debuggerを使うべきではない」という方針の開発現場もあるのは、この「互換性問題」ゆえである。 Shortcuts.appのアクションに「AppleScriptを実行」が用意されており、ショートカット内でのAppleScript実行が可能である。このアクションはmacOS専用であり、他のOS上では実行できない。Cocoaの機能呼び出しや、ユーザー環境にインストールされたAppleScript Librariesの機能呼び出しなどが可能。このことにより、Mac上であればSiri経由で日本語音声認識/テキスト操作によりAppleScriptを実行できるようになった。 スクリプトエディタ上でのコンパイル(実質的には構文チェック+中間コードへの置き換え)時には、AppleScriptの基本的な文法を外れなければ、それがたとえ実行できない命令の組み合わせであってもエラーにならない。実行時にエラーとなる。FinderのAppleScript用語辞書を見ていると「make new application」といったできそうもないプログラムを組めそうに見え、実際にFinderへのtellブロック内に記述するとコンパイルを通ってしまう。 実際には、アプリケーション側が想定している命令語の組み合わせは限定されたものである。また、想定された条件下によっては実行できるが、条件がそろわないと実行してもエラーになったり無意味な結果になるものもある。このため、アプリケーションが備えている機能を逸脱しない表記、アプリケーションの用語辞書で実現可能な記述パターンの情報を収集することには大いに意義がある(Appleが主催するメーリングリストのアーカイブの検索がこれに適している)。また、Scriptはこまめに実行して想定どおりの実行結果が得られているかを確認するとよい。 たとえば、printコマンドでプリンタを指定して書類を印刷する機能が存在していても、LAN内に存在するプリンタ名一覧を取得する機能はデフォルトでは用意されていない。同様に、テキストの音声読み上げを行うsayコマンドで音声キャラクタの名称を指定できるのに、現在システムにインストールされている音声名称の一覧を取得する機能が存在していない。このため、shell scriptやCocoaのサービスを呼び出して、取得する手段を別途用意する必要がある。 何らかの条件に基づいてオブジェクトを抽出する処理が、アプリケーションコントロールでは日常的に発生する。たとえば、リマインダーで名称(name)に「発売日」を含む項目のみ抽出するといった処理である。そのような場合に、オブジェクトの抽出をせずに「とりあえずすべてのオブジェクトを取得して、ループで条件一致するものを抽出する」ようなコードでは処理が遅くなってしまう。フィルタ参照を使って対象オブジェクトのしぼりこみを行うと速度を向上できる。 ただし、64bit化されたFinderではこのフィルタ参照の処理速度が大幅に低下しており、Finderに対して複数のフィルタ参照を実行すると速度が落ちる点に注意が必要である。 何らかのオブジェクトの属性値を取得したい場合に、複数の属性値を何回かに分けて取得するよりもpropertiesでまとめて属性を取得した方が速いケースなどがある。アプリケーションをコントロールするために存在しているAppleScriptであるが、アプリケーションとの通信回数を減らすことが処理の高速化につながる。 例えば、指定フォルダ以下の全てのファイルを処理する場合、Classic Mac OS時代にはFinderに対して再帰処理で取得するように書いていたが、現代のmacOSではSpotlightを用いてファイル一覧を取得するとずっと速く処理できる。このように、macOSの機能の移り変わりを意識していないと処理速度が大幅に変わる。 Music(iTunes)、Keynote、Pages、NumbersなどApple純正アプリケーションに固有の問題が存在する。アプリケーションのローカライズをやりすぎて、AppleScript関連の機能までローカライズされている例が多々ある。このため、海外で流布しているAppleScriptの、主にオブジェクト名称を英語名表記から日本語名表記に変更しないと日本語環境上では実行できない(エラーになる)ケースが存在する。 あまりに拡張され、できることが増えすぎたため、AppleScriptの一部機能を抑止するための機構がmacOSに用意されつつある。以下の機能についてはデフォルトでは禁止状態になっているが、管理者パスワードを入力すれば実行を許可するようになっている。 ネットワーク上の他のMacからのコントロールを行うリモートApple Eventsに対し、macOS標準装備の各アプリケーションは応答しないようになっている。また、出荷時のデフォルト設定で、リモートApple Eventsはオフになっている。 画面上のメニューやボタンなどを操作するGUI Scriptingについては、「システム環境設定」の「セキュリティとプライバシー」>「アクセシビリティ」で個別に許可を行うようになっている。デフォルト設定では、どのプログラムに対しても許可していない。 Safari 9.1.1より、「開発」メニューに「Apple EventsからのJavaScriptを許可」の項目が新設され、これにチェックを入れないとAppleScriptからSafariに対してdo javascript命令を実行できなくなった。いったん許可すれば、その状態は継続される。 FileMaker Pro v16より、FileMaker Script中におけるAppleScriptの実行(正確にいえば、AppleScriptからFileMaker Pro自身を操作すること)がデフォルトの権限セットのままでは許可されない状態になっている。そのため、より以前のバージョンで作成したFileMaker ProデータベースをFileMaker Pro v16でオープンすると、FileMaker Script Step実行時に「実行権限エラー」ダイアログが表示され、Script Stepの実行が行われないという現象に直面することがある。このような場合には、拡張アクセス権で「Apple EventおよびActive-XによるFileMaker操作の実行を許可」にチェックを入れれば実行できるようになる。 macOS 10.14より、システム環境設定の「セキュリティとプライバシー」>「プライバシー」項目にセキュリティ度を調整するための各種機能が追加され、AppleScriptもその影響を受けるようになった。 「フルディスクアクセス」項目では、動作中のMacのすべてのユーザーに対して、ユーザー自身のメール、メッセージ、Safari、ホーム、Time Machineバックアップなどのデータや特定の管理設定へのアクセスを許可する。AppleScriptを利用するユーザーはこの項目に「スクリプトエディタ」と「スクリプトメニュー」を登録しておく必要がある。 「オートメーション」項目では、他のアプリケーション制御の許可、および取り消しを行える。スクリプトエディタ以外のアプリケーションで、他のアプリケーションを制御する場合には、動作中の最初の要求時にユーザーに対して承認を求めるダイアログを表示する。承認されたアプリケーションはこの「オートメーション」項目に表示されるようになる。実行したユーザーが承認しなかった場合にも、本項目にチェックボックスがオフになった状態で表示されるため、あとからシステム環境設定上の本項目において承認を行う(チェックボックスをオンにする)ことが可能である。 なお、一度「オートメーション」項目に登録され、ユーザーの承認を得ていれば、毎回ユーザーの承認ダイアログが表示されることはない。 逆に、本「オートメーション」項目に意図的に登録させたい場合、アプリケーションのバージョン番号を確認したり最前面に表示させる(activate)コマンドを実行させる程度ではシステムが反応しない。他のアプリケーションを操作するAppleScriptアプレット/AppleScriptアプリケーションにおいて、初回起動時に「オートメーション」項目に登録される程度の簡単な(害のない)アプリケーション操作を意図的に行う必要が生じるようになった。AppleScript側から任意のアプリケーションに対する操作が許可されているかを知ることは、サードパーティのフレームワークを呼び出すことで可能となっている。 macOS 10.11以降、SIPによる機能制限が段階的に強化され、macOS 10.14においてはApple純正のスクリプトエディタにも制限が加わった。ホームディレクトリ下の「ライブラリ」フォルダ中の「Frameworks」フォルダ(デフォルトでは存在しない)へのアクセスがSIPにより禁止された。macOS 10.14上でこの制限を回避するには、サードパーティの開発環境「Script Debugger」を利用するか、SIPそのものを解除する必要がある。 macOS 10.15以降、リモートApple Eventsでネットワーク上の他のMac上のAppleScriptから命令を受け付ける場合、呼び出す側と受け付ける側のユーザー名が同じである必要があるようになった。なお、簡単なシェルコマンドでこの制限は無効にすることができる。 macOS側のセキュリティ機能とAppleScriptの処理系のすり合わせが不十分なままOSがリリースされてしまったために、macOS 10.12, SierraにおいてはAppleScriptをドロップレットとして保存し、ファイルをドラッグ&ドロップした場合には、ファイルの処理が行われなかったりファイル処理の順序が以前のOSのとおりに行われなかったりする。 これは、ファイルの拡張属性(Xattr)の1つ「com.apple.quarantine」により発生する。インターネット上からダウンロードしたファイルなどは、その安全性が担保されていない状態であると(macOSが)みなし、この「com.apple.quarantine」属性が添付される。 ユーザーの操作によりファイルのオープンを許可された(「ダウンロードされたファイルですが、オープンしてもよいですか?」という確認ダイアログでユーザーに承認)場合には処理されるが、同属性がついたままだとドロップレットによる処理が行われない。一応回避手段は存在するが、初心者には理解が難しいものとなっている。 。 sayコマンドで日本語読み上げ音声を指定して「もげる」「捥げる」を読み上げると正常に読み上げられない(NSSpeechManagerのバグで、SwiftやObjective-Cでも同様のバグが発生し、iOSでも状況は同じ)。。 Enum「NSNotFound」の定義が間違っており、-1ではない値を返す(10.13.1にて修正)。 AppleScriptからCocoaの機能を呼び出す際にScripting Bridgeの仕組みが利用されているが、このScripting Bridgeの定義ファイルに問題があり、いくつかの機能が正常に呼び出せない状況が確認されている。。 NSRectが属性ラベルつきのレコード型ではなくリスト型に変換されるようになっている。 PDFViewに対してcurrentPage()を実行してもPDFPageが返ってこない。このため、PDFView上でPDFを表示させるGUIプログラムに影響が出ている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "AppleScript(アップルスクリプト)は、Appleが開発したClassic Mac OS/macOS用のオブジェクト指向のスクリプト言語。System 7(Mac OS 7にあたる)から採用されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "標準環境で利用でき、ある程度自然言語(英語)に似た構文を持つ。制御構文、ハンドラや変数、オブジェクトやプロパティの記述といったプログラミングの基本機能を言語に備えており、Mac OSのプロセス間通信機能の一つであるApple eventによって、システムや様々な対応アプリケーションにまたがって制御できる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "AppleScriptはMac OSのスクリプティング機構Open Scripting Architecture (OSA) に対応した言語(OSA言語)のひとつであり、OS X v10.10よりJavaScript for Automation (JXA) も標準搭載されるようになった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "アプリケーション操作の自動化、シェル、コマンドの呼び出し、画面上の部品の強制操作にWebコンテンツの強制コントロール、Cocoaフレームワークの呼び出しにiCloud経由のコンテンツ更新など、マクロ言語としてはカバーできる範囲がとても広い。そのうえ、GUIベースのアプリケーション開発まで行えるため、いったん覚えるとMacを用いた作業の生産性が向上する。ただし、他のアプリケーションを他のコンピュータからも操作できるため、セキュリティを考慮しさまざまな抑止機能がオペレーティングシステム (OS) に用意されつつある(詳細は#制限機能を参照)。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "Classic Mac OSからmacOSを通じて継承された唯一のテクノロジーであり、海外を中心に古くから開発者コミュニティが形成され、GUIベースのアプリケーションのコントロールについての知見が蓄積されている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "AppleScriptはOSAに準拠したスクリプト言語の一つであり、アプリケーション等のプロセスにApple eventを送ることにより自動操作を実現する。通常はコンパイル済みのバイトコードが保存され実行される。このため、基本的にはOSのバージョンやCPUの形式 (68000, PowerPC, x86, x64, ARM) 、記述した言語(AppleScript英語、AppleScriptフランス語、AppleScript日本語)などに依存しないコードが生成される。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "AppleScriptの言語そのものが定義している予約語(複数の単語による連語から構成される)は数十程度と少なく、標準では絶対値を求める機能や三角関数の機能すら持たないが、Scripting Additions/OSAX(Open Scripting Architecture eXtension)と呼ばれる機能拡張書類、あるいはAppleScriptそのもので記述したAppleScript Librariesによって命令を増やすことが可能となっている(サードパーティのOSAXはmacOS 10.14で廃止になった)。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "AppleScriptはMac OS上のアプリケーション間通信を基礎技術として用いているため、アプリケーションがApple eventに対応していればそのアプリケーションに処理を委ね、その処理結果を別のアプリケーションに対して用いることも可能である。また、現在のバージョンではUser Interface ScriptingあるいはGUI ScriptingあるいはUI Element Scriptingと呼ばれる機能を用いて、スクリプトからアプリケーションにメニュー操作やキー入力を伝達することも可能になっている。アプリケーションは、システム経由で送られてきたApple eventメッセージを解釈して対応した処理を行い、処理結果を再びシステムを経由してApple eventメッセージとして返す。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "バイトコードインタプリタ型の逐次実行で処理されるため、ネイティブコードに比べると実行速度は劣るものの、アプリケーションの機能呼び出しを行わない場合にはスクリプト言語としては十分な速度で実行される。ただし、アプリケーションの機能呼び出しはコストも高く、前述のGUI Scriptingを用いたメニューなどの強制操作を行うと、さらに処理コストが増加し、時間がかかる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "AppleScriptは、簡素なダイアログ (display dialog、display alert)、ノーティフィケーションセンターへのノーティファイ (display notification)、ポップアップメニューからの項目選択ダイアログ (choose from list)、ファイル選択 (choose file)、フォルダ選択 (choose folder)、新規ファイル保存先パス選択 (choose file name) 、プログレスバー表示(Mac OS X v10.10以降。アプレット動作時のみ)などの、目的に特化した簡単なユーザインタフェースを提供している。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "これら以外のユーザインタフェースを利用するために、現在利用できる手段で一番簡単なやり方は、Mac OS X標準搭載の「スイッチコントロール」でパネルを作成し、パネル内のボタンに対してアクション「AppleScript」を割り当てておくというものである。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "Adobe InDesignなどの一部のアプリケーションでは、簡易的なユーザーインタフェースをAppleScriptのプログラムから動的に生成する機能を備えている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "本格的な、自由度の高い自作のインタフェースを持たせるには、Xcode上で「AppleScript App」プロジェクトを作成し、その中にAppleScriptコード(AppleScriptObjC)を記述する。Xcode上で一般のアプリケーション開発と同様にユーザインタフェースを作成できる。コントロール(GUIの部品)が操作されると、AppleScriptコード中の対応するイベントハンドラが呼び出される。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "macOSにはスクリプトの編集・実行ツールであるスクリプトエディタ(Mac OS X v10.0〜v10.4はスクリプトエディタ、Mac OS X v10.5〜v10.9はAppleScriptエディタ(スクリプトエディタの名称が変更されたもの)、Mac OSでは『スクリプト編集プログラム』)が付属する。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "スクリプトエディタにAppleScript対応アプリケーションのアイコンをドラッグ・アンド・ドロップするとAppleScript用語辞書が表示され、これを参照しつつアプリケーションのコントロールを行う処理を記述する。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "スクリプトエディタにはブレークポイント設定や変数内容のモニタリングなどの機能はないため、これらの機能を利用したいユーザーはLate Night Software社の「Script Debugger」を用いる必要がある。また、Cocoaオブジェクトのログ表示やAppleScript Librariesに添付するAppleScript用語辞書の編集についても「Script Debugger」で行える。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "AppleScriptへのコードサインはApple純正のスクリプトエディタおよびScript Debuggerで行うことができる。Mac App StoreにAppleScriptで作成したアプリケーションを提出するには、Xcode上で記述・コードサインする必要がある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "その他、テキストで書いたスクリプトをコマンドラインからosascriptコマンドでコンパイル・実行することも可能である。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "Apple純正の統合開発環境Xcode(旧Project Builder)上でAppleScriptによるアプリケーション開発を行うこともできる。AppleScriptから直接Cocoaの機能を呼び出せる「AppleScriptObjC」が提供されている(Mac OS X v10.1〜v10.5ではAppleScript Studio)。ユーザーインタフェース作成についてInterface Builderを用いる点は以前のAppleScript Studio(Mac OS X v10.6で廃止)とかわりないが、AppleScript用語辞書を用いて各種GUI部品にアクセスするのではなく、Interface Builder上でバインディングによりAppleScriptプログラム中のプロパティ値にひもづけしたり、Cocoaの各種フレームワーク内のメソッドを呼び出す方式に変更された。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "AppleScript書類のフォーマットは維持されているため、基本的には互換性が確保されている。これまでMac OS X v10.4のインテルCPUへの移行や、Mac OS X v10.7の64ビットへの移行、macOS 11.0のApple Silicon(ARM)移行などOSの基盤の大変革期があったが、AppleScriptそのものについてはほぼ影響はなかった。AppleScriptの処理系そのものの変更が小刻みであったため、15年前に作られたソートルーチンがそのまま使えたりもする。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ただし、AppleScriptだけでなくOSAXや外部のアプリケーションの機能を利用していた場合には、部品ごとに確認が必要となる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "まず、macOS標準添付のアプリケーションの機能がOSバージョンごとに異なる。これらを呼び出す処理を行っている場合にはチェックが必要である。とくに、AppleScriptにOSの機能を提供するために用意されている補助アプリケーションはOSバージョンによって変更されることがあるため、その存在および代替機能を確認する必要がある。一般的に、古いバージョンから新バージョンへの移行は、それなりに手間はかかるものの確認作業レベルで済む。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "逆に、新しいバージョンのOSから古いバージョンのOSにScriptを移植する場合には大幅に作業量が増える。古いOSには固有のバグもあるため(Mac OS X v10.5以前は日本語のパスの扱いに問題があった)、それらを考慮した処理に変更する必要も生じる。古いmacOSが動作する実機と関連アプリケーションを用意し、きちんと動作検証や書き換え作業が必要になる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "GUI Scriptingを利用している場合には、メニュー構成やボタンの文字を変えただけで動かなくなる可能性があるため、そもそも異なるOSバージョン間でそのまま動く可能性は低い(ただし単純な修正で対応できる)。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "OS X v10.10以降ではAppleScript側が想定するAppleScript処理系のバージョン(≒ macOSそのもののバージョン)をuseコマンドを使って表記できるようになった。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また、macOS 10.14以降でサードパーティ製のOSAXが使用できなくなったため、それらを使用しているScriptをmacOS 10.14以降で動かす場合には代替機能を探す必要もある(Cocoaの機能を呼び出したり、shellコマンドの機能を呼び出したりするのが一般的)。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "HyperCard用のスクリプト言語であるHyperTalkに似た、英語に近い構文が採用されており、基本的には習得しやすい。機能の異なるアプリケーションを操作するためには、それぞれアプリケーションごとに異なる命令やオブジェクト構造を知る必要があり、AppleScript対応アプリケーションのアイコンをスクリプトエディタでオープンすることで表示される「AppleScript用語辞書」を参照しつつ記述することになる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "初期は日本語表現形式を含む英語以外の言語による記述も可能だったが、Mac OS 8.5以降は英語表現形式のみが採用されている。英語表現形式の場合も変数名は | で囲むことで日本語などを使用できる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "Mac OS X v10.10でAppleScriptObjCがXcode上のみならず、スクリプトエディタ上でも利用できるようになったため、Objective-C風の表記も標準採用された。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "スクリプトの例(変数「持ち物=myItem」の中身が0だったらダイアログを表示する)", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "英語", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "通常は上記のように記述するが、より英文に近い以下のようなコードも記述できる。ただし複数の処理を一行のif文に組み込むことはできないので、先ほどの構文を使用することになる。下記のコードでは比較演算子の“等価”を表す = が is に置き換えられている(is は is equal to と書くこともできる。このような同義語が数多く存在するのもAppleScriptの特徴のひとつ)。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "変数名に日本語を用いた例", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "日本語(現在は利用できない)", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "Mac OS X v10.6で部分的に導入され(Xcode上のみ)、Mac OS X v10.10でスクリプトエディタでもCocoaの機能を利用するAppleScriptObjCが導入された。このため、現行のmacOS上ではどのマシンでも、どのAppleScriptランタイム環境上でもCocoaの機能を利用できる状態になっている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "AppleScriptObjCは従来のAppleScriptと比べて10倍以上の高速処理が可能である。ただし、それはAppleScriptのオブジェクト(string、list、recordなど)をCocoaのオブジェクト(NSString、NSArray、NSDictionaryなど)に変換したうえでCocoaのメソッドを呼び出した場合であり、従来型のAppleScriptをAppleScriptObjC環境で記述しても速度は変わらない。AppleScriptとCocoaの間でのオブジェクト変換は暗黙で行われる場合もあるが、多くの場合は明示的に変換する必要がある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また、AppleScriptObjCではObjective-CのBlocks構文やprotocolをサポートしていないため、Cocoaのフレームワークすべてが利用できるわけではない。Cocoaのクラス名やメソッド名でAppleScriptの予約語とコンフリクトするものについては「|」で囲う必要がある(例:NSURL、URL、document、count、propertiesなど)。ドットシンタックスもサポートしていないため、現行のObjective-C 2.0にくらべるとやや冗長な表記になる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "Cocoaオブジェクトの結果表示やログ表示については、macOS標準添付のスクリプトエディタではサポートしていない。Cocoaオブジェクトのログ表示などを利用するためにはサードパーティーの開発ツール「Script Debugger」の利用が必要である。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "スクリプトの例(変数「aString」のアルファベット大文字を小文字に変換する)", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "Objective-C", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "AppleScriptObjC", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "AppleScript対応アプリケーションへのtellブロック内でAppleScriptObjCの命令を呼び出すとエラーになる。このため、たとえばAdobe InDesignの書類から得られたデータをAppleScriptObjCを用いて高速にソートしたい場合などは、AppleScriptObjCの機能部分をサブルーチンとして分離し、InDesignへの命令ブロックと明示的に分ける必要がある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "なお、AppleScriptObjCで実行されるCocoa機能呼び出しはARC環境下で実行されるため、releaseなどのメソッドを呼び出すと実行環境ごとクラッシュする。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "スクリプトエディタ上でのコンパイル(構文確認)時に演算の優先順位を指定するため、AppleScript処理系がソースコード内にカッコ(「(」「)」)を自動的に補う動作を行う。ユーザーはこのカッコが自分の意図に合うかどうかを判断し、適宜カッコを補ったり移動させる必要がある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "カッコが自動で付加されるのは、主に四則演算や文字列の連結演算、Cocoaオブジェクトへのメソッド実行などの記述時である。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "英文風に記述するため、「無意味句」を入れることができる。無意味句の代表的なものに「the」がある。theはプログラム内で何もプログラム的な動作を行わない。実行時に無視される。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "のような配列変数の末尾に数値を追加する記述を行なった場合、英文風に読みやすくするため、", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "のように無意味句を補うことができる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "無意味句はプログラム的な動作を何も行わないが、それら自体が存在し、無意味句同士は別物として識別される。そのため、無意味句を補助的に用いてサブルーチン(ハンドラ)の宣言を行うことも可能。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "AppleScriptが定義している無意味句には、", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "などがあり、サブルーチンのパラメータを指定する装飾子としてこれらの無意味句を利用できる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "アプリケーションの操作による作業の自動化や、複数のアプリケーションの操作によるソフトウェア・ロボットの構築が可能であるが、操作対象の種類によって利用する技術や手法が変わる。", "title": "アプリケーション操作対象" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "Safariやコンタクト、カレンダーなどのmacOS標準添付アプリケーションの多くがAppleScriptからのコントロールに対応しており、主要機能にアクセスできる。", "title": "アプリケーション操作対象" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ただし、対応アプリケーションであっても機能のすべてがAppleScriptに解放されているわけではない。AppleScript用語辞書に定義されている範囲のみである。", "title": "アプリケーション操作対象" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "そのため、前述のGUI Scriptingによるメニューやボタンなどの強制操作が時と場合によって必要になる。この強制操作機能はOSのデフォルト設定ではオフになっているほか、アプリケーション/アプレット/Scriptごとに許可/禁止するようになっている。", "title": "アプリケーション操作対象" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "do shell scriptコマンドでBSD (UNIX) レイヤー上のコマンドを呼び出すことができる。ただし、Terminal.app上とdo shell scriptコマンドでは設定されている環境変数が異なるため、Terminal.app上で実行できていた処理ができなくなる場合がある。特に、指定したコマンドにパスが通っていないことや、カレントディレクトリが異なること等はエラーの原因となる。これは環境変数の内容を明示的に指定することや、利用コマンドをフルパスで表記することで回避できる(環境変数内容はenvコマンドを実行して確認できる)。", "title": "アプリケーション操作対象" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "macOS標準装備の「リモートApple events」の機構を用いて、TCP/IPネットワーク(主にLAN)内の他のMac上のアプリケーションをコントロールできるようになっている。ただし、セキュリティ確保のためmacOS標準装備のアプリケーションの多くは、この機能が禁止されているほか、OSのデフォルト設定ではリモートApple eventsはオフになっている。", "title": "アプリケーション操作対象" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1台のMacでは処理が追いつかない場合、この機構を用いて複数台のMacに仕事を割り振り分散処理を行うことができる。また、Mac上で稼働する仮想環境上でmacOSを動作させ、仮想環境との間での分散処理も可能である。", "title": "アプリケーション操作対象" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "SOAP、XML-RPCを呼び出すための命令が標準で装備されている(call soap、call xmlrpc)。Cocoaの機能を用いてRESTful APIを呼び出すことも可能である。", "title": "アプリケーション操作対象" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "これらのサービスが存在しないサイトに対しても、Safariのdo JavaScriptコマンド経由で操作したり、GUI Scriptingで強制的に操作することで、Webサービスにログインして必要な情報を取得するなどの処理が可能である。", "title": "アプリケーション操作対象" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "macOS 11.0以降、ARM Mac上ではiOS用のアプリケーションがそのまま動作している。このため、ARM Mac上で動作するiOSアプリケーションをAppleScriptから操作することも可能になった。専用の用語辞書を持たないiOSアプリケーションに対しては、GUI Scripting経由で操作するが、macOSアプリケーションのようにオブジェクト階層をたどれる作りになっていないため、新たなノウハウが必要である。", "title": "アプリケーション操作対象" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "Apple純正のメモなどのアプリケーションでは、macOS用とiOS用がiCloud経由でデータのシンクロを行うため、macOS上でデータの更新を行うとiOS側にもそれが反映される。これを利用して、iOS側に大量のデータを登録したい場合にMac上でAppleScriptなどによってデータを追加するといった方法が可能である。また、iPhoneとひもづけされたMacからAppleScriptを用いて電話をかけたりSMSメッセージを送信したりもできる。", "title": "アプリケーション操作対象" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "iOSシミュレータ上で動くiOSアプリケーションもGUI Scriptingにより操作や情報の取得などが可能である。そのため、AppleScriptからシミュレータ上のiOSアプリを操作し、操作テストを実施して段階ごとに画面キャプチャを記録することも行われている。", "title": "アプリケーション操作対象" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "Mac OS X v10.10以降では、Apple純正およびサードパーティー製CocoaフレームワークをAppleScriptから直接呼び出すことが可能となっている。また、コンタクト(住所録)やカレンダーの情報をフレームワーク経由で検索・操作できるようになった。iTunes Libraryの検索もiTunes.app経由やiTunes Music Library.xmlを検索するよりも高速に行える。", "title": "アプリケーション操作対象" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "Mac OS X v10.9以降で、AppleScript自体をライブラリ化して再利用できるようになった。さらに、このライブラリにはAppleScript用語辞書を持たせることが可能なため、AppleScriptの命令語をAppleScriptで記述したライブラリによって拡張することが可能である。", "title": "アプリケーション操作対象" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "macOS 12以降では、iOS系のOSから移植された自動化ツール「ショートカット」(Shortcuts.app)が利用できる。このツール自体がAppleScriptからの操作に対応しており、指定のショートカット(ユーザーが定義した自動化ワークフロー)を実行できるほか、Shortcuts.appが起動していない状態でも、AppleScriptからの実行専用バックグラウンドツール「Shortcuts Events」を指定してショートカットの実行が可能。", "title": "アプリケーション操作対象" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "AppleScriptから音声エージェント「Siri」を呼び出すAppleScriptライブラリ「AgentCallerLib」がPiyomaru Softwareより提供(電子書籍の付録として提供)されており、指定の文字列をSiriに渡して実行できるようになった。コマンドの冒頭に「Hey Siri」を書く必要はない。同ライブラリは、macOS 12以降をサポートしている。", "title": "アプリケーション操作対象" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "AppleScriptは中間コードに翻訳されて逐次実行されるが、以下のようなさまざまな保存・実行環境(ランタイム環境)を持つため、実行環境によって動作が微妙に異なり、想定していた通りに動かない場合がある。", "title": "さまざまな実行環境" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "また、実行中のログ表示が行えるのはスクリプトエディタでオープンしてスクリプトエディタで実行させた場合、およびXcode上で作成してデバッグビルドを行なっている場合の2つのケースにかぎられる。フォルダアクションで実行中のAppleScript書類をスクリプトエディタでオープンさせたからといって、フォルダアクションで実行中のAppleScriptのログがスクリプトエディタ上にログ表示されることはない。", "title": "さまざまな実行環境" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "スクリプトエディタ上に記述して、スクリプトエディタ上で実行する形態である。この際の実行環境はスクリプトエディタであり、途中でAppleScriptの実行を停止させたり、ログ表示させた内容を確認したりできる(ログ表示させると実行速度がいちじるしく低下する)。セキュリティ上の制約がもっとも少ない実行環境でもあり、他の実行環境では動かせないコードもこの環境で動くケースが多い。", "title": "さまざまな実行環境" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "スクリプトエディタ上で記述して、アプリケーションとして保存、あるいはアプリケーションとして書き出したものである。この形態のものをアプレットと呼ぶ。アプレット実行時にはアプレット用のランタイム環境が用意されている。この環境で実行すると、on idleによるタイマー割り込み、ファイルやフォルダをドラッグ&ドロップ受信する機能、ハンドラの実行後に終了しない、プログレスバーの表示機能(Mac OS X v10.10より)などの機能が利用できる。ファイル/フォルダのドラッグ&ドロップを受け付けるアプレットをドロップレットと呼んで区別する(アイコンが異なる)が、ランタイム環境は同じである。", "title": "さまざまな実行環境" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "アプレット実行時にログ表示などの機能は利用できないため、この実行形態のままではバグの確認や修正が困難である。アプレットとして書き出す前にスクリプトエディタ上で内容に問題がないことを確認する必要がある。", "title": "さまざまな実行環境" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "Automatorのワークフロー記述の一部としてAppleScriptを使用することもできる。Automator上のアクション「AppleScriptを実行」がスクリプトエディタに近い機能(ログ表示、結果表示)を持つが、他のAppleScript対応アプリケーションのAppleScript用語辞書をブラウズしたり、途中で実行を停止させるなどの機能はない。", "title": "さまざまな実行環境" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "Mac OS X v10.7で導入された。スクリプトエディタ上で「ファイル」>「テンプレートから新規作成」>「Cocoa-AppleScript Applet」を選択することで新規作成できる。AppleScriptObjCによるプログラムをスクリプトエディタ上で記述できるが、Interface Builderによるユーザーインタフェースの作成が行えず、デバッグ機能も乏しい。実行はアプレット形式でのみ行う。", "title": "さまざまな実行環境" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "Xcode上で「File」>「Project」>「Other」>「AppleScript App」を呼び出すと作成される。Mac App Store上でのアプリケーション販売が可能な形式である。一般的なCocoaアプリケーションをAppleScriptで開発する環境であり、一般的なCocoaアプリケーションに近いものが作れるが、一般的なCocoaアプリケーションを作成するレベルの知識が必要とされる。Xcode内蔵のエディタ上で編集するAppleScriptは、文法要素に応じた構文色分け機能が利用できず、デバッグも行いにくい。複数のスクリプトファイルにプログラムを分割した場合のハンドラ呼び出し方法にクセがある。", "title": "さまざまな実行環境" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "macOSのメニューバーから所定のフォルダ内のAppleScriptを実行できる、macOS標準装備の「スクリプトメニュー」に登録・実行した場合の実行環境も、OSのバージョンに応じてさまざまな変更が加わってきた。Mac OS X v10.10からはosascriptコマンドで実行する実装になった。このため、スクリプトメニューから複数のAppleScriptを同時に実行させることが可能になったが、実行するScript同士で共通のアプリケーションにアクセスした場合のバッティングまでは面倒を見てくれない。スクリプトメニューから実行中のScriptの停止を行えるが、実行中のログ表示はできない。macOS v10.14からは独立したアプリケーションとして提供されるようになった。", "title": "さまざまな実行環境" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "指定のフォルダ内容を数秒間隔で監視し、変更が加わるとAppleScriptの実行を行う機構である。ランタイムの差異が問題を生むというよりも、このフォルダアクションの機構そのものがmacOSのバージョンによってはうまく動作していない(Mac OS X v10.10)ことが問題であった。のちに、macOS v10.11でFSEvents経由で変更イベントを受信するよう全面的に書き直され、ファイル変更があったら即時にScriptが実行されるようになった。", "title": "さまざまな実行環境" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "OSバージョンによっては、display dialogなどのコマンドが利用できなかったが、Mac OS X v10.10以降はスクリプトエディタ上での実行にきわめて近いランタイム環境が提供されている。全く同一ではないため、スクリプトエディタ上で記述すれば発生しないような問題に直面する場合がある。一例として、AppleScript中からNSWindowを動的に生成し、そのウィンドウ上の各種GUI部品でユーザーからの操作を受け付けたい場合、操作が処理されないといった問題がある。", "title": "さまざまな実行環境" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "macOSのアクセシビリティ系の機能に、フローティングパレット上に配置したボタンからキーボードショートカットやAppleScriptの実行を行えるSwitch Controlがある。バンドル形式のScriptを読み込んで実行できない、Scriptのバンドル内に実行ファイルを入れて呼び出すことができない、ユーザーディレクトリ下のAppleScriptライブラリを認識しない、といった運用上の制約がある。", "title": "さまざまな実行環境" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "日本語音声認識でAppleScriptを実行できる。実行可能形式は、AppleScriptのフラット形式(.scpt)およびAppleScriptアプレット。Siriとは別の音声認識コマンドであり、あらかじめ指定しておいた固定文字列を日本語音声認識して、合致すればコマンドを実行する。macOS 12でショートカット.appがmacOSに搭載されたことにより、AppleScriptを実行可能な音声認識コマンドの実行系が2つ存在している。", "title": "さまざまな実行環境" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "FileMaker Proを外部からAppleScriptでコントロールするよりも、FileMaker Proスクリプトの「AppleScriptを実行」スクリプトステップ中にAppleScriptをコピー&ペーストで入れて実行する方が数倍高速に実行される。画面の再描画などを抑止するほか、高速実行するための仕組みを備えている。", "title": "さまざまな実行環境" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "Microsoft OfficeのVBAスクリプト内でも、AppleScriptを呼び出す仕組みが用意されている。Excel v.14.xまでは「MacScript」コマンドにより文字列で与えたAppleScriptが、Excel v.15.xでは「AppleScriptTask」コマンドによりファイル名を指定して外部のAppleScriptを実行できるようになっている。", "title": "さまざまな実行環境" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "同様に、Adobe InDesignの「スクリプト」パレット中からAppleScriptを呼び出すことが出来、この際に画面の再描画を抑止できるため高速実行(おおよそ2倍)が可能となっている。ただし、Adobe InDesignについては大量のデータ処理時にクラッシュが発生するため、処理速度より安定稼働を重視すると外部からのコントロールも選択肢に入る。", "title": "さまざまな実行環境" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "AppleScript専用のサードパーティー統合開発環境といえるScript Debuggerでは、デバッグ時にAppleScript互換の「AppleScript Debugger」というAppleScriptとは別のOSA言語を実行することになる。厳密にいえばAppleScriptそのものを実行するわけではないため、振る舞いが異なる箇所が出てくることは否定できない。ただし、以前(Classic Mac OS時代)に比べると純正AppleScript環境との互換性は大幅に高まっている。強力で便利な環境であるが、「デバッグ時以外はScript Debuggerを使うべきではない」という方針の開発現場もあるのは、この「互換性問題」ゆえである。", "title": "さまざまな実行環境" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "Shortcuts.appのアクションに「AppleScriptを実行」が用意されており、ショートカット内でのAppleScript実行が可能である。このアクションはmacOS専用であり、他のOS上では実行できない。Cocoaの機能呼び出しや、ユーザー環境にインストールされたAppleScript Librariesの機能呼び出しなどが可能。このことにより、Mac上であればSiri経由で日本語音声認識/テキスト操作によりAppleScriptを実行できるようになった。", "title": "さまざまな実行環境" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "スクリプトエディタ上でのコンパイル(実質的には構文チェック+中間コードへの置き換え)時には、AppleScriptの基本的な文法を外れなければ、それがたとえ実行できない命令の組み合わせであってもエラーにならない。実行時にエラーとなる。FinderのAppleScript用語辞書を見ていると「make new application」といったできそうもないプログラムを組めそうに見え、実際にFinderへのtellブロック内に記述するとコンパイルを通ってしまう。", "title": "運用上、注意すべき項目" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "実際には、アプリケーション側が想定している命令語の組み合わせは限定されたものである。また、想定された条件下によっては実行できるが、条件がそろわないと実行してもエラーになったり無意味な結果になるものもある。このため、アプリケーションが備えている機能を逸脱しない表記、アプリケーションの用語辞書で実現可能な記述パターンの情報を収集することには大いに意義がある(Appleが主催するメーリングリストのアーカイブの検索がこれに適している)。また、Scriptはこまめに実行して想定どおりの実行結果が得られているかを確認するとよい。", "title": "運用上、注意すべき項目" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "たとえば、printコマンドでプリンタを指定して書類を印刷する機能が存在していても、LAN内に存在するプリンタ名一覧を取得する機能はデフォルトでは用意されていない。同様に、テキストの音声読み上げを行うsayコマンドで音声キャラクタの名称を指定できるのに、現在システムにインストールされている音声名称の一覧を取得する機能が存在していない。このため、shell scriptやCocoaのサービスを呼び出して、取得する手段を別途用意する必要がある。", "title": "運用上、注意すべき項目" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "何らかの条件に基づいてオブジェクトを抽出する処理が、アプリケーションコントロールでは日常的に発生する。たとえば、リマインダーで名称(name)に「発売日」を含む項目のみ抽出するといった処理である。そのような場合に、オブジェクトの抽出をせずに「とりあえずすべてのオブジェクトを取得して、ループで条件一致するものを抽出する」ようなコードでは処理が遅くなってしまう。フィルタ参照を使って対象オブジェクトのしぼりこみを行うと速度を向上できる。", "title": "運用上、注意すべき項目" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "ただし、64bit化されたFinderではこのフィルタ参照の処理速度が大幅に低下しており、Finderに対して複数のフィルタ参照を実行すると速度が落ちる点に注意が必要である。", "title": "運用上、注意すべき項目" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "何らかのオブジェクトの属性値を取得したい場合に、複数の属性値を何回かに分けて取得するよりもpropertiesでまとめて属性を取得した方が速いケースなどがある。アプリケーションをコントロールするために存在しているAppleScriptであるが、アプリケーションとの通信回数を減らすことが処理の高速化につながる。", "title": "運用上、注意すべき項目" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "例えば、指定フォルダ以下の全てのファイルを処理する場合、Classic Mac OS時代にはFinderに対して再帰処理で取得するように書いていたが、現代のmacOSではSpotlightを用いてファイル一覧を取得するとずっと速く処理できる。このように、macOSの機能の移り変わりを意識していないと処理速度が大幅に変わる。", "title": "運用上、注意すべき項目" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "Music(iTunes)、Keynote、Pages、NumbersなどApple純正アプリケーションに固有の問題が存在する。アプリケーションのローカライズをやりすぎて、AppleScript関連の機能までローカライズされている例が多々ある。このため、海外で流布しているAppleScriptの、主にオブジェクト名称を英語名表記から日本語名表記に変更しないと日本語環境上では実行できない(エラーになる)ケースが存在する。", "title": "運用上、注意すべき項目" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "あまりに拡張され、できることが増えすぎたため、AppleScriptの一部機能を抑止するための機構がmacOSに用意されつつある。以下の機能についてはデフォルトでは禁止状態になっているが、管理者パスワードを入力すれば実行を許可するようになっている。", "title": "制限機能" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "ネットワーク上の他のMacからのコントロールを行うリモートApple Eventsに対し、macOS標準装備の各アプリケーションは応答しないようになっている。また、出荷時のデフォルト設定で、リモートApple Eventsはオフになっている。", "title": "制限機能" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "画面上のメニューやボタンなどを操作するGUI Scriptingについては、「システム環境設定」の「セキュリティとプライバシー」>「アクセシビリティ」で個別に許可を行うようになっている。デフォルト設定では、どのプログラムに対しても許可していない。", "title": "制限機能" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "Safari 9.1.1より、「開発」メニューに「Apple EventsからのJavaScriptを許可」の項目が新設され、これにチェックを入れないとAppleScriptからSafariに対してdo javascript命令を実行できなくなった。いったん許可すれば、その状態は継続される。", "title": "制限機能" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "FileMaker Pro v16より、FileMaker Script中におけるAppleScriptの実行(正確にいえば、AppleScriptからFileMaker Pro自身を操作すること)がデフォルトの権限セットのままでは許可されない状態になっている。そのため、より以前のバージョンで作成したFileMaker ProデータベースをFileMaker Pro v16でオープンすると、FileMaker Script Step実行時に「実行権限エラー」ダイアログが表示され、Script Stepの実行が行われないという現象に直面することがある。このような場合には、拡張アクセス権で「Apple EventおよびActive-XによるFileMaker操作の実行を許可」にチェックを入れれば実行できるようになる。", "title": "制限機能" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "macOS 10.14より、システム環境設定の「セキュリティとプライバシー」>「プライバシー」項目にセキュリティ度を調整するための各種機能が追加され、AppleScriptもその影響を受けるようになった。", "title": "制限機能" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "「フルディスクアクセス」項目では、動作中のMacのすべてのユーザーに対して、ユーザー自身のメール、メッセージ、Safari、ホーム、Time Machineバックアップなどのデータや特定の管理設定へのアクセスを許可する。AppleScriptを利用するユーザーはこの項目に「スクリプトエディタ」と「スクリプトメニュー」を登録しておく必要がある。", "title": "制限機能" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "「オートメーション」項目では、他のアプリケーション制御の許可、および取り消しを行える。スクリプトエディタ以外のアプリケーションで、他のアプリケーションを制御する場合には、動作中の最初の要求時にユーザーに対して承認を求めるダイアログを表示する。承認されたアプリケーションはこの「オートメーション」項目に表示されるようになる。実行したユーザーが承認しなかった場合にも、本項目にチェックボックスがオフになった状態で表示されるため、あとからシステム環境設定上の本項目において承認を行う(チェックボックスをオンにする)ことが可能である。", "title": "制限機能" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "なお、一度「オートメーション」項目に登録され、ユーザーの承認を得ていれば、毎回ユーザーの承認ダイアログが表示されることはない。", "title": "制限機能" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "逆に、本「オートメーション」項目に意図的に登録させたい場合、アプリケーションのバージョン番号を確認したり最前面に表示させる(activate)コマンドを実行させる程度ではシステムが反応しない。他のアプリケーションを操作するAppleScriptアプレット/AppleScriptアプリケーションにおいて、初回起動時に「オートメーション」項目に登録される程度の簡単な(害のない)アプリケーション操作を意図的に行う必要が生じるようになった。AppleScript側から任意のアプリケーションに対する操作が許可されているかを知ることは、サードパーティのフレームワークを呼び出すことで可能となっている。", "title": "制限機能" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "macOS 10.11以降、SIPによる機能制限が段階的に強化され、macOS 10.14においてはApple純正のスクリプトエディタにも制限が加わった。ホームディレクトリ下の「ライブラリ」フォルダ中の「Frameworks」フォルダ(デフォルトでは存在しない)へのアクセスがSIPにより禁止された。macOS 10.14上でこの制限を回避するには、サードパーティの開発環境「Script Debugger」を利用するか、SIPそのものを解除する必要がある。", "title": "制限機能" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "macOS 10.15以降、リモートApple Eventsでネットワーク上の他のMac上のAppleScriptから命令を受け付ける場合、呼び出す側と受け付ける側のユーザー名が同じである必要があるようになった。なお、簡単なシェルコマンドでこの制限は無効にすることができる。", "title": "制限機能" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "macOS側のセキュリティ機能とAppleScriptの処理系のすり合わせが不十分なままOSがリリースされてしまったために、macOS 10.12, SierraにおいてはAppleScriptをドロップレットとして保存し、ファイルをドラッグ&ドロップした場合には、ファイルの処理が行われなかったりファイル処理の順序が以前のOSのとおりに行われなかったりする。", "title": "バグ" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "これは、ファイルの拡張属性(Xattr)の1つ「com.apple.quarantine」により発生する。インターネット上からダウンロードしたファイルなどは、その安全性が担保されていない状態であると(macOSが)みなし、この「com.apple.quarantine」属性が添付される。", "title": "バグ" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "ユーザーの操作によりファイルのオープンを許可された(「ダウンロードされたファイルですが、オープンしてもよいですか?」という確認ダイアログでユーザーに承認)場合には処理されるが、同属性がついたままだとドロップレットによる処理が行われない。一応回避手段は存在するが、初心者には理解が難しいものとなっている。 。", "title": "バグ" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "sayコマンドで日本語読み上げ音声を指定して「もげる」「捥げる」を読み上げると正常に読み上げられない(NSSpeechManagerのバグで、SwiftやObjective-Cでも同様のバグが発生し、iOSでも状況は同じ)。。", "title": "バグ" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "Enum「NSNotFound」の定義が間違っており、-1ではない値を返す(10.13.1にて修正)。", "title": "バグ" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "AppleScriptからCocoaの機能を呼び出す際にScripting Bridgeの仕組みが利用されているが、このScripting Bridgeの定義ファイルに問題があり、いくつかの機能が正常に呼び出せない状況が確認されている。。", "title": "バグ" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "NSRectが属性ラベルつきのレコード型ではなくリスト型に変換されるようになっている。", "title": "バグ" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "PDFViewに対してcurrentPage()を実行してもPDFPageが返ってこない。このため、PDFView上でPDFを表示させるGUIプログラムに影響が出ている。", "title": "バグ" } ]
AppleScript(アップルスクリプト)は、Appleが開発したClassic Mac OS/macOS用のオブジェクト指向のスクリプト言語。System 7から採用されている。 標準環境で利用でき、ある程度自然言語(英語)に似た構文を持つ。制御構文、ハンドラや変数、オブジェクトやプロパティの記述といったプログラミングの基本機能を言語に備えており、Mac OSのプロセス間通信機能の一つであるApple eventによって、システムや様々な対応アプリケーションにまたがって制御できる。 AppleScriptはMac OSのスクリプティング機構Open Scripting Architecture (OSA) に対応した言語(OSA言語)のひとつであり、OS X v10.10よりJavaScript for Automation (JXA) も標準搭載されるようになった。
{{参照方法|date=2021年5月}} {{Infobox プログラミング言語 |名前 = AppleScript |パラダイム = [[オブジェクト指向プログラミング|オブジェクト指向]]、[[スクリプト言語]] |登場時期 = 1993年 |型付け = 弱い[[動的型付け]] |影響を受けた言語 = [[HyperTalk]], [[Objective-C]] |拡張子 = .applescript .scpt .scptd |プラットフォーム = [[Classic Mac OS#System 7|System 7]], [[Classic Mac OS#Mac OS 8|Mac OS 8]], [[Classic Mac OS#Mac OS 9|Mac OS 9]], [[macOS]] |ウェブサイト = [https://developer.apple.com/library/mac/documentation/AppleScript/Conceptual/AppleScriptX/AppleScriptX.html AppleScript Overview] |最新リリース=2.8}} '''AppleScript'''(アップルスクリプト)は、[[Apple]]が開発した[[Classic Mac OS]]/[[macOS]]用の[[オブジェクト指向]]の[[スクリプト言語]]。System 7(Mac OS 7にあたる)から採用されている。 標準環境で利用でき、ある程度[[自然言語]]([[英語]])に似た構文を持つ。[[制御構文]]、[[プロシージャ|ハンドラ]]や[[変数 (プログラミング)|変数]]、[[オブジェクト (プログラミング)|オブジェクト]]や[[プロパティ]]の記述といった[[プログラミング]]の基本機能を言語に備えており、Mac OSの[[プロセス間通信]]機能の一つである[[Apple event]]によって、システムや様々な対応アプリケーションにまたがって制御できる。 AppleScriptはMac OSのスクリプティング機構[[Open Scripting Architecture]] (OSA) に対応した言語(OSA言語)のひとつであり、[[OS X Yosemite|OS X v10.10]]よりJavaScript for Automation (JXA) も標準搭載されるようになった<ref>[https://developer.apple.com/library/mac/releasenotes/InterapplicationCommunication/RN-JavaScriptForAutomation/Articles/Introduction.html JavaScript for Automation Release Note]</ref>。 == 特徴 == === カバーエリアの広さ === [[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]操作の自動化、[[シェル]]、[[コマンド (コンピュータ)|コマンド]]の呼び出し、画面上の部品の強制操作にWebコンテンツの強制コントロール、[[Cocoa (API)|Cocoa]][[アプリケーションフレームワーク|フレームワーク]]の呼び出しに[[iCloud]]経由のコンテンツ更新など、[[マクロ言語]]としてはカバーできる範囲がとても広い。そのうえ、[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]ベースのアプリケーション開発まで行えるため、いったん覚えるとMacを用いた作業の生産性が向上する。ただし、他のアプリケーションを他の[[コンピュータ]]からも操作できるため、[[コンピュータセキュリティ|セキュリティ]]を考慮しさまざまな抑止機能が[[オペレーティングシステム]] (OS) に用意されつつある(詳細は[[#制限機能]]を参照)。 Classic Mac OSからmacOSを通じて継承された唯一のテクノロジーであり<ref>[https://www.itmedia.co.jp/pcuser/articles/0710/29/news021_3.html 林信行の「Leopard」に続く道 第5回:System 7で幕をあけた激動の1990年代(後編)]</ref>、海外を中心に古くから開発者コミュニティが形成され<ref>[https://lists.apple.com/mailman/listinfo/applescript-users AppleScript Users ML]</ref>、GUIベースのアプリケーションのコントロールについての知見が蓄積されている。 === 仕組み === AppleScriptは[[Open Scripting Architecture|OSA]]に準拠したスクリプト言語の一つであり、アプリケーション等の[[プロセス]]に[[Apple event]]を送ることにより自動操作を実現する。通常は[[コンパイラ|コンパイル]]済みの[[バイトコード]]が保存され実行される。このため、基本的にはOSのバージョンや[[CPU]]の形式 ([[MC68000|68000]], [[PowerPC]], [[x86]], [[x64]], ARM) 、記述した言語(AppleScript英語、AppleScriptフランス語、AppleScript日本語)などに依存しないコードが生成される。 AppleScriptの言語そのものが定義している[[予約語]](複数の単語による連語から構成される)は数十程度と少なく<ref>[https://developer.apple.com/library/mac/documentation/AppleScript/Conceptual/AppleScriptLangGuide/conceptual/ASLR_lexical_conventions.html#//apple_ref/doc/uid/TP40000983-CH214-SW7 AppleScript Language Guide Keywords]</ref>、標準では絶対値を求める機能や三角関数の機能すら持たないが、Scripting Additions/OSAX(Open Scripting Architecture eXtension)<ref>[https://developer.apple.com/library/mac/technotes/tn1164/_index.html Scripting Additions for Mac OS X]</ref>と呼ばれる機能拡張書類、あるいはAppleScriptそのもので記述したAppleScript Librariesによって命令を増やすことが可能となっている(サードパーティのOSAXはmacOS 10.14で廃止になった<ref>[https://developer.apple.com/documentation/macos_release_notes/macos_mojave_10_14_release_notes?language=objc#overview macOS Mojave 10.14 Release Notes]</ref>)。 AppleScriptはMac OS上のアプリケーション間通信を基礎技術として用いているため、アプリケーションがApple eventに対応していればそのアプリケーションに処理を委ね、その処理結果を別のアプリケーションに対して用いることも可能である。また、現在のバージョンではUser Interface Scripting<ref>{{Cite web |url=https://developer.apple.com/library/mac/documentation/LanguagesUtilities/Conceptual/MacAutomationScriptingGuide/AutomatetheUserInterface.html |title= Mac Automation Scripting Guide - Automating the User Interface |accessdate=2016-05-29}}</ref>あるいはGUI Scripting<ref>{{Cite web |url=https://developer.apple.com/library/mac/documentation/AppleScript/Conceptual/AppleScriptX/Concepts/as_related_apps.html#//apple_ref/doc/uid/TP40001570-1149074 |title=AppleScript Overview - AppleScript Utilities and Applications - System Events and GUI Scripting |accessdate=2016-05-29}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://support.apple.com/en-us/HT202802 |title=OS X: Using AppleScript with Accessibility and Security features in Mavericks |accessdate=2016-05-29}}</ref>あるいはUI Element Scripting<ref>[http://piyocast.com/as/archives/4092 “GUI Scripting”と”UI element Scripting”]</ref>と呼ばれる機能を用いて、スクリプトからアプリケーションにメニュー操作やキー入力を伝達することも可能になっている。アプリケーションは、システム経由で送られてきたApple eventメッセージを解釈して対応した処理を行い、処理結果を再びシステムを経由してApple eventメッセージとして返す。 バイトコードインタプリタ型の逐次実行で処理されるため{{要出典|title=多分そうだとは思うが、JIT(実行時コンパイラ)無しの単純なバイトコードインタプリタであるという明確な出典があるとよい|date=2016年5月}}、ネイティブコードに比べると実行速度は劣るものの、アプリケーションの機能呼び出しを行わない場合にはスクリプト言語としては十分な速度で実行される{{要出典|title=おそらく正しいが他のスクリプト言語との定量的な比較をした出典があるとよい|date=2016年5月}}。ただし、アプリケーションの機能呼び出しはコストも高く、前述のGUI Scriptingを用いたメニューなどの強制操作を行うと、さらに処理コストが増加し、時間がかかる。 === ユーザインタフェース === AppleScriptは、簡素なダイアログ (display dialog、display alert)、ノーティフィケーションセンターへのノーティファイ (display notification)、ポップアップメニューからの項目選択ダイアログ (choose from list)、ファイル選択 (choose file)、フォルダ選択 (choose folder)、新規ファイル保存先パス選択 (choose file name) 、プログレスバー表示(Mac OS X v10.10以降。アプレット動作時のみ)などの、目的に特化した簡単なユーザインタフェースを提供している。 これら以外のユーザインタフェースを利用するために、現在利用できる手段で一番簡単なやり方は、Mac OS X標準搭載の「スイッチコントロール」でパネルを作成し、パネル内のボタンに対してアクション「AppleScript」を割り当てておくというものである。 Adobe InDesignなどの一部のアプリケーションでは、簡易的なユーザーインタフェースをAppleScriptのプログラムから動的に生成する機能を備えている。 本格的な、自由度の高い自作のインタフェースを持たせるには、[[Xcode]]上で「AppleScript App」プロジェクトを作成し、その中にAppleScriptコード(AppleScriptObjC)を記述する。Xcode上で一般のアプリケーション開発と同様にユーザインタフェースを作成できる。コントロール(GUIの部品)が操作されると、AppleScriptコード中の対応するイベントハンドラが呼び出される。 === 開発環境 === macOSにはスクリプトの編集・実行ツールである[[スクリプトエディタ]]([[Mac OS X v10.0]]〜[[Mac OS X v10.4|v10.4]]は[[スクリプトエディタ]]、[[Mac OS X v10.5]]〜[[OS X Mavericks|v10.9]]はAppleScriptエディタ([[スクリプトエディタ]]の名称が変更されたもの)、[[Mac OS]]では『スクリプト編集プログラム』)が付属する。 [[スクリプトエディタ]]にAppleScript対応アプリケーションの[[アイコン]]を[[ドラッグ・アンド・ドロップ]]するとAppleScript用語辞書が表示され、これを参照しつつアプリケーションのコントロールを行う処理を記述する<ref>[http://piyocast.com/as/archives/1963 【基礎】アプリケーションの操作は、用語辞書に書いてあるとおり記述しないと動かない]</ref>。 [[スクリプトエディタ]]にはブレークポイント設定や変数内容のモニタリングなどの機能はないため、これらの機能を利用したいユーザーは[http://www.latenightsw.com Late Night Software社の「Script Debugger」]を用いる必要がある。また、Cocoaオブジェクトのログ表示やAppleScript Librariesに添付するAppleScript用語辞書の編集についても[http://www.latenightsw.com 「Script Debugger」]で行える。 AppleScriptへのコードサインはApple純正の[[スクリプトエディタ]]およびScript Debuggerで行うことができる。Mac App StoreにAppleScriptで作成したアプリケーションを提出するには、Xcode上で記述・コードサインする必要がある。 その他、テキストで書いたスクリプトをコマンドラインからosascriptコマンドでコンパイル・実行することも可能である。 Apple純正の[[統合開発環境]][[Xcode]](旧Project Builder)上でAppleScriptによるアプリケーション開発を行うこともできる。AppleScriptから直接Cocoaの機能を呼び出せる「AppleScriptObjC」<ref>[https://developer.apple.com/library/mac/releasenotes/ScriptingAutomation/RN-AppleScriptObjC/ AppleScriptObjC Release Notes]</ref>が提供されている(Mac OS X v10.1〜v10.5ではAppleScript Studio)。ユーザーインタフェース作成について[[Interface Builder]]を用いる点は以前のAppleScript Studio(Mac OS X v10.6で廃止)とかわりないが、AppleScript用語辞書を用いて各種GUI部品にアクセスするのではなく、[[Interface Builder]]上でバインディングによりAppleScriptプログラム中のプロパティ値にひもづけしたり、Cocoaの各種フレームワーク内のメソッドを呼び出す方式に変更された。 === 異なるOSバージョン間の互換性 === AppleScript書類のフォーマットは維持されているため、基本的には互換性が確保されている。これまでMac OS X v10.4の[[インテル]][[CPU]]への移行や、[[Mac OS X Lion|Mac OS X v10.7]]の[[64ビット]]への移行、macOS 11.0のApple Silicon(ARM)移行などOSの基盤の大変革期があったが、AppleScriptそのものについてはほぼ影響はなかった。AppleScriptの処理系そのものの変更が小刻みであったため、15年前に作られたソートルーチンがそのまま使えたりもする。 ただし、AppleScriptだけでなくOSAXや外部のアプリケーションの機能を利用していた場合には、部品ごとに確認が必要となる。 まず、macOS標準添付のアプリケーションの機能がOSバージョンごとに異なる。これらを呼び出す処理を行っている場合にはチェックが必要である。とくに、AppleScriptにOSの機能を提供するために用意されている補助アプリケーションはOSバージョンによって変更されることがあるため、その存在および代替機能を確認する必要がある。一般的に、古いバージョンから新バージョンへの移行は、それなりに手間はかかるものの確認作業レベルで済む。 逆に、新しいバージョンのOSから古いバージョンのOSにScriptを移植する場合には大幅に作業量が増える。古いOSには固有のバグもあるため(Mac OS X v10.5以前は日本語のパスの扱いに問題があった)、それらを考慮した処理に変更する必要も生じる。古いmacOSが動作する実機と関連アプリケーションを用意し、きちんと動作検証や書き換え作業が必要になる。 GUI Scriptingを利用している場合には、メニュー構成やボタンの文字を変えただけで動かなくなる可能性があるため、そもそも異なるOSバージョン間でそのまま動く可能性は低い(ただし単純な修正で対応できる)。 OS X v10.10以降ではAppleScript側が想定するAppleScript処理系のバージョン(≒ macOSそのもののバージョン)をuseコマンドを使って表記できるようになった。 {| class="wikitable" ! AppleScript version !! macOS version !! useコマンド記述 |- | 2.4 || 10.10 || use AppleScript version "2.4" |- | 2.5 || 10.11, 10.12 || use AppleScript version "2.5" |- | 2.7 || 10.13, 10.14 , 10.15, 11.0 || use AppleScript version "2.7" |- |2.8 |12.0, 13.0, 14.0 |use AppleScript version "2.8" |- |} また、macOS 10.14以降でサードパーティ製のOSAXが使用できなくなったため、それらを使用しているScriptをmacOS 10.14以降で動かす場合には代替機能を探す必要もある(Cocoaの機能を呼び出したり、shellコマンドの機能を呼び出したりするのが一般的)。 === 構文 === [[HyperCard]]用のスクリプト言語である[[HyperTalk]]に似た、英語に近い構文が採用されており、基本的には習得しやすい。機能の異なるアプリケーションを操作するためには、それぞれアプリケーションごとに異なる命令やオブジェクト構造を知る必要があり、AppleScript対応アプリケーションのアイコンを[[スクリプトエディタ]]でオープンすることで表示される「AppleScript用語辞書」を参照しつつ記述することになる。 初期は日本語表現形式を含む英語以外の言語による記述も可能だったが、Mac OS 8.5以降は英語表現形式のみが採用されている。英語表現形式の場合も[[変数 (プログラミング)|変数]]名は | で囲むことで日本語などを使用できる。 Mac OS X v10.10でAppleScriptObjCがXcode上のみならず、[[スクリプトエディタ]]上でも利用できるようになったため、Objective-C風の表記も標準採用された。 '''スクリプトの例'''(変数「持ち物=myItem」の中身が0だったらダイアログを表示する) '''英語''' <syntaxhighlight lang="applescript"> if myItem = 0 then display dialog "持ち物がありません" buttons {"OK"} default button "OK" end if </syntaxhighlight> 通常は上記のように記述するが、より英文に近い以下のようなコードも記述できる。ただし複数の処理を一行の[[if文]]に組み込むことはできないので、先ほどの構文を使用することになる。下記のコードでは[[比較演算子]]の“等価”を表す = が is に置き換えられている(is は is equal to と書くこともできる。このような同義語が数多く存在するのもAppleScriptの特徴のひとつ)。 <syntaxhighlight lang="applescript"> if myItem is 0 then display dialog "持ち物がありません" buttons {"OK"} default button "OK" </syntaxhighlight> '''変数名に日本語を用いた例''' <syntaxhighlight lang="applescript"> if |持ち物| is 0 then display dialog "持ち物がありません" buttons {"OK"} default button "OK" </syntaxhighlight> '''日本語'''(現在は利用できない) <syntaxhighlight lang="applescript"> もし「持ち物」が0ならば “持ち物がありません”をボタンリスト:{“OK”}、デフォルトボタン:“OK”で表示する 以上 </syntaxhighlight> === AppleScriptObjC構文 === Mac OS X v10.6で部分的に導入され(Xcode上のみ)、Mac OS X v10.10で[[スクリプトエディタ]]でもCocoaの機能を利用するAppleScriptObjCが導入された。このため、現行のmacOS上ではどのマシンでも、どのAppleScriptランタイム環境上でもCocoaの機能を利用できる状態になっている。 AppleScriptObjCは従来のAppleScriptと比べて10倍以上の高速処理が可能である<ref>[http://piyocast.com/as/archives/2071 AppleScript sorting performance comparison]</ref>。ただし、それはAppleScriptのオブジェクト(string、list、recordなど)をCocoaのオブジェクト(NSString、NSArray、NSDictionaryなど)に変換したうえでCocoaのメソッドを呼び出した場合であり、従来型のAppleScriptをAppleScriptObjC環境で記述しても速度は変わらない。AppleScriptとCocoaの間でのオブジェクト変換は暗黙で行われる場合もあるが、多くの場合は明示的に変換する必要がある。 また、AppleScriptObjCではObjective-CのBlocks構文やprotocolをサポートしていないため、Cocoaのフレームワークすべてが利用できるわけではない。Cocoaのクラス名やメソッド名でAppleScriptの予約語とコンフリクトするものについては「|」で囲う必要がある(例:NSURL、URL、document、count、propertiesなど)。ドットシンタックスもサポートしていないため、現行のObjective-C 2.0にくらべるとやや冗長な表記になる。 Cocoaオブジェクトの結果表示やログ表示については、macOS標準添付の[[スクリプトエディタ]]ではサポートしていない。Cocoaオブジェクトのログ表示などを利用するためには[[サードパーティー]]の開発ツール「[http://latenightsw.com Script Debugger]」の利用が必要である。 '''スクリプトの例'''(変数「aString」のアルファベット大文字を小文字に変換する) ''Objective-C'' <syntaxhighlight lang="objective-c"> NSString *aString = @"123/abc/ABC.txt"; [aString lowercaseString]; </syntaxhighlight> ''AppleScriptObjC'' <syntaxhighlight lang="applescript"> use AppleScript version "2.4" use scripting additions use framework "Foundation" set aString to current application's NSString's stringWithString:"123/abc/ABC.txt" (aString's lowercaseString()) as string </syntaxhighlight> AppleScript対応アプリケーションへのtellブロック内でAppleScriptObjCの命令を呼び出すとエラーになる。このため、たとえばAdobe InDesignの書類から得られたデータをAppleScriptObjCを用いて高速にソートしたい場合などは、AppleScriptObjCの機能部分をサブルーチンとして分離し、InDesignへの命令ブロックと明示的に分ける必要がある。 なお、AppleScriptObjCで実行されるCocoa機能呼び出しはARC環境下で実行されるため、releaseなどのメソッドを呼び出すと実行環境ごとクラッシュする。 === 独特な挙動 === スクリプトエディタ上でのコンパイル(構文確認)時に演算の優先順位を指定するため、AppleScript処理系がソースコード内にカッコ(「(」「)」)を自動的に補う動作を行う。ユーザーはこのカッコが自分の意図に合うかどうかを判断し、適宜カッコを補ったり移動させる必要がある。 カッコが自動で付加されるのは、主に四則演算や文字列の連結演算、Cocoaオブジェクトへのメソッド実行などの記述時である。 === 独特な要素 === 英文風に記述するため、「無意味句」を入れることができる。無意味句の代表的なものに「the」がある。theはプログラム内で何もプログラム的な動作を行わない。実行時に無視される。 <syntaxhighlight lang="applescript"> set end of aList to 1 </syntaxhighlight> のような配列変数の末尾に数値を追加する記述を行なった場合、英文風に読みやすくするため、 <syntaxhighlight lang="applescript"> set the end of aList to 1 </syntaxhighlight> のように無意味句を補うことができる。 無意味句はプログラム的な動作を何も行わないが、それら自体が存在し、無意味句同士は別物として識別される。そのため、無意味句を補助的に用いてサブルーチン(ハンドラ)の宣言を行うことも可能。 AppleScriptが定義している無意味句には、 <syntaxhighlight lang="applescript"> about, above, against, apart from, around, aside from, at, below, beneath, beside, between, by, for, from, instead of, into, on, onto, out of, over, since, thru (throughも可), under </syntaxhighlight> などがあり、サブルーチンのパラメータを指定する装飾子としてこれらの無意味句を利用できる。 <syntaxhighlight lang="applescript"> set a to aSub for 10 at 20 --> 30 on aSub for aInt at bInt return (aInt + bInt) end aSub </syntaxhighlight> == アプリケーション操作対象 == アプリケーションの操作による作業の自動化や、複数のアプリケーションの操作によるソフトウェア・ロボットの構築が可能であるが、操作対象の種類によって利用する技術や手法が変わる。 === ローカルアプリケーション === [[Safari]]やコンタクト、カレンダーなどのmacOS標準添付アプリケーションの多くがAppleScriptからのコントロールに対応しており、主要機能にアクセスできる。 ただし、対応アプリケーションであっても機能のすべてがAppleScriptに解放されているわけではない。AppleScript用語辞書に定義されている範囲のみである。 そのため、前述のGUI Scriptingによるメニューやボタンなどの強制操作が時と場合によって必要になる。この強制操作機能はOSのデフォルト設定ではオフになっているほか、アプリケーション/アプレット/Scriptごとに許可/禁止するようになっている。 === UNIXコマンド === do shell scriptコマンドでBSD (UNIX) レイヤー上のコマンドを呼び出すことができる<ref>[https://developer.apple.com/library/mac/technotes/tn2065/_index.html Technical Note TN2065: do shell script in AppleScript]. ''Mac Developer Library''. Apple, 2006-03-23.</ref>。ただし、Terminal.app上とdo shell scriptコマンドでは設定されている環境変数が異なるため、Terminal.app上で実行できていた処理ができなくなる場合がある。特に、指定したコマンドにパスが通っていないことや、カレントディレクトリが異なること等はエラーの原因となる。これは環境変数の内容を明示的に指定することや、利用コマンドをフルパスで表記することで回避できる(環境変数内容はenvコマンドを実行して確認できる)。 === リモートアプリケーション === macOS標準装備の「リモート[[Apple event]]s」の機構を用いて、TCP/IPネットワーク(主にLAN)内の他のMac上のアプリケーションをコントロールできるようになっている。ただし、セキュリティ確保のためmacOS標準装備のアプリケーションの多くは、この機能が禁止されているほか、OSのデフォルト設定ではリモート[[Apple event]]sはオフになっている。 1台のMacでは処理が追いつかない場合、この機構を用いて複数台のMacに仕事を割り振り分散処理を行うことができる。また、Mac上で稼働する仮想環境上でmacOSを動作させ、仮想環境との間での分散処理も可能である<ref>[http://piyocast.com/as/archives/2521 ParallelesにゲストOSとしてインストールしたOS XをAppleScriptで制御]</ref>。 === Webサービス === SOAP、XML-RPCを呼び出すための命令が標準で装備されている(call soap、call xmlrpc)<ref>[http://piyocast.com/as/archives/1318 郵便専門ネットでバージョン番号を取得]</ref><ref>[http://piyocast.com/as/archives/1320 郵便専門ネットでXML-RPC経由でJISコード(5桁、6桁どちらでも)から、その市区町村に属している郵便番号のリストを取得]</ref><ref>[http://piyocast.com/as/archives/1328 郵便専門ネットで道府県のコード(地方公共団体コードの先頭2文字)から都道府県名を返す]</ref><ref>[http://piyocast.com/as/archives/1326 郵便専門ネットで引数に指定した郵便番号で何件ヒットするのかをint型で返す]</ref><ref>[http://piyocast.com/as/archives/1338 郵便専門ネットでXML-RPC経由で郵便番号を6桁(チェックデジット付き)の全国地方公共団体コード/JISコード/市町村コードに変換]</ref>。Cocoaの機能を用いてRESTful APIを呼び出すことも可能である<ref>[http://piyocast.com/as/archives/4017 REST APIに対してGET、POST、PUT、DELETEのmethodを呼び出す]</ref>。 これらのサービスが存在しないサイトに対しても、Safariのdo JavaScriptコマンド経由で操作したり、GUI Scriptingで強制的に操作することで、Webサービスにログインして必要な情報を取得するなどの処理が可能である。 === iOSアプリケーション === macOS 11.0以降、ARM Mac上では[[iOS]]用のアプリケーションがそのまま動作している。このため、ARM Mac上で動作するiOSアプリケーションをAppleScriptから操作することも可能になった。専用の用語辞書を持たないiOSアプリケーションに対しては、GUI Scripting経由で操作するが、macOSアプリケーションのようにオブジェクト階層をたどれる作りになっていないため、新たなノウハウが必要である。 Apple純正のメモなどのアプリケーションでは、macOS用とiOS用がiCloud経由でデータのシンクロを行うため、macOS上でデータの更新を行うとiOS側にもそれが反映される。これを利用して、iOS側に大量のデータを登録したい場合にMac上でAppleScriptなどによってデータを追加するといった方法が可能である。また、iPhoneとひもづけされたMacからAppleScriptを用いて電話をかけたりSMSメッセージを送信したりもできる<ref>[http://piyocast.com/as/archives/4058 AppleScriptから電話にアクセスする]</ref>。 iOSシミュレータ上で動くiOSアプリケーションもGUI Scriptingにより操作や情報の取得などが可能である。そのため、AppleScriptからシミュレータ上のiOSアプリを操作し、操作テストを実施して段階ごとに画面キャプチャを記録することも行われている。 === 各種フレームワーク === Mac OS X v10.10以降では、Apple純正およびサードパーティー製CocoaフレームワークをAppleScriptから直接呼び出すことが可能となっている<ref>[http://piyocast.com/as/archives/1938 ZipZap frameworkを使ってZipアーカイブ内の情報を取得]</ref>。また、コンタクト(住所録)やカレンダーの情報をフレームワーク経由で検索・操作できるようになった<ref>[http://piyocast.com/as/archives/3350 Contactsに登録してある自分の写真をPNGでデスクトップに保存する]</ref>。iTunes Libraryの検索もiTunes.app経由やiTunes Music Library.xmlを検索するよりも高速に行える。 === AppleScript Libraries === Mac OS X v10.9以降で、AppleScript自体をライブラリ化して再利用できるようになった。さらに、このライブラリにはAppleScript用語辞書を持たせることが可能なため、AppleScriptの命令語をAppleScriptで記述したライブラリによって拡張することが可能である。 === ショートカット === macOS 12以降では、iOS系のOSから移植された自動化ツール「ショートカット」(Shortcuts.app)が利用できる。このツール自体がAppleScriptからの操作に対応しており、指定のショートカット(ユーザーが定義した自動化ワークフロー)を実行できるほか、Shortcuts.appが起動していない状態でも、AppleScriptからの実行専用バックグラウンドツール「Shortcuts Events」を指定してショートカットの実行が可能。 === Siri === AppleScriptから音声エージェント「Siri」を呼び出すAppleScriptライブラリ「AgentCallerLib」がPiyomaru Softwareより提供(電子書籍の付録として提供)されており、指定の文字列をSiriに渡して実行できるようになった。コマンドの冒頭に「Hey Siri」を書く必要はない。同ライブラリは、macOS 12以降をサポートしている。 == さまざまな実行環境 == AppleScriptは中間コードに翻訳されて逐次実行されるが、以下のようなさまざまな保存・実行環境(ランタイム環境)を持つため、実行環境によって動作が微妙に異なり、想定していた通りに動かない場合がある。 また、実行中のログ表示が行えるのは[[スクリプトエディタ]]でオープンして[[スクリプトエディタ]]で実行させた場合、およびXcode上で作成してデバッグビルドを行なっている場合の2つのケースにかぎられる。フォルダアクションで実行中のAppleScript書類を[[スクリプトエディタ]]でオープンさせたからといって、フォルダアクションで実行中のAppleScriptのログが[[スクリプトエディタ]]上にログ表示されることはない。 === スクリプトエディタ上で実行 === [[スクリプトエディタ]]上に記述して、[[スクリプトエディタ]]上で実行する形態である。この際の実行環境は[[スクリプトエディタ]]であり、途中でAppleScriptの実行を停止させたり、ログ表示させた内容を確認したりできる(ログ表示させると実行速度がいちじるしく低下する)。セキュリティ上の制約がもっとも少ない実行環境でもあり、他の実行環境では動かせないコードもこの環境で動くケースが多い。 === アプレット/ドロップレットとして保存して実行 === [[スクリプトエディタ]]上で記述して、アプリケーションとして保存、あるいはアプリケーションとして書き出したものである。この形態のものをアプレットと呼ぶ。アプレット実行時にはアプレット用のランタイム環境が用意されている。この環境で実行すると、on idleによるタイマー割り込み、ファイルやフォルダをドラッグ&ドロップ受信する機能、ハンドラの実行後に終了しない、プログレスバーの表示機能(Mac OS X v10.10より)などの機能が利用できる。ファイル/フォルダのドラッグ&ドロップを受け付けるアプレットをドロップレットと呼んで区別する(アイコンが異なる)が、ランタイム環境は同じである。 アプレット実行時にログ表示などの機能は利用できないため、この実行形態のままではバグの確認や修正が困難である。アプレットとして書き出す前に[[スクリプトエディタ]]上で内容に問題がないことを確認する必要がある。 === Automator上で実行 === [[Automator]]のワークフロー記述の一部としてAppleScriptを使用することもできる。Automator上のアクション「AppleScriptを実行」が[[スクリプトエディタ]]に近い機能(ログ表示、結果表示)を持つが、他のAppleScript対応アプリケーションのAppleScript用語辞書をブラウズしたり、途中で実行を停止させるなどの機能はない。 === Cocoa-AppleScript Appletとして保存して実行 === Mac OS X v10.7で導入された。[[スクリプトエディタ]]上で「ファイル」>「テンプレートから新規作成」>「Cocoa-AppleScript Applet」を選択することで新規作成できる。AppleScriptObjCによるプログラムを[[スクリプトエディタ]]上で記述できるが、Interface Builderによるユーザーインタフェースの作成が行えず、デバッグ機能も乏しい。実行はアプレット形式でのみ行う。 === Xcode上でAppleScript Appとして作成してビルドして実行 === Xcode上で「File」>「Project」>「Other」>「AppleScript App」を呼び出すと作成される。Mac App Store上でのアプリケーション販売が可能な形式である。一般的なCocoaアプリケーションをAppleScriptで開発する環境であり、一般的なCocoaアプリケーションに近いものが作れるが、一般的なCocoaアプリケーションを作成するレベルの知識が必要とされる。Xcode内蔵のエディタ上で編集するAppleScriptは、文法要素に応じた構文色分け機能が利用できず、デバッグも行いにくい。複数のスクリプトファイルにプログラムを分割した場合のハンドラ呼び出し方法にクセがある。 === スクリプトメニューに登録して実行 === macOSのメニューバーから所定のフォルダ内のAppleScriptを実行できる、macOS標準装備の「スクリプトメニュー」に登録・実行した場合の実行環境も、OSのバージョンに応じてさまざまな変更が加わってきた。Mac OS X v10.10からはosascriptコマンドで実行する実装になった。このため、スクリプトメニューから複数のAppleScriptを同時に実行させることが可能になったが、実行するScript同士で共通のアプリケーションにアクセスした場合のバッティングまでは面倒を見てくれない。スクリプトメニューから実行中のScriptの停止を行えるが、実行中のログ表示はできない。macOS v10.14からは独立したアプリケーションとして提供されるようになった。 === フォルダアクションに登録して実行 === 指定のフォルダ内容を数秒間隔で監視し、変更が加わるとAppleScriptの実行を行う機構である。ランタイムの差異が問題を生むというよりも、このフォルダアクションの機構そのものがmacOSのバージョンによってはうまく動作していない(Mac OS X v10.10)ことが問題であった<ref>[https://developer.apple.com/library/mac/releasenotes/AppleScript/RN-AppleScript/RN-10_11/RN-10_11.html#//apple_ref/doc/uid/TP40000982-CH111-DontLinkElementID_5 AppleScript Release Notes 10.11 Changes Folder Actions]</ref>。のちに、macOS v10.11でFSEvents経由で変更イベントを受信するよう全面的に書き直され、ファイル変更があったら即時にScriptが実行されるようになった。 === Terminalからosascriptコマンドで実行 === OSバージョンによっては、display dialogなどのコマンドが利用できなかったが、Mac OS X v10.10以降は[[スクリプトエディタ]]上での実行にきわめて近いランタイム環境が提供されている。全く同一ではないため、[[スクリプトエディタ]]上で記述すれば発生しないような問題に直面する場合がある。一例として、AppleScript中からNSWindowを動的に生成し、そのウィンドウ上の各種GUI部品でユーザーからの操作を受け付けたい場合、操作が処理されないといった問題がある。 === Switch Control上の「AppleScript」アクションから実行 === macOSのアクセシビリティ系の機能に、フローティングパレット上に配置したボタンからキーボードショートカットやAppleScriptの実行を行えるSwitch Controlがある。バンドル形式のScriptを読み込んで実行できない、Scriptのバンドル内に実行ファイルを入れて呼び出すことができない、ユーザーディレクトリ下のAppleScriptライブラリを認識しない、といった運用上の制約がある。 === 「音声入力コマンド」の「高度なコマンド」>「ワークフローを実行」でAppleScript実行 === 日本語音声認識でAppleScriptを実行できる。実行可能形式は、AppleScriptのフラット形式(.scpt)およびAppleScriptアプレット。Siriとは別の音声認識コマンドであり、あらかじめ指定しておいた固定文字列を日本語音声認識して、合致すればコマンドを実行する。macOS 12でショートカット.appがmacOSに搭載されたことにより、AppleScriptを実行可能な音声認識コマンドの実行系が2つ存在している。 === アプリケーション内のScript実行機能で実行 === FileMaker Proを外部からAppleScriptでコントロールするよりも、FileMaker Proスクリプトの「AppleScriptを実行」スクリプトステップ中にAppleScriptをコピー&ペーストで入れて実行する方が数倍高速に実行される。画面の再描画などを抑止するほか、高速実行するための仕組みを備えている{{要出典|title=おそらくそうであるが、明確な出典があるとよい|date=2016年5月}}。 Microsoft OfficeのVBAスクリプト内でも、AppleScriptを呼び出す仕組みが用意されている。Excel v.14.xまでは「MacScript」コマンドにより文字列で与えたAppleScriptが、Excel v.15.xでは「AppleScriptTask」コマンドによりファイル名を指定して外部のAppleScriptを実行できるようになっている。 同様に、Adobe InDesignの「スクリプト」パレット中からAppleScriptを呼び出すことが出来、この際に画面の再描画を抑止できるため高速実行(おおよそ2倍)が可能となっている。ただし、Adobe InDesignについては大量のデータ処理時にクラッシュが発生するため、処理速度より安定稼働を重視すると外部からのコントロールも選択肢に入る。 === Script Debugger上でデバッグ実行 === AppleScript専用のサードパーティー統合開発環境といえる[http://www.latenightsw.com Script Debugger]では、デバッグ時にAppleScript互換の「AppleScript Debugger」というAppleScriptとは別のOSA言語を実行することになる。厳密にいえばAppleScriptそのものを実行するわけではないため、振る舞いが異なる箇所が出てくることは否定できない。ただし、以前(Classic Mac OS時代)に比べると純正AppleScript環境との互換性は大幅に高まっている。強力で便利な環境であるが、「デバッグ時以外はScript Debuggerを使うべきではない」という方針の開発現場もあるのは、この「互換性問題」ゆえである。 === ショートカットアクション「AppleScriptを実行」上で実行 === Shortcuts.appのアクションに「AppleScriptを実行」が用意されており、ショートカット内でのAppleScript実行が可能である。このアクションはmacOS専用であり、他のOS上では実行できない。Cocoaの機能呼び出しや、ユーザー環境にインストールされたAppleScript Librariesの機能呼び出しなどが可能。このことにより、Mac上であればSiri経由で日本語音声認識/テキスト操作によりAppleScriptを実行できるようになった。 == 運用上、注意すべき項目 == {{独自研究|section=1|date=2016年5月}} === 構文チェックが甘いので間違っている箇所を見つけにくい === [[スクリプトエディタ]]上でのコンパイル(実質的には構文チェック+中間コードへの置き換え)時には、AppleScriptの基本的な文法を外れなければ、それがたとえ実行できない命令の組み合わせであってもエラーにならない。実行時にエラーとなる。FinderのAppleScript用語辞書を見ていると「make new application」といったできそうもないプログラムを組めそうに見え、実際にFinderへのtellブロック内に記述するとコンパイルを通ってしまう。 <syntaxhighlight lang="applescript"> tell application "Finder" make new application end tell </syntaxhighlight> 実際には、アプリケーション側が想定している命令語の組み合わせは限定されたものである。また、想定された条件下によっては実行できるが、条件がそろわないと実行してもエラーになったり無意味な結果になるものもある。このため、アプリケーションが備えている機能を逸脱しない表記、アプリケーションの用語辞書で実現可能な記述パターンの情報を収集することには大いに意義がある(Appleが主催するメーリングリストのアーカイブの検索がこれに適している)。また、Scriptはこまめに実行して想定どおりの実行結果が得られているかを確認するとよい。 === 機能の分布が不均一 === たとえば、printコマンドでプリンタを指定して書類を印刷する機能が存在していても、LAN内に存在するプリンタ名一覧を取得する機能はデフォルトでは用意されていない。同様に、テキストの音声読み上げを行うsayコマンドで音声キャラクタの名称を指定できるのに、現在システムにインストールされている音声名称の一覧を取得する機能が存在していない。このため、shell scriptやCocoaのサービスを呼び出して、取得する手段を別途用意する必要がある<ref>[http://piyocast.com/as/archives/3105 プリンタ一覧の情報を取得する v2]</ref><ref>[http://piyocast.com/as/archives/354 TTS Voice名一覧を取得]</ref>。 === 特定オブジェクトの抽出にフィルタ参照が重要 === 何らかの条件に基づいてオブジェクトを抽出する処理が、アプリケーションコントロールでは日常的に発生する。たとえば、リマインダーで名称(name)に「発売日」を含む項目のみ抽出するといった処理である。そのような場合に、オブジェクトの抽出をせずに「とりあえずすべてのオブジェクトを取得して、ループで条件一致するものを抽出する」ようなコードでは処理が遅くなってしまう。フィルタ参照<ref>{{Cite web |url=https://developer.apple.com/library/mac/documentation/AppleScript/Conceptual/AppleScriptLangGuide/reference/ASLR_reference_forms.html#//apple_ref/doc/uid/TP40000983-CH4g-BAJJHEFE |title=AppleScript Language Guide - Reference Forms - Filter |accessdate=2016-05-29}}</ref>を使って対象オブジェクトのしぼりこみを行うと速度を向上できる。 ただし、64bit化されたFinderではこのフィルタ参照の処理速度が大幅に低下しており、Finderに対して複数のフィルタ参照を実行すると速度が落ちる点に注意が必要である。 === 記述方法によって処理速度が大幅に変わる === 何らかのオブジェクトの属性値を取得したい場合に、複数の属性値を何回かに分けて取得するよりもpropertiesでまとめて属性を取得した方が速いケースなどがある。アプリケーションをコントロールするために存在しているAppleScriptであるが、アプリケーションとの通信回数を減らすことが処理の高速化につながる。 例えば、指定フォルダ以下の全てのファイルを処理する場合、Classic Mac OS時代にはFinderに対して再帰処理で取得するように書いていたが、現代のmacOSではSpotlightを用いてファイル一覧を取得するとずっと速く処理できる。このように、macOSの機能の移り変わりを意識していないと処理速度が大幅に変わる。 === アプリケーションの過度のローカライズにともなう互換性問題 === Music(iTunes)、Keynote、Pages、NumbersなどApple純正アプリケーションに固有の問題が存在する。アプリケーションのローカライズをやりすぎて、AppleScript関連の機能までローカライズされている例が多々ある。このため、海外で流布しているAppleScriptの、主にオブジェクト名称を英語名表記から日本語名表記に変更しないと日本語環境上では実行できない(エラーになる)ケースが存在する<ref>[http://piyocast.com/as/archives/3307 Keynoteスライドの末尾にQRコードのスライドを追加]</ref>。 == 制限機能 == あまりに拡張され、できることが増えすぎたため、AppleScriptの一部機能を抑止するための機構がmacOSに用意されつつある。以下の機能についてはデフォルトでは禁止状態になっているが、管理者パスワードを入力すれば実行を許可するようになっている。 === リモートApple Eventsへの応答禁止 === ネットワーク上の他のMacからのコントロールを行うリモートApple Eventsに対し、macOS標準装備の各アプリケーションは応答しないようになっている。また、出荷時のデフォルト設定で、リモートApple Eventsはオフになっている。 === GUI Scriptingの実行禁止 === 画面上のメニューやボタンなどを操作するGUI Scriptingについては、「システム環境設定」の「セキュリティとプライバシー」>「アクセシビリティ」で個別に許可を行うようになっている。デフォルト設定では、どのプログラムに対しても許可していない。 === Safari上でのdo javascript命令の実行禁止 === Safari 9.1.1より、「開発」メニューに「Apple EventsからのJavaScriptを許可」の項目が新設され、これにチェックを入れないとAppleScriptからSafariに対してdo javascript命令を実行できなくなった<ref>[http://piyocast.com/as/archives/3352 OS X 10.11.5+Safari 9.1.1以降で、新たなAS制限機能が増える]</ref>。いったん許可すれば、その状態は継続される。 === FileMaker Pro上での拡張アクセス権におけるApple Eventによる操作許可設定 === FileMaker Pro v16より、FileMaker Script中におけるAppleScriptの実行(正確にいえば、AppleScriptからFileMaker Pro自身を操作すること)がデフォルトの権限セットのままでは許可されない状態になっている。そのため、より以前のバージョンで作成したFileMaker ProデータベースをFileMaker Pro v16でオープンすると、FileMaker Script Step実行時に「実行権限エラー」ダイアログが表示され、Script Stepの実行が行われないという現象に直面することがある。このような場合には、拡張アクセス権で「Apple EventおよびActive-XによるFileMaker操作の実行を許可」にチェックを入れれば実行できるようになる。 === 「セキュリティとプライバシー」による権限設定(macOS 10.14より) === macOS 10.14より、システム環境設定の「セキュリティとプライバシー」>「プライバシー」項目にセキュリティ度を調整するための各種機能が追加され、AppleScriptもその影響を受けるようになった。 「フルディスクアクセス」項目では、動作中のMacのすべてのユーザーに対して、ユーザー自身のメール、メッセージ、Safari、ホーム、Time Machineバックアップなどのデータや特定の管理設定へのアクセスを許可する。AppleScriptを利用するユーザーはこの項目に「[[スクリプトエディタ]]」と「スクリプトメニュー」を登録しておく必要がある。 「オートメーション」項目では、他のアプリケーション制御の許可、および取り消しを行える。[[スクリプトエディタ]]以外のアプリケーションで、他のアプリケーションを制御する場合には、動作中の最初の要求時にユーザーに対して承認を求めるダイアログを表示する。承認されたアプリケーションはこの「オートメーション」項目に表示されるようになる。実行したユーザーが承認しなかった場合にも、本項目にチェックボックスがオフになった状態で表示されるため、あとからシステム環境設定上の本項目において承認を行う(チェックボックスをオンにする)ことが可能である。 なお、一度「オートメーション」項目に登録され、ユーザーの承認を得ていれば、毎回ユーザーの承認ダイアログが表示されることはない。 逆に、本「オートメーション」項目に意図的に登録させたい場合、アプリケーションのバージョン番号を確認したり最前面に表示させる(activate)コマンドを実行させる程度ではシステムが反応しない。他のアプリケーションを操作するAppleScriptアプレット/AppleScriptアプリケーションにおいて、初回起動時に「オートメーション」項目に登録される程度の簡単な(害のない)アプリケーション操作を意図的に行う必要が生じるようになった。AppleScript側から任意のアプリケーションに対する操作が許可されているかを知ることは、サードパーティのフレームワークを呼び出すことで可能となっている<ref>[http://piyocast.com/as/archives/4819 tccKitで指定Bundle IDのアプリケーションの「オートメーション」認証状況を取得]</ref>。 === SIPによる機能制限(macOS 10.14より) === macOS 10.11以降、SIPによる機能制限が段階的に強化され、macOS 10.14においてはApple純正の[[スクリプトエディタ]]にも制限が加わった。ホームディレクトリ下の「ライブラリ」フォルダ中の「Frameworks」フォルダ(デフォルトでは存在しない)へのアクセスがSIPにより禁止された。macOS 10.14上でこの制限を回避するには、サードパーティの開発環境「Script Debugger」を利用するか、SIPそのものを解除する必要がある。 === リモートApple Eventsの応答ユーザー名制限(macOS 10.15より) === macOS 10.15以降、リモートApple Eventsでネットワーク上の他のMac上のAppleScriptから命令を受け付ける場合、呼び出す側と受け付ける側のユーザー名が同じである必要があるようになった。なお、簡単なシェルコマンドでこの制限は無効にすることができる。 == バグ == {{独自研究|section=1|date=2017年11月}} === macOS 10.12, Sierra === macOS側のセキュリティ機能とAppleScriptの処理系のすり合わせが不十分なままOSがリリースされてしまったために、macOS 10.12, SierraにおいてはAppleScriptをドロップレットとして保存し、ファイルをドラッグ&ドロップした場合には、ファイルの処理が行われなかったりファイル処理の順序が以前のOSのとおりに行われなかったりする。 これは、ファイルの拡張属性(Xattr)の1つ「com.apple.quarantine」により発生する。インターネット上からダウンロードしたファイルなどは、その安全性が担保されていない状態であると(macOSが)みなし、この「com.apple.quarantine」属性が添付される。 ユーザーの操作によりファイルのオープンを許可された(「ダウンロードされたファイルですが、オープンしてもよいですか?」という確認ダイアログでユーザーに承認)場合には処理されるが、同属性がついたままだとドロップレットによる処理が行われない。一応回避手段は存在するが、初心者には理解が難しいものとなっている。 <ref>[http://piyocast.com/as/archives/4465 com.apple.quarantineがドロップレットに与える影響]</ref>。 sayコマンドで日本語読み上げ音声を指定して「もげる」「捥げる」を読み上げると正常に読み上げられない(NSSpeechManagerのバグで、SwiftやObjective-Cでも同様のバグが発生し、iOSでも状況は同じ)。<ref>[http://piyocast.com/as/archives/4521 macOS 10.12のsayコマンドにバグ]</ref><ref>[http://piyocast.com/as/archives/4569 macOS 10.12のsayコマンドのバグはNSSpeechSynthesizerのレベルで発生]</ref>。 Enum「NSNotFound」の定義が間違っており、-1ではない値を返す(10.13.1にて修正)。 <syntaxhighlight lang="applescript"> use AppleScript version "2.4" use scripting additions use framework "Foundation" current application's NSNotFound --> 9.22337203685478E+18 --macOS 10.12.x --> -1--macOS 10.13.1など通常の挙動 </syntaxhighlight> === macOS 10.13, High Sierra === AppleScriptからCocoaの機能を呼び出す際にScripting Bridgeの仕組みが利用されているが、このScripting Bridgeの定義ファイルに問題があり、いくつかの機能が正常に呼び出せない状況が確認されている。<ref>[http://latenightsw.com/high-sierra-applescriptobjc-bugs/ (- LateNight SoftwareのShane StanleyによるmacOS 10.13のScripting Bridge系のバグ解説記事]</ref>。 NSRectが属性ラベルつきのレコード型ではなくリスト型に変換されるようになっている。 <syntaxhighlight lang="applescript"> use AppleScript version "2.4" use scripting additions use framework "Foundation" current application's NSMakeRect(0, 0, 100, 100) --> {origin:{x:0.0, y:0.0}, size:{width:100.0, height:100.0}}--通常の挙動(macOS 10.12.x) --> {{0.0, 0.0}, {100.0,100.0}}--macOS 10.13.xの挙動 </syntaxhighlight> PDFViewに対してcurrentPage()を実行してもPDFPageが返ってこない。このため、PDFView上でPDFを表示させるGUIプログラムに影響が出ている。<ref>[http://piyocast.com/as/archives/4916 macOS 10.13でPDFViewのcurrentPageにバグ]</ref> === macOS 13,Ventura 〜macOS 14, Sonoma === スクリプトエディタ上のテンプレート「Cocoa-AppleScript Applet」の実行ができなくなっている。同環境は、OS X 10.7で追加されたもので、現行のスクリプトエディタなどで実行可能なAppleScriptObjCの実行環境とは機能が異なる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == {{複数の問題 | section = 1 | 宣伝 = 2022年6月 | 参照方法 = 2021年5月<!--記事トップのテンプレートを参照--> }} {{Refbegin}}* 「AppleScriptによるWebブラウザ自動操縦ガイド」, Piyomaru Software (2022) * 「FileMaker PowerPack活用ガイド!」, Piyomaru Software (2021) * 「elgato STREAM DECK 徹底活用 Mac+STREAM DECKで 時短+作業効率化!!」, Piyomaru Software (2021) * 「空前絶後あなたの知らない ヤバイAppleScriptの世界」, Piyomaru Software (2021) * 「機能強化AppleScript集 CotEditor用 PowerPack 取扱説明書」, Piyomaru Software (2021) * 「ミュージック.app scripting book with AppleScript」, Piyomaru Software (2021) * 「Cocoa Scripting Course Volume #3 NSDictionary」, Piyomaru Software (2021) * 「Macとアップルスクリプトで学ぶ いまからはじめるプログラミング②」, Piyomaru Software (2021) * 「Macとアップルスクリプトで学ぶ いまからはじめるプログラミング①」, Piyomaru Software (2021) * 「Cocoa Scripting Course Volume #2 NSArray」, Piyomaru Software (2021) * 「Cocoa Scripting Course Volume #1 NSString」, Piyomaru Software (2021) * 「FileMaker Pro Scripting Book with AppleScript(日本語版、英語版)」, Piyomaru Software (2021) * 「Switch Control with AppleScript(英語版)」, Piyomaru Software (2020) * 「アップルスクリプトBasic Magazine Vol.2」, Empty Party (2020) * 「AppleScriptの穴Blogアーカイブvol.6」, Piyomaru Software (2020) * 「AppleScriptの穴Blogアーカイブvol.5」, Piyomaru Software (2020) * 「AppleScriptの穴Blogアーカイブvol.4」, Piyomaru Software (2019) * 「アップルスクリプトBasic Magazine Vol.1」, Empty Party (2019) * 「AppleScriptの穴Blogアーカイブvol.3」, Piyomaru Software (2018) * 「AppleScriptの穴Blogアーカイブvol.2」, Piyomaru Software (2018) * 「AppleScriptの穴Blogアーカイブvol.1」, Piyomaru Software (2018) * 「Keynote Control with AppleScript 1」, Piyomaru Software (2017) * 「Keynote 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(1997) ISBN 4-7952-9669-3 * 「AppleScriptでぜんまいびゅんびゅん」, 掌田津耶乃 (1995)ISBN 4-7561-1068-1 {{Refend}} == 関連項目 == *[[Xcode]] *[[Automator]] *[[Apple event]] *[[Open Scripting Architecture|OSA]] == 外部リンク == *[https://developer.apple.com/library/mac/documentation/LanguagesUtilities/Conceptual/MacAutomationScriptingGuide/index.html#//apple_ref/doc/uid/TP40016239-CH56-SW1 Mac Automation Scripting Guide]{{En icon}} - Appleによる初心者向けの自動化ガイド * [https://developer.apple.com/library/mac/documentation/AppleScript/Conceptual/AppleScriptX/AppleScriptX.html AppleScript Overview]{{En icon}} - 開発者向け概要 *[https://developer.apple.com/library/mac/releasenotes/AppleScript/RN-AppleScript/Introduction/Introduction.html AppleScript Release Notes]{{En icon}} - 各OSバージョンのAppleScriptの変更点が書かれているリリースノート * [https://developer.apple.com/library/mac/documentation/AppleScript/Conceptual/AppleScriptLangGuide/introduction/ASLR_intro.html AppleScript Language Guide]{{En icon}} - 開発者向け言語ガイド(リファレンス含む) * [https://developer.apple.com/reference/applicationservices/1651363-apple_event_manager API Reference Apple Event Manager]{{En icon}} - AppleのAppleEvent Managerについてのリファレンス。Apple担当者の手違いでしばらくの間「Retired」扱いになっていたが、手違いであったことが2016年2月に判明し、修正された。 * [http://www.cs.utexas.edu/~wcook/papers/AppleScript/AppleScript95.pdf The Open Scripting Architecture:Automating, Integrating, and Customizing Applications]{{En icon}} - AppleScriptの初期プロダクトマネージャーのWilliam R. CookとWarren H,HarrisによるAppleScriptの企画時の意図がまとめられている論文 {{MacOS}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:AppleScript}} [[Category:Mac OS]] [[Category:スクリプト言語]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/AppleScript
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ハンデキャップ
ハンデキャップ、ハンディキャップ(英:Handicap n, v)とは、スポーツやゲーム等において競技者間の実力差が大きい場合に、その差を調整するために事前に設けられる設定のこと。単にハンデやハンディともいわれる。なお、本項で記述する意味などから発して、競技に限らず様々な競争的な場での立場を不利にする条件を指す言葉として用いられることも多い。 競技において参加者が、同時にゴールできたり、誰にも同じ確率で勝てるように、競技を行う前に数値を計上したり、上級者の行為を制限したり下級者の行為の幅を広げる設定を行う。通常、内容は競技ルールの一部として定義されている。 操作は公正に行われる必要がある。操作を行う人はハンデキャッパーなどと呼ばれる。 ハンデキャップを設けない「スクラッチ」は対義的な意味として扱われる。 英語のHandicapはイギリスのHand-in-capと呼ばれる古い遊びがあり、17世紀の官僚サミュエル・ピープスは1660年9月19日付の日記ではこの遊びを知ったことが書かれ、それは2人が物々交換を始めようとして第三者の審判が安価な方に足し前(boot)を提案、2人か審判は対戦するごとに担保を入れた帽子に手を入れることからこのゲームの呼び名が付き、安価な物に対して弱みも意味するようになり、後の不利な条件を意味するようになった。 主に「ハンデ戦」と表現する。
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ハンデキャップ、ハンディキャップとは、スポーツやゲーム等において競技者間の実力差が大きい場合に、その差を調整するために事前に設けられる設定のこと。単にハンデやハンディともいわれる。なお、本項で記述する意味などから発して、競技に限らず様々な競争的な場での立場を不利にする条件を指す言葉として用いられることも多い。
{{半保護}} {{Otheruseslist|競技におけるハンデキャップ|身体の[[障害]]の意味でのハンデキャップ|身体障害|知的行動の障害の意味でのハンデキャップ|知的障害}} {{Redirect|ハンディ|ハンディターミナル|ポータブルデータターミナル}} {{redirect|ハンディキャップ|ゴルフにおけるハンディキャップ|ハンディキャップ (ゴルフ)}} {{出典の明記|date=2014年10月29日 (水) 08:16 (UTC)}} '''ハンデキャップ'''、'''ハンディキャップ'''(英:Handicap ''[[名詞|n]], [[動詞|v]]'')とは、[[スポーツ]]や[[ゲーム]]等において競技者間の実力差が大きい場合に、その差を調整するために事前に設けられる設定のこと。単に'''ハンデ'''や'''ハンディ'''ともいわれる。なお、本項で記述する意味などから発して、競技に限らず様々な競争的な場での立場を不利にする条件を指す言葉として用いられることも多い。 == 概要 == 競技において参加者が、同時にゴールできたり、誰にも同じ確率で勝てるように、競技を行う前に数値を計上したり、上級者の行為を制限したり下級者の行為の幅を広げる設定を行う。通常、内容は競技ルールの一部として定義されている。 操作は公正に行われる必要がある。操作を行う人は'''ハンデキャッパー'''<!-- 和製英語? -->などと呼ばれる。 ハンデキャップを設けない「スクラッチ」は対義的な意味として扱われる。 == 語源 == 英語のHandicapはイギリスの[[:en:Hand-in-cap|Hand-in-cap]]と呼ばれる古い遊びがあり、17世紀の官僚[[サミュエル・ピープス]]は1660年9月19日付の日記ではこの遊びを知ったことが書かれ、それは2人が物々交換を始めようとして第三者の審判が安価な方に足し前(boot)を提案、2人か審判は対戦するごとに担保を入れた帽子に手を入れることからこのゲームの呼び名が付き、安価な物に対して弱みも意味するようになり、後の不利な条件を意味するようになった<ref>{{Cite book|和書|author= ジョーゼフ・T・シップリー|authorlink=:en:Joseph Twadell Shipley|others = [[梅田修 (英語学者)|梅田修]]、[[眞方忠道]]、[[穴吹章子]]||title = シップリー英語語源辞典|year = 2009|publisher = [[大修館書店]]|page = 314}}</ref><ref>{{Cite book|和書|editor=小西友七|editor-link=小西友七|title = ジーニアス英和大辞典|year = 2001|publisher = 大修館書店|page = 994}}</ref>。 == 各種競技 == 主に「ハンデ戦」と表現する。 ;競馬 :[[競馬]]においては、強い馬は[[負担重量]](斤量)を重くし、弱い馬は負担重量を軽くすることで、全ての馬が同タイムで走るように調整を行う[[ハンデキャップ競走]]を行う場合がある。 ;オートレース :[[オートレース]]では強い選手は弱い選手よりも後ろから発走させることで、ゴール線に同時につくように行う[[ハンデレース]]を行う場合がある。 ;競艇 :[[競艇]]は体重が軽いほうが有利であるが、減量合戦が過熱しないように体重制限が設定されており、基準を下回った場合は重りを載せて調整する。女子選手は男子選手に体力的に劣るという点もあり、男子は52kgに対して女子は47kg(2020年11月より)と体重制限の基準が低く設定されている。 ;ゴルフ(ストロークプレイ) :[[ゴルフ]]では実力的に差のある競技者も楽しくゴルフができるよう、各競技者に一定の数値を与え、競技終了後、その数値をスコアより差し引いたネットスコアで勝敗を決める。また、アマチュアゴルフにおいてはハンデキャップが実力レベルの指標としても用いられ(プロゴルフにはハンデは無く、ハンデが無いゴルファーを「スクラッチ」と言う)、1桁ともなると俗に「シングル・プレーヤー」と呼ばれ、相当な腕前であることが認められる。 ;ゴルフ(マッチプレー) :ゴルフの[[マッチプレー]]においても、プレイヤー同士の実力差が大きい場合にハンデキャップをつける。代表的なものとして、実力が上のプレイヤーが1ホールにつき1打ずつのハンデキャップを負う「エブリワン<ref>[http://golfdigesttv.jp/yougo/130412_everyone/ エブリワン] - ゴルフダイジェストTV</ref>」などがある。 ;ボウリング :[[ボウリング]]では最近のゲーム点数合計や平均値からハンデの点数を割り出し、実得点に加算して集計を行う。ハンデキャップの点数はHDCPと表現する。 ;ボクシング :[[ボクシング]]では体重差がある場合は、体重が重い選手のグローブを重くするグローブハンデを行う。 ;プロレス :[[プロレス]]では、興行を盛り上げるため1対2、2対3など対戦者間の人数で差をつけるハンディキャップマッチを行うことがある。 ;モータースポーツ :[[ツーリングカーレース]]の一部において、前のレースの優勝者・ポイントランキング上位者等を対象に車両におもりを乗せたり、[[リストリクター]]径を絞ってエンジンパワーを制限する方式が導入されている。またレース開始時の[[グリッド (モータースポーツ)|グリッド]]を一定の範囲で前レースの結果の逆順にする[[リバースグリッド]]制も存在する。界隈では上記のような結果に対して背負わされるものがハンデと認識されているが、マシン設計段階でスペック(過給器の有無や駆動形式など)に合わせて異なった最低重量や最大排気量を運営が設定するのも、広い意味ではハンデキャップといえる。 ;将棋 :実力差がある場合は[[将棋の手合割|駒落ち]]という形でハンデを設定する。[[奨励会]]の一部の対局や男性棋士がゲストの女流棋戦などで用いられる。 ;囲碁 :実力差がある場合は[[置き碁]]や逆コミという形でハンデを設定する。またゲームの性質上先手が有利であることから、[[互先]]では地の計算の段階で[[コミ]]を出す形でゲームの均衡を図っている。 ;連珠 :通常の[[五目並べ]]では先手の必勝法が判明しているため、先手に限って三三、四四、長連は[[禁手]]として、ゲームの均衡を図っている。 ;オセロ :[[オセロ (ボードゲーム)|オセロ]]では対局前に隅に黒石を置く方法で、ハンデを設定する。 == その他 == ;陸上競技など :主に少しの時間をおいてからのスタートに用いる。 == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == *[[禁手]] {{Game-stub}} {{Sports-stub}} {{DEFAULTSORT:はんてきやつふ}} [[Category:スポーツのルール]] [[Category:ゲーム関連の用語]]
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浮動小数点数
浮動小数点数(ふどうしょうすうてんすう、英: floating-point number)は、実数をコンピュータで処理(演算や記憶、通信)するために有限桁の小数で近似値として扱う方式であり、コンピュータの数値表現として広く用いられている。多くの場合、1ビットの符号部、固定長の指数部、固定長の仮数部、の3つの部分を組み合わせて、数値を表現する。 この節はパターソンらの記述に基づく。 実数は0以上かつ1以下のような有限の範囲でも、無限個の値(種類)が存在するため、コンピュータでは妥当なビット数で有限個の値(種類)の近似値で扱う必要がある。 実数-1/3は無限小数となるが、有限桁の小数で近似値を表記できる。下の例では10進数での4桁としている。 下の2つの表記は科学記数法 (scientific notation) とよばれ、小数点より左側の整数部分を1桁とする。 科学記数法のうち、左側の1桁を0以外(10進表記では1から9)にしたものを、正規化数 (normalized number) とよび、 一番下の表記が該当する。 実数-1/3はまた、有限桁2進数の小数でも、近似値で表記できる。下の例では2進数17桁としている。 2進数の小数も科学記数法で表記できる。 上記は同じ値を、小数点位置を移動し異なる表記にしているため、浮動小数点と呼ばれる。一番下の表記は、正規化数である。 コンピュータ処理に適した暗黙の基数2について、符号 (sign) S、仮数 (significand) F、指数 (exponent) Eにより、 浮動小数点数は下記の式で表記できる。 浮動小数点数のフォーマットには、以下で説明するものの他、以前は多数あった。 IEEE 754 形式の で表現されている。各部は次のように定義されている。 つまり、IEEE 754 形式で表現する値は である。 ただし、IEEE 754 形式の指数部は複雑で、以下のような役割も持つ。 0 を 0 で割ろうとすると NaN になる。また、 − 1 {\displaystyle {\sqrt {-1}}} も、求めるとNaNになる。 2.5を例にとると、 であることから、まず次のように考える。 仮数部は1未満でなければならないため、仮数の値2.5を(この例では右へ)シフトし正規化する。基数は2、コンピュータの内部表現は2進法であるため、シフト量は1ビットである。さらに、右シフトして1⁄2になったことを相殺するため、指数に1を加える(もし左シフトなら、指数から1を引く)。 値をシフトすることで表現範囲を広げ、丸め誤差を少なくなるようにしている。この操作を正規化という。正規化は基数の±1乗を繰り返し求めればよい。 このままでは (−1) × 1.25 × 2 となり、仮数の絶対値は1未満ではないが、仮数部は 仮数 − 1 と決められているため、次のようになる。 指数部は、指数に127をバイアスすることが決まっているため 2進法では、 浮動小数点は、最上位ビットから符号部、指数部、仮数部の順に符号化するため IEEE 754 形式から派生した浮動小数点数の形式。符号部 1 ビット ・ 指数部 8 ビット ・ 仮数部 7 ビットである。 つまり、bfloat16 形式で表現する値は である。 採用事例 IEEE 754 形式から派生した浮動小数点数の形式。以下の2種類がある。 採用事例 IBM方式は、IBM社がSystem/360で導入し、以後同社の標準としてSystem/370などのメインフレームで使った方式である(System/390では、従来形式のサポートは残すもののIEEE 754を使用するよう改めた)。指数部が2の冪ではなく16の冪を表すという特徴がある。この方式は、より大きな範囲を少ないビット数の指数部で表すことができ、そのぶんのビットを仮数部の桁数に使うことで精度も確保できるように一見思える。しかし、仮数部にケチ表現を使うことができず、さらに指数部の変化の前後で、仮数部のLSBが表現する値の刻み幅が16倍変化するため、2べきの場合に比べて最悪の場合には2進で3ビット分の精度が損なわれるため、一般には大成功であったと評されたSystem/360の設計において良くなかった点の一つとして挙げられる。(浮動小数点数の加減算の際に必要となる仮数部のシフトが4ビット単位となるのでシフト回数が減ることで演算が15%程度高速になる利点も16進数が採用された理由であった。) 特に単精度において、前世代機のIBM 7094(全部で36ビット)よりも桁数を減らした(32ビット)ことと相まって精度が大きく損なわれた。その他にも問題があり、ユーザグループであるSHAREから改善提案が出され、その多くを受け入れて多大なコストのかかる改修をおこなったほどであり、これを記憶しているIBMの古参社員は「身の縮む思い」をおぼえているという。 また、計算対象の数値がベンフォードの法則に従って分布していた場合、計算対象として精度の低い数(仮数部の最上位4ビットが0b0001)の現れる確率は1/15にはならず、もっと高い。 IBM方式の単精度浮動小数点数では、符号部1ビット、指数部7ビット、仮数部24ビットで表現されている。各部は次のように定義されている。 符号部は仮数の符号を表す。 指数部は−16~−16と16~16の範囲が表現できる。 1.5を単精度のIBM方式で表現するには、次のようになる。 仮数部は1未満でなければならないため、値を(この例では右へ)シフトする。ただし、基数が16で、コンピュータの内部表現は2進法であるため、シフト量は4ビットである(2 = 16)。加えて正規化し、その結果は次の通り。 次に指数部を、64をバイアスしたゲタ履き表現(エクセス64)で表現する。バイアスにより、0~127のビットパターンで、整数値−64~+63を表現するということになる(−64 + 64 = 0、63 + 64 = 127)。 よって、今回の例では以下のようになる。 2進法では、 浮動小数点は、最上位ビットから符号部、指数部、仮数部の順に符号化するため 任意精度演算と、従来の指数部と仮数部を共に固定長とする形式の中庸と言えるような方式が、いくつか提案されている。絶対値が1に近い値では指数部の桁数を短くし、仮数部の桁数を多くとって、よく使われる値を精度よく表現する。絶対値が極端に大きい値や小さい値には、精度とひきかえに指数部の桁数を増やすことで対応する。以下で述べる方式を提案している文献では、アプリケーションとして、通常の浮動小数点計算には、指数が大きくなり過ぎることがあって向かないとされているen:Graeffe's methodをうまく扱えたという例が示されている。 松井正一と伊理正夫が提案した方式で、符号と絶対値による表現法である。論文中に示された例では、64ビットの倍精度浮動小数点数として、仮数部の長さnを示す情報6ビットと、(符号部を含む)mビットの指数部とnビットの仮数部(m+n = 58)からなる。彼らは、オーバーフローを起こさせないための、より大きい数やより小さい数の表現や、無限大などの例外的な値を含めた算術(IEEE標準の±∞や−0の扱いに似ているが、より拡張されている)も提案している。 浜田穂積が提案した方式で、Universal Representation of Real numbersの意でURRと名付けられている。−∞ ~ 0 ~ ∞ の区間を、次のように分割しながら、二進法による表現に対応付ける、というのが基本的な考え方で、「符号と絶対値」形ではなく、浮動小数点の表現としては比較的珍しい2の補数の形をしている。 ここで±1の前後は、区間の両端の比が2なので、指数部の表現は終わったとみなすことができ、残りの桁は仮数部のように扱う(±1の前後は、以後は1/2で等差分割する)。次のように分割を続ける。 以降は、符号ビットが0である0 ~ 0.5 と 2 ~ ∞ の区間に絞って説明する。 ここで、2 = 2、4 = 2、16 = 2、256 = 2 である。このように 0 や ±∞ を含む区間は「二重指数分割」する。 このように、区間の両端の比が2より大きい場合は、「等比分割」する。 以上のような操作の結果として、指数部が0以上の場合は 指数部が0未満の場合は ビット反転して0以上にした後に上述の方法を適用した指数部を、再びビット反転したものとなる。 こうして、負数に拡張されたガンマ符号によって自分の長さを含む指数部と、残りの仮数部から成る、と見ることができるような表現が得られる。 利点として、ビット表現を固定小数点数と解釈しても値・絶対値の大小関係が一致しているため、 という点が挙げられる。また、1の近くでは桁数のほとんどが仮数部となるので精度が高い。 欠点としては、精度が変化するため従来の精度一定を前提としたノウハウに修正が必要かもしれない、−∞を除くワードのあらゆるビット表現に浮動小数点数としての意味が与えられるため、例外的な値を表現する方法を別に考えなければいけない、などといった点がある。浜田は1000...を符号なしの∞(射影モード用。符号なしの0と対応する)とし、表現可能な最大と最小の絶対値を持つ値を、具体的にその値を表すのではなく±∞と±0を表現するものとする(0は、通常の0を符号なしの0とし、符号付きの+0や−0は、無限大で割った結果など例外的な値としてのみ現れる)、という方法を提案している。 この表現法の初出は1981年だが、1983年に改良版が提案されているのでそちらをまずは参照すべきである。 いくつかの実装の報告や改良の提案などがある。 この方法は浜田方式のリバイバルのようなものである。
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"paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "特に単精度において、前世代機のIBM 7094(全部で36ビット)よりも桁数を減らした(32ビット)ことと相まって精度が大きく損なわれた。その他にも問題があり、ユーザグループであるSHAREから改善提案が出され、その多くを受け入れて多大なコストのかかる改修をおこなったほどであり、これを記憶しているIBMの古参社員は「身の縮む思い」をおぼえているという。", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "また、計算対象の数値がベンフォードの法則に従って分布していた場合、計算対象として精度の低い数(仮数部の最上位4ビットが0b0001)の現れる確率は1/15にはならず、もっと高い。", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "IBM方式の単精度浮動小数点数では、符号部1ビット、指数部7ビット、仮数部24ビットで表現されている。各部は次のように定義されている。", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "符号部は仮数の符号を表す。 指数部は−16~−16と16~16の範囲が表現できる。", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1.5を単精度のIBM方式で表現するには、次のようになる。", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "仮数部は1未満でなければならないため、値を(この例では右へ)シフトする。ただし、基数が16で、コンピュータの内部表現は2進法であるため、シフト量は4ビットである(2 = 16)。加えて正規化し、その結果は次の通り。", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "次に指数部を、64をバイアスしたゲタ履き表現(エクセス64)で表現する。バイアスにより、0~127のビットパターンで、整数値−64~+63を表現するということになる(−64 + 64 = 0、63 + 64 = 127)。 よって、今回の例では以下のようになる。", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2進法では、", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "浮動小数点は、最上位ビットから符号部、指数部、仮数部の順に符号化するため", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "任意精度演算と、従来の指数部と仮数部を共に固定長とする形式の中庸と言えるような方式が、いくつか提案されている。絶対値が1に近い値では指数部の桁数を短くし、仮数部の桁数を多くとって、よく使われる値を精度よく表現する。絶対値が極端に大きい値や小さい値には、精度とひきかえに指数部の桁数を増やすことで対応する。以下で述べる方式を提案している文献では、アプリケーションとして、通常の浮動小数点計算には、指数が大きくなり過ぎることがあって向かないとされているen:Graeffe's methodをうまく扱えたという例が示されている。", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "松井正一と伊理正夫が提案した方式で、符号と絶対値による表現法である。論文中に示された例では、64ビットの倍精度浮動小数点数として、仮数部の長さnを示す情報6ビットと、(符号部を含む)mビットの指数部とnビットの仮数部(m+n = 58)からなる。彼らは、オーバーフローを起こさせないための、より大きい数やより小さい数の表現や、無限大などの例外的な値を含めた算術(IEEE標準の±∞や−0の扱いに似ているが、より拡張されている)も提案している。", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "浜田穂積が提案した方式で、Universal Representation of Real numbersの意でURRと名付けられている。−∞ ~ 0 ~ ∞ の区間を、次のように分割しながら、二進法による表現に対応付ける、というのが基本的な考え方で、「符号と絶対値」形ではなく、浮動小数点の表現としては比較的珍しい2の補数の形をしている。", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ここで±1の前後は、区間の両端の比が2なので、指数部の表現は終わったとみなすことができ、残りの桁は仮数部のように扱う(±1の前後は、以後は1/2で等差分割する)。次のように分割を続ける。", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "以降は、符号ビットが0である0 ~ 0.5 と 2 ~ ∞ の区間に絞って説明する。", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ここで、2 = 2、4 = 2、16 = 2、256 = 2 である。このように 0 や ±∞ を含む区間は「二重指数分割」する。", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "このように、区間の両端の比が2より大きい場合は、「等比分割」する。", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "以上のような操作の結果として、指数部が0以上の場合は", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "指数部が0未満の場合は", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ビット反転して0以上にした後に上述の方法を適用した指数部を、再びビット反転したものとなる。 こうして、負数に拡張されたガンマ符号によって自分の長さを含む指数部と、残りの仮数部から成る、と見ることができるような表現が得られる。", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "利点として、ビット表現を固定小数点数と解釈しても値・絶対値の大小関係が一致しているため、", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "という点が挙げられる。また、1の近くでは桁数のほとんどが仮数部となるので精度が高い。", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "欠点としては、精度が変化するため従来の精度一定を前提としたノウハウに修正が必要かもしれない、−∞を除くワードのあらゆるビット表現に浮動小数点数としての意味が与えられるため、例外的な値を表現する方法を別に考えなければいけない、などといった点がある。浜田は1000...を符号なしの∞(射影モード用。符号なしの0と対応する)とし、表現可能な最大と最小の絶対値を持つ値を、具体的にその値を表すのではなく±∞と±0を表現するものとする(0は、通常の0を符号なしの0とし、符号付きの+0や−0は、無限大で割った結果など例外的な値としてのみ現れる)、という方法を提案している。", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "この表現法の初出は1981年だが、1983年に改良版が提案されているのでそちらをまずは参照すべきである。", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "いくつかの実装の報告や改良の提案などがある。", "title": "浮動小数点数のフォーマット" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "この方法は浜田方式のリバイバルのようなものである。", "title": "浮動小数点数のフォーマット" } ]
浮動小数点数は、実数をコンピュータで処理(演算や記憶、通信)するために有限桁の小数で近似値として扱う方式であり、コンピュータの数値表現として広く用いられている。多くの場合、1ビットの符号部、固定長の指数部、固定長の仮数部、の3つの部分を組み合わせて、数値を表現する。
'''浮動小数点数'''(ふどうしょうすうてんすう、[[英語|英]]: floating-point number)は、[[実数]]を[[コンピュータ]]で処理(演算や記憶、通信)するために有限桁の小数で[[近似値]]として扱う方式であり<ref name="comp-org-n-design">{{cite book |和書 |title=コンピュータの構成と設計 第5版 上 |publisher=[[日経BP]] |author=[[デイビッド・パターソン (計算機科学者)|デイビッド・パターソン]]、[[ジョン・ヘネシー]] |isbn=978-4-8222-9842-5 }}</ref>、[[コンピュータの数値表現]]として広く用いられている。多くの場合、1ビットの符号部、固定長の指数部、固定長の[[仮数]]部、の3つの部分を組み合わせて、数値を表現する<!-- <ref name="comp-arch-n-org">{{cite book |title=Computer Architecture and Organization |last1=P.HAYES |first1=JOHN |isbn=0-07-027363-4 |pages=157 |year=1978,1979 |date= |publisher=}}</ref><ref>{{Cite book|和書 | author= bit 編集部 |title= bit 単語帳 | year=1990 | date=1990-8-15 |page=205 |publisher=[[共立出版]]|isbn =4-320-02526-1 }}</ref> -->。 == 概要 == この節はパターソンらの記述に基づく<ref name="comp-org-n-design"></ref>。 実数は0以上かつ1以下のような有限の範囲でも、無限個の値(種類)が存在するため、コンピュータでは妥当なビット数で有限個の値(種類)の近似値で扱う必要がある。 実数-1/3は無限小数となるが、有限桁の小数で近似値を表記できる。下の例では10進数での4桁としている。 : -1/3 : -1 x 0.33333333333333... : -1 x 0.3333 x 10<sup>0</sup> : -1 x 3.333 x 10<sup>-1</sup> 下の2つの表記は科学記数法 (scientific notation) とよばれ、小数点より左側の整数部分を1桁とする。 科学記数法のうち、左側の1桁を0以外(10進表記では1から9)にしたものを、正規化数 (normalized number) とよび、 一番下の表記が該当する。 実数-1/3はまた、有限桁2進数の小数でも、近似値で表記できる。下の例では2進数17桁としている。 : -1/3 : -1 x 0.01010101010101010101010101010101... : -1 x 0.0101010101010101 : -1 x (2<sup>-2</sup> + 2<sup>-4</sup> + 2<sup>-6</sup> + 2<sup>-8</sup> + 2<sup>-10</sup> + 2<sup>-12</sup> + 2<sup>-14</sup> + 2<sup>-16</sup>) : -1 x (1/4 + 1/16 + 1/64 + 1/256 + 1/1024 + 1/4096 + 1/16384 + 1/65536) : -0.333328247(近似値の10進数表記) 2進数の小数も科学記数法で表記できる。 : -1 x 0.0101010101010101 x 2<sup>0</sup> : -1 x 0.101010101010101 x 2<sup>-1</sup> : -1 x 1.01010101010101 x 2<sup>-2</sup> 上記は同じ値を、小数点位置を移動し異なる表記にしているため、浮動小数点と呼ばれる。一番下の表記は、正規化数である。 コンピュータ処理に適した暗黙の基数2について、符号 (sign) S、仮数 (significand) F、指数 (exponent) Eにより、 浮動小数点数は下記の式で表記できる。 : (-1)<sup>S</sup> x F x 2<sup>E</sup> == 浮動小数点数のフォーマット == 浮動小数点数のフォーマットには、以下で説明するものの他、以前は多数あった。 * [[IEEE]]方式([[IEEE 754]]。最も広く採用されている[[標準規格]]) * [[IBM]]方式(IBMの[[メインフレーム]]およびそれを模倣した各社の互換マシンで使われていた。指数部を基数16で表現するのが特徴) * 指数部と仮数部を可変とする方式(これは研究用の面が強い。以下の該当する節で詳述) === IEEE方式(IEEE 754 形式) === {{main|IEEE 754}} {{seealso|半精度|単精度|倍精度|四倍精度}} [[ファイル:Float example.svg|thumb|350px|単精度浮動小数点数型式<br />sign:符号部、exponent:指数部、fraction:仮数部]] [[ファイル:IEEE 754 Double Floating Point Format.svg|thumb|350px|倍精度浮動小数点数型式]] IEEE 754 形式の * 半精度浮動小数点数では、符号部 1 ビット ・ 指数部 5 ビット ・ 仮数部 10 ビット * 単精度浮動小数点数では、符号部 1 ビット ・ 指数部 8 ビット ・ 仮数部 23 ビット * 倍精度浮動小数点数では、符号部 1 ビット ・ 指数部 11 ビット ・ 仮数部 52 ビット * 四倍精度浮動小数点数では、符号部 1 ビット ・ 指数部 15 ビット ・ 仮数部 112 ビット で表現されている。各部は次のように定義されている。 * 符号部は、 0 を正、1 を負とする * 仮数部は、整数部分が 1 であるような2進小数の小数部分(ケチ表現)を表す * 指数部は、符号なし2進整数とし、半精度では 15、単精度では 127、倍精度では 1023、四倍精度では 16383 のゲタを履かせた[[符号付数値表現#エクセスN|ゲタ履き表現]]で表す つまり、IEEE 754 形式で表現する値は : 半精度の場合: (&minus;1)<sup>符号部</sup> × 2<sup>指数部 &minus; 15</sup> ×(1 + 仮数部) : 単精度の場合: (&minus;1)<sup>符号部</sup> × 2<sup>指数部 &minus; 127</sup> ×(1 + 仮数部) : 倍精度の場合: (&minus;1)<sup>符号部</sup> × 2<sup>指数部 &minus; 1023</sup> ×(1 + 仮数部) : 四倍精度の場合: (&minus;1)<sup>符号部</sup> × 2<sup>指数部 &minus; 16383</sup> ×(1 + 仮数部) である。 ただし、IEEE 754 形式の指数部は複雑で、以下のような役割も持つ。 * 通常の浮動小数点数(正規化数)を表現するのは、指数部が単精度で 254 ~ 1(127 ~ &minus;126)、倍精度で 2046 ~ 1(1023 ~ &minus;1022)の範囲のときである * 指数部が、単精度の場合 255(128)、倍精度の場合 2047(1024)のとき: *: 仮数部が 0 以外の場合は、非数([[NaN]]; Not a Number)を表す *: 仮数部が 0 の場合は、符号部が 0 のときは正の無限大、符号部が 1 のときは負の無限大を表す * 指数部が 0(単精度の場合 &minus;127、倍精度の場合 &minus;1023)のとき: *: [[非正規化数]] * 指数部、仮数部ともに 0 のときは ±0 を表す 0 を 0 で割ろうとすると NaN になる。また、<math>\sqrt{-1}</math> も、求めるとNaNになる。 ==== IEEE 754 で表現するまでの過程 ==== 2.5を例にとると、 * 仮数の符号は、+ * 仮数の絶対値は、2.5 * IEEE 754の基数は、2で固定(簡単のため、以下では省略) * 指数は、0 であることから、まず次のように考える。 : (&minus;1)<sup>0</sup> × 2.5 × 2<sup>0</sup> 仮数部は1未満でなければならないため、仮数の値2.5を(この例では右へ)シフトし正規化する。基数は2、コンピュータの内部表現は2進法であるため、シフト量は1ビットである。さらに、右シフトして{{分数|1|2}}になったことを相殺するため、指数に1を加える(もし左シフトなら、指数から1を引く)。 値をシフトすることで表現範囲を広げ、[[#浮動小数点数の精度|丸め誤差]]を少なくなるようにしている。この操作を[[指数表記#正規化|正規化]]という。正規化は基数の±1乗を繰り返し求めればよい。 このままでは (&minus;1)<sup>0</sup> × 1.25 × 2<sup>1</sup> となり、仮数の絶対値は1未満ではないが、仮数部は 仮数 &minus; 1 と決められているため、次のようになる。 : (&minus;1)<sup>'''0'''</sup> × (1 + '''0.25''') × 2<sup>1</sup> * 符号部は、0 * 仮数部は、0.25 * 指数は、1 指数部は、指数に127をバイアスすることが決まっているため : (&minus;1)<sup>'''0'''</sup> × (1 + '''0.25''') × 2<sup>('''128''' &minus; 127)</sup> * 符号部は、0 * 仮数部は、0.25 * 指数部は、128 2進法では、 * 符号部(1ビット):+ → 0 * 仮数部(23ビット):0.25 → {{gaps|010|0000|0000|0000|0000|0000}} * 指数部(8ビット):128 → {{gaps|1000|0000}} 浮動小数点は、最上位ビットから符号部、指数部、仮数部の順に符号化するため : 2進値:{{gaps|0100|0000|0010|0000|0000|0000|0000|0000}}、16進値:{{gaps|40|20|00|00}} : ==== bfloat16 ==== IEEE 754 形式から派生した浮動小数点数の形式。符号部 1 ビット ・ 指数部 8 ビット ・ 仮数部 7 ビットである。 つまり、bfloat16 形式で表現する値は : (&minus;1)<sup>符号部</sup> × 2<sup>指数部 &minus; 127</sup> ×(1 + 仮数部) である。 採用事例 * [[インテル]] - [[Intel Xeon]] Cooper Lake マイクロアーキテクチャ以降、[[Nervana Systems|Nervana]] NNP-L1000 など * [[ARMアーキテクチャ]] - Armv8.6-A<ref>[https://community.arm.com/developer/ip-products/processors/b/processors-ip-blog/posts/arm-architecture-developments-armv8-6-a Arm A profile architecture update 2019 - Processors blog - Processors - Arm Community]</ref> * [[Google]] - Tensor Processing Unit 2.0 以降 * [[NVIDIA]] - Ampere マイクロアーキテクチャ以降 * [[Amazon.com]] - AWS Inferentia、Amazon Elastic Inference など ==== FP8 ==== IEEE 754 形式から派生した浮動小数点数の形式。以下の2種類がある。 * E4M3 - 符号部 1 ビット ・ 指数部 4 ビット ・ 仮数部 3 ビット * E5M2 - 符号部 1 ビット ・ 指数部 5 ビット ・ 仮数部 2 ビット 採用事例 * [[NVIDIA]] - Hooper マイクロアーキテクチャ以降<ref>[https://developer.nvidia.com/blog/nvidia-hopper-architecture-in-depth/ NVIDIA Hopper Architecture In-Depth | NVIDIA Technical Blog]</ref> === IBM方式 === {{See also|en:IBM hexadecimal floating-point}} IBM方式は、[[IBM]]社が[[System/360]]で導入し、以後同社の標準としてSystem/370などの[[メインフレーム]]で使った方式である([[ESA/390|System/390]]では、従来形式のサポートは残すもののIEEE 754を使用するよう改めた)。指数部が2の[[冪乗|冪]]ではなく16の冪を表すという特徴がある。この方式は、より大きな範囲を少ないビット数の指数部で表すことができ、そのぶんのビットを仮数部の桁数に使うことで[[精度 (算術)|精度]]も確保できるように一見思える。しかし、仮数部にケチ表現を使うことができず、さらに指数部の変化の前後で、仮数部のLSBが表現する値の刻み幅が16倍変化するため、2べきの場合に比べて最悪の場合には2進で3ビット分の精度が損なわれるため、一般には大成功であったと評されたSystem/360の設計において良くなかった点の一つとして挙げられる。(浮動小数点数の加減算の際に必要となる仮数部のシフトが4ビット単位となるのでシフト回数が減ることで演算が<!--具体的に数字として出ているというのは大変興味深いので「要出典範囲だから」という理由では是非消さないでください-->{{要出典範囲|date=2016年3月|15%}}程度高速になる利点も16進数が採用された理由であった。) 特に単精度において、前世代機の[[IBM 7090#派生機種:IBM 7094/7040/7044|IBM 7094]](全部で36ビット)よりも桁数を減らした(32ビット)ことと相まって精度が大きく損なわれた。その他にも問題があり、[[ユーザー|ユーザ]]グループであるSHAREから[[改善]]提案が出され、その多くを受け入れて多大な[[費用|コスト]]のかかる改修をおこなったほどであり、これを記憶しているIBMの古参[[社員]]は「身の縮む思い」をおぼえているという<ref>パターソン&ヘネシー『コンピュータの構成と設計 第3版 別冊 歴史展望』第3章 pp. 53-55</ref>。 また、計算対象の数値が[[ベンフォードの法則]]に従って分布していた場合、計算対象として精度の低い数(仮数部の最上位4ビットが0b0001)の現れる[[確率]]は1/15にはならず、もっと高い<ref>『ハッカーのたのしみ』15章3節(pp. 283-285)</ref>。 IBM方式の単精度浮動小数点数では、符号部1ビット、指数部7ビット、仮数部24ビットで表現されている。各部は次のように定義されている。 * 符号部は、0を正、1を負とする * 仮数部は、1未満の16進小数とする * 指数部は、16を基数とした指数に64をバイアスした値で表す 符号部は仮数の符号を表す。 指数部は&minus;16<sup>63</sup>~&minus;16<sup>&minus;64</sup>と16<sup>&minus;64</sup>~16<sup>63</sup>の範囲が表現できる。 ==== IBM方式で表現するまでの過程 ==== 1.5を単精度のIBM方式で表現するには、次のようになる。 :(&minus;1)<sup>0</sup> × 1.5 × 16<sup>0</sup> 仮数部は1未満でなければならないため、値を(この例では右へ)シフトする。ただし、基数が16で、コンピュータの内部表現は2進法であるため、シフト量は4ビットである(2<sup>4</sup> = 16)。加えて正規化し、その結果は次の通り。 :(&minus;1)<sup>0</sup> × 0.09375 × 16<sup>1</sup> 次に指数部を、64をバイアスしたゲタ履き表現(エクセス64)で表現する。バイアスにより、0~127のビットパターンで、整数値&minus;64~+63を表現するということになる(&minus;64 + 64 = 0、63 + 64 = 127)。 よって、今回の例では以下のようになる。 :(&minus;1)<sup>'''0'''</sup> × '''0.09375''' × 16<sup>('''65''' &minus; 64)</sup> 2進法では、 * 符号部(1ビット):+ → 0 * 仮数部(24ビット):0.09375 → 000110000000000000000000 * 指数部(7ビット):65 → 1000001 浮動小数点は、最上位ビットから符号部、指数部、仮数部の順に符号化するため : 2進値:0 1000001 000110000000000000000000、16進値:{{gaps|41|18|00|00}} === 指数部と仮数部を可変とする方式 === [[任意精度演算]]と、従来の指数部と仮数部を共に固定長とする形式の中庸と言えるような方式が、いくつか提案されている。絶対値が1に近い値では指数部の桁数を短くし、仮数部の桁数を多くとって、よく使われる値を精度よく表現する。絶対値が極端に大きい値や小さい値には、精度とひきかえに指数部の桁数を増やすことで対応する。以下で述べる方式を提案している文献では、アプリケーションとして、通常の浮動小数点計算には、指数が大きくなり過ぎることがあって向かないとされている[[:en:Graeffe's method]]をうまく扱えたという例が示されている。 ==== 松井・伊理の表現法 ==== 松井正一と[[伊理正夫]]が提案した方式で、符号と絶対値による表現法である。論文中に示された例では、64ビットの倍精度浮動小数点数として、仮数部の長さnを示す情報6ビットと、(符号部を含む)mビットの指数部とnビットの仮数部(m+n = 58)からなる。彼らは、オーバーフローを起こさせないための、より大きい数やより小さい数の表現や、無限大などの例外的な値を含めた算術(IEEE標準の±∞や&minus;0の扱いに似ているが、より拡張されている)も提案している。<ref>松井正一, 伊理正夫「あふれのない浮動小数点表示方式」情報処理学会論文誌 Vol. 21 No. 4(1980 Jul)pp. 306~313 {{NAID|110002723544}}</ref><ref>共立『アルゴリズム辞典』p. 677</ref> ==== 浜田のURR ==== 浜田穂積が提案した方式<ref>{{Cite journal|title = Data Length Independent Real Number Representation Based on Double Exponential Cut |journal = Journal of Information Processing |date = 1987-03-31 |pages = 1-6 |volume = 10 |issue = 1 | first1 = Hozumi |last1 = Hamada }}</ref>で、Universal Representation of Real numbersの意でURRと名付けられている<ref group="注釈">「URR」という名前の初出は[http://www.ipsj.or.jp/prosym/prosyncontentsamagai.html#idx25 1984年1月の第25回プログラミング・シンポジウム]における発表「(25-9) 新しい数値表現法URR」だと思われる</ref>。&minus;∞ ~ 0 ~ ∞ の区間を、次のように分割しながら、二進法による表現に対応付ける、というのが基本的な考え方で、「符号と絶対値」形ではなく、浮動小数点の表現としては比較的珍しい2の補数の形をしている。 * 100 = &minus;∞ * 101 = &minus;2 * 110 = &minus;1 * 111 = &minus;0.5 * 000 = 0 * 001 = 0.5 * 010 = 1 * 011 = 2 ~ ∞ ここで±1の前後は、区間の両端の比が2なので、指数部の表現は終わったとみなすことができ、残りの桁は仮数部のように扱う(±1の前後は、以後は1/2で等差分割する)。次のように分割を続ける。 * 1000 = &minus;∞ * 1001 = &minus;4 * 1010 = &minus;2 * 1011 = &minus;1.5 * 1100 = &minus;1 * 1101 = &minus;0.75 * 1110 = &minus;0.5 * 1111 = &minus;0.25 * 0000 = 0 * 0001 = 0.25 * 0010 = 0.5 * 0011 = 0.75 * 0100 = 1 * 0101 = 1.5 * 0110 = 2 * 0111 = 4 ~ ∞ 以降は、符号ビットが0である0 ~ 0.5 と 2 ~ ∞ の区間に絞って説明する。 * 0 00000 = 0 * 0 00001 = 0.00390625 (1/256) * 0 00010 = 0.0625 (1/16) * 0 00100 = 0.25 (1/4) * 0 01000 = 0.5 (1/2) * 0 11000 = 2 * 0 11100 = 4 * 0 11110 = 16 * 0 11111 = 256 ~ ∞ ここで、2 = 2<sup>2<sup>0</sup></sup>、4 = 2<sup>2<sup>1</sup></sup>、16 = 2<sup>2<sup>2</sup></sup>、256 = 2<sup>2<sup>3</sup></sup> である。このように 0 や ±∞ を含む区間は「二重指数分割」する。 * 0 000000 = 0 * 0 000001 = 0.0000152587890625 (1/65536) * 0 000010 = 0.00390625 (1/256) * 0 000011 = 0.015625 (1/64) * 0 000100 = 0.0625 (1/16) * 0 000110 = 0.125 (1/8) * 0 001000 = 0.25 (1/4) * 0 111000 = 4 (2<sup>2</sup>) * 0 111010 = 8 (2<sup>3</sup>,3=(2+4)/2) * 0 111100 = 16 (2<sup>4</sup>) * 0 111101 = 64 (2<sup>6</sup>,6=(4+8)/2) * 0 111110 = 256 (2<sup>8</sup>) * 0 111111 = 65536 ~ ∞ このように、区間の両端の比が2より大きい場合は、「等比分割」する。 以上のような操作の結果として、指数部が0以上の場合は * "0 10" = 0 * "0 11(1がn個)0(n個のビット列Bn)" = 1Bn ([[ガンマ符号]]の桁数出力とその後の"1"をビット反転したもの) 指数部が0未満の場合は * "0 01" = 上述の"0 10"の符号ビット以外をビット反転させたもの = 2進数"0"をビット反転させたもの = &minus;1 * "0 00(0がn個)1(n個のビット列Bnをビット反転させたもの)" = 上述の"0 11(1がn個)0(n個のビット列Bn)"の符号ビット以外をビット反転させたもの = 2進数"1Bn"をビット反転させたもの = &minus;(1Bn)&minus;1 ビット反転して0以上にした後に上述の方法を適用した指数部を、再びビット反転したものとなる。 こうして、負数に拡張されたガンマ符号によって自分の長さを含む指数部と、残りの仮数部から成る、と見ることができるような表現が得られる。 利点として、ビット表現を[[固定小数点数]]と解釈しても値・絶対値の大小関係が一致しているため、 * 単精度と倍精度、さらには4倍精度や、一部ビットをデータ型判別などの別用途に転用している処理系で用いられる7bitや30bitなど、任意のビット長表現との相互変換・丸め操作が、この方式では単に[[最下位ビット]]を追加したり切り捨てるだけで良い * 大小関係の比較演算や符号反転に必要なハードウェア・計算量が、整数でのそれと同一 という点が挙げられる。また、1の近くでは桁数のほとんどが仮数部となるので精度が高い。 欠点としては、精度が変化するため従来の精度一定を前提としたノウハウに修正が必要かもしれない、&minus;∞を除くワードのあらゆるビット表現に浮動小数点数としての意味が与えられるため、例外的な値を表現する方法を別に考えなければいけない、などといった点がある。浜田は1000...を符号なしの∞(射影モード<ref group="注釈">射影モード = projective mode、射影幾何における[[無限遠点]]のような、符号の付かない1点のみの無限大の値が実数に加わった(射影拡張実数)モード、[[拡大実数]]を参照。IEEE 754の検討段階では議論されたが、最終的な標準ではオミットされアフィンモードのみになった。</ref>用。符号なしの0と対応する)とし、表現可能な最大と最小の絶対値を持つ値を、具体的にその値を表すのではなく±∞と±0を表現するものとする(0は、通常の0を符号なしの0とし、符号付きの+0や&minus;0は、無限大で割った結果など例外的な値としてのみ現れる)、という方法を提案している。 この表現法の初出は1981年だが<ref>浜田穂積「二重指数分割に基づくデータ長独立実数値表現法」情報処理学会論文誌 Vol. 22 No. 6 (1981 Nov) pp. 521~526 {{NAID|110002723634}}</ref>、1983年に改良版が提案されている<ref>浜田穂積「二重指数分割に基づくデータ長独立実数値表現法 II」情報処理学会論文誌 Vol. 24 No. 2 (1983 Mar) pp. 149~156 {{NAID|110002723753}}</ref>のでそちらをまずは参照すべきである。<ref>他に[http://homepage2.nifty.com/m_kamada/docsproc/asmurr.htm 鎌田誠による解説]や、共立『アルゴリズム辞典』p. 677 なども参考のこと。</ref> いくつかの実装の報告<ref>森岳志 ほか、https://ci.nii.ac.jp/naid/110002724403 各種浮動小数点表現法の評価方式の実現] 情報処理学会論文誌 29(8), 807-814, 1988-08-15, {{naid|110002724403}}</ref><ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/40015918740 URR浮動小数点数のための高速演算装置の基本設計と実装] 倉敷芸術科学大学紀要 (13), 45-57[含 英語文要旨], 2008, {{naid|40015918740}}</ref>や改良の提案<ref>{{Cite journal|title = Overflow/underflow-free floating-point number representations with self-delimiting variable-length exponent field |journal = IEEE Transactions on Computers | year = 1992 |pages = 1033-1039 |volume = 41 |issue = 8 | first1 = Hidetoshi |last1 = Yokoo | doi = 10.1109/12.156546 }}</ref><ref>中川晃成 ほか、[http://id.nii.ac.jp/1001/00126245 多重指数部を持つ実数表現方式の標準案] 国大会講演論文集 第49回(基礎理論及び基礎技術), 137-138, 1994-09-20, {{naid|110002885170}}</ref><ref>富松剛、[http://id.nii.ac.jp/1001/00029831/ 拡張した二重指数分割表現による数値表現法に関する研究] 情報処理学会研究報告ハイパフォーマンスコンピューティング(HPC) 1995(97(1995-HPC-058)), 57-62, 1995-10-18, {{naid|110002932278}}</ref><ref>中森真理雄、[https://ci.nii.ac.jp/naid/80003909822 3重指数分割による数値表現方式について] 電子情報通信学会論文誌A J71-A(7), 1468-1469, 1988, {{naid|80003909822}}</ref><ref>須田礼仁 ほか、[http://id.nii.ac.jp/1001/00029737/ 新しい可変長指数部浮動小数点数表現形式の提案] 情報処理学会研究報告ハイパフォーマンスコンピューティング(HPC) 1997(37(1997-HPC-066)), 31-36, 1997-05-09, {{naid|110002932023}}</ref><ref>富松剛 ほか、[http://id.nii.ac.jp/1001/00013155/ 一般化した二重指数分割に基づく数値表現法] 情報処理学会論文誌 39(3), 511-518, 1998-03-15, {{naid|110002722057}}</ref>などがある。 ==== GustafsonのPosit ==== この方法は浜田方式のリバイバルのようなものである。 *[http://www.johngustafson.net/pdfs/BeatingFloatingPoint.pdf John L. Gustafson and Isaac Yonemoto: "Beating Floating Point at its Own Game: Posit Arithmetic", DOI:10.14529/jsfi170206] *[https://news.mynavi.jp/techplus/article/20190723-863757/ 「ISC 2019 - ディープラーニングに最適な数値表現のPosit」(マイナビニュース記事、2019年7月23日)] == エラー(誤差) == {{seealso|誤差#計算誤差の種類|数値解析#誤差の発生と伝播}} ; オーバーフロー/アンダーフロー : 演算結果が指数部で表現できる範囲を超える場合があるが、最大値を超えた場合は'''オーバーフロー'''、絶対値の最小より小さい場合は'''アンダーフロー'''という。IEEE 754の場合、アンダーフローは、まず結果が[[非正規化数]]となり精度が低下し、さらに進むと結果が0になる。 ; 桁落ち : 絶対値がほぼ等しい異符号の数値同士の加算後や、同符号でほぼ等しい数値同士の減算の後、[[指数表記#正規化|正規化]]で[[有効数字]]が減少すること。詳細は[[誤差#桁落ち|桁落ち]]を参照。 ; 情報落ち : 浮動小数点数値を加減算するときはまず指数を揃えなければならない。絶対値の非常に小さな値と絶対値の非常に大きな値との浮動小数点数の加減算を行うときは、まず指数を絶対値の大きい方に揃える桁合わせを行ない、それから加減算を行なう。そのため絶対値の小さな値は仮数部が右側に多くシフトされて下位の桁の部分が反映されずに結果の値が丸められて情報が欠落する。情報欠落ともいう。詳細は[[誤差#情報落ち|情報落ち]]を参照。 ; 積み残し : 情報落ちが繰り返し起こる場合を言う。たとえば <math>\sum_{n=0}^{100} \frac{1}{1.5^n}</math> を n=0 の初項からn=100に向かって順番に加えて計算しようとすると、ある項から先で情報落ちが起こり、それ以降の項は無視されてしまうことになる。これを積み残しと呼ぶ。値の小さい項から大きい項に向かって加算をする(この例では逆順に加算をする)ことで対処できる場合もある(必ずしもそうすれば全て完全にうまくいくとは限らない)。対処としては、有理数演算などによって無誤差の計算を行うか、[[カハンの加算アルゴリズム|カハンのsummationアルゴリズム]]などいくつかの効率的な手法が提案されている。 ; 丸め誤差 : 仮数部の桁数が有限であるため、収まらない部分の最上位桁で四捨五入(2進法では0捨1入)して仮数部の桁数に丸めることによる誤差。 == 脚注 == ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * IEEE 754 http://grouper.ieee.org/groups/754/ * "IEEE Standard for Binary Floating-Point Arithmetic", IEEE, ISBN 978-9996639524, (1985). * Peter J. L. Wallis (Editor): "Improving Floating-Point Programming", Wiley, ISBN 978-0471924371,(1990). * Michael L. Overton:"Numerical Computing With IEEE Floating Point Arithmetic", SIAM, ISBN 978-0898714821, (2001). * Jean-Michel Muller:"Elementary Functions: Algorithms and Implementation", 2nd ed., Birkhaeuser, ISBN 978-0817643720, (2005). * Jean-Michel Muller:"Handbook of Floating-Point Arithmetic", Birkhaeuser, ISBN 978-0817647049, (2009). * Peter Kornerup, David W. Matula: "Finite Precision Number Systems and Arithmetic", Cambridge University Press, ISBN 978-0521761352, (2010). == 関連項目 == {{Portal box|コンピュータ|数学}} * [[コンピュータの数値表現]] * [[固定小数点数]] * [[単精度浮動小数点数]] * [[誤差]]、[[端数処理]] * [[3増し符号|エクセス3]] * [[二進化十進表現]] * [[精度保証付き数値計算]] * [[ハイレゾリューションオーディオ]] ==外部リンク== *[http://download.oracle.com/docs/cd/E19957-01/806-4847/ncg_goldberg.html 浮動小数点演算について] (1991 年 3 月発行の "Computing Surveys" に掲載された "Every Computer Scientist Should Know About Floating-Point Arithmetic" 稿 (David Goldberg著) を再編集したもの) {{データ型}} {{Computer-stub}} {{デフォルトソート:ふとうしようすうてんすう}} [[Category:コンピュータの算術]] [[Category:数の表現]] [[Category:データ型]] [[Category:数値解析]] [[Category:数学に関する記事]]
2003-02-26T15:27:06Z
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